TITLE : 日本の中の朝鮮文化 5
講談社電子文庫
日本の中の朝鮮文化 5
金 達 寿 著
目 次
まえがき
若 狭・越 前
青里と「新羅」
遠敷(おにゆう)の神宮寺で
上中(かみなか)の古墳と末野
菅浜から白木(しらき)へ
西福寺と信露貴彦(しろきひこ)
気比(けひ)神宮にて
今庄(いまじよう)・今城・白城
武生(たけふ)とその周辺
「金子先生」のことなど
継体帝の出自をめぐって
付録・中野重治氏の生家
加 賀・能 登
双耳瓶(そうじへい)・珠洲(すず)焼・九谷焼
白山とその起源
羽咋(はくい)の神事相撲
七尾から能登島へ
熊木は高麗来だった
穴水(あなみず)をへて珠洲(すず)へ
祭りの鉦(かね)と太鼓
越 中
四隅突出型古墳のこと
高瀬・高麗・白城
佐渡の荒貴と唐崎
新井とその周辺
弥彦と「新羅王碑」
文庫版への補足
能登の「柴垣ところ塚」ほか
日本海を渡った仏像たち
まえがき
早いもので、私が『日本の中の朝鮮文化』という古代遺跡紀行の第一冊目をだしたのは一九七〇年十二月のことであった。それから五年、これはその第五冊目である。一年に一冊というかんじょうになるが、これはその号から講談社の刊行となった『歴史と文学』一九七四年の春季号から、翌七五年の春季号までに連載したものである。
はじめは、いまは京都府下となっている丹波・丹後から書きだして若狭・越前へとすすんだものだったが、単行本とするにあたり、丹波・丹後は次の第六冊目となる但馬・播磨ほかのほうへ加えるのがいろいろな意味でよいと考えたので、そうすることにした。読者も、そう諒解してくれるとありがたい。
早いもので、と私はいま書いたが、しかし五年という歳月は、そんなに短いものではない。また、五冊という本もそんなにかんたんなものではないと思うが、考えてみると、そのあいだいろいろなことがあった。
つらいことも多かったが、もちろん楽しかったこともたくさんあって、それはなんといっても、たずねて行ったさきざきで未知のいろいろな人に会うことだった。そして、私の手にしている資料にはないことを教えられて、それを新たに発見することであった。文献などでは知られないものが、各地にはまだまだたくさん埋もれたままになっているのである。
未知の人から教えられることといえば、多くの人々から寄せられる手紙からも、私はそのような恩恵をえている。さきにも書いたことがあるけれども、たずねて行ったさきざきの各市町村教育委員会の人々など、私はこういう人々の協力がなかったとしたら、とうていこれをここまで書きつぐことはできなかったはずである。いちいち礼状や返事をさしだすべきであるが、それができないので、この場をかりて厚くお礼しておきたい。――
これまで歩きまわったところとしては第一冊目の関東一円はじめ、京都から大阪府の全部、近江の滋賀県、大和の奈良県、紀伊の和歌山県、伊賀・伊勢・志摩の三重県、そしてこの北陸地方の四県となっているが、しかし日本全体としてみると、これはまだほんの一部にしかすぎない。ずいぶん歩いたつもりであるにもかかわらず、まだこれなのである。
日本は狭いというけれども、こうしてみるとどうして、なかなか広いと思わないわけにはいかない。私はいずれ、北海道をふくむ日本全部の地を歩きとおしたいと思っている。さいわい体はまだじょうぶであるから、あと五年間のうちには、なんとかしてそれをはたしたいと思っている。すると、この本も約十冊になるかんじょうである。
しかしこれは捕(と)らぬ狸(たぬき)の皮算用であるからともかくとして、「石の上にも三年」ということばがあるように、五年にもわたって、こうして各地の古代文化遺跡をたずね歩いてみると、それまで知っていたものにしても、新たな意義をもってみえてくるものが多い。たとえば本文にもあるように、新羅・加耶系渡来人集団の一象徴となっている天日槍(あめのひぼこ)がそれである。
北陸の総鎮守といわれる敦賀の気比(けひ)神宮は「天日槍を伊奢沙別命(いささわけのみこと)としてまつ」っているものであるが、それはなぜか。そして敦賀は近江を根拠地として展開した息長(おきなが)氏族の「聖地」であり、気比神宮はこの息長氏族の「守護神的存在」となっていたというが、それはなぜか。
この「なぜか」ということについては私はほとんどあまり言及せず、ただ事実としてあることをしめすだけで、そのさきは読者の判断にまかせているが、天日槍のこれなど実に重大なことなのである。息長帯比売(おきながのたらしひめ)であったいわゆる神功皇后もそれから出たとされている息長氏族がどういうものであり、日本の古代史上どういう存在であったかということを考えあわせるならば、それはおのずから明らかとなるはずである。
天日槍は『古事記』では天之日矛(あめのひぼこ)と書かれているもので、その名称からしていろいろな想像をかきたてられるが、次にみることになっている但馬・播磨・淡路がこれまた天日槍にかかわる遺跡の濃厚なところなのである。次の第六冊目は丹波・丹後をあわせた以上の各地のほか美作・備前・備中・備後・安芸となるので、私はさっそくこれらの各地を歩きまわっているところである。
さきの諸冊とおなじように、第五冊目の本書がこうして成ったのも、講談社学芸図書第二出版部の伊藤寿男氏はじめ阿部英雄氏、岩本敬子氏、ならびに同社写真部の大橋俊夫氏、斎藤和欣氏らの努力によるものである。
一九七五年四月 東京
金 達 寿
日本の中の朝鮮文化 5
若 狭・越 前
青里と「新羅」
柿と若狭街道
いまは裏日本といわれているけれども、かつての古代は、こちらが表日本であった北陸路をたずねることにした。となると、福井県となっている若狭・越前からということになる。
まず、一泊の予定で出かけた若狭へは近江(滋賀県)から入ることにした。よく晴れた日で、朝早く京都を発した鄭詔文のクルマは琵琶湖を西岸に沿って走った。安曇(あど)川を越えると間もなく今津で、そこから左に国道三〇三号線の若狭街道がつうじている。
登りになった街道で、両側の山裾に赤い実をたわわにつけた柿の木があちこちと見える。冬になると、私には赤い柿がよく目につく。もともと私はその赤い色の柿が好きだったからだが、しかしそれにしても、なぜ持ち主は早くその柿を取り入れないのかとも思う。
なかには、熟(う)れきってそのままおちてしまっているのもみえるからである。今年も柿があまりできすぎて、都会地に送りだしても輸送料その他が高いため引き合わないからだとも聞いたが、なんとももったいないはなしだと思わないわけにはゆかない。
私は赤い色の柿が好きなばかりでなく、それをたくさん実らせている柿の木をみると、つい、自分の手でもぎとってみたくなるので困る。私にも、その柿の一個や二個を買う金がないわけではない。しかしながら、「参加すること」になんとかがあるというそれではないけれども、私はそれを「自分の手でもぎとること」に、あるよろこびを感じるというわるいクセがある。
おそらく子どものころ朝鮮の故郷でしていたこと、そのことに郷愁を持っているからだと思う。それにまた、私が子どものころよくよじ登ったりした柿の木はどれも大きなものばかりだったが、日本のそれときたら、立ったままちょっと手をのばせばとれるそんな木にも、赤い実がたわわになったりしている。
しかし、「蜜柑(みかん)狩り」などというのはあっても、「柿狩り」というのは聞いたことがない。それで私は、いつか武蔵(埼玉県)の高麗(こ ま)郷を歩いていたとき、ついそんな柿の木に手をのばしたために、土地の人からえらくどなられたことがあった。いい年をして、みっともなかったことこのうえなかったものである。だが、それだけではなかった。
前年の冬だったか、私は大阪の関西テレビがシリーズでおこなった『わが母を語る』というのに出たことがある。薄幸だった母のことを語らされて、私は思わず涙ぐんでしまったりしたが、関西まで行ったついでということで、その翌日は山城(京都府)の岩船寺を見に行った。
このときも鄭詔文ほかがいっしょだったが、みるとその山道の側にも、赤い実をつけた柿の木がたくさんある。私は高麗郷で土地の人からどなられたりしたことがあったにもかかわらず、性こりもなくまたその柿に手をだすことになった。しかもその柿の木はちょっと大きかったので、私たちは朝鮮でよくしていたように、竹竿がわりの棒をひろってきて、子どものようにきゃっきゃっさわぎながら、その先を股にして柿をもぎおとした。
するとそこへ、奥のほうにあった岩船寺からの帰りらしい四、五人づれのおかみさんたちがとおりかかった。そのうちの一人が目ざとく私をみつけて、声をかけてきた。つまり、関西テレビでの『わが母を語る』をみて感動したものだというのである。
私は顔を赤くして、しどろもどろ。――こんどは土地の人からどなられこそはしなかったが、ある意味ではそれ以上の失態だった。なにしろ、薄幸だった母のことを語って涙ぐんだりしていたその男が、いま、柿ドロボウとしてそこに立っているというのは、なんともいうにいわれないかっこうというものだったからである。
赤い実をつけた柿の木をみると、私はよくそのときどきのことを思いだすが、それはさておき、若狭街道は峠を越すと、もう小浜までは近かった。考古学者の李進煕ほかもいっしょだった私たちは、そこの小浜駅前で、小浜市教育委員会の大森宏氏と会うことになっていたが、若狭にはいったいどういうものがあるか。
子持有台壺
さきにまず、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」をみると、古墳としては「小動物付有台壺・角形壺・子持有台壺」などを出土した三方郡美浜町の獅子塚や、遠敷(おにゆう)郡上中町の西塚古墳などがあげられており、また、「文献より見たる帰化人居住の分布」として、次のようなものがあげられている。
遠敷郡 丹生郷 秦人可久麻
同 青里 秦人大山
遠敷郡 野里郷 秦人文屋
それからついでに、おなじ福井県の越前までみておくと、こちらは古墳としては「子持坏(つき)」を出土した敦賀市丸山古墳、「子持有台壺」の坂井郡鷹巣町二ツ小屋古墳、「子持(はぞう)」の坂井郡伊井町加戸山古墳、吉田郡松岡町二本松山古墳などがあげられている。そして、「文献より見たる帰化人の分布」はこうなっている。
足羽郡 額田郷 漢人足国
同 足羽郡 秦文麻呂
同 同 秦荒海
同 同 秦文
同 上家郷 秦安倍
同 伊濃郷 秦八千麻呂
同 利刈郷 秦井出月麻呂
同 栗川庄 秦弟山
同 川合郷 漢人黒麻呂
同 少名郷 漢人真墨
江沼郡 弥太郷 秦得麻呂
坂井郡 赤江郷 秦赤麻呂
同 余戸郷 秦佐弥
坂井郡 余戸郷 秦乙麻呂
敦賀郡 津守郷 秦下子公麻呂
同 伊部郷 秦日佐山
今立郡 勝部郷
丹生郡 大屋郷 秦人部国益
同 秦嶋主
これでみると、若狭にしろ越前にしろ、新羅・加耶系とみられている、朝鮮語バタ(海)ということからきたものという秦(はた)氏族が圧倒的であることがわかる。ついでまた、村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷(こう)」によって神社のそれをもみておくと、若狭では新羅の原号であった、すなわち言語学者・金沢庄三郎氏のいう「民族名ソ」からきたものと思われる曾尾(そび)神社、木野神社などがあげられ、越前のほうは次のようになっている。
白城神社。信露貴彦神社。金前神社。角鹿神社。佐佐牟志神社。
金山彦神社。大椋神社。阿蘇村利椋神社。横椋神社。
もちろん、それが「帰化人」または「帰化人文化の痕跡」といえるものかどうかは別として、朝鮮から渡来したものがのこしている古代文化遺跡は、若狭や越前にしても、以上にあげられたものだけが決してそのすべてではない。それはこれからみるように、ほんのわずかな一部にすぎないのである。
小浜市教育委員会の大森宏氏には、このまえ、数年前にはじめて若狭をたずねたとき一度会っていた。それでまたこんども厄介になることにしたのだったが、氏も京都で鄭詔文が発行している季刊誌『日本のなかの朝鮮文化』に「若狭にみる民族移動の跡」という一文を寄せていて、あとでみる若狭国一の宮の若狭彦神社(上社)・若狭姫神社(下社)にまつわる「海幸・山幸」の伝承を紹介し、そこにはっきりこう書いている。
当地方は、古来より朝鮮半島との交流が盛んに行われたところだが、私はズバリと云って、朝鮮からの渡来者が、私達大多数の祖先の中核をなすものと思っている。その一つは、先の伝承であり、また出雲神話の中にそれを求めることが出来る。
若狭湾岸出土の石剣・石戈
国鉄の小浜駅前について電話をすると、大森宏氏はクルマを駆って、すぐにそこまで来てくれた。私たちはあいさつもそこそこにして、さっそく大森さんについてまわることになった。
先頭になった大森さんのクルマには私が乗ったが、大森さんはあらかじめみてまわるコースをきめてくれていて、まず、風光のよい小浜湾沿いの国道二七号線を走った。それは丹後街道で、しばらく行くと、若狭富士といわれる尖(とが)り立った青葉山が真っ正面となった。
間もなく高浜町の小和田となったところで、大森さんはクルマをとめた。そしてクルマから出ると、そこに見えるこんもりと樹木の茂った丸い小さな山を指さした。二年ほどまえ、朝鮮のいわゆる磨製石剣とおなじ、石剣と石戈(せきか)とが発見された遺跡だった。
この辺一帯は清水谷古墳群など古墳の多いところで、とくに小和田周辺のそれは二十も数えられるとのことだったが、そこから弥生時代のものとみられる全長三十四・五センチの石剣と石戈とが発見されたということは、また格別なことだった。というのは、稲作や金属文化をともなった弥生文化は従来、南部朝鮮から北九州に渡来したもので、それが中部日本から東日本、北陸へと波及したというのが常識のようなものとなっていた。
ところが、にもかかわらず、その石剣・石戈が若狭湾岸で発見されたとなると、若狭のばあいは、それをともなった弥生文化は北九州からではなく、じかに日本海を渡ってきたものではないかということを、いっそう強く示唆することになるからである。「いっそう強く」といったのは、ほかからも弥生時代の遺跡・遺物が発見されているからであるが、そのことともあわせて、大森さんも編者の一人となっている報告書『若狭高浜町出土の石剣・石戈』をみるとこう書かれている。
若狭地方の弥生時代遺跡は、近年、弥生時代前期のいわゆる遠賀川式併行のカメ型土器の出土例が大島半島に三例、小浜市阿納に一例発見されている。これらはひとしく、海岸部に近い砂丘を形成する地帯であり、小浜市阿納は日本海沿岸における同系文化の東限となっているものである。弥生文化は中期、後期に至って、平野部にその分布が増加し、大飯町では佐分利川流域、上中町、小浜市では北川が形成する沖積平野、三方町では魚時川流域、美浜町では耳川流域に顕著である。加えて美浜町今市、小浜市阿納等は、中期、後期に属する資料も得られており、海岸部における文化の受入れを示しているものである。
そして新たに発見された石剣と石戈とについては、「本石剣・石戈の源流については明らかにすることはできないが、前述のように若狭地方で遠賀川式併行の土器の出土例がみられる点、さらに日本海沿岸に広く点在する弥生終末期の土器出土例等にみられるごとく、いわゆる日本海を舞台とするひとつの弥生文化圏が存在する可能性がきわめて強く感じられる」として、さいごにつづけてこう書いている。
若狭高浜町小和田出土の石剣・石戈について、その遺跡、遺物、出土状況をめぐる問題点の概要をのべてきた。前述のように、石剣・石戈がセットとして発見され、それも完形品として出土したことは若狭の弥生時代を研究して行く上に重要な問題を提起した。
小和田地区周辺には、弥生時代の遺跡は現認されていないが、付近一帯をさらに綿密に調査することによって、必ず発見されるであろう。前期弥生文化の分播(ぶんぱ)、あるいは弥生時代終末期における波状的な文化移動は、若狭の場合「海」の媒介がきわめて大きいものであると考えられる。われわれは「日本海」を舞台とした文化伝播の源流を今後も更に深く追究して行きたい。
なお、同報告書によると、その石剣と石戈とが発見された高浜町小和田のそこは、「奈良時代の青郷、青里に比すべき地域の中心部と考えられる」とある。してみるとここは、さきにみた斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」に「遠敷郡 青里 秦人大山」とあるその「青里」だったのであろうか。
するとそこは、朝鮮語バタ(海)からきたものといわれる新羅・加耶系渡来人の秦(はた)氏族が居住していたところということになる。高浜町のそこは遠敷(おにゆう)郡ではなく大飯(おおい)郡となっているが、しかしこの大飯郡は、八二五年の天長二年に遠敷郡からわかれたものであった。
八幡神社の「禁制状」
大森さんは石剣・石戈を出土したその遺跡につづいて、大島半島の古代製塩遺跡である浜禰(はまね)遺跡や、それからさらにまた阿納(あのう)塩浜遺跡までみせてくれるつもりだったらしかったが、しかしもうあまり時間がなかったので、そこは割愛することにした。それより私たちは遠敷の神宮寺をたずねることにして、浜禰遺跡のあるその大島半島を左手に見ながら、丹後街道を小浜市内へと戻っていた。
「それだったら」と大森さんは、横の運転席で言った。「さきに、小浜の八幡神社へ寄ってみましょうか」
「八幡神社ですか」と、私はあまり気のすすまないような返事をした。八幡神社などというのは、どこにでもざらにあるものだったからである。
「これは、ただの八幡さまではないですよ。この八幡神社には古文書の『禁制状』がありましてね」
「へえ、それはどういう――」
「それによると、この八幡神社もどうやら新羅と関係があったらしい」
「ああ、そうですか。何だ、人がわるい。それならそうと、――いや、そこへ行ってみましょう」
私はさっそくそう言って、大森さんをうながした。大森さんは私の目的をよく知っているので、わざと気を持たしたのである。
小浜市男山にある八幡神社は、青緑の山を背後にした古い大きな神社であった。神社の前の通りは繁華な街路となっていたが、それは門前町として開けたもののようだった。
あいにくなことに宮司の渡辺隆氏が不在で、その『禁制状』はみせてもらうことはできなかった。しかし後日、大森さんがその『八幡神社誌』とともに送ってくれた写真をみると、そこにはっきりと「新羅」の文字がある。
それは一五八五年の天正十三年、若狭の国主となっていた丹羽五郎左衛門長重が寄せたものだったが、「八幡宮 禁制」とあって、はじめの「一」がこうなっている。
一、当社并限末社新羅敷地競望事
どういうことなのか、私にはよくわからない。「敷地競望事」というのは「敷地に手をつけてはならん」ということではないかと思うが、「限末社新羅」とはどういうことか。そこには新羅神社というのがあって、末社となっていたのであろうか。
いずれにせよ、大森さんの言ったとおり、その八幡神社が新羅と関係を持ったものであったことは、まちがいのない事実だった。この『禁制状』のことは『八幡神社誌』にも出ているが、なおまた、『八幡神社誌』によると、『続(しよく)日本紀』の神護景雲四年の条にその神社のことがみえているとある。
それで『続日本紀』を開いてみたところ、神護景雲四年ではなく、それは七七〇年の宝亀元年八月の条で、こう書かれている。「若狭国の目(さかん)従七位下伊勢朝臣諸人(もろひと)、内(う)舎人(とねり)大初位(だいそい)下佐伯宿禰老を遣(つかわ)して、鹿毛馬(かげうま)を若狭彦神、八幡神宮に各一匹を奉らしむ」
してみるとこの「八幡神宮」すなわち八幡神社は、少なくとも七七〇年にはすでにそこにあったのである。あわせてここに出ている「若狭彦神」はこれからみることになるが、これがまた新羅との関係濃厚なものであった。
遠敷(おにゆう)の神宮寺で
根来=「わたしの古里」
小浜の八幡神社からさらにまた私たちは、さきにそこからやって来た国道二七号線へ戻った。近江の今津から出ている若狭街道につながった道路だったが、そこから峠を越したこちらの上中町からは小浜街道となっているものだそうで、この街道を中心としたあたりは、北川の流れがつくりだした沖積地帯だった。
いわば広い意味の谷間で、その谷間の左右はまたいくつかの川が流れだしている谷間となっている。神宮寺のある遠敷谷(おにゆうだに)もそうした谷間の一つだったが、しかしこの谷間は、古代の若狭(わかさ)にとってもっとも意味深いところであった。
『遠敷郡誌』「神社誌」をみると、「本郡の神社は国幣中社、若狭彦神社・若狭姫神社を第一とし、延喜式内に列せられた諸社は、此地方の祖先又は祖先に祀(まつ)られたる諸神たることは勿論にして……」とあるが、その若狭彦神社・若狭姫神社もこの遠敷谷にある。音無瀬川ともいわれている遠敷川に沿った県道を行くと、間もなく右手の山寄りに若狭姫神社(下社)がみえ、つづいてもう少し進むと若狭彦神社(上社)となる。
しかし、その神社についてはあとでみるとして、私たちはまっすぐ、そこからさらに一キロほど進んだところにある神宮寺にいたった。
私としては二度目に来たところだったが、神宮寺ということになると、私はここでまず一つ、ちょっと長い引用をしなくてはならない。それは一九七二年五月十九日号の『週刊朝日』にのっている「残る古代朝鮮文化の跡」という見出しをもった連載ルポ第二十回目の「若狭小浜」である。筆者は長塚記者となっていて、同記者は私たちがいまそこにいたった神宮寺をたずねてこう書いている。
バスは若狭一の宮の若狭姫、若狭彦の両神社をすぎて、盛りの春を走った。桜、ツバキ、菜の花、コブシと咲きそろう花の中にワラぶきの農家が点在する。湖北地方で、きのうの汽車の窓から見たのと同じ、入母屋造りの優美な屋根だ。きっと、大昔から変ってないのだろう。
神宮寺でバスを降りた。西暦七一四年に創建された寺だ。境内はツバキが散り、枝垂(しだれ)桜も散り始めて、芝生のやわらかい緑をいろどっていた。明るい庭だ。本堂に上がるときはいたワラぞうりが、いかにもきっちりと編まれていて気持よかったので、靴下をぬいで足の裏にも感触を楽しませてやった。
神宮寺できいた説明は、たいへんおもしろかった。
まず、若狭の古代文化は、対馬暖流にのって渡来した朝鮮の新羅系の人々が築いたものだという。
ワカサの語源は朝鮮語のワカソ(往き来)である。
神宮寺のある遠敷(おにゆう)川の一帯は、国府・国分寺が置かれ、特に史跡が多い。この遠敷とは朝鮮語ウォンフー(遠くにやる)のなまりである。
遠敷川の上流に、根来(ねごり)というところがある。これは朝鮮語ネ・コーリ(汝の古里)のなまりである、というのだ。
ここにいわれている若狭や遠敷の語源については、私もさきに来たとき神宮寺住職の山河尊護氏から聞いているし、また神宮寺発行の『若狭神宮寺』にもそのように書かれ、武藤正典氏の『若狭文化財散歩』にもおなじことが書かれている。これについては私もあとで自分の考えをのべるつもりであるが、長塚記者のルポの引用をもう少しつづけることにする。
つぎに良弁(ろうべん)僧正の話。奈良・東大寺の開祖とされている良弁は、子どものときにワシにさらわれ、高い杉の木の上にひっかかっていたのを、義淵僧正にひろわれたという話がある。歌舞伎にもなっていて、有名な話だ。
神宮寺住職山河尊護さんの説では、良弁は下根来白石の常満長者の子だという。ワシとは和氏のことで、神童なのを見込まれて、和朝臣赤麿という人に、大和へ連れていかれ、義淵僧正に預けられたのだそうである。
赤麿は、遠敷川(鵜ノ瀬川ともいう)の下根来白石にある鵜ノ瀬に天下った若狭彦・姫神の直系の子孫で、神宮寺の開祖。
「形、俗体にして唐人のごとく、白馬に乗じ……といいますから、大陸から来た人でしょう。白石はシラギ(新羅)だと思います」と山河住職はいうのだ。
バスは次に羽賀寺へ向った。高い石段を上がる手前に、花弁の開いた真赤なチューリップが咲き乱れていた。
重文の本堂に上がり、重文の十一面観音を拝した。寺の創られた西暦七一七年ごろ、当時の天皇、元正女帝の姿を写して、開祖行基が刻んだという観音様には、まだほのかに彩色が残っていた。くっきりした目鼻だちの美人だ。実際に作られたのは平安初期だそうだ。
小浜には、ほかにも妙薬寺が行基開創の寺と伝えられている。国宝の本堂と三重塔がある明通寺は征夷大将軍・坂上田村麻呂の創建と伝えられる。
行基も、坂上田村麻呂も、良弁も、義淵も、みんな朝鮮半島からわが国へ文化を伝えた人々の子孫だ。なんだか本誌〈『週刊朝日』のこと=金〉連載中の司馬遼太郎氏の『街道をゆく』か、金達寿氏の『日本の中の朝鮮文化』の世界へまぎれこんだようだ。
バスは、羽賀寺から若狭塗り工場へ向った。あとで駅前通りの大下漆器店の大下茂さんから聞いた話では、若狭塗りは、卵殻や貝をとぎ出す螺鈿(らでん)の手法に特色があるのだそうだ。そして、この手法も朝鮮から渡ってきた技術だという。
私は工場へは行かず、バスを降りた。東大寺二月堂お水取りの水源で若狭彦・姫が天下った鵜ノ瀬と、最初にその両神がまつられた白石神社へ行ってみたくなったからだ。
新羅ということからきたという白石(しらいし)の白石神社はあとでみるとして、私たちがいま来ている神願寺ともいわれた神宮寺は、その名称からもわかるように、これはもと若狭彦・姫神社の神宮寺だったものである。それが明治はじめの神仏分離令により引き離されたもので、そのことは『若狭神宮寺』「由来」にもこう書かれている。
この地方を拓(ひら)き国造りした祖先が遠敷明神(若狭彦命)で、その発祥地が根来の白石で、……すでに根来白石に祀(まつ)られていた遠敷明神を、神願寺に迎え神仏両道の道場にされた。これが若狭神願寺の起源で、鎌倉時代初め若狭彦神社の別当寺となって神宮寺と改称したのである。
それからまた、「略歴」としたところにこうも書かれている。
西暦一八七一 明治四年、国家神道により若狭彦神社を国幣社とされ、当寺境内遠敷明神社も神仏分離令により、社殿を毀(こわ)し神体を差出させられる。身代りを出し神体(現存)は本堂に秘蔵する。
いま引いた『若狭神宮寺』は当寺の住職山河尊護氏の書いたものであるが、ところで、若狭彦神社の宮司高木好次氏の書いた『若狭井の水源』をみると、神宮寺にあるという遠敷明神の神体や、その神宮寺でおこなわれている東大寺二月堂への送水行事などをめぐって、ちょっとした論争のようなこともあるらしい。いわばどちらが宗家か、というようなことなのである。
しかしながら、これまでみてきたところでもわかるように、若狭彦神社も神宮寺も、かつては一体のものであった。どちらも遠敷川上流の根来・白石にある鵜ノ瀬の白石神社が発祥で、もとは遠敷明神または白石明神から出たものだったのである。そのことは、高木好次氏の『若狭彦神社由来記』にもはっきりこうしるされている。
下社は古来、若狭姫神社、遠敷神社とも称したが、明治初年、国幣中社に列せられて、官祭を仰せ出された後は、若狭姫神社、または若狭彦神社下社と公称されるようになった。また上社及び下社を併せて、若狭彦神社とも、上下宮ともたたえまつる。……
小浜下根来白石(小浜線東小浜駅より南四五〇〇米)に鵜ノ瀬というところがある。遠敷川の清流が巨巌に突当って淵をなしておる。この巨巌の上に、先ず若狭彦神、次いで若狭姫神が降臨されたと伝える。この南方一五〇米のところに、創祀(そうし)の社と伝える白石神社がある。……
奈良二月堂のお水取りは名高い行事であるが、このお水取りは、東大寺の実忠和尚と遠敷明神との神約にもとづくものであって、この遠敷明神は、遠敷神社、即ち、若狭姫神社の祭神若狭姫神―豊玉姫命である。東大寺には、二月堂の右横手に遠敷神社が奉祀してある。
東大寺の二月堂右横手に、そんな神社があるとははじめて知った。いずれまた東大寺に行ったときみておきたいと思うが、それはおいて、ただ、高木好次氏が『若狭井の水源』に次のように書いていることについては、私にもちょっと納得がゆかない。
遠敷明神は遠敷神社の祭神で、『神宮寺文書』にいう白石明神ではない。白石明神を遠敷明神と称えた資料はまだない。
なぜなら、これについては、いまみた同氏の『若狭彦神社由来記』にも境内社・白石神社のことが紹介されて、「祭神は若狭彦神、若狭姫神を白石大神、または鵜ノ瀬大神とたたえて奉祀。若狭彦神社創祀の社、と伝えるが年代不祥」とこれまたはっきり書いているからである。
つまり、若狭彦神といい若狭姫神といっても、これはまた白石大(明)神、遠敷明神ともいわれたもので、その発祥はどちらも遠敷川上流の根来・白石の白石明神、すなわち白石神社だったのである。それが現在の若狭一の宮である若狭彦・姫神社となり、さらにまた神宮寺ともなったのは、根来・白石のそこに白石神社をいつき祭っていたものたちの移動し、発展したものということにほかならない。
それがまたすなわち、高木氏も「根来白石に」「創祀の社と伝える白石神社がある」として、「その後、永久鎮座の地をもとめて、若狭国内を巡歴なされた末、霊亀元年九月十日に、竜前に若狭彦神社、六年の後、即ち、養老五年二月十日に、遠敷に若狭姫神社が鎮座した」ということにほかならなかったのである。古代における神とは、それは決して「天下った」というようなものではなく、どこかから渡来してきた人間だったということを、われわれは忘れてはならない。
さてそこで、さきにみた若狭(わかさ)、遠敷(おにゆう)などの語源についてであるが、若狭が朝鮮語の「ワカソ(往き来)」であるかどうかは、私にはよくわからない。遠敷の「ウォンフー(遠くにやる)」というのはどうかといえば、これはそれより、「遠くに居る者」という意味のウォンフ(遠候)ということではなかったかと思われる。
さきに神宮寺へいっしょに来たことのある詩人李哲の意見でもあるが、日本語でみても、いまはおにゅう(遠敷)となっているおにふ(遠敷)の「敷」は、「配置する」「統治する」ということでもある。根来の「ネ・コーリ(汝の古里)」にしても、「汝の」ということではなく、これはむしろ逆で、ネコオル、すなわち「わたしの古里」ということではなかったかと思う。しかしながら、白石(しらいし)が新羅ということからきたものだということは、そのものずばりといわなくてはならない。
だからまた、その白石の根来がネコオル(わたしの古里)でもあったわけである。神宮寺の山河尊護氏は、神宮寺発行のほかの文書、『お水送り』でも「若狭の根来に祭られていた白石(しらいし)(新羅(しらぎ)氏(し))明神」とはっきり書いているが、これはそのとおりではなかったかと私も思う。
新羅が白木・白城(しらき)・白子・白石となった例はほかにもたくさんあるし、丹後にある白米(しらぎ)山古墳の白米もそれだった。
小浜は民族移動の通路
神宮寺の山河尊護氏には、私はさきに来たときも会っていた。どこかひょうひょうとしたところのある、おもしろい人だった。神宮寺は、遠敷の谷を見おろす山腹の台地にある単層入母屋造りの秀麗な寺院で、その本堂からして国指定の重要文化財となっている。それを山河さんは、ご夫婦二人きりでまもって暮らしていた。
山河さんには、私もいろいろなことを教えられた。根来の白石神社も、私は山河さんからぜひ行ってみろとすすめられてたずねたものだったが、それについては、ここでまたさきにみた長塚記者のルポをかりることにする。
白石神社には樹齢千年を越えるツバキが小暗い影をつくっていた。最大のものは幹の回り四メートルを越える。直径一メートル以上のものだけで八本もあるが、老樹は花をつけていなかった。
神社のすぐわきを流れる遠敷川の水は濁っていた。上流で工事をしているためだろう。ひと気のない神域に、発破(はつぱ)の音が遠くとどろくと、ポタリ、ポタリと赤いツバキの花が散った。
白石神社の百メートルほど下流、鵜ノ瀬に立てられた案内板には、お水取りのことが記されていた。
二月堂を作った実忠和尚が、修二会(しゆにえ)を行うため日本中の神々を招かれたとき、若狭の遠敷明神(若狭彦・姫神)は漁に時を忘れ、ひどく遅刻した。
遠敷明神はそのおわびに、遠敷川の水を閼伽水(あかみず)として供えると約束すると、たちまち二月堂下の岩が二つに割れ、黒白二羽の鵜がとび出して清らかな水が湧いた。これがお水取りの水をくむ若狭井で、お水取りの期間は鵜ノ瀬は枯れるのだという。
その昔、遠敷川で鵜飼が行われていたという伝承がある。遠敷明神=若狭彦神は、海幸山幸伝説のヒコホホデミノミコトといわれている。
鵜飼が朝鮮の鴨縁江から中国東北の吉林省、揚子江流域などで行われている漁法であることを考え合わせると、おもしろい。
小浜市の郷土史研究会長の赤見卓氏に見せていただいた若狭彦・姫神の縁起を伝える神人絵図の写真で見る若狭姫=豊玉姫は竜宮の乙姫様のような姿をしていた。
小浜市長は、もと高校の校長で、歴史の先生だ。その名も社寺と歴史の町にふさわしく鳥居史郎さんという。
「小浜は民族移動の通路だったのですよ。北方民族が新羅を通じて小浜から大和に入っていったのではないでしょうか。人も物もここを通ったのです。京都の出町柳は、若狭から物資が出る町という意味なんです」
と、さすがに素性は争えず、話に力が入る。
この市長の鳥居史郎氏には、こんど行ったとき私もぜひ会ってみたいものと思っていた。だが、大森さんにそれをいうと、市長はいま重病の床についていて、「面会謝絶」になっているという。小浜ではそのために、市長の選挙戦がおこなわれていた。残念なことだった。
ところで、いまみた白石神社は古い素朴な神社で、境内にある椿の群生林は市指定の天然記念物となっている。気がついてみると、そこに俳人山口誓子氏の句碑が建っていて、こうあった。
瀬に沁みて奈良まで届く蝉のこえ
これも奈良・東大寺二月堂のいわゆる「お水取り」とその地との関係がうたい込まれたものである。だいたい、東大寺二月堂の「若狭井」にまつわる伝承はひじょうにおもしろいが、それは伝承であって史実ではない。
しかしながら、東大寺二月堂の裏手には遠敷神社があることからしても、われわれはそれが何らかのつながりを語ったものであるということまで、否定することはできない。すると、それはどういうことだったのであろうか。
かつての古代の人々は、平野よりさきに、川に沿った山谷をえらんで住んだ形跡がある。それは白石神社と若狭彦・姫神社との関係をみてもわかるが、こうして彼らはじょじょに平野部へと出て行き、そして各地にまでひろがったものと思われる。
根来・白石のばあいの彼らが若狭湾から入って来たものか、あとでみる敦賀湾から入って来たものかはわからない。それはわからないけれども、根来のそこにまず祖神の白石神社をいつき祭って住みついた者が朝鮮の東海、日本海から渡来した新羅・加耶系の者たちであったということはほぼまちがいない。
するとこれが奈良の東大寺までつながっているということは、その東大寺の地の産土(うぶすな)神となっているもと韓国(からくに)だった辛国(からくに)神社や、それからソウリ神、すなわち新羅系の園(その)神と韓神とを祭神としている、東大寺近くの漢国(かんご)神社とも関係があるのかどうか。これについては、また別に考えてみなくてはならないかも知れない。
上中(かみなか)の古墳と末野
石室の金製耳飾
神宮寺からの私たちは、また国道二七号線の小浜街道に出た。そして街道筋にある国分寺跡などみてから、遠敷谷のもう一つ向こうの谷となっている小浜市門前の明通寺をへて、上中(かみなか)町にいたったときは、もうすっかり夕方になってしまっていた。
だが、まだ陽はのこっていたし、五時ちょっとまえだったので、上中町では町役場にある教育委員会をたずねることにした。そこに保存されているという、上中町の古墳出土品をみせてもらおうということになったからである。
上中町は北川の流れがつくりだした沖積地帯の頭部にあたる盆地で、ここは上中盆地ともいわれる若狭の中心地の一つだった。それだったからか、ここにはたくさんの古墳があって、武藤正典氏の『若狭文化財散歩』にも「若狭で古墳を中心にまわるなら、まっさきに上中町にきていただきたい」とある。
さきの斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」にみえていた「遠敷郡上中町西塚古墳」もここにある。この西塚古墳は一九一六年の大正五年に偶然発見され、そしてまた偶然の出来事から今日の一部がのこされたもので、前記の『若狭文化財散歩』にそのことがこう書かれている。
西塚古墳は上ノ塚古墳の下に位置し、同部落の中央西寄りの水田の中に遺存する前方後円墳で、前方部はほとんどとりさられ、少しはなれた南の水田の中にわずかになごりをとどめているだけである。大正五年八月国鉄小浜線の敷設工事のさい、前方部の土砂を採取したところ突然石室が発見され、なかから甲冑、鏡、金製耳飾などが出土し、衆目を驚かしたが、宮内省御用係が出張調査した。それまでは、まったく古墳とはしらず、桑樹を植えた畑地であったが、このときの工事関係者は発病して部落の過半数が腸チフスに感染し、古墳のたたりといわれ、これを恐れ中止したため一部残ったものである。
そういっては何であるが、こういう「たたり」は私も大いに支持したいと思う。あちこちを歩いてみるとよくこういうはなしを聞かされ、あるところでは小学校の校庭にまだ未発掘の古墳がでんとすわっているのをみたこともある。それが未発掘のまままだそこにあるのは、発掘すると「たたり」があるということで、村じゅうから反対されているからとのことだった。
今日、全国にわたって開発=破壊が横行し、このような古墳がいくらでも跡形なくされているのをみると、こういう「たたり」がもっとひろがらないものかとも思いたくなる。その「たたり」のおかげで一部がのこされている西塚古墳について、『若狭文化財散歩』はさらにつづけてこう書いている。
前方後円墳で、三段に築かれた景観が確かめられ、主軸は南北の方向で後円部を北に前方部を南にした全長六十七メートル、後円部の径二十七メートル、高さは後円部の西部は水田面から約五メートルで、主体部の構造は、古墳の主軸にたいして直角に東西に営まれた横穴式石室であった。副葬品は土器類は少なく、神人画像鏡、四獣鏡、勾玉、管玉、金製耳飾、小鈴、帯金具、雲珠、杏葉(ぎようよう)、馬鈴、刀剣、鉄鉾(てつほこ)、鉄鏃(てつぞく)、鉄斧、甲冑などで、現在宮内庁の書陵部に保管されている。
付近の荒塚、光塚、上下之森、中塚、上ノ塚、糖塚と、この西塚をあわせ、昔から七ツ塚とよばれている。
ほかのそれについては、「本書は若狭を代表する西塚古墳、十善ノ森古墳、丸山塚古墳の三基を主とし、この地方の古墳の実態を明らかにすることを意図し」たとする斎藤優氏の『若狭上中町の古墳』にくわしいが、右の西塚古墳一つだけとってみても、おびただしい出土品である。「土器類は少なく」とあるけれども、さきにみた斎藤忠氏のそれによると、「小動物付有台壺・角形壺・子持有台壺」などが出土している。
どういうわけか、この土器のことは斎藤優氏の『若狭上中町の古墳』にも書かれていないが、しかしどちらにせよ、それらの出土品は「宮内庁の書陵部に保管されている」とあるから、私などはみることもできない。またみたところで、考古学者でない私にはなにが何だかよくわかりもしないが、しかしそのいくつかについては、おなじものを私も何度かみたことがあるので、およその見当くらいはつく。
だいたい、この西塚古墳はいわゆる「帰化人文化の痕跡」とされていることからして、そこから出土した金製耳飾などは、朝鮮の新羅・加耶古墳から出ているものと、まったくおなじものではなかったかと思う。それにまた、日本でもこのような金製耳飾が出土したのは、類例は少ないが、上中町の西塚古墳だけとは限らないのである。
たとえばさいきんでも、播磨(兵庫県)の姫路にある宮山古墳からは、おなじ金製の垂飾付耳飾が出土している。十二・七センチもあるすばらしいもので、同古墳の発掘『調査概報』をみるとこう書かれている。
垂飾付耳飾は、全国的にその類例が少なく、その手法は彫金技術を駆使したものであって、当時の日本にそのような技術が存在したとは考えられない。渡来朝鮮人の製作とも考えられるが、それよりも純粋に朝鮮製のものと考えたい。
そして同『調査概報』はその宮山古墳を「姫路平野の政治的集団の長の墓」の一つであったとしているが、このことは「若狭を代表する西塚古墳」ほかについてもおなじことがいえるのではなかろうか。ほんとうは西塚古墳ほかにしても、それが誰を葬ったものであったかということまではっきりわかるといいのだが、しかしそれはもちろんわかるはずがない。
今日のこの世に、誰もそれをみたものはいないからである。したがってわれわれはせいぜいのところ、このような古墳が築造されたその地にはいったいどういうもの、すなわちどういう「政治的集団」が住んでいたか、ということをいろいろな角度から推定してみるよりほかない。
西塚古墳ほかのある上中盆地のばあい、これまでみてきた遠敷谷(おにゆうだに)など、周辺のそれをみてもだいたいの推定はできるが、ではほかにまだどういう角度があるか、こんどはそれを少しみることにしよう。そのまえに、私たちは上中町の役場をたずねなくてはならない。
鏡谷(かがみのはざま)の陶人(すえびと)
上中町の教育委員会ではさいわい、同委員会教育長亀井清氏や主事の福井康二氏に会うことができて、私たちはそこのガラスケースに入っているいろいろな古墳出土品をみせてもらうことになった。画文帯神獣鏡や環頭太刀の環頭、杏葉(ぎようよう)、須恵器の(はぞう)など、たくさんある上中町の古墳から出たものの一部だったが、それの入っているガラスケースには、この日さいごの西陽(にしび)が窓から直射していた。
それで私などには、なかにある小さな鉄鏃(てつぞく)類などまでよくみえたし、写真を撮らせてもらうにも都合よかったが、しかし同行の考古学者李進煕はちがっていた。彼は、日光のその直射をとがめるようにすぐ言った。
「ああ、これではいけませんな。なかの鉄器など、いたみが早いですよ」
「ええ、そうだそうですね。それで、近く別に収蔵庫をつくることになっているのですが……」
と福井さんもそう言って、頭のほうに手をやった。
それを聞いて、私もなるほどと思った。一つまた勉強になったわけだったが、上中町の教育委員会ではそのほかにも、上中町住民センター発行の『かみなか』や、さきにみた斎藤優氏の『若狭上中町の古墳』などをもらい受け、そこにあった『上中町郷土史』などもみせてもらった。
この『上中町郷土史』には、「若狭の国名の史上所見の始めは天日槍(あめのひぼこ)の帰化せし時代の記事である」として、『日本書紀』垂仁三年条のそれが引かれている。「ここに天日槍、莵道河(うじがわ)を泝(さかのぼ)りて、北の方、近江国の吾名邑(あなのむら)に入りて暫(しま)し住み、また近江より若狭国を経て、西の方、但馬国に到りて住む処を定む。この故に、近江国の鏡谷(かがみのはざま)の陶人(すえびと)は天日槍の従人(つかいびと)なり」
これをみるとなるほど、若狭国の若狭というのは朝鮮語ワカソ(往き来)にちがいないとも思われるが、近江には現在も、もと吾名邑だったといわれる苗村(なむら)というところがあり、鏡谷があって、そこには天日槍を祭った鏡神社もある。なぜ近江のそれにまでふれたかというと、ここにみる「鏡谷の陶人」というのが次にみる末野と関係があったからである。
しかしその末野は、翌日まわしとするよりほかなかった。冬の日暮れは早くて、上中町の教育委員会から出てみると、もうあたりは暗くなりはじめていたからである。
須恵器の破片がざくざく
小浜市内で一夜を明かした翌日も、雲一つないよい天気だった。私たちはまた大森宏氏といっしょになって、北川の東北方に沿った丹後街道からまっすぐ上中町の脇袋、末野へ向かった。この丹後街道は上中町で小浜(若狭)街道と合流し、越前の敦賀へ向かう国道二七号線となるものだったが、西塚古墳などのある脇袋と末野は、敦賀へとまわり込んだその二七号線沿いにあった。
若狭はほかにもまだ、行ってみたいところはたくさんあった。たとえば、これものち新羅となった古代南部朝鮮の小国家多羅(たら)からきたものにちがいなかった太良庄(たらのしよう)や、それからこれも安羅(あら)・安那(あな)ということではなかったかと思われる阿納(あのう)などだったが、しかしそこは省略することにした。
脇袋というところはその地名にふさわしく、脇に入り込んだ谷間だった。しかし、小さな円墳のような形しかのこっていない西塚古墳のそこに立ってみると、前方はずっと開けた平野で、いかにも古代人の彼らがそこを墳墓の地にえらびそうなところと思われた。
どこも人家はみな山裾にかたまっているのどかな里だったが、脇袋近くの末野はもっといっそうのどかだった。人々はその由来を知らず、いまなおそこを「朝鮮口」ともいっているという谷間を入ると、末野のそこはまるで全体が一つの陽だまりとなっているような明るい、丸い小盆地であった。
盆地はいまはみな田んぼとなっているけれども、かつてのそこは須恵器の一大生産地だったのである。末野という地名からしてそれで、武藤正典氏の『若狭文化財散歩』に「末野の窯跡」としてこう書かれている。
古くから窯業が行なわれた窯跡の分布地帯として知られ、昔は「陶(すえ)」焼きの場所として、「陶」の字名が、現在の「末」に変ったとも伝えられ、山腹の須倍(すべ)神社は延喜式内社で「須恵」に関係があるようで養老三年(七一九)の勧請という。神社には付近の出土品が保存されている。
山麓の窯跡は、昭和四十五年五月二十四日から同年九月にかけて、若狭考古学研究会が発掘したもので、山裾地帯の嶋、雨坂、四反田、儀信田、北赤松、大門、百々木谷の七ヵ所から窯跡が確認され、表土は長年の耕作のため荒れてはいたが、表土下、二十センチに焼土が認められ、遺物には須恵器破片、布目瓦が大量に出土した。いずれも奈良時代から平安時代前期にかけての須恵器と確認され、良好なもので、窯跡、もしくは工房跡で、少数の土師器(はじき)片も散布していた。包含層が浅く、須恵器製作人の住居跡の確認は困難であったが、須恵器生産は古代における重要産業で、若狭では小浜市相生、城ケ谷窯跡が確認されているだけである。このあたりが古代若狭の窯跡の中心地であった。奈良、平安時代は谷間に煙がたちこめていたことであろう。若狭地方の古代史の編年を知るうえにも重要な窯跡である。
ここにいわれている若狭考古学研究会は、大森さんたちがつくっているものだった。したがって、その窯跡の発掘も大森さんたちのおこなったものだったのである。
いまは明るい陽光のもとにひろがっている、取入れのすんだ田んぼばかりとなっているが、「奈良、平安時代は谷間に煙がたちこめていたであろう」そこを、私たちはあちこちとぶらぶら歩いてみた。しかしそれにしても、そこら一帯が古代における須恵器の一大生産地であったとは、実感としてはどうもあまりしっくりこない。
そこに見えるものは田んぼと周囲の山ばかりで、いまはそれらしいものがどこにもなかったからである。そのときちょうど、私たちがそのように思うであろうときを見はからってでもいたかのように、ふいと横から大森さんが言った。
「いまでもその辺の田んぼからは、須恵器の破片が見つかるはずですよ。みてください」
「へえ、そうですかね。どれどれ、われわれも一つ発掘してみるか」
そこで私もはじめて畔道(あぜみち)におりて行って、田んぼのなかをみたのだったが、なんと気がついてみると、あたりは須恵器の破片だらけだった。田んぼを耕す農民にとっては、そんなものがいまなお出てくるのは迷惑だったらしく、大きな破片がいくつも畔道に放りあげられたりしてある。
「おい、そこにも――。これはどうだ」というわけとなり、私たちはたちまちのうちに数十片もそれをひろった。なかにはすぐ一つの立派な須恵器壺が復元できそうなのもあって、しかもあるものには、みごとな緑色の自然釉(ゆう)までかかっている。
豪族と共に渡来した陶人
ここで須恵器とはどういうものか、ちょっとみておくことにすると、加藤唐九郎編『原色陶磁器大辞典』にもあるように、須恵器とは比較的新しい名称で、明治の半ばごろまでは「いわいべ(厳瓮・祝甕・斎甕)または朝鮮土器などの名で呼ばれ」ていたものであった。一方また新羅焼ともいわれたものであるが、大村敬通氏の『登窯(のぼりがま)』をみると、それまでの土器とともに、須恵器のことがこう書かれている。
日本のやきものの歴史は、縄文式土器にはじまる。縄文式土器にかわって、紀元前二〇〇年ごろ、大陸、朝鮮の先進文化が渡来したのを契機にして、弥生式土器がでてくる。弥生式土器についで、さらに土師器(はじき)があらわれる。
縄文式から土師器まで、えんえんと続いた在来の土器生産にたいして、五世紀ごろ突如として須恵器の生産がはじめられたのである。この須恵器はそれまでの縄文式土器、土師器とはまったく異質なもので、朝鮮半島からつたえられた、まったく新しい灰色の硬いやきもの(約八〇〇度から一一五〇度の熱で焼かれた)の誕生であった。
日本において、須恵器生産者の誕生をつたえる記事は、奈良時代にできた日本書紀の「垂仁紀」三年の条に、近江鏡谷の陶人は、新羅から渡来した天日槍の従人であり……。
「近江鏡谷の陶人」のことはさきにもみているが、要するに須恵器とはそのようなものだったわけである。しかしながら、「大陸、朝鮮の先進文化が渡来し」とか、「朝鮮半島からつたえられた」といっても、それは決して、その文化だけがつたわって来たというものではなかった。
古代の当時、それが「渡来し」「つたえられた」ということは、すなわちそのような文化を持った人間の集団が渡来したということにほかならなかった。だから三上次男氏も、その須恵器が渡来したことをもって、「これは南朝鮮の新羅、百済を日本に再現したものであった」(『日本の美術・陶器』)と書いたのである。
若狭の上中町末野における須恵器の生産にしてもそのようなことからはじまったものであったが、このことはまたなにを物語っているかといえば、そのような須恵器の生産者のみが朝鮮から渡来したものではなかったということである。「近江鏡谷の陶人は、天日槍の従人であり」ということからもわかるように、須恵器の生産者というのは、この日本に「南朝鮮の新羅、百済を再現したもの」たち、すなわち金製耳飾などを使用していたそういう豪族に随伴して来た、技術者集団だったということである。
したがって、この末野にある須恵器の窯跡遺跡にしても、その周辺にみられるほかの文化遺跡、たとえば近くの脇袋などにある西塚古墳ほかなどとの関連においてみなくてはならない。それがどう関連しているかということは、われわれがこれまでみてきた他のいろいろなものとも総合して推定するよりほかないが、ともあれ、末野のその遺跡はひどく生ま生ましいものであった。
私たちはなによりも、そこら辺にまだいくらでも散らばっていた古い須恵器の破片をじかに手にすることで、その生ま生ましさを充分味わうことができた。そして私たちは、土をこねてそれを焼いた古代の彼らの手の温(ぬく)もりがまだのこっているようなその須恵器の破片のいくつかをクルマのトランクに積んで、次なる越前の敦賀へと向かった。
菅浜から白木(しらき)へ
砧をふるう女たち
途中、三方(みかた)郡となっている美浜町には斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」にみえる獅子浜古墳があり、また、佐柿から椿トンネルを抜けたそこには、町の民俗資料指定となっている機織池(はたおりいけ)や機織神社などというのもあったが、私たちはそのまま国道二七号線を走りつづけた。そして敦賀半島のつけ根となっている佐田から左折して県道へ入り、なおしばらく走りつづけて、菅浜というところでクルマをとめた。
つまり、敦賀半島を西側に沿って、丹生(にゆう)のほうに向かって走ったわけだったが、菅浜になぜクルマをとめたかというと、そこに須可麻(すかま)神社があって、武藤正典氏の『若狭文化財散歩』にこうあったからである。
丹生に行く途中の菅浜部落は二十戸ほどの戸数で、昔から長男だけが残り、二男三男は他国に出て戸数は少しも変わらない。ブリの漁場があって、新鮮な魚、伝説に富む漁村の風景、それに超近代的な原子力発電所が対照的で、急激なレジャーブームで都会人がおしよせている。
菅浜の南の砂浜は、神功皇后の子、応神天皇が太子のとき、ここの浜でみそぎをされ、敦賀へ移られたと伝えられ、新羅(しらぎ)人が漂流して土着したとも伝える。現在の菅浜神社は古い延喜式内で須可麻神社と称し、菅窯由良度美(すがまゆらとみ)を祀(まつ)っている。菅窯が菅浜に転じ、焼窯の神様で、須恵器などをつくった帰化人の集団が丘陵に住みついたところであるともいう。また、新羅王子の天日槍(あめのひぼこ)(垂仁天皇三年)が若狭道を通ったとき滞在したところであるとも伝える。おそらく渡来した帰化人たちによって、須恵器の焼物が最初に日本にもたらされた地であろうと思う。
新羅人が先祖であると信じられ、人々の風俗習慣も新羅人の子孫のなごりといわれ、東西北の三方は山に囲まれ、南の一方だけが開けていて、今日でも川で洗濯物を棒でたたいたり、足で器用に踏みつける。また神社に参詣するとき扇を持つ風習など、またおんばと称する霜月(十一月二日)に二人の乙女(十七・十八歳)が、未明、浜でみそぎをして身を清め、正装して、しろたび姿で、赤飯や、あずきの入ったお供物の飯盛りを頭の上にのせ、雪道を地区から神社へ運んで奉仕するなど大陸関係の習俗がそのまま残っている。
さきに、私はいま引いたのをクルマのなかでみなに読んで聞かせたところ、クルマを運転している鄭詔文はおどろいたように言った。
「へえ、そうかね。『川で洗濯物を棒でたたいたり、足で器用に踏みつける』――棒とは砧(きぬた)のことだろうが、そんな風俗がまだのこっているのかな」
それは鄭詔文と限らず、同乗していた李進煕も私もみなおなじであるばかりか、朝鮮で生まれ育ったものなら、誰もがそう思わないではいられないはずだった。それぞれが生まれ育った川のほとりに、ずらりと居ならんで、砧をふるっている女たちの姿。それは私たちが故郷を思うたび、必ずといってよいほど目の底に描かれる光景の一齣だったからである。
いまは菅浜神社となっているという、須可麻神社はすぐにわかった。浜の通りからちょっと山寄りの坂を登り、石段を登ったところにあったが、そこは小学校の校庭ともなっていて、そして神社の前にある小さな建物は公民館となっていた。私たちはまず、山の麓となっている須可麻神社に近寄ってみた。神社は小学校の校庭拡張のためか、祠(ほこら)のような小さな形しか残していなかったが、扁額はまだ「式内須可麻神社」となっており、横にまたもう一つ、「麻気神社」とした額もある。
麻気神社とはどういうものかわからないが、須可麻神社の須可麻が菅窯となり、そして菅浜となったというのはよくわかるような気がする。須可麻の須可もおそらくは古代朝鮮語のスカ(村)ということからきたものではないかと思われるが、もしそうだとするとここはもと、やはり朝鮮土器の須恵器などを焼いた窯のあるスカ、その村だったにちがいない。
いわゆる古墳時代の開幕とともに朝鮮から渡来した須恵器を焼いたところとしては、いまなお日本全国に須恵・須江・陶(すえ)・末、それからさきにみた若狭の末野など二千数ヵ所をかぞえることができるそうであるが、一方ではまた、菅浜というのまでそれからきたものだったのである。
「そんな、むかしのことを……」
ところで、私たちはいまのところ、その須恵器の窯跡などはどちらでもよかった。それだったらこれまでにもたくさんみてきたし、きょうも午前中は若狭にある末野のそれをみてきたばかりだったからである。
それより、私たちがここでみたかったのは、さきに引いた武藤正典氏の『若狭文化財散歩』にあるそれだった。いまも「そのまま残っている」という「二人の乙女(十七・十八歳)が、未明、浜でみそぎをして身を清め、正装して、しろたび姿で、赤飯や、あずきの入ったお供物の飯盛りを頭の上にのせ、雪道を地区から神社へ運んで奉仕する」それをみることは、「おんばと称する霜月(十一月二日)」と日が限定されているからむりとしても、日常毎日のようにおこなわれているはずの「川で洗濯物を棒でたたいたり、足で器用に踏みつける」それはみることができるのではないかと、私たちは思っていた。
「おい、早く行ってみようじゃないか」と鄭詔文は、そんな須可麻神社のことなどはもうどうでもいいといわんばかりに、あちこちとあたりを見まわしながら言った。「きょうは何としても、それを一目みたいものだ」
「もし、洗濯しているその場面に行きあたらなかったとしたら」とこれは李進煕。「どこかのおかみさんたちにたのんで、それをやってみせてもらおうか」
「ああ、それでもいいよ。それだったら、年とったおかみさんたちより、その十七、八歳の乙女のほうがいいな、はっはは……。とにかく、早く行ってみようじゃないか」
「おいおい、ちょっと待てよ。そんなこと言ったって、そういう乙女がいまどきぐあいよくいるかどうか――」
みな戦後の国際的・政治的事情のため、それぞれ朝鮮の故郷へは帰ってみることができず、帰ったことのないものばかりだったので、私たちはちょっと浮き浮きした気分になっていた。その故郷でしかみることのできない光景を、この日本でみることができるというのだから、むりもなかった。
そんなことを言っていて、気がついてみると、須可麻神社の向かいとなっている公民館に、四、五人のおかみさんたちの寄っているのが見えた。おかみさんたちはその辺の道路改修工事かなにかで働いているらしく、ちょうど正午になっていたので、そこで弁当を使っているところだった。
「あのう、食事中のところすみませんが」と私たちはそこへ近寄って行って、誰からとなくおかみさんたちに向かってきいた。いま言い合っていた洗濯のことを話し、その洗濯しているところを、何とか見せてもらうことはできないだろうか、ということだったが、しかし私たちは、にべもなくしりぞけられてしまった。
「そんな、あんたむかしのことを、――いまはどこもみんな電気洗濯機だあな」とおかみさんの一人がそう言って、ほかのみなと顔を見合わせて笑った。
「ああ、そうか」と、私たちもそれで虚を衝かれたように顔を見合わせたが、しかし、鄭詔文はそれだけではあきらめなかった。
「しかしですね、しばらくまえまでは川で砧を使って洗濯していたというじゃないですか。ですから、一軒や二軒ぐらいはまだそうやっているところがあるでしょう」
「さあ、いまじゃもうそんなにしているところないなあ」と、おかみさんたちは弁当を使いながら、また互いに顔を見合わせるようにした。みなだまったままのところをみると、それはもうほんとうに一軒もないようである。
「それならですね」と鄭詔文は、またつづけた。「むかしやっていたそのやり方で、これからそんな洗濯をしてみせてくれる人はいないですか。どこかのおばあさんでもいいですが、もちろんお礼をしますよ」
十七、八歳の乙女どころではない。彼は、おかみさんでもなく、おばあさんにまでそれを引き下げたが、しかしやはりダメのようだった。
「そんなこと言うたって、いまじゃもうそんな道具もなくなってしまってるし、誰もやるもんはいねえだろ」
「テレビに出る役者なら、別だろうけんどなあ。ハッハハ……」
こうなってはもう、仕方がない。私たちはそのまま、とめてあるクルマのほうへ引き返すよりほかなかった。そして私たちは菅浜の集落を抜けて、さらにまた丹生のほうへ向かって走りつづけることになった。
アスファルトの県道はそこまでとなっている丹生には、関西電力の美浜原子力発電所があり、また近くには日本原子力発電の敦賀発電所があったが、しかしもちろん、私たちはそんな発電所に用があるわけではなかった。その丹生から山を越えたところとなっている、もとは新羅だった白木(しらき)と、そこにあるこれももとは新羅の白城(しらき)神社をたずねるためだった。
「それにしてもだね」と、鄭詔文はまだあきらめきれないといったふうで、クルマを走らせながら言った。「だいたい、電気洗濯機などが出まわりはじめたのはいつごろからだったかね」
「さあ、いつからだったか。ついこのあいだのことのようにも思えるが、どちらにせよ、いまはもう全国津々浦々というわけだな」と李進煕がこたえた。
雉の舞う集落
「洗濯機ばかりじゃないよ。電気冷蔵庫、テレビ、プロパンガス、それに耕運機と、めまぐるしかったからね。もしかすると、これから行く白木も、そんなことで大分変わっているんじゃないかな」
これは私だったが、と言ったのは、私は五年ほどまえにも一度、いま走っているその県道を通って、白木まで行ったことがあったからだった。このときはバスで、詔文の兄の鄭貴文がいっしょだったが、私はそのときのことをあるところにこう書いている。
――気比(けひ)神宮から敦賀駅へ戻ると、私たちはつづいてすぐ駅前にある福井電鉄のバス切符売場の窓口に立った。白木の白城神社へ行くためである。
ところが、バスはそのずっと手前の丹生までしか行かないという。なら、それからさきはどうするのかときくと、丹生からはタクシーがあるはずだというのだった。
で、私たちはともかく、白木というところがどういうところかは知らず、丹生までの切符を買った。二人で二百六十円、五十分ほどかかるという。
バスはたしか午後一時発だったとおぼえているが、敦賀半島の西側、若狭湾に沿って走った。天気もよかったが、あたりの景色もよかった。間もなく一般は通行止めの丹生大橋、美浜原子力発電所となり、「次が丹生の終点ですよ」と、バスの男の子の車掌が教えてくれる。
「やれやれ」とそれを声にはださなかったが、何となくそんな気持ちになって、私たちはそこでバスをおりた。
タクシーはとみると、それはたしかにあった。バス停留所近くのそこに、「嶺南タクシー丹生営業所」と看板がみえていて、車庫に一台、一台しか入れそうにない車庫にその一台がある。
「こんにちはー」と言って、私たちは車庫へ入って行った。奥からやっと、三十をちょっと出たかと思われる運転手らしい男が出て来たので、私か鄭貴文かが、「白木まで行ってほしい」とたのんだ。
ところが、である。運転手は、首をたてに振らない。そこは山越えで道が悪いとか何とか言いながら、横を向くのだった。「距離は」ときくと相当あるという。
「おやおや」と私たちは顔を見合わせたが、そうだとすると、私たちとしては、いよいよそのタクシーに乗らなくてはならなかった。遠い山道をてくてくと歩いていたのではそれだけで日が暮れてしまうかも知れない。それにまた、帰りのことも考えないわけにゆかない。――
「うーむ、なるほどなあ」と、鄭詔文はバスもそこまでとなっている丹生に着くとクルマをとめて、右手のほうにそびえ立っている山をながめ上げながら言った。これではそのタクシー運転手がことわるのもムリはない、といわんばかりだった。
要するに私たちは、敦賀半島突端近くの丹生から、その半島の山を越えて横断しなくてはならなかったのである。だが、右手のそこに見えるのは、びっしりと樹木におおわれた山塊だけだった。
丹生も五年ほどまえに来たときとは、かなり変わってしまったようだった。そこにある超近代的な施設の美浜原子力発電所も観光対象の一つとなっているらしく、それとあわせて、あたりの海岸もいまは海水浴場として開発されており、まえにはなかったその季節だけの売店やら、旅館やらが何軒も建っていた。しかし右手の、その背後にそびえ立っている山塊だけはまだ依然として、太古からの姿そのままだったのである。
「だいいち、あんな山の中にそんな道路があるのかい」と鄭詔文は、自分の運転している中型のクルマとその山とを見くらべるようにしながらまた言った。
「あるよ。がたがた道だが、あることだけはたしかにある。何でもそれが開通したのは、一九六〇年からだそうだがね」
「へえ、そうかね。すると、それまではどうしていたんだろう」
「人のとおれるぐらいの道はあったんだろうが、しかしそれまでの主な交通手段は船だったそうだ。だったそうじゃなく、いまもまだそうらしい」
私たちはそんなことを話しながら、そこの山の中へとつうじている右手の道すじにクルマを乗り入れた。やっと一台だけがとおれる細道で、クルマは急にはげしく揺れはじめたかとみると、やがてそのままうしろへのけぞってしまうのではないかと思われるような急坂となった。
「ああ、これは相当なもんだな」と、鄭詔文は身をよじるようにしながらハンドルを切っていたが、雨によってできた道のはしの穴に後輪の一つをとられてしまった。空まわりをつづけるだけで、動かなくなった。
こんなときはどうするか、それはきまっている。私たちはみなクルマからおりて、うしろからそのクルマを押したりしながら、やっと峠まで登りついた。
「ああ」と、みんなは思わず嘆息するようにして、そこに展開されている光景に目を奪われた。いきなり敦賀湾一帯の海が目の前にひろがったのはいいとして、その目のほとんど直下に、十数戸の白木の集落が見えたからである。
私たちはそこでクルマをとめ、みんな外の道路に立って、目の下の集落を見おろした。左右からはそそり立った岩石の山がせりだし、そのあいだにあるわずかばかりの湾入部の平地、というよりそのわずかばかりの空地に、白木の集落はこびりついたようにしてあった。
私たちは、クルマは鄭詔文にまかせて、そこからは急な下り坂となっている道をしばらく歩いて行くことにした。道路は急坂をカバーするために、山の斜面を大きくS字型にまわっているようだったが、しかしそれでもなお急な坂道だった。
「バサッ」と、右手の雑木林のなかでそんな音がしたかとみると、そこから二羽の雉(きじ)が飛び立った。
「あっ、雉だ!」と私たちは、誰となく大きな声をあげておどろいた。子どものころ、朝鮮の山で見なれた尾の長いカラフルなそれとはちがっていたが、まるまるとよくふとったかなり大きな雉だった。
「雉とは珍しいなあ。三十数年ぶりだ。あれをみただけでも、ここまで来たかいがあったというものです」と李進煕は、なおも雉の飛び立ったそこを見やりながら言った。
白 城 神 社
いまなお辺境といった白木らしい光景で、私もおなじくそう思ったのだったが、しかし集落に近寄ってみると、その白木も五年ほどまえに来たときとは、かなり変わった様相を呈していた。そのときはタクシーをとめておくところもよく見当たらなかったものだったが、いまは集落の入口のそこに四、五人の男とブルドーザーとが動いていて、駐車場がつくられつつあった。
「へえ、こんなところになんで駐車場を――」と思ってあたりを見まわしてみると、そこの海辺も山向こうの丹生とおなじように、夏は海水浴場となるのらしかった。五年まえは考えることもできなかったもので、私はさきにいったタクシーでおとずれたときのことをこう書いている。
――やがて、タクシーは集落へと入って行った。とはいっても、集落のなかまでタクシーの入る道はなかった。人家は細い路地をあいだに、ほとんど一つつながりのようになって軒を接していた。
私たちは集落の入口の空地にタクシーをとめておき、なかの路地を歩いて行った。裏手の山の斜面に、少しばかりの田や畑が見える半農半漁の小集落だったが、半漁のほうはわずかな海辺が見えるだけで、それらしい港も船も見えなかった。
小さな集落だけがただ、夕陽のなかにしんとなっていた。人々はいったいみなどこへ行ってしまったのかと思われたが、やっと路地に一人のおばあさんがみえたので私はたずねた。
「ちょっとおききしますが、白城(しらき)神社はどこでしょうか」
「へい。こんなところまで、ごくろうさまです」と、おばあさんはていねいなあいさつを返して、うしろのほうを指さした。「すぐそこですえ」
ことばの抑揚にはどこかに、京都のそれがまじっているようだった。なるほど、神社はすぐそこだった。
山からの流れに小さな橋が架かっていて、その向こうが神社となっていた。山の斜面をうまく生かした立派な石段をあいだにして、左右にはこれまた立派な石垣が組まれ、そのうえには松の巨木が身をくねらせて立っている。はじめの石段を登ったところが鳥居で、そこの右横に、「式内 白城神社」とした石柱が建っている。――
要するに、入口のほうは駐車場ができたりして、そういうしだいとなっていたが、しかしその集落と神社とは、五年まえに来たときと少しも変わりがなかった。そこの海辺が都会人のための海水浴場となることでこれからどう変わるか、それはわからなかったが、いまのところはまだそのままだった。
「立派な神社だなあ。こんなところに、こういう神社があったとはね」
「ここにこんな神社を祭ったあの集落ができたのは、いったいいつごろだっただろうか」
李進煕と鄭詔文とは、急な山の斜面を掘りくずしてつくった長い石段のうえの、広い台地の境内をあちこちと歩きまわりながら、こもごも感動したように言った。鄭の言ったことは、誰でもがまず思いうかぶ疑問だった。
「十世紀はじめに書かれた『延喜式』内社だから、少なくとも一千年以上まえということになるだろう。それにしても、あの集落の人たちだけ、どうしてこんなところに住みつかなくてはならなかったか、それはわからないな」
「すると、新羅がほろびたあとか」
「いや、さきだろう。新羅がほろびたのは九三五年だが、しかしそのころになると、もう日本への集団的な渡来は、あまりなかったようだからね」
私たちはそんなことを話しながら、白城神社の高い石段の一つにならんで腰をおろした。そこからは白木の集落が一目で見わたせるばかりか、左手には敦賀湾の海も見える。
しかし一目で見わたせるといっても、白木の集落は昔から十五、六戸でしかなかった。それ以上になると、暮らしていけなかったからにちがいない。だから、いまでもその家々はみな一子相続となっていて、そのほかのものはみな外へ出なくてはならないことになっている。
したがってこの集落はいまなお貧富の差もなければ、階級的差もないという、珍しい社会となっている。そのためこの集落についての調査研究も多く、その一つの「福井県敦賀市白木浦の年齢・階層制を中心として」と副題された山路恵子氏の「北陸一海村の村落組織」をみると、集落はいまでも、「ジーサンラ(爺さんたち)」「バーサンラ(婆さんたち)」「オヤジラ(親父たち)」「カカラ(かみさんたち)」「若連中」「娘連中」「子供連中」といった自治組織によって運営されている。
卵のない村
それから、私はこんど来たとき李進煕に指さされて気がついたが、この白木の集落はちょうど敦賀湾口の一方に位置していた。よくみると、海のむこうにその対岸の山地が横たわっている。
白木の集落はそれでどういう役割をはたしたものだったか、あるいははたさなかったものかは知らないが、その敦賀湾が、かつて朝鮮・新羅からの渡来人たちにとって、ひじょうに重要なところであったことはよく知られている。これはさきにも(『日本の中の朝鮮文化3』)ふれたことがあるが、たとえば橋本犀之助氏の『日本神話と近江』をみると、日本のいわゆる「天孫族」が南朝鮮からやって来たのも、越前の敦賀湾だったとして、そのことがこう書かれている。
以上のように、岐美二柱〈伊邪那岐命と伊邪那美命のこと〉の渡来後は、度々朝鮮半島から裏日本への交通が行われたものと見なければならず、常に敦賀湾地方が其の要路に衝(あた)っていたと思われる。従って、越前から若狭、近江北部にかけては、渡来した朝鮮の民族多く、ために宛然(さながら)中世頃伊太利のロンバード商人が英国に渡来して倫敦(ロンドン)に建設した街をロンバード街と呼び為(な)していたように、或は又我が国の広島県より亜米利加(アメリカ)への移民が広島村を造ったように、更に又嘗(か)つての大陸への日本移民が分村を行い、郷里の地名を共にもたらしたように、是等(これら)の地方を其の郷里の地名そのまま韓(カラ)郷と呼び為し、或は新羅と呼び為していたのではなかろうか。今も尚北陸線柳ケ瀬トンネル附近に「カラコ山」があり、近江路に入って東浅井郡に唐(カラ)川や唐国(カラクニ)等の地名も残っている。又伊香(いか)郡余呉(よご)湖の畔(ほとり)に新羅崎神社あり、尚敦賀湾を扼(やく)している半島(立石半島)の先端に白木なる地名が残っていて(福井県敦賀郡松原村)、今も此の地方の半農半漁の村人は、自分達の先祖は朝鮮の王家の者で、此の地に渡来して土着するに至ったものであると、口伝えに伝えている。
そして、私たちがこれまでみてきた白城神社のある白木についてはさらにまたくわしく、つづけてこう書いている。
面白いのは此の白木の村である。白木は元々新羅と書いたものであるが、中古白木と改めるに至ったものであるとは、白木村に関する研究家敦賀の町の神山翁(今は故人)の話である。村人は鶏を神聖視して食わず、従って之を飼育しない奇習があり、白木村は全く卵のない村である。村人の神仏に対する念の篤(あつ)いことは、全く想像以上で、各戸の家長は毎朝必ず産土(ウブスナ)神社(白城神社)に参拝し、夫(そ)れから村の寺院に参詣し、祖先の霊を慰めることになっている。家族の者も亦(また)神仏の礼拝を済して家長の帰りを待ち、一家揃って楽しく希望に充ちた朝食の箸をとることになっている。而(しか)して神仏に対する礼拝は朝鮮の夫れの如く平伏である。神を敬い働くことを楽しみとしている此の村には一人の貧乏人もなく、平和に恵まれている。
白木の人たちが「鶏を神聖視して食わず、従ってこれを飼育しない」とは、新羅がかつてはその鶏を神聖視し、国名も一時は「鶏林」としたことがあったからにちがいない。その意味では、この白木集落は今日の朝鮮「本国」自身よりもなおいっそう新羅的であるといわなくてはならないが、しかし白木の人たちはいまもなおそうであるのかどうか、それは聞いてみなかった。
あえて、聞いてみたいとも思わなかった。なぜかというと、そんな習慣などはもうなくなってしまっているか、そうでないとしても、いずれはもうすぐなくなってしまうにちがいなかったからである。
西福寺と信露貴彦(しろきひこ)
高麗の仏画を見る
白木からこんどは逆のおなじ山越えで丹生へ戻った私たちは、そこでおそい昼食をすました。のれんがけの小さな町の食堂だったが、腹がすいていたからか、新鮮なハマチの刺身と味噌汁とがひどくうまかった。
そして私たちはさらにまた菅浜から国道二七号線へと戻り、敦賀市の松原海岸近くにあった西福寺をおとずれた。白木からはかなりの道のりだったので、もう日暮れ近くなってしまっていたが、なぜ西福寺をおとずれたかというと、仏画・経巻・古文書などたくさんの重要文化財と美しい庭園とを持ったその寺院を一度みておきたかったからでもあるが、そのうえまたここには、高麗(こうらい)時代の珍しい仏画があったからである。
新羅以後となる朝鮮・高麗の仏画がなんでそこに来ているのか、それはわからなかった。わからないが、武藤正典氏の『若狭文化財散歩』をみると、「高麗時代仏画の代表作で筆者は張思恭と伝えている」絹本著色の「阿弥陀如来像」とともに、おなじ「主夜神像」のことがこう書かれている。
絹本著色、主夜神像一幅は、紫色に染めた絹に金泥で描いたもので、尊容の口唇にわずかに朱を施し、上部の円相中に観音菩薩を描き、下方左に善膩童子を配して、小波の間に楼台、小舟、獣類を描いている。裏面の墨書記によれば宋人朱仁聡なる人が寄進したものであることがわかる。画中に「功徳主咸安郡夫人」の銘があり、朝鮮の作であることを知る貴重なもので、制作年代は、尊容や岩の描写法からみて高麗末時代と思考される。
主夜神は、正しくバサバレンテイシュヤ神といい、夜闇を護る。海陸において衆生険難、恐怖を除くことを本誓とするが、わが国ではその信仰はとくに流布したとはみえないが、朝鮮においては華厳信仰がさかんであって、海上交通の守護神として尊崇されていたものと思われる。
敦賀が天然の良港として朝鮮との海上要地として栄え、ここに帰化する人も少なくなかったというが、この画図が西福寺に伝来するということは、このような土地柄を考えれば決して偶然ではないので、この画像は高麗仏画の一遺作としてだけでなく、このような日朝交渉上の意義を見逃すことのできない重要なものである。
文中にみえる「功徳主咸安郡夫人」の「咸安」とは私の故郷から鉄道二駅さきのなつかしいところだったが、一つ疑問に思えることは、この仏画を寄進したという「宋人朱仁聡なる人」ということである。というのは、この仏画がもし「高麗末時代」のものとすると、それとは年代があわなくなるからである。
なぜなら、中国の「宋」がほろびたのは一一二七年で、その後の「南宋」にしても十三世紀の一二七九年にほろびてしまっているが、高麗は十四世紀末の一三九二年までつづいている。つまり、高麗末にはもう「宋人」というのはなくなっているのである。
したがって、「宋人」というのは、あるいはもしかすると「宋家の人」ということではなかったかと思われる。それはともかく、私たちは寺の人にたのんで、宝物館にあったそれらとともに、これまたおなじ高麗の仏画で絹本著色の「観経変相図」というのもみせてもらった。
私などみたところでよくわかるというものではなかったが、「観経変相図」は高さ二メートル以上、横幅一・三メートルもある仏画だった。そんな大きなものであるにもかかわらず、画はすみずみまで、実に精密をきわめたものだった。
そうして私たちは、西福寺から午後五時ぎりぎりになって、敦賀市教育委員会をたずねた。社会教育課長補佐の西谷弘氏に会って、『敦賀市内所在各種指定文化財一覧』ほかをもらい受け、ついで『敦賀市通史』などをみせてもらったりしたところ、それでもう、この日は暮れてしまった。
敦賀とその周辺はまだこれからだったが、それらをみるのは次回とするよりほかなかった。私たちは一路、出発点の京都へ向かって行った。
信露貴彦神社へ
次回は三、四日の予定としなくてはならなかった。それに行き先も遠かったので、鄭詔文たちは都合がつかず、こんどは私一人だった。前回は十二月のはじめだったが、こんどは一九七四年の一月はじめだった。
年がかわったとはいえ、そのあいだわずか一ヵ月ほどがたったにもかかわらず、北陸路はその光景が一変してしまっていた。北陸特有の、雪であった。
東京からの新幹線を米原で乗りかえると、敦賀までは急行列車でわずか四十分ほどの距離でしかない。しかし途中、長いトンネルを一つすぎて越前に近づいたかとみると、もうあたりは一面雪だった。列車の窓の外は、白いそれが横なぐりに吹雪いている。
「おやおや、これはえらいことになったぞ」と私は思ったが、しかし敦賀についてみると、そこは海岸部だったからか、案外たいしたことはない。雪はときにちらほらするだけで、その辺に見える山々も、うっすらとまだらにそれをかぶっているだけである。
夕方になっていたが、「どちらにしろともかく」というわけで、私はさきにまず駅前通りにあった靴店をさがしだし、雨靴を買ってはきかえた。念のため値をいうと、二千六百円だった。
「これでよし、さあこい」と私はひとりそんなことをつぶやきながら、駅前に戻ってタクシーに乗った。そして、若い運転手に向かって言った。
「金山の金山彦神社から、沓見(くつみ)の信露貴彦(しろきひこ)神社へ行ってください。それから帰りは気比(けひ)神宮をまわって、それで時間がなかったら、松原の松風閣までつれて行ってほしい」
こうしてタクシーを使うことになってみると、いろいろな意味で、鄭詔文のクルマはどんなにありがたいかと思うが、しかたなかった。松風閣というのは、今夜そこへ泊まることにして、電話で予約しておいた旅館だった。
タクシーの運転手によると、敦賀あたりではいちばん高い山だという野坂岳を眼前にしながら、国道二七号線を若狭のほうへ向かって行くと、そこが金山だった。金山彦神社は国道をちょっと左にそれたところにあって、ふつうどこにでもみられるそんな神社の一つである。
村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷(こう)」には金山彦神社のほか、金前神社というのもあげられているが、私はこれらもやはり、朝鮮渡来の製鉄技術者と関係のあったものではなかったかと思う。近くには鋳物師(いもじ)などというところがあって、いまでは陶磁器の鋳物師焼というのがつくられている。
人家のあいだに挟まっている金山彦神社は、さきにも一度来てみたことがあった。だったから、私はそれがそこに変わりなくあるのをたしかめただけですぐに、そこからはかなり離れたところとなっている沓見の信露貴彦神社へ向かった。この神社にしてもさきに来たときみていたもので、別にどうということがあるわけではなかったが、私は何となく、そこの宮司の龍頭(りゆうとう)衛氏にもう一度会ってみたいと思ったのである。
信露貴彦神社の信露貴(しろき)とはもちろん新羅(しらぎ)ということで、彦とはその男ということである。新羅を白木(しらき)、白城(しらき)としたのはいいほうで、信露貴とはずいぶんめんどうな字をあてたものである。だが、これなどもまだいいほうだった。あとでみることになる日野川は、これももとは、叔羅川、白鬼女川、信露貴川と書いて、いずれもかつてはシラギガワ(新羅川)とよんだというのだからおどろく。
そんなめんどうな字の信露貴彦神社をおとずれたのは、白木の白城神社をたずねたおなじ日ではなかったが、これも五年ほどまえのことだった。この日は鄭詔文がいっしょで、私はそのときのことをあるところにこう書いている。
それなら兄弟だ
――敦賀の街はずれ、急にあたりが農村風景となったところの山麓にあった信露貴彦神社は、それまでにみた気比神宮などにくらべると、古びたままで荒れた感じだった。おなじ『延喜式』内であるが、規模も小さい。
子どもたちが二、三人来て遊んでいるほかは、ひっそりとなっている境内を私たちは一巡して、そこの下手横にある農家をたずねた。それが宮司の家だと子どもたちに教えられたからである。庭つづきの玄関に立って、
「こんにちはー」と声をかけると、なかから人が出てきた。頭に古いシルクハット(チャップリンが映画でよくかぶっていたそれ)をのせ、首には白いタオルを巻いた背の低い老人だった。
「この神社について書いたもの、そういうものはないでしょうか。ぼくたちは……」と私か鄭詔文かがそう言いかけた。すると、すぐに返事がはね返ってきた。
「ありません。そういうものは、いっさいありません」
老宮司はきっぱりと、ひどく拒絶的な口調だった。宮司は私たちとは土間をへだてて、上がりがまちの板の間に立ったきりである。
「どうしてでしょうか。この神社は由緒のある神社なのに――」と鄭詔文は、その宮司をおもしろい人とみたらしく、彼一流のとぼけたような口調で言った。
「ありません。そういうものは、なにものこっておりません」
宮司の返事はあいかわらず、おなじだった。もしこのとき私一人だったとしたら、私はそれだけでもう、引き下がってしまったにちがいない。が、鄭詔文はそうではなかった。
「そうですか」と、鄭詔文はなにを思ったのか、そこの柱についている龍頭衛とある標札を見上げて言った。「龍頭さんて、おもしろい苗字ですね」
「そうかも知れない。わたしは朝鮮系ですからな。先祖は向こうから来たものです」
「ああ、そうですか。まさに、信露貴彦だったわけですね」とそのときになって、私は前へ一歩出るようにして言った。「ぼくたちは朝鮮人、そのホンモノの朝鮮人ですよ」
「ほっ、そうかね。それなら兄弟だ」と龍頭さんは、そこではじめてぱっとほぐれたような笑顔になった。「釜山に龍頭山というのがあるの、知っていますか?」
「ええ、知ってますとも。朝鮮語では、リヨンドサン(龍頭山)というんです」
私は釜山にあるその龍頭山をまだみたことはなかったが、そんな山があることは知っていた。「龍頭山なんとか」と歌にも出てくる。
「ほっ、そうか」と龍頭さんは、土間にあった下駄をつっかけて外の庭へ出てきた。そこで私たちは三人いっしょになって、しばらくいろいろなことを話した。
信露貴彦神社も白木の白城神社などとともに、今庄にある新羅神社とおなじで、もとははっきり新羅神社といったものだった。しかしそれがいつのころからか、信露貴となるとともに神社の規模も縮小され、そこに伝わってきた古文書の類もなくなってしまったらしいということなどだった。
龍頭さんは、おまえさんたちだからそれも話せるんだ、といった調子だった。そして龍頭さんは、私たちに向かってきいた。
「ところで、あんたたちはどうしてこの神社のことを知ったですか」
「ああ、それは福井県の古い『南条郡誌』です。そこに、こう出ています」と言って、私はノートにうつして来ていたその部分を読んで聞かせた。「『気比神宮の祭神なりとの説ある新羅王子天日槍の帰化は、神代又は孝霊天皇の時と説かるれど、上古に韓人の移住し来りしものと謂う可く、本郡内ならんと認めらるる延喜式所載の信露貴彦神社、白城神社は、韓人等の祀れるものならん』とこうはっきり書かれていますよ」
「ほっ、なるほど。そうです、そうです。その『郡誌』は正直ですな」と龍頭さんは、何度もうなずきながら言った。
アンヨンヒ ゲシプショ
私たちはなんとはなし、その龍頭さんとちょっとわかれがたい気持ちになっていた。しかし、去らなくてはならなかった。
「それでは、アンヨンヒ ゲシプショ」と鄭詔文は笑いながら、朝鮮語でそう言った。龍頭さんは、きょとんとしたような目をしていた。
「いまのを直訳すると、安寧にしていてください、という朝鮮語で、さようなら、ということです。では、アンヨンヒ ゲシプショ」と私もそう言って、歩きだした。
「ほっ、そうですか」と龍頭さんも、私たちといっしょにそこの道路まで出て来ながら言った。
「アンヨンヒ、……それを一つ、これに書いておいてくれないですか」
龍頭さんは、私がさきほどやった名刺をさしだした。私は自分のその名刺の裏に、朝鮮文字でそれを書き、横に日本仮名で、「アンヨンヒ ゲシプショ」と書いてわたした。
龍頭さんはその名刺を手にして、にこにこ笑いながら私たちを見送っていた。が、なんだかひとり、どこかさびしそうだった。私たちは手を振って、坂道を下って行った。――
あたりの農村風景もおなじで、道が突きあたりとなった山麓にある信露貴彦神社も、五年まえに来たときと変わりなくそこにあった。古びたままで荒れた感じとなっているのもそのままだったが、しかし、宮司の龍頭さんはそこにいなかった。
神社の下手横にある家をたずねてみると、なかからはおかみさんが出てきて、龍頭さんは病気で金山の病院に入院しているというのだった。病名はときくと、喘息だという。
「はあ、そうですか。年は、おいくつになりましたっけ」と、私はまたきいた。
「七十五になります」
「そうですか。五年ほどまえに来たとき、お会いしたことのある者です。こんど病院へ行かれたときはこれで果物でも、――どうぞよろしくおっしゃってください」
私はそう言いながら、千円札を二枚おかみさんの手に握らしてそこを辞した。道路に待たせておいたタクシーに乗り込むまえにもう一度、私は信露貴彦神社を振り返ってみた。神社はまだ当分そのままの形でのこっているかも知れないが、その宮司の龍頭さんとはもう会えないにちがいないと私は思った。
気比(けひ)神宮にて
渡来人ゆかりの紋章
タクシーは敦賀市内に戻って、曙町にある気比神宮についた。越前国一の宮であるばかりでなく「北陸総鎮守」ともいわれるだけあって、気比神宮は信露貴彦神社とはくらべものにならないほど壮大なものだった。
国鉄敦賀駅近くの中心街にその独特の赤い両部鳥居(四脚造り)をそびえ立たせている気比神宮は、社務所でもらった『気比神宮略記』をみると、境内全域一万二千五百三坪という広大なもので、俗に「四社の宮」といわれる東殿宮、総社宮、平殿宮、西殿宮のほか、なかにはほかにまた角鹿(つぬが)神社や猿田彦神社など、いくつかの摂社・末社がある。
まず、その摂社となっている角鹿神社とはどういうものか。『気比神宮略記』によってみると、こう書かれている。
△角鹿神社
摂社。祭神、都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)。式内社。崇神天皇の御代、任那の王子都怒我阿羅斯等気比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇、気比大神宮の司祭と当国の政治を委せられる。その政所(まんどころ)の跡に此の命を祀(まつ)ったのが当神社で、現在の敦賀の地名はもと「角鹿(つぬが)」で此の命の御名に因る。殿内に宝物獅子頭を安置す。除災招福の霊験を信仰させている。
だいたい、第十代の天皇とされている崇神帝が大和(奈良県)に実在していたとして、当時、はたしてその勢力がこの北陸の地にまでおよんでいたかどうかはわからない。わからないが、それはともかくとして、朝鮮語で「主の国」という意の「任那」、すなわちのち新羅に併合となった南部朝鮮の古代小国家加耶(加羅)の王子都怒我阿羅斯等が「気比大神宮の司祭と当国の政治を委せられ」、その政庁だった「政所(まんどころ)の跡に此の命」都怒我阿羅斯等を「祀(まつ)ったのが」角鹿神社だというのである。
古代の当時は、祭祀権を持っていたものが政権をも持っていたことをこれは示すものであるが、それからさらにまた、「現在の敦賀の地名は『角鹿(つぬが)』で此の命の御名に因る」ともいう。こうなると、その都怒我阿羅斯等とはいったいなにものか、と考えてみたくなるのがしぜんである。
それはこれから考えるとして、ここにいう都怒我阿羅斯等のことは、現在の敦賀市の紋章にもなっている。「説明」にこうある。「周囲の円形は敦賀港を現わして地勢を物語り、中央の角は『都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)』来朝に因んでその沿革を象徴する」
朝鮮からの渡来人がその市の紋章にまでなっているのは、おそらくこの敦賀市だけではないかと思う。さきにも橋本犀之助氏の『日本神話と近江』によってみているように、北陸の越前と朝鮮とがいかに密接な関係にあったかということをものがたるものであるが、また、『敦賀市通史』にもそのことがこう書かれている。
韓国との往来はすでに素戔嗚尊(すさのおのみこと)の時に行われていたので、太古の遺物にもその影響のあったことがうかがわれる。垂仁三年の三月に新羅(しらぎ)王子天日槍(あめのひぼこ)が日本に帰化したとあるが、これより以前すでに来着していたのであって、都怒我阿羅斯等はこの天日槍の来た道筋を尋ねて来たとすれば、敦賀と新羅王子の天日槍とは密接な関係があるので、これを物語る地名や神社名などが敦賀にも、またその近くの滋賀県や県内の南条郡などにもある。
またも、天日槍である。というのは、これについてはさきの若狭などでもみているからだが、この天日槍は越前の敦賀ともまた深い関係にあったのである。どういう関係であったか、こんどはそれをちょっとみることにしよう。
“新羅の王子・天日槍”
私はいま気比神宮の摂社となっている角鹿神社から、それの祭神となっている都怒我阿羅斯等のことをみてきたが、気比神宮そのものについては、まだほとんどふれていない。さきにまず、社務所発行の『気比神宮略記』からみると、それはこうなっている。
△祭神
伊奢沙別命(いささわけのみこと) 仲哀天皇 神功皇后 日本(やまと)武尊(たけるのみこと) 応神天皇 玉妃命(たまひめのみこと) 武内宿禰(たけのうちのすくね)
△鎮座由来
伊奢沙別命は上古より霊験赫々として此の地に鎮り給うたが、仲哀天皇御即位の二年に神功皇后以下群臣を従えて当宮に親祭あらせられ、応神天皇再度当宮に御参拝あり、文武天皇の大宝二年勅して当宮を修営し、同時に仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉妃命・武内宿禰を合祀せられた。延喜式に「祭神七座並名神大社」とあり、北陸道の総鎮守として著名で、又越前の国一の宮である。歴朝の尊崇、国民の信仰篤く、一に笥飯宮(けいのみや)、又気比(けひ)大神宮と称せられたのを、明治初年気比神社と改められ、同二十八年一月官幣大社に列し、同年三月神宮号宣下の御沙汰があって、官幣大社気比神宮と申したが、昭和二十一年制度改革により社格を廃止された。
これでみると、気比神宮のもとからの祭神は伊奢沙別命であって、仲哀天皇以下はあとから合祀されたものであることがわかる。どうしてそれが合祀となったかはわからないが、それは多分、主神となっている伊奢沙別命と何らかの関係があったからにちがいない。
ところで、主神であるこの伊奢沙別命というのは別名を笥飯大神・気比大神といい、また御食津(みけつ)大神ともいわれているが、それの正体はいったい何であろうか。読者のなかにはすでに、私がさきの信露貴彦神社で引いた福井県『南条郡誌』の「気比神宮の祭神なりとの説ある新羅王子天日槍」うんぬんというのを思いだした人もあろうと思う。
しかし、それだけではない。たとえば今井啓一氏の『天日槍』をみると、『神祇志料』や気比神宮の旧社記にはその祭神が天日槍となっているところから、「気比大神は天日槍であろう」としているが、印牧邦雄氏の『福井県の歴史』ははっきりとこう書いている。
古来、越前一の宮として民衆に崇敬されてきた気比(けひ)神宮も、かつて笥飯宮とよんで、新羅の王子天日槍(あめのひぼこ)を伊奢沙別命(いささわけのみこと)としてまつり、仲哀天皇や神功皇后を併祀してきた。この伊奢沙別命は土豪角鹿氏の氏神であった。角鹿氏は長くこの地を支配しており、天平三年(七三一)の『越前国正税帳』にも郡司角鹿直網手(あみて)の名がみえるから、現在の敦賀市の誕生には、大陸との深いつながりを感じとることができよう。
考えてみると、「天日槍を伊奢沙別命としてまつり」というのはなかなかおもしろいばかりか、たいへん重要なことだと思う。なぜなら、さきにも引いている、言語学者の金沢庄三郎氏によれば、宇佐神宮の宇佐のサ(佐)も新羅の原号であったソ、すなわちその「民族名ソ」から出たとあるように、この伊奢沙別のサ(奢・沙)もまた、天日槍がそこから渡来したとされている新羅のそれからきたものだったからである。
このようにみると、日本古代のややこしい神名や人名などにしても、決して偶然にそうなっているものではないことがわかる。伊奢沙別の別名となっている笥飯(けい)(気比)、御食津(みけつ)大神などにしてもそれで、京都大学の林屋辰三郎氏は、「渡来神である天日槍の伝説の内容は農耕の伝播です」(座談会「古代史の中の北陸」)と言っているが、その別名からしてもそれらしく思える。
さて、それはそれとして、するとどういうことになるか。『気比神宮略記』によると、朝鮮から渡来した都怒我阿羅斯等が、「気比大神宮の司祭と当国の政治を委せられ」とある。それが「委せられ」たものだったかどうかはわからないけれども、気比神宮は、その名の都怒我から出た角鹿氏族の氏神であったというから、そのとおりであったにちがいない。
ところが、かれらがいつき祭っていた気比神宮の祭神である伊奢沙別命がこれまた、朝鮮の新羅から渡来した天日槍だったのである。要するにそれはみな朝鮮、しかも加耶(任那)、新羅からの渡来だったのである。そのことはこれまでみてきた白木の白城神社や、信露貴彦神社の存在からして明らかであった。
そしてそれはまた神社、神宮の祭神や、それを祭っていた氏族だけとは限らない。もとは氏族共同体の精神的中心とされた祖神廟からはじまったものとみられる神社・神宮そのものが新羅からきたものだということは、これまでにも何度が書いている(たとえば『日本の中の朝鮮文化4』「伊賀留我と古曾」の項)。しかしまだ神社・神宮の建物のことや、それにつきものの鳥居のことにはふれたことがないので、ここではそれについてちょっとみておくことにしたい。
鳥は天と地、人と神の間
それというのは、私がいまそこに来ている気比神宮の有名な両部鳥居が奈良にある春日大社の春日鳥居、広島にある厳島神社の大鳥居とともに、朱塗りの日本三大鳥居となっていることからそう思ったものであるが、一つはまた、私はさいきんになってようやく津村勇氏の『鳥居考』というものを手にすることができたからでもある。
この『鳥居考』は資料などについてのいつもの協力者である阿部桂司君がどこかから見つけだしてきてくれたものだが、そのまえにわれわれはまず、島本多喜雄氏の次の一文をみておかなくてはならない。島本氏は東京医科歯科大学の教授であるが、氏は三年ほどまえ南朝鮮の韓国をおとずれた。そしてかつての百済の故地や、そこにできている博物館などをたずねたときの印象を『百済の故地への旅』として読売新聞に書いていて、さいごのくだりがこうなっている。
ここでは百済の遺品は、第二次大戦後に建てられた博物館に収められ、ほのかに当時の残光を輝かせていた。来てみて驚いたのは、大門は鳥居、博物館の棟(むね)には千木(ちぎ)と、わが皇大神宮そのものの姿であることである。少なくとも私は鳥居に千木という神社スタイルの建築は、わが天孫民族特有のものだと思いこんでいた。博物館が落成した時、ようやく日本の占領から解放された韓国の人々も、この皇大神宮スタイルには驚いて、ゴウゴウたる非難の声がまき起こった。しかし、これこそは百済宮殿建築の古式を踏襲した本来のものであるということで収まったという。つまり、鳥居と千木のふるさとは百済ということになる。
いうまでもなく、古代日本と百済との関係は深い。ことに百済滅亡の前後に日本に来て、あの美しい飛鳥文化をつくった多勢の帰化人たち。当時の百済とわが国を結んだきずなは、千三百年以上もたった今日では、もう、つまびらかにするすべはないのであろうか?
これでわれわれは、「鳥居に千木という神社」建築がどこに由来したものであったかわかったわけであるが、一方また、おなじようにして南朝鮮の韓国をおとずれてきた谷川健一氏も、さきにちょっと引いた林屋辰三郎氏と私と三人でおこなった中日新聞の座談会「古代史の中の北陸」で似たようなことを語っている。ちょっと長いけれども、なかなかおもしろいので、林屋氏や私の発言を含めたそれもここでみておくことにしよう。
谷川 ぼくは韓国へ行って、朝鮮の生活習俗は鳥と大変関係があることを痛感したんです。そして、朝鮮の鳥、琉球の魚というふうに民俗の特徴をつかめるんじゃないかと思いました。
これは朝鮮の人が書いた本で知ったのですが、朝鮮ではキジが天と地上を結ぶ使者なんだそうですね。ところが、日本の天若日子(あめのわかひこ)神話に天から地への伝令にキジを使う話が出てくる。あまりの符合に、ぼくはびっくりしました。それから、さっきは青の文化は南の系統のものだと話に出した若狭の飯豊青皇女(いいとよのあおのみこ)でも、飯豊をイイドヨと濁って読ませる場合もあるそうで、イイドヨは、ヨタカのような鳥の名でもあるそうです。……
そしてね、袋中(たいちゅう)上人が慶長年間に書いた『琉球神道記』に、昔、天つ神と国つ神とが用を通じるのにキジを使者とした。キジは地上に降りてきて、木の上にとまった。それからして鳥居と改めた、という一節がある。琉球に出かけていった上人が、朝鮮伝来の宗教習俗を述べていることがおもしろいですね。
金 鳥から連想するものに飛鳥文化というのがあるけれど、あれはもうはっきりと朝鮮文化ですね。
林屋 飛鳥時代の文化は、たしかに高句麗を、――高句麗だけとはいいませんけれども、高句麗を中心とした朝鮮文化だと思いますね。高松塚が示しているように、それは金さんのいわれるとおりです。
谷川 飛鳥というのは金さんの説では、大きな村という意味の「安宿」(アンスク)という朝鮮語から出ているのですが、朝鮮じゃ、村の入口に鳥竿といって木製の鳥を竿のさきにつけたものを立てるのですね。今でも韓国にそれが残っていますが、この木製の鳥は河内の弥生遺跡から出ています。すると日本でもそうした風習が持ち込まれ、古代までつづけられていたと考えなければならない。
金 飛鳥は古代朝鮮語のスク・スカ(村)からきたものともいえますが、すると谷川さん、神社の鳥居もその関係ということですか。
谷川 さっきの袋中上人の説じゃないが、関係あると思いますよ。
金 文字どおり鳥の居るところですね。
谷川 作ったんですよ、鳥を。そして柱に立てた。
林屋 飛鳥あたりの民家の屋根は、鳥ぶすまといって、鳥のとまるところがちゃんとありますね。鳥の形が作ってある。
こうなるともう、津村勇氏の『鳥居考』は出る余地がなくなってしまったようである。しかしこれもちょっとみると、要するに、「鳥居は現在に於ては神社独特の門である」が、由来するところは朝鮮の紅箭門(ホングサルムン)ではなかったかとして、そのことがこう書かれている。
鳥居型として最も原始的なるものは、満洲に散在するところの民家の門によって、偲ばれる。また朝鮮の村里の入口や陵墓に建てられているホングサルムン(紅箭門)も鳥居の前身であると思われる。この門の最も珍らしいのは、咸鏡南道北青郡徳城面大里の入口にあるものであって、黒木の柱に、横木二本を渡し、その横木の間に縦木二本を貫き、その左右二本の上には、鳥の型を刻んでいるのがある(元は二個あったが、今は一個欠く由、後藤守一氏報)。この鳥は山より、神を招く為めなりと伝えて居り、また別に木や藁にて作った鳥を一番(ひとつがい)相対して乗せてあるのもある。かかる伝説は我国の伝説に移して、鳥居の故事も諾(う)べなわれる次第である。
いまみた座談会でのべている、谷川さんが南朝鮮の韓国でみてきたというのとおなじものである。鳥は天と地、または人と神とのあいだの媒介物とみられていたところから、そういう習俗ができたものにちがいない。したがって日本の神社・神宮の鳥居にも、河内の弥生遺跡出土のそれにみられるように、もとはそんな人工の鳥がとまっていたのかも知れない。
それが、どうしていまはなくなってしまったか。本物の鳥がたくさん飛んで来てとまるようになったからかどうかはわからないが、しかし「鳥居」というのはいまもはっきりとのこっているのである。
今庄(いまじよう)・今城・白城
常宮神社の新羅鐘
前夜は敦賀市松原の松風閣なる旅館で、「この蟹 いずくの蟹 もも伝う 角鹿(つぬが)の蟹」と『古事記』にしるされた歌謡にもある脚の細長い越前蟹など食べて私は眠った。そして翌朝目をさましてみると、あたり一面白い雪となっている。
雪は降りやんではいたが、空はまだどんよりとしている。女中さんのはなしによると、きょうはおそらく一日じゅう降ったりやんだりするのではないかという。
「けれど」と、女中さんはつけ加えて言った。「こっちはまだいいほうです」
「へえ、というと、もっと降っているところがあるというわけね」
「ええ、そうなんです。トンネルの向こうはずいぶん積もっているんじゃないかと思いますよ」
「トンネルの向こうというと――」
「北陸トンネルです」
「ああ、そうか。それは弱ったなあ」
私はそう言って、朝の食膳にも出た脚の細長い蟹をみたが、「この蟹 いずくの蟹」もあったものではなかった。私は急きょこの日の予定を変更して、さきに北陸トンネルの向こうへ出ることにした。
あんまり雪が降り積もらないうちに、と思ったのである。それというのは、この日の私はまず、前日みた気比神宮の奥の宮となっていた常宮神社をたずね、それから北陸トンネルを越したところにある今庄(いまじよう)の新羅神社へ、と考えていたからだった。
いわばなおも神社ばかりたずねることになっていたが、それはしかたなかった。
新井白石は、「上古の評言のありし儘(まま)に猶今(なおいま)も伝われるは、歌詞と地名との二つなり」といっているが、たしかにそのとおりであると思う。しかし私にいわせるならば、これは「評言」とはちがうけれども、日本のばあい、「上古」のことがもっともよくわかるのは、その神社・神宮ではないかと思うのである。
常宮神社は、私の泊まった松原からはそう遠くないところにあって、さきにみた敦賀半島の丹生と白木の反対側に位置していた。それでもおなじ半島だったので、こちらの常宮神社の宮司が白木の白城神社の宮司をも兼ねているらしかった。
いまいったように、常宮神社は気比神宮の奥の宮となっていたものだったが、ここには国宝となっているすばらしい新羅鐘がある。私は実はここにあるその新羅鐘をもう一度見たかったのであるが、それを省略したのだった。
いま、同社務所発行の『常宮神社小誌』によってみると、それはこういうものである。
豊臣秀吉公当社を崇敬し、文禄のいくさに兵たちの武運長久を祈願し、凱旋に際して彼の地朝鮮慶州の吊鐘一口を若狭藩主大谷刑部義隆を正使として奉納せられた。慶長二年二月二十九日、今から四百年以前のこと。
豊臣秀吉がほんとうに「当社を崇敬し」ていたかどうかは知らないけれども、鐘のほうは彼が朝鮮を侵攻したとき、その部将の誰かが掠奪してきたものだったのである。そしてそれが侵攻の「兵たちの武運長久を祈願し」て「奉納せられた」というのも変なはなしであり、それがさらにまた今日では「国宝」となっているというのもちょっと変なぐあいのものであるが、しかしすばらしいものであることに変わりはなく、『常宮神社小誌』はつづけてこう書いている。
この吊鐘は龍頭(りゆうず)の旗さしに穴をうがち、上帯下帯は蓬莱山(ほうらいさん)の図、乳は三段三列で松かさを形どっている。正面の天女は、鼓を打ちながら大空を舞う浮彫になっている。この鐘は黄金を多分に含み、その音色(ねいろ)は黄鐘(おうしき)の調(しらべ)にあっている。古代音楽の楽器としても優秀品である。
明治三十三年、美術工芸甲種第一等として国宝に指定。明治四十一年、大正天皇皇太子の時これを御台覧に供せらる。昭和二十七年十月、新国宝に再び指定をうけた。
朝鮮の太和七年三月の作。吾国の白雉二年にあたり、今から千三百十八年を経ている世界的名鐘である。
朝鮮慶州の鐘はこれより六十年古く、宇佐神宮の鐘はこれより五十年新しいと言う。
『常宮神社小誌』は一九六八年に発行されたものであるから、文中の年月はそれとしてみなくてはならない。なおまた、ここにいう「宇佐神宮の鐘」も国宝となっているものであるが、これも朝鮮の新羅鐘である。
木ノ芽峠を越えて
国鉄の敦賀駅で列車に乗り、北陸トンネルを一つ越すと、そこが今庄だった。というとまことにかんたんであり、またそのとおりであるが、しかしかつての昔は、いまは北陸トンネルがその下を貫通している、木ノ芽峠を越えるということはとても容易なことではなかったらしい。
北陸トンネル自体からして、全長十三・八七キロの日本第二位、世界では第六位という長いトンネルであることからもわかると思うが、おなじ越前の福井県でありながら、トンネルのこちらの敦賀側を嶺南といい、向こうの今庄側を嶺北といっていることからもそれはわかる。
したがって、その向こうとこちらとでは、気候もちがうばかりでなく、かつてはその生活意識までかなりちがっていたのではなかったかと思う。
嶺南の敦賀や若狭は早くから畿内に向かって開かれていたが、嶺北は木ノ芽峠という可愛い名の峠をもった大山塊に阻まれて、閉ざされたままとなっていた。
そしてこの山塊が日本の歴史をくるわせたこともあったらしく、司馬遼太郎氏の『街道をゆく』(四)をみるとそのことがこう書かれている。
越(こし)とよばれた北陸は畿内にとってながく閉鎖地帯であり、大化改新以後にようやくこの広大な山河が三つの国(越前、越中、越後)にわけられたようである。平安朝初期の八二三年になると開拓がよほどすすんだらしく、その三つの国が、さらに細かくわけられて、のちの七ヵ国になり、幕末までつづく。七ヵ国とは若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡である。古代においては永く大和政権の力がおよばず、中世以後にあっても開拓がおくれたのは、ひとつには、敦賀と今庄(いまじよう)のあいだに盛りあがっているこの大山塊のせいであったであろう。海岸が斫(き)り立っているために人の通行をゆるさず、結局は木ノ芽峠を越えるしかないが、それも冬季は積雪のために数ヵ月も往来がとだえることがあったらしい。
織田政権が成立したとき、織田家における筆頭家老であった柴田勝家がこの越前の大名として封ぜられ、北陸道の諸大名の触頭(ふれがしら)になった。信長が天正十年六月に急死したあと、羽柴秀吉が織田政権を相続すべく太平洋岸でしきりに活躍して勢力を強めてゆくのだが、結局は翌年の春、秀吉よりも筋目が上位にあった柴田勝家との決戦になる。勝家が、秀吉の勢力拡大のうごきを、越前北ノ庄(福井市)にあって為すことなくながめて居ざるをえなかったのは天正十年冬から翌春にかけての北陸の大雪によるものであり、とくに木ノ芽峠は人馬の往来をゆるさなかったためである。もし木ノ芽峠のあるこの大山塊がなければ、柴田勝家は早々に大軍をひきいて畿内に出ることができたはずであり、秀吉はこのために急速な勢力伸長ができず、中途で勝家に撃滅されていたかも知れない。
だが、万事がゆるやかに動いていた中世以前の古代は、そうではなかった。木ノ芽峠の山塊をあいだにした嶺南と嶺北とではそのようなちがいがあったにもかかわらず、古代朝鮮からの渡来人は、そんな地理的状況にもかかわりなく、どこにでもひろがって定着したようであった。
どうしてそれがわかるかというと、北陸トンネルを越した嶺北の今庄にも、嶺南でみたものとおなじ新羅神社があるからである。
しかしながら、長い北陸トンネルを抜けてみると、いまなお、やはりその気候には歴然としたちがいがあった。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」とは川端康成氏の有名な作品『雪国』の書きだしであるが、こちらは「国境(くにざかい)」のそれでもないおなじ越前であるにもかかわらず、まさにその雪国だった。
今庄駅におりてみると、なんといったらよいか、あたりはすべて白い雪によっておおわれていた。雪とはいかにも白いものだということをあらためて知った思いでもあったが、しかもその大粒の雪はなおも降りつづいている。
駅の構内ではストーブが焚かれていて、列車を待つ人々が寄りあつまっているのも、北陸の小駅らしい光景だった。今庄にもまえに一度来たことがあって、新羅神社は駅のそこから少し行ったところにあることを知っていたが、しかし私もそのストーブのそばに寄って、ちょっとうろうろしているよりほかなかった。
寒くもあって手足も冷たかったが、それより、私は傘を持っていなかったのである。北陸では、「弁当を忘れても傘は忘れるな」ということばがあることを、私も知らなかったわけではなかった。しかし私はもともと、その傘を持って歩くのがどうもきらいなのである。
が、よくしたものだった。駅の構内でしばらくうろうろしているうちに、やがて外の雪は小降りになり、ふっとやんだようであった。
私は、自動車なども通っているにもかかわらず、雪が積もってかたまってしまったままとなっている駅前通りを突きあたって、左に折れた。その通りはいわば町のメインストリートだったが、しかし人どおりもなく、両側の店屋も雪をかぶったまま、しんとなっているだけだった。
素戔嗚尊を祭る
新羅神社はそこをちょっと歩いた右手の山寄りにあったが、私はそこまで行って、「ああ」と思わず声をあげてしまった。考えてみれば当然のことだったが、その新羅神社も分厚い白い雪にすっぽりとおおわれていて、しかも「新羅神社」であることをしめす、その標柱までが頭のところまで埋まってしまっている。
これまでみてきたものでもわかるように、もとは新羅、または新羅系の神社とみられるものはいくらでもあるが、それが今日なおはっきり「新羅神社」となっているものはそう多くない。私がこれまでみたものとしては近江(滋賀県)大津の新羅神社、美濃(岐阜県)多治見の新羅神社、播磨(兵庫県)姫路の新羅神社などがあるだけで、次が今庄の新羅神社だった。
それだったから、はっきり「新羅神社」とあるその標柱は、私にとってはなかなか大事なものだった。この神社も私はさきに来たことがあったが、そのときはカメラを持っていなかったので、自分では写真をとることができなかった。
だから、こんどは写真にもとらなくてはならなかった。それだったので、これはえらいことになっているなと思ったわけだったが、雪に埋もれていないのは、参道となっている石段のある部分だけだった。それは宮司家への出入口ともなっているからだと思ったが、気がついてみると、その石段には裏山の雪の下から水が流れ出ているからだった。
ともかくということで、私は本殿に向かってその石段を登って行った。山腹の本殿近くなると水の流れもそこで切れてしまい、私の足は膝までぼこっ、ぼこっと雪に埋まった。それだけではない。うしろのほうから急にあたりが暗くなったかとみると、また雪が降りだした。
神社の石段はかなり急で長かったから、本殿のそこは相当な高台となっていた。私はやっと本殿にたどりつき、その廂(ひさし)の下で向きをかえた。白い雪に埋まった小盆地の今庄の町が目の下にあって、それがなおも空をおおって降りしきる雪の底となっていた。
「うーむ、なるほどなあ」と、私はその光景をみていて、ひとり声をあげてうなった。ついでこんどは、「ウーム サンダンハネ(うーむ、相当なものだ)」と朝鮮語でそうつぶやいた。
要するに、私はひとりきりだったのである。見る限り雪だけが降りしきっている天と地とのあいだにいま立っているのは、ただ自分だけではないかとさえ私は思った。いや、目にはみえないが、もしかすると素戔嗚尊(すさのおのみこと)と二人かも知れない、とひとり笑いながらそうも思った。
というのは、五年ほどまえにその新羅神社をたずねたときのことを思いだしていたからである。
そのときは所用で出かけているという宮司には会えなかったが、かわりに出てくれたおかみさんに向かって私は、「この神社は誰を祭っているのでしょうか」ときいてみた。すると、
「素戔嗚尊です」とこたえて、こんどはおかみさんのほうからきいた。
「どちらからこられたのでしょうか」
「東京からです」
「そうですか。遠いところからおいでになったのですね。こないだは大阪のほうからテレビの人が来て神社をうつして行きましたが、なんでもこの神社の神様は朝鮮からこられた神様だそうで、とてもその……」
「霊験あらたか、というわけですね」
「ええ、そうなんだそうです。わたしにはよくわかりませんけれども」と、おかみさんはそう言って笑った。
「素戔嗚尊と二人か」と、私は降りしきる雪景色から目を転じて、背後の本殿を振り返ってみた。もちろんそんなことを本気で考えていたわけではなかったが、しかしそう思うと私は何となく、その素戔嗚尊にある親しみのようなものを感じたのだから妙なものである。
そんなことを思ったりしていて、ふと気がついてみると、はげしく降りしきっていた雪はやんでしまっている。ばかりか、暗かった空はみるみるうちに明るくなり、重く垂れこめていた雲の一角が切れて、そこから太陽の光が帯のような筋を引いて直射しはじめた。
「なんだい、これは」と私は、ひとりまた声をあげてつぶやいた。「まさか、素戔嗚尊のなせるわざじゃあるまいな」
「ばさっ」と、なにか大きなものの落下する音がしたので、私はびっくりしてそちらをみた。そばにあった杉の大木の一つが枝をはね返していて、それに積もっていた雪を落としたところだった。
ところが、とみる間に、空はまたたちまちのうちに暗くなってしまい、最前とおなじ雪となった。私はこんどはただ呆然となったようにその空を見つめていたものであるが、あとから知ったけれども、要するにそれが北陸の雪空というものであった。
降ってはやみ、やんではまた降る。そうかとみると、ときにはかっとあたりが晴れわたったりもする。私が新羅神社本殿の廂の下にそうして立っていたのは、わずか二十分ほどでしかなかった。にもかかわらず、空は二度、三度とそれをくり返した。
私はなおもあたりの雪景色と、その空の変化とに目をうばわれて、ひとりそこに立ちつくしていたが、しかしいつまでもそうしているわけにはゆかない。私はやっとそこから動きだし、ともかくというわけで、本殿の下手にあった宮司の家をたずねた。
このまえ来たときは会えなかったので、こんどもどうかと思ったが、福井県教育史編纂委員ともなっていた宮司の加藤行雄氏は、おりよく在宅していて会うことができた。六十歳くらいかとみえる、感じのいい人だった。
そして私は神社に伝わる古い文書などみせてもらい、ついでさっきから気になっていたことを言った。つまり、「新羅神社」となっている標柱が雪に埋まっていて写真にとれないが、なんとかならないものだろうかということだった。もし加藤さんがいいといってくれれば、私は自分でその雪かきをしたいと思っていた。
「ええ、いいですよ。いま、これからその雪をとりのけましょう」と、加藤さんはこころよくすぐに承知してくれたばかりか、さらにつづけて言った。「新羅ということでしたら、『新羅宮』となっている扁額もありますよ」
「はあ、そうですか。それはどこに――」
「本殿の横の、――ちょっと待ってください。いま、案内しますから」
加藤さんはそう言って奥へ入って行き、すぐ洋服に着替えてきた。そしてゴム長靴をはいたかとみると、玄関先においてある雪かきのシャベルをとって外へ出た。私もつづいて、そこにあったもう一本のシャベルを手にして出た。
雪の中の標柱「新羅神社」
加藤さんはさきに、私がいままでその廂の下にいた本殿のほうへ石段を登って行った。本殿からちょっと離れた右手横にもう一つの社殿があったが、加藤さんはそちらへ私をともなって行った。ゴム長をはいた加藤さんがさきに立って積もった白い雪にすぽっ、すぽっと穴をあけて歩いてくれたその穴に、私はうまく自分の足を踏み入れながらついて行った。
「これです」と加藤さんは、社殿の前に立ちどまって指さした。そこまで行くあいだに空からはまた雪が降りだしたが、しかし私にもそれはもうあまり気にならなかった。それでまた、すぐにやむことを知っていたからである。
「ああ、これは立派なものですな」と、私は加藤さんに指さされたそこの扁額を見上げて言った。達筆な字で「新羅宮」とはっきり書かれている。
「これでみると」と加藤さんは言った。「わたしどものこの神社は、一方では『新羅ノ宮』ともいっていたようですね」
「そうかも知れません。この宮、神宮というのももとは新羅から出ていますから」と言いながら、私はその扁額を写真にとった。
ついで加藤さんと私とは、神社の入口のほうへおりて行って、「新羅神社」とした標柱を埋めている雪をかきのけはじめた。高い白い積雪のなかからやっとその標柱の文字がすがたをあらわしたが、しかし「新羅神……」までで、あとはもうやめなくてはならなかった。かきだした雪のやり場が、もうなかったからである。
あいかわらず、雪は降ったりやんだりしていて、ときにはまた、まるでウソのような晴れ間をもみせた。
私はその晴れ間の「決定的瞬間」を待ってカメラのシャッターをきったが、なんと折わるく逆光で、せっかく積雪のなかから掘りだした「新羅神社」の標柱も、かんじんなその文字がよくみえないものとなっている。
しかしそのかわり、背景となっている神社の雪はなかなかよくとれているようだ。もっとも、それだったら子どもにだってとれたはずである。
それから加藤さんと私とは、こんどは近くにあった今庄町の教育委員会をたずねることになった。そこにあるというコピー機をかりて、さきほどみせてもらった新羅神社に伝わる古い文書のある部分をコピーしてもらうためだった。
新羅神社のその文書は、「石川県管下越前国南条郡今庄愛宕町に鎮座」などとあることからみて、明治はじめごろのものではないかと思われた。
したがってそう古いものではないが、にもかかわらずそれには、「足羽社記に云う、信露貴川は新羅山麓より出ず」とか、「新羅川水源、今庄駅の東南夜叉ケ池より出ず、一名能美川、又、日野川」などという文字が散見された。
してみると、そのころまではまだ、「新羅山麓」すなわち「新羅山」や「新羅川」ということばが生きていたのである。「新羅山」とはどこか、それはいまではわからなくなってしまっているが、「新羅川水源」の「夜叉ケ池」のほうは地図をみると、いまの日野川上流となっている三国ケ岳に「夜叉ケ池」というのがある。
今庄町の教育委員会では教育長の石川山三郎氏はじめ同教委の医王宗昶氏、また中央公民館長の橋本一仁氏や社会教育指導員の京藤勝治氏など、いろいろな人たちと会って話をすることができた。
で、ここにいたみなさんからもたくさんのことを教えられたが、それによると、今庄町には荒井区となっているところに、もう一つまた新羅神社があった。
そこは旧堺村だったところで、それも一方では「新羅宮」となっているという。
若狭・越前に入って、これまでみてきたもののうちどれが本宮・本社だったのかはわからないが、この新羅宮もそれからの分枝、すなわちその本宮・本社を氏神としていた者のうちからわかれ出た者たちが祭ったものにちがいなかった。
それからさらにまた、私はその新羅宮をたしかめるため、そこにあった福井県の『南条郡誌』をみせてもらっているうちに、もう一つ新たなことを知った。
この『南条郡誌』はさきにも一度みていたものだったが、そのときは気づかなかったこういう記述がある。
今庄町も古くは今城と書けり。此れ白城の誤転する乎。此の町の東に川あり、日野川と云う。此れ即ち古の叔羅川なり。
日野川、叔羅川そのものはあとでみるとして、これが新羅川でもあったところから、今庄はもと今城、白城の転じたものではないかというのである。
これを逆にみると、白城、今城、今庄となるが、それは充分ありうることで、とすると、さきにみた白木の白城でわかるように、こちらの今庄もそのもとのもとは白城(しらき)、すなわち新羅だったのである。
日野川が叔羅川、新羅川であったからだけではない。それはいまみた新羅神社、新羅宮の存在からして、はっきりいえるようである。
武生(たけふ)とその周辺
“百済(くだら)の人此の地に”
今庄町の教育委員会を出たときは、もう午後になっていた。私はここから北陸本線の列車でさらに北上し、次は武生でおりた。
そのもう少し北の鯖江(さばえ)にはまえに一度来たことがあったけれども、武生ははじめてだった。しかし、これというあてがあったわけではなかった。
日本交通公社編の『北陸』を開いてみると、武生のことがこう書かれている。
福井県のほぼ中央にあり、北は鯖江市に接し、西南部と東南部は山地であるが、日野川が市の中央を北流し、その流域と北部に平野が開けている。大化改新で諸国に国府がおかれたとき、越前の国府をここにおき、国府(こふ)といったが、のち府中と改めた。
それからまた印牧邦雄氏の『福井県の歴史』をみるとこうなっている。
武生市は明治に至るまで“越前府中”と呼ばれてきたが、同市北府(きたごう)一帯は北国府の略ではないかともいわれ、奈良・平安の時代には越前国の政治・経済・文化の一大中心地となっていたことは間違いなかった。
現在、武生市広瀬地方では同地で生産された須恵器の出土が盛んであり、市内龍泉寺境内の深草廃寺跡から白鳳時代の瓦当(がとう)などが出土したりして、中央文化の伝播が盛んであったことが想像されるのである。
要するに、もとは越前国だった福井県の中心はいまでこそ福井市となっているが、かつてはこの武生が中心だったのである。となると、いやしくも越前国の古代遺跡をたずねるものとして、ここをそのまま素通りするというわけにはゆかない。
しかしとはいっても、いまいったようにこれというあてがあったわけではなかった。私は武生駅におりると、例によって駅前にとまっているタクシーに乗った。そして若い運転手に、
「これからどこへ行ってもらうかわからないが、まず市の教育委員会、市役所へ行ってくれないか」と言った。
「それからは、わからないのですか」と、運転手はクルマを走りださせながら、ちょっと不安そうな声をだした。
「だいじょうぶだよ、カー・ジャックなどしないから。そんなことしたら、きみよりこっちのほうが損だ」
私は、そう言って笑った。しかしそれより、私はさいぜんからなにか忘れものでもしたように思っていてふと気がついたが、今庄でいやになるほどみてきた雪が武生にはあまりないということだった。
今庄から武生までは鉄道の駅にして三つ四つ、そう遠いところではなかった。といって、敦賀のような海岸部というわけでもない。にもかかわらず、武生では空まで晴れあがっていて、市内にはほとんどその雪も見当たらない。
空の晴れているのは一時的なものでしかなかったが、しかしそれにしても、私はなんだか信じられないような気分だった。運転手にきいてみると、今庄のほうは北陸トンネルのすぐこちら、つまり木ノ芽峠の陰となっているので、とくに雪が多いところだという。
市役所はちょっと行ったところで、駅の近くだった。私はそこにあった教育委員会をたずねて、社会教育課長補佐の河瀬信夫氏から武生市指定の『文化財紀要』を第一集、第二集と二冊もらい受け、その場で開いてみた。「白山神社のバラ大杉」とか「白山神社のサカキ」などというのが目についたので河瀬さんにきいてみると、その白山神社というのは周辺に十七、八社もあるとのことだった。
北陸から東北にまでひろがっている、いわゆる白山信仰と関係あるものだった。それについては加賀(石川県)の白山のところでみることになるからおくとして、ほかに味真野(あじまの)神社というのがあってこうある。
味真野神社の境内は、古来、継体天皇皇子時代の御所址と伝承されている。しかし、現在の遺構は室町の末期、足利氏の支族鞍谷氏の館趾で、南・北・西の三方に土塁を築き、濠をめぐらしている。
私はこれからまだ坂井郡まで北上して、丸岡町の高椋(たかぼこ)なるところをたずねることになっていた。かつての昔は高向(たかむく)となっていたここは、近江(滋賀県)で生まれた継体帝の育ったところとされていたので、私はいやでも、その継体帝のことについてちょっと考えなくてはならないことになっていた。
それだったので、私は継体帝がいたというその味真野神社に少しばかり興味を持った。
武生にはほかにこれというものはのこっていないようだったから、私は教育委員会から出ると、外に待たせてあったタクシーの運転手に言った。
「これから、味真野神社まで行ってくれ」
「味真野ですか――」と運転手は、またちょっと不安そうな声をだした。よく妙なふうにきき返す男だと私は思ったが、しかしこのばあい、運転手がそう言ったのはむりもなかった。それは、これからわかる。
あとになって考えてみると、そんな味真野まで行くのだったら、ほかに行くところはいくらでもあった。たとえば、武生は南条、丹生、今立と三郡の中心となっているところだったから、そこの東北方となっている今立町に向かってもよかったのである。
地図をみるとそこは服部谷(はつとりだに)、服部川というのがあって、そばに朽飯(くちい)というところがある。そしてまた、『今立郡誌』を開いてみるとそこの朽飯に八幡神社があり、それについてこういうことが書かれている。
人皇二十三代の帝、顕宗天皇の御世、百済国努理使主(ぬりのおみ)の御裔、阿久太子の弥和と云う人来りて、蚕織を産業として今に絶えず。或は説をなして曰く、百済の人此の地に滞(とどま)りし故に、村名を百済(くだら)氏(し)と唱えたりと。往古より総社氏神と崇敬し、其の後泰澄大師、般若経六百巻を奉納し、世々の国司地頭の信仰浅からずして神地を寄附し、社領七十余町歩ありて盛大なり。文治三年、右大将源頼朝の舎弟、三河守範頼此の地に落ち来り、当社を信仰し、八架神を八幡神社と改め、清和源氏の氏神と尊崇して、子孫世々此の地に逗り住せり。
「百済国努理使主(ぬりのおみ)」というと、『古事記』仁徳段にある山城(京都府)の「筒城(つつき)〈いま綴喜(つづき)〉の韓人(からひと)、名は奴理能美(ぬりのみ)」のそれが思いだされる。しかしそれはおいて、「百済の人此の地に滞(とどま)りし故に、村名を百済(くだら)氏(し)と唱えたりと」とはどういうことなのであろうか。
これだけではちょっとよくわからないが、つまり、服部谷の八幡神社のあるそこは、もと百済氏村であったということなのである。そのことは、いまなお朽飯という字名にのこっている。いまでは朽飯(くちい)といっているけれども、これはもと朽飯(くだし)とよんでいたもので、すなわち百済(くだら)氏(し)が朽飯(くだし)となり、朽飯(くちい)となったのである。
さきにみた新羅の信露貴や、新羅の白城=今城=今庄といい、こうしてみると地名、とくに古代朝鮮に由来したその地名はいったいどう変化したか、まったくわからないというよりほかない。朽飯がまさか百済氏だったとは、そう書いてくれている文献がなかったとしたら、これなどおそらく誰にもわかるまい。
それにしても、私が若狭・越前に入って、これまでみてきたものはほとんどすべてが新羅系のものであったのにたいして、ここに百済系とみられるそれがあったとは珍しいことである。しかしながらその百済氏=朽飯村(いまは今立町)のあった服部谷にしても、新羅系のものが入っていなかったわけではない。
服部谷は古来、養蚕・機織のひじょうにさかんなところであるが、ここにも越前に多かった「新羅系帰化人」(印牧邦雄『福井県の歴史』)秦氏族のひろがっていた地で、そのことが吉田郡松岡町誌『郷土松岡』にこう書かれている。
藤原利仁の妻は越前押領使として坂井郡を領有した秦豊国の娘である。彼、利仁が延喜中(九〇一〜二二)越前国に入らしめ、そしてその子孫を名族長者として坂井、吉田両郡の各庄におちつかしめたのには、すこぶる遠いゆかりがある。
ゆらい秦氏は……大陸から帰化した氏族のうちでの代表者とみなされてきたことは誰もが知るところである。服部の姓もまた秦氏の支族で、服部はもとハトリとよばれた織(はたおり)部である。今立郡服部谷……十三村のうち、服部樫尾村と服部河内村の二つがあった。越前には秦氏の足あとはほかにも多かろう。志比庄に地頭職となった波多野義重のごときもその支流の一つとつたえられている。
ちなみにいうと、波多野ばかりでなく、ほかにまた秦野、幡多、波田、羽田、大畠、小畑などともなっている秦氏族の秦とは、朝鮮語のハタ・バタ(海)からきたものとされているが、秦氏族とは京都・太秦(うずまさ)の有名な広隆寺を氏寺としていたそれだけではなかった。だいたい、それが単なる氏族といわれるものであったかどうかも私には疑わしいほどで、この秦氏族というのは、日本全国いたるところにひろがっていたものであった。
そうしてみると、服部谷における養蚕・機織にしても、「百済国努理使主の御裔、阿久太子の弥和」なるものによってもたらされただけでなく、右の秦氏族によるものでもあったわけである。
いずれにせよ、私は味真野などに向かうより、こちら今立町の服部谷・朽飯へ行ってみるべきであった。それだけではない。私はもし武生からその反対方角の西北方へ向かったとしても、そこには日本六古窯の一つとして知られている越前焼の「越前陶芸村」があり、そこからは織田町も近かった。
丹生郡となっている織田町にはさきに一度行ったことがあったが、しかし私はやはり、織田町の周辺にあるそれからは古い須恵器とほとんど見分けのつかない、朝鮮渡来そのままの新羅土器もまじって出土しているという古窯址群でもたずねるべきだったのである。なお、織田町にはさきにみたのとおなじ気比大神(伊奢沙別命、すなわち天日槍)を祭神とする剣(つるぎ)神社があるが、西元三郎氏の「越前古窯について」により、越前におけるその古窯址群をみるとこうなっている。
古越前を育んだ越前古窯は、古窯址として福井県下に総数約二〇〇基を数える。これらの古窯址は群として最初越前平野周辺部の丘陵地帯に立地し、次第に西方の山地へ生産地域を拡げ、北陸最大の窯業地を形成した。丹生山地の古窯址群は須恵器と陶器の窯址群であり、現在三つに分類することが出来る。即ち、
一、南越古窯址群(武生市広瀬、白崎方面)。窯址三五基。
二、丹生古窯址群(丹生郡織田町、宮崎村、朝日町、清水町一帯)。窯址五五基。
三、越前古窯址群(丹生郡織田町、宮崎村方面)。窯址八〇基以上。
これらはそれぞれ関連をもって、今日の越前焼につながっている。須恵器の種類としては、貯蔵用器として壺、甕(かめ)、瓶を始め坏(つき)、高坏、碗皿、盤の類、甑(こしき)、生産用具として網錘、瓦、祭器として陶馬、陶塔などがある。とくに南越、丹生両古窯址群の特徴あるものとしては、奈良時代後期に出現した双耳瓶がある。これは北陸固有のものと言える。
古窯址群としては織田町、宮崎村方面が圧倒的に多い。織田町にはいまもその流れをくむものとして、私もさきにたずねたことがある北野佐仲氏らの織田焼があり、また、宮崎村の熊谷には水野九右衛門氏個人の「水野古陶磁館」があって、ここには付近の古窯址群から出土した須恵器などがたくさんあつめられている。
叔羅(しらぎ)河(がわ)瀬をたずねつつ
さて、私がタクシーをそちらへ向けて走らせていた味真野であるが、武生の市街をちょっと出はずれたとみると、タクシーはかなり大きな川に架かった橋を渡ることになった。日野川であった。
「ああ、これが新羅川だった日野川か」と思い、私はそこでタクシーをちょっととめてもらうことにした。両岸に白い雪をおいた日野川は、みるからに清冽そのものといった川だった。遠く、近江との国境となっている三国ケ岳の夜叉ケ池より発しているその川は、実に長い、長いあいだにわたってそこを流れているにもかかわらず、まだそのように清冽だったのである。
われのみし、きけばさぶしも、ほととぎす、丹生の山べに、い行き鳴かにも
叔羅河(しくらがわ)、瀬をたずねつつ、わがせこは、鵜河たたさね、心なぐさに
これは青園謙三郎氏の『よみもの福井史』に引用された『万葉集』にある大伴家持の歌である。同『よみもの福井史』はその「叔羅河(しらぎがわ)」についてこう書いている。
天平勝宝二年(七五〇)四月九日、大伴家持は大伴池主にウ(鵜)を贈り、それに歌を添えて使者に託した。その歌に出てくるのが叔羅川という固有名詞である。前にも簡単に触れたように、この川は日野川のことである。日野川は古くは信露貴川、叔羅川と書き、のちには白鬼女川と書いたらしい。シラギガワと発音するのが正しいようだ。「新羅」とも語源の上で関連があるようだ。
「語源の上で関連がある」だけではない。さきにみた今庄の新羅神社に伝わる古い文書からもわかるように、これももとははっきり「新羅川」となっていたものだった。もちろん、朝鮮の新羅から渡来したものたちが、自分たちの住みついたそこを新羅(白城=今城=今庄)とするとともに、その川の名をも新羅川としたものだったのである。
味真野行きも、ここまではなかなかよかった。だが、それからあとがいけない。タクシーは武生から東南に向かって走っていることはわかっていたが、しかしそこがどこやら私にはさっぱりわからなかった。
どこまでもつづいている山地の谷間の道で、そこまでくると、あたりはもう一面雪だった。どちらを向いても白い積雪ばかりで、空もまた今庄でとおなじように降ったり、やんだりのそれをくり返している。
「まだかね」
「まだです」と運転手は、おなじことばをくり返す。
だいたい、私は早呑み込みのあわてものだったから、こういう失敗をよくするが、こんどもそれだった。味真野といっても、そこは武生市となっているところだった。人口六万余の武生市内ならそこまでの距離など、タカが知れたものだと私は思ったのである。
だから、そんな距離のことなどきいてみもしないで、私はいきなりタクシーの運転手に「味真野まで――」と言ったのだったが、とんだことであった。あとになって知ったが、味真野は武生市役所のそこから、一〇キロ以上も離れたところだった。しかも道路は根雪が凍(い)てついてしまっているので、クルマもスリップのためのろのろ走らなくてはならない。
そこを突き抜けたらいったいどこへ行ってしまうのかも知れないような、そんな深い山中の谷間だった。しかも味真野神社というのはどういうわけか、味真野町となっているところにはなくて、さらにもっと行ったとなりの池泉町なるところにそれはあった。
「ああ、やれやれ」と思ったが、しかしどうということもない。鳥居の横に「継体天皇御宮跡」とした石碑が一つ建っているだけで、林のなかとなっている神社は、参道も境内もすっぽり雪に埋まったままの無人だった。宮司に会ってはなしを聞いてみようにも、どこにいるのかさえわからなかった。
というより、私はそんな神社をはるばるそこまでたずねて来た自分に腹を立てていた。なんとも、ムダなことをしたものであった。
これはまたどうしたわけでか、そんな山中の味真野神社の近くに、真新しいコンクリートの「越前の国資料館」というのが建っていた。これでもみてやるかというわけで近寄っていったところ、それも開館は来月からだという。
どこも雪におおわれた山中の谷間で、それ以上うろうろしたところで、なにもはじまりはしなかった。日も暮れかかっていたし、戻るよりほかない。
「もういいですか」とタクシーの運転手は、ドアを開けてくれながら言った。
「もういいんだ。武生の駅へ戻ってくれ」
「お客さんは、あんな神社なんか見て歩くのが趣味なんですか」
「いや、趣味というわけではないが、まあ、そんなものかも知れない」
いよいよもって、妙なことになったものだった。タクシーの運転手にしても、まったくバカバカしいことであったにちがいない。
あとで私は知ったけれども、武生市上真柄町には檜隈(ひのくま)ノ里というところがあって、そこも継体帝にかかわる伝承地だった。『今立郡誌』にこうある。
二宮神社。祭神を宣化天皇とす。継体天皇当国味真野郷に御潜龍の時、御子味真野郷真柄村にて降誕あり、宣化帝これなり。皇孫此の地に座して、日野神社へ継体天皇を合祀し給い、宣化天皇を当社に祀らせ給う由云い伝えり。同境内に比売神の社として一小社あり。二宮神社は荒谷区奥谷にあり、今は日野神社に合併せり。
宣化帝がそこで生まれたか、どうかはわからない。それはわからないが、しかしそこが「檜隈ノ里」ともいわれているのが、私にはおもしろかった。
大和・飛鳥の檜隈、紀伊・和歌山の日前(ひのくま)ともそれは関連があるのかないのか、それでも調べてみたほうがよかったかも知れない。
それにまた旧二宮神社境内には、天日槍につきものの「比売神の社」があったという。これなどもあるいはもしかしたら、と思ったが、要するにあとのまつりというものだった。
もう、あたりは暗くなりはじめていた。
「金子先生」のことなど
「高志(こし)の国」に来て
日暮れとなっている武生(たけふ)からこんどは長駆、芦原(あわら)にいたった。翌日は丸岡町をたずねることにしていたので、今夜はひとつ芦原温泉なるところに泊まってやれと思ったのである。越前(福井県)唯一の有名な温泉で、金津(かなづ)だった国鉄北陸本線の駅名までが、いまでは「芦原温泉」となっていた。
国鉄の沿線だけにしても、あいだにある鯖江(さばえ)市と福井市とをとばしたわけだったが、しかしこの鯖江と福井とはどちらもさきに一、二度行ってみたことのあるところだった。鯖江は人口五万ばかりの小都市だったが、全国の五割を占めているという眼鏡枠の産地で、そこを流れている日野川にはいまも、さきにみた新羅ということの名残りである白鬼女橋が架かっている。
以前は北ノ庄となっていた福井は、今日では県庁所在地となっている越前最大の都市であることはいうまでもない。市の中央部を足羽(あすわ)川が流れており、西南には足羽山古墳群などのある足羽山がそびえ立っていて、そこがいまは足羽山公園となっている。私は五年ほどまえおとずれたときとあわせて、この足羽山公園には二度登ってみているが、そこに立つと福井市のほとんど全体がながめわたされる。公園にはなかなか立派な郷土歴史館や博物館などもあって、越前の歴史的な流れをも見わたすことができる。
ことに郷土歴史館の前におかれてある古墳出土の石棺や鬼瓦などみごとなもので、いまもはっきりと印象にのこっている。ここにはまた「継体天皇石像」という巨大な石像が立っていて、足下にひろがる越前平野をへいげいしている。この石像について、福井市教育委員会編『福井の史跡』をみるとこう書かれている。
天皇は男大迹皇子(おおとのおうじ)といい、即位までの数十年間当国にあり、越前平野の治水をはかり、笏谷(しゃくだに)の石材採掘を勧めるなど、民治に力をそそいだ。明治十六年、福井の石匠らがその高恩を感謝して、笏谷石で石像を刻んでここに建てた。
像は天皇が治水の際、水門を開いたといわれる三国港を望んでいる。昭和二十三年の大地震で倒壊したので、同二十七年に修理し再建した。
この男大迹皇子、すなわち継体帝のことについては、あとでまたかなりくわしくみることになる。かれがそこで育ったという丸岡の高椋(たかぼこ)(向)をたずねるからであるが、ここでついでに、福井市の観光課でもらった『福井市のプロフィール』をみるとこうなっている。
日本最長を誇る北陸トンネルを抜けると、車窓の風景はガラリと変わり、静かな北陸の田園風景が展開する。遠く白山連峰が白雪をいただいて輝き、周囲の緑も生き生きと、疲れた旅人の心をよみがえらせてくれる。
この越前平野の真ん中に、「北陸の表玄関・福井市」がある。人口十九万四千、面積二七九・一九平方キロの比較的こぢんまりとした都市だが、古い歴史と近代産業の新しい息吹きとがほど良くマッチし、都市計画も行き届いた活気のある町である。また西部には国定公園越前海岸を擁し、北部には湯の町、芦原(あわら)をひかえた情緒豊かな町としても知られ、古くから、関西の奥座敷として親しまれている。
福井市の歴史は古い。その起源は遠く一千四百年の昔にさかのぼり、「高志(こし)の国」と呼ばれて、北陸文化の夜明けをもたらした。中世に入っても、北陸道の要衝として栄え、戦国時代には柴田勝家、丹羽長秀、堀秀政などの名将・武将がこの地を領し、江戸時代には徳川家康の二男、秀康が居城を構えて全国の雄藩を誇った。この間の史跡、名勝はいまも数多く残り、市の重要な観光資源となっている。また福井は幾多の人材を輩出したことでも有名で、松平春嶽をはじめとする橋本左内、由利公正、中根雪江ら幕末の志士や歌人の橘曙覧、医学者の笠原白翁などを出している。
私はこんどはできれば、のちにみる加賀(石川県)の白山を開いた泰澄(たいちよう)大師の生まれたところといわれる、三十八社町の泰澄寺をたずねたいものと思っていた。ここにはその泰澄寺があるばかりでなく、三十八社古窯跡というのもあって、『福井の史跡』にこうある。
山の西斜面一帯に須恵器の破片がちらばっている。ほとんどが「たたき目」をもつ大形甕(かめ)の破片である。この破片にまじって多量の灰が出ていることから、窯跡(かまあと)とみられるが、正式な学術調査は行なわれていない。
これは大島古墳群など、近くから出土している須恵器の調査研究に重要な役割をはたす遺跡である。
しかし私は、この日はもう夜になっていたということもあって、武生からそのまままっすぐ芦原まで来てしまったのだった。夜になってもあいかわらず雪は降ったりやんだりしていたが、芦原温泉では「べにや」という旅館に泊った。
私家版『金子族資料』
そして翌朝、この旅館で一月二十五日付けの朝日新聞・福井版をみて、私は「ああ」とひとり思わず声をあげてしまった。下段に死亡者の記事が出ていて、それが京都の金子光介氏であったからである。
金子光介氏(元京都市立美術大教授)二十四日午前六時三十五分、老衰のため京都市中京区西ノ京小堀池町の右京病院で死去、八十六歳。告別式は二十六日午後二時から右京区嵯峨裏柳町三三の自宅で。喪主は次男剛氏。
専攻はルネサンス文化。朝鮮古陶器の研究者としても知られる。福井県武生市出身。旧制高知高教授を経て、大正十二年、京城帝国大教授、戦後、福井大教授のあと、二十九年から三十六年まで京都市立美術大(現市立芸術大)教授。同志社大や花園大の講師もつとめた。
私はこの記事を読んで、一つの偶然について考えないではいられなかった。私は前日の二十四日は今庄から武生のあたりを歩いたわけだったが、その日の朝、武生で生まれ育った金子氏は、京都でその生涯を閉じていたのである。
私と京都の鄭詔文たちとは、かげでも氏を「金子先生」「金子先生」とよんでいたものである。けれども、そう親しいまじわりをもっていたというわけではなかった。会ったのも六、七年まえのそのころ、一、二度でしかなかった。しかしたいへん印象にのこった人で、だいたい私がいまから五年ほどまえにこの越前をおとずれていたのも、実をいうとこの「金子先生」に教えられたからだった。私はさきに、五年ほどまえに来たときのことをある雑誌にこう書いている、というふうにそれをいくつか引いているが、そのある雑誌というのは『民主文学』で、これの一九六九年三〜五月号に、私ははじめて、「北陸路・越前(福井県)」というサブタイトルをもった「朝鮮遺跡の旅」というのを書いた。
いわばこの『日本の中の朝鮮文化』の前史をなすもので、私は「金子先生」に会ったことからはじめて、それをこう書きだしている。「金子先生」もそれであった、日本全国にちらばっているいわゆる金子氏族とも関連があるので、それをここに引いておくことにする。
――この仕事は、まえまえからの計画の一つだった。私はそれもあって、朝鮮古美術やそうした遺跡にも関心の深い友人のいる京都へ行っているうちに、ここでまたいろいろな人と知り合うことになった。
そのうちの一人に、私たちが「金子先生」とよんでいる、今年たしか八十をすぎたはずの老学者がいる。私、あるいは私たちが越前(福井)へ行ってみる気になったのは、一つはこの先生に会ったことがきっかけであった。
私たちが金子先生を知ったのは二年ほどまえ、京都のある古美術商によってだった。先生の専門は西洋史であるが、東洋美術にも造詣が深く、「朝鮮もの」もかなり持っておられるということだったので、それをみせてもらおうと、私たちのほうからたのんで紹介してもらったのである。
いまいった京都の友人である鄭詔文とその兄の貴文とがいっしょで、もちろん私たちのほうから嵯峨の奥に住んでおられる先生を訪ねたのであるが、一口にいって、この先生は実に気さくな人であった。というより、その挙措動作、客の扱い方が、まるで朝鮮人そっくりだった。長いあいだ朝鮮の元京城帝国大学教授だったから、というわけでは決してないはずである。
初対面だったにもかかわらず、酒つきの夕食までだされ、それをひっきりなしに、「飲め、食え」といって半強制的にすすめるのも、ある朝鮮老人のそれだった。はなはだ失礼ではあるが、まるまっちい「可愛いおばあちゃん」といった先生の奥さんもこれまた同様で、私たちはお二人の好意にこたえるのに閉口したほどだった。
「わたしは越前の武生の生まれですがね、しかし金子、これももとはといえばみな朝鮮の出ですよ。あなた方とおなじ朝鮮です。さあ、どうぞ、どうぞ。その菓子をつまんでください。どうぞ、つまんでください。いま酒が出ますから、それまで――」といったぐあいだったが、金子先生は八十になる老人だったにもかかわらず青年のような早口で、さらにつづけてこうも言った。
「わたしの知人に、旧制の姫路高等学校長をしていた金子健二という人がいましてね。この人が『金子族資料』というのを一冊編んでいますが、これによってみてもそうですよ、金子というのは。さあ、どうぞ、その煎餅を。それをつまんでください、どうぞ。その本ですか、ええと、それはたしか――」
金子先生はすぐに立って、その『金子族資料』というのをとりに行かれた。私たちは失礼にならぬ程度に、「あれよ、あれよ」といったような目をして、互いにその顔を見合わせたものだった。
『金子族資料』は一九四〇年に、私家版として刊行されたものだった。このとき私は金子先生からそれを借りだし、コピーをとってあるが、金子健二氏というこれの編者も一風変わったところのある人だったらしく、まずそれの「序」にこうある。
二十有余年の間、朝夕私の頭を支配していた金子氏族の歴史的研究が、不完全ながらも〓に纏(まとま)りがついたので、私としては祖先に対する私の義務が終ったことになる。私は金子族研究そのものの結果が、私の予想し且つ希望していたような大きな収穫にならなかったことを恥じてはいるが、此の二十有余年の長日月にわたって、公私繁忙の仕事に没頭しつつも、束の間たりとも祖先のことを忘れることはなかったのである。私の今日在るは全く私の祖先、又私達同族の祖先達が遠い昔に於て、私の為に、又私達同族の子孫達の為に、善根を施して置いたからである。……
要するに、日本人で「金子」を姓としているもの、その金子氏族の源流を探索したものであるが、はじめの「一 金子の名称」というところをみると、それがこう書かれている。
今日、金子の名称を有する土地で、その昔、韓国人居住部落たりし事実を明らかに証拠だてているものが決して少数でない。而してその最も顕著なる例は武蔵国入間郡金子村(現在、埼玉県入間郡)である。此の村は東西合して可成り大きな村であるが、その隣接地は昔の有名な武蔵国高麗(コマ)郡であって、往古この区域一帯の地は所謂、高麗帰化族の独占居住地であった。
かの源平時代に武名を天下に轟かした金子十郎家忠(入間郡金子村字木蓮寺の瑞泉院はその菩提寺なりと伝云)及び弟近範(入間郡仏子(ブシ)村高正寺はその菩提寺なりと伝云)等が、金子の姓を名乗ったのは皆、この地名に因(ちな)みしものと伝えられている。即ち己が所有地又誕生地の名をとって姓としたものである。故にこの村は高麗郡誕生の後久しからずして建設されたものと推定することが出来る。高麗郡は、高麗国からの日本への移住民族に依りて建設された所である。
ここにいう「高麗国」とは、古代朝鮮三国のうちの一国だった高句麗をさしたものであるこというまでもない。金子族とはその高句麗からの「日本への移住民族」から出たものというのであるが、ところで順序がちょっと逆になったけれども、『金子族資料』の編者はその「序」のさいごにこう書きしるしている。
昭和十五年夏、祖先発祥地、武蔵国北多摩郡小金井に於て、
編者 金子健二 誌之
つまり編者の金子健二氏は、その祖先を欽慕して、さいごにはその「祖先発祥地」に移り住んで亡くなったというのであった。私たち朝鮮人(というと、このばあいはちょっとヘンな感じになるけれども)の祖先に対する観念も相当なものであるが、この金子氏もそれはなかなか徹底したものであったらしかった。
さて、金子先生の朝鮮に関連したはなしはなおもつづいた。そしてこんどは先生の生まれ育った越前のことになり、越前の福井には「油団(ゆとん)」というものがあったが、これは朝鮮の「ジャンパン(壮版)」からきたものにちがいないということから、越前の今庄には新羅神社があり、また武生の近くには小曾原焼というのがあって、これももとは朝鮮からきたものだというのだった。
それからまた、これも武生に近い鯖江の古窯跡からは須恵器が出土しているが、そこからは新羅から伝わったものとみられる新羅土器も出土している、といったことだった。私はその「油団」や新羅土器もそうだったが、とくに今庄にある新羅神社というのに興味を持った。――
要するにこういうことで、さきにみた今庄の新羅神社も、実はその金子先生から教えられたものだった。そして五年ほどのち私はふたたびまたそれをたずねたわけだったが、このときその金子先生の死に遭遇したのである。
八十をとっくにすぎてはいたけれども、金子先生はまだ元気でいるとばかり思っていたのに、偶然といえばまったく偶然だった。私は京都の鄭詔文に電話をして、先生の葬儀に参列するときは、私の分の香料をもとどけてくれるようたのんだ。
継体帝の出自をめぐって
継体帝の母・振媛(ふるひめ)の里
北陸の空はあいかわらず、暗うつにかき曇ったままだった。雪が降ったりやんだりしているのも同様で、芦原温泉の宿を出るときはそれほどでもなかったのに、丸岡町までくると、その雪は急にはげしい降りとなった。私はタクシーに乗っていて、丸岡ではまず町の教育委員会をたずねた。そして同教委で酒井博明氏に会い、『まるおかの文化財』をもらい受け、ついで『丸岡町史』ももらった。ついで、といったのは、『丸岡町史』は八百頁もある大部のものだったから、私は代金を払おうとしたところ、
「いいです。どうぞお持ちください」と酒井さんは、それもタダでくれたからである。こんなことを書くと、若い酒井さんは上司に叱られるかも知れないが、私はよろこんでそのままちょうだいしておくことにした。
そんなことがあったからか、私は急には立ち去れないような気持ちになり、その酒井さんに向かってこんなことを言ってみた。
「あなたは、作家の中野重治さんご存じですか。あなたとおなじ、この丸岡町で生まれ育った人です」
「ええ、聞いています。高椋(たかぼこ)地区にその生家があるそうですが、行ってみたことはありません」
中野重治氏が生まれたところは、坂井郡高椋村であった。その村がいまでは町村合併となって、丸岡町の高椋地区となっている。かつてはこの地は男大迹王(おおとのおう)、すなわち継体帝の母であった振媛(ふるひめ)の故郷の高向(たかむく)、多加牟久(たかむく)でもあって、丸岡町隣接の『三国(みくに)町史』をみると、そのことがこう書かれている。
振媛の故郷高向は書紀〈『日本書紀』のこと〉の分註によると邑名で、上宮記には多加牟久とあり、後世になって高椋に転じた。今の旧高椋村(丸岡町)付近に比されるが、七五八年(天平宝字二年)の東大寺庄券にその郷名が見える。
つまり振媛の故郷で、男大迹王の育ったところとされている高向が、中野さんの故郷でもあったわけだったのである。それだったから、私がこの越前へ向かってたつ直前、なにかのことで中野さんから電話があったので、
「これからぼくは越前へ行って、丸岡もたずねるつもりです」と言うと、「ああ、そう。あすこは男大迹王の育ったところといわれているからね」と中野さんも言ったものだった。
私としては男大迹王の継体帝より、むしろ中野さんの故郷、その生家をたずねることのほうが楽しみだったが、しかしその楽しみのほうはあとまわしとして、私はまず、丸岡町の教育委員会から同町の高田にある高向神社に向かった。大粒の雪が降りつづいていて、あたりもよく見えないほどだったが、タクシーの運転手はそこをうまくさがしあててくれた。
とはいっても、どういうわけからだったのか、高向神社は明治のはじめに国神神社なるところに合祀され、いまはその跡だけがのこっていた。降りしきる白い雪のなかに黒い森だけがあって、丸岡町文化財保護委員会による立札にこうある。
高向(たかむく)神社跡
祭神は振媛(ふるひめ)命と応神天皇。
式内高向神社は境内五四〇坪、社領三畝四歩あった。
高向郷は振媛の郷里で、男大迹(おおとの)王を養育され、一族は栄えた。近くの牛ケ島古墳から出た石棺でもわかろう。
これまたどういうわけか、ひどく素っ気ない書き方である。「近くの牛ケ島古墳から出た石棺でもわかろう」とは、いったい誰に向かって書いたものか、これではさっぱりわからない。
私はちょっと打っちゃりを食ったような気分になってあたりを見まわしたが、しかしそれでなにかがわかるというものでもなかった。そこらに見えるものは、空をおおって降りつづける大粒の雪ばかりだった。
高向神社と牛ケ島古墳
私はしかたなく、いまみた立札をもう一度振り返ってみた。素っ気ない書き方ではあるが、しかしそれにはなかなか重要な歴史が語られているのである。まず、牛ケ島古墳であるが、『丸岡町史』をみるとわかりやすくこう書かれている。
牛ケ島の東に小山があり、こんもりと雑木が生い茂っていた。地理調査所五万分ノ一地図に見える一六・一の三角点で御野山という。昔、村人が西側のくぼ地を掘っていたら石板を見つけた。中は石の箱のようになっている。村人は何も知らないままに、石板は小川の橋にかけた。御野山の北を屋敷といい、ここでも一尺ほど掘ったら地伏石が出てきた。昭和の初めに道路を改修した時、小山を整地して水田にした。一段八畝歩で、長方形になっている。何も気付かぬままに、箱形の石は八幡神社に移して、祭に立てる幟竿の控石に使い、石板は境界石とした。
実はこの山は平地に独立した古墳で、箱形石は石棺である。昭和二十七年八月、たまたま県の斎藤文化財専門委員がこれを見付け、笏谷(しやくだに)石の舟形石棺として考古学年報に発表した。棺の長さ二一五センチ、幅七五センチ。内法(うちのり)の長さ一七三センチ、幅四四センチ。深さはまん中で一五センチである。突起が棺身に三つと蓋に五つある。これは縄かけ突起ともいって、蓋の取りはずしや持ち運びに必要なものだ。蓋も身も少しばかり円味があり、中々精巧にできている。足羽(あすわ)山でわかっているように、この立派な石棺があるからには、副葬品もたくさんあったと思うが、ここには何の言い伝えもない。古墳中期後半のものであろう。
『丸岡町史』にはその牛ケ島古墳から出た石棺の写真ものっていて、私のような素人がみても、一目で石棺であることがわかる。だが、考古学が相当に進歩している今日はともかく、これまでにはどれだけ多くの貴重な古墳とその副葬品とが、このようにして消え失せたものかわかりはしない。このばあいは石棺を「八幡神社に移して、祭に立てる幟竿の控石に使い、石板は境界石とした」りしたからまだよかったのである。
なお、ここに「足羽山でわかっているように」とあるのは、さきにちょっとふれた福井市足羽山公園の足羽山古墳群のことで、ここからもおなじような石棺が出土し、あわせて鉄鏃、鉄剣、直刀、鏡、車輪石など、たくさんの副葬品が出土している。――さらにまた、『丸岡町史』はつづけてこう書いている。
近くの高田に、式内高向神社があった。境内五百四十坪で、社領三畝四歩あった。この高向神社と牛ケ島古墳は、何か関係があるように思われる。
今から一千四百年の昔、近江国高島郡三尾に彦主人(ひこぬし)王がいた。応神天皇より四代目にあたる。その頃、三国の坂中井に振媛という美しい女のいることを知り、迎えて妃とした。その後、彦主人王は三子を残してなくなった。振媛は悲しみの中にも幼い王子をつれ、実家である高向郷に帰って、ひたすら王子の養育にあたった。
近江の三尾に、式内社三重生神社がある。社伝に、彦主人王の死後、振媛は二子をつれて越前に帰った。長男の彦人王は三尾に残り、振媛がなくなった時、その霊を祀ってたてたのがこの神社だと記している。また、この近くに稲荷山古墳がある。五〇メートル余りの前方後円墳で、ここからも石棺を発掘した。古調をおびた家形石棺で、金銅製の冠と沓、金の耳飾りや玉、環頭太刀、土師器など多くの副葬品も出てきた。高島郡内でこんなすばらしい宝器の所有者を他に求めることは困難で、彦主人王の古墳説をたてるのはもっともなことだ。
つまり、こういうことなのである。ここにいう「振媛は悲しみの中にも幼い王子をつれ、実家である高向郷に帰って、ひたすら王子の養育にあたった」その王子とは、男大迹王、すなわちのちの継体帝のことで、彼が成人となるまで育った地の高向にある高向神社と近くの牛ケ島古墳とは、その彼らの一族がいつき祭った神社であり、その一族のだれかを葬った古墳であろう、というのである。
三尾の豪族・彦主人(ひこぬし)王
そしてさらにまた、のちに継体帝となった男大迹王が生まれたのは近江(滋賀県)高島郡の三尾であり、その父はこの三尾に住んでいた豪族の彦主人(ひこぬし)王であったことが明らかにされている。かさねていえば、振媛は越前から近江のその彦主人王に迎えられて、男大迹王を生んだのであった。
そこでこの男大迹王・継体帝の出自をもう少しくわしく知るためには、近江の豪族の彦主人王とはいったいどういうものであったか、ということをちょっとみておく必要がある。実をいうと、私はこの彦主人王が住んでいたという近江の高島郡三尾と、そこにある「彦主人王の古墳」といわれる鴨稲荷山古墳のことについては、さきにも書いたことがある(『日本の中の朝鮮文化3』)。
しかしながら、それが男大迹王・継体帝の父であった彦主人王と関係あるものとは知らず、ただ、景山春樹氏の『近江路――史跡と古美術の旅――』や、原田伴彦氏などの一文を引いて一瞥しただけだったのである。
湖西で一番大きな平野は安曇(あど)川の形成するデルタ地帯であるが、安曇(あずみ)族の活躍した地盤もやはりこの平野である。彼らは朝鮮系の民族とされているが、おそらく北陸方面から入ってきて土着したものであろう。その中心にあるのが高島郡水尾(みお)の稲荷山古墳である。明治三十五年の道路工事によって遺物を出土し、京都大学の調査により、巨大な家形石棺と金銀の宝冠や耳飾、金装の大刀や馬具など、多くの遺宝が発見されたことで、考古学上著名な遺跡である。それらの出土文物が示すところ、やはり朝鮮の文物であったことを明示している。このあたりには拝戸の古墳群があり、また延喜式内水尾神社があって、やはり古代文化の一つの中心圏をなしていたことが知られる。古典に水尾公(みおのきみ)として知られる部族の本拠地で、地名は水尾として今日に伝えられる。
ここにいう「水尾(みお)」とは、さきにみた「三尾」とおなじことであるが、ついでまた原田伴彦氏の『近江路――人と歴史――』のそれはこうなっている。
高島群の鴨稲荷山古墳からは、鏡や金銅製大刀のほかに、南朝鮮の古墳で発見される純金の耳飾りや金銅製の冠、馬具などが発掘されている。これらの品々は朝鮮では第一級のもので、あるいは帰化系の有力な豪族の墓ではないかといわれている。
なおまた、景山氏のいう「朝鮮系の民族とされている」安曇族とはどういうものであったかということについては、原田氏のそれにこう書かれている。
古代日本の黎明期に、北九州の玄海灘を本拠に活躍した安曇(あずみ)族(ぞく)海人といわれる一グループがあった。彼らは各地に発展し、その足跡は南は淡路から、東は北信州の安曇郡一帯にまで及ぶが、その一隊は、敦賀、小浜をへて湖西の地にまで進出したとみられる。
要するに、それが「安曇族海人」といわれるものであるかどうかは私にはよくわからないが、鴨稲荷山古墳は、「朝鮮の文物であったことを明示している」その出土品からみて、それが朝鮮渡来人の古墳であることにまちがいはなかった。しかし私はさきにそこをおとずれたときは、「そこまで来て気がついたが、『明治三十五年の道路工事によって遺物を出土し』とあるからには、もうそれは跡形もなくなっているにちがいなかった」として、そのまま素通りしてしまったのだった。
だが、その後、私は越前をおとずれるにおよんで、継体帝となった男大迹王の生まれたところが近江の水尾(みお)(三尾)であることを知り、さらにまた「近江大王家の成立をめぐって」と副題された岡田精司氏の「継体天皇の出自とその背景」などを読むにいたって、ここにある稲荷山古墳ともいう鴨稲荷山古墳が、いかにたいせつなものであるかということを再認識したのであった。
水尾神社と鴨稲荷山古墳
そこでこんど私はあらためて、いまは高島郡高島町大字鴨となっている近江・三尾(水尾)のその鴨稲荷山古墳と、それからいまさっきみた『丸岡町史』には「三重生神社」となっている近くの水尾神社とをたずねてみた。鴨稲荷山古墳は、「もうそれは跡形もなくなっているにちがいなかった」とは私の勝手な想像で、その跡は滋賀県指定史跡となっていまもちゃんとそこにのこっていた。
五十メートル余りあったという前方後円墳としての封土は削りとられて、ほとんどなくなってしまっていたが、しかしそこから出土した家形石棺は、鉄柵がつくられてそこに安置されている。そして滋賀県教育委員会による立札もそこにあって、こう書かれていた。
この古墳の所在地が継体天皇の父彦主人王の居する三尾の別業の地であり、之に加わるに被葬者の装身具が新羅製品に類することと相侯って被葬者の性格をうかがわせる資料となろう。
ついで私は近くの水尾神社をたずねたのであるが、山腹にあるかなり大きな神社だった。さきにみた『丸岡町史』にあるように、それが彦主人王の長男・彦人王がその母の振媛を祭ったものであったかどうかはわからないとしても、いずれにせよ、それは彦主人王の一族、すなわち三尾公・三尾氏が祖先神としていつき祭っていたものにちがいなかった。
これで、のち越前からおこって継体帝となった男大迹王の出自はだいたいはっきりしたと思うが、しかしなおまだもう少し立ち入ってみると、このような継体帝の出自についての学術論文としては、私の目についたものだけでも弘道氏の「継体天皇の系譜について」、同「継体天皇の系譜について再考」、および前川明久氏の「継体天皇擁立の勢力基盤について」や、岡田精司氏の「継体天皇の出自とその背景」などがある。
なかでは、さきにもふれた岡田氏の「継体天皇の出自とその背景」が継体帝の出自を追究したものとしては、もっともよくまとまったものと思われる。岡田氏はそれについてかなり精緻な論旨を展開し、さいごに「結び」としてこう「要約」している。
1 継体天皇は地方豪族出身の簒奪者である。その出自は『古事記』の所伝どおり、近江にあり、近江を中心とする畿外東北方の豪族を勢力基盤として権力をにぎった。
2 近江の豪族たちは、そのめぐまれた地理的条件によって早くから水陸の国内商業活動に従事し、さらには日本海航路による朝鮮貿易も行なったらしい。その豊かな経済力および交易による広域の地方豪族との連繋が、継体の簒奪を可能にした。継体自身も商業活動の中心にあった。
3 継体系王朝の系譜は、初めは三輪大王家の末裔を称し、ホムツワケ皇子の子孫と称していたが、のちに河内大王家に仮託するようになり、応神五世の孫と自称するようになった。その変化は七世紀に入ってからであろうか。
4 継体の出身氏族は息長氏であり、息長系の系譜・伝承・天皇の諡号等はこの立場からでなければ説明できない。
5 王朝交替の神話への影響は、天照大神・息長帯比売といった女性神に濃厚にみられ、息長氏のもっていた女性祖神の反映とみられる。越前角鹿は彼らの聖地であり、気比神宮は守護神的存在であったとみられる。
継体帝は『日本書紀』などに書かれているような「応神天皇の五世の孫」といったものではなく、「地方豪族出身の簒奪者である」とする岡田氏の所説については、井上光貞氏なども『飛鳥の朝廷』のなかで、「岡田精司氏が最近指摘しているように」「継体は近江の豪族であったとみるのが妥当だと思われる」とのべている。ところで、岡田氏が「継体の出身氏族は息長氏であり」としているその息長(おきなが)氏族とは、どういうものであったろうか。
つまり、岡田氏はのち継体帝となった男大迹王の父、彦主人王というのは息長氏の支族であったというのであるが、その息長氏は、いまは坂田郡息長村から近江町となっている阿那郷を本拠としていた大豪族であった。斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」をみると、近江におけるその古墳としては、さきにみた高島町の鴨稲荷山古墳と、坂田郡近江町の山津照神社境内古墳、栗太郡下田上村の羽栗古墳の三つがあげられている。
もちろん近江におけるそれはこの三つと限らないが、そのうちの、これも朝鮮渡来のものとみられる冠帽を出土した山津照神社境内古墳は、前川明久氏の「継体天皇擁立の勢力基盤について」にもあるように「息長氏の墳墓」とされているものである。そしてここにはまた、息長宿禰王を祭神とする『延喜式』内の古い日撫(ひなで)神社がある。
継体帝の出身氏族・息長氏
息長宿禰王とは、いわゆる神功皇后の父とされているものでもあるが、この息長氏族が本拠地としていた近江町の阿那郷については、私はさきにたずねたことがあって、そのときのことを私はこう書いている。(『日本の中の朝鮮文化 3』)
――それからまた、長浜からちょっと行ったさきの米原(まいばら)町には、いまも多良(たら)(羅)というところがある。米原町や息長村だった近江町のここは坂田郡で、かつてはこれも多羅とおなじ古代南部朝鮮の小国、安羅(那)からきた阿那郷のあったところだった。そして宇野茂樹氏の「近江の帰化氏族」によると、この阿那がどう転じてそうなったのか、のち息長となり、さらに息長村となったのだった。
多羅と安羅とは現在の南朝鮮、韓国の慶尚南道でとなり合っていた加耶、加羅系の小国で、これはその当初から密接な関係にあったものではなかったかと思われる。『古事記』『日本書紀』はどちらも天日槍(あめのひぼこ)(矛)を「新羅の王子」としているけれども、実はこの天日槍がやって来たのもその多羅・安羅からではなかったかと私は思う。彼らが居をさだめたとされている近江の地はどれもほとんどが安羅(那)の吾名(あな)、阿那、穴であるからだが、もしそうだとすれば、彼らはその国の安羅・多羅が百済や新羅に吸収される過程で、この日本の地に大挙して逃れて来たものであったかも知れない。
そのことはどうであったにしろ、坂田郡に安羅(阿那)の阿那郷を開いて息長を称した息長氏族も、天日槍とともにやって来た一族であったことにまちがいはない。私はそこにある日撫神社や山津照神社境内古墳をたずね、ついで近江町の教育委員会に立ち寄って『坂田郡史』をみせてもらったところ、そこにこう書かれている。
新羅王子天日槍の阿那邑に暫住の後、其の跡に息長の地名は称えられたり。是を豊前国香春神社(田川郡)に祭る韓(から)国息長大姫大目命に考え合すれば、息長は新羅語なるべし。
息長氏族が天日槍の一族であったということは、いまさっきみた岡田精司氏の「継体天皇の出自とその背景」の「結び」の「要約」に、「越前角鹿は彼らの聖地であり、気比神宮は守護神的な存在とみられる」とあることからもいえるように思う。越前の角鹿、すなわち敦賀が古代朝鮮からの渡来人にとってどういうところであり、そしてそこにある気比神宮が天日槍を伊奢沙別(いささわけ)命として祭るものであることは、さきの「気比神宮にて」の項でみているとおりである。――
しかし、にもかかわらず、岡田氏の「継体天皇の出自とその背景」についてみる限り、これには難点がないわけではない。つまり、さきにみた鴨稲荷山古墳から発見されたものが「やはり朝鮮の文物であったことを明示している」(景山春樹氏の『近江路――史跡と古美術の旅――』)「南朝鮮の古墳で発見される純金の耳飾りや金銅製の冠、馬具など」(原田伴彦氏の『近江路――人と歴史――』)であり、また山津照神社境内古墳からもおなじような冠帽が出土していることをもって、岡田氏はそれらを「日本海航路による朝鮮貿易」の結果えられたものとみていることである。
ほかの歴史家や考古学者などにもよくみられることで、古墳から出土するそれらのものは、朝鮮からの「輸入品」や「掠奪物」であったというのである。岡田氏はそのことを、こう書いている。
日本人の朝鮮諸国での経済活動の歴史は古い。「任那日本府」の性格はどうであれ、その背後にある在留日本人の多くが彼の地へ渡った目的として貿易活動を無視することはできない。朝鮮における四世紀末以来の軍事活動の目的は、朝鮮諸国の人的(技術)・物的な資源の獲得が重要な原因の一つであることはいうまでもないが、異国の文物に対する欲求は日常的な交易活動によって目を開かれるものであって、軍事行動だけが単発的に起るものではあるまい。侵略行動は筑紫北部などの豪族層の私的貿易と表裏をなすものと考えたい。
なんとも、こういうのをみるとまったくやりきれないような気がする。これが明治以後の帝国主義的侵略思想によって培われた感覚を、そのまま古代にもあてはめるという侵略史観・皇国史観から出たものであることはいうまでもあるまい。
だいたい、「任那日本府」の性格はどうであれ、その背後にある「在留日本人」とはいったいなにか。四世紀という古代の当時、そういう民族としての「在留日本人」といえるものがあったかどうか。
「多くが彼の地へ渡った目的として貿易活動を」というが、かりにもしそういうものがあったとして、ここで一つはっきりといえることは、古代の当時、朝鮮にはさきにみたような「純金の耳飾りや金銅製の冠、馬具など」を製造して「輸出」する「貿易会社」などどこにもなかったということである。それなのに、それを「輸入品」とか「掠奪物」としなくては気がすまないこの人たちには、古代における文化の伝来とはその文化を持った人間の渡来であったということをいくら説いたってわかりはしないのである。
付録・中野重治氏の生家
日本人似か、朝鮮人似か
はなしがのち継体帝となった男大迹王の育ったところの高向神社から近江にうつり、そして意外なことにまで発展したが、雪の越前にいた私は高向神社のそこから、こんどは中野重治氏の生家をたずねることにした。もちろん中野さんの生家は、私のたずね歩いている古代遺跡とは直接関係はないが、付録としてこれもみてもらいたいと思う。私はここまで来たからにはそこをたずねてみないわけにはゆかず、むしろそのことを楽しみともしていたのである。
私はいま、「私のたずね歩いている古代遺跡とは直接関係はないが」といったが、しかし、これもまったく無関係とはいえない。なぜかといえば、中野さんはいまからすると四十数年前となる一九三〇年のむかし、その生家がどういうものであったかということとあわせて、すでにこういうことを書いているからである。
僕の生れたのはそこのタカムク村という村で、大むかし継体天皇がまだ天皇におなりにならない時にこの村においでになったそうだ。そうして大伴の金村という人が都へお連れしたそうだ。高椋村のほぼまん中ごろに僕の生れた家のあるイッポンデンという字(あざ)がある。僕の先祖は、一本田から一里ばかり東の山の中のトヨハラという村からある日下りて来て一本田に住みついたのだそうだ。それで僕の先祖は一本田の草わけだと僕の八十四ぐらいで死んだお祖父さんが言って聞かせたが本当か嘘かわからない。たぶんそれは、僕のお祖父さんが、そんなことで自慢するほかに自慢することを何も持ってなかったことの証拠かも知れない。そこらは大むかしはびしょびしょした沼地で、僕らは子供のころ、たんぼの沼の中からよく、昔の人の使った素焼の網の錘を掘り出した。……
僕の顔は日本人より支那人もしくは朝鮮人に似ている。金沢にいたころ何度も支那人に間違えられた。僕は高等学校で二度落第したが、そのため東京の大震災に逢わなかった。「落第してなかったらおまえは朝鮮人と間違えられてきっと殺されてたぜ」といって友だちが祝福してくれた。ある日僕はホリチェル(秋田雨雀にカフカズでキスしたあのホリチェル)ともう一人のドイツ人といっしょにドンブ(ホリチェルが「ドンブを食おう、食おう」というので何かと思ったらウナドンだった。)を食っていた。するとホリチェルが僕に「おまえは朝鮮人かい?」と訊いた。するともう一人のドイツ人が「いや、彼は生粋の日本人だ」と言った。この男がどうして僕を生粋の日本人と断定できたのか知らないが、とにかく僕の顔はよっぽど朝鮮人に似ているらしい。そのため僕は朝鮮と朝鮮人とが非常に好きだ。(「嘘とまことと半々に」)
一九三〇年代の当時、このようなことを書くこと自体一つの抵抗を意味したものであるが、しかし中野さんが「よっぽど朝鮮人に似ているらしい」といったのには、越前で生い育ったものの、ある深層意識のようなものがそこに働いていたのではなかったかと私は思う。なぜなら、朝鮮人に似ているのはなにも中野さんと限らず、日本人はほとんどみなそうだからである。
これを逆にいえば、朝鮮人である私は「よっぽど日本人に似ている」のである。中野さんが「朝鮮人かい?」とみられた以上に、私はしょっちゅう日本人とまちがえられている。
それはさておき、だいたい若狭や越前が古代朝鮮からの渡来人にとってどういうところであったかは、これまでみてきたものだけでもおよそのことはわかるように思うが、私は以前、日本のある友人からこういうことを聞かされたものだった。「いまも若狭や越前の人たちは、越前から出た継体天皇を朝鮮から来たものと思っている」と。
しかし、若狭や越前の人たち(とはいっても、もちろん全部ではないであろうが)はどうしてそう思っているのか、私にはよくわからなかった。だが、こんど越前へ来てみるにおよんで、私にもだいたいそれがよくわかったような気がする。継体帝の母だという振媛(ふるひめ)のフル(振)にしても、これは古代朝鮮語のフル(都邑)か、あるいはブルン(招いた)媛ということからきたものではなかったかと私は思うが、つまり、中野さんが一九三〇年の当時、すでにいまみたようなことを書いたというのも、そういう越前の風土と切り離せないものがあったのではないか、というわけである。
雪にしずまる詩碑
高向神社のある高田から、中野さんの生家がある一本田までは、ほんのわずかな距離でしかなかった。しかしどうしたものか、その一本田まで行くと、雪はいっそうはげしい降りとなった。人家はどれも降りつづける白い雪におおわれてしずまっており、道をきこうにも人の姿がなかった。
それでも、乗ったタクシーの運転手がよく動いてくれて、ある路地を入った神明神社の横にある家へ入ってきいたところ、ちょうどよかったことに、そこは丸岡町の公民館長をしている山本敏衛氏の家だった。しかも山本さんは、中野さんとは小学校の五年後輩だそうで、気軽にすぐ出て来て近くの中野さんの生家まで私をつれて行ってくれた。
「ここです」と山本さんから言われたその家も雪におおわれていて、そのうえ無人の空家となっていた。家は戦後になってできた小さなもので、中野さんはそこには住んだこともないはずであるが、それでも私は、「ああ、中野さんはここで生まれたのか」と思って、その空家とともに敷地のあたりを見まわしてみた。
「中野さんが生まれた家は、昭和二十三年の震災のときに倒壊しましてね。いまあるこれはそのあとに建てられて、妹さんの鈴子さんがしばらく一人で住んでいたものです」と、山本さんもそう説明してくれた。中野さんの生家そのものはその震災のためなくなってしまっているので、厳密には中野さんの生家のあった敷地というべきかも知れなかった。
かなりあると思われるその敷地は、むかしのままにちがいなかったが、そこはいまも降りつづけている雪が積もるままとなっていたから、入って行けば膝を没するにきまっていた。しかし私は膝を没しながら、空家のほかは木立ちがあるだけのそこまで入ってみた。そして気がついたが、木立ちの下となっているそこには、つつましい小さな詩碑が一つぽつんと建っていた。うっそうとした高い木立ちにさえぎられているので、それにはあまり雪がかからず、はっきりした文字だったから、その碑文も読めた。
花も
わたしを
知らない
すヾ
私は一、二度会ったことのある中野鈴子さんの控え目な容姿が目にうかび、じーんと胸にくるものをおぼえた。どういうことでかは知らないが、鈴子さんはどこか不幸な感じのする人だった。
鈴子さんは東京・世田谷の中野さんの家で亡くなったが、葬儀に参列することができなかったことも思いだされたので、私はその詩碑に向かってそっとおじぎをした。ここで新潮社版の『日本文学小辞典』にある「中野鈴子」の項をみることをゆるしてもらうと、伊藤信吉氏によるそれはこうなっている。
中野鈴子なかのすずこ 明治三九・一・二四―昭和三三・一・五(一九〇六―五八)詩人。筆名一田アキ。福井県生まれ。三国実業卒。再度結婚したが、昭和四年から一一年まで実兄中野重治と東京で生活。「戦旗」「ナップ」「働く婦人」などに筆名で詩などを発表。その代表作が『ナップ七人詩集』(昭六刊)に収録された。『花もわたしを知らない』(昭三〇刊)がある。『中野鈴子全著作集』全二巻。昭和三九・四、ゆきのした文学会刊。
中野さんの生家のあった敷地を出てからも、雪の降り積もった前の路地を私は一歩、一歩、ひろうようにして歩いた。そうしてタクシーをとめてある神明神社のほうへ戻ったわけだったが、中野さんは子どものころ、四季をつうじてその路地を何度も行ったり来たりしたにちがいないと思うと、ある感動が胸をひたしてきた。
「亡くなったお父さんの藤作さん、この人がまたたいへん偉い人でした」と横から、山本さんもゆっくりと歩いてくれながら言った。「東京の息子さんが社会主義だというので、こちらでもつらいことがあったのですが、しかし、藤作さんは終始毅然(きぜん)としていたものですよ」
「ええ。そのことは中野さんの『村の家』にもよく書かれていますね。ぼくらもそれを読んで、きびしい、偉い人だと思ったものです」
それにしても、今年七十二歳になる文学者としての中野さんはもっと偉い人、偉大な人といってもいいと私は思っている。だいたい私が、中野さんの作品に接したのは一九三〇年代からのことだったが、直接その中野さんとことばをかわすようになったのは、たしか一九四六年のことではなかったかと思う。長い戦争がおわった翌年からのことであるが、それから二十数年のあいだ、いろいろさまざまなことがあった。あるときは一九五一年夏というきびしい状況のもと、二人いっしょに中国地方へ講演旅行をしてつらい目にあったり、またあるときは、きびしい政治状況に揺すぶられていた新日本文学会による文学運動の会議でともに徹夜をしたり……。
そして私は、そういういろいろさまざまなことをつうじて、中野さんから実にたくさんのことを学んだものだった。文学者としてのものの見方、考え方などであるが、私にもし「師」といえるものがあるとしたら、それは中野さん以外にはないのである。
加 賀・能 登
双耳瓶(そうじへい)・珠洲(すず)焼・九谷焼
須恵器の直流
さて、越前ではさいごに「金子先生」のことや中野さんのことで、だいぶ横道にそれてしまったが、次は加賀・能登(石川県)である。加賀と能登とは、さきの「気比神宮にて」の項で引いた中日新聞による座談会「古代史の中の北陸」が金沢でおこなわれた機会に、ざっとひとまわりしたことがあった。
しかし、私はいよいよこれを書きだすにあたって、あらためてまたもう一度そこをたずねてみることにした。それはなにも加賀・能登と限らないが、一度行ってみただけではなかなか書くまでにはいたらないのである。
同行は例によって、京都で小季刊誌『日本のなかの朝鮮文化』を発行している鄭詔文と、考古学者の李進煕だったが、こんどは越後の新潟で古美術商をしている写真家の林泰一君もいっしょだった。実をいうと私はこれよりさき、つづいてこれから書くことになる佐渡と越後とをさきにまわってみているが、林君はそのときからの協力者であった。
二泊三日ほどの予定で、私たちが京都を出発したのは六月十七日のことだった。まえからの打ち合わせどおり、前日、林君は京都での自分の用事をもかねて、仕事用のライトバンを駆って来てくれたのである。
そのライトバンで、私たちが開通してまだ間もない北陸自動車道をへて加賀の金沢についたのは、午後六時すぎだった。これという知っているところがなかったので、ひとまず、さきの「古代史の中の北陸」の座談会のため来たとき、私が泊まったことのあるホテルにはいった。
そして一時間ほどのちに、李進煕の大学の後輩にあたる地元の考古学者橋本澄夫氏と会うことになっていたが、そのまえにホテルの室に入れられた十七日付けの北国新聞夕刊をみると、連載されている写真を中心とした囲みものが第二十四回目で、それがちょうど須恵器の「双耳瓶(そうじへい)」となっていた。その双耳瓶は小松市の戸津窯跡から出土した北陸独自の須恵器といわれるもので、それがこう書かれている。
釉薬(うわぐすり)を使うまで、日本各地で製作された陶質土器を総称する須恵器が石川県で初めてつくられたのは、後期古墳時代、六世紀ごろであった。以後、生産は急速に広がり、八〜十世紀の奈良、平安時代には最盛期を迎えた。この時期ほぼ加賀全域に製品を供給したのが、小松市の戸津焼だった。昭和六年、この古窯跡から出土した双耳瓶(そうじへい)は形などから北陸固有のつぼと見られている。
人間の耳に似た取手があることから、この名前がついた。生産の技術は朝鮮からの帰化工人によってもたらされ、千二百度から千四百度の高温で焼く工法を共通にする。
「なるほどね。『朝鮮からの帰化工人によってもたらされ』か……」と、李進煕はそれをみて言った。「オヌナルイ ジャンナル〈来る日が市(いち)の日=ゆたかなよい日という意〉というが、われわれの旅にとって幸先よし、というわけですな」
もちろん、「朝鮮からの帰化工人」といっても、その「工人」たちが「帰化」して来たというものではなく、これも朝鮮からの渡来人集団に随伴して来たものであることはいうまでもないが、新聞のその囲みの記事はまだつづいていた。もう少しみると、あとのほうはこうなっている。
双耳瓶がつくられた平安時代後期は、生産能力が徐々に衰えはじめ、規模も縮小する傾向にあった。律令体制のタガが緩み、のち武士階級となる新興地主による土地の再分割が起こった結果、工人たちがこれら地主に吸収され、いわば官営から民営へ移ったためであった。
さらに釉薬の技術革新にも立ち遅れたふるさとの須恵器は十二世紀ごろ、ほぼ生産を停止した、といわれている。が、約一世紀の空白を経て、突如、ふたたび歴史の表舞台に登場する。日本海の海運ルートに乗って、独自の商業文化圏を担った珠洲(すず)焼がそれであり、「加賀古陶」もまた同時代のものである。とすれば、まったく廃絶したわけではなく、それこそ潮と雪の下で小規模ながらも辛抱強く作り継がれていたのであろう。ついにはローカル色豊かな産業に成熟するほどまでにねばり強く、である。
地図をみると、奥能登のほうに珠洲(すず)郡があって珠洲市がある。珠洲焼というのはこの珠洲地方におこったもので、ここで念のために加藤唐九郎編『原色陶磁器大辞典』をみると、「珠洲古窯趾」とあって、こう書かれている。
石川県能登半島の東北端(珠洲市)に成立した須恵器の末流とみるべきもので、壺・甕・鉢の三種が主に焼かれている。カーボンのしみた黒々とした素地肌をもっているもので、タタキという成形手法が主であることも特徴の一つであるが、タタキ手法によらないものには櫛目文が施されている。石川県・富山県に広く作品は分布しているが、鎌倉後期から室町初期にかけて隆盛に向かい、室町中期に消滅したものと考えられている。珠洲焼とも呼ばれている。
ここにいう須恵器とは、日本でも明治中期ごろまでは朝鮮土器、または新羅焼とよばれたものであることはさきにも何度か書いているとおりで、いわば珠洲焼とはその須恵器の直流だったわけである。ここでついでに、われわれ人間の生活にもっとも密接なその陶磁器についてもう少しみると、加賀といえば何といっても有名なものに九谷焼がある。それの古いもの、「古九谷」とよばれるものなどは、皿一枚いまでは一千万円以上するものもあるそうだが、これがまた朝鮮と密接な関係によって成ったものであった。まず、これも加藤唐九郎編『原色陶磁器大辞典』により、「古九谷」の項をみるとこうなっている。
加賀国(石川県)の磁器。わが国最初の磁器の一つで、柿右衛門・仁清と共にわが国彩画陶磁器の三源流の一つと称され、特に作風の男性的健勁豪壮をもって著名である。その創起については寛永年間(一六二四〜四四)説、正保・慶安(一六四四〜五二)説、承応二年(一六五三)説、明暦元年(一六五五)説などがある。
一六三九年(寛永一六)加賀藩三代前田利常の三男利治が江沼郡大聖寺(加賀市)に分藩した時、家臣後藤才次郎定次・田村権左右衛門らに藩内諸所に製陶を試みさせ、正保(一六四四〜四八)頃九谷村(江沼郡山中町九谷町)に良好の陶土を発見した。ちょうど利治も同地の吸坂焼程度のやきものには飽きたりない頃であったため、万治年間(一六五八〜六一)定次の子忠清を肥前有田に派遣した。忠清はつぶさに苦心したが陶家の秘法は固く、たまたま長崎において中国明朝から亡命の陶工に会い、これを伴って帰国し、寛文(一六六一〜七三)初年より旧地九谷村に磁器の製造を起こしたと伝えられる。時に狩野探幽の門下である久隅守景が金沢でその器に絵付をなしたという。一六七四年(延宝二)二月、江沼郡林村(小松市林町)において藤田吉兵衛らが皿鉢類の陶器を出した。これは民窯であったが製品は九谷村の藩窯と大差なく、現今ともに古九谷と称されている。
以後厚く藩の保護を受けて約三十年間継続したが、幕府の猜疑や鍋島藩の抗議などの事情によって、元禄(一六八八〜一七〇四)初年まったく廃絶してしまった。なお古九谷という称呼は、文政(一八一八〜三〇)年中に開窯した吉田屋窯において、この地の古製を区別して古九谷と呼んだのに始まり、当初は大聖寺焼と称されたようである。さらにその技法の伝統については創始年代・創始者後藤才次郎忠清の正体と共に諸説があり、有田において伝習したともいわれたり、また木原山説・渡支説などがある。近年有田古窯址から藍九谷風の磁片や、誉銘あるいは太明銘の磁片の出土をみたので、古九谷の一部が初期伊万里の作であるとする説もある。
古九谷と後藤才次郎
ここにみられる「たまたま長崎において中国から亡命の陶工に会い、これを伴って帰国し」などというのは、ただの妄説にほかならない。それはさいごにのべている有田古窯址からの出土磁片をみてもだいたい明らかであるが、また、「幕府の猜疑や鍋島藩の抗議などの事情によって」「まったく廃絶してしまった」ということからもわかる。
というのは、日本においてただの陶器ではない磁器が焼かれるようになったのは、九州・肥前(佐賀県)鍋島藩の有田で、これは豊臣秀吉による朝鮮侵攻(いわゆる文禄・慶長の役)のさい連行された李参平(りさんぺい)陶工集団により、一六一六年の元和二年にはじまったものであった。そのことは、同『原色陶磁器大辞典』の「有田焼」の項にもはっきりこうある。
肥前国(佐賀県)有田の磁器。西松浦郡有田町を中心として、文禄・慶長の役(一五九二〜九八)後発見された有田泉山の原料によるもので、わが国最初の磁器である。昔、製品の大部分が伊万里港を経て搬出されたので、伊万里焼とも呼ばれる。
〔端緒〕佐賀藩の藩祖鍋島直茂は豊臣秀吉の朝鮮出征軍の先鋒として出陣し、その凱陣の際に多数の陶工が伴われ帰化した。そのうち佐賀郡金立村玖摩山(佐賀市金立町)に居住した者は金氏といい、その後松浦郡山形村字藤の川内(伊万里市松浦町山形)に移った。また小城郡多久村(多久市)に居住したものは李氏といい、朝鮮忠清南道金江の人であった。のち金ケ江三兵衛と改め、のちの人は李参平と称した。初め同村字道祖元(さやのもと)で起業したが適意の原料が得られず、次第に西の方へ行き、一六一六年(元和二)松浦郡有田郷字乱橋に来てその後さらに有田字上白川に移った。
当時、すなわち豊臣秀吉の朝鮮侵攻によって連行された陶工たちによるそれは、ひとり肥前・鍋島の有田焼とは限らなかった。島津の薩摩焼、細川の八代焼・上野焼、松浦の平戸焼、黒田の高取焼、毛利の萩焼などみなそうして連行されて来た陶工たちによるものだったが、なかでもきわだったものが鍋島の伊万里焼ともいわれた有田焼だった。
肥前の鍋島藩は、そのようにして来た李参平らによる白磁鉱の発見と創製とによって、年約八万両という莫大な利益をあげていた。鍋島藩は三十六万五千石、その米の総出来高は約十万両であったから、八万両というその利益がどれほどのものだったか推しはかることができる。
それだけに李参平らによって開発されたその技法は、絶対の秘法とされていたものであったが、要するに加賀で九谷焼を開いた後藤才次郎は、うまくその技法を盗んだというのが真相ということになっている。
肥前の有田で語られているそれによると、後藤才次郎は三年間のあいだ有田の地にひそんで、その技法を自分のものにするや、現地の妻子を捨てて加賀へ逃げ帰り、そうして九谷焼に成功したというのである。このことはさきにもみたように、有田古窯跡から出土のそれをみてもうなずかれるが、また、「幕府の猜疑や鍋島藩の抗議などの事情によって」古九谷のそれが「まったく廃絶してしまった」ということからもわかるように思う。
なぜなら、「幕府の猜疑」があったとしても、もし後藤才次郎によるそういう事実がなかったとしたら、遠い九州・肥前の鍋島藩が北陸・加賀藩の九谷焼に対して、そのような「抗議」をすることはできなかったはずだからである。しかもその「抗議などの事情によって」こちらではその古九谷を「廃絶してしまっ」ている。つまり、そのように「抗議」されるだけの理由があったわけだったのである。
ところで、さきにみた『原色陶磁器大辞典』の引用にも、古九谷は、「当初は大聖寺焼と称されたようで」とあったように、これはもとその大聖寺川畔ではじまったものだった。そして大聖寺にはほかにまた、古九谷とほとんど同時か、あるいはその先駆とみなされているものに吸坂焼というのがあった。
とはいっても、これも肥前の有田あたりから伝わったものではないかと思われるが、私はどちらかというと有名な九谷焼のそれよりも、できたらこの吸坂焼というのをたずねてみたいものと思っていた。というのは、上村正名氏の『やきもの古窯めぐり』をみると、大聖寺のそれがこう書かれていたからである。
私はバスの出る間を、九谷から流れ下ってくる大聖寺川の峡谷ぞいに、紅葉の川ぶちを、こおろぎ橋から、黒谷橋に下ってゆきました。
途中、アメ湯を売る店に立寄りました。紅葉の下照る峡谷にのぞむ林の中に、ひっそりと立つその家、吸坂窯で有名な吸坂の出で、かつて朝鮮から伝えられたアメ湯の秘伝を伝える、この吸坂アメはさらりとした甘味で、旅の疲れをいやしてくれます。
吸坂焼が朝鮮の手法を伝えるものとして伝承されているのに、なにか関係がある話など聞かされながら、同じこの家の主人の製法になる、山中漆器など見せていただきました。
私は、「朝鮮の手法を伝えるものとして伝承されている」という吸坂焼がどういうものか、それもみたかったが、一方ではまた「朝鮮から伝えられたアメ湯」、その「さらりとした甘味」も久しぶりに味わってみたかった。だが、結果は時間の都合で、ついに大聖寺まで行ってみることはできなかったのである。
白山とその起源
白山比神社と金剣宮
前夜は予定どおり、地元の考古学者で、『北陸の古代史』というのを書いていた橋本澄夫氏に会い、古代の加賀・能登についてかんたんなレクチュアをしてもらった。そして翌日から私たちは、さっそくあちこちとまわりはじめたわけであるが、さいしょはまず白山(しらやま)本宮・白山比〓(しらやまひめ)神社のある鶴来(つるぎ)だった。
手取川の流れている手取谷の入口となっている鶴来は、もと「剣(つるぎ)」と書いたとのことであるが、石川県高等学校社会科教育研究会編『石川県の歴史散歩』にその鶴来町のことがこう書かれている。
白山本宮(下白山)の四社(本宮・金剣宮・岩本宮・三宮(さんのみや))の門前町がつながりあってできた細長い帯のような町だ。中世には、かなりの数の市場在家(いちばざいけ)(商人)が活躍し、紺掻(こんがい)(染色業者)や鍛冶(かじ)などの神人(じにん)も集まっていた。『田植草紙』に若がえりの名酒としてうたわれる「菊酒」もこの町が原産といわれる。近世にはこれから奥の手取谷の人びとにとって、ただひとつの在郷町。いまも酒屋・呉服屋・種屋・鍛冶屋など、町並みには、ここから奥の山村の人びとが必要とした日常雑貨をあきなう古いたたずまいの店が多い。
昔ながらのそんなたたずまいの店が多いからか、鶴来はおちついたしずかな町だった。私たちはそのうちでもとくに古い構えの一つではないかと思われる清酒「菊姫」の醸造元をたずねた。
もちろん、朝っぱらから私たちはそこで酒を買ったり、飲んだりするためではなかった。そこまで来たついでにたずねたまでのことであるが、ある偶然なことから、私は東京へ嫁に来ている醸造元の当主である柳辰雄氏の娘さん夫婦をちょっと知っていた。
そんなことから鶴来の白山比〓神社をたずねるときは、――となっていたもので、おりよく二人とも在宅していた柳さん夫妻は、よろこんで私たちを迎えてくれた。そして柳さんとは古くからの知合いだった白山四宮の一つである金剣宮の宮司守部伍氏を紹介してくれ、さらにまた帰りには李朝のそれを模してつくらせた見事な刷毛目(はけめ)の銚子瓶を、私たち四人に一本ずつくれた。
私たちは、中身もあるその銚子瓶を林君のライトバンに積み込んで、近くの白山山麓にあった白山比〓神社をたずね、ついでこれもその近くにあった金剣宮をおとずれた。どちらも大きな神社で、金剣宮では宮司の石川県神社庁長でもあった守部さんが待っていてくれていろいろと話したが、守部さんは、「神主という立場があるので、あまりはっきりこれこれとはいえませんけれども、この加賀と能登には朝鮮からの神様が多いですね」と言ったのが印象に残った。
その「立場」ということについては、あとの能登でまたもう一度聞かされることになるが、要するに、金剣宮ももとはそれからわかれ出た白山比〓神社にしても、それはけっして古代朝鮮と無縁のものではなかった。さきにまず、松田清氏編『北陸』によってみると、白山比〓神社のことがこう書かれている。
加賀一ノ宮。延喜式内の古社で、全国にある二、七〇〇社の総本社である。加賀一円の農民・漁民の信仰を集め、県下で一ばん参拝者の多い神社。奥宮は白山の最高峰御前峰にあり、道がけわしくて参拝に不便なので、山麓の現在地に移した。白山信仰の中心として、また神仏混淆(こんこう)時代の修験者の道場として名高い。境内にはいる参道は桜と杉の並木で、五月のころはことに美しい。
いわゆる白山信仰の総本社であるが、加賀国一の宮とはいえ、この一の宮は他のそれとはちょっと性格を異にしていた。だいたい一の宮とか二の宮といったものが成立するのは中世以後のことで、それはどちらかというと、支配の側に立つ武士たちの総鎮守ということであった。
だが、こちら加賀国一の宮はその武士たちに対する有力農民や、漁民たちの幅広い信仰に支えられたものだった。したがってその勢力も強く、白山衆徒としての彼らは、一一七五年の「安元事件」というものにもみられるように、ときには中央からの国司をも追放してしまうというほどのものであった。
いうまでもなく、そのエネルギーは白山信仰によるものだったが、では、そのような信仰の発した白山とはいったいどういう山か。これもまず、地理的なそれとしてはいまみた『北陸』にこうある。
信仰登山で有名な白山は、白山火山脈の主峰として石川・岐阜・福井・富山の四県にまたがっている。富士・立山とともに古来日本三名山の一つとされてきた。
北陸の豪雪地にあって万年雪を頂き、いつも白雪が絶えないので白山の名が生まれたものらしい。平安朝時代凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の歌に「消えはつる時しなければ越路なる白山の名は雪にぞありける」と詠まれたのは、この名の由来を示すものだろう。
山は成層火山で安山岩質。南の御前峰(二七〇二メートル)、つぎの剣峰(二六六〇メートル)、北の大汝峰(二六八〇メートル)の白山主峰三山、はなれた別山、三ノ峰の五峰からなる。主峰三山は火山噴火による外輪山と考えられ、その火口原にあたるところは、火山作用で円形に陥没した八つの火口湖が散在している。……
山頂には白山比〓神社の奥殿があり、眺めが雄大で、大円虹(太陽を背にして立てば、自分の眼前に二重三重のまるい虹が現われ、その中央に自分の影が見られる)をはじめとし、東は飛騨(ひだ)高原を隔てて、木曾御嶽(おんたけ)・乗鞍(のりくら)岳をのぞみ、東から北にかけて日本アルプス、西は北陸平野や日本海が一望のうちにおさめられる。
白山信仰の源流は
私はこの白山に登ってみたことはないが、これだけみてもたしかに名山の一つにちがいないと思われる。しかしながら、これが白山とよばれるようになったのは、「北陸の豪雪地にあって万年雪を頂き、いつも白雪が絶えないので」ということからであったろうか。
「この名の由来を示すものだろう」として、「消えはつる時しなければ」うんぬんの歌が紹介されているが、しかしこれはのち平安時代になってからのものである。この時代になると、「越路なる白山の名は雪にぞありける」となったかもしれないが、そのはじめの古代は、そうではなかったはずである。
だいたい、われわれはいまこれを「はくさん(白山)」ともよんでいるけれども、もともとの名は「はくさん(白山)」でなかったことはもちろん、「しろやま(白山)」というのでもなく、「しらやま(白山)」というのがほんとうの呼び名なのである。いまではふつう「はくさん(白山)比〓神社」などといっているが、これもただしくは「しらやま(白山)比〓神社」であるこというまでもない。
ここで私のいおうとしていることをさきにいってしまえば、白山(しらやま)とは朝鮮の新羅を斯羅(しら)ともいったことからきたものと思うが、それは金井典美氏の「故郷の神山」をみるとよくわかる。実は、私は伊勢(三重県)の白山町をおとずれたとき、そこにもある白山比〓神社に関連して、さきにも金井氏のこの「故郷の神山」を引いたことがある(『日本の中の朝鮮文化 4』)ので、ちょっと気がひけるが、しかしその白山の総本社に来たからには、どうしてもこれをまたもう一度引かないわけにはゆかない。
日本にも白山と書く山が各地にいくつかあるが、そのほとんどすべてが白山神社を山中にまつってあり、そのもとは加賀の白山神社に発していることは明らかである。
金沢市の南、鶴来町にある白山比〓(しらやまひめ)神社は裏日本随一の高山、白山(二七〇二メートル)の信仰にはじまった神社で、祭神はシラヤマヒメ神という女神とされている。
白山という名の由来は、雪の多い北陸地方の高山なので、夏まで白い雪がたくさん残るからだと伝えているが、私は昭和四十四年に韓国を訪れ、白山という神聖視される山の多いのを知って以来、日本の白山信仰の源流も、やはり韓国にあるような気がして、いろいろと推測をめぐらすようになった。……
さて日本の加賀の白山が、初夏まで多くの雪を残していることは確かであるが、古代の山陰から北陸地方は、韓国や大陸文化との関係が深く、海流の影響で、漂着した人々の記録もいくつか知られている。
私はこのあたりの事情に、白山信仰の源流を求めたいのである。韓国系の帰化人のうち、北陸の平野に住みついた人々は、東南方に天高く聳えたつ高山をみて、それを「故郷の神山」とおなじく「白山」と名付け、そう呼ぶようになったのではなかろうか。
日本では白の音はハク、訓はシロだが、韓国では音でベク、訓はヒダである。飛騨(ひだ)の国の語源なども朝鮮的な臭(におい)が感じられるのだが、白山神社が帰化人と関係深いことには、かなりの傍証がある。
元来、白山神社は古くから芸能者によって信仰された神社であった。古代、中世の芸能者は、巫女(み こ)の流れをひくものと、下級の帰化人の系譜をひくものとがあったらしく、賤民的芸能者である遊女、傀儡子(くぐつ)、猿楽衆などは、韓国の賤民である白丁と関係あるものだという。
日本の白山信仰とやはり無関係とおもわれないのは、韓国に多いシラボンと呼ばれる山のことである。シラは甑(こしき)、ボンは峰であるから、甑山という意味になろう。
甑とは米など穀類のふかし器のことで、古代のそれは底がすんなりと丸くなっている。甑山とは、その甑を逆にふせたような形の峰をもつ山を呼ぶので、日本でいうなら、さしずめ飯盛山ということになろうか。……
韓国には飯盛山という山はない代りに、シラボン(甑峰)はいたるところにある。やはり高山でなく、かっこうのよい丸い頂か、多少峰が平になった形の山である。
甑山という山は、日本では私の知る限りでは、九州の霧島火山群の韓国岳(からくにだけ)近くにあるのみで、ほかは天草列島の南に、甑島(こしきじま)列島というのがある。いずれも場所が九州にかぎられているのが暗示的だが、その九州でももっとも韓国に近い対馬には、白岳、白嶽、白山などという山が八つもあるのである。これなど、韓国のシラボンと白山の信仰がまじりあって影響したものと、私は考えている。
加賀の白山は、高山として韓国の白山信仰の伝播を考えたいのだが、帰化人たちがはるばる渡ってきた異郷の空にそびえたつ高山をみたり、故郷の山と似た山の頂を仰ぎみて、自分たちの部落の鎮山とし、その山神を祀ったということは、充分考えられることではなかろうか。
その頂には、故郷の祖先の霊が自分たちを見守っていると信じていたのであろう。
おしら神
それからまた、金井氏はいま引いたのに先立って、「天の神が高い山の頂にくだり、その国を治める王族の祖先となったという伝説は、韓国ではもっと顕著に語られている。そうした高山は、漢字の『白』のついた名称で呼ばれるものが多く、白頭山、太白山、小白山、長白山、祖白山、白水山、白山などは、いずれもその好例である」とも書いているが、元来、朝鮮人をさして「白衣民族」ということばがあるように、その朝鮮人にとって「白」という色は聖なる色であると同時に、その「国の色」ともいうべきものなのである。
なおまた、北陸の氷見(ひみ)に住む能坂利雄氏の『日本史の原像』によると、いまみた白山信仰について、「日本に伝来当初は、これをもたらした新羅人が祖神と共に斎(いつ)きまつった故に両者が混同し、祖神をふくめて『おしら神』と呼ばれるようになったとみるべきであろう」といい、ついでさらにまたこうのべている。「有史以前から越の国に南下してきた北方種族のもたらしたおしら習俗は別稿で述べるとしても、南鮮から越前、加賀地方から北上した新羅の祖神は、古四王(こしのきみ)神、白髪(しらが)、白鬚(しらひげ)神の異称と共に土着性を加えていった」
つまり、白山信仰から派生して、東北地方にまでひろがっている「おしら神」にしても、しらぎ(新羅)人が斎(いつ)きまつった祖神から出たものだというのである。これを別なことばでいえば、「おしら神」とは新羅の神、すなわち「新羅神」ということなのであるが、さきの金井氏や能坂氏のいっているこれは、前記『石川県の歴史散歩』がさいしょのところでのべている、次のことと対応するものである。
“内海”日本海に、大きく突き出た半島と、そのつけ根にあたるのが、能登(のと)と加賀(かが)。沿岸を洗う対馬(つしま)海流と、吹きよせる北西の季節風が、かつてこの土地を対岸の朝鮮半島との交流の表玄関にし、北九州から津軽(つがる)までをつなぐ、海の“日本海幹線”の中継点の役割をもたせた。弥生期から古墳期にかけて、断続的に対岸や北九州・出雲(いずも)から、色濃い影響を受け、八世紀から九世紀には、渤海使が頻繁に往来した。
古代のこの土地は、北九州とともに、めだってインターナショナルな土地だった。新羅(しらぎ)系の渡来人集団である秦(はた)氏が多く、外来の神々がまつられ、出雲とならんで前方後円墳や線刻壁画古墳が群在しており、いずれも“客人(まれびと)の土地”だった能登と加賀の歴史の第一ページの姿を語りかける。そして、いまこの土地は、新しい平和な“内海”日本海インターナショナルの再生をめざし、“日本海”時代をよびもどす基点となろうとしている。
羽咋(はくい)の神事相撲
高麗人は漂着したのか
加賀のほうはこれくらいにして、能登へ向かおうということになったが、そのまえにもう一つ二つみることにして、私たちを乗せた林君のクルマは鶴来町から小松市を指して走った。小松(こまつ)というのも高麗津(こまつ)、すなわち高麗ノ津(港)からきたものだということを、私はさきになにかで読んだことがあった。
しかしその「なにか」がなんであったのか、私はそれをどうしても思いだせないでいる。それだったので、私はこの小松はいずれまたということにしていたが、いまはこちらも小松市となっているそこに、白江(しらえ)というところがあった。
ここはかつて白木(しらき)村となっていたところで、今村鞆氏の『朝鮮の国名に因める名詞考』をみると、そのことがこう書かれている。
白木村(加賀・石川県)
石川県能美郡にありし村、明治二十四年園江村と改称し、同四十年園江村は沖杉村及千針村大字金屋と合して白江(しらえ)村を立つ。
もちろん、右のように白木村が『朝鮮の国名に因める名詞考』にとりあげられているのは、その白木がもとは新羅ということから出たものだったからである。それだったから私たちは、いまは白江となっているそこにも新羅系のなにかがのこっているのではないかと思ったのである。
白江は国道八号線から東にちょっと折れ込んだところだったが、しかしそこにはこれといったものはなにも見当たらなかった。住宅の建ちならんでいるあいだに、それだけ取りのこされたような神社が一つあったが、それは稲荷神社となっていた。
私たちは急きょ国道八号線へ引き返し、こんどはそこから北上して、日本海沿いの国道一五九号線へ出た。そして七塚町と高松町とのあいだにある、木津というところをたずねた。
能登半島の西岸、羽咋(はくい)までの途中でもあったが、なぜそんなところをたずねたかというと、『加能郷土辞彙』というのにこんなことが書かれていたからである。
コマノ 高麗野 石川県木津の地内にある。享和の頃里人此の野を開墾して古刀を得た。この地を『続日本記』宝亀七年四月丙午の条に見える、越前国江沼・加賀二郡に漂着した高麗人を埋葬した地であろうという説は、全く牽強であろう。
このばあいの「全く牽強であろう」という「牽強」とはどういうことか、ちょっとわからないところがある。「牽強」とは無理なこじつけ、付会ということであるが、するとこれはいうまでもなく、「江沼、加賀二郡に漂着した高麗人を埋葬した地であろうという説」が無理なこじつけ、付会ということになる。
なんでこんないうまでもないことまでわざわざ書いているのかというと、実は私も、この筆者のいうのとは別な意味で、この「説」が「牽強」であるということに賛成だからである。なぜかというと、「享和の頃里人此の野を開墾して古刀を得た」というその「古刀」がどういうものかはわからないが、その「古刀」が出たところはおそらく古墳であったにちがいない。
それは「埋葬した地」うんぬんということからもわかるが、しかしそれが「江沼・加賀二郡に漂着した高麗人を埋葬した」ものかどうか。だいいち、「江沼・加賀二郡に漂着した」とはどういうことか。すると「二郡にわたって」ということになり、たくさんの「高麗人」が材木かなにかのように「漂着した」ということになる。
おそらく、『加能郷土辞彙』の筆者は「漂着」であろうとなんであろうと、それは「高麗人を埋葬した地」などではないといっているのであろうが、するとそこが「高麗野」であったということがおかしいことになる。なにもむりをすることはない。素直に解するならば、「江沼・加賀二郡に漂着した高麗人」うんぬんという「牽強」な説があることからして、その高麗野は高麗(こ ま)といった高句麗からの自発的な渡来人が住んだところ、とみてよいのではなかろうか。
というのはあとでみるように、高句麗からの渡来人が住んだのはなにもこの高麗野と限らず、新羅からのそれとともに、能登半島のほぼ全域にわたっているからである。しかし私たちがたずねて行った木津には、かつてのそんなおもかげなどもうどこにものこっていなかった。
はじめから、それがのこっていようとも思わなかったが、木津の人たちには、そこがかつては高麗野というところであったということも、いまはもうすっかり忘れ去られてしまっていた。
私たちは、海岸に面したそこの通りに一軒あった寿司屋に入って昼食をとりながら、なお念のためそこの主人にも、「ここは、か、あるいはここには、むかし高麗野といったところがあったそうだが……」ときいてみた。しかし、
「さあ――」と、そこの主人も首をかしげるばかりだった。それまでにきいたものも、みなおなじだった。
「こんなにまできれいさっぱり、その地名まで跡形もなく消えてしまっているというのは、いったいどういうことかね。そんなはずはないと思うが……」と鄭詔文は寿司をつまみながら、なおもあきらめきれないといった表情だったが、しかしそんなことを言ってみたところではじまりはしない。
なくなってしまったものは、もうないのである。それにまた、むりにそれをさぐりだす必要もないのではないか。ほかにはまだ、いくらでものこっているのである。
新しい文化を運んだアイの風と対馬海流
私たちはその木津からさらに北上して、青松白砂の日本海沿岸の景色などながめわたしながら、羽咋市へ入って行った。加賀から、いよいよ能登である。
となるとわれわれはまず、能登とはどういうところか、それからさきにみておかなくてはならない。さきにも引いた『石川県の歴史散歩』にこうある。
石川県の北半がもとの能登国。日本海沿岸では最大の半島。長さは約一〇〇キロ。この半島のつけ根の部分が、口能登。西側の外浦を羽咋(はくい)郡、東側の内浦(富山湾側)を鹿島(かしま)郡(もとの能登郡)という。その口能登の中央部を、能登で一番大きな邑知(おうち)平野がはしる。この帯のような平野が、古代の加賀・能登ではもっとも先進地だった。北陸の文化は、海を通って飛び石づたいに入りこむ。“アイの風”とよばれる強い西寄りの季節風と、対馬海流が、畿内や出雲(いずも)、あるいは朝鮮半島から、新しい文化を能登の長い海岸線にもちこむ。それをすばやく吸収したのが邑知平野。大型の古墳が、加賀・能登でまっさきにきずかれるのも、この平野。あるじは、西のはしの羽咋君と、東の能登臣。吹きよせる文化の波の入り口が、西側の羽咋君の本拠。加賀・能登でただ一つの名神大社・気多(けた)神社が、それを象徴する。しかし、やがて権力の重心は東に移り、能登臣の本拠地の香島津(七尾港)に国府が設けられ、かれらの名乗ったクニの名が“能登”の国名となる。
これをみてわかることは、「日本海沿岸では最大の半島」である能登の邑知平野が、「古代の加賀・能登ではもっとも先進地だった」こと、そして「“アイの風”とよばれる強い西寄りの季節風と、対馬海流が」「吹きよせる文化の入り口が」羽咋君の本拠地だった羽咋であったことなどである。羽咋とは、いま私たちが木津の「高麗野」から北上して来たそこである。
ついでこんどは角度を変えて、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」によって能登のそれをみると、どちらも朝鮮渡来のものとみられる須恵器の「子持有台壺」を出土した「珠洲(すず)郡谷崎附近」と「珠洲郡宝立村大畠古墳」の二つがあげられている。もちろんこの二つだけがそれであったはずはなく、これにはあとでみる能登島の有名な須曾蝦夷穴古墳なども抜けおちているが、一方、村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷」をみると、能登にあるそれとして次の八社があげられている。
古麻志比古神社。美麻那比古神社。美麻那比〓神社。久麻加夫都阿良加志比古神社。荒石比古神社。阿良加志比古神社。久氏比古神社。白比古神社。
もちろんまた、神社としてもこれがその全部というわけではない。それはたとえば、石川県の金沢経済大学学長であった吉岡金市氏が、私たちと同行者の鄭詔文が発行している小季刊誌『日本のなかの朝鮮文化』第七号に寄せた次の一文からもうかがい知ることができる。
福井、石川両県にまたがって分布している古代製鉄趾と、朝鮮の製鉄の関係を今しらべているのですが、かなしいことに私は朝鮮語の本がよめないので、朝鮮の古代製鉄史がわからないのです。
『古事記』『日本書紀』以後の製鉄史が、滋賀県の米原地方と朝鮮とつながっていることはわかるのですが、それより前はわかりません。
能登半島の神社の八割までが、朝鮮の神様であることはよくわかっているのですが――。
このような能登で、私たちがさいしょにたずねた羽咋郡・羽咋市の羽咋とは、北陸を中心にそれをみた能坂利雄氏の『日本史の原像』によると朝鮮語ハング(港口)の転じたものではないかとあるが、それはさておき、羽咋市では例によってまず教育委員会に立ち寄り、社会教育課長の三宅善之氏から『羽咋市の文化財』などをもらい受けた。そして私たちは、能登国一の宮となっている気多(けた)大社に向かった。
さきにまず一の宮の気多大社に敬意を、というわけではなかったが、しかしまったくその気がなかったわけでもなかったらしく、なんとなくそういうことになった。しかも私としては、さきにもこの大社はたずねたことがあって、これが二度目だった。
『羽咋市の文化財』をみると天然記念物となっている、面積約三ヘクタールの常緑闊葉樹(かつようじゆ)に背後を囲まれた気多大社は、これも重要文化財となっている流麗な建造物の神門と拝殿とを持った美しい神社で、かつては気多大神宮ともいわれた『延喜式』内の名神大社だった。
さきにみた越前国一の宮の気比(けひ)神宮と似た名の神社であるが、そのことについて京都大学の林屋辰三郎氏は、「なにか関係があるだろうと私も思いますよ。なけりゃおかしいくらいです」と言い、さらにつづけてまたこうも言っている。「気比の神様は、航海に関係した神様で船に乗る人の信仰を集めていましたからね、船の着く先に分身されて行ったものでしょう」(座談会「古代史の中の北陸」)
これもさきにみたように敦賀にある越前国一の宮・気比神宮の祭神は伊奢沙別(いささわけ)、すなわち新羅系渡来人の一象徴であった天日槍(あめのひぼこ)であるが、するとこちら能登国一の宮・気多大社のそれももとはおなじものであったにちがいない。そのことは、『石川県の歴史散歩』にある次の一文によっても、容易にうかがい知ることができるように思う。
気多大社は、大己貴(おおなむち)命を祭る延喜式内社。県下ではただ一つの名神大社で、古代から神格が高かった。祭神は、大己貴命とよばれるまえは、おそらく気多の神だったのだろう。気多の神には、日本海とのつながりがとりわけ深い。出雲の気多の嶋→因幡(いなば)の気多の神→但馬(たじま)の気多郡→加賀の気多の御子神→能登と越中の気多の神をつなぐと、対馬海流にのって日本海沿岸にのびる神々のあしあとがうかびあがり、出雲と能登の密接なつながりも推測できる。だが、気多の神の本来の姿は、やはり、地元の豪族に支えられた土着の神だったにちがいない。
毎年の三月十八日から二十三日にかけて行なわれる平国祭(くにむけのまつ)り(オイデ祭り)は、一の宮を出た神輿が、羽咋郡の志賀・羽咋・志雄の市町を巡行して、鹿西町の金丸の宿那彦神像石(すくなひこかみかたいし)神社にはいり、ふたつの神が同道して、鹿島町から七尾市所口(ところぐち)の気多本宮(能登生国玉比古(いくくにたまひこ)神社)にはいり、邑知平野を一周して帰る。五泊六日の神幸祭は、口能登に春をつげる風物詩だが、この祭りも、原型は、おそらく口能登の邑知の水をおさえた地元の豪族による、小国家の統合の姿を伝承するものであろう。
こうして書きうつしてみると、この祭りも是非一度みたいものと思われてくるが、しかしいまとなってはもうしかたがない。その祭りはいずれまたということにして、ついで私たちは、一名を相撲神社ともいう羽咋神社から唐戸(からと)山にいたった。
羽咋の相撲の待ったなし
相撲神社とはかわった神社であるが、実はこれがまた朝鮮との関係濃厚なもので、なかなかおもしろいのである。まず、羽咋神社の立札にも、「相撲道上日本最古とも云う歴史と古式とを伝えて、毎年九月二十五日に執行せられる唐戸山神事相撲の有名を約二千年の久しきに亘り連綿永続し」うんぬんとあったが、松田清氏編『北陸』にはそのことがこう書かれている。
唐戸山相撲神社から六〇〇メートルの唐戸山は、名は山というが砂丘にかこまれて擂(すり)鉢の盆地である。九月二十五日の例祭には、ここで相撲が行なわれる。山の最低部を土俵とし、周囲の斜面を桟敷(さじき)にあてる。力士は上山方(加賀・越中の者)と下山方(能登・佐渡の者)とにわけて勝負がきめられる。塩、水を使わない野相撲で、行司が一たびうちわを引くと断じて猶予を許さないので、「羽咋の相撲の待ったなし」で有名。
私はこれを読んだとき、すぐに「ははあん」と思ったものだった。なぜかというと、これこそは私のみたほんとうの相撲、つまり朝鮮の相撲そのものだったからである。
だいたい、私は子どものころ日本に渡って来たものであるが、そのとき目にした日本の風俗には、とまどうものが多かった。それの一つに相撲があって、私などにはどうもなじめないものとなっていたのだった。
というのは、四本柱のある丸い土俵のうえで何度も仕切り直しをくりかえし、あげくのはてはただ押し出しただけでも勝ちとなるあれが相撲か、と私には思えてならなかったからである。なぜなら、朝鮮の相撲は四本柱も土俵もない野相撲で、あくまでも取っ組んだ相手を倒さないことには、勝ったことにならなかったからだった。
だが、私は「待ったなし」の「羽咋の相撲」を知ったことで、やっと日本のその相撲をも理解することができた。現在の日本の相撲は、いつのころからか観衆に見られるもの、あるいは見せるものということが強調されて変化し、それが四本柱のある土俵での仕切り直しというセレモニーをともなって、現在のようなものに半分は芸能化したのである。
したがって、その原型はやはり「待ったなし」の「羽咋の相撲」のようなものだったにちがいない。「上山方(加賀・越中の者)と下山方(能登・佐渡の者)とにわけて勝負がきめられる」というのも、地域的にわかれて勝負をあらそう朝鮮のそれとおなじであった。
いうならば、いまなお「神事相撲」としてつづけられているそれには、古代朝鮮から渡来したときそのままの姿がまだ色濃くのこされていたのである。もっとも朝鮮の相撲にも変化がなかったわけではない。
高句麗あたりの古墳壁画をみると、日本の相撲のそれのように、ふんどしだけをつけた裸の力士の取っ組んだ姿があるが、今日ではそんな裸はみられない。たぶん、李朝に入ってそれが国教となった、人に素肌をみせてはならないという儒教の影響によるものにちがいないが、しかし相撲のかたちそのものは、「待ったなし」の「羽咋の相撲」とほとんどおなじなのである。
その「羽咋の相撲」がおこなわれている唐戸山は、来てみるとなるほど擂鉢(すりばち)の形をした盆地だった。まわりには「能登の海」などとした大きな石塔が建っていたりして、能登はいまも相撲のさかんなところらしく、盆地のそこでは硬いふんどしをつけた数十人の裸ん坊が、相撲の練習をしているところだった。
「そういえばいまの横綱・輪島というのも能登の出身だったなあ」と私たちはそんなことを言い合いながら、斜面をおりて近寄ってみると、裸ん坊の「力士」たちはどこかの学校の生徒たちらしかった。そこにいた引率の先生らしい人にきいてみると羽咋中学校の生徒たちで、先生は同校教諭の松浦鏡雄氏だった。
「なかなかさかんなようですね。相撲が――」と私は、こんなふうに松浦さんに話しかけてみた。
「ええ、生徒たちも体格がよくなって、それだけ強くなりました」
「ところで、いまは生徒たちのために土俵がつくられているようですが、ここでおこなわれる『神事相撲』は四本柱も土俵もない相撲だそうですね。そうだとすると朝鮮の相撲とおなじで、ぼくにはそれがたいへんおもしろく思えるんですが、どうなんでしょうか」
「それはそうでしょう。相撲ももとはといえば、朝鮮からはいったものですからね。それはなにも相撲と限りません。昔はこの辺はみな朝鮮文化だったんですよ。わたしの『松浦』ということにしてもそうだと思います。わたしは出雲の出ですがね」と松浦さんは、別に珍しいことでもなんでもないといったふうにそう言った。
七尾から能登島へ
北斗七星信仰
唐戸山をあとにした私たちは、さらにまたちょっと北上し、そこから能登半島を斜めに横断して、七尾のほうへ出ることにした。私の持っていた資料からすると、羽咋の東南方にあたる志雄町をたずねなくてはならなかったが、すると私たちはもと来たほうへ少し戻らなくてはならなかったので、それでは時間がどうかということになったのだった。
私たちはこの日のうちに、田鶴浜町の白浜まで行く予定だった。そして、そのあいだにはまた鹿島町の曾禰(そね)古墳や、七尾市の院内勅使塚古墳などもみなくてはならなかったから、志雄町のほうは割愛することにした。
志雄町に関して私が持っていた資料というのは、「能登の古墳に『星座の点刻』/大陸文化の直行裏付け/高松塚より一〇〇年古い」という見出しの、一九七四年四月二十六日付け朝日新聞の切抜きだった。私たちがこうして能登を歩いている二ヵ月ほどまえのものだったが、「大陸文化の直行裏付け」というところがおもしろいし、また重要でもあるので、ちょっと長いけれどもそれをここにうつしておくことにする。
能登半島の一角、石川県羽咋郡志雄町寺山にある寺山古墳群の横穴古墳から二十五日、北斗七星などの星座の点刻や舟、魚の線刻などが発見された。石川県郷土資料館の吉岡康暢資料課長らが昨年夏と今春の二回、計五十日間をかけて調査していたもので、同古墳群が六世紀末期のものといわれているので、奈良県の高松塚より約百年も古い。このため考古学者らは「大陸文化が大和を経ずに直接能登半島へ影響したことを裏付けるのではないか」とみている。同資料館は二十六日、文化庁へ報告する。
能登半島は比較的古墳が多く、星座が発見された横穴古墳は金沢市の北約四十キロ、高さ約五十メートルの小山の中腹一帯に点在しており、近くには約百基の古墳がある。いずれも六世紀中ごろのものと推定される横穴古墳や円墳が点在している。このうちの一基の奥行き二・一メートル、幅二・四メートル、高さ一・三メートルの岩盤を長方形にくり抜いた天井の中央より少し奥にはっきり北斗七星とわかるもの、オリオン座と推定されるものなど、計五種の星座が刻みこまれていた。北斗七星の星群は、長いところで二十五センチほどの小さなもの。このほかの古墳の天井からも、星座の点刻があるものや舟と魚の線刻があるものがそれぞれ一基見つかった。
森浩一同志社大教授(考古学)の話 これまで渤海(ぼっかい)時代(八世紀)以前は、大陸文化が大和を経て能登へというコースで伝わったと考えられてきた。しかし、この発見で大陸の文化が朝鮮から直接能登へ影響したことを裏付ける資料として、大変興味深い。
要するに、古墳のなかに北斗七星の星座が描かれているというのは、その北斗七星に対する信仰、いうところの妙見信仰と関係があるということだったにちがいない。駒沢大学の渡辺三男氏は、「大内氏の始祖」と副題された「琳聖(りんしよう)太子の墳墓」のなかで、「北斗七星を祀る妙見信仰は、そのむかし、大内氏が朝鮮半島からもたらした習俗と伝えられている」とのべている。
これは百済聖明王の第三子といわれる琳聖太子を始祖とする大内氏が勢威を張っていた中国・九州地方のそれについていったものであるが、してみると能登にもやはり、そのような妙見信仰とともにやって来た大内氏のような豪族がいたものとみなくてはならない。
ただ、能登のばあいは、大内氏のように三十数代にもわたって圧倒的な勢威を張っていた者はなく、それらの豪族はいずれも散発的なものとしておわっているのが特徴的である。そのことは、これからみる古墳によってもわかるように思う。
私たちのクルマは県道を走ったり、そしてまた国道一五九号線に出たりして、七尾に近い鹿島町に向かっていた。だが、そこまで行ってふと気がついて地図をみると、いったい鹿島町というのはどういう地形になっているのか、私たちが目ざした曾禰古墳のある曾禰は、はるか後方となってしまっていた。
つまり、私たちが目ざした曾禰はもうとうに通りすぎてしまっていたのである。「やれやれ」というわけで、私たちはその曾禰古墳もまた割愛するよりほかなかった。だいたい、どうして曾禰古墳をみたかったかというと、橋本澄夫氏の「考古学から見た能登半島」にそれがこう書かれていたからである。
鹿島町曾禰古墳は時期的には金谷古墳より下ると見られ、横穴石室も明治末年に壊されていますが、出土遺物が豊富で、その中には工芸的にも秀れた一振りの大刀が含まれていることで知られています。
すなわち須恵器(台付長頸壺・坏・蓋・高坏・〓・(はぞう))、環頭大刀・金環・鉄斧頭等ですが、特に環頭大刀は長径約九糎(センチ)、短径約六糎の楕円形の環の中に相い対する二匹の竜が一コの玉を喰んでいる様子を図案化したもので、銅製で表室は鍍金(めっき)されています。この環頭の柄頭(つかがしら)を付した大刀を環刀ともいいますが、古くは高麗剣(こまつるぎ)といっているように、元来大陸や朝鮮半島で発達したものです。当品は朝鮮より渡来した帰化人などによって作られた国産品であろうと思われます。
このような金色に輝く柄頭をもった大刀ですから鞘の方も豪華で、鍍金された小紋帯で飾られています。本品は現在東京国立博物館に保管されていますが、非常によく似た柄頭が穴水町内浦の袖ケ畑古墳より出土しており、本誌表紙を飾っている前大峰氏の描かれたものがそれです。
ここに「本誌」とあるのは、能登文化財保護連絡協議会編『能登の文化財』第四集のことである。橋本氏の右の論文はそれにのったもので、私はこれをさきに、一人で能登半島を一周したとき、七尾市教育委員会をおとずれて入手したものだった。
それはともかく、橋本氏の書いているこれだけをみても、私たちがたずねるはずだった曾禰古墳がどういうものであったか、だいたいわかるような気がする。大豪族としての権威の象徴であった環頭大刀を持っていたもの、しかもそのような豪族はひとり曾禰古墳の被葬者と限らず、穴水町にもいたことがこれで知れる。
「当品は朝鮮より渡来した帰化人などによって作られた国産品であろうと思われます」とは持ってまわったようなことばであるが、かりにそれだったとしても、もちろん「朝鮮より渡来した」ものはひとりその環頭大刀をつくった者たちのみではない。それはこの日本に古墳時代とともに須恵器という朝鮮土器をもたらした工人たちともおなじで、彼らは曾禰古墳のような、古墳を墓制としている豪族に随伴して来た者たちにほかならなかったのである。
院内勅使塚古墳
鹿島町にはほかにまた亀塚古墳や、小田中親王塚古墳という新羅風の円墳もあって、私たちはそれをみてから七尾市下町の院内勅使塚古墳にいたった。みごとな横穴式石室で、大和・飛鳥の石舞台古墳ほどの大きさはないが、しかし内部の石組みの整いぐあいはむしろ、石舞台古墳のそれよりもすぐれていると思われた。
この古墳は昭和四十四年の測量で、後期古墳としては県下唯一の方形墳であることが明らかにされた。規模は一辺の長さ二三メートル、高さ三・五メートルで、墳丘の裾には幅六メートルの周溝をめぐらしている。
内部施設は全長一二メートルの横穴石室であるが、遺体を納めた玄室は長さ四・六メートル、最大幅二・五メートル、高さ一・九メートルを測る。本墳のように原形をよくとどめた石室は県内でも数少いだけに貴重な存在といえよう。六世紀後半ごろの豪族層が築いたものと推定される。
院内勅使塚古墳の前の立札であるが、いずれはこれも、邑知平野のこの辺に君臨していた豪族の墳墓の一つであったにちがいない。私たちはそのみごとな横穴石室から出たり入ったり、現代の技術をもってしても決してそれ以上のものはできないと思われる精巧な石組みを何度もみたりなでたりしては、しばらくそこでときをすごしたものであった。
須曾古墳
七尾市寄りの鹿島には、このほかにも石動山天平寺という一大仏教寺院跡があった。しかし、これは後日みることになるのでそのときにまわすとして、みた順序としてはこれも後日だったが、古墳をみたついでにそれをもう一つみておくことにする。別名を蝦夷穴古墳ともいう、能登島の須曾古墳である。まず、前記『石田県の歴史散歩』をみるとこうある。
ここでちょっと寄り道をして、七尾湾にうかぶ能登島へ渡ることにする。能登島へは、七尾港からフェリーで三〇分。県下では珍しい町営のバスにゆられて、島の北側にむかう。向田の村の南のはずれに、式内社の伊夜比〓(いやひめ)神社がある。越後の伊夜比古(いやひこ)神社(弥彦神社)とは名のとおり、ふかいつながりをもつ。ふたつのやしろはずいぶん離れているように見えるが、ここから対馬海流にのれば、まっすぐ越後につく。
古代の能登では、海が幹線だった。この潮の道は、越後にも対岸にも通じている。少し横道にそれるが、島の南岸の須曾(すそ)には、七尾南湾を見おろす標高六〇メートルの丘のうえに、蝦夷穴(えぞあな)古墳(県史跡)がある。七世紀前半の直径三〇メートルの古墳だが、ふたつの横穴式石室は、高句麗(こうくり)の古墳におどろくほど似ており、朝鮮半島と能登とのつながりを、あざやかに物語る。
私たち(このときは林泰一君と二人だけだったが)も七尾港からフェリーに乗って能登島に渡った。そして南岸沿いに突き出た岬の峠を一つ越すと、そこがもう須曾だった。
しずかな集落がたちならんでいる海辺で、ふと気がついてみると、そこにある一軒の雑貨店のブロック塀に「須曾古墳」という木札がさがっている。「ああ、ここだ」というわけで、私たちはそこの空地にライトバンのクルマをとめておき、さきにまずその雑貨店に寄って冷たいものを一本ずつ飲んだ。
あとでしるすように、この日は一九七四年の九月十八日だったが、まだ暑い季節は去っていなかった。雑貨店のおかみさんにきいてみると、古墳のあるところは集落の背後となっている山上で、そこからは山道を四〇〇メートルほど歩かなくてはならないという。
汗かきの私はまた一汗して下着を濡らさなくてはならなかったが、それよりも私はさいぜんから、そこの「須曾」という地名が何となく気になっていた。さきにみた、あるいはみそこなった曾禰古墳のある「曾禰」といい、それはいずれも新羅の原号「ソ」につうじるものだったからである。
金沢庄三郎氏によると新羅の「民族名ソ」ということになるが、もしそうだとすると、そこに高句麗系の古墳があるのはどういうことからだったろうか。あるいはもしかすると、新羅系のものが古くから渡来して住んでいたそこに、あとから高句麗系のものがかぶさったのであろうか。
私はなおもそんなことを考えながら山道を登って行ったが、思ったとおり私はすぐに汗びっしょりとなった。と、右手の畑の横に「須曾古墳」という立札があって、そこからはコンクリートの切り石をおいた石段となっていた。要所にある立札といい、そこにそんな石段がつくられているのなど、その古墳がかなりたいせつにされていることがよくわかった。
私たちは一気に赤松などの樹木におおわれたその長い、白い石段を登りつめたところ、そこに囲いがあって古墳があった。立札の指示どおりにまわって行ってみると、高句麗にある割石積みの横穴石室が二つ、開口されたままとなっている。東北側を雄穴といい南西側を雌穴といっているその前に立って振りかえってみると、樹木のあいだから七尾湾が一望のもとにすけて見えた。
「なるほどなあ」と、私はそれをみて思った。小高い山上から眼下に海を見晴るかすところ、それはおそらく死者が生前から望んでいた場所だったにちがいない。それから、千数百年がたっている。
写真家の林君はさっそくそこにカメラをすえて、じっくりと作業をはじめた。私もそこら辺をうろうろしながら何枚か撮ってきたが、いまその写真をみてもわかることは、県指定の史跡となっているにもかかわらず、その保存は決していいとはいえない。
現場で林君とも話し合ったものだが、もう十年もすれば、この古墳も跡形なくなってしまうにちがいない。登り道に切り石の石段をつくったりしたわりには、そこに立ててある「須曾蝦夷穴古墳解説」板も粗末なものだった。「構造上の特色」として、それにはこう書かれている。
一、二つの墳丘に同方向に向いている二つの横穴石室が作られている。
二、壁は割石積みで(玄武岩質)〓築(せんちく)のようにみえる。
三、天井の作り方に四壁が内側にせり出して、隅の所は三角状持ち送り式に似た手法が用いられている。
四、普通の横穴石室と違って、奥行きが間口に比して短い形をしている。
五、玄室の外に前室とみるべきものがついている。
須曾古墳のごとく平面な石室はわが国では珍らしいもので、出雲や対馬にいくつかの例をみるのみである。構造上からは三国時代の高句麗(こうくり)式とみられ、土器の上からは一統時代の新羅式と思われる。
高句麗人が北陸の海岸に漂着した話は『日本書紀』によれば欽明天皇三〇年(AD五六九)、敏達天皇二年(AD五七三)をはじめ少くない。北朝鮮から東満洲から北陸の海岸、能登の海辺に来た者の多かったのは、朝鮮半島の東側を南流している海流と、対馬の方から能登の方へ流れている海流を利用して容易に渡来できた為と思う。
それで新羅に統一された高句麗の遺民が、能登島に高句麗式の墳墓を営んだとみて差しつかえないであろう。果してそうであれば、高句麗滅亡後さほど経っていないであろうから、この古墳は凡そ西暦七世紀後半(今から約一二〇〇年以前)に築かれたものと見てよいであろう。
この「解説」板をつくって立てたのは、能登島町教育委員会と能登島町文化財保護委員会とであるが、「解説」そのものとしては「『九学会調査資料』より」となっている。「九学会」とはどういうものか私にはよくわからないけれども、その「解説」はだいたいこれでいいのではないかと思う。
重層する二つの文化
しかしながらちょっと気になることといえば、この須曾古墳の造営をしきりと高句麗の滅亡に結びつけていることである。「それで新羅に統一された高句麗の遺民が、能登島に高句麗式の古墳を営んだとみて差しつかえないであろう」というのであるが、しかしそれはなにも「高句麗の遺民」とは限らないはずである。
たとえば、いま私が住んでいる東京都調布市近くの狛江には高句麗系のそれである亀塚古墳があるが、これは六世紀はじめのものであることがはっきりしている。高句麗が亡びる七世紀後半よりはるか以前、すでに高句麗からはそのような古墳を造営する豪族が、この関東の地にまで渡来していたということなのである。
なぜ私はあえてこんなことをいわなくてはならないかというと、この須曾古墳を調査した九学会の人々の頭には対馬海流による漂着者か、もしくは高句麗が亡びたのちの遺民、すなわちそんな亡命者でなくては、そのような高句麗からの渡来はないという「思想」があると思われるからである。どんな思想であろうとそれは各人の自由であるかもしれないが、しかしそれでは事実に合わないことがあるから困る。
だいたい須曾古墳は、「出土した須恵器などから終末期(七世紀後半)に近い古墳と考えられるが、ここに葬られた有力者が高句麗出身とも考えられ、古代朝鮮と能登との交流を物語る貴重な記念物といえよう」と『能登島の文化財』にもあるように、それはそうかもしれない。しかしそれだからといって、それを高句麗滅亡後に渡来したものとし、その遺民にのみ結びつけていいものかどうか。
七世紀後半というと、六五〇年以後のことになるが、高句麗が亡びたのは六六八年である。その遺民がただちにこの能登島へやって来たとしても、はたして須曾古墳がその彼らによって造営されたものかどうか。
何度もいうようにそれであってもいいが、しかし能登半島における高句麗系の遺跡は、なにも七世紀以後とみられるその須曾古墳だけではないのである。
これからみるように、あるいはまた須曾古墳が「構造上から三国時代の高句麗式とみられ、土器の上からは一統時代の新羅式と思われる」とあるように、一口にいうと能登の古代文化は、ずっと以前から高句麗系と新羅系のそれが重なり合ったものなのである。
熊木は高麗来だった
白比古神社
はなしをさきに戻して、鹿島町をへて七尾市下町の院内勅使塚古墳でしばらくときをすごした私たちは、それから一路まっすぐ国道一五九号線を走って、七尾湾沿いの田鶴浜町の白浜に向かった。朝からずいぶん走りまわったもので、そこまでくるともう日暮れてしまって、あたりが暗くなりはじめていた。
国道を走っているうちに、白浜というところはすぐにわかった。「白浜」としたバスの停留所があったからである。
さらにみると、その左手に神社の鳥居も見える。クルマからおりて、大きな古墳のようにもみえる小山の麓のそこまで行ってみると、それはやはり白比古神社となっていた。
「なるほどねえ」と、白浜のそれが白比古神社であることがわかると、鄭詔文は私が手にしていた資料に目をやって、あらためてまた感嘆したように言った。「みなぴたりぴたり、そのものだねえ。きみはいったい、それをどこで手に入れたんだい」
「まあ、それは内緒だ。一つは、資料とのたたかいだからね」と私はそう言って笑ったが、それは松本清張氏から私がもらい受けた今村鞆氏の『朝鮮の国名に因める名詞考』だった。それにこうある。
白浜(しらはま) (能登・石川県)
能登国鹿島郡田鶴浜の西に隣る。『延喜式』白比古神社此の地に在り。『神祇志料』白比古は新羅神の謂にや。白浜、今金崎村と改称す。
その「金崎村」はさらにまたいま田鶴浜町に合併となっているが、そこが「白浜」であり「金崎村」であったということも、私にはなかなかおもしろいことに思われた。新井白石は「上古の評言のありし儘(まま)に猶今(なおいま)も伝われるは、歌詞と地名との二つなり」といっているが、その歌詞はともかくとして、地名というものはいろいろと変えられることがあっても、なおまだどこかに本来のそれをのこすものとみえる。
というのは、白浜の「白(しら)」とは新羅の斯羅(しら)であり、金崎村の「金」は新羅の国姓「金」であったからである。しかし、それが田鶴浜町となってしまっては、もうしようがない。古い文献によってしか、その過去はわからないのである。
なお、白比古神社について『石川県鹿島郡誌』のそれをみると、こういうことが書かれている。「白比古神、……芦韋穣い一条の流れを通じ上田窪田を作り大いに土工を起し庶民生計の途を拓き給い遂に此土に薨ず、郷民其の恩沢を慕い宮殿を建て地名を志良山と名付けたりと、実に当社の起源なり」
してみると、いまの白比古神社はその「宮殿」の跡ということになるが、「白比古神」とはいうまでもなく白比〓(しらひめ)(姫)に対する白比古(彦)ということで、斯羅=新羅彦(男)ということでもある。しかしその神社はいまはみるかげもなく、荒れはてたままとなっていた。「白比古神社」という大きな扁額だけが、古びたままの社殿にかかっているだけだった。
田鶴浜町・白浜の白比古神社でもうあたりはすっかり暗くなってしまったので、私たちはそこから七尾のほうへちょっと引き返したところにある和倉温泉の「田中屋」なるところへはいって一泊し、翌日はまた白浜の白比古神社をへて、中島町に向かった。中島町は白浜の田鶴浜町とはとなり合った町で、白浜からはすぐ近くだった。
途中、小さな岬の突端にある唐島(からしま)に寄って、そこにある唐島神社もみた。この唐島も各地にたくさんある唐がそれであるように、もとは韓島(からしま)だったにちがいなかったが、それはどちらでもよかった。能登でそんなものまでいちいち詮索するとしたら、もうきりがないからである。
熊来(くまき)指して
中島町はもと熊木郷だったところで、一九五四年に各村合併となって中島町となるまでは、ここに熊木村というのもあった。いまもそこを流れている川は熊木川であるが、私がこの熊木村のことを知ったのは数年前のことで、東京のある出版社で私の本を何冊かつくってくれている、編集者の熊木勇次氏を知ったことからだった。
いまいった仕事をつうじて私は熊木さんと親しくなり、ある日、私はなんとなくこんなことを言ったものだった。
「それはそうと、あなたの熊木というのはおもしろい姓ですね。生まれはどこですか」
「生まれは越中の高岡ですが、もとは能登の熊木村だそうですから、それで熊木となったのでしょう」
「へえ、熊木村ですか。するとそのもとのもとは高麗(こ ま)、すなわち高句麗から来たということの高麗来(こまき)だったかもしれませんよ」
「ぼくは先祖が熊狩りでもしていたからかと思ったんですが、そうですかね」
もちろん、半分は冗談だった。それだったから熊木さんも、「そうですかね」と言って笑ったものだった。
だが、私はこうしていよいよ能登をまわることになって調べてみると、それは決してただの冗談ではなかったことがわかってきた。「おやおや、これは――」と私は思ったが、たとえば、『万葉集』の大伴家持の歌にこういうのがある。
香島(かしま)より熊来(くまき)を指して漕ぐ船の 揖(かじ)取る間なく都し思ほゆ
これは七四八年の天平二十年、越中守だった大伴家持が「能登の郡、香島の津より発船(ふなだち)して、熊来の村をさして往きし時作れる歌」の一つで、ここにうたわれている「熊来」とはいま中島町となっている熊木郷・熊木村のことで、「高麗来」まではあと一息というところである。
そこでこんどは、『石川県鹿島郡誌』をみると、そこに「熊淵」というところの説明があってこうある。
熊淵。
往古此辺に荒熊栖み居て人を害す。乃ち阿良加志比古神、少彦名神協力して退治し給えりとて、かく名付けたりと。説に曰く、熊淵は、「高麗(こ ま)ブチ」の転訛せしものならんか。按ずるに鎮守祭神阿良加志比古なる語源は抑も高麗語に出ず。而も本邦には稀有の神名にして、邇くは本郡熊木村に久麻加布都阿良加志比古神社あり、御神体(国宝)は高麗人の服装をなせる木像とか。惟うに熊木村の出所を詳かにせざれども、或は高麗来の義より出でしにあらずや。要するに熊木と云う熊淵と云う、何れも語源の高麗に関係ありと見るは敢て附会の妄説にあらずや。
なんともはや、「ひょうたんから駒が出た」とはこのことで、この「駒(こま)」にしてもそのもとは「高麗(こ ま)」から出たことを考えると、まさにどうも、と思わないわけにはゆかない。「往古此辺に荒熊栖(す)み居て人を害す。乃(すなわ)ち阿良(あら)加志比古神、少彦名神協力して退治し給えりとて」とはどういうことか。これについてはあとでまたみることになるが、熊木とはやはり高麗来ということからきたもので、そのことは前記『石川県の歴史散歩』にもこう書かれている。
万葉集で有名な熊来(くまき)の入江に面した中島の町から、熊木川を二〇分ほどバスでさかのぼると、道ばたに一六五〇(慶安三)年にたてられた両部鳥居(りようぶとりい)が見える。ここが『延喜式』に見える久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこ)神社。えらく長い社号だが、久麻はコマ、つまり高句麗に通ずる。古代の渡来人の足跡を物語るやしろとみてよい。
本殿の奥にしずまる木造久麻加夫都阿良加志比古神坐像(重文)は中世初期のものだが、朝鮮風の珍しい神像。いかにもコマの神にふさわしい。拝殿の鎌倉末期の狛犬(こまいぬ)、薬師堂の平安末ごろの木造薬師如来坐像、一二八三(弘安六)年の県下最古の棟札など、このやしろには見るべきものが多い。
ここまでくるともうすっかり底がわれたようなものであるが、私たちが中島町へ向かっていたのは、この久麻加夫都阿良加志比古神社という長い名のそれをたずねるためだったのである。なお、『石川県鹿島郡誌』によってその祭神をみるとこうなっている。
社伝に拠れば祭神は熊木郷(中島、小牧、長浦、浜田、上町、宮前、横田、外原、山戸田、瀬嵐、横見、谷内、別所、深浦、外、田岸)の開発に尽力し給いし阿良加志比古神、都奴加阿良斯止神を祭る。延喜式内社にして、神亀三年の棟札には「正一位熊甲大明神本地薬師如来」とあり。
ついでまた、久麻加夫都阿良加志比古神社が発行した『――由来』をみると、それはこうなっている。
熊甲(くまかぶと)、詳しくは久麻加夫都阿良加志比古神社と称して、御祭神は阿良加志比古神(あらかしひこのかみ)、都奴加阿良斯止神(つぬがあらしとのかみ)の二柱をお祀(まつ)りしてあります。『日本書紀』によりますと、この二柱の神は韓国(新羅)の王子で崇神天皇の御代(二〇〇〇年以上前)当時の笥飯浦(けひうら)(現敦賀港)に上陸され、今の鎮座地方を平定されて守護神と祀られたのであります。
「(二〇〇〇年以上前)」とはまちがいであるが、ここにいう都奴加阿良斯止とは、さきの越前(「気比神社にて」の項)でみた都怒我阿羅斯等とおなじものであることはいうまでもない。阿良加志比古にしてもそれで、これはいずれものち新羅や百済に吸収された古代南部朝鮮の小国家安羅(阿羅・阿良)から来たものだということをその名にのこしたものなのである。
すると、どういうことになるか。熊木が熊来であり、高麗来であることはさきにみたとおりである。久麻加夫都阿良加志比古神社の「久麻はコマ、つまり高句麗に通ずる」ものであることもいまみたとおりで、要するに、高句麗のそれは「久麻加夫都――」という神社名にしかいまはのこされていないが、しかしこの神社は高句麗と新羅とのそれが重なり合ったものなのである。
どちらがさきに渡来していたものであったかというと、それは長い神社名のとおり高句麗系のものがさきで、新羅系のものがそこへ重なったものと私は思うが、そのことはさきに引いた『石川県鹿島郡誌』にある伝承をみてもわかるように思う。「往古此辺に荒熊栖み居て人を害す。乃ち阿良加志比古神、少彦名神協力して退治し給えりとて」うんぬんがそれである。
「荒熊栖み居て」というその荒熊が荒っぽい動物の熊ではないということ、すなわち高句麗の高麗であるということは、これまでにみてきたとおりである。したがって右の伝承は先住の高句麗系の渡来人と、後住の新羅系のそれとが対立、または融合したことを語り伝えたものではないかと思うが、しかしそれはどちらがさきであってもよい。では、次の歌はどうであろうか。
梯立(はしだて)の熊来(くまき)のやらに新羅(しらぎ)斧堕(おのおと)し入れわし 懸けて懸けて勿(な)泣かしそね浮きいずるやと見むわし
『万葉集』にある「能登国歌」の一つである。これにはいろいろな解釈や解説があるが、しかしこれにしてもまずはっきりといえることは、ここにも熊来の高麗来と新羅とが重層しているということである。
なおまた『万葉集』には、「能登国歌」としてこういうのもある。
梯立(はしだて)の熊来酒屋(くまきさかや)に真罵(まぬ)らる奴(やつこ)わし 誘い立て率(い)て来なましを真罵らる奴わし
これでみると現在の中島町は、ここも過疎現象がすすんでいるとみえて、風光はよいかわりに、どこかがらんとした感じのところだったが、往古は能登の中心地の一つであったらしく、「酒屋」などもあったりして、なかなかの賑わいだったらしい。それは「能登国歌」三首のうち、二首までが熊来をうたったものであり、もう一首にしても「加島嶺(かしまね)の――」と、鹿島郡の山をうたったものであることからもわかる。
久麻加夫都阿良加志比古神社は、どこにでもあるふつうの神社のそれとおなじだった。神殿と薬師堂とがならんでいて、そこに薬師如来坐像があるところなど、いわゆる神仏習合のあとがまだ色濃くのこっていたが、しかしそれにしても、日本の神社として別に珍しいことではなかった。
朝鮮の道服を着た神様
私たちはちょうど神社に居合わせた宮司の清水直記氏と会うことができたが、この清水さんはとてもさばけた気さくな人だった。清水さんは、それぞれ名刺をさしだした私たちがみな朝鮮人であることを知ると、まず開口一番こんなふうに言った。
「わたしは神主という立場があるのでなんですが、しかしはっきりと言ってしまえば、この神社の神様は朝鮮からいらした神様です。わたしはさいきん韓国へ行って来ましたがね、向こうでその祭りをみたところ、何とこちらの祭りとそっくりおなじものでしたよ」
「神主の立場」とはどこかで聞いたことがあるので思いだしたが、それは白山・金剣宮の宮司守部伍氏が言ったのとおなじことばだった。しかしこちらのばあいは「立場」もなにも、神社発行の『――由来』にもその祭神は「韓国(新羅)の王子」うんぬんとはっきりある。
なにしろ遠い昔のことだったので、清水さんはうっかり忘れていたのかもしれなかった。で、私はそのことを言ってみると、
「ああ、そうですか。そうでしたね」と、清水さんは言った。
「あのう、こう言ってはたいへんおそれ多いですが、それでは一つ、朝鮮風の神像というその御神体を、わたしたちに拝ませていただけないでしょうか」
横から、鄭詔文がいかにも「おそるおそる」という調子で言った。私たちが久麻加夫都阿良加志比古神社(どうも長い)をたずねた目的の一つは、それだった。「高麗人の服装をなせる神像」「朝鮮風の珍しい神像」がどういうものか、私たちはぜひ一目みたいものだと思っていたのである。
しかし神体となっているものを、そうかんたんにみせてもらうことができるだろうか。それで鄭詔文などは、「なんとしてでも、宮司がたとえなんといおうと、それをみせてもらわんことにはわしは帰らんぞ」と息まいていたものだったが、それがいまは「おそるおそる」「拝ませていただけないでしょうか」となったのである。
さて、どういう返事がかえってくるか、一瞬、私たちは息をのんだが、しかしあっさりしたものであった。
「ああ、いいですよ。本来ならとてもですが、みなさんは朝鮮の方ですし、それにせっかく遠いところからおいでになったんですから……」と清水さんはそう言って、私たちを本殿のほうへつれて行った。
この日本で朝鮮人であることがプラスとなったのは、おそらくこれがはじめてではなかったかと思うが、清水さんは拝殿から神殿の階段をのぼり、神体がおさまっている厨子(ずし)の前をふさいでいた幕を引きはらい、さらにその厨子の扉を開いた。さすがに私たちはちょっと緊張したが、しかし、「拝ませていただけないでしょうか」などともっともらしく言っておきながら、本気になってそれを拝んだものは、宮司の清水さんのほか、誰一人いなかった。
まことに無礼至極なものたちばかりだったが、一つはその神体が私たちの目をみはらせるものでもあったからだった。おどろいたことに、ほんとうにそれは朝鮮の道服と冠帽とをつけた木像であった。冠帽には左右に剣先のようなものが突き出ていたはずだが、と私たちがいうと、もとはあったけれども、いまはそれがなくなってしまっているという。
それで清水さんとはまた対話がはじまって、誰が言いだしたかは忘れたが、私たちのうちの一人が「おそるおそる」またきいた。
「あのう、写真を撮(と)ってもいいでしょうか」
「ええ、いいでしょう、どうぞ」
そこで私たちはさらにまた無礼至極にも、その神体にカメラを向けてパチパチやりだした。暗くて私のカメラではとてもダメだと思ったが、でもシャッターを押しておいたところ、それが写っている。阿良加志比古神のご加護であったかもしれない!
私たちは本殿を出てから、こんどは社務所ともなっている清水さん宅にあがり込んで、茶をごちそうになりながら話した。
「朝鮮の道服を着た神様とはね」と、考古学者の李進煕はまだ感嘆したように言っていたが、私もそれには感動しないではいられなかった。神像は朝鮮の道教の影響のもとにできたもののようだったが、それよりも私には、その神像が「中世初期」のものだというのがおどろきだった。
ということは「中世初期」のそのころ、熊木郷にいた首長層とでもいうべき者たちは、まだそんな服装をしていたということなのである。日本の神、神道とはいったいなにか、そんなことまで私たちは考えさせられないではいられなかった。
「どうです、みなさん」と清水さんは、そろそろ腰をあげなくてはと思っていた私たちに向かって言った。「この神社の祭礼は九月二十日ですが、よかったらそのときまた来てください。この祭りはみなさんにとっても、なかなかおもしろいもののはずですよ」
そして清水さんは、一名を「お熊甲(くまかぶと)祭り」ともいっているそれについてまたいろいろ話してくれた。
初老となっている人に向かってこんなふうに言っては失礼かもしれないが、清水さんはたいへん人なつっこい人だった。それだったから、私たちはその神体をもかんたんにみせてもらうことができたのである。
穴水(あなみず)をへて珠洲(すず)へ
奥能登の神々
私たちのうち新潟まで帰る林君のほかは、みな京都で小季刊誌『日本のなかの朝鮮文化』のための用事があったので、この日はもうそこだけで帰途につかなくてはならなかった。鄭詔文はしきりと、朝鮮土器ともいわれた須恵器の直系である珠洲焼の発祥地である珠洲まで行ってみたいと言っていたし、私もなんとかそうしたかったが、しかし能登半島の先端となっているそこまでは、とても時間のやりくりがつかなかった。それでしかたなく帰途についたが、珠洲まで行けなかったかわりだったかどうか、私たちのあいだでは帰りのそのクルマのなかで、急に一つの相談がまとまった。二ヵ月ほどのちとなっていた、九月二十日にとりおこなわれるという久麻加夫都阿良加志比古神社の祭りをみにこようではないか、ということだった。
「この祭りはみなさんにとっても……」と言った宮司の清水さんのことばがそれぞれの胸にのこっていたからにちがいなかったが、しかも私たちの相談はさらにふくらんで、『日本のなかの朝鮮文化』の座談会もそのとき現地でやろうではないか、ということになった。
小季刊誌『日本のなかの朝鮮文化』はいま二十三号まで出たところであるが、これは創刊号からつづけられている座談会がハシラの一つとなっており、ときには対馬などの現地まで出かけて行って、その地のいろいろな遺跡などみておこなうというのも、一つの特色となっていた。出席者もいつものレギュラーである京都大学の上田正昭氏や林屋辰三郎氏を中心にして、とそれもきまった。
それからさらにまた、何度かの打ち合わせや連絡があったことはいうまでもない。そのあいだに、私のこの紀行を本にまとめてくれている講談社の阿部英雄氏も、同社写真部の人たちといっしょに来て加わることになった。
それで九月となり、私はさらにまた越中(富山県)のほうをもう一度みてまわらなくてはならなかったから、まず十六日に富山で新潟の林泰一君と落ち合って、あちこちと歩きまわった。そして十八日は七尾から能登島へ渡って一泊し、翌十九日、午前六時出航だったかの第一便のフェリーで七尾に戻った。さきに書いた能登島の須曾蝦夷穴古墳をみたのは、このときのことだったのである。
東京や京都からやってくる一行とは、夜、和倉温泉の「田中屋」で合流することになっていたので、まだ午前六時すぎという時間に七尾に戻った私と林君とは、一路、まっすぐ珠洲のほうへ向かってクルマを走らせた。いわゆる奥能登で、前記『石川県の歴史散歩』をみるとこうある。
「佐渡おけさ」の歌詞『佐渡は四十九里』は、越後から佐渡への距離ではなく能登からの道のりだ。ひとむかし前には、半島の先端へいくと新潟局のテレビがはいっていた。この能登半島の北半を奥能登という。大部分が鳳至(ふげし)郡、半島の先端部が珠洲(すず)郡。人びとは、この奥能登のことを“さいはて”の秘境とよぶ。だが、奥能登へいくと、コマシヒコ・ミマナヒコ・ミマナヒメなど、朝鮮半島系の神々が多い。
このまえ来た、そしてあすの二十日また行くことになっている中島町をすぎると、間もなく穴水だった。私はこれよりさき一人で能登を一周したとき、穴水という地名がおもしろかったので、その穴水町の教育委員会をたずねたことがあった。穴水とはなにも穴ぼこから水が湧いているとか、また穴に水が溜まっているから穴水となったものではないはずだった。これも古代南部朝鮮の小国家であった安羅(あら)が安那(あな)・安耶(あや)、または阿羅・阿那・阿耶でもあったことからきたものにちがいなかった。
ついでにいえば、能登には中島町の西方に羽咋郡富来(とぎ)町というのがある。九州の渡来人にいまもその姓を渡来(とらい)としているものがある例からすると、これなども富来(とらい)(渡来)ともよめなくはない。この富来もさきに一人で来たとき行ってみたけれども、ここはもと荒木郷だったところで、いまも字名に荒木があり、荒木浦、荒木隧道というのもあった。
この荒木にしても穴水や熊木(高麗来)とおなじで、安羅、すなわち安羅来(あらき)ということからきたものではなかったかと思う。しかしさきにも書いたように、そんなことまでいちいち詮索していてはきりがないのである。
穴水町の教育委員会では社会教育課長の高利国氏ほかと会って話したが、その町役場のすぐ前にある辺津(へつ)比古神社の祭神が美麻那(みまな)(これまた日本では古代南部朝鮮の小国家加耶・加羅を「任那(みまな)」といったことからきている)比古であるといって、高さんはまことにたんたんとしたものだった。
「それだけではありません」と、高さんはさらにまたつづけて言った。
「この町の岩車というところに奈古司神社というのがありますが、これも祭神はたしか美麻那比古か比〓だったと思います。さらにもっといえば、加賀の白山だって朝鮮からの神様ですよ」
草むす珠洲の古窯跡
七尾からクルマをとばして約三時間、珠洲市についたのは午前十時近くになってからだった。私と林君とはまだ朝食もとっていなかったが、さきにまず市の教育委員会をたずねた。そして社会教育課長の落合外吉氏や、市文化財専門委員の間谷庄太郎氏たちに会っていろいろと聞くとともに、立派な本となっている『珠洲市の文化財』をもらい受けたり、『珠洲市十年史』のある部分をコピーしてもらったりした。
珠洲市は一九五四年に周辺の町村が合併して市制となったものだったが、人口はいまでは三万に足らなくなっているとのことだった。みたところ町なかはなかなかのにぎわいだったけれども、ここも過疎化がすすんでいて、へたすると、市からまた町に逆戻りしなくてはならない状態となっていた。
しかしながら、いまは北陸が裏日本といわれているけれども、かつての古代はこちらが表日本だったその能登半島の最先端である珠洲は、有名な珠洲古窯を持ちだすまでもなく、古代文化史上ではたくさんのすぐれた遺跡・遺物をのこしていた。『珠洲市十年史』にある「珠洲地方の古墳文化」をみても、それはこういうぐあいとなっている。
珠洲地方における古墳文化を解明する遺跡や遺物はどのようであろうか。まず、この時代に使われた土器である土師器は、宝立・上戸・飯山・直・正院・蛸島・三崎などの主として内浦方面のいたるところの畑地などの表面に採集することができるし、須恵器は宝立町春日野地区内の大畠古墳や谷崎横穴古墳をはじめ、同南黒丸・若山町鈴内・上戸町寺社の横穴古墳の中から発見され、そのほか内浦方面の畑や水田の中からも破片が採取される。
古墳では高塚古墳は宝立町春日野大畠及び上戸町寺社永禅寺山にある数基の円墳がそうであり、横穴古墳は、宝立町鵜島・同南黒丸・同春日野・上戸町寺社・若山町出田・同鈴内・同経念・岩坂町・熊谷町・野々江町・正院町岡田・同飯塚の各地方に分布しており、現在百以上のものが数えられている。
横穴古墳については今までのところ詳細な発掘調査が行なわれたものはないが、その中には、横穴の刳り方の手法に特徴をみられるものや、壁画、彩色を施されたと思われるものもある。
ここにみられる「宝立町春日野地区内の大畠古墳や谷崎横穴古墳」はさきにみている斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」にそれとされているものでもあるが、この谷崎(たんざき)横穴古墳から出土した須恵器の子持有台壺は『珠洲市の文化財』に写真がのっている。私はその写真をみることしかできなかったが、その限りでも実にみごとなものであった。
要するに新羅・加耶の、朝鮮土器そのものだった。このような土器を、この地に渡来したものたちがつくったのか、あるいは朝鮮からの渡来時にたずさえて来たものか、それは実物を吟味してみないことにはわからないが、おそらく後者ではなかったかと私は思う。
それはともかくとして、珠洲市役所から出るとその山寄りに一つの神社がみえたので近寄ってみると、春日神社となっている。「ああ、これか」と私は思った。というのは、前記『石川県の歴史散歩』をみると、その春日神社に関連したことがこう書かれている。
高屋浦は、西に大きな岩島があって外浦海岸には珍しく、アイの風のかげにかくれる古くからの船だまりである。鎌倉初期には、もう“浦”として日本海海運の中継ぎ港の姿をみせ、近世には、避難港として藩の破船奉行がおかれた。
この村はずれの高台の薬師寺には、平安後期の木造薬師如来坐像が海を見おろす。一木彫成のおだやかな地方作。この仏のことを“刀禰の薬師”とよぶ。能登の浦々にはいまも刀禰(とね)姓の旧家が多い。もとより古代から中世にかけて、浦の支配をまかされた村長(むらおさ)の流れをくむ。中世には特権を利用して漁業権をおさえ、船主となり、同時に名主(みようしゆ)として、海ぞいのせまい棚田と浦人を支配した浦の長者だった。高屋浦の刀禰も、そのひとり。近世にはいっても十村として勢威をまもりぬいた。
高屋浦から四キロほど西の海辺に、「砂取節(すなとりぶし)」で知られる馬緤(まつなぎ)浦がある。鎮守の春日神社の古い随神像(ずいしんぞう)には、大永八(一五二八)年馬緤浦恒利(つねとし)名の名主秦恒利(はたのつねとし)の銘が残り、またこの一族に支えられた本光寺(曹洞宗)にも秦一族の寄進状が何通か残っている。秦氏はまぎれもない渡来人の姓だ。若狭(わかさ)と同じように、奥能登の浦の刀禰にも秦姓が多いのは、古代の奥能登が、朝鮮半島と交流が多かったことの証拠である。
新羅・加耶系の渡来人である秦氏族は日本全国いたるところにあって、九州や畿内はもちろんだが、それが能登半島先端の珠洲にもいたとは、私はこれまで知らなかったものだった。この秦氏族は九州や畿内、それから吉備にもいるそれと一つつながりのものなのかどうか、それはわからない。
私たちは市役所前の通りにあった小さな食堂が開いていたので、そこに入っておそくなった朝食をとった。そしてこれからもう少し、市内をまわってみようということになった。『珠洲市十年史』の「式内社」というのをみるとこう書かれている。
半島の先端部に位置する嶽信仰に基づく須須神社、帰化人系と考えられる古麻志比古神社、同じく渡来神の伝承をもつ加志波良比古神社がそれである。特に須須神社の祭神高倉彦神は、既に貞観十五年(八七三)従五位下から従五位上に神階が進められていることからみて、特に中央からその存在が認められていたのであろう。
「帰化人系と考えられる古麻志比古神社」の古麻志とはもちろん「高麗(こ ま)の(志はのという助詞)」ということであろうが、「須須神社の祭神高倉彦神」にしても、こうくら(高倉)こうくり(高句麗)とつうじるもので、これも高麗、すなわち高句麗のそれではなかったかと思う。奈良時代に造宮卿だった高麗福信が、のち高倉福信となったことからもそれはわかる。
こうしてみると、いまみた刀禰の秦氏といい、この珠洲にも新羅系の渡来人と、高句麗系のそれとが重なり合っていたのである。つまり能登はどこもかしこも、ほとんどがそれであった。
私たちは右の「式内社」のうち、「同じく渡来神の伝承をもつ」という加志波良比古神社をたずねあててみたが、これは宝立町柏原というところにあった。道すじに面した台地のうえに、古びた社(やしろ)が古びたままの姿でしずまっていた。しかし鳥居の前には「加志波良比古神社」とした立派な石柱がたっていて、鳥居の扁額にもはっきりそう書かれていた。
ついで私たちはおなじ宝立町の西方寺というところにあった、珠洲焼の古窯跡も行ってみた。雑草におおわれたそれをちょっと見たところでは、崖っぷちに掘られたただの穴のようにしかみえないが、その古窯跡はなかなか由緒深いもので、『珠洲市の文化財』をみるとこうなっている。
形状 畑地の斜面を利用して築かれた地下式「あな窯」である。
全長 一四・〇メートル
焚口幅 三・四メートル
高さ 一・一五メートル
傾斜 二八度
頂上部に煙穴を設ける。
右のように非常に大きな窯で、現在日本各地で発見されている須恵器の窯や、中世の六古窯とくらべても、全長に比して幅の広い特異な形態は注目に値する。
本窯跡は、ほとんど原形に近い状態で発見された唯一のものであるから、珠洲地方独特の陶器珠洲焼を焼いた窯として、考古学及び中世陶芸研究の資料として極めて重要な価値をもっている。
それにしては、その古窯跡は草ぼうぼうのなかに放置されたままだった。せめて柵ぐらいつくって、保護すべきではないであろうか。こういう文化財は一度破壊されたら、もう二度と元へは戻らないはずである。
祭りの鉦(かね)と太鼓
石動山の石塔
珠洲まではかなりの道のりだったが、それでも朝が早かったので、戻りはわりにゆうゆうとしたものだった。気がついてみると、北陸の能登もあたりの風光はすっかり、秋の色に染まっていた。
青緑の山々も紅葉が目立ち、ところどころ額縁のように開けている平地の稲田も、もう取り入れがすんでしまったものもあれば、まだ黄色い稲穂でびっしり埋まったままのものや、いま取り入れさいちゅうというのもある。私はそれらの景色を目にしながら、運転をしている林君にはわるかったけれども、クルマのなかでしばらく眠った。
目をさましてみると、いつの間にかまた中島町となっていた。時計をみると、三時をちょっとすぎている。
和倉温泉まではもうすぐで、まだ時間があったから、私たちは久麻加夫都阿良加志比古神社へ寄ってみることにした。祭りは明二十日だったが、それがどう準備されているのかも、ちょっとみたいと思ったのである。
久麻加夫都阿良加志比古神社の祭礼は、全町あげての祭りだとのことだったが、町なか(とはいってもほとんどが農村である)はこのまえ来たときと別に変わったところもなく、しんとなっているままだった。みなどこへ行っているのか、人通りもほとんどない。
「おやおや、提灯一つ出ていないとは、これはどうしたことかね」とそんなことを言いながら、宮前の神社まで行ってみると、そこはときならぬクルマのラッシュだった。どこからそうしてやって来たのか、どれもこれもみな露店商のクルマばかりだった。境内のなかでは早くも、それらの露店商の店開きがはじまっていた。
祭りから祭りへとそうしてわたり歩く露店商らしかったが、それをみて私ははじめて、「ああ、なるほど」とあすの祭りに対して納得がいった。みるとそこには、鄭詔文や李進煕たちも来ている。一足さきに着いたもので、上田正昭氏たちはあとから、和倉温泉の宿へまっすぐくることになっているという。
「きのう能登島へ渡って、今日は珠洲へ行って来たところだ」と言うと、「ああ、そうか。能登島の古墳は上田さんもみたいと言っていたから、あすの朝早く行ってみるとして、おれは珠洲まではついに行けずじまいだなあ。あさっては、それだけでみんなといっしょに帰らなくてはならんからね」と、鄭詔文は残念がった。
夜になって、和倉温泉の「田中屋」なるところにみんな合流してみると、たいへんにぎやかな一行となった。あすの祭りをみておこなわれることになっている座談会の出席者は上田氏と林屋辰三郎氏をはじめ、地元の考古学者である橋本澄夫氏と石川県郷土資料館資料課長の吉岡康暢氏、それに私と李進煕(司会)だったが、ほかにまた『日本のなかの朝鮮文化』編集部の松本良子さんたちもいたし、そこへさらにまた講談社編集部の阿部英雄氏や、同社写真部の人たちも加わっていたからである。
そして翌朝、このにぎやかな一行はクルマをつらねて、鹿島町の石動山へ向かって出発した。祭りとはいっても、それが本格的になるのは午後からとのことだったので、さきにそこをみてから、ということになったのだった。
それに石川県郷土資料館の吉岡さんによると、石動山天平寺跡のそこには新羅様式のものとみられる石塔があるとのことだったから、なおさらのことだった。石動山は「いするぎ山」ともよばれたもので、前記『石川県の歴史散歩』にこう書かれている。
石動山は能登と越中の国境にある標高五六五メートルの信仰の山。国道わきの登山口に、大きな道標が立っている。ここから約六キロの山道を登ると、山頂近くに人家がまばらに見えてくる。いまはすっかり過疎の見本のような高原だが、ここに石動寺(県史跡)とよばれる修験の拠点があった。
この山に寄せる信仰のもっとも古い姿は、式内社の伊須流岐比古(いするぎひこ)神社にあらわれているが、やがてこれに白山と同じ泰澄伝説が加わる。おそらく最初は白山系の天台寺院だったらしいが、中世には京都の仁和(にんな)寺を本寺とする真言寺院にかわる。
中世の末期からは“天平寺”という堂々たる寺号をとなえるが、国家が認めた由緒ある寺号ではあるまい。また石動山は、能登のものときめてかかる人も多いが、登山口や信仰の現状からみると、鹿島町はむしろ石動信仰の裏手にあたる。本来は越中に向かってひらかれ、富山湾を正面にしていた。
私たち一行は能登の山々を眼下にしながら、螺旋(らせん)階段のような山道を登って頂上に達してみると、そこにある素朴な石段のおかれた伊須流岐(支)比古神社のたたずまいもさることながら、その高原全体が一大寺院跡だった。あっちへ行ってもこっちへ行っても、そこには打ちすてられたような寺坊があり、まばらにある人家にしてももとはそんな寺坊の一つだったものらしかった。
吉田さんたちについて行ってみると、目ざす石塔はすぐわかったが、これも雑木と草むらのなかに打ちすてられたようなものとなっていた。いわゆる経塚のうえにおかれた塔で、そのような石塔のことにくわしい李進煕と鄭詔文とは一目みるなり、新羅様式のものだと言った。
石動山はいまみた『石川県の歴史散歩』に「おそらく最初は白山系の天台寺院だったらしい」とあったが、白山がしらやま(白山)すなわち新羅系のそれであったということは、さきの加賀(「白山とその起源」の項)でみたとおりである。さらにいうならば、「天台寺院だったらしい」というその天台宗にしても、これまた新羅系の最澄(さいちよう)によってはじめられた山岳仏教であるから、そこに新羅のものとみられる石塔があるのに別にふしぎはなかったかもしれない。
お熊甲(くまかぶと)祭り
石動山をおりた私たちの一行は、林屋さんと上田さんたちはまだそれをみていなかったので、さらにまた鹿島町の親王塚古墳や亀塚古墳から、七尾市下町の院内勅使塚古墳とみてまわった。そうしているうちに正午近くなったので、そこから中島町の久麻加夫都阿良加志比古神社へ向かった。
いよいよというわけだったが、神社のあたりはきのう来てみたときとはうってかわって、すっかり一変してしまっていた。露店が店をつらねていることはもとよりだったが、しかしその露店もよくみえないほどの人出だった。いったいこれだけの人がどこから集まって来たのか、ことに境内のなかはあふれるほどの人々でごった返していた。なるほど全町あげての祭りらしく、思い思いに着飾った人々がなおもあとを絶たず詰めかけている。
「老幼男女、歩けるものはみなくることになっています。ですから、この日は町じゅうの家がみな空っぽになるのです」と宮司の清水直記氏は言っていたが、まさにそのようであるらしかった。
私はそのテレビをみていないが、この祭りは昨一九七三年の九月十二日、フジテレビが「ふるさと紀行・能登の大幡祭り」として放映したことがある。そのときの番組を紹介した東京新聞の切抜きがここにあるので、まずこの祭りがどういうものであるか、それによってみておくことにしよう。
石川県鹿島郡中島町に古くから伝わる秋祭りが「お熊甲(くまかぶと)祭り」で、毎年九月二十日に行われるところから「二十日祭り」とも呼ばれている。
久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこ)神社を総社とあおぐ末社十九社の寄り合い祭りで、近郷近在からそれぞれの行列を仕立てて総社に参拝、さらにここから御旅所まで行列を続けるのである。
このお熊甲祭りには、昔から嫁選びと新妻の披露という性格も加わっていた。祭りの日、神前に氏子としての報告をすませ、嫁を娘の盛装で飾り、人々に無言の紹介をする。
「末社十九社」が「行列を仕立てて」とあるけれども、これはただの行列ではない。どれも赤い縦長の大幡(おおはた)(旗)を山車(だ し)に仕立てた行列で、それがいま境内いっぱい詰めかけている。先端にドボンゴという飾りをつけた長い、高い大幡である。
強い風でも吹いたらどうなるか、それがまず心配になるようなものである。その大幡のあるものには字が書かれていて、たとえば「久麻加夫都阿良加志比古神社」とその社号をしるしたものもあるが、なかには「天開万国歓」となかなか深遠なのもある。
「『天開いて万国歓(よろこ)ぶ』――あれはいいですね」と、林屋さんはそれをみてよろこんだ。上田さんはとみると、手帳を開いて老人たちのはなしをいっしょけんめいメモしている。
要するに、十九の末社がそのような大幡を押し立てて集まった祭りで、その山車のまわりにはそれを神輿(みこし)のようにして担ぐ、それぞれの末社から来た若い衆が群れている。こんな若い人たちがいまどきこんな農村の町にいたのかと思ってきいてみると、ほとんどは都会からその祭りのために帰って来たものだった。
まさに、郷村の祭りとはそうあるべきものだった。末社のなかに、小牧白山神社というのがあった。私はそれをただ見すごしていたものだったが、あとの座談会で私は中島町の「熊木はもと高麗来(こまき)だった」ということを話したところ、
「ええ、それはあの祭りに集まって来た末社の一つに小牧(こまき)社というのがあった、その小牧というところがあることからもわかりますね」と林屋さんは言った。
よみがえる古里の祭り
祭りには酒がつきもので別に珍しいものではなかったが、しかしここに集まった人たちのそれは一風変わっていた。私の見た限り、誰も盃やコップなどの容器を使ってそれを飲んだものはいない。みな瓶ごとの、ラッパ飲みだった。
一升瓶を持って歩きながら、目が合ったものは誰彼となく、それを対手の口に突きつけて飲ませる。私もあとの「御旅所」で、そうして飲まされたものだった。一面識もないものだったにもかかわらず、ありがたかった。
「ああいうふうに、口をつけ合って飲んだり飲ましたりすることで、あの人たちは友情や親愛の情をたしかめ合っているのですな」と李進煕は言ったが、なるほどと私も思った。というのは樽のばあいもそれだったからで、樽はさすがにラッパ飲みに適さなかったからか、なかにはビニールの管をとおしている愛敬のあるのもみえた。
さて、各末社の氏子総代たちが集まっていた本殿の神事がおわり、大幡を押し立てた山車の行列が、いよいよ「御旅所」への出発である。列の順序は総代たちがクジを引いてきめるとのことだったが、それがきまったらしい。急に、鉦(かね)や太鼓がにぎやかに鳴りだした。
威勢のいい若い衆たちによって、神輿のように担ぎあげられた大幡の山車は、何度も本殿に突っ込むようにしてそれをくりかえした。それは朝鮮の野辺送りの柩を担いだ人々がその家を出るときにするのとよく似ていて、つまりは名残りを惜しむということらしかった。
そうしてやっと鳥居をくぐって出て行くことになるが、その前には必ず鉦と太鼓とを叩くものたちが立った。
鉦はカン、カン、カンと木槌をもって打つ単調なものだったが、しかしそれを打ち鳴らすときの動作、というよりその踊りをみて私ははっとなった。鉦のリズムにしたがって、ついと足を開いてあげたかとみると、槌を振りあげた腕と体とが踊る。
しかもそうして踊っているのは、鉦や太鼓を打ち鳴らす者たちだけではなかった。猿田彦といった面をつけて扮装をこらしたものや、一杯きげんの老人たちもそうして踊っている。踊り方は、どれもおなじである。
「ああ、そうか」と私はそのときはじめて、「韓国でその祭りをみたところ、こちらの祭りとそっくりおなじものでしたよ」と宮司の清水さんの言ったことがよくわかったように思った。形はちょっと変わっているが、それはまさしく朝鮮の祭りとおなじものだった。
私は子どものころ、自分も参加してそうして踊ったことのある旧正月の火祭りや、秋の洞祭(ドンジエ)(村祭り)を思いださないではいられなかった。故国から離れて四十数年、遠い日の記憶だった。
「ああ、いいね。われわれも一つ来年はメグ(鉦)とジャング(太鼓)を持って来て、この祭りに参加するか」という声がしたのでみると、鄭詔文が頬を紅潮させてそこに立っている。
「そうだね。われわれもそうするか」と私も言ったが、すぐ目をそらした。どうしたことか、その目からは涙がながれ出てならなかったからである。
越 中
四隅突出型古墳のこと
越中富山からの便り
どうしたものか、と私はまよっていた。未知の地へ足を踏み入れるときはいつもそうであるが、越中(富山県)の場合はとくにそうだった。「越中(富山県)」と書くより、こちらの場合はどうしてか、そのまま重ねて越中富山としたほうがいいようだし、そのほうが私にも親しみやすいように思われるが、しかしとはいっても、私はこの越中富山になにかで親しんだことがあるというわけではなかった。
いまからすると二十数年前になるが、私は新日本文学会が催した文芸講演会なるものに派遣されて、たった一度だけ、越中の地を踏んだことがある。文字どおりたったの一度だけで、しかもあるところ(どこだったかは忘れてしまっている)で催された小さな講演会にちょっと参加しただけだったから、いわばこのときのそれは素通りのようなものでしかなかった。
かりにもしそうでなかったとしても、私はそのときはまだ、こんな古代文化遺跡紀行など書こうとは少しも思っていなかったから、要するにおなじことだったはずである。
こういうしだいだったので、私は越中をたずねるにはどうしたものか、と、まよわないわけにゆかなかった。ちょっとばかりの資料はまえから手元にあつめてあるが、しかし資料にしても、それだけではどうもおぼつかない。
私はさきに、愛知県の名古屋でおこなわれた陶芸家・加藤唐九郎氏のためのある集会によばれて、講演をしたことがあった。そこで私は林洋子さんという人から名刺をもらい、それを越中に関する資料といっしょに持っている。
その名刺はいまもここにあるが、これには林さんの愛知県春日井市の現住所のほかに、たぶん、そこは本籍地ではないかと思われる富山県魚津市の住所と電話番号とがペンで書かれている。つまり林さんは、北陸の越中を歩くときは「わたしが案内をしてあげましょう」ということで、その名刺を私にくれたのだった。
で、私もそのときは、「どうもありがとう。その節はどうぞよろしくお願いいたします」と言ってそれをもらっておいたのであるが、しかしいざとなって考えてみると、これはどうもちょっとぐあいがわるい。
なぜかというと、林さんはいま富山県魚津市に住んでいる人ならいいが、愛知県の春日井市からわざわざ、私のために北陸の越中まで来てもらうわけにはゆかないのである。そうなるとことが大きくなって、むしろいっそう私はどうしていいかわからなくなる。
そのほか、私は、『日本鋳直し』という大部の著書をおくってくれた富山地方鉄道の佐伯宗義氏から、このほど新たに開設された「立山黒部アルペンルート」を見にこないかと招かれていたので、「では一つこちらから――」とも思ったが、しかし考えてみるとこれもちょっとぐあいがわるい。人に招待されて、それを自分の仕事に利用するというのも気が引けるのである。
そこで私は考えた末、越中はあとまわしとし、五月十五日には寺泊の竹花村にあるという「新羅王の墓」の祭りもあったので、とりあえず佐渡・越後(新潟県)のほうからさきにまわってみることにした。ここなら、さきには佐渡に住んでいていまは新潟市に移っている前出の写真家林泰一君がいたし、それにまた、佐渡の長安寺には朝鮮渡来の梵鐘があったので、鄭詔文や李進煕もその鐘と「新羅王の墓」というのをみたいから、そこならいっしょに行ってもいいという。
ところが、よくしたものであった。そのつもりで私は佐渡行きの準備をしていたところ、そこへ越中富山市にある「北日本新聞社編集局文化部」とした大きな封書がとどけられてきた。開いてみると、同文化部の米沢保氏がだしてくれたものだった。
要するに、米沢氏は私のこの仕事に共感を持ってくれている一人で、「日本古代史像のベールが一枚々々はがれていく思いでいます」と、その手紙にこうある。「とくに今回は北陸路、一段と身近な問題として期待しています。越中の古代史はまだまだナゾが多く、今回の踏査で新たな発見があるものと、それを楽しみにしていますが、同封のコピーは、なにかのお役に立てばと思いお送りした次第です」
その「同封のコピー」は財団法人古代学協会京都事務所から発行されている『古代文化』一九六二年の第五号、三品彰英博士還暦記念号上の特集「わが古代における帰化氏族」中の米沢康氏の「古代北陸と帰化氏族」をコピーしたものであった。さっそく、目をとおしてみたこというまでもない。
「古代北陸と帰化氏族」
あとで知ったけれども、米沢康氏は北日本新聞にいる保氏の実兄であった。康氏の「古代北陸と帰化氏族」は、「古志は、高志ともされることがあるが、古代北陸を指す越(こし)の称の一つである」といい、「『新撰姓氏録』によれば古志連が見出される」として、それがこのように書かれている。
すなわち河内国および和泉国の諸蕃に古志連、文宿禰同祖、王仁之後也。
という、この古志連は『続日本紀』に見える高志連に他ならないであろうが、天平神護二年十二月乙酉条には、次のように記されている。
和泉国人外従五位下高志〓登若子麻呂等五十三人賜姓高志連。
さて、今井啓一博士はこの間の事情について、「王仁の子孫の者いつごろよりか越の国の史となり、越中=高志〓登と称し、のち河内は勿論、大和・和泉諸国にも繁衍し、そのうち和泉国人若子麻呂らが天平神護二年十二月、高志連を賜うたのであろう」と論ぜられているが、これには井上薫博士に反対説がある。井上博士によれば、高志の氏名の和訓は「タカシ」で、もともとそれは河内国大鳥郡の「高師の地、あるいは高師を含む高石を本拠としたと考えられる」というのである。……この際、想起されるのが『日本霊異記』の行基伝である。
時有沙弥行基、俗姓越史也、越後国頸城郡人也、母和泉国大鳥郡人蜂田薬師也(中巻第七)。
この所伝の含む誤りは、既にしばしば指摘されて来ている。行基の出身は、これを河内の高志氏とする所伝に信憑性(しんぴようせい)があろうし、越後にあった高志氏は、その姓が公であることからも別系とすべきであろう。が、問題はこのような異伝の生まれた背景である。
そして、最後にこうのべている。「叙上の検討から古志連は河内国を中心に分布したであろうが、その一族は越国(古代北陸)にも分布し、活躍するところがあったものと考えられる」「古代北陸の地に分布した帰化氏族の存在は、この地に着実な根を張ったものであったと言い得よう」
ちょっとむつかしくてよくわからないところがあるけれども、「うむ、なるほどなあ」と私は思った。有名な百済系渡来人である王仁(わに)系氏族の一つであった和泉(大阪府)の高志氏族とは別系ではあるが、越=高志国(古代北陸)に分布した高志氏族も、要するに河内(大阪府)における高志氏族からひろがって来たものではなかったかというのである。
問題は一方が高志(たかし)(高師)であり、一方は高志(こし)(古志=越)であるというところにあるようだが、それはともかくとして、私はこれで越中にも一つの手がかりができた。それで私は佐渡・越後をみてまわった帰り、同行の鄭詔文、李進煕ともども富山に立ち寄って、北日本新聞社に米沢保氏をたずねた。
やせぎすでおだやかな感じの人だった米沢さんは、よろこんで私たちを迎えてくれた。しかしこの日は私たちのほうの時間のつごうで、最近発見されて問題となっている呉羽丘陵の四隅突出型古墳に案内してもらい、それだけで次回を約してわかれた。
その次回は二ヵ月ほどがたってからだったが、そのあいだも米沢さんはいろいろな資料を送ってくれた。私のほうから「これこれについては――」とたのんだものもあれば、米沢さんのほうから、「これは――」ということで送ってくれたものもある。
つまりこうして、富山にいる米沢さんと私とのあいだにはたちまちのうちに一つの協力体制ができたわけであったが、次回のそのときは、私は新潟の林泰一君とも打ち合わせて、前夜のうちにそれぞれ富山に着いた。そして市内のスカイホテルというビジネスホテルに一泊し、翌日の朝、北日本新聞社に林君の運転するライトバンを乗りつけた。
もちろん、米沢さんとはあらかじめ連絡し合ったうえでのことだった。が、米沢さんは急にかたづけなくてはならない仕事ができて、十時までには終わるからちょっと待ってくれとのことだったので、そのあいだ私と林君とは、近くにあった富山城跡公園をぶらぶら歩いてみることにした。
すると、そこに佐藤美術館というこじんまりした美術館があって、入口の左右に二体の朝鮮石人像が置かれてあるのが見えた。文官・武官の立ち姿である朝鮮石人像とは、朝鮮では墳墓の守りとなっているものであるが、それがここでは美術館の守りのようなぐあいとなっている。
別に、珍しいものではなかった。日本でも東京国立博物館や根津美術館はじめ、あちこちでよく見られるものであるが、しかしそれがここ富山城跡公園のそこにまで「分布」していたとは、私は知らなかったものだった。
やがて午前十時すぎ、私たちは米沢さんといっしょになり、まず、さきに来たとき見せてもらったことのある呉羽丘陵の四隅突出型古墳からたずねることにした。林君ははじめて、ということもあったが、私もそれはもう一度みておきたいと思ったからである。
県庁や北日本新聞社などのある富山市内のそこから、クルマを西に向けて走らせると、まもなく神通川の大きな橋を渡ることになる。すると目の前は南北に長くのびている呉羽丘陵で、この辺一帯は呉羽丘陵県定公園となっている。
古墳時代の一大勢力圏
私たちはその呉羽丘陵を右手にしながら、さらにまだクルマを走らせつづけた。目ざす四隅突出型古墳はおなじ呉羽丘陵でも、そのさきの杉谷にあったからである。それまでのあいだ、ここで富山県歴史教育研究会編『富山県の歴史散歩』により、この呉羽丘陵が越中の富山にとってどのような位相を持つものであるかをみておくことにしたい。
わが富山の地は、北のかなたには渤海(ぼつかい)にゆかりをもつウラジオストック、北朝鮮・韓国の東海岸、東のかなたは武家政権の鎌倉・江戸そして東京、西の極には奈良・京都・大阪と、これらのアジア・日本をむすぶ中心に位(くらい)し、おのおのを有機的につらねる要(かなめ)にあたっている。
汽車の窓から送迎する村々の林は、扇頂丘陵の赤松か扇端の黒々とならぶ杉並の森で、六つの谷あいから吹きおろすフェーン(卓越風)にそなえていたるところ散居集落がみえる。
中央部にはなだらかな呉羽丘陵が帯状に細長く南北にのびて富山平野を二分し、古くから呉東・呉西とよびならわされた。呉東は、黒部・片貝・早月・常願寺・神通の五川の急流がくつわを並べ、このうち神通の流域は藩政期富山藩領であった。これに対して呉西は、庄川・小矢部川がひとつの扇状地を構成している。気候はともに多湿多雨多雪(年間一ミリ以上降雨一八三日)であるが、ひとびとの気質と民度を多少異にしてきた。しかし、百万県民は北陸の経済と産業の中心をほこりとし、広域圏をめざしているので呉東・呉西などむかしほど気にはしていない。
呉羽丘陵を境にした呉東と呉西とでは、「ひとびとの気質と民度を多少異にしてきた」とはどういうことか、私にはよくわからない。また、「むかしほど気にはしていない」というそれをあらためて知ろうとも思わないが、それより私としてちょっと気になったのは、その呉羽丘陵の呉羽、すなわちクレハのクレとはいったいどういうことか、ということだった。
これについてはあとでまたみることになるが、その呉羽丘陵の杉谷台地にある四隅突出型古墳は、さきに来てみたときと少しも変わりなくそこにあった。一見したところでは、それはただ樹木の生い茂った小さな丘、といったものでしかない。
だが、日本の古代史にとって、この古墳が発見されたことの意義は大きなものであった。そもそもこの古墳が発見されることになったのは、そこの杉谷台地一帯が国立富山医科大学の建設予定地となったことからだったが、まず、私が最初にそのことを知った一九七四年五月二日付けの朝日新聞・富山版は、「富山市に“ヒトデ型”大古墳/大和朝廷の圏外に?/三世紀末〜四世紀のもの」という見出しのもとにこう報じている。
富山市の西部にある杉谷古墳群の中にこれまで山陰・出雲地方にしか発見されていなかった四隅突出型(通称ヒトデ型)古墳があることが、富山市教委の調査でわかった。しかも、出雲地方で見つかったこの型の古墳とくらべて、二倍近くある大きなもの。富山市教委は古墳時代のごく初期に富山地方に大和朝廷の影響を受けない大勢力圏があったことを示すのではないかと注目している。
調査は、藤田富士夫同市教委文化財主事(二六)が中心になって二月末から進めていたが、四隅突出型とわかった古墳は、七基の古墳のうち南東部に位置するもの。周囲は二百メートル余。一辺約二十四メートル、高さ三メートルの主墳部にヒトデの足に当たる長さ十一メートルの突出が四隅にあり、その周りをみぞが囲んでいる。
四隅突出型古墳は出雲地方の島根県安来市西赤江町の曹洞宗仲仙寺の裏山で四十五年七月に発見されているだけ。当時調査にあたった山本清島根大教授らは(1)従来発見された山陰地方の古墳の中で最も古い(2)近畿地方に成立した大和朝廷の影響を全く受けない墳墓である――などと推定、出雲地方に大和政権成立前にかなりの勢力を有する集団とその文化があったのではないかと、歴史学界の論議を呼んでいる。
杉谷台地の四隅突出型古墳は、みぞの中から発見された数十片の土師器から、三世紀末から四世紀はじめにかけてできたものと推定されるが、これは、近畿地方に古墳ができ始めたとされる時代より半世紀ほど古く、安来市の仲仙寺古墳群とほぼ同時期。四隅突出型では、最古の古墳と判断できるという。
当然、この四隅突出型古墳の発見はいろいろな論議をよびおこした。ことはいわゆる大和文化の影響いかんということ、すなわち古墳文化は大和を中心として発達したというのがこれまでの定説となっていただけに、今後の正式発掘調査によって、その論議はもっとはっきりした深刻なものとなるにちがいない。
もっともそれだけにまた、この論議はうやむやのうちに消されてしまわないともかぎらない。そのような徴候は、すでにみえはじめてもいる。北日本新聞や朝日新聞・富山版がそれぞれ「古代史に大きな波紋」「古代史像変わるかも……」として、つづけて報じたその後の反響をみてもわかるように思う。
たとえば右両紙のそれによると、こんどの四隅突出型古墳の発見について、富山大学名誉教授(古代史)の高瀬重雄氏はこうのべている。
山陰から北陸にかけ独自の文化圏があった。大和朝廷の影響を受ける以前から、朝鮮半島を通じて大陸文化の来ていたことは、こんどの古墳の発見にかかわらずはっきりしていた。それが具体的な形で出てきたところに意義がある。
このことについては、出雲の仲仙寺ではじめて四隅突出型古墳を発掘した島根大学名誉教授(考古学)の山本清氏も、「大和朝廷が近畿地方から勢力を伸ばしはじめる四世紀中葉以前に出雲を中心にした一大勢力圏があり、富山を含めた越前、越中、越後もその勢力圏内にあった」とのべている。そしてなおまた、杉谷台地のそれが四隅突出型古墳であることを現地で確認した石川県郷土資料館資料課長(考古学)の吉岡康暢氏や、和洋女子大学教授(同)の寺村光晴氏も、以上の二氏とほぼ同意見であるという。
だが、これらの意見に対して、「大和朝廷成立以前に北陸地方に古墳を構築できるほどの権力を備えた集団はあり得ない」とする東京大学教授(日本史)の井上光貞氏は、「古墳形成は近畿地方を中心に発達したと考えるのが定説だ。この定説を修正するような有力な史料はまだない」といい、文化庁文化財調査官(考古学)の田中琢氏も、「出雲・仲仙寺古墳の時代相ははっきりしない」とのべている。この二人は、いわゆる中央権力に近い学者であるばかりか、その意見はどこか高飛車で、断定的なのが気になるところである。
しかし、なおまたついでにみれば、さきの能登(石川県)でみた(「七尾から能登島へ」の項)羽咋郡志雄町の寺山古墳の星座の点刻や舟、魚などの線刻画が、大和の高松塚壁画古墳より約百年も先行した「大陸文化の直行」を「裏づけ」たものであったとして、同志社大学教授(考古学)の森浩一氏はこうのべているという。
大和朝廷成立前に出雲・高志に、大文化圏があった、と考えられる。大陸文化が大和、出雲を経ずに能登、富山に直接影響した可能性もある。こんどの発見で古代史像が変わるかも知れない。
呉羽丘陵の杉谷台地で発見された四隅突出型古墳が大陸、すなわち朝鮮からのいわゆる「直行文化」であるかどうか、それは今後の正式発掘調査によって、いっそうはっきりするにちがいない。しかしそのためには、発掘当事者たちがこれまでの権力的な大和中心思想とその史観とにまどわされないだけの学問的態度が必要と思われるが、どうであろうか。
高瀬・高麗・白城
古代荘園遺跡
呉羽丘陵ではほかにまた、「県内最古の須恵器の窯跡」「呉羽窯業の発祥を証明」するというそんな窒跡も、四隅突出型古墳につづいて発見されていた。しかし私たちはそれはおいて、そこからすると西南方にあたる井波町に向かった。八乙女山を仰ぎ見る砺波(となみ)平野のはずれだったが、ここに越中国一の宮の高瀬神社があったからである。
高瀬神社ではさきに、私たちはその南前方約七〇〇メートルのところにある高瀬遺跡をたずねた。たずねたとはいっても、そこにだれか人がいたわけではない。おとずれるものの姿もない、無人の史跡公園だった。
そのように無人のせいか、復原された古代における地方官衙の建築跡を示す柱根部の整然としたさまは、なおいっそうのものがあった。この高瀬遺跡はこれからみる高瀬神社の繁栄と密接な関係にあったものであろうが、井波町教育委員会発行の「古代荘園遺跡としてわが国最初の国指定史跡」とした『高瀬遺跡』をみるとこう書かれている。
延喜式内社の高瀬神社の南部に位置する高瀬遺跡一帯は、以前から須恵器、土師器などの土器類や神功開宝などの銅銭の出土する地帯として注目されていた。昭和四十五年(一九七〇)十月圃場整備工事中に掘立柱の柱根が発見され、文化庁と県教育委員会は奈良国立文化財研究所の協力を得て、翌四十六年四月より第一次発掘調査を実施した。調査の結果、柱根部の整然と並ぶ建物三棟を中心とした平安時代初期(今から約一、一〇〇年前)の荘所(荘園の事務を行なう所)遺構が発見された。
それで史跡公園となったというのであるが、正直な感想をいうと、なんだかそれはちょっとゼイタクなもののようにもみえた。というのは、おなじ富山県下でも、そのような史跡公園とすべきところはほかにもたくさんあると思われるのに、八乙女山麓の田んぼのなかにそんな整然としたりっぱな史跡公園があるのは、ちょっとそぐわないような気がしないでもなかったからである。
たとえば、さきにみた呉羽丘陵の杉谷台地、日本の古代史にとって画期的な意義を持つ四隅突出型古墳の発見されたそこはどうなるのか、富山県と国とはこれからそこをどうするのか、というようなこともあったからである。高瀬遺跡のように、これも遺跡公園なりなんなりにしてぜひとも保存してほしいと思うのは、決して私だけではないはずである。
さて、高瀬遺跡からもその鳥居が見えていた高瀬神社であるが、これがまた越中国一の宮を称するだけあって、なかなか豪壮なものだった。井波町は越中の中心からははずれたところにある小さな町であるのに、ここにその一の宮があるというのもおもしろい。前記『富山県の歴史散歩』をみるとこうある。
県道小矢部庄川線ぞいにある高瀬神社は、創建年代はわからないが、『続日本紀』に七八〇(宝亀一一)年、射水郡二上神とともに従五位下になり、高瀬神の神名がしるされており、創初はおそらく七世紀と考えられる。そして『続日本紀』にあるように、地名と神名の一致することから、祭神はこの地域の地縁神であり、守護神であったろう。
その後「延喜式神名帳」に砺波郡七座の頭初にあげられ、式内社として律令国家の祭祀にあずかり、国司の管理下に祭典がおこなわれ、正税で維持されてきたことがあきらかだ。一八七三(明治六)年県社に、大正末年には国幣小社となった。現在は地方有志の浄財によって経営されている。主神は出雲系の大己貴(おおなむち)命で、福の神、縁むすびの神、農耕呪術(じゆじゆつ)の神としてあがめられ、配祀として天活玉(あめのいくたま)命、五十猛命をまつっているが、これらの祭神は後代に加えられたものだ。
この神社も他の多くの神社とおなじように、いろいろな歴史をへてきたことがわかるが、「地名と神名が一致することから、祭神はこの地域の地縁神であり、守護神であったろう」とは達見であると思う。ではその高瀬、高瀬神という地名と神名とは、いったいどこからきたものであったろうか。
私が高瀬神社をたずねたのもそれだったからであるが、それは何と、古代朝鮮三国の一国だった高句麗からきていたのである。富山県『小矢部市史』の「蕃神と帰化人」という項にそのことがこう書かれている。
砺波の文化を考えるとき、まず異国の文化が入りこんでいたと思われる節(ふし)がある。まず越中一ノ宮といわれた高瀬神社の伝承が『越中神社志料』に見える。
「式内砺波郡七社の第一也 往古は越中一ノ宮なりという、古来里人伝えて云、此御神は往古、高麗より御渡り、此地へ御著の日は七月十四日なりと」
高瀬の大神が高麗から渡来されたとしているが、これを『越中国式内旧社記』によると、
「一、高瀬神社式内一座、高瀬郷高瀬村鎮座、祭神五十猛命、称二高瀬明神一、或云二高瀬権現一蓋高麗高瀬之誤カ」
つまり、高瀬明神または高瀬権現の高瀬というのは、高麗の誤りではないかというのである。高句麗のことを古代日本では高麗(こ ま)といったことは広く知られている事実であるが、しかしその高麗が高倉という地名になったり、奈良時代に造宮卿であった高麗福信がのち高倉福信となった例にみられるような人名となっているほか、高瀬ともなっていたとははじめて知ったことである。
もっとも高麗が熊となり、それがまた熊木(高麗来)や小牧(同)となったのよりは、こちらの高麗=高瀬のほうがわかりやすいように思われないこともない。してみると、さきにそのことばを引いた富山大学名誉教授(古代史)高瀬重雄氏の高瀬というのも、あるいはもしかするとこの高麗=高瀬から出ているのかも知れない。
高麗(これ)の恵比寿(えびす)
高瀬神社では禰宜(ねぎ)の山田保正氏に会って、社務所にあった『井波町史』などみせてもらったが、これにも一八〇三年に刊行された宮永正運の『越之下草』などが引かれて、いまみた『小矢部市史』とおなじようなことが書かれている。
「はあ、なるほどね」と米沢さんもそのことははじめて知ったらしく、『井波町史』のその部分をノオトにとったりしていた。そして私たちはその高瀬神社で一休みして、こんどは砺波市のほうへ向かった。途中、私は一つ思いあたることがあったので、それを同行の米沢さんたちに話した。
それというのは、さきにみた呉羽丘陵の呉羽、そのクレハのクレとはどこからきたことばかということであった。高句麗の高は国姓で本来は句麗であるということはさきにも何度か書いたことがあるが、朝鮮語では高句麗(コクレ)というその句麗(クレ)が呉(くれ)となっている例は、たとえば大和(奈良県)飛鳥の栗原にみられる。
ここはいま栗原となっているが、もとは『日本書紀』雄略十四年条に、「即ち呉人(くれびと)を檜隈野におらしむ。よりて呉原(くれはら)と名づく」とあるその呉原であった。ここにいう「呉人」とは、かつての中国にあった呉(ご)国人ということではない。これは句麗(クレ)人、すなわち高句麗人ということで、栗原にはいまもその祖神を祭った呉津彦神社があり、呉原寺跡もあって礎石をのこしている。
しかしながら、だからといって呉羽丘陵の呉も、ただちにその句麗からきたものだとはいえない。それで私はひとりひそかに「呉羽か」と思っただけでだまっていたものだった。が、しかし、越中国一の宮となっている高瀬神社の高瀬が高麗であり、それが高句麗からの渡来人によって祭られたものであったとすると、呉羽丘陵の呉というのも、その高句麗の句麗からきた公算が大きくなる。
もちろん、それはどちらでもいい。そうであってもいいし、なくてもいいようなものであるが、しかしその呉羽丘陵の杉谷台地で発見された四隅突出型古墳のナゾは、案外こういうところに秘められているのではないかとも思われる。
高瀬神社が高句麗のそれであるからといって、越中における高句麗系渡来人が最初にその根をおろしたところがここであるとはいえないばかりか、それはまた、高瀬一帯にのみ固まっていたというものでもない。それはのちには越中全域にわたって広がったはずのもので、さきにも引いている『富山県の歴史散歩』をみると、いまは新湊市となっている放生津地区にこういう「祝宴謡」のあることが紹介されている。
この祝宴謡(めでた)は放生津の木遣歌(きやりうた)(重い木材などを送りはこぶときや、地突・山車をひくときの歌)として、古くからうたわれてきたといわれ、そのおおような節(ふし)まわしはまことに木遣にふさわしい。しかし歌詞から考えて大漁歌(たいりよううた)のように思われる。こんにちでは漁業関係者ばかりでなく、ひろく一般市民に愛唱され、結婚式や建前(たてまえ)などをはじめ、いろいろな宴会の祝歌としてうたわれている。
一、高麗(これ)の恵比須(えびす)はよい恵比須 船に御宝を積む恵比須
二、船のはやさは やまのつかいも やまの御使(おんつかい)も風がする
三、大船のとものやぐらに松植えて 松の嵐で船がゆく
四、ばたばたと叩く船端よしざきの 波の上でもめでたゆり
いわゆる七福神の一つとされている恵比須に、「高麗(これ)の恵比須(えびす)」というのがあったとは、これまた私ははじめて知ることだった。しかもそれは高麗(こ ま)でもなく「高麗(これ)」(クレ=句麗)と、朝鮮語に近いままのこっているというのも私にはたいへんおもしろい。
こうみてくると、越中の古代文化は高句麗のそれが圧倒的であったように思われるが、しかし一方、新羅や百済のそれもかなり濃厚だったようである。たとえばさきにみた『小矢部市史』「蕃神と帰化人」の項には、そのことがさらにまたこう書きつがれている。
単に寺院や神社の開基を異国人とするだけではなく、古代の砺波地方には帰化人がいた実証があり、彼等は当然異国の神を祀ったことであろう。『越中国官倉納穀交替記』に砺波郡擬主帳秦人部古綿(ぎしゆちようはたひとべふるわた)(天長四年十一月二十一日条)、砺波郡転擬少領少初位下秦人部益継(ますつぐ)(天長七年八月三日条)が見えるが、秦人部は大化改新以前には秦氏の部民であった。そのころ、すでに漢(あや)氏と並び称された、秦氏の部民が置かれたと推測されるが、……同書に砺波郡擬大領六位上秦忌寸(いみき)常岡(寛平三年三月二十九日条)の名がある。常岡は忌寸の姓(かばね)を持っている点からみて、かつては秦人部の現地管理にあたった帰化人の後裔(こうえい)と考えられる。
また同書に、砺波郡主政従八位下飛鳥(あすか)戸造(べのみやつこ)有成(弘仁九年十月十五日条)、副擬少領従八位上飛鳥戸造浦丸(天長四年十一月二十一日条)、擬少領飛鳥戸造貞門(貞観五年四月三十日条)、擬少領飛鳥戸造今貞(貞観六年七月八日条)、擬少領白丁飛鳥戸造貞氏(元慶二年三月三日条)、擬大領正八位下飛鳥戸造春宝(寛平九年八月五日条)、擬大領従八位飛鳥戸造嘉樹(延暦十年七月九日条)の名が見え、主政のような郡の下級職から、次第に郡の長官である大領にまで及んでいる。
飛鳥戸は最近の学説では飛鳥部とは別で、帰化人の特定の集団に限って名づけられたといわれる。さすれば、この百済(くだら)系帰化人(おそらく河内国安宿(あすかべ)郡からの移住であろう)飛鳥戸氏が相当強固に砺波地方に根を張っていたのであろう。今日では、砺波郡内にある神社の祭神はすべて古事記・日本書紀に見える神になっており、本来のすがたはあらわされていない。しかし、古い伝承を吟味して祭祀の風習などを調査すれば、自ら明らかになるものがあろう。ともかく郡内では、まず最初に異国の神々の存在をわすれてはならない。
白城(しらぎ)即白石説
ここにみられる秦氏が新羅・加耶系のそれであるということはよく知られているが、新羅系のものにしてもそれだけではない。今村鞆氏の『朝鮮の国名に因める名詞考』をみるとこういうのがある。
白城(しらぎ)駅(越中・富山県)
越中国の古地。『延喜式』兵部省の中に駅名として見ゆ。其の地今明らかならざるも、射水郡の土美村・海老江村の辺にありしか。
もちろん、白城(しらぎ)とは新羅からきているものであるということからである。そこでこの白城駅はいったいどこにあったのかあたってみると、これについては富山の史家たちのあいだにちょっとした論争がおこなわれている。
こういうことについても論争があるのは、大いに歓迎すべきことであるこというまでもない。米沢さんの送ってくれた『富山史壇』四八号(一九七〇年十二月)の石川旭丸氏の「白城駅考」をみると、それはこういうぐあいである。
奈良時代およびその前後に、北陸道(官道)は本県北部を走り、県内に八駅が置かれていたことは明白である。これらの八宿駅を現在の何処に比定するかについては、従来いろいろ説が試みられているが、そのうち最も不明確なのは「白城駅」であることは、衆目の一致するところである。
白城駅の所在地については、森田柿園翁の『越中志徴』の「白石説」が前々から知られてきた。……
本県の郷土史界も戦後は極めて科学的実証的になったにもかかわらず、白城駅についての論考調査は、わずかに木倉豊信氏の「花ノ木説」と、『高岡市史』の「海老江・四方説」とがあるに過ぎない。しかもこれらは古文書上の考按のみで、実地調査を欠いているのである。
昭和三十二年に木倉氏が『越中史壇』に「白城駅花ノ木説」を発表されるや、それに同調するものが続出して、「花ノ木説」があたかも定説となったかの観がある。すなわち、『富山県の歴史と文化』(三七頁、昭三三)がこれを採り、坂井誠一著『富山県の歴史』(一八、一九頁、昭四五)は地図までそっくりそのまま前書のものを転載している。これは学問上の大問題であり、私はこれに大いに異議を唱えるものである。
拙宅は射水郡小白石村(旧)であるから、「白城即白石説」なる我田引水論を展開して、わが敬愛する郷土史専門諸家の御教示を仰がんとする次第である。
とはいえ、私は白石地区の実地調査には最も利便な環境にあり、あながちに我田引水論ではないと信ずる。
こうして石川氏は、最近新たに発見された下村役場の土地台帳に「射水郡下村白石白山城(しいらぎ)址の跡地」とあることなどから、「白城(しらぎ)城址」が「しいらぎ城址」となり、それがさらに白石となったものではないかと強調しているが、どちらかというと、私もこの石川氏の「白石」説に賛成である。
なぜかというと白城、すなわち新羅が白石となった例は、ほかにもいくつかあるからである。たとえばさきの若狭(福井県)でみた(「遠敷の神宮寺で」の項)ように、ここにある白石明神・白石神社の白石が新羅からきたものであったばかりか、遠くは陸前(宮城県)白石市の白石も、『和名抄』にある同陸前の柴田郡にあった新羅郷が転じて、それとなったものではないかと私は思っている。
実はそれで射水郡下村のその白石まで行ってみようかと思ったのであるが、いまではもう遺跡もなにもないだろうということだったので、私たちは高瀬から砺波市へ向かったものだった。砺波では市の教育委員会をたずね、社会教育課主事の古井勝久氏から『砺波の文化財』をもらってみたが、しかしここにもこれといったものはのこっていないようだった。
市の図書館にあるという福山の古窯跡から出た須恵器でも見せてもらおうかと思ったが、それも図書館が改造中のためダメだった。時計をみると、もう時間もあまりない。
そこで私たちは市の芹谷にあった千光寺をへて、高岡市にいたった。斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」に越中のそれとして、「帯金具」を出土した「富山県高岡市桜谷古墳」があげられていたからである。しかし高岡についたときはもう暗くなっていたので、国指定の史跡となっているその古墳をたずねることはできなかった。
だが、吉岡英明氏の「桜谷古墳出土の新資料」を見ると、ここから出土したその「帯金具」は朝鮮では「慶州だけで十二、三、その他二十あまり」も出土しているそれとおなじものだという。そしてまた一方、北日本新聞に連載された「越中の遺跡」によると、その古墳は「この地方を長年にわたり支配してきた伊弥頭国造河音足尼(いみずのくにのみやつこかわおとのすくね)をはじめとする子孫射水臣一族の墓とみる説が非常に強い」とある。
佐渡の荒貴と唐崎
佐渡国造政庁のあった荒貴神社
越中(富山県)の次は越後とするのが順序かと思われるが、越後とともにおなじ新潟県となっている佐渡のほうからさきにみることにした。佐渡には林泰一君が住んでいたり、また知り合いの東京医科大学の高橋禎昌氏の実家がここにあったりしている関係で、私は以前にもここは二度ほど訪れたことがある。
そしてその都度あれこれとみているが、こんどは鄭詔文や李進煕もいっしょだったので、これまでにみたそれらのものももう一度見ることになった。前日の夕方になって佐渡に着いた私たちは、佐渡の西岸となっている相川町の万長ホテルなるところに一泊し、翌日は早くから林君のライトバンで、有名な佐渡金山をひとまわりしてから、佐和田町のほうへ向かった。
こうして私たちは佐渡をあちらこちらとまわることになったのであるが、しかしこんどは金井町泉の荒貴神社をたずねることはできなかったので、まずそれからみておくことにしたい。金井町は佐和田町の北東となっているが、私がその金井町へ行ったのは、そこにいまいった高橋さんの実家があったからである。
二年ほどまえの夏、私はほかの知人や友人たちとともに、高橋さん夫妻が東京に住んでいるあいだは無人となっているその実家に招かれて三、四日すごしたことがある。水のきれいな佐和田海岸で泳ぐことができるのも一つの魅力だったが、それにもましてよかったのは、高橋さんの家のあるその辺一帯はまだ淳朴(じゆんぼく)な農村そのものであるということだった。
全体の地形としては背後が山々となっているゆるやかなスロープで、そこから佐和田海岸までは、バスに乗ってもかなりの距離があった。私たちは松などがすいすいと立っているスロープの道を歩いて下のバス通りまで出たが、途中に一つの神社があったのでみると、それが荒貴神社であった。
「荒貴神社、アラキか」と私は思い、さっそく佐渡に着いたとき買い求めた山本修之助氏の『佐渡の島』を開いてみた。私はまだ、その荒貴神社が佐渡にとってどういうものであるか知らなかったので、「出ているかな」と思ったがちゃんと出ている。
荒貴(あらき)神社(佐渡国造政庁址)黒木御所址から約五〇〇メートル登ったところにある。ここは字アラキといって、佐渡国造(さどのくにのみやつこ)政庁のあったところで、大荒木直(おおあらきのあたい)が、祖先を祭ったものであるといわれている。
いまはかなり大きなその神社だけがのこっていたが、そこは神社であるばかりでなく、「佐渡国造政庁」でもあったところとはおどろいた。いわゆる祭政一致の古代にあっては、神社または神宮が「政庁」でもあったということは私にもわかるが、しかし、佐渡国造の政庁がそんなところにあったとは、少しも知らなかったのである。
それで気がついて、いま引いた『佐渡の島』をなおよくみると、金井町の泉というそこには、ほかにも重要文化財となっている木造聖観音立像を持った正光寺や、それからまた世阿弥ゆかりの正法寺などというのもあったりしている。
それだけではない。荒貴神社からすると約五百メートル下方にある、黒木御所址を説明したところにこんなことが書かれている。
永享年中、佐渡へ配流になった世阿弥の『金島集』には、「西の山もとを見れば、人家いらかを並べ都と見えたり。泉と申す処なり。これは古(いにし)え順徳院の御配所なり」と書いてあり、又曲亭馬琴の『烹雑(にまぜ)の記』には御料所であったことが書いてある。
いまはいうところの過疎地ともなっているらしい、淳朴な農村そのものといった泉のそこが、「人家いらかを並べ都と見えたり」とはどういうことか。世阿弥が佐渡へ流された永享六年とは、十五世紀半ばの一四三四年のことである。してみると、そのころのここは、「都と見えたり」といえるほどにぎわっていたのであろうか。
ほとんど信じられないことであったが、しかし古代は佐渡国造の政庁のあったところ、すなわちそこが佐渡国の首都だったところとすると、それもうなずけなくはない。私はあらためてまた、そこにある荒貴神社を見直したものであるが、ところで、荒貴神社の荒貴、アラキとはどういうことだったのであろうか。
あとでみる唐崎神社ともあわせ考えると、これはやはりのち新羅に併合された古代南部朝鮮の小国家であった加耶諸国のうちの一国となっていた安羅(アラ)からきたものではなかったかと私は思う。文芸評論家の荒正人氏は、自分の姓の荒がこの安羅からきたものだと書いているが、佐渡国造だった大荒木直の荒木、または荒貴神社の荒貴も、その安羅から渡来したことをしめす安羅来(あらき)(荒木・荒貴)ということではなかったか。
佐渡の羽茂(はもち)町小泊には、かつては朝鮮土器・新羅焼ともいった須恵器の古い窯跡があり、また真野町には真野古墳群があって、そこの横穴古墳からは銀環などが出土していることからも、そういえるように思う。それからまた、新潟県高等学校地方史研究会編『新潟県の歴史散歩』をみるとこうある。
小泊から西三川川の谷をわたったところ、西三川に、真野湾岸一円の信仰対象とされる小布勢(おぶせ)神社がある。以前このあたりの土中から子持勾玉(こもちまがたま)が出て話題となった。祭神は北陸道を征伐した四道将軍大彦命(おおひこのみこと)だが、この地域には岩をまつる信仰があり、かつて高句麗(こうくり)王をまつる白髭(しらひげ)明神があったりして六、七世紀のひとつの政治的中心のあったことがわかる。
ここにいう「高句麗(こうくり)王をまつる白髭(しらひげ)明神」とは、これも「高句麗」ではなく安羅がそれとなっている「新羅(しらぎ)」ということではなかったかと私は思うが、しかしそれはおいて、相川町を出発した私たちは、中山峠を越えて佐和田町の佐渡博物館にいたった。
妓生の“僧舞”に似た鬼太鼓
県道の脇にあった佐渡博物館に立ち寄ったのは、とくにこれといったものがあるからというわけではなかった。私はここへくるまえ、谷川健一氏から一つ聞いたことがあった。谷川さんによると、この博物館に陳列されている須恵器は、こちらでつくられたものではなく、朝鮮から直行したものにちがいないというのだった。
なるほどそこにある甕(かめ)、瓶、坏(つき)などの須恵器は硬い焼きのもので、朝鮮のいわゆる新羅焼とほとんど変わらないものだった。だが、私はそういうものにあまりくわしいとはいえないし、それにまた陳列ケースのガラス越しでしかみられなかったので、考古学者の李進煕にどうかときいてみた。
「さあ」と李進煕は学者らしく慎重で、ちょっと首をかしげてみせた。「そうかも知れませんが、しかし、というよりは、向こうから直行した人間がこちらでつくったもの、とみたほうがいいんじゃないかな」
博物館にはほかにも、佐渡の民俗芸能として有名な鬼太鼓のパネル写真が何枚か展示されていた。それを目にすると、佐渡に住んでいたことのある林君が言った。
「こちらではオンデイコ(鬼太鼓)というんですが、いつかチャンスがあったらぜひ一度みてください。朝鮮の祭りのときの太鼓とそっくりおなじもので、聞いていると、なんだかだんだん妙な気持ちになりますよ」
「へえ、そうかね」と言って、私はまた持参していた山本修之助氏の『佐渡の島』を開いてみた。「今に残る民俗芸能」として、それのことがこう書かれている。
まず太鼓を二人がかつぎ、その後方から一人が打っている。その前方に鬼の面(赤い面と黒い面の二種がある)をかぶった男が、両手に短い撥(ばち)を持って、舞いながら勇ましく踊り、太鼓を打つ。そのうち早撥になると二匹の獅子が左右から出て、鬼に飛びかかる。鬼は、この獅子を払いのけつつ、隙をねらって太鼓を打とうとする。この鬼と獅子の格闘は真に迫るものがある。しかも一挙一動は舞踊の手振りに合っているということである。この太鼓の外、楽器はなく、又歌詞もない。
そして最後に、東洋音楽学会長の「田辺尚雄氏は『この太鼓の打ち方は、朝鮮の妓生のやる“僧舞”の太鼓の打ち方によく似ている』と云っている」とある。
佐和田町までくると、そこは国中(くんなか)平野となっているところだった。大和(奈良県)とおなじようにここにも国中平野があったわけであるが、だいたい、私はこの佐渡へくるとそのたびに思うことは、「これが島か――」ということだった。
北方には標高千メートルを越す金北山や妙見山がそびえ立っている大佐渡山地がつらなりつづいており、東南方には小佐渡山地と、ここにも六百メートルを越す大地山、東境山などといった山々がそびえ立っている。そしてこの両山地をつなぐあいだが国中平野となっているのであるが、クルマを駆ってあちこちと走ってみても、そこはまるで大陸という感じであった。
『古事記』や『日本書紀』の国生み神話をもちだすまでもなく、佐渡はつねに越後の歴史に、特異な側面をつけ加えてきた。ところが原始・古代にかぎってみると、佐渡島内の二七〇余にのぼる遺跡からは、越後への文化伝播の中継地としての役割はうかがえない。むしろここは、能登半島を経由して、西の方からやってくる文化のふきだまりといった感が深い。これは日本海岸ぞいに北上し、能登沖を経て佐渡につきあたる対馬海流が、海上の通路として、大きな比重をもっていたからである。
原始時代の北陸人が利用したのは、対馬海流の第一分枝の沿岸流である。この沿岸流は能登半島で二つにわかれ、一流が半島にそって富山湾にはいり、佐渡海峡を流れる小沿岸流となっている。第九管区海上保安本部の調査によると、能登から佐渡へいくには、六月から十月のあいだが好都合で、海流のみにたよれば五〜一〇日ぐらい、季節風にのって帆や櫂(かい)を利用すれば三日前後で到着するという。
井上鋭夫氏の『新潟県の歴史』からであるが、これまでの私たちの感覚でいうと、佐渡といえば新潟であり、新潟といえば越後であった。しかし古代の佐渡は、その越後とはあまり関係がなく、いまは石川県となっている能登との関係のほうがむしろ濃厚であったという。実をいうと私はさきにみた能登へ行くまでは、「佐渡は四十九里波の上」という『佐渡おけさ』の唄の文句が、越後の新潟からみたそれだとばかり思っていた。
ところがそうではなく、能登からみたそれだったというのも、これでうなずけるような気がする。佐渡はあとでみる越後とは並立的に、どちらかといえば、対馬海流による朝鮮からの「直行文化」のもとにあった能登半島との関係において独自の文化を育ててきたというのである。なおまた、『新潟県の歴史』には佐渡国分寺のことがこう書かれている。
国分寺址は真野町にあり、今日でも大きな礎石がならび、七重の塔礎もみられる。国分寺瓦も出土するが、これは平安時代のものがほとんどで、奈良時代の建立当時瓦ぶきであったかどうかについては疑問がもたれている。天平宝字八年(七六四)に、金光明最勝王経(こんこうみようさいしようおうきよう)と法華経(ほけきよう)各一部が施納されているから、このころにできあがったとおもわれる。
国中平野の南はずれである真野町にこんな国分寺ができたのは、さきにみた佐渡国造だった豪族の大荒木氏がのちには金井町泉のそこから、この真野町の若宮に移動したからであったらしい。それだったから、「若宮は弥生式時代からの大遺跡で、しかも近年、豪族の祭祀権をしめすかのように、古墳時代の祭祀遺物が出土している」ともいうのである。
私たちはその国分寺跡から加茂湖を経て両津市へ出た。
途中、私たちは畑野町へ寄るつもりだったが、もう時間がなさそうだったので、そこは省略することにした。なぜ畑野町へ寄るつもりだったかというと、さきにみた『新潟県の歴史散歩』にこうあったからである。
畑野付近は古代の波多(はた)郷(『和名抄』)で、そうした地名があるのはここが秦(はた)氏系文化の拠点だったことによる。一般に秦氏は新羅系文化民と考えられているが、それを裏書きするように、その分族といわれる矢田氏や服部氏が居住し、数十ヘクタールの社領をもつ栗野江の賀茂神社(バス何代(なんだい)下車)がある。
チサという菜
両津では西へ向かって少し行ったさきの、県道脇にあった唐崎神社をたずねた。「唐崎神社」とした標柱のある一の鳥居から二の鳥居までの距離からみても、かなりの境内敷地を持った神社だったが、小さな社殿がぽつんとあるだけで、いまは無人となっていた。
しかし、ここにみられる唐崎神社の唐崎(からさき)とはどういうことだったのか。これも九州の唐津(からつ)がもとは韓津(からつ)であったこと、それから近江(滋賀県)の瀬田の唐橋や唐崎神社の唐橋・唐崎ももとは韓橋・韓崎だったとおなじことからきたものだったにちがいない。
韓崎はほかにまた辛崎(からさき)・可楽崎(からさき)とも書かれるが、今村鞆氏の『朝鮮国名に因める名詞考』にもあるように、これももとはみな韓(から)ということから出たものだった。さきにもふれたが、これは佐渡国造だった大荒木氏の荒木・荒貴、すなわち安羅来とも考えあわせるべきもので、韓とは加羅であるとともに、その安羅ということでもあったのである。
萩原龍夫氏の『祭り風土記』をみると、佐渡の「新穂の山王祭り」が紹介されていて、そこにこういうことが書かれている。
なお注意せねばならないのは、トチトチの酒宴の時、献立にチサという菜をかならず出すこと、お渡りの途中休憩する所を「辛崎(からさき)」とよぶことである。
私はこれをみて、「ほう」と思ったものだった。「チサという菜」は今日の朝鮮人、在日朝鮮人のあいだでも好物の一つとなっているもので、私たちは「野菜ずし」と称して飯をそれにくるんで食っているが、「お渡りの途中休憩する所を『辛崎(からさき)』とよぶことである」とはどういうことか。
萩原氏は、「辛崎とは近江日吉神社のお旅所たる唐崎から採られたのであろう」といっているが、では日吉神社のそれをも含めて、その「お旅所」がなぜ唐崎・辛崎であるのか。それには必ず、原初的になにかの意味があったはずである。
ついで私たちは、こんどは唐崎神社からとって返すようにして、両津市のはずれにあった久知河内の長安寺に向かった。私にとっては二度目だったが、なかなかわかりにくいところで、やっと谷間を流れている川べりにあったそこをたずねあてた。
「国宝阿弥陀如来朝鮮古鐘陽雲山長安寺」とした長い標柱が入口にたっているけれども、ここは同時にまた白髭明神を祭る白山神社でもあった。神仏習合の名残りで、長安寺はその新羅系白山神社の神宮寺だったものかも知れない。
神社も寺も荒れたままとなっている境内に、一つの収蔵庫が見える。そのなかに木造阿弥陀如来坐像とともに、国の重要文化財となっている朝鮮鐘がおかれてある。
寺の人にたのめばいつでも、だれでもみせてもらえるその朝鮮鐘は、優雅な形をしたすばらしいものである。朝鮮では高麗時代にできたもので、それがどうしてここにきているのかはわからないが、『新潟県の文化財』をみるとこうなっている。
新義(しんぎ)真言宗長安寺に所蔵されているこの銅鐘は、高さ八三センチメートル、口径六〇センチメートル、厚さ一六センチメートルのいわゆる朝鮮鐘である。龍頭(りゆうず)が一個、後部に「旗さし」がある。若狭(わかさ)(福井県)の海中から拾いあげたものを寄進したものと伝えている。形態が優美で、唐草文様(からくさもんよう)も美しい。一三世紀頃の製作とみられる。
それがどうして「若狭(福井県)の海中」にあったものかはまったく不明である。収蔵庫のなかにはこの朝鮮鐘のほかにまた、李朝の仏画も一幅、壁にかかっている。
仏画のほうはともかく、鐘は実にみごとなものだったので、鄭詔文と李進煕とはとみこうみ、何度もそれをなでまわすようにしながら、「いいね」「いいものだね」を連発し合っていた。
新井とその周辺
関山神社の新羅大明神
いよいよさいごとなった越後(新潟県)である。ここには、どういうものがあるか。
さきにみた福井県の越前(「気比神宮にて」の項)でもそのときのことを引いたことがあるが、私は中日新聞がおこなった「古代史の中の北陸」という座談会に出たことがあった。ほかの出席者は京都大学の林屋辰三郎氏と民俗学者の谷川健一氏だったが、さきに引いたこととはまた別に、そこで林屋さんと私とはこういうやりとりをしている。
林屋 直江津からずっと川を上ったところに新井という町があります。この辺は、幅四十九メートル、長さ百二十メートルなんていう大きい前方後円墳のある場所ですが、そこに新羅大明神という神社をまつった関山神社というお宮がある。古い時代には北魏系の仏様をまつっていたということですが、この北魏系というのは新羅にとって北の高句麗じゃないか、と、私は思っています。ここは中頸城郡妙高村というところですが、渡来人の作った村でしょうね。付近には斐太古墳群がありますが、これも渡来人の墓でしょう。
どうも直江津あたりは、昔国府のあったところですが、そこからさかのぼったところに、そういう古い渡来人の村があるというのはおもしろいですね。
金 そうするとその新井というのは、新羅の朴と関係があるのではないかと思われますね。新羅の最初の王、赫居世のフルネームは朴赫居世です。朴というのは本貫の一つがたしか「新井」すなわちシンジョン(新井)となっているはずです。というのは、戦争中に朝鮮人は強制的に姓を変えさせられたことがあったわけですが、そのとき朴氏の多くは、その本貫の地名をとって新井(あらい)を名乗っていたものです。
ですから、そういう意味でも新井というところは新羅と関係があったのではないかと思われますが、それからもう一つ、新潟では寺泊というところ、ここに「新羅王の墓」というのがあるんですよ。ぼくはまだ写真でしかみておりませんが、こういうものとも、新井のそれはつながっているのではないでしょうかね。
林屋 そうでしょうね。それは、私も関山神社に行ってないのでなんともいえませんけれども、一ぺん行ってみたいなと思っています。
こういうことがあったので、越後では私はまず、妙高村にあるという新羅大明神の関山神社からたずねることにした。これまでとおなじ林泰一君のライトバンでだったが、私たちは直江津からは国道一八号線を走り、高田をへて新井市に入った。
「御神体」としての仏像
新井市といっても、日本のどこにでもある地方の小都市と別に変わったところがあるわけではない。しいていうとすれば、どこかおっとりしたところがあって、古いものが感じられる、とでもいうよりほかない。
市では例によって、教育委員会をたずねた。そして居合わせた公民館長の越山義顕氏に会い、『新井市史』などをみせてもらったが、それに関山神社の「銅像菩薩立像」のことが書かれていてこうある。
本像は関山神社の御神体として、本殿の奥深く安置してある秘仏である。銅像鍍金の像であったと思われるが、火中したため鍍金はおち、その他にも宝冠部、両前膊、両足、両腕より垂れた天衣の先を失っている。
いわば破損仏であるが、美術史上きわめて重要な像である。というのは、本像の面長の面相、髪際の線や、杏仁形に近い眼、蕨手の垂髪、下腹を前方につき出した姿は、きわめて法隆寺夢殿の観音像に近い作風をもっているからである。また、胸飾の形式や胸にあらわれた下衣のふちにほられた、半パルメットの文様、背中のところにあらわれた、下衣の半パルメットの文様などは、全く法隆寺金堂釈迦三尊像の脇侍と共通している。
しかしこれは、日本の制作ではあるまい。恐らく朝鮮三国時代の遺品が、何等かの事情で、この地に伝わったものと考えられる。……
今日、朝鮮の本土にも三国時代の遺品はきわめて少ないだけではなく、これほど、わが国の止利系彫刻と近い作風の仏像はなく、こうした意味でも今後ますます重要視される仏像と思われる。ちなみに本像の両手は、恐らく夢殿観音像と同じく、両手を合わせ宝珠をもっていたものと推定される。
本像の箱は元禄時代のもので、内箱は明治四十四年のもの。それには、新羅大明神と墨書されている。
なおまたいまここで、『新潟県の文化財』をみると、その像のことがこう書かれている。「全身をおおう細かな瓔珞(ようらく)の彫りや、眉に半月形の線刻を入れる手法などが、当時の日本の金銅仏にはなく、朝鮮三国時代の遺品にしばしば見られる点などから、朝鮮三国時代(七世紀)の遺品としてわが国へもたらされたものと考えられ、美術史上注目すべき仏像である」
これもいわば、「直行文化」の一つであったわけである。なぜなら、「当時の日本の金銅仏にはなく」とあるが、「当時の日本の金銅仏」にしても、それはみな朝鮮渡来の工人の手によって成ったものだったからである。
それからまた「朝鮮三国時代(七世紀)」となっているが、七世紀は六六八年までが三国時代であるから、あるいはもしかすると、この仏像はそれよりもっとさかのぼるものであるのかも知れない。
いずれにせよ、それにしても、その仏像がどうしてこの新井市近くの関山神社の「御神体」となったのであろうか。仏像が神体となっているのは、神仏習合のことを引き合いにだすまでもなく、ほかにも例があって別にそう珍しいことではない。
私の言っているのはそのことではなくて、三国(高句麗・百済・新羅)時代の朝鮮でつくられたそれがどうして関山神社の「御神体」として祭られるようになったか、ということである。さきに引いた林屋さんのことばにあるとおり、朝鮮からの渡来人が直江津から川をさかのぼったそこに集落をつくったことで祭られたものにちがいないが、それは同時にまた、その関山神社のある妙高村や新井市などのかつての姿をものがたるものでなくてはならない。
もちろん、当初のその集落は小さなものであったであろう。しかしそれが百年もたつうちには、さらにまた新たな渡来もあったりして、たちまち大きな村落となって周囲にひろがったものにちがいない。そして林屋さんのいうように、「付近には斐太古墳群がありますが、これも渡来人の墓でしょう」ということになったのである。
古代越後の政治的中心地
斐太古墳群とはどういうものか。前記『新潟県の歴史散歩』をみると新井市にあるそれがこう書かれている。
斐太神社付近には弥生・古墳時代の遺跡がたくさんある。神社の裏山に上の平竪穴群(二四基)、神社の北に百両山竪穴群(四七基)、観音平古墳群(約三〇基)、南に天神堂古墳群(約九二基・県史跡)がある。上の平竪穴群以外は、草木がしげっていて見学はできない。上の平竪穴群のうち、二基が発掘当時の姿で保存されている。
このうち九二基もある天神堂古墳群は、ほとんどが新羅によくみられる円墳と方墳で、ここからは直刀・刀子(とうす)・鏃(やじり)などの武器類や鏡・馬具などが出土しているという。なおまた、「大原新田から大沢新田にかけて、二八基の古墳が関川西岸の段丘上に散在している」ともいう。これは、原通古墳群である。
おびただしい古墳群であるが、それだけではない。だいたい、これまでは越後国の国衙があったところ、すなわちその中心地であったことをしめす国府がおかれていたのは直江津であったとされているが、それも実は右のおびただしい古墳群がある新井ではなかったか、という説が強くなっているという。
越後国の成り立ちということもあわせて、そのことがいまみた『新潟県の歴史散歩』にこうある。
高志の国から越前・越中がわかれたのは六九〇年のころだ。だからこのころの越後は、越中の北辺をさすにしかすぎなかったが、やがて七〇二(大宝二)年、越中から頸城(くびき)・魚沼(うおぬま)・三島・蒲原の四郡をさいて越後にくみ入れた。越後がしっかりと国のかたちをととのえたのはこのときからなのかもしれない。さて、初期の越後国府がどこに存在したかはこんにちでも謎(なぞ)とされるが、最近では、常識的な直江津(なおえつ)から、国府は新井(あらい)・板倉町周辺にあったとする見方がつよまっている。
また、井上鋭夫氏の『新潟県の歴史』には、その国府のことがこう書かれている。
境域の確定した越後の中心である国府は、いったいどこにあったものであろうか。こんなことをいえば、誰しも国府と国分寺の所在地は直江津ではないかと、奇異に思われるであろう。たしかに中頸城郡に国府(こくぶ)村があり、“愛宕国分(あたごこくぶ)”“国分寺新田”“毘沙門国分”などの字(あざ)名があって、現在は直江津市にぞくし、五智国分寺がそこに現存している。辻善之助博士が国分寺を国府村として以来、久しく疑いの目をむけられなかったのも無理からぬところである。
しかし五智国分寺は、永禄五年(一五六二)に上杉謙信が建てたもので、ここは高さ二メートルをこえる土居(どい)をのこす武士(荻原伊賀守?)の居館とおもわれる。他所から直江津へ移安された可能性を認めないわけにはいかない。安国寺址が直江津にあるので、南北朝時代からここが越中府中であったことは疑いないが、それ以前のことは明らかではないのである。
そして井上氏は、「それ以前」に国府があったのは新井のほうではなかったかと、それを遺跡のうえからみてさらにこうつづけている。ここにいう「頸南地方」とは中頸城(くびき)郡の南部ということである。
頸南地方の遺跡の分布をみると、古墳と土師(は じ)・須恵器(すえき)の遺跡は関川およびその支流の切り開いた段丘の縁(へり)に位置しているが、田口・関山の国境に近いところにはなく、原通(はらどおり)古墳群から大能川流域にいたるあいだにみられる。新井市長沢の須恵器遺跡は、富倉峠をこえて信濃から越後にでてくる地点である。妙高高原町兼保の須恵・土師遺跡も野尻湖を経て越後にはいる狭い河谷平野の要点に設けられた“くび城”ないし“関”の址と考えられる。しかし、新井市・板倉町・中郷村・妙高村の頸南地方に古代遺跡が集中していることは、やはりそこに古代越後の政治的中心があったことを物語っているとみなければならない。……
針の隣部落の“国川(こくがわ)”にも二町平方の区画があり、関川をはさんだ対岸の新井市にも“国賀(こくが)”(国衙)がある。国賀には東北に八幡社をもつ方二町の区画(縄手)が認められ、国川には八幡・安養寺・天王社・十王堂・観音堂・日吉・明照寺・十二社など多くの社寺のあったことがしられ、古い都市の様相をしめしている。とくに親鸞(しんらん)の弟子で、越後国府にいた覚善の寺と伝えるものに安養寺がある。
また高田市の本長者原からは、平安期の布目瓦(ぬのめがわら)が出土した。ここは郡家(ぐんけ)の跡かもしれない。
このようにみてくると、越後国府は現に再検討をくわえられているが、古府(今府)より国衙(国賀また国川)へ、そしてその国衙より府中(直江津)へと、関川をしだいにくだって日本海に達したことが考えられよう。あたかも能登国府が、古国(ふるこ)府→国下(こくが)(国衙)→府中(七尾市)へと移ったようなものである。
国府のことでちょっと長くなりすぎたようであるが、要するに、新羅大明神を祖神として関山神社を祭った(はじめの神体は仏像ではなかったはず)新羅からの渡来人集落より発したとみられるこの地方が古代の越後にとって、どのように重要な位置を占めていたかということをみたかったからにほかならない。そこに初期の国府・国衙があったということは、それだけの政治的勢力がそこにあったからなのである。
さて、その新羅大明神の関山神社であるが、国鉄信越本線の関山駅からすると、これは徒歩約十五分のところにあった。標高二千四百四十六メートルの妙高山を中心とした妙高高原の麓にあたるところで、そこまでくると私はちょっと妙な気がしたものだった。
というのは、私はいまからすると二十年ほどまえ、そこの関山駅におりたことがあったからである。いまは故人となっている俳人の栗林一石路氏にさそわれて、その妙高高原にある燕温泉にしばらく滞在したことがあった。
そして私はシーズン・オフとなっていたその温泉の古い宿で『故国の人』という長編の一部を書き、栗林さんは栗林さんで自分の文集の整理をしたものだった。しかし私はそのときは、そこにそんな新羅大明神の関山神社があるなどとは少しも知らなかった。ばかりか、そんな神社に対しては関心もなかったのである。
それが二十年後のいま、私はこんどはそこにある関山神社をたずねてふたたびまたやって来たわけで、人生にはまったくどういうことがあるか、わかったものではなかった。
関山神社はゆるやかな山麓の斜面台地にあって、そこら一帯がみな境内となっていた。樹齢六百年という杉のうっそうとした木立ちのなかに権現造りの本殿があって、ほかにもまた宝蔵院だの、妙高堂だのといったものが、広い境内のあちらこちらにある。
私たちは、パネル写真にして本殿のそこにかかげてある、神体の菩薩像をなんとかみせてもらえないものかと思って社務所をさがしたが、境内にあるそれは祭りのときなどの臨時用であるらしく、鍵がかかったきり無人となっていた。それで神社の前にあったたばこ屋さんにきいて、近くにあった宮司の家をたずねたが、そこも人は不在で鍵がかかっていた。
弥彦と「新羅王碑」
古代史家・坂口安吾氏のこと
さきにみた佐渡からの帰り、船が新潟に着いてみるとまだ時間があったので、私たちは新潟市内にある林泰一君の古美術店に寄ってみることにした。こぢんまりとしたいい店だったが、そこで私はふと思いだしたことがあった。たしか新潟海岸には、新潟で生まれ育った坂口安吾氏の文学碑が建っているはずだったので、そのことを私は林君にきいた。
「新潟の海岸」というだけで、それ以上のことは私は知らなかったが、林君も同様だった。そこで林君はあちこちへ電話をして、それは護国神社のある寄居浜だということがわかった。
「寄居浜というと――」
「そんなに遠くはありません。近くです」
「では、ちょっと行ってみようじゃないか」
というわけで、夕暮れとなっていたが、私たちはさっそくその寄居浜へ向かった。クルマはどこをどう走っているのか私にはわからなかったけれども、十分かそこらで着いた。
波の荒い日本海に面した寄居浜は小高い砂丘となっていて、そのうえに坂口安吾氏の文学碑は建っていた。ちょうど日本海を望むような形で、碑面はわかりやすい字でこう書かれている。
ふるさとは
語ることなし
安吾
裏面をみると、それにはこうある。「坂口安吾が少年の日の夢をうづめたこの丘に彼を記念するための碑を建てる/昭和三十二年春/発起人代表 尾崎士郎」
「『ふるさとは語ることなし』か、なるほどなあ」と鄭詔文はため息をつくようにして言ったが、私もその短い簡潔なことばに、ある感動をおぼえないではいられなかった。
「しかし」と、私は笑いながら言った。「これが朝鮮人だったら、『ふるさとは語ること多し』となったかもしれないな」
「どうして――」
「どうしてということもないが、それが日本人と朝鮮人との発想法のちがいというか、その表現法のちがうところだ――」
「それじゃ、きみはもしこんな碑を建ててもらうとしたら、『語ること多し』とするか」
「いや、おれも『なし』のほうがいいな。どうしてかというと、おれはこの坂口安吾の弟子だからね」
もちろん、半分は冗談だった。しかしそれは半分であって、あとの半分は真実だった。私は生前の坂口安吾氏には会ったこともなかったし、それに小説家としての坂口安吾氏からはあまり学んだものがあるとはいえなかった。
しかし、古代史家としての坂口安吾氏からは、実にたくさんのものを学んだ。なにを、どう学んでいるか。私は一九七四年二月、「古代史家としての坂口安吾」という一文をある新聞に書いたことがあるので、それの一部をここに再録しておくことにしたい。
――坂口安吾が死んで、もう二十年になる。この二月十七日には東京・新宿の紀伊国屋ホールで、死後二十周年を記念する「安吾フェスティバル」がおこなわれるが、私はいまなおときどき、「もし坂口安吾が生きていたら」と思うことがある。
死んだのは一九五五年の二月十七日で、まだ五十歳だったから、今日まで生きていたとして別にふしぎはない。まだまだ、十分生きていられる年齢だったのである。
「もし坂口安吾が生きていたら」と私がとくに強くそう思うようになったのは、一昨年の三月、飛鳥の高松塚壁画古墳が発見されてからだった。以後、日本の古代史はやっと一つの転機を余儀なくされ、ようやく東アジアのなかの古代日本ということが少しばかり意識されるようになった。このことを坂口安吾はいったいどう考えるだろうか、と私は思うからである。
というのは、坂口安吾はもちろんすぐれた作家であったが、同時にまた彼はすぐれた古代史家でもあったからである。しかしながら、作家としての彼は、昨年あたりから若い人たちのあいだにふたたび「浮上」し「復活」しているけれども、すぐれた古代史家としての面は、まだあまり広く知られているとはいえない。
古代史家としてのその面を高く評価しているのは、私の知る限り、「子供の頃から、日本の古代史に異常なほどの興味を持」っていたという奥野健男氏くらいのものではないかと思う。だいたい坂口安吾のユニークな紀行である『安吾新日本地理』は、「過去のゆがめられた日本の歴史に挑戦するものであり、ライフワークとしての安吾歴史の序章をなすもの」(渡辺彰氏「坂口安吾年譜」)であった。
坂口安吾はこの「序章」につづいて、いよいよ「本論」となるはずだった『安吾新日本風土記』に着手したところで急死しているが、しかしそのすぐれた安吾史学のエキスは、ほかでも随所に展開されていた。たとえば『安吾史譚』(その二)の『道鏡童子』をみるとこうある。
国史以前に、コクリ〈高句麗=金。以下おなじ〉、クダラ〈百済〉、シラギ〈新羅〉等の三韓や大陸南洋方面から絶え間なく氏族的な移住が行われ、すでに奥州の辺土や伊豆七島に至るまで土着を見、まだ日本という国名も統一もない時だから、何国人でもなくただの部落民もしくは氏族として多くの種族が入りまじって生存していたろうと思う。そのうちに彼らの中から有力な豪族が現れたり、海外から有力な氏族の来着があったりして、次第に中央政権が争わるるに至ったと思うが、特に目と鼻の三韓からの移住土着者が豪族を代表する主要なものであったに相違なく、彼らはコクリ〈高句麗〉、クダラ〈百済〉、シラギ〈新羅〉等の母国と結んだり、また母国の政争の影響をうけて日本に政変があったりしたこともあったであろう。
これはけっして、一つの着眼などといったそういうものではない。これこそは日本古代史の基底をなすもので、真の日本古代史があるとしたら、それはすべてここから出発するものでなくてはならないのである。
私はこの数年各地を歩きまわって『日本の中の朝鮮文化』という古代遺跡紀行を数冊書いているが、坂口安吾がここでのべていることは、それを通じてもはっきりといえることなのである。いまはまだあまりかえりみられないかもしれないが、これは私のゆるがぬ確信でもある。――
やひこ詣(もう)で
鄭詔文や李進煕も、佐渡の長安寺にあった朝鮮鐘だけでなく、五月十五日となるあすはいっしょに寺泊の竹花村にあるという「新羅王の墓」をみることになっていたので、私たちはこの日は新潟で泊まった。そして翌日は小雨が降っていたが、私たちはまず西蒲原郡弥彦村にある弥彦神社からたずねることにした。
越後国一の宮となっているこの弥彦神社もあとでみる「新羅王の墓」と関係があったからだったが、いったい「新羅王の墓」とはなにか。私がそれのことを知ったのは、一九七二年七月十二日付けの読売新聞にのった記事によってだった。
「新潟駆ける朝鮮文化/鐘や『新羅王の墓』も残存」とした見出しのもので、「鐘」はさきにみた佐渡・長安寺の鐘のことなので省き、あとのほうだけみるとそれはこうなっている。
またかつて越後安国寺(現在の直江津駅の裏)にも、一四〇〇年代に越後から金をつんでいき、かわりに有名な高麗大蔵経をもちかえった記録があり、現在は、安国町の地名と寺跡がある。これについては、北部工業短大の丸亀金作教授の研究にくわしい。
西蒲原郡寺泊の竹花村には世称「新羅王の墓」がある。村の小高い丘には玉垣でかこまれた墓や住居の跡がある。墓をまもっているこの村の海津賢造さんの語る「新羅王因縁記」や、近隣の真本山村の原田拾蔵さんらのしらべたところでは、十二世紀ごろ高麗の「高貴な方」がここに漂着して住んでいたというし、『吾妻鏡』にもそのいきさつがのっている。現在も朝鮮キセルや掛け軸などが残っており、一説では弥彦神社の祭神の一人になっているともいう。村の人たちは毎年五月十五日には仕事を休み、墓の前で法事をおこなっている。
その「新羅王の墓」の主、すなわち「新羅王」が「一説では」「祭神の一人になっているともいう」弥彦神社は、実に巨大なものであった。あとで知ったが、その境内はなんと四万九千六百八十五坪もあるという。
広漠たる越後平野の中央に国の鎮(しず)めと聳(そび)え立つ弥彦山の麓に鎮座ましますのが越後一の宮弥彦神社である。境内はうっ蒼(そう)たる森林に覆(おお)われ、亭々たる老杉(ろうさん)古欅は見るからに神々しく、万葉集にも「いやひこおのれ神さび青雲の棚引く日すらこさめそぼふる」と歌われている、昔ながらのお森である。
社務所でもらった『やひこ詣で』というリーフレットからであるが、これはまさにそのとおりと思われた。こういう神社をみると、狭いといわれている日本も、ずいぶん広いものだと思われるから妙なものである。
ところで、弥彦神社はふつう「やひこ」といっているけれども、これはいまみた『万葉集』のそれにも「いやひこ」とあったように、やはり「いやひこ」というのがただしいという。つまりこれは、さきにみた石川県の能登島にある伊夜比〓(いやひめ)神社と対応するもので、こちらの弥彦神社ももとは伊夜比古(いやひこ)神社だったのである。
石川県高等学校社会科教育研究会編『石川県の歴史散歩』にこうある。能登島の「向田の村はずれに、式内社の伊夜比〓神社がある。越後の伊夜比古神社(弥彦神社)とは名のとおり、ふかいつながりをもつ。ふたつのやしろはずいぶん離れているように見えるがここから対馬海流にのれば、まっすぐ越後につく」
それがいつから弥彦となったかは知らないが、比〓とはもちろん姫、すなわち女ということであり、比古とは彦で、男ということであることはいうまでもない。では、伊夜の伊が伊勢・伊蘇のそれとおなじように接頭語であるとすると、伊夜の夜、ヤとはいったい何であったのだろうか。
それはたぶん、古代朝鮮語の羅・那と同義である耶(ヤ)、すなわち「国土」(古代南部朝鮮の加耶・加羅・加那は「大きな国土」という意)ということからきたものではなかったかと私は思う。伊夜比〓、伊夜比古とはその国土開発の祖神ということではなかったかと思うが、それはどちらでもよいであろう。
弥彦神社での私たちは、広大な境内のなかにあった宝物館に入ってみたりしたが、最後に宮司の庄本光政氏に会ってみた。私たちとおなじ背広姿であったせいか、でっぷりとした庄本さんは、自民党あたりの代議士ででもあるかのようにみえたが、思ったより気さくな人だった。
山頂の御神廟は円墳
私はさきにみた「一説では弥彦神社の祭神の一人になっているともいう」「新羅王」のことを、それとなく持ちだしてみた。すると、庄本さんはこんなふうに答えた。
「ええ、そうですね。弥彦の祭神はいわゆる天孫系ですが、出雲とも関係があると思われますし、裏日本はもともと朝鮮とは深い関係にあったわけですから、そういう影響もたぶんにあると思います」
その答えがたぶんに抽象的なのは、やむをえない。弥彦神社ほどの宮司が私などのいうことをまっすぐそのまま認めてしまっては、ちょっと困ることになるかも知れないからである。ついで私は、「新羅王の墓」というのを、これから行ってみるけれども、「それは古墳なのでしょうか」ときいてみた。
「そうかも知れませんが、古墳というと、こちらの境内にもたくさんあります。摂社・末社はほとんどみなその古墳のうえにありますし、山頂の御神廟も円墳ではないかと思いますが、しかし信仰と学問研究とは別のことですから、発掘はさせません」
これまたちょっとそらされたようなぐあいだったが、しかし言っていることは明快だった。ことに日本海を一望のもとにしている「山頂の御神廟」が円墳というのははじめて知ったことで、たいへんおもしろかった。
神社はもと新羅の祖神廟(のちに神宮(シングン)となる)から発したそれであり、古墳であったという私の考えはここでも実証されたわけだったが、ついで庄本さんは、最後にこう言って私たちを送りだした。
「いずれにせよ、日本の古代史は朝鮮との関係を根本から考えなおさなくてはならないでしょうね。それは高松塚古墳の発見以来、相当変わってきているのではないですか」
さすがに坂口安吾氏が生まれ育った新潟、すなわち越後国一の宮・弥彦神社の宮司にふさわしいことばだと思ったものであるが、寺泊の竹花村は、その弥彦神社から間もなくのところだった。いまは西蒲原郡分水町中島字竹花となっていて、私たちはそこに住む海津賢造氏をやっとのことでさがしあてた。
一つは五月十五日で、さきにみた新聞記事によると村の人たちはみな仕事を休み、「新羅王の墓」の前で祭りをやっているはずだったが、どこをみてもそんな気配は見当たらなかったからである。小雨の降っている田んぼでは、人々が田植えに忙しい。
しかし海津さんに会って、それはすぐにわかった。なんと、私たちは苦心して五月十五日に合わせてやって来たものだったが、最近は田植えのため、その祭りは一ヵ月おくらせて六月十五日におこなうことになっているのだという。がっかりしてしまったが、それより田植えのほうが大事なことはいうまでもない。
海津さんはことし八十三歳になった老人で、いまでは家の裏山にあるという「新羅王の墓」をまもることに余生をささげているのだと言った。そしてさっそく、私たちをその裏山のほうへ案内してくれた。
裏山というより、それは灌木の生い茂った小高い丘で、そこの石段のうえの玉垣にかこまれた「新羅王の墓」は近寄ってみると、「新羅王碑」となっているものだった。石段も碑が建っているそこも、よく掃ききよめられていた。
それを村の人たちは「新羅王の墓」といっているわけだったが、それにはもちろん理由があってのことにちがいない。円墳ではないかという弥彦山頂の「御神廟」がそうであったように、この日は雨で見えなかったが、ここからも新信濃川をへだてて日本海を目の前に見渡すというその丘は、もとは古墳だったにちがいなかったからである。
「ああ、これはやっぱり古墳ですね」と、考古学者の李進煕も一目みるなりはっきりと言った。海津さんもそうだと言って、うなずいた。そして海津さんはさらにまたいろいろと話してくれたが、そこに現在の「新羅王碑」が建てられたのは、一九〇二年の明治三十五年だった。
そのころの竹花には十五戸の家しかなかったので、近隣からも五銭、十銭、あるいは米一升ずつというぐあいに、そのための費用をだしてもらった。そういうふうだったから、碑が建つまでには三年間もかかったという。
たいへんな熱意だったわけであるが、そこにはやはり、だれかによってそれとわかった「古墳にたいするおそれ」というものがあったのではなかったかと思う。そしてそれが「新羅王」ということになったのはどういうことからか。たぶん、そこにいた新羅系渡来人の首長に対する伝承から出たものではなかったかと思われるが、私は海津さんに向かってこう言ってきいた。
「ところで、この『新羅王』は弥彦神社の祭神の一人になっているそうですが、それはどうなんですか」
「おう、それはじゃね。弥彦神社のいまの宮司さんより四代まえの宮司で、江見千代松さんという人がおりましてな。この人が弥彦神社の祭神の一人は竹花に廟のある新羅王であることがわかったいうて、こちらへやってこられたことがあったのですわい」
そのことを江見千代松という人はどうして知ったか、それはわからない。ついで私たちは、「新羅王碑」の前でおこなわれるという祭りのことをきいた。
それはやはりさきの新聞記事にもあったように、その日は村じゅうの人が仕事を休み、「新羅王大広前」とした白と赤の幟(のぼり)を押し立てて碑の前に集まってくる。そして、搗(つ)いてきた餅などをそこに供えて法事をおこなうのだという。
「『新羅王大広前』か――」と言って、私はそこにいた鄭詔文たちの顔を見まわした。搗いてきた餅などを供えて法事をおこなうというのもそうだったが、「大広前」などということばからして、それはいまなお朝鮮の祭りそのものだった。
その祭りをみられないのは残念だったが、しかたなかった。私たちは竹花のそこから去るにさいし、祭りのときなにかの足しにしてくれといって、鄭詔文がいくばくかを封筒に入れて海津さんにわたした。
それから、一ヵ月あまりがたってからだった。もちろんそのときはみなそれぞれ家に帰っていたのであるが、そこへ海津さんから私にも一通の手紙が送られてきた。
「ああ、あの老人か」と思って開いてみると、それは六月十五日におこなわれた「新羅王碑」前での祭りのことを知らせたもので、鄭詔文のわたしたものがどう使われたかということもきちんとしるされ、最後に、「今年は皆様が遠路御参拝下さり、地下の王様もさぞ御慶びの御事と思慮致し居ります」と、こう書かれていた。
文庫版への補足
能登の「柴垣ところ塚」ほか
発掘されたT字型石室
『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第五冊目、北陸地方を中心とした本書が四六判として出たのは、一九七五年五月のことであった。いまからすると、十年近くまえである。その間の注目すべき出来事としては、古代は山陰地方とともに、北陸地方のこちらが「表日本」であったということで、「日本海文化」ということが大きく見直されたことであった。
それで、「日本海文化を考えるシンポジウム実行委員会」というのがつくられ、この実行委員会と富山市、富山市教育委員会主催のもとに、大がかりなシンポジウムが三回もおこなわれたが、そのことについてはあとでみるとして、ここで本書の目次をみると、若狭・越前(福井県)が「青里と『新羅』」はじめ十二項となっている。それに対して加賀・能登(石川県)七項、越中(富山県)二項、佐渡・越後(新潟県)三項となっている。
若狭・越前が多いのは、ここの若狭湾が九州の博多湾とともに、古代朝鮮からの二大渡来口の一つとなっていたからにちがいない。しかし一方、能登半島が北東に向かって突き出たことでできた富山湾や、能登北岸なども相当なもので、ここは新羅・加耶とともに、高句麗系のそれの目立つのがおもしろい。
高句麗系渡来人の古墳としては、「七尾から能登島へ」の項でみた能登島の須曾蝦夷穴古墳が有名であるが、私がそれをたずねた八年後の一九八三年、さらにまた羽咋で「柴垣ところ塚」というのが発見されている。同年五月二十日付けの北陸中日新聞をみると、「北陸で二番目のT字型石室発掘/羽咋市の「柴垣ところ塚」/“古墳時代に早くも大陸文化渡来”裏付け/高句麗古墳と同じ特徴/豪族の墓と推定ツボの破片やヤジリ見つかる」という大見出しのもとに、そのことがこう報じられている。
羽咋市教委は同市柴垣町の「柴垣ところ塚」の発掘調査でこのほど朝鮮の高句麗古墳と同じ特徴をもち豪族の墓と推定される「T字型石室」一個を発掘した。この種類の古墳は北陸地方では二十八年前に能登島町でも発掘され今回が二度目。能登島町のものは「須曾蝦夷(すそえぞ)穴古墳」として三年前に国指定史跡になっている。今回の発掘で約千三百年から千四百年前の古墳時代に羽咋地方でも既に大陸文化が渡来していたことが裏付けされ貴重な発見として注目されている。
発掘された「T字型石室」は縦五メートル、横一・七メートル、床面から天井石までの高さは約一メートル、中央部付近に長さ約二メートル、幅八十センチの石室が突出している。この部分が入り口とみられ、形全体がT字型になっている。内部床面には小石を敷きその上に板石を並べてあったが、天井石は発見できなかった。古墳の大きさは直径約二十メートルと推定され、内部から古墳時代の須恵質大型ツボの破片約百点、ヤジリ四点が見つかったが人骨などは無かった。石室の周囲に地下式横穴四基が確認されたが遺物はなく何に使ったかは不明。
現場は柴垣町が進めている丘陵地のほ場整備区域でやがて取り崩されることから調査を始めた。担当した羽咋市教委社会教育課の谷口碩央(ひろお)、荒木孝平の両主事は「T字型石室は朝鮮から渡来したもので、わが国では九州や関西で十数例見つかっているが、北陸地方では能登島町に次いで二番目の発掘。羽咋地方も古墳時代には早くも大陸文化が渡来していたことが確認できた」と話している。
また、羽咋といえば、金銅製帯金具類など大量の遺物を出土したことで知られている寺家遺跡があるが、一九八三年六月十日付けの北国新聞によると、それが何と気多神社の一部であったとして、そのことが、「寺家遺跡は古代気多神社/土器の文字で初確認/“神社の台所”示す宮厨/県埋文センター五年間の論議に終止符」という見出しのもとにこうある。
奈良・平安期における全国屈指の祭祀遺跡・寺家遺跡(羽咋市)は十日までの石川県埋蔵文化財センターの調査で、古代の気多神社そのものであることがわかった。同遺跡は五十三年の発掘以来、大量の遺物、広大な遺構が出たにもかかわらず、神社か、大陸交易の施設か確認できず、解明の課題となっていたが、同遺跡から出土した須恵器二個に、神社の台所を意味する「宮厨」(みやのくりや)の二文字が判読できたため、動かぬ証拠として「寺家の遺跡群は古代気多神社の遺構の一部」が証明された。“なぎさの正倉院”と呼ばれてきた同遺跡の性格が明確になったことにより「寺家」は改めて古代神社の成立から発展、変遷形態を研究する上で重要な意味を持つことが裏付けられた。
記事はまだつづいているが、能登国一の宮となっている気多神社については、「羽咋の神事相撲」の項でみていて、私はそこにこう書いている。
――『羽咋市の文化財』をみると天然記念物となっている、面積約三ヘクタールの常緑闊葉樹(かつようじゆ)に背後を囲まれた気多(けた)大社は、これも重要文化財となっている流麗な建造物の神門と拝殿とをもった美しい神社で、かつては気多大神宮ともいわれた『延喜式』内の名神大社だった。
お熊甲祭をみる
さきにみた越前国一の宮の気比(けひ)神宮と似た名の神社であるが、そのことについて京都大学の林屋辰三郎氏は、「なにか関係があるだろうと私も思いますよ。なけりゃおかしいくらいです」といい、さらにつづけてまたこうもいっている。「気比の神様は、航海に関係した神様で船に乗る人の信仰を集めていましたからね、船の着く先に分身されて行ったものでしょう」(座談会「古代史の中の北陸」)――
そうだとすると、越前の気比神宮は新羅・加耶系渡来人集団の一象徴となっている天日槍を伊奢沙別命(いささわけのみこと)として祭ったものであるから、気多神社と寺家遺跡とは新羅・加耶系のそれということになる。したがって、さきにみた高句麗系の「柴垣ところ塚」とを合わせてみると、羽咋にも高句麗系と新羅・加耶系とのそれが互いに重なり合うようにして、共存していたということがわかる。
能登におけるそのような重層、共存をしめすものとしては、ほかにまた、もとは高麗(こ ま)(高句麗)来の熊来郷=熊木村だった鹿島郡中島町の久麻加夫都阿良加志比古神社がある。この神社とその祭礼のことは、「祭りの鉦と太鼓」の項にかなりくわしく書いているが、私はそれを書いた八年後の一九八三年九月、さらにまたもう一度、「お熊甲祭」というその祭礼をみることになった。
というのは、NHKの金沢放送局がつくった「かがのと〈加賀・能登〉スペシャル=能登に古代朝鮮を見た」という番組に、私は出演することになったからだった。ほんとうに久しぶりの再訪だったが、宮司の清水直記氏も健在であれば、祭りも以前と同様であった。
変わったことはといえば、ちょっと面映ゆいけれども、私が本書をだしたことによるそれということであるかも知れない。たとえば、鹿島郡社会科部会による「お熊甲祭を見学するにあたって」という文書ができていて、そこにこう書かれている。
「一、祭りを見る意義
この祭りは大陸文化(朝鮮半島)がストレートに渡来していたことを伝える。高麗(こ ま)(高句麗)系や新羅系の重層したものではないか」とし、以下その「証」として、「(1) 神社名より」「(2) 祭神より」「(3) 御神体(木像)」「(4) 鉦と太鼓のリズム」「(5) 猿田彦の踊り方」などのことがあげられ、おわりにこうある。「この猿田彦の踊り方は朝鮮の祭りの踊りによく似ていて、在日朝鮮人作家の金達寿(キムタルス)氏は、思わずこの祭りを見て落涙したという」
それから、これはこんどの再訪のとき、中島町熊木小学校の宮田也寸子さんから一九八三年に出た歴史教育者協議会編『おはなし歴史風土記』「石川県編」をもらったが、これの冒頭は「日本海(にほんかい)をこえて おくまかぶとの祭(まつ)り/うらにしにのって/新羅(しらぎ)おの」となっている。ここでもまず「お熊甲祭」のことがとりあげられているが、そのうちの「うらにしにのって」をみると、それはこうなっている(以下ふりがなは省略)。
ここは能登半島の東がわ、七尾湾に熊木川がそそぐあたりの熊来の里です。五世紀のなかごろ、熊来の里には、朝鮮の東のほうからわたってきたたくさんの人びとがすみついていました。里のものは高麗びととよばれていました。
熊木川の川口から上流を見ると、田んぼがだんだん高くなってつづいています。いちめんの田んぼではイネが黄色に色づき、おもそうにほをたれています。とりいれももうすぐです。
熊来の里はいまでこそゆたかな里ですが、高麗びとたちがくるまでは、見わたすかぎりのあれ野でした。土地が川より高いところにあるため、田んぼに水をひくことができず、ながいあいだほうっておかれたのです。
高麗の君にひきいられた高麗びとたちは、あれ野をひらいて田んぼをつくりました。熊木川に、いくつものしがらみ(木の枝などをくんで水をせきとめるもの)をつくって水をひきました。また、沢の出口をせきとめて池をつくり、その水を田んぼにいれました。……
私はただ、かれらが渡来して久麻加夫都阿良加志比古などの遺跡をのこしていると書いたのに対して、『おはなし歴史風土記』のこれはその生活に即して、ひじょうに具象的なものとなっているのがおもしろいところである。筆者の宮田也寸子さんに敬意を表したい。
なお、久麻加夫都阿良加志比古神社の「お熊甲祭」は一九八四年三月、国指定の重要無形民俗文化財となった。
ついで、加賀のほうのこともちょっとみておくと、私は「双耳瓶(そうじへい)・珠洲(すず)焼・九谷焼」の項で、加藤唐九郎編『原色陶磁器大辞典』などによりながら、加賀の「古九谷焼」は肥前(佐賀県)の伊万里焼ともいわれた有田焼からきたものではないかとしたが、一九八二年十二月十二日付けの読売新聞をみると、「『古九谷焼』産地は有田/工業技術院/科学分析で結論/陶土の元素構成ピタリ」という見出しのもとに、そのことがこう報じられている。
〔名古屋〕わが国の代表的な古陶磁でありながら、産地がはっきりせず、有田(佐賀県)か九谷(石川県)か、長年専門家の間で議論が続いている「古九谷焼」について、五年前から放射化分析法といわれる理学的手法で産地を追究していた通産省工業技術院名古屋工業技術試験所の河島達郎主任研究官(五七)は、十一日までに「九谷ではなく有田地方」と結論づけた。有田と九谷の陶土の元素構成を調べることで突き止めたもので、科学的に古九谷焼の産地を割り出したのは初めて。……
日本海を渡った仏像たち
「韃靼海」「朝鮮海」という呼び方
この「文庫版への補足」のはじめに私は、「古代は山陰地方とともに、北陸地方のこちらが『表日本』であったということで、『日本海文化』ということが大きく見直されたことであった」と書き、それで、「大がかりなシンポジウムが三回もおこなわれたが、そのことについてはあとでみるとして」と書いた。このシンポジウムはいま、森浩一編『古代日本海文化』『東アジアと日本海文化』という二冊にまとめられて出ている。
私はまだこの二冊を精読してはおらず、ただあちこちぱらぱらとめくってみただけであるが、『古代日本海文化』に第二部「討論 日本海文化をめぐる問題提起」があって、ここに「『日本海』の名づけ親はだれか」というおもしろい項がある。かつての古代はどうして、いまでは裏日本といわれている北陸や山陰地方が表日本であったか、ということを知るうえでも大事なことと思われるので、富山大学名誉教授高瀬重雄氏によるその「問題提起」をみておくことにしたい。
高瀬 日本海文化を考えるには、私は、だいたい二つの道があるという感じがいたしました。その一つは、日本海沿岸相互の間に、どういう文化的な連関または違いがあるかといった問題。もう一つの観点は、日本海沿岸地域と、対岸のアジアといいますか、沿海州や中国東北地区や朝鮮半島などとが、日本海を通じて文化の共通性、類同性があるかどうか、違いがあるかどうか、渡ってきた文化があるかどうか、といったようなことです。
しかし今日は、対岸アジアのなかの、それもまたそのなかの一つ高句麗(こうくり)などの話は省き、……ただ問題提起ということですから、もう一つ別な問題を初めに提起しておきたいと思います。それは、「日本海」という海の名前の名づけ親についてです。普通、書物や百科事典などをみますと、たいていはロシアのクルーゼンシュテルン提督が日本海を探検して、本国へ帰ってから、日本の北のほうにある海を「日本海」と名づけ、それがヨーロッパの各国に伝わって、ようやくここが「日本海」といわれるようになった、というような説明をしていると思います。
私の調べたところによりますと、クルーゼンシュテルンが日本に来たのは一八〇五年(文化二)でして、長崎からいわゆる日本海を探検してロマノフ王朝のロシアへ帰ります。そして帰国して書いた『世界周航記』の地図によりますと、やはりちゃんと「日本海」と書いております。けれども私は、クルーゼンシュテルン提督に「日本海」の名づけ親という名誉を差し上げるのは、少しぐあいが悪いと思っているのです。日本人はどう呼んでいたかということがあるからです。
先ほどからいわれているように、日本人は長い間、北陸地方一帯を「越(こし)」と呼び、そのあたりの海を「越の海」と呼んでおりました。「日本海」と呼んだことは、近世までありませんでした。近世になっても「韃靼(だつたん)海」と呼んでいるものがありますし、「朝鮮海」と呼んでいるものもあります。したがって「日本海」というふうに呼んで、それを地図に記入したのは、江戸時代でもかなり後になってからでして、私の知る限りでは、司馬江漢(しばこうかん)と山村才助(さいすけ)(本名山村昌永(まさなが)という英才の蘭学者)が最初です。
「日本海」という呼称一つにしても、これだけの歴史があったわけであるが、それにしても、それが日本で「韃靼海」「朝鮮海」とも呼ばれていたとは、私ははじめて知ることである。ちなみにいうと、朝鮮ではその「日本海」のことを「東海」といっているが、かつての日本人がそこを「韃靼海」「朝鮮海」と呼んだということは、原日本の文化がそこから渡ってきた、ということがあったからにちがいない。
朝鮮から直接に渡来した金銅仏
まさにその韃靼海・朝鮮海=日本海からは、たくさんの渡来人とともに、いろいろなものが渡ってきた。そのことは本書をみただけでもわかると思うが、まだまだ、さきにみた「羽咋市の『柴垣ところ塚』」古墳のように、新たな発見がその後もつづいている。
たとえば、寺院などにある仏像もその一つで、一九八三年十一月十四日付けの朝日新聞は、「新羅から直接渡来の仏」という見出しのもとに、そのことをこう報じている。
富山県婦負郡婦中町板倉の玉泉寺に伝わる仏像が、七世紀後半に朝鮮半島の新羅から直接入ってきた渡来仏であることが、十三日、富山市で開かれた「第三回日本海文化を考えるシンポジウム」(富山市など主催)で明らかにされた。新羅様式の仏像は日本で多数作られたが、直接渡来は珍しいという。
仏像は高さ二二センチで、金メッキを施した銅造の聖観音像。同シンポジウムに出席している久野健仏教美術研究所長(東京)に婦中町教委が鑑定を依頼した結果、中国の南北朝時代の様式を受け継ぎ、つくりの精巧さから朝鮮半島で作られたものに間違いないことがわかった。
新羅産の仏像は明治以後、かなりの数が日本に流入したが、古代の交流で日本に伝えられたものは全国でも数体しかない。とくに日本海側では、新潟県の関山神社に残る菩薩立像が確認されているだけだという。
なお、ここにいう「第三回日本海文化を考えるシンポジウム」の記録である『東アジアと日本海文化』をみると、そのシンポジウムでおこなった久野健氏の「渡来仏と日本海文化」という基調報告がのっている。ここでの久野氏は、いまみた玉泉寺の渡来仏についてはふれていないが、そのような渡来仏について、「七、八世紀にさかのぼる小金銅(こんどう)仏は、わが国の古い文化を考えるうえに非常に重要な遺品であります」「私は、この各地に伝わった小金銅仏を三種類にわけて考えております」として、こうのべている。
その第一類は、渡来仏と呼んでいる像です。渡来仏というのは、古い時代に朝鮮半島からわが国に渡来した人々が念持仏――いまでいう守り本尊――として大陸からもってきた仏像で、これがたまたま今日まで残ったというもの。この数はそれほど多くありません。中央つまり近畿地方でも数体を数えるだけです。
第二類は、これが本日の話のなかで重要な要素をもっているわけですが、渡来人ないしその子孫が、日本に渡ってきてからのちに各地方地方で制作した仏像です。渡来人のなかには、金銅仏をつくる技術をもつ人もたくさんいたはずでして、それらがわが国に渡ってきて、母国の仏像を手本にしてつくるなり、さらにその子孫が父からあるいは祖父から受け継いだ技術でつくった仏像、これを第二類と考えております。
第三類は、中央――多くは大和(やまと)――でつくられ、後世現在の地に運ばれた像です。……いちばん数的に多いのはこの第三類です。つまり、中央の飛鳥地方や奈良でつくられ、それが後世遊行の僧によって運ばれる。あるいは貴人が島流しなどにあう際には、よく念持仏としてそれまで拝んでいた仏像をもっていったりします。こうした、中央でできて地方に運ばれた像を第三類と考えております。
第三類の「中央――多くは大和(やまと)――でつくられ」たものにしても、有名な奈良・東大寺の金銅盧舎那仏像(大仏)が百済から渡来した国骨富の孫である国中公麻呂の手によるものであることからもわかるように、第二類と同じく古代朝鮮からの「渡来人ないしその子孫」によってつくられたものだったはずである。しかしそれはどちらにせよ、久野氏はさらに「わが国最古の渡来仏」として、宮城県黒川郡大和町・船形山神社の神体となっている仏像や、長野県北安曇郡松川村・観松院の菩薩半跏像、新潟県中頸城郡妙高村・関山神社の神体となっている仏像などをあげ、つづけてこうのべている。
また、対馬(つしま)には、黒瀬(くろせ)観音堂の如来坐像(ざぞう)、海神神社の如来立像(りつぞう)などがありますが、これらの像はいずれも統一新羅(しらぎ)後の制作で、今日の話は〈それより〉やや古い朝鮮三国時代のものに重点をおくため、省略させていただきます。
ただもう一体、現在東京国立博物館に木彫の菩薩立像があります。これは後面に張り紙がしてあり、百済でつくられた一〇〇〇体のうちの一体である、というようなことが書いてある。もちろんこの張り紙は、七世紀というような古いものではありませんが、少なくともそういう伝えをもっている仏像です。
この木彫像も、越後(えちご)から出た仏像で、それを東京国立博物館が購入したというふうに、同博物館の台帳には書かれております。思うに、これらの諸像はいずれも、古い時代に日本海沿岸から上陸し、遠く信濃(しなの)の地を開拓したりした渡来人たちがもたらした渡来仏であろうと考えられるわけです。
再び呉羽丘陵のこと
それから、これは本書「四隅突出型古墳のこと」の項でみた越中の呉羽丘陵に関してであるが、まず、私は四六判の本書が出た直後、東京の八王子市館町に住む大門光男氏から、次のような手紙をもらっている。
突然のお手紙で、失礼いたします。私は盲学校の教員をしている者ですが、『日本の中の朝鮮文化』を愛読させていただいております。又、歴史の授業などで参考にさせていただきまして、たいへん助かっております。
実は、私の郷里は越中富山の高岡市伏木という所なのですが、今年の夏、帰省した折、暇にまかせて呉羽に行ってまいりました。というのも、『日本の中の朝鮮文化』〓を休み前に買って、まず一番に越中の項を読みました時、「呉羽」のクレは高句麗の句麗ではないか、と書いておられるのを見て、ちょっとヤジウマ的に調べてみようと思ったのが動機だったのです。
そのような訳で、八月一日に富山市役所呉羽支所で、呉羽の町の歴史に関する資料を見せてもらいながら、この町は姉倉此売(あねくらひめ)神社を中心にしてできたという話を聞きました。それでさっそく訪ねて行きましたところ、神主さんはお留守で、その息子さんが応待してくれました。その方のお話によりますと、次のようなことでした。
「私はあまりよく知らないが、この神社は古い文献にも出てくるので、かなり歴史の古いものである。加賀の白山比〓(しらやまひめ)神社となにか関係があるらしいことは聞いている。機織と関係あるとのことだから、なにかしら大陸と関係があるのかもしれない。又、この神社自体が前方後円墳の形をしている」
そして、北陸線の向う側(富山湾側)に白鬚神社があるのを地図で見つけていたので行ってみました。田んぼの隅っこにポツンとそれはありました。……
この白鬚神社というのは、朝鮮の神様をお祭りしているということを聞いた記憶があるのですが、呉羽に白鬚神社があるということは、やはりこの地が朝鮮半島からの渡来人と関係があるのではないかと思いながら、呉羽を後にしました。
この手紙はまだつづいており、ついで、「高瀬・高麗・白城」の項にある高瀬神社までたずねたことまでしるされているばかりか、おわりにこういうことまで書かれている。
「又、富山や能登方面へお出掛けの時、万が一宿がとれなかった時は下記の所へ連絡、お立寄り下さい。私の両親が歓待してくれるものと思います」と、その住所、電話までしるされている。
私としてはほんとうにありがたいことだったが、ここではそれはおいて、いまみた姉倉比売神社や白鬚神社のある呉羽丘陵は、有数の古墳地帯でもあることがさいきんわかった。一九八四年七月四日付けの朝日新聞・富山版をみると、「呉羽丘陵に古墳五十四基/富山市教委調査報告書/新たに四隅突出型方墳も/畿内と別 独自の文化」とした見出しのもとに、そのことがこう報じられている。
富山市教委はこのほど、富山市の呉羽丘陵にある古墳群の調査報告書をまとめた。杉谷四号墳とは別に新たに四隅突出型方墳一基を発見したほか、これまでに確認されていたほぼ四倍にあたる五十四基の古墳の存在が明らかになり、一帯が全国でも有数の古墳地帯であることがわかった。また出雲地方に顕著な方墳系の古墳が二十八基もあり、古代高志(こし)の国が、権力の中心地だった畿内地方とは別の独特の地方文化を持っていたことが、より鮮明になった。考古学関係者は「畿内と地方文化を知る貴重な手がかり」と今回の調査を高く評価しており、今後の本格的な調査に期待が寄せられている。
本書(文庫版)もこれまでの一、二、三、四冊と同様、以上の補足とはまた別に、本文を読み直すことでかなり加筆をした、『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第五冊目の本書がこうして成ったのも、講談社常務取締役の加藤勝久氏はじめ、同社文庫出版部の宍戸芳夫氏、守屋龍一氏、それから木村宏一氏のおかげである。ここにしるして、感謝の意を表したい。
一九八四年十月 東京
金 達 寿
日本(にほん)の中(なか)の朝鮮文化(ちようせんぶんか) 5
電子文庫パブリ版
金達寿(キムタルス) 著
(C) 金達寿記念室設立準備委員会 1975, 1984
二〇〇一年八月一〇日発行(デコ)
発行者 野間省伸
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東京都文京区音羽二‐一二‐二一
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