TITLE : 日本の中の朝鮮文化 4
講談社電子文庫
日本の中の朝鮮文化 4
金 達 寿 著
目 次
まえがき
紀 伊
日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)神宮と紀氏
風土記の丘にて
大谷古墳の馬冑
伊太祁曾(いたきそ)から隅田(すだ)八幡へ
酒造の神をたずねて
土器と「吾祖高志」
牟婁(むろ)・阿須賀(あすか)・熊野
伊 賀
まずは伊賀流忍術
服部(はつとり)・呉服(くれは)・呉織(くれはとり)
敢国(あえくに)から荒木へ
高麗織とカラコト
伊 勢・志 摩
白木・鶏足・瀬織津(せおりつ)
四日市の銅鐸
伊賀留我(いかるが)と古曾(こそ)
猪名部(いなべ)を行く
一身田(いつしんでん)から安濃(あのう)へ
白山と金鶏伝説
丹生(にう)の水銀座
白木から伊雑宮へ
菅島のしろんご祭
玉城の布留(ふる)の御魂(みたま)
韓神(からかみ)山をたずねる
伊勢神宮について
舞楽と祝詞(のりと)
文庫版への補足
ふたたび紀氏のこと
徴古館・朝鮮式山城
まえがき
『日本の中の朝鮮文化』としている紀行シリーズの第四冊目である。これもさきの第一冊、第二冊、第三冊とおなじく、「朝鮮遺跡の旅」として雑誌『思想の科学』に連載したものである。単行本とするにあたってかなり加筆したが、しかしなお校正刷りを読み返してみると、いろいろと不足なところがたくさんあるように思う。
前半の紀伊と伊賀とは少し駆け足になりすぎているばかりか、はじめの紀伊では何となく論争的になっているところがあるのも気になる。そのために、ここはちょっと読みづらくもなっているようであるが、しかし、これはまたやむをえなかったことのようにも思われる。
そのかわり、後半の伊勢と志摩とはわりに書き切ることができたように思う。ここでは、どちらも偶然だったが、それぞれに適切な協力者にめぐまれたからである。本文をみてもらえばわかるが、とくに伊勢神宮にかかわるところは重大であり、微妙でもあるので、神宮のことにくわしいこちらでの協力者であった川北一夫氏や西野儀一郎氏には、いちいちさいごまでその部分の校正刷りまでみてもらうことになった。
このように私のこの紀行は、いつの間にか私個人の手で書かれるだけでなく、おとずれたそれぞれの地の協力者たちによっても書かれることになった。つまり、そのような協力者たちがいなかったとしたら、私はとうていこのような本を書くことはできなかったということである。ことに各市町村の教育委員会の人たちには、いつもたくさんの協力をえている。ここにしるして、それらの人たちに心からお礼しておきたい。
この紀行シリーズ、次の第五冊目は、「丹波・丹後・若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡」の北陸地方となっているので、こんどはまたさっそくこの地方の新たな協力者たちのもとに、私はそこのあちこちを歩きまわっている。さきに私は、前半の紀伊と伊賀とは「少し駆け足になりすぎて」と書いたが、それとはちがった意味で、私はこれからはもっとほんとうの駆け足にならなくてはならないと思っている。
なぜなら、さきの第三冊はわずかに「近江・大和」の二国であり、この第四冊にしても「紀伊・伊賀・伊勢・志摩」の四国である。これではいつまでもきりがなさそうなので、第五冊目からはその国々をもっとふやし、それらの地をもっと重点的にみて歩こうと考えている。
さきの諸冊につづいて、第四冊目の本書がこうして成ったのも、講談社学芸図書第二出版部の伊藤寿男氏と阿部英雄氏、ならびに同社写真部の大橋俊夫氏と石川流星氏の努力によるものである。
一九七三年十一月 東京
金 達 寿
日本の中の朝鮮文化 4
紀 伊
日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)神宮と紀氏
紀伊の和歌山へ
青緑の山中を走っている列車は、かなり長いトンネルをいくつかつづけて抜けた。どうやら、和泉山脈を越したものらしかった。するともう間もなく紀ノ川で、そこが和歌山市だった。
国鉄阪和線で、大阪の天王寺からすると一時間かそこらだったが、しかし東京から来た私には、「やれやれ相当遠くまで来たぞ」という思いがした。だが、地図をみればわかるように、紀伊の和歌山といったところで、私がいままで歩いていた大和の奈良などからすると、すぐとなりだった。にもかかわらず、遠いと思ったのは、そこがはじめての土地だったからにちがいない。
この紀伊の和歌山にしても、ひとまず友人の小原元や水野明善たちといっしょに四、五日かけて紀伊半島を一周してから、というつもりだったが、三人の都合がなかなかそういうぐあいにはゆかなかったので、この日は私ひとりだった。とりあえずひとりで、和歌山市のほうをさきにみておこうと考えたのである。
駅前に出てみると、ずっと西南に向かった市街がひろがっていて、ほかにもみられる日本の中都市のそれと別に変わったところはない。近世ではいわゆる「御三家」の一つ、紀州五十五万石、徳川家のあった城下町だったが、そういう城下町にしても、ほかにまたたくさんある。
しかしながら、その地理的環境や、私のたずねている古代はどうだったか。高階成章氏の「日本書紀に於ける熊野」をみると、こう書かれている。
紀伊国は、日本書紀や古事記などが編纂された飛鳥から奈良にかけての時代にはどのように考えられていたのであろうか。これを大和国からすると隣接国ではあったが、和泉・河内・山城・伊賀・伊勢などと、自然地理の上から文化環境の点からその趣を余程異にしていた。紀伊国の自然は大和国が山岳で囲まれているのに対しその大半が海洋で繞(めぐ)らされ、殊に近畿の屋根といわれる大峰、台高の両山脈が大和国の南部を縦貫し、そこに派生した尾根や、外側山脈が海に伸び、河川が山脈の方向に走り、変化に富んだ海岸を示し、特異な景観を形成している。……
自然の条件が異郷として意識されるに充分であった紀伊国は、文化的にも異郷観をますます高める環境にあった。それは紀伊国が朝鮮半島を通って伝来する大陸文化の伝播拠点となって、我国に於ける特殊な異国風な文化地帯となっていたことである。延喜式の神名帳に、伊太祁曾(いたきそ)神社と伊達神社とが存することが見える。この二社は韓国との交渉の中に生じた信仰で、日前・国懸の二社と共に紀伊国特に名草郡の性格を究める上に頗(すこぶ)る重要な存在となっているのである。
駅前から私は小型のタクシーに乗り、それもどこにあるのかはわからなかったが、「市役所まで――」と言った。そして走りだしてから、「市の教育委員会はどこにあるか知ってますか」と運転手にきいた。
教育委員会は、ところによっては市庁舎のなかにあるばあいもあるし、それから離れていることもある。運転手は知らなかったので、私は駅前をまっすぐ行った通りにある市役所でいったんおりて、そこをきいた。やはり和歌山市も教育委員会は離れたところにあったが、しかしすぐ近くだった。
私はタクシーを待たせておいて、そこの和歌山市教育委員会をたずね、社会教育課長の塩路保雄氏に会った。いつも、どこへ行ってもそうしているように、市の文化財などについての資料をもらうためだった。
「さきにちょっと電話をくださればよかったのですが……」と言いながら、人のよさそうな塩路さんはあちこちとさがして、『和歌山市の文化財』「第二編」ほかをくれた。古代を中心とした「第一編」はいまちょっとそこに見当たらないとのことだった。
紀州一の宮・にちぜんさん
その「第一編」こそ私のほしいものだったが、仕方なかった。それはまたこのつぎ来たときということにして、私はそこを出た。そして待たしておいたタクシーに乗り、
「こんどは、日前(ひのくま)神宮へ行ってください」と私は言った。
「ひのくま神宮――」とタクシーの若い運転手は、クルマを走りださせながらきき返した。
「そう、日前(ひのくま)。朝日の日に、前という字を書くのだがね。紀州一の宮で……」
「ああ、にちぜん(日前)さんですか」
「うむ、そう。それをこちらではにちぜん(日前)と言っているのですか」
「ええ、わたしらみなそう呼んでます」
「なるほど、にちぜんか」
そんなことを言っているうちに、どこをどう走ったのか、タクシーは和歌山市秋月にある日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)神宮についた。東京や大阪とちがって市内はどこも近かったが、あとで知ってみると、日前・国懸神宮は駅から東へ五百メートルほどのところだった。
神宮は、クルマなど行きかう道路に面していた。そこの道路のはしにタクシーをとめてなかへはいってみると、うっそうとした樹木におおわれた広大な境内だった。私は境内のなかをしばらくぶらぶらし、社務所に寄って、『官幣大社 日前神宮 国懸神宮 御鎮座略記』をもらってみたが、その境内は何と「二万八百六十二坪」とある。
『――略記』はいつ印刷したものか知らないが、いまだに「官幣大社」となっているのも、考えようによっては、この神宮らしいものだった。しかしここではやはりそれより、『日本歴史大辞典』の「日前・国懸神宮」の項によってみたほうがいいだろう。
和歌山市秋月にある。同じ境内にあるが西側が日前神宮、東側が国懸神宮である。この両宮は祭神ならびに由緒から、ほとんど一体不二の関係にある。祭神は社伝によれば、天岩戸の変に石凝姥(いしごりどめ)命が最初に造った日像鏡(日前大神)と日矛(国懸大神)とで、天道根命に奉仕され、爾来天道根命の後裔といわれる紀伊国造家によって祭られている。古代中世朝廷の礼遇すこぶる厚く、紀伊国造家も強大であったが、秀吉に反抗して神領を没収され、江戸時代復興した。
かんたんにいえば、祭神は日像鏡なる鏡と日矛(ひぼこ)とであり、それを祭っていたのは紀伊国造家(きいのくにのみやつこけ)であったというのであるが、しかし紀伊国造はもちろんその神宮を祭っていたもの、というだけではなかった。「祭政一致」ということばがあるように、古代の当時にあっては、祭神を祭るものということは、同時にまたその地方の政治をもつかさどるものということであった。
紀北の豪族・紀氏の出自
「神社とは独立国であった」ということばもあって、したがって古代の神宮・神社というのは祭祀(さいし)の場であるとともに、その地方の国の政治をとりおこなう場でもあったのだ。そのような政庁があったところでもあったろうことは、現在の日前・国懸神宮の広い境内を歩いてみても感じたことである。
祭神の鏡や日矛となると、私には『古事記』応神段にある天日矛(あめのひぼこ)(『日本書紀』では天日槍)のことが思いだされるが、では、その祭祀権や政権を握っていた「天道根命の後裔といわれる紀伊国造」とはいったいどういうものであったのだろうか。紀伊国の紀伊ということもそこから出たこの紀伊国造は、紀伊国がどういうものであったかということを知るためにも、重要な一つのポイントとなっていることはいうまでもない。
まず、さきとおなじ『日本歴史大辞典』によってみると、それはこうなっている。
『紀伊国続風土記』巻之十四名草郡日前・国懸両大神宮下の国造家譜によれば、「国造家譜は貞観十六年国造三十六代広世の時改め写す所にして夫(それ)より後次第に書加えて二千有余年の今に至れば世に稀なる系なれども星霜を歴(へ)る事久しく幾度も転写を歴し故謬伝ともなれるにや古書正史と合いがたき所もあり」とあり史実は明らかでないが、大化前代紀北における有力な豪族として、また日前・国懸両大神宮の神官として世々祭政の権を握っていたようである。大化改新後行政上の権限は失ったが、なおその職名は踏襲していた。そしてしばしば郡司に任じられた。なお中世以後は国造の尊称のもとに、祖先伝来の由緒ある日前・国懸両大神宮の祭祀を主宰したがその間兵馬の道にもたずさわり、戦国時代にはとくに領内所々に築城して外敵に備えた。
そうして秀吉に反抗し、神領を没収されたことはさきにみたとおりであるが、これまでみてわかることは、紀北の豪族であった紀氏族は大化の改新後、中世以後も依然として日前・国懸両神宮の祭祀を主宰していたばかりか、同時にまた政権を意味した「兵馬の道にもたずさわ」っていたということである。ということは、それはなかなか強大かつ根強い勢力であったということなのである。
だが、紀氏族とはどういうものであったか、それだけではまだよくわからない。そこでこんどは角度をかえてみることになるが、これもさきにみた高階成章氏の「日本書紀に於ける熊野」をみると、紀氏族の祭っていた日前・国懸神宮についてこういうことが書かれている。
紀伊国の異郷的性格は、何としても朝鮮半島の文物の大和国への伝播通路上の拠点というところに発生した。そしてその第一次地帯は、紀伊国でも西方の名草郡がその中心となった。名草地方が朝鮮半島との往還の要地となる以前から紀伊国の主宰神的性格をもっていたのが日前・国懸の両社であったようである。日前と書いて「ヒノクマ」と訓(よ)ましているのは日の神という古い称え方が、神聖なものを「クマ」と称える韓国の言葉に影響された結果であろう。
なお、ここにいわれている名草郡とはいまの和歌山市、海南市などのことであるが、ところで、日前と書いて「ヒノクマ」といっているのは、どういうことからきたものであったろうか。さきほどのタクシーの運転手にみられたように、現在の和歌山の人たちはこれを「にちぜん(日前)さん」または「にちぜん(日前)神宮」とよんでいるようであるが、今日にあってはそのほうがむしろしぜんなのである。
日前と書いてヒノクマとよむこれは、朝鮮渡来のそれとして有名な漢(あや)氏族の根拠地の一つであった大和飛鳥の檜隈(ひのくま)とも関連したもので、そもそも檜前(ひのくま)とも書く大和飛鳥のそれからして無理なはなしだった。しかし、にもかかわらず、ここにまたその日前があったわけであるが、それが「神聖なものを『クマ』と称える韓国の言葉に影響された結果であろう」とはどういうことだったのか。
岸俊男氏の見解
ここにいうその「クマ」については、あとでみる熊野の熊野大社のところでまたみるとして、さてそこで、このような日前・国懸神宮を祭ってそれを氏神としていた紀氏族、すなわち紀(木)氏のことについては、岸俊男氏の「紀氏に関する一試考」というのがある。いわゆる皇国史観の横溢したもので、これはあくまでも大和朝廷による朝鮮経略、それにしたがった紀氏という思想と観点からみたものであるが、こういうふうに書かれている。
紀氏が大和朝廷の朝鮮経略に参加していたことは、まず欽明紀にみえる紀臣奈率弥麻沙(きのおみのなそつみまさ)の存在によって知られる。すなわち彼は奈率の官位が付されていることからも知られるように、百済の臣として聖明王の任那復興計画に活躍するのであるが、彼に対して書紀の分注は「紀臣奈率は蓋し是れ紀臣の韓婦を娶りて生むところ、因って百済に留まりて奈率となれる者なり。未だその父を詳かにせず。他は皆此れに効(なら)う」と記している。このような例は、右の分注が「他は皆此れに効う」と述べているように、紀臣以外にも、物部施徳麻〓(もののべのしとくまか)・物部連(むらじ)奈率用歌多(ようかた)・物部奈率哥非(かひ)・許勢(こせ)奈率哥麻(かま)らがあって、紀氏に限られたものではないが、ともかく欽明朝以前弥麻沙の父の世代に、紀氏も大和朝廷の外征に加わり、一族の子孫がそのまま百済に定着した事実のあったことはまず認めてよいであろう。
岸氏はさらにまたつづけて書いている。たいせつなところなので、それをもう少しつづけさせてもらうことにする。
さてこうして紀氏と紀伊との密接な関係が確かめられると、紀氏が大和朝廷の朝鮮経略に深く関与したのではないかという推測の傍証は他の史料にも散見される。……日本霊異記の一つの説話の中心人物となっている老僧観規(かんき)は、紀伊国名草郡の人で、俗姓を三間名(みまな)(任那)干岐(かんき)といった旨が伝えられている。さらに播磨国風土記には呉勝(くれのすぐり)が韓国から渡来して、はじめ紀伊国名草郡大田村に住みついたという伝えがみえる。名草郡は紀ノ川の下流、現在の和歌山市を含む地域で、さきに考察したように、そこは紀氏の分布の濃厚に認められるところである。以上の史料はいずれも紀氏に直接関係したものではないが、間接的にその地と朝鮮との結びつきが推定される以上、それらを紀氏と朝鮮との特殊関係を推測する傍証としても、あながち附会の説とはいえないであろう。
以上はもっぱら文献による考察であったが、考古学的遺跡・遺物の上からも重要な示唆がえられる。たとえば海草郡初島町椒浜古墳からは、蒙古鉢形冑と称される特異な形式をもった冑が出土したが、それはさきに大和宇智地方の猫塚古墳から出土した一例以外に、日本での出土例をみない明らかに大陸・朝鮮系のもので、南鮮からはよく似た鉄地金銅装の冑が発見されているということである。この古墳からは他にも国内で未発見という四乳文鏡が出土しており、つとに末永氏も大陸との関係について注意されている。また付近の旧有功村六十谷出土の家形(はぞう)は南鮮出土の家形土器にはなはだ近いもので、いわゆる須恵器とは異なっている由であるが、さらに最近京都大学考古学教室によって発掘された和歌山市大谷古墳の出土品も注意すべきであろう。大谷古墳は、和泉山脈の南麓、ちょうど前述の法輪古墳群と背中合わせの地域に位置する五世紀初めごろの前方後円墳であるが、そこからは従来ほとんど出土例をみなかった馬甲をはじめ、唐草文の鏡板や杏葉(ぎようよう)、竜文の雲珠(うず)、木心鉄板張りの輪鐙など大陸的色彩の極めて強い遺物が多く出土した。またさきごろ関西大学の考古学研究室によって行なわれた紀伊国造家の墳墓と目される和歌山市近郊の岩橋(いわせ)千塚の調査でも、そのうちの天王塚の石室構造などに特異なものが認められたという。こうして考古学的にもこの地方にとくに大陸・朝鮮的色彩の強いものが存在することは、さきの文献的考察と相俟って、いよいよ紀伊と朝鮮との特殊な関係の濃密なこと、ひいて紀氏が朝鮮と特殊な関係にあったらしいことが確かめられてきたといえよう。
かなり長い引用となったが、できればはじめからもう一度ていねいに読んでもらいたいと思う。筆者の岸俊男氏によると、「いよいよ紀伊と朝鮮との特殊な関係の濃密なこと、ひいて紀氏が朝鮮と特殊な関係にあったらしい」のは、紀氏が「大和朝廷の朝鮮経略に参加していた」結果であろうということになっている。はたしてそうであったろうか。
木→紀伊→紀
私はなにもここで論争をしようというわけではないが、しかし、岸氏のこのような皇国史観に反論するには、なにもほかのそれをここへもってくる必要はない。氏自身のこの文章をよくみるだけで、それは充分だと私は思う。事実も、氏自身がここにのべているからである。
たとえば、「紀氏が大和朝廷の朝鮮経略に参加していたことは、まず欽明紀にみえる紀臣奈率弥麻沙の存在によって知られる」とし、氏はつづけてこう書いている。「すなわち彼は奈率の官位が付されていることからも知られるように、百済の臣として聖明王の任那復興計画に活躍するのであるが、彼に対して書紀の分注は『紀臣奈率は蓋し是れ紀臣の韓婦を娶りて生むところ、因って百済に留まりて奈率となれる者なり。未だその父を詳かにせず。他は皆此れに効(なら)う』と記している」
まず、ここで語られていることの一つは、紀臣は奈率(なそつ)、すなわちナジョル(奈率)という百済の官位をもつ「百済の臣」、百済の支配層のそれであったということである。決して、大和のそれではなかったということである。
「紀臣奈率は蓋し是れ紀臣の韓婦を娶りて生むところ、……未だその父を詳かにせず」とあるその父を、岸氏は「大和朝廷の外征に加わ」ったものとみているようである。ならばそれは誰か、「未だその父を詳かにせず」というのはおかしいではないか、ということについては、氏は少しも疑ってみようとしないのである。
しかもつづけて、「他は皆此れに効(なら)う」と記されている。つまり、その父がわからないのは紀臣ばかりでなく、あともみなおなじだというのである。いくら何でも、これではあまりにのんきすぎるというものではなかろうか。
岸氏もいっているように、「記紀の所伝はそのまま信じられない」ものであることはいうまでもないが、しかしところによっては、ぽかっと語るにおちているようなところもあって、それがまたおもしろいところでもあるのだ。
『三国志』の『魏志』「東夷伝」にみられる「高句麗」のくだりや「韓」のくだりを持ちだすまでもなく、百済は高句麗からみても韓であり、その百済の女は「韓婦」であった。百済の支配層にしてももとはみな高句麗から出たものであったことを考えるならば、当然そういうこともあったはずである。
つまり、私は紀氏のそのさきは高句麗ではなかったかといっているのであるが、このことはあとでみる古墳の出土品その他によって、もっといっそうはっきりするはずである。
だが、それよりさきにもう一ついっておかなくてはならないのは、紀氏の紀はもと「木」であったということである。このことについては岸氏も「紀氏に関する一試考」の「注」にこう書いている。
紀氏は古事記ではもっぱら木臣・木角宿禰と表記され、書紀では一般に「紀」の用字に統一されているが、孝徳紀大化五年三月庚午条には木臣麻呂とみえる。「紀」氏の用字は国名としての「紀伊」が「木」に代わって用いられてから、「木」→「紀伊」→「紀」と変化したのでなかろうか。なお百済に「木」なる姓があり……。
百済に「木」なる姓があったどころではない。これは百済八大姓の一つとして著名なもので、大和飛鳥でその権勢をふるった蘇我氏族も、百済のこの木氏から出たものであったという(門脇禎二氏の『蘇我氏の出自について』)。そしてこの蘇我氏のさきだった木満致にしてもまた、父の木羅斤資が新羅の婦(おんな)を娶って生んだものだという説話があるのもおもしろい。
それにもかかわらず、さらにまた、岸氏は考古学的遺跡・遺物のうえからも、「大和朝廷の朝鮮経略にしたがった紀氏」をみているようであるが、しかしどうであるか。これについては紀伊国造家、すなわち紀(木)氏族の墳墓とみられる岩橋(いわせ)千塚、井辺八幡山(いんべはちまんやま)古墳などをもう少しくわしくみることでより明らかになるであろう。
私は日前・国懸神宮前に待たせておいたタクシーで、つぎはその岩橋千塚のある「紀伊風土記の丘」に向かった。
風土記の丘にて
古墳の群集地帯
やはりどこをどう走っているのかはわからなかったが、タクシーは間もなく市街地を離れた。するともう前方に青緑の山塊が見えはじめ、そこが和歌山県にもできていた紀ノ川南岸の「紀伊風土記の丘」だった。
国鉄阪和線の和歌山駅から東方を眺めると、二、三キロ離れたところに小山塊がつらなっている。山塊の山頂部には、五、六世紀の前方後円墳が各所に築造されており、そのような盟主的存在の古墳を中心に約六百基の古墳が集っている。この古墳群は岩橋(いわせ)千塚と総称され、一部は特別史跡に指定され、また風土記の丘が建設されている。
と、森浩一氏の「井辺八幡山古墳の埴輪」に書かれているそこである。風土記の丘はまだできたばかりで、一見したところでは、ちょうど新開地のそれのようだった。
片側には茶店などある舗装された一本の道路がつうじていて、原野のそこをずっと歩いて行くと、しぜん、山麓の「紀伊風土記の丘」資料館に達する、というぐあいになっている。そしてその辺には、江戸時代の農家や商家なども移築されたりしていたが、私はまず、資料館からさきにみることにした。
資料館は当地出身の成功者である松下電器の松下幸之助氏の寄贈になるもので、一名を松下資料館ともいうらしかったが、これはなかなかよくできたものだった。例によって展示品は縄文、弥生、古墳の各時代にわたるものだったが、なかには大谷古墳出土の馬冑はじめ、「奈良時代の土製カマド」として、『延喜式』にみえる珍しい「韓竃(からかまど)」などもあった。管理事務所でもとめたパンフレット『原始・古代の紀伊国』によってそれの説明をみるとこうなっている。
また、朝鮮から伝わって、この頃「韓竃(からかまど)」と呼ばれていた移動のできる土製のカマドも、把手のついた甑(こしき)や羽釜をともなって西日本各地に普及した。貯蔵用の甕(かめ)・壺・瓶(へい)などは須恵器が大部分をしめている。
それからまた、かつては朝鮮土器といわれたその須恵器にしても、日高郡日高町出土の見事な装飾付須恵器があるかとみると、いまも西牟婁(むろ)郡、東牟婁郡、「牟婁の湯」などにその語をのこしている「紀伊国无漏郡進上」うんぬんといった木簡(もつかん)などもみえる。无漏(むろ)すなわち牟婁とは朝鮮語で、日本語の「村」ということの原意なのである。
資料館のなかをひとまわりして出てみると、右手に池があって、その向こうにも古墳石室の開口しているのがみえるが、そこから資料館背後の山塊に展開している岩橋千塚古墳群への道がつうじている。しかし、そこまでは気軽に登ってみるというわけにはゆかない。また、わざわざ登ってみる必要もないであろう。
というのは、一つはそのような古墳だけだとしたら、われわれはこれまでにもたくさんみているし、またみることができるからでもあるが、一口に岩橋千塚古墳群といっても、その範囲は大日山、大谷山、花山、寺内、井辺(いんべ)、井辺前山といった多くの支群から成っているので、その全体をいちいちみて歩くということは、とうてい不可能なのである。
それで私は、和歌山市教育委員会編『和歌山市のあけぼの』にのっている末永雅雄氏撮影の航空写真によってその一端をしのぶよりほかなかったが、それだけでも、尾根にるいるいと築かれている古墳は、実に壮観というよりほかない。ほとんどが円墳で、私はこれをみて、いまもなおあちこちでみられるはずの、朝鮮の山の墳墓群を思いださないではいられなかった。
『和歌山市のあけぼの』によると、その岩橋千塚のことがこう書かれている。
和歌山地方で特に大きな古墳が数多くつくられたのは、紀ノ川河口平野の周辺ですが、なかでも南岸の岩橋千塚は日本でも指おりの古墳の群集地帯です。昭和三三年から四二年にかけて行なわれた調査の結果、六〇〇以上の古墳が確認され、大多数は五世紀から七世紀はじめのものであることが明らかにされています。このうち特に規模の大きな天王塚古墳(全長八〇メートル)をはじめとする一六基の前方後円墳と二基の大型方墳は、紀国造(きのくにのみやつこ)としてこの地方を支配していた紀氏(紀直=きのあたい)の族長たちの代々の墳墓であろうと考えられます。
なおまた、紀ノ川北岸にはさきにちょっとみた馬冑などが出土している大谷古墳があり、岩橋千塚にしても、その支群の一つである井辺前山古墳群中の雄である井辺八幡山古墳があるが、さて、ところで、古墳はその形よりそこからなにが出土しているか、ということが問題なのだといわれる。出土品によって、われわれはその古墳や被葬者がどういうものであったかを推しはかることができるからである。
井辺八幡山古墳の褌をしめた埴輪
それらの出土品については、さきに引いた岸俊男氏の「紀氏に関する一試考」にもかなりくわしく紹介されているが、しかし岩橋千塚を直接調査し、その支群の一つである井辺八幡山古墳を発掘した考古学者、森浩一氏の報告はなおいっそうくわしい。
だいたい、井辺八幡山古墳は全長八十八メートルの巨大ないわゆる前方後円墳であるにもかかわらず、それまでは、古墳であることが誰にも気づかれなかったものであった。墳丘の麓が蜜柑(みかん)畑として開墾されるのにしたがい、おびただしい埴輪の破片が出土したことから、それが古墳であったと知られたものであるが、やがて、その出土埴輪の破片から一体の人物像が復元された。
森浩一氏の同志社大学考古学教室がおこなったもので、私もいつか森氏とおなじ考古学者の尾崎喜左雄氏らとともに、同大学の考古学教室をたずねてその人物像を実見したことがある。トラック二台分もあった埴輪の破片から、二年間もかかってやっと復元されたという褌(ふんどし)をしめた裸形の男子像であったが、それが復元された意義は大きかった。森浩一氏は、それについてこう書いている。
この二年間、和歌山市の井辺八幡山古墳から出土した埴輪(はにわ)の整理をしていたが、このほどほぼまとまった。その結果、これらの埴輪は、これまで空白だった古代の「人」について、重要な資料を提供することがわかった。
古代日本人、とくに弥生時代から古墳時代中ごろまでの人間が、みずからの姿を絵画や彫刻にとどめることはまれである。もっとも、その時代のさまざまの遺跡や遺物がのこっているので、考古学では「物」を通して「人」の歴史を復元しているが、それでは具体的な人間は浮んでこない。時には人骨ものこっているが、骨だけでは髪の形や入墨の有無など習俗を知る手がかりがない。……
もちろん、従来の資料でも人の姿が皆無ではない。弥生時代の銅鐸や土器に人が描かれている。しかし、これは点と線だけの簡略化した表現で、細部はまったくわからない。また関東地方の古墳からは多数の男女の埴輪が発掘されているが、これは古墳時代後期のもので、先ほどのなぞを解くには少し新しすぎる。そのような意味で、この井辺八幡山古墳出土の埴輪は、最適ではないにしても、今のところ空白を埋める唯一の資料である。……
発掘当時は埴輪や土器の大半が細かい破片となっており、それが何の一部であるのか見当のつかないものが少なくなかった。それが根気よく続けられた復元作業によって、やっと最近、埴輪や土器の形となりだした。その全容は来春に予定されている発掘報告書で明らかにするが、ここではとくに注目された出土品である裸形の男子像の紹介をしておこう。
この男子埴輪は、立像で大腿部(だいたいぶ)が少しガニマタになっているが、堂々としていて顔もりりしい。すでに数多く知られている関東地方の男子埴輪にくらべると次の特色がある。(1)ふんどしだけ着用し裸に近い。(2)髪を後頭部で一本にたばねて垂下している。(3)はち巻をしている。(4)あごひげをたくわえている。(5)鼻の上に、へ形の黥(げい=入墨)をした形跡がある。(6)はだしである――。これらの諸特色を一身に集めていることが重要なのだが、とくにふんどしと髪形は注目せざるをえない。ふんどしというと、南方系を想像する人もあろうが、比較の方法を厳密にしてこの埴輪と同時代かそれに近い時代の資料を捜しだすと、どういうわけか中国大陸の北・東・西の周辺に点々と見出すことができる。この地帯は、古代においては遊牧騎馬系の諸族が活躍したところである。高句麗を例にとると、この国の人は古墳の石室の壁画となって姿をとどめており、ふんどしをした人物が三ヵ所の古墳に描かれている。いずれも二人一組で争っている図で、相撲の起源を考えるうえでも面白い。……
この古墳の埴輪は共存の土器から六世紀初頭のものと推定されるが、この古墳には裸形の埴輪だけでなく、ほかの埋葬品も北方系の特色が強烈である。たとえば鞍(くら)・あぶみ・くつわの三種の装具をつけた埴輪の馬や、タカ狩の風習をしめすタカ、動物や人物の小像で飾った各種の須恵器、埴輪の武人が背に負う角杯、さらに武人が手にもつ弓が短いことなどがあげられる。これらの遺物は古墳時代前期にはいずれも存在しなかったものばかりで、四世紀末ごろから急激に出現している。この現象を一般的には大陸文化の受容とか影響とかで片づけるのであるが、果してそう簡単に割切っていいのか。どうもこれらの「物」の背後にある「人」の存在を見落しているきらいがあるようだ。(「井辺八幡山古墳の埴輪」)
まさに、そのとおりであると私も思う。「『物』の背後にある『人』の存在を見落している」こと、これはなにも誰それと限ったことではない。これまでの日本古代史学全体がそうであるといっても、決して過言ではない。
「文化の伝来」とか「文化の伝播」などといったことばなどにもそういった意味が含まれていて、まるでその「文化」だけがひとりのこのことやって来たか、あるいは風に乗った種子かなにかのようにして飛んで来たものででもあるかのように考えられている。そうでなければ、さきにみた岸俊男氏の「紀氏に関する一試考」のように、ありもしなかった「大和朝廷の朝鮮経略」戦争によって、それがもたらされたものであるかのようにみられている。
大谷古墳の馬冑
樋口隆康氏の所説
たとえば、さっきから何度かふれている紀ノ川北岸の大谷古墳で発見された馬冑についての、樋口隆康氏の所説などにしてもそうである。
この大谷古墳も井辺八幡山古墳とおなじように、これも長いあいだ古墳とは気づかれなかったものであった。一九四九年になって、ようやく地元の地方史家により、そこに円筒埴輪列のあったことが知られたが、それが古墳であるとわかったのは一九五二年の夏になってからで、発見者は伏虎中学生であったという。
そして和歌山市教育委員会によって発掘されることになり、その発掘調査を担当したのは京都大学考古学教室の樋口隆康氏であった。一九七二年四月二十五日付けから五回にわたって朝日新聞(和歌山版)にのった「対談・大谷古墳のナゾ」によると、樋口氏はその古墳についてこうのべている。
樋口 和歌山と大阪を隔てる和泉山脈の南斜面に築かれた前方後円墳でした。位置からいって、和歌山には有名な岩橋(いわせ)千塚があり、それが昔の豪族の墓といわれ、この一帯の中心だと見られていたのです。ほかからはたいしたものが出ない、という一般の印象でしたが、大谷古墳を掘るとカブトや刀、玉類、耳飾りなどいろんな珍しいものが次々に出てくる。有力な豪族の墓が、紀ノ川の北岸にもあったのです。驚きましたね。それにあとでわかるのですが、大陸的な馬具などもいっしょに埋葬されていました。……
――いつごろのものと考えられるのでしょう。
樋口 いわゆる古墳時代の中期と後期の境目ということで、五世紀の終りごろと思います。
――ほかの古墳と同じように、やはり盗掘されていましたか。
樋口 掘り始めてすぐ石棺が出た。こんな浅いところでよく残っていたものだと思ったほどで、まず棺の中を調べたところやはり荒されていましたが、いくらかは残っていて、挂甲(けいこう)という小さな鉄片を皮ひもでとじ合わせたヨロイがありますが、皮ひもはなくなって、ばらばらになった鉄片が一方にかき寄せられた状態で堆積(たいせき)し、その上に刀やカブトがのせられていました。人間の歯、耳飾り、鏡なども見つかりました。
――例の馬冑(ばちゆう)は棺の外にあったんですか。
樋口 盗掘者は棺の外にまさかこんなものがあるとは思わなかったらしい。私たちも棺が埋まっていた状態を確かめるのが目的で周囲を掘ったところ、いろんなものが出てくるんです。棺の外が荒されていなかったのはラッキーでした。
それから外の副葬品は埋めた場所でひとつひとつ意味があることに気がついたのです。棺の西側は馬のヨロイとかカブト、アブミ、クラなどがあり、東側にも馬具が埋められていたのですが、鏡板など飾馬用の馬具です。そして北側ではホコが五本、みつかりました。
――なにか出てくるという予感のようなものはありましたか。馬冑を見つけたときはどうでした。
樋口 馬冑は最初人間用のヨロイがあって、それをとってみると変なものが見えましてね。見たことがないものですから、異常に思い、少しずつめくって行くと穴があいている。穴をさぐっていると、どうも馬の頭の格好になるんですね。たいへんだ、これは……と興奮しましたね。ものすごい感激ですよ。考古学者だけが味わう感激でしょうね。
「ものすごい感激」「考古学者だけが味わう感激」であったろうことは、考古学者ではない私にもよくわかるような気がする。しかしその馬冑(ばちゆう)について、樋口氏がさらに次のように語っていることについては、私はどうしても納得がゆかないのである。
――大谷古墳でみつかった馬具などから、騎馬民族が日本を征服したのではないか、という説もあります。その点、どうなんでしょう。
樋口 馬具は重要な意味がありますね。馬のヨロイとかカブトは戦闘用で、高句麗の壁画などにかかれたのと同じで、おそらく向こうでつくられたものが、大谷古墳でみつかったとみられます。これは騎馬民族がはいってきた有力な証拠になる、と一部ではいわれているのです。騎馬民族が征服して大和朝廷ができた、という説の根拠は、こういった出土品が重要なポイントになります。
しかし、いまのところ一点しかみつからない。騎馬民族が征服したのなら、もっとあっちこっちで出てもいいはずです。それと和歌山でみつかったことに意味があるように思うのです。
――といいますと、和歌山なら戦闘用の馬具があった理由がうなずけるのですか。
樋口 和歌山にいたのは紀氏(きのうじ)で、大和朝廷の時代に朝鮮へ出兵した有力な武族のひとつです。だから朝鮮で馬冑(ばちゆう)を手に入れるチャンスがあった。馬冑が一つしかない、しかも高句麗と接触している紀氏の墓からみつかった、とすれば騎馬民族がきたとしないで、戦利品というか、記念品として持帰ったと考えられます。
さきにみた岸俊男氏のそれとおなじで、これも「大和朝廷の朝鮮経略にしたがった紀氏」という皇国史観・侵略史観からきたものであることはいうまでもない。「戦利品というか、記念品として持帰ったと考えられます」とは子どもだましのようなはなしである。
その「馬冑が一つしかない」ということからもそういっているようであるが、なるほどそれは、「いまのところ一点しかみつか」っていない。しかしながら、その馬冑だけが決して馬具のすべてではないのである。
大規模な民族移動があった?
樋口氏自身もここでいっているように、この大谷古墳からも、「棺の西側」からは「馬のヨロイとかカブト、アブミ、クラなど」「飾馬用の馬具」が見つかっているし、そういう馬具は全国いたるところ、たくさんの古墳からいくらでも出土しているではないか。たとえば河内(大阪府)の古市(ふるいち)にある応神陵古墳の陪塚(ばいちよう)であった丸山古墳からは、いま国宝となっている朝鮮渡来の有名な金銅透彫鞍金具が出土しているが、これはいったい何だというのであろうか。
戦闘用の馬冑と、そういう飾り馬用とはちがうというのかも知れないが、その飾り馬にしても、さいしょは戦闘用のものとしてもちいられたことはいうまでもない。そして戦闘がおわれば、その馬をごてごてと飾り立てて権力のシンボルのようなものにしたこと、これはもう常識みたいなものとなっていることなのである。だから、大谷古墳でもその戦闘用の馬冑と飾り馬用とが併存していたのだ。
それになにより、だいたい馬そのものからして、これは朝鮮から渡来したものではないか。だから日本語ではこれを駒(こま)(高麗(こ ま)=高句麗のこと)ともいっているのであるが、するとこの馬(駒)も「戦利品というか、記念品として持帰ったと考えられ」るのであろうか。樋口氏ばかりでなく、ほかにもそういう論をなす学者がいるが、笑止というよりほかないであろう。
かりにもしそうだとしたら、ではさきにみた岩橋(いわせ)千塚古墳群中の井辺(いんべ)八幡山古墳から出土した、あの褌をした裸形人物埴輪はどういうことになるか。これはその風習からして高句麗系のものであることがはっきりしており、ついでにいうならば、中島利一郎氏の『卑語の起源』「ふんどし考」によると、このフンドシ(褌)ということばからして、朝鮮語のそれよりきているのである。
それからさらに、井辺八幡山古墳から出土したものは、その褌をした人物ばかりではなかった。ここからはまた、一九四九年に高句麗の故地であった北部朝鮮の黄海南道安岳郡で発見された安岳三号古墳の壁画にある武人のそれとそっくりおなじ形の、短弓を持った挂甲の武人埴輪も出土している。
すると風習などのこれらもみな、――しかし、もうやめることにしよう。なぜなら、日本の学者のなかにはそのような皇国史観・侵略史観に染まらない、ものごとを客観的にちゃんとみようとする学者もいるからである。
一九七二年七月二十六日付けの京都新聞をみると、さきに引いた森浩一氏の文章にあった「その全容は来春に予定されている発掘報告書」の完成したことが大きく報じられ、こう書かれている。
はにわや須恵器など出土した遺物がいずれも北方系文化の特色を濃厚に現わしていて、話題をよんだ和歌山県井辺八幡山古墳の正式な報告書が、このほど発掘を担当した同志社大学考古学教室(森浩一教授)の手でまとめられ、学界に新たな問題を提起することになった。同古墳の推定築造年代は六世紀の初頭で、畿内では日本の国家統一をめぐって戦国時代の様相を呈していたころ。この時期の日本で、日常生活や風習に北方文化が影を深く刻んでいたということが何を意味するかは注目すべき問題だが、森教授は「風習までが伝わるというのは、文化の接触だけでは考えられないこと。被葬者とその一族は自ら北方文化の体現者であったし、またこの背後に大規模な民族移動があったのではないか」とみて、従来、単に文化を受容したという形でこの問題を片づけていた学界に対して、日本古代史の体系を根本から検討し直すべきだと主張している。
そしていまさっきまでみてきた樋口隆康氏の所説と大谷古墳とについては、さらにまえの岸俊男氏の説とも関連して、そのことがこう書かれている。この「新たな問題を提起」されたことにたいして、学界なるところは別にまだなにもいっていないようであるが、しかしどちらがどうであるかは、おのずから明らかであろうと思う。
記紀などの文献によると、古代の和歌山には紀氏(きのうじ)という大豪族がいた。この一族は大和王朝時代の三韓征伐に出陣し、かくかくの武勲をあげた家柄だと伝えられている。そこで昭和三十一年に同市内の大谷古墳(五世紀後半―六世紀初頭)から騎馬民族が好んで使用した馬冑(うまかぶと)が出土したさいも、学界では、これは紀氏が朝鮮遠征中に、現地で入手した馬具を長年、家宝として保存したものだといった解釈が行なわれた。
こんど同じ和歌山の古墳から出土した数々の遺物について、同様の解釈が成り立たないでもないが、かりに戦勝者なら、角杯をかついで、鷹狩りを行ない、さらに猪を飼育したり、頭髪をわざわざ頭頂部からそり落としたり、あるいは死者の魂をしずめるために、はにわの力士像を墓に立てるといった、日常の行動から葬儀の風習まで生活の総体に相手(北方系民族)の様式をそっくりそのまま受容するものだろうか。
森教授が従来の学説に抱いた大きな疑問はここにある。そして同教授は、これまで古代史の標準的な資料とされてきた高句麗の好太王碑さえ、最近の朝鮮古代史学界の進展で全面的に検討を加える時期に来ていることも考え合わせて、「国家の起源を中心にした日本古代史の体系そのものをいま一度検討し直すべきだ」と主張するわけだ。
広開土王陵碑文の再検討
ここにいわれている「これまで古代史の標準的な資料とされてきた高句麗の好太王碑さえ、最近の朝鮮古代史学界の進展で全面的に検討を加える時期に来ている」とはどういうことか。これはたいへん重要な問題で、さきにみたように、「記紀の所伝はそのまま信じられない」としながらも、岸俊男氏や樋口隆康氏らがなおかつしがみついている皇国史観、「大和朝廷による朝鮮経略」の唯一無二の根拠も、実はここにあったのである。
いわゆる好太王碑、すなわち高句麗の広開土王陵碑文とはそのようにも重要なもので、これはなにも岸氏や樋口氏に限ったことではない。それが「全面的に検討を加える時期に来ている」ということは、これまでの日本古代史、私にいわせれば日本と朝鮮との関係史が「全面的に検討」しなおされなければならないということなのである。
広開土王陵碑文にたいするその「検討」とはいったいどういうことなのか。これについては、さきに私もあるところに一文を書いているので、それをここにうつしておくことにしたい。
――歴史とはもともと、そのときの権力者の命令と意思とによって書かれるものという。そういうものはいまもたくさんあると思うが、少なくとも古代にあっては、まさにそのようなものであったにちがいない。
たとえば、『古事記』『日本書紀』がそれであったと思う。この二書には朝鮮三国(高句麗・百済・新羅)とのことがあまりにもひんぱんに書かれているので、日本史を研究しているあるアメリカ人学者は、「『古事記』『日本書紀』、みんなコリア〈朝鮮〉のことを書いた本じゃないですか」といったのを私は聞いたことがある。
たしかにそのとおりで、この二書から朝鮮三国のことをのぞいてしまったら、あとになにがのこるかと思えるくらいだが、しかし問題は、その書き方にある。かんたんにいえば、朝鮮三国との関係は、ほとんどまったく転倒したかたちになっているのだ。
どうしてそういうことになったのであろうか。それを明らかにするには、いわゆる「帰化人」の問題はじめ、古代における朝鮮と日本との関係が綿密に再検討されなければならず、それはいまやっと緒についたばかりのようであるが、『古事記』『日本書紀』における転倒はそれだけではない。
たとえば、いわゆる「天孫降臨」はどうか。これはもちろん神話である。が、しかし、この神話がついこないだまでは、日本という国の歴史のはじめとなっていて、私なども学校でそれを教えられてきたものである。
いまではさすがにこのような神話を歴史として信じ込むものはいないだろうし、神功皇后の「三韓征伐」といったものも一応は教科書から姿を消しているようである。
しかしながら、日本の史家たちのなかにある皇国史観や朝鮮にたいする侵略史観は決してなくなったわけではない。
紀元三世紀ごろ、朝鮮半島の南部には韓(かん)民族がそのころの日本と同様に小国家群を作り、馬韓・辰韓・弁韓の三つに分かれていたが、日本の統一と相前後し、四世紀の前半ごろ、馬韓・辰韓はそれぞれ百済・新羅という二つの韓民族の国家に統一された。四世紀にはいると、大和政権の勢力は朝鮮半島に進出し、小国家群のままの状態にあった弁韓を領土として、ここに任那(みまな)日本府を置き、三九一年には、さらに軍隊を送って百済・新羅をも服属させた。半島南部を征服した大和政権は、半島の富と文化とを吸収して、その軍事力と経済力とを強化し、国内統一はこれによって著しく促進された。
これは三省堂から出て、一九七二年三月、再版となっている高校教科書『新日本史』に書かれているものである。さらにまた、「百済はその後も日本への服属を続けたが、韓民族として自覚の強い新羅は高句麗と結んで日本に反抗を続けた」とも書かれているが、この『新日本史』の著者は「教科書裁判」で有名な家永三郎氏である。
反体制的と政府のほうからはみられているその家永氏にして、古代の部分はこれであるからあとは推して知るべしというものである。だいたい、日本の史家たちがこぞってこのように書いているその根拠はいったい何であろうか。
『古事記』『日本書紀』が歴史書としてそのまま信用できないものであることは、今日では常識のようなものとなっているので、その唯一の文献学的根拠となっているのは、中国東北(旧満州)の輯安(しゆうあん)で発見された高句麗の広開土王(こうかいどおう)(好太(こうたい)王)陵碑文にほかならない。だから、いまみた家永氏の『新日本史』にもそれの写真が掲げられて、こういう説明が付されている。
三九一年の日本の朝鮮出兵は、今も満州に残っている高句麗の広開土王(好太王)碑にしるされているところであるが、これによると、日本軍は今の京城(けいじよう)〈いま京城というところはない。南朝鮮・韓国のソウルのことである=金〉付近まで北上し、新羅を救うために南進した広開土王の軍と戦っている。
広開土王陵碑文のある部分をこのように読んでいることについて、朝鮮の学者のあいだでは早くから疑問がだされていたが、一九七一年、雑誌「思想」三月号に中塚明氏の「近代日本史学史における朝鮮問題――とくに“広開土王陵碑”をめぐって――」が出て、ようやくこのことは日本の学者のあいだでも、大きな問題となった。そして、「日本歴史」の一九七二年四月号には佐伯有清氏の「高句麗広開土王陵碑文再検討のための序章」が出たが、それによると、日本の史学者たちが金科玉条のようにしているその碑文の拓本(じっさいは双鉤加墨本)はもともと、日清戦争にそなえて満州のその辺を探査していた酒勾景信(さこうかげあき)なる日本の陸軍大尉が明治十七年に発見して持ち帰ったものを、当時の陸軍参謀本部が「解読」したというものであった。
これだけでも私などには相当なおどろきだったが、さらにまたつづいて「思想」の一九七二年五月号に、在日朝鮮人考古学者である李進煕氏の長年にわたる調査にもとづいた「広開土王陵碑文の謎――初期朝日関係史上の問題点――」が出るにおよんで、私はなおいっそうおどろかないではいられなかった。これを読んだ京都大学の上田正昭氏は、「高松塚壁画古墳発見につぐ大事件ですよ」と私に言ったが、まさにそのとおりだと思わないわけにゆかなかった。
それによると、当時すでに朝鮮の植民地化をめざしていた日本の陸軍参謀本部は、その碑文をただ「解読」しただけではない。さらに現地の広開土王陵碑に接近し、ものいわぬそれに「石灰塗付作戦」をおこなって碑文を改ざんした。そうして、国内の学者たちに配布するそのインチキ拓本をつくったというのである。
これがすなわちさきにみた教科書の広開土王陵碑文なのであるが、それにしても日本の史学者たちは参謀本部のそれをそのままに受けとって、いままで少しも疑ってみようとしなかったのはいったいどういうことであったのか。それは結局、日本の史学者たちもまた明治以来の富国強兵、朝鮮・大陸進出路線とともに歩いてきたということであり、それによってできた皇国史観、侵略史観の体質ということにほかならないであろう。――
伊太祁曾(いたきそ)から隅田(すだ)八幡へ
伊太祁曾神社の祭神は?
こんどは風土記の丘の入口に待たせておいたタクシーで、和歌山市伊太祈曾(いたきそ)にある伊太祁曾神社をたずねることにした。本来ならとことこと歩くか、さもなければバスを利用して、その道すじなどをよくたしかめながら行くとよいのだが、時間のことがあってなかなかそういうわけにゆかない。
例によってタクシーはどこをどう走っているのかわからなかったが、伊太祁曾神社前についたときタクシーのメーターをみると、まだ千円ちょっとしか出ていなかった。和歌山駅前から市役所と教育委員会へ、それから日前・国懸神宮、紀伊風土記の丘をへて来たわけだったが、してみると、それはどれも近距離にあったのである。
伊太祁曾神社は常盤(ときわ)山麓に社殿をそびえ立たせている、これまた広大な神社だった。『永享文書』に、「日前・国懸影向(ようごう)ノ刻(とき)彼ノ千町ヲ両宮ニ進ジ去リ山東ニ遷リ給フ」とあるとかで、この神社ももとは日前・国懸神宮の地にあったものといわれる。それが七一三年の和銅六年に当地に遷座したものだそうで、祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子、五十猛(いたけるの)命(みこと)ほかということになっている。
起伏の多い、広い境内を歩いてみると、明らかに古墳ではないかと思われるものもあって、この神社ももしかしたらその古墳を祭るために、すなわち紀氏からわかれ出たものの祖神廟(びよう)としてできたものではなかったかと思われた。のちにえた『紀伊国祖神伊太祁曾神社由緒略記』によって知ったが、俗に「天の岩戸」といわれているというそれはやはり古墳だった。
「これはまぎれもなく千数百年前の古墳である。しかし何方(どなた)のものであるか、口碑伝説さえないのは口惜しい極みである」とあるが、しかし一方またこの神社は紀伊国、すなわち木の国の伝承と密接に結びついているものなのである。あとでみるように、この神社が紀氏(木ノ氏)からわかれ出たものの祖神廟としてできたものとしても、その伝承と密接なことに変わりはない。
念のため由緒書をもらってみようと、社務所に寄ってみたところ、あいにく宮司の奥鈴雄氏は不在で、そこに来訪者用のメモがおいてある。いま不在だが、来訪者はそれに用件をしるしておけ、というわけである。
で、私もそれに、由緒書をもらいたいと思って立ち寄ったこと、もしそれがあれば送ってもらえないだろうか、ということをしるしておいた。そして数日後、東京へ帰ったところ、宮司の奥氏からはいまみた『紀伊国祖神伊太祁曾神社由緒略記』が送られてきて、なかにこういう手紙がそえられていた。
折角、遠路ご来参下さいましたのに、不在で失礼いたしました。ご伝言どおり、『由緒略記』同封いたします。
なお、もしあなたが朝鮮の方ならば、おたずねいたします。
『由緒略記』にありますとおり、五十猛命は朝鮮に居られました。従って〈当社は〉どの神社よりも朝鮮にご縁が深いのであります。
『由緒略記』にある曾尸茂梨(ソシモリ)とは現在のどこなのでありましょうか。また、五十(イ)猛(タケル)とか曾尸茂梨というのは、朝鮮の古語なり現代語なりではどういう意味でありましょうか。
年来、何とか知りたいものだと考えておりますので、どうかよろしく……。
むつかしい質問だったが、曾尸茂梨のことについては、まえにも書いたことがある。つまり曾尸茂梨とはいまも朝鮮の江原道春川にある、もと新羅の牛頭山と同義語であったというのがその一つ。
曾尸茂梨の尸(し)は助詞であるから、その助詞をとるとこれは曾茂梨ということになる。したがって、牛頭というのを朝鮮語で訓読みにすると、これがソモリ(牛頭=曾茂梨)となるのである。
それで、曾尸茂梨の曾茂梨(牛頭)から来たものとされている素戔嗚尊のことを「牛頭天王」ともいっているというのであるが、しかしそれはちがう、という説もあって、こちらがいまではほぼ定説となっているようである。すなわち、曾尸茂梨の曾茂梨とは、新羅の原号であった徐羅伐(ソラブル)、すなわち「ソの国のフル」からきた今日の朝鮮語ソウル(都京)のことで、素戔嗚尊というのは、新羅のそのソウル(都京)であった慶州からきたものである、というのがそれである。
素戔嗚尊の子とされている五十猛命にしても、あるいはもしかするとそういった朝鮮語からきているのかも知れないが、しかしこれはわからない。わからないが、これについて一つ思いだされるのは、いわゆる『魏志』の倭人伝で知られている伊都(怡土)の県主(あがたぬし)の祖となっているのが五十(い)跡手(とで)だったということである。
『筑前風土記』(逸文)によると五十跡手は、「われは高麗国の意呂(おろ)山に天降った日桙(ひぼこ)の末裔五十跡手なり」といっている。ここにいう日桙とは新羅・加耶から渡来の天日槍(あめのひぼこ)のことであるが、この五十跡手と五十猛とはなにかで関係があるのかないのか。そういえば伊勢(三重県)には五十鈴川というのもあって、どうもこの「五十」というのは私も気になるが、しかしやはりわからないというよりほかない。
紀氏=木氏は高句麗から渡来
それはさておき、伊太祁曾神社の祭神となっている五十猛命はその父である素戔嗚尊とともに韓国(からくに)、すなわち朝鮮から樹木の種を持って紀伊国に来たもの、ということになっている。そして、「鎮座せられた此の地を木の国(のち紀伊に改む)と称するに至る。即ち紀伊国の祖神とも称うべき神であらせられる」(『紀伊国祖神伊太祁曾神社由緒略記』)というふうになったものであった。
それだったから、紀伊国はむかしから樹木が多く、それでたくさんの船もつくられたというのであるが、しかし樹木が多いのは、日本ではなにも紀伊と限られたわけではない。その点、日本は実によくめぐまれたところで、今日でも、どこへ行ってみても山々はみなうっそうと樹木が生い茂っている。
にもかかわらず、ひとり紀伊だけがもとは「木の国」であったのは、どういうことからであったろうか。さきにみてきた日前・国懸神宮を祖神・氏神として祭り、岩橋(いわせ)千塚古墳群などをその墳墓の地としたこの紀伊の大豪族であった紀氏というのも、もとは「木」の木氏であったものだった。
ここで読者は、私がさきの「日前・国懸神宮と紀氏」の項のおわりに書いていることを思いだしてもらいたい。私はそこに、紀氏の出たそのさきは高句麗ではなかったかといい、つづけて岸俊男氏の「紀氏に関する一試考」の「注」を引いてこう書いた。
紀氏は古事記ではもっぱら木臣・木角宿禰と表記され、書紀では一般に「紀」の用字に統一されているが、孝徳紀大化五年三月庚午条には木臣麻呂とみえる。「紀」氏の用字は国名としての「紀伊」が「木」に代わって用いられてから、「木」→「紀伊」→「紀」と変化したのでなかろうか。なお百済に「木」なる姓があり……。
百済に「木」なる姓があったどころではない。これは百済八大姓の一つとして著名なもので、大和飛鳥でその権勢をふるった蘇我氏族も、百済のこの木氏から出たものであったという(門脇禎二氏の『蘇我氏の出自について』)。そしてこの蘇我氏のさきだった木満致にしてもまた……。
木氏の紀氏のさきが朝鮮の高句麗で、そこから渡来したものであったろうことは、これまでみてきた岩橋千塚古墳群、とくに同志社大学の森浩一氏らによって発掘調査された井辺八幡山古墳や、大谷古墳などの出土品からしてだいたい明らかであるが、それならどうして、それらの古墳を造営した紀氏が百済八大姓の一つであった木氏だったのであろうか。このことは、百済・安耶(あや)系とみられている東(やまとの)(大和)漢(あや)氏族と結んで権勢をふるった蘇我氏についても同様のことがいえるであろう。
だが、答えはかんたんである。朝鮮の古代史に少しでもつうじているものなら誰でも知っていることで、朝鮮には高句麗・百済・新羅といった三国が鼎立して互いに覇を競った時代があったが、しかしこれももとはといえば、南の馬韓におこった百済は、北の高句麗族の一部が南下してつくったものであった。
したがって百済とはいっても、その支配層は高句麗から来たものであった。それだったから、当時の支配層のそれを意味した百済八大姓の一つであった木氏にしても、それのもとは高句麗だったはずである。
おなじ木氏からの出であったという大和の蘇我氏にしても、これまた同様のことがいえる。つまり、それであったからこそ、この蘇我氏は百済・安耶系とみられている東漢(やまとのあや)氏族とも容易に手を結ぶことができたのであろうし、また、その漢(あや)氏族の中心根拠地であった飛鳥の檜隈(ひのくま)で発見された高松塚壁画古墳が高句麗系といわれるのも、このような事情によるものなのであろう。
紀ノ川の上流の隅田八幡神社へ
伊太祁曾神社をあとにした私は、紀ノ川に沿って橋本というところへ向かっていた。橋本市は、紀ノ川をほとんどのぼりきった上流、大和(奈良県)の五条市にずっと近寄ったところにあった。
手にしていた宮崎修二朗氏の『南紀・伊勢・志摩・吉野』を開いてみると、橋本市についてこうある。
高野街道と伊勢街道の交差点にあたる。天正年間(一五七三〜九二)木食上人(もくじきしようにん)が塩市をひらき、紀ノ川に二三六メートルの大橋を架けて高野山への往来を便利にしたので橋本の名が出来た。
木食応其(おうご)上人は近江観音寺の城主佐々木義秀の子で、彼が開いた応其寺が駅の南西三〇〇メートルにある。市内隅田駅の北西一キロの隅田(すだ)八幡神社には、国宝の人物画像鏡がある。銘文によって四―五世紀ごろ鋳造されたことがわかり、日本で最古の金石文として有名。駅売りの鮎ずしが名物。紀州竿、ステッキ、洋傘の柄など竹製品が出来る町でもある。
「駅売りの鮎ずし」や「紀州竿、ステッキ、洋傘の柄など」はいまのところ用がなく、私が目ざしていたのは、「国宝の人物画像鏡がある」というそこの隅田八幡宮だったことはいうまでもない。ここへはまえから一度行ってみたいと思っていたし、できればその人物画像鏡も一見したいものと思っていたのだった。
そしていまいよいよそれを実行することになったわけだったが、橋本市のそこまではかなりの距離であった。どこまで行っても、そこをゆうゆうと流れている紀ノ川は、なかなかつきそうにない感じなのである。
そこで私はまたあらためてその紀ノ川の長大なことを知り、その川のもつ意味を考えさせられた。紀ノ川といえば、これは有吉佐和子氏の小説『紀ノ川』でも知られているが、沿岸にひろがっている人家のたたずまいをみても、その小説に描かれた伝統的な人々の生活が、いまなお息づいているように思われた。
だいたい、いまもそうであるが、とくに古代の人々の生活は、川とともにあった。山があれば川があり、その川の流れるところには平野がある。そしていまでこそ人々の生活は平野に集中しているけれども、しかし古代にあっては、周囲が見通しの平野より、むしろ山間部のほうが住みよいとされていたのではなかろうか。
紀ノ川がだんだんと山間部となるのにしたがって、私はそんなとりとめのない思いにふけったりしたものであるが、考えてみれば、日本最古の金石文のある人物画像鏡を持った隅田八幡宮が、そんな山中にあるというのもふしぎのようなことだった。それのある橋本市はいまも人口三万余の小さな町だが、かつての古代はもっともっと辺鄙(へんぴ)なところであったはずである。
いつもこういったことの資料調査に協力してくれている、若い友人の阿部桂司君が国会図書館あたりからさがしだしてきてくれた橋本をそこに含む『伊都郡誌』によってみても、その「郡中の郷名」はほんのわずかでしかない。すなわち、こうである。
和名抄には郡中の郷名神戸(かんべ)、加美(かみ)、村主(すぐり)、揖理(いぶり)、桑原の五あり。神戸郷は丹生明神の神封にして紀ノ川の南部なり。加美は上の義にして、郡中紀ノ川の上なるを以て斯(か)く呼びしなるべし。即ち現今の隅田村、橋本町附近なり。村主郷の地位定かならざれども、高野山所蔵元久元年の文書に保元年中造内裏時山田村主両荘事云々とあり。即ち村主は山田に近き所なるべければ、現今の山田村附近なるべし。村主はもと県主(あがたぬし)に従いて戸口を掌(つかさど)りし職名にして、郷名となれるは其の居りし地より起れるならん。
ここにみえる村主(すぐり)郷のあった山田村は、これも隅田村とともに、いま橋本市に合併されてなくなっているが、ここにそんな郷村があったというのはおもしろい。たぶん、揖理(いぶり)などというのもそうではなかったかと思うが、スグリ(村主)というのは古代朝鮮語で、高柳光寿・竹内理三編『日本史辞典』にこうある。
すぐり 村主 古代の姓(かばね)の一。語源は村落の長という意味の古代朝鮮語にあるという。多く、渡来人系の小豪族の称したものであったが、六八四(天武一三)八色の姓で制度上は廃止。
『伊都郡誌』の説明するように、村主が「県主に従いて戸口を掌りし職名」であったかどうかは知らないが、古代朝鮮語で村落の長を意味したそれがここの郷名となっていたということは、これからみる隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡とあわせて、なかなか示唆深いものがある。私がいま、「ここにそんな郷村があったというのはおもしろい」といったのも、そういう意味からだったのである。
渡来人の手になる人物画像鏡
さて、ところで、その人物画像鏡である。これは江戸時代に橋本市の妻(つま)というところから、土器、刀剣などとともに発見されたものであるが、まず、安藤精一氏の『和歌山県の歴史』をみるとこう書かれている。
熊本県江田船山古墳出土の太刀の銘文とともに日本最古の金石文(きんせきぶん)として有名な、橋本市隅田(すだ)八幡神社所蔵の国宝“〓製(ぼうせい)人物画像鏡”は、すでに江戸時代から「紀伊国名所図会」などにもしるされている。これは中国の漢代の画像鏡を、日本で忠実にまねてつくったものであるが、その技術はいままでに発見されたこの種のもののなかでもとくにすぐれている。鏡の周囲に『癸未年八月日十、大王年、男弟王、在意柴沙加宮時、斯麻、念長寿、遣開中費直、穢人今州利二人等、取白上同二百旱、作此竟』の銘文がある。
これは、大王の御代の癸未(みずのとひつじ)の年八月、男弟王が忍坂(おしさか)宮(意柴沙加宮)にいませしとき、斯麻(しま)(男弟王の臣)が大王の長寿を祈って、河内直(かわうちのあたえ)(開中費直)と穢人(あやひと)の今州利(いますり)の二人をつかわして、白上銅二〇〇旱(かん)をとってこの鏡をつくる、という意味である(日十大王は仁賢天皇〈億計尊(おけのみこと)〉、男弟王は継体天皇〈男大迹尊(おおとのみこと)〉といわれているが、日十を日下(くさか)とよむなどの異説もある)。
この四八字の銘文に興味ある古代史実が物語られているため、従来、考古学・古代史学者のあいだでよみかたや年代について大いに注目されてきた。とくに「癸未年」については、三二三年と四四三年、五〇三年などの諸説があるが、だいたい六世紀ごろのもので、大陸文化との密接な関係を物語っている。
この隅田(すだ)八幡宮所蔵鏡の銘文については、一昨年、南部朝鮮の公州で発見・発掘された、『日本書紀』武烈四年条に斯麻(嶋)王となっている百済武寧(ぶねい)王陵の墓誌によって、銘文中の「癸未年」は五〇三年であることがだいたいはっきりした。しかしなお、吉江亮仁氏の「隅田八幡宮所蔵画象鏡銘文私考」をみると、いろいろな「諸説」が紹介されている。しかしいまいちいちそれにかかわっていることはできないから、そのうちの一つ、早稲田大学の水野祐氏のものをみておくことにしたい。
水野氏は、「癸未年八月日十、大王」というのは「癸未年八月、日十(オソ)大王」であるとして、次のように読んでいるというのである。
水野氏はこれを音読し、天皇の実名や諱(いみな)ではなく、一種の尊称で、新羅の古史にいう次次雄・慈充に通ずるものであるとし、これは新羅古音ではSu-Sunとよみ、転訛すればスクネ(宿禰)となるとし、「日十大王」をもって書紀に「雄朝津間稚子宿禰天皇」とある允恭天皇にあてられたのである。……
かくて氏は鏡銘の意味するところは、「癸未年、すなわち西紀四四三年、允恭天皇とその男弟王(イロトノキミ)即ち異母弟大草香皇子とが、皇后忍坂大中姫の宮邸におられた時(天皇は登極の当初は病弱であったので皇后と異母弟が朝政を輔(たす)けられていて)、その臣の斯麻が天皇の長寿を祈念する意味で、配下の百済系の帰化人である河内直・穢人今州利をして鋳造せしめた鏡である」というふうに解されたのである。
朝鮮・新羅の次次雄の転訛が宿禰、すなわち日本古代史によくみられるなになにの宿禰というのが、次次雄・慈充といった新羅の尊称の転訛したものであるというのは、おもしろい意見だと思う。これについてはいずれまたみることになるかも知れないが、ここにいう河内直(開中費直)や穢人今州利が百済系の渡来人であるということは、すでに定説となっているものである。
つまり、隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡がいつどこで、どうしてつくられたかということについてはまだ諸説があるとしても、それがいまいった渡来人の彼らの手によってつくられたということでは、諸説みな一致しているのである。
河内直というのは、天武朝に連姓となり、『新撰姓氏録』に「河内連、百済国都慕(とぼ)王男、陰太貴須(いむたきす)王より出ずるもの也」とあって、これは河内(大阪府)に氏寺としての河内寺などを持っていたものであった。この一族からは、天智朝に遣唐使となった河内直鯨といったものも出ている。
穢人(あやひと)今州利の穢人というのは、『日本書紀』などに「漢(あや)」「穴(あな)」と書かれたものと同義で、これは古代南部朝鮮の小国家、安耶(あや)・安那(あな)からきたものであった。東(やまとの)(大和)漢(あや)氏などという、その漢ともおなじものなのである。
橋本市内にはいると、隅田八幡宮はすぐにわかった。西南の田んぼのあいだに一本の道がつうじていて、そこに「隅田八幡宮」とした大きな額のかかった鳥居が見え、それからさきの両側はきれいな松並木となっている。
八幡宮はその並木道を突きあたったところの、小高い丘のうえにあった。石段を登ってみると、かなり広い境内だった。あちこちには、いくつかの境内社などもみえる。
社務所では宮司が不在で、奥さんらしい人がかわりに出てくれた。由緒書をもとめ、「人物画像鏡は――」といってたずねたところ、それはいま東京の国立博物館へ行っているという。
もしそこにあったとしても、国宝となっているその画像鏡はなかなかみせてもらえないものと思っていたが、そうなっていてはなおさらのこと、どうしようもなかった。遠路をそこまで来て、隅田八幡宮をこの目でみたというほか、つまりは徒労におわったわけであった。
しかもそのうえ、社務所でもとめた由緒書がこれまた、どうしようもないものだった。人物画像鏡の絵はがきが一枚そえられたもので、それはそれでよかったが、「由緒」としてそこにこう書かれている。
当神社は神功皇后三韓御征討御帰朝の際筑紫を発し紀伊の湊に着し給う。
夫れより大和の都に御還幸の途次輦を此の地に駐め滞留なさせ給いし旧蹟にして人皇第二十九代欽明天皇の朝応神天皇御経歴の地に祠を建て斎祀すべきと諸国に詔ありその際之を奉じて創建勧請せしものなりと謂う。
こういった神社の「由緒」のあてにならないものであることはいうまでもない。しかしそれにしても、これなどは史実をまったく無視した、あまりにもひどいものといわなくてはならないであろう。
酒造の神をたずねて
百済から伝えられた酒造法
前夜は和歌山市内泊まりとなって、翌朝、私はそこから隣の海南市へ向かった。同市鳥居に住んでいる、松本武一郎氏をたずねるためである。
私は日本のなかにあるこの朝鮮文化遺跡の「旅」をはじめて、すでに満三年以上になる。そのあいだにはそれが『日本の中の朝鮮文化』という三冊の単行本になっているということもあって、私は毎日のように、全国の人々からたくさんの手紙をもらっている。ある日の、そのなかの一通にこういうものがあった。
『日本の中の朝鮮文化』を拝見いたしました。
私は目下、和歌山県酒造組合連合会の委嘱を受けて、和歌山県古代の酒造を調べています。そして、朝鮮の酒造技術の影響に驚いています。
和歌山市鳴神というところに、鳴武神社というのがあります。祭神は鳴武大明神で、この明神は百済国耆闍王の四女で、酒壺七つをもって天降ったと言うことです。
また、『日本霊異記』によると、海南市阪井(古名桜村)で岡田村主(すぐり)の妹が酒を造っていたと言う話があります。村主は朝鮮系の人に与えられた姓(かばね)だそうですから、朝鮮系の酒造技術を中心としていたものらしいのです。
他にまた、和歌山市井辺の古墳や住居跡からは弓を持った騎馬姿や、はち巻をして褌をしめた土偶(埴輪)なども出たそうです。それから紀ノ川の北岸にも、朝鮮系の人がたくさん住んで居たことと思います。……
右のうち、井辺八幡山古墳群などのそれはさきにみたとおりであるが、百済からきた酒造の神が鳴武大明神として祭られているということは、はじめて知ることだった。『日本霊異記』を開いてみると、なるほど岡田村主石人(いわひと)の妹が桜村で酒を造っていたことが、「寺の利殖のための酒を借りて返さないで死に、牛に生まれて使われた話」として出ている。
海南市の海辺近くにあった松本氏の家というのは、これも「金波鶴」という酒の醸造元だった。だが、いまはその酒はあまり造っていないらしく、六十にはなるかと思われる松本さんは、もっぱら『和歌山県酒造史』のための調査研究に打ち込んでいるようであった。
私はまず酒造のことについて、松本さんからいろいろなことを教えられることになった。大方の読者もそうではないかと思うが、私も酒は好きでよく飲むけれども、それがどういうふうにして造られ、どういう歴史をもっているかということについては、ほとんどあまり関心がなかった。『古事記』や『日本書紀』にはその酒造も五世紀ごろ朝鮮の百済から渡来したということが書かれているが、それにも私はあまり関心がなかった。だが、考えてみると、この酒というものはなかなかたいせつなものなのである。
それによって、いまもなお人が生き死にすることがあるばかりではない。とくに古代にあっては、それこそ「百薬の長」であったかどうかは知らないが、これは「薬」としても使われていたものだったのである。その酒の伝来については、『新撰姓氏録』の「酒部公(さかべのきみ)」にこう書かれている。
同じき皇子(五十香彦)の三世の孫、足彦大兄王の後(のち)なり。大鷦鷯〈仁徳〉天皇の御世に韓国(からくに)より参来(まいこ)し人、兄曾曾保利(えそそほり)・弟(おと)曾曾保利二人あり。天皇、何の才(かど)か有ると問いたまいけるに、酒を造る才有りと白(もう)しければ、御酒(み き)を造らしめたまいき。
ここに「韓国」とあるのは百済のことらしいが、日本で酒といえば日本酒、すなわち清酒のことである。しかし、それが今日のような澄んだもの(清酒)となったのは、江戸時代以後であったという。酒造方法の革新だったわけであるが、その以前は朝鮮の濁酒のそれとおなじようなものであったらしい。
これも松本さんに教えられた坂口謹一郎氏の『奈良朝の酒造』というのをみると、そのことがこう書かれている。
先ず百済から伝わったといわれる方法が、どんな方法であったかが問題である。けれどもこれは現在も中国や朝鮮で行なわれているのと似たようなものであったに相違ないと思われるふしがある。それというのは、酒造の伝来に大体近い時代の後魏の時代(五〇〇年頃)に著わされた『斉民要術』という書物に書いてある酒の造り方から我国へ伝えられた当時の方法がわかるし、その上にそれは現今といっても第二次大戦前までの話であるが、中国で行なわれていたものと大すじにおいて大差がないのである。そして今の朝鮮の濁酒や薬酒(清酒)のつくり方もまたこれと大同小異である。それだからこれを他の言葉でいいかえれば、当時百済を経て日本に伝わった酒造法は、恐らく『斉民要術』に書かれている方法と大差なく、従って現在中国や朝鮮での酒造法に近いものであったと断じても、大したまちがいはないということになる。
薬王寺から鳴武社跡へ
さて、そこで、私は松本さんのクルマで和歌山市鳴神へ向かった。岡田村主の妹が酒を造っていたというところはともかくとして、途中さきに、『日本霊異記』のそれといわれる薬王寺をたずねてみることにした。
その辺は、のどかな農村地帯だった。しかしそこはもと薬勝寺というのがあったところから、地名も薬勝寺となっていて、なるほどさもあったかと思われるような地だった。
薬王寺はそのような一帯の地を見おろすようにして、急な石段のうえにちょこんとある小さな寺だった。もちろん、むかし「酒をつくらせては利殖をふやしていた」というそんなおもかげなど、いまは少しもありはしない。しかしながらそれがいまなお薬王寺であり、その辺一帯が薬勝寺となっていることには、なかなか意味があった。さきにも言ったように、古代にあっての酒は酔うばかりのものでなく、それは貴重なアルコール精分、すなわち薬でもあったのである。
例によって、クルマだものだから、私にはどこをどう走っているのかよくわからない。樹木の茂った山裾を走っていて、松本さんはその右手の山をさして言った。
「これがあの古墳の発見された、井辺(いんべ)八幡山ですよ」
「ああ、そうですか」
私はクルマのなかから体をちぢめてそれをみようとしたが、もうクルマはそこを走り抜けてしまっていた。と、間もなく、鳴神社と道路をあいだにはさんでならんでいる鳴武社跡についた。つまり要するに、それは井辺八幡山近くだったのである。
私たちは、クルマをおりた。が、さきにまず、松本さんがいま書きはじめている『和歌山県酒造史』第二章「古代紀伊の酒造り」「一、鳴武社」(私はその原稿のコピーを送ってもらった)によってそれをみておくことにしよう。
国鉄和歌山駅から日前(ひのくま)宮・国懸(くにかかす)宮の前を通って更に東へ行くと、海南市へ通ずる道と鳴神団地への道とに分れる。この辺は和歌山市でも東郊外で、人家は街道筋にあるだけ。春などは、のどかな風景が見られる。
この一帯は最も早く稲作の行なわれた地帯の一つで、『紀伊続風土記』の古代地図によると、入江になっていて海岸に近かったらしい。その海岸に幾十万年の間、紀ノ川が運んで来た大和、紀伊の土砂が堆積して一面の台地や湿地が形成されていて、殊に南岸のこの一帯は沃土だったらしく、多くの古代住居跡がある。
そして松本さんは、そこにある「鳴神、鳴武社を中心にすれば約五キロ以内に三ヵ所もある」その古代住居跡などの発掘調査の結果を説明し、つづけてこう書いている。
以上三つの違った生活基盤であった遺跡を訪れる道路の分岐点にあたるところのすぐ北側に、標題の鳴武神が鎮座まします。
この分岐点に人家にかこまれ、泥にまみれて「鳴神社」と刻まれた一対の石の常夜灯が建っている。そこからは左側にアパートの建ち並んだ田んぼ道を一〇〇メートルほど行くと正面はハヤアキツヒコ神とハヤアキツヒメ神を祀った鳴神社(式内社)である。両神はイザナギノミコトの子供たちで、紀伊の水門(みなと)を守る神々である。
その鳴神社の前の小川の左前に、石の祠(ほこら)がある。田の中に短い雑草の生えた六十坪ほどの空地があり、その中に正面三・五メートル、横三・八メートル、高さ一・三メートルほどの石垣で築いた台地がある。その台地に石の玉垣にかこまれて、この石祠が立っている。
元は神社であったらしいが、天正年間の兵火にあい、その後慶安三年、紀州徳川家がこの石祠を建てたのである。
この冷たい石の祠に祀られている御祭神ははるばる百済から酒壺を携えて渡来し、百済の酒造技術を伝来した鳴武大明神のそれである。鳴武大明神は、
「百済の国、耆闍王の四女なり。日前宮の摂社神にして、祭霊九月二十六日。天降り給うや、酒壺七ツ飛びて共に以て降る。今に田中鳴神社前に臥し居る。長さ一丈、又は七尺、七ツながら今に有り。人多くこれを見たり。……熊野有馬村にまします音無しの神、イザナミノミコトの後身なり」(『続群書類従』巻五十九「麗気記」「鳴武大明神」)
「麗気記」とはどういうものか私にはわからないが、「七ツながら今に有り」というのは七つの酒壺のことで、それはいまもその石祠の下に埋められていることになっている、と松本さんは言うのだった。
ほんとうにいまもその下に埋まっているかどうか、掘ってみればわかることだが、しかしながらこのばあい、それはどちらでもいいようなものであろう。それよりたいせつなのは、どうしてここにそのような伝承の石祠があるかということである。
私も、「鳴武神/慶安庚寅」とあるその石祠の前に立ち、もっともらしいような顔をして、とみこうみしたものである。しかしそんなにしてみたところで、それはわかるはずがない。
つまりはわからずじまいとするよりほかないが、みると、その石祠の背後の向こうに道路一つを隔てて、いわゆる式内の鳴神社というのがあるのも気になる。これはいまも立派な神社の形をしていて、松本さんのそれによれば、「紀伊の水門(みなと)を守る神々」を祭っているものだという。
私のみたところでは、こちらの鳴武神にしろ、向かいの鳴神にしろ、もとはおなじ境域にあったものではないかと思われる。とすると、この鳴武、鳴神の「鳴(なる)」とはいったい何だったのであろうか、とも思われてくる。
その鳴を松本さんは「水音の形容である」としているが、私にいわせるとこれは朝鮮古語ナル(川)からきたものではないかと思う。ナル(川)すなわち水で、それは、鳴神が「水門を守る神々」であったということからもうなずけるように思う。
その水は、酒造ともまた大いに関係があったはずである。水がよくなくては、酒はできないのである。
土器と「吾祖高志」
朝鮮式の土器が大量に出土
次に紀伊をたずねたのは秋もだいぶ深まったころで、このときは友人の小原元や水野明善、それに阿部桂司君がいっしょだった。そして私たちは紀伊半島を海岸沿いに一周したのだったが、さいしょはまず、「紀伊風土記の丘」だった。
「紀伊風土記の丘」については、さきにみたとおりである。しかし同行の小原たちははじめてだったので、私としてはさらにまたもう一度、そこをみることにしたのだった。そして国道四二号線の熊野街道を南下し、海南市をへて有田市、吉備町へと向かった。
ところで、はなしはここでちょっと前後し、ごちゃごちゃするが、いま書いている紀伊の次は伊賀(三重県)となっているので、私はこれまでにも伊賀上野を二度ほどおとずれている。しかしまだ見落としているものや、見直さなくてはならないところがあったりしたので、いまこの稿を書きだすまえに、もう一度そこをたずねなくてはならなかった。
ちょうど十二月十九日に京都で、司馬遼太郎氏や上田正昭氏とともに私も編者の一人となっている『座談会・日本の朝鮮文化』が中央公論社から刊行された記念の会があった。で、私はそれをすませてから、伊賀へまわろうと考えていた。
右の本は京都で発刊されている雑誌「日本のなかの朝鮮文化」に連載された座談会をまとめたものの一冊であった。そんなことから当夜の私は、この雑誌を発行している友人の鄭詔文宅泊まりとなった。鄭詔文宅泊まりとなったのは私ばかりでなく、こちらも東京からその記念会に出席した水野明善ほかがいっしょだった。私が翌二十日の朝目をさましたときは、彼らはもう起きてしまっていて、となりの応接間でなにやらがやがや話している声が聞こえる。
「このことをいってやったら、いっぺんに目をさまして飛びだしてくるにちがいないですよ」などと言っているのは、大阪在住の詩人金時鐘君だった。「いっぺんに目をさまして――」といわれているのは、どうやら私のことのようだった。
「何だい?」と、私も起きだして、その応接間へ出て行った。
「これですよ」と金時鐘君は、卓のうえにひろげてある新聞を指さした。
「ほう、なるほど」
さいしょに私が手にしたのは読売新聞(大阪)だったが、大きな六段抜きの見出しだった。
「古代朝鮮の土器三千点を発掘/和歌山の楠見遺跡/『朝鮮出兵の基地』裏づけ」とある。
また「朝鮮出兵――」かと思ったが、ついでもう一つの毎日新聞(大阪)をみると、これも大きな見出しだった。「土器は輸入品だった?/朝鮮から船で和歌山へ/『楠見式』と名付ける/大邱出土品とそっくり」
「大邱」とは南部朝鮮の大邱のことであるが、どうしたのか、朝日新聞(大阪)にはこれについての記事は一行もない。それはともかく、この記事はいろいろな意味でなかなか重要なので、読売新聞のそれをここにうつして、検討を加えてみることにしよう。
和歌山市教委の委嘱で楠見遺跡(同市大谷三四七)を調べていた関西大学考古学研究室の薗田香融教授、網干善教助教授らは十九日、調査報告書をまとめた。それによると、朝鮮製の陶質土器の破片約三千点を掘り出したが、須恵器などと全く異り、同質の土器はこれまで和歌山、大阪などで二、三点見つかっているだけで、こんなに大量に出たのは初めて。同調査団は「楠見式土器」と命名するとともに「紀ノ川河口は五世紀前後にひんぱんに行なわれた大和朝廷の朝鮮半島出兵の最大の基地だった」という日本書紀の記述が裏付けされたとしている。
楠見遺跡は、さる四十四年七月、楠見小学校の校庭で校舎新築工事中に同校教員が見つけ、関西大の調査団約二十人が発掘調査を続けた。出土した陶質土器は当初から学界の関心を集め、これまでに破片から高さ、直径とも一メートル前後のつぼや器台二十個が復元された。これらの復元物は日本古来の須恵器より何倍も大型で、つぎの相違点がある。
(1)格子のたたきの紋様がある。(2)のこぎり歯文、綾杉文などの装飾がある。(3)器台のはちなどに円形や方形、三角形などのすかしがある。(4)ハケで仕上げている――など、このほかわが国では初めてのオードブル皿型の台付きはちも復元された。これは直径約三十センチ、高さ十五センチで、中央にわんが置かれ、周囲を六つに区切っている。
薗田教授らは今夏、韓国に渡り、各地で同種の土器を捜した結果、慶北大で見た大邱近くの若木遺跡からの出土品が、やや似ていることを確かめた。日本書紀によると、五世紀後半に大和朝廷が朝鮮へ出兵したとき、紀州の豪族・紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)らが新羅征討の大将軍に任命されたとあり、大邱付近はこの紀氏らが駐留していたところ。同教授らは、紀氏の本拠地だった紀ノ川河口から大量の陶質土器が発掘され、しかもカマド跡は発見できなかったことから、紀氏が引き揚げるときに一緒に移って来た亡命者がわが国に持ち込んだものと推定、日本書紀の記述の裏付けになる――とみている。
同遺跡の北約三百メートルにある大谷古墳からは、アジアでただ一つといわれる馬冑(うまのかぶと)や金メッキした馬具など、朝鮮色の濃い副葬品が発掘されており、さらに紀ノ川上流の奈良県五条市からは蒙古型かぶと、ヨロイなどが出土している。こうした点から紀ノ川筋は当時の朝鮮との交通の要衝になっていたようで、同教授らは大谷古墳などの一連の古墳は紀氏の主だった人々の墳墓ではないか――と指摘している。
薗田、網干両氏の話「復元された土器類は全く新しい発見で、大量の出土に驚いた。和歌山市を中心とした古代文化の研究は、わが国の古代朝鮮との交流の貴重な資料になるだろう」
以上が全文であるが、毎日新聞のそれもだいたいおなじである。ただ、ちょっとちがうところといえば、読売は、「慶北大で見た大邱近くの若木遺跡からの出土品が、やや似ている」となっているのに対して、毎日は、「大邱の慶北大付属博物館に陳列されている若木古墳出土の土器と楠見式土器の器台がウリ二つである」となっており、さらにまた次のような事実がつけ加わっていることである。
これと類似した朝鮮式土器は藤井寺市の野中古墳、姫路市の宮山古墳、広島県西条町の三つ城古墳などにみられるが、これらは副葬品で、製作年代と埋葬年代にずれがあるとの見方が強い。楠見遺跡の陶質土器は同時に出土した土師器(はじき)の年代的考察によって五世紀中期と推定され、出土した土器の豊富さや独特の形態、工法、装飾から同研究室は「楠見式土器」の学名をつけた。
なお、新聞に出ているその土器の写真をみると、それは朝鮮の新羅焼で、これもかつては朝鮮土器といわれた須恵器の一種であるが、それはさておき、われわれはこの新聞記事を読んで、まずどういうことが考えられるであろうか。私はいまから半月ほどまえ、東京大学の井上光貞氏と一夕をともにしたことがある。そのとき井上さんはなにかのことで、「新聞も解読するものですからね」といったことばが、いまもはっきりと耳の底にのこっている。
皇国史観の虚構性
まさにそのとおりだと私も思っていたからであるが、とすると、われわれはいま引いたこの新聞記事をどう「解読」すべきであろうか。われわれとしてまず思いうかぶのは、さきの「風土記の丘にて」や「大谷古墳の馬冑」などの項でみてきたものとまったくおなじ皇国史観・侵略史観が、ここにもそのままのかたちで強く働いているということである。
皇国史観であれ侵略史観であれ、それが事実にもとづいたものであるならば、これはやむをえないであろう。だが、いずれも『日本書紀』によれば、とあるように、その唯一の根拠というのは『日本書紀』の記述にほかならない。
したがってそれは『日本書紀』史観、といってもいいのであるが、しかしわれわれは古代、当時の政治的虚構にみちた『日本書紀』の記述をそのまま信じることができるであろうか。もちろん、事柄により、また年代が下るにしたがって、なかには信じてよい記述もあるにはある。
しかし、だいたい、六世紀おわりの「推古以前のことは歴史学の対象にならない」ということばがあるそうだが、これはそれより一世紀以上もまえの「五世紀後半に大和朝廷が朝鮮へ出兵したとき――」とある。そのころの「大和朝廷」とはいったいどういうものであったろうか。そのころはいわゆる「倭五王」の時代といわれているが、その「倭」とはいったいどういうものであり、また、「五王」がどこにいたものであるかもはっきりとはわかっていないのである。
それにもかかわらず、「同教授らは、紀氏の本拠地だった紀ノ川河口から大量の陶質土器が発掘され、しかもカマド跡は発見できなかったことから、紀氏が引き揚げるときに一緒に移って来た亡命者がわが国に持ち込んだものと推定、日本書紀の記述の裏付けになる――とみている」というのである。
同教授らが政治的虚構にみちた『日本書紀』の記述の裏付けをしたい、というその気持ちはわからぬではない。しかしながら、事実の物証がわれわれにものがたっているのは、むしろそれとはまったく逆なことではないか。事実はむしろ、紀氏族の本拠地だった紀ノ川沿岸から、朝鮮製のそのような陶質土器が大量に発見されたということは、『日本書紀』のそういった虚構性をこそ裏付けているのである。
だいたい、朝鮮に出兵していた「紀氏が引き揚げるときに一緒に移って来た亡命者がわが国に持ち込んだものと推定」というが、ちょっと考えてみれば、これはこっけいな「推定」といわないわけにゆかない。なぜなら、私がこの紀伊にはいるとともにはじめからみてきているように、紀ノ川沿岸で発見され発掘された朝鮮製または朝鮮系とみられる出土品は、なにもこんどのその楠見遺跡の土器とは限らないのである。
岩橋(いわせ)千塚・井辺(いんべ)八幡山出土の裸形人物像や大谷古墳出土の馬冑など、すでにみてきているとおり、これらの遺物や遺跡にしても、それはみな朝鮮製または朝鮮系とみられるものばかりだった。ばかりか、それと関係の深い紀氏族自体、朝鮮からやって来たものであることが明らかとなったはずである。
要するに、かんたんにいえば、その楠見遺跡の土器にしても、紀氏族とその周辺のものとが、朝鮮から渡来したときもたらしたものだったにちがいなかったはずである。「朝鮮出兵」とか何とか、そんなありもしなかったこととは何の関係もないのである。
吉備町の高師神社
さて、途中から横にそれてしまったが、水野明善のクルマで国道四二号線の熊野街道を南下していた私たちは、間もなく紀州蜜柑(みかん)の生産地として知られている有田市にはいった。有田も紀ノ川流域の和歌山市とおなじように、ゆったりと水をたたえた有田川流域に発達した町だった。
私たちはその有田川に沿って、中流近くにある吉備町をたずねた。吉備町は人口一万二千余の小さな町だったが、なぜそこをたずねたかといえば、これも阿部桂司君がさがしだしてきてくれた古い『有田郡誌』によると、吉備町には高師神社というのがあって、こうあったからである。
土生(はにう)の東高瀬にあり。古(いにしえ)、博士王仁の封土にして韓人多く住し、仍て王仁を祀れるなりと伝う。因りて云う。高瀬(たかせ)は高師(たかし)にして、もと高師(こうし)より転じたるにはあらざるか。
なおまた、同『有田郡誌』によると、有田郡の有田は、有田の字を用いることになったのは明治以後のことで、もとは荒田であったということが書かれている。では、荒田とはどういうことであったろうか。これは決して、荒れた田、といったことからきたものではなかったはずである。
松本清張氏は神田ということについて、これのもとは刈田(かりた)、韓田(からた)ではなかったかと書いているが、荒田、荒木などというのももとは安羅田、安羅来といったことからきたものではなかったかと思う。これについてはいずれまた、伊賀(三重県)の荒木あたりでくわしくみることにして、吉備町では、さきに町の教育委員会をたずねた。
そして高師神社のことや町の文化財となっているもののことなどをきいたわけだったが、高師とも書かれた高志神社は明治末以後、吉備町大字天満にある藤並神社に合祀となっているという。それから文化財のことについては、町の文化財保護委員となっている禅長寺住職の則岡(のりおか)隆昭氏に会ってきいたほうがいいと言って、その則岡氏に電話をしてくれた。
私たちはさっそく、吉備町土生(はぶ)の禅長寺に則岡氏をたずねた。この土生とは、さきの『有田郡誌』に「土生の東高瀬にあり」とあるその土生である。
禅長寺はさっぱりとしたしずかな寺で、則岡氏はその寺の住職というよりは、少壮の学者といった感じの人だった。さいわい則岡さんは私のことも知ってくれていて、すぐにはなしがはずんだ。
「下津野というところに、平松さんという清酒の醸造元があるのですが、この家の庭におもしろい文字のある石灯籠があります」と、則岡さんは言った。「それからまた、この平松家の菩提寺に、われわれにはどうしてもわからない戒名というか、そんな碑文の墓があるのですよ」
そこで私たちはまたすぐ、則岡さんと連れ立って、その平松家をたずねた。町のいわゆる旧家で、「金葵」という酒の醸造元だったが、私たちは当主の平松竜雄氏に紹介され、裏庭にある石灯籠をみせてもらった。
生い茂った樹木のあいだに立っている石灯籠自体、なかなかみごとなものだった。が、それより、横に垂れかかっている木の枝をはらいのけてみると、その石灯籠の胴体には、「平松家」うんぬんとあって、一方にはこういう文字が刻み込まれている。
吾 祖 高 志
明治四十二年秋合
合祀記念
あとでもらった藤並神社の『由緒書』をみてわかったが、高師の高志神社が合祀されたのは一九〇七年の「明治四十年五月ヨリ四十一年九月ノ間」だった。これからすると、右の石灯籠は、高志神社が合祀されてなくなるのにさいし、平松家がそれを記念してのこすため、その一年後につくったもののようであった。
それはそれとして、では、「吾祖高志」とはどういうことか。まさに読んで字のごとく、平松家の祖は高志氏である、ということであるが、高師でもあった高志とは、朝鮮の百済から渡来した王仁系氏族よりわかれ出た一支族であった。大阪府下の高石市に高石神社があり、高師浜(たかしのはま)というところがあるが、これもその高志ということからきたもので、この高志氏族から出た古代史上の有名な人物としては、日本さいしょの大僧正となった行基がある。
そしてその高志がさらにまた、この紀伊にひろがってきては高瀬という地名や人名となり、平松という姓にもなったのであった。もっとも平松家のばあいは、「吾祖高志」というそれをのこしているからわかるのであって、そのほかにはどういうものがあるかわからない。
思いがけない墓石の文字
ついで、私たちは平松家の菩提(ぼだい)寺へ向かった。ゆるやかな台地で、東に、それも平松家所有だという宮山がおだやかな山容をみせていた。藤並神社に合祀となった高志(師)神社ももとはそこにあったそうで、それでいまもそこを宮山というのだとのことだった。
墓所にはいり、則岡さんから平松家のその墓をしめされて、私ははっとおどろかないわけにゆかなかった。何と、その墓石にはこういう文字がしるされていたからである。
顕考浄歓府君之墓
それからまた、そのとなりの墓石にはこうしるされている。
王母徳応孺人之墓
同行の小原元や水野明善たちにもそれがどういうことかわからないらしかったが、朝鮮人である私にとっては、それはちょっとなつかしいような、そんな文字でもあった。「王母徳応孺人」というのはもちろん婦人のほうで、「王母」というのはその死者にたいする敬称であり尊称であるが、問題は「顕考……」である。
たとえば朝鮮人である私たちは、今日でも正月・秋夕(盆)はもちろんのこと、祖先の命日には必ず祭祀(ジエサ)をおこなっている。私の家(といっても本家である兄の家)など、いまではずっと簡略化されて、祖父母、父母のそれしかとりおこなわないけれども――。そしてそのばあい祖父なら祖父、父なら父と、その対象者をそのつど紙片に書いて張りだす。私たちの父、金柄奎のばあいはこうである。
顕考学生府君神位
「学生」というのは、私たちの父は生前なんの官位もなかったから、というわけである。もし官位のあったときは、たとえば私たちの祖父のばあいはこうである。
顕祖考行議官府君神位
私たちの祖父がいつどういうことで「議官」という官位を持ったかについては、調べたことがないのでわからない。とにかくこう書くことになっていて、それが習慣のようになっている。
これでわかるように、平松家の墓石の文字は、私たち朝鮮人とおなじそのような儒教的祭祀からきたものであることが明らかであった。それが、仏教的なものとミックスしているのである。
「顕考浄歓府君」という、この「浄歓」はすなわち私たちの父における「学生」にあたるようなもので、その戒名ではないかと思う。あるいはもしかすると、ただの号といったものであったかも知れない。
「はあ、そうですかね」と寺の住職でもある則岡さんは、まだ半信半疑のようすでしきりと首をかしげていたが、しかしそれで納得がいったようでもあった。
だが、まだ、はっきりと納得がゆかないのは私のほうであった。だいたい、『有田郡誌』によれば、「古(いにしえ)、博士王仁の封土にして韓人多く住し――」とあるからには、そのような朝鮮の儒教的習俗がみられるのも、あるいはふしぎではないかも知れない。
しかしながら、「韓人多く住し――」のこのばあいの韓人とは、千数百年も以前のそれのことである。それなのにどうして、現代になおみられる朝鮮人のそういった習俗を、このようにして持ちつづけていたのであろうか。
則岡さんは、ほかの文化財保護委員やその他の人たちともいろいろ語り合ってほしいから、今夜はこちらで泊まって行かないかとすすめてくれた。もしそうすることができれば、またなにか新しい事実がわかるかとも思ったが、しかし私たちは先を急がなくてはならなかった。
それだったから、あとは町なかにある天満の藤並神社をたずねただけで、日暮れはじめていた吉備町をあとにした。
藤並神社には高志神社のほか、大顔神社など近在の四十五社が合祀されていたが、これももとは由緒深い神社だったようで、境内には泣き沢女(さわめ)の古墳という、横穴式の古墳がいまものこっていた。この古墳について、『有田郡誌』にこうある。
藤並神社境内の一部に古墳あり。小高きところに方二間ばかりの大石を覆い、この大石の南の流れに長さ一間余、横三、四尺の大石二、三を段々に据え、その下方に太さ前のと同じ位のものを竪に埋めたり。古来、建王子の陵列と伝う。この岡を今城岡と呼ぶ。岡の南に今城野、今城橋又飛鳥川など称する地名存せり。
いまは史跡として保存されている古墳のほか、岡はなくなって平地になってしまっていたが、ここがかつては今城岡(いまきおか)、すなわち今来(いまき)の岡とよばれていたという。そしてさらにまた、大和(奈良県)の今来郡だった高市郡に飛鳥があるのとおなじように、ここにも朝鮮語アンスク・アスク(安宿)またはスク・スカ(村)をその語源とする飛鳥川があったというのもおもしろい。
牟婁(むろ)・阿須賀(あすか)・熊野
白浜の「牟婁のいで湯」
日高川流域の御坊(ごぼう)市にはいったときは、あたりはもう真っ暗だった。そこからさらにまた私たちは田辺市をへて、白浜へといたった。
むかしは白良(しら)浜とも書かれたという白浜は、いまも温泉地として有名なところであるが、かつては「牟婁(むろ)の湯」「紀ノ湯」といわれて、日本でも有数の古いそれとして知られていた。翌朝、私たちは、いまはホテルハイプレーとかいう観光娯楽ホテルのなかにあって、いまも「牟婁のいで湯」といっているそれを見に行った。なるほど、すぐ海に面したそこから温湯が湧き出るといったこと自体、古代の人々にとっては神秘的な一つのおどろきであったにちがいない。
白浜町教育委員会をたずねてもらった『白浜温泉』をみると、その温湯のこととともに、牟婁ということについてこう書かれている。
白浜温泉の湯崎地区は飛鳥、奈良の時代、すでに大和の朝廷に知られていた古い温泉であるが、そのころ牟婁温湯、紀ノ温湯と呼ばれ、又、武漏温泉とも書かれた(紀巻二六、斉明、文武の条)。これはこの附近の現田辺市の周辺を牟婁ノ郷といい、現白浜半島が抱く田辺湾を牟婁の江といったからで、白浜も牟婁郷の一部だったからである。ところで、牟婁の名は何によったのだろうか。
牟婁郷は田辺附近と富田川流域の一部に過ぎず、日置川流域以東は熊野ノ国であったが、大化改新の時、熊野国を牟婁郷に併せて牟婁郡とした。その後、明治維新の時まで牟婁郡で来たが、紀伊七郡のうちで面積二分の一を占めるほど広く、明治にこれを東西南北の四郡に分け、南北二郡を三重県に割いたのである。牟婁と称する地域は大化に拡げられたもので、もとは白浜地方の小さな区域に過ぎなかった。だから牟婁の名の起こりは、元の牟婁郷のうちに求めねばならぬ。
牟婁、武漏のムロという名を、有漏無漏などの漢字にハメてその源を求め、仏教かなにかに関係があるのではないかと考える人もあるが、仏教伝来以前のものだとする説が有力だ。それは松岡静雄氏の『古語大辞典』によると、ムロは韓語でウムと記され、地室と同源の意味を持つとしている。
「ムロは韓語でウムと記され、地室と同源の」うんぬんというのは、よくわからない。そもそも「ウム」とは何のことかそれもわからないが、この牟婁とはやはり、『三国志』の『魏志』「東夷伝」「馬韓」条にある「咨離牟盧国」「牟盧卑離国」といったそれとおなじで、牟盧、牟羅(ムラ=村)ということではなかったかと私は思う。
すなわち人々の集落、ということではなかったかと思うのであるが、それはどちらにしろ、この牟婁ということが朝鮮語からきたものであることに変わりはない。ここでわれわれは念のため、和歌山県となっている紀伊半島の地図を開いてみたい。
半島の中央部、日高郡以南の地はすべて西牟婁郡、東牟婁郡であって、南牟婁郡はとなりの三重県にまでひろがっている。現在の田辺がその中心であった牟婁郷がこのような郡にひろげられたのは大化の改新以後だったというが、これが全体としてのその郡名となったというのは、やはりそれなりの理由があってのことだったにちがいない。
右の牟婁郷の中心だった田辺市、ではその田辺というのはどういうことだったか。私はここの白浜から帰ったのち、同町に住む猪股末秋氏から長い手紙をもらったことからも教えられたが、京都府綴喜(つづき)郡田辺町はかつて百済系氏族の奴理能美(ぬりのみ)が筒木(つつき)(城)という山城をかまえていたところであり(綴喜郡の名もそれからきた)、また、大阪府柏原市の有名な田辺廃寺がこれまた百済系田辺氏族の氏寺であったことを思えば、この田辺ということも、あるいはもしかすると、そういった氏族との関係によって生じたものかも知れない。
それはどうであれ、牟婁の地は広大だった。白浜から私たちはつづけて海岸沿いに南下し、途中、さらにまた一泊を重ねたのであったが、歩いたところは結局、その牟婁の範囲内でしかなかった。
熊野の阿須賀神社へ
そして重畳とした紀伊の山々や、黒潮の打ちよせる海浜の景色などながめわたしながら、さいごにたどりついたのは新宮市だった。いまは要するに熊野三山を中心とした観光地で、私としてはどこか、ひどくとっつきにくいところだった。
たとえば、三山のうちの一つである熊野那智大社をまずおとずれ、それの神体ともなっているという那智大滝をみた。だが、そこに雲集してくる人々の群れをみては、その由来をたずねてみる気など、もうどこかへ吹っとんでしまっていた。
こんどは時間もなかったし、その神統譜もいまだにはっきりせず、「日本史の謎を秘めたまま」という熊野三山をたずねるのはいずれまたあらためて、とするよりほかなかった。私たちはその那智から早々に引き下り、新宮の熊野川沿いにある熊野速玉大社から、おなじその河口の阿須賀神社にいたって、やっと少しほっとなった。
那智大社や速玉大社のようなきらびやかさはなく、阿須賀神社はしっとりと古びて落ち着いた、神社らしい神社だった。正式にはこれも熊野阿須賀神社というのだそうで、三重県熊野市飛鳥にある飛鳥神社は、この阿須賀神社をのちに勧請したものだという。
そればかりか、この阿須賀神社はまた、さきにみた熊野速玉大社のもとでもあったという。もとであったということは、それも阿須賀神社のそれを勧請したものだった、ということである。
してみると、熊野阿須賀神社といい熊野速玉大社といっても、これはもと一体のものであったということがわかる。しかもこの熊野の阿須賀は、大和(奈良県)や河内(大阪府)の飛鳥など、日本のあちこちにある飛鳥・阿須賀のうち、もっとも古いそれであるという。
するとわれわれとしては、熊野とはいったいどういうことであり、阿須賀(飛鳥)とはまた何であったかと考えてみたくなる。阿須賀、すなわちアスカとは朝鮮語アンスク・アスク(安宿)、またはスク・スカ(村)からきたものということはさきにみたとおりであるが、問題は熊野である。これは決してあの動物の熊の野、またはその熊のいたところ、などといった意味からきたものではなかったはずである。
ここで一つ思いだしてほしいのは、紀伊の和歌山にはいったさいしょのところ、「日前・国懸神宮と紀氏」の項で引用した高階成章氏の「日本書紀に於ける熊野」のなかの次のことばである。「日前と書いて『ヒノクマ』と訓(よ)ましているのは日の神という古い称え方が、神聖なものを『クマ』と称える韓国の言葉に影響された結果であろう」
これはどういうことであろうか。朝鮮の檀君(ダンクン)神話に出てくる熊、コム(熊=朝鮮語)のことをさしたもので、それはこういうことからきたものであった。
天帝の子桓雄(ハンウン)はその父から天符印三個と、風伯・雲師・雨師とともに三千の部下をあたえられて、太白山に天降る。するとそこに熊と虎とがいて、自分たちも人間になりたいという。それだったら、と桓雄はその熊と虎とにニンニクとヨモギとをあたえて、百日間穴居するよう命じる。すると人間になることができるというわけだったが、しかし虎のほうは辛抱することができず、穴から抜けだしてしまう。
だが、熊のほうは穴居をつづけたので、人間の美しい女性に生まれかわることができた。そこで桓雄はこの女性をめとって、檀君を生んだ。そして檀君はのち王位につき、都を平壌に定めて、その国を朝鮮と号した。――
古朝鮮がこういうふうにしてできたというわけであるが、このことから熊、コムとは聖なるもの、ということになり、それがまた古代朝鮮の代名詞のようなものともなった。それはたとえば、朝鮮から日本に渡来した天日槍(あめのひぼこ)のもたらしたものが、「熊(くま)の神籬(ひもろぎ)一具(ひとそなえ)」(『日本書紀』垂仁三年条)であったということからもわかるように思う。
それでまた、朝鮮・高句麗のことを日本ではコマ(高麗・狛)といったのもこれからきたもののようである。
すると、このばあいの熊野の野とはいったいどういうことであったろうか。この野は、中島利一郎氏の『日本地名学研究』によれば朝鮮語ナラ(野=国)ということでもあるから、したがって熊野とはコムナラ(熊の国)、すなわち朝鮮から渡来した彼らのナラ、その国土ということであったのだろうか。
伊 賀
まずは伊賀流忍術
伊賀流開祖の服部氏
前夜は大阪で一泊し、天王寺から国鉄の関西本線に乗った。列車は間もなく奈良をすぎると、深い渓谷沿いとなった。列車はその渓谷の一方を絶壁づたいに走っていたが、対岸はおだやかなたたずまいの集落がつづいていて、それが何ともいえず平和ないい感じだった。
私は地図をとりだし、「ああ、やっぱり輪韓川(わからがわ)だった木津川だな」とそのときになってやっと思った。そう思った自分はちょっと間が抜けたような感じだったが、私はこれまでに伊賀(三重県)へは三度ほど行っている。しかし、国鉄の関西本線で行ったのは、このときがはじめてだった。
さいしょに行ったのは数年前、京都の鄭詔文たちといっしょに有名な伊賀焼というのを見に行ったのだったが、二度目は一九七二年十月二十四、二十五日にわたっておこなわれた伊賀上野の、菅原神社の秋祭がきっかけだった。このときは大阪に住む詩人の金時鐘君ほかといっしょに、こちらも大阪の住人で、その伊賀上野が故郷となっている中住元行氏夫妻に招待される、というかたちでだった。
それはどうであれ、これから伊賀がどういうところであったか、それをみなくてはならないわけであるが、まず、伊賀『上野市史』からみることにしよう。伊賀といえば伊賀流と、その「伊賀流忍術が生まれるまで」のことがこう書かれている。
伝統のないところに、名人・上手は生まれないとは、よくいわれることであるが、伊賀流忍術にも、そのことはあてはまる。伝統(歴史的事実の集積)あってこそ、伊賀流忍術が戦国期天下に冠絶する技術を開花させることができたのである。
その第一は、伊賀の人、大伴細人の存在である。細人は、聖徳太子の側忍(しのび)として、市井の探偵に従事したと伝えられるが、これが日本における忍者の第一号である。
後に天武天皇が使用された大和の人、多胡弥が、戦陣攪乱の放火専門の諜者として名をあらわしているが、この人が、古伝にいう忍者の第二号であるが、大和といっても、伊賀とは目と鼻の隣国であり、伊賀の伝統の第二号につけ加えてもいいのではないかと思う。
次に、伊賀には、大和朝廷創始後数世紀にわたって帰化人が集住してきて、さながら、帰化人の植民地といった時代があったこと――孫子の兵法を含む、中国文化受入れの素地が、古代から濃厚であったことが、伝統の一つとして考えられる。後に、伊賀流の開祖となったといわれる服部氏も、明らかに呉系帰化人の末孫である。
「孫子の兵法を含む、中国文化受入れの素地」うんぬんといっていることから推して、「伊賀流の開祖となったといわれる服部氏も、明らかに呉系帰化人の末孫である」「呉」というのは、これはどうやら中国にあった呉(ご)国、「呉越同舟」ということのあの呉国をさしているようである。が、はたしてそうであったかどうか。このことについてはあとでくわしくみることになるが、同『上野市史』はその服部氏と、伊賀一の宮となっている敢国(あえくに)神社の祭とについて、こう書いているのもおもしろい。
この祭は、服部総家の個人的な祭であるが、伊賀の一の宮である敢国神社に合祀された神々のうち、服部氏の祖神、少彦名命・金山媛(共に帰化神)の二神をとり出し、府中の花園河原にうつし、数日これを祭るのであるが、その供奉の人々は、服部氏族およびその郎党に限られ、全員、正規の忍者の服装で、これを執行するので、黒党祭の名がある。
服部氏を、伊賀流忍術の始祖であるとする古文書に、事実の裏づけをしているような祭礼である。
伊賀の近世史
まずは伊賀流忍術から、ということになってしまったが、二度目に私が伊賀をおとずれたのは、さきにいった菅原神社の秋祭もだったけれども、しかしもちろん、私の目的はそれだけではなかった。私たちをその祭に招待した中住さん夫妻にしてもそのことはよく知っていたので、中住さんはさきに市内のあちらこちら、つまり私が行ってみたいというところは、どこでもよろこんで案内してくれた。
さいしょはまず、伊賀のそこをたずねたものの定石どおり、伊賀上野城跡であった。これもさきに、伊賀文化産業協会のパンフレット『いが上野城』からみるとこうなっている。
「忍者の里」と呼ばれる伊賀国は周囲を山にかこまれた八里四方の小さな盆地、その中心は上野城である。街の北側の丘には白亜三層の上野城がそびえ、別名を白鳳城と呼ぶ。
またも「忍者」であるが、それにしても別名が「白鳳城」とはよくつけたものである。ついでに、この城にかかわる歴史を同『いが上野城』によって少しみておくことにしたい。
今から三八七年前の天正九年、織田信長の嫡男北畠信雄(北畠家を継ぐ)は十万の大軍を率いて伊賀の地に乱入、伊賀の連合軍と大激戦を展開した。伊賀軍の中心になったのは地侍(これらの中に忍術を心得たものが多かった)の連合軍で、かれらは、伊賀の天険によって、得意の遊撃戦法ではげしく抵抗した。しかし、戦い利あらず城塞はつぎつぎとおとされ、伊賀全土は焼野原と化した。世にいう「天正伊賀の乱」である。信長の地侍への憎悪はきびしく、その残党狩は峻烈をきわめた。
乱後、筒井定次が、大和郡山から移って伊賀国を領した(このとき順慶すでに歿し、甥の定次が相続していた)。定次は入国すると、城塞を大修築し(現在の配水池)、城全体を大拡張した。
伊賀国は古くから軍略の要衝の地で、徳川家康はかねてから、この地を重要視するとともに、伊賀の忍者が、諸大名に召し抱えられるのを恐れていた。そこで秀吉歿後、家康は筒井定次の失政を理由に、慶長十三年改易を命じ、定次は奥羽岩城の鳥井忠政に預けたが、間もなく江戸の鳥井邸で切腹を命じた。
そして同年、藤堂高虎を伊予から移して伊賀と伊勢・津の城主とし、伊賀の忍者を登録させ、扶持を与えた。これらの忍者は、江戸の隠密の補充要員であった。もう一つ、家康が高虎をこの地に封じた理由がある。当時、大阪の豊臣方との形勢が悪化していたので、徳川方にとっては伊賀・伊勢は江州・彦根とともにきわめて重要な地であったから築城、軍略の大家藤堂高虎を抜擢したのである。
かくて伊賀に移った高虎は、上野城の大修築に着手した。「津は平城なり、当座の休息所までと思うべし。伊賀は秘蔵の国、上野は要害の地、根拠とすべし」と、高虎の築城への意欲はすさまじいものであった。高虎は、筒井故城の西方に広大な高石垣をめぐらし、濠を深くし、五層の天守閣を築いた。この石垣の高さは日本一といわれる。また城下町を南に構え、完全に武装した軍備の町を構築した。
伊賀上野全体の歴史を知るうえでも必要と思われたので長くなったが、それにしてもこれまた、どこまでも「忍者」がつきまとっているのがおもしろい。なるほど伊賀は「忍者の里」といっても過言ではないようである。
ところで、ここで一つことわっておかなくてはならない。いま私は「伊賀上野全体の歴史」といったが、しかしそれはあくまでも近世にはいってからの歴史であって、それ以前の古代のことではないということである。
ではそれ以前、古代はどうであったか。これについてはわれわれはすでにさきの『上野市史』によって少しばかり垣間(かいま)みているが、それは右の上野城跡に立ってみることで、さらにまた垣間みることができる。
上野城跡に立って
上野城跡は「高さ日本一」といわれる石垣もみごとだったが、そこに立ってみると、一望のもとに見わたせる「八里四方」の伊賀盆地の眺めも、それにおとらずみごとなものであった。
いわば上野城は、その盆地の中央に立ちそびえているのであったが、しかしどういうわけからか、城下町であった市街はほとんど南のみに限られ、高旗山のこちらとなっている北方のほうは、ほとんどがまだ原野のままとなっていた。あちこちに、いくつかの古い集落が見えるだけである。
そして、よく見えないところもあるので地図を開いてみると、北方のそこには服部川と柘植(つ げ)川とが流れており、それが合して伊賀川となっている向こう、古い集落の見える高旗山麓のあたりは高倉となっている。「ははあ、服部川に高倉か」と私は思った。高旗山などというのも、もしかするとその高倉からきたものかも知れない。
「あそこは、高倉というところですね」と私は念のため、横にいた中住さんにきいてみた。「するとあそこには、高倉神社などというのはなかったでしょうか」
「ええ、たしかそんな神社があったと思います。あとで行ってみましょうか」
「そうですね。おねがいします」
開いている手元の地図をなおよくみると、服部川沿いには服部というところもあって、その東方ちょっとのところが一の宮、敢国(あえくに)神社となっている。服部というのは、さきにみた『上野市史』にいう「伊賀流の開祖となったといわれる服部氏も、明らかに呉系帰化人の末孫である」のその「呉系」の「呉」と関係あるもので「ああ、やっぱりそうか」と私は思ったが、しかしそのことはもう少しあとでみることにする。
それよりも、いまは白鳳公園となっている上野城跡のここには、これまた伊賀と深い関係にある俳人芭蕉の陶像をおいた「俳聖殿」というのがあり、また、「伊賀忍者屋敷」というのもある。そしてその屋敷の地下には、忍術資料室があった。私はさいしょと二度目に来たときはそれを見ようとは思わなかったが、三度目に来たときは何となくなつかしいような気分になって、忍者屋敷のそこへもはいってみた。
というのは、私も小学生のころは当時有名だった立川文庫などによって、その忍術なるものとかなり馴れ親しんだことがあったからである。当時の立川文庫によると、たしか猿飛佐助は甲賀流忍者で、霧隠才蔵は伊賀流のそれではなかったかと思うが、しかしその忍術資料室にはいってみて、私はがっかりしてしまった。
子どものころ、立川文庫などによって知った忍術というのは、人指し指を立てた両手を握り合わせさえすればドロン、ドロンと、たちまち白い煙をあげて消えてなくなるものであった。それだったのに、この資料室にある忍者たちの諸道具はひどく生ま生ましく、それだけリアリスティックなのである。
いわばそれを見たことで、子どものころの「夢」を一つ消されてしまったわけだったが、しかし現実の忍者というのはそういう諸道具、手鉤(てかぎ)や鎌など、忍具といわれるそれらのものをよく使いこなせるもののことであったにちがいない。この忍者・忍術のことについては、あとでまたふれなくてはならない。
服部(はつとり)・呉服(くれは)・呉織(くれはとり)
高倉神社と服部川
上野城跡の白鳳公園をおりた私たちはその足ですぐ、しずかな流れの服部川を渡って、高倉山へ向かった。上野城跡からはかなり遠くに見えたが、クルマを走らせてみると、いくらもなかった。
国鉄関西本線の伊賀上野駅西北方で、一帯は高旗山麓にひろがる扇状地であった。あちこちの森かげにある古い農家などに目をやりながら、私たちはその扇状地の坂道をのぼって行った。
中住さんも神社のある場所は忘れてしまっていたので、途中、耕運機を曳いたとおりがかりの老人に、私はクルマからおりてきいてみた。
「この村の」と言ったが、そこも上野市となっていたので、私は言いなおした。「こちらのみなさんの、神社はどこなのでしょうか」
「高倉さんですかい」
「ええ、そうです。その高倉神社です」
私たちは、さらにまた坂道をのぼって行った。と、やがてその坂道がつきるあたりに、「高倉神社」とした石柱と鳥居とが見えた。私たちはその前にクルマをとめて、献灯には「高倉大明神」とあるその鳥居をくぐった。
が、それからさきはまた急な下り坂となっていて、かなり深い谷間だった。谷底の川に、小さな橋が架かっていた。高倉神社はその橋を渡った左手の山ぎわにあったが、右手の崖のうえの台地にはこの辺の旧家らしい、一軒の豪壮な民家の建っているのが見えた。
谷川をあいだにしたその民家と高倉神社とはどういう関係なのか、つまり単なる氏子と氏神というだけの関係なのかどうか、それはわからなかったが、こちらの神社は陽当たりのわるい山かげにあって、これはもう朽ちはてるままになっている、といってよかった。しかし、白木造りのかなり大きな神社でありながら、周囲の樹木におおわれたまま朽ちはてようとしている、それがまたなにかを感じさせなくもなかった。
境内(かどうかも、いまははっきりとわからなくなっていたが)のそこには、多分、宮司一家のそれではないかと思われる家が、一、二棟たっている。私たちはそこへまわって声をかけてみたが、何の応答もなかった。空家ではなかったが、人はひとりもいないのであった。
日暮れてしまうにはまだ少し間があったので、帰りは、かつての服部郷の中心地であったと思われる服部をとおってみることにした。ここには呉服比売命(くれはひめのみこと)を祭る小宮(おみや)神社というのがあったが、それは省略することにした。
明日はまた敢国神社から、もとは白髭といった荒木神社もまわってみなくてはならなかったので、神社はもう、きょうは高倉のそれだけにしようと私は考えたのである。だいいち、あまり興味もなさそうな同行のものたちを、そんな神社ばかりへ引っぱりまわしてはと思ったからでもあるが、すると走っているクルマのなかで、横から中住千代夫人が言った。
「いま、クレハヒメとおっしゃいましたね。小宮神社は、その神さんを祭るとか――」
「ええ、そうです。呉織(くれはとり)のクレハで、このばあいは呉服と書きますがね。つまり、ハトリの服部(はつとり)とおなじことなのです」
「ああ、そうですか。それではっきりしたわ。みなさんさっきから服部川、服部川とおっしゃっていますけれども、この川は」とちょうどそこに見えていた服部川を指しながら、千代夫人はつづけた。「これはたしか、呉服(くれは)川といったと思うんですよ。あるいは呉服川とも、だったのか知れませんが、私の出た女学校の校歌にはそうなっていたはずです」
「へえ、その校歌を一つうたってみてくださいませんかね。何という女学校の――」
「いまは上野高校となっている阿山高女ですけど、歌はもう忘れてしまいましたから、あとで調べてみます」
「そんな女学校といったころの校歌など、しかもその校歌を忘れているとあっては、いよいよお年が知れますね」と金時鐘君がそんなことを言ったので、みんなどっと笑った。
しかしともあれ、私にとっては大事な一つの資料だった。のちに千代夫人が調べてくれたところによると、それは三重県立阿山高等女学校歌で、こういうものであった。
一、高旗山の松の色
かわらぬ操(みさお)仰(あお)ぎつつ
衣(きぬ)縫(ぬ)う糸のひとすじに
まことの道をたどらまし
二、呉服(くれは)の川の水鏡
飾らぬ姿うつしつつ
朝夕学ぶその文に
己(おの)が心をたださまし
誰の作詞かはわからなかったが、「呉服の川の水鏡/飾らぬ姿うつしつつ」など、校歌としてもなかなかいいものだった。
実をいうと、中住千代夫人からこのことを教えられたあと、つまり二度目の伊賀行きから帰ったのち、中住夫妻とおなじくその伊賀を故郷としている、奈良市に住む松村正樹氏から長い手紙をもらった。みると、これにも次のようなことが書かれていた。
私の村のものが汽車に乗る佐那具(さなぐ)駅近くの佐奈具氏というのも、太田亮氏によれば服部氏一族の「帰化人」だとのこと。私の祖父なども、年に一度ぐらいは必ず白髭さんに詣でていました。服部川はまたクレハ(呉服)川ともよばれ、女学校の校歌にもうたわれておりました。上野市の高倉という地名も、それと関連して何かいわれがありそうです。
いまみてきた高倉も「それと関連して何かいわれがありそう」だとは、相当いろいろなことをよく知っている人のようだった。それであるから、本来ならば私はこの松村氏にも会っていろいろもっと聞いたうえでこれを書くといいのだが、要するに同氏もいっているように、服部と呉服とは、もとは同義語だったのである。
服部=呉織→高句麗
すなわち服部とは、漢織(あやはとり)・穴織(あなはとり)にたいする呉織(くれはとり)ということから出たものなのである。そして「はとり」とは、機織(はたおり)ということからきたものといわれるが、では、呉織の呉とはどこからきたものであったか。
これは前項でみた「伊賀流の開祖となったといわれる服部氏も、明らかに呉系帰化人の末孫である」という『上野市史』のそれとも関連するものであり、さらにはまたいまさっきみた高倉、高倉神社とも関係あるものと私は思っている。
つまり呉(くれ)、クレとは、百済、新羅とわかれていた古代朝鮮三国の一国だった高句麗からきたものであった。「上代のことは漢字にとらわれてはならない」といったのは新井白石であるが、にもかかわらず、「呉」などという字があてられているものだから、いまなお相当な学者でも、これを中国にかつてあった呉国の呉としているものが少なくない。
『上野市史』の筆者などもそういう学者の影響からまぬがれていないようであるが、呉とはクレ、すなわち高句麗の句麗ということであった。日本ではこれを高麗(こ ま)といった高句麗は、朝鮮語でコクレという。しかしコ(高)は美称で高句麗の国姓であるから、その高をとるとクレ(句麗)となるのである。
したがって、いまみてきた高倉にしてもこちらの服部、すなわち呉服のクレ(呉)、高句麗と関係があった地名ではなかったかと私は思う。それでわざわざそこの高倉神社をたずねてみたりしたのであるが、高句麗の句麗が高倉となっているのにはほかにも例がある。
もっとも有名なものとしては、奈良時代の造営卿であった高句麗系の高麗福信があって、これはのちにその名を高倉福信と改めている。高倉(たかくら)、つまり高倉(こうくら)が高句麗(こうくり)に近かったからかも知れないが、こちらも高句麗からの渡米人が住んだところとして知られている武蔵(埼玉県)の入間市にもいま高倉というところがあって、この高倉はいまでもコクル(高句麗)とよばれている。
それはどちらにせよ、伊賀の服部・呉服・呉織が高句麗からきたものであることは、のちにみるであろう有名な伊賀織が「高麗織」というものであったことからもわかるはずである。ところで、伊賀流忍術の開祖とされている服部氏が、その呉織の機織から出ているというのはどういうことであったろうか。呉織の機織と武芸の一つであった忍術とは、どう考えてもあまり結びつかないあいだがらであるにちがいない。
しかしながら、これは呉織(機織)なら呉織と、それをいつまでも固定したものと考えるところからくるものであって、のちにはその呉織からもいろいろなものが出て、少しもさしつかえないはずである。それに呉織・呉服・服部として今日なおそのことばがのこっている彼らのみが、古代、この地に渡来したのではなかった。ほかにも、いろいろなものがいたはずである。
強大な服部氏族の勢力
それだったから、伊賀の忍者にしてもまたいろいろな出自のものがいたらしく、たとえば村山知義氏の『無刀の伝』には、柳生家に伝わっていたかした一つの記録が紹介されている。それは次のようなもので、カッコ内は村山氏の注である。
利助本名ゴンゾ。もと伊賀国阿拝郡下柘植の生れにて、遠く伽羅(から=朝鮮南部の古い国)とらい(渡来)の者といいつたえられ候。土地は持たず、祖父、父いずれも下忍にて候。天正伊賀の乱のとき(一五八一年)利助の附き添いし師匠の中忍、下柘植の木猿、利助の父ゴンタいずれも、信長の将蒲生氏郷の手の者のために焚殺され候。利助二十七歳の時にて、火の中をくぐってついに柳生の里にかくれ候。
「天正伊賀の乱」については前項でもみているが、ここにいう「伽羅」についてもう少し説明を加えると、これはあとでみるように漢織(あやおり)・穴織(あなおり)とも関係ある「(朝鮮南部の古い国)」だった安耶・安那でもあった。「伽羅」とは加羅、すなわち加耶諸国のことで、そこにはさらにまた安耶・安羅・安那・多羅といった小国があったのである。
つまり、利助はその加耶から渡来したものの末というのであるが、それからまた、佐野美津男氏の『怨念人物史伝』「忍者たちによる織田信長論」というのをみると、こういうことが書かれている。
朝鮮から日本への帰化は、いつの時代にも絶えることなく続いていたというのが事実である。中央公論社版『日本の歴史』第十二巻「天下一統」を執筆するに当って、まずはじめに鉄砲の渡来とその普及を詳細に説くという全く正当な史観を披瀝した林屋辰三郎は、国友村の鉄砲鍛冶たちは韓国の帰化人の末裔なのだと指摘している。……
朝鮮を経て日本へやってきた帰化人が大和国家を創設したというのが日本歴史の常識なのだから、早い帰化人は選良であり、遅れてきた帰化人は賤民だということになる。これは海の向こうのアメリカ合衆国の場合にも当てはまる定式の如きものだろう。
早期にアメリカへ移住した白人の、アングロサクソンの、プロテスタントが選良となり、遅れて移住したイタリア系は賤民となったというではないか。その人たちによってアメリカの暗黒街は形成されたときいている。
これは日本におけるいわゆる「帰化人」論としてもなかなかおもしろい意見で、要するに鉄砲をつくったり、火薬をつくったり、また忍者となったりしたものは、そのような「遅れてきた帰化人」の「賤民」ではなかったか、というのである。
ひじょうに達見であると私は思うが、しかし少なくともその忍者のうちでも、伊賀流忍術の開祖とされている服部氏のばあいは、相当に異なったものがあったようである。私は伊賀上野をあちこちと歩いているうち、ある書店に立ち寄り、「伊賀路の歴史地理」と副題された『秘蔵の国』というのを一冊もとめてきた。
地元の研究者である福永正三氏の手になるもので、それによると伊賀における一般的ないわゆる「帰化人」とともに、その服部氏族のことがこう書かれている。
六世紀から七世紀にかけて、百済(くだら)を主とする多数の帰化人が入植した。そのおもなものは、服部連(むらじ)、竹原連、長田村主(すぐり)、夏身忌寸(いみき)、佐奈具氏である。彼らは灌漑技術に長じ、それまでの未開地を大規模に開いていった。
「百済を主とする多数の帰化人」とは、ここには林屋辰三郎氏なども早くから指摘している「高句麗から」ということの視点が欠如しているようであるが、しかしそれはどちらでもよいようなものでもある。百済も、高句麗人によって建国されたものだということがあるからばかりではない。『新撰姓氏録』などみても、「呉服造。百済の国の人、阿漏史の後なり」とある。
だから、ここにいわれている百済もそういったものとしてみればいいわけだが、それにしても、これでみてもやはり呉服でもあった服部氏族である。伊賀は何としてもこの服部氏族が中心であったらしく、福永氏はつづけてこう書いている。
伊乱記によれば、服部氏一族の居住村落は、本拠服部をはじめ、羽根、高畠、荒木、寺田、千歳、佐那具、西明寺、西村、上友生、中友生、下友生、四十九、依奈具、市部、沖、才良、猪田、郡、古那、神戸、比土古山七郷、阿保、別府、柏尾、岡田、寺脇、川上、諸木、槙山、内保、上友田、中友田となっている。大部分が旧阿拝、伊賀両郡の穀倉地帯であることがわかる。これらの集落のすべてが、帰化人のみによって開拓されたとはいえないであろうが、先住民と融合して、農耕はもちろん、機織、酒造などの技術的進歩に貢献したものと思われる。
何とも、伊賀における服部氏族というのは強大なものだったと思わないわけにゆかない。それであったからには、これから「後に、伊賀流の開祖となった」(『上野市史』)ものが出たとして少しもふしぎはない。
ところで、福永氏は右につづけてさらにまた、その服部氏族について書いている。これは説話、エピソードのようなものであるが、これも彼らがいかに強大であったかということをものがたるものとなっている。
服部氏の祖は、日ノ丸主計、またの名を日ノ丸長者といい、長者屋敷(上野市西明寺)に広大な居を構えていた(三国地誌)。日ノ丸が好きで、家具といわず、壁といわず、日ノ丸を描き、大勢の召し使いにかこまれて豪華な生活をしていた。
ある年の五月、召し使いたちは田植に専念していたが、なにしろ広大な土地ゆえ、田植が半分も終らないうちに日が西に傾いた。そこで、長者は、日ノ丸の扇をあおいで、沈みゆく太陽を招き返し、田植を完了したという。ところがこの長者もやがて没落し、村人がせっかく植えた田を荒し回ったので、ついに放逐されたという伝説がのこっている。
これは、荒唐無稽な伝説と片づけるには、あまりにも示唆的である。筆者は、長者の私有していた広大な土地は、帰化人によって、はじめて開拓可能な「万町の沖」と解する。ここは、長者屋敷の高台から眼下に見られる、伊賀最大の条里型水田地帯である。広大な私有地と、多数の奴婢は、律令体制の施行とともに解放され、さしもの長者も没落した。やがてその屋敷あとに進出したのが、律令国家の宗教的拠点、伊賀国分寺である。この伝説は、より強大な国家権力によって一蹴された、長者の悲話として受取れないだろうか。
そうとは「受取れない」向きもあるだろうが、いずれにせよ、伊賀の服部氏族というのはたいへんなもので、ここに「日ノ丸」というのが出てくるのもおもしろい。
福永氏とは別に、これをみてまたわかることは、服部氏族の服部というそのことは呉織・呉服ということからきたものかも知れないが、それだからといって、彼らは決して職掌としての呉織(機織)のみではなかったということである。福永氏もはじめの引用の部分でいっているように、それは彼ら渡来人集団による農業開発、すなわち国土開発全体のなかにおける一職掌であって、それ以外のものではなかったのである。
敢国(あえくに)から荒木へ
敢国神社は服部氏族の祖神廟?
菅原神社の秋祭を見るということで中住元行氏夫妻に招待され、伊賀(三重県)の上野で一夜を明かした私たちは、翌日もつづけてその秋祭を見ることになった。しかし、私はその祭を見ることだけが目的ではなかった。
そのことは中住さん夫妻もよく知っていたし、また、前夜の壇尻(だんじり)(楼車)につづいて、祭のさいごのヤマ場となっている供奉面の「鬼の行列」が繰り出すのは夕方となっていたので、それまでのあいだ私たちはさらにまた前日とおなじように、市内のあちこちをまわってみることになった。前日の夕方、市の教育委員会に寄ってもらった『上野市遺跡地図』などを持って出かけた。
まず、市の西端にある「伊賀越え鍵屋の辻」なるところだった。「伊賀越え仇討ちの遺跡」ともいわれるところであるが、ここは江戸時代、一六三四年の寛永十一年十一月七日、剣士荒木又右衛門が義弟の渡辺数馬を助けて、その仇の河合又五郎一党を討ちとったという場所である。
そしてこれがまたさきにみた忍術とおなじく、立川文庫などに「荒木又右衛門の三十六人斬り」とか何とか、というふうに書かれたりしたもので、私も子どものころそれを手に汗握るような思いで読んだものだった。さきの忍者のことといい、そんなことでもこの伊賀というところは、なつかしいようなものが多かった。
映画などでもそんなふうになっていた「三十六人斬り」とかいうのは、もちろん誇張だった。だが、そういう仇討ちがあったのは事実で、鍵屋の辻にはいまそれに関する遺品などを展示している資料館がある。
しかし、どういうものか、私はその資料館にまではいってみる気はしなかった。そこはちょっとした小公園となっていて、数馬茶屋などというのもあったが、そこへも寄ってみたいとは思わなかった。私はやはり、子どものころのイメージを、そのままそっとしておきたかったからかも知れない。
ついでこんどは、伊賀一の宮の敢国(あえくに)神社だった。敢国神社とその祭がどういうものであるか、さきにみた服部氏族との関連で、これもさきに『上野市史』によってみているが、それをもう一度みるとこうなっている。
この祭は、服部総家の個人的な祭であるが、伊賀の一の宮である敢国神社に合祀された神々のうち、服部氏の祖神、少彦名命・金山媛(共に帰化神)の二神をとり出し、府中の花園河原にうつし、数日これを祭るのであるが、その供奉の人々は、服部氏族およびその郎党に限られ、全員、正規の忍者の服装で、これを執行するので、黒党祭の名がある。
その祭を見ることができないのは残念だったが、敢国神社は伊賀一の宮だけあって、そこの山腹一帯を占めている広大なものだった。杉の古木におおわれてしんとなっている神殿などみてまわってから、白装束の神職が数人いる社務所に立ち寄り、『敢国神社』とした由緒書をもらってみた。
それによると、「当神社の祭神は大彦命を御主神とし、外に少彦名命、金山比〓(ひめ)命の二柱を配祀申上げてあります」とあって、つづけてさらにこうある。
「大彦命は孝元天皇の皇子で、崇神天皇の御代、四道将軍のお一人として北陸未開の地を教化し、後伊賀の国に永住せられ、国家繁栄の礎を築かれました」
しかし、「四道将軍」などというものが日本古代にあったかどうか、そんなことはあやしいものであるから、ここにいう主神の大彦命というのは、あとからそれということになったものにちがいない。もっともそれをいうとすれば、服部氏の祖神が「少彦名命・金山媛(共に帰化神)」というのもおかしなもので、これもあとからそのような神名をとってつけたものだったにちがいない。
いま神社や神宮の祭神となっているのはたいていそうしたものであるが、しかしながらこれまでみてきたことからして、また、その少彦名命、金山媛を「(共に帰化神)」としていることからして、この敢国神社が服部氏族の祖神を祭ったものであったことは、ほぼまちがいないものだったはずである。そうすると、敢国神社近くにある御墓山古墳などの古墳群はどうか。
「荒木」は「安羅来」
この御墓山古墳も『敢国神社』によると、「大彦命の御陵墓であると伝えています」とあって、それでか古くから国指定の史跡となっているものであるが、しかしこれもやはり、服部氏族の墳墓ではなかったかと私は思う。それがもし伝承上の「四道将軍のお一人」であった大彦命のものとすれば、三〜四世紀のものでなくてはならないのに、これは五世紀の中期古墳であることがはっきりしているのである。
伊賀はまた古墳の多いところで、私が手にしていた『上野市遺跡地図』もほとんどはその古墳で埋まっていた。御墓山のような中期のものとしては近鉄美旗駅近くに馬塚、女郎塚古墳などがあり、一方、三〜四世紀の前期のものとしては、三重県指定の史跡となっている車塚古墳ほかがある。
車塚古墳は上野市の荒木にあって、この荒木は、さきにみた鍵屋の辻で仇討ちをしたという、剣士荒木又右衛門の生まれたところとしても知られている。ここは鍵屋の辻とは反対の方角であるが、服部川に架かった寺田橋の脇に、「荒木又右衛門生誕之地」とした大きな石碑が建っている。
その石碑の前方に、なだらかな山のつらなっているのが見える。それが荒木山で、麓の集落は「荒木の里」といまもそういいたいような荒木である。そこに前期の車塚古墳があることからもわかるように、これは長い歴史をへてきた古い集落で、いかにも人々の「故郷」「ふるさと」といった感じのところであった。
集落のなかを清冽な小川が流れていて、そこに須智荒木神社がある。そしてその参道の右手に、「元禄三年三月十一日 荒木村白髭社にて」とした、
畠うつ音やあらしのさく良麻
という芭蕉の句碑がある。それでわかるように荒木神社は、もとは白髭神社ともいったものであった。そしてのちにその名称はなくなってしまったもののようであるが、この白髭神社、あるいは白髭明神といわれたものは、ほかにもまだあった。たとえば伊賀を故郷にしている松村正樹氏が調べてくれたものによると、伊賀阿波の阿波神社や比土(ひど)の高瀬神社も、もとは白髭明神だったという。
なぜ白髭ということにちょっとこだわったかというと、この白髭とは新羅ということであるが、中島利一郎氏の『日本地名学研究』によると、古い朝鮮語の「クナル・クナラ(白髭)」からきたものだともいう。クナル・クナラとは「大国」または貴い国という意味の「貴国」でもあるが、国とはいってもこのばあいは村落共同体のそれで、その中心、ということではなかったかと思う。
が、しかし、そのことともあわせて、私がここで考えてみたいのは、その白髭神社や前期の車塚古墳などがある、荒木というところのことである。つまり、「荒木」という地名はいったいどういうことからきたものであったか、というわけであるが、これはなにも「荒っぽい木」あるいは「荒々しい木」がそこにあったから、といったようなことからではなかったはずである。
私は河内(大阪府)の藤井寺市にある土師神社が一方では「荒木の天神様」とよばれていたことを知ったときから考えつづけてきて、いまはじめてそのことを書くが、まず、荒木の「荒」である。文芸評論家の荒正人氏は、自分のその荒という姓についてこう書いている。
私は、「荒」という姓の起原に関心を抱いていた。「荒」という姓は、相馬地方から、宮城県の東南部にかけて著しく多い。相馬藩は、関東から移ったもので、関が原戦役以前のものである。「荒」という姓は、このほか、富山県、石川県、兵庫県などに僅かにある。このなかで、福島県と富山県の交渉は考えられる。東北地方では、飢饉で、人口が足りなくなったとき、富山県から移入をした。移民は、一向宗を信じていたので、“一向宗”と呼ばれ、勤勉に働き、財産を貯えた。土着の人たちからは煙たがられ、偏見と差別を以て遇せられた。なお、埴谷雄高も、相馬藩だが、この姓名は富山に残っている。
荒族の祖先のことで、東洋歴史家の荒松雄さんと語り合ったとき、調査すればおもしろいでしょうね、ということではあったが、よく分っていなかった。荒松雄の先祖は、江戸時代に江戸に出てきた医者である。――私は、戦前のことだったと思うが、『新撰姓氏録』で、「荒」という姓が「安羅」であり、釜山の西にある三韓時代の小さい国であることを知った。それ以来、「安羅」の旧地を訪れてみたいという願望を抱いている。(「偏見と差別――この現代の腐蝕の構図」)
妙なもので、私がこの稿にとりかかろうとしていたとき、ちょうどそこへ、荒さんからある用件で電話がかかってきた。で、私はその電話のついでに、いま引用したこれを本人から再確認したものであるが、要するに、「荒」とは古代南部朝鮮の小国であった安羅(あら)からきたものだということである。
安羅は別に阿羅、安耶、安那とも書かれる。そしてさらにこれはまた穴(あな)、安邪(あや)、織(あや)、漢(あや)というふうにも書かれ、『古語拾遺』には織がまた「織布(あらたえ)」の織(あら)というぐあいにもなっている。
これで「荒」が古代南部朝鮮にあった加耶諸国のうちの一国であった安羅からきたものということがわかった。では、荒木の「木」はどういうことであったか。これは大和(奈良県)の高市郡が朝鮮から新たに渡来したものが住んだというわけで今来郡ともいわれたものだったが、その今来がのちには今木になったのとおなじで、こちら伊賀の荒木もその荒来、すなわち安羅来ということからきたものではなかったかと私は思う。
安羅=安那=穴
こう書くと、そんなはずが、と思うものがあるかも知れない。しかしながら、この伊賀がその安羅・穴(安那)と関係の深いところであったということは、はっきりといえるのである。たとえば、『伊勢国風土記』(逸文)をみると、「伊勢というのは、伊賀の安志(あなし)の社においでになる神」というのがみえる。
それからまた、『伊賀国風土記』(逸文)の「国号の由来」にも「吾娥(あが)」「加羅具似(くに)」などというのがみえているが、「安志」というのは、阿山郡伊賀町柘植町の都美恵神社に合祀となった石上神社由来記に出てくる「穴石」「穴師」ともおなじことなのである。『伊賀町誌要領』にあるそれをみるとこうなっている。
由緒は、明細帳には「其の創立年代不詳なりと雖(いえども)、旧記によるに敏達天皇の御代此の郷(さと)の長(おさ)、神を祀り穴石大明神と号す云々」とある。又神名帳考証に「当社は元穴師山に鎮座ありしも、寛永二十一年の大洪水に、社地大に欠潰(けつかい)せしにより、今の地に遷座し奉りしものなり」とあり。
これらにある「安志」「穴石」「穴師」はいずれもアナシであるが、では、このアナシの「シ」とは何だったのか。これはアナ之(し)、すなわち安那(穴)のということの助詞なのである。
したがって、穴石大明神などというのも、それは決して穴の石の大明神といったようなものではなく、これも安羅(安那・穴)の大明神ということだったのである。ここで、さいごにもう一つ、『伊賀郷土史研究』中にある早瀬保太郎氏の「伊賀における仏教文化の開華」をみると、竹原氏族の祖に関連して、こういうことが書かれている。
岡塚古墳、生賀の古墳群(円墳)は、竹原氏に関係あるものと推察せられる。おもうに、阿羅国主の弟某が日本に帰化し、伊賀国に居住して伊賀都君と改め、その後裔が竹原氏を称したのではあるまいか。
朝鮮に阿羅、すなわち安羅という国が存在しはじめたのは、二世紀ころからと考えられている。したがって、その阿羅国主の弟某が「日本に帰化し」たというのはおかしなことであるが、しかしそのような古い時代からたくさんの渡来があったことは事実であるから、これもそのことを反映した一つのはなしとしてみておくのはよいと思う。
高麗織とカラコト
貴重な民芸品・高麗織
荒木から市中にあった中住さんの実家に戻ると、菅原神社の秋祭はちょうどヤマ場となり、たけなわとなっていた。関東の秩父夜祭のそれとよく似た壇尻(だんじり)は前夜見ていたが、街頭に繰り出してきた三重県の無形文化財ともなっている「鬼の行列」を見るのははじめてだった。
伊賀上野市中のそれぞれの町、たとえば「徳居町の脇立鬼(青鬼)」「三之西町の役行者(えんのぎようじや)と脇立鬼」というぐあいにして、それぞれがその扮装をこらした「鬼の行列」が町じゅうを練り歩くというのは、まさに一つの壮観だった。なかには釣り鐘を背負った「ひょろつき鬼」というユーモラスなのもあって、町じゅうが笑顔と笑い声とで沸き返っていた。
それで、町じゅうの人々がみな子どもに立ちかえっている、といったおもむきでもあって、「なるほどこれこそは祭というものだなあ」と私は思ったものだった。市役所はじめ、そういったところもみな「休み」となっていた。
そのとき撮ってきた写真を一枚紹介するが、単独ですわっているのは「休憩中の鬼」というわけである。これとおなじ写真は上野市四鬼会編『上野天神祭供奉面』にものっていて、それの説明にこうある。「一日じゅう練り歩くので、たいへん疲れる。タバコもすいたいし、茶も飲みたい。仮面の中から、美人を見るのも又楽しいものである」
ついで、三度目に私が伊賀をおとずれたのは、上野の天神祭、菅原神社の秋祭があってしばらくしてからだった。このときも私は上野城跡にのぼり、このときはじめてそこにある忍者屋敷というのにはいってみたことは、さきの「まずは伊賀流忍術」の項に書いたとおりであるが、それから私はまた上野市の教育委員会をたずねた。このまえは秋祭のために休みだったりしたので、私はまだそこでの用事をのこしていた。
用事というのは、ほかでもない。私は伊賀上野における「高麗織」の生産現場をみたいと思っていたのである。実をいうと、私が伊賀をたずねてまっさきにみたかったのはこの高麗織だったが、前回は全市あげての祭のため、それをみせてもらうことはできなかったのだ。
「沿線風物詩」という近鉄のPR記事であるが、一九七一年九月十日号の『週刊朝日』に「伊賀上野の高麗織」としたきれいな一頁のカラー写真がのっていた。白いかっぽう着姿の女性が高麗織を織っているというもので、それに嵯峨崎司朗氏のこういう説明文がついている。
「高麗織」とよぶ手織の組ひもをつづける女性たちが、城の見える伊賀上野の里にひっそりと生きている。機械化の波にも押し流されない一握りの人たちである。手織の組ひもは残された貴重な民芸品である。昔から「一人一作」といい、愛着をあつめている。
高麗織が普通の織物とちがうのはオサでたたいて締めるのを、竹ヘラで打って組むのである。おもり玉のついた六八条の糸をあやつるヘラの修練が組目の美しさを決定するという。
トントンというおもり玉の躍る音の合間に絹を打つヘラのリズムを子守歌に育った娘は、母のように手織をつぐのである。婦人の和服を引きしめる優美な帯じめ、女体を横切るフィーリングラインは伊賀織女の心である。
それで私は、まえに来たとき顔見知りとなっていた上野市教育委員会文化財係長の西嶋覚氏に会い、その高麗織の現場を一つ紹介してくれないかとたのんだ。西嶋さんはちょっと考えていたが、電話簿を繰って、そこへ電話をしてくれた。
これも渡来の技法
西嶋さんとは知り合いのところらしかったが、どうしたものか、その電話はずいぶん長くかかった。おそらく、十分以上もたったのではなかったかと思われたころ、
「どうも、ダメですね」と、西嶋さんはやっと電話を切って言った。
「そうですか。どうして――」
「作業には外部にみせられない秘法があって、その秘法が盗まれはしないかというわけです」
「ああ、そうですか。なるほど。それでは仕方ありませんな」
私は、苦笑した。どこかから、その秘法を盗みに来たものじゃないかと思われたらしい。
「だったら、どうですか。その高麗織の組(くみ)ひものことでしたら、市の図書館長だった山本茂貴という人がくわしいそうですから、この人に会って聞いてくれませんか。いまは、市の公民館長をしています」
「ええ、わかりました。お忙しいところ、いろいろとどうもありがとうございました」
私は外へ出たが、その高麗織に秘法があって外部のものにみせられないというのは、もっともなことだと思った。しかしながら同時にまた、何となくちょっと釈然としないような気持ちものこった。
だいいち、私などがそれをみたところで、どれが、なにが秘法であるのか知るわけもなかったし、またそこまで知りたいという興味も理由もなかった。それなら、近鉄のあの「伊賀上野の高麗織」の写真はどうやって撮ることができたのだろうか、とも思わないではいられなかった。
しかし、のちになって人から聞いて知ったが、それには私の思いちがいがあった。そのことを教育委員会へ行ってたのんだのがまちがいで、市の観光課へ行けば、よろこんでその高麗織の現場へ案内までしてくれるという。何のことはない、高麗織というのは、伊賀上野市の観光資源の一つともなっていることを、私はまったく知らなかったのである。
だが、私はそこでまた考えた。おそらく観光課がよろこんで案内までしてみせてくれるというそれは、何の秘法をも必要としないものであるにちがいない。つまり、私はたまたま場違いのところへ行ってそれをみたいとたのんだことから、高麗織にはいまなお外部のものには明かさない、そんな秘法のあることを知ったわけだったのである。
けれども、このときはまだそんなことまで知らなかったので、私は何となく、ちょっと釈然としないような気持ちをのこしたまま市の公民館をたずね、そこで山本茂貴氏に会った。山本さんは三重県の俳文学会員でもあって、三重県組紐(くみひも)協同組合がだした『ひも物語』の著者でもあった。
「伊賀にある古代朝鮮文化遺跡をたずね歩いているものですが――」と言って、私は自己紹介をした。すると、山本さんは闊達(かつたつ)な人で、さきにみた古墳のことなど、いろいろ教えてくれた。
「一の宮の敢国神社というのも、わたしはそうではなかったかと思いますがね」とも言ったが、高麗織の組ひもについては、『ひも物語』にこう書いている。
『集解(しゆうげ)』には錦戸一一〇戸、綾を織る呉服部七戸、広幅絹を織る河内の織部三五〇戸を算えたことが見え、六道二十一ヵ国より錦織が産せられた。伊賀には呉服郷を中心に呉織(くれはとり)、漢織(あやはとり)の二系がその技術を携えて来化したといわれ、生産された錦織は朝貢、献上品として織部司に納められた。
また、正倉院にのこる雑色くみの帯のごとく、斜格子文を組んだ広幅の打ちひもがつくられた。今の組み方で安田紐とよぶこの手法は高麗打ちともいわれ、雑色の染色をもって組み打たれた。この組み打ちは辻々を濃くあらわし、次で濃暗色と淡明色が混淆するといった変化を巧みにあらわしていて、くみおびとよばれる。伊賀組紐が新規に打ったことのあるネクタイは、くみおびの技法をとり入れたものである。
ここにみられる呉織(くれはとり)、漢織(あやはとり)がどこからきたものであったかは、すでにわれわれはさきにみているが(「服部・呉服・呉織」の項)、それがいまなお高麗織、高麗打ちなどというものとなって、ここにのこっているのである。それにまた、「伊賀組紐が新規に打ったことのあるネクタイ」、われわれがいま用いている西洋式のネクタイにまで、その技法がとり入れられていたというのもおもしろい。
名張に残る遺跡
伊賀上野から、こんどは名張(なばり)へ向かった。いちいちこんなにして歩いていたのではきりがないので、伊賀は上野だけにしておこうと考えていたが、資料のことなどでいつも協力してくれている阿部桂司君が、そこまで行ったら「やっぱり名張まで」行ってみるべきだという。
「やっぱり名張までか」と、私は笑った。「そこにはどういうものがあるかね」
「『名張市史』をみると唐琴(からこと)、つまり加羅琴を神体にしているという八幡神社なんていうのもありますよ」
またも神社というわけだったが、しかし琴という楽器が神体になっているというのは、ちょっと珍しかった。しかもそれは、いまでも朝鮮でさかんに使われている加羅琴、すなわち加耶琴(カヤクム)ではないかという。
私は近鉄の名張駅でおりてタクシーをひろい、例によってまず名張市の教育委員会をたずねた。社会教育課係長の中野恵生氏に会って、『名張市の文化財』などをもらい、待たせておいたタクシーを、旧八幡村の八幡神社に向かって走らせた。
神社としては、宮中に祭られている園(その)神社・韓(から)神社二座のそれとおなじ、新羅系といわれる園神、百済系といわれる韓神を祭る安良(あら)小社などというのも、ここにはあったようだった。安良とはさきにみた安羅ということで、『名張市史』にはそれがこうなっている。
安良小社(?)惣国風土記に曰く。名張郡安良小社、圭田二十束七畝田所祭、園韓の神なり。大宝年中の鎮座なり、按ずるに所在詳ならず。
「大宝年中の鎮座」というと、それは七〇一年から七〇三年までのあいだということで、ずいぶん古いものである。なおここで、村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷(こう)」をみると、伊賀のそれとして、宇流富志禰神社というのがあげられている。
この神社のほうはいまも健在で、その一の鳥居や石造鳥居、石造手水鉢などは名張市指定の文化財となっている。それからまた、ここにはその境内に古墳石室を露出している鹿高神社というのもあったが、しかし実地に行ってみるのは、旧八幡村のそれだけということにした。
タクシーはまがりくねった名張川に沿ってしばらく走ったとみると、そこがいまは名張市となっている八幡だった。橋を越した右手に「八幡正八幡宮」とした大きな石碑が建っている。
そしてその石碑の横からが細長い参道となっていて、八幡神社はそれからさらにまた細長い急な石段を登ったところにあった。参道も石段も新しくつくられたものだったが、神社もまたそのように新しいものだった。
しかし、だからといって、神社そのものが新しいというわけではなかった。それがまたこの神社の歴史を語るものでもあって、『名張市史』をみるとその「由緒」がこうなっている。
古くから八幡村の氏神として現在地に鎮座した。明治四〇年六月一日区内の神明神社、同境内社津島神社、および山神社を合祀したが、翌四一年二月一六日、西田原春日神社に合祀された。
しかし、強制的な合祀については当初から区民が反対で、昭和一一年県に対する分祀請願が拒否されてから、非公式ながら復祀を断行した。
つまり、八幡の住民は古くから自分たちの氏神であったそこの八幡神社が春日神社に合祀されてなくなっていることに反対で、一九三六年の昭和十一年、県にたいし再建を正式に請願したが拒否された。しかしにもかかわらず、のちに住民はその再建を断行したというのである。
重層的な朝鮮との関係
ちょっとない珍しいはなしで、ほかにもこういうことがあるのかどうか知らないが、それだけにまた、八幡住民のこの神社にたいする愛着と熱意とはなみなみならぬものがあったわけだったのである。『名張市史』にはつづけてこう書かれている。
八幡村・八幡神社については古くから唐琴(からこと)の伝説がある。『三国地誌』に「八幡祠。一名唐琴明神」、また『伊水温故』に「唐琴社。八幡村在所の名も加羅坤土(からこと)という。今あるところの民ら当社を加羅子の八幡という」とある。次のような伝説がある。
「安康天皇の御宇、出雲国造伊賀に来り神功皇后の社を祭る。国造夢託によるなり。皇后所持の琴をもって神体となす。この琴は三韓に得るところなり」つまり三韓征伐のとき持帰ったカラの琴がカラコトの語原というのだ。(『伊賀史』)
「天武天皇霊夢に感じ創するところ、始め大和国丹生河上にあり、後この地に遷奉すと。往古表筒男・中筒男・底筒男の三神をまつり、また村上天皇のとき神功皇后を配す。のちこれを改む」(『伊賀国誌草稿』)
「聖武の朝、一国に一ヵ所の八幡宮を祀らしめらるるの時、当村の八幡なればとて、唐琴社に応神天皇を奉祀せりと」(『名賀郡郷土資料』)
諸説いろいろである。とにかく八幡村をカラコトと称し、八幡神社をカラコト明神と称したことについては相当深い伝承があるが、上記の諸説には信ずるに足るものがない。
まさに「諸説いろいろ」で、とくに神功皇后の「三韓征伐」などというのが妄説であることは今日ひろく知られているとおりであるが、こうなると八幡神社の神体が唐琴、すなわち加羅琴であったかどうかも、すこぶるあやしいことになる。
が、しかし、それはどちらにせよ、『名張市史』の筆者も書いているように、この八幡神社のある八幡がカラコト、すなわち「加羅坤土」、加羅と深い関係にあったところということは、たしかであったようである。さきにみた安良小社のことといい、また、伊賀上野と安羅との関係をみても、それはいえるのではないかと思う。
要するに伊賀というところは、古代南部朝鮮にあった加耶諸国(安羅はこのうちの一国)系の渡来人たちによってまず開発され、そのうえへさらにまた北部朝鮮にあった高句麗系のものがかぶさったのではなかったかと思われる。このような重層は日本各地にみられることで、別に珍しいことでも何でもない。
なおまた、これもここへ来てみてはじめて知ったが、名張の小波田には「能楽大成者/観阿弥創座之地」という大きな石碑が建っている。名張市文化財委員会が一九六九年に建てたもので、『名張市の文化財』にその観阿弥のことがこう書かれている。
能楽の大成者、観阿弥三郎清次が、伊賀平氏服部氏の子孫として伊賀に生れたのは、北条氏滅亡の元弘三年であった。幼時は長谷観音の申し子として観世(みよ)丸と名づけられ、元服して清次と名乗り、後年出家して観阿弥と称した。若き日の観阿弥は、猿楽の盛んであった大和、近江、摂津、丹波等の各地で修業を積み、今までの伝統的な美的表現を幽玄化し、謡(うたい)にも舞にも一大改革を施した。
観阿弥がさきの伊賀上野でみた(「服部・呉服・呉織」の項)服部氏の子孫として生まれていたというのがおもしろいので紹介したが、そういえばここにいう能楽の猿楽にしても、朝鮮と無縁ではなかった。これも東洋音楽学会の田辺尚雄氏によると、朝鮮から渡来した散楽(サンラク)がそのはじまりであった。
伊 勢・志 摩
白木・鶏足・瀬織津(せおりつ)
伊勢は亀山から
さて、いよいよ伊勢(三重県)である。伊勢はあとで書くように、名古屋で出ている中日新聞の座談会のため伊勢神宮のあたりと、それからこちらはおなじ三重県でも志摩となる伊雑宮(いそうのみや)を、ひととおりみていただけだった。
それからまたもう一つ、私はさきの伊賀を歩いていたとき、ちょっと偶然のようなぐあいで、亀山まで行ったことがある。大阪の天王寺から国鉄関西本線に乗っていて、伊賀上野まで行くつもりだったのだが、雨が降りだしたので、何とはなし亀山まで行ってしまったのだった。
そこまで行ったところで、降りはじめた雨はやみはしなかったが、えい、ままよ、きょうは亀山ということにしてやれ、というわけで、そこにおりてみた。予定になかったことだったから、別にこれというあてがあるわけではなかった。
駅前にとまっていたタクシーに乗り、例によって市の教育委員会をたずねた。社会教育係の林次男氏から『亀山市の文化財』などをもらい受け、そこに居あわせた文化財保護委員の杉本幸次郎氏とも話しながら、もらったばかりの『亀山市の文化財』を開いてみると、忍山神社というのがあってこうある。
野村町の西南方古字布気林にある。縄文式時代南野町の台地に集落した部族が弥生式時代を経て崇神天皇の頃、相当の人口を有するに至り、その祖神猿田彦を祀ったのが延喜式布気神社で、地名の布気がひげに転じて白髭となったものと思われる。
一方、天照大神と相殿二座天児屋命、大玉命を祀る式内忍山神宮(皇大神の行宮)はもと野村町愛宕山の麓西南一帯の小山にあったが、文明年中兵火にかかって白木山にのがれ、帰っても社殿造営の力がなかったので、いまの忍山即ち布気神社の地に仮宮を営むこととなった。こうして同一社域内に本社布気神社と別宮忍山神宮の二社が共存したが、いつの間にか本来の布気神社の名がかくれて、忍山神社の名のみが残ることとなったと考えられる。現在、垂仁天皇の十八年皇大神宮御遷座のあった址とされているが、更に考証の必要があろう。
こうしてみると、忍山神社のもとは布気神社であり、それはさらにまた白髭神社でもあったことがわかる。「布気」などというのも気になる名称であるが、白髭ということについては、さきの伊賀の「敢国から荒木へ」の項でみている。
すなわち中島利一郎氏の『日本地名学研究』によると、それは朝鮮語「クナル・クナラ(大国)」ということで、古代村落共同体の中心地ということでもあった。したがってこの白髭神社というのは、日本全国いたるところにあったし、いまもまだあちこちにのこっている。あとでみる、四日市にもそれがあった。
それで私は、ここでちょっと考えたのであるが、もとは新羅(しらぎ)の斯羅(しら)ということであったはずの比良(ひら)山麓にある近江(滋賀県)の有名な白鬚神社といい、亀山のこの白髭というのも、もとはやはり、新羅ということからきたものではなかったかと思う。新羅にしてもそのもとは「新しい国」ということであったから、新羅系渡来人の住みついたところとみられる中心地が、新羅=白髭だったとしてもふしぎはない。
そのことはこの布気・白髭(いま忍山)神社の近くに白木(新羅)山があったことからもいえるように思うが、さらにつづけて、『亀山市の文化財』の頁をくってみると、そこには白木国分寺というのがあり、また鶏足山野登寺というのもあってこうある。
明星山国分寺は千百余年前、行基が開基した聖武天皇の勅願所であったと伝えられる。又、本尊虚空蔵菩薩は嵯峨天皇の弘仁六年弘法大師が当山に錫を留めて虚空蔵求聞持の法を修業中、明星の瑞光が柏の大樹に入るのを見、この柏をもって刻んだものと伝える。後、江州観音寺城主六角氏、日野城主蒲生氏等の兵火にかかって堂塔残らず烏有(うゆう)に帰した事もあるが、その度毎に復興して今日に及んだ。附近紫つつじの名所として、春四月は全山燃えるように美しい。
白木国分寺の白木というのも、さきの白木山とおなじく地名らしかった。ついで鶏足山野登寺にしても、これも白木とおなじようにその鶏足というのが問題だったが、まず、そこに書かれていることからみるとこうなっている。
安坂山町坂本から本堂まで五キロメートル、これが本道である。本堂に近い石垣の老杉は周五丈七尺、高さ十丈ばかり、天正の兵火で焼けたというが、今でも繁茂している。
凡そ百個の石段を上ると海抜八五一・六メートルの山頂に本堂、鐘楼、札所、庫裡などがあり、何れも銅葺である。外に山門、観音堂、大師堂、善光寺如来堂もある。本堂は五間四方南面して、俗に天照大神の作という本尊千手観音を安置する。もと桑の木で刻したものであったが天正の兵火で焼失し、現在の本尊は近世の作である。伊勢巡礼第二十二番目の札所。
各地に残る鶏足寺
「あのう」と、私はそこにいる林さんと杉本さんに向かってきいた。「ここに出ている白木国分寺の白木や鶏足山野登寺というのは、ここから遠いのでしょうか」
「はあ、かなりありますね」と林さんは、杉本さんと顔を見合わすようにした。すると、杉本さんが引きとって言った。
「ええ、遠いですよ。なにしろ高い山の上で、それにきょうのような雨では、あの石段を登るのはとても無理でしょうな」
「そうですか……」
私はまだあきらめられないような気持ちで言ったものだったが、要するに、白木国分寺の白木にしろ、鶏足山野登寺の鶏足にしろ、それはどちらも新羅と縁のあるものにちがいなかった。鶏足山や鶏足寺というのは、ほかにもいくつかある。たとえば、これも近江の古橋には己高(こたかみ)山観音寺があって、これももとは鶏足寺といったものだった。
それからまた、今井啓一氏の『帰化人と社寺』「高麗寺・新羅寺・鶏足寺」をみると、「〈朝鮮〉半島からの来化者によって開創されたと思われる寺刹に鶏足寺のあることに注意し」として、たとえば播磨(兵庫県)の鶏足寺のことがこう書かれている。
いまは姫路市に入る旧揖保(いぼ)郡大市村大字石倉(姫路線おおいち駅の北十余丁、石倉までは姫路駅前から神姫バスの便あり)のさらに北方、峰相山(みねあいさん)の山中に往時、鶏足寺という一州の名藍があったが、いまは全く廃しているようである。この峰相山鶏足寺亦、新羅国王子の開創と伝えている。……
王子、当山によじ登って草庵を結んで一心に千手陀羅尼を誦したのにはじまるとしている。勿論、そのまま信ずべくもないが、恐らく新羅系帰化人によっていつ頃か創始されたので、鶏足寺と称したことは肯(うなず)けよう。
鶏足というのは、新羅の別名が鶏林であったところからきたというもので、これには次のような説話があった。ちょっと蛇足となるかも知れないが、私はこれについて別に書いたことがあるので、それをみるとこうなっている。
――新羅(徐羅伐)脱解(タルヘ)王九年春のある夜のこと、王城西方の始林といわれている森の中から鶏の鳴き声がしたので、それをふしぎに思った脱解は、夜の明けるのを待って臣の瓠(ホ)公をそこへやってみた。瓠公が来てみると、林の中で一羽の鶏がしきりとときをつくっており、その木の枝には、金色をした一つの櫃(ひつ)がかかっている。
瓠公は立ち帰ってそれを脱解に告げたところ、櫃はすぐに運ばれてきて、中からは一人の男児が出てきた。それをみて脱解はよろこび、「これぞわが後嗣である」とその子をただちに王子とし、名を閼智(アルチ)とつけ、金色の櫃から生まれ出たというので、その姓を金(キム)とした。
そしてこれがのち新羅の大輔となり、その後孫は金氏歴代の王となった金閼智というわけであるが、同時にまた、その始林はこのときから鶏林といわれるようになり、国号もこれにならって、のち新羅となるまでは、徐羅伐から鶏林とよばれることになったのだった。――
もちろん、荒唐無稽ともいえる説話であるが、しかし、新羅が鶏林と号したことがあるのは事実であった。そしてこの称号は近世の李朝まで生きのこっていて、当時の朝鮮全体・全道のことを「鶏林八道」などともいっていたものである。
それでかどうか、日本における新羅系渡来人は、この鶏をひどく神聖視したもののようであった。たとえば越前(福井県)敦賀半島の立石岬にも白木(新羅)というところがあって、ここには白城(しらき)(新羅)神社があるが、今日でもなお、ここの人たちは鶏を食わないということを私は聞いている。
しかし亀山の白木の人たちはどうか、それはわからない。わからないばかりか、手にしていた三重県の地図をみると、隣の関町には「白木一色」などというところもあるが、雨のためにそこへも行けそうにない。
「それだったらですな」と、まだそこで迷っていた私をみて杉本さんが言った。「片山神社へ行ってみてはどうですか。これは古い神社ですから、あなたが行ってみたら別にまたなにか感じるものがあるかも知れない」
濃厚な新羅系の遺跡
文化財保護委員の杉本さんは、単行本では『日本の中の朝鮮文化』となっている私のこの「旅」のことをなにかのことでちょっと知っていてくれた。したがって、私がどうしてそういうものをたずね歩いているかということも知っていた。
「ああ、そうですか。それはどこに――」
「隣の関町になりますが、ここなら街道筋で鈴鹿峠の手前のところだから、雨でもたいしたことはないはずです」
「するとそれは、白木一色というところとなにか関係があるのでしょうか」
「いや、それはわかりませんが、白木一色といっても、そこにはいまはもうなにもないですよ」
そこで私はようやく決心したように亀山市の教育委員会を出て、外に待たせておいたタクシーで片山神社に向かった。雨は降りつづいていた。何のことはない、私は地図などもみていながらそれまで気がつかなかったが、杉本さんが「街道筋」といったのは東海道のことで、それは東京から出ている国道一号線のことだった。
途中、旧街道筋にあった関町の教育委員会に寄り、『関町要覧』というのをもらった。それでまた私ははじめて知ったのだったが、古い家並みをまだのこしていた関町は、日本三大関の一つといわれた鈴鹿の関を中心にできた、いわゆる東海道五十三次の宿場町だった。
その町なかを出はずれると、国道一号線の東海道は鈴鹿川沿いとなり、片山神社は、やがて鈴鹿峠の急坂となるらしい手前の右手にあった。社殿は街道からさらに五、六百メートル細い参道を登ったところで、うっかりそこまでタクシーを乗り入れてしまったところ、帰りはU(ユー)ターンができなくて困ってしまったものだった。
それはともかく、あたりが雨でけぶっている鈴鹿山中というわけでもなかったであろうが、片山神社のたたずまいはいかにも古寂とした感じだった。かたわらに宮司の家らしいのがみえたのでたずねたが、そこにも人はいなかった。
宮司に会ったらなにかみせてもらえるかとも思ったものだったけれども、これでは仕方がない。雨のなかをそのまま戻るよりほかなかったが、ここで『関町要覧』をみると、片山神社のことがこうある。
片山神社 四社合祀。もと三子山にあったものを永仁二年に現在の地に移し、鈴鹿大社として称え、坂下駅の氏神となる。鈴鹿峠中腹にあり、東海道自然歩道コースの中にある。
三子山とはまたずいぶん高い山中にあったものであるが、永仁二年とは鎌倉時代の一二九四年のことであり、坂下駅というのは鈴鹿峠のこちら、ということではなかったかと思われる。『関町要覧』ではそれ以上のことはわからないが、しかし江戸時代にできた『伊勢国誌』によってみると、片山神社の祭神は瀬於利津比売(せおりつひめ)、『延喜式』や『神道五部書』などにみえる瀬織津比〓(せおりつひめ)となっている。
瀬織津比〓とはなにか。これについてはのちにまたみることになるはずであるが、中島利一郎氏の『日本地名学研究』によると、「この瀬織津比〓ということは、新羅語からでも、今の朝鮮語からでも『都(ソウル)つ媛』『京(ソウル)つ媛』の義であって、日本語の『添(ソホリ)』も都の義で」とある。
すると、どういうことになるか。瀬織津比〓というのが新羅のソウル(都京)の媛(比〓)ということであったとすれば、さきにみたこれもそれぞれが「新羅」ということからきたはずの亀山市の白木や鶏足、それから関町の白木一色などとは関係なかったであろうか。
つまり瀬織津比〓を祭神とする片山神社にしても、この地域に住んだ新羅系渡来人の斎(いつ)き祭ったものではなかったかと思うのであるが、それはどちらにせよ、これからもみるように、この伊勢というところは加耶諸国を含む新羅系のそれがひじょうに濃厚のようである。
四日市の銅鐸
四日市での講演
しかしながら、私が伊勢に行って実際に見たといえるのは、まだ以上のところぐらいでしかなかった。それで、さて、いよいよ伊勢ということになって、私はひとりちょっと迷った。
伊勢といえば、伊勢神宮などのある宇治山田、いまは伊勢市となっているあたりが中心となるが、しかしそこはあとまわしとし、まず、どこからはいって行くべきか、と私は考えたわけだったのである。三重県の県庁所在地となっている津はさけるわけにはゆかないとして、かの賀茂真淵と本居宣長とが出合ったという松阪はどうか、などと私はそんなふうに考えていた。
というのは、どちらにしろ、そこにはこれといった手がかりがなにもなかったからである。亀山のばあいのように、そのまま教育委員会あたりをたずねてもよいわけであるが、しかしそれにしてもどちらのほうから、――と迷っていたそこへ、ある朝、四日市市中部公民館の水谷謙吉氏から電話がかかってきた。「日本の中の朝鮮文化」ということで、講演に来てくれないかという。
このころ私はちょうど、大宮市ほかの教育委員会や高校教師の集まりなどからおなじような講演をたのまれていたので、時間がとれるかどうか、これまたちょっと迷ったが、しかし待てよ、と思った。それで水谷氏にはあとでもう一度電話をくれるよう言っておいて、調べてみると、やはり四日市もかつては伊勢国の一部となっていたところだった。
四日市ばかりか、尾張(愛知県)ではないかと思っていた桑名もそうだったが、四日市といえばもっとも現代的なそれが生みだした、いわゆる公害で名高いところだったからか、私はそこは完全に無視していたのである。というより、四日市といえばそのような現代的工業都市であったので、そこが古代遺跡をたずねる私の「旅」とはなかなか結びつかなかったのだった。どこにしろ現代は現代、古代は古代であったはずであるが、現代に生きているものの感覚とはこわいもので、それがいつの間にか、一つの偏見のようなものをつくりだしていたのである。
そんなわけで、私が四日市市中部公民館の水谷氏が言ってきたその講演を、よろこんで引き受けたこというまでもなかった。そしていま考えてみると、以下みられるように、これがとてもよかったのである。そういうしだいで、これからの私のこの「旅」は四日市からはじまることになるのであるが、私が四日市市中部公民館と四日市市郷土史研究会共同主催のその講演会に行ったのは、一九七三年となったこの春のはじめであった。
東京から二時間の新幹線で名古屋につくと、あとは近鉄特急に乗り、三十分ほどで四日市についた。私はそこではじめて、自分のクルマで駅まで出迎えてくれた水谷氏と会ったが、四十くらいの、小肥りでがっしりした感じの人だった。ちょっと話してみてすぐわかったが、水谷さんは古代史についてもなみなみならぬ関心の持ち主のようだった。
「ぼくもそんな遺跡をみて歩くのが好きなんですよ」と水谷さんは言ったが、それだけではなさそうだった。
私は四日市市中部公民館について、館長の久村義雄氏ほかともあいさつをかわし、『四日市市史』があったらみせてくれるようたのんだ。何百頁もある分厚な市史だったが、私がみたいのは古代の部分だったから、そう時間がかかるわけではなかった。そしてその古代のある部分をコピー機にかけてくれるようたのんだところ、いつの間に用意してくれたのか、市教育委員会から社会教育課長の大橋昊瑞(こうずい)氏が夜の講演会場にみえて、立派な書物となっていた同市教育委員会編『四日市の文化財』や『四日市市遺跡地図』などまで届けてくれた。
教育委員会へは翌日たずねようと思っていたところだったので、まったく感謝のほかなかった。それからまたこの講演会をつうじて、四日市市文化財調査員でもあった四日市市郷土史研究会長の中山善郎氏ほかといろいろ話すことができたのも収穫の一つだったが、それよりなにより、実をいうと、この講演会の翌日以後が私にとってはもっとよかったのである。
須恵器を使った豪族もいた
四日市はもとより、津など伊勢のほとんどを水谷さんたちといっしょにみてまわることができたからであるが、それはあとにして、ここでまず、現代の公害都市といわれる四日市市の遺跡をひとわたりみておくことにしよう。だいたい、これまでに三重県全体で発見されている古代遺跡は六千五百ほどといわれるが、うち四日市市のそれは三百六十余であった。
だが、完全な形でのこっているものは十数ヵ所しかないという。これはなにも四日市市と限らず、現代のような開発という破壊時代にあっては、やむをえないことであるといわなくてはならないかも知れない。
私も中央緑地公園となっているところにあるそこへ行ってみたが、ここにはなかなかしょうしゃな建物の四日市市立郷土資料庫があって、市内堂ケ山町の一色山遺跡をはじめとするあちこちからの出土品が展示されている。ほとんどが、かつては朝鮮土器といわれた須恵器で、同資料庫の出した子ども向けとなっている『四日市の埋蔵文化財』をみると、その須恵器についてこう説明がつけられている。
朝鮮より一、五〇〇年ぐらい前にその技術が伝わってきた灰色のかたい土器、色々な形があります。
なお、この須恵器については、『四日市市史』にも言及がある。大井手大塚古墳出土のものを説明したもので、それはこうなっている。
三滝川の南方に連なる丘陵の麓に築かれている円墳である。その規模、形状などは不明だが、昭和二十五、六年ごろ、たまたま須恵器が発見されている。有蓋碗形土器一、有蓋坏一および高坏一、提瓶一、ほかに台付長頸壺一がそのすべてである。
有蓋碗形、有蓋坏は極めて稀なものとして注目すべきで、有蓋碗形は茶褐色を呈し、金属音を発するほどよく焼成され、自然釉が認められる。蓋の鈕(つまみ)は内部をえぐり、鈕を中心として放射状に櫛状工具の刺突圧痕(しとつあつこん)を描文している。身は口縁部下に二条の沈線がめぐり、その下に蓋に施したものと同様の刺突文(しとつもん)がある。有蓋坏は須恵器通有の灰白色で焼成、胎土とも良好である。
さてこの二つの土器は日本には少ないが、類例は朝鮮から多量に発見されている。一見すると〈朝鮮〉半島で製作されたものかと考えられるほど文様、形態とも近似している。従って半島での製作か、日本の工人か帰化人の手によったものか、判別するに困難なほどである。しかし大塚古墳の被葬者が、全国的にも稀な副葬品をもったことは明らかで、今後わが国における類例の増加によって、この種の須恵器のもつ意味も必ず検討されよう。
この須恵器は田中安一氏という人の個人所有で、資料庫にはなかったからみることはできなかった。しかし、「金属音を発するほどよく焼成され、自然釉が認められる」これは、『四日市市史』の筆者もそうではなかったかと疑っているように、私もこれは朝鮮から渡来した新羅・加耶土器そのものではないかと思う。
だいたい、古い須恵器には二通りのものがあるとみられている。一はその技術とともにやって来た渡来人たちによってこの日本で焼かれたもの、二は彼らが朝鮮から渡来するときにそちらから持ってきたものである。両者の区別はなかなかつけにくいが、その特徴は前者の焼成度がややにぶいのにたいし、後者は鋭く「金属音を発するほどよく焼成され」たところにあるという。
それはどちらにせよ、こういうものは個人の家にしまっておかれるより、たくさんの人々がみられる公共の資料館などにあったほうがよいと思うのだが、なかなかそうはゆかないようである。
しかし、にもかかわらず、四日市市立資料庫にはたくさんの須恵器とともに、一つちょっと珍しいものがあった。が、そのまえに同資料庫の出したもう一つの『四日市の埋蔵文化財』によって、同市の遺跡と出土品とを二つ、三つ紹介しておくことにしたい。
△大谷遺跡(生桑町)
弥生時代前期〜古墳時代後期の集落趾であって、発掘調査により弥生時代前期の住宅趾二、後期の住宅趾一二、古墳時代後期の住宅趾一、時期不明の方形周溝趾二、その他多数の溝が発見された。出土遺物は遠賀川式土器と呼ばれる弥生前期の土器を中心に、各時期のものがみられる。
△御池古墳群(山田町)
径八〜一三メートル、高さ一メートル内外の規模を有する一一基の古墳時代後期の古墳群であり、それらは一般に「群集墳」と呼ばれている。発掘調査された五号墳は、横穴石室を築造して死者を葬っており、須恵器、鉄製品のほか銀環も副葬されていた。
△智積廃寺(智積町)
奈良時代前期の寺院趾であり、昭和四十二年の発掘調査で南北線上に南方建物、北方建物、掘立柱建物が検出され、それらは金堂、講堂、僧房に比定されている。出土遺物は軒丸瓦、軒平瓦、丸瓦、平瓦、鬼瓦、鴟尾(しび)などの瓦類のほか、〓仏(せんぶつ)や須恵器などがある。軒丸瓦のうちには、奈良県飛鳥寺のものと類似するものがある。
これだけみても四日市にはずいぶん古くから人々が住んでいたばかりか、朝鮮渡来の須恵器など使っていた相当な豪族がいたこともわかる。ところで、さきに私は「一つちょっと珍しいものがあった」といったのはほかでもない。それは四日市市の伊坂町から出土したもので、銅鐸といわれるものであった。
銅鐸が秘める謎
銅鐸自体としてはそう珍しいものでも何でもないであろうが、しかしそれがはじめに書いたようなもっとも現代的工業都市、四日市から出土していたというところに、やはり珍しい感じがある。この銅鐸は、『四日市の文化財』によると、「総高四〇・三センチ、身高三一センチ」で、「その箱書によると『文久二年(一八六二)三月二十一日に、朝明郡伊坂村の農、久四郎の四男の乙松と清七の次男富三郎とが、同村の字重地山で採薪の際、土中から発掘した』と記してある」とある。
私はこれまでも銅鐸の出土地を歩いてこなかったわけではないが、しかしその銅鐸のことについて書いたことはない。そこで四日市のこれを機会に、銅鐸とはいったい何だったのか、どこからきたものであったかということを、少し見てみたいと思う。
いま東京新聞の夕刊に、樋口清之氏による『古代生活散歩』という小さい囲みものが連載されている。この四月のある日は「銅鐸」となっていて、それがこう書かれている。
日本の原始時代の謎の遺物に銅鐸がある。弥生文化の所産だから、紀元前後二、三百年間だけ造られた。その分布は、南朝鮮から、九州は福岡県、四国は愛媛県以外の各県、中国、近畿、中部を経て群馬県まで分布している。
形は扁平なバケツを逆にしたような鐸身に楕円形の板状の鈕(チュウ=ひもをつけるところ)が付いている。日本で造られた証拠に、鋳型も発見されている。大きさは、最初は一〇センチ台の小型だったが、だんだん大きくなり、近畿や東海道では一メートルを越すものもある。そして最後にはまた急に小さくなって、姿を消した。
その発見がいずれも突然で、集落の中や墳墓から出ず、多くは山の斜面や巨石の側などだ。こんなことから誰が、何のために作ったのか、という点が謎になってきた。しかし、今日この謎はほぼ解明されようとしている。
結局銅鐸は朝鮮から入った青銅器文化の一つとして、はじめは農耕社会の宗教的楽器だった。その証拠に、中にさげて音を出す舌も発見されている。それがのち形が大きくなって、楽器の用をはなれ、呪術的な祭器の一種となり、使用後あるいは何かの機会に村の近くの山腹に大切に埋められた。もちろん作ったのは弥生文化の日本人自身だ、ということになる。
わざわざ力をこめて、「日本で造られた証拠に、鋳型も発見されている」とか、弥生時代にはまだ「日本」という国家もなければ、したがって「日本人」というものもなかったはずだったにもかかわらず、「もちろん作ったのは弥生文化の日本人自身だ、ということになる」と強調しているのは、どういうわけかわからない。が、しかし、そのような樋口氏にしても、「結局銅鐸は朝鮮から入った青銅器文化の一つとして」と、それをはっきり認めているのはおもしろい。
とすると、その青銅器文化だけが、ひとりのこのこと海に浮んで朝鮮からはいってきたものではなかったはずである。それは、そのような文化を持った人間が渡来したことを意味したもので、いうならばそれがいわゆる弥生文化人、今日の日本人の祖となったものだったはずである。
それはそれとして、なおもう少しこの銅鐸についてみることにしよう。これも東京新聞であるが、こちらは一九七一年七月十九日付けで、「弥生時代の『銅鐸』ができた!」というかなり長い特集記事がのっている。
「二千年の間、その製法がナゾとされていた『銅鐸』が高岡市の一医師によって見事復元鋳造された。わが国考古学界でも注目し、今秋発表される日本考古学会では大きな反響を呼びそうだ。聴診器片手に銅鐸研究にとりつかれた執念の一医師の姿を追ってみた」というもので、なかなかおもしろくもあるから、その記事をここに紹介しておくことにする。
高岡市内にある高岡逓信診療所の所長室。所長の中口裕(ゆたか)さん(四四)=高岡市明野町=は柔和なまなざしで記者の訪問に応ずる。白衣に身を包んだ中口さんのどこにそんな「執念」があったのかと疑いたくなるほど、普通のやさしいお医者さんと変わらない。
高岡は銅器の町として知られている。当然銅鐸の製法についてはベテラン鋳物師たちがいろいろと研究している。しかし、だれもこの古代の祭器「銅鐸」の鋳造技術を解明できなかった。鋳物業界ではいまも砂と粘土汁をまぜ合わせ、こねて出来た鋳型に銅を流し込んで作る鋳造法が採用されている。古代銅鐸の鋳型も、この砂型によるものと信じられていた。銅鐸は全国で三百五十基余り出土している。しかし、これまでいくら砂型で銅鐸を作ってみても、だれも弥生時代の銅鐸と同じ質のものは作れなかった。
こうしてみると、いまから二千年近くもまえとなる弥生時代のその技術は、まったく驚異とでもいうよりほかない。しかし中口さんの苦心と研究とは、「いまから十一年前の三十五年、姫路市名古山の弥生時代中期の住居跡発掘のさい、銅鐸の鋳型が発見された」ことから曙光がみえはじめた。
その鋳型は砂型ではなく、石型であったことがわかったからである。しかしながら、それでもなお技術的な困難はつきなかった。それを中口さんは、「過去約十年間に十五、六回の実験を繰り返した」ことで、やっと解決することができた。溶かした銅を型に流し込むだけでなく、石型そのものをも八百度の熱で焼いてみたことからであるが、記事はまだこうつづいている。
銅鐸復元に際しては石型によるものと思われる、出土銅鐸を基本にしなければならない。そこで中口さんは、広島県から出土した福田鐸を手本にした。
銅鐸の石型は、朝鮮平壌付近でほぼ完全な形で出土しており、銅鐸の朝鮮渡来説は考古学界の定説。しかし、中口さんを驚かしたのは、朝鮮小銅鐸石型の実測図を見たときだった。朝鮮の石型に広島福田鐸の胴身がピッタリ一致したからだ。これは「少なくとも日本の小型の銅鐸は、朝鮮の小銅鐸と技術的に共通した石型によって鋳造された」ことを物語る。
しかし、これまで石型で銅鐸を再現した者はおらず、中口さんの復元実験で初めてこの仮説は客観的に実証されたことになる。……
銅鐸は朝鮮で作られた馬具の装飾品。中に舌(ぜつ)をつるした鈴のようなもの。馬が歩くとリン、リンと鳴った。これがわが国に伝わってから、文様が施され、形も大形化し、行事用の祭器となったというのが有力な定説……。
それにしても、馬具の装飾品だったものが日本にはいって祭器となったというのは、どうしてであったろうか。ほんとうに祭器だったかどうかということをも含めて、それはなおまだはっきりとわかっていない。
伊賀留我(いかるが)と古曾(こそ)
志神社の古墳
はじめのところで長くなってしまったが、四日市にしてもまだこれからである。前夜、講演会につづいた座談会をおえ、私は四日市市中部公民館の指定した宿で一泊した。
翌日もさいわい、よい天気だった。約束のちょうど九時になったところで、水谷謙吉氏が迎えに来てくれた。外においてあったクルマまで行ってみると、昨夜の講演会で知り合った地元の考古学研究者森逸郎氏と、それからこちらは伊勢を中心とした『ふるさとの文学』などを書いている文学者の藤田明氏もいっしょに来ていた。
そして私たちはまた、中部公民館に寄って四日市市郷土史研究会長の中山善郎氏ともいっしょになり、まず、大宮町となっていた志〓(しで)神社古墳へ向かって出発した。私は、ともかくそれが何であれ、水谷さんたちにしたがって、四日市とその周辺の古代遺跡をひととおりみておきたいと思ったのである。
水谷さんのクルマは山の手の住宅地のあいだを走って、間もなく志〓神社についた。そこはあたり一帯が扇状地の山の手であったばかりでなく、志〓神社はそれからまたかなり高い石段を登った台地のうえとなっていた。神社も『延喜式』内の古いものだったが、本殿の横手に「志〓神社境内古墳」とした石柱が建っている。
いわばその神社のある高い台地は古墳のうえとなっているわけで、そこからは海浜部の四日市市内を一望のもとにすることができた。そしてその向こうには、さらにまた伊勢湾の青い海が望めるはずだったが、海浜部に林立する工場群の煙突が吐きだす煙のためか、晴天だったにもかかわらず空はどんよりと曇っていて、その海は少しも見えなかった。
そこで私ははじめて、「ああ、大石油化学工業地帯の四日市だなあ」と思ったものであるが、それを私は千数百年もまえの古墳のうえに立ってみているところなど、いかにも現代のパロディーといったものであったかも知れない。その古墳については、『四日市市史』にこう書かれている。
志〓(しで)神社の古墳
羽津志〓神社の境内にある前方後円墳で、前方部は取除かれ、後円部だけが完存している。この古墳は、西方から延びてきた台地の末端部に前方部を南に向けて築造されている。また、後円部の西側に周湟(しゆうこう)跡をわずかに残している。
二段築成された後円部には埴輪円筒が立っていたらしく、かつてその破片が採集されたようだが、今は存在しない。古墳の規模は後円部径約三〇メートル、高さ約六メートル、墳頂平坦部径九メートル、周湟幅四メートル、周湟土堤幅六メートルである。後円部の背後は丘陵端につづき、丘陵下より見上げると極めて大きな古墳である。出土品としては、左記のものが同神社に保管されている。
碧玉車輪石一個 長径一六・五センチ
硬玉製勾玉一個 長径三・八センチ
硬玉製管玉二個
硝子製小玉四個
内行花文鏡片五個 復原径一五センチ
右の遺物は嘉永五年三月、前方部と後円部の境のあたりに小路をつけた際、発見されたと伝えられている。のち社務所建設の際、前方部は破壊されたが、出土品の有無はわからない。
遺物の総てには、朱の附着が明瞭に認められる。内行花文鏡は復原すると七個の花文を有し、類品は松阪市茶臼山古墳にある。この古墳の築造された時代は、以上の出土品から推定して四世紀末であり、北伊勢地方における最古のものといえよう。
四世紀末というと、いわゆる前期古墳にぞくするものであるが、当時すでにこの四日市にはそういう古墳を造営することのできた大豪族がいたのである。もちろんその子孫はどうなっているか誰もわかりはしないが、しかし案外、それから出た子孫も、いまではそこに見える海浜部の石油化学工場のどこかで、油にまみれて働いているのかも知れない。
そう思うとちょっと妙なような気持ちにもなり、たのしくもなった。それがまた、歴史というものであるのかも知れない。
ここにも鵤(いかるが)町が
ついで私たちは志〓神社宮司の富永一男氏宅をたずねて、そこにあった古墳出土の内行花文鏡片などみせてもらい、こんどは志〓神社西北の鵤(いかるが)町へ向かった。イカルガといえば大和(奈良県)法隆寺のある斑鳩(いかるが)を思いだすが、こちらにもそれがあったのである。
ここには、六七二年の「壬申(じんしん)の乱」のとき天武帝がそこからはるか伊勢神宮に向かって戦勝を祈願したという額突(ぬかずき)山があり、その麓のこちらに伊賀留我(いかるが)神社というのもあった。これも『延喜式』内の古い神社で、しかもこの伊賀留我神社はすぐ近くにまたあって、同地域内に二つもあった。
鵤などというむつかしい字よりも、伊賀留我とした万葉仮名のほうがはるかによいように思われたが、その伊賀留我神社が二つもあるのは、いつの時代か、宗家争いのようなことがあったからかも知れない。それからまた、この伊賀留我神社の北方約一キ口のところには、村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷」にある長倉神社があった。
その長倉神社が朝鮮とどう関係していたのかは、これからもそういう神社はたくさんみることになるので、別に調べてもみなかったが、イカルガ(鵤・伊賀留我)ということについては、松本清張氏の適切な考証がある。まえにも書いたことがあるが、すなわち松本氏は大和の斑鳩について、これも朝鮮をさした韓(から)ということからきたものではなかったかとしてこう書いている。
記紀によると孝元天皇は「軽(かる)の境原宮」にいたという。軽(かる)の地は高市郡で、いまは橿原市に入っている。この地名から軽皇子(かるのみこ)や軽太子(かるのたいし)、軽大(かるのおお)郎皇女(いらつめ)(この兄妹は近親相姦で罰せられた)の名がある。「軽」は「韓(から)」である。この近くの弥生遺跡で有名な「唐古(からこ)」も唐(とう)でなく、韓からきていると思う。
法隆寺のあたりを斑鳩(イカルガ)の地という。名義不詳となっているが、これも「軽」から出ているとみてよい。カルにイの接頭語がついたのであろうか。(「大和の祖先」)
してみると長倉神社といい、伊勢四日市のこのイカルガ(鵤・伊賀留我)というのも、朝鮮から彼らが渡来して居住したことからきたものであったろうか。そういえば、『四日市市史』をみると、この鵤町の死人谷横穴古墳からは環頭大刀(かんとうだち)や須恵器などが出土している。環頭大刀はいま東京国立博物館にあるとなっているが、これも朝鮮渡来のもので、『万葉集』にいう「高麗剣」のそれであった。
伊賀留我神社のある鵤から、私たちは東員(とういん)町のほうへ向かった。四日市市からは出はずれたわけで、そこはいまなお古代そのままの員弁(いなべ)郡となっているところだった。
よく晴れた日だったので、気がついてみると、鈴鹿山脈がそこにくっきりとした青い空画線をえがいて立ちそびえているのが見えた。
「あれは鈴鹿山脈ですね」
「ええ、それの一部です。きょうはよく見えるなあ」と、クルマを運転している水谷さんは言った。
その鈴鹿山脈を西に見、あるときは眼前にしたりしながら、私たちは猪名部(いなべ)神社などのある東員町のあたりをひとまわりしたが、しかしここはあとでもう一度こなくてはならなかったので、こちらはそのときということにしたい。
神宮・神社のもとは祖神廟
私たちはまた、四日市市へ戻った。そして昼食をすましてからは、市内の小古曾(おごそ)にある小許曾(おこそ)神社をたずね、さらに日永の登城山にある白髭神社というふうにみてまわった。
いわば神社ばかりたずねたことになったが、もちろん、それにはそれなりの理由があったからだった。白髭についてはさきの伊賀や、それから「白木・鶏足・瀬織津」の項でみているが、小古曾とはいうまでもなく小許曾でもあり、これはまた伴信友のいう「神社を古曾と云う事」のその古曾・許曾であった。
この古曾・許曾、すなわちコソという名の神社は、あとでたずねる三重県県庁所在地の津市にもある。こちらは大乃己所(おおのこそ)神社となっていて、『津市史』をみると、その己所のことがこう書かれている。
諸書に己所(こそ)とは祠なり、社なり、森なりとあり、大乃己所(おおのこそ)は大社の義、大王主の義であるといい、また大古曾の地名は大社の所在と関係づけたものとある。明治二二年(一八八九)に大古曾の無格社宇気比神社を合祀し、四〇年(一九〇七)以後に上津田部の二社が村社須賀神社へ、豊野の一〇社が村社八柱神社へ、豊野の四社と大古曾五社が大乃己所神社へ合祀し、更に同四一年それらの各社が全部大乃己所へ再合祀した。
明治時代に合祀がくりかえされていて、それでちょっとごたごたしているが、これをあとのほうから逆にみると、要するに津市の大古曾なるところには大乃己所神社がある。これはその周辺にあった十いくつの神社をさいごには全部合祀したものである、というのである。
そしてその大乃己所神社の「己所」とはなにかというと、これは「諸書に」よれば、「祠なり、社なり、森なりとあり、大乃己所(おおのこそ)は大社の義、大王主の義であるといい、また大古曾の地名は大社の所在と関係づけたものとある」といっているのである。してみると四日市市小古曾の小許曾神社は、こちら津市大古曾の大乃己所神社に対するそれであるのかも知れない。
それはどちらにせよ、これでわかることは、つまり「小」と「大」のちがいはあるが、古曾も己所も同義語のコソであって、そのコソとは「祠なり、社なり、森なり」だったということである。
もう一度みるとコソ(古曾・許曾・己所)とはすなわち祠、神社の社、鎮守の森(杜)そのもののことでもあったというのである。これは日本における神社というものの発生とも関係があって、さらにいえば、これは朝鮮・新羅の「居世(コセ)」ということからきたものであり、また森(杜)とは朝鮮語モリ(頭)ということでもあったのである。
日本の神社と新羅のそれとのことは、のちにまた伊勢神宮のところで、前川明久氏の「伊勢神宮と朝鮮古代諸国家の祭祀制」などを参照しながらみることになるはずであるが、このことについては、私はさきにも書いたことがある(『古代遺跡の旅』)。四日市市小古曾の小許曾神社と津市大古曾の大乃己所神社とに関連して、それをみるとこうである。
――戦時中の強制的な参拝など、いろいろなことがあって、私はいまでも神社や神宮ということになると、なかなか無心になれない。ところがこの神社・神宮なるもの、これがまた実はほかでもない、朝鮮と密接な関係があるものだったのである。金沢庄三郎『日鮮同祖論』のなかにも、「朝鮮は神国なり」などとあって、「新羅の神宮」のことが書かれているが、これもそのもとは新羅だった。
すなわち朝鮮の正史の一つである『三国史記』によると、新羅の第一代王となっている赫居世(ヒヤクコセ)を祭った始祖廟としてのそれができたのは西暦紀元六年、第二代南解王三年のことであった。これがのち四八七年には「神宮」というものになり、そしてこれの祭祀者である巫女(みこ)としては代々の王の姉妹か、またはいうところの王族の女人があたるものとされていた。――
これでわかるように、その神宮は始祖廟、または祖神廟としてはじまったものであった。
そしてそこへさいしょに祭られた赫居世というのは、赫が名で居世はその治世という意味を持つ尊称であったところから、この居世(コセ)が日本に渡って古曾・許曾・己所となり、あるいはまた紀伊(和歌山県)にある伊太祁曾(いたきそ)神社の祁曾ともなったのである。だから伴信友は「神社を古曾と云う事」ともいったのであるが、神社の社(やしろ)もまた日本ではコソといった。以前に、村社(むらこそ)というオリンピックの選手がいたことを、思いだす向きもあるだろう。
要するに日本の神社・神宮にしてもそういうものだったのであるが、ところで、朝鮮の新羅においては、仏教がさかんとなるのにしたがって、その神宮なるものが形のうえでは消滅することになった。日本でのようにそれが習合し、混在することができなかったからである。しかし朝鮮にその仏教がはいってくるのと前後して、この日本に渡来したものたちにあってはそうではなかった。
日本に渡来した彼らは各地に群居し、それらのなかからまた豪族や氏族がわかれ出るというふうであったから、やたらとあちこちにその祖神廟としての氏神、その神社や神宮をたくさんつくったようであった。そしてそれが彼らの精神的中心を意味したモリ(頭)、すなわち鎮守の森(杜)ともなっていたのである。
ちなみにここでまた村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷」をみると、その神社が百数十社あげられているが、もちろんこれがそれの全部ではない。ほかにもまだいくらでもあって、というよりおよそ神社・神宮と名のつくものはすべて、そのもとをただせば朝鮮と関係あるものばかりだといっても、決して過言とはならないはずである。
そしてこれからのちしだいに、なになにの神(尊・命)を祭るなになに神社や神宮ということになって多様化し、様式化したものと思われる。したがって、いまみたコソ(古曾・許曾・己所)などというのは文字どおりその名残りなのであるが、しかしいまでも行なわれている祭のとき神輿(みこし)を担いだ若い衆たちのかけ声、「ワッショイ、ワッショイ」というのは、これは朝鮮語「ワッソィ(来ました)、ワッソィ(来ました)」ということなのである。
祭のときの神輿というのは、いわば臨時に移動する神社であった。いまもそういうところがあるのではないかと思うが、かつては一軒一軒、そうして氏子の家をまわったものだそうで、つまり、ワッソィ(来ました)、ワッソィ(来ました)、さあ、みんな出ておがんでくれ、そして塩でも米でも寄進してくれ、というわけだったのである。
猪名部(いなべ)を行く
東員町の猪名部神社
四日市市での講演会から戻り、私はこの稿を書きだす直前、もう一度四日市をたずねた。また水谷謙吉氏と藤田明氏とに厄介になったわけだったが、それでえたことは以上に書いたものにも反映しているけれども、このときは員弁(いなべ)郡あたりを主として歩いたものだった。
員弁郡の東員町はさきにも行ったところで、そのときは西に鈴鹿山脈がくっきりとした青い空画線をえがいているのが見えたものであるが、きょうは雲におおわれていて、それは見えなかった。しかし、私たちがクルマを走らせていたこちらの平地は晴れていた。
「あのう」と私は思いだして、クルマのなかで運転中の水谷さんに向かってきいた。「服部一衛さんという人、ご存じですか」
「ええ、知ってます。郷土史をやっている人のようですが、その人がどうかしましたか」
「いや、その人から長い手紙をもらいましてね」と私は言った。「いろんなことをよく調べていて、とても勉強になりました」
私が服部一衛氏からそれをもらったのは、四日市市の講演会から帰って間もなくだった。服部さんは講演会の席にいた一人で、その手紙はこう書きだされていた。
私は鉄工所に働く一労働者ですが、歴史が好きで、暇をみてはこつこつ勉強している者です。ことに古代史と考古学が好きで、そのため一年のうち三、四度は気の向くままに奈良のあちこちを歩きまわっているので、まわりのものたちからは「ナラキチ」などといわれています。……
私が小学校五、六年生ころは、大戦の真最中でした。そのころ教わった「国史」のことが、いまもまざまざと思い出されます。私の姓は服部。それで先生が、「服部は帰化人系である」と話したことから、私は級友たちに、「やーい、お前の先祖は朝鮮人だ」とはやされたりしたものです。
ところが高校を卒業して、こつこつと歴史をかじっているうちに、「帰化人」とはなにか、なにをして来たものであるか、という一つのテーマにぶつかりました。そして調べて行くうちに、極端な云い方になるかと思いますが、「帰化人とは大陸から高い文化と技術をもって渡って来たもので、それらによって実質的に日本という国家がつくられたのではないか」という、私なりの結論に達しました。
それは決して「極端な云い方」ではないと私は思ったが、それより私がこの手紙をみてちょっとおどろいたのは、その服部という姓がかもしだしたという事実だった。「服部は帰化人系である」と先生にいわれたことから、「やーい、お前の先祖は朝鮮人だ」とはやされたりしたということである。
いったい、日本人からそのいわゆる「帰化人系」というのをのぞいてしまったらどういうものがのこるのか知らないが、私も小学校ではおなじような体験があって、それは「神功皇后の三韓征伐」といったものからだった。だが、服部さんのばあいはそれとはまたちがったもので、――どちらにせよ、日本の皇国史観や帰化人史観なるもの、その歴史教育は罪つくりなものであった。
川幅の広い員弁(いなべ)川に架かった橋を越すと、員弁(いなべ)郡東員町の大社となっているところだった。こんもりとした森があって、そこに高塚六角古墳を境内にもった猪名部神社がある。
私たちは再度おとずれたこの猪名部神社をへて、東員町の教育委員会へ向かったが、われわれはそのまえにここで、東員町などというのもそれの「東」ということからきている、員弁郡というのがどういうところであったか、ということについてちょっとみておかなくてはならない。まず、『日本歴史大辞典』によってみるとこうなっている。
員弁郡 いなべぐん 三重県伊勢国の最北の郡。桑名郡の西に連なり、南は三重郡に接し、海には臨まない。集落は町屋川の流域に発達した。本郡名は『続日本紀』の七六九(神護景雲三)年五月(癸未)条に初見し、『大安寺流記資財帳』に員弁郡宿野原五百町の四至がしるしてある。八二八(天長五)年一一月(戊申)、員弁郡の空閑地百町が淳和天皇の勅旨田となり、仁明天皇の嘉祥年中(八四八〜八五〇)に春澄善縄の所領となった。……
郡家は東員町北大社にあったと推定する。本郡には延喜式内社として鴨神社・猪名部神社以下一〇座が鎮座し、寺院としては瑞応寺・照光寺などの名刹(めいさつ)がある。氏族としては伊賀色男命の後と伝える猪名部造がおり、また帰化人の木工として聞えた猪名部氏が本郡に移住したと考えられる。
『日本歴史大辞典』にはこれだけのことしか書かれていない。しかし私の知ったところでは、この員弁郡ももとは猪名部郡といったもので、それが和銅の「好字二字」という地名変更によって員弁郡などという、本来そうよむにはムリのある文字にかえられたものだったと記憶している。員弁川にしてもおなじことで、私はたしかなにかで読んでそれを知ったのであるが、それが何であったかはいまどうしても思いだせない。
しかしそれはどうであれ、この員弁郡というのも、そこにある猪名部神社とともに、猪名部造・猪名部氏族の居住によっておこったものであることは、ほぼまちがいないところである。すると、「帰化人の木工として聞えた」その猪名部氏族とはどういうものだったか、ということになる。「伊賀色男命の後と伝える」猪名部造にしても、「伊賀色男命」などというのはあとからつけ加えられたもので、これもその猪名部氏族とおなじものであったはずである。
猪名部氏族とは?
私はさきに摂津(大阪府)の猪名川のあたりをみたとき、こう書いたことがあった。(『日本の中の朝鮮文化』〓)
――別に変哲もない川の流れだったが、その猪名川という名にもまた、遠い歴史のあとがこびりついているのだった。松田太郎氏の『阪神地方の歴史』にこうある。
応神天皇の世、さきに伊豆国から貢した枯野という官船が朽ちて使用することができなくなったので、その船材を薪とし、五百籠の塩を焼き、その塩を諸国に賜り、その代りとして、新たに船をつくらせた。そこで諸国から一時に五百の船を貢し、すべて武庫水門に集っていた。この時新羅の調使の船も武庫水門に碇泊していた。ところが新羅の船の失火で多くの船が焼けたので、新羅王は謝罪のため名工を送ってきた。これが猪名部などの始祖である。猪名部は川辺郡為奈(いな)郷や猪名野、猪名川、尼崎市の廃寺猪名寺などに、その名が残っている。
松田氏のこの一文は『日本書紀』応神三十一年条の「猪名部等の始祖」伝承からのものであるが、「五百籠の塩」で「諸国から一時に五百の船」が集まってきたなど、これは『日本書紀』一流の虚構であるこというまでもない。しかしながら、新羅から渡来して木工・造船などに従事していた猪名部というものがあったことは、事実のようである。
してみると、新羅系渡来氏族であった秦氏の上社、伊居太(いけだ)神社境内にある猪名津彦神社の猪名津彦というのも、もしかしたらその猪名部から出たものではなかったか。するとこれも、大豪族秦氏の部民であったかも知れない。――
要は猪名部の猪名、すなわちイナとは何であったかがわかるといいのだが、それがわからない。念のために『朝鮮語辞典』も引いてみたが、イナとは「処女」ということの方言だとある。これでは仕方がない。
しかし猪名部というのは、『日本書紀』などにはほかにも出ていて、たとえば雄略十一年条に「木工闘鶏御田(こたくみつげのみた)(一本(あるふみ)に云う、猪名部御田)」とあり、また同十三年条には「木工猪名部真根」というのがある。それから天武十三年条には「猪名公」とあり、また、『続日本紀』の神護景雲三年条には、「伊勢国員弁郡の人猪名部文麻呂、白鳩を献(たてまつ)る。爵二級、当国の稲五百束を賜う」などともある
それだけではない。さらにまた『新撰姓氏録』にも「為奈部首(いなべのおびと)」というのがあって、これは「百済国の人、中津波手より出ず」となっている。こうしてみると、猪名部というのはやはり木工・造船などに従事していたものだったことは、ほぼまちがいない事実のようである。
しかしだからといって、そこから出た多くの子孫までがみなそれに従事していたわけでもなければ、また、摂津なら摂津とそれがいつまでもおなじ一ヵ所に住んでいたわけでもなかったはずである。それはこちらの伊勢にも猪名部の員弁郡があったことからもわかるが、あとでみるように、こちらのそれからは春澄善縄(はるずみよしただ)のような学者も出ているのである。
東員町の教育委員会にはこれという文書も人もなく、若い係が一人だけいて、私たち三人の質問攻めにあった。あれこれと古代のことなどむつかしいことをきくものだから、その人はめんどうになったのか、私たちに向かって言った。
「それだったら、石垣先生に会ってみたらどうですか」
「石垣先生というのは、どういう方ですか」
「猪名部神社の宮司で、この町の教育委員をしている人です。この人なら、そういうこともくわしいのではないかと思います」
「ああ、そうですか。それはちょうどいい。石垣先生はいま――」
「いま会議があって、中学校のほうへ行っています。行くのでしたら、こちらからも電話をしておきます」
それで私たちは、さっそく近くにあった東員中学校へ向かった。会議中に押しかけてどうかと思ったが、しかし石垣方寛氏は、学校の別室ですぐ私たちと会ってくれた。
名刺の肩書きをみると、「神社本庁東海地区講師・三重県神社庁常任講師・三重刑務所教誨師・東員町教育委員・猪名部神社累代神主」とあったので、私はきいてみた。
「累代といいますと、何代になられるのでしょうか」
「二十四代目です。わたしがですね」と石垣さんは答えた。
猪名部神社の境内にある高塚六角古墳のことなど話題にしたが、それはいうまでもなく、そこに猪名部神社などをつくった猪名部氏族の墳墓であった。しかし、その猪名部氏族のうちの、誰のものであるかはわからない。
「うちにも別当寺だった員弁寺から出た土器やらなにやら、それから古文書などもあったのですがね」と石垣さんは、ちょっと遠くをみるような目をして言った。
「どうしました。いまはもうないんでしょうか」
「ええ、そうなんです。終戦のとき、そんなものを持っているとマッカーサーにキンタマを抜かれるというので、みんな焼いてしまったのですよ」
「キンタマを――」と私たちは笑った。
「いや、ほんとうなんです。キンタマを抜かれるということがどこからともなく伝わりまして、それでほんとうに――」
「焼いてしまったわけですね」
「そうなんです」
まるでゴーゴリの小説のようなはなしだったが、しかし事実のようだった。アメリカ占領軍来(きた)るというので、いろいろな機密文書がたくさん焼かれたということは私も知っていた。しかし神社などにある古文書までが、しかも「マッカーサーにキンタマを抜かれる」ということで焼かれたというのを聞いたのは、これがはじめてだった。
「わたしどもの猪名部神社はさきに宗家争いがありまして、このためにもそれらの古文書は必要だったのですが、いま考えると惜しいことをしたと思っています」と、石垣さんはつづけて言った。
「ほう、それはどういうことなんですか。宗家争いというのは――」
「つまり、猪名部神社というのは、この員弁郡に二つあるんですよ。わたしどものほかに、藤原町にもまた猪名部神社があるんです」
「へえ、そうですか」
私は、そばにいた水谷さんや藤田さんとも顔を見合わすようにした。それもまた、私たちとしてははじめて聞くことだった。
藤原町の猪名部神社
まだ会議中らしかった石垣さんとわかれて東員中学校を出た私たちは、この日の予定となっていた穴太(あのう)のあたりを大急ぎでまわり、「穴太山」となっていた小さな寺を一つみただけで、すぐにそこから引き返した。そして、さらにまたもう一つの猪名部神社があるという藤原町へ向かった。
穴太は近鉄北勢線の駅名にもなっていて、東員町の北大社駅からすると、桑名のほうへ二つほど寄ったところだった。この穴太については、さきにみた服部さんの手紙にもこうある。
北大社駅の二つ桑名寄りに「穴太(あのう)」という所があります。この穴太は「穴」すなわち「安那(アナ)」と関係があったのでしょう。それからまたこのあたりは昔、神田村ともよばれていたのですが、この「神田」も「韓田」からきたものではないかと思います。
神田が刈田・韓田からきたものではないかとしたのは、私の知る限り松本清張氏がさいしょではなかったかと思うが、それはともかく、穴太が穴・安那であったということはさきの伊賀でもみている。つまりそれは、古代南部朝鮮にあった加耶諸国のうちの安羅(あら)が阿羅・安耶(あや)・安那とも書かれたことからきたものにちがいなかった。
なおまたついでに、近鉄北勢線の駅名をみると、穴太からさらに桑名へ三つ寄ったところに在良というのがある。いま何とよんでいるのか知らないがこれもアラ、すなわち安羅・阿羅とよめなくもない。それはどちらにしろ、われわれがいま歩いている伊勢にとって、これも古代南部朝鮮の国家名であった加耶が加羅・加那ともよばれたこととともに、この安羅・阿羅・安耶・安那といった小国家名はなかなかたいせつな要素となっているので、これはあとでまたみることになる。
東員町から藤原町までは、相当な距離だった。北勢中の北勢で、それまで雲におおわれて見えなかった鈴鹿山脈の一部が急に目の前に立ちあらわれ、右手には養老山脈の横たわっているのまで見えはじめた。
私たちはだんだん登りとなっていたその山中へ向かってクルマを走らせていたわけで、やがて道のかたわらの畑に、「式内猪名部神社」とした石柱のある、コンクリートづくりの大きな鳥居が見えた。しかし神社はどこにあるのか、それはまだ見えなかった。
「これは、一の鳥居というわけですね」と、そこでちょっとクルマをとめた水谷さんが言った。
「うむ、それですな」
「ここにこんな大きな鳥居をつくったというのも、その宗家争いと関係があったのではないかな」と、これは藤田さん。
それからまたかなり進んださきに、やっと人家の集まった集落が見えはじめた。いかにも山里といったところで、そこが員弁(いなべ)川上流の藤原町だった。そして人にきいてようやくわかったが、猪名部神社はまだもう少しさきの長尾にあって、左手の川辺へと下った森のなかだった。
員弁川からするとはるか下流、東員町の平地にある猪名部神社とどちらが宗家であるのかはわからなかったが、素朴な石積みのうえに建っているこちらの猪名部神社は、『延喜式』内のそれにふさわしい古さびた感じのものだった。近くの家できいたところ、宮司は長尾バス停前の雑貨店の主人で、伊藤という人だとのことだった。
私たちは通りへ出て、その雑貨屋さんをたずねた。が、主人の伊藤太郎氏はほかに清司原神社の宮司も兼ねていて留守だった。もうすぐ帰るはずだというので、私たちはそれまで待つべきかどうか、ちょっと迷った。すると藤田さんはそこで急に思いだしたらしく、
「そういえば、ここに春澄善縄の碑があったのじゃなかったかな。郷館跡とか何とかいう――」と、外のあたりを見まわしながら言いだした。藤田さんは、『ふるさとの文学』のことであちこちと歩いていたから、それとの関連で思いだしたものらしかった。
「ええ、それでしたらね」と雑貨店のおかみさんが、すぐに受けて言った。「近くのそこですから、子どもに案内させましょう」
「ああ、いいよ。つれて行ってあげる」
そこに居合わせた小学校五年か六年生の男の子が言ってくれたので、私たちはその子について行った。いまみてきた猪名部神社のほうへまた引き返すようだったが、「春澄善縄郷館趾」とした碑も神社近くの森のなかにあった。
春澄善縄の碑
春澄善縄といえば、さきにみた『日本歴史大辞典』によると、「嘉祥年中(八四八〜五〇)に」この員弁郡を「所領」とした人のことだった。いま私たちがたずねているところはその郷館跡というわけだったが、しかしそこには大きな石碑が一つ建っているだけで、ほかにこれといったものはなにもなかった。
森のなかのちょっとした四角い平地で、こわれかかったぶらんこなどの設備があるところをみると、一時は子どもたちのための小公園としたらしかったが、それもそのまま朽ちはててしまっていた。草だけがぼうぼうと茂っていて、タンポポがいくつか小さな花をつけているのが印象的だった。
碑をみて戻ると、猪名部神社宮司の伊藤太郎氏も家に帰っていた。そこで茶をごちそうになりながら話すことになったが、伊藤さんは口数の少ない小柄な人で、私たちはいま春澄善縄の碑をみてきたというと、一言それについてぽつんと言った。
「猪名部神社は、その春澄氏の氏神だったものです」
それからまた、こちらの猪名部神社と東員町の猪名部神社とのあいだに宗家争いがあったそうで、と水を向けてみたが、それにたいしても、ただ一言いっただけだった。
「亡くなった近藤杢先生は、こちらが宗家のはずだと言っておられました」
というぐあいだったが、しかしそのことばはひどく印象にのこった。とくに、そこの猪名部神社が春澄氏の氏神だったとは、私はこのときはじめて知ったのだった。
すると、どういうことになるか。というより、いまその碑をみた春澄善縄とはいったいどういうものだったのか。実をいうと、私はそれではじめて、春澄善縄なるものにちょっと興味を持つことになった。
そこで私は東京へ帰り、さっそく調べてみたのであるが、何のことはない、春澄氏というのももとは猪名部氏から出たものだった。すなわち、『三代実録』によると、春澄善縄というのは員弁郡の少領だった猪名部財麿の孫で、八二八年の天長五年に春澄宿禰(すくね)となり、のち朝臣(あそみ)となっている。
してみると、猪名部神社が春澄氏の氏神であったことに何のふしぎもなかったわけである。その神社を氏神としていた春澄善縄は、六国史の一つである『続日本後紀』の撰者となって、八七〇年の貞観十二年に従三位となり、七十四歳で死んでいる。
なおついでにいえば、こちらの猪名部神社と東員町の猪名部神社とは、どちらが宗家であったか私にはわからない。またわかろうとも思わないが、しかし一つだけはっきりといえることがある。どちらが宗家であり、分家のそれであろうと、それは要するに猪名部氏族の発展と展開とによってできたものだったということである。
一身田(いつしんでん)から安濃(あのう)へ
白塚=新羅の村落
こんどは、いつもの協力者である阿部桂司君がいっしょだった。私たちはそれまで度会(わたらい)郡の玉城(たまき)町から伊勢神宮を中心とした伊勢市あたりを歩いていたものだったが、ついで津市にいたり、その夜は同市一身田(いつしんでん)町の藤田明氏宅で一泊することになった。
そして翌日は藤田さんともいっしょに、津市とその周辺をまわってみようということになっていた。
夜になって一身田の藤田さん宅についてみると、そこに四日市の水谷謙吉氏も来て待っていてくれた。藤田さんが電話をしてくれたからだったが、ありがたいことに、翌日は水谷さんも自分のクルマでいっしょにまわってくれるというのだった。私のこの「旅」はどこでも地元の人たちの協力によるところが大きいが、とくに伊勢の大半はほとんどみなこの水谷さんと藤田さんのおかげによるものだった。
四日市から津の一身田まではかなりの距離のはずにもかかわらず、前夜いったん帰って行った水谷さんは、翌朝の八時までにはもうきちんとやって来てくれた。私たちはさっそく、水谷さんのそのクルマで出かけた。
出かけたといっても、私と阿部君とが一泊させてもらった藤田さんの家のある一身田というところからして、なかなか由緒のあるところだった。一身田とそのあたりは、どういうところであったか。津市教育委員会編『津市の歴史散歩』をみると、「一身田地区のあらまし」としてこう書かれている。
住みついた人々 この地域は、南と北に細長くのびる丘陵によって、隣接地域と仕切られた中に、志登茂川の沖積(ちゆうせき)平野が広がり、それが海に尽きるところ、砂浜が発達しています。
人々は、日本に農耕文化が伝えられたころ、沖積平野を水田化すると共に、丘陵の斜面や山裾に住居を作って住みついたようで、南と北の丘陵から弥生式や祝部(いわいべ)土器〈朝鮮土器ともいわれた須恵器のこと=金〉がしばしば発見されるほか、豊野には住居遺跡も発掘されています。平野部の中央、一身田小学校敷地などから同じ弥生式土器が発見されていますが、これは住居よりも祭祀(さいし)遺跡ではないかと考えられています。
大化改新のなごり 歴史時代にはいって、日本古代最大の変革が、大化改新であることは言うまでもありません。このとき、土地はすべて公有と定められ、人民は一定面積の田を支給されて耕作させられたのですが、そのなごりが一身田あたりによく残っているのは珍しいことです。
条里制 一身田のあたりの田地は、碁盤(ごばん)目状に規則正しく配列されていますが、これが実はその名ごりの一つで、条里制といって一〇〇〇年もむかしの耕地整理によるものなのです。その証拠は、市役所一身田支所へ行って古い地籍図を見せてもらうとわかります。これには小字名として「一の坪」「二の坪」というように、数字のついた坪名がならんで出ています。そしてそれらは、どれも一町(六〇間)、つまり約一一〇メートル四方の正方形になっています。三重県下でも、もっとも典型的な条里制遺構の一つとして有名です。
逆に言って白塚や栗真のあたりにそうした地形がないことは、奈良時代にはここが田地でなかったことを物語るものといえましょう。
一身田 一身田という地名そのものもまた、大宝律令のなごりです。というのは、田地はすべて公有でしたが、公田の中には、政府の高官や天皇の后妃などに手当としてその人一代限り支給される場合がありました。その田を「一身田」と呼んだ例が、歴史上に見えています。この一身田の場合は誰に支給されたのか、もちろんわかっていませんが、誰か偉い人に支給されて、その人が死んだあとは、また別の偉い人に支給される、というぐあいに、長年月の間「一身田」として支給されていたので、それが地名となったもの、と考えられます。
白塚 この地名の沿革はわかっていません。しかしこの地域が、海岸に並行する浜堤(ひんてい)と、バックマーシュ(後背湿地)からなっている、という地形から考えて「シラスカ」から転じたもの、と言えそうです。スカは「砂洲のある所」という地形を意味し、白砂青松の地にふさわしい名前です。
長い引用となったが、一身田と条里制のことはよいとして、あとの白塚については私に異論がある。一身田の東部にあたる白塚は、あとでふれる専修寺の高田本山とともに、近鉄名古屋線の駅名ともなっているものであるが、これがもし「シラスカ」ということの転訛であったとすれば、その起源はもっと別なところに求められなくてはならない。
スカがはたして「砂洲のある所」という地形をも意味したものかどうか、はじめて聞くことでそれは知らないが、しかし私の知っているところでは、このスカとは古代朝鮮語の村または村落ということなのである。
これは奈良にある春日(かすが)大社の春日がもとはカ・スカであったのとおなじことで、さきにも引いたことがあるが、中島利一郎氏の『日本地名学研究』にそのことがこう書かれている。
私はこの「かすが」を「大部落」の意に解せんとするものである。「か」は大の義で、ウラル・アルタイ語族では、「大」を可(か)といった。成吉思可汗の可汗は大帝の意である。日本語「か弱し」「か黒し」の接頭語「か」も大の義と考えていい。「かすが」の「か」もそれと見ていい。「すが」は古朝鮮語「村主(スグリ)」「村主(スグニリム)」の「村(スグ)」で村、即ち部落のことである。故に私はこの「かすが」を大部落、即ち大村、大邑の義と考えたいのである。勿論、私は春日山下に夙(つと)に朝鮮人部落の存したことを想定するのである。
では、シラスカのシラとはなにか。これはもういうまでもなく斯羅(しら)、すなわち新羅のことである。してみるとシラスカは新羅の村落ということになるが、それはさきの「伊賀留我と古曾」の項でみた大乃己所(おおのこそ)神社のある大古曾(おおごそ)が、この一身田であったことからもうなずかれるであろう。
己所・古曾とは新羅の赫居世(ヒヤクコセ)の居世からきたもので、念のために五万分の一地図を開いてみると、一身田は、一身田大古曾となっている。――ここで読者は、さきに引いた『津市の歴史散歩』に書かれていたことを思いだしてもらいたい。
それには、「これは住居よりも祭祀(さいし)遺跡ではないかと考えられています」とか、また一身田に条里制遺構がのこっていることに対して、「逆に言って白塚や栗真のあたりにそうした地形がないことは、奈良時代にはここが田地でなかったことを物語るものといえましょう」といったことばがあったはずである。
それをみてもわかるように、ここが条里制の一身田となったのはのちのことで、もとは全体が大乃己所神社からきた大古曾であったにちがいない。つまり祭祀が中心となっていたところで、だとすれば、それをいつき祭っていたのは近くの白塚のシラスカ、すなわち新羅の村落を構えていたものたちではなかったか、というわけである。
遺跡がいっぱいの安濃村
もちろん、誰もそれをみたものはいないのだから、断言することはできないのであるが、ところで、いま津市一身田町となっているここには、真宗高田派の本山となっている専修寺がある。専修寺は、三重県下はもとより、愛知、福井県などにまで約六百の末寺を持っている三重県最大の寺院で、この寺院には高麗時代につくられた朝鮮鐘がある。
その朝鮮鐘がどうしてここにきているのか、それはわからない。それはわからないまま、私たちは専修寺の長い築地塀と伽藍とを横目に見ながら、伊勢別街道へ出た。そして私たちは芸濃(げいのう)町から、山中の清冽な流れとなっていた安濃(あのう)川上流の落合近くまで行き、そこからこんどはその安濃川沿いに下って、安芸(あげ)郡安濃村にいたった。
要するに津市とその周辺ということで、私たちはまずその周辺の山地部からみて歩いたわけであるが、なぜそうしたかというと、これも一つはその地名からきていた。それを海浜部の津のほうからさきにみると、『津市史』にこうある。
津の地名起源 津とはいうまでもなく、船舶の集りつく港という意味で、安濃地方の港であった所を「安濃津」といったのである。
してみると、いまでこそ津は三重県の県庁所在地ともなっている都市であるが、ここはもと安濃津、安濃の港であったところにすぎなかったのである。であるからには当然、古代はその安濃、いまの安濃村あたりのほうが中心となっていたところだったはずで、したがってまた古代の遺跡にしても、こちらの安濃のほうに多いのではないかと私たちは考えたのである。
それからまたさらにいうならば、これも『津市史』にそうあるように、安濃津は穴津でもあり、一方では洞津(あなのつ)でもあった。つまり安濃津、安濃川などの安濃(あのう)は穴(あな)、洞(あな)ということの転訛したもので、これは津阪東陽『勢陽考古録』に、「備後の穴の郡を安那(あな)とも書きけるを以て」うんぬんというその安那でもあった。
穴、安那のことについてはこれまでもたびたびみているが、これは古代南部朝鮮にあった加耶諸国のうちの安羅・安那からきたものにちがいなかった。こう書くと、私は何でもみな朝鮮と結びつけるかのように思われるかも知れないが、それはこれまでみてきた、あるいはまたこれからみるであろう、遺跡や遺物が証明するはずである。
安濃村では、私たちはまず村役場の教育委員会をたずねて、ちょうどそこに居合わせた教育長の浅生峯一氏からいろいろと聞くことになった。案のじょう、私たちが考えていたとおり、安濃村は人口わずか八千足らずの小さな村だったにもかかわらず、古代遺跡の実に多いところで、その数は三百八十六ヵ所にものぼるとのことだった。
その限りでは、まるで古代遺跡とその伝統とだけを背負ってきているといったような村で、しかもその遺跡はほとんどが古墳だった。「三重県埋蔵文化財調査報告(四)」の『三重県遺跡地図』をみても安濃村のそれは圧倒的で、大塚西山の大塚古墳群はじめ、三百五十一ヵ所がしるされている。
この数をたとえば他の町村のそれとくらべてみると、私たちがさきにそこをまわってきた隣の芸濃町は十四ヵ所であり、これも隣の豊里村は四十二ヵ所、美里村となるとそれはわずか一ヵ所でしかない。これをみても、安濃村のその遺跡はいかに多いかがわかる。
しかしながら、いま日本のどこにでもみられる破壊と開発、隣の津市が押し拡げてくる都市化の波は、しずかで平和なこの安濃村をも容赦なく浸しているようだった。遺跡の保存はもとより、それを発掘して記録をのこしておこうにも、そのための予算もなければ、人手もないというのが実情のようだった。
「どうしようもないです。先祖の魂のこもった村がこわされる“列島改造政策”は困ったものです」と、教育長の浅生さんは嘆息するように言ったが、そのことばには深い実感がこもっていた。
安濃村はそういった遺跡ばかりでなく、地図をみるとその地名にもまだなかなかおもしろいものがのこっていた。安羅・安那、すなわち安濃には当然あってしかるべき荒木というところがあるが、これはさきの伊賀でみている(「敢国から荒木へ」の項)のでおくとして、私たちのいた村役場の近くに村主(すぐり)というのがある。
村主とはなにか。これもスク・スカ(村)ということでさきにちょっとみているが、まず、高柳光寿・竹内理三氏編『日本史辞典』によってみるとこうなっている。
村主 古代の姓(かばね)の一。語源は村落の長という意味の古代朝鮮語にあるという。多く、渡来人系の小豪族の称したものであったが、六八四(天武一三)八色の姓で制度上は廃止。
ついでまた、『日本歴史大辞典』にはそれがややくわしくこう書かれている。
村主 天武朝の八色の姓(かばね)より以前に存した古代の姓の一つ。この姓を有したのは下流の氏で、一部落ないし数部落の長だった程度の小豪族と思われ、そのほとんどが帰化系と考えられる。すくりの語源も、村落の長を意味する古代朝鮮語からきたものであろうという説が有力である。
実例をみるとこの姓を有するものには、漢(あや)氏の管掌下におかれた諸種の品部や漢氏の私有の部の直接の指揮者である漢人(あやひと)が非常に多い。村主の語は氏の名や地名になっている場合もあり、『和名抄』は伊勢国(三重県)安濃郡村主の訓を須久理と書いている。
それからまた、これは同行の阿部君に言われて気がついたが、安濃村教育委員会のそこにあった『安濃郡史』「安濃村」のくだりをみると、大正時代から昭和にかけて何度か村長となっている村主久太夫氏の名がみえる。してみると、古代のその姓は現代になお引きつがれて生きていたわけで、しかも現代なお「一部落ないし数部落の長だった」村長であったところなど、いかにも遺跡の多い歴史的な安濃村らしいことと思われた。
村主には、『伊勢国誌』に「御厨三丁三反、村主郷氏寺」とある村主寺がまだあるというので、私たちはそこまで行ってみた。しかし、それはもう小さな寺となっていて、みるものはなにもなかった。そのかわりというか、「村落の長を意味する古代朝鮮語からきたもの」という村主の名辞はまだいたるところに生きていて、通りすがりにみた小学校が村主小学校であり、その前のバス停留所がこれまた村主だった。
発掘中の古墳を見る
ついで私たちは、津市との境となっている清水へまわった。いま発掘中という古墳を見たいと思ったからだったが、教育長の浅生さんが嘆いていたとおり、その辺一帯はひどいことになっていた。津市のベッド・タウンとなる団地ができるらしく、あたりはみな掘り返されて平たくされ、丘寄りの向こうではなおもブルドーザーが唸り声をあげて這いまわっていた。
そして古墳が発掘されているのは、そのブルドーザーが牙を振り向けている小高い丘の上だった。掘り返された泥んこに靴をとられながらそこまで登ってみると、古墳発掘に従事しているのは、三重大学歴史学研究会の原始古代部会員という十人ほどの学生たちだった。
まだ掘りはじめたばかりの古墳は大きな山桃の木の下となっていて、なかには女子学生もまじって汗をながしていたが、みると、早くもそこに須恵器が露出している。それを学生たちは心をこめていたわるように、刷毛でそっと何度もなでまわしていた。
もとより、その古墳が誰を葬ったものであるかはわからない。わからなかったが、あとでたずねた津市教育委員会で、芸術文化担当主査の岡正基氏といっしょに会ってくれた地方史家七里亀之助氏から教えられたところによると、それは『新撰姓氏録』にある清水首(おびと)かその一族のものではないかとも思われる。
地名の清水ということからもそう思われるのであるが、そうだとすれば、清水首は『新撰姓氏録』に任那のそれとなっていて、「任那国の人、都怒我阿羅斯止(つぬがあらしと)より出ず」とあるから、これはいうまでもなく安羅・安那から渡来したもののはずであった。都怒我阿羅斯止(等)とか天日槍(あめのひぼこ)というのは、古代朝鮮からきた渡来人集団の象徴のようなものなのである。
白山と金鶏伝説
一志郡にいた渡来系の豪族
かたちとしては、前回とまた同様だった。私と阿部桂司君とはそれまで、伊勢市や志摩半島のあたりを歩いていたものだったが、夜になってから近鉄線の津駅前で四日市からの水谷謙吉氏や藤田明氏と落ち合い、その夜は藤田さんの実家である津市御殿場の藤田利雄氏宅で一泊させてもらった。
そして翌朝、私たちは水谷さんのクルマで一志(いちし)郡一志町へ向かった。私は伊勢ではよく雨に降られたが、この日はさいわい快晴で、その快晴の空の下を流れている雲出川(くもずがわ)をちょっとさかのぼると、そこが一志町だった。
例によって一志町教育委員会に立ち寄り、教育長の喜田川基氏に会って、そこにあった『一志郡史』などみせてもらい、そのある部分をコピーしてもらったりした。『一志郡史』のそのコピーは、すでに阿部君が国会図書館あたりから入手していたが、水谷さんや藤田さんたちのためにまたそれをしてもらったわけだった。
この『一志郡史』には、「我が国の上代に於ては、各地に豪族が占居していて族制政治が行なわれていた。然らば一志郡には、如何なる豪族がいたか。まずこれを『新撰姓氏録』(嵯峨天皇弘仁中、万多親王奉勅撰)に徴するに」として、その諸豪族のことがあげられている。
「八太造 川合村八太 海神族」というぐあいであるが、なかに朝鮮渡来のそれとはっきりわかるものに、次のような諸豪族がある。
高野氏 高岡村高野 百済帰化族
小川氏 高岡村田尻 百済帰化族
野田氏 中川村野田 高麗帰化族
田村氏 中原村田村 倭漢(やまとのあや)氏族
真城史 桃園村牧 新羅帰化族
佐太氏 倭村佐田 倭漢氏族
古市氏 八ツ山村古市 百済帰化族
大原史 家城町大原 倭漢氏族
真道氏 家城町真見 百済帰化族
竹原氏 竹原村竹原 新羅帰化族
井上直 豊地村井上 倭漢氏族
もちろん、ここに出ているほかの「八太造 川合村八太 海神族」とか、また「御長氏 中川村見永 御長真人族」といったものにしても、そのもとはどこから来たか知れたものではない。たとえば「八太造」が八太造(はたのみやつこ)といわれたものであるとすれば、これも全国的に有名な新羅・加耶系渡来の大豪族だった秦(はた)氏族から出たものではなかったかと思われる。
しかしそれはともかくとして、以上にあげたものだけをみても、伊勢の一志郡には実に多くの朝鮮渡来豪族が分布していたものであることがわかる。そうして彼らは、それぞれの地で「族制政治」を行なっていたわけだったのである。ということは、当時のそれぞれの地は一つ一つの「独立国」あるいは「分国」の形となっていたということである。
とすれば、そこにはまたそれぞれがのこした何らかの遺跡がなくてはならない。まずだいいち、彼らはそこに必ず、その共同体の精神的よりどころであるばかりでなく、その「祭政」の場所でもあった神社をもっていたはずである。
たとえば「百済帰化族」の高野氏がそこの豪族であったという高岡村高野には、その氏神だったはずの神社があるかも知れない。だが、それはいずれまたみるとして、私たちは一志町から、こんどはおなじ一志郡の白山(はくさん)町にはいって行った。
白山信仰の源流は?
一志町とは雲出川をへだてた北隣となっているところで、みると、白山町役場に近くなったこちらの道路の左手山寄りに一つの神社があって、それが白山比〓(はくさんひめ)神社となっている。白山比〓神社といえば、加賀(石川県)白山七社の白山比〓神社が思いだされるが、これも実は加賀のそれを勧請したもので、もとはおなじものであった。
白山町という町名もそこからきたこというまでもないが、それはどういうことからであったか。というより、それがこちら伊勢一志郡の白山町にまで分布しているというのは、その白山比〓神社を氏神とする氏族がこちらにまで発展して来たことを意味したものなのである。
だからわれわれは、『勢陽雑記』などに伊勢のこちらも白山七社となっているその白山神社のことを知るためには、さきにまず加賀のそれがどういうものであったかということを知らなければならない。石川県鶴来(つるぎ)町の有名な白山山麓にある加賀の白山比〓神社は私も行ってみたことがあるが、これはもとシラヤマヒメ(白山比〓)神社とよばれていたもので、古代朝鮮とひじょうに関係の深いものであった。
だいたい白山の白というのは、朝鮮の国の色といってもいいようなもので、もともと朝鮮には、白頭山、白水山、白山、太白山などという白のつく名の山が多いが、加賀の白山と白山比〓神社とのことについては、金井典美氏の『故郷の神山』にこう書かれている。
日本にも白山とかく山が各地にいくつかあるが、そのほとんどすべてが白山神社を山中にまつっており、そのもとは加賀の白山神社に発していることは明らかである。
金沢市の南、鶴来町にある白山比〓(しらやまひめ)神社は裏日本随一の高山、白山(二七〇二メートル)の信仰にはじまった神社で、祭神はシラヤマヒメノ神という女神とされている。
白山という名の由来は、雪の多い北陸地方の高山なので、夏まで白い雪がたくさん残るからだと伝えているが、私は昭和四十四年に韓国を訪れ、白山という神聖視される山の多いのを知って以来、日本の白山信仰の源流も、やはり韓国にあるような気がして、いろいろと推測をめぐらすようになった。……
さて日本の加賀の白山が、初夏まで多くの雪を残していることは確かであるが、古代の山陰から北陸地方は、韓国や大陸文化との関係が深く、海流の影響で、漂着した人々の記録もいくつか知られている。
私はこのあたりの事情に、白山信仰の源流を求めたいのである。
韓国系の帰化人のうち、北陸の平野に住みついた人々は、東南方に天高く聳えたつ高山をみて、それを「故郷の神山」とおなじく「白山」と名付け、そう呼ぶようになったのではなかろうか。
日本では白の音はハク、訓はシロだが、韓国では、音でベ、訓はヒダである。
飛騨(ひだ)の国の語源なども朝鮮的な臭(におい)が感じられるのだが、白山神社が帰化人と関係深いことには、かなりの傍証がある。……
加賀の白山は、高山として韓国の白山信仰の伝播と考えたいのだが、帰化人たちがはるばる渡ってきた異郷の空にそびえたつ高山をみたり、故郷の山と似た山の頂を仰ぎみて、自分たちの部落の鎮山とし、その山神を祀ったということは、充分考えられることではなかろうか。その頂には、故郷の祖先の霊が自分たちを見守っていると信じていたのであろう。
なおまた、地元北陸での古代史研究者である能坂利雄氏の『日本史原像』は白山信仰を、「日本に伝来当初は、これをもたらした新羅人が祖神と共に斎(いつ)きまつった故に両者が混同し、祖神をふくめて『おしら神』と呼ばれるようになったとみるべきであろう」として、これを朝鮮でも新羅系の渡来人によるものではなかったかとしている。
古代日本には新羅系渡来人も多く、彼らは彼らによって建郡された武蔵(東京都・埼玉県)の新羅郡や美濃(岐阜県)の席田(むしろだ)郡はもとより、各地いたるところに群居した。そして彼らはその地ごとに祖神をいつき祭り、それでいまなお北陸では敦賀(つるが)に白城(しらぎ)神社、信露貴彦(しろきひこ)神社、今庄(いまじよう)に新羅神社など、その名称まではっきりした神社をのこしている。
白山町の金鶏伝説
筆がちょっと北陸にかたむきすぎたようであるが、要するに、北陸の加賀にその源流を発する伊勢一志郡の白山にしても、これはどちらかというと、新羅系渡来人によるものであったことはまちがいないようである。するとその白山のシラというのは、もしかすると新羅という国をおこした中心部族であった斯盧(しろ)族のシラ(斯羅)からきたものとも考えられる。
朝鮮語の新羅(シンラ)が日本では斯羅城(しらき)の意ともなる新羅(しらぎ)とよばれたのも、それからきたものではなかったかと思われるが、日本のばあいは全国に三千近くもあるといわれる白山神社にしても、もとはそこから発したものではなかったか。こうなると、さきにせっかく長い引用をした金井典美氏の『故郷の神山』とはちょっと食いちがうことになるけれども、しかしどちらにせよ、それが朝鮮から渡来したものであるということにちがいはない。
私たちは白山町教育委員会では教育長の大野要氏に会い、そこにあった『白山町文化誌』などをみせてもらった。また引用であるが、そこにこういうことが書かれている。
コメンド山古墳 御城地内字東阿坂に円墳がある。「コメンド」は「コメンドリ」がなまったもので、金鶏伝説のなごりと思われる。大正の初めころすでに発掘せられ、土砂は流出し、石室は破壊され、ほとんど形をとどめていない。須恵器を出土したというが、野田精一氏の蔵品中に蓋坏の残片がある程度である。このほか川口地内には字御代田に円墳が一基、広瀬地内字久保に数基あったといわれている。しかしすでに開墾せられて、原形をとどめていない。鉄刀片や須恵器などが出土したというが、ゆくえは明瞭でない。……
コメンド塚 南家城地域内にあるミドダニ総合遺跡の北方字片山に「コメンド塚」とよばれる円墳がある。川口の東阿坂の円墳と同じく金鶏伝説(金の鶏が埋められていて、元旦の朝まだき一声高く鳴く。もし村が衰退するか災害などで困ったときにこの塚を掘れ、そうすれば元の通り立直るという)の名残りである。この伝説は全国的に分布し、県下にも五十数ヵ所あるという。封土は取りのぞかれ、石室も破壊され、天井石が露出している。予測し難いが、南北径一〇・八メートルの小型の後期の古墳である。
「へえ、これはまたどういうことだ」と、私はそこに「金鶏伝説」のことがあったので、思わずそう声にだしてつぶやいた。
「どうかしましたか」
教育長の大野さんは、私の手元に開かれている『白山町文化誌』をのぞき込むようにした。
「いや、ここに金鶏伝説のことが出ているものですから」
「そうですか。それでしたら、別に珍しいことではないですよ。県下には、ほかにもまだたくさんあります」
「ええ、そうのようですね。いや、そのはずだと思います」
私と温厚な紳士そのものといった大野さんとの対話は、そこでいったん切れた。そしてはなしは白山比〓神社のことになり、おなじ白山比〓神社は隣の美杉村となっている竹原にもあって、いまの竹原神社がそれだったことを、私たちは大野さんから教えられた。
あとでみるその竹原神社が、もとは白山比〓神社だったというのはおもしろいことだった。しかしまたそれにもまして、いまさっきみてきた新羅系の渡来人によってもたらされたものとみられる白山比〓神社の中心地である白山町に、そのような金鶏伝説があるというのもなかなか重要なことだった。
金鶏伝説とはなにか。これについてはすでにさきの「白木・鶏足・瀬織津」の項に書いているので、読者はそこへもう一度目をやってくれるとありがたいが、それはまさしく新羅のその金鶏伝説からきたものにちがいなかった。
白山町のそれとかなりかたちは変わっているが、それは、所かわれば品かわるといったものであろう。伝説・説話にしてもそれを持ったものたちが移動しているうちにはいろいろと変わるはずで、ましてそれは遠い海の向こうから渡ってきたものなのである。
私たちは白山町の教育委員会を出て、近くの南家城にあるというその金鶏伝説のコメンド塚古墳まで行ってみた。小高い台地のうえにあって、そこは最近できたばかりの小団地となっていた。
団地は自衛隊の幹部用となっているものとのことだったが、コメンド塚古墳はその団地の入口の、萢木(たものき)の下に残骸をさらしていた。そこには伝説どおり、ほんとうに「金の鶏が埋められている」とでも信じたからだったのであろうか、いつのことか、それはまったく破壊されて、石室や天井石がごろごろ露出したままとなっていた。
竹垣の囲いがなかったならば、それが古墳かどうかもわからなくなってしまっている。ちょうどそこへ、団地のなかから若いおかみさんが一人出て来たので念のためにきいてみたところ、おかみさんはそれが何であるかわからないという。
私がもし数年後もう一度ここへ来てみることがあるとしたら、そのときはもうこの古墳も完全にどこかへ消えてしまっているにちがいない。それとともに、伝説もまた消えてなくなるであろう。
美杉村の竹原神社
ついで私たちはさらに雲出(くもず)川をさかのぼって、美杉村の竹原にいたった。白山町から四、五キロほど行ったところで、雲出川に流れ込む八手俣(はてまた)川をせきとめた君野ダムなどのあるところだったが、竹原神社はそのダム調査所近くの山の斜面にあった。
宮司の滝川喬次郎氏に会い、境内にある「山神」とした石のそれなどをみせてもらった。「山神」とはそれも朝鮮にはいたるところにあって、私にはなつかしいようなものだったが、読者はここでまた、私がこの項のさいしょのところで引用した『一志郡史』中の諸豪族のそれを思いだしてもらいたい。
なかに、「竹原氏 竹原村竹原 新羅帰化族」とあったはずで、すなわちいま美杉村の竹原にあるこの竹原神社は、その新羅系渡来人であった竹原氏族の氏神だったのである。そしてもとは、これも白山比〓神社だったのであった。
美杉村は竹原神社まででよかったのであるが、朝の出発が早かったのでまだ時間があったし、といってほかへ出てまわるには中途半端だったから、私たちはさらにまた雲出川をさかのぼって行った。美杉村というのは、すべてが山の中で、どこまで行ってもつきない広大なものだった。
途中、立ち寄った美杉村教育委員会事務局の田中通礼氏にきいてみたところ、美杉村は人口わずか一万二千余でしかなかったが、面積は二百七平方キロ、何と実に東京都文京区の十倍にあたるとのことだった。
美杉村とはまたよくもつけた名で、あたりの山々はすべてこれみな杉であった。尖り立った山もその杉の木によってびっしりおおわれているので、それらの山々もやわらかな美しい感じのものとなっている。とくにまた、その山々のあいだを流れる雲出川が、さかのぼればさかのぼるほど清冽でよかった。私たちはその美しい風景に魅せられるようにして、雲出川の水源となっている川上山の川上若宮八幡神社まで行き、それからこんどは引き返して比津から多気(たげ)へと出、丹生俣(にうのまた)まで行ってしまった。
そこにはこのあたりと縁の深い北畠親房などを祭る北畠神社があったが、さらにまたもう少し進むと、そこは木地屋というところだった。木地屋とは木材をもっていろいろな器具を造っていた木地師の住んでいたところのはずだったが、その近くにはまた唐戸谷川をあいだにした唐戸(からと)というところがあって、戻るときに寄ってみた北畠神社の宮司宮崎有祥氏によると、その唐戸はもと唐櫃(からびつ)、すなわち韓櫃(からびつ)といったところだとのことだった。
木地屋と韓櫃、それも調べてみるとおもしろいのではないかと思われたが、私たちは夕暮れの清水峠を越えて、やっと美杉村から抜けだした。そしてさらにまた細野峠、五輪峠などを越えて近鉄の中川駅についたときは、もう日がとっぷりと暮れてしまっていた。
丹生(にう)の水銀座
松阪の本居宣長記念館
次は松阪だった。こんども東京からの阿部桂司君や四日市からの水谷謙吉氏、それに津からの藤田明氏がいっしょだった。私たちはそれぞれ五月のある日、午前十一時すぎに近鉄の松阪駅前で落ち合い、さっそく水谷さんのクルマで松阪市役所へ向かった。
そして松阪市教育委員会に立ち寄り、社会教育課長の田中天司氏から、『松阪市遺跡地図』や『松阪市所在の指定文化財』などをもらい受け、松阪城跡にある本居宣長記念館をたずねることにした。「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」ということばがあったと思うが、その伝でみると、「松阪は本居宣長でもつ」といったところがあるから、まずその宣長に敬意を表しておこうではないか、ということだったのである。
しかしほんとうは、それだけではなかった。『ふるさとの文学』を書いた藤田さんによると、松阪城跡はかつて私も愛読したことのある梶井基次郎の『城のある町にて』の舞台となったところだったばかりでなく、本居宣長記念館長の山田勘蔵氏は郷土史のことにもくわしいと聞いていたからだった。
高い城壁ののこっている坂道を登ってみると、本居宣長記念館のあるそこは松阪公園ともなっていて、城下町らしい古い家並みなど見える松阪市をほとんど一望のもとにすることができた。そんな光景をながめていた若き日の梶井基次郎のことをちょっと思いうかべたりしながら、宣長記念館へ行って館長に面会を申し入れた。
あの膨大な『古事記伝』の著者である本居宣長というと、私に一つのあるイメージがあって、その記念館長ということであれば、――と私はそんなことを考えたりもしたものだった。だが、小柄な老人の山田勘蔵氏は案外気さくな人で、こころよく私たちに会ってくれた。そして、私が日本にある古代朝鮮の文化遺跡をたずね歩いているものだということを藤田さんから聞くと、すぐにこう言った。
「そうですか。それでしたら、この伊勢にもたくさんあるでしょう。まず須恵器からして、これも朝鮮土器ですからな」
「ええ、そうですね。以前は考古学者も、それを朝鮮式土器といっていたそうですが……」と私は、ちょっとはずんだような声で言った。というのは、私はこれまで郷土史家ともいわれるたくさんの地方史家に会っているが、それを「これも朝鮮土器」とはっきり言った人に会ったのははじめてだった。
「そんな須恵器はどこにでもみられるものですが、こちらのそれとしては丹生(にう)の水銀ですな。これなどにしても、わたしは古代に朝鮮から渡って来た人たちの手によって発見されたものとみています」
「丹生の水銀――」
「そうです。だいたい松阪文化のもとになったのは射和(いざわ)文化で、その射和文化というのは丹生の水銀からはじまったものです」
山田さんはこれもはっきりとそう言ったが、丹生の水銀と射和文化、どちらも私には耳馴れないことばで、それはこれから調べてみるよりほかなかった。私たちはついで、その記念館近くに移築されていた本居宣長の旧宅などみせてもらって、城跡の公園からおりて来た。
もう十二時をとっくにすぎていたので、どこかで昼飯を食おうではないか、ということになった。地図をみると丹生まではかなりの距離だったので、そのまえに腹ごしらえをしておこうというわけだったのである。
「そういえば、松阪は牛肉が有名でしたね。きょうは一つ、それを食ってみましょうか」と、私はふと思いだして言った。
「ええ、それだったら和田金ですが、しかし目の玉が飛び出るというアレですよ」と、これは藤田さんだった。
「まあ、松阪へ来た記念に、目玉の一つぐらい飛び出してもいいでしょう」
牛肉の「和田金」にて
こうして私たちは、和田金なる古い構えの店の前にあった近代的な駐車場にクルマを入れ、玄関の下足番に履きものをあずけて、その店へ上った。いかにも「上った」という感じの古い店だったが、女中さんにとおされてみると、何とそこは客の溜り場だった。
つまり、まだ昼どきだったからか、外からは全然気がつかなかったが、なかはどの部屋も客で満員となっていて、あとから来たものはそこで順番を待つことになっていたのである。すでにそうして待っているものが四、五組もいた。どうも食べ物のことで行列するというのはいい気持ちのものでなく、それにあの戦争中のことが思いだされていやだったが、上ってしまったからには仕方なかった。
ふと気がついてみると、そこの壁に二つの額がかかっている。私としてははじめてみるものだったし、ちょっとおもしろいので写真にとってきたが、それはこういうものだった。
褒賞の記
松 田 茂
早くから和牛飼育に従事し研究を怠らずその普及指導に努めて声価を高めよく斯業の発展に尽した まことに業務に精励し衆民の模範である よって褒賞条例により黄綬褒章を賜わってその善行を表彰せられた
昭和三十三年十一月三日
内閣総理大臣 岸 信介
また、もう一つのほうはこうなっている。
日本国天皇は松田 茂を勲五等に叙し双光旭日章を授与する
昭和四十一年四月二十九日皇居において璽をおさせる
昭和四十一年四月二十九日
内閣総理大臣 佐藤 栄作
「衆民の模範」となっている松田茂氏とはもちろん和田金の主人、というよりそこの社長のことであろうが、別にどこがどうというわけではない。その文章全体が私にはおもしろく、それを授与した二人の内閣総理大臣が、実は兄弟であるというのも何となくおもしろかった。「璽をおさせる」とはどういうことか、私はいまもってこれはよくわからない。
ところで、なおまだ気がついてみると、そこには、待ち客たちのためにいろいろな雑誌やら本などがおいてあって、なかに松阪市編『松阪』という写真などもたくさんはいった大型の本があった。これはまったく偶然というものだったが、私はこの和田金なる店でそうして待たされることがなかったとしたら、おそらくそんな本があったことは知らなかったはずである。
ほんとうに、どこでなににぶつかるかわからないものである。開いてみるとその『松阪』には、奈良本辰也氏の「松阪の歩み」という一文があり、「丹生の水銀と飯高氏」という項があって、それがこう書かれている。
神領の消長を別にすれば、古代のこの地方の歴史において重要なのは、中央政府内での飯高氏の動きと、丹生の水銀の問題であろう。
現在の多気郡勢和村の丹生は、もと飯高郡に属していたが、奈良時代や平安時代の日本で使用された水銀のほとんどは、ここから出たものだと考えられている。そうして、『続日本紀』などにしばしば飯高氏の名前が登場するのは、おそらく、この水銀を中央進出の手がかりとしたものであろう。今の松阪市内の旧松尾村丹生寺は、奈良時代に建立されたものだが、この名称も、飯高氏が丹生の水銀と特別な関係をもっていたことを現わすものだと推測されている。
丹生の水銀は、平安時代に最盛期をむかえた。弘仁八年(八一七)には諸国から集まる鉱夫や商人によって戸数一〇〇〇軒に達したと伝えられる。そうして丹生の繁栄は、この水銀を材料として興った射和(いざわ)の軽粉座から、さらに中万の市へと引きつがれていった。射和の工業、中万の商業が栄えるのは室町時代以後のことだけれども、ともかく、後に松阪が商業都市として発展する条件の一つは、この丹生から射和、中万へと続く産業、文化の歴史によって準備されていたのである。
さきにたずねた本居宣長記念館長、山田さんの言ったとおりだった。それを早くも、ここで確認することになったのである。
穴師神社ほか……
和田金での昼食に思わぬ時間をとられたため、私たちはさきを急がなくてはならなかった。私はそのまま丹生へ向かおうかとも思ったが、それには阿部君がちょっと不満をしめした。なぜかというと、阿部君はあらかじめ松阪市立田野に穴師神社などのあるのを調べて来ていたので、それをみてからのことにしようというわけだったのである。
それで、私たちは大急ぎでそちらもまわってみることにした。だいたい松阪市というのは伊勢平野のちょうど中間あたりに位置していて、そこに櫛田(くしだ)川が流れていた。阿部君のことばにしたがって私たちがたずねたのは、その櫛田川下流のデルタ地帯だった。西黒部、東黒部といったところだったが、そうして私たちは穴師神社から意非多(おいた)神社、黒部神社、服部伊刀麻神社とみてまわった。
神社はどれも、田んぼなどのひろがっている平野にまだぽつぽつとのこっている森のなかにあったが、しかしほとんどは無人だった。ばかりか、服部伊刀麻神社などはそこに「式内服部伊刀麻神社旧地」とした石碑が建っているだけだった。穴師、意非多などとともにそれが『延喜式』内社であったということは、すでに一〇世紀までにはこれが大きな神社となって、そこにいつき祭られていたということである。
意非多、意悲神社やそれから近くの宇留布神社は村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷」にもあげられているものであるが、穴師神社のほうはさきの伊賀でみている。穴師とはすなわち安羅・安那とおなじ阿羅・阿那からきた阿那之(し)(の)ということで、そのことは田中勝蔵氏の「秦氏帰化年代攷」にもこうある。「アナとは新羅古語阿那あるいは阿羅と同語で、……シは日鮮共通の助辞のシと思われる」
服部伊刀麻神社の伊刀麻とはなにを意味したものかわからないが、服部はこれもさきの伊賀でみている呉服(くれは)からきたものにちがいない。とすると、こちらの西黒部、東黒部や黒部神社などというのも、もとはその呉服のクレ(呉)部ということからきたものであったろうか。
阿部君はそれにちがいないと言い、まだほかにも神服部機殿神社や神麻績機殿神社などというのもあるとのことだったが、もう時間は午後五時近くなっていたので、まっすぐ丹生へ向かうことになった。丹生は、櫛田川をさかのぼった中流にある。
丹生で生産された水銀
清麗な谷間の流れとなっていた櫛田川は、まだまださきまでさかのぼるようだったが、中流の丹生も相当な山中だった。日暮れだったせいか、濃緑の山々もそこまでくるとくろぐろとなって見え、そこらに点在する集落の黒い瓦屋根もいっそう黒くなっているようだった。
やがて一つのちょっとまとまった集落のなかにはいったかとみると、道が突きあたりとなったそこに丹生神宮寺の山門がそびえたっていた。そしてすぐ右隣が丹生神社となっていて、それは古くからの神仏習合の名残りだった。してみると明治はじめの神仏分離令、すなわち排仏毀釈(きしやく)ともなったそれも、ここまでは届かなかったもののようであった。
私は丹生神社前のそこに立って、しばらくあたりをながめまわして見た。目にはいるものはどれも山ばかりで、やはりそこは深い山中だった。自転車も自動車もなかったはずの古代にあっては、とくになおそうであったにちがいない。
「体系日本史叢書」『産業史』のうちの平野邦雄氏執筆になる「手工業」の部をみると、伊勢の丹生で水銀が生産されたのは、七一三年の和銅六年五月となっている。もちろん、それをさいしょに生産したものは誰かわからない。それはわからないが、平野氏はこう書いている。
鉱産の開発 鉱業は、中央からつかわされた国司や工人(いずれも帰化人が多い)によっておこなわれるばあいが多く、中央の技術的官司としては、典鋳司と鍛冶・造兵司の二つの系統があり、それぞれ品部(しなべ)・雑戸(ざつこ)をかかえて鋳造・鍛造をおこなっていた。
「中央からつかわされた国司や工人(いずれも帰化人が多い)」にしたところで、現代のように地質調査などをしたうえでのことではなかったはずであるから、それをさいしょに生産したのは、この丹生かその近くに居住していたものだったにちがいない。それはどちらにせよ、当時、ここで水銀が生産されたということは、なかなかたいへんな出来事であったはずである。
今日ではこの水銀が人命をも奪ういわゆる公害の一つのモトともなっているが、古代からその用途は相当多岐にわたるものであった。いまでは男でも使用しているという白粉もその一つで、野田只夫氏の「伊勢の白粉」にそのことがこう書かれている。
白粉の原料、水銀 この白粉の原料である水銀は、伊勢国多気郡丹生村の丘陵地帯より産出したもので、地名も水銀にあやかって丹生と付けられているほど、古代以来本邦最大の産地として著名であった。『延喜式』によると水銀は平安時代の伊勢国の租税品として重要視され、内蔵寮には租税として小四百斤、同じく民部省には交易雑物として四百斤、典薬寮には年料雑物として十八斤などを貢納している。この頃より水銀は次第に商品として流通するようになり、諸国より黄金景気を夢見て集まった商人・鉱夫などによって一鉱山町が形成されるようになり、戸数も弘仁八年(八一七)には一千軒、翌年頃には二千軒に増加したと伝えられている。『今昔物語』(巻二九・第三六)の水銀商人が鈴鹿峠で賊におそわれる話は仏教の因果応報を説いている説話ではあるが、少なくとも平安時代に伊勢・京都間を隊商を組んで往来していた水銀商人の存在が推察されるであろう。
当時水銀は金属の鍍金用、絵具の顔料、薬品などに利用されており、寿永年間(一一八二〜八四)の東大寺大仏鋳造に際しては、大神宮司の大中臣氏が水銀二万両を後白河法皇に貢上し、一万両を大仏に進めたといわれている。さらに水銀は国内需要のみに止まらず、主要な貿易品として朝鮮・中国などに輸出され、遣唐使・留学僧の土産品にも珍重された。そして当然建久九年(一一九八)頃には丹生に水銀座が成立し、伊勢神宮を本所としていたらしい。
東大寺大仏などの仏像用、つまり金銅仏の鍍金は水銀アマルガム法といって、金粉に水銀をまぜて塗布し、のち炭火などの熱でその水銀を蒸発させたものだそうであるが、それにしても丹生のそこが一千軒、また二千軒の水銀座として賑わったところとは、いまではとうてい信じられなかった。だいたい、水銀座とはなにか。
それもあまり聞き馴れないことばで、もしかすると今日どこにでもみられる「銀座」というのもここからきたものだったかも知れなかったが、いまの丹生は見わたしたところ、数十軒の人家があるだけの小さな山里にすぎなかった。わずかにかつての面影をつたえるものとしては、その小さな山里にはふさわしからぬと思える『延喜式』内の古い丹生神社と、大きな山門を構えたその神宮寺とがあるだけだった。
そこの丹生山を中心とした丘陵一帯には大小百にのぼる当時の廃坑跡があって、そこでは最近また新たに水銀坑が開発されはじめたとのことだった。丹生神社の裏手にあたっているそこまで私たちも行ってみたが、なるほど一つの坑口が新しく掘りはじめられていて、そこに山盛りの土が吐きだされている。
してみると、古代からのその山にはもう水銀がなくなってしまったということで、丹生の水銀座の賑わいは跡形もなくなってしまったわけではなさそうである。では、どうしてであったろうか。
「当時のその人たちはいったん、みな全滅してしまったのではなかったでしょうか」と、山と田んぼのほかはそれしかない草ぼうぼうのあたりを見まわしながら、阿部君がふいと言った。
「みな全滅――」
「ええ。もしかすると、ここが日本における水銀公害のさいしょの地だったかも知れません。当時の人たちはそれが水銀からの公害とも知らず、ただ神仏のたたりかなにかだとしか考えなかったにちがいないですから」
「そうかなあ」と、私は水谷さんや藤田さんとも顔を見合わすようにして言ったが、しかし阿部君のそのことばには、相当なリアリティがあった。阿部君は古代史のことばかりでなく、東京工業試験所の技官で、そのほうの研究者でもあったからである。
それに、これはあとから聞いたが、柳田国男氏の『日本の伝説』には、伊勢の丹生における鉛害のことが語られたそんな説話があるという。私はどうしてか、あまり気がすすまないので、これはまだ読んでいない。
白木から伊雑宮へ
伊勢についてのプロローグ
さて、亀山からはじまった私のこの伊勢路歩きは、四日市から津、松阪としだいに南へ下り、いよいよ伊勢神宮などのある伊勢市とその周辺ということになった。そのまえにちょっとさきに志摩のほうをひとわたりみておかなくてはならないが、だいたい私はこの伊勢へ何度来ているのであろうか。
いまはもう何度かそれも忘れてしまったが、私がはじめて伊勢をおとずれたのは、一九七一年の暮れのことであった。翌七二年二月から三月にかけて名古屋から出ている中日新聞に、直木孝次郎、谷川健一の両氏と私との「伊勢をめぐって」という討論が掲載されているが、私がおとずれることになったのは、その討論と取材のためだったのである。
つまり、私はこのときになってやっとはじめて、有名な伊勢神宮をこの目でみたのであった。このときも私は志摩からさきにみたものだったが、ところでいまいった中日新聞の討論では、たまたま出席者がそれぞれさいごに短い一文をつけることになったので、私は次のようなことをそこに書いている。
――「伊勢をめぐって」の討論は、伊勢市の現地でおこなったものであった。私は伊勢ははじめてだったものだから、この討論のはじまる前々日に伊勢へ行って、二日間ほどあちこちと歩きまわってみた。
それまでは文献もあまり読んでいなかったし、知っていることといえば、もちろんみなつけ焼刃だった。
しかしながらたった二日ではあったけれども、私としてはそうして現地を歩いてみたことが、やはりひじょうに勉強になったと思う。話していても、ある実感に裏打ちされた強さのようなものを感じたものだった。
以後、私はこの種の討論・座談会に出るときは、たとい以前行ってみたところであるにしろ、必ずその現地を歩いてみてからにしたいと思っている。古代の歴史を論じるにしても、これからはそういった「現地主義」みたいなことが必要なのではないかと思う。
と、何だかエラそうなことをいったが、伊勢のばあいは、何としてもたった二日だけでは時間不足だった。論より証拠、この討論が新聞に掲載されはじめると間もなく、私は未知の三重県度会(わたらい)郡玉城町に住む西野儀一郎氏から、長い手紙をもらった。
「中日新聞紙上で伊勢についての谷川、直木、金三先生の討論をたいへん興味深く読み、感銘している読者です。私も金先生と全く同じ考えで、戦前から伊勢の地と朝鮮との関係は深いものがあったであろうと考えていました」として、そこに次のようなことが書かれている。
(1)私の住所は伊勢神宮周辺の、一〇キロほどの距離にあります。私の家の近在には「布留(ふる)の御魂(みたま)」と土地で呼称されている昔からの社(やしろ)が各地に数ヵ所ほどあります。「布留の宮」とも言います。「布留」は万葉仮名で当用されていますが、これは朝鮮語のフルで「火」の意味があるのだと、土地の人は昔から伝えています。すなわち「火を用いる人」の集落、「ムラ(村)」とも解釈しています。
この手紙はまだまだ(2)(3)(4)(5)とつづけられているが、私はその(1)を読んだだけで、「ああ!」と思わずにはいられなかった。「布留」とはいかにも朝鮮語フル・ブル(火)でもあるが、これはまた朝鮮の新羅の都京をソ・フル、すなわちソのフル(今日のソウルもこれからきている)といったことからきたものであった。
ああ、やはりつけ焼刃ではいけない。もっとよく歩いて、もっといろいろな人からはなしを聞いてみなくてはいけない。数ヵ所もあるという「布留の御魂」だけでも、直木さんや谷川さんをもう少しコマらすことができただろうに、とも思う。残念。――
いままたふたたび何でここにその一文をくりかえしたかといえば、これが伊勢神宮などのある伊勢についてのプロローグであるとともに、これからの伊勢路を歩く私にとって、右の手紙をくれた西野儀一郎氏はひじょうに重要な存在となってくるからである。どのように重要となってくるかはこれからわかるはずであるが、そのまえに私はまず、志摩のほうをみておかなくてはならない。
白木のもとは新羅
志摩は志摩国となっていたもので伊勢とはちがうが、しかし古代から現代にいたるまで、その関係は密接である。ばかりか、いまもなお伊勢神宮の影響力の強いところで、あとでみるように、その伊勢神宮のモトはこの志摩の磯部(いそべ)ではなかったかという人さえいるのである。
私が志摩をさいしょにおとずれたのは、これも中日新聞の討論があったときのことで、そのときは別にこれといった資料もなにも持ち合わせていなかった。例によって行きあたりばったりというわけで、手にしていたのは『近畿日本鉄道ごあんない』とした一枚の地図だけだった。
その地図をみると、伊勢市から十ばかりさきの駅に白木というところがある。私はとりあえずそれからさきに行ってみることにした。これといったあてがあったわけではなく、そこらをぶらぶらしているうちに、中年のおかみさんが一人とおりかかったので、
「ここは、何というところですか」と言ってきいてみた。そこにいながら、何とも妙な質問だったので、おかみさんはけげんそうな顔をして私をみたが、
「ここは白木(しらぎ)ですがな」と言った。
私は、おなじ近鉄線に白子というところがあって、これは白子(しらこ)というのだとばかり思っていた。が、案に相違してそれは白子(しろこ)だということをあとで知った。そういうことがあったので、白木のこともわざわざきいてみたのだったが、それは何と白木(しらき)でもなくて、しらぎ(白木)だったのである。
もちろん、人によってその呼び方はちがうかも知れなかった。しかしながら、さいしょに出会ったそのおかみさんは、はっきりと濁点をつけて白木(しらぎ)と言ったのである。
「ほう、しらぎ(白木)ね」と私は言って、ついでこの辺には昔からその白木と縁のあるもの、たとえば白木神社といったものはないかときいてみたが、おかみさんは知らないという。
そこで私はただその辺をぶらぶらしてみただけで、次なる磯部へと向かったのであるが、私が何でこの白木をまずさきにたずねたかというと、白木とは多くのばあい、そのもとは新羅(しらぎ)だったからである。武蔵(埼玉県)の東上線沿線にある白子(しらこ)は、これもそこがかつて新羅郡だった名残りで、もとは新羅だった。つまり白子とは白処(しらこ)、新羅人の居処ということだったのである。
竹中芳夫氏の『北九州の古代を探る』にもそのことがこう書かれている。これは北九州のばあいであるが、やはりもとはおなじである。
新羅(しらぎ)人の居留地であったところを、白木(しらぎ)と称しているところは多い。これは新羅(しらぎ)来(き)の転で、すなわち「新羅から来た人々の居所」と考えられている。(北九州市には、八幡区畑に白木、門司区大字楠原に白木崎がある)また、熊本県八代郡坂本村百済(くだら)木(ぎ)は、百済人の居住地で、百済来と推定されている。(大日本地名辞書―吉田東伍著)唐木は韓来であろうか。また和名抄の、日向国児湯郡に「韓家」、筑前国宗像郡および肥後国菊池郡に「辛家」があって、ともに「カラケ」と読むと思われるが、あるいは唐木は韓家の転かも知れない。
ついでに百済木=百済来、唐木=韓来・韓家までみたが、白木のばあいは新羅来の転じたものであると同時に、これは新羅(しらぎ)そのものでもあったし、またそれは新羅という以前の斯盧(しろ)、すなわち斯盧の斯羅城(しらぎ)・斯羅来だったかも知れない。さらにまたいうならば、新羅以前は徐伐(ソブル)または徐羅伐(ソラブル)ともいったもので、これはソのフル、つまりソの都京(徐・伐)、あるいはソの国の都京(徐・羅・伐)ということであったから、新羅もそのもとはソ族のソということであった。
すなわち古代朝鮮の新羅はソ族の国で、そのソでもあったということである。いま何でそんなややこしいことまでみたかといえば、実はこれからみるであろう志摩と伊勢では、新羅=白木などということよりむしろ、このソということがまた問題となるからである。
だいいち、いま私がそこへと向かっている磯部のイソということからして、まず問題となるのであるが、ところでいまみてきた白木には、あとで前出の西野儀一郎氏が調べてくれたところによると、そこにやはり白木神社があった。西野氏は、『鳥羽郷土史草稿』の編者でもある鳥羽市教育委員会社会教育課長の松本茂一氏にそのことを聞きだしたり、また、『鳥羽市文化財遺跡台帳文献』などにもあたってそれを調べてくれた。
鳥羽市教育委員会の松本氏には、私もそこをたずねたとき会っているが、しかし私はその白木神社のことまで聞きだすことはできなかったのである。何事もとおりいっぺんではダメだということの例であるが、それはともかくとして白木神社は、『鳥羽市文化財遺跡台帳文献』にこうあるという。
其の由来、まだ古書に見当らず。然し昔古老の口碑に拠れば、本村建置の時今の地に奉祀して、本村の産土神となす。
そしてこの白木神社は、一九〇一年の明治三十四年に近くの松尾神社、河内神社とともに加茂神社に合祀となった。おそらく相当に古い神社ではなかったかと思われるが、何のことはない、そういうわけとなっていたのである。
感動をおぼえた伊雑宮
磯部では、いちいち道をきいたりするのもめんどうだったので、私はタクシーを利用することにした。そして、「伊雑宮(いさわのみや)へ――」と言ったところ、「はい。伊雑宮(いそうのみや)ですね」と運転手はこたえた。いつかは紀伊の和歌山で、「日前(ひのくま)神宮へ行ってくれ」と言ったところわかってもらえず、「ああ、にちぜん(日前)さんですか」といわれたことがあったが、どちらにしても、日本の地名やこういう神社などの呼称はむつかしい。
「いま、伊雑宮(いそうのみや)と言ったね。伊雑宮(いさわのみや)とその伊雑宮(いそうのみや)とはどっちがほんとうの呼び方なんだろう」
私はタクシーが走りだしてから、あらためて運転手にきいてみた。まだ若い人だったが、はじめに「はい」と言ってくれたのが私の気に入っていた。
「ええ、伊雑宮(いさわのみや)とも言うようですが、地元ではみんな伊雑宮(いそうのみや)と言っていますね。なかには伊雑宮(いそうぐう)、伊雑宮(いぞうぐう)と言っているものもいます」
「そうですか。なるほど。ほんとうはその伊雑宮(いそうのみや)、伊雑宮(いそうぐう)のほうがただしいかも知れない」
「それから、ほんとうは伊勢神宮よりも、こちらの伊雑宮のほうが古くて、神宮の元宮だったんだそうですね。地元の人はそう信じていて、わたしのおじいさんなどいまもまだそう言っています。それで正月にはまずさきにこの伊雑宮に詣でて、伊勢のほうはそれからあとですよ」
「ほう、そうかね」
近鉄線の磯部から伊雑宮まではすぐ近くだったが、私はやはりタクシーに乗ってよかったと思った。伊雑宮は旧街道に沿った、こんもりとした森のなかだった。
例によって私はまず入口の右手にある宿衛屋(しゆくえいや)(社務所)に寄り、『伊離宮参拝の栞(しおり)』とした神宮司庁発行の由緒書をもらった。そしてよく掃き清められた境内のなかへ進み入ったが、そこで私は、思わず立ちどまるようにして目をみはった。
何という簡素な神殿。――拝殿もなにもなく、神明造りといわれる古さびた木造の神殿だけが、玉垣と瑞垣(みずがき)に囲われてひっそりと建っていた。床はこれも簡素な白い石粒敷きで、横に二十年ごとに行なわれる遷宮(せんぐう)のための、古殿地があるのも私には珍しかった。
一言でいうと、私は伊雑宮の神殿を一目みただけで、強いある感動をおぼえた。というのは、私はかねてから神宮・神社というものの多くは、祖神の廟からはじまったものという考えを持っていた。いまはじめて目の前にした伊雑宮の神殿は、まさにその祖神廟というイメージにぴったりだったのである。
さきにもみたように、古代朝鮮の新羅で赫居世(ヒヤクコセ)を祭る祖神廟ができたのは『三国史記』によれば西暦紀元六年、それが四八七年に「神宮」というものになったが、その祖神廟の神宮とはまさにこういうものではなかったか、と私は思ったのである。私はこれからあと伊勢神宮の内宮(ないくう)や外宮(げくう)、それからまた多くのその摂社・末社をみるにおよんで、社殿の構造はどれもみな伊雑宮とおなじものだということがわかったが、なにしろ私がそれをみたのは、この伊雑宮がはじめてだったのである。
だいたい私は、これまでもたくさんの神社や神宮をみてきた。だが、それはたいてい仏教寺院建築の影響をわるく受けたごてごてのものばかりで、伊雑宮のこれのように清麗簡素なものは、ほとんどあまりみたことがなかった。ここで、『伊雑宮参拝の栞』によってその正殿(神殿)をみると次のようである。
正殿の構造は本宮に準じ、神明造であって、御屋根の鰹木(かつおぎ)は六本、東西両端には内宮と同じく内削(うちそ)ぎ(水平切)の千木(ちぎ)が高く聳え、南面して建つ。周囲には内より瑞垣、玉垣の二重の御垣があり、御垣にはそれぞれ瑞垣御門、玉垣御門がある。
「本宮に準じ」という本宮とは、もちろん皇大神宮(こうたいじんぐう)ともいわれる伊勢神宮内宮のことである。なお、筑紫申真(のぶざね)氏の『アマテラスの誕生』をみると、その伊雑宮のことがこう書かれている。
伊雑宮は志摩半島のリアス式海岸の奥深く、かなりまとまった水田地帯のなかにあります。丘陵のふちに営まれた広大な森のなかに、あまり大きくない社殿がたてられています。
伊雑宮にはアマテラスと玉柱屋姫(たまはしらやひめ)とがまつられています。玉柱屋姫はアマテラスのカミ妻(たなばたつめ)であったのでしょう(この神社の付近には、たなばた伝説にちなんだ神社や岩があります)。元来、玉姫とは、カミのたましいのよりつく日の妻(め)、という意味ですが、玉柱屋姫ということになると、玉姫は柱屋、つまり柱にとりついたおとこガミをまつっていた日の妻であった、ということになります。
伊雑宮の祭神の玉柱屋姫は、太陽神アマテラスのカミ妻たる巫女で、柱によりついたアマテラスをまつっていたのでした。
磯部の「イソ」とは?
伊雑宮の祭としては有名なものに、毎年六月二十四日に行なわれる御田植祭がある。日本三大田植祭の一つといわれるもので、ついでに紹介すると、萩原秀三郎氏の『郷土芸能の旅』にその「伊雑宮の御田植祭」がこう書かれている。
はじめ奉仕の人びとが宮に参拝、はらいをうけ、行列をつくって御料田に向かう。行列の人はすべて白たびはだしで、しずしずと進む。
田に到着すると、立人(たちど)、早乙女(さおとめ)らが手をとり合って苗代田をめぐり、苗取りを始める。
清楚(せいそ)な早乙女と、腰に神聖な注連(し め)をめぐらした立人とが手をつないで田に降り立つ。
立人は二十歳代の青年たちで、ま新しい一文字笠にジュバン、紺のもも引きに手甲をつける。早乙女は十二、三歳から十五、六歳までの少女たちで、白装束に燃え立つような真紅のタスキをかけ、黒繻子の丸帯を縦結びにし、一文字笠の下の髪は古雅な加良古(からこ)という結い方、幼い顔の白粉(おしろい)とひきまゆ、口にさした紅も匂うばかりである。
純白の単衣(ひとえ)のすそにちらつく、真紅のけだしもなまめかしい。白い足首が泥につかる。少女と若者が手をつないで苗代をめぐる……、これはいうまでもなく、田の神への感染呪術であろう。しかし、これほど美しい性の儀礼がまたとあるだろうか。
農耕儀礼を祭事化したこの田植祭をみても、伊雑宮がどれほど古いものであるかがわかるが、ところで、私がこの伊雑宮にまず興味をもったのは、それが志摩の磯部にある伊雑宮であるということだった。地図をみればすぐわかるが、上野(こうずけ)(群馬県)を通る国鉄信越本線に磯部というところがあって、ここに磯部温泉がある。
この磯部は、おなじ上野の吉井あたりを中心としてひろがった新羅系渡来人の繁栄したところだった。そして近くには彼らによっていつき祭られたとみられる有名な貫前(ぬきさき)神社や妙義神社などもあるが、伊雑宮のある志摩の磯部もこれとおなじ磯部であるということだった。
磯部の磯とはなにか。磯と漢字があてられているのでめんどうなことになっているが、このイソのイは、江戸時代の新井白石やまた言語学者の金沢庄三郎氏などもいっているように、発語、あるいは接頭語であって、このばあいそれ自体に意味はない。だからイソのもとはソであって、磯部というのもソの部民(べみん)ということからきたソの部ということではなかったかと思う。
丹波(京都府)にある園部というのにしてもおなじで、これなども決して花園の部というようなことからきたというものではない。それは宮中にいつき祭られている神の名、『延喜式』「神名上」のはじめのほうに出ている宮内省坐園(にますその)神社・韓(から)神社の園神がソフリの神、すなわち新羅のソの神ということであることからもわかる。
したがって志摩の磯部の伊雑宮にしても、イ(伊)は接頭語であるから、これもほんとうはソの部(磯部)のソの宮ということであったはずである。志摩の磯部は磯、つまり海岸にあるので、そこで漁(すなど)りをしていた部民ということからきたものではないかという人もいるが、しかしそれでは、いまみた内陸である上野山地の磯部はどういうことからであったか、説明がつかなくなるのである。
伊雑宮がいさわの宮かいそうの宮か、またさきほどの運転手が言ったように、これが伊勢神宮の元宮であったかどうか、それは知らないが、しかしどちらにせよ、伊雑宮がソの宮ということであったことはたしかである。そればかりか、伊勢ももとは伊蘇(いそ)で、そこの神宮も伊蘇宮、すなわちソの宮であった。これについてはあとの、伊勢神宮のところでまたみることになる。
菅島のしろんご祭
ここにも白髭神社が……
志摩にしても、まだみたいところはあった。たとえばさきにそこまで行っていながら、雨のため引き返してしまった安楽島(あらしま)の加布良古(かぶらこ)神社などだったが、しかし志摩は白木と伊雑宮だけでおしまいにしようかと私は考えていた。
一つは、あとに伊勢神宮とその周辺というむつかしいところをひかえていたので、もう少しまだそちらのほうをみておかなければならないということもあったからだった。どちらにしろ、伊勢のほうへはもう二、三度行かなくてはならないなあ、とそんなふうに思っていたところへ、津市の藤田明氏から電話がかかってきた。
この七月十日は志摩の菅島(すがじま)にある白髭(しらひげ)神社の祭だそうだが行ってみるか、というのだった。私はそこに白髭神社があることも知らなければ、もちろんその祭のことも知らなかった。
「へえ、そんなところにも白髭神社があったんですか」
「あったんですね。しかもその祭というのは、海女(あ ま)さんたちが競争で鮑(あわび)をとって神前に供えるという、たいへんおもしろいものだそうです」
「ほう、なるほど。鮑をね――」
鮑をとって神前に供えるということで、私はそれとおなじ神事をする相模(神奈川県)大磯の高麗山麓にある高来(高麗)神社の祭礼のことを思いだした。また、海女さんということでは朝鮮の海女のことなども思いだしたものだったが、その鮑を神前に供えるというのは、ずいぶん古くからあちこちで行なわれているものらしい。
いずれにせよ、知らないならともかく、そうと知ったからには、行ってみないわけにゆかない。そこで私は、前日に東京をたって伊勢へ向かった。そしてその夜は志摩の賢島(かしこじま)で一泊し、翌日の午前七時半ころに近鉄の上之郷駅近くの船着場で、私は津から来た藤田さんと落ち合った。
島通いの船がつく時間になると、私たちのほかにもカメラを持った人たちが何人かやって来た。なかには私とどこかで会っているというカメラマンもいて、彼は菅島の白髭神社の祭のような、そういう珍しい祭をずっと撮(と)りつづけているのだという。そして彼は私の履(は)いているものをみて、
「その靴ではちょっと――」と言った。「しかし、きょうは雨じゃあないからいいでしょう」
私は何のことかちょっとわからなかったが、やがて三十分ほどで船が菅島についてから、そう言われたことの意味がよくわかった。
菅島は祭礼で休日となっているらしく、威勢のいい若い衆たちが「白髭大明神」の幟(のぼり)を押し立てた何隻かの船を海に向かって繰り出しているところだった。私はさっそく、その「白髭大明神」とした幟に、あるなつかしさのようなものを感じてカメラを向けたりしたものだったが、気がついてみると、いっしょの船でやって来た人たちは、左手の山のほうへ向かってどんどん歩いて行っている。
で、私と藤田さんもすぐそれにしたがって行ったが、たいへんな急坂の山道だった。私たちは、灌木(かんぼく)の茂みを掻きわけるようにしながら、細い山道を下ったり、また登ったりした。
それで私ははじめて、さきほどのカメラマンの言ったことの意味がよくわかったのだった。なるほど雨が降っていようものなら、私の履いているふつうの靴ではとうていそこを登り下りすることはできなかったはずだった。が、しかし、その雨は降っていないかわり、真夏のかんかん照りだった。
私は、冬でもそんな坂道をちょっと歩くと汗だくとなる汗かきだったので、たちまちのうちに全身汗びっしょりとなってしまった。これもそのときになってやっと知ったが、海女さんたちが鮑とりをしている白髭神社のある白浜海岸は、その険しい山道からの峠を越した向こう側となっていた。
やがて峠に登りついてみると、眼下にその白浜がひらけ、すでに海のほうではたくさんの桶を浮かべた白衣の海女さんたちが鮑とりをはじめていて、それがちょうど鴎(かもめ)の群れているような声をあげていた。その声は「磯笛」というもので、海中にもぐっていた海女さんたちが、顔を海面にさしだしてはたまった息を吐きだす「音」であった。
砂浜を歩きながらみたところ、海女さんたちは百、あるいは百五十人もいるかとみえたが、あとで聞いたところによると、三百人近い全島の海女さんたちがみな参加しているとのことだった。ともあれ、全身汗びっしょりとなっていた私は、そこにも「白髭大明神」とした幟がはためいている浜のはずれの山腹にあった白髭神社下近くまでやっとたどりつき、そこの岩陰にへたりこんでしまった。
まだ朝のうちだったが、何としても暑い。藤田さんはそれでも身軽にあちこちと歩きまわりながら、いろいろな人からはなしを聞いたり、それをメモしたりしていたが、私はもうダメだった。私はただ鴎のように群れている海女さんたちの活動をながめわたしながら、汗で濡れた衣服の乾くのを待つよりほかなかった。
漁業と結びついた神事
そばの岩の上では、一人の若い衆がテープレコーダーをおいて、何度も何度もおなじ音頭の唄をくり返している。若い衆にきいてみると、鳥羽市教育長の楠井不二氏が作詞した「しろんご祭の唄」、すなわち白髭祭の唄だそうで、それはまだ未発表のものだとのことだった。
発表はこの一両日中に行なわれるとのことだったが、私はそこで何度も何度も聞かされているうちに、その唄をほとんどみなおぼえてしまった。未発表だということの興味からだったかも知れないが、そのはじめは次のようなものだった。
一、しろんご白浜 朝日がのぼる イッチョサー
ドント ドントドント もぐった海女の
桶に手に手に 大きな鮑(あわび) ソレ
法螺(ほら)も鳴る鳴る 意気もわく 意気もわく
しろんご祭だ 大明神さんだ
ドントおどれ ドントナー
念のため、テープレコーダーを動かしている若い衆にそれの歌詞はどこにあるかときいてみると、船着場のそばにある漁業協同組合に行けばくれるはずだ、ということだった。いま私が書いたのはその漁業協同組合からもらったものからの写しであるが、それにしても白髭祭、あるいは白髭大明神祭というのが「しろんご祭」ということばになっているのはどういうことか。
「白髭」ということばにしても、それが地方によってどう訛(なま)るか、ということの一つの見本のようなものである。なおまたこの白髭神社は「しろんごさん」ともいわれ、『鳥羽市十年のあゆみ』にその祭のことがこう書かれている。
旧六月一一日 菅島町 しろんごさん 菅島に古くから伝わる海女のまつりで、白髭大明神祭(しろんごまつり)といっている。島中の海女が総出で海にもぐり、つがい(雄貝、雌貝)のアワビの初とりを競う奇祭である。この祭は今から七百年ほど前、菅島にあらわれた白蛇を海神の使いとあがめたのがはじまりで、大漁と海上安全を祈念するもの。
行事は午前八時ごろから全島の海女たちが神社下の浜に集り大漁おどりをくりひろげ、威勢のよいホラ貝の音を合図に全員が海に飛入る。三百人近くの海女が白衣の海女着をひるがえしてしぶきをあげ、海中に競うさまは実に壮観である。黒赤つがいのアワビを最初にとった海女は、双手をあげて浜に合図する。ぬれ着のまま神社にぬかずいて供えると、祭典が行なわれる。
ここは、いつもは禁漁磯になっている神社の浜で、当日、最初の黒赤つがいのアワビをとった海女は、島中の祝福を受けて海女頭として一年中尊敬をあつめる。またこの日、大勢の海女のとったアワビはその年の神社の祭典や、行事の費用にあてられるしきたりとなっている。
ここにある「行事は午前八時ごろから」のその時間は、私たちがこの島へくるために船に乗った時間だった。だったからその行事をみることはできなかったが、ほかの「しきたり」など、いまではかなり変わってしまっている。
たとえば「黒赤つがいのアワビを最初にとった海女」がその年じゅうの「海女頭」となるなどということは、いまはもうないようである。最初にとったその鮑もいまでは浜で待っている「ぬれ着」でない海女さんに受けとられ、それを神前に供える祭典もきわめてかんたんにとり行なわれるだけだった。
漁業生産と結びついたその神事もいまではすっかり現代化したわけであるが、ところでこの日にとれる鮑はいったいどれくらいのものであろうか、と私もきわめて現代的なそんな質問を、祭典をおえた神社の総代らしい人に向かってしてみた。すると、「多い年で百二十貫ほどです」とその人は答えたが、これもいまではその半分が「神社の祭典や、行事の費用にあてられる」ことになっている。
それでもやはり、この祭はたいへんおもしろいものだった。浜には「しろんご祭の唄」が終始ひびきわたり、さきの船着場でみた「白髭大明神」の幟(のぼり)を押し立てた若い衆たちの船も、やがてそこへやって来て気勢をあげた。それとともに、浜には晴れ着の子どもたちをまじえた人々の姿もしだいにふえはじめた。
「黒赤つがいのアワビ」を神前に供える祭典がおわった午前十時近くになると、鴎のように群らがって働いていた海女さんたちも三々五々、海から上がりはじめた。脇に抱えている桶には、どれにもびっしりと鮑が詰まっている。
そして漁業協同組合によるそれらの集荷がはじまると、神社の祭典にたずさわったりした島の老人たちは、その鮑のいくつかをとって噛りながら、浜辺でさっそく一杯やりはじめた。何とも、往時をしのばせるのどかな風景であった。
私と藤田さんとはまた山越えをして、朝ついた船着場のほうへ戻った。そして暑いさなか、二軒しかないという食堂の一つをやっと見つけて朝・昼兼ねた食事をすましたが、私はそこでまた、汗びっしょりとなった衣服の乾くのを待たなくてはならなかった。
未発掘の古墳も……
船着場のそばにあった漁業協同組合に寄って「しろんご祭の唄」の歌詞をもらうまえに、そばに鳥羽市役所菅島出張所があったので、私たちはさきにそこへ寄ってみることにした。そしてそこにいた松村久男氏という若い人に、菅島についての資料のことなどをたずねた。
さきに引用した『鳥羽市十年のあゆみ』もここでみたのであるが、松村さんによると菅島は、志摩では答志(とうし)島に次ぐ第二の島で、面積は四・四平方キロ余、人口は一千二百余とのことだった。
「それで、あの白髭神社の古墳から出たものは……」と、こんどは藤田さんがきいた。いまはもう消滅してしまってないが、白髭神社の社地には古墳があって、それから須恵器などが出土していることを、藤田さんはどこかから調べてきていた。
「ああ、それでしたら」と、松村さんは引きとって言った。「漁師さんですけれども、それが好きでくわしい小寺兵一という人がいますから、その人にきいてくれませんか」
そして松村さんはすぐに外へ出て、私たちを近くの小寺兵一氏宅までつれて行ってくれた。「蘇民将来子孫」という門符(かどふだ)のある家の一軒で、小寺さんは来客と食事中のようだったが、この人もまたすぐ外へ出て来てくれた。
「あの――」などと言って、名刺をだすまでもなかった。何と、漁師でありながら街の、いや島の考古学研究家である小寺さんは、私がこの「旅」をまとめてそれとしている『日本の中の朝鮮文化』の愛読者だったのである。私はこれまでも、その読者にはたくさんめぐりあったが、この菅島にも小寺さんのような人がいたということが何ともうれしかった。
「ええ、それだったら、神主さんの家にありますよ。ほとんど須恵器ばかりですがね」
こんどは小寺さんがさきに立って、数軒さきのそこまで案内してくれた。しかし玄関が閉まっていて、「神主さん」といわれた清水正雄氏は留守だった。すると、そばにいた松村さんがすいとどこかへ行って、すぐにその清水さんをつれて来てくれた。
こう書くとちょっとウソみたいなことのように思えるかも知れないが、船の出る時間が迫っていたからか、松村さんははじめからそのように能率的だった。ところで、これまただまってすぐに開けてくれた清水さん宅の玄関脇のそこは、ちょっとした小博物館のようなぐあいだった。ガラス戸棚があって、それには朝鮮土器ともいわれた須恵器などがぎっしりはいっていた。
須恵器そのものとしては、別に珍しいものではなかった。しかし、それが菅島のようなところで発見されたということが珍しかった。小寺さんがそう言ってくれたのではじめて知ったが、菅島にはほかにまだ約十基の古墳があって、しかも未発掘のままだとのことだった。
「ほう、そうですか。十基もね。いずれ発掘することになったら、ちょっと知らせてくれませんか。そのとき、また来ますよ」
私たちはそう言って、小寺さんたちとはそこでわかれたが、白髭神社があることといい、菅島はなおよく調べると、もっといろいろなものが発見できるのではないかと思えてならなかった。だいたい、白髭神社というのがどういうものであるかということについては、さきの「白木・鶏足・瀬織津」の項でみたとおりであるが、菅島というそのスガということからして、これも古代朝鮮と関係のあることばにちがいなかった。
私と藤田さんとは、帰りに鳥羽市教育委員会に寄って、藤田さんとはかねてからの知り合いで、「しろんご祭の唄」の作詞者だった教育長の楠井栄八郎(不二)氏とも会っていろいろと話した。そして同教育委員会社会教育課長松本茂一氏編の『鳥羽郷土史草稿』をもらったが、これによると菅島はもと須賀島、須加島とも書かれたものという。
菅、須賀、須加、つまり、スカとはどういうことか。これもさきの「一身田から安濃へ」の項でみているように、古代朝鮮語のスカ、すなわち「村」ということからきたものだったにちがいない。
ここでまたついでにいえば、志摩の安楽島(あらしま)の安楽ももとは荒だったとのことであるが、これもさきの「敢国から荒木へ」の項などでみているのとおなじで、そのもとのもとは古代南部朝鮮にあった加耶諸国のうちの安羅(あら)からきたものだったはずである。そしてここにある加布良古(かぶらこ)神社というのは、筑前(福岡県)の韓良(から)、加布羅(かぶら)などとおなじように、これも安羅と同系列の加羅(加耶)からきたものにちがいない。
安楽、荒が安羅だったであろうということは、あとでみる伊勢の荒木田氏ということとも関連することである。
玉城の布留(ふる)の御魂(みたま)
「蘇民の森」松下神社
菅島のしろんご祭をみての帰り、私と藤田さんとは鳥羽市教育委員会をへて、二見町の「蘇民(そみん)の森」といわれている松下神社にいたった。松下神社は伊勢、志摩地方の民家によくみられる「蘇民将来子孫」という門符(かどふだ)の本家のようなものであるが、「蘇民の森(杜)」とはこれを朝鮮語でよめば「蘇民のモリ(頭)」、すなわち「蘇民の頭」ということになる。
この「蘇民の森」の松下神社は作家であるとともにすぐれた古代史家であった坂口安吾氏によると、伊勢先住の豪族を葬った大きな古墳ではなかったか(『安吾・伊勢神宮にゆく』)というのであるが、小丘陵のようなうっそうとした森は、なるほどそうではなかったかと私も思ったものだった。こうなると、古代朝鮮の新羅がソの国であったこととあわせて、「蘇民将来子孫」というその「蘇民」の蘇(ソ)とは何であったか、ということも気になる。
とくにそれが、新羅・加耶系文化遺跡の濃厚な伊勢、志摩地方であるだけに気になるが、しかしそれについてはいずれまたということにして、私は次へうつらなくてはならない。つまり、私と藤田さんとは近鉄の宇治山田駅でわかれ、私だけはそこにのこって前出の西野儀一郎氏や福地隆氏と会うことになっていた。
そしてこの七月二十日に予定されていた伊勢神宮の舞楽をみることについて打ち合わせたり、それからまた翌日からの私は、見のこしていた伊勢市周辺のあちこちをみてまわることになっていたが、だいたい私が西野さんにはじめて会ったのはいつのことであったか。それまでも手紙や電話のやりとりはあったが、互いにはじめて顔を合わすことになったのは、まだ夏とはならない四月はじめのことではなかったかと思う。
いまそのときのメモをみると、四月九日である。この日はさきに書いた中日新聞の座談会以来、私が二度目に伊勢市のほうをおとずれたときであった。その時もおなじくやはり宇治山田駅におりたが、西野さんは互いに初対面で顔を知らなかったから、
「ようこそ布留の御魂へ」と書いた長い紙片を持って、私を駅まで出迎えてくれた。
西野さんの友人である永井坦氏や福地隆氏、伊勢市議会議員の中西三郎氏などもいっしょだった。そして私たちはさっそく、その中西さんのクルマであちこちとまわることになったが、一見して西野さんは五十になるかならないかの背の高い、顔幅の広い、らいらくな感じの人だった。
西野さんはいまは中学の教師から、伊勢市教育研究所勤務となっていた。率直にいうと型どおりの教師の職には、はまりきらないような人に思えたが、一九七二年十月十二日付けの伊勢新聞をみると、「腹の立つこと」というコラムがあって、西野さんはそこにこういうことを書いている。
師範学校時代(昭和十六年ごろ)教師に「神功皇后は朝鮮と関係ある人では?」と聞いたが、真の解答がなく、卒業前に「教員免許は与えない。海軍にいけ」といわれた。この考えは『神国日本』を読んで感じたものだったが、復員後、同教師に軍国主義教育を難詰したところ、教師はデューイの民主教育論を述べていた。現在、高松塚古墳で朝鮮ムードが高まっているが、歴史の流れが時の権力で左右されるのは腹が立つ。
要するに、らいらくであるとともに反骨の持ち主でもあるということだが、何でこんなことを紹介したかといえば、西野さんがこれから終始熱心に私の仕事に協力してくれたのも、そういうことがあったからではなかったかと思うからである。西野さんばかりでなく、私がこれからつぎつぎと会う伊勢の人々はほとんどみな、そのような人ばかりなのもおもしろかった。
多かれ少なかれ、伊勢神宮という巨大なものの影響と切り離せないもののように思えたが、それはさておき、私たちはまずその伊勢神宮のあたりをひとまわりし、この夜は私がそこで泊めてもらうことになっていた度会(わたらい)郡玉城町の西野さん宅に向かった。玉城町は旧熊野街道の宿場町だったところで、西野さん宅はその街道筋の旧家だった。
玉城町周辺の遺跡
午後五時ごろには東京から阿部桂司君もそこへつくことになっていたが、まだ時間があったので、私たちはその近くの、西野さんの言っていた「布留の御魂」の西外城田(にしときだ)神社へ行ってみることにした。西野さんの家からちょっと出ると見える丘陵地帯の突っ鼻にある神社で、なるほどその拝殿にしるされた祭神のなかに「布留御魂」とはっきりある。
西外城田神社の裏手の山に「宣庁宮掌大内人秦累代墓」などがあって、そこに立ってみると、前方に大きな古墳ではないかと思われる丘陵があり、その丘陵との間の谷をハンダニといっているのだと西野さんは言った。そしてその向こうの奥にはハンダニ池があって、近くにはカラコ坂というところもあるとのことだった。
カラコ坂とは唐子(からこ)坂、もとは韓子(からこ)坂なのかも知れなかったが、ハンダニとはなにか。私は念のため、戻り道となった農道のかたわらで働いている人に、「あの谷は何と言っているのですか」ときいてみた。するとやはり、「ハンダニです」と中年のその農夫はこたえた。
「漢字ではどう書くのでしょうか」とつづけてきいたが、それはわからないと首を横に振った。そして、「ただ、ハンダニと言っとります」というのだった。
そこで西野さんは、「ハンダニとは、もしかすると朝鮮語の韓丹(ハンタン)ではないか」という説をだしたが、なるほどそうかも知れないと、私も思った。なぜかというと、中島利一郎氏の『日本地名学研究』にもあるように、谷とは古代朝鮮語でタン(丹・旦)だったからである。してみると、そこにはハンタン・ハンダニと古代朝鮮語がまだそのまま生きていたことになる。だが、この説には反対する人もあるかも知れない。
しかしながら、そこに布留の御魂が祭られていることといい、近くには韓(から)、加羅からきたものと思われるカラ池などというのもあることからして、西野さんがそのようにいうのもむりからぬことだった。布留の御魂の西外城田神社裏手に「――秦累代墓」があるというのも、西野さんからそのような説が出そうなことの一つだった。秦とは朝鮮語バタ(海)からきたもので、布留の御魂の布留ということとともに、その秦氏族は新羅・加耶系の渡来とされているものなのである。
ついで私たちは、おなじ玉城町となっていた近くのカラ池まで行ってみた。そこは荒木田氏一門の氏寺といわれる国宝十一面観音をもった田宮寺の近くでもあって、カラ池はいまは四囲の開発のため水のない乾いた池となってしまっていたが、ゆるやかな丘陵となっているそこはまた、たくさんの古墳地帯でもあった。
いまではほとんどが長いあいだに封土が削平されてわからなくなってしまっているが、ここに松下電工の伊勢工場があって、その敷地内だけでも十四基が発見されている。つまり、松下電工がここの山林や畑などを工場敷地として買収して整地したところ、それらの古墳が発見されたというのだった。
一九七〇年二月八日付けの朝日新聞(三重版)をみると、「経済動物ばかりじゃない/古墳守る企業の良心/三重県玉城町緑地公園に計画変更」といった記事が出ている。これはそのときの消息をつたえたものであった。
要するに松下電工は「企業の利益でつぶせぬ古墳」というわけで、それをのこしてくれたというのであるが、私たちは伊勢工場長の駒田保氏に会って、できたばかりの工場内にあるその古墳のいくつかをみせてもらった。近代的な工場の白い建物とならんで、低い封土のその古墳だけが削られかけたままのこされているのも、何だか索漠とした感じのものだった。
工場が活発となり、拡大されるのにしたがって、それもいずれは跡形もないものとなるにちがいなかった。いかに保存されているとはいっても、そこに工場ができたり、公園ができたりしたのでは、もうおしまいというよりほかない。
なおここで『三重県遺跡地図』により、度会(わたらい)郡玉城町のそれをみるとほとんどが古墳で、その数は百二十五ほどもある。が、しかし、それらはもうほとんどが消滅か、半壊となってしまっている。それからすると、松下電工工場内の古墳は、まだいいほうなのかも知れない。
「ソの国のフル」
古墳や遺跡の破壊については、いまではもうそんなふうにでも思うより仕方なくなってしまっているが、ところで、玉城町にこれだけの古墳をのこしたのは、いったいどういうものたちであったろうか。
いろいろなことから推して、これはいまみた布留の御魂を祭ったものたちと無関係ではなかったはずである。そしてそれはまた近くの、村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷」にある奈良波良神社をいつき祭ったものとも関係があったにちがいない。
奈良波良神社の奈良は朝鮮語ナラ、国ということであるが、では布留の御魂の布留とはどういうことか。フル(布留)はさきに引いた西野さんの手紙(「白木から伊雑宮へ」の項)にもあるように、朝鮮語の「火」を意味するとともに、これは新羅の古称だった徐羅伐(ソラブル)、すなわちソの国のフル、その都京ということであった。
今日の朝鮮のソウル、日本の『古事記』にみえる「日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)」の「布流」、また『日本書紀』の「日向の高千穂の〓触峯(くしふるたけ)」の「触」、それからまた大和(奈良県)の添上(そうのかみ)郡・添下郡の「添」などももとはソフル(添)で、これらもみなソの国のフル、その都京ということからきたものだった。
したがって大和の、いまは天理市となっている布留石上(ふるいそのかみ)の石上神宮も、もとは石上坐布留御魂社(いそのかみにますふるのみたまのやしろ)といったものであった。そして石上の石(いそ)とは、これもさきにみた磯部の磯(いそ)、また伊雑宮の雑(そう)とおなじで、やはりもとは新羅のソからきたものだった。
つまり大和の石上神宮、石上坐布留御魂社はソのフルと、まだそのソをも地名としてのこしているが、こちら玉城町の布留の御魂はそれがなくなって、いまは布留だけとなってしまっている。しかし伊勢全体としてみれば、それはまだ決してなくなってしまっているわけではない。
志摩の伊雑宮をみたときもちょっとふれておいたように、伊勢国または伊勢神宮の伊勢ということからして、決して無関係ではないのである。これについてはあとでくわしくみることになるが、たとえば志摩ばかりでなく、伊勢の宮川中流にも、新羅ということだったとみられる白木というところがあって、ここに園相(そない)神社というのがある。
私がそこへ行ってみたのは後日だったけれども、うっそうとした森に囲まれた大きな神社だった。もとはもっと大きなものだったかも知れないが、この園相というのも、もとは新羅のソからきたもののはずであった。
園相の園(そ)とは、宮内省坐園神社・韓神社の園とおなじソの、すなわち「ソのフルの神」のソということである。園相などとずいぶんめんどうな字があてられているが、それはともかく、私がいま来てみている玉城町にしても、そういった新羅系文化遺跡の多いところで、ここにはまた小社(おこそ)神社というのがある。
これは、あとで私も会うことになる伊勢の地方史家川北一夫氏によると、伊勢神宮と関係の深い荒木田氏の氏神ではなかったかというものだったが、小社神社のあるところは地名までが小社(おこそ)となっていた。この小社のコソ(社)とはどういうことであったか。
これについては、さきの「伊賀留我と古曾」の項でみているのでふれないが、要するにこれも新羅のコセ(居世)からきたものだったのである。たまたま知り合った西野さんの家がそこにあった、ということでやって来た玉城町にしても、こうしてみて行くといちいちきりがない。
次はいよいよ、伊勢市のほうへ向かわなくてはならない。
韓神(からかみ)山をたずねる
「なにもかもが朝鮮くさい……」
玉城町の西野儀一郎氏宅で一夜をおくった翌日は、あいにくなことに雨だった。前日の夕方、おくれて東京からついた阿部桂司君もいっしょで、
「ちょっとやみそうにないですね」と、阿部君は外をながめわたしながら言ったが、しかし雨とはいっても、そうたいした降りというわけではなかった。
私たちは西野さん宅の傘(かさ)をかりて、近くにあった朽羅(くちら)神社へ行ってみることにした。西野さん宅の前は、ずっと開かれた田畑となっていた。そしてあいだに一つのこんもりとした森が見えていて、それが朽羅神社だった。遠くからみると、古墳ではないかと思われるような丸い森だった。しかし森のなかは、伊勢によくみられる神明造りの簡素な社殿と小さな鳥居とがあるだけで、ほかにはなにも見当たらなかった。
朽羅神社は『延喜式』内の古い神社だったが、いまでは参拝にくるものもいないらしく、ただそこに神社があるだけ、といったかっこうだった。朽羅とはなにか。朝鮮語からみると、「羅」は「那」でもあって「国土」という意味だったが、しかしそれ以上はなにもわからなかった。
私たちが朽羅神社から西野さん宅に戻ると、ちょうどそこへ、「伊勢の文化財と自然を守る会」の東幸衛氏たちが、クルマをもって迎えに来てくれた。西野さんともども、私たちはさっそくそのクルマで出かけた。
まず、伊勢市までの途中にあった、蚊野(かの)の蚊野神社に寄った。瀬織津媛(せおりつひめ)を祭るというもので、瀬織津媛についてはあとでまたみることになるが、しかし蚊野神社の蚊野ということからして、これはカヤ(蚊野)、すなわち古代南部朝鮮の小国家加耶(加羅)ともよめなくはなかった。
そういえば、途中にはまた萱(かや)町というのもあったが、そこから私たちはまっすぐ伊勢市北方の御薗村へ向かった。この日の私の目的の一つは、伊勢市の楠部にあると聞いた韓神(からかみ)山をたずねることにあったが、そのまえにまず御薗村高向に住む川北一夫氏をたずねておこうということになったのである。
西野さんによると、川北氏は伊勢の神宮司庁に二十数年もいた人で、いまではそこをやめて郷土史の研究に打ち込んでいる地方史家だった。あらかじめ西野さんが連絡しておいてくれたので、私たちはすぐに、ぎっしりと詰まった書棚のために狭くなっている書斎に上げられて川北さんに会ったが、そこの書棚には私の『日本の中の朝鮮文化』などもみえた。
旅に出て、それまで会ったことのない人の家で自分の著書にめぐりあうというのはうれしいもので、もうその家の主人とはずっと以前から親しくなっていたような気分になるものだが、しかし川北さんのばあいは、ちょっとそういうぐあいにゆかなかった。川北さんは、神宮司庁というそういうところに長くいた人と思っていたせいか、どこかにきびしい鋭いものを持った感じの人だった。
「神宮司庁に長くおられたそうですが……」と、私はつい、そんないうまでもないことを口にしてしまった。どうも、私にはその神宮司庁ということが気になっていたもののようだった。
「ええ、そうです。そこを退職して、わたしはいろいろなことを調べてみたのですが、調べてみればみるほど、いまあなたがやっているそれなのですよ」
川北さんは、案外気楽なようすで話しだした。神宮司庁などというと、私にはなにかその、雲の上の存在のような気がしていたが、しかし考えてみれば、その神宮司庁こそは伊勢の神宮についてもっともくわしいところ、つまりそれをもっともよく知っている人間たちのいるところのはずだった。すなわち神宮に対して、もっとも人間的なのである。
「ぼくのやっているそれ、といいますと――」
「つまり、なにもかもが朝鮮くさいというわけです。しかしそれをいうと、神宮司庁は困るというのですよ」
「はあ、そうですか。そうかも知れませんね」
なにが「そうかも知れませんね」かわからなかった。私はどうしてか、それからさきはもうあまり聞きたくないような、そんな気持ちだったが、川北さんはさらにつづけた。
「わたしが調べたところでは、この伊勢にはもともとの土着はいない。どれもこれもみな渡来したもので、それが重層しているのです。荒木田(あらきだ)氏などにしても、朝鮮から渡来したものとわたしはみています」
はっきりした口調だった。荒木田氏というのは、伊勢神宮宮司・中臣氏の一族といわれるもので、神宮鎮座以来つづいた内宮代々の禰宜(ねぎ)として有名なものだった。
その荒木田氏の荒木が、さきに伊賀の「敢国から荒木へ」の項でみたとおなじように安羅来、または阿羅来ということからきたものであろうとは私も思っていた。しかしそれを、川北さんからそのようにはっきりいわれるとは思っていなかったので、私はただ、だまってうなずいているよりほかなかった。
韓神山は禰宜の墓地
川北さんはほかに用事があって出かけなくてはならないところだったので、のちまた会おうということになった。ひとまず私たちはそこを引きあげ、伊勢市の楠部へ向かった。雨は小降りだったが、まだ降りつづいていた。
楠部にある韓神(からかみ)山をたずねるためだったが、私がそこに韓神山というのがあることを知ったのは、ずっとまえからのことだった。さきに書いたように、中日新聞の座談会のため私がはじめて伊勢をおとずれたときのことで、そのときさいごに、私は伊勢市の教育委員会をたずねた。さいごに、というのは直木孝次郎氏や谷川健一氏との座談会がはじまる直前ということであるが、伊勢市教育委員会では、同教委嘱託となっている同市文化財調査会委員の谷口永三氏に会った。そして『伊勢市の文化財』などをもらい受けたが、そのとき谷口さんは私に向かってこう言ったものだった。
「実はあなたの書いた『日本の中の朝鮮文化』というのを読んで思いだしたのですが、この市の楠部というところに韓神山というのがあるのですよ」
「ほう、韓神山。それはどういう山なんですか」
「どういう山って、五十鈴(いすず)川がそこで屈曲している小さな山ですが、これは神宮禰宜(ねぎ)の墓地となっていたものです」
「禰宜の墓地といいますと、その墳墓の山だったわけですね」
私は朝鮮にある「先山(ソンサン)」のことを思いだしながら言った。先山というのは、その家一門の、祖先の墳墓のある山のことだったが、韓神山が伊勢神宮の禰宜の墓地だったとすると、これもそういうものではなかったかと思ったからである。
それはどちらにせよ、私はさっそくその韓神山まで行ってみたかったのであるが、しかしこのときはもう座談会の時間が迫っていたので、はたすことができなかった。以来、私はずっと、伊勢のその韓神山というのが気になり、同時にまた、それを墳墓の山としていた神宮禰宜のことも気になっていたのだった。
伊勢神宮の禰宜となると、それは荒木田(あらきだ)氏(内宮)か度会(わたらい)氏(外宮)のどちらということになるが、そもそも禰宜とはいったいなにか。『日本歴史大辞典』をみると、それがこう書かれている。
禰宜 神職の名称の一つで「ねがう」の原形「ねぐ」からできた語と考えられる。王朝時代の多くの例では、職制として神主の下、祝(はふり)の上におかれるのが通例であった。今もやや大きな社では、宮司の次に位する職としてこれをおく。鹿島・香取両宮には大禰宜という伝統的な要職があり、その下に権禰宜・擬禰宜などをおいたこともある。伊勢神宮では内宮・外宮におのおのの禰宜が古くからあり、その定数は王朝を経過するうち、しだいに増員され、鎌倉時代後期には各一〇名となった。荒木田・度会(わたらい)の両氏がそれを世襲し、のちには膨大な権禰宜の群を擁するに至ったが、本来は神宮に最も密接で、宮司・祭主のおかれる以前からあったものである。
要するに禰宜とは、「本来は神宮に最も密接で、宮司・祭主のおかれる以前からあった」ものだというのである。これはその禰宜だった荒木田氏や度会氏と、伊勢神宮との関係を知るうえでも重要なことであるが、しかしながら、禰宜というのが「『ねがう』の原形『ねぐ』からできた語と考えられる」ということについては、もっとよく考えてみる必要があるのではないかと思う。
私は「ねがう」の原形が「ねぐ」であるのかどうか、それは知らない。それは知らないけれども、「ねぐ」「ネク」とは、これを朝鮮語でみると「魂」ということなのである。したがって、禰宜というのも朝鮮語のネク、魂ということからきたものではなかったかと私は思う。禰宜とはその魂のこと、神事をつかさどるものなのである。
このようにみると、その禰宜の墳墓の地が韓神山だったということも、よくうなずかれるような気がする。それは結局、彼ら自身の魂も韓神となって、その山に眠るということであったのだろうか。
いまも残る韓神ノ社
しかし、私はその韓神山が楠部にあると聞いているだけで、それが楠部のどこにあるのか、楠部にあるどの山がそれなのかはわからなかった。それで西野さんは、さきに神宮司庁へ行って、そこをきいてみようではないか、と言った。
「伊勢へ来たからには、神宮司庁に顔をだしてあいさつをしておいたほうがいい」とも言う。で、私たちは伊勢市の宇治浦田にある古めかしい、それ自体も神宮のような建物の神宮司庁に寄り、そこにいた主事の古川真澄氏にあいさつをした。
伊勢神宮は、ちょうど今年の十月が第六十回目とかの式年遷宮にあたっていて、そこの神宮司庁は神宮式年造営庁ともなっていた。古川さんはその造営庁の神宝装束課長で、忙しいさいちゅうだったにもかかわらず、古い地図などまで持ちだして楠部の韓神山をたしかめてくれた。
それで私たちは、近鉄五十鈴川駅近くの楠部へ向かい、そこに着いたが、しかしまだ、どれが韓神山なのかはわからない。私たちはそこにある丘陵の山を指さしては、あれではないか、これではないか、と言い合ったり、とおりがかりの人にきいてみたりしたが、やはりそれはわからないという。
神宮司庁でみせてもらった古い地図でだいたいの見当はついたが、しかし見当だけで、それを韓神山だと決めてしまうわけにはゆかない。そうこうしているうちに、同行の東さんが知り合いだった近くの山崎病院へ行って、一つのことを聞いてきてくれた。それによると、韓神山のことは月読(つきよみ)宮の岡松という人がよく知っているという。
月読宮は伊勢神宮の別宮の一つで、外宮と内宮とを結ぶ国道二三号線の中間にあったが、楠部と隣接の中村だったので、私たちのいたところからはその森が見えていた。私たちのクルマは、すぐにそこへついた。
伊勢神宮の別宮ではそれを宿衛屋(しゆくえいや)といっている社務所に行ってみると、ちょうどそこの窓口に岡松甚作氏が坐っていた。七十近くになるとみえる、ほっそりした人だった。私たちはまず神宮司庁発行の『月読宮・参拝の栞(しおり)』などもらい受け、
「あのう実は、楠部にあると聞いた韓神山のことについてお伺いしたいと思いまして……」ときりだすと、どうしたのか岡松さんはちょっとびっくりしたような顔をして、私たち一行の顔を見くらべるようにした。
「韓神山ですか――」と岡松さんは、ひとりつぶやくような低い声で言った。そしてなおも私たちを見つめつづけていたが、なにを思ったのか、すいとその場から立ち上った。奥のほうへそれに関連した書物でもとりに行ったかと思ったが、気がついてみると、岡松さんは横手の玄関口から外へ出て来ていた。急いでそこにあった傘を手にとって、だまったまま雨のなかをすたすたと歩きだした。
ついて行ってみると、月読宮は高台の森となっていたので、木陰を抜けたところからは、さきほどまで私たちのいた楠部の一部が見わたせた。岡松さんは、そこに横たわっている丘陵の一つを指さしてみせた。
「あれです。あれが韓神山です。これから案内しましょう」
やはりひとりつぶやくような低い声だったが、そう言ったかとみると、すぐにまた岡松さんはそこの坂道をおりて歩きだそうとした。が、雨のなかを白い神職装束に下駄ばきではまずいと思ったか、ひとりまたすたすたと宿衛屋へ戻り、素早く洋服のうえにレインコートをかけて出て来た。クルマがあるから、と私たちは言ったが、聞こえたか聞こえなかったか、そのままさっさと歩いて行った。
まさか私たちだけクルマに乗って行くわけにもゆかなかったので、私たちもそのあとについて歩いて行った。どうしてだったか、明らかに岡松さんは興奮しているようだった。
それでも私たちは、道々、ひとりつぶやくような低い声ではあったが、その岡松さんからいろいろなことを聞くことができた。それを整理してみると、次のようなことだった。
韓神山にはかつて、大きな古墳があった。それが大正はじめかに行なわれた五十鈴川の改修工事でつぶれたこと、それを自分は子どものころみていること、それから韓神山には韓神ノ社があって、それはいまものこっていること、などなどだった。私は韓神山のそこに韓神ノ社、韓神社があるとは、このときはじめて知った。大きな古墳があったからには、それを祭ったものだったかも知れなかったが、岡松さんはまたこうも言った。
「わたしはこの楠部に何十年も住んでいるが、韓神山のことを調べに来たのは、あなた方がはじめてだ」と。
私はそれを聞いて、岡松さん自身その韓神山のことを調べて書いたものがあるか、または書かれたものを知っているのではないかと思ってきいてみたが、それについてはあるともないとも、どちらとも受けとれないような返事だった。かりにもしあったとしても、それはみせられない、といった感じでもあった。
岡松さんは雨の降っている道をあっちへまわり、こっちへ折れして、五十鈴川に架かった一つの橋を渡った。と、そこにある丘陵が韓神山だった。さして大きくもない丘陵の山だったが、うっそうとした深い樹林におおわれている。岡松さんはさらにまたその樹林のあいだを分け入って進み、粗末な鳥居がいくつかならんでいる小さな神社を指さした。
韓神社だった。外からは樹木におおわれて見えなかったが、それはもう神社というより、いまは小さな祠(ほこら)のようなものでしかなかった。いずれはかなりの神社だったかも知れないが、その韓神山がいつからとなく本来の意義を失ったものとなるとともに、それもすっかり忘れられたものとなってしまったものにちがいなかった。
御祖神社とは?
韓神山は裏側へまわってみると、そちらにも五十鈴川が流れていて、韓神山のためにそこで屈曲しているのがよくわかったが、そのむこうには近鉄の電車が通っていて、それが韓神山を半分にぶち切って走り抜けていた。そんな状態では、なるほど韓神山もたまったものではなかった。
岡松さんは韓神山からいったん引き返すようにしたかとみると、こんどはその近くの伊勢神宮神田のこちらにある、小さな森のほうへ私たちをつれて行った。四郷小学校や住宅などのならんでいる道路端の小さな森で、そこには二つの神社がならんでいた。
それぞれのところに石柱が建っていて、こう書かれている。
「皇大神宮摂社国津御祖神社」
「皇大神宮摂社大土御祖神社」
「これをよくみてください」と岡松さんは、その石柱を指ししめしながら言った。「どちらも御祖(みおや)神社です。御祖神社というのは、伊勢にはこれのほかありません」
あいかわらずひとりつぶやくような、低い声だった。しかしながら、それだけははっきり聞こえた。
「すると、この御祖神社が『皇大神宮摂社』ということになったのは、あとからそうなったものですね」と、私はたずねた。
だが、岡松さんはこんどはまたどうしたのか、もうそれ以上は口をつぐんだきり、なにも語ろうとしなかった。
「韓神山近くのここに、このような御祖神社が二つもあるというのは……」と私はなおもたずねてみたが、岡松さんはただだまって、首を横に振るばかりだった。
伊勢神宮について
巨大な宮域林内の高倉山古墳へ
次に来たときも、東京からは阿部桂司君がいっしょだった。西野儀一郎氏はいつでも玉城町の自分の家に泊まれといってくれたが、そうもゆかないので、こんどは伊勢市内の佐伯館という旅館に泊まることにした。私たちはそれまで松阪あたりを歩いていたもので、夜になって佐伯館にはいり、西野さんに電話をした。するとこんどは、西野さんがその旅館まで来てくれた。
そして私たちは三人で翌日のことを打ち合わせたが、西野さんが言うのには、翌日は伊勢市の教育委員会がクルマをだしてくれることになっているだけではなかった。神宮司庁からは腕章をだして許可してくれることになったので、伊勢神宮の外宮がそこにある高倉山古墳まで行ってみることができるというのだった。
西野さんはいったいどういうふうに交渉してくれたのか知らなかったが、私としてはまったく恐縮するよりほかなかった。翌日は、私はさきに来たときひととおりみていたけれども、阿部君ははじめてだったので、外宮、内宮とわかれている伊勢神宮そのものから、もう一度みて歩こうと考えていた。それがはからずも、外宮とともに、そこの高倉山古墳までみることになったのである。
翌朝は、さきにまず西野さんともども伊勢市の教育委員会へあいさつに行った。私はこれまでも行ったさきざきで、教育委員会の人たちにはいろいろとずいぶん世話になっているが、その教委からクルマまでだして便宜をはかってもらうのは、こんどがはじめてのことだった。
教育委員会にはこのまえ来たとき、さいしょに韓神山のことを教えてくれた伊勢市文化財調査会委員の谷口永三氏がいて、私はまたその谷口さんからいろんなことを教えられることになった。谷口さんは「伊勢地名考」というのを書きはじめていて、それによると、伊勢の古港だった有滝や樫原などには伊阿良(いあら)、伊加良(いから)、志伊良(しいら)といった地名がまだのこっているという。
「おもしろいですね」と谷口さんは言ったが、いうまでもなく伊阿良、伊加良は接頭語の伊をとると阿良、加良、すなわち古代南部朝鮮の小国家名だった安羅(あら)、加羅(から)となるものだった。志伊良にしても、新羅ということであった斯羅(しら)だったかも知れない。
伊勢市教育委員会の谷口さんも、高倉山古墳までいっしょに行ってくれることになった。そうして私たちは、「伊勢市役所」と横腹に書かれたクルマでひとまず外宮まで行き、それからは「神宮司庁」とした腕章をして、外宮背後の裏山となっている高倉山へはいって行った。
「外宮背後の裏山」と私はかんたんに書いたが、正式には、そこは伊勢神宮宮域林となっているところであった。ここでついでにいうと、伊勢の自然景観として有名な神宮宮域林は実に広大なもので、人口十万余の伊勢市の三分の一はすべてこの神宮宮域林となっている。
高校野球で有名な甲子園球場が千三百七十五ほどすっぽりとおさまってしまうほどの広さとかで、いわばそれがすべて日本一壮大な鎮守の森、壮大な伊勢神宮の境内となっているのである。なかでも内宮正殿のところのそれとともに、外宮の高倉山一帯は日本でも数少ない椎や榊など照葉樹林の自然林として大事にされているばかりでなく、ここは伊勢神宮の外宮、すなわち豊受(とゆけ)大神宮の鎮座するところとして、絶対の禁足地となっていた。
高倉山は海抜百十六メートル、私たちはほとんど人間に接したことのない自然林のなかの藪蚊(やぶか)におそわれながら、やっとのことでその頂上にある高倉山古墳をさがしあてた。高倉山古墳は、かつては「天の岩戸」ともいわれたものだそうで、三重県下では第一位、全国では第七位の巨石横穴式古墳であった。
しかし、古墳は全体が樹林におおわれているため、羨道(せんどう)の入口まで暗くなっていて、写真にとることもできなかった。この古墳は七世紀はじめのものだったにもかかわらず、それがかつては、明治のはじめまで「天の岩戸」といわれて信仰されていたというのはおもしろいことだった。
例の神話の「天の岩戸」と結びつけられていたわけだったのであるが、しかしながら、その神話の天照(あまてらす)大神を主祭神とする伊勢神宮成立の歴史と考えあわせるならば、それもさしておかしなことではなかったにちがいない。なぜなら、伊勢神宮がいわゆる皇祖神のそれということで今日のようなものとなるのは、七世紀のおわりだったからである。
豊受大神宮は新羅系?
私たちは高倉山をおりて、そこにある外宮から内宮へと、そこははじめての阿部君とともに、あらためてまたひととおりみて歩くことになった。しかしそれがどういう形をしているとか、どんなふうになっているとか、といったことなどについては、もうわざわざ書く必要はないであろう。それだったら、われわれはすでにたくさん書かれたものや写真などでいくらでもみているし、また実際に行ってみたものも多いからである。
そのかわりここでは、われわれはただ漫然とそれをみて歩くのではなく、その伊勢神宮の成立のことについて考えてみることにしたい。まず、私たちがそれからみることになった外宮である。これはさきにもちょっとふれたように、正式には豊受(とゆけ)大神宮となっている。
これに対して内宮は皇大神宮となっていて、それをあわせた二つの総称がすなわち伊勢神宮なのであるが、外宮の豊受大神宮はもと丹波(京都府)にあったのがこちらに移ったものということになっている。いまいったように伊勢神宮について書かれたものは多いが、これもその一つである宮崎修二朗氏の『南紀・伊勢・志摩・吉野』をみると、そのことがこう書かれている。
『止由気宮(とゆけのみや)儀式帳』という古い記録が神宮にあって、それによれば雄略天皇の夢枕に立った天照大神が「五十鈴川のほとりの一人ぽっちは寂しい。丹波の豊受大神といっしょに住みたい」とおっしゃったから、「丹波国比治乃真名井原(ひじのまないばら)」(京都府中郡)から移されたものだという。
この伝説から一部の歴史学者は、つぎのような推定を組み立てている。丹波は早くから稲作が開けたところで、政治力はないが宗教的才能をもつ出石(いずし)族(朝鮮から帰化した部族)がいた。そこであとから入って来た天孫族が、出石族より先住部族である出雲族を宣撫するため、出石族を利用した。いわば伊勢神宮は天孫族が、出雲族を従えていった“記念碑”的存在だというのである。
外宮の豊受大神は稲作、すなわち農業にたいする穀物信仰からきたものとされている。そのことと関係して、宮崎氏はさらにまたこうも書いている。
ところで、内宮より先に外宮があったのだ、という説もある。天照大神の別名はオオヒルメムチ。ムチとは巫女(み こ)の最高位の称号だから、司祭の女性であった。司祭への信仰が、穀神への信仰より先にあったというのは変だ――というわけだ。
これは私もそうではなかったかと思うが、それよりまず、いわゆる豊受大神が丹波から移って来たというのはどういうことか、それをちょっと考えてみたい。いま引いた宮崎氏の一文をみると、それは「出石(いずし)族」の移動したものというふうにとれるが、この出石族というのは、丹波の隣の但馬(たじま)(兵庫県)にある出石神社に「国土開発の神」として祭られた天日槍(あめのひぼこ)、新羅・加耶から渡来したその天日槍を象徴する集団から出たものであった。
それが「出石族(朝鮮から帰化した部族)」といえるものかどうかは別として、但馬や播磨(兵庫県)とともに右の丹波・丹後も新羅・加耶系渡来人の集住地であったとみられるところである。丹後にはのち新羅に吸収統一された古代南部朝鮮の小国家加耶ということであった加悦(かや)町があって、ここには白米(しらぎ)(新羅)山古墳というのがあり、また弥栄町には新羅大明神ともいわれる溝谷(みぞたに)神社などというのもある。
こうしたことからみて、私も外宮の豊受大神宮はもと丹波あたりから移動して来た新羅・加耶系渡来氏族が伊勢に定着して、高倉山の古墳とともにいつき祭ったものではなかったかと思う。そのことは、外宮の代々の禰宜が度会(わたらい)氏であったということからもわかる。
度会=渡来では?
度会氏の度会ということについては、松本清張氏が『古代への探求』にこう書いている。
ワタライというのは、わたしの考えでは、ワタ(朝鮮語のPata=海)から来ていると思う。「渡る」という動詞は、此方より彼方へ越えて行くという意があり、その中間を海洋とすれば、舟でワタを航行することから出たのであろう。お互いに渡って行くことが「渡り合う」となり、それが「渡らい」となる。恰度「語り合い」が「語らい」と変化するのと同則である。度会とはまさに字義の如くで、記に「百船(ももふね)の度逢県(わたらいのあがた)」とある通りである。
達見であると思うが、しかし私にいわせるならば、これはそのものずばり、渡来、すなわち度会(わたらい)とみてもいいのではないかと思う。というのは、私はいつか九州の、これも新羅・加耶系のそれとみられている宇佐神宮の禰宜であった辛島(からしま)氏の辛島郷をたずねたときのことを思いだすからである。
辛島郷の辛とはこれももとは韓(から)だったもので、そこを案内してくれた宇佐市教育委員会文化財係の長野雅臣氏は、私に向かってこう言ったのだった。「この辺の人は昔からほとんどあまり動いていないので、五、六十戸あるうちの半数はいまも辛島姓ですが、なかには度会(わたらい)、渡来(わたらい)という姓も四、五戸あります」
私はこのときはじめて、伊勢の度会も渡来ではなかったかと思ったものだったが、さらにまたこういうこともある。九州は古代から朝鮮渡来人の圧倒的に多かったところであるが、一方、近世には豊臣秀吉の朝鮮侵攻によって連行されて来た陶工も多かった。そしてその子孫はいま十三、四代となってあちこちにひろがっているが、このなかにはいまも渡(わたり)という姓がかなりある。
度会、渡来、渡と、彼らはどちらも海の向こう、朝鮮から渡って来たものたちであった。人はなにかの事情でその出自をかくすことはあっても、しかし容易にはそれを忘れたがらないものなのである。それは古代にあってもおなじで、このことはさきにみた荒木田氏にあっても同様であった。
伊勢神宮=伊蘇ノ宮
さて、そこでこんどは、その荒木田氏が代々の禰宜(ねぎ)となっていた内宮である。内宮の祭神は、かの有名な天照大神であるこというまでもない。さきにみた宮崎修二朗氏の書いたものによると、「天照大神の別名はオオヒルメムチ。ムチとは巫女(み こ)の最高位の称号だから、司祭の女性であった」という。
そして巫女、いわゆる「神妻」であったその司祭がのちには天照大神となって、信仰の対象となったというのである。オオヒルメムチとは大日〓貴(おおひるめむち)であるが、天照大神にはほかにもまた別名があって、瀬織津媛(せおりつひめ)といった。中島利一郎氏の『日本地名学研究』にそれがこう書かれている。
私は「早稲(わ せ)」の語原学的考察を試み、それが朝鮮語に繋がるものであることを明らかにしたが、実はそれは日本神話と稲の問題を考えなければならぬのである。天照大神が始めて高天原の忌種を遣わされたということになっているが、天照大神は抑々当時何処にいられたのであるかということからが問題になるのである。
天照大神の荒魂(あらみたま)を瀬織津媛ということは伊勢皇大神宮でいわれている所であるが、この瀬織津媛ということは、新羅語からでも、今の朝鮮語からでも「都(ソウル)つ媛」「京(セオル)つ媛」の義であって、日本語「添(ソホリ)」も「都」の義であり、天照大神自身は新羅の首都にいられたことが、『日本書紀』の仲哀天皇紀、神功皇后紀に明記せられている。
伊勢にはこの瀬織津媛(比〓(ひめ))を祭る神社が多く、鈴鹿峠の片山神社や、私たちがいまさきにみた蚊野(かの)の蚊野神社、御船神社、竹神社などがそれであり、ほかにもまだある。ところで読者のなかには、天照大神が朝鮮・新羅の都のそれを意味した「都(ソウル)つ媛」、すなわち瀬織津媛であることにびっくりした向きもあるのではないかと思う。
しかしながら、私はそういうこともあろうかと思って、志摩の伊雑宮をみたときからそのことにふれてきているが、伊勢神宮ということからして伊蘇ノ宮、もとは新羅の原号であった徐羅伐(ソラブル)のソからきたソの宮であったということを知るならば、それは別にびっくりすることでも何でもないのである。伊勢は伊蘇、すなわちソでもあったのである。
したがって、『伊勢国風土記』(逸文)にある伊勢津彦というのも「ソの男」ということであるが、さきにもちょっと書いたように、徐羅伐・徐耶伐・徐那伐・徐伐=斯盧・斯羅・新羅、これはみな同義語であって、もとはみな徐羅伐、すなわち「ソの国のフル」ということだった。ソの羅・耶・那とはいずれもソの国または国土という意味であり、フルとは都京ということである。それを一言でソフル(徐伐)またはソウルともいったのは、西洋にも「都市国家」があったし、また今日でも日本や中国を「東京」「北京」ということばでいうことがあるように、古代ではその都京ということが国ということでもあったからで、国としての原号はあくまでもソであった。
新羅の原号であったこのソというのは、ひとり伊勢についてのみでなく、日本の古代史全体をみるうえでも、欠くことのできない重要な要素となっている。私はそれを言語学者金沢庄三郎氏の『日鮮同祖論』などによって教えられたのであるが、そのソが日本にはいってはそれぞれの接頭詞をもった阿蘇・伊蘇・伊勢・宇佐・余佐、それから伊都ともなったとして、金沢氏はこうのべている。
右にあげた阿蘇以下の地は、「いずれも我民族移動史の上に重要なる地位を占めている土地であって、しかも民族名ソ及び其類音を名としていることは最も注目に価する事実といわねばならぬ」(傍点も金沢氏)。
そして、「伊勢国はまだ伊蘇国ともいい、其処に奉祀する神宮」も「また伊蘇ノ宮」であったとし、磯ノ宮、五十鈴川というのも、もとは伊勢と同一語原から出たものだったことを明らかにしている。
新羅との深い関係
これで伊勢と新羅とはどういう関係にあったかということが、ほぼ明らかになったと思うが、さらにまたいうならば、だいたい伊勢神宮の「神宮」ということからして、これも新羅から出たものであった。新羅における神宮の発生のことについては、さきの「伊賀留我と古曾」の項をもう一度みてもらいたいが、そのことはまた、「神宮の称号をめぐって」と副題された前川明久氏の「伊勢神宮と朝鮮古代諸国家の祭祀制」にもはっきり書かれている。
前川氏は、「ヤマト国家の『大王』の称号の源流」も新羅に求められるばかりでなく、「また『大王』より『天皇』への転化の契機」も朝鮮との関係によって生じたものではなかったかといい、六世紀後半から七世紀にかけてのそのような朝鮮からの影響は、「とりわけ新羅のものの与えた」それが大きかったとしてこうのべている。
このような時代環境にあって、伊勢神宮が神祠から神宮の称号を付するようになった転化の契機は、六世紀後半における新羅との関係にあって、新羅の祭祀制の影響によるものではなかったかと考えられ、神宮の称号の起源は新羅の神宮に由来したものと思うのである。すなわち、新羅の祭祀制において、始祖廟から神宮へ移行することによって、穀霊信仰から日神として神格化された始祖霊に対する信仰を王権のなかに位置づけ、その強化をはかったように、伊勢神祠に神宮の称号を付することによって、皇室の始祖霊としての日神をまつる社としての地位を高め、王権にもとづく宗教的支配の強化をはかり、あわせて日神を皇祖神とする意識とそれに対する信仰とを生じさせたと考えるのである。
ちょっとむつかしいが、要するに、伊勢神宮はそのような「神宮」となることによって、穀物のための信仰であった日神・太陽神の素朴なものから、より意識的、政治的な皇祖神となったというのである。
ところで、伊勢神宮が伊勢の地方豪族、たとえば度会(わたらい)氏や荒木田氏らの地方神であったものから、これがいわゆる皇祖神となり、そのような中央的国家神となったのは、天武帝による「壬申(じんしん)の乱」以後ということになっている。では、その壬申の乱とはどういうものだったか。高柳光寿・竹内理三氏編『日本史辞典』にこうある。
六七二(天武一〈壬申の年〉)六月、天智天皇の子大友皇子と天皇の実弟大海人皇子のあいだの皇位継承権をめぐる約一ヵ月に及ぶ内乱。吉野宮に隠棲していた大海人皇子は、天智天皇の死後、伊賀・伊勢を経て美濃にはいり、東国を押え、次いで別働隊は倭古京を占拠、近江勢多で大友皇子の軍を大破し、皇子を自害させ、翌年正月即位して天武天皇となった。以降、律令制的国家体制の導入によって、天皇への権力集中がはかられ、人民支配が強化された。
この壬申の乱はそれ以前からの六四五年の「大化の改新」につづく、統一的古代日本国家確立のための争乱の終結点のようなものであったが、ここでおもしろいのは、天武帝となった大海人がまず、「伊賀・伊勢を経て美濃にはいり、東国を押え」というところである。なお、『日本歴史大辞典』によると、それがこう書かれている。
大海人は六七二年六月二十二日、腹心の舎人らを密使として美濃国(岐阜県)に派遣して、同国の軍兵をもって不破関を抑え、東国を近江朝から遮断するの挙に出、ついで自ら妃讃良・皇子草壁・忍壁はじめ舎人らを伴って伊賀・伊勢を経て美濃に走った。この軍事計略は、近江朝の虚をついて完全に成功を収めた。
いかにすぐれた「軍事計略」であっても、その「計略」だけではなにもならない。すると、大海人が「伊賀・伊勢を経て美濃に走った」その美濃には、当然、それに呼応する大きな勢力がなくてはならなかったはずである。
私がおもしろいと思ったのは、このことだった。というのはその美濃もまた、大海人がそこを「経て」行ったという伊賀や伊勢におとらぬ新羅系遺跡の濃厚なところだったからである。
『続日本紀』にもあるように、美濃にはのち七一五年、尾張(愛知県)にいた新羅系のものたちがここに移って席田(むしろだ)郡などを建置しているが、それ以前からここは新羅系渡来人が根を張っていたところであった。この美濃にはいまも、村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷」にみえる若江神社、金山神社、金神社、伊奈波神社などがあり、多治見にははっきり新羅神社としたものまでのこっている。
これまでみてきた伊勢におけるそれといい、これはいったいどういうことを意味しているのであろうか。ほかでも引いたことがあるが、作家であるとともにすぐれた古代史家であった坂口安吾氏は、「過去のゆがめられた日本の歴史に挑戦するものであり、ライフワークとしての安吾歴史の序章をなすもの」(渡辺彰氏の「坂口安吾年譜」)であった『安吾新日本地理』「高麗神社の祭の笛」にこう書いている。
高句麗と百済と新羅の勢力争いは、日本の中央政権の勢力争いにも関係があったろうと思われる。なぜなら、日本諸国の豪族は概ね新鮮経由の人たちであったと目すべき根拠が多く、日本諸国の古墳の出土品等からそう考えられるのであるが、古墳の分布は全国的であり、それらに横のツナガリがあったであろう。そしてコマ〈高麗、高句麗のこと=金。以下おなじ〉系、クダラ〈百済〉系、シラギ〈新羅〉系その他何系というように、日本に於ても政争があってフシギではない。むしろ、長らくかかる政争があって、やがて次第に統一的な中央政権の確立を見たものと思われる。
してみると、天武帝を中心に「壬申の乱」をひきおこしたものは、新羅系のそれであったのだろうか。宮内省坐園神社(にますそのかみのやしろ)・韓(から)神社の韓神が百済神であるのにたいし、園神がいわゆる曾富理(そふり)のソフリ神、新羅のソの神であることからもそれはいえそうであるが、このことについてはいずれまた別に考えてみなくてはならない。
舞楽と祝詞(のりと)
神々の引っ越し
私たちは神路山から流れ出ている清麗な五十鈴川に架かった宇治橋を渡り、内宮の皇大神宮にいたった。白い玉砂利を踏みしめながら内宮正殿へ向かったが、阿部桂司君はそこに立ちそびえている神路山を指さして言った。
「地図でみると、あの神路山の山中に高麗広(こうらいびろ)というところがありますね」
「うむ、あった」と私はこたえた。
私はさきに来たとき、伊勢市の中心から十五キロほど離れたそこも行ってみていた。小学校の分教場があって、そこでもらった『高麗広分校概要』をみると、「職業は主として農林業に従事し、夏期は農林、冬期は木炭生産でかせぎ、神宮林で生計をたてている」約四十戸ばかりが東西十キロほどの山中に散在していたが、そこがどうして「高麗広」なのかは、ついにわからずじまいだった。
「それより、どうだい」と私は、神楽殿前をすぎて神宮林のなかにしずまっている正殿近くなると、ちょっと緊張した面持ちになった阿部君に向かって言った。「きみもやはり、『なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる』といったところかな」
西行法師の歌とかいわれるものだったが、それにはどこかに仏教僧としての皮肉がこめられているとも感じられなくはなかった。しかし、そこへはじめてやって来た阿部君は、そんな皮肉などなしに感動しているようだった。
「ええ、やっぱりなにかこう、気持ちのどこかが引き緊まるような感じですね。ここで、記念写真を一枚とってくれませんか」
「ああ、いいとも」
私は正殿へのゆるやかな広い石段に阿部君を立たせて写真をとろうとしたが、しかしひっきりなしの参拝者たちのために、なかなかシャッターをきることができなかった。どうしても、それらの参拝者たちが阿部君といっしょになってしまうのである。
ほとんどは観光客といったものたちだったが、それほどまでに参拝者たちは多かった。もしかすると、この十月に迫っている第六十回目の遷宮祭のためであったかも知れなかった。そういえば、正殿とならんでいる古殿地には新しい正殿造営の木組みがみえたりして、何とはなし、あわただしいような感じがしていた。
二十年目に一回行なわれる遷宮とは、要するに、素木(しらき)造りの古くなった神殿から新しい神殿への、神体の引っ越しということなのであるが、ところがこれがまた、壮大な伊勢神宮でなくては考えられない、壮大な行事だった。さきにもふれたように、伊勢神宮の本体は皇大神宮となっている内宮と、豊受(とゆけ)大神宮となっている外宮とである。だが、このほかにも伊雑宮や月読宮のような別宮が十四あり、摂社・末社となると百十四社もある。
これらの摂社・末社までも全部が新しく造りかえられるわけではないが、しかし本体の内宮・外宮と別宮だけでもその殿舎は六十棟である。それとともにまた、二千五百四十七点にのぼる神宝や装束類までみな新しくつくりかえられるので、総費用は何と実に五十余億円。これをみても、われわれは伊勢神宮とはどういうものであるかがわかる。
私たちは内宮からさらにまた、白木の園相(そない)神社などいろいろなところをまわり、さいごには長駆、宮川最上流の滝原宮まで行った。筑紫申真(のぶざね)氏の『アマテラスの誕生』によると、筑紫氏はこの滝原宮を伊勢神宮の前身とみているようであるが、それはともかく、これがまたそれこそ亭々たる杉木立ちの長い参道をもったたいへんなものだった。
古代朝鮮渡来の舞楽
そうして私と阿部君とは東京へ帰り、数日がたった。私はあともう一、二度くらい伊勢へ行ってこなくてはならないかなあ、と思っていたそこへ、西野儀一郎氏から手紙がきた。西野さんはこれまでもいろいろなことを調べてはよく手紙をくれ、いま手元にあるそれをかぞえてみると、はがきなどとりまぜて二十数通になっているが、このときの手紙はちょっとおもむきを異にしていた。
西野さんは、伊勢神宮奏奠課長補佐・神宮楽長の西田才次氏に会って話したところ、神宮に伝わる古代朝鮮渡来の舞楽を特別にやってみせてくれるというが、どうするかというのだった。「朝鮮式舞楽は平安朝以前であるため、伝承者の少ない舞人の練習にとくに時間を要するそうで」なるべく早く返事をしなくてはならないとも書いている。
実をいうと、私はこの手紙をみてびっくりしてしまった。伊勢神宮がみせてくれるという古代朝鮮渡来の舞楽とはどういうものかとも思ったが、それよりも私がおどろいたのは、伊勢神宮がそれを「古代朝鮮渡来の舞楽」として私たちにみせてくれるという、その事実だった。
伊勢神宮に伝わるものといっても、それは宮中雅楽として伝わっている高麗楽・百済楽・新羅楽とおなじものにちがいなかった。私はかねてからそれを見てみたいと思い、さきにやっと東京の国立劇場で催されたのを一度みたきりだったが、それをうっそうとした神宮林に囲まれた伊勢神宮の神楽殿でみることができるというのは、このうえない幸いとしなくてはならなかった。
私はさっそく西野さんに返事をし、それからまたさらに何度か手紙や電話をやりとりしているうちに、だいたい次のようなことが決まった。神宮が古代朝鮮渡来のそれとしてやってくれる神宮舞楽は「和舞(やまとまい)」を前奏として、「人長舞(にんじょうまい)」「胡蝶(こちょう)」「納曾利(なそり)」の三つであること、そして日時は七月二十日午前八時半からとし、参集者は伊勢の西野さんたち十人ばかりを含めて三、四十人までとすることなどだった。
そこで私は、さっそくそのことを京都で雑誌「日本のなかの朝鮮文化」を発行している鄭詔文に知らせ、その鄭から京都大学の上田正昭氏や林屋辰三郎氏たちにも知らせてもらうことにした。もちろん、それに興味のありそうな東京や大阪の友人たちにも知らせたこと、いうまでもない。なにしろ、それは私たちにとってはほんとうに珍しい、千載一遇のチャンスといってもいいほどだったのである。そういうことだったので、東京や大阪、京都などからの私の友人・知人だけでもたちまち三十人を越した。その宿はこれまた「伊勢の文化財と自然を守る会」の福地隆氏たちが心配してくれ、私と阿部君がまえに泊まったことのある佐伯館と決まった。
斎宮跡から磯神社へ
いよいよその七月二十日が近づいて、私はほかの人たちよりは一足さき、二日まえに伊勢へついた。そして十九日は朝早くから西野さんや福地さん、それからさきにもいっしょになった中西三郎氏や東幸衛氏、さらにまたこの日は川北一夫氏まで加わってくれて、私はまだ見のこしていたあちこちをまわってみることになった。
まず、明和町の斎宮からだったが、ここには斎宮跡があって、それが「斎王宮阯」と刻まれた自然石の石碑を中心とした小公園のようになっていた。入口に、神宮司庁による「案内板」があってこうある。
ここ三重県多気郡明和町大字斎宮字楽殿の地一帯は、皇大御神に近侍して神宮祭祀に奉仕せられた斎王御所の奈良時代以来の遺跡である。斎王制度は遠く崇神天皇の御代に起源して、天武天皇以後その制度も確立し、歴代皇女または女王を斎王に立てられる例であった。〈句読点は金〉
近くの西方には祓川(はらいがわ)が流れていて、ここから古い斎宮跡とみられる古里遺跡がさいきん発見されたので、大阪教育大学の鳥越憲三郎氏は、この斎宮跡が天照大神をさいしょに祭った伊勢神宮ではなかったかといっている。それはどちらにせよ、斎王(いつきのきみ)とは要するに、神に仕える祭主ということであった。
そしてそれには、いまみた「案内板」にもあったように、その制度が確立した天武帝以後は歴代の皇女があてられることになっていた。これも新羅とおなじ制度で、『三国史記』によれば西暦紀元六年に新羅第一代王、赫居世(ヒヤクコセ)の始祖廟ができたときには、そのときの王女阿老が祭主となっている。
私たちは斎宮跡から多気町の河田古墳群をへて、こんどは宮川下流の磯神社へまわった。磯神社のイソ(磯)というのがどういうものであったかということはさきにみたとおりであるが、ここで川北さんは私に向かって言った。
「この宮川上流にある、滝原宮へ行ってみましたか」
「ええ、このまえ来たときちょっと……」
「その滝原宮で気がついたかどうか知りませんが、本殿の横に小さな建物があって、御舟倉とよんでいます。それはつまり宮川下流のこの磯神社のある磯から、舟でそこまでのぼって行ったという『倭姫命世記』の伝承とかかわりのあることをものがたっているものなのですよ」
そこにある磯神社はいまは人家にはさまれて小さなものになっていたが、してみるとそれももとは、たいへん由緒深いものにちがいなかった。神社もそれをいつき祭った氏族とともにいろいろな変遷をへているから、そのもとや、それがまたどういうふうにひろがって行ったかを知ることは、なかなかむつかしいことだった。
私たちも夕方になったので佐伯館にはいってみると、すでにあちこちから人々がぞくぞくと到着しはじめていた。京都からはさきにあげた人たちのほか、岡部伊都子氏もやって来たし、東京からは「東アジアの古代文化を考える会」の鈴木武樹氏や在日朝鮮人考古学者の李進煕氏、それから文学者としては張斗植、李哲、尹学準君たち、それに大阪や奈良に住む哲学者の姜尚暉、桃山学院大学の徐龍達氏など、たちまち三十人を越す人数となった。
こうして私たちは、夜は「伊勢の文化財と自然を守る会」の人々など、地元の人たちとの懇談ですごし、翌朝はこれまた西野さんや福地さんたちの努力によって伊勢市教育委員会がまわしてくれたマイクロバスで、神宮の神楽殿へ向かった。まだ午前八時をちょっとすぎたばかりだったから、「厳杉群立(いすぎむらだ)つ」内宮神殿のあたりはいっそう森厳の気がただよっていた。
「画期的」だった祝詞
私たちの一部はそれぞれ神宮楽長の西田才次氏に会ってあいさつをし、その西田さんをとおして参集者の名簿を提出した。そして森厳のなかにあった神楽殿に上って待つことしばし、やがて私たち一同はまず祓(はら)いを受けた。つづいて神宮祝詞(のりと)司による荘重な「祝詞(のりと)」が上げられ、地の底からもれてくるような太鼓・高麗笛などの楽の音とともに舞楽ははじまった。
このときの祝詞のことについては、あとでまたふれる。舞楽は、前奏としての「和舞(やまとまい)」からだった。白衣に赤い袴をはいた少女の巫女(みこ)たちが、五色の絹で飾った榊(さかき)を持って舞うもので、これは別に倭舞(やまとまい)とも書かれるものであるが、しかしこれももとは、百済系渡来氏族であった和(やまと)氏から出た「和舞」であった。
神殿ともなっている広い舞台での舞楽は、「人長舞(にんじようまい)」から「胡蝶(こちよう)」「納曾利(なそり)」とすすんだ。そして「胡蝶」「納曾利」では、そこにいた私たち在日朝鮮人はそれぞれ、思わず顔を見合わせるようにしたものだった。全体の装束がどういうものであるかは、写真でみてもらうよりほかないが、そのはいている袴と足袋とはまさに朝鮮のバジ(袴)であり、ボソン(足袋)であったからである。
私はいつか但馬(たじま)(兵庫県)の出石(いずし)神社をたずねたとき、ここではじめて宮司の履(は)く木沓(きぐつ)をみた。そして、「ああ、朝鮮の木沓だ」と思ったものである。ボソン(足袋)は指のあいだが裂けていないさきの丸いもので、これもさきの丸い、その木沓を履くのにふさわしいものだった。「胡蝶」はその名のように可愛く、明るいものだったが、「納曾利」は一見おそろしいような、それでいてどこかユーモラスなところのある舞楽だった。ついと、そのボソン(足袋)をはいた足の踵を立てるところなど、それはいまでも私たち朝鮮人の舞踊によくみられる仕草だった。
舞いそのものとしても、私たち朝鮮人が肩をうごめかし、足をあげして踊るそれを、ぐっとテンポをのろくして優雅にしたようなものだった。手元にある神宮司庁発行の『神宮神楽祭舞楽解説』によって「納曾利」のそれをみるとこう書かれている。
この名は朝鮮の地名から起ったものらしいともいわれているが、渤海(ぼつかい)楽の一種であろう。一名を双竜舞という。その動作は元気があって頗る面白く、恰(あたか)も二つの竜が楽しげに舞跳(まいはね)る趣があって、活溌な中にも荘重な感じの深い舞である。曲もまた頗る活気に満ちて非常に面白い。
「渤海楽」とはこれも高句麗、すなわち高麗楽ということであるが、舞楽がおわって神楽殿を出た私たちは、それぞれ、がやがやわやわやと感想を語り合った。朝鮮人のばあいはほとんどみな、その装束のバジ(袴)とボソン(足袋)とが印象的だといったが、芸能史のことにくわしい林屋辰三郎氏や、上田正昭氏たちにはそれは別に珍しいものでもなかったらしく、きょういちばん印象にのこったのは、舞楽に先立って上げられた祝詞だというのだった。
その祝詞には私もおどろいたが、ほんとうにそれは予想もしなかったものだった。だいたい神宮・神社などの祝詞というものは、俗人の私たちにはなにをいっているのか、よくわからないものだった。しかし、きょうのはまったくちがったもので、聞いている私たちにもそれがよくわかった。
「いやしくも伊勢の皇大神宮がですよ」と林屋さんは笑いながら、かさねてそれをほめた。「ああいう祝詞を上げてくれるとは、まさに画期的なことですよ」
それで私はあとから西野さんをとおして、とくにその祝詞を送ってもらうことにした。これは神宮祝詞司の大崎千畝(ちうね)氏が私たちのために、わざわざとくに書きおろしてくれたもので、「注」にこうある。「文体は、己が唱道の新体諄辞型に拠る。即ち、従来の式的語彙にとらわれず、こととひととものとこころとの繋がりを要(かなめ)となして、情象表現に意を用い、言威と音感とを挙げつつ、韻律の保持につとめたり」
私は伊勢路を歩き、そして伊勢神宮にアプローチした記念として、さいごにそれを原文のままここに掲げさせてもらうことにした。もちろんこれは「祝詞」であるから、それにふさわしいイントネーションをもって朗読するものでなくてはならない。
これには「国登国結布縁乃(くにとくにむすぶえにしの)繋帯(つながり)乃深伎爾根乎張留(のふかきにねをはる)交流(まじわり)」すなわち日本と朝鮮とのより緊密な交流のことや、「真実(まこと)夜自由登平和共存(やじゆうとへいわきようぞん)」のことまでが高らかにうたいあげられているばかりか、ここにも「石上〓介伎聖代乎偲毘都都(いそのかみはろけきみよをしのびつつ)」とあるのがおもしろい。「石上」のいそ、このソというのがどういうものであったかということは、われわれがこれまでみてきたとおりである。
作家・金達寿以下祝詞
度会(わたらい) 乃(の) 宇治(うじ) 乃(の) 五十鈴(いすず) 乃(の) 川上(かわかみ) 乃(の) 下(した) 津(つ) 磐根(いわね) 爾(に) 、 大宮柱太敷立(おおみやばしらふとしきた) 〓(て) 、 高天原(たかまのはら) 爾(に) 千木高知(ちぎたかしり) 〓(て) 鎮座(しずまり) 須(ます) 、 掛巻(かけまく) 母(も) 畏(かしこ) 伎(き) 、 天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ) 乃(の) 大御前(おおみまえ) 乎(を) 、 慎(つつし) 美(み) 敬(いやま) 比(い) 、 恐(かしこ) 美(み) 恐(かしこ) 美(み) 母(も) 白(もう) 左(さ) 久(く) 。
武蔵国(むさしのくに) 波(は) 調布市菊野台(ちようふしきくのだい) 爾(に) 住(す) 万(ま) 比(い) 志(し) 〓(て) 、 文学(ぶんがく) 乃(の) 作家(さつか) 多(た) 留(る) 、 金達寿(キムタルス) 波(は) 志(し) 母(も) 、 文月(ふづき) 二十日(はつか) 乃(の) 今日(きよう) 乎(を) 生日(いくひ) 乃(の) 足日(たるひ) 登(と) 斎定(いわいさだ) 米(め) 〓(て) 、 学問(まなび) 緒(お) 乃(の) 交誼(よしみ) 乎(を) 結(むす) 布(ぶ) 、 京都大学教授(きようとだいがくきようじゆ) ・ 上田正昭(うえだのまさあき) 、 同(おなじ) 久(く) 教授(きようじゆ) ・ 林屋辰三郎(はやしやのたつさぶろう) 、 明治大学助教授(めいじだいがくじよきようじゆ) ・ 鈴木武樹(すずきのたけじゆ) 、 随筆家(ずいひつか) ・ 岡部伊都子(おかべのいつこ) 爾(に) 、 講談社編集者(こうだんしやへんしゆうしや) ・ 阿部英雄(あべのひでお) 、 平凡社編集者(へいぼんしやへんしゆうしや) ・ 関根裕(せきねのゆたか) 、 又(また) 、 作家(さつか) ・ 張斗植(ヂヤンドシク) 、 考古学者(こうこがくしや) ・ 李進煕(リジンヒ) 、 桃山学院大学教授(ももやまがくいんだいがくきようじゆ) ・ 徐龍達(ソヨンダル) 、 朝鮮文化社編集者(ちようせんぶんかしやへんしゆうしや) ・ 鄭詔文(ヂヨンジヨムン) 乎(を) 始(はじ) 米(め) 、 数多(あまた) 乃(の) 学者学徒(がくしやがくと) 爾(に) 文人等(ぶんじんら) 登(と) 共共(ともども) 、 大御前(おおみまえ) 爾(に) 巻来額突(まいきぬかず) 伎(き) 、 厳杉群立(いすぎむらだ) 津(つ) 樹間(このま) 与(よ) 里(り) 、 雲居浄(くもいさや) 加(か) 爾(に) 高照(たかて) 良(ら) 須(す) 千木(ちぎ) 乃(の) 御影(みかげ) 爾(に) 、 石上〓(いそのかみはろ) 介(け) 伎(き) 聖代(みよ) 乎(を) 偲(しの) 毘(び) 都(つ) 都(つ) 、 次(つい) 伝(で) 之(こ) 礼(れ) 奈(な) 留(る) 大殿(おおとの) 爾(に) 近(ちこ) 布(う) 蹲(しじま) 比(い) 、 面面(とりどり) 爾(に) 幣帛捧(みてぐらささ) 芸(げ) 〓(て) 、 敬虔(いやまい) 乃(の) 神事仕(かむわざつか) 閉(え) 奉(まつ) 留(る) 登(と) 共(とも) 爾(に) 、 予(かね) 〓(て) 至念(おもい) 乎(を) 懸(か) 介(け) 奉(たてまつ) 里(り) 志(し) 、 胡蝶(こちよう) ・ 納曾利(なそり) 乃(の) 舞楽(うたまい) 乎(を) 婆(ば) 伺(うかが) 比(い) 奉(まつ) 留(る) 登(と) 、 請(こ) 比(い) 願(ね) 岐(ぎ) 奉(まつ) 留(る) 状(さま) 乎(を) 、 平(たいら) 介(け) 久(く) 安(やすら) 介(け) 久(く) 神諾(かむうずな) 比(い) 聞食(きこしめ) 〓(て) 、 斎庭(ゆにわ) 爾(に) 侍(さもろ) 布(う) 楽師(うたびと) 良(ら) 賀(が) 、 調子(しらべ) 合(あ) 波(わ) 須(す) 留(る) 高麗楽(こまがく) 乃(の) 、 壱越調(いちこつちよう) 乃(の) 喨喨(さやさや) 爾(に) 流(なが) 留(る) 留(る) 当(あた) 里(り) 、 打掛(うちかけ) 乃(の) 裲襠装束(りようとうしようぞく) 爾(に) 、 金襴(きんらん) 乃(の) 烏帽子(えぼし) 乎(を) 締(し) 牟(む) 留(る) 竜仮面(みずちめん) 、 装(よそ) 比(い) 出立(いでた) 都(つ) 落蹲(らくそん) 乃(の) 納曾利(なそり) 乃(の) 踊(おどり) 乎(を) 始(はじ) 米(め) 登(と) 志(し) 、 狛乱声(こまらんじよう) 爾(に) 響打(ひびきう) 都(つ) 太鼓轟(たいことどろ) 都(に) 、 乙女等(おとめら) 賀(が) 赤(あか) 良(ら) 単衣(ひとえ) 爾(に) 蝶紋(ちようもん) 乃(の) 袴(はかま) 乎(を) 著(うが) 知(ち) 、 山吹(やまぶき) 乃(の) 天冠戴(てんかんいただ) 伎(き) 、 鮮明(あざやけ) 伎(き) 萌黄(もえぎ) 乃(の) 袍美(うわぎうるわ) 志(し) 久(く) 、 蝶(ちよう) 乃(の) 羽冀(はがい) 乎(を) 肩(かた) 爾(に) 志(し) 〓(て) 、 舞(ま) 比(い) 遊(あそ) 毘(び) 世(せ) 牟(ん) 御手風(みてぶり) 爾(に) 、 大御心(おおみごころ) 母(も) 楽(えらえら) 毘(に) 愛(め) 伝(で) 照覧(みそなわ) 志(し) 給(たま) 布(う) 登(と) 共(とも) 爾(に) 、 祭(まつ) 里(り) 奉行(まつろ) 布(う) 裡(うち) 爾(に) 志(し) 母(も) 、 神人和楽(しんじんわらく) 乃(の) 法悦(よろこび) 爾(に) 手拍(てう) 知(ち) 挙(あ) 芸(げ) 都(つ) 都(つ) 、 高光(たかひか) 留(る) 皇大御神(すめおおみかみ) 乃(の) 大御稜威(おおみいづ) 乎(を) 仰(あお) 宜(ぎ) 尊(とうと) 毘(び) 奉(まつ) 良(ら) 志(し) 米(め) 給(え) 閉(え) 。
別(わき) 〓(て) 母(も) 之(こ) 礼(れ) 奈(な) 留(る) 金達寿(キムタルス) 乎(を) 始(はじ) 米(め) 登(と) 志(し) 、 朝鮮学者(ちようせんがくしや) 爾(に) 、 寄(よ) 里(り) 集(つど) 布(う) 我日本(わがひのもと) 乃(の) 文運(ぶんうん) 乎(を) 開(ひら) 伎(き) 興(おこ) 左(さ) 牟(ん) 文人(ぶんじん) 爾(に) 、 学者学徒(がくしやがくと) 乃(の) 夫夫(それぞれ) 賀(が) 、 仮令負持(よしやおいも) 知(ち) 分担(わけにな) 布(う) 、 司務(つかさつとめ) 爾(に) 専門(ことどい) 乃(の) 学業(まなびのわざ) 波(は) 変(かわ) 留(る) 登(と) 母(も) 、 変(かわ) 留(る) 万(ま) 自(じ) 伎(き) 波(は)、 国(くに) 登(と) 国結(くにむす) 布(ぶ) 縁(えにし) 乃(の) 繋帯(つながり) 乃(の) 深(ふか) 伎(き) 爾(に) 根(ね) 乎(を) 張(は) 留(る) 交流(まじわり) 乎(を) 、 弥増(いやま) 志(し) 計(はか) 里(り) 〓(て) 、 花開(はなひら) 久(く) 教育(きよういく) ・ 文化(ぶんか) 爾(に) 芸能(げいのう) 爾(に) 、 或(あるい) 波(は) 産業(さんぎよう) ・ 経済(けいざい) 乃(の) 稔豊(みのりゆた) 介(け) 伎(き) 振作(さかばえ) 乎(を) 、 愈新(いよよあらた) 爾(に) 築上(きずきあ) 芸(げ) 、 培(つちか) 比(い) 守(まも) 里(り) 固(かた) 米(め) 都(つ) 都(つ) 、 真実(まこと) 夜(や) 自由(じゆう) 登(と) 平和共存(へいわきようぞん) 乃(の) 旗風靡(はたかぜなび) 久(く) 幸福(さきわい) 乎(を) 、 招(まね) 伎(き) 囃(はや) 左(さ) 牟(ん) 道(みち) 乃(の) 辺(べ) 爾(に) 、 更(さら) 爾(に) 甚大(いみじ) 伎(き) 業績(いさおし) 乎(を) 樹(た) 〓(て) 〓(て) 益(ます) 〓(ます) 現身(うつそみ) 乃(の) 生命(いのち) 真幸(まさき) 久(く) 、 遠長(とおなが) 爾(に) 立栄(たちさか) 衣(え) 、 斯(か) 久(く) 勤回(いそしま) 里(り) 、 励(はげ) 美(み) 行(ゆ) 加(か) 志(し) 米(め) 給(たま) 閉(え) 登(と) 、 恐(かしこ) 美(み) 恐(かしこ) 美(み) 母(も) 併(あわ) 世(せ) 拝(おろが) 美(み) 奉(まつ) 良(ら) 久(く) 登(と) 申(もう) 須(す) 。
昭和四十八年文月二十日 吉辰
祝詞司 大崎千畝 奏上
文庫版への補足
ふたたび紀氏のこと
古代豪族・紀氏と朝鮮
この補足の冒頭は第一冊、第二冊、第三冊目ともまいど同じことを書いていて、こんどもまた書くが、『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第四冊目の本書が、四六判本として出たのは、一九七三年十二月であった。いまからすると十一年前のことであるから、これもまたその間、新たに発見されたものや、見直されたものを補足しなくてはならない。
まず、紀伊(和歌山県)であるが、ここでは一九八二年に紀ノ川流域の和歌山市にある鳴滝遺跡が発掘調査され、古代の倉庫だったとみられる巨大な建物群跡が発見された。建物群は古墳時代中期である五世紀前半のもので、東西八・七メートル、南北六・七メートルの建物五棟が縦一列にならび、その五棟目の横には東西十メートル、南北八・五メートルのもの二棟がならんでL字形をなしていた。
この建物跡は、直径四十メートルの棟持ち柱六本を含む二十八本の柱を立てていて、建物の総面積は四百五十六・四五平方メートルにまでおよんでいた。そして、この建物の柱穴跡からは、古代朝鮮渡来の硬質土器である須恵器などが大量に出土している。
この発見は本文でもみている紀伊国、あるいはその紀伊国の支配的豪族であった紀氏とはなにか、ということについて、さらにまた新たな論議をよびおこすことになった。たとえば、一九八二年九月二十二日付けの朝日新聞・夕刊をみると、その文化欄に同紙編集委員の溝上瑛氏による「古代豪族・紀氏と朝鮮/鳴滝遺跡の大倉庫群が提起する問題/強大だった? 地方政権/大和朝廷支配説に疑問」という一文がのっている。
溝上氏のこの一文は、一回だけの短い新聞論文である。にもかかわらず、これには紀伊国の「古代豪族・紀氏と朝鮮」とのことばかりでなく、いうところの大和朝廷、ひいては古代日本と朝鮮との関係についてまでが、南北朝鮮における学者の主張にも目くばりしながら簡潔に書かれているので、その全文をここにかかげさせてもらうことにしたい。
奈良時代に租税の米を収納した官営倉庫に勝るとも劣らない規模の大倉庫群が、古墳時代中期に当たる五世紀前半に造られていた。これは一体、どういう意味をもつか。古代の「紀の水門(きのみなと)」にほど近い和歌山市の鳴滝(なるたき)遺跡で発掘された建物七棟の遺構は、このような問題を提起している。五世紀といえば「倭の五王」の時代。当時、すでに日本列島に統一国家が成立していたとする日本の歴史学界の通説に従えば、「大和朝廷の実力を示す遺構」だ。しかし、これに批判的な立場からみれば、紀伊の地方政権の強大さを示し、その主人公とみられる古代豪族・紀氏と朝鮮半島との結びつきに注目する必要が強まってくる。
七棟のうち五棟が東西八・七メートル、南北六・七メートル、二棟が東西十メートル、南北八・五メートルという規模は、もともと九メートル四方だった倉庫二つを連結して今の姿になった東大寺の正倉院を連想させる。ただし、柱を礎石が支え、屋根はかわらぶきの正倉院とは異なり、掘っ立て柱の建物である。草ぶきか板ぶきだっただろう。
大量の米を貯蔵したにせよ、武器や原材料の鉄材を蓄えたにせよ、これほどの倉庫を必要とし、また建設することが可能だったのは強大な権力の持ち主だったとみられる。いわゆる大和朝廷そのものなのか、それに直結した有力豪族か、それとも独自の在地勢力か。解釈次第で五世紀の日本に対する見方が違ってくる。その意味で、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した「ワカタケル銘鉄剣」と共通の問題をはらんでいる。
ワカタケル銘鉄剣は、倭の五王の最後に当たるとみられる雄略天皇の名の一部を含む銘文の解読によって、大和朝廷の支配が当時、すでに関東に及んでいたことを示す重要資料とされた。さらに九州もすでに朝廷の支配下にあり、日本書紀の伝えるような朝鮮半島への出兵も史実だとする日本の古代史学界の通説を補強する結果となった。
しかし、十数年来、韓国、朝鮮の歴史家や日本の一部の古代史家らは「五世紀の日本列島に統一国家が成立していたとは考えられず、『大和朝廷の朝鮮出兵』もあり得ない」と主張しており、これに同調する立場から「ワカタケルは雄略天皇の名とは限らない」などの反論が出されていた。
鳴滝遺跡の倉庫群は、直接的にはこの一帯を根拠地とした古代豪族・紀氏に関連する遺構と考えられる。したがって、今後の課題は、収納されていたのが何かというナゾ解きとともに、紀氏の実体の究明ということになろう。いい換えれば当時の紀氏は(1)書紀などに書かれているように、大和朝廷の朝鮮出兵の主戦力だったのか、それとも瀬戸内海航路を支配した独自の勢力なのか(2)鳴滝遺跡の柱穴から見つかった大量の須恵(すえ)器をはじめ、近辺の遺跡・古墳から数多くの朝鮮渡来の遺物や渡来技術による製品が出土しているのは、紀氏そのものが朝鮮から移り住んだ豪族であることを示しているのではないか――などの究明である。
ひとくちに紀氏といっても、二つの流れに大別される。鳴滝遺跡を含む紀ノ川北岸に勢力を持っていた紀臣(きのおみ)と、南岸の日前国懸神宮(ひのくまくにかかすじんぐう)を中心とする紀直(きのあたい)の一族である。双方は伝承上、つながりを持っており、紀臣の祖・紀角宿禰(きのつののすくね)は、紀直の祖・菟道彦(うじひこ)の娘と孝元天皇の皇孫の間に生まれた武内宿禰の子ということになっている。その子孫は五世紀後半の雄略天皇の時代から、同族の蘇我韓子(からこ)らとともに朝鮮半島に遠征して新羅と戦い、高句麗と結んで百済を含む朝鮮三国の支配者になろうとした者もいた、と書紀などは記している。
このような「朝鮮出兵」について、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の歴史家・金錫亨氏らは、日本列島各地に移住者たちが新羅、百済、高句麗などの「分国」をつくり、抗争したり連合したりしたのが実像だ、とする。また韓国の古代史家・千寛宇氏(元東亜日報主筆)らは、紀臣を百済の有力な武将だった木氏そのものと考え、日本書紀では百済と新羅の戦争が大和朝廷と新羅の戦争に改ざんされている、とした。これに従えば、紀臣は渡来人であることになる。
紀直についても、日前国懸神宮の「ひのくま」という語句が飛鳥の渡来人居住地の地名・檜前と同音であることから、ルーツはやはり朝鮮半島にあるとの見解を、作家金達寿氏らが唱えている。鳴滝遺跡などは、紀氏が五世紀前半の段階で、すでに紀伊に大きな勢力をもっていたことを示した。それが百済などの「分国」だったか、大和の王権の支配下にあったかは、今日の歴史教科書をめぐる論議とも、決して無縁とはいえないのである。
私のことまで出ているのはご愛敬であるが、それはともかく、いまみた倉庫群が発見された紀ノ川流域の和歌山市には、そのような鳴滝遺跡があるだけではない。本文でもみているように、これは紀氏族の墳墓といわれる岩橋(いわせ)千塚古墳群や、日本でただ一つの珍しい馬冑(ばちゆう)(馬のかぶと)を出土した大谷古墳などのあるところとしてすでに有名である。
和歌山へ上陸した朝鮮からの須恵器
そしてさらにまた、古代の住居群跡である田屋遺跡というのもあって、一九八三年三月二十四日付けの朝日新聞(大阪)に、「かまどの“元祖”発掘/五世紀半の住居から/技術/朝鮮から直接上陸?/和歌山の田屋遺跡」としたこういう記事が出ている。
和歌山県教委は二十三日までに和歌山市田屋の田屋遺跡で、五世紀半ば(古墳時代中期)の縦穴住居群から作り付けのかまどを発掘した。この時代の発掘例は極めて少ない。
田屋遺跡は和歌山県内で最大級の住居遺跡で、今回見つかったのは五棟。いずれも一辺四―五メートルの四角形をしており、うち四棟でかまどが一基ずつ確認された。かまどの大きさは間口五十センチ、奥行き六十センチ程度。「ハ」の字形に約二十センチ土を盛り上げて、中央には器の底を支える石や土の支脚が置かれていた。……
発掘現場は紀ノ川北岸で、現在の川岸から三百メートル。昨年、古墳時代中期の巨大建物群跡の発掘として全国から注目された鳴滝遺跡から約四キロ。住居跡からは朝鮮から伝わった最古形式の須恵器(すえき)も一緒に出土しており、かまどを作った技術は炉から進化したのではなく、朝鮮から持ち込まれたのが確実になった、という。須恵器は鳴滝遺跡から出たものと同種。
森浩一・同志社大教授(考古学)は「紀ノ川下流域が古墳時代に極めて重要な政治的地位を占めていたことが動かせなくなった。鳴滝の建物群や須恵器、かまどなど新しいものが近畿に来るのはまず和歌山からであり、大和中心の従来の考え方を改める必要がありそう」と話している。
石野博信・奈良県立橿原考古学研究所研究部長の話 作り付けかまどのある住居跡としては福岡県浮羽郡吉井町、塚堂遺跡と並んで古い。発掘結果から考えて、かまどは朝鮮半島から瀬戸内海を通って直接、和歌山へ上陸、近畿へ広がったようだ。
もちろん、かまどがそのようにして渡来したということは、そういうかまどを使用していた人間が渡来したということにほかならないが、さきにふれた「日本でただ一つの珍しい馬冑(馬のかぶと)」にしても、それは同じことであった。
馬冑の伝来ルート
この馬冑については、本文の「大谷古墳の馬冑」の項で、そのことについてのべた樋口隆康氏のことばを私は批判しているが、その馬冑は朝鮮半島の韓国でも発見されたことで、それがどこから、どのようにして紀伊の和歌山まで来たか、ということがいっそう明らかとなった。その渡来について樋口氏ののべていたこととは、まったく逆になったわけで、これまた、一九八二年三月二十一日付けの朝日新聞によってみると、「騎馬民族説に有力証拠?/韓国で馬のかぶとが初出土」という見出しのもとに、そのことがこう報じられている。
古代の騎馬戦用の馬のかぶと「馬冑(ばちゅう)」が、韓国の「釜山福泉洞古墳群」から初めて出土したことが、最近日本に紹介された発掘調査の概要レポートで明らかになった。同遺跡からは、大量の馬具や首長(王)級のシンボルだった宝冠なども見つかっており、大騎馬軍の存在がうかがえる。わが国では、和歌山県・大谷古墳(五世紀後半)から酷似した馬冑が出ているが、日本や朝鮮半島では他に発見例がなかったため、伝来ルートはなぞとされていた。今回の発見でそのルートが解明される公算も強まった。
今回の出土について、「騎馬民族征服王朝説」で知られる江上波夫・東大名誉教授(考古学)は、「騎馬民族が、中国東北部から朝鮮半島、そして日本へとやってきたことを裏付ける極めて重要な発見。日本の古代史研究に大きな影響を与えるだろう」と話している。
福泉洞古墳群が見つかったのは、日本と関係が深かった朝鮮半島南部の古代国家「加耶(かや)」系の一国、金官加耶があったところ。遺跡は、釜山市東莱(とうらい)区にあり、五十五年秋から発掘調査が続けられている。
馬冑は、初年度に発見されたが、本格的な報告書はまだでていない。しかし、調査にあたった釜山大学校博物館の申敬〓学芸員のレポートが、二月に発行の古代学協会(平安博物館内)の機関誌「古代文化」に紹介され、わが国の学者らに初めて詳報が伝わった。
馬冑は、鉄製で長さ五十一センチ、幅二十四センチ。目の部分に穴を開け、顔全体を覆う形になっている。五世紀初めと見られる古墳から、鞍(くら)やよろいなどと一緒に出土、金銅製の宝冠や、人間用の完全な短甲(たんこう)、かぶとなども見つかった。
このほか、計二十六基の古墳が確認され、四世紀末から五世紀初めにかけての、より古い古墳からも多くの馬具類が出た。鉄片を革ひもでとじ合わせて馬のよろいとした馬甲も多数見つかった。
また、宝冠や馬冑が発見された古墳と同時期とみられる別の古墳から、韓国で初めての青銅製環形七頭鈴も出た。これらの遺物は、被葬者の地位の高さ、騎馬軍の存在を物語っている。
この記事とさきの溝上氏の一文とを読み合わせてみると、問題はかなりはっきりしてくるのではないかと思う。つまり、私が本文で書いたように、紀伊の古代豪族であった紀氏の朝鮮渡来であることが、いっそうはっきりしたのではないか、ということである。
徴古館・朝鮮式山城
日本で出土した百済・加耶土器
次は伊勢(三重県)であるが、まず、本文を書くとき見おとしたものに、伊勢神宮徴古館がある。伊勢市では神宮そのものにばかり気をとられて、伊勢神宮にはそんな徴古館もあることに気づかなかったのである。
なぜ伊勢神宮徴古館か、というと、ここには珍しい須恵器の「装飾壺・筒形器台」があることを知ったからである。須恵器自体ということでは別に珍しいものではなく、それはどこでもみられるものであるが、国の重要文化財となっているこれは、そういうありきたりのものではなく、ほんとうに珍しい、貴重なものなのである。
私がこの須恵器のことを知ったのは、文化庁・東京国立博物館・京都国立博物館・奈良国立博物館監修という、ものものしい権威がバックとなっている雑誌「日本の美術」第一七〇号によってであった。この第一七〇号は一九八〇年七月号となっている「須恵器特集」号で、表紙はじめ巻頭には、すばらしい須恵器のカラー写真がずらりとならんでいる。
私はゆっくり一頁一頁とくりながらそれをみたが、なかには私のような素人目にも、「ああ、これは日本でつくられたものではなく、古代朝鮮から直行したものだ」と思われるものがいくつかある。たとえば、兵庫県西宮山古墳出土のもので、京都国立博物館にある「装飾付台付壺」や、名古屋大学にある岐阜県牧田一号古墳出土の「装飾付(はぞう)」などがそうであるが、伊勢の神宮徴古館にある「装飾壺・筒形器台」もそのうちの一つであった。
これは福岡県の羽根戸古墳から出土したもので、私は一目で「ああ、これも――」と思ったものであるが、その写真説明をみると、どういうわけかこれについてだけは、はっきりとこう書かれている。
装飾壺(そうしよくつぼ)・筒形器台(つつがたきだい)(重文 羽根戸古墳 伊勢神宮徴古館)筒形器台は百済・伽〓〈加耶〉土器の典型的な祭器の一つである。普通、坏部には大形のが置かれる。この器台には勾玉や動物の装飾がつけられており、須恵器に動物文が装飾される早い時期の例である。形の壺は肩部に三個の小壺をもち、胴部に三ヵ所の透し孔をもつなど特異な形態を示す。全高七〇・五センチメートルと大形である。
新羅・加耶土器というのはあちこちにあるが、「百済・加耶土器」という点でも、これは珍しいものなのである。そういうことからも、伊勢神宮徴古館を見おとしたのは残念であるが、これはまたいずれそのうちに、とするよりほかない。
ところで、伊勢といえば伊勢神宮であるが、本文でみている高倉山古墳の存在からもわかるように、ここにはそういう墳墓を築いた豪族もいたのである。しかもなかには、古代朝鮮式山城を築いていた者もあったようである。
伊勢にもあった古代朝鮮式山城
古代朝鮮式山城となると、九州や四国、それから近畿までで、それより東にはないものと思っていたが、一九八〇年一月十四日の東京新聞をみて、私は思わず目をみはったものだった。そこに、「ナゾの列石群“神籠石”/三重県南勢町/朝鮮式山城か/武蔵大生らが実測図作り」という大きな見出しの、次のような記事がのっていたからである。
【伊勢】三重県度会郡南勢町の山中に、昔から地元民が「神籠(こうご)石」と呼び、延べ一キロにわたって巨石を石がき状に並べたナゾの列石群があるが、このほど武蔵大学(東京都練馬区豊玉北)の学生、OBによって精密な実測調査が始まった。古代の人工構築物である列石群は、西日本でこれまでに十ヵ所以上発見され、いずれも七世紀前後の大陸との関係を背景に造られた朝鮮式山城とみられるものが多い。南勢町の列石は、同種の遺跡の東限と考えられ、今回の調査で、日本古代の国際関係や文化について新しい側面が解明されるのでは――と、学界から期待されている。
調査を始めたのは、同大学生でつくっている人類考古研究会と同会OBからなる歴史民俗研究会の十八人。五十三年五月以来、数回の予備調査を行い、今回は月末までかけて、精密な測量とそれに基づく実測図を作成する。
神籠石は熊野灘の五ヵ所湾に面した海抜百―四百メートルの山中五地点で見つかっており、直径三十センチ―一・五メートルの自然石、割り石を一―三段に組み一列に並べてある。これまで歴史、考古学者が数回、見学に来たが、研究の基礎となる実測図の製作は行われていなかった。
両研究会は古代の朝鮮式山城の研究グループで、地元の郷土史家中世古祥道さんを通じて、神籠石の存在を知った。遺跡は人目につきにくい雑木林の中にあり、これまでの調査から石の配列は(1)尾根伝いに並ぶ(2)山頂を囲む(3)ふもとから山頂にのびる――の三タイプがあることが確かめられた。
各地点の神籠石は後世の開発などで配列が各所で分断されているが、竜仙山の尾根沿いでは長さ百五十メートルにわたって、ほぼ原形のまま残っている。また八方山頂では直径六十メートルの円形配列が認められた。五地点とも列石の延長は約一キロ、各地点の列石は一連のものとして築かれたと推測される。
類似の列石は北九州の太宰府周辺、岡山県総社市の鬼ノ城など西日本に十数ヵ所ある。これらは朝鮮半島に出兵、唐・新羅連合軍に敗れた白村江(はくすきのえ)の戦い(六六三年)など、大化改新(六四五年)以後、大陸との緊張した対外関係を背景に築かれた朝鮮式山城が大部分。昨年五月には「日本書紀」、「続日本紀」に名前のみあって所在不明で“幻の山城”といわれた同種の遺跡・高安城が、奈良県生駒山中で発見され、大きな話題となった。
南勢町の場合、今のところ石以外の遺物は発見されていないため、構築年代は不明だが、以前に現地を見たことのある服部貞蔵・元三重大教授(日本古代史)は「山城とすれば七世紀のものだが、石積みが素朴過ぎる。祭事遺跡にしては規模が大きく、現時点ではどんな性格の構築物か不明」という。調査に当たっている関根真明・歴史民俗研究会長は「朝鮮式山城跡か祭事遺跡とみられるが、各地で見つかったこの種の遺跡では最も東に位置する特異な列石だ。測量にはさらに六年を要するが、山城だったとすれば、やはり大陸との緊張関係から生まれた防衛施設だろう」
「最も東に位置する」もの、――というばかりでなく、ほかならぬ伊勢神宮のある伊勢の地に、本文でみた「韓神山」とともに古代朝鮮式山城とみられるものがあった、ということが意味深いので記事の全文をしめしたが、「測量にはさらに六年を要する」というから、いまからするとあと二年である。それまでには「朝鮮式山城か祭事遺跡」かが明らかとなるはずであるが、しかしそれは祭事遺跡ではないのではないか、と私は思う。
なぜかというと、九州などで見つかっている古代朝鮮式山城にしても、これは明治以来、長いあいだにわたって山城ではなく「神籠石」、すなわち神祭りのための祭事遺跡ではないかともみられていたものである。「ところが、韓〈朝鮮〉半島における百済や新羅の山城を実際にみるようになってから、山城説が確認されるようになった。つまり、山の八合目あたりに並べられた石は土塁の根止め石であることが確認された」(斎藤忠氏の「山城と古代の日韓関係」)ということがあるからである。
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これも、おわりにはまいど同じことを書いているが、以上の補足とはまた別に、本文を読み直すことで、かなりの加筆をした。そして、『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第四冊目である本書(文庫版)がこうして成ったのも、講談社常務取締役の加藤勝久氏はじめ、同社文庫出版部の宍戸芳夫氏、守屋龍一氏、それから木村宏一氏らのおかげである。ここにしるして、感謝の意を表したい。
一九八四年三月 東京
金 達 寿
日本(にほん)の中(なか)の朝鮮文化(ちようせんぶんか) 4
電子文庫パブリ版
金達寿(キムタルス) 著
(C) 金達寿記念室設立準備委員会 2001
二〇〇一年七月十三日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
e-mail: paburi@kodansha.co.jp
製 作 大日本印刷株式会社
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