TITLE : 日本の中の朝鮮文化 3
講談社電子文庫
日本の中の朝鮮文化 3
金 達 寿 著
目 次
まえがき
近 江
瀬田の唐橋と石山寺
園城寺・新羅善神堂
古墳と「韓かまど」
大友氏族と大津京
白鬚と猿田彦
安曇と饗庭野
天日槍について
阿那の息長氏族
百済寺・金剛輪寺・石塔寺
草津の安羅神社
金勝から信楽へ
「吾名の邑に入りて……」
鬼室集斯のこと
大 和
大和・奈良の発見
東大寺の辛国神社
帯解・和爾・高良
法隆寺をたずねて
大宝蔵殿と夢殿で
中宮寺から百済野へ
葛城・橿原・軽
蘇我氏とその出自
高松塚壁画古墳
被葬者をめぐって
続・高松塚壁画古墳
飛鳥坐神社にて
栢森から吉野へ
石位寺の石仏
「三輪伝説」と穴師
石上神宮の七支刀
文庫版への補足
ソの城・新羅神社
観音寺山と近江源氏
「大和三山歌」について
古墳出土の鉄製品は
まえがき
『日本の中の朝鮮文化』としている紀行の第三冊目である。さきの第一冊、第二冊とおなじく、これも「朝鮮遺跡の旅」として雑誌『思想の科学』に連載したものであるが、ちょうど大和飛鳥のそこを歩きながら書いている途中、日本じゅうがそれを注目し、興奮した高松塚壁画古墳が発見された。
この紀行は、どんなところであってもいちいち現地を歩きまわったり、文献その他を調べたりして書かなくてはならないので、書く速度はどうしてものろい。そのため、これを連載している『思想の科学』編集部にはいつも迷惑をかけどおしであるが、しかしこんどのばあいは、それがかえってさいわいしたわけでもあった。
というのは、もし私の筆が早くて大和飛鳥のそこはもうすでに書いてしまい、こうした本になってしまったあとになって、「世紀の発見」ともいわれるあの高松塚壁画古墳が発見されたとしたら、どうであったろうか。ちょっと想像しただけで、私はなんともいえないような気持ちになるが、そうならず、その高松塚の発見とほとんど同時にこれを書きえたことは、ほんとうに幸運であったといわなければならない。
あいかわらず、全国のみなさんからはたくさんの手紙をもらっている。どれも、この紀行のために歩きまわっている私にたいする激励であり、「こちらにもこういうものがあるが……」という知らせなどである。私は毎日のように配達されてくるその手紙をみるのが、たのしみの一つであると同時に、この手紙によって私はまた新たにいろいろなことを教えられている。
そればかりではない。全国各地の人々には、その手紙をとおしてたくさんの約束もしている。「近くそちらもおたずねするつもりです。その節は……」というものであるが、しかしその各地は、東北から九州にまでわたっているのでなかなか実行することができない。
たとえば北九州の福岡には、「とくに朝鮮との関係を考えて調査・記録を行なう」という「筑紫古代文化研究会」ができており、また南九州の鹿児島にも同様のものができている。そしてそれらの遺跡を調査しつつ私を待ってくれているのであるが、いまだになかなか行けずにいる。
私はいまやっとこの「近江・大和」をおわり、次は「紀伊・伊賀・伊勢ほか」を歩いているからだが、しかしそれにしても、私はこうした広汎な日本各地の地方史家や民衆の支援のもとにこの本を書いていることを、ほんとうにありがたいことだと思っている。今回は巻頭をかりて、まずそれらの人々にたいし、心から感謝の意を表しておきたい。
なおまた、さきにつづいて第三冊がこうして成ったのは、講談社学芸図書第二出版部伊藤寿男氏、阿部英雄氏、ならびに同社写真部の努力によることも、ここにしるしておきたい。
一九七二年九月 東京
金 達 寿
日本の中の朝鮮文化 3
近 江
瀬田の唐橋と石山寺
唐橋は「韓橋」
近江(滋賀県)をみることにした。近江はいわゆる畿内ではなく、その周辺の一つであるが、私の「旅」からすると、ここも重要な地の一つである。朝鮮語に、「歩く足にふれるものがみなそれ」という意味のことばがある。私のこの「旅」にとって、畿内の各地とともに、近江はまさにそれに近いようなところだった。たとえば、渡辺守順氏の『近江路・若狭路』をみると次のようなくだりがあって、こういうところなのである。
古代の近江は帰化人によって開発されたので、帰化人による文化遺産が多い。愛知(えち)郡の百済(ひやくさい)寺、阿自岐(あじき)神社、蒲生(がもう)郡の石塔(いしどう)寺などがその代表で、愛知郡、蒲生郡への帰化人の移住は『日本書紀』などに明確に記されている。近江文化史は、帰化人を除いて考えるわけにはいかない。蒲生郡の小野(この)の里には大学頭だった帰化人鬼室集斯(きしつしゆうし)の墓があり、これから訪れようとする兵主(ひようず)神社も、じつは帰化人ゆかりの神社なのである。
鬼室集斯の墓のある鬼室神社や兵主神社はあとまわしとして、京都にある「日本のなかの朝鮮文化」社の鄭詔文と鄭貴文、それに詩人の李哲が加わった私たちは、九月はじめのある朝、京都を出発した。私たちはそれまでにも近江へは何度となく行っていたけれども、こんどはひとつまとまったかたちで見てみよう、というわけだったのである。
国道一号線となっている東海道の逢坂(おうさか)の関を越すと、そこはもう近江で、まもなく瀬田の唐(から)橋だった。まず、私たちはここからして、その橋のまわりをしばらくうろうろしてみることになった。琵琶湖から流れ出る瀬田川(まもなく宇治川となる)に架かった瀬田の唐橋は、奈良時代のころすでにその名がみえている古いもので、これももとは、『類聚三代格』太政官符などに「韓橋」とあり、また『書言字考節用集』にも「勢多韓橋又作辛橋」とあるものだった。「韓」とは、いうまでもなく朝鮮ということである。つまり、瀬田の唐橋とは、その韓人たちのつくったものだったのである。
唐橋のあるこのあたりは、いわゆる近江八景の一つとなっているところでもある。その景観の中心となっている唐橋は、中の島をあいだにして長さ二十三間の小橋と、おなじく九十六間の大橋とをもってできている。今日のような土木技術をもってすれば、こんな橋を架けることなどなんでもないようなものであろう。しかし古代の当時にあっては、これはたいへんなできごとであったにちがいなかった。地図をみればわかるように、広大な琵琶湖とそこから流れ出る瀬田川とによってさえぎられたここに橋が架けられたことによって、人々は、はじめて東海道のこの要衝を自由に行き来することができたのである。私はさいきん、松本清張氏の好意で今村鞆氏の『朝鮮の国名に因める名詞考』というのを手に入れたが、瀬田の唐橋について、『東海道名所図会』などを引き、こう書かれているのがみえる。
「或記に曰う唐人此橋を通るとき、外国にも亦比類無し、小国には過分なりと賞して、広興記にも書記しけるといい伝う」――ここにいう「唐人」とはどこの国の人間をさしたものかわからないが、また、こうも書かれている。「此名のユワレに付ては韓国(カラクニ)様の架橋なり、又からみ橋の略なりとの説あるも、何れも信憑すべからず。唐崎の如く半島関係の縁由なるべし」
すなわち、瀬田の唐橋は、ただ単に「韓国様(からくによう)」といったものではなくて、これはあとでみることになる近くの「唐崎」とおなじように、「半島」つまり朝鮮との関係によってできたものだ、というのである。
石山寺と良弁
では、その「関係」とはどういうものであったかということになるが、それもこれからみるとして、この瀬田の唐橋を前にみて道を右にとると、そこには有名な大刹石山寺(たいさついしやまでら)がある。「いま全県下(近江一国内)に散在する国宝と重要文化財の総件数はおよそ九百五十件であるが、これはまず京都や奈良についでの順位であるから、近江は日本第三位の文化財集中圏だといえる。なかには一件の指定で数千点というような一括指定品(たとえば石山寺の一切経といったもの)もある」(景山春樹『近江路――史跡と古美術の旅――』)というその石山寺である。
ここには『一切経』ばかりでなく、日本では「最古最美」のものとされて、国宝となっている珍しいかたちの多宝塔などがあり、また、紫式部『源氏物語』の「須磨・明石の巻」がそこで書かれたといわれる「源氏の間」というのもある。この石山寺は、奈良東大寺の前身であった金鐘(こんしゆ)寺で朝鮮の新羅から来た高僧審祥(しんしよう)を講師として華厳経講を開き、日本にはじめて華厳宗をひろめた良弁(ろうべん)を開山とするものだった。
良弁は金鐘寺が東大寺となってからは、東大寺初代の別当となったが、彼は近江の朝鮮渡来人から出たものだった。ここで奈良時代のこれら僧侶のことにつき、井上光貞氏の「王仁の後裔氏族と其の仏教」によってみておくと、「仏教が最初に行わるる頃は多く三韓の僧侶が活動せる事云う迄もないが、やがて日本人の中から僧侶が出る様になった時、その初期に早く僧侶となった人々は帰化人のみであるのに驚くのである。のみならず又奈良時代は勿論平安時代の初期にかけても、仏教史上注目すべき人物には帰化人が多い」として、もちろんこれだけではないけれども、次のものたちを列挙している。
「道慈、智光、慶俊、勤操、道昭、義淵、行基、良弁、慈訓、護命、行表、最澄、円珍」――このなかには近江と関係あるものがほかにもまだあるが、良弁が石山寺を建立するにいたったことについては、近江文化研究会編『石山寺』にかなりくわしく出ている。まず、その寺伝縁起のところからみるとこうなっている。
聖武天皇が奈良に東大寺を建立され、大仏を鋳造されたとき、銅造大仏を荘厳するため、多量の黄金が必要となった。その金を求めるため、天皇は良弁に命じて、大和国金峰山に祈請せしめられた。ところが一夜蔵王権現が現われ、近江国勢多に一山あり、霊地であるから、彼所へ行って祈願したならば、必ず黄金が得られるであろう、と告げられた。良弁は早速この教えに従って石山まで来た処、一人の老人が石上に座して、魚を釣っているのに出合った。此の老翁は良弁に、自分は比良明神であり、此の地が霊地であることを告げると共に、姿を消してしまった。そこで良弁は、岩上に如意輪観音を安置し、草庵を建てて祈念したところ、陸奥の国から黄金が献上せられ、無事大仏を完成することが出来た。その後、観音像を岩から離すことが出来なかったので、此の地を寺とせられたと言うのである。
これはもちろん、『石山寺』の筆者もことわっているように、「神社仏閣の縁起にあり勝ちな霊応奇瑞の説話であること言うまでもない」ものである。しかしこの石山寺の建立については、ほかにもう少しリアルな説明がないわけではない。つまり、今日なお巨大な木造建築物となっている奈良の東大寺建立のために使用された木材は、ここ近江の山々から伐りだされたものであった。このことは東大寺にある「正倉院文書」にも記録されているとのことであるが、そうして伐りだされた木材は琵琶湖上をわたり、瀬田川を下って奈良へと運ばれた。
いま石山寺のあるところには、そのために石山院といった役所がおかれ、そこから運びだされる木材労役などに関する執務が行なわれた。そのときこの石山院の総監となっていたのが、造東大寺別当としての良弁だったのである。こうして、「良弁は東大寺が完成したのち、この石山院をそのまま寺として発足せしめることになったのは、『正倉院文書』によると天平宝字五年(七六一)である。良弁にちなんだ石山寺造立の縁起説話には、こうした歴史的裏づけがあったのである」(景山春樹『近江路――史跡と古美術の旅――』)
強大な渡来人の勢力を背景に
このことについてはまた、前記『石山寺』にこうのべられている。
ここで私達は、先に述べた石山寺創立の伝説とこの事実との関係を考えてみよう。創立の伝説はその表現が無稽の奇瑞説話であっても、その意味するものは、まさしく東大寺建立につらなるものであり、石山寺が東大寺建立に欠くことの出来ない役割を演じ、その中心人物が良弁であることを物語っている。更に注意すべきは、此の良弁が石山寺から程近い滋賀郡内(現在は共に大津市)の志賀の里の出身であると伝えられることである。更に論を進めるならば、良弁は百済系の帰化人の末であり、近江国内の帰化人の経済的文化的基盤とも無関係ではなかったのではなかろうか。
伝説中の比良明神は、現在湖中の大鳥居で観光客に親しまれている白鬚明神であり、本来此の神は帰化人の神であったと考証し、又黄金を献上した陸奥の国守も帰化族百済王敬福で、これらの間に関連を認める学者もある。いずれにしても東大寺大仏建立という日本史上空前の大事業の背後に、石山寺が重要な位置を占めていたことになり、石山寺はその発足に於て、国家的色彩を多分に持っていた。
石山寺はもちろんのこと、空前の大事業であった奈良東大寺の建立も、近江におけるいわゆる帰化人、朝鮮渡来人たちの勢力によって成ったものではないかというのである。それほど近江のその勢力は強大なものがあったというわけでもあるが、ところで石山寺それ自体はどんなものであったか。私には、硅灰石といわれる岩石の山腹に伽藍の散らばっているのも珍しかった。かんたんに、これも前記『石山寺』によってみておくことにする。
こうして良弁によって建立された石山寺の堂宇は、不幸にして今日見ることは出来ない。しかし私達は「正倉院文書」により、かなり詳細にその規模を知ることが出来る。即ち天平宝字六年七月までに造作された建造物は、檜皮葺(ひわだぶき)の仏堂、経蔵、僧房四棟、板葺の写経堂、法堂、食堂、その他十七棟、計二十六棟あり、特に仏堂は、間口奥行がそれぞれ七丈に五丈、高さ一丈四尺の壮大なもので、その他何れも善美を極めていた。
その建立の費用は、主として近江国内の愛知、坂田、高島の諸郡から納入せられ、従事した工人の延人員は、着工以来六年八月までに総計一万三千人に及んでいる。又経典の整備にも意を用い、中でも大般若経は六年正月、一万三千余張の紙を用意して写経に着手し、同年十二月には同経二部千二百巻が写され、用紙二万四千余張、布帛六百余端を要したことが明らかである。この様に石山寺の建立は、東大寺の工事に附属して国家的事業として遂行せられたのであって、天平宝字六年三月の僧実忠の牒(ちよう)によれば、良弁の命により仏堂僧房等の造作を督励していることがわかり、良弁や実忠等当代一流の名僧の活動により、その工事は非常に早く又壮大善美に営まれたようである。
園城寺・新羅善神堂
ここは「帰化系氏族」の集住地
私たちは石山寺から、またもういちど瀬田の唐橋へ出て、そこから引き返すようにして大津市内へ出た。そして琵琶湖の西、いうところの湖西をまわって、近江を一巡するつもりだった。が、ちょっと行くと、そこにはもう新羅善神堂(新羅神社)のある園城寺(おんじようじ)・三井寺(みいでら)があった。
だけではない。そこはまた、近江にぞくする比叡山の延暦寺があるばかりでなく、いまみた石山寺や奈良の東大寺を建立した良弁などの出た志賀の里を含む滋賀郡の中心地でもあった。滋賀郡はもと真野郷、大友郷、錦部郷、古市郷の四郷によって成っていたとのことであるが、これはいずれもみな、朝鮮渡来氏族の集住郷だったのである。
さきにまず、水野正好氏の「帰化人の墳墓――滋賀郡における漢人系帰化氏族をめぐって――」によってそれをみると、こういうふうになっている。
まず、最北の真野郷は、志賀町和邇(わに)から大津坂本の足洗川付近に及ぶ地を郷域としているようであり、雄族和邇(わに)氏の本貫地として著名である。その支族に、小野氏、真野氏、春日氏などが史書に見え、いまも和邇、小野、真野、春日山などの地名が残り、よくかつての各氏の居住と繁衍を示している。
真野郷の南、大友郷は、坂本足洗川から南滋賀町の南界柳川に至る間が郷域と推定される。地形からみると、坂本・穴太・滋賀里南滋賀の三区に分けられ、坂本の地には東漢献帝に出自するという三津首がみえ、伝教大師最澄がでている。穴太駅のあった穴太の地は穴太村主の居地で、後漢孝献帝の男美夜王の後と伝える。穴太氏は、このほか穴太の地名を負う史、曰佐があり、浅井郡や甲賀郡、さらには山城国にまで繁衍している。
滋賀里・南滋賀には、坂上氏系図に西大友村主がみえ、漢人村主と称する大友村主がある。この氏からは、奈良朝に志賀郡大領となった大友村主黒主をはじめ、推古朝百済僧観勒から天文遁甲を学んだ大友村主高聡などが出ている。同族の大友史も後漢苗裔を称しており、滋賀郡内に蟠踞している。このほかこの地には推古朝遣隋使小野妹子に従った学生志賀漢人慧隠を出した志賀氏もみえ、よく漢人系帰化氏族の集中のあったことを示している。
錦部郷は、柳川より大津市常世川辺に至る範囲であり、錦部村主や大友曰佐の名がみえる。錦部村主は錦織町付近に居住したものと思われるが、坂上氏系図に漢人村主とされ、姓氏録には山城国諸蕃として、錦部村主を漢国人波能之の後と記している。また、大日本古文書巻十所収の西南角領解には、本郷内の大友佐田麻呂の名がみえ、大友氏の広汎な分布を教える。
本郡の南端、古市郷は大津市粟津のあたりから南郷村付近に及ぶ地を郷域としており、近江国志何郡計帳は大友但波史がこの地に居したことを記し、その戸に大友漢人、上村主(魏武皇帝の子陳思王の後)、太田史、大友村主、大友曰佐、高史(高句麗国人)がみえ、漢人系を中心とする帰化人の集中、錯綜という形で家族が構成されていることを示している。
以上のように、奈良時代の滋賀郡内に分布した諸氏族を記載して、まず第一に指摘されることは、郡の最北を占める真野郷には和邇系譜に連なる諸支族が集中し、一方、真野郷以南の三郷には漢人を称する帰化系氏族がきわめて高い濃度で集中配置されている事実である。帰化系氏族の住まう地域には、この時点では全く在地氏族は史書に記載されていないことは特に留意するべきことと思われるのである。
すなわち、以上のもののほか、ここには「在地氏族」なるものは一つもなかったわけだったのである。それで、「史書に記載されていないことは特に留意するべきことと思われるのである」といっているが、しかしそれは、筆者である水野正好氏が「漢人を称する帰化系氏族がきわめて高い濃度で集中配置されている」などという思想をもってみるからである。いわゆる「帰化系氏族」なるもの、それがつまりは在地氏族にほかならないものだったかもしれないのだ。
中国ではなく朝鮮から……
それからまた水野氏は、ここに出てくる漢人(あやびと)というのが、のちの事大思想によって「東漢献帝」だの「魏武皇帝」だのから出たものなどと系譜のうえで称したことから、これまた中国(漢)から渡来したもののように考えているようであるが、これははっきりした誤りである。これはのち百済や新羅に併された加耶・加羅系の小国、安耶(あや)(安羅(あら)・安那(あな))からきたもので、『日本書紀』などではこれを「漢(あや)」「穴(あな)」とも表記したものであった。
上田正昭氏の『帰化人』にも指摘されている、「応神紀」に「穴織」となっているものが「雄略紀」には「漢織」となっているそれであるが、この「穴」はいまみた滋賀郡の大友郷にも地名、人名としてみえている。「穴太」「穴太村主(すぐり)」などがそれで、穴太(あのう)の地名はいまもなおのこっているばかりか、あとでみるように近江にはまだほかにもある。ついでに、ここでちょっとはなしはとぶが、のち長門(山口県)となった中国地方のそれもはじめは「穴門(あなと)」といったもので、これも安那(安羅・安耶)という古代朝鮮国名を負ったものだった。
それにまた、こういうこともある。「穴太村主」はもちろんのこと、「漢人村主」「大友村主」などという「村主」にしても、これは古代朝鮮語からきたものであった。高柳光寿・竹内理三氏編『日本史辞典』をみるとこうなっている。「村主 古代の姓(かばね)の一。語源は村落の長という意味の古代朝鮮語にあるという。多く、渡来人系の小豪族の称したものであったが、六八四(天武一三)八色の姓で制度上は廃止」
「漢人」の彼らが、もし中国から来たものとすれば、それはこのように、朝鮮語をそこに負うはずはないのである。しかし、さすがに、「帰化人の墳墓――滋賀郡における漢人系帰化氏族をめぐって――」の筆者水野氏も、そのことの矛盾には気がついたとみえて、あとにつづけてこうつけ加えている。
ところで、こうした滋賀郡の帰化系氏族はいずれも、その出自をひとしく「漢」に求めているのは興味深いことである。大友、錦部村主は坂上氏系図によれば、応神朝に阿智使主に従って来た漢人村主とされ、東漢氏に属するが、同時に同系図に漢人村主とされている高宮、忍海、佐味、桑原村主が、神功紀には「新羅草羅城を攻む。時の俘人などは上記四邑の漢人などの始祖」とみえ、新羅よりの帰化人をも漢人とする場合もあるので、系譜上、後漢諸帝に出自を求めてはいても、実際には半島に故地をもつ場合も考えられるのである。かつて、宮地直一博士は大友村主の奉祀する新羅明神を通じて、同氏を新羅系帰化氏族と想定されたが、傾聴すべき所説と思われるのである。
「神功紀」のあてにならないことはいうまでもない。しかし、漢人(あやびと)というのは東(やまと)(大和)漢(あや)氏などというのとおなじで、百済・安耶系とみられているものであるが、これも韓(から)、高麗(こ ま)(狛)とおなじく(漢を「から」と読むばあいもある)、朝鮮からの渡来氏族一般をさしていったもののようでもある。したがってなかには新羅系もあって、私も宮地直一氏とおなじように、園城寺・三井寺の新羅明神と関係深いとみられる大友氏などは、やはりその新羅系氏族ではなかったかと思う。
園城寺の由来は?
私たちは山の斜面につくられた園城寺・三井寺へ行って、詰めかけている観光客に立ちまじってあちこちと見て歩いたが、これがまた石山寺に劣らぬ大刹だった。国宝となっている金堂など実に美しいもので、その国宝、重要文化財となっているものにしても、高麗版『一切経』など百点余もあるとのことだった。広い境内のあちこちに建ちならんでいるかずかずの伽藍(がらん)は、『三井寺の沿革』にもあるように、まさに諸様式をとりあつめた「建築博物館と云ってもよい」もののようであった。なかに「三井の晩鐘」というのもあって、私たちも小銭をだし、それをかわるがわる撞(つ)いてみたりした。
この寺は俗に三井寺とよばれているが、正式の名称は長等山園城寺(ながらさんおんじようじ)である。いまみたようにそれの最初は、大友郷の大友氏族がその祖神としての新羅神を祭ったものにちがいなかった。園城寺という寺名が、どこからきたかははっきりしない。
『三井寺の沿革』には、「その昔天智、弘文、天武三帝の勅願により、弘文帝の皇子、大友与多王が田園城邑を投じて建立され、天武帝より、『園城』の勅額を賜わり」などと書かれているが、「壬申の乱」などはまったく眼中にないといったふうなもので、これはもちろんこじつけである。だいたい、寺院などのこういった「沿革」「縁起」があてにならないものであることはいうまでもない。が、それにしても、有名な園城寺・三井寺のものとしては、これなどちょっとひどいものだといわないわけにゆかない。
しかしながら、ここにもちょっとおもしろいことばがないわけではない。それは「田園城邑を投じて建立され」たといっていることである。山の斜面であったそこに「田園」があったかどうかは疑問だが、けれどもそこが「城邑」であったということは、考えられなくはない。とすると、そこはもと山城のあったところということになり、それでまた一つ思いおこされるのは、「宮内省に坐す園神・韓神」の園神=曾富理神(そほりのかみ)のことである。すなわち、新羅系の神のことを園神といったという、それである。
園城寺という名が、はたしてそこからきたものかどうかは知らない。しかしともかく、大友氏族によってここに祖神としての新羅神の祭られたことはたしかなことで、それは朝鮮の城隍堂(ソンハンダン)(神祠)のようなものだったのである。そしてそれが今日のような寺院となったのはずっとのちのことで、これは智証大師といわれた円珍が、延暦寺の天台別院として開いたものであった。
円珍と園城寺のことについては、あとでまたふれることになると思うが、いずれにせよ、園城寺にはいまもその新羅明神像があって、重要文化財指定となっている。しかし、これは絹本着色の画像で、本尊である木彫の国宝新羅明神像は、園城寺の円満院から北へ向かって少し行った、新羅善神堂というところにある。
大友氏の氏神・新羅明神像
その途中に、大津市役所があった。ついでに私たちはそこの市教育委員会に立ち寄り、『大津市文化財目録』などをもらって行った。新羅善神堂はもうちょっとさきで、まもなく左に折れて山の方に向かって登って行くと、また鉤形に左に折れることになり、そこに「弘文天皇陵」とした石碑が立っている。
自分の叔父という大海人皇子(天武帝)と帝位を争った「壬申の乱」により敗死したとされている天智帝の子、大友皇子(弘文帝)の陵墓となっているものであるが、この陵墓の右手に大きな鳥居があって、その奥に新羅善神堂がある。檜皮葺(ひわだぶ)き三間社流造りの本堂からして、これも国宝となっている。
本来は一つのものだったはずにもかかわらず、たくさんの観光客が詰めかけている園城寺・三井寺の繁栄とはうらはらに、いまここをおとずれるものはほとんどいない。なかなかおもむきのある石垣も崩れたきりで、あたりはひっそりと寂(さ)びたままである。そんなせいもあってか、シンメトリーにできている本堂の古い檜皮葺きがいっそう美しい。
なかにある本尊の新羅明神像は、高さ七八・五センチメートルの着色木彫といわれる。山形の冠をかぶり、褐色の袍(ほう)を着た長鬚の老相像だとのことであるが、これは絶対の秘像として、一般にはけっしてみせないものとなっている。しかし、文化庁監修『国宝』ほかに写真が出ているので、それがどういうかたちのものであるかは知ることができる。一般にみせないものといえば、園城寺金堂の本尊も同様である。この本尊は金銅の弥勒菩薩像ではないかといわれているが、これも絶対の秘仏として、当園城寺の住職でさえ未見のものということになっている。
園城寺金堂の本尊が弥勒菩薩とすれば、それは半跏思惟像のはずで、もしかするとこれも山城(京都)の広隆寺にあるものとおなじ新羅渡来のものではないかと思うが、それはさておき、国宝新羅明神像のある善神堂は、もとは大友氏族の祖神廟、氏神としての神社であったにちがいない。いまも神社としての鳥居が入口に立っているが、今村鞆氏の『朝鮮の国名に因める名詞考』にも、これははっきり「新羅神社」となっている。
そして一方またそこには、大友氏族の氏寺もあったもので、善神堂にある新羅明神は、その氏寺をのち天台別院として今日のような園城寺とした智証大師円珍が、八五八年の天安二年、中国・唐の留学から帰る途次その船中に出現し、彼の仏法を守るために垂迹(すいじやく)したものだと伝えられている。ただのいい伝えであることもちろんであるが、しかしこれは、神仏習合の事実を物語るものでもある。
こうして仏教、ことに比叡山の延暦寺にはじまった天台宗のそれとして園城寺がさかんとなるにしたがい、本来はそれが中心であったはずの新羅神社・善神堂は、今日のように寺域の片隅に追いやられることになったもののように思われる。私たちは新羅善神堂別当の滋野敬晃氏にも会っていろいろと話したが、どういうわけか善神堂は、いまなお園城寺・三井寺内部にあっても、すっかり疎外されているもののようである。
古墳と「韓かまど」
滋賀里から坂本へ
さて、園城寺(おんじようじ)の新羅善神堂からさらに北に向かうと、そのさきは滋賀里から坂本となる。左手は比叡山麓のゆるやかな斜面地帯で、ちょっと頭をめぐらすと淡海(おうみ)(近江)の琵琶湖が眼前にひろがっている。なんとも、ぜいたくな景勝の地といいたいところである。いまどき、風光のよいこんな景勝の地がそのままにおかれるはずはない。あちこちいたるところ掘り返されて、宅地造成が行なわれている。そして一方では、どんどんそこに青や赤なんかの瓦をのせた住宅が建て込みつつあるが、そこは古代、かつてこの地で繁栄した大友氏族などの墳墓の地であった。
朝鮮のいわゆる「先山(ソンサン)」(祖先の墓地)だったのである。このことについては、さきにみた水野正好氏の「帰化人の墳墓――滋賀郡における漢人系帰化氏族をめぐって――」にもくわしいが、西田弘氏の『志賀の遺跡』をみるとこういうふうになっている。
古墳時代にはいって、志賀の地は大きく発展したようである。元来、湖西の南半旧滋賀郡一帯では、古代の有力豪族であった小野氏や真野氏の勢力が大きかった。彼等は和邇・真野両川の流域を本拠としていた。近淡海国造もこの一族であったのだろう。現在、滋賀学区内でこれら有力者の古墳を指摘することはむつかしいが、赤塚古墳はあるいはこのような有力者の古墳であるかも知れない。
ここでちょっとコメントをつけておくとすれば、ここにいう小野氏や真野氏というのは、さきにみたように、真野郷にいた和邇(わに)氏の支族である。和邇氏とは、『古事記』応神段にみえる「和邇吉師」の一族で、『日本書紀』などには「王仁」となっている百済系のそれである。彼らは四、五世紀あたりの古墳時代に渡来したものたちであった。
ところが、古墳時代の後半になると、この地に新しい人々が移って来た。それは大陸から帰化した人々である。これらの人達は新しい文化や技術の担い手として、わが国の文化や産業の発展に大きな役割を果した人々である。この帰化系の人々は、大友氏を中心として錦織氏や穴太氏などがあり、その本拠地は志賀地区であった。
後には小野氏など中央で活躍した人々にかわって大友氏が滋賀郡の中心勢力になったことは、滋賀郡の大領に大友氏の名が見られることからも明らかである。弘文天皇の御名の大友皇子も、この大友氏の本拠地大友郷と関係があるとも考えられている。なお、大友氏はじめ錦織氏や穴太氏の一族は、後に朝廷から志賀忌寸の姓を賜わっている。これらの人々の古墳は、現在も志賀の山々に残っている。
志賀では、滋賀里大谷の山腹から錦織水車谷に至るまで、背後の山々に数多くの古墳が散在している。これらはすべて横穴石室をもつ古墳で、古墳時代では後期(六・七世紀)に属するものである。その分析を詳細に見ると、滋賀里の北部に宅地が造成されたとき、十数基の古墳が発見された。そのうち十二基が調査されている。さらにその西方の山腹には四十基近い古墳が知られており、百穴古墳群では現在までに七十二基が確認されている。
また、大通寺西方から熊谷にかけて数十基の古墳があったらしい。そのうち四基が、この度の市開発公社の宅地造成に伴って、発掘調査が行なわれた。南滋賀の山中にも相当数の古墳があるようで、福王子社の境内の四基が調査されている。宇佐山から水車谷にかけても数基の古墳があり、皇子山にもかつては古墳群があったとのことである。古墳は山腹だけでなく平地にもあったようで、その数は志賀の地だけで二百基を越すものと思われる。志賀地区がこのような大群集墳地帯であることは、当時産業文化が発達し、人口が多かったことを示している。(西田弘『志賀の遺跡』)
いたるところ、古墳だらけだったのである。そのうちの穴太(あのう)や大通寺古墳群といわれるものを、さきに来たとき私たちはみて歩いたことがある。ちょうど宅地造成の最中で、あちこちでそれらの古墳がひっくり返され、横穴石室の石積みがこわれて露出しているさまは、戦争とはまた別に、人間というものの酷薄さをあらわにしているもののようにも思われた。
新羅土器を見る
そして一方では、そういうことをしていながら、これがまたわれわれ人間というものの生きている姿かともみえたが、山寄りの近くに養老院が一つ新しく建てられていた。そしてそれは、建物よりも庭の石垣のほうがずっと立派にできていた。というのは、石垣の積み石はどれもみな、近くでこわされた横穴古墳石室のそれが使われていたからである。
それら古墳の副葬品としては、どういうものが出たかくわしく知ることはできない。が、日本では古墳時代とともにつくられることになった須恵器(朝鮮式土器)の出土はたくさんあったらしく、そこの養老院にも棚がつられて、瓶子(へいじ)などが入れられてあった。私たちが養老院まで行ったのも、そういうものがあると聞いたからだったが、それは、そこにいる老人たちが近くの古墳跡からひろい集めたものらしかった。
それだけではない。この付近の大通寺古墳からは、副葬されていたおなじ須恵器の珍しい炊飯具のミニチュアなども出土している。『延喜式』にいう「韓竈」の「韓かまど」であるが、また、穴太古墳からはいわゆる韓鍛冶(からかぬち)のそれとみられる鉄滓(てつし)なども発見されている。
ついでにいえば、一九六九年十一月十九日付け毎日新聞(大阪)に、こんな記事が出たことがある。「帰化人の土器復元/“湖国にも勢力”裏付け資料/一年余で百二十点/大津の民間研究グループ」という見出しのもとに、こういうことが書かれていた。
大津市滋賀町一丁目、大通寺裏山一帯の古墳群から発掘された六世紀の土器百二十点を、文化財研究家の民間グループが見事に復元した。このグループは、大津市石山寺辺町、滋賀文化財研究所(田原権平所長)に加入している近江八幡市上田町、田中政三さん(五九)と滋賀大考古学研究会の若い学生たち六人。
一年二ヵ月がかりで、原形をとどめぬまでにこわれていた土器を復元したものだが、その昔、湖国にも帰化人が勢力をはっていたことを裏付ける貴重な考古学的資料として、その成果は高く評価されている。
記事はまだつづいているけれども、こうして復元された土器のなかには、いまいった「韓かまど」や祭祀用の高坏(たかつき)などもあった。それで私たちは、この記事に出ている田中政三氏を、近江八幡市のその家にたずねたことがある。
田中さんは滋賀県の文化財調査員となっていたが、本職は農業で、自宅の庭の一隅にもそれらの土器を復元するための工房ができていた。復元された「韓かまど」は県立琵琶湖文化館に保管されたあとだったので、私たちはそれをみることはできなかったけれども、田中さんの工房で復元されていた須恵器などの壺は、ゆっくりみせてもらうことができた。いわゆる新羅焼とそっくりおなじもので、私たちは日本の地にいながら、ここでまた古いその新羅土器を手にとってみることができたわけであるが、素朴な農民だった田中さんは、これからの余生は、それら文化財の保護のためにつくすのだと言っていた。そういう土器の復元に生き甲斐を見出しているということで、しあわせな人だと私は思ったものだった。
大友氏族と大津京
要衝の地にあった唐崎神社
私たちは鄭詔文の運転するクルマで出かけて来ているにもかかわらず、足どりはまだ大津市のあたりにとどまったまま、少しも進まないようである。大津京のあったところとして、天智帝を祭神にしてつくられた近江神宮をすぎると、そこには日吉(ひえ)大社があり、比叡山延暦寺があった。ようやく、かつてはそれの門前町として栄えたという、坂本町にはいったのである。
この辺では「山王さん」とよばれている日吉大社、これがまたなんとも巨大な神社だった。比叡山腹にある神社は、山王七社といわれるもののほか、この地のあちこちに社内百八社、社外百八社と称する摂社・末社が散在し、全国に分布している分霊社となると、これは三千八百余社もあるという。いかにたくさんのエネルギーが、それをつくるためについやされたか、ということでもある。山腹の本社にいたるはるか手前にあった一の鳥居からして、近くには御田明神なる御田神社があり、また二の鳥居のそばには、伝教大師最澄誕生の地といわれる生源寺があって、そのとなりにも大将軍神社というのがあった。
いずれも摂社・末社となっているもので、その末社の一つに唐崎神社というのがある。山王七社、すなわち日吉大社から南々東に約四キロメートルほど離れた湖岸の「唐崎の松」林にあるのがそれである。大社でもとめた『山王さん』というパンフレットによると、そこはこういうところとなっている。
さざ波打ち寄せる琵琶湖の岸辺に生繁る唐崎の松は当社の飛地境内唐崎神社にあります。此の境内は風光明媚な土地柄と、古くは交通の要衝であったため、桓武帝の行幸を始め、京都に都のあった間幾代もの天皇が幾度となく行幸遊ばされ、貴賢の参拝は四季たえませんでした。
だけではない。日吉大社の神輿(しんよ)によるはじめての「神幸」が行なわれたのもこの唐崎で、もともとここは大社とは縁の深いところであったらしい。古くは交通の要衝であったというのは、船によるそれでもあったらしく、『万葉集』の柿本人麻呂の歌にこういうのがある。
楽浪(さざなみ)の志賀の辛崎幸(からさきさき)くあれど 大宮人の船待ちかねつ
ところで、「唐崎の松」と神社のある唐崎というのは、これもさきにみた瀬田の唐橋とおなじようなしだいのものだった。今村鞆氏の『朝鮮の国名に因める名詞考』によると、「辛崎」のほかこれも『輿地志略』『類聚国史』などには「韓崎」「可楽崎」と表記されたもので、「縁由不明なれど、近江は三韓関係の深き地なれば、これに関れるものなるべし」とある。
『万葉集』の柿本人麻呂が「大宮人の船待ちかねつ」とした大宮人とはどういうものであり、それがまたどういうわけでそこにくることになっていたのかは知らないが、ここはそのころ「琴(こと)の御館(みたち)」のあったところだった。琴の御館という「琴の」とは何であるかわからない。しかし、「御館」とは『新潮国語辞典』でみると、「『国府の庁』の敬称」となっている。とすると、ここには「国府の庁」があったことになるが、もしそうだとすれば、それはこの地一帯を支配した大友氏族によるものであったにちがいない。風光明媚な土地柄で、しかも古くは交通の要衝であったというのだから、ここにそういった「館」があったことは充分考えられることである。平安時代につくられた日吉大社の神輿によるはじめての「神幸」がこの唐崎であったというのも、そのことをどこかで暗示しているもののように思われる。
いまある「唐崎の松」というのは、かつての「琴の御館」の庭前に植えられたもので、樹下にある唐崎神社は「御館」に住んでいた宇志麿宿禰の妻、神別当女命(かみわけまさひめのみこと)を祭るものとなっている。神社はそこにある松の大木に感応してできたものかと私は思ったが、するとこれももとは、宇志麿宿禰といったものの妻の墳墓だったものかもしれない。ただし、それはどちらにせよ、いまある「唐崎の松」は一八五九年の安政六年にあった大風で倒れてしまったものの、二代目なのだそうである。
日吉大社の起源
本杜よりも摂社・末社の一つをさきにみたことになったが、山王七社の日吉大社は、比叡山の山腹にあって、たくさんの献灯が両側に立ちならんでいる石畳のだらだら坂を登り、山王峡の清流、大宮川に架かっている重要文化財の日吉三橋を渡ったところがそれだった。山城(京都)の秦氏族によって祭られたものとおなじ大山咋神(おおやまぐいのかみ)を祭神とするもので、景山春樹氏の『近江路――史跡と古美術の旅――』をみるとこうなっている。
坂本には日吉大社がある。比叡の山ふところに鎮座している日吉大社の起こりは東本宮からはじまる。『古事記』には、この神社の創立について「大山咋神(おおやまぐいのかみ)、またの名は山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)、この神は近(ちかつ)淡海(おうみ)国の日枝(ひえ)の山にます……」と書いている。これは日本上代における民族信仰の時期に、東本宮の濫觴(らんしよう)をなす原始的な祭祀が、神体山たる牛尾山(八王子山、小比叡峰)に中心を置いて発生をみたことを述べたものである。その実際の時期は、一般的にみて古墳時代の半ばころ(およそ千数百年の昔)であったと考えてよかろう。
三七八メートルの標高をもつ神体山(牛尾山)は、遠望すると美しく整った山容をもち、その山麓一帯には横穴式の後期古墳が群在している。山頂近くには祭祀遺跡と思える磐境(いわさか)(金大巌(こがねのおおいわ))があり、これを取りまいて牛尾宮と三宮の奥宮社殿(重要文化財)が建っている。むかしはおそらく全山が、一定の祭祀期間以外は入山を禁ずる神の山(禁足地・神体山)となっていたものと思われる。
つづけて景山氏は、『日吉社禰宜口伝抄』を引きながらこう書いている。
山頂にある磐境の地は、祭神の奥津城(おくつき)(陵墓)からはじまるもので、その「荒魂(あらみたま)」をまつる奥宮がまず墓のかたわらに生まれたが、やがてその神霊を山麓にうつして、「和魂(にぎみたま)」と称し、神道的な祭祀を行なうようになったのが、いまの東本宮や樹下宮の起源だというのである。
私たちも、いたるところ清冽(せいれつ)な清水の湧き出ている山腹の東本宮や西本宮などをみて歩いたが、つまり、要するに、日吉大社にしてもその起源は、古墳時代にこの地で繁栄した大友氏族の祖神廟の一つだったのである。それがのちにだんだんと西本宮その他をつけ加えることになって、今日のような大社となったものだった。
延暦寺と最澄、円珍
そのことは、この神社と密接な関係のある比叡山延暦寺の草創についても、おなじようなことがいえる。南都(奈良)の貴族化して頽廃した諸宗派に対決するものとして生まれた山岳仏教の比叡山延暦寺は、さきにみた日吉大社二の鳥居のそばにある生源寺を誕生の地とする伝教大師最澄が開いたもので、この最澄も、大友氏族とおなじ朝鮮渡来の三津首(みつのおびと)から出たものである。首(おびと)というのは小豪族としての姓(かばね)であるが、これは大友氏の支族ではなかったかと思われる。
比叡山寺(ひえいさんじ)(のちの延暦寺)の創立は延暦四年(七八五)にはじまる。この寺に十九歳の最澄(のちの伝教大師)は、山麓にある日吉神社の神宮禅院で得た一粒の仏舎利(ぶつしやり)をささげて山に登り、山上の虚空蔵尾(こくぞうお)に小堂を建て、みずからの手で彫刻した薬師如来像の胎内にこの舎利を納めて本尊とし、小堂を建てて一乗止観院(いちじようしかんいん)と名づけた。比叡山寺はここにはじまり、この堂がのち根本中堂(こんぽんちゆうどう)に発展する。
と、延暦寺のことについても、景山春樹氏の『近江路――史跡と古美術の旅――』にかなりくわしくのべられているが、こうしてはじまった山岳仏教、天台宗総本山としての延暦寺は、のちそこから、これもまた朝鮮渡来氏族の裔(すえ)である智証大師円珍が出るにおよんで、いっそう大きく発展した。そして一方、円珍は比叡山の天台別院として、さきにみた園城寺(おんじようじ)・三井寺(みいでら)を中興したことで、二寺が山門派、寺門派にわかれて対立することにもなったのだった。
一方また、そのようにして対立しながらも、膨大なものとなった比叡山延暦寺には、たくさんの僧兵がたくわえられるようになり、これが日吉大社の神輿を担ぎだして、京都にまで乗出して行っては「強請」をしていたことも有名な話である。しかしそれよりも、私たちがここで注目しないでいられないのは、そのような大寺院や大神社がこの地にあらわれるにいたったことの基礎はなにか、ということである。
それはもちろん、この地の大友氏を中心とした諸氏族の力によるものであったことはいうまでもないであろう。しかしながら、大友村主といい穴太村主といい、また錦部村主といっても、山城の秦氏族などにくらべれば、これはたかだか小豪族のそれにすぎなかった。にもかかわらず、彼らはこの地で、それだけの文化的発展をとげることになったのである。
大津遷都の理由は?
漢(あや)氏ともいわれた大友氏族などのあいだには、今日いわれているシンク・タンクのようなものがあったのかもしれないが、ともかくその力の強大であったことは、他の大豪族にけっして劣らなかったのである。それは延暦寺などがあらわれる以前、すでにここには白鳳時代、寺院としての穴太廃寺などがあったことでもわかるし、また天智帝の大津京(志賀の都)がここにつくられたということからも知ることができる。なおここ穴太には、それ以前さらにまた景行、成務、仲哀三帝の高穴穂宮があったともいわれている。しかしこれは、以上三帝の存在そのものとおなじようにはっきりしない。
だが、いわゆる「大化の改新」以後、六六七年、天智帝により都が大和の飛鳥からここにうつされ、大津京が開かれたことは事実だったようである。そして次の天武帝による「壬申の乱」によって都はまた飛鳥に戻るのであるが、天智帝が大津にやってくることになった理由としては、ふつう、六六〇年に朝鮮の百済が新羅によってほろぼされるにさいし、これを救援するために出兵して敗北したためといわれている。
「白村江の敗退」というのがそれで、ために天智帝は近江の大津にうつって、その守りを固くしたというのである。しかし、事実はどうであったろうか。以前の「大化の改新」にしても、そこには新羅(加耶・加羅)系、百済系、高句麗(高麗)系など渡来氏族たちの入りみだれた対立と抗争とがあったとみている私には、どうもそうは思えないのである。
天智帝が大津へうつることになったのも、大和と近江とにひろがっていた渡来氏族たちの対立と抗争との結果ではなかったのか。もちろん、「白村江の敗退」なども一つの要因ではあったであろう。しかし、それがけっして主たるものではなかったはずである。このことについては、原田伴彦氏の『近江路――人と歴史――』にもこう書かれている。
大津奠都の理由が、国防上とともに、内政の一新にあったとすれば、天智天皇を近江に誘引した一因として、この地の帰化豪族の力が働いていたものではあるまいか――というのが私の想像なのである。ちょうど、奈良の寺院勢力や旧い貴族の圧力をさけて行なわれた桓武天皇の平安奠都のかげの力として、山城の秦氏という帰化族の大きな経済力があったのと、よく似ているのである。
それが、「国防上とともに、内政の一新にあった」だけのものでなかったことは、それから五年後におこった「壬申の乱」によって、この都がまた飛鳥に戻っていることからもわかるように思う。「国防上」のこととしては、大和の飛鳥と近江の大津とでいったいどれだけのちがいがあったというのかわからないが、「内政の一新」ということでは、天武帝による飛鳥遷都によってこそ、はじめてそれが実質的なものとして展開されるのである。
『古事記』や『日本書紀』などのつくられはじめるのもみな天武・持統朝のことで、「壬申の乱」はこの天武帝(大海人皇子)と大友皇子とが帝位を争ったものだった。しかしその「乱」にしても、彼ら二人だけの意思によっておこったものではなかったはずで、これもおなじようなことがいえると思うが、天智帝の大津京については、どうしても、もっと別の要因がそこに働いていたとみられるのである。また、これについて、西田弘氏の『志賀の遺跡』にはこうのべられている。
このような「何故大津に」という疑問に対していろいろな説がでている。そのいずれもが、大化の改新後の新しい政治をおしすすめると共に、朝鮮半島における外交問題の失敗という対外的な危機に対処するという二つの立場から論じられているのである。わたくしは、このような政治的な観点とは別に、志賀がもっていた都を誘致した要素が何であったかということを、この地の遺跡によって考えてみよう。
そして、さきに私たちのみて来た古墳などの遺跡から、次のように結論している。
このような古墳がつくられたのは、天智天皇の大津遷都より少し前の頃であったろう。進んだ大陸の文化をとり入れてわが国の政治の大改革をはかられた天智天皇は、進んだ文化と技術の持ち主である帰化系の人々が多く移り住み新しい発展をとげたこの地を、新政の舞台として選ばれたのである。
しかし、「進んだ文化と技術の持ち主である帰化系の人々」は、当時、大和の飛鳥などにもたくさんいたのである。このことについてはまたのちに考えてみることになるはずであるが、ついでにもう一つ、水野正好氏の「帰化人の墳墓――滋賀郡における漢人系帰化氏族をめぐって――」をみると、西田氏とおなじようにそれらの遺跡を論じて、最後にこうのべている。
七世紀後半には、大友村主、穴太村主は居地、南滋賀、穴太にきわめて雄偉な特色ある屋根瓦をもった白鳳時代寺院、南滋賀町廃寺や穴太廃寺の堂塔伽藍をいちはやく建立するのであり、やがては息長氏や和邇氏に連なる天智天皇は、その系譜もあり、また隆昌をみた漢人系帰化氏族の財力をおもんぱかってか、大友郷内に大津京の造営を実施するのである。大友皇子の御名、大友も、この地の漢人と朝廷の連繋を思わせるものがある。
いずれにせよ、そこにいた大友氏族らの力の大きかったということに変わりはない。私たちはやっとその大友郷を離れ、湖西をまわる国道一六一号線へ出た。
白鬚と猿田彦
西近江路を北へ
湖西をまわる国道一六一号線、つまり、西近江路だった。それを、私たちはまっすぐ北へ向かっていた。まもなく志賀町となり、そこはさきにみた和邇(わに)氏とその支族であった真野、春日、小野氏などの栄えた真野郷だった。なるほど真野川といった地名がいまものこっており、和邇浜水泳場などというのもある。
そして和邇の手前には小野というところもあって、ここには小野氏族の祖神を祭る小野神社や、天皇神社、小野古墳群があり、また、日本最初の遣隋使だった小野妹子の裔で、のちの大文人だった篁(たかむら)を祭る小野篁神社や、『智証大師諡号勅書』などの書家として有名な小野道風を祭る小野道風神社というのもある。どちらもそこの小野氏族から出たもので、近江(滋賀県)といえばわれわれはすぐ「近江商人」といったことを思いうかべるが、江戸時代には陽明学の始祖となった「近江聖人」の中江藤樹など、そういう人物もこの近江からはたくさん出ているのである。
そこまでくると、比叡山系はもう後方となり、左手にはかわりに比良(ひら)山系がずっとつづくことになった。あまり高くはなさそうだったが、かなり深い畳々とした山々だった。そして右手には秋の陽ざしをうつした琵琶湖がひろがっていて、海のようなさざ波を打ち寄せる渚がどこまでもつづいている。田園のあいだにのびている白い道路は、対向車もほとんどない。
詩人の李哲はなにを思っているのか、車窓ごしに琵琶湖の水をじっと見つめたきりであり、鄭貴文もこれまただまったままである。私たちはみな、外にひろがっているその風光に目をうばわれていたのである。
「比良八荒のはなし、知っているかい」とやがて、運転席の鄭詔文が言った。
「知らんなあ。なんだい、それは」
「奈良の水とりと比良八荒がおわれば春がくるという、そのはなしだがね」
「ああ、そうか。してみると、この比良の山々も冬は相当に荒れるというわけだな」と私は、あらためてまた左手の山に目を向けなおしながら言った。「で、そのはなしというのは――」
「なんでも、その比良八荒と春とが結びついたすばらしい悲恋物語だったんだがね。さっきから思いだそうとしているんだけれども、なかなか思いだせないんだ」
「なあんだ、忘れてしまったのか。それにしても、すばらしい悲恋物語とはよかったな、はっはは……」
私たちは、声をあげて笑った。そうこうしているうちに近江舞子あたりをすぎると、高島郡高島町の鵜川となり、湖のなかに突き出ている大きな赤い鳥居が見えてきた白鬚神社だった。
白鬚神社と猿田彦
「良弁、最澄の例からみても、帰化人の子孫が近江の仏教文化と深い関係をもったことがうかがわれる。近江には帰化人と関係をもつとみられる寺社が、のちにのべる百済(ひやくさい)寺のように少なくないが、いまその一、二の例をあげてみよう。まず、白鬚神社である」として、原田伴彦氏の『近江路――人と歴史――』にはこう書かれている。
比良連山のふもと、志賀町の岬のまがりかどの白鬚神社ふきんの風光は、湖畔の景観のなかでも、もっとも美しいものの一つである。白砂青松のなかに赤い鳥居が湖中につき出ている。神社の前を、国道と江若鉄道が走っている。レールを渡って、数段の石のきざはしを下るとすぐ波打ちぎわであるが、琵琶湖の水もここまでくると、清澄そのものである。湖底のさざれ石が手にとれるようにあざやかにみえる。琵琶湖における厳島のミニチュア版といった感じである。これは『三代実録』にみえる比良明神であるが、このあたり一帯の帰化人に信仰された漢神(からがみ)であろうといわれている。
さきに私は漢を「から」とよむばあいもあるといったが、これもその一例で、「漢神(からがみ)」とは韓神(からがみ)ということであり、また「比良」は斯羅(しら)、すなわち新羅でもある。関西ではいまでもしをひと発音する例がみられ、質屋を「ひちや」としていることから、これも比良となったのかもしれないが、とにかく比良明神とは新羅明神ということだったのである。
そして別社名を比良明神としている白鬚神社の祭神は、京都の大田神社などとおなじ猿田彦命である。猿田彦を祭神とする神社はほかにもまたたくさんあるが、白鬚神社としては、関東の高麗(こ ま)明神を白鬚明神としているそれとは別に、近江のこれが総本社で、その分社は九州から北海道にまでひろがっており、現在判明しているもので百五十社ほどがあるとのことだった。
私たちは宮司の梅辻清氏に会ってそんなことを聞いたり、話したりしたが、ここで、関東と関西とにわかれている白鬚(髭)神社と猿田彦命というものについて、ちょっと考えてみたいと思う。たしか関東の武蔵(埼玉県)にある高麗神社、高麗王若光(高麗明神・白髭明神)を祭っているそこにも猿田彦が合祀されていたが、是沢恭三氏の『白鬚明神と猿田彦命』によってみると、まず、関西系のそれをのべてから、高麗神社の分社である白鬚神社についてこう書いている。
武蔵国の地誌として最も詳しい新編武蔵風土記稿からこの社の名を拾いあげて見ても、入間郡だけで大略四十個所にも及ぶのである。分祀の理由を一々調べて見た訳ではないが、恐らくそれらの信仰者の大部分は朝鮮から渡来した人達の子孫か、或はそれに何か関係の深い人達であったろうと想像せられる。この白鬚神社の祭神は、明らかに渡来の神である。
そこで、前に述べた関西系の白鬚明神が猿田彦命とされているので、猿田彦命とは如何なる神であるかを記して、白鬚明神との関連を考えてみることにしよう。
そして是沢氏は、いわゆる国つ神とされている猿田彦が、天孫の天つ神がこの日本の地に降ったときの先導役であったという伝承について説明し、つづけてこうのべている。
これの伝承を考えてみると先導役・案内役と云うものは土地の事情に精通している者でなくてはならない。猿田彦命も勿論この国土をよく知っていて、お迎えの役が勤まったのである。……この命を国つ神といっているのも、その意味である。即ちお迎えした神々は天つ神であって、その天つ神以前にこの国に居た国つ神なのである。国つ神と天つ神とは性格を異にしている。国つ神の祖先は早くからこの国に来ておって、開発に努めていたのである。先方の進んだ文化をこの国に持ち運んで来た神である。先方の進んだ国とはほかならぬ中国か朝鮮なのである。
天つ神がこの国に降られる以前のこの国の物語の中に、多くの中国や朝鮮の話が這入っているのはそれを証している。国つ神といってもその先祖は、それら進んだ文化を持った国から出発して、遠い遠い昔にこの国に移って来ているのである。猿田彦命に導かれて来た神々がやがてこの国土を領有して所謂大和朝廷――日本国家を形成して行くが、その以前にこの国に居た人達、それらを総て国つ神と呼んだ。古事記や日本書紀にあちこちと出て来るその国つ神の人達、それらは大陸から移って来ている。こう考えてみると関東系の白鬚明神は渡来の人であり、関西系の白鬚明神も土地の神となって活動しているが古くはやはり渡来の人であって、白鬚明神と云う称はありふれた詞(ことば)、普通の称呼の様であるが、渡来の人に特に用いられている様に考えられるのである。
ここにいわれている「白鬚明神と云う称はありふれた詞(ことば)、普通の称呼の様であるが……」とあるのがおもしろいが、ところで私は、是沢恭三氏の『白鬚明神と猿田彦命』をこんど読み返したことで、もう一つ目を開かれることになった。
朝鮮渡来人との密接な関係
というのは、さきに私は「大田神社の里神楽」(本文庫第二巻参照)というのを書いたとき、この神社の祭神であった猿田彦と天鈿女命(あめのうずめのみこと)のことにふれた。そして、「大田神社という名からして、いわゆる弥生時代の農耕を思わせるものがあったが、平地の田畑を眼前にした山の辺にあるその神社は、あるいはもしかすると、原型としては弥生時代からそこにあったものかもしれない」と書いている。
別にまちがったことを書いたわけではないが、しかしそれは、私の考えからした一つの推定だった。だが、いま是沢氏のこれをみると、弥生時代ということばは使っていないけれども、私の推定を裏づけるかのように、氏もまたおなじようなことを考えていたことがわかったのである。それを、ここにうつしておくことにする。
次に今一つ猿田彦命の性格を考える上に、天鈿女命を祖先とする猿女君(さるめのきみ)は、男女を問わず猿女君と云ってその祖先は大田命であると云っている。大田と猿女が猿田彦命の名となったのだとの説もあるが、この大田命は伊勢の地主神として知られ、神話の猿田彦命の裔孫であると云われている。所でこの大田と云う詞を大きい広い田を持つ富裕という意味であると解し、諸方にこの名を付けるのは当然であると説く人もある。然し大田の地名は日本に非常に多い。用字の上でも太田・多田・意富陀など様々だが、何れもオオタ或はオオダと訓んでいる。日本地名辞書を開いて見ても、百二、三十は拾える。
それ程広く用いられている大田はただよき意味、よき文字と云うだけであろうか。近頃少しく大田を詮索してみると日本国の中央や九州・本州・四国の主要な箇所に大田のあること、その主たる都邑は今日他と区別する為国名を冠して、石見大田・美濃太田・遠江大田・群馬太田・常陸太田・磐城太田などとなっている。しかもそれら大田の名の付く都邑は共通してその近くにかなり有名な鉱区の存在する事である。而して更に大田の持つ伝承をたどってゆくと風土記などにも見える通り、多くは渡来の人達の開発した所の多い事である。大田を渡来の人と関係があるとは必ずしも妄断ではなかろうと資料を蒐(あつ)めている。白鬚明神・猿田彦などと深い関連のある大田命、それらを併せて遠く日本の古代に渡来した人々によって開発せられたこの国の歴史を考えて見度いと思っている。
「大田」とはやはり、朝鮮渡来人と密接な関係があるものだったのである。そして猿田彦というのは、朝鮮語サル(米)田の、その大田のために祭った農耕神だったのかも知れない。
しかし、猿田彦を祭っている白鬚神社が、別名を新羅明神、比良明神ともいわれるようになったのは、かなりのちになってからではなかったかと思う。それは日本古代文化の重層性を反映したもので、弥生時代と次の古墳時代とがそこに折り重なっているからではないかと思われる。つまり、それが比良明神となったのは、そこにある白鬚神社古墳群や鵜川古墳群などとの関係によって生じたものではなかったか、と私は思うのである。
私たちは白鬚神社の背後、鵜川の山中にあるそれらの古墳群や、また四十八体という地名のところに、四十八体の石造仏があるといわれるそれもみたかったが、しかしもう午後もかなり時間がたっていたので、さきを急ぐことにした。高島町を出はずれると、そこは安曇川(あどがわ)町となっているところだった。
安曇と饗庭野
安曇族の稲荷山古墳
安曇(あど)――なんだかちょっとなつかしいような気がしたが、そのはずだった。また引用だけれども、景山春樹氏の『近江路――史跡と古美術の旅――』にこうある。
湖西で一番大きな平野は安曇川(あどがわ)の形成するデルタ地帯であるが、安曇(あずみ)族の活躍した地盤もやはりこの平野である。彼らは朝鮮系の民族とされているが、おそらく北陸方面から入ってきて土着したものであろう。その中心にあるのが高島郡三尾(みお)の稲荷山古墳である。明治三十五年の道路工事によって遺物を出土し、京都大学の調査により、巨大な家形石棺と金銀の宝冠や耳飾、金装の太刀や馬具など、多くの遺宝が発見されたことで、考古学上著名な遺跡である。それらの出土文物が示すところ、やはり朝鮮の文物であったことを明示している。このあたりには拝戸の古墳群があり、また延喜式内水尾神社があって、やはり古代文化の一つの中心圏をなしていたことが知られる。古典に水尾公(みおのきみ)として知られる部族の本貫地で、地名は三尾として今日に伝えられる。
また、ついでに原田伴彦氏の『近江路――人と歴史――』をみるとこうなっている。
高島郡の鴨稲荷山古墳からは、鏡や金銅製大刀のほかに、南朝鮮の古墳で発見される純金の耳飾りや金銅製の冠、馬具などが発掘されている。これらの品々は朝鮮では第一級のもので、あるいは帰化系の有力な豪族の墓ではないかといわれている。
これではもう、私のいうことはないようなものである。ただ、ここにみえる「朝鮮系の民族とされている」安曇族とはなにかということであるが、これについても、原田伴彦氏の『近江路――人と歴史――』にはっきりとこう書かれている。
古代日本の黎明期に、北九州の玄海灘を本拠に活躍した安曇族(あずみぞく)海人といわれる一グループがあった。彼らは各地に発展し、その足跡は南は淡路から、東は北信州の安曇郡一帯にまで及ぶが、その一隊は、敦賀、小浜をへて湖西の地にまで進出したとみられる。
かんたんにいえば、「安曇族(あずみぞく)海人」というのは「漁民」のようなものであったかともみられるが、しかしもしそうだとすると、彼らの造営したものとみられる稲荷山古墳からの出土品が、「南朝鮮の古墳で発見される純金の耳飾りや金銅製の冠、馬具」などであるのは、ちょっとそぐわないような気がしないでもない。それらは海的なものであるというより、むしろ陸的なものなのである。
要するに、彼ら安曇族なるものにしても、いろいろなものがあったと思われるのであるが、海上氏族としての安曇というのは、いわゆる海人(あ ま)の安曇部(あずみべ)であった。そしていまなお日本の各地にみられる安積、厚見、渥美などの地名は、同氏族に由来するものであるとされている。
私たちは、安曇川町三尾にあったといわれる稲荷山古墳をたずねてみようということになっていた。しかし、そこまで来て気がついたのだったが、「明治三十五年の道路工事によって遺物を出土し」とあるからには、もうそれは跡形もなくなっているにちがいなかった(のちになって知ったが、その古墳跡は石棺とともに、いまなお保存されている)。
で、何となく北国的な感じとなってきていた町なかの家並みのあいだを、そのまままっすぐに走った。ここがかつては安曇族の栄えたところだったかと思うと、そんな感慨もなくはなかったが、どことなくくすんだ感じの家並みがつづいているだけで、そういうおもかげなどは少しもなかった。
波爾布神社をたずねて
水底の浅い安曇川に架かった橋を渡ると、そのとなりは、これまたむつかしいよみの饗庭(あいば)町だった。むかしから饗庭野といわれているところだったが、となると、私には一つ思いだすことがあった。
先年、といっても、もう十年以上もまえのことだった。私は、『朝鮮――民族・歴史・文化――』(岩波新書)という小形の本をだした直後のこと、いろいろな人からかなりの手紙をもらったが、なかに近江の饗庭野出身だという人から来たもので、次のような意味のものがあった。
あなたの書いている朝鮮の「歴史・文化」は、日本の近江の饗庭野にもある。それはどういうことかというと、ここはもと木津(こうづ)氏の本貫地であった。木津氏というのはもと遠江(静岡県)の浜名湖にはじめて橋を架けた朝鮮からのいわゆる帰化人で、饗庭野のここにはいまその木津氏を祖神として祭る波爾布(はにふ)神社がある。そしてこれがいまなお、周辺十三ヵ町村の郷社となっている。波爾布神社のはにふというのは、すなわち埴土(は に)ということで、これは土木の神を意味したものであった。――と、それはたしか、相当な学者らしい堂々とした筆書きのものだったとおぼえているが、以後、私はその饗庭野と波爾布神社というのがずっと気になっていたのである。
「ふむ、なるほどね」と私からそのはなしを聞くと、鄭詔文は笑いながら言った。「なんだか、ちょっと小説みたいなはなしだな」
「いや、これは小説じゃない。論より証拠だが、ここに波爾布神社があるかどうかということで、それはわかるはずだ」
私たちはクルマをとめて、通りがかりの人にきいた。すると、波爾布神社はもうちょっと行ったさきで、そこを左に折れてはいったところにあるという。
「うむ、なるほど」と、またおなじことを言って鄭詔文はクルマを走らせたが、しかしたずねあてて行ったそこは、波爾布神社ではなかった。樹木の生い茂った小山のうえにあるそれは建速神社で、神社のある小山は古墳だったらしく、「建速神社古墳群」という標柱が立っている。
横に旅館をかねたような集会所があり、なかから一人の老人が出て来たので、私はまたきいた。老人は、波爾布神社はもっと山寄りの向こうにあると言い、何だったら自分が案内してもいいという。ちょうどさいわいというもので、私たちはその老人をクルマに乗せ、稲田のあいだのゆるい坂道を、山のほうへ向かって行った。
樹木のなかに谷川があって、橋の向こうの台地に古びた建物がならんでいたが、それが波爾布神社だった。老人ともども、私たちは神社の石段をのぼって行った。が、あたりはただ森閑としているばかりで、人のいる気配はどこにもなかった。あとで調べてみてわかったことだけれども、それは『延喜式』にもある古い神社だったが、しかし古いなりで、そのまま打ちすてられたような神社だった。
「ずいぶんさびしいことになっていますね。社務所は、どこにあるのでしょうか」
風雨にさらされたままで、手入れもなにもされないでいる境内をあちこち歩いて、私は老人にきいた。
「これといった社務所はないですが、宮司はいます。わたしの親戚で、松田正次というのですがね」
「ああ、そうですか」と、私はそのときになってはじめて名刺をだし、老人の名をきいた。老人は、松田幹一氏というのだった。
「宮司の松田さんは、――ちょっとお目にかかりたいと思いますが、どこでしょうか」
「家におります。けれど、いま病気でねているで、ききたいことがあったら、わたしに言ってください。あとでとりつぎますで」
木津氏族とは?
それでは仕方なかったが、しかし、いっしょに来てくれた老人の松田さんは、その波爾布神社の祭神がだれであるかはよく知らないようだった。私たちは神社の石段をおり、橋をわたって樹林を抜け、クルマをとめてあるところへ出た。
小高い丘のうえで、そこから下は、一面稲田となっている饗庭野のゆるやかな勾配がひろがっていた。かすんでいてよく見えなかったけれども、前方の向こうは琵琶湖のはずだった。
「なかなかゆたかそうな村ですね」と私は、金色となりはじめていた稲田を見わたしながら、念のためまた松田さんにきいてみた。「ここには昔、木津氏というのがいたそうですが……」
「ええ、そうですね。ここは昔、木津郷といったところだそうです」
「そうですか、なるほど」
私はやはり、きいてみてよかったと思った。やはり、いつかのその手紙に書かれていたとおりだったのである。
とすると、山城(京都)の南を流れている木津川(きづがわ)というのもここの木津氏族となにか関係があったのかもしれなかったが、それにしても、この木津氏が遠江の浜名湖に橋を架けたものだというのは、いったいどういうことだったのであろうか。浜松市の江之島には新羅明神を祭る新羅神社というのがあるが、それとここの木津氏族とはなにか関係があるのだろうか。
渥美静一氏の「浜松の新羅大明神と開発者小笠原基長」によると、浜松のそれはこうなっている。
浜松市江之島にまつる新羅大明神は、ひろく、旧五島村地区に新田開発を行った小笠原源太夫基長が同地鎮護のため、自身の祖神を近江国(滋賀県)志賀郡から勧請したものである。源太夫の祖先は源頼義の三男新羅三郎義光であり、義光は帰化氏族大友氏の氏寺園城寺にまつる新羅大明神の氏人として知られている。このゆかりによって、小笠原源太夫が祖神をその開発地に勧請することは、まことに自然の理というべきであろう。
何のことはない。これはさきにみた園城寺(おんじようじ)・三井寺(みいでら)のそれだった。してみると、大友氏族の祭神であった新羅明神も、また白鬚神社の比良(ひら)明神すなわち新羅明神も、それからまたこちらの木津氏族も、そのもとはもしかするとみなひとつながりのものであったのかもしれない。
天日槍について
天日槍の渡来説話
私たちは饗庭野から、湖畔の今津町へ出た。もうすっかり、夕暮れとなってしまっていた。が、そのような夕暮れであるために、湖畔の景色はいっそうよかった。松などの並木道がどこまでもつづき、すぐ右手には琵琶湖の水が夕暮れのなかに、しっとりとしずまっていた。
やがてマキノ町となり、さきを急がなくてはならなかったので、私たちはそこから一気に、琵琶湖最北の木之本町まで走った。高島郡から伊香(いか)郡となったわけで、私たちはその木之本町の横井旅館というのに一泊し、翌日は「伊香(いか)の天女伝説」ということでも知られている余呉湖へ行ってみようということになっていた。
余呉湖ばかりではなかった。ここでもまた行ってみたいところは多く、近くの己高(こたかみ)山には今井啓一氏の「帰化人と社寺」にみられる鶏足寺趾があり、また古橋古墳があって、そこへも行ってみなくてはならなかった。鶏足というものが朝鮮・新羅の国号であった鶏林と関係があろうということは、今井啓一氏の『帰化人の研究』にも指摘されているが、だいたい、これまでみてきたことでもわかるように、この近江というところは、となりの北陸一帯とともに新羅文化圏に属していたものだった、といってもけっして過言ではない。
もちろん、文化だけがひとりでにやってきたものではなかった。それはたくさんの人々の渡来・移住を意味したもので、それにともなったさまざまな伝説や説話もまた実にゆたかである。井野川潔氏の「『天女伝説』の渡来と移動」によると、余呉湖の「伊香(いか)の天女伝説」にしても、これは天日槍(あめのひぼこ)(矛)族の移動のあとをものがたるものだとしているが、天日槍などの渡来ということについては、原田伴彦氏の『近江路――人と歴史――』にこう書かれている。
日本書紀によると――第十代の崇神天皇のときに、ヒタイにツノのある人が越(こし)の国の笥飯(けひ)の浦にやってきた。そこで角鹿(つぬが)という地名が生まれた。いまの敦賀(つるが)である。彼は大加羅(おおから)(朝鮮の慶尚南道あたり)の王子で、ツヌガアラシト、一名をウシキアリシチカンキといい、日本に聖王がいるときいて帰化しにきた。はじめ穴門(あなと)(長門国)に着き、やがて出雲をへて、沿岸づたいに若狭湾に上陸した。彼は大和朝廷に仕えたが、垂仁天皇の三年に、帰国したいと申し出た。天皇はそれをゆるし、彼の旧領の大加羅をミマナ(任那)と改めることを命じた――という話がある。また垂仁天皇のとき、新羅(しらぎ)の王子天日槍(あめのひぼこ)が帰化し、播磨から、近江に入り、やがて若狭をへて但馬(たじま)に土着したという記述もある。蒲生郡竜王町に国道八号線にそって旧東山道の鏡の宿がある。ここにある鏡神社の本殿は鎌倉末につくられた重要文化財だが、この社は天日槍をまつっている。
原田氏はさらに、「これらは、日本が古代に朝鮮の一部を支配したということを説明しようとして、作為された話のひとつだが、そこには、古代において朝鮮、九州をふくめて日本海沿岸地方と近江とのあいだにかなりの交流があったという背景がよこたわっているように思われる。湖西の高島郡の『安曇(あど)』という地名もこれとは無関係ではなかろう」として、さきにみたような「安曇族(あずみぞく)海人といわれる一グループ」のことにおよんでいるのであるが、ここにいわれている「ツヌガアラシト」(都怒我阿羅斯等)、ことに天日槍とはいったい何であったのか、ということについてちょっと立ち入ってみたいと思う。
「新羅から来た日槍」
原田氏もはっきりとのべているように、もちろん「大加羅をミマナ(任那)と改めることを命じた」などと、「これらは、日本が古代に朝鮮の一部を支配したということを説明しようとして、作為された話のひとつ」である。が、しかし、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)だの天日槍といったような人物が実在したかどうかは別として、これらは弥生時代のはじめからずっとつづいてあった、古代朝鮮からの渡来のそれを反映した説話であることにまちがいはない。
だいたい都怒我阿羅斯等も、天日槍もこれはもと一つであったはなしが二つの人格のそれとしてわかれたものではなかったかと思われるが、どちらにしろ、これからもたびたび出てくるはずの天日槍は、この近江にとっても重要であるばかりでなく、古代日本神話を解くといううえでも重要な位置をしめているものである。たとえば、中田薫氏の『古代日韓交渉史断片考』をみると、まずその最初が「天日槍考」となっていてこうある。
書紀垂仁紀三年条に、新羅王子「天日槍」が種々の宝物をもたらして播磨海岸に漂着した記事がある。此「アマノヒホコ」の「アマ」(天)と云う語は、一般的には我天孫民族の故郷を指したものであるが、事実は朝鮮半島所謂「韓郷島」、殊に「新羅」を指していたことは疑いない。されば「アマノヒホコ」は「新羅から来た日槍」と云う意味に外ならない。
ここにいう「種々の宝物」とは何であるか。『日本書紀』垂仁三年条によってみると、それはこうなっている。
三年の春三月、新羅の王(こきし)の子天(あめ)の日槍来帰(ひほこまい)けり。将(も)ち来たる物は羽太(はふと)の玉一箇(ひとつ)、足高(あしたか)の玉一箇、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉一箇、出石(いずし)の小刀(かたな)一口(ひとふり)、出石の桙一枝(ほこひとえ)、日の鏡一面(ひとつ)、熊の神籬(ひもろぎ)一具(ひとそなえ)、并(あわ)せて七物(ななくさ)なり。但馬(たじま)の国に蔵(おさ)めて常に神の物となしき。
なお、近江との関係についてはこうある。
ここに天の日槍、莵道河(うじがわ)より泝(さかのぼ)りて北の方近江の国の吾名(あな)の邑(むら)に入りて暫住(しまし)み、また近江より若狭の国を経て、西の方但馬の国に到りて住む処を定めき。この以(ゆえ)に近江の国の鏡谷(かがみはさま)の陶人(すえびと)は、天の日槍の従人(つかいびと)なり。
「吾名(あな)の邑(むら)」や「鏡谷(かがみはさま)」についてはあとでみるとして、さきにまず、ここでたいせつなことと思われるのは、天日槍がもたらしたという「七物(ななくさ)」の「神の物」ということである。これだけをみても、それをもたらしたものがただ「海岸に漂着した」ものでないことははっきりしているばかりか、なかでも「玉」とともに重要なのは、「出石の桙一枝(ほこのひとえ)」「日の鏡一面(ひとつ)」「熊の神籬(ひもろぎ)一具(ひとそなえ)」ということである。日本古典全書『日本書紀』の「注」により、これをかりに一、二、三としてみると次のようになっている。
一、同じ地名に依る名。一枝は一本に同じ。二、日の形に造った鏡。三、未詳。熊は美称で甘の義であろう。神籬は神を祭る壇として作られたものであろう。
一、二はともかくとして、三は「未詳」としていながら、「熊は美称で甘の義であろう」としたのは、いったいどういうわけであろうか。「熊」がどうして「美称で甘の義」であるのか。「美称」はともかくとしても、「甘の義」などとはでたらめもはなはだしい。
日本のこういった学者たちはどういうわけか(わけもわかっていると思うが)、日本古代が朝鮮と関係することになると、それをこのようにしてぼかしたり、ごまかしたりしているのであるが、ここにみえる「熊」は、朝鮮、日本共通のその「熊」のことであるのはいうまでもないはずである。まず、朝鮮建国神話の一つである檀君(ダンクン)のそれからみることにしよう。
朝鮮建国神話から
――天帝(神)の子桓雄(ハンウン)は父のゆるした天符印、すなわち風伯、雨師、雲師の三職能神をあたえられ、三千の部下を率いて太白山に天降った。すると、そこにいた熊と虎とが人間になることを望んだので、これにヨモギとニンニクとをあたえ、百日のあいだ日光をさけて穴居するように命じた。だが、虎はその命にそむいたので人間となることができず、熊のみ願いかなって人間の女性に生まれかわった。そこで桓雄はこの女性(熊)をめとって、檀君を生んだ。檀君は王位をついで都を平壌にさだめ、その国を「朝鮮」と号した。――
これが檀君神話のかんたんなあらすじで、その都の平壌はのち高句麗が都としたところでもあった。以後、かどうかは知らないけれども、朝鮮語コム(熊)はあの動物の熊をさすと同時に、「聖なる」という意味をもつことにもなったのである。インコム(人熊)というときはそれが「王」ということになり、コン(公)ということもこれからきたものだったと思われる。
それだったから、古代の日本では高句麗のことをコマ(高麗)といい、あるばあいは当時の百済、新羅など朝鮮全体をさしてコマともいったが、それもこのコム(熊)からきたものではなかったかと思う。それ以外、朝鮮をさしてなぜコマといったか、理由がわからない。神宮・神社にあるコマ(狛)犬もおなじである。
したがって、天日槍がもたらした「熊の神籬(ひもろぎ)」というのは、「聖なるコマの神籬」ということであり、「神籬」とは神宮・神社であること、これはもういうまでもないであろう。つまり天日槍は、『三国史記』によると朝鮮の新羅では紀元六年に第一代王の赫居世(ヒヤクコセ)を祭る始祖廟がつくられて、のち「神宮」となるその神宮・神社を、はじめてこの日本にもたらしたものかもしれなかった。玉・鏡・桙(剣)などのいわゆる三種の神器もここにみえている。
日本各地にいまもある熊野、熊野神社などというものにしても、それはこのコム(熊)、コマ(高麗)からきたものとみなければならない。中島利一郎氏の『日本地名学研究』によれば、「野」はナラ(国)ということでもあったから、熊野とはコマの一つのナラ(国・中心地)であったかもしれないのだ。
『日本神話と近江』
天日槍の「天」というのが日本のいわゆる「天孫民族」の故郷をさしたものであり、それが朝鮮の新羅をさしたものであることは、さきの中田薫氏の『古代日韓交渉史断片考』でみたことであるが、橋本犀之助氏の『日本神話と近江』によると、これもその「天孫民族」のいた第一の「高天原」を朝鮮とし、彼らがやって来たところを近江に近い越前(福井県)の敦賀湾としている。すなわち日本神話の国生みで有名な伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の「二柱の神が組立船に乗り、朝鮮半島から『天降り給う』たこと」を、次のようにのべている。
扨(さ)て、朝鮮南部地方から渡来するとすれば、先ず日本海に分流している黒潮暖流に乗って舟を進めなければならない。前述のように、岐美二柱の乗って来られた船は、多数の水手に依って漕ぐ組立船であった。併(しか)し乍(なが)ら、高天原渡来民族は相当高い文化を持った民族であったから、其の試みた海外の高天原からの移動も、単に艪櫂(ろかい)のみに依頼せず、多数の水手を用いると同時に、帆を揚げて風力を利用したものと想像することができる。……
斯(か)くして朝鮮半島から乗出した船は、当然若狭湾一帯の裏日本に着く筈である。ところが、裏日本に於ける海岸線の状況は極めて単調で、現在の状を以って大略建国当時を推測することができるように思われる。
扨て、裏日本に於て屈曲のあるのは只前述の若狭湾のみである。而して若狭湾は舞鶴湾、小浜湾、及び敦賀湾の三つから成っている。ところが、舞鶴湾も小浜湾も其の湾口が複雑なのに反し、敦賀湾のみは其の湾口が解り易く、単調で、且つ西方から入るのには極めて都合よく出来ている。
そして橋本氏は、こうして古代朝鮮からやって来たものたちの根拠地を第二の「高天原」として、それを近江であったとしている。この説が学界などではどのように評価されているのかは知らないが、しかしその考証はなかなか詳細をつくした説得力のあるもので、上陸地であった敦賀湾地方については、さらにまた次のようにのべている。
以上のように、岐美二柱の渡来後は、度々朝鮮半島から裏日本への交通が行われたものと見なければならず、常に敦賀湾地方が其の要路に衝(あた)っていたと思われる。従って、越前から若狭、近江北部にかけては、渡来した朝鮮の民族多く、ために宛然(さながら)中世頃伊太利のロンバード商人が英国に渡来して倫敦(ロンドン)に建設した街をロンバード街と呼び為(な)していたように、或は又我が国の広島県より亜米利加(アメリカ)への移民が広島村を造ったように、更に又嘗(またか)つての大陸への日本移民が分村を行い、郷里の地名を共にもたらしたように、是等(これら)の地方を其の郷里の地名そのまま韓(カラ)郷と呼び為し、或は新羅と呼び為していたのではなかろうか。今も尚北陸本線柳ケ瀬トンネル附近に「カラコ山」があり、近江路に入って東浅井郡に唐(カラ)川や唐国等の地名も残っている。又伊香郡余呉湖の畔(ほとり)に新羅崎神社あり、尚敦賀湾を扼(やく)している半島(立石半島)の先端にも白木なる地名が残っていて(福井県敦賀市松原村)、今も此の地方の半農半漁の村人は、自分達の先祖は朝鮮の王家の者で、此の地に渡来して土着するに至ったものであると、口伝えに伝えている。
面白いのは此の白木の村である。白木は元々新羅と書いたものであるが、中古白木と改めるに至ったものであるとは、白木村に関する研究家敦賀の町の神山翁(今は故人)の話である。村人は鶏を神聖視して食わず、従って之を飼育しない奇習があり、白木村は全く卵のない村である。村人の神仏に対する信仰の念の篤(あつ)いことは、全く想像以上で、各戸の家長は毎朝必ず産土(ウブスナ)神社に参拝し、夫(そ)れから村の寺院に参詣し、祖先の霊を慰めることになっている。家族の者も亦(また)神仏の礼拝を済して家長の帰りを待ち、一家揃って楽しく希望に充ちて朝食の箸をとることになっている。而して神仏に対する礼拝は朝鮮の夫れの如く全くの平伏である。神を敬い働くことを楽しみにしている此の村には一人の貧乏人もなく、平和に恵まれている。
この白木の村には、先年、私も行ってみたことがある。しかし、「鶏を神聖視して食わず、従って之を飼育しない奇習があり」「全く卵のない村」であるとは、橋本氏のこれを読んではじめて知ったことである。たぶん、朝鮮・新羅の別号が鶏林であったことからきたものと思われるが、その点では朝鮮自身よりいっそう「新羅的」であるといえなくもない。
なお、この白木の村にある産土神社とは白城(しらぎ)(新羅)神社のことであるが、敦賀のそれは白木の村とは限らない。敦賀市内にある北陸一の宮の気比(けひ)神宮からして祭神は伊奢沙別(いささわけ)、すなわち気比大神その他となっているが、『神祇志料』や旧社記ではそれを天日槍としており、今井啓一氏なども「気比大神は天日槍であろう」としている。
ばかりか、ほかにも敦賀には信露貴(しろき)(新羅)彦(ひこ)神社があり、北陸トンネルを越えた向こうの今庄にも新羅神社や白鬚神社がある。そしてまた、「日野川は古くは信露貴川、叔羅川と書き、のちには白鬼女川と書いたらしい。シラギガワと発音するのが正しいようだ。『新羅』とも語源の上で関連があるらしい。いまでも白鬼女橋がかかっていて、昔の名残りを止めている」(青園謙三郎『よみもの福井史』)などというのもある。
いつの間にか、はなしが越前の福井にまでのびてしまった。近江へ戻らなくてはならない。
余呉湖とその周辺
さて、翌日、私たちは木之本町から、まず余呉湖へ向かった。ちょっと行ったところ、もう余呉村となり、「余呉湖へ」としたまがり角のところに鉛練比古(えれひこ)神社があった。またも神社だったが、これも祭神は、白木明神といわれている天日槍であった。鉛練比古の鉛練は白粉で、新羅ということの仮字ではないかとみられている。
いわゆる『延喜式』内の古社だったが、しかしいまは見るかげもなく荒れさびれてしまっていた。私たちはクルマのなかからちょっとのぞいただけで、すぐにそこから去った。
余呉湖はなるほど、「天女伝説」といったそんな説話の生まれそうなところと思われた。表面みたところ、こここそは本当に平和郷といいたいところだった。四方を山に囲まれて、丸い盆のような湖を見おろす一方の山麓にだけ村落があって、これまたそこにだけ、秋の陽がさんさんと降りそそぐようにあたっていた。
湖岸にそってずっと道がつづき、クルマで一周するには三十分とはかからないように思われたが、途中、私たちはとおりがかりの農家の人に、新羅崎神社はどこにあるのかときいた。すると、その神社は北野神社に合祀されて、いまはないというのだった。そして農家の人に、念のためにきいてみると、それは新羅崎ではなく、新羅城神社だったと掌に字を書いて教えてくれた。
橋本犀之助氏の『日本神話と近江』には新羅崎神社とあったが、どちらがただしいのか。おそらくそれは新羅崎、新羅城であっても、どちらも「しらぎ」(新羅)とよんだものにちがいなかった。さきにみたように、なにしろ新羅を信露貴、白鬼女ともしたのだから、これなどまだずっとはっきりしているほうである。
私たちは農家の人から北野神社や宮司の名を教えてもらい、その北野神社をへて、宮司の桐畑明氏の家をたずねて行くことにした。小さな村落で、神社には別に社務所といったものはなかったからだが、ところがそれでしばらくのあいだ、私たちは困ってしまった。というのは、いまさっき農家の人に道で出合ったのはまったく偶然のようなもので、村落の家々は、どこもまったく人がいなかった。どちらもみな山か野へ働きに出てしまっているらしく、いくら声をかけてもだれ一人出てこない家ばかりである。しかも、どこの家も戸は開け放しだった。こんなことを書くと、どこかの泥棒氏がここへ駆けつけるということになっては困るが、表面だけではなく、まさに平和郷そのものだった。
私たちはやっと一人の老婆のいる家に行きあい、桐畑氏の家をきいた。と、その桐畑氏も製材所へ働きに行っているから、いまはだれもいないだろうとのことだった。宮司とはいっても、専職ではなかったのである。しかし、家はそこから見えている路肩の下にあったので、私たちはそこまで行ってみた。
小さな、丸っこいかたちの家だった。やはり、留守のようだった。戸に手をかけてみると、するすると開く。わるいとは思ったけれども、私と鄭貴文とは土間となっているそこへはいって、なかをのぞいてみた。
部屋の障子は開けっ放しだったから、床の間にかかった白い掛け軸がみえた。それには大きな字がただ三行、次のように書かれている。
山 野 大 神
天 照 大 神
新 羅 大 神
新羅大神と、それが忘れられずにあるところ、いかにも余呉湖らしかった。私はそれをカメラにおさめたかったが、しかし、そこまではできなかった。私たちはすぐに外へ出て、もとどおり戸を閉めた。
阿那の息長氏族
湖北あちらこちら
余呉湖から木之本へ戻った私たちは、そこから鶏足寺や古橋古墳などのある己高(こたかみ)山のほうへ向かうつもりでいたが、そちらは省略ということにした。また、木之本にも当地開発者の祖神を祭ったもので、これも朝鮮語フル(村邑)からきたはずの意富布良(おおふら)神社があったが、それも略すことにした。
そこまでいちいちたずねていたのではきりがなかったし、時間もなかったので、木之本からそのまま国道八号線へ出た。そして湖北から湖東をへて、湘南の大津に近い草津を目ざして進むことにした。
なぜ草津を目ざしたかというと、ここには鄭詔文の経営するレストランがあったからだった。私たちはひとまずそこまで行って、草津はじめ、まだたずねていなかったあちこちをまわってみよう、ということだったのである。
もちろん、その途中でもまだ行っていなかったところ、行ってみたいところはたくさんあった。たとえば私たちがクルマを走らせていた国道八号線の右手、琵琶湖寄りだけをとってみても、木之本からちょっと行ったさきに唐(から)千田というところがあり、またそのさきの高時川沿いには唐国というところがあった。
この唐千田、唐国にしても、これはさきにみた瀬田の唐橋や唐崎とおなじように、もとは韓(から)であったにちがいなかったはずである。すなわち新羅(韓)から渡来したものたちが集落をつくったところのはずで、近江の湖北が第二の「高天原」であったとしている橋本犀之助氏の『日本神話と近江』によるとこうである。
此の時代に新羅と云えるは、朝鮮半島そのものを指したのではなく、少くとも記紀の出来上った時代迄に、若狭、越前から北江州へかけて渡来して来た朝鮮民族の部落を指すに、其の本国の名を以ってしたものであろう。
金錫亨氏の朝鮮「三韓、三国の日本列島内分国」論を思わせるような説であるが、橋本氏はさらにまたつづけてこうのべている。
而して、曾尸茂梨(そしもり)は熊曾、筑紫の曾及び紫をとって曾紫即ち曾尸としたもので、茂梨は即ち森、森は叢で、村の意味であると見る可く、斯くて書紀の一書に現われた「新羅曾尸茂梨」は、新羅の曾尸茂梨と云う土地を指しているものではなく、新しく渡来して来た朝鮮民族の部落や熊曾や筑紫の村々と云うように之を解釈しなければならない。尚、古代に於ける筑紫も熊曾も共に湖北の一地名に過ぎなかったことは既にさきに述べた筈である。而して、前章に於て述べたように、北部湖北平野即ち伊香地方に特に須佐之男命に関する伝説多く、又「根傍国」たる醒ケ井附近に須佐之男命を祭神とする神社の数多くある事実は、右の論断の独断ならざることを有力に物語っている。
「新羅曾尸茂梨」について、この説がただしいかどうかはともかくとして、近江全体がそうであるように、湖北のこの地も朝鮮・新羅と密接な関係のところであったことはたしかなことである。
曾尸茂梨の曾はもとより、熊曾の曾や筑紫の紫も新羅の原号であったソ=斯羅(しら)(羅は那とおなじで国土という意)からきたもので、金沢庄三郎氏などによると、これはさらに転訛して阿蘇、伊蘇、伊勢、宇佐、須佐、周防、諏訪などとなっている。
須佐之男命(素戔嗚尊)の須佐なども、これからきていることもちろんである。人名にしてもこのほかまだ襲(そ)津彦(襲の男)、狭(さ)手彦(狭の男)などいくらでもある。
息長氏族の出自
さきを急ごう。だが、唐国から塩津街道をちょっと進むと、そこは長浜市だった。この長浜もとなりの坂田郡近江町を中心としていたとみられる息長(おきなが)氏族の繁栄したところで、そのことについて、景山春樹氏の『近江路――史跡と古美術の旅――』にこういうことが書かれている。
湖北の長浜近在に本拠をもっていた息長(おきなが)族は中国系の帰化民族だが、神功皇后の出身地として知られていることのごとき、また古典に出てくる天日槍の活躍や、湖西の平野に本拠を占めていた安曇族など、ともに外来の帰化族としてその存在が知られている。
天日槍(あめのひぼこ)や安曇族のことはさきにもみたが、息長氏族を「中国系の帰化民族だが」としているのは、どういう根拠からであったろうか。『古事記』には天日矛(槍)の外曾孫である息長帯比売(たらしひめ)とあり、『日本書紀』には気長足姫(たらしひめ)となっている神功皇后の父親という息長宿禰王は、開化帝から出たものということになっている。もちろん私は『古事記』や『日本書紀』をそのまま信じるものではない。しかしいろいろな状況からみて、長浜近在にいた息長氏族が、「中国系の帰化民族」であったとはとうてい考えられないのである。
それより、次のような所説はどうであろうか。杉本苑子氏は、神功皇后とその父親についてこう書いている。
彼女、名まえは息長足媛(おきながたらしひめ)という。
お父さんの息長宿禰(おきながのすくね)は、朝鮮系の帰化王族だった。(『すばらしきかな悪女!』)
むろん、どちらでもいいようなものではある。しかし、神功皇后の名の帯比売(足姫・媛)ということからして、それからまた、湖北の長浜というこの地方が、古代は朝鮮・新羅の文化圏にあったことからして、私にはどうも杉本説のほうが正しいのではないかと思われる。
はたして神功皇后というものが実在したかどうかは別として、『古事記』などにいう帯比売のタラシというのは、日本の古代史になかなか重要な意味を持っているものなのである。タラシのシは、これも曾尸茂梨の尸(し)とおなじように、「の」ということの助詞で、それをとってみるとこれはタラ、すなわち古代南部朝鮮の小国、多羅(たら)となる。つまり、帯比売(足姫・媛)とはその多羅の姫ということなのである。
古代の天皇家をワケ系、タラシ系というふうにもみているこのタラシということについては、これまでにもいろいろな議論があって、タラシとは鉄文化の渡来を意味したタタラ(蹈鞴=ふいご)からきたものではないかという説もあるが、しかし、私はやはり多羅であったと思う。多羅の姫であったということは、神功皇后のまたの名、神号が辛(から)(韓)国息長大姫神であるということも、私はそのことを裏書きしたものと思うのである。
安羅=安那=阿那
それからまた、長浜からちょっと行ったさきの米原(まいばら)町には、いまも多良(たら)というところがある。米原町や息長村のあった近江町のここは坂田郡で、かつてここにはまた多羅とおなじ古代南部朝鮮の小国、安羅(あら)(那)からきた阿那(あな)郷のあったところだった。そして宇野茂樹氏の「近江の帰化氏族」によると、この阿那がどう転じてそうなったのか、のち息長となり、さらに息長村となったのだった。
多羅と安羅とは現在の南朝鮮、韓国の慶尚道でとなり合っていた加耶・加羅系の小国で、これはその当初から密接な関係があったものであった。『古事記』と『日本書紀』とはどちらも天日槍(矛)を「新羅の王子」としているけれども、実は、この天日槍がやって来たのもその安羅・多羅からではなかったかと私は思っている。彼らが居をさだめたと思われる近江の地はどこもほとんどが安羅(那)の吾名(あな)、阿那、穴であるからだが、もしそうだとすれば、彼らはその国の安羅や多羅が百済や新羅に統合される過程で、この日本の地に大挙して逃れて来たものであったかもしれない。
そのことはどうであったにしろ、坂田郡に阿那郷を開いて息長を称した宿禰王も、天日槍とともにやって来た一族であったことにまちがいはない。息長村のあった近江町には、朝鮮関係のそれとみられている『延喜式』内の古い日撫(ひなで)神社がある。
のち、私は、阿那郷であった近江町の日撫神社や山津照神社をたずねてみた。ついでに町の教育委員会に寄ってそこにあった『坂田郡史』をみせてもらったところ、こういうことが書かれていた。
新羅王子天日槍の阿那邑に暫住の後、其の跡に息長の地名は称えられたり。是を豊前国香春神社(田川郡)に祭る辛(から)国息長大姫大目命に考え合すれば、息長は新羅語なるべし。
日撫神社は息長宿禰王を祭るとともに、その外孫とされている応神帝を祭るものだった。このことからみても、われわれはさきにみた杉本説のほうを正しいとしなくてはならないのであるが、ところで、村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷」によると、この日撫神社のほかにも、近江のそれとして次のようなものがあげられている。
「沙沙貴神社、阿自岐神社二座、大椋神社、小椋神社、荒椋神社、軽野神社、鉛練比古神社、大槻神社、小槻神社」
古代における神社とは
これまでみてきたもの、またこれからみるものによってもわかるように、朝鮮関係の神社は、もちろんこれが全部ではない。橋本犀之助氏の『日本神話と近江』によってみるとすれば、朝鮮からの伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)とを祭る多賀町の多賀大社などもそれとしなくてはならないであろう。しかし、そこまではひろげなくとも、たとえば斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」をみると、近江町には山津照神社境内古墳があって、ここから朝鮮の冠帽が出土している。
山津照神社の祭神は、国常立尊となっている。が、さきの白鬚神社宮司梅辻清氏からもらった『滋賀県官幣社及県社要覧』にも、山津照神社は、「境内ニ息長宿禰王ノ古墳アリテ深キ縁由ヲ有ス」とある。すると、これはどういうことになるか。神功皇后こと息長帯比売の父親であった息長宿禰王は、古墳時代の人間だったばかりか、そこから出土した朝鮮の冠帽はこの宿禰王のものだったことになる。
その古墳のある山津照神社も、日撫神社と同系のものだったのである。このことはさきにもいったことがあるように、日本の古代における神社というものは、それ自身一つの独立国であった。「氏神」「氏子」ということばが、いまなおそのことをよく伝えているのであるが、たとえばここに一つの氏族があって、自分の村国に祖神を祭る神社を祭ると、こんどはそれの支族がまた別なところに村国をつくってその神社を祭る、というふうではなかったかと思われる。
だから、その神社にしても、大きくはいくつかの系統にわかれるものかもしれないが、もとはひとつながりのものだったのではなかったかと思う。そしてそれは、これもまた「祭政」ということばが示しているように、精神的なものであったと同時に政治的なものでもあったから、長いあいだにはその祭神や神社の名もいろいろと変わってきたのである。
だが、なかにはなかなか変わらなかったもの、変わっても少ししか変わらなかったものもある。あとでまたみることになるはずの天日槍を祭るものがそれで、これはちょっと稀有な例としなくてはならないかもしれない。
百済寺・金剛輪寺・石塔寺
湖東の百済寺へ
私たちのクルマは湖北から、彦根市を通り抜けた。そこを出はずれると、愛知(えち)郡だった。すなわち湖東となったわけだったが、ここもまた古代朝鮮色のひじょうに濃厚なところである。となりの蒲生(がもう)郡とともに、湖東のこの辺になると、もうこれまでにも私たちは何度となく来ていたところだった。
たとえば、ここには湖東三山といわれている西明寺(さいみようじ)、金剛輪寺(こんごうりんじ)、百済寺(ひやくさいじ)がある。三山とも鈴鹿山脈寄りの名刹(めいさつ)であるが、このうち、八三四年の平安時代前期の開基といわれる犬上郡の西明寺はともかくとして、それ以前の開基であったあとの二寺は、どちらも朝鮮渡来のものによってつくられたものであることがはっきりしている。
金剛輪寺というのも朝鮮の金剛山からきたものかどうか、それは知らない。愛知郡の愛東町にある百済寺は、その名からして朝鮮・百済のそれを負ったものだった。だいたい近江は京都、奈良についで寺院や神社の多いところで、寺院の数は六千余をかぞえるとのことであるが、宇野茂樹氏の「近江の帰化氏族」により、廃寺となったもののみをみてもそれはこうなっている。
近江国内の七、八世紀の廃寺跡関係を眺めると矢張り湖南、湖東に集中している。即ち湖南では滋賀郡、中でも旧大津市内、瀬田川近辺、草津市湖岸で、湖東では蒲生野を貫通する日野川流域にその数九ヵ所、神崎郡、愛知郡の境を流れる愛知川流域に十ヵ所の多きに達している。このことは帰化氏族の分布と軌を一つにするものであって、湖南地方の廃寺は天智天皇の大津京に関連するもの、官寺的なもの、地方豪族の氏寺とされるものも内在するが、湖東は帰化氏族の氏寺と見做(みな)すものが大多数を占めるものとしてよいと思う。
そしてその瓦には百済の都、扶余(ふよ)出土の鬼板に類する鬼板とか、高句麗様式に類する軒丸瓦等を出土していることは注目すべきであろう。また塔跡より可憐(かれん)な塑像(そぞう)を出土した蒲生郡竜王町の雪野廃寺跡は日野川を前にした雪野山麓に位置し、恐らく帰化氏族の氏寺であったのであろう。
百済寺はかつてのそれからすると、これも現在はほとんど廃寺に近いものだとのことであるが、しかし鈴鹿山麓に堂塔伽藍をそびえ立たせていたその偉容は、いまもなおはっきり跡をとどめている。ことにみごとなのは、どこまでつづいているとも知れない、本堂に登りつくまでのゆるやかな古い石段である。
老杉や竹林にかこまれて苔(こけ)むした石段は登るにつれてだんだん急なものとなるが、途中、これまたみごとな石垣を持った高台に本坊がある。しぜんそこに立寄って一休みすることになり、その本坊でもらった『当山御本尊縁起』をみると、百済寺は、聖徳太子と高句麗から来た僧の恵慈(えじ)、道欣(どうきん)らが百済の竜雲寺に模して建立したということがしるされている。
そしてのち伝教大師の最澄がこの寺を中興しているが、当時の百済寺は六百の僧坊が建ちならび、一千余の僧徒を擁(よう)していたという。いわばそれは僧兵でもあったわけで、高台の本坊のはしに立ってみると、八日市など蒲生野が一望のもとに見わたされ、そこは一大山城のようなおもむきのものでもあったようである。
だからまた、戦国時代には戦火に巻き込まれて、焼き払われたりもしたのである。戦火のもっともひどかったのは織田信長によるそれで、このとき百済寺は、そのほとんどを灰にしてしまったのだった。
当時日本に来ていたキリシタン宣教師の書きのこした記録に、こういう文言がみえているという。「この大学は百済寺と称し、多数の僧院あり、また互いに独立し、富者の必ず有する座敷および庭園を備え、地上の天国をなせる住居千戸あり」「信長の軍隊は二、三日ここに留まり」「再び繁栄することなからしめんために、兵士らはこの大なる百済寺の僧院および住居に火を放ち、ことごとく灰と化せしめたり」
なんともひどいもので、長い石段を登りつめた山腹にある現在の本堂は、江戸時代になって再建されたものだった。しかしいまはそこまでおとずれてみるものも、ほとんどいないようだった。そのかわりというのかどうか、途中の高台にある本坊は、石組みのよい池泉の庭園が美しいということで有名になっているらしかった。
いつだったか、そのときは水野明善もいっしょだったが、「近江名園めぐり」の観光バスガイドたちが、たくさん実地講習に来ているのに出合ったことがある。それで、水野はガイドとなるはずの彼女たちに向かい、こうきいてみたものだった。
「あなたたちは、この百済寺がどういう寺だったと教えられているんですか。この寺は、昔このあたりに来て住んだ朝鮮人の建てた寺なのですが、そう教えられていますか」
バスガイドたちは互いに顔を見合わせたりしているだけで、なにもいわなかった。と、そばにいた男の運転手が言った。
「そうすると、あれですか。はじめは朝鮮だったのを、あとで百済となおしたのですか」
「ああ、あ、これだからね」と水野は私のほうを見て笑い、運転手たちに向かって話しだした。「百済というのはですね。新羅、高句麗などといったものとおなじように、昔の朝鮮にあった国の名で……」
横にそれたが、百済寺にいまある本尊の十一面観音は、さいわい戦火にも焼かれなかったものだそうで、聖徳太子手彫りのものと称している。ほかに金銅の弥勒菩薩半跏思惟像があって、これがまた京都の広隆寺にある新羅のそれと同形のものであるというのもおもしろいことだと思う。
というのは、寺院の名は百済寺であるけれども、これはもとこの辺一帯に繁衍(はんえん)していた新羅系氏族、すなわち秦氏族の氏寺であったからである。近江の秦氏族は依智(えち)秦氏といったもので、ここを愛知(えち)郡といったのも、秦氏族のその依智からきたものであったにちがいない。
原田伴彦氏も百済寺にある金銅弥勒菩薩半跏思惟像が、「京都太秦広隆寺のそれと同じ形式であること」は「注目される」としてこうのべている。「太秦の帰化族の秦氏に関連していえば、金剛輪寺が、奈良時代にその一族と思われるこの地の依智秦氏によって建立されたらしいといわれることも照応されて興味深いものがある」(『近江路――人と歴史――』)
金剛輪寺のスポンサー・秦氏族
百済寺のある愛知郡にはいま秦荘(はたしよう)町があって、ここの松尾にある金剛輪寺もおなじ秦氏族によって建立されたものではなかったかというのであるが、松尾といえば、これもまた京都にある秦氏族の氏神社であった松尾大社が思い出される。金剛輪寺は別名を松尾寺といったもので、それがいまの地名ともなっているのである。
金剛輪寺でもらった『金剛輪寺略縁起』によると、当寺の創立はこうなっている。
松峯山金剛輪寺は聖武天皇の勅願により、行基菩薩が天平十三年(七四一)に開山された千古の名刹であります。天皇は「金剛輪寺」の勅願と寺領三千石、それに境内山林を御下賜になりました。本尊聖観音菩薩は、行基菩薩による一刀三礼の御作物であり、感応ことにあらたかな霊仏であります。
さきにみた百済寺が聖徳太子と恵慈であったのにたいし、こちらは「聖武天皇の勅願」と「行基菩薩」であるが、それはともかくとして、この行基の開山になる寺院というのは、このほかにも日本全国いたるところにある。だが、奈良に近かった金剛輪寺のほうは、かなりの真実性があるように思われる。
金剛輪寺も百済寺とおなじように古びた急な石段がつづいていて、それを登りつめたところが本堂だった。国宝となっている本堂は、天平大悲閣といって、檜皮葺(ひわだぶ)き十一間四方の単層入母屋(いりもや)造りというものである。そして、どういうわけか蜘蛛(く も)がけっして巣を張らないという本堂のなかには、本尊の観世音菩薩像ほか、重要文化財となっている阿弥陀如来像などがずらりと立ちならんでいる。
本坊は石段の下のほうにあって、これも百済寺とおなじく、室町時代に完成したといわれる池泉回遊式の庭園が有名である。つまり金剛輪寺も、百済寺についてキリシタン宣教師ののこした記録にあったように、ここも多数の僧院があって、「また互いに独立し、富者の必ず有する座敷および庭園を備え」ていたものだったのである。
なお、金剛輪寺には、これも室町時代のものといわれる『開山行基菩薩画像』があって、その裏書にこうある。「夫(それ)行基菩薩、百済国王余裔、文殊(もんじゆ)之化現也……」
行基が文殊の化現であるかどうかはともかく、するとこの行基は百済系の出身ということになり、また事実そうなのであるが、しかし金剛輪寺を建立したものは、この地にいた新羅系の秦氏族であった。だいたい、それが開山したと称する僧は行基であれ何であれ、金剛輪寺のような一山を開くにはそれ相当の強力な外護(げご)、すなわちスポンサーとなるものがなくてはならなかったはずで、それが秦氏族だったのである。
いったい、この近江の秦氏族というものがどれほどのものであったか、いまでは知りようがない。しかしながら、もとは京都を本拠として展開した彼らが、外護となって建立した百済寺といい、金剛輪寺といい、これをみれば、その彼らがいかに強力なものであったか、ほぼ想像できるというものである。
巨大な塔をもつ石塔寺
寺院をみたついでに、こんどはとなりの蒲生郡に出て、もう一つみることにする。「帰化人文化の力の大きさを、いま、まざまざと見せてくれるのが石塔寺だ」と、戸塚文子監修『琵琶湖文学散歩』にあるそれである。同『――散歩』には、つづけてこう書かれている。
湖東の平野が鈴鹿山系にさしかかる、浅い丘陵にあるこの寺には、高さ八メートルの巨大な石造三重塔がある。巨石の積みあげによる構造上の技術は、古代朝鮮のものと考えられ、飛鳥時代にさかのぼるといわれる古いもの――。
寺院にしても、私はこうしてずいぶんたくさんのものをみているが、何度来てみてもふしぎなような気のするのはこの石塔寺である。
本坊でくれる『縁起』によると寺院は阿育王山石塔寺(あしよかおうざんいしどうじ)と称し、また、国宝となっている石塔も阿育王塔などとしているが、これはあとからくっつけた仏教的リクツであることがはっきりしている。ならば、これはいったいどういう寺院であったのか。急な石段を登った山上の巨大な石塔を中心に、「一目三万体」といわれる小さな石塔がぎっしりとならんでいるだけで、ほかにこれといったものがあるわけではない。小さな石塔群はあとからつけ加わったものであろうが、わからないのはその巨大な石塔である。
そうなると、この石塔寺というのははたして寺院であったのかどうか、それもわからなくなる。寺院にある石塔というより、それは一つの、なにかの記念塔とでもいうよりほかないものである。これについては、司馬遼太郎氏の『歴史を紀行する』のなかにくわしく書かれているので、それをここにかりておくことにする。
「石塔寺にゆけば、近江がわかる」
というのが、「上代以来、近江に住んでいる」という草津在の友人我孫子(あびこ)元治氏の説であった。どうわかるのか、このながい石段をのぼりつめてみねばならない。途中で、なんどか息がきれた。たまたま石段のふもとに矢竹の杖がおいてあったのでそれを借用して一段ずつついてのぼっているのだが、つらかった。のぼりつめれば頂上に伽藍(がらん)かなにかあるのですか、と同行のひとにきくと、
「いいえ、建物はいっさいありません」
ただ不可思議な石造の巨塔が一基、天にむかって立っているだけだという。
最後の石段をのぼりきったとき、眼前にひろがった風景のあやしさについては、私は生涯わすれることができないだろう。
頂上は、三百坪ほどの平坦地である。まわりにも松がはえている。その中央に基座をおいてぬっと立っている巨石の構造物は、三重の塔であるとはいえ、塔などというものではなく、朝鮮人そのものの抽象化された姿がそこに立っているようである。朝鮮風のカンムリをかぶり、面長扁平の相貌を天に曝(さら)しつつ白い麻の上衣を着、白い麻の朝鮮袴をはいた背の高い五十男が、凝然としてこの異国に立っているようである。
「なんのためにこんな山の上にこんな塔があるのだろう」
と、同行のたれかが気味わるそうにつぶやいたが、これはこの方面のどういう専門家にも答えられぬことであった。巨石の積みあげによる構造上の技法は、あきらかに古代朝鮮のものだそうである。
――この近所の帰化人がやったことです。
と、たまたま頂上にのぼってきたこの寺のお坊さんがいった。この丘の付近は、八日市にしろ日野にしろ、上代帰化人の大集落のあったところである。かれらが、故郷をなつかしむあまり、この山の上にこのような巨石をひきあげ(どういう工夫でひきあげたか、謎である)、それをどういう技法かで積みあげ、いかにも擬人的な石塔を組みあげて半島をしのぶよすがにしたのであろう。
「石材も、百済(くだら)か新羅のものですか」
と、お坊さんにきいてみた。そうだとすれば、はるばると半島からこれだけの巨石を運んでくるというのは、秀吉の大坂城の巨石運搬のなぞよりもさらに大きい。お坊さんによると、たしかに外来のものだと信じられていたそうである。しかし最近になって石だけは近江のこのあたりの地場のものだということがわかったらしい。ただし工法や構造、地形的な嗜好(しこう)は、むろん朝鮮のものである。よほど古いころに出来あがったらしいが、いつごろ、たれがこれを作ったか、むろんわからない。(なるほど、近江はいわれるように帰化人のものだったのだ)ということが、理屈をこえてこの塔は訴えてくるし、理屈以上の迫力をもってこの塔は証明しているようである。
この奇妙な塔があるためにこのあたりの地名は「石塔」というし、またこの塔があるというのでいつのほどか、それを護持するための小さな寺がその山麓にできた。寺はつけたしである。塔が主人である。塔は近江をひらき日本に商業をもちこんだ近江帰化人の一大記念碑であるがごとくであり、帰化人たちの居住区宣言(テリトリーソング)であるような気もする。
草津の安羅神社
東海道の宿場町・草津
草津は、江戸時代まで東海道の宿場町となっていたところだった。いまは市となってかなりの人口を擁しているが、見たところではこれといった何の特徴もない町にすぎない。つまり、文化的には何のこともなかったところ、というふうに思えるのである。
ところが、それがなかなかそうではなかった。一九七〇年三月五日付けの滋賀日日新聞をみると、「規模は法隆寺に匹敵/きょう市史跡に指定/草津市の花摘寺跡」という見出しのもとに、こんな記事がのっている。
草津市と同市文化財保護委員会(水野全雄会長)は“まぼろしの廃寺”といわれる草津市下物町、花摘寺跡の調査を進めていたが、遺構などから約一千三百年前に法隆寺に匹敵する大規模な寺院があったことが推定された。同市教委は市史跡指定の方針を決め、きょう五日午後一時から臨時委員会を開き、正式に公示、今後開発などから守っていくことになった。
記事はまだつづいているが、東海道の一宿場町にすぎなかった草津に、このような「法隆寺に匹敵する大規模な寺院があった」とはいったいどういうことだったのか、ちょっとおどろかないではいられない。しかもその花摘寺のあったところは、神社となっていた天満宮の境内であるという。
寺院がさきだったのか神社がさきだったのか、それとも神社も寺院もいっしょになっていたものかわからないが、ともかくこれまで見えていたものとしては、神社だけがそこにあったのである。こうしてみると、神社もまたいろいろなものがあったと思われるのであるが、この草津には安羅神社というのが二つもあり、またとなりの栗東(りつとう)町には小安羅神社というのもある。
私たちが草津についたのは、午後になってからだった。駅の近くにある鄭詔文経営の朝鮮式焼肉レストラン・コンパでの昼食もそこそこにして、すぐその安羅神社へ向かった。まず最初にたずねたのは、野村というところにあった安羅神社だった。もとはどうだったものか知らないが、いまはあまりかえりみられることもないらしく、社務所もなにもない、荒れたままの小さな神社であった。
これにくらべると、次にたずねた穴村の安羅神社はなかなかの構えで、手入れも行きとどいているようだった。――というふうに書くと、私たちはまるであらかじめその所在地を知っていたかのようであるが、そうではなかった。私たちはこの神社をたずねあてるためにはあっちへ行ったり、こっちへ戻ったりしたばかりか、何度も人にきかなくてはならなかった。
しかしそのようにきいたことで、あらたに教えられたこともあった。たとえば、こういうぐあいだったのである。
「もしもし、ちょっとお伺いしますが、安羅(あら)神社というのはどこでしょうか。もしかすると、安羅(あんら)といっているのかも知れませんが――」
「あら、あんら?」
「ええ、安(やす)い高いの安に……」
「ああ、安羅(やすら)神社ですか」
そこで私たちは、それが安羅(やすら)神社とよばれるようになっていたことを知ったのだったが、やはりものごとはきいてみるべきだということでもあったわけである。
しかしながら、これはもとは安羅(あら)か安羅(あんら)だったはずである。そのことは神社のあるところが穴、穴村だったことからもはっきりといえる。穴というのは、決して穴ぼこなどの穴ということではなく、これもさきにみた阿那(あな)とおなじように、古代南部朝鮮にあった加耶・加羅系の小国、安羅(那)からきたものなのである。
したがって、行ってみるまでは、これはどう変わっているかわからなかったけれども、その安羅神社の祭神は天日槍(あめのひぼこ)か、それの一族ということでなければならなかった。私たちがたずねて来たのは、そのはずだと思ったからだった。
日本医術の祖神・天日槍命
私たちは穴村の安羅神社につくと、さっそく鳥居の左手にあった社務所に寄り、「由緒書」をもとめた。が、応対に出たおかみさんは、それだったら本殿の横の掲示板に書いてあるという。
「おーい、あった。ここにちゃんと出ているよ」と、一足さきに本殿まで行っていた鄭詔文が、手をあげて呼んだ。
なるほど、「日本医術の祖神/安羅神社由緒記」としてそこに掲示板が出ている。この種のものとしてはなかなかよく書かれたもので、しかも相当にくわしい。
御祭神 天日槍命(アメノヒホコノミコト)
安羅神社は一名安良明神と申し、その創建年代はつまびらかではないが、古事記の研究者三品博士は「御祭神は朝鮮新羅の王子」であると伝えている。
天日槍命は、……その一族郎党を引きつれて来朝された。先ず九州の伊都(いと)島に着き、次に播磨に上陸し、更に宇治川をさかのぼって近江の吾名邑(あなむら)に止(とど)まられた。再び鏡山を経て若狭に至り、海路但馬国出石(いずし)に居を定め、永らく子孫代々定住された。一族中のある者は吾名邑の地に止まり、この地に部落を造り、専ら農耕を業としていたその子孫が天日槍命の遺徳をしのび、一社を建てて奉祀(ほうし)したのが安羅神社であると称されている。
天日槍命は日本各地に部下一族を駐在させて農耕せしめ、ある者は陶工、ある者は鍛冶(かじ)工、ある者は土木工として生活の根本としていた。
天日槍命は資性英邁にして人民に鎮魂術、いわゆる医術を施され、恩恵を垂れさせられた。尚特に当社に古来より宝物として所蔵されている数十個の小石は、今を去る千数百年以前に医術灸(きゆう)に用いられたものとして、京都大学松下理学博士等学界の有識者は定評ある歴史的価値豊かなものと認めている。
思うに御祭神は地方開拓の神であると共に、我が国医術の祖神であらせられたのである。
加うるに当社の社名安羅はアンラの転訛であって、南朝鮮地方に同種の地名の存在する事実よりして、古代吾名邑に居住した我等の先祖が天日槍命を尊崇すると共に、故郷の地名に執着して社名としたことは当然のことと思われるのである。これこそ命と吾名邑との深い因縁を示す確実な事由といわねばならない。
殊に命の昇天の地但馬国出石に旧国幣中社出石神社として一の宮の名のもとに時の政府が祭祀した宮があり、如何に天日槍命が我が国古代に於て神威を発揮し給うたかをうかがうことが出来るのである。天日槍命にゆかりの深い我等は、その後裔として崇敬の誠を尽し、祭祀を怠ってはならない。
なかなかよく書かれたものではあるが、それだけまたこの文章には、なかなか微妙な意識のゆれが感じられないでもない。しかしやはり、「天日槍命にゆかりの深い我等は、その後裔として崇敬の誠を尽し、祭祀を怠ってはならない」などとは、ほかではちょっとみられないものであった。
金勝から信楽へ
金勝寺、狛坂寺をさがして
天日槍を祭る神社は、安羅神社のほかにもまだたくさんあった。近江としては、たとえば蒲生(がもう)郡竜王町に鏡神社などがある。しかしそこはあとでみるとして、この日の私たちは、草津から金勝(こんぜ)へ向かうことにした。
そこに、金勝寺(こんしようじ)と狛坂(こまさか)寺跡があったからである。寺院としてはこれもほかに、八日市(ようかいち)市神田町駒寺に高麗寺があり、また同市御園町にも高麗寺があったが、それは略すことにしたので、一つだけ、この金勝寺と狛坂寺跡をみておきたいと思ったからだった。
景山春樹氏の『近江路――史跡と古美術の旅――』にこうある。
草津から栗東町の金勝(こんぜ)へ入ると、金勝(こんしよう)山を中心として、そこには金粛菩薩がひらいたという奈良時代の仏教文化圏がある。平安時代以後はやはりここにも天台文化が入りこみ、いまも天台系の仏像を数多く伝存している。金勝山には奈良時代の伽藍遺構も見いだせるが、いまは金勝寺の上寺とその奥にある狛坂寺址が知られている。
狛坂寺址の石仏は栗東町(旧金勝村)荒張の山上にあり、狛坂寺磨崖石仏として史跡に指定されている。高さ約七メートル、幅三メートルあまりの花崗岩に、大きく三尊仏を浮彫りにしている。中尊は如来形の坐像、左右に立像の脇侍を主たる構図とするが、そのほかにも上部に三尊仏二組みと菩薩立像三体が追刻されている。奈良時代末ごろのものと考えられている。
さらにまた、金勝寺と狛坂寺について、今村鞆氏の『朝鮮の国名に因める名詞考』をみるとこうなっている。
滋賀県栗太郡金勝村金勝寺西方の山上に其旧址を存す。『近江国輿地志略』によれば、此寺の縁起は近江蒲生郡の狛長者(こまのちようじや)がもと所蔵の尊容たる閻浮檀金(えんぶだごん)の観音像一尺許(ばかり)のものが嵯峨天皇の皇妃檀林皇后に伝わりしを、金勝寺の願安が之を得て金勝寺(現存)に安置せしが同寺は女人結界にして結縁普(あま)ねからざるより、別に狛坂に寺を建立し此尊像を安置したれど、回禄の災〈火事〉の後金勝寺に移置せりとあるも、今此像は存在せず狛坂寺の建創は弘仁七年なりと伝えられる。
なんともひどい文章であるが、しかしよく読んでみると、いおうとしていることはわかるように思う。けれども、狛長者とはいったいどういうものであったのか、そしてその「狛長者がもと所蔵」の観音像とはどういうもので、またそれがどうして嵯峨帝の妃であった檀林皇后のもとにあったのか、ということはわからない。
まして一尺ばかりのその観音像はいま存在しないというのだから、いっそうわかりようがない。が、しかし、狛長者というのはおそらく、あとでみるように、七世紀のころまたこの蒲生野にたくさんはいってくることになった、百済系渡来人中の一つの長者ではなかったかと思われる。
狛坂寺の狛とは高麗、すなわち高句麗からきたものであるが、日本では百済を混同してそういったこともあるから、これは別に問題とならない。するとその観音像は、これも東京の浅草寺や長野の善光寺の本尊とおなじ百済渡来のもので、もとは狛長者といわれたものの持仏だったのかもしれない。
東と西とにつらなっている鈴鹿山脈や比良連峰などは別として、近江の山々は、がいしてなだらかな丘陵ようのものが多い。しかし金勝山というのは、相当に深く高い山だった。この辺一帯の山々は湖南アルプスともいわれているとのことであるが、私たちのクルマは螺旋状になっている山道を、どこまでも登って行った。
ところによって、眼下にすばらしい眺望がひらけたりする。私は何度も来ているうちに近江のおだやかな山々やその野がひどく好きになったが、しかし、それをこんなに高いところからながめわたすことができたのは、このときがはじめてだった。
やっと、私たちは一つの峠を越したようだった。下りにさしかかったところ、さきの道路は工事中で、クルマはそこでストップとなった。みると、道路の脇に工事のためにつくられたプレハブの飯場があって、その裏手の樹林に金勝寺があった。
「ああ、これか」というわけで、私たちはさっそくそこの石段を登ってみた。しかし、うす暗い樹林のなかの寺は、まったくの無人だった。私たちはまず金勝寺まで行けば、狛坂寺跡の磨崖仏はしぜんにわかるだろうと思っていたのだったが、これでは手のほどこしようがなかった。
寺の石段をおりて道路のほうへ戻り、飯場の若い女の人にきいてみたけれども、狛坂寺跡はどこにあるのかわからないという。だいたいの見当としては、そこの金勝寺よりもっとさきに進んだところではないかと思われた。が、それからさきは工事中で、通ることもできない。結局、弥勒菩薩ではないかともいわれている狛坂寺跡の磨崖仏をみることは失敗におわった、とするよりほかなかった。わざわざたいへんな山道を登って来たものだったが、やむをえなかった。
信楽焼のもとは須恵器
そこで私たちは道を引き返し、こんどは大戸川に沿って甲賀郡の信楽(しがらき)へ向かった。日本六古窯の一つとして有名な信楽焼の、その信楽であった。
松本清張・樋口清之氏の『京都の旅』によってみると、この信楽焼とは次のようなものだったのである。
また、五、六世紀の古墳時代に、大陸から近江国に定住した帰化人の数はたいへん多い。これは文献にもあるし、じっさいの古墳からの発見品でも証明される。おそらく、この帰化人は、よりすすんだ技術で、いっそう近江国を開拓したことだろう。その子孫からは、東大寺、石山寺をひらいた良弁(ろうべん)や、延暦寺をひらいた最澄(さいちよう)を出した。……
そのうえ、帰化人の一派は信楽の陶土を発見して、ここでも製陶をおこなった。おそらくその製品は、平城京や奈良の寺々の需要に当てられた、須恵器の一部であるらしい。これがのちに、信楽焼に成長するのである。こうして、豊かな生産とすすんだ技術で、近江国は奈良の都の後背地であった。それは、つぎの平安時代へもつづいていった。
ここにいわれている須恵器とはどういうものであったか、これについてはあとでかなりくわしくみることになるはずであるが、ここで一つだけいっておきたいことは、須恵器とは別名を新羅焼ともいっていたということである。念のため、奥田誠一・小山冨士夫・林屋晴三氏編『日本の陶器』をみると、「須恵器は朝鮮式土器あるいは新羅焼ともよばれているように」とあるそれである。こうしてみると信楽とは、すなわちこれも新羅だったのでなくてはならない。
聖武帝の都・紫香楽宮跡
町のはずれに、紫香楽(しがらき)宮跡があった。信楽もそうだったが、私たちはここもさきに行ってみたことのあるところだった。いまも当時の宮殿跡の礎石がのこっていて、そこはきれいな山上の公園となっている。
紫香楽宮とはいうまでもなく、奈良時代、聖武帝のいわゆる紫香楽宮のあったところである。この聖武帝という人は、どういうわけからだったか、もちろんわけはあっただろうが、短いあいだに実によく引越しをしたものだった。いま発掘がすすめられているのでもわかるように、奈良には立派このうえない平城京があったにもかかわらず、わずか数年のあいだに南山背(やましろ)(城)の恭仁(くに)京、難波(なにわ)京、紫香楽宮、また奈良の平城京、というふうに転々としている。
なにが故の転々であったか、それがわかるといいのだが、当時の貴族なるものや豪族といわれるものたちの勢力争いのためであったであろうということのほか、いまのところまだはっきりわかっているとはいえない。それはともかくとして、その引越し地の一つが紫香楽(信楽)、すなわち新羅だったということはおもしろいことで、あの奈良・東大寺の大仏造営のことなども最初はここではじめられている。
しかし、ここがかつて帰化人のひらいたところ、そして短期間ながら皇居があったところとしての高い文化は、名物信楽焼を遺産として残した。いま信楽町の中心長野は、その生産の中心でもあり、窯業試験場もある。その試験場の資料室で見学してもわかるが、古い信楽焼はいわゆる須恵(祝部(いわいべ))と呼ばれる古墳時代の陶器からはじまっている。(松本清張・樋口清之『京都の旅』)
私たちは、以前来たとき見そこなったその窯業試験場の資料室をみせてもらいたいと思っていたのだったが、あいにくなことに、この日ももう時間がなかった。相当急いだつもりだったにもかかわらず、信楽についてみると、時計は五時になってしまっていたのである。町の教育委員会にも寄って遺跡や文化財のことなども聞きたいと思っていたのだが、それもおなじことでだめだった。
仕方なかったので、私たちは、人口一万三千余の小さな盆地に、陶器の窯元が九十余もあるという町を一巡し、新宮神社の横にクルマをとめた。そして町のなかをしばらくぶらぶら歩いてみたが、目につくものは植木鉢や火鉢、狸の置き物といったそんなものばかりだった。これと思われた通りがかりの人をつかまえて、
「昔の古い窯跡など、そういうものはどうなっているのでしょうか」と、きいてみた。たいした返事は期待できないと思ったが、やはり、
「さあ、そういうものはもう――」というしだい。
窯元ばかりでなく、陶器卸商といった店も多い。で、その店の一つにはいっておなじことを、またきいてみた。
「史跡になっている穴窯が田代にあるけども、しかし山寄りになっているで、これからではどうかな」と、店主らしい男は、暗くなりかかっていた外のほうに目を向け、自分の腕時計をみた。
要するに、それももう時間がなかったのである。私たちは、引き返すよりほかなかった。
「吾名の邑に入りて……」
竜王町の鏡神社へ
天日槍(あめのひぼこ)の渡来集団にゆかりの深い蒲生(がもう)郡の竜王町を二度目にたずねたのは、甲賀郡の信楽(しがらき)から帰ってのち、しばらくたってからだった。例によってまた京都に住む鄭詔文のクルマでだったが、こんどは水野明善もいっしょだった。季節は十一月末で、秋から冬になっていた。
しかし、近江の山や野はあいかわらずおだやかで、青い色もまだそんなに失われていなかった。水野もおなじことを言ったが、私たちはそこをおとずれるにしたがって、いよいよ近江が好きになった。
この日もそれがコースだったので、私たちは、新幹線の車窓からも見える野洲町の三上山、俗に近江富士といわれているその下をまた通った。近江富士とはよくいったもので、山の形が富士山に似ているばかりでなく、富士山が日本の象徴でもあるのとおなじように、これは近江の象徴のようなものであった。松を中心とする深い樹木におおわれた三上山は、これももとは大和(奈良県)の三輪山とおなじ神体山で、いまも下の道路脇に御上神社がある。そして周囲には古代遺跡も多く、甲山(かぶとやま)古墳、丸山古墳からは家形石棺が発見され、天王山古墳からは古鏡、勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)などが出ている。
国道八号線をそこまでくると、竜王町はもう近かった。左手は中主町で、そこにはこれもまた天日槍の「八千軍(やちぐさ)」からきたと思われる八千矛(やちほこ)神を祭る兵主(ひようず)神社があったが、しかしそこは略すことにして、私たちはまっすぐ、竜王町の鏡山麓にある鏡神社へ向かった。
ゆるい切通しの坂を下るとそこが鏡で、鏡神社は道路沿いの左にあった。小さな神社だったが、由緒深い古いものだった。石段を登ると鳥居の横に、由緒を書いた木札の掲示が出ている。
鏡神社 国宝
祭神 天日槍尊
上古新羅国の王子来朝して此地にて帰化し 其持ち来れる鏡を此の山に納めたれば鏡山と云う 多くの従者と共に当時文化を広めたり 又三韓式土器で我国最古の製陶術の祖である
草津の安羅神社のばあいは医術の祖となっていたが、こちらは製陶術の祖となっている。ここにいう製陶術の製陶とは、どういうものであったろうか。これはさきにもちょっとふれたいわゆる須恵器というもので、それはいわばこの鏡からはじまったものだったのである。
ここに天の日槍、莵道河(うじがわ)より泝(さかのぼ)りて北の方近江の国の吾名(あな)の邑(むら)に入りて暫住(しまし)み、また近江より若狭の国を経て、西の方但馬の国に到りて住む処を定めき。この以(ゆえ)に近江の国の鏡谷(かがみはさま)の陶人(すえびと)は、天の日槍の従人(つかいびと)なり。
これはさきの「天日槍について」のくだりでみた『日本書紀』のそれであるが、この「陶人(すえびと)」の陶(すえ)とはすなわち須恵のことであった。『延喜式』にいう「陶器(すえうつわ)」、『和名抄』にいう「須恵宇都波(うつわ)」で、鏡神社のある鏡の近くにはいまも須恵という集落がある。
須恵器が焼きはじめられた土地
ここで「朝鮮式土器」あるいは「新羅焼」ともいった須恵とはどういうものであったかということについて、ちょっと立ち入ってみたい。須恵器のことは、これからもたびたび出てくるはずである。
今日では日本の文化史的年代を縄文、弥生、古墳時代というふうにみることは、常識のようなものとなっている。縄文文化のことについてはまだよくわからないところがたくさんあるが、弥生式土器をともなった農耕の弥生文化は、だいたい紀元前三世紀ごろ、朝鮮から北九州へ渡来したものたちによってひろがったものであり、ついで紀元後四世紀ごろからはじまったとみられる古墳時代とともに、こんどは須恵器というものがあらわれたのであった。
三上次男氏の『須恵器と古代のやきもの』によってみると、それはこういうふうである。
日本で須恵器がはじめてやきはじめられたのは、古墳時代の前期である。四世紀の末か五世紀のはじめのことと考えられる。ところは和泉国の大鳥郡(八世紀以降は河内国に編入)、いまの大阪府の東南部で、当時の窯跡は今に残り、陶邑(すえむら)古窯址群の名で知られている。
須恵器は、それまでの日本には見られない新しい形式の硬質土器であった。いままでの弥生式土器や土師器とちがって、色はしぶい灰黒色である。やく火度が高いので、やきしまって堅く、形もよく整っていて、合理的な感じをあたえる。それは調子が高いともいえるし、物によってはすきがなく、ややかたさを感じさせることもある。
これは須恵器が日本在来のものではなく、このころ、朝鮮半島の南部の新羅や百済から渡来した陶工が、先進的な技術を使ってやきはじめたものであったからである。
ついで三上氏はまた別のところでは、次のようにもいっている。
これは南朝鮮の新羅、百済を日本に再現したものであった。(『日本の美術・陶器』)
もちろん、「新羅や百済から渡来した」のはこの陶工たちのみではなかった。これはのちにまたみるように、日本に古墳時代をつくりだした豪族たちに随伴して来たものたちであった。
ところで、三上氏によれば、その須恵器が最初に焼きはじめられたところを、和泉(大阪府)の大鳥郡にある陶邑古窯址群にもとめているようであるが、しかし、それはやはりこの近江の鏡ではなかったかと私は思う。つまり、『日本書紀』に記載されている「鏡谷の陶人は、天の日槍の従人なり」というそれがはじめではなかったかと、さきに一度ここをたずねて来たときにも私は思っていたのである。それで私たちは、鏡神社のある鏡近くの須恵というところへも行って、いろいろとたずねまわってみたのだった。
だが、このときはさっぱり要領をえなかった。集落のなかにまではいってあれこれの人をつかまえてきいてみたけれども、
「ええ、向こうの鏡山のあたりにそんな窯跡があったとは聞いていますが、いまはもうそんなものなどないんじゃないですか」という返事であった。
なにしろ、『日本書紀』に書かれている大昔のことだったし、それにまた『日本書紀』の記載そのものを、どこまで信じていいかということもあったので、そんな返事を、私ももっともなことだと思ったものだった。だが、私はその後、つまり東京へ帰ってから、この辺一帯がかつては『日本書紀』のいう「吾名(あな)の邑(むら)」ではなかったか、ということに気がついたのである。
「鏡山の東麓、竜王町綾戸に苗村(なむら)神社が鎮座する。吾名邑(あなむら)というふるい郷名がつづまって苗村になったのだという。東西二社あり、東本社は延喜式内の古社、長寸(なむら)神社に相当するという」とある景山春樹氏の『近江路――史跡と古美術の旅――』の一文によってだった。
近江源氏は新羅系
『日本書紀』にいう「吾名(あな)の邑(むら)」は、これもさきにみた坂田郡の安那(あな)郷ではなかったかという説もあるが、しかしこの「吾名邑」のほうがむしろそのものずばりでもある。何度もいっているように、この吾名というのは古代南部朝鮮の小国家であった安羅(あら)(安耶・安那)からきたもので、現在の竜王町綾戸(あやど)の綾にしても、その安耶からきたものなのである。これはまた別なところでは、漢(あや)ともなっている。
苗村(長寸)が吾名邑だということは景山氏もいっていることで、――こうなると、私はまたどうしてもその苗村神社まで行ってみなくてはならない。しかも地図をみると、苗村神社のある竜王町綾戸は、このまえ行った鏡神社、須恵のちょっとさきのところにあった。
それでまた、水野明善をまじえたこんどの二度目の竜王町行きとなったわけだったが、何のことはなかった。綾戸は、須恵からそれこそほんのちょっとさきだった。きいた人から教えられたとおり、橋の向こうにこんもりとした森が見えて、そこが苗村神社らしかった。
その橋のすぐ手前左に竜王町役場があって、右側に町の教育委員会の建物のあるのもみえた。私たちはひとまずそこでクルマをとめて、教育委員会へ寄ってみることにした。いま考えてみても、この教育委員会に寄ったのがどんなによかったことかしれない。
私たちは、そこにいた社会教育主事の西谷顕一氏に会ってはなしを聞くことになった。この人がまた古代史、とくに自分の郷土であるその地方史に関心の深い人らしく、すすんで教育委員会のつくった『国及び県指定文化財明細』などをみせてくれたりしたばかりか、それを私たちもほしいというと、こころよくコピーまでとってくれた。
まず、『――文化財明細』であるが、これには二十点ほどの国宝、重要文化財、県指定文化財がのっていて、苗村神社や鏡神社のそれもある。苗村神社はこれからみるとして、さきの鏡神社をもう一度それによってみると、こうなっている。
鏡神社は垂仁天皇の御代に帰化した新羅国の王子、天日槍の従人がこの地に住んで陶芸、金工を業とするに及び、祖神として彼を祀った事に始まり、のち近江源氏、佐々木氏の一族鏡氏が護持したと伝えられる。
構造は三間社流造りこけら葺で、本殿は円柱上に出三ツ斗を組み、軒は二重に繁〓を配し、正面三間の中備にはいずれも唐草透彫の蟇股をおき、三方に廻縁をめぐらしており、細部意匠工法によく室町時代初期(一三四〇年頃)の優秀な技法を示す総丹塗の美しい建物である。
建物のことはともかくとして、ここにいう「近江源氏、佐々木氏」とはいったいどういうものであったのか。天日槍のいわゆる「従人」の出であることはまちがいなさそうだが、するとそれは、村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷」にある沙沙貴(ささき)神社の佐々木ともおなじものであったにちがいない。佐々木氏といえば、さきにみた甲賀郡の信楽に新宮神社というのがあったが、これもまた佐々貴(字はいろいろに書かれている)氏の氏神だったものらしかった。
近江源氏の佐々木氏、すなわち佐々木源氏というのは強力であったばかりか、ずいぶん広範に繁衍(はんえん)したものらしかった。大阪在住の作家司馬遼太郎氏もある座談会で、「わたしも佐々木源氏の出です」というようなことを言っていたのを私はおぼえている。で、私は近江の竜王町から帰って、京都のある人の会で司馬氏に会ったとき、こんなことを言ってみた。
「あなたは近江源氏の出だそうですが、近江源氏の佐々木氏というのは、どうやら新羅系らしいですね」
すると、古代史のことにもくわしい司馬氏は即座に、「ええ、そうですよ」と答え、なんだいまごろそんなことを言っているのか、というような顔をして私を見たものだった。――
いまも残る古窯跡
さて、竜王町社会教育主事の西谷さんがつづけてみせてくれたのは、『滋賀県遺跡目録』のなかの「蒲生郡竜王町」の部分だった。私はそれをみて思わず、「ああ!」と声をあげてしまった。さきに来たとき、須恵の集落などまでたずねてまわった古窯跡が、そこにはいくつも出ていたからである。
遺跡の名称、種類、所在地、遺構、時代の順であるが、たとえばこんなぐあいである。
鏡神社遺跡―窒跡―鏡―山腹―登窯一基―古墳。
壺焼山遺跡―窯跡―鏡壺焼山―山腹―登窯一基―古墳。
鏡陶窯跡―窯跡―鏡―丘陵―登窯五基―古墳。
というふうに、これもまた四十以上もある古墳群や寺院跡といっしょに、窯跡は十以上もある。
「なんと、危ないところだったなあ」と、私はその表をみながらつぶやいた。
「きみは、鏡神社から須恵まで行ってみたが、そんな窯跡はもうなかった、と書くところだったんだろう」と水野は、私をからかって笑った。
「うむ、実はそうだったんだ」
「その窯跡だったらですね」と、横で私たちのそんなやりとりを聞いていた西谷さんが言った。
「そこに出ているのは主なものということで、ほかにもまだたくさんありますよ」
「ああ、そうですか」
私はますます、あきれたようにして目をみはらないではいられなかった。
「あそこです」と、西谷さんは窓ガラス越しに見える、椀を伏せたような鏡山を指さした。
「あの山腹は、どこもみんな窯跡です。まだ、未発掘のものもたくさんありますよ。
あそこにはいま『鏡山陶部阯』という史跡の標柱が立っていますが、しかしそれをどこに建てていいかわからないほど窯跡があちこちにあるものですから、結局、あの山全体ということにしたのです。ですから、標柱は山のずっとこちらの、七里というところに立っています」
「そうですか。その標柱はあとで帰りにみせてもらうとして、未発掘の窯跡というのはどういうものか、いつか発掘するとき見学させてほしいものですね」
「ええ、いいですよ。いまはもう冬であれですが、来年の春にはいっしょに行ってみてもいいです。いまここにも、あそこから掘り出して来た破片が少しありますから、お見せしましょう」
西谷さんは部屋から出て行って、紙袋に詰めたそれを持って来てくれた。気軽な人でもあった。
「ああ、ろくろ(轆轤)を使って焼いたものだ」と、それを一目みるなり、古陶磁の研究者でもある鄭詔文は言った。
須恵器の破片で、相当、初期のものではないかと思われた。弥生式土器とは色もちがうが、それがろくろでつくられたものであるかどうかというところにも、決定的なちがいがあった。
「鏡谷の陶人は、天の日槍の従人なり」という「従人」、すなわちその全体の集団はどのくらいのものだったか知ることはできない。しかし、いわゆる陶部(すえつくりべ)の陶工だけでも、それはかなりの数のものであったにちがいない。そして彼らは、鏡山のそこからさらにまた新たな陶土をもとめて、となりの甲賀山中の盆地、信楽へとひろがって行ったのである。
『古事記』よりもいっそう政治的なものであった『日本書紀』には、それだけになおまたでたらめな記載が多いが、けれどもこの「鏡谷の陶人」うんぬんということは、まったく正確であったといわなければならない。私は、そのことに一つの感動を味わったものだったが、それは次にみた苗村神社についても、おなじようなことがいえた。
苗村神社の「御由緒」
「苗村神社は延喜式内社長寸神社の後身と伝えられ、古来この地の氏神として隆盛を極めた」と竜王町教育委員会のつくった『国及び県指定文化財明細』にもあるように、東西に二つの本殿を持つ広大な神社は、なるほどそうであったろうと、私たちにもはっきりうなずかれた。東と西のそのあいだに、「式内長寸神社」という石碑が建っている。
社務所の親切な婦人からもらった『苗村神社御由緒略記』によると、この神社の祭神は国狭槌命(くにのさづちのみこと)、那牟羅彦神(なむらひこのかみ)、那牟羅姫神となっている。国狭槌命はおくとして、那牟羅彦神、那牟羅姫神とはいっても、そういう名の神がいたというわけではない。次の『――御由緒略記』にもはっきりとあるように、それはここの地名からきたものなのである。
当社は延喜式内社の長寸神社で東西二ヵ所に本殿あり、鎮座年代は上古に属され、垂仁紀に見ゆる吾名邑は後に那牟羅と略称し、長寸神社に苗村の字を用いたるは何れの時代に始まりしは、現在の史料によると明徳二年の鐘銘を最古とされています。当社の鎮座地は鏡山の東麓に位し、新羅王子天日槍の従人がこの附近に定住したるその中心であり、当社の氏子が三十三ヵ村に亘り、今も崇敬最も厚く古来より非常に栄えて来たお宮であります。
つまり、那牟羅彦神、那牟羅姫神というのは、この那牟羅というところの男神、女神、ということであって、主体はやはり吾名邑、吾名(あな)、安羅(那)にあるとみなくてはならない。「ここに天の日槍、莵道河より泝りて北の方近江の国の吾名の邑に入りて暫住み」という『日本書紀』のそれが、ここにはそのまま生きているのである。
「それにしてもだな」と私は、鄭詔文や水野といっしょに境内から出ながら言った。「苗村というのはまだわかるとして、それ以前はちょうすん(長寸)と書いた長寸(なむら)だったというのはいくらなんでもひどいね。これでは……」
「いや、そうでもないよ」と、鄭詔文が引きとって言った。「ちょうすん、ぢょすん、ヂョソン(朝鮮)じゃないか。日本語でいっても、ちょうすん、ちょうせん(朝鮮)だ」
「あッそうか、なるほど。はっはは……」
私たちは、重要文化財となっている苗村神社楼門の下で、声をそろえて笑った。夕方になっていた。
鬼室集斯のこと
百済からの亡命者
おなじ蒲生郡内とはいっても、日野町の小野(この)にある鬼室(きしつ)神社は、竜王町の鏡神社や苗村神社とはずっと性質のちがうものだった。これまでにみた天日槍(あめのひぼこ)集団の渡来は、だいたい弥生時代後期、もしくは古墳時代にはいってからではなかったかと私は思っているが、これからみる鬼室集斯(きしつしゆうし)に代表されるそれは、七世紀も半ばをすぎてからのものであった。
さきにまず、ここに一九六六年十二月二十四日付けの「八日市高新聞」にのっている「伝説をたずねて」(第十五回)「鬼室集斯碑」というのがあるので、それを紹介しておくことにしよう。八日市高等学校がだしているものだが、高校生によってこういうことが書かれているのも珍しいし、おもしろいのである。
八日市の南東に広がる日野町の東部に小野(この)という村がある。今回の「伝説をたずねて」は、その小野にある帰化人鬼室集斯(きしつしゅうし)の墓をたずねてみた。
鬼室集斯とは今から約一三〇〇年前、朝鮮半島の百済から帰化した学者の姓名である。その歴史は飛鳥時代にさかのぼる。第三七代斉明天皇のころ(西暦六五五年)から、朝鮮半島では新羅が勢力を増し、百済の勢いが衰えていった。このころ、日本へ百済からの亡命帰化人がやってきて、各地に住みはじめた。西暦六六三年、白村江の戦で百済は滅亡したが、その前年、つまり六六二年鬼室集斯は男女七百余人を率いて日本へ亡命してきたのだった。
のちの遷都で都は大津にあったので、集斯は天智天皇に蒲生野をもらい定住したわけである。集斯とその同胞七百余人は、まだ草深い蒲生野を開墾し、清らかな水と空気のもとで自給自足の生活を送った。またその時代は、ちょうど大化の改新の後だったので、知識の秀れていた集斯は天皇に仕えて、今の文部大臣のような地位にあって「小錦下」の位を受けた(『日本書紀』)。百済は当時、文化の程度が高かったので、他にも朝廷に仕えて重用された者が多かった。
天智天皇の考案といわれる我が国最古の時計も、この帰化人の文化が生かされているらしい。朝廷は、これらの帰化人を尊重し、たくさんの土地や位を与えた。
しかし近江の都は、永くはなかった。天智天皇の死後、壬申の乱によって志賀の都は荒廃し、集斯等朝廷に仕えた帰化人は、その一族と共に再び小野周辺に定住し、平和な暮しを送った。朱鳥三年(六八八年)に集斯が没した後、孫の美成が、小野に碑を建てたようだが、碑文は風雨にさらされて今では明確に読みとれない。郷土の資料によると、
右 庶孫美成造
正面 鬼室集斯墓
左 朱鳥三年子十一月八日没
とあるようだ。墓石の形式は、日本古来の形式とは全く異なっているし、石材もほんとうの朝鮮石だということだ。その後、後世の人は社を建て祭礼を怠らなかった。また墳墓講や室徒株という制度も明治ごろまで続いて、鬼室神社は小野の生活に大きな比重を占めた。
歴史を急速に進展させて、昭和の現代のこの土地のようすを、小野の区長さんにうかがってみた。この神社の祭礼は、集斯が没した十一月八日とされているが、現在では農繁期のため、一ヵ月繰上げて毎年十月八日に行なっているそうだ。その時の食器もそろっていて、ご飯をよそう椀は木製のうるし塗りで、直径十七〜八センチもあり、一升のご飯を高く盛るということだ。ここでは他の神社とは違い、煮たものを供える。またこの祭には、日本中にいる在日朝鮮人が二、三台の観光バスを連ねて毎年やってくるそうで、私たち取材班が見せてもらった参拝人名簿にも、朝鮮人が多かった。
区長さんと話すこと約二時間、私たち取材班は、初雪の降った鈴鹿連峰を背にして帰途についた。赤く沈む夕日は、私たちを遠い昔の世界へ誘うようだった。
以上、全文である。歴史的把握もなかなかしっかりしているおもしろいものであるが、この紀行にもあるように、『日本書紀』の天智段をみると、その記事のほとんど全部が対朝鮮関係、とくに百済とのそれによって占められている。
百済との深い関係
天智帝のときにいわゆる「白村江の敗退」があり、百済がほろびたということがあったからでもあろう。しかしながら、朝鮮三国のうちの一国であった百済のことが、当時の日本にとって(『日本書紀』の成ったのは七二〇年)どうしてこうまでも関心の的とならなくてはならなかったのであったろうか。
このことについてはまたのちにみることになると思うので、ここではいまみた鬼室集斯などその渡来関係のもののみ、天智段からいくつか引いてみることにする。
「四年の春二月」「この月、百済の国の官位(つかさくらい)の階級(し な)を勘校(かんが)う。〓(よ)りて佐平福信の功(いたわり)を以(も)て鬼室集斯に小錦下を授く。其の本(もと)の位は達率なり。また百済の百姓(た み)男女四百余人を近江の国の神崎の郡に居(お)く」
「五年」「この冬京都(みやこ)の鼠、近江に向いて移る。百済の男女二千余人を東(あずま)の国に居らしむ。すべて緇素(しそ)を択ばず〈僧、俗の区別なく〉。癸亥〈天智二年〉の年より起(は)じめて三歳に至るまで並に官(おおやけ)の食(いい)を賜う〈三年にわたって官食を給した〉」
「八年」の「十二月」「また佐平余自信、佐平鬼室集斯等、男女七百余人を以て、近江の国蒲生の郡に居らしむ」
東国においたという二千余人はともかくとして、近江にはいったものたちだけでも、これで一千百余人になる。これはもちろん、これまでにみてきた天日槍集団などのそれとは別なものたちで、さきにみた愛知(えち)郡の百済寺(ひやくさいじ)、金剛輪寺の秦氏族ともまたちがうものたちだったのである。
「千三百年以上もまえの、千百余人か」と、水野明善は首を振るようにして言った。「それがいまはいったい、どれくらいのものになっているだろうかね」
「さあ。秀吉の例のあの朝鮮侵攻によってつれてこられた鹿児島県苗代川の陶工たちのそれをみると、四十余人が三百数十年ばかりのあいだに千六百五十余人になっている。だからおよそ見当はつくけれども、しかし、これはちょっと計算できないな」
「鹿児島のそれはどこに――」
「五十年ほどまえに出たものだが、『苗代川ノ沿革概要』というのにくわしく出ている」
私たちがこんなことを話しながら、日野町小野の鬼室神社をおとずれたのは、さきの八日市高校の「取材班」におくれることちょうど四年後の、おなじ「初雪」の季節だった。竜王町へ行ったときとは別の日だったが、このときも水野はいっしょだった。
敬愛されている鬼室集斯
日野はこれもまた近江によくみられるおだやかな町で、貧しくもなければ、といってそう富んでもいないといった、そんな感じのところだった。小学校の校庭に、「左 鬼室集斯祠 一里二十六町」という石柱が立っているのをまず教えられたが、私たちはまた、
「小野の鬼室神社へは、どういうふうに行ったらいいでしょうか」
と、通りがかりの人にきいてみた。
「ああ、鬼室集斯さんですか」と言って、中年の男のその人がまた実にていねいにそこを教えてくれた。小学校の校庭にもそんな石柱が立っているばかりか、人々からは「さん」づけでよばれているところなど、それだけでもこの町にとって、鬼室集斯というものがどんなに敬愛されているかよくわかる。
一九〇三年の明治三十六年に、蒲生郡教育会代表の遠藤宗義氏によって書かれた『鬼室集斯墳墓考』によると、「明治維新の後神仏の別を正されし時」鬼室神社は一時、祭神を「軻遇突智(かぐつち)命」とする西宮神社というものに改められたことがあったらしい。「軻遇突智命」とはなにやら、私にはよく読むこともできないが、こういうことはほかにもまたたくさんあったにちがいない。
「改めたるは何の故かわき難し、こは学士の霊廟なれば社号鬼室神社、祭神鬼室集斯と改むることこそ当然ならめ」と、遠藤氏も敬愛のこもった筆使いで、その当然なることをるるとのべている。要するに、この鬼室神社が今日なおはっきりその姿をとどめているのも、このような町の人々の敬愛によるものだったのである。
竜王山を背にした山あいの里、それが小野だった。田んぼのあいだにつうじている一本のなだらかな坂道をのぼって行くと、まもなく道の右かたわらに「鬼室神社」とした、なかなか立派な石碑がみえた。裏へまわってみると、この里の室徒(鬼室集斯の徒という意)の出である岐阜県の辻堅治氏寄贈のものだということがわかる。
神社(墳墓)のことは八日市高校「取材班」のそれにくわしく書かれているとおりで、私たちはそこからもう少し奥に進み、室徒株の一人である辻久太郎氏をたずねることにした。辻さんは六十三歳、いまみた岐阜の辻堅治氏の兄にあたる人だった。いまは隠居の身分で、遠くからたずねてくるものたちと祖先のことを語るのが、一つのたのしみでもあるようだった。
辻さんはすすんで家にあるいろいろな古文書や絵画などをみせてくれた。江戸時代からのものが主で、どれもそこをおとずれた文人や僧侶などのかいたものだった。系図もみせてくれたが、それにこうある。
鬼室集斯庶孫ニシテ 室徒中筆頭株司ナリ 代々庄屋ヲ勤メ 郷士トシテ帯刀御免ノ家柄ナリ 代々久右衛門ト称ス
「集斯さんは、朝鮮の百済にいたときはどういう位の人だったのですかね」と、辻さんは千三百年以上も昔のことを、ついこないだのことででもあったかのように、私たちに向かってきいた。
「『日本書紀』によると百済の等第二位の達率(たちそつ)、ダルジョル(達率)というものだったのですね。やはり、本国にいたときから偉い人だったのです」
「そうらしかったですな。なにしろ、こちらへ来てからもすぐに学職頭(ふみのつかさのかみ)という文部大臣になっているのですから……」
いわば、自慢だった。けれども、それが私たちには少しもいや味には感じられなかった。むしろ、当然すぎるくらいに思えたのだからおもしろかった。
「しかし、それにしても――」と、私はそう思う一方、またこうも思わないではいられなかった。百済王朝の遺臣、それが日本のこちらへ来てはすぐに学職頭、文部大臣になったという天智帝の近江朝というのは、いったいどういうものであったのだろうか、と。
大 和
大和・奈良の発見
よみがえった記憶
大和の奈良にはちょうどよい、晩秋であった。早いもので、私はこの「旅」をはじめて三年目になるが、一九七一年もいつの間にかそんな季節となっていたのである。私たちのクルマは、阪奈街道を走っていた。生駒山を越えると、そこはもう大和だった。紅葉しはじめたおだやかなたたずまいの山々、そのあいだからやがて大和盆地の一部が眼前にひらけてくる。
何度も来たところだった。しかし、にもかかわらず、若草山がしだいに目の前に迫り、興福寺や東大寺あたりの塔などが見えてくると、なんとはなし、ほっとしたものをおぼえるのだから妙なものだった。
大和は 国のまほろば たたなづく
青垣 山ごもれる 大和し美(うる)はし
奈良はいまでは近鉄の駅なんかも増改築されたりして、いよいよにぎやかな現代的都市となりつつあるが、しかしやはり、南大和の飛鳥あたりをうたったそんな古い歌など思いださないではいられないところである。
私と鄭貴文とは東大寺の広い境内にある駐車場の一つにクルマをあずけ、そこからは、歩いて三月堂のほうへ向かって行った。そこまで来ては三月堂の月光菩薩像にも会わなくてはならなかったが、きょうはまずさきに、その近くに住んでいる東大寺観音院の上司海雲師に会うためだった。海雲師には鄭のほうで用事があったからだが、私としても用がないわけではなかった。
脇に大きな瓶(かめ)などおいてある門をはいって案内を乞うと、すぐに海雲師は玄関先まで出て来てくれた。二十数年ぶりだったので、私はすぐにはその老人が海雲師であるのかどうか、ちょっと迷ったが、やはりその人にまちがいなかった。
海雲師は、自分の恩師である誰それの法要があるので、いまその準備をしているところだが、まあ、ちょっと上がって、――ということだったので、私たちは靴を脱いで上がった。庭に面した長方形の座敷で、廊下から庭先にまで赤茶色の瓶や壺などがいっぱいならんでいる。
「ほう」と、私は思わず声をあげた。
庭にまであふれている赤茶色の瓶や壺は、雑誌の写真などで紹介されているのをみたこともあったが、ふと気がついてみると、床の間にはみごとな李朝白磁の大壺がおかれてあって、赤い花がたっぷりと挿し入れられてある。
「ああ、あの李朝はですね」と、もうすっかり老人となっている海雲師は言った。「先日亡くなられた志賀直哉先生をこの正月たずねたら、きみ、これやるから持って行きたまえ、と言ってくれたのですよ。どうです、いいものでしょう。いま思うと、あれが形見だったわけです」
「はあ、そうですか。いいものだと思います」
いまではもうめったにそうしてみることもできないものとなっている、その李朝白磁の大壺を見つめながら私は言ったが、それをそのようにしてくれた志賀直哉という人についても、私はちょっと考えないではいられなかった。志賀氏は八十八歳の高齢で、亡くなったばかりだった。
そのことでは、私はまた私なりである感慨をもったものであるが、志賀氏と海雲師とはとくに親しく、「志賀直哉の墓」という墓碑の文字も、生前からの約束で海雲師が書くことになっているという。いわば生前の志賀氏はじめ、かつて奈良をおとずれたことのあるいわゆる文人墨客(ぼつかく)は、みなこの海雲師と親しいまじわりを持っていたのである。
鄭貴文の海雲師への用事がひととおりすみ、私も東大寺の境内にある韓国(からくに)神社の所在をきいたりしたところで、抹茶が出た。私たちは瓶や壺などの立ちならんでいる向こうの、樹木が紅葉している庭をながめわたしながら、ゆっくりとその茶を味わわせてもらったが、そのときになって私は突然、二十数年前の記憶がもう一つはっきりとよみがえるのをおぼえた。つまり、そのときもおなじこの座敷で、おなじようにして茶をごちそうになったのであった。
「ところで、先生」と、私は海雲師に向かって言った。「おぼえてはいられないでしょうけれども、ぼくは二十数年前にもこうして、この座敷で茶をごちそうになったことがあるのですよ」
「ああ、そうでしたか」と言って、海雲師はあらたまったようにして私の顔をみた。が、おぼえているはずはなかった。一九四八年の秋か、四九年春のことだった。
海雲師は今年六十五歳であるから、当時はまだ四十二、三の壮年だったわけで、私もまた二十八、九の青年だったのである。海雲師としては、当時もそういう青年にたくさん接していたはずだったから、忘れているのもむりなかったが、しかし私のほうは、そもそも奈良へ来たことからしてそのときがはじめてだったので、当時のことをよくおぼえている。
「そこは朝鮮だった」
一九四八年の秋か四九年の春、いわばそのときが私にとっては奈良への初旅であったのである。ずっと日本で生い立ってきていながら、私はこのときになってやっと、はじめて奈良をおとずれたのだった。
以来、二十数年、それはずいぶんむかしのことのようにも思える。が、しかし、そのときの感動はいまなお鮮明なものとしてのこっている。そのときの感動が、結局は私にこの紀行の「旅」をさせることにもなったのであるが、それを少し順序立ててみると、こういうふうであった。
そのころ私は、最初の長編『後裔の街』を出したところで、そんなことから、戦後の当時、「新日本文学会」に属していた評論家の小原元、水野明善、中西浩といったあらたな友人をもえることになった。故人となった中西は別として、二人とはいまもずっと親交がつづいているが、そのうち、右三人のうちの誰が言いだしたか、いっしょに奈良と京都をひとまわりしてこようじゃないか、ということになった。
私はそういわれてどういう反応をしめしたかは忘れたけれども、ともかくそういうことで、私たちはまず奈良へ向かって行った。戦後まもないころだったから、食べ物その他、まだ旅行することはなかなか不自由なころで、私は東京駅で夜行列車に窓からとび乗ったのをおぼえている。
奈良での私たちは、小原元がたしか間宮茂輔氏か誰かからもらってきた紹介状で、奈良公園前の日吉館に泊まった。そして東大寺に上司海雲師をたずねて、私としてはこれもそのときがはじめてだったはずの抹茶をごちそうになったのも、小原がもらってきた紹介状によってではなかったかと思う。
海雲師に会ったのはそういうしだいでだったが、私にとってはなにもかもがはじめてだった。そして、なにも知らなかった。もちろん、奈良ということが朝鮮語のナラ、すなわち「国」ということばからきたものであることも知らなければ、東大寺の大仏ということで有名な盧遮那仏(るしやなぶつ)を最初につくった、百済から渡来した国骨富の孫、国中公麻呂、というより、日本総国分寺としての東大寺そのものをつくったといわれる良弁(ろうべん)や行基、それがみな朝鮮渡来人から出たものであるということも、少しも知らなかったのだった。
しかしながら感じというもの、これはなかなかおそろしいものだと思わないわけにゆかない。というのは、私は小原元たちについて奈良のあちこちをめぐりながら、この地にたいしてしぜんにわきおこるある親しみとともに、一方ではまた、ある当惑に似たものも感じないではいられなかった。
大和の奈良は俗に日本の、あるいは日本文化のふるさとだという。なるほどそれにちがいはなかったが、しかし私のみたところでは、そこは朝鮮だった。「なんだ、ここは朝鮮じゃないか」という感じからくる思いがずっとつきまとって離れなかったばかりか、それはなおもつのるばかりだった。
そしてその思いをいっそう強い、決定的なものにしたのが、唐招提寺から西ノ京の薬師寺にいたる短い道すじだった。いまはこの道すじもかなり変わっているが、崩れかかっている、瓦をのせた築地塀(ついじべい)や、その辺にみえる民家の構えなど、ことにその築地塀と民家の長屋門の形とは、もうまったく朝鮮そのものだった。
「ああ、ここは朝鮮だ。朝鮮とそっくりおなじところじゃないか」と、私は思わずそれを声にだしてつぶやいたものだった。私はそれまで、雑駁な都会である東京とその周辺からはほとんど出たことがなかったので、この日本にそのようなところのあったことを、はじめて知ったのだった。「凍れる音楽」といわれた薬師寺東塔の美しさ、白鳳彫刻の代表とされている薬師三尊像のおおどかな美しさにも私は圧倒されたが、しかしそれにもまして、私にとっておどろきだったのは、いまみた平凡なその道すじの風情だった。気がついてみると、そのような築地塀のある道はいたるところにあって、有名な法隆寺もそのような塀によってかこまれたものだった。ここにはまた、朝鮮三国の一つの名をそのまま負った百済観音像が、千数百年ものあいだそこに立ちつづけていた。
国家誕生の地・大和
以来、大和は日本の「国のまほろば」であるばかりでなく、私にとっても「まほろば たたなづく」ところとなった。いわばこのとき大和をたずねたのが病みつきのようなものとなり、それからは、小原元たちと何だかだと語り合っては年に必ず一度や二度、ある年は二度、三度と、この大和をおとずれることになったのだった。
そのようにしておとずれるようになれば、しぜん、大和についての案内書や歴史書なども読むことになる。しかし、とはいっても、いまなお私は大和についてくわしく知っているとはいえない。
これからまた何度か、そこをたずねてはこれを書くことになるはずであるが、この地についての案内書で、私が読んで最初にまず考えさせられることになったのは、日本交通公社刊『大和めぐり』なるものだった。「歴史」の項で、それはこういうものだった。
大和は原始日本が国家として誕生したふるさとである。当初は倭国(やまと)の字が用いられ、のち、孝徳天皇のとき(六四五〜五四)大和となり、さらに進んで日本の総称ともなったところである。従って大和国は、わが国で最も古い文化地帯であり、政治の中心地でもあった。そのため石器時代からの遺跡や、宮跡・帝陵・古墳などが豊富にあり、その当時の文化をよく物語っている。
大和盆地が、四方山で囲まれ、内部の統一や自衛に便利であったことや、盆地の中央を流れて大阪湾にそそぐ大和川が、瀬戸内海を通って大阪へ来る大陸文化の輸入路だったことは、大和が早くから開けた原因の一つである。当時、帰化人(漢(あや)氏・秦(はた)氏)が多く、それらの多くは南大和の高市(たけち)郡飛鳥(あすか)地方に居住して、あるいは史部(ふひとべ)となって朝廷につかえ、あるいは兵士となり、あるいは工芸に従事して、わが国の文化や産業の発展に大きな力を尽くした。
なお、仏教が伝来してから、飛鳥の地はいよいよ栄えて、多くの大寺院が建てられ、ついには都をここにひきつけ、のちしばしば大和以外の地に遷都が計画されても、飛鳥の勢力には勝てなかったほどである。これが飛鳥地方に多くの宮跡があるゆえんである。これら帰化人は奈良朝末期になっても、高市郡の人口の八割ないし九割を占めていたという。そのころ、大和の葛城地方にいた秦氏のひきいる移住民は、のち山城(やましろ)国に住んで財力をたくわえ、それによって長岡、または平安京の遷都が行なわれたのであった。
日本の歴史学に絶望
私は日本の歴史を、ほとんどまったく知らなかったといってよかった。私も日本の小学校で、「国史」というのを教えられた。だが、それは歴史といえるものではなかったばかりか、神功皇后の「三韓征伐」または「新羅征伐」などと、はじめから朝鮮を侮蔑してかかったものだった。
それ以来、私は日本のそういう「歴史」を信じなかったものであるが、しかし、戦後になって考えなおした。「皇国史観」といわれたそのような歴史観も、少しは変わったのではないかと思ったのである。そこで私は、進歩的といわれていた歴史学者たちによって成る、ある大学出版会から出た『講座日本史』というのをとって読んでみた。
だが、古代の朝鮮にたいする記述は、依然なおおなじものだった。たとえば朝鮮からのいわゆる「帰化人」というものについて、それは古代の南部朝鮮を「征服」し「支配」したことによって得た「技術奴隷」だったなどと書いている。
このような考え方と見方とは、その後もずっと変わることなく、河出書房版『日本歴史大辞典』には、「四、五世紀のころ急に帰化人がふえたのは、高句麗の楽浪攻撃によって、当時の倭軍も、技術奴隷としての楽浪遺民の争奪戦に加わったためであろうと考えられる」と書かれているし、また、岩波書店版『日本歴史』にはこう書かれている。
「帰化人」という名称には、みずからの意志で日本に来て、土着を好んでしたかのように受け取れる内容がある。これは事実にそむく。「帰化人」の内にはそうしたものもいるが、「帰化人」の多くは略奪されて連れてこられたり、大陸の君主の贈与によって日本に来たのである。……したがって本稿では大陸出身の日本土着の工人、大陸からつれてこられて日本に土着させられた人といったような表現で、「帰化人」をあらわすことにする。便宜の都合で「帰化人」をつかう時はカッコをつけておいた。(藤間生大「四・五世紀の東アジアと日本」)
こういうふうであったから、私はもう日本の歴史と歴史学とには、ほとんど絶望してしまっていた。したがって、そういうでたらめなものは読まない、みないに限るというわけで、私はむしろ意識的にそれをさけてきたものであった。
東大寺の辛国神社
「帰化人」とは何か?
だが、しかし、大和が好きになってそこを何度となくたずねているうちには、どうしてもその案内書ぐらい読まないわけにはゆかない。そこでさきに引いた日本交通公社刊『大和めぐり』の「歴史」の項にぶつかったわけであるが、これはいわばオーソドックスな「歴史」というものではないであろう。
しかし、私はそれを読んで、そうとう考えさせられないではいられなかった。朝鮮からのいわゆる「帰化人」というもの、それはほんとうはどういうものであったのだろうかと。
読者もさきの引用のところをもう一度みてほしいが「当時、帰化人(漢(あや)氏・秦(はた)氏)が多く、それらの多くは南大和の高市(たけち)郡飛鳥(あすか)地方に居住して、あるいは史部(ふひとべ)となって朝廷につかえ、あるいは兵士となり、あるいは工芸に従事して、わが国の文化や産業の発展に大きな力を尽くした」というところなどは、いまみた歴史家たちのそれとだいたいおなじようなものである。しかしながらそれが、「これら帰化人は奈良朝末期になっても、高市郡の人口の八割ないし九割を占めていたという」とはいったいどういうことだったのであろうか。
いまになってみると、これは日本の正史の一つとなっている『続日本紀』七七二年の宝亀三年条にみえる坂上刈田麻呂らの上表によったものであることがわかるが、高市郡の飛鳥といえば、いうところの大和朝廷が奈良の平城京に移る以前、約二百年間もそこを都京としていたところだった。その「高市郡の人口の八割ないし九割」までがいわゆる「帰化人」であったとは――。
しかもそのうえさらに、「そのころ、大和の葛城地方にいた秦氏のひきいる移住民は、のち山城(やましろ)国に住んで財力をたくわえ、それによって長岡、または平安京の遷都が行なわれたのであった」ともいう。これはこれでまた、高市郡飛鳥にいたものとは別のものたちだったのである。
何度もいうようであるが、これはいったいどういうことであったのだろうか。「征服」し、「支配」したことによってえた「技術奴隷」や、「略奪されて連れてこられたり、大陸の君主の贈与によって日本に来た」いわゆる「帰化人」が、「奈良朝末期になっても」日本の、しかもその都の飛鳥のあった「高市郡の人口の八割ないし九割を占めていた」とはいったいどういうことなのか。そもそもいわゆる「帰化人」よりはるかに少ない、一、二割の本国人というものがあるのであろうか。
「凡(およ)そ高市郡内は檜前忌寸(ひのくまのいみき)及び十七の県(あがた)の人夫地に満ちて居す。他姓の者は十にして一、二なり」(『続日本紀』)とあるように、しかもまたここにいわれている「八割ないし九割」のものは坂上刈田麻呂、田村麻呂などがそれから出た百済・安耶系のいわゆる東(やまとの)(大和)漢(あや)氏族のことであって、ほかにもまたたくさん来ていた新羅や高句麗(高麗)のそれらはこれに含まれてはいないのである。となると、これはまたどういうことになるか。
ナラの語源は朝鮮語
そこで、私としてはまず、高市郡飛鳥にあった東漢氏なるもののそれからみるべきであるが、東大寺のある奈良からこれをはじめたついでに、さきにこの奈良とはどういうものであり、どういうところであったかということから、みておくことにしたい。いまさっきもふれたように、時代としての「奈良時代」は飛鳥時代よりのちのことで、八世紀のはじめ、七一〇年の和銅三年からのことであった。
しかし、それ以前はどうだったかといえば、その以前にももちろんここに人は住んでいた。中島利一郎氏の『日本地名学研究』によってみると、それはこういうふうだった。
松岡静雄氏は『日本古語大辞典』に、
ナラ(那良・那羅・奈良)大和の地名旧都として有名である。崇神紀に軍兵屯聚して、草木を踏みならした山を、那良山と号(なづ)けたとあるのは信じるに足らぬ。ナラは韓語ナラで、国家という意であるから、上古此地を占拠したものが負わせた名であろう。此語は我国でも用いられたのが、夙(つと)に廃語となったのか。或は大陸系移住民のみが用いて居たのであろう。
と述べ、奈良、朝鮮語説を提供したのであった。私自身としても、夙にこの説を採っていたのである。
朝鮮語 Nara 国、平野、宮殿、王
の四義を有するもの。今日では「国」及び「野」の義だけで、「宮殿」「王」の義は、全く朝鮮人からは忘れられている。わが奈良に、皇都を始めて設けられたのは、元明天皇の和銅年間であるが、それ以前平城の地には朝鮮人部落があったものの如く、現に奈良市内に、東大寺の地主神ということで、韓国神社というのが存している位である。従って奈良という地名は、最初から朝鮮人によって名づけられたものであると思われる。
実をいうと、私はこれまで何度も奈良をたずねていたにもかかわらず、ここにそういう韓国(からくに)神社があるとは知らなかった。近鉄奈良駅近くの漢国(かんご)神社のことは、今井啓一氏の「京畿及近江国における蕃神ノ社について」にあって、それはこうなっている。
式の宮中神卅六座中、宮内省坐神(にます)三座の韓神社二座(京都市上京区千本丸太町の東南、主税町辺に在っただろう。なお、大日本神祇志の按に下京区格致学区醒ケ井通高辻上ル荒神町をその旧址とするのは当らぬ)や、奈良市漢国(かんご)町(近鉄「なら」終点の西南二町)鎮座の旧県社漢国神社の祭神三座のうち韓神というのも、韓国に由あるかも知れぬ。尤(もつと)も古事記によると、大年神の御子に韓神のますことをしるし、前記の韓神とは大己貴・少彦名の二神で疫病を守る神とも伝えている。
この漢国神社は、私も行ってみたことがある。ここには百済王によってもたらされたという白雉、その白雉塚というのもあったが、ここでもらった『漢国神社略記』をみると、祭神はこうなっている。
国神 大物主命。
韓神 大己貴命。少彦名命。
だが、「東大寺の地主神ということで、韓国神社というのが存している」とは、私はいまごろになってはじめて知ったのだった。それだったから、東大寺観音院の上司海雲師にその所在をきいたりもしたのである。すると海雲師はこう言って、そこを教えてくれた。
「そういえば、あれも朝鮮でしたね。それは鐘楼のところから……」
渡来の民の祖神廟・韓国神社
はなしは最初のところに戻るが、海雲師とわかれて出た私と鄭貴文とは、さっそくその鐘楼のほうへ向かった。いまは辛国(からくに)神社となっている、韓国(からくに)神社はすぐにわかった。
とはいっても、それは小さな神社となってしまっていた。だいたい東大寺の境内は全体が扇状地で起伏の多いところであるが、辛国神社はそのうちのまた小さな丘陵のうえにぽつんとたっていて、うっかりしたら、そのまま見すごしてしまうところだった。
それでも氏子としての信者はまだいるらしく、神殿ともいえない小祠の前には、「辛国神社」とした小さな提灯がたくさんさがっていた。私たちは裏からそこへのぼって行ったので気がつかなかったが、前へまわってみると、「辛国社」とした石灯籠なども小さな鳥居の横に立っている。辛国とはもちろん、河内の藤井寺にある辛国神社や、辛国息長帯比売(おきながたらしひめ)などといったそれとおなじで、これも韓国をいつのころからかそれに変えたものである。新羅神社を白木、白城神社などとしたのとおなじである。
日本人はどうして、なぜそれをそのように変えなくてはならなかったか、ということについてはここではふれないが、私はその小さな辛(韓)国神社の前に立って、いろいろなことを考えないではいられなかった。まず思いだされるのは、古代にあっての神社は、一つの独立国のようなものであったということである。高柳光寿氏は「中世の神社は独立国であった」といっているそうであるが、古代はなおいっそうそうであったにちがいない。
中島氏のいう「朝鮮人部落」で、独立国とはいっても、もちろん現代にあるそういうものではない。村国(むらくに)といったほうがぴたりとする、そんな国であったであろう。そして彼らはこの地を自分たちのナラ(国)とよび、祖神を祭っては、それを韓国の杜(もり)(朝鮮語モリ=頭・中心)、すなわち韓国神社とした。彼らは自分たちのやって来た古代南部朝鮮の三韓(辰韓・弁韓・馬韓)のうちのどちらかをはっきりと意識していて、そこを韓国としていたのである。
だから、その韓国神社もはじめはもっと大きかったものであったはずであるが、そうして数十年、あるいはもしかすると数百年かがたった。そこへ朝鮮からはまた、新たな人の波が打ち寄せて来たのである。
いわゆる天孫民族が朝鮮から大挙して畿内に入ってくるまでは、それ以前に絶えず小さな波で渡来していた朝鮮人が各地に集団をつくって住み、これが出雲系の生活形態(宗教とか文化とか農耕とか)と共同的な近似性で統一されていた。すなわち出雲の国神大己(おおなむち)貴神のいう「夫(そ)れ葦原中国は本(もと)より荒亡びたり。磐石草木(いわくさき)に至及(い た)るまで咸(ことごと)く能く強暴(あしか)る。然れども吾すでに摧(くだ)き伏せて、和順(まつろ)わずということなし」(紀)のありさまであった。そこに後来の新しい朝鮮人集団が大和盆地を占拠したために、先住朝鮮人は駆逐され、北の出雲側と南の紀伊側に分割されたのであろう。(松本清張「大和の祖先」)
しかもその後来のものたちは、祖神廟とか神社といったものとは本来相容れない仏教を持ったものたちだった。彼らはこの奈良に平城京なるものを打ちたててここを都とし、また、東大寺というとてつもない大伽藍を造営した。
先住の彼らのあるものは駆逐されたばかりか、祖神廟であった韓国神社もその大伽藍のかげに埋没し、それからは地主神ということで、かろうじて今日のような姿をそこにとどめることになったのである。
巨万朝臣福信のこと
その大伽藍の東大寺については、もうここであまりふれる必要はないであろう。しかし、新羅琴などを含む「正倉院宝物」といわれるもの、それについてはちょっとした思い出がある。
毎年、秋になると奈良国立博物館では、それの一部を展示する「正倉院展」が行なわれる。ある秋のこと、そこに出ていたある文書に、「天平十七年四月廿一日/従七位行少録韓国連大村」とか、「武蔵守巨万朝臣福信」といった署名のあるのをみて、私はひどくなつかしいような気分になったものである。が、一方ではまた、ある奇異の感にも打たれないではいられなかった。どうして、なぜ彼らが奈良の朝廷のそこにまで、――と思ったのである。
「韓国連(からくにのむらじ)」とはまさに読んで字のごとくであるが、巨万(こま)朝臣の巨万とはこれも高麗(こ ま)で、しかも彼は関東の相模(神奈川県)あたりにやって来た高句麗系渡来人から出たもののはずであった。だが、これも中島利一郎氏の『日本地名学研究』をみるにおよんでよくわかった。
聖武天皇の寵臣に……巨万朝臣福信というものがあった。今日の正倉院御物は、聖武天皇の御遺品を、東大寺の大仏に寄進せられたものであるが、この『東大寺献物帳』の奥書に、代表者の自筆の署名があり、それにこの巨万朝臣福信の名が自署でのこっている。以て彼が当時朝廷で如何に重要な地位を占めていたかがわかる。
「なるほどそうか」と思ったわけであるが、しかし考えてみれば、奈良の朝廷といってもその奈良(ナラ=国)ということばからして朝鮮語なのだから、それはあたりまえなことであったかも知れない。奈良のことをみたついでに、では、東大寺ととなり合っている春日大社の春日はどうであろうか。中島氏の『日本地名学研究』により、ここでそれもみておくことにする。
奈良の地名として、最も有名なのは春日である。学生諸君は直(ただち)に遣唐使安倍朝臣仲麻呂の歌として、
天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも
を想い出すであろう。……
私はこの「かすが」を「大部落」の意に解せんとするものである。「か」は大の義で、ウラル・アルタイ語族では、「大」を可(か)といった。成吉思可汗の可汗は大帝の意である。日本語「か弱し」「か黒し」の接頭語「か」も大の義と考えていい。「かすが」の「か」もそれと見ていい。「すが」は古朝鮮語「村主(スグリ)」「村主(スグニリム)」の「村(スグ)」で村、即ち部落のことである。故に私はこの「かすが」を大部落、即ち大村、大邑の義と考えたいのである。勿論、私は春日山下に夙(つと)に朝鮮人部落の存したことを想定するのである。
帯解・和爾・高良
朝鮮とよく似た風景
東大寺から国道二四号線に出て、飛鳥を目ざすことにする。「ことにする」というのは、何度もそういうふうにしてこの道を行っているので、それをいつの時点とは決めかねるからである。
要するに大和盆地を北から南へと向かうわけで、そうすると、右手が生駒山地となり、左手が笠置山地ともいわれる大和高原山地となる。どちらもそう高い山地ではないが、盆地からのせいか、この二つの山地はなかなか雄大なものに見える。
この山地の名からして、松本清張氏によると、「葛城氏の本拠の生駒山の『駒』も『高麗』からきている」(「大和の祖先」)というのであるが、では、大和高原山地の「大和」とはどこからきたものであったろうか。それはいずれのちにみるとして、国道二四号線をそうしてしばらく行くと、左手のほうに帯解(おびとけ)というところがある。
いつも私のこの「旅」によく同行してもらっている鄭貴文とおなじ東大阪市に住んでいる作家の司馬遼太郎氏を、鄭といっしょにたずねたときのことだった。司馬さんは、さいきん南朝鮮の韓国へ行って来たばかりで、『街道をゆく』の続編としたその紀行を『週刊朝日』に連載しはじめていた。そして一方、司馬さんは、私のほうは日本のそれをこうしてたずね歩いていることを知っていたので、応接間で私たちと会うやいなや、いきなりその辺にあった紙きれに、こういうことを書いて私にくれた。
「慶州・仏国寺あたりの掛陵(けりよう)。その掛陵へゆく丘陵地の坂、そのあたりは円照寺への坂とそっくり」
そして同時にまた、奥へはいって行ったかとみると、吉田東伍氏の『大日本地名辞書』を持ってきて、そこにある「山村郷」の項を私にさししめした。みると、こう書かれていた。
和名抄、添上郡山村郷、訓也末無良。今、帯解村是なり、古の和珥(わに)の地に属す、昔は豊邑なりけるにや、其名夙に著る。日本書紀云、欽明天皇元年、百済人己知部投化、置倭国山村、今山村己知部之先也。姓氏録云、大和諸蕃山村忌寸、己智同祖古礼公之後也、己智出自秦太子胡苑也。霊異記云、添上郡山村中里。今昔物語云、添上郡山村里住人。……
円照寺は山村御所と号す、後水尾太上皇の女深如海法尼の開創にして後四世相継ぎて皇女入室あり、其御墓存す、旧寺領三百石。
和珥池は帯解村大字池田に在り、越田池蓋是なり、神武天皇紀に見ゆる和珥坂の居勢とある亦此地なり。古事記仁徳帝の時に和邇池を作るとあり、日本書紀にも推古帝十一年和珥池を作ると載せらる。書紀通証云、添上郡和珥池、在池田村、一名光台寺池。大和町村誌云、池田村に天武皇子池田王宅趾あり。
ここにいう和邇池・和珥池・光台寺池は、『大和名所図会』にも、「和珥池 帯解の町をすぎて西の方にあり。土人広大池という」とあって、いまは広大寺池となっているが、この帯解の「円照寺への坂」あたりが新羅の古都だった慶州の掛陵あたりとどう似ているかということについては、司馬さん自身、その後さきにいった紀行に書いている。うつしてみると、こうである。
いまめざしている「掛陵」というのは、新羅のどの王の御陵であるか、よくわからない。ミセス・イムによれば、新羅三十六代の王か、三十八代の王かどちらかだという。
東京雑記(とうけいざつき)という朝鮮の書物に、
「掛陵ハ在府ノ東三十五里、何王ノ陵ナルカ知ラズ」
と出ているから、私もこの書物の態度に従う。古い王陵というのは何王のそれともわからずに詣でるほうが、かえって気分に神韻がひびいてきてなにやら結構のようにおもわれる。
野の径(こみち)をしばらく歩くと、足もとがややのぼりになっている。老松が陽を遮って、赤土の径をまだらに染めている影が、印象派の絵のように紫色であった。
「このあたりに、一度きたような気がする」
と、私はたたずみたい思いがした。思いあわせると、このあたりの丘と野と林の風景は、ちょうど大和の帯解(おびとけ)の山村(やむら)ノ里の茂みのなかから尼寺の円照寺へわけ入ってゆく坂のあたりの景色にひどく似ている。
ついでながら、大和の帯解の山村ノ里は万葉集にも詠まれて、その歌というのは、
あしびきの山にゆきけむ山人の
こころも知らぬ山人や誰
という変哲もないものだが、この歌のなかで「誰であろう」として登場するやまびとは、百済人(びと)の子であったにちがいない。なぜならば帯解の山村ノ里は、欽明天皇のころにやってきた百済人が拓いたということが、「日本書紀」に出ているのである。韓人というのは自分たちの陵墓や村をつくるときに、地相をえらぶ。似ているのは、あるいは当然かもしれない。
人麻呂は和爾氏の分れ
さて、朝鮮の新羅王陵の一つとされている掛陵のあるあたりと似ているといわれるこの帯解の地は、いまみたように、「古の和珥の地に属」していたという。いまも帯解からちょっと南下した東方に和爾(わに)というところがあって、もとは前方後円墳の後円部であったというところに、和爾下(わにしも)神社というのがある。
つい先日も、私と鄭貴文とはそこらをひとまわりして来たばかりであるが、その神社は櫟本(いちのもと)小学校のある街道に面したところにあった。そしてここにはまた柿本寺跡があって、万葉の歌人柿本人麻呂のそれという歌塚がある。この歌塚と人麻呂などとの関係については、山本健吉氏の『大和山河抄』にくわしく出ているので、それをかりることにする。
いろいろ問題のある帯解(おびとけ)は素通りして、まず人麻呂の歌塚をめざす。櫟本の和爾川のたもとで車を降り、和爾下神社の石標のある道を左へ入る。この参道は、道端の柳の巨木が、まるで通せんぼうしているみたいに倒れかかっているところへ出る。かつて落雷を受けて、こんな奇妙な傾き方をしたものらしい。前に車でここまではいって来てえらく苦労したことがあった。
この柳の木の左手が、いま子どもたちの遊園地になっていて、その一角の木立を背後に歌塚の石碑が立っている。何時のころからか、人麻呂の墓と言い伝えられているのである。昔はここに、治道山柿本寺(ちどうさんしほんじ)が建っていたのである。藤原清輔集に、柿本寺に人麻呂塚があるとあるから、古い伝承にちがいなく、鴨長明も、泊瀬へ詣る道に歌塚があると書いてある。だが、今ある石碑は、享保十七年に建てたもので、歌塚の字は、徳巌公主の筆だが、皇女にしては強い大字を書いたものだ。
土盛りをしたほんの一握りの森で古墳らしい形をなしているが、これが初めて文献の上に見えるのは、平安末の清輔の時代なのである。それまでのあいだ、土地でこれを人麻呂の塚だと伝承してきたらしい。清輔がかつて大和を過ぎたとき土地の故老に、石上寺のかたわらに杜(もり)があって春道社と柿本寺とがあり、寺の前の田の中にある小さい塚は人丸の墓と言い、その塚の霊がつねに鳴動すると聞いたのである。行ってみると、春道の杜には鳥居があり、柿本寺は礎ばかりが残っていた。人丸の墓は四尺(約一・二メートル)ばかりの塚で、木がなく、ススキばかりが生えていた。
この春道社が、今もある治道(はるみち)宮和爾下(わにしも)神社で、歌塚のすぐうしろの丘の上にある。和爾の部落は、ここからさらに西北に当たるが、古代に栄えた和爾氏の部族がひろがっていた和爾の地は、これより南の石(いそ)の上(かみ)に接して、かなり広い範囲であっただろう。和爾氏はたびたび皇室の外戚となり、和爾氏に関する物語や歌は、古事記・日本書紀に、意外にたくさん散見している。そして柿本氏は、この和爾氏の分れなのだ。
和爾と高良神社
さて、と、またさてであるが、柿本人麻呂もその分れから出ているという、この和爾氏族とはいったいどういうものであったのだろうか。
まず思いうかぶのは、これも西(かわちの)(河内)文氏の祖ということになっているあの王仁(わに)の一派ではなかろうかということである。王仁は、『日本書紀』では王仁となっているが、『古事記』では和邇吉師(わにきし)となっている。
吉師というのは古代朝鮮の位階だった「吉士」からきた尊称で、和遁はまた和珥(わに)、丸邇(わに)、和仁(わに)とも書かれている。したがってこのわにというのも実は、朝鮮語の尊称であったものがのちには姓となり、またその尊称のダブっているものもたくさんあることからして、これももとは朝鮮語ワンニム(王任=王様)からきたものではなかったかと私は思うのである。和爾のことについては、松本清張氏も「和珥(わに)氏は王仁(わに)を和風にしたのだろう」(「大和の祖先」)といっているが、仲川明氏の「和爾と楢の社寺について」をみるとやはりこうなっている。
奈良県天理市に和爾(わに)というところがあり、今は和爾町というが、これは古い村なのである。この和爾という所は、王仁(和邇吉師)の子孫の居た所ではなかろうかという疑問は誰でも持つのであり、現にこれを結びつけている学者もあるようである。
すなわち、応神陵などを含む古墳群で有名な河内(大阪府)の古市を根拠地として展開した、百済渡来の豪族である王仁系氏族からわかれ出たものの「居た所」ではなかったかというのであるが、ところでまた、この和爾の近くには長寺(おさでら)ともいわれる高良(こうら)神社がある。長(おさ)というのも朝鮮語オサ(語司)から来た訳語(お さ)・曰佐(おさ)のことで、この高良神社のことは山本健吉氏の『大和山河抄』にも書かれているが、仲川明氏の「和爾と楢の社寺について」のほうがくわしい。
山村の曰佐(おさ)の地に楢(なら)の曰佐があったと思われる理由は、今の楢の地に接続してその南方に、今は櫟本町の瓦釜という垣内に属するが、そこに長寺(おさでら)という寺があったのである。これは曰佐氏の氏寺の曰佐寺であると思われるからである。奈羅訳語恵明(ならのおさのえいめい)は、この曰佐氏と関係がないだろうか。この寺は前記した楢池廃寺〈この寺からは一九五六年に大楢君の祖父であった素止奈の墓誌板が発見され、「素止奈という人物は朝鮮よりの帰化人ではないかと考えられる」ということが「前記」されている。=金〉とは数百米しか離れてないが、ここからも殆んど同時代の古瓦から、少し時代の下るものまで出土する。延久二年(一〇七〇年)の興福寺雑役免坪付帳によると、「長寺田六町九反二百八歩」と出てくるので、平安期まではまだ長寺が存在していたのである。
ところが中世以後この寺は転退して、そこに高良神社だけが残っている。ここは俗に高良さんとも呼び長寺さんともいわれている。櫟本という町は数個の部落が一つになった町で、その中の高品を中心とした地方の氏神は和爾下神社であるが、この瓦釜の氏神は高良神社で、九月十四日が和爾下神社の新祭だが、その翌日に高良神社の新祭を別にやることになって、これを長寺まつりといっている。この和爾下神社も式内社であるが、ここは昔から治道宮といった宮で、式内社の高橋神社がこの宮さんで、高品の氏神であり、瓦釜の氏神がこの高良神社であるらしいのである。
瓦釜というのは、瓦窯のことで、瓦を焼いた窯があって名づけられたと考えられる。当時、瓦を屋根にのせたのは寺院だけであるが、その必要上、瓦を焼く窯があった。楢池廃寺の瓦もこの長寺の瓦も殆んど同模様で、同じ窯で焼いたと思われる位である。なお想像をたくましくすると、ここから南方数百米にあった石上氏の氏寺と思われる石上寺や、山村の曰佐に関係あると思われる山村廃寺の古瓦なども殆んど同時代の同じ模様の瓦であるので、何か関係がありそうである。
高良神社は長寺があった頃から祀(まつ)られていたらしく、今の社殿は一間社檜皮葺流れ造りで、室町時代の様式である。祭神は武内宿禰となっているが、福岡県の式内社・高良神社と同様、高良玉垂命やその系譜と考えられていた武内宿禰を祀ったのであろう。京都府の石清水八幡にも高良社がある。櫟本にも高良社の西方三百米の地に八幡社があって、前記した長寺祭には高良社から八幡社へお渡りがある。高良さんは京都市内に尚十二あり、ほかにもさがせばあると思われるが、これは高麗の神様ではないかと思われる。
百済の己知部なるもののいた帯解の山村郷のことからつい深入りしてしまったが、こういうふうにみていたのではいちいちきりがない。次は一つ大きいところで、法隆寺をみることにしたい。
法隆寺をたずねて
斑鳩町へ向かう
法隆寺はいまみた櫟本からすると、和爾下(わにしも)神社前の道路を直角に、まっすぐ横田へと向かい、そこから国道二四号線を横切ることになる。すると近鉄筒井駅となるが、ここからはもう法隆寺のある斑鳩(いかるが)町は近い。
松本清張氏は、この斑鳩ということも朝鮮をさした韓(から)の転訛、つまり「軽(かる)」からきたものではないかとしてこう書いている。
記紀によると孝元天皇は「軽(かる)の境原宮」にいたという。軽(かる)の地は高市郡で、いまは橿原市に入っている。この地名から軽皇子(かるのみこ)や軽太子(かるのたいし)、軽大郎皇女(かるのおおいらつめ)(この兄妹は近親相姦で罰せられた)の名がある。「軽」は「韓(から)」である。この近くの弥生遺跡で有名な「唐古(からこ)」も唐(とう)でなく、韓からきていると思う。
法隆寺のあたりを斑鳩(イカルガ)の地という。名義不詳となっているが、これも「軽」から出ているとみてよい。カルにイの接頭語がついたのであろうか。(「大和の祖先」)
その斑鳩に近づくと、まず右手に法起寺の三重塔が見えてくる。そしてそのもうちょっと向こうに法輪寺があるけれども、これは青緑の山のあいだにかくれてみえない。その法輪寺について、さきにみた吉田東伍氏の『大日本地名辞書』をみると、こう書かれている。
古は法琳寺に作る、今真言宗東寺に依属し、法隆寺の北八町に三重塔及妙見堂存す是なり。山背大兄の創立、上宮妃膳三穂姫の御願なり、塔婆は当時の遺構とす。(今特別保護を加えられる、又百済国将来の木造観音一体を伝う)
ここにいう「百済国将来の木造観音一体」とはどういうものか、私はまだそれをみてはいない。何度も法隆寺までは行っていながら、どうしてまだそれをみなかったか、いま考えるとちょっと妙な感じがしないでもないが、しかし一つは、それも法隆寺のためではないかと思う。あまりにもみたいものの多い法隆寺の偉大さに圧倒されて、ついこれまで、そこには目が向かなかったのである。
まもなく法隆寺の一部分が見えはじめ、右手のそこには美しい松並木道が通じている。いまあらためて法隆寺発行の『法隆寺』をみると、この並木道からは、「左に雄大な前方後円墳が見える。前方後円墳は法隆寺の後方、法輪寺のあたりにも、幾つか残っている。法隆寺の創建を考えるにつけても、この地には、もと強力な氏族がいたことと想像される」とある。
私はこれらの古墳も見落としているが、「もと強力な氏族がいたことと想像される」という、もとのその氏族とは、これはまたどういうものであったのであろうか。いまみたように、松本清張氏によるとこの斑鳩(いかるが)も軽(かる)、すなわち韓(から)からきたものであろうとのことであるが、するとここにもやはり、東大寺にあった辛国(からくに)の韓とおなじような、もとはそういう氏族がいたのであろうか。
聖徳太子の出自は?
それはどうであったにせよ、法隆寺ということになると、まず思いだされるのは聖徳太子ということである。では、その聖徳太子とはどういうものであったのだろうか。
いま宮内庁には、百済聖明王の第二子阿佐太子が描いたものといわれる聖徳太子画像があって、われわれも写真や一万円札などでよくみているが、もちろん『古事記』や『日本書紀』、それから『上宮聖徳法王帝説』などにもその出自のことは書かれている。しかし、それらによってみたところで、この人物については、まだよくわからないところがたくさんある。
古代ともなれば、それはなにも聖徳太子と限ったことではないであろう。しかし、この人物については以上にあげたもののほかにも、『聖徳太子伝暦』『扶桑略記』など、むかしから書かれたものがひじょうに多いだけに、かえって私などにはいっそうよくわからないということがある。
だが、それらのものを総合してみて、これだけはというふうにいえることは、聖徳太子の名が厩戸皇子(うまやどのみこ)(馬屋門皇子)というものであったことである。つまり、その出自は馬とかかわりがあったということである。このことは、『釈日本紀』にいう「馬は百済から来たものなり」ということと関係があったのかなかったのか、それはわからないというよりほかない。が、しかしいまでもはっきりいえることは、これも聖徳太子の建立ということになっている、法隆寺よりも先行した最初の大寺とされている大阪の四天王寺が、百済式伽藍であったということであり、法隆寺もまたそれとおなじものであったということである。
石田茂作氏の『法隆寺雑記帳』をみると、「飛鳥時代の寺を調べるにはどうしても朝鮮百済の寺を調べねばならぬことになっ」てした百済の軍守里廃寺発掘のことが報告されていて、こういうことが書かれている。従来、飛鳥時代の寺院といえば、それはだいたい、法隆寺式→法起寺式→四天王寺式→薬師寺式→東大寺式という順序で考えられていた。
ところが百済の発掘によって、百済寺址は法隆寺式でなく四天王寺式であることが判りました。そこで現法隆寺はそんなに古いものかどうか、再検討をせねばならぬ立場におかれたのであります。今まで大体において文献学者は再建説、遺物学者は非再建説であって、しかも非再建が優勢であったが、これによって遺物学者にも反省すべきでないかと考えさせられたのであります。ここにおいて昭和十四年十二月の若草伽藍の発掘ということになったのであります。
聖徳太子と当時の情況
その結果、現法隆寺の前身であったとみられていた若草伽藍は、百済寺院と「いろいろな点で類似している」ことがわかり、伽藍配置は「共に四天王寺式である」ということも判明したというのであるが、ついでにここで同氏の「法隆寺について」により、このような法隆寺とはどういうものであったか、さきにまずそれからみておくことにしよう。なお、法隆寺は六〇一年から約六年間かかって、六〇七年にできたものということになっている。すると、仏教が百済から渡来したのは五三八年のことであるとされているから、それから約六、七十年後ということになる。
聖徳太子と当時の情況
厩戸(うまやど)皇子、つまり聖徳太子は敏達天皇の三年(五七四)に生まれ、史上初の女帝推古天皇のために、一九歳のとき摂政になったが、当時は皇室の主導権がまだ確立されていないため、政情は常に不安定であった。大和朝廷内部の豪族間の勢力争いが主な原因で、特に蘇我(そが)氏と物部(もののべ)氏との対立が大きく表面化し、太子が蘇我馬子と連盟して守旧派の物部氏を滅してからは、開明派の蘇我氏の勢力が皇室に対抗するほどの強さになっていた。しかし太子は蘇我氏と結んで大陸文化の摂取につとめ、殊に仏教文化を盛んに吸収しようとされている。蘇我氏の建立した法興寺に対して、太子が法隆寺を建てられたことは、皇室が正式に仏教に肩を入れたことになり、当時の最新の大陸文化を太子が進んで取り入れたことは、今の言葉を使えば、それは“近代化”にほかならなかった。十七条の憲法を作ったり冠位十二階を制定したのは、そのよいあらわれであろう。また天皇記や国記をあらわして、皇室中心の統一国家の形成につとめたが、これは大陸における新しい大帝国隋と国交を開くことによって、宿敵である新羅(しらぎ)との対決を有利にみちびこうとしていた日本の体制づくりでもあった。
ここで、石田茂作氏のこれにちょっと補足をすると、一九六六年七月号の『文芸春秋』に「日本が世界史に出あったとき」という座談会があって、そこでこういうことが語られている。
池島〈信平〉実はわたくし、このあいだ韓国へ行きましてね、新羅(しらぎ)の千年の都・慶州から南のほうをずっと歩いてみた。あのへんには、日本の飛鳥時代のものと、非常によく似た文物がたくさん残っています。
日本も朝鮮も、中国の文明圏なのですが、比べて感じたのは、中国のあの強烈な文化が朝鮮を経由して、そこでいわばフィルターにかけられた形で、柔かく受け入れられやすくなって日本へ入って来た、という面があるのではないか、ということだったのですが……。
井上〈光貞〉たしかにおっしゃる通りです。これが最初から中国と接触したのだったら、文明の度合いが異質だからなかなか受け入れられなかったでしょう。
具体的にいいますと、たとえば推古朝に聖徳太子が冠位を定めますね。あれは朝鮮から受け入れているのです。高句麗(こうくり)にも、新羅にも百済にもあったのですが、その名称を見ますと、日本がいちばんととのっています。その次にととのっているのが百済ですよ。つまり中国から遠ざかれば遠ざかるほど形が整っている。濾過しながら理想的な形で受け入れているわけですね。……
小西〈四郎〉ふつう日本史の教科書では、聖徳太子は隋から学んで冠位の制を定めた、などと書いているけども、これは改めなくてはいけませんね。
井上 そう書かれていたらまちがいですね。朝鮮・日本の冠位と、隋・唐の官品というものとは、まったく系統がちがうんです。それを考えただけでも、隋から学んだはずはありません。もっとも後になって大化改新のときに、冠位の制度が改められますが、この時に唐の影響が加味されています。
この座談会でいわれていることもあわせて、私にはまた私なりの補足や意見がないではない。しかしそれはおいて、ちょっと長くなるが、石田茂作氏の「法隆寺について」をもう少しつづけてみることにしよう。
そのころは、まだ素朴な農耕社会で、農民たちは自然発生的な集落のなかで生活していた。彼等の生活感情は万葉集の東歌(あずまうた)と防人(さきもり)の歌などによってしのぶことができるが、農民は国造(くにのみやつこ)県主(あがたぬし)村首(むらのおびと)などによって支配され、大化改新以前はこれら支配層による農地、農民の私有地が目立っていた。大陸の最新の文化と技術を身につけて移住してきた帰化人たち――僧侶、寺工、瓦工、鑪盤工、画工――は、このような情勢のなかで有利な地位を手に入れ、仏教の布教と寺院建設のために大いに活躍した。法興寺、法隆寺、四天王寺などは、このような帰化人群によって造られたといっても過言ではない。
古代寺院の粋・法隆寺
さて、「もと強力な氏族がいたことと想像される」ところで、「左に雄大な前方後円墳が見える」松並木道をはいって行くと、左右に高い築地塀(ついじべい)がのびている法隆寺の南大門である。そこをはいると、いよいよ法隆寺の中ということになる。
目にまばゆいような白砂の道がつづいていて、ここにもあちこちと築地塀がのびているが、みごとなエンタシスの柱が重層入母屋造りの楼門をきちっと支えて立つ中門がもうすぐそこにみえる。われわれはその中門をはいったとして、わずらわしいかもしれないが、ここでまたもう一度、石田茂作氏の「法隆寺について」をみておくことにしたい。
伽藍の規模
現在の法隆寺は、ほぼ三〇〇メートル平方の広さをもち、周囲に土塀をめぐらし、その南面中央に南大門を開き、ここから入って北に進むと中門があり、中門から回廊が翼をひろげるように東西に延び、やがて北に折れて講堂の左右につながっている。そしてこの回廊がかこむ空地には西に五重塔、東に金堂を配し、講堂の左右には経蔵と鐘楼、講堂の北には上御堂が置かれている。また回廊の外の東側には東室を改造した聖霊院、西側には西室を改造した三経院があり、さらに三経院の南には湯屋、聖霊院の東には綱封蔵(こうふうぞう)と食堂(じきどう)とがある。しかし僧侶はこれらの諸堂には居住せず、境内周辺の八ケ子院で生活している。だから寺といっても、法隆寺は、われわれの知っている、いわゆる寺とはたいへん違う。今のお寺はお説教も稀れにはあるが、墓守りでもあり、とむらいの場所でもあるが、飛鳥、奈良時代の寺は今の学校と公会堂と博物館と図書館と公園とを兼ねた一種の文化センターであった。……
こうした寺が飛鳥時代に四六寺、奈良時代には全国で一、〇〇〇寺以上もあったと思われるが、時の変遷とともに、その多くがなくなって、残っているものは非常に少い。現在残っている主なものは広隆寺、四天王寺、下って薬師寺、東大寺、興福寺、唐招提寺などがあるが、いわゆる主要伽藍、つまり七堂伽藍を具備する点においては法隆寺ほど完全な寺はない。この意味で、法隆寺はわが国上代寺院の最も代表的なものというべきであろう。……
わが国最古の仏像
飛鳥時代は仏教の伝来につれて諸種の仏像が朝鮮から招来され、またその仏像を手本として多くの仏像が造られたことは文献に明らかであるが、その遺品は非常に少い。ところが法隆寺には、その少いと言われる飛鳥仏が十数体も伝えられている。金堂本尊の釈迦三尊、夢殿本尊の救世(ぐぜ)観音、百済(くだら)観音、釈迦二尊像、金銅救世観音像、脇侍六体菩薩像などはその主なものである。なかでも金堂本尊である釈迦三尊像の光背には推古天皇三一年止利仏師作の銘記があって、飛鳥時代の仏像の標準とされている。
法隆寺にはこのほかにも、中国の雲崗石仏や朝鮮の慶州石窟庵とともに東洋三大芸術の一つといわれる有名な金堂壁画があったし、また玉虫厨子などたくさんの国宝、重要文化財となっているものがあるが、ところで、ここにいわれている金堂釈迦三尊像の光背にその「造」と銘記された止利仏師とは、いったいどういうものであったのだろうか。
止利仏師とは何者か
止利は鳥、都利、禽(いずれもとり)とも書かれたものだった。また引用であるが、『日本書紀』推古十四年条をみると、止利についてこう書かれている。
鞍作鳥(くらつくりのとり)に勅して曰く。朕内典(あれほとけのみのり)を興隆(お こ)さむと欲(おも)い、方将(ま さ)に仏刹を建てむとして、肇(はじ)めて舎利を求めき。時に汝(いまし)が祖父司馬達等(しばたつと)、便(すなわ)ち舎利を献(たてまつ)りき。又国に僧尼無し。是(ここ)に、汝が父多須那(たすな)、橘豊日(たちばなのとよひ)天皇(用明天皇)の為に出家し、仏法を恭敬(うやま)う。又汝が姨嶋女(おばしまめ)、初めて出家して、諸尼の導者(みちびき)と為(し)て、以て釈教を修行(おこな)う。今朕丈六の仏を造りまつらむと為て、好(よ)き仏像を求む。汝が献れる仏の本(ためし)、則(すなわ)ち朕が心に合えり。又仏像を造ること既に訖(おわ)りて、堂(みや)に入るることを得ず。諸工人計ること能わず。将(まさ)に堂の戸を破(こぼ)たむとす。然るに汝戸を破たずて入るるを得たり。此れ皆汝が功なりと。即ち大仁の位を賜う。
これでみると止利、すなわち鞍作鳥の祖父は司馬達等(達止とも書く)であり、その父は多須那というものであって、止利は馬の鞍作であったにもかかわらず、その一家はみな仏教と深い関係があったもののようである。『日本書紀』のこの記事は六〇六年、推古十四年のことであるから、百済より仏教が渡来してすでに半世紀以上たっている。
そこでまずその祖父司馬達等(止)であるが、これはどういうものであろうか。司馬というのは中国にみられる姓の一つであるところから、この司馬達等は中国からのいわゆる「帰化人」ではないかとされているが、これはそうではない。司馬という姓は朝鮮にもあるが、しかしこの司馬達等の司馬は、鞍作鳥の鞍作が一つの職名であったのとおなじように、これも朝鮮にあった官職名からきたものなのである。『三国史記』職官段に「長史(或云司馬)九人」とあるそれである。
司馬達等は、『日本書紀』敏達十三年条には「鞍部村主司馬達等」とあり、また、さきにみた釈迦三尊像の光背銘にある止利仏師も、正確には「司馬鞍首止利仏師」となっている。「上古のことは漢字にこだわってはならない」といったのは新井白石であるが、それにしても、これではなにが何だかわけがわからない。
そのわけのわからないことにあまりこだわる必要もないが、ただ一ついいたいことは、司馬にしろ鞍首にしろ止利にしろ、これはみなもとは職名であり尊称であったりしたものだったということである。矢作部だったものが、のちにはその矢作を姓にしたのとおなじものであるが、たとえば止利は、『三国遺事』新羅始祖段の「高墟村長曰蘇伐都利」からきたものであると朝鮮の学者はみている(朴文源「止利の本国について」)。
したがって止利というのも、もとは朝鮮語の村主(すぐり)や首(おびと)とおなじように、これもそこにおける「長」という意味だった。したがってまた、止利仏師は自身も造仏工人であったかどうかわからないが、それよりかむしろ、それら造仏工人たちの「長」であったのではないかというのである。
このことは、さきに引いた『日本書紀』推古十四年条のそれからもうかがい知ることができる。すなわち、「又仏像を造ること既に訖(おわ)りて、堂(みや)に入るることを得ず。諸工人計ること能わず。将(まさ)に堂の戸を破(こぼ)たむとす。然るに汝戸を破たずて入るるを得たり」とあるそれである。
これは飛鳥寺の大仏をつくったときのことで、有名なはなしであるが、彼は少なくとも、「諸工人計ること能わず。将(まさ)に堂の戸を破(こぼ)たむと」した諸工人のなかの一人でなかったことは、これでもわかる。
法隆寺の釈迦三尊像光背銘に「止利仏師造」とあるのをみても、それはおなじことがいえるのではないかと思う。仏像であれ何であれ、ほんとうにそれを造ったもの、工人たちの名はどこかに消えてしまい、その功はいつもそれらの「長」の名によってしめされるものであること、これはいまもむかしも変わりないようである。
大宝蔵殿と夢殿で
金堂壁画と曇徴
石田茂作氏の「法隆寺について」などによって法隆寺を概観し、あわせて金堂釈迦三尊像の作者とされている止利仏師とはどういうものであったかということをみたわけであるが、ところでその金堂にはほかにまた、さきにもちょっとふれたように、中国の雲崗石仏や朝鮮の慶州石窟庵とともに東洋三大芸術の一つである有名な壁画があった。この壁画は一九四九年一月の火災で焼失し、その後、法隆寺と朝日新聞社とによる壁画再現事業が行なわれて、安田靫彦(ゆきひこ)、前田青邨(せいそん)氏らによる再現のものがいまそこに納められている。
したがって、いまはその再現されたものしか、われわれはみることができないが、しかし金堂などのある西院伽藍から出て、北倉と南倉の二棟にわかれている大宝蔵殿へはいってみると、そこに、もとの壁画だった原寸大の写真がかけられてある。彩色のないいわゆる白黒であるけれども、それがどんなにすばらしいものであったかということは、これをみてもよくわかる。
壁画は釈迦浄土、阿弥陀浄土、弥勒浄土、薬師浄土図というふうになっている。しかしそれが「浄土」というものであるかどうかは別として、われわれはまず、その描線の精確、雄勁なのにおどろかずにはいられない。そして同時にまた、千数百年もまえの当時、このような壁画・絵画ができたということからして、どういうことであったろうかとも思わずにはいられない。
これからみると、われわれ人間というものの能力は、とっくの昔限界にきていたのではないかとも、また、無限だともつくづく考えさせられる。するとなおのこと、では、当時このようなものを描くことができたのは、いったいどういう人間であったろうか、ということが知りたくなる。
だいたい、これは朝鮮でも日本でもおなじことであるが、古代のこういった絵画にしろ、仏像にしろ、その作者はわからないというのがふつうである。だが、なかにはさきにみた止利仏師のように、それを直接つくったものかどうかはともかく、作者とされているものの名がわかっているのもある。偉大さにおいて世界的であった法隆寺金堂壁画のばあいもそれで、これは朝鮮の高句麗から渡来した僧・曇徴(どんちよう)の作とされているものである。曇徴とは、どういうものだったのか。『日本書紀』推古十八年条に、その渡来のことがこう書かれている。
春三月、高麗王、僧曇徴、法定を貢上(たてまつ)る。曇徴五経を知り、またよく彩色及び紙、墨を作る。また碾磑(みずうす)を造る。蓋(けだ)し碾磑を造るは是(こ)の時に始まるか。
「貢上(たてまつ)る」などというのは『日本書紀』の書き方の一つであり、五経とは易経、書経、詩経、礼記、春秋のことであるが、その曇徴を高柳光寿・竹内理三編『日本史辞典』でみるとこうなっている。
どんちょう 曇徴 生没年不詳。高句麗の僧。六一〇(推古一八)高句麗王の命により法定とともに来日。五経に通じ、彩色や紙墨の製法を伝えたという。
さらにまたもう一つ、新村出編『広辞苑』にはそれがこう書かれている。
どんちょう〔曇徴〕高麗の帰化僧。推古天皇の十八年に来朝。五経に通じ、彩色画をよくし、また、紙・墨・碾臼(ひきうす)などを造った。法隆寺の壁画を画いたという。
当時の知識人ということでもあった僧として、五経に通じていたというのはふつうのことであったかもしれない。しかしながら、今日の劇場などでみる壁画様の垂れ幕を緞帳(どんちよう)といっているのもその名からきたものという曇徴は、そのうえ彩色画をよくし、紙・墨などの製法を伝えたばかりか、さらにまた碾臼までつくったというのである。
古代にはこういう傑出した大才が少なくなかったようであるが、そうしてみると、この曇徴が渡来するまでの日本にはまだ紙・墨の製法や、碾臼などはなかったのであろうか。それはともかくとして、法隆寺のこの大宝蔵殿には、ほかにもまだおどろくべきものがたくさんある。
玉虫厨子を見る
ところで、私はこの法隆寺をみていながらこれまで「国宝」ということばをあまり使っていないことにいま気がついたが、それはなぜだったかといえば、法隆寺は、法隆寺そのものが日本の国宝となっているばかりか、ここにはあまりにもその国宝が多すぎるからであったにちがいない。目にするもの、それがほとんどみな国宝なのである。
大宝蔵殿のなかはいうまでもなく、ここには国宝というよりはむしろ、それこそことば本来の意味での「貴重な」飛鳥時代の仏像や工芸品がずらりとならんでいる。そのうちでもっとも有名なものを一つ二つえらぶとすれば、それは北倉の百済観音と、南倉にある玉虫厨子(たまむしのずし)ということになるであろうか。
まず当代最古の工芸遺品としてあげられるものに、法隆寺の「玉虫厨子」がある。宮殿と須弥壇とからなり、檜造りで黒漆を塗り、木口・柱・桁框などにはすべて透彫金銅金具を貼り、木工・漆工・金工・絵画の各技法をあわせた力強い作品である。宮殿と須弥座の周縁をかざる金具の下に、玉虫の翅が伏されているところから、玉虫厨子の名がある。……
なおこの玉虫を工芸品に応用することは、すでに朝鮮三国時代に行なわれており、慶州金冠塚出土の鞍・鐙・杏葉などにも透金具の下に玉虫の翅を伏せて、その色彩効果をねらったものがある。わが国においてもほかに正倉院御物のうちに、その例がみられる。(木内武男『日本の考古学』「木工・漆工」)
要するに玉虫厨子という、厨子とは仏像を安置する「宮殿」なのであるが、その精巧さにはただ感嘆するよりほかない。これまた、当時そのようなものがどうしてできたか、と思わずにはいられないものである。満岡忠成氏の『日本工芸史』をみるとこうある。
飛鳥時代工芸の遺品として代表的なものに法隆寺の玉虫厨子があるが、その製作年代に就ては或は当代以前に遡るとする説もあり、また製作地に関しては或は日本説、或は朝鮮・支那説があって未だ一定しないが、一般には当代我国に於て恐らくは帰化工人の手によって製作されたものと目され、単に我国最古の漆工遺品としてのみならず、建築及び絵画史上また当代の様式を伝えるものとして、重要な意義を認められている。
どこでできたか、それはどちらでもいいのであるが、しかし、玉虫とは学名を「クリソクロア・プリチディシマ・ションペルル」または「クリソクロア・エルレガンス・トウンベルク」というとある。すなわち「黄金の光を発する優雅な虫」ということで、この虫の翅を工芸の装飾に応用する技法は、朝鮮の新羅や高句麗にしかなかったものであった。
ちなみに、法隆寺のこの玉虫厨子に使われた玉虫の数は、二千五百六十三匹までが算出されているという。現代の研究者たちはよくもまたそれを算出したものであるが、すると、かつての工人たちは、それだけの小さな玉虫の翅を、一枚一枚とはいではそこに貼りつけ、敷きつめたわけだったのである。なんだか、痛ましいような気がしないでもない。
百済観音の美について
観音菩薩立像というのが本来の名称だという百済観音は、北倉の出口に近いはしの一室を占めて、特別に陳列されているかたちとなっている。私はこのあいだ、この法隆寺のことを書くにあたって、念のためもう一度、奈良の法隆寺まで行ってみた。
十二月半ばのことだったが、広い法隆寺の境内は森閑としたものだった。シーズン・オフだったわけで、観光客は七、八人ひとかたまりとなっているのを見ただけだった。
もちろん大宝蔵殿のなかもしんとなったままで、自分の靴音が気になるほどだった。つまり、私は思いのまま、そこにあるすばらしいものどもをゆっくりとみてまわったのであるが、北倉のはしにある百済観音まで進むと、どこからともなく警備員が一人すいとやって来て、そこに立った。
まさか、私がその大きなガラスのケースを打ち破って、自分よりも背の高い少女の百済観音像に抱きついてキスをするとでも思ったわけではないであろうが、警備員は私が立ち去るまで、ずっとそこに立ったままだった。で、私はふと思いついて、こんなふうなことをきいてみた。
「ここへくるみなさんは、だいたいどの角度からみていますか」
「そうですね。横からのほうが多いようです」
「ああ、そうですか。やっぱり、ね」
百済観音は正面もであるが、これはその側面からみたほうがより美しく、はじめからそういう効果を意識した表現がなされているということでも、珍しいものとされている。しかし、それはひとり百済観音とはかぎらない。私はいつか、光背をはずした薬師寺の月光菩薩像をうしろからみたことがあって、その背線の美しさに息を呑んだのをおぼえている。
それはさておいて、百済観音となると、これはもうあまりにも有名である。浜田青陵氏の『百済観音』はじめ、これについて書かれたものも数多く出ている。
「夢にまでみて、中年者の私の羞かしい恋のまぼろしでもあった」(井上政次『大和古寺』)とか、ヨーロッパ人をも含む諸家によるその形容詞だけでも、「静かに燃ゆる焔の長き影」「夢のような情緒」「開花を永遠の明日に待つ蕾」などなど、いくらでもあげることができる。しかし女性によるものは案外少ないので、その一つを紹介すると、『仏像に想う』のなかで岡部伊都子氏は、この百済観音のことを次のように書いている。
この長身。この、異様なまでにけざやかな長身が、縁ある者の心に尾をひいてのこる。
同じ飛鳥時代の作と伝えられる法輪寺の虚空蔵さまは、百済さまと同じ左右の手の形をしておいでだけれども、うんと背がちがう。作も簡素で、杏仁形のお目である。
百済よりの渡来仏ときくばかりで、百済さまは本来、何さまなのであろうか……と長い間疑問だった。やがて、法輪寺の虚空蔵さまに惹かれ、百済さまも、きっと虚空蔵さまにちがいないと思った。そういう文献もあるとのことだった。
ところが、化仏のついた宝冠が出てきて、やはり観音菩薩像だという。すると、あの法輪寺の虚空蔵さまも観音さまでいらっしゃるのかしら。
三韓のひとつ、百済という国は、日本に革命的な文化を伝えた師の国である。仏像はもとより、他の美術、工芸、学問、技芸の上に、その影響は大きかった。いまだに、各地に百済という地名や名称ののこっていることを考えても、優秀な帰化人が多かったはずである。
その百済びとの作とされるこの香り高い像を仰ぐと、彫り手の心に去来したであろうあこがれが、どこにあったのかと思わずにはいられない。いわゆる美貌ではない淡雅な面かげは、まさしく東洋的な味のお顔だが、下半身の、とことんのび切った清麗の線は、どこの国のものなのだろう。
繊細な力に支えられた微妙な手の表情、色彩の剥落は夕映えの余光にみち、天衣や衣紋の流れは、おのずからなるリズムをもっている。何より私は、お膝から下の、思いがけない長さのもつ神秘的な美しさに、作り手の、この世ならぬ存在に対しての思慕を、ひしひしと感じる。
いかにも女性らしい、これ自体また繊細な一文であるが、さて、大宝蔵殿を出ると、こんどはいわゆる夢殿である。
夢殿の秘仏・救世観音
東院伽藍というのが正式の名称で、ここにはまた救世観音といわれる有名な観音菩薩立像がある。この立像の救世観音となると、私にまず思いうかぶのは、ついこのあいだ亡くなった志賀直哉氏の次のことばである。
夢殿の救世観音を見ていると、その作者というような事は全く浮んで来ない。それは作者というものからそれが完全に遊離した存在となっているからで、これは又格別な事である。文芸の上で若し私にそんな仕事でも出来ることがあったら、私は勿論それに自分の名などを冠せようとは思わないだろう。
四十数年前に改造社から出た現代日本文学全集『志賀直哉集』の扉に書かれたものであるが、私はこれを読んだとき、自分は逆だなあ、と思ったのをおぼえている。「文芸の上で若し私にそんな仕事」ができることがあったら、私はそれにこそよろこんで自分の名を冠せようとするだろうと思ったもので、この考えはいまも変わりない。
しかしながら、それはどちらにせよ、この救世観音は秘仏となっていて、いつでも、だれでもが自由にみることはできないものとなっている。こんども堂の壇のうえにまでのぼってみたが、厨子はやはりかたく閉されたままだった。
それで、私も写真よりほか、その実物はまだみていないのである。しかしかりに実物をみていたとしても、ここでは和辻哲郎氏の『古寺巡礼』のそれをかりてみたほうが、いろいろな意味においていい。
夢殿の印象は粛然としたものであった。北側の扉をあけてもらって堂内に歩み入り、さらに二重の壇をのぼって中央の厨子に近づいて行くと、その感じはますます高まって行った。
わたくしたちは厨子の左側に立った。高い扉は静かに左右に開かれた。長い垂幕もまた静かに引き分けられた。香木の強い匂がわれわれの感覚を襲うと同時に、秘仏のあの奇妙な、神秘的な、何ともいえぬ横顔がわれわれの眼に飛びついて来た。
わたくしたちは引きよせられるように近々と厨子の垂幕に近づいてその顔を見上げた。われわれ自身の体に光線がさえぎられて、薄暗くなっている厨子のなかに、悠然として異様な生気を帯びた顔が浮んでいる。その眉にも眼にも、また特に頬にも唇にも、幽かな、しかし刺すように印象の鋭い、変な美しさを持った微笑が漂うている。それは謎めいてはいるが、しかし暗さがない。愛に充ちてはいるが、しかしインド的な蠱惑はない。
その肌の感じがまた奇妙である。幽かながら一面に残った塗金が、暗褐の地から柔かく光り、いかにも弾力ある生きた肌のような、そのくせ人体の温かさや匂を捨て去った清浄な肌のような、特殊な生気を持っている。それは顔面ばかりでなく、その美しい手や胸などにも感ぜられる。
腹部の突き出た姿勢は少し気にならぬでもない。元来この像は横から眺めるようには出来ていないのであろう。しかし肩から下へゆるく流れる直線的な衣文は非常に美しい。
ついで和辻氏は、明治のはじめ日本古代美術の発見と発掘とに功のあったアーネスト・フランシスコ・フェノロサがこの秘仏を開かせたときのことをも引きながら、さらに次のように書いている。そしてフェノロサのその意見にたいしては、和辻氏はあとから批判を加えているが、私が和辻哲郎氏の『古寺巡礼』のそれをかりてみたほうが、いろいろな意味においていいといった、その意味も実はこういうことがあったからである。
この奇妙に美しい仏像を突然見出したフェノロサの驚異は、日本の古美術にとって忘れ難い記念である。彼は一八八四年の夏、政府の嘱託を受けて古美術を研究するためにここに来た。そうして法隆寺の僧にこの厨子を開くことを交渉した。が寺僧は、そういう冒涜を敢てすれば仏罰立ちどころに至って大地震い寺塔崩壊するだろうと云って、なかなかきかなかった。この時に寺僧の知っていたところは、秘仏が百済伝来の推古仏であることと、厨子が二百年以上開かれなかったこととのみであった。従ってこの仏像はその芸術的価値が無視せられていたというどころではなく、数世紀間ただ一人の日本人の眼にさえ触れたことがないのであった。フェノロサは同行の九鬼氏とともに、稀有の宝を見出すかも知れぬという期待に胸をおどらせながら、執念深く寺僧を説き伏せにかかった。そうして長い論判の末にとうとう寺僧は鍵を持って中央の壇に昇ることになった。数世紀間使用せられなかった鍵が、錆た錠前に触れる物音は、二人の全身に身震いを起させた。厨子のなかには木綿の布を一面に巻きつけた丈の高いものが立っていた。布の上には数世紀の塵が積っていた。塵に咽びながらその布をほどくのがなかなかの大仕事であった。布は百五十丈位も使ってあった。
「しかし遂に最後の覆いがとれた」とフェノロサは書いている。「そうしてこの驚嘆すべき、世界に唯一なる彫像は、数世紀の間にはじめて人の眼に触れた。それは等身より少し高いが、しかし背はうつろで、なにか堅い木に注意深く刻まれ、全身塗金であったのが今は銅の如き黄褐色になっている。頭には朝鮮風の金銅彫の妙異な冠が飾られ、それから宝石を鏤めた透彫金物の長い飾紐が垂れている」
「しかしわれわれを最もひきつけたのは、この製作の美的不可思議であった。正面から見るとこの像はそう気高くないが、横からみるとこれはギリシアの初期の美術(アアケイツク)と同じ高さだという気がする。肩から足へ両側面に流れ落ちる長い衣の線は、直線に近い、静かな一本の曲線となって、この像に偉大な高さと威厳とを与えている。胸は押しつけられ、腹は幽かにつき出し、宝石或は薬筥を支えた両の手は力強く肉附けられている。しかし最も美しい形は頭部を横から見た所である。漢式の鋭い鼻、真直な曇りなき顔、幾分大きい――ほとんど黒人めいた――唇、その上に静かな神秘的な微笑が漂うている。ダ・ヴィンチのモナリザの微笑に似なくもない。原始的な固さを持ったエジプト美術の最も美しいものと比べても、この像の方が刻み出し方の鋭さと独創性とにおいて一層美しいと思われる。スラリとしたところは、アミアンのゴシック像に似ているが、しかし線の単純な組織において、この方が遥かに静平で統一せられている。衣文の布置は呉の銅像式(六朝式)に基いているように見えるが、しかしこのようにスラリとした釣合を加えたために、突然予期せられなかった美しさに展開して行った。われわれは一見して、この像が朝鮮作の最上の傑作であり、推古時代の芸術家特に聖徳太子にとって力強いモデルであったに相違ないことを了解した」
人種と民族の混同
最初の発見者でもあったからか、たいへんな賛辞である。が、和辻氏はフェノロサのそれにたいして、「このフェノロサの発見はわれわれ日本人の感謝すべきものである」としながらもいろいろと批判を加え、最後にこうのべている。
この作を朝鮮作と断ずるのも早計をまぬがれない。もとより当時の芸術家のなかには朝鮮人もいたであろう。しかし朝鮮にのみ著しい独創を認めて日本に認めないのは何によるのであろうか。遺品から云えば朝鮮には日本ほど残っていないのである。従って詳しい比較はなし得られない。その朝鮮へ日本で不明なものを押しつけるのは、問題を回避するに過ぎないではなかろうか。シナとの関係から云えば朝鮮も日本と変りはない。朝鮮に来て著しい変化があり得たなら日本に来てもまたあり得たであろう。この作を百済観音と鳥式仏像との中間に置いて考え、或は竜門の浮彫と比較して考えるのは、その様式上の考察としては見当をあやまっていないかもしれぬ。面長な顔のつくり方や高い鼻の恰好も、シナにその模範があったかもしれない。しかしそれはこの観音が日本作でないという証拠にはならない。朝鮮人が日本に来てそこばくの変化を経験しなかった筈はなかろうし、朝鮮人に学んだ日本人がさらに変化を加えるということもないとは云えない。
もっともらしい批判であるが、しかしこれはいささか強引な論理であると思わないわけにゆかない。だいたいここには、明白な一つの錯誤がある。
「もとより当時の芸術家のなかには朝鮮人もいたであろう」とか、「朝鮮人に学んだ日本人」などといっているが、これは現代の民族感覚をそのまま当時に押しあてたものである。当時とは、いつか。七世紀はじめの飛鳥時代のことなのであるが、古代の当時にはまだ、そのような民族としての「朝鮮人」や「日本人」などありはしなかったのだ。「日本人」はおくとしても、当時、あるいはそれ以前、朝鮮半島からこの日本列島へやって来たものたち、その彼らをわれわれは今日、「朝鮮人」とよぶことができるであろうか。そんな朝鮮人など、ありはしないのである。
したがってフェノロサのいうように、救世観音像は彼らが当時そうして渡来するときに持って来た「朝鮮作の最上の傑作」であったとしても、またその彼らによってこの地でつくられた「日本作」であろうと、そんなことはいっこうにさしつかえないはずである。それは遠いかつての「朝鮮文化」ではあったが、同時にそれは日本にあったことによって、いまは日本のすぐれた文化遺産となっているのである。
ついでにここでいっておくとすれば、和辻氏とはまた逆な視点によって書かれた柳宗悦氏(朝鮮人ではない。念のため)の『朝鮮とその芸術』のなかの次の一文にも、おなじような錯誤がみられる。
日本が国宝として世界に誇り、世界の人々もその美を是認している作品の多くは、抑〓誰の手によって作られたものであるか。中でも国宝と呼ばれねばならぬものの殆ど凡ては、実に朝鮮民族によって作られたものではないか。……それ等は日本の国宝と呼ばれるよりも、正当に言えば朝鮮の国宝とこそ呼ばれねばならぬ。
ここでも明らかに人種と民族というものが混同されている。たとい人種は朝鮮から来たおなじものであったとしても、その後に形成された民族はそれぞれ、はっきり別なものとなっているのである。
だからこれは、「実に朝鮮渡来の人々によって作られたものではないか」とでもすべきもので、したがって「それ等は」はっきり、「日本国宝と呼ばれる」べきものなのである。
中宮寺から百済野へ
天寿国繍帳と新羅系仏教
夢殿をひとまわりして出ると、西院伽藍、大宝蔵殿、東院伽藍(夢殿)の三つからなっていた「法隆寺一般拝観券」はそれでおしまいとなっている。夢殿につづいているようにしてある中宮寺へは、あらたな「拝観券」をまた手にしなくてはならない。
中宮寺は聖徳太子の御母穴穂部間人(あなほべのはしひとの)皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺であります。その旧地は、現中宮寺の東方三丁の所に土壇として残って居りましたのを、先年発掘調査しましたところ、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置伽藍であったことが確認され、それは丁度法隆寺旧地若草伽藍が四天王寺式であるのに応ずるものと云えましょう。而も其の出土古瓦は若草伽藍にはなく、飛鳥の向原寺(桜井尼寺)からのものと同系統のものであることは、法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として初めから計画されたものと思われます。国宝弥勒菩薩半跏像(寺伝如意輪観音像)は其の金堂の本尊であり、天寿国曼荼羅繍帳は、その講堂本尊薬師如来像の北面に奉安されたものと伝えています。(『中宮寺拝観のしおり』)
アーネスト・フランシスコ・フェノロサによって「朝鮮作の最上の傑作であり」とされ、また志賀直哉氏によっても「格別」なものとたたえられた夢殿の救世観音は実物をまだみていないからか、私としては、京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像とともに、この中宮寺の半跏像のほうがいっそう「傑作」であり、「格別」なものではないかと思うのであるが、しかしそれはどちらでもよいであろう。どんなものにせよ、人によってそれぞれ見方がちがうからである。
それより、そういう仏像をたくさんみてきたわれわれとして、ここでのみものは、やはり国宝となっている天寿国曼荼羅繍帳である。
日本最古の刺繍であるこれは、聖徳太子の死後、その妃であった橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、夫の太子が死んで行っているところと信じられた天寿国とは、――ということからつくらせたものだという。いまは残片しかみることができないが、もとは一帳一丈六尺四方もあった大きなもので、そこには紫羅・紫綾・白平絹でいろいろな人物や亀甲文、鳳凰、屋形、建物などがぎっしり刺繍されていたといわれる。
そしてこれは亀甲文ちゅうの文字と、聖徳太子伝記集の一つである『上宮聖徳法王帝説』のなかにある銘文とが一致しているばかりか、そのことから、下絵を画いた画家たちの名もはっきりわかっている珍しいものなのである。それによれば、下絵を画いたものは高麗(こまの)加西溢(かせい)、東漢末賢(やまとのあやのまけん)、漢奴加己利(あやのぬかこり)の三人で、製作の責任をうけもったのは椋部秦久麻(くらべのはたのくま)であったという。
いずれも朝鮮渡来のものたちで、高麗加西溢の高麗はいうまでもないであろうが、東漢末賢の東漢や漢奴加己利の漢、それから椋部秦久麻の秦などについては、あとでまたみることになるはずである。なお、聖徳太子の信奉した仏教のこととともに、この天寿国曼荼羅繍帳について京都大学の上田正昭氏は、座談会「仏教と寺院について」のなかで次のように語っている。
若草伽藍については、ぼくはまだ研究を要する問題があると思いますが、結論からさきに言ってしまえば、蘇我氏の仏教は百済系仏教、そこへ高句麗系も加わってまいりますけれどもね。だけど、聖徳太子の方は新羅系だというのがぼくの解釈です。これにはいくつかの理由があるんですけれど、たとえば聖徳太子といえば秦河勝とのつながりがうかぶでしょう。広隆寺の国宝第一号の弥勒は、これの様式は松材で、慶州から出た金銅弥勒像とまったく類似の形態で、新羅様式だと思われます。それから泣き弥勒も、これは旧朝鮮博物館にあった金銅弥勒と非常によく似ているとされています。『日本書紀』にも書いてあるし、『聖徳太子伝補闕記』などをみてもそうだけれど、新羅からきた仏像を秦河勝に与えたということははっきり書いてあるんですね。文献的にも証明できる。だいたいぼくは、秦というのは新羅系だという解釈です。漢(あや)というのは百済系で、蘇我氏は漢氏と結びつく。そこへ高句麗系仏教が入ってくるんだけどね。
橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)ね、彼女が天寿国繍帳を中宮寺に残したでしょう。太子の思想として本当に信頼できるのは、そのなかの「世間虚仮・唯仏是真」というあの言葉です。なぜ橘大郎女をあんなに可愛がったのか。そして大郎女がなぜ太子が死んであの繍帳を作ったのか、ひとつの疑問です。そこで新説ですが、法王帝説にはっきり書いてあるんだけれども、位奈部橘王と書いてあるんです。上宮記には韋那部橘王と記している。この位奈部・韋那部というのは猪名部のことで、日本へ来た木工関係の人々であって、祖先は新羅より来たと伝えています。大郎女の母方のほうは新羅系なんです。繍帳をみてみると、建物とか風俗の模様はまったく朝鮮そっくりですよ。あの風俗は、当時の日本ではとうてい想像できないものです。
それを織ったのはいわゆる朝鮮系工人の織女なんだけど、そういう一連のつながりをみても、太子の仏教は新羅系の秦氏の奉ずる仏教に結びついているといってよいのではないか。だから聖徳太子が死んでその遺子の山背大兄王が圧迫されますが、その時まっさきに逃亡するところとしてうかんでくるのは、山城深草の屯倉ですね。秦大津父(はたのおおつち)などの居たところで、秦氏の勢力圏でしょう。一連の動きをみると、日本における仏教というのは、飛鳥の時点の話ですが、仏教一般ではいかんので、百済系仏教と新羅系仏教のあり方を考えなければならないと思う。まさに百済観音の世界と、広隆寺の弥勒の世界との違いです。
重要なことなので、これまた長い引用となったが、ここに指摘されている新羅、百済、それから高句麗などの入り組んだかたちは、ひとり仏教においてのみとはかぎらない。それは権力の構造や交替、消長にあってもおなじことがいえるものと私は思う。
唐古池は韓人池
あとで飛鳥(明日香)をみるときの一つの伏線であるが、さて、ところで、中宮寺から法隆寺前の松並木道を歩いて出た私は、そこでちょっと迷った。右するか左するか、というわけだった。右へ行くと竜田神社をへて、竜田川を渡ることになる。すると近鉄生駒線の信貴山下か、竜田川駅に出るはずである。
そして、そこから私は電車に乗って北上することになれば、まもなく一分(いちぶ)というおもしろい名の駅でおりることになるにちがいない。そこには生駒神社ほか、行基の墓のある竹林寺跡があるからである。林屋辰三郎氏編『奈良歴史散歩』をみると、生駒神社についてこうある。
この神社は延喜式の徃馬坐伊古麻都比古(いこまにますいこまつひこ)神社で徃馬彦・徃馬姫という生駒山の山神を祭神とし、古くは天平二年に神戸稲租二百三十束を朝廷から祭料及び雑用料として施入された。特にこの社は大和でも有数の大社で、月次新嘗(つきなみにいなえ)の官幣にあずかり、ここに神宮寺もあって、社坊が十一院もあったといわれ、いまも生駒十七郷の氏神となっている。
徃馬坐伊古麻都比古神社の伊古麻、すなわち生駒というこの「駒」も、松本清張氏によれば「高麗(こ ま)」からきているものだとのことであるが、それより、私が行ってみたいと思ったのは、竹林寺跡にある行基の墓であった。百済から渡来した王仁(わに)系氏族である高志氏から出て、日本最初の大僧正となったもの、というより、当時のすぐれた社会事業家であった行基が死んだのは、七四九年の天平勝宝元年、尼辻の菅原寺でだったが、生前の遺言によってその遺骨はここに葬られたという。
さきにみた曇徴(どんちよう)もそうだが、当時はこういう傑出した僧が少なくなかった。行基の師で、これも百済渡来の船氏族からの出だった道昭など、そういう僧はほかにもたくさんいるが、しかし私としてはやはり興味があるのは、いろいろなかたちでの弾圧にもめげず、当時における社会事業家としての自己をつらぬいた行基であった。
その行基がのちにはまたどうして、東大寺の大仏建立とともに大僧正となったか、ということも私には興味のあるところだった。それだったから、私は機会があれば、その墓もみておきたいと思っていたのである。
だが、法隆寺の前に立っていた私は、「それはいずれまたということにして」とか何とかひとりつぶやきながら、ちょうど来合わせたタクシーで左のほうの国道二四号線に出て、唐古池から百済野へ向かうことにした。百済野は田原本のあたりから右へまわってちょっと行ったところだったが、唐古池はその田原本、国道二四号線沿いの左手にある。
この唐古池は、『日本書紀』応神七年条に、「秋九月、時に武内宿禰に命じて、もろもろの韓人(からびと)を領(ひき)いて池を作らしむ。因(よ)りて、池を名づけて韓人池(からひとのいけ)と号(い)う」とあるそれとされているものであるが、しかし、南北二〇〇メートル、東西一〇〇メートルのこの池は、一九三七年の発掘により、そこから弥生時代の遺物がたくさん出たことから、いまでは唐古遺跡ということのほうが有名になっている。
田原本には、このほかまた法貴寺というところに、大和における秦氏族の氏神の一つであった機織の女神を祭る池坐朝霧黄幡比売神社があるが、そこはとばして旧百済川、すなわちいまの曾我川と葛城川とのあいだの平野がそれだった百済野を目ざすことにする。いかにも大和の国中(くんなか)にふさわしいのどかなところで、
百済野の萩の古枝(ふるえ)に春待つと居りし鶯鳴きにけむかも
と『万葉集』にある山部赤人の歌も、この国中の春をうたったものであった。
百済野に立って
広陵町百済となっていて、路傍に「百済村北方」とした古い石の標識などものこっているここには、いま百済寺があって、重要文化財となっている三重塔もあるが、しかしもとの百済寺はこんなわびしいものではなかった。ここはもと舒明帝や皇極帝の百済大宮のあったところで、百済寺も百済大寺といった巨大なものだった。
「秋七月、詔して曰く。今年、大宮及び大寺を造らむと。すなわち百済川の側(ほとり)を以て宮処となす。是を以て、西の民は宮を造り、東の民は寺を作る。すなわち書直県(ふみのあたいあがた)を以て大匠(おおたくみ)とす」「十二月」「伊予の温湯(いでゆ)の宮に幸す。是(こ)の月、百済川の側に九重塔を建つ」
『日本書紀』舒明十一年条にこうあって、舒明十一年は六三九年のことであるが、さらにまた、門脇禎二氏の『飛鳥』にはそれがこう書かれている。
事業はなかなか大規模なもので、西国の民は百済大宮の造営に、東国の民は百済大寺の造営に動員がかけられたという。
寺には、当時の人びとの耳目を驚かせた石鴟尾(しび)をのせた金堂・九重塔が建ったという(舒明紀一一年一二月是月条。大安寺伽藍縁起並流記資材帳)。飛鳥寺の塔は何重であったか、分らない。しかし、飛鳥寺の伽藍配置がそれにもとづいた可能性のある高句麗清岩里廃寺は六角九重塔であったというが、紀〈『日本書紀』〉には飛鳥寺の塔のことは記さない。それゆえ紀にも百済大寺九重塔を特記する記事が真を伝えるとすれば、わが国でおそらく最初の九重塔であったかもしれない。
だが、この百済大寺はのち、「壬申の乱」をへた天武帝のとき飛鳥に移されて高市大寺・大官大寺となり、さらにまたのち都京が飛鳥から奈良にうつるのにしたがって、この寺もまたその奈良に移されて大安寺となった。これはいったい、どういうことからだったのか。いわゆる「官寺」だったからとはいえ、そこには政治というものの力学が働いていたと思われるが、もちろんはっきりしたことはよくわからない。
いまある百済寺の三重塔は鎌倉時代に建立されたものであるが、しかしこれもなかなかいい。境内には「百済七村」とした献灯などもみえるが、その塔をみて寺の裏側へまわって出ると、のどかな広い原野がひらけていて、右手のほうに、おっとりした感じの集落が黒い瓦屋根を寄せ合っているのがみえる。
近くの畑にひとり働いている老爺がいたので、私はこんなふうに話しかけてみた。
「ここは、百済野というところだったそうですね」
「ああ、そうだ。いまも百済ですよ」と、老爺は何でそんなことをきくのかという顔をして、私をみつめたものだった。
葛城・橿原・軽
古代大和の大豪族・葛城氏
百済野から、こんどは橿原に向かうことにして、さらにまた田原本の国道二四号線に出る。ここからはもう橿原は近く、前方のそこにある畝傍(うねび)山とともに、天香久(あまのかぐ)山、耳成(みみなし)山といった大和三山もすぐそこに見える。耳成山の向こうには、丸い美しいかたちの三輪山も見える。
その三輪山や穴師のあたり、すなわち有名な山辺(やまのべ)の道はあとでみるとして、国道から右手の西のほうに目を転じると、これもいいかたちをした二上山や葛城山の立ちそびえているのが見える。葛城山とはいうまでもなく、古代大和の一大豪族であった葛城氏族の拠っていたところであった。
では、その葛城氏とはどういうものであったろうか。松本清張氏の「大和の祖先」によれば、もう一つの豪族平群(へぐり)氏の平群が古代朝鮮語スグリ(村主)からきたとおなじように、この「葛城(かつらぎ)氏も、韓津城(からつき)の転訛ではなかろうかと思う。津は『の』という意味の助詞で、城(き)は朝鮮語でもキまたはチャシである」としているが、これは、葛城氏族から出て雄略帝の妃となったものが「韓媛(からひめ)」であったということからも、よくうなずけるように思う。
そうして葛城氏は、仁徳帝から仁賢帝にいたるまでのほとんどの天皇が、同氏族から出た女を妃とし母としていたことから、その天皇氏の外戚としても大いに繁栄を誇っていたもののようだったが、やがて物部氏や大伴氏に圧倒されてほろび去ったものだった。いま、さきにみた百済寺のある広陵町の西隣となっている香芝町には、葛城氏族のそれであったとされている馬見古墳群がのこっている。
私はほんとうはこの古墳群にも行ってみるといいのだが、いまはもうその時間がない。そこで馬見古墳群のことは、伊達宗泰氏の『大和考古学散歩』をかりてみておくことにする。
森浩一氏も、馬見古墳群の存在について、『記紀』あるいは『延喜式』などに、大和朝廷関係の陵墓であるとつたえられるものが皆無であり、五世紀初頭に始まり六世紀中頃に断絶するこの古墳群のあり方は、かつて独立小国であった葛城の国が、大和朝廷に屈服してその県(あがた)に編入されたという文献学の成果と相まって、葛城氏の墳墓地帯ではなかろうかとの見解を『日本考古学講座』で述べている。とにかく問題のある興味深い地域である。
地域が広いため一連のコースとしての見学はむつかしいので、馬見(うまみ)丘陵周辺、葛城山麓、越智岡丘陵周辺といった地域に分けて歩いた方が便利である。
近鉄大阪線築山駅で下車すると南側に小丘陵がある。その中央に築山陵墓参考地がある。
付近には陪冢(ばいちよう)(主墳に従属する古墳)があり、美しい円墳が周濠の痕跡(こんせき)を田地にのこしている。周濠の中に悠然と横たわる前方後円墳はみごとなものである。この南の領家山(りようけやま)からは、現在大和歴史館に展示されている、立派な鶏埴輪の頭部の出土が知られている。
道を東にとると高田川の堤防上の道にでる。流れに沿ってすすむと、低い丘陵がながながと北につづく。これがマメヤマ三里ともいわれ馬見丘陵である。
奈良盆地の西辺にあたり、高田川と葛下(かつげ)川にはさまれ、北は大和川でかぎられた南北七キロ、東西三キロの楕円形をした洪積層の丘陵で、丘の麓が四五〜五五メートル、丘高七〇〜八〇メートルほどであるから二五メートルの比高をもって南から北に傾斜している、丘陵中は浸蝕されて無数の小さい谷が樹枝状に発達し、谷を利用して無数の小溜池がつくられ、「大和の皿池」とその濃密な分布は全国的に有名であるが、この周辺がその密度のもっとも高いところになっている。
この馬見丘陵の東南麓にとくに多くの古墳が見られ、それらを総称して馬見古墳群とよんでいる。
東漢氏族の墳墓新沢千塚古墳群
さて、私たちは橿原市にはいったが、まず、八木にあった橿原市役所に立寄り、そこの教育委員会や観光課から『藤原宮』『橿原』などのパンフレットをもらった。そして畝傍の橿原公苑にある考古博物館に、いま引いた『大和考古学散歩』の著者で、そこの主任となっている伊達宗泰氏をたずねた。
伊達さんとはさきに一度、飛鳥(明日香)や藤原京跡などをいっしょに歩いてもらったことがあったが、こんどは橿原の新沢千塚古墳群のことや軽(かる)の地のことなどをききたいと思ったからだった。大和のことはまるで手にとるようにくわしい伊達さんは、すぐにその場所や、いまどうなっているかということまで教えてくれた。
だいたい私は、これまで飛鳥には何度となく行っていたけれども、橿原というところにはあまり興味がなかったものだった。橿原はただ、飛鳥への入口としてしかみていなかったのであるが、しかしそれは大きなまちがいだったことに、さいきんになってやっと気がついたのである。
そもそも「かしはら(橿原)」というそのことからして、これは朝鮮・新羅のソウル(徐伐=都京の意)からきたものだそうで、言語学者の金沢庄三郎氏は、「それ故、橿原(かしはら)=〓触(くしふる)、〓触=大添(くそほり)、添(そほり)=徐伐(そほり)(所夫里(そふり))、徐伐(そほり)=新羅となり」と、日本側からみた一つの公式をみちびきだしている。日本側、朝鮮側といわず、これはその歴史の流れからして、ただしくは逆に新羅からみなくてはならないのであるが、そのことはこれからみる新沢千塚古墳群や軽の地をとってみても、おなじことがいえるかもしれない。
つまり、ここもまた飛鳥におとらず、この「旅」をしている私にとっては、ひじょうに重要なところだったのである。
さきの「大和・奈良の発見」や「東大寺の辛国神社」のくだりでみたいわゆる東(やまとの)(大和)漢(あや)氏、百済・安耶(あや)系のその漢氏族の墳墓とみられている新沢千塚古墳群は畝傍山の西南にあって、近鉄橿原神宮前駅西口からは一・五キロメートルのところにある。途中、『今昔物語』で有名な久米の仙人の久米寺前を通ることになるが、ここにそんな寺があるのもおもしろい。
新沢千塚は古墳群というより、これはそのままいくつもの山であり丘であった。橿原ロータリークラブによる「千塚古墳群」とした標識がなかったならば、それが古墳群であるとはなかなかわかりはしなかったにちがいない。気がついてみると、その標識の横には橿原市のこういう立札もある。
数は正確に調査されていないが、「千塚」と称されるほど多数の古墳があると推定される。この古墳群はほとんど未調査であり、遺物の出土も開墾作業による検出であったりして、正式に発掘調査したのは僅か十基程度にすぎず、従ってまだ全貌を明らかにしない。円筒埴輪をめぐらす古式の古墳もあるが、大部分は後期の比較的簡単な構造をもつ古墳であろう。
まだほとんどが未調査であるとは、いかにもそういう古墳が五千基以上もあるという大和らしいおうようさであるが、千塚古墳群だけでも三百基以上あるそうであるから、それはむりないことであるのかもしれない。前記の伊達さんたちとともにその調査にあたっている森浩一氏の『古墳』をみると、紀伊(和歌山県)の岩橋(いわせ)千塚古墳群とあわせて、百済にしかないという長方形墳などもみられるというこの新沢千塚古墳群のことが、次のように書かれている。
新沢千塚と岩橋千塚に焦点をあわせたのは、次のような意味である。
(1)両古墳群とも広義の群集墳ではあるけれども、全国各地に広汎にあらわれる狭義の群集墳にくらべ、古墳が築き始められた時期と、大勢として築きおわる時期とがともに約半世紀は早い。しかも、群集墳とはいえ、新沢千塚には、宣化陵古墳という全長一四〇メートルの前方後円墳、倭彦命墓に指定されている大方墳を含み、岩橋千塚にも、天王塚や井辺(いんべ)八幡山など後期の前方後円墳としてずばぬけた規模の古墳を含んでいる。このように出現も衰退も早い群集墳は、その形態において、中期の古墳群(百舌鳥など)と、狭義の群集墳を同一の山地形の範囲で構成された傾向がつよいのである。
(2)それぞれの古墳を築いた集団のことであるが、新沢千塚の所在する地域は、律令体制下では大和国高市(たけち)郡に属している。
高市郡は外来系譜人(帰化人という人がある)の集団居住していたところで、少し後の史料ではあるが、宝亀三(七七二)年にこの地に本拠をかまえる東漢(やまとのあや)氏の宗家的立場にあった坂上刈田麻呂が、「高市郡内には他姓の者は十にして一、二なり」といったことが奏上文の一節にでている。新沢千塚の一二六号墳から出土したガラス器についてはすでに述べたが、この古墳は墳丘が長方形で、大陸的特色がつよいばかりか、おびただしい舶載品がわれわれを驚かせた。日本の古墳のなかで、もっとも大陸的な特色のつよい例を一つだけあげるとなると、誰もが一二六号墳をあげるだろうが、その大陸的というのは数だけではない。中国の銅斗や四神を描いた漆器の盤、ペルシャのガラス器、北方系騎馬民族の鮮卑の墓に例のある黄金製冠、オリエント地方に多い螺旋形の黄金製髪飾、新羅風の豪華な黄金の耳飾や指環、金箔いりのローマのガラス玉などと数えあげると楽しくなり、また日本古代史の奥の深さがおそろしくなる。私は、新沢千塚を東漢氏がのこしたものとしている。
古代の文化都市・軽の地
近鉄橿原神宮前駅をこんどは東口に出ると、すぐ目の前が国道一六九号線が左右にのびている交差点である。その国道を横切ってまっすぐ行くと飛鳥であるが、そこの交差点のところに、これも橿原ロータリークラブによる「軽坂・厩坂」とした矢印の古びた木札の標識がたっている。
「厩坂」は『大和名所図会』によれば、「所不詳。応神天皇十五年八月、百済国より渡りし馬二匹を、軽の坂上にて阿直岐という人に飼わせ給いけり。馬をやしなう所なれば厩坂という」とあるが、それはともかくとして、その「軽坂」の標識にしたがって少し行くと、孝元陵古墳のある剱(つるぎ)池となる。その剱池の土堤に立って西のほうに目をやると、風格のある集落をともなった野原で、そこが古(いにしえ)の軽の地である。
わたしは剱(つるぎ)ノ池の堤に佇(たたず)んで、石川から大軽のあたりを飽かず眺めわたした、あの五月の白昼を思いだす。これがあの巨きな博物館への入口であった。それからわたしたちの、思い思いの古代彷徨がはじまったのだ。あの日の日記をあけてみると、「石川は白壁の美しき部落なり。大軽は丘の上にある」などと走り書きしてある。その一字一字が、今わたしに目くるめくばかりの幻像をもたらす。……
と神西清氏の「白い道のうえに」に書かれているが、神西氏はさらにこう書きつづけている。
上代に軽と呼ばれているのは、畝傍山の東南につらなる平地から現在の大軽の丘陵へかけて、更に石川、五条野のあたりまでも含めた土地の、総称であるという。軽ノ曲峡(まがりお)ノ宮とか、軽ノ曲殿(まがりどの)とかいう宮殿や別荘の名が古い本に残っているのは、いかにもこの辺りの丘の尾が、うねうねと曲りくねったような地形を、さながらに写しとどめていて面白い。幻を舞わせるにはこの上なく好都合な、漠然とした地域でもあり、変化に富んだ地勢でもある。そこに、いわゆる飛鳥の文化よりも一層ふるく、おそらくわが国最古の文化と考えられるものが花ひらいた。
三世紀。ここは三韓文化の移植される、謂わば苗床であった。軽ノ島ノ豊明ノ宮をめぐって、縫衣工女(きぬぬいめ)、韓鍛冶(からかじ)、醸酒工人(みきつくり)などの帰化人が、この地に新奇な異国工芸の妍(けん)をきそった。
それが三世紀であったかどうかはわからないが、この軽の地は飛鳥のそれよりいっそう古く、「三韓文化の移植される、謂わば苗床であった」ことはたしかであったろう。だいたい「軽」などという妙な字があてられて、これは「かる」または「かろ」ともよまれたようであるが、この軽は松本清張氏の「大和の祖先」にあるように、もとは朝鮮を三韓といったことからきた「韓(から)」であったにちがいない。さきにも引いたことがあるが、松本氏ははっきりとこうのべている。
記紀によると孝元天皇は「軽(かる)の境原宮」にいたという。軽(かる)の地は高市郡で、いまは橿原市に入っている。この地名から軽皇子(かるのみこ)や軽太子(かるのたいし)、軽大郎皇女(かるのおおいらつめ)(この兄妹は近親相姦で罰せられた)の名がある。「軽」は「韓(から)」である。
このことは『古事記』孝元段に、「次に、許勢小柄(こせのおから)宿禰は、許勢臣、雀部臣、軽部臣の祖なり」とある許勢小柄が、『三代実録』には「許勢男韓(こせのおから)」となっていることからもうなずくことができる。ばかりか、なにより、それであってこそはじめて、軽皇子とか軽太子といったものが、けっして目方の軽いものであったからとか、尻が軽いものであったからというので、その名がつけられたものでないということがわかるというものである。神西氏の「白い道のうえに」を、つづけてもう少しみることにしよう。
五世紀。この地の東につらなる真神(まがみ)ノ原は、陶部(すえべ)、鞍部(くらつくりべ)、画部(えかきべ)、錦部(にしごりべ)など、来朝の漢人(あやひと)たちの居留地となり、ここはすでに軽ノ村と呼ばれる交易市であった。
六世紀。ここは軽ノ街と呼ばれた。
七世紀。すでに軽ノ市であった。今おぼろげながら法隆寺様の伽藍配置であったと推定される軽ノ寺は、封戸百を給せられ、蘇我稲目は美女(おむな)媛(ひめ)、その従女吾田子(まかたちあたこ)という異国の二女を納(い)れて、これを軽ノ曲殿に居らしめた。軽ノ大路は坦々と南北に市を貫き、この文化都市はまさに殷賑の極に達した。
やがて日は傾き、忘却がおとずれ、市はようやくむくろになる。……
二十世紀。――私がここをおとずれたのは、一九七二年二月のはじめであった。それほどに殷賑をきわめたという「文化都市」はまさにむくろだった。いまはただ、少しばかりの集落と野原が、冬陽の下にひろがっているだけだった。
人麻呂の歌に往時をしのぶ
剱池のそこからすると、すぐ目の前は石川で、土塀でかこった農家の納屋などに私は朝鮮のそれを思いだしたりしながら、だらだら坂の細い道を下り、向かいの丘の大軽へと歩いた。右手のほうには家並みがつまって、その向こうに畝傍山が見え、左手の丸山古墳のあたりはこれまた団地の建物が迫ってきているのが見えたが、しかし軽のそこはまだ農村地帯のままで、畑中の道は人通りもなかった。
丘のうえの集落、「応神天皇豊明宮趾」とした石柱のある神社に立ってみても、あたりはただ寂(じやく)としているばかりだった。『大和名所図会』に引かれている「かろしまの明(あかり)の宮の昔よりつくりそめてし韓人池(からびとのいけ)」はどこにあったものかわからなかったが、軽廃寺跡はその神社の近くにあった。
そこには法輪寺という小さな新しい寺があって、「軽大臣の建立と伝えられる寺跡で、法隆寺式伽藍配置と考えられる(法輪寺の位置を金堂跡という)」とした奈良県教育委員会と橿原市教育委員会とによる「軽寺跡」という立札がみられるだけだった。かつてのそこにおける殷賑は、もう跡形もなかった。だが、この軽がかつて殷賑をきわめたところだったということは、『万葉集』にある柿本人麻呂の次の歌によってもうかがい知ることができる。
天飛ぶや 軽の路は 吾妹子(わぎもこ)が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど やまず行かば 人目を多み 数多(ま ね)く行かば 人知りぬべみ……
軽はわが妻の里であってみれば、いつかまたゆっくり行ってみたいと思っていた。しかし人目が多いので、そう何度も行ってその人たちに知られては、――といった意味であろうが、人麻呂はまた、つづけてこうもうたっている。
……吾妹子が やまず出で見し 軽の市に わが立ち聞けば 玉だすき 畝火の山に 鳴く鳥の 音(こえ)も聞えず 玉桙(たまほこ)の 道行く人も 一人だに 似るが行かねば すべをなみ 妹が名喚(よ)びて 袖ぞ振りつる
人目が多いために、妻の生前にはその里へもよく行ってみることのできなかった人麻呂。いまはせめてそこの道行く人に妻のおもかげをしのぼうとしたが、それもできなかった彼の悲愁が胸に沁みるようである。
蘇我氏とその出自
蘇我氏の遠祖移住の地
私は、大軽からするとこんどはそこが向かいの丘となっている石川の集落に戻り、石川廃精舎跡というのへ行ってみた。これもいまはそのおもかげさえなかったが、『大和名所図会』によるとそこはこうなっている。
石川村に本明寺及び石塔あり。是(これ)その古趾なり、人皇三十一代敏達天皇十三年九月、百済国より弥勒の石仏一躯を貢ぐ。蘇我馬子こい奉りて、播磨国の恵便法師を法(のり)の師と定め、善信尼・禅蔵尼・恵禅尼の三人に、仏をうやまいつこうまつらせけれ。又司馬達等という人、飯の上に仏舎利現じけるを、馬子宿禰にまいらせけり。馬子さらば試みんとて、鉄槌(かなづち)をふりてあながちに打ちたりしが、槌のみくだけて更に舎利は損ぜず。又水に入れてみれば、舎利こころのままにうきしずみし給いしかば、是よりして馬子宿禰・池辺氷田・司馬達等仏法を尊み、馬子が石川の宅(いえ)を仏殿につくりき。これ、仏法のはじまりとぞきこえし。
『日本書紀』敏達十三年条にもある有名な説話であるが、なおまた神西清氏の「白い道のうえに」をみると、蘇我氏と関連してそのことがこう書かれている。
軽という土地の名は、おのずから石川の名につながる。それは謂わば軽の肉体の一部をなす。
古記によるとこの名は、河内の石川ノ里の住民であった蘇我氏の遠い祖(おや)が、大和のこの地への移住とともに持ち来たしたものだという。そして蘇我の一族は、このあたりから西のかた飛鳥へかけて、次第にはびこって行った。いわゆる蘇我ノ石川氏がそれである。したがって石川の地は、上代の文化主義の淵叢ともいうべき蘇我一族の体臭が、濃くしみ込んでいるような土地がらである。稲目の軽ノ曲殿はその跡を知らないが、馬子の石川の精舎の跡は現在の部落の南のはずれらしいという。
さて、こうなると、つまり蘇我氏ということになれば、いよいよ飛鳥(明日香)ということにならなくてはならない。実をいうと、この軽の地をみた次は、軽の南方にあたる檜隈(ひのくま)を私はたずねるつもりでいた。そしてそこを本拠地としていたといわれる東(やまとの)(大和)漢(あや)氏、さきにみている畝傍(うねび)山西南の新沢千塚古墳群をのこしたその漢氏族のことをみたいと思っていたのであるが、そちらはもう少しあとまわしとし、ここで私は、いっきょにその足を飛鳥の石舞台古墳に移したいと思う。
馬子の墳墓・石舞台
石舞台古墳といえば、大和の飛鳥をおとずれたことのあるものは、たいてい一度はたずねてみたことがあるはずの有名なそれである。この石舞台古墳のあるところは、私が飛鳥をおとずれはじめたころからみても、いまはずいぶん変わっている。
いまから二十数年前のここはほとんど人影もなく、ちょっと不気味なその姿を地上にむきだした巨石の古墳石室である石舞台だけが、明日香(飛鳥)村の一部を見わたすようにして、ただ凝然とそこにあったものである。それがいつのころからか、まわりには柵がつくられて入場料をとるようになり、前には駐車場つきの茶店までできた。そして近年、飛鳥の地が有名になるにしたがって人々の足はひきもきらず、いまはそこはまるでにぎやかな都会の小公園かなにかのようになっている。
それは飛鳥のいわゆる石舞台と限らずどこもおなじようなもので、いまはもう、そんなことをどうこういってみたところではじまりはしないが、そのためにわれわれの古代遺跡をみる目は、なおいっそうその想像力をかきたてたものでなくてはならなくなったのである。小林秀雄氏の「蘇我馬子の墓」をみると、冒頭にこう書かれている。
岡寺から多武峰(とうのみね)へ通ずる街道のほとりに、石舞台と呼ばれている大規模な古墳がある。この辺りを島の庄と言う。島の大臣馬子の墓であろうという説も学者の間にはあるそうだ。私はその説に賛成である。無論、学問上の根拠があって言うのではないので、ただ感情の上から賛成して置くのである。この辺りの風光は朝鮮の慶州辺りにいかにもよく似た趣があると思い乍ら、うろつき廻っていると、どうもこの墓は、馬子の墓という事にして貰わないと具合が悪い気持ちになって来たのである。
飛鳥のそこが「朝鮮の慶州辺りにいかにもよく似た」ところである、ということについてはあとでまたふれることになるはずであるが、それでどうして、あの石舞台古墳を「馬子の墓という事にして貰わないと具合が悪い気持ちになって来た」のかは、小林氏のそれにつづく全文を読んでもよくわからない。
それはわからないが、しかしこのときの小林氏の想像の目には、そう書かずにはいられなかったなにかがひらめいたのかもしれない。
石舞台古墳のあるところが島庄であるので、それが島の大臣ともいわれた蘇我馬子の墳墓ではなかろうかということは、いまではもうほとんど一般的な説となっている。だが、この古墳は封土をはがされ、石舞台といわれるようになった石室がむきだしとなったときに、その副葬品がみななくなってしまったということもあって、厳密にはまだそれが誰の墳墓であるかはわからないことになっている。
小林氏のそれとおなじように、よくはわからないのであるが、しかしこの飛鳥の地に蘇我と称する豪族がいたということは、歴史上の事実であった。
しかもそれは亀井勝一郎氏の「飛鳥路」に、「政治の実権はいうまでもなく蘇我馬子の掌中にあった。この頃の天皇家とは蘇我家のことである」とあるほどの大豪族であった。
では、これも日本古代史上の有名な人物の一人である聖徳太子、すなわち「厩戸皇子は、父系も母系もともに蘇我の血脈となった最初の人物であり王族であった」(門脇禎二『飛鳥』)ともなっているその蘇我氏とは、いったいどういう氏族であったのだろうか。
同一の文化圏・民族圏
蘇我氏族というのはそれ自体、「この頃の天皇家」であったにもかかわらず、一方ではまたその天皇を殺害したということもあって、ひじょうな悪者とされていることは周知のとおりである。しかし、この氏族はほんとうにそのような悪者であったか、どうか。それはともかくとして、私はまず、二年ほどまえある新聞で行なわれた松本清張・水野祐氏対談「古代史の謎」からそれをみることにしたい。
例によって、引用はまたかなり長い。しかしこれは、ひとり蘇我氏のことのみと限らずなかなか重要なことが語られているので、あえてそうすることにした。
水野 朝鮮の金海の貝塚出土の遺物ですとか、南朝鮮の支石墓(しせきぼ)だとかというのは、ほとんど日本の弥生時代のものと同一ですからね。こっちが日本で、向こうが朝鮮だという区別はできない。私は北九州と南朝鮮とは、混然とした共通の一つの文化圏、一つの民族圏をなしていたというふうに見たらどうかと思いますが。
松本 賛成ですね。
水野 その後だんだん日本と朝鮮がそれぞれ独立したことによって、のちの時代になってわけられるというふうに考えたいと思いますね。帰化人の問題というのは、民族意識とかそういうことは抜きにして、古代のことですからもっとおおらかな問題として、もっと真剣に考える必要があります。とにかく日本も向こうの帰化人に字を書いてもらって役に立てていた時代です。喜んで帰化人が渡来したのには、やはり日本の国もかれらの本国よりよいところがあり、住みよかったのですね。そして帰化人同士のあいだで、高句麗系の帰化人、新羅系の帰化人、百済系の帰化人と、三つどもえのあらそいがあったり、それでまた日本の政権が動かされた、そういうこともやはり考えなきゃいけないと思いますね。
松本 その点ではまだ歴史学のうえで表にはっきりと出ていない、扱われてないわけですね。一部にはいわれているけれども、まだ大きな声にはなっていない。これはこんご水野さんのおやりになる仕事の一つになるのではないかと思いますね。蘇我氏が帰化人として、優秀な技術者を使ったわけですが、このなかで出納を扱う連中、これは屯倉(みやけ)に関係した収納事務をやった。それで蘇我氏の財力がふえて勢力が強大になったんだと思います。蘇我氏が歴史のうえで、大伴や物部に代わって突然出てくるのですが、これははじめから帰化人じゃないか。蘇我と、徐伐(そぼる=新羅の一名。朝鮮の史書『三国遺事』に出てくる)とことばが似ていますからね。「徐」のソが「蘇」となり、「伐」が「我」になる。伐、我は字画が似ていますからね。
水野 私も蘇我氏というのはその祖先はきっと帰化人だと思っているんです。
ここでついでに、松本清張氏とおなじく作家であるが、奥野健男氏にいわせるとこちらも「第一流の歴史家」であった坂口安吾氏の「道鏡童子」をみると、いまの対談でみたのとおなじようなことがこう書かれている。
国史以前に、コクリ〈高句麗〉、クダラ〈百済〉、シラギ〈新羅〉等の三韓や大陸南洋方面から絶え間なく氏族的な移住が行われ、すでに奥州の辺土(へんど)や伊豆七島に至るまで土着を見、まだ日本という国名も統一もない時だから、何国人でもなくただの部落民もしくは氏族として多くの種族が入りまじって生存していたろうと思う。そのうちに彼らの中から有力な豪族が現れたり、海外から有力な氏族の来着があったりして、次第に中央政権が争わるるに至ったと思うが、特に目と鼻の三韓からの移住土着者が豪族を代表する主要なものであったに相違なく、彼らはコクリ〈高句麗〉、クダラ〈百済〉、シラギ〈新羅〉等の母国と結んだり、または母国の政争の影響をうけて日本に政変があったりしたこともあったであろう。
なおまた坂口氏は、蘇我氏のことについても「飛鳥の幻」に書いている。
「現代は記紀にまんまと騙されているような気がするね。つまり、歴史として読むからだ」「ヒノクマ〈檜隈〉の帰化人はじめ多くの帰化人にとりまかれて特殊な族長ぶりを示していたらしい蘇我氏の生態も、なんとなく大陸的で、大国主的である」としてから、こうつづけている。「私は書紀の役目の一ツが蘇我天皇の否定であると見るから、蘇我氏に関する限り、その表面に現されていることは、そのままでは全然信用しないのである」
蘇我氏の出自を探る
さて、ところで、その蘇我氏のことであるが、はっきりこれをいわゆる「帰化人」であるとしたのは、いまみた松本清張・水野祐氏対談「古代史の謎」がはじめてではなかったかと思う。
しかし、松本氏がそれであるとした論拠が「蘇我」という文字、これが新羅の「徐伐(そぼる)」と似ているからというだけでは、多くの人々を納得させるには、どうもちょっと力に欠けるものであるにちがいない。
その松本氏を受けて、「私も蘇我氏というのはその祖先はきっと帰化人だと思っているんです」とした水野氏の論拠というのは、坂口氏とほぼおなじく、「あの氏族だけに帰化人が集中しているのがおかしいので……」というのであるが、これにしても、それだけではやはり薄弱というよりほかない。それだったから私は、ある機会があって松本さんに会ったとき、直接そのことをきいてみたこともあった。しかしやはり、そのときの松本さんの論拠はそれ以上を出るものではなかった。
もちろん、この「旅」のことがあったから、それをもう少しよく知りたいと思ったわけだったが、そうしているうちに私は、一九七〇年九月に南朝鮮・韓国で出版された文定昌氏の『日本上古史』というのを手に入れた。みると、ここに「第五 百済木氏=蘇我氏の登場」というくだりがあって、蘇我氏は百済八大姓の一つであった木氏から出たものであるとなっている。
すなわち百済の木羅斤資(もくらこんし)、木満致から出たものが蘇我石河宿禰となり、蘇我満智宿禰となっているというのである。ついでにいうならば、この本では『古事記』『日本書紀』などの撰者であった太安万侶(おおのやすまろ)は百済の史家安万侶(アン・マンリョ)であったとしているが、しかし私はある理由から、これまでのそれをみてもわかるように、この「旅」にあっては原則として、朝鮮人学者によるものは援用しないことにしている。それだったから、これは一つの参考というまでにとどめておいた。
そして私は、この『日本上古史』とちょうどおなじころ、日本放送出版協会から出た門脇禎二氏の『飛鳥』を読んでいたところ、当然ではあるが、ここにも蘇我氏のことが出ていて、その系図が次のようにしめされているのに出合った(電子文庫版では割愛しました)。こんなことはもうとうに、ほかの文献によって知っていなくてはならなかったはずであるが、そこがそれ、素人のにわかづくりというものである。
稲目以下はかなりくわしくなっているので、どれとどれとがどうなっているのやらよくみないとわからないが、それまでの満智以下、「韓子…高麗」というのに私はまず注目しないではいられなかった。
なぜなら、これは朝鮮古代国家名そのもので、高麗(こ ま)というのも当時、高句麗のことを日本ではそういっていたことからきたものにちがいない。
実をいうと、私がそのくだりまで読みすすむよりさきに、このことを指摘して教えてくれたのは友人の小原元だった。そして彼はそこを指さしながら、こう言ったものである。
「こうなってはもう、いよいよしようがないな。おれもその、朝鮮渡来人から出たものなのかもしれないよ。まいったね」
それがどうして「まいったね」ということになるのかはわからなかったが、「それ、みろ」とか何とか言って、私もそれでにやにやしたものだった。が、しかしそれだけではまだ、――と思っていたところ、さいきんになって、その『飛鳥』の著者であった門脇禎二氏は、「百済の木〓満致と蘇我満智」と副題した「蘇我氏の出自について」なる一文を発表した。
飛鳥の歴史は蘇我氏の歴史
これはいろいろな意味で、ひじょうに重要な論文であった。というのは、私はさきの「大和・奈良の発見」のくだりでいわゆる「帰化人」のことにふれた。そして、「四、五世紀のころ急に帰化人がふえたのは、高句麗の楽浪攻撃によって、当時の倭軍も、技術奴隷としての楽浪遺民の争奪戦に加わったためであろうと考えられる」とある河出書房版『日本歴史大辞典』のそれを紹介し、誰が執筆したものということはしめさなかったが、これの執筆者は右の門脇禎二氏だったのである。
いまここでそれを明らかにするのは、「蘇我氏の出自について」というこんどの門脇氏の論文では、そのような論述についての「自己批判」が行なわれているからである。勇気のいることであるが、氏は冒頭にはっきりとこうのべている。
朝鮮および朝鮮史への差別的な見方を改めるべきだとする声が強くなったが、新しい主張と自分の旧説とのかかわりや否定を明らかにしたうえで新見解を展開するやり方をしているのはほとんどない。いわば、旧説は旧説のままとして、それを云い書きした当人が、いわばなし崩し的に新しい見解へ転進しているのである。それも一つのやり方とは思うが、わたくしは当面の主題にかかわってくる問題についての古く誤っていた点を、この機会にまず明らかにしておきたいと思う。
すなわち、わたくしも亦、かつては古代朝鮮について、任那経営とか朝鮮進出などの視角をもって論述したことがある。また北鮮とか南鮮とかの表現もした。これらは一切、根本的な誤りであった。それに気付いたから、拙著『古代国家と天皇』(一九五七年刊)を再版する出版社のすすめなどにも応じなかったことである。また、朝鮮出兵によってその獲得をめざしたとしたり、渡来した「帰化人」を、一元的に技術奴隷と規定した所説もすでに棄てている。
さて、そこで、「蘇我氏の出自について」であるが、それを門脇氏は次のように書いている。これまたちょっと長くなるけれども、そのはじめの部分の一頁ほどをここに引いておくことにしたい。
蘇我氏は、六世紀末〜七世紀中葉の日本の国づくりをおしすすめた中心的氏族であった。それにもかかわらず、この氏族の出自や性格は意外に明らかでないことが多い。これには、長らく蘇我氏は天皇をないがしろにした悪者氏族ということで研究に着手することが少なかっただけでなく、後述するように、この問題にも朝鮮人や朝鮮への差別観が深くかかわっていたように思う。蘇我氏の出自を問うことは、日本の国家形成史のかなり重要な部分の変改を迫られてくるのである。
蘇我氏の系図は、古事記の孝元天皇段にみえる建内宿禰の子孫系譜によっていわれてきた。つまり、波多・許勢・平群・木・葛城・若子の諸氏とともに建内宿禰より分れたとされ、蘇我氏のみを日本書紀の孝元紀・景行紀の所伝によって示すと次のようになる。
孝元天皇―彦太忍信命―屋主忍男武雄心命―建内宿禰―蘇我石河宿禰
そしてこの蘇我石河宿禰が、蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣らの共通の祖とされる。
しかし、これらがそのまま史実でないことはいうまでもなかろう。孝元天皇は、いわゆる欠史八代の天皇のうちの一人として実在性は考えられず、その子、孫とされる二人の神はもとより、建内宿禰も後世に創りだされた伝説的人物であることは解明されて、すでに古代史の常識になっている。もとより、これらの人物や神が史実でなくても、何故創出され伝承されたかという問題は、それじしんとしてはたてうる。しかし、蘇我氏の実際の史実としての系譜をもとめようとする当面の課題には、この系譜は役にたたない。
そこで、蘇我石河宿禰より後の系譜、ことに蘇我石河宿禰から蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣らにいたる系譜が求められる。その意味で、右述の蘇我同族の大系譜の中でも、石河宿禰が他の六人と比べた場合にもつ特異性や、その後の系譜として公卿補任の蘇我氏系図や蘇我石河系図が重要視されてきているのである。それらには、つぎのように伝えられている。
蘇我石河宿禰―満智―韓子―高麗―稲目、そして稲目以後ははじめて同世代兄弟姉妹にひろがる系図となる。
一見してわかるように、満智以後三人の名と蘇我石河宿禰とはちがう。蘇我石河宿禰の、宿禰という姓(かばね)は六八四年(天武天皇十三年)以後のものだから、この人物じしんも後世の創作による可能性が多いとされ、律令時代の石川(宿禰)氏による祖先系譜作成の可能性が説かれているのである。また、飛躍的に多くの事蹟をともなって伝えられる稲目以後の系譜との間にも段落がある。したがって、問題は、満智、韓子、高麗の三人でありこれらについて、すでに種々な検討がされてきているのである。
まず満智であるが、満智という名は、応神紀、同分註の百済記にみえる木満致と同音である。木とは、木〓=木羅のことで、百済の複姓である。応神紀の木満致は、そこに引用される百済記に父が新羅の婦人を娶って生んだ子とあり、三国史記百済本紀にみえる木満致と同一人と考定されている。
ここにいう「三国史記」とはいうまでもなく朝鮮の史書『三国史記』のことであるが、これまでみてきたことからもわかるように、いわば飛鳥の歴史、とくに仏教伝来以後のその歴史は、蘇我氏族の歴史であったといってもけっして過言ではないはずである。次は、この蘇我氏がそれらを支配し、それらのうえにのっていたことで繁栄したとされている東(やまとの)(大和)漢(あや)氏族の本拠地であった檜隈(ひのくま)からみることにしたい。
高松塚壁画古墳
「帰化人の里」檜隈
前項のおわりに、私はこれからのコースとして、次は「東(やまとの)(大和)漢(あや)氏族の本拠地であった檜隈(ひのくま)からみることにしたい」と書いた。檜隈は檜前(ひのくま)とも書かれるが、飛鳥(明日香)の西南にあたるところで、ここには漢氏族の祖となっている阿智使主(あちのおみ)を祭る神社があり、入口に「檜隈寺址」とした立札があってこうある。
阿智使主神を祀る於美阿志(おみあし)神社の地は、古(いにしえ)の檜隈寺の址(あと)である。境内には礎石及び明治四十二年重要文化財に指定された十三重石塔婆がある檜隈の地は、応神天皇朝以来の帰化漢人(あやひと)が定住し、漢織女(あやはとり)・呉織女(くれはとり)等をして飛鳥朝工芸文化の華を咲かした地である。
宣化天皇檜隈宮は、この神社の辺りと考えられる〈ふりがなと句読点は金〉。
もとは全体が大きな古墳ではなかったかと思われる、小高い丘の台地だった。その林のなかにある檜隈寺跡の十三重石塔は、いまもなお風雨にさらされながらたっていて、これがなかなかみごとなのである。さいきんはまわりに柵がつくられて、あまりそば近くまで寄ってみることはできないけれども、樹木の生茂った林のなかにただ一つ、それだけがかつてのなにかを語るかのようにしている姿は、いつまでみていても飽きないものがある。
私はこれまで檜隈にも何度となく行っているが、ここでの見ものはその神社や寺跡ばかりではない。「うだつ」が上らないということばがそれから転じたものといわれる、卯建(うだち)のみえる古い民家の集落などがまだここにはあって、これがまたなかなかいいのである。
さらにまた、それだけではない。青山茂解説の写真『飛鳥』をみると、ここがいわゆる「帰化人の里」だったとしてこう書かれている。
天武・持統陵が檜隈大内陵と名づけられているように、このあたり一帯を檜隈という。檜隈にはこの陵のほかに、欽明天皇檜隈坂合陵、文武天皇檜隈安古岡陵、吉備姫王檜隈墓などの陵墓があり、皇室とも深い関係の土地であったことを示している。
檜隈という土地は、その地名の由来からヒノキが生茂っていて、色濃い影を落していた土地というわけで、飛鳥の西南の比較的広い丘陵地一帯をよんだらしい。いまはその中に檜前(ひのくま)という地名の集落が残っているほかは、さきにあげた陵墓の名や、檜隈寺跡などから当時の範囲をしのぶしかない。
檜隈の地名は、帰化人の移住地として有名である。応神天皇二十年の秋九月に渡来した倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖先にあたる阿知使主(あちのおみ)とその子の都加使主(つかのおみ)らの一行がこの地に定住したらしく、檜前にある於美阿志(おみあし)神社は阿知使主を祭神とし、その名も使主阿知(おみあち)から転じたものであろう。
檜隈という地名が、樹木のヒノキが生茂っていたことからきたものかどうか、それはともかくとして、このいわゆる「帰化人の里」にどうしてまた、欽明、天武、持統、文武といった飛鳥時代の天皇陵が集中しているのであろうか。これも考えてみると、どうもふしぎのような気がすることの一つである。
いまいったように、私はこの檜隈にも何度となく足を運んでいるが、このまえ行ったときは友人の水野明善などもいっしょだった。例によって檜隈寺跡の十三重石塔などをみてから、その夜の民宿にきまっていた飛鳥(あすかに)坐(ます)神社へ向かおうとすると、あいにくなことに曇っていた空からは雨が降りだした。
「檜隈の雨」というのもなかなかおつなものではあったが、しかし濡れながら歩くというわけにはゆかない。で、私たちは於美阿志神社前にある家の人にたのんで、電話でタクシーを一台よんでもらった。そして、そのタクシーが走りだしてからだった。
「あの、運転手さん」と、水野はなにを思ったのかきいた。「この檜隈というところは昔、帰化人たちの住んでいたところだそうですが、その帰化人はどこから来たものだったのですかね」
「シナ、中国から来たものじゃないですか。わたしたちはそう教えられてますがね」
中年の運転手は、そう言って答えた。水野は横に坐っていた私をみて、仕方なさそうな顔をして笑った。――
壁画古墳発見さる!
と、まあ、私はこんなぐあいにこの項を書きつづけるつもりでいた。ところが三月下旬、こうしていまこれを書きだす直前、飛鳥(明日香)では日本の古代史上画期的な一つの大事件がおこったのであった。
これまで九州の福岡や東北の福島などでしか見つかっていなかったいわゆる装飾古墳、壁画古墳がこの飛鳥でも発見されたのだった。しかもそれは、これまでのものとは比較にならないすばらしいものだった。
当然、新聞がこれを大きくとりあげたのはいうまでもない。そこで私も急きょある新聞にたのまれて「飛鳥の壁画古墳」と題した次のような一文を書くことになった。別にあらためて書くこともないと思うので、ちょっと重複するところもあるが、それをここにうつしておくことにする。
京都で出ている季刊の小雑誌『日本のなかの朝鮮文化』は毎号その誌名とおなじテーマの座談会をつづけているが、次号となる今回のそれは「天日槍(あめのひぼこ)をめぐって」というのだった。天日槍とは、日本の弥生時代末期から古墳時代のはじめにかけて朝鮮から渡来した一大集団の象徴のようなものとみられ、『日本書紀』ほかによると「熊の神籬(ひもろぎ)」、すなわち神社祭祀などをもたらしたものということになっている。
いうところの神功皇后もこの天日槍から出たものとされているのであるが、そういうことだったので、私はまず、その天日槍の遺跡である兵庫県但馬の出石(いずし)神社や淡路の生石(おいし)神社などをたずねまわってから、二十六日の夜京都で行なわれた座談会に出た。そしてその夜のうちに私は大阪でまた用を足さなくてはならなかったので、この夜は大阪泊りとなった。
どこ泊りになろうと、そんなことはどうということなかったわけであるが、翌朝、新聞をみて、私はびっくりしてしまった。
「法隆寺級の壁画発見/飛鳥に装飾古墳/男女像や白虎青竜/奈良県高松塚/七色で大陸風俗」という大きな見出し活字がいきなり目に飛び込んできたばかりか、いくつもの大きな写真まではっきりと出ている。
旅先で、しかもそこは飛鳥の近くだったからいっそう印象が強かったのかもしれなかったが、まさにそれは「日本考古学界戦後最大の発見」というべきものであった。
私は一面トップとなっている新聞の見出しをみただけで、記事の内容は読みもしないうちすぐ、それまでいっしょに但馬や淡路を歩いて前夜わかれたばかりの、「日本のなかの朝鮮文化」社の鄭詔文に電話をした。「これから飛鳥へ行こうじゃないか」と。
自分の都合ばかり考えるやつ、と思われたかもしれなかった。というのは、これも私事にわたるようで恐縮だけれども、私には別にまたもう一つの仕事があった。私は三年ほどまえから雑誌『思想の科学』に「朝鮮遺跡の旅」というのをつづけていて、こんど書かなくてはならないところが、ちょうど飛鳥のそこだったのである。実をいうと、私が新聞をみてびっくりしたのは、そういうこともあったからだった。
だが、鄭詔文から、『日本のなかの朝鮮文化』の座談会などをつうじて知っていた橿原考古学研究所付属博物館主任の伊達宗泰氏に電話をしてみたところ、発見された飛鳥の古墳はもう密封してしまったというのだった。伊達さんはその古墳の発掘者の一人でもあったから、会って話を聞くこともできないかといってみたが、それもこの一、二日はとても不可能だという。
なにしろ、伊達さんにしてみれば、「戦後最大の発見」をしたばかりのときだったから、多忙のはずでむりもないことだった。いうまでもなくがっかりしたが、しかしそうなってみると、私はまたようやく冷静になって別のことにも気がついた。それだったからといって、考古学者でもなければ歴史学者でもない私などが、さっそくそこへ乗り込んで行くというのもどうかと思われる、ということだった。
そこで、私はできるだけたくさんの新聞を買いもとめてみるよりほかなかった。なかには、こういう見出しのものもあった。「飛鳥風俗くっきり/豊かな頬、口に紅/埋葬者は高句麗の貴人」――
だいたい檜隈にあった高松塚古墳というのは、明治のはじめまでは文武天皇陵であると考えられていたものだとのことであるが、私はこれまで何度も行ったことのある飛鳥のそのあたりを思いうかべながら新聞に出ている壁画の四人の女人像にじっといつまでも見とれたものだった。それをみていてまず思いだされたのは、高句麗の双楹(そうえい)塚壁画古墳にある三人の女人像だった。七、八世紀のものではないかといわれる飛鳥のばあいは四人で、五、六世紀のものといわれるこちらの写真は三人だったけれども、ひきずるような長い裳(もすそ)などその服装は、約二百年間というあいだをおきながらほとんどおなじものだった。
私が高松塚のその写真をみていたのは読売新聞(大阪)だったが、これには文化庁文化財保護部記念物課の次のような談話も出ていた。
「古墳の発掘された周辺は、昔から高句麗の貴人が住んでいたとか、その村落があったとか言い伝えられていたところであり、今度の発掘でいよいよ本物らしくなってきた。これまで高句麗の貴人が渡来していたというはっきりしたものがなかったので、この発掘は非常に貴重なものだ」
高句麗とはいうまでもなく朝鮮三国時代の一国であるが、飛鳥のこの壁画古墳が南部朝鮮の百済でもなければ新羅でもなく、北部の高句麗であったところにいっそう興味がある。これで、飛鳥の歴史はなお複雑なものになったともみなくてはならない。
だいたい、飛鳥というのがどういうところであったかということから、このさいちょっと考えなおしてみる必要があるのではないかと思う。まず、ここのあすか(飛鳥=明日香)という地名であるが、これはただしくは大和飛鳥、もしくは遠つ飛鳥とよばれなくてはならないのである。
なぜなら、大阪府下の羽曳野市には現在でも百済系の〓伎(こんき)王を祭神としている飛鳥(あすか)戸(べ)神社などがある飛鳥というところがあって、こちらは河内飛鳥、近つ飛鳥といわれていたところだったからである。そしてここはかつての安宿(あすかべ)郡で、あすか(飛鳥)というのももとをただせばこの安宿を朝鮮語でアンスク・アスク(安宿)といったことからきたもので、つまり外来者(飛ぶ鳥)の安らかな宿・ふるさとだったのである。
したがって、遠つ飛鳥だった大和飛鳥は、近つ飛鳥だった河内飛鳥の延長にほかならなかったものであった。なぜそれが延長されたかということについては歴史学者にまかせるよりほかないが、それからまた現在の大和飛鳥、明日香村は高市郡で、これも以前は今木(来)郡ともいわれたところだった。
今木(来)とはなにかといえば、上田正昭氏も言っているように、これは「新しく渡来した地」ということを意味したものだった。もちろん古代朝鮮から渡来したもので、それの集中していたところが、こんど発見された高松塚壁画古墳のある檜隈であったとされている。
すなわち東漢氏といわれているのがそれで、檜隈にはいまでもその漢氏の祖であった阿智使主を祭る於美阿志神社があり、その氏寺であったとみられる檜隈寺跡もある。
ところで、東漢氏は漢と書いてあや(漢)とよませたり、またのちにはその氏族自ら後漢霊帝の何だったなどと称したことから、これは中国から渡来したものであったかのようにみられていたものであるが、あや(漢)というのは古代南部朝鮮の小国であったアヤ・アナ(安耶・安那)からきたものであった。漢織(あやはとり)、穴織(あなはとり)などというのも同様である。
この漢氏は百済八大姓の一つであった木氏より出た蘇我氏(門脇禎二「蘇我氏の出自について」)、「政治の実権はいうまでもなく蘇我馬子の掌中にあった。この頃の天皇家とは蘇我家のことである」(亀井勝一郎「飛鳥路」)その蘇我氏と結んで大繁衍(はんえん)を来し、のちにはこれから征夷大将軍となった坂上田村麻呂といったものも出ている。そしてこの田村麻呂の父であった刈田麻呂の上表文というのが、『続日本紀』七七二年の宝亀三年条にあって、こうある。
「凡(およ)そ高市郡内は檜前忌寸(ひのくまのいみき)及び十七の県(あがた)の人夫地に満ちて居す。他姓の者は十にして一、二なり」
こうなるともう、今木(来)もなにもあったものではない。飛鳥全体、高市郡の全部が漢氏族と、それとともにやって来た「十七の県の人」とによって占められていたのであるが、これはどちらかといえば、日本の史家たちからは百済系の「帰化人」とみられているものである。
全人口の八、九割を占めていたものが「帰化人」だったとはおかしなものであるが、それはともかく、いま問題となっている高松塚壁画古墳は百済系でもなければ新羅系でもなく、北部朝鮮にある双楹塚壁画との類似からして、高句麗系のものであることがほぼはっきりしている。これは、どういうことであったのだろうか。
さきにみた檜隈の近くに、いま栗原というところがある。ここはかつては、呉原(くれはら)といったものだった。『日本書紀』雄略十四年条に、「即ち呉人を檜隈野に安置(お)らしむ。因(よ)りて呉原(くれはら)と名づく」とあるそれである。
では、この呉人、呉原のくれ(呉)とはどういうものであったろうか。呉などという字があてられているものだから、中国のかつての呉(ご)国とまちがえられたりしているが、これももとは高句麗からきたものであった。高句麗は朝鮮語でコクレというのであるが、高は美称であるから、それをとるとクレ(句麗)となるのである。漢織・穴織にたいする呉織というのもこれからきているこというまでもない。
その高句麗系のものがどうして、百済系とみられている漢氏族の集中、本拠地であった檜隈近くにいたのであろうか。答はかんたんである。百済系といい高句麗系といっても、その支配層はどちらももとはおなじ扶余族(いわゆる騎馬種族の一つ)だったのである。
日本には高句麗系の遺跡も多いが、大和を例にとれば、法隆寺の有名な壁画を描いたものが高句麗僧の曇徴であり、また飛鳥寺も戦後の発掘によって、北部朝鮮にある高句麗の青岩里廃寺とおなじものだったことが判明した。しかしながら今日までのところ、この高句麗系のものが政治的なトップ支配層にまではいっていたとは、あまり知られていなかった。
だが、こんど発見された高松塚壁画古墳によって、このことがまたあらためて考えなおされなくてはならなくなったのである。もっとも奥野健男氏のいう「第一流の歴史家であった」坂口安吾氏などは早くから、騎馬に関係のある厩戸皇子(うまやどのみこ)であった聖徳太子は高句麗系の人ではなかったか(「道鏡童子」)といっているのであるが。――
被葬者をめぐって
飛鳥とはどんなところだったか
私が前掲の一文を書いたのち四月にはいってからも、新聞の高松塚壁画古墳にたいする報道はますますエスカレートし、まるで日本じゅうが、この壁画古墳をめぐって興奮状態におちいったかのような観を呈するにいたった。私もまたそんな興奮状態に巻き込まれ、毎日その新聞の切り抜きばかりつくっているのであるが、焦点はだんだんとこの古墳に葬られたものは誰であったかということにしぼられて、いろいろな研究者や専門家が動員され、いろいろな角度からさまざまな意見がのべられている。
たとえば、朝日新聞は三月二十九日付け夕刊からさっそく、「よみがえった壁画/高松塚古墳」とした連載をはじめたかとみると、翌三十日付けの朝刊には「光さす古代文明/『高松塚古墳』座談会」がのっているといったぐあいである。右の連載記事は四月二日現在まだつづいているが、これでもう一つ明らかになったことは、この古墳が、というよりこの古墳も高麗(こ ま)尺(じやく)によってつくられているということだった。こうである。
古代の物差は、高麗尺と天平尺の二つだ。古くから使われていた高麗尺の一尺は現在の約三五・六センチ。これが奈良時代になって正式に一尺が約二九・六センチの天平尺に改められた。
大化改新から半世紀くらいは、両方が使われていた。
古代の度量衡の研究を続けている全国文化財保存協議会の甘粕健事務局長にこの石室実測値を古代の尺に換算してもらった。天平尺では、やはり“はんぱ”になる。高麗尺に直してみると多少の誤差はあるもののピタリだ。幅は三尺、奥行は八尺。高さも三尺とみてよいという。「つくるときの誤差もあり、幅、高さは同寸の正方形断面につくろうとしたのに違いない」と甘粕さんは断言する。
古代の日本では高句麗のことを高麗(こ ま)といったものだったが、それからさらに、あるばあいは朝鮮全体をさして高麗ともいったものだった。だからこれは朝鮮尺といってもよいわけであるが、高麗尺といえば、飛鳥の地、いわゆる飛鳥京の地割自体も、この高麗尺によってつくられたものであった。
これについては、こんど高松塚壁画古墳発掘者の一人でもあった関西大学の網干(あぼし)善教氏に「飛鳥京地割の復元」という研究論文があって、いま私の手元にそれの要約がある。このさい飛鳥の地がどういうところであったかということを概観するうえでも重要と思われるので、ちょっと長いけれども、ついでにそれもみておくことにしたい。
△方法論の提示
飛鳥時代の皇都が造営された奈良県高市郡明日香村の一画は、南の石舞台古墳付近から北の香久山の麓まで約二・四キロ、東の山の麓から甘橿岡(あまかしのおか)まで約一キロにもみたない狭い地域である。ところが、ここには、飛鳥の諸宮をはじめ飛鳥寺、川原寺、橘寺、大官大寺などの建立されたことが文献によって知られ、現存する遺構からその事実を確かめることができる。こうした多くの宮殿や寺院が無計画に造営されたとは考えられない。むしろ計画的な地割がなければ都としての形をなし、その機能を果すこともできなかったと考えられる。飛鳥京域には、都市計画ともいうべき整然とした地割が施行されていたのではないだろうか。この疑問を解明するために、ここ数年間、飛鳥京地割の復元研究を進めてきた。
戦後、飛鳥地方では、飛鳥寺、川原寺、橘寺の塔心礎が発掘された。また大官大寺、奥山久米寺、山田寺の全容は判明していないが、遺構の一部が確認され、塔の位置は推定できる。そこで、当時、これら飛鳥諸大寺の塔がこの狭い地域に荘厳を競っていた光景に着目、その相互関係がどのようになっているかを調べることにした。さらに現在まで確認されている寺域、京跡遺構及び地形などによってその細部を実証していく方法をとった。そして次のような復元試案を作成し、これらの確実な遺構と照合することによって、計画的地割の存在を知ることができた。
△復元の手順
まず、飛鳥寺の塔の心礎を基準点として南北線を設定し、これを復元作業上の基準線とした。そしてこの基準線の延長上から橘寺の塔心礎との距離を測り、これを長さの単位として、飛鳥寺と川原寺の塔心礎との距離を基準線上に割付けると、ちょうど四倍の長さに相当することが判明した。またこの単位で飛鳥寺から北へ計測すると、従来から飛鳥京と藤原京の境界線ではないかと想定されていた明日香村大字雷(いかつち)から、桜井市山田寺に至る東西方向の農道までが単位の三倍にあたる。さらに、飛鳥寺の塔心礎の上を通る基準線と、山田寺の伽藍中軸線である塔心礎上の南北線との距離は単位の六倍に相当する。一方、橘寺の塔心礎から飛鳥京域を南北に縦断して大官大寺の塔跡をみると、これが真北の位置にあることが判明した。これらの関係をみると、飛鳥寺と橘寺、川原寺、飛鳥京北限、さらに山田寺との間には、一定尺度の地割があることが確実となった。
つぎに、この単位を実際の尺度で計測すると、高麗(こ ま)尺五〇〇尺(約一八○メートル=曲尺六〇〇尺)の数値となる。そこで、一辺の長さを高麗尺の五〇〇尺とする正方形方眼の地割があったと考えた。
△計画性の証明
飛鳥京域内における主要遺跡、遺構の位置が高麗尺五〇〇尺を単位とする方形地割上に割付けられるとすれば、それは偶然の結果ではなく、飛鳥京造営に際してきわめて整然たる京域計画のあったことが予想される。このことはさらに、方形地割に合致するいくつかの個所をあげてみることによっても証明される。
川原寺域の東限線(東門の位置を通る南北線)が飛鳥寺の塔の心礎線上の基準線より西へ高麗尺五〇〇尺であること、昭和三十五年以後、橿原考古学研究所が発掘担当してきた飛鳥京跡の北一本柱列遺構が飛鳥寺心礎より南へ高麗尺一五〇〇尺、同村岡天理教前で検出した二条の南北方向の溝(みぞ)遺構が基準線より高麗尺でほぼ五〇〇尺の位置にあたることなど、随所に地割との合致がみられる。
論文はまだ、「△細部の地割」「△道路の推定」「△今後の課題」というふうにつづいているが、以上みただけでもだいたいのことはわかるように思う。そこでまた、高松塚壁画古墳をめぐる新聞報道のほうに戻ることにする。
松本説・司馬説
さきにもいったように、焦点はだんだんとその被葬者ははたして誰であったかということにしぼられてきて、東京新聞は四月一日付けの朝刊より「飛鳥人のナゾ/高松塚壁画古墳から」という連載をはじめていて、ここには「高麗尺」とはまた別に「高麗絵師」のことが書かれている。同時にまた一日付けのこの朝刊には二頁見開きの大きな扱いで、「飛鳥古墳“葬者”は朝鮮貴人だ! /松本清張氏の推理」というのがのっている。そしてさらにまた、同一日付けの朝日新聞夕刊をみると、司馬遼太郎氏の「幻想をさそう壁画古墳/被葬者は高句麗国使? 古代東アジアのロマン」というかなり長い文章がある。
どちらも故坂口安吾氏と同様、歴史に精通している作家であるが、松本氏はまず壁画の風俗や習俗、「星の思想」ということから説きおこして、「とすると、星を描いたということは、朝鮮絵画形式をそのまま描いたということになります。そうすると、人物もどこまでが飛鳥の風俗であるか、どこまでが朝鮮本国の風俗であるか、このへんはまだはっきりいえないのではないか」としながら、「墓の主は、いまいわれている日本人の貴人とは限らないのではないか。朝鮮人渡来者の有力者の墓ではないか。しかも、日本化した人ではなくって、かなり朝鮮本来の地位をそのまま持っていたのではないか」といい、つづけてこうものべている。
それにこんどのが円墳というのも大事な点で、朝鮮はみな円墳なんです。だからこれは日本の皇族ではない。日本の皇族関係なら、前方後円墳になります。学者は天皇陵だとか貴人の墓だとかいうが、円墳は最も朝鮮的ではないかというわけです。
しかし、天武・持統合葬陵といわれている古墳が円墳であることからすれば、松本氏のこのことばはまちがいということになる。だいたいこれは記者によるインタビューなので、あちこちかなり混乱しているようにみえるが、しかしさすがに、次のことばなどはまえからの氏の持論で、やはり光っている。
朝鮮から日本にきた民族がある〈このばあい「民族」「朝鮮人」「日本人」ということばのまちがっていることについては、「大宝蔵殿と夢殿で」の項のおわりに書いたとおりである〉。これがいうところの出雲民族です。
この出雲民族が第一次の渡来民族で、弥生時代の前期ごろからかなりいたんではないか。そこへあとから天孫族、騎馬民族ともいう、これがやってきて出雲族を追い出した。しかし人数が少ないから人数の多い先住民族を征服、統一はできない。そうすると、大和は中央集権的な政治になっていく。これが大和朝廷のあり方だろう。
こう考えると七世紀の飛鳥時代というのは、大和朝廷がまさに成立しようとしている時期です。しかも強大になった文化があとから来る優秀な技術を持った朝鮮人を迎え入れたかと思う。だからみんなが思っているようにわれわれが朝鮮文化を吸収したというのではなく、もともと同じ民族だと思うんですよ。
もう一つ極言すれば、日本は朝鮮から分かれた国ですよ。幸か不幸か対馬海峡があるので、朝鮮が動乱になっているとき日本は独立し、より日本的になっていった。日本的というのは、先住民族の風習をくみ上げてそこに融合をとげたと思うんですよ。アメリカが英国から独立したようなものです。
これにたいし司馬遼太郎氏は、古代朝鮮における高句麗というのがいかに強大なものであったかということを説き、高松塚壁画古墳の被葬者は六六八年、その高句麗が南方の新羅によってほろぼされる直前にやって来た「国使」高麗王若光ではなかったかというのである。しかし氏自身もつづけていっているように、これはちょっと説得力にとぼしいもので、かわりに氏は次のような京都大学の岸俊男氏の説を紹介し、さらにまたつづけて書いている。
そう考えてゆく上で、ちょっとこまるのは、京大の岸俊男氏のすぐれた測定である。最近の発掘調査で藤原京跡の輪郭があきらかになっている。その藤原京を南北につらぬく朱雀大路と正中線の南の延長上に、文武天皇陵や天武・持統合葬陵、あるいは皇族の墳墓らしいものがかたまっている。その正中線上付近にこの極彩色のあざやかな壁画をもつ高松塚古墳も位置しているのである。だからこの正中線はいわば聖なるライン(新聞記事の修辞)であり、天皇や皇族以外の墳墓が設けられるはずがないという考え方だが、まことに明快な説得力がある。
しかし墓地の設定方法を日本の貴族に教えたのは〈墓地の設定も知らなかった貴族などというものはちょっと考えられないが〉、この時代〈朝鮮〉半島からきたひとびとであった。風水説をもちだすまでもなく、墳墓は展望のいい高地に置かれる。右の諸陵が営まれる前にすでにこの見はらしのいい適地を高句麗人たちがみつけて自分たちが奉じてきた首長を葬ったあと、諸陵ができ、やがて藤原京ができたといっても許容性があるのではないかと思ったりする。
被葬者をめぐる百家争鳴
また、ほかの新聞でもいろいろと「推理」が行なわれているこというまでもない。
「皇子説から帰化人説/『あすか』謎の人物/五〇歳前後の大男」というのは三月二十九日付けのサンケイ新聞だが、三十一日付けの毎日新聞は「飛鳥の貴人/天武系の皇子/藤原京の悲劇を秘めて/『百済系』の反論も」と大きな見出しをかかげている。
十人もいたという天武系の皇子説としては、大阪市立大学の直木孝次郎氏の「高市皇子の可能性が非常に大きい」というのを紹介しているが、これについてはまたあとでみるとして、それにたいする「『百済系』の反論」はこうなっている。
一方「天皇、皇族に限定するのは危険」という意見がある。帰化人ではないか、という推論だ。『明日香村史』編集委員長(郷土史家)の辰巳利文さんは「高松塚古墳のある檜隈の地は帰化人の里だ。石室の壁画はその技術からみて、帰化人の手になるものとみて間違いない。古墳の規模を考えると、天皇陵といわれるものに比べあまりにも小さい。帰化人が一族の長を埋葬、大きな古墳を造る代わりに、内部の装飾に最高の技術を発揮、故郷の芸術の粋を凝集させたとみるのが自然だ」という。
帰化人による朝鮮文化の影響を重視する上田正昭京大教授(古代史)は「大和飛鳥と山一つ隔てた大阪・南河内の近(ちかつ)飛鳥まで視野を広げて問題を考えるべきだ」という。確かに近飛鳥にも高松塚古墳と同じ形式の埋葬施設を持つ古墳が多い。また藤沢一夫帝塚山大講師(考古学)は「埋葬施設の形式からみて高松塚古墳は、百済系の古墳とみるのが適当だ。四神などを描いたのが、百済の陵山里古墳にもある。高句麗とはきめつけられまい」
さいごにもう一つ、それは私がいまこれを書いている四月三日付けの東京新聞「飛鳥人のナゾ」であるが、おわりの(下)は、「覆面の貴人/最有力は忍壁皇子」としてこうなっている。
この貴人の正体をほかの“間接証拠”から推測すればいろいろな見方が成り立つ。大陸からの帰化人の王族クラス、皇子、重臣などである。
「ぼくは、墓の主が日本人、朝鮮人のどちらとも決めているわけではない」と慎重に前置きして、井上光貞東大教授はいう。
「確かに飛鳥朝廷の墓域にも近い。だが、一方、あの一帯は檜隈といって、五世紀ごろから朝鮮系帰化人の大根拠地だった。そこへ高句麗からの王族クラスが亡命してきて、故郷をしのぶ形の墓を営んでもおかしくはない」……
高松塚は、一時、文武天皇陵と見られていた。それだけに“候補者”として最初に名が上がったが、文武天皇は、ちょうど七〇〇年ごろから広まった火葬に付されている。骨の残るはずがない。天智、天武、持統天皇らの陵も所在がはっきりしている。まず、天皇説が消えた。それに没年が、火葬の始まった七〇〇年以後の貴人も候補としては影が薄れた。
壁画発見の功労者、末永雅雄関西大名誉教授らは、つぎに子だくさんの天武天皇の皇子に着目した。皇子は十人。まず皇太子の草壁皇子。しかし没年が二十八歳(六八九年)。「四十歳以上」という科学的なデーターに合わない。続いて第一皇子の高市(たけち)皇子。没年四十三歳(六九六年)。だが、記録では墓は別のところ。
残るのは忍壁(おさかべ)皇子。没年四十一歳(七〇五年)。直木孝次郎大阪市大教授は「皇族ではもっとも有力」という。
このほか、重臣では、大化改新の立て役者藤原鎌足、不比等父子らの名も上がっている。が、彼らも墓は別にあるといういい伝えが根強い。
七世紀後半に活躍した有力者の数は、日本人であるにせよ、ごく少ない。しかしいまの段階では“覆面の貴人”の身元調査はそれ以上には進んでいない。
こんご研究が進めば、このナゾも次第に明らかにされ、やがて貴人の素顔が浮き彫りにされよう。その意味からも、一刻も早い日本最古の人物壁画の本格調査と保存措置が望まれる。
だいぶ長くなったが、いやはやなんともにぎやかなことである。しかし結局、その被葬者が誰であるかはっきりしたことはわからない。もっとも、千数百年前のそれが誰であったかを正確に知るというのは、今日の誰にとっても不可能なことであろう。
だが、しかし、専門の歴史学者や考古学者には、それが専門である故に、かなりはっきりした見当くらいつかなくてはならないはずである。いわゆる比定である。だから、新聞にはいろいろなそういう学者や、歴史に精通している松本清張氏や司馬遼太郎氏といった作家まで動員されて、そのことをただされたわけであった。しかしいまのところ、やれ「高句麗や百済からの帰化人だ」いや「日本人で皇族だ」といった意見がばらばらに出ただけで、結局、はっきりしたことはわからずじまいとなったのである。
「帰化人史観」の克服を
では、おまえはどうなんだ、誰にも発言権はあるのだからいってみろといわれそうだが、もちろん私などにそれがわかるはずはない。しかしながら、ただ一つだけいえることは、以上の各人各説をみていっそう痛感したのだが、従来のような皇国史観=帰化人史観をもってしては、いつまでたっても、それは結局わからずじまいとなるよりほかないということである。
いわばそれ以前の、発想方法、または思想の問題であるが、以上の各人各説をみていっそうはっきりとわかったことは、これまでの帰化人史観というものはまだ、実に牢固としたものがあるということである。「朝鮮貴人」「高句麗国使」説をとった比較的自由な立場にある作家の松本氏や司馬氏にしても、まだそこからすっかり抜け切っているとはいえないように思う。
たとえば、こういうことである。「『ぼくは、墓の主が日本人、朝鮮人のどちらとも決めているわけではない』と慎重に前置きして、井上光貞東大教授はいう」とあるが、このような発想法では、それは絶対にわかるはずがないのである。まるで今日の在日朝鮮人のように、この飛鳥には当時から「朝鮮人」「日本人」というものがそれぞれ別々に住んでいたかのようである。したがって井上氏の口からはつづけて、次のようなことばが出てくることにもなった。
「確かに飛鳥朝廷の墓域にも近い。だが、一方、あの一帯は檜隈といって、五世紀ごろから朝鮮系帰化人の大根拠地だった。そこへ高句麗からの王族クラスが亡命してきて、故郷をしのぶ形の墓を営んでもおかしくはない」
なるほど、たしかに「おかしくはない」であろう。つまり、檜隈は「朝鮮系帰化人の大根拠地だった」ところだから、その古墳は高句麗からの亡命者の墓であろうというのであるが、では、そのおなじ檜隈にある天武・持統合葬陵なるものなどはどういうことになるか。
さきに司馬遼太郎氏も引いていた、岸俊男氏のいわゆる正中線を持ちだすまでもない。井上氏は「確かに飛鳥朝廷の墓域にも近い」というが、檜隈のそこは近いどころか、いうところの飛鳥朝の墓域そのものなのである。これもさきにみたように、そこにある欽明陵古墳は「檜隈坂合陵」というのであり、天武・持統合葬陵古墳は「檜隈大内陵」というものであった。そして「大内陵」のそれから中尾山古墳、いま問題となっている高松塚壁画古墳、文武陵古墳の「檜隈安古岡陵」がほぼ一直線上につづいているのである。
そればかりではない。これもさきにみた於美阿志神社・檜隈寺跡の立札によれば、「宣化天皇檜隈宮は、この神社の辺りと考えられる」とあったし、さらにまたちょっとさかのぼるならば、さきの「中宮寺から百済野へ」の項でみた百済寺のそこは、同時に皇極帝の「百済大宮」でもあった。これらのことはすべて、いったいどう説明されるのであろうか。
服装と髪型から
私は右まで書いたところで、この項は一応トメにしようと思った。が、ちょうどそこへある編集者がたずねて来たので、手にしているのをみると、これがまた高松塚壁画古墳の女人像を表紙にした『サンデー毎日』の四月十六日号だった。新聞につづいてこんどは週刊誌というわけだったが、「千三百年の眠りからさめた美女は……」と、これはその壁画にみられる風俗に焦点をあてたもので、こういうことが書かれている。
もすそをひいて藤原の都大路を散策する飛鳥美人。石室西壁画の北側に描かれた女人像は、いまにも歩き出しそうにリアルである。
ここで気付くことは、この裳(もすそ)が上着(衣)の下から流れていること。上代女性の生活史を研究する国学院大教授・樋口清之氏は「中国ではなく朝鮮系ということですね」とみる。古代中国の、わが国にも影響が大きかったと考えられる唐の女性の裳は、衣の上から着けている。しかし、朝鮮の貴婦人は、高松塚古墳の壁画どおりに、裳の上から衣を出すオーバーブラウスである。……
奈良国立文化財研究所美術工芸研究室長の長谷川誠氏も、あの服装スタイルは朝鮮独特のものであるという。つまり、上衣はチョゴリだし、スカートはチマ、そしてスカートの裾についている(せん)(レース状の装飾)などは、高句麗時代の服装にまちがいないのだそうである。……
飛鳥の女たちのへアー・スタイルは、垂髪とみるべきか?
平安朝ほどには長くない黒髪を、首すじのあたりではゆったりと一つにたばねて結び、その先をちょっとカールさせている。「これは中国系ではない。かといって、完全に朝鮮系でもない。つまり、朝鮮系が若干日本化したもの」(樋口教授)とする説が有力だ。
たとえば、ロンドンの大英博物館に収蔵されている唐の婦人の風俗を描いた群像図をみれば、これは完全に結髪だ。元結(もとゆい)から高く結いあげた正面のマゲは、こんどの壁画にはまったくみられない。高松塚の女たちは、唐文化の影響を最も強く受けているといわれる正倉院の樹下美人とも、薬師寺の吉祥天女とも違うのである。
長谷川誠氏は、こう断定している。
「前のほうでたくしあげて、後ろのほうで結ぶ。これはほぼ朝鮮、つまり高句麗の風俗と同質といえます」
なおまた、ここでもその壁画古墳の被葬者は誰であるかということが問題にされ、「主人公は天武天皇の皇子?」ということで次のようになっている。
直木孝次郎大阪市大教授も、高松塚が天武天皇の皇子のうちのだれか一人――とくに草壁皇子、ないし高市皇子の墓である可能性が強い、という見方をとっている。
「確証があるわけではありません。あくまで可能性、ということです。勝手に小説的空想をはばたかせば――たとえば草壁皇子の墓ということにすると、がぜん面白くなる。たとえば、壁画に描かれている女性像の一人は、草壁皇子の妃の阿陪皇女かもしれない。そうなると、阿陪皇女はのちの女帝、元明天皇ですから、あの壁画は天皇の肖像画、ということになる」
いずれにせよ、飛鳥(明日香)の高松塚壁画古墳の発見は、近来にないすばらしい出来事であった。私も今月は、すっかりそれにふりまわされてしまったのである。
続・高松塚壁画古墳
ますます広がる波紋
「いずれにせよ、飛鳥(明日香)の高松塚壁画古墳の発見は、近来にないすばらしい出来事であった。私も今月は、すっかりそれにふりまわされてしまったのである」
これは私が前項「被葬者をめぐって」のおわりに書きつけたものである。ところが、これが短見というものであった。あれから、つまり四月から五月になったいまにして思うと、問題はむしろそれからだったのである。
ことばをかえていうならば、飛鳥の高松塚壁画古墳の発見とは、日本古代史にとってそれほどにも重要・重大なことだったのだ。それをまだよく知らなかったものだから、「私も今月は、すっかりそれにふりまわされてしまったのである」などと、のんきなことを書いたものだったが、私がふりまわされるのも、ほんとうはそれからだった。
つまり、歴史にたいしては門外漢である私なども、このあいだ、新聞・雑誌などのマスコミにふりまわされていくつかの文章を書き、またいくつかの座談会や討論会にも出なくてはならなかったのである。ことについ二、三日まえ京都で行なわれた上田正昭、江上波夫、久野健、森浩一氏らとの討論会はある出版社企画の一冊の書物となる長大なもので、これが終ったときは文字どおりくたくたになり、旅先の宿で一日寝込んでしまったものだった。
そして私はこのあいだにまたテレビやラジオのため、飛鳥(明日香)現地の高松塚壁画古墳を二度ほどおとずれている。ここはいずれ、そういうことがなくてもおとずれてみたいと思っていたから、これは私にとって望外のことだった。
テレビ放送社の指定した近くの民宿で一夜を明かし、翌早朝、問題となっている高松塚壁画古墳のそこに立ったとき、これまでにも何度となくそこらを歩いていたにもかかわらず、私はいまはじめて檜隈(ひのくま)のあたりをこの目でみたような気がした。とくにその高松塚古墳の真南、わずか数百メートルさきにみえる於美阿志(おみあし)神社や檜隈寺跡のある小高い森を目にしたときは、胸がジーンと熱くなり、ただわけもなく感動してしまったものだった。
なぜ、どうしてだったか、いまだによくわからないが、それはともかくとして、いま考えてみると、「宣化天皇檜隈宮は、この神社の辺りと考えられる」とあった阿智使主(あちのおみ)を祭る於美阿志神社や檜隈寺跡、すなわち東(やまとの)(大和)漢(あや)氏族といわれたものの中心根拠地であったその檜隈についても、私はまだ知らないことが多いようである。
たとえば私はさきに、この檜隈の近くにはいま栗原となっている呉原というところがあることを書いた。そうして、その栗原はもと高句麗のクレ(句麗)からきた呉(くれ)原であり、そこに高句麗系の渡来人が、もとはこれも同系であった百済系の東漢氏族といっしょにいたものにちがいないと書いたが、しかし私はそこにいま呉原寺跡があることまでは知らなかったのである。これも高松塚壁画古墳発見のおかげで、伊達宗泰氏の「飛鳥・壁画古墳の発見」によるとこうある。
しかし歴史的には阿知使主一族の帰化以来倭漢氏の根拠地である檜前(隈)の地の中心地で、於美阿志神社の現存する檜前寺跡や栗原の地には呉原寺の跡もある。
私はこれまでそれを知っていたなら、当然、その呉原寺跡もたずねていたはずだった。だが、私は知らなかった。
このように知らないことはまだいくらでもあるはずで、私はこんどの高松塚壁画古墳の発見をめぐってだされたいろいろな人々の意見から、実にたくさんのことを学んだ。私自身それに参加した座談会や討論会はもちろんであるが、そのほかの座談会やシンポジウムや論文なども、ずいぶんたくさん読んだ。
現に、いま私がこれを書いている五月二日、三日付けの朝日新聞には、同社で行なわれた「高松塚壁画古墳シンポジウム」のことが引きつづき報じられ、四日付けにはその要約が二頁にわたってのせられている。このシンポジウムは東京大学の井上光貞氏、京都大学の岸俊男氏など十二人の「古代学関係第一級の研究者および発掘関係者を招」いて開かれたもので、その結果はこのようであったと報じられている。
高松塚壁画古墳の築造年代は、これまで七世紀後半から八世紀初めごろまでと、かなりの幅で推定されていたが、朝日新聞社が一日、専門学者十二氏を招き、大阪本社で開いた「高松塚壁画古墳シンポジウム」初日の討議では、律令国家体制が整った七〇〇年前後、とくに八世紀初頭の築造との見方に有力なデーターが次々と打出された。この結果、高松塚の壁画などは、朝鮮や中国から直輸入の形式ではなく、朝鮮半島から渡来した文化が日本に根をおろし、その基盤の上に唐の文化的影響が積重なって生み出された独自なものである公算が大きくなってきた。(二日付け)
極彩色の高松塚の壁画を描いたのは、高句麗系の絵師だったことが、一、二両日、朝日新聞大阪本社で開かれた専門家十二氏による「高松塚壁画古墳シンポジウム」の討議で、確定的になった。出席者の意見は、この点では完全に一致し、朝鮮半島から渡来した人びとや、その子孫が、古代日本の文化を力強く支えていたことを指摘する発言も相次いだ。(三日付け)
しかしながら、「日本考古学界戦後最大の発見」といわれる高松塚壁画古墳のわれわれに語りかけるものは、ただ、文化的な側面におけるそれだけなのであろうか。それは、フィクションに充ちたこれまでの日本古代史全体の根本的な再検討を「力強く」うながしているものではないであろうか。
先入観なしに検討を
その意味では、『サンデー毎日』四月三十日号の「日本人はどこから来たか」としたシンポジウム、「高松塚古墳を考える」における考古学者森浩一氏の発言が、もっとも注目すべきものであった。ここでは江上波夫氏の例の朝鮮からの「騎馬民族征服王朝説」が問題となり、人類学者金関丈夫氏の「馬を利用するのと騎馬民族とは全然別ものです」といった発言につづいたもので、森氏ははっきりとこうのべている。
ぼくはちょっと考えがちがうんです。江上波夫先生のおっしゃるような騎馬民族征服王朝説をそのまま認めるかどうかは別として、先入観なしでこつこつ検討する段階にきていると思う。これも帰化人、あれも帰化人といってしまうと、一体日本文化でその当時何が残るんだということになる。
大陸と日本との関係に似た関係が、ローマとイギリスの間にあった。ローマがイギリスを占領した。日本よりちょっと古い時期だが、その長さは約四百年、その間でイギリス全体にものすごい数の遺跡が残っているんですね。ローマとイギリスとの関係は文献がなくても考古学的資料から、ローマがイギリスをある年間占領していたということがいえる。ところが、かりに日本に日本書紀がなかったと仮定したらどうか。現在通用している日本古代史の通説がそのままいえるかどうか。
倭(やまと)が五世紀ごろ朝鮮へ軍事出兵したといえるかどうか。商人が行ってちょっと住んだ、なんていうのは別ですよ。出兵、となるとこれは絶望的だ。遺跡遺物の上からはほとんどいえない。
だが、その逆を考えるとどうか。これは何万点もあるわけでしょう。だから、考古学も古代史も先入観なしに検討する段階にきているんじゃないか、というんです。
「だが、その逆を考えるとどうか。これは何万点もあるわけでしょう」といっているのは、私がこの「旅」でたずね歩いている朝鮮渡来の遺跡・遺物のことであるが、では、ここにいわれている「日本古代史の通説」とはどういうものか。たとえば、岸俊男氏のすぐれた業績の一つとされている『日本古代政治史研究』をみると、ここに「紀氏に関する一試考」というのがあって、そのまえがきはこうである。
本稿も個別氏族研究の一つであるが、四世紀に始まる大和朝廷の朝鮮経略を、今まであまり注意されなかった渡洋作戦であるという観点から、具体的に考究しようというのが目的である。
本稿は京都大学文学部昭和三十五年度の講義に出発するものであるが、その後三品彰英先生を中心とした京都の日本書紀研究会や三十六年度の京都大学読史会春季大会でもその一部を発表し、また概要を「大和朝廷の外征と紀氏同族」と題して『歴史教育』第十巻第四号に発表した。
「ともかく大和朝廷の朝鮮経略は四―六世紀を通じて重要な問題であったことは疑う余地がない」とも書いているが、さきの森浩一氏がはっきりのべていることと、これとを読みくらべてみて、われわれはまずどういうことを感じるであろうか。こういう「渡洋作戦」をまじめになって「研究」している学者がいるということ、それがまず私などにはおどろきであるが、それにしてもこんな講義を、これまたまじめな顔をして聴かされなくてはならなかった京都大学文学部の学生たちこそ、いい迷惑というものではなかったであろうか。
だいたい四世紀とは三百何年ということであるが、そのころはたして「大和朝廷」といえるものがあったかどうか。あったとしたらそれはどういうものであったのか、それ自体まだよくわかりもしないにもかかわらず、そこからいきなり「大和朝廷の朝鮮経略」「渡洋作戦」を導きだすというのは、いったいどういうことなのであろうか。
このような「作戦」こそは、まさにいわゆる帰化人史観と裏表の関係にある皇国史観・侵略史観にほかならないこというまでもない。では、このような史観によって過去はもとより、いまなおゆがめられどおしとなっている日本古代の真の姿はどういうものであったろうか。私はそれを、「過去のゆがめられた日本歴史に挑戦」(渡辺彰「坂口安吾年譜」)した坂口安吾氏によってみたいと思う。
坂口安吾氏のするどい史眼
坂口安吾氏はさきにも引用したことがあるが、それは『安吾史譚』の「道鏡童子」からで、こんどは『安吾新日本地理』の「高麗神社の祭の笛」からである。実をいうと、私はこんどの高松塚壁画古墳に関連していろいろなものを読んでいるうちに、ふと気がついて、坂口氏のこれを読みなおしてみる気になったのだった。そして読みながら私はびっくりし、ひとりで舌を巻いたものである。
というのは、坂口安吾氏のこの『安吾新日本地理』「高麗神社の祭の笛」は、いまから二十一年前の一九五一年に書かれたもので、私はすでにそのとき一度読んでいたものだった。だが、そのときはまったく気がつかなかったことを、私はいまはじめて知ったのであった。こんな重要なことにどうして気がつかなかったか、いま考えてみるとまったくふしぎなような気がしないではない。
それはともかく、例によってまたちょっと長くなるけれども、坂口安吾氏のそれをここに引きうつしておくことにする。なぜかといえば、これは日本古代史の原型の一つをしめしているものであるばかりでなく、こんどの高松塚壁画古墳にしても、奥野健男氏のいうように、坂口氏はすでに「お見とおしだった」からである。
日本の原住民はアイヌ人だのコロポックル人だのといろいろに云われておるが、貝塚時代の住民はとにかくとして、扶余族が北鮮まで南下して以来、つまり千六七百年ぐらい前から、朝鮮からの自発的な、または族長に率いられた家族的な移住者は陸続としてつづき、彼らは貝塚人種と違って相当の文化を持っておったし、数的にも忽ち先住民を追い越す程度の優位を占めたものと思われる。……
つまり天皇家の祖神の最初の定着地点たるタカマガ原が日本のどこに当るか。それを考える前に、すでにそれ以前に日本の各地に多くの扶余族だの新羅人だのの移住があったということ、及び当時はまだ日本という国の確立がなかったから彼らは日本人でもなければ扶余人でもなく、恐らく単に族長に統率された部落民として各地にテンデンバラバラに生活しておったことを考えておく必要がある。
つまり今日に於てもウラジオストックからの漂流機雷が津軽海峡のレンラク船をおびやかす如くに、当時に於ても遠く北鮮からの小舟すらも少からぬ高句麗の人々をのせて越や出羽の北辺にまで彼らを運び随所に安住の部落を営ませていたであろうということを念頭にとどめておくべきであろう。
むろん馬関海峡から瀬戸内海にはいって、そこここの島々や九州、四国、本州に土着したのも更に多かったであろうし、一部は長崎から鹿児島、宮崎と九州を一巡して土着の地を探し、または四国を一巡したり、紀伊半島を廻ったり、中部日本へ上陸したり、更に遠く伊豆七島や関東、奥州の北辺にまで安住の地をもとめた氏族もあったであろう。そして彼らは原住民にない文化を持っていたので、まもなく近隣の支配的地位につく場合が少くなかったと思われる。
ここでちょっと、私の補足をつけ加えておくことにしたい。坂口安吾氏のこれは日本の地に視点をおいてみたものであるが、それを朝鮮からみたばあいはどうか、ということである。
いわば総合的にみるということなのであるが、耶馬台国論争というのがあって、そのたびに必ず持ちだされるのにいわゆる「魏志倭人伝」がある。これはただしくは『三国志』「魏志・東夷伝」「倭人」段というべきもので、したがってそれには朝鮮の「高句麗」段もあれば、また「韓」段もある。これによると「韓は三種」あって、馬韓はおよそ五十余国、辰韓、弁韓は各十二国と、たくさんの小国にわかれていた。
古代朝鮮では、これらがやがてしだいに高句麗、百済、新羅という三国にまとめられ、さらにのちにはこれも長いあいだにわたる抗争の結果、六六八年、新羅一国に統一されるのである。中央政権の確立であるが、その過程をつうじて高句麗、百済、新羅(加耶・加羅を含む)など朝鮮全体からたくさんのものが海を渡ることになり、この日本へ渡来したのであった。なかには、高松塚壁画古墳のある檜隈を根拠地とした東漢氏族のように、「十七の県」すなわちその一国をあげて渡来したものもあるというぐあいだった。
京都大学の上田正昭氏は、朝鮮からのその渡来の波を、だいたい大きく四つにわけてみることができるのではないかといっている。一つは弥生時代に農耕文化を持ってやって来たもの、二は古墳時代前期に来たもの、三は飛鳥時代の前期、四は飛鳥時代の後期、というのであるが、この時期はいずれも朝鮮では大きな変動の時期にあたっていた。
古代日本の真の姿は?
さて、坂口安吾氏のそれに戻ることにする。
高句麗と百済と新羅の勢力争いは、日本の中央政権の勢力争いにも関係があったろうと思われる。なぜなら、日本諸国の豪族は概ね朝鮮経由の人たちであったと目すべき根拠が多く、日本諸国の古墳の出土品等からそう考えられるのであるが、古墳の分布は全国的であり、それらに横のツナガリがあったであろう。そしてコマ〈高麗。高句麗のこと〉系、クダラ〈百済〉系、シラギ〈新羅〉系その他何系というように、日本に於ても政争があってフシギではない。むしろ、長らくかかる政争があって、やがて次第に統一的な中央政権の確立を見たものと思われる。
ここでまた私の補足をちょっとつけ加えると、六四五年のいわゆる「大化の改新」にしろ、またそれにつづいた六六三年の百済救援軍の派遣(白村江の敗退)や、さらにまたそれにつづく六七二年の「壬申の乱」にしても、日本古代史上の大事件であったそれらはみな、坂口安吾氏のこのような視点からでなくしては、結局、わかりはしないということである。坂口氏は、さらにつづけて書いている。
時の政府によって特に朝鮮の一国と親しんだものや、朝鮮の戦争に日本から援軍を送った政府もあり、そこに民族的なツナガリがあったのかも知れない。
コマ〈高麗〉の文物を最も多くとりいれたのは聖徳太子のころであるが、太子はさらに支那の文化を直接とりいれることに志をおいた。日本統一の機運とは、まさにこれであったと私は思う。
何系何系の国内的の政争が各自の祖族やその文化にたよる限り国内の統一はのぞめない。これを統一する最短距離は、そのいずれの系統の氏族に対しても文化的に母胎をなす最大強国の大文化にたよるにまさるものはない。太子の系統はコマ〈高麗〉の滅亡と共にあるいは亡びたかも知れないが、ともかく日本統一の機運を生みだした日本最初のまた最大の大政治家は聖徳太子であったと云えよう。支那の文物を直接とりいれる機運のたかまると共に日本の中央政府は次第に本格的に確立して、奈良平安朝のころに雑多の系統の民族を日本人として統一するに至った。こうして民族的な雑多な系統は消滅したが、それは別の形で残ったものもある。それが何々ミコトや何々天皇、何々親王の子孫という系譜である。源氏や平家の系譜の背景にも相当の古代にさかのぼっての日本史の謎があるように思われる。桓武、清和、宇多というような平安朝の天子を祖とすることまではハッキリしているが、その平安朝の天子に至るまでの大昔が問題であり謎である。甚しい謎だ。
桓武天皇はどうして遷都しなければならなかったのだろう? なぜ長岡の工を中止したのだろう? それから数代、必ず前天皇の子を皇太子に立てる風習はなぜだろう。
後年南北朝の休戦条約に交替に皇位継承というのがあるが、それは当時の新工夫ではなく、非常に古い源流があったのではないかと思われる節々もあるのです。
藤原京を経て奈良京に都したとき、日本の中央政府はどうやら確立の礎が定まったと見ることができる。……
そして奈良平安朝で中央政府が確立し、シラギ〈新羅〉系だのコマ〈高麗〉系だのというものは、すべて影を没したかに見えた。しかし実は歴史の裏面へ姿を隠しただけで、いわば地下へもぐった歴史の流れはなお脈々とつづくのだ。
多くのシラギ〈新羅〉人を関東に移住させた左右大臣多治比島の子孫が武蔵の守となった後に飯能に土着したり、彼の死後三年目に若光がコマ〈高麗〉王姓をたまわり、十五年後に七ヵ国のコマ〈高麗〉人一千七百九十九人が武蔵のコマ〈高麗〉郡へ移された、というようなことは、シラギ〈新羅〉とコマ〈高麗〉が歴史の地下へもぐったうちでも実はさして重要ではない末端のモグラ事件であったかも知れないのだ。
なぜならこれらのモグラは歴史の表面に現れている。けれどもモグラの大物は決して表面に現れない。むしろ表面に現れている末端のモグラを手がかりにしてもっと大物のモグラ族の地下でのアツレキを感じることができるのである。
すでに三韓系の政争やアツレキは藤原京のころから地下にくぐったことが分るが、日本地下史のモヤモヤは藤原京から奈良京へ平安京へと移り、やがて地下から身を起して再び歴史の表面へ現れたとき、毛虫が蝶になったように、まるで違ったものになっていた。それが源氏であり、平家であり、奥州の藤原氏であり、ひいては南北両朝の対立にも影響した。そのような地下史を辿りうるように私は思う。彼らが蝶になったとは日本人になったのだ。
しかし、コマ〈高麗〉村だけはいつまでも蝶にならなかった。すくなくとも頼朝が鎌倉幕府を定めるころまでは、コマ〈高麗〉家は一族重臣のみと血族結婚していたのである。
ここに「コマ〈高麗〉村」というのは、いまは日高町となっている埼玉県にあった高麗郡高麗村のことであるが、坂口安吾氏の視野は雄大であるばかりか、人種というものからそれが民族へと発展・変貌するプロセスについても、実にみごとな史眼が働いている。私はこれを読みながら、関東武士を研究している地方史家の宇佐美稔氏がいつか私に向かって、「日本での百済と新羅の対立は、源平にまで引きつがれていますよ」と言ったことばを思いだしたものだった。
つまり、坂口安吾氏とおなじ史眼の持ち主はほかにもいたわけである。しかし私はその対立を、源平にいたるまでは考えていなかった。だが、坂口氏のこれによって、私はいまあらためてなるほどと思わないではいられない。とすると、そのはるか以前はいうまでもなかったはずで、高松塚壁画古墳の謎の一つとされている、あの政治的な盗掘ぶりも、このような面から考えることができるのではなかろうか。
飛鳥坐神社にて
飛鳥の風景は新羅の古都に酷似
さて、「世紀の発見」ともいわれる高松塚壁画古墳のわれわれに語りかけている問題はまだたくさんあるが、しかし私はいつまでもそのまわりばかりうろついているわけにはゆかない。これまでとおなじ「旅」をつづけてゆかなくてはならないのである。
なにしろ、「日本考古学界戦後最大の発見」「世紀の発見」ともいわれるものにつきあったあとなので、これまでのようには、なかなか足を踏みだせないようなぐあいだが、読者はここで前項のまた前々項、すなわち「高松塚壁画古墳」のはじめのところ、檜隈(ひのくま)までいちおう私といっしょに引き返してもらいたい。
すなわち私はそこに、「その夜の民宿にきまっていた飛鳥坐(あすかにます)神社へ向かおうとすると、あいにくなことに曇っていた空からは雨が降りだした」と書いた。そこまで戻って、私はあらためて出なおさなくてはならないのである。つまりそうして私たちは、檜隈から飛鳥坐神社についた。友人の水野明善ほかがいっしょだったことも、そこに書いたとおりである。
飛鳥(明日香)で、いわゆる民宿に泊ったことのあるものはみな知っていることであるが、この民宿はわれわれが好き勝手にえらぶというわけにはゆかない。あらかじめまえもって明日香村役場の観光協会に行き、そこで割りふられたところへ行って泊らなくてはならないのである。したがってどこの、どういうところへ割りふられるかわからないというたのしみもあるわけなのだが、この日の私たちのそれは、偶然、飛鳥坐神社となっていたのだった。あとでみるように、これが私にはどれだけさいわいだったかわからない。
ところで、飛鳥坐神社といえば、その目の前が飛鳥寺である。飛鳥寺はこれはもうあまりにも有名であるから、私はあえてそうくわしく書くこともないわけであるが、しかし甘橿丘(あまかしのおか)をすぐそこにした飛鳥寺はいつ来てみても、なんとなく心がなごむような気がする。
真神原(まがみのはら)といわれるその辺一帯のながめもまた、いつ来てみてもよい。はるか、というほどでもない前方に、橘寺や川原寺なども見える境内に立ってみると、こんな立札のあるのに気がつく。
視野を遠く放つべし/ここに立ちて見る風景は/朝鮮・新羅の古都、慶州の地と酷似しており/大陸風で、飛鳥地方第一なり
この飛鳥がどうして新羅の古都、慶州に酷似しているのであろうか。これについては朝鮮の「風水説」による国都えらびからきたものであるという松本清張氏の研究(『古代の探求』)があるが、それよりここでは、「日本文化のふるさと慶州・扶余・飛鳥」とした山本健吉・井上光貞両氏の「対談」を引用したほうがよいと思う。
山本 盆地です。奈良盆地よりも、もっと小さいと思います。慶州も盆地だし、扶余も盆地です。私は先に慶州へ行きそれから扶余に行ったのです。慶州に行って、これは非常に飛鳥に似ていると思って、次に扶余に行ったら、さらによく似ておりました。扶余には三山がございます。やっぱり盆地の中の低い山ですけれども、大和三山のように三角形にはなっていないで、もう少し一直線に近いように並んでいます。それから山の感じが、大和の山のように、柔かい感じです。そしてそこに錦江(きんこう)(白馬江)という川が流れているのです。これは大きな川です。新羅とか百済とかの人たちが大和へやってきて、三山とか大和の山河を見たら、望郷の思いを発しただろうなあということが、よくわかりました。新羅人が「うねめはや、みみはや」といって、采女(うねめ)となにかあったのではないかと誤解された話がありましたね。畝傍(うねび)と耳成(みみなし)を見て、愛情の言葉を発したのは、やっぱり望郷の念押えがたかったのでしょうか。
井上 飛鳥が、いつごろからああいう政治文化の中心になったかと言うと、五世紀の終りから六世紀のはじめぐらいと思います。あのころの文化の主体をになっているのは、いわゆる朝鮮の帰化人で、後のことですけれども、『続日本紀』には、高市(たけち)郡、いま言う飛鳥の地域は帰化人がほとんど占めているというふうに書いています。だからああいう土地を都に選んだというのも、やはりその帰化人たちが、自分たちの故郷に近いようなところを選んだというような感じもしますね。
私もまた日本のそういう土地をみると、「望郷の念押えがた」いものをおぼえるのであるが、それはともかく、要するに朝鮮から渡来した彼ら、その「自分たちの故郷に近いようなところ」であったから、酷似しているのにふしぎはなかったのである。しかし一方また、日本仏教発祥の地といわれるこの飛鳥や、法興寺ともいった飛鳥寺をめぐっての渡来した彼らの対立も相当はげしいものがあったようである。
「百済路線、新羅路線」
和歌森太郎・山本藤枝両氏の『百夜一夜・日本の歴史』(2)をみると、「百済路線、新羅路線」という項があって、そこにこう書かれている。
これまでは、主として聖徳太子の仏教関係のことをお話してきましたが、太子が摂政になってからは、対外的な問題にもいろいろめんどうなことがあったのでした。太子は、この対外問題で、どんな路線をたどり、どんな手腕を発揮したのでしょうか。……
いったい、蘇我氏は、五世紀末以来危機におちいっていた百済をたすけ、百済からの大ぜいの帰化人を支配下にいれて、勢力を増した豪族だといわれます。百済の聖明王からおくられた仏像をもらいうけてまつったのも蘇我氏でした。敏達天皇のとき、また百済から二体の仏像がもたらされますが、稲目の子の馬子はこれをもらいうけ、自宅の近くに仏殿をつくって安置します。この二体の仏像は、馬子がのちに建てた法興寺(飛鳥寺)におさめました。つまり、蘇我氏の氏寺の本尊は百済の仏像だったのです。
法興寺の造営にいたっては、それにしたがったのはすべて百済の工人でした。その寺地の真神原は、帰化人東漢(やまとのあや)氏の支配地で、百済系の帰化人飛鳥衣縫造の住んでいたところでした。推古元年(五九三)この寺の塔の心柱をたてるときには、馬子ら百余人、みな百済服を着て参列し〈高松塚古墳壁画にみられるああいう服装であったろうか〉心礎のなかには百済王の献じた仏舎利をおさめました。法興寺をつくりおわったのは、推古四年(五九六)と『書紀』にはありますが、その後推古十七年(六〇九)には、この寺に百済僧十一人をすまわせて、内面的にも寺を完成させました。
こう見てくると、法興寺はまったくオール百済の観があることがわかります。蘇我氏は百済派の棟梁だったのです。
聖徳太子も、いちおうは、この蘇我氏の外交路線によって、得るものが多かったでしょう。法興寺の造営に協力もしたし、推古十三年(六〇五)には、皇太子として大臣馬子らとともに、法興寺の丈六の仏像をつくることを誓願して、司馬達等の孫の止利(とり)仏師にこれを命じたりしています。……
秦(はた)氏は五世紀のはじめ新羅からきて、山城の葛野(かどの)郡を中心に近江、摂津にまでひろがって住んでいました。京都盆地では、鴨川から桂川にわたる平野を開拓し、養蚕や機織りの技術で財力をたくわえました。秦造河勝の登場するのは、用明天皇の時代です。天皇の二年(五八七)太子が物部守屋討伐に加わったとき参謀になって、太子の身辺を守ったという伝承があるのです。それは、ちょうど、東漢氏の蘇我氏における場合と同じようでした。
京都市右京区太秦(うずまさ)に広隆寺、またの名太秦寺、蜂岡寺、ともいわれる古寺があります。この寺は推古十一年(六〇三)河勝が聖徳太子からもらいうけた仏像を安置するためにつくったといわれています。一説には、この仏像は新羅国王が太子に献上したもので、太子が葛野にきて、蜂丘の南下に宮を建てたとき、河勝が一族をひきいて供奉したので、この宮を寺とし、水田と山野地とこの仏像をたまわった、ということです。いま広隆寺にのこっている有名な国宝の弥勒半跏思惟像は、このときの仏像と考えられています。
こんなことから考えても、聖徳太子は、蘇我氏の百済仏教に対して、新羅仏教を育てあげたことがわかりますね。
飛鳥寺発掘の成果
坂口安吾氏によると厩戸皇子すなわち騎馬に関係のあった聖徳太子は、高句麗系の人ではなかったかという。そして、「太子の系統はコマ〈高麗=高句麗〉の滅亡とともにあるいは亡びたかも知れない」ともいっているが、その聖徳太子の仏教が新羅系であり、飛鳥朝最大の実力者であった蘇我氏の仏教が百済系のそれだったというのは、どういうことであったろうか。
もとは百済の木氏の出であった蘇我氏が百済仏教だったということはわかるが、高句麗系といわれる聖徳太子が新羅仏教であったというのは、ちょっと異質な感じがしないでもない。しかしながら、高句麗・百済・新羅と分れていた朝鮮三国は、それぞれに対立しながら、ときにはそれぞれにまた連合したりしていたから、日本におけるこれもそれとおなじことであったのであろうか。そういえば、聖徳太子の愛妻である橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が新羅系の秦氏からの出であったことも、このこととどこか関係があったのかもしれない。
なお、蘇我氏の氏寺であった飛鳥寺は、これが本格的に発掘されたのは戦後になってからだった。そこではじめて日本最初の仏教寺院であった飛鳥寺(元興寺、法興寺ともいった)の実態も、ほぼ明らかとなったのであるが、このことについては直木孝次郎氏の簡明な一文(「飛鳥における古代の発見」)があるので、それをかりてみておくことにしよう。
飛鳥の遺跡の発掘調査が活発になるのは、日本が敗戦のいたでから立ちなおった昭和二十八、九年ごろからだが、明日香村橘の橘寺や同じく立部の定林寺の遺跡などの調査につづいて、三十一年から奈良国立文化財研究所の手で実施された飛鳥寺の調査は、予想をこえる結果をもたらして、学界を驚かせた。まず第一にあげねばならないのは、飛鳥寺の伽藍(がらん)配置が、塔を中心として、北・東・西の三方にほぼ同じ大きさの金堂をおくという、いままで日本ではまったく知られなかった形式であったことである。
従来、古代の伽藍配置としては、中門・塔・金堂・講堂の四つを一直線にならべた四天王寺形式が一番古く、中門のうちがわに塔と金堂を左右にならべた法隆寺式あるいは法起寺式がそのつぎ、というのが定説であった。ところが飛鳥寺の平面プランはそのどれでもなく、しかも寺院自身の歴史からいえば、飛鳥寺のほうが四天王寺より古いと考えられる。してみると、飛鳥寺式が最古のもので、四天王寺式や法隆寺式はその簡略化とみなければならぬ。日本の古代建築史は大きく書きかえを迫られることとなった。また飛鳥寺式の配置をもつ寺院跡が、高句麗の都平壌の郊外から発見されていることが注目され、日本と高句麗の関係の深さを改めて考えさせた。
注目をよんだ第二は、地下約三メートルの深さにすえられた塔の心柱の礎石の上から、舎利容器その他の遺物が発見されたことである。塔の心礎が地下深く存在することは法隆寺その他にも例があって、それほど珍しいことではない。舎利容器とともに、勾玉(まがたま)・管玉・切子玉など各種の玉類、金環、鉄の小札(こざね)をつづりあわしたよろい(挂甲=けいこう)、馬鈴、蛇(じや)行状鉄器など、六世紀の古墳の副葬品と同種の品々が人々を驚かした。当時の調査者は、横穴式石室を発掘している錯覚をおぼえたということだが、仏教文化が古墳文化の伝統の上に成立したことを示し、固有文化と外来文化の関係を考えるうえに、大きな問題を投げかけた。
そうしてみると、のち、一九七二年に飛鳥の檜隈から、これもどちらかといえば高句麗系のそれとみられる高松塚壁画古墳の発見される胎動は、すでにこのときからみられていたわけだったのである。それからまた、この飛鳥寺ができたときの寺司(てらのつかさ)は蘇我馬子系の者であった善徳臣(ぜんとこのおみ)だったが、その住持は高句麗僧の恵慈(えじ)と百済僧の恵聡(えそう)とであった。
飛鳥坐神社のおんだ祭
さて、この夜の民宿となっている飛鳥坐神社に着いた私たちは、ここへははじめての者もいたので、まずさきに、境内をひとまわりしてみることにした。
遠くから見ると、うっそうと樹木の茂った古墳のようにもみえる(もと古墳ではなかったかと私は思っている)飛鳥坐神社は、歌人としても知られている折口信夫氏の縁家でもあった。神社の石段を登りかけると、右手に一つの石碑がみえ、それにこう刻まれている。
ほすゝきに
夕ぐもひくき明日香のや
わがふるさとは
灯をともしけり
迢空
迢空とは釈迢空のことで、歌人としての折口信夫氏の号であることはいうまでもない。そこが氏の縁家であったことを思うと、「わがふるさとは」といった平凡なことばも、ひどく実感のこもったものとして感じられるからおもしろい。「灯をともしけり」というところでは、いかにも飛鳥(明日香)野の夕景が目にほうふつとする。
境内にはたくさんの石造物がところかまわずならんでいるが、これがまたどれもみな男女のそれであるのにはおどろく。毎年二月の第一日曜日に行なわれるこの神社の「おんだ祭」は、西日本における「四大性神事のうちの異彩」として有名なものである。
農耕の生産行事からきた珍しいもので、この「おんだ祭」のことは同神社でくれる浅田柳一識とした「飛鳥“おんだ祭”解説」というリーフレットにかなりくわしく書かれている。その最後のところを、ここにちょっと紹介しておくことにする。
由来、世に隠れ、人に省みられないこうした行事は、山間僻地の農山村ほど数多く残っている。しかも素朴な村人らは、これを敢て記録に留めるでもなく、世に語るでもなく、親から子へ、子から孫へと、古くからの慣行を連綿として今に伝承しているのである。殊にこれが、上代史に栄えた飛鳥の地だけに、民俗学的にみても興味が深い。
この悠久無限な「書かれざる歴史」「記録されざる行事」は、あらゆる時代の起伏と変遷の層積を貫いて、滾々として汲めども尽きぬたましいの泉をなしている。
農作の不作は農民にとって死活の問題である。五穀豊穣、子孫繁栄を祈るこうした農民行事には、土地の人の真摯な姿が見られる。
とかく文化というものはモノをいじくりたいもので、戦後、日本の古俗祭事にも大きな変革をもたらしつつある。この「おんだ祭」に対しても、いわゆる文化人たちはとやかく批判しているようだが、古い時代から今日まで型を崩さず残された行事だけに、余り新時代の風を吹きこまないで、このままソッとしておきたいものである。
そして、この祭を見る人は一刻だけでも、生き難い世の中を忘れ、純真な村人の心持ちと同化して、夢の世界に遊んでもらいたいものである。
この祭事を司どる神官は大和明日香村字飛鳥、飛鳥坐神社の宮司で、その名も飛鳥弘訓氏といい、現在で八十六代目の神官である。この家は代々子福者で、男嗣子は欠かさぬという。
社宝には直径一メートル二五という大きい白銅鏡を蔵している。
個人持ちの神様
その飛鳥坐神社で泊めてもらったところは、「敬神美福」という額のかかった部屋だった。私たちはそこで夕食をすますと、たぶん、水野明善がそう言いだしたからではなかったかと思うが、宮司の飛鳥弘訓氏に会ってみようではないか、ということになった。
食事などを世話してくれていた神社の人にそう言ったところ、六十に近いかとみえる飛鳥さんは浴衣がけで、気さくにすぐ私たちの部屋まで来てくれた。そして私たちは飛鳥家伝来(?)のどんぶりを五つほど合併したような、珍しい大茶碗による緑茶などごちそうになりながらいろいろと話したのだったが、だいたい、この飛鳥坐神社というのは、ほかの多くの神社とちがって、飛鳥さん個人持ちの神社であるということなども、私たちは飛鳥さんとそうして話したことではじめて知った。
「個人持ち、ひとり持ちの神様は」と、飛鳥さんはさらにつづけて言った。それによると、近鉄飛鳥駅の裏手にもとは古墳だったと思われる古世都比古神社があるが、これも服部氏の「ひとり持ちの神様」だったという。服部というのは、高句麗のクレ(呉)からきた呉織(くれはとり)(服)から出たものであることはいうまでもない。
「個人持ち、ひとり持ちの神様」というのはおもしろいことばだった。ところで、そういう個人持ちの神社である飛鳥坐神社の祭神は、いまは事代主命ほかとなっているけれども、この祭神にもいろいろと出入りがあり、飛鳥坐神社のそれはこれまでに三度ほど変わっているが、その最初は加夜奈留美(かやなるみ)命を祭ることからはじまったものだったと、飛鳥さんは言った。
「加夜奈留美命――」と、私はそのことばにきき耳を立てて言った。
「そうです。出雲国造神賀詞に『大穴持命の女加夜奈留美命を飛鳥の神奈備(かんなび)に坐(いま)さして』うんぬんとあるそれです。ですから、この神様は飛鳥の神奈備として、向こうの甘橿丘に坐したものだったのですね」
「飛鳥の神奈備、そうですか。で、その加夜奈留美はいまはどこに、どこに行っているというのは何ですが――」
なにしろ、話していることがらが「神様」のことだったので、私はそう言って笑った。
「いや、行っているかどうか。その加夜奈留美命を祭っているところは、畝傍(うねび)山の西北にある雲梯(うなて)神社もそうだったのですが、栢森(かやのもり)にはこれも古い式内の加夜奈留美命神社がありまして、わたしはその宮司をも兼ねております」
「えっ、飛島川上流のあの栢森に、加夜奈留美命神社というのがあるのですか」
私はびっくりし、思わず大きな声をだしてきき返した。「はたと膝を打って」ということばがあるが、いうならば、私はまさにそんな気持ちだった。
それにしても、栢森にその神社のあることをこれまで知らなかったとは、ほんとうにうかつだったと思わないわけにゆかない。
栢森から吉野へ
新羅系の遺跡を求めて
飛鳥坐神社宮司の飛鳥弘訓氏からはそのほかまた、吉野にある今木(来)の甲神社のことなども教えられたが、私にとってなによりもの収穫だったのは、栢森(かやのもり)に加夜奈留美(かやなるみ)命神社のあることを知ったことだった。しかもその加夜奈留美命というのは、飛鳥坐神社のかつての祭神でもあったという。
だいたい、この飛鳥(明日香)には高句麗系、またもとはそれと同系だった百済系のものは、これまでみてきたようにたくさんあるが、新羅系のものとみられる古代文化遺跡はあまり、というより、ほとんどみられなかった。それではぜんぜんないかといえば、けっしてそうではない。
たとえば門脇禎二氏の『飛鳥』によると、飛鳥の地にある奇態な石造物、亀石だの猿石だのといわれているこれらは、「古墳と結びつく遺物で、新羅系の人々がつくったのではないだろうか」といっている。新羅の武烈王陵碑の基部となっている亀趺(きふ)などと見比べてそういっているのであるが、さらにまたこうものべている。
人形を刻んだ石像はともかく、とくに亀石は、中国にもあったことをまだ聞かない。新羅の亀趺と飛鳥の亀石、これはアジアでも珍しい例ではないだろうか。
新羅の亀趺がそうであるように、飛鳥の亀石が「古墳と結びつ」いたものであったとすれば、そのような習俗を持つその古墳もまた、すなわち新羅系のものではなかろうかということになるが、しかしそれといえる証拠はない。もっとも、いまはただ奇態な石造物だけが孤立してあって、どこのどれにそれが「結びつ」いていたともいえない古墳にその証拠をもとめるのは、それこそ土台むりというものであろう。が、しかしながら、新羅系のそのような文化遺跡・遺物はもっとこの飛鳥の地にものこっていなくてはならない、というのが私の考えであった。
そういう考えがあったからか、私はいつか、飛鳥川上流のつきた山中に栢森というところがあるのを知って、ふと思ったものだった。
「かやのもり(栢森)とはどういうことか。これは、加耶ということからきたものではなかったろうか」と。
そこには樹木の榧(かや)が茂っていたから、ということも成り立つだろうが、しかし、そうではないのではないか。私はその後、九州へ行き、福岡県の糸島半島に可也(かや)(加耶)山があり、韓良(から)というところがあって、この韓良郷が太宰府の『観世音寺資財帖』に加夜郷となっているのを知ってからは、なおいっそう強くそう思うようになった。
それからまた、九州の飯塚には柏の森と書いて、かやのもり(柏の森)とよんでいるところがあり、岡山県の賀陽郡ももとは加夜であったとのことだったが、栢森のこれも加耶ということからきたものであったにちがいない。加耶とは加羅(韓(から))でもあって、これはのち百済や新羅に併合された古代南部朝鮮の国家名であった。
しかしながら、飛鳥の栢森がその加耶からきたという証拠はない。そのとき、私は飛鳥坐神社の飛鳥さんから、この栢森に加夜奈留美命神社があることを聞いたものだから、びっくりしないわけにはゆかなかった。まさに「はたと膝を打って」だったのである。
加夜奈留美命の、加夜とはなにか。これはもう明らかに加耶からきたもので、栢森の栢もそれから出たものだったにちがいない。そしてさらにいうならば、栢森のもり(森)とは朝鮮語のモリ(頭)でもあるから、そこは加耶(加夜)の頭(モリ)であったところ、その加耶の一つの中心地という意味ではなかったろうか。
飛鳥川上流に沿って
のち、私は京都大学の上田正昭氏ともいっしょに、あらためてまたその栢森をたずねてみたことがある。考えようによっては、栢森とはふしぎな気のするようなところでもあった。
まず、蘇我馬子のそれといわれる石舞台古墳にいたる、飛鳥小学校のちょっと手前から道を右のほうにとる。蘇我氏のいわゆる島庄で、そこから飛島川に合流している冬野川の小さな橋を渡ることになる。左手は、巨大な石舞台古墳などもみえる細川谷である。ここでついでにちょっといっておくとすれば、人々は石舞台古墳までは観光バスをつらねたりしてよく行くが、その少しうえまではなかなか行ってみようとしないようである。
冬野川の流れている細川谷は遠くから見た目にも美しいところであるが、そこに飛鳥ではいちばん古いとされている家形石棺を持った都塚古墳などのあることは、あまり知られていないようである。もっとも、あまり押しかけて行ってこの一帯まで荒されるのも困るが、ここは飛鳥におけるかつての大墳墓地帯でもあって、わずか一・五キロメートルばかりの周辺におよそ二百近い古墳があるといわれている。
その細川谷を左横にみながら、飛島川に沿って登って行くと、まもなく稲淵の集落である。都会での生活に疲れたものにとっては、どこか別世界にたどりついたような気がしないではない。それほどまたこの稲淵も静かで、美しいところなのである。
道路脇の清冽(せいれつ)な急流で、畑からとってきたものを洗っているおばさんの姿などみると、なんとなく声をかけてみたくなったりする。人々はみな親切で、なにをきいてもよく教えてくれる。
集落のはずれの裏手の丘のうえに、これも檜隈(ひのくま)の漢人(あやひと)であった南淵請安(みなぶちのしようあん)の墓がある。「南淵先生の墓碑について」「制度学会建之」とした立札があって、それにこうある。
南淵請安は推古朝時代、隋使に従って中国に渡り、王通の門に学び、三十年の留学を経て帰朝したが、当時は蘇我氏の横暴時代で、南淵は稲淵村に隠れて農業をしながら述作していた。それが此の地である。此処に中大兄皇子(後の天智天皇)と藤原鎌足が通われて天下匡済の教を請われた。「天下を公と為す」という大化の改新はこれによって決行され、高度の政治体制がしかれた。今に伝わる南淵書三巻は、神武建国以来の伝統を明らかにした貴重な文献である。この墓碑は寛文二年、当時の古史検討の諸大家によって修造されたもので、南淵を我が国の儒祖と為し、博士王仁の次に置くようになった。……
ここにいう『南淵書』がのちの偽書であることはひろく知られているが、美しい稲淵の集落は、この南淵請安の墓のある丘のうえからみるのがもっともよいと私は思っている。明るい陽ざしに映えている家々のたたずまい、いかにもそこには人間が生きているという感じなのだ。
だが、それにしても、飛鳥時代のここはどうであったろうか、とも思わないではいられない。いまは間遠ではあるけれどもバスも通っており、乗用車を乗り入れることもできるが、しかし飛鳥時代の当時、ここは飛鳥のそこからは遠く隔たったままの山中であったはずである。
ところが、この稲淵はまだいいほうである。栢森となると、さらにまた飛鳥川の上流をたどって、さらにまたもっと山中深くはいって行かなくてはならない。途中、飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社という長い石段をもった長い名の神社があるが、それをすぎると、どちらを向いても人家はない。飛鳥川のせせらぎだけが、――とか何とかいうふうに書きたいところであるが、それも小さな流れとなってしまって、あたりはしんとなったままの山中である。
やがて、あとの道は芋峠への急坂しかのこっていないところに、小さな集落が見えてくる。栢森である。私はさっきから「美しい」ということばを何度もつかっているが、山ふところに抱かれたこの栢森の集落こそはまさにそれで、これはまた格別なものがある。
加夜奈留美命神社にて
私はこの栢森というところがまえから好きで、念仏橋を渡ったあたりに立ってはその集落にいつも見とれたものであるが、そこに加夜奈留美命神社があったとは、少しも知らなかったのだった。飛鳥坐神社の飛鳥さんから聞くまでもなく、飛鳥の地図にはその神社もはっきりと出ている。だが、私はどうもそういった地図をみるのが苦手なのである。
念仏橋のこちらにある集落唯一の雑貨店の人にきくと、神社はすぐそこだった。なんのことはない。私はその小さな集落を外からばかり見とれていないで、ちょっとなかへはいってみたならば、すぐに気がついたはずだった。外の道路から、わずか数十歩のところでしかなかった。
「古い神社ですなあ」と上田さんは言ったが、その加夜奈留美命神社には、横に小さな寺までついていた。日本独特の神仏習合の名残りで、もとは神社の神宮寺だったものであろう。
神社のかたちそのものは、別にどうということもない。どこにもあるのとおなじようなものであるが、しかしこんな奥深い山中の栢森にそんな古い『延喜式』内の加夜奈留美命神社があるということ、それが私にとっては問題であった。
石垣で築かれた台地の境内は、ほかの神社のそれとくらべて、けっして広いとはいえなかった。私はその境内をゆっくりあちこちと歩きながら、「高句麗と百済と新羅の勢力争いは、日本の中央政権の勢力争いにも関係があったろうと思われる」「そしてコマ〈高麗=高句麗〉系、クダラ〈百済〉系、シラギ〈新羅〉系その他何系というように、日本に於ても政争があってフシギではない。むしろ、長らくかかる政争があって、やがて次第に統一的な中央政権の確立を見たものと思われる」「時の政府によって特に朝鮮の一国と親しんだものや、朝鮮の戦争に日本から援軍を送った政府もあり、そこに民族的なツナガリがあったのかも知れない」という坂口安吾氏のことばを思いうかべたりして、漠然と飛鳥の歴史といったものを考えさせられていた。
一口でいうと、長いあいだにわたった朝鮮三国の抗争、「勢力争い」の結果は、新羅が百済や高句麗をほろぼしたことで統一新羅となったが、しかし日本の飛鳥では、それが逆になった。一時は加耶などを含む新羅系のものが中心となったこともあったようであるが、しかし最終的には、結局また百済系によってそれはとってかわられたと私はみている。
そのことをここに細説する余裕はないが、もしそうだとすると、栢森の加夜は、その抗争の結果、飛鳥の中心地から逃れて隠れたもののそれであったのだろうか。平家の、いわゆる落人みたいなものであったのだろうか。
「いや、それはむしろですね」と、上田さんは言った。「下の飛鳥から逃れて来たものというより、逆にこちらから出て行ったものの残りであるのかもしれませんよ。というのは、飛鳥の甘橿丘(あまかしのおか)とおなじように、この栢森もまた飛鳥の神奈備だったのですから」
「ああ、そうですか。もしかすると、あるいはそうだったかもしれませんね」
私もそう言ったが、それはどちらにせよ、この栢森が加夜であり、加耶であったことにちがいはなかった。それは、上田さんも否定しなかったのである。
私たちは帰り、部落総代の皆巳正義さんをたずね、集落のことについてちょっときいてみた。ひところまでは五十戸近い集落であったが、ここでも若いものは「みんな山奥に住むのをきらって」町へ、都会へと流れだし、いまでは三十六戸、人口はわずか百六十人ばかりだとのことだった。
芋峠を越えて吉野へ
後日、私たちは右の栢森から芋峠を越えて吉野へ向かった。ここも開発が進んでいて自動車道路がつくられつつあったが、私たちが行ったときはまだ、いろいろな伝説がしみついている古道そのままで、やっと小型車が一台通れるだけだった。
妹(いも)峠とも書かれたという、芋峠からのながめはすばらしかった。いきなり畳々(じようじよう)とした吉野の山々が眼下にひろがり、そこからは薫風が吹き上がってくるようだった。この日も水野明善がいっしょで、彼はもう、天武帝や持統帝なども何度かそこを越えたといわれる芋峠に、さいぜんから感動しっぱなしだった。
私たちのあいだでは博覧強記で知られている彼も、その芋峠ははじめてだったのである。そして私たちは、眼下のその山々のなかに没するようにして、急坂を下って吉野へとはいって行ったのだったが、この吉野行きももとはといえば、飛鳥坐神社の飛鳥弘訓氏に教えられたことがあったからである。今木の、甲神社がそれだった。
吉野といえばそれ以前に、私には一つの記憶があった。五年ほどまえの一九六七年四月二十六日付けの朝日新聞であるが、「山林」というつづきものの囲み記事がのっていて、吉野のほうを扱ったそれにこういうことが書かれていた。
吉野の谷では、時間が停止しているような錯覚におちいることがある。たとえば、ここの住民は、いまなお後南朝の遺臣なのだ。
室町時代に入って、南北朝が合一した後も、後亀山上皇の子孫は吉野に隠れて南朝の再興をはかった。これが後南朝であり、川上村の言伝えによると、自天王という王が川上村で即位したが、刺客に殺され、村民たちは刺客から王の首とヨロイ、カブトを奪い返した。その王の霊をまつるために、村民は王のヨロイ、カブトをおがむ御朝拝という儀式を、今日なお続けているというのである。
川上村の教育委員会へ『後南朝史論集』という本を買いにいった。女子職員が本を出してくる。受けとろうと手をのばしたら「ちょっと待って下さい」と、本を開くといきなりピリッとページを破りはじめたのには、きもをつぶした。破ったあとに「以下十五行川上村内事情に不適当と考えられるので著者の同意を得て削除す」と書いた紙をはりつけてから渡してくれるのであった。
東京へ帰ってから、著者である国学院大学の滝川政次郎教授にきくと、自天王の物語の中に、木地師の伝説が入りこんでいることを指摘した上、木地師の帰化人説を紹介して、それが村民のカンにさわったらしく、ついに削除ということになったのだそうだ。
山の民の信仰は一本気である。この冬、愛媛県上浮穴郡に散在する木地師部落をたずねたときも、いずれも小椋姓を名のる子孫たちから「柳田国男のいうことなど信用しちゃいけませんよ」とクギをさされた。この民俗学の大家は、惟喬親王を祖神とする木地師の歴史は、実は彼らの創作だ、といっているのである。
なんとも、私にとってはこわいようなはなしである。飛鳥の例でみたように、日本人のなかから古代のいわゆる「帰化人」をのぞいてしまったら、あとにはいったいどういうものがのこるのかわからないが、そんなことをいってみたところではじまりはしないだろう。
はじまりはしないばかりか、しかも私はわざわざそのいわゆる「帰化人」、古代朝鮮からの渡来人の文化遺跡をたずね歩いているのだから、吉野の住民にはまったくアウトである。
吉野にもあった今来神の神社
そんなことがあったので、吉野の中央には朝鮮岳という海抜一、七一七メートルの山がそびえ立っていて、今村鞆氏の『朝鮮の国名に因める名詞考』によると、「神代史の中心が此の朝鮮岳を含む神山岳一帯の地なり、即ち高天原の一部分なり」などとあったけれども、しかし私はこの吉野のほうは敬して遠ざけることにしていた。
ところが、さきの飛鳥坐(あすかにいます)神社に泊めてもらった夜、いろいろなことを話してくれた宮司の飛鳥さんは、別れぎわになってふと思いだしたように、こんなことを言った。
「あなたたちは、京都の岡部伊都子さんに会うことがありますか」
なにかのことで、岡部伊都子氏のことがはなしに出たからだったと思うが、岡部さんは私もよく知っていたので、「ええ、あります」とこたえた。
「それだったら」と、飛鳥さんはまた坐りなおすようにして言った。「先日、岡部さんから、飛鳥のほうにも今木神を祭る神社があったか、あるのではないかときかれたのですが、調べてみたところ、いま飛鳥にはなくて、吉野にある甲神社がそれではないかと思うのですよ。お会いになったら、ちょっとそう伝えてくれないですか」
それを聞いて、私はまたびっくりしてしまった。というのは、飛鳥に近い大和における今木神の神社をたずねていたのは、岡部さんより、どちらかというとむしろ私のほうで、私はそのことを岡部さんにも話していたからである。
たぶん、岡部さんも京都の平野神社のことを調べていたのでそんなはなしが出たかと思うが、その平野神社もいわゆる今木神を祭ったものだった。今木とは今来のことで、さきにもみたように、飛鳥をもそこに含む高市郡は、かつては今来郡ともいったものであった。したがって今来神とは、この今来郡にいた渡来人の祖神のことで、伴信友や金沢庄三郎氏などによると、それは百済の聖明王であったことになっている。
京都の平野神社(平野とは朝鮮語ではナラの、すなわち国の、という意味でもある)はもと奈良の平城京にあったものだったが、それが平安京への遷都にともなって、京都にうつされたものであった。そしてそれはのち、桓武帝の母である百済系の和(やまと)氏族から出た高野新笠(たかののにいがさ)をあわせ祭ることになった。
そうしてみると、この神社は国都がうつるのにしたがってうつって行ったことがわかるが、するとそれの発祥地であった大和の飛鳥には、まだ今来神を祭る神社、あるいは分社といったものがのこっているのではなかろうか、というのが私たちの考えだった。その考えは、やはり適中していたのである。
「それにしても、それが吉野にあるのはどういうわけでしょうかね」と、私は飛鳥さんに向かってきいた。「この飛鳥から平城京へうつるのにさいし、それを祭っていたもののあいだにもめごとでもあって、それでこちらは吉野へうつったというわけなのでしょうか」
「さあ、それは知りませんが、吉野とはいっても、その甲神社のあるところは、飛鳥の檜隈からすると、わずか八キロほどのところですよ」
「ああ、そうですか。なるほど」
なにが「なるほど」だったのかは自分でもよくわからなかったが、そういうわけで私は後日、芋峠を越えて吉野をおとずれたのだった。
世尊寺、巨勢廃寺跡を見る
私たちはまず、吉野町の教育委員会をたずねてみた。例によって、町の古代遺跡・文化財のことを書いたパンフレットなどをもらうためだったが、さきにみたような新聞記事のことがあるので、私はなんとなくどうも、ちょっと「おそるおそる」といった心持ちだった。
だが、そこにいた人たちはみな明るい親切な人ばかりで、私の名刺をみても別にオソレることなく、いろいろなパンフレットをくれたうえ、たずねた甲神社のこともはっきりと教えてくれた。そればかりか、甲神社は吉野町ではなくとなりの大淀町にあったにもかかわらず、同教委の角谷一彦、枡井司郎の両氏はわざわざクルマをだして、私たちをその甲神社までつれて行ってくれた。
甲神社は、大淀町の今木というところにあった。またの名称を今木神社ともいっているとのことだったが、神社そのものは小さなものだった。しかしそこは、今木すなわち今来というところであり、それが今来神を祭った神社であったことに大きな意味があった。
神社の前にある宮司の奥修氏宅をたずねたが、奥氏は不在で、留守番のおばあさんが出てくれた。おばあさんによると、甲神社のいまの祭神は大己貴(おおなむち)命で、
「この今木の神は、たいそう勢いの強い神様だったそうですな」と言った。
吉野町教委の角谷さんたちとはそこで別れ、ついで私たちは大淀町の教育委員会に寄ってみたところ、ここの社会教育主事の蓮池瑞旭氏がまたいい人であり、おもしろい人であった。蓮池さんはその名からもわかるように、大淀町中増の安養寺住職でもありながら、自家用車を運転して町の教育委員会に勤めているのだった。
帰り時間近くだったが、蓮池さんもそのクルマをだして、私たちをあちこちと案内してくれた。大淀町には、甲神社のほかにまた世尊寺があった。
世尊寺のことについては岡部伊都子氏からもちょっと聞いていたが、これは比蘇寺のそれだったといわれる大寺院跡だった。山門前にならべてあるかつての礎石群をみても、それの大きかったことは充分しのばれた。
だいたい、大和にかぎらずこういう古い寺は、どこへ行っても一つか二つは必ずみることができる。私などそのたび、古代の人というのはよくもこんなに寺院をあちこちに建てたものだと思うのであるが、世尊寺でもらった『世尊寺の由来』をみると、そこにこう書かれている。
古い文書によると、人皇三十一代用明天皇二年(五八七)勅願により、聖徳太子が創建されたいわゆる比蘇大寺である。
御本尊は、二十九代欽明天皇十四年(五五三)帰化人「くだらのみた」によって刻まれた日本最初の放光樟像である(『日本書紀』参照)。
「くだらのみた」とは百済御太のことだったが、聖徳太子によって建てられたものかどうかは別として、ともかく古い寺院跡であることにちがいはなかった。私たちは住職の本山禅覚氏にも会って、そういう仏像などいろいろとみせてもらったが、いまなおその寺域は二万三千平方メートルもある広い大きな寺だった。
ついで私たちは蓮池さんについて、御所(ごせ)市へとまわり、曾我川の上流にある巨勢廃寺跡をみせてもらった。大きな礎石がのこっていて、これがまた檜隈寺のそれとおなじように、水を逃がす溝までできているのがおもしろかった。
飛鳥寺とおなじく、この巨勢寺も蘇我氏族の氏寺だったものであるが、巨勢(こせ)というのは、金沢庄三郎氏によると朝鮮語居世(コセ)(治世という意味の尊称)からきたものではないかという。そうだとすると、現在の御所市の御所(ごせ)もそれから出たものであろう。
朝鮮語居世(コセ)が比売許曾神社の許曾(こそ)、伊太祁曾神社の祁曾(きそ)となり、それがまたさらに巨勢、御所となっているのがおもしろい。
巨勢廃寺跡ではちょうど、日暮れてしまった。しかしそこまでくると、飛鳥は近い。私たちは、飛鳥の栢森から芋峠を越えて吉野をひとまわりし、また飛鳥へと戻ったわけだった。
石位寺の石仏
木簡による史実の検証
はなしは前後するが、飛鳥坐(あすかにいます)神社に一泊した私たちは早朝に起き出て、山辺(やまのべ)の道へと向かった。そうして私たちは山辺の道を海柘榴市(つばいち)跡あたりから歩きだし、途中の崇神陵古墳前で、京都からやってくる上田正昭氏たちと落ち合うことになっていた。
飛鳥および周辺にも、まだみたいところや書きたいところはたくさんあった。たとえば飛鳥坐神社を出ると、前方は甘橿丘(あまかしのおか)であるが、右手の向こうには天香久山(あまのかぐやま)が見え、そのこちら一帯は藤原京跡である。
ここにはかつてのいわゆる藤原京があったばかりでなく、ここはさきにみた(「中宮寺から百済野へ」の項)百済大寺の大官大寺跡もあって、そこは「百済」とよばれたところでもあったという。いまは一面、農地となっているが、天香久山からすると、南方のこちらの畑のなかにぽつんとしたかたちで、「史蹟 大官大寺阯」とした石碑が立っている。
藤原京跡は近年の発掘によってその規模がほぼ明らかとなったが、それはそれとして、またとくに意義深いとされていることは、ここからも奈良の平城京跡からのものとおなじような木簡がたくさん出土したことであった。この木簡のことについては、上田正昭氏の「古代史の焦点」にこう書かれている。
最近の古代史の研究で、重要な意味をもつ資料として注目されるのは、木札に文字を書いた木簡(もつかん)である。持統・文武・元明(和銅三年の平城遷都まで)三帝の都であった藤原京の宮跡から出土した木簡、さらに皇極女帝・斉明帝(皇極帝の重祚(ちようそ))の宮居となった飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)推定宮跡から出土した木簡、奈良時代の政治・経済・文化の中心となった平城宮跡のおよそ二万点にのぼる木簡などは、文献史料でたしかめることが不可能であった、数多くの新事実を検証した。
たとえば、「改新の詔」には、郡・郡司の表記がある。ところで、郡字の使用がいったいいつからはじまるのかについては、甲論乙駁(おつばく)があった。が、飛鳥板蓋宮跡や藤原宮跡から出土した木簡によって、大宝令以前は、郡の字は用いられておらず、もっぱら評(こおり)の字であったことが判明した。評の制から郡の制への推移が、木簡によって、より明確になってきたのである。
しかもこの評の制は、朝鮮三国において採用されており、新羅は六世紀代、高句麗は七世紀初葉、百済も六世紀ごろには、それぞれ評という行政区画のあったことがわかってきた。飛鳥文化に、朝鮮渡来の人々や文化が大きな影響をおよぼしたことはいうまでもないが、高麗尺による田積法や都城計画などがなされ、さらに朝鮮の官僚制や地方行政制度を範とした体制づくりのすすめられたことが疑うことのできない史実として確認されつつある。
なおまた、朝鮮でも評はのち廃されて、郡の字にかわっている。日本においてそれがかえられたのも、朝鮮におけるそれとおなじであった。そして日本とおなじく、朝鮮もいままだ、なになに郡である。
「日本石仏のトップ」
それからこんどは、石位(いしい)寺であった。入江泰吉・嵯峨崎司朗氏の『大和路の石仏』にこうある。
ごみごみした長屋から美人が出てくると“ゴミ溜めから鶴”という表現を、よく使う。
無住寺かと思うような石位寺に、日本石仏のトップ、白鳳期の三尊石仏を見出したとき、そんな諺(ことわざ)が浮かんでくる。
純白というより青味を帯びた滑(な)めらかな石、昔の人は大理石といい、朝鮮伝来の名石といい伝えた。口唇(くちびる)のあたり、左脇仏の裾に、台座の花弁に、ほのかにのこる赤い色、魅惑のほか言葉を失う。石位寺は万葉の故地桜井市忍阪(おつさか)の山端にある。
ここで一つハジをさらすが、私は右のこれを読んで、大きな失敗をしたことがあるのを思いだす。もう、何年ぐらいまえのことであろうか、京都で雑誌『日本のなかの朝鮮文化』をだしている鄭詔文が、これは近代になってから、いまもなおこの日本へとながれ出てきている朝鮮の古い陶磁器や絵画などを、むりしながら買いはじめたころのことであった。
京都へ行ったときの酒の席でのこと、「日本石仏のトップ、白鳳期の三尊仏」というものがどういうことであるかもよく知らず、ただ、「朝鮮伝来の名石」というところだけに目をやって、私は鄭詔文にしきりとこの石仏を買おうじゃないか、とすすめたものだった。陶磁器でもものによっては数十万、数百万するのが珍しくなかったから、そのつもりなら、「無住かと思うような石位寺」のそれも、もしかしたら買えるのではないかと思ったのである。
さすがに鄭詔文は笑ってとりあわなかったが、それからのち、桜井市忍阪の石位寺をたずねてみて、私はびっくりしてしまった。石位寺はなるほど無住のような荒れ寺だったけれども、なかに安置されている三体の石仏は、しばらくまえまでは日本国宝だったもので、いまも重要文化財となっているものだった。酒のうえだったとはいえ、それを買おうなどと言ったのだから、こんな無茶なはなしはなかった。
三体の石仏はそんなに大きくもない石に浮彫りとなっているもので、なるほど「魅惑のほか言葉を失う」というのは、けっして誇張ではなかった。以来、私はまた何度かこの石位寺をおとずれているが、この石仏だけはいつみても美しい、いい、と思わないわけにゆかない。
ただ、美しい、いい、というだけではなかった。そのうえさらにまた、なんともいえず可愛いのである。ぽちゃっとした少年のようなそれで、これはどちらかといえば、朝鮮でも新羅系のものではないかと思われるが、さいきんたまたま、井上靖氏の「美しきものとの出会い」をみると、氏もおなじようなことを書いている。
井上氏の「美しきものとの出会い」は『文芸春秋』に連載されたもので、一九七二年三月号が最終回であった。この分に石位寺の石仏との「出会い」があって、こうなっている。
翌日もまた天気に恵まれたので、博物館と宝物殿の方は次の機会のこととして、以前から見たいと思っていた桜井市忍阪の石位寺の石仏を見に行った。
三十段ほどの急な石段を上ると、小さな台地の上に小さい堂宇があり、その中に石仏は収められてあった。高さ一・一五メートル、幅一・五メートル、底辺一・二一メートルのまるみのある三角状の沙岩(さがん)に、三体仏像が三センチの厚さで半肉彫りされてあった。古さというものを少しも感じさせない、きちんとまとまった三体の仏像のレリーフである。石面もよく整えられ、まるできのう刻まれたといっても通りそうな、そんな新しさであった。
本尊は牀座(しようざ)に腰かけており、左右の脇士はいずれも立像で、合掌している。白鳳時代の作といわれており、それに誤りがないなら、わが国に現在あるあまり数の多くない石仏の中では一番古いものということになる。
本尊は微かな笑いを口もとに漂わせ、口唇には僅(わず)かに紅がさされている。釈迦とか弥勒(みろく)とかいう説もあるが、寺伝では薬師如来ということになっていると言う。
この三尊の浮彫りを眼にした時、私はすぐ去年の十一月に訪ねた韓国慶州の石窟庵の仏さまたちを思い出した。どこが似通っているか、専門家でない私には判らないが、何となく同じろうろうとしたものが三尊の表情からも、姿態からも受けとれたのである。暗いところも、じめじめしたところも、取り分け森厳といったところもない。それでいて、清らかで尊い感じである。この三尊仏が大陸から渡ってきたものか、わが国において造られたものか知らないが、ともかく大陸風とでも言うべきものなのであろう。老いた感じはなく、初々(ういうい)しい仏さまたちである。
桜井近辺の遺跡
桜井にはこのほかまだ、いわゆる「大化の改新」のころの右大臣で、のちに悲劇的な死をとげた蘇我倉山田石川麻呂の山田寺跡があり、おなじくそのときの左大臣だった安倍倉梯麻呂(くらはしまろ)の安倍寺の後身といわれる安倍文殊院があり、さらにまた国宝の十一面観音で知られる聖林寺がある。安倍文殊院は寺としてより、境内にある古墳がすばらしい。
墓である古墳がすばらしいなどというのはちょっと何であるが、末期のものとみられているこの古墳の石室は、おそらくこの種のものとしてはもっとも精巧なものではないかと思う。古墳の石室というよりは、石造美術といったはうがよいようなものなのである。
聖林寺の十一面観音は、現代的ということの象徴のようなコンクリートの収蔵庫におさめられているのが味気ないが、しかし二・一メートルもある乾漆の観音像は、まことに立派そのものである。聖林寺の観音像はもと、これからみる大神(おおみわ)神社の神宮寺であった大御輪寺にあったものだった。
それがどうして聖林寺にあるかというと、明治はじめの神仏分離のおり、大御輪寺はその処理に困ってどこかにすてたものを、だれかがひろい上げたからだといわれている。それがほんとうだとすると、いま国宝となっているこれこそは、まさにひろいものであったにちがいない。
「三輪伝説」と穴師
大神神社の朝
海柘榴市(つ ば い ち)の八十(やそ)の衢(ちまた)に立ちならし結びし紐を解かまく惜しも
『万葉集』からであるが、古代の盆踊りのようなものであった歌垣(うたがき)で有名な海柘榴市をすぎると、山辺(やまのべ)の道の大神(おおみわ)神社である。途中、これも大神神社の神宮寺の一つだった平等寺にあったのがここにうつされたものだという金屋の石仏だの、それから崇神帝の磯城瑞籬(しきのみずがきの)宮跡といわれる志貴御県坐神社などがあり、磯城(志貴)は新羅(新羅城)のもとであった斯の斯城(しき)からきたものではないかと思われるが、しかしいちいちそれをみていたのではきりがないので、これはカットということにする。
三輪山は遠くから見ても近くから見ても、そしていつ見ても美しいと思わないではいられない。標高四六七メートルの丸いその山を神体とする大神神社は、『延喜式』には名神大社、大神大物主神社となっている。
日本最古といわれる巨大な神社で、これまた巨大な注連縄(しめなわ)のかかった二の鳥居から向こうは、うっそうとした三輪山麓の樹林となっている。その二の鳥居の手前に、「若宮」とした標識が見える。これは摂社となっている大直禰子(おおたたねこ)神社で、大神神社を祭祀して大神(おおみわ)氏族の祖となったといわれる大田田根子を祭っている。
飛鳥(明日香)からの出発が早朝だったので、私たちが大神神社についたときも、あたりにまだ人の姿はほとんどなかった。樹木におおわれたうす暗い参道や境内は、おのずから神気迫るといった感じだった。
ほかの多くのそれとはちがい、祭神は大物主命となっているが、三輪山そのものが神体となっているので神殿はなく、江戸時代にあらたに造営されたものという拝殿のみの神社だった。その豪壮な拝殿では、ちょうど朝の行事がはじまるらしく、白衣にうすい水色の袴をつけた数十人の神職者たちが集まっているところだった。
朝の「早起きは三文の得」ということばがあるが、そんなことを思いおこしながら、私は境内のそこに立って拝殿におけるそれを見ていた。神職者たちはずらずらとそこに立ちならんだかとみると、そのままいっせいに両手を床につけておじぎをした。
「ほう」と私は思った。なぜなら、それは朝鮮式の平伏だったからである。私は、いまでも自分たちの行なっている先祖祭り、正朝茶礼などのそれを思いだしたものだった。
大神氏の祖は渡来人
越前(福井県)の立石半島にある白城(しらぎ)(新羅)神社の拝礼が平伏だということを私は聞いていたが、しかし、私たち朝鮮人の行なっているそれは儒教によるもので、日本の神社のそれとは関係ないはずだった。けれども、他の多くの神社とおなじように、大神神社そのものとしては、関係がないわけではなかった。松前健氏の「日本神話と朝鮮」をみると、そのことがこう書かれている。
私は三輪山の大蛇神の神裔と称し、オダマキ型の神婚譚で知られる大神氏の祖大田田根子は、もしかすると帰化人系の存在ではなかったかと、ひそかに考えている。この人物は、『日本書紀』によれば、河内の茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)の出であった。ここは後の式内和泉国大鳥郡陶荒田神社のある地で、今は陶器(とうきの)荘というのがそれであるといわれる。帰化人系の陶工の多くが住んでいた地である。『古事記』によっても、その母の活玉依毘売(いくたまよりひめ)は、陶津耳(すえつみみ)という人物の女だとされる。スエを名とした人物である。この大物主神は、幾多の神婚譚で知られるが、殊に神武の皇妃ヒメタタライスケヨリヒメの母セヤタタラヒメの丹塗矢式婚姻譚は名高い。タタラは、鍛冶部(かぬちべ)の用いるフイゴのことであるが、また古代朝鮮の地名でもあったことは、「継体紀」や「敏達紀」などによっても知られる。
いつの頃か、この大和の三輪山に住む蛇神・雷神大物主に対し、その神裔だと自称し、その祭祀権を唱えた、鍛冶部や陶部にも関係の深い、帰化人系の豪族が出て、河内辺から大和に進出し、雨呪儀礼などを以て家伝としたのではあるまいか。これが大神氏なのであろう。大神氏は、前述のように外来の高麗楽曲蘇尸茂利(そしもり)などに長じたばかりでなく、外来的な匂いのする宇佐八幡の社司でもあったのである。
むつかしくてよくわからないところもあるが、ともかく大田田根子が陶器(すえき)、すなわち須恵器(朝鮮式土器、新羅焼ともいった)と関係の深い朝鮮からのいわゆる「帰化人」系であるというのはわかる。大田田根子とは『日本書紀』の表記で、これはまた『古事記』にいう意富多多泥古(おおたたねこ)でもあった。その『古事記』崇神段にはこういうくだりがある。
この天皇の御世に、疫病多(さわ)に起り、人民死(う)せて尽きなむとす。ここに天皇愁いたまいて、神牀(かむとこ)に坐(ま)しませる夜、大物主大神、御夢にあらわれて曰(の)りたまわく、是(こ)は我(あ)が御心ぞ。故、意富多多泥古を以て我が御前を祭らしめたまわば、神気起らず、国平らぎなむ、とのりたまいき。
是を以て駅使(はゆまづかい)を四方に班(あか)ちて、意富多多泥古という人を求むるときに、河内の美努村にその人を見得てたてまつりき。ここに天皇、汝(いまし)は誰が子ぞと問いたまいき。答え曰(もう)さく、僕(あ)は大物主大神、陶津耳命の女活玉依毘売(むすめいくたまよりひめ)にみあいて生ませる子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌(たけみかづち)命の子、おのれ、意富多多泥古と曰(もう)しき。ここに天皇いたく歓(よろこ)びたまいて、天下平ぎ人民栄えなむと詔(の)りたまいて、即ち、この意富多多泥古を神主として、御諸(みもろ)山に意富美和之大神の前をいつき祭りたまいき。
要するに、意富多多泥古(この名はいかにも泥を焼いてつくる須恵器のそれにふさわしい)をして意富美和、すなわち大神(おおみわ)神社を祭らせたところ、「疫病」もやみ天下も安らいだというのである。この説話は、いったい何をものがたっているのであろうか。これを政治的にみれば、「疫病」とは原住勢力の反抗・反乱とも読めるわけで、するとこれは河内にあった新しい勢力の大和への移動をものがたったものなのであろうか。
朝鮮の説話に似た「三輪伝説」
それはともかくとして、意富多多泥古についての『古事記』崇神段の説話はまだつづいている。「三輪伝説」として有名な大物主命なるものの神婚譚である。めんどうな文章なので引用するのも一苦労であるが、読者ももう少し辛抱してつきあってほしい。
この意富多多泥古という人を神の子と知れる所以(ゆ え)は、上に云える活玉依毘売、それ容姿よかりき。ここに神(かみ)壮夫(おとこ)ありて、(これも)その形姿(すがた)威儀時(よそおいよ)に比無(たぐいな)きが、夜半(よなか)の時にたちまち到来(き)つ。故、相感(あいめ)でて共婚供住(す め)る間(ほど)に、未(いま)だ幾時も経(あ)らねば、その美人(おとめ)妊身(は ら)みぬ。ここに父母その妊身(は ら)めることを怪(あやし)みて、その女(むすめ)に、汝(いまし)は自ら妊(はら)めり。夫無きに、何由(い か)にしてかも妊身(は ら)める、と問えば、答えけらく、麗美(うるわ)しき壮夫(おとこ)のその姓名も知らぬが、夕毎(よごと)に到来て供住(す)める間に、自然(おのずから)懐妊(は ら)みぬという。是を以て、その父母、その人を知らまく欲(ほ)りて、その女(むすめ)に誨(おし)えつらくは、赤土(は に)を床前(とこのまえ)に散(ちら)し、閇蘇(へそ)紡麻(お)を針に貫(ぬ)きて、その衣の襴(すそ)に刺せとおしう。故、教えし如(ごと)して、旦時(あした)に見れば、針著けたりし麻(お)は、戸の鉤(かぎ)穴より控(ひ)き通り出(い)でて、唯遺(のこ)れる麻は、三勾(みわ)のみなりき。ここに即(すなわ)ち鉤穴より出でし状(さま)を知りて、糸の従(まにま)に、尋(たず)ね行きしかば、美和山に至りて、神社(かみやしろ)に留まりき。故、その神の子なりとは知りぬ。故、その麻の三勾(みわ)遺れるに因りてなも、其地(そ こ)を美和(三輪)とはいいける。この意富多多泥古命は神君(みわのきみ)、鴨君(かものきみ)の祖なり。
一度読んだだけでは、すいと頭にはいってこないようなところがあるが、私は『古事記』のこのくだりをはじめて読み、そしてそれが「三輪伝説」となっているのを知ったとき、「ちょっと待てよ、この説話はどこかで聞いたことがあるぞ」と思ったものだった。そのはずで、私は朝鮮にいた子どものころ、おばあさんなどから、これと似たはなしを何度か聞かされていたのだった。
それをこんなにして書こうとは、それこそ夢にも思わなかったものであるが、朝鮮のそのはなし、説話はこういうものであった。ちょっと年輩の朝鮮人なら、たいてい誰でも知っているものなのである。
――昔、あるところに大きな寺があって、その寺に一匹のこれまた大きな蜘蛛(く も)が住んでいた。寺の和尚はこの蜘蛛をたいへん可愛がり、毎日、飯の残りなどをあたえていたが、蜘蛛はだんだん大きくなり、やがてそれが変じて一人の美しい乙女になった。ところが、乙女はいつの間にか懐妊し、日がたつにしたがって、それが人目につくようになった。
寺の和尚は大いにおどろき、どうしてそういうことになったのか、と乙女にたずねた。すると、乙女はこう答えた。毎夜毎夜、居所も知らなければ名も知らぬある美青年が自分のもとへかよってくる。つい情にほだされ、共寝をかさねるうちに、このような身重になった。だが、その青年はいつも夜中に来て、夜の明けないうちに帰ってしまうので、明るいところではまだその姿もみたことがない。
そこで和尚は、それなら針に長い糸をつけておき、こんど青年が来たときは、その針を彼の着物のどこかに刺しておくとよい、と教えた。そうして青年が帰ったあとで、その糸をたぐって行ってみよ。すれば、青年の居所もわかるだろうし、またどういう者であるかもわかるであろう。
その夜さっそく、乙女は和尚に教えられたとおり、青年には知られぬようにして、長い糸をつけた針を彼の着物に刺しておいた。夜明け近くになり、青年はいつものように出て行ったので、乙女は糸をたぐってそのあとをつけてみると、青年は寺の裏にある雪峯山という山の中の池にはいって行った。
乙女はそこではじめて、青年の居所を知ったのだったが、同時に、彼が人間ではなかったことも知った。青年は、その池の中の竜であった。――
これは北部朝鮮の咸鏡北道に伝えられているもので、鳥居竜蔵氏の『有史以前の日本』にも紹介されているものであるが、おなじような説話は南部朝鮮にもある。なかには男女が逆になっているのもあって、男があせって美女の正体を知ったばかりに、破滅するというのもある。
「出雲族」と「天孫族」
一方は山中の池であり、一方は日本の山中の神社という違いはあるけれども、よく似た説話である。鳥居氏の『有史以前の日本』には朝鮮のこれとともに、さきの「三輪伝説」にふれてこう書かれている。
大和には早くから出雲族が来て居ったのであるから、彼等が此の伝説を旧(ふる)くからもって来たのではあるまいか。これは大なる注意を以て研究すべき問題ではなかろうかと思う。……
この伝説は日本民族が此の地に移住せぬ以前より既に有ったもののように思う。何となれば我が国にこういう伝説のあったのは『記』『紀』でも最も古い時代に於て、既に大三輪の伝説として伝えられているのである。又朝鮮にても、極めて遠い長白山脈、豆満江辺の様な開けない処に行われているのである。又彼の扶余族の伝説も多少これと関係を有するものらしい。して見れば日鮮に於ける此の如き伝説は最も古い時代より行われて居ったものと言ってよろしい。若しも日鮮民族が同じ種族として置かるるとせば、此の伝説は二者が共にxの土地に居った時から有った伝説であろう。これが各〓移住した結果として、此の伝説がその人間に伴って分布したものであろう。
なおまた、鳥居氏のこれに関連して、ついでにもう一つ引用する。松本清張氏の『遊史疑考』「神奈備山の起源」をみると、「神奈備」ということばももとは朝鮮語であったとして、それが重なり合ったイメージとなっている三輪山・御諸山についてこう書いている。
三輪山というのは豪族三輪氏にちなんで名づけたので、その前は「御諸山」であった。また、その前は無名の山であった。その山を出雲系の三輪氏の祖が呪術の対象にしたとき、出雲の「御室山」から「御諸山」の名を持ってきたのであろう。
南朝鮮系のいわゆる「天孫族」が大和盆地に侵入してこない前は、畿内一円から紀伊半島にいたるまで先住族の勢力地であった。この先住族は、南方系の原住種族を山間地に追い上げた同じ朝鮮系だが、かれらはおそらく太白山脈の東側、つまり日本海沿いの地方(東夷伝にいう「〓(わい)・貊(ばく)」)のちの新羅地方から出雲地方に上陸してきて、但馬・吉備・山城などを回廊として畿内や南紀にひろがり、一方は越前、越後(古志)など裏日本に流れたらしい。だが、かれらは、後来の有力な天孫族のために畿内を奪われ、本貫地ともいうべき出雲に後退を余儀なくされたと考えるのだが、三輪氏も加茂氏も先住の出雲系であるから、右の〈さきに『古事記』と『日本書紀』のそのくだりがしめされている〉「われを御諸山にまつれ」という説話は、おそらく三輪・加茂氏の旧辞(家伝のようなもの)にあったのであろう。天皇家の祖先勢力に抵抗する出雲勢力を徹底的に駆逐できなかったため、記紀にそれら豪族の説話をとり入れざるを得なかったのである。
三輪鳥居の檜原神社
山辺の道は、それだけでもさまざまなことを考えさせる大神神社をすぎると、まもなく三輪の檜原(ひばら)だった。笠縫邑(かさぬいのむら)ともいわれたというここも伝説地で、赤松がすいすいと立っているなかに、ここにも三つのそれを一つにしたいわゆる三輪鳥居の檜原神社があって、それが赤い木柵に囲まれている。
またも神社というわけだったが、私たちのたずねている古代文化遺跡は、古墳か古寺かまたは神社しかかたちとしてはのこっていないので、これはやむをえない。というより、その地にいた氏族(あるいはまたその分氏族)が、自分らの祖神を氏神として祭った日本の神社こそは、古墳や古寺とともに、もっともよく古代の歴史をものがたっているのである。
つまり古代の神社や古墳は、そのときから彼らがそこに生きたという証拠であり、またそのエネルギーの象徴でもあった。そして彼らのそのエネルギーがいたるところにひそんでいるのが、この山辺の道なのである。それにしても、彼らはまた実によくその神社を祭り、つくりしたものだと思わないわけにゆかない。
檜原神社はいまみたように、三輪鳥居と赤い木柵しかなかった。しかし笠縫邑のここは「元伊勢」ともいわれたところで、伊勢(三重県)の伊勢神宮の神体の一つとなっているいわゆる八咫鏡(やたのかがみ)も、もとはこの神社にあったものだといわれている。
私たちは景色のよい檜原でひと休みし、さらに歩を進めた。途中、道すじに食べ物屋らしいものが見えたので、だれいうとなく素麺(そうめん)を食ってみようじゃないか、ということになった。三輪はまたその素麺が有名だったから、私たちはみんなでその店へはいった。そして私はこの店で、朝鮮語でいう一つの「逢変(ボンベン)」にあうことになった。
「神様はみな朝鮮からきた」
それぞれ素麺を注文し、それができてくるまでのあいだだった。私はだれに向かってともなく、ひとりつぶやくように言った。
「たしか、この近くに穴帥の大兵主(ひようず)神社というのがあったと思うが……」
すると、向こうに坐っていた女の人が、すぐに引きとってこたえた。
「ああ、あるよ。これからまだ少し行った先だがね」
「そうですか。どうも」――というまもなく、ちょっと変わったふうをした女の人は、すぐまたつづけた。
「あの神社の神様は、いまは刀の日矛(ひぼこ)になっているけれども、もとは朝鮮から来た天日槍(あめのひぼこ)(矛)という神様を祭ったものだったよ。だから、あそこも朝鮮の神様なんだ」
「ほう、そうですか」
私はまさに、それこそ相好をくずさんばかりだった。いうまでもないであろうが、これはおもしろい人にぶつかったものだと思ったのである。
女の人は四十五、六、あるいは五十五、六になっているのかもしれなかったが、別に化粧をしているらしくもないのに、ちょっと目尻の吊りあがった顔がひどく白かった。食卓を前にして坐っているので、どういうかたちなのかよくわからない、うすら青い着物をつけていたが、一見、そんなことをいうところからみても、巫女(み こ)ではなかろうかと私は思った。
巫女さんでも何でも、というより、そのように神社のことにくわしい巫女ならなおよいと私は思った。ところが、――だった。聞きもしないうちから彼女はつづけてぺらぺらとしゃべったが、それからがどうもたいへん、ひじょうによくなかったのである。
「しかしね、朝鮮から来た神様はなにもあの兵主さんとかぎったものじゃないよ。日本の神社というのは、たいていみんなそうなんだ。だから、朝鮮人はみなバカになってしまったんだよ」
「ええ? それはどうしてですか」
私は、すっかりあわててしまった。あわてて、思わず私たちの一行を見まわした。
水野明善はじめ、そこにいるのは鄭貴文一人をのぞいて、あとはみな日本人ばかりだった。それだったからまた、みんなはどうなることかとしんとなってしまっていたが、親しいあいだがらの水野など、もうすっかりうれしくなってにやにやしている。
「どうしてって、朝鮮からは昔、神様がみなこの日本に来てしまったからだよ。だから日本は戦争に負けてもまたこんなに繁栄することになったのだが、朝鮮はまだごたごたしているだろう。あれは神様がみんないなくなって、みなバカになっているからさ」
「へえ、そうですかね」と横合いから、鄭貴文がビミョウな顔をして言った。
朝鮮人と日本人とは顔かたちも体つきもおなじなので、私たちはよくこんな目にあう。しかしだからといって、その場で、「おれもその朝鮮人だ」というほど鄭はコドモではない。
「そうさ。だからというんで、日本に来た神様をいまさら返せなんていわれたって、そんなことはできっこないよ。朝鮮から来た神様といっても、いまじゃみんなすっかり、日本の神様になってしまっているんだからね」
いやはや、ひどいことになってしまったものだった。しかし、彼女が最後にいったことばは、なかなかいいえたものだと思った。そんな神様を返せなどとはだれもいわないばかりか、いまはその神様がみなすっかり日本のものになっていること、それはたしかなことだったからである。
大兵主神社と天日槍
私たちは、偶然そこにいた巫女の彼女にあおられてしまったからというわけではなかったが、天日槍が祭神だという大兵主神社は、このときはカットすることにした。京都からやってくる上田正昭氏ら一行と、崇神陵古墳前で落ち合うことになっている時間が迫っていたからだった。
だったから、私は後日になって大兵主神社をおとずれたのだったが、それは三輪山北東の纒向(まきむく)山麓にあって、車谷の近くだった。この辺一帯は穴師といい、そこを流れている纒向川は、これをまた痛足(あなし)川ともいうとのことだった。
あたりは、ほとんどが蜜柑畑だった。遠く生駒山脈に西方をさえぎられた大和盆地を背後にして、ときどき立ちどまっては眼下に見おろすその盆地を振り返ったりしながら、ゆっくり蜜柑畑の谷間を登って行くと、そこに大兵主神社の参道があった。
大神神社とおなじく、これも『延喜式』内の名神大社で、穴師坐兵主神社というのが正式の名称だった。宮司の中由雄氏に会い、『大兵主神社』とした由緒書をもらってみると、なるほど祭神は御食津(みけつ)神という鈴鏡をつけた日矛となっている。
御食津神というのが、日矛につける鈴鏡なのだからややこしい。が、しかし神社の祭神は、さきに会った巫女の彼女が言ったように、やはり天日槍だった。天日槍というのは『日本書紀』の表記で、『古事記』には天日矛となっている。
但馬(兵庫県)などには七社もあって、ほかにもまだ十二社ほどあるこの大兵主、あるいは兵主神社については、いろいろな人によるいろいろな意見がある。たとえば、橋川正氏の「兵主神社の分布と投馬国」にはこう書かれている。
この蕃神たる兵主が日本に渡来した年時はもとより明確にはいい現わし難く内藤(湖南)博士はただ、「是は百済の神よりかずっと前に日本のまだ何も記録の無い時分に来て居る神」であるといわれ、応神天皇十四年百済国から来帰した秦氏の弓月君に関係をつけ、大体の年代を指示せられて居る。
「是は百済の神よりかずっと前に」といっていながら、「応神天皇十四年百済国から来帰した秦氏の弓月君に関係をつけ」というのはちょっとおかしいようであるが、また別なところでは、こうも書かれている。
穴師というのは秦氏の産業として採鉱をした為の名ではあるまいかとも思われる。兵主を日本で武神として素盞鳴尊を祀るものもあるが、その秦氏と出雲種族との関係を湖南博士は暗に諷示されて居るようである。(北島葭江『三輪石上』)
それが秦氏や出雲族とどういう関係にあったのかは知らないが、しかし、「穴師というのは秦氏の産業として」うんぬんというのは誤りではないかと私は思う。穴師の「穴」というのは近江の草津などでみた穴とおなじもので、天日槍とゆかりの深い地名なのである。天日槍(都怒我阿羅斯等)が上陸したとされている穴門(長門=山口県)の穴もしかりであるが、草津の穴には天日槍を祭る安羅(あら)神社があったことからも、これはうなずける。
すなわち穴とは安羅(あら)・安耶(あや)・安那(あな)のことで、これは天日槍という名に象徴される集団がそこから渡来したとみられる古代南部朝鮮の、のち百済や新羅に併合された小国名であった。いわゆる東(やまと)(大和)漢(あや)氏の漢が、安耶(あや)からきたものであることもすでにみたとおりである。
『日本書紀』雄略十四年条に「漢織(あやはとり)」とあるのが、同応神三十七年条には「穴織(あなはとり)」とあることからもそれはわかるであろう。なおまた、さいきんここの纒向(まきむく)遺跡からは「漢織」、すなわち綾織の遺物が出土している。
近江でもみたように、また、三品彰英氏の『建国神話の諸問題』や『日鮮神話伝説の研究』などにもあるように、天日槍というのは日本古代史、あるいはその前史における巨大な存在で、その足跡は大和にも深くのこっている。穴師坐兵主神社のほか、大和にはいま近鉄田原本線に但馬という駅があるが、今井啓一氏の『天日槍』をみると、その地についてこうある。
和名抄によると大和国城下郡に但馬郷を載せている。その地はのちの奈良県磯城郡三宅村の地たるべく、いまもその大字に東・西・上の但馬の名が遺っている。これらは但馬国出石を中心とした天日槍族がのちこの地へ移徙し……。
そしてまたさらに、こうも書かれている。
なお前にもふれたように録〈『新撰姓氏録』〉に三宅連同祖の天日槍系糸井造は大和国諸蕃として載せているが、いま磯城郡三宅村の北に隣りする川西村大字結崎には式内糸井神社が鎮座し、同祖系の糸井造が大和へ移住後、その祖神をここに祀ったものと思われる。
今井氏のこれについて、私は別に異を立てるつもりはないが、しかしさきにみた穴師坐兵主神社などの存在などからすると、「但馬国出石を中心とした天日槍族がのちこの地へ移徙し」うんぬんというのはどうであろうか。但馬(兵庫県)は天日槍の本貫地となっているが、ほかの各地におけるそれや、『日本書紀』などの伝承からみても、そこは天日槍集団の一部がいた地ではなかったかと私は思う。
石上神宮の七支刀
布留の石上神宮へ
まえもっての打ち合わせどおり、私たちは午前十一時までに、天理市柳本にある崇神陵古墳についた。そして私たちは、宮内庁によって管理されているその古墳前のきれいな玉砂利のうえに坐ったり、ねころがったりしていると、まもなく京都からの上田正昭氏たちがついた。いっしょにくることになっていた岡部伊都子氏は、都合でこられなかったが、それでも私たちの一行はあわせて十人ほどになった。
みんないっしょに、私たちはまた歩きだした。ところどころで立ちどまっては、こんどはみんなして上田さんから説明を聞くことになった。水野明善の言を待つまでもなく当代一流の歴史家である京都大学教授の上田さんを案内者とし、説明者としている私たちは、まさに「最高」というべきだった。
それまでは神社だったが、こんどは古墳だった。四世紀、前期のそれであるという崇神陵古墳はじめ、その一帯はまた大和の大古墳地帯でもあった。
「三輪伝説」や穴師の大兵主神社に気をとられてふれることはできなかったが、これまで歩いて来たところのそれをみても、「昼は人が造り、夜は神が造った」という伝承を持つ箸墓(はしはか)(倭迹迹日百襲姫古墳)や景行陵古墳など、有名なものも少なくなかった。考古学者の森浩一氏によると、景行陵古墳からは朝鮮渡来のものとみられている石枕が出ているので、その年代がさらに問題となるとのことだったが、これもまた珍しい前期古墳とされているものである。
これらの古墳は前期・中期・後期とあわせて、山辺の道の両側だけでも千数百は点在しているということだったから、その気になれば、いたるところでそれがみられるはずだった。私たちはそのうちの柳本古墳群から、長岳寺近くの手白香衾田(ふすまだ)古墳をへて、北へ北へと向かって歩いた。
途中、私たちは山裾の草のうえに腰をおろして、用意してきた弁当を開いたり、また、景色のよいところをえらんでは休んだりしたということもあって、この日の目的地である布留(ふる)の石上(いそのかみ)についたのは、日暮れ近くになってからだった。布留社(ふるのやしろ)・石上(いそのかみ)神宮のあるところで、私たちは上田さんにより、きょうはこの神宮の神宝となっている、国宝の七支刀を見せてもらえるかもしれないことになっていた。
布留川の扇状地で、小道を歩き、樹木におおわれた急な坂を登ったりして上田さんについて行くと、私たちはその横手のところから広大な石上神宮の境内に出ていた。これももちろん『延喜式』内の名神大社で、石上坐布留御魂社というのが本来の名称である。
私たちはまず重要文化財の楼門をくぐり、国宝となっている拝殿をみた。ついで上田さんに言われて、私ははじめてこの神宮の瑞垣(みずがき)もみた。私はさきにも石上神宮に来たことがあったが、それには気がつかなかったのである。
処女(おとめ)らが袖(そで)布留山の瑞垣の久しき時ゆ思い来我は
『万葉集』の柿本人麻呂の歌にあるそれであるが、苔むしたままに立ちならんでいる、上部が三角の石でできたその瑞垣のなかは禁足地となっていた。そして禁足地のそこには、布留御魂である神剣が土中深く埋まっていることになっていた。
境内のあちこちにある献灯には「布留社」と、大きな字が彫り込まれている。それをみて私は、
「布留、フルですね」と、上田さんに向かって言った。すると、上田さんもすぐにこたえた。
「そう。そのフルです」
なにやら暗号のような問答だったが、つまり、布留の石上という布留は、朝鮮語ソウル・ソフル(徐伐)からきた京・都ということで、いわば聖地という意味でもあった。では、石上のいそ(石)とは何かというと、石上のいは新井白石のいう発語、接頭語で、このそもソフルのソ(徐)からきたものではなかったかと私は思う。
最後に私たちは、神宮の社務所にいたり、上田さんから禰宜(ねぎ)の森武雄氏に紹介された。そして私たちは、有名な石上神宮の七支刀を見せてもらうことになった。この日のクライマックスであった。
七支刀銘文の謎
写真で見ると刀身の左右に三本ずつの異様な枝刃が出ている七支刀は、国宝であるばかりか、神宮の神宝となっているものであったから、めったなことでは見せてもらうことのできないものだった。山本健吉氏の『大和山河抄』をみると、いま芸術院会員となっている山本氏でさえ、その七支刀は見せてもらえなかったと書いている。
そういうものだったので、水野明善などもう、まだ見もしないうちから興奮気味だったが、禰宜の森さんが密封した箱のなかから、うやうやしくそれを私たちの前にとりだしたときは、私もある感動が身内を引きしめるのをおばえないではいられなかった。千数百年もまえに朝鮮の百済からわたってきたものであったばかりでなく、そこには貴重このうえない歴史的文字が刻み込まれているのであった。
第一の印象は、千数百年もまえのものであったにもかかわらず、意外にもまだそんなに古びた感じがしないということだった。金象嵌(ぞうがん)の文字もしっかりとのこっていて、強い光を放っていた。しかし惜しいことに、上田さんもそう言ったが、私のようなしろうと目で見ても、その金象嵌の文字は、後世に削りとられたと思われるあとがかなりはっきりしていた。
そうだとしたら、いったいどうしてであったろうか。それはわからないというよりほかないが、なかには錆びおちて消えてしまった文字もあるので、以前からこの銘文については多くの学者によっていろいろなことが書かれてきた。
しかし、どうしてそうなったかはわからないが、その一致した意見は、これが朝鮮の百済王から日本の倭王に「献上」されたものであるということだった。だからこれは社務所でもらった『石上神宮略記』にも、「神功皇后摂政五十二年(三七二)に百済王が奉ったと伝えられる」と書かれているし、河出書房版『日本歴史大辞典』にもそのように書かれている。
だが、そのようにこれを解読すると一つ困ることには、はっきりのこっている文字だけをみても、これの文体がいわゆる下行文書形式で、「後世に伝示せよ」といった、上位のものが下位のものにあたえるそれとなっていることであった。これも下位者をさす、「侯王」ということばなどがあるのも困る。
そこでさらにまた、あらたな意見が出ることになった。栗原朋信氏の「七支刀銘文についての一解釈」をみると、ここにある「侯王」すなわち「七支刀銘文中の『倭王旨』は、『イササワケノミコト』のちの応神天皇にあたると思う」とあって、それまではよかった。これは新しい意見だったが、しかし栗原氏は、銘文中の「聖音」と読まれてきたそれを「聖晋」と読みなおし、この七支刀は「東晋が百済を介して倭王へ贈ってきた」ものであろうというのであった。
つまり、中国の東晋ならよいが、百済からならば、それが下行文書形式であるはずがないという思想から出たものなのである。なんともわびしい事大思想で、一方、それが朝鮮にたいしてはあいかわらずの皇国史観まるだしであること、いうまでもないであろう。
上田正昭氏の見解
いよいよわびしいかぎりであるが、しかしさいきんにいたって、このような皇国史観は克服しなければならないとする上田正昭氏により、石上神宮七支刀についてのそのような迷説や珍説は一応しりぞけられたようにみえる。それは上田氏の「石上神宮と七支刀」にくわしいが、さらにまた同氏は「古代史の焦点」にもはっきりとこう書いている。
〈石上神宮の七支刀は〉全長七十四・八センチ(刀身六十五センチ)の鍛鉄(たんてつ)両刃づくりで、刀身の左右に三つずつの枝が互い違いに出ている呪刀(じゆとう)である。その刀身の表裏に、金の象嵌(ぞうがん)で六十余字が刻されている。三度実物を吟味したことがあるが、惜しいことに下から約三分の一のところで、刀身は折れており、銘文もまた錆(さび)落ばかりでなく、故意に削ったところがあって、銘文の判読に困難な個所がある。そのため苦心の解読が多くの人々によってなされてきたが、これまでの読み方で、決定的に誤っているのは、泰和四年(三六九年)に、百済王が倭王に「献上した」刀などと解釈してきたことである。銘文の表に「侯王に供供(供給)すべし」とある侯王とは、裏の「倭王」をさす。まずなによりもこの銘文の書法は、上の者が下の者に下す下行文書形式であって、けっして「献上」を意味する書法でもなければ文意でもない。それは百済王が侯王たる倭王にあたえたことを意味する銘文であった。それなのに、これを「献上」とか「奉った」とかなどと恣意(しい)に読みとったのは、我を優として彼を劣とする差別思想にわざわいされたものというほかない。
私たちは、その七支刀をこの目で実見したのであった。しかも右のように書いている上田さんから、さらにまたその説明を聞きながらだった。貴重な、それこそまたとないはずの時間だった。
禰宜の森さんに心から礼をのべて、私たちはそれぞれ充実した気分で外に出た。あたりを樹木におおわれた石上神宮の境内は、すでにうす暗くなりはじめていた。
文庫版への補足
ソの城・新羅神社
天日槍の系譜
『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第三冊目の本書が四六判本として出たのは、一九七二年十月であった。いまからすると十一年ほどまえのことであるから、これもまたそのあいだにはいろいろと新たな発見がある。本書も第一冊、第二冊目と同じように、それを補足しなくてはならない。
さきに近江(滋賀県)であるが、ということになるとまず、林屋辰三郎氏の「近江王朝論」を紹介しなくてはならない。このことは、一九七五年に出た『日本史探訪』「別巻 古代編」(二)にくわしいが、そこで林屋氏は新羅・加耶系渡来人集団の象徴となっている天日槍(あめのひぼこ)のことにふれてこうのべている。
結局、アメノヒボコ〈天日槍〉の伝説は、弥生時代の日本に、大陸から最新の農業技術と優秀な金属器文明と、新しい呪具(じゆぐ)の信仰を伴って渡来してきた人たちがあったこと、その場合に、いわゆる日本海ルートを経て裏日本から畿内へというコースがかなり重要な舞台であったらしいことを示していると思います。
それから、大事なことは、アメノヒボコの系譜が、最後にオキナガタラシヒメ〈息長帯比売〉、すなわち神功皇后に至っているということですね。つまりこの伝承全体が、息長(おきなが)氏に結びつけられている点は、これからお話しする「近江王朝」に大いに関係してくるのです。……
息長氏は、だいたい琵琶湖の東岸、和邇(わに)氏は琵琶湖の西岸に勢力を張っていた。私は、この二つの豪族は共に渡来人から出たものだと思います。おそらく、弥生時代のある時期に、日本海ルートで裏日本に上陸し、琵琶湖の両岸にそれぞれ展開した渡来人の集団でしょう。
そして林屋氏は、「いま、大津市坂本穴太(あのう)町に、高穴穂(たかあなほ)神社がある。ここが、高穴穂宮跡と伝えられる場所である。景行天皇のあと、成務天皇と仲哀(ちゆうあい)天皇もここに都を置いた」として、日本に最初の統一的な王朝ができたのは近江であった、というのである。
そのことについては私はあまり深入りしないが、ここにいわれている息長氏族や、和邇氏族のことは本書でもふれているし、大津市坂本穴太町の「穴太」や、高穴穂宮の「穴穂」ということがどこからきたか、ということについても不充分ながら書いている。
大津・穴太遺跡にみる渡来人集落
それから大津といえば、ここはかつて近江朝・大津京のあったところで、いまもなおいろいろな遺跡が発見されている。たとえば、一九八二年十一月十二日付けの京都新聞をみると、「日本最古の切妻/大壁造り住居跡/大津・穴太遺跡で発見/一三〇○年前、帰化人集落/大津京遷都解明の糸口に」という見出しのもとに、そのことがこう報じられている。
大津市の穴太(あのう)遺跡の発掘調査を進めている滋賀県教育委員会は十一日までに、わが国で初めてという約千三百年前の切妻大壁造り住居遺構を発見した。同教委は、この遺構がわが国では例のない特異な構造を持っていることから、朝鮮半島からの渡来人集団が営んだ集落跡とみており、彼らが大きな役割を果たした天智天皇の大津京(六六七〜七二)遷都のナゾを解く手がかりになるものと期待している。
遺構が見つかったのは、大津市下阪本と唐崎にまたがる穴太地区。国鉄湖西線唐崎駅から北へ約八百メートルの地点。十八棟以上の掘立柱建物にまじって切妻大壁造り住居一棟が見つかった。同遺構は一辺約八メートル、幅約一メートル、深さ三十〜五十センチの溝で囲まれ、溝の中に直径約十二センチの間柱が三十〜五十メートル間隔で立てられている。……
遺構群は、いずれも七世紀初めから後半の飛鳥〜白鳳期に建てられたものだが、この時代、寺院以外の民家に土壁が用いられた例はなく、遺構を復元すれば、その形が和歌山市六十谷遺跡から出土した朝鮮半島南部の系譜をひく土器・家形(はぞう)=水か酒を入れた祭祀用具=によく似ていると推定されるため、朝鮮半島の影響を強く受けた建物だとしている。……
今回、発見された遺構群は、上層部から検出されたものだが、年代的には五十年程度の差しかなく、礎石建物や切妻大壁造り住居などからみて、同教委では同集落が渡来系集団が営んだ集落とみて間違いないとしている。これまで、穴太、錦織など大津近郊の山すそで見つかった約六百基の横穴式石室墳の被葬者が、その構造や副葬品から朝鮮半島南部からの渡来系氏族と考えられていた。今回の発見で、初めてそうした人たちの居住集落が明らかにされたわけで、当時の彼らの生活ぶりをうかがう貴重な手がかりといえる。さらに、渡来人を重用した天智天皇が、なぜ大津に都を移したのか、ナゾに包まれた大津京解明の糸口になる期待もかけられている。
いまみたのは「切妻大壁造り住居跡」であるが、さらにまた、こんどは「礎石建物」というものである。一九八一年十二月二十五日付けの朝日新聞(大阪)によると、「寺院以外では日本最古/飛鳥時代の礎石建物/大津・穴太遺跡」という見出しで、そのことがこう書かれている。
大津市下阪本一丁目の穴太(あのう)遺跡で滋賀県教委は二十四日までに、飛鳥時代の集落跡から寺院以外では日本最古の礎石建物跡と、それに重複した土台建ち建物跡を発掘した。……
現場は穴太遺跡のうち南川原地区。七月から国鉄湖西線沿いの水田約千平方メートルを発掘、人工の溝、柵(さく)、樹木の跡や掘っ立て柱建物数棟の跡とともに、約五メートル四方に配置された礎石十二個を発見した。
礎石には焼けた柱の跡が残っていた。礎石の上には一部、土台建ち建物に使った土居桁(どいげた=柱を支える桁)の跡があることから、初めに建てられた礎石建物が火災で焼失した後、焼け残った礎石の上に土居桁を置いて土台建物を建て直したらしい。
発掘調査にあたっている同県教委文化財保護課の林博通技師は「礎石を使う建築技術は大陸からの渡来人が伝えたもので、この遺跡も渡来人と関係が深いものと思う。土木技術などに高度なものを持った渡来人が住んだ集落跡とも考えられ、そのすぐ後の大津京(六六七〜七二)の建設との関係からも興味深い」と話している。
近江全体どこでもそうであるが、いまは滋賀県庁所在地となっている大津市なども、古代朝鮮渡来人遺跡の濃密なところである。いまみただけでもそのことはうかがい知れるが、ほかにまた有名なものとして、元は園城寺(おんじようじ)だった三井寺(みいでら)があり、いまは新羅善神堂となっている新羅神社がある。
ソの城神社
これについては本書の「園城寺・新羅善神堂」の項にかなりくわしく書いたつもりであるが、しかしそれだけではまだまだ、ということがわかった。一つは三井寺の元の名称だった園城寺の「園城」ということがどこからきたものだったか、ということで、そのことを私は『三井寺の沿革』を引きながら、おそるおそるといっていい及び腰でこういうふうに書いている。
――けれどもそこが「城邑」であったということは、考えられなくはない。とすると、そこはもと山城のあったところということになり、それでまた一つ思いおこされるのは、「宮内省に坐す園神(そのかみ)・韓神(からかみ)」の園神=曾富理神(そほりのかみ)のことである。すなわち、新羅系の神のことを園神といったという、それである。――
いま私は「おそるおそるといっていい及び腰で」といったが、まったくそのとおりであった。ほんとうは私はこのとき、新羅の原号がソ(徐)であることを思いうかべていて、「園城」とは「ソの城(き)」ということではないか、と書こうとしたのだったが、まだ自信がなかったのである。
ところが、一九八一年になって、山田弘通氏の「園城寺と志賀郡」が出るにおよんで、私もそのことにはっきりと自信を持つことができた。山田氏はそのことを次のように書いているが、これにはほかにもまた新しい発見が少なくない。
わが国の古代寺院の名称には、大別して三つの類型がある。四天王寺・薬師寺・観世音寺のような安置礼拝仏によるもの、法隆寺・興福寺・大安寺のような、寺院の隆盛安泰を願った吉祥用語を用いたもの、豊浦寺・飛鳥寺・葛城寺のような所在地の地名を冠するものに分かれている。
では、近江国志賀郡園城寺(おんじようじ)の場合はいずれに属すのか。園城寺の成立に関する研究は少なくないが、園城寺の名称については、これまであまり注意されなかったようである。『近江国輿地志略』が引く古巻は、大友村主(すぐり)寺が園城寺の古名で、「園城寺の号は円珍の命ずる所にや」といっているが、その寺名の意味するものには触れられていない。仮に円珍が命じた寺名にしても、なぜ園城寺の文字を選んだのか。同じ志賀郡の古寺崇福寺は吉祥語であろうし、梵釈寺は梵天・帝釈の二尊に依るものと思われる。
しかし、園城寺となると、仏教の一般用語では解しがたい。大和の元興寺が飛鳥寺、金剛寺が坂田寺、法隆寺が斑鳩寺、そして崇福寺が志賀寺と呼ばれていたように、この大友村主の氏寺も、一般には園城寺と呼びなされていたとすれば、園城は地名で訓(よ)むべきで、その場合「ソノキ」以外には読みがたいように思われる。
ソノキのソは『和名抄』大和国添(そう)(上下)郡や大隅国唹(そお)郡のソ、または備中国下道郡曾能、紀伊国名草郡苑部、遠江国磐田郡曾能などのソノは、本来のソに地名二字の和銅の詔による書き添えが加わったものであろうが、ソの地名となると、ほぼ全国的にわたっている。『古事記』の天孫降臨条の日向襲の高千穂のソや、『日本書紀』神代の巻の素戔嗚尊の降臨の山、新羅曾尸茂梨のソも同じにみるならば、ソは新羅の王都徐耶伐(ソヤボル)の徐(ソ)からきているという解釈は、金沢庄三郎氏の『日鮮同祖論』などにもみられるが、ほぼ定説化しているように思われる。
いたって明快である。私としては長年のしこりがとれたような感じであるが、なお、さきにもいったように、山田氏のこの一文には新たな発見も少なくないので、もうしばらく引用をつづけることにしたい。
園城寺のソノキが地名によってよばれたものであれば、志賀郡の古名と思われる新羅郡すなわち「ソの評」に因ったものであろう。朝鮮からの渡来人たちは、湖西から湖南の地に新羅の分国(金錫亨『古代朝日関係史』)をつくり、その領域を一般にソボル(徐伐)とよび、精神的拠り所として新羅明神を祭り、それに付随した神宮寺として原園城寺を建立したのではなかったか。あるいは渡来人の統率者が豪族化した時点での氏寺であったかもしれない。
新羅明神の創建が社伝の通りであるならば、長等山中腹の早尾(そお)神社の方も、彼ら本国の神を遷したということになろう。従って、早尾のソも園城寺のソ同様この地の地名によって呼ばれたものと考えられる。
そのほかソの遺名としては『近江国輿地志略』が載せている歌枕の「志賀の苑園」の園もソであったらしく、ソノと読んだために苑の文字が冠せられたものであろう。このような誤解は『延喜式』の宮中に祭る園韓神(そのからかみ)の場合でもみられる。
近江国の園地名は坂本町に集中していて、伊勢園・倉園・郡園社・蓮華園のように岐れている。湘南の園山や曾束もソの地名に数えられるが、日吉大社の園地とする説はあたらないであろう。……
志賀郡の神社についてもう少し言えば、上坂本町の日吉神社の祭神大山咋神は『伊予国風土記』逸文では渡来神としているし、比良山麓の白鬚神社――新羅系渡来集団の象徴が天日槍であり、日槍のヒが新羅を指す例は多く、応神紀の宇治の木幡の比布礼(ひふれ)(フレは朝鮮語で邑)が現在の日野町に当り、日野の南の三室戸寺入口に新羅神社がある。また、『万葉集』巻十九の家持の長歌の叔羅河(新羅川)は現在日野川であることからも、この白鬚は新羅である。従って近くの白毫原も新羅原に解される。……
滋賀県には山の神とよぶ木標神が多いが、これはチャンスン〈朝鮮の村の境界神「天下大将軍・地下女将軍」のこと〉の変貌とも考えられる。因みに、別保村の若宮八幡宮の縁起にも〈渡来神の〉宇佐八幡神が登場するし、本殿の西南に新羅大神社、本殿右に日の神の天照大神宮・白山権現、左に吉良八幡社といずれも蕃神臭い神々を祭っていることは、新羅社を大神社とよぶことからも、本来の主神がこの新羅社であったことが窺い得られるし、付近にある新薬寺は新羅寺で、その神宮寺であったらしい。
引用はもうこれくらいにするが、これだけをみても私にとってとくにおどろきだったのは、「日野の南の三室戸寺入口に新羅神社がある」ということ、さらにまた、「別保村の若宮八幡宮」「本殿の西南に新羅大神社」があるということだった。もちろん、前者も後者も私ははじめて知ることだった。
若宮八幡宮と新羅大神社
それで、こんどこの「文庫版への補足」を書くにあたり、観音寺山のある安土町あたりをあらためてまた歩いたついでに、前者の新羅神社はおいて、後者の新羅大神社までは行ってみることにした。ところで、その神社があるという別保村の若宮八幡宮であるが、この別保村の「別保」をなんとよむのか、「べつほ」か「わけやす」か、それがよくわからない。
で、仕方なく、私は国鉄大津駅におりると、「別保村の若宮八幡宮」と書いた紙きれを駅前にいたタクシーの運転手に見せて、
「ここわかりますか」ときいた。すると運転手は、
「ええ、わかりますよ。別保(べつぽ)ですね」とこともなげに言った。そしてタクシーは国道一号線を草津市のほうへ向けて走りだしたが、さらにまたきいてみると、別保村はいまは大津市に合併されていて、そこの若宮八幡宮もすぐにわかった。
いまはこれも若宮八幡神社となっているかなり大きな神社で、さっそく本殿の西南に見える境内社まで行って扁額をみたところ、たしかにそれは「新羅社」となっていた。それが元は「新羅大神社」だったものかと思うと、何となくわびしい感じがしないでもなかった。
が、しかし、そのように退転したものとなってはいても、よくぞこれまでのこっている、とも思わないわけにゆかなかった。なぜかというと、このような神社は、ほとんどがどこかに合祀となって消滅しているのがふつうだったからである。
観音寺山と近江源氏
古代朝鮮式山城
さて、これまでみたのは湖南のそれであるが、それを湖西、湖北と全部みるわけにはゆかない。たとえば、一九七二年に四六判本の本書が出て以後、七四年七月三十日からの朝日新聞(滋賀)に同紙の重山美也氏による「近江の土壌」が連載され、さらにまた、八一年十一月十一日からの毎日新聞(滋賀)には同紙の石原進氏による「近江の渡来文化」が連載された。どちらも単行本一冊分はある分量で、そしてどちらにも新たな発見や指摘が多々あるが、しかしそれまでいちいちみていたのではきりがないのである。
それで、あとはもう一つだけ湖東の安土町あたりをみることで、近江はおしまいとすることにしたい。安土町は織田信長の安土城があったところとして有名で、いまはそこに近江風土記の丘資料館があるが、ここにはまた、古代朝鮮式山城があったところではないかといわれている観音寺山がある。この観音寺山の山城のことについては、私は一九七六年一月十八日付けのサンケイ新聞に、「近江・観音寺山の石塁/古代朝鮮式山城」という一文を書いているので、まずそれをうつすことにしたい。
――ある朝、考古学者の森浩一氏と私とは名古屋から国鉄に乗って、近江(滋賀県)安土町の安土駅におりた。二人とも前夜、名古屋で講演があったからだったが、安土駅におり立つと森さんは近くに見える小さな森を指さし、「あれが沙沙貴(ささき)神社ですよ」と言った。
「ああ、そうですか」と私は指さされた森を見たが、それはあとのことにして、安土駅前には打合わせていたとおりの人々が集まっていた。滋賀県文化財調査員の田中政三氏や八日市高校の佐野仁応氏、考古学者の李進煕氏らなどである。
そこで私たちは一団となり、さっそく安土駅から東方二キロメートルほどのところに立ちそびえている通称観音寺山の繖(きぬがさ)山に向かった。観音寺山は標高四三三メートル、中世から佐々木城となっていた古い山城である。
しかし、これが中世にできた山城ということであれば、私たちはわざわざそこまで登ってみることもなかったはずである。が、それは中世になってはじめてできたものではなく、これもその以前は福岡県の久留米市にある高良山城や、岡山県の総社市にある鬼の城と同じ古代朝鮮式山城だったものではなかったか、ということがあったからだった。
屈折した、しかし風格のある長い石段を登りつめると、頂上のそこは観音正寺という寺院となっていた。観音寺山という通称は、それからきたものだったこというまでもない。
「ここは山の頂上でありながら湧き水の豊富なところで、これがとてもうまいんですよ」と言って、佐野さんは顔見知りの寺の人からその水をヤカンに一杯もらってきてくれたが、なるほどうまい水だった。気がついてみると、寺院の境内はいたるところ湧き水だった。
私たちはその水でのどをうるおし、「さて」というわけで、田中さんや佐野さんについて寺の境内からちょっと出てみると、どこもかしこも人工の塁々たる石積み、石塁(せきるい)ばかりだった。中世のものだという石積みの井戸もあって、それにも湧き水がたまっている。
中世にはそこが本丸だったというところから、さらにまた私たちはあちこちとめぐり歩いたが、要するに、面積およそ二〇〇万平方メートル(約六〇万坪)もある全山がその石積み、石塁であった。そしてその石塁がそのように整備され、拡張されたのは中世に佐々木城となってからであろう、というのが田中さんや佐野さんの意見だった。
するとそこには中世以前、古代からの石塁もなくてはならないが、しかしそれがどれであるか私たちにはあまりさだかでない。考古学者である森さんと李さんとは、「これはどうかな」などと言いながら、一つ一つていねいにみていたけれども、なかなか容易に結論は出ないようだった。
だが、素人の私はその石塁をちょっとみただけで、すぐ田中さんや佐野さんの意見に賛成してしまった。私がこれまでにみたその石塁を神籠石(こうごいし)ともいう古代朝鮮式山城は、高良山城などさきにあげたもののほか、福岡県行橋市の御所谷、山口県大和町の石城山、長崎県対馬の金田城などがあるが、石塁はどれも観音寺山の佐々木城とほとんど同じものだった。
古代朝鮮式山城に欠くことのできない特徴は、谷間に水門の石塁があるかどうかで、この日は深い樹木におおわれたそこまで調べてみることはできなかったが、しかし、かりにもしその水門がなかったとしても、山頂にまで湧き水が豊富であったとすれば、それはなくてもよかったのではないか。それにまた、周囲にある遺跡や文献のうえからみても、観音寺山のこれも中世以前は古代朝鮮式山城であったろうことが、容易に推測できると思われた。
観音寺山の頂上に立ってみると、近江の湖東平野が一望のもとにはいったが、目の下のそこには最初にみた沙沙貴神社のこんもりとした森も見えた。延喜式内の古いその神社は、中世にこの観音寺山の佐々木城を本拠としていたいわゆる佐々木源氏・佐々木氏の氏神だったもので、この佐々木氏はまたその以前は狭狭城(ささき)氏ともいったものである。
では、狭狭城氏となるそれ以前はどうであったかというと、これは『日本書紀』雄略天皇の条にみられる「近江の狭狭城山の君韓〓(からぶくろ)」ではなかったかと私は思う。雄略の時代すでに近江には「狭狭城山」というのがあったことがこれでわかるが、そしてさらにまた、この狭狭城の狭狭はどこからきたものかというと、それは古代の近江一帯に展開した息長(おきなが)氏族がその守護神としていた敦賀・気比(けひ)神宮の祭神である伊奢沙別命(いささわけのみこと)の奢沙からではなかったかと思う。
気比大神ともいう伊奢沙別命とは、古代朝鮮=新羅・加耶系渡来人集団の象徴であった天日槍(あめのひぼこ)のことである。近江はこの天日槍に関連した古代遺跡の実に多いところで、「狭狭城山の君韓〓」から発した観音寺山の佐々木城もその一つだったにちがいない。――
文中、「では、狭狭城氏となるそれ以前はどうであったかというと、これは『日本書紀』雄略天皇の条にみられる『近江の狭狭城山の君韓〓』ではなかったかと私は思う」とあるが、その後わかったことで、引用した『日本書紀』と同じようなことが『古事記』安康段にもあって、それはこうなっている。
淡海(おうみ)〈近江〉の佐佐紀山君(ささきやまのきみ)の祖(おや)、名は韓〓白(からぶくろもう)さく、淡海の久多綿(くたわた)の蚊屋野(かやぬ)に猪鹿(し し)多かり。
これでみると、「ではなかったかと私は思う」もなにも、狭狭城山の君、すなわち近江の佐佐紀山君の祖は韓〓という古代朝鮮渡来のそれにほかならなかったのである。そしてこれがのちいわゆる佐々木源氏となって、観音寺山麓に氏神としての沙沙貴神社を祭り、さらにまたそれが湖南の大津のほうに進出しては、新羅(善神堂)神社をいつき祭ったのである。
沙沙貴神社を訪ねて……
大津市の三井寺(園城寺)とともにある新羅神社は本文ならびに前項でみているとおりであるが、どういうわけか私は、村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷」にも出ている沙沙貴神社はまだみていなかった。それでこんどこの「補足」を書くにあたり、湖東の安土町にあるその神社まで行ってみた。
観音寺山がすぐそこに見える国鉄東海道本線の安土駅におりると、沙沙貴神社は歩いて十分ほどのところにあった。思っていたより雄大な神社で、「ほう」と私は思わず目をみはるような思いをしたものである。「沙沙貴山君の祖神」(韓〓)を祭るこの神社は、神社本庁編『神社名鑑』によると、「崇敬者二万」とあって、その「由緒沿革」はこうなっている。
延喜式内の古社。景行天皇が滋賀の高穴太〈穂〉に皇居を定め給いし時、沙沙貴の社殿を御造営せられる。宇多源氏、近江源氏の祖神として、源氏末流のものから崇敬せらる。大正九年県社に列す。
境内の一角にある社務所に寄ってみると、人は不在だったが、「沙沙貴神社社務所」の大きな表札とならんで、これも同じ大きさの「近江源氏/沙沙貴神社 全国佐々木会」の表札がかかっており、横に小さく「近江源氏 佐々木同族 佐々木一門/宇多源氏 佐々木一家分系の会」とある。要するに、「佐佐紀山君の祖」(韓〓)に発した佐々木氏の流れは今日なおそのような会のもとに、結集をたもっているもののようであった。
安土まで来たついでに、近くにある近江風土記の丘資料館をたずねてみることにした。この資料館にはたしか十年ほどまえにも来たことがあったが、当時とはまったく見違えるようなものとなっていた。
館内の陳列品も充実していて、銅鐸の祖型といわれる小さな青銅馬鐸から、大きな袈裟襷文銅鐸などまでそろっているのもさることながら、近年、加耶諸国の故地である韓国の慶尚南道からも出土している鉄製短甲に私は目をひかれた。一つは、私は韓国・釜山の東亜大学博物館に陳列されているそれと同様の短甲をみているからでもあったが、この短甲は慶応大学考古学教室の江坂輝弥氏もみていて、そのことを江坂氏はこう書いている。
また最奥の手前の室には、慶尚南道西北部の咸陽郡水東面上栢里古墳出土のすばらしい鉄製短甲が陳列されているが、この短甲は日本の各地の古墳出土のものや、埴輪の短甲とも近似したもので、伽〓〈加耶に同じ〉文化の影響が日本の古墳文化にいかに強大であったかを如実に示す好資料である。(「東亜大学校博物館を訪ねて」)
そういうこともあって、私は何となくなつかしいような気分でその鉄製短甲に目をこらしたものであるが、そればかりでなく、さらにまたそこにはこれも古代朝鮮のそれである金銅〓具・金銅〓帯・金環・銀環・銅環などの出土品も陳列されていた。しかしこちらのほうはその説明書きをみて、私はがっかりしてしまった。そこにこう書かれている。
朝鮮侵略にともなう大陸との交流によって、さまざまな文化が移入され、多くの技術者が渡って来た。金銀を使用した種々の工芸品も、これらの技術者によって始められた。豪族たちは、大陸の王族のごとく、この金銀の工芸品を身につけ、権力を誇示した。
いわば、侵略主義的皇国史観=帰化人史観からのそれであることはいうまでもないであろう。このような資料館にしても、こういうことがいまなおあとを絶たないのは、いったいどうしてだろうかと思わないわけにゆかない。
私はこの資料館で、滋賀県文化財保護協会がだしている、なかなかよくできた「文化財教室シリーズ」のリーフレットをいくつか求めてきたが、それの「二八」に『三尾君と息長真人』というのがあって、そこに湖西の稲荷山古墳出土の典型的な古代朝鮮のそれである環頭や金製耳飾を説明したこういうくだりがある。
高島郡高島町を流れる鴨川のほとりには有名な稲荷山(いなりやま)古墳をはじめ数基の古墳があり、水尾神社に続く丘陵にも古墳群があり、このうち稲荷山古墳は六世紀初めの代表的な古墳で、昭和三九年に県の史跡に指定され、その出土品は豪華で朝鮮半島との結びつきが考えられることで有名です。
すると、この「結びつき」にしても、「朝鮮侵略にともなう大陸との交流によって」もたらされたものだったというのであろうか。そのような「豪華」な出土品の持主であった豪族、すなわち稲荷山古墳の被葬者自身、朝鮮渡来の息長氏族から出た者なのだから、そんなことは決していえないはずである。
古代近江と古代朝鮮の結びつき
さいごに、読者から送られてきた新聞の切抜きをいくつか紹介して、近江のこの項はおしまいとしたい。まず、一九七九年九月九日付けの毎日新聞(滋賀)に「安曇川町の南市東遺跡/渡来人が集団で住んでいた?/七次調査で発掘されたカマド跡/朝鮮半島の『移動式』/町が調査概報で推定」というのがある。
ついで、一九八一年六月十二日付けの同紙(滋賀)には「スマートな碗、出土/安曇川町の南市東遺跡/取っ手付き みごとな色/朝鮮半島渡来人の作?」というのが出ている。そして、七九年十一月十一日付けの京都新聞には「古墳時代の渡来人の集落跡?/大津の穴太下大門遺跡発掘調査終わる/近江遷都裏付けも/土師器など二千点出土」とある。
こうみてくると、これからまだなにが出るかわからないが、それからまた、一九八一年十二月十九日付けの東京新聞には「滋賀に平安初期の誕生釈迦仏/京都国立博物館で確認」というのが、可愛いその誕生仏の写真とともに出ていてこうある。
古代朝鮮・新羅系の流れをくむとみられる誕生釈迦仏立像が滋賀県高島郡高島町の長谷寺(武蔵秀知住職)でこのほど見つかった。寄託先の京都国立博物館で調べた結果、平安時代初期(九世紀)の作と分かり、古代近江と朝鮮の密接な結びつきを物語る資料と注目されている。
「大和三山歌」について
渡来人の寺
近江で予想以上の紙数をつかってしまったので、大和(奈良県)はそれだけかんたんにしなくてはならない。それにしても大和ではまず、私の自家広告めいたことをちょっとさせてもらいたいと思う。
というのは、今年の五月、「檜隈寺と坂田寺」という副題をもった『渡来人の寺』という一冊の図録が私に送られてきた。発行所をみると、「奈良国立文化財研究所・飛鳥資料館」とある。
私は、みごとなカラー写真からなっている大判のこの図録を手にして、そこに書かれた「渡来人」ということばに、ある感概をおぼえないではいられなかった。「ああ、やっとここまできたのだ」との思いからでもあった。
さきごろ、司馬遼太郎・上田正昭・金達寿編『日本の渡来文化』が中公文庫となったとき、一九八二年十月二十二日号の『週刊朝日』「週刊図書館」にこれが紹介されて、「かつて『帰化人』と呼ばれていた古代に朝鮮から日本にやってきた人々のことを、『渡来人』と呼び直すように提唱したのは金達寿だが、ようやくこの呼び名も定着したようである」と書かれたときもうれしかったが、こんどはそれが日本の奈良「国立」文化財研究所によっても、「公式」に認められたわけだったのである。
なお、この『渡来人の寺』は、奈良国立文化財研究所長・坪井清足氏の「序」にはじまるその目次を紹介するとこうなっている。ここ数年来、新たに発掘された檜隈(ひのくま)寺・坂田寺跡と出土品の「原色図版」「飛鳥の渡来人」「渡来人の寺」「檜隈寺と坂田寺の建築」「飛鳥の渡来人探索表」「東漢氏と鞍作氏の史料年表(抄)」「坂田寺・檜隈寺関連史料」。
さて、それはそれとして、近江と同じく、私はこの「文庫版への補足」を書くにあたり、飛鳥を中心とした大和も、久しぶりにまたひとまわりしてみた。晩秋の日で、やはり飛鳥(明日香)はしっとりとした歴史の地であった。
あいかわらず見学者や観光客はあとを絶たないようで、私もそれらの人たちにまじり、本文では書くことのできなかった明日香村祝戸の坂田寺跡から、近くの石舞台古墳にも行ってみた。坂田寺はいまはその跡もあるとはいえず、そこにあるのは人家ばかりだったが、わずかに明日香村による掲示板がたっていてそれにこうある。
坂田寺は鞍作鳥の居住したところで、その祖先である司馬達等が来朝して草庵を結んだところでもある。推古天皇十四年、飛鳥寺の丈六仏を造りこれを安置した功績によって近江坂田郡で水田二十町歩を与えられた。そこでこの田をもって天皇のために金剛寺を創建したのが、南淵坂田尼寺であると伝える。持統天皇の頃は飛鳥五大寺の一寺院として隆盛したことが知られるが、どのような規模であったか全くわからない。
石舞台古墳では、奈良女子大生のアンケート調査に応じたりして、古墳前の売店に立寄り、青山茂解説・小川光三撮影の写真集『飛鳥』ほかを買い求めた。青山茂解説の写真集『飛鳥』は本文の「高松塚壁画古墳」の項にも引かれているが、しかしこんどのこの『飛鳥』は高松塚壁画古墳以後に書かれた新版で、「『飛鳥』の地名」という項があったりして、こう書かれているのが私の目をひいた。
「飛鳥」(とぶとり)と書いて「あすか」と読む。なぜ、飛ぶ鳥が「あすか」なのであろうか。そして「あすか」というのは、いったいどういう意味を持っているのであろうか。
「あすか」の地名の起源については諸説ある。だが、次の説は、飛鳥の土地がらとともに、飛鳥時代の時代背景を踏まえて、まことに魅力のある説ではないだろうか。それは、「あすか」は「安宿」からの転化だという説である。
大陸からの帰化人たちは、波荒い玄界灘を乗りこえて北九州にたどり着き、さらに瀬戸内海の島々の間を縫って大阪湾へ。ここからまた舟で大和川をさかのぼるか、陸路大和路に入り、やっとたどり着いた安住の土地としてここを「安宿」とよんだ。それは、あたかも季節の渡り鳥が、はるかな飛翔の末に、羽根を休める安住の木立を見つけた気持であったにちがいない。
だから「あすか」という地名は、必然的に飛ぶ鳥を連想させたのだ。その連想がいつしか、飛ぶ鳥を「あすか」の枕詞とし、さらに「飛鳥」と書いただけで「あすか」と読ませることになったのだ、というのである。その真偽は今後の学問的検討にゆずるとして、飛鳥の地に多くの帰化人が住みつき、この地を舞台にして大陸からの新しい文化である仏教をめぐるさまざまの政治劇が演じられた土地がらと歴史を考えるとき、この説は強い説得力をもって迫る。飛鳥という土地は、そのような国際的な視野のもとでの歴史の舞台なのである。
いうところの大和朝廷のあった「飛鳥という土地は、そのような国際的な視野のもとでの歴史の舞台なのである」とは私も大いに賛成である。ついでにいえば、「安宿」は朝鮮語でアンスクというが、それがアスク・アスカとなったのではないかと思われる。近つ飛鳥ともいう河内飛鳥のある河内(大阪府)の安宿(あすか)郡の例からみても、それはうなずけるのではないかと思う。
「天香具山……」を古代朝鮮語で詠む
ついで私は、道昭、行基など飛鳥時代の高僧がほとんどみなそうであったように、これも百済系氏族より出た義淵の創建といわれる岡寺から飛鳥寺をへて、飛鳥北方の天香具山(あまのかぐやま)にいたった。石舞台古墳同様、岡寺や飛鳥寺も何度も行っているところで、別にこれといったことがあったからではなかった。
飛鳥まで来たからには何となく、ということでだったが、三角の形でならんでいる有名な大和三山の一つである天香具山はあらためてもう一度、ということがあったからである。というのは、一九八三年五月五日付けの毎日新聞に、「主婦がユニークな新解釈/『万葉集』は恨みの“政治歌”/「大和三山歌」など/古代朝鮮語で解読」という見出しの、次のような注目すべき特集記事が出ていたからである。
万葉集の中大兄(天智天皇)や額田王らの歌は“万葉びとが雄渾に歌いあげた叙情歌”のように見せかけてて、内実は“血で血を洗う権力闘争の恨みつらみを込めた政治的内容の歌が多い”――一主婦の中野矢尾さん(四八)=東京大田区久が原=がユニークな“新解釈”をすすめています。
万葉の研究は幾多の学者サンがあらゆる角度から掘り下げていて、素人の出る幕じゃないって感じですが、学問は自由でありまして、こんな万葉の読み方があったのか――と改めて感心させられるところが、素晴らしいのです。あの漢字だけで書かれた万葉集を万葉びとが「どんな声を出して読んだのか」は解明されていないのですから。日本語がほぼ確立した平安時代には読めなくなった万葉集――中野式解読だって一つの方法、プロには通用しないでしょうか。(諸岡)
例えば中大兄の「大和三山の歌」(13番)は――
高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相諍競伎 神代従 如此有良之 古昔母 然有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
この歌、一般的には、
「香具山は 畝火雄々しと耳梨と あいあらそいき 神代より かくにあるらし いにしえも しかにあれこそ うつせみも つまをあらそうらしき」などと読み、意味は「香具山は畝火山を男らしく立派だと感じて、その愛を得ようと耳梨山と競争した。神代よりこうであるらしい。昔もこのようであったからこそ、現世でも一人の愛を二人で争うことがあるらしい」(日本古典文学大系)となるのですが……。
中野式は万葉原文を古代朝鮮語の音訓で読んでみようという試みで、万葉時代は当然のごとく朝鮮半島の言語が日本でも通用していたであろうことから、説得力があるわけです。一語一語の解釈・説明のスペースがないので、略しますが、〔13番〕の歌の大意は、
「香具山(高句麗)は畝火山(百済)に高句麗の守護神を祭って、その土地を収めているとして、耳梨山(新羅)と相争った。神代より(三韓時代から)韓の本家本元も同様であるらしい。だからこそ、現世のぬけがらとなった新羅系氏族は、いまだに百済系氏族と争うらしい」
となるのです――
記事は、まだつづいている。いまみた〔13番〕につづいて、〔14番〕〔15番〕も同様の読み方が紹介され、「中大兄の三山歌は、三首とも新羅系を恨む歌で共通されているというワケです」とあるが、そのことは、当時の歴史的事実に照らしても、大いにうなずけるような気がする。
私はさきに、「『壬申の乱』と朝鮮三国」という論文を書いているが(『古代日朝関係史入門』に収める)、中大兄の生きた時代の大きな出来事、すなわち六四五年の「大化の改新」や、国をあげての百済救援軍の派遣(「白村江の敗退」)など、それらはみな朝鮮三国の高句麗・百済・新羅の制覇戦を反映したものにほかならなかったのである。中大兄は、そのうちの百済・高句麗の側についていたのであった。
『万葉集』と新羅郷歌
ところで、いまみた記事中の中野矢尾氏は「言語交流研究所評議員でもある」のだから、主婦であると同時に学者でもある、といわなくてはならない。しかしそれはどちらにせよ、『万葉集』と「古代朝鮮語の音訓」である朝鮮の吏読(りと)(漢字の音訓を用いて朝鮮語を表記した文字)との関係に着目したのは、右の中野氏がはじめてではない。
私の知る限り、そのことを学問の場に引きだしたのは、『国文学の哲学的研究』などの著者として知られていた故土田杏村で、同氏は日本の万葉仮名=万葉集の源流が、朝鮮の吏読=新羅郷歌からきたものであることを明らかにした。その研究は、一九三五年に出た「土田杏村全集」第十三巻『文学論及び歌論』に収められている。
それからまた、学者としては中島利一郎氏も「『新羅郷歌』を知らずして、『万葉集』の成立ということは殆(ほとん)ど考えられぬであろう」(『日本地名学研究』)と書いているが、いまさっきみた中野氏と同じように、新羅の吏読法で『万葉集』を読むという試みもすでにおこなわれている。私は一九七六年夏、重山美也氏から朝日新聞(和歌山)の切抜きを一枚もらったが、それは、「恋歌でなく雄略天皇の即位宣言/和歌山の宮本さん/万葉集冒頭歌に新解釈」という見出しの、こういう記事であった。
教科書にも登場する万葉集巻一の冒頭歌、雄略天皇の「この丘に 菜つます児(こ) 家聞かな 名告(の)らさね……」は、万葉の問題歌の一つになっているが、和歌山市紀三井寺、郷土史家宮本八束さん(七七)がこのほど「この歌は雄略天皇の即位宣言。服して聞け、我こそは天皇なり、という意味の歌だ」という新解釈をし、小さな論文にまとめた。
この歌の読み方は、学者によって多少の違いがあるが、教科書などの一般的な読み方は、
籠(こ)もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この丘に 菜つます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ坐(ま)せ われこそは告らめ 家をも名をも
「通りがかりの雄略天皇が、若菜摘む少女に声をかけ、堂々と自分から身分を明らかにし、求愛した」と解され、いかにも古代らしい人間天皇の姿が浮き彫りにされた秀歌、とされている。
宮本さんは雄略天皇の事跡を調べているうち、日本書紀の雄略像と万葉のイメージが、あまりにも違うのに疑問を持った。古代朝鮮語を漢字で表現した吏読法を使ってこの歌を読み直したところ、
こもらすも とみこもらすも ちふくしも とみふくしもち ……
「至急告知するぞ。知りて服しつかえよ。……世の人を安どせしめる泊瀬(はつせ)朝倉の高御座に至急服しつかえよ。なんじ臣民よく聞け。この大和の国に、法令によって我は王座にある。我こそは天皇なり。……」という意味で、雄略天皇の即位宣言を裏に隠した歌という。
「われこそは大王(おおきみ)なり」と訳したほうがよかったのではないかと私は思うが、それはどちらにせよ、これまた、さきの中野氏による「大和三山歌」のそれと同じように、『万葉集』巻一の冒頭歌も、このように読むほうがずっとリアリティーに富んだものとなるように思われる。
万葉仮名=万葉集と、吏読=新羅郷歌との関係については、今後とももっと深く追究されなくてはならない。そうなれば、さらにまた新たな事実が明らかとなるにちがいない。
古墳出土の鉄製品は
朝鮮半島から持ちこまれた鉄
以上は、いわば文献によるそれであるが、もちろん大和でも、考古学上の新たな発見が少なくなかった。これも新聞によってみると、一九七九年九月二十二日付けの毎日新聞に、「最古の唐草文様浮き出る/またレントゲン撮影の威力/大刀環頭部に象がん/六世紀の岡峯古墳(奈良)出土」という見出しの記事が出ている。
そして、「環頭大刀に唐草文様と三角文が描かれているのは、わが国では初めてである」というそれについて、石野博信奈良県立橿原考古学研究所調査課長のこういう談話がのっている。
この大刀と岡峯古墳の構造などを合わせ究明してゆくと、朝鮮半島―北九州―瀬戸内海―紀州―大和のコースで伝来したとみられる唐草文様の伝来の様子が明らかになると思う。
また、一九八二年十月五日付けの毎日新聞には、「古代のアクセサリー/奈良県御所市の古墳/歩揺付きの肩飾り/金銅製二点出土」とした見出しのもとに、「朝鮮半島などでは見つかっているが、わが国では初めて」というそれのことが報じられている。それからまた、八三年八月七日付けの奈良新聞には、「大陸伝来の有力豪族/鉄刀、剣ほぼ完形で/五世紀前半 勾玉、金環など多数/五条の今井一号墳」という記事が出ており、そのはじめはこうなっている。
五条市内に現存する数少ない前方後円墳、同市今井町の今井一号墳の発掘調査をしていた県立橿原考古学研究所は六日、この古墳が築かれた時期は竪(たて)穴式石室や出土品から五世紀前半で、被葬者は大陸・朝鮮半島からの文化を大和朝廷に伝えた有力な豪族であった、と発表した。また、後円部の石室低部から刀剣二振り、金環、前方部からは三角板鋲留短甲(さんかくばんびょうどめたんこう)、埴輪(はにわ)、肩よろいなどの副葬品が多数出土した。
前期古墳に近い五世紀前半のそんな古墳が、飛鳥西南方の五条市で見つかったとはおどろきで、しかもそれが一九八三年になってからなのだからおもしろい。というのは、それとこれと直接の関係はないけれども、この一、二年、奈良県立橿原考古学研究所は二つのたいへん意義ある実験をした。
その一は八三年十一月、ファイバースコープを使って、高松塚壁画古墳のある檜隈(ひのくま)でさらにまた亀虎壁画(四神図)古墳を見つけたことであり、その二は前年の四月、大和地方古墳出土の鉄製品の原産地を明らかにしたことであった。後者の鉄製品のことについては、八二年四月十日付けの朝日新聞(奈良)が、「朝鮮半島産の砂鉄か/大和地方出土の古墳時代刀剣や矢じり/分析結果似たデータ/橿原考古研/出雲地方産とも違い」という見出しのもとに、こう報じている。
大和地方で出土した古墳時代の刀剣、矢じりなど、鉄製品の原料は砂鉄が使われ、それも国内産ではなく、どうやら朝鮮半島から運び込まれた可能性が出てきた――。なぞに包まれた古代の鉄生産、流通過程を究明するため、県立橿原考古学研究所の古代刀剣研究会技術的研究班(班長・勝部明生同付属博物館次長)が、島根県安来市の日立金属安来工場冶金研究所に協力を仰いで古墳時代前期から後期にかけての鉄製品を調べたもので、朝鮮半島南部の伽〓〈加耶〉(かや)地方のものとよく似ているという。
分析試料には、県内の四世紀から六世紀にかけての古墳、メスリ山古墳や新沢千塚古墳群、石光山古墳群など、六十基から出土した刀、剣を中心に、矢じりや馬具、くぎ、よろいなどの鉄製品百六点を使った。原子吸光分析法などにより、サビや断片から鉄、炭素、チタンなど十三種類の元素の割合をチェック、まず、長い間、土に埋まっていたり布など有機物に包まれていても変動の少ないチタン、クロムなどの量をもとに、原料が砂鉄であるか、鉄鉱石であるかを推定した。
記事はまだつづいているが、これに対し、それからちょうど五ヵ月がたった八二年九月十日付けの読売新聞(大阪)は、「古墳時代・大和の刀剣/砂鉄原料説を覆す/日立金属研/朝鮮からの輸入品」という見出しのもとに、こう報じている。
大和の古墳から出土した鉄製刀剣の原料は、砂鉄ではなく赤銑鉱か褐鉄鉱で、朝鮮半島から鉄素材か刀剣製品で輸入されたとみられる――。
ちょっとした「論争」のようであるが、しかしそれはどちらにせよ、それらの鉄製品が古代南部朝鮮からきたものであるということに異論はない。しかしながら、それが「朝鮮からの輸入品」であるといえるかどうか。
なぜかというと、いうまでもないであろうが、当時の朝鮮にはそういう刀剣、矢じり、馬具などの鉄製品を「輸出」する会社はなかったし、また日本にもそれを「輸入」する商社などなかったのである。したがって、大和地方古墳出土の鉄製品が古代朝鮮産であるということは、そういう鉄製品を持った人間がそこから渡来したということにほかならないのである。
八三年十一月に見つかった飛鳥の亀虎壁画(四神図)古墳については、同十一月十八日付け東京新聞に、南山大学の伊藤秋男氏が「亀虎古墳と朝鮮の壁画古墳」を、また同十二月二日付けの朝日新聞には成城大学の上原和氏が「壁画の主役は四神図/見逃せぬ朝鮮の影響/広くとらえたい関係史」という一文をそれぞれ寄せている。
☆
以上の補足とはまた別に、前二冊と同じように本文を読み直すことで、かなりの加筆をした。そして、『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第三冊目の本書(文庫版)がこうして成ったのも、講談社常務取締役兼学芸局長の加藤勝久氏ならびに、同社文庫出版部の宍戸芳夫氏、守屋龍一氏、それから木村宏一氏らの好意と努力とによるものである。ここにしるして、感謝の意を表したい。
一九八三年十二月 東京
金 達 寿
日本(にほん)の中(なか)の朝鮮文化(ちようせんぶんか) 3
電子文庫パブリ版
金達寿(キムタルス) 著
(C) 金達寿記念室設立準備委員会 2001
二〇〇一年四月十三日発行(デコ)
発行者 中沢義彦
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
e-mail: paburi@kodansha.co.jp
製 作 大日本印刷株式会社
*本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。