TITLE : 日本の中の朝鮮文化 2
講談社電子文庫
日本の中の朝鮮文化 2
金 達 寿 著
目 次
まえがき
山 城
宮内省に坐(いま)す園(その)・韓(から)神社
広隆寺と秦氏族
大田神社の里神楽
八坂と高麗氏族
木津川に沿って
摂 津
摂津国百済郡
比売許曾の女神
四天王寺をめぐって
源八橋から桑津町ヘ
住吉大社と新羅
淀川を渡って北摂ヘ
伊居太(いけだ)神社の朝鮮兜
和 泉
百舌鳥古墳群と百済
行基の家原寺と土塔
須恵器窯跡とその古墳
伽羅橋と高石神社
河 内
白木と多々良
「騎馬神像」をたずねて
葛井寺と辛国神社
百済王族をめぐって
神社の神体をみる
高句麗系の古墳と神社
中河内から北河内へ
松岳山古墳群と玉手山
誉田八幡宮と天満宮
近つ飛鳥を歩いて
文庫版への補足
山城の秦氏と摂津の三島
難波の新羅と和泉・河内
まえがき
さきに私は関東地方の朝鮮文化遺跡をたずね歩いた紀行をまとめて一冊とし、『日本の中の朝鮮文化』として講談社から刊行した。ちょうど一年まえのことであるが、これはそれにつづく第二冊である。第一冊は関東だったから、第二冊のこれは関西地方の、というつもりだった。しかし、関西地方全域となると、それは無理だろうということがわかっていたので、これは「畿内とその周辺」ということにして、京都の山城、大阪の摂津、和泉、河内、奈良の大和、それに滋賀の近江といったところにしようと考えていた。
さきの第一冊とおなじく、これも「朝鮮遺跡の旅」として雑誌『思想の科学』に一九七〇年九月号より七一年十一月号まで連載したものである。そうだったから、この連載では山城の次に近江のことが書かれ、ついで摂津、和泉、河内ということになったものだった。だが、書きつがれていくうちに、しだいに予想以上のものとなり、ついにこの第二冊は近江ばかりか、大和をも残して、この分は第三冊とするよりほかなくなった。
しかし、それにしても――と、私はこんなことからもまた考えさせられずにはいられない。というのは、私がたずね歩いている古代朝鮮文化遺跡なるもの、これは関東より関西地方のほうがはるかに濃厚・濃密であるだろうとは、あらかじめわかっていた。だが、これがまたその予想をはるかに上まわるものであった、ということである。これはいったい、われわれになにを物語っていることなのであろうか。さきの第一冊の「まえがき」で、私はひとりの文学者ではあっても、けっして歴史学者といえるようなものではないが、しかし、朝鮮と日本とのそれに関するかぎり、これまでの伝統的な日本の歴史学にたいしてある疑問を持っているといい、次のように書いた。
「疑問というのは、一つはまず、日本古代史における朝鮮からのいわゆる『帰化人』というものについてである。端的にいえば、これまでの日本の歴史では、まだ『日本』という国もなかった弥生時代の稲作とともに来たものであろうが、古墳時代に大挙して渡来した権力的豪族であろうが、これをすべて朝鮮を『征服』したことによってもたらされた『帰化人』としてしまっている。ここにまず一つの大きなウソがあって、今日なお根強いものがある日本人一般の朝鮮および朝鮮人にたいする偏見や蔑視のもととなっているばかりか、日本人はまたそのことによって自己をも腐蝕しているのである」
このようなことがあったから、では一つ、朝鮮からのその「帰化人」なるものが今日になお残している古代文化遺跡を実地に見てみようではないか、ということで私のこの紀行ははじまったのだった。だが、じつをいうと、朝鮮から渡来したものの残したその文化遺跡がこれほどまでに濃厚・濃密なものであるとは、私も知らなかったのである。
しかも、うるさいほど引用がされていることからもわかるように、日本の学者たち自身によって書かれたものをつうじてみただけで、こうなのである。これまでの中心的な日本の歴史学、とくにその古代史学についての疑いはますます深くなるばかりというわけであるが、これはなにも私ひとりだけではなかった。そのことについてはこの第二冊の本文のなかでもちょっとふれているが、私はそれを、さきの第一冊を出したことによってはっきりと知ることができた。
いわばその反響によってであるが、第一冊が出てから、私は日本全国の読者からたくさんの手紙をもらった。そしてまた、第一冊のあいだにはさまれた「愛読者カード」もたくさん寄せられ、これもいま一千数百通に達している。これらはそのうちのわずか数通をのぞいて、いずれもみな私のこの仕事に強い共鳴を示したものばかりであった。私はこれまでにも何冊かの本を出し、そしてそれ相応の反響にも接してきたものであるが、しかしそれがこれほどにも直接的で、大きなものははじめてだった。
いつか、この紀行を「朝鮮遺跡の旅」として連載している『思想の科学』の鶴見俊輔氏と話したときのことである。
「いや、横道にはいりこんで、ちょっと抜け出られなくなったというわけですよ」と言ったところ、鶴見氏は急に目を怒らしたようにして、
「それ以上のライフ・ワークがどこにありますか」と言ったものだった。私はこのときの鶴見氏の目をいまも忘れられないでいるが、要するに、私はこうしたたくさんの人々に励まされてこの「旅」をつづけ、今後もまだつづけるのである。
本文にあるように、第一冊とおなじくこんどもまた周囲の友人たちや、たずねて行ったさきざきで多くの人々の協力を得たが、第二冊がこうして成ったのは、講談社学芸図書第二出版部伊藤寿男氏、阿部英雄氏、ならびに同社写真部の津久井昭氏、金井竹徳氏らの努力によるものである。記して、感謝の意を表したい。
一九七一年十二月 東京
金 達 寿
日本の中の朝鮮文化 2
山 城
宮内省に坐(いま)す園(その)・韓(から)神社
まずは京都から
畿内ということになれば、それは山城(背)、大和、河内、和泉、摂津のことで、いまの京都府・奈良県・大阪府をさしているこというまでもない。さらにその周辺ということになれば、これは近江(滋賀県)ほかなどということになるが、私はまず、山城の京都からはじめることにしたい。
私は京都、ことに太秦(うずまさ)にある広隆寺の弥勒(みろく)菩薩(ぼさつ)半跏(はんか)思惟像(しいぞう)が好きで、その近くの嵯峨野にしばらく住んだこともある。が、しかし、私がその京都を最初に訪れたのは、ようやく戦後になってからのことだった。
たしか一九四九年春のことで、友人の小原元や水野明善たちといっしょに、はじめて奈良・京都の旅をこころみたときのことだった。そのときの京都にたいする私の印象を一言でいうならば、「ああ、ここはソウルじゃないか」という、これだった。
ソウルとはもちろん朝鮮・韓国のソウル(京または都の意)のことで、私はそのソウルから日本へ立ち戻ってまだ四、五年しかたっていなかったせいか、四方を山にかこまれた盆地のなかにある京都のたたずまいをみて、ただ無条件にそう思ったものだった。いまにしてみると、ソウルと京都とはもちろんはっきりちがうのであるが、しかし、その中身のところで、どこか本質的に似通ったところがあったのかもしれない。
それはともかく、一九四九年以来、こうして私の京都通いがはじまった。それから二十数年、大和の奈良とともに、私はこの京都へいったい何度行っているであろうか。そしてついに朝鮮との関連でこのようなものを書くことにもなったのであるが、いざ書きだすとなると、また、あらためて何度か行ってみなくてはならない。
今木神は百済の「聖明王」
こんど行ったのは、これを書きだす直前の、一九七〇年七月のはじめだった。京都といえば、私にとってはそれの代名詞ともなっている広隆寺はあとまわしにして、京都で雑誌『日本のなかの朝鮮文化』を発行している鄭詔文(ジヨンジヨムン)たちといっしょに、平野宮本町にあった朝鮮・百済の聖明王が祭神とされている今木(いまき)(来)神の平野神社からさきにたずねることにした。まず、私があれこれいうより、日本の学者たちの研究によってみたほうが早い。赤松俊秀・山本四郎氏の『京都府の歴史』によると、その神社についてこう書かれている。
北野天満宮の北につらなる平野神社は、平安遷都の前年に大和国からうつされた。祭神の今木(いまき)の神は“今来”すなわち新来の帰化人の意を寓したといわれ、奈良の高市郡は今来郡ともいい、帰化人漢(あや)氏の根拠地であった。他の祭神久度(くど)の神・古開(こかい)の神は、ともにかまどの守護神、姫神は桓武天皇生母である。社格は延喜式の名神大社である。……
なお、社殿は平野造(ひらのづくり)または春日比翼(ひよく)造という特殊の様式で、二棟が相接しているので比翼の称がでた。戦国乱世後の再建であり、拝殿は東福門院の寄進になる接木(つぎき)の建造として知られる。
なおまた、内藤湖南氏はこの今木(来)神は「外来の神」とし、久度神は聖明王の祖である百済の仇台王(くたいおう)としている。そしていわゆる「帰化人」の研究で文学博士となった今井啓一氏は今木(来)神はただ「百済王某」だといっているが、金沢庄三郎氏や江戸時代の伴信友は、これをはっきり百済聖明王としている。
裏側の大通りから、タクシーの運転手たちがそこに車をとめて休んだりしている桜林の青葉道をはいって行くと、右手に正門の赤い鳥居が見え、左手が神社の社殿だった。社務所に寄って念のため由緒書をもとめると、それはちょうど切れてなくなったところで、いま新たに印刷中だという。
おなじ形の二棟が相接している、平野造または春日比翼造といわれる特殊な様式の社殿も珍しいものだったが、私には、その左手前に巨大な枝(というよりそれがまた幹だった)をさしひろげて立っている楠の大木も印象的だった。その楠の大木を見上げたりして、私たちは人のいないその辺をしばらくうろうろしていると、なにを思ったのか、社務所にいた白袴の宮司がそこへやって来た。
私はその宮司の手前、社殿の前へ進んで行き、小銭を二、三枚とり出して賽銭箱へ放り込んだ。ことの成り行きというものであろうか、ついで私は、もっともらしく両手を合わせて拝んだりしたものである。
そんなことをした自分に自分でてれながら、社殿のところから出がけにふと気がついてみると、神社の前には「今木神」についての古い小さな説明板があって、「皇室の崇敬も篤く……」などとある。私はそれを見て、なるほどと思った。
平野神社は現在の宮司の説明によると、今木の神、すなわち「上代文化の神」ということになっている。「上代文化の神」とはよくもいいえたりと思うが、しかし『京都府の歴史』にあるように、これは「新来の帰化人」を意味した今木(来)の神で、金沢庄三郎氏や伴信友のいっている百済の聖明王を祭ったものだった。そして、これははじめ「帰化人漢(あや)氏の根拠地であった」大和の高市(今来)郡・飛鳥にあったものだったが、のちには奈良の平城京へうつり、それからさらに桓武帝のとき、京都の平安京へと勧請(かんじよう)されて来たものであった。
桓武天皇の母
その今木(来)神が、どうしてこのように勧請されて来たかということについては、いずれまたみることになるはずであるが、あとから合祀(ごうし)されたとみられる「姫神」「桓武天皇生母」とは、高野新笠(たかののにいがさ)のことである。高野新笠は百済系渡来氏族の和(やまと)氏から出たもので、それで藤原清輔『袋草紙』にある次のような歌ができたりもしたものだった。
白壁(しらかべ)の御子(みこ)の御祖(みおや)の祖父(おおち)こそ 平野(ひらの)の神(かみ)の曾孫(ひひこ)なりけれ
「白壁」とは光仁帝のことであり、「御子」とは桓武帝のことで、その生母高野新笠の墓はいま右京区大枝町沓掛にある。こんど私はあることで京都に住む岡部伊都子氏をたずねることになり、これも偶然、最近出たその著『女人の京』を一冊もらったが、なかに「高野新笠陵」というのがあって、岡部さんはその墓をたずねたことを、次のように書きしるしている。
いつか、匹田鹿の子しぼりをたずねて、やはりこの里をたずねたことを思いだしながら車を走らせていると、人家の並ぶ中のちょっとした緑地に、何げなくひとつの碑が立っていた。
「桓武天皇御母御陵参道」
ここが、京に都をさだめた桓武天皇の、母たる女人の墓なのか。あまり広くない石段が、ずっと上の方にまでつづいている。ほとんど、人が訪ねてこないのであろう。……
石段に散りたまった落葉が、踏みしめられてさりさりと音をたてる。二、三羽の山鳩が急に舞いあがる。おだやかなたたずまいの、あたりの丘や家を見はるかしながら石段をのぼってゆく。ふとひとすじの道になって、その向うに、簡素な御陵がみえた。海抜百五十メートルくらいはあるだろうか、あるいは、二百メートルもあるかも知れない。閑寂の境である。
桓武天皇の母、高野新笠(たかののにいがさ)は、百済氏族からでて、白壁王(のちの光仁帝)の夫人となった人だ。きっと、きめこまやかな朝鮮のはだをもった、楚々たる美女であったことだろう。
そして岡部さんは、最後にこう書き加えている。実は、私も近くにあった樫原(かたぎはら)廃寺跡へは行ってみようと思っていたのだったが、そこも岡部さんはたずねているので、ついでにこのくだりをもかりて示すと、それはこうなっている。
西山は夕暮れが早い。ふたたび、静かな石段を降りて、近くの樫原内垣外町の造成地をたずねた。ぐんぐん建てつまってゆく住宅地の中に、僅かな土地があやうくのこされている。ここは、高句麗(こうくり)式寺院の伽藍配置をとった瓦積基壇や、珍しい八角塔の心礎が発掘されたところだという。それは発掘後いったん覆土している。だから、この土の下にそのような貴重な遺跡がひそんでいるとは思われない。今の間に手厚く保護し、遺跡である標識を明確にしておいてほしい。白鳳時代、京はまだ都でなかったむかしに、地方の寺と思われない立派な寺院が建っていたのだ。日本文化の基礎はすべて、渡来の人びとによって創られている。だのに、明治以後の朝鮮侵略のために、戦後の現代でもなお、朝鮮を蔑視する傾向がのこっている。渡来文化が見事に日本化してゆく平安時代は、渡来氏族出身の女人を母とする天皇からはじまったのだ。高野新笠は、自分が味わったことのない民族差別の実状を、とても理解することはできないだろう。
宮内省に祭られた神々
それから、これは京都大学の上田正昭氏に教えられて知ったのだったが、次は、『延喜式』にある「宮内省に坐(いま)す神三座。並名神大。月次(つきなみ)・新嘗(にいなえ)。園(その)神社・韓(から)神社二座」というのをたずねてみることになった。京都もうっとうしい長梅雨の季節だったが、この日は、珍しくからりと晴れ上がった暑い日だった。
私たちはその暑い陽ざしにさらされながら、上田さんともども知恵光院通りを上ったり下ったりして、それのあったところをさがして歩いた。上田さんは案外まめなところがあって、その辺の人家に寄って行ってはきいたりしたが、しかしわからない。
平安京が廃されるのといっしょに、そこの宮内省にあった園・韓神社なるものも東京へうつったはずだということはわかっていたが、しかし、その跡はまだ残っているのではないかと、私たちは思っていたのである。上田さんが京都市史編纂委員会に電話をしてきいたところ、それのあった場所は、現在のNHK京都放送局あたりだろうということだったので、そのあたりもあちこち歩いてみたが、やはりわからない。
児童公園があって、隅に小さな社があったけれども、それは別ものらしかった。で、しまいにはそこのNHK京都放送局にまで立ち寄り、同放送部の清水良夫氏をわずらわして、一八六九年の明治二年に出た珍しい京都市街地図の復刻版まで見せてもらったりしたが、結局わからなかった。
しかしながら、それが東京にうつっていまは宮内庁にあるのかどうかは知らないが、いま見た地図にもそれだけははっきりとしるされていた、平安京の宮内省だったそこに「宮内省に坐す園神社・韓神社二座」という神社のあったことは確かなことだった。上田正昭氏の『神楽の命脈』「韓神のまつり」によってみると、それは今日なお行なわれている宮廷神楽とも深い関係があって、こういうものだったのである。
『古語拾遺』についで、神楽という文字がみえるのは、貞観に撰定された『儀式』の園并(ならび)に韓神のまつりの条である。園とは園神(そのかみ)のことで、『延喜式』に「宮内省に坐す神三座(並名神大・月次・新嘗)」とある「園神社・韓神社二座」が、いわゆる園神と韓神の社である。宮内省に祭られた神々であった。園并に韓神のまつりは、十一月新嘗祭の前の丑の日と二月に行なわれる春日祭の後の丑の日になされた祭儀である。したがって十一月のまつりは、鎮魂の前日ということになる。
儀式には、当日神部二人が賢木を神殿の前庭にたて、庭火をたく。御坐が微声で祝詞を奏し、湯立(ゆたて)の舞や和舞(やまとまい)〈さきにみた百済系和氏の舞ということである=金〉などがあって、大臣以下退出の後に御坐・物忌・神部らの歌舞がある。この両神殿前での御坐らの歌舞を『儀式』では神楽とよんでいる。このまつりの内容は、十一世紀はじめの『北山抄(ほくざんしよう)』や前にのべた『江家次第』にも記述されているけれども、そのなかみはかなり変化してきている。しかしこのまつりでの湯立の舞や和舞が、『神遊』と『北山抄』に書かれ、また神部らの舞が神宝すなわち榊・桙・弓・剣などの採り物をもって舞うものであったことを、『江家次第』などが明記していることはみのがせない。
さて問題はなぜ宮廷鎮魂の前日に、園および韓神の前で採り物の歌舞がなされたかというところにある。その点の究明は、これまでの考察ではまだまだ不十分である。そこでまず、園神と韓神の性格を考えてみよう。
『江家次第』には、この神たちが、宮中にまつられるにいたった由来についてつぎのようにのべている。桓武天皇によって都が平安京に定められる以前から宮中にあり、遷都のおりに、造宮司が他所へ遷座しようとしたが、これまでと同様に「帝王を護り奉らん」という託宣があったので、宮内省に鎮座することになったという。
これはもとより口伝であって、確実な史料ではない。十三世紀はじめに成立した『古事談(こじだん)』にも同類の説話が収録されている。しかしこの両神が、平安遷都以前に存在したことは、大神(おおみわ)氏の家牒に、養老年中(七一七〜七二三)藤原氏が園韓の両神を奉斎したという伝承(『大倭神社注進状』)があるばかりでなく、和銅五年(七一二)に最終的に完成した『記』の神話に両神が登場しているのにも明らかである。すなわち『古事記』(上巻)には、オオトシノカミの系譜中に韓神がみえ、また園神と推定できる曾富理神(そほりのかみ)が名をつらねている。「故(かれ)、その大年神、神活須毘神(かむいくすびのかみ)の女(むすめ)、伊怒比売(いのひめ)を娶(めと)りて生める子は、大国御魂神(おおくにみたまのかみ)、次に韓神、次に曾富理神……」というのがそれである。
曾富理神については、園神説と宮内省に坐す韓神社二座のうちの他の一神とする説などがある。だがこの神統譜における曾富理神は韓神とは明らかに区別されているので、韓神二座のなかの一座が曾富理神であったとする説には賛成しがたい。やはり園神は曾富理神にゆかりの深い神であったとするのがよいだろう。ソホリとは『紀』の神話で、ヤマタノオロチ退治の詞章(第四の一書)にみえる曾尸茂梨(そしもり)と関係のある語と思われる。なぜなら、『日本書紀』の現存最古の注釈書である『釈日本紀』(述義)には、元慶講書のおりに「今の蘇之保留(そしほる)の処か」と解釈しているからである。つまりソシモリ・ソシホル・ソホリはいずれも新羅に密接な地名であった。『紀』の神話に描く曾尸茂梨が新羅に求められていることも注意されよう。
とすれば韓神とは百済系の神、園神とは新羅系の神ということになる。ともにわが国に渡来してきた、いわゆる今来(いまき)の神であった。
宮廷の神楽歌にも
相当、引用が長くなったが、われわれがここで気づくのは、さきの平野神社のそれといい、いったいどうして天皇家の宮廷には「帝王を護り奉らん」というこのような朝鮮の百済・新羅系のいわゆる「今来の神」が祭られているのであろうかということである。仏教のそれとしたらともかく、しかも祭事としての神楽、日本固有のものであるはずの神楽まで、これは実はそこから発生したものであることがわかる。
ここには、神話、伝説などが複雑に入り組み、いまだに深い謎に包まれているとみられる日本古代史を解くうえでの、重要な鍵がひそんでいるように思われるが、しかし、このことについては、これからのち自然とわかることになるはずなので、しばらくおあずけということにしてもらいたいと思う。小説でいう伏線のようなものであるが、これはあずけてもらって、上田正昭氏のそれをここにもう少し引用しておくことにする。
宮廷の神楽歌には、「三島木綿(みしまゆふ) 肩にとりかけ われ韓神の 韓招(からお)ぎせむや 韓招ぎせむや」があり、さらに「八葉盤(やひろで)を手にとりもちて われ韓神の 韓招ぎせむや」がある。……
この「韓招ぎ」は通説によると、「韓神をおまねきしよう」という意味だとされている。けれども歌詞のいう「韓招ぎ」とは「韓風(からぶり)のお招きをしよう」と解釈するのがよいと思う。
韓神は、高田与清の編集した古歌謡集である『楽章類語鈔』では、採り物にも入っているが、韓風の招ぎとは、朝鮮風の招神の作法であったと考える。『百錬抄』の記載に、園韓神の神宝として剣と桙があったことをのべたが、こうした武具を神宝としてまつった例は朝鮮にもみいだすことができる。たとえば、宋の宋祁が編纂した『新唐書』(東夷伝)のなかには、高句麗や百済の始祖とあおがれる朱蒙(しゆもう)の祠のことがのべられていて、「朱蒙の祠に鎖・甲・銛・矛あり」としるされている。
広隆寺と秦氏族
京都盆地の開発者たち
さて、まず、天皇家の宮廷のそれからさきにみたことになったわけであるが、しかし、山城の京都に限っていうならば、その宮廷の平安京がここにおかれたのは七九四年以後、八世紀のおわりからであった。それ以前における京都の状態はどうだったかというと、引用ばかりつづくようであるが、ここに一枚の新聞の切り抜きがある。
切り抜きとはいっても、二面にもわたっている大きなもので、「京都原人と二つの村」という、京都新聞が行なった一九六七年一月三日付けの特集である。この特集は林屋辰三郎氏の話を中心とし、中村直勝・岡本東洋氏の『京やしろ』、今中寛司・上横手雅敬氏の『日本史提要』、井上光貞氏の『日本の歴史』などを参考にしたというものであるが、なかに「八坂北野に集落/高麗、秦氏が支配」といった見出しがあって、まず河川の砂がつくりだした扇状地であったという地形のことが語られ、その状態がこういうふうに書かれている。
その扇状地にポツリポツリとわたしたちの祖先が住みはじめた。上賀茂、北白川には大和朝廷の東征に参加したという「加茂族」が、右京区太秦には大和朝廷に招かれて渡来してきた秦(はた)氏が、そして東山のふもとには同じく帰化人の高麗(こま)氏が――それは多分、四、五世紀ごろであったろう。平安京がつくられる三、四百年もむかし、すでにわれら京都原人は、京都盆地の底冷えとむし暑さに耐えていた。……
平安京がつくられる前、すでに京都には、まことに対照的な、大きな村が二つあった。その一つは、あの八坂塔のあたりにあった「八坂造(やさかのみやつこ)」の村である。そこには高麗人たちが住み、八坂塔の北側に農耕神を奉祀した。いまの八坂神社、つまり祇園社の前身である。
もう一つの村は、いまの北野白梅町を中心とする秦氏の「北野村」――はじめ秦氏は「太秦」に住んだが、しだいに一族がひろがり、この北野村に居をかまえ、異国の機(はた)織りの業にはげみつつ、農耕生活をつづけた。いまの北野神社も、もともとは天神の社(やしろ)で旱天(ひでり)に慈雨をもたらす農耕の神、すなわち雷神を祀ったものだった。
この両村を支配していた秦氏や高麗氏は、ともに古代京都で勢力を誇った地方豪族である。とくに秦氏は六世紀ごろから京都開発をすすめ、八世紀にいたり、新興勢力の藤原氏とむすんで、帝都の京都遷都に大活躍した。しかし現代の京都人よ、われら京都原人の多くを“異人種”とみてはなるまい。秦、高麗氏ともに渡来、帰化のあと数百年をへて、すでに日本人になりきり、当時の人々自身、そうした違和感はなかった。むしろ、彼らは技術に長じ、業務にはげんだ京都盆地の開発者なのである。
四、五世紀ごろといえば、まだそれとははっきりなっていなかったはずの「大和朝廷に招かれて渡来した秦(はた)氏」とか、「同じ帰化人の高麗(こま)氏」などと、気になるところもなくはないが、しかしだいたい、古代の京都を開発したものがどういうものであったかということはわかると思う。そして彼ら豪族はそれぞれに、その遺跡・遺物をいまなおいろいろなかたちでわれわれの目の前に残しているのである。
弥勒像の「絶対の微笑」
まず、西の秦氏族であるが、それのもっともはっきりしたものとして、太秦の広隆寺がある。ここにはいま日本の国宝第一号となっている朝鮮・新羅渡来の弥勒菩薩半跏思惟像があって、さきにもちょっとふれたように、私はこれが好きで、友人にたのんで近くの嵯峨野にアパートの一室をかりてもらい、そこを仕事部屋にしてしばらく住んだこともあった。
しかし、妙なものだった。私は毎日でもその弥勒思惟像のある広隆寺へ行ってみたいと思って、そこに住んだものだったが、そうしていつでも行くことができるようになってみると、意外にも、思ったほどにはあまりそこへ近寄らなくなった。
なるほど、はじめのうちは何度かそうして通ったものだったが、だんだんと足が遠のいていったのである。「やっぱり、これも遠きにありて想うものだったのか」と、私はひとり苦笑したものであるが、ひとつは、そうして毎日のように通って行くのが、自他ともにてれくさくもあったからだった。
先年、この弥勒思惟像の魅力にとりつかれたある学生が、頬にキスをしようとして木像の指をこわしてしまうという事件があってからは、急にその思惟像が有名になった。それで団体の観光客なども大ぜい来るようになり、いまではひとり静かに対面しているというわけにもゆかなくなっているようである。
それからすると、やはり近くの嵯峨野にいたころはよかったと思う。朝早く、といっても霊宝館と称するそれの開扉は九時だったが、まだだれもこないうちにそこへ行って、たったひとり、その弥勒思惟像の前に立つことができたのは、たしかにひとつのよろこびにちがいなかった。
いったい、なんという微笑であるか。――私はひそかにそれを「絶対の微笑」と名づけているのであるが、前に立ってじっと見ていると、あまりにも人間的なその微笑に、人間的な目まいさえおぼえ、そのまま吸いとられ、吸い込まれて行くような自分を感じる。そのとき自分のなかではなにかが打ちこわされ、そしてなにかが新たに芽生えたのである。その打ちこわされ、芽生えたものがなんであるかは、わからない。それはすぐれた芸術作品のもつ浄化作用とでもいうよりほかないものであるが、一九六九年二月二十六日に亡くなったドイツの哲学者カール・ヤスパースは、この弥勒思惟像について次のようにいっている。
篠原正暎氏の『敗戦の彼岸にあるもの』からの抜粋だというこの一文は、霊宝館のなかにも額となってあるが、寺では最近これを刷りものにして、入館者にくれるようになっている。それを、ここにも掲げておくことにする。
私は今迄(まで)哲学者として、人間存在の最高に完成された姿の表徴として、色々のモデルに接して来ました。古代ギリシャの神々の彫像も見たし、ローマ時代に作られた多くのすぐれた彫像をも見たことがあります。
然(しか)し乍(なが)らそれ等のどれにも、まだ完全に超克されきっていない地上的人間的なものの臭(くさ)みが残っていました。理智と美の理想を表現した古代ギリシャの神々の彫像にも、地上的な汚(よご)れと人間的な感情が、まだどこかに残されていた。キリスト教的な愛を表現するローマ時代の宗教的な彫像にも、人間存在の本当に浄化されきった喜びというものが完全に表現されてはいないと思います。それ等のいずれも、程度の差はあっても、まだ地上的な感情の汚れを残した人間の表現であって、本当に人間実存の奥底にまで達し得た者の姿の表徴ではないのです。
然るに、この広隆寺の弥勒像には、真に完成され切った人間実存の最高の理念が、あますところなく表現され尽しています。
それは地上に於けるすべての時間的なるもの、束縛を超えて達し得た人間の存在の最も清浄な、最も円満な、最も永遠な、姿のシンボルであると思います。私は今日まで何十年かの哲学者としての生涯の中で、これほど人間実存の本当の平和な姿を具現した芸術品を見たことは、未だ嘗(かつ)てありませんでした。この仏像は我々人間の持つ心の永遠の平和の理想を真にあますところなく最高度に表徴しているものです。
秦河勝が中国人!?
広隆寺の霊宝館には、この弥勒菩薩半跏思惟像のほかに、これもまた新羅から渡来といわれるもので、おなじように日本国宝となっている、俗に「泣き弥勒」といわれるもう一つの弥勒菩薩半跏思惟像がある。そしてそのほかにもまた天平、弘仁、藤原、鎌倉の各時代をつうじた国宝、重要文化財となっている仏像の傑作がずらりと立ちならんでいるが、どれもいまはそれが本尊のようになっている前記の弥勒思惟像のために、これらはすっかりかすんだものになってしまっている。
それほどにも、この弥勒思惟像はすばらしいものなのであるが、やがて、その前から離れがたいのをおさえて、右手から出口のほうへ向かうと、出口近くの突きあたりに、「秦河勝(はたのかわかつ)御夫妻神像」というのがある。これも重要文化財となっている木彫であるが、目をかっと見開いた秦河勝と、伏し目になっているその妻といわれるもののこの像にも、私はある感慨をもたないではいられない。
かんたんにいえば、いつ来てみても、そのふたりとも、どうもどこかで見たことのあるような気のする顔だということなのであるが、だいたい、秦河勝とはいったいどういうものであったのか。――そのとてつもなく膨大な秦氏族のうちで、もっとも有名なのがこの河勝であり、聖徳太子から新羅渡来の仏像を得て、六〇三年に京都最古の寺院である広隆寺の前身だった蜂岡寺を建てたのも、この河勝であったとされている。
新羅渡来の仏像がもしそうだったとすれば、では聖徳太子はどうしてそのような仏像を持っていたのかということになるが、ところで、先年、京都へ行ったときのこと、私は河原町あたりの古本屋を歩いていて、田中重久氏の『弥勒菩薩の指』というのを一冊手に入れた。広隆寺とそこにある弥勒菩薩半跏思惟像を研究したものであるが、目次をみると、「第一部 ミロクボサツの指」となっていて、以下は、「第二部 韓国帰化人の寺の歴史」「第三部 韓国帰化人の寺の彫刻」というふうになっている。
私は、なかをぱらぱらめくってみて、思わずひとり苦笑をした。なかに広隆寺の外景をとった写真があって、それの説明に、「朝鮮の人の寺 太秦広隆寺」とある。日本人である著者の、これはまたどういうナショナリズムの発露なのかと思ったわけだったのである。
それからまた、田中氏はこのなかで、広隆寺の弥勒思惟像のように、「朝鮮の仏像たることの明らかなものまで、飛鳥時代になってしまう」といって異を立てているが、そうかとみると、一方ではこういうこともある。八一五年につくられた『新撰姓氏録』に、「太秦公宿禰、秦始皇帝三世の孫、孝武王の後也」などとあるところから、秦氏を中国からの渡来氏族としているということである。観光バスのガイドたちもすっかりそれとして教え込まれ、いまだに、「この広隆寺は中国からの帰化人であった秦河勝が建立したもので、なかに国宝として有名な飛鳥時代の名作である弥勒菩薩像がありまして……」などと言っている。
しかも、そればかりではない。広隆寺も有名なその弥勒思惟像のおかげで収入もよいらしく、さいきんは境内もきれいに整備され、玉砂利がしかれて、通路には綱が張ってあったりしたが、ふと気がついてみると、新しい石碑などもそこに建てられている。今年(一九七一年)の五月に建てたもので、それにはこう書かれていた。
「広隆寺は推古天皇十一年(六〇三)聖徳太子が秦始皇帝の末孫秦河勝に尊像を授け……」
見ると、「別格大本山広隆寺貫主権大僧正清滝英弘撰」とある。私といっしょにその「撰」を読んだ同行の鄭詔文(ジヨンジヨムン)はふいと横を向き、
「日本の学者たちは、いったいなにを考えているのだろう」と言ったが、それはまったく、そういわれても仕方ないようなものだった。
千数百年もまえに朝鮮から渡来したものによって建てられたといわれる広隆寺を、「朝鮮の人の寺」としているのもおかしなものだったが、歴史学が格段の進歩をとげたとされている今日、なお依然それを「聖徳太子が秦始皇帝の末孫秦河勝に尊像を授け……」などというのも、錯誤のはなはだしいものだった。これは一寺院のことではなく、日本の歴史全体にかかわることなのである。
秦氏族はどこから来たか
だいたい、『新撰姓氏録』「諸蕃」のそれをそのように信じるとしたら、そこにある「神別」「皇別」にたいしては、これも、「神から出たもの」などとそのまま信じ込まなくてはならないことになる。が、今日では、その秦氏族がどこから来たものであるかということは、もうすでにはっきりしていることなのである。
それは、秦氏族の氏寺であった広隆寺自身、朝鮮・新羅渡来の弥勒菩薩半跏思惟像を本尊としていることからしてはっきりしているのであるが、念のため、これまた「漢」という文字が使われているものだから、中国よりの渡来氏族とみられている東(やまと)(大和)の漢(あや)人とともに、秦氏のそれを上田正昭氏の『帰化人』によってみておくことにする。
弓月君(ゆづきのきみ)や阿知(あちの)使主(お み)の実在性や渡来年代、およびその説話内容には疑うべき点が少なくないが、『記紀』においても、秦人の祖や漢人の祖は、けっして中国人の系列においてのべられてはいない。いなむしろそれは朝鮮南部との関係において登場しているのである。
漢人のアヤという言葉は、後には中国の漢を意味するかのように考えられて、アヤに漢の字があてられてくるが、もともとはこの用字よりも、「穴織(あなおり)」(「雄略天皇紀」にみえる「漢織」が「応神天皇紀」では「穴織」と書かれている)とか「穢人(あやひと)」(穢は〓の当字、隅田八幡宮蔵鏡銘)とかの用例にもみられるように、穴・〓などがあてられていた。つまりアヤの原義は、朝鮮南部の加羅(から)の有力国で、四世紀末より六世紀中葉までの代表的な存在であった安羅(あら)に由来するものと考える方が合理的である。そしてそれが、外来人の総称として、あるいは特定氏族グループのよび名として用いられるようになってゆくのである。
秦人のハタはどうかというと、これもまた中国系とするのはのちのことで、秦という用字も比較的あたらしいようである。ハタを波陀と音借する例(『紀』『古語拾遺』『新撰姓氏録』など)もあって、原義はやはりハタにあり、その語の由来は新羅語のハタとつながりがあると思われる。これを朝鮮古地名の波旦に求める説もあるが、新羅語のハタは海を意味し、朝鮮からの海人=外来人を意味していたものが、やがて後には氏族名として特定の氏族を指すようになったものとするのが妥当であろう。
なお、朝鮮民主主義人民共和国の歴史学者である朴文遠氏も「漢(あや)人」の「漢」は安羅・安那から来たものとしている(「飛鳥文化と朝鮮三国文化」)が、「秦人」の「秦」がそれからきたという海は、いまでもこれを朝鮮語でバタといっているのである。そしてこのバタ・ハタは日本の機織(はたおり)や八幡(やはた)にもつうじるものであることはいうまでもない。
それからまた、水沢澄夫氏の『広隆寺』には、そのことがはっきりとこう書かれている。
仏教関係で言えば、漢氏の百済系に対して秦氏は新羅系だった。それは飛鳥寺の大仏、法隆寺の金堂の本尊をはじめ、法輪寺の木彫虚空菩薩立像などの諸仏像に漢氏系統の鞍部止利(くらつくりべのとり)およびその系統列の仏工の手に成る百済様式が多くみられるのに比べて、広隆寺の弥勒像が新羅様式であることだけから言っても肯(うなず)けるところである。
さらにまた、平野邦雄氏の「秦氏の研究」をみても、「要するに文献上、広隆寺は新羅仏教的要素が甚だ強いのである」として、いまみた弥勒思惟像やもう一つの「泣き弥勒」にしても、これが朝鮮・新羅の慶州南五陵から出土した金銅弥勒思惟像や小金銅像とおなじ系列のものであることなどをあげ、秦氏族の新羅から渡来したものであることは少しも疑っていない。そして平野氏は、この秦氏族が日本の古代史上にあって、いかに強大なものであったかということについて、その冒頭で次のようにのべている。
わが古代文明史上において秦氏の果した役割は極めて大きく、他の如何なる氏族にも劣らないといえよう。秦氏は殖産的氏族とよばれるにふさわしく、尨大な構成員をかかえていた。日本書紀にみえる「百二十県」の人夫や、「七千五十三戸」の秦人戸数がたとえあてにならないものだとしても、実際に古代史上に現われる人名のうち、如何なる氏族より秦氏が多いことは改めて注目すべきである。私の手許の資料では、延暦にいたるまでに人名の明らかなもののみで一、一四七名を数え、このほか改姓記事、例えば秦等一、二〇〇余烟(よえん)に伊美吉(いみき)姓を賜い、秦忌寸(はたのいみき)等一一九人に奈良忌寸・朝原忌寸を、秦勝等五二人に秦原公を賜うなどの記事をみると、そこに現われる人数もまた他氏族にみられないほど多きに上るのであるから、秦氏の勢力はまことに隠然たるものがあったというほかない。
旺盛な秦氏の活動
秦氏族というのはまったくたいへんなもので、これがしだいに日本全土にわたってひろがり、現在なお各地には、秦、秦野、波多、波多野、幡、畑などの人名・地名がたくさんある。そしてそこからさらにわかれたものということになれば、これはもう無数というよりほかないが、京都では、広隆寺のある京福電鉄太秦の一つ手前に、「蚕(かいこ)ノ社(やしろ)」というちょっと珍妙な名の駅がある。しかしこれは決して珍妙といったものではなく、その近くの太秦森ケ東町に養蚕と機織の農耕神を祭ったその名の神社があるからである。
もちろん、これも農業と機織とがそれの中心であった秦氏族の活動によってできたもので、この神社の正確な名は木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみむすびのかみのやしろ)といい、またの名を木島神社、蚕神社とよばれている。『延喜式』にのっているいわゆる名神大社で、広隆寺の近くにあるこれはちょうど、のちにみる上賀茂神社におけるその摂社、猿田彦命(さるたひこのみこと)を祭神とする大田神社に似たかっこうのものであるが、この上賀茂神社にしても秦氏族と関係がないわけではない。
それから太秦蜂岡町にはまた、俗に太秦明神とよばれている「蚕養機織管絃楽舞之祖神」という秦酒公(はたのさけのきみ)などを祭る大酒神社があるが、道を広隆寺から西にとると、大映だのなんだの、映画の撮影所やそれのセットなどが立ちならんでいるところに面影町というのがあって、ここには秦河勝のそれといわれる蛇塚古墳がある。面影町というロマンティックな名からして、蛇塚古墳のあるそこら一帯を、当時における秦氏族の財力と権力との面影を伝えるものとしてそのようによんだということであるが、古墳は全長約三十メートルの前方後円墳で、大和・飛鳥の石舞台古墳につぐものといわれるその横穴石室は、近くの保津川から運んだものといわれる巨岩でおおわれている。
保津川といえば、これの下流は景勝地として知られている嵐山である。保津川はそこにいたって大堰川(おおいがわ)となり、そして桂川となっているが、この大堰川もまた秦氏族と関係があって、林屋辰三郎氏の『京都』に次のように書かれている。
彼らはまず湿潤なこの地域の土地改良からはじめた。それはそこを流れる桂川に大堰(おおい)をつくって水量を調節し、開拓と灌漑に利用したことである。現代日本にも、発電のためのダムつくりが一つのブームとなっている。その目的や規模には大きなちがいがあるが、さしあたりダムつくりの元祖といえば、このあたりであろうか。それは秦(はた)氏がその種族六類を率い催して造るところで、天下に比肩するものなしと称せられたという。たしかにそれは古代人にとっては驚異的な技術であった。
彼ら帰化人はこうした水利工事に、とくにすぐれた才腕をもっていたようで、……桂川の大堰は、その後この川が大堰川の名でよばれたように、ながく葛野(かどの)地方の繁栄を約束するものであったと思われる。その工事の箇所はもとより定かでないが、保津川の急湍が盆地に流出する咽喉を扼して、ほぼこんにちの嵐峡千鳥ケ淵のあたりを利用してつくられたものであろう。その工事は決して容易なものではなかったにちがいないが、そのことによって下流の開発、灌漑の利便ははかり知れないものであったろう。
なおまた、林屋氏のそれをもう少しみると、つづけてこうのべられていて、秦氏族によるそれがどういうものであったか、いっそうよくわかる。
こうして秦氏はここに大規模な開墾を計画して、その活動の根拠としたのであった。彼らがこのような農耕技術ばかりでなく、養蚕と絹織をもってあらわれたことは、太秦の起源伝説によって、これまた周知のことがらである。……彼らは庸調として、絹〓(きぬかとり)を朝廷に充(み)ち積むほどに献ずるようになった。その賞として秦酒公(はたのさけのきみ)は、太秦の姓を賜ったというのである。従って地名もまたその姓に由来するのである。こうしてみると太秦は、古代日本において最も高い生産力をもった地域であり、そこに定住した秦氏は最も大きな殖産的氏族であったといわねばならない。そして秦氏の来住がこの盆地を一挙に歴史の舞台におし上げたともいえるのである。
「この盆地」とは京都盆地全体のことであるが、ところで、私は子どものころ日本のチャンバラ映画をよくみたものである。そして「なになに太秦撮影所製作」という字幕によく出合い、あれをどうしてうずまさ(太秦)と読むのだろうと思ったものだった。なにしろ「原作」をはらさくと読み、「脚色」というのが何のことやらわからなかった子どものころのことだから無理もなかったが、その太秦というのが朝鮮からの渡来氏族との関係でできたものだったとは、これはずっとのちになるまで少しも知らなかったのだった。
松尾大社と稲荷大社
その太秦とは、ウズモリ(上の頭)という朝鮮語からきたものともいわれているが、それはさておき、嵐山の大堰川、桂川に沿ってちょっと下ると、嵐山とつづいている松尾山の麓に、柱を結ぶ注連縄(しめなわ)に榊の枝をくくった束のさがっている大きな鳥居が見え、そこに約十二万坪の境内を擁する松尾大社がある。『延喜式』内のいわゆる名神大社であることはもちろん、戦後までは官幣大社となっていたもので、いまなお全国に千数百の分社をもつ大社であるが、これも七○一年に秦氏族の都理(とり)というのが勧請したものであった。
そして千数百年にわたって松尾、東、南などと称した秦氏族が代々の神主職となってきたもので、祭神は大山咋神(おおやまぐいのかみ)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)となっている。『松尾神社略記』によってみるとそれはこうなっている。
市杵島姫命は、古事記に「天照大神が素戔嗚命(すさのおのみこと)と天安河を隔てて誓約された時、狭霧の中に生れ給うた」と伝える神で、宗像三女神の一として古くから海上守護の神徳を仰がれ給うた神である。恐らく外来氏族である秦氏が朝鮮や支那と交通する関係から、古代において合わせ祭られたものであろう。
最初の鳥居をくぐり、「松尾社 日本第一酒造之神」とした石柱などを目にしながら、広い境内のなかへ進んで行くと、さきにみた平野神社とおなじように、ここには松尾造と称する本殿が立ちならんでいるが、これまでみてきたほかの神社とちがうところは、そういった建物の軒下に、ぎっしりとたくさんの酒樽が積み上げられていることである。
酒好きのものが見たら、さぞ、その酒で風呂でもたててみたいと思うにちがいないといった光景であるが、それは松尾大社が江戸時代からは造酒の神でもあるということになったからだった。境内に霊亀の滝というのがあって、その近くに神泉といわれる「亀の井」があり、いまでも酒造家ではこれを「酒の元水」といってとって行く風習があるという。
それからまた、境内には秦氏族のものとみられるたくさんの古墳がある。『松尾神社略記』でみると、「松尾山の頂上部に五基、摂社月読神社の上方に十一基あり、また別に神社前の田畑にあったが、今は宅地となって姿を消した。これらは、この地が秦氏による古代文化の中心地であったことを物語るものである」というわけであるが、しかしながら、秦氏族の中心地はここばかりではなかった。
だいたい、「祭政一致」といわれた古代にあっては、神社というのは一つの小独立国のようなものだった。高柳光寿氏は「中世の神社は独立国であった」とまでいっているとのことであるが、古代になればなるほどいっそうそうであったはずの秦氏族のそれは、松尾からすると東南方の伏見にもあった。七一一年に秦伊呂具(はたのいろぐ)が勧請し、創始したといわれる稲荷(いなり)大社である。
その分社の多いことと規模の大きさからいえば、全国稲荷神社の総本社となっているこの稲荷大社のほうが松尾大社よりもずっと大きいし、また有名でもある。稲荷とは稲生(いねな)りからきたものだそうで、これももちろん農耕神であったが、いまではさまざまな産業の守護神ということになっている。
ここで私はまた思いだすのであるが、私は子どものころ日本へ渡って来て、東京などでもあちこちに祭ってある赤い鳥居の稲荷神社を見ては、ちょっと異様な感に打たれたものだった。「あれはいったいなんだろう」と思ったわけだったが、さっきの太秦とおなじように、これももとは朝鮮からの渡来氏族によってはじめられたものであったとは、少しも知らなかったのである。
ところで、秦氏族の伊呂具によって創始された稲荷大社のある伏見は、高麗氏族による一つの「独立国」を意味した東山の麓の八坂神社に近接したところであり、しかもそこの深草の地は秦大津父(はたのおおつち)以来、秦氏族の根拠地の一つであったといわれる。となると、京都のずっと南にある相楽(そうらく)郡の、いまは山城町となっている高麗(狛)あたりをさきの根拠地として、そこへ北上して来たものとみられる八坂の高麗氏族とは、これはいったいどういう関係になるのであろうか。
そういえば、山城町の高麗(上狛・下狛)にも秦氏族系の松尾神社があったが、次は賀茂神社のそれとともに、このことについても考えてみたいと思う。
大田神社の里神楽
賀茂川をさかのぼって
いまはそこが京都の中心となっている河原町四条の交叉点に立ってみると、賀茂川にかかった四条大橋の向こうに、高麗氏族の氏神であった八坂神社の西楼門が見える。が、そこは次にまわすことにして、河原町通りをまっすぐ北へ向かって進むと、やがて通りは右に折れまわることになり、これも賀茂川にかかった葵橋をわたると、その右手に糺(ただす)ノ森の下鴨神社がある。
しかし、これも一応見すごすことにして、まず、そこの賀茂川土堤を左に沿ってさかのぼり、御薗橋をわたると、神山(こうやま)の麓に上賀茂神社がある。下鴨神社といい上賀茂神社といっても、これはどちらも俗称で、下鴨社は賀茂御祖(みおや)神社といい、上賀茂社は賀茂別雷(わけいかずち)神社というのが正確な名称である。
その名からしてわかるように、賀茂御祖神社は加茂氏族の祖神を祭るもので、祭神は、加茂建角身命(たけづぬみのみこと)の娘玉依姫(たまよりひめ)となっている。伝説によると、この玉依姫はある日、賀茂川の上から流れて来た丹塗(にぬ)りの矢をひろって自分の部屋へ持ち帰ったところ、その矢に感じて、彼女はひとりの男子を生んだ。これがすなわち上賀茂社の別雷命(わけいかずちのみこと)で、その父、丹塗りの矢の男は乙訓(おとくに)郡にある向(むこう)神社の火雷命(ほのいかずちのみこと)であるとされているが、これは同時にまた、さきにみた秦氏族のそれである、松尾大社の大山咋命(おおやまぐいのみこと)であるということにもなっている。
いわば、秦氏族との関係をものがたるもので、それはこういうわけのものだった。「父神にあたる丹塗の矢の火雷命は洛西松尾大社の祭神と同じなので、古くから松尾の神を父神と称している。山城国の古代に東部によった加茂氏族と西部に栄えた秦氏族の結合が意味され、両鴨社と松尾社は山城国の歴史のはじまりを象徴する」(川勝政太郎『京都古寺巡礼』)
松尾大社のそれにしろ、上賀茂神社の別雷命にしろ、これはどちらも農耕神であることもちろんであるが、ところでこの上賀茂社、すなわち賀茂別雷神社には、その摂社の一つに大田神社というのがある。天(あめの) 鈿(うず) 女(めの) 命(みこと)と猿(さる) 田(た) 彦(ひこの) 命(みこと)とを祭神としているもので、私がこの大田神社のことを知ったのは、さきにその人と話をかわしたことのある友人の水野明善にいわれて会った、すぐき屋六兵衛という人からだった。
壮大な社殿と境内とをもつ上賀茂神社のすぐ前に、「すぐき」などの漬物を土産物として売っているすぐき屋というのがあるが、六兵衛さんはそこの主人だった。歴史や考古学などにもなかなか通じている人で、六兵衛さんは上賀茂神社のことについてもいろいろと話してくれたが、
「そうですね、朝鮮との関係ということだったら、大田神社の里(さと)神楽(かぐら)を見てみたらどうですか」
と言った。「毎月十日、そう、今夜も行なわれるはずですが、これはずいぶん古くからのもので、聞くところによると、朝鮮の巫女(み こ)のそれとそっくりおなじものだそうですよ」
「ほう、そうですかね」
朝鮮の巫女とおなじものだといわれても、私は朝鮮のそれもあまりよく知っているわけではなかったので、そんなふうにいうよりほかなかった。しかし、大田神社のその里神楽は、ぜひいちど見たいものだと思った。
さいわいというか、京都にある日本のなかの朝鮮文化社が上賀茂の近くだった。さっそくその夜、『日本のなかの朝鮮文化』の発行者や編集者となっている鄭詔文や鄭貴文、松本良子さんたちといっしょに、大田神社の里神楽というのを、見に行ってみようということになった。
古い由緒ある大田神社
神山を背後にした上賀茂神社の境内からは、奈良の小川というのが流れ出ている。これが外へ出てからは明神川というのになって、社家町のあいだを東へ向かって流れている。東京などではなかなか見られない清洌な瀬見の小川であるが、それに沿ってちょっと行くと、左手に、これも上賀茂神社とおなじ山を背にした大田神社があった。
私たちがそこについたのは暗くなりかかるころで、神楽があるからには祭りがあるのだろうと思っていた。が、神社の境内は森閑としていた。なにかのまちがいではなかったかと、入口のそこの空地で遊んでいる子どもたちにきいてみたが、これもなんだか要領をえない。
ともかく、というわけで、私たちは社務所まで行ってみることにした。なかから出て来た五十年輩の人が大田神社の宮司となっている、賀茂別雷神社禰宜(ねぎ)の藤木保治氏だった。
「神楽のはじまるのは八時からですから、上がって待ったらどうですか」という。私たちは座敷の一つに通されて待つことになり、宮司の藤木さんからいろいろなことを聞くことになった。藤木さんは、なかなか情熱的な話し方をする人だった。
神とはなんであるか、とそんなむつかしい話まで出た。藤木さんによれば、要するにそれは相対性のなかにあるもので、男女が接触してもそのあいだに神が生ずる、というのだった。「神」のことなどあまり考えたことのない私は、なるほどと思うよりほかなかったが、そのほかの話といえば、それは天鈿女命と猿田彦命とを祭るこの大田神社がいかに古い由緒あるものであるか、ということだった。
つまり、大田神社の創立年代はいつのことか、それはだれにもわからない。それはどこの神社は古く、加茂氏族が大和からここへやって来て賀茂御祖神社や別雷神社をつくるより、はるか以前からあったものだった。それが、あとから来た加茂氏族に征服されて、仕方なくその加茂氏族の祭る神社の摂社となったものだ、というのが藤木さんの説明だった。
本社だったものがのちに摂社となった例は、ほかにもたくさんみられる。私は藤木さんの情熱のこもった説明を聞きながら、これまた、なるほどと思わないわけにゆかなかった。大田神社という名からして、いわゆる弥生時代の農耕を思わせるものがあったが、平地の田畑を眼前にした山の辺にあるその神社は、あるいはもしかすると、原型としては弥生時代からそこにあったものかもしれない。
とすると、朝鮮から渡来した弥生・農耕文化の相当早い時期にできたもので、猿田彦命とともに祭られている天鈿女命は、例の高天原「天の岩戸」前のストリップで有名な舞楽の神でもあるが、天鈿女のウズメとは朝鮮語ウスム(笑い)からきたものといわれる。そして彼女は、これも「元来は海を渡って来た朝鮮の神で」(稲村坦元・豊島寛彰『東京の史蹟と文化財』)ある朝鮮語サル(米)田の、猿田彦命の妻となり、「猿女(さるめ)君」の先祖ということになっている。
したがってこれも、農地に雨をもたらす賀茂別雷神とおなじように、農耕神なのである。大田神社は小さなものでありながら、それが歌舞、すなわち神楽の神といっしょに祭られているのがおもしろいところである。
「ところで、これからはじまるという神楽ですが、それはいつごろから行なわれているものなのでしょうか」と、私は念のためきいてみた。それにたいする藤木さんの答は、こうだった。
「神社の創立年代がわからないのとおなじように、それもいつからのことかわかりません」
老巫女の登場
返すことばがないとはこのことだったが、そうこうしているうちに時間が近づいてきたらしく、外からふたりの老爺とふたりの老女とが前後して私たちのいる部屋へはいって来た。藤木さんから紹介されて知ったけれども、それが神楽をする人たちで、ふたりの老女は巫女(み こ)だった。
朝鮮のそれは別として、私がこれまでに日本でみてきた巫女というものは、出雲大社のそれにしてもすべて若い娘だったが、それが老女であるというのも、この神社に特徴的なことだった。私たちは、部屋のそこの押入れから神楽のための衣装をとりだしている老人たちともことばをかわした。鈴を持つ老女のひとりは八十をすぎていて、毎月十日、四十年以上もその巫女をつとめているとのことだった。
どちらもその辺の農家の人たちだったが、しかし、といって、これまた藤木さんの説明によれば、だれでもがその巫女や鉦(かね)打ちになれるというものではなかった。それは加茂氏にしたがって来た刀禰(とね)からわかれ出たものとされる東良、藤木、神戸、池田の四家に限るもので、他はそれになりたくてもなれないというのだった。
「なかには選挙にすべきだとか、まわり持ちにするべきだというものもいますが、それはできないのです」
「すると、あれですか。その巫女や鉦打ちになりたいものがほかにもたくさんいるというわけですね。それはどうして……」
「家柄ですよ」と、藤木さんは即座にまた情熱をこめて言った。「それとなることによって、家柄が上がるからです」
どうも、なにもかもがまだ、弥生時代からそう遠く隔たっていないといったようなしだいだった。
そのうち藤木さんも宮司としての装束をつけるらしく別室にしりぞき、間もなく私たちも、衣装をつけおわった老爺と老女たちにしたがって神殿のほうへ向かって行った。日の長い真夏だったけれども、外はもうすっかり暗くなってしまっていた。
神殿は石段を登った山の斜面にあって、そこだけいくつかの提灯がさがっていて、ほの明るくなっていた。私たちはそこまで登ってみてはじめて気がついたが、正面神殿のこちらは細長い土間となっていて、そこにはいつの間に来ていたのか、若い男女をまじえた二十人ほどの氏子がだまってひっそりと、小椅子に腰をおろして待っていた。
そしてその氏子たちの坐っていた土間の左右は廊下のような小高い床となっていて、神楽をする四人の老爺と老女とは、右手の床のそこへそれぞれに太鼓や鉦や鈴などを持って座をかまえた。正面の神殿にはこれまたいつの間に来ていたのか、宮司の装束に身をととのえた藤木さんがこちらを見すえて坐っている。私たちもなんとなく厳粛な面持ちになり、そこの土間の空いた椅子にそっと腰をおろした。
朝鮮の巫女にそっくり
やがて、さっきいっしょに話していたときとは打って変わった調子の重々しい抑揚で、宮司の藤木さんが神殿に向かってなにかを唱えたかとみると、入口に近いはしの老爺がどんと大きく太鼓を打鳴らし、
「……の御神楽ア」と唱えた。それにつれて太鼓や鉦が鳴りはじめ、向こうはじのその道四十年以上という老巫女が立って、鈴の束を振りながら舞いはじめた。
舞うとはいっても、そこに立ったまま四方にくっくっと足を移してまわりながら、ちょんちょんと手にしている鈴の束を振るのであったが、私はちょっと茫然となって、それに見とれてしまった。太鼓の打ち方や舞い方に、かなりのちがいはあるようだったが、しかし、それは朝鮮のムダン(巫女)とそっくりおなじものだったのである。
となりに坐っていた鄭詔文もおなじ思いだったらしく、私たちは思わず顔を見合わせた。私たちは子どものころ、そんなふうにして「神おろし」をしたり、「死者をよびだし」たりする朝鮮のムダン(巫女)をよくみたものだったし、在日朝鮮人のあいだでもみることがある。
しかし考えてみれば、別におどろくようなことでもなんでもなかった。さきにもみたように、上田正昭氏の『神楽の命脈』によると、いうところの宮廷の神楽からして、「――われ韓神の 韓招(からお)ぎせむや 韓招ぎせむや」という「韓風(からぶり)」であってみれば、この里神楽が朝鮮のシャーマンとおなじものであるのはむしろ当然なことだった。ただ、日本のばあいは神社の発達とともにそれが制度化され、様式化されているので、そこから神楽奉仕をする「家柄」などということもできてきたもののようだった。
いわば、かつてはそれが小独立国だった神社による人民支配の一つのかたちでもあったが、えらばれた「家柄」の老人たちの四人による神楽がひととおりすむと、宮司の藤木さんは神殿に向かっておじぎをし、また例の重々しい抑揚でなにか唱えはじめた。するとまた、
「……の御神楽ア」と、太鼓や鉦が鳴って神楽がはじまり、それが何回かくりかえされた。
私たちには、藤木さんが重々しい抑揚で唱えたこともわからなければ、太鼓の老爺がなんの「御神楽ア」といったのかもよくわからなかったが、そのうち、藤木さんの唱えていることで、私たちにもわかることばが耳にひびいてきた。なにかといえば、「なになにさん、なに子さん」という人名である。
そこで私たちは一つ気がついたのだったが、藤木さんのよみあげている人名はそこに来ていた氏子たちのことであり、その氏子たちはいくばくかのものを包んで来て、そうして安泰を祈ってもらっているらしいということだった。氏子たちは、そこに出席することのできなかったものをも含めていくつかのグループにわけられ、そのグループごとに一回の神楽が奏されているようだった。
そして神楽がおわると、名前をよみあげられたものたちはつぎつぎと鈴を振って舞っていた巫女の前に立って行き、下を向いて頭をさしだすようにした。すると巫女は、そのさしだされた頭のうえに、鈴をちょんちょんと振ってくれる。
ずいぶん古い時代から神社と氏子たちとのあいだにはおなじことがくりかえされてきたものらしかったが、私たちはそれをみて、また顔を見合わせたものだった。が、鄭詔文がすぐに気を利かせて、いずれ帰りにそうしようと思っていたいくらかを紙に包み、「日本のなかの朝鮮文化社」として藤木さんの横にあった三方の上へそっとのせておいた。と、宮司の藤木さんはまた何人かの男女の名前をよみあげはじめたが、私たちは思わずぐいと首をちぢめるようにした。
「日本のなかの朝鮮文化社ご一統の弥栄(いやさか)えを……」と、それがはっきり聞こえてきたのである。そこに「朝鮮」が飛びだしてきたのには天鈿女命も猿田彦命もおどろいたかもしれないが、あるいはと予期していたとはいえ、私たちもびっくりしてしまったのである。
そして私たちもつぎつぎと立って、巫女の前に進み出て行っては、頭の上で鈴を振ってもらうことになった。なんだか妙なことになったと思ったが、しかしそれでありながらまたなんとはなし、ある「安心」をえたような気分にもなったのだから、ふしぎなようなものだった。
八坂と高麗氏族
加茂氏族とは何者か
さて、次は東山の麓にある高麗氏族の八坂神社であるが、そのまえにどうもちょっと気になるのは、古い里(さと)神楽(かぐら)をもった大田神社を征服してこれを摂社にしたという賀茂御祖(みおや)、別雷(わけいかずち)神社の加茂氏族とはいったいなにか、ということである。山城の京都盆地を東西に二分した秦氏にしても高麗氏にしても、これは名からしてはっきり朝鮮渡来氏族であったことがわかる。
だが、ひとり北の加茂氏族のみは、なんであったかよくわからない。なら、南はどうかといえば、これもあとでみるようにほとんどが高麗氏族と秦氏族とであって、そこにまで大きく秦氏族の入り組んでいることがわかるし、また、筒木(つつき)の綴喜(つづき)郡には百済系とみられる渡来氏族のいたこともわかる。
しかしそれなのに、どちらも賀茂川のこちらで、高麗氏族の東山のそこからはほんの少しばかりの距離でしかない北に、出自のはっきりしない加茂氏族というのがあったのである。これと西の秦氏族とのあいだに関係が結ばれたのは平安時代にはいってからで、伝承によると加茂氏族というのは、いわゆる「神武東征」とともにやって来たものだということになっている。
それなら、「神武東征」とはいったいどういうものであったかというむつかしい問題にもなるが、私にはどうも、この加茂氏族というのは、高麗氏族のさらに北上したものの一派ではなかったかと思えるのである。しかし、いまその証拠はない。証拠はないが、その地理的条件からして、私にはどうもそのように思えてならないのである。
祇園祭のもとは高麗氏の祖先祭
それはともかくとして、その高麗氏族の八坂神社であるが、これは日本三大祭の一つとして有名な「祇園祭」のそれであることもちろんである。神社ばかりでなく、そこには高麗氏族繁栄のあとをものがたるものとして、俗に「八坂の塔」とよばれている法観寺がある。
いまは祇園の八坂神社ばかりが大きく有名になり、八坂寺ともいった法観寺は塔のみを残した寺となってしまっているが、かつてはこれも広大な寺院で、東山のゆるい斜面に建っているこの寺からは、今日のように高い家並みの立ちならんでいなかった京都盆地が、一望のもとに見わたせるようになっていたといわれる。いまある五重の塔は室町時代に再建されたもので、塔心礎のみが千三百年以前の創建の跡をとどめている。
それからまた、この近くにはつい三、四十年前まで、「高麗門」というのが建っていたとのことであるが、それもいまはどこへ行ってしまったのか、なくなってしまっている。このような寺のそれにくらべて、いまは全国にわたって勧請社三千余をかぞえる八坂神社のほうはますます大きくなり、その祇園祭も年を追ってさかんとなっているようである。
このような祇園祭にしても、もとはそこに法観寺などを建てた高麗氏族による祖先の祭からはじまったものであるが、祭神は素戔嗚尊となっている。八坂神社でもらった『八坂神社由緒略記』によってみると、こうなっている。
八坂神社は祇園さんの名で親しまれ、信仰されている。八坂神社の創立については諸説があるが、斉明天皇二年、高麗より来朝せる副使の伊利之使主が新羅国牛頭山にます素戔嗚尊を八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜わったのに始まるとの説は、日本書紀に素戔嗚尊が御子五十猛神と共に新羅国に降り曾尸茂梨に居られたとの伝、また新撰姓氏録に八坂造は狛国人万留川麻乃意利佐の子孫なりとの記録と考え合せて、ほぼ妥当な創立と見てよい。
尚この東山の地は、京都の町から見て瓜生山の麓に当り、また牛頭天王示現の地と伝える瓜生石も存し、また法観寺もあり、この一帯は霊地として信仰の対象であった事を思えば、創立は斉明天皇期以前を想定し得る。
神社や寺院の「由緒」というのはだいたいどれもこんなふうにむつかしいものとなっているが、しかしこれなど、「ほぼ妥当な」とか、「想定し得る」としているところなど、この種のものとしては、ちょっと珍しいものにぞくするといってよい。しかし、むつかしいものであることに変わりはない。
八坂郷の高麗氏族
そもそも、「高麗より来朝せる副使の伊利之使主」とはなんであり、「新羅国牛頭山にます素戔嗚尊」とはどういうことなのか。さらにまた、その素戔嗚尊が「新羅国に降り曾尸茂梨に居られた」とはどういうことなのか、一般にはほとんどわかりはしないのである。
後者からさきにみると、いまも朝鮮の江原道春川にあるもと新羅の牛頭山(ごずさん)と曾尸茂梨(そしもり)とは、これは同義語である。曾尸茂梨の尸は助辞で、これは曾茂梨ということである。つまり、牛頭というのを朝鮮語で訓読みにすると、これがソモリ(牛頭=曾茂梨)となるのである。
それで、曾尸茂梨にいてそこから来たものとされている素戔嗚尊のことを「牛頭天王」ともいっているのであるが、しかし、曾尸茂梨の曾茂梨とは、新羅のソブル(徐伐)から出た今日の朝鮮語ソウル(京=都)のことで、すなわち素戔嗚尊というのは新羅の都であった慶州から来たものであるというのがほぼ定説となっている。
前者の「高麗より来朝せる副使の伊利之」うんぬんについてみるよりさきに、林屋辰三郎氏の『京都』にある祇園の八坂神社についてのくだりをみると、こうなっている。
洛西の広隆寺と並ぶものは、東山の法観寺である。町とともに生きるとでもいいたいこんにちの寺のたたずまいも、二つの寺はよく似ている。この寺も崇峻天皇二年(五八九)聖徳太子の発願とつたえられるが、この寺地の八坂郷の地を占拠していた高麗の調使意利佐(いりさ)の後裔の創立するところである。高麗の帰化氏族は相楽郡の上狛・下狛の地を根拠として高麗寺を創建し、氏族の拠点としていたが、八坂造(やさかのみやつこ)の名でよばれたこの地の氏族は、この祇園社の前身ともなるべき神社をまつり、この八坂寺を建てた。
『八坂神社由緒略記』のそれがここでは「高麗の調使意利佐の後裔」となっているが、ところでこの「調使意利佐」といい、「高麗より来朝せる副使の伊利之」といわれている、これはいったいどういうことなのであろうか。「調使」といい「副使」というのも、これは『日本書紀』斉明条にある「二年の秋八月」「高麗、達沙(たさ)等を遣して調進(みつきたてまつ)りき。大使達沙、副使伊利之、すべて八十一人なり」からきたものである。しかしわれわれは、これをそのまま信じることができるであろうか。
ここにいう「高麗」とは朝鮮三国時代の一国であった高句麗のことであり、『日本書紀』斉明条の二年は六五六年、すなわち七世紀半ばということになっている。とすると、高句麗が南方の新羅によって亡ぼされ統合される十年前であり、日本では大化改新のあったちょうど十年後にあたっている。が、しかしその高句麗は、この日本の大和朝廷にたいして「調進」をする関係にあったかどうか。事実としてはほとんど考えられないことで、ほかにもそういうことはたくさんあるが、これものち八世紀のはじめにできた『日本書紀』の編者たちが大和朝廷の権威を高めようとしてしたソウサクとみるよりほかない。
なぜなら、もしそうでないとすれば、われわれはさきに「広隆寺と秦氏族」のくだりの冒頭でみた京都新聞の特集、林屋辰三郎氏の話を中心としてまとめたという「京都原人と二つの村」にあった、「東山のふもとには同じく帰化人の高麗(こま)氏が――それは多分、四、五世紀ごろであったろう」というのとこれは大きく矛盾するばかりではない。かりにもし『日本書紀』のいうようなそれだったとしても、だいいち、そのような「調進使」のそこに居坐ったものとしては、この高麗氏族はあまりにも強大にすぎるのである。
だいたいそもそも、「八坂造(やさかのみやつこ)の名でよばれたこの地の氏族」が、「この祇園社の前身ともなるべき神社をまつり、この八坂寺を建てた」のではなくて、「この八坂寺を建てた」ことによって「八坂造(やさかのみやつこ)」ともなったといわれる高麗氏族は、東山のそこにひとりぽつんといたものではなかった。それは林屋辰三郎氏も書いているように、「相楽郡の上狛・下狛の地を根拠として高麗寺を創建し、氏族の拠点としていた」ものの一派が北上して来たものだったのである。
私は、八坂神社と祇園祭のことについてもくわしいと聞いた吉田光邦氏を京都大学にたずねたとき、そのことについてもきいてみた。
「八坂にいた高麗氏族というのは、あれはどういうものだったのでしょうかね」
すると吉田さんはすぐたちどころに、
「それは、南山城の方にいた高麗氏の北上したものです。その氏族がひろがって来たものですね」と言ったが、私もそのとおりだったと思う。そして彼らはさらにまた西のほうにも発展し、さきに岡部伊都子氏の『女人の京』によってみたような樫原(かたぎはら)廃寺、その高句麗式寺院をも建てたものだった。
高麗氏・秦氏繁栄の跡
法観寺(八坂寺)や祇園の八坂神社も相当なものであるが、高麗氏族の遺跡としては南山城のほうにもそれをしのばせる大きなものがある。南山城へは国道二十四号線となっている奈良街道が通っているが、その途中の伏見には、これもさきにみたように、秦氏族の秦伊呂具(はたのいろぐ)が勧請し、創始したといわれる稲荷大社がある。高句麗系の高麗氏族の北上して来たとみられる道すじに、新羅系の秦氏族が入り組んでいるのもおもしろいが、これがまた巨大なものであった。
高麗氏族がいかに繁栄し、大きなものであったとしても、秦氏族のそれには遠くおよばなかったのである。ここでまた秦氏族のそれをちょっとみると、だいたい、秦酒公(はたのさけのきみ)のもとに集中していたいわゆる秦人は一万八千余だったとされているが、伏見の深草のここにあった秦大津父(はたのおおつち)のもとのそれは、七千五十三戸の百四十一郷に達していたといわれる。
しかもそれは奈良時代ごろのことで、当時の日本全体の郷数は四千十二であったというから、これだけでもその二十八分の一に相当していたのである。はなし半分にしても、まさに巨大なものであったといわなくてはならない。
この系統のちがう秦氏族の氏神であり、その農耕神であったとみられる稲荷大社が高麗氏族北上の途上に横たわっていたわけであるが、そういえば、高麗氏族がひろがって建立したものであったはずのさきの樫原廃寺、京都西のそこはどちらかというと、近くに松尾大社をもった秦氏族の繁栄していたところだった。にもかかわらず、そこにはまた系統のちがう高麗氏族がはいり込んでいたわけで、この関係はいったいどういうことであったのか、結局、私にはわからない。
わかっていることといえば、それはどちらも朝鮮から渡来した氏族であったということだけであるが、なおまた、「天地の間は稲荷大明神の大口」だとしている稲荷大社のだした『稲荷百話』によると、その大社を創始した秦伊呂具は、賀茂御祖神社の賀茂県主久治良(あがたぬしくじら)の子ということになっている。そしてその伊呂具が和銅四年の七一一年に当社を創始したというのであるが、これはおそらく、秦氏族と加茂氏族との関係ができてから生じた伝承ではないかと思われる。
木津川に沿って
蟹満寺の由来
伏見を出ると間もなく宇治となり、宇治にはこれも朝鮮・百済渡来の王仁の教え子で、応神帝の子といわれる莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)がいたところとされている宇治神社や、もとは秦氏族の稲荷大社とともに伏見の深草にあったものがそこに移った興聖寺などがある。そこをすぎると、国道二十四号線の奈良街道はやがて木津川の土堤となる。
木津川は河床の高いいわゆる天井川で、したがって土堤の奈良街道は、それよりもいっそう高くなっている。私はこの街道を京都から奈良へ、奈良から京都へと、あるときはバス、あるときは友人のクルマで何度行ったり来たりしたかしれないが、何度来てみてもこのあたりは実にいいと思う。
右手はゆるやかに流れている木津川の河原で、そこにも茶畑などが見えるが、左手の向こうはこれまたなだらかな丘陵のような山がどこまでもつづき、その山と道路とのあいだは斜面のある細長い平野となっている。そしてこの平野の斜面には、ほとんど黒い瓦屋根ばかりの家々がとびとびに、あるいは集中して、――というぐあいにずっとつづいている。朝鮮でよくいう「山佳(よ)く水清きところ」で、そこにはいかにも人が生きているといった感じがするのである。
京都から奈良に行く新しい国道二十四号線は、ほぼ国鉄奈良線に沿いながら、より西のほうをとおるので、東の山麓にある史跡や社寺はつい忘れがちになる。しかし、宇治から左手に見えてくる山並みは、京都の東山とちがい、古くから人が住んだりひらいたりしたという感じの、ならされた褶曲(しゆうきよく)の多い山肌をしている。かぞえきれないほどの史跡が、そのふもとにはある。……
国道二十四号線が奈良に向かって木津川堤を走るころ、東に井手山、山吹山などのおだやかで低い山が見える。左手に国鉄「玉水駅」を見てすぐ渡る川が玉川、この左岸は、奈良時代、橘諸兄(たちばなのもろえ)の別荘があったところという。諸兄は、山城南部の帰化人秦氏と特別関係にあり、この付近はひろく秦氏のひらいたところだから当然だろう。
松本清張・樋口清之氏の『京都の旅』からで、またも秦氏であるが、そこからちょっと行ったところは、相楽(そうらく)郡の山城町綺田(かばた)となっているところである。そしてここには、「蟹の恩返し」説話でも有名な、白鳳の釈迦仏を本尊としている蟹満寺がある。国宝となっている白鳳仏はびっくりするほど大きなものだが、なかなかスマートなものでもある。
この白鳳仏のことについてはあとでまたふれることになると思うが、それより、この釈迦仏を本尊としている蟹満寺という、寺の名である。寺からもらった『縁起』によると、それは「蟹の恩返し」という説話からきたものとしているが、前記『京都の旅』によるとこうなっている。
この付近は、古くから帰化人の開拓したところであった。その帰化人は農地開拓とともに、染織技術のすぐれたのを持っていた。そのすぐれた織物がカムハタ(綺)であった。いまでも、この村落を綺田と書いてカバタと読んでいる。カムハタから変わってきた名である。
この寺も古い時代には、紙幡寺と書いたこともある。また村の名も蟹幡郷(かむはたごう)と書いたときもある。それがカムハタ―カンハタ―カニマタ(カバタ)―カニマ―カニマンと転化して、紙幡寺から蟹満寺に、字と読みが変わったのではないかと思う。そして、こんどは、字から蟹がいっぱい出て恩返しをする話になり、そこへ観音信仰が便乗したのではないか、という推定が成り立つ。そうでないと、蟹満寺というような、音訓を混(ま)ぜた不自然な寺名などの起こることが理解できない。
ところで、この蟹満寺というのはもとはいまのところにあったものではなくて、あとで現在の場所に移されたものだといわれている。そのことに関連して、『京都の旅』にはつづけてこうのべられている。
蟹満寺は、もと綺田(かばた)のどこかにあったものだろうが、いまのところに移ったのは、のちの時代だと思われる。本来客仏である釈迦のほうが本尊におさまり、それが京都ではめずらしい白鳳様式の仏像として知られているのは、おもしろい。
蟹満寺のある綺田は、いま山城町に属するが、この山城町は、棚倉(たなくら)村、高麗(こ ま)村、上狛(かみこま)町の合併したものである。古くは蟹幡郷(かむはたごう)、大狛郷(おおこまのごう)といわれたところで、六世紀ごろから、朝鮮の帰化人、すなわち狛人(こまびと)のひらいたところだ。とくに「山城の、狛(こま)のわたりの、瓜つくり」といわれた瓜の名産地として知られていた。いまもこのあたりは、瓜こそ作っていないが豊かな農村として、その開拓の古い歴史が山河にしみついているような、おだやかなところである。
山城町・高麗寺の跡をめぐって
つまり、「古くは蟹幡郷(かむはたごう)、大狛郷(おおこまのごう)」だったここが、さきにみた京都の高麗氏族の一つの根拠地だったところだったのである。そしてここに高麗寺などを建てて栄えたのであったが、蟹満寺からもうちょっと南下したそこに高麗寺跡を発見したのは、山城町の上狛に住む中津川保一氏だった。中津川さんは今年七十三歳になる地方史研究家であるが、その家はもと瓦屋さんだったという。
いまは国の史跡に指定されている高麗寺跡が発見されたのは一九三四年のことで、いまでは高麗寺道といっているそこの道路の改修工事があったとき、その土中からたくさんの古瓦が出てきた。それをみたもと瓦屋さんだった中津川さんは、これはただごとではないというわけで、はじめてそこが発掘されるという運びになったものだった。
以来、この高麗寺跡と中津川さんとは切っても切れないようなものとなり、今日なお中津川さんはその辺を歩きまわっては瓦片などをひろい集めたりして、ひとりこつこつと研究をつづけている。私がたずねたときもそれらのいくつかを見せてもらったが、山城町教育委員会によって整理された『史跡 高麗寺跡』をみると、それはこういうものとなっていた。
塔跡 十二・八メートル平方の瓦積基壇を有し、中央に心礎を原位置にとどめている。心礎は表面に円柱孔を、右側に横口の舎利孔をもち、全国唯一の形式をとどめている。
金堂跡 塔跡の西八メートルに南北十三・三メートル、東西十七メートルの瓦積基壇をもった金堂跡がある。
講堂跡 金堂跡北側に水田をへだてて講堂跡があり、二箇の礎石を残している。
出土品 飛鳥時代の鐙瓦(あぶみ)、奈良・平安初期の宇(う)瓦、鴟尾(しび)等多数の古瓦・破瓦・金具・釘・化粧石等が発見され、京都国立博物館・山城町役場に保存されている。
これらの出土品もほとんどは中津川さんが発見したものであるが、ところで中津川さんは、いまさっきみた蟹満寺の白鳳仏について、こういうことをいっている。
「蟹満寺のあの白鳳期の仏像ですが、あれは高麗寺から移されたものではないかという角田文衛さんの意見と、いやそうではない、当初からそこにあったものだ、という田中重久さんの間に論争がありました。私どもは、角田さんの説に賛成です」
蟹満寺の近くの「光明山のあたりには、現在でも白鳳時代の瓦が点々とあり、それが高麗寺の瓦と合致するのです。そういうところから、お堂の一部と仏像を持って行ったのではないか、という疑いが出て来ます。白鳳の瓦のないはずのところに、その瓦があるのですから、そう思われるわけですね。そこから出た瓦は、現在、棚倉小学校に保管されております」(「山城町・高麗寺のこと」)
あるいはもしかすると、そうかもしれない。というのは、蟹満寺の白鳳仏はいわゆる客仏であり、蟹満寺自身にしても現在地にあったものではないからだが、しかし、それはどちらでもよい。
それより、また蟹満寺へ戻ったところでちょっとみると、これの近くには高倉神社というのがあるが、高麗(こ ま)や狛(こま)とおなじように、これも高句麗から出た名にちがいない。それの朝鮮語コクレ(高句麗)からコウクラ(高倉)、たかくら(高倉)となったものである。それから少し南下するとそこに城山古墳などがあり、これは高麗寺を中心に、そこで栄えた高麗氏族の墳墓だったのであろう。
高麗寺はふつう高句麗渡来の僧恵弁、東聡の建てたものとされているが、もちろん、このふたりの僧だけがやって来てそれがつくられたのではない。それらの僧侶をも擁することのできた、おなじ渡来氏族の大きな力が加わってはじめてできたものであったことはいうまでもないことで、それがさらにまた、京都市内にある八坂の法観寺や樫原廃寺をもつくったのである。
高麗寺跡のある山城町の上狛には、いまも「上狛の精霊踊り唄」というのがある。大きな長い団扇ようのものに書いた上狛五つ郷の「五」の字をかかげて歌い踊る男ばかりの珍しい踊りで、一九六七年六月十三日付けの朝日新聞(大阪)京都版に出ていたのを紹介すると、それは次のようなものである。
入羽踊り始まっさい
アヨイトコセ、ヨイヨーイヨイ
アー南無阿弥陀
ヨイヨーイヨイ
アー弥陀を頼みてせえ
極楽へこら導きせえ給えや
セーサーサーヨイトコセ
ヨイヨーイヨイ
奈良から京に都が移る二百年以上も前のこと。京都には中国、朝鮮からの帰化人が定住し、養蚕やすぐれた土木技術などで、大和朝廷を側面から支えた。こうした帰化人グループのなかで、南山城地方に勢力を張ったのが朝鮮の狛(こま)氏。その本拠地は、地名が語るように、相楽郡山城町上狛であったといわれる。木津川の北岸にあり、奈良街道から伊賀上野への分岐点をおさえる要衝だけに、山城平野一帯に号令をかけるには絶好の地だった。
このエキゾチックな歴史に、輪をかけるのがこの踊り唄(うた)の由来である。聖武天皇(七二四〜七四九)のとき、高麗(こま)の高僧恵弁、東聡の二人が薬師如来像を持って渡来、この地に高麗寺を建てた。その供養のために、精霊踊りをはじめたというのだ。
話がこうトントン進むと、「上狛の精霊踊りは朝鮮渡来か」といわれそうだ。たしかに、白一色の装束など、古代朝鮮民族のニオイを感じさせる。
仁徳帝の浮気の話
文中に「木津川の北岸にあり」とあるのは、木津川が山城町のそこから急に東へ屈曲しているからである。その川をわたり、そこからこんどもまた木津川に沿うようにして、逆に京都市内へと戻ってみることにする。つまり、さきに南下するときは木津川の東岸のみを見て来たのであるが、こんどはそれが右手となる西岸のほうを注意して見るというわけである。
するとまず、これも高麗氏族との関係でその地名が生じたはずの下狛、狛田などというのがあり、間もなく綴喜(つづき)郡田辺町となる。この田辺というのも百済系渡来氏族と関係があって、ここはもと、『古事記』仁徳段にある筒木(つつき)のあったところである。
仁徳段のこのくだりはなかなかおもしろいもので、倉野憲司校注『古事記』によってそれをみるとこうなっている。仁徳帝が八田若郎女(やたのわきいらつめ)とねんごろになったのを嫉妬(ね た)んだ大后の石之日売(いわのひめ)は、出先からそのまま帰らずじまいとなってしまう。そして、
「つぎねふや 山代河を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯(をだて) 倭(やまと)を過ぎ 我(わ)が見が欲(ほ)し国は 葛城高宮(かづらきたかみや) 吾家(わぎへ)のあたり
とうたひたまひき。かく歌ひて還りたまひて、暫(しま)し筒木(つつき)の韓人(からびと)、名は奴理能美(ぬりのみ)の家に入りましき」となるのであるが、筒木というのはこの筒木である。綴喜郡のつづきもそこからきたこの筒木とは、古代朝鮮語ツツキ(山城)のことで、韓人の奴理能美一族はここにそういう山城を構えていたのである。
一方、八田若郎女とねんごろになったものの、大后の石之日売も決して嫌いだったわけではなかったらしい仁徳帝は、鳥山という名の舎人(とねり)を使いにだして、
「山代に い及(し)け鳥山 い及(し)けい及(し)け 吾(あ)が愛妻(はしづま)に い及(し)き遇(あ)はむかも」といった歌を、何度も送ったりする。要するに早く帰って欲しいというわけであったが、いつの世もおなじことで、そんなことで困ったのは、あいだに立たされた奴理能美たちのほうだった。
そこで、このくだりはこういうふうに結末がつけられている。
「ここに口子臣、またその妹口比売、また奴理能美三人議(みたりはか)りて、天皇に奏(まを)さしめて云(い)ひしく、『大后の幸行(い)でましし所以(ゆ ゑ)は、奴理能美が養(か)へる虫、一度(ひとたび)は匐(は)ふ虫になり、一度は鼓(つづみ)になり、一度は飛ぶ鳥になりて、三色(みくさ)に変(かは)る奇(あや)しき虫あり。この虫を看行(みそな)はしに入りまししにこそ。更に異心(ことごころ)無し』といひき。かく奏(まを)す時に、天皇詔(の)りたまひしく、
『然らば吾(あれ)も奇異(あ や)しと思ふ。故、見に行かむと欲(おも)ふ』とのりたまひて、大宮より上り幸(い)でまして、奴理能美の家に入りましし時、その奴理能美、己が養(か)へる三色(みくさ)の虫を大后に……」というわけである。
仁徳帝はそうして石之日売を迎えに来たもので、『古事記』の筆者もなかなかしゃれた書き方をしたものであった。まだ、それで仁徳帝の浮気はおわったわけではなかったが、それはともかくとして、以上の筒木の奴理能美との関係をみてわかることは、そこに養蚕の事実が出ているということである。
すなわち筒木、『日本書紀』には「筒城」となっているそのツツキの山城を構えていた韓人たちが、そこで養蚕をしていたこともこれでわかるのである。しかし、これが日本における養蚕のはじめであったかどうかはわからない。けれども、この田辺町の旧普賢寺村多々羅には、いま、「日本最初の外国蚕飼育旧跡」という石の標柱が立っている。
この標柱のある多々羅というところは、古代南部朝鮮の小国名多羅を負ったものか、製鉄のタタラ(踏鞴)からきたものかはわからない。が、いずれにせよこれも朝鮮と関係あるもので、ここには、村田太平氏の『田辺町郷土史』によると、この地に「鉄工の業を伝えた」「百済国人爾利久牟王の子孫」である多々羅氏族がその祖神を祭ったものという新宮神社がある。
山城の京都には以上のほか、京都市内に戻ってみれば、百済・安耶系の漢(あや)氏族から出たといわれる征夷大将軍の坂上田村麻呂が勧請し、建立したものと伝える有名な清水寺があり、そこには田村堂もあって、勧修寺東栗栖町には彼の墓もある。それから神社にしても、さきにみたものばかりでなく、村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷」をみると、ほかにも大椋神社、棚倉孫神社、小倉神社などがある。
摂 津
摂津国百済郡
大阪の昔と今
まず、摂津国だった大阪とはどういうところであったか、それを、藤本篤氏の『大阪府の歴史』によってみておくことにする。藤本氏は大阪平野の地形などについてのべ、つづけてこう書いている。
こうした大阪府の地域も、大和朝廷の成立後その支配下にはいり、凡河内(おおしこうち)国と呼ばれて国造(くにのみやつこ)がおかれた。やがて七世紀の後半には、凡河内国から摂津国が分離し、八世紀のはじめには和泉国が設置されて、摂津・河内・和泉の三ヵ国となった。
摂津国はたんに津の国とも呼ばれた。津というのは港のことであり、その港とは“難波津(なにわづ)”のことをさす。難波津については、あとで本文にくわしく述べることになるが、すでに神話伝承のむかしから、たくさんの歴史上の話題を提供したところである。なお、摂津とは津の官務を摂するという意味をもつ。河内国の国名は、都のあった大和からみて、淀川のこなた(内がわ)にあるところから名づけられ、和泉国は、いまの和泉市府中の地に清泉が発見されたことから、のちに和泉の字をあて、イヅミまたはニギイヅミとよんだというのは、本居宣長の説である。……摂津国十三郡のうち、西部の二郡はいま兵庫県にぞくしている。
摂津・河内・和泉、この水に関係のふかい名をもつ三ヵ国は、ふつう略して摂河泉と呼ばれているが、そのうちもっとも早く開けたのは、いうまでもなく難波の地である。難波津は四世紀のころ、すでに大陸文化流入の門戸として栄え、五世紀にはその水陸交通の便に着目して、仁徳天皇の難波高津宮(たかつのみや)がいとなまれ、帝都となった。そののち都はふたたび大和に移ったが、六世紀のおわりには、日本最初の大寺院である四天王寺が建てられた。
七世紀のなかばには、難波はふたたび首都となり、難波長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや)において、大化改新の政治がおこなわれた。このあと八世紀のなかばには、聖武天皇の難波宮が造営され、一時的ではあったが、この地は三度目の帝都となったのである。
以上が古代のそれであるが、なおまた近世から現代の大阪については、こう書かれている。少し長くなるけれども、最初にみておかなくてはならないものとして、これも示しておくことにしたい。
大阪府の地域は、古代国家の成立いらい現代に至るまで、長い年代をつらぬいて、歴史の舞台として重要な役割を演じてきた。しかも、その歩みは、大阪以外の枢要な舞台としてあげられる京都・奈良、あるいは鎌倉・江戸などとは、いちじるしくことなり、複合的で変化に富むものであった。それがやや統一的な展開をしめすのは、近世にはいってからであるが、いわゆる大阪らしさは、むしろこの時期につちかわれた。
近世の大阪は町人の町であり、大阪町人は天下の町人であった。海保青陵(かいほせいりよう)は『升小談(ますしようだん)』のなかで、「大阪は金が代(し)ろ物(もの)なり。大阪の金は江戸の金とは大(おほい)にちがひて皆代ろ物なり。つかふてはならぬ金なり」と叙述しているが、大阪人にとっては実利こそ最高のものであり、権力はむしろ軽視された。幕藩体制下二百数十年間に、彼らが身につけたのは、「今日は」のかわりに「もうかりまっか」とあいさつするたくましい商魂であり、信頼できるのは自分だけとする自己防衛の考え方が、体力をつけるための“大阪の食(く)い倒れ”となった。金銭第一主義の大阪町人が、食(た)べものには惜しげもなく金をつかい、質・量ともに値うちのある料理を育てあげた理由は、ここにある。“天下の台所”をあずかった大阪町人たちは、営々として富を蓄積し、士農工商と、四民の最下位におかれながら、「金銭はきたなくもうけて、きれいに使」い、経済的には武士をさえ恐れさせたのである。
こうした大阪町人の商魂や生活力は、いまなお伝統として大阪人のなかに生きているが、その大阪も、いまでは他府県からの流入人口が多く、一八四四・九五平方キロメートルの府域に、七二五万人がひしめき、新しく生まれかわりつつある。古い伝統にささえられた大阪らしさには、新しい要素がつぎつぎに加えられていく。いつまでも古く、絶えず新しいところ、それが現在の大阪らしさであろう。
「自己防衛の考え方が、体力をつけるための“大阪の食い倒れ”となった」というのはちょっとどうかと思われるが、要領をえた叙述で、そのほかのことについてはだいたいうなずけるように思う。
要するに、大阪とはそういうところだったわけで、いまは人口七百二十五万を数える大都会となっているのであるが、しかし人口のうえでは、東京の一千万以上にくらべると、まだ第二位である。けれども、私たち在日朝鮮人が居住している数においては、東京よりもはるかに多く、第一位となっている。
生野区の在日朝鮮人は四万以上
いま大阪に住んでいる在日朝鮮人は約十七万ほどであるが、とくに、市内の生野区には四万以上が密集している。ここの朝鮮人だけでも、ゆうに一つの市ができるほどである。
私が大阪へはじめて行ってみたのは、さきの大戦が終わった直後のことだった。このころはいたるところ新生の活気にみちていたものだったけれども、猪飼野(いかいの)あたりを中心としたこの街のにぎわいには、私はほんとうに目をみはったものだった。活気にみちたにぎわいもさることながら、私はそこにいた朝鮮人の数の多いのにおどろいてしまったのである。そこはまるで朝鮮だった。一歩裏の路地にはいってみると、長い朝鮮キセルをくわえた老人たちが、のんびりとしたさまで縁台に腰をおろし、朝鮮将棋をさしたりしている。
このようなにぎわいと、朝鮮的すがたとはいまもさして変わりはない。私はいまでも大阪へ行くことがあると、よく猪飼野の“朝鮮市場”などを歩いてみることがある。朝鮮風の衣料品であれ食料品であれ、また食器であれ楽器であれ、李朝風の婚礼衣裳にいたるまで、およそ朝鮮人にとって必要なものは、なんでもここで買いととのえることができる。
こういう“市場”があることからして、朝鮮人がそれだけ多く住んでいることをものがたるものであるが、ところで、日本でもっとも朝鮮人の密集している生野区のこのあたりは、もと百済、百済野、百済郡であったところだった。そしてここに、こんなにして朝鮮人がたくさん住みつくことになったのは、このあたりを流れている平野川の開削工事のためであったといわれるが、この平野川もまた、もとは百済川といったものだった。百済とはもちろんいうまでもなく、朝鮮三国時代の一国であったそれである。念のため、大阪府警察本部編『大阪ガイド』をみるとこうなっている。
百済野
生野区の北方旧鶴橋町に属した一円はもと百済郡百済郷の地で、仁徳天皇のころ百済の帰化人が集団居住したところといわれる。この地を南から北へ縦断する平野川は、また百済川とも呼ばれた。
平野運河
生野区の西部を北流する旧平野川はまるで蛇のようにうねうねと屈曲して、大雨のたびつねにあふれ、沿岸の住民に被害を与えたので、直線の新運河を開いてこれを防いだもの。昭和十五年に、旧川は埋め立てられた。
現在生野区には三〜四万人の朝鮮人が居住し、区内総人口の十五%を占めているが、これは大正の末期、平野運河開サク工事のため多数の朝鮮人が集められたのが起源といわれる。それが故郷からさらに親類・知人を呼び寄せて雪だるま式にふくれあがったもので、工事完了後も運河ぞいの猪飼野一帯に住みつき、今日の大をなしたのである。
考えてみると、まったく妙な気がしないわけにゆかない。「仁徳天皇のころ百済の帰化人が集団居住したところ」とあるように、かつての古代、大阪のここを開発して住みついたのは朝鮮・百済からの渡来人であった。それが千数百年もたってのち、さらにまた、朝鮮からの彼らは、百済川といったその平野川開削工事のために来て、そこに住みつくこととなったのだ。
「奇しき因縁」などといったようなものではない。それ以上のなにかであった、とでもいうよりほかないだろう。
古代的共同体としての「百済国」
日本に国・郡の制がしかれたのは六四五年の大化改新からであるから、ここが百済郡となったのは、それ以後であったにちがいない。しかし、私はここで、新井白石の次のことばを思いだす。
「あるいはいにしえでは『国』といったものが、のちには『郡』となり『郷』となったものも少なくない」(『古史通或問』)
つまり、大化改新以後、中央集権的古代国家が形づくられることになって、国・郡の制がしかれたが、そのさい、それまでは「国」であったものが「郡」となり「郷」となったものも少なくない、というのである。してみると、この百済郡というのももしかすると、それまでは、古代的共同体としての一つの「国」であったのかもしれない。
なぜ私はこんな疑問をもったかといえば、この百済には大化改新以前すでに大別王(おおわけおう)寺・百済寺というのがあったらしいことと、それからこちらの百済のほか、和泉の堺にもまた「百済」があったことからきている。和泉のそれはあとでみるとして、こちらの百済郡は、現在の生野区西半から東住吉区の大部分がそれにあたっていたといわれるが、ほんとうはもっと広かったのかもしれない。
もちろん、往年のすがたはいまもとめえられるはずもない。しかし、そのおもかげはいまなおあちこちに残っている。たとえば、つい最近まで国鉄関西本線の平野と天王寺とのあいだにあった百済という駅は廃されたけれども、貨物駅としてはまだ「百済駅」の名を残しているし、市電やバスの停留所にも「百済」「くだら」が残っている。
また、川の名にしても、平野川の下流はいまも百済川、駒(巨麻)川となっている。そしてこの川畔の東成区北中本町にある八王子神社ももとは百済神社となっていたものであるが、それよりも注目したいのは、藤沢一夫氏の「摂津国百済寺考」や今井啓一氏の「摂津国百済郡考」にもあるように、この百済には大別王寺・百済寺といった大寺院があったということである。大別王寺の大別(おおわけ)とはなんであったのか、藤沢一夫氏のそれをみると、次のように書かれている。
『日本書紀』敏達天皇六年(五七七)十一月の条に、「百済国王は還使の大別王等に付して、経論若干巻、並びに律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工六人を献り、遂に難波の大別王寺に安置せり」とある記事の中に見える大別王寺は注目されるものである。同じく『日本書紀』によれば、同年五月、大別王は百済国に使したのであり、この記事の注記には「大別は未だ所出を詳かにせざるなり」とあるが、『太子伝古今月録抄』には「一 大別王の事、余昌か、大唐の人なり」と推定している。余昌王というのは、後に百済の威徳王となった聖明王の王子たる余昌その人であろう。しかし、彼が我が国に来朝したという記録はなく、ただ、欽明天皇一六年(五五五)には百済王子の余昌が弟の(余)恵を遣し、翌一七年、恵の帰国したことが記録されている。大別王が余昌その人でなかったとしても、その周辺の王子たちのいずれかであったとすることには蓋然性があると思われる。大別王が百済に使したという事実こそが、そのことを裏書きするものであろう。
大別王寺そのものとはまた別に、これを読んでまず気がつくことは、朝鮮の百済にこの日本から「使した」(使節として行った)大別王なるものが、ほかならぬ百済王子の「余昌その人でなかったとしても、その周辺の王子たちのいずれかであった」らしいということである。これは、どういうことであったのだろうか。
そもそも、大別の「別」とはいったいなんであったのか。桜井光堂氏の『古事記は神話ではない』によれば、「別」とは朝鮮からの「分国」を意味したものであり、中島利一郎氏の『日本地名学研究』によれば「別」とは朝鮮語「ワング(王)」の転訛したものだとのことであるが、これはまた、大阪に河内王朝なるものを打ちたてたといわれる誉田別(ほんだわけ)(応神帝)、すなわちワケ(別)系、タラシ(多羅之)系というふうに分類してみられる、日本天皇家のそれとも関係あることなのかもしれない。
百済王族の夢の跡
それはどちらにせよ、難波の大別王または大別王寺というものは、百済または百済郡がどういうものであったかということを考えるばあい、一つの大きな要素となっていることはまちがいない。そして、この大別王寺こそは百済寺の前身ではなかったかと、藤沢氏はつづけて次のようにのべている。
いずれにせよ後の百済郡の地には、百済王族を取巻く人たちが群居して、大別王の個人的住宅仏殿の域をでなかったものであったに違いないが、百済王族とその寺院とを中心として一族が結集していたものと思われる。日本に初めて造仏工等の献上渡来があり、彼等が同寺に安置されて、三宝興隆のための造寺造仏活動の根拠点となったのであろう。しかし同寺に、造瓦工の献上は記されていないから、瓦葺の本格的造寺はできなかったとしても、爾後における難波の大別王寺を中心とする造寺の開始と、仏教の興隆とが考えられる。しかるときは、難波の大別王寺は難波の百済寺の前身ということになるであろう
いずれにせよ大和(奈良県)とほとんど同時に、というより、それよりも先んじてこの大阪の難波に大別王寺・百済寺ができていたということは、充分注目されなければならないことであろうと思う。このことは、これはのちにみることになる、いわゆる河内王朝なるものとも関係あることと思われるからであるが、引用ばかりつづくようで恐縮であるけれども、藤沢氏はさらにまたつづけて次のように書いている。
この大別王寺の所在地を中心とする地区は国郡制度が成立して、百済郡となった。『倭名抄』国郡部によれば、百済郡には東部、西部、南部の三郷があった。郷数からすれば、小郡に属すべきものである。それはそれとして東部、西部、南部という郷名は全国の他郡に全く類例を見ない地名らしからぬものである。この郷名の理解については『日本地理志料』第五、摂津国百済郡の条の各郷の説明の中に見出されるが、その東部郷については、「按ずるに東部は東田部を修するなり、まさに比無加之多奈部(ひむかのたなべ)を云うべし、南部も此に準ず」とある。かつて田辺東神なる神社、あるいは南田辺村、北田辺村などの存した地区と百済郡とが重なり合うかの点にも疑問があるばかりでなく、これらの土地は帰化氏族田辺史(ふびと)の住地であって、この田辺と、朝廷領地の耕作部民たる田部とは関係がなく、この憶説は成り立たない。
それはおそらく、『隋書』『周書』『北史』あるいは、『翰苑』所引の『括地志』等によってうかがわれる百済国域の五方あるいは五部、および国都の五部という行政区画に準(よ)られたものであろう。国都の五部は東西南北中の五方を称してはいないが、上部は東、下部は西、前部は南、後部は北に当るであろう。そしてそれぞれに居住する氏族は、官職氏名の上にその部名を冠称するのが常であった。このことは、『日本書紀』の当時の朝鮮関係記事に出て来る朝鮮人名を参照すれば明らかである。……
ここにおいて百済王族を中心とする百済系諸氏族が群居し、後に百済郡となった土地に彼らが故国の五方五部を想起しながら、これに擬したものを再現しようとの心情から、東部、西部、南部という三郷を設置したものと考えられる。もちろん百済郡の大領に任ぜられてその指導的立場にあったのは、百済王族その人たちであったと思われる
なおまた、藤沢氏のそれをもう少しみると、大別王寺・百済寺の遺物については、こうなっている。
百済寺の遺物として知られるものは、塔刹礎石と屋瓦とがあるばかりである。
この塔刹礎石は昭和の戦災以後、その所在を失ったことは惜しまれる。それは、相当な辺長のある方形柱座を浅く彫り込んだ巨大なものであった。方形柱座の刹礎は日本ではほとんど例がなく、百済、新羅等の故地に多いものであり、ことに百済王都だった扶余の軍守里廃寺の地下式塔刹礎石も彫り出しの方形柱のものであったことが想い起される。百済寺の建立が百済王族との関係において発足したことは、このことからも裏書きされるであろう。
比売許曾の女神
百済王族の遺跡群
このようにみてくると、摂津国百済郡とは大化改新以後の国・郡制によってそうなったもので、それ以前は、『日本書紀』に「まだ所出を詳かにせざるなり」とある「大別王(おおわけおう)」など、「百済王族」らによるレッキとした一つの「国」であったらしいというイメージがいよいよはっきりしたものとなってくる。私からみればこのイメージこそたいせつなもので、これはあとでみる和泉(堺市ほか)の「百済」とも深い関係があるのではなかろうかと思う。
それはいましばらくおいて、どちらにしても、これもまたあとでみるはずの四天王寺の建立以前、すでに大別王寺(百済寺)などをもった百済(のち百済郡)は相当に強大なものであったとみなくてはならない。とすれば、その遺跡もほかにまだたくさんなくてはならないはずである。
今井啓一氏の「摂津国百済郡考」によってみると、氏もまた百済郡についての考証を行ない、「旧百済郡内と考えられる地域で、旧寺院趾と思われる遺物を出土したところは」として、次のようなものがあげられている。
(イ)天王寺区堂ケ芝 豊川閣観音の地
(ロ)東住吉区北田辺二階堂の地 田辺廃寺
同じく帰化人文化に関係あるかと思われる伝承のあるものとして、
(ハ)生野区舎利寺町二丁目字小中 舎利尊勝寺
(ニ)東住吉区桑津町三丁目字西 見性寺
(ホ)東住吉区平野新町五丁目 長宝寺
同じく神社として、
(ヘ)東住吉区平野宮町 旧府社杭全神社
(ト)東住吉区中野町 旧村社中井神社
(チ)東住吉区山坂町二丁目 旧村社山坂神社
(リ)東住吉区喜連町 式内旧村社楯原神社
(ヌ)東住吉区平野三十歩町 式内赤留比売命神社
これらはいちいちみて歩くこともないと思うので、かんたんにふれておくことにしたい。天王寺区堂ケ芝の豊川閣観音の地にはいま観音寺というのがあるが、これは比較的新しいものである。しかし、ここは堂ケ芝寺跡といわれるところであって、二階堂の田辺廃寺とおなじように、境内からは先年、飛鳥時代のものとみられる古瓦が出土している。それでここはさきにみた大別王寺・百済寺の跡とも、また、四天王寺が最初に建立されたところではなかったかともみられている。
だいたい、いまの四天王寺が今井啓一氏の右のうちにあげられていないのは、これは今井氏の意見によるものである。すなわち、「四天王寺の所在する荒陵(あらはか)の地や、阿倍野をも百済郡に含ますことには賛同し難く、論は多岐に亘るので省こう」ということになっているからである。
生野区舎利寺(しやりじ)町の舎利尊勝寺は、これもまた大別王寺・百済寺の跡ではないかといわれているが、しかし、『大阪府全志』はそれを東住吉区桑津町の見性寺であったとしており、見性寺もそういう寺伝をもっている。そして舎利尊勝寺には、「用明朝、この地にいた生野長者」なるものがこれを建立したという寺伝がある。そして、この「生野長者というのも百済王某であったかも知れぬ」としている今井啓一氏は、それについてこうのべている。「寺伝の真偽は兎も角として、舎利を介して聖徳太子・四天王寺・法隆寺との関係を思わせ、又いまもこの辺一帯を生野と称し、生野区あり、所謂、生野長者という豪姓がいたことも察せられる」
堂ケ芝廃寺といい、舎利尊勝寺といい、四天王寺と結びつくのがおもしろいところであるが、ついで、神社ということになると、今井氏のあげた五社のほかにも比売許曾(ひめこそ)神社など、まだたくさんある。「旧百済郡内と考えられる地域」だけでもこれであるから、いわゆる摂・河・泉(大阪府)全体としてみれば、これはなおいっそう多くなるこというまでもない。
たとえば、もっとも多い河内のほうはおいて、摂津と和泉のそれだけを、村山正雄氏の『朝鮮関係神社攷』によってみても、いまあげたもののほか、次のようなものがあげられている。
阿比多神社。阿利莫神社。三島鴨神社。矢代寸神社二座。日根神社。穂椋神社。幣久良神社。保久良神社。
もちろん、さきにもことわったことがあったように、村山氏のあげているこれが決してそれの全部ではない。ほかにも高石神社、伯太(博多)神社など、摂津や和泉とかぎらず、おそらく日本にある神社・神宮というものはすべて、その起源が古ければ古いほど、朝鮮との関係を深くしているものとみなければならない。
坂上田村麻呂の出自
まず、今井啓一氏のあげているもののうちの一つ杭全(くまた)神社をみると、これはそのうちでもずっと新しいものにぞくする。
“平野おんだ”とよばれる古風な田植神事をもつ杭全神社のある平野区平野宮町のこの一帯は、かつて百済郡平野郷となっていたところで、神社のあるそこは杭全の庄ともいわれたところだった。坂上田村麻呂の子広野麻呂の荘園だったもので、祭神は素戔嗚尊となっているけれども、彼ら一族がその祖神を祭ってつくったのがこの杭全神社である。
境内にはほかに田村神社として田村麻呂を祭る田村堂があり、近くの平野市町(いちまち)にある田村公園には広野麻呂の墓がある。そしてまた、平野泥堂町には田村麻呂の娘で桓武帝の側室だった坂上春子の墓などもあって、当時におけるいわゆる坂上七名家(しちみようか)(末吉・土橋・辻花・成安・西村・三上・井上)の繁栄ぶりを示している。
坂上家は子孫代々この地を領有し、世人から平野殿と呼ばれていたが、その子孫に傍系を生じ、ついに坂上七名家が生じた。(七苗家)かくしてこれの七家が平野の地を区分して支配し、宗家坂上家をたすけて堅固な結束をなすようになった。(松田太郎『阪神地方の歴史』)
坂上田村麻呂といえば平安時代初期の征夷大将軍として有名なものであるが、この坂上氏は、平安時代以前は東漢(やまとのあや)坂上と称していた。東漢とは西(かわち・河内)にたいする東(やまと・大和)のあや(漢)ということで、この漢(あや)というのは、古代南部朝鮮の小国家であった安耶(あや)(安羅(あら)・安那(あな)ともいう)からきたものであった。
彼らのもとの本拠は大和(奈良県)飛鳥の檜隈(ひのくま)にあったもので、日本の史家たちによると、これは百済系の渡来氏族ということになっている。おそらく『新撰姓氏録』に「漢人(あやひと)。百済国の人、多夜加の後(すえ)なり」などとあるところからそうなったかと思われる。しかしその「漢(あや)」ということがのち百済や新羅に吸収された加耶諸国のうちの安耶からきたものとすれば、これは百済・安耶系ということにならなくてはならない。
それはどちらでもよいようなものであるが、一方、新羅といえば、摂・河・泉の大阪には、その新羅系渡来人によるものとみられる遺跡や伝承の地もたくさんある。たとえば、比売許曾(ひめこそ)神社である。
比売許曾神社の由来
東成区小橋南之町の比売許曾神社は、さきにみた百済郡だった生野区の、いま在日朝鮮人がもっとも密集しているそこからすぐ近くのところにある。いまはぎっしりと立て混んだ家並みのあいだに押し込められたような小さな神社となっているが、これは『延喜式』内の古社であるのはもちろん、しかも「名神大(みようじんだい)・月次(つきなみ)・相嘗(あいなえ)・新嘗(にいなえ)」といった格式の高いものであった。
創建の年代は、いつかわからないが、祭神は阿加留比売(あかるひめ)となっている。天日槍(あめのひぼこ)(天之日矛)渡来伝承の一つとして、『古事記』応神段に次のようなくだりがある。
また昔、新羅(しらぎ)の国主(こにきし)の子ありき。名は天之日矛(あめのひぼこ)と謂ひき。この人参(まゐ)渡り来つ。参渡り来つる所以(ゆ ゑ)は、新羅の国に一つの沼あり。名は阿具奴摩(あぐぬま)と謂ひき。この沼の辺(ほとり)に、一賤(あるいや)しき女(をみな)昼寝しき。ここに日(ひ)虹の如く耀(かがや)きて、その陰上(ほ と)に指ししを、また一賤(あるいや)しき夫(をとこ)、その状(さま)を異(あや)しと思ひて、恒にその女人(をみな)の行(わざ)を伺ひき。故、この女人、その昼寝せし時より妊身(は ら)みて、赤玉を生みき。ここにその伺へる賤しき夫(をとこ)、その玉を乞ひ取りて、恒に裹(つつ)みて腰に著(つ)けき。この人田を山谷(た に)の間に営(つく)りき。故、耕人等(たびとども)の飲食(をしもの)を、一つの牛に負(おふ)せて山谷(た に)の中に入るに、その国主(こにきし)の子、天之日矛に遇逢(あ)ひき。ここにその人に問ひて曰ひしく、「何(なに)しかも汝(な)は飲食(をしもの)を牛に負せて山谷(た に)に入る。汝(な)は必ずこの牛を殺して食ふならむ」といひて、すなはちその人を捕へて、獄囚(ひとや)に入れむとすれば、その人答へて曰ひしく、「吾(あれ)牛を殺さむとにはあらず。唯田人(ただたびと)の食(をしもの)を送るにこそ」といひき。然れどもなほ赦(ゆる)さざりき。ここにその腰の玉を解きて、その国主の子に幣(まひ)しつ〈贈ったという意〉。故、その賤しき夫(をとこ)を赦して、その玉を将(も)ち来て、床の辺(べ)に置けば、すなはち美麗(うるは)しき嬢子(をとめ)に化(な)りき。仍(よ)りて婚(まぐは)ひして嫡妻(むかひめ)〈正妻のこと〉としき。ここにその嬢子、常に種種(くさぐさ)の珍味(ためつもの)を設(ま)けて、恒にその夫(ひこぢ)に食はしめき。故、その国主の子、心奢(おご)りて妻(め)を詈(の)る〈罵る〉に、その女人の言ひけらく、「凡そ吾(あれ)は、汝(いまし)の妻(め)となるべき女(をみな)にあらず。吾が祖(おや)の国に行かむ」といひて、すなはち竊(ひそ)かに小船(をぶね)に乗りて逃遁(に)げ渡り来て、難波に留まりき。こは難波の比売碁會の社に坐す阿加流比売神と謂ふ。
ここに天之日矛、その妻(め)の遁(に)げしことを聞きて、すなはち追ひ渡り来て、難波に到らむとせし間、その渡の神、塞(さ)へて入れざりき。故、更に還りて多遅摩(たぢまの)国〈但馬国〉に泊(は)てき。すなはちその国に留まりて、多遅摩の俣尾(またを)の女、名は前津見(まへつみ)を娶して、生める子、多遅摩母呂須玖(たぢまもろすく)。この子、多遅摩斐泥(ひね)。この子、多遅摩比那良岐(ひならき)。この子、多遅麻毛理(もり)。次に多遅摩比多訶(ひたか)。次に清日子(きよひこ)。三柱。この清日子、当摩(たぎま)の〓斐(めひ)を娶して、生める子、酢鹿之諸男(すがのもろを)。次に妹菅竈由良度美(いもすがかまゆらどみ)。故、上(かみ)に云へる多遅摩比多訶、その姪、由良度美を娶して、生める子、葛城(かづらぎ)の高額(たかぬか)比売命。こは息長帯比売命の御祖なり」(倉野憲司校注『古事記』。ただし〈 〉内は金)
はじめのほうはともかく、あとのほうはいちど読んだだけでは、なにがどうしてだれを生んだのかわけがわからないが、ともかく、息長帯(おきながたらし)比売(ひめの)命(みこと)、すなわち神功皇后がこの天之日矛(天日槍)の筋から出ているということと、それからいまさっきみた比売許曾神社に「坐す」ものが阿加留比売神ということだけはわかる。さて、そこでもう一つ考えなくてはならないのであるが、この伝承・説話はいったいなにをものがたっているのであろうか。
朝鮮から来た女神
「ここに日(ひ)虹の如く耀(かがや)きて、その陰上(ほ と)に指ししを」「故、この女人、その昼寝せし時より妊身(は ら)みて、赤玉を生みき」という、いわゆる太陽托胎(たくたい)卵生説話のこれは、似たような話が朝鮮の民話などにもあって、私は幼いころ祖母あたりからよく聞かされたものである。それがまたどうして、天日槍などの渡来伝承として日本の『古事記』などに書かれることになったのであろうか。
率直にいうとよくわからないというよりほかないが、『古事記』における天日槍と比売許曾のこれは、『日本書紀』のそれとはかなりちがっている。阿加留比売などというものが出てくることからしてちがっているが、このちがいについては、滝川政次郎氏の「比売許曾の神について」をみると、次のようになっている。
比売許曾の話が古事記と日本書紀とによって少しずつ違っているのは、この話を伝えた帰化氏族の伝承が違っているからであります。新撰姓氏録、第三帙(ちつ)蕃には、日桙〈日矛〉の子孫を称する氏族と、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の子孫を称する氏族とが記載されています。古事記の方は、日桙の子孫を称する氏族の間に伝承されたものを記載し、日本書紀の方は、阿羅斯等の子孫を称する氏族の間に伝承されたものを記載したものと思われます。かように比売許曾の話が異った帰化氏族の間に伝承されていることは、比売許曾の話が特定の氏族の族祖神話にあらずして、韓民族共通の民族神話であることを語るものであります。
ところで比売許曾、すなわち阿加留比売を祭っているのは、比売許曾神社となっているものだけではないのである。大阪だけみても、南区高津町の高津宮にある比売許曾神社はもとより、東住吉区平野町に赤留比(あかるひ)売命(めのみこと)神社があって、これは古くは住吉大社となっていたものだという。それからまた、同区喜連町にある楯原神社も赤留比売を祭るものであり、さらにまた、西淀川区姫島町の姫島神社の祭神も阿迦留姫(あかるひめ)ということになっていて、姫島町という地名もそれからきている。
それからまた、吉野裕訳『風土記』をみると「摂津国風土記」(逸文)に「比売島の松原」というのがあってこうある。
比売島の松原。昔、軽島の豊阿伎羅(とよあきら)の宮に天の下をお治めになった天皇(応神天皇)のみ世に、新羅の国に女神があった。その夫からのがれて来て、しばらく筑紫の国の伊波比(いはひ)の比売島(注 大分県の東、国東(くにさき)郡の姫島)に住んでいた。そこでいうには「この島はまだ遠いとはいえない。もしこの島にいるならば、(夫の)男神が尋ねて来るだろう」と。それでまた移って来て、この島にとどまった。だから、もと住んでいた土地の名をとってこの島に名づけたのである。
こうなると、新羅の男なるものは女房に逃げられてばかりいたということになりかねないが、しかし、話のもとはおなじである。滝川政次郎氏の「比売許曾の神について」によると、九州から大阪にまでわたっている「母族の重んぜられた上代における」比売許曾神社の所在を明らかにし、これは古代朝鮮からの渡来人がやって来た行程を示したものであったとして、また次のようにのべている。
以上私が明らかにし得ました比売許曾の社を西から順々に数えてゆきますと、筑前国怡土郡の高祖神社、豊前国田川郡の香春神社、豊後国国前(国東)郡の比売許曾神社、摂津国東生(東成)の比売許曾神社、同国住吉郡の赤留比売命神社ということになります。私は、これらの比売許曾の社を西から次々につないでいった線が、近畿の帰化人が博多湾の糸島水道に上陸してから、各地に移っていった行程を示すものではないかと考えます。
いわゆる魏志倭人伝で有名な伊都(怡土)国に祭られた高祖神社がおなじ比売許曾の社であり、その伊都県主 (いとのあがたぬし)五十迹手(い  と  で)が天日槍の子孫であったというのもおもしろいが、滝川政次郎氏の「比売許曾の神について」はさらにまた、次のようにものべている。
伊都県主が魏志倭人伝に見える伊都国の国王で、その富強天下に冠たるものであったことは、前に論述したところであります。この有力なる北九州の豪族が、東方の美地を望んで東征して来ることは、あり得べきことであります。
そうだとすると、大阪は彼らの中継地か目的地でもあったわけで、その赤留比売を祭る比売許曾神社があちこちにあるのもわかるような気がする。
私たちはそのうちの、さきにあげた東成区小橋南之町の比売許曾神社へ行って『比売許曾神社略縁起』などをもらい、宮司の本間文彦氏とも会っていろいろと話してみた。『――略縁起』によると祭神の阿加留比売は下照比売(したてるひめ)となっていて、その創建は「約千九百六十余年前」ということになっている。
どういう計算でそうなっているのかはわからない。わからないといえば、それが朝鮮渡来によるものであることさえ、いまはわかるはずもないものとなっていた。
「それはそうと」と、私は神社の境内をひとまわりして外へ出ながら、同行の鄭貴文に向かって言った。
「この近くの猪飼野(いかいの)あたりにたくさんいるわれらが同胞は、この神社が朝鮮から来た女神を祭るものであり、比売許曾という『許曾』が朝鮮語『居世(コセ)』という尊称から来ているものだということを知っているのだろうか」
「さあ、知らんだろう。そんな神さんのことなど、かまっていられないからね」
生野区の猪飼野ではないが、おなじ大阪在住のひとりである鄭貴文はそう言ってこたえた。
古代の朝鮮渡来人も鵲をなつかしんだ?
ついでにもう一つ、これも新羅からのものとみられているそれをみると、大阪環状線森ノ宮駅のすぐ近くに森之宮というのがある。正しくは鵲森(かささぎのもり)神社というもので、いまの祭神は用明帝ということになっているが、ここはかつて朝鮮の鵲を飼っていたところだったといわれる。
なんのためにそんな鳥を飼ったのかは知らないが、『日本書紀』推古六年条にこうある。
夏四月、難波吉士磐金(なにはのきしいはかね)、新羅より至りて、鵲(かささぎ)二隻(ふたつ)を献(たてまつ)りき。すなはち難波の杜(もり)に養(か)はしめしに、因りて枝(きのえだ)に巣くひて産(こう)みき。
こういう鵲のことまでいちいち『日本書紀』に記載されているのはどういうことかと思われもするが、しかし私たち朝鮮人にとっては、非常になつかしいものである。私も故郷にいたときは毎日のように見ていたもので、「すなはち難波の杜(もり)に養(か)はしめしに、因りて枝(きのえだ)に巣くひて産(こう)みき」というところは、そのまま目にほうふつとする。
鵲は朝鮮では吉鳥となっていて、私などは幼いころから、「枝に巣くひて産」んだその子をつかまえていびったりもしたものであるが、決して捕えてはならないことになっている。日本ではふつう「高麗烏」または「朝鮮烏」といわれているものだが、しかし日本では、九州の佐賀県を中心としたあたりにしか分布していないものである。
こんど九州へ行ったときは、私はこの鵲を見るのを一つのたのしみにしている――、とこう書いて私はいまふと気がついたが、この鵲がわざわざ「難波の杜に養は」れることになったのは、かつて古代における朝鮮渡来の彼らも、いまの私のようにそれをなつかしがってのことだったのかもしれない。
新羅のそれにしても、かつては新羅寺がその神宮寺であった住吉大社など、大阪市内だけでもまだみたいところはたくさんある。が、それはあとまわしとし、私たちは環状線の森ノ宮から生野の鶴橋をへて、天王寺へ向かった。そこの元町にある四天王寺をみることにしたのである。
四天王寺をめぐって
四天王寺の沿革
さきにまず、大阪府警察本部編『大阪ガイド』により、その沿革をみておくことにする。
四天王寺
推古天皇元年(五九三)聖徳太子によって建立せられたわが国最初の官寺で、法隆寺よりも十四年早くできた。織田信長が石山本願寺を攻めたとき敵の拠点になるのを恐れて火を放ったが、その後豊臣秀吉が再建したのを、さらに冬の陣に徳川家康のために放火せられて、できあがったばかりの堂塔は再び悉く焼失した。役後、徳川秀忠は直ちに再建に着手し、元和九年(一六二三)に完成した。
それから後も享和の雷火、昭和九年の風水害、同二十年の米軍の爆撃などのため伽藍の中心部はたびたびの災害を受けたが、百済式の伽藍配置とその四周(約三〇〇メートル四方)は当初のままであり、いまも六時堂・五智光院・湯屋方丈・通用門・元三大師堂など元和再建のもの(重文指定)が残っており、永仁二年(一二九四)建立の西門石鳥居、淀君寄進と伝える石舞台(共に重文指定)もあり、境内全域は史跡に指定せられている。近年、太子殿・亀井堂・南北両引導鐘堂・五重塔・金堂などが再建され、着々昔の姿を取りもどしつつある。
国宝――扇面法華経五帖・四天王寺縁起二巻・丙子椒林剣・七星剣・懸け守り七個・威奈大村卿骨壺。重文――銀製舎利塔等。顕彰重美――石造地蔵像。最近宝物館が完成して、これらを常時陳列している。
朝鮮の百済から日本に仏教が伝来したのは、五三八年のことだったとされている。すると、その五十五年後に、日本「最初の官寺」であるこの四天王寺が建立されたわけとなる。
五十五年といえば、決して短い歳月ではない。それまでにも、四天王寺のような大伽藍とはいかないまでも、そのような寺院が建っても決しておかしくはない。むしろ、そのほうが自然なような気さえする。
そこで私に思いだされるのは、さきの藤沢一夫氏の一文でみた『日本書紀』敏達六年条の次のくだりである。
冬十一月、庚午朔の日、百済の国の王、還使の大別王等に付(そ)えて、経論若干巻、また律師、禅師、比丘尼、呪禁の師、造仏工、造寺工六人を献る。遂に難波の大別王の寺に安置(は べ)らしむ。
「冬十一月」とは五七七年のことであるが、松田太郎氏の『阪神地方の歴史』によると、「百済王家の寺」として、その「大別王の寺」のことをこう書いている。
敏達天皇の六年(五七七)百済王が経論や律師・仏工・寺工らを朝廷に献じた。一行は難波にあった大別王の寺におちついた。ここでいう寺は個人の家にあった礼拝所のようなものである。大阪でもっとも古い寺といってよい。大別王というのは日本に来ていた百済王族の一人で、いまの天王寺区堂ケ芝の豊川閣観音寺(通称豊川稲荷)のあるところにあったらしい。後になって大別王の寺も大きな伽藍となったようである。
「大阪でもっとも古い寺」というのはよいとして、このばあいは、それが「個人の家にあった礼拝所のようなものである」とはちょっといいすぎではないかと思う。このばあいは、「大別王の寺」と、少なくともそれが「王」を称するものの寺であったからには、相当に大きなものではなかったかと私には思われる。しかも、百済国王が贈ってくれた「経論若干巻」や「律師」以下のものたちをそこに「安置(は べ)ら」せたということは、当時はまだ、そこよりほかに寺はなかったからではないかとも思われるのである。
いずれにせよ、私がここでいいたいことは一つ、この「大別王の寺」または大別王寺は、四天王寺と関係があったのかなかったのかということである。いまみたように四天王寺が「百済式の伽藍配置」であったとすると、その意味では決して無関係だったとはいえないわけであるが、しかし、その関係はどういうものであったのだろうか。
建立をめぐる謎
まず、一ついえることは、四天王寺にしても、また大別王(おおわけおう)寺・百済寺にしても、これはどちらも最初の創建場所が、現在とはちがっていたらしいということである。大別王寺・百済寺、すなわち「後になって大別王の寺も大きな伽藍となったようである」(松田太郎『阪神地方の歴史』)といわれるものはいまほとんど形を残していない。そしていまも形をはっきり残している四天王寺は、創建の場所も、年代もあいまいとなっている。
創建の場所や年代ということになると、大別王寺・百済寺のほうがいっそうあいまいとなっていてわからないが、牧村史陽氏の『四天王寺』をみると、四天王寺のほうはこうなっている。
物部氏との戦争に勝つため聖徳太子が四天王寺に祈られたのが、四天王寺建立の起源だと『日本書紀』に書かれている。そしてそれは用明天皇の二年(西紀五八七)だという。ところが、同書にはさらにそれから六年ののち、太子が皇太子として摂政の任につかれた推古天皇元年(五九三)の条にも、「是(この)歳始めて四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に造る」とあって、四天王寺創建のことが、崇峻前紀と推古元年紀との二ヵ所に出てくるのでややこしくなる。
四天王寺創建のことが、『紀』にどうして二度も書かれているのか、この疑問を解こうとして、後世の書は寺域の移転説をとなえている。太子ははじめ物部氏滅亡の直後、誓願の通り「玉造の岸の上」に四天王寺を創建せられ、推古天皇元年に改めてこれを「荒陵の東」すなわち現在の地に移したというのである。『上宮聖徳太子伝補闕記』をはじめとして、その後平安時代にできた『聖徳太子伝暦』『四天王寺御手印縁起』『太子伝古今目録抄』など、みなこの説をとっている。
国鉄環状線森ノ宮駅の東側に、元四天王寺と称するところがあり、亀井ノ水というのも伝えられていた(この井戸ワクは、現在その西方の森之宮境内に移されている)。
だが、私も大阪の四天王寺で会ったことのある牧村氏自身は、この移転説には、はっきりと反対の立場をとっている。その理由として、四天王寺が最初に建てられたとされている五八七年には、聖徳太子はまだ十四歳にしかなっていなかったことなどをあげ、つづけて次のように書いている。
数え年十四歳といえば、いまの中学一年生である。そんな少年がいかに賢明であったとしても、一皇子という身分で、はたして四天王寺建立という大事業をなしとげることができたかどうか。これは史実を見るまでもなく、守屋討伐の事実を理屈づけようとする伝説とみるよりほかない。
また仮に一歩ゆずって、この太子の発願を事実と仮定しても、守屋滅亡直後の四天王寺建立は、その計画だけであって、計画が実行に移されたのが、六年後の推古天皇元年(太子は二十歳)だと考えるべきではないか。それなのに四天王寺寺務局発行の『四天王寺誌』(昭和十三年発行、現在もなお版を重ねている)でさえも、玉造からの移転説をとっているのはどうしたことか。
しかしながら私は、「六年後の推古天皇元年(太子は二十歳)だと考えるべきではないか」とする牧村史陽氏のこの「考え」に同じることはできない。なぜなら、聖徳太子をもって四天王寺の創建者とするのは、ほかにもあるそれとおなじように、これはあくまでもそういう「所伝」であって、太子そのものにこだわる必要はないと、私は考えるからである。
かりにもし聖徳太子が四天王寺の創建者であったとしても、太子自身が直接その寺院を建てたわけではないのだから、彼が十四歳のときであろうが二十歳のときであろうが、そんなことはいっこうにかまわない。
四天王寺=大別王寺?
私は、というより私も、『日本書紀』や寺院などに伝わる「縁起」などを決してそのまま信じるものではない。しかし、この四天王寺については、『日本書紀』の記載に混乱があることや、それからまた、四天王寺寺務局発行の『四天王寺誌』が「玉造からの移転説」をとっていることに、私はある一つの意味を認めるものである。
結論からさきにいえば、私は四天王寺の前身は大別王寺・百済寺ではなかったかと考えているのである。というのは、さきにみたように大別王寺・百済寺は、『大阪府全志』によると現在の見性寺だったとしているけれども、また一方、『摂津国名所図会』によってみると、それはこうなっている。
「百済寺。百済野の中にあり。今、字を堂ケ芝という」
百済寺とは大別王寺のことであるが、ここにいう「百済野」については、今井啓一氏の「摂津国百済郡考」にこう書かれている。
因みに旧百済野と云われた地域は旧天王寺村の東北部、即ちいまの天王寺区真法院町及びその北に接する上之宮町以東の総称で、往時における百済郡の遺称と云われ、くわしくは現天王寺区の真法院町・小宮町・上之宮町・細工谷町・筆ケ崎町・東上町・北山町・松ケ鼻町・堂ケ芝町・烏ケ辻町等の地と、東高津南之町・小橋西之町・同東之町等に亘る一帯で桃畑連り俗に桃山と称し、開花の候には大阪人士の杖を曳くもの多かったことは、よく聞くところである。明治二十八年、国鉄城東線の敷設以後、漸次変貌し、往時の百済野の景観は全く認め難いことになっている。
百済野といわれたところが、旧天王寺村であったということにまず注目してもらいたいが、ここにみえる堂ケ芝町は大阪環状線桃谷駅のすぐ近くで、四天王寺までは歩いてほんの十四、五分のところである。そしてここにはいま豊川閣観音寺があること、それからまたここは飛鳥時代の古瓦をだした堂ケ芝廃寺跡であること、これもさきにみたとおりであるが、いまみたようにここは大別王寺・百済寺があったところとされていると同時に、四天王寺もまたここにあったとする説があるのである。
そのことを、つまり、堂ケ芝廃寺跡について今井氏は「摂津国百済郡考」でこうのべている。
而してこの廃寺が何であったか、残念ながら確言は出来ない。勿論、本四天王寺址とする説にはわたしは賛し難いのである。
もちろん、「わたしは賛し難い」とするのは今井氏の自由である。が、この私としては、そういう「説」のあることを知るだけでも、大いに意を強くしないわけにゆかない。いまその「説」にくわしくあたっていることはできないが、そうしてみると、堂ケ芝廃寺=大別王寺・百済寺=四天王寺という私の考えは、ほぼ確実なものではないかと思えてくる。もっとも、どちらにせよ、四天王寺は「百済式の伽藍配置」であることに変わりはないのだから、もともとこんな詮索など必要ないかもしれない。
歴史は生きている
それはそうとして、次に私たちは、ひっきりなしに詰めかけている参詣人たちのあいだをかきわけるようにしながら、この四天王寺の境内に居をかまえている牧村史陽氏をたずねた。牧村氏は地方史家で、さきに引用したことのある大阪府警察本部編『大阪ガイド』の執筆者のひとりでもあった。
私は、朝鮮文化遺跡のことがかなりしるされているこの『大阪ガイド』のあるのをかねてから知ってはいたが、本屋さんではどうしても手に入れることができなかったので、直接その執筆者をたずねてみせてもらうことにしたのである。史観(というか)は根本のところでちがうにしろ、ついでにいろいろときいてみたいと思っていたこと、またもちろんである。
小柄な体の牧村氏は、すでに七十歳をすぎた人だったが、ちょっとみたところでは、とてもそんな老学者とは思えないかくしゃくぶりだった。「史陽選集」と名づけた『大阪の伝説』ほかを二十数巻も書きつづけているばかりか、一方では、大阪市長を相手どり、「難波宮跡を守る」住民訴訟をおこしたりもしている。
『大阪ガイド』は牧村氏の手元にも一冊しかないとのことだったが、さきに京都の岡部伊都子氏が電話をしておいてくれたこともあって、牧村氏はそれをしばらく私に貸してくれることになった。そして、ついで私たちは近くにあると聞いていた四天王寺の「宮大工」金剛組を訪ねたいというと、牧村氏は気軽に立って私たちをそこまでつれて行ってくれた。
金剛組は、いまは近代的な土建会社となっているが、そのもとは高麗(こ ま)尺一千尺四方といわれる四天王寺の宮大工からはじまったものだった。もちろん当時は宮大工などといったものではなく、「てらのたくみ(造寺工)」とかいったのかもしれない。創業は古く、「敏達天皇六年」ということになっている。
敏達六年といえば、五七七年のことである。それだけ聞いてもちょっと気の遠くなるような話であるが、金剛組で見せてもらった一九七〇年刊の『大阪建設業協会六十年史』にも、次のように書かれている。
会員中で「もっとも古い金剛組は一、三七〇年前、聖徳太子が四天王寺創建に際し、高麗から渡来して工事に従ったという金剛重光を祖とし、以後連綿として社寺工匠として続いた家柄である。日本最古であるばかりか、世界にも例をみない業者といえよう」。
まったくそのとおり、「世界にも例をみない」もののはずで、こうしてみるとまた思いだされるのは、『日本書紀』五七七年の敏達六年条にある次のくだりである。「冬十一月、庚午朔の日、百済の国の王、還使の大別王等に付(そ)えて、経論若干巻、また律師、禅師、比丘尼、呪禁の師、造仏工、造寺工六人を献る。遂に難波の大別王の寺に安置(は べ)らしむ」
すなわち、金剛組の祖はこのとき百済から渡来した「造寺(てらの)工(たくみ)」がそれということになっているのである。その金剛組は、いま三十八代利隆氏となっているが、一九三二年に亡くなった三十七代治一氏の未亡人芳江さんがまだ健在で、株式会社金剛組会長となって全体をとりしきっているようだった。
芳江さんは今年七十九歳だとのことだったが、この人がまた牧村氏とおなじようなかくしゃくぶりで、五十歳かそこらの人としか思えなかった。その「若さ」ということからして、私にはまるで『日本書紀』のなかから抜けだして来た人のような感じがしたものだった。
会長の芳江さんは、大阪の建設業界では「女棟梁」といわれて、“名物”のような存在ともなっているらしかった。しかしそれだけにまた、重たい伝統を背負ったものとしての気苦労も多いらしく、なにかの拍子に、
「けど、歴史とか伝統というもんは、お金ではできません」といったことばが、私には強く印象に残った。
源八橋から桑津町ヘ
「日羅公之碑」文
早く和泉・河内のほうへまわってみたいと思うが、摂津にしても池田市、高槻市など広い地域にわたっているばかりか、大阪市だけでもまだ見たいところはたくさんある。
どうしてそんな名がつけられたのかわからない、大阪では最初にできた鉄橋の名でもあった東区の高麗橋はともかくとして、北区同心町一丁目に「日羅(にちら)公之碑」というのがある。日羅とは、どういうものであったのか。大阪府警察本部編『大阪ガイド』にこうある。
欽明・敏達の朝、百済の国王をたすけて朝鮮問題につくした政治家。召還命令によって帰国した日羅は、まず国内を治めてから外国にあたるべきだと進言したが、随行の百済人の誤解のため難波の宿館で暗殺せられた。敏達天皇十二年(五八三)十二月晦日のことで、年は八十歳であったといわれる。
その遺骸を葬ったのがこの地であるが、後に故郷の肥後に改葬せられた。諸国にまつられる勝軍地蔵は日羅の被甲乗馬の姿といわれ、京都の愛宕神社ももとはこの勝軍地蔵が本尊であった。塚跡は大阪府顕彰史跡に指定せられている。
それが「大阪府顕彰史跡に指定せられている」というので、私はあえて源八橋西詰め西の辻にあるその「日羅公之碑」をたずねてみたのであるが、石碑の横にある石面にもいまみたものと同様のことが彫り込まれていた。このとき同行したのは、鄭貴文ほか詩人の李哲もいっしょで、李哲はその碑の文面に顔を近づけていたかとみると、
「これはいったい、なんですか」とおこったような目をして、うしろの私を振り返った。私に向かってそんな目をするのはあたらないが、しかし無理もない。
「欽明・敏達の朝、百済の国王をたすけて朝鮮問題につくした政治家」とはどういうことか。すらりと読んだ限りでは、なかなか国際的善意のこもったことばのようにも受けとれる。しかしながら、よく読んでみると、これはいわゆる大和朝廷が古代において南部朝鮮を支配し、百済を属国にしていたという一つの典型的な「皇国史観」によって書かれたものであることがわかる。
もちろん、それはこの「日羅公之碑」とは限らない。「百済の国の王、還使の大別王等に付(そ)えて」「献る」といった『日本書紀』などの記載を丸呑みにしたようなこれまでの日本古代史そのものからしてそうなっているのだから、「日羅公之碑」文、これまたむりないというべきかもしれない。
真実を求めて
ほんとうをいうと、私はこんなところにまで筆をすすめたくはないのであるが、しかし、真実はどうであったろうか、と考えないわけにいかない。私はいま『日本書紀』などの記載を丸呑みにしたような、といったが、なかにはそうとすらもいえないようなものさえある。
たとえば、いままでみてきたこの摂津国の百済郡というのは、その以前は百済「国」といったものではなかったろうかという私のイメージはともかくとしても、これもあわせていっしょにみてきた大別王というもの、これ一つをとってみてもそれはいえるように思う。いま問題としている日羅のことが出てくるのは『日本書紀』敏達十二年条であるが、そのまえの六年条には、大別王らのことをこうしるしている。
六年の春二月、甲辰の朔の日、詔して日祀部(ひのまつりべ)、私部(きさいちべ)を置きたまひき。夏五月、癸酉の朔にして丁丑の日、大別(おほわけ)王と小黒吉士(をぐろのきし)とを遣して百済の国に宰(みこともち)たらしめき。王 人(くにのみつかひ)、 命(おほみこと)を奉(うけたまは)りて三韓に使し、みづからを称(い)ひて宰とす。韓に宰たりと言へるは蓋し古の典か。如今(い ま)は使と言へり。余は皆これに傚(なぞら)へ。大別の王はいまだ出づる所を詳にせず。
武田祐吉校註『日本書紀』でその注をみると、「宰(みこともち)たらしめき」とは「支配せしめた」ということであり、「王 人(くにのみつかひ)、 命(おほみこと)を奉(うけたまは)りて……」については、「朝廷の命を受けた人が三韓に使して、自分で宰といふ。三韓は、もと馬韓、弁韓、辰韓といひ、当時は、高麗、百済、新羅をいふ」となっている。
そうして、『日本書紀』のこれはつづけて、さきに何度か引いたことのある「冬十一月、庚午朔の日、百済の国の王、還使の大別王等に付(そ)えて……」となっているのであるが、人はこれを読んで、いったいどのように考えるであろうか。三韓、あるいは当時の高麗、百済、新羅というのは、実にのんびりとした、棒切れ一つふりまわすことも知らないのんびり人間ばかり住んでいた、おとぎばなしのような国々でしかなかったように思える。
敏達六年といえば五七七年、その歴史をちょっとでもみればすぐわかるように、朝鮮はまさに「当時は」、高句麗、百済、新羅の三国時代で、これがようやく、互いに死力をつくして朝鮮半島に覇をきそうという疾風怒濤の時代であった。だが、にもかかわらず、こちらのいわゆる大和朝廷からは、かんたんに「大別(おほわけ)王と小黒吉士(をぐろのきし)とを遣して百済の国に宰(みこともち)たらしめ」て、これを「支配せしめ」ていたというのである。しかもそのうえ、「大別の王はいまだ出づる所を詳にせず」というのだから、話はいっそうのんびりしたものとなる。
さきの「摂津国百済郡」でみたように、大別王とは百済の王族そのものにほかならなかったが、このようにみてくると、『日本書紀』の編者のほうがまだしもずっと正直であったといわなくてはならない。日羅にしてもそのようなもので、牧村史陽氏の『四天王寺』によると、それはこうなっている。
日羅は肥前葦北の国造(くにのみやつこ)阿利斯登(ありしと)の子で、宣化天皇二年(五三七)百済に渡り、そのままとどまって百済をたすけ達率(たちそち・正二品)という位までのぼったが、任那が滅亡したのち、ときの敏達天皇は、わが国の朝鮮に対する政策と、任那の復興につき現地の事情を聴取するため、使いを出してこれを召還せられた。
そもそも、肥前葦北の国造阿利斯登(ありしと)とはどういうものであったのか。新羅から越前(福井県)の敦賀に渡来したとされている都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)によく似た名であるが、それはともかく、その子の日羅は百済に「渡り、そのままとどまって」四十六年になったという。そして達率(正二品)となって八十歳にもなったその老人を、これまたいともかんたんに「召還せられた」というのである。『日本書紀』のそのくだりはこうなっている。
「先考の天皇、任那を復(かへ)さむことを謀りたまひ、果さずして崩(かむあが)りたまひてその志を成したまはざりき。この以(ゆゑ)に朕当(われまさ)に神謀(おほみはかりごと)を助けまつりて任那を復興(かへしおこ)さむとす。今百済にある火(ひ)の葦北国造阿利斯登(あしきたのくにのみやつこありしと)が子達率日羅(たちそちにちら)、賢(さか)しくして有勇(つ よ)し。故朕、その人と相計(たばか)らむと欲(おも)ふ」と宣りたまひて、紀国造押勝(きのくにのみやつこおしかつ)と吉備海部直羽島(きびのあまのあたへはしま)とを遣して百済に喚(め)したまひき。
百済は自由に「支配せしめ」ていた属国であったから、その国の高官である「達率」であろうがなんであろうが、いつでも自由に「喚(め)したまひき」というわけだったのである。しかし、大別王らのそれといい、ほんとうのところはどういうことであったのだろうか。
『日本書紀』などにはこのように書かれているが、しかしどうみても、古代の日本にとってはクダラ(百済)、すなわちクナラ(大国・宗国)であったそれとの関係はむしろ逆ではなかったのか。逆であったからこそまた、のちにそのような書かれ方をしたのではなかったか。
「今百済にある」「達率日羅(たちそちにちら)、賢(さか)しくして有勇(つ よ)し」といった文章や文体を分析することでも、それを証明することはそうむつかしい作業であるとは思われない。しかし、いまはさきを急ぐことにしたい。
桑津天神社と見性寺
私たちは「日羅公之碑」のあった北区の源八橋から住吉神社のほうへ向かっていたが、途中、思いついて東住吉区桑津町にある桑津天神社へ寄ってみることにした。神社とはいっても、大阪のような大都会にあっては、それがみなぎっしりと詰まった家並みのあいだに没してしまっているので、私たちはいつもクルマをとめては、人にきかなくてはならなかった。
それで私はここに一つ特筆大書しておきたいのであるが、どこへ行っても道を教えてくれるということでは、日本人は実に親切だということである。なかでも大阪はとくにそうのようで、ある金物屋さんなどは、どこから来たかというから、東京から来たものでこの辺はよくわからないというと、私をわざわざ奥の事務机のあるところまでつれて行って、ていねいな地図までつくってくれるのだった。
桑津天神社は、くねくねした細い路地を何度もまわったところにあったが、そんなふうだったので、これもすぐにわかった。この天神社については、今井啓一氏の「摂津国百済郡考」にこうある。
林史氏。
姓氏録、摂津国諸蕃、百済の部に、林史、林連同祖、百済国人木貴の後なり。
と載せている。林氏はなお百済人系同祖の林連(左京・河内諸蕃)、カバネのない林氏・大石林氏(右京諸蕃)などもあるが、摂津志によると東生郡の村里に林寺・属邑一として、旧生野村に大字林寺の地名があり、いま生野区の林寺町・林寺新家町がこれである。
而してもとその林寺新家にあった林寺・林神社は明治四十一年三月二十五日、東住吉区桑津町の桑津天神社(市電「百済」停留所の南西数町)に合祀され、林神社と刻する社号標もいまは天神社境内に移されて建っている。林寺という寺刹は残っていないが、蓋しこの林寺の地に百済人系の林史氏がおり、彼らが建てたであろう寺があったのではなかろうか。
寺はともかく、こざっぱりと掃除の行きとどいた桑津天神社の境内に、なるほど林神社としたその社号標はたっていた。しかし、私たちはそれだけを見るために、ここまで来たのではなかった。もとは百済神社だった八王子神社など、そういうところまでいちいちみていてはきりがなかったからだが、桑津天神社にはほかにまたあわせて、その隣に、さいぜんからだいぶ問題にしてきた大別王寺・百済寺の後身といわれる見性寺があったからだった。
だが、その見性寺はどこにあるのか、見当たらない。天神社の社務所となっている家の窓口できくと、それは神社の真うしろにあった。あまり大きくもない神社の建物にさえぎられて見えなかったわけだったが、それほどまたこの寺は小さなものとなっていたのである。
裏側へまわってみると、ふつうの住宅のような塀が張りめぐらされ、鉄門の横にくぐり戸がついていた。それを開けてはいると寺らしい建物があって、右手のこちらに寺務所ともなっているらしい家があった。あたりはしんと、しずまったままだった。
肩書きの効用
人気(ひとけ)がまるでないのでちょっと気がひけたが、家の玄関を開けて声をかけた。三度ほど声をかけつづけたのちになって、やっとなかから総禿頭の老住職が出て来てくれた。
「寺のことについて、ちょっとお伺いしたいと思いまして……」と、私は名刺をさしだした。ここで私は妙な告白を一つするが、私のその名刺には、今年からそれとなった某大学文学部講師という肩書きがついていた。
だったから、私は少してれくさくもあったが、しかし、わりに勇んだ調子でそれをさしだしたものだった。というのは、私はこれまでこの「旅」をつづけていていちばん困ったことの一つに、自分の名刺には何の肩書きもないということがあったからだった。
たずねて行ったさきではいろいろな人に会い、そして名刺を交換する。だが、私にはこれという肩書きがなかったので、いつも、それこそ肩身の狭い思いをしなくてはならなかった。私がそんな思いをするのはいいとしても、そのために相手まで当惑しているありさまがありありとみえる。
しかも三字の朝鮮人名で、まれにはなかに私のことを知ってくれる人もいたが、しかし多くの人々からは、「こいつはいったいなにをしている男だろう」と思われるのもむりないことだった。それでときには、私は何度も、自分の顔となにも書かれてないその名刺とを見くらべられたりしたこともある。
だいたい私は、「名刺の肩書きなんて」というふうな考えもなかったわけではなかったが、しかし、こういう「旅」をしてみてわかったことは、その「肩書き」がいかに必要で便利なものであるかということだった。それはなんのことばも必要とせず、一瞬のうちに自己紹介をしてしまうものである。そしてすぐに相手とのあいだにはある了解が成り立ち、それ相応の対話がはじまるということになる。
いつか私は、「理学博士/医学博士 野口英世・甥」という肩書きの名刺をある人からもらったことがあったけれども、といって、私にはそんなふうな名刺をつくることもできない。できるとしたら、ことの性質上、ある大学講師ということができればそれがいちばんいいと思う。
私はさきにある大学で「朝鮮文学史」というのを講じたことがあったが、週一回とはいえ、私としてはそれがかなりの重荷だったので、次回からはある友人にかわってもらうことにして、ことわってしまった。ところが、この「旅」をはじめてからは、「あの大学講師というのを肩書きに使うことができたら……」と、しきりに思うようになった。
そうだったから、私はこんどは自分のほうからすすんで、それをある大学にたのんでみようかとさえ思っていたところ、ちょうどさいわい、今年からどうかということで、某大学の友人からその口がかかってきた。担当は「日本文芸特殊研究」というのだったが、よろこんで引き受けたこというまでもない。
私も百済人の子孫です
話はすっかり横道へそれてしまったが、そんなわけで、私はそういう肩書きありの名刺をさっそく使ったものだった。すると老住職は、
「あんたはなんで、こんな寺のことを調べているのですかな。この名は、なんと読むのですか」
といった。
「キム、金といいます。朝鮮人です」
「ああ、そう、そうですか」と、急に住職の態度ががらりと変わって、気さくな調子になった。「それだったら、この寺のことを調べるのは、あなたがいちばん適任者だ。わたしたちももとはといえば、あなたとおなじ朝鮮から来た百済人の子孫ですよ」
「そうですか。寺の縁起を書いたものかなにかありましたら……」
「ああ、いいですとも、いいですとも。これ自体がまた古いものでしてな」
住職はすぐに奥へはいって行ったかとみると、『無生山施薬院見性寺沿革誌』というのを持って来てくれた。最後のところをみると、「明治三十六年二月/大阪府東成郡北百済村大字桑津(天王寺停車場ヨリ十丁)/無生山施薬院見性寺修徳会執事敬白」とある。
「なるほど、古いものですね。明治三十六年といいますと……」
「そうです。わたしの祖父が書いたものですよ。あなたにあげますから、持って行ってください」
この気の早い老住職にたいしては、はじめて使ったその名刺の効果があったのかどうかわからなかったが、そんなしだいとなって、私たちは見性寺から出て来た。そしてその『――沿革誌』をみたが、やはりこれも大別王寺・百済寺であったという伝承をもっていて、こういうふうに書かれている。
一、敏達天皇ノ御宇、遣百済使難波ノ大別王帰朝シ、……即時館邸ヲ改メテ寺トナシ、難波大別王ノ寺ト云ヒ、一名ヲ難波寺或ハ難波百済寺ト云フ。後、聖武帝ノ朝、施薬院ト称スル。則チ是ナリ。
一、聖武天皇天平八年、勅願ニ依リテ此ノ百済寺ノ伽藍ヲ建立シ、僧行基ヲ以テ開基トシ、之ニ無生山見性寺ノ勅号ヲ賜フ。爾来、百済寺、見性寺両名ヲ用フ。明治維新ノ際知恩院ノ所管ニ属シタルヲ以テ、一寺両名ヲ廃シ見性寺ト更正ス。
しかし、それだったとしても、飛鳥時代の古瓦を出土した堂ケ芝廃寺=大別王寺・百済寺=四天王寺という、私の考えに変わりはない。大別王寺・百済寺=四天王寺、その前身はいくつあってもおなじだからである。
住吉大社と新羅
住吉大社の起源
「やっぱり便利なものだね。大学で、朝鮮系とされている寺院の研究でもしているとみたのじゃなかったかな」
「そうかな。そうなると、こんな名刺を使うのも、なんだかちょっと気おくれがするね」
そんなことを話しながら私たちは、住吉区住吉町にある住吉大社へ向かってクルマを走らせていた。桑津町からわりに近いところにあったが、「古代の神社は独立国であった」とはよくいったもので、住吉大社というのは摂津国一の宮・官幣大社となっていたものだけに、これはまた巨大なものだった。
例によって、大阪府警察本部編『大阪ガイド』「住吉大社」の項をみる。
底筒男(そこつつのお)・中筒男・表(うわ)筒男三神と神功皇后をまつる。住吉三神は『古事記』に阿曇連(あずみのむらじ)の祖神と見えるように、この三神を酋長とする一族は、南方から移住して西日本から朝鮮半島にかけてひろがった海神(わだつみ)族の一派であるが、神功皇后が三韓征伐のとき海上の案内をしたという縁により、航海の神として崇敬せられる。本殿四棟は住吉造りの典型として国宝に指定、有名な反橋(そりはし)は淀君の寄進と伝える。
あとにつづけてまた、神事の一つを説明したところに、「神功皇后の三韓征伐後みつぎものなどを庶民にわかたれたという故事によるもので」うんぬんというのがあるが、それはさておいて、ちなみにいますぐ手近にある毎日新聞社編『国宝・重要文化財案内』の「住吉大社」の項を見てみる。
住吉大社の創立はきわめて古く、神功皇后の朝鮮遠征を守った海神および同皇后をまつる。いまの本殿は享和二年の火災後、文化七年(一八一〇)に完成したものであるが、室町時代まで二〇年ごとの造替が行われていたので、古制がよく伝えられている。
なんとも、あいさつのしようがないというものだ。「神功皇后の三韓征伐」「朝鮮遠征」――それが事実というものであれば仕方ないが、事実はむしろまったく逆だったとしたら、これはどういうことになるか。『国宝・重要文化財案内』の奥付けをみると、これの執筆者は東京大学教授太田博太郎氏、東京教育大学教授町田甲一氏の両人となっている。どちらも当代一流の大学教授であり、学者というわけである。
なお、住吉大社の住吉というのを、われわれはふつうすみよし(住吉)と読んでいるが、吉は日本古語えであるから、これはすみのえ(住吉)と読むのが正しいとされている。えとは江でもあって、朝鮮ではいまでも大きな川(河)のことを江(ガン)(たとえば洛東江(ラクトンガン))といっているが、ただ川というばあいはこれをネエ(え)といっている。
したがって住吉ということが川(河)の岸や海岸と関係深く、海を渡って来たものという、いわゆる海神(わだつみ)族・阿曇族の祖神を祭ることにふしぎはない。すみのえ(住吉)のすみということもこの阿曇(あずみ)のずみからきたもので、だからこれはまた曇江(すみのえ)とも書かれている。
阿曇族と神功皇后
すると問題となるのは、安曇(あずみ)とも書かれるこの阿曇族とはいったいなにか、ということである。近江(滋賀県)や信濃(長野県)などにはいまも安曇というところがあって、景山春樹氏の『近江路――史跡と美術の旅――』によれば、「彼らは朝鮮系の民族とされているが、おそらく北陸方面から入って来て土着したものであろう」となっている。
安・阿(あ)を発語とする安曇族のずみとは朝鮮語ジュ(主)ということからきたとされているもので、したがって、わだつみ(海神)もバダジュ(海の主)からきたものではなかったかと思われるが、それからまた、原田伴彦氏の『近江路――人と歴史――』によると、これは次のようになっている。
古代日本の黎明期に、北九州の玄海灘を本拠に活躍した安曇族(あずみぞく)海人といわれる一グループがあった。彼らは各地に発展し、その足跡は南は淡路から、東は北信州の安曇郡一帯にまで及ぶが、その一隊は、敦賀、小浜をへて湖西の地にまで進出したとみられる。
それをどうして、さきの『大阪ガイド』は「南方から移住して西日本から朝鮮半島にかけてひろがった海神(わだつみ)族の一派」としたかといえば、それはこの文章にすぐつづく、「神功皇后が三韓征伐のとき海上の案内をした」ものということにつなげるためにほかならないからでもあった。そうでなくては、「神功皇后が三韓征伐……」ということとつじつまが合わないからである。
それほどにもこの人たちが、「神功皇后の三韓征伐」「朝鮮遠征」に固執するのはどういうわけかわからないが、では、その神功皇后とはいったいどういうものであったのか。それ自身実在したものかどうかは別として、神功皇后の名は息長帯(おきながたらし)比売(ひめ)、すなわち息長の多羅之(たらし)(帯)姫というもので、しかもこれはさきにみたように、天日槍(あめのひぼこ)族から出たものということになっている。
多羅之の多羅とは、これものち百済や新羅に吸収された加耶諸国のうちの一小国であったが、このタラシヒメとスミノエのことについては、山根徳太郎氏の『難波王朝』をみるとこう書かれている。
スミノエの大神〈安曇族の祖神とされている底筒男・中筒男・表筒男のこと=金〉、つねにオキナガタラシヒメのミコトを神人(よりまし)として現われる神格である。そのオキナガタラシヒメのミコトはホンダワケのスメラミコトの親神であり、はじめはスミノエの大神につかえる神女であったのが、やがて奈良朝時代には、スミノエの大神に配祀される形で、スミノエ第四宮に〈さきの三筒男につづいて〉いつきまつられているのである。
『神代記』の記述によると、スミノエの大神はホンダワケのスメラミコトの母后オキナガタラシヒメのミコトとともに、その東遷のときに、ツクシからこの地域に移り、はじめは長柄、つぎに膽駒(いこま)に、やがて難波の大津に祭祀をうけることになったと、伝えている。この『神代記』の記述で明らかなように、難波津付近接岸の地域は、スミノエの大神の示現を迎えるに適当した土地とされていたといえよう。
新羅とのつながり
さらにまた山根氏の『難波王朝』によれば、この難波津付近の水域は安曇江となっていたところで、それとつづいた北方には、いつのころからか奈良東大寺の庄園となっていた、新羅江庄(しらぎのえしよう)という地のあったことも明らかにされている。ここに多羅とゆかりの深い新羅の名を負ったそんなところがあったとは、私もはじめて知ったことであるが、それについて山根氏はこうのべている。
わたくしは、新羅江庄はだいたい大川の北岸今日の天満の地、中世史上の北渡部村、近代の天満市場のあった地域と考えている。この北渡部村は対岸の南渡部村とともに、秀吉が天正十一年以降に大阪城を築城したとき、ほかにうつることを余儀なくされた。このとき南渡部村は、坐摩神社とともに船場の西部、現在、神社のあるところにうつり、渡部町という名をつけてそこに落ちついたが、北渡部村はまことに数奇な運命をになわされて離合集散、その居住地もなかなか定まらなかったのである。
元禄年間になって、今日の浪速区西浜町にようやく落ちつくことができ、ここもまた渡部村の名を明治のころまで保持していたのであった。そして木津川の下流にできた月正島との中間にある旧木津川の細長い流路に、七瀬川というみやびやかな名が与えられ、その七瀬川に沿って七瀬新地という飛び地を保有した。ここはいま、西浜北通四丁目といっている。そしてその新地には、渡部村唯一の神社が祭られており、その神社は、毎年、坐摩神社の夏祭のあくる日に、新地の祭として盛大に祭りつづけられた。
明治四十年十二月十一日、時の為政者の神社合併政策によって、この神社は坐摩神社にあわせまつられることになったが、この神社は白木神社とよばれていたのである。北渡部村がかつて東大寺の新羅江庄と緊密にむすばれていた事実を、ここに立証することができたことを読者とともに喜びたいと思う。
これだけでは北渡部村がどうして「新羅江庄と緊密にむすばれていた」か、まだよくわからないところがある。しかし、山根氏はどうしてかそこまでは書いていないが、ここでいっている白木(しらき)神社とは新羅(しらぎ)神社だったということがわかれば、「ああ、そうか、なるほど」とわれわれにもすぐうなずけるのである。
安曇江とともに、ここに新羅江があって新羅江庄があり、また新羅(白木)神社があったということは、なかなか重要なことであると私は思う。しかもここには「ホンダワケ」、すなわち応神帝のいわゆる大隅宮があったというのだから、話はいっそうおもしろくなってくる。こうしてみると、大阪府警察本部編『大阪ガイド』にある「大隅宮の跡」についての次の一文も、なかなか示唆に富んだものであるということになる。
応神天皇の難波ノ大隅宮は、いま大隅神社のある付近といわれる。このころから三韓との交通が開けて難波(なにわ)の地は次第に重要さを加え、やがて仁徳天皇の高津ノ宮造営となるのである。
ところで、この三韓のうちの一つであった新羅とは、いま私たちがたずねている住吉神社とも、密接な関係があったものだった。
新羅寺跡の原っぱ
私たちは淀君の寄進したものとされている反橋(そりはし)を渡って、住吉大社本殿のほうへ歩いて行った。広い境内の台地にそびえている住吉造りといわれる本殿の建物は、さすがに立派なものだった。私は「守り札」などを扱っている社務所に寄って、『住吉大社略記』のパンフレットを一冊もとめ、ついで、神宮寺だった新羅寺のあったところはどこかときいた。すると、パンフをわたしてくれた白袴の若い男はすぐ、
「それは、向こうの西境内です」と、手をあげて教えてくれた。「しかし、いまはなにもありませんよ。寺は解体されて、みんなどこかへ行ってしまっているそうです」
「どこへ行っているのでしょうかね」
「さあ、姫路のほうにも行っているそうですが、どこかはよくわかりません」
なるほど、新羅寺のあったそこにはなにもなかった。ただ、荒涼とした原っぱがひろがっているばかりだった。とくに住吉大社は官幣大社となっていたものだったからかどうか、明治維新による神仏分離は徹底的に行なわれたらしく、百年ほどまえにはそこに寺院があったなど、いまは想像することすらできなかった。
だが、そこに新羅寺というのがあったことは事実だった。しかもそれはかなりの大伽藍だったらしく、今井啓一氏の「高麗寺・新羅寺・鶏足寺」によってみると、それはこういうものであった。
住吉大社にも明治維新の神仏分離までは神宮寺があって神社の祭祀に与(あずか)ったのであって、この神宮寺の旧号を新羅寺といった。その旧趾はいまの住吉大社の鎮座地とその北方に鎮座する式内摂社大海神社との中間に位置し、いまは廃して空地となっている。
住吉名勝図会・摂津名所図会・同大成などによると、本来は天台宗、東叡山に属し、寺領三百六十石あり、本尊薬師仏をまつる本堂を中心として、法華三昧堂・常行三昧堂・大日堂・経堂・五大力宝蔵・東西の二層塔・求聞持堂・食堂・東西の僧坊・鐘楼・舞台・楽屋・今主祠などあり、巍々たる巨刹であったらしい。さらに勘文曰(いわ)くとして、孝謙天皇天平宝字二年戊戌、霊告によって経始す。本尊薬師如来・十二神将・四大天王。また曰く、本尊は三韓より伝来の尊像にして、彼国新羅寺仏頂に納むる所也、然るに我朝に渡りついに本尊となす、石櫃に入れ以って内殿の土中に納め奉る、古来、秘仏にして聊かも蓋を発(あば)く無し。元是れ新羅寺の仏像故に、新羅寺と号すとしている。
神宮寺とは別当寺ともいったもので、すでに奈良時代からあったものだとのことであるが、いわゆる神仏習合によるものとはいえ、それにしても住吉大社のこれが新羅寺であったとは、どういうことからであったろうか。いままでみてきたことからもわかるように、決して偶然にそうなったものではなかったはずである。
「三韓より伝来の尊像」とはどういうものだったか、またいつごろのものであったかということがわかればいいのだが、それはもはやどうしようもない。荒涼とした新羅寺跡の原っぱには、夕暮れといっしょに風が立ちはじめていた。
淀川を渡って北摂ヘ
晋州島のこと
私たちは淀川に架かった大橋を渡り、北摂津(大阪府)の池田市へ向かっていた。ゆったりとした淀川の流れをながめわたしながら、私は、いまから二百五十年ほどまえの一七一九年、おなじようにその流れを目にしたという李朝の官人、申維翰(シンユハン)のことを思いだしていた。
思いだしていたといっても、もちろん私は彼を直接知っているはずはない。彼の書き残した書物によってである。
申維翰は、日本の徳川将軍吉宗の襲職祝賀使として派遣されて来た通信使のうちの製述官(承文院の一員、典礼文などを担当したもの)で、このときの日本旅行記である『海游録』を残している。そしてその『海游録』のなかに、大阪の淀川をながめながら通ったときのことを、次のようにしるしたくだりがある。
この近くには、晋州島という所がある。豊臣秀吉侵攻のときに捕虜として連れてこられた晋州人を置いたところで、全島すべてが晋州人であると聞いたが、自分は当時のことを回想し、髪の毛の逆立つようなのをおぼえたものだった。
当時、大阪にいた秀吉が朝鮮侵攻を開始したのは一五九二年のことであるから、申維翰は「当時のことを回想し」といっても、これも私の彼のそれにたいするのとおなじように、いわば間接的回想にすぎなかった。にもかかわらず、「髪の毛の逆立つようなのをおぼえた」わけであったが、秀吉の侵攻からは四百年近くの時がたち、申維翰のそれからも二百五十年がたった。けれども、その「回想」はいまなお生きつづけているようである。
つまり、一九七一年の今日、ひとりの在日朝鮮人である私がいままたそこを通りながら、「当時のことを回想し」ているわけなのであるが、しかも晋州というのは、私の生まれた故郷の近くであった。そこの彼らが、どのようにして「捕虜として連れてこられた」ものだったのか、ちょっと考えてみないわけにゆかない。
「あの淀川にだね」と私は、運転席に坐って一所懸命クルマを走らせている大阪在住の鄭貴文にきいた。「たぶん、中洲みたいなものだと思うが、晋州島というのがあったか、まだあるかしているらしいけれども、知らない?」
「さあ、知らないなあ」と鄭貴文は、ちらっと横のほうに目をやって言った。「なんだい、それは」
「晋州島というと、朝鮮の晋州のあれですか」と、同行の李哲も言った。
「ええ、それですがね」と私は瞬間考えて、ことばをにごした。「そういう名の島があったらしいが、まあいいや、それは――。そんな遺跡もこの日本にはたくさんあるらしいが、それはあとまわしということにしよう」
なにも、あとのふたりにまで不愉快な思いをさせることはなかった。それにクルマのなかから見る外は、春さきの晴れたよい日だった。
まわりきれない北摂津の遺跡群
地図を開いてみると、私たちのクルマは吹田市をかすめて、豊中市のあたりを走っているようだった。吹田といえばここには古志部(こしべ)神社がある。これが松田太郎氏の『阪神地方の歴史』に、「吹田市北東部には帰化人系とみられる難波吉師部(きしべ)が居住していた」というそれかどうかはわからないが、その神社の北側に釈迦ガ池というのがある。
一九五三年二月のこと、吹田高校の生徒がこの池のあたりから須恵器(朝鮮土器)の破片をひろったのがきっかけとなって、そのあたりは、六世紀ごろのものとみられる古窯跡(こようあと)の群集地であることがわかった。府立茨木高校の歴史研究部が行なった『吹田37号窯跡発掘調査概報』によると、発見された須恵器古窯跡群については、のち大阪府南部の和泉のそれとあわせてまたみることになるはずであるが、ここの古窯跡は須恵器ばかりではなかった。千里丘陵中の紫金山とよばれるその付近には瓦窯跡群もあるという。
ほんとうは吹田市の教育委員会にも寄って、それについての資料などをもらい、古志部神社のあるその辺の古窯跡も歩いてみるといいのだが、なにしろ時間がない。時間がないというより、いちいちそんなふうにしていたら、摂津だけでも何冊かの本を書かなくてはならないことになるかもしれない。
豊中市や茨木市、高槻市にしても、それはおなじことだった。豊中にある須恵器の桜井谷古窯跡だけでも数十基があるといわれているが、またここにはその横穴から陶棺(とうかん)などをだした太鼓塚古墳群とともに、古志(こし)とおなじ高志(こし)の姓をもっていた行基の開山とされている、もとは金寺といった金禅寺や萩寺などもある。それからまた、茨木には有名な安威(あい)古墳群があって、大阪府警察本部編『大阪ガイド』にも次のように書かれている。
茨木市西北部の丘陵地帯には、数多い古墳が散在している。主として三世紀から七世紀中ごろのもので、前方後円墳・横穴式円墳・方形墳等々の形をしている。耳原(みみのはら)古墳は円墳で、長さ六・九七メートル、幅一・四〇メートル、高さ約三メートルの石室内にくりぬきと組合わせの石棺二個が置かれている。海北塚(かいぼうづか)も円墳らしく、大きな自然石(四国と南紀以外には見られぬ緑泥片岩)を積んでつくった横穴石室があり、杏葉(ぎょうよう・馬の飾り金具)、雲珠(うず・馬の革帯の金具)、環頭、柄頭などの副葬品が出土しているところから見て、六世紀ごろから新しくはいってきた朝鮮の文化の影響がうかがわれる。(府の顕彰史跡に指定)
これはまた、「六世紀ごろから新しくはいってきた朝鮮の文化の影響がうかがわれる」とひどくつつましやかな書き方であるが、もちろんほんとうはそんな「影響」などといったものではない。馬具や環頭太刀(かんとうだち)など、出土品その他からみてもわかるように、これもおそらくは六世紀以前に朝鮮から渡来した豪族たちの古墳であったにちがいない。
阿武山古墳の貴人の遺骸
ここにはほかにまた、警察病院茨木分院内古墳というおもしろい名をもつ、右のものとおなじ内容の古墳もあるが、それはともかくとして、そのとなりの高槻市には京都大学の阿武山地震観測所があって、『大阪ガイド』にこういう説明がのっている。
高槻市の北方阿武山の中腹に昭和六年開所されたもので、三〇メートル余りの塔をもつ白い建物が遠方からでも望見される。各種の携帯用・据付けの地震観測機を大小五〇余り備えて、常時観測に従事している。また高圧力の特別実験を行なうため、高圧装置室を有している。
と、ここまでは地震観測所そのものについてであるが、つづいてこう書かれているのがおもしろい。
昭和九年その裏山から古墳が発掘され、りっぱな乾漆棺(かんしつかん)に葬られた人骨があらわれた。身長一六四センチ余り、年齢は六〇歳前後、大化の改新直後(七世紀中期)に死んだものと判定。死者のマクラは大小のガラス玉を連ねた銀の針金でかざられ、首から肩にかけては金糸がまとってあり、絹の衣服に絹のフトンを着せられていた。この地方に外国文化に通じた進歩的文化人が住んでいたことを思わせるに十分であり、あるいは藤原鎌足ではないかともいわれたが、“金糸をまとう貴人の墓”とさわがれたまま、はっきりしたことはわからず、もとの通りに埋めてしまった。
藤原鎌足といえば日本古代史上もっとも有名な人物のひとりで、飛鳥で中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(のちの天智帝)とともに、蘇我氏討滅のクーデターをおこしたものとされている中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)のことである。その藤原鎌足の墓ではないかといわれた古墳がこんなところにあったとは、私はこれまで少しも知らなかったのだった。
飛鳥近くの多武(とうの)峰(みね)には、藤原鎌足を祭るものとされている談山神社があり、鎌足の墓もそこにあると聞いていたので、私はこれを読んで、「ふうん」とひとり首をかしげたりした。そういえば、藤原氏というのはいったいどこからあらわれたものだったのか、その出自のことなどはあまり考えてもみなかったので、「ふうん、そうか。もしかすると、この高槻あたりから出たものだったかもしれんなあ」と思ったりしたものだった。
しかもこの地方は、「外国文化に通じた進歩的文化人の住んでいたことを思わせるに十分であ」ったところという。ところで、こうなるとまたなかなかおもしろいことがつづくものらしく、そこへ、いつもそのような資料のことを知らせてくれる阿部桂司君から電話がかかってきた。私が「ふうん」とひとり首をかしげたりしていた、今年二月はじめのことである。
「きょう、毎日新聞にちょっとおもしろい記事がのっていましたが、みましたか」
「いや、知らない。どういうこと――」
私はそういくつも新聞をとることはできないので、それはとっていなかった。阿部君もそのことを知っていたので、わざわざ電話をしてくれたのだった。
「なんでも、大阪の高槻の阿武山にある古墳が藤原鎌足の墓にちがいないというものですがね。それが朝鮮式石室の影響うんぬんと、また例の“影響”ということばですが、そういう記事なんですよ」
これは、まったく偶然のことだった。私はさっそく、それの切抜きをとり寄せてみたこというまでもない。小説だったとしたら、こういう偶然はたとい事実であっても「使いもの」にならないのだが、これはまさに事実そのものなのだから仕方ない。
これは鎌足の墓所だ
その毎日新聞は、二月四日付けのもので、「阿武山(大阪)の貴人の遺骸/『藤原鎌足に違いない』/政争史から仮説/梅原元立命館大教授『談山神社は作り事』」という見出しをもった記事だった。
いまみたように、阿武山の古墳が発掘されたのは昭和九年、一九三四年のことであるから、それから四十年近くたったいまになり、そこに埋められていた「貴人の遺骸」をめぐってまた論議が再燃したというわけである。この記事はかなり長く、『大阪ガイド』のそれとちょっと重複するところもあるが、日本の古代史を解明するうえでなかなか重要な意味をもつものと思われるので、その全文をここに引いておくことにする。
【大阪】昭和の初め、大阪府高槻市の阿武山で見つかった「貴人の遺骸(がい)」は、藤原鎌足に違いない――元立命館大教授、梅原猛氏の大胆な仮説が波紋を投げている。鎌足は奈良の談山神社に祭られているというのがこれまでの定説だが、それは藤原氏が作りあげた歴史のフィクションの結果だ、というのである。ナゾに包まれた古墓を再発掘すべきだとの声も学界の一部に高まっている。
この墓所は昭和九年四月、京大阿武山地震観測所の施設工事中に発見された。横穴式石室内部の乾漆棺(かんしつかん)に、金糸をまとった遺骸が安置されてあり、一見して貴人の墓とわかった。
当時の調査報告書によると、この石室は朝鮮の影響が強く、作られた時代は大化の改新以後。遺骸は六十歳前後の男子で一メートル六五センチ。副葬品はなかったが、大小の宝石四百個を銀の針金でつないだ玉枕と、頭部から肩にかけた金糸が残っていた。
この「貴人」は、当時も「藤原鎌足ではないか」と話題になったが、梅原末治博士(京大名誉教授)は、墓の年代は鎌足のころとほぼ同しだが、日本書紀では鎌足は山階(山科=京都市東山区)に葬られたとあり、一部でいわれている阿武山説も、多武峰(とうのみね)縁起で安威(阿武山の一部)から多武峰(奈良盆地東南端の山)に墓所が移されたとあるので、問題ではない、との結論を出し、論争はピリオドを打った。
鎌足の墓所は長子、定恵(じょうえ)が唐から帰国後、父の遺命にしたがって安威山(阿武山の一部)から多武峰に移され、その墓所が後に談山神社となったというのが通説(多武峰縁起による)で、以後歴史辞典でも定説として記載されている。
阿武山に墓所があるのに、なぜ鎌足は談山神社に葬られたことになっているのか。梅原猛氏はこう推論する。
鎌足を葬ったといわれる定恵は、家伝によると鎌足が死ぬ前に毒殺されている。しかも定恵は、二男の不比等(ふひと)が生まれる前に入唐して僧になったが、時の権臣、鎌足が一人息子をいきなり僧にしてしまうのは不自然だ。伝承では定恵は孝徳帝の子ともいわれている。そうだとすると、先に謀反をたくらんだとして天智帝に処刑された孝徳帝の子、有馬皇子の兄弟にあたるわけで、それを天智帝が見のがすはずがない。血塗られた政争の中からのしあがってきた鎌足が、定恵の非業の死をいたんで談山神社を建てたのではないか。
談山神社が鎌足の墓所になったのは、後世の作り事ではないか。つまり、藤原氏のために都合よく作られた歴史のフィクションが、ここでもはっきりするというわけ。
在阪の考古学者で、鎌足の墓所説をとる人は多い。考古学のテキストブック『日本考古学講座』の著者の一人、藤沢一夫帝塚山大講師は、(1)多武峰には不比等の墓所しか認められず、鎌足はお寺の権威づけにあとからつけ加えられた (2)現在の高槻は藤原氏の出身氏族、中臣(なかとみ)氏の根拠地で、阿武山は神座とあがめられた (3)発見された墓所は、大化改新で出された鎌足クラスの高官の墓制に合う――の三点をあげる。
梅原氏は「このほど地震観測所に保存されている出土品を見て一層確信を深めた。もっと大胆な仮説をいうなら、玉枕とされたものは歴史上ただひとつ鎌足に授けられたという“大織冠”でなかったか。金糸はその冠にたれたものではなかったか」といい切る。
大織冠(たいしょくかん)は六四七年(大化三年)に制定された七色一三階冠位制の最上級冠位。実際に授けられたのは藤原鎌足だけとされているが、実物は未発見。
こうして書きうつしてみるとなかなかおもしろくもあるが、さて、私のこの「旅」の視点からみると、これはどういうことになるか。実をいうと私は、奈良時代から平安時代にかけて、いや、現代の昭和にかけてまで、あの権勢ならぶものなきといわれた藤原氏の出自についてはほとんど知るところがなかったし、またそんな興味もあまりなかったのであるが、これでそれもほぼはっきりしたわけである。
右に引用した文中に二度も、「安威(阿武山の一部)」とあるように、藤原鎌足が本貫(ほんかん)の地であると同時に父祖の墓所の地(それを朝鮮では先山(ソンサン)という)でもあるそこに葬られた阿武山は、これを逆にみると、さきにみた茨木の安威古墳群の一部にほかならなかった。つまり安威山・阿武山は、現在では茨木と高槻との境となっているのである。
したがって、これはどちらからみてもおなじものだったわけであるが、その安威古墳群がどういうものであったかは、さきにみたとおりである。したがってまた、鎌足の墓であるといわれる古墳の「この石室は朝鮮の影響が強く」ということがどういうことであるか、おのずからわかるというものである。
伊居太(いけだ)神社の朝鮮兜
秦氏・漢氏は朝鮮から渡来した
大阪府下はずいぶん広い地域にわたっていて、前夜泊まった鄭貴文の家のある東大阪市から池田市までは、かなり時間がかかった。朝出るのがおそかったということもあるが、池田についたときは、もう午後二時をすぎてしまっていた。
その池田まで、私たちはなにをたずねてきたのか。――そのまえにここでまたもう一つ、ちょっと長い引用をしておかなくてはならない。これまでの歴史というものがどのようなものであるかということを知ってもらうためにも必要なことだと思うが、すなわち藤本篤氏の『大阪府の歴史』をみると、私たちがたずねてきたものに関連してこう書かれている。
この難波の地が、とりわけ重要性を増してきたのは、四世紀のなかば、日本と朝鮮半島の関係が密接になってからである。大陸のすぐれた文化は、大和朝廷の発展とともに、つぎつぎに日本に伝わったが、その門戸は難波津(なにわづ)であり、たくさんの外国船がこの港に到着した。そして五世紀の前後からは、大陸や半島からの帰化人が、高度の文化をたずさえて、ぞくぞくと難波津に上陸した。秦の始皇帝の子孫と称する弓月君は、応神朝に一二〇県の人びとをひきいて帰化し、ついで阿知使主(あちのおみ)は、その子都加使主(つかのおみ)、およびその一党一七県の帰化人をつれて上陸している。
これらの帰化人は、難波津をとりまく摂河泉に多く移住した。弓月君とともに来日帰化した人びとは、はじめ大和におかれたが、仁徳朝になって諸国にわけられた。彼らは養蚕をおこない絹を織って献上したが、それがやわらかく肌(はだ)にあたたかいので、波多(はた)(秦)公(のきみ)の姓を賜わったという。摂津豊島(てしま)郡の秦上(はたかみ)郷・秦下(はたしも)郷(いずれも池田市域)には、穴織(あやはとり)社・呉服(くれはとり)社があり、阿知使主を呉に派遣してまねいた織女の穴織・呉織をまつった。一郷は五〇戸であるから、秦上・秦下二郷あわせて一〇〇戸であるが、当時一戸が二〇〜三〇人とすれば、このあたりには相当大きな帰化人集落があったにちがいない。秦氏所属の部民として、これにゆかりのある勝部(かつべ)(豊中市勝部)がその南方にあるのも、十分うなずける。
阿知使主は後漢の霊帝の子孫といい、そのひきつれてきた人びとは漢人(あやびと)と呼ばれた。穴織・呉服の社がこれと深い関係があるので、池田地方はもと“呉服(くれはとり)の里(さと)”と呼ばれた。勝部の東方に服部(はつとり)(豊中市服部)というところがあるが、服部は呉の機織(はたおり)の意味であり、これまた呉服の里の延長として、機織部の住んでいたところとも推定される。こうした帰化人の居住地であったと思われるところは、右のほか大阪府下にはきわめて多いが、松岳山(まつおかやま)古墳(柏原市東条)からは、かつて百済からの帰化人船(ふね)氏の墓誌名と古鏡が発見され、船氏の墓であることが明らかにされた。銅版の墓誌で、この種のものでは現存の日本最古のものといわれている。
最後の松岳山古墳と船氏の墓誌のことはあとでみることになるが、ここにみえる弓月君にはじまるとされている新羅系の秦氏や、阿知使主の漢(あや)氏が、中国から渡来したものであるかのようになっているのは、さきにもみたし、また何度となく書いてきているように、これはよくみられる誤りである。
なるほど平安時代はじめの弘仁六年、八一五年に成ったものといわれる『新撰姓氏録』などをみると、たしかに秦氏や漢氏は秦始皇帝の子孫と称したり、後漢霊帝の子孫となったりしている。しかしこれは上田正昭氏などもはっきりいっているように、平安時代となるにつれて、「朝鮮起源の秦氏や漢氏が、母国意識よりも中華思想の諸蕃の意識の方へ吸収されてしまって、秦氏なら中国の始皇帝へ、漢氏なら中国の後漢へと自分を近づけて」(「日本歴史の朝鮮観」)いった結果にほかならないのである。
フィクションを見破れ
だいたい、事実ということが本来のたてまえとはなっているが、史書といわれる『古事記』や『日本書記』はもとより、『新撰姓氏録』などにしても、これらが政治的フィクションに満ちたものであることはいうまでもないであろう。だからしたがって、現代における歴史家の仕事というものは、これらのフィクションを見破り、全体に照らしてその事実を明らかにするところにあるはずである。にもかかわらず、そのほとんどが以上の史書(?)などの祖述に終始しているというのは、いったいどうしてなのであろうか。
たとえば、「摂津豊島(てしま)郡の秦上(はたかみ)郷・秦下(はたしも)郷(いずれも池田市域)には、穴織(あやはとり)社・呉服(くれはとり)社があり、阿知使主を呉に派遣してまねいた織女の穴織・呉織をまつった」とあるが、これは「応神朝」のことであったということになっている。それが応神朝といえるものだったのかどうかは別として、これはどうみても四世紀半ば以前となるものではない。
ところが、その辺の歴史年表をみても明らかなように、中国に呉(ご)なる国が存在したのは三世紀のことである。しかも、日本にはじめて男女や貴賤の服装がさだまったのは、この「呉から機織技術が伝わって」以後ということになっている。とすると、それまではハダカでいたものたちが、「後漢霊帝の子孫」である「阿知使主を呉に派遣して――」ということだったのであろうか。
するとだいいち、その阿知使主なるものはいったいなにを着て行ったのであろうか。当時としたらなおさらのこと、波濤万里のかなたであった中国の呉まで往復するには、何年もかかったはずなのに、まさかハダカで行ったわけではあるまい。
以上はまさに冗談のようなもので、つまり、ここに呉(くれ)織の呉といわれているものにしても、これは朝鮮の句麗(クレ)(高句麗の高は美称であり、高句麗の国姓)ということからきたものなのである。大阪市内の東住吉区にある喜連(きれ)(いまは喜連(きづれ)ともいうらしい)町というのもこれからきたもので、穴織の穴が古代南部朝鮮にあった加耶諸国のなかの小国であった安那(あな)(安耶(あや)・安羅(あら))からきているものであることは、すでに何度もいったとおりである。
「くれはの里」
池田では、私たちはまず市の教育委員会をたずねた。そしてひどく活気に満ちた感じの若い社会教育主事正田益嗣(よしつぐ)氏から、『グラフいけだ』など、たくさんの雑誌やパンフレットをもらった。
謡曲「呉服」で名高い池田の地域は古代から北摂文化の中心地で、茶臼山古墳、鉢塚古墳など、大規模な古墳から小規模なものまで数多く現存しているのがそれを物語っています。
五世紀の頃、中国から機織の工人がたくさんこの地に来朝し、機織の技術を伝えました。その後この地方はこれらの帰化人によって開発され、古代には秦氏、漢氏が豊島郡司としてこの地方を治めました。いま伊居太神社、呉服神社に祭られている漢織姫、呉服姫の二神は、この地方開発の祭神として伝えられています。
平安時代から鎌倉時代にかけて、坂上氏が私領地を開発し、勢力が拡大するにしたがって、池田地方は「くれはの里」と呼ばれるようになりました。
『グラフいけだ』(第八号)にある、いまは人口九万ほどの「池田市のあゆみ」である。なかなか要領をえた叙述であるが、また「中国から機織の」うんぬんとなっているのは、いまみた『大阪府の歴史』からしてそうなっているのだから、これはやむをえない。
そのくせまた別なところでは、「二子塚古墳は帰化人の墓か」として、こういう記述のあるのもみえる。
古墳の形が円墳を二つならべた形をしているので、ここを通る人びとは二子塚と呼んでいます。このような形をしている古墳は、朝鮮の新羅に多く、古代帰化人が池田地方で活躍していたので、おそらくその勢力のあった人の墓でしょう。
だが、そのことを向かい合って坐っていた正田さんに話してみたところで、仕方がないというものだろう。
「こちらにある伊居太(いけだ)神社ですね」と私は、正田さんにきいた。「そこへ行ってみたいと思っているのですが……」
「ああ、それでしたら」と、正田さんは近くにあるそれをただちに教えてくれ、同時にまたすぐ立ち上がって、その神社へ電話までしてくれた。
「東京からみえている――大学文学部講師の……」などといっている。
名刺にあった肩書きの効果、というものである。私は、そばに坐っていた鄭貴文や李哲と顔を見合わせ、てれたように笑ったが、しかしおかげで、ひじょうにラクになったことはたしかである。
穴織宮(あやはぐう)ともいわれている伊居太神社は、これまた綾羽(あやは)町というところにあった。五月山麓の一方で、道すじからは、かなり高い急な石段がつづいていた。
その石段を登りきった上に三社造(さんしやづくり)といわれる本殿が見えたが、市教育委員会の正田さんが電話をしてくれたので、宮司の河村勝久氏がそこへ出て来て、私たちを待っていてくれた。なにはともあれ、ありがたいことだった。
阿知使主の子孫に会う
私たちは、阿知使主とその子都加使主とが祭神となっているという境内の猪名津彦神社や、それからいわゆる穴織姫を祭ったものという姫室(ひめむろ)などをひとまわりし、氏子の集会所というのかなんというのか、神社の本殿につづいたそんな一室へとおされた。河村さんが閉めきったままとなっていた雨戸を、一つ一つ押し開けてくれた。真西に向かった高台だったから、暗かった室内はさんさんとした西陽(び)を受けて、いっぺんに明るくなった。
そこで、私たちはまたあらためて河村さんとあいさつをかわしたわけだったが、河村さんは六十歳にはまだ少し間があるように見える、まさに温厚篤実といった感じの人だった。こちらからはなにをいわれようと自分のペースで、自分の思っていることしか決していわない人間がいるが、河村さんはどうやら、そういう人のうちのひとりのようだった。
「木部町というところがあります」とゆっくり、河村さんはひとりごとのように言った。「これも穴織姫が絹をさらしたということからきたもので、『きぬのべ』『きべ』というふうに転じたものといわれます。古代の当時、この地方は機織の一大工場地帯だったもののようです」
それが、「この辺には穴織宮といわれる神社に関連した伝承がたくさんあるでしょうな」というふうにきいた私にたいする答えだった。その河村さんにたいしては、まったく申し訳けないような話だったが、時間のことがあったので、「これはえらいことになったなあ」と、私は思わないわけにゆかなかった。
「平安時代には」とまたゆっくり、河村さんは言った。「官吏の八、九〇パーセントまでが秦氏の出だったそうですから……」
「ああ、そうですか」と私は、はなはだ失礼だとは思ったが、口をはさんで河村さんのことばを端折った。「ところでこちらには、阿知使主がかぶってきたものだったといわれる朝鮮兜があるそうですが、それをちょっと見せてくださいませんでしょうか」
私たちがはるばる池田までやって来たのも、実はその朝鮮兜なるものをみせてもらいたいと思ったからだった。阿知使主を祖とする漢(あや)氏のことについては、のちにまたみることになるはずだったから、私たちがここでみたかったのはその兜にほかならなかったのである。
「はあ」と、河村さんはちょっとうなずいたようだった。「わたしのほうもかつては、秦氏を称したことがあったようです。それからまたいろいろと変わってきまして、いまは河村となっていますが、阿知使主からすると、わたしでちょうど八十五代目にあたっております」
「八十五代目――」
それは、はじめて聞くことだった。というより、いまなお阿知使主の子孫を称するものがそこにいたということにおどろいて、私はあらためてまたなんのてらいもなさそうな河村さんの顔を、まじまじと見つめたものだった。
しばらくまだそんな話がつづいて、やっと河村さんは腰をあげてくれた。見せてくれとたのんだ、朝鮮兜をとりに行ってくれるものらしかった。
といっしょに、私も立ち上がった。私は両手をさしあげてのびをしながら、西陽をとおしているガラス戸に近寄って行って、下のほうを見おろしてみた。
猪名川を眺めて
「猪名川ですよ」と、向こうの隅の戸口から出ようとしていた河村さんが、こちらを振り返って言った。
「ああ、これが猪名川か」
私はそれでやっと気がつき、ガラス戸を押し開けて、すぐ目の下を流れている川を見た。とすると、川の向こうは兵庫県となっている川西市のはずだった。
別に変哲もない川の流れだったが、その猪名川という名にもまた、遠い歴史のあとがこびりついているのだった。松田太郎氏の『阪神地方の歴史』にこうある。
応神天皇の世、さきに伊豆国から貢した枯野という官船が朽ちて使用することができなくなったので、その船材を薪とし、五百籠の塩を焼き、その塩を諸国に賜り、その代りとして、新たに船をつくらせた。そこで諸国から一時五百の船を貢し、すべて武庫水門に集っていた。この時新羅の調使の船も武庫水門に碇泊していた。ところが新羅の船の失火で多くの船が焼けたので、新羅王は謝罪のため名工を送ってきた。これが猪名部などの始祖である。猪名部は川辺郡為奈(いな)郷や猪名野、猪名川、尼崎市の廃寺猪名寺などに、その名が残っている。
ありま山猪名の笹原風ふけば いでそよ人をわすれやはする  大弐三位(だいにのさんみ)(百人一首)
新羅系といわれる猪名部の始祖についてのこの伝承は、いまさっきもみた『日本書紀』のフィクションであるこというまでもない。
しかしながら、造船のことをつかさどったものとみられる猪名部というものがあったことは事実のようである。新羅系渡来氏族の秦上社であった伊居太神社境内にある猪名津彦神社の猪名津彦も、もしかするとそれから出たものではなかったか。するとこれも、大豪族秦氏の部民であったかもしれない。
また池田と、ここももとは摂津国だった川西市とのあいだを流れている猪名川には、唐船ケ淵というところがあるが、してみるとこれももとは、新羅のそれから来た韓船(からふね)ケ淵であったにちがいない。日本じゅうにある唐(から)なんとかいうのは、ほとんどみなもとは韓(から)だったのである。
「おい、弱ったね」
私は腕の時計をみて、そこに坐っている鄭貴文と李哲に向かって言った。私たちはこれから京都に出て、そこでまた果たさなくてはならない用事をひかえていた。そして私は関西へ来てもう一週間近くにもなっていたので、翌日、その京都から東京へ一応引きあげることにしていた。
「しかし、しようがないだろう」
いつものことだったが、鄭貴文はおちつきはらったようすで、河村さんがこれから見せてくれる朝鮮兜を写すために、カメラの用意をしていた。ところが、その河村さんがなかなかもどってこないのだった。
「それはそうと、こういうばあいはどれぐらいおいたらいいものですかね」
李哲は一方で、そんな心配をしている。だが、いつも、それがまたなかなか気になるものだった。結局、博文一枚でいいのではないかということになって、それを李哲が紙に包んだ。
「やれやれ」
朝鮮兜を拝観
向こうの戸口が開いて、ようやく河村さんがもどって来た。木箱を脇に抱えたり、両手にさげたりしている。神社の宝物であるから、深いところにしまってあったものにちがいない。
「ああ、どうもすみませんでした。ほんとうに――」
私たちはそれぞれに坐りなおして、いよいよその朝鮮兜というのを見ることになった。が、まず河村さんが箱のなかからとりだしたものは、青銅の擬宝珠(ぎぼし)だった。一五九六年にはじまる慶長年間のもので、それも神社の宝物となっているものだったが、しかし私たちにはあまり興味のないものだった。
けれども、そんなにあまり興味ないといった顔をするわけにもいかない。それについても、私たちは河村さんのひととおりの説明を聞いた。次にとりだしたのは、木彫のいわゆる穴織姫像というものだった。いつつくられたものかはわからないが、そう古いものとは思われなかった。
最後にいよいよ朝鮮兜なるものがとりだされて、私たちはやっとたまった息を吐きだす思いをしたが、そこへ河村さんの奥さんらしい人が、家のほうからコーヒーをいれて運んで来てくれた。ちょうどよい頃合いで、私たちはそのコーヒーを飲みながら卓のうえにおかれた鉄製の朝鮮兜なるものを、ゆっくりと観賞することになった。
が、私はまた気がついて、李哲のほうを見た。コーヒーまでごちそうになるとすると、――李哲もそれにすぐ気づいたらしく、博文をもう一枚とりだして、卓のかげでごそごそ紙包みをつくりなおしていた。
「この朝鮮兜は」と、河村さんはまたゆっくりといった。「神社に伝わるものではなくて、わたしの家に伝わってきているものです」
「ほう、そうですか」
私たちはかわるがわる、その兜を手にとってなでてみたりした。鉄板をつけ合わせてつくったちょっと異様な感じのもので、もちろんそれが古代朝鮮のものだったかどうかは、私たちにもわかりはしない。
まして、阿知使主といわれたものが朝鮮から渡来するときにかぶって来たものかどうかということになると、これはいっそうよくわからない。しかしながら、そういう渡来人のものだったという朝鮮兜なるものがそこにあるということ、これは考えてみるとなかなかたのしく、また、おもしろいことでもあった。
家宝のそれを見せてくれた河村さんに謝辞をのべ、伊居太神社の長い石段をおりて来てみると、時計はもう五時すぎになってしまっていた。こういう「旅」をするからには当然地元のいろいろな人々と会わなくてはならないが、いつも困るのは時間がかかりすぎて、それからさきの予定が狂ってしまうことである。
「これじゃもう、茶臼山古墳などへは行けないよ」と、クルマを運転してくれている鄭貴文は言った。
朝鮮のそれとおなじ勾玉や管玉、それから碧玉(へきぎよく)製の腕輪(石釧(いしくしろ))などを出土している四世紀半ばごろのものだという池田の茶臼山古墳や、鉢塚古墳なども行ってみたいと思っていたが、あきらめなくてはならなかった。
そればかりではなかった。前日までの予定としては、池田からさらにまたさきの“大阪の秘境”ともいわれる豊能(とよの)郡の能勢町まで行ってみるつもりでいた。それから三島郡を通って京都へ出たらどうか、などとも話していたものだった。
能勢町には、多数の須恵器(朝鮮土器)や馬鐸を出土している野間中古墳があるだけではなかった。これもまた朝鮮渡来の習俗といわれる、妙見信仰の有名な能勢妙見山真如寺があったし、三島については、吉野裕訳『風土記』をみると、「伊予国風土記」(逸文)にこういうくだりがある。
御島(瀬戸内海にある三島群島で、大三島の宮浦に大山積神社がある)においでになる神の御名は大山積の神、またの名は和多志(わたし)(渡海)の大神(おおかみ)である。……この神は百済(くだら)の国から渡っておいでになりまして、摂津の国の御島においでになった。
これは伊豆(静岡県)の三嶋大社や、いわゆる三島暦とも関係あるものであるが、しかし、大阪の摂津はもうこの辺でおしまいとしなくてはならない。
和 泉
百舌鳥古墳群と百済
「旅」を支えてくれる友人たち
次はおなじ大阪府下となっている和泉であるが、私はここでちょっと楽屋裏のことを語っておきたいと思う。私がこの「旅」をはじめてからもうかなりのことになり、関西の畿内となってからも、相当の月日がたっている。
実をいうと、私は元来が旅行好きだものだから、この仕事はその旅行記のようなものの一つとして、自分の専門である小説の片手間にできるものではないかと思っていた。ところがはじめてみると、これがどうして、とてもそういうわけにはいかない。それでいまは資料などを調べることも含めて、ほとんど全力をこの仕事に投じているのであるが、しかしまた別な事情で、これもなかなかそういかないということがある。
というのは、これまでのそれをみてもわかるように、本来ならば私は行ったさきの現地で、もっとゆっくりしなくてはならないはずである。あるときはそこに泊まったりしながら、あれこれをもっとていねいに見て歩き、そして現地の地方史家や古老たちにもたくさん会って、もっといろいろなことを聞いたりしなくてはならない。
しかし、それがなかなかできない。私がそういった研究所とか、またはそういう機関から派遣されたものであったなら別かもしれないが、結局はこれも経済力というものである。時間がないというのも、もとはといえば、この経済力がないということなのである。
かんたんにいうと、自分の住んでいる関東にしてもそうだったが、ことに関西のばあい、そこにいる友人たちが協力してくれなかったならば、おそらく私のこの仕事は着手することもできなかったにちがいない。これをもっと具体的にいえば、京都で『日本のなかの朝鮮文化』という小季刊誌を発行している友人の鄭貴文、詔文兄弟がいなかったとしたら、とうていこの程度にも歩きまわることはできなかったにちがいない。
私ははじめから、この『日本のなかの朝鮮文化』には編集の面で関係をもっている。それでしぜん、月に一度か二度は関西へ行くことになっている。そして鄭兄弟に必ず会うことになり、雑誌の編集の用事がすむと、私はまた必ずこんなふうなことをいう。
「どうだろう。あしたは和泉のほうへ行ってみたいと思うのだが――」と。
ときには、東京から小原元とか水野明善などとつれだって行くこともあって、飛鳥あたりの民宿に泊まったりすることもあるが、そういうときでも兄弟のうちひとりは必ずそのクルマを出してつき合ってくれている。もっとも鄭詔文(ジヨンジヨムン)はそういう雑誌の発行者だったし、編集人となっている鄭貴文は自身またそういう紀行も書いていたから、まるきりただつき合っているというものではなかったが。――
堺市の今昔
そういうしだいで、和泉の堺へ行ったときも、このふたりがいっしょだった。私たちは、どちらも堺ははじめてのところだった。そういうこともあるのでさきにまず、堺とはどういうところであるかということについて、ちょっとみておくことにしたい。
旧堺市内の中央部を東西に走る大小路(おおしょうじ)を境として、その北方を摂津ノ庄といい、南を和泉ノ庄といった時代もある。堺の地名も摂津・和泉の境の意味から出たものであるが、後に大和川ができてからこれを国境とすることになった。
明治元年(一八六八)堺県が置かれて和泉・河内両国をもあわせ管したが、一四年二月大阪府に属して大島郡堺区となった。二二年四月はじめて市制が実施され全国で三〇〇の都市が生まれたとき、堺市もその一つとなった。昭和二〇年三月一三日と七月一〇日の二回、米機の大空襲を受けて市の中央部から南部にかけ旧市街の約四割を焼失したが、戦後は東方ヘ発展が移り、高野線堺東駅付近が繁栄の中心となっている。
本市製造工業の特徴は、金属部門の重工業と繊維・食料品などの軽工業とが大体平均して発達していることで、主な製品としては、自転車とその部分品、……とくに自転車工業は日本一で、自転車工場は三〇〇余、年産五〇億にのぼる。変わったところでは大阪ダイヤモンド(鳳北町)のダイヤ工具、京阪光機(石津)のシネスコレンズがある。人口三五五、六八二人(三五年国勢調査)。(大阪府警察本部編『大阪ガイド』)
人口は十年以上も前の調査であるから、いまはもっとふえているはずであるが、これは現代の堺市である。そこの古代、ことに私たちのたずねているそれからみるとどうであるか。堺市の教育委員会でもらった同市教育委員会編『堺の文化財』にこうある。
堺市における文化財の分布は、年代、種類のいずれからみても非常に広範であり、このことは堺の歴史の古さや文化の高かったことを物語っていますが、何といっても堺を特徴づけているのは、仁徳陵を中心として五〇余基の古墳が群在している百舌鳥古墳群だと思います。
もちろん過去、現在にわたって多くの学者によって発掘調査をされて、石器や土器を出し、紀元前の集落の存在が確認された、浜寺四ツ池や田出井、南三国など古代遺跡もありますが、応神天皇陵を中心とする河内の古市古墳群とならんで、わが古代王朝創世期の文化遺産の貴重さは、衆目の認めるところであることは間違いありません。
今日、自由な異説はあるにしても、わが王朝の勢力が安定していた五世紀を中心とし、それよりはさらに古いと推定されるものから、年代の下がるものまで、その形状からしても円形、前方後円形のものを合せて、まさに日本の古墳時代のパノラマを今に伝えたものといえます。そしてこれらの多くの古墳とともに、市内南域に分布された古代窯跡は帰化系工人達の来朝を背景に、百舌鳥百済村、土師村(旧称)などの地名を今に伝えつつ海に向かって大きく門戸を開いていた堺の歴史の後年を象徴しているのです。
須恵器の生産地
さて、最後につけ足しのようにふれている「古代窯跡」とはどういうものであったか。ついでに堺市教育委員会編『堺の文化財』によって、それもみておくことにする。
この窯跡の所在する付近は、かつて陶邑(すえむら)と呼ばれ、古墳時代(五世紀初頭)大陸より新しい土器の生産方法をとり入れ、わが国で最初に生産を開始した最も大規模な土器の生産地で、九世紀の中頃まで発展を続け、堺市・和泉市・狭山町等にまたがり、その窯跡も六〇〇以上とも一〇〇〇基ともいわれています。
これらの窯で作られた土器は、古く陶器又は祝部土器ともいわれていましたが、現在の陶器とまぎらわしいため、戦後になって古典より「須恵器」という字を引きだし、統一して呼ばれるようになりました。この須恵器は、今まで〈それまで、ということ=金〉生産されていた弥生式土器、古墳時代またはそれ以降も生産されていた土師器というやわらかい赤褐色土器とは違って、高温で焼成された灰色の硬質の土器となっています。
要するに、さっきの摂津・吹田でみたその須恵器とおなじもので、これを日本の考古学界では明治の半ばころまで「朝鮮土器」といっていたものだった。それで私も「須恵器(朝鮮土器)」としたわけだったが、さらにまた末永雅雄氏の『古墳』をみると、この須恵器は「新羅焼」でもあったとして、こう書かれている。
いま須恵器という名称でほとんど考古学界では統一されたが、古代の祭祀に使用することが多かったために、祝部(いわいべ)土器、あるいは古墳に多く埋葬されているから古墳土器などといい、また和泉の陶邑――現在堺市陶器町では行基菩薩(ぎようきぼさつ)が朝鮮から、この土器の製作法を伝えたという伝承から行基焼もしくは行基細工ともいう。
行基焼の伝承は時代的には新しいが、わが古墳時代前期かあるいはそれ以前に朝鮮より伝播してきたものとされ、原産地は新羅と推定している。同質の土器が新羅の古墳からたくさん出土するので新羅焼ともいわれる。須恵器の源流を新羅に求めることは、ほぼ間違いのないことだと学界では認めている。今後の課題は形式別による編年の確立にある。
もちろん、「わが古墳時代前期かあるいはそれ以前に朝鮮より伝播してきたものとされ」といっても、これは植物の種かなにかが飛んできたもののようにしてきたものではない。これこそはまさに、この日本に古墳時代を出現させた者たちとともにやってきたものであった。
すなわち、朝鮮土器といわれ、あるいは古代朝鮮の「新羅焼」ともいわれる、この須恵器をつくった工人たちは、その古墳時代をつくりだした豪族に随伴してきた部民にほかならなかったものであった。このことについては、森浩一氏の『古墳』などにもよりながらあとでまたみるとして、私たちはまず、実地にある実物のそれをみておかなくてはならない。
世界最大の墳墓・仁徳陵
となれば、まず百舌鳥の仁徳陵古墳であるが、堺に行ったら、わざわざそれを人にきいたりする必要はない。市内にはいると、平地の住宅のあいだにうっ蒼と樹木の生い茂った一つの山が見えてくる。それが秦始皇帝陵はもとより、かのエジプトのピラミッドよりも巨大なものといわれる仁徳陵古墳なのである。
仁徳陵古墳の巨大さは、ただそばに近寄ってみるというだけでは、とてもわかりはしない。飛行機にでも乗って空中からみると、それが少しは実感できるのであろうが、この仁徳陵古墳については、堺市教育委員会編『堺の文化財』をみるとこうなっている。
日本最大であるばかりでなく、世界最大の墳墓で、三重の濠をめぐる前方後円墳であります。古墳は濠を除いて全長四八六メートル、後円部径二四五メートル、高さ三五メートル、前方部幅三〇五メートル、高さ三三メートル、またこれらの外周は一、四七一メートル、面積一一〇、九五〇平方メートルで、三重濠を含めると周囲二、七一八メートル、面積四六四、一二三平方メートルあって、盛りあげた土量は一四〇万立方メートルと計算され、従って一人が一日に一立方メートルの土を二五〇メートル運搬できると仮定すると、延べ一四〇万人の労力が必要であったことになります。そのほか古墳の斜面に積上げて土砂流失を防いでいる葺石の量も莫大で、墳丘や濠に立て並べた円筒はにわの数も約二万本位と計算されています。
これはいったい、どういうことであったのだろうか。人間が死んで葬られた墓なるものがこれなのである。「延べ一四〇万人の労力」など、聞いただけでも気の遠くなるような話であるが、古代の当時はなおいっそう、そうであったにちがいない。
だいたい、奈良時代の日本の総人口は数百万ほどであったと推定されているが、とすると、仁徳陵古墳のできた当時のそれは、もっと少なかったものとみなくてはならない。かりに五百万であったとして、そのなかからの「延べ一四〇万」なのである。
これはいったいどういうことであったのだろう、とまた思わないわけにゆかない。江上波夫氏のいわゆる「騎馬民族征服説」によれば、巨大な仁徳陵、応神陵古墳など、「この大陸的な大土木事業の遂行こそは征服王朝の、被征服者倭人・毛人に対する支配権の威圧的な記念碑にほかならなかった」とするのであるが、いまみている『堺の文化財』はつづけてこうのべている。
応神天皇陵・履中陵にしろ、おびただしい労力を駆使して盛上げていますが、このような巨大な墳丘は五世紀型の古墳に多いことは問題を秘め、大和朝廷の南朝鮮での軍事進出の成功によって多数の労力、技術をもたらしたものであろうと思われます。
戦後、江上波夫氏らの唱えたこととは、ちょうど逆な見方である。ちょっと口ごもったようないい方にはなっているが、これがいうところの「皇国史観」で、そのフィクションによるものであることはいうまでもないであろう。だいたいそもそも、これからみることでもわかるように、当時、「南朝鮮での軍事進出」などといえるようなそんな「大和朝廷」などというものはまだ存在しなかったのである。
しかしながらそれにもかかわらず、『堺の文化財』はつづけてまた次のように書いていること、これはちょっと記憶しておく必要がある。結局はどのような「史観」であれ、このような考古学的事実はどうしようもないということでもある。
仁徳天皇陵の後円部の埋葬施設は不明でありますが、明治五年九月の風水害で前方部の一部がくずれ、長持型石棺を入れた竪穴式石室が発見され、当時の記録は石室内の遺物を模写してあり、金銅装の短甲と眉庇付冑その他鉄刀二〇口位とガラス器もあったようです。また、ボストン博物館には仁徳陵から出土したといわれる獣帯鏡・環頭太刀・馬具・馬鐸があります。鏡と環頭太刀は美事な大陸製品で、これらは仁徳陵出土が確実であれば、やはり明治五年発見の際ひそかに持ちだされたものと思われます。
明治維新からまだ間もないどさくさにまぎれてだったとしても、惜しいものがアメリカにまで流れ出たものと思う。もちろん私はまだそれを見たこともないが、たとえばここにいう環頭太刀とは、『万葉集』などにいう「高麗剣」のそれであることはいうまでもないであろう。
ところで私は、この仁徳陵古墳が仁徳天皇陵であるかどうかは別として、その仁徳天皇については一つの思い出がある。私は十歳から以後は日本の東京で育ったのであるが、その小学校のときのことだった。
『小学国史』の第何課かに「仁徳天皇」というのがあって、それに仁徳天皇が皇后を引きしたがえて高殿に立ち、民のカマドから炊煙の立ちのぼっているのを見ているという図がある。先生がその図をさして、
「このうしろにつきしたがっている方はどなたか、知っているものは――」と言った。私はさっそく、
「はーい」と、手をあげた。
「では、金」と私は名ざされて、勢いよく立ち上がった。が、立ち上がると同時に、何といったか、「皇后」ということばを私は忘れてしまった。頭をかいてみたところで、思いだせない。で、仕方なく、「おかみさんです」と言ったところ、あたりからはどっと笑い声がわいた。いま考えてみると先生もおかしかったにちがいなかったと思うが、しかし先生は、大まじめな顔をして私を叱ったものだった。
いにしえの百舌鳥百済村
百舌鳥古墳群中の雄である仁徳陵古墳をへて少し進むと、百舌鳥八幡宮だった。私たちは道路沿いにある鳥居の脇にクルマをとめて、下ったり上ったりのかなり長い参道を歩いて行った。森あり池ありといったぐあいの相当広い境内だったが、もとはこれも、仁徳陵古墳のような巨大なもののそばにあるそれにふさわしく、もっといっそう広く大きかったのにちがいなかったものと思われた。
百舌鳥神社は、一つに百舌鳥八幡社の名があり、応神天皇、神功皇后を祭神とし、欽明天皇の御宇、八幡大神のご託宣により創建されたと伝えられます。この神社の境内、拝殿へ十数段上った右手にあるくすの木は、幹廻りおよそ五・三メートル、高さおよそ二五メートル、地上一〇メートル位より枝が四方に発達し、空を覆うばかりによく繁茂している大楠です。樹齢はおよそ七〜八〇〇年は経ているものと思われます。(『堺の文化財』)
私たちもその大楠をみたが、また、社務所でもらった『百舌鳥八幡宮略記』には次のようなことが書かれている。
王朝時代には社僧四十八ケ寺、社家三百六十人、神領寺領八百町歩を擁していました。古い記録としては、現在滋賀県長浜町に応安六年在銘の古梵鐘がありますが、之はもと本社の什物であったもので、その銘文中に「近衛天皇の仁平年間に本社の梵鐘が鋳造された」旨記されています。……
前記応安六年在銘の梵鐘を奉納したのは、当時和泉国を知行していた九州の豪族大内氏であり、このように武家の崇敬も厚かったのでありますが、大内氏の和泉に於ける兵乱や、降っては元和元年、大坂夏の陣の兵火等、度重なる災禍を蒙ったため、次第に昔日の壮観を失い、什宝、古文書等多く散逸しました。
「和泉国を知行していた」のが百済聖明王の第三子琳聖太子から出たとされている九州の豪族大内氏であったというのもおもしろいが、さて、ところで、「欽明天皇の御宇」すなわち六世紀半ばごろにつくられたというこの百舌鳥八幡宮の祭神は、いまみたように応神帝ほかとなっているけれども、最初の、実際の祭神はだれであったのであろうか。それを私は、この百舌鳥八幡宮となっているものこそは『和泉国神名帳』にある「百済社」であり、その祭神は『続日本後紀』の八三九年、承和六年条にみえる百済公豊貞の祖先、百済酒君なるものではなかったかと思うのである。
というのは、さきにみたように、この辺一帯は百舌鳥百済村であったところだったのである。その範囲はどのくらいで、またいつごろからそれが「村」となったものかは知らない。これももしかすると、新井白石のいう「いにしえでは『国』といったものが、のちには『郡』となり『郷』となったものも少なくない」(『古史通或問』)うちの一つだったかもしれないが、百済の地名はごく最近まであったもので、近くを流れている百済川の名は、いまも残っている。
私たちのクルマは、その百済川をたずねて走ることになった。走るといっても、すぐ近くだった。いまは陵南町となっているところで、道路のかたわらにあった小さな雑貨店に寄って道をきいたついでに、私はそこのおばさんにまたこうきいてみた。
「この町も、もとは百済といったものだそうですが……」
「ええ、そうです」と、軽やかな関西弁の返事がかえってきた。「あの戦争中までそうでした」
百済川は、その雑貨店のある道路の坂を下ったところにあった。が、それもいまは宅地造成の波に押されて、見るかげもないものとなっていた。かつてはこの百済川もなかなか由緒あるものであったにちがいなかったが、いまはただの小川、というより、そこらどこにでも流れているドブ川に近いものとなってしまっていた。
いまも川の向こうでは、整地工事がつづけられていた。その工事場で働いているらしいおやじさんがひとり、そこに架かっている橋を渡って来たので、私は念のためにきいてみた。
「この川は、なんという川なのでしょうか」
「ああ、これ」と、おやじさんはその川をちょっとかえりみるようにして言った。「百済川です」
「この橋は、なんというんですか」
つづけてまた、カメラなどかまえていた鄭詔文がきいた。
「百済橋ですよ」
おやじさんは、そういうことをきく私たちのほうを珍しいもののように見ながら、向こうへ通りすぎて行った。
行基の家原寺と土塔
行基の寺に詰めかける受験生
私たちは百済橋を、いま通りすぎたおやじさんとは反対の方向に渡って進み、そのさきにある家原寺をたずねた。ブロックの門柱に、「聖武天皇勅願所/行基菩薩誕生地/日本三体智恵文殊」という大きな木札がさがっている。
ブロックの門柱といい、ちょっとぎょうぎょうしい木札にはやや興ざめしたが、しかしその木札・看板にいつわりがあるというわけではなかった。この家原寺こそは日本古代の有名な民間伝道者であり、社会事業家でもあった行基、のちには日本最初の大僧正となったその行基ともっとも縁の深い寺院の一つであった。
たとえば関東にも千葉県には千葉寺があり、東京都には高尾山薬王院などがあるといったふうに、日本全国にはいたるところ行基開山と称する寺院がいくらでもあるが、この家原寺は行基が自身の生まれた家を、自身の手で寺院としたものであった。行基、三十六歳のときのことだった。
行基は、天智天皇が近江の大津の宮(大津市南滋賀附近)で即位した年(称制七年、六六八)に、河内の大鳥郡(いま大阪府泉北郡と堺市に入る)に生れ、父は高志才智、母は蜂田古爾比売(はちたこにひめ)、高志氏は王爾(わに)(王仁)の子孫であるといい(『僧正舎利瓶記』)、生れた場所は母方の家で、彼がのち慶雲元年(七〇四)にその生家を寺に改め造ったのが家原寺である(『行基年譜』)。それはいま堺市(家原寺町)に残っており、寺名の家は生家の意で、原は文字通り平地をさすか、あるいは腹に通じ母方を示すと考えられる。
井上薫氏の『行基』にこう書かれている家原寺はブロック塀のなかにはいってみると、もちろん千三百年近くにもなる昔のおもかげなどいまあるはずはなく、ただの寺、それもなにか雑然として、荒れた感じの寺だった。それでも「日本三体智恵文殊」の名にふさわしく、ちょうど入学シーズンでもあったので、日暮れだったにもかかわらず、若い青少年たちの群れているのが目をひいた。
ほとんどが中・高校生といったものたちで、彼らは本堂の張出し縁のうえを何度も、何度もぐるぐるとまわっている。なかには親子づれもいて、その親ともども一所懸命まわっては本堂の前にもどり、そのたびまた手を合わせて拝んでいる。
そこの「智恵文珠」に祈れば「試験に合格する」ということらしかったが、本堂にそうして祈っただけでは「まだまだ危ない」ということなのか、境内にある別の堂にまで、熱心に両手を合わせて拝んでいる母娘の姿も見えた。
なんとも頬笑ましいような、きびしい姿で、私たちも本堂に上がって、そこを一周してみた。堂の壁といわず、どこもびっしりと落書きだらけである。落書きというより、それもまたきびしいもので、「今年こそは必ず……」といった文字もみえる。それには青少年たちの、思いつめた願いと叫びとがこめられていた。
「一世の大才であった行基さんよ、願わくば彼らを合格させてやりたまえ」と、私も思わずそんな心持ちになったものだったが、しかしこればかりは、どうしようもないものだった。
「ずいぶんにぎやかですね」と、私は本堂のそこにいた、いかにも入道といった感じの住職に話しかけてみた。
「いやあもう、みんな一所懸命で、どうしようもありませんわ。よごされようがどうしようが、こうして放っておくんですわい」
行基は一級の文化人
私たちはその住職から『家原寺略縁起』などをもらい、本堂からは右手に見える堂のほうへ行ってみた。そこに、「行基菩薩誕生塚」とした細長い石碑が建っていた。「誕生塚」というのはどういうものかよくわからないが、行基の墓なら、それは生駒山東陵の竹林寺にある。
その「誕生塚」なるものも手入れをされないままで荒れていたが、しかしさすがに、『家原寺略縁起』にもあるように、この寺には行基にまつわる寺宝が多い。なかでももっとも有名なのは、重要文化財となっていて、奈良の国立博物館にあずけている『行基菩薩行状絵伝』である。さきほどからみている堺市教育委員会編『堺の文化財』によると、それはこういうものとなっている。
堺の歴史上の人物で、最初に出てくる一級の文化人に行基がいます。彼は七世紀から八世紀へかけて、伝道と社会事業に特異な活躍をしたことで有名ですが、その行基の家系や生い立ちと、生涯の活躍を描いたのがこの絵伝なのです。このように絵巻物の中でも宗教に関係ある人の伝記などをとくに「絵伝」と呼んでいます。全三幅に分けられたこの絵伝は、……一幅ごとに上部一三〇字位の解説をつけたほかは、各場景の説明だけを記すという方法をとっています。
第一幅目は、行基等帰化人(父は高志才智、母は蜂田古爾比売といい、いずれも帰化人氏族の出身)の祖といわれる百済の博士王仁の家門の由緒を描き、第二、第三幅は行基の活動と、菅原寺における入寂(死)までを二〇近くの場景に描き分けています。この絵伝の作者は寺伝によれば、巨勢金岡だということですが、金岡は九世紀末(仁和・寛平のころ)に活躍した画人で、大陸から移入された唐絵を日本流に消化し、いわゆる大和絵に発展させた第一の功労者といわれています。しかしその生年・没年の明らかでないように、金岡の作品と決定づけられる何物も残されていないのが残念です。従五位下采女正という高い位にまでついた彼は多くのエピソードを残していますが、中でも宮中の障子に描いた馬が、夜毎に脱け出して萩を食った話は有名です。
さて、話を行基にもどしますと、天智天皇の七年(六六八年)に生まれた彼は一五歳のときに僧門に入り、八二歳で死ぬまで、当時の僧としてはまことにユニークな大衆伝道と民衆救済の生涯を綴りました。この間、養老元年には彼の民衆の中での力を恐れた宮廷からは、「行基弾圧の詔勅」が出されたり、後には一転して聖武帝の東大寺大仏鋳造に協力したり、まことに波乱に富んだ生涯だったということができます。その彼が生前に建てた寺の数は、俗に行基の四九院といわれていますが、行基三六歳の年にその生家を改めて寺としたのが、今の家原寺です。そのほか多くの事蹟がこの絵伝に収められていますが、後に出てくる土塔の情景などは、貴重な資料となったことを記しておきましょう。
民衆と共に生きた行基
「後に出てくる土塔」とはどういうものか。それは大野寺の土塔のことで、私も家原寺をみたのち、次回にまた和泉の堺をたずねたとき、堺市教育委員会社会教育課の奥田豊氏といっしょに行ってみているが、ついでに『堺の文化財』のそれをここに引いておくことにする。
「凡(およ)そ諸(もろもろ)の僧徒は浮游(ふいう)せしめること勿(なか)れ、(中略)方今(まさにいま)、小僧行基并(なら)びに弟子ら、(中略)朋党を合せ構へ、指臂(ひじ)を焚(や)き剥(は)ぎ、歴門(かどごと)に仮説(いつはりと)きて強いて余物を乞ひ、詐(いつは)りて聖道と称し百姓を妖惑す(後略)」――養老元年(七一七年)四月二三日、当時宮廷にあって権力をほしいままにしていた藤原不比等らは、農民をはじめいわゆる庶民の間に大きく根を張りつつあった行基の勢力を減殺しようとして、この有名な「行基弾圧の詔勅」を下しました。
父、母ともに帰化人系の家系に生まれた行基は、一五歳で薬師寺の僧門に入り法相宗の経典を修め、後、彼の宗教生活に最も大きな影響を与えた師の道昭とともに全国をめぐりました。民間伝道と社会事業という全く新らしい活動に生きた師の業績をその死後に引継いだ行基は、生存中に四九院と呼ばれる多くの寺院を建て、農民の困窮を見ては堤を築き、橋を架け、池を掘っては水を通ずるなどして、その伝道と活動によって民間に絶大な信仰を得たのです。
当時の寺は官立の寺院であり、僧は寺院にあって三宝を護り、国家の安泰を祈ることが本務であり、寺に寂居することが本来とされていたのですから、行基の行動とその背景の民衆の支持は、不比等らにとってはまさに破天荒といえる行状だったのでしょう。
しかしこの弾圧にも屈せず、彼の活動はやみませんでした。行基のとどまるところに皆道場が建ち、工事をすれば人々皆集まり合い、数日にして工事が成功したと、続紀〈『続日本紀』のこと=金〉という古い書物には記されていますが、その中でも和泉国に彼の寺は数多くあり、さらにその中でも特異な存在ともいうべきものに大野寺と土塔があります。土塔山大野寺ともいい、真言宗に属するこの寺は今は僅かに本堂のみを遺していますが、道を隔てて方錐形の小山があります。
この辺りの地名となった土塔がこれです。一辺が五四メートル余の土山は方形の古墳かともいわれましたが、先に記しました行基絵伝にもみられますように、実は大野寺の塔婆として築かれたものでした。方錐形の頂部を平坦に截り、露盤と宝珠を置いたこの塔は一三重からなり、ブロック様の土片を重ねて、一段毎に瓦を入れていたのです。しかもその瓦は、行基の大野寺建立に協力し布施した名もない庶民達によって寄進され、それぞれの人名をへら書きにしたものが多く出土し、土塔の人名瓦として世に有名になりましたが、このことは民衆の間に根強く力を張っていた彼の業績を示すものです。農民とともに過した行基らしい、土のにおいのする貴重な遺跡だということができましょう。
いささか引用が長すぎ、あいだにはほかのそれとちょっと重複した部分もあるが、いわば行基は当時における反体制的人物で、社会主義的な民間伝道者だったのである。今日にあっては反体制的であることも、また社会主義的であることもそう大してむつかしいことではない。が、当時としては、これはまさに破天荒なことであったにちがいない。
この師にしてこの弟子あり
いまさっきいったように、私は堺市の土塔町にあるこの大野寺土塔も行ってみたが、遠くからちらっと見たところでは、写真で見たエジプトのピラミッドを小さくしたような、そんなちょっと異様な印象のものだった。だが、これこそは行基が民衆のなかで築き上げた一つの記念塔だったのである。
有名な法隆寺の五重塔にしろ、またあの美しい「凍れる音楽」といわれた薬師寺の三重塔にしろ、どれも民衆の力によらないものは一つとしてありはしない。しかしながら、それは国家といわれるもの、それを支配した貴族・官人のためのものであって、決して彼ら民衆のものではなかった。
そのとき行基は民衆といっしょになって、いかにも民衆のそれらしい、素朴なこの土塔をつくったのである。はじめて自分たちのものとしてのそれをつくるときの、またつくり上げたときの、それこそいまは名も知れない民衆の表情や心を想像すると、はじめはちょっと異様な印象のものだったこの土塔に強い親しみが感じられ、私はその前からなかなか立ち去りがたいのをおぼえたものだった。
行基のそういった業績は、ほかにもいろいろとあって、たとえば当時の交通労働者だった運脚夫(うんきやくふ)や役民(えきみん)の救済所だった「お布施屋」というのもそれの一つであった。このようなことについてもっとくわしく知りたい向きには、井上薫氏の『行基』ほかなどによってもらうとして、私がここでちょっとふれておきたいのは、行基の師であった道昭のことである。
『堺の文化財』からの引用にあったように、行基の師のこの道昭という僧がまた偉い人だった。道昭はこれも百済系渡来人船氏族から出たもので、生まれたのは六二九年、現在の大阪市東住吉区瓜破(うりわり)だった。ここにはいまも道昭地というところがあり、またおなじ船氏族から出た彼の一族により「船戸講」というのがつくられて、明治維新のころまでつづいていたとのことであるが、そして彼は中国・唐の留学から帰ったのちは、大和の飛鳥寺にいたものだった。
『堺の文化財』は行基が「一五歳で薬師寺の僧門に入り」としているのだが、井上薫氏の『行基』はそれをこの道昭のいた飛鳥寺としている。どちらにせよ、道昭は行基の師であったことにまちがいなく、道昭について井上氏は『行基』のなかにこう書いている。
行基が出家したとき、道昭は五十四歳で、飛鳥寺の禅院にあって弟子を養成していたことは、「天下の行業(ぎようごう)の徒、和尚に従って禅を学ぶ」と記されており、社会事業につとめ、「天下に周遊して路傍に井を穿(うが)ち、諸(もろもろ)の津の済(わたり)の処に船を儲け、橋を造る。乃ち山背(やましろ)の国の宇治橋は和尚の創造する所のものなり」と伝えられているが(『続紀』道昭伝)、その造船架橋の社会事業的活動には、船氏が船に関係していた技術が生かされていることに注目される。
すなわち行基の社会事業もまた、その師であった道昭のそれを受けつぎ、発展させたものだったのである。まさにこの師にしてこの弟子ありというわけだったが、それからまた道昭は七〇〇年に七十二歳で死ぬと、彼はその遺言により、大和・飛鳥の粟原ではじめて火葬にされた。あとでみる陶器千塚のそれを別とすれば、これが日本における火葬のはじめで、行基もまた師とおなじ遺言をのこし、火葬となったことはいうまでもない。
須恵器窯跡とその古墳
須恵器をつくった工人たち
堺を中心とする和泉をたずねたのは、つごう三度だった。そして私は三度目に来たとき、大野寺の土塔を見たのであるが、和泉ということになれば、いまみた行基やその遺跡もだけれども、しかしなんといってもいちばん重要なのは、百舌鳥古墳群をはじめとする古墳や須恵器の古窯跡であるにちがいない。
古墳のほうは、あとの河内でもまたみることになるからともかくとして、この古墳と密接な関係にある須恵器とその古窯跡については、さきにちょっとみたけれども、ここでもう少しくわしくみておかなくてはならない。たとえば、いまみた大野寺の土塔にしても、森浩一氏の調査研究「大野寺の土塔と人名瓦について」をみると、こういうことが書かれている。
土塔の南方の傾斜面には須恵器の窯跡が露出している。おそらく大阪府泉北郡泉ケ丘町や和泉市一帯に分布する須恵器窯趾群に属しており、傾斜面を利用したのぼり窯が数基埋没していると推定される。この須恵器窯で製作された須恵器の形式は第一式、あるいは第二式の古いものであって、六世紀の初頭に(勿論土塔建立よりも以前)この地には土器を製作する工人が居住していたのであった。このことは、大野寺の社会的環境を理解するうえに必要なことである。
つまりその大野寺土塔にしても、それら須恵器の古窯で働いていた工人たちと無関係のものではなかったというのである。行基がそのなかへはいって行った民衆は当時の農民ばかりでなく、一方ではまたこれら労働者・工人でもあったというわけであるが、それほどにもまた、この和泉と須恵器の古窯跡群とは重要な関係にあったのである。
いったい、さきにもみたように朝鮮土器といわれ、また新羅焼、行基焼ともいわれた朝鮮渡来の須恵器と古墳、というより、日本のその古墳時代とこれはどういう関係にあったのであろうか。私はそれを、昨一九七〇年の十二月に出た森浩一氏の『古墳』によってみておきたいと思う。
また引用が少し長くなるが、しかしこれは私がとやかくいうよりも確かなものであるからばかりではない。専門の考古学者によるいちばん最新の知見としても、一読の必要があるものと思われるからである。
日本の陶質土器の技術的な基礎は須恵器であろう。古墳前期には赤焼の土師器が日常土器として、また祭祀や葬儀にも使われていたが、大阪府南部の丘陵地帯で突然大陸系の硬質の陶質土器の生産が開始された。これが陶器(すえき)である。学術用語としては、陶器(とうき)と混乱をさけ須恵器の字をあてている。
須恵器については、雄略紀七年の条に、百済から渡来した各種の工人にまじって、新(いまきの) 漢(あやの) 陶(すえつくり) 部(べの) 高(こう) 貴(き)の名前がある。陶部(すえつくりべ)とは須恵器の工人と推定されるところから、この年を須恵器生産の開始とみなす研究者が多かった。
たしかに、須恵器が古墳の副葬品として普及するのは、中期の末から後期になって、つまり雄略のころであるが、それはこのころまで須恵器が副葬品としては必要ではなかったからにすぎない。
集落遺跡で発掘されたり、あるいは、古墳の墳丘や、時には埴輪円筒の中へ置かれた須恵器は、副葬品ではなく、葬送儀礼に使ったのであろうが、最近では中期古墳でいくつも検出されている。仁徳陵古墳と履中陵古墳では、いずれも造出(つくりだ)しに古式の須恵器が使われている。これらの須恵器は、丘陵に傾斜を利用した細長い窖窯(あながま)を構築して、還元焔で焼上げているから、質は硬く、灰色かねずみ色を呈している。
ところが、応神陵にたてられている埴輪は、もちろんその一部であろうが、須恵質のものがあって、すでに窖窯(あながま)技術が埴輪製作にも応用されていたと考えられる。中期古墳は、すでに須恵器の時代となっていたのである。数年前、奈良の柳本古墳群のある天皇陵で、埴輪円塔の底に置かれた須恵器の(はぞう)が発掘されている。この古墳は典型的な前期の前方後円墳であり、またそのも古い型式に属するから、もしこの須恵器が後の時代の混入物でないなら、須恵器の年代をひきあげるか、逆に大和の前期古墳の存続期間のある部分を、河内、和泉の五世紀型古墳と併存させる必要が生じた。
ちなみにいえば、ここにいわれている「雄略紀」とは『日本書紀』におけるそれをさしたもので、この雄略帝は応神帝より六番目、二十一代目の天皇であったことになっている。したがってこの時期に須恵器の生産が開始されたとするのは、最近の考古学上の知見とは合わないもので、やはり須恵器をつくりだした工人たちは、古墳時代をつくりだした豪族とともに、すなわち、最初からそれに随伴して来たものたちだったのである。
だれが須恵器を使ったか
森浩一氏の『古墳』は和泉の古窯跡群について、そのことをさらに次のように書きすすめている。ここではまた別なある種の口ごもりのようなものがみられるが、慎重な学者として、これはやむをえないというものであろう。
古墳中期の須恵器生産は、大阪府南部の丘陵地帯で大規模におこなわれた。五世紀から八世紀ごろまでの窯跡が約千個所は発見されているから、その盛んな状況が推察される。ところが、この地帯がとりわけ窯業に適した土地でないことは、律令制の弛緩にともなって、九世紀になると急激におとろえて、中世以降の窯業が、瀬戸(せと)・常滑(とこなめ)・備前・信楽(しがらき)などに移っていくことからも察知できる。
大阪府南部の生産地帯は、大部分が堺市、一部が和泉市や狭山町にひろがっているが、初期の窯跡は、いずれも和泉国大鳥郡、八世紀以前は河内国茅渟県(ちぬのあがた)とよばれた地域内にある。
私は研究を進める過程で、大阪府南部窯跡群と仮称したが、今では分布範囲もほぼ明確になってきたので、仮称を略して阪南古窯跡群とよぶことにする。最近、この窯跡群にたいして陶邑(すえむら)古窯跡群とよぶ人があるようだが、陶邑というのは、崇神紀に大田田根子説話ででているにすぎず、この広大な、また数世紀にわたる窯跡群の総称とすることはできない。神話と歴史との混同をさける考古学に、まぎらわしい用語をもちこむことは、暗に『日本書紀』を文献批判ぬきで肯定していることになるので、私には使えない。
阪南古窯跡群が、百舌鳥・古市の二大古墳群の南方に位置することは、この古墳群に象徴される五世紀の国家的勢力が土器生産を政治機構として掌握していたのであろう。ここでの生産物は、たんに中央の支配者の需要を満(みた)すだけではなく、地方の大小の豪族にも与えられ、それが国家の政治体制を維持する一助になったことは、全国各地に分布する古式須恵器の存在からも推測できる。
さらに興味深いのは、一体須恵器生産とは、当時の中央政権の朝鮮半島への進出に伴って摂取された文化現象なのか、それとも支配者そのものが渡来者であるため、彼ら特有の日常土器を製作する必要から開始された政治現象かということである。これは難解なことである。教科書流にいえば、大陸文化の摂取ですべては片が付くのだが、もし土器の製作技術だけの摂取であれば、当時の日本で普通に使っていた土師器の形態を新技術で作るはずであろう。
ところが須恵器の大部分は、たとえばのように土師器になかった形態、別の表現をすると、異なった日常生活でないと使わない形態である。もう一つ例をあげると、須恵器には、穀物を蒸(む)すために必要な甑(こしき)がその最初から製作されているが、これは古墳前期の土師器にはなかったのである。むしろ、六世紀ごろから、甑が消耗的性格がつよいため、土師器で製作されるようになっている。どうも、須恵器生産開始の諸現象には、大陸からの文化の摂取では説明しきれない面がある。
「摂取では説明しきれない面がある」とは、これまたずいぶん慎重にすぎるというものであろうが、いずれにせよ、須恵器とは日本の古代史上、こういう重大な意義をもったものであった。この須恵器は和泉と限らず、のちには日本のほとんど全土にひろがったものであるが、以上をみても明らかなように、その最大の生産地がこの和泉の地だったのである。
失われゆく遺跡
だが、惜しいことに、千個所もあったというそれら古窯跡は、いまはほとんどみな潰(つぶ)されてしまって、ないという。私にはそれがとても信じられなかったので、堺市教育委員会教育課の奥田豊氏に向かい、詰問するように言ったものだった。
「そんなばかな――。じゃ、一つも残ってないというんですか」
「いや、あることはあります。泉北ニュータウンのところに、一つ古いのがあります」
「それは、どの辺ですか」
なんだかちょっと妙な問答だったが、二度目に来たときのことで、私はその二度目のときそこへ行ってみた。しかしそれはあとまわしとして、三度目に来て大野寺の土塔をみてからは、ついで私たちはいまいった堺市教育委員会の奥田さんといっしょに、これも須恵器と関係の深い陶器千塚から、桜井神社へとまわった。
和泉では古墳は別に珍しくもないが、しかし堺市の辻之にあるこの陶器千塚の古墳は、ちょっとかわったものである。これも私があれこれいうより、堺市教育委員会編『堺の文化財』でみたほうが早い。
この古墳の所在する付近一帯は陶器千塚と呼ばれ、元は名のように千塚と称せられる程数多くの塚があったと思われます。現在は数基しか残っていませんが、直径一五メートル前後の円墳で、五世紀末から六世紀の間にかけて集中的に築造されたものと思われます。中でも御坊山古墳は前方後円墳の形態をもち、西面して全長三〇メートル、高さ約四メートルで、千塚古墳群の中で最も大きく、この付近一帯の首長者の墓と思われます。
この他の古墳で特記しなければならないのは、御坊山古墳の近くにあった小円墳一基で、これは学界を驚かせたわが国最初に発見されたカマド塚で、埋葬施設は火葬の窯であります。つまり、須恵器の生産窯と同じ構造を杉の丸太で作り、屍を内部に安置し、焚口で燃料をもやして、火葬にする方法であります。日本の火葬は古典の続日本紀によれば、僧道昭が八世紀の初めに大和で行なわれたのが最初になっていますが、それよりも一〇〇年以上も古く、陶器千塚は須恵器製作工人と関係のある古墳群で、このように火葬と墳墓という合理的な施設は、須恵器窯を応用したことは確実で、ただ、火葬の風習が自生したものか、それともすでに大陸より仏教が受け入れられ、それに伴なうものであるかは明瞭に示すことができません。しかし、前者の可能性が強かったものと考えられます。
陶器千塚とか千塚古墳群とはいっても、いまはなにもなかった。樹木が茂ったままの御坊山古墳一つだけ、ぽつりと残されているきりだった。が、それもそばぎりぎりまで某学校の敷地が迫ってきていて、じょじょに蚕食されつつあった。
「須恵器の工人と関係のある古墳とはいっても、その親方、首長といったもののそれでしょうが、しかしあちこちにたくさんあるなになに陵とはまたちがって、貴重なもののはずですから、せめてこれ一つだけでもなんとかして残してほしいものです」
いずれはもうなくなってしまうということでか、ほとんど手入れもされないまま放置されている御坊山古墳を見わたしながら、私は奥田さんに向かって言った。
「ええ、そうしたいものですね」
大学では考古学をやり、堺市教育委員会の社会教育課へ来たばかりだという若い奥田さんも、目を細めるようにしてその古墳を見つめていた。
「そうしたいものですね、じゃありませんよ。堺市は重工業、軽工業とも大いに発展しているし、それだけまた予算も大きいわけだから、このような古墳くらい……」
だが、私がそんなことを、しかも奥田さんに向かって言ったところで仕方なかった。奥田さんに聞いたところによると、堺市は人口六十万以上、いまでは全国十一番目の都市となっていたが、しかしそれだからといって、奥田さんたちのほうにその予算がたくさんまわってくるとは限らなかった。
桜井神社にて
陶器千塚の近くにあった堺市片蔵の桜井神社は、国宝となっている拝殿が珍しかった。拝殿は鎌倉時代初期に建てられたものとのことだったが、かんたんにいえば朝鮮にも日本にもある長屋門のようなそれで、五間ある間口の中央一間が吹放しとなっている、いわゆる割り拝殿なるものだった。
吹放しのところに立ってみると、化粧板のない屋根裏のままの天井だった。それも朝鮮家屋の構造に似ていて、私にはなつかしいものに思われたが、ところで、この神社の祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后となっていた。
そういうことは、別に珍しいことでもなんでもなかった。しかし私は、宮司の井守国俊氏からその祭神をしるした『桜井神社の由緒略記』をもらったついでに、さっきから何度も引いている『堺の文化財』にある次のくだりを読んで聞かせ、これについてはどう思うかときいてみた。
この神社の創建は遠い悠久の昔にあり、延喜式という平安時代初期の法令集の神名帳にも出ています。現祭神は神功皇后と応神・仲哀両天皇を合わせ祭っていますが、古くは桜井氏の祖先を祭った、いわゆる氏神だったと思われます。このあたり一帯の山々には、日本最古最大の規模といわれる古代須恵器窯跡が散在し、これらの技術を大陸から移入した帰化氏族桜井氏の祖神を祭ったのでしょう。
「いや、ちがいます」とすぐに老宮司は手を振って、それを否定した。「この神社は、府社昇格のときに、わたしの祖父が府にだした届けにもはっきりと書かれていますが、祭神は――」
「応神天皇ほか、ですね」
「そうです。現にこの付近には桜井を名乗るものがたくさんいますから……」
「それはみな日本人で、いわゆる帰化氏族の血を引くものではない」
「そうです。そうです」
私は、つまらないことをきいたりしたものだった。
須恵器のそれと関係あるものとしては、ほかにまた堺市上之に、もとは陶器大宮ともいった陶荒田(すえあらた)神社があったが、もう時間がなかった。これもいまの祭神は高(たか) 魂(みたまの) 命(みこと)、 別根命(わけねのみこと)などということになっている。
伽羅橋と高石神社
飛び入りの情報
話は前後するが、和泉(堺市ほか)をたずねるため、二度目に大阪へ行ったときのことだった。このときも大阪へ来ていた李哲といっしょになり、私と鄭貴文とは、ある友人から、堺のさきの泉大津市に住む姜鳳秀(ガンボンス)という人を紹介されることになった。
紹介されることになったといっても、それになにか特別なことがあるというのではなく、いわば姜さんも大阪在住の朝鮮知識人のひとりというわけだった。そして紹介された場所が大阪市のある小さな酒場で、ふと気がついてみると、その酒場の屋号が「伽羅」というのだった。
「伽羅、ね」
私は、その文字が刷り込まれているマッチ箱を手にとり、ひとりつぶやくようにした。それは沈香の伽羅(きやら)であり、また伽羅細工などの伽羅でもあったが、しかし一方ではまた、古代南部朝鮮の国名である加羅(から)(加耶)でもあったはずだからである。
「ああ、その伽羅はですね」と、向かいに坐っていた姜さんが言った。「わたしの近くに伽羅、伽羅橋というところがあるのですが、土地の人たちの話では、そこは古代に朝鮮から来たものたちが住んだところだといわれています。なんでも機織や焼きものをしていたものたちがいたところとか、南海電車の伽羅橋駅というところがそれです」
「ほう、そうですか。そんな名の駅もあるのですか」
私としては、はじめて聞くことだった。それからさらにまた話はすすみ、泉大津の一つ手前にある高石市には高志氏族の祖、すなわち王仁を祭る高石神社があり、しかもその神社の宮司は姜さんの知り合いでもあるとのことだった。
こうなると、私の日程はまた変わらないわけにはいかない。和泉といっても、私は昔から有名な堺市のほかはあまり考えに入れていなかったのだったが、しかし知らなかったのならともかく、こうして知ったからにはそこまで足を運んでみなくてはならない。
高石神社の宮司も紹介してくれるという姜さんのつごうもあったから、私たちは翌日さっそくその高石神杜のある高石市へ行ってみることにした。いつものように鄭貴文のクルマで、李哲もいっしょだった。
八百よろずの神々
途中、私たちはまず、さきに堺市教育委員会社会教育課の奥田豊氏から教えられていた、泉北ニュータウンなるところにあるという古い須恵器の窯跡と、その近くにある多治速比売(たじはやひめ)神社から見て行くことにした。泉北ニュータウンというから、和泉の北方であることにまちがいはなかったが、例によってどこからどういうふうに行くのかはよくわからない。私たちは道をきいてはクルマをあっちへ走らせ、こっちへ走らせたりして、やっとそれらしいところへたどりつくことができた。
巨大な団地だった。日本の経済力はいったいどういうふうに発展しているのか、ともかくも、目をみはるような巨大な高層団地がずらりと立ちならんでいる。一帯は丘陵地だったところで、その団地と団地とのあいだの切通しの下を新しい道路が走っている。
そして一方のこちら側の台地のうえに多治速比売神社があって、下を通っている道路の向こうの丘の上に、かろうじて残されている須恵器の窯跡が一つ見えた。奥田さんから教えられたとおりだったが、多治速比売神社のあるところは、いまはきれいな公園になっていた。
神社自身も巨大な団地のおかげで結婚式なども多いらしく、きれいさっぱりとした建物があちこちに増築されていた。社務所でもらった『多治速比売神社(荒山宮)案内記』にこうある。
主祭神は多治速比売命(たじはやひめのみこと)で、女神として安産・縁結び・厄除けの守護神として厚く崇敬されている。
さらに権現の三体も合祀され、特に道真公は学問の神「天神様」として毎月二十五日は参拝者列をつくると当社蔵の天神縁起に記されている。また本殿の左右に鎮座する坂上社・鴨田社はいずれも式内社で、明治末期に平井村・大平寺村から合祀された古社である。
また境内末社に住吉社・春日社・大神(み わ)社・熊野社・白山社・福石神・稲荷社と和田村・伏尾村から合祀された八幡社、大庭村から合祀になった弁天社などの八百よろずの神々が鎮座され、合わせて荒山宮とよばれている。
これでみるとまさに「八百よろずの神々」で、多治速比売神社というのはこの辺の中心的なそれであったことがわかるとともに、それにしても、「合祀」以前にはなんと神社というものが多かったことか、とも思わないではいられない。同『――案内記』にはつづけてまた、こうのべられている。
なお、昭和三十八年に泉北ニュータウン造成計画により当社も区域内に入り、荒山公園の中心として緑の山に囲まれた由緒深き景勝の地となり、春は桜・山つつじ、夏は青葉に山ほととぎす、秋は紅葉と池畔に映る名月、冬は木々に積る雪景色と四季折々の眺め言わんことなく、遠く望めば西はちぬの海に浮ぶ淡路島や六甲、東に金剛・葛城の連峰、近くはニュータウンの壮大な姿が展開され、近代的都市の中に一五〇〇年前の窯跡あり、池あり、緑地あり、自然と人工の美を兼備する一大楽園である。この由緒ある当神社のご神威をさらに発揚すべく、昭和四十年末より三ヵ年にわたり巨額の費用を以て拝殿・参集殿・社務所神館が大改築せられ、約二万三千平方メートル(約七千坪)の神域の中に新旧両者の美点を統合された姿が見られるに至った。
私たちが行った日は、晴れてはいたけれども、残念ながらそちらのほうは曇っていて、「遠く望めば西はちぬの海に浮ぶ淡路島や六甲」は見えなかった。しかしこれはなかなか大へんな名文で、神社もまた、なにやらわけのわからない現代とともに生きている姿がよくうかがえる。
わずかに残る窯跡
ところで、この多治速比売神社のもとの姿というか、その最初の姿はどういうものであったろうか。堺市教育委員会編『堺の文化財』によると、それはこうなっている。
堺市の南部丘陵といえば、やがては人口一八万人余の大住宅地が形成されるという泉北丘陵の入口に近く、その頂きにそびえ立つ屋根は俗に荒山の宮といわれるこの神社の本殿なのです。この辺りから桜井神社の近く西は栂(つが)の丘陵にかけては、五〇〇余基の古代窯跡や五〇基以上もの古墳群があります。恐らく遠い古(いにし)えから先進的な技術者達が多く住み、栄えた集落があったことが想像されます。
つづけて同『堺の文化財』は、国の重要文化財となっているこの神社の本殿についてのべたあと、さらにまたこうのべている。
この神社の祭神は多治速比売で、素戔嗚尊、菅原道真を合わせ祀っています。祭神の多治速比売という方は日本武尊の后で、日本武尊が東征の時、焼津の賊を討って浦賀水道を渡ろうとされると、土地の海神がこれを遮り舟が進めなかったので、后は水の上に皮畳八重、菅畳八重を重ねて祈りながら海中に入り、人身御供となってこれをやわらげたと古事記には書いています。東国の海に、愛しい尊のために命を絶たれた美しい后が、何故丘の上に祭られたかは知る由もありません。
『堺の文化財』この部分の筆者は、なかなかしゃれた書き方をしたものである。つまり、われわれ読むものにたいして、大いに想像力を働かすように、とうながしているのである。
だが、われわれは想像力を大いに働かすまでもない。筆者自身さきに、すでにこう書いている。「この辺りから桜井神社の近く西は栂(つが)の丘陵にかけては、五〇〇余基の古代窯跡や五〇基以上もの古墳群があります。恐らく遠い古(いにし)えから先進的な技術者達が多く住み、栄えた集落があったことが想像されます」
さきにみている桜井神社もそうだったように、現在の祭神はどうであれ、これもそれらのものたちの祖先を祭ったものであったにちがいなかったと思う。もちろん「五〇〇余基の窯跡」は、いまはみな住宅団地の下敷きとなってしまっているが、しかしその一つだけはまだ、団地の高層住宅を背後にした向かいの丘の上にあるのが見える。
私たちは多治速比売神社のあるこちら側の丘からおり、下を走っている道路を横切って、その窯跡へ登ってみた。それらの窯跡は全部つぶしてしまったという申し訳からか、一つあるそこまでは新たにきれいな道がつけられ、粗末なものではあったけれども、窯跡の上には上屋がつくられていた。
窯跡とはいっても、いまはただの穴ぼこのようなものにしかすぎなかった。きれいな道をつけられたのがかえってわるかったらしく、子どもたちがそこを遊び場にしているものとみえ、窯穴のなかはいろんなゴミが打ちすてられたままになっているばかりか、壁土もあちこち崩されている。要するに、その窯跡にしても、余命はもういくばくもないというわけだった。
私はなんとなくそんな気になって、そこらのゴミを一隅に寄せて片づけたが、しかしそんなことをしたところで、どうなるというものではなかった。一時的な気休め、というより、それは私のセンチメンタリズムというものにすぎなかった。
窯からおりて気がついてみると、丘の下の右手のところにひとつらなりのブロック長屋があって、そこは各社の新聞販売店となっていた。各新聞販売店がそうして呉越同舟となっているのも、泉北ニュータウンという大団地を控えているかららしかったが、私たちはその販売店の一つから電話をかりて泉大津の姜さんと連絡をとり、そこからまっすぐ高石へ向かった。
王仁を祭る高石神社
私たちは高石まで出向いていてくれた姜さんと落ち合い、さきにまず伽羅橋からみることにした。みるとはいっても、いまはただ伽羅橋という鉄道の駅名が残っているだけで、別にこれといったものがあるわけではなかった。
だから、私たちはその伽羅橋駅や、住宅のぎっしりと詰まったその辺を歩いて、「ああ、ここがそうだったのか」と思ってみるよりほかなかった。姜さんが高石市から借りておいてくれた、同市教育委員会編『高石市に関する文献集』をみるとこうなっている。
本町羽衣領の芦田川に架せる旧伽羅橋は、当時伽羅国人の日本を頼って来た者此の附近に居住し此の橋を造った事に依り、国名をそのまま橋の名称としたのである。同国人の居住は其の後、百済人移住帰化したものと同様、海運の便良き地を選んで卜定したのであろう。
やはり伽羅は加羅(加耶)であったわけであるが、してみると、この加羅国人がここに渡って来て住みついたのは、次にみる高石神社の王仁系支族、すなわち百済からの渡来である高志氏族のそれよりもさきだったのであろうか。いずれにせよ、「旧伽羅橋」となっているからには、いまはもうその橋もないものらしかった。
電車の駅でみると伽羅橋の次は高師浜(たかしのはま)で、高石神社はその高師浜駅の近く、紀州街道の西側にあった。例によって現在の祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、天照大神、伊邪奈美命(いざなみのみこと)などとなっていたが、これはもと、さきにみた行基もそこから出た高志氏族の祖となっている王仁を祭ったものであった。
王仁を祭ったものはほかにも、たとえば堺市三国ケ丘町にある方違(かたたがえ)神社に合祀となっている向井神社がある。またその墓といわれるものもあちこちにいくつかあるが、この高石神社について、いまみた『高石市に関する文献集』にはこうある。
「高志連(たかしのむらじ)の祖先を祭神とすると伝えられる高石神社は、寧ろ博士王仁の廟祠だろうと考定して」うんぬん、と。それからまた、今井啓一氏の「京畿及近江国における蕃神ノ社について」(「蕃神」とはいやなことばだ)にあるこの「高石神社」の項をみると、
音にきく高師の浜の仇浪は かけじやそでのぬれもこそすれ
と『小倉百人一首』にある「高師」はもちろんのこと、「古志・高石」「高志・高脚は相通としてよかろう」となっている。
してみると、いま高石市となっている高石にしても、これはもとみな、王仁系の支族であったその高志氏からきたものだったのである。高脚でもあった高志とはもちろん、「高い志」などといったものではなかったはずである。
すると、これはどういうことだったのであろうか。朝鮮の檀君神話にみえる農耕神の名である「高矢(コシ)」と、これは関係ないのであろうか。さらにまた越前(福井県)、越中(富山県)、越後(新潟県)をいまでも「越(こし)・高志(こし)」といっているが、それとはどうなのであろうか。
神社はもとは墓だった?
私はそんなことを考えながら、高石神社の境内をあちこちぶらぶら歩いているうちに、あたりはもう日暮れてきていた。私たちは急いで、姜さんの経営する朝鮮料理店のある泉大津へ向かった。そこで私たちは、大阪府立泉大津高校教諭でもあった高石神社宮司の門林晃臣氏と会うことになっていた。
泉大津にも、もとは古代朝鮮の安那(あな)(安羅・安耶)から来た安那志、阿那師神社であった泉穴師神社や、『日本書紀』天武四年条にみえる「曾禰連韓犬(そねのむらじからいぬ)」という、そんな妙な名のものと関係ある曾禰神社があったが、もうすっかり暗くなってしまって、そこまで行ってみることはできなかった。それからまた、そのさきの泉佐野市には新羅系渡来氏族である日根造の祖神を祭った日根神社があり、さらにまた貝塚市はこれも新羅系のそれだった近義首(こぎのおびと)の近義郷のあったところだったが、それらはどれも省略ということにするよりほかなかった。
姜さんが約束したという時間に、勤めている高校からまっすぐやって来てくれた門林さんは、かなりの巨漢で、神社の宮司といったイメージとは相当にちがった感じの人だった。姜さんもてなしの焼肉など頬張りながら、私たちはいろいろなことを話したが、私には門林さんのこういったことばが強く印象に残った。
「だいたい神社というのはですな、もとはみな墓だったのではなかったかと、わたしは思っているのですよ」
いまみてきた『高石市に関する文献集』にある「高志連の祖先を祭神とすると伝えられる高石神社は、寧ろ博士王仁の廟祠だろうと考定して」というのとも対応したことばだったが、それは私の考えとも一致したものだった。
しかしながら、それだからといって、高石神社が「王仁の廟祠」だったかどうかということとは、これはまた別な問題である。つまり、それは王仁そのものの墓だったかどうかわからないということなのであるが、王仁および王仁系氏族のことについては、次の河内でまたみることになる。
河 内
白木と多々良
富田林へ向かう
さて、いよいよ河内であるが、おなじ大阪府下ではあっても、河内となると、どうしても「いよいよ」という感じになる。というのは、これまでみてきたことからもわかるように、山城の京都はもとより、大阪の摂津・和泉にしても、私のこの「旅」の対象となっている朝鮮文化遺跡はずいぶん濃密なものだった。
だが、これからたずねる河内となると、それはなおいっそう濃密なものとなるのである。一口でいえば、いったいどこから、どういうふうに手をつけていいかわからないくらいなのだ。
隣の大和とおなじように、河内へも私は何度となく行っている。いまこれを書きだしてからも、なおまた私は何度か行かなくてはならないはずであるが、いまから一ヵ月ちょっと前のことだった。
新緑の季節で、小原元と水野明善とがどちらからともなく、「またひとつ、大和へでも行ってみるか」というふうに言いだした。それは春か秋になるときまってだれかが言いだすことになっている、私たちのあいだでの定例行事みたいなものとなっていたが、そこへもってきて私はこういう「旅」をしているので、その私に異存があろうはずはなかった。
しかし、出発まぎわになって水野は急に用事ができてダメとなり、出かけたのは小原とふたりだった。いつものように大阪からはまた鄭貴文がいっしょになり、彼のクルマで大和は飛鳥、それから吉野をまわって一泊し、翌日は竹内(たけのうち)街道から穴虫峠越えで河内へはいった。
河内は、それまでにあまり行ったことのなかった南のほう、はじめてだった富田林へ向かっていた。まず、「富田林の錦織(にしごり)のあたりは百済人がかたまり住んでいたので百済郷とよばれた」と松田太郎氏の『阪神地方の歴史』にあるそれから、ということにしたのだった。「百済郷」といったところで、いまなおそれがあるわけではなかったが、しかしここにもそのあとを伝える錦織神社などがあった。
例によって、さきに市の教育委員会へ寄ってみようということになり、富田林市役所をたずねた。と、それまではだまっていた鄭貴文が急に思いだしたとかなんとか言って、私たちを市庁舎の二階にあった市史編集室へつれて行った。
すぐにわかったが、そこの編集室長となっていた祢酒(ねざけ)太郎氏と鄭貴文とは、前から知り合いだったのである。
「やあ、鄭さんじゃないですか。どうしましたか」と祢酒さんはすぐに椅子から立ち上がって、そこへはいって行った鄭貴文を迎えた。
これはあとで知ったが、祢酒さんの娘さんの京子さんが鄭もそれに加わっている文学団体の一員だったところから、それで父親の祢酒さんとも知り合っていたというわけだった。
ついで鄭貴文は、私と小原とを紹介したが、
「ああ、これはこれは。ようこそ――」ということで、祢酒さんは私たちもおなじように、そうして迎えてくれた。
つまり、かんたんにいえば祢酒さんは、文芸評論家としての小原元や私などの書いたものをとおして、その私たちのことも知っていてくれたのである。
こうなると、私の仕事はたいへんしやすくなるばかりか、なにより気が楽になる。しかも祢酒さんは、私たちとおなじく五十をちょっと出たところかとみえたが、全学連あたりの若い青年のような早口の人で、頭の回転もそれとおなじように早かった。
私はさっそくというわけで、錦織神社はどの辺にあるのだろうか、というふうにきいてみた。私は、そのことから話をひろげていこうとしたのだった。すると、
「いや、それよりですね」と、祢酒さんはすぐに受けて言った。「この隣の河南町に白木、多々良というところがあるのですが、そこからまずさきに行ってみませんか。ここには『河南町史』を書いた郷土史家で、わたしの小学校のころの先生がいます。いま電話をしてみますが、たぶん、家におられると思います」
「ほう、白木と多々良。そうですか」と言ったが、私は同時にまた一方では、「これはいったいどういうふうになっているのだ」と、思わないわけにいかなかった。
しかしもちろん、そのようにさきまわりをされることは、私にとって願ってもないことだった。私はこの「旅」をはじめてからかなりになり、ずいぶんいろいろな人と会ってきているが、この祢酒さんのような人に会ったのははじめてだった。
まったく、人間関係というものはわからないものだと思う。たまたま、同行の鄭貴文がその人をちょっと知っていたのでたずねただけだったのだが、私のこれから以後の河内めぐりは、この祢酒さんを軸として動くことになる。
地名の由来は?
では、というわけで、私たちはさっそくその河南町へ向かうことになった。もちろん、祢酒さんもいっしょだった。
河南町といっても私たちははじめてだったが、祢酒さんがいっしょだったので、通りがかりの人に道をきいたりすることもなかった。クルマを運転していた鄭貴文は別として、私たちはただその辺の風景などをながめていればよかった。
私はさいぜんから、南河内へはいるとともに気がついていたが、このあたりから見る二上山や葛城山、それとつづいている金剛山の風光がとてもよかった。私たちのクルマが進むにしたがって、その葛城山と金剛山がなおいっそう、目の前にぐんぐんと迫ってくる。
これまではたいてい向こう側の大和の飛鳥あたりから見ていたので、それらの山々をこんなにも近くに見るのは、私ははじめてのことだった。私たちのめざしていた河南町の白木は、その葛城山の麓だった。
ところで、白木といい多々良という、それはいったいどういうところなのか。これから行ったさきの河南町で手に入れることになった『河南町史』によって、それをここでちょっとみておくことにする。
古来、白木・長坂・今堂の三部落を総称して白木三郷という。その成立までにはそれぞれに歴史をもっているが、近世はじめ(十七世紀)から白木村として一つの村落になってきている。
住吉神社神代記の生駒神南備山(いこまかんなびさん)本紀に「河内国白木坂」の名が再三出ている。千数百年も昔のことであるが、白木の名はひろくこの地方の呼び名であったのかも知れない。
長坂の北部に多々良という字地があり、中世この地に勢力をもっていた多々良氏は朝鮮新羅(しらぎ)の王族が帰化したものであって、シラキ(白木)の名が、これから生れたという説もある。安永のころ(一七八〇頃)、今堂村から出た学僧白庸法師の小伝に「河内石川郡新羅(白木)に生まる……」とある。当時もこんな文字をつかった人があったのである。
前記多々良と呼ばれている地に、中世まで多々良村というのがあった。多々良千軒の古伝は架空の言ではないのである。森に包まれた神祠が西の台地にまつられ、一般に多々良ノ宮といった。長坂村が白山権現とあおぎ、明治の初めまでまつっていた。明治十三年の社寺明細帳には白木神社にうつしまつり、白山大神と改称している。
だいたい、そのもとは新羅だった白木、白城(しらぎ)というのは、ほかにも、日本のいたるところにある。白山権現、白山明神も同様であるが、多々良にしても、これまたあちこちにある。さきにみてきた山城の京都府田辺町にも多々羅があって、その祖神を祭ったものといわれる新宮神社があったが、九州の福岡や周防(山口県)の防府にも多々良浜があり、また九州の佐賀と長崎の県境には多良岳という有名な山がある。
この多々良(羅)、多良というのは、のち新羅ともなり百済ともなる古代南部朝鮮にあった加耶諸国のうちの多羅からきたものといわれ、また一説には、中国地方から関西にわたってまで勢威をふるった豪族大内氏の祖となった百済国聖明王の第三子だった琳聖太子が、日本へ渡来して多々良氏を称することになったことからきたものともいわれている。まず前者であるが、宇佐美稔氏の「朝鮮語源の日本地名」をみるとこうなっている。
六世紀のころの任那の地図を見ると、「多羅」がある。いまのナクトン(洛東)江流域の中ほどで、ジンジュ(晋州)からの支流が合する平野部、現在も米の産地であるが、六世紀早々から任那は衰微期に入り、百済、新羅の両国に次第に圧迫されて、国状は不安定であった。
当時、新羅は洛東江流域まで進出したが、国境近くにあって不安におびえた多羅附近の農民たちは、河の流れに乗ってプサン(釜山)に出て、対馬、壱岐を経て唐津に渡り、この「多良岳」の麓に安住の地を求め、ふる里を偲んで、こう名づけたのではあるまいか。有明湾に面した岳麓、佐賀県藤津郡に「太良町」がある。『肥前風土記』には「託羅郷」とあり、早くから開拓された農漁村で、畑作が主である。
次の、後者については、高柳光寿・竹内理三編『日本史辞典』「大内氏」に「南北朝から室町時代、山陽・山陰の西部一帯を支配した守護大名。姓は多々良氏。百済聖明王の第三子琳聖太子の子孫という」とあり、また渡辺三男氏の「琳聖太子の墳墓」によると、防府にある多々良浜とあわせてこう書かれている。
長くこの周防、さらに中国一帯に大きく勢威をはった大内氏は、推古天皇のころ、この多々良浜に上陸した百済聖明王の第三子琳聖太子に発すると称した。大内氏が、もと多々良氏を名のっていたのも、そこに由来する。
こうなると、多々良とはいっても、どっちがいったいどうなのかよくわからなくなるが、しかしながらただ一つはっきりしていることは、どちらにしろ、それが古代朝鮮に発しているということである。そしてそれが河内の河南町にもあって、しかもそれは新羅の白木とかさなったかたちになっているのだった。
古瓦をひろう
「ああ、いいところだな」と、その白木でクルマをおりるやいなや、小原元は両手を高くさしあげるようにして、その辺を見まわしながら言った。私も、まったく同感だった。あたりはビニールハウスなども見える畑と山で、それが夕映えのなかにひっそりとしずまっていた。
葛城の山腹をすぐそこにした小集落のなかの、そんな畑道に私たちはおり立ったわけだったが、道の一方には小さな流れがあって、清洌な水がそこで音をたてている。「井路」というものであることを、私たちはすぐに祢酒さんから教えられた。
と、その井路に沿った向こうの道から、毛糸で編んだ宗匠頭巾ようのものをかぶった老人がひとり、ちょっと不自由な足どりで杖をつきながらこちらへ向かってくる。祢酒さんが電話をしておいてくれた、『河南町史』の執筆者でもあった地方史家の林惣夫(ふさお)氏だった。
林さんは眼鏡の下の片方には白いガーゼをあてがっていて、一ヵ月ほどまえ目の手術をして退院したばかりだったにもかかわらず、わざわざ出て来てくれたのだった。私たちは立ったままであいさつをかわし、さっそくその林さんについて、多々良宮ともいったという白木神社のあったところへ向かった。
途中、林さんは歩きながら、道のかたわらに白くひろがっているビニールハウスなど指さし、「これはみなナスです」と、そんなことまで私たちに説明してくれた。「この辺のナスは白木ナスといいましてな、中央市場でもなかなか有名なものになっております」
「へえ、ナスまで新羅(白木)ですか」
小原元は私のほうをちらっとみながら、そう言って笑った。
小原がそういうふうに笑ったことには、ある意味がかかっていた。彼は日本の中に、私のいう朝鮮文化遺跡があまり多いのにいささかウンザリし、そのくせこうしていっしょに歩いたり、参考書などを知らせてくれたりしながらも、ときどき妙なことを言っては、ひやかし半分の反論をしたりしていたのだった。
鶯などが飛びかったりしている藪のあいだの坂道を下ると、山麓と向かい合った谷間になっていて、こちら側の台地は段々畑と田んぼだった。農家の人たちが芋土屋(いもどや)というところから貯えておいた芋を掘りだしているのも珍しい光景だったが、畔道を歩いてその農家の人たちの横を通りすぎると、
「ここです」と言って、林さんはそこの一段高い台地のうえの森を指さした。「ここが多々良宮、白木神社のあったところだったのですが、いまはまあ、こんなふうになっているというしだいです」
「ほう、そうですか。それにしても、――なんにもありませんね」
私はあたりを見まわしながら、ちょっと呆気にとられたようにして言った。それらしかったと思われるものは、なにもなかった。ただ小さな森が一つ、そこにあるきりだった。
「いや、しかし、その辺をみてごらんなさい。奈良時代の布目瓦など、まだ落ちているものがあるかもしれません」と、林さんは気短かな私をたしなめるように言った。「ここにはかつて松崎(まつのはな)といった城塞の遺構もあったし、近くには塔の上という字名もあって、そんな古瓦や土器などがたくさん出たものです」
そう言われて私は気がつき、そこらの草むらをかきわけてみると、なるほど風化した瓦の破片の落ちているのが見える。私たちはそれぞれに前かがみとなってそれをさがしたが、そんなふうにむきになることもなかった。
それも気がついてみると、すぐ足もとの畔の土積みのなかに、その瓦の破片がいくらでも詰め込まれている。鄭貴文はそこから、布目のはっきりした破片をいくつも見つけだしたが、つづいて私も小原もいくつかひろった。
「博物館でしかみられなかったものが、こんなところにいくらでも落ちているというわけなんだな」と、小原は感慨深そうな顔をして言った。
私はその古瓦の破片の一つを東京まで持って来たので、いまも手元にあるが、そういうものをひろって手にしてみると、多々良宮、白木神社があったというそのあたりも、なんとなく意味ありげなものにみえてきたのだったから、妙なものだった。向かいに見える山麓は平石の集落で、そこにも慈雲尊者中興として有名な高貴寺があるという。
琳聖太子は多々良氏の祖
「それからですね、先生」と、私は林さんに向かってきいてみた。
「ここに多々良宮をつくった多々良氏というのは、百済聖明王の第三子だったといわれる琳聖太子とはどういうふうになっているのでしょうか。関係なかったのでしょうか」
「いや、それでしたらね、『河南町史』にも書かれていますが、この多々良氏はその琳聖太子から出ています」
あとで手に入れた『河南町史』をみると、そこのところは、「後太平記に云」としてそれが引かれ、こういうふうになっている。
多々良氏野上修理亮は楠木家に仕えて誉あり、然れども次第に衰え、終には正勝十津川の方へ漂泊し、和田等も悉く何処ともなく逐電せし故、多々良の某も我館を立ちのかんとせしが、先ず琳聖太子の宮に詣で御暇乞せしと書けり。……この多々良の某は長坂、白木の間に住しと見えたり。多々良の谷と云所今にあり。琳聖太子は多々良氏の祖神也。仍て我館の辺に琳聖太子を請じて宮を建て、氏神とせしと聞えたり(可正旧記)。
私たちは白木の集落のなかにあった林さんの家に寄って茶をごちそうになり、林さんの持っていた、古瓦などを見せてもらった。白鳳瓦だということだったが、それは大和の飛鳥寺などから出土している、百済系古瓦とそっくりおなじもののようだった。
ついで私たちは富田林のほうへ戻ることになり、さきに河南町の役場へ寄った。いま引用した『河南町史』をもとめるためだったが、祢酒さんに紹介された河南町長の高橋亨氏は、一千頁以上にもなるその一冊を、とくに私に寄贈してくれた。ありがたいことだった。
いつものように、そうしているうちにもう日暮れてしまっていた。しかし、富田林ではやはり錦織神社をたずねてみようということになり、途中にあった細井廃寺跡だったといわれる五福氏宅に寄って、ここでもまたその家の庭のあたりから出土したという古瓦の破片を見せてもらった。ここはもと百済郷だったところであるから、その細井廃寺というのがどういうものであったかは容易に想像がつくが、ここの古瓦も林さんのところで見せてもらったものと同系統のものだった。
こうなってみると、「素戔嗚尊その他をまつってあるが、百済の機織関係の神であろう」と大阪府警察本部編『大阪ガイド』にもある錦織神社については、もうここにいちいち書くまでもないであろう。この神社とおなじ市内の新堂町、ここにもやはり細井廃寺跡とおなじような古瓦を出土した新堂廃寺跡があったが、私たちは近くの、百済の王陵とおなじ構造のものといわれる亀石古墳の家形石棺などをみて、祢酒さんとは翌日また会うことを約し、きょうは一応それまでということにした。
「騎馬神像」をたずねて
これはまさに朝鮮だ
翌日、ここも河内のうちだった東大阪市の鄭貴文のところから、私たちが富田林市の市史編集室についたのは、午前十一時をちょっとすぎてだった。朝、出おくれたからだったが、もちろん編集室長の祢酒(ねざけ)太郎氏はもうちゃんと出て来ていたばかりか、私たちの顔をみると、すぐに例の早口で言った。
「これ、どうですか。おいでになったらまずこれを見てもらおうと思って、待っていたところですよ」
祢酒さんは机の横においてあった『柏原市史』第一巻「文化財編」のはじめのところを開いて、私たちの前にさしだした。金山彦神社の「男神像」「女神像」としたものの写真が四枚ほどあって、どれも両手を前に組み合わせたそれらもそうだったが、六番目の笠を頭にしている「騎馬神像」とした写真を見たとき、私は思わずうなってしまった。
「うーむ、これはまさに朝鮮ですね」
「そうでしょう」と、丸いかたちのどこかにまだ童顔のおもかげをのこしている祢酒さんはにっこりして、愛敬のある笑顔をつくった。
「きのうは見せるのをうっかりして忘れていましたが、ここへくるだれに見せても、みんなそう言っていたものですよ」
「なるほど、よく似ているなあ。感じも、そっくりそのままだ」と、いっしょになって見ていた鄭貴文も言った。
「どれどれ」と、横から小原元もそれを覗き込んだ。
「ほう、なるほど。騎馬民族の渡来か。乗っている馬は牛みたいな顔しているが、これは驢馬だな。はっはは」
小原元は横の鄭貴文をみて、ひやかすように笑った。「驢馬」といったそれがどうして鄭をひやかすことになるか、朝鮮人ならたいていだれでも知っているそれを私が小原に教えたからだが、そのことはここに書かないほうがよいだろう。
そこで私たちはきょうはまず、柏原市のその金山彦神社なるところから行ってみようということになった。「金山彦」というその名からしてなにか縁がありそうな気がしたが、どっちみち柏原ではほかにもみなくてはならないものがたくさんあったから、いまその「文化財編」が出たばかりという『柏原市史』なども手に入れておかなくてはならなかった。
「たぶん、そういうことになるだろうと思ったものですから、いまさっき柏原市史編集室長の重田堅一先生に電話をしたのですが、まだ役所には来ておらないのですよ。それからきょうは『藤井寺市史』を書いた古田実先生という郷土史家がおるのですが、この人にも会ったほうがいいだろうと思って、さっき電話をしておきました。こちらの古田先生は、午後二時には時間があくということでしたので、柏原からそちらへまわればいいわけです」
「わたしも市史を編集するうえで勉強になることですから」と言って、きょうもいっしょに動いてくれることになった祢酒さんは、もうすでにちゃんとお膳立てをしておいてくれたのだった。何度もいうが、私にとっては実に願ってもない人だった。
「おい、土師(は じ)の里なんていうところがあるぜ。これもそうじゃないのか」
クルマが大和川あたりにさしかかると、窓の外を見ていた小原元が私に言った。彼もどうやら、朝鮮文化遺跡づいてきたもののようだった。
「土師、土師部などというのもそうだと思うが、しかしまだ、それとはっきり書いているのをみていないんだ。おれは、日本人学者以外の説はとらないことにしているからね。少なくとも、その裏づけのないものにはふれないことにしている」
大狛神社を見おとす
柏原市役所は、大和川が江戸時代に行なわれたつけかえで、流れを変えている石川との合流点近くにあった。富田林市にしても、またあとでみる藤井寺市にしてもそうだったが、柏原市役所はこれも新築したばかりの立派なものだった。
だいたい、私は九州を含めてこれまで歩いてみてわかったことだが、「高度成長」の結果かなにかは知らないけれども、日本全国はいまいたるところに大団地がつくられ、新築のマイホームがあちこちにつくられている。それとともに市役所や町役場も、これまたどんどん新しく建てかえられている。ところが、にもかかわらず、私のたずねて行く教育委員会とか市史編纂室といったものは、これはまたほとんどが申し合わせでもしたかのように、もとの古い庁舎といったそんなところに押し込められているのが実情だった。
それは、教育や文化というものが為政者たちにとってはどういうものであるかということを端的に示したものだったが、柏原市のばあいはあたりにそんな古い庁舎は見あたらず、教育委員会も市史編集室もおなじ新庁舎のなかにあった。私たちは近くの富田林市史編集室長の祢酒さんがいっしょだったから、そういうところをたずねるのもかんたんだった。ただついていけば、それでよかった。
祢酒さんがさっき電話をしたという柏原市史編集室長の重田堅一氏は、まだそこに出て来ていなかった。で、私たちはとりあえず、そこにあった『柏原市史』第一巻「文化財編」を一部わけてもらい、ひとまず私たちだけでも金山彦神社まで行ってみようじゃないか、ということになった。市史のために写真をとらせてもらった重田氏がいっしょでなければ、「騎馬神像」などの神体を見せてもらえるかどうかわからなかったが、とにかく行ってあたってみようということにしたのである。
私たちは市役所を出て、これも祢酒さんが市の人にきいてくれた、雁多尾(かりんど)畑(ばた)なるところにあるというその金山彦神社に向かった。――が、私はいまここで、大きなミスをおかしたことについての告白をしなくてはならない。私はいま為政者たちの教育や文化にたいする態度についてエラそうなことをいったばかりだが、こんなふうでは、とてもそんなことなどいえたものではないと思う。
というのは、私は、これも朝鮮渡来人のもっていた技術であった古代の製鉄のことと関係があったらしい金山彦神社のことをいまこれから書くにあたって、念のため手元にある資料をちょっとまた調べてみる気になった。というより、その神社のある雁多尾畑という地名が印象的で、これはどこかでみたことがあると急に思いだし、「――その金山彦神社に向かった」とまで書いたところで、今村鞆氏の『朝鮮の国名に因める名詞考』を開いてみた。
やはり、そこにあった。「第五章 地名」のところに「巨麻郷(コマノサト)」というのがあって、こういうふうに書かれている。
河内国中河内郡今の堅上村の辺に当る。『和名抄』大県郡巨麻郷、『延喜式』大狛(おおこま)神社は堅上村大字本堂に在りて産土神なり。『河内志』高安山の東南にして、雁多尾畑の北なる山村なり。今、堅上村大字本堂及雁多尾畑なるべし。
おやおや、これはどういうことであるか。私は、高麗(こま)のことにほかならない巨麻郷だったそこに、これも高麗の大狛(おおこま)神社があったことは知らなかったし、したがって見てもこなかったので、ちょっとあわてないわけにゆかなかった。あわててこんどは、今井啓一氏の「京畿及近江国における蕃神ノ社について」をみた。
式内(大県郡)旧村社。大狛神社・大狛連の祖神(天王社ともいう)。大阪府柏原市(旧中河内郡堅上村)大字本堂字上山(近鉄信貴山線「しぎさんもん」駅から南に下り府県境を越え本堂部落に入るが便。「しぎさんもん」から数町。又は近鉄大阪線「こくぶ」駅からバスを利し、雁多尾畑に至り、ここから北へ登ること徒歩二十町位)。社はいま甚だ荒廃しているが、護国山生安寺の裏山に当る。
これにはもっとかなりくわしく、こう書かれている。私はいよいよあわてて、こんどは『柏原市史』「文化財編」をあっちこっち引っくり返してみた。ところがなんとここにも、しかも第一頁に「堅上地区」として、はっきり次のように書かれているではないか。
養老四年(七二〇)一一月、堅上・堅下の二郡を併せて大県郡がたてられた。
平安時代の初めに撰せられた『和名抄』大県郡六郷の中で、堅上地区に当ると思われるものに「巨麻・賀美」の二郷が見える。あるいは「鳥取郷」も旧堅上郡に含まれていたかもわからない。
堅上郡は大宝令(七〇一)以来、二郷だけによってたてられた郡であったか、あるいは大県郡との合併に際して二郷に集約されたか、ないしは二郷だけが大県郡に編入されたかなどは全く不明である。
「巨麻郷」は本堂がこれに当る。ここには大狛神社が祀られてあり、奈良時代には狛(こま)一族の活躍が見られる。
本堂の文化財としては、まず第一に挙げられるものに区長相伝の唐式鏡(瑞花蝶鳥鏡)がある。いずれは狛一族の長のものだったかと考えられる優品で、本堂出土品であるところに一層その価値が高い。つぎに両墓制墓地が挙げられる。
なんということであるか。そこまで行って金山彦神社はみてきたが、より肝心なもののほうはすっぽりおとして、そのままにしてきたのである。
『柏原市史』ももとめてきておきながら、あとでみるであろう「船氏王後の墓誌」のことには気をつけていたが、その第一頁のところには目が行っていなかったのである。私はこれから、柏原のそこへもう一度行ってこなくてはならない。
葛井寺と辛国神社
河内は朝鮮遺跡の宝庫
前項のおわりに書いたように、私はそれからすぐまた河内(大阪府)へ行って、柏原市のそこもたずねて来た。もうすっかり暑くなってしまった六月末のことであるが、しかし構文のつごう上、いまは堅上の雁多尾(かりんど)畑(ばた)、本堂(ほんどん)となっている巨麻(こま)(高麗)郷の金山彦神社や大狛(おおこま)神社など、そこは一応あとのこととする。
つまり、船氏の松岳山(まつおかやま)古墳群や田辺廃寺といったものとともに、ほかにもまだ見なくてはならないもののたくさんある柏原市周辺のここはあとまわしということにして、話をさらにまた前項のところに戻さなくてはならない。すると、私たちは雁多尾畑の金山彦神社をたずねてからということになるが、それから私たちは、祢酒(ねざけ)太郎氏が朝のうちにとりきめておいてくれた古田実氏と会わなくてはならない午後二時近くになったので、急いで藤井寺市の中学校へ向かった。
地図をみればわかるが、柏原市といい藤井寺市といっても、これはとなり合っていたから、どちらからにせよそう遠いところではない。羽曳野市、富田林市、河内長野市などにしてもそうで、これらはどれも南河内のなかにごちゃごちゃ、ひとかたまりとなっているのである。
藤井寺市史編集室長であると同時に四天王寺勧学院講師、羽曳野・藤井寺地区文化財担当委員など、ほかにもたくさんの肩書きをもっている古田実氏は、同時にまた藤井寺市立中学校の教諭でもあった。それだけ聞かされただけでもたいへんなエネルギーの持ち主であるように思われたが、中学校の応接室で会った古田さんは、なるほどそれらしい感じの人だった。
がっしりした体躯の、ちょっと見たところではどこかこう、村夫子といったふうだったけれども、ところが、それがこの人のばあいは学識の深さを思わせるものでもあった。だいたい、四百字詰用紙にして六千枚にもなるという『藤井寺市史』をひとりで書いているということからして私にはおどろきで、古文書など、必要な参考文献のことを少し想像してみただけでも、それがどんなにたいへんな仕事であるかということがわかる。
あとで知ってみると古田さんは、おしゃべりをもって自任している私などにおとらぬなかなかの饒舌家だったが、しかしこのときはまだ、紹介者である祢酒さんのほかは私たちの正体をつかみかねているといったふうで、ことば少なに、まずこんなことをぼそぼそとひとりつぶやくようにして言った。
「南、中、北といわず、河内にある古代遺跡はほとんどみな朝鮮からのものですね。それがのちには大和文化になったのだと、わたしはみています」
「へえ、そうですかね」と、古田さんのそのことばにすぐ私よりさきに反応したのは、同行の小原元だった。「これまで見ただけでもちょっとおどろいているのですが、河内にはまだそんなに多いんですか」
「ええ、そうです。そういうことをわたしなどはっきりというものですから、あちこちから相当非難もされたものです。おれたちの先祖をみな朝鮮人にしてしまうつもりか、などといわれましてね」
古田さんは笑いもしないでそう言ったが、
「はっはは、そうですか」と私は、声をたてて笑うよりほかなかった。「それで、いまでもなおまだ……」
「いまはもう、だいたいみなさんわかってくれていると思うのですが、ところで、こちらにはいつまでおられる予定なのですか」
「はあ、それですが――」と、私は祢酒さんのほうを見た。
私は祢酒さんからあらかじめ、古田さんはこの三、四日はいっしょに歩いてもらえる時間がないと聞いていたし、私の予定もきょう一日でひとまず東京へ帰り、ついで後日またたずねてくることを祢酒さんに告げてあったのだった。そこで祢酒さんがあいだにたって後日の日程を合わせてくれることになり、この日は古田さんからたくさんの資料をもらっただけで、そこで一応わかれることにした。
「古田文書」を入手
そして私たちはさらに、古田さんからもらったその資料を補充するため藤井寺市役所に向かったが、いまもらって来た古田さん手持ちのそれだけでも、私にとってはたいへん貴重な資料だった。どれもパンフレットようのものではあったが、たとえばそのうちのいくつかをあげてみると、こういうものだった。
大阪府羽曳野市教育委員会主催(郷土史研究会講座・青少年指導員会共催)第八十六回史跡研究会『羽曳野市を中心とする史跡めぐり』
大阪府藤井寺市教育委員会・同青少年問題協議会共催第九回史跡をみて歩こう会『河内・高安山西麓方面の史跡見学会』
藤井寺市付近の史跡・遺跡・名所の解説第一部『藤井寺地区(本市の西部)』
同右第二部『道明寺地区(本市の東部)』
などとなっていたが、どれも中身は古田さんによって書かれたものだった。さきにみた『藤井寺市史』ほかの仕事ばかりでなく、古田さんは一方ではこういうものも精力的に執筆していたばかりか、自身またその「史跡をみて歩こう会」などの案内・解説者としてあちこちを何度、何十度にもわたって歩いていたのである。
「いかにも篤学といった人だな。ああいう人こそ、ほんとうの学者というものなんだろうね」と法政大学の教授でもある小原元も言っていたが、古田さんはそのうえまた、藤井寺市の発行になる『広報ふじいでら』に「ふじいでら郷土史」を三十数回、また羽曳野市の広報『はびきの』には「郷土史」を百数回にわたって連載しているとのことだった。
だから、私たちはそれももらいたいということで、とりあえず藤井寺市役所に向かったのだった。富田林市史編集室長の祢酒さんといい、なんとも、私はいい地方史家たちにめぐりあったものといわなくてはならなかった。
藤井寺市役所では教育委員会をたずね、『広報ふじいでら』のコピーをとってもらうあいだ、こちらも祢酒さんの知り合いだった教育課長の平通米治氏と私たちは会った。偶然そんなことになったので、これは余計なお節介というものだったが、私と小原元とはそこで古田さんのことを持ちだした。中学校教諭の仕事ももちろんたいせつであるが、しかしあの人はたったひとりで「市史」を書いていることでもあるし、なるべく学校の時間は少なくして、もっとその研究に専心できるようにしてやるべきではないか、などと話した。
「ええ、そうしてやりたいのですが、なにぶん、教員の数が足りないものですから、なかなか思うようにはできんのですよ」と、平通さんはそんなふうな返事をしたが、またこうも言った。
「あの人の担当している文化財保護の仕事もたいへんなものでして、ほんとになんとかしてやらなくては、と思っております。なにしろ、おとなりの羽曳野にしてもそうですが、ここはどこでも掘ればなにかの遺物が出てくるし、工事があれば文化財がこわされるという、そんなところですから」
いかにも河内らしい話だったが、考えてみると、そのような文化地帯であったからこそ、古田さんのような精力的な地方史家も生まれ出たわけだったのである。コピーしてもらった「ふじいでら郷土史」も相当なもので、私の資料袋はいよいよ重くなった。
私はこれから、これらの資料をもとにして河内のあちこちを見て歩くわけであるが、「史跡をみて歩こう会」などにさいして、そのときどきに書かれたパンフレット類が主であるだけに、その後に入手したものも含めると、やはり古田さんによるものがいちばん多く、これはたいへんな量となって、いま私の机のうえに積まれている。ちょっとやそっとでは整理もつかないほどであるが、以後、私はこれを引用するときは、便宜上これら全部を一括して「古田文書」ということにする。
葛井寺と辛国神社
藤井寺市役所を出たときは、もう午後四時近くになっていた。しかしまだ暗くなるまでにはかなり間があったので、私たちは、藤井寺市の名称もそこからきたらしい葛井寺(ふじいでら)のほうへまわってみることにした。
紫雲山剛琳寺ともいう葛井寺は近鉄藤井寺駅のすぐ近くで、家並みの立ちならんでいる狭い道路の奥に、重要文化財となっている朱塗りの南大門がそびえ立っていた。広い境内の正面にある本堂には、天平時代につくられたものといわれる国宝の千手観音像があるが、それは秘仏となっていて、毎年八月九日の開扉をまたなくては見せてもらえないということだった。
例によって『由緒書』をもらってみようとしたところ、早じまいの日でもあったのか、寺務所は閉まったきりだった。もっとも、由緒のことはいまもらってきた「古田文書」にちゃんとあって、それはこうなっている。
葛井寺の寺伝によると、聖武天皇の勅願によって創建され、稽文会(けいぶんえ)・稽首勲(けいしゆくん)の父子に勅命して一〇四二臂を持つ千手観音像を作らせ、神亀二年(七二五)三月、開眼供養の勅使として藤原房前を派遣し、僧行基を導師として、河内の葛井の里(いまの藤井寺の南)にあった百済の王族の子孫であった葛井給子の旧邸跡に七堂伽藍を建立し、古子山葛井寺(別名で紫雲山剛琳寺)と勅号をたまわったといわれる。
そのあと、桓武天皇の皇子葛井親王の菩提を弔うため、阿保親王により諸堂の再建が行なわれ、大同元年(八〇六)に阿保親王の子在原業平によって葛井寺の奥院(現在地)の諸堂が造営され、その後、永長元年(一〇九六)に大和の国の軽里出身の藤井安基が葛井寺の伽藍の大修理をしたといわれる。それ以後、村の名には安基の姓をとって藤井寺村と改称し、寺名は昔そのままの葛井寺としたといわれる。
平安時代の有名な歌人で、『伊勢物語』の主人公とも目されている在原業平がこんなところに登場しているのもおもしろいが、そう思ってみると、いま引用したもののなかにはずいぶんたくさんの人物が出ている。行基などはすでにわれわれ馴染みのものだけれども、その旧邸跡が葛井寺となったという「百済の王族の子孫であった葛井給子」とはなにものであったのだろうか。
それからまた、「桓武天皇の皇子葛井親王」とはどういうもので、そもそもこれらの名の「葛井」とはどんなところからきたものであったのだろうか。「葛井」といったこと自体、なにか意味ありげな気もするが、結局、私はいまだにわからない。
ついで私たちは、その葛井寺と対(つい)をなすようにして近くにあった辛国(からくに)神社へ行ってみた。「辛国池」とした石碑なんかの立っている境内をひとまわりして、さらにまた野中寺(やちゆうじ)へまわったが、辛国神社とはこれまたどういうものだったのだろうか。また、「古田文書」をみることにする。
この神社は延喜式内の旧社で、……大日本史神祇志に韓国連(からくにのむらじ)の祖神と記し、神祇宝典は新羅国の神と記し、大日本地名辞典には長野連の祖神と記している。
上代の頃、韓国(からくに)神社と称していたことから、葛井氏が自分の先祖を祭るために創建したものであると考えられる。葛井寺との地理的位置よりして、充分考えられる。室町時代の中頃に古市高屋城主として守護をつとめていた畠山氏が社領二〇〇石を寄進し、天児屋根命を奈良から勧請してきてから春日山とか春日社とか称するようになったが、それ以前は韓国また唐国(からくに)神社と称していたものと推定される。
辛国神社の本殿に合祀されている長野神社はもと藤井寺字長野にあって、延喜式内社で長野連の祖神を祭っていたが、辛国神社の中にいつの頃か合祀され、祭神も素戔嗚尊にすりかえられている。だいたい平安朝に入ってしばらくしてから、帰化人によってつくられた氏神の祭神は全部といってよいくらい、素戔嗚尊に変っているのである。
くりかえしになるが、「古田文書」はまた別のところで、こうものべている。
葛井連一族が自分たちの祖先を祭るために建てた神社が辛国神社であったのではないだろうか。平安朝の頃、国風文化が栄えるようになってくると、外国の神を祭っていることがすぐにわかるというので、韓国や唐国の文字を辛国と変え、帰化人の神社に共通的な素戔嗚尊を祭神とするようになったものと思われる。
百済王族をめぐって
野中寺の弥勒菩薩像
野中寺(やちゆうじ)は羽曳野市の野々上町にあったが、藤井寺市との境ともなっているらしい堀川、これも行基によって飛鳥時代に開削されたものといわれるその堀川をすぎて、間もなくのところだった。和泉(大阪府)の堺から発した日本最古の国道である竹内街道の近くで、「青竜山」「野中寺」と門の両側には大きな石碑が立っており、あわせてまた「地蔵菩薩」「酒肉五辛山門に入るを許さず」というのまでが立っていた。
「地蔵菩薩」はともかくとして、「酒肉五辛山門に入るを許さず」には私などちょっとギョッとなったが、しかしそんなぎょうぎょうしいような石碑とは別に、山門は簡素で、なんとはなしおだやかな感じのする小さな寺だった。もちろんこの寺もいまのようなものではなく、かつては、そこの竹内街道を行くものたちの目をみはらさせずにはおかなかった大伽藍であった。
この伽藍のことについては、藤本篤氏の『大阪府の歴史』にも次のように書かれている。
野中寺(羽曳野市埴生)は、推古天皇の三十年(六二二)、聖徳太子を葬ったと伝える叡福寺(南河内郡太子町)を上の太子というのに対して、中の太子とも呼ばれているが、百済系帰化氏族船連(ふねのむらじ)の氏寺である。その旧伽藍跡は、境内の本堂前面の東側に金堂、西側に塔という配置で、法隆寺様式に似ているが、礎石の配列から考えると、堂塔が南面しないで向きあっていたらしく、特異な様式である。この寺に伝わる弥勒菩薩の小像は、いわゆる半跏像で、白鳳時代の代表とされているが、台座の下の框(かまち)のまわりに六二字の文字がきざまれ、天智天皇五年(六六六)に一一八人の人びとの発願により、天皇の病気全快を祈って制作されたことがわかる貴重なものである。
私たちはかねてから、ここにある弥勒菩薩半跏像を一度見たいと思っていた。もうすっかり日暮れてしまって、それを安置してある堂は閉まっていたが、小原元があちこちと歩いて寺の若奥さんらしい人をさがしだし、とくにたのんで堂を開いてもらった。
金銅小像である弥勒菩薩像は、写真で見たところでは子どものままで老け込んでしまったような、そんなひからびた感じがしていたものだった。が、実物はそんな感じとはまったくちがって、きりっとした美しさにあふれていた。
「うむ、ちがうなあ。これはいいね」
そういう仏像の好きな小原元など、いつまでもその前に立っていたいようすだった。しかし、そこで待っている若奥さんに悪いような気がして、私たちは早目にそこから出た。
出て、境内のあちこちをぶらぶら歩いた。この境内がまたちょっとした博物館のようなもので、「野中寺様式」といわれる創建当時の塔礎石があるかとみると、善正寺山古墳群からの出土という家形石棺があったり、また一角には朝鮮石人像がおかれてあったりしていた。そのうえまた、「お染・久松の墓」というのがここにあるというのもおもしろかった。
朝鮮石人像のことは、ここでもらった『野中寺略縁起』によると、これを「唐伝来の石仏」としていたが、これは明らかなまちがいだった。しかもこれは比較的新しいもので、近世か現代にはいって、だれかが朝鮮からもたらしたものにちがいなかった。
百済王族の系譜
さて、私たちはこれで葛井氏族ゆかりの葛井寺と辛(韓)国神社、それから船氏族ゆかりの野中寺とをみたわけであるが、ところで葛井氏といい船氏といい、これはいったいどこから来たものであろうか。さきに私は「葛井」といったこと自体、なにか意味ありげな気がするけれどもわからないといったが、彼らがどこから来たものであるかということは、「古田文書」にその「略系譜」がある(電子文庫版では省略)。
なおまた、右の各氏族の氏神および氏寺は次のようになっている。
葛井氏族=辛国神社・葛井寺
船氏族=国分神社・野中寺
津氏族=大津神社・善正寺
これらの神社や寺院(跡)はいずれもいま歩いている河内(大阪府下)にあって、まだみていないものはこれからみるわけであるが、それよりさきに、私はこの「略系譜」をみると、どうもある想像力を刺激されずにはいられない。つまり、そのことからまず考えてみたいと思うのである。
「古田文書」のこの「略系譜」とあわせて、朝鮮の『国史大辞典』にある「歴代王室世系表」をみると、百済の近仇首(きんくす)王は第十四代のそれで、これから第十五代の枕流(ちんる)王と第十六代辰斯(しんし)王とのふたりがわかれ出ている。そして枕流王からは次(辰斯王)の次にあたる第十七代の阿〓王が出ているが、辰斯王のほうはそこでぶつりと切れてしまっている。
そうして、この第十六代辰斯王の次は、日本の「古田文書」「略系譜」にその姿をあらわすことになり、「辰孫王(応神朝に帰化)」となっているのである。ついでまたその次は「太阿良王(仁徳帝近侍)」となり、「亥陽君―午定君」ということになっている。
これは、どういうことなのであろうか。ちなみにみると、第十六代辰斯王の在位は三八五年から三九二年となっているから、これは四世紀末の人ということになる。すると「応神朝に帰化」となっているその子の辰孫王も、四世紀末から五世紀はじめにかけての人間であったにちがいない。
「古田文書」の「略系譜」は『続日本紀』七九〇年の延暦九年条にある津連真道(つのむらじまみち)(菅野真道)らの上表その他によったものなのであるが、しかし、「辰孫王(応神朝に帰化)」というのは、そのままに信じてよいものであろうか。彼が古代朝鮮からやって来たものであることは事実であろうが、それが「応神朝に帰化」したものであるかどうか。つまり、それがいうところの「帰化」というものであったかどうか、と私は思うのである。
考えてみると、「辰斯王―辰孫王(応神朝に帰化)―太阿良王(仁徳帝近侍)」といずれも「王」となっていたものが、それからあとは「亥陽君―午定君」となっているというのも気になるし、それがまた直線的に一本となっていて、午定君になって急にそこから味沙、辰爾、麻呂の三人がわかれ出ているのも、ちょっとおかしな気がしないではない。しかもこれからあとこんどは、『日本書紀』五七二年の敏達元年条にみえているように、辰爾は「王辰爾」というふうになって、彼の先祖の称号であった「王」がその姓となっているのである。
いずれにせよ、午定君の子のひとりであったこの王辰爾が船氏族の祖となっていることはだいたいまちがいのないところであるが、午定君となってからのその子孫は、これがまた「胆津(白猪史)、那沛故(船史)、秋主(津史)」というぐあいに、どれもいわゆる「史(ふひと)」となっているのもおもしろいこととみなくてはならない。彼らはどちらも百済のいわゆる王族の出であったが、すでにこの日本で何代もすぎて来たその子孫たちなのである。
してみると、またも私の思考はそれ以前の「辰斯王―辰孫王」のところへと行く。辰斯王はさきにもみたように、百済第十六代王であったことがはっきりしている。が、次の辰孫王、これはいったいなんであったのだろうか。
「古田文書」によると一方ではまた、「辰孫王は王仁」という説もあるとのことである。王仁(わに)とはもちろんこれも日本古代史上に有名な、西(かわち)(河内)文氏の祖となったとされている、あの王仁のことである。ところがこの王仁はまた、たとえば千葉県の流山に住む野口博一氏によると、「王仁(おうじん)すなわち応神」であるという説もあるのである。
渡来の民が目白押し
こうなるともう、それこそなにがなんだかわからなくなるが、どちらにしろ、河内にはこれら百済王族から流れ出たものとされている大豪族が、あちこちに目白押しとなっていたもののようである。あとでみるはずの巨刹西琳寺を氏寺としていた王仁系氏族もそれであったし、田辺史であった田辺氏族も、これまたおなじ百済系のものだった。
そしてこれら氏族からはさらにまた支族・分族がわかれ出て、あちこちにひろがったことはいうまでもないであろう。しかもこの河内の野や丘陵地を開発して展開していたのは、それら百済系のものばかりではなかった。
さきに河南町の白木でみたような新羅系とみられるものもないではないが、しかし百済についで多かったものは高麗、すなわち高句麗系のものたちだった。彼らもまた大狛連だの上(かみの)村主(すぐり)だのというものになって、この地で栄えていたのである。
いまあげたものはいわば支配階級のそれであって、彼らのひきいて来ていたいわゆる部民となると、これはもう数限りないというよりほかない。土師部、鏡作部、玉造部、矢作部といったものから、河内鋳物師といわれたものなど、これらもあちこちに集団となっていたもので、彼らもまたそれぞれにその祖神を祭った神社などを残している。
支配者たちの残している古墳や神社や仏閣などにしても、それはこれらの部民や農民たちの手によってつくられたものであることはいうまでもないであろう。したがって、これら部民や農民たちのことがもっとよくわかるといいのだが、残されている記録などの関係で、どうしてもわれわれの目は支配の側のほうへ傾きがちになる。
戒心しなくてはならないことであるが、しかしまた、古代のこととなると、具体的にはその支配側の例をとおしてしか、民衆のそれをみるよりほかないということもある。
神社の神体をみる
「愛読者カード」が縁で
後日、例によって私は、東大阪市に住む鄭貴文といっしょに、彼のクルマで富田林市史編集室へと向かっていた。河内にはいってからは祢酒(ねざけ)太郎氏が室長となっていたその編集室が私たちの連絡場所のようになっていたが、きょうはそこでまたもうひとり、私たちの協力者となってくれるはずの清田之長氏と会うことになっていた。
どうしてそういう人に会う、あるいは会えることになったか。私はここでまたちょっと、楽屋裏のことを語らなくてはならない。それはどのような人々の協力によってこの仕事がすすめられているか、ということを語ることでもある。
私は『思想の科学』誌にこの「旅」を連載してかなりになるが、さきに私はその第八回までの関東地方の分をまとめて一冊とし、これを『日本の中の朝鮮文化』として講談社から刊行した。自分でいうのはおかしいけれども、意外なほど反響は大きかった。
それで、私自身もほうぼうからたくさんの手紙をもらったが、本のなかにはさんである「愛読者カード」も、これまでに千数百通がきている。これは著者の私とは直接関係なく出版社にあてたものであるが、出版社がみせてくれたので、私もそれをみた。
通信欄には、いろいろなことが書かれている。たとえばいま私がたずねている河内、すなわち大阪府柏原市上市に住む坂本久男氏からのような、「日本の古代史は書きかえられるべきです。それが正しい愛国心につながると思います。でき得れば……」といったものがあるかとみると、なかには、「前方後円墳は日本自生の独自なものである。それをしも朝鮮からのものであるかのようにいうのはおかしい」といった意味のことを書いたものもあった。
しかし前者をかりに肯定的ということにし、後者を否定的ということにすると、後者のこれは全体のなかでわずか二、三通にすぎず、あとはすべて前者のようなものばかりであった。そしてまた私などおどろいたことには、その全体の七〇ないし八〇パーセントまでが、関東についで、関西と九州をやるべしというものであり、そのようにして全国をやるべし、というのもたくさんの数を占めていた。念のためにいっておくと、これらの手紙や「愛読者カード」は全部みな日本人からであって、在日朝鮮人からのものはそのうちの五、六通でしかない。
関西をやるべしというのは、以後私はつづけて関西地方のそれを『思想の科学』誌にこうして連載していることが知られていないからだったが、それにしても関西とともに、九州がセットのようになっていわれてきているのが私にはおもしろかった。なかには山陰の出雲地方をといってきたのもかなりあったけれども、現にいまこの稿をすすめている昨夜は、北九州市の小倉区に住んでいるという森本修介氏から長距離電話がかかり、「関東よりも朝鮮に近いばかりか、その遺跡もはるかに多い九州はなぜやらないか」と、まるで詰問するように言ってきた。
九州へ来れば、クルマもあるからあちこち案内してやるというのだったが、実は私はいまの関西につづけて九州もやりたいと考え、阿部桂司君の実家のある福岡県椎田町を根拠にして、すでにそこも二度ほどまわって来ていた。それにしても、ありがたいことだった。
それからまた、これらの手紙や「愛読者カード」により、私の知らなかったことで、教えられたものもずいぶん多かった。たとえばある服飾研究家からきたものでは、これによって私ははじめて日本の「鯨尺(くじらじやく)」が「百済尺(くだらじやく)」といったことからきたものであったことを知ったし、また、「高野山(こうやさん)」が「高麗山(こうらいさん)」ということであったということも、それではじめて知った。
とにかく、これらの手紙や「愛読者カード」は質量ともに一冊の本にでもまとめたいほどおもしろいものだった。私はそれをみているうちに、あることを思いついた。それは日本全国にわたっているものであったから、私がこれからそこをたずねたいと思っていたところからきているある人には、こちらからも手紙をだして協力してもらおうと考えたのである。
なかには当地へ来ることがあったら「案内したい」といってくれている人もたくさんいたからのことだったが、つまり、私たちがこれから富田林市史編集室で会うはずになっていた清田之長氏は、そのような「愛読者カード」をつうじて知った人だった。清田氏は国学院大学の国史学科を出た大阪府立阪南高等学校の校長で、「河内や大和における帰化人に興味をもっている」という研究者であるばかりか、しかもその住居は富田林市だった。
私は手紙をだし、大阪についてからは電話をしたところすぐに連絡がつき、おなじ市の住民だったから、清田氏も面識のある祢酒さんの市史編集室へ来てくれるということになったのだった。市とはいっても、人口は藤井寺市が五万余、富田林市は七万余のところだったから、さきに会った古田実氏をも含めて、これらの人たちはそれぞれにみな知り合っていたのである。
河内長野市へ
あいにく雨となってきていた街道を走って、私たちが富田林市についたのは、十二時近くになってからだった。土曜日で、市職員としての執務は一応おわったことになっていたから、この日は私たちも祢酒さんのその室にはいって行くのが気安かった。
あらかじめ手紙や電話をしてあったので、このまえとおなじように祢酒さんはすでにもう、私たちの日程をこまかいところまでちゃんと組んでくれてあった。まえもって知らされていたとおり、あすの日曜からは古田さんがいっしょに歩いてくれることになっていたが、しかし当面のきょうは、別にこれといったところ、というふうに決まってはいなかった。
というのは、河内では行ってみたいところがあまりに多いからでもあった。だったから、私としてはどこへ向かってもよかったのである。
「それでですな」と、祢酒さんはいつもの早口で言った。「きょうは河内長野市のほうへ行ってみたらどうかと思って、いまさっき市の社会教育課長に電話をしておきましたよ」
河内長野市は、これも富田林市にとなり合っている市だった。私の予定になかったところだったが、しかし、「そこにはどういうものがあるのですか」ときき返す必要はなかった。行けば、必ずなにかがあるにちがいなかった。
そんなふうに私たちが打ち合わせをしていたところへ、清田之長氏がはいって来た。中背、中肥りの紳士で、鼻下の小さな髭のよく似合った人だった。
私たちはそこではじめて互いにあいさつをかわし、いろいろと話すことになった。話していてわかったが、清田さんの実家は二十八代になる代々が神社の宮司で、そういうところから、清田さんもいわゆる「帰化人」に興味をもつことになったものらしかった。
「ところで先生、われわれはこれから河内長野のほうへ行ってみようということになっているのですが……」と、私は言った。
「そうですか。では、わたしもごいっしょしましょう。あそこには長野神社や高向(たこう)神社などがあって、これもみなその系列ですね」
清田さんはそこも歩いて調べていたらしく、即座に言った。
「高向神社といいますと、高向玄理(たかむこのくろまろ)のあれでしょうか」
「そうです。遣隋留学生だった高向漢人(あやひと)、この高向一族の祖神を祭ったのがその神社です。祭神は素戔嗚尊、白山姫命などとなっていますけれども」
「素戔嗚尊といえば」と私はまたきいた。「先生もご存じの古田実氏、あの古田さんによると、平安時代にはいってから、いわゆる帰化人の祭神はみな素戔嗚尊にすり変えられたといわれるのですが、それはどうなんでしょうか」
「わたしもそうだとみています。いまなお変わってないところもありますが、ともかく素戔嗚尊となっているのは、ほとんどみなそれだとみてまちがいないでしょう」
私はまた、よい人にめぐりあったものだと思わないわけにゆかなかった。私はあちこちと歩いていていつもぶつかるのがこの神社なるものだったが、こんどはその神社のことにくわしい人と出合ったのである。
祢酒さんの市史編集室にいた若い歴史家の玉城幸男氏ともども、私たちはそろって河内長野市へ向かった。
神を畏れぬ要請
清田さんの運転する軽乗用車をさきにして私たちのクルマが走っていた道路がそれだったかどうかは知らないが、河内長野は東高野街道と西高野街道とが合流併行したところだった。それだったから、そこはかつて両街道の宿場としても栄えたのだそうで、いまもどことなく、そんなおもかげがのこっているように思われた。
河内長野市の教育委員会についてみると、土曜日だったから、職員はもうだれもいなかった。そんながらんとなった室内で、祢酒さんが電話をしておいてくれた社会教育課長の南昭雄氏がたったひとり、私たちを待っていてくれた。
それだけでも私はすっかり恐縮してしまったが、ところでおもしろいことに、この南さんは清田さんが中学校長だったころの教え子で、こちらもまたそれぞれに知っているあいだがらだった。ひととおりのあいさつがすむと、南さんはさっそく、市の文化財調査表などを一枚一枚示しながら、いろいろ説明をしてくれた。
調査表は写真を中心としたもので、河合寺にある仏像とか、高向(たこう)神社の神体となっている小さな彫像などだった。そういう写真ではあったけれども、私は神社の神体というものをみるのは、さきの『柏原市史』「文化財編」でみた金山彦神社の騎馬神像についで、これが二度目だった。あとで書くように、金山彦神社のそれは結局実物を見ることはできなかったので、こうなるといよいよ、その実物を一度見たいものと思わないわけにゆかなかった。
「さあて、それはどういうふうにしたらいいものですかね」と南さんは、私のそんな「神を畏れぬ要請」にはちょっと困ったらしく、祢酒さんと清田さんのほうをかわるがわるにみながら言った。「高向神社には、いまだれもおらないし……」
「それだったら」と、祢酒さんが言った。「市町の田中先生にたのめば、なんとかなるかもしれませんな」
「そうですね。田中先生はたしか、千代田神社の総代もされているはずですから、そちらのほうをみせてもらったらどうですか」
南さんはすぐに賛成して、そう言った。清田さんもいっしょになって、「そうですな」というふうにうなずいている。
だが、私はその田中先生がだれかわからなかったし、そちらのほうは祢酒さんたちにまかせるよりほかなかった。で、私はいまさっき南さんからもらった『河内長野商工名鑑』を開いてみていたが、そこに「河内長野市のおいたち」という、次のような文章のあるのが目についた。
河内長野市のおいたちは、古墳時代にさかのぼります。三日市町の大師山古墳は前方後円墳で、出土品の車輪石などは、弥生式文化の伝統をついでいます。市内の各地に大小の古墳がたくさんありますが、いずれも三〜四世紀ごろ当地をひらき、大和朝廷に仕えた豪族の奥城(おくつき)です。
また、重要文化財社殿で有名な烏帽子形神社、長野神社をはじめ、市内の十二社は、古代当地をひらいた人びとが祀(まつ)った産土神(うぶすながみ)で、当市のあけぼのはこのころです。
だれが書いたものかわからなかったが、簡潔で、要領をえた叙述だった。それをもすぐ「大和朝廷に仕えた」とするのにはよくみられる飛躍があるとしても、「いずれも三〜四世紀ごろ当地をひらき」「古代当地をひらいた人びとが祀(まつ)った産土神(うぶすながみ)」というところに大きな含みをもたせたところなど、なかなかのものとみなくてはならなかった。
なおまたそれによると、寺院としては、ここにも飛鳥時代からのものという河合寺のほか、行基を開山とする天野山金剛寺があり、それからもとは役小角(えんのおづぬ)の開いた雲心寺だったという、観心寺などがあった。
立膝の観音坐像
河内長野の市役所を出た私たちは、どういうことでそうなったのか、まず、金剛山麓にあった観心寺へ向かった。しかしその観心寺へついてみて、祢酒さんがどうして私たち(このばあいは鄭貴文と私ということであるが)をそこへつれて来たかがわかった。
だいたい祢酒さんはさきの騎馬神像といい、神社の神体となっている彫像などに強い興味をもっているようだったが、私はあとで知ったけれども、祢酒さん自身一方では彫刻をやっているのだった。私はのち祢酒さんの家をおとずれたとき、その作品のいくつかを見せてもらっている。
それはともかく、観心寺というのは、これがまた大きな寺院だった。長い石段をのぼった山の斜面一帯に堂塔伽藍が立ちならんでいて、有名な観光地ともなっているらしく、小雨が降りつづいていたにもかかわらず、たくさんの人々が群れていた。ちょうど開帳の日にあたっていた本堂のなかは、これまたそんな深い山中の寺へいつどこから来たものかと思われるほど、人々がぎっしりとつまっていた。
そして人々の目は、正面に安置された国宝の木造如意輪観音坐像に集中していたが、私たちも人々のうしろに立ちならんでそれをみた。観音坐像は奈良時代のすぐあと、平安初期のものだとのことだったが、あざやかな朱色が変になまなましい、ひどく妖艶な感じのものだった。
「どうですか、あの観音坐像」と、横から祢酒さんがそっとささやくようにして言った。
「ええ、どうもね」と私は、ことばをにごした。私の目にはどうも、あまり美的ではないのである。
「いや、観音坐像の、あの坐り方ですよ」と、祢酒さんはまた言った。
「ああ――」と私はやっと気がつき、思わず一歩前へ出るようにして目をみはった。
うかつにも私は、さきの『河内長野商工名鑑』にあった写真も見ていたにかかわらず、これまでずっと気がつかなかったのだったが、その如意輪観音は珍しい坐像なのだった。しかもその坐り方は、いまもなおそうしている朝鮮婦人の立膝だったのである。
「いやはや、おどろきましたね」
私は本堂を出ると、そこへつれて来てくれた祢酒さんにはじめて感謝する心持ちでいった。私はのちにまたもう一度、そんな立膝の彫像をみることになるのであるが、これはそのはしりだった。
高向神社から千代田神社へ
山をおりて、こんどは河内長野市をあちこちめぐるようにしながら、高向神社へ向かった。ついでそれからは、祢酒さんたちの言っていた田中氏と、千代田神社をたずねることになっていた。
ちょっとした丘陵のうえにあった高向神社は、由緒あるらしいなかなかのたたずまいだったが、なるほど南さんの言ったとおり、無人の社だった。この神社のことは清田さんがくわしかったが、今井啓一氏の「京畿及近江国における蕃神ノ社について」にもその位置などがしるされてこうある。
式外旧村社。高向神社。高向漢人の祖神か(いまは素戔嗚尊などを祀り、五社大明神と称している)。大阪府河内長野市大字高向上村(近鉄長野線、又、南海高野線ながの駅西南三十町、天野山への途中。広野又は水落までバス便あり)。社北の古墳は、高向氏の旧墳と里伝している。
私たちはさらにまた、清田さんの軽乗用車をさきにして進んだ。雨が降っていたので、視界はあまりきかなかったが、しかし、河内は南になればなるほど人家はまばらで、あたりの景色はよかった。
とある丘陵台地を下ると川で、その川向こうの段丘に相当立派な長屋門をもった家が見えた。清田さんと祢酒さんとについて私たちはその長屋門をはいったが、それが田中家だった。
もとは庄屋だったという田中家の母屋は、いかにも旧家らしいどっしりとした構えだった。その母屋からすると右手のこちらに新しい小家が建っていて、私たちはそちらのほうへ招じ入れられたが、そこは田中氏の書斎兼茶室となっていた。
要するに、この辺の地方史家で、夙川(しゆくがわ)学院短大の教授でもあった田中喜久三氏はそんな申し分のない生活環境のなかにいたわけだったのである。清田さんたちに紹介されて、名刺を交換すると、
「ああ、あなたは――」と田中さんは言って、ちょっとびっくりしたように私をみた。
つまり、こんなことをいうと自分でも何かこう鼻につくが、田中さんもまた私の『日本の中の朝鮮文化』を読んでいてくれたのである。しかも数時間ばかりまえに読みおわったばかりだったとかで、机のうえにあったそれを持って来てみせてくれた。よく知っている本である!
うれしくもあり、てれくさくもあったが、しかしともかく、こうなると話は早い。私がなんでそこまでたずねて来たか、目的は言わなくてもはっきりしていたからである。奥さんにも紹介されて茶をごちそうになり、私たちは田中さんといっしょに、近くにあった千代田神社に向かった。
それよりさき、自分の家の門を出るとき田中さんはふと思いついたらしく、その門袖の長屋のなかを見せてくれたが、そこには古い農機具がいっぱいしまわれていた。いまはもうめったにみることのできない、ぎっこんぎっこんの唐(から)(韓)臼(うす)など、それはまた私たちにとってもなつかしいものばかりだった。
「いやあ、これこそはまさに朝鮮へ帰ったような気分ですな」と鄭貴文も、朝鮮ではチェといっていた篩(ふるい)を手にとってみたりして言った。
「どれも、朝鮮とおなじものばかりだ」
「それは、そうでしょう。古いものはみな、そちらから来たものなんですから」
私たちのそんなはしゃぎぶりのほうがおかしいといったふうに、田中さんはそう言って笑った。田中さんはわざわざそれを私たちに見せてくれたことからして、朝鮮から来たものは神社とか古墳とか、そういうものばかりではありませんぞ、ということであったらしかった。
祖先の神のお姿?
千代田神社では、そこの氏子総代でもあった田中さんがあらかじめ電話をしておいたので、宮司の河合清一氏は装束をつけて待っていてくれた。私たちは拝殿に立ちならんで三分ほど上体を折りまげ、祝詞(のりと)を奏しおわった河合さんから祓(はら)いを受けた。
そして、神殿からうやうやしくとりだされた神体を見ることになったが、それは二体の小さな木像だった。一体はあとから祭神となった菅原道真ということになっていたが、もう一体の、長い鬚を組合わせた両手にまで垂らしているほうは、朝鮮から渡来してまだ間もないものの姿、ということになっているものだった。
しかし、私の見たところでは、それはどちらもおなじようなものとしか見えなかった。それよりか実をいうと、私は神体そのものよりも、『千代田神社縁起』にある神体の説明文と、さらにまたそれをそこで補足説明してくれた田中さんのことばのほうがおもしろかった。『――縁起』にはこうある。
江戸時代享和頃の著『河内名所図会』に、「天神祠 市村に在り 寺を法幢寺といふ 本尊十一面観音は聖徳太子御作也 長一尺七寸 神木に膝行松(いざりまつ)といふあり」と記し、又宝暦十三年正月の『神主宮勤致数覚』という記録に「天満宮」と記しておりますので、もとは「天神社」とか「天満宮」と申しておりましたが、明治時代になって「北山神社」とか「菅原神社」とか称し、菅原道真公を主神としてお祭り申してきた神社であります。
江戸時代以前の古記録は現存していませんが、道真公のご神体は檜材の座像で、平安末期の作と云われていますし、同時代作の他の一体のご神体は、この附近に住みついた人たちの祖先の神のお姿でありますので、そのご鎮座は平安時代にさかのぼる大変古い時代のことであろうと思われます。
これをみてまずわかるのは、神社もまたいろいろと変わってきたということであるが、問題は最後のほうの、「この附近に住みついた人たちの祖先の神のお姿」ということであった。私はこれを読んですぐ、さきにみた『河内長野商工名鑑』にあった文章、「いずれも三〜四世紀ごろ当地をひらき」「古代当地をひらいた人びとが祀(まつ)った産土神(うぶすながみ)」のそれを思いだしたが、田中さんは『千代田神社縁起』のそこを指さしながら、私に向かって言った。
「『この附近に住みついた人たち』とはどこから来たものだったか、こういえばもうあなたにはわかりますね。なにしろ、地元民の感情というものがあるので、いまはまだこういうふうにしか書けないのですよ」
「ええ、わかります。わかります」と言いながら、私はその『千代田神社縁起』の裏を返してみると、そこにはっきり、「田中喜久三謹記」としてあった。『河内長野商工名鑑』のあの名文も田中さんではなかったか、と私はふと思ったが、どうしてだったのか、それはきいてみなかった。
高句麗系の古墳と神社
彩色壁画のある古墳
翌日はからりと晴れあがって、よい天気だった。日曜日だったが、私たちはまた富田林市史編集室で祢酒太郎氏といっしょになり、それから藤井寺市の土師ノ里駅前で古田実氏と落ち合って、この日はまず、柏原市の太平寺へ向かった。
なぜ、まず柏原の太平寺へ向かったかといえば、そこには河内六大寺の一つだった智識寺跡があったからばかりではなかった。今年の四月十日付け朝日新聞(大阪)に、「古墳に朱の彩色/近畿で初めて/柏原で発見」という見出しの記事があって、こう書かれていた。
古墳時代における九州と近畿地方の文化的、政治的つながりを知るうえで、考古学上、貴重な資料となる彩色壁画のある横穴式古墳が、このほど柏原市太平寺の丘陵から見つかった。大阪学院大学の山本昭講師の指導による学術発掘で発見されたもので、彩色壁画は九州で数例あるだけで、他の地域からみつかったのはこれがはじめて。専門家の間で、注目を集めている。
発見された壁画は玄室(墓室)の奥壁に積まれた上から二段目にある石(縦六十センチ、横一・七メートル)に描かれている。長年土砂に埋まっていたため、図柄は不鮮明だが、人の形とみられる二体(いずれも高さ約二十センチ)で、いずれも顔料のベニガラの朱色がうっすらと残っている。
古墳に壁画を描いた「装飾古墳」はいままで福岡県と熊本県で発見されただけ。いずれも、古墳の奥壁に描かれている。九州北部以外では、壁に線彫りをほどこした古墳が柏原市の高井田古墳(史跡指定)などでみつかっている。
壁画のみつかった古墳は、通称岳山の中腹(標高六十メートル)のブドウ畑から出たもの。昭和の初期に開墾した際、三基が発見され、一基は埋めて畑となっていた。去年十月に山本講師らが残されていた二基の実測調査をした際に、築造上に時代差があった。そこで、埋められていた一基を大阪学院大学、大阪商業大学などの考古学研究グループが、三月二十日から調査していた。
山本講師の調査によると、この古墳は、七世紀初めの古墳時代後期につくられたもので、五メートル四方の玄室と幅二メートル、長さ六メートルの羨道(せんどう=通路)からなり、三メートルの高さに良質のかこう岩が四段に積まれている。山本講師の話では、顔料などで彩色するのは、朝鮮からの帰化系氏族の特徴で、歴代豪族の墳墓とみられる。高井田遺跡の線彫り壁画との関連などを調べるうえからも貴重だ、としている。
壁画古墳は九州以外のところ、たとえば東北の福島ほかでも見つかっているが、つまり、この記事のことを古田さんに話したところ、その古墳はいままだ発掘調査がつづけられているものだ、ということだったので、なら、まずそれから見てみようではないか、ということになったのだった。大和川を越すと、太平寺は間もなくのところだった。
河内平野に生き続ける歴史
そこはもと有名な智識寺のあったところだったので、それで太平寺というのらしかったが、集落のなかには智識寺の礎石などおいてある『延喜式』内の古い石(いわ)神社があって、私たちはその境内にクルマをとめた。するとほとんど同時に、そこへつづいて二、三台のクルマが到着し、六、七人の者がおり立った。
「やあ、やあ」というふうに祢酒さんや古田さんはその人たちとあいさつをかわし、ついで私と鄭貴文も紹介されて名刺をかわした。その人たちは、先日たずねて行って会えなかった柏原市史編集室長の重田堅一氏ほかの一行だった。なかには、さきに「摂津国百済寺考」の一文を引用したことのある藤沢一夫氏もおれば、また、『大阪府の歴史』の著者だった藤本篤氏などもいた。
いずれも『柏原市史』の編集に関係している人たちらしく、この人たちもまた石神社の背後となっているそこの岳山で発掘された壁画(装飾)古墳を見に来たものだった。私たちはみんないっしょになり、ぞろぞろつづいて、ブドウ畑となっている岳山の急な斜面を登って行った。
新聞記事にあったとおり、そこにあった古墳は開口されて、白い花崗岩の積み石を露出していた。そして十人ばかりの学生たちがいまなお調査をつづけていて、その中心となっていた関西大学考古学研究室の吉岡哲氏から、私たちはひととおりの説明を聞いた。壁画のあった奥壁の石ほかの出土品としては須恵器、古銭などがあったという。
ところで、私はさいぜんから気がついていたけれども、別名を大冠山ともいわれているというその岳山の中腹からのながめ、これがなんともすばらしいものだった。すぐ目の下は柏原市で、南のほうから流れてきた石川がそこで大和川の横腹にはいるようなかたちで合流している光景もよかったが、そこからは、皇陵といわれる古墳など点在している河内平野が一望のもとに見わたされた。
とはいっても、さきはかすんで見えなかったから、それは河内平野の一部にすぎなかったが、それだけでも実に広大なもので、私は河内というところを、いよいよ見直す気持ちにならないではいられなかった。東京などではもう見られない雄大な平野が、まだここにはある。
それにしてもまた、古代の彼らは実によいところを墓所としてえらんだものだと思う。「顔料などで彩色するのは、朝鮮からの帰化系氏族の特徴で、歴代豪族の墳墓とみられる」とある、その「歴代豪族」とはいったいどういう者であったのだろうか。
装飾古墳ともいわれている九州などの壁画古墳が高句麗系のものとみられていることからすれば、これもその高句麗系氏族ということになるはずである。そういえば、私たちの立っていた岳山の裏手にあたる大和川北岸には、同系統の線描壁画をほどこした高井田古墳群ほか、そういった古墳がいたるところにあって、ここは高句麗系とみられる狛(こま)氏族などの繁栄したところだった。
重田さんたちの一行とは石神社に戻ったところでわかれ、私たちは岳山をぐるりとまわるようにして、高井田古墳群のそれもみた。山腹の凝灰岩を掘り抜いた横穴がずらり、ずらりとならんでいたが、古田さんの話によると、その数は自分のわかっているものだけでも、五十は下るまいということだった。
しかもそれは生駒山系最南端の平尾山千塚の一部であって、それからさらにまた、おなじ生駒山系の高安山千塚や雁多尾(かりんど)畑(ばた)千塚の古墳となると、その数はおよそ千近くにもなるのではないかというのだった。
そんな数などはどうでもいいようなものだったが、しかし、千数百年もまえの人間のそれがいまなおたくさんそうして残っていることは、やはりいいことだと考えないわけにいかない。それを思うと、われわれはいかにも歴史のなかに生きているという感じがする。
金山彦・金山姫神社
さて、この日の私たちは高井田古墳群から、そこを流れていた大和川の対岸に見えている百済系だった船氏族の有名な松岳山(まつおかやま)古墳群へとまわった。――が、しかし、その高井田からちょっと行ったさきは雁多尾畑で、さきの「『騎馬神像』をたずねて」の項でみたように、あるいはみそこなったように、ここは金山彦神社と大狛(おおこま)神社のある高句麗の高麗(こ ま)、すなわち巨麻(こま)郷だったところだった。
そして私たちは、右のうちの金山彦神社と金山姫神社までは行ったにもかかわらず、そのさきにあった本堂(ほんどん)の大狛神社をみそこなったので、もう一度またそこまで行かなくてはならなかったこともさきに書いたとおりである。ここで日は前後するが、船氏の松岳山古墳群ほかはあとまわしとし、いまはつづけて、いま見てきたものとおなじ高句麗系のそれとされているこちらのほうを見ることにしたい。
最初にたずねてきたときは祢酒さんがいっしょで、後日(岳山の壁画古墳からはじまったこの日のことではない)の二度目は、古田さんが朝からいっしょだった。急な山道をしばらく登って行くと青谷大池という池があって、そのほとりに金山彦神社があった。
神社は荒廃したままとなっていて、人はだれもいなかった。その境内にも積み石を露出しかけている古墳が二つほど見えたが、私たちはその本殿のなかにあるはずの騎馬神像を見せてもらうつもりだったから、祢酒さんもいっしょになって近所の家をたずねまわってきいたところ、宮司の家はもう少し上へ登った金山姫神社にあるというのだった。
そこで私たちは彦(男)神社にたいして姫(女)神社のあることもはじめて知ったわけだったが、しかし、その姫神社まで行ってみたけれども、やはり宮司に会うことはできなかった。宮司の家では留守番のようにしていた谷口音次さんという老人に会って、私たちはしばらくことばをかわしたが、結局、私たち自身なにを言ったかわからないといった、そんなかたちでわかれなくてはならなかった。
だが、その老人はなかなかおもしろいところもあった。わかれぎわになって、姫神社の裏にひろいためてあった布目瓦のかけらを持って行けといってくれたり、また、その辺で見つけたという古い鉄滓などを私たちに見せてくれたりもした。
私はその鉄滓をみたことによって、この辺はやはり古代の製鉄と関係のあった「金山」だったのだなと思ったものだったが、次の二度目、その上のほうにあった大狛神社をたずねるために古田さんと来たとき、私はそのことをきいてみた。すると、古田さんはこともなく言った。
「ええ、そうですよ。ここはそういう技術をもった高句麗系の上連(かみのむらじ)、上(かみの)村主(すぐり)といったものたちの住んだところです」
巨麻郷の大狛神社
それからさらにまた上のほうへ登ってみてわかったが、いまは本堂となっているかつての巨麻郷は、ずいぶんけわしい山中だった。峠までは三、四百メートルも登ったかと思われた。だいたい標高三、四百メートルといった山地など、そういうところは全国いたるところにあるであろう。
ところが、ここはほとんど直立したような坂道を登らなくてはならなかったので、そんな山地とは比較にならないものだった。そういってはなんだが、こんなところによく人が住みついたものと思われるところだった。
しかしそれでも、人家はそそり立つ山肌にひっつくようにしてあったばかりか、あちこちには階段状の田んぼがあり、ブドウ畑があった。
どこまでも一本の道でしかなかった峠を越すとやや下りとなり、突然、目の下の底に大和(奈良県)の王寺町が見おろされたかとみると、また登りとなった。そしてその道が切れて行きどまりとなったところに小さな集落があって、そこが本堂だった。クルマをとめた横、民家の石垣のあいだから咲きだしていたシャボテンの真紅の花が、ひどく印象的だった。
あとで知ったけれども、集落のどこかからは別にまた道が通じていて、いまではその近くの信貴山まで近鉄が通ってきていたから、本堂の集落は私の思っているほど、そう不便なところにあるというわけでもないらしかった。
だが、しかし、それにしても古代は、――と私はあたりの深い山々を見まわして、そう思わないではいられなかった。そこに大狛神社などをかまえた狛一族というのは、いったいどうしてこんなところを居住地としなくてはならなかったのか。
要するに、いろいろなことが想像されるのであるが、人にきくまでもなく、大狛神社はすぐにわかった。小学校低学年の分校ともなっているらしい生安寺の裏手にあって、いまは荒れた小さな祠堂のようなものとなっているのがそれだった。
いわゆる『延喜式』内の古社であったとはとうてい思えないようなものとなっていたが、しかしかつてはこの神社も、その本堂の文化的高さに比例して、きらびやかで大きなものであったはずだった。さきの「『騎馬神像』をたずねて」の項でみたように、この本堂からは瑞花蝶鳥鏡という奈良時代の逸品が出土している。『柏原市史』「文化財編」によってそれをもう一度みると、本堂のことともあわせてこうなっている。
「巨麻郷」は本堂がこれに当る。ここには大狛神社が祀られてあり、奈良時代には狛一族の活躍が見られる。
本堂の文化財としては、まず第一に挙げられるものに区長相伝の唐式鏡(瑞花蝶鳥鏡)がある。いずれは狛一族の長のものだったかと考えられる優品で、本堂出土品であるところに一層その価値が高い。つぎに両墓制墓地が挙げられる。
私たちは大狛神社からの戻り、近くの家に寄って水をもらって飲み、庭でたくさんの盆栽をつくっていた主人の植田清吉さんという老人としばらく立ち話をした。本堂はついさきごろまでは三十戸ほどだったが、いまはそれが十八戸になってしまっているとのことだった。最近よくいわれている、典型的な過疎だった。
「学校出るとみんな月給取りになりましてな」と、植田さんは言った。「もう十年もしたら、この山はもとの自然にかえりますよ」
しかし、そこで生まれ育った人々は平地へと移って、ますますふえるにちがいない。故郷のない人間ということであろうか。
「帰化系」部民氏族
本堂の山をおりた私たちはもう一度柏原市にはいって、つぎは八尾市のほうへ向かった。まず、植松町にあった八尾市立労働会館分館に行ったが、そこは私も以前、その労働会館主催の文学講座で話すため一度来たことのあるところだった。そんなことから、そこの分館長である柏木十四夫氏とは私も鄭貴文も顔見知りだったので、私たちの来ることを知っていた柏木さんは、早くも手まわしよく『八尾の史跡』などの資料をとりそろえて待っていてくれた。『八尾市史』もそこにあった。
生駒山、信貴山につらなる高安山に面した八尾は、もとは箭尾(やお)、矢尾ともよばれていたところで、矢作部などのそういう職能部民が多くいたものだった。いまも弓削(ゆげ)という地や弓削神社などがあって、奈良時代の有名な弓削道鏡の出身地でもあった。
この弓削道鏡の出た弓削部などはどうなのかよくわからないが、こちらの八尾もまた高句麗系氏族の相当よく栄えたところだった。『八尾市史』をみると、「本市域における氏族の分布」というのがある。いまみた弓削部や錦部など二十いくつの部民氏族をあげたのち、つづいてさいごに「内地系に属するものに、つぎの氏族がある」として、こういうふうなものをあげている。
「玉祖連、玉祖宿禰」
「恩智神主」
「掃守部」
「積組造」
このばあいの「内地系」とはどういうことかよくわからないけれども、たぶん、いわゆる「帰化系」ではないという意味であるにちがいない。しかしよく考えてみるならば、あとでみるように、たとえばここにあげられている玉祖連などにしても、どういうものか知れたものではないはずである。つまり、それほどにもここはいわゆる「帰化系」氏族の多かったところというわけであるが、そのうちの高句麗系にはどんなものがあったか。『八尾市史』によってみると、それはこうなっている。
狛人
高麗国大武神の後と伝えられ、高麗国よりの帰化族である。和名抄に若江郡巨麻郷を伝えているが、その位置は不分明である。幸いにも、久宝寺の許麻神社がその名を伝えている。恐らくここがその本居であったろう。またこの氏族の職能についても明らかでない。
ついでにここで書いてしまうと、のち私たちは久宝寺にあるこの許麻(こま)神社をみてきているが、宮司の木下一彦氏からもらった『許麻神社由緒』によれば、これの祭神は素戔嗚尊・牛頭天王とともに、高麗王霊神・許麻大神ということになっている。してみると、ここにいた「狛人」というのは職能的部民氏族というよりは、この辺一帯の「王」となっていたものだったかもしれない。「またこの氏族の職能についても明らかでない」としている『八尾市史』がそれを裏づけているかのようにも思われるが、ここはかつて巨麻(こま)荘とよばれていたところでもあって、久宝寺の南口には許麻橋地蔵というのもある。『八尾市史』にもどる。
高安氏族
高麗国人大鈴から出た高安下村主があり、これらの一族が分れて高安造、高安連、高安公、高安宿禰となっている。……この一族が諸氏に分れ、いずれも官吏として相当の地位にあったことが知られる。正倉院文書の智識優婆塞等貢進文に、河内国高安郡玉祖郷の人として八戸史大国、橘戸君麻呂の名が見え、この人達は仏教の篤信者で、大国は僧侶に推薦されている。……
橘戸
この氏族の出身は不明であるが、高安氏族の分派であろう。知恩院所蔵の〓尼摩得勒伽巻六の奥書に橘戸の君麻呂、橘戸若島古、橘戸乙人古、橘戸島守等の名が見える。今の神立あたりに居をしめていたとおもわれる。当時において、経文を読み、巧みな文字を書けるものは中央の貴族か帰化族であって、この一族は仏教に篤く、すぐれた文化人であったようである。
ほかにまた高安山麓の寺院跡として、次のものがあげられている。
高麗寺
郡川部落の下から一直線に、通学道路が走っている。この道路の郡川と服部川との中間西側に小字高麗がある。ここからも奈良時代と思われる古瓦片が出土した。高安に多かった高麗族の氏寺であったであろう。史書にはすでにこの名を逸し、伝説また早く忘れ去られた。
このほかにも新羅系、百済系とみられるものや、高句麗系のものもまだたくさんあるが、『八尾市史』にはっきりそれと書かれている高句麗系だけでも、ざっと以上のとおりであった。どうも、ここでちょっと妙なことをいうようであるが、私のたずねるその遺跡は、あまりにも多すぎて困るほどなのである。
それだったから、いつも同行してくれている鄭貴文が笑いながら、あるとき言ったことがある。「これならもう、全部それだ、と一言いってしまえば、それでいいじゃないか」
だが、もちろんそうはいかない。それをこの目で、はっきり確かめてみなくてはならないのである。それが、この紀行なのだ。
「さあ、では」というわけで、古田実氏と私たちは柏木さんの好意による昼食をそこの労働会館分館ですまし、いまみた服部川の高麗寺あたりを目ざして行った。高安山麓の扇状地で、そこにはほかにも神光寺、法蔵寺などがあって、有名な高安千塚の古墳があるところだった。
高安千塚の古墳群
私たちはまず、近鉄の服部川駅あたりから急坂となっている扇状地の細い道を登ったりまがったり、また登ったりして、神光寺についた。医王山薬師院ともいうその寺を見るのが目的ではなく、そこの境内にある古墳を見るためだった。
なるほど一目でそれとわかる古墳の横穴石室は、草むらのあちこちにいくつも見えた。古田さんの話では神光寺の境内にあるそれだけでも十基は下るまいということだったが、そのはずで、この神光寺からしていわゆる高安千塚のなかにあるものだった。
「八尾の古文化財」の『古墳』によってみると、それはこういうふうになっている。
河内名所図会に、高安郡の山里、郡川のほとりの千塚と云う所に岩屋多く、その中から須恵器が出ることを記している。
これは高安千塚と称される古墳群のことで、市内高安地域には、前期に属するものから中期、後期に属するものに及び、古墳時代の全時期を通じての遺跡が現存し、殊に大小さまざまの後期横穴式古墳の群集地としては、府下最大である。……
後期は六世紀から七世紀にわたる時期で、山地から扇状地にかけて横穴式石室をもつ円墳が主で、時に方墳がある。高安群集墳はこれに属し、神立や大窪地域では、僅かに数基ずつ残っているのみであるが、山畑、服部川、郡川地域では、高安千塚の名の如く、以前には六〇〇余基を数えたと云われ、もっとも密集した地域は標高五〇メートルあたりから上方で、殊に一〇〇メートル〜二〇〇メートルの地域がもっとも多く、標高三〇〇メートル以上の所にも数基見られる。いま山畑で凡そ三〇余基、服部川、郡川地域で百数十基を数えることが出来る。……
このように後期の横穴式古墳の多いのは、社会構造のうつりかわりから、中期のような古墳のつくれなかった階層の中からも、次第に実力者が広がり、普遍化して来たと云われる。こうした横穴式の古墳には、色々な形をした須恵器や馬具などの類が埋葬されており、金環と称される金ばりの耳環なども多く出土している。
だいたいわれわれは、そこからどんなものが出土しているかということによって、それがどういう古墳であったかということを知るのであるが、朝鮮渡来のものとみられている「馬具」や「金ばりの耳環」など、これも相当な豪族のものであったにちがいない。いずれにせよ、それは高句麗の高麗(こ ま)から出たといわれる高安氏族のものであったであろうが、これもなかなかのものだったのである。今日にまで「高安」という地名をのこしていることからして、そのことはいえると思う。
ついで私たちは、服部川と郡川との中間にあるという小字高麗、そこにあったといわれる高麗寺跡をさがした。しかし、結局、それはわからなかった。
思いきりわるく、その辺の人に何度もきいてみたりしたけれども、やはりわからなかった。この高麗寺のことは、『八尾市史』にあったとおり、まさに「史書にはすでにこの名を逸し、伝説また早く忘れ去られた」のであった。
「しかし服部川、服部川駅と、服部の名はまだ残っていますな」と古田さんは、そこらの扇状地を見まわしながら言った。
「ああ、そうか。そうですね」と、私も言った。なるほどその「服部」というのは、高句麗の朝鮮語クレ(句麗)、すなわちくれ(呉)、呉服(くれは)ということからきたものでもあった。
それはそれでよいとして、私たちはそこでちょっと迷った。というのは、地域としてみると高安千塚のあるそこはちょうど八尾市の中間にあたるところであった。それで私たちは、そこから南へ向かおうか、北へ向かおうかということになったのだった。
玉祖神社の神体は立膝の朝鮮婦人像
どちらにもみたいと思うものがあったからだが、南には恩智神社や常世岐姫(とこよぎひめ)神社などがあった。常世岐姫神社はいまは八王子神社と名を変えているが、それのあるところは神宮寺というところで、「この付近一帯は六〜七世紀ころ、朝鮮半島より渡来・帰化した染色技術集団の人々が、河内の赤染部として居住していたところである」と「古田文書」にある。
また、そこにある八王子神社は、『八尾の史跡』をみるとこうなっている。
神宮寺の南端にある。古く常世岐姫神社と称し、式内社で、宝亀七年(七七六)夏四月に、河内国大県郡の人正六位上赤染人足ら一三人に常世連の姓を与えられていることがあり、この辺りの住人で、その祖神をまつったものであろう。
なおまた古田さんによると、大県郡だった大県は和徳史(わとくのふひと)や大里史らの本貫地だったところで、そこにはこれも朝鮮渡来氏族の祖神を祭ったものとみられる鐸比古(ぬでひこ)・鐸比売神社があったが、しかし私たちは、北のほうへ向かうことになった。そして別名を高安明神ともいわれているという、玉祖(たまのおや)神社をたずねることにした。
玉祖神社では、私たちはそこの神体を見せてもらおうと考えていた。その神体の彫像のことを最初に教えてくれたのは、これも富田林市史編集室長の祢酒太郎氏だった。
その祢酒さんは仕事のつごうで、きょうはいっしょではなかったが、氏は、さきにみた『柏原市史』「文化財編」にあった騎馬神像が朝鮮風だったことから、そのことについて、このまえ私も岳山の壁画(装飾)古墳を見に行ったとき会ったことのある、考古学者の藤沢一夫氏にきいてみたというのだった。すると藤沢さんは、
「それだったら、八尾の玉祖神社にある神体の彫像をごらんなさい。これはいっそうもっと朝鮮風ですよ」と言ったという。
神立(こうだち)というところにあった玉祖神社は、この辺に住んでいた玉造部の祖神を祭ったものとされている。玉造部といえば、大阪市内の玉造という地名ともかかわりがあるはずであるが、その祖神を祭った神社の神体がどうして朝鮮風の彫像であるのか。
玉祖神社は、いまみてきた神光寺とおなじように、これも八尾市街などを一望のもとにみおろす扇状地の斜面につくられたものだった。長い石段を登り、私たちはまず神社のほうをみてから、近くにいた宮司の津村孝次氏をたずねて、その神体をみせてもらうことにした。
八尾市立労働会館会館長の柏木さんが手まわしよく、あらかじめ電話をしておいてくれたので、津村さんはこころよく私たちにそれをみせてくれた。木彫の小さな夫婦神像だったが、一目みただけで、私と鄭貴文とは思わず顔を見合わせた。
男神像のほうはともかくとして、女神像のほうは、はっきりした立膝だった。しかもその膝をむきだしにしているので、だれの目にもすぐそれとわかるようになっている。なぜ膝をむきだしにしてまで、そのことを強調しているのかはわからなかったが、それは明らかに朝鮮婦人の坐った姿だった。
「なんだか、若いころのおふくろに出合ったような気がするね」と鄭貴文は言ったが、私もそんなことを思ったものだった。
玉造氏は支配豪族?
それからさらに私たちは、このような夫婦像を神体とした玉祖神社と関連のある心合寺山古墳も行ってみた。さきにみた神社もそうだったが、これもまた立派なものだった。「八尾の古文化財」の『古墳』によると、それはこういうものとなっている。
大竹の西方、標高三〇メートルのところにある南面の環濠式前方後円墳で、五世紀頃の中期古墳に属し、全長一三〇メートル、後円部の高さ一一メートル、直径四七メートル、周囲に大きな濠をめぐらした壮大なもので、多数の埴輪破片や礫石がみられることから、古墳の表面には小石を葺(ふ)きならべ、家型などの埴輪が立てられていたと考えられる。この種の古墳としては、中河内地域で唯一の遺跡であり、また府下における北限のものと云われる。……
この地域には、前期の向山古墳を上方に、後期の愛宕塚がその近くにあり、また下方には鏡塚があって、前、中、後期の全期にわたる一連の古墳群をなしている。これらはこの地の豪族玉祖連の祖大荒木命の墓とも伝えられ、東方山麓に玉祖神社が勧請されていることから、玉造部の伴造(とものみやつこ)としての玉造氏の先祖達の古墳群として、これら有力豪族の権勢を示す遺跡であろう。
いったい古代における玉造とは、また、玉造氏族とはどういうものだったのであろうか。これでみると玉造部などといった部民というより、むしろ彼ら自身完結的な、そういう強大な支配豪族ではなかったかと私には思える。こうして歩いてみると、新たにわからなくなることが多いが、これもその一つである。
なお、心合寺というのはこの地方ではシゴジと読むのだそうで、これは、この辺りにいたといわれる秦氏族の建てた秦興寺ということの訛ったものという。秦氏族というのはこれまた、いたるところにひろがっている。
心合寺古墳あたりから日が暮れはじめていたが、さらにまた私たちは、いまは東大阪市となっている若江郡の若江鏡神社をたずねた。古田さんによると、ここは高句麗系の鏡作部、刀子作部の本拠地だったところだったけれども、もちろんいまはそんなおもかげなどない。
しかしながら、ここはさきの『八尾市史』にもあったように、「若江郡巨摩郷を伝えている」ところで、この巨摩(高句麗)はいまもあちこちにその名を残している。東大阪を流れている第二寝屋川には巨摩橋があり、またその近くの大阪中央環状線東樟陰(しよういん)前というところにかつては巨摩寺があって、いまもそこに交通安全の「巨摩身代り地蔵尊」というのが立っている。
この地蔵尊まで来たときは、もうすっかり日が暮れてしまっていた。それにここまで来ると、東大阪市の中小阪に住んでいる鄭貴文の家がすぐ近くだった。つまりそういうことで、この日の私たちはそこまでで打ち切りとした。
中河内から北河内へ
司馬遼太郎氏の話
翌日からは、鄭貴文の住んでいる中河内の東大阪から見ることにした。そして北河内の寝屋川、枚方(ひらかた)というふうに行ってみようではないか、ということになった。
「いよいよ、おれの足もとまで洗おうというわけだな」と鄭貴文は言ったが、東大阪市はつい先年、布施市、河内市、枚岡(ひらおか)市の合併したもので、さきにみた高句麗系のものといわれる若江鏡神社などのほか、ここには百済系のそれとみられるものも少なくなかった。そのほうがむしろ多くて、たとえば同市の高井田には百済山長栄寺があり、その寺を建立したものたちの氏神であったとみられる鴨高田神社がある。
これは同市長田にある長田神社ともおなじ系列のもので、この神社のことは、今井啓一氏の「京畿及近江国における蕃神ノ社について」にこうある。
式外旧村社。長田神社。長田使主(ながたのおみ)(録 未定雑姓 河内国 百済系)の祖神か(いま八幡宮と称している)。大阪府布施市大字長田字相生(近鉄奈良線やえのさと駅の北十数町、バスの便あり、長田橋の東)。長田神社の北裏には旧家百済氏(長田一四四番地、現主、百済松治氏)あり、百済系の長田使主の末裔という。長田神社は、その祖神を祀ったものと思う。
私たちはその長田神社から、北裏にあった百済家もたずねてみた。なるほどずいぶんいろんな歴史を積みかさねてきたと思われる旧家で、今年八十歳になるという当主の百済松治氏は不自由な耳に補聴器をつけていたが、それでも私たちをよろこんで迎えてくれた。
一八八五年、明治十八年の淀川の洪水で古記録は全部失ってしまっていたが、そのかわり百済さんは、家の庭先やあちこちから出たものという古い土器の破片などを私たちに見せてくれたりした。朝鮮の「百済」がそこに、それこそ連綿として生きつづけているのを私たちは目の前にしたわけだった。
私たちはこの日の午後、あとは、こちらも鄭貴文とおなじ東大阪市に住んでいる作家の司馬遼太郎氏をたずねてすごすことになった。司馬さんは、私たちがこうして日本にある朝鮮文化遺跡をたずね歩いているのとはちょうど反対に、最近、南朝鮮の韓国へ行って、各地のそれを見て帰ったばかりだった。
「いやあ、みなさんにはわるかったけれども、おもしろかったですね。いろんなところをまわって来ましたよ」と言って、司馬さんは同行した写真家、井上博道氏の撮ってきたたくさんの写真をとりだして私たちに見せてくれた。
新羅の古都だった慶州はもちろんのこと、百済の古都であった扶余のそれもあれば、なかには、私自身の遠い祖ということになっている加耶(加羅)の中心地だった金海にある金首露王陵の古墳もそのなかにある。数十年もみていない山々の姿や、村のたたずまいもある。
どれもなつかしい、――というより、妙な国際関係下の在日朝鮮人である私たちは、いまなおまだ故国へ帰ってみることはできなかったので、鄭貴文もそうだったにちがいなかったが、私はちょっと複雑な気分にならないではいられなかった。司馬さんもそのことは知っていたので、「いやあ、みなさんにはわるかったけれども」というようなことを言ったわけだったが、しかしそれは、司馬さんとは関係のないことだった。
最後に、司馬さんは実地にそこを見て来たことで、重要な一つの訂正をした。朝鮮へ行ったことのある日本の歴史家たちは大和(奈良県)の飛鳥が新羅の慶州によく似ているといっているが、そんなことはない、というのが司馬さんの意見で、それよりむしろ、百済の扶余のほうがずっとよく似ているというのだった。どちらかといえば、大和の飛鳥は百済とのほうがはじめからさいごまで密接だったから、あるいはそうかもしれないと私も思った。
河内寺とその遺跡
翌日は朝から、東大阪市教育委員会をたずねた。そして私たちは社会教育部参事の松尾恵善氏から『東大阪市の文化財』ほかの資料をもらい、ついで同教育委員会主幹の藤井直正氏に引き合わされた。
端正な風貌の藤井さんは少壮の考古学者で、私たちからちょっと話を聞くと、すぐに河内直(かわちのあたい)の氏寺であったという河内寺のことをあげた。だが、残念なことにその河内寺は、いまはまったく跡形もなくなっているとのことだった。寺のあったところという写真を見せてもらったが、いまはただの田んぼと住宅とがそこにあるだけだった。
「これじゃしようがないですな。ほかになにか、証拠となるようなものはありませんか」と私は笑いながら、そう言ってみた。すると、
「証拠ですか」と藤井さんも笑って、教育委員会の資料としてそこにあった、自身と都出(つで)比呂志共著となっている『原始・古代の枚岡』をくれた。枚岡が合併して東大阪市となったことは、さきに書いたとおりである。
なるほど『原始・古代の枚岡』をみると、河内寺のことがかなりくわしく出ていた。まず、私はこれまでそんな古墳群のあったことも知らなかったが、河内直、すなわち河内氏族のものだったとみられる山畑古墳群のことからはじまって、それはこうなっている。
上四条町に所在する山畑古墳群は、かつては数十基を数える群集墳であった。今日では十数基が現存するにすぎないが、上円下方の墳形を示す二号墳、二つの石室を東西にならべた双円墳であった二二号墳、同じ二つの石室を築いた方墳であった三〇号墳など、特殊な墳形と構造をもつ古墳が含まれ、ほとんどの古墳に馬具が副葬されているということに特色が見られる。
双円墳の形式が日本で考案されたのか、大陸に源流があるのかについてはわからないが、二つの石室を同一の墳丘内に築いた方墳は、朝鮮の古墳に源流を求めることができる。また三三号から出土した杏葉(ぎようよう)は、茨木市南塚古墳出土の杏葉と文様・製作手法が同じである。南塚のものは大陸製のものと考えられているが、それを原型としてわが国でおそらく帰化人によって製作されたものであろう。
このように、山畑古墳群は、枚岡の他の古墳とちがって、墳丘の形式や副葬品に大陸的色彩が濃厚にみとめられる。このことは、この古墳群の被葬者が帰化人系の氏族であったのではないかという推論を可能にしている。
この地域に居住し、勢力を有した帰化人系氏族として河内直がある。
そして、「東大阪市河内町、瓢箪山駅を出た近鉄奈良線が大きくカーブをえがいて北に向かう線路の西方一帯に『河内寺』と書いて『こんでら』とよむ字名がのこっている」そこにあった「河内寺とその遺跡」については、こう書かれている。
河内国河内郡に所在し、「河内」の名を冠したこの寺は、この地に居住し、河内郡の大領をはじめ郡政を執った河内直一族の氏寺であったと考えられる。河内直は天武天皇一〇年(六八一)に連の姓を賜い、国政・郡政に当たるとともに、天智天皇八年(六六九)には遣唐使として渡唐した河内直鯨(くじら)を出すほどの名族であった。
この河内直は、『新撰姓氏録』河内国諸蕃に、「河内連、百済国都慕王(とぼわう)男、陰太貴首(いむたきす)王より出づるもの也」としてのせられ、河内直が百済国王の後裔氏族であることが知られる。出土屋瓦のうち、もっとも古い様式を示す端丸瓦は、河内国の寺院から出土しているものの中では異色であり、高句麗屋瓦の系統を引くものであること、のちの時代の屋瓦の中にも、この寺跡だけにしか見られない文様が多いことなども、百済系帰化人の建立した寺院としては当然のことであろう。
河内にあるいわゆる「帰化人」の古墳や寺院は、それだけであるかのような書かれ方となっているのがおもしろいが、それはともかくとして、ここにあらわれている河内直というのは、紀伊(和歌山県)の隅田八幡宮所蔵の有名な画像鏡銘文にある「開中(かわちの)費直(あたい)」と同氏族とみなされている。してみると、その画像鏡ももしかするとこちらの河内寺にあったものかもしれないが、紀伊のそれについては、いずれまたのちにみることになるであろう。
珍しい古墳・石の宝殿
東大阪もまだほかに行ってみたいところがあったけれども、私たちは大東市、門真市などを走り抜けて北上し、北河内の寝屋川市にはいった。ここはまた秦氏族にかかわる伝承の多いところで、京都の山城とおなじように太秦(うずまさ)というところがあり、秦河勝(はたのかわかつ)の墓といわれるものもある。
私たちは例によって寝屋川市教育委員会をたずね、同委員会社会教育主事の大谷友好氏から、『郷土寝屋川の歴史』『寝屋川市文化財』などをもらったが、これらもいたるところ、秦氏族のことである。たとえば、こんなふうになっている。
市の地域は、全国でも屈指の古い歴史をもち、東部の丘陵地帯には、石器時代の遺跡や古墳が多数散在している。延喜式内の古社も四社(内一社はいま守口市)あり、高宮には高宮氏の一族が栄え、秦、太秦には秦氏の一族が定住して、わが国上代の文化発展に貢献した(『寝屋川市文化財』)。
神宮寺跡
秦氏の氏神八幡宮の宮寺で、明治維新に廃寺となった。阿弥陀如来小座像はもと同寺にまつられていたもので、今は大恩寺境内の観音堂にある。遺跡のあたりから平安初期の古瓦などが出土し、その古い歴史を物語っている。古記録に見える秦寺の跡ではなかろうかとも考えられる(同上)。
ここにいわれている高宮氏族は東漢(やまとのあや)氏から出たものであるが、秦氏族がここで栄えたというのは、寝屋川市一帯から枚方にいたるまでの淀川左岸がそれであったいわゆる茨田堤(まんだのつつみ)のことからも、それは推しはかることができる。この茨田堤が秦氏族によって築かれたということは、『古事記』などにも出ている。
ところで、これは『寝屋川市文化財』にも出ているが、この市の打上に高良神社、いまは打上神社となっているものがある。そしてここにはまた石の宝殿というのがあって、大阪府警察本部編『大阪ガイド』にこうある。
石の宝殿
明光寺から少しのぼると鎮守打上神社があり、その東方の丘陵中にある。一に石の唐戸といわれるが、横穴式石槨の露出したもので、平たい石を下に敷き、上に大石を中空にしてかぶせた珍しい形式である。付近には、帰化朝鮮人の塚と思われる古墳が多い。
これのある打上というのはわかりにくいところで、私と鄭貴文とはやっとそこをたずねあてた。丘陵とはいっても、かなりの急坂を登ったところだった。
途中、朝鮮家屋とそっくりおなじ門構えの旧家があったりして、私たちはしばらくその前にたたずんだりしたものだったが、それからもう少し登ったところに、いまも「高良神社」という大きな石の標柱が立っていた。明治維新のとき打上神社と名称を変えられていたにもかかわらず、いまもそれが高良神社となっていたわけである。
その東方の石の宝殿なるものも行ってみたが、これもいまなお熊笹のなかにはっきりした形を残していた。玄室それ自体が石棺を兼ねた、珍しい古墳だった。ここでさらにまた、牧村史陽氏の「河内高良(こうら)神社と石の宝殿」をみると、それはこういうものとなっている。
高良神社というのはほかにもあるが、社名の高良はコリア、あるいは高麗(こうらい)のなまりと考えてよく、近くの枚方(ひらかた)には百済寺跡や百済王神社、津田町には王仁(わに)の墓といわれるものもあるなど、この辺一帯は七世紀前後に朝鮮半島から移住した帰化人の集団居住地であり、その帰化人が祖神をまつったのがこの高良神社であろう。いま祭神は武内宿禰となっているが、古記録は何もなく、末社に神功皇后社があるのも、朝鮮半島との関係がうかがえるのではないか。
高良神社東方の丘陵上に、石の宝殿と称する珍奇な形式の古墳が石槨を露出している。これはおそらく、高良神社に関係の深い帰化人の墳墓とみるべきである。
疑わしい王仁の墓
さてこんどはおなじ北河内の枚方であるが、いまの引用でみたように、ここには百済寺跡や百済王神社のほか、王仁の墓といわれるものがある。王仁とはいうまでもなく、古代朝鮮の百済から『千字文』『論語』など、すなわちはじめてその文字を日本にもたらしたものというあの王仁のことである。
それで、王仁はいまなお日本儒学の祖ともいわれているのであるが、この王仁が百済から渡来したのは、だいたい四世紀末ということになっている。そして王仁は南河内の、いまの羽曳野市となっている古市を本拠とした西(かわち)(河内)文氏の祖となったものとされているのである。
その王仁の墓がどうして、北河内のこんなところにあるのか。それはともかく、『枚方市の文化財』をみると、「沿革」がこう書かれている。
伝王仁墓
享保一六年(一七三一)京都の儒学者並川五一郎が枚方市禁野の和田寺でその古記録により、王仁の墓が藤坂御墓谷にあることを知り、この地を踏査して現在の自然石の立石を発見し、これを王仁博士の墓とした。これが王仁塚と言われた最初である。
この石の傍に領主久貝因幡守正順は「博士王仁之墓」の碑を建てた。また文政一〇年(一八二七)有栖川宮の家来、家村孫右衛門はこの境内に有栖川宮染筆になる「博士王仁墳」の碑を建立した。
その後、明治二三年、三二年に墓域拡張、整備の工事を起こし、また同四三年に王仁神社建設を計画したが、それぞれ日清、日露、世界大戦などのためにはばまれて、実現を見ないままの現状である。
昭和四〇年一二月、有志により、塚の両脇に紅白の梅が植樹された。また、現在、三国(韓国、中国、日本)の親善から、毎年一回秋、合同慰霊祭が現地で開かれている。
私たちも、国鉄片町線の長尾駅から約五百メートルほど登った丘陵のうえにあった、その王仁の墓というのへ行ってみた。まず最初に目についたのが裏手にあった十戸ばかりの朝鮮人集落だったので、私たちはちょっとびっくりしたものだったが、もちろんその集落と王仁の墓といわれるものとは、なんの関係もなかった。
集落のこちら左手の森に小道がつうじていて、なるほどそこには「博士王仁之墓」とした碑があり、ほかにもまた「儒学の祖を偲びて」とした石碑などが草むらのなかに立っていたりした。だが、しかし、これがほんとうに西(河内)文氏、すなわち王仁系氏族の祖といわれる王仁の墳墓であるかどうか、それはずいぶん疑わしいものとみなくてはならなかった。
だいたい、これを王仁の墳墓としたのは、「京都の儒学者並川五一郎が枚方市禁野の和田寺でその古記録により」ということであるが、「その古記録」とはいったいどういうものであったのか、これも私は疑わしいものであったにちがいなかったと思わないわけにいかない。
というのは、「また、現在、三国(韓国、中国、日本)の親善から、毎年一回秋、合同慰霊祭が現地で開かれている」その「慰霊祭」に水をさすようで悪いけれども、私にはこれが王仁の墳墓であるとはとうてい思えないからである。地理的にみてそれがここにあるのはおかしいといった、そんなようなことからだけではない。
それはどうであれ、とにかくこれが王仁の墳墓でないことは、はっきりいえるのではないかと私は思う。このことについてはあとでまた、古市にある王仁系氏族の氏寺であった西琳寺をみるときのべることにしたい。
特別史跡の百済寺跡
ついで私たちは、これも枚方市内の丘陵台地にあった百済寺跡をたずねることにした。百済王神社もそこにあるここへは、私たちはすでにさきにも一、二度行ったことがあったが、この日はまたあらためてというわけで、まず、枚方市の教育委員会に寄った。
そして社会教育課長の重乃晟悟氏、市史編纂室長の竹安清氏たちと会って、さきに引いた『枚方市の文化財』や『百済寺跡公園』などのパンフレットをもらい、社会教育課文化財担当の平川清弌氏といっしょに、百済寺跡へ向かった。百済寺跡はいまは特別史跡公園となっているが、さきに『百済寺跡公園』によってその「沿革」をみるとこうである。
この寺は、聖武天皇の時代、百済王敬福が奈良東大寺大仏鋳造に際し、塗装用の金を奉ったことから河内守に任ぜられ、それ以後中宮に住み、その氏寺として同寺の建設をはじめ平安時代初期に完成したと思われる。
昭和四〇年大阪府の発掘調査によって、伽藍配置は、南大門、中門、東西両塔、金堂、講堂、食堂の順序となり、回廊は中門から左右にのびて東西両塔を囲み、金堂左右に続くという、わが国ではその例を見ない、新羅感恩寺と同様式である。
なお、この地下には七〇余の礎石が原位置に保存されている。誠に貴重な遺跡である。
よって、昭和一六年史跡指定され、昭和二七年三月二九日に特別史跡に昇格した。
特別史跡としては、大阪府下でも大阪城跡と百済寺跡の二ヵ所であり、地元民の強い要望があり、昭和四〇年より、三ヵ年計画で環境整備事業を実施し、史跡遺構の復元に中心をおく市民の休養公園として、整備される日も近い。
このパンフレット『百済寺跡公園』が発行されたのは昭和四十二年、一九六七年のことだった。それで「整備される日も近い」などとあるが、いまはもうすっかり整備されているばかりか、一角にはこのまえ私たちが来たときにはまだなかった収蔵庫までできて、そこでは寺跡からの出土品を展示している。
私たちはその収蔵庫に展示されている百済寺の復原図や出土品の古瓦などをみせてもらい、あらためてまた、よく整備された公園のあちこちをぶらぶら歩いてみた。その辺に松がすいすいと立っているのもよかったが、なによりもの光景は、そこから枚方市内が一望のもとに見えることだった。
どこにも見られる、ビルなど立ちならんでいるそんな都市と別に変わりない光景であるが、しかしながら千二百数十年前、つまり「聖武天皇の時代」ここに百済寺などを建てた百済王敬福らにとっては、それはまさに想像もできなかったはずのものだった。やはり、歴史の流れというものを強く感じないわけにいかない。
しかし、とはいっても、ここにいた百済王敬福らの百済王族は、河内でこれまでみてきたもの、さらにまたこれからみるであろう百済王族らのそれにくらべれば、これはずっとのちに渡来したものたちであった。たとえばさきの「百済王族をめぐって」の項でみたように、藤井寺市の辛(韓)国神社や葛井寺などを氏神、氏寺としたものたちの祖であった辰孫王の渡来は四世紀末か五世紀はじめであり、またいまさっきみた王仁にしてもだいたいおなじころであったのにたいして、こちらの百済王族が来たのは七世紀半ば以後になってからだった。
そのあいだ二世紀以上の開きがあったわけであるが、つまり、こちらの百済王族がやって来たのは六六〇年の百済滅亡後のことで、いわば彼らはこのときの亡命者だったのである。そしてこちらにいた百済王族の彼らは、日本でもなお依然として「百済王」を称していたわけであるが、今井啓一氏の『百済王敬福』によってその系譜をみると、これは次のようになっている(系譜は電子文庫版では省略)。
カッコ内はその官職であるが、これでみると百済王氏は代々、東北にやられていたものであることがわかる。そしてその百済王氏の中興ともいうべきものが、陸奥守だった敬福であった。なぜ彼が中興となったかといえば、それは彼の任地であった陸奥、すなわち東北における産金と関係があって、『続日本紀』の七六六年、天平神護二年条にある「敬福伝」をみると、そのことが次のように書かれている。
壬子(二十八日)、刑部卿従三位百済王敬福薨(こう)ず。其の先は、百済国義慈王より出ず。……
百済王昌成、幼年、父に随いて帰朝し、父に先だちて卒す。飛鳥浄御原の御世に小紫を贈り給う。子、郎虞。奈良の朝廷(みかど)の従四位下摂津亮(せつつのすけ)敬福は、即ち其の第三子なり。放縦にして拘らず、頗る酒色を好む。感神聖武皇帝、殊に寵遇を加えて賞賜優厚なり。時に士庶あり来りて清貧なることを告ぐれば、毎(つね)に他物を仮して望外(もうげ)に之を与う。是(こ)れに由り、頻(しき)りに外任(げにん)を歴(ふ)れども家に余財無し。然して性了弁(しようりようべん)にして政事(まつりごと)の量あり。
天平年中に仕えて、従五位上陸奥守に至る。時に聖武皇帝、盧舎那(るしやな)の銅像〈大仏〉を造り給う。冶鋳畢(おわ)りて塗金足らず。而して陸奥国より駅(はゆま)を馳(は)せて、小田郡より出でし黄金九百両を貢(たてまつ)る。我が国家(こくけ)、黄金此れより始めて出でたり。聖武皇帝甚だ以て嘉賞し、従三位を授け宮内卿に遷(うつ)す。俄(にわか)にして河内守を加えられる。
勝宝四年に常陸守を拝し、右大弁に遷る。頻りに出雲、讃岐、伊予等(ども)の国守を歴(へ)たり。神護の初に刑部卿に任ぜられる。薨ずる時、年六十九なり。
百済王氏繁栄の跡
ついでに最後までみたのであるが、「従三位を授け宮内卿に遷(うつ)す。俄(にわか)にして河内守を加えられる」とは、宮内卿兼河内守となったということで、これはすなわち、その金の発見がどんなに大きな文化的事件であったかということだったのである。
それは『万葉集』に「陸奥(みちのく)の国より金(くがね)を出(いだ)せる詔書を賀(ことほ)ぐ歌」などまであることからもわかる。当時、越中守となっていた大伴家持はそのことを、「東(あづま)なるみちのくの山に金花(くがね)咲く」とうたったものだった。
そのとき金の発見された小田郡は、いまの宮城県遠田郡だった。ここの涌谷町黄金迫(こがねざま)には黄金山神社があって、いまなお往時のそれをものがたっているとのことであるが、そうして百済王氏は一躍中央にまで進出し、天皇家ともいよいよ密接なものとなった。『百済寺跡公園』にも、そのことがこうしるされている。
さて百済王氏歴代の一族は、それぞれ相当の活躍をいたすとともに、その娘は宮廷に入って皇妃となり、女御となった。ここに百済王家は天皇家の外戚となって、両者の関係は深まる。桓武天皇妃となったものに太田親王を生んだ百済王武鏡の女たる教仁、河内親王を生んだ百済王教徳の女たる貞香、大納言右大将正三位良峯安世を生んだ永継たちがあり、百済王俊哲の女たる教法も同天皇の女御であった。また嵯峨天皇の女御となったものに、基良親王、基子内親王等を生んだ百済王俊哲の女たる貴命の外に、俊哲の孫娘たる慶命などがある。
宝亀二年(七七一)における光仁天皇の交野(かたの)行幸をはじめとして、桓武天皇は延暦二年(七八三)から同二一年までの二〇年間に、一〇余回の交野行幸をせられている。……いずれも放鷹遊猟、すなわち鷹狩を楽しまれたのであろうが、これは百済伝来の狩猟方法であると思われる。
いわば百済王氏が栄え、同時に百済寺が栄えた絶頂の時期だったのであろうが、その百済寺跡につづいてここに百済王神社がある。扁額に「百済国王/牛頭天王」とあることからもわかるように、百済王氏族の祖神を祭ったもので、この神社はいまなおはっきりとその形をとどめている。
以上、北河内の枚方における百済王氏繁栄の跡をみたわけであるが、しかしこれはいまみてきたとおり、七世紀半ば、百済滅亡以後に渡来した百済王族のそれだった。われわれはここでさらにその歴史を二、三世紀さかのぼり、次はもう一度また南河内の柏原や羽曳野をまわってみなくてはならない。
松岳山古墳群と玉手山
船氏族の栄光
柏原となれば、さきにみておきながら書き残している松岳山(まつおかやま)古墳群から、ということにしなくてはならない。柏原市国分というところにあって、山の麓には松岳山古墳群の所有者でもある国分神社がある。
このときはいつもの鄭貴文ほか、古田実、祢酒太郎氏たちがいっしょだったが、私たちはまず、そこの国分神社をたずねた。そして社務所に寄り、山の頂上にある古墳を見せてもらうことをたのむとともに、神社の『由緒書』などもらって、山の斜面を切りひらいて台地とした境内のあちこちを歩いてみた。
国分神社は『由緒書』にもあるように、いまでは「大国主命と少彦名命、更に飛鳥部の伴造の飛鳥大神の三柱」が祭神となっているけれども、これはもと船氏族が祖神を祭ったその氏神だったものである。境内に古い献灯があって、それに、「河州安宿郡国分村」という文字がみえる。
たぶん、江戸時代のものではないかと思われたが、その「安宿(あすか)郡」という文字に、私はちょっとしたある感慨をおぼえたものだった。この「安宿」ということばこそは河内飛鳥、または近つ飛鳥、遠つ飛鳥ということの原語でもあったのである。
そのことについてはあとでまたふれなくてはならないが、ついで、私たちは山の灌木をかきわけながら急坂を登り、頂上部にある有名な船氏の古墳群に至った。古墳は、大阪府警察本部編『大阪ガイド』でみると、こういうものであった。
松岳山古墳群
近鉄国分駅の東方、大和川の南岸に位置し、前面は修徳学院の建物をふもとにひかえた道明寺と対して、その東西に長く伸びた丘陵上に一基の前方後円墳と六基の円墳とがある。美山古墳はその頂上にある巨大な前方後円墳で、両面して低平な前方部があり、それにくらべて高大な後円部には、多数の板石を使用したタテ穴式石室と、その中に縄掛突起をもつ棺蓋をのせた長持形石棺がある。
昭和三四年発掘調査の結果、鏡片・車輪石・石釧(いしくしろ)・勾玉・管玉・銅鏃・鉄刀剣など多数の遺物が出土した(史跡指定)。付近から江戸時代に船首王後(ふねのおびとおうご)の墓誌銘のある銅板が出土し、それによって百済から帰化した船氏の墓であったことが知られる。
なるほど、四世紀の築造とされているその美山古墳というのは、巨大なものであった。部厚い石の棺蓋はいまもそこにあって、上下両方向かい合うようにして、大きな石の立板が屏風のように立っている。その立石はどういうことからのものだったのか、上部のほうに小さな丸い穴があいていた。なんのための穴か、これもわからなかったけれども、千五百年も前の古代のそれとは思えないほど、精巧にできたものだった。
まことに非礼なことではあったが、棺蓋の上に立ってみると、そこからも河内平野の一部を見わたすことができた。私たちは樹木に囲まれたその棺蓋に腰をおろして、古田さんから、そこの付近で出土した七世紀の船氏の墓誌銘がどういうものであったかということを聞いたが、それについては、『柏原市史』「文化財編」にもかなりくわしく出ているので、ここではそれを引用したほうがよいだろう。
現存するわが国最古の墓誌で、明治の初めごろまでは古市の西琳寺に所蔵されていたものである。発掘されたのは松岳山古墳のある丘陵であるが、出土した年月、地点、発掘者や経緯などについては何ら伝えがない。
鍛銅製厚み〇・一センチの極めて薄い短冊形の銅板で、表裏面ともかすかに鍍金の跡がある。
表面に八六文字、裏面は七六文字の計一六二字が鑽のような刃物で鏤刻されている。
墓誌の概意は、
船氏の王後首(おびと)は、王智仁首の孫で、那沛故(なはこ)首の子に当る。敏達天皇の時に生れ、推古天皇、舒明天皇の二天皇に仕えた。天皇は王後首が優れた才能を持ち、勲功があったので、大仁という第三階の冠位を与えられた。舒明天皇十三年(六四一)に逝去した。その後二十七年経った天智天皇七年(六六八)に夫人の安理故能刀自が亡くなったので、夫人と一緒にして松岳山にある兄の刀羅古首の墓に並べて葬った。この場所は、のちのちまで神聖な霊域である。
この墓誌は天智天皇七年(六六八)、わが国最古のものというだけでなく、古事記・日本書紀の選述される以前の文章として貴重である。また文中に見える特異な文字および用法、さらには聖徳太子の制定になる冠位の「大仁」の見えることなど、各分野の学問にとっても極めて貴重な内容を持つものである。
船氏は、応神天皇の時代に朝鮮半島の百済から帰化した辰孫王の子孫で、その一族は国分の一帯に船氏、藤井寺市を中心に津氏、葛井氏の三氏に分かれてそれぞれ繁栄した。これら三氏の子孫は、更にいくつかの氏に分れ、永く宮廷内外で活躍した。
なお、この船氏の墓誌は、いまは東京の三井高遂氏の所蔵となっているが、そのことについては、国分神社『由緒書』にこうしるされている。
江戸時代の考古学者藤井貞幹はこの墓誌を古市の西琳寺で寛政六年に発見したと『好古小録』に書いているが、明治初年の廃仏騒ぎで、当時の堺県令税所篤や数人の手をへて三井家の蔵におさまったものと思われる。同県令は当社の古墳も盗掘するなど、各地で暴威をふるったと伝えられる。
たいへんな県令もいたものであるが、当時はこちらの河内も堺県となっていたものだった。明治維新から間もないどさくさのころだったとはいえ、この県令の古文化財にたいする「暴威」は相当なものであったらしい。そのことは、ほかでも何度か聞かされた。
田辺廃寺のユニークな構築法
松岳山古墳群の山をおりた私たちは、おなじ柏原市の国分にある田辺廃寺の春日神社へ向かった。ここはもと田辺史(たなべふひと)、すなわち田辺氏族の氏寺だったところだった。
田辺史といえば、『日本書紀』雄略九年条に有名なこういう説話がある。
飛鳥戸郡(安宿郡)に住む田辺史伯孫の娘は古市郡に住む書(ふみの)(文)首(おびと)加竜に嫁していた。伯孫は、その娘に男の子が生まれたのを祝いに行っておそくなり、月明りをたよりに誉田陵(応神陵古墳)まで帰って来たところ、そこで赤馬に乗った人に出合った。その赤馬はとてもすばらしい馬だったので、伯孫はたのんで自分の乗っていた馬ととり換えてもらった。
伯孫はよろこんで家へ帰り、翌朝、厩をのぞいてみると、その赤馬は土馬(はにま)となって立っていた。おどろいた伯孫は誉田陵のそこまで行ってみると、自分の馬がたくさんの土馬のあいだにたたずんでいた。伯孫は昨夜とり換えた土馬をそこにおいて、自分の馬をつれて帰った。――
『日本書紀』の筆者は、どういうつもりでこんなエピソードをそこに挿入したのかは知らないが、要するにわれわれはこれによって、応神陵古墳のそこにはたくさんの馬の埴輪があったということと、日本にもようやく乗馬の風習が一般化していたこととを知るのである。それがおなじ百済系渡来氏族どうしであった田辺氏族と古市の書(ふみ)(文)氏族とのあいだの往来だったというのもおもしろい。
その田辺氏族の氏寺で、いま春日神社となっている田辺廃寺は、ちょっとみたところでは、わずかに塔礎石をのこしているだけで、かつてのおもかげなどもうどこにもなかった。それでも廃寺、いや、神社の人にいわれて境内を歩いてみると、草むらのあいだに布目瓦などの落ちているのが目についたが、この寺は、数ある寺院のなかでも珍しいものの一つだった。『柏原市史』「文化財編」はそのことを、いま私の紹介した『日本書紀』のエピソードにつづけてこう書きしるしている。
この田辺は百済系の帰化氏族で、氏寺と考えられる寺跡が、春日神社境内にある。社務所の北に東西両塔跡が遺(のこ)り、更にその北には金堂跡も遺っている。
田辺廃寺が特に著名な理由は、東西両塔跡の基壇構築材にある。すなわち、東塔基壇は〓(せん)と呼ばれる煉瓦状のブロックを積上げた〓積基壇であることと、現状から推察して基壇四周がほぼ完全に遺存しているだろうという所にある。各地の古代寺院跡の調査で〓積基壇の例は挙げられるが、田辺廃寺の完全なものに比べ得るものは皆無といってよく、現代では岐阜県に一例を数えるのみである。
次に西塔跡の基壇構築も例の少ない瓦積基壇である。平瓦の長辺を前面に小口積にしたもので、この方も四周が完全に遺存している。しかも西塔の場合は塔跡の心礎をはじめ、一七個の礎石が四個を除いて原位置に遺存している。この瓦積基壇も完全例は少なく、兵庫県伊丹廃寺はじめ、京都府に二例、奈良県に一例を数えるのみである。
なお〓積基壇は更に少なく、田辺廃寺を除いては美濃国分寺(岐阜県不破郡)金堂だけといってよい。
瓦積基壇はすでに朝鮮半島において行なわれた構築法で、わが国では奈良時代前期にはじまるようである。
田辺廃寺の春日神社から出ると、前方にかなり高い丘陵地帯が、目の前を塞ぐようにしているのが見えた。古田さんは、夕陽が向こうにおちて陰の部分となっている、そこを指さして言った。
「あの丘陵が、玉手山古墳群です。とはいっても宅地開発のため、いまはいくつも残っていませんがね」
玉手山古墳群
宅地開発。――それはどこでも、どこまでも、ほんとうに恐ろしいほどの勢いで推しすすめられていた。記念すべき古墳であろうが、なんであろうが、という状態で、もとは古墳から「玉が出た」ことからきたものというその玉手(出)山丘陵も、見えるものはほとんどみな住宅ばかりだった。
しかも、そこにあった古墳はみな重要な、古い前期のものばかりだった。「古田文書」によってみると、こういうものであった。
玉手丘陵は海抜一〇〇メートル未満の丘陵であり、その頂部には全部で約二〇基を数える前期古墳群が点在しており、東山の東側ふもと付近は、昭和四三年の春〜夏にかけて約二五基の横穴群が発見されて有名となった。
頂部にある前期古墳は河内でも最も時代が古く、応神陵を中心とする古市古墳群より先行するもので、河内の先住支配者層の共同墓地である。墓誌がないので判明しないが、物部一族または志貴県主(しきのあがたぬし)一族のものと推定しているものの、確証はない。
「応神陵を中心とする古市古墳群より先行する」ものであるとすれば、応神陵は五世紀の中期古墳であるから、これは四世紀はじめあたり、ということになるわけである。さきにみた松岳山古墳群、その頂上部にある前方後円墳は王後の墓誌に先だつこと三百年にもなる四世紀の前期古墳であったこととあわせて、これについては別にまたよく考えてみなくてはならないと思われるが、ところで、いまみた玉手山古墳群の被葬者は、いったいどういうものであったのだろうか。
それについては、私も「確証」をもっているわけではないが、この玉手にはいまも付近の産土神(うぶすながみ)、すなわち氏神となっている伯太彦(はくたひこ)・伯太姫神社がある。今井啓一氏の「京畿及近江国における蕃神ノ社について」をみると、それはこういうものとなっている。
式内(安宿郡)旧村社。伯太彦神社。田辺史の祖 伯孫。大阪府柏原市(旧南河内郡国分町)大字玉手の玉手山安福寺境内、その門前、右へ磴道上る(近鉄南大阪線「どうみょうじ」駅下車、石川を渡って東南数町。又は近鉄大阪線「こくぶ」駅下車、西して玉手山に至る数町)。いま牛頭天王社と俗称し、安福寺の鎮守で、又、玉手部落の産土神となっている。
式内(安宿郡)旧村社。伯太姫社。田辺史の祖の女神(いま白山権現と呼ぶ)。大阪府柏原市(旧南河内郡国分町)大字円明(えんみよう)寺字垣内山、前記の伯太彦神社の南数町。
右の伯太彦・伯太姫両社は明治末の神社合併令で古市町旧府社誉田(こんだ)神社へ移され、彦社はその応神天皇陵へつづく廟道の西側へ独立社殿として、姫神社は誉田神社本殿へ合祀されたが、両社とも昭和二十一年七月、旧地へ復興し、うち姫神社は社殿も新築されて、それぞれ旧社地に現存している。
こうしてみると、その玉手山古墳群は、田辺氏族のそれではなかったか、ということが当然考えられる。「田辺史の祖 伯孫」は五世紀ごろの人間らしいが、しかし、その伯孫が朝鮮・百済から渡来したそのときの「祖」であったというわけではない。そのことは、松岳山に四世紀からの前期古墳をもっていた船氏族王後のそれをみてもわかる。
なおまた、いまみた安福寺の境内には、玉手山の頂上部にある勝松山古墳から出土した割竹形石棺がおかれてあるが、これについて『柏原市史』「文化財編」はこうのべている。
現在、この種の割竹形石棺、直弧文を配した石棺はきわめて例の少ないものである。石材は良質の花崗岩で、形・大きさ・質などの優れているところから、遠く大陸から舶載されたものであろうとの説があるが、これはすぐには信じ難い。このことは、付近一帯の氏神、伯太彦神社の祭神が帰化氏族の祖神であるところから導かれた発想であろう。
「すぐには信じ」ないのは自由であり、結構なことでもあるが、しかし、ではいったい、そのほかにどういう「発想」があるのか。もしあるとすれば、この筆者はそれを示さなくてはならないのである。
誉田八幡宮と天満宮
全部みなそれだ!
これまで、私が大阪府下の河内をたずねたのは、何度になるであろうか。忘れてわからないが、河内へのこの「旅」ということでは、たぶん、これが最後となるであろうその日、私が東京から東大阪市の鄭貴文の家についたのは、午後三時近くになってからだった。
そして待っていてくれた鄭貴文といっしょになり、私たちはさっそくクルマを出して、大阪市住吉区にある阪南高等学校に、清田之長氏をたずねた。すぐ校長室に通された私たちは、そこで清田さんからかなり部厚な書類を手渡された。
それは清田さんが『大阪府全志』その他によって、克明に調べ上げた大阪府における神社のリストと、それからこれも克明な、それら神社の所在地をしるした地図とであった。しかも神社のリストと地図とには、いちいち番号がふってあり、その番号によって所在地もわかるようになっていた。
私はまず、そのようにまでしてくれた清田さんの好意と熱意とに感動したものだったが、ところで、そのリストにある神社の数は全部で七百三社、それにはまたいちいち、>印や○印がつけられている。注をみると、>印はいわゆる「帰化人系の神を祀った社」であり、○印はそのうちの「素戔嗚尊を祀った社」とある。
「いやあ、これはおどろいた」と、いっしょにそれを見ていた鄭貴文がさきに声をあげた。「ほとんど全部みなそれじゃないか。これだったらほんとうに、なにもいちいちみて歩く必要などないね。全部みなそれだ、と一言いってしまえば、それでもういいようなものじゃないか」
いつもの彼の冗談だったが、しかしそれは、ほんとうにそう言いたくなるようなものだった。七百三社のうち、これから私たちはそこへも行ってみようと考えていた誉田(こんだ)八幡宮はじめ、>印のないものはほとんどなかった。要するに、全部みなそれだったのである。
このことはもちろん大阪とは限らないはずで、それには私もおどろかないではいられなかった。で、そのことをいうと清田さんは、
「しかし、事実だから仕方ありませんね」と言った。「さきの戦争の体験からして、わたしたち日本人も、これからはすすんでそのことを明らかにしていかなくてはならないと思うのですよ。神とはいっても、もとはみな人です」
私たちは清田さんといっしょに阪南高校を出て、東住吉区矢田枯木町にあった阿麻美許曾(あまみこそ)神社から、河内の羽曳野へとまわった。阿麻美許曾神社は、これも比売許曾神社といったものとおなじく、朝鮮語の尊称であった居世(コセ)、すなわち許曾(こそ)をもったもので、私はまえからちょっと気になっていたのだった。境内には「行基菩薩安住之地」という石碑が立っていたりしたが、神社は清田さんの説明によると、この辺にあったとみられる依網池(よさみのいけ)、『古事記』の崇神段や仁徳段にみえるその池などをつくった朝鮮渡来人たちの祖神を祭ったものであったろう、ということだった。
応神陵と誉田八幡宮
羽曳野市では同市誉田の応神陵古墳と、そのこちらにある誉田八幡宮とを見ることになった。仁徳陵古墳につぐ巨大な応神陵古墳は、さきにも一度来てみたことがあったが、清田さんはまえから、誉田八幡宮のあるそのあたりをちょっと歩いてみてほしいと言っていたものだった。
というのは、清田さんには八十歳になる叔母がいて、その叔母さんは子どものころからずっと朝鮮で育ち、朝鮮で暮らした。そしてさきの戦争中のことだったが、叔母さんが数十年ぶりで日本に帰ったとき、清田さんはいっしょに誉田八幡宮の辺を歩いたことがあった。
すると叔母さんは、その辺の家並みのたたずまいや形などを見て、朝鮮とそっくりおなじだ、そっくりだ、と何度も言ったというのだった。なるほど長屋門のある家の形や、ひっそりと道路を区切っている築地塀など、そこは朝鮮・開城あたりの一角とよく似たところだった。いまから数十年前だったとしたら、なおさらその感が深かったにちがいない。
私たちはそんな道を歩いて、誉田八幡宮をたずねた。清田さんはそこの宮司もよく知っているらしかったが、あいにくなことに、宮司の中晴世氏は不在だった。そうなると私たちは、そこの誉田宝殿のなかも見せてもらえないことになった。
仕方なく私たちは、『誉田宗廟縁起』などをもらっただけで社務所を辞したが、この誉田八幡宮の祭神は誉田別(ほんだわけ)の応神帝、仲哀帝、神功皇后となっていることは広く知られているとおりで、近鉄経営企画室編『近鉄沿線案内』にも、その沿革がこうしるされている。
一四〇〇年まえに建てられたわが国最古の八幡宮。応神天皇陵の前に社殿がある。
歴代天皇の行幸、聖徳太子・菅公・行基らの祈願参籠あり、また武人の神として、鎌倉、足利、豊臣、徳川の諸武家の崇敬あつく、現在の建物は秀頼によって再建されたものである。誉田宝殿は昭和三五年に社殿造営の一四〇〇年祭を記念して建立されたもので、また源頼朝寄進の国宝鳳輦などが有名である。境内には朝鮮国王寄進の灯籠あり、槐木(えんじゆのき)は安全の木として由緒がある。
朝鮮国王がなんでそれを寄進したのかはわからなかったけれども、境内にある朝鮮灯籠も槐木も私たちはみた。が、私としてぜひそのなかにはいってみたかったのは、おなじ境内にある誉田宝殿だった。
その誉田宝殿のなかには、私はまだそれの実物を見ていなかった国宝となっている朝鮮渡来の金銅透彫鞍金具(こんどうすかしぼりくらかなぐ)の馬具など、いろいろな宝物がならべられてあるはずだった。とくに、朝鮮渡来のものであることがはっきりしているその馬具は、応神陵古墳の陪塚(ばいちよう)であった丸山古墳から出土したもので、これは日本の歴史にとって画期的な意味をもつものであった。
乗馬の風習をめぐって
どういう意味であったか。森浩一氏の『古墳とともに』をみると、そのことがこう書かれている。
日本での乗馬の起源を考えるのに見のがせないものが、宮内庁に保管されている。これも応神陵出土と伝え、東京教育大学の増田精一氏の研究では、金属製のくつわ類を使わず、皮革だけの装具をつけたきわめて古い形式の馬の装具である。それまでは金属製の馬具が古墳から出土する時期をもって乗馬の風習の開始と考えていたが、それでは不正確だったのである。
そればかりか、幕末に応神陵の前方部の正面にある陪塚の丸山古墳から、竜の文様を透しぼりにし、金メッキをほどこした見事な鞍や馬の飾りなどが発掘されていて、国宝になっている。この馬具は、従来の学説では応神陵の時期より約一世紀は新しいと、年代が下げられていた。
現代までの発掘を総合すると、応神陵以前の前期古墳では、馬具はまだ見つかっていないから応神陵の時期、つまり四世紀末に乗馬の風習が始ったとみることが有力である。しかも応神陵での馬具は、朝鮮半島からたまたま輸入された珍貴な品が墓に埋められたという形ではなく、馬が埴輪に作られ、王者の権威をたかめていることから考えても、支配者にとって馬は重要な戦争の道具になっていた。
応神陵からあとの大阪の大型古墳では、たとえば応神陵北方の允恭(いんぎょう)陵の陪塚や、堺市の履中陵の陪塚から優秀な馬具が発掘されており、さらに六世紀になると、乗馬の風習がひろまったことを横穴式石室の副葬品からうかがうことができる。文献のうえからも、乗馬の飼養を担当する馬とか、馬飼という人物が河内に居住していたことがわかっている。乗馬の風習は応神陵から突然あらわれ、しかもそれが短期間に普及していることが古墳の発掘からわかってきたので、江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説を構成している一つの論拠は否定しにくくなったのである。
このことについては、もちろんほかにも意見がないわけではない。たとえば、直木孝次郎氏の「難波宮物語」によると、それはこうなっている。
鉄製武器に身をかため、馬にうちのった精鋭部隊が難波王朝の中核となって活動し、大和の勢力を圧倒したと考えられる。応神天皇も仁徳天皇もこの騎馬部隊の将軍である。では武装騎馬軍はどこからどうして摂津、河内の地にあらわれたか。むろん、大陸との関係をおもわねばならないが、それについてもっとも大たんな説をたてたのが、国際的な考古学者・江上波夫教授である。
そして直木氏は、朝鮮から乗馬の風習をもったものがまず北九州に渡来し、それがさらに河内(難波)平野へと姿をあらわして応神・仁徳王朝を樹立したとする江上波夫氏のいわゆる騎馬民族征服説を紹介し、つづけてこう書いている。
たしかに難波王朝の成立に大陸の騎馬民族の文化が影響していることは事実である。しかし、四世紀はじめころの北九州には、馬具をはじめとして、騎馬民族の渡来をしめす遺物、遺跡は発見されていない。騎馬民族による建国という仮説は成立しにくいのである。やはり、大阪平野の古墳に副葬されている馬具や多量の武器は、四世紀後半からはじまる日本の朝鮮侵略の結果、朝鮮からもたらされたもの、あるいはその影響によって作られたものと考えたい。
まさに考えるということこそは自由であるから、直木氏がどう「考えたい」かは自由である。しかし、事実はどうであったのか。それについては、森浩一氏の所説ともあわせて、われわれもまたこれからよく考えてみなくてはならない。
野見宿禰も朝鮮から
ついで私たちは、清田さんについて藤井寺市道明寺の天満宮へまわった。俗には「荒木の天神様」ともいわれている、もとの土師(は じ)神社だった。神社は、二上山や葛城山を目の前に望める高台にあった。
殉死の悲惨を埴輪をもってかえたものとされている野見宿禰、それから出た菅原道真をいまは主神として祭っているのであるが、これはいわゆる土師部、すなわち土師氏族の氏神だったものである。
「調べてみると、この野見宿禰も朝鮮から来たものです」と、少しうす暗くなりはじめていた境内を歩きながら、清田さんは言った。「わたしのところの家系も実はその野見、ここの菅原から出ているのですよ。したがってわたしも、ということになるわけですね」
「ああ、そうですか。なるほど」
私は清田さんのことばを聞いて、いつか読んだことのある村川行弘氏の『田能』のなかにあった一節を思いだしていた。播磨(兵庫県)にある西宮山古墳を発掘したときのことを書いたもので、それはこういうものだった。
場所は播州平野の都会。脇坂氏の城下町でもある竜野市の背後にそびえる的場山の南ふもと、俗に西宮山(にしみややま)という高さ五〇メートルばかりの小高い山の頂上である。的場山の山すそには揖保(いぼ)川が流れ、古墳上からは緑の平野の向うはるか播磨灘をのぞむすこぶる眺望のよいところである。
播磨風土記によれば、あの角力(すもう)の祖先ともいわれる野見宿禰(のみのすくね)が出雲国に帰るとき、ここで病気にかかって死んだので、出雲の人たちが墓を作って出雲墓屋とよんだ、とある。歴史家のなかには、この西宮山古墳を出雲墓屋とみなす説が前からあったのである。……
発掘の結果、主体は横穴式石室である。石室のなかの堆積土の中に十余人の人骨があったのには驚いたが、この人骨はいっしょに発見された銅銭から、何らかの事情で中世にここに埋められたものであることがわかった。
石室内には土砂がいっぱい埋まっていたので、鏡・剣・玉・武具・冠帽をはじめ副葬品が多く残っており(古墳はよく盗掘されて、必らずしも副葬品が多く残っているとは限らないのである)、とくに朝鮮渡来の金製耳飾と台付子持壺は立派なものであった。この装飾壺には動物の像などとともに兵士の像や角力らしい像も飾られており、郷土の人々の野見宿禰の伝説とあいまって興味のもたれるものであった。
ここにいわれている「朝鮮渡来の金製耳飾」は京都国立博物館にあるのを私も見たことがある。ほんとうに、そのころよくもこんな耳飾りを、と思われるものであった。
私たちは社務所に行って、そこにいた南坊城充興さんを清田さんから紹介された。そして、『道明寺天満宮略記』などをもらい、とくに宝物館のなかにあった青白磁円硯など、たくさんの国宝となっているものも見せてもらったりしたが、南坊城さんは私たちのたずねて来た目的を知ると、ただ一言だけいった。
「土師も薬師というのとおなじで、これもみな渡来ですよ」
「ああ、そうですか。なるほど」と私はまた言ったものだったが、それは印象に残ることばだった。もと土師神社であったこの天満宮のことについては、「古田文書」にこうある。
野見宿禰の子孫が土師の里に居住し、土師氏の氏の上(土師連)が氏の祖先を祭ったのが起源で、最初は天夷鳥神社と称した。土師氏は国府台地の東端の高燥地(秋篠岡)付近に本拠をおいて、土師式土器・埴輪の製作及び皇陵の築造に従事していた。土師氏の子孫は奈良朝のおわり、光仁天皇の天応年間に土師の里から大和の菅原の地に移住した。その後、菅原氏と改姓して、その子孫に菅原道真が出現し、全国に名を成したが、藤原氏との争いに敗れ失脚したけれども、勅命によって道真の霊を全国的に祭れという布告が出されたとき、土師神社から道明寺天満宮と改称されたものである。神体は荒木の天神という。実際には五世紀頃に創建されたものであろう。土師氏の土着も五世紀が至当。
なお、土師部、土師氏といえば、いわゆる土師式土器をつくっていたものといわれ、この天満宮の門横にも、「土師窯跡」という石碑が立っている。しかしその土師氏族は、そういった土器ばかりをつくっていたものではなかった。というより、その土師器というのは、むしろつけ足しであったらしい。そのことが、森浩一氏の『古墳とともに』にこう書かれている。
古墳時代の土器に、土師器というのがあって、土師氏はその製作集団と考えられているけれども、古墳時代の土器のうち、弥生土器の伝統をひいた赤焼土器を土師器とよぶのは、考古学の約束事にすぎない。
私は土師氏は読んで字のごとく、土の師、つまり土木技術者とみている。そして、古墳の造営に関連して埴輪製作を担当していたと推定している。土師氏は、古墳時代終末ののち改姓を願いでた。菅原道真を生んだ菅原も、もとは土師氏であった。
どちらにせよ、ここにいた土師氏族はこれまた、相当な大豪族だったもののようであった。現在この辺一帯の地名となっている道明寺(尼寺)も、もとは土師氏族の氏寺だったもので、ここにはいま、国宝となっている十一面観音立像や、重要文化財となっている十一面観音立像などがある。
近つ飛鳥を歩いて
河内鋳物師
翌日は、土曜日だった。私と鄭貴文とはまず、富田林市史編集室長の祢酒太郎氏をたずねた。あいさつをして、ということだったが、祢酒さんは月に一度か二度の編集委員会があるため、自分はいっしょすることができなかったので、かわりとして同編集室にいた玉城幸男氏をつけてくれた。
そうして私たちは、藤井寺市立中学校で古田実氏や、前日に引きつづいての清田之長氏といっしょになった。計五人となったわけだったが、清田さんは遺跡めぐりスタイルというかなんというか、そんな軽装をしている。
「さて、きょうは、どこからにしますか」と、古田さんは私に向かって言った。
「そうですね。いわゆる河内の鋳物師ですな、これからはじめたらどうでしょうか」
「はい、わかりました。では、行きましょうか」と言って、古田さんはすぐに立ち上がった。古田さんは河内(大阪府下)のことだったら、なんでも、どこでもよく知っていた。
いわゆる河内鋳物師のことについては、古田さん自身、書いてもいる。「古田文書」をみると、それはこういうものだった。
平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、河内の鋳物師は畿内の各寺院で広くその名を知られていた。河内人による鋳物の技術は古く、大和時代の中期、応神朝・仁徳朝のころに朝鮮半島より帰化した人々によって始められ、奈良朝の初期(和銅年間)より貨幣の鋳造を通してその声価は認められていた。奈良朝の初期から鎌倉の初期にかけて、河内国でも丹南郡の野中、丹上、黒山、菅生、狭山の七郷に分れて住む者が多く、ここから地方の社寺に招かれて、主に梵鐘や鰐口などを製造していたのである。
いわゆる河内鋳物師のことは、さきに私は祢酒さんからも聞いていた。おなじ大阪府下ではあっても、そこは和泉となっていた岸和田市宮本町に、いうところの鋳物の神を祭った烏丸神社があって、ここにはその鋳物師のことにくわしい若尾五雄氏という人もいるが、どうするか、といわれていたのだった。
しかしながら、実をいうと私は、河内鋳物師のことはこの「旅」ではカットしようと考えていた。だが、たまたま今年、一九七一年五月十四日付け朝日新聞のある記事を読んだことから、私はその考えを変えたのである。記事は「ふるさとの名産」というシリーズものらしく、「天明の鋳物/佐野/今に伝える王朝の色」という、こういうものだった。
天明の鋳物の種類は非常に多い。国宝になるほどの名品から農家のナベ、カマまで、時代の流れに従って変化した。その起源は天慶二年(九三九年)。佐野を本拠とした下野掾押領使・藤原秀郷(ムカデ退治で名高い豪傑・俵藤太)が“新皇”を称する平将門討伐のため、河内国から鋳物師五人を呼んで軍器を鋳造させた。その一人、正田又右衛門尉が正田家の初代であった。
その後、鋳物師たちは秀郷の子孫佐野氏に仕え、軍需産業から平和産業に転換、鐘、灯ろう、ナベ、カマ、農具などを鋳造した。平安時代を経て足利時代には技術も向上、さらに茶道の流行で湯がまは風流人に愛好された。江戸時代に最盛期を迎え、「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」とうたわれるほど、よく売れた。
要するに、河内の鋳物師といえば、河内鍋などをつくったものということになっているが、彼らは決してそれだけのものではなかったのである。いまの新聞記事には下野(栃木県)の佐野における五人のいわゆる鋳物師の歴史がしるされているが、その本拠の河内にあっても、それはだいたいおなじ経路をたどったものではなかったろうか。
つまり、彼らはいずれも最初は、鉄製の軍器つくりだったのである。それがのちには、これも「平和産業」の河内鍋つくりとなったものにちがいない。
百二十七代目の子孫
ここまでわかればもう、わざわざそこまで行ってみることもなかったのであるが、しかし私たちは大津神社をへて、いわゆる鋳物師の本拠地であった南河内郡美原町大保へ向かった。大津神社のことはさきにもちょっとふれているが、「古田文書」によると、それはこうなっている。
「羽曳野市北宮にある式内社のことで、昔は丹下郷の宮村といわれたところである。現在、祭神は素戔嗚尊、天日鷲命、櫛稲田姫命の三神であるが、この神社の創建は今を去る一四〇〇年前、羽曳野丘陵の北辺野々上、伊賀、南宮、北宮、南島泉、島泉、津堂、丹北小山、小山の一帯を領有支配していた百済の帰化人津氏族の氏神として設けられたもの」であった。
かつては鋳物師の家が一千余軒もいらかをならべていたという美原町大保では、もと丹南村長だったという光田源太郎氏をたずねた。河内鋳物師の子孫で、古田さんから、その祖である河内鋳物師のこととなれば、夜を徹して語ってもあきない人だと聞かされていたが、なるほど光田さんは今年七十四歳になる老人だったにもかかわらず、鋭い目を光らせて情熱的な語り方をする人だった。
私たちはそれぞれに光田さんから、『鋳物発祥の地と鍋宮大明神(別称烏丸大明神)』や『鋳物師国・郡別名簿』などをもらってそこを辞したが、光田さんも自分の祖先の河内の鋳物師は百済から来たものだと言ったので、私は念のために、その祖先からあなたは何代目くらいになるのでしょうか、ときいてみた。すると光田さんは、はっきりと答えた。「百二十七代目です」
ついで私たちは、光田さんの家近くのハイウェイのそばにあった「鍋宮大明神」の石碑(神社はハイウェイ工事のためにこわされた)を見て、また羽曳野へと引き返し、同市埴生町にある善正寺跡の丘陵に至った。寺跡とはいっても、その跡などもはやどこにもない。そこには瀟洒なアパートなどが建っていて、横にわずかな草むらがあるだけだった。
催馬楽の呂旋にも
しかしこの丘陵は善正寺山古墳群のあるところでもあって、寺跡とともにそのことは、近鉄経営企画室編『近鉄沿線案内』にもこう出ている。
恵我荘駅南二・二キロ。近鉄バス平尾行五分、埴生下車すぐ。
来目皇子の墓より一〇〇メートル北東の平地上に古瓦の散乱している付近一帯は、百済王族の子孫の津史一族が白鳳時代に建立した善正寺跡で、西塔の礎石が一つ残っている。いわゆる薬師寺様式の寺であったが、平安初期に全焼し、以後、廃寺となった。
この付近一帯は寺山とよばれ、百済系帰化人の古墳が散在しており、雨が池北古墳、ヒチンジョ池西古墳、埴生南峰古墳、小口山古墳などがあり、総称して善正寺山古墳群と呼ばれている。
私たちは草むらや樹木をかきわけて、そのうちの小口山古墳まで行ってみた。苔むした凝灰岩の横穴石室が、樹林のなかに露出したままとなっていた。
そして私たちは、こんどは石川を渡り、さらに飛島川を渡って、竹内街道を駒ケ谷へとはいって行った。大和のそれとはまた別に、こちらにも飛島川があったわけであるが、石川のほうは別名を河内川、恵我川、片足羽川ともいったもので、臼田甚五郎氏の『川物語』にもこの石川のことが出ており、そこにこういうくだりがある。
河内国は、恐らく、大和川を挟んで湿地帯をなしていたのであろうが、次第に開拓されて、そこへ帰化人が送り込まれ、新しい文化技術を移植されたにちがいない。富田林市の錦織(にしごり)の地名なども、高度の織物技術を持った帰化人が来住したことを示しているであろう。
催馬楽の呂旋に「石川」という曲があるのも、朝鮮の帰化人の活躍を告げている。
石川の高麗人(こまうど)に、帯を取られてからき悔する
いかなる、いかなる帯ぞ、縹(はなだ)の帯の中はたいれるか
かやるか、あやるか、中はいれたるか
「次第に開拓されて、そこへ帰化人が送り込まれ」とあるが、彼らはいったいだれによってそこへ「送り込まれ」たのであろうか。これまでみただけでも、彼らをそこへ「送り込」んだ別人種がほかにいたとはとうてい思われず、逆に、彼らによってこそそこは「次第に開拓され」たのではなかったのであろうか。
それはともかく、催馬楽の呂旋にあるという、「石川の高麗人に、帯を取られてからき悔する」とは、どういうことだったのだろうか。すなわち「からき悔する」の「からき」とはなんなのか。これは「韓来(からき)」ということではなかったであろうか。
もしそうだとすると、これは彼らのその渡来の重層性を物語ったものとなるが、河内にはさきにみたように、日本ではそこを韓(から)ともいった辰韓の新羅や馬韓の百済のほか、高句麗の高麗人もまたたくさんやって来たところだった。現に、私たちがいま足を踏み入れた駒(こま)ケ谷は、古田さんの説明をまつまでもなく、これは高麗(こ ま)ということからきた地名なのである。
近つ飛鳥・遠つ飛鳥
安宿(あすか)郡だったここには高麗(狛)郷があったことからもそれはわかるが、その駒ケ谷となった竹内街道をちょっと進むと、左手に杜本(もりもと)神社があった。現在の祭神は経津(ふつ)主命などとなっているけれども、古田さんの説明によると、ここは高句麗系金作部の本拠だったところで、杜本という、朝鮮語モリ(頭)本からきたものだったかもしれないこの神社は、やはりそこにいた高麗(狛)氏族の祖神を祭ったものだった。
神社はいまそこを下から掘り崩されている小高い山にあったが、ここにはかつて神宮寺として、別名を飛鳥寺ともいった金剛輪寺もあったのだった。いまは神社も、駒ケ谷古墳群も、わびしい姿しか残していない。
杜本神社から少し進むと、近鉄線では上(かみ)の太子となるが、ここは羽曳野市飛鳥となっているところで、左手をちょっとはいったところに飛鳥戸神社がある。いわゆる河内飛鳥、近つ飛鳥の中心で、「古田文書」にこうある。
記紀の記載によると、雄略朝に百済より帰化した百済王族の〓伎(こんき)王が、飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)の祖として、その本拠をおいたところである。しかし、朝鮮の三国史記の記録から考証してみるとややさかのぼり、允恭朝のころ(五世紀)と推定される。そして祖神を祭る氏神として飛鳥戸神社を創祀し、氏寺として飛鳥山常林寺を寺山の南麓に造営していたのである。
また、飛鳥一族は六世紀から九世紀に至るまでこの付近に居住していたが、六〜七世紀には鉢伏山から寺山、飛鳥山にかけての南側山腹に、数多くの横穴式石室の後期古墳群を造営したのであった。すなわち、東方より今池東古墳群、オーコー古墳群、新池西古墳群、新宮古墳群、上の田古墳群、塚原古墳群などがある。
このあたりはさきにも来たことがあって、そのときは京都大学の上田正昭氏などもいっしょだったが、飛鳥戸神社は、いまなおその祭神をはっきり「百済〓伎王」としている珍しいものだった。かつては、これも『延喜式』に「名神大」となっている大社だったが、しかしいまは小さな社殿が一つ残っているきりで、しかも無人だった。
あたり一帯は、ほとんどがブドウ畑だった。いまの引用にあった古墳群のある山もほとんどみなそれで、上田さんなどといっしょに来たときは、まだブドウが葉をだしていなかったから、私たちはそのうちのオーコー(王侯、ということだったのだろうか)古墳群のならんでいる山まで登ってみた。
いたるところ横穴石室が露出していたけれども、とりわけ海抜二〇〇メートル近い山の稜線にずっとつづいている古墳の列は、死人の墓だったとはいえ、ほんとうに見事というよりほかなかった。そこまで登ってくると、眼下に見える南河内一帯の光景もまたみごとなもので、左手の谷間に見える蘇我氏族の原郷だったといわれる山田の集落もよかった。
私はその辺の草むらに腰をおろして、こんなところにそういう墳墓をつくることのできた彼ら、古代のその彼らの文化的な力の大きさをつくづくと思い知らされたものだった。ところで、いま私は蘇我氏の「原郷」といったけれども、ここは飛鳥ということの原郷でもあった。
すなわち河内飛鳥、近つ飛鳥の飛鳥とは、朝鮮語アンスク・アスク(安宿)からきたものだった。大和(奈良県)の飛鳥が遠つ飛鳥であったことにたいする近つ飛鳥とはもともと、飛ぶ鳥の安らかな宿(飛鳥・安宿)、ふるさとということだったもので、大和の明日香を飛鳥といっているのも、もとは「飛ぶ鳥の」というその枕ことばからきたものだったのである。
西琳寺を最後に……
私たちはその近つ飛鳥の中心だった飛鳥から、竹内街道をさらに進んで南河内郡太子町山田となっている二上山の中腹にあった鹿谷寺跡をたずねた。たずねたとはいっても、そこにはいまだれか人がいるわけではなく、凝灰岩の絶壁をよじ登ったところに、いまはわずかに石塔と洞窟仏とが残っているだけだった。「古田文書」を引いておくことにする。
竹内街道の途中、岩屋峠へ出る三叉路の地蔵堂より北方五〇〇メートル、二上山雌岳の中腹にあって、十三重の石塔と洞窟仏とが現存している。これらの遺物は付近の石質と全く同じで、いずれも凝灰岩でできている。これらはいずれも白鳳時代から奈良時代にかけて、朝鮮より帰化した仏教関係の石工の人々によってくりぬいて造られたと思われる。
鹿谷寺跡の急崖からおりた私たちは、道を戻るようにして、山田の集落のなかへはいって行った。蘇我氏族の原郷とされているところであるが、ここはまた、清田さんがくれた『大阪府全志』のその部分をコピーしたものによると、かつては「石川百済村」でもあったところだった。
「敏達天皇の百済大井宮は本地なりしにはあらざるか」というところでもあって、この山田では清田さんの知り合いだった仏陀寺の秦貫練氏をたずねた。秦氏は不在だったが、私たちは奥さんに茶をごちそうになり、仏陀寺の境内、というよりは秦家の庭にあった、蘇我倉山田石川麻呂のそれといわれる古墳などをみせてもらった。
つまり、仏陀寺の秦家は古墳となっている丘陵の上にあったわけであるが、眼下の向こうに、かつてはそこが百済村の中心だったという集落が見わたされ、いくつかの古墳や科長(しなが)神社などの森が見えた。秦家の土間はその眼下に向かって吹通しのかたちとなっており、そこから推古陵古墳が額縁のように見えるのもおもしろかった。
もう夕暮れとなってしまっていたが、私たちはそこから一転して、さらにまた羽曳野へ引き返した。そして、古市の西琳寺に至った。この西琳寺がいちばん最後となったわけであるが、それには別段に理由があったわけではない。
時間の関係でそうなっただけだったが、西琳寺は飛鳥時代である五五九年の欽明二十年、王仁(わに)系氏族の子孫であった西(かわち)(河内)文氏族によって建立されたといわれる大伽藍であった。それが明治のはじめに、廃寺となったものだった。したがって現在の西琳寺はその跡にできた小さなものであるが、しかし、山門をはいるとすぐ目につく大きな塔礎石は、当初からのものである。
この塔礎石は径二・七三メートル、高さ一・一八メートル、重量は推定二・八トンの巨大なもので、奈良法隆寺、若草伽藍のそれよりもさらに大きく、日本最大といわれるものである。このような塔礎石一つ見ただけでも、かつてはこの寺院がどれほどの大伽藍であったかということを、われわれは思ってみずにはいられない。
さきに私は北河内の枚方にあった王仁の墓と称するものをみて、それはとうてい王仁その人の墳墓とは思われないとしたのも一つはこのことからきているが、また、その氏神であった白鳥神社が、もとは大きな前方後円墳であったということからもきている。「古田文書」をみてみよう。
古市の地は四世紀から五世紀にかけて、百済国より帰化した王仁(わんにん=わに)の子孫、西文氏(かわちのふみし)の本拠地であり、その氏寺としては仏教考古学上で全国にその名を知られている西琳寺(古市寺)がある。また、氏神としては古市神社(今の白鳥神社)があるが、祭神の中に日本武尊のほかに素戔嗚尊、櫛稲田姫を合祀しており、これは帰化系であったことを示している。
そしてその白鳥神社が古墳であったことについては、こう書かれている。
この前方後円墳の荒陵は明治三一年(一八九八)三月、河陽鉄道(翌年に河南鉄道と改称、現近鉄の前身)が開通したとき、前方部と後円部のクビレ部を切断したため、一見すると円墳のように見える。白鳥神社の裏に廻ってみると、切断された前方部の基底(雑木林)を見ることができる。
かりにこの古墳が王仁の子孫のものだとすれば、その祖である王仁の墳墓はいっそうもっと広大なものであったはずである。それがまた、王仁のもたらした儒教の教えというものでもあったのである。
さきにもふれたように、王仁といえば、『千字文』『論語』など、古代朝鮮の百済から日本にはじめて文字をもたらしたものとされている、あの王仁博士でもある。が、しかしその王仁は、ただのそういう学者であったのであろうか。
けっしてそうではなかったはずである。たとえば大阪市立大学の原田伴彦氏は、いまみてきたいわゆる近つ飛鳥、遠つ飛鳥というものにしても、これは時代の遠近ということではなく、距離の遠近ということで、それはこの王仁系氏族のいた古市からみてのことではなかったかといっているが、このことからしてもそれはうなずけるように思う。
ともあれ、王仁とはこれもさきにみた葛井氏族や船氏族、津氏族などの祖となっている辰孫王のことであるとか、また、おうじん(王仁)すなわち応神という説もあるが、それはどちらとしても、王仁(わに)とは朝鮮語ワンニム(王任=王様)ということで、これについては今後なおよく考えてみなくてはならないであろう。
文庫版への補足
山城の秦氏と摂津の三島
『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第二冊目の本書が、四六判の単行本で出たのは一九七二年一月であった。いまからすると十一年以上もまえのことで、当然、そのあいだにはまたいろいろと新しい発見がある。本書も第一冊目と同じように、それを補足しなくてはならない。
ところで、本書は山城・摂津・和泉・河内となっているけれども、これをいまの京都・大阪とすると、京都府としては丹波・丹後が抜けており、大阪府の摂津としては、いまの兵庫県神戸市などの西摂津が抜けていて、これはどちらも本シリーズ第六冊目に書かれている。したがってここではその丹波・丹後、西摂津にはふれず、第二冊目の本書に書かれたところのことだけしるすことにする。
まず、山背とも書かれた山城であるが、私の知る限り、これにはあまり補足することはない。ただ、一九七七年五月十一日付けの京都新聞に、「“秦氏の生活”に手がかり/活躍の地から住居跡/太秦/15基、カマド跡も」といった記事があり、さらにまた一九八〇年八月二十一日付けの同紙には、「秦氏一族の生活に光/蜂ケ岡中学の校庭から出土/竪穴住居の集落跡」とした記事が出て、そのことがこう報じられている。
京都市立蜂ケ岡中学=右京区嵯峨野開町=校庭から、古墳時代後期の竪(たて)穴住居の集落跡が見つかった。一帯は古代の渡来氏族である秦氏一族の勢力範囲で、発掘調査の市埋蔵文化財研究所は、集落跡を秦氏一族のものと推定、その生活ぶりを知る貴重な資料として調査している。……
同中学は、秦氏ゆかりの寺・広隆寺から西へ約一キロの地点にあり、嵯峨野一帯が秦一族の勢力範囲に入っていることから、市埋文研の田辺昭三調査部長は「蜂ケ岡中学の集落跡も、秦氏一族の住居跡とみて間違いないだろう。〈昭和〉五十二年に、広隆寺の推定寺域東北部に当たる右京区常盤仲ノ町を調査した際、二十四戸分の竪穴住居跡を見つけたが、蜂ケ岡中の場合も、秦一族の勢力と生活ぶりを知る上で貴重な遺跡だ」と、評価している。
なお、秦氏は古代の渡来氏族で、畿内を中心に広く各地に住んだ。山城の秦氏は、太秦の地を本拠にして京都盆地の各所に広がった。八世紀の後半以後は、藤原氏と婚姻を結び、長岡京遷都や平安京遷都にかかわりが深い――といわれている。
その秦氏によって、山城の長岡京や平安京への遷都がおこなわれ、それでいわゆる平安時代がはじまったことは、広く知られている有名な史実である。その秦氏族のことについてはまた、一九八二年六月二日付けの朝日新聞・朝刊に、「長岡京の『行革』物語る木簡/私田・公田洗い出す/すご腕官僚の名札も出土」という記事が出て、こう報じられている。
京都府向日市の長岡京跡から一日までに、桓武天皇が在位中に断行したと伝えられる“行政改革”を裏づける木簡(もっかん)が出土した。木簡にはその“改革”にたずさわった人名も書かれている。……
人名は、二本の木簡に書かれていて「大宅朝臣広成(おおやけのあそんひろなり)」「秦人足(はたのひとたり)」と読める。広成は天平感宝元年(七四九)六月の東大寺正倉院文書にも名前が出ている。当時は写経の誤りを訂正する校閲係。人足は同じ正倉院文書に「摂津国の田の記録、会計係」として登場している。
これらの木簡は長岡京へ遷都してから六年目の延暦九年(七九〇)十月と書かれた木簡と一緒に出土しており、このころに使われた後、不用になり捨てられたらしい。
続日本紀などの記載によると、桓武天皇(七八一〜八○六)は、奈良・平城京時代の政治の停滞を打ち破ろう、と七八四年に長岡京へ遷都。遷都の費用や奥羽の蝦夷(えみし)征討用の戦費をひねり出すため、諸国の戸籍や田の実情を調べ直したり、地方官の汚職や怠慢を改めるさまざまな政策を実行したことで知られている。……
また、長岡京の遷都には、桓武天皇と同じ渡来人系の秦氏一族が都の敷地提供や財政面で大きな役割を果たしたことが知られているが、秦人足も計数に明るい実務者として“行革”の一端をになっていたことがしのばれる。
ここにみられる『続日本紀』と桓武天皇のことでは、私にも思いだすことがある。それというのは、朝鮮人婦女子などの泣き方に「アイゴー(哀号)」というのがあって、日本人のあいだでは、それがあたかも朝鮮人ということの代名詞のようなものとなっている、ということに関してである。
本来、この「アイゴー」というのは、だれでもがかんたんにそういう泣き方をしてはならないものとなっていた。たとえば、いまでも朝鮮では親が亡くなったばあい、「アイゴー」の哭(こく)をすることができるのは、その嫡子をはじめとする一親等の者のみということになっている。
それがいつからか、一般婦女子の泣き方にもなり、「アイゴ!」という感嘆詞にもなったのであるが、ところで、この「アイゴー(哀号)」とは、いまはどうなっているか知らないが、古代日本の宮廷における嫡子の泣き方でもあった。『続日本紀』七八一年の天応元年条に、そのことがこうある。
丁未〈二十三日〉太上天皇〈光仁〉崩じ給う。春秋(みとし)七十有三。天皇〈桓武〉哀号(あいごう)し、咽(のど)を摧(くだ)きて自ら止(とど)むこと能わず。百寮中外(ちゆうげ)、慟哭して日を累(かさ)ねたり。
摂津ではまず、山城に近い高槻市の三島からということにしたい。私は本書「伊居太(いけだ)神社の朝鮮兜」の項のおわりに、摂津国三島郡の「三島については」と、「吉野裕訳『風土記』をみると、『伊予国風土記』(逸文)にこういうくだりがある」として、それを引いてこう書いている。
「御島(瀬戸内海にある三島群島で、大三島の宮浦に大山積(おおやまずみ)神社がある)においでになる神の御名は大山積の神、またの名は和多志(わたし)(渡海)の大神(おおかみ)である。……この神は百済(くだら)の国から渡っておいでになりまして、摂津(せつつ)国の御島においでになった」
これは伊豆(静岡県)の三嶋大社や、いわゆる三島暦とも関係あるものであるが、しかし、摂津はもうこの辺でおしまいとしなくてはならない。
このように、「もうおしまいとしなくてはならな」かったのは、このときは時間がなかったためで、私はその後もずっと、摂津のその三島のことが気になっていたものだった。が、今年になってようやく、この補足のこともあって、そこへ行ってみることができた。
ちょうど、高槻市には古い知り合いで、同市宮川原にある宇津木文化研究所を主宰している宇津木秀甫氏がいることがわかったので、そのことを知らせてくれた、こちらは堺市西野にある映像文化協会の代表となっている友人の辛基秀といっしょにたずねた。すると、国鉄の高槻駅前で待ち合わせた宇津木さんは、いきなりそのクルマで私たちを、同市南平台の市立埋蔵文化財調査センターへ連れて行った。宇津木さんは、まずそこからみてくれ、ということだったのである。
そして同センター所長の冨成哲也氏らに紹介されて、そこで整理されている各時期の古墳から出土した、古代朝鮮から渡来人に携行されて直行したと思われるものを含む、たくさんの須恵器などをみせてもらうことになった。「三島地方は日本でも有数の古墳地帯であって、この地方の古墳群の特色は各時期の古墳がそろっていることである」(大阪府の歴史散歩編集委員会編『大阪府の歴史散歩』(上))というそれを目のあたりにしたわけであったが、たとえば、これも同センターで入手した『高槻の史蹟』によって、そのうちの「弁天山古墳」をみるとこうなっている。
弁天山古墳群は、岡本山古墳、大蔵司(だいぞうじ)古墳などの古墳時代前期の大前方後円墳を中心とする三島地方最大の古墳群である。三島地方は紫金山(しきんざん)古墳や将軍山古墳などの前期古墳をはじめ、多くの古墳が存在するが、弁天山古墳群のように前期から中期までの大古墳が群をなして存在するものは他になく、〈大阪〉府下でも玉手山古墳群に例をみるだけである。また弁天山古墳群の眼下には、継体天皇陵と今城塚古墳の前方後円墳がある。
今城塚(いましろづか)古墳はその規模などから真の継体陵と推定されているが、この東には奈良時代の郡役所跡があり、弁天山古墳群に葬られた豪族は、継体天皇陵や今城塚古墳の築造からも郡の長官となりえた奈良時代のこの地の豪族と無関係ではないであろう。
現在、岡本山・弁天山の両古墳を残してその大半は住宅地などで姿を消したが、丘陵を利用して築造された墳丘には数万個の河原石が使われ、竪穴(たてあな)式石室からは銅鏡、石の腕飾(うでかざり)などが発掘調査により発見された。この弁天山古墳群は、単に三島地方最大の古墳群であるだけでなく、これがもつ歴史的な意味はきわめて重要である。
そのような「弁天山古墳群に葬られた豪族は、……奈良時代のこの地の豪族と無関係ではないであろう」とあるが、その「この地の豪族」はまた、「百済の国から渡っておいでになりまして、摂津国の御島においでになった」大山積神(大山祇(おおやまずみ)神とも書かれる)を祖神としてこの地に三島鴨神社をいつき祭った百済系渡来人とも、決して無関係ではなかったはずである。ついで私たちは、高槻市三島江にあるその三島鴨神社をたずねたが、いまなお往古の風格を失わない神社としてそこにあった。
大阪府仏教青年会編『大阪府神社名鑑』にこの三島鴨神社は、「伊予の三島、伊豆の三島を併(あわ)せて三ケの三島と称せられた」とあるように、これは伊予(愛媛県)の三島にある大山祇神社、伊豆(静岡県)の三島にある三嶋大社と同系列のものであるが、ところで、大山積(祇)神のことを三島大神ともいうその「三島」とは、いったいどういうことだったのであろうか。
是沢恭三氏の「韓神について」をみると、「宮内省で祭られている韓神を考える時、忘れてならないのは神楽歌の中に韓神があることである」として、「三島木綿(みしまゆう) 肩にとりかけ われ韓神の 韓招(からお)ぎせむや 韓招ぎせむや」というその神楽歌とともに、そのことがこう書かれている。
右、韓神の神楽歌の意味については既に「三島と朝鮮」と題して小論(国史学七三、昭和二十六・三月)を発表したことがある。その大意は三島木綿とは古く摂津三島に産した木綿(ユ フ)であって、この三島は御島とも書かれて朝鮮を意味すると考えられ、「韓招ぎ」とあるは韓の伎芸、即ち韓風の、或は韓から伝来した芸能と解すべきで、それを舞うについて特に三島木綿を使用し、肩にとりかけてその特技なることを歌っているものであり、即ち韓の神であることに深い意を表していると。
この神楽歌の解釈からも知られる様に、韓神と云うは韓風の伎芸でお招きして楽しませると云う神、即ち渡来の人達が祭っていた神に相違ないと考えられたのである。三島木綿の事は右の小論に譲って置く。平安時代の木綿についても、三島木綿・安芸木綿・凡木綿などが見えるが、三島・安芸などは夙(はや)くより渡来の人々の開発出産したものと考えられる。韓神はこれらの点からも、渡来の人達の祭った神々であると信ずる。
「三島は御島とも書かれて朝鮮を意味すると考えられ」とはおどろきであるが、それはともかくとしても、摂津の三島地方はいまみた三島鴨神社のほか、神服(かむはとり)神社(高槻市服部)、牟礼(むれ)神社(茨木市中村町)など、その社名からしてすぐ古代朝鮮に結びつく『延喜式』内神社の実に多いところで、それが二十社もある。それからまた、これはいわゆる『延喜式』内ではないけれども、吹田市小路(すいたししようじ)には吉志部(きしべ)神社があって、大阪府の歴史散歩委員会編『大阪府の歴史散歩』(上)にそれのことがこうある。
吉志部の名については、朝鮮から渡来した難波吉士(なにわのきし)の一族と関係があるとされている。難波吉士の名が『日本書紀』に最初に見えるのは、安康天皇元年、根使主(ねのおみ)のざん言で天皇と大草香(おおくさか)皇子が争ったとき、皇子に殉死した難波吉士日香香(ひかか)がある。雄略天皇一四年には、根使主の失脚により、日香香の子孫に大草香部吉士(おおくさかべのきし)の氏姓が与えられたという。
以後、主に対外関係の記事に難波吉士の名がよく見出される。有名なのは六五九(斉明天皇五)年の遣唐使に関する記事で、「難波吉士男人(おひと)の書に曰(いわ)く」として史料を明示し、記事の確実性を高めていることだ。この部分の原稿を書いたのは、おそらく六八二(天武天皇一〇)年三月に川島皇子・忍壁(おさかべ)皇子らとともに国史の編修を命ぜられた難波連大形(なにわのむらじおおがた)であろう。かれは同年正月には草香部吉士大形であったが、同年連(むらじ)の姓を与えられたもので、四年後には忌寸(いみき)の姓を与えられている。
ここにいう難波吉士の吉士とは、朝鮮・新羅の官等第十四位のそれであるが、この吉士氏族は、埼玉大学の原島礼二氏や金井塚良一氏によると(座談会「武蔵と相模の渡来文化」)、大阪市の阿倍野を本拠としていた阿倍氏でもあって、これがのち関東の武蔵(埼玉県)に進出しては壬生吉士(みぶのきし)氏ともなった。新羅から渡来した吉士氏族というのは、そういう豪族だったのである。
難波の新羅と和泉・河内
まだ摂津がつづくが、新羅系渡来の難波吉士氏のことをみたついでに、難波における新羅系のそれをもう少しみることにする。いま大阪市となっている摂津には百済郡・百済神社・百済寺などがあって、百済系渡来人の繁衍(はんえん)したところであったことは本文でみたとおりであるが、ここは本文の「比売許曾の女神」の項でみた天日槍系などのそれとはまた別に、新羅系渡来人もおとらず繁衍したところで、たとえば、一九七七年十月九日付けの読売新聞に、「大阪『ナニハ』新考/古代、太陽を祭る場所だった/枕詞『押し照る』にカギ/ゆかり秘める坐摩神社」という大見出しの記事が出ている。
要するに、『万葉集』に「押し照る難波の海は」とうたわれた難波の地は、新羅系渡来人が日の神としての太陽神を祭っていた「場所」、すなわちその地でもあったということで、坐摩神社のあるそこには新羅の白木神社があって、のち坐摩神社に合祀となったことは本文でもふれたが、しかしあとで知ってみると、坐摩神社そのものもまた新羅系のそれだったのである。水谷慶一氏の『知られざる古代』をみると、太陽神である「天神を祭った場所は〈新羅では〉迎日県あるいは都祈野と呼ばれた」として、そのことがこう書かれている。
迎日県の意味はあきらかだが、都祈野とは何か。都祈(トジ)は古代新羅語で、「日の出」をあらわす。これは現在でも、ほとんど同じ発音の言葉が使われている。ヘトジといい、ヘは「日」、トジは「出る」に当たる。
すなわち都祈は、トジを漢字の音を借りてあらわしたもので、ちょうど、万葉仮名などで日本語を書きあらわすのと同じである。それで、「迎日県」とまず新羅語の意味を漢字に翻訳し、次にその音を「都祈野」と表記したのである。
われわれは、よく「鶏がトキを告げる」という。この場合のトキは普通、時刻の意味と考えられているが、これはむしろ新羅語の「日の出」ととったほうがよいのではないか。「暁(あかつき)」という言葉のもとは「あかとき」であるが、これも新羅語の「都祈(とき)」と関係がありそうだし、また薄桃色(うすももいろ)をさして「とき色」というのも、夜明けの空の色からきているとすれば、この都祈で説明がつきそうである。……
ところで、このトキとかツゲ〈都祈(とき)が呉音では都祈(つげ)となる〉という地名が日本にはたくさんあるのだ。古いところでは、大阪にトガノという地名があったことが『古事記』や『風土記』などに見えるが、これはトキが訛ったものである。……
先日、ぼくは〈大阪市東区〉渡辺町の坐摩神社に参拝して、五十七代目という世襲の宮司である渡辺清音氏にお会いした。そのとき渡辺宮司の口から、三代目の曾祖父まで都下(つげ)の姓を名乗られたことがあるのを聞き、「都下朝臣資政(つげのあそんすけまさ)」と記した古い書面を見せられて、まことに感慨深く思った。
このほか、ツゲやトキに由来する地名は奈良県の都祁(つげ)村、三重県の柘植(つ げ)川、あるいは岐阜県の土岐(とき)郡、石川県能登の富来(とき)町と数えあげればキリがない。
それからまた、私は、四六判の本書をだした以後、一九七五年八月に出た前記『大阪府の歴史散歩』(上)の「船場の町名」としたところに、こうあるのをみて「おや」と思ったものだった。
町名には伏見町・平野町・安土町・備後町のように地名・国名に由来するもの、呉服町・瓦町・唐物(からもの)町・博労(ばくろう)町など封建都市を特徴づけた職掌にもとづくものがある。堀久太郎館跡とも百済(くだら)町の転訛ともいわれる久太郎町、筒井順慶の館に由来する順慶町、安曇(あずみ)寺の転訛ともいわれる安堂町などもある。平野の豪商末吉孫左衛門の名は末吉橋にのこっている。心斎橋の名は岡田心斎・大塚心斎の架橋とも、新羅(しらぎ)の転訛ともいわれる。
百済の久太郎町はおいて、有名ないまの心斎橋が「新羅の転訛ともいわれる」とはどういうことか、と思ったわけだったのである。なぜなら、岡田心斎などからその橋名がきたというならわかるが、新羅が心斎となったとは、ちょっと考えられなかったからである。
ところがよくしたものというか、何というか、ちょうどそのころ、大阪のある読者から、一〇九八年の承徳二年にできた「大阪古地図(芝川氏旧蔵)」と、一七五六年の宝暦六年にできた「浪速往古図(大阪府立図書館蔵)」というのの写真コピーが送られてきたが、つづいてまた高槻のある読者からは、一五七六年の天正四年につくられた「織田信長軍、石山本願寺軍攻撃配置図(奥田所蔵)」とした大阪のそれが送られてきた。
まったくありがたいことだったが、便宜上、前二者を「承徳図」「宝暦図」とし、後者を「天正図」とするが、その「天正図」をみると、何と、いまの心斎橋にあたるそれがちゃんと「新羅橋」となっているではないか。私はこんどは、「へえー」と目をみはったものだったが、しかもそれだけではなかった。
「天正図」にはほかにも「新羅崎」「志良ケ崎」というところがあり、それが「承徳図」になると「新羅池」「新羅洌」、また「新羅洌」と三ヵ所にまでわたってある。そしてもちろん「百済郡」「百済川」「百済里」「百済洌」などもあるばかりか、「宝暦図」には「久太良(クタラ)」「安良(アラ)」(安羅)というのも出ていて、これにはとくにふりがなまでついている。これでみると、久太郎町というのも堀久太郎とは関係なく、やはり百済(くだら)の転訛したものとみるよりほかないようである。
さて、元はどちらも河内国だった和泉・河内である。摂津で紙数をとりすぎたので、こちらはそれだけかんたんにしなくてはならなくなったが、まず、一九七七年二月二十七日付けの読売新聞・朝刊に、「幻の信太寺/文字瓦がナゾ解いた/建立者は渡来氏族/信太のおびと」という見出しの、こういう記事がのっている。
飛鳥時代に建立されたと見られながら未確認のまま“幻の寺”といわれていた「信太寺」跡が、大阪府和泉市上代町で行っている府教委の調査で、二十六日までに発掘された。しかも寺院跡から見つかった文字瓦(かわら)が決め手となって、建立したのは、古代、信太地方を支配していた百済(くだら)系の渡来氏族「信太の首(おびと)」であることも一挙に突きとめられた。文字瓦から、渡来氏族と氏寺の関係がわかったケースはほとんどなく、和泉、河内地方が仏教先進地域となった古代史のナゾを解く貴重な手がかりになると評価されている。
発掘現場は和泉市北端、堺市との境界に接した小さな谷に面した水田跡地。邪馬台国の女王卑弥呼に関連あるといわれる景初三年(二三九)の年号が入った魏(ぎ)の鏡が出土した黄金塚古墳の南三百メートルの信太山丘陵先端部。……
決め手となった文字瓦は、築地塀跡から見つかった。いずれも破片ばかりで、うち一枚に「信太寺」の三字がへらでくっきりと彫られ、もう一枚には「信」の字の上部が欠けているものの浮き彫りになり、他の一枚には人名の後につける「〓古(おとこ)」の線刻があった。寺院の名を瓦に記入する例として鎌倉時代以降、軒瓦の紋様部分に彫刻されたのが知られているが、古代の文字瓦に残っていた例はほとんどないといわれる。
広瀬技師の話では「信太寺」は古代権力者の家系書『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』(八二五)などに百済系渡来氏族「信太の首」の氏寺と書き残されており、この寺院が信太の首が建て、さらに軒丸瓦の紋様から飛鳥時代末(約千四百年前)に建立した氏寺だと推定できるという。
同技師は、この寺院の規模を築地塀の大きさや周辺の地形、古道の位置などから約一万平方メートルと推定、寺域内には塔、金堂、講堂などの七堂伽藍(がらん)が配置されていたとみている。
このほか、現場から寺院建造に使う金具を鋳造したとみられる野鍛冶(のかじ)跡、屋根瓦を焼いた穴窯跡、僧の似顔絵を線刻した戯画瓦が掘り出された。戯画瓦は坊主頭の単純な線描だが、大きな目と口、広がった鼻など特徴を的確にとらえているという。
△これ以上の証拠ない
鈴木嘉吉奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部長の話「文字瓦から寺の素姓がわかり、それも渡来氏族と結びつくというのはものすごい成果だ。これ以上の証拠はない」。
文字瓦ばかりでなく、僧の似顔絵を線刻した戯画瓦までが出たとは、いかにも人間的なことでおもしろい。三宝の僧侶よりずっと下層の造瓦工たちは、そうすることである種のうっぷんを晴らしていたのであろうが、そういう面からみても、信太寺のこれは大きな発見であるといわなくてはならない。
泉佐野市の日根野に展開していた新羅系渡来の日野氏族などを別にすると、和泉・河内には百済、高句麗系渡来氏族が「目白押しとなっていた」ことを私は本文に書いたが、しかし、和泉にもそんな信太寺のような寺院があったとは知らなかったものだった。
要するに、私の手元にある新聞の切抜きだけとってみても、四六判の本書が出て以後、この十年ほどのあいだには、新たにまたいろいろなものが発見されているのである。たとえば、それの見出しのみみても、ざっとこういうふうである。
「白鳳期の珍しい軒丸瓦/交野の郡衙調査で見つかる/高句麗の『忍冬唐草文』/わが国では初めて出土」(一九七七年八月二日付け読売新聞・朝刊)
「最古の琴発見/東大阪 巨摩〈高麗〉廃寺/『五弦』の一部の板/弥生末期から古墳前期」(一九八〇年七月三十一日付け毎日新聞・朝刊)
「最大級の古墳時代集落/甲子園の90倍/百済系氏族が大量移住?/大阪・大園遺跡」(一九八一年十一月十二日付け毎日新聞・朝刊)
「久宝寺遺跡/渡来系土器60片が出土/朝鮮三国時代に製作?/平行叩き目や 格子叩き目」(一九八二年二月五日付け読売新聞・朝刊)
しかも、高麗(こ ま)王霊神・許麻(こま)大神というのが祭神の許麻神社近くにある久宝寺遺跡のそれは、こちら日本でつくられたものではなく、古代朝鮮から直行したもので、その記事をちょっとみるとこうなっている。
八尾市久宝寺三、久宝寺遺跡で四日までに、古墳時代中期(五世紀中期)に朝鮮半島でつくられたとみられる渡来系土器片約六十点が見つかった。一つの遺跡からこれほど多くの渡来系土器が出土したのは珍しく、久宝寺遺跡は、これまでほとんど解明が進んでいなかった渡来人(帰化人)の生活遺跡である可能性が強くなった。……
日本書紀などには、河内平野に朝鮮半島などから数多くの渡来人が住みつき、土器の製作や河川改修などにあたったという記載があるが、その“物証”となる渡来系土器は、これまで泉大津市の大園遺跡などで破片が十点程度見つかっただけで、その生活についてはほとんど解明されていなかった。
しかし、こんど久宝寺遺跡でこれほど大量に出土したことで、同遺跡は渡来人が住んでいた遺跡との見方が強くなった。
「可能性が強くなった」「見方が強くなった」などと、何だか歯切れのよくない記事であるが、つまり、それら生活用具としての土器は、かれら渡来人が朝鮮から渡来するとき携行してきたものにほかならなかったのである。現在の在日朝鮮人も故郷を出るときにはそういう生活用具を携行したもので、古代のそれも別に珍しいものではない。
たとえば、これからみる「純銀製の帯金具」にしても、その近くの古墳で発見された「渡来人の金ピカくつ」と同じように、古代朝鮮から直行したものではなかったかと私は思っている。一九八二年三月は河内で大きな発見が相次いだもので、まず、三月五日付けの毎日新聞・朝刊に、「純銀製の帯金具出土/大阪・太子町の伽山墳墓/奈良時代の初期/被葬者、親王級か/正倉院宝物に酷似」という大見出しの記事が出たかとみると、つづいて三月十三日付け読売新聞・朝刊には、「渡来人の金ピカくつ/六世紀の大和朝廷/百済の技術者か/銅に金メッキ、ガラス玉つき/大阪・一須賀古墳から破片」という、これまた大見出しの記事が出た。
後者の読売新聞の記事は前者の毎日新聞にも出ていて、同じ十三日付け朝刊のそれはこうなっている。
「今度は『金銅のクツ』/銀ベルト発見地の近くから出土/破片復元で判明/朝鮮の輸入品」
「銀ベルト」とはさきの「純銀製の帯金具」のことであるが、まず前者のその記事からみると、こういうふうになっている。
聖徳太子や敏達、用明、推古など蘇我氏系天皇陵が密集している“王陵の谷”と呼ばれる大阪府南河内郡太子町の磯長(しなが)谷で、奈良時代初め(八世紀初頭)の築造とみられる墳墓から、〓帯(かたい)=金具を取り付けた革帯=の純銀製飾り金具十一点が四日までに見つかった。純銀製金具の〓帯は全国で出土例がなく、正倉院宝物に類似品が一点あるだけである。
発掘調査に当たっている大阪府教委は、大宝元年(七〇一)に施行された大宝令の衣服令に銀装飾り金具をつけた腰帯は「王・親王か、一位〜五位の貴族にしか着用が許されない」と規定されていることなどから、被葬者は親王か、それに準じる貴人と推定。文献学者に被葬者の特定を依頼するとともに、今後の発掘で墓誌などの発見につとめる。
府教委の発表によると、発掘現場は太子町伽山(とぎやま)の伽山遺跡(弥生時代〜平安時代)東端伽山墳墓で、敏達天皇陵の北約百五十メートル。大阪府道富田林太子線建設に先立って、昨年十二月末から発掘調査が行われ、先月二十二日から〓帯が出土し始めたという。
記事はまだつづいており、また、私は大阪府立泉北考古資料館をたずねて、その純銀製帯金具をみせてもらうとともに、そこにいた府教委文化財保護課主査の野上丈助氏からそれの写真も分けてもらっているが、つづけて後者の「今度は『金銅のクツ』」のほうの記事をみることにする。
大阪府教委は、〈昭和〉四十四年に発掘した大阪府南河内郡河南町、一須賀古墳群の盟主的円墳(六世紀中ごろ)から出土した金銅薄片の復元を元興寺文化財研究所(奈良市)に依頼していたが、十二日までに儀式用の履(くつ)であることがわかった。古墳時代の金銅製履は熊本県・江田船山古墳出土(国宝)のものを含めて数例しかない。
出土現場は、先に純銀製帯金具が見つかった伽山(とぎやま)墳墓の南約一キ口で、“王陵の谷”に接した渡来系氏族の本拠地。この円墳からは、純金のイヤリングや金銅製の環刀〈頭〉太刀柄頭(かんとうたちつかがしら)なども発見されており、府教委は金銅製の履を含めたこれらの副葬品は朝鮮半島からの直輸入品とみている。
この記事もまだつづいているが、われわれはこの二つの記事を読んで、どういうことが考えられるであろうか。「新聞も解読するもの」とはこのまえ亡くなった井上光貞氏のことばであるが、われわれはこれをどう「解読」すべきかということでもある。
まずだいいち、前者の「純銀製帯金具」であるが、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」をみると、古墳としては、いまみた「純金製のイヤリング」すなわち「垂飾付耳飾」などとともに、「帯金具」がそこから出土したことをもって、その「帰化人文化の痕跡」としている。つまり、それらが古代朝鮮から直行したものであるということは、斎藤氏ばかりでなく、考古学者のあいだでは常識のようなものとなっているにもかかわらず、前者の記事にはそのことが一行も書かれていないということがある。
どうしてであろうか。おそらく、それが「王・親王か、一位〜五位の貴族にしか着用が許されなかった」というものであったからにちがいない。ならば、後者の「純金のイヤリングや金銅製の環刀〈頭〉太刀」などとともに、その「金銅のクツ」を使用していた者は、いったいどういう者であったというのであろうか。
まさか、それが渡来人のものであるからといって、それを使用していたのは当時の庶民だったとはいえないはずである。そんな庶民がいたとしたらこんなうれしいことはないが、しかしそれはやはり、「純銀製の帯金具」を腰にしていた者たちが使用したものというよりほかないのである。
それにしても、「純金のイヤリングや金銅製の環刀〈頭〉太刀柄頭(かんとうたちつかがしら)なども発見されており、府教委は金銅製の履を含めたこれらの副葬品は朝鮮半島からの直輸入品とみている」というのもおかしなはなしではないか。なぜかというと、古代朝鮮にはそういうものをつくって「輸出」する会社はなかったばかりか、日本にもそういうものを「輸入」する商社などなかったのである。したがってそれもまた当然、その古墳の被葬者である渡来人、いうならばその「貴族」が朝鮮から渡来するとき携行したものにほかならなかったものなのである。
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なお、以上の補足とはまた別に、本文をも読み直すことで、かなりの加筆をした。そして、『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第二冊目の本書(文庫版)がこうして成ったのも、講談社常務取締役兼学芸局長の加藤勝久氏ならびに、同社文庫出版部の宍戸芳夫氏、平沢尚利氏、守屋龍一氏、それから木村宏一氏らの好意と努力とによるものである。ここにしるして、感謝の意を表したい。
一九八三年八月 東京
金 達 寿
日本(にほん)の中(なか)の朝鮮文化(ちようせんぶんか) 2
電子文庫パブリ版
金達寿(キムタルス) 著
(C) 金達寿記念室設立準備委員会 2001
二〇〇一年三月九日発行(デコ)
発行者 中沢義彦
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
e-mail: paburi@kodansha.co.jp
製 作 大日本印刷株式会社
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