TITLE : 日本の中の朝鮮文化 1
講談社電子文庫
日本の中の朝鮮文化 1
金 達 寿 著
目 次
まえがき
一 相模国の遺跡
秦野の秦氏族
箱根山と高句麗人
大磯の高来神社
二 武蔵野の年輪
将軍標からの道
高麗郷・高麗神社
武蔵野について
三 北多摩の古墳
八王子・駒木野
多摩町と稲荷塚古墳
府中から狛江へ
四 甲州街道から浅草へ
神社を考える
深大寺ものがたり
浅草観音と白鬚
五 武蔵を後に下野へ
東上線に乗って
志木・朝霞・大和
那須国造碑のこと
六 足利・秩父の渡来人
鶏足寺をたずねて
秩父と和銅遺跡
続・秩父と和銅遺跡
七 房総・常陸をたずねて
芝山古墳群と埴輪
金鈴塚・駒井野・鹿野山
常陸・国分寺ほか
八 上野に残された痕跡
赤城の「からやしろ」
妙義・貫前・富岡
多胡碑と韓科(級)
あとがき
九 文庫版への補足
相模の寒川神社ほか
常陸の虎塚古墳ほか
まえがき
私が日本の中にあるこのような朝鮮文化遺跡の旅を思い立ったのは、十数年もまえのことだった。しかしいろいろなことがあって、なかなか実行にうつすことができなかった。それがいまようやく、関東地方を中心にして一冊となったのがこれである。
ここで私が意図したことを一言にしていうならば、それはかつての古代、朝鮮とは日本にとって何であったか、ということであり、同時にまた、日本とは朝鮮にとって何であったか、ということである。そのことをここに書かれたような「旅」をつうじて考えてみようとしたものにほかならない。
もちろん、私はひとりの文学者ではあっても、けっして歴史学者といえるようなものではない。しかしながら、私は朝鮮と日本とのそれに関するかぎり、これまでの伝統的な日本の歴史学にたいして、ある疑問を持っていることも事実である。疑問というのは、一つはまず、日本古代史における朝鮮からのいわゆる「帰化人」というものについてである。端的にいえば、これまでの日本の歴史では、まだ「日本」という国もなかった弥生時代の稲作とともに来たものであろうが、古墳時代に大挙して渡来した権力的豪族であろうが、これをすべて朝鮮を「征服」したことによってもたらされた「帰化人」としてしまっている。ここにまず一つの大きなウソがあって、今日なお根強いものがある日本人一般の朝鮮および朝鮮人にたいする偏見や蔑視のもととなっているばかりか、日本人はまたそのことによって自己をも腐蝕しているのである。
ところで私は、にもかかわらず、この「旅」にあたっては一貫して、それをあくまでもそのような「帰化人」としているこれら日本の歴史学者や、考古学者たちの研究にしたがってすることにした。うるさいほど引用がされているのもそのためで、これは「わが田に水を引くもの」とみられるのをおそれたからばかりではない。いわば、私のこの「旅」は日本の学者たちの研究にしたがって、それを手にして、この足で歩いてみたまでのものにすぎないが、しかしじつをいうと、私はその遺跡がこれほどまでに広く詳細にわたって分布しているとは知らなかったのである。
そればかりか、私はこうして歩いてみてあらたに気がついたことは、では古代、これら朝鮮からの「帰化人」といわれるものたちがのこしたもののほかに、「日本の文化遺跡」はいったいどこにあるのか、ということだった。関東地方だけをとってみてもそうであったが、これはいったいどういうことを意味しているのであろうか。古代における朝鮮からのそれがどういうものであったか、われわれはもっとよく考えてみる必要があるのではないかと思う。われわれはそうすることによって、今日にある両国・両民族のすがたも、はじめてはっきりした主体的なものとすることができるにちがいない。
一九七〇年十一月 東京
金 達 寿
日本の中の朝鮮文化 1
一 相模国の遺跡
秦野の秦氏族
相模国秦野から出発
武蔵国あるいは武蔵野は、いまの東京都と埼玉県ほかであるが、その周辺となると、これは関東地方一円ということになる。まず、その周辺の一つである相模(さがみ)国(神奈川県)のほうからさきにみることにしたいと思う。
相模も、もと、東部のほうは武蔵国にふくまれていたというから、厳密な意味ではその周辺とはならないかもしれない。それはともかくとして、相模ということになれば、これは秦野(はたの)からということにしたい。
秦野は煙草の産地として知られているところであるが、私は以前、神奈川県の横須賀に住んでいたころ、大山(おおやま)に登ったことがあったりして、たしかここも一度とおったことがある。が、その秦野を目的地の一つとして訪ねたのは、こんどがはじめてであった。
新宿から小田急電車の急行でちょうど一時間、同行の阿部桂司君が持って来た地図など開いて、ああこういっているうちに、もうそこに着いていた。朝からむし暑いような、うっとうしい曇り空だったが、それでも、駅のホームにおり立ってみると、駅前の盆地に秦野の町がひろがっていて、その向こうに丹沢山塊(たんざわさんかい)らしい山なみが見えた。
私には、かつてとおったときの印象など、もうまるでない。
「あれは、丹沢なのかな」
「ええ、そうです。丹沢山塊ですね」
阿部君は、すぐに答えた。彼はなかなかおもしろい文体を持つ若い文学仲間の一人であるが、またなかなかの旅行家でもあって、この秦野をとおるコースで、何度か大山や丹沢へも登ったことがあるとのことだった。
私はその丹沢山塊の「丹沢」ということばの由来について阿部君に一言いおうかと思ったが、それはあとのことにして、私たちはまず、市の観光課か教育委員会へ行って、案内のパンフレットかリーフレットをもらうことにした。人に訊(き)くと市役所は近くだとのことで、駅前を東南に流れている水無川の橋を渡り、市内へ向かって歩いて行った。
橋の向こうは、どこにでも見られるような小都市の目抜き通りだったが、煙草など有名な産業のあるところのそれとしては、何となくひからびたような感じの町なみだった。私は一泊するための洗面道具や、参考書などの入っている重たいカバンをさげているということもあって、少し歩いただけでちょっと閉口気味だったが、阿部君は気軽にとおりがかりの人に道を訊いたりしながら、元気な足どりでさきに立って歩いていた。
あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしたが、ある人から言われて気がついてみると、私たちの歩いて来たそこが市役所の分所だとのことで、「商工観光課」「教育委員会」などの大きな木札がかかっている。妙なもので、市役所の本庁舎までたずねあてて行ったとしたら、私たちはまたそこまで引き返さなくてはならなかったところだった。
おそらく元はそこが町役場だったにちがいない、古びた木造の二階建てだった。その二階にある商工観光課へ行って私たちは名刺をだし、若い係の人からリーフレットをもらって見たが、私たちにとっては用のない鶴巻温泉や丹沢山のハイキングコースなど、いわゆる名所といったものしか出ていない。
「この市の沿革といった、そういったことについて書かれたものはないでしょうか」
私は、歩いたために暑くなっていた顔や首すじにハンカチをあてながら、係の人に訊いた。もともと私たちは、この秦野へは目ざす古代朝鮮文化遺跡があるという、たしかな目標があって来たわけではなかった。唯一の手がかりは、「秦野」というその地名だけだったのである。
「ああ、それでしたら、駅前の本屋へ行ってみてください。そこで、売っていると思います」
何という書名なのかわからない、たよりない返事しかえられなかったが、私たちはそこを出て、おなじ二階にある教育委員会へ寄ってみることにした。が、私は生理上の用を足したくなったので、そこへは阿部君一人で行ってもらうことにした。
階下にあったそこで用を足し、外へ出て待っていると、やがて阿部君も二階からおりて来た。
「やあ、お待たせしました。この人がですね、いろいろ話してくれて、駅の向こうに太岳院(たいがくいん)というお寺があって、そこの住職の安本さんというのが市の文化財保護委員だそうです。で、その人を紹介してもらいました」
そう言って阿部君は、いっしょに歩きだしながら、手にしていた一枚の名刺を見せてくれた。
「一(はじめ)霊真」と、その姓にはかながふってある。
「一(はじめ)、ね。珍しい苗字(みようじ)だな。名前は寺の出の人のようだが、この苗字のこと、訊いてみた?」
「ああ、それは忘れました。行って訊いてきましょうか」
「いや、いいんだ。それより、じゃあ、その太岳院というところへ行ってみようじゃないか」
そんな目的を持っていっしょに旅をすることになったせいか、阿部君もどうやら古代朝鮮文化遺跡づいてきたもののようだった。「一」という一字姓がなにか朝鮮と関係あるかのように私が考えたものと、彼は思ったのらしかった。
「太岳院は線路を越した駅の向こう側だそうです。この名刺の一(はじめ)さんが三度も電話をしてくれたんですが、どうしても、――だれも出てこないんですよ。一という人はぼくくらいの若い人で、市の教育委員会がだした『秦野の文化財』というのを見せてくれましたが、これは一部しかないとかで、ゆずってもらえなかったです。市には博物館がないので、発掘品なんかも太岳院においてあるそうですから、もしかすると太岳院の安本さんのところには、それもあるかもしれません」
阿部君をもし助手だということができるとしたら、こんな名助手はほかにはいないにちがいない。彼はなにごとによらず、じつによく気の利(き)く男だった。
私たちは歩いて、駅前のほうに戻って行った。商工観光課でいわれた書店は、すぐにわかった。私たちはここで、読売新聞横浜支局編『神奈川の歴史』上巻と、石塚利雄氏の『秦野地方とその産業の推移について』というのを買った。
こういうものはあらかじめ図書館かどこかでよく調べ、勉強をしてくるべきであるが、私のこの「――旅」というのは、はじめからこういう泥縄式なのである。しかし、ある意味では、このほうがおもしろくなくもない。
“小京都”の寺
太岳院というのは、かなり大きな寺だった。住職で市の文化財保護委員だという安本利正氏に会えるかどうか心配だったが、私たちがそこについたときはちょうど正午で、安本氏は畑仕事かなにかしていて戻ったらしく、本堂近くにあった境内(けいだい)の水道端で手を洗っているところだった。
私たちはまず、本堂の広間にケースをおいて入れてある古墳からの発掘品を見せてもらったが、玉類や、以前は朝鮮土器ともいわれた須恵器(すえき)など、なかなか立派なものだった。それは安本さん自身、さきの一霊真氏らとともに発掘に参加して報告も書いている、市の平沢にある稲荷塚(いなりづか)古墳からの出土品であった。私たちは報告ののっている『秦野の文化財』第三集もここでもらうことができた。
「ところで」と私は『秦野の文化財』をめくってみながら、この古墳の主人公はというぐあいにして、安本さんに訊いた。「この秦野というところは、山城の京都にいたあの秦氏族と関係があるものと思って来たのですが、それはどうなのでしょうか」
「そうですね」と、寺の住職らしいところは少しも見えず、ときには畑仕事もしているといった地方史研究家の安本さんは答えた。「ここはむかしから小京都といわれているところで、地名も京都とおなじなのがたくさんありますよ」
「小京都、――なるほど。すると、駅前のあそこを流れている水無川はさしずめ賀茂川で、こちらは東山にあたるというわけですな」
私はそこにかかっている橋を渡って来た水無川というのを思いだし、笑いながら言った。
そういわれてみると、盆地であることといい、よく似たところであるようにも思えてきた。これはあとで、石塚利雄氏の『秦野地方とその産業の推移について』をみて知ったが、この秦野には京都とおなじ祇園(ぎおん)下、清水、観音(かんのん)、東山、権現(ごんげん)山、下賀茂(かも)、上賀茂などなどの地名があったりしている。
「秦氏といえば」と、安本さんは言った。「この向こうの簔毛(みのげ)というところに古い大日堂、不動堂、地蔵堂というのがあって、その脇のほうにこれらの堂を建立(こんりゆう)したのは秦氏だという石碑(せきひ)が立っていますよ。バスで二十数分のところですが、そこへ行ってみたらどうですか。終点の簔毛でおりて、宝蓮寺を訪ねればすぐにわかります」
私たちはさっそくまた駅前へ引き返し、そこから簔毛へ向かうことになった。バスを待っているあいだやバスのなかで、『神奈川の歴史』などを開いてみる。
秦氏一族によって開発された町
『神奈川の歴史』のほうはどうということもないが、『秦野地方とその産業の推移について』は、私たちにとって、なかなかおもしろいものであった。この小さな新書判の本には、なかに珍しい「町の老人の昔話座談会」などが収録されているばかりでなく、たとえば、この地方にあった「十日市場」の「市(いち)」のことについてのべたところに、こんな箇所がある。
ここで市(いち)の起源について少し考えてみたい。市の発生については政治起源説、祭祀(さいし)起源説といろいろあるが、余剰物資の直接交換を目的として、自然的に発生したのであるとの説もある。変った説としては、市は固有の日本人が始めたものでなく、帰化人が始めたとする説もある。
「固有の日本人」とはなにかということがこのばあい問題となるが、それはしばらくおくことにする。それからまた同書によると、秦野は煙草ばかりでなく、かつては織物の産地としても有名なところだったらしく、「秦野で織物業をしているというと、では帰化人の子孫か、といわれたことがある」として、そのことをこう書いている。
『新撰姓氏録(しんせんしようじろく)』によると、応神天皇の十四年、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の裔弓月君(すえゆづきのきみ)が百二十七県の百姓を率(ひき)いて帰化し、仁徳天皇の御代(みよ)に、これを諸国に分置して、機(はた)織りの業に従わせ、波多氏と称した。幡多(はた)郡は、それが集団的に配置されたところで、今の秦野地方がこれに当る、としている。したがって秦野の沿革についても、本町は他の秦野諸町村と共に、古代の幡多郷に属し、秦の帰化人を集団的に配置した故の名称である、と記している。
源(みなもとの) 順 (したごう)の『倭名抄(わみようしよう)』にも幡多の地名が記載されているとのことだから、ハタという地名は古くからあったことは確実である。
以上のような次第として、秦(シン)の帰化人が秦野に住んで、機織り(ハタオリ)をやっているのか、といわれたわけである。
やはり、私の予測していたとおりだった。秦野は、山城(京都)を本拠とした秦氏の一族によって開発されたところだったのである。
ただ、ここではその秦氏族が「秦の始皇帝の裔弓月君」うんぬんというところから、「秦(シン)」すなわち中国からの「帰化人」であるかのようにされているが、これははっきりとまちがいである。このような説はいまもなお広く行きわたっている常識のような面を持っているが、これは中国にたいする事大(じだい)、ないしは朝鮮にたいする賤視(せんし)思想から出たもので、秦氏というのは古代朝鮮の新羅(しらぎ)・加耶(かや)から渡来した豪族の一つであった。
秦氏が朝鮮・新羅・加耶系の渡来氏族であるということは、上田正昭氏『帰化人』ほかをみても明らかなように、この秦は「新羅語のハタ」で、「海を意味し、朝鮮からの海人=外来人を意味していたもの」だった。そして京都の太秦(うずまさ)にいまもある朝鮮渡来の有名な日本の国宝・弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)を本尊とする広隆寺は、その秦氏族の氏寺(うじでら)だったのである。
そのように山城で栄えた秦氏の支族がこの関東の相模にまでひろがって来て、秦野という町をつくりだしたわけであったが、簔毛は阿夫利(あふり)神社などのある大山や丹沢山塊への登り口の一つにあたっていて、金目川という清流のながれる美しいところだった。ほとんど山腹に近く、いかにもこの秦野に住んで稲荷塚古墳などをつくりだしたものが、そこに永世の願いをこめた寺を建立しそうなところと思われた。しかし、その寺は、いまはもうすっかり荒廃しきっていた。
私たちは登山道をあいだにして左右両側にわかれている左側の宝蓮寺の住職さんの案内で、右側山寄りのその寺の広い境内を見て歩いたが、大日堂も不動堂も地蔵堂も、いまはそれこそ見るかげもなかった。秦氏がその寺を建立したという石碑もあったが、これはずっとのちに建てられたものらしかったけれども、それもいまはすっかり苔(こけ)むしたままだった。
宝蓮寺の住職さんのはなしによると、神奈川県が近くそこを発掘することになっているとのことだったが、なにが出るか、そのときは私たちもぜひまた来てみたいものだと話し合った。私たちはそんなことを話し合いながら、金目川にかかった簑毛橋のたもとで阿部君の用意してきてくれた弁当を食い、そしてさらにまた秦野の駅へ引き返して、小田原へ向かった。
箱根山と高句麗人
高麗と高句麗
小田原についたときは午後四時をちょっとすぎていたが、朝から曇ったきりの空は、どうやら降りだしそうなもようだった。私たちはさっそく、市役所へ向かった。小田原市の役職員で、市立郷土文化館長をしている地方史研究家の中野敬次郎氏に会うためだった。
市役所の受付のおばさんはあちこちに電話をして中野氏をさがしてくれたが、どこへ行っているのかわからない。もしかすると、天守閣にいるかもしれないという。「天守閣」とは小田原城のあるところらしいことばだと思ったが、そのあいだに阿部桂司君がすばやく気をきかせて、受付の横にあった電話簿をめくり、中野敬次郎氏の自宅の電話番号をさがしだしていた。
で、私たちは、夜になったら中野氏の自宅に電話をして、会ってもらうのは翌日にしようということになった。まだ時間があったので郷土文化館へ行ってみたが、ここではちょっとした弥生式土器や須恵器が目についたほか、別にとり立ててこれといったものはなかった。
郷土文化館から出ると、雨が降りだしていた。私たちは雨のなかを歩いて、小田原城入口の脇にある古道具店に寄り、朝鮮陶磁器のいくつかを見せてもらったりして時をかせいだが、雨はやみそうになかった。
まだ少し時間は早かったが、私たちはバスで、これも阿部君の手配でそれときまっていた国家公務員共済組合連合会宮ノ下保養所なる泊まり先に向かった。私たちはここで一泊し、翌日はその保養所の近くにあると思われる箱根山中の新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の墓というのをみて、それから箱根神社などをまわり、小田原へ下って前記の中野敬次郎氏と会い、それからさらにまた大磯(おおいそ)へまわるつもりだった。
こう書くと、高来(たかく)(高麗)神社のある大磯はともかくとして、私のこの「――旅」と芦(あし)ノ湖(こ)に赤い鳥居(とりい)を突きだしているあの箱根神社とは、いったいどういう関係があるんだ、と思う向きがあるかもしれない。が、どうして、箱根山そのものからして、なかなかそうではないのである。たとえば、中野敬次郎氏の「箱根山の開発と高麗文化」をみると相模(神奈川県)全体とも関連してこうある。
相模国には古代に高麗人が各所に住んでいたが、大磯は最も世に知られたところである。また、相模国の中央にある高座郡も、今は、「こうざ郡」と読むが、初めは「たかくら郡」と呼んだのであって、高倉郡とも書き、高麗人が住んでいたので郡名が起きたのだと言われている。奈良時代に聖武(しようむ)天皇に仕(つか)えて当時の高麗人としては最高の位置であった従三位(じゆさんみ)に叙(じよ)せられて公卿(くぎよう)の列に入った高麗福信という人が、後に高倉福信と名乗っているが、「たかくら」と言うのは、何か上代高麗人に深い関係のある名称であったらしい。
なお、中野氏もつづけてそのことについても書いているが、ここにいわれている「高麗」というのは、それの朝鮮語のコリョがKOREAとなった、統一新羅ののち九三五年からそれとなっている高麗(こうらい)ではなく、そのずっと以前、朝鮮が高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅とわかれていた三国時代の高句麗のことである。これを日本では古代から、のちの高麗とはまた別に「高麗(こま)」といいならわし、日本語の駒(こま)(馬)、駒下駄(こまげた)、駒岳、狛(こま)犬といったことばなども、みなそれからきたものであるといわれている。
それからまた、私がいまこの稿をすすめている一九六九年十一月十三日、東京新聞夕刊に連載されている「地名風土記(ふどき)」をみると、この日は東京の「渋谷(しぶや)」となっていてこうある。
渋谷の地名については、古くからこのあたりまで海がはいりこんでいて、塩谷(しおや)の里とよばれていたのが、渋谷に変わったという。しかし、相模国高座(こうざ)郡渋谷庄に、治承(一一七七―一一八一)のころ、渋谷国重という領主がいて、その一族がここに移り住み、ここも渋谷とよばれるようになったともいう。(浅井得一=玉川大教授)
もしかすると、渋谷へとつうじている大山街道のことといい、ここにいう渋谷氏というのも、この高座郡に住んだ朝鮮・高句麗系の渡来氏族から出たものかもしれない。
朝鮮語由来の地名
中野敬次郎氏の「箱根山の開発と高麗文化」からの引用をつづける。
高麗人は大磯、高座を中心に住んだが、次第に周辺の地へも分布して行ったようで、その住居地、集落の遺跡ではないかと思われるところが、地名や風俗に処々に残っている。
地名について言えば、古代から名山として知られた箱根山も、往昔(おうせき)の大修験(だいしゆげん)道場で今は登山界で知られる丹沢山塊も、その山名は古代韓国語で名付けられたものであると考えられている。
丹沢山のたん(丹)は、古代韓語の深い谷間の意味で、さわ(沢)も深谷の渓流のことを指すもので、後にこれが普通の大和(やまと)言葉になったのだと言われておって、丹沢山は谷深く沢清き義であるらしい。箱根山は万葉集の中にある歌の中には波古称(はこね)などと書かれ、中古の頃は筥荷、あるいは筥根と記され、平安時代の末頃から、今のように箱根と書かれるようになったが、あるいは函嶺と書く場合もある。要するに、「はこね」と称する発音や、筥、箱などを用うる文字から来る感じなどと、三重式カルデラ式火山(桶状火山)などからして、語源は箱の形をした山と言う意味だろうと考えられる向きが多いようであるが、実は聖山又は神仙の山の意から出たものである。北中国や韓国の古語では、「はこ」は神仙の意味で、「ね」は山嶺の義であって、山頂に神仙の住む聖山だという意味から起きた山名である。
箱根山の縁起(えんぎ)、伝説によると、開発の初めは、太古に開山聖占仙人が、駒岳の山上に権扉(けんぴ)を排して神仙宮を営んで住んだのに起きたと言われているが、事実今芦ノ湖畔にある箱根神社は、奈良朝以前には駒岳の山頂にあったもので、これは駒形権現(ごんげん)と言われた。この駒形権現は大磯の高麗山の山頂に祀(まつ)られていた高麗権現を勧請(かんじよう)したものであって、箱根山の歴史が高麗権現の勧請から出発しているのは、言うまでもなく、高麗人によって箱根に最初の開発の鍬(くわ)が下されたものであることを示している。
奈良時代になって、万巻上人という奈良の高僧が箱根山に来(きた)って、天平宝字元年に霊夢(りようむ)によって、駒形権現を駒岳の山頂から麓(ふもと)に下して、箱根三社権現と名付け湖畔に祀ったのが、今の箱根神社である。
ここで、さっき私が秦野の駅で阿部君に言おうとした「丹沢」ということの由来がわかったわけであるが、しかし、朝鮮語から来たものはそれだけではない。だいたい、相模国というその相模からして、これは中島利一郎氏の『日本地名学研究』によると、朝鮮語の「サングモが訛(なま)ってサガミとなったものである」といわれる。
“しらない”国の物語
中野敬次郎氏の「箱根山の開発と高麗文化」からの引用を、もう少しつづけなくてはならない。中野氏のこれは一般の目にはほとんどふれることのないところに書かれたもので、それに、私は、こうして引用することを電話で筆者にことわってもある。
さて、現在この箱根神社に箱根権現絵巻というものが社宝として伝えられていて、文部省の重要文化財に指定を受けている貴重なものであるが、その内容は、大磯に渡航して来た外来民族に依(よ)って箱根山が開発される話を絵巻物で物語っている、非常に意義深く面白いものである。
その話の大要を記すと、昔「しらない国」に「さだいえ中将」という人があったが、先妻を失って後妻を迎えたところ、この後妻が悪い女で、先妻の生んだ「りょうさい御前」という姫君をにくんで迫害を加え、中将が都に上っている留守中に、遂には土の牢屋の中に幽閉して五百人の監守を置いて見守らせる。
ところが、後妻の実子たる「りょうしゅ御前」という姫君が、心のやさしい娘で、姉に同情して火鉢の炭火で壁に孔(あな)をあけ、この孔から自分の衣食を分け与えて、一年間姉の生命を養った。
父の「さだいえ中将」が都から帰って来る時期になったので、継母が土牢を開いて見ると、意外に牢屋の中の姫の姿は、丈(たけ)なす黒髪も美しく、かがやくような奇麗(きれい)な娘になっていた。
継母は悪心を改めず、また中将の上洛中更に檀特(だんとく)山というところに、十町もある土牢を掘って、その中に千の剣を立てて、「りょうさい御前」を押し入れてしまう。妹姫の「りょうしゅ御前」は、姉の安否を気づかって檀特山に至ったが、姉姫を土牢に入れて帰る母の姿を見ると、腰から下が大蛇(だいじや)になっていた。妹姫は恐ろしさに土牢の側で声を放って泣きくずれていた。
ここに「はらない国」という国があって、王子の太郎と二郎が遠狩をして檀特山に来ると、美しい姫君が泣いているので、わけを尋ねて驚き、姉妹の二姫を救い出し、玉の輿(こし)に乗せて「はらない国」に連れ帰り、姉は太郎の王子の妃、妹は二郎の王子の妃となった。
父中将が久々に都から帰って見ると、二人の姫が居なくなっているので人生をはかなみ、入道して墨染(すみぞめ)の衣に姿をかえて、行脚(あんぎや)修業の旅に出て「はらない国」に来(きた)り、二人の姫に会い、しかも非常に栄達(えいたつ)して幸福に暮しているのを見て涙にむせんで喜ぶ。その後二王子夫婦と中将とは栄華(えいが)を極めていたが、やがて現世の栄華をはかなみ、後世の願いのために、仏法弘(ひろ)まって救世の誓あまねき日本国に渡海することを決心し、五人で海を渡って到着したところは、関東相模国大磯というところであった。
さて大磯に上陸した五人は高麗寺に止(とどま)っておろうとしたが、箱根というところが霊験(れいげん)あらたかな聖域であると聞き、相携(あいたずさ)えて箱根に来たが、中将と二郎夫妻とが永く箱根に止ることになり、太郎夫妻は伊豆山に入って、そこを開発することになった。中将と二郎夫妻の三人が神となったのが箱根三権現で、太郎夫妻が神として祀られたのが伊豆山二権現である。
以上が箱根権現絵巻の中に記されている物語である。この絵巻物は室町時代の作品といわれているが、遥(はる)かの往昔(おうせき)からその頃までこんな伝説が永く伝えられていたので、それを絵巻物として記したものであると思われる。話はまことに荒唐無稽(こうとうむけい)のことのように思われるが、見方によっては深い意義を持っており、研究に値するものであると思う。
端的に言うならば、この物語は、古代の箱根が高麗人の手によって開発されたことを語っているものであって、高麗本国(しらない国、はらない国)と大磯の高麗寺と箱根権現と伊豆山権現との関係を一つの物語で結びつけているものである。
引用はいちおうこれでおわるが、この引用で私は一つ思いだしたことがある。さきに一読したときはそうでもなかったが、いまこの「箱根権現絵巻」のものがたりを書きうつしながら、どうもこのはなしはどこかで聞いたことがあるなあ、という気がしだした。
ことに継子(ままこ)いじめの継母が蛇になるということや、父親が人生をはかなんで入道して旅に出るのなど、これは私がまだ朝鮮にいた幼いころ、祖母などから何度も聞かされたことのある朝鮮民話の一つである。記憶があやふやではっきりしないが、たしか李朝(りちよう)時代のものがたり本(小説)の一つにある姉妹と父親のはなしもこうではなかったかと思う。しかし、それがこの「箱根権現絵巻」とどう結びつくのか、結びつかないのかはわからない。
観光資本となった高麗権現
ところで、国家公務員共済組合連合会宮ノ下保養所なる宿に入った私たちは、夜になって、以上に引用した「箱根山の開発と高麗文化」の筆者である中野敬次郎氏に会うべく、小田原の自宅へ電話をした。さいわい中野氏は帰宅していて、すぐに電話口に出てくれた。
「あしたは朝早くから東京へ行かなくてはならないので会えないが、どういう用件か」と言う。
そこで私は、氏の「箱根山の開発と高麗文化」のことを言って、それを引用したいことや、直接会ってもう少しいろいろ聞きたいということを申し入れた。しかし、引用はいくらしてくれてもさしつかえないが、あしたはそういうわけで会えない、ということであった。私たちは、中野氏に会うということはそれで断念しなくてはならなかった。
翌日は、ひどい雨だった。早くから宿を出るつもりだったのに、食事をして十時近くまで宿でうろうろしながら待ってみたが、雨はやみそうにないばかりか、ますます降りつのるようだった。
やむをえない。私たちは雨のなかへ出て行って、元箱根行きのバスに乗った。どこにあるのかよく知らない新羅三郎義光の墓はともかくとして、箱根神社までは行ってみようと考えたのである。
ところが、バスが山を登るにしたがって、風をともなった雨はますますひどくなり、元箱根についたときは、はげしい嵐となっていた。街道は人っ子ひとりなく、箱根神社どころか、すぐ目の前にあるはずの芦ノ湖さえ、横なぐりの雨と霧とに閉ざされて見えない。しかたない。私たちはむなしく、そこからまたバスで小田原へ下るよりほかなかった。ほんとうは、できたら、私たちは箱根神社だけでなく、駒岳の山頂にまだのこっていて、いまは箱根神社の奥宮となっている駒形神社へも行ってみたかったし、また、下りには、これも朝鮮からの渡来といわれる木地師(きじし)(木地屋、轆轤(ろくろ)師ともいう)ののこした有名な箱根の寄せ木細工(ざいく)、それをつくりだした須雲(すぐも)川沿いの須雲川集落へも行ってみたかったのである。
この箱根の寄せ木細工については、「もともと寄せ木細工は来日して箱根近辺に住み付いた高麗人が残した技術という」と門馬晋氏もどこかに書いているとのことであるが、それからまた、須雲川集落の近くには畑宿というところがあり、ここにも駒形宮なるものがあるとかで、それも見たかったけれども、はげしい雨のため、どうしようもなかった。
ただ、箱根神社だけはその後、これも文学仲間の一人である矢作(やはぎ)勝美君とそこを通過する機会があったので、矢作君といっしょに行ってみたことがある。行ってみたところで、別にどうということもないとは思ったが、しかし、これを書くからには何となく気がかりで、一度この目でみておくに越したことはないと思ったからだった。
亭々とした杉の木の茂っている境内(けいだい)と参道。――これはどこの神社にも見られるもので珍しくもなかったが、さすがに境内は広く、権現の森も思ったより深かった。
だが、予想したことではあったけれども、いまはすっかり観光化されて、高麗権現もなにもあったものではない。参道の脇には「参集殿」なる鉄筋コンクリートビル(?)を建立中で、古代の朝鮮から来た権現さんも、いまでは大きな資本の一つとなりつつあった。
長い石段を登りつめると、そこが本殿だった。私たちが行ったのは五時近くで、守り札(ふだ)など売っている社務所は店じまいのさいちゅうのようだった。なかに坐った若い男が帳簿を前にしてそろばんをはじき、外に立っている白袴(しろばかま)の中年男はなにやらそれを不安気にのぞき込んでいるようだったが、しかし、こちらはそれのおわるのを待っているわけにもゆかない。
「この神社の由緒(ゆいしよ)を書いたもの、それはないでしょうか」
と私は、二人の男のどちらにともなく訊いた。
「ありません」
なかに坐っている若い男が、こちらを見向きもしないで言った。元はあったけれどもいまはないのか、それとも元からないのか、それだけの返事ではわからなかったので、私はもう一度訊いた。
「あったけれどもいまはないんですか、それとも……」
「ありません」
若い男はやはり見向きもしない。中年男はあいかわらず、なにやら不安気なようすで、そろばんを持った若い男の手元ばかり見つめている。
やれやれ、これでは「箱根権現絵巻」のことなど、口にするだけムダである。私たちは早々に、そこから退散したものだった。
大磯の高来神社
高麗神社が高来神社に変わったのは
小田原まで下りてくると、雨は小降りになった。ふしぎなもので、この日の夕刊を見ると箱根の駒岳山頂では風速六十メートルの強風だったとのことであるが、小田原ではほとんど風もやんでいた。私と阿部桂司君とは、そこからすぐ東海道線で大磯へ向かった。
大磯では、雨はもう小雨となっていた。高来(たかく)(高麗)神社へは七、八年前にも私は一度行ったことがあったが、よくわからなかったので、駅前からタクシーに乗った。そこから近くの、国道一号線沿いにあるということだけは知っていたのである。
高来神社は七、八年前に来たときとは、まるで見違えるようになっていた。当時は草葺(くさぶ)きの堂が一つ二つ、荒れたままに立っていただけだったように思うが、いまでは参道も境内もすっかり整備されて、立派なものになっていた。
私たちはちょっと境内をぶらぶらして、社務所へ行って宮司(ぐうじ)の渡辺幸五郎氏に会い、神社背後の高麗山(こまやま)が県有の自然林となっていたからか、大磯町高麗にある神奈川県林業指導所のだした『高麗山』という案内のリーフレットをもらった。宮司の渡辺さんは五十前後の人だったが、たいへんな早口で、神社について説明をしてくれた。
東海道に面したこの高来神社は徳川時代にいたるまでたいへん社格が高く、参勤交代(さんきんこうたい)の大名でもこの神社の前を通過するときは、「下におろう」などといって、この辺の人民を道路ばたに土下座させることはできなかった。それだったから、はだかでオチンチン丸だしの百姓の子どもでも、平気でその行列を横切ったりしたものであった、というようなことだった。
宮司の渡辺さんは早口であるだけでなく、阿部君もあとで、「あの人はおもしろかったですね」と言ったほど、たいへん気さくな人のようだったので、私たちもずけずけといろんな質問をした。
たとえば、元は高麗神社だったこの神社がいまは高来神社などというものになっているが、それはどうしてだったのか、とか、箱根神社や伊豆山権現もこの神社の真の祭神である高麗王若光(じやつこう)を勧請(かんじよう)したものだということであるが、箱根や伊豆山はそれをどう考えているのだろうか、といったことだった。それについて渡辺さんは、
「箱根や伊豆山では、そのことをかくしているようですね」
と言ったけれども、自身の高来神社のことになると、ちょっとこんらんした。
ムリもない。それは日本の歴史がこれまで一貫して、そこから朝鮮というものを消し去ろうとしたことの一つのあらわれであって、渡辺さんに責任があるというものではなかった。それよりこの地元の人々は、これまで「高麗」という地名だけでも、よくのこしてくれたものだというべきであろう。
時代の潮流とともに変わって来た神社
そのうちに、渡辺さんはそんな質問をする私たちがわずらわしくなったものらしく、
「それだったら、町の図書館にいろいろな資料があるからそこへ――」
ということで、私たちを境内の隅においてあったライトバンで大磯町立図書館へと送ってくれた。神社の宮司さんがライトバンを乗りまわすというのもなかなか現代的な風景だったが、私たちはていよくそうして追いはらわれてしまったようなぐあいでもあった。
しかし、それで私たちはまた、そこの図書館にある資料によってもいろいろと調べることができたが、まず、われわれは神奈川県林業指導所のだしたリーフレット『高麗山』からみていくことにしよう。
東海道線平塚(ひらつか)駅から大磯にむかう右手に、こんもりとした山が見えます。この山を高麗山といいます。全山樹木がよく繁り、春の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色など四季を通じてその景色は美しく、旅行く人々の旅情を楽しませてくれます。
広重(ひろしげ)の名所絵にもかかれ、昔から人々に親しまれてきた高麗山のことについて紹介しましょう。
なかなかの名文、この種のものとしてはひじょうに親切なものである。そして、「一、高麗山の歴史」として、次のようにしるされている。
高麗という地名のおこり 奈良時代に高麗王若光の一族が海路この地に移住してきました。彼等は花水、相模両川の下流原野の開拓を行いながら、大陸の先進文化をひろめました。その後、高麗人は霊亀二年(七一六)に武蔵国(埼玉県入間郡高麗村)に移ったといわれます。現在でも高麗寺、高麗山、唐ケ浜、唐ケ原などの地名がのこっており、その当時がしのばれます。
高来神社(高麗神社) うっそうと樹木のおい繁った高麗山南面の山麓に高来神社、高麗神社、権現さんなどの名でよばれている由緒ある神社があります。
この神社の創建については明らかではありませんが、神(かみ)皇産(むすび)霊神(のかみ)、瓊瓊(ににぎ)杵尊(のみこと)、応神天皇、神功皇后の四柱が祭神として祀られています。
奈良時代に本地垂迹説(ほんじすいじやくせつ)が唱えられるようになると神仏を一つに考え、神社の境内にお寺を建てるようになりました。高麗神社の境内にも養老年間に法相宗の僧が千手(せんじゆ)観音像を本地仏として鶏足山雲上院高麗寺を創建し、高来神社の別当(べつとう)としました。(この千手観音像は漁師鮹之丞(たこのじよう)が大磯の照ケ崎の沖合いから引揚げ、高麗山の山麓に堂をつくって安置したといわれているものです)
高麗寺は頼朝が幕府を鎌倉に開くと相模の大寺として人々に尊崇されるようになり、吾妻鏡(あずまかがみ)によれば建久三年(一一九二)の後白川法皇のご仏事と、翌建久四年の同法皇の一周忌に頼朝は召され、また政子夫人のご産気のときにも神馬(しんめ)を献じてその安産を祈願しています。
家康が江戸に幕府を開くようになると、高麗権現に対する幕府の尊信は厚く、高麗山及び田地百石が寺領として与えられ、人々の敬虔な信仰の対象となり、その境内は霊域として丁重(ていちよう)に保護されました。
しかし、明治維新になると、神仏分離という時代の潮流がここにも押しよせ、建物は破壊され、歴史を誇る高麗寺も廃寺となり、ただ神社のみが高来神社として、今ものこっています。高来神社の祭典は一月七日の七草祭、四月十八日の春祭、七月十八日の夏祭と年に三回あります。
説明を読んで気づくことは、この神社も他の多くのそれとおなじように、「時代の潮流」とともに変わって来たことがうかがわれる。たとえば、高麗神社は一八九七年の明治三十年に高来神社というものにされ、いまはそれだけがのこっているもののようであるが、これも、もともとは、さきの「高麗という地名のおこり」にもあるように、大磯に上陸して定着することになった「高麗王若光の一族」、その高句麗系渡来氏族の祖神を祭った神社、寺院だったのである。
それは、高麗寺の末寺の一つがある谷戸の楊谷寺(ようこくじ)横穴古墳群、清水横穴古墳群や、『大磯町古墳一覧表』に「高麗人の首長の墓とも考えられる」となっている王城山の釜口古墳などをみてもわかると思う。ことに、いまも山頂に高麗神社の奥宮がのこっている中心の「高麗寺山のごときは、山腹に蜂の巣のように横穴がほられ、県下でも有数の横穴古墳群をなしている」(『神奈川の歴史』上巻)といわれる。
要するにこれらの古墳は、朝鮮語ではオイソ(いらっしゃい)の意味を持つ大磯に上陸し定着した高句麗系渡来氏族の墳墓とみられるのであるが、それなら、高句麗人たちはいったいなぜ、どのようにしてこの地へやって来たのであろうか。
大磯を東国開発の根拠地として
これからしだいにみて行くであろうように、ふつういうところの「帰化人」、すなわち古代朝鮮からの渡来人(私はこのことばを使っているけれども、これはいわゆる「帰化人」とは区別されなくてはならないものである)が日本列島に住みつくようになったのは、歴史時代となってからの渡来であった、高句麗からのこの高麗(こま)氏族がけっしてはじめてではない。それはずっと以前から、たえず、朝鮮の歴史の波のうねりとともにあったものだということができる。
さきにもちょっとふれたことのある高句麗、百済(馬韓。のち弁韓の加耶(かや)・加羅(から)の一部をあわす)、新羅(辰韓。弁韓の加耶・加羅をあわす)といった朝鮮の三国時代が形成されることになるのは、『三国史記』によると一世紀ごろとなっているが、七世紀の六六八年にいたって南方の新羅がこれを一つに統一した。その過程をつうじてすでに多くのものが日本に来ているけれども、のち百済とともに高句麗がほろび、遺民の多くは地つづきである中国東北に渤海(ぼつかい)国を打ちたてることになる。が、そのうち一部はまた海を渡って、この日本へやって来たものであった。
「高麗王若光の一族」といわれるものがそれで、これを前記の中野敬次郎氏は、この相模には、「南韓からの移民が早くから来(きた)って集落を営んでいたらしく、そこに縁故を求めて王若光一団の渡来があったのである」としているが、また一説には、若光は祖国・高句麗の救援軍を日本の大和政権にもとめるために来ていたものだった、というのもある。当時の大和政権と高句麗との関係からして後者のこれはちょっとうなずけないような説であるが、もしそうだとすれば、あとからその大和をたよって来た高句麗人の集団とともに、若光らは、当時はまだ未開の地であった東国の開発に追いやられたものと思われる。
いずれにせよ、とにかくこのようにして若光の一団が相模の大磯に上陸したことはまちがいなく、このことはいまなお高来(高麗)神社の祭礼にも色濃くその形跡をのこしている。さきのリーフレット『高麗山』にもあった高来神社の夏祭りは、飾り船二艘を大磯の浜の沖にだし、鰒(あわび)とりに鰒をとらせて船中で調理して神前に供(そな)え、そして舟子たちは祝歌を唱(とな)えて式を執(と)りおこなうとのことであるが、その祝歌は次のようなものである。
抑〓(そもそも)権現丸の由来を悉(ことごと)く尋ねれば、応神天皇の十六代の御時より、俄(にわか)に海上騒がしく、浦の者共怪(あや)しみて、遥(はる)かに沖を見ておれば、唐(もろこし)船急ぎ八の帆を上げ、大磯の方へ棹(さお)をとり、走り寄るよと見るうちに程なく汀(はま)に船はつき、浦の漁船漕(こ)ぎ寄せて、かの船の中よりも、翁(おきな)一人立ち出でて、櫓(やぐら)に登り声をあげ、汝等(なんじ)それにてよく聞けよ、われは日本の者にあらず、諸越(もろこし)の高麗国の守護なるが、邪慳(じやけん)な国を逃れ来て、大日本に志し、汝等帰依(きえ)する者なれば、大磯浦の守護となり、子孫繁昌(はんじよう)と守るべし。あらありがたやと拝すれば、やがて漁師の船に乗り移り、上らせ給(たも)う。御代より権現様を載(の)せ奉(たてまつ)りし船なれば、権現丸とはこれをいうなれよ。ソウリャヤンヤイヤン。(『大磯町文化史』)
もちろんこの祝歌は後世につくられたものか、または何度も手直しされてきたものであろう。
日本史の資料によれば、こうして若光は、大磯の大領(だいりよう)(郡長)となり、のち七一六年、武蔵国(埼玉県)に高麗郡がおかれるにおよんで、そこへ移って行ったものとされている。かれらが大磯へ上陸して数十年後のことであるが、しかし、武蔵の高麗郡へ移ったといっても、かれらの全部がそこへ移されたり、移ったりしたというものではけっしてなかった。
「移る」というより、これは大磯をさいしょの根拠地とした、その一族や集団の展開過程といったほうがよいと私は思う。こうしてかれらはさきにみた箱根山や伊豆山へとひろがり、それがさらに高座郡や鎌倉の名も彼らの故国であるその高句麗からおこったといわれる相模をへて、武蔵、関東一帯にまでひろがったものとみられるが、しかしそれは、あとからやって来た「高麗王若光の一族」のみではなかった。なかには中野敬次郎氏のいうように、「南韓からの移民が早くから来って集落を営んでいたらし」いそれもあったのである。
帰化人の遺跡
相模についてみれば、相模川をさかのぼった津久井(つくい)の奥には、いまなお朝鮮屋敷というところがあり、高麗(こま)という人の姓も多くみられるそうである。また、伊勢原北方の日向(ひなた)にはこれら朝鮮渡来人と関係の深い白鬚(しらひげ)神社や日向(ひなた)薬師寺などがあり、周辺には古墳などの遺跡もたくさんある。これについてはあとでみる武蔵の高麗神社の分社とされる白鬚神社のこととともに、鶴岡静夫氏の『関東古代寺院の研究』にかなりくわしく調べられているので、それをここに書きうつさせてもらうことにする。
日向の土地の近くには帰化人の住んでいた遺跡があるから、そこにいた帰化人が白鬚神社の分社を、日向の地に造ることに関係したと考えられる。
日向の地の近くに小金塚古墳・黄金塚古墳がある。それらについて、『伊勢原町勢誌』(昭和三十八年・伊勢原町役場発行)には次のように記してある。「小金塚の御野立所にある大古墳である。その位置は、“朝日さし夕日かがやくこの下に黄金千杯漆(うるし)千杯”と塚にからむ伝承にふさわしい景勝の地である。以前に直刀(ちよくとう)や古土器が出たところと伝えられているので、豪族の古墳にちがいない。
地名の起源は人間生活との交渉の深さによることがたしかだとすれば、小金塚の名は“金銭(かない)”に関連があると思われる。黄金塚・小金塚・金子・金井などの名はいずれも金物を鋳たのにゆかりのあることを意味していると認められているので、小金塚にも上古の鋳物師である“金鋳子(かないこ)”が住み、その作業をしていたことも考えられる。それに関連する金子の姓の家があるのも示唆的である。
高部屋地区明神前にも、黄金塚という古墳がある。
六六〇年(七世紀大和朝末期)自国の戦禍から逃れて来た、“高麗若光(こまじゃっこう)”は一族をつれて日本に亡命、朝廷の指示で大磯に上陸、各地に散在して、この地方の人たちに、鍛冶(かじ)・建築・工芸など各種の技術を伝えた。若光は高徳の人で、文武天皇から大宝三年(八世紀はじめ)従五位下と“王(こきし)”の姓(かばね)を賜った程の人格者であった。……若光渡来以降、多くの高麗人は日本に渡って来た。その人たちが“金鋳”の術を小金塚地方に伝えたこともあり得るのである」
この終りのほうの記述によると、若光渡来以後、高麗人が小金塚古墳のある土地に来たようになっているが、それは古墳時代を過ぎているから時代が合わない。若光渡来以前に、古墳時代に朝鮮からの帰化人がそこに住んでいたと考えるべきである。黄金のものを出土したから小金塚といわれるのであろうし、黄金のものを出土する古墳は朝鮮に多いから、この古墳を造営したのは帰化人であろうと考えてもよいと思う。
また伊勢原町、石倉中にある積石塚も帰化人関係の古墳のようである。その積石塚について『伊勢原町勢誌』には次のように記してある。
「石倉中にある古塚の名である。もともと高麗人は積石塚といって、石を積みあげて塚の形を造ったものである。……人間は異郷に渡来してから、故郷とちがった生活をしていても、墳墓だけは故郷のものをそのまま再現しようとするものである。そのような考え方から見ると、これはこの地方に移住した高麗人が埋葬されている積石塚であろうと思われるが、あるいは単に石を積み上げ土盛りして塚としたか詳(つまび)らかでない」
また日向の地に近い雨降山南方一帯の丘陵地、畑地に積石塚が多い。それについて、石野暎『武相考古』には次のように記してある。
「比々多三ノ宮の古墳は、相模に於ける先史後期の遺跡の最も著しいものの一つである。雨降山一帯の山々を背景として、丘阜(お か)と言わず畑地と言わず数十基の古墳が点在して壮観を呈している。形状は前方後円墳又は円墳で、構造は大抵積石塚である。これ等の中にはほぼ原型を保てるもの、石槨(せきかく)の露出しかかったもの、石槨が破壊されて散乱したもの、覆土(ふくど)の周囲から削り崩したもの、組織的に発掘したものなどがある。そしてその中から埴輪部(はにわべ)、斎部(いんべ)土器の破片、直刀、鉄鏃(てつぞく)、馬具、玉類などが出ている」
これらの古墳も大抵積石塚であるから、帰化人のつくったものであろうと思われる。このように朝鮮からの帰化人がつくったと思われる古墳が、日向の近くにいくつかある。……
古墳時代から日向の地に近いところに、朝鮮ことに高句麗からの帰化人が住んでいた。そして、高句麗が滅亡し、その王族である高麗若光が八世紀のはじめに日本に来て、武蔵国に高麗郡をつくり、やがて若光が歿して彼をまつる高麗神社ができてから後に、日向の近くにいた帰化人も、祖国から来た王族であり、人望も高かった若光をまつる神社を造ろうとして、高麗神社の分社を日向の地に造ったのであろう。
なおまた、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡(こんせき)」によってみると、朝鮮からの渡来人の居住したところとして、相模では余綾(よろぎ)郡の幡多郷(はたごう)がしるされ、その人物としては、鎌倉郡の上(かみの)村主(すぐりの)真野(まの)等があげられている。
二 武蔵野の年輪
将軍標からの道
のどかな“武蔵飛鳥”
東京の池袋からでもいいし、新宿からでもよい。武蔵野のあいだを走ること一時間あまり、西武線の高麗(こま)駅前におり立つと、まず目に入るのは、「天下大将軍」「地下女将軍」という、一種異様な標柱であろう。
高麗郷へと入る道の左右両側に立っていて、「地下女将軍」の横にそれを説明した掲示板があるが、これは朝鮮でよく見られるヂャンスン、または将軍標(ジヤングンピヨ)というもので、境界標であると同時に、その村の災厄(さいやく)防除を顧った道神、守護標でもある。
目ざす高麗神社と高麗山勝楽寺の聖天院(しようてんいん)までは、ここから歩いて四、五十分。都塵(とじん)のなかではちょっと想像もできないような、いい道を行くことになる。どことなくのどかであるばかりか、地形からして大和(奈良県)の飛鳥(あすか)にそっくりなので、私は勝手にこの辺一帯を「武蔵飛鳥」と名づけ、それを友人たちにも吹聴(ふいちよう)している。
さいしょに見る高麗川の橋のたもとに茶店があって、そこにも将軍標をあしらった案内板が立っている。そこを流れている高麗川のくねりぐあいでできた巾着田(きんちやくだ)などというものもあっておもしろいが、なだらかな丘陵にかこまれたあたりの風光全体がいい。
左手につづくゆるやかな山裾(やますそ)は高麗本郷で、中腹には農家が適度に見えかくれし、十二月の真冬でも、柿の木には赤い実がたわわになったままである。夕陽をまともに受けた、白い土蔵の壁が目を射(い)る。
高麗川が巾着田のはしをまわり、こんどは行く手の道を逆に横切る橋のたもとのこちらに、じつにみごとなかたちで積み上げた石垣があって、その台地のうえには、これまたいかにも旧家らしい豪壮な民家が立ちならんでいる。家屋構造にいまなお高麗ふう、すなわち朝鮮ふうをのこしているといわれる新井家である。
高麗神社と聖天院へはこの新井家の前下をとおっている大通りを行くのであるが、その手前の巾着田のところから左に折れて行ってもよい。いまではこの辺もプレハブふうな新しい住宅があちこちに建ちはじめているが、しかし、あたりはまだ一面桑畑である。
その、のぼったり下ったりする桑畑のあいだの小道を、遠く近くの風物に目をやりながら、ゆっくりとたどって行く。あわただしい都会生活のなかなどでは忘れていたような自分、もうひとり別の自分がそこを歩いているような気分になる。
とんだ恥をかく
こういうふうに書くと、何だかひどくロマンティックなようであるが、私はこの道の途中で、一つ、恥をかくにいたったこともつつみかくさず書いておかなくてはならない。
私は、高麗郷へはこれまでも何度となく行っている。が、こんどあらためてこれを書くにあたり、たてつづけに二度も行くことになった。一度は次のことを予想しなかったからであるが、二度目はある出版社の友人たちといっしょに、十二月三日の秩父(ちちぶ)夜祭を見に行っての帰りだった。
のちにみるように、私は以前すでにこの秩父地方もひととおりまわっていたのであるが、それでも大きな見落としが一つあった。それにまた、できれば、これも朝鮮渡来の北斗七星信仰であるという妙見社、秩父神社の夜祭なるものも一度この目で見ておきたいものだと思っていた。
ちょうどそんなとき、ある席で秩父夜祭のことがはなしに出て、
「それだったら、一つ行ってみるかね」と、友人の一人が言った。
もちろん、私に異存のあろうはずがない。しかも、西武電車がいまはそこまで開通していて、行きも帰りも便利になったという。
そこで、このまえ行ったとき知り合った皆野町教育委員会の高橋孝久氏に宿のことをたのみ、さっそく文学仲間の小原元や西野辰吉、矢作(やはぎ)勝美に例の阿部桂司君を誘い、それにいまいったある出版社の友人二人と、計七人が秩父へ行ったわけだった。
そして翌日の帰りは、私のいう「武蔵飛鳥」の高麗郷をまわって、というしだいとなり、さきに帰った小原元をのぞく六人が、いまさっき書いた桑畑のあいだの道を、ゆっくりとたどっていたのである。
私はその辺の風景は見なれていたということもあってか、どういうものかこの日はしきりと、赤い実をたわわにつけた柿の木がよく目についたものだった。「柿のできすぎで農家は……」といった、そんな新聞記事を読んだような気もするが、それにしてももったいないものだと思わないではいられなかった。
十二月になっていたから、柿の木に葉はもう一枚もなく、赤い実はすっかり熟しきっている。強い風でも吹こうものなら、ほとんどみなぱらぱらと落ちてしまうにちがいない。幼いころ朝鮮の故郷でそんな柿をもぎに行ったり、ひろいに行ったりした思い出などが、しきりと私の胸をひたしてくる。
ある農家の裏手だったが、柿の木は道ばた近くにまで枝をひろげて、垂(た)れさがっているのもある。そこで、私はふと思わず二、三歩近寄り、枝からよく熟(う)れていた柿の一つをもぎとった。
「ぼくもとろうかな」という声がして、阿部君がつづいてその柿の枝に近寄って行った。と、ほとんど同時だった。
「こら!」
近くで見ていた、集落の人だった。阿部君は背のびしてのばした手を引っ込めて、戻って来た。何とも、面目(めんぼく)しだいもない始末とは相なった。
「いい紳士のかっこうして、人の家の柿を盗むとは何だ!」
集落の人の声は、つづいてまた飛んで来た。やれやれ、何といわれても仕方がない。詫(わ)びるよりほかないではないか。
「やあ、どうもすんません、すんません。かんべんしてください」
私は、手をさし上げてあやまった。さいわい、集落の人はそれ以上追及してこなかったからたすかったが、いい気持ちになっていて、とんだ恥をかいたものである。
「新羅の後裔(こうえい)、高句麗の子孫に叱られるの図というところだったね」と言って、西野辰吉は笑った。
そんなこともあったが、しかしやはり、山裾の道はよかった。歩いているうちにそんな恥をかいたことも忘れてしまい、私はまたいつの間にか、千年以上もまえに、そこへと来て住みついた人々のことに考えが行っていたようだった。
まだ見ぬ“故郷”高麗郷
私は、いったい、この高麗郷へは何度来ただろうか、とそんなことも思う。私がはじめて高麗郷のことを聞いたのは、いまは日高町なにやらとなっているそこがまだ高麗村といっていた時分のことだった。
あの、戦争中だった。私はそのころ神奈川県の横須賀に住んでいたのであるが、あるとき、だれだったかはもう忘れてしまったけれども、こんなことを言うのを聞いたことがあった。
「埼玉県のあるところに高麗村というのがあるそうだが、そこは大昔に朝鮮人が来て住んだところで、高麗神社というのもあるそうだ。それでこの村の人たちは、いまでも朝鮮人が行くと自分たちの先祖が来たといって、とてもよろこんで迎えてくれるそうだ」
「先祖が来たといって」というのはおかしなはなしだったが、ともかくそれは私の記憶にのこることばだった。以来、私は、その高麗村および高麗神社というのはどこにあるのだろうかと、ときどき思いだしていたものであるが、しかし、戦争中はついに行ってみることができなかった。
私がはじめてこの高麗郷へ来てみたのは戦後になってからで、それも一九四七年か八年のことではなかったかと思う。そのとき高麗神社の社務所でもとめて帰った中山久四郎序・五十嵐力校閲の『高麗郷由来』という古いパンフレットがいまも私の手元にあるが、これは、「昭和十年七月一日三版発行」としたもので、発行元である高麗神社の住所もまだ、「入間(いるま)郡高麗村大字新堀大宮」となっている。
いまはこの『高麗郷由来』も『高麗神社と高麗郷』と標題をかえ、「昭和四十二年十月二十五日重版増補」のかなり立派なものになっているが、当時、私がはじめて高麗神社を訪れたころは、東京はまだ焼け野原だった。池袋の駅前には、たくさんのバラックが立ちならんでいた。いわゆるヤミ市の時代で、そのヤミ市で私は一行とともに焼酎(しようちゆう)をのんで夕方の電車に乗り込んだのをおぼえている。一行は詩人の許南麒(フオナムキ)、李殷直(リウンジク)、それにいまは亡くなった朴三文(パクサンムン)ほか朝鮮人ばかりで、はじめてやっとその高麗村なるところへ行ってみることができるということからか、私たちはひどくはしゃいでいたものだった。なにかずいぶん遠くへ、まだ見ぬ故郷へでも旅立つような思いだった。
悲劇の作家も民族の子だった……
高麗郷へついたときは、もう夜になっていた。さきにみた新井家の前下の通りはいまはすっかり舗装されて道路のかたちも変わってしまっているが、まだでこぼこ道だったそこを私たちは歩いた。そしてこれもいまはない、神社へと折れまがる入口のところにあった大村屋という小さな旅館に入った。
なるほど、ほかへ行ったときとは、私たちの気分はちがっていた。私はいまでも旅行をしてはじめての旅館に入り、宿帳に自分の名をしるすときは、それをみる相手の反応が予想されるので、どうしてもちょっと重たい気分にならないわけにゆかない。が、ここではみんな堂々とその名を宿帳にしるした。
宿の主人も、「ほう、そうですか」と言って、事実、そのわれわれを歓迎してくれた。私たちは旅館でも打ちはしゃぎながらまた酒を飲んだ。あげく、よせばいいのに、戦後はそこの高麗郷へ来てひっそりと暮らしていた作家の張赫宙(ジヤンヒヤクチユ)、まだ帰化して野口赫宙(のぐちかくちゆう)となってはいなかった張赫宙氏を、みんなつれ立って訪ねた。
そしてここでまた酒を飲んではしゃぎ、しまいにはみんなそれぞれ勝手に朝鮮民謡、流行歌などをうたいだすさわぎとなった。そしてたしか許南麒だったと思うが、彼が「木浦(モクポ)の哀(かな)しみ」という、日本でもよく知られている「連絡船」のそれとよく似た内容の歌をうたいだしたとき、一つの異変がおこった。
その歌を聞いていた日本人である張赫宙夫人が、急に張氏の肩に顔をもたせかけて泣きだしてしまったのである。見ると、張氏も泣いている。わるいことをしたと思ったが、もう間に合わない。
彼らのそうした悲しみに釣り込まれて、私たちもいっしょに涙ぐんだのではなかったかと思うが、いずれにせよ、悲劇の作家張赫宙もまた、民族の子だったのである。
女流飛行家に寄せた詩
翌日、私たちは高麗神社へ行ったが、当日は五十八代目の宮司高麗明津(こまあきつ)氏はいなくて、まだ国学院大学の学生だった息子さんから、神社に伝わって来ているいろいろなものを見せてもらったりした。なかに先代、すなわち五十七代興丸(こうまる)氏の詩が一つあった。それは、何年かまえ朝鮮にあらわれた一女流飛行家に寄せたもので、冒頭にいきなり、「祖国朴嬢」とあったのが、私の印象に強くのこった。
千数百年もまえにそこを離れて来た彼らが、今日なおその朝鮮を「祖国」とよぶ。それはいったい何なのであろうかと、私はその後もずっと、高麗神社を訪れるたびに思いつづけていたものであるが、こんど行ったとき五十八代目の明津氏と会ったので、思いきってこういうふうに訊(き)いてみた。
「二十何年かまえに来たとき、息子さんから見せてもらったのですが、たしか先代の詩に、朝鮮のある女流飛行家に寄せたもので『祖国朴嬢』うんぬんというのがありましたね。それを、ちょっと見せてもらえないでしょうか」
「ああ、よくおぼえてますね」と、今年七十六歳になる明津氏は気軽に立って行って、その詩を表装した掛け軸を持って来てくれた。それは、次のようなものであった。
寄朝鮮飛行家朴敬元嬢
祖国朴嬢巾幗雄駕揚雲際奪天工
〓林聞昔飛機在伝説今和非架空
高麗郷・高麗神社
高麗王若光の墓
さて、秩父の夜祭を見ての帰りだった私たち一行は、高麗本郷の桑畑のあいだの道を歩いたために、それが道順となって、はからずも高麗王廟(びよう)のある高麗山勝楽寺の聖天院からさきにみることになった。
「ほう、こんなところに、こんな立派な山門があったとは――」と矢作勝美君は、「高麗山」と大きな門額のかかった、巨大な仁王門(におうもん)を見上げるようにして言った。横道を入ったため、突然、目の前にあらわれたそれを見て、彼はちょっとびっくりしたようだった。
山門の横に高麗王若光の墓といわれている多重塔のそれがあるが、どうしたのか、以前までは上屋があったのに、いまはむきだしとなっている。「高麗王廟」とした鉄門も相当古くなっているので、新たに上屋からつくりなおそうとしているのかもしれない。
私はそれらのものをみても、一行のみんなにたいして、別に何の説明もしなかった。説明などしなくても、みんなはやがて高麗神社の社務所へ行って手にするであろう、『高麗神社と高麗郷』をみればよくわかるはずだったからである。
その『高麗神社と高麗郷』には、この勝楽寺の聖天院についてこう書かれている。
寺は高麗氏系図に「天平勝宝三辛卯僧勝楽寂。弘仁與二其弟子聖雲一同納二遺骨一一宇創云二勝楽寺一。聖雲若光三子也」とある通り、高句麗伝来の仏教霊場で、高麗王若光の三子聖雲が、その師勝楽(高麗僧)の冥福(めいふく)を祈らんが為に勝楽が高句麗より携(たずさ)へ来たった歓喜天(聖天)を安置して開基したもので、現に高麗山聖天院と称して、末寺五十四を有する古刹(こさつ)がそれである。而(しか)して高麗王若光の墓は、この寺の仁王門の左側、池畔老杉(ちはんろうさん)の間にある多重塔で、この塔は純然たる朝鮮様式である。
私としては、この高麗王廟なるものの前に立つと、張赫宙氏のところでのそれとおなじように、またも、あまりかんばしくない一つの思い出があって、そのときのことを思いださないではいられない。
奇矯な男の郷愁
私たち在日朝鮮人の文学仲間に、五十二歳で亡くなった尹紫遠(ユンジヤウオン)がいた。『三十八度線』ほかの作品をのこしているから、おぼえている人もあるかと思うが、彼は一口にいって、ちょっと奇矯(ききよう)なところのある男だった。私たちのあいだでは、「会えばうるさいし、会わないでいると、会いたくなる」そんな男として知られていたが、彼は私たちよりはかなり年上で、それだけ朝鮮での生活も長かった。
それでかどうか、彼は朝鮮の古い風習というものにたいしてはことにやかましく、見ず知らずのよその結婚式でさえ、その礼式がちょっとでもちがおうものなら、うしろのほうから大声をあげてどなるといったふうだった。それも私たち在日朝鮮人というものの郷愁の一つのあらわれだったと思うが、彼は晩年になるにしたがっていよいよますます「朝鮮的」となった。
彼のような人間さえもが「赤」ということで、自分は故郷の南朝鮮・韓国へ帰ることもできなかったから、故郷にいるという弟かだれかから朝鮮の食器や服など、いろいろなものを送ってもらっていた。そしてしまいには、農民が収穫祭などでやる農楽の衣装(いしよう)や小道具まで送ってもらっていた。
この尹紫遠を加えた私たち朝鮮人十人ばかりが、春か秋だったかは忘れたけれども、数年前のそんなある日、高麗郷へピクニックのようなことをしたことがある。駅へ集合して出発することになっておどろいたが、尹紫遠は農楽のときに使う鉦(かね)や太鼓などを背負い、見ると、同行して来た彼の細君もなにかそんな道具の入っているらしい、ふろしき包みをさげている。
「いいから、やかましい! きょうは、おれの好きなようにさせてくれい」
「そうさせてやってくださいませんか。朝鮮から送られて来たそれをどこかで思いきり叩いてみたくて、毎日うずうずしていたんですよ。町なかの家では、できないものですから」
横から彼の細君も口をそえてそう言った。細君は日本人だったが、苦労していたにもかかわらず、この人がよくできた人だった。
させてやるもなにも、私たちも別に異存があるわけではなかった。内心では、ひそかにおもしろがってもいたのである。
そしてやって来たのが、高麗郷は高麗山勝楽寺の聖天院であった。高麗王廟前は道となっているが、人はほとんどとおらないので草ぼうぼう、ちょっとした広場としても使えるようになっている。
そこへ、私たちは持って来た弁当をひろげた。酒も用意してきている。いいかげん酒がまわったところで、
「じゃあ、一つはじめるかな」と尹紫遠は立ち上がり、細君がふろしき包みからだした農楽隊の衣装をつけはじめた。長い尻尾(しつぽ)のようなもののついた、帽子まで持って来ている。
これを何といったらいいか、見たことのないものにはちょっと説明のしようがないが、要するに、赤や青などの交叉(こうさ)した吹き流しのようなものを身にまとったものと思えばいい。そんなかっこうで自身も鉦の一つを持ち、その鉦や太鼓やチン(銅鑼(どら)の一種で寺の鐘のような音をだす)の音に合わせて、みんないっしょにぐるぐるまわりながら、はげしく踊りまくるのである。
鉦や太鼓やチンを叩くといっても、だれにでもたやすくかんたんにできるといったものではない。ところが、この日はそれの「名手」である尹学準(ユンハクジユン)君がいっしょだったから、たまったものではない。それにほかの私たちとしても、もとをただせばみんな農民の子だったから、そんな農楽の音を聞くとみんな血がさわぎだし、われもわれもと立って踊りだしたくなる。
ジャンジャン、ボコボコ、ゴオーン……。
何のことはない。日ごろは眠ったようにしずかなあたり一帯が、破れるようなさわぎとなった。まず、子どもたちがどこからともなく集まって来たかとみると、ついで、遠くの家にいたおかみさんたちも、ぞくぞくと詰めかけて来た。なかには、主人が定年退職となり、それでやっと東への旅行がかなって、そこの高麗神社までくることができたという九州・大分県からの夫婦もいた。
「あの、これは何なのでしょうか」と、集まって来ていたうちのおかみさんの一人が、私に向かって訊いた。
「これですか」と、私は酔ってもいたので、つい茶目っ気をだしてこう言ってしまった。「これは、朝鮮のジラル奉納です」
「朝鮮のジラル――。ああ、そうですか」
おかみさんたちは、感心したようにうなずき合いながら見ている。
「はあ、そうですか」と、大分から来たという退職の紳士までが、そこの高麗王廟と農楽の踊りとを見くらべるようにしながら、なにか意味ありげにうなずいた。「そうですね、そこのお墓の人は、みなさんにとってもご先祖ですからね。そうですか、いいものを見せてもらいます」
いたずらがすぎたと思ったが、もうおそかった。「ジラル」というのは朝鮮語で、そのまま訳せば「癲癇(てんかん)」ということであった。
『高麗氏系図』
秩父から帰りの私たちは、高麗王廟前のそこからすると、裏側のほうにあたる高麗神社へまわって行った。神社の広い境内をぶらぶらしたあと、ちょうど五十八代目の明津氏がいて、私たちは社務所の奥座敷に招じ入れられた。高麗家の家宝の一つとなっている『高麗氏系図』の副本など、いろいろなものを見せてもらうことになった。
この『高麗氏系図』は、朝鮮のいわゆる「族譜(ゾクポ)」で、さきにいった中山久四郎序・五十嵐力校閲の『高麗神社と高麗郷』にも記載されているが、これをみるだけでも、私たちはそこに歴史というものの重みの一つを感じないではいられない。千数百年、よくもそれが連綿とつづいて来たものとつくづく思う。
初代はもちろん高麗王若光で、高麗神社の祭神となっているものである。そしてこの祭神は同時に高麗明神(みようじん)、大宮明神、あるいはまた白鬚(しらひげ)明神ともいわれて、ほうぼうに祭られているが、ここにいう高麗王若光とは、高麗の「王」というわけではない。
朝鮮・高句麗系の渡来氏族であったかれを中心とする一団が、相模(神奈川県)の大磯に上陸して、そこの大領(だいりよう)(郡長)となったことはさきにみたとおりである。そうしてかれはのち、『続日本紀(しよくにほんぎ)』の七〇三年、大宝三年四月条にある「従五位下高麗若光賜王姓」となったものといわれ、この王とは「コキシ」という古代朝鮮語で、日本のいわゆる、かばね(姓)の一つであった。つまり、高麗王若光(こまのコキシじやつこう)というわけである。
ついで、それから十三年後のおなじ『続日本紀』の七一六年、霊亀二年五月条に、「駿河、甲斐(かい)、相模、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、常陸(ひたち)、下野(しもつけ)の七国高麗人千七百九十九人を以て武蔵国に遷(うつ)し、始めて高麗郡を置く」というのがあるところから、高麗王若光は高麗郡の大領となって、こちらに移って来たものとされている。だれも見たものはいないから確実なことはわからないが、しかし、大磯にある高来(たかく)(高麗)神社といい、この高麗郷にある高麗神社などからみて、それは事実であったとみてさしつかえないと思う。
そして高麗郡は一八九六年の明治二十九年、入間郡に合併となるまでつづいたが、それは現在の日高町、飯能(はんのう)(これも朝鮮語ハンナラ「韓国」ということからきたもの)市、鶴ケ島町一帯の地で、中心が高麗神社のある新堀大宮であった。新堀大宮の新堀というのは、「新しい堀」などといった意味ではなく、中島利一郎氏の『日本地名学研究』によれば、これも東京都内にある日暮里(につぽり)などとおなじく、朝鮮語のブル(都京)からきたもので、すなわち村の中心ということであった。そして大宮とは、これまた朝鮮語クナラ・クンナラ(大国)という意で、つまり新堀大宮とは、新しい村の中心ということだったばかりでなく、一つの国の中心という意味でもあったとのことである。
それからまた、もう一つ注意しなくてはならないことは、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国高麗人千七百九十九人を以て武蔵国に遷し、始めて高麗郡を置く」と『続日本紀』にあるが、しかしこれは、これらの地方にいた高麗人全部ではなかったということである。まして、ほかにもたくさん来ていた百済系、新羅(加耶・加羅)系、高句麗系をも加えた全部ではけっしてなかったということである。
現にこの高麗郷にしてからさえ、高岡には古い布目瓦や須恵器(朝鮮式土器)などの出土している窯跡(かまあと)があり、また、三王塚といわれる山城跡とがある。三王塚は台と久保との境、山王尾根とよばれる山上につらなっている三十三の古墳のことで、ここから飯能へとつうじる山道があり、これは斎藤忠氏や三上次男氏なども、「朝鮮式の古い山城跡だとみている」(日高町教育委員会編『高麗地区の史跡をたずねて』)とのことであるが、これらがはたして七一六年の霊亀二年といわれる高麗郡設置以後のものであるかどうか、私には疑わしいと思われる。
そのような「古い山城跡」は、高句麗系のかれらがそこに入ってくる以前のものではなかったかと思うからであるが、しかし、それはどちらにせよ、高麗王若光が新設された高麗郡の中心的存在となったことはまちがいなく、それにしたがって高麗氏族も栄えてきた。
高麗氏族の別派
奈良時代から平安、鎌倉時代にかけて多くの人物も輩出し、ことに、鎌倉時代にかけて形成されたいわゆる関東武士のなかには、この高麗氏から出たものも多い。まして自余の「千七百九十九人」のなかからはどういうものが出て、どういうふうになったかは想像にあまりあるが、『高麗氏系図』についてみれば、ここからだけでも、一二五九年以前、すでに高麗、高麗井(駒井)、井上、新井、神田、丘登(岡登、岡上)、本所、和田、吉川、大野、加藤、福泉、小谷野、阿部、金子、中山、武藤、芝木の各氏族など、多数のものがわかれ出ている。
鎌倉中期の一二五九年、正元元年十一月八日の出火のため、朝鮮・高句麗から持ち来たった多数の宝物類とともに(ああ、それがいまのこっていたら! と思う)『高麗氏系図』も焼けてしまったので、以上にあげたような高麗一門より出た各氏族が自家のそれを持ち寄って、宗家の『高麗氏系図』を再編修している。これらの各氏族は朝鮮の「族譜」にいわゆる「別派」をなしたものたちで、朝鮮の「族譜」もこのようにして再編修することがしばしばある。
「別派」がまた「別派」を生みだすこと、これはいうまでもないことであるが、ところで、『高麗氏系図』は途中、四十六代以後はどうしたものか、「故あって親戚、入間郡勝呂(すぐろ)郷なる勝呂氏に預けられて、其儘(そのまま)十代を経過したが、明治に至り、井上淑蔭、加藤小太郎二氏が勝呂美胤に返却を勧められたので、美胤は之を高麗大記に返した」(『高麗神社と高麗郷』)とある。これも、血すじのことのやかましい朝鮮によくあったことで、私にはちょっとわかるような気がするが、それよりおもしろいのは、「親戚、入間郡勝呂郷なる勝呂氏」ということである。
ここにいう勝呂郷とは、いまの東上線坂戸あたりで、ここには、『新編武蔵国風土記稿』に、「思うにこの寺地は勝呂氏の祖先の居住地にてはなきか」といわれている大智寺があり、また、「古(いにし)え勝呂郷の総鎮守にて勝呂大宮と唱えしと伝う」(同上)といわれて、毛呂(もろ)本郷の出雲伊波比神社とおなじ古社とされている、住吉神社や勝呂神社などもある。そしてそこにある石井廃寺跡からは朝鮮式の瓦も発見されているし、直刀(ちよくとう)や耳飾りなどの出土した古墳もある。
これだけをみても、勝呂郷の勝呂氏なるものがまたどれほどのものであったか、およそ見当がつくのであるが、この勝呂氏族がまた高麗氏族の「親戚」であったのである。そのはずで、すぐろ(勝呂)とは、古代朝鮮語スグリ(村主)の転訛(てんか)したものなのである。
国鉄八高線高麗川駅の北に毛呂駅があり、ここは毛呂郷で、毛呂氏族が中心となっていたところであるが、このもろ(毛呂)も朝鮮語から出たものである。毛呂郷と毛呂氏族のことについては、河田〓氏の『武蔵野の歴史』に次のように書かれている。
ムラという言葉は、古朝鮮語のムレから転訛したもので、さらにムロにかわり、牟礼(むれ)、牟婁(むろ)の地名は各地にあるといわれる。そうすると、モロもまたムレの転訛と考えられる。霊亀二年(七一六)高麗郡の設置より早いか遅いかは不明だが、この地もまた帰化人の手によって、飛鳥朝から奈良初期に開かれた土地であろう。
この毛呂郷の毛呂氏族は、そこの出雲伊波比神社の祭神が出雲のそれであるところからみて、もしかすると高麗氏族とはちがう新羅系かもしれないが、それはどっちにしろ、高麗氏族だけでもあちこちにおびただしくひろがっている。たとえば、西武線飯能駅の一つ手前に元加治というところがあるが、「高麗五郎経家(つねいえ)は高麗郡と加治郷を併領した。経家の子家季は加治郷を領して加治二郎と称した。元久二年六月二俣(ふたまた)川に戦死したが、その子孫は鎌倉に仕えて武蔵丹党の中堅として栄えた」(同上)といったふうである。
それからまた、八高線東飯能駅の南に金子というところがある。この金子氏族のことはのちにまたみることになると思うのでいまはおくが、とにかくこのようにみてくると、高麗氏族のそれだけでもきりがないのである。だいいち、私たちがいまいるこの高麗神社からして、それのあるところ高麗氏族、いわゆる高麗人と必ず関係があるとされるこの神社は、他のところでは大宮神社、白鬚神社、広瀬神社ともいって、東京をはじめとする武蔵だけで百三十余社にものぼっている。
武蔵野について
朝鮮人の移住地であった武蔵野
私たち一行が高麗神社を出たときは、もうすっかり日暮れてしまっていた。まわりくねって神社の前あたりを流れている高麗川にかかった新しい橋をわたり、こんどは来たほうとは逆に、そこから歩いて国鉄八高線の高麗川駅へ向かって行った。
高麗川駅までは約二十分、また、桑畑のあいだの小道を行くことになった。西にあたる右手の、秩父のそれとつながっているらしい多摩の山々が、みごとな夕焼け空をつくりだして、くろぐろと立ちそびえている。そのうしろからは、これまた富士山がにょきっと、黒い張り絵のような頂上の部分をのぞかせていた。
だが、しかし、左手を見ると艶(つや)消しだった。その向こうに、日本セメントなる工場の煙突が何本もぶざまなかっこうで立っている。何とも、仕方のない風景ではある。
歩いているうち町なかへ出たが、そこが高麗川の町だった。駅は、小さな寒(かん)駅といった風情(ふぜい)で、八王子(はちおうじ)行きの列車も一時間に一本ほどしかなかった。
「ああ、これは国鉄の赤字線だな」と、阿部桂司君はよけいな心配までしたが、さいわい私たちはあまり待つこともなく、列車に乗ることができた。八王子までは、小一時間ほどかかる。
この日はもう夜となっていたから仕方なかったけれども、私のこの「――旅」は、つづけてこんどは東京都の八王子から京王(けいおう)線にそって、という予定になっている。いずれ日をあらためるよりほかないが、そのまえにここで、列車が八王子につくまでとしてもいい、この武蔵野および関東地方とはいったいどういうところであるのか、ということについて少し考えてみたいと思う。
もちろん、古代朝鮮からの渡来人たちとの関係においてであるが、たとえば、また、例の中山久四郎序・五十嵐力校閲の『高麗神社と高麗郷』をぱらぱら開いてみる。そこには「諸家文藻(しよかぶんそう)」というのがあって、徳富蘇峰(とくとみそほう)などのこんな文章もある。
武蔵野は往古、朝鮮人の移住地であった。此(こ)れは武蔵野に限らず、関東一般概(おおむ)ね然(しか)りであったが、武蔵野は特に然りだ。
男女七十四人で新羅郡を開設!
それから、私はさきに秩父地方をまわったとき、秩父駅の売店で『埼玉県とその周辺』という地図を買ったが、その冒頭の「埼玉県勢概要」にこうある。
ところで、本県の名が歴史に登場したのはいつ頃のことであろうか。『続日本紀』の聖武天皇天平五年の条に、「武蔵国埼玉(さきたま)郡……」とあり、これが書物にあらわれる最初で、古くから置かれていた郡名であったことが明瞭である。
奈良時代、本県の人口は稀薄で、朝鮮帰化人の移住が盛んに行なわれ、現在の県勢発展はこの頃に始まる。平安末期、武士の勃興と共に、この地には強大な武士団が興(おこ)り、武蔵七党、桓武(かんむ)平氏など、それぞれ児玉党、猪俣(いのまた)党、丹党、村山党、野与党等と名のり、又この武士団は源頼朝の挙兵に従い、鎌倉幕府建設の基礎を作り、数多くの名高い武士を生んだ。この時期が本県最も盛んなときである。
「朝鮮帰化人の移住が盛んに行なわれ」たのは当時の埼玉郡のみでなく、武蔵の一部である現在の東京や、他の関東地方も同様であったが、日本の歴史文献によって主なものをひろってみると、こういうぐあいである。
まず、『続日本紀』の七一六年、霊亀二年五月条のいわゆる千七百九十九人の高麗人についてはさきにみたとおりであるが、ついで、というより、すでにそれ以前、『日本書紀』六六六年の天智五年に、それまでは大和(やまと)で「官食を給していた百済の僧俗二千余人を東国に移した」とある。それまでなぜ「官食を給していた」かといえば、朝鮮の百済がほろびたのが六六〇年のことであるから、その結果、日本へとあふれ出たものであったからにちがいない。
それにしてもかれらにそれまで「官食を給していた」というのは、当時の大和政権と百済との関係がしのばれておもしろいが、そのことはともかく、ついで七五八年の天平宝字二年八月には、「帰化新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人を武蔵国の閑地に移し、ここに始めて新羅郡を置く」とある。
右の男女は計七十四人で、これをもって一郡を開設したとあるからには、もちろんここへやって来た新羅人はかれらのみではない。前後してまた来ているが、新羅郡とは現在の東京都練馬区の一部と保谷(ほうや)市、埼玉県の大和、志木(しき)、朝霞(あさか)、片山の一帯であった。
のち、一八九六年の明治二十九年、北足立郡に合併された新座(にいくら)郡がそれで、相模(神奈川県)に入ってひろがった高句麗系渡来人によってつくられた高倉郡がのち高座(たかくら)郡となり、武蔵に入った新羅系渡来人によってつくられた新羅郡がのち新座郡となったのも妙な符合であるが、それの名残(な ご)りとして、いまでもここには新羅の転訛といわれる志木(しき)(志羅木(しらぎ)の略)、白子(しらこ)、新倉(にいくら)などの地名がある。
新座(にいざ)というのも、埼玉県北足立(あだち)郡にある。一九六九年七月十八日付け朝日新聞の「ある町ある日」の特集は新座をとりあげていて、そこにこう書かれている。
奈良朝のころ、新羅国から僧尼が移り住んで新羅郡(新座町)をつくって以来、在原業平塚(ありわらのなりひらづか)、善光明寺の千体地蔵尊、満行寺(まんぎようじ)の鐘、法台寺の板碑群や野火止用水など史跡、伝説も数数あるが、名高いのは平林寺――深緑の雑木林に囲まれて自然と伝統の美が融合、静かなたたずまいのなかに憩いを求めて訪れる人も多い。
日本の歴史文献にあらわれている、武蔵野および関東地方への朝鮮渡来人についての記事としては、ついでまた七六〇年の天平宝字四年三月、「帰化新羅百三十一人を武蔵に置く」というのがあるが、主なものとしてはだいたい以上のようなものである。しかしながら実さいには、主なものとしても、けっして以上のものたちだけではなかった。
武蔵の語源は?
だいたい、文献にみえる以上のものは、どれも七世紀半(なか)ばから八世紀以後にかけてとなっているが、これも、たとえばのちにみるように、六世紀にはもう現在の狭山湖付近に百済系のそれが来て住みついていた。それからまた、私はこれまでは知らなかったが、上野(こうずけ)(群馬県)には少なくとも六世紀以前すでに、新羅(加耶・加羅)系と思われるものたちによってつくられた韓(から)、すなわち甘良(から)(甘楽)というところがあり、これからさらにまたのち、七一一年の和銅四年に、日本三古碑の一つである多胡碑(たごのひ)で有名な多胡郡がわかれ出ている。
だいたい、武蔵あるいは武蔵野ということばからして朝鮮語のモシシ、苧(からむし)(韓(から)モシ。これも朝鮮語である)の種子ということから出たものとされている。鳥居竜蔵氏の『武蔵野及其周囲』によると、この人も中島利一郎氏とおなじように該博(がいはく)な知識を駆使(くし)して、むさし(武蔵)というそれをいろいろな角度から論じ、
「私は要するにムサシの地名はもと朝鮮語と同じく、モシシの苧種子の意味であって、最初武蔵の一ヵ所に小部分にこの苧を殖(う)えた所の名で、これが次第に広い武蔵の地名となったものと思う」とのべている。
それからまた、鳥居竜蔵氏らとも近しかったらしい中島利一郎氏は、この武蔵というのは朝鮮語のムネサシ(宗城(むねさし)・主城(むねさし))から来たものだとして、次のように書いている。
武蔵が朝鮮帰化族の中心たるを示す言葉として、宗城・主城の意を以て、そうした地名が生じたものと思われる。而(しか)して同じ『国造本紀(くにのみやつこほんぎ)』に、武蔵国造と胸刺(むねさし)国造と二国造の併立するは、同族の分裂して勢力を相争うに基するのではないか。例(たと)えば笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)と同族小杵(こきね)と国造を相争ったと同じようなもので、この際は笠原直使主の勝訴となったが、武蔵国造家も同族相争うことは絶えなかったらしく、武蔵国内に於て、勢力二分して、足立郡方面と、多摩郡方面とに相分れ、一は大宮の氷川(ひかわ)神社を中心とし、一は府中の大国魂(おおくにたま)神社を中心とし、それぞれ祖神を相斎(いつ)き、相分るるに至ったと解して可(よ)いのではなかろうか。而して前者は素戔嗚尊(すさのおのみこと)を主神とし、後者は大国主命(おおくにぬしのみこと)即ち大己貴命(おおなむちのみこと)を主神とするに至ったのであろう。
此(かく)の如(ごと)くして、武蔵国内だけでも朝鮮帰化族は二分裂し、武蔵、胸刺(むねさし)と各割拠(かつきよ)するの形勢を取ったが、其の意は共に同じく「宗城」「主城」である。而して武蔵に於ける朝鮮帰化族は自ら武蔵を以て帰化族の本家とする考えで、此の如く宗城、主城の意を以てムサシといったのであるが、武蔵以外朝鮮帰化族は、相模にもいた。この相模に於ける帰化族は、相模高麗寺山を中心とし、武蔵のそれに対抗して、相模を以て帰化族の本家とし、ここを帰化族の中心地と考え、武蔵のサシに対し、相模を「さねさし」即ち真城(さねさし)といった。弟橘媛(おとたちばなひめ)の歌に、
さねさし相模の小野にもゆる火(ひ)の秀中(ほなか)に立ちてよびし君はも
の枕詞(まくらことば)は、そうして出来たのである。(『日本地名学研究』)
ほかにまた焼畑(火田)を意味した朝鮮語のサシから来たという説もあるが、どちらにしろ、武蔵あるいは武蔵野ということばが朝鮮語からきたものということに変わりはない。それについてはこれくらいにして、中島氏のこの引用によって私は思いだしたのであるが、それは高麗福信、のちに高倉福信となった日本古代史上の一人物のことである。
高麗福信という日本人のこと
この福信は七〇九年の和銅二年に武蔵国高麗郡に生まれて、少年のころ伯父の博士背奈公(せなのきみ)行文とともに大和にのぼり、聖武(しようむ)帝以後の六朝(りくちよう)にわたって春宮亮(はるのみやのすけ)、紫微少弼(しびしようすけ)、信部大輔(しのぶたゆう)、造宮卿(みやつくりのかみ)、武蔵守、近江守(おうみのかみ)、但馬守(たじまのかみ)、弾正尹(だんじようのかみ)等、まるで出世ということの見本のようなものとなった男である。
そしてこれまた中島氏によれば、朝鮮語で国ということを意味するナラは、「奈良即ち寧楽(なら)京を一に平城京というも、『平(ナラ)』の意を含めたもので、それは平野の野(ナラ)と相通ずるものである」(同上)
こうなると、武蔵野というのも、これは広い野、曠野(こうや)ということのほかに、ムサシの野(ナラ)(国)からきたかとも思われるが、それはさておき、私はこれまで高麗福信というのは、その出生名からして、高麗王若光から出たものとばかり思っていたのである。なかには、聖天院にある高麗王若光の墓と称するのも、じつはこの福信の墓ではないかというものもあるくらいだったから、私はずっとそう思い込んでいたのだった。
それで、こんどの私たち一行が高麗神社の社務所で『高麗氏系図』の副本を見せてもらったときも、その名が見えなかったものだから、
「あの福信は……」と、私は五十八代目の高麗明津氏に訊いたのだった。すると明津氏は言下に、「あれはちがいます。あれについては、私どもではまったくわかりません」と言った。
何だかひどくきっぱりした口調だったので、私はそれきり口をつぐんでしまったが、中島利一郎氏の説からすると、のち高倉と姓をかえたこの高麗福信は、さねさし(真城)相模の、高麗寺山を中心としたものたちのなかから出たものではなかったかと思われる。そういえば、彼は七〇九年の和銅二年に武蔵国高麗郡で生まれたことになっているが、しかし、『続日本紀』によるならば、この高麗郡のできたのは七一六年の霊亀二年であるから、これもおかしいことになる。
とすると、この高麗福信の一族は、高麗王若光よりもさきに来ていた高句麗系渡来人でなくてはならないが、それはのち、彼が高倉と改姓することになったことからもうかがわれる。この改姓は福信が高麗という、いわゆる帰化系ということがすぐ知れるそれをきらって高倉としたとされているが、それは見当ちがいであると私は思う。
なぜなら、高麗ということもそうだが、高倉(コクリ)というのもかれの故国であった高句麗(コクリヨ)に近かったはずだからである。高倉というのは、「こうくら」でもなく、コクリ、またはコクルだったようで、たとえばいまでも、豊岡町の高倉はコクルと呼ばれているとのことである。中野敬次郎氏が高倉、すなわち「『たかくら』というのは上代高麗人と深い関係があったらしい」(「箱根山の開発と高麗文化」)とみたのもじつはこれはコクリで、相模の高倉(座)郡もそういうことから来たものだったにちがいない。
三 北多摩の古墳
八王子・駒木野
汗ばむような日和
よく晴れていた。そういう一月はじめのある日、私たちは京王線の八王子駅におりた。同行は、例によって阿部桂司君だった。
私たちはまず、駅前にある案内図の前に立ってみたが、私にはどこになにがあるのかよくわからない。
「クルマで行こうか」と、私はそこにあるタクシー乗り場のほうを見た。
「いや、市役所だったら近いですよ。歩いても大したことないようです」
阿部君は、案内図を指さしながら言った。見ると、なるほど市役所の標示も、そこにちゃんと出ている。観光課や教育委員会もそこにあるはずだ。
「ああ、そうか。そうだな」
私は列車の時間表をみるのも苦手(にがて)だったが、地図となると、これはなおいっそう不得手(ふえて)だった。いつも、だれかに見てもらわなくてはならない。
それにくらべて、わが阿部君は地図をみるということでも、なかなかの名手だった。彼は五万分の一地図を見て、そこにある山の高さや寺院の敷地の広さまでわかるようだったが、私など、そんなことはとうてい及びもつかないことだった。
私たちは国鉄の八王子駅前をへて、とおりがかりの人に訊(き)き、右手のほうへ向かって歩いた。一月はじめといえば、まだ真冬であるはずなのに、歩いていると首すじが汗ばんでくるような日和(ひより)だった。
「八王子か――」と、私はあらたまったようにそんなことを思い、あたりを見まわした。市の中央を貫通していると思われる甲州街道を横切っていたが、あたりの賑(にぎ)わいは、東京都心のそれと変わるところはなかった。
あとで聞いて知ったが、八王子は人口二十五万の大都市だった。ちなみにいえば茨城県庁の所在地である水戸市の人口はたしか十四、五万のはずである。
そんな都市の賑わいのなかで、千数百年もまえの朝鮮文化遺跡をたずねるなどというのは、ちょっと想像もできないような感じであるが、しかし、ここもやはり、往古は朝鮮渡来人たちの開発したところであった。
“八王子”の由来
東京都史蹟調査課の稲村坦元・豊島寛彰氏による『東京の史蹟と文化財』にこうある。
八王子市付近には飛鳥(あすか)・奈良(なら)時代に朝鮮から移住して来た人々が造ったと思われる朝鮮式の古墳石室が見いだされ、これらの人々は仏教伝来後もなお旧習に従って古式の古墳を営んだものと思われる。
これらの古墳からは直刀(ちよくとう)、古鏡、曲玉(まがたま)、管(くだ)玉、耳環、金環、弓矢、鏃(やじり)、小刀から、さらに祝部(いわいべ)土器、高杯(たかつき)、瓶子(へいし)などが出て、また外側からは埴輪(はにわ)人形、埴輪馬、などが見いだされており、大田区田園調布(ちようふ)と南多摩郡多摩村中和田には横穴古墳の石室入口が現存している。
それからまた、つづけてこうも書かれている。
奈良朝初め頃には、……武蔵にも沢山の朝鮮人が集団移住した。高麗(こま)郡、新羅(しらぎ)郡の郡名や「百済木(くだらき)」の地名が出来、北多摩郡の狛江郷(こまえごう)も高麗人から来た地名であり、南多摩郡の古墳に朝鮮式のものがあるのもその結果である。これらの朝鮮帰化人は当時開けた大陸文化を持って来たので、建築、衣食、学問技芸などの上に偉大な貢献をなし、到(いた)る処(ところ)に瓦葺(かわらぶ)きの寺院や廟堂(びようどう)が建てられた。府中町の北一里の所に天平十年聖武(しようむ)天皇の詔(みことのり)によって建立(こんりゆう)された武蔵国分寺などは、これら帰化人の技術によって出来上がったと思われ、瓦を焼く窯跡(かまあと)なども各地にのこっている。
東京では浅草寺、北多摩郡の深大寺(じんだいじ)、府中町京所寺跡等には武蔵国分寺と同じように奈良時代すでに寺塔があったことは、そこから当時の瓦が出たり、仏像や仏具が伝承(でんしよう)されているので知られる。
さて、これだけでもう、私たちがどうして八王子まで来たかということはわかってもらえると思うのであるが、しかし、それだけではない。まだ、ある。
たとえば、一九六九年の東京新聞夕刊には「地名風土記(ふどき)」というのが連載されたが、そのうちの東京都北区「王子と八王子」についての項をみるとこうである。
北区の王子は、もと独立した区であった。これと東京西郊の機業都市八王子とは、何か関係がありそうに見える。
王子は京浜東北線王子駅の西にある王子神社、八王子は中央線高尾駅の北西、八王子城跡にある八王子神社が地名のもとで、この点は似ている。ところが、王子神社は紀州の熊野神社の摂社(せつしや)にまつる諸王子中第一の若一(じゃくいち)王子を勧請(かんじょう)したもので、八王子神社は、牛頭(ごず)天王すなわち素戔嗚尊(すさのおのみこと)の五男三女、つまり八人の王子王女をまつったものであり、京都の八坂神社の系統に属し、この点は王子神社とは違う。
しかし、熊野神社の本宮(ほんぐう)の祭神家都御子神(けつみこのかみ)は、素戔嗚尊の別名で、ここにも八王子をまつってあるので、「王子」と「八王子」は、ここでつながってくるといえなくもないのである。(浅井得一=玉川大教授)
北区の王子もそうであるが、八王子という地名がこんな由来を持っているとはなかなかおもしろいことである。というのは、これはもう周知のことであろうと思うが、素戔嗚尊というのも、いわゆる朝鮮神、すなわち朝鮮渡来のそれだからである。
もちろん、この素戔嗚尊なるものに「五男三女、つまり八人の王子と王女」があったかどうかは知らない。しかしながら、それを祭る八王子神社がここにあるということは、素戔嗚尊なるものを代表として押し立て、それを祖神とする朝鮮からの渡来人が、早くからここに住みつきはじめたことをものがたるものでなくてはならない。
もしそうだとすれば、これはさきに『東京の史蹟と文化財』によってみた古墳時代のそれとはまた別のもので、これはそれよりずっと以前に渡来していたものたちであったにちがいない。あるいはもしかすると、これも日本各地にみられるそれとおなじように、新羅系とみられている、いわゆる出雲族のひろがって来たものであるのかもしれない。
いずれにせよ、朝鮮からのそれであることにまちがいはない。私は一九六九年の秋、八王子神社のある八王子城跡に登ってみたことがあった。ふつうは城山とよばれている、標高四百メートルそこそこの尖(とが)り立った山だったが、頂上にある神社あたりからの眺めは、ただ、すばらしいというよりほかないものだった。
例によって、私の地理感覚はほとんどゼロに近いので、どこがどこであるのかはよくわからなかったが、畳々(じようじよう)とした山々の向こう側の眼下にひろがっている市街は、八王子のそれであるにちがいなかった。
ここにあった八王子城は、一五七三年からの天正年間のはじめ、北条氏照(ほうじよううじてる)が近くにあった滝山城を移して築いた中世の山城といわれるものの一つである。しかし、ここに素戔嗚尊の「八王子」なるものを祭る八王子神社があることなどからして、ここはもしかすると、それ以前すでに古代朝鮮式山城のあったところかとも思われるが、それははっきりしない。
大谷古墳のこと
街路が入り組んでいるため道をまちがえたりしたので、すぐそこだと思っていた市役所までは、ちょっとした道のりだった。教育委員会もおなじ建物のなかにある。
「この辺の古代遺跡のことを知りたいと思って来たものですが――」と言って私たちは名刺をだし、教育委員会の社会教育課長荒井芳雄氏の机の前につれて行かれて坐った。五十すぎの赤ら顔をした荒井さんは、はじめちょっとめんどうくさそうなようすだったが、話しているうちに、いろいろなパンフレットをとりだしてきてくれたりした。
「古代遺跡といいましても、古代朝鮮関係のそれをちょっと調べているのですが、この辺では、それはどうでしょう」
私は、机のそこにおいてある自分の名刺に目をやってしめしながら言った。荒井さんも、朝鮮人名のそれに目を向けた。
「そうですか。それでしたら、大谷古墳ですな。大谷古墳は……」と、荒井さんはまた立って行って、こんどはそれの説明の出ているパンフレットを持ってきてくれた。
みると、その古墳は八王子市の北大谷字之原通りの富士見町住宅団地の北側にあって、一八九九年に地元民によって発見され、翌一九〇〇年に八木弉三郎(そうざぶろう)氏により、はじめて発掘された。そしてさらにまた、一九三三年に明治大学の後藤守一氏によって再発掘されている。
日本全国いたるところに見られる後期古墳の横穴石室といわれるものである。凝灰岩(ぎようかいがん)の切り石積み、アーチ型持ち送りの朝鮮式で、これは六、七世紀ごろ八王子に住んだ豪族のそれであるが、三多摩地方にもたくさんある稲荷塚、臼井塚古墳などといわれるものとも同型だという。
「大谷古墳へ行かれるのでしたら……」と荒井さんは道すじをくわしく教えてくれ、その古墳のことも出ている教育委員会のだした『八王子の文化財みて歩き』と『指定文化財目録』、それから八王子市船田遺跡調査会のだした『船田』などを私たちにくれた。
しかし、私たちは教育委員会から出ると、荒井さんにはちょっとわるいような気がしたけれども、甲州街道をバスで高尾のほうへと向かった。私たちは、あとで多摩町の稲荷塚古墳をみる予定になっていたので、それと同型の大谷古墳は省略ということにしたのだった。
親切な案内書片手に
バスのなかであらためてまた、もらってきたパンフレットを開いてみた。『八王子の文化財みて歩き』のほうは一般向きとしたもので、その「コース案内」をここにしるしてみると、それぞれに地図がついて、こうなっている。
Aコース (1)北野石器時代住居跡。(2)大久保石見守長安陣屋跡。(3)甲州街道のいちょう並木。(4)陵南会館。(5)梶原杉。(6)相即寺。(7)西蓮寺。
Bコース (1)大谷古墳。(2)時の鐘。(3)信松院。(4)広園寺。(5)小仏関跡。(6)小松のかごの木。(7)真覚寺。
Cコース (1)本立寺。(2)興岳寺。(3)武蔵太郎安国の墓。(4)宗関寺。(5)八王子城跡。(6)御主殿ケ淵。(7)甘里古戦場。
Dコース (1)妙薬寺。(2)極楽寺。(3)滝山城跡。(4)桂福寺。(5)宗格院。
Eコース (1)タコ杉。(2)杉並木。(3)飯盛杉。(4)仁王門。(5)飯縄権現堂。(6)不動堂。
そしてこれらにはいちいち、本文としての解説がついているが、他の市町村教育委員会でもこういうものをつくっておいてくれると、見学者にとってどんなに有益で、便利であるかと思う。私はこうして歩いてみて知ったが、こういう文化財については、ろくに調べてもいないところがざらである。その点、八王子市の教育委員会はなかなか先進的であるが、ついでにもう少しほめると、『指定文化財目録』や、「東京都八王子市船田遺跡における集落址の調査略報」と副題されている『船田』もまたよくできたものだった。
『指定文化財目録』は一応専門的なものとしてつくられているが、しかし、『八王子の文化財みて歩き』よりもさらにくわしくなっている。『船田』のほうは、八王子市長房町字船田の大遺跡地が近く都営住宅団地として造成されることになったため、当初予算二千四百万、十数万平方メートルにわたる発掘調査報告の概略であるが、ここからは縄文、弥生、古墳の各時代にわたる遺構と遺物とが発見されている。
なかでも注目すべきは古墳時代の集落、住居跡のようであるが、それにしても、八王子市のみとはかぎらないけれども、このような貴重な遺跡が団地アパート群の下敷きとなって消えてしまうのかと考えると、何ともやりきれない思いがしないではない。それが何の、どういう遺跡であろうと、何とかならないものなのであろうか。
高麗来野が転訛した駒木野
私たちは高尾駅のさき、甲州街道の小名路(こなじ)なる停留所でバスをおりた。そして、右手の旧甲州街道のゆるやかな坂道を歩いて行った。十分ほどで、『八王子の文化財みて歩き』のBコース(5)となっている小仏関跡(こぼとけせきあと)についた。
だが、私たちは、その小仏関跡に用があったわけではない。この小仏関は一名を駒木野関ともよばれ、その辺一帯はいまなお駒木野といわれるところであった。
駒木野。――それでもうわかってもらえたことと思うが、これは「百済木」「志木(新羅の転訛)」などというのとおなじように、もとは「高麗来野」ということから来たものではないか。これにはまだ学者の裏づけがなく、私たちは勝手にそう思ってきたのであるが、おそらくそれにまちがいないものと思う。
小仏、すなわち駒木野関跡からちょっと下った右手の山の斜面に神明神社があって、そこへは橋がかかっている。橋がかかっていたので川かと思ったが、下は国鉄の中央線がとおっていた。
神明神社からは、ゆるやかな斜面盆地にある駒木野一帯をほとんど全部、一望のもとにすることができた。後方の山の急斜面には中央高速道の走っているのが見え、小さな盆地一帯は、さんさんと降りそそぐような冬の陽光のもとにしずまっていた。
「ああ、いいところだね。ここに家を建てて住んだらいいだろうな」
私は目を細めて、神社横の空地のあたりを指さしながら言った。すぐ目の下の「川」には中央線が走っているが、馴れればそれもあまりうるさくないにちがいない。
「そうですね。いいですね」と、阿部桂司君もすぐに賛成して言った。「訊いてみましょうか」
「なにを?」
「土地です。買えるかどうか――」
「おいおい、そう気安くいうなよ。それにはまず、必要なものがあるだろう」
「そうですね」
「そうですね、か。はっはは、何だかちょっと悲しいみたいなものだな。それより、これはどうだろう」
私は手にしていた『八王子の文化財みて歩き』のBコース(7)真覚寺のところを阿部君にしめした。それにこうある。「(ロ)薬師金銅仏 飛鳥・奈良時代の作で頭頂から足裏までおよそ二十一センチの小像であり、都内の奈良仏としては深大寺の釈迦倚像と共に貴重なものです」
「行ってみましょう」と、阿部君は言った。
私たちはまた新甲州街道へ出て、こんどは来たときとは逆方向のバスに乗った。八王子市内へ戻るわけだったが、真覚寺はその途中の、『万葉集』にある防人(さきもり)の妻の歌で有名な横山にある。
赤駒を山野に放(はが)し捕りかにて多摩の横山徒歩(かし)ゆかやらむ
というその歌は真覚寺の境内にも石碑となってあったが、しかし、目ざして来た薬師金銅仏は、十数年まえから東京国立博物館へ行ったきりだとのことだった。
多摩町と稲荷塚古墳
稲荷塚古墳を尋ねて
私たちは真覚寺の裏手、高牢神社の横の細い坂道をのぼって、めじろ台へ出た。そこはかなり広大な台地であったが、いつの間に建ったのかと思われるほど、新しい住宅がびっしりと立ちならんでいた。阿部桂司君によると、そこは山を切り崩してつくった人工台地だということだった。
そうした新開の町にできた京王線めじろ台駅から、私たちは新宿のほうへ戻るようにして、聖蹟(せいせき)桜ケ丘駅でおりた。この近くには、武蔵国分寺の瓦を焼いた瓦谷戸(かわらやど)というところもあるとのことであるが、それはともかく、私たちはまず、古代朝鮮式古墳の一つである稲荷塚のそれをみておきたいと思ったからだった。
「聖蹟というから、何のことかと思ったですが、明治天皇のそれだったんですね」
阿部君は駅をおりしなに、なにかで見て知ったものらしかった。
「そうなんだな。おれもはじめはそんなふうに思ったものだが、――さて、どういうふうにしたものかね」と、私はちょっとそこで迷った。
稲荷塚古墳は、近くにあるということはわかっていたが、どの辺なのかわからない。「大栗橋の北側から大栗川にそって西へ行くと右側の水田地帯に有山集落があり、ここから土器(土師器か)の破片が発見されている由(よし)である。大栗橋から一キロ半あまり川を遡(さかのぼ)ったところに宝蔵橋があり、その橋を左に渡ってから六百メートルほどのところに多摩第二小学校がある。学校の前を左にとってしばらく行くと多摩村大字和田、小字では後原に稲荷塚古墳がある」と、松井新一氏の『武蔵野の史跡をたずねて』にはあるが、しかし、私にはさっぱりである。
阿部君に地図と合わせてみてもらえばわかるかもしれなかったが、しかしもう夕方で、そんなにして歩いている時間もない。私たちはいつもの伝で、クルマでさきに町役場へ行くことにした。ここはいま、多摩町となっているところである。
クルマは、かなり急な丘陵の坂道を登って行った。念のため運転手に、「稲荷塚古墳を知ってますか」と訊いてみたが、やはりわからないという。
いったいどこをどう走っているのかも私にはわからなかったが、クルマはやがて、これはまた町役場とは思えない、ブロックのひどくしょうしゃな建物の前に私たちをおろした。教育委員会は、三階だった。文化財などのことについては、観光課などより教育委員会のほうがくわしいということがわかったので、私たちはもっぱらそこを訪ねることにしていた。
ニュータウンと古墳
多摩町教育委員会係長の臼井隆夫氏に会って、はなしを聞くことになった。まだ三十そこそこかと思われる臼井さんは、なにやらそうとうに忙しそうなようすだった。
そんなところへやってきて、千数百年前の古墳のことなど持ちだすのは何となく気おくれしたものだったが、
「そうですね。そういう古墳はほかにもまだあるようですが、なにかこう、みんなが現状に追われているような状態で、まだ組織的な発掘はできないでいるのですよ。きょうも、向こうの工事現場からなにか出たという報告がありましたがね」と、臼井さんは一方では机のうえの書類に目をとおしながら、うしろのほうを指さして言った。
「へえー、どういうものですか。その出たものというのは?」
阿部君が横から、前へ乗りだすようにして訊いた。彼はまえからそういう古墳の発掘を一度見てみたいと言っていたが、急にまた興味が湧いたらしかった。
「いや、まだわからないです。なにしろ、ここはいま工事場だらけですから、そんなはなしはしょっちゅうあるんです」
私は臼井さんとそんなふうに話していてやっと気がついたのだったが、多摩町というのは、私も新聞などで少しは知っていた、いわゆる多摩ニュータウン建設の中心地となっているところだった。多摩町の人口はいま二万四千であるけれども、これが数年後には約四十万になる予定だという。
「やれやれ」と、私は思わないではいられなかった。現代とは、公害だらけの都市につぐ都市ということのようである。
私たちが教育委員会のそこへ来てさいしょに名刺をだした係りの若い人が、
「ここの町長が書いたものですが」と言って、ガリ版刷りのパンフレットを二部、どこかから持って来てくれた。『多摩町の今昔』とある。
「ここにも出てますよ」
阿部君が目ざとくその箇所を見つけて、私にしめした。「三、古墳について」というところである。
多摩町には古墳・横穴群が多く見られる。このことは古代たくさんの集落があり、古代文化が発達していたことを物語る。
現在、古墳は四基、横穴群は五基開口されている。これらの古墳は、古墳時代末期のものが多く、五世紀以後と推定されている。横穴群は古墳より新しく、七世紀より奈良朝にかけてかなり発達したらしい。その代表的なものは稲荷塚古墳であって、昭和二十八年多摩中学校生徒の発掘によるもので、前方後円式のもの。専門家の調査によれば、朝鮮から渡来した豪族の墳墓と推定され、他に類例の少ないもので東京都文化財に指定されている。
「他に類例が少ない」というのはちょっと独断であるが、町長がこういうものを書いているのはおもしろいことだと思った。私たちはその町長にも会ってみたいと思ったが、もう時間がなかった。
ブルドーザーの唸り声のなかの古墳
私たちは稲荷塚古墳への道すじを訊いて、多摩町の教育委員会を出た。開口された古墳にはいま東京都によって上屋がつくられていて、それの鍵は近所の臼井さんという農家があずかっているとのことだったが、そこへ私たちに『多摩町の今昔』をくれた係りの人が電話をしてくれた。そして、
「ご案内してもいいのですが、ぼくが行ってもそこの説明板に書いてある以上のことはなにも知りませんから――」と、係りの若い人は言った。
「稲荷塚古墳といってもわかる人は少ないですから、町立保育所と言って訊いてください」と、忙しいなかで何度も念を押すようにして教えてくれた係長の臼井さんもそうだったが、みんな親切な人たちだった。
見ず知らずのものが、見ず知らずのところへ行って親切にされるというのは、だれにとってもうれしいものである。私たちはちょっと浮き浮きしたような気分になって、町役場前の通りをやって来たバスに乗った。
しかし、バスの窓外から見る光景、状況はあまり浮き浮きとしたものではなかった。多摩町(もうすぐ市ということになるだろう)というのは一口にいって、いろいろなかたちをした丘陵によって成っているところだった。が、いまではそれらのほとんどが切り崩され、掘り返されているようだった。そのほとんど全体が工事現場のようで、ひっきりなしにダンプカーやトラックが行きちがい、どこかではブルドーザーが唸(うな)り声を上げていた。
稲荷塚古墳は、和田盆地というところの中央に盛り上がったようなかたちであった。なるほど、そこは町立保育所でもある。古墳と保育所とは、考えようでは、なかなか現代的なとりあわせでもあったが、そこへもひっきりなしにブルドーザーの音が鳴りひびいてきた。
ほかでもよくみられるものであるが、この古墳の頂上には稲荷の祠(ほこら)があって、東京都がつくった説明板によると、恋路稲荷というのだとある。
「恋路稲荷とは、なかなかいいね」と、かつて「朝鮮から渡来した豪族」とどういう関係があるのかはわからなかったが、そう言って私たちは顔をほころばした。ダンプカーやブルドーザーのひっきりない音響のなかにあって、それはなにか一条の、といった、そんな感じを私たちにあたえてくれたのだった。
東京都のつくったものとしては、古墳保存の上屋はあまりにも粗末にすぎていた。いまはあまり見かけなくなった、戦後のバラックのそれだと思えばいい。
阿部君が近くの臼井家から借りてきた鍵で扉を開け、横穴のなかへも入ってみたが、壁石は粘土質の強いものだったらしく、それも乾ききってぼろぼろになっていた。その古墳もいずれはもうすぐ跡形(あとかた)もなくなるにちがいないようだった。どういうわけか、そんなところに缶詰(かんづ)めの空缶なんかがすてられてある。私はそれを蹴飛(けと)ばして、片づけた。
もう、日暮れになっていた。私はある感慨(かんがい)の迫るままに、そこの古墳の枯れ草の上に坐って、ブルドーザーの音のまだ鳴りひびいているあたりの造成地を見まわしながらたばこを吸っていたが、横で五万分の一地図を開いてみていた阿部君が言った。
「この近くに、唐木田(からきだ)というところがありますね」
「唐木田ね。それも韓来(からき)ということからきたものかもしれないが、しかし、きょうはもうおそいね。そこはいずれまたの機会に、ということにしようか」と私は言った。
府中から狛江へ
武蔵国分寺跡に立つ
それから数日後、この日もよく晴れていたが、こんどは多摩町の聖蹟桜ケ丘駅からいくつか新宿寄りの、やはりおなじ京王線府中駅に私はおりた。阿部桂司君が同行するはずだったが、彼は勤めの関係があって、きょうは私一人だった。
私は、駅前の道いっぱい、左右にひろがっている有名な欅(けやき)並木の通りを、左のほうへ向かって歩いて行った。右のほう、つまり北四キロほどの向こうには、この府中と向かい合うかたちで武蔵国分寺があった。いまもその跡をのこしているが、そこは先日、近くの小金井に住んでいる矢作勝美君をさそいだして、いっしょに歩いてみた。
国鉄国分寺駅の南口から西へ向かって約十五分、坂を下ってのぼったところの左手が武蔵国分寺跡で、さすがに東国第一だったといわれるだけあって、その跡も広大なものだった。
「なにしろ、向こうの恋ケ窪までみんな寺の敷地だったそうですからね」と矢作君は言ったが、もちろんいまでは、家々が立て込んでいてそこまでは見えるはずもなかった。しかし、段丘の上面と下面とにわかれている敷地のそれだけを見ても、武蔵国分寺は、いかに当時の文化的エネルギーの集中したものであったかがわかるように思われる。
北院があったといわれる上面台地から下面まではかなり急な石段となっているが、かつてはそこにけんらんとした七堂伽藍(がらん)が立ちならんでいたのだった。左手には七重の塔もあって、そこからは、はるか向こうの府中まで見とおしであったにちがいない。武蔵国分寺はそのようにして、あたりを圧していたのだ。
いまでも国分寺というのはあって、そこには万葉植物園なるものとともに、国分寺市文化保存館がある。私たちは保存館で当時の古瓦などをみて、寺の発行した『国分寺』というパンフレットをもとめてから出た。
その『国分寺』にも「武蔵には帰化人が多くいた」として、朝鮮渡来人のことがのべられているが、しかし、例によって例のごとくであった。武蔵国分寺の建立については、「天平十三年(七四一)に聖武天皇の詔勅(しようちよく)が出てから何年かのち、帰化人の協力もあって立派な七堂伽藍が完成した」とある。
「帰化人の協力もあって」――いったいその「帰化人」とはなにか、というより、そのほか当時ここにはいったいどういうものがいたというのかと私は思ったが、しかしそれはどっちにせよ、そのような国分寺をつくった当時の武蔵における文化的高さということは、いろいろな面についてもいえることだった。
たとえば、中山久四郎氏の『世界印刷通史』をみると次のようなくだりがある。すなわち、『日本霊異(りようい)記』中巻第九話にみえる「楷模」というのが日本さいしょの印刷であったとして、こうのべられている。
この文中に見ゆる楷模とは、即ち印刷の義にして、本書には文に註を加えて、加多岐と訓ぜしむ。この記事の大要は、天平勝宝二年に、故前武蔵国多摩郡の大領大伴赤麻呂の遺族が、その故人の行状を印行して、衆庶に示せりと云うにあり。
当時奈良の都は咲く花の匂(にお)うが如く盛りなりき。地方は都と比較しては、文化は遅れ勝ちとなるを通例とすれど、この武蔵国は、朝鮮等の先進文化国よりの帰化人が多く移住せし地方なれば、文化の進歩も著(いちじ)るしく、諸多の地方に比して自(おのずか)ら相違ありしなるべし。
武蔵の国魂の神
欅並木のつきたところ、突きあたりが府中の大国魂(おおくにたま)神社であった。これまた国分寺におとらず広大な規模の、しかもこちらはいまなお繁盛している神社だったが、しかし私は、ここにこれといったものがあると思って来たわけではなかった。
ただ、さきにみた中島利一郎氏の『日本地名学研究』に、「朝鮮帰化族」は「武蔵国内に於て、勢力二分して、足立郡方面と、多摩郡方面とに相分れ、一は大宮の氷川神社を中心とし、一は府中の大国魂神社を中心とし、それぞれ祖神を相斎(あいいつ)き、相分るるに至った」うんぬんとあるので、私はやはり、その大国魂神社なるものも、一度見ておいたほうがいいと思ったのだった。
「勢力二分して」それとなった胸刺国造(むねさしのくにのみやつこ)を祭る国造神社など、多くの摂(せつ)・末社(まつしや)のある公園のような広い境内を歩いて社務所にいたり、『大国魂神社略誌』というリーフレットをもらった。このまえ行った箱根神社などとはちがい、ここはなかなか親切で、
「どうぞお持ちください」と、白袴の青年がにこやかな笑顔で、それをわたしてくれる。
一、由緒
当社の祭神は、大国魂神を武蔵の国魂の神と仰ぎて、鎮祭(ちんさい)し奉(たてまつ)れるものである。此の大神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子神にして、往古此の国土を開拓し給い、人民に衣食住の道を授け、医薬禁圧等の法をも教え給いて、この国土を経営し給うたが、天孫降臨に際して、其の国土を、天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)に献(たてまつ)って、出雲の杵築(きづき)の大社に鎮坐(ちんざ)し給うた神であることは、世人の熟知するところである。
いまどきこんな文章を読んでそのまま信じ込むものなどいないであろうが、しかしよくみると、これにもなにかが語られていなくはない。要は、読み方である。
なお、この大国魂神社には社宝として、重要文化財や重要美術品に指定されているといわれる一対の狛犬(こまいぬ)、古鏡、仏像などがあるが、それらはかんたんには見せてもらえないにちがいない。で、私は、境内にある府中市立の郷土館でもみておこうかと思ってそこへ近寄って行ったが、あいにくこの日は水曜日で、休館となっていた。
高麗人の村・狛江
私はまた京王線に乗り、調布の南口へ出て、バスで狛江(こまえ)へ向かった。例によってまた、東京新聞の夕刊に連載された「地名風土記」の「調布・砧(きぬた)・狛江」の項をここにしめしておくことにする。
調布市、世田谷区砧町、北多摩郡狛江町は、いずれも東京西郊の多摩川に近いところにあり、この三つの地名は、ともに七、八世紀のころ移住してきた朝鮮からの帰化人に縁がある。かれらは朝廷に麻布を調(みつぎ)として出していたが、その布を織ることが調布で、布を水にさらし、木または石の台の上でたたいてやわらかにし、つやを出す作業が砧である。砧は衣板(きぬいた)の略で、その台のことも砧という。
狛江の狛は、高句麗(こうくり)のことを日本で高麗(こま)とよんだのからきており、ここは六六八年に滅びた高句麗の遺民である高麗人(こまびと)が、はるばるやってきて住みついた狛江郷のあとである。
調布という地名は、調布市のほか、世田谷区や大田区に町名としていくつもあり、大田区の田園調布などは有名であるが、いずれも多摩川に近いところにある。現在は青梅(おうめ)市内となっており、町名としても消えてしまったが、西多摩郡にはかつて調布村があった。これも多摩川に沿っており、布をさらすのに多摩川の水が使われたことはいうまでもない。(浅井得一=玉川大教授)
さきにみた高麗郷と高麗川はもちろんのこと、いたるところ、朝鮮渡来人の住みついた場所は、このような川の近くである。朝鮮語のいわゆる「山佳(よ)く水清きところ」をえらんだわけであるが、ここでは多摩川が重要な因子となっている。
ついでにここで、さきの多摩町教育委員会でもらった『多摩町の今昔』にある「六、多摩川について」をみるとこうある。
多摩川はその源を山梨県塩山市萩原山水干(みずひ)に発し、途中西多摩で秋川、南多摩で浅川等の支流を合わせ下って、東京都と神奈川県の境を流れて六郷川となり、羽田で東京湾に注ぐ。
多摩の名は、和名抄(わみようしよう)には多摩と書いて太婆(たば)と訓ずるとあり、万葉集には多麻(たま)と書いている。前者をタバと読むのは、奥多摩の丹波山に源を発するからだといっている。万葉の多麻と書いているのは、武蔵国ではこの沿岸で麻を多く栽培していたから、この名が出たといわれている。
日本には六玉川と称して玉川は六ヵ所あり、ここの多摩川は古来から調布の玉川と称している。奈良朝の頃、朝鮮の帰化人が武蔵国の開発に当り、この多摩に住み麻を栽培して、その繊維で布を織り、朝廷に貢とした。その布を多摩川で晒(さら)し、布の目をつまらせるために砧で打った。このため調布・砧・染屋等の地名が残り、高麗人が住んでいたので狛江という名が残っている。多摩川を詠(よ)んだ万葉集東歌(あずまうた)に、
たまがわにさらすてづくりさらさらに なにぞこのこのここだかなしき
この『万葉集』の歌は、いま狛江町の多摩川べりにある歌碑となっている。私はそれもみたいと思っていたが、なおまた歌といえば、多摩川における朝鮮渡来人のそれをうたった現代の詩人、小西秋雄氏のこういう詩もある。(詩集『民族の河』のうち「調布布田村」)
きりはたりはたりちょうちょう はたをおるおさのおと
千三百年昔から谺(こだま)はかえる 機(はた)を織る往古(いにしえ)の高句麗乙女
多摩川の流れにさらす麻布(たづくり) さえわたる砧(きぬた)の音よ
万葉の昔を遠くに偲(しの)ばせる 深大寺の夏木立
亡命帰化人が織物技術伝えたるたづくりの里
国分寺の甍(いらか)そびえて多摩川に 麻布の歌声おこる
楽浪(らくろう)の都を遠くに偲びつつ 布をさらす高句麗乙女
夕暮の鉄橋を電車が通る 流れに消える遠い日の歌声よ
“狛江百塚”
バスはまもなく、狛江町役場前についた。私は、裏手庁舎の二階にある教育委員会を訪ねた。ここも多摩町とおなじように、比較的若い人たちが机についていたが、さっそく『こまえ』というリーフレットをくれた。
狛江では、私はまず、「狛江町の古墳群は古くから有名で、俗に“狛江百塚”ともいわれているが、その数は百数十基もあったといわれる」そのうちのいくつかをみたいものと思っていた。が、しかし、いくつかとはいっても、いまではそれらの古墳はみな住宅の下敷きとなってしまい、わずかにそのかたちをのこしているのは兜塚(かぶとづか)、亀塚といわれるもののみのようだった。
この亀塚のことは、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」にも出ていて、出土品としては、朝鮮渡来のそれとして「四神毛彫板」があげられている。
『こまえ』の裏に、さきにみた万葉歌碑の玉川碑とともに、それの案内図がのっている。だが、私にはその図を見ても、どこがどこなのかさっぱりわからない。係りの若い人が、壁にかかっている狛江町の地図をさしながら教えてくれるけれども、それでもわからない。
だいいち、私は自分が調布からバスでそこまで来たことはわかっているが、それさえもどこをどうとおって来たのかわからない。
「わかりにくいところですが」とは係りの人も言ったけれども、しかし、そこから亀塚までは歩いてわずか十分、玉川碑、兜塚は二十分ほどのところにあるということだった。けれども、道が入り組んでいて、私にはどうしてもさっぱりである。係りの人をそんなことでわずらわしているのがわるくて、私は汗をかいていたが、やはりわからない。
「外の人に、亀塚、玉川碑と訊いてわからないでしょうか」
「ええ、それだけではよくわからないと思います」
「よわったな。いえ、いいです。何とかしてさがして行きますから」
「そうですか。わかりにくいところで、どうも申しわけありません」
私のほうこそ「申しわけなく」てそこから飛びだして来たのだったが、それにしても、若い係りの人のそのことばは気持ちのいいものだった。
亀塚って何ですか?
ともかく、その方向らしいところへと向かって歩いた。まず、さいしょ、銀行の前に立っていた守衛さんに、亀塚のある和泉(いずみ)二一九三の番地をいって訊いたが、わからない。ただわかったことはといえば、私は逆方向に向かって歩いていたらしいということだった。
洗濯屋さんに入って訊き、電器屋さんに訊いたが、やはりダメ。そのうちにどうやら私は、案内図にある亀塚近くの旧浄水場あたりに来たようだった。ここも、東京近郊の町がほとんどみなそうであるように、あちこちにまず家が建ち、それから道路ができるというぐあいだったらしく、その入り組みようときたら、何ともいいようがない。
とおりがかりの人、ほとんど全部にあたってみるが、やはりわからない。
「亀塚って、何ですか?」と、逆に訊かれたりする。
「古墳です。こう、土の盛り上がった――」
「コフン」
「昔の豪族の墓です」
「さあ――」
こうなるともう、私も少しやけ気味にならざるをえない。しかしといって、だれかに向かっておこるというわけにもゆかない。
細い、それでも舗装されている通りだった。が、そこは人どおりもなかった。アパートとなるらしい新築現場で、一人だけ働いている若い左官屋さんに訊いてみた。
「さあ、知らねえな。おれ、この土地のものでねえんで」
なるほど、それではムリもない。職人不足といわれているおり、どこかの地方から来て働いているものらしかった。
しようがない。しかし、私のカンでは、亀塚はどうしてもその付近でなくてはならなかったから、だからといって、そう遠くまで行くわけにもゆかない。仕方ない。いま来たところを、また戻った。若い左官屋さんも、ちょっと困ったような顔をして私を見る。小学生が一人やって来たが、わからない。やっとまがり角の家の庭で干しものをしているおかみさんが見つかった。
「ああ、それでしたらね。向こうの突きあたりを右に行って、また右に入ったところですよ」という。やれやれ、いま行って戻って来たところだった。私は、さっきの左官屋さんの前をとおるのは何となく気おくれがしたが、またそっちへ引き返した。
突きあたりをまがったところで、そこにある家の玄関から出て来たおかみさんにもう一度訊かなくてはならなかったが、何のことはない。亀塚はそこの家と家のあいだの細い路地を入ったところで、若い左官屋さんの働いている新築アパートの真裏にあった。
つまり、新築アパートは、かつてはその古墳の敷地だったところに建てられているのだった。裏手にある家からすると、庭のようになっている。「やれやれ」と私は、笹の生(お)い茂るままになっている、小高い築山のような古墳のうえに立ってまた思った。「狛江亀塚」とした石碑が立っていなかったとしたら、だれもそれが古墳だったと思うものはいないにちがいなかった。
「おい、これだよ」
そこのアパート建築現場のなかに左官屋さんの姿が見えたので、思わず、私はそう言って声をかけた。
「そうけえ。それ、何かね」と左官屋さんも手を休め、身をかがめてそこから出て来た。
「これかね。これは、昔この辺に住んでいたという、朝鮮から来た豪族の墓ですよ」
「へえ、朝鮮から――」と若い左官屋さんは、目を丸くしたようだった。「そうすっと、朝鮮人のかね」
「まあ、そういうことになるかな」
帆立貝式前方後円墳
私は笑って、石碑の裏へまわってみた。そこには狛江町教育委員会による、こういう文面が刻まれていた。
亀塚は帆立貝(ほたてがい)式前方後円墳にして都下唯一例に属す。昭和二十六年以来村は国学院大学教授大場磐雄(いわお)博士に委嘱(いしよく)し数次に亘(わた)り発掘調査を行いたる結果周囲に濠(ほり)及び埴輪(はにわ)の存在を知り内部主体は後円部頂上に木炭槨(かく)二基前方部付近に組合式箱形石棺を安んじ槨内より鏡・玉・武器・馬具類多数を発見せり。
就中(なかんずく)、中国渡来の神人歌舞画像鏡と高句麗文様を毛彫せる金銅飾板とは最も珍秀とするに足る。蓋(けだ)し古墳は西紀六世紀頃此地に在住せし豪族の墳墓にして狛江郷の発祥に至大の関係あるものなるべし。茲(ここ)に建碑に際し一言由来を記して後世に伝うると云爾(しかいう)。
名文、あるいは悪文の典型のようであるが、ここにいう「中国渡来の神人歌舞画像鏡」とは古代の高句麗、北朝鮮の平壌で発掘・発見されたものと同型のものである。それにしても、ここでちょっと考えなくてはならないのは、この「古墳は西紀六世紀頃此地に在住せし豪族の墳墓にして」ということである。
そうだとすると、いまさっきみた「地名風土記」の「調布・砧・狛江」にある「狛江の狛は、高句麗(こうくり)のことを日本で高麗(こま)とよんだのからきており、ここは六六八年に滅びた高句麗の遺民である高麗人(こまびと)が、はるばるやってきて住みついた狛江郷のあとである」というのと、これとはどういうことになるのか。
高句麗が南方の新羅によってほろぼされたのは、たしかに六六八年のことで、それは七世紀の半ば以後である。ところが、この亀塚古墳は六世紀のものである。
そうすると、狛江にこのような古墳をつくった朝鮮・高句麗からの渡来氏族は、高句麗の滅亡とは関係なく、それよりずっと以前から来ていたものでなくてはならない。すなわち、相模(神奈川県)の大磯や武蔵(埼玉県)の高麗郷に展開した高麗王若光を中心としたものとは、これはまた別なものたちだったのである。
なお、私が以上までを書いたのち、朝日新聞三多摩版の一九七〇年九月二十日付けをみると、連載中の「続三多摩風土記」が「狛江亀塚」となっている。そして亀塚古墳について次のように書かれているので、それをここにつけ加えておくことにする。
この狛江郷は、現在の三鷹市、武蔵野市、川崎市などの一部をふくむかなり広い地域で、狛江町がその中心地だったという。……
高句麗系の帰化人がいつごろから狛江付近に住みついたか、という点で、亀塚は一つの手がかりを与えてくれた。築造されたのが六世紀前半ということになっているから、それよりも前、五世紀の後半から六世紀の初めごろ、という計算になる。その後朝鮮半島では高句麗が戦争に敗れ、多数の高句麗人が日本に亡命、帰化したが、そのころ狛江郷の帰化人は二世、三世の時代になっていたと考えられる。
四 甲州街道から浅草へ
神社を考える
調布の里の職能神
狛江(こまえ)、砧(きぬた)などとともに、調布がいわゆる「帰化人」、朝鮮渡来人と関係あるところだということはさきにみたとおりであるが、こんどは京王線の調布駅北口から、市内を甲州街道の北東に沿って歩いてみることにした。北口からはすぐに旧街道で、それを横切って少し進むと新甲州街道である。
道幅が広く、クルマなどの往来が急にはげしくなっている。その街道を、さらにまた横切って行くと、布多天(ふだてん)神社というのがある。社務所に寄ると、由緒(ゆいしよ)書といったものはなくて、改築建設委員会のだした『布多天神社本殿改築趣意書』というのをくれた。
それの冒頭に、こうある。
布多天神社の御祭神は、少彦名命(すくなひこなのみこと)、菅原道真(すがわらのみちざね)をお祀りし、多摩郡でも有数の古いお社(やしろ)であります。多摩川のほとりの古天神という土地にもと社殿があり、文明の頃(約五百年ほど前)多摩川の洪水のため現在地(調布市上布田町四〇一)に遷宮(せんぐう)されました。また、調布という名の起りは、むかし広福長者という人が当社に七日七夜の祈願をしたとき神のお告げによって布を多摩川にさらして調整し、朝廷に献(たてまつ)ったので、この布を調布と称し、またこの辺を調布の里と呼ぶようになったと伝えられています。
大国主命に協力した国土開発の神とされている少彦名命のほうはともかく、菅原道真がどういう関係でここに「お祀り」されているのかわからないが、それはどうであれ、この布多天神社はいわゆる式内社であることはもちろんのこと、ひじょうに古いものであることはたしかである。この神社がかつては、「多摩川のほとりの古天神という土地」にあったということからも、それは推(お)しはかることができる。
というのは、ここにもいわれているように、これはもと、多摩川にさらしてつくられた「布」からきたものであったにちがいないのである。「むかし広福長者という人が当社に七日七夜の祈願をしたとき神のお告げによって布を多摩川にさらして調整し」たからではなく、それはむしろ逆で、そのように「布を多摩川にさらして調整し」ていたことからきた神社であった、と私は思う。
いわば職能神といったようなもので、のちにみるように、秩父の和銅遺跡に聖(ひじり)神社というのがあるが、これの神体は和銅のはじめ、新羅の金上元(こんじようげん)らにより、そこで発見された銅板である。これから推してみると、布多天神社の神体なるものも、はじめはその布であったのかもしれない。
多い朝鮮渡来人の足跡
どちらにせよ、ここにいわれている多摩川の多摩は往古「多麻(たま)」と書かれていたということからもわかるように、この辺一帯は苧(からむし)(韓(から)モシ)の産地だったのである。そしてそれを布にし、律令(りつりよう)時代となってからは、これをもって租(租税)、庸(労役)にたいする調(特産物)としたものであったが、そのような生産と技術とをもたらしたものも、朝鮮渡来人であったことはいうまでもない。
古代の調布は、地理的条件から狛江(和泉)中心の政治・文化圏に含まれていた。古墳は、いずれも低地にのぞむ台地上につくられており、狛江の古墳群はとくに密度が高く、近年まで総数一四〇基余もあった。しかし、多摩川を眼下にのぞむ沿岸は、比較的早くから開拓が進み、集落として発展してきたために、今では古墳の存在を知ることさえむずかしい。
文政三年(一八二〇)の『武蔵名所図会』によると、和泉(いずみ)村の記事に、古塚「大なるは六ケ所、小なるは三ケ所」として亀塚〈さきにみたものである=金〉・富士塚などをとりあげ、さらに各所に古塚の数を示し「和泉、猪方(いのがた)、岩戸、この三ケ村の相並びて僅(わず)か十四、五町の内に大塚二十三ケ所、これより少し隔てた大蔵村に五ケ所あり」とある。
さらに、調布市の西北部三鷹市大沢、東京天文台の南斜面の「大沢地下式横穴群」は、野川に面したところに散在し、近年まで「大沢ワサビ」として有名なほど、湧き泉と清流に恵まれていた。
調布市内の古墳は、和泉に近接した下布田町の南台地上にあって、規模の大きい代表的古墳としては、「狐塚」「釈迦(しやか)塚」、飛田給(とびたきゆう)の「桜塚」などごく少数があった。しかし、戦時中から戦後にかけて盛り土は削平され、農地あるいは宅地となり、完全な形で古墳の姿をとどめるものはない。
「狐塚」は多摩川の自然石を利用してつくられた円墳の竪穴式古墳で、高杯(たかつき)土器・円筒埴輪(はにわ)の破片を出土している。狐塚周辺(古老の話では十六基確認)の台地と、台地下の日活撮影所周辺の字「ぬのた」「染地」「不動森」は、この時代の土器包含地として知られている。
この時代にあっては、農業は自然の立地条件として、水に便利で水田をつくるのに適した日あたりのよい土地が選ばれ、現在の第三中学校を中心とした千町耕地・和泉にかけてそうとうの規模をもった集落が形成されていたものと思われる。
調布市教育委員会のだした『調布市百年史』「二、古代」からの引用である。なぜこんな引用をしたかというと、いまは二十万の人口をもって、東京都のうちの一都市となっている調布のかつてのすがたをちょっと想像してもらいたかったからであるが、これをみてもわかるように、地名や古墳やその出土品などに、朝鮮渡来人との関係が色濃くにじみ出ている。
そして、この朝鮮渡来人のことについては、同「二、古代」につづけてこうのべられている。
武蔵国内で集団移住をみたのは、幡羅(はら)郡・高麗郡・新羅郡などがあり、多摩川沿岸では狛江を中心とした地域である。狛江古墳のなかでもとくに大きい「亀塚」の発掘調査では、明らかに半島文化の影響を認めることができる。調布の古社としての「虎狛(こはく)神社」も帰化人である高麗人の居住と関係があるとされている。いずれにしても、南部武蔵野の開拓はこの地域から展開したとみられる。
「明らかに――影響を認めることができる」どころか、それは古代朝鮮文化そのものであったと私は思うのであるが、そうして武蔵(東京都・埼玉県)全体についてみるならば、南部のこちらからは、「調布」「砧」「染地」などの地名にもみられる繊維の生産がおこるとともに、この武蔵野一帯はのちしだいに馬の牧畜もさかんとなったところであった。
牧畜に由来する地名
中島利一郎氏の『日本地名学研究』によると、東京の世田谷や早稲田にある弦巻(つるまき)や鶴巻にしても、本来はその表記の漢字とは関係なく、これらはいずれも朝鮮語ドル(原野)牧、すなわち馬の放牧地であったということからきたものであるといわれる。馬を、日本語では駒(高麗(こま))といっていたことからもわかるように、この馬もまた朝鮮渡来人のもたらしたものであるが、それの牧畜について、『調布市百年史』「二、古代」のさいごにこう書かれている。
武蔵野は土地が平たんで牧畜に適しているところから、牛馬を飼育する牧場が各所(官牧では石川・由比・小川・立野、私牧では秩父など両者で一〇牧)にあり、毎年馬五〇匹を別当職が引きつれ、紫宸殿(ししんでん)で天皇御覧のうえ貢進する定めであった。牧場は平安末期からほとんど荘園化し、地方の治安維持と、荘園の権益防衛の立場から武装化され、有力豪族は家の子郎党を擁(よう)して、武力的小集団である「党」を形成していった。
ここにいう「有力豪族」とは、朝鮮渡来人によるそれであることはいうまでもないであろう。いわゆる武蔵七党など、関東武士の勃興である。有名な武蔵鐙(あぶみ)なども、これにともなってつくられたものであったが、そしていうところの武士道、忠義心というのも、これら関東武士における家の子郎党の堅い約束ごとからおこったものといわれている。
そうしてなかには桓武(かんむ)平氏、清和(せいわ)源氏などと称するものがあらわれ、やがて彼らは天下を窺(うかが)うにいたる。いわゆる武家政治、鎌倉時代の開幕であるが、なかにはずっとのちまでも、甲斐(かい)源氏を称した武田氏のように、その祖は新羅三郎義光であるとして、みずからはっきりと新羅の後裔(こうえい)を名乗っていたものもあった。
神社好きな日本人
布多天神社から甲州街道へ戻った私は、そこから東上するというか、新宿のほうへ向かって歩いた。街道はひっきりなしのクルマであり、歩道に沿った両側にも家々が立ちならんできているが、しかしまだ、畑などそのままのこっているところもある。
左手の向こうに深大寺(じんだいじ)あたりの森が見えていたが、ふと右側に目をやると、歩道橋のそばに国領(こくりよう)神社というのがあった。また、神社というわけだった。しばらく行くと、左側に小さな鳥居と祠(ほこら)のあるのが見え、そのさき、新街道が間もなく向こうを走っている旧街道と合するところ、調布警察署と郵便局のこちらにまた神社があって、「牛頭(ごず)天王」と大きな石碑が立っている。
「やれやれ、日本人はどうしてこうも神社が好きなのだろうか」と、私は思わないではいられない。しかしよく考えてみると、何だか妙な感じがしないでもない。境内には必ずといっていいほど狛犬(高麗犬)が配置されている神宮・神社というもの、それもまた朝鮮渡来のものではないかと思われるからである。
まず、だいいち、そこに見えている牛頭天王というのからして、これは素戔嗚尊(すさのおのみこと)なるもののことで、渡来のいわゆる朝鮮神であった。これをなぜ「牛頭天王」というのかといえば、それは素戔嗚尊がそこからやってきたとされている、新羅の曽尸茂梨(そしもり)ということからきている。
朝鮮の江原道春川にはいまも牛頭(ウド)山というのがあるが、これを朝鮮語で訓読みにするとソモリ(牛頭)となる。曽尸茂梨、つまり曽の茂梨というのはこのソモリのことだというところからそれとなったのであるが、しかしまた一説には、ソモリというのは固有名詞ではなく、ふつう名詞の「王都」という意味の朝鮮語で、したがってそれは新羅の都であった慶州であるともいわれている。どちらにせよ、朝鮮からきたものであることに変わりはない。
ここでじつをいうと、私はこれまで、この日本でもっともいやなものは何であったかというと、それは神宮・神社なるものであった。「祭政一致の昔にかえれ」とか何とか、そこから「神道」などというあやしげなものが引きだされたこともいやだったが、それからあの戦争中に半ば強制された、神社参拝というものだった。
たとえば電車やバスに乗っているときでも、「ただいまなになに神宮前を通過でございます」と車掌がいえば、乗客もみなそれにならって帽子をとり、おじぎをしなくてはならなかった。で、当時、私の兄事していた金史良(キムサリヤン)という作家は、車掌からそんな声がかかると、わざとかぶっていた帽子を床におとし、それをひろうということで、そのいっときを切り抜けていたものだった。
日本人でも作家の中野重治氏など、そんなときは、いままで話していた相手がそこにいても、急に居眠りをするといったことを聞いているが、そんなケチな、あるいはチャチなというものがあるかもしれない。が、しかし、人間というものは何事によらず強制されれば反発したくなるもので、それができないときは、何とかその場をごまかす、ということになる。
そんな記憶があるからか、いまでも私は神宮・神社ということになると、なかなか無心にはなれない。
朝鮮の名称を残す神社
ところがこの神宮・神社なるもの、これがじつはまたほかでもない、朝鮮と密接な関係を持っていたのである。金沢庄三郎氏の『日鮮同祖論』のなかにも、「朝鮮は神国なり」などというのがあって、「新羅の神宮」のことが出ているが、これもはじめはその新羅によってだった。
すなわち、朝鮮の正史の一つである『三国史記』によると、新羅の第一代王とされている赫居世(ヒヤクコセ)を祭る始祀廟としてのそれができたのは西暦紀元六年、第二代南解(ナムヘ)王三年のことだったが、これがのち、四八七年には「神宮」というものになった。そしてそれの祭祀者である巫女(み こ)としては、代々の王の姉妹か、あるいはいうところの王族の女人があたるものとされていた。これでわかるように、それは始祖または祖神廟としてはじまったものであった。
のちにできた日本の伊勢神宮などもそれであるが、ところで朝鮮の新羅においては、仏教がさかんとなるにしたがって、この神宮なるものは消滅することになった。日本のようにそれを混在させることができなかったわけである。しかしながら、その仏教の入ってくるのと前後して、日本に渡来したものたちにあってはそうではなかった。
日本に渡来した彼らは各地に群居し、そこからまた豪族や氏族がわかれ出るというふうだったから、やたらとあちこちにその祖神・氏神としての神宮・神社なるものをつくったもののようであった。なかにはいまみてきた布多天神社のような職能神、農耕神などいろいろあるが、日本各地いたるところにある新羅神社だの百済神社、それからまた韓国(からくに)神社、許麻(こま)(高麗)神社などというのもその結果で、これらがいまだにそうした朝鮮の名称をのこしているのは、かれらがいかにそれをこの地にたくさんつくったかということの証左でもある。
ちなみに、ここで村山正雄氏の「朝鮮関係神社攷(こう)」をみると、武蔵の金佐奈(かなさな)、椋(むく)神社など、それが百数十社あげられているが、もちろんこれがそれの全部ではない。ほかにまだいくらでもあって、およそ神宮・神社と名のつくものは、すべてその元をただせば朝鮮と関係あるものばかりだといっても、けっして過言ではないであろう。
そしてこれがのちしだいに、なになにの神(尊・命)を祭るなにやら神宮・神社ということになって一般化し、多様化したと思われる。日本におけるこのような神宮と神社とは、仏教渡来後もなおさかんにおこなわれた。それはさきにみた、八世紀に入ってできたと思われる埼玉県日高町の高麗神社の例をみてもわかる。
金子氏の厳島神社
そんなことを考えながら、私は甲州街道を新宿のほうへ向かっていたのであるが、やがてつつじケ丘あたりになったかと思われるころ、一つの歩道橋が見え、それには金子町と書かれてある。右手のほうは調布市の神代出張所となっており、婦人児童会館となっているが、ところで、向かいのこちらには道がつうじていて、ここにもまた石造りの大きな鳥居が、その道に両股をかけるようにして立っている。
鳥居が見えるだけでわからなかったので、近所の人に訊(き)いてみると、厳島(いつくしま)神社だという。厳島神社ということになると、安芸(あき)(広島県)のそれとおなじ、いわゆる「客人社(まれうどしや)」である。
私は鳥居をくぐって、行ってみることにした。まだ舗装されていない細い道が、まっすぐ家並みのあいだにのびている。ぶらぶら歩いて行くと、やがて小さな森が見えてきた。
珍しく松が主となった森だったが、しかしそこも裏手からは、新築中の鉄筋コンクリート建てのアパートらしいものが迫ってきていた。そんなふうに四方からの住宅に攻められて、森ももう間もなく消えてしまうにちがいなかったが、そこにある神社もまた荒廃しきっていて、いつ、跡形(あとかた)もなくなってしまうかわからないような状態だった。
そのくせ狭い境内には狛犬が一対ずつ四体もあり、見ると、松の落葉のしかれているそこには、湧水の小さな池まであった。その池のそばに、「神域記念碑」とした石碑がたっている。
当社は神代村字金子の鎮守にして清冽(せいれつ)なる池水に囲まれた霊域なり 祭神は厳島姫命にして相殿に宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)を合祀す 二柱共に神徳の高大なる今更称え申す要なかるべし 創立年代は不詳なれども遠く推古の朝と伝えられる古社たり 思うに当地は往昔金子氏移住の所なれば 同氏族の崇敬も亦(また)特に深かるべし……。
碑文を書いたのは、府中大国魂(おおくにたま)神社の猿渡盛厚宮司だったが、私はそこまで読んで、なるほどと思った。ここはいまでは西つつじケ丘となっており、京王線の駅名もつつじケ丘となっているが、ごくさいきんまでこの辺一帯は、金子といわれていたところだったのである。してみると、「思うに当地は往昔金子氏移住の所なれば 同氏族の崇敬も亦特に深かるべし」どころではない。それもまた、元は金子氏族の祖神のそれとしてつくられたものであったにちがいないのである。
その「移住」の金子氏族なるものが、入間市にある国鉄八高線の駅名ともなっている金子の金子氏族と同系のものであることはいうまでもない。つまり、さきにみた高麗神社の『高麗氏系図』にみえる金子氏族と同系のもので、これは次にみる深大寺のものがたりとつなげてみると、なかなかおもしろいことになる。
深大寺ものがたり
武蔵野特有の森が保存されている深大寺
金子の厳島神社から、京王線つつじケ丘駅まではわずかばかりでしかなく、すぐだった。そのつつじケ丘駅前から深大寺までは、定期のバスが出ている。
バスは十分ほどで、東京都の神代植物園ととなり合っている深大寺についた。私はこれまでも深大寺へは何度か来ていたが、こんどはちょっと久しぶりだったせいか、その変貌ぶりにおどろかずにはいられなかった。
あたり一帯はどんどん掘り返され、ここも東京周辺のその例にもれず、ブルドーザーやダンプカーが動いて宅地造成に余念がないようで、深大寺の門前あたりもほとんどすっかり変わってしまっていた。クルマの駐車場があちこちにできているばかりか、いつの間にかそこらにまで新しい住宅が立て込み、かつては何軒もなかった名物のそば屋までが、いまではかぞえきれないほどである。
名物がそうたくさんあっては、名物もなにもあったものではないことはいうまでもないであろう。かつてはそうしたそば屋にも「お休処」などといった旗竿(はたざお)が立っていたりして、それにも風情(ふぜい)があったが、いまはまるで御殿のような構えのそば屋までできている。
しかしながら、さすがに、鬱蒼(うつそう)とまではゆかないけれども、深大寺といえばまずそれである武蔵野特有の森は、わりによく保存されているようだった。それまでなくしては元も子もなくなるからであろうが、伝説の湖とされている亀島弁財天のある池もまだあり、あちこちから出ている湧水もあいかわらず豊富だった。
石段を上って山門を入ると、深大寺本堂である。ここには、関東に唯一のものといわれる白鳳仏の金銅釈迦像が安置されている。国宝となっているが、だれでもみせてもらうことができる。
それよりさきに、寺へ寄ったら、まず、『深大寺縁起(えんぎ)』というリーフレットを一枚もらうといい。「一般に寺伝縁起(えんぎ)の類にはマユツバものが多いのであるが、これにはかなりの真実性がありそうに思える」と甲野勇氏の『武蔵野を掘る』のなかにいわれているそれである。そこには、なかなかロマンティックなものがたりが書かれている。
深大寺の恋物語
むかし、この辺一帯は狛江郷・柏野(かしわの)の里といわれたところであるが、ここに温井右近(ぬくいうこん)といわれた長者が住んでいた。彼は生来(せいらい)狩猟が好きで、たくさんの鳥獣を殺傷してはそれをたのしんでいた。が、やがて、妻の虎女(とらじよ)に戒(いまし)められてそれをやめ、平穏な生活に入った。
間もなく、この夫婦のあいだに一人の娘が生まれた。そしてこの娘が長じて、どこから来たものともしれない(外来の)福満という青年と愛し合うようになった。近隣に噂が立ち、右近夫婦は娘を叱ってとめたが、しかし娘は聞き入れない。
そこで夫婦は怒って、湖のなかにあった小さな島に小屋をつくり、娘をそこへ閉じこめてしまった。そのことを知った青年福満の悲しみは深く、島の娘に逢いに行こうにも、船もなければ筏(いかだ)もない。
彼は水神・深沙大王(じんじやだいおう)に祈り、この湖を何とか渡れるようにしてくれれば、あなたを湖水の主として、また、村の鎮守として末永く崇(あが)め祭りますと誓いを立てた。すると、たちまち一匹の大亀が水中からあらわれ出て、彼を湖のなかの島へと運んでくれた。
もちろん、福満は娘に逢うことができたばかりか、そのことにおどろいた右近夫婦も、彼ら二人の結ばれるのを許した。やがてこの若夫婦のあいだからは、一人の男児が生まれた。彼は生まれながらにして天資聡明(そうめい)、成長するとともに、父福満の命により、中国に渡って大乗法相を学んだ。
そして彼は帰って、ここに深大寺を創建した。これがすなわち深大寺の開山、満功(まんくう)上人その人であり、開山は七三三年の天平五年だというのである。
これはなるほど、「かなりの真実性がありそうに思える」が、甲野勇氏はさらにつづけてこう書いている。
奈良時代創建というのは、金銅仏の存在や、近所にわずかながら布目ガワラが出ることでも裏づけられるし、よそ者との恋物語も帰化人が移住しているのだから、頭から否定することもできない。おそらくこの寺は、奈良時代に狛江郷にすむ帰化人によって建立され、水源の守りともされたものではないだろうか。この豊かな泉は、狛江の水田をうるおす、大切な水源の一つだったからである。水の守りに深沙大王というエキゾチックな水の神をまねいたのも、日本人らしからぬ感覚である。
ここにいわれる「日本人」とはどういうものであったか問題であるが、それはさておき、『深大寺縁起』にしても、また甲野勇氏にしても、ここに出てくる満功上人の父となった青年福満を「よそ者」、すなわち朝鮮渡来のそれとし、温井右近といわれた長者およびその娘は土着の「日本人」としているようである。しかし、これはまちがいであると思う。
さきにみた狛江の古墳群、なかでも代表的なものとされている亀塚のそれをみても明らかなように、この古墳は六世紀のものであったことがはっきりしている。とすると、この狛江郷には、深大寺のできるよりずっと以前から、すでにそれらの朝鮮渡来人がたくさん住みついていたのである。
縁結びとそば
このことは、たとえば、ここに温井右近といわれているもののそれをみてもわかる。のち、深大寺の創建者とされている温井家と婚姻をした狛江の旧家、石井家の文庫に接したことのある金正柱(キムジヨンジユ)氏は、それにふれてこう報告している。
同文庫によれば、「……温井氏は佐須殿と称し、多末の宿禰(すくね)より出(い)でたれど、延喜式内の虎狛神社の神主にして氏の祖神なり。今、朝鮮国に温井里あり。高麗百済の帰化人が深大寺国宝も渡来のものなり」の一項に逢い、本像が明かに朝鮮から伝来したものである確信を得ることができた。(「狛江と深大寺」)
なおまた、ここに出てくる「佐須殿」であるが、これもいま調布市に佐須町とその地名をのこしており、そこにある虎狛神社は、さきのものがたりにあった温井右近の妻、虎女を祭ったものといわれている。ここにはまた深大寺の住職でさえ「駕籠(かご)を乗り入れることはできなかった」といわれる格式の高い虎柏山日光院の祇園寺(ぎおんじ)があって、境内には朝鮮石人像がいまもなお、なにかを見守るかのようにしてじっと立っている。
そして、この神社のことについては、『調布市百年史』「九、社寺」にこうのべられている。
式内多摩八社の祭神が、すべて出雲系の神であること、古多摩川の流路、往古の調布の住民がつくった村の中心はどこであったか、また『深大寺草創縁起』の伝説、柏の里・狛江郷・虎狛神社などとあわせて考証しなければならない。
以上によってもわかるように、この狛江郷には早くから朝鮮渡来人が住みつき、土着していた。そしてこことつながっている三鷹市の井の頭もかつての狛江郷で、また同市には牟礼(むれ)という朝鮮語源の地名ものこっているが、それなら、この深大寺のものがたりに出てくる「よそ者」の青年福満とはいったいどこから来たものであるのか、ということになる。
そこで思いうかぶのが、さきにみたつつじケ丘の金子における、金子氏族の「移住」ということである。厳島神社の「神域記念碑」に、「思うに当地は往昔金子氏移住の所なれば」とあるそれ、すなわち旧高麗郡の高麗氏族からわかれて出た金子氏族であったことがわかると、はなしはつじつまが合うことになる。
すでにみたように、旧高麗郡がおかれたのは七一六年の霊亀二年であったとすると、これは八世紀はじめのことで、六世紀に狛江郷を開いて住みついたかれらとのあいだには、約二世紀の差がある。したがってこのものがたりは、あとからやって来た新興勢力があちこちに拡大し、ひろがったことを語ったものにほかならないのである。
想像をたくましくすれば、深大寺のこのものがたりには、先着の出雲族と後来の大和のそれとの関係さえ読みとれなくもない。こちらの深大寺はそれが縁結びというかたちになっているが、朝鮮ではむかしから縁結び、すなわち結婚式などには、末永くあれということでか、必ずといっていいくらいそばが用いられている。
いまはそんな店があまりにも多くなって、名物とはとうていいえなくなっているようであるが、私も深大寺のその「名物そば」なるものを二人前ほど食って、そこから立ち去った。
浅草観音と白鬚
文字を伝えた王仁の碑
いまは国電などと妙なひびきでいわれているその環状線で、私は上野駅におりた。そこから都電で浅草のほうへ向かうつもりだったが、私はふと気がついて、上野公園のなかへ入って行った。
そこにあるといわれる、朝鮮渡来の一方の雄であった王仁(わに)の碑をみておきたいと思ったからだった。どうしてそこにそんな碑があるのかは知らなかったが、人に訊いて、碑のある場所はすぐにわかった。
入母屋(いりもや)ふうの屋根(笠)のついた、かなり立派な石碑だった。日本にはじめて文字をもたらしたものということで有名な王仁は、日本では東(やまと)(倭・大和)の漢(あや)氏にたいし、こちらは西(かわち)(河内)の文(ふみ)氏といわれた百済系渡来氏族の祖となっているそれだった。百済系氏族といえば、これから私の行ってみようとする浅草観音もその氏族によってできたものだったが、この百済系もまた武蔵野に相当たくさん入っていたようである。
『日本書紀』の六六六年、天智五年条に大和(奈良県)で「官食を給していた百済の僧俗二千余人を東国に移した」とあるその東国はどこだったのかわからないけれども、武蔵(埼玉県)の大里郡川本村には、いまも「百済木」というところがある。この百済(くだら)木(き)は百済来ということを意味するもので、ここからは数年前金銅の百済仏が発見され、またその付近には古瓦の窯跡(かまあと)や廃寺跡などもあるといわれるが、山口ともいわれる現在の埼玉県狭山湖(さやまこ)あたり一帯もまた、これら百済系のものたちが入って開発したところとみられている。
さきごろの新聞に、「遺跡のある住宅地さやま台」とある土地会社による半ページ大の広告が出ていて、それには、「今宿遺跡で発掘された須恵器」の大きな壺の写真がそえられてあったが、そのような遺跡に関連して、松井新一氏の『武蔵野の史跡をたずねて』にこうある。
同じくバスで勝楽寺の下にいたる。同寺は現在真言宗であるが、中世の頃は天台宗であったらしい。この寺はもと山口村字勝楽寺にあったが、山口貯水池の開設に際し、昭和五年にここ山口村岩崎に移された。勝楽寺は「王辰爾(おうしんに)大坊」ともいい、寺伝によれば帰化人王仁の五世孫王辰爾のためにその子孫が建立(こんりゆう)した寺であるというが、詳(くわ)しいことは火災のために旧記が亡びて分(わか)っていない。
鎌倉時代の文永年間に北条執権呪咀(ほうじようしつけんじゆそ)を近くの七社神社(別当寺は勝楽寺)に祈願したことによって幕府のため焼き払われ、一時寺運が衰微したようである。この寺がもとあった勝楽寺辺(山口観音の西方一キロ余)は帰化人が多く、六世紀頃この地に多数の寺院が存在したことによって、その繁栄がうかがわれる。当寺に、王辰爾の墓と伝えられているものがある。
六世紀といえば、仏教が百済によって日本に公伝されたのが五三八年であるから、「この地に多数の寺院が存在した」のは同世紀のことで、大和に法隆寺のできるよりもさきだったことになる。とすると、ここにはすでにその当時から、大和のそれに劣らぬ文化的勢力のものがいたとみなくてはならない。
王辰爾のこと
この勝楽寺には、私も先日行ってみた。西武池袋線で埼玉県となっている西所沢駅でおり、西に向かってしばらく歩いたところにあった。よく舗装されてはいたけれども、歩道のない狭い道路だった。ひっきりなしにクルマがとおるのでとても歩けたものではなかったが、わずか数キロのあいだだったにもかかわらず、ここはまたそうとうに寺の多いところだった。瑞岩寺(ずいがんじ)、勝楽寺、勝光寺と、たてつづけに三つもかぞえることができた。
そのうちの、「王仁の五世孫王辰爾」のために建てられたという勝楽寺のなかに私は入ってみたのであるが、もちろん、これといったおもかげがいまなおのこっているわけではない。住職は留守で、出てきたおかみさんが、
「この寺は由緒ただしい、元はとても大きなお寺だったそうですがね」と言ったばかりだった。火災にあったり、焼きはらわれたりして、場所までもいまは変わっているのであるから、のこっているのは、おかみさんのそういった感慨ばかりでしかないはずである。
なおまた、狭山湖駅の近くには行基(ぎようき)の作と称する千手観世音(せんじゆかんぜおん)を本尊とする山口観音があり、この寺の本堂には「王辰爾の鐘」というのがある。「七一六年の霊亀二年」に王辰爾がこの地へ来たときに持参したものといわれているが、とすると、ここにいう王辰爾なるものがこちらへ来たのは、八世紀はじめということになる。
七一六年の霊亀二年といえば、『続日本紀(しよくにほんぎ)』のいう「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国の高麗人千七百九十九人を以(も)て武蔵に遷(うつ)し、始めて高麗郡を置」いた年で、もしかすると、これはそれとの混同から生じた誤伝かもしれない。
ここにいう王辰爾が、畿内の河内(大阪府)を中心に勢力を張った王仁系氏族につながるものだとすると、これは百済系の渡来人である。六世紀ごろ、この地にたくさんの寺院をつくって繁栄したのも、そのような百済系のものたちではなかったかと思われる。
久しぶりの浅草
上野から都電で浅草へ向かうのは、私としては久しぶりのことだった。かつて数十年まえ、いまは亡くなった高見順氏が浅草を舞台に『如何なる星の下に』といった作品を書いていたころのことだった。その高見氏のうしろについて歩いていた一団の文学青年に立ちまじって、私もその辺をうろうろしていたことがある。
それからまた、戦後は友人の水野明善が浅草の橋場におり、つづいてまた少年のころからの友人である張斗植(ジヤンドシク)が向島(むこうじま)に住んだりしていたものだったから、私もそこまでよく行ったことがあった。が、しかし、いまではこの二人ともそこから離れてしまっているので、私もそこへはすっかり足が遠のいていたのだった。
私は雷門で電車をおり、仲見世へ入って、人々の群れているなかを、ぶらぶら歩いて行った。新聞などでちょっとみたところでは、庶民の街として知られる浅草の仲見世も、いまでは大資本のデパートに押されて、さびれて行く一方だとのことだったが、私のみたところではどうしてまだまだ、なかなかの繁盛(はんじよう)ぶりだった。いわば、そこにはまだ、江戸以来の純粋な日本の姿というものがあって、それが根強く生きているのだった。
門前町である仲見世を入りきると、そこが浅草観音だった。本堂もむかしと変わりなく参詣(さんけい)人が群れていたが、本堂にいたる手前に大きな香炉(こうろ)があって、人々はそこへさかんに線香を投げ込んでは、その煙を手ですくいとるようにして自分の体や顔などにすりつけている。若い連中など、はじめはてれたように笑ったりしていたが、しかし、彼らもやはりおなじことをする。
私はそれらの人々から目をめぐらして、あたりを見まわしてみた。庶民の街とはいっても、浅草はやはり大都会のなかのそれだった。大きなビルなど家々がびっしりと立ち並び、そこがかつては古墳なども散在していた馬の牧場だったところとは、とうてい想像もできそうになかった。
だが、しかし、浅草のそこはいまも「馬道」という地名をのこしていて、かつては「武蔵国檜前(ひのくま)の馬牧(まき)」といわれていたところだったのである。そして浅草観音もまた、この檜前氏族なるものと深い関係がある。
このことについては、野田宇太郎氏に「浅草観音」という一文があって、そこにもかなりくわしく書かれているが、檜前氏族というのはなにかというと、これは大和の飛鳥にある檜前から出たそれである。この飛鳥にはいまも檜前というところがあり、檜隅(ひのくま)寺跡があって、そこにはいま阿知使主(あちのおみ)を祭る於美阿志(おみあし)神社がある。
阿知使主といえば、のちそれから出た有名な坂上田村麻呂の祖となったものであるが、これがいわゆる東漢(やまとのあや)氏族であった。漢(あや)とは古代朝鮮南部の小国家安耶(あや)(安羅(あら)・安那(あな)ともいう)から来たもので、これもそこからの渡来氏族である。もっとも、これがのちの事大思想によって、後漢の霊帝の後裔とか称することになったところから、いまなお中国系渡来人であるかのようにみているものが少なくない。飛鳥にある於美阿志神社の説明板にもそのように書かれているが、これははっきりとまちがいである。
ついでに言えば、常陸(茨城県)の仏浜(ほとけのはま)にあった石壁に観音像を彫りつけた川原氏族もこれと同根のものであった。つまり檜前氏族とは、これも古代朝鮮から渡来した漢氏族の支族なのである。
浅草観音像の由来
さて、そこで浅草観音像であるが、寺院の縁起によるとこれは、大和の檜前からやって来た檜前浜成と武成兄弟が隅田川でひろい上げたものとされている。それでこの仏像は、隅田川の川上には高麗郡があったところから、もと南高麗村(飯能)の岩井堂にあったものだという説もあるが、鳥居竜蔵氏は浅草寺が鎮護国家のためとした国分寺などとちがい、民間信仰からおこったものであることに注目してこうのべている。
縁起にある所謂(いわゆる)檜前の事や、将門(まさかど)と同寺の関係伝説は、どこまで真実であるか判然としないが、遡(さかのぼ)って観(み)ると、檜前は帯方の漢人が高句麗に征服され瓦解(がかい)して、其或(そのある)部分が日本に帰化して畿内に来たもので、坂上田村麻呂の如き同一族である。漢人は古くから関東に移住して居ったが、本国に居った時も又日本に移住後も、仏教を信仰して、小さい持仏を持っていたが、かかる小仏体が帰化人によって祀られたのが此の寺の基で、それが膨張して今日の浅草寺を成したのではあるまいか。浅草の檜前の子孫が遺(のこ)っていて、寺の祭の時には出ることになっていて、一方には僧が住持し、他方には檜前が斎当となったのである。善光寺の如きも此斎当が設けられてあって、これらが国分寺とは大いに異なった性質のものであることが判る。(『武蔵野及其周囲』)
いまいったように、百済にあった「帯方の漢人が高句麗に征服され瓦解して」というのには大いに問題があるが、要するに、この浅草寺はひじょうに古く、朝鮮渡来氏族の持仏であったその仏像によってはじめられたものであることに、まちがいはないということである。寺院はさきの戦争の災禍にあって焼けたが、そのときに地下からは布目瓦が出たり、また再建のときには本堂の下から奈良時代の仏具が出たりしている。
一寸八分といわれる浅草観音の仏像は、秘仏ということでだれでも見るというわけにはゆかないが、これは信濃(しなの)(長野県)の善光寺にあるのとおなじもので、善光寺もやはり一寸八分の朝鮮渡来仏が本尊となっている。さきにふれた大里郡の百済木から発見されたという、金銅の百済仏はどういうものであるのかわからないが、ここで思いだすのは、大和の川原寺に安置されたのが七寸の朝鮮仏、それからまた、これもさきにふれたことのある八王子の真覚寺に伝えられたもの、飛鳥時代の作といわれる金銅仏のそれも七寸であったということである。
一寸八分と七寸、これはなにか当時の仏像の規格の一つでもあったかと思うが、いずれもこれらは、個人のいわゆる持仏であったのにちがいない。私は、あるところでは百済仏といい、またあるところでは新羅仏であるというそれらの朝鮮仏を、越前(えちぜん)(福井県)でもみたことがあるし、さきごろは近江(おうみ)(滋賀県)でもみて来ている。
民間信仰の霊所
それらはほかにもまだたくさんあったはずで、渡来のかれらは鳥居竜蔵氏のいうように、「本国に居った時も又日本に移住後」もそれを大切にして信仰していたのであろうが、それにも運命といったようなものがあったかと思われる。あるものはそれが基となって、さまざまな伝説とともに、今日のような大をなした浅草寺や善光寺となり、なかのあるものは、それを信仰した人とともに、そのまま土中のものとなってしまったのである。
そうして栄えたものの一つである浅草寺のことについては、野田宇太郎氏の「浅草観音」をここに紹介しなくてはならない。野田氏もこのなかで、鳥居竜蔵氏などの文章ほかを引きながらいろいろと考えをすすめ、「江戸の華(はな)として歴史に誇る下町文化は、小さな(一寸八分の)仏像をもたらした帰化人によって仏教の民間信仰が盛んになった浅草文化に根差している」として、さいごに、詩人らしい想像力を馳(は)せてこう書いている。
朝鮮からの帰化人の子孫であった檜前(ひのくま)は、武蔵野のはて、太平洋に面した大きな河口附近に放牧に適する原野をみつけ、大和高市の里を出て祖先伝来の馬牧(まき)をはじめることになった。その浅草は全くの楽園のようなところで、やろうと思えばいつでも海のすなどりさえ出来た。この檜前が大和から大切にして武蔵に持参したのは一体の小さな朝鮮渡来の仏像であったが、ようやく武蔵野のほとりにも帰化人の住民も多くなると共に仏教が民間信仰としてひろまり、個人的信仰として檜前の家の内に祀る仏像を一目おがみたいという者が多くなった。その結果檜前は馬牧の傍らにささやかながら仏堂を造って、人々の信仰を許さねばならなかったが、浜成も武成も世を去ったあと、浅草海浜の馬牧と共に、観音菩薩の信仰はいよいよひろまり、檜前の家系はやがて馬牧よりも、寺をまもることを正業とするようになった。……
わたくしの浅草の巷塵(こうじん)の中でいつも心に描くイリュージョンの筋書きを簡単に示すと、以上のようなことになる。浅草寺境内には檜前浜成と武成及び土師臣中知(土師真中知(はじのまなかち)とも呼ぶ)の三人の霊を祀るいわゆる三社が浅草神社としてのこっているが、わたくしは社前に佇(た)つとき、そこは江戸名物の三社祭りの本場というよりも、幻想の霧にとざされた大陸文化の霊所だと思って、頭をさげるならわしである。
隅田川のほとりを白鬚神社へ
浅草観音の本堂を右に出ると、その三社・浅草神社だったが、私はそこからまた歩いて、白鬚(しらひげ)橋のほうへ向かった。久しぶりに隅田川などながめながら歩いたせいか、そこまではかなりの距離だった。
やがて気がついてみると、友人の水野明善がそこに住んでいたころよく来たことのある橋場だった。そして、何とこれもまたおどろきだったが、白鬚橋というのは、その橋場のすぐ裏手にあたっていたのである。
私は白鬚橋を渡り、そこからさらにまた、向島の白鬚神社へ向かって歩いた。白鬚神社。――これについては、さきにみた東京都史蹟調査課の稲村坦元・豊島寛彰氏による『東京の史蹟と文化財』にこうある。
白鬚神社 墨田区寺島一丁目 社伝に天暦五年(九五一)に近江国滋賀郡打下から勧請(かんじよう)祭祀したといわれ、近江の本社は比良明神(ひらみようじん)と称して、祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)であるが、元来は海を渡ってきた朝鮮の神で、武蔵にも上代朝鮮帰化人が来住したので、それらによって祭られたものと思われる。
五 武蔵を後に下野へ
東上線に乗って
おお、武蔵野よ!
朝のラッシュに揉(も)まれながら、私は池袋駅で東武鉄道の東上線に乗り換えた。東京都内とは逆方向だったので、車内はわりにすいていた。やっとほっとしたわけだったが、私としてはあまり乗ったことのない線だったからか、よく晴れわたっている窓外の景色も、ちょっと珍しいもののように思われた。
が、それはちょっとそう思われたまでのことで、これまでに歩いて来た京王線沿線などの景色と、別に異なったところがあるというわけではなかった。武蔵野特有の櫟(くぬぎ)や赤松の生えている丘があり、田畑があったが、しかしそれらはどれも切り崩され、埋め立てられて、宅地となりつつあった。ところによっては、いつの間にそんなに建ったのかと思われるような、赤や青など、けばけばしい色だらけの住宅街がつづいたりしている。
「おお、武蔵野よ!」といいたいような、そんな光景だった。電車は成増(なります)をすぎると、埼玉県となるが、そこの志木駅で、私は同行の阿部桂司君と待ち合わせることになっていた。
ある偶然のことから、きょうは志木を中心に、そのあたりを歩いてみようということになっていたのである。ある偶然というのは、次にのべる、こういうことだった。
だいたい私は、あとにまだ秩父地方をのこしていたが、武蔵(東京都・埼玉県)はもうこのくらいにしておきたいと思っていた。そして早く周辺の上野(こうずけ)(群馬県)、下野(しもつけ)(栃木県)などをまわってみたいと考えていたのだった。
そうでもしないことには、まずだいいち、武蔵だけでもきりがなかったからである。たとえば、いま私がそこを電車で通過している板橋区にしても、その区に住んでいる阿部君がどこかから見つけてきてくれた黒部渓三氏の『板橋ものがたり』によってみると、「朝鮮語の影響による地名をたどれば、日本における朝鮮帰化人の分布地帯がはっきりするかもしれない」として、区内にある徳丸(とくまる)、茂呂(もろ)などの地名をあげている。このように東上線のそれだけをとってみても、もと新羅(しらぎ)郡の中心だったところといわれている志木はもとより、坂戸あたりまで行けば、高麗郷の高麗氏族からわかれ出た、勝呂(すぐろ)氏族の勝呂郷があるということも私は知っていた。
それからまた、坂戸からはおなじ東武鉄道の越生(おごせ)線がわかれ出ているが、そこにも朝鮮語に由来する東毛呂、武州唐(から)(元は韓(から)であったろう)沢(さわ)といったところがあり、その終点の越生からして、須田重信氏の『関東の史蹟と民族』によれば、これはもと越辺(おつぺ)、すなわち朝鮮語のオッペ(布地)からきたものであった。かつては絹の産地として有名だったところで、古くからそんな地名ができていたといわれる。
そしてさらに、須田重信氏はつけ加えてこう書いている。「私はオッペ川辺に立って四辺の山山を見た時にフト南鮮の風景を連想した。飛鳥文化が華を咲かせた地に臨んだ時もそうであった」と。
東京の秘境・檜原村
東上線にもどって、坂戸からしばらく行くと東松山、武蔵嵐山(らんざん)となるが、そのあいだに唐子というところがあって、河田〓氏の『武蔵野の歴史』にこう書かれている。
唐子という地名は七世紀に遡(さかのぼ)る帰化人の末に関係があり、朝鮮式の横穴古墳の存在もある。
そしてこの唐子付近には、須恵器(朝鮮式土器)と関係のある須江や今宿というところもあるが、吉見町には新漢(いまきのあや)の高貴を祭ったものといわれる高負比古根(たかふひこね)神社があり、またここには、若いハイカーたちのあいだにも有名なものとなっている古墳群の吉見百穴がある。百穴といわれる横穴の数は二百以上もあって、ここからも直刀(ちよくとう)や装身具の玉類、須恵器などが出ている。
そればかりではない。読者はもうすでに気づいていることと思うが、だいたい私のこの「――旅」というのは、ほとんどすべて、日本の学者たちの研究に拠(よ)っている。その研究の結果書かれたものにしたがって、私はあちこちと歩いてみているわけであるが、武蔵についてのそれだけをみても、まだほかにたくさんある。
たとえば、私はさきに京王線に沿って、東京都の南多摩郡と北多摩郡のあたりを歩いたのであったが、西多摩郡のほうにはまだ全然足を踏み入れていない。ここには有名な大塚古墳や瀬戸岡古墳群があって、飛行機で空からそれを観察した甲野勇氏の『武蔵野を掘る』にこうある。
草花丘陵と秋川渓谷との間に、平らな畑地がひろびろと続く。西秋留(にしあきる)駅の東側、五日市街道ぞいの畑中に大きなツカが一つ、ぽつんと見える。大塚である。おそらく西多摩郡最大の古墳であろう。……
大塚の北、千二、三百メートル、畑地のつきるところに瀬戸岡部落が見える。この西はずれ平井川の段丘の上に、瀬戸岡古墳群がある。ここの古墳は、すべて地下を掘りさげて造った石室の上に石を積み重ね、わずかばかりの土をおおった一種の積石(つみいし)ヅカである。その数は二十ぐらいもあろうか。この古墳は昭和二十五年、後藤〈守一=金〉教授の指導のもとに国立(くにたち)高校、立川高校をはじめ三つの高校の歴史研究部員がそろって発掘調査を行なった。……
後藤教授はいろいろな点を検討して、この古墳群の築造年代を奈良時代、造った人々を朝鮮の帰化人と推定している。このあたりは和名抄にのせられた小川郷、延喜式にある小川牧に相当する。この牧の経営は、牧畜に経験ある帰化人によってなされたものではないだろうか。
西多摩郡といえば、ここに五日市町があるが、須田重信氏の『関東の史蹟と民族』にこんなことがみえる。
狭山の西南方面、多摩川から秋川が分れるあたりを秋留(アキル)と称し、その西方五日市町の松原ケ谷戸には阿伎留(アキル)神社がある。延喜式の古社である。大物主神を祀る。アキルとは朝鮮語で解すれば前の路となる。当時の武蔵府への前の路とも云えるし、陸奥で(ミチノク)即ち路の奥に対して「前の路」なる造語も許される訳である。
いずれもかつては朝鮮渡来人たちがそこを開発し、居住したところのはずであるが、また、この五日市町のとなりに「東京の秘境」といわれる檜原村があって、ここには人里(へんぽり)というむつかしい地名の字(あざ)がある。石神井(しやくじい)などというのはまだしもで、人里として「へんぽり」とは何ともむつかしいことであるが、しかしこれも、宇佐美稔氏の「朝鮮語源の日本地名」によれば、朝鮮語のヘルヨン(血縁)とポリ(里)から来たものではないかといわれている。
“風土記の丘”
ひるがえってまた埼玉県にもどってみれば、もと賀美郡だった児玉郡にはいわゆる今城(いまき)三社がある。長幡の今城青八坂稲実神社,今城青坂稲実荒御魂神社、神保原の今城青坂稲実池上神社と、いずれも長ったらしい名の、農耕に関係あるものらしいのがそれであるが、これについては韮塚(にらづか)一三郎氏の『武蔵野における朝鮮文化』にこうのべられている。
今城は今来を意味し、新たに移住して来た人々をさすので、当時武蔵野北部や上野(群馬県)方面には朝鮮人の移住が多くあったから、これらの神々は朝鮮人によってまつられた神社でありましょう。このことは白鬚神社が、最も縁の深い旧高麗郡を中心としてまつられているほか、遥(はる)かとびはなれた旧児玉、榛沢(はるざわ)(大里郡)、男衾(おぶすま)(大里郡)の各郡に存在することでもこれが肯定できましょう。
なおまた大里郡といえば、「武蔵野国内で集団移住をみたのは、幡羅(はら)郡・高麗郡・新羅郡などがあり」とさきにみた『調布市百年史』にあったその幡羅郡のあったところでもある。朝鮮語の国ということであるナラ、その奈良神社のあるここには上秦(かみはた)、下秦、幡羅という各郷があって、これらはまたどれも、山城(京都市)を本拠として相模(神奈川県)の秦野などにもひろがったものとおなじ、秦氏族の居住したところだったのである。
それからまた埼玉県となると、武蔵国造の反乱ということで有名な、笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)一族の墳墓といわれる埼玉(さきたま)古墳群がある。後期の六世紀に比定されているもので、このうちの稲荷(いなり)山古墳からは、朝鮮渡来氏族のそれによくみられる鈴杏葉(すずぎようよう)などの馬具が出土している。
いまその古墳群のあるところには「風土記の丘」というのがつくられ、それらからの出土品によってできた県立の「さきたま資料館」があるが、本釆なら、私はここへも行ってみなくてはならない。――と、まあ、ざっとみただけでもこういうしだいで、武蔵だけでも、それはほんとうにきりがないのである。
それだったから、私はこれらのところは、たとえば東上線の志木などはさきにもちょっとふれているので、それだけで打ち切りにしようと考えていたのだった。ところが、そこへ先日、『思想の科学』誌に連載しはじめたこの紀行を読んだということで、埼玉県の浦和市に住む角田成雄氏から部厚い封筒が送られて来た。
封筒の中身は、写真などもふくむ資料だったが、それに手紙がそえられてこうある。
武蔵の国新座(もと新羅)郡についてはとくに知りませんが、わたくしの推測では板橋、練馬から秩父に至る荒川沿岸、とくにその山寄り、沢寄りの地はこれみな、比較的遅れて入植した朝鮮系氏族の土地ではなかったかと思います。そしてどうやら、源氏と平氏の戦いで、勇猛と名誉を重んじた武蔵武士の発生地が、これと重なっているようです。
新座郡とか高麗郡は、入植の歴史が新しいので、地名とか故事が残っているのでしょう。わたしは大宮市在の荒川沿いの村を少し歩いて見て思ったのですが、そこはわたしの想像以上に多勢の渡来、入植が行われたのではなかったかと考えられます。大宮市には秦市長がいますが、この人も全然無縁ではないでしょう。
ともあれ、地名の点では旧新座二町一市(足立町、新座町、朝霞市)はもっともよく旧歴が保存されているといえます。志木郷など、ぜひ訪れますようおすすめします。とても素朴で、うまいうどんを食わせてくれる家があります。
そしてさらにまた、そこへ行ったらみるべきところとして、次のような箇所がしるされている。△新河岸川引又河岸跡(荒川との合流点) △足立町市場通り裏の敷島(しきしま)神社(王塚古墳跡)  △白子の郷(朝霞市) △野火止塚(平林寺内)
このように具体的で、ていねいな手紙だった。もちろん、私としては未知の人だったので、ともかく私は、その人に一度会ってみたいと思った。会ってもっとくわしくいろいろ聞きたいと思ったので、さっそく私はその旨の手紙を出した。
小さな飲み屋で
やがて折り返し連絡があり、私は行きつけの新宿のある小さな飲み屋さんで角田成雄氏と会った。かなりの年寄りだと思っていたのに、角田さんは意外なほど若い人だった。酒は一滴も飲めないそうで、角田さんはふつうの茶をとり、私はビールを飲みながらのはなしとなったが、角田さんはある住宅建設会社のPR紙の編集をアルバイトにしながらそういう研究をしている街の学者、といったところらしかった。
角田さんの話したところによると、旧新座郡(もと新羅郡)地区、すなわち新座町、足立町、大和町、朝霞市の人々はいまでも同郷意識と愛郷心とが強く、そのうえ誇り高いものがあって、遺跡や文化財などもなかなかよく保存されているとのことだった。いまなお、武蔵野のかたちをもっともよくのこしているところとしては、そこしかないといわれる平林寺がよく保存されているのも、そんなことからかもしれなかったが、
「しかし、平林寺にある野火止(のびどめ)というのは」と、私は言った。「あれは江戸時代に、松平信綱によってつくられたものだそうですね」
「いや、それは野火止用水のことで、問題は塚です。あそこにある野火止塚は古いもので、あれはお国の朝鮮の火田、つまり、かつての武蔵野の焼き畑のそれと関係があったものだと、わたしは思っています」
角田さんは、すぐ反論して言った。「なるほど」と、私は思わないわけにはゆかなかった。
「高麗人によっては特に野火によって火田を作ること、即ち焼き畑が盛んに行われた」とは須田重信氏の『関東の史蹟と民族』にもある。そしてサシといったその焼き畑と野火止というのは、斎藤鶴磯氏の『武蔵野話』をみるとこういうものだったのである。
按(あん)ずるに野火止の名はむかし火田というて原野に火をつけ草を焼(やい)てこやしとなしその所へ蕎麦(そ ば)などの種をおろして 稼 (うえつけ) 収 (とりおさめ)する事にて、是(これ)を焼畑という。今に秩父、信州(しなの)などにてやきかり蕎麦といえる是なり。其原中の燃る火の人家(ひとや)へ及ぼさぬ為に、塚堤など築(きずき)て野火を止るゆえに野火止の名あるなり。
むさしのは月の入るべき峯もなし 尾花が末にかかるしらくも
(大納言通方)
露おかぬかたもありけり夕立の そらよりひろきむさしののはら
(太田道灌)
などとうたわれた武蔵野では、そのような焼き畑(火田)がさかんだったのである。野火止塚というのは、一方ではまた、そのために焼け死んだ動物などをとむらったものだったのかもしれない。
「しかし」と、私はうなずきながら、角田さんに向かって言った。「武蔵野だけでもそんなにしてみて行くとなるときりがないものですから、ここはもうおしまいにしようと思っているのですよ。だいいち、ぼくは、自分の専門でもないものにあまり深入りするのも、どうかと思いますしね」
「いや、そんなことはありません」と、角田さんはすぐまた返してきた。「どうせはじめたからには、できるだけくわしく、深くやってください。なにしろ、その仕事は、ウソばかり書かれている日本の古代史を書きかえることなのですから……」
「いや、いや、とんでもない」とこんどは、私があわてたようにあたりを見まわしながら手を振った。「そんな大それたこと、ぼくはそんなことなどできるとは少しも思っておりませんよ」
私たちがそう話していた新宿の小さなその飲み屋さんは、歴史家たちもよくやってくるところだった。いまの角田さんのことばをそんな歴史家たちが聞いたら、びっくりしてしまうにちがいなかった。
しかし、どっちにしろ、角田さんのそのことばは、私にたいする激励であった。私は未知だったこの人の激励にこたえるためにも、一度は志木のあたりを歩いてみなくてはならないと思ったのだった。
志木・朝霞・大和
町名にまつわる歴史
はじめてだった志木駅で電車をおり、南口へ出てみると、すでに阿部桂司君はさきに来て待っていた。念のためにことわっておかなくてはならないが、私はわりに時間はよくまもるほうで、遅れたというわけではなかった。その東上線沿線に住んでいる阿部君が二十分ほども早く来すぎていたのである。
私は阿部君といっしょになり、早春の風がまだちょっと肌に寒いあたりを見まわした。どこにでもみられるそんな駅前と別に変わるところはなかったが、南口のこちらは新座町となっているところだった。
私は角田成雄氏の送ってくれた資料の一つによって知ったのだったが、新羅、志羅木または志楽木からそれとなったものといわれる志木というのは、一つの行政単位としてそういう町村があるのではなくて、いまはただ漠然と、その辺一帯を志木といっているもののようだった。角田さんのくれた町の人たちの文集『市場』にある三上吉之助氏の「志木の町名の移り変りその他について」によれば、それはこういうぐあいである。
西暦紀元前五七年より後九三五年に亘って栄えた新羅文化の移入により、新座郡には志木郷、志楽木郷(今の白子)、新座郷(今の新倉)、余戸(あまりど)(今の野火止、片山)等新羅に影響された地名が多い。
時は流れ世は移り、「志木郷」の名も変遷を経てきたが、八〇〇年前、今の宝蓮寺の東、学校下に引又宿(ひきまじゆく)が置かれて以来引又の名で呼ばれてきた。
明治七年、引又町と館村の合併の際、町名決定の為相当のトラブルがあったが、当時貴族院議員であった根岸武香先生(『武蔵野風土記』の著者)の斡旋(あつせん)により、志楽木の文字をとって「志木町」となった。
これも、太平洋戦争も末期の昭和十九年には「志木」「宗岡」「内間木」「水谷」の一町三ヵ村の合併によって一時「志紀町」と改ったが、七年でわかれてまた「志木町」に戻り、同三十年五月再び「宗岡」と合併して「足立町」と改名して現在に至っている。
しかしながら、大字とはいえ志木の名は駅名にも局名にもその他数多くの昔ながらのイメージを伝えて残り、永い歴史の過去から未来の懸橋(かけはし)となって、いまも此処(ここ)に育つ者の胸に脈々と息吹(いぶ)いている。
一つの町の名にしてもこんな歴史があるのかと思うと、いまさらのようにまた、歴史とは何であるか、というふうなことを考えさせられる。ところで、この足立町は、東上線志木駅をあいだにした北側であり、いまいったように、私と阿部君とが落ち合った南口のそこは新座町となっていた。
大檜が立つ富士塚古墳
さて、そこで、どちらから歩きだしたらいいかちょっと迷っていた私は、ふと気がついてみると、駅前にごたごたとならんでいた看板のあいだに、角田さんの関係している建設会社のそれがあった。電話も出ている。
このまえ聞いた駅近くにあるという富士塚古墳というのはどこか、まずそれからと思って、私は角田さんの会社に電話をしてみた。すると、角田さんは支社か出張所となっているそこにはおらず、東京の本社にいるだろうということで、そこの電話を教えてくれた。
私としてはどうしても角田さんにその古墳を教えてもらわなくてはならないということもなかったが、いきおいというもので、つづけて東京の本社へ電話をしてみたところ、ちょうど角田さんはいて、それなら自分が志木まで行くと言う。そして自分で案内するというのだったが、そう願えれば、私たちとして、それに越したことはなかった。
角田さんがそこへくるまでには小一時間ほどかかるとのことだったから、私と阿部君とは、そのあいだに北側の足立町へ行ってみることにした。東上線の踏切を越して、通行の人に訊(き)くと、足立町役場はちょっとさきの近くにあった。
私たちは例によって、役場では教育委員会を訪ね、なかなか立派なのができている『足立町の文化財』第一集を手に入れた。そしてそれらの文化財のことや、町の歴史にくわしい人がいたら紹介してくれないかとたのんだところ、係の人は建物の階上へ私たちをつれて行って、公民館係の金子孝氏に引き合わせてくれた。
金子さんは七十歳はすぎている、いわゆる古老といった感じの人だったが、のっけから、自分は高麗郡から来た金子だと言った。
「そうすると、あそこの高麗氏の支族ということになるのでしょうか」
私はさきに京王線沿線のつつじケ丘で、その金子氏の支族と思われるものの遺跡をみたばかりだったから、ちょっとどぎまぎした。
「そうだということですが、けれども、ここにはその高麗ばかりでなく、新羅も来ていれば、百済の人も来ているようです。このさきの大里には、百済木というところがあります」
以前は学校の教師でもあったらしかった金子さんもまた、そこの「百済木」のことをあげた。よく出る地名で、私としてもどうも気になるところだった。
時間が来ていたので、私と阿部君とは金子さんとわかれ、志木駅の南口へ戻った。まもなく角田さんが到着し、私たちは三人いっしょになって歩きだしたが、富士塚古墳というのは、何と駅前のすぐそこにあった。
駅前のそこは町といっても底が浅く、路地を入るともう畑が見えた。その畑のこちら手前の道路脇に盛り土があって、うえには樹齢数百年かと思われる大檜が立っていた。一見して古墳であることはすぐにわかったが、そこにはこれといった説明板もなにもなかった。
「だれの、どういうものの墳墓だったのかはわかりませんが、これももうすぐになくなってしまうにちがいありませんよ」と、そのような古墳をもつぶしてしまう住宅建設会社と関係のある角田さんは、古墳のうえにどっかりと根をおろしている大檜を見上げて言った。「一つは、わたしがあなたに手紙を書いたのもそのためでした。いずれもう、こういったものはみんななくなってしまうにちがいないと思いますので、せめてそれを記録にでもとどめておいて欲しかったのですよ」
「わかります。ぼくもこういうものがすっかりなくなってしまうのは、やりきれないような気がします。けれども、ぼくのほうはいわゆる朝鮮文化遺跡、朝鮮と関係のあるそれで……」
「もちろん、関係がありますよ。これにしても、どういうものだったかは知りませんが、この志木、新羅郡を開いた朝鮮渡来豪族の墳墓だったにちがいなかったはずです。だいたい関東といわず、いま日本にある古墳というものはほとんどみなすべて、朝鮮から来た豪族たちのそれだったとわたしは思っています」
「そうかもしれません。そうかもしれないですが、しかし、はなしをそこまでひろげると、それこそきりがないですからね」
“志木の富士山”王塚古墳
角田さんは、先日会ったとき、「日本古代史の書きかえ」ということをいったのを私は思いだしながら言った。そんなことは私にできるはずもなかったし、また、そんなつもりも私にはなかった。
しかしながら、妙なことに、「日本古代史の書きかえ」うんぬんということは、さきにもどこかで聞いたことがあったような気がして思いだしたが、それはいつか山城の京都から府下の丹後路(たんごじ)を歩いたときのことだった。天(あま)の橋立(はしだて)のある宮津(みやづ)市からちょっと離れたところに住んでいる太田典礼氏に私は会ったが、その太田氏もおなじことを言っていたものである。
角田さんを先頭にした私たちは、「ああ、これが関東ローム層だな」と阿部君が思わずもらした。凍ってとけた黒いどろどろの畑道を踏んで、また、足立町のほうへ入って行った。私や阿部君も相当な早足だと思っていたが、角田さんはこれまた、それに輪をかけたような早足だった。
途中、館というところにあった由緒ありげな地蔵菩薩などみて、新河岸川のほとりに出たが、そこが「志木文明の発祥の地である」といわれる市場だった。市場というのはマーケットということではなくて、そこの町名だった。新河岸川から向こうは低地となっているので、そこから吹き上げてくる風が相当に冷たい。
角田さんはその市場についてもいろいろと説明しながら、なおずんずん歩いて、裏側の路地へ入って行った。と、そこが敷島(しきしま)神社で、左手に富士のようなかたちをした小山が見えたが、それが王塚古墳といわれているものだとのことだった。ところどころに石碑などがはめ込まれ、なかなかにぎやかな姿となっている。
「どうです、登ってみませんか」と角田さんは言うので、私も阿部君につづいて頂上まで登ってみた。目の下に新河岸川が横たわり、その平地のはるか向こうは荒川土手にさえぎられているとのことだったが、強い冷たい風が下から吹き上げてくるので、そう長く登ったままでいることはできなかった。
「どうでした。いい見晴らしだったでしょう。この古墳について、あなたはどう思いますか」
と、私がそこからおりてくると、角田さんは待ちかまえていたようにして言った。「この辺の人たちは、これを富士山信仰と結びつけて志木の富士山ともいっている古墳ですが、わたしはそれだけではないとみています」
「と言いますと、どういうことですか」
私は、角田さんといっしょに歩きだしながら訊いた。ならんで歩いている阿部君も、耳をすましている。
「あれはたしかに古墳にちがいないと思いますが、しかしそれ以前は、あそこは古代朝鮮式の山城ではなかったかと、わたしは思っています。あそこから眼下にずっと低地がひろがっている荒川土手までの見晴らしといい、どうもわたしはそうではなかったかと思うのです」
「そうですね。この志木が、かつての新羅郡の中心だったとしたら、そういうことも考えられるでしょう」
「だいたい、その志木ということからして、これは新羅の訛(なま)ったもの、または志羅木のつまったものといわれていますが、わたしはそうではないと思っているのですよ」
「ほう。すると、それは……」
「それは新羅の斯盧(しろ)族の城の斯城(シキ)、日本でいう磯の城の磯城(しき)、つまり、古代朝鮮のそれから来たものではなかったかと、わたしは思っています」
「なるほど。もしかすると、そうかもしれませんね」
角田さんの意見は、別に突飛(とつぴ)なものというわけではなかった。それと似た説は、須田重信氏の『関東の史蹟と民族』にもあって、そこではこうのべられていた。
上州の金鑚神社、大和の大三輪神社、そして信州の諏訪神社には本殿の建物がなく、こんもりと茂った山が御神体である。この三つは磯城の神籬(ひもろぎ)である。磯城とは城郭様の敷地を云う。神籬とは磯城に立て廻(めぐ)らされた森林(厳密には榊(さかき))を云う。埼玉県志木の町名は森の意であろう。ヒモロギのヒは日、ギは木或は城、そしてモロは森と解されるが、モロには塚の意もある。モリは朝鮮語で頭を意味し、邦語ツモリも同じである。
しかしながら、内心では私はちょっとおどろかないではいられなかった。角田さんはいったいどういう経歴を持った人なのか、またどうしてそんなことに興味を持っているのかも、私にはまだよくわからなかったが、おもしろい人にめぐりあったものだと思う。
私たちは、そんなことを話しながら志木駅のほうへ向かって歩いた。やがて小さな食堂が見つかったので、そこでおそくなった昼食をすますことにした。
大海の中の小島のような浜崎古墳群
「それじゃこんどは、浜崎古墳群をみに行くことにしましょうか」
食堂を出ると、角田成雄氏は言った。外は強い風が吹いていて、道路のほこりを巻き上げていた。
「この風はどこから、――秩父おろしというのか、それとも赤城おろしなのかね」
私は頭をさげて正面からの風をさけながら、横を歩いていた阿部桂司君に訊いた。
「そうですね」と、阿部君はちょっとあたりを見まわすようにした。「それの合併したものじゃないでしょうか」
「合併したものね。なるほど――」
私はさっきから「なるほど」とばかり言っているようだったが、ちょうどそこへ、空いたタクシーがとおりかかったので、私たちはそれに乗って浜崎まで行った。黒目川という、川の流れている近くだった。
角田さんもそこまで来たのははじめてだったらしく、そこらの農家へ入っては訊いたりした。黒目川を右にしながら、一つの段丘をまわって出ると、そこからはまたゆるやかな段丘が目の前をふさぐようにしてつづき、舗装された下の道路に面して民家がつらなっていた。
手前に一軒、袖長屋を持った朝鮮ふうの大門(デエムン)構えの家があったので、私は正面の畑へまわってそれをカメラにおさめた。と、それだったからかどうか、角田さんは開いていた門から、つかつかとその家のなかへ入って行った。
古墳のあるところを訊くのかと思ったが、チャンスだったので、私と阿部君もつづいてなかへ入った。一見しただけでも相当な旧家で、角田さんは母屋の土間に立ち、これまたいかにもその旧家にふさわしいといったおかみさんを相手に話していたが、そこは須田幸雄氏という人の家だった。天井の、くねったままの大木を使った梁(はり)組みといい、朝鮮のそれとまったくおなじ様式だった。
「いいお家ですね」
そんな梁や、黒光りのする大きな柱などを見まわしながら言うと、
「いえね、それですが、この家は寒くてしようがないんですよ。それでもうこわそうかと思っているのですけれども、文化財に指定されているものですから、なかなかそうもゆかなくなって、困っているんです」と、おかみさんはこたえた。
なるほど、そういうこともあるのかと思ったが、ついでに訊いてみると、浜崎古墳群はその須田家のすぐ裏だとのことだった。外へ出ることもなく、私たちはなかからおかみさんに案内されて裏口へ出た。そこは、斜面の畑となっていた。
そして強い風の吹きわたっている畑のなかに一基、二基と古墳らしいものが見えたが、だんだんと畑に耕し込まれ、削りとられて、それはまるで、大海のなかの小島のようなぐあいとなっていた。しかも、その向こうには新道ができたらしく、白いガードレールのとおっているのが見えている。
何とも、仕方のない光景ではあった。なるほど角田さんのいうように、それらの古墳ももうすぐ、跡形もなくなってしまうにちがいなかった。
一夜塚古墳と柊塚古墳
そこの古墳からの出土品をみたいということで、近くの小学校まで行ってみたが、結局わからず、私たちはそこからこんどはバスで志木駅へ戻り、電車で朝霞(あさか)へ向かった。朝霞といえばアメリカ軍の基地があるので、不快なイメージがまずさきに立ったが、しかし、そこもまたかつては新羅郡の一部だったのである。
強い風は、どうやらないで来たようだった。が、もう日暮れ近くなっていたので、私たちは急がなくてはならなかった。タクシーで市の教育委員会まで行ったが、「埼玉県文化財写真展」というのが公民館で開かれていて、みんなそちらへ行って留守だとのことだった。
歩いてみると、公民館まではかなりの距離だった。私たちはそこでやっと市教育委員会主事の広野淳氏と会い、ついでに開催中の文化財写真展を見せてもらったり、二階に陳列されている古墳からの出土品などをみたりしたが、この朝霞にもそんな古墳はあちこちにあったものらしかった。
一般には品切れとなっていて、そこに陳列用としてあったものを、主事の広野さんにたのんでようやく借りることのできた『朝霞の文化財』第一集によってみると、それはこういうふうになっている。
▲一夜塚古墳
昭和十八年、朝霞第二小学校の校舎を建てるためこの塚の土を埋立に使ったので、いまは見ることはできません。……
この塚は高さ約六メートル、径三十メートルもあり、この辺で最大のものです。六世紀前半(仁徳天皇の頃)につくられたもので、竪穴式。玄室の内部主体は、木炭槨(かく)でできているりっぱなもので、この出土品は直刀、金銅の馬具(五世紀以後朝鮮をとおりつたわる)、挂甲、鏡(青銅)などもあり、そのほか人物埴輪(はにわ)、曲玉(まがたま)、土器(和泉式)などで、現在その一部は朝霞町公民館に保存されています。……
▲柊(ひいらぎ)塚古墳
この塚は一夜塚の近くにあり、長径五十五メートル、後円部径四十五メートル、高さ七メートルの大きな前方後円墳です。片山や志木にはこのような大きな古墳はみられないので、この地はこのあたりの部族の中心地になっていました。……
なお、柊塚を中心にして、もとは七個ばかりの小円墳や方墳がありましたが、最近は住宅地のためにつぎつぎとくずされました。柊塚は、この地域に現存する唯一の古墳です。
「この辺もあれですな」と、私はそんなふうに、広野さんに向かって言ってみた。「その昔は、朝鮮となかなか縁の深いところだったようですね」
「そうですよ」と広野さんは、こともなげにこたえた。「この辺では名主だったものはみな、帰化人の出ということになっています」
では、名主でなかったものはどういうものだったのかという問題はのこったが、しかし、もう時間がなかった。私たちはそこでタクシーをよんでもらって、大和町へ向かった。
大和町役場で一休み
「気がつきましたか」と、タクシーのなかで角田さんがふいと言った。
「何です」
「さっきのタクシーの運転手さんもそうでしたが、こんどの人も金子さんですよ」
そう言われて運転手の名札をみると、なるほど「金子」なにがしとなっていた。
大和町の町役場へついたときは、もう五時をすぎていた。私たちは、志楽木といわれていた白子まで行ってみる予定だったが、大和町の教育委員会から『大和町のむかし「吹上横穴墳」』などの「郷土資料」をえただけで、そこはあきらめなくてはならなかった。
私たちは、なかなか立派な町役場のロビーでしばらく休ませてもらうことにした。そのあいだ阿部君はなにを思ったのか、そこの公衆電話にそなえつけてあった『埼玉県中央』となっている電話簿をくっていたが、やがて言った。
「朝霞には金子という姓が百あまりで、大宮市では三百余。それからまた大宮には、白子という姓が六十ほどあります」
「何だ、そんなものをみていたのか」と私は笑ったが、つづいて角田さんはこう言った。
「大宮は、歩いてみましたか。武蔵一の宮といわれた氷川神社のあるあそこも、ぜひ行ってみるといいのですがね」
私もそこは、気になってはいた。そこは中島利一郎氏の『日本地名学研究』に、「朝鮮帰化族」は「武蔵国内に於て、勢力二分して、足立郡方面と多摩方面とに相分れ、一は大宮の氷川神社を中心とし」というところだったが、しかし、それもいずれまたの機会ということにするよりほかなかった。
那須国造碑のこと
下野に向かう
前夜は、埼玉県の久喜町に住む小原元のところで一泊することになった。そして翌朝早く、千葉県の柏市に住んでいる水野明善が来て、そのクルマで三人いっしょに一、二泊の予定で出かけようということになっていた。
が、あいにくなことに、小原のほうは緊急にそれとなった大学の教授会に出なくてはならなかったので、同行することができなくなった。そこで小原はひたすら、「雨になるよう祈る」しだいとなった。ところが、翌日はすばらしい快晴だった。その快晴のせいもあってか、水野のほうは小原のかわりに、二歳になる娘のリリちゃんと夫人をともなってやって来た。
うらめしそうにして見送る小原をのこして、私たちはまず、下野(しもつけ)(栃木県)のほうへ向かった。足利(あしかが)の近くにある鶏足寺を訪ねるためだった。
下野となると、ここもまた、行ってみたいところの多いところだった。県庁所在地の宇都宮からして、ここには下野国一の宮の二荒山(ふたらさん)神社がある。祭神はかつての毛野国(けぬのくに)開発の祖ということで、宇都宮大明神ともよばれる豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)であるが、この豊城入彦命とは、いったいなにものであるのか。
崇神帝の子ということになっているが、ほんとうはどうなのか。そこへ行ってみたところでわかるはずもないであろうが、しかし、一つの疑問としておくのはよいだろう。もし崇神帝の子だとして、それならその崇神帝はどこから来たものか、ということも考えられる。
それから、今井啓一氏の『帰化人の研究』によれば、下野の那須町には唐木田や高久というところがあって、「これらももと帰化人の居住による地名であろうか」となっているが、そこまで行かなくとも、東北本線小山(おやま)の手前に間々田(ままだ)というところがある。間々田が朝鮮渡来人と関係あるところとはまったく想像もできないであろうが、これも同『帰化人の研究』によると、かつては真楽(しらぎ)(新羅)郷であったものが真木(まき)郷となり、そして真本(まもと)、間々田となったものではないかという。
それからまた、群馬県との境に標高二千二十四メートルの金精(こんせい)峠というのがある。ここには祭神不明の金精権現とよばれる小祠があるとのことであるが、これも調べてみると、おもしろい結果がえられるかもしれない。
日本三古碑の一つ“那須国造碑”
それより、なにより、この下野の那須には日本三古碑の一つである那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)があった。この碑のほうは、そのときは小原元や西野辰吉などもいっしょで、私と水野とはすでにもうみていたが、私の切抜き帳をみると、朝日新聞の一九六九年四月二十五日付けとなっている、ちょっとユーモラスな記事にこんなのがある。
「この碑もねらわれています」――栃木県那須郡湯津上村の笠石神社神主伊藤国男さん(六六歳)は、このところ心中おだやかでない。この神社の御神体は国宝、那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)。神殿のとびらを開くと、高さ約一・三メートルの御影石(みかげいし)の碑がある。前面には八行、百五十二字の漢文体が刻み込まれている。伊藤さんの心配は、この漢文のなかにある。
碑文には持統三年(六八九年)に国造那須直韋提(あたいいで)が、那須国の郡司(ぐんじ)に任ぜられたことが記されている。国造とは上古の、一国を統治する者の職名で地方官。伊藤さんや村人たちは、昔からこの碑に大きな誇りを感じていた。「おらが村が昔は文化の中心だった」――ところが、この文化中心説をくつがえす一大事が持ち上がった。
というのは、神社から南西に約五キロ離れた隣の小川町梅曽にある梅曽遺跡が、先月二十日に文化庁から『官衙(かんが)遺跡』という名で史跡指定になったからだ。遺跡は四十二年の発掘で、南北二十七メートル、東西九メートルの官衙の正庁と思われる遺構が見つかっている。
官衙というのは大化改新(六四五年)後、これまでの国県制を改め、国郡制を布いた。全国を新しい国に分け、中央から官吏(かんり)がやってきて国衙(こくが)(いまの役所)で政務をとった。国はさらに郡に分けられ、地方豪族が郡司に任命され、郡衙(ぐんが)で仕事をした。
梅曽遺跡に官衙という言葉が使われたのは、遺構が国衙か郡衙かはっきりしなかったためだ。しかし、どちらにしても、町が古代文化の中心地であることは、この指定で明らかになった。しかも町の歴史家たちは「湯津上村の碑もかつては梅曽にあったようだ」と、おだやかでないことを言い出した。
湯津上村の人たちの確信がぐらついた。植竹同村教育長は「国の指定になった以上、一応あちらが中心ということになるでしょうが……」と浮かぬ表情。伊藤神主も「弱り目にたたり目というが、ぼやぼやしていると碑まで小川町から持って来たものになってしまう」と不安そうだ。
水戸光圀(みとみつくに)もこの村に直韋提(あたいいで)が住んでいたのではないかと考え、ナゾに挑戦した。元禄五年(一六九二年)のことである。碑の近くに下侍塚(全長八十メートル)、上侍塚(同百十一メートル)と呼ばれる古墳がある。二基とも国の史跡で、珍しい前方後円墳だ。
光圀はこの古墳は直韋提の墓地と考えて発掘した。中から鏡、鎧(よろい)などの副葬品が出土した。しかし、直韋提の墓かどうかは確めることは出来ず、出土品はまた元に戻して埋めた。村の人たちはこの古墳の中に、村が文化の中心地だったことを立証する重要なカギが、秘められていると期待している。
村側の伊藤神主は「このごろは、やたらに歴史家がふえ、真実を通り越した説を流布(るふ)するので困りますよ」と、防戦一方である。
これがその記事の全文で、引用としては長すぎたかもしれないが、この地方が古代にはどういうところであったかということの、説明をも兼ねたつもりである。
山佳く水清きところ
伊藤神主は、「このごろは、やたらに歴史家がふえ、真実を通り越した説を流布するので困りますよ」と言ったとのことであるが、さしずめ私などは、それの最たるものであるかもしれない。しかも、にわか仕立てでそんなまねをしている私がここを訪れたのは、いまさっきいった小原や西野など、そして水野ともいっしょに、那須のある牧場へ一泊旅行をした翌日のことだった。
こういった私たち友人のあいだでは一番の博覧強記(はくらんきようき)、何でも知っている水野はすでにそれも見ていたが、那須国造碑のある湯津上村は、那珂川の上流に沿ったところにあった。私はその川を見たとき、「山佳(よ)く水清きところ」という朝鮮語を思いだし、「ははあ」と思ったものだった。うえに赤松がすんなりしたかたちで生えている、下侍塚古墳もその川を見おろすところにあった。
私たちは近くにあった笠石神社へ行って宮司に会ったが、宮司は、なるほど朝日新聞の記者がちょっとユーモラスなタッチで書きたくなるような、そんなおじさんといった感じの人だった。名刺をもらったが、こうある。
日本最古の碑
国宝 那須国造(くにのみやつこ)の碑(ひ)
笠石神社
宮司 伊 藤 国 男
そして、伊藤宮司はなかへ引き込んだかとみると、私たちのため装束(しようぞく)に威儀(いぎ)をただして出て来た。まず、大きな絵図面を縁先のそこにかけて説明をはじめた。
那須国造碑文についてであるが、『笠石神社縁起』により、伊藤宮司の読んでくれた仮名まじりのそれをみると、こうなっている。漢字、振りがなや句読点のとり方などにも誤りがあると思われるが、原文のままである。
永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)の大宮那須国造、追大壱那須直韋提(ついだいいちなすのあたへいで)に、評(こおり)の督(かみ)を賜(たま)わる、歳庚子(としかのえね)に次(やど)る、年の正月二壬子(みずのえね)の日、辰(たつ)の節(とき)に弥故(もつこ)す。意斯麻呂(いしまろ)等碑を立て徳を銘(めい)すと称云(しかいう)。
仰(あお)ぎ惟(おもんみ)れば殞(そん)公は広氏の尊胤(そんえん)にして、国家の棟梁(とうりよう)たり。一世の中重ねて貳照せられ一命の期連(しきり)に更甦(さいそ)を見る。骨を砕(くだ)き髄(ずい)を視るとも、豈前恩に報ぜんや。
是(これ)を以て曽子の家には驕子あること无(な)く仲尼の門には罵る者あること无(な)し。孝を行うの子は其の語を改めず、夏に銘す尭の心を、神(しん)を澄(すま)して昭乾す。六月童子意うに香(か)は坤(こん)を助く、徒を作(おこ)す之(こと)大なり。言(こと)を合せて字を喩(さと)す。故に翼无(つばさな)くして長く飛び、根なくして更に固る。
なお、ここにみえる「評(こおり)」というのは、「郡」のことで、当時、朝鮮の新羅ではこの「評」の字を使って「郡」としていた。したがって、これは間違いではない。
貴重な金石文
さて、ところで、問題はこの碑文の解説にある。同『笠石神社縁起』に、「三、祭神の略歴」として、それはこうなっている。
国造(後の郡長に当る)の官職にあって、名を韋提といった。位階は追大壱(天武天皇の朝に定められた四十八階の中で、此の位は今日の正六位に当る)で姓(かばね)(家柄の尊卑をあらわすもので直の姓は多く国造に賜った)は直(あたい)であった。大化の改新により、那須国が郡に改められたので、永昌元年(唐の則天武后の時の年号で、我朝持統天皇の三年に当る)四月、飛鳥浄御原大宮則(すなわ)ち持統天皇より那須郡長に任命された。そうして韋提は文武天皇の四年(約一千三百年前)正月二日に死去された。依って子息の意斯麻呂(おしまろ)が新羅の帰化人(此の碑文の作者)と協力して、此の墓碑を建てた。韋提は豊城入彦尊の子孫で、博愛の心が深く、新羅の帰化人をいたわって、芦野町唐木田村に土着させて、一生安楽に世を送らせた。それで韋提の没後、其の恩顧を受けた帰化人等が此の頌徳碑を立てた。
なおまた、文部省文化庁監修『国宝』第二巻によってみると、これは次のようになっている。
碑文によると韋提は広氏の後胤とみえているが、広氏とは上代の氏族で、『新撰姓氏録』によれば、崇神天皇の皇子豊城入彦命の孫とされ、大化前より下野国那須地方の豪族として、その勢を維持していたらしい。
さてその建碑者は意斯麻呂等であるが、持続天皇元年(六八七年)、同三年、四年、帰化した新羅人を下野国に置く由が『日本書紀』に見えるから、かれらはおそらく那須国造治下に置かれた、しかも文筆に堪能(たんのう)な帰化の人々であったろうかと考えられる。その理由には、則天武后時代に用いられた永昌(六八九〜六九〇)の年号を未だ使用していることが挙げられている。したがって本碑は上代帰化人と国造関係の資料として逸することのできない貴重な金石文である。
まず、私は、宮司の伊藤さんに向かって訊いてみた。というのは、伊藤さんはそれの建碑者が新羅からのいわゆる帰化人であることを、永昌という年号もさることながら、その碑文のなかにみているようであった。
すなわちそのなかの、カッコのなかは文化庁監修『国宝』による原文であるが、
「仰ぎ惟れば殞公は広氏の尊胤にして、国家の棟梁たり。一世の中重ねて貳照せられ一命の期連に更甦を見る。骨を砕き髄を視るとも、豈前恩に報ぜんや(仰惟殞公広氏尊胤、国家棟梁、一世之中重被貳照、一命期連見再甦、砕骨挑髄、豈報前恩)」というところに力点をおいて「一世の中重ねて貳照せられ一命の期連に更(再)甦を見る」というのは、いわゆる「帰化人」たちが朝鮮の新羅からやって来て、再びここに新たな生活を営むことができた(貳照、更甦)ことだというのだった。
したがって、「骨を砕き髄を視るとも(原文は「砕骨挑髄」)、豈前恩に報ぜんや」となり、そしてそれがまた、「三、祭神の略歴」にある、「韋提は豊城入彦尊の子孫で、博愛の心が深く、新羅の帰化人をいたわって」うんぬんともなったもののようだった。
「しかし、宮司さん」と、私は言った。「『一世の中重ねて貳照せられ』うんぬんというのは、殞公・韋提のこと、つまり、そのうえにかかっている『仰ぎ惟れば殞公は広氏の尊胤にして、国家の棟梁たり』につづけてみるべきであって、そこから急に視点を第三者に移してはならないのではないでしょうか」
「――――」
伊藤さんは、そんな質問は予期しなかったものとみえて、びっくりしたように絵図面にある碑文を見て、私たちのほうを見た。
「そうだな。主語はやっぱりそこにかかっているとみなくちゃならんだろうな。これには古代人の思考法ということもあると思うが――」
そこでこんどは、私たちのあいだでがやがやわやわやとなり、西野だったかだれだったかが、伊藤さんに向かって言った。
「そうですね。やっぱり主語はそこにあるわけで、少なくともそれをいっているのは、息子の意斯麻呂を中心としたものでなくてはならないから――」
「いや、いや、これはわたしがいっているのではなくて、偉い学者たちのいっていることで……」
人のよさそうな伊藤さんは、すっかり混乱してしまったようだった。耳なれない「視点」がどうの、「主語」がどうのと言われ、そのうえ「古代人の思考法」まで飛びだして来たのだったからムリもない。
年号の“謎”
私たちは、伊藤さんとのやりとりはそこで打ち切りにした。そして、神社の神体となっていた、六朝風といわれる整然とした配字の「那須国造碑」を見せてもらって帰って来た。
が、しかし、私の疑問はまだのこっている。一般に日本の歴史では、このような碑をものこした朝鮮渡来人たちを、すべていうところの「帰化人」とし、彼らはあたかも羊のごとくただ支配者の意のままになっていたもののように描かれているが、それは那須国造碑のことに関してもおなじである。
たとえば、文部省文化庁監修の『国宝』ではそれが「帰化人」の手でつくられたことの「理由には」として、「永昌(六八九〜六九〇)の年号を未だ使用していることが挙げられている」とある。それにちがいはないであろうが、しかし考えてみれば、これもちょっとおかしいのではないかと思う。なぜ、それが使用されたのかということについては、少しも考えがおよんでいないからである。
那須国造碑文にある「永昌元年」の六八九年といえば、日本でも年号を使いだした「大化の改新」(六四五)からすでに数十年がたっており、韋提が「評督」となった永昌元年は「朱鳥」三年で、彼の亡(な)くなった年の翌七〇一年にはそれが「大宝」となった。そして、有名な大宝律令が制定されている。
「新羅人を下野国に置く由が『日本書紀』に見える」というのは、持統元年条の三月、「丙戌(ひのえいぬのひ)、投化せる新羅人十四人を下毛野国に居らしめ」となっているもののことであろうが、これがもしそれだとしても、これらの新羅人は、新羅からジェット旅客機かなにかでまっすぐそこへ来たわけではない。そこにいたるまでには、日本のなかを揉まれ揉まれて来たはずで、そのあいだに、「しかも文筆に堪能な」かれらが、日本にも年号のあることを知らなかったはずはない。
「飛鳥浄御原大宮(あすかきよみはらのおおみや)」と、東国のような遠いところからみれば、あいまいだったはずのそれははっきりと書いておきながら、その年号だけ知らなかったというのはどうみてもおかしい。それに、だいたい、古代の当時におけるそのような建碑事業は、一年やそこらでできるはずもない。現代なおかつ、まともな文学碑一つ建てるにしても、発起から完成までには数年がかかっている。
とすると、にもかかわらず、これが「永昌」の年号を使っているというのは、いったいどういうわけからであろうか。だいたいそもそも、羊のごとく支配者の意のままになっていたはずのかれら「帰化人」に、その年号のことだけは自分勝手なことができたというのであろうか。それとも、支配者の側にあったものは、どれもこれもみな文盲であったというのであろうか。
文部省文化庁監修『国宝』のいうように、まさに、「したがって本碑は上代帰化人と国造関係の資料として逸することのできない貴重な金石文」であるにはちがいない。そこで私の意見をいわせてもらえば、つまり、那須国造、那須氏族自体いわゆる「帰化人」の朝鮮渡来氏族ではなかったかということである。
ちなみにいえば、朝鮮では新羅ののち高麗(こうらい)時代にできた『三国史記』『三国遺事』にも、中国の年号が用いられている。当時の中国は一つの完結した世界の中心であったから、今日われわれが一九七〇年などと西暦を用いているのと、それはおなじことだったのである。
六 足利・秩父の渡来人
鶏足寺をたずねて
地図上の地名に思いをめぐらせながら
鶏足寺へ向かっていた私たちは国道五〇号線に出て、佐野市へ入った。地図をみると、その後方の近くに大平町があった。一九六九年十一月二十八日付けの朝日新聞「ある町ある日」の特集はこの町をとりあげていて、そこにこういう記事が出ていた。
殊に日光に通ずる旧例幣街道には、時代劇の舞台でみる居酒屋(いざかや)、土蔵造りの商店、旅館など江戸時代の面影を宿し、杉の古木に包まれた大中寺には根なしフジや開かずの雪隠(せっちん)などの七不思議が保存され、英新王や平将門(たいらのまさかど)、榎本城の遺跡、伝説なども古い歴史のたたずまいをタンノウさせてくれるが――この春四月、アッと驚くモウレツな事件が起きた。その名も、七回り鏡塚と呼ばれる古墳を宅地造成したとき、千五百年前の舟形木棺などが現れたのだ。
なかには、人骨や髪をはじめ数々の副葬品……そのなかでも、幻の大刀といわれていた玉纒(たままき)の大刀は、日本では初めての発掘だという。いずれも古代史解明の貴重な資料で、東京の国立博物館で十一月末まで展示中である。ただし、その宅地には、いまだに家が建っていない。
「その宅地には、いまだに家が建っていない」というのも気に入ったことで、東京の博物館に展示されたのをみることのできなかった私は、その大平町へも行ってみたいと思ったが、しかし、時間がゆるさなかった。文化庁作成の『首都圏の主な古墳(群)の分布図』をみると、宇都宮の向こう、鬼怒川(きぬがわ)沿いあたりにも大古墳群があったが、そこまではいっそうムリなことだった。
私たちは佐野市を出はずれたところで、小さな食堂に入り、食事をするにはまだ少し早かったが、昼食をとって一休みした。そのあいだ、そこにあった地元の新聞をみると、栃木県立唐沢(からさわ)山公園にある唐沢山神社の祭りのことが記事となって出ている。
「唐沢山神社――」と、私は思った。その唐沢山の「唐(から)」も、もしかすると元は「韓(から)」からきたものかもしれなかった。しかしそれも、そのまま見すごすことにした。
鶏足寺のある小俣(おまた)は、国鉄両毛線(りようもうせん)足利駅からいくつか行ったさきだった。うかつなことで、私はこれまで足利というのは群馬県だとばかり思っていたのだったが、そこは栃木県だったのである。地図をみるとその足利にも織姫神社などという、朝鮮渡来ということからみると気になるところがあった。が、それも見すごして行くことにした。
あとになって考えてみると、鶏足寺などより、これまで見すごして来たもののうちのどれか一つのほうへ行ってみたほうがよかったのではなかったかとも思うのだが、それはあとの祭りというものだった。とにかくいずれにせよ、那須国造碑のそれといい、この下野(栃木県)にもかつての朝鮮文化遺跡は、いたるところにあるということだった。ただ、いちいち歩いてみていられないだけである。
樹木と白壁にかこまれた寺
私が同行の水野明善にそのことを言って、小俣の鶏足寺を訪ねる気になったのは、今井啓一氏の『帰化人と社寺』にもあるように、私もまたそれが朝鮮・新羅の別称または雅号ともなっていた「鶏林」と関係がありはしないかと思ったからだった。
そのしょうこは、たくさんある。まず、さきの「大磯の高来神社」の項でみた、その高来(高麗)神社の別当となっていたのが鶏足山雲上院高麗寺であったこと、それからまた、これもさきの「高麗郷・高麗神社」の項でみた高麗家の系図にもこの鶏足寺のことが出ている。すなわち、その第二十三代高純の弟禅阿は足利の小俣鶏足寺の政所(まんどころ)となり、このことからさらに禅阿の弟慶弁(顕学坊)がそこにこもって、大般若経(だいはんにやぎよう)と法華経とを書写したとある。そしてその大般若経は、いまも高麗家に伝えられてきている。
なおまた、今井啓一氏によれば、この鶏足寺というのはほかにもあって、播磨(はりま)(兵庫県)の姫路(ひめじ)市にある蜂相山鶏足廃寺は新羅系渡来人の開創といわれ、近江(滋賀県)の伊香郡にはかつて己高(こたかみ)山観音寺というのがあったが、これも別名を鶏足寺といったという。開創者はだれかわからないが、近江は朝鮮渡来人集住地の一つであった。
それからさらにまた、『栃木郷土史』の「安蘇(あそ)郡名考」によると、足利地方をそこにふくむ安蘇郡の安蘇というのは、百済から渡来した阿佐太子の「阿佐(あさ)」からその名が出たといわれる「麻(あさ)」と関係があるとの説もあるようだった。
小俣駅のあたりで人に訊(き)くと、鶏足寺はすぐにわかった。ここも山や丘が切り崩されて宅地造成がおこなわれていたが、五十メートルもあろうかと思われる松並木路を入口とした鶏足寺は、左にきれいな姿の石尊山を見わたす、しずかな山麓(さんろく)にあった。
見るからに相当な古刹(こさつ)で、本堂のほかにいくつも建物があったけれども、どこにも人っ子ひとり見あたらず、私たちはその辺を歩きまわるのも、ちょっと気がねをおぼえるほどだった。樹木と白壁とにかこまれた寺の境内は、それほどしずかだったのである。
三本足のにわとりの高らかなときの声!
やがて私たちは、「民生相談」というそんな看板のかかっている住居のほうへ行って、やっと出てきた住職と会った。服装もふつうのそれだったが、どうみても僧侶とは見えない四十歳内外のまだ若い住職は、何だかめんどくさそうなようすで私たちと対し、
「このまえは大阪から、大学の教授だとかいう人が来ましたがね」と言って、私たちのもとめた『鶏足寺詣(もう)でのしるべ』などのリーフレットをくれた。
「その人は樟蔭(しよういん)女子大教授の、今井啓一氏ではなかったですか」と、私は訊いた。「その教授は、朝鮮からのいわゆる『帰化人』の研究で文学博士になった人です」
「さあ、どうだったか知りませんが、しかしこの寺は、朝鮮のそんな帰化人などとは関係ないですよ。開山のことは、そこに書かれてあるとおりです」
住職は、いまわたしてくれた『鶏足寺詣でのしるべ』を指さし、はね返すようにして言った。今井啓一氏のそのことから、はなしのきっかけをつくろうとした私は、それきりだまってしまった。
なるほど、わたしてくれたリーフレットに書かれている「鶏足寺縁起(歴史と伝説)」によれば、それは次のようになっている。だれが書いたものかは知らないが、文章としてはなかなかよくできたもので、大へんわかりやすかった。
むかし、むかし、山がとつぜん地鳴りをおこしてゆれ動き、異様な音を出しはじめました。ほかの山は静まりかえっているのに、この山だけが鳴りつづけていました。七日目には、急に大きくゆれて、そこから石仏が生まれました。このあたりの人は「鳴山」と呼んで、これをあがめておりました。
それから数百年後、大同四年(八〇九)奈良東大寺の定恵上人がこの石仏を山のふもとに移し、釈迦如来(しやかによらい)をおまつりして「世尊寺一乗坊」というお寺を建てました。それから四十年後の仁寿元年(八五一)比叡(ひえい)山の円仁上人(慈覚大師)によって、この寺の山号は「仏手山」、院号は「金剛王院」と定められ、さらに境域をひろげて、釈迦堂をはじめ八つの寺坊や山王社・蓮池などがつくられてお寺の構えがととのいました。
それから九十年後、天慶(てんぎよう)二年(九三九)平将門が乱をおこして下総国相馬郡に在り、平新皇と自称して朝廷にそむきました。
朱雀(すざく)天皇の命により、下野の押領使(おうりようし)藤原秀郷(ひでさと)は、三千騎をひきいてその討伐に向かいました。将門の軍勢は強く、そのため秀郷は苦戦におちいりました。
このとき世尊寺常裕法印は、秀郷の乞(こ)いをうけ、勅願によって将門調伏の法を修することになりました。
五大尊をまつり、その前に五壇を築き、中央不動明王壇には、土でつくった将門の首を供(そな)え、百人の僧をしたがえて七日間、法印は日に夜をついで修法をつづけました。
満願の日のこと、さすがに疲れはてた法印は、いつのまにか、うとうととしました。
すると、三本足のにわとりが、血にまみれた将門の首をふまえて、高らかにときの声をあげる夢を見ました。
はっとわれにかえって法印が壇上を見ると、土首の三ヵ所に三角に、にわとりの足跡がついています。法印は「調伏は成功した」と、なおも一心に修法をつづけるところへ、こんどは七、八歳の童子がどこからともなくあらわれて、「いま、秀郷が将門を討ち取った」と告げたかと思うと、たちまちその姿を消して見えなくなりました。
お告げのとおり、そのとき将門は討ち取られたのでした。
やがて、秀郷は将門の首級(しゆきゆう)を世尊寺に持ち帰り、戦勝のお礼まいりをしたあと、調伏にもちいた土首をそえて、京都の朝廷に報告しました。
この霊験により、世尊寺は「鶏足寺」と改められ、勅額・宣旨をはじめ、五大明王像・両界まんだら(栃木県指定文化財)などが、朝廷から下賜(かし)されました。
このような「縁起」をそれとして信じるかどうかは別として、これは文章がかなりよくできているだけに、それだけまたずいぶん陰惨(いんさん)な感じがする。そのうえ、宗教というものでありながら、ひどく政治的なのも印象的だった。
白鬚集落をたずねる
「しかし、あれでしょう」と水野明善は、せっかくここまで来て、それだけで引き下がるのはというわけだったらしく、なおもめんどくさそうにしていた住職に向かって言った。「そんな帰化人などとは関係ないといっても、鎌倉時代のはじめには、埼玉県の高麗神社に白鬚明神ともなって祭られている、その高麗家二十三代目のうちの一人がこの寺の政所となっているし、また、もう一人の慶弁というのもここに長いあいだいて、般若経などを書写しているそうじゃないですか」
「そうでしたかね。何だかわたしはよく知りませんが、その白鬚神社というのだったら、向こうのほうにありますよ」
「向こうと言いますと、どこですか」
こんどは、私がかわって訊いた。ここにも白鬚神社があったとは、知らなかったのだった。
「あっち、――いま工事をしているあの山の向こう側です。あそこは、集落も白鬚といっていますよ」
住職としても私たちには早く帰ってもらいたかったらしかったが、私たちもそれを聞くと、「へえ――」と思って、すぐにそこを辞して出た。白鬚神社のある白鬚集落へ行ってみたかったからである。
鶏足寺からは右手となっている山の向こうは、群馬県との境となっている桐生(きりゆう)川が流れていた。そして山の麓(ふもと)と桐生川とのあいだに一本の道路がとおっていて、両側に民家が立ちならんでいたが、そのさきが白鬚集落となっているところだった。
ところが、そこにあるという白鬚神社はどこなのか、なかなか見つからなかった。私と水野とは、しまいにはクルマと水野の家族とをその辺にとめておいて、あっちこっちと歩いてみるが、やはりわからない。人通りもあまりなかったが、どの人をつかまえて訊いても、さっぱり要領をえない。
「さあ、白鬚神社ね。白鬚橋の近くにあったのがそれだったかしれませんが、いまは浅間(せんげん)さまといっしょになっているんじゃなかったかな」
「白鬚橋というのは、どこですか」
それも、はじめて聞くことで、一つの発見だった。しかし、その白鬚橋のところへ行ってみたけれども、桐生川にかかっている古びた橋はたしかにあったが、神社らしいものはどこにも見あたらない。
「よし、じゃこうしよう」と水野は、ちょっと意地になったようにして言いだした。「この辺の古老をさがしだして、会ってみようじゃないか。ここに白鬚神社があったとすると、やはりあの鶏足寺もそれと関係があったんじゃないかと思うよ」
「うむ、まあ、そうかもしれないが――」
しかし、私はその水野を引きとめることはできなかった。どちらかといえばそれは私の仕事であったからというばかりでなしに、博覧強記といわれている水野は、一つのことを調べだしたら、これまた無類の「こり屋」として私たちのあいだに知られていた。
私としては、これからの行程を思うと時間もなかったし、そこが白鬚といっているところであったことを知れば、それでもうよかったのだが、水野の知識欲からするとそうはゆかないもののようだった。
「おやおや、これはえらいことになったぞ」と私は思いながら、水野のあとについて歩くことになった。そのうち彼は、この辺の地方史研究家でもあるらしい大川英三氏のいることを突きとめた。
川っぺりの白鬚さん
桐生川とはまた別に、道路脇には京都の高瀬川を小さくしたようなのが流れていて、大川氏の家はそのほとりにあった。が、あいにくなことに、主人の大川氏は不在だった。出て来た奥さんらしい人に、私たちは訪ねて来た用件を言ったので、「それなら、本家のほうへ行ってみますか」と言われた。本家には、英三氏の兄にあたる繁右衛門氏がいるはずだとのことだった。
さいぜんから気がついていたけれども、山寄りの麓には旧家らしい、かたちのいい家のいくつかが見えていたが、そのうちでももっとも大きいと思われたもの、それがむかしは庄屋だったという大川氏の本家だった。いまは屋敷の一部が保育園か幼稚園になっていて、そのための事務所となっているところもあった。私たちは事務所のそこで、隠居となっているらしい大川繁右衛門氏に会った。
繁右衛門さんは、たしか九十いくつだといったのではなかったかと思うが、いかにも水野の会いたいと言った古老にふさわしかった。耳が不自由らしく補聴器をつけていたが、それでまた、私はえらいことになった。
というのは、水野はもともと中声というのか、あまり大きな声をださないほうだった。それだったから、彼はしきりと繁右衛門さんにいろいろなことを問いかけるのだが、老人にはそれがよく聞こえない。で、私が横から水野の言ったそれを、さらにまた大声で「通訳」しなくてはならないしだいとなったのだった。
いくら何でも、そう大声ばかりだしているわけにはゆかないもので、たちまちのうちに咽喉(の ど)をつぶしてしまった。だが、そんなことから、しぜん老人は私と話すことのほうが多くなった。そのうち老人は私が朝鮮人であることを知ると、どうしたのか急ににこにこしだし、ひどく上機嫌になったようだった。
そして立って行ったかとみると、一つの香炉と一冊の古本とを持って来た。一角獣をあしらった香炉は李朝のもので、古本は、奥田悌氏の『慶州誌』というのだった。奥付けをみると一九一九年に大邱(デエグ)の玉村書店というのが発行したものである。
老人はそれらのものとともに、朝鮮にたいするなにかの思い出があるらしく、なおもにこにこしていたが、
「これはどうか」というふうに、香炉を指さして私を見た。
「朝鮮、李朝時代の、ものですね。とても、立派な、ものです」
私は一語々々かぞえるようにして、大声で言った。何のことはない、はなしを聞こうとしたものが逆に訊かれたりして、大声をだしに行ったようなものだった。
結局、さいごに私たちが老人から聞きえたことといえば、
「ああ、白鬚さんかね。それは、あの下の川っぺりにあったのじゃなかったかな」というものだった。
それだったら、なにもわざわざ耳の不自由な九十歳の老人までわずらわすこともなかったのだが、老人はだいたい、私たちが何でそんなことを知リたいのか、それ自体にたいし、いっこうに関心がないのだった。
私はまた大声でわかれのあいさつをし、水野の分も「通訳」してそこを出た。
だが、水野はそれでもまだあきらめなかった。彼はこんどは、白鬚橋のあたりを片っぱしからあたってみようというので、私もいっしょに歩きまわったが、これまた何のことはなかった。
何軒もの家を訊きまわってやっとわかったのだったが、たしかにかつてはそこに白鬚神社があったけれども、いまは廃社となって、「明神さまもどこへ行ったかわからない」というのだった。わずかにそれだったかと思われる森や石垣の一部がのこっているきりで、白鬚神社だったというそこには、トタン屋根の新しい人家が立ちならんでいた。
白鬚橋のある道路に出て気がついてみると、もう日暮れ近くなっていた。私たちは、あわてたようにして急ぎだした。水野は、その家族をクルマのなかにおいたきりだったのである。
秩父と和銅遺跡
秩父の鉱泉宿
どこをどう走っているのか私にはわからなかったが、水野の運転するクルマは利根川を越え、それからは荒川に沿って、埼玉県の秩父へ入ったときは、もう夜になっていた。私たちは、なにかの都合で先方からことわられることのないかぎり、この夜の泊まり先は和銅鉱泉という旅館にきめていた。
別に、その旅館をまえから知っていたというわけではない。朝、小原元の家を出るときに、秩父では今夜どこへ泊まろうかということで、水野の持って来たその地方の旅館案内をみると、ぱっとまっさきに「和銅鉱泉」というのが目にとび込んできた。
「ああ、これがいい、これがいい」ということで、私たちはすぐにそれときめていたのだった。ほかでもない。秩父では私たちは「和銅遺跡」というのをたずねるのが目的だったから、その名の旅館はちょうどかっこうのものというべきだったのである。
ところで、この旅館で私たち、というより、私はまたもう一つ喜劇のようなことを演じなくてはならなかった。「事実は小説よりも奇なり」ということばがあるが、これもまさにそれに近いものというべきことであった。
私はかねてから秩父の和銅遺跡のことは聞いていたし、また、秩父というところには何となく惹かれるものがあって、いつかは一度行ってみたいものと思っていたのだった。それでこんどいよいよそこをたずねることになったので、以前、学生時代に明治大学の後藤守一氏にしたがって和銅遺跡の発掘にたずさわったというある友人に、その遺跡のことや、それがどこにあるのかということを訊いた。
しかし、この友人は、それほどにも記憶というものはうすれるものかと思われるほど、そのことをほとんどおぼえていなかった。ただ、発掘は、秩父のある町長か村長だった人の家に泊まり込んでおこなったものだったが、その人がすなわち、和銅遺跡顕彰会の会長でもあったという。
和銅遺跡をたずねるということになれば、まずその会長に会ってみなくてはならないのだが、「何でもあの人は、あれから旅館をはじめると言ったか、はじめたかということを聞いたと思うが……」というだけで、それが何という人だったかもまったくおぼえていない。ところはどこかというと、「何でもこう桑畑があって、そこを登った山腹だったが……」と、これもそれしか知らないという。
手がかりは、ただそれだけだった。しかし秩父へ行って、和銅遺跡顕彰会長だったのか、いまもまだその会はあって現職なのかは知らなかったが、とにかく市の教育委員会かどこかで訊けばわかるだろうと私は思っていた。私からそのことを聞いた水野も、そう考えていたもののようだった。
雄大な秩父連峰
私たちはさいわい、和銅鉱泉とはいっても一軒しかなかったその旅館に、宿をとることができた。女中さんがきてひととおりのことがすみ、水野はその女中さんに向かって言った。
「さっき、階下に坐っていたあの年とった人がここの主人ですか。あとで食事がすんだら、ぼくたちちょっと聞きたいことがあるからって、そう言っておいてくれない」
「はい、かしこまりました」と言って女中さんは引きさがったが、私は気がつかなかったけれども、水野はそこへ入ってきたときに目ざとく、その「年とった人」を見ておいたようだった。
そういえば、右手の応接間のようなところにそんな人がいたように私も思ったが、しかし、水野がその人に会いたいと言ったことについては、「また、古老か」と思ったかして、私はほとんど注意をはらわなかった。だが、あとから考えてみると、水野がそう言ったこと、そこまではなかなかよくできたものだった。
しかし、私たちは食事がすむと、疲れてもいたせいか、どちらからもそのことは言いだすことなく、そのまま寝てしまった。
翌日も、快適な天気だった。前夜来たときは暗くてよくわからなかったが、私たちの泊まった和銅鉱泉というのは、かなり高い山を背後にした麓にあって、前方になかなか雄大なたたずまいの秩父連峰が立ちならんでいた。その下方のこちら、平地のあいだには荒川が流れているらしかった。
そこはいわば秩父盆地の入口にあたっていて、秩父鉄道の皆野から一つさきの黒谷駅の近くだった。私たちは急いで荷物をまとめ、旅館を出がけに、和銅遺跡というのはどこか知らないか、と見送ってくれる女中さんに訊いてみた。
「ああ、それだったら」と、女中さんは私たちといっしょに外へ出て、旅館のすぐ裏山を指さして教えてくれた。「この金山がそうなんですよ。そこの農家のあいだの道をちょっと登って行ったところに、それの跡があります」
「なあんだ」と、私と水野明善とは顔を見合わせて、互いに苦笑をしたが、しかし前夜、そこの旅館の主人に会ってはなしを聞きたいと言っていたことは、どちらもすっかり忘れたままだった。だれかの言葉に似せていえば、快適な天気のせいだったかもしれない。
朝の陽をあび和銅遺跡へ
私たちは、荷物をそのなかにしまったクルマを旅館の庭においたまま、まず、なにはともあれ、いま女中さんから教えられた山のそこまで登ってみることにした。クルマをおいてある庭先で、塵芥(じんかい)かなにかを燃やしていた昨夜の旅館の主人を見かけたように思ったが、それでもまだ、私たちは忘れたきりだった。山道とはいっても一キロかそこらだということで、子どものリリちゃんをつれた水野夫人の良子さんもいっしょになり、私たちはゆっくりとその山道をたどっていた。朝の陽(ひ)をまともに受けた山腹のそこらに見える茅葺(かやぶ)き農家の屋根からは、しきりと湯気が立ちのぼっている。
いかにも、山間の朝という感じだった。古びた石垣をもった桑畑のあいだを抜けると、道はやや急坂となったが、その小道には栗や櫟(くぬぎ)の落葉がびっしりと散りしかれていた。しばらく行くと、「和銅旧跡入口(左廻り)」という標識が立っている。
「旧跡」となっているのは、あとで知ったけれども、いわば「遺跡」そのものではなかったからのようだった。それはどちらであったにせよ、その標識は和銅遺跡顕彰会によってたてられたものにちがいないと私は思った。と同時に、私はそこでふいと立ちどまってしまった。
「おや、待てよ」と、思ったのである。
私はそのときになって、以前、学生時代に明治大学の後藤守一氏にしたがって和銅遺跡の発掘にたずさわったという、友人のことばを思いだした。彼はそのとき泊まり込んでいたところや、和銅遺跡顕彰会長の名も忘れていたが、彼の泊まったところというのは、もしかするとあの和銅鉱泉ではなかったか、と私は気がついたのだった。そういえば、その会長という人は、のちに旅館をはじめたことを聞いたと、彼は言っていたではないか。
「おう、おい!」と私はあわてたように、さきに立って歩いていた水野を呼びとめて、そのことを話した。
「ああ、なあんだ。それだったら、ゆうべのうちにあのおやじさんからよく聞いておくんだったのに――」
水野も、その偶然にはあきれたようにして笑った。
私たちは急いで、それからちょっとさきにあった「和銅製錬所跡」という石碑の立っているそこをみて、すぐに山をおりはじめた。なにはさておき、さっき庭先に出ていた、友人の言った和銅遺跡顕彰会長だったかもしれない人と会って、まず、そのはなしを聞かなくてはならなかったからである。
和銅遺跡とはいっても、結局、そこはかつて銅を掘り出したという跡であって、それだけをみることのみが私たちの目的ではなかった。その事実とともに、そこに生きていた人間、――それがどういうものであったかということを、考えてみるのでなくてはならない。
できすぎたはなし
そうだったけれども、じつをいうと、私は古代における秩父のそれや、和銅遺跡についての予備知識といったものは、ほとんどゼロに近かった。ただ一つ、知っていることといえば、七〇八年の慶雲五年、ここ武蔵国の秩父ではじめて銅が発見されたことから、この年ただちに日本の年号は和銅となったということが『続日本紀(しよくにほんぎ)』巻四に出ており、同時に、ここで銅を発見したものは新羅から渡来の金上元(こんじようげん)なるもので、彼はその功績により、無位から「従五位下」とされたことが見えているという、それだけだった。
それだけのことだったら、日本史に著名なことでだれでも知っていることだったが、しかしあとは、現地へ行ってみれば何とかもう少しくわしくわかるだろうというわけだったのである。そんな状態だったから、私たちとしてはまず、その和銅遺跡の顕彰にあたっていたという人に会ってみなくてはならなかった。そこからまただれか、この地方にいる歴史研究家でも紹介してもらえるかもしれない。
だが、私たちはそんな予感もしたので、急いで山をおりたにもかかわらず、旅館の主人はどこかへ出かけてしまったあとだった。ふたたびその旅館の玄関を入るときに表札を見たが、名は町田久氏となっていた。
かわりに出てもらった奥さんに訊くと、後藤守一氏たちが泊まっていたのはやはりそこで、和銅遺跡顕彰会長だったのもその町田氏だった。偶然だったとはいえ、あまりにもはなしができすぎていたのである。
「さっきまで、そこにいたんですがね」と言って、奥さんは外のほうをうかがうようにしたが、町田氏がいまさっきそこの庭先にいたことは、私たちも見て知っていた。
「どこへ行かれたか、わかりませんでしょうか。そういうわけで、ぜひちょっとお会いしたいのですが――」
私と水野とは、かわるがわるに用向きのことを話して、またおなじことを言った。
「ええ、それがね、おじいさんはこのごろはどこへ行っているのか、一度出かけたらいつ帰るかもわからないんですよ」と、奥さんも困ったような顔をしていたが、思いついてこう言った。
「それだったら、秩父高校の亀倉さんにお会いになってみたらどうですか。亀倉さんは市のほうの文化財保護委員をしておられるとかで、家にもお見えになったりして、おじいさんともよくそんなはなしをしているようですよ」
亀倉なんというのか、それはわからないと言う。しかし、秩父高校の亀倉氏ということだったら、そこを訪ねればすぐにわかるはずだった。
秩父暴動への興味
私たちはさっそく、秩父高校へ向かった。有名な甲武信(こぶし)ケ岳(たけ)や武甲山(ぶこうざん)がそこに見える。私はそこに和銅遺跡といったそれがなくても、以前から秩父というところには何となく惹かれるものがあって、一度は来てみたいと思っていたところだった。
何で惹かれるものがあったのかと、それもこのときになって気がついたが、そこはいわゆる「秩父暴動」のおこった本拠地であった。私はその「暴動」のことを描いた友人西野辰吉の代表作である『秩父困民党』を読んだことから、そこに心惹かれるものを持つにいたったもののようだった。
「秩父暴動」はいま新たに再評価がおこなわれることになったらしく、『文芸春秋』の一九七〇年四月号には色川大吉氏によって「不屈の日本人・井上伝蔵」という、それの関係者だったものの一人のことが書かれている。文中にいわゆる「秩父暴動」のことが簡略に紹介されているので、私のこの「――旅」と直接の関係はないが、それをかりて次にしめしておくことにする。
秩父暴動は今から八十六年前に起った民衆蜂起(ほうき)のなかでも最大級のものであった。蜂起参加者は五千人から八千人といわれ、うち有罪の判決を受けた者約四千人、重罪三百人、死刑七人で、総理の田代栄助ら幹部五人はすぐ処刑された。戦死者の数は分らない。世論もかれらを「暴徒」とののしり、事件を「暴動・暴挙」として葬(ほうむ)った。伝蔵の半生を苦しめたのも、そのことであったにちがいない。それでは、これはどうして起ったのか。
東京に近い武蔵秩父郡の山村から、二個大隊一軍団編制の数千の農民軍が忽然(こつぜん)とあらわれ、猟銃、木砲、刀剣、竹槍(やり)などで武装し、「新政厚徳(しんせいこうとく)」の旗をおしたて、大宮郷に殺到し、郡役所を占拠して、「革命軍本部」の看板をかけた。そして、「自由自治元年」の布告を発して「世均(よなら)し」を実行した。つまり、各村にゲリラ隊を派遣して悪質高利貸を襲撃し、さらに東京をめざそうとして、鎮圧にきた憲兵隊や軍隊と交戦、十日後、ついに八ケ岳の山ろくで壊滅した。日本史上まれに見る大事件になったのだ。
これはただの百姓一揆や世直し騒動ではない。また、ただの借金党、困民党の暴動でもなかった。最初から明治国家を相手にすることを覚悟しての蜂起だった。それはかれらが、自由党の革命的な思想を受けいれ(「天下ノ政治ヲ直(ナオ)シ、人民ヲ自由ナラシメント欲シ、諸君ノ為ニ兵ヲ起ス」という)、自分たちの行動こそが正義であり、むしろ国家の側にこそ不義があるという価値の転換に達していたためであろう。
ほとんど同時期に近く、これも「明治国家」日本を相手にすることをそこにふくんだ「斥倭洋倡義」「輔国安民、広済蒼生」の旗を押し立てておこった朝鮮における「東学農民戦争」ほど規模の大きなものではなかったようであるが、人間的活気の横溢(おういつ)したものとしては、おなじであったと思う。
秩父は山もよく野もよかったが、その野に働いている農民の姿は、これもいわばものいわぬ素朴なそれだった。が、しかし、それらのものいわぬ農民も怒るときは怒り、立ち上がるときは必ず立ち上がるものだと思わないわけにはゆかない。
丹党の栄えたところ
私たちはさきに秩父市役所に寄って、教育委員会と観光課とを訪ねた。教育委員会ではだれかに会えるかと思ったが、若い女事務員がいるだけで、きょうはこれから民俗博物館長だった人の葬儀があるので、みんなそこへ出向いて留守だという。
なるほど、そういう人の葬儀であってみれば、そこが空っぽなのもムリなかった。そのかわりというか何というか、観光課では、さすがに観光地としても有名な秩父にふさわしく、いろんな種類のパンフレットやリーフレットなどをどっさりくれた。ついでにつけ加えておかなくてはならないが、秩父市は気前のいいところで、私たちは教育委員会でも、国指定重要民俗資料となっている『秩父祭屋台』とした大部の本をタダでもらっている。
そして私はこの『秩父祭屋台』を開いてみてはじめて知ったのであるが、日本三大祭りの一つともいわれている夜祭りを持つ秩父神社は、これも北斗七星信仰の妙見社であるということだった。そのうちの北辰が中心となっているという北斗七星信仰とはどういうものか、私はまだほとんどなにも知らないが、ただ、周防(すおう)(山口県)にある、百済聖明王の第三子といわれ、大内氏族の祖とされている「琳聖太子の墳墓」を書いた渡辺三男氏の一文に、次のようなことばのあったのをおぼえている。
北斗七星を祀る妙見信仰は、そのむかし、大内氏が朝鮮半島からもたらした習俗と伝えられている。……従って妙見社もまたきわめて古くから存在していたことを知ることができる。……これらのことから、郷土の信仰として日本渡来後も北斗七星を信仰したのであろう大内氏一門の右田氏……。
ということだとすると、これはまたなかなかおもしろいことになるのであるが、それはともかく、この秩父も朝鮮渡来人たちと関係の深いところだった。そのすぐとなりが旧高麗郡だったばかりでなく、ここは古代朝鮮語の「深い谷間」を意味した「丹」――いわゆる武蔵七党のうちの丹党の栄えたところで、いわゆる秩父織なども、それら渡来人たちによって伝えられたものだったのである。
私たちは道を訊き訊きして、やっと秩父高校を訪ねあてた。そしてそこの教諭である亀倉氏に面会を申し入れたところ、何と、その亀倉氏も民俗博物館長だった人の葬儀に行っていて不在だった。
朝から、「ついてない」とはこのことかと思ったが、といって、見も知らない人の葬儀にまで押しかけて行って、面会するというわけにもゆかなかった。私たちは、神社そのものとしては有名な祭りに比してそう大きくもなかった秩父神社をへて、何とはなしに秩父鉄道の秩父駅まで行ってみた。
駅にこれという用があったわけではなかったが、私はそこで思いついて、『埼玉県とその周辺』という地図を買い、ついでにそこで売っていた和銅最中(もなか)というのを一箱買った。水野もいっしょにそれを買ったが、私は旅をしてもこんなみやげ物などはめったに買わないほうだった。しかし和銅最中としたその「和銅」にひかれて、つい買ってしまったのだった。
ところが、つい買ってしまったこの和銅最中なるものが、私にとってはなかなか大切なものだったのである。考えてみると、私たちのこのときの秩父行きは、はじめからしまいまで、偶然にばかりつきまとわれていたように思う。
そのために、私はのちまたもう一度ここをたずねなくてはならなかったのだったが、このときの水野と私とは、それから皆野町へ行った。皆野へはなぜ行ったかといえば、それは私の持っていた朝日新聞の切り抜きによってだった。
秘話の町・皆野
さきにも、栃木県大平町のそれをみたように、朝日新聞はときどき「ある町ある日」という特集をおこなっていたが、一九六九年九月二十六日付けのそれは、「“秘境ムード”の埼玉・皆野町」となっていた。そこが“秘境ムード”なのかどうかはともかくとして、記事のおわりのほうにこういうくだりがあった。
ところで、小高い山々の重なる谷間谷間に住む人口は一万三千人、二千九百世帯。昔から朝鮮人、戦国時代の落人(おちうど)、江戸時代の隠れキリシタンなど住みつき秘話が多い。……
町を歩いて、読めない人名、地名がいっぱいあった。出牛、風戸、破風、宝登、設楽、佐宗、戦場など――じゅうし、ふっと、はっぷ、ほど、したら、さそう、せんば、と読む。名前の由来を探ると、“秘境ムード”は一段と盛り上がる。
有名な秩父音頭の発祥地が皆野であったということも、私はこの記事によってはじめて知ったが、もちろん、私の注目したのはそこにある「昔から朝鮮人……」ということであった。戦国時代以前に住みついた朝鮮人というのは、いったいどういうものであったのか、それを知りたいと思ったのである。
来たほうへ戻ることになり、国道一四〇号線で、朝そこから出た和銅鉱泉のある黒谷をすぎると、ちょっとさきが皆野町だった。一角に町役場、農協、公民館などがいっしょになってならんでいたが、私たちはまず、その向かいにあった教育委員会を訪ねた。
だが、ちょうど昼時間だったものだから、女事務員が一人いるだけで、だれもいなかった。そこで私たちも近くの食堂に入って昼食をすまし、何でそこへ行くことになったのかいまはおぼえていないが、公民館へ行って主事の山口敏雄氏に会った。ついでそこへ来てくれた教育委員会主事の高橋孝久氏とも会ったが、さて、しかし、はなしは「昔から」そこへ来て住みついたという「朝鮮人」のことにはなかなか結びついて行かなかった。
結局、私たちは高橋さんから、教育委員会のだした『金昌寺石仏群像調査書』『金室家文書集』などをもらってそこを離れ、上野(こうずけ)(群馬県)の吉井へ向かった。吉井町では多胡碑(たごのひ)などをたずね、そして下仁田の鹿の湯なるところに一泊。――翌日はまた多胡碑とともに上野三碑といわれる山ノ上碑、金井沢碑などをめぐり、高崎の観音塚古墳をへて東京へ戻ったが、家へ帰り、秩父の駅で買った和銅最中の箱を開いてみて、私はびっくりした。
続・秩父と和銅遺跡
和銅遺跡についての新しい発見
びっくりしたというのは少しオーバーかもしれないが、最中の入っている箱のなかには景品としてか、『和銅の由来』というリーフレットが入っていた。そういった最中などの宣伝・景品としてはずいぶんぜいたくなもので、北谷戸登氏の『聖(ひじり)神社と和銅の史蹟』からの抜粋であるということわりのついた、八ページにもわたる長大なものだった。
「一、和銅の献上と朝廷。二、聖神社。三、和銅の遺跡。四、金山鉱山跡。五、和銅開珎」となっているそれを、ぱらぱらめくってみただけで、「ああ、しまったあ」と私は思わないわけにゆかなかった。最中などそんなものは、私にはどうでもよかった。
だいいち、私たちがとおりすぎて来た黒谷の祝山というそこには、和銅遺跡と関連した聖神社というのがあったということもはじめてだったが、それの神体がそこでとれた銅板であるということも、私はこのリーフレットによってはじめて知ったのだった。どうしても、「ああ、しまったあ」と思わないわけにゆかない。
ということは、ほかにもそれでまた教えられたものがあったりして、私としてはどうしても、もう一度その秩父へ行ってみなくてはならないということになった。そこで、時間としては前後したが、さきの「将軍標のある道」の項でのべたようなしだいとなり、十二月三日の秩父夜祭をみることにして、私はまたそこへ出かけて行ったのである。
このときは小原元や西野辰吉、矢作(やはぎ)勝美、阿部桂司君などのほか、ある出版社の友人二人がいっしょだったが、秩父は有名な夜祭の見物客でごった返していた。旅館も、どこも満員とのことだった。しかし私たちは、私がさきに行ったとき知り合いとなった皆野町教育委員会の高橋孝久氏にたのんであったので、その心配はなかった。
私たちが秩父へついたのは三日の夕方で、ひとまずさきに、高橋さんがとっておいてくれた皆野駅前の旅館に入ることにした。そして夜になるのを待って、秩父のそこへ出かけるつもりだったが、間もなく私はそこで、旅館のことをたのんだ高橋さんにたいし、一つ礼を失したことに気がついた。
というのは、私たちが旅館でそうしていると、こちらもさきに来たとき知り合った公民館主事の山口敏雄氏がやって来た。どうして私たちの来ていることを知ったのかと訊くと、高橋さんから聞いてもいたが、公民館の向かいにある教育委員会に張り紙がしてあったという。
それでわかったのだったが、高橋さんは私たちが来たら、さきにまず教育委員会に顔をだすものと思い、そうしたら近くにある自分の家へ来てくれということを、地図入りで張り紙にしてあったのだった。一面識だったにもかかわらず、そんなにも親切な人たちだったが、しかし私は、高橋さんや山口さんにたいしては翌日の帰りにでもあいさつしようと考えていたのである。
不夜城の絵巻き
そうこう話しているうちに、もう暗くなりはじめたので、私たちは秩父市内に自宅のあった山口さんについて、秩父へ向かった。教育委員会の高橋さんはまだ三十そこそこの若い人で、いかにもまじめといった感じの人だったが、五十はすぎたと思われる山口さんは、謹厳なうちにも飄逸(ひよういつ)なところがあった。そんなことから、小原かだれかがロシア文学に登場する人物を連想して、さっそく「九等官」という別名をつけたが、もちろん、そんなイワーノヴィッチなにやらと、山口さんとは何の関係もない。
秩父へつくと、まだ時間は早いから、山ロさんは自分の家へ寄ってくれという。そこで私たちはまたぞろぞろと、山口さんについて行って祭りのごちそうになったが、私はこの山口さんの家で、秩父をいろいろな角度から紹介した『秩父路』という、部厚い雑誌の体裁をとってつくられた一冊の本を見いだした。
私もそれまでには秩父についての文献はかなり調べたつもりだったが、これははじめてみるものだった。なかに「秩父風土記」という項があって、筆者はわからないが、そこにこういうくだりがある。
古墳時代の後期には、外秩父といわれていた奥武蔵の一部に、高麗や新羅の帰化人が移住して来て、隣接していた秩父にも、彼等の特技である絹織物や採銅の技術を伝えたので、農耕中心であった秩父の谷にも、新しい夜明けがおとずれたのである。
慶雲五年正月十一日、この日は日本の年号が改められるほどの出来ごとのあった日で、それというのは、秩父の山中で発見された和銅が朝廷に献上されたのである。伝説によればその和銅の発見者も日本人ではなく、金上元という帰化人であったという。和銅の発見地は、秩父市黒谷祝山と伝えられている……。
これまた山口さんのおかげで、私は思わぬものにまでめぐりあったわけだった。それで私の考えていたこともほぼはっきりしたが、まもなく私たちは山口さんともども夜の街へ出た。
しぜん、山口さんの案内で祭りをみることになった。なるほど日本三大祭りの一つといわれるだけあって、秩父夜祭というのは大したものだった。
各町内からそれぞれに装いをこらして繰り出した屋台が街を練り歩き、華麗そのもののような笠鉾(かさほこ)をまじえて、それらがさいごに御花畑なる斎場祭に集中してくるありさまは、「まさに不夜城の絵巻きであり、都会には見られない山国秩父の象徴でもある」(『秩父夜祭』)というものであった。かつてのあのものすごい人間的活気、いわゆる「秩父暴動」にしめされたエネルギーが、それによって発散させられているようにもみえなくはない。
私たちは皆野の旅館へ戻り、私たちもまたそのエネルギーを発散させるべく一杯やっているところへ、こちらも祭り見物の帰りだった高橋さんがやって来てくれた。それで翌日もまた高橋さんに厄介(やつかい)をかけることになったが、高橋さんは酒は一滴もやらないという、まったくまじめそのもののような人だった。
朝鮮渡来人の功績
翌日は高橋さんがどこからか都合してくれた二台のクルマに分乗して、私たちは付近にのこっているという古墳からみてまわることになった。まず、金崎古墳群中の大堺古墳など二つをみたが、いずれも農家の庭先にあって、切り石積みの横穴は、どれもそれらの農家の物置場となっているのが印象的だった。
ついで私は高橋さんにたのんで、黒谷・祝山にあるという聖神社まで行ってもらったが、その途中にも大塚古墳というのがあって、それはかなり大きなものだった。高橋さんの説明によると、付近に十三塚といわれるものがあって、大塚はそれの中心となっているものだとのことだった。
大塚古墳のあるそこはちょっとした小公園のようになっているところで、私たちはしばらくのあいだ、その古墳の山のうえにのぼったり、暗い横穴のなかへ入ってみたりした。横穴から出ると、高橋さんは苦笑しながら言った。
「この横穴は、夏になると涼しいものですから、アベックが入ったりするので困るのですよ」
農家の物置場となっていることといい、なるほど時はうつり、世はかわったのである、と私たちは思わないわけにゆかなかった。それを、だれもおさえることはできない。
私はそれらの古墳をみ、それからその近くにあった黒谷・祝山の聖神社などをみて、ようやく一つのはっきりしたイメージを組み立てることができた。黒谷駅近くに、「和銅之遺蹟」とした石碑が立っているのもこのときはじめてみたが、しかし和銅遺跡そのものはどこであるか、それはまだはっきりとはしていないようだった。
だが、しかし、いまでもはっきりしていることは、「和銅之遺蹟」とある石碑の背後に見える山々からも、その銅をとったことはまちがいないということであった。そしてそれを発見したのが、おそくも七世紀にはそこに住みついていた、新羅系の朝鮮渡来人であったということだった。皆野町にかけて、近くに散在している古墳は、それら渡来氏族たちの墳墓だったのである。
かの天平時代に奈良・東大寺の大仏開眼(かいげん)に必要だった鍍金(ときん)のための金を陸奥で発見したのも、当時、陸奥(むつの)守(かみ)となっていた、これまた朝鮮渡来氏族の百済王敬福(くだらのこきしきようふく)だったが、それよりちょうど半世紀ほど早く、七〇八年の慶雲五年にこの秩父から銅が発見されたということは、のちの天平のそれにけっしておとらぬ文化的大事件であった。
さきにもみたように、このことによってただちに日本の年号は「和銅」となり、また、それによってはじめて、「和銅開珎」なる貨幣もつくられるようになったのだった。それがどれだけ大きな出来ごとであったか、そのことは隣接の上野(群馬県)にまで強い揺れとなってひびいている。
さきにもふれたように、私と水野明善とはこの上野もひとまわりしている。しかし秩父とおなじく、ここもまたさいきんもう一度行ってみなくてはならないことになったので、こちらは一応あとまわしとし、次は房総(千葉県)、常陸(茨城県)からさきにみて、そこへとまわって行くことにしたい。
七 房総・常陸をたずねて
芝山古墳群と埴輪
関東で一番古い仏像
房総(千葉県)には私や阿部桂司君とも親しい、おなじ文学仲間の龍田肇(たつたはじめ)君がいた。前日は龍田君が中心となっているサークルで話すことになっていたので、私はそれをはたし、夜は同行の阿部君ともども、千葉市にある龍田君のところで泊めてもらうことにした。
そして翌日、龍田君たちのサークルの一員である小出(こいで)輝雄君のクルマで、彼らともいっしょにその辺をまわってみようということになっていたが、しかし房総には、これといった手がかりはほとんどなにもなかった。いつもの泥縄式で、行きあたりばったりというわけであるが、私としてちょっと知っていたことといえば、印旛郡栄町というところにある竜角寺くらいのものでしかなかった。竜角寺のことは、佐藤昭夫・永井信一・水野敬三郎氏の『日本古寺巡礼』(上)「東日本編」に出ていて、そこにはさきにみた、東京都調布市の深大寺にあるのとおなじ白鳳仏(はくほうぶつ)があるという。
となると、深大寺のそれをもって「関東に唯一の白鳳仏」というのは誤りということになるが、しかし、おしいことに竜角寺の白鳳仏は、江戸時代にあった火災のため体部を失ってしまい、頭部のみが白鳳のそれを伝えているものだった。けれども、たいへんいいものらしく、前記『日本古寺巡礼』にはこう書かれている。
関東の白鳳仏にはもう一体、東京の深大寺の釈迦如来像がある。この方は保存がよくて、もとの姿を完全に残している。しかし私はどちらかといえば、竜角寺の方をとる。深大寺像の方は白鳳仏として少しでき上りすぎた感じがあるからだ。竜角寺像の方が目鼻立ちが大がらで、目は思いきって切れ長だし、頬は思いきってふくらんでいる。いかにも若い充実した力を感じさせる。
この違いはやはり、制作年代の違いに結びつくものだろうと思われる。竜角寺像は、関東地方でいちばん古い仏像だといってもよい。
竜角寺そのものとしては、八世紀のはじめにできたものらしいが、その周辺には竜角寺古墳群があって、ともかく、私たちはそこへでも行ってみようということになった。そうすれば、そこからなにか手がかりをえることができるかもしれない。
宗吾霊堂から芝山古墳へ
小出君のクルマで出発した私たちは、まず、竜角寺のある栄町までの途中となっているらしい成田市に寄り、「義民佐倉宗吾(さくらそうご)」のそれとして有名な宗吾霊堂というのからみることになった。佐倉宗吾は千葉県民の一つの誇りでもあったので、小出君は何となく、私たちをそこへつれて行ったもののようだった。
私も佐倉宗吾に敬意をはらうことにはやぶさかでなかったから、「宗吾御一代記念館」としたところもひととおりみてまわり、ついでこんどは、これは庶民の信仰とともに、そのゼニをも吸い集めることで有名だった成田山にも行ってみた。しかし私は、その広大な成田山なるところにはいっこうに何の興味もわかなかった。
わずかに、そこに付設されている成田山史料館は、遺跡出土品なども陳列されているそうでちょっとおもしろいかと思ったが、しかしその史料館も、大成田山のそれとしてはまことに貧弱なものだった。よけいなことかもしれなかったが、成田山の莫大な収入はいったいどこへ使っているんだ、といいたくなるようなものだった。
史料館がそんなふうだったからか、小出君は成田山から離れると、クルマを走らせながら、急にこんなことを言いだした。
「この向こうのほうに芝山古墳というのがあって、そこから出たものを展示したはにわ博物館とかいうのがあるそうですが、行ってみますか」
「はにわ博物館。――ほう、そうですか。じゃ、そこへ行ってみようじゃないか」と、私は即座に言った。私は房総にも古墳のたくさんあることは知っていたが、しかし、そんな博物館があったとは知らなかったのである。
「はあ、そこはおもしろそうですね」
つづいて、古墳の好きな阿部君も言った。
成田市のそこからすると、芝山町というところは、竜角寺のある栄町とは反対の方向にあたっていた。が、私たちはその芝山のほうへ行くことにした。竜角寺へは、はじめから、どうしても行ってみなくてはならないというわけではなかったのである。
見事な埴輪の展示
例によって、私はどこをどういうふうにクルマが走ったのかはわからなかったが、やがて芝山の町なかへ入り、芝山仁王尊というところについた。古墳群出土のはにわ博物館は、その芝山仁王尊という寺の境内にあった。
ちょっとした台地となっているところだったが、境内の一隅にたっている小さな博物館は閉まったままで、入場料をとる受付にも人はいなかった。私たちは仁王堂前の長い石段をおりて寺務所にいたり、やっと博物館の扉を開けてもらうことになった。ついでにそこで、『芝山仁王尊』や『芝山古墳と展示品』などのリーフレットやパンフレットをももとめた。
さきの成田山史料館のことがあったからか、「はにわ博物館」などといっても、――というふうに私は思っていたのであるが、どうして、一歩そのなかへ入ってみてびっくりした。ならんでいる、ならんでいる。稚拙笑顔をふくんださまざまな顔かたちの埴輪がずらりと、館内を埋めて立ちならんでいた。
私もこれまで、埴輪というものを少しは見ていたが、それをこんなにまとまったものとしてみるのは、このときがはじめてだった。ほとんどが芝山古墳群出土のものばかりで、それはただ数が多いというばかりではなかった。パンフレットの『芝山古墳と展示品』によると、それの発掘当時現地を訪れたある美術家は、「その一つ一つがまるで現代彫刻をあざけるかのごとくである」と讃嘆したとのことであるが、なるほどそうかもしれないと、私もそう思わないわけにゆかなかった。
古代のものがそのようにも見事だということは、飛鳥や白鳳、天平時代の仏像などについてもおなじようなことがいえると思う。そういった感慨はみなおなじだったらしく、歌人の窪田空穂(くぼたうつぼ)氏は芝山のこの埴輪をみて、次のような歌をのこしたという。
百済仏師いまだ来ぬ日に東なる 総(ふさ)に住みけるわが埴師はよ
博物館のなかに陳列されているのは、そのような埴輪ばかりではなかった。これもその埴輪とおなじく、芝山古墳群のうちの殿塚(とのづか)、姫塚からの出土が主だったが、頭椎大刀(かぶつちのたち)をはじめ、鉄直刀、鉄鏃、それから金環、翡翠勾玉(ひすいまがたま)などの装身具や、いろいろな馬具、須恵器(朝鮮式土器)など、じつにバラエティーに富んだものであった。
房総と朝鮮との関係
私はそのときになってはじめて、いまみた殿塚、姫塚ほか高田古墳、小池古墳、一本松古墳といったものが集中しているこの芝山というのはいったいどの辺にあたるのだろうかと、地図を開いてみた。私としてはその地図も阿部君などのたすけがなくてはよくわからなかったが、東京湾側の千葉市あたりからみると、そこは房総半島のつけ根の東北方にあたり、どちらかといえば、太平洋岸の九十九里浜(くじゆうくりはま)寄りだった。
そして『芝山古墳と展示品』によると、こうなっている。
日本書紀や国造本紀に依ると、人皇第十三代成務天皇の即位四年(AD一三四)に全国に六三の国造を置いたとあります。併し、最近の研究に依るとこの時代の書紀の記述は信憑性(しんぴようせい)にとぼしく、成務天皇は実在しなかったのではないかと推論されています。従って、国造の置かれた時代はもう少し下った古墳時代のことなのでしょう。それもある時期に六三国突然に置かれたのではなく、大和の勢力が拡大するに従って次第にその数を加えられたと考えられます。
その数は大化の改新が行われる時迄(AD六四五)に凡(およ)そ一三六を数えたと云われ、その内この房総の地には少なくとも一一の国があったことが分っていますが、これも古墳時代の或る時期に須恵(すえ)、馬来田(まぐた)、上海上(かみつうなかみ)、伊甚(いじみ)、武射(むさ)、菊間(きくま)、阿波(あわ)の七つの国があい前後して置かれ、更に少し時代が下ってから印波(いんば)、下海上(しもつうなかみ)、長狭(ながさ)、千葉(ちば)などの国造が置かれるようになったと見られます。芝山古墳群のあるこの地方は今は山武郡と呼ばれていますが、この郡名は明治三十年に山辺、武射(むさ)の両郡を合併して新たに作られた郡名で、その前迄はこの地方は武射郡と呼ばれていました。従って古墳時代のある時期に置かれたと思われる武射の国造の名称がそのまま郡名として受けつがれ、明治まで使われていたことが知られます。
かつては日本でもそれを朝鮮土器といった須恵器から来た、須恵というところはともかくとしても、馬来田、武射など、まるで江上波夫氏のいわゆる「騎馬民族征服説」そのままを思わせるものがある。そのはずで、この房総もまた古代朝鮮とはけっして無関係ではなく、鳥居竜蔵氏らとおなじように、武蔵(東京都・埼玉県)ということがそれの産地であった苧(からむし)(韓(から)モシ)という麻の種子、すなわちモシ・シからきたとする須田重信氏の『関東の史蹟と民族』にはこうある。
ムサシのムサの地名は関東には外にもある。先ず上総の国には武射(ムサ)郡があり、すでにこれは郡名となっている。尚お山辺郡の郷名に武射がある。更に関東には麻に関係した地名は中々多い。(此処(ここ)で一寸(ちよつと)説明して置くが上総、下総のフサは麻の古語である)即ち麻羽、麻布、麻績、麻生等々である。
私としては芝山古墳群のその出土品をみただけで充分だったが、もともと古墳の好きな阿部君はもちろん、龍田君なども急に強い興味をしめしはじめたということもあって、ついで私たちはその近くにある殿塚・姫塚古墳をたずねてみることにした。こういうことは、それがたしかにそこにあったことをたしかめてみるということのほかは労のみ多いもので、やっとたずねあてた六世紀から七世紀後半にかけての築造といわれる古墳そのものは、ただ草や木のぼうぼうと生えた盛り土のそれにすぎなかった。
しかし私たちは、そうすることでそれぞれに満足し、もう時間もなかったから、そこからいったん千葉へ引き返そうではないかということになった。そしてそこにあるという県の郷土館にでも行って、――房総は、もうそれでいいとも私は思っていたのだった。
瓢箪から駒が……
だいたい、房総ははじめから私の予定に入っていなかったところで、龍田君たちのサークルで話すということがなかったら、芝山古墳群のことも知らなかったにちがいなかった。ところが妙なもので、いったんそうして歩きはじめてみると、そんなにかんたんに打ち切るというわけにはゆかなくなった。
というのは、私たちのクルマが千葉市へ引き返す途中、八街(やちまた)なるところの交叉点で信号待ちをしていたところ、急にガツンとなって、うしろのクルマから追突された。追突したクルマの運転手は、横に子どもを乗せていてそれに気をとられ、信号に気がつかなかったのだった。
私のこの「――旅」もなかなかの命がけであるが、こんな事故にあったことがどうして、房総におけるそれを打ち切ることができなかったことと関係があったかといえば、それはこういうしだいだった。事故としては大したことはなく、追突した運転手が平あやまりにあやまったことですんだが、しかし小出君は、私たちがいわゆるムチ打ち症となることを心配して、念のため病院でレントゲン撮影をしてみてもらってくれという。
むろん私たちとしてもそうなってはかなわなかったから、千葉市内の県庁近くにあった病院で首すじの写真をとってみてもらうことにした。が、病院のつごうで、私たちはそこで一時間ほど待たなくてはならないことになった。
で、そのあいだに私たちは、阿部君かだれかが言いだしたかして、近くに見えていた県庁へ行ってみようじゃないかということになった。もう五時になっていたが、まだ、教育委員会あたりにはだれかいるかもしれなかった。
行ってみてわかったが、県には教育庁というのがあり、文化財保護係副主査の藤川昶氏がのこっていて、私たちと会ってくれた。ついで、同文化課文化財室の平野馨(かおる)氏もとなりの部屋かどこかから、そこへ来てくれた。あとでわかったが平野さんは、『房総のやまとたける』『房総――生活とその周辺――』といった著書のある民俗学者だった。
「そうですか」と平野さんは、私たちがやって来た目的を知ると言った。「向こうの成田のほうに、いま空港で問題となっているそこに、駒井野というところがあります」
「駒井野ね」と、私は訊(き)いた。「するとそこは、高麗(こま)のものたちが来ていたところ、というわけでしょうか」
「そうだと思いますが、そこには星神社というのがありますよ」
「星神社といいますと、それは北斗信仰、妙見社ですね」
私は、「北斗七星を祀(まつ)る妙見信仰は、そのむかし、大内氏が朝鮮半島からもたらした習俗と伝えられている」とあった渡辺三男氏の一文(「琳聖太子の墳墓」)のことを思いだしながら言った。あとでわかったが、周防(山口県)の大内氏とおなじように、房総における千葉氏もその妙見信仰だったのである。
「それから」と、また平野さんは言った。「木更津(きさらづ)の金鈴塚(きんれいづか)へは行ってみましたか。その向こうの鹿野(かのう)山にも、百済(くだら)の王子が来ていたとかいう、そんな言い伝えがあるようです」
まだ、もっといろいろなことを聞いたり話したりしたかったけれども、平野さんたちはもう退庁時間をとっくにすぎていたので、私たちは引きあげた。だが、はなしはそれだけでも充分だった。「これはまた、めんどうなことになったぞ」と、私は県庁の階段をおりながら、新たに知ったことにたいする当然のよろこびとともに、そう思わないではいられなかった。
金鈴塚・駒井野・鹿野山
再び房総へ
病院でみてもらった結果は、さいわいそれぞれ大したことはないということだったので、私と阿部桂司君とは東京へ帰った。しかし、知らないのなら仕方ないが、平野馨氏たちに教えられてそれと知ったからには、駒井野や金鈴塚へも行ってみなくてはならない。百済の王子、すなわちそれも百済と関係あるらしい鹿野山というところも気になる。
結局、房総(千葉県)も私のこの「――旅」に組み入れなくてはならないことになったが、そのつもりで保坂三郎氏の『金鈴塚』などの資料にもあたってみると、この房総もどうして、なかなかのものであった。鶴岡静夫氏の『関東古代寺院の研究』によると、下総国分寺跡からは、新羅の都だった慶州の半月城から出たものとおなじ文様のハート型をならべたような宇瓦(やねがわら)や鐙瓦(あぶみがわら)なども出ており、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」をみると、上総のそれとして次のような古墳をあげている。カッコ内は、朝鮮渡来のものとする出土品である。
△市原市姉崎山王山古墳(冠帽)。△木更津市祇園鶴巻古墳(垂飾付耳飾)。△木更津市元新地古墳(腰佩具)。△木更津市長須賀熊野廻古墳(履)。
それからまた斎藤忠氏は、文献にみえるその居住地として、「上総国(郡郷不詳)の高麗人」「下総国(郡郷不詳)の高麗人」「海上郡檜前舎人直建麻呂」などをあげているが、これらはもちろん斎藤氏の考えているものであって、けっしてこれがそのすべてというわけではない。
たとえば古墳であるが、それをあげるとすれば、これはけっして右の四つと限られるものではない。さきにみた芝山古墳群はもとより、竜角寺古墳群ほか、柏市と我孫子(あびこ)にもそれにおとらぬ古墳群があって、これらもけっして無関係ではなかったはずである。ついでにいえば、これは阿部君が地図をみて知らせてくれたのだが、柏市の周辺には「駒木」「駒木新田」「古間木」などという地名もある。
だいたい、尾崎喜左雄氏のいうように、「古墳自体がその成立は朝鮮の文化によっているのである」(「上野における韓来文化」)からといって、それをいちいちすべてみて歩くというわけにはゆかない。が、しかしながら、千葉県教育庁の平野さんたちからはっきり教えられたそこへは、行ってみなくてはならない。
豪華けんらんな金鈴塚の遺物
私はまた龍田肇君や小出輝雄君をわずらわすことにして、房総に出向くことにした。この日も阿部君が同行して、私たちは千葉駅前で龍田君たちと落ち合い、先日とおなじ小出君のクルマで、まず、木更津へ向かった。
小雨が降っていたが、川崎製鉄の臨海工場が右側にずらりと建ちならんでいる、いつまでもつきることのないような広い産業道路を走った。やがて木更津につくと、私たちはすぐに市の教育委員会を訪ねた。しかし、ここにはなにもなくて、かわりに観光課からたくさんのリーフレットなどをもらった。それの一つに金鈴塚古墳のことが出ていて、こうある。
木更津のあたりは古い時代から大変文化が進んでいたようで、今から一三五〇年ほど前に、馬来田(まぐた)の国造と思われる豪族の貴公子が亡くなったので、長須賀に応神天皇の御陵と同様な前方後円の墓を築き、遺体を数々の宝物、武具等と共に埋葬しました。
これが金鈴塚と呼ばれる古墳であり、これを掘り出して、整理陳列したのが保存館であります。昭和二五年に大々的に発掘調査したところ、我国で初めて見る純金の鈴をはじめとして、銅鏡、刀剣類等千二百点あまりの貴重な遺物が出土しました。この出土品は昭和三四年六月に国の重要文化財に指定され、恰好(かつこう)の社会科教室として好評を得ております。
私たちはさっそく、その「恰好の社会科教室」の金鈴塚遺物保存館へ向かった。それは市内の太田山公園の一角にあって、二十円の入場料をとる老管理人が一人いるきりで、ほかに人の姿はなかった。
さきに、私は芝山古墳のはにわ博物館のなかへ一歩入ってみて、びっくりしたと書いたが、この保存館のなかのものをみたときもまさにそうで、私はほんとうに目をみはった。豪華けんらんということばがあるが、それはちょうど、この金鈴塚の遺物のためにできたもののような気さえする。朝鮮の私の故郷近くにも金鈴塚と名づけられた古墳があって、それの遺物も豪華けんらんたるものであるらしいが、しかし、まとまったそれを私はまだみていない。
だが、木更津の金鈴塚はさいわい盗掘にもあわなかったらしく、そのほとんど全部がさいきんまでそっくりそのままのこっていたもののようだった。頭椎大刀(かぶつちのたち)などはさきの芝山古墳のとおなじものであるが、単竜式、双竜式といわれる金銅荘環頭大刀なるものははじめてみるもので、その柄頭たるや、いうところの権威や権力の象徴であったとしても、それはあまりにも豪華すぎるものであった。
しかも、それが一振りや二振りではない。ほかにも銀荘鶏冠頭だの、金銅荘圭頭だの、いろいろなものがある。「馬来田の国造と思われる豪族」のそれにふさわしく、馬具もまた鞍金具など、これもたいへんなものだった。
なかでも、とくに私が目を吸いよせられたのは、祭器だったのか何だったのか、用途は依然ナゾとされている日本銅鐸(どうたく)の原型ではないかといわれる朝鮮の銅馬鐸(高さ二十三センチ)であった。朝鮮のそういった小馬鐸が日本でも出土しているということは私も知っていたが、しかしそれを現実にこの目でみたのは、このときがはじめてだった。
金鈴塚という名がそれから来たという純金の鈴となると、環頭大刀や馬具などをみたあとだったから、これはまったくもう可憐(かれん)そのものだった。銀木実形垂飾など、その「鈴を振ると古代の清々(すがすが)しい音がします」とそこでもらったリーフレットにあったが、まさにそのとおりであろうと思われた。
みじめな古墳の残骸
以上のほかにも精巧な銅蓋鋺や、その古墳からは百六十一個も出たという須恵器(朝鮮式土器)など、どれもみないつまでもその前からは立ち去りがたいものばかりだった。とくに銅蓋鋺など、保坂三郎氏の『金鈴塚』によると、
「朝鮮慶尚南道晋州郡の水精峯第二号古墳、また古新羅時代の遺跡である慶尚北道慶州郡の普門里古墳等からも同種のものが発見されている」とのことであるから、これはそのまま、朝鮮からここへ渡来した豪族といわれるものたちによってもたらされたものなのである。
なおまた、同『金鈴塚』によってみると、いまみた大刀類についてはこう書かれている。
この種、柄頭に環のついている環頭大刀は、「万葉集」などに「高麗剣(こまつるぎ)」といわれているものであって、その環の顕著なため「和〓(わざみ)が原(はら)」(今の関ケ原)とか、「わがこころ」など「わ」にかかる枕詞として使われているほど、古代人の心を惹いたものであった。それはその名の示す通り、本来わが国固有のものでなく、高麗(こま)即ち朝鮮からもたらされたもので、その意義においても貴重視されていたに相違ない。
それにしても、芝山古墳群のものといい、これらのものを持ったかれら豪族といわれるものたちは、いったいどのようにしてこの房総へやって来たものであろうか。私はいまさらのようにまた、そんな感慨にひたらずにはいられなかったが、房総におけるこれは、のちにみる上野(群馬県)のそれとも深く関連し合っているもののようである。
金鈴塚遺物保存館を出た私たちは、ついでに金鈴塚古墳そのものもみておこうということになった。保存館の管理人に場所を聞いて太田山公園をおり、海岸寄りのそこへ向かった。
遺物保存館をみたあとだったからか、古墳そのものはまことにみじめなものだった。もちろんはじめのうちはそうでなく、そうとうに大きな前方後円墳がそこにたちそびえていたはずであるが、いまはまわりに人家がびっしりとたて込み、やっとそれだったらしい小高い盛り土の部分が少しのこされているだけだった。現代の人間は、そのなかに副葬されていた宝物さえ抜きとってしまえば、あとはもうそんな古墳など用がなかったのである。
そんなみじめな古墳の残骸(ざんがい)を前にして、長くいる必要はない。いっときも早く、そこから立ち去るに越したことはなかった。が、さて、と、私たちはそこでちょっと迷った。はじめの予定では、木更津のさきにあった鹿野山まで行ってみることになっていたのだが、いつの間にか、すっかり時間がたってしまっていたのである。
鹿野山までだけだったらもちろん行けなくはなかったが、同時に私たちは、そこからするとずっと後方にあたっていた成田の駒井野へも行ってみるつもりだった。で、いまはそのどちらか一つをえらばなくてはならないことになった。私たちは、駒井野のほうをえらぶことにした。
抗争の地・三里塚
木更津から成田の駒井野までは、房総半島の半分をほとんど縦断するにひとしい距離だったので、私たちは休むこともなく走りつづけた。午後三時すぎになって、国鉄バスの三里塚駅についた。
三里塚。――新東京国際空港をそこにつくるということからきた、はげしい抗争をめぐってさいきん有名になったところだった。私たちは、駅前の食堂でおそくなった昼食をとった。駒井野というのはそこからクルマでは十分ほどで、ここもその空港予定地とされているところだった。
房総は山や台地や段丘の多いところだったが、習志野(ならしの)など、広い平地も多かった。新東京国際空港をめぐって争われている成田のそこも、そうとうに広い平地のようだった。
森があり、林があり、畑がつづいていた。そこへ傘をさすほどのこともない小雨が降っていた。あたりに人の姿はほとんどなかった。だが、私たちはそのような空港予定地となっているところへ入って行くということでか、何となく緊張した。
その空港をめぐる日ごろのはげしい抗争のことを知っているからだったが、道のかたわらに、「断乎死守!」などのビラを張りつけた「団結小屋」のあるのが見え、人家のあるところに近寄って行くと、ドラム缶がおいてあったりして、それにも、「先祖からの土地を死守せよ!」などのビラがいっぱい張りつけてある。そしてそのドラム缶は、空港関係者が入ってくると打ち鳴らすことになっているのだった。
私たちが緊張したのは、一つはそのためでもあった。そんなところへクルマなど乗り入れたりして、空港関係者とまちがえられはしないかと思われたからである。
さいわいというか、まちがえられることはなかった、――というより、どうしたのか、人家はあっても、ほとんど人影がなかった。そのときになって私はようやく気がついたが、あたりにはどうしようもないといったような、そんな荒廃の気がただよっていた。小雨が降っていたということもあるが、人々はみなどこへ行ってしまったのか、それはなにか、ちょっと鬼気迫るといった感じだった。
荒廃しきった寺社
森のなかの道を入ると、そこが駒井野だった。高福寺という寺があって、山門のかたわらになかなかいい石像が立っていたりした。しかし境内や寺そのものは、荒れるままにまかされていた。
それは、長い年月といったものによる荒廃ではない。さいきんになって、この土地はもうどうしようもないといった、そういうことによる荒廃だった。
「何だったら、この石の観音さん、もらって行きましょうか」と、寺のなかから出て来て、あらためてまた山門のかたわらに立っているその石像をみていた私に向かい、すぐそれを実行しかねない調子で阿部君が言った。「いずれはこれもその辺のどこかへすてられて、埋められてしまいますよ」
「おいおい、よせよ。そうかもしれないが、そんなことしたら、われわれは火事場泥棒ということになるぜ」
ちょっと急な坂道をのぼると、一つの雑貨店が見つかった。私たちはそこに入って牛乳など飲み、星神社というのはどの辺にあるのかと、店の女の人に訊いた。すると、さっきから私たちをうさんくさそうに見ていた中年の男が向こうから近寄って来て、私たちに名刺をだすことを要求した。
「ここではね。だれもまず、それを見せてもらうことになっているんです」
私たちはもっともだと思い、すぐそれぞれに名刺をだしてわたした。男は、まだ昼間のうちだというのに酒を飲んで酔っていた。
「別に、あやしいものじゃないです。どちらかといえば、われわれもここが空港になることには反対しているもので、星神社というのをちょっとみたいと思って来たのです」
龍田君が、みんなを代表して言った。中年の男はなおもちょっと疑わしそうにしていたが、しかし根は親切な人らしく、ふらつく足どりで私たちをわざわざ近くの星神社までつれて行ってくれた。そして男は、神社の横で長い立小便をして去った。
神社とはいっても、こわれかかっている掘っ立て小屋のような神殿と、下に向けての急な長い石段とがあるだけで、これといったものはなにもなかった。そこは森に囲まれた小高い丘の台地で、かつてはその辺を支配した豪族といわれたものの居館跡かとも思われたが、これもまたひどい荒廃ぶりで、それだったとみられるものはなに一つ見当たらなかった。
「言い伝えと信仰のうすれるのといっしょに、遺跡もこういうふうに荒れてなくなるのですね」と阿部君はなかなかの名文句を吐いたが、まったくそのとおりだった。
その阿部君と小出君たちは瓦のかけらのようなものを見つけて、なおもっとそういうものがあるのではないかとあたりをほじくってみたりしていたが、私はひとりさきに、下に向かっている急な石段をおりて行った。と、そこが神社の正面で、横に道がとおっており、突きあたりの向こう側は人家だった。
私がそこの石段をおりてくるのを見たらしく、人家からは一人の老婆が飛びだすようにして、道ばたへ出て来た。別にあやしいものではありませんというふうに、私はさきにあいさつをして訊いた。
「この神社はずいぶん古いもののようですが、これは星神社で、妙見さんですね」
「ええ、そうです」と老婆は、尻上がりのアクセントで言った。「これは弟社です」
「弟社といいますと、別にまた兄社があるのですね。それは、どこでしょうか」
「そうです。この神社は古くて、大きな木がたくさんあったですが、いまはみんな、空港とやらのためになくなってしまったですよ」
空港反対運動の資金のためにそこの木を伐(き)ったということは、さきに雑貨店で会った男からも聞いていたが、どうしたのか、老婆はその兄社というのは教えてくれようとしなかった。もしかすると、耳が遠かったのかもしれない。
龍田君や阿部君たちもそこへおりて来たので、私たちは早々にそこから立ち去ることにした。私はどうも息苦しくて、やりきれないような気がしていた。
大木繁る名刹・千葉寺
千葉市に戻った私たちは、もう暗くなりかかっていたが、まだちょっと時間があったので、奈良時代にできたものといわれる近くの千葉寺へ行ってみようということになった。これも台地のうえにあったその寺は、大木の繁っている広い境内といい、そうとうの名刹らしかった。
本堂につづいている住居で、『千葉寺略縁起』というのをもらい、ついでそれをわたしてくれた僧侶のはなしを聞いた。僧侶は、よく刈り込んだ頭髪はかなり白くなっているようだったけれども、鼻下にはなかなかかっこうのいい黒いチョビ髭がついていた。
僧侶はずいぶん早寝をするものらしく、もう寝衣をつけていて、玄関口に腰をおろしたり、立ったりしている私たちに向かって話したが、どうしてそうなったのか、寺の仏教はどこから来たか、というようなはなしになっていた。そして、「インド」「中国」ということはさかんに出るが、「朝鮮」は一度もその口から出てこない。
「インド」「中国」――なるほど元はそれにちがいなかったが、しかし、日本の仏教と寺院ということになれば、どうしても「朝鮮」というものをそこからのぞくことはできないはずである。で、私はしばらく待ってみて、こんなふうに訊いてみた。
「するとその仏教とこの寺は、朝鮮とは関係ないのでしょうか」
「ないですね。朝鮮とは関係ありません」
僧侶の答は、すこぶる明快だった。
「そうですか。しかし、いまもらったこの『千葉寺略縁起』には、まずいちばんはじめのところに、こう書かれていますね。『夫(そ)れ当山は、坂東拝所廿九番に当(あた)り、観音菩〓遊化(ぼすいゆうか)の霊地にして、行基菩薩(ぎようきぼさつ)草創の精舎(しようじや)なり」――ここでいっている行基というのは、朝鮮からのいわゆる『帰化人』の出なのですが、するとどうなりますか」
「いやあ、そんなことはないでしょう。行基は、日本人ですよ」
「もちろん、日本人です。日本人にちがいないですが、しかし……」
私はもう、それでやめることにした。行基が朝鮮渡来氏族からの出であるということは、『行基年譜』などによるまでもなく、ひろく知れわたっている常識のようなものだと私は思っていたのであるが、寺の僧侶でも、それを知らないものがいるということだった。
僧侶とわかれて外へ出ると、阿部桂司君がまた一つおもしろいことを言った。彼としては珍しく、口のわるいことだった。
「このごろの毛坊主は、なにも知らないんだな。どうしようもない……」
「毛坊主――」
私は、思わず吹きだしてしまった。意味はすぐにわかったが、私はそれをことばとして聞くのははじめてだった。千葉寺の僧侶や、それから僧職にあるみなさんにははなはだ申訳ないしだいだったが、それはたいへんおもしろい日本語だと思わないわけにゆかなかった。
行基創建の千葉神社
もう、すっかり暗くなってしまっていた。
私たちはこんどは、駅への道すじでもあるということだったので、ついでに妙見社だという千葉神社へ行ってみることにした。台地を下った院内町というところにあったが、これもまたそうとうに広い境内をもった、大きな神社だった。
結婚式かなにかがあったらしく、社務所は忙しそうだったので、『千葉神社参拝の栞(しおり)』というのをもらって、すぐに私たちは駅へ向かった。その『――栞』にこうある。
当千葉神社の御祭神天之御中主大神は初め妙見尊星王と称され、人皇四十五代聖武天皇の聖旨により行基菩薩の開基された上野国群馬郡花園村七星山息災寺の中尊として鎮座せられて居りました。
またも行基だったが、千葉氏累代の守護神とされたものがいわゆる妙見菩薩だったということはともかく、その神社の祭神がもとは寺の本尊として上野(群馬県)にあったということを知ったのは、私ははじめてだった。もっとも、龍田肇君が見つけてくれた武田宗久氏の『千葉市・歴史散歩』によると、千葉氏の本拠は武蔵(埼玉県)の大里郡であったとのことであるから、上野は近かったのである。
すなわち、千葉氏の祖である平氏(良文、将門など)もさきにみた武蔵の出身であったわけである。なお、高尾山の薬王院有喜寺など、関東のこれら寺院の草創に行基が多いということについては、鶴岡静夫氏の『関東古代寺院について』をみると、草創の時点の多くが、関東にあっては武蔵に高麗郡のおかれた七一六年の霊亀二年であることをあげてこうのべている。
また、霊亀二年という年は相武地方に帰化人が多く入って来た年である。行基が帰化系氏族であることから、行基を顕揚(けんよう)しようとした相武地方の帰化系氏族が、そのことによってその年に強い関心を寄せ、その年を寺院草創の年として採用したためと思われる。
しかしながら、いわゆる「帰化系氏族」とはいっても、それには高句麗系もあれば百済、新羅(加耶・加羅)系もあったわけで、当時のかれらにそのようなまとまったかたちでのナショナリティーがあったかどうかということについては、もっとよく考えてみなくてはならないと思う。ちなみにいえば、行基は、近江(滋賀県)の金剛輪寺所蔵『開山行基菩薩画像』の裏書きにも、「夫(それ)行基菩薩、百済国王余裔(よえい)、文殊之化現(もんじゆのけげん)也……」とあるように、これは百済系である。
鹿野山神野寺と百済王子の謎
さて、これで房総(千葉県)はひととおりみたわけであるが、しかし、どうもまだ気になるところがある。知らなかったのならともかく、――「えい」と、私はまたもう一度、龍田君や小出輝雄君をわずらわすことにして、阿部君といっしょに出かけて行った。鹿野山である。
木更津よりもかなりさきのほうにあった鹿野山神野寺は標高三百五十二メートル、「房総第一の高山なり、此山は下より見るべき山にあらずして、上より見下すべき山なり。山上の眺望は房総第一なり。関東全体にても第一流なり」と大町桂月氏の「関東山水」にもあるそうで、たしかに、そこからながめわたす風光はすばらしいものがあった。
しかし、私たちはその風光を見に来たものではなかった。すぐに神野寺を訪ねて、『鹿野山だより』というリーフレットをもらい、住職の山口昭道氏にも会ってもらった。山口さんは阿部君のいう「毛坊主」ではなく、長いあいだ戦地に行っていたとかで、石川達三氏の小説「生きている兵隊」に出てくる従軍僧をちょっと思いおこさせたが、快活にいろいろなことを話してくれた。
それでわかったが、千葉県教育庁文化課文化財室の平野馨氏の教えてくれた百済王子というのは、百済聖明王の第二子といわれる阿佐太子(あさたいし)のことだった。阿佐太子ならば、現在の一万円札に刷り込まれている聖徳太子像を画いたものとしても有名で、『鹿野山だより』にはこう書かれている。
試みに歴史を按(あん)ずれば、推古天皇の即位八年にかの有名なる百済国(くだらのくに)の聖明王の王子である阿佐太子がこの山に来ています。阿佐太子は風光明媚(めいび)な鹿野山を慕(しと)うて、はるばるこの神野寺に詣(も)うで留(とどま)ること凡(およ)そ七年、ついに此山上で永眠しているのです。只今の「阿佐太子塚」というのは、即ち王子の亡き骸(がら)を祀ったものであります。
だが、その「阿佐太子塚」というのはどこにあるのか、とうとうわからずじまいだった。住職の山口さんにも訊いたのだったが、なにやらもう一つ要領をえなかった。
だいたい、そんな伝説を根掘り葉掘りしようとした私たちのほうがわるかったのかもしれない。百済王子の阿佐太子がそこで「永眠」したかどうか、ほんとうはだれにもわかりはしないのである。なにかのかたちでちょっと縁があった、ということだったのにちがいない。
常陸・国分寺ほか
常陸をたずねる
ちょうどよかったことに、常陸(ひたち)(茨城県)には、県史編さん室長となっている塙(はなわ)作楽氏がいた。塙さんもやはり私たち文学仲間の一人であるが、どちらかというと、私にとっては親しい先輩といったところだった。
その塙さんに、私はこの「――旅」で常陸をたずねることをいい、同時に私はそれらしい資料も調べてみた。まず、塙さんが中心となってだされている『茨城県史料』「古代編」などをあちこちめくり、「史料年表」というところをみると、朝鮮に関係あるものとしてはこういう記事がある。
七〇〇(文武四)年一〇月、百済王遠宝、常陸守となる。
七〇八(和銅元)年三月、阿部狛臣秋麻呂、常陸守となる。
だが、そのほかにこれといったものはない。というより、私にはよくわからなかった。私はまえに、塙さんが筆写した『常陸国風土記』の一部をもらっていたので、それをとりだしてにらんでみたが、川原宿禰(すくね)黒麻呂のほか、別にこれといったものはないようだった。
しかし、百済王遠宝や阿部狛(こま)(高麗)臣秋麻呂といったものたちが常陸守となっていたからには、そこにもなにかがのこっていなくてはならない。えい、ままよ、現地へ行ってみれば、――とまた、いつものような泥縄式ということになった。
常陸へははじめ、後藤直君や水野明善といっしょに、水野のクルマで行くことになっていたが、急につごうが悪くなって、水野も後藤君も行けなくなってしまった。常陸といっても広いし、ばあいによっては、どんなところへ行かなくてはならないようになるかもしれない。
それをいちいち電車やバスを使って歩いたのでは、それこそ日が暮れてしまうのである。いや、ほんとうは、電車やバスにも乗らず、リュックかなにかを背負って寺や神社などに泊めてもらったりして、いろいろな人のはなしを聞きながら、文字どおり歩いたほうがいいのである。だが、そういうわけにゆかないのがこれまた、現代人の忙しさというものである。とても、そんな時間はあたえられていない。
どうしたものか、と迷っていたところへ、これまたちょうどさいわい、私の作品の一つを脚色して上演することになっている劇団歴史座の酒井保君が、そのクルマでいっしょに行ってくれることになった。同行は例によって阿部桂司君だったが、芝山古墳や金鈴塚のそれをみてからは、こちらもすっかりそんな古代遺跡に強い興味を持ちだし、自分も一冊書いてみたいといいだした龍田肇君もいっしょだった。
それぞれに見る目や立場はちがうとしても、水野などをはじめ、こちらも仲間がふえつつあるというわけだったが、阿部君もいよいよその通の一人となっていた。彼はあちこちの地図をみることにおいて依然名人であることはもちろん、いろいろな資料を見つけて来ては、いろいろなことを言ってくれる。はじめは私が彼をつれて歩くというかたちだったが、いまではむしろ、私のほうが引っぱりまわされるというような状態だった。
月読神社の神体
私たちは水戸へ向かう途中、牛久町からしばらく横に入ったところにある月読(つくよみ)神社に寄ってみることになったのも、阿部君の発議によってだった。月読神社に祭られている月読神というのは、阿部君によるとこれも朝鮮渡来のもので、いわば天照大神の日(陽)にたいし、こちらは夜(月)のそれで、海神というわけらしかった。
だが、それものちには陸のものとなってしまったらしく、月読神社というのは農村のなかにある古い神社で、境内に千年は下るまいと思われる椎(しい)の大木が立っていた。はじめは私たちの一行を税務署の役人とまちがえたらしい社務所となっている家で聞くと、その椎の大木がいつからか神体となっているとのことだった。
そう言われたので、私たちはあらためてまた何となく、境内の椎の大木のまわりをまわってみた。気がついてみると、幹の朽(く)ちた穴のなかに一匹、小さな蛇の入っているのが見えた。私は蛇がなによりもニガ手だったので、ぎょっとなった。
「あれがいるから、神体なのですよ。村の人たちは瑞祥(ずいしよう)だと思って、よろこんでいるのじゃないですか」と、龍田君は言った。
瑞祥かなにかは知らないが、私はもうたくさんだった。遠まわりをして、私たちはまた水戸街道へ出た。
街道の混雑のため手間どり、水戸にあった茨城県庁の県史編さん室についたのは、午後五時近くになってからだった。塙さんはいくつかの資料をとりそろえて、私たちを待っていてくれた。
なかに斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」上下ののっている『日本歴史』二冊もあり、それによると常陸における朝鮮渡来人関係の地として、次のようなところがあった。
△(郡郷不詳)高麗人五六人 持統天皇元年三 日本書紀。△(同)川原宿禰黒麻呂 常陸国風土記。△行方郡 道田郷 倭名類聚抄。△那珂郡 幡田郷 同。△新治郡 大幡郷 同。△茨城郡 大幡郷 同。
ほかに、おなじく関係ある古墳としては、
「行方郡玉造町三昧塚古墳」があげられており、また、石室に色彩のある壁画古墳が二つあげられていた。もちろん、関係あるところはそれだけではなかったが、たとえば、県史編さん室にあった『茨城の地名』により、右のうちの行方郡「道田郷」だった北浦村要地区のそこをみると、ここには鹿島神社、観音寺、かきの木遺跡、古尾本遺跡、ドンビン塚古墳群、堂目木古墳群、大峯古墳群、などなどがあった。
跡形もない仏浜の石壁
私たちは房総(千葉県)にもそれの多いのにおどろいたが、常陸もおとらず古墳は多いようだった。県史編さん室で考古学のほうを担当している佐藤次男氏に訊いてみると、古墳は、一九六四年までに調査したものとして五千八百七十一ヵ所があり、うち装飾のほどこされているものは、九ヵ所だとのことだった。
それからまた、塙さんは自分の知り合いの志田諄一氏に手紙で問い合わせてくれたりもしていて、そこから来た返事によると、常陸国分寺跡から出土した土師器(はじき)に、「狛連工」(こまのむらじのたくみ)と墨書したものが見つかっており、また、新治(にいはり)廃寺跡から出土した土師器には「田辺」と墨書したものがあって、「田辺」は百済よりの渡来氏族から出た、その田辺だというのだった。そして塙さんはさらにまた、右の土師器をいま所持している人まで突きとめてあって、親しいあいだがらだったからとはいえ、私としてはほんとうに感謝のほかなかった。
「だいたい」と、大学では東洋史を専攻した塙さんは、私に向かって言った。「日本にある朝鮮関係のそれをいちいち調べるとしたら、この茨城県に限らず、いたるところほとんどみなそういうことになるのじゃないですか」
「そうですね。そういうことになるかもしれませんが、しかし、それだけにまた、一般にはすっぽりとかくされてきたことも事実なので――」
私は、そんなふうにこたえた。いうならば、私はそれを少しばかり明らかにしてみようとしているわけだったのである。
塙さんや佐藤さんにたいし、私は、さきの「浅草観音と白鬚」の項でみた檜前氏ともつながっているといわれる『常陸国風土記』にある常陸国司、すなわち「国宰川原宿禰黒麻呂(くにのみこともちかわはらのすくねくろまろ)の時、大海の海べの石の壁に観音菩薩の像をつくった」という「仏浜(ほとけのはま)」はどこかと訊いてみた。だが、その仏浜の石壁はもうすっかり崩れてなくなってしまい、いまは跡形もなくなってしまっているというのだった。
その夜はこちらも塙さんを訪ねて来ていた、『アサヒグラフ』誌の遠藤弘道氏ともいっしょになってすごし、私たち一行は、茨城文芸協会の武藤正氏が紹介してくれた水戸駅近くの東屋なる旅館に泊まった。
常陸国分寺と秘話
翌日もいい天気だった。私たちは早々に起きて、仕度(したく)をした。
阿部桂司君は地図をみて、鹿島郡の駒木根の高麗来や、稲敷郡阿貝町の竹来(たかく)、もとは高来(たかく)(高麗)郷だったはずというそちらへ行ってみたいようすだったが、しかし私たちはまず、常陸国分寺のあった石岡へ行ってみようということになった。国分寺跡から出土した「狛連工」と墨書のある土師器を持っている手塚邦彦氏も石岡市に住んでいる医者で、私たちは塙さんからその手塚氏への紹介状ももらっていた。
ちょうどまた、私たちが東屋なる旅館で目をさましたこの日、一九七〇年五月十三日付け読売新聞朝刊の茨城版には、「規模は国分寺の半分/石岡の国分尼寺跡第一次発掘調査/回廊の位置など判明」として、次のような記事が出ていた。偶然で、おもしろいことだった。
石岡市尼ケ原にある特別史跡「常陸国分尼寺跡」の第一次発掘調査報告書がこのほどできた。この調査は昨年八月、石岡市教委の依頼で文化庁、県教委、県考古学研究会が中心となって実施したもので、全国でも数少ない“国分尼寺”の調査として注目されていた。ただ、地主の承諾が得られない地域もあったため、西側半分だけを第一次調査の対象とし、残った東側は、ことし七月末に第二次調査として行なうことになっている。
報告書によれば、これまでわからなかった国分尼寺の規模は約方一町(一辺約百九メートルの正方形)で、隣合わせの国分寺の半分の大きさであること、また、回廊の位置が中門から金堂どまりであったのか、それとも、さらに裏の講堂まで延びていたのかの疑問も、ほぼ講堂まで続いていたことがわかった。しかし、回廊と離れた南大門の位置や、回廊の幅、寺域を画した周辺の堀については不明な点が多く、第二次調査を終ってからの総合報告が待たれている。
なお、市教委では、第一次調査の際出土した土器やカワラ類などの出土品が、ミカン箱に十個以上もあるので、これを整理して、石岡市民会館に陳列、近く一般公開するよう計画している。
石岡市は水戸と土浦とのほぼ中間、霞ケ浦の近くにあった。私たちは市教育委員会を訪ね、居合わせた庶務課長の岸田明尊氏に会っていろいろと聞いたり、『図説・石岡市史』などみせてもらったりした。その『図説・石岡市史』に、こんなはなしがのっていた。
常陸国分寺にはもと、径一・○六メートル、高さ一・七九メートル、厚さ十・六センチ、重量百三十一キロの、「遠く百済から海を渡ってきたらしい」雌雄二つの梵鐘(ぼんしよう)があったが、そのうちの雌鐘が盗賊によって盗まれた。ところが、盗賊はそれを船に乗せて霞ケ浦沖へさしかかると、あたりはにわかに大暴風となり、おまけに鐘までが、「府中国分寺の雄鐘恋しや、ゴーン」と鳴ったので、盗賊はびっくりして、その鐘を霞ケ浦の湖中に沈めてしまった。――
まことにたあいないはなしではあるが、しかし、その鐘が二つあったことは事実だったらしく、のこった雄鐘は、一九〇八年の火災で焼失してしまったとのことだった。
過疎地帯の文化遺跡
石岡市は人口三万八千ほどで、どちらかといえば、いわゆる過疎(かそ)地帯といったところらしかった。そのような市として、そこにある国分寺などの文化遺跡を保存するには、ちょっと荷がかちすぎるのではないかと思われた。
私たちは市役所の近くにあった国分寺跡をちょっとぶらぶらし、市内の小林病院にいると教えられた手塚邦彦氏を訪ねた。診察室で会った手塚さんは、七十にはなると思われる老医者だったが、気さくでらいらくだった。『図説・石岡市史』にものっていた「狛連工」(手塚さんの説では、「連」ではなく「建」ではないかということだったが)の土師器をみせてくれることも、すぐに承知してくれた。
「しかし、どういうふうにしたものですかね。それはいまここにはなくて、ここからちょっと離れた家にある。家はさいきん新しく建てたばかりで、まだ片づいてもいないから、行ってさがしだしてこなくてはならないのだが、わたしはこれから、高校のほうへ集団検診のために行かなくてはならない」と手塚さんは言って、ほかにもまたいろいろなことを話してくれた。
それによると、石岡市のちょっとさきの八郷町に、国分寺の瓦を焼いた瓦谷(かわらや)というところがあり、そこにはたしか百済か高麗というところがあるか、あったかしたというのだった。また、近くには嘉良寿理(からすり)(加羅?)というところもあるが、これもなにか朝鮮と関係があるのではないか、ということだった。
「では、こうしていただけないでしょうか」と、そこで私は言った。「ぼくたちはこれから瓦谷のその百済か高麗というところをたずねてみて来ますから、そのあいだに先生は高校の検診をすませ、それから例の土師器を、――ということにしてはどうでしょうか」
「ああ、いいとも、いいですとも。それでは、午後四時までにそれをここへ持って来ておくことにしよう。もしわたしがいなくても、そこの看護婦たちに言っておきますから、どうぞ自由にみてください」
私たちは、八郷町へ向かった。そして小学校とならんでいる公民館にあった教育委員会を訪ね、社会教育主事の本図享(ほんずとおる)氏たちに会った。瓦谷に百済か高麗というところがあるそうだがと訊くと、それはわからないという。自分たちとしては聞いたこともないと、本図さんはそばにいた人たちをもかえりみて言い、それなら、小幡にいる町誌編さん委員の高橋包光(かねみつ)氏に聞いてみたらどうかと、そこへ電話をしてくれた。
八郷町考古館と未発掘の古墳
私たちはその小幡へ行くことになったが、来たついでに、そこの小学校のかたわらにあった、近くの丸山古墳からの出土品などを収蔵しているという八郷町考古館をみせてもらった。外へ出て気がついてみると、小学校の校庭にも盛り土に樹木の茂っている古墳があって、そのうえに稲荷を祭ってあるのが見えた。
「あの古墳は、もう発掘したのでしょうか」
須恵器(朝鮮式土器)などの土器や埴輪を要領よく陳列してあった考古館を出て本図さんたちに訊くと、それはまだ未発掘とのことだった。
「何で、ですか」
それなら自分が掘ってみてもいいといわんばかりにして、古墳好きの阿部君がつづいて言った。すると、
「あれを発掘すると、バチがあたるなどと町の人たちがいっているものですから」と言って、本図さんは笑った。
「いまどき」――というよりさきに、それはなかなかいいはなしだと私は思った。というのは、そういうことでもないかぎり、そういった古墳はなかなか守られないはずだったからである。
石岡市やこの八郷町の一帯は新治郡で、小幡というところは、偶然そうなったが、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」によってさきにみた、かつての「新治郡大幡郷」だった。私たちのクルマはがたがたの野道を走り、山越えして、やっと高橋包光氏の家を訪ねあてた。
かなり大きな農家で、八十はすぎていると思われる高橋さんは、家の隅にある書斎をかねた隠居所で地方史など研究しながら、ゆうゆう余生をたのしんでいるというふうだった。できれば、私もまた、こんな山中でこんなにして余生を送りたいものだと、あたりを見まわしながらふと思ったが、それはとうていかなわぬ相談であるにちがいない。
高橋さんはとても元気旺盛で、手ずから私たちに茶をいれてくれたりしながら話したが、交換した名刺を見ると、こうなっていた。
筑東史談会長
八郷町誌編さん委員
茨城県史編さん協力員
茨城県民俗学会員
高 橋 包 光
聴風台居主 臥峰 高橋包光
高橋さんのはなしは、まず、新井白石が常陸の地名について、ある過(あやま)ちをおかしているということからはじまったが、しかしどうやら、私たちが目的としていたことについては、いっこうに関心がないもののようだった。
「茨城の地名のことだったら、わしのほかにいない」と、瓦谷の百済や高麗は軽く一蹴(いつしゆう)してしまい、そんなところはないはずだと言った。
しかしながらそれならそれで、『茨城の地名』によると、そこの小幡にも下宿遺跡や国神遺跡、それから大塚山古墳といったものがあった。高橋さんは、そのはなしにもなかなか乗ってはこなかった。結局、それらの遺跡や瓦谷などにしても、私たちは直接そこまで行ってみるよりほかないようだった。しかし、手塚さんと約束した時間が迫ってきていた。
土師器にふられて
四時かっきりまでに、私たちは石岡市の小林病院へ引き返した。が、手塚さんはまだ戻っていなかったので、私たちは石岡駅前まで行って、やっとこの日の昼食をすました。
病院へ戻ると、手塚さんは戻って来ていた。ようやく、「狛連工」か「狛建工」かは知らなかったが、ともかく、かつての狛(高麗)人の手によって成ったものとされている、その土師器をみせてもらえると思って診察室に入って行くと、
「いやあ、すまん、ほんとうにすまんです」と、手塚さんは困ったような顔をして言った。「家へ行っていままでさがしていたのだが、どこへしまったか、わからんのですよ。なにしろ、まだいろいろなものが片づかんものですからね」
「そうですか。残念ですが、では、またこの次の機会にでも――」
私たちは、そう言って引きさがるよりほかなかった。だったら、『図説・石岡市史』にのっていたその写真をでも複写しておけばよかったと思ったが、もう間に合わなかった。
「いやあ、ほんとうにすまん。すまんことをしました」と、手塚さんは病院の玄関口まで見送ってくれながら、何度もおなじことをくりかえした。「なにしろ、家のものたちは、ああいうのをあまり大切なものと思ってくれないのでね」
「しかし、先生は、ぜひそれを大切にしてほしいと思います」
私はそう言って、手塚さんとわかれて出た。もう五時近くなっていた。東京までの距離を思うと、水戸街道へ出てまっすぐに帰らなくてはならなかった。
八 上野に残された痕跡
赤城の「からやしろ」
赤城神社に向かう
上野(こうずけ)(群馬県)はさきの「続・秩父と和銅遺跡」のところでいっておいたように、すでに水野明善といっしょにまわっていたが、それとあわせて、私はここも房総(千葉県)とおなじように前後三回にわたって行っている。さいごに行ったのはこの稿にとりかかる直前、一九七〇年六月半ばのことだったが、本文内容の構成上、さいごの三回目のほうからはじめることにしたい。
例によって同行は阿部桂司君だったが、房総以来の龍田肇(たつたはじめ)君もいっしょだった。私たちは周囲でクルマを持っている者のつごうがつかなかったので、朝、上野駅で落ち合い、列車で前橋へ向かって出発した。前橋につくと昼すぎになったので、私たちはそこで昼食をすまし、梅雨に入った曇り空の下を、忠治温泉行きのバスで赤城神社に向かった。
数年前の夏、私は小原元たちといっしょに、そこの忠治温泉なる宿にこもって執筆の仕事をしたことがあって、そのときの散歩で山の中腹にあった赤城神社もみていたのであるが、いま考えてみると、妙なものだった。それがのち、私のこの「――旅」の対象となるとは、そのときは思ってもみなかったのである。
赤城神社と新羅の関係
私も尾崎喜左雄氏の「上野における韓来(かんらい)文化」などを読み、この赤城神社というのは、いうところの上毛野(かみつけぬ)氏族の始祖とされている豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を祭るものであってみれば、もしかすると、これも朝鮮と関係あるものかもしれないとは思っていた。それを一歩すすめたのは、阿部君だった。
「このまえ上州へ行ったとき赤城へはまわれなかったですが、赤城山にある赤城神社というのはから社、朝鮮の韓社(からやしろ)らしいですよ。それから、富岡にある一の宮の貫前(ぬきさき)神社というのも、われわれはその前をクルマでとおっていながら気がつかなかったですが、これもそういう渡来人の神社らしいです」
阿部君はそう言って、今井善一郎氏の「赤城のから社」というのと、尾崎喜左雄氏の「貫前抜鋒神社の研究」などのコピーしたものを持って来てくれた。阿部君はどういうふうにして手に入れたのか、どちらも雑誌『群馬文化』『群大紀要』などからのものだったが、貫前(抜鋒(ぬきほこ))神社や妙義神社がそれであるということは、尾崎氏の「上野における韓来文化」にも出ていたが、さきに「赤城のから社」をみると次の、
上野のせたの赤城のから社 やまとにいかで跡を垂(た)れけん
という、源実朝(さねとも)『夫木(ふぼく)集』の歌を冒頭にかかげてこう書いている。
比叡山の西麓にある赤山禅院というのは名は禅院でありますが、その本体は仏体ではなく明神であります。その神体は毘沙門天(びしやもんてん)に似て赤色の戦衣をつけ三宝章の如き鍬形(三本)をつけた兜(かぶと)をかぶり、弓矢を左右の手にもった一箇の武将の如き姿であるといいます。ここに注意すべきは、赤袍(せきほう)を着ている事です。この神は円仁慈覚大師が支那から帰る際、山東省の今の青島附近の登州赤山村というのに漂着して、そこに居住していた新羅人の祀る赤山明神に祈り、再び支那本国に渡って仏法修業をとげ、帰来この神を遷(うつ)し祀った処といいます。
中国「山東省の今の青島附近の登州赤山村」とは、これはまたずいぶん遠いところのはなしだったものであるが、しかしやはり、ここで注意しなくてはならないと思われるのは、「そこに居住していた新羅人の祀る赤山明神」ということである。この赤山明神というのは、近江(滋賀県)の比叡山麓にある西坂本の雲母寺・赤山禅院のそれで、この付近にはまた、いま日本国宝となっている園城寺(おんじようじ)の新羅善神堂と新羅明神像とがある。
そしてある説には、「赤山明神は新羅神と同じ護法神で、赤山の地には新羅人が多く住して、彼等が篤(あつ)く崇敬していたので一名新羅明神としているのである」(宇野茂樹「園城寺新羅明神像」)ともされているとのことである。それはどちらにせよ、今井善一郎氏は朝鮮の新羅(韓(から))と、実朝の歌にある「から社」とを結びつけているのがおもしろいところである。実朝の歌のこの「から」は「空(から)」だという解釈もあるらしいが、しかし私には、今井氏の説があたっていると思われる。なぜなら、赤城山の赤城神社が新羅と関係あるのは、なにも実朝のその歌ばかりとはかぎらなかったからである。
忠治温泉行きのバス
そのことについてはまたあとで考えることにするが、私たちの乗った忠治温泉行きのバスは、この地名も私などにとってはちょっと気になる大胡(おおご)という町に入った。まもなく赤城山にさしかかるはずだったけれども、赤城神社というのは巨大なもので、かつては市ノ関(西)、苗ケ島(東)とともに、その大胡からして、これは中央参道の入口なのだった。
「龍田君、この大胡というところは、きみとなにか関係はないのかね」と私はバスのなかで、彼にこう話しかけた。というのは、龍田肇というのはペンネームで、彼の本姓は「大胡田(おおごだ)」だったからである。
「そうですね。ぼくの家は神奈川県だったのですが、案外、その先祖はこんなところから出ているのかもしれません」
「すると、それは豪族だな」と阿部君も、横からそう言って笑った。「ここはむかし、大胡氏の栄えたところだそうですよ」
「松本清張氏によると、神田(かんだ)というのは、韓田(からた)が刈田(かりた)となり、それがつまって神田となったそうだが、すると大胡田というのはどういうことになるかな。なにかやっぱり、そんな弥生時代的なにおいがするね」
「胡、胡人というのは古くは北方の遊牧民族をさしていったそうですから、もしかすると、大胡というここは、そういったものが大をなしていたところかもしれませんね。ぼくの先祖は、その大胡なるものの田を耕していたものだったかもしれませんよ」
もちろん笑いばなしのようなもので、龍田君も声をあげて笑った。そんなことを話しているうちに、バスは荒砥(あらと)川らしい川の橋をわたり、やがて桑畑のあいだから赤城山中に入った。
バスはがたがた道を大きく揺れながら登って行ったが、しかし、そこは見事な赤松の並木道だった。江戸時代の慶長年間に植えたもので、いまなおそうしてのこっているのは、大胡からのその中央参道のみとなっているとのことだった。間もなく赤城神社の一の鳥居が見え、バスは神社のある三夜沢(みよさわ)についた。
赤城神の起源
三夜沢とはこれもなかなか気に入った名だったが、それからバスは急に右折することになり、道路の直線上には赤城神社があった。日曜日だったからか、いうところのマイカー族の来ているのも見える。けれども、赤城山中腹の勾配(こうばい)を利用して石段を配した神社の広い境内は、寂(じやく)としてしずかだった。
亭々とした杉木立ちの下には湧水の小池などもあり、いわゆる公害だらけの東京から来てみると、それこそまったく別天地のような気がしないでもない。私たちはまず社務所を訪ねるつもりだったが、そこは固く戸を閉ざしたままだったので、さきにしばらく境内のなかをあちこちと歩いてみた。参道にならんでいる灯籠に刻まれた文字をみると、江戸時代の文化、文政のころの寄進となっている。それだけでも、立派な文化財となっていた。
私たちはもう一度鳥居のところへ戻り、阿部君が駆けて行って、近くの家の人に宮司の居所を聞いてきた。境内の右手の草むらに小道がつうじていて、そこを抜け出るとかなり大きな一軒の農家があった。それが、赤城神社宮司となっていた奈良原安夫氏の家だった。
森閑(しんかん)とした広い家のなかから、これまた広い庭に面した縁先に出て来た奈良原さんはほっそりと痩(や)せた老人だったが、ゆっくり、ゆっくりと話す口調はしっかりしたものだった。私たちはまず、『赤城神社由緒略記』というリーフレットをもらい、そこの、これまた広くて、朝鮮の大庁(デエチヨン)(板の間)を思わせるような縁先に腰をおろして話した。
リーフレットの『赤城神社由緒略記』をみるまでもなく、その神社が「赤城神」、すなわち大己貴神(おおなむちのかみ)と、上毛野氏の始祖とされている豊城入彦命とを祭るものであることはわかっていた。しかしみると、そこにもこんなくだりがあって、実朝の歌が引かれていた。
つまり、上毛野君の氏族が東国を開拓して、東北地方へまで発展していたので、その基地である上毛野国に赤城神社を祀ったもので、そこで平野に望んで、他の山々を後ろに従えたこの雄大な赤城山の神と、小沼(この)から流れ出る粕川(かすかわ)が灌漑(かんがい)に利用されたので、その農業の神とが赤城神の起源と考えられる。
鎌倉時代になると、三代将軍源実朝の歌に、
上野の勢多(せた)の赤城のからやしろ やまとにいかであとをたれけむ
とあるように、将軍をはじめ武将たちが崇敬したばかりでなく、赤城神社は上野の二の宮とよばれて、一般の人々の信仰のまとになった。神道集という吉野時代に伝説などから作りあげられた物語の本には、もと赤城神社は一の宮であったが、機(はた)を織っている時に「くだ」が不足し、貫前神(ぬきさきのかみ)に借りて織りあげたので、織物が上手で、財持ちである貫前神に一の宮をゆずり、自分は二の宮になった。
あとの貫前神社のところでみるように、さいごのこの伝説はなかなかおもしろい意味をふくんでいると思うが、それよりいまは、またここにも引かれているのをみることになった実朝の歌の「からやしろ」ということである。「小沼から流れる粕川」の「粕」「柏」については、中島利一郎氏の『日本地名学研究』に考証があって、これは朝鮮語のコイス(首長)からきたものだということだった。
「からやしろ」の謎
してみると粕川の名は、その川の流れを農業の灌漑に利用した農耕民たちの首長からきたものとも考えられるが、しかし「からやしろ」については、いま一つはっきりしたことが不足しているように思われる。で、私は念のため、そこの縁先に坐ってたばこを吸っていた宮司の奈良原さんに訊(き)いてみた。
「ここにある実朝の歌の『からやしろ』ということですがね」と言って、私はリーフレットのそこを奈良原さんにしめした。「この『から』というのは、どういうことなのでしょうか」
「さあ、どういうこと、なのでしょうかね」と、奈良原さんは、一語一語ゆっくりと区切るようにして言った。「それには、むかしから、いろいろな説が、あるようですが――」
そして奈良原さんは、それきりだまってしまった。「いろいろな説といいますと……」と追いかけて訊こうかと思ったが、しかしそこまでで、私はやめた。宮司の立場としては、かりにそれを知っていたとしても、それが「からやしろ」(韓社)、すなわち「朝鮮社」とはいえないはずだったからである。
私たちの話題は、赤城神社というのは上野の百十八社をはじめ、合併または廃社となったものをあわせると、全国にはその分社が三百三十四社もあるということから、伊勢崎の赤城神社には、本来なら寺院にあるはずの多宝塔があるはなしになったが、しかし、私はやはりどうもその「からやしろ」というのが気になる。まず、それが少しでも明らかにされないことには、どうも腰のすわりがわるいようである。
そのことが明らかになれば、赤城神社がどういうものであるかということもしぜんにわかるというもので、そのことは同時に、この上野とはいったいどういうところであったか、ということでもある。もちろん古代のそれであるが、上野は周知のように、かつては毛野国(けぬのくに)といったところの一部であった。これがのち上毛野(かみつけぬ)、下毛野国(しもつけぬのくに)にわかれ、さらにそれがまた上野(こうずけ)(上つ毛=群馬県)、下野(しもつけ)(下つ毛=栃木県)となったこと、これもよく知られているとおりである。
そして上野国には群馬郡があったところから、のちここは群馬県となったのであるが、だいたい、この「群馬」という語からして、われわれはどういうイメージをよびおこされるであろうか。馬のたくさん群(む)れているところ、関東平野における朝鮮渡来人と縁の深い牧畜、放牧場などを思い描くこともできるのであるが、しかし、中島利一郎氏の『日本地名学研究』によると、群馬というのは朝鮮語クル(文)、すなわち文部(クルベ)から来たものだというのである。ほかにも説はあるけれども、これからみるように、上野における文字文化の発祥・発展ということから考えると、中島氏のこの説にはなるほどとうなずかれるものがある。
架空の人物・豊城命
さて、ところで、この上毛野国をかつて支配したのは、国・郡制となる以前は小独立国家の支配者の称号を意味した上毛野(かみつけぬの)「君(きみ)」、すなわち上毛野氏であった。上毛野氏の祖は荒田別(あらたわけ)なるもので、そしてこの荒田別は、「からやしろ」赤城神社の祭神となっている豊城入彦命から出たものとされている。そしてさらにまた、この豊城入彦命というのはさきの「那須国造碑のこと」の項でもみたように、崇神帝の子ということになっているものであるが、尾崎喜左雄氏によれば、「豊城入彦命は架空の人物であり、上毛野氏が系図をつくり、歴史を編纂(へんさん)するようになって、求め得た祖先名であろう」(「上野における韓来文化」)というものである。
あるいは、そうかもしれない。というより、それにちがいないと私も思うが、それならその「求め得た祖先名」がどうして豊城入彦命であったのか。または、どうしてそうでなくてはならなかったのか、ということである。尾崎喜左雄氏もいっているように、この豊城というのは、赤城というのとも関係あることばであるが、私がここで思いおこすのは、さきにみた上野隣接の武蔵(東京都・埼玉県)の名が中島利一郎氏によれば朝鮮語「ムネサシ(宗城・主城)」からきたものということであり、おなじくまたその隣接の相模が「サネサシ(真城)」からきたものだということである。
では、トヨサシ(豊城)という豊城の「豊」とはいったいなにかということになる。これは美称でもあって、『日本霊異記』などにもみえているように、日本ではかつて朝鮮・新羅のことを「豊国」ともいったということがわかれば、その意味はおのずからつうじるというものである。
『日本書紀』用明条二年に「豊国法師」とあるのも、これは江戸時代の考証学者である狩谷〓斎(えきさい)のいっているとおり、「韓国(からくに)法師」のことなのである。
この法師のことについては、「百済の僧侶の来朝して来て豊後の国にいたもの」(日本古典全書『日本書紀』の注)という解釈もあるが、豊後・豊前(大分県・福岡県)とは、これも新羅のそれから「豊国」といっていたからにほかならない。そして「豊」を日本では古く「から」(韓)とも訓(よ)んでいたことがわかれば、ことはいっそうはっきりする。
そこでこんどは、その豊城から出たものという上毛野氏の祖となった荒田別と、下野のほうのそれとなったという鹿我別(かがわけ)とである。この荒田は新田(あらた)でもあって、それがのち新田庄(につたしよう)となり、そこからさらにまた新田氏がおこっていること、これは日本中世史がしめすとおりである。そして一方、鹿我別の鹿我からは下野の足利庄(あしかがしよう)と足利氏とがおこって、それぞれにその名をいまにのこしているのであるが、ここでまた問題となるのは荒田別・鹿我別という、この「別(わけ)」とはなにかということである。
“別”と王仁氏族
桜井光堂氏の『古事記は神話ではない』によれば、この「別」というのは朝鮮からの「分国」を意味したものだとのことであるが、中島利一郎氏の『日本地名学研究』によると、これは朝鮮語のワング(王)から来たものであるとして、こうのべている。
「王(ワング)」が日本語化して別(わけ)となり、基の原義が忘れられて了(しま)ってから、いつしか一般にも使わるるようになり、それが変化して若(わか)となった。後世、源義経の幼名を牛若といったことは余りに有名である。
どっちにしても、当時としては「分国」があれば「王」があったわけで、これはおなじであるが、ここにいう荒田別というのは、これはまた朝鮮・百済から、日本儒学の始祖となっている有名な王仁(わに)をともなって来たものだということになっている。西文(かわちのふみ)氏などとして栄えた王仁系氏族の祖となった王仁をかれがともなって来たとはほとんど信じられないことであるが、しかし、さきにもいったように上野における文字文化の発祥・発展ということからみれば、王仁系氏族ともなにかでつながりがあったのではなかろうかとも思われる。
何だか、妙に考証めいたようなことになったが、いずれにせよ、古代の上野というところは、鬼怒(きぬ)(絹)川の名とともに、毛野国の原義となったといわれる絹(ケン・けぬ・きぬ)、すなわちその養蚕技術をともなった朝鮮からの渡来人が開発したものであることがわかれば、それでいいのである。いうならば、そのようにもこの上野はかれらのその遺跡にみちているということなのでもある。私たちは赤城を離れて、伊勢崎へ向かった。
妙義・貫前・富岡
一時間バスを待つ
赤城神社ではまだほかにもみたいものがあったにもかかわらず、急いで伊勢崎へ向かうことになったのは、そこの赤城神社にある多宝塔というのをみたいと思ったからだったが、これは、結果としてどちらも失敗だった。伊勢崎の赤城神社にあるものはどうかわからないけれども、そういう塔は、群馬大学の尾崎喜左雄氏が「赤城塔」と名づけているほど、この地方には多いものだとのことだった。
私たちは宮司の奈良原安夫氏の案内で、こちらの赤城神社にあるそれはみせてもらうことができた。塔は境内の草むらのなかにかくれるようにしてあって、なかなかかわいいかたちをしたものだった。それだけにまた、「近ごろは、こういうものがよく盗まれるので困る」と奈良原さんは例のゆっくりした口調(くちよう)でこぼしていた。
ついで私たちは、そこからもう少し行ったところの赤城山中にある古代の祭祀跡で、そこからはいまでもその祭祀に用いたものとみられる土器のかけらなどが出ているという、櫃石(ひついし)の遺跡もみたいと思ったが、もう時間がなかった。まだそんなにおそくなっていたわけではなかったけれども、私たちは伊勢崎の多宝塔をみたいと思っていたから、赤城からはもうそれで引きあげることにしたのである。
が、これが失敗のもとだった。というのは、都会生活者の困った感覚というもので、私たちはどちらもうっかりして、帰りのバスの時間を調べていなかったのである。いつでも乗れるというそういう感覚だったからだが、三夜沢の停留所まで行ってみると、前橋行きは出たばかりだった。しかしちょうどうまいことに、次は伊勢崎行きとなっていたけれども、何と、それまでには一時間余りもそこで待たなくてはならなかった。
やれやれ。――引き返して、櫃石のほうをとも思った。しかしいまとなっては、それも中途半端だった。仕方なく私たちはそこでむなしく一時間余をついやし、やっと来たバスで伊勢崎へ出たが、そのときはもうすっかり暗くなってしまって、神社の多宝塔をたずねるどころではなかった。しかも、朝から曇っていた空からは雨まで降りだしていた。
秦氏の勢力のほどを示す伊勢崎の多宝塔
多宝塔とはいっても、それがただの多宝塔というのだったら、私たちはなにもそんなにまでしてみようとしなくてもよかったのである。しかし、それにはまたそれだけの理由があって、谷川健一氏の『埋もれた日本地図』「関東地方に遺(のこ)る古代朝鮮の文化」の上野(群馬県)におけるそれをのべたところに、次のようなくだりがある。
韓級(からしな)神社に隣り合わせて織裳(おりも)という地名があったのも、そこが朝鮮ふうの衣裳の産地であったことを思わせずにはおかない。ここには上野に来た服織部の秦氏が住んでいた。秦氏は新羅系の帰化人であるが、この地方に秦氏がどれほど勢力をもっていたかを示すものに、伊勢崎市の赤城神社に遺っている多宝塔がある。境内にある立札の説明によると、この塔は全国唯一のめずらしい型式のものとされているが、その台座の横に絹織物や養蚕にゆかりの深い秦姓四名の文字が刻まれている。この貞治五年(一三六六)につくられた多宝塔の献納者の中に秦氏が四人も名を連ねてみえることは、古代以来の秦氏の力の根強さを思わせないではすまない。
ここにいう秦氏というのは、山城(京都)を本拠とした秦氏の支族なのか、それともこれはまた別に朝鮮から海(朝鮮語バタ・ハタ。日本語の機(はた)にもつうじる)を渡って来た秦氏族なのかはわからない。もしそれが山城を本拠とした秦氏の支族とすると、これは日本全国にわたって、じつに広く分布したものといわなくてはならない。
どちらにせよ、秦はもちろんのこと、大幡、小幡、八幡、秦野、波多野といった地名・人名などもみなこれから出たものであるが、とくに、さきにみた相模(神奈川県)の秦野がそうであったように、これは機織(はたお)りのさかんなところとは切り離せないものとなっている。武蔵(東京都・埼玉県)の八王子や秩父、下野(栃木県)の足利などとともに、この伊勢崎もまた機織りのさかんなところであった。
そんなことがあって、私たちは伊勢崎にある赤城神社の多宝塔をみたいものと思っていたのだったが、時間をとることに失敗して、これははたすことができなかった。私たちは国鉄の両毛線から信越線の磯部(いそべ)まで行き、その磯部温泉の昭里なる旅館で一泊することにした。
妙義山中の波己曽社
翌日も、雨は降りつづいていた。私たちの泊まった磯部というところは、上野の物部(もののべ)氏族や石上部(いそのかみべ)氏族などとともに、これも上毛野氏の支族とみられている磯部氏族のいたところで、ここにはこれから訪れる上野国一の宮貫前神社の前宮とされている咲前(さきさき)神社があったが、しかし、私たちはそこまでいちいちたずねていたのではきりがなかったので、雨のなかをバスで妙義へ向かった。
妙義山中にある、波己曽(はこそ)社だった妙義神社をみたいと思ったからである。「神社の名称には村主(すぐり)、勝等(すぐり)が数個見え、明らかに朝鮮系統と考えられるし、妙義神社の古称波己曽神社も『こそ』を含んでいるので、『ひめこそ』神の伝承から新羅系とも考えられる」(「上野における韓来文化」)と尾崎喜左雄氏のいっているように、ここにもそれがあったのである。
あの峨々(がが)とした妙義山にそういう神社があるというのもおもしろいことであるが、それは、神社ばかりではない。ここには金鶏(きんけい)山というのもあって、これも新羅とのつながりの深さを思わせるものである。
朝鮮の新羅にはむかしから、「金櫃始林(きんひつしりん)の樹枝に掛かり、白鶏その下に鳴いた」という、新羅歴代の王となった金氏の始祖伝説がある。それで国号も一時は「鶏林」としたほどだったが、妙義の金鶏山もおそらくはそこから来たものにちがいなかった。とすると、新羅系の比売許曽(ひめこそ)社である妙義神社がそこにあるのも、これはけっして偶然ではなかったのである。
ちなみに、比売許曽(ほかに波牟(はむ)許曽、阿麻美(あまみ)許曽などもある)とはなにかといえば、これは新羅・加耶よりの天日槍(あめのひぼこ)渡来伝説から出たもので、比売は姫であろうが、許曽は居世(コセ)という朝鮮語の敬称から出たものである。新羅の始祖を赫(ヒヨク)居世といったものであるが、この敬称を持ったいわゆる朝鮮系の神社はほかにもたくさんあって、江戸時代の伴信友は、「神社を許曽と云う事」ともいっているほどである。
石段を登って行くと切り妻造りの仁王門が見えたので、ここは神社ではなく寺かと思ったが、それは総門なるもので、あとで知ったけれども、やはり元は白雲山の石塔寺にあった仁王門だったとのことであった。妙義神社はそのなかにあって、本殿まではまた急な長い石段がつづいていた。時間もなかったし、雨も降っていたので、私たちはそこまで登ってみるのはやめにし、右手の宝物館というのをみせてもらうことにした。
宝物館には別にこれといったものはなかったが、元は江戸寛永寺座主の輪王寺宮の隠居所だったとかいう、その庭はなかなか見事なものだった。はるかに見はるかす全体が借景となっていて、あいにくの雨のためそれはかなわなかったけれども、そこからは筑波(つくば)山や秩父連峰までを一望のもとにすることができるとのことだった。
雲の垂(た)れ込んでいるそこはともかく、私は雨の降っている眼下の丘や田野などをながめわたしながら、もしかすると、ここもかつては古代朝鮮式の山城のあったところではなかったかとふと思った。が、いまは、それをたずねてみるすべもなかった。案内人によると、金鶏山はそこから右手の向こうにあたるとのことだったが、雨でそれも見えはしない。
石段を下った底にある貫前神社
私たちは前日のことがあったので、こんどはちゃんとたしかめておいたバスの時間どおり、妙義から富岡の貫前(ぬきさき)神社へ向かった。磯部から妙義までは、左手に見えつづける桑畑の向こうに一つの細長い丘陵がずっとつづいていたが、こんどはそれの向こう側を、逆に、バスは桑畑とその丘陵に沿って走った。やがてバスは、貫前神社のある山の背後に私たちをおろした。
その背後のところから山を登り、正面へとまわってみてわかったが、貫前神社というのはほかの多くの神社とはちがって、ちょっとおもしろいぐあいになっていた。たいていの神社は、だいたい石段を登ったところにあるのがふつうだが、これはさいしょの石段を登り、そして次に急な石段を下ったその底のほうにある。農耕と機織りとを守るものとされている雷(いかずち)の神と嫉妬(しつと)深い女神とをそこに閉じこめている、というふうにみえなくもない。
さすがに上野国一の宮を称するものだけあって、貫前神社は参道も鳥居も立派であり、急な石段の底にある本殿も豪壮なものだった。尾崎喜左雄氏の「上野における韓来文化」によってみると、こうのべられている。
この貫前神社の伝承を吉野時代の成立と推定されている神道集によれば、女神、外来神、機織神、財神の性格を有していることが知られる。現在貫前神社の祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)となっており、女神は配神の如く扱われているが、実は経津主神は抜鋒神であり、石上部、磯部、物部等の物部系の部族が碓氷(うすい)郡から繁衍(はんえん)して、その氏族神石上神宮を祀ったものであり、その両神が合祀されたものである。抜鋒神の系統は咲前神社、貫前神社、稲含神社と北から南へと一直線を為して、貫前神社で貫前神の系統と交叉しているのである。即ち貫前神社は帰化人の崇敬する神の性格が強いのである。
この貫前神社は平安初期にその名が表れ、延喜式神名帳には大社であり、やがて武士の勃興期の頃からは抜鋒神社の名が代って表れて、あたかも貫前神社は抜鋒神社とその名を変えたかのように取扱われてきた。抜鋒神社は武家時代には上野国一の宮となっていたのである。明治初年にいたって、王政の復古と共に王朝時代の名にもどって貫前神社を称し現在にいたっている。即ち貫前神社は、甘楽の谷の帰化人の崇敬した神社である。
雨のためか参拝客は見えなかったが、しかし赤城神社とはちがって、こちらは社務所も開いており、なかで執務している人も二、三人見えた。私たちは刺(し)をつうじ、社務所の一室で宮司の三嶋通雄氏に会った。
姫大神の経済力が勝つ
居ずまいのきちっとした三嶋さんは、二年ほどまえに鹿児島から赴任(ふにん)して来たとのことだったが、ここは群馬県のうちでも比較的温暖なところで、台風もなく、とても住みよいところだと言った。そして貫前神社の祭神は、房総(千葉県)の香取や常陸(茨城県)の鹿島神宮のそれともおなじだというはなしから、養蚕はいまでも群馬県が日本第一であるが、その群馬県のうちの第一はここ富岡の甘楽(かんら)郡だとも言ったので、
「はあ、そうですか。なるほど」と、私はノートをとりながらうなずいていた。と、横からなにを思ったのか、龍田肇君がこんなことを言った。
「ほんとうは、元は赤城神社が一の宮で、ここは二の宮だったそうですね」
それを聞くと、一の宮貫前神社宮司の三嶋さんは瞬間絶句してしまい、しばらくそのまま空(くう)を見つめたきりだった。突然、えらいことになったと思わないわけにはゆかない。
「いや、それはきみ、そんな伝説があったというまでのことだよ」
私はあわてたようにその場を何とかとりつくろったが、たといそれだったとしても、そんなことは、そこで言ってはならないことだった。一ノ宮と、そこは地名までが一の宮となっているばかりか、神社自体の名にも必ず「一之宮」がついていた。たとえば、私たちが社務所からもらったリーフレットにも、「一之宮貫前神社」とあり、「一之宮貫前神社は上野国の一の宮で」というふうである。
龍田君が何とはなし、さきにみた赤城神社のほうの肩を持つようなことになって、「ほんとうは――」と言ってしまったのも、じつはそれがまたうるさいほどに「一の宮」「一之宮」といっていることに起因していたのではなかったかと思う。あんまり強調されると、疑ってみたくなるのも道理で、それはわれわれの生活によくあることである。
しかも、伝説とはいえ、赤城神社と貫前神社とのあいだには、別にまた、そう疑われてもいいと思えるような根拠もあった。じつをいうと、私もそのことを思いだしていたのであるが、根拠というのはさきにみた『赤城神社由緒略記』の、「もと赤城神は一の宮であったが、機を織っている時に『くだ』が不足し、貫前神に借りて織りあげたので、織物が上手で、財持ちである貫前神に一の宮をゆずり、自分は二の宮になった」というそれである。
はなしとしても、これはなかなかすてがたい、おもしろいものだった。つまり、いうならば、赤城神社の祭神は豊城入彦命とされて、どちらかといえば武の神であるが、それがのちには、貫前神社の祭神とされた機織りの神である姫大神(ひめおおかみ)の経済力に負けたのである。
あとでは経済力が勝ちを制すること、これは大和(奈良県)の平城京がのちには秦氏族の経済力によって、山城の長岡京から平安京へと移るそれをみてもわかる。そういうふうにみると、貫前神社のある富岡の甘楽郡が養蚕日本一の群馬県中でも、さらにまたここが第一であると言った、宮司の三嶋さんのはなしとも符合することになる。そしてそれはまた、それほどにもこちらはむかしから養蚕がさかんだったのだ、ということでもあったわけである。
富岡高校郷土部をたずねる
私たちは、下の街道からすると、貫前神社参道石段の右手にあった県立博物館に寄ってみた。ここも定石どおり、一階には縄文、弥生と遺物がならんでいたが、しかしどういうわけか、古墳からのそれは案外少なかった。上野は関東でいちばん古墳の多いところだったにもかかわらず、それが貧弱なのはなにか理由があるらしかったが、私はこの博物館で、『かぶら』第五号とした富岡高等学校郷土部の雑誌を一部買った。
そして私たちは、街道筋の食堂でおそくなった昼食をとることにして、『かぶら』というその雑誌をかわるがわるにみた。ほとんどの執筆者が、高校生であるのがおもしろかった。彼らの参加した古墳発掘のことなどもあって、なかなかうらやましいかぎりだったが、阿部桂司君かだれかが言いだしたかして、私たちは、その富岡高校の郷土部なるところへ行ってみようじゃないかということになった。
食堂のおばさんに訊くと、高校は私たちがこれから訪ねようとしていた富岡市役所への街道筋にあるということだった。聞いているうちに、これまたちょうど下仁田のほうからバスがやって来たので、飛び乗るようにしてさっそくそこへ向かった。
富岡市の七日市にある群馬県立富岡高等学校は、もと加賀藩の支藩の陣屋だったところにあって、陣屋の遺構がそのまま表玄関となっている珍しい構えの学校だった。私たちは郷土部というのをたずねたところ、その部の顧問となっている教諭の神道登氏に引き合わされた。神道さんは古くからの教諭らしく、感情はめったにおもてにださないといった感じの人だったが、私たちがそこへ来たことの目的を聞くと、
「そうですか。それだとすると、ここは宝庫ですからな」と言った。「この学校へ来ている生徒たちの姓をみてもわかりますが、高麗(こま)、小間(こま)、高間(こうま)など、それから出たと考えられるものは、およそほとんど全部ここにはありますよ。高間は高間(たかま)ともいっていますけれども、これも元はこま(高麗)から来たものではないかと思います」
「これはおもしろいことになったぞ」と私は思ったが、しかしどうしたものか、はなしはそれ以上、その方向には少しも進展しなかった。また、私たちは、そこの郷土部の生徒たちともいっしょになっていろいろと話してみたいと思っていたのだが、それも望めないものであることがすぐにわかった。
よけいなことは言いたくないが、一口にいって、生徒たちは外部との接触を警戒され、相当慎重に「管理」されているようだった。郷土研究なるものも、いわば彼らがほかの「運動」に走るのを引きとめるための手段の一つというふうになっているらしかった。生徒たちは、おそらくそこの地を流れている鏑(かぶら)川からその誌名をとったにちがいない『かぶら』という語源、これも朝鮮の韓(から)から来たものといわれるそれをどういうふうに理解しているのか、そういうことも私は訊いてみたいものと思っていたのだったが、そんなことはゆるされそうになかったのである。
韓の古銭が発掘
富岡市役所は近くだとのことだったので、雨もちょっと小降りになっていたから、そこまでは歩くことにした。歩くということは、やはりいいものらしかった。私たちは途中にあった書店で群馬県歴史研究会編『群馬県の歴史』などを買い、ついでまた、古本屋さんに寄っては、そこでほこりを浴びたままになっていた一九三〇年の新光社版「日本地理風俗大系」『朝鮮』編上下そろいを掘り出したりして、市役所のなかにあった富岡市教育委員会を訪ねた。
富岡というところは、上野国甘良(から)(楽)郡といったむかしから養蚕と機織がさかんだったばかりか、明治になってからはフランス人ブリューナというものの指導により、ここに日本さいしょの近代的な官営製糸工場ができたということでも有名だった。古代からのそれがまっすぐに受けつがれたわけだが、教育委員会では私たちは、社会教育担当主幹の後藤芳男氏、同担当主査心得の津金沢正洋氏にいろいろと世話になった。
もう午後五時になっていたので、そう長居はできなかったが、私たちはそこでさいしょに、同市のだしている観光案内のパンフレット『雲の流れ』(とはなかなかしゃれたもの)を一部ずつもらった。まず、第一ぺージの「まえがき」をみると、「見学に入るまえに、富岡市及び周辺地区のなりたちと、概要を参考までに記します」としてこうある。
甘楽郡の名は、古く多胡碑に甘良郡と刻まれておりますように、甘良(から)は韓(から)であって、仏教が伝えられてからは帰化人が沢山この地に移り住み、開拓されたと見る向きが多いようです。これはごく最近下仁田附近で、韓の古銭が沢山発掘されたことによっても窺(うかが)い知ることができます。従って、甘楽の谷津は、文化も農業も帰化人の影響を受けて発展したと申されましょう。
「見る向きが多いようです」とか、「影響を受けて発展した」など、例によって例のごとき書きかただったが、それはともかくとして、「韓の古銭が沢山発掘された」というのには、私は目をみはった。おなじところをみていた阿部君や龍田君もそれに気がついて、私の顔を見る。
「おや、おや」と、私は思わないわけにはゆかなかった。その「韓の古銭が沢山発掘された」という下仁田というところは、はじめ水野明善といっしょに来たとき一泊したところだったのである。しかもこのまえ、第二回目に阿部君や龍田君たちがいっしょに来たときも、そこはとおったところだった。
好意に甘える
いまからそこまで行くということは、翌日もう一日をついやすということで、どうにも日程がゆるさなかった。下仁田のそれは、他日を期するよりほかない。
ちょうどありがたかったことに、そこにいた主査心得の津金沢さんは、私の書いたものを読んだことがあるそうで、私たちの聞きたいと思っていたこともすすんで話してくれた。そして、富岡市の刊行した『富岡史』はじめ、いろいろな文献なども持って来てみせてくれた。しかも津金沢さんは私たちのみたいところをちゃんと知っていて、そこを開いてわたしてくれるのだった。
私としてははじめてみる、斎藤長五郎氏の『群馬県史』「原始・古墳時代」の第七節「古墳時代の帰化人文化と上野国」もそうしてみせてもらったものの一つだった。その部分だけでも数十頁にわたるもので、ちょっとくってみただけでも、そこには私たちの知らないことや、参考にしたいところがたくさんある。
「この本、手に入れることはできないものでしょうか」と私は、それこそよだれを垂(た)らすようにして言った。奥付けをみると、前橋市の煥乎堂(かんこどう)というのが版元となっている。
「訊いてみましょう」と、津金沢さんはさっそくそこへ電話をしてくれたが、品切れでないということだった。
「うーむ」と私はなおもそれの頁をくっていると、横から阿部君のささやくような声がした。
「ここにはコピー機があるはずですから、それだけコピーしてもらったらどうですか。あの人ならやってくれますよ」
「ええ、いいですよ」と、津金沢さんは言った。「ほかにもいるところがあったら、そう言ってください」
何のことはない。津金沢さんは、阿部君の言ったことを聞いていたのである。そうとう、厚かましいしだいではあったが、私はその好意に甘えることにした。
多胡碑と韓科(級)
甘楽郡高天原の神話
はじめ行ったときのことはしばらくおいて、第二回目の上野(群馬県)行きも、それを促進したのは阿部桂司君だった。私ははじめのとき、水野明善といっしょに高崎市八幡(やわた)の観音塚古墳などはみていたが、例の尾崎喜左雄氏の「上野における韓来文化」をも読んだりして、これも観音塚古墳とおなじ高麗尺(こまじやく)使用の豊城入彦命の墳墓と称する総社(そうじや)の二子山古墳や、その子孫荒田別のものともされている蛇穴山(じやけつざん)古墳なんかも一度みておかなくてはならんなあ、と思っていた矢先のことだった。
じつをいうと、私はそんな古墳や神社などはこれまでにもかなりみてきたので、いささかちょっと食傷気味だった。が、しかし、「古墳自体がその成立は朝鮮文化によっているのである」(尾崎喜左雄・同上)とされているばかりか、しかもその古墳の数は上野が関東第一であった。ついで多い順は下野(栃木県)、房総(千葉県)となっているとのことだったが、上野のそれは、一九三〇年の調査ですでに八千四百三十三基をかぞえるにいたっていた。
したがってまた、明らかに朝鮮渡来のそれとわかる出土品もたくさんあって、どうしてもそのままに見すごすことはできないものとなっていたのである。そこへ、勤め先の仕事の関係で十日間ほど群馬大学の医学部に出張して帰った阿部君が、こんなことを言いだしたのだった。
「このまえ行ってみて来たと言っていた、多胡碑(たごのひ)ですね。あれによるといまの甘楽(かんら)郡というのは元は甘良(から)郡で、朝鮮の韓(から)からきたのだそうですが、前橋の古本屋で立ち読みした『上州路』とかいうのによると、あの近くには高天原(たかまがはら)というところがあって、あそこにはそんな神話みたいなものもあるらしいです」
「なに、高天原。その神話というのはどういうのだった?」
もともと、日本の高天原神話というのも朝鮮の加耶・加羅(から)(新羅)からきたものであった。少なくとも、それが朝鮮の『三国遺事』にある駕洛(加耶・加羅)国の建国神話と同型のものであることは広く知られているとおりだったが、阿部君がそういって来たのも、そのことを知っていたうえでのことだった。
「ちょっと忘れましたが、何でも、神流川(かんながわ)という川の名もそれでできたとかいうことでしたね。はなしそのものとしては、日本(やまと)武尊(たけるのみこと)説話みたいなものになっていたようでしたから、あんまりよく読まなかったです」
「それ、買って来てくれればよかったのに。大部のものだったかね」
「いや、新書判の古いやつでしたが、そのくせ値段が高かったので――」
阿部君はくせで、頭に手をやった。失敗したかな、と思いはじめたことの信号だった。
「高いって、いくらだった」
「上下二冊で、たしか千五百円か二千円だったと思います」
「うむ――」
「それから」と、阿部君ははなしを転じた。「ちょっと時間があったので、前橋の周辺を歩いてみましたが、あそこの総社というところは、すごく壮大な古墳のたくさんあるところですね。愛宕(あたご)山とか、宝塔山(ほうとうざん)古墳とか。近くにはまた山王廃寺跡などというのもあって、まるで、ちょっと奈良あたりへ行ったような感じでした」
「うむ、関東の奈良か。そういうものだったのかもしれないな、上州というところは――」
そこで、私たちはまた上野へ向かって出発した。このときはさいしょの予定地である前橋周辺の案内役となった阿部君ほか、水野明善やそのクルマで小原元もいっしょだったばかりか、千葉からは小出輝雄君のクルマで来た龍田肇君も加わり、そうとうにぎやかな一行となった。
上野古墳文化の極致
私たちはまず、阿部君のいった前橋市の古本屋さんに寄って、萩原進氏の『上州路』「伝説篇」の上下二冊を買いとり、群馬大学に尾崎喜左雄氏を訪ねた。私はまえから、この大学の考古学教授である尾崎氏に直接会っていろいろ聞きたいと思っていたのだったが、あいにくなことに、尾崎氏はことし定年退官となって、もうそこにはいなかった。
近くにあった総社へまわり、総社小学校と向かいあわせになっていた宝塔山古墳、蛇穴山古墳など、私たちはそこら辺に集中していた古墳をみて歩くことになった。その規模といい、古墳のなかにのこっている石棺の精巧さといい、なるほど阿部君の言ったとおりどれも「すごく壮大」なもので、高崎市観音山の観音山古墳、同市八幡の観音塚古墳などとともに、それらは上野における古墳文化発達の極致をしめしたものであった。
蛇穴山古墳のなかにあった石棺のほかは、そこから出た遺物はみなどこへ行っているのかみることはできなかったが、私はさきに水野といっしょに来たとき、高崎市八幡の観音塚のそれは見ていた。私と水野とは多胡碑をはじめとするいわゆる上野三碑をまわり、高崎市教育委員会をへて、その観音塚古墳をたずねたのだった。
観音塚古墳は、あの太平洋戦争まではそこにあったただの小山にすぎなかった。それだったのに、戦争の激化にともなって、周囲の人たちがそこに防空壕(ごう)をつくろうとして掘りはじめたところ、大きな横穴が見つかり、なかから直刀などの武具や馬具、須恵器などの副葬品がぞくぞくと出て来たことから、古墳であったことがわかったものであった。
そしてそこから出土した遺物は、その古墳の横につくられた保存館にあったので、私たちはみることができた。こちらのほうは写真でしかなかったけれども、その遺物は、近くの観音山古墳出土のそれとともに、さきにみた房総の芝山や金鈴塚古墳のものとほとんど同系統のものであった。どちらがさきだったかは知らないけれども、それは同系の豪族がそのように展開していたことをものがたるものだったが、七世紀前半のものといわれる観音塚古墳のばあい、これがまたとくに私の印象にのこることになったのは、そこに佐波理(さはり)といわれる金銅鋺が一つあったことだった。
それとおなじものは奈良の正倉院にもあるとのことであるが、佐波理とは朝鮮語サバルのことで、これはいまの時代に生きている私にとっても、ひじょうになつかしいものだった。今日ではサバルといえば、これは沙器、つまり陶磁器の碗のことだけれども、しかし真鍮製の鋺もあって、現に私どもではいまでもそれを祭器として使っているのである。
この佐波理について、尾崎喜左雄氏の「上野における韓来文化」にはこう書かれている。
極めて薄い金属製であり、群馬県は勿論わが国内でかようなものの製作が可能であったか否かは不明である。恐らく朝鮮からもたらされ、珍重されたものではなかろうか。
大和・河内の古墳文化を受容
なお、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」によると、上野にある朝鮮関係の古墳としてあげられているのは、「伊勢崎市古城古墳。佐波郡玉村町二子山古墳。高崎市乗附古墳。高崎市観音山古墳」などである。また、尾崎喜左雄氏の「上野における韓来文化」によって、この上野の古墳全般についてのべたところをみると、それはこういうふうになっている。
群馬県では四世紀末乃至(ないし)五世紀初め頃から大古墳が造られ、この傾向は六世紀にもあるが、その終り頃から七世紀前半にかけては巨石使用の大石室が営まれ、再び大古墳が築造されている。更に七世紀の終りから八世紀初頭にかけて、大古墳とは言えないが、精巧な古墳が築かれているのである。この文化的な発展は自生といえない。その当初は大和或は河内の古墳文化を受容したものであろうし、爾後(じご)も大陸から継受されたものを逸早(いちはや)く受容したのであろう。けれども、はたして文化のみの単なる受容であったと見るわけにはいかない。
そしてさらに尾崎氏は、六世紀の大和朝廷成立以前に、九州から来たものによる「近つ飛鳥」の河内王朝を想定し、そのとき九州から随伴(ずいはん)して来た朝鮮渡来人の「蝦夷(えぞ)地東国」への進出、すなわち上野への投入があったろうとして、さいごのほうでこうのべている。
それ以後の投入も考えられようが、郡の設置に際して、甘良郡が早くから存在したことは、「から」の地方の始源から古くに置くべきであろうと考えるからである。群馬県の大古墳の創始も、この辺に真実が含まれてはいないだろうか。
「から」についてはあとでまたみることになるが、私たちは、豊城入彦命の墳墓とされている二段に築かれた前方後円墳で、前方部が後円部よりも高く、前方・後円両部に石郭のある珍しい二子山古墳をへて、総社の山王廃寺跡などをみてまわった。国指定史跡となっている山王塔跡や、重要文化財の塔心柱根巻石もみたが、いずれも奈良時代につくられたもので、クローバーの葉のようなかたちをした根巻石など、今日の感覚をもってみても、まったく新しいものだった。
いいものは何であれ、いつまでも新しいというわけだったが、ついで私たちは、その廃寺裏の民家の庭先にあった、これも重要美術品となっている奈良時代の石製鴟尾(しび)もみることができた。この石製鴟尾はたしか奈良の大官大寺、すなわち百済大寺にそれの使われた例があったほか、全国でもほとんど例のない珍しいものだった。高さ一メートル、重さ九百三十八キロもあるというこんな鴟尾を棟の両端にのせた屋根とはどういうものであったか、それこそ想像にあまりある。
美女を育てた利根の清流
総社ではまだほかに行ってみたいところもあったが、山王廃寺跡のそれらをみているうちに、いつのまにか日が暮れてしまっていた。あたりが暗くなりはじめたので、さて、では、今夜はどこで泊まろうかとみんなで相談することになった。当然、翌日の予定ともかかわり合うことだったが、横で阿部君がなにやらもじもじしたかとみると、
「あの、あそこはどうしますか」と言った。私はすぐ、笑いながらこたえた。
「ああ、月夜野の美人か。きみはどうしてもそれを一目見たいというわけなのか」
「いや、そういうわけじゃないですが、クルマなので、どうせ遠くまで行くのだったらと思ったものですから」
阿部君は、また頭に手をやった。しかし、そういうくせがあるとしても、彼はなにも頭を掻(か)くことはなかったもので、それはこういうことだったのである。
阿部君は一枚の新聞の切り抜きを持って来ていたが、それは群馬県月夜野町をとりあげた一九七〇年四月三日付けの朝日新聞朝刊「ある町ある日」の特集面で、「美女を育てた利根の清流/詩情追う近代化の波」といった見出しの記事に、こんなくだりがあった。「さらに、後花園天皇の愛人・如意姫、お家騒動の白子屋お駒、一字一石経の八百比丘尼(やおびくに)、家康の養女で戦国悲劇の竹姫、すそをぬらして利根川を渡った恋の松寿院夫人、二十三歳で散った農民歌人石田マツなど美人佳人が続々登場、町史に花? をそえた。役場でも『先祖がアイヌ人と朝鮮人の混血だから美人が多い』ズバリだ」
どうして「ズバリ」なのかは知らなかったが、赤城の三夜沢とおなじように、月夜野というのもなかなかロマンティックな感じの地名だった。それにまた、ここにはそういった「美人」ばかりでなく、古代朝鮮語がそのままのこった「村主(すぐり)」などというところもあって、私も行ってみたいとは思った。しかしなにせ、そこまではちょっと遠すぎた。けれども、結局、私たちはここもあまり近くはなかった国鉄長野原線の川原湯まで行って、一泊することになった。
日本三古碑の一つ“多胡碑”
そして翌日は、私はいつか作家の阿部知二氏から、これもいわゆる朝鮮系のそれであるらしいと聞いた碓氷(うすい)峠にある碓氷神社をたずねる予定だった。しかし、どうしてそうなったのか、あまり天気がよすぎたせいもあって、水野と小原元との意見に引きずられたからだったと思うが、私たちは浅間をへて信濃(長野県)の佐久(さく)へとまわり、内山峠から鏑(かぶら)川に沿うようにして、多胡碑のある吉井へ向かった。
このときも下仁田から富岡をとおったが、これから以後は、はじめ水野といっしょに来たときとダブることになる。つまり、私と水野とは多胡碑以下をたずねるのはそれぞれ二度目となるわけだったが、多胡碑は上信電鉄吉井駅からちょっと行った御門(みかど)というところにあった。
さきにみた下野の那須国造碑や陸前(宮城県)の多賀城碑とともに日本三古碑の一つといわれる多胡碑のあるそこは、いまでは一つの小公園のようなものとなっていた。「羊さま」といえば町ではだれでも知っているといわれる有名な多胡碑自身は、その公園の一角に建っているがっしりした収蔵庫のなかにおさめられていた。
しかし、扉の、あいだに針金のすけて見える厚いガラスをとおしても、笠石をのせた碑とそこに刻まれた文字とはみえるようになっている。とはいっても、何分、千数百年もまえの古いもので、そこから六行八十字の文字全部を読みとるというわけにはゆかない。それはやはり書物によるほかなく、近所の管理人のところでもとめた橋爪聡氏の『多胡碑のはなし』という吉井町教育委員会のパンフレットによれば、碑文は次のようになっている。
弁官符上野国片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊
これは加藤諄(じゆん)氏によれば、「悠々(ゆうゆう)たる布置の中に豪放な書風、六朝(りくちよう)の余風とはいえ、自由にまた毅然(きぜん)と字画を駆使(くし)してはちきれんばかりの力である。その勁駿(けいしゆん)なること、とうてい拓影(たくえい)による鑑賞の迂遠(うえん)さを許さない」(『書道全集』)という立派なものである。『多胡碑のはなし』でみると、読みかたは次のようになっている。(ふりがなも原文どおり)
弁官(べんかん)の符(ふ)に上野国片岡(かたおか)の郡(こうり)、緑野(みどの)の郡、甘良(から)の郡并びに三郡の内三百戸を郡と成し、羊(ひつじ)に給いて多胡の郡となすとあり。和銅四年三月九日甲寅(きのえとら)の宣(せん)なり。
左中弁は正五位の下多治比真人(たじひのまひと)、太政官(だじようかん)は二品穂積親王(にほんほづみしんのう)、左大臣は正二位石上尊(いそのかみのみこと)、右大臣は正二位藤原尊(ふじわらのみこと)なり。
すなわち、七一一年の和銅四年に多胡郡が新たに置かれたということの建郡碑であるが、これはかなり以前から、多くの学者のあいだでいろいろな議論を引き起こしてきたものでもあった。論議の中心となったのは、この碑文にある「給羊」ということである。
「多胡碑中の『給羊』の二字の解は古来疑問とされ、『羊』は羊氏或は羊太夫と解するもの、給養の略或は給半の誤とするもの、黒板勝美氏の未即ち方角説、井上通泰氏の詳(さながら)の説等、諸説があって今なお決定はしていない」(斎藤長五郎『群馬県史』)というしだいである。
“羊”は実在の人物
だが、同『群馬県史』にもつづけてのべられているように、上野の『多野群誌』には、「吉井地域の里人は、近年まで多胡碑は羊太夫の墓と信じ、一般に『羊さま』と称え、春秋二回祭祀を行い尊崇し、今なおその氏子と称するものが二十余戸、多胡碑の周囲に居住し、その字名を『御門(みかど)』と呼んでいる」と明記されているという。
そして斎藤長五郎氏もつづけてまた書いているように、その「羊」を「羊太夫(だゆう)」としているのは「吉井地域の里人」ばかりでなく、それを「羊氏」なる実在の人物としている学者もいることもちろんである。たとえば尾崎喜左雄氏の『多胡碑』であるが、尾崎氏は、「羊」は人名であるとともに、いわゆる「帰化人」であるとして、こうのべている。
羊という人名は『正倉院文書』の戸籍の中にかなり多く見えている。羊と記し、比都自(ひつじ)または比津自(ひつじ)とも書いているし、女性には羊売(ひつじめ)というのが多く、あわせて三十数名にのぼる。このほか『万葉集』や『続日本紀』などにも散見している。
上野国分寺跡からは、「羊」とへら書きした瓦の破片が、ほかの文字瓦とともに、相当数出土している。文字瓦の文字は人名をあらわしており、寺院の建立にあたって、その瓦を寄進したものの名をしめしている。そして数の多いことは多量の瓦を寄進したことになるのであって、その名の人物は豪族であったと推定される。だから「羊」という人物は、上野国のどこかに住んでいた豪族であったにちがいない。
「羊」という文字瓦に関連して、吉井町大字黒熊小字塔ノ峯から「羊子三(ようしさん)」とへら書きした瓦片が発見されている。黒熊の地は多胡碑所在地から、東南へ五キロほどのところである。「羊子三」の羊の字も、羊という人物の存在を暗示している。というのは、光明皇后(聖武天皇の皇后)が藤原不比等(ふひと)の三女であって、「藤三娘」と自署しているのと比較される。……
天平神護二年(七六六)といえば奈良時代の中頃であるが、上野国にいる新羅人子午足(ねうまのたり)等百九十三人に、吉井連(よしいのむらじ)という姓があたえられた。新羅人とは出身地をしめしたもので、帰化人である。子午足は名であって、したがって氏も姓もなく、吉井連という姓をあたえられたのである。二百人近い新羅人に一度に賜姓されたのであり、このような多人数への一度の賜姓は他に例がない。子午足はその筆頭であるので、帰化人としての一大勢力家であったにちがいない。それなのに、それまで氏も姓もなかった。このように、帰化人に出身地と名だけ記されている例が、『日本書紀』には多い。……
新羅人子午足は、前に述べたように、吉井連の賜姓のあるまでは、氏も姓もなかったが、百九十三人の同族を擁する吉井在住の豪族であった。だから、おなじ吉井に所在する多胡碑の羊は、やはり氏も姓ももたない豪族で、郡司に擬(ぎ)せられたものとみられ、羊、子午足、羊子三は順次関係ある人物のように思えるので、おそらく羊は帰化人であったであろう。
どれも戸主であったはずの「二百人近い新羅人」のなかにおいてみた羊についてのこの説は新たに発見された「羊」や「羊子三」の文字瓦など動かすことのできない考古学上の知見も加わっていることで、いっそうたしかなものとなっているようである。
しかし、ほんとうは多胡碑の「給羊」についてのそんな詮索(せんさく)など、あまり必要のないものであった。それが朝鮮渡来のものの人名であることは、まず、なによりもその多胡碑自身がもっともよく語っているからである。
「甘楽郡の名は、古くは多胡碑に甘良郡と刻まれておりますように、甘良は韓であって」「これはごく最近下仁田附近で、韓の古銭が沢山発掘されたことによっても窺い知ることができます」という、さきにみた富岡市観光案内の『雲の流れ』にもあったように、この甘良(楽)は、まさにその以前は韓(から)(加羅)だったのである。
それはおそらく「大化の改新」以前、国・郡設置以前から鏑川(かぶらがわ)流域一帯にわたって広汎な地域を占めていたものと思われる。そのことは、この上野における文字文化の発祥・発展という面からみてもいえるのである。上野には多胡碑のほかにも山(やま)ノ上碑(えのひ)、金井沢碑(かないざわのひ)というのがあって、これをあわせて上野三碑(こうずけのさんぴ)といっているが、私たちは、どれも近くにあったあとの二碑もそれぞれまわってみた。
うち、もっとも有名な多胡碑は、下野の那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)におくれること約十年で、七一一年の和銅四年にできたものであるが、しかしもっとも古いものは、ある豪族の母の墓誌となっている山ノ上碑である。これはその碑文にあるとおり、「辛巳の年」すなわち六八一年に建立したものとされている。
『古事記』の出現に先立つこと、ちょうど三十年であった。『高崎市史』(一)が誇らかにのべているように、『古事記』よりも早い六八一年に、「文字を使用して石碑が建立されたのであるから注目すべきことで、すでに山名、根小屋、吉井あたりの文化が進んでいることがこの上野三碑の存在によって知られるので」あるが、これもそこが「韓(から)」であったことと切り離してはけっして考えられないのである。
それなら、七一一年の和銅四年というこの年に、どうしてこのようにして多胡郡が新設され、しかも「氏も姓もなかった」無名の羊氏にそれが給されたのであろうか。それは多分、さきにみた上野隣接の武蔵(埼玉県)の秩父における銅の発見と関係があったのではなかったかと私は思う。新羅系渡来の金上元らによるその銅の発見によって、日本の年号が和銅となり、はじめて「和銅開珎」なるものができることになったことも、さきにみたとおりである。
すなわち、私はその産銅にたいする論功行賞が、多胡郡新設となってあらわれたのではなかったかと思うのである。このことは、さきに来たとき会った、多胡郡の総鎮守(そうちんじゆ)となっていた辛科(からしな)(韓級)神社の宮司で、吉井町公民館長となっていた神保茂一郎氏もおなじように言っていたが、さて、私たちはこんどはその神保さんの辛科神社にまわってみなくてはならない。
更に多胡郡の南、高崎新道より東の田圃の中には古い寺院の礎石かと思われるものが数個あり、新道の西には奈良時代の古瓦をたくさん出土する遺跡(雑木味(ぞうきみ))があることも注目すべきでありましょう。やや時代がくだりますが、辛科神社の宝物の中に懸仏(かけぼとけ)があります。この懸仏は径三十三糎(センチ)、青銅鍍金円板に文珠菩薩(もんじゆぼさつ)を中心に、タガネで精巧に線描した鎌倉時代の作と考えられる立派なものです。社伝によれば源頼朝寄進と伝えられておりますが、実は惟宗(これむね)氏が奉納したものです。しかも惟宗氏は帰化人の子孫なのであります。つまり辛科神社は多胡郡新設にあたり総鎮守として帰化人によりまつられ、懸仏によってその後も帰化人の子孫によりあがめられていたことを知ることが出来るのであります。(橋爪聡『多胡碑のはなし』)
というそれである。
夕陽に浮かぶ古墳群に故郷をしのぶ
辛科神社は、宮司である神保さんの姓とおなじ神保というところにあった。そこは鏑川流域の吉井町を見わたすことができる小丘陵地帯だった。
なだらかな丘陵の起伏はほとんどが桑畑で、辛科神社もその丘陵の一つの斜面に、古びた姿となってたっていた。
これまでみてきたように辛科神社は、韓(から)から甘良、甘楽となったその韓の、韓級(からしな)神社であった。尾崎喜左雄氏はこの韓級・辛科(からしな)ということから、「男信(なましな)、笠科(かさしな)、生品(なましな)等の地名も朝鮮との関連で考証される必要があろう」とのべているが(「上野における韓来文化」)、だいたいこのしな(級・科・信)とは何であろうか。
するとそれは、上野隣接の信濃(しなの)とも関係があるのではなかろうかと思われるが、それはともかく、さきに水野といっしょに来たときはクルマでそこはただとおってしまっただけだったけれども、私はこんどは日暮れはじめていた辛科神社のその辺を、ちょっと歩いてみることにした。そこで私ははじめて気がついたのだったが、桑畑だけだと思っていたその辺はまた、じつに古墳の多いところだった。
どれも円墳の小古墳で、それは私が幼いころ朝鮮の故郷でみていたものとちょうどおなじものだった。私自身、シサ(時祀)のときなどそのようなかたちをした祖先の墳墓によく平伏させられたものだったので、「ああ、あれだ」と思うと、何だかひどくなつかしい思いが胸をひたして来た。
記念にと思って、私は道ばたの近くにあった古墳の一つに立ちより、いっしょに来ていた阿部君に、カメラのシャッターを押してもらうことにした。そして阿部君の肩越しに前方をみると、その向こうの桑畑のうえにも三基、四基とならんでいるそんな古墳が夕陽のなかに見え、私はふと、朝鮮の故郷に帰っているような錯覚におちいったものであった。
あとがき
『日本の中の朝鮮文化』としたこれは、「朝鮮遺跡の旅」として雑誌『思想の科学』一九七〇年一月号から八月号まで連載したものである。一冊とするにあたってかなり加筆したが、しかし関東地方のみとしても、まだほかに行ってみなくてはならなかったところや、書きたりなかったところがたくさんあるように思われる。
だいたい、このような仕事はたずねて行ったさきで会った人々はじめ、多くの人たちの協力がなくてはできなかったはずで、本文にもあるように、阿部桂司君など友人たちからも協力をえたが、また、雑誌に連載がはじまってからは、未知の人々からも好意のこもったたくさんの手紙をもらった。手紙のほとんどは、「ここにもこういうものがある」ということを知らせてくれたものだった。
本文の「東上線に乗って」の項でみられるような角田成雄氏がその例で、こうして私たちはいっしょに「志木・朝霞・大和」のあたりを歩いたのだったが、しかし、このおなじ地区にしても角田氏ばかりではなかった。そのあとになってからも私は、同地区の足立町志木に住む神山健吉氏から、さいきん次のような手紙をもらった。
「なお、はなはだ残念でなりませんのは、あなたは志木、ついで朝霞まで来ていながら、朝霞市大字膝折の高麗一族、大字岡の比留間一族のことを全然調べなかったらしいことです。とくに、膝折の高麗一族は鎌倉の中期ごろに高麗郡から来住し、膝折の草分けとなったもので、この部落一番の名刹である一乗院の開基ももちろん高麗氏です。
さらに、比留間氏も高麗村(いまの日高町)付近に散見される姓ですが、同時に大字岡ならびに隣接の根岸、台にもかなりの同族を擁する大姓です。ついでにいいますと、東上線東武練馬駅から徒歩二十分の地点に、北野神社という田遊びで聞こえた神社がありますが、この神社の近くにも高麗姓が十軒近くあるようです。それからまたもう一つ、あなたにぜひみてほしかったのは、かつての新羅王の居館だと伝えられている新倉の牛蒡山(ごぼうさん)(御房山)です。再訪のときは、ぜひ行ってみるようすすめます」
こういうことはほかにもあって、たとえば宇佐美稔氏からは、「せっかく下野まで行っていながら、どうして星野遺跡と出土品をみなかったか」という手紙をもらったりしたが、しかし時間のうえでも経費のうえでも、私としてはこれが精いっぱいというところであった。いわば一つのさきがけのようなもので、この仕事に興味と意味とを見いだす後人のための資料ともなればと私は思っている。
「まえがき」にもあるように、私がこの「――旅」を思い立ったのは十数年もまえのことだった。そして、「『日本のなかの朝鮮文化』という、こんな表題の本を何冊か書いてみたいと思っている。いわば、日本のなかにある朝鮮文化遺跡をたずねるというもので」と書いたのは、『民主文学』一九六八年一月号だったが、六九年三月からは京都で『日本のなかの朝鮮文化』という季刊の小雑誌が出ることになり、おなじ仕事がすすめられている。同様に、この雑誌もあわせて見守ってもらえるとありがたい。
たずねて行ったさきで会った人々はじめ、多くの人たちの協力があったが、さいごに、これがこうして講談社により一冊となったのは同社学芸図書第二出版部の加藤勝久氏、山川泰治氏、および写真部の津久井昭氏、金井竹徳氏の好意と努力とによるものであることをここにしるしておかなくてはならない。
一九七〇年十一月 東京
金 達 寿
九 文庫版への補足
相模の寒川神社ほか
『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第一冊目である本書が書かれたのは、「あとがき」にあるように、一九六九年末から七〇年の半ばにかけてであった。一九八三年となったいまからすると、十三、四年もまえということになる。
「十年一昔」ということばがあるように、その間いろいろなことがあり、日本の古代史学や考古学はじめ、朝鮮・韓国や中国など、つまり東アジアにおけるそれもかなりの発展をとげている。そういうこともあって、十三、四年まえに書かれた本書には、新たに追加すべきことがかなり生じている。
これからその追加すべきことを「補足」のかたちで書くわけであるが、だいたいシリーズ第一冊目の本書ははじめから、いわゆる関八州だった相模・武蔵などの神奈川・東京・埼玉・千葉・群馬・栃木・茨城という一都六県を一冊としたことからして、相当のむりがあった。次の第二冊目が山城・摂津・和泉・河内といった京都府・大阪府(それも全部ではなく、京都府では丹波・丹後、大阪府では西摂津がここには入っていない)だけで一冊となっており、第三冊目が近江・大和だった滋賀・奈良の二県のみとなっていることからもそれはわかると思う。
要するに、広い関東地方全部をもって一冊とした本書は、それだけ駆け足となっていたわけで、たとえば本書は相模(神奈川県)から書きだされているが、その相模では肝心な相模国一の宮である寒川神社のことが、すっぽりと抜けおちている。もちろんそのときは、それのことを知らなかったからである。
その寒川神社のことがやっとわかったのは、次のような経過をへてであった。
私はシリーズ第一冊目の本書をだして、ほうぼうの読者から、ずいぶんたくさんの手紙をもらった。なかに、山形県寒河江(さがえ)市のある地方史研究家からのもので、「寒河江の寒河(さが)というのは、古代朝鮮語からきたことばだと聞いているが、すると、これはどういう意味なのだろうか」というのがあった。
はじめていわれたことで、私にもそれはわからなかった。で、「わからない」とその旨を返事してしばらくたった。しかし、何となく気になっていたらしく、その後、一九七五年に出た丹羽基二氏の『地名』を手にしたとき、寒河江の「さが」「さむかわ」という項を引いてみたところ、それが次のようになっているので、「おやおや」と私は思ったものだった。
さむかわ 寒川。朝鮮語のサガ(わたしの家、社などの意)からくる。朝鮮渡来人の集落があった。寒川はもとは寒河(さが)で当て字。
ついでまた、「さがみ」というところを引いてみると、それはこうなっている。
さがみ 相模、相摸。相武にも当てる。朝鮮語のサガ(寒河)からきている。朝鮮人の居所。相模には朝鮮渡来人の集落があった。寒川神社はその氏神。
私はいよいよ、「おやおや」とならないわけにゆかなかった。私は相模もひとまわりして、すでに本(本書)にまでしていたにもかかわらず、そんな神社があったとはまったく知らなかったのである。しかも神社本庁編『神社銘鑑』を開いてみると、その寒川神社は相模国一の宮となっているではないか。
私は、山形県寒河江市の地方史研究家にもそのことを知らせたかどうか、それはもう忘れているが、後日、神奈川県高座郡寒川町にある寒川神社をたずねてみて、さらにまたおどろいた。一の鳥居からの参道を歩くだけでも、かなりの時間がかかった。
社務所でもとめた『相州一の宮/寒川神社誌』をみると、「現境内の総面積は一万四千二百八十五坪余りである。因みに古(いにしえ)の神領は現今の藤沢・茅ケ崎・寒川・海老名の三市一町に及ぶ広大なものであった」とあり、祭神は、寒川大明神または寒川大神ともいう「寒川比古命(さむかわひこのみこと)、寒川比女命(さむかわひめのみこと)」となっていて、その「由緒」はこうなっている。
関八州鎮護の神として、古くからこの地方の名祠(めいし)としてあがめられている。
即ち総国風土記によると、約千五百年前、雄略天皇の御代に幣帛(へいはく)を奉納せられたとあるので、当時既に関東地方に於ける著名な神社として遠近に知られていたことが明らかであり、従って創建の極めて古いことと、往古から朝野の崇敬殊に厚いこととが知られる。
この「由緒」どおりだとすると、寒川神社が祭られるようになったのは、高麗王若光(こまのこきしじやつこう)一団が祭った大磯の高麗神社=高来神社よりはるか以前のことだったことになる。すると相模国一の宮の寒川神社を氏神として祭ったのは、中野敬次郎氏のいうように、この相模には「南韓からの移民が早くから来(きた)って集落を営んでいたらしく、そこに縁故を求めて〈高麗〉王若光一団の渡来があったのである」(「箱根山の開発と高麗文化」)それだったのかも知れない。
それはどちらにせよ、相模のことを書いていながら、相模国一の宮となっている寒川神社の存在を知らなかったとはうかつなことであった。そのことは、相模とはかぎらない。となりの武蔵(東京都・埼玉県)にしてもそうで、たとえば、私は高麗郡、新羅郡だったところはわりとていねいにみているつもりであるが、新羅郡のそれと同じ新羅・加耶系渡来人の秦氏族が展開した幡羅(はたら)郡のほうは、そのまま見すごしてしまっている。
『和名抄』によると幡羅郡には上秦郷・下秦郷もあったのであるから、そこにもいろいろなものがあるにちがいない。「秦の地」ということを意味した幡羅郡ばかりでなく、男衾(おぶすま)郡、比企(ひき)郡などにしても同様で、北関東のここもまた同じ新羅系渡来の吉士(きし)(吉志)氏族が展開したところであった。シリーズ第一冊目の本書が出たあとの一九七四年七月に出た、埼玉県高等学校社会科教育研究会歴史部会編『埼玉県の歴史散歩』をみると、有名な小川町の和紙について、こういうことが書かれている。
小川和紙の歴史は遠く奈良時代の「武蔵紙」にまでさかのぼり、その技術は朝鮮渡来人によると伝えられている。特産の紙が「中男作物(ちゆうなんさくもつ)」として課せられていたことは、平安初期の男衾(おぶすま)郡司壬生吉志福正(みぶきしふくまさ)の申しいでによっても知られるが、小川町を中心とする外秩父一帯の紙漉(かみす)きがさかんになったのは、徳川氏による江戸開府にともなう市場拡大によるものだった。
この小川町の和紙にしても私はそのままにしてしまったものであるが、ここにみられる郡司の壬生吉志福正(みぶきしふくまさ)とは、武蔵国分寺が焼失したとき、その七重堂を独力で寄進したというほどの豪族であった。なおまた、この吉志(吉士)氏族については、水谷慶一氏の『知られざる古代』にこう書かれている。
埼玉県比企(ひき)郡には、かつてここに「都家(つげ)郷」という地名があったことが、平安時代初期の『和名抄』という本によって知られるが、現在も、この地には都幾(とき)川、槻(つき)川、都幾(とき)山の名が残っていて、ここも神社や遺跡の整列線が見られることと、比企が日置(ひき)に通ずることで、やはり新羅の太陽祭祀に関係した土地であることが推察される。
埼玉県立博物館の金井塚良一氏の教示によれば、この比企郡は新羅系の渡来氏族である吉士(きし)氏が進出したあとが見られるというから、今後の展開がたのしみである。ついでにいえば、「吉士」は新羅の官位の一つ(十七位中の第十四位)で、『日本書紀』では雄略天皇の頃から「難波吉士(なにわのきし)」として現われる。この埼玉県の例にかぎらず、トキ、ツゲ、日置にちなんだ土地を調べてみると、まず例外なしに新羅系渡来人の痕跡が目につくのは、やはり偶然ではすまされぬものを感ずるのである。
それからまた、私は、高句麗系渡来人が層をなして展開した狛江郷・調布などについては書いているが、しかし多摩川上流の青梅にも調布村があり、しかもそこには高麗来(こまき)野ということにほかならなかったはずの駒木(こまき)野というところまであったことは、すっかり見落としてしまっている。そればかりか、原島礼二氏の「古代の多摩と渡来氏族」によると、吉志氏族は多摩川上流のこちらにもひろがって、青梅西方の五日市にある阿伎留(あきる)神社を祭っていただけではない。それがさらにまた丈直(はせつかべのあたい)や阿倍・膳氏族ともなったとして、原島氏はこうのべている。
この丈直(はせつかべのあたい)はのちに多摩郡少領になったと伝えられるとおり、秋川市一帯に君臨した郡司級の豪族であり、……多摩郡一帯に力をもっていたことは明らかである。丈直といえば、埼玉県南郡一帯を支配していた武蔵国造丈部直と同姓であり、そのいずれも阿倍氏とのつながりが考えられる点は重要な意味をもつ。
埼玉県行田市稲荷山古墳出土の鉄剣銘文にいうヲワケ臣なる人物は、私見では阿倍・膳氏らの一族と考えられるが(『鉄剣銘文は語る』ほか)、その鉄剣がこの武蔵の地に副葬された秘密を解く上でも、多摩郡の丈直や吉志氏の存在は見逃すことができないのである。
ここにみられる稲荷山古墳については、私は本書に、「それからまた埼玉県となると、武蔵国造の反乱ということで有名な、笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)一族の墳墓といわれる埼玉(さきたま)古墳群がある。後期の六世紀に比定されているもので、このうちの稲荷山古墳からは、朝鮮渡来氏族のそれによくみられる鈴杏葉(すずぎようよう)などの馬具が出土している」と書いている。
しかしそれ以上のことは書かなかった、というより、書けなかったのだったが、この稲荷山古墳からは、朝鮮「半島との関連において密接」な「金銅製帯金具」(斎藤忠『古代朝鮮文化と日本』)も出土しているし、また、鉄剣なども出ていた。そして一九七八年になって、そのうちの鉄剣には、金象嵌の銘文のあることが発見された。
これが当時、新聞などにも大きく報じられた稲荷山古墳出土の鉄剣銘文といわれるものであるが、その銘文の解読には今日なおいろいろな意見があって、はっきりしたことはまだわかっていない。しかしそれはどちらにせよ、原島氏は、「その鉄剣がこの武蔵の地に副葬された秘密を解く上でも」朝鮮からの渡来氏族である「多摩の丈直や吉志氏の存在は見逃すことができない」といっているのである。
常陸の虎塚古墳ほか
以上は相模や武蔵におけるそれであるが、そのような見落としや、またその後新たに発見されたものは、上野(こうずけ)(群馬県)、下野(しもつけ)(栃木県)、安房(あわ)・上総(かずさ)・下総(しもふさ)(千葉県)などについてもほぼ同じことがいえる。たとえば、一九七九年十二月三十日付けの毎日新聞朝刊をみると、「同范鏡 韓国でも見つかる/群馬・恵下古墳と兄弟鏡/倭の時代形成に手掛かり」という記事がのっている、といったぐあいである。
しかしながら、そういうことをいちいち追っていたのではきりがないので、ここでは私が『日本の中の朝鮮文化』シリーズ第一冊目である本書をだして以後、すなわち一九七三年に発見された常陸(ひたち)(茨城県)の虎塚壁画古墳についてだけ、しるしておくことにしたい。「ついてだけ」といっても、この虎塚壁画古墳をたずねるにあたっては、常陸の佐竹氏や、それと同祖である甲斐(山梨県)の武田氏のことまでみるというおまけまでついたものだった。
私は新聞などの報道により、一九七三年に虎塚壁画古墳が発見されたことは知っていたが、しかしわざわざそれをたずねてみる、ということはしないでいた。なぜかというと、そのときはもう、駆け足ではあったけれども、そこの常陸のことは、シリーズ第一冊目の本書に書いてしまったあとだったからである。
そうだったから、私がその虎塚壁画古墳や「甲斐武田氏発祥の地」のそれという湫尾(ぬまお)神社をたずねることになったのは、ある偶然のことからだった。そして私はそのことを、「常陸の虎塚古墳と湫尾神社」という副題をもった「『日本の中の朝鮮文化』と共に」という一文に書いた(『季刊三千里』第二十九号・一九八二年二月刊)ことがあるので、その部分をここに再録させてもらうことにしたい。
――たしか、中野重治氏の作品に「その身につきまとう」というのがあったと思うが、私には「日本の中の朝鮮文化」というのが「その身につきまとう」ものとなってしまっている。私にもそういうときがある、どこかへ遊びのための旅行をしたときでも、その土地にある神社や古墳などが目につくと、「ええと、これは……」ということになってしまうのである。
もちろんそれはそれでまた、思いがけない新たな発見があったり、見直しがあったりしてよいのであるが、しかし、何という因果なことか、と思うこともないではない。たとえば、前年十二月二十〜二十一日のことである。
いうところの忘年会というもので、雑誌『直』に関係している数人の者たちのそれがおこなわれることになり、こんどは塙作楽氏のいる水戸で、ということになった。茨城県の水戸は上野から急行で一時間半、その近くの大洗あたりで一泊してゆっくりしよう、ということだった。
忘年会とは要するにみんないっしょになって、――というもので、東京からの参加者は唐木邦雄、矢作勝美、遠藤弘道氏といっためんめんだったが、現地からは茨城文芸協会の塙さんたちのほか、いまは茨城県在住となっている阿部桂司君も加わった。そして阿部君は、その席で私にこんなことを言った。
「甲斐・武田氏のルーツは、この常陸の茨城県だそうです。甲斐の山梨県からも郷土史家たちが来たりして、こちらの新聞にはそのことが大きく出ました」
「ほう、するとなにか――」
「そうです。新羅三郎義光は、この常陸にも来ていたということです」
「へえ、そうかね」と言っただけで、私はこのときはそれ以上の興味はあまり持たなかった。そこは忘年会という酒席だったからでもあるが、新聞にも出たというそれは、なにかの憶説によるものではないか、とも思ったからである。
翌日になり、私たちは水戸駅で茨城県歴史館の相沢一正氏と落ち合い、東海村へ向かった。まえもって、塙さんから翌日はどうするかといってきたので、できたら有名な原子力発電所の東海村へ行ってみたい、といってあったからだった。東海村に住む相沢さんは、そのための案内役となってくれたのである。
そして列車が水戸駅を離れて、勝田あたりとなったときのこと、私の横に坐っていた相沢さんは、窓外に見える小高い丘のうえの神社を指さし、
「あれですよ」と言った。「あれが、武田氏の氏神だったという湫尾神社です」
いきなりだったので、何のことかよくわからず、
「ああ、そうですか」と言ったあとになって、私は前夜、阿部君の言ったことを思いだした。しかしこのときもまた、それだけのことでしかなかった。
東海村の原子力発電所といっても、それをくわしくみて歩くことはできなかった。また、みて歩いたところでわかりもしないので、そういう私のような者たちのためにできている解説館(?)に展示されているあれこれをみただけでおしまいであった。時間はまだ、十二時をちょっとすぎたばかりである。
そのまま東京へ帰るには、まだ早かった。塙さんたちとは、たそがれどき、水戸駅近くのあたりでまた一杯、ということにしてわかれなくてはならなかったので、要するにそれまでにはまだまだ、というわけだったのである。で、私は相沢さんに向かって言った。
「さっきの、武田氏の氏神だったという神社、あそこは勝田ではなかったですか」
「ええ、そうです」
「勝田というと、虎塚壁画古墳があるのもそこでしたね」
「そうです。では、そこへ行ってみますか」
みんなもそうしようということになり、相沢さんは塙さんとなにやら話し合ったかとみると、勝田市史編さん事務局のだれかに電話をしてくれた。あとになって知ったが、『茨城県史』の編さん者であった塙さんと、茨城県歴史館の相沢さんとは、どちらも『勝田市史』の編さんに関係していたので、その勝田市にも知り合いが多かったのである。
というしだいで、私たちはさっそく東海村から勝田へ向かうことになったが、何のことはない、私にとってはまたも、というわけであった。というのは、常陸国だった茨城県のことはさっとひとめぐりではあったけれども、私はすでに『日本の中の朝鮮文化』シリーズの第一冊目に書いたあとだからでもあった。
要するに、私はともかくも常陸の茨城県はひとまわりして書いていたにもかかわらず、ひょんなことから、こんどまたそこを歩くことになったのだった。つまり、「日本の中の朝鮮文化」は私の「身につきまとう」ものとなっているのである。
勝田市に着いてみると、市史編さん事務局の平野伸生氏、教育委員会社会教育主事の鴨志田篤二氏らが待っていてくれて、平野さんはさっそく、『勝田市史資料絵はがき』第三集の「虎塚古墳」や、勝田市教育委員会編『甲斐武田氏発祥の地をたずねて』などを私たちにくれた。もちろんいうまでもないことであるが、以上は二つとも、私が『日本の中の朝鮮文化』第一冊をだしたのちになって、新たに発見されたものであった。
私たちは、できたばかりの市商工会館のレストランで昼食をすますと、平野さんたちが用意してくれたクルマで、まず虎塚壁画古墳に向かった。関東平野独特の小丘陵の多いところで、一九七三年に発見された珍しい彩色石室の虎塚壁画古墳は、灌木におおわれたそんな丘陵のうちの台地上にあった。
あたりは小史跡公園といったものとなっていたけれども、古墳自体は厳重な保存装置がほどこされている。私たちは、とくに鴨志田さんが鍵を使って開けてくれたので、石室内にまで入ってみることができた。奥壁中央の蛇目文はじめ、そこに描かれた彩色文様はどれもあざやかで、それが千数百年前のものとはとても思えないほどであった。
私たちはみな、目をみはるような思いでそれをみたものだった。『勝田市史資料絵はがき』第三集「虎塚古墳」のなかにある「虎塚古墳の概要」をみると、それはこういうものとなっている。
虎塚古墳は常磐線勝田駅の東方約四・六キロ、湊線中根駅の北々東〇・九キロに位置し、茨城県勝田市東中根指渋(さししぶ)三四九四番地にある前方後円墳である。中丸川の支流にのぞんだ谷に面する南側の台地上に立地し、全長五五メートル、後円部径三〇メートル、高さ五・七メートル、前方部幅三一メートル、高さ二・五メートルで前方部を西に向けている。古墳の周囲には幅五メートル前後の周堀がめぐり、とくに北側に痕跡がよくのこっている。
昭和四八年夏、勝田市史編さんの事業として第一次調査がおこなわれ、後円部の南側に小形の横穴式石室を発見した。石室前面には幅一メートル、長さ約四メートルの墓道がつづき周堀へ接続していた。軟質の凝灰岩を用いた石室は長さ一メートルの短い羨道と長さ三・〇七メートル、幅一・四メートル、高さ一・五メートルを測る玄室(げんしつ)(遺骸埋葬の場所)からなる。玄門入口には酸化鉄を原料とした赤色顔料で描いた連続三角文がある。玄室の奥壁と東西両側壁は凝灰岩の大きな板石を用い、壁の全面に白色粘土を塗り、その上に幾何学文と武器・武具・馬具・装身具などが赤く描いてあった。奥壁には三角文・環状文のほか鉾・槍・大刀の武器と靱(ゆき)・鞆(とも)・冑などの武具がみられた。東壁には三角文・渦文のほか、靱・楯・首飾り・鐙(あぶみ)状のものなどがあり、西壁には三角文と円文・舟あるいは馬具らしき図文が発見された。
三枚の天井板は赤く彩色され、七枚の床石上には白色粘土を塗りこめ、上面を彩色している。一体の遺骸には黒漆塗大刀・刀子・鉄鏃を副葬していた。虎塚古墳は七世紀中頃、この地に勢力をしめた豪族の墳墓であり、彩色壁画古墳として東国の古墳の中で特異な位置を占めている。これらの壁画は悪霊から死者の身を護る意味をこめて描いたものであろう。昭和四八年一二月に国の史跡指定をうけた。
飛鳥の高松塚壁画古墳ほどではないとしても、東国としては飛鳥のそれに匹敵するほど意義深い古墳の発見であったわけであるが、さて、では、このような彩色壁画古墳を築造した「この地に勢力をしめていた豪族」とはいったいどういう者たちであったであろうか。そのことについては、『勝田市史』別編(1)『虎塚壁画古墳』中にある志田諄一氏執筆の「古代史における虎塚古墳の問題点(3)」「秦(はた)氏との関連/虎塚古墳と幡田(はた)郷」にくわしい。
つまり、虎塚壁画古墳が発見された常陸のそこは、斎藤忠氏の「わが国における帰化人文化の痕跡」にある「那珂郡 幡田郷」だったところであった。志田氏の「秦氏との関連/虎塚古墳と幡田郷」にその関連がこう書かれている。
幡田郷は幡多郷(三河国渥美郡)、幡多郷(遠江国長下郡)、幡陀郷(紀伊国安諦郡)、波多郷(肥後国天草郡)などとも書き、渡来人秦氏の後裔や、秦氏と関係ある一族が居住していたようである。
ところで、最近の研究によれば、朱や丹(に)をもって、各種の物品を赤く染める赤染の呪術(じゆじゆつ)は、新羅、加耶系の呪術で、赤染氏によってなされていた。その赤染氏は秦氏と同族、または同一の生活集団を形成していた氏族で、新羅系の帰化人だといわれている。のちに赤染氏や秦氏のなかには、画師として活躍する者が少なくない。
なお私たちは、虎塚壁画古墳近くにある「十五郎穴横穴群」といわれるたくさんの横穴古墳をみてから、ついでこんどは勝田市武田の湫尾(ぬまお)神社にいたった。これも丘陵台地上にあるあまり大きくない神社だったが、その前には「甲斐武田氏発祥の地」とした標柱がたっており、また、「名将信玄を出した/甲斐武田氏発祥の地」とした勝田市教育委員会による説明板もたったりしている。
どちらも最近になってたてられたもので、その間のことについては、「“風林火山”の子孫/ルーツ訪問の旅/勝田市の武田郷へ二十七人/歴史のロマンを求めて」とした一九八一年九月二十八日付けの『朝日新聞』茨城版の記事をみたほうが早い。こう書かれている。
風林火山の旗で知られる戦国時代の勇将、武田信玄の祖先〈の地〉は常陸国武田郷である、とする新説に基づき、二十七日、山梨県から武田家家臣の子孫ら二十七人が勝田市武田の“甲斐武田氏発祥の地”を訪れ、地元住民と歴史のロマンを求めて交歓した。
ルーツ巡りの発端は、茨城キリスト教大学の志田諄一教授(五一)=古代史=が打ち出した新説。〈志田氏は〉勝田市史編さんを引き受けていた五十二年、初期の佐竹氏をめぐってと題する論文を発表し、「武田氏は常陸の国を支配した佐竹氏とともに源義光(新羅三郎、八幡太郎義家の弟)が祖先で、義光の三男義清が那珂川北岸の武田郷に住み、武田冠者義清と名乗った。のちに義清は子の清光とともに常陸を追われ、甲斐に移り、甲斐武田氏に続いた」とする新説を展開した。
これを聞いた山梨県から昨年十二月、研究者十五人が現地を訪れて調査、あっさり新説を認めた。山梨ではこれまで、義清の孫信義が元服した韮崎市を武田氏発祥の地としていたが、どこから移って来たかは解明されていなかった。甲斐への配流について、志田説は、京都の公家の日記を根拠に「十二世紀初めの武田郷周辺は勢力争いが激しく、拡張をあせる新参の義清、清光父子に行きすぎの行為があって告発された」と説明している。
記事はまだつづいているが、甲斐の武田氏が源義光から出た者であることは、これまでもはっきりしていたことであった。それが右の記事のような経過によってであるということは、義光が「常陸介」になっていたことがあるということからもうなずけるが、ところで、その源義光はどうして新羅三郎義光であったかということである。
「甲斐武田氏、常陸佐竹氏の祖である源義光は、近江園城寺の新羅明神の神前で元服したので新羅三郎と呼ばれる」(勝田教育委員会編『甲斐武田氏発祥の地をたずねて』)というのが、一般的な通説となっている。
「三郎」とよばれたのはかれが源頼義の三男だったからだとすると、では、そのかれはどうして、近江(滋賀県)の大津市にいまもある園城寺(三井寺)の新羅明神(新羅善神堂)の神前で元服したのであろうか。
もう紙数がないので簡略にするが、そのことに解答をあたえてくれるのが、遠江(静岡県)の浜松市江之島に、近江の新羅明神を勧請(かんじよう)して新羅大明神をまつった小笠原源太夫基長の自筆「新羅大明神祀記」である。源太夫もまた源氏一門から出た者で、その「――祀記」によると、近江の新羅明神は自分たち源氏の「祖神であるから」ということがはっきりと書かれている。
すなわち、佐々木源氏ともいわれる近江におこった源氏は、新羅系渡来人から出た者だったのである。そうしてみると、さきにみた新羅・加耶系渡来人である秦氏による虎塚壁画古墳といい、常陸佐竹氏、甲斐武田氏など、これはみなそれから出た者で、常陸国だった茨城県の古代・中世は、百済王遠宝、阿部狛(高麗)臣秋麻呂といった百済系、高句麗系の国司もいたが、那珂郡幡田郷ほか新治郡や茨城郡などにも大幡郷があったことからみて、新羅・加耶系渡来人またはその子孫が中心であったということになる。
*     *
なお、文庫版とするにさいしては、本書をはじめから二度ほど読み直すことで、ゆるされる範囲での加筆をした。なにしろ、シリーズの第一冊目であるばかりか、これが書かれたのは十三、四年もまえのことだったので、私の勉強不足がかなり目立つものとなっていたからである。
その勉強不足はいまもまだつづいているのではないかと思うが、それはともかく、私はこの『日本の中の朝鮮文化』シリーズを今年の春までに七冊書いてだした。あとまだ五冊、全十二冊を予定しているが、それが第一冊目からこのように、つぎつぎと文庫版にまでなって広い読者の前にさしだされることになったのは、講談社常務取締役兼学芸局長の加藤勝久氏はじめ、同社文庫出版部の宍戸芳夫氏ならびに平沢尚利氏の好意と努力とによるものである。ここにしるして、感謝の意を表したい。
一九八三年四月 東京
金 達 寿
日本(にほん)の中(なか)の朝鮮文化(ちようせんぶんか) 1
電子文庫パブリ版
金達寿(キムタルス) 著
(C) 金達寿記念室設立準備委員会 2001
二〇〇一年一月一二日発行(デコ)
発行者 中沢義彦
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
e-mail: paburi@kodansha.co.jp
製 作 大日本印刷株式会社
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