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散りしかたみに
近藤史恵
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散りしかたみに
時しも今は牡丹の花の 咲くや乱れて
散るは散るは 散り来るは散り来るは 散りくるは
ちりちりちりちり 散りかかるやうで
おもしろうて寝られぬ 花見てあかそ 花見てあかそ
花には憂さをも打ち忘れ
[#地付き](鏡獅子)
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口の端が、かすかにひきつった。
生まれたての赤子のように、小刻みで規則的な痙攣《けいれん》。
暖められた部屋の中なのに、むきだしの肩をなぶる寒気は、いったいなんなのだろう。虹子《にじこ》は、両手両足をぴんと広げて、夜具の上で磔《はりつけ》の形になっている。一糸まとわぬ身体は信じられないほど白い。
ひどく重い手を伸ばして、彼女の二の腕のあたりに触れると、首をかすかに動かしてわたしを見て、目だけで笑った。
なぜ、こんなに苦しいのだろう。
喉《のど》に鉛の玉が詰まったようだ。わたしはそれを押し出すように、声を出した。
「愛している」
ことばと一緒に、舌も、そして内臓もずるずると引き出されるような気がする。わたしが、今吐き出したのは、言語なのか、それともなにか別の、醜悪で虚《むな》しいもの。
虹子は笑った。吐息と声が入り交じり、まるで小動物の鳴き声のようだ。
顔色を変えたわたしの言い訳を封じるように、彼女の指が伸び、わたしの唇の上を押さえた。冷たく、香り高い指。
「ほんとうなの」
彼女の問いかけが、わたしの中で増幅される。だが、そんな問いかけなんて、儀礼的なものだ。内臓を吐き出してしまった以上、答えはひとつしかない。
「ほんとうだ」
彼女はもう一度だけ笑った。わたしは冷たい身体を抱きすくめる。まるで、白い蛇だ。わたしの身体は鋭利な鱗《うろこ》で、傷だらけになるだろう。
彼女は身を捩《よじ》って、わたしの腕から逃れた。
「虹子」
「ほんとうなのね」
わたしは頷《うなず》く。虹子は反動をつけて、わたしの腕に飛び込んでくる。
彼女は、熱を持った唇を、わたしの耳に押し当てた。
「もし、嘘《うそ》だったら殺すわ」
わたしは、一瞬だけ、彼女に切り裂かれる自分を、夢想した。
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花びらが散る。
くるくると舞いながら、花びらは地上へと旅をする。
一生を一瞬のように。
一瞬を一生のように。
柔らかく、透明なライトの中を、その桜色の無生物は、踊るように落ちていく。
空気を染め、かすかな香りの幻覚さえ呼び起こしながら。
しっとりと湿った瑞々《みずみず》しい昼下がり。幾千人の目に晒《さら》されながら、幾千組の視線をかいくぐり、花びらが散る。
そのとき、ほんの一瞬だけのことだ。
花びらは、見守る人々の記憶の上澄みだけを軽くなぞり、そして消えていく。
ほとんどのものが、花びらのことなどは忘れてしまうだろう。かすかに甘やかな印象だけを残して。
そう、その日までは、忘れられてしまったのだ。
その日だけ、花びらはあでやかな姫君の裾《すそ》に散った。
それが、すべてのはじまりだった。
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第一章
「見たかい」
花道からはけてきた瞬間、師匠はそう言った。
諏訪法性《すわほつしよう》の兜《かぶと》を受け取って、わたしは答える。
「見ました」
「小菊、視力は」
「両目とも1・2以上あります」
師匠、瀬川|菊花《きつか》は、朱鷺色《ときいろ》の裾《すそ》に綿の入った振袖《ふりそで》を少し持ち上げ、リズミカルに階段を昇った。兜を小脇《こわき》に抱え、あわてて後を追う。
「あたしの見間違いじゃなかったようだね」
少しあとに続きながら、わたしは黒衣の頭巾《ずきん》をむしり取った。
「たしかに見ました。ずっと、ああなんですか」
「由利ちゃんが気づいたのが、四日前、それを聞いて、あたしゃこの三日間、気をつけて見てたんだよ。その間、毎日だよ」
「毎日ですか」
楽屋の前では、弟弟子の鈴音《すずね》がのれんをあげて待っている。
師匠は、首だけ曲げて、のれんをくぐる。
「妙だね」
妙なんてもんじゃない。師匠の言うことがほんとうなら、オカルトじみている。
「だれかの追善興行でもあるまいし」
独り言のつもりだったが、師匠はしっかり聞いていた。衣装さんに、帯締めを解かせながら、まなじりをあげてわたしを睨《にら》んだ。
「縁起でもないこと言うもんじゃないよ」
「すみません」
わたしもあわてて、衣装を脱がせるのを手伝う。金糸銀糸で刺繍《ししゆう》された、豪華な姫君の振袖は、幾人もの手で分解されていく。絹の腰|紐《ひも》を引き抜く、鋭い音が楽屋に響いた。
「ま、それが原因なら、えらく風流な幽霊だね。さすが、歌舞伎座《かぶきざ》に巣くうだけあるね」
「頭取に頼んで、お祓《はら》いでもしてもらいますか」
師匠はこめかみに手をやって、吹輪の鬘《かつら》をはずした。床山さんが受け取って、楽屋から出ていく。
「ちょいと、小菊。あんた、何年わたしの弟子をやってるんだい」
「はあ、今年で十一年になります」
「あたしゃ、これでも現実主義者なんだよ。幽霊なんか信じるもんか。死後の魂なんてあったら、うるさくてかなわないよ。先代の師匠に見張られてると思うと、楽屋でもくつろげやしない」
ぺっ、と唾《つば》を吐くように言い捨てる。
「じゃあ、師匠はなんだと思うんですか」
「知るもんかい」
襦袢姿《じゆばんすがた》になると、鏡前に腰を下ろす。
付き人の由利ちゃんが、おずおずと茶を運んできた。わたしの顔を見ると、目で「あの話?」と尋ねてくる。わたしは、顎先《あごさき》だけで頷《うなず》いた。
「おや、新茶かい。いい香りだ」
「土師《はじ》太夫《だゆう》さんに頂いたんです」
湯気を吹いて、一口|啜《すす》ると、師匠は湯呑《ゆの》みを置いて、わたしを見た。
「小菊、あんた、こういうことに打ってつけの人を知ってるだろう」
「はあ、霊媒師に知り合いはいませんが」
「なに言ってんだい。あたしゃ現実主義者だと言ってるだろう。ほら、あの男前だよ。深見屋さんの事件のとき、連れてきた……」
なんか、嫌な予感がしてきた。
「もしかして、あの……」
「そう、名探偵だよ。あの人を連れといで」
「今泉ですかぁ」
わたしは、情けない声を出した。
「そうだよ。こういう事件には名探偵と相場が決まってるんだ。つべこべ言わずに、これから呼んどいで」
いつから事件になって、どの相場なのか知らないが、師匠はすっかりご機嫌になっている。もともと、こういうことが大好きなのだ。
「あんまり、当てになるとは思いませんが」
「なに言ってんだい。だれもあんたの意見なんか聞いていませんよ。連れておいでったら、連れておいで。たまには若い素人の男と話でもしないと、ひからびちまう」
これが、齢《よわい》六十を越す、妻も子どももいる男の台詞《せりふ》かと思うと、どっと疲れる。自分もそうだが、女形《おんながた》というのも妙な生き物だ。
由利ちゃんが、少し後ろでくすくす笑っている。師匠は、わたしの反論を断ち切るようにすっくと立ち上がった。
「今日はもう上がって、名探偵のところに行っておいで。ああ、手ぶらじゃなんだから、そこらにある胡蝶蘭《こちようらん》、あれの名札をひっぺがしてお土産に、持ってお行き。霧島食品の社長さんのがいいよ。あの人、今月はもうこないから」
立て板に水、という調子で、ぺらぺらと喋《しやべ》りながら師匠は機嫌良く、風呂《ふろ》へと出ていった。
わたしは、眉間《みけん》にしわを寄せて、由利ちゃんの方を振り向いた。
彼女は胡蝶蘭の鉢を抱えて、にっこり笑っていた。
瀬川小菊、というのがわたしの名だ。
もちろん、親から貰《もら》った男の名前は別にある。だが、だれもわたしをその名では呼びやしないし、わたしだって、もう自分の名前だと思っていない。
歌舞伎の世界に飛び込んで、名女形、瀬川菊花の弟子になった日から、わたしは瀬川小菊以外のなにものでもない。
歌舞伎の家の生まれでもないし、親に踊りを習わされていたわけでもない。ふと、吸い込まれるように入った歌舞伎座の幕見席で、わたしは、この古く巨大で熱を持った化け物に魅入られてしまったのだ。
国立の歌舞伎俳優養成所に飛び込んで、役者、それも女形になることを選びとった。それまで通っていた大学もやめた。男であることも捨てた。瀬川小菊、という名前を貰うと同時に。
女形にもピンからキリまであるが、わたしはキリもキリ、白粉《おしろい》の匂《にお》いが充満する、三階の大部屋で、ほかの一門の役者と肩つきあわせて化粧する、その他大勢の女形。
黒衣もするし、馬の足もする。巡業で人が足りなきゃ、とんぼだって切る。
たいていは、淡い桜色のきものを着て、ちょんと腰元で並んでいるか、ぐい、と衿《えり》を抜いた粋な仲居姿で、団扇《うちわ》を動かしている。
わたしの姿が見たけりゃ、芝居を見に来て、番付を買ってくれればいい。中村銀弥だの、岩井|粂之丞《くめのじよう》だの、市川六助だの、有名どころの名前がずらりと並んだ、そのあとに、腰元だとか仲居だとか、女、なんていう役名で、聞いたことのない役者の名前が並んでいるだろう。まあ、たいていはその順番に、舞台でも並んでいるから、端からひのふのみ、と数えていけばいい。後ろから、三人目あたりに顔の小さな、目も鼻も線で書いたような、やや受け口の、そう若くもない女形がいるだろう。
そう、それが、わたしだ。
「黒衣の格好して、衝立《ついたて》の陰に、隠れといで」
今朝、いきなり師匠はそう言った。
今月は、昼の部最初の「毛抜」で、腰元役で出るだけだ。昼のキリ、つまり最後の演目の「本朝廿四孝《ほんちようにじゆうしこう》」の十種香《じゆしゆこう》と奥庭の場で、八重垣姫を演じる師匠のお世話をするから、最後まで残ってはいるが、今回は黒衣の衣装など着る用事はない。
まあ、師匠のいつものわがままだろうと、言うとおりにはしたが、そのせいで、胡蝶蘭を抱えて、今泉を訪ねることになるとは思いもしなかった。
「ごめんようっ」
鍵《かぎ》がかかっていない事務所の扉を、肩で押して開けた。
いつもなら、助手の山本くんがにこやかに出迎えてくれるところだが、今日は違った。
玄関先には、小さなモップのような仔犬《こいぬ》がうずくまっていた。わたしの顔を見ると、バネのように飛び起き、足と尻尾《しつぽ》をつっぱらかせて、うーっとうなった。
小さな生き物に、いきなり敵意をむき出しにされて、わたしは弱った。
中を覗《のぞ》き込むが、だれも出てくる様子はない。仔犬は、軽く左右に飛びながら、ぎゃんぎゃん吠《ほ》え続けている。
どうせ、丸めたタオルくらいの大きさの仔犬だ。向かってきたところで、大したことはないが、どうも入りにくい。
玄関先には、今泉の古いけどしゃれた靴が脱ぎ捨ててある。伸び上がって奥を覗くと、ソファの端から、だらんと足先が出ているのを発見した。
わたしは、胡蝶蘭を抱え直すと、相変わらず吠えている犬を無視して、靴を脱いで上がった。幸い、仔犬はかみついてくることもなく、後ずさって吠えているだけだ。どうやら、ただ、怖いだけらしい。
安っぽい布張りのソファの上では、ここの主人が機嫌良くお昼寝の最中だった。手を組んで、ドラキュラが棺桶《かんおけ》の中にいるみたいに、目を閉じている。犬の鳴き声も、わたしの挨拶《あいさつ》も聞こえなかったのは道理だ。耳には、ヘッドフォンが当てられて、その先はテーブルの上の、ミニコンポにつながれている。
わたしは、鉢を床に置くと、ヘッドフォンをコンポから引き抜いた。
びよよよよん、と妙なムーグの音が部屋中に響き、今泉が薄目を開けた。
「あれ、小菊?」
「あれ、じゃないよっ。ブンちゃん。まっとうな人間が働いている時間になにしてんだい。お天道《てんと》様に申し訳が立たないよっ」
今泉はのろのろと起きあがり、コンポの音量を下げた。
「まっとうな人間が寝ている時間に働くこともあるんだ。別に、昼間から寝ててもいいだろう」
「山本少年は?」
「学校。そろそろ帰ってくるだろ」
そういえば、助手の山本くんはこの春から大学に通いはじめたらしい。わたしは、床の胡蝶蘭を指さした。
「これ、お土産」
今泉は縁なしの眼鏡を、シャツの裾《すそ》で拭《ふ》いて、かけなおす。
「へえ、珍しいこともあるもんだな」
「師匠が持って行けってさ」
「菊花さんが? それはそれは。お礼を言っておいてくれ」
今泉は、のんびりした仕草で、キッチンに向かった。一応、お茶を出してくれるらしい。
彼、今泉文吾は、わたしの大学時代の同級生だ。もともと大学で近世文学の講師をしていたのだが、なにを思ったのか、二年ほど前から、このマンションで探偵事務所を開いている。
十カ月ほど前に、ある殺人事件がもとで再会し、そのときに師匠とも知り合った。師匠は、この柔和な顔をした紳士的な男が、ことのほか気に入ったらしく、なにかというと、彼を呼びたがるのだ。
しかし探偵、と言っても、それほど収入があるわけでもなさそうだ。事実、事務所はいつも閑古鳥《かんこどり》が鳴いているありさまだし、今泉はアルバイトで、以前の同僚の手伝いや、ちょっとした校正などをよくやっている。なにを思って探偵などをはじめたか、と聞いても、彼はことばを濁すばかりだ。
気づくと、先ほどのモップ犬が、胡散臭《うさんくさ》そうにソファの陰からわたしを見ている。どうやら、今泉と会話したことで、敵ではないと認識して、吠えるのはやめたようだ。
撫《な》でてやろうと手を伸ばすと、驚いて後ずさり、尻餅《しりもち》をついた。ずいぶん臆病《おくびよう》な犬だ。
今泉は、不揃《ふぞろ》いなカップに珈琲《コーヒー》を入れて戻ってきた。
「あれ、なに?」
視線で犬を指す。
「ああ、やたら犬を殖《ふ》やしている知人がいて、押し付けられたんだ。山本くんが、立派な探偵犬にしようと教育している」
「あんなに臆病なのに?」
「ま、それはこれからの課題だな。ハチ、おいで」
今泉が呼ぶと、仔犬はわたしの方を窺《うかが》いながら、へっぴり腰でやってきた。
「洋犬なのに、ハチなんて名前なのかい」
「洋犬でも生まれたのは日本だ。日本の犬の名前はハチかシロに決まっている」
それじゃ、タロウやポチの立場はどうなる、と思ったが、論争も不毛なので、黙っておいた。
「銭形平次のハチなら、まだ頼りになるけど、この様子じゃ、うっかり八兵衛くらいだね」
「ちがいない」
今泉は、ハチの頭をくしゃくしゃにした。
「で?」
わたしは急な問いかけに、目をしばたかせた。
「なにかあるんだろ。真っ昼間から、小菊が手土産抱えてやってくるなんて、今までなかったぞ」
「そう、それだよ」
わたしは、膝小僧《ひざこぞう》を握って、身を乗り出した。
「花が降るんだよ」
「は?」
こんどは、今泉が絶句して、男にしては長いまつげをぱさぱささせた。
「花が降るはずもないところで、花が降るんだよ。おかしいと思わないかい。師匠が、それに気づいて、探偵を呼べって」
「待った、小菊。最初から、順序立てて説明してくれ。いきなり言われちゃわからない」
わたしは、少しぬるい珈琲を一口|啜《すす》ってから、話し始めた。
「今月の興行のことは知ってるかい」
「少しは。菊花師匠が、八重垣姫をやってるだろう」
「それなんだけどね。その芝居の途中で、毎日必ず、花びらが散るんだ」
「廿四孝って、桜が降る場面あったかな」
「降らないよ。ありゃ、晩秋の話だ。霜月の二十日、狐だけが渡れる薄氷の湖を、狐|憑《つ》きのお姫さまが渡って行くんだ」
人の話を聞いているのか、今泉はヘッドフォンのコードを軽く手で弄《もてあそ》んでいる。
「桜の嵐か」
「馬鹿言うんじゃないよ。それなら、みんな気がついて大問題さ。そうじゃなくて、一枚だけ、ひらひらっと」
わたしは踊るように、軽く手を動かした。今泉の目が、わたしの指先を追う。
「別に、そう珍しいことでもないだろう。よくあるじゃないか。関係ない演目のときに、一枚だけ、花や雪が降ることなんて」
「ま、ね。でも、それはその月に、花吹雪や雪が降る場面のあるときだけだろう。今月は花も雪も、まったく使わないんだよ」
今泉は、白い大きな手で口を覆った。少し考え込んでいる。
歌舞伎で花吹雪や、雪を降らせる仕組みは、しごく簡単だ。小さな紙をたくさん入れた竹籠《たけかご》を、上から吊《つ》るしておく。そして、必要な場面になると、下からそれを紐《ひも》で揺らすのだ。普段も、別に落ちないように工夫をしてあるわけでもないから、どうかすると、ひらひらっと、一枚だけ花びらが落ちてくることがある。だが、今月はそんなことがあるわけはないのだ。雪も花も、まったく芝居中で使わないのだから。
「悪戯《いたずら》じゃないのか」
「だれが、なんのために?」
「知らないよ。でも、悪戯だとしたら、別に理由がなくても……」
「ブンちゃんらしくないことを言うねえ。理由のない悪戯なんか、あるもんか。だいたい、だれに対して悪戯しているのかわかりゃあしない。観客だって、一瞬、あれ? と思っても、すぐに忘れちまうだろうし、役者は自分のことで精一杯で、花になんか気がつくもんか」
「ううむ……」
鼻を鳴らして、ソファに沈み込んだ。
「羽交い締めにした相手の耳元で、妙なことをつぶやくとか、食事の場面で皿におかしいことを書くとか、その程度の悪戯なら、たまにしないでもない」
「なんだそりゃ。古典芸能のくせに、なにをやってるんだか」
今泉はソファから、身体を起こした。
「今、花吹雪用の籠って、ついたままなのか?」
わたしは軽く首を傾げた。そういえば、調べてくるのを忘れていた。
「さあ」
「さあって。それくらいは見てきてくれればいいだろ」
苦笑する今泉の鼻先に、指を突き出した。
「別に、籠があってもなくても、不思議なことには違いないだろ。調べてくれるのかい、それとも」
「まあ、そう急《せ》くなよ。今日は夕方から仕事があるんだけど、それまでだったら時間がある。なんだったら、劇場まで行ってみようか」
「頼むよ」
今泉はソファに掛けた上着を取って、立ち上がった。ハチが、軽いフットワークで飛びながらうれしそうに尻尾《しつぽ》を振る。
「残念、散歩じゃないんだ。ハチくんは、おるすばんだ。散歩は山本くんに連れてってもらえ」
扉を閉める瞬間、仔犬《こいぬ》は悲しげな鳴き声をあげた。
「あんた、まだこんな古い車に乗ってんのかい」
今泉の愛車は、ダットサン・フェアレディ。骨董品屋《こつとうひんや》で扱っているような古ぼけた白いスポーツカーだ。これを見るたび、マルクス・ブラザーズの映画のように、乗っているうちにひとつずつ部品が外れていって、最後にシートだけで走ることになるんじゃないか、と思う。
「うるさい。嫌なら歩け」
今泉は、この車をお姫さまかなにかのように思っているらしい。すでに何年もこの車に乗っているのにもかかわらず、買い換えようなどとはまったく考えないようだ。今日も、いとおしげに車体を撫《な》で回してから、乗り込んだ。おいていかれるのも癪《しやく》なので、仕方なしに助手席に座る。
今泉は、眩《まぶ》しげに目を細めながらも、軽快にハンドルを握っている。車の運転をするのが、楽しくて仕方がないようだ。
「今月は、廿四孝以外に、どんな演目があるんだ」
赤信号で停まったとき、今泉はこう訊《き》いてきた。
「昼の部が、毛抜と藤娘、そんで廿四孝。夜の部が、毛谷村《けやむら》と、鏡獅子《かがみじし》、縮屋新助《ちぢみやしんすけ》ってとこだね」
「たしかに、桜も雪も、縁がなさそうな演目ばかりだな」
彼はハンドルから手を離すと、頭の後ろで手を組んだ。
「菊花師匠は廿四孝だけなのか?」
「今月はね。その代わり、十種香《じゆしゆこう》だけでなく、奥庭も出すけれど。配役も聞きたいかい」
「じゃあ、廿四孝だけ教えてくれ、細かいことを聞いても忘れるだろうし、あとで番付でも買ってみるよ」
「了解。八重垣姫は、うちの師匠だろう。それから、勝頼が市川伊織、奥州屋さん。腰元|濡衣《ぬれぎぬ》が、その父親の市川紫之助」
ふたりの名前を出したとき、今泉の唇が少し歪《ゆが》んだ。なにかいいたげだったが、無視して話を続ける。
「それから謙信が、中村光三郎、村雨屋。白須賀六郎がうちの若旦那《わかだんな》、瀬川|菊之丞《きくのじよう》、原小文治が坂東|辰也《たつや》、信濃《しなの》屋さん。こんなとこだね」
信号が青に変わり、車の波が動き出す。今泉はハンドルを握りながら、少し眉《まゆ》を動かした。
「市川伊織って、例の?」
わたしは返事をしない。例の、なんて思わせぶりな言い方はしてほしくない。あの事件のときは、歌舞伎に興味など持ったことのない輩《やから》にも、いろいろ奥州屋さんについて聞かれた。他人の不幸は、風変わりな娯楽になる。そんな人たちの、まるで舌なめずりするような目つきに、うんざりしたものだ。
今泉がそんな男だとは思わないが、まだあの話を口にする気にはなれない。
察したのか、今泉はそれ以上、奥州屋さんのことについて、触れようとはしなかった。
勘のいいことが、彼の長所であり、欠点でもある。
劇場から少し離れた路上に、車を停める。
「たぶん、師匠はもう帰ってるだろうから、話は聞けないよ」
「かまわないよ。少し現場でも見せてもらって、あとは都合のいい人だけに話が聞ければいい」
今泉はキイをポケットに入れると、鼻歌を歌いながら歩き始めた。のんきというか、間が抜けているというか、せっかちなわたしは、この男と一緒にいると、どうも調子が狂う。
先を歩いていた彼が、振り向いた。
「花が降っているときに、舞台上にいるのはだれかな」
「師匠と、濡衣役の紫之助、勝頼役の伊織の親子だね」
「ま、十種香のメインキャラクターだな」
楽屋口から劇場に入る。頭取部屋には、だれもいなかった。役者が揃《そろ》ったのか着到板も外してある。
「じゃあ、先に舞台の方を見るかい」
「かまわないのか? 上演中だろ」
「幕間《まくあい》の方があわただしいからね。後ろは広いし、邪魔にならないようにしてりゃあ、上演中の方がいいよ」
今泉は、少し緊張したような面もちで、わたしのあとに続いた。舞台に出るなら楽屋からの方が近い。ちょうど、楽屋も嵐《あらし》の合間のように静まっている。
紫や渋茶、萌黄色などののれんがかけられた廊下を進む。はじめて見る人は、この狭さに驚くだろう。舞台の上ほど、裏は華やかではない。
いきなり目の前で、のれんがさっと上がった。
かすかな鈴の音と、伽羅《きやら》の香り。和服姿のひとりの女が、楽屋からすり抜けるように出てきた。
一瞬、息を呑《の》む。
束ねもせず、肩に掛かるままの長い髪、青いほどに白い頬《ほお》、滲《にじ》んだように赤い唇。
知らぬ間に足を止めていた。
深緑のやや袖《そで》の長いきものの裾柄《すそがら》は、木賊《とくさ》に兎。黒に近い、七宝の染め帯。身幅を狭く仕立てたせいで、歩くたびに、白い足首がむき出しになる。
帯締めは丸ぐけの冴《さ》えた山吹色、きものと同色の帯揚げはほとんど見えない。襦袢《じゆばん》と、片手に引っかけた塵《ちり》よけの道行《みちゆき》だけが、ほとんど茶に近い赤。
足袋《たび》もはかず、素足で引っかけた朱塗りの下駄《げた》の先に、小さな鈴がついている。
ほとんど決まりを無視した和服の着こなしなのに、少しもちぐはぐではない。むしろ、ぞっとするくらいに粋だ。
彼女は、二、三歩進んで、足を止めた。
ぼんやりとたたずんだままの、わたしたちに目を向ける。冷たいほど切れ長の、こぼれんばかりに大きな眸《ひとみ》だった。
数秒後、彼女はくすり、と笑った。
そのまま、わたしの横をすり抜ける。
彼女は長めの袖を揺らしながら、出口の方へ消えていった。
(籠《かご》釣瓶《つるべ》の見染めじゃあるまいしさ)
わたしは、軽く身震いすると、我に返った。
(たしかに、すごいようないい女だけどね)
彼女が出てきたのは、市川伊織の楽屋だった。彼だったら、あのくらいいい女と馴染みであっても不思議はない。
振り向くと、今泉はぽかん、と口をあけた間抜けな顔をして、彼女の去った方を見つめていた。まあ、たしかにわたしでも身震いするほどだから、普通の男である今泉が、魂を奪われたようになるのも無理はない。わたしは、軽く彼の肩を小突いた。
「ほら、いつまで見とれてるんだい。木更津《きさらづ》の若旦那じゃあるまいし」
今泉はようやく我に返ったように、こちらを向いた。だが、その顔は蒼白《そうはく》だった。
「悪いけど、小菊」
「なんだよ」
「さっきの話、ぼくは下りるよ」
それだけ言うと、彼はきびすを返して出口に向かっていった。わたしはあわてて追う。
「ちょいと、待ちなって。いったいなんだっていうんだよっ」
「悪いけど、この件には関わりたくないんだ。小菊も顔をつっこまない方がいいと思う」
「説明してくれなきゃわかんないだろ。どうしたって言うんだよ」
「説明はできない。ただ、これは笑い事じゃない。菊花師匠にも関わらないように言ってほしいんだ」
彼の歩調は早かった。まるで、なにかから逃げるように劇場をあとにする。
「ちょいと、お待ちよ。今の女がなんか関係あるのかい」
彼は返事をしない。
「あの女に今まで、どっかで会ったのかい」
「会ったことはない。今日がはじめてだ」
「じゃあ、なぜ」
やっと、車のところまで追いついたわたしの手を、今泉は振り払った。
「引っかきまわすと、妙な形に固まってしまうものだってあるんだよ」
そのまま乱暴に車のドアを閉めると、発車させた。いらついたように暴力的な運転で、車は車道へと飛び出していく。
わたしはどうすることもできず、ただ立ち尽くしていた。
こんな今泉を見たのははじめてだった。
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第二章
「そりゃあ、妙だね」
師匠は、お茶請けの落雁《らくがん》を、小さく割りながらつぶやいた。
「じゃあ、その美女を見てから、今泉さんの態度が変わったんだね」
「ええ、豹変《ひようへん》、という感じでしたよ」
落雁を口に含んだ師匠は、甘味を味わうように目を閉じた。
「奥州屋さんのところに出入りしている、絶世の美女、ねえ」
「あの、絶世というほどではありませんでしたが、なんというか、妖気《ようき》が漂ってくるような……」
「すごいような色気があるんだね」
「はい」
今泉は、彼女を見てなにを思ったのだろう。昨日の出来事をかいつまんで話したのだが、師匠もなにも思いつかないらしい。
「今日も花は降ったよ」
師匠は独り言のようにつぶやくと、湯呑《ゆの》みからお茶を啜《すす》った。
「まったく妙な話だよ」
今泉の様子では、舞台上に降る花と、昨日の美女がなにか関係があるようだった。だが、いったい。
「あの、師匠」
「なんだい」
「わたしが思うにですね。今泉は、美女に見とれたのが気恥ずかしくて、ごまかすためにあんなことを言ったとか……」
「今泉さんがそういうタイプだとは思えないねえ」
たしかにそうだ。それにごまかすためなら、わざわざ逃げ出す必要はない。
「でも、どちらにしても、ヒントは残されているわけだ」
「ヒント?」
師匠は細い骨ばった指先で、とんとん、と鏡前を叩《たた》いた。
「その女の人について調べればいいんじゃないかい」
思わず情けない声が出る。
「わたしがですかぁ」
「ほかにだれがやると思ってるんだい。それに、また、今泉さんも引っ張り出してくるんだね」
「今泉は関わり合いにならない方がいい、って言いましたけど」
「わたしゃ、なにも物事を引っかきまわすつもりなんかありゃしないんだ。ただ、自分が性根込めてやっている舞台に、なんのためにあんなことをしているのか、知りたいだけだよ」
たしかに師匠の言っていることは道理だ。冗談めかしてはいるが、師匠は単なる好奇心で、今泉を引っ張り出そうとしているのではない。
これは、師匠の舞台なのだ。自分が咲かせようとしている花に、どんな花粉が散るか、知らないままですませられるわけはない。
と、いうことは、やはりこれは、弟子の仕事というわけだ。
「とりあえず、奥州屋さんとこの人に、聞いてみましょうか」
「そうだね、ま、美人らしいから、単なる噂《うわさ》話のようにして、話をもっていけるんじゃないのかい」
師匠の視線が、後ろにそれた。見れば、番頭の山中さんがご贔屓《ひいき》さんを案内してきたようだ。わたしは、軽く頭を下げると、足早に楽屋を出た。
以前も今泉と一緒に、探偵の真似事をしたことがある。そのときは、あまり後味がよくなかったし、もう二度とするつもりはなかった。
でも、と思う。
今回は、前回とは違う。人が死んだわけではないし、だれかを追いつめようとしているわけでもない。花が散るなら散るでいい。
だれが、なんのためにやっていることなのかを、見届けるだけだ。
今泉の過剰な反応は少し気になったが、彼も少し変わった男だ。芝居がかったところもあるし、あとで問いつめてみると、案外|他愛《たわい》のないことなのかもしれない。
考え事に熱中していて、廊下を曲がってくるだれかに、ぶつかりそうになった。
一瞬、身体がこわばった。
彼は、親しげにはにかんだような笑みを浮かべ、すっと道をよけた。そのまま、わたしの横を通り過ぎていく。
わたしは、背筋に冷たいものを感じながら、しばらくそこにたたずんでいた。
(なんど見ても慣れることができない)
市川伊織。
若手の立役《たちやく》の中でも、実力者で通っている男。まだ三十だが、踊りの巧《うま》さと口跡の確かさは、若手の中で際立っている。
目が覚めるような美男子、というわけではない。色白だが、面長で寂しげな顔立ち。だれかが、仔鹿《こじか》のバンビを連想する、と言った、つぶらで小さな眸《ひとみ》。鼻梁《びりよう》の薄い鼻の下に、これも小さくて薄い唇が、両端にくぼみを見せて固く引き結ばれている。
女形《おんながた》だったら、さぞ映えるだろう、と思わせる、折れそうなほど細い首と、腰。顔立ちだって女形向きの彼が、立役をやっているのは、偏《ひとえ》にその並外れた長身のせいだ。
貴公子めいた雰囲気と、浮き世離れした清潔感で、女性の人気は高かったが、よく、こう評されていた。
「線が細すぎる。よく言えば、あくがない、ということだが、色気もまったくない」
今は、彼のことをこんなふうに言う人は、だれもいない。
そう、あの事件のあとは。
わたしは、少し肩を落として息をついた。
振り向いても、市川伊織は、もうとっくに自分の楽屋に戻ってしまっている。
こんなに動揺したのは、彼に関わる女性を調べようとしているから、だけではない。
彼の、あの顔。
左頬《ひだりほお》を斜めに横切る、盛り上がった傷跡。そこだけではない。眉《まゆ》を断ち切るように、ひとつ、鼻の下から上唇にかけてもひとつ、赤黒く変色した傷があった。
半年前、彼は芝居が終わって帰宅途中、なにものかに襲われ、剃刀《かみそり》で顔を切り裂かれた。
狂信的な女性ファンの仕業か、人気をやっかんだものか、女性関係のもつれか、それとも単なる暴漢なのか。
犯人は未だ捕まっていない。
事件の当初、彼の役者生命は終わりだ、と囁《ささや》かれた。それほど、傷は深かった。
そのあと、「現在の美容整形の技術で、なんどか手術し直せば、かなり目立たなくできるらしい」と、噂が立った。だが、それにしても、彼が舞台に戻ってくるには、数年はかかるだろう、と言われていたのだ。
だが、すべての人の憶測を裏切って、市川伊織は事件の三カ月後、舞台に立ったのだ。
記者会見もなにもなしだった。
役は、忠臣蔵の斧定九郎《おのさだくろう》。
番付にも名前はなかった。上層部でも、かなり揉《も》めたらしい、とあとから聞いた。
彼は、包帯をとったばかりの痛々しい顔を白粉《おしろい》に染めて、いきなり観客の前に姿を現したのだ。
早野勘平の義父、与市兵衛が、雨宿りをしていると後ろから、にゅっと白い手が伸びてきて、首筋をつかむ。
与市兵衛は、藪《やぶ》に引き込まれて殺され、代わって姿を現す殺人者が、斧定九郎だ。
黒の紋付き着流し、朱鞘《しゆざや》の刀を斜めに差し、月代《さかやき》の伸びた頭の、ぞっとするほどの色男。
市川伊織が、登場したとき、はじめは客席にかすかなどよめきが起き、それが水紋のように広がって、やがて歓声に変わった。
彼は、傷跡を隠そうとも、見せようともしていなかった。
まるで生まれたときから、その顔でいるかのように、にやりと笑って金を数え、
「五十両」
という、定九郎のたったひとつの台詞《せりふ》を言ったのだ。
白く塗られた、優しげな細面に、浮き上がる凄惨《せいさん》な傷跡は、観客の目を引きつけて放さなかった。
彼は、その日から従来通りの花形二枚目役者として、復活したのだ。
今月も、師匠演じる八重垣姫の許嫁《いいなずけ》、武田勝頼を演じている。
もし、彼が歌舞伎役者でなかったら、この復活は不可能だっただろう。映画やテレビの俳優であったら、役者生命を絶たれていただろう。
歌舞伎の観客は、見て見ぬふりをする。黒衣を、役者が腰を下ろす高合引《たかあいびき》を、老女形演じる姫君の顔に浮かぶ、醜い皺《しわ》を。
同じように、美しい若侍の顔に浮かぶ傷を、見ないようにすることも、それほど難しいことではない。
実際、その傷は、優しいだけだった彼の面差しに、ふてぶてしさと艶《なま》めかしさを生み出したのだ。
「切られ与三《よさ》、か」
囲い者のお富に手を出した見せしめに、全身に三十数カ所の傷をうけ、木更津の海に投げ捨てられた、美しい若旦那《わかだんな》。
どこかの週刊誌が、市川伊織を、その歌舞伎の登場人物にたとえていた。安直な発想だ、と思いつつ、彼の顔を見るたび、そのことを思い出す。
市川伊織と、このあいだの美女との組み合わせじゃあ、まるで芳年《よしとし》の血みどろ絵だ。
わたしは、陰惨な想像を振り切ると、大部屋へと上がっていった。
捜している男は、階段の踊り場の窓から、外を眺めつつ、煙草を吸っていた。
「紫《し》の姐《ねえ》さん」
声をかけると、涙袋のたるんだ眸をわざとらしくぱちぱちして、それから笑った。
「なんだ、小菊ちゃんかい」
市川紫のは、奥州屋の名題下の女形だ。伊織の父、市川紫之助について、もう三十年になるだろうか。舞台の上では、わたし同様、大した役は貰《もら》っていないが、紫之助に可愛《かわい》がられ、奥州屋の裏のことをほとんどまかされている。
わたしは、彼と並んで、窓の外を覗《のぞ》いた。
「いま、そこで姐さんとこの若旦那に会ったよ」
今、風呂《ふろ》から上がったのだろうか。短く切りそろえられた髪が、わずかに湿っていた。
「なんて言うか、ちょっとぞっとするくらい色っぽくなったよね」
紫のが、くすり、と笑った。煙草を親指と人差し指で挟んで、煙を吐く。
「そうかね。おむつを替えたことのあるわたしには、まだまだ若造にしか、見えないけどね」
口は悪いけど、彼が伊織にだれよりも愛情を持っていることは、みんな知っている。
「いつも、一緒に接している人には、わからないよ」
「まあ、たしかに今回の勝頼も、菊花さんの相手役にしちゃおそまつだけど、日増しによくなっているようだしね」
「充分だよ、うちの師匠だってべた褒めだ」
彼の目がうれしそうに細められる。わたしは、少し窺《うかが》うように話題に入った。
「そろそろ結婚の話なんか、出てこないのかい」
「まだまだそんな話はね」
「そうかい、この前、若旦那の楽屋で、すごいような美人を見たからさ。若旦那の可愛い人かな、と思ってさ」
紫のの目が、ちらりと横に流れた。乾いた唇を少し歪《ゆが》める。
「そりゃ、滝夜叉《たきやしや》姫だよ」
「滝夜叉姫?」
滝夜叉姫とは、舞踊「忍夜恋曲者《しのびよるこいはくせもの》」、通称「将門《まさかど》」に出てくる妖女《ようじよ》だ。平将門の娘で、傾城《けいせい》を装って、源頼信に復讐《ふくしゆう》しようとする魔性の美女。蝦蟇《がま》の妖術を操り、大宅《おおや》光圀《みつくに》を色仕掛けで味方に呼び込もうとする。
「わたしらが、勝手にそう呼んでいるだけだけどね」
たしかに、あの梳《す》いたままの髪、陰鬱《いんうつ》な色彩の和服は、将門の娘の名にふさわしい。
「あれで、素人娘だってんだから、参っちゃうよね」
「そうなのかい? わたしゃてっきり、玄人さんだとばかり思ってたよ」
水商売の女性でもないのに、あれだけ粋な着こなしをするとは、恐れ入る。
「そうとしか見えないだろ。それが違うんだよ。結構お金持ちのお嬢さんらしいけど、あんなに低く帯を締めて、衿《えり》を抜いて、品がないったらありゃあしない」
勢いよく、罵倒《ばとう》したあと、つけ加える。
「ま、垢抜《あかぬ》けているのは認めるけどね」
「贔屓《ひいき》のお嬢さんなのかい」
「さあね。若旦那がどこかで知り合ったらしいけど。番頭の案内もなく、ずかずか楽屋に上がり込んで、ずうずうしいもんだよ」
「案外、若旦那もぞっこんだったりして」
何気なく言ったことばだったのに、紫ののまなじりがきゅっと上がった。
「ああいう女は、若旦那にはふさわしくないね」
吐き捨てるような口調。わたしは自分のことばが図星であったことに気がついた。
彼は手元の灰皿に煙草をねじりつぶすと、壁から背を離した。
「ま、役者やってりゃあ、いろんな妙な贔屓はつくよ」
わたしは、それ以上話を続けることもできず、ただ、頷《うなず》いた。
舞台に出たところで、舞台監督の奈良《なら》さんを見つけた。
舞台、というと、客席から見えるところがすべてのように思われているが、実に、奥行きはその四倍ほどある。一日、十回近く行われる舞台転換のためには、それだけの広さが必要なのだ。あまりに、雑然としているので、はじめて見る人は、驚くだろう。
奈良さんは、黒御簾《くろみす》の脇《わき》にパイプ椅子《いす》を置いて、渋い顔で舞台を眺めていた。
「奈良さん、ちょっと時間ある?」
声をかけるが、横から小道具の女の子が急いでやってきたので、その場を離れた。
やはり、仕事が最優先だ。
わたしは、舞台の後ろで首を曲げて天井を見据えた。花を降らせる装置が、しつらえてあるか、確かめるつもりだった。
天井はパイプが入り組んで、藤娘の踊りに使う藤や、書き割りが高く吊《つ》り下げられている。
よく見えないので、上を向きながら上手の方に回る。
「小菊ちゃん、なにしてるんだい」
肩を叩《たた》かれて振り向くと、奈良さんだった。
「今、いいのかい」
「ああ、ちょっとならね。どうしたんだ、上ばかり見て」
奈良さんは、髭《ひげ》ばかりが目立つ、のっぺりした童顔をほころばせた。
「花を降らせる装置って、ついたままなのかな、と思ってさ」
「え? いや、地下に持っていってあるんじゃないか」
不審そうに答える奈良さんに、わたしは事情を説明した。
「そりゃ、妙だ。全然気がつかなかったなあ」
奈良さんも首を捻《ひね》っている。
「装置は、間違いなく外してあるよ。ときによったら、つけたままのこともあるんだけどね」
装置があるのなら、だれが、なんのために、という二つを調べればいいだけだが、取り外してある、となると、どうやって降らせたのかまで、調べなければならない。
わたしは、顎《あご》に手をやって考え込んだ。
「明日から、ちょっと舞台の脇で張ってみようか、と思うんだけど、かまわないかねえ」
「そりゃ、かまわないけど、小菊ちゃんはいいのかい。いろいろ用事があるんじゃ……」
「今のところ、最優先事項になってるんだよ。師匠の命令でね。舞台に立たなきゃならない時間は仕方がないけど、それ以外のときは、他のお役は後回しになってるんだ」
「なら、好きなようにすればいいよ。ぼくも、できるだけ気をつけておくから」
一日中舞台脇にいる、奈良さんに力になってもらえば、こんな頼もしいことはない。
そう思って、はっと気づいた。
「まさか、奈良さんが降らせているわけじゃないだろうね」
彼は目を丸くして、大げさに両手を振る。
「よしてくれよ。そんなくだらない悪戯《いたずら》をして、菊花さんににらまれたら、と思うと恐ろしいじゃないか」
上手の方に戻っていく奈良さんの後ろ姿を見ながら、わたしは彼の台詞《せりふ》を反芻《はんすう》していた。
奈良さんの言うとおりだ。単なる悪戯で、こんなことができるわけはない。うちの師匠は年こそまだ若いものの、梨園では名だたる実力者だ。師匠がやっている舞台に、悪戯を仕掛ける、ということは、師匠ににらまれる危険をはらんでいる。
たかが、悪戯だ、と言っても、役者が命を懸ける舞台でのことだ。冗談ですまされるものではない。
師匠ににらまれたから、といって、命が危うくなるわけではないが、歌舞伎を生業とするものにとって、これから先、ひどくやりにくくなることに間違いはない。
この悪戯を仕掛けたものは、師匠ににらまれてもかまわない者、つまり、歌舞伎界に関係ないか、反対に師匠よりも力を持った者に限られることになる。
(それにしたって、地雷を踏むようなことをする人がいるもんだねえ)
わたしは、もう一度天井をうちながめると、きびすを返して舞台から去った。
今泉のマンションの狭い階段を昇る。
駆け下りてくる、ブラックジーンズの長い足に気づいて、顔を上げた。
「なんだ、山本くんじゃないのかい」
今泉の助手の男の子だった。衿足を伸ばした髪、意志の強そうな眉《まゆ》、前に会ったときより、ずいぶん大人びて見える。
十代の男の子は、朝顔より成長が早いな、と意味もなく思う。
「ああ、小菊さん、おひさしぶりです」
いつもは白い歯を見せて笑うのに、今日、彼の表情は硬いままだった。
「先生に会いに来られたんですか」
「そうだけど、彼、留守?」
山本くんは、首を大きく横に振った。
「そうじゃないんです、先生、昨日の晩、事故にあって……」
「なんだって?」
「そんなに、ひどい怪我《けが》ではなかったんですが、足首を骨折したらしくて、今、病院です」
わたしは、山本くんに並んで、階段を降りた。
「それで、これから?」
「ええ、病院に行きます。一緒に来られますか」
もちろんだ。わたしは頷くと、彼が両手に持っている紙袋を、片方奪った。たぶん、今泉の衣類や身の回りのものが入っているのだろう。
「あ、いいですよ。ひとりで持てます」
「遠慮するな、少年」
そっけなく言うと、やっと笑顔が出た。言い訳のようにつぶやく。
「本当は朝から行くつもりだったんですけど、先生が学校に行けって、うるさくって。ぼくがいても、痛いのが治るわけじゃないからって言って」
今泉らしい。わたしは、意外に重量のある紙袋を胸に抱えた。
「入院しなきゃならないのかい」
「ええ、たぶん一週間は。骨折したのが足でしたからね。事務所もしばらくは休業ですよ」
と、いうことは、今回の件の調査も、しばらくは頼めないことになる。まったく、ついていない。
駅に向かおうとする、山本くんをとどめて、わたしは車道に手を挙げた。
「タクシーで行こう」
病室の扉を開けると、今泉は膝《ひざ》に置いた文庫本から顔をあげた。
「なんだ、小菊か。さっそくのお見舞いありがとう」
案外、血色がいい。心配したほどのことはなさそうだ。だが、彼の左足は、痛々しくギプスで固められている。
「大丈夫なのかい」
「大丈夫なら、入院なんかしていない」
「せっかく、小菊さんがきてくれたのに、なに減らず口叩いているんですか」
少し遅れて入ってきた山本くんが、口を尖《とが》らせた。
「つまらない冗談が言えるなら、大したことはなさそうだね」
わたしは軽く切り返すと、ベッド脇《わき》の椅子《いす》を引き寄せた。山本くんは、ロッカーに衣類をしまったりして、かいがいしく働いている。
「あんな、おんぼろに乗ってるから。いつかはこんなことになると思ってたよ」
今泉の表情が憮然《ぶぜん》となる。
「別に車に乗ってたわけじゃない」
「なんだ、ぶつけたんじゃないのかい」
「交通事故なんかじゃない。いつも安全運転を心がけているのに」
「どうだか。じゃ、どうしたのさ」
見れば、山本くんの目が悪戯っぽく輝いている。
「山本くん、よけいなことを言うんじゃないぞ」
今泉は高い声をあげて、山本くんを制した。慣れているのか、山本くんは頬《ほお》をゆるめてわたしに笑いかけると、すました顔で、タオルを畳みはじめた。
怪我の理由を知られたくないとすれば、よほど間の抜けたことで、怪我をしたか、それとも。
「女が絡んでるだろ」
そう言うと、今泉の眉が、情けなさそうにハの字になった。図星だ。
「さっすが小菊さん! 鋭いですね〜」
山本くんが、くっくっくっと低く笑いながら膝を叩《たた》いた。
「だてに、十数年も、ブンちゃんの友だちをやってないよ」
なぜか、今泉には昔から、女性のせいで災難に巻き込まれる癖がある。特に女好きでもないのに(まあ、嫌いでもなさそうだが)、妙に女がらみで、ひどい目に遭うのだ。
もともと、見かけが優しげで、清潔感のある二枚目のせいで、異常に女性にもてるのだが、それで得をしたところなど、見たことがない。それどころか、いつもそのせいで、貧乏くじを引いているように見えるのだ。
ひとことで言えば、女難の卦《け》があるのだろうが、親しい友人たちの間では、「あいつの前世は青髭《あおひげ》かなにかで、何百人という女の恨みを買っているに違いない」などと、言われ続けている。
「隠したってしょうがないだろ。いったい、どうしたんだよう」
わたしは好奇心を抑えきれずに、身を乗り出した。そっぽを向いてしまった今泉に代わって、山本くんが話してくれる。
「この前から、浮気の調査をしていたんです。依頼人は、四十代のクラブ歌手で、十も若い夫が、浮気をしているらしいって言ってきて。それで、先生が十日間くらい、それにかかりきりになっていたんですが、反対に依頼人の方が先生を気に入ってしまったらしくて……」
「それで揉《も》めたのかい」
「先生が依頼人に迫られているところへ、依頼人の夫が帰ってきたらしいんです」
「それで、ぼこぼこにされたんだね」
今まで黙っていた今泉が、渋々、といった口調で訂正した。
「マンションの階段から突き落とされたんだ」
笑ってはいけない、いくらなんでも、笑っては悪い、と思うのだが……。
「おまえたち、人の不幸を……」
「ごめん、ごめん。可哀想《かわいそう》だと思ってるよ。でも、ひとつだけ、聞かせて」
わたしは、こみ上げてくる笑いを抑えながら、尋ねた。
「その旦那《だんな》は、浮気してたのかい」
「してなかったよ。それどころか、旦那がぼくを突き落とすところを見て、女がえらく感動してね。誤解が解けて、よりが戻ったらしい」
今度は、わたしもこらえきれずに噴き出した。
「小菊〜っ」
「悪かった、悪かったよう。でも、おかしくてさ。ブンちゃんらしいねえ」
やはり、こいつは前世で女の恨みを買っているらしい。
今泉は、わざとらしく話をそらした。
「それで、小菊はどうして、ぼくが怪我《けが》をしたことを知ったんだ」
わたしはやっと、今泉になんの用があったのかを思い出した。
椅子にきちんと座りなおし、彼の目を見据える。
「ブンちゃんが、なぜ、昨日あんなに急に帰ってしまったかを、知りたくてさ」
今泉の顔が、急にこわばった。
「昨日の、ぼくの忠告を聞いてはくれなかったのか」
「理由もわからないのに、あんなこと言われても、納得できないね。ちゃんと、説明してくれれば、手を引いてもいい」
彼は目を伏せた。
「説明はできない。証拠も確証もないし、それにだれが花を降らせたかはわからない」
「なら、証拠を手に入れようじゃないか」
「小菊」
「わたしだって、師匠だって、単なる好奇心でこんなことをやっているわけじゃないんだ。八重垣姫は、師匠の代表的な役だし、今度の舞台にだって、師匠がどれほど力を入れているか、わかってほしいんだよ。廿四孝の舞台は、師匠が描いた絵だよ。その絵に、なにものかが違う色をのせている。それが、なんのためかを知りたいと思って、なにがいけないんだい。もし、事情があるのなら、無理にやめさせなくてもいい。ただ、師匠は、なぜ、そんなことをするのかを、知りたいと思っているだけなんだ」
今泉は、しばらく黙ったままだった。やっと、口を開く。
「知られることで、壊されるものもあるんだ」
「壊さないようにするさ。それがなにかは知らないけどね」
そばで、山本くんが不安げにこちらを見ている。彼には、わたしたちの会話の意味はわからないだろう。
「小菊の言いたいことはわかったよ。でも、ぼくは今、このとおりだ。動けない」
「動くのはわたしがやるよ。ブンちゃんは、わたしたちが気づいていないことに、気がついているんだろ。だから、その証拠を掴《つか》むには、どう動いたらいいか、教えてくれればいい」
「ぼくも手伝いますよ」
山本くんが、わたしの横に立つ。今泉は深々とため息をついた。
「仕方がないな。手始めに、あの女性のことを調べてくれないか」
「それなんだけど、今日、ちょっと調べてみたんだよ」
わたしは、今日一日で、聞いた話、考えたことを今泉に話した。彼は黙って聞いていたが、わたしが犯人を絞り込んだことを話すと、眉《まゆ》をひそめた。
「やっぱり小菊はまだ甘いな」
「なにか、おかしいのかい」
「菊花さんの舞台に、降るはずのない花を降らせる。それが菊花さんを怒らせることになるかもしれない、というのは確かだ。でも、だからといって、犯人が菊花さんににらまれても平気な者だ、というのは性急だ」
「でも……」
「いいかい、もうひとつ、可能性はあるんだ。それは、菊花さんににらまれても、この花を降らせなければならない人が、犯人だ、ということだ」
わたしは、今泉のことばに、少し戸惑った。
「だって、たかが花くらいのことで……」
「小菊にとっては、たかが花、だ。だが、それだけではない人が、かならずいるんだ。少なくとも、ふたり。そのメッセージを送る人と、受ける人がね」
今泉は、そう言って、目を病室の窓にそらせた。
帰るまぎわ、もう一度、今泉に訊《き》いてみた。
「ねえ、ブンちゃん。あんた、やっぱり、このことを調べるのがいやなのかい」
彼は寝間着の胸元に手をやって、苦しげに言った。
「こんなに気の重い事件は、はじめてだよ」
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第三章
夏だ。
それだけはたしかに覚えている。
ひりつくような、めまぐるしい、気の遠くなるような夏。なにかにせきたてられたような苛立《いらだ》ちだけがつのり、記憶も、感覚も曖昧《あいまい》な夏。わたしは、汗をかくだけの、醜悪な獣でしかなかった。
彼女は、そんな夏につけこむように、わたしの前に現れ、わたしの中に彼女でしか埋まらない穴を開けた。
夏だった。
それだけは、忘れようがない。
たぶん、その夏さえなければ、わたしの生涯《しようがい》はもっと違うものだっただろう。もう一度やり直しがきくなら、わたしはきっと、その夏を選ばない。
悪性の風土病のような恋だ。出会わなければ、と思うことはできても、それ自体から逃れることはできない。
わたしは、静かに自分の頬《ほお》を撫《な》でる。
傷の感触が、指に残る。
足早に、歌舞伎座《かぶきざ》の楽屋口から出る。
昭和通りを抜け、晴海《はるみ》通りまでくれば、サングラスを外す。真昼の日差しが、目に痛いが、サングラスは嫌いだ。視界全体が青黒く染まると、息苦しくなる。
市川伊織の名前を知る人は、少なくないだろうに、わたしは街でだれかに声をかけられたことが、ほとんどない。
雑踏の中にまぎれ込みやすい顔、というのだろうか。たぶん、ひどく印象の薄い顔をしているのだろう。
鏡に映る自分の顔を思い出す。
細い輪郭と、首、一重の小さな目、薄い唇。もっとも、少ない要素で人の顔を形成しようとしたら、こんな感じではないのか。この顔が二枚目の部類に入るのなら、それはただひとつ、欠点といえるほどの特徴さえない、ということだろう。
腰のない髪と、体毛の薄いやせぎすの身体。存在感のないパーツばかりを集めたようだ。
女性ファンなどに「可愛《かわい》い」なんて、表現されると、困惑するしかないが、だからといって、この顔や身体が嫌いだとは思わない。
道行く人に「市川伊織だ」と思われて、振り向かれるなんて、考えただけでもぞっとする。個性なんて、人混みの中にまぎれれば、泡のように溶けてしまうものでいい。
白い鹿子地《かのこじ》のポロシャツに、インディゴブルーのジーンズという格好も、すれ違う人になんの印象も与えないだろう。
わたしはいつもどおり、人の波にうまくまぎれ込んだことをほくそ笑み、足どりを早めた。
次の瞬間だった。
彼女がいた。まるで、そこだけ天然色の映画のように鮮やかだった。
くるくると、薄青の無地のパラソルをまわし、人の流れに乗るでもなく、逆らうでもなく、自分の速度で歩いていた。
濃紺の綿絽《めんろ》のきものには赤黒い葡萄《ぶどう》の蔦《つた》が、描かれていた。暑苦しい、といってもいい色彩なのに、わずかに透ける白の襦袢《じゆばん》のせいで、目に涼しげだ。
帯は、水浅葱《みずあさぎ》にむじな菊の柄。歩くたびに、裾《すそ》がかすかに割れて、下前の鮮やかな葡萄がちらちらとのぞく。
足袋《たび》ははかず、素足に朱塗りの下駄《げた》。真っ白で、すべらかな足の甲が眩《まぶ》しい。
パラソルのせいで、顔は見えないが、これだけ物腰の美しい女性なら、のっぺらぼうだって美人と呼んでいい。
パラソルの柄を支える指先の長い爪《つめ》も、淡いブルーグレーに染められている。
とにかく、彼女はわたしと正反対だった。人混みから浮き上がり、それなのに、ひどく景色に馴染んでいた。
(眼福だな)
わたしは、目を細めて彼女に見とれた。すれ違う人たちも、感想は同じらしく、わざわざ足を止めて振り返っている者までいる。
それだけのことだったら、たぶん、この凶暴すぎる夏の中での、わずかに涼しげな一場面として、記憶に残るだけだっただろう。
だが、そうはならなかったのだ。
すれ違ったあと、振り向いたのは彼女の方だった。
彼女は、かすかに首を傾げてこう言った。
「伊織さん?」
そのあと、わたしが彼女と並んで歩き出したからといって、だれも責めることはできないだろう。
美しい異性の誘いを、怯《おび》え以外の感情で振り切ることができるものは、もっと美しい異性との約束に向かうものだけだ。
振り向いた彼女の顔は、その物腰そのままだった。
こちらが不安になるほど白い頬、目尻《めじり》にブルーグレーのシャドウを掃いた、切れ長の眸《ひとみ》。繊細な骨格を感じさせる、柔らかな輪郭。
分け目さえ曖昧で、洗ったままのように見える長い髪を、揺らせて、彼女は微笑《ほほえ》んだ。
「市川伊織さん、でしょう」
ファンなんです、いつも見てます、頑張ってください。予想されるようなことばは、あとには続かなかった。いや、そんなありふれたことばが彼女の薄い唇から洩《も》れることなど、最初から、想像もしなかった。
わたしはしばらく返事に困って、立ち尽くしていた。
彼女はことばを継ぐことも、表情を変えることもせず、ただわずかに口元をほころばせただけで、わたしの返事を待っていた。
「そう、だけど……」
「すぐに、わかったわ」
わたしは、無意味にありがとう、と口走った。彼女の声は、なにか不思議な予感を感じさせるものだった。
まるで、ここで会うことがあらかじめ決められていたかのように。わたしは、罠《わな》にかかったように、こう言うしかなかったのだ。
「よかったら、少しお話ししませんか」
喫茶店に行こう、というわたしの誘いを、彼女は軽く退けた。
「嫌いなの。喫茶店って。つまらないおしゃべりしている人が多いでしょう」
そうして、彼女が選んだ場所は、駅前の煉瓦《れんが》が積まれた花壇の脇《わき》だった。わたしは、彼女の座る場所に、真新しいハンカチを敷いた。今時の中学生でも、こんなデートはしないだろう。
彼女は日傘を畳むと、長く伸ばした爪を頬に当てて、悪戯《いたずら》っぽくこちらを見た。わずかな癖もないまっすぐの髪が、液体のように肩に流れている。
自分から、ことばを切り出すことはしないのに、会話はすでに彼女に主導権を握られているようだった。
わたしは、次のことばを探って、彼女の着ているものを、しげしげと見た。
「変わった着方、って思ってる」
唐突に話しかけられて、わたしは少し狼狽《ろうばい》した。
「いや、でも、すごく粋だよ」
「知らないおばあちゃんとか、話しかけてくるのよ。身幅が挟すぎる、とか、裾模様の着物に、染め帯なんかあわせるもんじゃない、とか、足袋をはかないとはなにごとだ、とか。付け下げなのに、足下が下駄なんて……とかね」
たしかに、和服には事細かな決まりがある。彼女の着方は、それを片っ端から破っているようなものだ。
「変だと思わない。別に、それを破ったからといって、だれに迷惑がかかるわけでもないんだもの。ものを貰《もら》ったらお礼状を出す、なんてルールとは、全然違う」
「たしかに、洋服ならスーツにスニーカーを合わせても、文句を言う人はいないのにね」
彼女は、くすり、と笑うと、視線を前の舗道に向けた。
「むしろ、ルール違反、っていうのはああいう人のことを言うんじゃないかしら」
彼女の視線の先には、若い娘がいた。どこかのスーパーで買ったような、ウェストゴムのスカートに首まわりの伸びたTシャツ。服装にまったく気を遣わないらしく、垢抜《あかぬ》けない装いだった。
「わたしの格好がルール違反なら、ああいう、人に不快感を与えるような格好は、もっとルール違反だと思うわ」
彼女の手厳しい物言いに苦笑する。
「それは、少しひどいだろう。個人の自由なんだから」
「ものの譬《たと》えよ。別に生まれついての容姿をどうのこうの言ってるんじゃないわ。ただ、人に不快感を与えないのがルールなら、わたしの着方にいろいろ言われる筋合いはないってこと」
たしかに、彼女の装いは、ルールから外れているとはいえ、ちぐはぐなものではない。むしろ、絵のように涼やかで美しかった。
「たしかにそうだね。でも、そういう点ではぼくは、失格かもしれないな」
「あなたが、どうして?」
「普段、身なりにはまったくかまわないからね。街へ出るのも、だいたい、こんな格好だ」
彼女は少し考え込むように、目を伏せた。信じられないほど長い睫《まつげ》が影を作る。
「あなたのような人は、特別だわ」
「特別?」
「そう、なにもする必要がないのよ。むしろ、変に流行の服なんて着ると、だいなしだわ。水、とか風、みたいだもの。そこにいるだけでいいの」
わたしは、くすぐったさを覚えて、首をすくめた。
「きみだって、きっとそうだよ。たぶん、着飾らなくても綺麗《きれい》だろう。もちろん、今の格好も綺麗だけど」
彼女は、きっぱりと首を振った。
「わたしは駄目。もともと、味や匂《にお》いがついてしまっているもの。あなたみたいに、透明なわけじゃないわ」
そうして、彼女はこぼれそうな眸で、まっすぐにわたしを見据えた。
「ずっと、あなたみたいになりたいと思っていた」
虹子を知って、わたしの世界の半分が死んだ。
焼き立てのパンを縦に裂くように、なんの抵抗もなく、世界がふたつに分けられる。
意味のあるものと、意味のないものに。
「おかえりなさい」
陽子はいつものように、玄関まで迎えに出る。
食事の支度が半分ほどすんだ食卓、つけっぱなしのテレビ、換気扇とものを炊く音がする台所。
いつもと変わらない夕方のはずだ。だのに、わたしは無様にうろたえる。
陽子は室内でも、薄化粧を欠かさない。だらしない格好をしたところも、見たことがない。今日も、セミロングの髪をヘアバンドであげて、綿の清楚《せいそ》なブラウスと膝丈《ひざたけ》のスカートに身を包んでいる。
結婚はまだ、していないが、もう半年以上一緒に暮らしていた。
「伊織のファンだって言うんだよ。一度、会ってやってくれよ」
大学時代の先輩に、そう言われて紹介されたのが、二年も前だった。その日から、綺麗だと思っていた。いや、それだけでない。愛しているとさえ、思っていたのだ。
だが、今、目の前にいる陽子は、わたしの心をまったく揺さぶらない。
彼女は、そんな様子に気づくことなく、食事の支度に戻った。わたしは、ひどい疲労感を覚えて、食卓の椅子《いす》に腰を下ろす。
虹子。
彼女の赤みのない顔、広い額にかかる髪を思う。夏のさなかに和服でいても、かすかな汗の気配さえ感じさせなかった。
彼女は、わたしと陽子が、互いを思いやりながら過ごしてきた時間さえも、簡単に白紙に戻してしまうのか。
それが虹子のせいであるような錯覚に襲われ、わたしは一瞬、彼女を憎む。
「疲れてるの?」
陽子は、漬け物を入れた小鉢を、食卓に置きながらわたしの顔を、覗《のぞ》き込んだ。
「ああ、ちょっとね。ハードな演目だから」
「水を浴びるんでしょう。風邪《かぜ》ひいたりしないの?」
いつも、彼女のことばは、優しさにあふれている。だが、今日のわたしには、その思いやりが硝子《ガラス》を引っかく音のように、気に障る。
「すぐに風呂《ふろ》をつかうから、大丈夫だよ」
わたしは、自分を取り戻そうと、頭を振った。
こんなことが、いい結果を生むわけがない。だのに、虹子の面差しが頭に焼き付いて離れない。
「ねえ、まだ舞台を見に行っちゃ駄目?」
陽子が、エプロンをときながら尋ねてくる。演目に馴染む中日《なかび》あたりまで、見に来ないでくれ、と陽子に言っていたことを思い出す。ミスをするところを、彼女に見られると思うと、我慢ができなかったから。
「いいよ、明日でもいつでも見においで」
彼女は、わたしから許しを得たと思って微笑《ほほえ》む。本当は、わたしが彼女に対する関心を失ったためなのに。
その夜、わたしは自分の気持ちを逆撫《さかな》でするように、彼女を抱き寄せた。
せめて、わたしたちがのっぴきならないことになっていると、彼女が気づいてくれればいい、と思った。
だが、彼女の様子はいつもと変わらない。
シャンプーの安っぽい香料がこもる洗い立ての髪、胸の中にすっぽりとおさまってしまう小さな身体。今まで、いとおしいと思っていたものが、砂のようにざらついた感触を残す。
彼女は、その細い指でわたしの頬《ほお》を撫でた。そのまま首筋に手を回す。その柔らかい感触よりも、きっと虹子の長い爪《つめ》で皮膚を破られるほうを、わたしは快く感じるだろう。
陽子は低く囁《ささや》いた。
「わたしみたいに、平凡でなんの取り柄もないような女の子の、どこがいいの?」
その会話は、前戯のようにわたしたちの間で繰り返されたものだった。あらかじめ決められた台詞《せりふ》を口に出すように、わたしはことばを返す。
「陽子は平凡なんかじゃない」
「そんなことない、あなたみたいな特別な男の人なら、きっともっと素敵な女の人が……」
「特別なのはぼくの家であって、ぼく自身ではないよ」
もう、たくさんだ。今までは、陽子が不安に苛《さいな》まれて何度も質問を繰り返していたのだと思っていた。だが、今となっては、わたしから望む答えを引き出すためだとわかる。
虹子なら、そんな卑屈な物言いは絶対にしないだろう。今日、会ったばかりだというのに、なぜかわたしには確信が持てた。
嫌いなものを我慢して口にするように、女を抱いたのは、はじめてのことだった。
雨の音。
まったく正反対なのに、それは砂丘から砂が流れる音のように聞こえる。
わたしは、白粉《おしろい》を叩《はた》き込む手を止めて、しばらく雨の音を聞く。
なにかを削《そ》ぎ落とすように鋭く、しかも湿ってなまめかしい音。女の髪のような雨の匂い。
「ぼっちゃん」
紫のが、のれんをくぐって顔を出した。何度言っても、紫のはその呼び方をやめない。紫のの中で、わたしはいつまでたっても小さな頼りない男の子のままなのだろう。
無理もない。紫のが、父のところへ弟子入りしたのが三十年ほど前。たまたま、そのころわたしが生まれ、紫のの最初の役目は、わたしの子守になったのだから。
「どうかしたのか」
「早変わりの手順のことなんですけどね。小平《こへい》の鬘《かつら》、下手側で待機しておいたほうが、いいですか」
今月の演目、三遊亭円朝作の「怪談|乳房榎《ちぶさえのき》」。この芝居の見せ場は、四幕目二場、十二社大滝の場、早変わりの場面だ。主役は、小悪党の小平、下男の正介、絵師|菱川《ひしかわ》重信の霊、この三役を、早変わりしながら立ち回りを見せる。
舞台中央には、滝壺《たきつぼ》を模したプールがしつらえられ、滝の中に飛び込んだ役者たちは本水でずぶぬれになりながら、刃物を振り回す。
奇妙なのは、争い闘う三人を、たったひとりの役者が演じることだ。もちろん、それでは立ち回りが成り立たないから、二人の吹替が必要だ。吹替は役者と同じ扮装《ふんそう》をし、絶妙のタイミングで本物の役者と、入れ替わったり、引っ込んだりする。このタイミングを誤ると、同じ人物がふたり舞台上に現れるという、みっともないことになるのだ。
紫のは、そのタイミングの打ち合わせにきたらしい。わたしは鏡の中を覗きながら、答える。雨のせいか、どうもけだるかった。
「ああ、どっちでもいいよ」
紫のは不満そうに、鼻を鳴らす。
「タイムロスをなくしたいからそうしたいって言ったのはぼっちゃんですよ」
たしかに昨日はそう言った。吹替が少しでも舞台に出ている時間を、少なくしようと思ったのだ。
わたしは苦笑する。
「わかった。じゃあ、そうしておいてくれ」
台本とつきあわせて、場所を確認した後、紫のは黒衣の胸元をかきあわせながら、わたしの顔を窺《うかが》う。
「ぼっちゃん、なんか心ここにあらず、って感じだよ」
「大丈夫だよ。天気が悪いと気が滅入《めい》ってね」
「気を付けてくださいよ。いくら中日が近いからと言って、気を抜くと怪我《けが》のもとですよ」
まるで、子どもに諭すような言い方、わたしはかすかに苛立《いらだ》つ。
「わかってるよ。わたしだって、一応はこれでも歌舞伎の家に生まれてるんだ」
紫のは、はっと目を見開いた。少し下がって手をつく。
「すみませんっ」
「いいよ。下がりなさい」
紫のは背中を丸めるようにして、楽屋から出ていく。
「紫の?」
思わず声が出た。
「はい?」
「もし、わたしが……」
言いかけて、口をつぐむ。それは、言ってはならないことだ。
「なんですか、ぼっちゃん」
「いや、なんでもない。悪かった」
紫のが不審げにたたずんでいる姿が、鏡に映る。わたしは、それをかき消すように、白粉を叩き込む。
水は跳ねる。
小《こ》太刀《だち》が光る。
水は袖《そで》に重く絡み、飛沫《ひまつ》をとばす。
わたしが、わたしの横をすり抜ける。わたしは、小太刀を振り上げ、わたしに挑む。
一瞬の殺意。
わたしを殺せば、わたしはどうなるのだろう。
わたしは、また別のわたしに代わり、わたしを突き飛ばして、赤ん坊を奪う。
わたしも、小屋の中に入るふりをして、別のわたしに代わる。
わたしが舞台から消えても、舞台にはわたしがいる。
何本もの手が伸びて、わたしから濡《ぬ》れた衣をはぎ取って、別の衣装を着せる。
とりつかれたように、またわたしは舞台へ出ていく。
別のわたしが、わたしに襲いかかる。
つきとばされ、舞台に這《は》いつくばる。たかがベニヤ板の、偽物の土手。わたしの殺意を感じながら、わたしは這う。
わたしも、わたしを殺そうとしているのか。
まるで、酒に酔ったように世界がまわる。背中に刃物の気配を感じる。切り裂くためのものだけが持っている、鮮烈で冷たい気配。
ライトが燃えるように熱い。
頬の半分が炙《あぶ》られるようで、わたしは顔をあげる。
観客の歓声が、わたしを呑《の》み込む。
足早に楽屋を出た。サングラスをかけ、深く野球帽をかぶったままで。
彼女がいるような予感がしていた。
予感なんていい加減なものだ。いなければいないで、「気のせい」で片づけられる。当たり前のように、わたしはいくつもの予感を弄《もてあそ》びながら、毎日を過ごす。
だが、彼女はそこにいた。
淡い卵色の麻の葉模様の小紋に、砂色のつづれ帯を芯《しん》も入れずに緩く結び、所在なげに駐車場の壁にもたれ掛かっていた。
彼女はわたしに気がつかなかった。
「虹子」
そばまでいって呼びかけた。驚いたように顔を上げる。
「びっくりした。全然気配がないんだもの」
古い帯揚げで作ったような、赤茶の絞りの半衿《はんえり》。そこから覗《のぞ》く細い首を少し曲げて、彼女は笑った。
「見てたのか」
「見てたわ。すごく素敵だった」
「素敵だというような役じゃないだろう」
乳房榎の三役、絵師重信、下男正介、そして小平。これらは、決して二枚目の役じゃない。二枚目なら、小川半四郎演じる、悪役の磯貝浪江のほうだ。
だれかを待っているのか、何人かの少女がこちらを見て、耳打ちをしている。わたしが、こんな時間にでてきたことを、怪しんでいるようだ。わたしは、彼女の肩に軽く手をかけた。
「ここは、落ち着かないから少し移動しよう」
指の下、冷たいはずの絹が、にわかに熱を持つ。
小動物のように怯《おび》えてしまった。
触れてはならないものに、触れたような気がしたのだ。
もちろん、その気配は彼女にも伝わっただろう。
唇が離れると、虹子は少し身体を引いて、わたしを眺めた。卵色の衿元が少し割れて、枯れ葉色の半衿とそれに繋《つな》がる朱の襦袢《じゆばん》が覗いている。その下の、皮膚の冷たさを思うと、気が遠くなる。
「わからないわ」
彼女は舌ったらずな口調で、つぶやいた。わたしは聞き返すこともできない。彼女から疑問を引き出すのが怖いのだ。
黙ったままの、わたしを、彼女はきっと睨《にら》む。
「嫌なら、帰っていいのよ」
驚く。自分の部屋に招き入れ、寝具の上で口づけをしてからでも、女はこんなに冷たい台詞《せりふ》が吐けるのだろうか。
「なりゆきで抱かれるのは嫌いだし、もったいぶられるのも、もっと嫌い」
「そうじゃないんだ」
「じゃあ、なによ」
こんなことになってはならない。あまりにも不自然すぎる。だが、わたしはなにも言えない。迷いながらも、わたしは間違いなく彼女に惹《ひ》かれていた。
彼女はわたしのシャツの胸にそっと手を添えた。
「伊織さん、なにか隠し事してる?」
わたしは息を呑んだ。だが、次の瞬間、知らぬうちに口が動いた。
「いや、なにも」
「ふうん」
虹子は、つややかな唇をほころばせる。くらくらするような甘い匂《にお》い。彼女は、わたしの腕の中に身を投げ出した。ふたりして、床に倒れ込む。
彼女は、ゆっくり身体を起こして、挑むようにわたしを見る。
「隠し事は嫌いじゃないわ。嘘《うそ》だって、悪くない。無意味に誠実さを、重ねなきゃならないほど、鈍感じゃないもの」
目の下がかすかに赤く染まり、唇の色が濃くなっている。鼓動が耳の中ではじけそうだ。
「わたしの言うこと、わかる?」
わたしはこのまま覚悟を決める。彼女を振りきって帰ったら、気が狂ってしまうような気がした。彼女がではなく、わたしがだ。
たぶん、今までのわたしの生活は死んだのだ。ここで、すべてを正しい場所に戻したとしても、なにも動き出さないだろう。
彼女は、わたしの上に崩れ落ちる。恐ろしく軽い体重と、まとわりつくような香り。
わたしは、目を閉じて、手探りで彼女に触れた。
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第四章
山本くんが、首を振った。
「駄目かい」
「駄目です。わかりません」
脚立《きやたつ》の上から、声だけ返ってくる。わたしは脚立を押さえながら、軽くため息をついた。山本くんの、長いジーンズの足がリズミカルに降りてくる。
時間は午前九時。まだ、舞台の上にはだれもいない。この時間を利用して、わたしたちはセットの点検をしていた。客席にも、舞台裏にも、まだ明かりはついていない。蛍光灯だけで照らされた舞台は、普段着の顔を晒《さら》していた。
わたしは、パイプの交差する天井を見上げた。上演中に簀《す》の子に上って花びらを撒《ま》いたのでなかったら、かならず天井のどこかに、花を降らせる仕掛けがあるはずだ。
わたしは下手奥に控えている、奈良さんに合図をした。「毛抜」の書き割りがぐんぐん天井へ上っていった。
やっかいなことに、天井にはその月に使う書き割りが全部、吊《つ》られている。先ほど、それを全部下ろして、点検をしたところだった。
むき出しのコンクリートの壁に打ちつけてある階段。古い劇場に不似合いなそれを、天井近くまで昇って双眼鏡で眺めても、不自然なものはなにひとつ発見されなかった。だから、今は書き割りやセットをひとつひとつ綿密に調べているのだ。
山本くんと、ふたりがかりで、脚立を移動させる。
「やっかいだねえ」
「第一、その仕掛けがどんなものかもわからないでしょう。小さなものなら、見落としてしまうかも」
「藤娘」の巨大な藤の樹と、藤の天井飾りが降りてくる。
「でも、時間どおり、花びらを降らせようと思ったらだよ、乾電池で動くタイマーと花びらを納める小箱かなにかがあって、時間がきたら、その箱が開く、とかさ。とにかく豆粒みたいなものではないだろう」
「箱、とは限りませんよ。たとえば、ふたつの磁石のあいだに花びらを挟んでおいて、時間がきたら、その磁石が離れるとか、そういうことも考えられますよ」
どうもわたしは、こういうことを考えるのが苦手だ。
「花びら一枚だけですからね。どんなふうにもできますよ」
藤の後ろまで脚立を持ってくると、山本くんは昇りはじめた。
わたしは、足で脚立を支えながら、尋ねる。
「やっぱり、直接簀の子に昇って降らせたんじゃないかねえ」
簀の子、とは天井の上、洋風の劇場で言うキャットウォークのことだ。一部分に集中的に花や雪を降らせるときは、そこに昇って花を撒く。
よく響く声だけが返ってくる。
「もし、そうだったら、今日、芝居をやっている時間、見張っていたらわかることでしょう。とにかく、今はここを調べましょう」
正論である。わたしは、軍手をはめた手を脚立にのせた。
「見つかった?」
脚立の向こうから由利ちゃんが覗《のぞ》いていた。見れば、しっかりハチを抱きかかえている。
「なんだい。由利ちゃん。ハチを出しちゃったのかい」
「だって、可哀想《かわいそう》なんだもの」
今泉の事故のため、昨日一日部屋に放ったらかしにされたハチは、すっかりご機嫌斜めになったらしく、今朝から山本くんに張り付いて離れず、出かけようとすると靴にかみついたり、ズボンの裾《すそ》を食い破ったり、大暴れだったらしい。仕方なく、バスケットに入れて連れてきたハチを、由利ちゃんに預けていたのだ。
「初対面のわたしには、ぎゃんぎゃん吠《ほ》えかかったくせに、由利ちゃんには素直に抱かれているのかい。いけすかない犬公だねえ」
「動物は人の本質を見抜くから」
由利ちゃんは、相変わらず憎たらしい。ハチは甘えた声で鳴いて、由利ちゃんの口を舐《な》めた。
「いやーん、キスなんてひさしぶりー」
なにを言ってるんだか。
山本くんが、また上から降りてくる。
「ハチは、女の人が好きなんですよ。なんでかわからないけど。男の人は怖いらしいけど、女性だと可愛《かわい》がってくれると思っているみたいです」
「ふーん、じゃあ、小菊さんは一応、男の中に入っているんだ」
「うるさいねっ。生物学的には男だから仕方ないだろ」
ハチは由利ちゃんの肩に前足をかけて、よじのぼろうとしている。自分から高いところに行ってどうする気だ。
「師匠にはどうかな。実験してみる?」
「なに言ってんだい。楽屋に犬なんか連れてきたことがばれたら、大目玉だよ」
由利ちゃんは軽く肩をすくめた。
ふと、思いついて言った。
「でも、その女好きっていう性癖は、飼い主に似たのかねえ」
山本くんは、ふふん、と笑った。
「先生、病室でくしゃみしていますよ」
それらしきものは、ひとつも見あたらなかった。
「毛抜」で出番のあるわたしは、山本くんと別れて楽屋に戻り、昼過ぎに外の喫茶店で、もう一度落ち合った。
山本くんは、「名作|歌舞伎《かぶき》全集」を小脇《こわき》に抱えて戻ってきた。
「どうしたんだい、それ」
「え、ああ、ちょっと勉強しようと思って」
受け取ると、ちょうど、「本朝廿四孝」が入っている巻だ。
「いつも、この作品の中で、花が散るということは、内容に関係あるのかな、とか思ったんです」
「ふうん」
ぱらぱらとめくる。
「本朝廿四孝」は丸本物《まるほんもの》と呼ばれる、人形|浄瑠璃《じようるり》の演目を歌舞伎に焼きなおしたものの中でも、もっとも有名な作品のひとつだ。
実際は十時間にも及ぶほど、長い作品だが、現在主に上演されるのは、その四段目|切《きり》の、謙信館|十種香《じゆしゆこう》の場と、奥庭狐火の場である。
本編は、武田信玄と長尾謙信両家の争いを題材にしたものだが、特に四段目の切では、武田の息子勝頼と、謙信の娘八重垣姫との恋模様を描いている。
八重垣姫は、「金閣寺」の雪姫、「鎌倉三代記」の時姫と並んで、三姫と呼ばれ、歌舞伎の中でも、特に難役とされている。
「それで、感想は?」
「なんか、ややこしくて、どうも掴《つか》めないんですよ」
無理もない。長大な物語のうちの、ほんの一部だ。こみいった人間関係を把握するだけで、一苦労だ。
わたしは山本くんにストーリーを説明することにした。
「師匠が演じる長尾謙信娘、八重垣姫と、伊織演じる武田勝頼は、以前は許嫁《いいなずけ》だった。まあ、昔のことだから、お互いには会ったことはないけどね。今は長尾家と武田家は敵同士になってしまい、武田勝頼は、武田家の重宝、諏訪法性の兜《かぶと》を手に入れるため、花作りの蓑作《みのさく》として、謙信館に潜り込んでいるんだ。また、紫之助演じる濡衣も、腰元として潜り込んでいる」
「ええと、勝頼は死んだことになっているんですよね」
「そう、濡衣の夫、花作りの蓑作。これが、武田勝頼に生き写しで、この演目の二段目に身代わりとなって切腹しているんだ。要するに、王子と乞食のように、この身分の違うふたりが、お互いの立場を交換することになったということだね」
ここから、幕は開く。
八重垣姫は、勝頼の絵姿を前に、回向《えこう》のため十種香を焚《た》いている。ふとした拍子に八重垣姫は、死んだ勝頼にそっくりな蓑作を見つけ、腰元濡衣に、仲を取り持ってくれるように頼む。
深窓の姫君が、恋に情熱的になり、大胆なことばを吐くところに、この場のおもしろさがある。
濡衣は武田家の家宝、「諏訪法性の兜」を盗み出したら、蓑作との仲を取り持つ、と八重垣姫に約束し、姫はそのことばから、蓑作が本物の勝頼であることに気づくのだ。
やがて、謙信の命で使いに出る勝頼。
しかし、八重垣姫の父、謙信も蓑作の正体に気づいており、勝頼を殺すための追手を差し向ける。
次の狐火の場では、謙信館の奥庭が舞台だ。八重垣姫は、勝頼に追手のことを知らせようとするが、女の足で追いつくはずもなく、近道の湖は氷が張って、船では渡れない。
つばさが欲しい、羽が欲しい、と泣く八重垣姫。しかし諏訪法性の兜を手にした瞬間、彼女に狐がとりつく。
諏訪の湖は、神の狐が氷の上を渡り初めすると、そのあとは人馬も通ることができる、という伝説を思い出した姫は、狐火に守られながら、氷の上を夫を助けるために、急ぐのだ。
「ロマンティックですねえ」
ややはにかむように笑いながら、山本くんは、本を閉じた。
「先生、こういうの好きなんですよね。どうせ、病院のベッドの上で暇なんだろうし、読んで謎解《なぞと》きしてもらおうかな、と思って」
わたしは、少し居心地悪さを感じて、腰を動かした。
「あの、こんなこと言うの、なにかもしれないけど、今回のブンちゃん、なんかおかしくないかい」
山本くんは、唇をきゅっと引き締めた。眸《ひとみ》が迷うように、宙を泳ぐ。
わたしは、あわててことばを重ねた。
「いや、別に話せないことなら、かまわないんだけど、なんだかいつもと違うような気がしたからさ」
「小菊さん」
山本くんの真剣なまなざしが、目の前にあった。
「だれかの一生を台無しにしてしまったら、どう償えばいいんですか」
言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。
「それは、どういう意味かい」
「もし、ある人が、自分のために幸せになれなかったり、大事なものを失ったことがわかったら、どうすればいいんですか」
「どうすれば、って……難しいね。ケースバイケースだからね」
それはだれのことを言っているのか、訊《き》くこともはばかられた。かといって、簡単に答えられるようなことじゃない。
山本くんは、無理矢理のように笑顔を作った。ひどく痛々しい顔だった。
「ごめんなさい。早く行かないと、廿四孝がはじまってしまうんじゃないですか」
あわてて、時計に目をやる。
「ああ、気がつかなかった。妖怪《ようかい》花降らしに逃げられちまうかもしれない」
冗談めかして、席を立つ。まるで、彼の質問から逃げるようで、胸が痛んだ。
勝頼が立つ。
鮮やかな朱赤の小袖《こそで》に、紫の裃《かみしも》。濃厚な色彩の中に浮かび上がる、百合の花弁のように薄く高い鼻梁《びりよう》。
市川伊織は、細い首をまっすぐに客席に向け、高足の上で決まる。
「我民間に育ち、人に面をみしられぬを幸い、花作りとなって入り込みしは、幼君の御身の上に、もしあやまちあらんかと、余所《よそ》ながら守護する某《それがし》、それと悟って抱えしや。はて」
かすかに湿った響きのある、高めの声が劇場に響く。目を伏せたときに、漂う気品は、息を呑《の》むばかりだ。
三筋の傷は、白粉《おしろい》を塗っても完全に隠れてはいない。特に上唇にかかる傷は、台詞《せりふ》を言うたび、かすかにひきつれて目を引く。
だが、猛禽類《もうきんるい》にも似た強いまなざしと、優雅な物腰が、傷さえも差し引いて、美しく高貴な若侍に見せていた。
わたしの横で、かすかに山本くんがため息をつくのがわかった。
上手の障子が引かれる。
八重垣姫が、後ろを向いて、勝頼の絵姿を拝んでいる。客席が、かすかにざわめく。
後ろ姿だけなのに、師匠の背中からはこぼれんばかりの女の色香が滲《にじ》んでいる。
下手の障子も続いて開く。
こちらにいるのは、腰元の濡衣だ。黒地に流水と菊の着付。勝頼の身代わりに死んだ夫、蓑作の位牌《いはい》に語りかけている。
「広い世界に誰あって、お前の忌日命日を、弔う人も情なや、父御の悪事も露しらず、お果てなされたお心を、思い出す程おいとしい、さぞや未来で迷うてござろう。女房の濡衣が心ばかりのこの手向け、千部万部のお経ぞと、思うて成仏して下さんせ。南無阿弥陀仏」
市川紫之助。伊織の父。
五十いくつだっただろうか。師匠とそれほど変わらないはずなのに、ふっくらとした頬《ほお》がひどく若々しい。
実際そばで見れば、小太りなだけの身体も、女形《おんながた》の衣装に包まれれば、可憐《かれん》で女らしい印象を与える。
やせ形で、繊細な風貌《ふうぼう》の師匠とは、まるで正反対だが、あいだに若い伊織を挟むと、絵のようなコントラストになる。
踊りの巧《うま》さでは定評があり、この前にも「藤娘」を出している。若々しい藤の精から、年増の色気を見せるこの濡衣に変わるとは、なかなかおもしろい趣向だ。
あぶらの乗りきった中堅どころの、女形ふたりのあいだに立ちながら、伊織はわずかも貫禄《かんろく》負けしていなかった。
若さゆえのしこりのような固さや、線の細ささえ、欠点とは思えない。切なくなるほど、美しく、気高い、不運な若武者そのものだ。
しっとりと露を含んだ花のようなふたりの女形のあいだで、彼は若木のように鋭かった。
「誠に今日は霜月二十日、我が身替りに相果てし勝頼が命日……」
伊織の台詞をきっかけに、背中を向けていた師匠が、こちらを向く。金糸銀糸で飾られた赤姫の衣装、吹輪の鬘《かつら》。
姫君は、死んだ許嫁《いいなずけ》への思いを語る。親の決めた許嫁だったが、八重垣は絵に描かれた美しい勝頼に、たしかに恋をしていたのだ。
「もうし勝頼さま。親と親との許嫁ありし様子を聞くよりも、嫁入する日を待ち兼ねて、おまえの姿を絵に書かし、見れば見るほど美しい、こんな殿御と添いぶしの」
義太夫が姫の心を語る。
※[#歌記号、unicode303d]身は姫御前の果報ぞと、月にも花にも楽しみは、画像の傍で十種香《じゆしゆこう》の、煙も香華《こうげ》となったるか、回向《えこう》しょうとてお姿を画に書かしはせぬものを、魂返す反魂香《はんごんこう》、名画の力もあるならば、可愛いとたった一言の、お声が聞きたい聞きたいと、画像の傍に身を打ち伏し、流涕《りゆうてい》こごれ見え給う。
ここでは、花作りの蓑作、実は武田勝頼を挟んで、ふたりの女性が夫の回向をしている姿が、美しい対比となる。
八重垣は勝頼の、濡衣は蓑作の死を悼み、涙するのだ。
やがて、濡衣が部屋から出てきて、勝頼の姿を怪しむ。
花作りに化けているはずの勝頼が、なぜか衣紋附《えもんつ》きの武士の姿でいるのは、勝頼の正体を怪しんだ長尾謙信が、自分の使いをさせるという名目で、武士の衣装を与えたせいだ。
勝頼のその姿を見て、濡衣は、勝頼の身代わりに死んだ夫、蓑作を思い出さずにはいられない。
「てもさても、衣紋附なら上下の、召しよう迄《まで》、似たとは愚か、やっぱり其儘《そのまま》。記念こそ今は仇《あだ》なれこれなくば……」
※[#歌記号、unicode303d]忘るる事もありなんと、詠《よ》みしは別れを悲しむ歌。形見さえじゃに、我が夫に、微塵《みじん》変わらぬこのお姿、見るにつけても忘れられぬ。
「わしゃ、輪廻《りんね》に迷うたそうな」
いくら、別人とはいえ、あまりに夫とそっくりなその姿に、濡衣は動揺して、部屋から去ろうとする。
この場面があるから、後の八重垣姫との三人での場面が、まるで三角関係の男女のような華やかさと艶《なま》めかしさを感じさせるのだ。
八重垣姫は、外での声を聞きとがめ、襖《ふすま》の陰から覗《のぞ》き込む。
そこにいたのは、絵姿そのままの男だった。
「ヤア、我が夫の勝頼さま」
勝頼は死んだはず、他人のそら似だ、と自分に言い聞かせ、絵姿の回向に戻るが、やはり気になる。何度見ても、襖の向こうの男は、絵姿の勝頼に、生き写しだ。
※[#歌記号、unicode303d]諫《いさ》むる詞《ことば》こなたには、心空なるその人の、もしや存《ながら》えおわすかと、思えば恋しくなつかしく、又覗いては絵姿に、見競ぶる程生写し、似はせでやっぱり本ぼんの。
「勝頼さまではおわさぬか」
思わず、一間を出て、勝頼に駆け寄る八重垣。途中で、片手に持った数珠《じゆず》を打ち捨て、髪の乱れを気にする様が可愛《かわい》らしい。
だが、身分を隠す勝頼は、自分は勝頼ではなく、花作りの蓑作というものだ、と八重垣姫を突っぱねる。
八重垣姫は、勝頼ではない、と知って、また驚き、腰元の濡衣をそばへ呼び寄せる。
濡衣に、蓑作のことをあれこれ聞く、八重垣姫。蓑作が、父に抱えられたばかりの新参者であること、濡衣の恋人ではないことを聞き出した姫は、濡衣に言うのだ。
「そんなら知るべの人でもなく、殿御でもない人なら、どうぞ今から自らを可愛がってたもるように」
※[#歌記号、unicode303d]押しつけながら仲立ちを、頼むは濡衣さまと、夕日まばゆく顔に袖《そで》、あでやかなりし、その風情。
濡衣は姫の大胆なことばに驚く。
「おお、お姫さまとした事が、まだお子達と思いのほか、大それたあの蓑作殿を」
「サア、見初めたが恋路の始まり、後ともいわず、今ここで」
「仲立ちせいとおっしゃるのか。我おれ、本にお大名のお娘御とて、油断のならぬは恋の道、品によったらお執り持ち致しましょう」
八重垣姫が、本気で蓑作に恋をしたのか、確かめようとする濡衣。
「真実底から蓑作殿にご執心でござりますか」
八重垣姫は、恥ずかしげに扇を弄《もてあそ》びながら、告白する。
※[#歌記号、unicode303d]問われて猶《なお》も赤らむ顔、勤めする身はいざ知らず、姫御前のあられもない殿御に惚《ほ》れたという事が、嘘《うそ》偽りにいわりょうか。
扇の飾り房を、指先で何度もつく師匠は、幼女のように可憐に見える。扇を広げ、その陰から、勝頼をのぞき、また恥ずかしげに顔を隠す。愛《いと》しい人を前にした、娘の恥じらいと喜びが、甘い香りとなって、劇場を満たすようだ。
遊女ではあるまいし、姫の身で好きになったなどと、嘘では言えるわけがない、という八重垣姫の告白に、濡衣は頷《うなず》く。
「そのお詞に違いなくば、何ぞ確かな誓紙の証拠、それ見た上でお仲立ち」
目を輝かせる八重垣。
「オオ、それこそ心易い事。その誓紙さえ書いたなら」
「イエイエ、それもこっちに望みがある。わたしが望む誓紙というは、諏訪法性の御兜《おかぶと》をお取り出しくださりませ」
誓紙とは、江戸時代に流行《はや》った、恋人同士が変わらぬ気持ちを誓って、交換するお札のこと。濡衣は、その誓紙の代わりに、武田家の家宝であり、今は長尾家にある諏訪法性の兜を盗み出せ、と言うのだ。
八重垣も、そのことばでやっと気がつく。
「ヤア何といやる。諏訪法性の御兜を取り出せといやるからは、さてはあなたが勝頼さま」
正体を知られるわけにはいかない勝頼は、あわてて、八重垣姫の口を押さえる。
「ハテ、めっそうな勝頼呼ばわり、みじん覚えのない蓑作、粗忽《そこつ》ばしいうまいぞ」
長尾家の敵にまわった勝頼が、すがたを隠すわけはわかる。だからこそ、八重垣は彼の顔を見つめて、切々と訴えるのだ。
※[#歌記号、unicode303d]いう顔つれづれ打ち守り、許嫁ばかりにて枕《まくら》かわさぬ妹背仲《いもせなか》、お包みあるは無理ならねど、同じ羽色の鳥翅、人目に夫とわからねど、親と呼びまたつま鳥と呼ぶは生ある習いぞや。いかにお顔が似ればとて、恋しと思う勝頼さま、そも見紛うてあらりょうか、世にも人にも忍なる、御身の上といいながら、連れ添うわたしに何の遠慮、ついこうこうとお身の上、明かして得心させてたべ、それも叶《かな》わぬ事ならば、いっそ殺して、殺してと、縋《すが》りついたる恨み泣き、勝頼わざと、声あららげ、
そのとき、花は降った。
「小菊さん、あれ!」
山本くんが声を殺して叫んだ。言われるまでもない。
上空から、花びらは現れた。劇場内のわずかな風に乗るように、くるくると旋回しながら舞う花びら。
山本くんが駆け出した。
わたしも下手へと駆ける。目が眩《くら》むほど明るい舞台と対照的に、ほの暗い舞台裏では、数人の大道具さんたちが、次の幕の準備をしている。装置の後ろに控えた、長尾謙信役の中村光三郎が、不審げにこちらを見るが、かまってはいられない。
奈良さんが、椅子《いす》から立って、こちらを見ていた。
「降ったな」
わたしに気づくなり言う。
「ああ、で、だれか不審な動きをしたものは?」
奈良さんは黙って首を横に振った。
「上手の方はどうなんだ」
「どうって、あたしらのほかは、だれもいやしなかったよ」
「上は?」
「今、山本くんが見に行っている」
わたしはもう一度、装置の後ろを見渡した。次の幕の準備をする、大道具師が四人、そして中村光三郎とその付き人の女性。これで全部だ。そこにいることが、不自然な人はだれもいないし、単独でいる人もない。
奈良さんはわたしの視線を追った。
「もう逃げたのかもしれないな」
「そんなわけあるもんか。花が降ってすぐ、駆け出したんだ。だれも、出口に向かっているものはいなかった」
だが、舞台にはもうひとつ出入口がある。
「奈落《ならく》に降りたものは」
奈良さんは軽く手を振って否定した。
「冗談じゃない、それこそ、不審な行動だ」
残る場所はたったひとつだ。
「山本くんを見てくるよ。奈良さんはここにいて」
中村光三郎は、もう舞台に出て、付き人の若い女性がひとり、パイプ椅子の脇《わき》に立っていた。その横を通り過ぎて上手へと向かう。
山本くんは、簀《す》の子の上へと通じるたったひとつの階段の上にいた。赤錆《あかさび》の浮いた無骨な鉄階段を急いで昇る。
舞台はクライマックスに差し掛かろうとしていた。
長尾謙信が、娘の八重垣と濡衣を押さえつけている。
「ヤア、諏訪法性の兜を盗み出さんうぬらが企《たくら》み、物陰に聞きたるゆえ、勝頼に使者をいいつけ、帰りを待ち受け討ち取らせんと謀し合わせし討手の手配り」
「エエ、そんなら今の討手の者は、勝頼さまを殺さんためか、ハハア」
急に走ったせいか、脇腹が差し込む。山本くんは、わたしが階段を駆け上がっていることにも気づかず、ただぼんやりと天井を眺めている。
※[#歌記号、unicode303d]はっとばかりにどうと伏し、きょうはいかなる事なれば、過ぎ去り給いし我が夫に、再び逢《あ》うは優曇華《うどんげ》と悦《よろこ》んで居たものを、又も別れになる事か、何の因果ぞ情けなや。父のお慈悲にお命をどうぞ助けて給われと、
「山本くん」
手すりを掴《つか》んで呼びかけた。彼は夢を見ているような表情で、こちらを向く。
「どうだった、だれか見たかい」
言いながら、残りの階段を駆け上がった。山本くんの肩につかまって、荒い息を吐く。
「小菊さん」
「え?」
「だれもいないんです」
彼は、長い手をまっすぐ伸ばした。その先の長い簀の子には、人影などなかった。
「なんだって……」
「だれもいませんでした。花は虚空から現れたんです」
そんな馬鹿な。
出そうとした声は、喉元《のどもと》で粘りついた。
柝《ひようしぎ》の音が響き、幕が下りる。
師匠はしばらく返事をしなかった。
唇を咬《か》むようにして、黙っている。怒ったのか、と思った。ちらり、と山本くんの方を向くと、彼も心配そうにこちらを窺《うかが》っている。
「だれも、いなかったって」
「は、はい……」
「まったく、なんてことだい」
「すみません」
山本くんがうなだれる。師匠は細身の煙草をくわえると、山本くんに目をやった。
「別にあんたが謝ることはないよ。ただ、いよいよ妙なことになってきたな、と思ってね」
「どうしましょう、師匠」
おそるおそる聞くと、師匠は横目でわたしを睨《にら》んだ。
「どうしましょうじゃないよ。一日じゃわかりゃあしない。目処《めど》がつくまで見張るんだね。奈良さんはなんて言ってるんだい」
「はあ、自分も気になるから、好きなだけ調べるなり、見張るなりしてくれって」
「じゃあ、協力してくれるんだね」
「ええ」
師匠は美味《おい》しそうに煙を吐いた。
「なら、好都合だ。手品なら仕掛けがあるはずだ。明日は、今日と場所を変えてみたらどうだい」
「それなんですけど、師匠」
「なんだい」
「花が降るのは、いつも同じ箇所なんですか」
「場所は同じだよ。くるくると落ちてくるから、まったく同じとは言えないけど、いつもほぼ、舞台の中央だね」
「いえ、そうじゃなくって。今日は八重垣姫のくどきの部分で降りましたよね。わたしが、一昨日見たときも、たしか同じ箇所だったと思うんです」
山本くんは膝《ひざ》の上に置いた台本をぱらぱらめくっている。わたしは、覗《のぞ》き込んで、場所を教えてやった。
「いいや、昨日は早かったよ。一間を走り出るところで、こうひらひらっと降ってきた」
師匠は掌《てのひら》を踊るように動かした。
「すると、降る時間は決まっていないんですね」
「ああ、こっちも生身の人間がやっていることだからね。日によって進み方に差があるけど、そこまで違うことはないよ」
「と、すると、ある台詞《せりふ》を言ったときに降ってくる、といったわけでもないですねえ」
なにか、キーワードのようなものがあるのかと思ったが、どうも違うようだ。
今まで、黙っていた山本くんが、おずおずと口を挟んだ。
「あのう、菊花師匠と一緒に舞台に立っている方たちは、気がついているんでしょうか」
師匠は軽く首を傾げた。
「それなんだよねえ。こんなことが続けば、気がつかないはずはないと思うんだが、どうも話しにくくてね」
「向こうのお弟子さんに、それとなく聞いてみましょうか」
「それもいいんだけどねえ」
師匠はなにか煮えきらないような様子で、山本くんに目をやる。
「できれば、あんたたちが動いていることはあまり人には知らせたくないんだよ」
「どうして?」
わたしの問いかけを遮るようにして、山本くんが答えた。
「菊花さんは、あの人たちの周囲に、花を降らせている人がいる、とお考えなんですね」
師匠はわずかに膝を崩しながら、微笑した。
「そう決めつけるわけじゃない。ただ、なにもわからないうちに、わたしらが探っていることを犯人に知られて、逃げられるのは避けたいんだよ。それに滝夜叉姫のこともある」
「彼女がどうかしたんですか」
「今泉さんは、彼女と花が降ることは関係あると思っているんだろう。滝夜叉姫は、要《かなめ》くんの恋人らしいじゃないか」
「要くん?」
山本くんが聞き返す。
「ああ、市川伊織の本名だよ。卯木《うき》要」
わたしは、彼女の立ち姿を思い出していた。一度会っただけなのに、その姿はまぶたに焼き付けられたように鮮明だ。陶器のようにすべらかで冷たそうな肌、漆黒の洗い髪、どこか焦点のゆがんだようなまなざし。
「本当に、彼女が関係あるんでしょうか」
「今泉さんがそう言ってるんだろう」
「先生、結構、はったりかまして外れること多いですよ」
山本くんはなかなか辛辣《しんらつ》だ。
「でも、どうやって花を降らせるのかさえわからないんだから、ほかに手がかりなんかなにもない。今泉さんの直感を信じるしかないよ」
たしか、今泉も「彼女の素性を調べてくれ」と言っていた。要するに、わたしたちにある手段とは、滝夜叉姫の身辺を探ることぐらいなのだろう。
「ま、博打《ばくち》だけどね」
師匠がわからないことをつぶやいた。
「師匠、博打って?」
「勘が鈍いねえ。この芝居がはじまって、今日は七日目だ。残されているのは、あと十八日だよ。それまでに、花びらの謎《なぞ》が解けなきゃあ、この謎は迷宮入りだ」
歌舞伎の興行は二十五日。
来月になれば、まったく別の演目がかけられる。その月だけの消えものだ。
山本くんが口元を引き結んだ。
「時間制限あり、ってことですね」
いったい、だれが、なんのために花を降らせているのか。見つけられなければ、手がかりさえも消えてしまうだろう。
師匠はだれに言うでもなく、つぶやく。
「まったく、博打だよ」
藤娘の藤の枝が、投げ出すように置いてある。無造作に小道具の積まれた階段下で、わたしと山本くんは、頭をつきあわせていた。
「小菊さん、その滝夜叉姫っていう女の人、そんなに美人なんですか」
山本くんは、すっかり元気な男の子の顔になっている。
「会ってみたいなあ」
「まったく、やだねえ、男ってのは。どいつもわかりやすくてさ」
「小菊さんは、美人、好きじゃないんですか?」
「好きとか、嫌いなんて考えたこともないよっ」
「ふええ」
山本くんは、妙な返事をした。
「なんか文句あんのかいっ」
「いえ、ありませんよう」
だれかが階段を駆け降りてくるリズミカルな雪駄《せつた》の音がした。
「おや、小菊|姐《ねえ》さんじゃないですか」
降りてきたのは市川|織二《おりじ》だった。研修所の四年後輩にあたり、奥州屋で立役《たちやく》の名題下《なだいした》をやっている。一本の線のようなすらりとした長身は、花四天の中にいてもひとりだけ見栄えがする。
奥州屋の定紋、桜が染め抜かれた、紺の浴衣《ゆかた》、肩先にちょいと手ぬぐいを引っかけている。
「ああ、どうしたんだい」
「いや、若旦那《わかだんな》が獅子《しし》の頭を取ってこいって言うから」
小道具の山の中から、目当ての獅子頭を探し出す。
「そういえば、伊織さん、夜の部は鏡獅子だったねえ。珍しいじゃないか、女形《おんながた》を踊るなんて」
「若旦那がどうしてもやりたい、って言ったらしいんです。まあ、踊りの会なんかではよく出していた演目ですから。もう、ごらんになりました?」
「いや、今月はばたばたしていて、まだ夜の部は全然見ていないんだよ。近いうちに見せてもらうよ」
織二はなにかをかみ砕くように、白い歯を見せて笑った。
「すごいですよ。今までと演出が違うんです。鏡獅子のシテは、小姓|弥生《やよい》ですよね。そうじゃなくて、今回は傾城《けいせい》なんですよ」
「そりゃあ、珍しいねえ」
「なんでも、もともと鏡獅子は枕《まくら》獅子という名前の、シテが傾城の踊りだったらしいんです。振り付けはそのままで、踊り方で小姓と傾城の心根の違いを見せる、という趣向らしいですよ」
「へえ、織二が後見やっているのかい」
「まさか、後見は紫の姐さんですよ。ぼくは、たぶん、一生後見なんかさせてもらえないでしょう」
不器用なところがあるからだろうか。はにかむように言ってから、織二は山本くんを見た。問われる前に説明する。
「ああ、この子、今度うちの付き人になる予定で、中を案内しているんだよ」
あらかじめ、師匠と打ち合わせしておいた嘘《うそ》をつく。山本くんが律儀に、よろしくお願いします、と頭を下げた。
「付き人なんかにしておくのは、惜しい器量ですね。役者をやればいいのに」
ふっと思いついた。滝夜叉姫に関する情報を仕入れるいいチャンスだ。
「そうそう、伊織さんの楽屋から、時代がかった美人が出てくるのを見たよ。なにやらお忍びっぽかったし、若旦那の恋人かな、と思ってさ」
「あ、そうですよ」
無関心らしくさらりと返事する。
「もう、長いの?」
「いや、そうでもないです。この二カ月ほどかな」
そうすると、顔に傷を負ってからあとの関係なのか。少し意外な気がする。
「なんか、ちょっと女優さんか、粋筋みたいな美人だねえ」
「それが、そうじゃないんですよ。堀江虹子さん、と言って、銀座の『杜《もり》よし』という呉服屋さんのお嬢さんなんですよ」
「道理で、着こなしが粋なわけだ。でも、呉服屋のお嬢さんなら、結婚相手にもぴったりじゃないか。近々、若旦那も結婚ってことになりそうだね」
織二は、苦みを含んだように笑った。
「そううまくいくかどうか」
「なにか、問題があるのかい」
「いや、虹子さんに問題があるわけじゃないんです。あんな美人が奥様になってくれれば、こっちも働きがいがある」
「じゃあ、なにが」
織二は、墨でひいたように濃くまっすぐな眉《まゆ》をひそめて、囁《ささや》いた。
「小菊姐さん、あんまり喋《しやべ》らないでくださいね。実は最近、若旦那と大旦那の仲が悪いんですよ」
「紫之助さんと伊織さんが?」
「別に大喧嘩《おおげんか》をするわけでもない。大旦那にも若旦那にも、理由を尋ねてみたんですが、別になんともない、としかお答えにならない。でも、ふたりともほとんど口をききません」
それは妙だ。普通の親子ではない。親であり、師匠でもある父親に、逆らうような息子はこの世界にはいない。いくら人気があろうとも、もう同じ一座で役はもらえないだろう。
「それも、ここ二カ月くらいずっとなんですよ。こっちは気詰まりでしょうがない」
「それでも、舞台の上では普通にやっているじゃないか」
「それが救いですよ。でも、たしかに若旦那は人が変わったみたいになってしまいましたよ。あの事件の後」
役者の命である顔に、傷を受けたのだ。それはある程度仕方がないだろう。
「別に、下の者に無茶を言うとか、そんなことはないんだろう」
「ええ、ただ、恐ろしいくらいに静かで無口になってしまって、まるで魂が抜けたみたいなんですよ。笑わないわけじゃない。笑っても、どこかが醒《さ》めているような表情でいるんです。取り乱したり、声を荒らげたりしない分、こっちは怖い」
織二は、しみじみ言うと、はっと気づいたように時計に目をやった。
「いけない。油を売っている場合じゃない。若旦那にこれを届けないと」
「ああ、呼び止めて悪かったね」
「いえ、じゃ、小菊姐さん、また一杯やりにいきましょう」
きたときと同じように雪駄を鳴らしながら、階段を駆け上がっていく。
彼の浴衣の裾《すそ》が見えなくなって、山本くんの方へ向きなおると、彼はなにか不安げな面もちで、親指の爪《つめ》を咬《か》んでいた。
「どうしたんだい」
「あの人……、いえ、なんでもないです」
「言ってごらんよ」
「いや、大したことじゃないから。それより、このことを先生と菊花さんに知らせたほうがよくないですか」
「師匠はもう、帰っちまったからねえ。じゃあ、ブンちゃんを見舞いにでも行こうか」
「きっと先生退屈してますよ」
この調子じゃあ、市川伊織の鏡獅子を見ることができるのは、まだかなり先になりそうだ。
天井の高い、寒々しい病室の廊下を行く。
さすがに病院にハチを連れて入るわけにはいかず、可哀想《かわいそう》だが病院の前に紐《ひも》でつないで、おるすばんと相成った。
鼻を突く薬品臭や、カルテを抱えて行き来するナース。どうも、病院というのは苦手だ。
行き交う人間に色彩がない、というのだろうか。病んでいたり、傷ついたりしている人ばかりなのだから、仕方がないのだろうが、どうもこちらまで不安な気持ちになってくる。
奥の部屋から、病院にふさわしくない華やかな女性の嬌声《きようせい》が響いた。山本くんと顔を見合わす。
「あれ、先生の部屋ですよ」
覗《のぞ》き込むと、今泉はベッド脇《わき》に腰掛けた若い看護婦と、楽しそうに談笑していた。
「あれ、小菊じゃないか」
今泉が声を上げると、看護婦ははじめて気づいたように、立ち上がった。ふっくらとしたマシュマロのような頬《ほお》をした、綺麗《きれい》な女の子だった。
「すみません、話し込んでしまって。今泉さん、安静にしていなきゃ駄目ですよ」
こちらに向かって、軽く会釈して通り過ぎる。
「面会時間は八時までですので、よろしくお願いしますね」
彼女が行ってしまうと、山本くんがこっそり囁いた。
「ぼく、先生は絶対地獄に堕《お》ちると思うんですけど」
「同感」
今泉は不自由そうに、もぞもぞしながらベッドから身体を起こした。
「まったく、夜は十時に消灯だし、朝は六時からたたき起こされるし、なんだか身体のリズムが狂ってしまう」
「普段、無茶な生活してるからだろ」
「そうですよ。この機会にゆっくりすればいいんです」
眉間《みけん》にしわを寄せて大きくのびをする。
「寝たきりでいると、別のところが病気になってしまいそうだ。山本くん、明日でいいから何冊か本を持ってきてくれないか。机の上に出てるのが、まだ読んでいないやつだから」
わたしと山本くんが並んで腰掛けると、今泉は少し身体を引いて「で?」と言った。
「花がどうやって降ったかはわかったのか」
「わからないよ。仕掛けもなにもないし、だれも降らせてないのに、時間がきたら自然に虚空から現れた」
わたしと山本くんは交互に、今日一日でわかったこと、調べたことを説明した。
今泉は無事な方の足を引いて、その上に肘《ひじ》を乗せ、一言も聞き漏らすまいとするように黙り続けていた。
「花を持ってきてくれないか」
話し終わって、今泉は最初にこう言った。
「花?」
「そう、降ってくる花びらだ。あれは毎回どうしているんだ」
「たぶん、舞台転換のどさくさに大道具さんが片づけているんじゃないかな」
「じゃあ、それを手に入れてきて欲しいんだ。それと、明日はどうするつもりなんだ」
「まあ、もう一度、天井を調べて、舞台|袖《そで》から見張って、そのあと、滝夜叉姫の素性を探りにいこうかと」
「それはやめだ」
今泉はらしくないほど、強い口調で即答した。
「だって、あの女を調べろって言ったのは、ブンちゃんじゃないか」
「今日一日、考えてみたんだ。彼女が関係している、と思ったことはぼくの先走りだった。なぜ、花が降るかを探り出すには、花を降らせている本人を見つけだして、問いただすのがいちばん近道だ」
山本くんがなにか言いたげに、口を開いたが、それより早く答えた。
「わかったよ」
今泉は、明らかにほっとしたような表情になる。相変わらず、考えていることが顔に出る男だ。
だが、わたしだって、だてにブンちゃんと何年もつきあっているわけじゃない。
病院を出てから、山本くんにつきあって事務所まで戻った。
ふたりでハチの首輪に紐をつないで、散歩に出る。日はすでに暮れかかっていた。小さな児童公園でしばらくハチを遊ばせることにする。
「ハチはトンネルフェチなんです」
山本くんのことばどおり、ハチは土を見つけるといきなりすごい勢いで掘り返しはじめた。
「トンネルフェチ、というより穴掘りマニアって感じだけどね」
「いえ、穴を掘るだけでなく、その中に自分が入るのが好きみたいです。だから、トンネルフェチ」
ハチは鼻のまわりの長い毛を泥だらけにして、ぐんぐん掘り進んでいる。
山本くんは唐突に言った。
「先生は、ごまかそうとしています」
わたしは、ふう、と息を吐いた。
「そのようだね」
「小菊さんも気づいてましたか」
「だてに、ブンちゃんと長年つきあってはいないよ」
彼が、ほかから探ることはやめて、犯人を捜して、直接理由を訊《き》け、と言ったときぴんときた。たぶん、今泉は、花を降らせた本人が、その本当の動機を隠したがるであろうことに気がついているのだ。直接訊けば、その人は適当な嘘《うそ》でごまかすだろう。
今泉は、それを望んでいる。
だが、彼はなにをそんなに恐れているんだろう。
「小菊さんはどうするんですか」
別の所を掘り返しはじめたハチの引き綱を押さえながら、山本くんは尋ねる。
「どうって?」
「先生の言うことを聞いて、滝夜叉姫を調べるのはやめるんですか」
「やめるもんかい。わたしゃ、ブンちゃんの弟子じゃなくて、師匠の弟子だよ。師匠のことばの方が優先だよ」
「それを聞いて安心しました」
山本くんは、しゃがんで、身体をすりよせてくるハチを抱き寄せた。
「山本くんはいいのかい。ブンちゃんの言うこときかないで、あとで怒られたりしないのか」
「先生は逃げ腰になってるんです。たぶん、過去に隠されていたものをあばいたせいで、不幸になった人がいるから」
「でも、それは、ブンちゃんのせいじゃないだろう」
「先生はそうは思っていない。それに、たとえ、先生のせいだとしても、今回だけ逃げるのはずるいと思います。逃げるくらいなら、最初から……」
口ごもってしまった山本くんを、問いただすこともはばかられた。
そういえば、わたしはまだ、山本くんのことはほとんど知らない。もしかしたら、今泉のことも。今日の昼に、山本くんから投げかけられた質問も、宙に浮いたままだ。
今泉の見えているものが見えない、自分がひどくもどかしかった。
[#改ページ]
第五章
別に、憎かったわけじゃない。
過去は後悔で、真っ黒に塗りつぶされる。
嫌いだったわけでもない。
心が押しつぶされそうなくらい、好きだった。
歯車が狂いはじめたのはどこからなんだろう。わたしは、手の中で彼の写真を弄《もてあそ》ぶ。
歌舞伎座《かぶきざ》のロビーで手に入れたブロマイドでは、まだ、傷のない彼が笑っている。
もう、二度とこの写真の中の彼には、会うことはできない。
息がつまり、涙が出そうになる。
いとおしくて、そして憎い男の名前を、わたしは歯で噛《か》み潰《つぶ》す。
市川伊織。
会話が途切れたとき、彼が目を伏せた。
眸《ひとみ》の中に、暗い光が走ったような気がしたのだ。
「まだ、許してくれないの」
考える前に、口が動いていた。言ってしまってから、後悔した。
伊織さんは、少し小首を傾げた。
「許せることと、許せないことがあるんだよ」
いつだって、そうだ。優しい顔をしたまま、ひどく冷たいことばを投げつけるのだ。
顔をあげると、彼はやはり微笑していた。他愛《たわい》のないお喋《しやべ》りを交わすときのように。
「記憶に鍵《かぎ》をかけてしまっておけることならいい。記憶なんて、やがて風化してしまうものなんだから」
楽屋の外、廊下からは、朗々とした台詞廻《せりふまわ》しが聞こえてくる。だれかが、稽古《けいこ》をしているのだろうか。
「でも、ぼくは毎日鏡を見るんだ。この顔と向き合って、白粉《おしろい》を塗る。それがぼくの仕事だからね。そのたびに、きみのことを思い出す」
「ごめんなさい」
「謝る必要はないよ。謝られても、困惑するだけだ」
許せないことだから、謝らなくていい。彼は、このことばがどれほど人を絶望させるものか、計算して言っているのだろうか。
わたしは、唇を咬《か》んで下を向く。黒の黄八丈《きはちじよう》、水浅葱《みずあさぎ》の八掛《はつかけ》が、畳の上でわずかに乱れている。
彼の骨ばった長い指が、わたしのこめかみに伸びた。軽く押すようにして、上を向かされる。わたしはせめてもの抵抗に、顔をそむけた。
「ただ、結局のところ、ぼくは虹子のことが好きだよ」
そのことばは、なんの感動も呼ばない。わたしは苦行に耐えるように、視線を部屋中に流した。壁に掛けられた彼の私服、赤と紫のあでやかな衣装、鏡にかけられた、常紋入りの手ぬぐい。桜と中陰の桜が寄り添う、比翼桜の紋。まるで、中陰の桜は桜の影のように見える。
「きみを見ているのは楽しいし、きみと話をするのも楽しい。きみがきてくれると、とてもうれしいよ」
すすぼけた天井、茄子紺《なすこん》ののれん。部屋をぐるりと流して、視線は彼の顔へと戻る。青白く、寂しげな面差しに浮かぶ、三筋の傷。わたしは、それを見据えた。
もう、二度と会いたくない、と言われるほうが、きっと楽だろう。わたしたちは、ずっとこのままでいるのだろうか。修復不可能な傷を抱えながら、まるでモルヒネで痛みをごまかすように、自分を騙《だま》し騙し、関係を続けるのだろうか。
思わず、ことばが口をついてでた。
「死んじゃえばいいんだわ」
彼は憎らしいほど冷静だった。
「だれが?」
苦笑せずにはいられない。
「そうね、きっとわたしが、だわ。それがいちばんいいんだわ」
「いちばんいいことなんて、もうないんだよ」
たしかにそうだ。わたしたちは、望んだわけでもないのに、最悪のところまで落ちてしまった。もう、どうあがいても、そこから抜け出すことはできないだろう。
わたしだけが、彼から逃げ出すことは簡単だ。たぶん、彼は責めたり、追ったりはしないだろう。わたしは、時間をかけて彼のことを忘れる。そうして、適当な相手を見つけて結婚してもいいし、好きなことに熱中してもいい。
でも、彼はその間も、自分の顔と向き合い続けるのだ。毎日、鏡を見つめて三筋の傷を埋めるように、白粉を塗るのだろう。
わたしが死んでしまっても、同じことだ。楽になるのはわたしであって、彼ではない。
いちばんいいことなんて、もうないのだ。
窓から、夕日が縦に射し込んでくる。
彼の感情は緩やかすぎる。わたしは、いつも不安に苛《さいな》まれる。
玄関を開け、わたしは電気のスイッチを探った。
だれもいない二間の部屋が、一瞬にして照らし出される。わたしは半ば無意識のうちに、奥の和室に入り、帯締めを解きはじめた。
一本の組《く》み紐《ひも》で支えられていた帯は、もろく崩れ落ち、畳の上でとぐろを巻く。
一本だけの腰紐を抜き取ると、裾《すそ》がだらりと垂れ、薄暗い畳に黒の格子模様が広がった。
紬《つむぎ》を衣紋《えもん》かけにかけると、錆朱《さびしゆ》の襦袢《じゆばん》一枚になる。だが、それは脱がない。鏡台の鏡の部分に、無造作にかけておいた銘仙《めいせん》の羽織を襦袢の上に羽織る。
それが、わたしの部屋着だった。
いつごろから、和服しか着なくなってしまったのだろう。
小さい頃から、普段の日に着せられる筒の中に顔をつっこんだり、袖《そで》をつっこんだりする洋服が嫌いだった。ちくちくするような肌触りも気に障ったし、いくら身体に合っていてもどこか窮屈だった。
お出かけの日や特別な日に着せられるきものが大好きだった。肩を滑る絹の感触は、まるで清水のように冷たくてなめらかだ。どんなに動きまわっても、布は身体にしっとりと馴染んで、決して着崩れたりしなかった。
なぜか、洋服を着せると、わたしが咳《せ》きこんだり、喘息《ぜんそく》の発作を起こしたりすることに気づいた両親は、わたしのわがままを聞いて、いつも和服でいることを許してくれるようになった。
思い出すと同時に、苦笑が浮かぶ。わたしは水差しにくんでおいた水を、湯呑《ゆの》みにつぎ口に含んだ。
そう、わたしの二十数年間の人生は、すべて父にわがままを言うことで、費やしてきたような気がする。
働かないでいることも、このマンションの部屋も、季節ごとの新しい着るものも、望みさえすれば与えられた。たぶん、父はわたしが、まともな大人にはなれないことに気づいていたのだろう。女の子なら、美しくさえあれば、それなりに生きていける。そのことを知っていたから、父はまるで手生けの花を育てるように、わたしを育てたのだろう。
そのことにはなんの不満もない。
父の考えはたぶん、間違ってはいないのだと思う。わたしが、普通に働いたり、同い年のよくいるような女性たちと、うまくやることなんて考えられない。
でも、と思う。
まるで、退屈で串刺《くしざ》しにされているみたいだ。声を出したらあふれだしそうなほど、喉元《のどもと》まで退屈で埋まっていた。
わたしが胃弱でなかったら、むさぼるような自滅的な過食に走っていたかもしれない。
かすかな肌寒さを感じて、肩を抱きしめる。頬《ほお》にかかる髪は、一日外に出たせいで排気ガスの匂《にお》いがした。
人を好きになったら、気が紛れるかもしれない、と思っていた。だけど、結局はなにも変わらない。
彼のことは、今まで会ったどの人よりも好きだった。でも、それだけだ。恋愛映画や、歌に語られるような、高揚も切なさもなかった。彼に会うと楽しかったけれど、彼に会えないからといって、耐えられないほどさびしいとは思わなかった。
わたしには、人として大切な感情が欠けているのかもしれない、
そして、わたしのこの無関心が、彼を変えてしまったいちばんの原因だったのだろう。
足下から、寒さが這《は》いのぼる。わたしは裸足《はだし》の足首を暖めるため、手で擦《こす》った。寒いけど、これ以上なにも着たくない。
寒さが罰のように、わたしを押し潰《つぶ》せばいい。
凍死してしまいたい。
歌舞伎座の急な階段を、のろのろと昇っていた。
伊織さんは三一四号室にくるようにと言った。魔物が住むほど古めかしい劇場の楽屋に、そんなマンションのような部屋番号が割り振られているなんて、不思議でおかしい。
楽屋に入るのはその日がはじめてだった。狭い廊下や階段は、乱雑ながらどこかなまめかしいような空気に満ちている。黒衣姿の華奢《きやしや》な男性が、足早に横を通り過ぎたり、冴《さ》えた鶸色《ひわいろ》の無地を着た色街の女性らしき人が、嬌声《きようせい》をあげながら楽屋から出てきたり。
わたしは、かすかな気分の高揚を感じながら、彼の部屋を探した。
通りがかったどこかのお弟子さんに尋ねると、次の階段を昇っていちばん奥だ、と教えてくれる。
さすがに、奥までくると人通りは絶える。比翼桜の紋ののれんを見つけた瞬間、わたしは罠《わな》にでもかかったように凍り付いた。
すうっと背筋が寒くなる。
のれんの向こうから、切れ切れに聞こえる声は、尋常ではない冷たさに満ちていた。悪意に染まった、人を傷つけるための声。
伊織さんの声、そしてもうひとりの。
反射的にきびすを返していた。ここにいてはいけない、そう思ったのだ。
「出て行け」
だれかのことばに対して、伊織さんがなにか言い返そうとするのが聞こえる。
その瞬間だった。
鈍い音が廊下に響く。
振り向くと伊織さんが、突き飛ばされたような格好で、廊下にうずくまっていた。
身動きできなかった。駆け寄ることも、逃げることも。
のれんが、跳ね上がり、中から現れたのは、市川紫之助だった。舞台で、何度も見ているはずなのに、まるで別人のように見えた。怒りに青ざめているのに、どこか怯《おび》えているように見えるのだ。
「出て行け。おまえに、奥州屋を継がせるつもりはない」
伊織さんは顔をあげた。痛むのか、かすかに肩をふるわせて、そして笑った。
「親父が、大きくした名前でもあるまいし」
紫之助の顔から、血の気が引く。
「二度と、歌舞伎の舞台に立てないようにしてやろうか」
「はん」
伊織さんは、まるで汚らわしいものでも見るように、父を見据えた。
「大したことない三流役者が」
爆薬のようなことば。紫之助はみるみる青ざめた。
「出て行け!」
怒号を背に立ち上がった伊織さんは、わたしに気づいた。驚きが眸《ひとみ》に走り、そして悲しげに目が伏せられる。
「行こう、虹子」
口先だけでそう言うと、彼は足早にわたしの横を通り過ぎていく。わたしは、言うべき台詞《せりふ》も見つけられず、ただ後ろに続いた。
彼は一度も振り返ろうとしなかった。
「悪い夢を見たような顔をしているね」
視線をあげると、伊織さんが眉《まゆ》を描く手を休めて、こちらを見ていた。笹型のなだらかな女眉。
「見たもの」
わたしは少し、唇を尖《とが》らせた。
彼はそれには返事をせず、化粧に戻った。いつでも、わたしたちの会話は、こんなふうに唐突でぎこちなかった。たぶん、彼はわたしがどんな悪夢を見たか、簡単に見当がつくのだろう。
わたしはまた、性懲りもなく彼の楽屋を訪れている。会いたいからではなく、うずく傷口をかきむしるような気持ちで。
もしかすると、わたしはまだ、希望を持っているのかもしれない。坂道の途中で引っかかってしまったような、このあやうい沈黙が、少しでも楽な方へ転がりはじめることはないか、と。
莫迦《ばか》みたいに、虫のいい考えだ。
彼は、ことり、と音を立てて、筆を置いた。
「虹子。きみが嫌なら、もうここへはこなくていいんだよ」
虫ピンでさすようなことばだった。
「ずるい。そんな言い方」
ひきつってしまった喉で、ようよう言い返した。
「じゃあ、こう言えばいいのかな。もう会いたくないから、こないでくれ」
思わず、目を見開く。喉が、くっと鳴った。彼は、逃げるように目をそらすと、低くつぶやいた。
「本心から言っているわけじゃない」
返事などできなかった。会いたい、と言われてもうれしいとは思えないのに、会いたくないと言われると、なぜ傷つくのだろう。負の感情のみがいたずらに大きく、気持ちをもみくちゃにする。
いきなり、手が伸びて、なぎ倒すように抱きしめられる。
かすかに酸っぱい白粉《おしろい》の香りと、汗ばんだ掌《てのひら》の感触の中で、わたしは思いきり目を閉じる。彼の喉《のど》ぼとけが上下するのさえ、気配でわかる。
「虹子、花が降るんだ」
「花?」
「そう、くる日も、くる日も、舞台の上に花が降る」
一瞬、彼がおかしくなってしまったのか、と思った。だが、身を引いて見た彼の目は、鋭く真摯《しんし》だった。
「花って、いったい……」
「告発の花か、それとも葬送の花か」
「伊織さん」
なんのことかは、わからない。でも、間違いなくそれは、わたしがしたことに関係があるのだ。
彼は、物憂げにわたしの背にまわした腕を、抜き取った。ゆっくりと頬《ほお》を撫《な》でる。
「あの花は、この顔の傷より確実に、わたしを舞台から消し去るだろうな」
電話の音は嫌いだ。
鼓膜を震わせる音は、秘《ひそ》かに確実に忍び寄り、いきなりわたしを驚かせる。
その朝も、ベルの音は唐突に眠りの中に飛び込んできた。
明け方近くに寝たのだ。許してほしい。
わたしはぎゅっと目を閉じて、その音をやり過ごそうとした。だが、横に彼が眠っていることを思い出すと、わたしは薄い毛布を剥《は》いで起きあがった。
彼は薄いまぶたを震わせて、まだ眠っていた。
彼の身体を乗り越えて、電話の下までたどり着く。時計を見ると、十時を過ぎていた。
「もしもし」
無愛想な声でとった受話器からは、おずおずとした父の声が聞こえてきた。
「寝てたのか?」
「うん、でも、もう起きなきゃならなかったし」
秋が近い分、起き抜けは少し冷える。わたしは襦袢《じゆばん》の肩を軽く擦《さす》った。
「元気にしているか」
「ええ、なんとか」
「こづかいは、足りているのか」
「ありがとう、今のところ大丈夫よ」
横に男がいる、という罪悪感からか、わたしはいつもより、いい子になる。
「店に紅型の反物がたくさん入ったんだ。なかなか、おもしろいものもあるから、見に来なさい。虹子に似合いそうだ」
「ありがとう、じゃあ、近いうちにお店の方に行くわ」
父はこんな他愛《たわい》ない会話を交わすために、こんな時間から電話をかけてきたのだろうか。そんなことはないはずだ。父の口調には、言いにくいことばを切り出す機会を窺《うかが》っているような、居心地の悪さがあった。
「お父さん、なにかあったの?」
父は一瞬、ことばを詰まらせた。
「白木屋のおじさんを覚えているだろう」
うちの店と昔から取引のある、老舗《しにせ》の足袋屋《たびや》さんだった。
「おじさんが、お見合の話を持ってきてくれたんだ」
「お見合?」
「わたしも、虹子には少し早いか、と思ったんだが、なかなかいい話だ。一度、会ってみるだけでもどうだ」
わたしの機嫌を損ねないようにか、早口で語る。
「うちに、写真と釣書がきている。なんだったら、返事はそれを見てからでもいいし」
「相手の男の人は、お幾つなの?」
「二十九歳だ。少し離れてはいるが、その分収入はしっかりしている。なかなかの趣味人だし、虹子とも話が合うと思うんだが」
わたしは、受話器を持ち直した。肩先にふわり、と羽織が掛けられる。
「わかったわ。とりあえず、今夜うちに帰るわ。すぐお返事できるようなことじゃないし」
父は明らかにほっとしたようだった。
「頼むよ。母さんも喜ぶだろう。もし、夕方までにこれるようだったら、店の方にきなさい。美味《おい》しいものでも食べに行こう」
電話を切って、振り返ると伊織さんが眠そうな目のまま、立っていた。
「珈琲《コーヒー》か、牛乳でも飲む? 早く支度しないと、舞台に間に合わなくなっちゃう」
「見合するのか」
かすかに苛立《いらだ》ったような口調だった。
「別に決めたわけじゃないわ。するとしても、会ってみるだけ。結婚なんかしないわよ」
なぜ、彼がそんなことで不機嫌になるのか、わからなかった。彼は、両手で挟みつけるようにして、わたしを壁に押しつけた。
「なら、最初から会わなければいいだろう」
干渉されるのは好きじゃない。たとえ、彼にでもだ。わたしは顎《あご》をあげて、挑発的な目で彼を見据えた。
「別にお見合の相手と伊織さんを、天秤《てんびん》にかけようとしているわけじゃない。お見合なんかしない、なんて言えば、父が心配するもの」
「親を安心させるために、会うのか。相手の男が可哀想《かわいそう》だ」
「断ってもいいわよ。でも、そうしたら父は絶対、だれか好きな人でもいるのか、って聞いてくるわ。どうする、伊織さん。うちの両親に会ってみる?」
彼が困惑することは、わかっていた。思ったとおり、目をそらして返事に詰まった彼を、わたしは少し残酷な思いで見た。
同時に、両肩に重荷のようなものがのしかかる。
彼のことは好きだ。でも、だからといって、このままずっと一緒にいられるのだろうか。ずっと、彼のことを好きでいて、結婚したり、子どもを産んだりするのだろうか。
それが嫌なわけじゃない。ただ、タネのわかっている手品を見せられたときのような、味気ない思いが、こみ上げてくる。かりそめのものとはいえ、なぜ恋愛にゴールがあるのだろう。たどりつけても、たどりつけなくても憂鬱《ゆううつ》になるだけなのに。
彼は、乾いた唇を、舌で湿した。
「虹子が会えというなら、会うよ」
わたしは、軽く首を振って、白地に朱で萩を描いた襦袢の前を掻《か》きあわせた。
「冗談よ。早く支度しないと、舞台に遅れるわ」
今になって思う。気づかない、ということはたちの悪い罪悪だ。気づいていて、知らぬふりをする方がまだましだ。少なくとも、それなら、最悪のなりゆきは免れるのだから。
子どもだったのだ、というのは小ずるい言い訳だ。わたしが手にしていたのは、塩化ビニルの人形じゃない、ひとりの男の将来だったのに。
わたしは人間がそれほどもろいものだとは、知らなかったのだ。
芭蕉《ばしよう》の木、尾長鶏、南国の花。
燃えるばかりの色彩に染め上げられた紅型の小紋。鮮やかな黄や赤が目にまぶしい。
普段は地味なものを好んでいるのに、魔が差したように作ってしまったきものだった。
すくい織りの、黒鳶《くろとび》の帯を文庫に結び、髪を不対称に分けて、ゆるく編んだ。
鏡を覗《のぞ》くと、嫌になるほど青白い顔をした女がそこにいる。わたしは、罰を与えるように真っ赤な口紅だけをひいた。
また、出かけようというわけだ。自分のしつこさに呆《あき》れてしまう。
ただ、伊織さんのこのまえ見せた振る舞いがひどく気にかかっていた。
(花が降る、ですって?)
彼の憔悴《しようすい》したような顔が思い出された。なにが、彼をそんなに苛《さいな》んでいるのだろう。
電車を乗り継《つ》いで歌舞伎座に向かう。地下鉄を東銀座で降り、狭い階段を昇る。ちょうど、昼の部が終わったところらしく、さほど広くない道に、大勢が肩をつきあわせるようにして立っていた。
すり抜けて、先を急ぐ。すでに顔見知りになった、頭取に軽く頭を下げ、楽屋口から入った。
二階の給湯室の前を通ったとき、中で湯呑《ゆの》みを洗っていた人が、はっとしたように顔を上げた。視線が合って、自然と足が止まる。
顎先《あごさき》の尖《とが》った、小さな目の、童顔の男の人。たぶん、名題下《なだいした》の役者さんだ。見覚えはないから、伊織さんのお弟子さんではない。立ち居振る舞いからすると、女形《おんながた》のようだった。
会った記憶はないのに、女形さんはわたしを知っているようだった。湯呑みを洗う手を止めて、ぼんやりとわたしを見ている。
「あの、なにか?」
「虹子さん、ですね」
名前を呼びかけられて、驚いた。この人と、どこかで会ったことがあっただろうか。記憶を探る。
女形さんは、蛇口の水を止めると、給湯室から出てきた。
「すみません、どこかでお会いしましたか」
女形さんは肯定するでも、否定するでもなく、首を振った。そして、いきなりこう言った。
「あなた、なぜ花が降るか、知ってますか」
思わず、息を呑む。また、花だ。伊織さんのことばを思い出す。
(花が降るんだ)
「知ってるんですか?」
わたしは、無性に恐ろしくなる。いったい、花がどうしたというのだろう。この人は、なにを言っているんだろう。
「知っているんですね」
「知りません!」
叫ぶように答えていた。
「花って、なんのことですか。わたしなにも知りません。なにか、勘違いされているんじゃないですか」
女形さんは、続けてなにか言おうとしたが、わたしはすでに歩き出していた。半分逃げるような早足で。
恐ろしかった。知っている人がいるのだ。わたしと伊織さんだけしか、知らないはずのことを。なにかが動き出している。わたしと、あの人を巻き込んで。
わたしに与えられる罰が、生やさしいものであるはずはない。
わたしはひとりの男の命を弄《もてあそ》んだのだから。
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第六章
古びたレースのように柔らかい照明の中、山本くんはうつ伏せで、地上を覗《のぞ》き込んでいた。
「やまもとくん」
息だけで、声をかけると、身体を起こしてにっこりする。
「早いですね。今、毛抜が終わったとこなのに」
「もう、烏《からす》の行水さ。衣装も由利ちゃんに頼んでほっぽってきたからね」
わたしは、できるだけ身体を低くして、山本くんの横に移動した。実を言うと、高いところはあまり得意ではない。
前は、舞台の横で張って失敗した。今日は、思いきって、簀《す》の子で様子を見ようとの考えだ。山本くんは、朝の開演前からここに上がり、わたしも、自分の出番が終わると同時に、やってきた。
垂直に見おろす舞台は、ひどく遠い。わたしはあらためて、震え上がった。山本くんに囁《ささや》く。
「怖くないかい」
「最初はちょっと。でも、もう慣れました」
今日は、彼も目立たぬように黒衣姿だ。頭巾《ずきん》の前をはね上げて、いっぱしの役者に見える。わたしたちは、時代劇の忍者よろしく、並んで這《は》い蹲《つくば》った。
舞台の上では、毛抜の次の演目、「藤娘」の準備が着々と進んでいた。背景の、藤の樹が天井から下りてくる。踊りの名手六代目菊五郎が、自分の身体を小さく可憐《かれん》に見せるために小村|雪岱《せつたい》に描かせたという、巨大な藤の花房。いささか、デフォルメがすぎるようだが、それも歌舞伎の豪快なところだ。
「昨日、滝夜叉姫と会ったよ」
山本くんが、舞台から顔をあげる。わたしはわざとそちらを見ずに、喋《しやべ》った。
「歌舞伎座にきてたんですか」
「ああ、楽屋でばったり会ったんだ。思わず、なぜ花が散るのか、訊《き》いてしまったよ」
彼がちょっと絶句するのがわかる。
「大胆ですね。小菊さん」
「つい、ね。でも、そう言ったとき、彼女の顔色が変わったんだよ。あれは、絶対なにかを知っている顔だ」
「急に妙なことを聞かれて、びっくりしただけじゃないですか」
「そうじゃない。花が降る、と聞いた瞬間、あの白い顔から、もっと血の気が引いた。逃げるように立ち去ったよ。絶対、なにかを隠している顔だ」
「そうなんでしょうか」
わたしは、自分を納得させるようにつぶやいた。
「今泉はああ言ったけれど、やっぱり、滝夜叉姫は関係があるんだよ」
舞台の上では準備が整い、濡《ぬ》れたような漆黒の振袖《ふりそで》に身を包んだ市川紫之助が袖から現れた。
藤の樹の後ろには、後見である紫の姐《ねえ》さんが、紋付き姿で控えていた。
開演のブザーが鳴り、あたりは闇《やみ》につつまれる。この闇の間に緞帳《どんちよう》があがり、ちょん、という柝《ひようしぎ》の音で、明かりがつくと、客の前にはいきなり華やかな舞台装置が現れる、という仕掛けだ。
自分が出るわけではなくても、柝の音や開演のブザーを聞くと、胸がざわざわしてくる。
ちょん、ぱ、で明るくなった客席から、どよめきが起きる。笠《かさ》で顔を隠し、藤の枝を肩に掛けた紫之助が、藤の木から少し出て、また恥ずかしそうに木の陰に隠れる。
大津絵に描かれたままの、可燐な藤の精。
歌舞伎とは、不思議な芝居だ、と心から思う。五十過ぎの中年男が、十代の少女を演じることができるのだから。
紫之助は、ひどく可愛《かわい》らしい仕草で、舞台の中央に出て、お辞儀をする。藤のかんざしが揺れ、彼が微笑するだけで、客席がさざなみのように、どよめく。
黒い振袖から、引き抜いて、藤色の娘らしい衣装になる。紫の姐さんの後見ぶりも見事だ。下の衣装の色さえ見せず、一瞬にして変わる。
「すごいですね」
山本くんがため息のようにつぶやく。
「ああ、奥州屋さんといえば、昔から踊りで有名な役者がたくさん出たところだからね。血筋なんだろうね」
「市川伊織もそうなんですか」
「彼は、今まではそれほどずば抜けた感じはなかったけど、今回の鏡獅子《かがみじし》はすごいらしいよ。みんな言っている。役者ってものは、一瞬にして化けるからね」
新しい振り付けをつけた、鏡獅子。小姓ではなく、遊女である、というそれを、彼はあの長身で、どんなふうに踊るのだろうか。
藤娘は、供えもののお酒を飲んで、酔ったらしく、踊りはじめる。藤音頭と呼ばれる、藤娘での見せ場だ。
頭上から覗《のぞ》き込んでいるだけだから、踊りの細部まではわからない。それでも、引きつけられるのだろう。山本くんは、下に顔を突き出さんばかりに、熱心に見つめている。
だが、踊りばかりに夢中になっているわけにはいかない。わたしは、簀の子に上がってくるものがいないか、階段の方に目をやった。
「もし、犯人が先にぼくらに気づいたら、逃げられちゃいますね」
「仕方ないだろう。でも、それならそうで、とにかく簀の子に昇って花を降らせたことがわかるじゃないか」
「それがわかるだけでいいんですか」
「よくはないけど、滝夜叉という手がかりもあるしね。そっちから攻めていけばいい」
舞台の上では日が暮れていき、藤娘はまた藤の中に帰っていく。
次は「本朝廿四孝」だ。わたしたちは顔を見合わせて頷《うなず》き合い、身体を低くした。この黒尽くめの格好で腹這《はらば》いになっていたら、いくら向こうだって、すぐには見つけられないだろう。
絶対、犯人をつかまえてやる。わたしは、手甲《てつこう》をきゅっときつくはめた。つかまえて聞き出してやるのだ。いったい、なぜ、こんなことをはじめたのか。
だが、わたしたちの努力をあざ笑うように、その日も花は降った。
どうすることもできなかった。
まるで、虚空に咲いた桜が散るように、どこからともなく、花びらは現れたのだ。
だれも、簀《す》の子の上には昇らなかったし、下を見ていて不審な動きをしたものも、いなかった。
わたしと山本くんは、身じろぎもしなかった。照明を浴びて、くるくると踊る花びら。
まるで、夢を見ているようだった。
「なぜ……」
山本くんが、喉《のど》を震わせるようにつぶやいた。いったい、だれが、こんなにも執拗《しつよう》に花を降らせようとするのか。
「奥庭」が終わり、わたしと山本くんは舞台袖に並んで、師匠の戻ってくるのを待っていた。朱鷺色《ときいろ》の振袖の裾《すそ》を持ち上げて、師匠が奈落《ならく》から上がってきた。
「すみません」
目があった瞬間に、頭を下げた。それで、師匠にはなにもかもわかっただろう。少し困ったように笑った。
「ああ、ごくろうさん」
声をかけて行きかけた師匠は、ふと、足を止めた。
「小菊、悪いけど、要ちゃんを呼んでおくれ」
「伊織さんをですか?」
「ああ、そうだ。話があるからって言ってね」
そのまま振り返りもせず、とんとんと階段を昇っていく。ついていた弟弟子の鈴音が、不審げに立ち止まる。目で「行け」と合図をすると、口を尖《とが》らせて、師匠のあとを追った。
山本くんが、わたしの黒衣の筒袖《つつそで》をひっぱった。
「どうするんでしょう。菊花さん」
「さあ、いよいよ直接対決かねえ」
わたしは、師匠の去っていった階段を見上げた。
伊織は、ぴしっと背を伸ばして、お辞儀をした。
水鳥のように首が長い。よろけ縞《じま》の浴衣《ゆかた》の帯を無造作なほど緩く締め、洗い立ての髪を、分けもせず前に垂らしたままにしている。
だらしない、とさえ見える格好なのに、ひどくすがすがしく見えるのは、なぜだろう。彼には、身に備わった白絹のような清潔感がある。
(まあ、その分、冷たそうではあるけどね)
わたしは心の中でつぶやきつつ、改めて彼に見とれた。
「おじさん、失礼します」
奥の化粧前に座っていた師匠は台本をめくる手を止めた。
「ああ、よくきたね。お入り」
彼は正座したまま、膝《ひざ》を進める。わたしと山本くんは、手前の部屋で、小さくなっていた。
師匠は台本を置くと、伊織の方を向いた。
「鏡獅子、なかなか評判じゃないか」
「いえ、まだまだです」
「なんでも今回は小姓じゃなくて、傾城《けいせい》で踊るらしいね。ずいぶん珍しい趣向じゃないか」
「はい。でも傾城に、恋の情念から獣が憑《つ》く、というのが、もともとの歌詞ですから。明治時代に、遊郭が舞台だ、というのが卑猥《ひわい》とされて、大奥が舞台になったらしいのです」
「枕獅子だね。いろいろ新しい試みをしてみるのは、いいことだよ。最近は、同じ演目を繰り返すことが多いからね」
「ありがとうございます」
ふいに、師匠は口を閉ざした。苦い味のする沈黙が部屋に広がる。わたしと山本くんは、いたたまれず部屋の隅に寄った。
「まあ、あたしゃ、お説教をするような柄じゃないんだけどね」
「は」
伊織は短い返事をすると、少し首を曲げて師匠の顔を見上げた。
「要ちゃん。親父さんとなにかあったのかい」
はっとする。師匠が彼を呼びつけたのは、花の話ではなく、この話をするためだったのか。
伊織は少しうなだれた。
「お耳に入りましたか」
「嫌でも入ってくるさ。なんでも、最近じゃほとんど口をきいていないらしいね。どうして、そんなことになっちまったんだい」
彼は答えない。視線をそらすように、右下へ注ぎ、口角の下がった唇を引き結んでいた。
「答えられないのなら、無理には訊《き》かないよ。でもね。こんなことをしていちゃ、あんたのためにならないよ。あんただって、将来のある身だ。それなりの実力だってある。でも、このことがお偉いさんの耳に入ってごらん。あんたが、どう思われるか。わかっているだろうけど、この世界では普通の親と子みたいにはいかないんだからね」
親子である前に、弟子と師匠である、という関係。普通の親子のように、子が自立して対等になる、というわけにはいかないのだ。
伊織は静かに頭を下げた。
「ご心配いただいてありがとうございます」
「じゃあ、親父さんと仲直りするね」
「それはできません」
「どうして」
彼は、かすかに身震いした。
「許せないんです」
「お父さんのことをかい」
彼は小さく息を吐くと、朗々と台詞《せりふ》を語りだした。
「京三界まで駆け歩き都合のできぬその金を持っていたのがこなたの因果、欲しくなったが私の因果、因果同士の悪縁が殺す所も宇都谷峠《うつのやとうげ》、しがらむ蔦《つた》の細道で、血汐の紅葉血の涙、この黎明《れいめい》が命の終わり、許して下され、文弥《ぶんや》どの」
黙阿弥《もくあみ》独特の美しい七五調。「蔦《つた》紅葉《もみじ》宇都谷峠《うつのやとうげ》」、通称「文弥殺し」と呼ばれる芝居の、殺し場の名台詞だった。
師匠はしばらく黙っていた。
「それも、因果だって言うのかい」
伊織は、頷《うなず》いた。
「だから、お許しください」
師匠は、苦笑いを浮かべると膝をさすった。
「人間なんて、つまらない生きもんだねえ」
「申し訳ありません」
伊織はもう一度、深く頭を下げる。
「因果なら、それをわきまえて、親父さんを許してやるわけにはいかないのかい」
彼は毅然《きぜん》とした目で、師匠を見据えた。
「許せ、と言えるのは、十兵衛だけです。文弥にとっては、なんの供養にもなりません」
師匠は、目を閉じて震えるほどわずかに、頷いた。
「わかったよ。もう行っていい」
立ち上がり、去りかけた伊織は、一瞬立ち止まって、振り返った。
「おじさん、花びらのこと、気がついていますか?」
師匠は閉じていた目を、開いた。
「十種香《じゆしゆこう》の途中で必ず降る、花びらのことかい」
「やはり、お気づきでしたか。あれは、なんなんですか」
「わたしもわからないよ。いったい、だれがあんなことをしているんだろうね」
わたしは伊織の表情を、下から見上げる。本当に知らないのか、それとも単にしらばくれているのか。
「ぼくね、あの花を見るたび、芭蕉の俳句を思い出すんです」
「さまざまのこと思い出す桜かな、かい」
伊織は、目を細めて微笑した。
まるで、花が咲くようだ。
ここへきてからはじめて見せた笑顔だった。
「あれ、なんなんですか」
「へ?」
楽屋の階段を降りながら、山本くんが尋ねてきた。わたしたちはこれから、表にまわって、伊織の鏡獅子《かがみじし》を見るつもりだった。
「あれですよ。菊花さんの楽屋で伊織さんが言ってた台詞みたいなもん」
「ああ、黙阿弥の舞台の台詞だよ」
わたしは簡単に説明した。
文弥殺し。黙阿弥の後期の作品である。
東海道の鞠子《まりこ》の宿で、ふたりの男が出会う。ひとりは、盲目で按摩《あんま》の文弥。姉が吉原に身を売った百両の金を手にして、京に向かうところだった。もうひとりは、商人の伊丹屋十兵衛。京で百両の金の金策に走り回ったが、失敗に終わり、失意のまま、江戸に戻る途中だった。
偶然、相部屋になったふたりだが、十兵衛は目の見えない文弥を気遣い、親切にする。文弥も十兵衛に感謝し、ふたりは情を通わせる。次の日の朝、お互いの無事を祈って、反対方向へと別れるふたり。しかし、十兵衛は、ある考えに取り付かれる。
道を引き返した十兵衛は、宇都谷峠で追いついた文弥を惨殺し、金を奪うのだ。
旅先で、相部屋にならなければ、また、文弥が金を持っていなかったら、十兵衛がその考えに取り付かれなかったら、起こり得なかった惨劇。黙阿弥は、まっとうな心を持った男が、偶然の蔦にからめ取られ、狂わされていく様を、まざまざと描いていた。
「彼が語ったのは、その殺しの場面での、十兵衛の台詞だよ」
京三界まで駆け歩き都合のできぬその金を持っていたのがこなたの因果、欲しくなったが私の因果、因果同士の悪縁が、殺す所も宇都谷峠、しがらむ蔦の細道で、血汐の紅葉血の涙。
「ぜんぜん、わからない」
山本くんは、子どもっぽく、Tシャツの裾《すそ》を引っ張りながらわたしの後に付いてきた。
「いったい、どういう意味なんでしょう。菊花さんはわかったみたいだったけど」
わたしは、山本くんにどう説明していいのか、迷っていた。わたしだって、はっきりと理解したわけじゃない。だが、同じ歌舞伎の国に住むものだから、彼がなにを言いたいのかは伝わってきた。
市川紫之助と伊織の間にも、きっと宇都谷峠があったのだ。それまで、なんの悪意も邪念もなかったふたりの間に、急に射し込む日差しのような憎悪。偶然にからめとられ、ばらばらになっていく関係。それがなんなのかはわからないけれど。
「花とは関係があるのかねえ」
言ったあとで、わたしと山本くんは思いっきり顔を見合わせた。
「花!」
今泉に花を取ってこいと言われていたのをすっかり、忘れていた。
「やばいよ。さすがに、もう片づけちゃっただろうねえ」
「仕方ないですよね。こっちもごたごたしてたんだから」
「でも、ブンちゃんごちゃごちゃ言うだろうねえ。最近なんか、不機嫌だからね」
「とりあえず、今日は病院に行くの。やめちゃいましょうか」
「んだね」
ふと、まわりを見ると、大道具小道具が山のように積んである。ごしょごしょ喋《しやべ》りながら、階段を降りるうち、一階を通り過ぎて、地下まで降りてしまったらしい。
「山本くん、地下」
「あ、ほんとだ。気がつかなかった」
そそっかしいのはわたしだけではないらしい。急いで引き返しかけたが、足が止まる。奥の方から、ある人の声が聞こえてくるのに気がついたのだ。
わたしは山本くんの腕を掴《つか》んで、止まらせた。唇に指をあてて、黙るように合図をしてから、わたしは山本くんの手を引いて、ゆっくりと降りていった。
どこか、人目をはばかるような囁《ささや》き声《ごえ》。それもほかの人のものだったら、立ち聞きしようなどとは思わなかっただろう。
その声は、市川紫之助のものだった。
「いい加減にしたらどうだ。こんなことを続けていると、自分の首を絞めることになるぞ」
「どうせ、こちらはしがない三階役者ですよ。師匠のように、外聞を気にすることもないし、将来、出世が約束されているわけでもない。おまけに、師匠、あんたはわたしを首にすることもできやしない。せいぜい、好きにやらせてもらいます」
あざ笑うような調子の、もうひとつの声。それを聞いた瞬間、わたしは山本くんの腕をぎゅっと握った。
「いつまで、こんなことを続けるつもりなんだ」
「いつまででもいいでしょう。わたしにとっちゃ大金でも、師匠にははした金だ。蚊に喰《く》われた程度としか思えないでしょう」
「ふざけるな」
「それとも、なんですか。はした金でも、ただ取られる金は惜しいですか。それなら、警察につきだすなり、わたしを歌舞伎界から追い出すなり、好きなようにすればいい」
紫之助は低く呻《うめ》いた。
「喋るんだろう」
「そりゃあ、喋りますよ。喋らない、という約束で金をもらってるんだ。もらえなければ、喋ります」
「わたしは、どうなっても自業自得だ。だが、伊織にはなんの責任もない。あいつはこれから、出世していく男だ。だから」
「わかってますよ。だから、こっちも、どうしてもいる分だけにしてるんですよ。どうしますか。いやなら、取引は不成立、ということで」
「待ってくれ」
紫之助の苦しげな声が響き、そして、しばらく沈黙が続いた。かさかさ、という紙の音とわずかな息づかい。わたしと山本くんは、息をひそめて、その場のなりゆきを見守っていた。
「これでいいんだな」
「たしかに。これで、しばらくは黙ってますよ。じゃあ、師匠」
彼らがこちらに歩いてくる気配がしたので、わたしたちはあわてて、大道具の障子の陰に隠れた。
ふたりが階段を昇り、足音が消えるまで、わたしたちは身動きひとつせずにいた。
「小菊さん、今の……」
「片方は市川紫之助だよ」
「ええっ、じゃあ、もうひとりは」
わたしは、乾いた唇を舌で湿した。
「市川織二だ」
藤色に鮮やかな牡丹《ぼたん》の描かれた、胴抜きの着物を片肌脱ぎに、白地に振り下げ結びの金襴《きんらん》の帯。桃色の綸子《りんず》を重ね着して、真紅のしぼり地の長襦袢《ながじゆばん》。
市川伊織は、美しく豪華な花魁《おいらん》に化けていた。
背が高く、顔が小さいから、まるでつくりもののようだ。
目の縁にすっと掃いた、赤い紅。頬《ほお》に乱れてかかる、鬢《びん》の一筋。そして、その白い顔に浮き上がる、三つの傷跡。
普段、立役しか目にしない分、その花魁姿は、あまりにもあやうく、はかなげだ。
普通の鏡獅子《かがみじし》のように、台詞《せりふ》のやりとりはなく、緞帳《どんちよう》が上がると板付きで、いきなり踊りが始まる。
※[#歌記号、unicode303d]されば結ぶのそのかみや、天の浮橋渡り初め。女神男神の二柱。
恥じらうように、目を伏せて、衿元《えりもと》を直す。鏡獅子では処女の初々しさを見せる場所のはずなのに、伊織の傾城《けいせい》はまるで、咲き誇った花のようになまめかしい。
※[#歌記号、unicode303d]人の心の花の露、濡《ぬ》れにぞ濡れし鬢水《びんみず》の、はたち鬘《かつら》の水くさきも、道理流れの身じゃものと、人にうたわれ結い立ての、櫛《くし》の歯にまでかけられし、平元結《ひらもとゆい》の結び髷《まげ》も、痒《かゆ》いところへ簪《かんざし》の、とどかぬ人につながれて。
袱紗《ふくさ》をさばきながら、踊る。細い身体をのけぞらせ、袱紗を口にくわえて決まる。
わたしは、鏡獅子の歌詞が、ひどく色っぽいことに気がついた。たしかに、これは、御殿勤めの小姓ではなく、傾城にこそふさわしい。
※[#歌記号、unicode303d]うらみかこつもな、実からしんぞ、気にあたらうとは、夢々しらなんだ、見るたびたびや聞くたびに、憎てらしほど可愛《かわ》ゆさの、朧月夜《おぼろづきよ》や時鳥《ほととぎす》。
愛《いと》しい人への恨み言が語られる。伊織は客席に、しっかり目を据えて、踊っていた。まるで、そこに恨む人がいるかのように。そして、力を抜いて、時鳥を目で追う。陶然とした表情に、思わず目が奪われる。
わたしの目は知らず知らずのうち、舞台に釘付《くぎづ》けになっていた。目新しいだけではなく、鏡獅子に秘められたもうひとつの世界を引き出すような踊りだった。
背筋がぞっとする。今までの市川伊織の踊りとはまったく違う。振り自体は、今までの鏡獅子と、ほとんど変わらないのに、詞の解釈でこんなに、変わってしまうのだろうか。これほど鮮烈な舞踊は見たことがなかった。
※[#歌記号、unicode303d]時しも今は牡丹《ぼたん》の花の、咲くや乱れて、散るは、散るは、散り来るは、散り来るは、散り来るは、ちりちりちりちり、散りかかるやうで、おもしろうて寝られぬ、花見て戻ろ、花見て戻ろ、花には憂さをも打ち忘れ。
有名な扇の振りになる。次々降りかかる花びらを、目で追い、扇で受けとめる。まるで、舞台全体が、牡丹色の花びらで満たされるような幻想に取り付かれる。
踊りに夢中になっていて、わたしは山本くんが、袖《そで》を引っ張っているのに気がつかなかった。
「どうしたんだい」
「この歌詞、この歌詞、聞いています?」
歌詞がどうしたのだ、と訊《き》き返そうとして、わたしは絶句した。鏡獅子は何度も聞いている歌だから、聞き逃してしまった。踊りに花鳥風月は付き物だとしても、虚空から降る花びらを追い続ける身としては、たしかに不思議な符合に思える。
まるで、伊織の視線によって生み出された幻の花びらが、時を越えて十種香《じゆしゆこう》の舞台に現れたようだ。
「花には憂さをも打ち忘れ、か」
アクロバティックに二枚の扇を弄《もてあそ》び、踊る伊織。やはり、彼こそが、花びらの謎《なぞ》を握る鍵《かぎ》なのだろうか。
わたしはしばし、目を閉じた。舞台上の傾城と、昨日の滝夜叉姫の姿が、一瞬重なったのだ。
次の日も、また、花は降る。
八重垣姫の口説きの場所だった。
なにもないはずの舞台の天井に、ふいに現れ、数秒だけ舞って散る、たった一枚の花びら。
十種香の幕が下りてから、わたしは舞台に出て、その花びらを拾った。
それは散りたてのように、ひんやりと冷たかった。
人ならぬものが、この花を降らせているのならば、それは触れてはならぬ聖域だ。そんなはずはない、と自分に言い聞かせても、無から現れる花びらは、容易にわたしの理性を奪ってしまう。
いったい、だれが、なんのために。
わたしは、ライトや花飾りの並んだ天井に目をやった。
「小菊さん」
振り返ると由利ちゃんが、少し不安げな表情で後ろにいた。
「まだ、わからない?」
「わからないねえ。まったく、不思議なこともあるもんだよ」
「今泉さんならわかるのかな」
「少なくともわたしよりは、わかっているはずだよ」
最初の話を聞いたときから、あいつはなにか気がついたようだった。
「じゃあどうして教えてくれないの?」
「さあ、もったいぶりたいだけだろ」
憎まれ口を叩《たた》いたが、本当はわかっていた。たしかに浮かび上がってきた事実は、決して穏やかなものではなかった。伊織も、紫之助も、なにか不穏なものを隠し持っている。今泉はそれを、表に出したくなかったのか。
でも、それだけではないはずだ。
いきなり由利ちゃんが、黒衣の袖を引っ張った。
「なんだようっ」
「わっすれてた。ハチが見つかっちゃったのよ!」
「だれに?」
「師匠によ、山本くんが大目玉くらってるわよ!」
それはまずい。わたしはあわてて、楽屋に向かった。由利ちゃんがわたしのあとに続きながら、大げさに嘆息する。
「ああ、可哀想《かわいそう》な山本くん。あんなにかっこいいのに」
それは、この際関係ないとは思うが。
「由利ちゃん、ちゃんと隠しておいてくれなかったのかい」
「だって、師匠はまだお風呂《ふろ》に入ってると思ってたんだもん。ずっと、閉じこめてたら、ハチが可哀想だし」
まあ、無理なことを頼んだのはわたしだし、由利ちゃんを責めても仕方がない。
だが、楽屋は思ったほど険悪なムードではなかった。ハチはちゃっかり、師匠の膝《ひざ》に頭を乗せて寝そべっている。
師匠はわたしを見ると、とってつけたように怖い顔をしてみせた。
「困るじゃないか、小菊。なんでおまえがついてながら、犬なんか楽屋に連れてくるんだい」
「すみません」
「いえ、小菊さんは悪くないんです。ぼくが無理なお願いをしてしまって」
慣れない山本くんはおろおろしているが、こっちはちっとも怖くない。長いつきあいだから、師匠が本当に怒っているのか、いないのかはすぐわかる。第一、口では文句を言いながら、しっかり手はハチを撫《な》でているではないか。
「すみません。次からはこんなことのないようにします」
殊勝らしく謝ってみせる。ハチは自分のことでわたしが怒られているとは思わないらしく、無意味に尻尾《しつぽ》をぱたぱたしている。
師匠は、一通り注意すると、もう納得したらしい。ハチの鼻先に手を突き出している。
「この子、芸はなにもしないのかい。ほら、お手、お手」
ハチは差し出された手をぺろり、と舐《な》めた。
「すみません。まだ、子どもなもので」
「目まで毛に埋まっているみたいだねえ。ふかふかじゃないか」
師匠はハチの立った耳の中を覗《のぞ》き込んでいる。山本くんが、そっと耳打ちした。
「ぼく、探偵犬の役立て方をひとつ見つけました」
「なんだい」
「聞き込みにいくとき連れていって、相手を和《なご》ませる」
今泉は、あと三日で退院できるらしい。
「まあ、しばらくは松葉杖《まつばづえ》生活だろうけどね」
それでも、外の空気が吸えることがうれしいのか、今泉はひどくご機嫌だった。
「退院したらあのカップルから、慰謝料をふんだくってやる」
山本くんは洗濯物を鞄《かばん》から出しながら、しゃあしゃあと言った。
「お願いしますよ、先生。でないと、来月の家賃、払えませんからね」
「なんだ、そんなに財政は逼迫《ひつぱく》してるのか」
「そうですよ。先生の入院費も莫迦《ばか》にならないし、退院したってしばらくは働けないでしょう。今度はぼくが、胃痛で入院したいくらいですよ」
今泉は天井を仰いで嘆息した。
「ああ、探偵の労組があればなあ」
「なに莫迦なこと言ってんだい。それより、これ!」
わたしはポケットから、花びらを取り出して、今泉に突きつけた。
「ああ、拾ってきてくれたのか」
彼は指先で、それをつまんだ。
「紙じゃないんだな。これは、歌舞伎の大道具で使う花びらとは、まったく違うだろう」
「ああ、縮緬《ちりめん》みたいだね。こんなものを大道具で使った日にゃあ、費用がかさんでしかたがないよ。正絹だろう、それ」
「ふうん」
今泉は、花びらを手の上でひっくり返したり、光に透かしたりしている。
「縮緬細工のパーツかなにかかな」
「それにしちゃあ、端が切りっぱなしだよ。このままじゃ、ほつれちまう」
「と、いうことは、縮緬の布を、単に花びらの形に切ったものってことか」
「そうだね。それも、新しい布じゃない。薄くなっているところを見ると、かなり時代がかったものだよ」
今泉は花びらを、ハンケチに包むと、ベッド脇《わき》のテーブルに置いた。
「今まで降った分は、どうなったんだ」
「幕間《まくあい》の舞台は戦場だからね。ばらすついでに捨てられたみたいだよ」
「そうか」
今泉は、おっさんくさい仕草で頬《ほお》を撫でている。山本くんが、わたしの脇をつついた。
「あのこと、先生に話さなくていいんですか」
紫之助と織二のことだろう。わたしが、少し迷っている間に、今泉が身を乗り出してくる。
「なんだ。あのことって?」
仕方なく、劇場の地下での会話について、説明する。だが、話すうち、今泉の表情が曇ってくる。
山本くんが、ベッドの足下に腰かけて、足をぶらぶらさせた。
「やっぱり、織二さんが、紫之助さんを強請《ゆす》っているんでしょうか」
「そういうふうに、聞こえたよねえ」
織二とは、よく飲みにも行くし、つきあいも長い。そんなことをする男だとは思いたくはないが、あの会話ではほかの状況は考えられまい。でも、いったいなにが原因なのだろう。
黙りこくっていた今泉が、顔をあげた。
「なあ、ふたりとも、頼みがある」
「なんだい」
「三日経てば、ぼくは退院できる。そうしたら必ず、この花びらを、だれが、どうして降らせたのかを解明するから、それまで、この件には手を出さないでほしいんだ」
山本くんは、驚きのあまりか、今泉のシーツを引っ張った。今泉はずずず、とシーツと一緒にずれる。
「じゃあ、せんせいっ。全部わかったんですか!」
「全部とは言わない。少なくともどうやって降らせたのかはわかった。そうすれば、自ずとだれが降らせたのかは、わかる。一度、劇場に行ってみなければならないけれどね」
「ほんとかいっ」
「先生、さすがです!」
今泉は、ずれたシーツを引き戻しながら、頷《うなず》いた。
「あと、ひとつだけ教えてくれ。小菊は前、市川織二に会ったとき、山本くんがなにか驚いていた、と言ってたね。あれが、なぜなのか、山本くんに訊《き》きたいんだ」
「そうでしたっけ。でも、大したことじゃないですよ」
「かまわない、教えてくれ」
山本くんは、組んだ手を顎《あご》にあてて、少し遠い目になった。
「ええと……そうだ。織二さんの後ろ姿が、伊織さんにあまりにそっくりだったから、びっくりしたんです」
なんだ、そんなことか。わたしはちょっと失望して、今泉の方を見た。だが、彼は満足したように、深く頷いた。
「ありがとう。これで充分だ」
アナウンスが急行の通過を告げる。
わたしは、売店の壁に凭《もた》れて、電車が来るのを待っていた。自然とため息が漏れる。
今泉は本当にわかっているのだろうか。数日前に彼が見せた、なにかを隠そうとするような態度はなんだったのか。
手駒《てごま》は同じはずなのに、彼に見えるものが、わたしには見えないことがもどかしい。
最初の、滝夜叉姫との出会いから、彼はなにかを感づいているようだった。
(ふん、莫迦らしい。ブンちゃんはプロの探偵じゃないか。プロにかなわないからって、なに拗《す》ねてんだか)
自分で自分を嘲笑《ちようしよう》する。いつまでも、出会ったころの同級生気分でいる方がおかしいのだ。
たしかに彼には探偵の才能があるらしい。前の事件のときもそうだった。
「小菊さんじゃないですか」
声のする方を向くと、目のぎょろりとした、彫りの深い顔の男が、人懐っこそうに笑っていた。
「あれ、橋口くん?」
よく楽屋に出入りしている週刊誌の若い記者だった。劇評や、公演の紹介などの記事を担当しているせいか、歌舞伎にも詳しく、よく劇場にも足を運んでいる。
わたしも一度、研修所出身の女形《おんながた》として、取材を受けたことがある。はきはきした受け答えの、感じのいい青年だった。
「このあたりに住んでらっしゃるんですか?」
「いや、友だちが入院していてね。見舞いに行ってきたとこ」
電車がきたので、わたしたちは並んで乗り込む。
「橋口くんは、取材かなにか?」
「挿し絵画家の先生が、この近くに住んでいて、原稿を貰《もら》いに行ってきたんですよ」
封筒をかさかさ、と振ってみせる。
「どうですか、小菊さん。梨園の方はなにか特別なニュースでもありませんか」
ふと、頭にある考えが浮かぶ。週刊誌の記者なら、人脈を利用して、わたしたちが謎《なぞ》に思っていることを調べられるのではないか。
なぜ、市川紫之助と伊織は不仲になってしまったのか。紫之助はなぜ、織二に強請られているのか。
だが、さすがにそれを訊くのははばかられた。もし、それが暴かれることで、紫之助と伊織の役者生命が絶たれてしまうとしたら。
紫之助は言っていた。
(わたしは、どうなっても自業自得だ。だが、伊織にはなんの責任もない。あいつはこれから、出世していく男だ。だから)
「どうしたんですか。小菊さん」
「あ、ああ、なんでもないよ」
わたしは、不穏な考えを頭から追い払った。
橋口くんは、吊革《つりかわ》をねじりながらつぶやいた。
「なーんか、おめでたいお話でもないですかね。中村市太郎丈も結婚してしまったし、しばらくはなさそうですね。だれかいないかな、年頃なのに、結婚していない人」
思わず、口をついて出た。
「市川伊織」
「あ、あの人まだ、独身ですね。でも、難しいかな。あんな怪我《けが》してから、まだそれほど経っていないですからね」
「彼女はいるみたいだよ。結婚するかどうかは、知らないけど」
「そうなんですか? 美人ですか?」
「美人、美人、ちょっと、ぞっとするような、ね」
「へえー。それは見てみたいなあ」
橋口くんは、本当に興味をそそられたように、大きな黒目を動かした。
「三日待てって、今泉さんが言ったんだね」
「はい、もうだいたいの見当がついているらしいですよ」
師匠は、満足したように頷いた。
「さすが、餅《もち》は餅屋だねえ」
あまり、いい譬《たと》えとは思えないが、とりあえず相槌《あいづち》を打っておく。
「ひとつ、気になるんですが」
「なにが」
「どうも、ブンちゃんはなにかを隠そうとしているらしいんですよ。あまり、乗り気じゃないっていうか、真相が明らかになることを望んでいない、というか」
師匠は、きゅっと眉《まゆ》をひそめた。
「なるほどねえ。さっき、あんたからも奥州屋さんとこの、穏やかじゃない話を聞いたしね。たしかに、あまり気持ちのいい話じゃないかもしれないね」
「だから、ブンちゃんはあえて、真相を隠すかもしれないですよ」
「まあ、それが情けのある行動だとしたら、仕方がないだろう。どちらにせよ、わたしたちにはお手上げなんだから、探偵さんに任せるしかないよ」
「はあ」
どちらにせよ、ブンちゃんが退院してこないことには、なにもはじまらない。
「菊花さん、いらっしゃいますか」
入口から聞き覚えのある声がして、橋口くんが顔を覗《のぞ》かせた。昨日の今日とは、ずいぶん早いお出ましだ。
「おや、橋口くんじゃないかい。どうぞ、お上がりなさい」
若い男前が好きな師匠は、やはり、この橋口くんもお気に入りである。
「あ、小菊さんも、ちょうどよかった」
「どうかしたのかい」
「いや、さっき、市川伊織さんを取材してきたんですよ。恋人の件で」
「なんだって?」
わたしの驚いた顔を見て、橋口くんはにやりと笑った。
「大丈夫ですよ。小菊さんに聞いた、なんて言ってないし、ちゃんと記事にする許可も頂きましたから」
少しほっとする。師匠が話に、割って入る。
「要ちゃん、結婚するのかい」
「いや、それはまだらしいんですけど、つきあっている女性がいることは認めてくれました。いずれ、結婚も考えていると。まあ、相手のお嬢さんは素人らしいから、名前は明らかにしないでくれ、とのことでしたけどね。いやあ、残念だなあ。美人らしいから、写真が欲しかったのに」
橋口くんが帰ってから、師匠は横目でわたしをにらみつけた。
「小菊。お喋《しやべ》りは感心しないねえ」
「すみません。つい、口が滑ってしまって」
「まあ、橋口くんなら無茶なことはしないだろうけど」
「そうですね」
わたしは浮かんできた冷や汗を拭《ぬぐ》いながら相槌を打った。
わたしはまだ、気づいていなかった。そのとき、自分が開けた風穴から、崩れだしてくるものがあるだろうとは。
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第七章
水槽の中に投げ出される夢を見た。
逆さまになり、そしてゆっくりと沈んでいく。喉《のど》にも、鼻にも水は逆流し、もがいても、手に触れるものもない。
ひどくゆっくりと沈んでいく。
胸を押しつぶす水圧に、ごぼごぼと泡を吐き、わたしは喉がつぶれそうなほど叫ぶ。
底なしの水槽。自分の髪が藻のように、揺らめくのがかすかにわかる。
硝子《ガラス》に乱反射する光と、あまりにも遠く明るい水面。もう、浮かび上がるすべはない。
ただ、沈んでいくだけ。
虹子、こんなわたしを見たら、きみはどう思うのだろうか。
目覚めてわたしは、理由もなく嘔吐《おうと》した。
夏が終わる。
紫のの楽屋は、三階の角に当たる場所にある。西日がまっすぐに射し込む、暑い部屋だった。わたしが、暑い部屋が大好きだ、と言うと、紫のは、ぼっちゃんは変わり者だ、と笑う。
だが、本当だ。空気が湿っぽくて生ぬるいのは苦手だが、炙《あぶ》られるように太陽が射し込む部屋は少しもいやじゃない。西日に背中をまっすぐ向けて、じっと目を閉じているのが好きだった。
部屋に戻ってきた紫のが、目を丸くした。
「まあ、ぼっちゃん、どうかしたんですか」
わたしは片目だけを開けて、紫のを見た。
「別に。きちゃいけなかったかな」
紫のは、あげてあったのれんを下ろすと、わたしの横を素通りして、化粧前に座る。
「ぼっちゃんが、くるような部屋じゃありませんよ。こんな三階の隅なんか」
わたしは紫のが、黒衣の衣装を脱ぐのを、ぼんやり見た。
「居場所がないんだ」
紫のは、脚絆《きやはん》を解く手を止めた。
「そういえば、今月、若旦那《わかだんな》は旦那様と相部屋でしたね」
紫のの目に、暗い光が射す。わたしの行為が彼を苦しめていることには、気づいている。
(紫のには、なんの責任もないのにな)
心の中で少しだけ、謝る。だが、引き返すことはできないのだ。
(これも、血、なのだろうか)
「紫の、再来月のスケジュールを教えてくれないか」
紫のは、なにかを訴えるような目で、わたしを見た。その視線が、まっすぐ胸に切り込む。
「巡業、だったっけ」
紫のは頷《うなず》くと、鏡台の脇《わき》に置いたファイルから、紙を一枚外して、わたしへ差し出した。
「悪い。コピーして返すよ」
「ぼっちゃん」
紫のは、なにか言いかけて、また口を閉じた。続きは聞きたくない。わたしは、さっと立ち上がった。
紫のは、引き止めようとはしなかった。
楽屋口で、わたしは足を止める。
「紫の、ぼく、結婚するかもしれない」
「ほんとですか」
「ほんとだ。綺麗《きれい》な人だ。決まったら、真っ先に紫のに紹介するよ」
紫のは、ひどくうれしげに、顔をほころばせた。虹子の顔が、頭に浮かぶ。紫のは彼女のことをどう思うだろうか。
「おめでとうございます。ぼっちゃん」
「まだ、決まったわけじゃないよ。でも、紫のにだけ教えるんだ。まだ、だれにも言わないでくれ」
紫のが笑ってくれたことがうれしくて、わたしも笑う。こうして、いつも表面だけを繕《つくろ》うのが、わたしの悪い癖だ。
階段を降りる途中で、織二に会った。
わたしに気づかずに、通り過ぎようとしたので、肩をひっつかむ。
「ぼっちゃん」
彼は人懐っこくわたしに笑いかけた。
「まだ、仕事があるのか」
「いえ、もう、ほとんどすみました。ぼっちゃんは?」
「ぼくも、終わりだ。どう、これから空いてる?」
「飯食いに行きましょうか。待っててください。ぱっぱっと片してしまいますから」
一階の駐車場で織二を待つ。彼はほどなく、洋服に着替えて降りてきた。
夕食をとるのには、少し早かったが、わたしたちは近くの、無国籍料理の店に入った。なによりも、冷たいビールで喉を潤したかった。
最初はくだらないよた話で、時間をつぶしていた。クーラーのゆるい店内で、額の汗を拭《ぬぐ》いながら、つまらない話をして、退屈を埋めていた。
ふと、会話が途切れた瞬間だった。織二はまだ、吸いはじめたばかりの煙草を、ぎゅっと灰皿に押し付けた。
「ぼっちゃん、やせましたね」
わたしは、ナシゴレンの皿から顔を上げる。
「そうか?」
「それに、顔色も悪い」
胸に、嫌な匂《にお》いのする塊がこみ上げてくる。無理矢理に飲み下す。
「気にするな」
織二は、煙草のセロファンにライターの火を近づけた。セロファンは、身もだえするように溶けていく。
「おれ、すっげえ悔しいんです。旦那がぼっちゃんに対してしたことを考えると」
「織二、言ってもせんないことだ」
「ぼっちゃんは、才能のある人だ。なのに、どうして」
「うるさい、黙れ」
きつく言うと、彼はくっと唇を引き結んだ。
わたしはいまさらながら、彼と必要以上に親しくなってしまったことを悔やんだ。
黙り込んでしまった織二は、ひどく暗い目をしていた。わたしはこうやって、不幸を他人に伝染させていくしかないのだろうか。
「おまえの気持ちはうれしいよ。でも」
いまさら、なにも戻らない。
織二は、強くわたしの手首をつかむ。
「旦那のしたことを、世間に知らせましょう。それで、ぼっちゃんが救われるわけじゃないだろうけど、このままだなんて、あまりにもひどすぎる」
あまりにも唐突な提案に、わたしは身体をこわばらせた。
「なにを言ってるんだ」
「こんなひどいことが、許されるなら、梨園なんて糞《くそ》くらえだ」
「織二!」
声が、わずかに震えた。
「わかっているのか。そんなことをすれば、親父が傷つくだけではすまない」
市川紫之助だけでなく、市川伊織という役者まで、梨園から葬り去られるだろう。それは、彼にもわかっているはずだ。織二はわたしから、顔を背けた。
「おれ、もう駄目です。旦那の顔を見るたび、ぼっちゃんのことを思い出して、腸《はらわた》が煮えくり返るんです。殺してやりたい、とまで思うんです。こんな気持ちで、旦那の弟子なんかやってられないです。もう、やめようかと思うんです」
すまない、織二。気持ちは声にはならなかった。
わたしは一語一語、はっきりと区切って言った。
「殺すんなら、わたしがやる。おまえには関係ない」
「ぼっちゃん!」
「あの人は、わたしの父だ」
砂時計の砂は音もなく落ちていく。わたしの歯車は、ひとつずつ外れていく。安らかに眠れる夜は、どんどん遠ざかり、まぶたは固くこわばっていく。
手に触れるものが、すべて砂に変わる。
小さく、ちぢこまって、ひび割れた、心臓。すでに、何日か、悔やむ以外のことをしていない。
心に、黴《かび》が生える。
水音がする。
部屋の扉を開けて、わたしはふいに不吉な予感に襲われた。
なんのことはない。陽子がいつもより早く風呂《ふろ》に入っているだけのことだ。
陽子のことを思うと、胃がきりきりと痛む。ゆうべもひどく口論をした。彼女は、すでに虹子の存在に気づいている。
果てしなく続く、不毛な罵《ののし》り合い。話し合うことは、なにもかも食い違い、堂々めぐりを続けるだけだ。陽子は、会話のあちこちに罠《わな》を仕掛ける。わたしは、やすやすとそれにつかまり、気持ちを食い荒らされる。
まだ、最後の台詞《せりふ》は言えていない。
(もう、終わりにしよう)
彼女はなにを押し止めようとしているのだろう。崩壊してしまったことは、明らかなのに。
わたしが先に裏切ったのだ、とか、一年半も一緒に暮らしたのに、とか、そんなことをあげつらってなんになるのだろう。そんな些末《さまつ》なことで、なにが修復できると言うのだろう。
浴室からの水音は、まだ続いていた。
シャワーの音ではない。蛇口から流れる水の音。細く、でも、ずっと続く。陽子の責めことばのように。
わたしは、思いきって立ち上がった。
今日こそは告げなければならない。また、不毛な会話の迷路に落ち込んでしまう前に。
わたしは浴室の扉に手をかけた。
開けた瞬間に叫ぶ。
「陽子、もう、終わりにしよう」
彼女は、浴槽の中にいた。
白い小さな裸体を、もっと小さく丸めながら。そして、浴槽を満たす、真っ赤な水。
赤い水は浴槽からあふれ、排水溝へ渦を巻いて消えていく。その赤が、彼女の白い首筋から流れ出していることに、わたしは気づく。
浴室の床に落ちた錆《さ》びた剃刀《かみそり》。
彼女の命を満たしていた赤は、下水の中に吸い込まれていく。
「どう、したの?」
扉を開けた瞬間、虹子はそう言った。
きっと、わたしはひどい顔をしているのだろう。なんと答えたらいいのかわからず、わたしは虹子のこめかみに触れた。
温かく、脈打っている。そう思うと少しだけ救われる。
「ねえ、どうしたのよ」
「なんでもない」
声がかすれているのが、自分でもわかる。虹子は不審そうに、鼻を鳴らしたが、すぐにわたしを部屋に招き入れた。
わたしは、彼女の部屋のいちばん奥まで進み、そこにやっと腰を下ろす。ここなら、陽子の幻影は追ってこないだろう。ここは、虹子の匂《にお》いが充満している。
「窓を、閉めてくれないか」
虹子は理由も聞かず、言うとおりにしてくれた。
わたしは自分の膝小僧《ひざこぞう》に、頬《ほお》をぎゅっと押し付けた。
とうとうカタストロフがはじまったのだ。ドミノ倒しのようにこれから、すべてが壊れていき、そうして、わたしは虹子も失うだろう。
虹子。もう、これ以上わたしはなにも失いたくはない。
彼女の腕が、後ろからわたしの首にまわされた。冷たく、柔らかな腕の内側の感触。
「伊織さん。疲れたの?」
彼女はわたしの肩に、頬を押し付ける。甘く、まろやかな彼女の匂い。わたしは、その匂いだけを感じるため、目を閉じる。
「ああ、疲れた。もう、疲れたよ」
「可哀想《かわいそう》な、伊織さん。安心して。わたしが助けてあげる」
本当にそうすることができるなら、どんなにいいだろう。彼女の指先が、髪を撫《な》でる。わたしはこの期に及んで、まだ夢を見ようとしているのか。
いや、そうではない。もう、夢しか見られないのだ。
ならば、虹子。夢の中だけでもわたしを自由にしてくれ。
虹子は血を吸うように、首筋に軽く歯を立てた。かすかに走った痛みを、わたしは甘んじて受ける。
生皮を剥《は》がれたような心には、優しさや思いやりなどはかえって苦しいだけだ。曖昧《あいまい》に触れられると、疼《うず》きで気が狂いそうになる。
だから、虹子。疼きなど飛び散ってしまいそうなほどの、激痛が欲しい。きみから与えられるそれ以外のなにも、わたしは欲しくない。
虹子は男のようにわたしに触れ、わたしは女のように啜《すす》り泣いた。
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第八章
出番を終えて楽屋に戻る途中、由利ちゃんに会った。由利ちゃんは一枚のメモをわたしの鼻先に突き出した。
「なに、これ」
見れば、「今泉氏より電話有り。至急電話欲しいとのこと」と書いてある。
「今泉さん、退院したの?」
「ああ、今日退院の予定だよ」
「それで、山本くんは最近こないんだ。ああ、ハチに会いたいなあ」
由利ちゃんは、あの数日ですっかりハチに情が移ってしまったらしい。
「師匠だって、ゆうべハチの夢を見たって言ってるわよ。師匠もわたしも、ハチくんラブラブよ」
「ラブラブなのは、ハチだけじゃないだろ」
「なによ」
「山本くん」
由利ちゃんはスリッパで、思いっきりわたしの臑《すね》を蹴《け》りつけて、とっとと行ってしまった。
わたしはメモで顎《あご》をなぞって考えた。
たしか、今日は今泉の退院する日だ。さすがに今日はごたごたするから、明日劇場にくる、と言っていた。時計を見ると、十二時半を過ぎたところだ。もう、病院を出て家に戻ったのだろうか。
とりあえず、鬘《かつら》と衣装だけを脱ぎ、顔はそのままで、電話をかけに行く。
一度目の呼び出し音で、今泉が出た。
「ああ、もう帰ってたのかい?」
今泉はわたしの問いかけを無視して、話し始めた。
「小菊、これからこっちにこられるか?」
彼らしくない性急な言い方に、少し緊張する。
「師匠にお許しをもらえれば行けるけど、どうかしたのかい」
「電話では説明しづらいんだ。でも、もしかしたら、とんでもないことになってしまったかもしれない。山本くんが帰ってこないことには、なんにも言えないんだが」
「わかった、じゃあ、なるたけ早く向かうことにするよ」
「頼む。あ、ちょっと」
あわてて、置きかけた受話器を耳に戻す。
「なんだい」
「市川伊織に、なにか変化はないか?」
「今朝はまだ見かけないけど。なんだい?」
「いや、だったらいい。早くきてくれ」
急いで支度を整えて、楽屋を出る途中に、伊織の部屋の前を通った。のれんの間から、中を覗《のぞ》くと、彼は化粧だけを済ませた姿で、ご贔屓《ひいき》さんらしき人と、談笑していた。その表情には、わずかのかげりも見られなかった。
今泉はいったいなにを気にしているのだろう。
鍵《かぎ》はかかっていなかった。
ぎしぎし鳴るドアを引いて、中に入る。今泉は正面のソファに、包帯を巻いた足を投げ出して座っていた。膝《ひざ》の上には雑巾《ぞうきん》犬、ハチがちょこんと座り、山本くんが横の壁に凭《もた》れるようにして立っていた。
「どうしたんだい」
今泉も山本くんも、表情は暗い。今泉は胸の上で固く手を組んで、わたしを見上げた。
「滝夜叉姫が、顔を切られた」
「なんだって?」
山本くんが、悲痛な顔で首を振った。
「一昨日の晩、なにものかに襲われて、刃物で顔を滅多|斬《ぎ》りにされたらしいんです」
頭の奥がくらくらとする。いったい、どうしてそんなことに。
一年前の事件を思い出す。市川伊織も、なにものかに襲われて、顔を切り刻まれた。
「伊織と、一緒だ……」
あのとき、たしか熱狂的なファンによる犯罪だという説が多かった。そして、犯人はまだ捕まっていない。もし、その犯人がまだ野放しにされていて、伊織と彼女がつきあっていることを知ったのなら。
背筋に冷たいものが走る。マスコミに伊織の恋人の存在をばらしたのはわたしだ。その雑誌はまだ出ていないが、なにかのルートでその犯人が、彼女の存在を知ったのなら、責任の一端はわたしにもあるかもしれないのだ。
「違う、一緒じゃない」
「え?」
「市川伊織の事件と、この事件はまったく性格の違うものだ。それを一緒にして貰《もら》っては困る」
「どう、違うんだい」
今泉はソファに立てかけてあった、松葉杖《まつばづえ》を引き寄せた。膝の上からハチはあわてて飛び降りる。
「これから、調べなければならないことがたくさんある。手分けして調べるんだ。夜までにだ」
「わたしはなにをしたらいいんだい」
「舞台を資料として保管している場所があるだろう。去年の八月に上演された、怪談乳房榎のフィルムを手に入れてきてほしいんだ。違う日に上演されたものが、いくつかあればなおいい」
「わかった。おやすいご用だよ」
それなら、松竹や国立劇場の資料室で手に入る。去年上演されたものならば、それほど苦労をせずに借りてこられるだろう。だが、去年の芝居に、なんの関係があるのだろう。
「それで、夜になったら病院に忍び込む」
「病院?」
「滝夜叉姫に会うんだ」
「どうして、夜なんかに」
今泉は、不器用に松葉杖を動かしながら、部屋を横切った。
「さっきも山本くんに行って貰ったが、家族がついていて、話をするのが難しそうだ。人のいるところで、できる話じゃない。だれもいない夜に行くしかない」
「わかった」
「じゃあ、出かけてくれ。なるべく早く戻ってくれると助かる」
今泉も、ジャケットを引っ張り出して、なにやら出かける準備をしていた。山本くんも電話帳をめくっている。
ほかにも訊《き》きたいことはたくさんあったが訊けなかった。ふたりの表情はあまりに険しかった。
部屋を出るとき、今泉がくぐもった声でつぶやくのが聞こえた。
「こうなることを、恐れていたのに」
「怪談乳房榎」は簡単に手に入った。かなり評判の高かった演目だけに、資料室に残されているフィルムだけでなく、テレビで放映されたときのビデオなどもいくつか残っていた。
このころの伊織は、まだ顔に傷を負っていなかった。彼がなにものかに襲われたのは、この二カ月後だ。このビデオで今泉はなにを見つけようと言うのだろう。
事務所に戻ると、今泉はパジャマ姿で名簿のようなものをめくっていた。
「なんだい、寝てたのかい」
ビデオの入った紙袋を渡す。
「失礼な。今まで、不自由な身体であっちこっち調べまわっていたんだぞ」
名簿を閉じて、松葉杖を手に立ち上がる。まだ松葉杖に慣れていないせいか、どうも動きがぎこちなくて見ていられない。
今泉は、向かいの机に座った山本くんに、ビデオを渡した。
「じゃあ、頼むぞ、山本くん。これから、病院に行ってくるから、その間にこれをチェックしておいてくれ」
山本くんは、どこか不安げな表情でそれを受け取った。
「本当に映っているんでしょうか」
「確証はない。でも、はっきり残っている証拠は、これしかないんだ」
山本くんは頷《うなず》いて、袋からビデオを出しはじめた。ハチもその袋を覗き込む。
今泉はハチを抱き上げて、山本くんから離した。
「こら、ハチくん。それは食いもんじゃない」
「山本くんは行かないのかい」
「ああ、調べてもらうことがあるんだ」
「じゃあ、家でできることは、怪我《けが》してるブンちゃんがやって、わたしと山本くんが病院に行く方がいいんじゃないかい」
「なんだ、小菊。ずいぶんだな。怪我してても、ちゃんと動ける」
「だって、危なっかしくて見てられないよ。ブンちゃんは人一倍、不器用だから」
「失礼な。この松葉杖と包帯も、今度ばかりは役に立つんだぞ」
今泉はパジャマの胸元を叩《たた》いた。
「パジャマ姿で松葉杖をついていれば、病院の中を歩いていても怪しまれないだろう」
まったく、なにを考えてるんだか。
「じゃあ、パジャマで行くのかい」
「正解。小菊、車の運転できるだろう。頼むよ」
「できるけど、ブンちゃんの車は怖いよ。あれ、ずいぶん古いじゃないか」
「古くても、別に石炭で動いてるわけじゃない。システムは一緒だ」
そりゃそうだ。まあ、怪我人に運転させるわけにはいかないから、しょうがないだろう。
部屋を出て、駐車場に降りる。今泉は、松葉杖を抱えて、助手席に座った。わたしは狭いシートに身体を押し込んで、発車させた。
「ねえ、ブンちゃん。滝夜叉姫の事件は、どうして知ったんだい」
「山本くんが、ぼくに内緒で、彼女の実家を調べに行ったんだ。ぼくが退院したら、止められると思ったらしい」
そういえば、今泉は、わたしが彼女について調べる、と言ったときも、ひどく反対した。
「たしかに、それはあまりしてほしくなかったんだ。でも、それで、この事件のことがわかったんだから」
わたしは、前々から今泉に問いたかったことを、口に出した。
「あんた、もう、なにもかもわかってんのかい」
今泉は横目でわたしを見た。
「なにもかも、とはいかない。まだ足りないパーツはいくつもある。でも、全体像は見えているし、なにが足りないのかもわかっている」
「それがなにかは、まだ教えてくれないのかい」
「まだね。口で言っただけでは信用してくれないだろう。ちゃんと目に見せてやる」
彼女の入院している病院の、少し手前で車を止めた。夜風が首筋の毛をなぶる。わたしはかすかに身震いをした。
滝夜叉姫。あれほど美しい女が、顔を切り刻まれた。そう思うと、あまりの惨《むご》たらしさに胸が悪くなる。彼女は、これからなにを拠《よ》り所《どころ》に生きていくのだろう。
わたしたちは、夜間診療受付口から入り、警備の人の隙《すき》を見て、病院内に忍び込んだ。
灰色の壁、薬品の匂《にお》い、廊下に今泉の松葉杖の音だけが響く。
「部屋はわかっているのかい」
「山本くんが調べてきてくれている」
エレベーターに乗り、四階に上がる。外科病棟らしいから、よけいに今泉の松葉杖姿は怪しまれにくいだろう。
四二五号、堀江虹子。わたしは名前の札を見つけて、足を止めた。
「ここだよ」
今泉がドアに耳をあてる。中にだれもいないか確かめているようだ。今泉は、しずかにドアを引いた。
縦長の小さな部屋。窓際に置かれた白いベッド。窓から射し込む、外の明かりに人影が照らされる。
今泉は松葉杖をドアの横に置き、足を引きずりながら、ベッドのそばまで行った。ベッドに寝ているものは、かすかに身動きをした。
今泉の後に続く。顔中を包帯で巻かれたミイラのような女が寝ているような気がしていたが、実際は違った。
包帯は、額から左目にかけて、斜めに巻かれているだけで、顎《あご》や、頬《ほお》、唇の上にかけて何カ所かテープのような絆創膏《ばんそうこう》が貼《は》られていた。閉じられた右目の長いまつげはたしかに、何度か会ったことのある、滝夜叉姫のものだ。露《あらわ》になっている部分の皮膚も、蝋《ろう》を引いたようにつややかで綺麗《きれい》だった。
なぜか、泣きたくなる。親しいわけでも、好意を持っているわけでもなかったのに、わたしはたまらないような悲しみにとらわれる。
なにものかが、彼女を欠けさせてしまった。たとえ、それが憎しみのためであろうと、愛のためであろうと、暴力の惨たらしさをわたしは許さない。
彼女のまぶたが、かすかに震えた。ゆっくりと眸《ひとみ》が開かれる。青みがかった、色素の薄い眸。
「だあれ?」
今泉が答えた。
「あなたと伊織さんのことを、全部知っているものです」
彼女は、今泉の答えに驚いた様子は見せなかった。視界が不鮮明なのかしきりと、瞬《まばた》きをする。
今泉は、ベッドに手を突いて、彼女に顔を近づけた。やっと、はっきり見えたのか、滝夜叉姫は眸だけで、笑った。口元は少し歪《ゆが》んだだけだった。たぶん、思うように動かせないのだろう。
「わたしのこと、軽蔑《けいべつ》する?」
ぶっきらぼうなことばだった。意味もわからなかった。今泉は静かに首を振る。
「軽蔑などはしません。わたしが軽蔑するのは、傍観者でいようとする人だけだ。あなたはそうじゃない。暴風雨に巻き込まれても、前に進もうとしていた」
「きっと、これから先はもっと辛《つら》いわね」
「たぶん、そうでしょう。でも、乗り越えなくては」
彼女は首を動かして、頬を枕《まくら》につけた。
「こんな顔になってしまって、死んだ方がいいかもしれない」
「それは駄目だ。あなたは、逃げるものがどんなふうに、他人を傷つけたか、知っているはずだ。あなたが逃げることは許されない」
「わたしが死んでも、傷つく人はいる?」
「伊織さんは、傷つくでしょう」
彼女は、そのことばに反応して、目をぎゅっと固く暝《つぶ》った。両手を胸の上で組む。
「伊織さんは、このことを知っている?」
「たぶん、まだ知らないでしょう」
「じゃあ、教えないで」
きっぱりしたことばだった。語尾だけがわずかに震えていた。
「わたし、もうあの人には会わない。たぶん、あの人もわたしを探さないと思う。これで、なにもかもがすっきりするわ」
「でも……」
「お願い。あの人に選ばせたくないの」
今泉は身体を起こしてため息をついた。
「いいんですね、本当に」
「ええ」
滝夜叉姫は顔を背ける。もしかしたら泣いているのかもしれない。
「でも、これだけは教えてください。あなたを襲った人がだれか、わかりますね」
彼女が身体をこわばらせるのがわかった。
「ごめんなさい。わからないの」
「嘘《うそ》をつかないでください。犯人をかばっているんでしょう」
澄んだ右目が今泉をじっと見る。
「嘘じゃない。本当にわからなかった」
今泉は、息を呑《の》んだ。小さな声で、まさか、とつぶやく。
「本当なの。だれだかは知らない。でも、わからないことが、きっとわたしの罪なのだ、と思うわ」
帰りの車の中、今泉は一言も喋《しやべ》らなかった。彼は、滝夜叉姫が自分を襲ったものを知っていると信じていたようだ。彼女が嘘を言っていないことを知って、かなりショックを受けたらしい。
沈黙が気まずくてたまらなかった。
ふたりの会話のほとんどは、なにを意味しているのかわからない。わかったのは、たぶん彼女と市川伊織が、これで終わってしまうのだ、ということだけ。
「ねえ、ブンちゃん」
「ん?」
「市川伊織と、滝夜叉姫は、これで別れてしまうんだろうか」
「さあ、ね」
「男って、自分の恋人が顔をめちゃめちゃにされてしまっても、まだ好きでいることができるんだろうか」
「そりゃあ、人によるだろう」
できれば恋愛はそんなことで壊れるものだとは思いたくはない。だが、心のどこかでたぶん、それは難しいだろうと気づいていた。
今泉はがりがりと頭を掻《か》いた。
「そんなことは考えたってしょうがない。続けることができることもあるし、続けられない場合もある。たとえ、それで続けられなかったとしても、その男を責めることはできないだろう」
「伊織さんは、滝夜叉姫といずれ結婚するつもりだ、って言ってたんだ」
今泉は指先を止めた。目を見開いて、わたしを見る。
「それを、どこで聞いたんだ」
「いや、直接聞いたわけじゃないけど、彼の恋人を取材にきた雑誌の記者が……」
「雑誌が取材にきた?」
「ああ、それがどうか……」
「なぜ、それを早く言わない!」
今泉が吠《ほ》えるように声を荒らげた。苛立《いらだ》ちを抑えるように、ズボンの生地をきつくねじる。
「いったい、どこからその情報がマスコミに漏れたか、知っているか」
「わたしが、喋ってしまって」
「小菊が?」
彼は茫然《ぼうぜん》と口を開けた。わたしは、今泉のあまりの変貌《へんぼう》に驚いていた。彼がなにをそんなに問題にしているのか、わからなかった。
今泉の目が悲しげに曇る。
「なぜ、そんなことを……」
「なぜって、いけなかったのかい。ずっと馴染みの人で、無茶な記事を書くような男じゃない」
「そういう問題じゃないんだ」
「じゃあ、なぜ」
今泉はそれ以上答えなかった。目を両手で覆うようにして、しばらく考え込んでいた。
ハンドルを握る手は、ひどく汗ばんで冷たかった。わたしはとんでもないことをしてしまったのだろうか。
「お帰りなさいっ」
扉を開けた瞬間、山本くんが仔犬のように飛びついてきた。
「どどど、どうしたんだい、山本くんっ」
わたしたちの間の重苦しい空気は、いっぺんにそれで吹っ飛んでしまった。
「先生、見つけましたよっ」
ばんばん今泉の背中を叩《たた》く。今泉も目を輝かせた。
「本当か。やっぱり思ったとおりだ」
「なんとかはっきり映っているものを見つけました。テレビで放映された分です。ほかのには、証拠になるほど完全に映っていません」
「ひとつあれば充分だ。法的証拠になるわけじゃない。よくやった、眼が疲れただろう」
「もう、十回くらい繰り返して見ましたよ」
わたしは、あわててふたりの間に割ってはいる。このままじゃ、置いてきぼりだ。
「なんだい。いったい、なにが見つかったって言うんだい」
「実際、見て貰《もら》った方がよくわかる。山本くん、ビデオの準備をしてくれ」
「はいっ」
山本くんは元気よく返事をすると、リモコンでビデオを早送りさせはじめた。
「怪談乳房榎」。怪談と名前はついているが、むしろ早変わりの立ち回りを見せ場とする、痛快な演目だ。絵師菱川重信のところに、磯貝浪江という美しい男が弟子入りする。彼は、重信の妻、お関に横恋慕して、強引に関係を結び、また人のいい下男の正介を騙《だま》して抱き込み、重信を殺す。
殺された重信は、完成間近であった龍の絵の前に、亡霊となって現れ、絵を完成させる。
浪江はまた、重信のまだ赤ん坊である息子、真与太郎も疎ましがり、正介を脅して、滝壺《たきつぼ》へ捨てさせる。滝壺が真与太郎を呑み込まんとする瞬間、重信の亡霊が現れ、赤ん坊を救い出す。
重信の亡霊を見て、改心した正介は真与太郎をこっそり育て、やがて大きくなった真与太郎と共に、浪江を殺して重信の仇《あだ》を討つのだ。
なんてことのないストーリーだが、主演の役者は、重信と正介、そして浪江につきまとう小悪党、道連れ小平の三役を演じることになっている。クライマックスの滝壺の場面では、正介と小平、重信の亡霊が、流れ落ちる滝の中で赤ん坊を巡って斬《き》り合う。つまり、ひとりの役者が演じる役のみで、立ち回りがおこなわれるわけで、主演の役者は、この三役を早変わりしながら、ずぶぬれの大立ち回りを演じるのだ。
悪役の磯貝浪江を演じているのは、小川半四郎だった。相変わらず、すごみのある錦絵のような美貌《びぼう》だ。十カ月前、彼の恋人の死の真相を見つけたのも、今泉だった。彼のアクの強い濃密な二枚目ぶりと、まだ傷を負っていない伊織の清潔さは、黒と白の碁石のように好対照だ。
早送りされているビデオは、四幕目二場、角筈《つのはず》村|十二社《じゆうにそう》大滝の場の途中で止まった。
質素な小袖《こそで》に身を包んだ、正介が、赤子を抱きながら花道から現れる。
「なァ坊ちゃま、よく聞いてくらっせえ。あの磯貝が坊ちゃまに、後で敵と狙《ねら》われるのがおっかねえから、この滝壺に放り込んでこいという難題。俺とは叔父《おじ》甥の約束して、まして俺に先生様のとどめをさせた上からは、同罪、坊ちゃまを滝壺に入れなけりゃァ、俺を殺すとぬかすのだが、どうしておらに坊ちゃまが殺せるものか。ここへ捨てておけば、あの権現様へお参りする人の眼について、拾ってくれべえ」
切り立つような岩場と、ごうごうと鳴る滝の音。水の底のように暗い舞台で、伊織は赤ん坊を抱いて号泣する。
「ブンちゃん、この舞台がなんだっていうんだい」
「しっ、黙って見てればわかる」
正介はひざまずいて、手を絞り、社殿を拝む。
「南無十二社権現様、どうか坊ちゃまが、いい人に拾われますように」
そのまま走り去ろうとするが、思いが残ってどうしても立ち去れない。戻ろうか、立ち去ろうかうろうろしながら、木陰で一瞬にして、伊織は吹替に変わった。
吹替の正介は、顔を見せないように赤子にとりすがって泣く。そのとき、下手の空茶屋から、小平に変わった伊織が現れる。
客席から拍手と歓声が起こる。たしかに、スピーディな早変わりだ。
小平は正介を、殺そうとあいくちを振り上げる。正介は赤ん坊を抱いて逃げ回る。空茶屋の陰で、伊織は小平の吹替に変わる。
吹替同士の顔を見せないようにした立ち回り。小平は正介を草むらに押し込む。次に出てきたとき、正介は伊織に戻っていた。
ふたりは、もんどりうって滝壺に落ちる。ずぶぬれになりながら、もみ合うふたり。正介は水にもぐって、また浮き上がる。今のうちに吹替に変わったのか、と思ったが、ツケで決まった正介は、まだ伊織だった。正介は、襲いかかろうとする小平に、水しぶきをかけて抵抗する。
小平がしぶきをよけている間に、正介は滝からはいあがり、草むらで吹替に変わる。
両方とも吹替か、と思った瞬間、振り向いた小平は、伊織だった。
客席からどよめきが起きる。いったい、いつの間に変わったのだ。小平は、正介から赤ん坊を奪い、殺そうとする。そうさせまいと、小平に飛びかかる正介。ふたりは上になり、下になって組み合い、赤ん坊を奪い合う。
やがて、小平が奪い取り、後ろ向きになって立ち上がる。あいくちを振り上げる小平。
そのとき、滝壺が開き、どろどろの鳴り物と共に重信の亡霊が現れた。
客席に起こる割れんばかりの拍手。わたしも息を呑《の》んだ。さっきまで、小平が伊織だとばかり思っていたのに、いつの間に。
小平の吹替は、足を踏み外して、滝壺へと落ちていき、重信は消える。赤ん坊は、正介の手に戻っていた。
正介は岩場をふるえながら、駆け下りる。転がるように坂道を降り、花道のところで、どうと突っ伏した。
澄んだ柝の音と共に、正介は顔をあげた。やはり伊織だった。
「奥州屋っ!」
かけ声と怒声のような歓声。拍手の波の中、幕は静かに閉まっていく。
ビデオはそこで止められた。見ると、今泉と山本くんが、期待するような目でわたしを凝視していた。
「さすがだねえ。どこで変わったのか、全然わからなかったよ」
「感想はそれだけか?」
「それだけかって、それ以外に言いようがないじゃないか。演技をどうこう言うような場面でもないし」
「わかった。じゃあ、もう一度見てくれ」
今泉はそう言ってビデオをまた、巻き戻しはじめた。最後の、正介が坂道を駆け下りるところで、一度ビデオを止める。
「ここで、正介の吹替から伊織に変わっている。これは、わかるな」
「ああ」
たしかに、坂道の途中にある木の陰で、一瞬にして吹替と交代している。ビデオはまた巻き戻される。先ほどと同じ立ち回りのはじまるところで、今泉は止めた。
「あちこち見ない方がいい、小平に注目してくれ」
わたしは、言われたとおりに、小平だけを目で追う。最初に伊織が小平で現れ、吹替に変わり、水の中の立ち回り。また、どこで変わったのかわからないうちに、伊織に戻っている。
「やっぱり、どこで変わっているのか、わからない。大したもんだよ」
「じゃあ、もう一度だ」
また、ビデオが寸前まで巻き戻される。
「駄目だよ。何遍見ても、わからないものは、わからない。手品みたいだよ」
今泉はリモコンを荒々しく投げ出した。
「わからないのか、小菊。早変わりとか、手品とか、そんなことに惑わされるな。本当に不可能なことは、手品にだって不可能なんだ。伊織は、変わっていないんだよ」
わたしはしばらく、ぼんやりとしていた。今泉はまた、ビデオを巻き戻す。
「よく見るんだ。くだらない先入観を捨てれば見えてくる。この、小平の吹替はもうひとりの伊織なんだ」
もうひとりの伊織。あまりに荒唐|無稽《むけい》なことばに、笑い出したくなる。だが、今泉の目は、あまりに真剣だった。
「市川伊織は、ふたりいるんだ。いや、いたんだよ」
そのあと、今泉は長い時間をかけて、ひとつひとつの結び目を解いていった。最初は信じることのできなかったわたしも、あらゆる欠片《かけら》がぴったりとはまっていくのを見るごとに、彼のことばを信じる気になっていた。
伊織のことばを思い出す。
(因果同士の悪縁が、殺す所も宇都谷峠《うつのやとうげ》、しがらむ蔦《つた》の細道で、血汐の紅葉血の涙、この黎明《れいめい》が命の終わり)
そう、それは因果の蔦にからめとられたものたちの悲鳴だ。もがけば、もがくほど、蔦はひどく絡まり、少しずつ命を縮めていく。
話し終わった今泉は、ひどく疲れたような顔をしていた。山本くんも一言も喋《しやべ》らなかった。
「まだ、聞いていないことがあるよ」
「わかっている。降る花びらのことだろう。あれは、あした劇場で説明する。だれがやっていたのかも、そのときにわかる」
今泉は、ズボンのポケットを探った。そっと引き出された掌《てのひら》には、いつかの花びらが乗せられていた。
「もしかしたら、花はもう降らないかもしれない。でも、そのときは、ぼくが降らせる」
花びらは今泉の掌の上で、風もないのにほんのわずかだけ、そよいだ。
「告発の花じゃない。葬送の花だ」
藤娘の踊りが終わろうとしていた。舞台の袖《そで》で、わたしと今泉はそれを見つめていた。今泉は、曇ったような灰色のジャケットのポケットに手をつっこんで、しきりにまばたきを繰り返している。彼はさっきから、一言も口をきこうとはしなかった。
これから、舞台は片づけられて、「本朝廿四孝」の装置が組み立てられる。数人の大道具さんが、舞台転換のために待機していた。
師匠は、昨日も変わらず花は降った、と言った。それを聞いた今泉は、満足げに頷《うなず》いた。
「たぶん、今日も降るでしょう。でも、今日が最後です。明日はありません」
師匠は幻の花を見上げるように、目を宙に遊ばせた。
「千秋楽かい。なんとなく、寂しいような気がするねえ」
大きな拍手と共に、緞帳《どんちよう》は下りる。それと同時に、大道具さんたちはばらしにかかりはじめる。
「待ってください!」
今泉が、よく通る声で大道具さんたちを制した。市川紫之助は、胡散臭《うさんくさ》そうな目で、見慣れぬ今泉の姿を見やると、そのまま舞台から、立ち去ろうとする。彼は、次の「本朝廿四孝」にも出ているから、衣装を替えなければならない。後見姿の紫の姐《ねえ》さんも、あとに続く。
今泉は、横を通り過ぎようとした紫の姐さんの腕を、強く掴《つか》んだ。
「なんだいっ、あんた!」
紫の姐さんは、今泉の不作法な振る舞いに、柳眉《りゆうび》を逆立てた。
「ちょっと、急いでるんだ。離してくれないかい」
「花を、降らせましたね」
紫の姐さんの表情が、凍り付いた。ふりほどきかけた腕をあげたまま、化け物でも見るような目で、今泉を凝視する。
今泉は、姐さんを引きずるように、書き割りの藤の樹の後ろへまわった。わたしも後へ続く。
今泉は姐さんの手を離して、舞台に膝《ひざ》をついた。そして、巨大な藤を支えている、板の部分を手で探る。
やがて、今泉はなにかを見つけたのか、頷いて手を引き出した。
そこには、濡《ぬ》れた薄桃色の花びらが乗っていた。
「布の花びらを濡らせて、書き割りの裏のベニヤの部分に貼《は》っておく。藤娘が終われば、この書き割りは天井へとあげられる。やがて、ライトの熱で、花びらを浸している水分は乾いていく。乾ききった花びらは、ベニヤから剥《は》がれて、下に落ちるんだ。これが、花を降らせる方法だ。藤の樹の裏に待機している、後見にしかできない」
今泉は膝をついたまま、紫の姐さんの顔をじっと見つめた。
「あなたが、降らせたんだ」
紫の姐さんは、笑った。どこか、息苦しそうな笑い方だった。
「だから、どうしたんだい。単なる悪戯《いたずら》じゃないか。そんなに怖い顔をするほどのことじゃないだろう」
「それだけじゃない」
今泉は立ち上がった。花びらを姐さんに差し出す。
「あなたを傷害罪で告発します」
重苦しい沈黙。わたしは目をそらせた。こんな場面を見たいわけじゃなかった。どうして、なぜ花が降るかを、追及してしまったのだろう。
ただ、降るままにまかせておけばよかったのに。
紫の姐さんは、もう一度笑った。今度は、すべてを洗い流したように、清々《すがすが》しげに。
「夜まで、まってくれないか。最後まで師匠のお世話がしたいんだ」
今泉は頷いた。紫の姐さんは、袴《はかま》の裾《すそ》を翻して、もうとっくに立ち去ってしまった紫之助を追った。
今泉は、掌の花びらをしばらく見つめていた。そして、それをもとの場所に戻した。
最後に降る、花のために。
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第九章
まるで、深い海の底のようだ。ここにくると、いつもそう思う。
むき出しの板の表面や、回り舞台の仕掛けの歯車。舞台下の奈落《ならく》は、華やかな舞台から想像もできないほど、寒々しい。
わたしたちは、夜の部の幕が下りた後、ここにきていた。ほの暗い明かりの下、紫の姐《ねえ》さんの横を向いた顔が浮かび上がる。
この人が、こんなに年老いて見えたことはいままでになかった。わたしは、逃げ出したいような衝動に駆られる。この人を追いつめるためにしたことじゃない。だが、悔やんでも、わたしのしたことは、確実にこの人を追いつめ、役者としての生命を奪ってしまった。
(やりたくないんだ)
今泉が繰り返しそう言ったのに、なぜわたしは、続けてしまったのだろう。師匠に言われたから、というのは言い訳だ。わたし自身の好奇心のためでもあったのに。
紫の姐さんは、浴衣《ゆかた》の胸元を軽く掻《か》き合わせた。
「旦那《だんな》にお暇をいただいてきたよ。今日限りで辞めさせていただきたい、と言ったら、旦那は理由もなにも聞かなかった。もしかしたら、ずっと前から、わかってらっしゃったのかもしれないねえ」
今泉の横顔も、たしかに苦しげに見えた。
「伊織さんにも、なにか言われましたか」
「若旦那には、旦那から言うだろう。わたしからは、とても言えないよ」
胸に苦い塊がこみあげる。
「紫の姐さん」
「小菊ちゃんにも、世話になったねえ」
姐さんは腕時計をさすりながら、笑った。わたしはなにも言えない。伝えたいことはひとつもことばにならない。
「姐さん」
今泉がわたしをさえぎって話しかけた。
「話していただけますね」
「なにから、話したらいいかねえ」
「全部です。ぼくたちは、わずかなパーツから全体像を組み立てただけだ。本当のところは、なにも知らない」
「長い話になるよ。三十年前から語らなきゃならない」
「わかっています。でも、聞きたいんです」
紫の姐さんは、深呼吸するように息を吐いた。
「若旦那に、双子の弟がいたことは知ってるかい」
双子の弟。それは、乳房榎のビデオに映っていた、もうひとりの伊織だ。
「ええ。伊織さんの顔を切り裂いたのは、彼だと言うことも知っています」
「そこまで知っているのかい。でも、あの子は若旦那が憎くて、あんなことをしたんじゃないんだ。あんなひどい怪我《けが》を負わせるつもりじゃなかったって、泣きながら、なんどもあたしに言ったんだ。あれは、事故みたいなものだった」
姐さんは、思い出すように目を閉じた。
「三十年前だね。わたしが弟子入りして、すぐだった。旦那にはじめての子どもが生まれたのは。ちょうど、わたしは内弟子ということで、旦那の家に住み込んでいたんだ。子どもは待望の男の子だった。ただし、一卵性双生児だったんだ。最初は、わたしもおめでたいと思った。一度にふたりの跡取りができたんだ。だが、それを告げに行ったら、旦那は顔色を変えたよ。あの、ふっくらとした頬《ほお》からみるみる血の気が引いていった。わたしは師匠がどうしてそんなに動揺するのか、わからなかった」
姐さんの手がゆっくりと顎《あご》をなぞる。
「駄目だ、紫の。それだけは、駄目だ、って旦那は何度も繰り返した。その晩、旦那はお休みにならなかった。布団の上にきっちり正座したまま、なにかを考え込んでいらっしゃった。朝になって、わたしを呼んで、こう命令された。ひとりは死産だったことにして、里子に出せ。引き取ってくれる人がいるなら、いくらでも養育費は出すとね」
「なぜなんですか!」
思わず、叫んでいた。これが、なにもかもの始まりだったのだ。どうして、双生児ではいけなかったのか。
「小菊、あんたも役者ならわかるはずだ。役者の顔は唯一無二のものでなきゃならない。兄弟似ているくらいは、なんの問題はない。似ているというのと、同じは違う。でも、まったく同じ顔の役者がふたりいたとしたら、どうだい。区別がつかないほど、そっくりの顔のふたりだ。それだけで、そのふたりには役者としての価値がなくなってしまう。少なくとも価値は、二分の一に薄められてしまうだろう。主役をするために生まれてきた奥州屋の跡継ぎとして、それは致命的だ」
わたしは、姐さんが投げかけた疑問の重さに絶句する。
同じ顔のふたりの役者。
たしかにそうだ。同じ顔をした役者が、同じ舞台の上で、勘平とおかるを演じることなどできないだろう。たとえ、同じ舞台に立たないとしても、狭い梨園の中だ。どんなに違いを見せようとしても、ふたりは互いの呪縛《じゆばく》から、逃れられないだろう。だが、生まれてきた事実まで、ねじまげなければならなかったのだろうか。
「あたしゃ、今でも旦那のこの判断が間違っていたとは思えないんだ。もし、ふたりとも旦那の息子として育てて舞台に立たせていれば、また別の悲劇が起こったと思う。無慈悲なのは神様だよ。両方に、役者の才能を与えるなんてさ」
姐さんは、同意を求めるように、今泉に視線をやった。
「いや、むしろ悟ぼっちゃんの方が、歌舞伎《かぶき》に対する思いは強かったかもしれない」
「悟、と言うんですね。兄が要で、弟が悟ですか」
「ああ、旦那の気持ちだよ。要ぼっちゃんは、奥州屋のこれからの要になり、悟ぼっちゃんは、自分が家を出されたことを運命として悟ってほしい、そう思って名付けられた」
父親としての思いだったのかもしれない。だが、名付けられたものにとっては、それはむしろ、呪《のろ》いに近い。今になって、明らかにされる弟の名前は、胸に刺さるほど痛々しく響く。
「悟ぼっちゃんは旦那の遠縁の夫婦に貰《もら》われた。あたしは、その夫婦に養育費を届けたり、悟ぼっちゃんの様子を見に行く役目を仰《おお》せつかったよ。旦那に、もうひとりぼっちゃんがいる、ということは、わたしのほかはだれも知らなかったから」
姐さんは少し、話を止めて、そして乾いた声で笑った。
「たぶん、いちばんの罪人はあたしなんだろうねえ。あの子に会いに行くたび、あたしは歌舞伎の話をした。あの子は目を輝かせてそれを聞いていた。こっちから話さなければ、あの子からせがんだ。あたしは、あの子にお芝居のおじちゃん、と呼ばれていたよ。もし、わたしがあんな話を聞かせなければ、あの子は歌舞伎に興味なんか持たなかったかもしれない」
今泉は松葉杖《まつばづえ》で身体を支えながら、じっと目を閉じていた。
「なぜ、そんな話をしたのですか」
「あの子が可哀想《かわいそう》だった。あの子を育てた夫婦はいい人たちだったけど、それでも肉親と、自分が生きるはずだった世界から、置き去りにされたあの子が、たまらなく可哀想に思えたんだ。要ぼっちゃんと、まったく同じ顔をしながら、同じ人生は歩めない。せめて、あの子に選ばせてあげたかった」
「そして、彼は歌舞伎を選びとった」
「選んだから、といって手に入るものじゃないけどね。あの子は、日本舞踊を習いはじめた。旦那《だんな》に内緒で何度か発表会を見に行ったけど、惚《ほ》れ惚《ぼ》れするくらいうまかったよ。やはり、血なんだねえ」
紫の姐さんは、思い出すように目を虚空に泳がせる。その声には、かすかに誇らしげな響きが潜んでいた。
一瞬、姐さんは悟がもういないことを忘れたのかもしれない。
「悟さんが、自分が市川紫之助の子どもだと知ったのは、いつ頃だったんですか」
「十八歳のときだよ。そろそろ、要ぼっちゃんが大人の役をやりはじめた。自然と人の注目も浴びる。そうなれば、悟ぼっちゃんが市川伊織と同じ顔をしていることに、気づくのも当然だ。似ているなんてもんじゃない。まったく同じ顔だった。あの子は、自分の両親を問いつめて、真相を知ったよ。わたしはあの子にせがまれて、若旦那に会わせたんだ」
生まれてはじめての、双子の兄弟の会見。いったいそれは、どんな空気の中で行われたのだろう。選ばれたものと、取り残されたものが、どんなことばを交わしたのだろう。
「言い訳に聞こえるかもしれないけど、悟ぼっちゃんは、旦那のことも若旦那のことも恨んだりしていなかった。あのふたりは、生まれたときから一緒にいるように、自然に話をし、そして笑った。悟ぼっちゃんは、自分は歌舞伎ではなく踊りの方でやっていく決心がついているようだった。あのときは、なにも狂ってはいなかったんだ」
だとしたら、いつから狂いはじめたのだろう。仕掛けられたいくつもの罠《わな》が、凶暴な表情を見せはじめる。無惨な結末に向けて、歯車はまわりはじめる。
「三年前かな。悟ぼっちゃんが、お家元から名前を頂戴《ちようだい》することになった。発表会の中で、鏡獅子《かがみじし》を踊って、そのお披露目をすることになったんだ。それが、旦那の耳に入った。旦那は裏から手を回して、その話を潰《つぶ》してしまったんだ。あの子が、人の目に触れる機会が増えれば、疑惑を抱く人も多くなる。まして、踊りの世界と歌舞伎の世界は隣り合わせだ。絶対に、許すわけにはいかない。旦那はそう言ったよ。あの子が踊りをやっていることを黙っていたわたしも、こっぴどく怒られた。旦那はそれだけでなく、あらゆる宗派にも手を回して、あの子が踊りを続けられないようにしてしまったんだ。今の日本舞踊の制度の中じゃ、家元から離れて踊りを習うことなどできやしない。あの子は、唯一の目標を奪われてしまったんだ」
それは、二度目の殺人だ。
一度目は、生まれたとき。悟は、自分の親によって二度、殺された。わたしは思う。もし、人間が死んでしまった後にも意識が残るのなら、殺された人間は、自分が殺された、ということになにより傷つくのではないか。
だれかが、自分を殺そうとした、ということ。その重みに、だれが耐えきれるというのだろう。
「あの鏡獅子。伊織さんが踊っている鏡獅子は、悟さんがその発表会で踊る筈《はず》のものだったんですね」
「そうだよ。あの子は特に演出の方に才能があったのかもしれない。あの乳房榎の早変わりのことを考えついたのも、あの子だよ」
あのビデオに映った彼の顔を思い出す。一瞬だけなのに、鮮烈に網膜に焼き付いている。あれが、悟だった。この悲劇の主人公でありながら、だれからも存在を認められなかった男。
「若旦那《わかだんな》が乳房榎をやる、と聞いて、あの子は早変わりの吹替をやりたい、とぼっちゃんに言い出した。最初は二の足を踏んでいた若旦那も、悟ぼっちゃんのあまりの熱意に根負けしたんだ。悟ぼっちゃんは、絶対に観客に疑いを持たせず、しかも驚かせてみせる、と言い張った。そのとおりの見事なタイミングだったよ。ただし、もうひとりの吹替である織二には、悟ぼっちゃんのことを説明しなくてはならなかった」
そうだ。織二の背格好は、ちょうど市川伊織と同じくらいだった。たしかに吹替には格好の人材だろう。
今泉は無機質な声で話しはじめた。
「わたしも、あの舞台は見ました。たしかにタイミングは見事だったけれど、わたしには納得ができなかった。あのとき、伊織さんには、顔がそっくりの兄弟、たぶん双生児の、がいるのではないか、と思ったんです」
「どうして、双子だと?」
「奥州屋の紋は、桜なのに、市川伊織の紋は比翼桜だからです」
比翼桜。桜と中陰の桜が、まるで羽根のように重なり合う優美な紋。桜は要。そして、中陰の桜は悟なのだろうか。光と影、あの紋はそんな意味を持っていたのだろうか。
「あれは、旦那の考えだった。奥さまや、まわりのものには、死産だったもうひとりの息子の供養に、とおっしゃってたよ。悟ぼっちゃまは、生きているのに、あの方は勝手に頭の中で殺してしまったんだ。そして、彼が生き返ることを恐れて、あの子の未来までも潰してしまった。あの子は生きながら、墓に埋められたようなものやった」
わたしははじめて、姐《ねえ》さんにわずかな関西のなまりがあることに気づいた。自分を見せることのない人だった。どんなときでも、にこやかな笑顔のベールを被《かぶ》っていた。
「それでも悟ぼっちゃん、乳房榎の初日が終わったときはうれしそうだった。客席のどよめきと、割れんばかりの拍手を聞いて、満足げだった。こう言ったよ。わたしは要のまがいものだ。でも、まがいものであることで、人をこれだけ興奮させることができるのなら、それでかまわない」
「まがいものだなんて、そんな!」
思わず口を出していた。どうして、人がだれかのまがいものであるなんて、言えるのだろう。そんな悲しいことを、どうして口に出せるのだろう。
「そのときに聞いたのだけど、あの子のずっと一緒に住んでいる恋人も、若旦那の贔屓《ひいき》だったそうだ。皮肉な話だ。同じ親から同じ時間に生まれたのに。片方は光になって、片方は影になる。まさに、比翼桜だった」
わずかな運命が光と影を分かつ。彼らが普通の家に生まれたふたりなら、両方とも光として生きられたはずなのに。片方が、片方のまがいものになることなど、なかったはずなのに。
今泉は松葉杖をからり、と鳴らせて身体を壁から起こした。
「乳房榎の上演中、悟さんは堀江虹子に出会ったんですね」
一瞬、姐さんの顔に憎しみが走ったような気がした。気づいたときには、もとの表情に戻っていたけれど。
「ああ、そうだ。彼女はぼっちゃんを市川伊織だと勘違いした。悟ぼっちゃんには訂正することができなかった。一目で彼女に心を奪われてしまったからだ。悟ぼっちゃんは、あの人に嫌われることを恐れて、市川伊織になりすまして、彼女とつきあい続けた」
まがいもの、と自分で言ったという。たぶん笑いながらだったとしても、心には亀裂《きれつ》が走っていただろう。わずかなことの積み重ねで、人は壊れていく。
わたしは目の前の姐さんを見つめた。
この人だってそうなのだ。
「そんな関係が長続きするはずなんてない。たぶん、彼女だっていつかは感づくだろうし、結婚することだってできはしない。でも、あの子は、彼女に本当のことを言うことができなかった。そうやって、少しずつ追いつめられていたんだろう。ある晩、彼女は悪戯《いたずら》のつもりか、爪《つめ》で彼の顔をひっかいた。長い爪は鋭くて、彼の頬《ほお》にはすうっと血が流れたそうだ。彼女はこう言った。明日舞台を見に行く。そこで、わたしのつけた傷が見たいのだ、と。舞台の上に立つあなたが、わたしのものだと実感したい、って」
「わかるだろう。あの子はパニックになった。その前から、たぶん精神が均衡を保てなくなっていたんだろう。彼は剃刀《かみそり》を手に、部屋を飛び出した。明日の舞台までに、若旦那の頬に、自分と同じ傷をつけなければ、自分が市川伊織ではないことが知られてしまう。そのあとは、あんたがたもご存じのとおりだ。いきなり顔を切らせてくれ、と言われて、役者が承知できるわけがない。いくら弟の頼みだとしても。そうして、もみ合う拍子に、悟ぼっちゃんは、若旦那に予想外に深い傷をつけてしまった」
市川伊織は、自分を襲った相手を知らない、と言い張った。あれは弟を庇《かば》うための嘘《うそ》だったのか。顔を切り裂かれてさえ、弟を告発することはできなかったのだろうか。
「悟ぼっちゃんは、深夜、泣きながらわたしの部屋にやってきた。そうして、自分がやってしまったことを、わたしに告白したんだ。わたしは、悟ぼっちゃんに部屋で待つように言って、若旦那の方に駆けつけてしまったんだ。帰ってきたら、悟ぼっちゃんはもういなかった。自分の部屋に帰って、首を吊《つ》っていた」
紫の姐さんは、両手で顔を覆った。きつく、歯を食いしばる。
「あたしがあのとき、若旦那の方に行かず、悟ぼっちゃんについていてあげれば、あの子は死なずにすんだかもしれない。若旦那には、駆けつけてくれる人は何人でもいたんだ。あの子には、わたししかついてあげられなかったのに」
わたしは今泉のことばを思い出していた。滝夜叉姫に、病室で告げたことば。
(逃げるものがどんなふうに、他人を傷つけたか、あなたは知っているはずだ)
そう、行ってしまった人は、あまりにも手ひどく残されたものを傷つける。悟は自ら命を絶つことで、彼を大事に思っていた姐さんを、こんなにも傷つけたのだ。
わたしはどうしていいのかわからず、姐さんから目をそらした、
「若旦那は、それから二度と、悟ぼっちゃんのことを口に出さない。まるで、そんな人などはじめからいなかったかのように、ふるまっている。信頼していた弟に、役者の命である顔を傷つけられたんだ。もう思い出したくないのも仕方がないだろう。あたしも、あの子の話など、とてもできなかった。だのに、あの女はいけしゃあしゃあと、若旦那の前にも現れたんだ」
そして、市川伊織も弟と同じように、彼女に惹《ひ》かれた。それも苦い運命だったのか。
「みんな、悟ぼっちゃんのことを忘れていく。あの子が苦しみ抜いて死んでいったことを、忘れてしまう。あの子が生きていたことさえ、葬り去ってしまう。そんなことは、耐えられなかった。面と向かって、口に出すことができないのなら、せめて思い出してほしかったんだ。若旦那にも、旦那にも、それからあの女にも。たとえ、悪気はなかったにせよ、だれもが、あの子の屍《しかばね》の上を歩いてきたのだということを」
「それで、花を降らせたんですね」
さまざまのこと思い出す桜かな。
思えば、廿四孝には不思議な符合がいくつもあった。顔が似ているために、勝頼の身代わりになって、だれにも知られず死んでいった花作りの蓑作。勝頼の絵姿に生き写しゆえ、蓑作に恋を仕掛けようとする八重垣姫。勝頼と蓑作のあまりの相似ゆえに、煩悩《ぼんのう》に苦しむ濡衣。
紫の姐さんは朗々と濡衣の台詞《せりふ》を語りはじめた。
「広い世界に誰あって、お前の忌日命日を弔う人も情けなや、父御の悪事も露しらず、お果てなされたお心を、思い出す程おいとしい、さぞや未来で迷うてござろう」
さぞや未来で迷うてござろう。
今泉は、ポケットから先ほどの花びらを出した。ふうっと息を吹きかけると、それはゆっくりと舞いながら落ちていく。
「小菊から、廿四孝の最中に花が降る、と聞いたことと、以前見た乳房榎での違和感、そして、市川伊織が顔を切り裂かれた事件。それが、あの美しい人を見た瞬間、ひとつのストーリーになって浮かび上がったんです。だれかは知らないが、伊織の双子の兄弟を愛しているものの仕業だ、と思った。だから、だれが花を降らせているのかは追及したくなかった」
「まるで、三題|噺《ばなし》だねえ」
「でも、あなたが堀江虹子を傷つけた以上、告発しないわけにはいかない」
「覚悟はしているよ。後悔はしていないけどね」
「姐さん。どうしてそんなことを」
あの事件さえなければ、花を降らせただけだったら、紫の姐さんは許されたはずだ。
「どうしてって? ここまで聞いておいて、それをわたしに言わせるのかい。わかるだろう。若旦那《わかだんな》が、あの女と結婚するかもしれない、と聞いて、黙っていられると思うのかい。それだけは、許したくなかった。悟ぼっちゃんを死に追いやった女が、若旦那の奥様におさまるなんて、そんなことがあってはならないんだ」
冷水を浴びせかけられたようだった。やはり、わたしがよけいなことを喋《しやべ》ってしまったことが、原因だったのか。わたしが、この人を追いつめてしまったのだ。
「若旦那も悟ぼっちゃんも、あの女の美貌《びぼう》に狂わされたんだ。だから、殺すことはできなくても、せめてそれを破壊してしまいたかった。悟ぼっちゃんはもう遅くとも、若旦那は救いたかった。弟の死の原因になった女を、なにも知らずに妻にするなんて、そんなことをさせたくなかった。あの女だって、悟ぼっちゃんに同じことをしたんだ」
姐さんは、わたしの顔を見て唇を歪《ゆが》めた。
「わかってくれとは言わないよ。だけど、わたしにはあの女を許すことができなかった」
胸が締め付けられるようだった。ずっと、この先輩を尊敬していた。いつか、この人のようになりたいと思っていた。
「姐《ねえ》さん、どうしてそこまで……」
血縁でもない、もう死んでしまった人のために、なぜ、そこまでしなければならなかったのか。
姐さんは、湿った声でつぶやく。苛立《いらだ》ったように腕時計を撫《な》でる。
「わたし以外のだれにもわからないと思うよ。でも、これだけは知っていてほしい。ふたり並んで眠っていた赤ん坊のうち、どちらを家に残して、どちらを里子に出すか、決めたのはわたしだった。旦那は、どちらでもいい、どちらかを連れて行け、としか言ってくれなかった。わたしは、仕方なく手前に寝ていた方を抱き上げて、家を出ていったんだ。あのときのことを、何度も夢に見る。あのとき、わたしが奥に寝ていた子を抱き上げれば、未来はもう少し違うものになっていたかもしれないのに」
静かな声だった。だのに、それは悲鳴に聞こえた。わたしは、市川紫之助を恨まずにはいられなかった。彼は、紫の姐さんの手に、冷酷な選択を押し付けた。姐さんはその重みに耐えきれず、こんな場所まで追いつめられてしまったのだ。
姐さんは時計に目をやった。
「もう、疲れたよ。このくらいでいいだろう」
時間はもうすぐ十一時になろうとしていた。今泉は松葉杖《まつばづえ》を手に、凭《もた》れていた壁から身体を起こした。
「あなたがそう言うのなら。でも、これだけは聞いてください。堀江虹子は、あなたが思っているように伊織さんに取り入るために、彼に近づいたわけじゃない。彼女は、悟さんがなぜ兄を襲ったのか、それを彼に説明するために、近づいたんだ。伊織さんも、ちゃんと知っている。彼女が、弟の死と自分の顔の傷の原因になったということに。それでも惹かれ合ってしまったのは、彼らの罪なんでしょうか」
紫の姐さんの唇が半開きのまま、固まった。叫びたかった。
(やめよう、ブンちゃん。これ以上、この人を追いつめたくない)
お願いだから。
だが、今泉の言っていることは本当だ。わたしたちは、最後の花が降るのを見届けると、もう一度彼女に会いに行ったのだ。彼女を襲ったのはだれなのかを話しに。
彼女は、白いものに包まれた顔を、枕《まくら》に押し付けて啜《すす》り泣いていた。
「途中で気がついていたの。あの人が、市川伊織ではなかったことは。あの人が嘘《うそ》に疲れていくのもわかっていた。本当のことを話してほしかった。でも、生ぬるい思いやりみたいなものを見せるのもいやだったの。あの人が好きだったし、強い人だと思っていたから。だから、あんなことをしてしまった」
今泉は、彼女の肩をいとおしむように撫でた。
「だれもが、激情の重みに耐えきれるわけじゃないんです」
「そうよね。今になってやっとそれが、わかったわ。どうして、わたしあの人に、もっと優しくできなかったんだろう」
紫の姐さんの声が震えた。小さくくぼんだ眸《ひとみ》が、怯《おび》えるように瞬《まばた》きを繰り返す。
「本当なのかい、それ……」
「本当です。彼女から聞きました」
「彼女に会った?」
「会いました」
「彼女はどうして、わたしのことを警察に言わなかったんだい。顔は見られたはずなのに」
今泉は少し躊躇《ちゆうちよ》して、答えた。
「覚えていないそうです。いったいだれなのか、わからなかったと」
一瞬、姐さんは目を閉じた。
髪に手を入れて軽く掻《か》き回し、深く息を吐く。
「そうかい。何度も彼女を玄関先まで送っていったのにね。やっぱりわたしは舞台の外でも、後見役にすぎなかったみたいだね。どんなに苦しい思いをしていても、だれもわたしのことまで見てはいないんだ」
いきなり、地響きのような轟音《ごうおん》がとどろいた。わたしはよろけて、柱にしがみつく。今泉も驚愕《きようがく》に目を見開いて、あたりを見回している。
回り舞台が動いているのだ。
なぜ、こんな時間に。
歯車と、滑車がきしみはじめ、床が動きはじめる。
紫の姐さんが笑ったような気がした。
今泉が叫んだ。
「小菊! 止めるんだ」
その瞬間、紫の姐さんは、ふわっと飛んだ。回り舞台の仕掛けの中に身を躍らせる。
思わず伸ばした手は、浴衣《ゆかた》の帯だけしか掴《つか》めなかった。帯は、なんの手応《てごた》えもなくほどける。
「姐さん!」
機械が、ががが、と妙な音を立てる。なにかが挟まったような音。
なまあたたかいものが散って、顔にかかった。
「止めろ! だれか装置を止めてくれ!」
今泉の声がひどく遠く聞こえた。彼が不器用に駆け出すのが見える。
わたしはゆっくり頬《ほお》を撫でた。手には赤黒い液体がついていた。
舞台を降りる階段から、警備の青年が顔を出した。
「どうしたんですか?」
「舞台が急に回りだしたんだ!」
「え? 十一時になったら回してくれ、と頼まれたんですが」
今泉は青年の胸ぐらを掴んだ。
「だれに!」
「ええと、奥州屋の紫のさんです」
床のベニヤに散った鮮血。しゅうしゅうと空回りする機械音。
わたしの手から、紫の姐さんの帯が、するりと落ちた。
「舞台の外でも後見役にすぎなかった、か」
市川伊織は、抑揚のない声で、紫の姐さんの最後の台詞《せりふ》をつぶやいた。
たしかに姐さんのことばは正しかった。姐さんが死んでも、舞台は変わらず続けられた。別の役者が姐さんの代わりに、藤娘の後見を務めるだけだ。
わたしたちは、単なる取り替え可能な部品にすぎなかったのだ。
わたしと今泉は、伊織の楽屋で彼と向き合っていた。今泉がどうしても彼に会う、と言ってきかなかったのだ。鏡獅子《かがみじし》が終わった後、楽屋を訪ねたわたしたちを、伊織は無表情に迎えた。
今泉はポケットから、一枚の紙片を出して伊織に差し出した。
「これが、虹子さんの病院の住所です。虹子さんはあなたにきてほしくない、あなたに教えないでくれ、と言っていました。でも、ぼくは教えます。紫のさんや、悟さんのように、変わっていくはずの運命の分かれ目を、自分のところでせき止めてしまうのは、嫌です。あなたが、決めてください。虹子さんに会うのか、会わないのか。ぼくになにも言う必要はありません。あなたの中で決めてくれればいい」
「ありがとう」
伊織は、手を伸ばして紙片を受け取った。
「会いに行きますよ」
今泉は、なにも答えなかった。伊織は首筋に止まった虫を、軽く手で払った。
「別に、いい子ぶって言うわけじゃない。会ってからどうなるかはわからない。今までだって、屈託なく接していたわけでもなかったんですから。だけど、わたしもあなたと一緒だ。ここで、流れをせき止めてしまうつもりはない。彼女に会いに行きます」
彼の柔らかそうな前髪が揺れる。引き結ばれた小さな唇。かすかにそばかすの浮いた、白い皮膚。そして、頬を横切る傷跡。
わたしはなんとなく、予感していた。彼と滝夜叉姫は、壊れたりしないのではないだろうか。彼は、自分の傷を乗り越えたその強さで、彼女の傷も乗り越えるのではないだろうか。
もちろん、そんなことは勝手な憶測にすぎない。だが、わたしは華奢《きやしや》で頼りなげに見える伊織の中に、驚くほどのふてぶてしさが潜んでいることに、気がついていた。
痛めつけられるほど、美しく花開く高地の植物のように、彼は痛みやつらさを、貪欲《どんよく》に吸い取って、舞台上で咲くのかもしれない。
今泉の顔からも、不自然なこわばりが引いていった。今泉は、わずかに口ごもりながら言った。
「やはり、紫之助さんのことは許せませんか」
「許せません」
伊織は即答する。
「でも、許せなくても忘れることはできると思います。まだ、わたしと父とはこれから先をやっていかなくてはならない。冷たいかもしれないが、紫のと悟のことは、ゆっくり忘れていこうと思っています」
今泉は深く頷《うなず》いた。
「それが正しいと思います」
そう、いくら逝ってしまった人たちが美しくても、彼らはもうかえらない。生きているものは、かすかな感傷と共に彼らの屍《しかばね》を越えていけばいい。
強さにはいつだって、冷酷さがつきまとうものだ。だけど、わたしはそれが悪いとは少しも思わない。
わたしは目を閉じた。紫の姐《ねえ》さんのことを思い出す。
姐さんには申し訳ないが、わたしは姐さんの生き方をいとおしく思ったりはできない。
今泉は座布団から足をずらすと、頭を下げた。
「比翼桜の片翼が、もうひとつの花になることを祈っています」
そう、心から。たとえ表面上は傷つけられたとしても、ふたりの美しい遺伝子は、彼らの子どもに受け継がれるだろう。
伊織は、踊りの振りのように優雅に、天井に目をやった。
「もし、思い出さずにはいられなくなったときには、花を降らせますよ。紫のに倣って、ふたりを悼む花を」
「それはいい考えだと思います」
さまざまのこと思い出す桜かな。
伊織は、眩《まぶ》しげに目を細めた。
そうして、無数の幻の花が降る。
角川文庫『散りしかたみに』平成13年8月25日初版発行