この島でいちばん高いところ
近藤史恵
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)水に濡《ぬ》れた砂は、
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)それだけで妙に胸|躍《おど》るものだ。
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プロローグ
足の下で砂が、溶けるようにくずれた。
ビーチサンダルの中に、砂が流れ込んでくる。ざらつくというより、むしろなめらかな感触。
水に濡《ぬ》れた砂は、冷たくて重い。乾《かわ》いた砂とは全然違うものみたいだ。
波がやってきて、ふくらはぎまで濡らしていく。
「葛葉《くずは》!」
いきなり腰に、抱きつかれて、葛葉はバランスをくずしそうになる。
「里美《さとみ》、危ないよ」
潤子《ユンジャ》が、横に立ったまま、葛葉の腰にしがみついている里美に注意する。
「葛葉がぼーっとしているんだもん」
「それは、いつものことでしょ」
潮風に、ユンジャの長い髪が巻き上がる。葛葉は少し眩《まぶ》しく思いながら、彼女を見上げた。
砂浜では、桃子《ももこ》と聖《ひじり》が棒で絵を描いている。この海には葛葉たち以外はだれもいない。ほかにだれも。
波が太陽を受けて光っている。葛葉は目を細めてさざめく波を見つめた。
まるで、夢を見ているみたいだ。決して目覚めることのない、長い夢を。
なにから話していけばいいのだろう。あの恐ろしくも凝縮された時間の始まりからか。それとも、わたしたちの生い立ちや関係からだろうか。
なにも珍しいことなどなかった。わたしたちは、同じ高校に通う十七歳の女の子で、そうして、友だちだった。夏休みだった。海に遊びに行った。本当にそれだけ。
それとも、あなたはもうそんなことはとっくに知っている?
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「無意識って不思議だよね」
唐突《とうとつ》に、長谷《はせ》葛葉はそう言った。
船のエンジン音が高く響く。潮の匂《にお》いを深く吸い込んでから、風見《かざみ》桃子は振り返った。
甲板に、桃子以外の四人が輪になって座っている。
「葛葉ったらまた、変なことを言う」
坂之上《さかのうえ》聖が、葛葉を軽くこづいた。いたーい、と葛葉は大袈裟《おおげさ》に頭を押さえる。短く刈った髪が跳《は》ねている。ぽきぽきと折れそうに痩《や》せた身体《からだ》や、低めの声。男の子みたいな外見は、運動神経さえよければ、女子校の中では人気がでたかもしれない、と桃子は考えた。でも、葛葉はいつもぼんやりと、困ったような顔をして立っている子で、凛々《りり》しさにはほど遠い。
葛葉が唐突なことを言うのはいつものことだ。あの子はいつだって、自分の考えの中に浸《ひた》っていて、息継ぎするようにたまにことばを発する。
脈絡のないように見える葛葉のことばだけど、彼女の思考の中で、それはたしかに繋《つな》がっているらしい。時間をおくと、桃子にもその繋がりが見えることがある。
「で、無意識がどうしたの?」
金《キム》潤子が葛葉を促《うなが》した。葛葉は少し困ったように瞬《まばた》きして、そうして話しはじめた。
「なんか、わたしが考えたり、感じていることって、わたしの中のほんの一部みたいな気がするの。それに、わたしがなにも考えずにやったことが、あとになって、すごく大事なことだったとわかることもあって……」
葛葉は怯《おび》えたように口を閉ざして、みんなの顔を見た。
「わたしの言っていること、わかる?」
「わかんない」
「わかるわ」
梨本《なしもと》里美とユンジャが一緒に答える。葛葉はほっとした顔になった。桃子にはわかっている。葛葉はユンジャに聞かせたいと思って、その話をしている。里美がわからない、と言っても、それは葛葉の中では大した問題ではないのだ。
葛葉はユンジャに憧《あこが》れている。それは見ていればわかる。何事にも臆病で、要領の悪い葛葉にとっては、ユンジャのような女の子は眩しく映《うつ》るのだろう。
ユンジャは強い女の子だ。高二になって同じクラスになった日のことを、桃子は思い出す。新しく担任になったのは、五十近い日本史の教師だった。ぼそぼそとした声で、出欠を取り、彼女の名前を呼んだ。
「金《きん》潤子《じゅんこ》」
ユンジャは間髪《かんはつ》を入れずに立ち上がって答えた。
「ジュンコではありません。ユンジャです」
低いけど、よく通る声だった。桃子は驚いて、後ろを振り返った。彫《ほ》りの深い顔立ちの、いかにも気の強そうな女の子だった。まっすぐな視線で先生を見つめていた。
だが、その先もその教師は、ユンジャのことをジュンコと呼び続けた。二度目からはユンジャは訂正しようとしなかった。
桃子が一度、それを指摘したとき、ユンジャは少し莫迦《ばか》にしたような顔で笑った。
「いいのよ。そういう入っていくらでもいるもの。わたしは先生が間違っていることはきちんと伝えたわ。だから、その先は先生の問題。人の名前を間違って呼んでも平気なほど無神経な人だってことよ」
ユンジャは強い女の子だ。だけど、強いということは、ときに必要以上の亀裂を生む。クラスに彼女のことを嫌っている人も多い。
同じグループにいる聖ですら、一度ため息をつきながら、桃子に言ったことがある。
「ユンジャは、自分がわたしたちと違うことが、特別なことだと思っているみたい」
桃子にはよくわからない。ユンジャのルーツが桃子や聖たちと違うということは事実だし、もし、桃子自身が日本人ではないのに、日本という国に生まれてきたとしたら、自分のルーツに、どんな思いを抱くのかは想像もつかない。
だから、ユンジャがどうあろうとも、それをきついとか、刺々《とげとげ》しすぎるとか、そんなふうに思うことはできないのだ。
桃子は、なにかについて、考えたり、感想を言ったりすることが苦手《にがて》だ。本は好きなほうだが、夏休みの宿題として提出させられる読書感想文にはいつも悩まされた。本は、ただ、そこにあるというだけできれいだったり、すばらしかったり、もしくはつまらなかったりするものだ。それに、桃子がなにかを言ったところで、なにになると言うのだろう。
思いに耽《ふけ》りながら、ふと前を見ると、島がびっくりするほど近づいていることに気づいた。
「見て、もうすぐ着くよ!」
桃子は四人に向かって声をかけた。歓声がいっせいに上がった。
夏休みだから、海、というのは単純な図式だ。そう言ったユンジャに向かって、葛葉は口を尖《とが》らせた。
「だからこそ魅力的だと思わない?」
ユンジャもそれには賛成し、そうして五人は海に行くことにしたのだ。
新しい水着とか、焼けつくような日射《ひざ》しとか、海の家とかそういう単語を思っただけでもわくわくする。
「それに男の子との出会いもあるかもしれないじゃない」
聖が悪戯《いたずら》っぽく笑って言った。桃子は心でそれに付け加えた。
(でも、わたしたちが男の子に誘われたからってついていくとは思わないけどね)
女子校育ちの桃子たちにとって、少年とはなんだか曖昧《あいまい》なイメージみたいなものだ。それは遠くにあるときだけきらきらしている。話をすると、彼らはみんな幼すぎたし、声をかけられるということ自体に幻滅《げんめつ》した。だから、たぶん本当の男の子に声をかけられても、桃子たちは逃げてしまうだろう。
だけど、そうやって自分たちの話の中にでてくる「男の子」という単語は、それだけで妙に胸|躍《おど》るものだ。
実際に男の子と仲良くすることはなくても、「そういうことがあるかも」と思うだけで、なんとなく楽しい。
そんなこんなで、五人は二泊三日の日程で、近場の海水浴場に出かけたのだ。
その海は、考えていたのとはまったく違った。
狭いくせに、やたらごみごみしていた。疳《かん》の強い子供の集団が、奇声を発していた。薄汚いサーファーたちに、くだらない冗談とともにつきまとわれた。
思い切り叩《たた》きのめされて、民宿に戻った。「安い」という理由だけで選んだその民宿は、釣り宿に毛が生えたようなものだったけど、それでもそんなに悪くはなかった。
夕食は簡素だったけど、新鮮なお刺身《さしみ》などもついていて、おいしかった。蓴菜《じゅんさい》などというものを初めて食べた桃子は、そのぬるぬるとした植物について、宿のおばさんを質問攻めにしてしまった。
和食があまり好きではない里美も、その夕食はおいしいと言って食べた。
宿のおばさんは、五人の女の子を気に入ってくれたらしく、夕食の後に、桃子たちのためにジュースとおかきを出してくれた。
「旅館はよかったけど、海が最低だったわよね」
聖がそう言うと、みんな頷《うなず》いた。
「明日もあそこで泳ぐの?」
「しょうがないじゃない。ほかに泳ぐところないんだし」
桃子は、昼間の嫌な気分を思い出して、大きくため息をついた。
大きなお尻を、食堂の小さな椅子《いす》に押し込めるようにして座っていたおばさんが、右手をぶんぶんと振った。
「あの海水浴場は駄目駄目。近所の人間はだれもあんなところで泳がないね」
「じゃあ、どこで泳ぐんですか?」
「ここから、少し離れたところに島があるのさ。釣りをする人がよく行くから、船も通っている。そこに、遠浅のきれいな海岸があるからね。近所の若い人たちは、みんなそこに行っているみたいだよ」
ユンジャが身を乗り出した。
「そこって、わたしたちでも行けます?」
「もちろんだよ。人が少ないから気分がいいと思うよ」
五人は顔を見合わせて頷いた。
太陽が溢《あふ》れるみたいだ。
たった、船で三十分ほどきただけなのに、昨日の海岸と繋がっているなんて思えないほど、海の色が青い。
「きてよかったね!」
聖がはしゃいだような声を出した。クラスでいちばん背の高い彼女は、脚《あし》もまっすぐで長い。ショートパンツから伸びたふくらはぎが太陽を反射するように光っていた。
週末以外は一日に一往復するだけだ、という連絡船には、意外にもたくさんの人が乗っていた。二十人くらいだろうか。けれども、みんな釣りをするためにその島に行くらしく、葛葉たち五人みたいに、バスケットを持った女の子たちはいなかった。
島に着いて、宿のおばさんが教えてくれた裏の海岸にまわってみると、やはりそこにはだれもいない。葛葉たちは、そうして貸し切り状態の海を手に入れたのだ。
中国|更紗《さらさ》のテーブルクロスを、ビーチマット代わりに敷いて、四隅を石で止めた。里美がラジカセを出して、音楽をかけた。セイントエチエンヌの物憂《ものう》げなメロディは海に合っているとは言えなかったけど、まあそんなものだ。
昨日の海水浴場のスピーカーから、大音量で流れていた量産型のポップスよりもずっといい。
もちろん、着替える場所などなかったから、ビーチタオルで身体を隠しつつ、素早く水着に着替えた。
シャワーもないので帰りは少し気持ち悪いだろう。けれども、船着き場のそばには、待合室代わりの小屋があって、その裏にはトイレと水道があった。砂で汚れた脚を洗って、体を拭《ふ》くくらいはできる。
白い肌によく映《は》える真っ赤な水着で、まっさきに海に飛び込んだのは、里美だった。ユンジャと聖が後に続く。
葛葉は横に立つ桃子を見た。桃子は、少し物憂げに煙ったような瞳《ひとみ》で笑った。
「葛葉は行かないの?」
「桃子こそ」
「わたしは浜辺にいる。気が向いたら行くわ」
いつも通りの大人びた口調。葛葉は少しどぎまぎして、照《て》れ隠しのように海に向かって走った。
桃子はどうして、いつもわたしたちと一緒にいるのだろう。
葛葉はよくそう思った。葛葉たち五人はクラスのはみ出し者みたいなグループだった。要領の悪い自分はもとより、我の強すぎるユンジャや、極端に内弁慶《うちべんけい》な聖、そうして、うそばかりつく癖《くせ》のある里美。みんな、なんとなくクラスのほかのグループからあぶれるように集まった。もちろん、それだけでなく、みんなのことが好きではあったのだけど。
葛葉の学校は、お嬢さん学校と呼ばれるような高校だったから、みんなどこかおっとりしていて、新聞や雑誌で読むようなひどい苛《いじ》めはない。けれども、精神面ではたしかにクラスの中に、明確な序列というかヒエラルキーがあった。
明るく活発な少女たちのグループが、いつもその頂点に立っていた。彼女らは明らかに葛葉たちを見下しているみたいで、不快な気持ちにさせられることもしばしばだった。
でも、彼女たちも、なぜか桃子のことは莫迦にしなかった。桃子が特に、人気者だとかそういうわけではない。彼女はどちらかというと無口だし、あまり自己主張をしない。風に揺れる柳みたいにそよそよと、どこへともなくなびいていく。
葛葉がどうしても苦手な、不良っぽいクラスメイトとも普通に話をするし、向こうも桃子を気に入っているみたいだった。彼女さえその気になれば、どのグループも桃子のことは受け入れるだろう。
だれにでも好かれる、というのとは少し違うような気がする。むしろ、だれにも嫌われない、というのが近いが、桃子が人から嫌われることを恐れているとは思えない。
桃子はどうでもいいみたいだ、と葛葉は思う。人から好かれようが、嫌われようが、自分がどう思われようが。
葛葉には想像もつかない。人の目はなにより恐ろしい。別に無害なことはわかっている、クラスメイトたちの視線でさえ、避《さ》けるように身体を縮《ちぢ》めていることしかできない。
葛葉は一度ユンジャに尋《たず》ねてみたことがある。
「桃子はどうして、わたしたちと一緒にいるのかな」
ユンジャは目をぱちくりさせた。どうしてそんなことを尋ねるのかわからない、といった様子で答える。
「わたしたちのことが好きだからじゃないの?」
ユンジャはいつも明快だ。
みんなで泳いで、ビーチバレーをした。お昼には宿のおばさんが持たせてくれたかやく飯のおにぎりを食べた。魔法|瓶《びん》のお湯で、バナナの匂いの紅茶を入れて飲んだ。
日射しはそれほどきつくはなくて、とても気持ちがよかった。
ほんのちょっとだけのつもりだったのだ。
里美が、眠い、と言い出して、桃子のふくらはぎを枕に寝転《ねころ》がった。ていよく枕にされた桃子も、少し疲れたのか、すぐにすうすう寝息を立て始めた。
聖は身体を焼くのだ、と言って、サンオイルを塗って、浜辺に寝そべった。なんだか気持ちよさそうな三人の様子を見ていると、葛葉まで眠くなってきた。
ユンジャはまだ飽《あ》きずに、ビーチボールを胸に抱いて海に浮かんでいる。
ユンジャが起こしてくれるだろう、そう思って、葛葉もビーチマットの空《あ》いた部分に身体を縮めて、目を閉じた。
砂はほこほこと、身体を芯《しん》から温めてくれるようで、葛葉はすぐに心地《ここち》よい眠りの中に引きずり込まれた。
「ちょっと、起きて!」
いきなり聖の声がして、葛葉は飛び起きた。聖は脚についた砂を払いながら、青い顔をしている。
「どうしたの?」
まだぼんやりしたまま返事する。見れば、ユンジャも葛葉の足下で丸くなるように眠っていた。桃子と里美ものろのろと起き上がる。
「時間、もう四時過ぎてる!」
聖が腕時計を、目の前に差し出した。
みんなで顔を見合わせる。帰りの船は三時四十分に出る、と聞かされていた。
「うっそお、大変!」
すぐさま、ユンジャを叩き起こした。荷物は、押し込むようにまとめて、水着のまま船着き場に走る。着替えている時間なんかない。
息を切らして、船着き場に着いたとき、そこにはだれひとりいなかった。もちろん、船の影もない。
「最低ー」
里美が空を仰《あお》いだ。ユンジャが、帆布のバッグを探《さぐ》って、携帯を出す。
「うう、駄目。圏外みたい」
「そりゃ、そうでしょう」
聖が両手を組んで、不安げにあたりを見回した。
「ここ、人住んでいないんだよね」
「うん、おばさんもそう言っていたよ」
「じゃあ、明日までこのままってこと?」
だれもいない島で、一晩を過ごす。そう考えただけで、葛葉の皮膚に鳥肌が立った。
顎《あご》のあたりでぷっつり切りそろえた髪を弄《もてあそ》びながら、桃子が言う。
「でも……、宿のおばさんはわたしたちがここにきたことを知っているでしょ。今晩も泊まることになっていたから、帰らなかったら不審に思うんじゃないかな」
いつも通りの冷静な口調に、なんとなく緊張がほぐれる。ユンジャも力強く言った。
「きっと、警察に連絡してくれるよ」
葛葉はふいに思う。たとえ、トラブルがあったとしても、桃子とユンジャがいれば大丈夫なのではないか。
真っ青になっていた聖もやっと落ちついたみたいだった。
「うん、大丈夫だよね」
里美が、ただでさえ大きな目を見開いて、口を尖らせた。
「でも、船の人、わたしたちがいなかったことに気づかなかったのかな。ちゃんと人数確認してくれればよかったのに」
もしかして、キャンプかなにかだと思ったのかもしれない。
「どうしよっか」
「とりあえず、着替える?」
葛葉たちは待合室の裏に行った。順番に足を洗って、タオルを濡らして体を拭いた。
ビーチタオルを巻いて水着を脱ぎ、着てきた洋服に着替える。
焼けすぎた肌がひりひりと痛かった。
身支度を整えて、待合室に移動する。プレハブ小屋に、錆《さび》の浮いたベンチが並んでいるだけの場所だったが、室内というだけで少し落ちつく。
「少なくとも、しばらくは船も迎えにこないよね」
「うん、宿のおばさんも、一時間や二時間遅れたくらいでは、なんとも思わないだろうし」
下手《へた》をすると深夜になってしまうだろう。聖が深くため息をついた。
「お腹|空《す》くだろうなあ」
「お菓子、どれだけ残っている?」
ユンジャの提案にみんな鞄《かばん》を覗《のぞ》き込む。ビスケットが一箱残っているほかは、グミキャンディとか、バナナチップスとかが少しあるだけだ。どちらにせよ、五人の夕食には少なすぎる。
「ダイエットだと思えばいいんじゃない」
ユンジャが言って、みんな笑った。少しずつ緊張はほぐれてきたみたいだった。
まあ、深夜か、最悪の場合でも明日の午前中には船はやってくる。それまでこちらからできることはなにひとつないのだ。
少なくとも五人でいれば、お喋《しゃべ》りはできるから、時間を持て余すことなどない。ゆうべだって、明け方近くまで寝ずに喋り続けていたのだ。
話すことなら、いくらでもある。嫌いな先生の話とか、クラスの感じの悪い子の話。新しくできたアイスクリーム屋の話から、里美のバイト先にいる素敵な大学生の話になる。
そのファミリーレストランでバイトしている大学生は、自分のことが好きかもしれない、と里美は遠回しに言う。
(どこまで本当かどうかわからないけどね)
葛葉は少し意地悪なことを考えながら、里美の話を聞いていた。たぶん、ほかの三人も同じことを考えているのだろう。
里美はうそつきだ。里美の話の中では、彼女はいつも素敵な男の子に憧れられていたり、有名な人と知り合いだったり、お洒落《しゃれ》な場所を知っていたりする。
「不幸パターンもあるわよね。心臓が弱いとか、お母さんが倒れた、とか」
聖があるとき、くすくす笑いながら言った。
「あれ、うそなの?」
目を丸くした葛葉の額《ひたい》を、聖がグーで殴《なぐ》るまねをする。
「葛葉、信じていたの?」
聖と里美は、家が近所で小学校からのつきあいらしい。お母さん同士も親しいのだと言う。
「里美のところのおばさんはいっつも元気そうだし、里美だって健康そのものだってさ」
「なんで、そんなこと言うんだろう」
裏切られたような気になって、ちょっと落ち込んだ葛葉に、聖は笑いかけた。
「里美にもよくわからないんじゃない。だって、うそついたって、わたしにはすぐばれちゃうのにさ」
素敵な男の子の顔を見た人は、だれもいなかったし、お洒落な場所の話は、よく聞いてみると少し変だった。
ユンジャなどは最初、真剣に怒っていたみたいだけど、そのうちに慣《な》れてしまったのか、笑いながら聞くようになった。
不思議なのは、里美にはうそつきの癖以外には、小賢《こざか》しいところはなかったということ。自分が中心でなければ満足できない、というタイプでもなかったし、あまり、他人を嫌うこともないようだった。
葛葉には少し、里美の気持ちがわかる。たぶん、里美は自分がどこか欠けているような気がしているんだろう。だから、なんとなく現実だけでは不安で、うそを重ねてしまうのだろう。
その気持ちがわかるのは、葛葉だけではないと思う。聖もユンジャも桃子も、わかるからこそ、里美を責めたり、うそを追及したりはしないのだろう。
里美のうそは、どこか妙にきらきらしていて、少しも聞くのが苦痛ではなかった。
ちょうど話が途切れた。
葛葉は立ち上がって伸びをした。
「どうしたの?」
椅子の上で脚を抱えている桃子が尋ねる。
「トイレ行ってくる」
「あ、そ」
里美が所在なげにラジカセのスイッチを入れた。曇った女性ボーカルが流れはじめる。それを聞きながら、葛葉は待合室を出た。
音楽に合わせて、鼻歌を歌いながら、トイレに向かう。
用を足して出てきたとき、はじめて気づいた。海に大きな夕日が落ちていた。
赤い色が海に滲《にじ》んで血のように広がっている。空も鮮《あざ》やかな朱に染まり、なんだかぞっとするくらいきれいに見えた。
待合室の後ろは、高台のようになっている。そこから見ると、もっときれいだろう。
葛葉は駆け出した。ビーチサンダルをぺたぺた鳴らしながら、坂を駆け上がる。太陽が沈む前に、坂の上に辿《たど》り着きたかった。
息を切らしながら、てっぺんまで登った。たぶん、ここがこの島でいちばん高いところだろう。
太陽はもう半分以上、海に沈んでいる。空の上の方が少しずつ暗くなる。
絵が描きたい、と葛葉は思った。青い油絵の具を塗った上に、赤い色を重ねていきたい。鞄の中にスケッチブックと色鉛筆ならある。待合室に戻ったら、この景色を少しでも描きとめておこう。
ふと、高台にも水道の蛇口がひとつだけあることに気づいた。なんの気なしに捻《ひね》ってみると、鉄錆色の赤い水が噴《ふ》き出す。
水はすぐ、透明になる。汗をかいて気持ちが悪かったので、両手にすくって顔を洗った。
ついでに、足も洗う。ビーチサンダルを脱ぎ捨てて、ワンピースの裾《すそ》をめくり上げる。
ひんやりとした水が、縒《よ》れるように足に沿って流れていった。
彼は走っていた。
なにが起こったのかわからない。頭が割れそうなくらい痛んで、なにも考えられなかった。
たぶん、なにか計算違いが起こったのだ。予想もできなかったなにかが。
その音楽は、まるで人を狂わせる怪音波のように聞こえた。
そんなことはあってはならない。あってはならないのだ。
息を弾《はず》ませて駆ける。途中、草に足を取られて、何度か転んでしまった。肘《ひじ》を擦《す》りむいて血が滲んだが、そんなことはもうどうだっていい。
彼は走った。なにが起こったのかたしかめるために。
急な坂を駆け昇る。心臓が破れそうだ。
坂を昇りきった彼は、呆然《ぼうぜん》として立ち止まった。
想像もしなかった光景がそこにあった。
華奢《きゃしゃ》な少女が立っていた。灰色のワンピースの裾をめくって、足を水道に差し出していた。
水滴が夕日を受けて赤くきらめいた。
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「葛葉、遅くない?」
ユンジャがふと、顔を上げた。背中の真ん中くらいまで伸ばした髪が、ふわり、と揺れて、いい香りがした。
「遅い、かなあ?」
聖は、葛葉の座っていた場所を見た。葛葉が出て行ってから、十分くらいたっている。たしかに少し遅いかもしれない。
「見てこようか」
ユンジャはそう言って立ち上がった。ほかの三人を見回す。
「だれか、一緒にきてくれる?」
一秒ほど間があって、里美が領いた。聖は少しだけほっとした。
ユンジャが嫌いなわけじゃない。友だち思いで、曲がったことの嫌いないい子だ。だけど、聖は少しだけ彼女が苦手だ。
口に出すほどじゃないし、好きか嫌いか、と聞かれれば、好きだと思う。でも、ふたりきりになると話が続かない。なんとなく、呼吸のリズムが合わない感じだ。
ユンジャと里美が待合室を出ようとしたとき、ちょうど葛葉が帰ってきた。
どこかぼんやりしたような顔で、なにも言わずに座っていた場所に戻ると、鞄を掻《か》き回した。
「遅いから、探しに行こうと思ってたんだよ」
ユンジャがそう言うと、驚いたように顔を上げる。二、三秒目を見開いて、それから笑って、ありがとう、と言った。
葛葉のリズムはいつも独特だ。なんとなく、ほかの人よりも時間の流れが緩《ゆる》やかな気がする。
「夕日がきれいだから、見ていたの。ごめんね」
ユンジャも、ふ、と笑った。いいけど、と言って、ベンチに腰を下ろす。
葛葉は鞄の中からスケッチブックと色鉛筆を出すと、黙って絵を描き始めた。
なんとなく、下の方に目をやった聖は、声をあげた。
「葛葉、血が出てるよ」
彼女の臑《すね》に沿うように、一筋赤い血が流れていた。
「あ、本当だ」
葛葉はスケッチブックを置いて、ワンピースの裾をちょっとだけ上げた。
「さっき、転んじゃったから、そのときかな」
彼女の膝《ひざ》小僧は、子供のように擦りむけていた。
「わたし、絆創膏《ばんそうこう》持っているよ」
桃子が、バスケットを開けながら言う。
「洗ってきたほうがいいんじゃない?」
ユンジャの提案に、葛葉は、ん、と答えたけど、その場を動こうとしなかった。
用意周到にも消毒薬のスプレーまで出した桃子は、葛葉の傷の手当をする。
「ワンピースに血がついちゃったね。裾だけでも洗う?」
葛葉は首を横に振った。
「いいよ。これ、あんまり気に入っていないし」
聖はぼんやりと考えた。葛葉の様子が少し変だ。
だが、葛葉が自分の世界に入ってしまうのはよくあることだ。ほんのちょっとのきっかけで、彼女は別世界にトリップする。
聖は、なんの気なしにベンチの傍《かたわ》らに置かれたスケッチブックに目をやった。赤い色鉛筆で塗りつぶされかけたページがあった。
「今何時?」
膝に頬《ほお》を擦りつけながら、桃子が尋ねた。
「十一時半」
ユンジャが即答する。聖も一歩遅れて、自分の腕時計を見た。極彩色《ごくさいしき》のスウォッチはたしかに十一時半を指《さ》していた。
「そろそろ迎えにきてもいい頃なんだけどな……」
待合室には電灯すらない。月が出ていなければ、きっとお互いの顔すら見えないだろう。今でも、みんなの顔はうっすらと見えるだけだ。
「お腹空いたよ」
里美がため息混じりに言う。聖だって、もうぺこぺこだ。ただでさえ、泳いだ後は、凶暴なくらい空腹を感じるのに、ビスケットの数枚なんてなんの足しにもならない。
最初はそれほど暗い雰囲気もなかったのに、今ではみんなぐったりとしている。むやみに焼いてしまった肌が痛いのも、つらい気分に拍車をかけているみたいだ。
いきなり里美が顔を上げた。
「ね、怪談しよっか。今やると、絶対|怖《こわ》いよ」
「やめてよ!」
自分でもびっくりするくらい強い口調で言ってしまった。
「あ、聖、怖がりだもんね」
ユンジャがくすくす笑う。たしかにもともと怖い話は好きじゃない。でも、それ以上に嫌な予感がした。怖い話なんてすると、なにか本当に危険なものを呼んでしまいそうな気がした。
「だって、ここ……きっとなにかいるよ……」
「ええっ!」
全員、がたがたと立ち上がった。
「なんかいる。感じるもの」
「やめてよう。聖のほうがよっぽど怖いよ」
里美が泣きそうな声で言いながら、ユンジャにすがった。桃子も葛葉も青い顔をしている。
みんなを怖がらせるつもりなんかじゃなかった。でも、たしかになんとも言えない邪悪なものを感じるのだ。薄暗くて大きなものが建物の外を覆《おお》っているみたいだ。
「聖って、霊感あるの?」
「わかんない。今まではそんなこと感じたことなかったけど……」
ふと、葛葉が顔を外に向けた。
「うん、いると思う」
「やだ、やめてやめて!」
里美の悲鳴が上がる。ユンジャが里美の頭をぎゅっと抱きしめた。
皮膚の表面がざわざわとする。血が逆流してくるみたいに熱い。
「ね、本当にやめようよ。なんかもう涙出てきそうだよ」
里美の情けない声に、聖はそれ以上言うのをやめた。葛葉も黙って、ベンチに座った。
聖たちは、今まで以上にそばに寄り、膝をつき合わせて座った。
なんとなく、もう話をする気にもなれなかった。桃子は唇を噛《か》みながら、自分のサンダルをじっと見つめていた。
ひんやりとした風が吹き込んでくる。ぞわり、と皮膚の表面が粟立《あわだ》って、聖はぎゅっと目を閉じた。
なにも考えたくはなかった。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。木々のざわめく音と、身体の痛みで目を覚ました。待合室の中を見回す。
ほかの四人も眠っていた。桃子は膝を抱えて丸くなって、ユンジャと葛葉はお互いにもたれ合うようにして、そうして里美は、ベンチの上に長く伸びていた。
時計を見ると四時をまわっている。外はうっすらと明るい。結局夜のうちには迎えはこなかったらしい。朝の定期便は八時半くらいにここに着く。それまで待つしかないようだ。
変な体勢で眠っていたせいか、ぎしぎしと痛む身体を、縦に伸ばす。ギンガムチェックのシャツの背中が、びっしょりと汗で濡れていた。
汗を拭いて、顔を洗おう、そう思って聖はタオルを持って待合室を出た。
裏の水道のところまで行って、顔を洗った。明け方の空気は夏とは思えないほど、涼しくて気持ちがいい。
夜にあった嫌な気分が消し飛んでしまうようだ。タオルで顔を拭きながら聖は考えた。
散歩でもしてみようか。
たぶん、この島全体は、十五分もあれば一周できるほど小さいだろう。船着き場のあるこちらのほうは、急な坂で切り立ったようになっているけど、昨日泳いだ砂浜のほうなら、道も緩やかだし、緑も生い茂っていて、気分がいいはずだ。
聖はタオルを首にかけて歩き始めた。
散歩は好きだ。座っていれば、堂々|巡《めぐ》りになったり、嫌なふうに考えてしまうようなことでも、外を歩きながらだと、急に風通しがよくなったように明快になる。
聖はあまり、人と仲良くできない。聖が普通に振る舞える人は、二十人のうちひとりいればいいほうだ。
その他の人が、嫌いでたまらないわけじゃない。仲良くできない人の中でも、いい人だな、と思う人や、憧れてしまうほど素敵な人もいる。でも、駄目なのだ。
聖はそういう場合のことを「呼吸のリズムが合わない」と言うことにしている。実際、苦手な人の前だと、まるで呼吸困難に陥《おちい》ったように息苦しくなるのだ。
仲良しの四人の中でも、はっきりと呼吸のリズムが合う、と言えるのは、里美と葛葉だけだ。桃子は少し駄目、ユンジャになると、全然駄目。
なんで、みんなあんなにたくさんの人と、仲良くできるのだろう。聖は、ぼんやりと考えながら歩いた。
舗装された道ではないけど、獣道《けものみち》のように、人が歩いた跡が自然に分かれているので、そんなに歩きにくいわけでもない。
聖には五つ年上の姉がいる。彼女も子供のときは、聖と同じように引っ込み思案で内弁慶だった。「呼吸のリズムが合わない」ということばも、姉が最初に言い出したのだ。今ではそうではない。滅多《めった》にこない親戚のおばさんと喋るときも、にこやかに笑《え》みを浮かべて、お世辞なども言う。
聖にはそんなことはできそうにない。
一度だけ聞いた。
「どうして、お姉ちゃんはみんなと仲良くできるようになったの?」
「慣れただけよ」
姉は笑いながらそう言った。
「そのうちわかるようになるわ。呼吸のリズムが合わなくても、それなりにやっていくことはできるの。息を止めるの。こっちが呼吸をするのをやめるの。向こうが呼吸するのだけ聞いているの。そうしたら、喋れるし、笑う振りだってできるわ」
なんて、苦しそうなんだろう、と聖は思った。姉はこうも言った。
「大人になっちゃうとしょうがないのよ」
大人になんかなりたくない、そう思った。仲良くできない人と無理に仲良くなんかしたくない。息苦しいのは大嫌いだ。
聖は何度も心の中で繰《く》り返した。
姉や、里美や葛葉とか、リズムの合う人とだけ話ができて、笑えればそれでいいのだ。
聖は深く考え込んでいた。だから、聞こえなかったのだ。そのものが近づく音を。
いきなり衝撃が走った。なにか細いものが首に食い込む。
「く……」
息ができずに、聖は声を詰めた。必死になってもがくが、後ろにいるものには届かない。
息が苦しい。目の裏が真っ赤になる。
じたばたと両手を振り回しても、苦痛はなくならない。喉《のど》からなにかがせり上がってくる。
ぷつん、と身体の中で一本の糸が切れた。
聖の身体はぐったりと崩れ落ちた。
桃子ははっと顔を上げた。
ひどく、嫌な夢を見たような気がした。Tシャツの首まわりは、水をかぶったように汗で濡れていた。
外は明るい。時計は持っていなかったから、横にいるユンジャの腕をつかんで、時間を見た。
六時を過ぎている。まるで身体の中が空《から》っぽになったほど空腹で、晒《さら》された洗濯物みたいにくたくただった。
伸びをしながら気づいた。聖がいない。トイレにでも行ったのだろうか。
尿意を感じたので、桃子もトイレに行くことにした。ベンチの下に投げ出された、自分のサンダルに足を突っ込んで立ち上がった。
トイレにも聖はいなかった。トイレから出た後、桃子はあたりを見回した。
人影はない。聖はどこに行ったのだろうか。
もしかして、朝から泳ぎに行ったのかもしれない、そう思ってから、考え直す。聖だって空腹のはずだ。泳ぎたいような気分にはなれないだろう。
なんだか、嫌な予感がした。桃子は待合室に戻った。
「ねえ、起きて」
三人に声をかける。里美は目を擦《こす》りながら上半身だけ起き上がった。ユンジャと葛葉も、目を開けた。まだ、頭ははっきりしていないみたいだ。
「聖がいないんだよ。どこ行ったか知らない?」
「知らないよ。トイレじゃないの……」
里美が寝ぼけたような声で言う。もともと色白の頬が、寝起きのせいで青い。
「トイレにもいないんだもの」
そう言うと、ユンジャは眉《まゆ》をひそめた。
「それはおかしいわね」
「でしょ?」
ユンジャは、領くと立ち上がった。
「探しに行こうよ」
「ええーっ、面倒くさい。待っていたら帰ってくるよ」
まだ眠いのか、むずかる里美に、桃子は言った。
「じゃあ、里美は待っていたら? わたしとユンジャで行ってくるよ」
「わたしも行く」
葛葉が立ち上がった。
「え、え、みんな行くの? じゃあわたしも行くよ。ひとりにしないでよ」
里美もあわてて、起き上がった。四人で、外に出る。
朝の空気は透明で冷たい。こんなときでなければ、とても気分がいいだろう。ユンジャの長い髪が、潮風に巻かれるように舞い上がった。
「わっ!」
ユンジャが髪を押さえる。桃子はどきりとした。ユンジャが一瞬、なにものかに連れ去られるような気がしたのだ。
「風が強いね」
海の方を見ながら、葛葉がつぶやいた。海は、朝の光を増幅するようにきらめいている。向こう岸は霧の向こうに煙って見える。たかが三十分くらいの距離が、どうしてこんなに遠いのだろう。
四人は歩き出した。どこか怖いような気がして、桃子は身を縮めて、まわりを窺《うかが》いながら歩いた。
まず、最初は砂浜に行った。砂浜は昨日のままだった。桃子が砂に描いた稚拙《ちせつ》な猫の絵もそのままあった。
海にも聖の影はない。里美が大声で呼んだ。
「ひじりーっ!」
返事はない。声に驚いたのか、鴎《かもめ》が林から群になって飛び立った。
「ねえ、おかしいよ」
葛葉の声が震《ふる》えていた。ユンジャは自分より背の高い葛葉の髪を撫《な》でた。
「大丈夫だよ。きっと散歩しているだけだよ」
そう言われて、葛葉は目を伏せた。桃子は思った。だけど、ユンジャも自分のことばを信じていない。
砂浜に沿って歩いていると、林の中に入る獣道を見つけた。
「ここ、行ってみる?」
ユンジャは不安そうにみんなの顔を見た。返事をする子はいない。桃子は意を決して言った。
「行ってみようよ。ほかのところを探して、いなかったら、また戻ってこなきゃならないでしょう」
里美が桃子のTシャツの裾を引っ張った。
「ねえ、もう帰ろうよ。聖も帰っていて、心配しているかもしれないよ」
たしかにそういうこともあるかもしれない。少し迷った桃子の背中を、ユンジャのことばが押した。
「帰るにしろ、ここから林を突っ切って行ったら早いと思うよ。ともかく行こうよ」
「でも、道がまっすぐ続いているかどうかわかんないじゃない」
里美は妙に怯えているみたいだ。いや、里美だけじゃない。桃子だって、なんとなく怖いのだ。なにが怖いのかははっきりと言えないのだけど。
「まっすぐ続いていなくても、そんな見当違いの方向には出ないと思うよ」
ユンジャがそう言うと、里美は黙った。四人はその獣道に踏み出した。
ざわざわ、とそこここで枝が鳴る。露《つゆ》に湿った草を踏みながら、四人は歩いた。樹《き》が密生しているせいで、視界ははっきりしない。
(くるんじゃなかった)
桃子はそう思いながら、先へ急いだ。引き返したい気分もあったけど、たぶん前に進むほうが早いだろう。
「聖……」
いきなり葛葉がそう言った。
「え、どこどこ?」
里美が無邪気な声をあげた。葛葉は首を振る。
「違う、違うの」
そう言って、いきなりしゃがみ込む。落ちていたタオルを拾って差し出した。
「これ、聖のタオルだ」
たしかに見覚えがある。淡いブルーにリボンの刺繍《ししゅう》。聖はそれで汗を拭いていた。
そのタオルはだれかに踏みにじられたように、汚れていた。
里美が小さく悲鳴を上げた。
「ど、どうしたの!」
「そこに落ちているの、聖のピンだよ」
桃子は、里美が指さしたヘアピンを拾い上げた。赤いラメの小さなピン。同じものは、日本中にたくさんあると思う。でも、これと同じピンが、昨日から聖の髪に光っていたことを桃子ははっきり覚えている。
ユンジャが呆然とつぶやいた。
「なにがあったの……?」
答えられる者はだれもいなかった。
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誇りを持ちなさい。
ユンジャの母《オモニ》はいつもそう言った。個人としての誇り、民族としての誇り、そして人間としての誇りを。
そう言って育ててくれたことに、ユンジャはとても感謝している。
世の中には自分に誇りを持っていない人がたくさんいる。自分に誇りを持っていれば、できないような行為が溢れている。オモニがそう言って育ててくれたから、自分は決してああいうことをしないだろうと、ユンジャは思っている。
一時的には損をするかもしれないけど、それは間違いなく大切なことなのだ。
誇りさえ持って生きていれば、だれもユンジャを汚すことなんてできない。
ユンジャが中学のとき、病気で死んだオモニが教えてくれたことは、もうひとつ。
自分の仲間を大事にすること。それもユンジャは守っているつもりだ。それは韓国人であろうと、日本人であろうと関係ない。ユンジャは、葛葉や桃子や里美や聖のことを愛しているし、とても大事に思っているつもりだ。
はっきり口に出すと、みんな恥ずかしがるだろうから言わないけれど。
この旅行にくることで、ユンジャは、自分が通っている民族勉強会の仲間と少し揉《も》めた。同じ日程で、彼らも合宿をしようとしていたのだ。
ユンジャはどちらかを優先したつもりはない。ただ、海に行く約束のほうが先だったので、そちらに行くことにしただけだ。合宿の話が先に出ていれば、海のほうを断わっただろう。
それなのに、勉強会の先輩は、ユンジャを責めた。同じ民族の仲間を優先するべきだと言うのだ。
ユンジャにはわからない。ユンジャにとって大事なのは、約束を守ることだ。相手が違う民族だからと言って、約束を破ることは、結果的に自分の民族を貶《おとし》めることにならないのだろうか。そう言うと、その先輩は鼻で笑った。
「女子高生の遊びごときで、なにが約束だ」
ユンジャは腹を立てた。遊びであろうとなんであろうと、約束は約束だ。ユンジャは一度行く、と言ったら、よっぽどのことが起きない限り行くだろう。一度やる、と言ったことは歯を食いしばってでもやるだろう。
それがユンジャの誇りだ。
だから、もし聖が苦しんでいるのなら、なんとしてでも助けに行く。ユンジャはそう思った。
だけど、どうすればいいのかわからないのだ。
待合室に帰ってきても聖はいなかった。林をくまなく探したわけではないから、断言はできない。けれども、どこにも聖はいないようだった。
「海に落ちた……とかじゃないよね」
さっきからずっと怯えたように身体を縮めている里美は、縁起でもないことを言った。
桃子は何度も立ち上がって、外を見に行った。ユンジャは腕時計に目をやった。
「七時半、あと一時間くらいしたら今日の定期便がやってくるよ」
「じゃあ、それまで待ってから、警察に連絡してもらうのがいいかな」
他力本願だけど、たしかにそれがいちばんいいかもしれない。
葛葉は抱えた膝に額を擦りつけた。
「聖……」
今にも泣きそうな声。ユンジャは精一杯元気な声で言った。
「大丈夫だよ。なんでもないかもしれないよ。ふらっと元気な顔で帰ってくるんじゃないかな」
自分でも能天気な言いぐさだと思う。でも、葛葉を元気づけなければならないのだ。葛葉だけでない、桃子も里美もそれほど活発なほうではない。こんなときにリードをとるのはユンジャしかいない。
もし、今一緒にいるのが、しっかりした大人の人ばかりだとしたら、ユンジャだって泣き出してしまうかもしれない。
だから、ユンジャは思った。守ってあげたい、と思える人がいることは、感謝すべきことなのかもしれない。
時間はすでに九時近くなっていた。もう一秒だって我慢できない、と里美は思った。我慢するしかないのだけれど。
本当なら、もうとっくに船がきてもいい頃だ。だのに、海はただ真っ青なだけで、船の影ひとつないのだ。
「船は毎日出てるって言ってたよね」
葛葉が独《ひと》り言のように言った。そう、たしかに宿の人もそう言ったし、船着き場の時刻表にも出ない日があるなんて書いていなかった。
だのに、どうして船はこないのだろう。
里美の緊張の糸は今にも切れそうだ。お腹は空きすぎて、なにがなんだかわからないし、この待合室はひどく暑い。昨日から着ているデニムのキャミソールは汗でべたべたして気持ちが悪いし、丸一日以上お風呂にも入っていない。
頭ががんがんして、吐き気までしそうだ。
聖はたしかにこう言った。
「ここ、なにかいるよ」
そのことばを思い出しただけで、この暑さの中でもさあっと鳥肌が立つ。聖はもしかして、なにものかに連れ去られてしまったのではないのだろうか。
少し前に読んだ怖い漫画でそういうのがあった。その土地は彼岸《ひがん》との境目で、どこからかぬうっと白い手が伸びてきて、少女たちをさらってしまうのだ。
自分で思い出しておいて、里美は泣きたい気持ちになった。
「こなきゃよかった……」
つぶやいて鼻を鳴らす。もしかしたら、里美たちは異次元に迷い込んでしまったのかもしれない。現実の島では、船もきて、釣り人たちが島にやってきているのに、時空を超えてしまった里美たちには見えないし、感じられないのかもしれない。
桃子が口を開いた。
「もしかして、今日だけなにかの問題があって船が出ないのかも」
「じゃあ、あと丸一日、ここで待つってこと?」
ユンジャがそう言うのを聞きながら、里美はスカートを握りしめた。あと一日も待てそうにない。空腹だってひどいし、なによりも精神的にもう限界だ。
せめて、聖が一緒にいれば、これほど恐ろしくはなかっただろうに。
「聖、どうしちゃったんだろう」
つぶやくと、我慢できないように、ユンジャが立ち上がった。
「わたし、もう一度探してくる!」
そう言って出て行こうとするのを葛葉は止める。
「ひとりじゃ危ないよ」
「じゃあ、だれか付いてきて。船を待つ組と、探すのと二人ずつ分かれよう」
一呼吸置いて、桃子が頷いた。
「じゃあ、わたしが一緒に行くわ」
桃子とユンジャは連れだって待合室を出て行った。
待合室には里美と葛葉のふたりだけが残された。
「ねえ、里美。里美はテスト勉強しているとき、なに考えているの?」
唐突に葛葉が聞いた。
「テスト勉強しているときって……別に」
「わたしね。テスト勉強しているとき、いつも、テストが終わったらやる、楽しいことを考えているの。そうしたら、今はつらくても頑張ろうっていう気になるでしょう」
里美はやっと、葛葉がなにを言おうとしているのか理解した。
「だから、帰ったらなにをしようか考えようよ。とても楽しいことをしようよ」
里美は少し考えてから言った。
「ベリーのパフェを食べに行きたい」
葛葉も言う。
「わたしはシュークリームを三つくらい食べてやる」
「ダイエットなんか忘れるよね」
「もちろん!」
「カラオケも行こうよ。カラオケマラソン。五時間くらい歌いまくるの」
「わたしは貯金を下ろそうかな。こないだ見つけたあのスリップドレスを買う。売れ切れていないといいな」
「ピアスを開けてみたい。校則では禁止されているけど、もうそんなことどうでもいいや」
ふと、ことばがとぎれる。いくら楽しいことを並べてみせても、その間から、なにかが忍び込んでくるみたいだ。
里美はラジカセに手を伸ばした。
「音楽かけようか」
葛葉ははっと顔を上げた。
「それより、ラジオ聞こうよ。もしかして、なにか重要なニュースがやっているかもしれないよ」
「台風が近づいているから、船が出ない、とか?」
「そう。それってありえそうじゃない?」
里美はラジカセのスイッチを、AMラジオに切り替えた。つまみを動かしながら、音のはっきり聞こえる場所を探る。
やがて、ラジオからとぎれとぎれの音が聞こえだした。
ユンジャと桃子は林の中を歩いていた。さっきは獣道に沿ってしか歩かなかったけど、今回は脇にもそれてみる。
ふたりともほとんど口をきかなかった。なにか重苦しい沈黙がふたりの間を覆っていた。
ユンジャは思った。桃子が相手だと、不安を隠す必要はない。里美や葛葉が一緒のときには、無理に喋ったり、明るい声を出したりしていたけれど、桃子とふたりになると、とたんにそんな気も失《う》せた。
「ねえ、ユンジャ」
桃子は急にユンジャを呼んだ。
「なあに?」
「聖のことどう思う?」
ユンジャはしばらく考えた。きっと無事だよ、そう言うのはたやすい。でも。
「わたし、この島にはほかにだれかいるような気がする」
ユンジャが口を開く前に、桃子はそう言った。ユンジャは息を詰めた。桃子はどうやら本音で話したがっているようだ。
「じゃあ、その人が聖を連れ去ったということ?」
桃子は頷いてから、目を伏せた。
「こんなこと言ってごめん」
「ううん。でも、里美や葛葉には話せないね」
もし、聖が連れ去られたのだとしたら、その目的はたぶんお金や恨《うら》みなんかじゃない。そう思ってユンジャは身震いした。
そんなことは望んでいないのに、ユンジャたちの年頃の女の子たちには、家畜めいた価値がつけられることがある。そのほとんどは、大人の男たちによってだ。彼らは女の子たちがなにを考えていようが、まったく気にしない。たかが皮一枚の表面だけが大事なのだ。
ユンジャはあることに気づいて愕然《がくぜん》とした。
だとしたら、聖はもう生きていないかもしれないのだ。
桃子がいきなり、ユンジャの腕をきつくつかんだ。
「どうしたの!」
「静かにして」
桃子はそう言って、視線の先を指さした。林の先になにやら青い物がある。半円形のそれはテントのように見えた。
ユンジャは息を呑《の》んだ。
「正解だったみたいね。桃子」
「どうする?」
どうすると言われても、この先に進む勇気などない。そこにいるのは変質者で、もしかしたら殺人者かもしれないのだ。
「戻って、四人で相談しよう」
桃子も頷いた。ふたりで草を踏んで走り出す。恐怖に追い立てられるように、走り続け、砂浜まで出てやっと足を止めた。
桃子がはあはあと息を切らす。
「なんで、あんなところにテントを張っているの?」
「キャンプ……というわけでもなさそうね」
だいたい、ひとりなのか複数なのかもわからない。テントの大きさから言って、それほど多人数のわけはないけど。
「ユンジャ! 桃子!」
名前を呼ばれて振り返ると、砂浜を葛葉が駆けてくるのが見えた。
「どうしたの?」
こちらからも走り寄る。葛葉は足を止めると、荒い息をついた。
「ラジオを聞いたの。そしたら……」
「どうしたの?」
「連絡船が原因不明の海難事故にあったって。十人以上死者が出ていて……まだ、行方不明の人もいるって……」
ユンジャと桃子は顔を見合わせた。
聖の声がしたような気がした。里美は顔を上げて耳を澄ました。もうなにも聞こえない。たぶん、幻聴だったのだろう。
里美はぼんやりと考えた。いつも、現実だけではつまらないと思っていた。ドラマや少女小説や、漫画みたいなことは、どうしてわたしの身には起こらないのだろうか、と考えていた。
だから、うそをついた。いや、うそだなんて思ったことはない。里美の口から出た瞬間、それはまぎれもなく現実だった。里美にはそうとしか思えなかった。
ただ、それはとても壊れやすかった。本当の現実は、どんなことがあっても壊れたり、消えたりしないのに、里美が作り出した現実はあっという間に、色褪《いろあ》せたりつまらなくなってしまうのだ。知識としてだけ知っている、ウスバカゲロウの命のように。
今、自分に起こっていることは、本当に現実なのだろうか、と里美は考えた。時間がたって色褪せたりはしないのだろうか。
まるで、漫画みたいだ。だれもいない島に置き去りにされ、くるはずの船はこない。そうして友だちはひとり、行方不明だ。
もしこの先、ずっと迎えがこなかったとしたら、自分たちはどうするのだろうか。魚を捕まえ、火をおこし、丸太を切って筏《いかだ》を作ったりするのだろうか。
そう思うと、少しだけ笑みが洩《も》れた。ユンジャは張り切るだろう。葛葉は相変わらずもたもたしながらも、ユンジャの言うとおりに動いて、そうして桃子もいつも通り、飄々《ひょうひょう》としているのだろう。
里美ははっと顔を上げた。
「聖?」
答えは返ってこない。でも、なんとなく聖が呼んでいる気がした。
里美はサンダルに足を差し入れて、立ち上がった。待合室の外に出る。
船着き場にはだれもいない。船の影もない。この先いったいどうなるのだろう。
人の気配を感じて、里美は振り返った。
なにものかが、里美に向かって走ってきた。両手で大きなスコップを持ち上げて。
「いやあああああああっ」
泣き叫ぶような悲鳴がして、三人はびくん、と足を止めた。
一瞬だけ時間が止まったように、だれも動かなかった。葛葉は身震いした。なにが起こっているのか、想像するのが恐ろしかった。
桃子がかすれた声で言った。
「里美……」
たしかに里美の声だった。ユンジャが弾《はじ》かれたように走り出した。あわてて、桃子も後を追う。葛葉は足がすくんで動けなかった。
先を走る桃子が振り返って、手招きする。それに力を得て、やっと走りはじめた。悲鳴の方に行くのも恐ろしかったけれど、ひとりだけ取り残されるのは、もっと恐ろしい。
葛葉は必死で走った。息が切れて、汗が目に入った。
船着き場に向かう階段を駆け上がる。桃子とユンジャの背中が見えた。
息を切らしながら、駆け寄ろうとする。ユンジャが叫んだ。
「葛葉! きちゃ駄目」
一瞬、足がすくんだけど、なにが起こったのか知りたい気持ちには勝てなかった。
里美が倒れていた。船着き場のコンクリートの上に俯《うつぶ》せに。
後頭部が割れた石榴《ざくろ》みたいになっていて、あきらかに事切れているのがわかった。
あたりは血だまりのようになっていた。
殺されたのだ。
そう思うと、足ががくがくと震えてくる。崩れそうな身体を、桃子に抱き留められた。恐ろしかった。
ユンジャは、里美の方に歩いていって、急に足を止めた。彼女もどうしていいのかわからないみたいだった。
桃子が震える声で言った。
「中に入ろう……。見ていたくないよ」
そう、たぶん里美だってこんな姿を見られたいなんて思っていないはずだ。
葛葉の足はまだうまく動かなかった。桃子に引きずられるようにして、待合室の中に入る。
三人は崩れ落ちるようにベンチに座りこんだ。
最初に鼻を啜《すす》り上げたのはユンジャだった。膝の上に額を押しつけるようにして泣いた。それにつられるように桃子も啜り泣いた。
里美は殺されてしまった。聖だって、生きているのかどうかわからない。
なによりもつらいのは、あんなに仲良かった里美に触れることもできないということだ。手をつないだり、抱きついたり、じゃれたりして、あんなにそばにあった彼女の身体に、もう自分から触れることすらできない。
恐ろしくて。
そう思うと、どうしようもないものがこみ上げてきて、葛葉は両手で顔を覆った。嗚咽《おえつ》が洩れた。
ごめん。里美、本当にごめん。
葛葉たちはしばらく泣き続けていた。いちばん最後まで啜り泣いていたのは、ユンジャだった。葛葉には少し意外だった。ユンジャが泣いているのを見たのははじめてだったから。
桃子がぽつん、と言った。
「あのテントの人が殺したのかな」
「テントの人?」
「林にテントがあったの。わたしたちのほかにもだれかがこの島にいる」
「どうして……」
「わからない」
ユンジャが髪を振り乱して、大きく首を振った。なにかを振り払おうとしているみたいだった。
「どうして里美を殺さなきゃいけないの?」
「わからない」
そうだ。なにもかもわからないことばかりだ。聖はどうしていなくなったのか、今、どこにいるのか。そうして、そのテントの人間は何者なのか。
そうして、最後の疑問。
葛葉はきつく唇を噛《か》んだ。意を決して口を開く。
「わたしたち、みんな殺されちゃうの?」
空気が止まった。桃子とユンジャは目を見開いて、葛葉の方を向いた。
だれも、そんなことは考えつかなかったみたいだった。
「殺される……殺されるのかな」
桃子はまるで、夢うつつのようにつぶやく。
「わからないわ。だって、どうして里美が殺されたのかも、わからないんだもの」
ユンジャは吐き捨てるように言った。
「そんなことさせるもんですか」
まだ赤く充血した目で、葛葉を見る。
「テントはそんなに大きくなかったから、せいぜいいたとしてもふたり。たぶん、ひとりだと思う。だとしたら、三人で一緒にいれば負けないはず。相手がいくら男の人でもね」
ユンジャはいつも強い。目の前にあるものにまっすぐ向かって行く。
葛葉は眩しく思いながら彼女を見つめた。
桃子も言った。
「もし、何人もいるんだったら、わたしたちが寝ているところを襲って、殺したっていいはずだもの。わざわざ里美がひとりになるのを待っているってことは、たぶん、ユンジャの言うように、ひとりかふたりしかいないってことでしょうね」
ユンジャは立ち上がった。窓から外の様子を窺う。
「それに、気がついている?」
「え?」
「わたしたち、あの船で帰っていたら、全員昨日のうちに、死んでいたわ」
海難事故のことをやっと思い出した。そうだ。時間に間に合って、船に乗り込んでいたら、葛葉たちは全員、海の藻屑《もくず》となっていたのだ。
ユンジャは窓にもたれて振り返った。
「だから、今が最悪というわけじゃないのよ。少なくとも、わたしたち三人は生きているもの」
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葛葉がユンジャと仲良くなったのは、高二で同じクラスになってからだけど、ユンジャのことは一年前から見ていた。
高一の二学期、美術の準備委員だった葛葉は美術室の後片づけをしていた。準備委員はほかにも三人いたのだけど、三人で示し合わせて、葛葉に押しつけて去っていってしまったのだ。
人と言い争うくらいなら、たったひとりで机を並べ替えるくらいなんでもない。葛葉はそう思って、抗議しようとはしなかった。
三分の一くらいまで机を元に戻したときだった。
「ひとりでやっているの?」
透明感のある声がして、振り返ると、そこに髪の長い少女が立っていた。強い視線と彫りの深い顔立ち。まったく着崩していない制服がすがすがしかった。
絵の具を持っていたから、次のクラスの生徒だということはわかった。
「ごめんなさい。今片づけます」
彼女はそれにはなにも言わず、質問を浴びせた。
「ひとりなの? ほかの人は?」
「準備委員の子がみんな休みだから……」
葛葉はうそをついた。その子はにこりともせず、絵の具を置いて、机を並べ替えるのを手伝いはじめた。
葛葉はひどく驚いた。
「あ、あの……わたしがやるから……」
「ひとりでやるより、ふたりでやるほうが早いでしょ」
そう言いながらがたがたと手際よく、机を片づける。彼女は力持ちだった。葛葉がやるよりも、ずっと速いスピードで片づけていった。
片づけ終わると、彼女はさっさと自分の席に絵の具を置いて座った。ぽつぽつと、次のクラスの女の子たちがやってくる。
葛葉は彼女のところに小走りで行った。
「あ、あの、どうもありがとう」
彼女ははじめて笑った。どういたしまして、とも、気にしないでいいわよ、とも言わなかった。ただ、にっこりと笑っただけだった。
同じクラスの子がやってきて、彼女を呼んだ。
「ユンジャ」
葛葉はその、異国めいた響きを心にしまいこんだ。そうして、いつかそんなふうに彼女を呼んでみたい、と思ったのだ。
こんな状況でもお腹が空くのが不思議だった。でも、よく考えればもう、丸一日、まともなものは食べていないのだ。
桃子は自分の鞄の中を探った。棒つきキャンディがひとつ出てきて、桃子はため息をついた。
「こんなのがあった」
ユンジャはちらりとそれを見た。
「桃子が持ってきたんだから、桃子が食べなさいよ。糖分だけでもとっておくと違うわよ」
そう言ってから少し首を傾《かし》げた。
「でも、一口だけ舐《な》めさせて」
そのキャンディは三人の間をぐるぐるとまわった。ほんの少しだけだけど、頭がはっきりしてきたような気がする。
桃子は葛葉に尋ねた。
「どうして、連絡船は事故にあったの?」
「それが、ラジオでははっきり言っていなかったの。エンジントラブルの可能性があるって言っていたけど」
「エンジントラブルくらいで船が沈む?」
「わかんないけど……」
船のことにはまったく詳《くわ》しくないから、わからないのは桃子だって同じだ。
「だから、助けがこなかったんだね。みんな、わたしたちも船に乗っていて行方不明だと思っているんだ」
ユンジャはどこか遠い目でそう言った。
「じゃあ、お父さんやお母さんも、わたしが溺《おぼ》れて死んでしまったかもしれないって思っているのかな」
葛葉はもうなくなってしまったキャンディの棒を噛みながらうつむいた。
「たぶん、ね。宿のおばさんが、家に連絡したんじゃないかな」
だとしたら、桃子の両親ももしかしたら対岸の町にきているかもしれない。なんとかして、助けを呼ぶ方法はないのだろうか。
葛葉がラジカセを引き寄せた。
「もう一度、ラジオつけてみようか」
周波数を変えながら、はっきりとした音を探す。やっと飛び込んできた声は、下品なお喋りを続けていた。胸が悪くなるような気がした。
「ニュース、やっていないみたいだね」
葛葉も同じ気分になったのか、ラジオを消した。
桃子は深くため息をついた。
桃子たちはまだ生きている。でも、それがいつまで続くのかはわからない。それを海を越えた向こうに伝えることさえできれば……。
ユンジャが急に立ち上がった。待合室の隅にあるロッカーに近づいて、ドアを開ける。
そのロッカーの中身は昨日のうちに覗いてみていた。掃除道具の竹箒《たけぼうき》やバケツがあるだけだった。
ユンジャは竹箒を取りだした。
「どうしたの? ユンジャ」
「桃子、ここ踏んで」
竹箒の掃《は》くほうを指さす。桃子は不審に思いながらも、言われたとおりそこを踏んだ。
ユンジャも足で、竹箒の棹《さお》をきつく踏んだ。そのまま力を入れる。
派手な音がして、竹箒は折れた。
「な、なにするの?」
「少しでも武器になるかと思って……」
ユンジャは平然とそう言った。たしかにぎざぎざに折れた竹箒の先は、人を刺すことだってできるのだろう。その、尖った部分を見ていると、ユンジャの意志の激しさが伝わってくるようで、桃子は眩暈《めまい》のようなものを感じた。
葛葉もびっくりしたらしかった。
「そんなのやだよ……」
「なにもあんたたちに持ってくれ、なんて言っていない」
ユンジャは冷たく言った。よく考えれば、今はユンジャの認識のほうが正常なのかもしれない。戦わなければ、わたしたちは殺されてしまうかもしれないのだ。
桃子は立ち上がった。室内を見回して、身を守るため役に立ちそうなものを探す。屑籠《くずかご》の位置を固定するために置かれているブロックに目がいった。
「こんなものでも役に立つかな」
「たぶん、ないよりはましでしょ」
ユンジャはどこか投げやりな口調で言った。桃子は二個のブロックを抱えると、自分の座っている横に置いた。
(こんなもので殴ったら、きっと死んじゃうでしょうね)
頭の中に描いた情景は、まるでコメディ映画のように現実感がない。映画や漫画の中では、いくら鈍器で殴られようと、血を流そうと、次のシーンではけろりとしている。現実の死はそういうものではないだろう。
現に里美は、船着き場で事切れている。もう二度と笑うことも、喋ることもないだろう。
そう思うと、全身に鳥肌が立つようだった。
だれだかわからない殺人者は、本当に里美を殺したのだ。
「里美……」
なにも考えずに、唇が名前を呼んでいた。ふたりの視線が桃子に集まる。
ユンジャは折れた竹箒を、壁に立てかけた。
「里美をなんとかしてあげなきゃ。あのままじゃ可哀想だもの」
葛葉も頷いた。三人で外に出る。里美の亡骸《なきがら》は、まだそこにあった。
「どうしよう……」
本当は目の前の海にそっと流してあげたいと思った。静かに波の合間で眠らせてあげたかった。でも、そんなことはしてはいけないのだろう。
ユンジャがビーチタオルを持ってきた。一瞬|躊躇《ちゅうちょ》した後、決意したように里美の亡骸に近づいて、頭をタオルで覆った。
無惨な傷口が隠れ、やっと桃子は里美の遺体を正視できるようになった。
「待合室に運ぶ?」
葛葉が尋ねる。桃子とユンジャは顔を見合わせた。帰れるのはいつになるのかわからない。この暑さでは、死体が腐敗するのも早いだろう。
妙に冷静に考えてしまった自分に、少し自己嫌悪を感じながらも、桃子は言った。
「里美には悪いけど、どこか違う場所で眠ってもらおうよ」
ユンジャも頷いた。桃子は自分に言い聞かせる。わたしたちは生きなければならないのだ。
「桃子、足のほう持ってくれる?」
ユンジャはそう言って、里美の上半身を抱き上げた。あわてて、言われたとおり、足を抱き上げた。
冷たいふくらはぎが肌に貼り付いて、桃子は一瞬息を呑んだ。これが死んだ人の感触なのだ。
その感触はなににも似ていない。人の肌の柔らかさも、温《ぬく》みもなかった。
桃子は一瞬にして理解した。
死んだ人は、物になってしまうのだ。
自分の頬を涙がつたっていることに気づく。それは里美の皮膚よりもずっと熱かった。
桃子たちは、里美の亡骸を、生い茂った草むらの中に寝かせた。頭はタオルで覆ったままにしたから、里美はまるで眠っているように見える。
桃子はずっと考えていた。
死んでしまった人のために、いったいなにをしてあげられるのだろう。
夕日が落ちる。
窓から赤い光線が差し込んできて、葛葉は顔を上げた。
昨日、この夕日に見とれてから、もう丸一日がたつのだ。その一日で、いろんなことが変わってしまった。
五人いた仲間はもう三人しかいない。半分より少し多いくらい。
そんなふうに考えてから、葛葉はぎゅっと目を閉じた。なにかが麻痺《まひ》しているみたいだ。
身体が熱い。ずっと冷房もない小さい部屋にいるせいか、汗が止まらなかった。
喉がしきりに渇《かわ》く。
もし、この島に水道も通っていなくて、水すら飲めなかったら、と思うと、背筋がぞっとした。
葛葉は手にしたハンカチで、また汗を拭《ぬぐ》った。ハンカチはもう水で濡らしたようになっている。
「葛葉、どうしたの?」
いきなり桃子が顔を覗き込んできた。
「なんでもない。ただ暑くて……」
「なんか顔色悪いよ」
手が伸びてきて、額に触れる。その冷たさに、身体がびくん、と震えた。
「やだ。この子熱あるよ」
桃子がユンジャに言った。竹帯を片手に窓の外を見ていたユンジャが、こちらにやってくる。
「どうしよう……」
桃子が不安そうに言った。ユンジャも困ったような顔をして、葛葉の手を握った。
「本当だ。熱い」
「大丈夫。ちょっと疲れただけだから」
葛葉はそう言って笑った。そう、たぶんいろんなことがあって疲れただけだ。すぐに楽になる。
「少し寝たほうがいいよ。横になってさ」
葛葉は頷いて、ベンチに横たわった。改めて、自分の身体がどろどろになりそうなほど疲労していることに気づく。
こんな時間がいつまで続くのだろう。
桃子とユンジャが喋っている声が聞こえる。
「解熱剤持っているけど、飲ませたほうがいいと思う?」
「桃子って本当に用意周到だね。でも、どうだろう。風邪《かぜ》の初期だったら、無理に熱を下げないほうがいいと思うけど」
「もうちょっと様子を見てみようか」
そんな会話を聞きながら、葛葉は少しずつ眠りの淵に吸い込まれていく。
帰りたい。うつろな頭で葛葉は思う。柔らかい布団の上で横になりたい。そんなにたくさんはいらないから、温かい食べ物を少しだけ食べて、そうしてゆっくりと眠りたい。
どうしようもなく悲しくなった。
葛葉が望んでいることは、そんなにも難しいことなのだろうか。
「葛葉、まいっちゃっているみたいだね」
相変わらず、片手に竹箒を持ちながら、ユンジャはぽつり、と言った。
桃子はユンジャの横顔を見つめた。彼女だってひどく青い顔をしている。いつもは赤い唇にもほとんど色はない。
葛葉だけではないのだ。ユンジャだって、桃子だってまいっている。
これがゲームだったら、とっくにコントローラーを投げ出しているところだ。
だけど、現実はリセットすらできない。
桃子は立ち上がった。
「水、汲《く》んでくる。ついでにタオルも濡らしてくるわ」
「一緒に行こうか?」
「そうすると、葛葉がひとりになっちゃうもの。大丈夫。でも、それ貸して」
手を伸ばすと、竹箒を渡してくれる。さすがにブロックを持ち歩くわけにはいかない。
桃子は水筒とタオルを持って、待合室を出た。
トイレの前の水道で、水筒に水を汲んで、タオルを濡らす。
風が枝を揺らす音にさえ、身体がぴくりと反応する。まるで、全身の神経が剥《む》きだしになっているみたいだ。
ふと、強い視線を感じた気がした。タオルを取り落として、竹等を握りしめる。そのままあたりを見回した。
心臓が止まりそうだった。
坂の上に男が立っていた。帽子を深くかぶって、顔の上半分を包帯で覆っているから表情は見えない。でも、そんなに若くはないはずだ。
男と桃子の距離は百メートル近く離れていた。向こうもたぶん、桃子を見ている。だが、この距離なら走って逃げることは可能だ。これでも足には自信がある。
桃子は水筒とタオルをひっつかんだ。じりじりと後ずさる。
男は動こうとはしなかった。たぶん、この距離では不利だと気づいているのだろう。
桃子は駆け出した。待合室に飛び込む。
「どうしたの?」
葛葉のそばにかがみ込んでいたユンジャが、こちらを向く。
「男の人がいる!」
「なんですって!」
外に出ようとしたユンジャを腕をつかんで引き止める。
「駄目! たぶん、わたしたちがまたひとりになるのを待っているのよ」
ユンジャは苛立《いらだ》ちを抑えるように、きつく爪を噛んだ。
「やっぱり、わたしたち全員を殺そうとしているの?」
「わからないけど……でも友好的には見えなかったもの」
「顔は見た?」
桃子は首を横に振った。
「見えなかった。包帯みたいなのをしているの。帽子もかぶっているし……」
ユンジャは窓の外に目をやった。
「どんな様子だった?」
「こっちを窺っているみたいだった。距離があったから、向かってこようとはしなかったけど……でも」
「でも?」
「なんか、すごく嫌な感じだった」
ユンジャはきゅっと眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。桃子は、眠っている葛葉のそばに近づいた。濡らしたタオルで彼女の額を拭う。
「わたしたち、本当にどうなっちゃうんだろう」
ユンジャは返事をしなかった。
夜になると、葛葉の熱が上がった。桃子はとりあえず、解熱剤を飲ませて、もう一度寝かせた。
今夜もまた月が出ている。それだけが幸運と言ってもいいくらいだ。月がなければ、この灯《あか》りのない小部屋は真っ暗で、一寸先も見えないだろう。
ユンジャも桃子も眠る気にはなれなかった。
身体の横に、折った竹箒や、ブロックを置いて、もしだれかがきたときに備える。
ユンジャはぽつりと言った。
「戦争ってこんな感じなのかしら」
今まで、自分の命がこの先続かないなんて、考えたこともなかった。明日は必ず、今日の続きで、だらだらと流れていくのだと思っていた。
「ねえ。この島にいるのは、あのひとりだけだと思う?」
ユンジャの問いに答える。
「わたしはそう思う。もし、わたしが犯人で仲間がもうひとりいたら、この待合室を襲撃するわ」
女の子が三人に、男がふたりなら、勝ち目はある。そうではないから、襲ってこないのだと桃子は考えた。
ユンジャはまた問いかけた。
「わたしたちを殺して、なんのメリットがあるって言うの?」
「わからない」
お金なんか持っていないし、だれかに殺されるほど恨まれる理由なんてない。たぶん、聖だって里美だってそうだろう。
桃子たちは、ごく普通の高校生なのだ。桃子たちのまわりの世界なんてたかが知れている。勉強だとか、音楽だとか、お菓子だとか、そんなものがほとんどを占めているのだ。殺される理由なんて思いつかない。
「理由なんかないのかな」
ユンジャは熱に浮かされたような声でつぶやいた。
「え?」
「理由なんかなくても、人のことを憎んだり、傷つけたいって人たくさんいるもの。理由がなくても人を殺す人だっているかもしれない」「そんな……」
ユンジャは髪をかきあげて笑った。
「わたし知っている。人を傷つけないと、不安な人っているのよ。自分が不安定でつらいから、ほかの人を傷つけて、そうしてやっと生きているの。理由なんかなくていいの。たとえば、国籍が違うとか、住んでいるところが違うとか、そんな理由だけでその人たちには充分なのよ。今、この島にいるのもそういう人なのかもしれない」
ユンジャは笑っていたけど、その笑顔は楽器の弦《げん》のように張りつめていた。触れると指が切れてしまいそうだった。
桃子はふいに、気がついた。理不尽《りふじん》なことや、曖昧なことを飲み込んで、桃子たちは大人になるのかもしれない。桃子の知っている大人の人は、みんな理不尽なことにも寛容だったから。
里美や聖は、それを受け入れる過程で弾《はじ》かれてしまったのかもしれない。
そうして、桃子やユンジャや葛葉は、それを受け入れることができるのだろうか。
たぶん、今、なにかが変質しているのだ。桃子たちを含む世界が。
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ユンジャは爪を噛んだ。もう爪の先がぼろぼろになっているのがわかる。
爪を噛む癖など、もうとっくに治ったと思っていたのに。
夜はとっぷりと更けている。解熱剤を飲んだ葛葉はもとより、桃子も疲れ切ったのか、かすかな寝息を立てていた。
ユンジャはずっと考えていた。眠れなかった。眠たくもなかった。疲れているはずなのに頭が、恐ろしいほど冴《さ》えていた。
たぶん、ユンジャたちの体力はそう続かないだろう。もう二日もまともに食べてはいないのだ。おまけにこの暑さだ。
でも、彼は違うだろう。テントを用意しているということは、食料もそれなりに運び込んでいるのだと思う。たぶん彼は待っているのだ。ユンジャたちが衰弱するのを。
運がよければ、明日の朝、また連絡船がここにやってくるかもしれない。そうすれば、ユンジャたちは助かるだろう。でも、こなければ?
もし、ほかにすることがなにもないなら、そのわずかな運に賭《か》けて、眠ってしまうのもいい。でも、本当にすることはなにもないのだろうか。
ユンジャは思い出す。
オモニは誇りを持って生きなさい、と言った。そうして、仲間を大切にしなさいと。
(ねえ、オモニ。こんなとき、わたしはどうすればいいと思う?)
葛葉はまたうっすらと汗をかいている。ユンジャはハンカチで、それを拭った。
葛葉がユンジャのことを好きでいてくれることは、ずっと気づいていた。葛葉はあまりことばや態度で、そういうことを示すほうじゃないけど、それでもわかる。
最初はなんだかくすぐったかったけど、うれしかった。自分はなんにも間違っていなかったんだ、と信じられたから。
名前のことだってそうだ。ユンジャはときどき不安になった。もしかして、呼ばれるままに、みんなと同じ響きを持つ名前にしていればよかったのかもしれないと。
小学校まではそれで通していた。金村《かねむら》潤子《じゅんこ》と言う名前で。それに戻したほうがいいのかもしれない、とときどき思った。
そう思わなくなったのは、葛葉の一言のおかげだった。
高二で同じクラスになり、お弁当を一緒に食べるくらいに仲良くなったあるとき、葛葉は話してくれた。ユンジャのことを、高一のときから知っていると。
その、美術室の出来事をユンジャは覚えていなかった。そんなこともあったかもしれない、とは思ったけど、そのときの女の子が葛葉だったかどうかなんて覚えていない。
正直にそう言うと、葛葉は傷ついた様子もなくこう言った。
「あのとき、だれかがユンジャの名前を呼ぶのを聞いて、いいな、と思ったの」
「いいってなにがよ」
笑いながらそう尋ねると、葛葉は急に赤くなってこう言ったのだ。
「なにって、響きとか……そういうのが」
ただ、それだけのことだ。本当にそれだけ。でも、人が強くなれるのは、こういう些細《ささい》なことのおかげではないのだろうか。
ユンジャはゆっくりと立ち上がった。
時間は三時をまわっている。バッグの中身を全部出して、肩にかけた。折った竹箒を片手で持つ。
最後に振り返って、葛葉と桃子の顔を見た。
夜のうちは暗くて動けない。ユンジャたちは懐中電灯もなにも持っていない。あのテントの男もそれは知っているだろう。だから、夜は油断しているに違いない。
夜が明ければ、彼は警戒をはじめるだろう。そうして、暗すぎれば動けない。
だから、今だ。この夜が明ける瞬間しか時間はない。
ユンジャは走った。これは賭だ。負けるわけにはいかないけど、ある意味、負けてもともとなのだ。矛盾しているけど、今はそうとしか思えない。
どうせ、無事に船に間に合っても、事故で死んでいたのなら、今、ここに生きていることがおまけみたいなものだ。でも、どんなことがあっても、葛葉と桃子を死なせるわけにはいかない。
だから、必死になって走った。少しずつ闇が薄まってきて、視界がはっきりとしてくる。
砂浜に辿り着き、そこから林の中に入る。昼間、テントを見つけた方向に向かって歩き続けた。
足下は露でぐっしょりと濡れていて、ひどく冷たかった。聞いたことのない、鳥の声がする。
ユンジャは額の汗を拭った。
ふと、足が止まる。そこだけ、土の色が変わっていた。わざと、落ち葉を掻き集めてあるのが、よけいに不自然だ。
ユンジャはしゃがみ込んで、土を撫でた。明らかにそこだけ軟らかい。
深く息を吐く。心でつぶやいた。
(聖……見つけた)
たぶん、ここに彼女が埋められたのだろう。ユンジャはそう確信した。可哀想な聖。でも、あなたをここで眠らせたままにはしない。
ユンジャはビーズのブレスレットを外して、そばの針葉樹の枝に留めた。
(あとで絶対、迎えにくるからね)
土の中で眠っている聖に、ユンジャは約束した。ユンジャは約束を破らない。絶対に。
今は時間がないのだ。
そうして、また走り出す。遠くの方にテントが見えた。
だれかに呼ばれたような気がして、葛葉は目を覚ました。
夜はうっすらと明けかかっている。全身が汗でびっしょり濡れていた。
横では桃子が身体を丸めるようにして、眠っていた。
嫌な予感がした。声に出して呼んでみる。
「ユンジャ?」
返事はない。
ユンジャは少し迷った。
殺すつもりはない。もちろん、向こうがその気なら、こっちだって躊躇はしないけど。でも、できることならそれは避けたい。
少し大きめの石を探して、あたりを見回した。ちょうど、片手でつかめる大きさの石を見つけて、それを手に取った。竹箒は、とりあえず足下に置く。
テントの中の様子を窺う。中で、人が動いている気配はなかった。ユンジャはそっと、入り口から中を覗いた。
男は眠っていた。ユンジャの考えたとおりだ。
音をたてないように中に入る。
男の顔を見ながら、ユンジャは少し迷った。殺すつもりはない。でも、殺してしまうかもしれない。ユンジャは犯罪者になるのだろうか。
大きく息を吐いて、葛葉と桃子のことを考えた。だとしてもしょうがない。ユンジャは負けるわけにはいかないのだ。
石を男の頭に叩きつけた。
「ぐうっ!」
妙な声を出して、男の身体が弛緩《しかん》した。
息が止まりそうだった。震える手で男の手首を探った。
脈はまだある。死んではいない。男の額からすうっと血が流れ出す。赤い血が、顔の上部を覆った包帯を濡らした。
意識が戻ることを恐れて、ユンジャはハンカチで男の両手を縛《しば》り上げた。
拘束してしまうと、少し安心する。男の顔を覗き込む。若くはない。たぶん、四十代か五十代だ。
ユンジャはテントの中を見回した。大きなスコップを発見して、それを持って帰ることにした。聖を迎えに行かなければならない。
テントの片隅にリュックを見つけた。その蓋《ふた》を開ける。中には乾パンやドライフルーツなどの保存食があった。缶詰もいくつかある。
それを詰められるだけ、自分の鞄の中に移した。ついでに缶切りを探す。
リュックには小さなポケットがたくさんついていた。それを片っ端から覗いていく。
あきらめかけた頃、缶切りのついた小さなサバイバルナイフを見つけた。
ほっとする。これで帰ろう。少なくともこれだけ食べ物があれば、しばらくはしのげるだろう。
狭いテントの中で立ち上がろうとしたとき、背中にどん、となにかがぶつかった。
痺《しび》れるような感触があって、それが掌《てのひら》を返すように激痛に変わっていく。
反射的に飛び退《の》いた。
男が起き上がっていた。血で染まった包帯の間から、狂気を含んだ目がこちらを見ている。
彼の拘束された両手には、血染めの包丁が握られていた。
刺されたのだ。
そう思うと、急に全身から力が抜けた。
だが、ここで負けるわけにはいかない。ユンジャは傍らのスコップをつかんだ。
「ねえ、桃子、起きてよ!」
激しく揺さぶられて、桃子は目を開いた。いつの間にか眠っていたようだ。
葛葉が真っ青な顔で、桃子を覗き込んでいた。
「あ……葛葉、熱は下がったの?」
「そんなことどうだっていいよ」
葛葉は泣き出しそうな顔でそう言った。
「ユンジャがいないの。トイレも見てみたけど、いないんだよ」
そう言われて飛び起きる。たしかに待合室に彼女の姿はなかった。
「聖のときと一緒。目が覚めたら、もういなかったの……」
桃子はベンチから降りた。夜のうちにユンジャが座っていたベンチには、なぜか彼女の持ち物が散乱していた。
キツネのキャラクターのついたポーチや、蛍光ピンクの手帳。ビーズストラップの携帯電話、水着の入った袋。
でも、それが入っていたはずの、帆布の大きなバッグがどこにもない。
ユンジャは空《から》のバッグだけを持って、どこに行ったのだろうか。
葛葉が探しに行く、と言い出したのを止めた。ユンジャは帰ってくるような気がした。変に桃子たちが動くと、帰ってきたユンジャが待合室でひとりになる。
葛葉はひどく怯えていた。
「もう嫌。こんなのはやだ……」
泣きじゃくりながらそう繰り返す。ユンジャは戻ってくるよ、そう言いたかったけど、どこかが疲れて痺れ切っていた。葛葉を慰めることすら、おっくうに思う自分が不思議だった。
葛葉はふと、身体を強《こわ》ばらせた。なにか決心したように口を開く。
「あのね、桃子……」
がたん、と入り口で大きな音がした。
葛葉と桃子は飛び上がらんばかりに驚き、それから立ち上がった。
ユンジャが、入り口にもたれていた。鞄を肩にかけ、片手にスコップを持っている。
「ユンジャ。どこに行っていたの。心配したんだよ!」
葛葉の声がひどく遠くから聞こえた。桃子は動揺していた。つんとするような血の匂いがしたから。
ユンジャは笑みを浮かべ、そうして、その場に崩れ落ちた。
「ユンジャ!」
彼女の小花模様のブラウスの背中は、鮮やかな赤に染まっていた。
桃子と葛葉はユンジャをベンチに座らせた。彼女の背中にまわした手は、べっとりと血に濡れた。タオルで押さえても、血はどんどん溢れてきた。
「ユンジャ、ユンジャ、いったいなにがあったの!」
葛葉が悲鳴のような声で尋ねる。ユンジャはかすれた声で答えた。
「鞄の中に、食べ物が入っているから。男のテントに行って盗んできたの……。気絶させて、縛ったつもりで……油断しちゃった……」
「どうしてそんなことを!」
「だってこのままだったら……、三人とも衰弱して、負けちゃうよ……」
葛葉は泣き叫んだ。
「そんなことして欲しくなかった!」
ユンジャは目を細めて葛葉を見た。
「うん、わかっている。ごめんね」
そうして大きく息を吐いた。
「あの男、スコップで殴ってしまったから、もしかして、殺しちゃったかもしれない……」
「そんなの気にしなくていいよ。あいつが聖も里美も殺したんだから!」
「聖が埋められているところも見つけた……、そばの枝にブレスレットをつけてきたから……、もし、あんたたちが助かって、迎えがきたら……、聖も迎えに行ってあげて……」
「うん、わかった」
桃子は、深く頷いた。ユンジャの血は止まらない。あっと言う間にタオルが真っ赤に染まる。
タオルを替えようとすると、ユンジャは今まででいちばんはっきりした口調で、もういいから、と言った。
「あんたたち、食べなさいよ……。人の好意を無にするもんじゃないわよ……」
ユンジャはぶっきらぼうにそう言った。息がどんどん上がってくる。
桃子は思った。彼女に今、どう言うのがいちばん正しいのだろう。
ユンジャの頬にかかる髪にそっと触れた。そして言った。
「ユンジャ、ありがとう」
彼女は笑った。どういたしまして、とも、気にしなくていいわよ、とも言わなかった。ただ、笑っただけだった。
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彼女の身体は、なにかが引いていくように冷たくなっていった。葛葉は必死に彼女の手を握っていた。そうすることで、彼女を引き止めることができると、葛葉は信じているみたいだった。
桃子は彼女がいつ、本当に事切れたのかわからなかった。
ある瞬間から、喋らなくなり、眠るように目を閉じた。でも、そのときはまだ、か細い脈打ちはあった。何度も何度も、それを確かめるように、首筋に触れている間に、いつの間にかそれすらなくなっていたのだ。
ユンジャは静かに、彼岸に渡ってしまった。あまりに静かすぎて、泣いていいのかどうかすらわからなかった。泣いてしまうと、本当に彼女の死を認めてしまうような気がした。
桃子は立ち上がって、ユンジャの鞄を拾いに行った。たしかにその中には、二、三日生き延びられるだけの保存食が入っていた。
桃子は、ベンチに座って乾パンの袋を開けた。口の中に押し込むようにそれを食べ、水で流し込んだ。
葛葉は驚いたような顔で桃子を見ていた。
「葛葉も食べなさいよ」
「いや、欲しくない。なんにもいらない」
彼女は激しく首を振る。
「ユンジャを無駄死にさせるつもりなの?」
冷たい口調で言った。葛葉は顔をくしゃくしゃにして啜り泣いた。
葛葉にはそれ以上かまわず、桃子は食べた。堅い食物を、音をたてて噛み砕いて、そうして飲み込んだ。
葛葉がゆっくり立ち上がった。そうして、桃子の隣りにやってきて座る。
桃子は乾パンの袋を彼女に差し出した。葛葉は手を伸ばして、ひとつ取った。
葛葉は食べながらつぶやいた。
「わたしたち、ゆうべのうち、三人で海に入って死んでしまえばよかった」
たしかにそれもよかったかもしれない。そうすれば、こんなつらい思いもせずにすんだ。笑いながら手をつないで、まっすぐ海に入っていけばよかった。
でも、もう遅いのだ。ギアは切り替わった。ユンジャが切り替えたのだ。桃子たちが生きるように。
葛葉にもそれはわかっているのだろう。乾パンと干し無花果《いちじく》を少しずつ食べて、そうして水を飲んでいた。
桃子は、鞄の中からビーチマットの代わりにした布を取りだして、ユンジャの身体の上にかけた。
「聖を、探しに行こうか……」
そう言うと、葛葉は静かに頷いた。
食物を取ったことで、ぐったりとしていた心と身体が動きはじめた気がした。
スコップを片手に立ち上がる。もう片方の手で、葛葉と手をつないだ。
ふたりで手を握り合ったまま、砂浜を歩いた。空は憎たらしいほど晴れていて、砂浜には光が溢れている。
自然は最初の日となにひとつ変わらない。なのに、あの日のことはもう遠い夢みたいだ。
林の中で、ユンジャのブレスレットを探した。時間はかかったけど、それは見つかった。張り出した枝にきらきらと光るそれが留められてあった。
わざとらしく落ち葉が積み上げられた場所を、軽く踏んでみる。ほかの場所よりも、土が軟らかい。
桃子はそこにスコップを差し込んだ。何度も土を掘り返す。汗が流れて額をつたい、目に入った。
途中で葛葉と交代して、また続ける。五十センチくらい掘ったところで、青いギンガムチェックの布が覗いた。
葛葉は大きな目を見開いて、桃子を見た。頷く。間違いなく聖の服だ。
桃子も手で葛葉を手伝った。爪の間に土が入って少し痛いが、それどころではない。
やっと聖の顔が覗く。葛葉は小さな悲鳴を上げて、スコップを取り落とした。
「ひどい……」
聖の顔は無惨に変貌していた。紫色に染まり、舌まで出ている。たぶん、首を絞められたのだろう。彼女の細い首には、鬱血《うっけつ》の痕《あと》があった。
桃子は顔を背《そむ》けた。ぷん、と漂《ただよ》う不快な匂いは、死臭なのだろう。
もしかして、掘り出さなければよかったのかもしれない。そう思ってしまってから後悔する。
どんな姿になっても、聖は桃子たちの仲間だ。こんなところに埋められていていいわけがない。
聖の腕をつかんで、穴から引っぱり出した。死んだ仲間に触れるのも三人目だ。
(いいかげんに慣れてきたわよ)
桃子は自分に言い聞かせ、聖を持ち上げた。
とたんに桃子は自分の目を疑った。
聖の下に、もうひとつ死体があった。
急に葛葉が叫んだ。
「桃子!」
はっと顔を上げる。向こうの方から男が走ってきていた。よろよろと、おぼつかない足取りだが、間違いなくこちらに向けて。
血に染まった包帯で顔は見えないけど、憎悪の波動がこちらに伝わってくるようだ。桃子は聖の手を離した。
「葛葉。逃げよう!」
ふたりで駆け出す。少なくともこちらは怪我《けが》などしていないから、引き離すのは簡単だろう。
走っているうちに、男は見えなくなった。
息を切らして葛葉が尋ねた。
「待合室に戻る?」
「今は駄目。先回りされているかもしれない」
葛葉の顔が泣きそうに歪《ゆが》んだ。桃子はわざと力強く言った。
「見たでしょう。あの様子。たぶん怪我をしているわ。逃げ回っていれば捕まらないわよ」
葛葉は少しだけ、なにか言いたげな顔をしたが、口を閉ざして頷いた。
桃子は尋ねた。
「見た?」
「なにを?」
「聖の下に、もうひとつ死体があった」
「ええっ!」
桃子だって、幻覚かと思った。でも間違いない。背広を着た、それほど背の高くない男の死体だった。俯せになっていたから、顔は見えなかったが、死んでいることはわかった。
背中がどす黒く染まっていたから。
そう、ユンジャのように。
「どうして……?」
葛葉の問いに、桃子は考え込んだ。なんとなく、ばらけていたパーツがひとつになるような気がした。
「もしかして、あの男は、殺人をするためにこの島にやってきたのかもしれない。殺して、埋めて、証拠|湮滅《いんめつ》をするつもりだったんじゃないかな。無人島だから、だれにも見られないはずだった」
「でも、わたしたちが残ってしまっていたってこと?」
桃子は頷いた。
「わからないけど……もしかしたら聖はそれを目撃してしまったのかもしれない。それで、聖も殺した。ほかの仲間も殺してしまえば、外部の人間は船の事故で死んだのだ、と思ってくれる。だから、全員殺そうとした。ひとりでも生かしておくわけにはいかない。だって、船の事故で死んだんじゃないことが、ばれてしまうもの……」
葛葉はかすかに口を開けた。迷うようにもう一度閉じる。桃子は言った。
「運が悪かったのかな、わたしたち……」
「わからない……」
いいのか悪いのかなんて、もうどちらだっていい。ユンジャの言ったように、船の事故でみんな死んでしまうよりはましだったのかもしれない。でも、もうそんなことは些細な違いだとしか思えないのだ。
桃子たちは、そのまま砂浜で座りこんでいた。
ここなら、どこから男が現われても、すぐに走って逃げられるだろう。
「喉が渇いた……」
しばらくして葛葉がつぶやいた。桃子も同じことを言おうとしていた。
真夏の砂浜は暑く乾いている。全身から水分が抜けてしまったようだ。けれども、真水の水道は待合室のそばと裏の高台にしかない。
「様子を見ながら、戻ってみる?」
あの男の走り方を見る限り、かなりひどい怪我をしているようだった。それほど警戒することもないかもしれない。
ふたりで、砂浜を歩いて、船着き場の方へ向かった。
船着き場には人影はなかった。待合室を覗いてみる。ユンジャは先ほどと同じ姿のまま、目を閉じていた。ほかにだれかが潜《ひそ》んでいる気配もない。
桃子は待合室に入った。葛葉もあとに続く。
水筒に汲んであった水を、葛葉と分け合って、喉を鳴らして飲む。ただの水道水が、こんなにもおいしいなんて、今まで感じたことはなかった。乾いていた全身が潤《うるお》っていくようだった。
がたん、となにかが倒れる音がして、桃子は振り返った。
ロッカーが開いて、男が飛び出してきた。
手に、包丁が握られている。それを振り上げて、男は桃子に飛びかかった。
一瞬遅かったら、どうなったかわからなかった。思わず飛び退いた桃子の腕を、包丁は切り裂いた。
痛みなど感じなかった。
夢中で、そばにあった鞄を、男に投げつけた。鞄の中身が散らばって、男は少しひるんだ。
「葛葉! 逃げるわよ!」
桃子は葛葉の手をつかんだ。ふたりで待合室を飛び出して走る。男は追ってきた。先ほどのよろよろとした走り方ではなかった。
まっすぐに普通に走っている。
桃子は気づいた。
さっきのは、わたしたちを油断させる演技だったのかもしれない。
だが、彼と桃子たちでは基礎体力が違う。どんどん男は見えなくなる。
桃子と葛葉は林の中に逃げ込んで、荒い息をついていた。
今頃になって、桃子は二の腕がじんじんと痛んでいることに気づいた。
見れば、指先まで血でぬるぬるとしている。
葛葉はポケットからハンカチを出して、桃子の傷の上を堅く縛ってくれた。
桃子は額の汗を拭った。
今のところ、体力に差があるから、そう簡単には捕まらないだろう。でも、この先はどうかわからない。
少なくとも、追うほうと追われるほうでは精神状態が違う。葛葉だけでなく、桃子もあっという間にまいってしまうだろう。
桃子は深いため息をついた。ユンジャがギアを入れ替えてくれたと思った。
だけど疲れた。さっさと捕まって殺されてしまえば楽かもしれない。
ほかのみんなだって、逝《い》ってしまったのだ。
桃子はどこか笑いたいような気分でつぶやいた。
「疲れたね」
葛葉が急にしがみついてきた。汗の匂いのする髪が肩に押しつけられる。
「ごめん、桃子、ごめん!」
「なんで葛葉が謝るのよ」
葛葉は泣きじゃくりながら叫んだ。
「だって、わたしのせいだもの。みんなが殺されたのは、全部わたしのせいだもの!」
それは一日目の夕刻。海が朱に染まった時間。
葛葉は坂の上で夕日に見とれた後、水道で足を洗っていた。
ふと、人の気配を感じて振り返った。
そこに、中年の男性が立っていた。黒い帽子を目深《まぶか》くかぶって、どこか惚《ほう》けたような表情で。
葛葉は驚いた。この島にはだれも住んでいないと思っていた。それとも、葛葉たちと同じで、船に乗り遅れてしまった人なのだろうか。
とりあえず、挨拶《あいさつ》した。
「こ、こんにちは」
男はなにも言わず、葛葉に飛びついてきた。彼女を地面に押し倒し、そして、ワンピースの裾をまくり上げた。
恐怖で声も出なかった。下着を押し下げられようとしたとき、やっと震える声で言えた。
「やめてくださ……」
男は笑った。さも、おもしろそうに。
そのあとのことはよく覚えていない。葛葉は必死になってもがいて、暴れて、気がつけば、男が倒れて呻《うめ》いていた。
両手で右目を覆って、身体を折り曲げて、苦しそうに。
葛葉は自分の右手を見た。血がついていた。
激しい恐怖を覚えて、葛葉は駆け出した。みんなのところに向かって。
「何度も言おうと思った。でも、言えなかったの。思い出すのも怖かった。どうしていいのかわからなかった」
葛葉は桃子の胸に顔を埋《うず》めて、泣きじゃくった。熱い感触が胸に広がる。
「わたしがあんなことさえしなければ、ちゃんとみんなに相談していれば、こんなことにはならなかった。みんな、殺されなかったかもしれない。みんなわたしのせいなの。わたしが殺したの!」
桃子は力を込めて、葛葉を抱きしめた。はっきりと言う。
「葛葉のせいじゃないわ」
「でも、でも……。せめて、みんなにちゃんと言っていれば……」
桃子は葛葉の髪に頬を押しつけた。女の子特有の甘い匂いが濃く立ち昇る。
できるだけ優しく言った。
「言えないよね……。わたしも言えなかった」
「え?」
葛葉が驚いたように顔を上げる。
「中学生のとき、従兄弟《いとこ》のお兄さんに無理矢理された。でも、わたしもだれにも言えなかった……」
桃子は思い出した。大学の野球部にいて、日に焼けて爽《さわ》やかな印象の人だった。親戚中の評判もよかった。桃子はほんのちょっとだけ、憧れていなくもなかった。
それも夏休みだった。両親が旅行に行っていて、桃子はひとりで留守番をしていたのだ。
お兄さんは、明るい顔で遊びにやってきた。普段はひとりで、遊びにくることなどなかった人だから、桃子は少し不思議に思った。
それでも従兄弟だから、中に通して、麦茶を入れた。
彼が本性を現わしたのは、きてから一時間もたたないうちだった。
桃子はどうしていいのかわからずに、ただ、畳の目を見つめていたような気がする。
痛くて、熱くて、汗をかいて、不快だった。早く終わってほしいのに、彼は何度もそれを繰り返した。
あのときからだろう。桃子にとって、すべての現実が色褪せはじめたのは。どんなことも、どうだっていい、としか思えなくなったのは。
いや、直接あの瞬間からではない。彼が、終わってから桃子に、「夕飯を作れ」と命令し、桃子が台所に立っている間、友だちに電話をかけているのを聞いてからだ。
彼は電話で自慢げに言った。
「従姉妹の中学生をレイプしてやった」と。
そうして、桃子を犯した様子をおもしろおかしく話して聞かせたのだ。
葛葉は聞きながら泣きじゃくり続けた。桃子は葛葉をきつく抱きしめた。
「言えないよね。だれにも。そんなこと言えないよ」
言いながら、桃子も泣いた。あの事件のことで、涙が出たのははじめてだと思う。泣くこともできないほど、自分の感情は遠かったから。
葛葉は桃子の肩にもたれてぐったりとしていた。日が暮れようとしている。
切り裂かれた二の腕は、どこか熱っぽく痛んでいる。桃子は汗を拭った。
こんな時間がいつまで続くのだろう。たぶん、今日は夜になっても眠れないだろう。いつ、男が襲ってくるのかわからない。
交代で眠るにしろ、葛葉も桃子も疲れ切っていた。
桃子はぎゅっと目を閉じた。ユンジャのことを、里美のことを、聖のことを考えた。あの子たちと一緒に逝くのだったらそんなに悪くはないかもしれない、と思った。
藪蚊《やぶか》にあちこちを刺された。髪も服も汗に濡れてひどく不快だ。
お風呂に入りたい。眠りたい。なにもかも忘れたい。
どんどん暗くなってくる。また夜が近づいてくる。
ふと、遠くにぼうっと灯りがついた。桃子ははっと身体を強《こわ》ばらせた。
たぶん、あの灯りは殺人者のテントだ。あきらめてテントに帰ってきたのだ。桃子は葛葉を揺さぶった。
彼女はうつろな目で、桃子を見上げた。彼女に灯りを指さしてみせる。
「たぶん、今なら待合室に帰っても大丈夫だと思う。戻ろう」
葛葉は頷いて立ち上がった。もう、視界は薄暗くなっていた。早く帰らないと、林を歩くのが苦しくなってくるだろう。
やっとのことで、林を抜けた。桃子はふうっと息を吐く。なにか胸のあたりに重いものが覆い被《かぶ》さっていた。
今夜は月が出ないかもしれない。うっすらと曇った空を見ながら、桃子は思った。
砂浜を歩いて船着き場に出る。さっきのことがあるから油断しないように、待合室を覗いた。
ロッカーも開いたままだし、あの男が隠れている気配はない。おそるおそる中に入る。
薄暗いせいで、ベンチにぐったりとしているユンジャは、まだ眠っているように見えた。
桃子はユンジャの鞄を開けた。無理にでも食べて、力をつけなければならない。
ふと、鞄の底に冷たく光る物を見つけた。サバイバルナイフだった。
桃子はそれを手に取って、刃の部分を引き出した。刃物だけが持つ硬質な輝き。
桃子の手は震えていた。天啓のようになにかが心を切り裂いたのだ。
「ねえ、葛葉」
「なに?」
「一度、なくしたものを、もう一度失うことなんてあり得ないわよね」
葛葉はぽかんとした顔で、桃子を凝視した。桃子は立ち上がって、葛葉に笑いかけた。
「ちょっと行ってくる。心配しないで待っていて」
「動くな!」
テントの中から声がした。桃子は大きく深呼吸をした。
「ねえ、話を聞いてよ」
男が出てきた。包帯を巻き直したのか、赤い染みは消えている。片手には包丁を握りしめたままだ。
桃子は上目遣《うわめづか》いに、男を見た。必死で訴える。
「お願い、殺さないで。なにもしないから。なんでも言うことを聞くから」
「もうひとりはどうした」
「あんな子知らない。だって、さっきはじめて聞いたんだもの。あの子が、あなたを傷つけたんだって」
少し男のまわりの空気が緩んだ気がした。
「ねえ、悪いのはあの子でしょう。わたしは関係ないんでしょう。だったら、わたしは助けてよ」
男が低い声で笑った気がした。包丁を握りなおして、桃子にゆっくり近づいてくる。
「手を挙げろ。いいと言うまで絶対に下ろすな」
桃子の背中に包丁をつきつけたまま、身体中を探った。思わず息を呑んだ。見つかりませんように、と祈った。だが、虚《むな》しくジーンズのポケットに潜ませた、サバイバルナイフを見つけられた。
「ふん、小娘のくせに、油断も隙《すき》もないな」
「だって、あなたが話を聞いてくれるかどうか、わからなかったんだもの」
サバイバルナイフを、手の届かないところに投げられた。桃子はさりげなく目で追う。なんとしても取り戻さなければならない。
「服を脱げ」
男は包丁をつきつけたまま言った。桃子はぎゅっと唇を噛んだ。でも、これはもともと予測していたことだ。むしろ、こうならなければ、桃子に勝ち目はないのだ。
素早くTシャツを脱ぎ捨てた。ジーンズのファスナーを下ろして、脱いだ。
その潔さに男は驚いたようだった。
「恥ずかしくないのか?」
「恥ずかしいに決まっているじゃない」
包丁を持っていないほうの手で、胸をゆっくりと撫で回され、鳥肌が立つ。
男の手が、薄いコットンのブラジャーを剥《は》ぎ取った。
「そこに横になれ」
湿った土の上に、裸で横たわるのは気持ちが悪い。不快感を押し隠しながら、言われたとおりにする。
男の手がショーツを引き下ろした。吐き捨てるように言った。
「おまえらなんか、みんな一皮|剥《む》けば淫売《いんばい》だ。金さえもらえば、簡単にパンツを脱ぐんだろう」
心で答える。そう、淫売になることなんて、本当に簡単だ。だけど、あんたにはその本当の意味なんてわからない。
男は乱暴に突き込んできた。身体の柔らかい部分を突き破られる激痛。
歯の間から、苦しげに息をもらす男を見上げる。彼の顔はひどく歪んでいた。
なんとなく、急に可哀想な気がした。彼はもしかして、桃子たちのことがとても好きなのかもしれない。
痛みに、気が遠くなりそうなのを必死で堪《こら》える。隙をみて、包丁を奪わなければならない。
彼は何度も自分勝手に突き込んでくる。桃子は歯を食いしばった。
ふと、目を開けた桃子は、男の後ろに葛葉の姿を見つけた。
葛葉は大きな石を抱えていた。それを思い切り、男の頭に振り下ろした。
鈍い音が響いて、男の身体が桃子の上に崩れ落ちた。桃子はその下から這《は》いだした。
葛葉は泣き出しそうな顔で、それでも笑った。
次の日、やってきた船に桃子たちは保護された。ユンジャや聖や里美などは後から連れて帰られたのだろう。そのときの桃子たちはぼろ雑巾《ぞうきん》みたいにくたびれきっていて、仲間たちのことを考える余裕もなかった。
あの海水浴場のある町には桃子や葛葉の両親がきていて、骨が折れそうなほど抱きしめられた。
桃子ははじめて、生きて帰ったのだ、と思った。
幸いにも男は死んではいなかったらしい。あとになって知ったのだが、船の事故も男が仕組んだことだったという。エンジンの部分に爆発物が仕掛けられていた、と言うのだ。
男が殺したのは自分の弟だったらしい。弟には多額の保険金がかけられていたという。船が事故にあっても、必ず死ぬとは限らない。だから、弟を殺した後、彼が乗ったと思われる船に爆発物を仕掛けて、事故を装ったというのだ。
しばらく島に潜んで、そのあと、また連絡船が通いはじめた頃を見計らって、逃げ出すつもりだったという。
そんなことを聞いても、桃子たちにはどこか遠い場所の話としか思えなかった。
あそこにあった痛みは、もうふたりの胸の中にしかない。
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エピローグ ――十年後――
向こうから葛葉がとことこと歩いてくるのが見えた。桃子を見つけて、目を細めて笑った。
「ごめんね、遅くなって。打ち合わせが長引いちゃって」
「ううん、平気。わたしが急に呼びだしたんだもの」
真夏の太陽が、遠くから照りつける。首筋に汗が滲むのを感じて、桃子は葛葉を促《うなが》した。
「喫茶店にでも行こう。暑いから」
葛葉は少し、目を見開いて、それから頷いた。彼女の仕草は、いくつになってもあまり変わらない。どこか幼げで、不安そうだ。
あの日から桃子は太陽が嫌いだ。汗をかくことも、そうして、夏も。
桃子たちは手近な喫茶店に飛び込んだ。ふたりともアイスコーヒーを注文して、汗を拭いた。
葛葉はあれから、デザイン関係の専門学校に進んで、今は装丁の仕事をしている。本屋に行くと、葛葉が装丁したどこかほの暗い色調の本を見ることがある。葛葉の仕事だということは、わざわざ確かめなくても、桃子にはすぐわかった。
桃子は付属の短大に進んで、ごく普通に就職した。もうOL生活も七年目になる。そうして、来年、結婚する。
あれからの日々は毎日平穏で、当たり前のように過ぎていった。
ただ、ことあるごとにあの日々を思い出すだけだ。ことさら、夏になれば。
注文した品が運ばれてくる。葛葉はアイスコーヒーにミルクをそそぎ入れながら、つぶやいた。
「あれから、もう十年になるんだね」
桃子は頷いた。ふたりはもう二十七になってしまった。あの頃の自分たちなら、「おばさん」と呼んで笑うだろう。
あの頃の自分は、ひたむきで、意地悪で、なんだか曖昧で、そうしてひどく刺々しかった。あらゆるものがまだ未整理のまま散らかっていた。
今、その感覚を思い出そうとしても、まるで霧がかかったように遠くて、もどかしい。
葛葉は口を開きかけて、そうして閉じた。
「どうしたの?」
「おかしなことを言うと思わないでほしいんだけど……」
「なあに?」
「わたし、なんとなく、ユンジャや里美や聖は殺されたんじゃないような気がしているの」
桃子は眉をひそめて、彼女を見た。
「ううん、わかっているの。あの男が殺したことは。でも、その一方で思っているの。あんな男ごときに、ユンジャたちが殺されるわけないって」
葛葉は顔を上げた。そうして、早口で言った。
「あの子たちは、ただ行ってしまっただけなんじゃないかって」
桃子は頷いた。そう、たぶん少女から大人に変わる瞬間には、ひどく大きな時空の裂け目があるのだろう。
彼女たちは、そこを乗り越えなかっただけだ。ただ、笑いながら手をつないで、その裂け目の中に消えていったのだと思う。
事実、桃子たちの一部もあのとき、彼女たちと一緒に行ってしまったような気がする。
どんなに取り戻したくとも、それは戻ってこない。彼女たちの命が戻ってこないように。
桃子はどこか切ないような気持ちになる。
なにか、大事な物をなくしてしまったときのように。
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底本
祥伝社文庫
二〇〇〇年一一月一〇日 第一刷