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黒い家
貴志祐介
[#改ページ]
黒 い 家
[#1字下げ]1996年4月8日(月曜日)
若槻慎二《わかつきしんじ》は、青鉛筆を持った手をしばし休めて、小さく伸びをした。
ブラインドを上げているので、総務室の東側にある窓から射し込んだ陽光が、机の上に小さな日だまりを作っている。ペン皿に載っているボールペンやスタンプ印、書類の印影を確認するための拡大鏡やディバイダーなどの上で、細かい光の粒子がきらきらと輝いていた。
窓の外に目をやると、京都の空は抜けるように青く、ところどころに絵筆でぼかしたような雲がたなびいている。
爽《さわ》やかな朝の空気を肺に吸い込んでから、彼は再び、デスクの上に山積みになっている死亡保険金の請求書類のチェックに戻った。
四十八歳の大工。吐血して入院し胃癌《いがん》と宣告される。六十歳の会社役員。ゴルフのプレー中に意識を失って倒れ脳腫瘍《のうしゆよう》が発見される。今年成人式を迎えた大学生。ドライブ中スピードの出しすぎによりカーブを曲がり切れず電柱に激突する……。
若槻が向き合っているのは一度も出会ったことのない人々の死だった。朝一番に取り組む仕事としては、あまり気分のいいものではない。
彼は、入社以来五年間、本社の外国債券投資課という部署に配属されていた。その頃は、アメリカの長期金利や為替《かわせ》相場といったマクロ経済のことばかりが頭を占めていたために、生命保険会社に入社したというより、漠然と金融機関の一員になったという意識しかなかった。だが、昨年の春に京都支社に異動になり、死亡保険金の査定を行うようになって、初めて自分が人の生死を扱う企業の一員であることを実感していた。
「今日はまた、えらいぎょうさん死亡があるなあ」
隣の席の葛西《かさい》好夫副長が、若槻の机の上を見て声をかけた。
「春やというのに、気の毒なこっちゃ」
言われてみると、たしかに異常なくらい数が多かった。統計的に言うと、人が一番多く死ぬのは冬である。体力の弱った老人や病人は寒さを乗り切れないことが多いからだ。
この季節にこれだけ死亡件数が多いのには、何か理由があるはずである。若槻は書類の束をめくってみた。保険金の受取人が記入した死亡保険金請求書の下には、医師の書いた死亡診断書や、交通事故証明書、戸籍謄本などが添付されている。謎はすぐに解けた。
「ああ。これ、例の左京区の火事の分ですよ」
三週間ほど前に木造家屋が全焼して、一家五人が焼け死んだ事件だった。合計十五件もの死亡保険金の請求が一度に出てきていたために、件数が膨らんだのである。大半は貯蓄性の高い五年満期の養老保険などだった。
頼まれると嫌とは言えない性格の人たちだったのではないかと若槻は想像した。ノルマが厳しいのだという外務員の懇願に断り切れずに、次々と保険に加入してくれたに違いない。日本の生命保険の加入率が世界最高であるのは、こういう人たちの寄与するところが大きいのだ。
「あれ、放火やったやろ。犯人は、わかったんかいな?」
「いいえ、まだです。でも、受取人が関与している可能性は少ないですから、支払いには問題ないと思います」
「まったくなあ……。面白半分に、人の家に放火するようなやつは、みんな死刑にしたったらええんや」
葛西はつぶやいた。ワイシャツの袖《そで》をまくって相撲取りのような太い腕をあらわにしている。ときどきハンカチで額の汗を拭《ふ》いていた。身長も百七十五センチほどあるが、体重の方は百二十キロをゆうに超えている。当然、発散する熱量も常人と比べてはるかに大きいのだろう。春先のしかも朝だというのに、ブルーのLLLサイズのワイシャツの背中や脇の下にはすでに紺色の染みができていた。
電話が鳴った。葛西は間髪入れずに受話器を取り、点滅しているボタンを押した。電話はすぐに取るようにとの女子職員たちに対する無言の指導を実践しているのである。
「はい。たいへん、お待たせいたしました。昭和生命、京都支社でございます!」
葛西の底抜けに明るいテノールが部屋中に響きわたった。
「若槻主任。お願いしまーす」
入社五年目のベテラン女子職員である坂上弘美が、一次チェックをすませた入院給付金の支払い請求書類の束を机の上に置いた。すでにそれ以外にも種類ごとに色分けされた書類が机の上に山積みになっている。満期保険金の支払い。生存給付金の支払い。年金の支払い。契約者貸付。解約。印鑑届。契約者や受取人の変更。住所や生年月日などの契約内容の訂正(家族の続柄や性別を訂正することさえあった)。保険証券の再発行など。
昔から人と紙だけで仕事をしていると言われる生命保険会社だけあって、書類の種類の多さも半端ではなかった。ぐずぐずしている暇はない。若槻は、手早くチェックを進めていった。火事による一連の死亡保険金の請求分以外も、ほとんどは長患いによる病死などで、問題らしい問題は見あたらない。ところが、終わり近くなってから引っかかった。
一千万円の終身保険だった。加入後二十年を経過しており、普通ならまず問題になるような契約ではない。ただし、『死亡診断書』の文字が二重線を引いて消してあり『死体検案書』になっている点には注意が必要だ。両者の違いは、死体を検分した医師が、死亡する前の二十四時間以内にその人の診察を行ったかどうかという点にある。『死体検案書』であれば、医師は最初から死体しか見ていないことになるので、死因についても絶対に確かとは言い切れなくなってくる場合があるのだ。
若槻は上から順番に項目をチェックしていった。
@氏名、田中さと。A生年月日、大正十一年四月二十一日。
存命ならばあと二週間たらずで七十四歳になっていたはずだと、若槻は頭の中で計算した。
B住所、京都府城陽市久世……。
J死亡の種類は、外因死(自殺)。
ここまででは特に変わった点はなかった。過去一年間、毎日死亡診断書を見ていると、この国の人間がどういう原因によって死んでいるのかがおぼろげながら見えてくる。
最も多いのは明らかに悪性新生物(癌)だった。それに次ぐのは脳血管疾患や心疾患、肝臓病などである。
自殺というのは、実は非常にありふれた死因のひとつに過ぎない。日本の自殺者の年間総数は一九七五年からほぼ横ばいで、二万二千人から二万五千人の間を推移している。これは毎年の交通事故による死者の倍以上の数である。
若槻が査定するのは京都府下での昭和生命の取り扱い分だけだが、それでも、ほとんど毎週一件くらいは現れた。最近では特に高齢者の自殺がめだつ。
一方、殺人というのは、少なくとも京都府下ではきわめて稀だった。昭和生命の取り扱い分の中では、一年に一件あるかないかだろう。日本の治安は急速に悪化していると言われながらも、まだまだ諸外国と比べれば良好である証拠かもしれない。
Kの死亡の原因は『非定型|縊死《いし》』となっていた。Lの外因死の追加事項の記述を読んだ時に若槻の青鉛筆が止まった。
『高さ七十センチの箪笥《たんす》の引き手に紐《ひも》を結び、縊死した』とある。
死亡診断書には体格について記す欄はないが、亡くなった老婆の身長は百四十五センチであると、わざわざ書き添えられていた。自分の身長の半分以下の高さで首を吊《つ》ることなどできるものだろうか。
若槻は書類の束を持って、電話中の葛西の様子をうかがった。顧客からの苦情らしい。京都支社で保全を担当している役付職員は若槻と葛西の二人だけだったので、ほかに相談すべき相手はいなかった。
生命保険会社の支社事務の仕事には、大まかに分けて新契約と保全の二種類がある。新契約というのは、文字通り顧客が新たに保険に加入する際に契約を成立させるための事務手続きである。一方、保全というのは、既契約についてのアフターサービスを指している。保険金の支払いなどの金の動きが直結しているだけに、何らかのトラブルや犯罪が絡むことも多い。
葛西は、昭和五十年に大阪市内の私立高校を卒業後、昭和生命に入社したのだが、心身ともにタフであることを買われて一貫して保全畑を歩かされてきたベテランだった。北海道の某支社における入院給付金の支払いをめぐるトラブルで暴力団事務所に一昼夜監禁されたという話は、社内では語りぐさになっていた。
客が言うことに、いちいち大げさに相槌《あいづち》を打っていた葛西が、人を和ませるような明るい声で笑い始めた。たいしたことではなかったらしい。実際、顧客からの苦情のほとんどは外務員や事務職員の説明不足によるもので、こちらがきちんと話を聞けば解決することも多かった。
「葛西副長……」
葛西が受話器を置くのを見計らって、若槻が立ち上がろうとした時、ふいに正面のカウンターから怒声が聞こえてきた。
「お前ら、客をなんやと思っとるんじゃ?」
ぎょっとして目を転じると、五十過ぎくらいの貧相な男が仁王立ちになり猿のような金壺眼《かなつぼまなこ》で女子職員を睨《にら》みつけていた。白髪混じりの髪の毛は寝癖で逆立っており、あろうことか、よれよれの縞《しま》のパジャマを着ている。その格好のままバスに乗って、家からここまでやって来たらしい。
またあいつかと若槻はうんざりした。荒木という名前で、仕事をしているのかしていないのか暇を持てあまし、半ば趣味のようにして、どうでもいいことで支社の窓口に難癖をつけに来る男だった。いくら高姿勢で怒鳴られても、保険会社側は、ていねいな応対をせざるをえない。それが病みつきになり、日頃自分が社会から疎外されている鬱憤《うつぷん》をひそかに晴らしているのだ。
カウンターの前に座ったり後ろのソファで順番を待っている客たちも、一様に不快げに眉をひそめていた。
荒木の隣には、白髪で銀縁の眼鏡をかけた中小企業の社長風の男が座っていた。入社二年目の田村真弓が、保険証券を指さしながら何事か説明をしている。前に出ている書類は契約者貸付の書類のようだった。男の持参した印鑑とは印影が違うと言っているらしい。男は説明もどこか上の空の感じで、荒木の様子を見ていた。やがて保険証券をセカンドバッグにしまうと、そそくさと立ち上がって出ていった。
若槻は、男の行動に漠然とした違和感を抱いた。
「なめとったら、あかんぞ! わしを、誰や、思っとるんや?」
また荒木がわめいた。
応対していたのは入社したばかりの川端智子のようだ。なぜ自分が怒鳴られたのかもわからずに、ただおろおろしている。
保全の担当者は、同時に窓口の責任者でもある。したがって、何かトラブルが起きた際には、若槻か葛西のいずれかが対応しなくてはならない。
若槻は立ち上がりかけて、一瞬、躊躇《ちゆうちよ》した。また、あんな男の相手をしなければならないのかという思いがよぎったからだった。
葛西が立ち上がり、中腰のままの若槻の肩をぽんと叩くと、足早にカウンターへと歩いて行った。
「たいへん申し訳ございません。何か、失礼がありましたか?」
あいかわらずの陽気な声である。こちらを向いて、こっそり川端智子を目顔で慰めると、席に戻した。
荒木は椅子にふんぞり返って、汚い脛《すね》を出してサンダル履きの足を組み、変声期前の子供のような声で、女子職員の教育がなっていないなどと文句を言い始める。葛西の方は決して逆らおうとはせず、適当に合いの手を入れながら話を聞いている。
若槻は、のろのろと腰を下ろした。自分が躊躇したのを葛西に見透かされてしまったようで、恥ずかしかった。
その時、電話が鳴った。坂上弘美が受話器を取る。しばらく低い声で、はい、はい、と言っているのが聞こえたが、保留のボタンを押すと、まっすぐ若槻の方へとやって来た。
坂上弘美の顔を見て、若槻は嫌な予感を覚えた。普段はほとんど表情を動かさない彼女の目元に、かすかな緊張が漂っている。そもそも電話を回すだけならインターホンでかまわないのに、わざわざ立ってやって来るというのは、ただ事ではない。
「若槻主任。お客様からのお問い合わせなんですが」
「なんか難しいこと?」
坂上弘美は五年間の窓口経験があり、保険に関する知識の蓄積は若槻より多いくらいである。たいがいの質問には自分で答えられるはずだった。
「それが、自殺した場合、保険金は出るのかと、おっしゃってるんですが」
その手の電話は、生命保険会社にはよくかかってくる。だが、坂上弘美の顔つきから判断すると、彼女は単なるいたずら電話とは思っていないらしい。
「……わかった。僕が話すよ」
若槻がうなずくと、坂上弘美は、ほっとした表情を見せて自分の席に戻っていった。彼女たちはみな、定型的な業務や与えられた仕事はきちんとこなすが、何らかの意味で責任を伴うような決断を下すことは避ける。そういう時にはまず役付職員に指示を仰ぐよう教えられているからである。その結果必然的に、若槻らには大きな責任がのしかかってくるが、彼女らとは比較にならないくらいの高給を取っている以上、それも当然のことかもしれなかった。
若槻は、机の引き出しから社外秘である自社の保険契約の約款解説書を取り出した。もちろん質問自体はごく初歩的なもので、生命保険会社に在籍する者なら、誰でも即答できる。だが、答え方には、慎重さを要した。
「もしもし。たいへん、お待たせいたしました。窓口担当の主任をしております若槻と申します」
かすかな咳払《せきばら》いのような声が聞こえたが、相手は、何も言わなかった。女性のようだ。
「お問い合わせの件なんですが、どういったことでございましょうか?」
「さっきも、言うたんやけど」
聞き取りにくい押し殺したようなしゃがれ声だった。かなり緊張しているような感じだった。
「保険金いうのは、自殺した時でも出ますんか?」
「早急に、お調べいたしますが、あの……どなたかが、お亡くなりになられたんでしょうか?」
相手は無言だった。再び咳払いの声。
「もし保険証券をお持ちでしたら、そこに書かれている記号番号をおっしゃっていただければ、すぐにお調べできますが」
もう一度、言ってみる。しばらく間があってから女が言った。
「……そんなんなかったら、わかりませんの?」
「はい。お支払いできる場合と、できない場合とがございますので」
「できない場合いうんは?」
「はあ」
ここまで返事を引き延ばしてきたが、はっきりと聞かれた以上、答えないわけにはいかなかった。
「一応ですね、ご加入から一年間は、自殺は免責となっております」
「めんせき?」
「お支払い、できないということなんですが」
「なんでやの?」
「商法では、自殺等に関しましては、すべて免責となっているんですが、保険約款においては、一応、一年間ということで区切らせていただいてまして」
「だから、それはなんでやの?」
女は少し苛立《いらだ》ったような声になった。
「まあ、生命保険が自殺を助長するようなことがあってはならない、という趣旨で決められたことなんですが……」
女はまた黙り込んだ。
自殺による免責の規定は、生命保険会社にとっても頭の痛い部分だった。
保険の契約者や保険金の受取人が故意に被保険者を死亡させれば、約款上の免責事由となり、保険金が支払われることはない。それと同列に考えれば、被保険者が被保険者自身を死に至らしめる、つまり自殺の場合にも、保険金を支払うべきではないと言えるかもしれない。
さらに、自殺の場合でも保険金を支払うということになれば、結果的に自殺を奨励することになりかねないという事情もある。また、自殺を意図している人間が、こぞって直前に保険に加入するようになるという、いわゆる『逆選択』の問題から、生命保険会社の収支が大幅に悪化する可能性もあった。
商法六八〇条でも、『自殺、決闘その他の犯罪または死刑執行』は、保険金支払いの免責事由に当たると定めている。
しかしながら、加入者の立場に立ってみると、被保険者が将来自殺するかもしれないという危険は交通事故や疾病で死ぬかもしれないという危険と本質的に変わりはない。契約した時点では自殺など思いもよらなくても、後にノイローゼなどで発作的に死を選んでしまうことはあり得る。
一家の大黒柱が死んでしまえば、たちまち遺族の生活は逼迫《ひつぱく》する。にもかかわらず自殺であるというだけで遺族が保険金を受け取れないのであれば、遺族の生活保障という生命保険の本来の使命に反することになる。
しかも、自殺による死亡は、生命保険料率を計算する基礎となる生命表の死亡率には含まれていた。それも、無視できないくらい大きな部分を占めている。したがって、これを排除すると、無配当の契約などにおいて、保険会社が不当に利得を貪《むさぼ》ることになるという指摘もあった。
こうした理由の板ばさみになって、現在、日本の生命保険会社は、加入後一年に限り自殺による免責期間を設けていた。最初から自殺を意図して保険に加入したとしても、普通の人間なら一年間も死への意思を持ち続けるのは困難だろうという考えからである。だが、この一年という期間が本当に妥当かどうかについては、今でも疑問視する声が多かった。
「保険証券がなくても、お客様のお名前と生年月日がわかれば、お支払いできるかどうかは、すぐにお調べできますが」
若槻としては、あくまでも、自殺がすでに起こったことだと信じているというふりをしながら、相手の名前を聞き出そうと努めるしかなかった。
相手は押し黙っていたが、困惑したような、かすかな息づかいが聞こえていた。受話器を通じてはっきりと緊張が伝わってくるようだった。
どうすべきだろうか。受話器を持っている手が汗ばんできたのを感じる。相手が本気で自殺をしようと考えていることに、もはや若槻は疑いを持たなかった。
もちろん、電話を切った直後に相手が窓から飛び降りたとしても、若槻には法的にも道義的にも何の責任もない。彼はあくまでも客からの問い合わせに答えただけである。逆に、恣意《しい》的な判断によって答えないなどということは許されないのだ。
だが、若槻は、このまま見過ごすことはできないと感じていた。
電話をかけてきたということは、もちろん自殺免責について聞きたかったということもあるだろうが、それ以前に誰かにSOSを伝えたいという気持ちが無意識に働いたからではないだろうか。
どうすれば、自殺しようと思いつめている人間を思い止《とど》まらせることができるのだろうか。
女が溜め息をついた。
電話を切りそうな気配を感じて、若槻は、あわてて言った。
「すみません! 切らないで、ちょっと待ってください」
「え?」
「よけいなことかもしれませんが、ちょっと、私の話を聞いていただけませんか?」
「……何やの?」
不審げな声。
「もしまちがってましたら、申し訳ありません。お気を悪くしないで、聞いていただきたいんですが、お客様は、自殺しようと考えておられるんでしょうか?」
馬鹿、何を言ってるんだ。若槻は自分が口走っている言葉に唖然《あぜん》とした。保険会社がそこまでお節介をやく必要はない。おかしなことを言うと、名誉|毀損《きそん》にもなりかねない。
だが、女は答えなかった。もし自殺するというのが単なる若槻の早合点だったとすれば相手は怒るだろうし、少なくとも何か一言くらいは言うはずだった。それが、黙ったままであるということは……。
「もし、そうでしたら、もう一度、考え直していただきたいんです」
やはり無言である。しかし、どことなく、彼の言葉に耳を傾けているような雰囲気は感じられた。若槻は肚《はら》を決めた。
「さしでがましいようですが、これだけは聞いていただきたいんです。たしかに、自殺することによって、ご家族には保険金が入るかもしれません。ですが、残された人間にとっては、一生、とりかえしのつかない心の傷が残るんです」
若槻は、周囲を見まわした。
カウンターでは荒木が何か不得要領なことを喚《わめ》き散らしており、総務室内の耳目はそちらに集中していた。
今なら、誰かに聞き咎《とが》められることもないだろう。
「これは、保険会社の担当者という立場で言ってるんじゃありません。私自身、家族の者に自殺された体験があるから、申し上げているんです」
誰にも話したことのない事実を見ず知らずの相手に告白しているのが自分でも意外だった。
「どなたが、亡くなりはったん?」
女の口調にかすかな変化が現れたようだった。
「兄です。小学校六年の時に。私は、四年生でした」
ずっと封印してきた感情が込み上げてくる。
「……なんで、また?」
「わかりません。いじめがあったようなんですが、学校側は、最後まで認めようとはしませんでした」
女は、また沈黙した。何か考えを巡らせているようでもあった。それから、小さく溜め息をついて言った。
「おたく、お名前、何やったかいな?」
「若槻と申します」
「ワカツキさん? もう、そのお仕事、長いの?」
「いいえ、まだ、一年ほどですが」
「そう」
数秒の間があった。それから、かすれた声で「おおきに」とつぶやくと、女は電話を切った。
若槻は受話器を戻しながら、これでよかったのだろうかと考えていた。まだ興奮が覚めやらず、体中を血が駆けめぐっている。耳が燃えるように熱くなっていた。
もちろん、自分の言葉に自殺しようとしている人間を翻意させる力があるなどとは思っていない。それでも、思いきって言ってみたことはよかったのかもしれない。会話の最後の方では、わずかだが通じ合うものがあったような気がした。
カウンターの方でもようやく葛西が荒木をなだめるのに成功したらしい。ガラスの自動ドアが開いて、引き上げていく荒木の後ろ姿が見えた。骸骨《がいこつ》のように貧弱な骨格で、パジャマの背中や腰の部分がしわくちゃになっている。
若槻は今の電話の内容を葛西に話しておいた方がいいだろうかと迷った。
少し考えたが、結局言わないことに決めた。正常な職務から逸脱してお節介を焼いたことまで話すのは気が引けたし、どのみちもう、こちらサイドでできることは残っていない。誰が電話をしてきたのか、つきとめようがないからだ。
あとは本人の生きる意志の問題である。ただ、しばらくは死亡保険金の請求に、注意しておこうと思った。
「葛西副長。ちょっと、いいですか?」
葛西が席に戻ると、若槻は邪魔が入らないうちにと、先刻の死亡保険金の書類を持って行った。
「おう。何かあったか?」
「これなんですが、おかしくないでしょうか?」
「ん? どのへんが?」
若槻は勢いこんで、死亡の手段及び状況の欄を指し示した。身長百四十五センチの老婆が、高さ七十センチしかない箪笥の引き手に紐を結んで縊死したというのは不自然ではないかとたずねる。
「ほーお」
葛西は死亡診断書をゆっくりと眺めた。別段、感興が湧いた様子もない。
「……まあ、ようあることやな」
殺人事件ではないかと独り決めしていた若槻は拍子抜けした。
「よくあること、ですか?」
「首吊りいうのんは、何も高いとこからぶら下がるとは限らへんのやで。どっちか言うたら、自分の身長より低いとこに紐をかける例の方が多いくらいなんや。前に仙台の支社におった時やけど、アルツハイマーと診断されたのを苦にしたお婆さんが、病院のベッドの頭のとこの鉄パイプにガウンの紐をかけて、ベッドから滑り落ちて首を吊ったいうのがあったわ。あれなんか、高さにしたら、せいぜい四、五十センチやろうなあ」
「そうですか……」
「そやけど、気になるんやったら、営業所長に所轄署まで聞きに行かせたらどうや。それで事件性なしとなったら、あんたも納得できるやろう」
「そうします」
葛西が自分を傷つけないようにフォローしてくれていることはわかった。若槻は苦笑いをして書類を受け取った。安堵《あんど》と落胆とがないまぜになったような、妙な気分だった。
本格的なトラブルは、その日の午後に発生した。
「若槻主任」
若槻が顔を上げると、坂上弘美と田村真弓が立っていた。田村の方は、ほとんど泣きそうに表情が歪《ゆが》んでいる。
「どうしたの?」
「あちらのお客さまなんですけど。手形が不渡りになったのは、うちのせいやって言われて……。五千万円弁償しろと、おっしゃってるんです」
坂上弘美が困惑顔で言った。
若槻はカウンターを見た。椅子に座っている男には、見覚えがあった。白髪で銀縁の眼鏡をかけている。今朝、荒木がわめいていた時に、横に座っていた中小企業の社長風の男だ。あの時、男の様子にどこか奇妙なものを感じたが、荒木に気を取られていたために、それ以上深くは考えなかった。
今、改めて見てみると、窓口に直談判に来たにしては、まったく生気がなく、どこか放心したような様子だった。
その後ろでは四十代の半ばくらいの男が、腕組みをしながら立っていた。小太りのがっちりとした体格。横幅の広い赤ら顔。ビー玉のような小さな目。険悪な目つき。スーツにネクタイを締めてはいても、普通のサラリーマンとは違う雰囲気が漂っている。
「どういうこと? うちのせいだっていうのは?」
「それが、あちらの、矢田部様という方が、今朝、契約者貸付を申し込みに来られたんです」
坂上弘美がコンピューターの打ち出した試算表を若槻に手渡した。それによると、白髪の社長風の人物の名前は矢田部政宏である。貯蓄性の高い保険や個人年金に加入しているため、保険証券を担保に合計一千六百四十万円までの貸し付けが可能ということになっていた。
「それで、契約者貸付の手続きをしたんですが、持ってこられた印鑑が、保険証券の印影と違ってたんです。字体はそっくりなんで、たぶん、一緒に作られた印鑑やと思うんですけど」
田村真弓が握り締めていたトレーシングペーパーと今朝書かれた契約者貸付の申込書を若槻の机の上に置いた。トレーシングペーパーには保険証券の印影が正確に写し取られている。たしかに形はそっくりだが、申込書に押された印影の方が直径で二ミリほど大きかった。
「それで、お客さんは、何て言ったの?」
「その時は、そういうことならしかたがないですねって、すぐ帰られたんです」
田村真弓が消え入りそうな声で言った。
「それが、さっき、後ろに立ってるもう一人の人と来られて、あの貸し付けが受けられなかったから手形が不渡りになって会社が倒産した。五千万円の損害賠償をしろって、言われて……」
憤りを含んだ声で坂上弘美が補足する。
最初から全部予定の行動だったのだろうと、若槻は思った。わざと違う印鑑を持ってきて、それを指摘させ、あっさりと引き上げる。ここまでがネタ振りで、いよいよこれからが本番というわけだ。
相手はヤクザかもしれない。若槻は深呼吸して気持ちを落ち着けようとした。葛西は午後一番で下京《しもぎよう》営業所の監査に行っている。目と鼻の先の場所だが、帰ってくるまでは自分一人で対応するしかない。
カウンターから松村佳奈が小走りにやって来た。
「あの。若槻主任。あちらのお客様が、いつまで待たせるんやって、おっしゃってるんですけど」
カウンターの方を見なくても、立っている男がこちらを睨みつけている気配はわかった。若槻は、あえて視線は合わせなかった。
「じゃあ。お客様を、第一応接室にお通しして」
若槻は松村佳奈に指示して、椅子の背にかけていた背広を着た。戦場に向かう前に鎧《よろい》かぶとに身を固めるような気分だった。
「僕が話をしてるから、葛西副長が帰ってきたら、第一応接に来てもらって。あと、飲み物を出してくれる? わかるよね?」
「はい」
坂上弘美がうなずき、田村真弓をうながして席に戻って行った。
若槻は、メモと鉛筆だけを持って、総務室を出た。何度も深呼吸しながらリノリウムの廊下を歩き、第一応接室のドアをノックして開けた。
「たいへん、お待たせいたしました」
がっちりした男が太い首をめぐらせて、じろりと若槻の顔を見た。頬骨《ほおぼね》のあたりがうっすらと赤らんでいて、いかにも怒りっぽそうな感じだった。ワイシャツの襟ははち切れんばかりであり、見ているだけで息苦しくなってくる。
「ほんまやなあ。えらい、待たしてくれたのう。その代わり、それなりの答えは聞けるんやろうな」
その間、矢田部は一言も発せずにうなだれている。若槻は二人の様子を一瞥《いちべつ》してから、テーブルの上に二枚の名刺を置いた。
「窓口関係の主任をしております、若槻と申します。こちらは、矢田部様ですね。失礼ですが、お客様は?」
男は鼻の上にしわを寄せた。
「わしは、従業員や。お前んとこのせいで、うちの会社が潰《つぶ》れてしもたから、社長と一緒に来たんや」
それが嘘であることは、若槻にも見え見えだった。男は、どう見ても堅気の勤め人には見えなかった。それに、社長の矢田部に対して、ほとんど無視と言ってもいい横柄な態度をとっている。
ドアにノックの音がして坂上弘美が入ってきた。持っている盆の上には、同じビルの喫茶店から取ったオレンジジュースが三つ載っている。ひどく緊張しているのか、グラスがカタカタと触れ合う音がした。坂上弘美は、まるで爆発物を扱っているように、汗をかいたグラスをテーブルの上に置くと、一礼してすばやく姿を消した。
昭和生命には、長い経験から生まれた苦情処理のためのマニュアルが存在している。このオレンジジュースも、そのマニュアルに従って出されたものだ。
いわく、頭に血の上った客に対しては、絶対に熱い飲み物を出してはいけない。冷たいジュースなどを出して、ともかく一口飲むように勧める……。
「だいたいのことは、さきほど応対させていただいた女子職員から聞きましたが……」
若槻は二人にジュースを勧め、男が飲んだのを見定めてから口火を切った。
「おう。そうや。お前んとこなあ、だいたい、女子行員にどういう教育しとるんや? 答えてみい」
若槻は、女子『行員』ではないと指摘したくなったが、さすがに思い止まった。
「何か、失礼がありましたでしょうか?」
「失礼? 失礼ですむかい……」
男はポケットから煙草を出してくわえた。若槻が火をつけるのを待っているような仕草を見せたが、若槻は、わざとそ知らぬ顔をしていた。男は凄《すご》い目で若槻を睨むと、しぶしぶ自分のライターを出した。
「おい。灰皿はないんかい? 灰皿くらい、ちゃんと用意しとけや」
煙草をひと吸いしてから、どすの利いた低い声で吠《ほ》える。
「失礼しました」
若槻は、立ち上がると、応接室の棚の上に置いてあった軽いアルミの灰皿を、テーブルの上に出した。
マニュアルでは、カウンターや応接室のテーブルの上には、重い石の灰皿など凶器になる可能性のあるものは絶対に置いてはいけないとされていた。この灰皿なら、かりにプロ野球の投手にぶつけられたとしても大怪我《おおけが》をすることはないだろう。
「お前なあ。お前んとこの女子行員が何したか、わかっとんのか?」
男は煙を吐き出しながら、ねちねちとした口調で言った。
「うちの会社はな、お前らのせいで不渡り出して、こかされてもうたんや。従業員と家族は、全員、明日から路頭に迷うんやぞ。え? どう責任とるつもりや?」
「今朝、矢田部様がお持ちになった印鑑は、保険証券のものとは微妙に異なっておりましたので……」
「そんなことは、わかっとるわい!」
男は大声を出して、若槻を遮った。
「そんなもんは、お前の裁量で、どうにでもなるんと違うんか? え? 印鑑がちょっとくらい違っとっても、手続きすることはあるやろう? わしには、嘘を言うても通用せえへんぞ!」
なるほど、そういう事情には通じているらしいと、若槻は思った。
今回のようなケースは、運転免許証などで契約者本人であることがしっかり確認できていれば、印影が違っていても手続きをすることは可能だった。生命保険会社は市役所とは違って基本的に客商売であり、客に対して常に杓子《しやくし》定規にルールを守らせるというわけにはいかないのだ。
「それはまあ、お客様の方で、万やむをえない事情があるということであれば、特別な配慮をすることもあるかもしれません。しかし、矢田部様からは、特にそういうお申し出はなかったものですから……」
「おい、こら! 社長のせいにするんかい?」
男は居丈高に叫んだ。
「お前んとこの女子行員が、そういうことを、きちんと説明せえへんかったからやないか? そやから、社長は、どうもならん思って、あきらめて帰ったんや!」
若槻は相手の勝ち誇ったような顔を見て、しまったと思った。議論は、微妙におかしな方向へと逸《そ》れつつある。これでは相手の思うつぼかもしれない。
ドアに、ノックの音がした。続いて、「失礼します」と言いながら、手にバインダーと筆記具を持った葛西が入ってきた。
「なんや。また新しいやつかい。いっぺんに出てこんかい! わしに、もっぺん最初から説明さそういうんか?」
「事情の方は、すっかり聞いております。このたびは、窓口の者の無調法で、たいへん失礼をいたしました」
葛西は深々と頭を下げた。
男は一瞬、葛西の巨体に少し警戒したような表情を見せたが、葛西が若槻以上に低姿勢なのを見て、再び調子に乗って要求をまくしたて始めた。
「……やから、従業員二十人の退職金と今後の生活保障やな。まあ、ほんまは、一億と言いたいところやが、五千万で手を打とうやないか。どうやねん? 天下の昭和生命はんやろ。それなりの誠意を見せてもらえるんやろうな?」
「申し訳ございませんが、ご要望には添いかねます」
葛西は淡々とした調子で言った。
「何やと? どういうことやねん? お前らのせいで、うちの会社は不渡り出したんやぞ!」
男は激昂《げつこう》して、どんとテーブルを叩いた。
「契約者貸付をさせていただくには、あくまでも、保険証券の印影と同じ印鑑を持ってきていただくか、印鑑証明が必要になります。したがいまして、窓口の者が、同じ印鑑を持ってきていただくようにお願いいたしましたのは、決して、まちがったことを申し上げたわけではございません」
「なめとんやないぞ、こら! お前ら、印鑑が違ったかて、手続きすることはあるやないか!」
「そうした事実があったとしても、それは、あくまでも例外的な場合です。保険証券と同じ印鑑を持ってきていただくというのが原則ですんで」
それから男は十分あまり怒鳴り続けたが、葛西は、『恐れず、礼を失せず』の原則を守りながら、穏やかにはねつけ続けた。
やがて、さすがに怒鳴り疲れたのか男は椅子にふんぞり返ると、生温《なまぬる》くなったオレンジジュースをすすった。その時、電話の呼び出し音が鳴った。若槻は反射的に応接室の電話を見たが、音の発信源はそこではなかった。
男は、もったいぶった手つきで背広の内ポケットから携帯電話を取り出すと、傍若無人な大声でしゃべり始めた。
「あ。これはどうも。ご無沙汰《ぶさた》しとりまっさ。へい。兄貴の方は、最近、シノギはどうでっか? そら、よろしいなあ。こっちはもう、締めつけがきつうて、かないまへんわ。え? 今でっか? ちょっとやぼ用で。へい。へへへ。そらもう、寄せてもらいます。貸元の方には、よろしゅうお伝えください……」
男はわざとらしい大声で話し続けた。若槻らに対して暴力団関係者であることをアピールしているのは明らかだった。暴力団新法ができて以来、おおっぴらに組の名前を出して脅すことができなくなったために、こういう回りくどい方法を使うようになったのだろうかと若槻は思った。
若槻は、その横で黙然と座っている矢田部に目をやった。心身ともに疲労|困憊《こんぱい》している様子で、もはや、目の前で起きていることにさえ関心を持っていないように見えた。
男は電話を切ってから、さらに三十分ばかり粘り、最後にまた来させてもらうと捨て台詞《ぜりふ》を残して、ようやく引き上げた。
「あの男は、やっぱり、本物のヤクザなんでしょうか?」
自称『従業員』の男が、魂の抜けたような矢田部社長を引き連れてエレベーターに姿を消すのを見送ってから、若槻は葛西にたずねた。
「いや、ほんまもんの極道とか企業舎弟とかいう連中とは違うな」
葛西は首を振った。
「さっきの電話は、ヤラセもいいとこや。ほんまもんやったら、あんな見え見えのことはせんもんや。あの矢田部いうオッサンの会社が潰れかけとるいうのは、本当やろう。あっちの男は、債権者いうとこやな」
矢田部自身は、それほど悪質な人物には思えなかった。慢性的な不況の中で資金繰りが悪化して借りてはいけないところから金を借りてしまったのではないかと、若槻は想像した。その結果、会社は倒産に追い込まれた上に、骨の髄までしゃぶられる羽目に陥ったのだろう。
「これ、見てみ」
葛西は持っていたバインダーから矢田部の契約者貸付のヒストリーのプリントアウトを外して、手の甲でぱんと叩いた。
「いったんは、貸付残高が、限度いっぱいまで膨らんどるやろ。矢田部が、資金繰りに追われとった証拠や。それが先週になって、突然、全額返済されとるんや」
若槻は自分の迂闊《うかつ》さを悔やんだ。過去の貸し付けの記録を見ることまでは思い至らなかったのだ。
「しかし、こんなことをするために、わざわざ金を用意して返済したんですか?」
「こうやって窓口に因縁をつけてくるのは、ようある手口なんや。それに、どうせ解約さえすれば、いつでも戻ってくる金やからな。ダメ元でやってみても損はないんや。こっちの対応にちょっとでも落ち度を見つけたら食い付こう思って、てぐすねひいてたんやろうがな」
「また来ますかねえ?」
「まあ、来たとしても、あと二、三回いうところやろう。脈がないことがわかれば、ああいう連中は、あきらめるのも早いはずや。まあ、見ててみ。来週中には、全部解約されるやろう」
葛西は、ふんと鼻から息を吐いた。
若槻はふとある可能性に思い当たった。
矢田部の加入していた保険は、たまたまどれも貯蓄性の高いものばかりだった。つまり、解約や満期で受け取れる金額と死亡した場合の保険金とに大差がない。だが、もしこれが保障に重点を置いた種類の保険であり、解約してもほとんど金にならない代わりに死亡保険金が非常に高額だったら、あの男にとって、矢田部を殺害して保険金を横取りしたいという誘惑は抗しがたいものになっていたのではないだろうか。
気がつくと、廊下をさっさと歩いていく葛西の後ろ姿が目に入り、若槻はあわてて後を追った。
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[#1字下げ]4月14日(日曜日)
北区|紫野《むらさきの》にある今宮神社の境内では、緋《ひ》の大袖《おおそで》に白袴《しろばかま》を穿《は》いて赤髪と黒髪の鬼に扮《ふん》した男たちが鉦《かね》や太鼓を打ち鳴らしながらさかんに跳躍し、勇壮な舞を舞っていた。
「あれ、最後に何て言ってるの?」
黒沢恵が囃方《はやしかた》の人々が呪文のように唱えている言葉の意味を聞いた。
「『やすらえ花や』」
若槻は小型カメラのシャッターを連続して切りながら答えた。
「昔は、毎年今ごろの季節に、ちょうど花粉が飛散するようになると、疫病が流行したらしいんだ。それで疫神《えきじん》を追い払うために各地で鎮花祭というのが始まったと、ガイドブックに書いてあった」
「やすらえ花や……か。長いこと京都にいるのに、こんなお祭りがあること、知らなかったわ。それで、やすらい祭って言うのね。でも、それだったら、わたしの花粉症も安らかになるように祈ってほしいわ」
恵は鼻にハンカチを当てて、大きなくしゃみをした。
若槻は恵を初めて見た時のことを思い出した。大学時代、若槻のいたボランティア活動のサークルに後輩として入部してきたのである。小柄でほっそりとしていて、日本人形のような真っ黒な髪と色白の肌が印象的だった。緊張していたためか、ひどく無口な印象だったが、誰かが場を和ませようとして言ったつまらない冗談を聞いて、一度だけにっこりと笑った。彼はその時の笑顔にすっかり魅せられてしまったのだった。
サークルでは、京都府下の老人ホームを慰問したり、知的障害者たちのための作業所で催し物を行ったり、年末には大阪西成区の愛隣地区で行き倒れになっている人々のために炊き出しをしたりという活動を行っていた。
若槻は、もともと福祉やボランティア活動に特に興味があったというわけではなく、大半の部員と同じように、入学式の直後から強引な勧誘に遭って、いつの間にかずるずると入部してしまったという口だった。だが、恵は最初から自分の意思で加入した数少ないメンバーの一人だった。
彼女は、社会的な弱者や苦しんでいる人々を見ると、心の底から同情せずにはいられない性格であるようだった。
ある年の大《おお》晦日《みそか》、寒風吹きすさぶ路上で寝泊まりしているために肺炎になってしまった老人を介抱して救急病院へ送り届けたことがあった。老人は何か事情があって郷里を捨てたらしいが、ホームレスとなっても、決して卑屈になったり自堕落になったりすることはなく、こざっぱりとした服装をし、胸まである白髯《はくぜん》はきれいに手入れがしてあった。しかし、高齢のために仕事がなく、丸一週間何も食べていないという。
老人の話をききながら、恵は、大きな目に涙をいっぱい溜めていた。それを見ながら、若槻はますます彼女に惹《ひ》かれていくのを感じた。
やがて、若槻の控えめなアタックが功を奏して二人はデートを重ねるようになった。幸い、京都というところは千六百以上の古寺|名刹《めいさつ》のほか、史跡、名勝に恵まれており、少し足を延ばすだけで嵐山《あらしやま》や大原などの豊かな自然を満喫することもできる。ほとんど金をかけないでも、若いカップルが行くところには事欠かなかった。
若槻が卒業して東京の生命保険会社に就職してからは遠距離恋愛が続いた。二人の関係は、会う機会が少なくなっても自然消滅へ向かうこともなく、今日までほとんど変わらずに続いていた。
二人とも、簡単に恋人を乗り換えたり二股をかけたりできるほど、器用な性格ではなかった。また、なかなか会えないことが、かえってマンネリに陥るのを防いだのかもしれない。
その後、恵は母校の大学院に残った。そして昨年、まったくの偶然から、若槻は京都支社に赴任することになったのだった。当初は毎週末デートができるのではと目算を立てていたが、若槻の仕事が思った以上に忙しいために、最近では月に一、二回会えればいい方だった。
「……考えてみると、祇園祭《ぎおんまつり》だって、もともとは疱瘡神《ほうそうがみ》を退散させるために始まったんでしょう? お祭りというのは、いまでこそ華やかに見えるけど、案外、疫病や死への恐怖から出発してる場合も多いのね」
「うん。特効薬のない時代の天然痘や、ペストの恐怖は、たぶん、今のエイズやエボラ出血熱以上だと思うよ。村落がひとつ消滅するくらいのことは、珍しくなかったらしいからね」
二人は神社を出ると、ぶらぶらと歩き出した。ぽかぽかと暖かい春の日差しが心地よい。
「だけど、もし、若槻さんが、そのころ死亡保険金の査定なんかやってたら、大変だったわね。突然、五百人分くらいの書類が、どさってやって来て、昨日、天然痘で村が全滅しましたなんて」
「受取人もみんな死んでるから、請求が来ないよ」
若槻は素っ気なく答えた。
少し会話がとぎれた。大徳寺の墓地の横を通る細い道にさしかかる。恵はふーんと言いながら、意味ありげに彼の顔を見た。
「何?」
「若槻さん、今やってる仕事は、あんまり好きじゃないのね?」
「どうして、そう思うんだよ?」
「だって、話が仕事のことになっても、なんだか口が重いじゃない? 前は、そうじゃなかったわ」
「そうか?」
「そうよ。わたしが、東京へ訪ねて行った時なんか、ユーロ市場がどうの、LIBORのジャパン・プレミアムがどうの、米国財務省《トレジヤリー・》証券《ボンド》がどうのって、わたしには全然チンプンカンプンなのに、それでもおかまいなしに、熱を入れてしゃべってたじゃない?」
「そうだったかなあ? よく覚えてないけど」
若槻はとぼけたが、内心では痛いところを衝《つ》かれたように感じていた。
「まあ、支社の保全の仕事なんていうものは、話したって、それほど面白いものじゃないからね」
「裏方の仕事だから?」
「いや、違う。それは、まったく逆だよ」
若槻は首を振った。
「保険会社の存在意義は、お客さんに保険金を支払うことにあるんだ。すべての会社機構が、その究極の目的のためにあると言ってもいい。その意味では、東京でやってた資産運用の仕事なんかの方が、むしろ裏方なんだよ」
「でも、本当は、そうは思ってないでしょ?」
「うん。……いや。もちろん、思ってるよ」
二人は若槻の愛車をとめてある、大徳寺の境内までやって来た。ヤマハのSR125という何の変哲もないシンプルなバイクである。支社で営業スタッフをしていた後輩が転勤で京都支社を離れる時に、安く買い取ったものだった。若槻は、毎日の通勤には運動不足解消のためにマウンテンバイク、休日の足としてはSR125と使い分けていた。
「二時前か。ちょっと中途半端だな。夕食までは、まだ、かなり時間があるし……。これから、どうする?」
「なんだか、疲れちゃった」
「どこか、喫茶店にでも入る?」
「そうねえ……。それより、久しぶりに、若槻さんの部屋に行ってもいい?」
若槻は、雑然とした部屋の有様を思い浮かべた。
「それもいいけど、一度、君の部屋も見てみたいんだけどな」
「だめよ。知ってるでしょ? アパートとはいっても、大家さんの家の離れみたいなもんだもの。部屋に上げていいのは、二親等以内の家族と、女の子の友達と、猫だけという約束なの」
「じゃあ、しかたがない。本日は、久しぶりに、わが茅屋《ぼうおく》にご招待することにしようか」
若槻は、ヘルメットを被《かぶ》りながら大仰に溜め息をついて見せたが、本当は、かなり心が弾んでいた。恵のために買ったピンクのヘルメットを彼女に手渡して、バイクにまたがった。
恵は後ろに乗って、しっかりと若槻の腰につかまる。
若槻はバイクにキーを差し込み、スターターボタンを押した。エンジンが始動し、バイクは北大路を東に向かって走り始めた。
「さっきの話だけど」
若槻の住んでいるアパートは御池《おいけ》通りから少し北に入った場所にあった。あいにくエレベーターには定期点検中の札が下がっている。しかたなく七階までの階段を上っている途中で、恵が言った。
「何だっけ?」
「若槻さんが、今の仕事が嫌いだっていう話」
「君がそう言ってるだけだよ」
「なぜなんだろうって、ずっと考えてたんだけど……」
ようやく六階と七階の中間にある踊り場にたどり着いた。日頃の運動不足で足腰が弱っているのがよくわかる。
それでも、恵の手前みえを張って、残りの階段は一気に駆け上がった。
「ちょっと。逃げないでよ」
彼の部屋は七階の階段から五つ目だった。705号室。鍵を差し込んでロックを開けると、重々しい金属音が日曜日の午後の人けのない建物中に響きわたった。
「何だか、アルカトラズ刑務所みたい」
後ろから追いついてきた恵がつぶやいた。
「独房みたいな部屋で、悪いけどね」
鋼鉄の扉を開けると、まさに刑務所を思わせるような音で悲しげに軋《きし》む。若槻は恵を部屋に請《しよう》じ入れた。
中は、六畳ほどのダイニングキッチンと、同じく六畳の居間兼寝室、それに浴室とトイレがあるだけの1DKだった。手狭ではあるが京都市の中心街に近い便利な場所にあるうえ、借り上げ社宅として会社が家賃の全額を払ってくれているので文句は言えない。
万一の場合に備えて、昨日の晩恵に見られたくない類の雑誌などは片づけてあった。だが、部屋の中には忙しい独り暮らしの男の常としてさまざまなものが散乱していた。脱ぎ捨てたジーンズ。古新聞。水を入れるビニール製のダンベル。ビールの空き缶や、酒の空き瓶など。
「なーに、これ。まだ梱包《こんぽう》を解いてないの?」
恵が寝室の奥に積んである引っ越し会社のネーム入りの段ボールの山を見て、呆《あき》れたように言った。考えてみれば、彼女がアパートに来るのは半年ぶりくらいだった。
「もう、一年になるというのに……」
「忙しくて、なかなか片づける暇がないんだよ。それに、どうせ使わないものが多いんだ。結婚式の引き出物で貰った食器とか、つき合いで始めて三回だけ使ったテニスのラケットとか、ゴルフセットとか、後は本とかね」
「ふーん。わたしには、まるで、一日も早く京都から逃げ出したがってるように見えるけど」
「心理学者の卵だろ。もうちょっと、深い読みはできないもんかね」
「もし、若槻さんが連続殺人犯になって、警察がこの部屋を見たとしたら、絶対、『無秩序型』に分類されると思うわ」
恵は小さな声でつぶやいた。
若槻は、電動のコーヒーミルに豆をブレンドしながら入れて挽《ひ》き始めた。恵の好みは酸味の強い味だったので、ベースにするモカやキリマンジャロの分量をいつもよりも増やしマンデリンやブラジルは減らす。
その間に恵は食器棚からカップとソーサーを出して並べていた。
ペーパーフィルターに載せたコーヒーの粉の上に沸騰した湯をドリップすると、部屋中にかぐわしい香りが満ちた。
「今、初めて気がついたんだけど、コーヒーっていうのは、消臭剤の代わりになるという利点もあるのね」
恵が深く息を吸い込んで、感心したように言った。
「それじゃあ、まるで、この部屋が臭いみたいじゃないか」
若槻は抗議した。
「臭いとまではいかないけど、入った時には、やっぱり、何となく男の人の部屋だなあっていう臭いがするわ」
「そうかなあ?」
「まあ、そういうのは、自分では、なかなか気がつかないもんなのよ」
眉をしかめて鼻をひくひくさせている若槻に恵は、自分の方がずっと年上であるような口調で言った。
コンロにかけていたサイホンから、沸騰したコーヒーが溢《あふ》れそうになった。あわてて火を止めて、清水《きよみず》焼のコーヒーカップに真っ黒な熱い液体を注ぐ。このカップも、二人で茶わん坂の別名がある清水新道へ行った時に買ってきたものだった。
「おいしい。若槻さんが淹《い》れてくれるコーヒーだけは、最高だわ」
「コーヒーには、もうひとつ利点があるの、知ってる?」
「なあに?」
「催淫《さいいん》効果がある」
「サイイン……?」
恵は一瞬、何のことだかわからないような顔をした。
「もう。嘘ばっかり」
「本当だよ。味のことさえ気にしなければ、マメハンミョウという昆虫を擂《す》り潰《つぶ》して入れると、もっと効果があるらしいんだけどね」
「やめてよ。ほんとに虫オタクね。気持ちの悪い」
若槻は、恵の肩に手を回そうとした。
「そうだ。さっきの話よ」
恵は、右手にカップを持ったままで、器用に若槻の抱擁をすり抜けた。
「仕事大好き人間だった若槻慎二が、なぜ急に、会社のことを話すのを嫌がるようになったのかよ」
若槻は、手持ちぶさたになったのをごまかすために腕組みした。
「別に、嫌がってるわけじゃないよ」
「それで、思い出したの。去年の春、転勤してきてすぐのころは、何でも話してくれたじゃない」
「そうかな」
「その時、若槻さんが話しながら、一瞬だけだけど、すごく暗い顔をしたことがあったの。ほら、バーボンしか置いてないお店で飲んでた時。それが、何だかすごく印象に残ってて」
若槻は黙って立ち上がると、二杯目のコーヒーをカップに注いだ。
「保険金の査定をするために、死亡診断書のチェックをしなければならないっていう話だったわ。たしか、その時、若槻さんは、こう言ってたの」
恵は、記憶を呼び起こすように目をつぶった。
「朝一番の、さあ今日も頑張るぞって思っている時の仕事としては、あんまり気持ちのいいものじゃない。それも、天寿を全うした老人ならまだいいけど、子供の死亡診断書だけは見たくないって。親のちょっとした不注意なんかで、幼い子供が車にはねられて亡くなったなんていうのを見せられると、どうしても、両親がどんな気持ちでいるだろうかって想像してしまって……」
「よせよ」
若槻はできるだけさりげない調子で言ったつもりだったが、その一言は、まるで抑えがたい怒りがこもっているかのように険悪に響いた。
恵は、はっとしたように口をつぐんだ。
部屋の空気が急に緊張したものに変わる。しまったと若槻は思った。
「いや。何も、怒ったわけじゃないから」
あわてて弁解する。
「……ごめんなさい」
恵は、叱られた子供のような顔つきになっていた。何か言わなくてはいけないと思いながらも、どうしても言うべきことを見つけられないでいる。
恵の明るさや無邪気さは、見せかけだけではなかったが、それとは裏腹に、病的なほど繊細で傷つきやすい部分も彼女の中には同居していた。それが、自分が愛されなくなることや、見捨てられることへの病的なまでの不安であるということを、長いつき合いで彼はよく知っていた。
若槻と二人で酒を飲んだ時などには、彼女はしばしば、親子関係に問題があることを匂わせていた。横浜では有名な機械部品メーカーの社長令嬢だった彼女が、親元を離れて京都の大学で心理学を専攻し、さらに大学院にまで残った理由も、そのあたりにあるらしい。
若槻はコーヒーカップをテーブルに置くと、恵のそばに来た。背後からそっと腕を回す。彼女はじっとしていた。背筋をぴんと伸ばし、呼吸をしていないかのように身を固くしている。
「……別に、謝らなくてもいいよ。今の仕事に、少々うんざりしているのは、事実だから。保険会社の窓口を担当していると、毎日、毎日、ろくでもない連中の相手をしなくちゃならないから、ストレスも溜るだろう?」
若槻は、空白を埋めようとして話し始めた。横顔だけしか見えないが、心なしか恵の表情が少しほぐれたようだ。
「ろくでもない連中って?」
「何とか保険会社から金を搾り取ろうとして、やって来るやつらがいるんだよ。不況が長引いているせいか、まったく、後から後からよく来ると思うよ」
若槻は、先日支社に現れた契約者貸付をネタにした強請《ゆす》りの一件について詳しく説明した。
「だけど、本当に怖いのは、普通の人が、本当に頭に来てる場合なんだよ。たとえば、最近ではほとんど売ってないけど、バブルの頃には、変額保険っていうのを販売してたんだ。保険会社の運用実績によって受け取れる保険金が増減するっていうやつ。まあ、保険というよりは、一種の財テク商品だったんだけど」
「ああ。そういえば、うちの……父も、なんだか勧められて買ってたみたい」
「うん。君んちのお父さんみたいな金持ちの場合には、ポケットマネーの運用ということでよかったんだけど、まずかったのは、手元に金の余ってない人たちにまで売り込んだことだったんだ。銀行融資とパッケージにして、要するに、銀行から金を借りて変額保険に入るよう勧めたんだな。当初のもくろみでは、配当と満期保険金で融資の元利を返済した上にお客さんにも相当な利益が残るはずだった」
恵は考え込むような顔になった。
「わたし、保険のことはよくわからないけど……。でも、そもそも保険っていうのは、生命保険でも、損害保険でも、リスクを分散するためのものでしょう? その保険で、儲《もう》けようとしてリスクを冒すっていうのは、何だか変な気がする」
若槻は溜め息をついた。
「みんなが君ぐらい賢ければ、よかったんだろうけどね。……まあ、それでもバブル経済が続いてた時は保険会社の運用もうまくいってたから、銀行に利息を払っても余りあるくらい保険金も配当も増えて、お客さんも喜んでたんだ。ところが、バブルが崩壊したとたんに土地も株も同時に下がり、そのうえ円高で海外での運用までだめになってしまったから、運用成績が落ち込んで、いっぺんに逆ザヤになってしまった。中には、銀行から目一杯借りて多額の投資をしていたために、家を失ったり破産に瀕《ひん》する人まで出てきた」
「でも、そういう人たちも、リスクがあることは承知の上で投資したんでしょう?」
「そこがまた、問題なんだよ。変額保険を販売する時に相場によるリスクがあると、お客さんにきちんと説明していればいいんだけど、外務員の方ではとにかく成績を出したいから、絶対儲かるとか何のリスクもないとか、いいかげんなことを言って売り込んだケースが多いんだ。しかも、保険のおばさんだけならともかく銀行の融資担当者まで太鼓判を押して勧めるから、お客さんも、つい信用して話に乗ってしまう。ほら、信用金庫が破綻《はたん》した時に問題になった抵当証券と同じだよ。それで損をしましたじゃ、お客さんとしては話が違うんじゃないかと思うから、支社まで押しかけてきて強談判《こわだんぱん》となる。当然、中には激昂《げつこう》する人も出てくる」
「……そういう人たちも、『ろくでもないやつら』なの?」
恵の悪気のない質問に、若槻は苦笑した。
「いや、その人たちは違うよ。ろくでもなかったのは、むしろ、生保や銀行の方だろうな」
若槻は恵を抱きしめた。
「苦しい。窒息しちゃうわ」
恵はやっと笑顔を見せた。
「しばらく、こうしてようか」
「嫌よ」
「どうして?」
「今日は、なんだかむし暑くて。さっき歩いてるうちに汗ばんできちゃったから……」
「だったら、シャワーでも浴びようか?」
「いいわ。先に入ってきて」
「一緒に入るというのは?」
恵は若槻をぶつまねをした。
若槻はバスルームに入ると、シャワーを浴びながら調子っぱずれの口笛を吹いた。バカラックの『アー・ユー・ゼア・ウィズ・アナザー・ガール』のつもりだったが、自分の耳にさえ、自棄《やけ》になって鳥の鳴き真似をしている男のようにしか聞こえない。外で聞き耳を立てていたらしい恵が吹き出した。
若槻が外に出ると、入れ替わりに恵がバスルームに入った。ドアにはしっかり鍵をかける。
若槻はトランクス一枚にバスローブを羽織って、冷蔵庫から缶ビールを出して飲んだ。
しばらくすると、つやつやした真っ黒な洗い髪をタオルで押さえながら恵が出てきた。さっき着ていたワンピースを、きちんと着込んでいる。
「何だ。また、服を着たの?」
「裸で出てこられるわけないでしょう?」
「誰も見ていないじゃないか」
恵は口を尖らせて若槻の顔を指した。そして、彼が手に持っているアルミの缶に目を留める。
「嫌ねえ。また、昼間っから、ビールなんか飲んでるの?」
「いいじゃないか。この頃は、牛だって昼間からビールを飲んでるんだぜ」
「そうね。きっともう、お肉は霜降り、肝臓はフォアグラよ」
恵は人差し指で若槻の腹のあたりをつついた。
若槻は恵の肩を両手でそっとつかんだ。華奢《きやしや》な肩の骨は掌の中にすっぽりと収まってしまう。恵は少しだけ抗《あらが》ったが、すぐに力を抜き目を閉じた。若槻は恵を引き寄せると、彼女の背中に両手を回してキスをした。それからベッドに並んで腰かけると、もう一度唇を合わせた。
若槻の腕の中にある恵の体は、強く抱きしめると壊れてしまうのではないかと思うほど柔らかかった。膝の上に彼女を抱え上げる。すでに彼は反応し、痛いほど昂《たか》ぶっていた。
小ぶりな乳房にそっと触れ、ワンピースの胸元を引き開ける。恵のワンピースをベッドの足許に投げ出し、彼もバスローブとトランクスを脱ぎ捨てた。
今にも重なり合おうとしたとき、突然、若槻の中で何かが壊れた。
額に汗がにじむ。今日もだめなのか。冷たい泥のような失望が、体を這い上がってくる。やがて若槻は、がっくりと肩を落とした。
恵が彼の手を握った。
「いいの」
何もかも了解しているという微笑みだった。
若槻は自嘲気味に頬をゆがめると、彼女の横にごろりと仰臥した。
「ねえ、抱きしめていてくれる?」
若槻は恵を胸の上に引き寄せた。
内心、今日こそはと期するものがあったのに、結果は惨めなものだった。少量のアルコールも、結局何の役にも立たなかった。それどころか、症状は以前より悪化しているような感じすらある。
心の奥底に存在する理不尽な罪悪感。快楽へ我と我が身を委ねようとするとき、必ず顕れる障碍《しようがい》。
俺は一生、これにつきまとわれて終わるのだろうか。若槻は溜め息をついた。
「わたしは、こうしてるだけでいいの。幸せだから」
恵が彼の頬に触れた。
「いつまでも、ずっとわたしのそばにいて」
若槻は体勢を変えて、彼女の上になった。柔らかい胸の谷間に顔を埋《うず》める。彼の頭髪の間に恵のしなやかな指が滑り込み、優しく撫でさする。
性的な充足感こそ得られなかったものの、子供が泣き寝入りするときのような甘い自己憐憫に包まれ、恵の慰撫するような動きに身を任せながら、若槻はしだいに眠気の渦の中に呑み込まれていった。
真っ暗だった。さっきまでの、それなりに穏やかで満ちたりた気分は消え失《う》せ、どこか荒涼とし、冷え冷えとした感覚に包まれていた。
なぜか彼は身を縮め、息をひそめていた。絶対に物音を立ててはならないのだ。もし外に音が漏れでもしたら、見つかってしまう。
自分がどこにいるのかという疑問は起きなかった。シェルターのようなものの中に隠れているらしい。シェルターと言っても、俯《うつぶ》せになっている彼の全身を覆うだけの大きさしかない。まるで亀の甲羅のようなものだった。
外には正体のわからない恐ろしい敵が徘徊《はいかい》している。見つかったら最後、喰い殺されてしまう。ひたすら息を殺して、危険が通り過ぎるのを待つよりなかった。
シェルターの狭い隙間《すきま》から外の様子が見えた。彼は、はっとした。恵の姿が見えたのだ。
恵は荒野を、隠れ場所を求めて必死で逃げているようだった。すぐ後ろから敵が追いすがっていることはわかっていた。そして、絶対に逃げ切れはしないということも。
そのうちに、追いかけているものが現れた。その姿は彼には、ぼんやりとしか見えなかったが、不気味さに鳥肌が立つような思いがした。
恵の悲痛な悲鳴が上がる。
恵。彼は心の中で絶叫した。恵が殺される。
だが、シェルターを出て恵を助けにいくことはできなかった。行けば自分も殺される。彼は狂おしい思いの中で、恵の姿を呆然と見守っていた。
恵は、恐ろしい顎《あぎと》の中でゆっくりと死んでいく。今まさに命が絶えようとする時、恵はこちらを向いたようだった。最初からここに彼が隠れていることに気がついたのだ。だが、彼女は助けを求めようとはしなかった。自分が犠牲になっても、彼だけは助けようとしているようだった。
恵。彼は心で呼びかけたが、彼女の意識はすでに消失していて、何も感じ取ることはできなかった。
涙があふれる。
恵は死んでしまった。この世の終わりのような深い絶望と悲しみが、彼のまわりに押し寄せてきた……。
目が覚めてからも、まだ悲しみの余韻は残っていた。うっすらと涙のにじんだ目を拭《ぬぐ》って、若槻は隣を見た。恵は安らかな寝息を立てている。
なぜあんな夢を見たのだろうか?
若槻は、固く握っていた手を開いてみた。手のひらに、深い四つの爪跡が残っている。生命線や感情線などの窪みや、細かい皺《しわ》にそって、微細な水滴となった汗がきらきらと光っていた。
恵の与えてくれた平和な気分は、跡形もなく消え去っていた。あるのはただ、真っ暗な底なし沼にのみ込まれていくような深い喪失感だけである。
若槻は溜め息をついた。夢の中での恵を見殺しにしたという罪の意識には、どう考えても根拠がなかった。彼には、たとえ心の中だけにせよ彼女を見捨てたような覚えは一度もない。
あれはやはり、兄に対する感情が形を変えて噴出したと解釈すべきなのだろうか。恵の影響で、若槻は一時心理学にも興味を覚え、様々な本を読み漁っていた。だがやはり、系統立てて学習したわけではないので、自己分析にも自信は持てなかった。さっき恵はそのことを言おうとしていたようだ。遮ったりせずに彼女の分析を聞いてみればよかったと思う。
若槻はふと、先日支社にかかってきた電話のことを思い出した。あの時、見知らぬ相手に兄の自殺のことを話した。もちろん自分に責任があるなどとは一言も言わなかった。まるで自分は、兄の自殺によって傷ついた被害者だと言わんばかりだったではないか。
無意識にはきっと、忸怩《じくじ》たるものがあったのだろう。そのつけが今日になってやって来たのだ。
罪悪感の正体はわかっている。俺はたった一人の血のつながった兄を見殺しにしたのだから。
そのことは一生、心の中に消えない傷となって残るに違いない。
今から十九年前、一九七七年の秋のことだった。若槻慎二は九歳で、小学校の四年生だった。
土曜日の昼下がり。慎二はいったん家に帰ってから、学校に忘れ物をしたことに気がついて戻ってきた。
机の中から忘れ物を取り出すと、校舎の階段を駆け降りる。その途中で、おやと思った。クツ箱のところで、もうとっくに帰ったと思っていた兄の姿を見かけたからだ。
兄の良一は、慎二とは二つ違いの六年生だった。何人かの友達と一緒だったが、そのうち二人は兄の両脇を挟むようにして歩いていた。まるで囚人を護送しているように見えた。
良一たちは、運動靴に履き替えると、体育館の裏手の方へと歩いていった。
幼い慎二にも、ただならぬ雰囲気が感じられ、彼は少し間隔をあけて後をつけていった。
コンクリートの道の上には校庭に植えられていたポプラの黄色い落ち葉が風で吹き寄せられて、足首が隠れるほど積もっていた。慎二は特に身を隠したりせず、ただ付いて行っただけだが、六年生たちが一度もふり返らなかったので見つからずにすんだ。
体育館の裏手には高い塀があり、その向こうには一面の梨畑が広がっていた。体育館と塀の間は二メートル足らずしかなく、体育館の天窓を除けば、ほとんどの方向から死角になっていた。
慎二は、建物の陰からこっそりと様子を窺《うかが》っていた。
六年生たちは、良一を取り囲んで何事か詰問しているようだった。そのうちに彼を小突いたり襟首を引っ張ったりし始めた。良一は動物が好きな温和な性格で、人と争うようなことはほとんどなかった。二歳年下の弟の慎二とも、普通なら格好の喧嘩《けんか》相手になるところだが、ほとんど喧嘩したことはなかった。
それだけに、学校ではいじめの標的にされやすかったのだろう。今とは違って、いじめの問題はまだ、メディアでもほとんどクローズアップされることはなかった。当時はまだ、金銭を要求するということはなかったものの、暴力で弱い者をいたぶって憂さを晴らす生徒たちは、どこの学校にも存在していた。
慎二は、はらはらしながら事態の成り行きを見守っていた。良一に対するいじめは、地面に転がして足で蹴るまでにエスカレートしていた。
慎二は教師を呼びに行こうと決心した。その時、運悪く六年生の一人が顔を上げて、体育館の陰から頭だけを覗《のぞ》かせていた慎二と目を合わせてしまった。
「おい。お前、こっちへ来い!」
一人が大声で慎二を呼びつけると、残りの六年生たちも険悪な顔でいっせいに彼を見た。
一目散に走って逃げれば、あるいは逃げ切れたかもしれなかったが、彼にはそうする勇気はなかった。何と言ってもしっかりと顔を見られてしまったのだし、慎二はこれからもずっとこの学校に通わなくてはならないのだ。
慎二がおそるおそる六年生たちのところへ行くと、ほとんど頭ひとつ大きい上級生たちは、彼に何か見たのかとたずねた。
慎二は黙って首を振った。
一番ひどく良一を蹴っていた、ボス格の六年生が、俺たちは友達どうしで話をしていただけだと言った。お前は何年生だ?
四年生ですと答えると、誰かに告げ口したら承知しないぞという意味のことを言われた。お前を殺して山に埋めてやるからなと。
馬鹿げた脅し文句だったが、その場の雰囲気から、幼い慎二には十分、真実味を伴っているように感じられた。
慎二は、いじめっ子たちの言うとおりに、ここで見たことは誰にも言わないと約束させられた。
良一は、後ろで地べたに座ったまま黙ってうつむいていた。泣いているようだった。慎二は良一と目を合わせることができなかった。兄弟であることがわかれば、自分もいじめられるかもしれないと思ったからだ。良一もそれを察したのか、慎二を知っているような素振りは見せなかった。
結局、彼は兄をその場に残したまま、逃げるように立ち去ったのだった。
その日の夕方だった。
慎二は、家に帰って兄と顔を合わせるのが辛《つら》かったため、外でぶらぶらしていた。ようやくふんぎりがついて帰ってきた時には五時前になっていた。若槻家は高層団地の八階だった。ちょうど日没の時刻で、建物全体が真っ赤な夕焼けに染まっていた。
彼の家のある棟の前に、人だかりがしていた。救急車と回転灯をつけたパトカーが停まっている。
慎二は人だかりに近づき、何があったのか見ようとした。すると、誰かに腕をつかまれて引き戻された。見ると、向かいの部屋に住む顔見知りのおばさんだった。
「あんたは、見たらだめ!」
おばさんは、これまで見たことがないような怖い顔で言った。
「……あのね、お母さんの連絡先は、わかる?」
父親は、二年前に交通事故で亡くなっていたので、母親の伸子が昭和生命の外務員をして一家の生計を立てていた。帰ってくるのはだいたい七時前だ。営業所の電話番号なら家に帰ればわかるが、たいていは外回りの途中なので連絡を取るのは難しかった。
慎二は、首を振った。
「何か、あったんですか?」
「あんたのお兄ちゃんがね、大変なことになったのよ」
そう言ったきり、おばさんは絶句した。
おばさんが、唇を噛《か》んで顔をくしゃくしゃにしているのを見ながら、慎二は呆然《ぼうぜん》としていた。すると、まわりの人混みから囁《ささや》き交わす声が聞こえてきた。
屋上から飛び降りたんだって。まだ、小学生なんでしょ? 六年生? それで、どうして、自殺なんか……?
自殺……? 慎二は、高層アパートを見上げた。真下から見ると、いつになく威圧的に頭上に覆いかぶさってくるようだった。飛び降りた?
その後のことは、妙に、記憶の中でも印象が希薄だった。
伸子は、当然のことながら身も世もないというふうに嘆き悲しんだ。夫が亡くなってからは、二人の子供だけが、彼女の生きがいといってもよかったからだ。
いろいろな人が、入れ替わり立ち替わり彼の目の前に現れた。親戚の叔父《おじ》さん。学校の先生。その他、よくわからない人たち。慎二に向かっていろいろなことを言ったようだった。おおむね彼を励ますような内容だったと思うが、後になってみると、何一つ耳には残っていなかった。
次に覚えていることは、葬式で坊主の読経が奇妙な節回しで延々と続き、正座している足が痺《しび》れて辛かったこと。それから、火葬場から立ち上る細い煙を見たことだった。人間というのは死ぬとああなってしまうのかと思った。
結局、彼は母親にもそれ以外の人にも、兄がいじめに遭っていたという事実を打ち明けることができなかった。それを話すと、どうしても彼が兄を見捨てたことも話さなくてはならないからだった。
封印された罪悪感は解消されることなく、いつまでも心の奥底で燠火《おきび》のように燻《くすぶ》り続けた。
普段は自制心によって抑え込んでおくことができた。だが、彼がいざ抑制を取り払って素直な自分を表に出そうとすると、真っ黒な感情の澱《おり》が幽霊のように顕れるのだった。
「起きてるの?」
気がつくと、恵が右腕を枕にしてじっと彼の顔を見ていた。
「ああ。今、何時かな」
若槻は身を起こした。
「四時ちょっと前」
ずいぶん長い時間がたったような感じだったが、眠っていた時間と目が覚めて考え事をしていた時間を合わせても一時間たらずだ。
「ちょっと早いけど、出かけようか?」
恵は彼を押し止《とど》めた。
「無理に起きなくてもいいわよ。疲れてるんでしょ?」
「うん」
若槻は仰向《あおむ》けに寝転がって天井を眺めた。
「何を考えてたの?」
「まあ、いろんなことだよ」
「すごく悲しそうな顔してた」
「そう?」
夢のことを話して恵の意見を聞きたかったのだが、いくら夢とはいえ、彼女が殺されるのを黙って見ていたとは言いにくかった。
「ねえ……。若槻さんが、どうして大学で昆虫学を専攻したのかって、聞いたことあったっけ?」
恵が、唐突にたずねる。
「どうしてってことはないけど。ただ単に、虫が好きだったからだよ」
若槻は、なぜ彼女が今さらそんなことを聞くのかと思った。
「ねえ、だいたい、『昆虫』って何なの?」
恵がうつぶせになって身を乗り出しながら聞いた。
「体が三つの体節に分かれ、足が六本、羽が四枚ある節足動物だよ。まあ、羽は退化してるやつも多いけどね」
「クモとかムカデは、違うの?」
「違うよ。クモは蛛形《ちゆけい》類、ムカデは唇脚《しんきやく》類だよ」
「じゃあ、『昆』っていう字は、どういう意味?」
若槻は答えようとしたが、その時急に喉《のど》の奥に何かが突き上げてきた。
「どうしたの?」
恵が不思議そうな顔をして聞く。
「いや……。どういう意味だったかな。忘れた」
恵はそれ以上、その質問にはこだわらなかった。
「それで、若槻さんは、どうして昆虫が好きになったの?」
「小学生のころ、ファーブルの『昆虫記』を読んでからかな。『昆虫記』は、その後、何十回も読み返したよ。その頃は、まだ近所に雑木林がたくさん残ってたからね。よく捕虫網と胴乱を持って昆虫採集に出かけたよ」
「一人で?」
「いや……。二つ年上の……兄貴と一緒に行くことが多かった」
恵はしばらく何か考えていたようだったが、また若槻の方を向いて質問をした。
「若槻さんは、本当は違う仕事がしたかったんじゃない?」
また若槻の気分を害することを恐れたのか、少し緊張した声音だった。彼は内心、兄のことを重ねて訊ねられるのを恐れていたので、少しほっとした。
「違う仕事って、たとえば?」
「たとえば、昆虫の研究を続けるとか」
「それじゃ、食っていけないよ」
「でも、本当に好きだったら、何とかなるんじゃない?」
「ファーブルみたいに、弁当を持って、朝早くから野原に出かけ、日がな一日、虫を観察して過ごすなんて、最高の贅沢《ぜいたく》だと思うよ。でも、今の日本では、よっぽど経済的に恵まれてないとね」
「それが、理想の生活? わたしだったら、退屈だけどな」
「普通の人は、そうだよ。特に君の場合には、虫には心がないから、面白くないだろうね。だいたい昔っから、『虫魚の学』っていうのは、つまらない学問の代名詞なんだよ。会社に入っても、何の役にも立たないしね」
「それで、どうして保険会社を選んだの?」
「どうしてかな。まあ、おふくろが、そう望んでたっていうのは、あると思うよ。それに、我が家は、生命保険という制度から、特別に恩恵を受けてるんだ」
若槻は、ふっと溜め息をついた。
「おやじが交通事故で死んだ時、加害者が、賠償金を一円も払わずにトンずらしやがったんだよ。だから、もし、つき合いで入っていた生命保険金がなければ、どうにもならなかったと思うよ。それに、おふくろが外務員をしていたからこそ、何とか僕を大学まで行かせてくれることができたんだ。特別な技術もない中年女性が、努力次第でそれだけの収入を上げられる仕事なんて、あんまりないからね」
恵は、両手で頬杖《ほおづえ》をついて若槻を見た。
「……ふうん。生命保険に、理想を持ってるんだ」
狭いベッドの上でうつぶせになった彼女の首から脚までが、優美な曲線を形作っている。いつもきちんとしている恵のそんなしどけない姿に若槻は目を瞬いた。
「そんな、大げさなもんじゃないよ。ただ、どうせ保険会社に就職するんだったら、同じ理学部でも、生物学科なんかじゃなくて、数学科でも出とけばよかったよ」
「数学が、役に立つの?」
「ああ。アクチュアリーって言って、保険数理の専門家になる道があるんだ。統計学を駆使して、保険料率や年金なんかの計算をするんだけどね。まあ、アクチュアリーの資格さえ持っていれば、最果ての地の営業所長なんかに飛ばされるおそれもなくなるし、取締役会には必ずアクチュアリーが必要だから、役員になれる確率も高くなる」
「へえー。そういう仕事が、好きなの?」
若槻はしばらく考えた。
「いや。全然」
恵は、くすっと笑った。若槻は、彼女の笑顔を眺めているうちに、いつのまにか自分の口元もほころんでいることに気がついた。
夜、若槻が部屋に帰ってくると、留守番電話に用件が一件入っていた。
ボタンを押すと、母親の声が聞こえてきた。メッセージを入れる時間は一分あるのに、電話しなさいという意味のことを十五秒くらいで早口にしゃべり、唐突に切れている。
どうせ大した用じゃあるまいにと思いながら、電話をかける。
呼び出し音が六回鳴ってから伸子が出た。
「はい。若槻でございます」
「もしもし。僕だけど」
「ああ。慎二。何か、用?」
若槻は腹を立てた。
「電話してくれっていうメッセージが入ってたから、電話したんだけど?」
「ああ。そうそう。あんたね、お見合いする気、ない?」
「ない」
「取りつく島もないねえ。どんな相手か、聞きもしないで」
「そういうの、嫌いなんだ」
「どうしてよ?」
「何というか、お互いに自分の弱点をガードしながら、虎視眈々《こしたんたん》と相手を窺っているっていう感じがね……」
若槻の言葉は、ほとんど伸子の耳には入っていないようだった。
「それでね、写真と釣り書き送っといたから。気に入っても入らなくても、向こう様の都合もあるから、見たらすぐに返送しなさい。書留速達でね」
「そういうことは、こっちの意思を聞いてからにしてくれよ!」
だが、伸子の方はどこ吹く風で、秋から損害保険を売るために支社でやっている講習のことなどを一方的に話し始めた。
またかと若槻はうんざりした。伸子の話はいつも長い。その上ひどい早口で、こちらが言葉をはさむ暇もないほどである。
千葉で独り暮らしをしているために寂しいのだろうと思って、いつも聞いてやることにしていたが、今日は、いつにもまして話が延々と続いた。
ふと若槻は、母親にあることを聞いてみたいという強い衝動に駆られた。
「母さん……」
「え。何?」
若槻の声から何かを感じ取ったのか、伸子は、口をつぐんだ。
兄さんがどうして自殺したのか、知ってる?
だが、その質問は若槻の舌の上で声にならないまま消えて行った。
「……明日早いから、もう切るよ。それに、よく考えてみると、この電話代は、こっち持ちだし」
「何だ、気がついてたの。じゃあ、おやすみ」
若槻がおやすみと言う前に、電話は切れていた。
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4月19日(金曜日)
その病院は、JRの山科《やましな》駅から山側に入った場所にあった。
亀岡営業所長の菅沼《すがぬま》が正面玄関の前でレジェンドを停めると、若槻《わかつき》は車から下りて四階建ての病院を眺めた。
白壁はすっかり煤《すす》けて陰気な感じである。玄関の周囲もひどく殺風景で、花壇や植木の類は一切ない。横手に回ってみると、コンクリートの塀との間にある三十センチほどの隙間には壊れた自転車や空き缶、ペットボトルなどのゴミがぎっしりと堆積《たいせき》していた。
たとえ若槻に何の先入観もなかったとしても、こういう病院には入院したくないと思ったことだろう。
「お待たせしました。そしたら、行きましょか」
車を駐車場に入れてきた菅沼が、小太りの短躯《たんく》を揺すりながら足早にやって来た。
建物の中に入っても、病院の印象は、いっこうによくならなかった。もともと採光が悪く照明も不十分なために、ロビーはまるで夜明け前のような有様だった。見上げると、蛍光灯の半分くらいは点灯していない。
三列に並んだ黒いくたびれたソファには、老人ばかりが所在なげに座っている。昼休みにはまだ時間があるのに、受付の窓口にはカーテンが引かれていた。
内科病棟は四階だった。エレベーターは三基とも上の階に止まったままであり、一向に降りてくる気配がなかったので、やむなく階段を使うことにした。
「この前行った時には、病室におらへんかったんですわ」
菅沼は、狭い階段を上るのに難渋しながら、あえぐように言った。
閉鎖されたがらんどうの空間に足音と話し声が反響する。ステップのリノリウムは摩耗してつるつるになっているし、滑り止めのゴムもなくなったままなので、うっかりすると足を踏みはずしそうになる。
「それで、同室の患者さんに、それとなしに聞いてみたら、昼間は毎日、駅前のパチンコに行っとるそうです」
「よくあるパターンですよ」
健康な人間が長期間入院生活を送っていれば、どうしても暇を持てあますようになる。自然、昼間こっそりと外出するようになるが、あまり遠出をする勇気もなければ、行く先はパチンコ店ぐらいしかない。
「それで、出直そうか思ってたとこに、ちょうど帰ってきよって、ばったり鉢合わせですわ。また両手に、ウィスキーの瓶とか、カニ缶とか、ぎょうさん抱えとってね。こっちの顔見たとたんに、しまった、いう顔しよるんですわ。言い訳が、面白うてね。何や、余儀ない用事があって外出したとか、ウィスキーとかは、人に頼まれて買ってきたんやとか何とか……」
「いいご身分ですね」
生命保険がらみの犯罪のうちで、保険金殺人ほど派手さがないために、めったにメディアに取り上げられることもないが、その実最も保険会社の収支に損害を与えているのは、入院給付金の詐欺だった。
生命保険に入院特約を付けた場合、一日の入院に対して通常一万円までの給付金が支払われる。何社にも加入していれば一日数万円の収入になる。これは、たいていの仕事でまともに働くよりも割がいい。そのため、詐病によって不当に給付金をせしめようとする人間が後を絶たないのだ。
最も多い病名は頸椎捻挫《けいついねんざ》、つまりむち打ち症だった。医師にも症状を客観的に診断することが難しく、本人が痛いと訴えればそれで通ってしまうからである。だが、これから若槻らが訪問する角藤《かくどう》というタクシー運転手の場合には、もう少しやっかいな事情がからんでいた。
「それにしても、病院までグルやいうのは、ほんまですか?」
菅沼は信じ難いといった顔で聞く。
「ここは、有名な『モラルリスク』病院ですよ」
階段にはほかに人影はなかったが、あまりにも声が響くので、若槻は誰かに聞かれるのを気にして、小声で答えた。
道徳的《モラル》危険《リスク》というのは、生命保険業界の用語で、人間の性格や精神に起因する危険のことである。したがって、この語が冠せられていれば犯罪がらみであることを意味する。病院自体が給付金詐欺などの犯罪に関与しているモラルリスク病院は、若槻の知っているだけでも京都市内に四か所存在していた。
もともと、不動産などの多額の資産を持っている病院は、暴力団の格好の標的であったと言える。何よりも体面を重んじるだけに、ささいな医療ミスなどにつけこんで脅せば、比較的容易に金が取れたからである。
暴力団新法の施行後はあからさまな恐喝の数は減っていた。しかし近年ではほとんどの病院が経営難であることから、彼らにつけこまれる要素はむしろ拡大していた。
病院の院長というのは医学の専門家ではあっても経済や経営については素人であり、周囲から持ち上げられることに慣れているだけに世間知らずであることも多い。
彼らは、そういう病院長に狙いを定めると、最初はまともな実業家を装って接近し、徐々に信頼を得て経営に関するアドバイスをしたり相談に乗ったりするようになる。最も典型的なシナリオでは、病院の経営が苦しいと愚痴をこぼす院長に、多くの病院の再建を手がけた経営コンサルタントと称する人物を紹介する。
いったんそういう人間を病院の中に入れたが最後、あっという間に病院の経理を掌握され、経営を牛耳られてしまう。その後は、まったく無関係な企業への融資のために勝手に土地や高価な医療機器を担保にされるなどしてさんざん食い物にされたあげく、最後には手形を乱発させられて倒産というのがお決まりのコースである。
中には、不動産市況の回復を待とうという目論見《もくろみ》なのか、生かさず殺さずといった状態で存続させられている病院もあった。給付金詐欺を働こうとする者にとっては、文字通りの温床である。
「角藤さん、どうも。具合、どないですか?」
菅沼は大部屋に入ると、一番奥にあるベッドの上であぐらをかいて煙草を吸っている男に声をかけた。
男は振り向いた。つまらない男だなというのが、若槻の第一印象だった。何一つ人間的に興味を引かれるような部分がない。
ぼさぼさの髪の毛はやたらに密生していて、額がほとんどない。吊り上がった小さな目は細かい損得勘定には敏感そうだが、想像力のかけらもなさそうだった。顔色は不健康にどす黒く頬骨が張っていた。要するに、つまらない人生を送っている、つまらない顔をした男にしか見えなかった。
「こちらは、支社の若槻主任です」
菅沼が紹介すると、角藤は、灰皿代わりにしているらしい清涼飲料水の空き缶で煙草をにじり消した。口と鼻からだらしなく煙を吐き出しながら目を細めて言う。
「何や、こいつは? わしは、支社長連れてこいって言うたやろ?」
つまらない人間ほど、尊大にふるまいたがるようだ。
「若槻さんが、お支払い関係の責任者ですから」
菅沼は若槻の方に手を振って、男の矢面から逃げるようにした。
「そうか。わかった。そしたら、お前が責任とるんやな?」
男はベッドの上で向きを変え、若槻を睨《ね》めつけた。
「おい。もう請求してだいぶんになるのに、いつまでたっても金が出んいうのは、どういうことや? 保険に入る時はぺこぺこするくせに、支払う段になると、手のひら返しやがって。お前が責任者や言うたな? 性根入れて返答せえよ、こら! お前が、止めとんのかい?」
一年もこの種の人間を見ていれば、本当に危険な相手かどうかはすぐにわかるようになる。角藤は大丈夫だと見きわめがついた。先日、矢田部社長を連れて支社に来た男と比べても、まったく迫力に欠ける。やたらに怒号するだけしか能のない、小心者に違いない。
角藤の長い入院歴の最初は、運転していたタクシーにほかの車が追突したことによる、むち打ち症が原因だった。交通事故証明書によればタクシーの後部が大破するくらいの大事故であり、おそらくこれは本当だったのだろうと若槻は思っていた。ただ、一度甘い汁を吸ったのが忘れられず、しだいに常習と化したのだろう。
「給付金の支払いについては、現在、本社で検討しています」
「検討、検討って、いつまで待たせんのや? おう? なめとったらあかんぞ!」
「それについて、二、三、お聞きしたいことがあるんですけどね」
「聞きたいこと? いまさらなあ……」
「まず、どうして、こちらの病院に入院されたんでしょうか?」
「おい。ここやったら、何か文句でもあんのか?」
「角藤さんがお住いになっているのは、亀岡市ですね。亀岡といったら、京都の西の外れじゃないですか。それが、どうして、わざわざ京都市の一番東にある山科区の病院に入院されたんでしょうか?」
「何でって……前に、人から、ここがいいって聞いてたからや」
角藤の虚勢は、急速に萎《しぼ》み始めた。
「いい病院ですか」
若槻は、染みだらけの病室の壁を見回した。
「でも、胃潰瘍《いかいよう》の激痛で苦しんでおられたんでしょう? 自分で車を運転して、病院へ行かれたんですよね? 普通は、もっと近くの病院へ行きませんか?」
「何が言いたいんや? そんなもん……どこの病院行こうと、わしの勝手やないか」
若槻は、カバンから入院証明書のコピーをとり出して、わざとらしく眺めた。
「それから、病名のことなんですが、入院されてから、二度も変わってますね? 最初は胃潰瘍でしたけど、入院中に肝機能障害が現れて、それから今度は糖尿病ですか。なるほど……」
「それがどないしたんや? 検査したらやなあ、後から悪いとこが見つかったんや」
「なるほど。しかし、それにしても、一回の入院に対する給付金支払いの限度が百二十日なんですけど、どういうわけか、ちょうど百二十日過ぎるたびに、病名が変わってますねえ?」
「こ、このガキは。……黙って聞いとったら!」
角藤は再び若槻を威嚇しようと試みたが、意に反して声が震えていた。これまで保険会社など甘いものだとたかをくくっていたのが、突然、自分の立場が危うくなっていることに気づいて、動転しているようだった。
「も、文句あんのやったら、病院に聞かんかい。病院が、そう診断しとんのや……」
若槻はカバンから書類とボールペンを出した。
「こちらに、サインをいただけないでしょうか?」
「何や、これは?」
「契約解除の同意書です」
「解除? どういうことや?」
「入院給付金についてはお支払いできませんが、角藤さんが、これまでにお支払いになった保険料についてはお返しいたします。それで、この保険契約は、なかったことにしていただきたいんです。それから、当社がこれまでに支払った入院給付金については、あえて返還の請求はいたしません」
「こ……このクソガキが。なめるな!」
角藤は唇を震わせると、大声でわめいて同意書を振り払った。ペンが部屋の隅にまでころころと転がって行く。
「わ、わしを、誰やと思っとんじゃ。お前、どっかへ飛ばしたろうか? え? 本社へ乗り込んでいったろうか? お前みたいな若造、わしの肚《はら》ひとつで、ど、どうにでもなるんやぞ!」
「まあ、ひとつ、よくお考えになってください。今日は、これで失礼します」
若槻は床から拾った紙切れをベッドの上に置くと、さっさと踵《きびす》を返して病室を出ていった。最後にちらりと見た角藤のどす黒い顔は、すっかり血の気が引いて白茶けた色になっていた。
「若槻主任。ええんですか?」
階段のところで菅沼が追いついてきて言った。
「あーあ。どっか、飛ばしてもらえないですかね」
若槻は伸びをしながら呟《つぶや》いた。
「ええ?」
「あの男が言ったみたいに、転勤にでもなれば、もっけの幸いなんですけどね」
「いや、そうやなくて、あんな怒らしたら、後でえらいことになりませんか?」
「だいじょうぶですよ。契約解除の方針は、本社で決定済みです。今日は、それを通告するために来ただけですから」
「でも、あの男、もし、どうしてもサインせんかったら、どうなるんですか?」
「どうしてもダメな場合は、裁判になりますね」
「勝てるんですか?」
「いや、そうなると、病院までグルだってことを立証しなくてはならないから、非常に難しいことになるでしょう。医師会は、モラルリスク病院なんてものの存在は、絶対に認めようとしませんからね。やっぱり、契約解除に同意してもらわないことには」
「そやけど、どうやって?」
「もう、我々の仕事は終わりですよ。本社で、『潰《つぶ》し屋』を頼んでますから、あとは任せましょう」
翌日、朝一番の新幹線に乗ってきて支社に顔を出した『潰し屋』は、案外小柄な男だった。身長は百七十センチを切っているだろう。差し出した名刺には『(株)保険データ・サービス 三善茂』とだけあった。
応対したのは、支社の事務方の責任者である内務次長の木谷と、葛西《かさい》、若槻の三人だった。三善が「どうも、葛西さん」と言うと、葛西も笑顔でうなずいていた。顔見知りらしい。
応接室で角藤に関する資料を渡して経緯を説明しながら、若槻は三善という男をじっくりと観察した。
四十代前半だろうか。眉は非常に薄く、頬はこけて縦じわが入っていた。深く落ち窪《くぼ》んでいる目は、ほとんど瞬かない。髪は地肌が透けて見えるくらいまで刈り込まれていて、健康そうによく日に焼けているところは、一見、営業マン風だった。
だが、地味なスーツを着て礼儀正しくふるまってはいても、どこか常人にない精気のようなものを発散しているのが感じられた。それもスポーツマンのような陽性のエネルギーではなく、どこか陰にこもった凄惨《せいさん》な気配があった。
「わかりました」
三善は資料を見てうなずいた。声は体格に似合わない低音だったが、金属的な倍音が混ざっているのが妙に耳障りだった。こういうのを錆《さ》びた声と言うのだろうか。
若槻は最初、喉頭癌《こうとうがん》の初期症状ではないかと疑ったくらいだった。そういう患者の入院証明書をチェックしたばかりだったからである。それが日常的に大声《たいせい》を発し、人を恫喝《どうかつ》しつけている人間の声であることに気づくまでには、しばらくかかった。
「たぶん、二、三日中には片づくでしょう」
「まあ、ひとつ、よろしくお願いします」
一同が立ち上がると木谷が頭を下げ、全員がそれに倣った。
「しかし、三善さんも、たいへんですなあ」
エレベーターの前まで三善を送りながら、葛西が言った。
「この後も、どちらかへ行かれるんですか?」
「ええ。これが片づいたら、九州の小倉の方へ。別の生保さんの案件ですが」
三善の姿が消えると、若槻はなぜかほっとした感じを味わっていた。角藤が怒鳴っている時より三善が普通にしゃべっている方が、ずっと怖さを感じさせたのである。葛西が若槻の脇腹をつついた。
「あの男、迫力あるやろ」
「ええ。ちょっと、普通の人とは違うなと」
「もとは、ばりばりの筋もんやったらしいで」
人差し指で頬に傷を作るジェスチャーをしながら言う。
「債権の取り立てとかで、かなり、えげつないこともやっとったらしいんやけど、結婚を機に足を洗ったという噂や。まともな職にはつけんで難儀しとったのを、あそこの社長が特技を見込んで拾ったらしい」
「特技ですか?」
「硬軟両様というか、相手によって強《こわ》もてと懐柔を使いわけて巧みに契約解除まで持っていく。ねちねちと搦手《からめて》から脅しをかけることもあれば、がんがん怒鳴って、相手を震え上がらせて契約を潰すこともあるんや。そういう技術には長《た》けとるという話やな。そやけど、わしは、あんな男に依頼するのは反対や。たとえ相手がワルであれ、時間はかかっても、じっくりと本筋から説得すべきやし、ええ結果になることが多い」
「でも、角藤みたいな男に対しては、ああいう人で……毒を持って毒を制すのも、いいんじゃないですか?」
若槻は、毎日寄生虫のような人間に低姿勢で相手をすることに、いいかげんうんざりしていたので、むしろ強硬策を歓迎したいような気分があった。葛西は苦い顔をした。
「うまくいった時は、たしかに手っ取り早い。その代わりに、こじれた時には、どうもならんようになるんや。まあ、今回はこじれんように願うのみやけどな」
葛西の心配は杞憂《きゆう》に終わった。
その日の夕刻、支社の窓口を閉めた後で、三善が再び現れた。
木谷と葛西は、別のフロアで支社長が営業所長たちを集めて檄《げき》を飛ばす会議に出席していたために、残っていた保全担当の管理職は若槻一人だった。
「どうも、さきほどは。……若槻さんでしたね?」
「今、みんな出払ってまして。あの、何か問題でも?」
若槻は、葛西の言葉が念頭にあったので、三善の姿を見て解除交渉がこじれたのではないかと心配していた。
「いや。これをお渡しに来ただけですから」
三善が黒いアタッシェケースから出したのは、契約解除の同意書だった。若槻は狐につままれたような面持ちで確認した。たしかに、角藤の署名|捺印《なついん》がある。
「こんなに早く。しかし、あの男がよく納得しましたね?」
「納得させるんですよ。……やりやすい相手でした」
「どうも、お手数をおかけしました。おかげで助かりました」
若槻は、三善のアタッシェケースの裏蓋《うらぶた》に透明なビニールでパウチした一枚の写真が貼り付けてあるのに気がついた。
三十代半ばくらいの小太りで愛敬《あいきよう》のある女性が、やはりまるまると太った二、三歳の女の子を抱いている。切り取られた瞬間の情景。笑顔で女の子に何か耳打ちして、レンズの方を見させようとしているようだが、女の子の方は眠いのか、ぽかんと口だけを開け、目はほとんど閉じていた。
「ご家族ですか?」
若槻がたずねると、三善は初めてにやりと笑い、「女房と、娘です」とだけ答えた。
三善が来た時と同じように静かに帰っていくのを、若槻は、エレベーターのドアが閉まるまで見送った。
若槻は席に戻ると、ゆったりと椅子の背もたれに身をあずけ、本社に電話をかけた。担当者はまだ残っていたので、契約解除が完了した旨の報告をする。電話が終わると、鼻歌を歌いながら一件書類をバインダーにはさんで、鍵のかかる机の引き出しに入れた。営業会議は長引いているらしく、内務次長も葛西もまだ戻ってこなかった。
若槻は手洗いに立った。
ふと鏡に目をやると、自分の片頬には見たことのないような歪《ゆが》んだ笑みがはりついていた。笑みはゆっくりと引いていき、ついには消えてしまった。
若槻は何度もポンプを押して、べたべたする緑の石鹸《せつけん》水を振りかけると、長い時間をかけて両手を洗った。
5月7日(火曜日)
連休明けの日は朝から忙しく、どこか落ち着かない雰囲気が漂っていた。
十時過ぎに税務署の調査員が窓口を訪れ、プラスチックのケースに入った身分証明書を見せて顧客の詳しい保険契約の内容を見せろと迫った。
プライバシーに関することなので正式の書面で照会してくれと言っても、相手は譲らなかった。とても公務員とは思えないような横柄な態度で、どこでも身分証明書を出せば教えてくれると言う。
税務署や福祉事務所からは、毎日、保険会社に対して契約内容に関する照会が山のように来るが、本人の同意書か役所からの正式の照会書がなければ教えられないというのが原則だった。
調査員はしだいに声を荒げたが、その程度のことには慣れきっている。結局、押し問答のあげく、調査員は膨れっ面をし足を踏み鳴らして引き上げていった。
入れ替わりのように、東京から昭和生命の顧問弁護士が訪れた。木谷内務次長、葛西と若槻の三人で応接する。係争中の事件に関して明日、京都地裁で第一回の口頭弁論が開かれることになっており、その打ち合わせのためだった。保険金の受け取りをめぐる相続人どうしの骨肉の争いで、昭和生命は巻き込まれた形での訴訟だった。
とはいえ、第一回の口頭弁論では次回以降の日程を定めるだけで実質審理は行われない。前髪を垂らした、若槻とそれほど年の違わない弁護士は、ほとんど観光気分であり、お茶を飲んで世間話をする以外は、もっぱら名所旧跡への道順をたずねては熱心にメモしていた。
午後一番に窓口に現れた客は、一見して東洋人ではないことがわかった。髪の毛は黒く縮れていたが、皮膚は青白い。若槻は驚いた。京都には外国人観光客は多数訪れるが、保険会社の窓口に現れるようなことはまずない。
応対した青柳有香《あおやぎゆか》は、短大の英文科を出たうえ現在は英会話学校にも通っているはずだったが、二言三言話しただけですぐに若槻に助けを求めてきた。
若槻は、少々困惑気味にカウンターの前に座った。二十代前半と思われる男で、国籍は判然としない。
何かせっぱ詰まったような表情で、開口一番、英語で外国人は保険に入れないのかと質問する。
受験英語の記憶を引っ張り出しながら、必ずしも日本国籍は必要ではないが、日本に居住している人間であることが原則だと答えると、保険に入る時には検査が必要なのかと聞く。
加入する保険の種類と金額によって、医師の診査を受ける場合と告知書に記入するだけでよい場合とがあると説明するが、男は重ねて検査が必要なのかと聞いた。何の検査かとたずねても、はっきりとした答えはなかった。
しばらくたってから、男はようやく血液のサンプルは必要ないのかと言った。
若槻は無理に笑顔を作って、内心の動揺を押し隠した。
……免責条項は、たしか英語で "Escape Clause" だったが、免責されるというのはどう言えばよかっただろう?
慎重に言葉を選びながら、血液の検査は必要ないが保険加入時に病気にかかっている場合は告知が必要で、死亡時に告知義務違反が発覚した場合、保険金は支払われないことを告げる。
男が納得したようだったので、若槻はほっとした。男が乗ったエレベーターのドアが閉まるのを見送った。
現実にはエイズはしだいに致命的な病気ではなくなりつつあり、アメリカでは、HIV抗体陽性でも保険加入を認めようという動きもあるらしいと聞いていた。だが、日本でそれが現実のものになるまでにはまだかなりの年月が必要なのではないだろうか。
帰って来ると、葛西が難しい顔をして受話器を置いたところだった。
若槻を見て手招きする。
「若槻主任。ご指名やで」
保険契約の内容をプリントアウトしたものと、葛西の走り書きしたメモを渡されたが、何のことかよくわからない。プリントアウトは三枚あった。
契約者コモダ・サチコ、被保険者コモダ・サチコ、保険金受取人コモダ・シゲノリの三千万円の定期付き終身保険。被保険者がコモダ・シゲノリとなっている、やはり三千万円の定期付き終身。それからもうひとつは、五百万円の子供向けの学資保険で、被保険者がコモダ・カズヤとなっていた。
「その、コモダ・シゲノリいう人から、電話があったんや。知ってるんか?」
「いいえ、聞いたことありませんけど」
若槻は、苦情があるとまず相手の年齢を見る癖がついていた。四十五歳。経験的に、一番危険なのは三十代前半くらいだったが、このくらいの年だとまだ油断はできない。住所を見ると嵐山《あらしやま》の近くだった。どちらかというと高級な住宅街のはずだ。記憶をたぐってみたが何も出てこなかった。
「そうか。何でやろうな……? とにかくご指名なんや。わざわざ若槻主任と名指しして、来てくれ言うてる」
「苦情の内容は、何ですか?」
「それが、ぼそぼそした話し方で、何を言ってるのか、よくわからへんのや。どうも、集金に来る外務員の態度が悪いとかいう話らしいんやけどな」
「かなり、怒っている感じでしたか?」
「そうでもない」
葛西は首をひねっていた。
「まあ、本当やったら、営業所長にでも行ってもらえばすむ話やけど、向こうが若槻主任言うてるから、悪いけど、今から行ってくれるか?」
「はい。わかりました」
支社にいても、どうせ次から次へと、やっかいな客ばかりがやって来る。たいした苦情でなければ、むしろ外に出ることは歓迎したいような気分だった。
集金は太秦《うずまさ》営業所の担当だった。一応、所長に電話を入れてみたが、外出中だった。大した問題でもなさそうなので、一人で行くことにして、住宅地図で場所を調べて該当のページをコピーする。
外に出ると、爽《さわ》やかな五月晴れだった。
昭和生命保険京都支社は、四条烏丸《しじようからすま》の交差点から北に入ったところにある昭和生命京都第一ビルという八階建ての建物の最上階にあった。生命保険会社の支社や営業所は、自社ビルに入居している場合でも、高い賃貸収入の得られる一階をほかのテナントに貸して上の方の階に位置していることが多い。
地味な焦げ茶色の壁面には、太陽がさんさんと降り注いでおり、ハーフミラーになっている窓越しにずらりと並んだ蛍光灯がついているのが、うっすらと見えた。
若槻は、近くにある昭和生命ご用達の和菓子屋で挨拶用の菓子折りを買った。苦情の内容によってサイズが違うが、今回は一番小さいものでいいだろう。阪急電車で四条大宮までひと駅を乗り、そこから京福《けいふく》電鉄の嵐山線に乗り換えた。
京都では、十数年前に交通の妨げになるという理由で市電が廃止されたが、線路の一部が一般道路上を走っている京福電鉄や叡山《えいざん》電鉄の方は、今でも市民の足として活躍している。
若槻が大学に入ったばかりの時、京福の『福』というのが福井を意味していると知って、不思議に思った記憶がある。京都から福井県へ向かう路線は存在しないからだ。
ところが、夏休みに福井に遊びに行った時に向こうでも京福電鉄が走っているのを知り、疑問は氷解した。現在のところは京都と福井に別々に路線を持ち、いつの日か両者を結び合わせるというのが、会社としての悲願らしかった。
一両だけの古びた電車は、広い道から一転して路地のようなところに潜り込み、家の軒先や生け垣をかすめるようにして走る。目的地に近づくにつれて、若槻の中ではなぜか落ち着かない気持ちが増して行った。
三条口、山ノ内、蚕《かいこ》ノ社《やしろ》……。いかにも京都らしい駅名が続く。映画村で有名な太秦を過ぎると、次は、北野線との分岐点になっている『帷子《かたびら》ノ辻《つじ》』という駅だった。若槻は、駅名のアナウンスを聞いた時にひどく不吉な気分に襲われた。
なぜだろう。駅名の標示板を見ながら考えて、帷子という文字から死者に着せる経帷子を連想したのだと気がついた。天井の木目が幽霊に見えるのと同じで、不安定な気分の時にはよくあることだった。だが、なぜ自分がそんなに神経質になっているのかがわからなかった。葛西の話では大した苦情ではないということだったではないか?
終点の嵐山のひとつ手前が、JR山陰本線の嵯峨《さが》駅のそばにある『嵯峨駅前』という卑屈な名前の駅だった。コモダ氏の住所は、そこから歩いて十分ほどの場所である。
そのあたりには、古くからある裕福な家が多いようだった。古風な竹矢来《たけやらい》の向こうに、ボルボやベンツのぴかぴかのボディが覗《のぞ》いていたりする。住宅地図のコピーを片手に大きくカーブする道に沿って、立派な生け垣のある家を過ぎると、その向こうに、半ば朽ちかけたような真っ黒な家が見えた。
その瞬間、理由はわからないが、若槻の心臓はどきんと跳ね上がった。
場所からすると、この家であるはずだった。家そのものはひどく老朽化が進んでいるようだったが、敷地はかなり広かった。黒い板塀の向こうにある庭からは何匹もの子犬の鳴き声が聞こえている。
門だけは比較的新しく作り直されたようだったが、周りの家々とはそぐわないような安普請だった。表札を確認すると『菰田《こもだ》』となっている。まちがいない。
深呼吸して、インターホンのスイッチを押す。しばらく待ってみたが、応答はない。もう一度押して、ごめんくださいと声をかけてみたが、子犬の鳴き声以外に応《こた》えるものはなかった。
若槻はふと背後に視線を感じて、振り返った。向かいの家の門扉のところから、中年の女がこちらの様子を窺《うかが》っていた。その家の主婦らしい。若槻が目礼すると、慌てたように引っ込む。若槻は二、三歩近づきかけたが、女はぴしゃりと戸を閉めてしまったので、菰田家のことを聞くことはできなかった。
家のたたずまいから受ける、漠然とした嫌な感じ。それに向かいの家の女の不審な態度。若槻は菰田家は周囲から孤立しているという印象を持った。
それにしても、どうしたものだろうか。葛西はすぐ行ってくれと言ったが、相手とどういう約束をしたのかは聞き逃していた。そういえば、菰田氏はぼそぼそと話すので、何を言っているのかわからないという話ではなかったか? 聞き違いで何らかの誤解が生じたのかもしれない。
まあいい。いないのならしかたがない。普通の場合であれば、できる限りその日のうちに相手に会おうと努めるのだが、今日だけは違っていた。若槻はとにかく、一刻も早くその場を立ち去りたい気分に駆られていた。
唐突に、ずっと以前にやはり同じような感覚を味わったことを思い出した。
あれはたしか、中学校に入学してすぐの頃だった。四月か五月くらいのことだろうか。
彼は新しくできたばかりの友達の家に遊びに行って、キャッチボールをしていた。最初はお互いに素直な球を投げていたのだが、そのうちに飽きたらなくなってきて、競ってカーブをかけるようになった。もちろん、ろくに変化などしなかったが、そのうち友達が指に引っかけた一球は、若槻のグラブを弾いてあらぬ方へと飛んでいった。
緩やかな坂道を点々と転がるボールを追いかけていくうちに、彼は人けのない、奇妙な路地のような場所に入った。
左手は倉庫で、右手には半ば朽ちかけた廃屋がある。路地は、三十メートルほど行ったところで袋小路になっていた。突き当たりには、木枠に波形のプラスチックの板を打ちつけた塀があった。その向こうには、ここへ来るのに彼が乗ってきた私鉄の線路が通っているはずだった。
奇妙なのは、線路の向こう側の建物にも、ちょうどこちらの道と同じくらいの空きが見えることだった。ひょっとすると、向こう側も同じような袋小路になっているのかもしれない。
ボールは路地の途中にある電信柱の根本に転がっていた。取りに行こうとして一歩近づいたとたん、背筋を悪寒が走り抜けた。
いつのまにか、彼の目は突き当たりの何もない場所に釘付けになっていた。安っぽい波形のプラスチックの板。その向こうに、何かがいるような気がしたのだ。うなじの毛が、一本一本ちりちりと逆立つような異様な気分だった。
彼はそっと手を伸ばしてボールを拾うと、一目散にその場所を逃げ出した。なぜか、そこに長居をするとろくなことにならないと思ったのである。
ボールを追いかけてから、取ってくるまでに要した時間は非常に長く感じられたが、実際にはわずか三十秒ほどのことだったらしい。
後で友達に路地のことを聞くと、そこには以前、閉鎖された踏切があったという。原因は不明なのだが、あまりにも毎年踏切事故が頻発するのにたまりかねた自治会と電鉄会社が協議した末、両側を封鎖してしまったらしい。
帰りの電車で、彼はもう一度、その場所を通過した。目を凝らしていると、うすっぺらな塀の内側にたしかに遮断機の残骸《ざんがい》のようなものが残っているのが、ちらっと映った……。
若槻は、はっとして回想から現実に立ち返った。いまや頭の中では、はっきりとした警告が鳴り響いている。
早くこの場を立ち去れ。
焦燥感に似た不快な感覚が、彼を急《せ》き立てていた。ゆっくりと後ずさりし、帰ろうとしかけた若槻の目に、今通ってきた道をやって来る人間が映った。
油の染みのついた作業服を着た中年男が、まっすぐ若槻に近づいて来る。
身長は若槻と同じくらいあったが、胸板が薄く手足の細い貧弱な身体《からだ》つきだった。額は禿《は》げ上がっているが、それほどの年にも見えない。大きく真っ黒な両目は、何かを凝視しているように微動だにしなかった。顔全体の造作に比べて、口はアンバランスなくらい小さく、不可解なにやにや笑いを浮かべているようだった。若槻は、男の顔を見ながら何か後悔のような気持ちに襲われていた。
「おたく、どちらさん?」
男が言った。あまり口を開けないためか、くぐもったような発音だった。葛西が言っていた通りひどく聞き取りにくい。
「昭和生命京都支社の、若槻と申します。菰田様でしょうか? さきほど、お電話をいただいたということで」
「ああ。そうやったなあ。家、誰もおらへんかあ?」
「ええ。お留守のようです」
「おかしいなあ……」
男は、右手で作業服のポケットから鍵を出した。なぜか左手だけに軍手をはめている。男が門の戸を開けて入ったので、若槻もしかたなく後に続いた。
男が帰ってきたのを聞きつけたらしく、数匹の子犬が庭の方から走ってきた。茶色の柴犬もどき。耳の垂れた白い雑種。哀れっぽい目をした胴長の黒犬……。捨て犬を無作為に拾ってきたようだった。
男はその場にしゃがみこむと、順番に子犬を抱き上げて頬擦りした。
「おう、ケンタ、寂しかったんか? パパに会いたかったんやなあ? そうかそうか。ほら、ジュンコ、お前もこっち来い」
ペットというよりは、自分の子供に対するような可愛《かわい》がり方だった。男がひとしきり子犬たちの相手をしている間は、若槻の存在は完全に忘れ去られているようだった。
男が立ち上がると、子犬たちはまた庭のほうへ走り去って行った。男は再び鍵束を持って玄関の戸を開け、若槻を招き入れる。
「汚いとこやけど、入ってや」
「……失礼します」
中はうす暗く、一歩敷居をまたいだとたんに異臭が若槻の鼻腔《びこう》を襲った。まるで、何か得体の知れない動物の巣の中に入っていくような錯覚さえ覚える。
古い家には、たいていどこにでも独特の臭いがあるものだが、菰田家の場合は、それが尋常ではなかった。ゴミが饐《す》えたような不快な臭いに加えて、酸性の腐敗臭や麝香《じやこう》のような生臭い香料の臭いなどが複雑に混じり合っており、若槻は胸が悪くなった。
何の臭いだか見当もつかないが、永年にわたって家全体に染みついたものらしい。誰しも自分の家の臭いには鈍感になるものだが、これで平気でいられるというのは、異常と言うほかなかった。ポケットからハンカチを取り出して鼻と口を押さえたいという欲望と、若槻は必死で闘った。苦情の内容がどんなものであれ、一刻も早く片づけて辞去するしかない。
男は沓脱《くつぬ》ぎを見下ろして、「何や。和也は、おるんやないか。……嫁はんは、どこ行きよったんじゃ」とつぶやいた。若槻が見ると、小学生くらいの子供用の運動靴が隅に揃えて置いてあった。できることなら上がりたくはなかったが、若槻は革靴を脱いでその横にきちんと並べた。
廊下の板は、磨き込まれているらしく黒光りしていたが、この臭気の中では垢《あか》が凝り固まったようにしか見えない。
男は、歩きながら家の奥に向かって、「和也。和也……!」と叫んだが、応答はなかった。途中で振り向くと、にやにやしながら若槻に「臭いか?」と聞く。顔を引きつらせながら、かぶりを振るしかなかった。
男は、まったく鼻がきかなくなっているわけでもないらしい。少なくとも、悪臭の存在は認識している。それならばなぜ消臭剤くらい置かないのだろうか。
若槻は庭に面している座敷に通された。そこでも臭いはひどかったが、男が障子を開け放ったために風が入って、少しは我慢できるようになった。
男は座卓をはさんで、床の間の前に腰を下ろして言った。
「えらい、待たせてすまなんだな。仕事が、思ったより長なったんや」
「とんでもありません。ちょうど、来たばかりでしたから」
若槻は菓子折りを机の上に差し出した。
「お電話をいただいた、菰田重徳様でしょうか?」
「そうや」
「私どもの営業所の者に失礼があったようで、たいへん申し訳ありません」
「いや。あんたも、大変やな」
「恐れ入ります」
男は菓子折りを受け取ったが、どこか上の空のようだった。左手の軍手は家の中でも取ろうとしない。それに、かんじんの苦情の内容について、いっこうに話し出そうとはしなかった。
何のために自分をここまで呼んだのだろうか。若槻はこの男が自分を名指ししていたという葛西の言葉を思い出した。名前は覚えていなくても会って顔を見れば思い出すかとも思ったが、支社の窓口でも一度もこの男と応対した記憶はなかった。
だが、だとするとなぜ自分の名前を知っていたのだろうかという疑問が残る。
「おい、和也。お前、おるんやったら、ちょっと、こっちへ来い」
菰田重徳は突然首筋を伸ばすと、若槻の背後の襖《ふすま》に向かって怒鳴った。妙に芝居がかった仕草だった。応答はなく、静まり返っている。
「和也? 何で、お客さんが来たのに、知らん顔しとったんや? お客さんに、失礼やろう?」
「いえ、もう結構ですから……」
若槻は宥《なだ》めるように言ったが、菰田は舌打ちをした。
「あんた、ちょっと、そこの襖、開けてくれへんか?」
「はあ」
「そこ、勉強部屋ですねん。和也は、そこにおるはずなんや」
若槻はしかたなく、言われるままに立ち上がって、「こんにちは」と言いながら襖を開けた。
十一、二歳くらいの男の子が、半ば白目を剥《む》いて上目遣いにこちらを凝視していた。顔面は蒼白《そうはく》で、半開きの口の上には鼻汁の乾いたような跡がある。
若槻は目を瞬いた。男の子は、両手と両足をだらりと垂らして、床から五十センチくらいの宙に浮かんでいた。
それから、奥の欄間と男の子の間にあるぴんと張った紐《ひも》のようなものの存在が、若槻の目に飛び込んできた。真下の畳は水をこぼしたように変色しており、その向こうにはキャスターのついた椅子が倒れている。
それが首吊り死体であることに気がついてから、どのくらいの時間、茫然《ぼうぜん》自失していたのかわからない。若槻はふと我に返った。いつの間にか、菰田重徳は若槻の横に並んで立っている。
菰田の方に顔を向けたとたん、真っ黒な双眸《そうぼう》と視線がぶつかった。菰田重徳の無表情な顔に狼狽《ろうばい》が走り、若槻から目をそらす。
漠然とした違和感は、たちまち驚愕《きようがく》へと変わった。
菰田重徳の目は、まったく子供を見てはいなかった。
菰田は、自分の子供の首吊り死体はそっちのけで若槻の反応を窺っていたのだ。感情の動揺などは微塵《みじん》もない冷静な観察者の目で。
菰田は、若槻の凝視をさけるようにして、宙吊りの死体のそばへ歩み寄った。和也、なんでこんなことを、などとつぶやく。だが、そうした台詞《せりふ》は、とってつけたようにそらぞらしい。
そこにはまるで、二種類の異った時間が流れているかのようだった。菰田の芝居がかった所作は、まわりの世界の時間が正常に流れていることを示していた。しかし、恐怖に目を見開いているように見える男の子の周囲では、静止画像のように時間が凍りついていた。
若槻は、唖然《あぜん》として菰田重徳を見つめた。
菰田は決して死体には手を触れようとはしない。まるで死体に自分の指紋をつけるのを恐れてでもいるかのようだった。
ふいに、喉元《のどもと》から吐き気がこみ上げてきた。ハンカチで口元を押さえる。胃酸につんと鼻腔が刺激され、涙が出てきた。
若槻は、その場にじっと立ちつくしたまま、懸命に嘔吐《おうと》したいという欲求と闘っていた。
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菰田《こもだ》家の周囲には立入禁止の札のついたロープが張りめぐらされ、大勢の警官がごった返していた。
鑑識係がひとしきりフラッシュをたいていたが、すでに写真撮影は終わったらしい。今は、アルミの脚立が用意され、KYOTO POLICE と背中に染め抜いた機動服に略帽姿の太った警官が、のそのそと上っていくところだ。葛西ほどではないが相当な体重がありそうで、脚立の上に立った時には、ぎしぎし音がしてひどく不安定な感じがした。
菰田家の天井は高く、紐を結んである鴨居《かもい》の上の欄間は二メートル以上の高さにある。太った警官が大きなカッターナイフで紐の中ほどを切断すると、下にいた二人の警官が死体を受け取って広げた防水布のようなものの上に降ろした。残った紐も、結び目をほどかずに切断し透明なビニール袋に納めている。後で結び方を調べるのだろうと若槻は思った。
死体の手足は、床に横たえられる時に人形のようにぐにゃりと折れ曲がったが、首筋から上の部分はすでに死後硬直が始まっているらしく揺すられても微動だにしなかった。
若槻は、少し離れた場所に佇《たたず》んでいた。まるで映画か何かのワンシーンのようで、まだ現実に起こったこととは信じられない。
死体の前で立ちつくしたままの菰田重徳の後ろ姿を、ちらりと見やる。おそらく傍目《はため》には、子供を失った父親らしく肩を落とし茫然自失しているように見えるだろう。
子供の母親は、まだ帰宅していなかった。帰ってからこの事態を知ったら、どう思うだろうか。
彼の肩を後ろから誰かが叩いた。振り向くと私服の刑事らしい男が立っていた。
「おたくさん、通報してくれはった人やね。ちょっと、話、聞かせてもらえますか?」
普通なら、警察から事情聴取を受けるというだけで、大きなストレスになったに違いない。だが、今の若槻には刑事の言葉はむしろ救いの声のように響いた。
目撃したことを一人の胸にしまっておくのに耐えられなくなっていたのだ。胸苦しいような不快な緊張感が去らなかった。浮き足立ってくるような鼓動。手のひらの冷たい汗。早く誰かに話して楽になりたいと思った。
だが、ここではまずい。向こうを向いている菰田重徳が、じっとこちらに聞き耳を立てているような気がする。
若槻はからからになった喉に唾《つば》をのみ込んだ。
「あの……できれば、人に聞かれない場所で、お話ししたいんですが」
「うん。そしたら、車の中、行こか」
若槻の申し出を特に意外とも思わない態度で、刑事は若槻を家から連れ出した。外へ出ると大きく深呼吸をして、笑顔になって若槻を振り返る。
「ほんまに、わしも、あんな臭い臭い家には長居しとうないですわ」
形容詞を二つ続けるのは京都弁の特徴である。刑事は、パトカーの後部座席のドアを開けて若槻を先に奥に入れると、並んで座った。
若槻は、パトカーに乗ったことも、警察から事情聴取を受けるのも生まれて初めてだった。乗ってみると特に普通の車と変わらない。だが、以前、パトカーの奥のドアは勝手に開けられない構造になっていると聞いたことを思い出した。この刑事がどかないかぎり外には出られないと思うと妙な圧迫感を感じる。
手帳を取り出した刑事をあらためて見た。三十代半ばだろうか。警察官にしては細身の体を、開襟シャツと背広に包んでいる。しゃべり方は優しく顔つきもどちらかといえば柔和な方だったが、大仏のようなパンチパーマをかけているために、普通のサラリーマンには見えなかった。
若槻が名刺を出して自己紹介すると、刑事も名刺をくれた。京都府警捜査一課、巡査部長、松井清とある。所轄署ではなく府警の刑事であり、しかも捜査一課は殺人などの凶悪犯罪の担当だったはずだ。もしかすると警察では最初から事件性ありと見ているのだろうか。急に心強い味方を得たような気がする。
松井刑事は若槻の渡した名刺をしげしげと見た。
「若槻さんは、昭和生命京都支社の、保全担当……の主任さんですか。セールスの人とは違いますわなあ? 保険屋さんが、なんで、ここの家に来てはったんですか?」
「菰田重徳さんから電話がありまして。苦情のようだったんですが、私を名指しで、来てくれと言われました」
「苦情のようと言われますと? どんな苦情やったんですか?」
「それが、よくわからないんです」
「わからない?」
「集金を担当している外務員に関することらしいんですけど、電話では、どうも要領を得なくて。それで、私に来てくれということだったので、まあ、とにかくうかがって、話を聞こうと」
「わざわざ若槻さんを指名したということは、以前から知ってはったんですか?」
「いいえ。今日、初めてお会いしました」
「ほう。そしたら何で、若槻さんのお名前を知ってはったんですかなあ?」
「それは、わかりません」
「ほう」
松井刑事は何かを感じ取ったようだった。
「それで、生命保険は、いくら入ってたんですか?」
「菰田さんご夫妻が、それぞれ三千万円。お子さんが五百万円です」
「三件もですか。掛け金も、けっこう高いんでしょうな?」
「そうですね。合計すると、月に、五、六万にはなると思います」
「その、詳しい内容、あとでいただけますか?」
「はい。ただ、一応、書式で請求していただきたいんですが」
保全担当者は、こんな時でも原則を忘れてはいけない。
「はいはい。書きますわ。……それで、若槻さんが、首吊り死体を発見したいきさつを教えてもらえますか?」
若槻はシートの上でもぞもぞと尻を動かした。
「私は座敷に通されたんですが、菰田さんが、『和也』とお子さんの名前を呼ばれて。それで、返事がないので、私に、そこの襖を開けてくれと」
「菰田重徳さんが、若槻さんに、襖を開けてくれと言うたんですな?」
松井は鉛筆をなめて手帳にメモした。
「そうです」
「それで?」
「私は立って、襖を開けました」
「それで、死体を発見しはったと。なるほど、なるほど……」
若槻は、大きく息を吸い込んだ。
「あの、その時のことなんですが」
「は?」
「その時の、菰田さんの様子なんですが……お話ししておいた方がいいと思うんですけど」
松井は興味を引かれた顔になった。
「どうぞ。何でも、言うてみてください」
若槻は神経質に両手をズボンで拭《ぬぐ》った。
「最初は死体に注意を奪われていて、菰田さんの様子にまでは気が回らなかったんですが、いつのまにか菰田さんが私の横に立っていました」
「ほう。それで?」
「私は、菰田さんの方を見ました。何かを言おうとしたんだと思います。何だったのかは忘れましたが。すると、菰田さんが、私を見ていたのに気づきました」
「若槻さんを見ていた? どういうことですか?」
松井刑事の眼光が急に鋭くなったようだった。
「死体を見てなかったんです。こんな言い方をしていいのかどうかわかりませんが……死体そのものよりも、私の反応の方が気にかかるという感じでした」
若槻は自分の発言の重さを噛《か》みしめた。彼はたった今、菰田重徳を殺人の疑いがあると告発したのだ。松井刑事はしばらく沈黙したが、再び話し始めた声には今までとは違いが感じられた。言葉遣いも、ていねいな標準語に近いものになっている。
「それは、確かですか? 錯覚ということもありますよ」
「いいえ。確かです」
「たとえば、若槻さんが菰田さんの方を見た時に、偶然、菰田さんもこっちを向いたということは、ありませんか?」
「いいえ。しばらく前から、ずっと私を観察していたような感じでした」
「どうしてわかりますか?」
「目が合った瞬間、菰田さんが、視線をそらしたんです」
人間はどう対処していいかわからないような異常な状況に出合った時、無意識にお互いの目を見ようとするものだ。相手の目の中に自分と同じ恐怖と驚きを読み取ることによって安心するのである。
だが、菰田は自分から視線をはずした。若槻の反応は知りたくても、若槻には自分の表情を見られたくなかったのだ。
松井刑事の顔には、今やはっきりした緊張が刻印されていた。
刑事はこうした心証には非常に重きを置くものだと聞いたことがあった。思いこみは危険ではあるが、第一印象は意外に過《あやま》たないものらしい。
若槻は、安堵《あんど》の吐息をついた。とにかく自分は責任を果たした。最初の一押しさえあれば、警察機構というマシンが動き出すはずだ。そして、すべてが明るみに出されるだろう。
京都府警に行ってもう一度話を最初から繰り返させられ、供述調書を取られたりしていたため、若槻が支社に帰った時には夕方近かった。
「おう。大変やったな」
所在なげに机に座っていた葛西が、声をかける。いつもと変わらぬ明るい調子なのが救いだった。若槻が警察から電話で状況を伝えた時にも、やはり葛西の声は冷静だった。とはいえ、じかに顔を見るとやはり懸念の色があった。
「遅くなりました。内務次長は?」
「第一会議室や。太秦《うずまさ》の営業所長を呼んで、さっきから、外務次長と二人で話を聞いてるとこや。すぐ行けるか?」
「菰田和也の死亡通知入力は?」
「すんだ」
若槻は机の上を見た。きれいなところを見ると、書類の判こ押しなども全部葛西が代わってやってくれたのだろう。
葛西と若槻は、メモと一件書類を持って階段を下り、一階下の会議室へと急いだ。よく保険の外務員たちの新人講習に使われる教室のような部屋では、木谷内務次長、外務員の統括と営業の陣頭指揮をしている大迫《おおさこ》外務次長、それに太秦営業所の桜井所長が加わって鳩首《きゆうしゆ》会談をしていた。
支社長は東京に出張中なので、現在はこの二人の次長が最高責任者である。
「ごくろうさん。どうやった?」
木谷内務次長が深いしわの多く刻まれた顔を上げた。高校卒業後、たたき上げで日本中の支社を渡り歩いてきた苦労人である。年齢はすでに六十歳の定年に近い。
「警察で、供述調書というのを取られまして。裁判でも、証人として出廷してもらうかもしれないと言われました」
ひとり煙草をふかしていた大迫外務次長が、しゃっくりをするような奇妙な声をたてて笑った。内務次長とは対照的にこちらはまだ四十代で、体重は葛西に一歩譲るものの身長は支社で一番高く百八十五センチもある。
「ひでえことになったなあ。若槻。死体の第一発見者なんだって?」
「はい。今晩は、うなされそうです」
「まあ、そんなもん、誰も発見したくはねえわなあ。それでよう。殺人だっつうのは、本当か?」
「はい」
若槻はためらわずに答えた。
「そやけど、まだ、警察では、そう断定したわけやないんやろう?」
葛西が気づかわしげにたずねる。若槻の判断にはまだ多少心配なところがあるのだろう。
「そうですが、どう考えても、心証は真っ黒です」
大迫がまた巨体を揺すって笑った。
「そうか。まあ、若槻がそこまで言うんなら、間違いねえだろう。ひょっとするとこれは、『別府三億円事件』のAみたいなことになるかもな」
大迫が引き合いに出したのは、妻と連れ子二人を車に乗せて埠頭《ふとう》から海に飛び込んだ男の事件だった。当時、大迫は、担当営業所長として何度も警察を訪れていた。
「今、桜井所長から話を聞いてたんやけど、この契約自体、太秦営業所で取ったもんやないそうやな」
木谷が菰田家の三件の契約のうち菰田和也を被保険者とする五百万円のこども保険の契約内容のプリントアウトを示した。
「募集は、大阪南支社の狭山《さやま》営業所です。一年半前の契約で、去年、うちに移管されたんです」
この中では唯一人若槻より後輩の桜井が補足した。入社五年目の二十七歳だが、ストレスのためかすでに髪の毛が薄くなりかけている。
「募集者は、どんなやつだ?」
大迫の質問には葛西が答えた。
「もう辞めとりますが、大西光代という四十五歳の主婦ですわ。電話で狭山営業所の所長にも聞いてみたんですが、性格的に向いとらんかったようで、知り合いやら親戚を一通り入れたら、あとはほとんど契約が取れず、一年ももたんかったそうです。その後、取った契約はほとんど解約になっとるんですが、モラルリスクうんぬんのケースはないという答えでした」
「それで、この菰田とは、どういう関係だったんだ?」
「菰田幸子、これは妻ですな。これと、たまたま小学校で同級生やったということですが、募集の経緯に、ちょっと問題があるんですわ」
葛西はメモに目を落とした。
「大西光代が大阪のミナミでパチンコ屋に入ったら、たまたま菰田幸子が隣に座ってたんやそうです。小学校を卒業してから何十年もたってたのに、すぐにわかったそうですわ。もともとそんなに親しい間柄やなかったらしいんですが、大西光代の方は、契約が取れへんので、藁《わら》にもすがるような気持ちやったんでしょうな、喫茶店に誘って、ノルマが厳しいとかの愚痴をこぼしながら雑談した時に名刺を渡したということです。まあ、本人が無理でも、誰か紹介してもらえんかという程度の気持ちやったと。そしたら、その三日後に、菰田重徳がいきなり営業所に電話してきて、保険に入ってやると申し出たということです」
日本では、客が生命保険に入るのはほとんどの場合、外務員による執拗《しつよう》な勧誘と泣き落としに負けてのことだ。したがって、逆に客の方からわざわざ保険会社の支社や営業所を訪ねてきた場合は、まず何か裏があるのではないかと考えなくてはならない。これは、生命保険犯罪を入口で未然に防ぐいわゆる第一次選択の初歩だと言えた。
「……それも、同時に三件の加入ですわ。S(保険金)は、菰田夫妻がそれぞれ三千万円で、子供が五百万円。特約フル装備で、P(保険料)が、合計、月額六万一千八百七十二円」
「若槻主任。菰田家は、どのくらいの収入がある感じやった?」
「そうですね。仕事は聞かなかったんですが、菰田重徳氏は工場かどこかで働いてるみたいですね。あまり裕福には見えませんでした。家は結構大きいんですけど、かなり老朽化してますし……」
「それも、おそらく借家ちゃうかな」
「何だよ。それじゃあ、もろ怪しいじゃねえか。大阪南じゃ、どうして加入時にチェックできなかったんだ?」
大迫がわめいた。
若槻は、机の上のプリントアウトを取って契約月を確かめた。
「おととしの十一月の募集ですね」
「十一月戦か」
大迫はうなった。
毎年十一月は、『生命保険の月』、通称『十一月戦』と呼ばれ、各社が契約高を競い合う重点月だった。各営業所や支部には通常の月の数倍の過酷なノルマが与えられるために、とりあえずどんな契約でも成立させてしまおうとする傾向がないとは言えなかった。また審査する側でも、一時に大量の申込書が殺到するためどうしてもチェックが甘くなることは否めない。
「まあ、今の段階で結論を出すのは、尚早やろう。こちらの対応を決めるのは、保険金の請求を待ってからやな」
木谷が締めくくるように言った。
「若槻主任は、警察に渡りがついてるやろう。これからも、できるだけ密に接触して、情報を取るようにしてくれるか」
「わかりました」
「通常は、受取人に対しては、保険金の請求をするように促しますけど、今回は、どうしましょう?」
桜井が心配そうに聞いた。
「今回も同じや。明日にでも、所長が直接、請求用紙を持って行ってくれ」
葛西がぴしゃりと言った。
「それより、桜井所長。菰田は、わしに電話で、集金者の態度がようないとか言うてたけど、そのへんはどうなんや? 後で付け入られるようなことはないんか?」
桜井は困惑したように答えた。
「それは……担当職員に聞いてみましたけど、たしかに留守がちで、会えないことが多かったそうなんです。でも、その場合でも必ずメモを入れて翌日再訪問しているので、苦情になるようなことは、何も思い当たらないと言ってました。まじめな職員なんで、これは信用できると思います」
「口実だよ。口実。要するに、あれだ。若槻を呼んで、第一発見者に仕立てたかっただけだろう」
大迫が吐き捨てるように言った。
「てめえの子供を絞め殺しといてだ」
「もしかしたら、死んだんは、菰田の実子とは違うのかもしれませんなあ」
葛西が考え込むように言った。
「それにしたってだよ。……それが、人間のやることか?」
唐突に、若槻の目の前に首吊り死体の姿がよみがえった。
まるで宙に浮かんでいるような格好でぶらさがっていた子供。
手足をだらりと垂らし、うなだれた首はすでに彫像のように固まりつつある。白い膜が張ったような濁った目はまったく光を持たない。
それは、生命を失いながらまだ人間の形だけをとどめている抜け殻だった。かつて人間存在であったものがこの世に残していった影、残像でしかない。それは、未完成の形からもはや成長することはないのだ。放置すれば、緩慢な化学的分解の過程によって消え去っていくのみである。
若槻にとって、それは、喪《うしな》われてしまった可能性の象徴だった。ちょうど十九年前にこの世から消滅した兄のような。
これから先何十年も燃えさかるポテンシャルを持っていたはずの命の炎は、あっけなく消えてしまった。突然、行き場をなくした生のエネルギーは、どうなってしまったのだろう。永遠に恨みを残しながら中有《ちゆうう》を彷徨《さまよ》っているのか。
「大丈夫か?」
葛西の言葉で、はっと我に返る。全員が立ち上がっていた。すでに会議は終わったらしかった。
「大丈夫です」
若槻は無理に笑ってみせた。
はっと目が覚めた。
アパートの天井が目に入る。時計の秒針が時を刻む音だけが、やけに大きく室内に響いていた。
あおむけに寝たまま枕元に手を伸ばし、目覚まし時計を探り当てると、夜光塗料のついた文字盤を見る。午前三時過ぎだった。
酔いはまだしっかり体の芯に居座っているようだった。それもそのはずで、眠りについてから二時間とたっていないのだ。首を曲げると、台所のテーブルの上にあるジンの空き瓶とグラスが、アパートの廊下に面した窓の明かりを背景に、シルエットになって見えた。
舌の上にはジンの苦い味と松脂《まつやに》の香りがまつわりついていた。ふいに耐えがたいような喉の渇きを覚えた。目が覚めたのも、そのために違いない。
若槻はごろりと半回転してベッドから身を起こした。すぐに床に転がっていたビニール製のダンベルにつまずきそうになる。そこら中に新聞や雑誌、脱ぎ捨てた服などが散乱しているので、気をつけなくてはいけない。すでに一か月近く、部屋の掃除をしていなかった。
部屋の奥には依然として梱包《こんぽう》を解いていない段ボールが積んであった。
冷蔵庫を開けると、低脂肪乳の一リットルパックが、ひとつだけ入っていた。いつ買ったのかさえ覚えていなかったが、パックを開けてそのままラッパ飲みした。ほとんど何の味もしない。半リットルほどをひと飲みにすると、熱を持っていた胃がようやく落ち着いたような気がした。
電気をつけないまま台所の椅子に腰かける。
テーブルの上にはコードレスホンの子機が転がったままだった。恵に電話をした記憶はあるが、何を話していたのかは定かではない。酔っ払って、何か一方的にしゃべっていたようだ。
若槻はいつのまにか、小窓から射し込んでいるぼんやりとした明かりで台所の白い壁を眺めていた。
意識が空白に近づくにつれて、白い壁の表面がむくむくと入道雲のように膨らみ始めた。それはゆっくりと渦巻きながら、ひとつの形に収斂《しゆうれん》していく。
だらりと垂れ下がった手足。うなだれた首。白い目……。
若槻は椅子から立ち上がった。酔いは恐怖を麻痺《まひ》させてはくれない。ただぼんやりと拡散させるだけだ。何でもいい。何か、気を紛らわせるものを見つけなくては。
奥の部屋に行くと、CDラジカセのスイッチを入れた。ヘッドホンをかぶると、でたらめに選局ボタンを押す。
たちまち、電波となって宙をさまよっていた男女二人の会話が音声となって再生された。だが、鼓膜に伝わってくるのは確かに日本語なのだが、蜂の唸《うな》りのように、まったく意味をなさない。
「ええと……さんは」「ですね」「んなことは」「……ゃだあ、もう」「いうことでしょ?」「だからあ」「りなんかは」「りーの」「っていうか」「われわれなんかの」「って、ほら」「ねんでーす!」「ははは……」「い」「おん」「た」「だって」「いす?」「ま……」「とは?」「と、あと」「っかり」「ね?」「ぐると」
とうとう我慢できなくなり、頭からヘッドホンをかなぐり捨てた。床に落ちた物体は、かしゃかしゃと音を立てて、巨大な節足動物のように体を丸めながら、なおもサブリミナルな声で無意味な言葉を囁《ささや》き続けていた。
電源スイッチを切ると、再び静寂が訪れた。
よろめきながらベッドに横たわり、死者のように両手を組んで目を閉じた。
しばらくすると、時計の秒針の刻む音のデシベルが、だんだん大きくなってくる。
彫像のように動かない子供の姿……。
寝返りを打って、頭から必死にその映像を追い払おうとする。
そのうちに、自分の胸がゆっくりと上下しているのに気がついた。まるで寝息を立てているように。
どうしたんだろう。若槻は手足を動かそうとして、まったくかなわないことに気がついて、ぞっとした。これが金縛りという状態なのか。
金縛りというのは体が眠っているのに、脳だけが覚醒《かくせい》しているという状態であることを思い出す。主に精神的なストレスや過労が原因だという。
何も恐れることはない……。
時間だけがゆっくりと過ぎていった。体は熟睡しているのに神経はささくれ立っている。そんな状態がずっと続いていた。一刻も早く安らかな眠りの中に逃げ込みたかった。だが、そんな願いは当分かなえられそうもない。
朦朧《もうろう》とした状態の中で、ふと遠くから何かがやって来るような気がした。
何か人間ではないもの……。そんな馬鹿なと思って打ち消すが、その異様な気配は、どんどんと強まっていく一方だった。
静かに階段を上がってくる。五階。六階。踊り場を過ぎて、今、七階に着いた。ゆっくりと彼の部屋の前にやってくる。彼の耳には、そのかすかな足音が聞こえるようだった。
空谷《くうこく》の跫音《きようおん》という言葉が、頭の中に浮かんだ。
高校の漢文の時間。独特の節を付けて吟唱する教師の声が、頭に浮かぶ。人里離れた谷で一人で暮らしている時に、不意に誰かの訪れる跫音《あしおと》が聞こえてくる。そういう時に感じる嬉しさを示す言葉である。
だが、今の若槻にとって、訪れてくる跫音は恐怖そのものでしかない。
誰だ。
何しに来るんだ。
あの首を吊った子供なのか……。何か言いたいことがあるのか。
……兄貴。
足音はドアの前で止まった。
来るな。あっちへ行け。
彼は心の中で叫んだが、唇を動かすことすらできなかった。
そのまま長い時間が経過した。
いつまでも意識を保っていることが辛《つら》かった。たとえ悪夢の中にでも逃げ込みたいと痛切に願う。
やがて、ゆっくりと暗くなっていく意識の中で、若槻は、部屋の中にいる何者かが彼を見下ろしているように感じていた。
5月15日(水曜日)
菰田和也の死亡保険金の請求書類が若槻の元に届いたのは、事件から一週間後のことだった。京都三大祭の一つである葵祭《あおいまつり》が行われ、藤の花で飾った牛車《ぎつしや》が都大路を練り歩く日である。
坂上弘美が一次チェックをした書類の山の中に、それは無造作に埋もれていた。今朝の営業所からのバイク便の中に入っていたのだろう。
見つけた瞬間、若槻は思わずかっとなった。桜井所長のとぼけた顔が浮かぶ。あれほど口を酸っぱくして重大な問題であると言っておいたにもかかわらず、保険金の請求書類が営業所に提出された時点でどうして支社に一報がないのか。
営業所長は、自分の成績にも直結する新契約には本腰を入れるが、保全関係は敬遠し、なおざりにする傾向があった。後で厳しく言って聞かせる必要がある。
若槻は書類をめくって、真っ先に死体検案書を見た。
……J死亡の種類。やはり、『自殺』ではなく、『その他および不詳』のところに丸がついている。
だが、Kの死亡の原因では、『イ、直接死因』は頸動脈《けいどうみやく》および脊椎《せきつい》動脈の閉鎖による急性脳貧血となっている。『ロ、イの原因』は縊頸《いけい》だった。
L手段および状況(詳細に)を見ると、荷造り用のナイロンの紐を鴨居にかけ直径三十センチの輪を作って首を吊ったものと思われる、と書かれていた。
若槻は考え込んだ。てっきり菰田重徳が和也を絞殺し、その後に鴨居に紐をかけて吊しておいたのだと思っていたのだ。だが、この死体検案書の記述はまったく彼の予想に反していた。この部分を読むかぎりでは、首吊り自殺としか考えられない。
横を通りながら覗《のぞ》き込んだ葛西が、目をむいた。
「お。例のやつか?」
「ええ。とうとう出てきました」
「どういうことや? わしゃ、何も聞いとらんぞ」
壁際にずらりと並んだ端末の前で坂上弘美がちょうど機械入力を終えて入院給付金関係の書類の束を持って立ち上がったところだった。
「坂上さん。ちょっと来てくれる?」
目ざとく見つけた葛西が彼女を手招きした。
「この死亡保険金の請求書類やけど、今朝の便の中に入っとったんか?」
坂上弘美は、けげんな面持ちでじっと書類を見つめた。窓口担当の女子職員たちに先入観を与えてはいけないので、彼女たちには菰田和也の死亡にモラルリスクの疑いがあることはいっさい話していない。
「あ。これ、違います。今朝、郵便で来たんです」
郵便。若槻はその可能性は考えていなかった。通常は、死亡保険金の請求書類は、営業所の職員が請求者の自宅まで取りに行くことになっていた。そうすれば、記入漏れや添付書類の不備があった時にその場で見つけることができるからだ。
だが、菰田重徳はあえて郵送した。絶対に間違いがないという自信があったのか。もしかすると、保険金の請求はこれが初めてではないのではないか。
葛西は書類をめくり、難しい顔で死体検案書を睨《にら》んでいた。
「これだと、どっちともつきませんね」
「うん。『その他および不詳』ではなあ……。おそらく、司法解剖をやっとるはずなんや。しかし、提出書類には、解剖報告書までは入っとらんからな」
「午後にでも府警に行って、この前の刑事に会ってきます」
「頼むわ」
外線電話が鳴った。葛西はさっと自分の机に戻って受話器をつかみあげた。
「おはようございます。昭和生命、京都支社でございます!」
若槻は保険証券を参照しながら請求書を詳細にチェックした。まず、筆跡が同じかどうかを見比べる。印影が同一かどうかは、ディバイダーを使って、判の直径や文字の各部分の長さを比較する。
小学生のように幼稚な文字だったが、まったく問題はなかった。日付などの記入漏れもない。
添付書類の戸籍謄本を広げた。本籍地はW県のK町となっていた。筆頭者は……。
やはりという思いが顔に出たのだろう。電話を終えた葛西が、「どうした?」と言いながら寄って来た。
「死んだ菰田和也は、菰田幸子の方の連れ子だったんです。父親は不詳ですけど。菰田重徳は、二年前に幸子と結婚しており、旧姓小坂重徳でした」
葛西は厳しい顔でうなずいた。保険金殺人の歴史を見ると、子供が犠牲者になっているケースでは、再婚した夫婦の一方が他方の連れ子を殺す養子殺しの例が最も多い。
「この前、菰田重徳、幸子、和也で、名寄せ照会やったけど、何も出てけえへんかったやろ。念のため、小坂重徳でも、やってみるわ」
生年月日をメモすると、体型に似合わない軽いフットワークで端末の前に座り、キーを打ち始める。
今机の上に載っているのは、死亡保険金関係の書類だけである。仕事が殺到していない今のうちにと思い、若槻は、社医の鈴木先生から借りてきた分厚い法医学の専門書を開いた。
この手の本は昔から苦手だったのだが、今日ばかりは見ないわけにはいかない。
本を開くと、身の毛のよだつような写真が目に飛び込んできた。溺死《できし》体らしい。名義変更の書類を持ってきた川端智子が写真に目を留めてたじろいだ。
あわてて、つるつるしたアート紙のページをめくるが、並んでいるのはどれも不気味な写真ばかりだった。目の端で項目だけを追うようにする。
あった。縊死《いし》。窒息死の中に分類されている。ここにもさまざまな首吊り死体の写真が載っていた。さらにページをめくると絞頸《こうけい》という項目もある。
読み進んでいくうちに、若槻の懸念は深まっていった。殺人の立証は非常に困難ではないかという気がしてきたのだ。死体検案書を書いた医師も、おそらく同じ難問に直面したのではないか。
自殺を偽装した殺人の場合、多くはいったん絞殺してから吊し直すらしい。だが、そうだとすると、説明がつかないことが多い。
第一に、絞殺死体では静脈の鬱血《うつけつ》によって顔面は赤紫色に膨れ上がる。ところが、菰田和也の顔面は間違いなく蒼白《そうはく》だった。これは首吊り死体の方の特徴である。
さらに、尿の失禁跡が死体の真下にある時は自殺の可能性が大だが、離れた位置にあった場合には殺人の疑いが強いという。菰田和也の死体の真下の畳が濡れていたことは鮮明に覚えていた。
紐が首に食い込んでできる、いわゆる索溝の問題もあった。首吊り死体の場合は、首の前半だけに深い溝ができ真後ろではとぎれていることが多い。一方、絞殺では、索溝はぐるりと首を一周以上しており深さは均一である。
だが、これほど明らかな特徴について死体検案書が何も触れていないということは、索溝もまた、首吊りの特徴を備えていたのではないか。
もしかすると、あの男は思っていたよりもはるかにしたたかなのかもしれない。
端末の前に座っていた葛西は、いつのまにか席に戻って電話をしていた。どこかの支社に電話しているらしい。表情は先程よりもさらに厳しくなっている。そうか、などと相槌《あいづち》を打っている声にも静かな怒りのようなものが感じられた。
「若槻主任。こいつは、札付きやで」
がちゃんと受話器を置いた葛西が、虎が唸っているような声で言った。
「小坂重徳で名寄せしてみたら、もう消滅しとるけど、しっかり既契約があったわ。こいつは、『指狩り族』の残党やったんや」
「指狩り族?」
「聞いたことないか? かなり有名やったで。障害給付金を取るために、自分で自分の指を切断しよった連中や」
若槻は菰田重徳が家の中でも左手に軍手をはめたままだったことを思い出した。あれは、欠損している指を隠すためだったのか。
生命保険の特約のひとつに障害特約というものがある。怪我《けが》によって所定の障害状態になった場合に、主契約である保険金の何割かの給付金が支払われる。
葛西の説明によれば、十数年前にある地方の作業現場で障害給付金の請求があいついだことがあったという。いずれも作業中の事故で手指を切断したというものだった。
当時、ほとんどの生保では手指の切断は保険金額の一割の支給に過ぎなかったが、親指の場合は二割になった。このため、ほとんどの『事故』で、そろって左手の親指を切断するという珍現象が発生したらしい。
「しかし……障害給付金くらいじゃ、割りに合わないでしょう?」
若槻は半信半疑だった。
「もちろん、それだけやない。まず、就労中に負傷したことにするから、労災の休業補償給付金が取れる。何といっても、これが大きい。そのほかにも、簡易保険の傷病給付金や農協の後遺障害共済金なんかにも加入しておけば、あわせて詐取できる。一石二鳥どころか、三鳥四鳥やから、全部合わせると、多いと四、五百万くらいの金にはなる」
「それにしても……ものすごく痛いんじゃないですか?」
「そりゃ、痛い。そやけど、人間というのは、必要に迫られたら、何とか方法を考え出すもんなんや」
葛西は具体的な切断方法について説明し始めた。
「切断する瞬間の痛みをなくすには、いくつか、やり方がある。一番ええのは、やっぱり、きちんと麻酔をかけることやが、これは医者か看護婦の助けがないと、なかなか難しい。昔から、芸子が惚《ほ》れた男に一途《いちず》を示す時に、指を落としたんは知ってるやろ?」
若槻は、そんな話は聞いたことがなかったので首を振った。
「知らんか? 凧糸《たこいと》で指の根本をぎりぎりに縛って、血行を止め、感覚がなくなってから一気に落としたそうや。同じ方法は、今でも、ヤーさんがエンコ詰める時に、使ってるらしい。それよりは氷かドライアイスを使う方が、ちょっとはマシなんやが、指狩り族の連中は、もっぱら、スプレーを愛用しとったらしいわ」
「スプレー?」
「スポーツの後で筋肉にかけて冷やすやつが、あるやろう? あれを指にかけるんや。それも、指一本に、一缶全部使い切る。それだけかけると、指の感覚は完全に麻痺する。そうなるのを待って、出刃包丁とか鉈《なた》を当てて、体重をかけて押し切れば、魚の頭を落とすぐらいの手ごたえですむらしい」
「…………」
「もちろん、神経が麻痺してるんは一時的なことで、後から一気に痛みが押し寄せてくる。その日の晩あたりは、もう七転八倒ちゅう話や。話によると、切断面の神経がスパークするような痛さらしい。かなり時間がたってからでも、今度は、いわゆる『幻肢痛』ちゅうやつが毎晩襲ってきて……」
「いや、もういいです」
聞いてるだけで気分が悪くなってきたので、若槻はあわてて遮った。
ここにも若槻には理解できない種類の人間が存在していた。金のために自分自身の体の一部を切断する。まるで、餓えれば自らの肢《あし》を食らうという蛸《たこ》と同じではないか。
そこまでやれる人間であるなら他人の命など何とも思わないに違いないと若槻は思った。
死亡保険金の査定では、加入一年未満の『早期死亡』の場合や高額保険金の場合にのみ本社扱いとなり、それ以外は支社で支払いの可否を判断できることになっている。
だが、菰田和也のケースは、本社の保険金課と相談した結果、例外的に本社扱いとして一件書類を東京に送り昭和保険サービスという会社の調査を入れることになった。ここは昭和生命の百パーセント子会社であり、三善の所属していた会社などとは違って純粋に調査だけを行う。もちろん、それだけ決定には時間がかかることになる。
若槻は、桜井所長とともに何度か京都府警に足を運んでいたが、松井刑事に会うことはできなかった。
代わりに応接した刑事たちは、おしなべて、民間企業に対して捜査の進捗《しんちよく》状況を教えることはできないという木で鼻をくくったような対応だった。菰田和也の死に事件性があるかどうかについても、言質《げんち》を取られるのを恐れるような官僚的な答弁に終始した。警察や検察が態度を決めてくれない限り、保険会社は独自に決定を下せない。若槻はじりじりした日々を送った。
さらに、京都支社で保険金の請求書類を受け取って一週間ほどたったころから、菰田重徳から頻繁に電話がかかってくるようになった。いずれも保険金の支払い決定はいつ出るのかという催促だった。
あいかわらず何を言っているのか聞き取れないくぐもったような発音で、苦情の客のように声を荒げることはない。だが、菰田からの電話は相当なプレッシャーになっていた。女子職員には一切事情を説明していないが、電話の後で若槻や葛西が内務次長と話をしている姿などから察したのか、菰田重徳の電話に対して非常に緊張した様子を見せるようになった。
5月29日(水曜日)
梅雨入りにはまだ間があったが、この日は朝からしとしとと雨が降っていた。
ビルのエアコンで除湿がかかっているはずだったが、空気はどこかべたつき、女子職員の化粧品のような匂いがいつもより強く漂っていた。
窓口のカウンターから、進藤美幸が若槻の方に歩いてきた。顔を上げて彼女の表情を見た瞬間に若槻は嫌な予感に襲われた。
さっと、カウンターに目を走らせる。四人の客が座っていた。真っ先に、着流しに坊主頭という風体の中年男がいるのが目を引いたが、これは坂上弘美が応対しパンフレットを見せながら何やら説明していた。
他には、カウンターからやっと肩から上を出している小柄な老婆。町の工務店風のベージュの上っぱりを着た若い男。そして、四十代の主婦と思われる中年女性だった。
三人とも静かに座っていた。特に殺気立った雰囲気は感じられない。
「若槻主任。あちらの方が、菰田和也さんの保険金の支払いについて、お聞きになりたいそうなんですが」
進藤美幸の顔は奇妙に歪《ゆが》んでいた。ふだんは、マル銀(銀行口座引き落としの保険料の管理)の担当だが、手があいている時には窓口に出ることも多い。客から怒鳴りつけられたわけでもないのに、どうしてこれほどナーバスになっているのだろう。
「どの人?」
「四番の方です」
進藤美幸は向こうからは見えないように、一番端に座っている客を示した。
若槻は名刺を一枚持って立ち上がった。遠目には、ごく普通のどこにでもいる中年女性にしか見えなかったが、すぐに菰田幸子に違いないとぴんときた。職業的スマイルを浮かべて、一歩一歩カウンターに近づく。
若槻の鼻腔を強烈な臭気が襲った。笑みがこわばるのを感じる。香水の匂いだった。それも、麝香《じやこう》のような生臭く動物的な臭いである。さっきから、部屋の中が妙に化粧品臭かったのは、これだったのかと思う。
香水の香りというものは、希釈すればいい匂いになっても強すぎれば単なる悪臭であることを、若槻は実感した。カウンターの中年女性は、一瓶を丸ごとかぶってきたのかと思うほどの臭気を発散していた。
若槻は、あの黒い家に漂っていた異臭の正体の一部がやっとわかったような気がした。
「お待たせしました。保全担当の若槻と申します」
名刺を差し出しながらすばやく相手の顔を観察する。
若槻はこれまでに営業所長の経験はないものの、生命保険という業種柄、相当な数の中年女性を見てきていた。その結果、一目見れば保険を取ってきそうかどうか判断できる自信があった。
いつのまにか、町で中年女性を見かけると、無意識にプロ野球のスカウトが高校球児を見るような目で品定めするようになっていた。それぞれの支社には、優績者として名を馳《は》せて社長をはるかに上回る収入があるような外務員が一人はいるものだが、彼女たちは例外なく、明るさと芯の強さを感じさせる。
その観点からすると、この女性は失格だった。
全体的に、ひどく鈍重で陰気な印象を受ける。肥えて下ぶくれの顔は、富士額であるためによけいにえらの張った顔の下半分が大きく見えた。目は彫刻刀で入れた切れ込みのように細く、無表情なため埴輪《はにわ》を思わせる。
香水の悪臭は別にしても、身だしなみも感心しなかった。髪は出がけにほんの申し訳程度に梳《と》かしたらしく、てんでんばらばらにうねっている。薄紅色のニットのワンピースの袖は、この蒸し暑い日に手首までをぴっちりと覆っていた。
「和也の生命保険……まだ、出えへんの?」
女のぼそぼそとした声を聞いた時、若槻はおやっと思った。どこかで聞いたような記憶があったからだ。
「失礼ですが、菰田幸子様ですか?」
「そうですけど」
「何か、ご本人であることを証明するようなものは、お持ちでしょうか?」
女は黙ってハンドバッグを開けた。用意がいいことに国民健康保険証を取り出す。世帯主の名前が菰田幸子になっているのを確認して、若槻は保険証を返した。
「このたびは、たいへんお力落としのことで、お悔やみを申し上げます。菰田和也さまの生命保険に関しましては、現在、本社で査定を行っておりまして、もう少しお待ちいただきたいんですが」
「何で、こんなに時間がかかるの?」
「若干、確認を要することがありまして」
「何を確認するんや?」
「実は、ご提出いただいた死亡診断書なんですが、死因が、自殺ではなく、不詳となっておりましたので、その点、警察に確かめる必要があるんです」
「そんなん、さっさとやったらええやないの」
「それが、再三警察に問い合わせを行ってるんですが、なかなか結論を出してくれませんので」
若槻は、とにかく警察にゲタを預けようと決めていた。
「何言うとるんや。あんたが、自分で見たんやろうが!」
若槻はぎくりとした。幸子の声はさっきまでとは別人のように鋭く尖《とが》っていた。
「和也の死体はなあ、あんたが発見したんと違うんか?」
菰田幸子はさらに語気を強め、若槻はたじろいだ。さっき名刺を見た時から気づいていたのだろうか。
「はあ、それはそうなんですが、それだけでは、どうも」
「保険金、はよ払ってもらわんと、私ら、困るんです」
菰田幸子は、また一転して、泣き落としのような調子になった。
「あの子の葬式も、せんならんしほかにも、いろいろと払わんならんもんが、あるんです」
若槻は咳払《せきばら》いをして鼻孔を押さえた。菰田幸子の香水の臭気には、もはやその場にとどまっていることさえ耐え難いものがあった。いつのまにか、カウンターに座っている客は彼女一人だけになっていた。ほかの客は臭いに辟易《へきえき》して早々に退散したのではないかとさえ、若槻は思った。
「たいへん申し訳ございません。できるだけ早く結論を出すように、本社にも督促いたしますので」
菰田幸子は、なおもくどくどと早く保険金をもらわないと困るという旨のことを言い続けた。
こういう場合、絶対にしてはいけないのは途中で遮ることである。客には、とりあえず言いたいだけのことは言わせてやらなくてはならない。若槻は、辛抱強く菰田幸子の泣き言を聞いていた。
菰田幸子は、ハンドバッグからハンカチを取り出すと、何度も目にあてがってみせた。本当に悲しんでいるのかもしれなかったが、若槻には涙が出ているようには見えなかった。
彼女は、しゃべりながら、右手でハンカチを持って目頭を拭っていた。そのうち、ハンカチを持ち替えようとして左手を持ち上げた拍子にワンピースの袖が引っ張られ、隠れていた手首の内側が露出した。
若槻ははっと息をのんだ。菰田幸子は、失敗に気づいたように急いで袖を直したが、すでに遅かった。
彼女の手首には、刃物で切ったような傷跡が数本、平行についていた。いずれも傷口が大きく隆起した白い筋になっており、かなり深い創傷だったことをうかがわせた。
その時、若槻はなぜ菰田幸子の声に聞き覚えがあったのかを思い出した。
たしかに一度電話で聞いていたのだ。四月の初め、自殺した場合保険金は出るのかと聞いてきた、あの女の声だったのである。
[#改ページ]
6月12日(水曜日)
旧式のエレベーターのドアが軋《きし》みながら開いた。二メートルほど前には昭和生命の文字とロゴマークが描かれた自動ドアがある。ガラス越しに、カウンターの前に腰かけたりソファに座って順番待ちをしている客の姿がうっすらと見えた。
若槻《わかつき》は目を凝らした。ソファの一番奥に黄土色の作業服を着た男が座っているのを認めたとたん、胃袋がずっしりと重くなる。昼食の天ぷら蕎麦《そば》が急に鉛にでも変わったようだ。
左手奥にある職員用のドアからそっと総務室に入る。
若槻が自分の机につくと、坂上弘美がチェックの必要な書類の束を携えてやってきた。
「今日も来てます」
カウンターに背を向けて書類を置きながら若槻にだけ聞こえるような小声で言う。
菰田幸子《こもださちこ》が支社に来た翌日から、今度は菰田重徳が現れるようになった。もう、これで二週間になる。やってくるのはなぜか昼休み中が多かった。
「何時ごろだった?」
「十二時五分くらいです」
菰田重徳は、今日も一時間近く待っていたことになる。昼当番だった女子職員に聞いたところでは、菰田はいつもカウンターの前に座り、身じろぎもせずに若槻を待ち続けているということだった。
「葛西《かさい》副長が応対しようとしてくれたんですけど、いつも若槻主任と話してるから、言いはるんで……葛西副長は、別件で応接室です。もし何かあったら、呼んでくださいっていうことでした」
葛西はこれまでにも何度が菰田の応対を代わろうとしてくれたが、菰田はそのたびに、わしは暇やから何時間でも待ちますわと言って、穏やかに一蹴《いつしゆう》した。客にそうまで言われれば引き下がるよりない。
菰田は、葛西と比べて若槻をくみしやすしと見ているのだろう。残念ながら若槻もその判断は正しいと認めざるを得ない。
若槻は覚悟を決めてカウンターに向かって歩いていった。
菰田はじっとこちらを見ていた。若槻と目が合っても、何ら表情の変化は表れない。
「どうも、たいへんお待たせしました」
若槻は対面する席に座りながら、自分の笑みがこわばっていることを自覚していた。
薄汚れた軍手をはめた菰田の左手が、カウンターの上に載せられているのが目に入る。詰め物をしているらしく、親指の部分が不自然に膨らんでいた。
菰田は、カウンターの上に身を乗り出すようにすると、口の中に籠《こも》るような独特の発音で言った。
「和也の保険金のことなんや。もう、下りたやろ思てな」
「それが、まだ本社で調査中ということでして。もう少し、お待ちいただけないでしょうか」
菰田は一瞬押し黙り、沈んだ声で言った。
「ほうかあ。まだなんか……」
この二週間というもの、毎日、儀式のように同じ問答が繰り返されていた。
「長い間お待たせいたしまして、たいへん申し訳ございません」
「ほうか。まだなんか」
「もう一度、本社の方に督促してみますので。決定が出しだい、こちらから御連絡するようにいたします」
「うん……ほうか。まだなんか……」
若槻は菰田の表情を窺《うかが》ったが、真っ黒な目はガラス玉のように虚《うつ》ろで、何の感情も読み取れない。ひどく小さな口の周りにだけは不可解な笑みが浮かんでいる。
菰田はのろのろと立ち上がると、若槻に背を向けた。
若槻が「どうも、ご足労をおかけしました」と声をかけたが、そのまま足を引きずるようにして黙って外へ出て行く。
自動ドアが閉まるのを見送りながら、若槻はこれまで感じたことのないような疲労を覚えていた。
菰田はこれまでに、暴力をふるったこともなければ、脅迫的な態度を取ったことさえなかった。つまり、何一つ法に触れるようなことはしていない。表面的に見れば、保険金の支払いが遅れているために、受取人が足繁く問い合わせのために訪れているだけのことなのである。
だが、これは明らかな神経戦だった。
菰田は支社に日参しては、子供の使いのようにおとなしく帰っていく。客に無駄足を踏ませることが、こちらに心理的な負担を与えることを知っているのだ。
かりに菰田が途中で激昂《げつこう》しカウンターを叩いたり怒鳴ったりしていれば、若槻はずっと気が楽になっていたに違いない。そうした客の扱いには慣れていた。不気味なのは菰田のおとなしさだった。
最初の一日二日はそれほどにも感じなかったが、それが連続二週間となるに及び、若槻の心の中では菰田がいつか爆発するのではないかという恐怖が徐々に膨れ上がりつつあった。相手は、金のために自分の親指を切断し、さらに殺人を犯した可能性の極めて高い男なのである。そう思わせること自体が相手のもくろみではないかと考えても、恐怖をやわらげることはできなかった。
葛西が帰ってきた。ちょうどエレベーターの前で菰田に会い、二言三言、言葉を交わしている。ていねいに頭を下げて、菰田が乗ったエレベーターのドアが閉まるのを待ってから、総務室に入ってきた。
「あのおっさんも、毎日毎日、よう続くもんやなあ」
カウンターに座っている客の耳に届かないような声で若槻に言う。
「あの根気を正業に生かしたら、今ごろは、大金持ちになっとんとちゃうか?」
冗談めかしているのは、若槻の気分を軽くするためであることはわかっていた。
「どっちにしろ、早く決着をつけてもらいたいですよ」
若槻も平静を装ったものの、葛西の目はごまかせなかったようだった。
「しかし、わしも、いろんなやつを見てきたけど、あんだけしつこいんは初めてや」
葛西はむしろ感心したように言った。
「昔はけっこう、どこの支社でも、うるさいやつがおったんや。応接室で灰皿が飛んで来るのなんかはザラやったし、剣呑《けんのん》なやつは、文字通り懐にドスを呑《の》んできよったりとかな。そんなやつから電話があって、これから行くから待っとれとか言われると、えらい憂鬱《ゆううつ》やったもんや。しかし、人間いうんは不思議なもんなんやなあ。そんな相手とでも、何度も顔を合わせてるうちに、それなりの人間関係いうもんができてくる」
「人間関係ですか?」
若槻は葛西の話に自然に引き込まれていた。
「うん。どうも人間いうのは、敵味方にかかわらず、長く見ているもんに親しみを覚えるいう変な習性があるらしい。聞いたこと、あるやろ? 人質に取られた人間が、犯人とずっと一緒におるうちに、犯人に感情移入してしまういうやつ」
若槻は記憶をたぐった。日本でも人質事件が頻発するようになって、新聞報道などで徐々に一般にも知られるようになってきた現象……。
「ストックホルム症候群ですね」
「うん、それ。よう知っとるなあ。それに近いもんがあるんや。たとえヤクザが相手でも、頻繁に会っているうちには気心が知れてくる。するとまあ、こちら側も、できることには融通をきかすようになるし、向こうの方でも、むやみに怒鳴ったり、難題をふっかけてきたりはせんようになってくるもんや。支社が忙しい時間帯は、自発的に避けて来るようになったりとかな」
「それは、気配りって言えるんですかね?」
「もちろんそれも、こちらを懐柔しといて食い込もういう手ではあるんやけどな。それでもやっぱり、人間関係の一種と言えんこともないやろ」
葛西は厳しい顔になった。
「そやけど、あの菰田重徳いう男は、そいつらと比較しても常軌を逸しとるわ。あいつが何を考えているのかだけは、わしには、さっぱり理解できん。だいたい、支払い決定が本社扱いになったことは、すでに伝えてあるんやろ? それでもなおかつ、支社の一担当者にプレッシャーをかけ続けることに、どんな意味があるのかということや」
木谷内務次長が外出から戻ってきた。葛西と若槻は木谷の机の前に行って、菰田が今日もやって来たことを報告した。
「そうか。今日も来たか」
木谷は懸念するような視線で若槻を見た。
「わしが出て行っても、頑として口をききよらんのです。今は、若槻主任一人に負担がかかってるような状況ですわ」
「本社からは、まだ何も言ってきてないんか?」
「まだです。警察が態度を決めよりませんのや」
木谷が考え込んでいるのを見て、若槻は思い切って言ってみた。
「内務次長。できれば、この件について、内々に、少し調べてみたいんですが」
「調べるって……。昭和保険サービスがやってるやろう?」
「そうですが、サービスは、菰田重徳がクロだという十分な心証は持っていないでしょうから、どこまで突っ込んだ調べをしてるのか、疑問があるんです。このまま待ちの姿勢でいるよりも、別の視点で調べてみるのも有効な気がするんですが」
「そやけど、具体的にどうするつもりや?」
木谷はあまり乗り気ではない顔だった。
「とりあえず、募集者に会って、直接話を聞いてみたいと思います。菰田幸子とは幼なじみだそうですから、募集の経緯以外にも、何か知ってるかもしれません」
「内務次長。今はむしろ、若槻主任が支社におらん方が、かえって、ええんとちゃいますか?」
葛西も横から口添えしてくれた。
「事務の方は、今はそれほど忙しいことないんで、ひとりでも、どうということありませんわ」
あまり例のないことなので木谷は渋い顔をしていたが、最後には了承してくれた。
若槻はほっとした。彼が自分で調査をしたいと思ったのは、菰田重徳に圧力をかけられているからばかりではなかった。
菰田和也の死体を発見して以来、毎晩、悪夢を見るようになっていたのだ。内容は判で押したように同じだった。
彼は、どこか洞窟のような場所でたたずんでいる。なぜか、そこが『死の国』であるという気がしていた。目の前には見たこともないほど巨大な蜘蛛《くも》の巣がかかっている。漆黒の闇《やみ》の中で、細い蜘蛛の糸だけが、輝く線のように見えていた。
しばらくすると、白っぽい物体が蜘蛛の巣からぶら下がっているのが、ぼんやりと浮き上がるようにして見えてくる。最初はそれが命を育《はぐく》んでいる繭のように見えた。だがすぐに、死者のための経帷子《きようかたびら》であることがわかる。蜘蛛の餌食《えじき》となって蚕の繭のように糸を幾重にも巻きつけられた何かの死骸《しがい》なのだ。
よく見ると、死骸は人間の顔をしていた。
それは角度によって菰田和也であるようにも見え、また兄であるようにも見えた。
死骸は、ふいに、ぶるぶると震え始める。蜘蛛の巣全体が、激しく揺れているからだ。蜘蛛が帰ってきたのだ……。
夢はいつも、蜘蛛の姿を見ることなく、そこで終わっていた。そして、若槻は全身にじっとりと脂汗をかいて目覚めるのだった。
彼は菰田和也の件に決着をつけない限り、一生悪夢から逃れられないような気がしていた。
「まあ、気分転換のつもりで、行ってきたらええわ」
葛西が若槻の肩を力強くたたいた。
6月13日(木曜日)
アパートの窓から頭を出すと、朝の八時四十分だというのにひどく薄暗かった。見上げると、空全体がぼんやりと光る雲に覆いつくされている。日本海の方では黒ずんだ雲がさらに低く垂れ込めているようだった。福井方面では、もう雨が降っているのかもしれない。
琵琶湖の方から吹いてくる東風は、心なしか湿って感じられた。若槻はビバの折り畳み傘をカバンに入れた。
玄関にはキャノンデールのマウンテンバイクが立てかけてある。いつもはこれに乗って通勤するのだが、今日は直行の許可を取ってあるので支社に寄る必要はない。
アパートを出て南に少し歩くと、道幅が五十メートルもある御池《おいけ》通りにぶつかる。京都を東西に走っている道の中では、五条通りと並んで最も広い通りだった。戦争中の強制疎開で家を立ち退かせて無理やり拡張されたためなのだが、全長はたった二キロほどしかなく、せっかくの広さもあまり意味があるとは思えない。役に立つのはせいぜい年に二回、祇園祭《ぎおんまつり》や時代祭の行列が通る時くらいだった。
それでも、道が広々としているのは気持ちがいいものだった。並木敷《なみきしき》の間から出勤途上らしい背広姿のサラリーマンが見えた。
地下鉄|烏丸《からすま》線で御池から四条まで一駅だけ乗ると、阪急京都線に乗り換えて小豆《あずき》色の大阪梅田行きの特急に乗った。
京都から大阪までは、四十二、三分である。空模様を心配していたら、電車が淀川の鉄橋を渡るころから、窓ガラスにぽつぽつと水滴が落ち始めた。最初は福井方面からやって来た雨かと思ったが、よく考えると特急に追いつけるはずもないので、これは別口に違いない。
終点の阪急梅田駅で下りると梅田の地下を通って地下鉄|御堂筋《みどうすじ》線で難波《なんば》へ行く。さらに、なんばCITYを過ぎて南海難波駅から南海電鉄|高野《こうや》線に乗る。
急行が難波駅を出るころには、雨はかなり本降りになっていた。
南海ホークスが身売りされた後、原形のまま住宅展示場にされてしまった大阪球場が、右手に雨に煙って見えた。
若槻は、昨日葛西から雑談の間に聞いたことを思い出す。
大阪には昔から、お上《かみ》に頼らない気風があったために、国鉄よりも私鉄がよく発達していたのだという。たとえば、南海電鉄は、あまり知られていないが、実は日本最古の私鉄である。また近鉄の路線距離は六百キロを超えており、私鉄では日本一であるらしい。
だから関西の私鉄は関東の私鉄よりも、ずっと進んでいたのだと、葛西は自慢げに言うのだった。
若槻が疑わしそうな顔をすると、葛西はむきになり、関西の先進性を示す証拠として、東京よりずっと早かったという自動改札の普及を挙げた。若槻が今乗っている南海高野線でも、すでに二十年以上前には全線の自動改札化が完了していたのだと、唾《つば》を飛ばして力説していた。
高野線は、大阪市内を抜けると、堺《さかい》市、狭山《さやま》市、富田林《とんだばやし》市といった大阪府南部のベッドタウンに入る。若槻は北野田という駅で急行から各駅停車に乗り換えた。
次は、狭山という駅だった。このあたりまで来るとかなり田園風景が残っており、雨が水田を打つ光景を眺めることができた。雨粒の一つ一つによって、水面に繊細な波紋が生じ、緑の稲葉がそよぐのが車窓からでも見て取れた。稲作民族である日本人の心象にマッチするのだろうか、妙に心がなごむ景色だった。
子供の頃のことを思い出す。土曜日の午後、兄が小学校から帰ってくると、よく一緒に近くの田んぼへ出かけたものだった。ザリガニを釣ることもあったが、たいていは水棲《すいせい》昆虫を捕らえるのが目的だった。雨の日は不思議によく捕れるので、小雨くらいなら気にせずに、傘をさしながら夢中になって竹竿の先についた網で泥田を掻《か》き回した。アメンボやミズスマシにはさほど感激がなかったが、美しい流線型のゲンゴロウを見つけると心が躍った。水棲昆虫の大部分は他の生き物の体液を吸う吸血鬼なのだが、妙に愛敬《あいきよう》があって憎めないところがある。その中でも若槻が最も愛していたのは、カマキリのような前足を持つミズカマキリやタイコウチの一族だった。
一度だけ、信じられないような幸運で本物のタガメを捕まえたことがあった。兄が見事な手さばきで網をふるい首尾よく捕獲してからも、幼い若槻はその巨大さに怖《お》じ気《け》づき、手を触れることさえできなかった。その晩は、同じ部屋の中にタガメがいると思うと興奮して眠れなかった。兄が水槽の上に網を張って飼おうと試みたのだが、残念なことにタガメはすぐに死んでしまった。その後しばらくは夢にタガメが出てきた。
電車は目的地の金剛《こんごう》という駅に着いた。このまま終点まで乗っていれば、高野線の名前の由来である和歌山県の霊場、高野山に着くはずである。
電車を下りて時計を見ると、すでに十時をかなり回っていた。雨はまだ降り続いている。
駅前にはロータリーがあった。正面は緩やかな上り坂になっていて、両側には団地や建売住宅が立ち並んでいる。
若槻は、折り畳み傘を広げた。支社には大阪の住宅地図がなかったので、電話で住所を聞いた時のメモだけを頼りに歩く。幸い雨も小降りに変わってきており、目指す団地の棟はすぐに見つかった。
大西という表札を確認して、チャイムを鳴らす。しばらくすると、そっと鉄の扉が開いた。眼鏡をかけた背の高い中年女性が、当惑したような表情で若槻を見つめていた。女性の足下には五歳くらいの女の子がまとわりついていた。つぶらな目をいっぱいに見開いて若槻を見ている。瞳《ひとみ》が真っ黒で白目が青みがかっており、フランス人形のようだった。
「お電話させていただきました、昭和生命京都支社の若槻と申します。大西光代さんでしょうか?」
「はい。どうぞ」
大西光代は、若槻を請《しよう》じ入れたが、彼と目を合わせようとはしなかった。もともと、あまり社交的な性格ではないのかもしれない。だとすると、やはり保険の外交という仕事には向いていなかったのかもしれないと、若槻は思った。
家に上がると、奥にはもう一人、四歳ぐらいの男の子がいた。椅子に座っておとなしく絵本を読んでいる。
「散らかってますけど……」
大西光代の言葉は必ずしも謙遜《けんそん》とは言いがたかった。もともと狭いスペースに、多くの家具を詰め込み過ぎているだけでなく、二人の子供の玩具などがそこら中に散乱しており、雑然とした雰囲気がすっかり常態となってしまっているようだった。
応接間の安物の合成皮革のソファに腰かけると、何かべたべたしたものが手に触れた。ひじ掛けの部分に、しゃぶりかけの飴玉《あめだま》が貼りついている。若槻はハンカチで手を拭《ぬぐ》ったが、それほど不快な気分ではなかった。小さな子供がいる以上、ある程度はしかたのないことであり、何よりも菰田家を訪問した時の異様な戦慄《せんりつ》を思い出すと、この家の平凡さにはほっとするところがあった。
「わざわざ、京都から来てもらっても、わたし、あんまりお話しするようなこと、ないんですけど」
大西光代は紅茶を出しながら言った。レモンスライスとスティック・シュガーが添えてある。若槻は礼を言いながら、こっそりカバンの中に手を入れてマイクロカセット・レコーダーのスイッチを入れた。
「募集の時のことは、ほとんど、大阪南支社の安田さんにお話ししましたし……」
光代は暗に、契約を取ってくるのは外務員だが審査するのは支社の役目ではないかと言いたいようだった。
「ええ。今日お伺いしましたのは、それ以外のことも、お聞きしたいと思いまして。大西さんと、菰田幸子さんは、幼なじみだそうですね?」
「はい。でも、菰田さんとは、小学校卒業以来、全然、会ってませんでしたから」
「小学校というのは、どちらだったんですか?」
「K小学校……和歌山のK町にあるんですけど」
若槻はそこが菰田幸子の本籍地であったことを思い出した。
「そこで、六年間、ご一緒だったんですか?」
「そうです。でも、本当のこと言うたら、あまり話をしたこともなかったんです。菰田さんは、ちょっと自閉症みたいな感じやったから、クラスでは、ほとんどしゃべりませんでしたし。小坂くんは男子やし、ちょっと怖いようなとこがあったから」
「小坂くんっていうと? 菰田幸子さんのご主人も、同じクラスにいたんですか?」
若槻が驚いて聞くと、光代はうなずいた。
菰田夫妻が幼なじみだとは思ってもいなかった。結婚前の菰田重徳の戸籍は、たしか福岡にあったはずだと思う。
「それに、前のご主人も、学年は違うけど、やっぱりK町の人やったと思いますよ」
「前と言いますと、菰田幸子さんは、再婚なんですか?」
「ええ。三回目やったか四回目やったか忘れましたけど。前のご主人は、たしか、白川さんって言いはったんやないかしら」
若槻は白川という姓を手帳にメモした。
「それで、菰田重徳さんの、怖いようなところっていうのは、どんなことだったんですか?」
光代は話すのをためらっているような素振りを見せた。
「ここでお聞きしたことは、絶対に外部には漏らしませんから、おっしゃっていただけませんか?」
「はあ。あの、特に、はっきりしたことやないんですが」
光代の言葉は途切れたが、若槻は辛抱強く待った。彼女が話したがっていることは明らかである。不確かな噂話をすることにためらいを感じているのだろう。後は、そのためらいを払拭《ふつしよく》する時間を与えてやりさえすればいい。
「舞。ちょっと、あっち行ってなさい」
部屋の隅にいた娘を追い出すと、光代は自分から話し始めた。
「五年生の時のことなんですけど、学校で飼ってた、ウサギとか、アヒルとか、ニワトリとかが、連続して殺されたことがあったんです」
「それは、菰田、小坂重徳さんが、やったんですか?」
「ええ、まあ、証拠とかはなかったんですが、そういう噂になって」
「でも、なぜ小坂くんだっていう噂になったんでしょう?」
「それは……。小坂くんは、よく学校をサボったり、授業中に、突然叫び出したりとかいうことがあったし」
「でも、それだけじゃ、わからないでしょう?」
「ほかにも、あるんです。動物のいる金網のところで、うろうろしてるのを見たと言ってた人もいたし。それに、だいたい、動物の殺され方が」
光代は具合の悪いことを言いかけてしまったというように口をつぐんだ。
「殺され方が、どうしたんですか?」
若槻は優しく聞いた。
「……ウサギとか、アヒルは、みんな、針金で首を吊《つ》られてたんです」
若槻はぬるくなった紅茶を飲んで、何とか動揺を隠した。
「なぜ、首を吊っていたら、小坂くんがやったと?」
「小坂くんが小学校一年生の時やったと思いますけど、お父さんが、首吊り自殺をしてるんです」
若槻は言葉を失った。もちろん、それだけで小坂重徳を犯人扱いするわけにはいかない。父親が自殺したことと動物の死とは直接には何のつながりもない。
だが、よく似た経験を持つ若槻には、父親の死が幼かった重徳の精神形成にどれだけ破壊的な影響を与えたか、容易に想像できた。
家族や肉親に自殺者がいた場合、のちに子供が自殺する可能性が非常に大きくなることは、はっきりと統計に表れている。自殺という現象は明らかに伝染するのである。重徳の父親がどういう状況で死んだのかはわからないが、もし幼い重徳が死体を直接見ていたとすれば、その影響はさらに大きいだろう。
さらに、心理学的には自殺と殺人は表裏一体のものであると言える。殺人の衝動が内攻して自殺に至る場合も数多くあるし、逆に自殺願望が投影された殺人というものも存在する。
菰田重徳の場合、すべての出発点は父親の自殺だったのではないだろうか。
K小学校で広まっていたのは、たしかに飛躍した連想による無責任な噂にすぎない。だが、無責任ではあっても必ずしもまちがっているとは限らない。
「でも、なんで、そんなことまで聞かれるんですか? 菰田さんのお子さんが亡くなったんは、自殺と違うんですか?」
光代は不審そうな声になった。
「それは、まだわかりません。警察が結論を出すのを待ってみないと。……それで、小坂重徳さんは、お父さんが亡くなった後は、どうしてたんですか?」
「お母さんは、小坂さんが生まれてすぐ、病死してたと思います。たしか、おばあちゃんと二人暮らしやったんやなかったかしら」
「その方は、まだご存命ですか?」
光代は首を振った。
「たしか、亡くなりました。癌か何かやったと思うんですけど。わたしが高校生の時やから、小坂くんも、十六、七くらいやったかしら。家でぶらぶらしてたみたいなんですけど、おばあちゃんが亡くなってから、しばらくして、小坂くんの姿が見えなくなったとか聞きました」
「どこへ行ったんですか?」
「知りません。何か、後で、関東の方へ行ったとかいう話は聞きましたけど」
小坂重徳は、その後全国を転々としたに違いない。そして、九州で指狩り族事件に関わり、関西に舞い戻って偶然、菰田幸子と再会し結婚した……。一応の流れはわかるような気がする。だが、なぜ幸子はよりにもよってこんな男を再婚相手に選んだのか?
「さっき、菰田幸子さんは、自閉症だとおっしゃってたようですけど?」
「そんな感じやったんです。いつも、クラスの中では、独りぼっちやったし」
「友達は、全然、いなかったんですか?」
「いじめ、いうほどのことでもないんですけど、あんまり、ほかの子は、菰田さんとは話さへんかったんです。お母さんがいなかったんで、いつも、ぼろぼろの格好してましたし。ほら、子供って、ちょっと人と違う子がいると、すぐ仲間はずれにしたりするでしょう?」
光代は、まるで自分が子供の一人ではなかったかのような物言いをした。
「菰田さんのお母さんは、どうされたんですか?」
さっき応接間から出て行った舞という娘がまた戻ってきた。母親にかまってもらいたいらしく、ひどくぐずっている。光代は娘をなだめすかしながら、再び部屋の外に連れていった。
「これも、噂なんですけど」
戻ってきた光代は声をひそめた。
「お母さんは、男の人と駆け落ちしたとかいうことなんです。それで、残されたお父さんは、すっかり酒びたりになって、幸子さんのことも、全然かまわへんかったんです。幸子さんの腕とか背中とかには、ときどき、折檻《せつかん》の跡みたいなもんがついてたこともありましたし……」
折檻の跡。彼女は虐待を受けていたのだろうか?
若槻はふと菰田幸子の手首の傷のことを思い出した。一見しただけだが、深い傷が何本も平行して走っていた。ためらい傷ならば、あれほどの痕跡《こんせき》は残らないだろう。
だとすれば、菰田幸子は本気で何度も自殺を試みたことになる。
「菰田幸子さんは、自殺未遂をしたことがあると聞いてるんですけど?」
若槻の思いつきの質問は、的を射たようだった。光代はなぜ知っているのだろうと訝《いぶか》しむような顔になった。
「あれは、中学生になってからのことですけど。そういう噂が流れたことは、ありました。カッターで手首切ったとか」
「なぜ、死のうとしたんでしょう?」
「さあ。噂やから、詳しいことはわたしにも……。たぶん、発作的にやったんと違いますか?」
すべて、噂、噂、噂だった。だが、一度一人歩きした噂は、いつのまにか事実として認知され、記憶されることが多い。光代が、いまだにそれらの根拠の薄弱な噂を、事実以上にしっかり覚えていることが、その表われだった。小坂重徳と菰田幸子が育った三十年以上前の田舎町の雰囲気とは、いったいどんなものだったのだろうか。
「あの、こんなにいろいろ聞きはるんは、もしかして、和也くんが死んだんは、小坂くん……旦那さんが、何かしたということなんですか?」
光代の声が不安そうに震えた。
彼女は、今では保険の外務員をしていたことさえ忘れたいと思っている様子だった。おそらく昭和生命に在籍していた一年間で取った保険契約は親戚、知人ばかりで、せいぜい十件がいいところだろう。それなのに、その、たった十件のうちの一件が殺人を誘発したということになれば後味が悪いどころではない。
「いえ。特に、そういう疑いがあるというわけではないんです。ただ、どうしても手続き上、調べが必要なものですから」
若槻は光代を安心させようとして言ったが、彼女は何かを思い出しているらしく、かえって薄気味悪そうな表情になった。
「だけど、もしかしたら、小坂くんが殺したんは、動物だけやなかったかもしれへんのです」
若槻は衝撃を受けた。
「どういう意味ですか?」
「こんなこと、言ってええのかどうか、わからへんのですけど……」
光代はまた躊躇したが、すでに話したいという欲求は抑えきれなくなっていた。
「六年生の時に、遠足で、よそのクラスの女の子が一人、行方不明になったことがあったんです。町中、総出で捜す騒ぎになったんですけど、結局、池に浮いてるのが見つかって」
部屋の中はかなり蒸し暑かったにもかかわらず、若槻は背筋が寒くなった。
「事故じゃなかったんですか?」
「遠足に行った場所から池までは、五百メートルくらいあったんです。おとなしい子やったらしいから、一人でそんなとこまで行くやろかって」
「しかしですよ、小坂重徳さんと、その事件を具体的に結びつけるものが、何かあったんですか?」
「そのちょっと前から、小坂くんが、しつこくその子につきまとってたんです。それで小坂くんも先生から、何か、いろいろと聞かれてました。そしたら、誰かが、小坂くんがずっと近くにいたと証言したんで、疑いが晴れたんですけど」
若槻はほっとした。
「だったら、アリバイがあるわけじゃないですか?」
「でも、今思い出したんですけど……」
光代は大きく目を見開いて若槻を見つめた。
「その時に証言したんは、菰田幸子さんやったんです」
雨はかなり小降りになったものの、依然として降り続いていた。金剛の駅前の公衆電話から京都支社に連絡を入れると、若槻は難波へ戻るのとは逆方向の電車に乗った。
和歌山県は近畿地方の中でも特に交通の便が悪いが、幸いK町は南海高野線の沿線にあるらしい。もう一度ここまで来る機会はなさそうだし、当時菰田らのクラスの担任だった橋本教諭が、転勤でたまたま同じ小学校に戻ってきているという話を光代から聞き、足を延ばしてみる気になったのだった。
終点の高野山の少し手前の駅で下りる。北には葛城《かつらぎ》山脈が連なり、南には高野山がそびえている。さすがにどちらを向いても緑が豊富だった。
K小学校までは歩いて二十分くらいかかった。
彼が校門をくぐる時、雨はすっかり上がっていた。水たまりができて泥だらけになった校庭では、子供たちがサッカーをして遊んでいた。少々泥が跳ねたくらいでは、まったく意に介さない。坊主頭の男の子がパスを受けて鋭いボレー・シュートを放つと、歓声がわいた。
子供たちは生命と活力に満ちあふれていた。ふと、薄暗く悪臭に満ちた家の中で首を吊っていた菰田和也のことを思い出す。駆け回っている子供たちは、みな彼と同年齢くらいだった。
職員室を訪ねて橋本先生にお会いしたいと言うと、すぐに応接室に通された。やはり光代に頼んで電話してもらったのがよかったようだ。しばらくして、髪が半白になり鼻の上に老眼鏡をかけた五十代半ばくらいの女性が現れた。年齢からするととっくに管理職になっていてもおかしくないが、名刺ではただの教諭となっていた。
「保険会社は、そんな、昔のことまで調べはるものなんですか?」
橋本教諭は、若槻の名刺を眺めながら怪訝《けげん》そうに言った。
「ええ。プライバシーの問題があるので、何を調べているのかまでは、お話しできないんですが」
「相続とかのことですか?」
「まあ、そういうことも含んでいます。ご迷惑はおかけしませんので、小坂重徳さんと菰田幸子さんのことで、ご存じのことを教えていただければ、ありがたいんですが」
警察や弁護士などとは違い、若槻には何の捜査上の権限もない。相手が協力的でなければ話にもならないため、上手に持っていく必要があった。
「もう、三十年以上前のことやからねえ。……小坂重徳という子のことは、うっすらと覚えてます。いろいろと、問題のある子やったから。菰田幸子っていう子は、ちょっと思い出されへんわねえ。悪いけど」
橋本教諭は、聞かれたことを思い出そうと一生懸命骨折ってくれたが、語ってくれたことは、ほとんど新任教師時代の苦労話に終始し、光代の話を一部で裏づける程度の収穫しかなかった。
若槻が、ここまで来たことを後悔し始めた時、橋本教諭は、ちょっと待ってと言って、応接室を出て行った。十分ほど待たされてから、彼女は小冊子のようなものを持って来た。
「これ、そのクラスの五年生の時の文集なんです。国語力を付けさせよう思て、担任したクラスでは、必ず文集を作るようにしてたんです。でも、よう残ってたわ」
文集は藁半紙《わらばんし》にガリ版刷りだった。三十年の間に紙が酸化して、縁が焼け焦げたようにぼろぼろになっていた。しかもインクが薄くなっているので、ひどく読みづらかった。綴《と》じているホッチキスの針も錆《さ》びて折れそうだった。
タイトルは『夢』となっている。将来の夢を語らせたのかと思ったが、ぱらぱらと読んでみると、どうも生徒が実際に見た夢の話を書くということらしい。作文嫌いの子供たちに書かせるには適切なテーマだといえた。
いかにも子供らしい素朴な夢もあれば、作ったとしか思えない少々出来過ぎの話もあった。ごちそうを食べるという夢が妙に多く、それもそろってビフテキであるのは、当時の雰囲気を偲《しの》ばせる。
あいうえお順なので、小坂重徳の作文は前半の六、七番目に出て来た。
ゆ め
小さか しげのり
[#ここから2字下げ]
ばあちゃんが、しんだひとはゆめであいにくるんやで、いうてたし、ゆめのなかで、とうちゃんとかあちゃんが、ぼくをみてたから、うれしかった。
そして、しげのり、ばあちゃんのいうことようききや、ごんたばっかししとったらあかんで、いうから、そんなん、ぼくしてへんでいうたら、きえた。そして、もうあえへん。もういっぺんあいにきてほしいのに、もう、ゆめにでてけえへんようなってしまいました。おわり。
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小学五年生の児童の作文にしては、驚くほど幼稚だと言えるだろう。せいぜい一、二年生のレベルだろうか。ほとんど全部ひらがなであるだけでなく、文章の体をなしていない。
しかし、稚拙な表現にもかかわらず、どこか胸を打たれるような印象を受けたのも事実だった。『かなしい』などとは一言も書いてなくても、この作文から伝わってくるのは両親を失った少年の深い悲しみだった。
たとえ、ずっと昔の作文ではあっても、平然と幼い子供を殺して保険金の詐取を狙うような、冷酷無残な心の持ち主には、どこかそぐわないような気がする。
ふと若槻は以前にも同じような感想を持ったことを思い出した。菰田重徳という人物の持っている奇妙な二重性について。そぐわないという感じ。だが、それが何だったのかはすぐには思い出せない。
菰田幸子の作文は小坂重徳のすぐ後ろだった。出席番号が一番違いだったとすれば、席順などで相前後することも多かったのかもしれない。
ブランコの夢
菰田 幸子
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きのうのばん、見た夢のことを、書きます。本まは、きのうだけやなかったので、もっと、ずっと前にも、見たことがあります。ずっと前に、五六回、見たことがあります。
夢の中で、私が、中央公えんへ行った時は、だれも、いませんでした。
私は、ブランコに、乗って、こぎました。
ブランコで、こいでたら、どんどん、かそくが、つくようになって、上まで、行くようになりました。それでも、こいでたら、もっと、ずっと、上まで、行くようになりました。
そして、おもしろなってきて、もっと、どんどん、こいでると、しまいに、すごい高なりました。
そして、ついに、もっと高なって、そして、一週回りそうになるぐらい、高なりました。
一番、高なってから、私は、すべって、ブランコから、落ちて行きました。それから、暗い、何もないとこへ、ずっと、落ちて行きました。
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小坂重徳に比べると多少は作文らしくなってはいるが、やはり小学校五年生としては非常に国語力が貧弱である。
若槻が菰田幸子に会ったのは、彼女が支社にやって来た時の一度きりだが、その時の印象と妙に合致するものがあった。ある種の融通のきかない生真面目《きまじめ》さというか、頑固さである。
そのことは書き出しに端的に表れていた。わざわざ昨日の晩見た夢の話を書きますと断っておいて、初めて見た夢ではないことを思い出すとそのことも書く。さらにもう一度回数まで念を押すという粘着質ぶりである。
そして肝心の夢の話だが、こちらはやけに淡々としている。『こぐ』とか『高い』などの同じ言葉を執拗《しつよう》に繰り返しているが何も心に残るものがない。ただ、あったことをそのまま書き連ねているという感じだった。
ブランコ。若槻は、ふと学生時代に読んだ夢判断の本を思い出した。ブランコにも、何かの意味があったような気がする。たしか、物事が変化する前触れとか、あるいは何かに対して迷っているということだったかもしれない。うろ覚えだからもう一度恵に確認してみなければならない。
橋本教諭が不思議そうに彼を見ているのに気がついた。眉間《みけん》にしわを寄せて文集を睨んでいるのが奇異に映ったらしい。それはそうだ。いまさら三十年以上前の子供の作文を分析して何になるのだろうか。
若槻は、照れ笑いを浮かべながら文集を橋本教諭に返そうとして、ためらった。
合理的な理由など何もない。ただの直感だった。何となく、この文集をもっとよく読んでみるべきだという気がしたのだ。
「あの。もしよろしかったら、これ、コピーさせてもらえませんか?」
自分がそう橋本教諭に頼んでいる声を聞いて、若槻は驚いた。
「かまいませんよ。お持ちになったかて。字いが薄なってるから、コピーやと、よう写らへんでしょう。用が済んでから、送り返してもろたら、けっこうですから」
若槻はていねいに礼を言って、小学校を辞去した。
せっかくここまで来たのだからと、若槻は、小坂重徳と菰田幸子の昔の家まで行って周辺で聞き込みを行ってみたが、収穫はなかった。再び電車を乗り継いで京都に戻った時には、すでに夜の七時半を回っていた。
直行直帰の許可はもらっていたが、サラリーマンの習性で、一応支社に顔を出しておくことにする。毎日九時ぐらいまではサービス残業で誰かが残っているのが常だったが、総務室には誰もいなかった。会議室の方で笑い声が聞こえるので行ってみると、なぜか大迫《おおさこ》外務次長が古手の営業所長たちと車座になって酒を酌み交わしていた。もちろん、すでに勤務時間は過ぎている。内務次長も葛西も、珍しく定時に帰ったということだった。報告は明日に回すことにする。
若槻の机の上には頑丈なハトロン紙の大型封筒が一通だけ置いてあった。本社と支社間をやり取りする支社便である。一番上には、省資源と事業費の節約の一環として、社内で使い回しができるように送り先を書く欄がずらりと印刷されていた。
最初にこの封筒が使われたのは丸の内支社から本社保険金課宛てだった。さらにそこから、山形支社→団体収納課→松江支社→広島支社→医務課→釧路支社→営業管理課→湘南支社というように日本全国を旅してきている。
最後は、福岡支社、遠藤副長→京都支社、若槻主任親展となっていた。そのため葛西も、これ一通だけ開封しなかったのだろう。
若槻はアパートで読むつもりでカバンに封筒を入れた。支社を出ると雨はすっかり上がっていた。歩いて帰ることにする。途中、中華料理屋でラーメンと餃子《ギヨーザ》を食べ、酒屋でシーバスリーガルを買ってアパートに帰った。
背広をハンガーにかけズボンに霧を吹いてプレッサーに挟む。下着姿で台所のテーブルの前に座ると、借りて来た文集をもう一度読み返してみた。
一クラス四十五人の生徒の作文に目を通す。五年生にもなると自分の見た夢をかなり生き生きと描写している子も多かった。やはり菰田夫婦の文章力は、相当下の方にランクされるようだ。
それ以外に特に気づいた点はなかった。わざわざこの文集を借りてきたのは直感が働いたからだったが、今冷静に思い返してみると、単なる気の迷いだったのかもしれない。
一度、恵のアドバイスをもらう必要がありそうだった。自分の専門は昆虫学であって、心理学ではない。
定量的に扱えるようになっている心理テストなどとは違い、夢の解析には、独特のセンスが必要とされる。特にユング派では、神話や民間伝承などに関する膨大な知識とともに、ある種文学的な才能が不可欠だった。
そのどちらもが、自分には決定的に欠けていたが、恵なら何とかなるかもしれない。
タンブラーに氷を入れてシーバスと水を注ぎ、指で氷を回していいかげんに混ぜ合わせる。一口飲むと、緊張がほぐれていくのがわかった。ここ一週間ほど、酒を飲まなければ眠りにつけないようになっていた。
もしかすると、アルコールが脳のどこかを刺激することによりインスピレーションが得られるのではないかと思ったが、もちろんそんな都合のいいことは起こらない。むしろ、眠気がさして判断力が低下しただけだった。
突然、夜のしじまを電話のベルの音が破った。若槻は飛び上がりそうになり、ベッドの枕元に置いてあるコードレスホンの子機を取った。
「もしもし。若槻です」
応答はなかった。若槻は耳を澄ませてみた。つながっているらしいが何の音もしない。しばらく待ってから、電話を切る。
二杯目のシーバスをグラスに注ぎ、思い出してカバンから支社便の封筒を出した。
開けてみると若槻が電話で依頼をしていた、小坂重徳の消滅済み契約の書類のコピーが入っていた。例の指狩り族事件の契約である。おそらく担当者が倉庫をひっくり返して、段ボールの山の中から見つけてくれたのだろう。
内容については、ほぼ思っていたとおりだった。小坂重徳に対しては、疾病入院特約、災害入院特約ともに、限度いっぱいの七百日分を払い切っていた。その後、左手親指の切断事故に対して百万円の障害給付金を支払い、最終的に契約解除となっていた。
入院証明書のコピーも添付されていた。全部で八枚あるが、お定まりの頸椎捻挫《けいついねんざ》から始まるいくつかの病名や怪我が書き連ねられていた。その中にモラルリスク病院がまじっているかどうかは残念ながらわからない。
いずれにせよ、入院給付金に関して不正請求だという確証は最後まで得られなかったようだ。
かなり酔眼|朦朧《もうろう》としてきた頃になって、入院証明書のうちの一枚が若槻の目を引いた。
今から十三年前の日付けである。ちょうど日本でコンピューター断層撮影《CT》などの画像検査が普及し始めた頃ではないだろうか。小坂重徳は建築作業中に足場から転落し、頭部打撲により入院していた。脳出血の有無を確かめるために、当時の最新技術である頭部の核磁気共鳴断層画像診断《MRI》を受けているのだ。その結果、脳出血や脳梗塞《のうこうそく》などの兆候はなかったようだが、別の気になる事実が書き記されていた。
小坂重徳の脳の一部に、微細な奇形が発見されていたのである。先天性の嚢腫《のうしゆ》による髄液の通過障害が軽い水頭症を引き起こしていたのだが、検査の結果、髄液圧の亢進《こうしん》などはなく安定した状態であるために、手術は行われなかったらしい。だが、そのことが何を意味しているのかは、若槻の乏しい医学知識では判断できなかった。
彼は書類を封筒に戻し、もう一杯水割りを作って飲み干してからベッドに横たわった。
目を閉じると、首を吊られたウサギや、池に落ちて亡くなった子供、菰田夫妻の書いた作文、指狩り族事件のことなどが、頭の中をぐるぐると駆けめぐる。
外ではいつの間にかまた雨が降り始めていた。雨粒が窓ガラスを打つ不規則な音を聞きながら、若槻は混沌《こんとん》とした重苦しい眠りの中に落ちていった。
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[#1字下げ]6月14日(金曜日)
昭和保険サービスの中村という調査員は、話している間中、絶え間なく貧乏揺すりをしていた。一本の煙草をせわしなく二、三分で吸い終えると、吸い殻を力を込めて灰皿の上に躙《にじ》りつける。
若槻は、呆《あき》れながらその様子を見ていた。よほど心に鬱積《うつせき》したものがあるのだろうか。まるで調査員という仕事が嫌でたまらず、一刻も早く辞めたがっているようだった。
だが、中村が菰田家の周辺で行った聞き込みには傾聴すべき内容があった。
「菰田幸子があそこの家に引っ越してきたのは、十七年前の一九七九年の五月でした。それ以前に住んでいたのは、桂さんという夫婦です。桂さんは嵐山《あらしやま》の高級料亭の板前だったそうですが、奥さんが子宮癌《しきゆうがん》で他界してからは酒浸りとなり、肝硬変による食道|静脈瘤《じようみやくりゆう》の破裂で亡くなりました。まだ五十そこそこだったようです。夫婦には子供や近い親戚もなく、家と家財道具一式は桂さんの遠縁に当たる菰田幸子が相続したということです」
それでは、あの家は借家ではなく菰田の持ち家だったのかと、若槻は意外に思った。造りからすると、もともとは立派な屋敷だったのだろう。手入れを怠ったために、わずか十七年で、あんな悪臭を放つほど荒れ果ててしまったのだ。
「桂さん夫婦の死因には、不審な点はないんですか?」
「その点は、問題ありません。二人とも明らかな病死ですし、菰田幸子の存在も、弁護士が探し出してやっとわかったようですから」
中村はにやりと笑って答えた。完璧に調べたという自負がうかがえる。
「しかし、引っ越してきた当初からトラブルの連続だったみたいでね。あの辺は、古くから住んでいる人が多い閑静な住宅街でしょう? その前の桂さん夫婦と比較しても、菰田幸子は明らかに異分子だったわけですな」
「どんなトラブルが、あったんですか?」
「まず、ゴミ出しの問題。菰田幸子は、収集日を無視して、好き勝手な時にゴミを出すんだそうです。これを、犬やカラスがつっつき散らすために、そこら中にゴミが散乱するという苦情が出た。それから、悪臭がありますな。何の臭いだかはわからないんですが、風向きによっては、五軒先くらいまで臭うんだそうです。抗議をしても、相手は、蛙の面にしょんべん。区役所にもかけあってみたが、例によってお座なりに対応するだけで、結局、何もしてくれない」
中村は手帳をめくった。
「まだあります。一九九四年には、菰田幸子は小坂重徳と結婚したんですが、今度は、飼っている犬の鳴き声が問題になりました。菰田氏が、あっちこっちから捨て犬を拾ってくるんだそうですが、それが、半端な数じゃない。だいたい、二十頭から三十頭近くいるんだそうですわ。それが、餌の時間の前になると、いっせいに鳴きわめく。隣家の主婦などは、気が変になりそうだったと言ってました」
「しかし、周りの家の人は、よく我慢してましたね」
「そこなんですよ」
中村は煙草を灰皿に突き立てるようにして消すと、身を乗り出した。
「一軒、とうとう腹に据えかねた家があって、菰田氏に対して、かなり強硬に文句を言ったそうなんです。それでも取り合わないと、夜中に、ペンキで門に嫌がらせの落書きをしたりもしたそうなんですな。……まあ、この人も、ちょっと変わった人ではありますがね」
中村は気を持たせるように新しい煙草に火をつけた。
「ところが、しばらくすると、この人は、突然、引っ越して行ってしまった。何があったかは誰にも言わなかったそうなんですが、何でも死ぬほど震え上がっていたそうです。近所の人は、菰田重徳氏が、何度か、この人の家を訪れるのを見ています。それから、この家でも犬を飼ってたんですが、引っ越しの時には見かけなかったそうです。まあ、よほどのことがあったんじゃないかという噂なんですが、誰も真相は知らない。藪の中です」
中村は話に熱中し始めると饒舌《じようぜつ》だった。若槻は、それから二十分あまり菰田家の近所での評判について聞いたが、いずれも芳しいものではなかった。
若槻は中村に感謝の意を伝えて、エレベーターで帰るのを見送った。
昭和保険サービスの本来の職務は本社に対してレポートを提出することだけである。頼まれたからといって、わざわざ支社に足を運んで調査した内容を詳しく教えてくれるのは、きわめて異例のことだった。
しかしこれでますます、菰田夫妻について専門家の意見を聞かなくてはならないという確信が強まった。
八階にエレベーターが止まる音がしたのは、若槻がちょうど昼食に出ようとして腰を上げかけた時だった。次の瞬間、自動ドアが開き菰田重徳が入ってきた。
今日はいつもより早い。昨日は若槻の不在を知ると早々に引き上げたということだったが、すっぽかされたことで来襲する時間を変えたのだろうか。先に職員用のドアから出るところだった葛西が何食わぬ顔をして席に戻り、書類の整理を始めた。それを横目で見て若槻はカウンターへ向かう。
「いらっしゃいませ」
若槻がカウンターの席に座っても、菰田は口を開かなかった。まるで茫然《ぼうぜん》自失しているように身じろぎもせず、じっと宙の一点に目を据えている。若槻は先制パンチで行くことにした。
「菰田和也様の保険金なんですが、たいへん、申し訳ありません。まだ決定が出ておりませんので、もう少し、お待ちいただきたいんです」
ちらりと相手の様子を窺《うかが》ったが、菰田はまったくの無反応だった。
「毎日、わざわざご来社いただきまして、本当に心苦しいんですが、決定が出しだい、こちらの方からご連絡を差し上げますので」
遠回しにもう来るなと言っているのを理解したのかどうか、菰田の視線はようやく若槻の顔に焦点を結んだようだった。二、三度唇を開け閉めしてから、痰《たん》の絡んだような声で言った。
「まだや……言うんか?」
「はい。たいへん、お待たせしまして」
カウンターの上で、軍手をはめた菰田の左手がかすかに震えている。若槻は思わず口をつぐんだ。これも演技なのだろうか?
「金がな、いるねん」
「はあ」
「いろいろと物入りやったんや。そやから、まだな、葬式もやってへんのや。坊さんを頼む金もないんや。せめて葬式ぐらいは、精一杯のことをしてやらなな。……和也には、可哀相《かわいそう》なことしてしもたからな」
最後の言葉は低く、聞こえるか聞こえない程度の声だったが、若槻は背筋に悪寒のようなものが走るのを感じた。
「もうな、一銭もあらへんのや。どないも、ならんねん。それでな、今日は、保険金が出てるやろうと思て来たんや」
菰田は右手を口元に持っていき、人差し指の付け根を噛《か》んだ。
若槻は、何と言ったらいいのかわからなくなり、黙って菰田の様子を眺めているしかなかった。常識的には非はこちらにあると言えないこともなかった。普通はこれほど保険金の支払い決定に時間がかかることはない。
沈黙はたっぷり二、三分は続いた。菰田はまばたきひとつしない。カウンターの周囲には異常な緊迫感が生まれていた。菰田の後から二人ほど客が入ってきていたが、何となく敬遠するように、菰田の隣は空席になっていた。昼当番の女子職員や葛西も、息をひそめるようにしているのが感じられた。
「あんた……んや?」
菰田が小さな声で、何か言いかけた。
「はい。何でしょうか?」
若槻は菰田が沈黙を破ったことに、ほっとしかけていた。
「あんた、どこに住んでるんや?」
一瞬、返事に詰まる。苦情対応のためのマニュアルでは、私生活に関する質問には一切答えないこととなっている。とはいえ、切り口上でお答えできませんと言うこともできなかった。
「ええ。まあ、市内ですが」
「市内のどこや?」
若槻は唾《つば》をのみ込んだ。
「それは、あの、お答えできないことになっていまして」
「何でや?」
「そういう決まりになってますので」
菰田は、ふうっと深い溜め息をついた。まるで、深い穴の底から聞こえてくるような音だった。顎《あご》の筋肉が、ちょうど林檎《りんご》でも齧《かじ》っているようにぐっと緊張する。
菰田の口元から赤い血が一筋伝った。
カウンターの離れた席に座っていた中年の女性客が、こちらを見て、悲鳴を上げた。
「菰田さん……!」
若槻が叫んでも、菰田は無反応だった。血は顎の先から作業服の胸に滴り、染みを作っている。
「やめてください!」
若槻は、半ば立ち腰になって凝固していた。菰田はようやく若槻と目を合わせたが、なおも自分の手を噛むことをやめない。
それから、急に痛みを感じて驚いたように、菰田は口から右手を離した。菰田の人差し指の付け根のまわりに、唾液《だえき》で濡れ光った深い歯形がつき、犬歯の跡らしい黒い穴から、血が溢れ出している。
後ろから葛西の重い足音がした。若槻の横に来て、ティッシュペーパーの箱を菰田の方に差し出す。
「大丈夫ですか? また、どないしはりましたんや?」
軍手をはめた左手で葛西から数枚のティッシュを受け取ると、菰田は傷口の上に押し当てた。たちまちティッシュペーパーは濃い赤色に染まり、軍手にもうっすらと色が移った。
「おおきに。すんまへん。和也のことを、思い出しとってなあ……。不憫《ふびん》な子やなあと思たら、切のうなって、つい、噛んでしもたんや」
「……だいぶ血い、出てますな。医者行かれた方が、よろしゅうおまっせ」
「大丈夫や。別条ないし」
「いや。医務室に、診査の先生がおりますさかい、手当てさせてもらいますわ」
葛西はすばやくカウンターの向こうに出ると、呆然《ぼうぜん》としているほかの客の目から隠すようにしながら、菰田の背中を押して行った。
自動ドアを出る前に、菰田は首だけをめぐらせて若槻の方を振り返った。血で汚れた唇は笑っているような形に引きつれている。ガラス玉のような目には蛍光灯が反射していて、瞳孔《どうこう》がぽつんと小さな点のように収縮しているのがわかった。
午後五時半のキャンパスは、西日を浴びて閑散としていた。若槻にとっては卒業以来、初めて足を踏み入れる母校だったが、理系の実験施設らしい新しい建造物が一つ二つ目につくほかはほとんど変わっていなかった。
石造りの校舎に入ると中は陰気で薄暗かった。内部の使い勝手より外観のこけ威《おど》しを優先させた明治時代の設計思想は、何となく丸の内のM生命や戦後GHQ司令部となったことでも有名なD生命の本社ビルを思い起こさせる。
古びた階段を上り、三階の床板のきしむ暗い廊下を通った。『教授・醍醐則子《だいごのりこ》』というネームプレートのついた部屋のドアをノックして開ける。
スチール製の本棚とコンピューターの端末に占領されて細長い通路のようになってしまった部屋には、挽《ひ》きたてのコーヒーのいい香りが漂っていた。
みすぼらしい布張りの応接セットには三人が腰かけていた。黒沢恵が若槻を見て手を振る。もう一人の女性は、恵の恩師であり若槻も顔だけは知っている心理学の醍醐教授だった。最後の、メタルフレームの眼鏡をかけた三十代前半くらいの顔色の悪い男には見覚えがなかった。
「醍醐先生。どうも、本日は勝手なお願いをしまして」
「若槻さんですね。いらっしゃい。どうぞ、腰かけて」
醍醐教授が、わざわざ立ち上がって迎えてくれた。小柄で痩身《そうしん》、色白で顎がとがった細面だったが、不思議と弱々しい印象を与えないのは何もかも見通してしまいそうな感じを与える大きな目のためだろう。もう五十を越えているはずだったが、身なりには無頓着《むとんちやく》で、Tシャツとスラックスの上に白衣をはおり、白髪の交じるようになった髪はおかっぱのような形に切り揃えている。
「今、恵さんから、あなたの話を聞いてたところなの。この人は、助手の金石《かないし》くん。犯罪心理学が専門なの。あなたが、かなり危険な人間を相手にしているらしいということだったんで、来てもらったのよ」
若槻はソファに座ると、金石に名刺を渡し、挨拶した。その間に恵が立って、彼の分のコーヒーを淹れてくれる。醍醐教授が微笑《ほほえ》みながら恵の後ろ姿を見やったのに若槻は気がついた。自分たちが恋人同士だということくらいは、この人の目にはお見通しなのだろう。
若槻が実名を伏せてこれまでの経過を話すと、しばらく沈黙が訪れた。とりわけ恵の顔にはショックを受けた様子がありありと見える。
「とにかく、そのKなる人物が殺人を犯したと、仮定してみましょうか」
醍醐教授が慎重な態度で言った。
「自分が第一発見者になるのが嫌だったから、わざわざ若槻さんを呼んで、死体を見つけるようにしむけた……。一応、筋は通っているわね。もっとも、あまり頭のいい犯行とは言いがたいけど。金石くんは、Kのプロフィールをどう分析する?」
「そうですね。今のお話だけでは確かな診断は下せませんが、もし本当に、Kが、その殺人を犯しているとすれば、同情・良心・後悔などの心的機能を根本的に欠いている情性欠如者であることは、まずまちがいないと思います。しかも、それに抑制欠如型、爆発性性格が混合している可能性がありますね」
「背徳症候群ね」
醍醐教授がつぶやいた。耳慣れない言葉だったので若槻は意味をたずねた。
「人格障害にはいろんな種類があるんだけど、情性欠如に加えて、抑制欠如、爆発性の二つを併せ持っている場合を、特に背徳症候群と呼んでいるのよ。きわめて重大犯罪を繰り返しやすい、最悪の組み合わせということでね」
たしかに、冷酷極まりない人間が自分の欲望を抑えることができずしかも激怒の発作にとらわれやすいとしたら、これほど危険なことはないだろう。
「でも、本当に、そんな人間が実在しているんでしょうか?」
コーヒーカップを片手に考え込むようにしていた恵が、疑問を口にした。
「たしかに、感情が豊かな人間と比較的乏しい人間という区別はあると思います。でも、まるっきり感情のない人間なんて、いるんでしょうか? わたしは、犯罪心理は専門じゃありませんけど、一人一人違う人間を、そういう言葉で括《くく》ってしまうのは、危険じゃないかと思うんです」
「そういうレッテルが、ひとり歩きしやすいということかしら?」
「ええ。それに、情性欠如うんぬんという言葉自体にも、疑問があるんです。そういう言葉が、純粋に、心理学の中から生まれてきたのかどうかも」
「どういうことでしょうか?」
金石の表情が少し険しくなったような気がした。
「警察や検察には、犯罪者を便利にステレオタイプ化して裁きたいというニーズがあるでしょう? そういう意味で、この言葉は、少し都合がよすぎる感じがするんです。被告は情性欠如者であり、と言えば、どんなに残虐な犯行に対しても、細かく動機を詮索《せんさく》する必要もなくなるでしょうし……。もちろん、犯罪心理学者が、警察のリクエストに応じて作った言葉だとまで言うつもりはないんですけど」
言うつもりはないどころか、そう言ってしまっているのに等しかった。若槻は少しはらはらしたが、恵には臆した様子もない。
「あなたの疑問は、よくわかるわ。黒沢さんらしいと思う」
険悪になりかけた雰囲気に、醍醐教授が宥《なだ》めるように口をはさんだ。
「情性欠如とか背徳症候群というネーミングについては、たしかに私も問題なしとはしないわ」
醍醐教授は何か言おうとしかけた金石を身振りで制した。
「でも……そうね。私の経験を話しておいた方がいいかもしれないわね。そういう実例かもしれないと思われるケースに、一度だけお目にかかったことがあるのよ」
醍醐教授は微笑したが、眉間《みけん》に刻まれた深いしわは不快な記憶を思い出していることを暗示していた。
「……しかも、うちの学生だったのよ。若槻さんより二、三年先輩だから、もしかしたら、キャンパスのどこかで、すれ違ってるかもしれないわね。最初にその学生に注目したのは、バウムテストの絵を見た時だったわ」
若槻は聞いたことがあるとは思ったが、すぐにはどんなテストだか思い出せなかった。醍醐教授は、若槻の表情を読み取ったようだった。
「あなたも、入学してすぐに、描かされたでしょう? A4判の用紙に木の絵を描かせて、その人の持っている自己像を判定する心理テスト。新入生全員にバウムテストを行っていたのは、実は、うちの大学が、国公立大学中で自殺率が断然トップという不名誉な記録を持っていたからなのよ」
その話なら若槻も聞いたことがあった。たしか彼の在学していた当時は留年率もトップだったはずだ。
「それで、新入生諸君の描いた木の絵を見てみたら、出るわ、出るわ、異常な絵のオンパレードだったんで驚いたものよ。のっぺらぼうの切り株だけだったり、幹が、ずたずたに裂けてたり、三歳児のような幼稚な絵だったりとかね。珍しいのでは、いったん地表に出た木が、再び梢から地中に潜り込んでるというのもあったわ。まあ、解釈は、ここではあえて言わないけど……。偏差値だけで人間を選ぶとどうなるかという、いい見本でしょうね。だけどその中でも、その学生、Fとしときましょうか。彼の絵は、一目見たら一生忘れられないようなものだったわ」
醍醐教授はかすかに身震いした。
「心理学の知識なんかなくったって、誰が見たって異常なものを感じ取ったでしょうね。バウムテストの絵の中では、地中の部分というのは無意識を表すとされているんだけど、Fの場合は、絵の半分以上が地中だったわ。でも、問題は、そのことではなくて、描いてあった中身なの。木の根っこが絡みついているのは、人間の死体なのよ。それも、無数の、どう見ても腐乱した死体。毛細血管みたいな細い根が、養分を吸い取るために、死体の全身にびっしりと食い込んでるの。そして、どういうわけだか、木の幹の部分には、苦悶《くもん》している人間の顔のような模様が、いくつも浮き出していたわ。……デッサンも遠近法もおかしくて、どっちかというと稚拙な絵なんだけど、かえって、異様な迫力を感じたわ」
「その学生を、カウンセリングされたんですか?」
若槻がたずねると、醍醐教授はうなずいた。
「ええ。それが、面接してみると、それほど異常にも見えないのよ。私の目も、大したことなかったのね。家庭環境も普通だし、入試もストレートで受かってる。ごく平凡な、IQは高いが内向的な若者という印象しか受けなかったわね。変わった点と言えば、挽きたてのコーヒーを淹れて勧めたんだけど、手をつけなかったことくらいかしらね。生まれつきの嗅覚《きゆうかく》異常で、全然香りがわからないからって言ってたけど……」
醍醐教授は、香りを確かめるようにコーヒーを一口すすった。
「絵については、梶井基次郎《かじいもとじろう》の『桜の樹の下には死体が埋まっている』という言葉をイメージして描いたんだって言ってたわ。今から思うと、何だか言いわけじみてたけどね。Fは、その後も数回面接に来たけど、結局、何もわからずじまいだったの。私は、Fが心理テストに反発して、試験官を驚かせようとして、わざとあんな絵を描いたんだとぐらいにしか思ってなかったわ」
あまり話したくない部分にさしかかったらしく、醍醐教授は溜め息をついて、目を細めた。
「十か月後、Fは警察に逮捕されたわ。その時に聞いてびっくりしたんだけど、彼は、合コンで知り合った女子大生につきまとって、昼夜を問わず一日何十回も電話したり、大学の門のところで待ちぶせして、尾行したりという行動を繰り返していたらしいの。今で言うストーカーの走りみたいなものね。そして最後には、とうとう女の子の自宅にまで押しかけたの。目つきも、態度も、完全に常軌を逸していたそうよ。私が面接で会ったのとは、まったく別人のような姿ね。それで、おびえた女の子に代わって出たお兄さんと口論の末、持っていたナイフで女の子とお兄さんとに重傷を負わせたのよ。……それも、二人とも十数か所を刺されているの。警察の人に話を聞いたんだけど、はっきりとした殺意を持った刺し方だということだったわ。二人とも命が助かったのは、ほとんど奇跡に近かったそうよ」
醍醐教授は暗い目になった。誰も質問をしようとはしない。
「Fが大学でカウンセリングを受けていたことを知って、警察は、犯罪心理学の山崎先生に意見を聞きに来たの。私も以前に面接をしていたことから、立ち会ったわ。恥ずかしい話だけど、その時になって、私にも初めて、おとなしい若者の仮面に隠されたFの本当の姿が見えてきたの。自分の欲望を満たすためなら他人の命など何とも思わない、冷酷で恐ろしい人間の姿がね。山崎先生は、情性欠如を含む複数の人格異常、つまり背徳症候群であり、責任能力があるという意見だった。ところが、起訴前に弁護士からの要請であらためて精神鑑定が行われたんだけど、精神科医が、Fを妄想型分裂病と診断したのよ。結局、Fは不起訴となり精神病院へ措置入院ということになったわ。殺人事件ではなく、精神病が絡んでいたことと未成年だったことから、新聞でも小さな扱いだったわね」
「先生は、Fは、精神分裂病ではなかったと思われるんですか?」
若槻の問いに、醍醐教授は力なく微笑んだ。
「私は違うと思う。でも、確かなことは誰にも言えないのよ。普通の平凡な人間と性格異常、精神病との境界は曖昧模糊《あいまいもこ》としているの。しかも、検察側と弁護側とではそれぞれに思惑があるから、依頼を受けた方でもますます鑑定にバイアスがかかりやすいのよ。極端なことを言うと、百人の鑑定人がいれば百の違った精神鑑定がなされる可能性があるわ」
「その人は、今は、どうしているんですか?」
恵が小さな声でたずねた。
「閉鎖病棟に入院していたのは一年ほどで、それから実家に帰って、しばらく通院を続けていたみたい。だけど、今言ったとおり、私には彼が精神分裂病だとは思えないから、治療は何の効果もなかった可能性もあるの。その後の消息は聞いてないわ。……でも、あれ以来、新聞の社会面は特に注意して読むようになったわ。もしかしたらFの名前が出てるんじゃないかと思ってね」
醍醐教授は後味の悪そうな顔になった。
「それから、Fには、もうひとつだけ変わった点があったわ。先天的に、頭蓋骨《ずがいこつ》の一部が欠損したままになっていたの。たしか左の後頭部で、髪の毛に隠れてるんで、見た目にはわからないけど、押すとへっこむのよ。だから、事故を防ぐために、ずっと内側がヘルメットみたいになった特殊な帽子をかぶっていたわ。その時は、あまり重要な意味があるとは思わなかったんだけど」
醍醐教授は金石の方を見た。
「若槻さんの話だと、Kの脳にも奇形があったということだったわね? こうした異常が、直接、性格に何らかの影響を及ぼすということがあるのかしら?」
「そうですねえ。たとえば、脳炎の後遺症とか、頭部の外傷、先天性の奇形などで、脳に微細な障害が残っていると、性格障害を引き起こす場合があることは知られています。MiBOCCS、微細脳器質性格変化症候群と呼ばれているものですが……。そうした場合、情性欠如や爆発性性格、固執性性格などが発生する頻度が高いと言われているので、背徳症候群という診断には符合しますね」
金石は、両手を擦り合わせるようにしながら、意外にかん高い少年のような声で話した。
「ただ、同じような障害を持ちながら性格には何の異常も現れていない人の方が、圧倒的に多いですからねえ。現在の医学では、どういう脳の障害が性格の変化に結びつくのかは全然わかってないんです」
つかもうとするたびに、菰田重徳の人間像はするりと指の間を擦り抜けてしまう。依然として、何もかもが霧に包まれていた。
「先生。僕はまだ、Kについて、ひとつ腑《ふ》に落ちないことがあるんです」
若槻は、椅子の上に身を乗り出した。
「Kは自宅にたくさんの捨て犬を拾ってきて、飼っていました。可愛《かわい》がっていたところも見ましたが、演技とは思えませんでした。その姿と、金のために平然と殺人を犯す人間とが、どうしても結びつかないんですが」
「そう。どんな可愛がり方だった?」
若槻は菰田が子犬を呼ぶ異様に甘ったるい声を思い出した。おう、ケンタ、寂しかったんか? ジュンコ、お前もこっち来い……。
「そうですね。犬には全部、人間みたいな名前をつけてました。呼び方も、妙に甘ったるくてペットというよりは、わが子をいとおしんでいるような感じでした」
「なるほど。面白いわね。そうした過度のセンチメンタリズムっていうのは、しばしば冷酷さの裏返しであることが多いのよ」
恵が居心地悪そうにもじもじした。
「でも、そういう人って、けっこう多くありませんか? わたしも、そうなんです。うちの子たちには……わたしのアパートには、今、猫が二匹いるんですけど、いつも人間みたいに話しかけてますし」
醍醐教授は愛弟子《まなでし》に向かって微笑した。
「あなたもよく知ってると思うけど、感傷というのは、感情の代替物なのよ。したがって、感傷的な人間というのは、まったく正反対の二つのタイプに分けられるの。一つは、思春期の女の子のように、感情のエネルギーそのものが過剰である場合、そしてもう一つは、正常な感情の流れが、何らかの理由で堰《せ》き止められてしまっているために、感傷という形で捌《は》け口《ぐち》を見いだしている場合ね。黒沢さんは明らかに前者で、Kの場合は後者だと思うわ」
恵はまだ承服できないような顔をしていた。
若槻は、古今の権力者で、そうした形の残忍さを示した例を思い起こした。ローマの市街に火を放ち、感傷に満ちた詩を作った皇帝ネロ。秦《しん》の始皇帝。西太后。ゲーリングは、飼っていた小鳥が死んだ時、号泣したという……。
疑問はまだ一つ残っていた。若槻はカバンからクリアケースに入ったレポート用紙を取り出した。橋本教諭から借りてきた文集のうち、小坂重徳と菰田幸子の作文を固有名詞などを省いてワープロで打ち直したものだった。
「これは、K夫妻が、小学五年生の時に書いた作文なんです。先生がどう思われるか、おうかがいしたいと思いまして」
レポート用紙は、醍醐教授から、金石、恵へと渡っていった。醍醐教授は一読して興味深そうな表情になった。金石はさして感銘を受けた様子もなかったが、恵は何かを感じ取っているように、真剣な目を作文の上に走らせていた。
「ふうん。面白いわね」
戻ってきた紙をもう一度眺めながら、醍醐教授が言った。
「この『ゆめ』という題の、短いのが、Kの文章なんでしょう? これを見ると、少しこの人物に抱いていたイメージが変わるような感じがするわね」
「わたしも、そう思います」
恵が、醍醐教授の言葉に勢いを得たように言った。
「小学五年生にしては、やや知能の発達は遅れぎみかもしれません。でも、情性欠如とか、そういう感じは全然受けないんです」
そういえば児童心理学は恵の現在の専門であり、子供の作文はこの中の誰よりも数多く読んでいるはずだった。
「でも、こんな短い文章ひとつで判断するのは無理でしょう?」
金石が苦笑して言った。
「それはそうですけど。でも、本当に冷酷な人間だったら、こういう感じにはならないと思うんです」
恵は、自分の感じたことをうまく言葉で説明できないもどかしさに苛立《いらだ》っているようだった。
「『ゆめ』と比べると、こっちの『ブランコの夢』という方は、平板というか、もうひとつ印象が希薄な感じね。……だけど、さっきから、どうも気になるのよ。どこかで、これと同じような夢の話を聞いたことがあるような気がするんだけど」
醍醐教授の目には、強く興味を引かれたような光が宿っていた。
「若槻さん。これ、いただけるかしら? もう一度よく読んで、考えてみたいから」
「ええ。何かわかったら、ぜひ教えてください」
だが、言葉とは裏腹に、若槻は失望を感じていた。かりに何か心理学的に興味深い事実が判明したところで、現実に彼が直面している問題には助けになりそうもないことがわかったからだった。カウンセラーは助言を与えてくれることはできても、所詮《しよせん》は傍観者にすぎない。結局は自分自身で問題を解決するしかないのだ。
醍醐研究室を後にした時には、ちょうど薄いブルーの夕闇《ゆうやみ》があたりを包もうとしていた。若槻は恵を夕食に誘い、今出川《いまでがわ》通りをぶらぶらと歩いて上っていった。
「どうして、言ってくれなかったの?」
恵がぽつりと言った。
「何を?」
「危ない目にあってるってことよ」
「まあ、別に、暴力を振るわれたわけでもないし」
若槻はことさらに呑気《のんき》な調子で言った。
「まだ、というだけのことでしょう?」
若槻は、恵の方を見やった。薄暗い上に、ちょうど顔の部分が照明の陰になっていて、表情はよくわからない。
「このぐらいは、それほど珍しいことでもないんだよ。京都に来る前に、本社にいる、そういう連中を専門に相手にしてきたベテランの課長さんに、話を聞いてきたんだ。設楽《しだら》さんといって、今、保険金課長をしているけどね。何度も、客に殴られたことがあると言ってた。まあ、ひどい怪我《けが》するほどのことはなかったらしいけどね」
若槻は、いかにも温厚そうで苦労人タイプの設楽課長の顔を思い浮かべた。
「最初はやはり、ショックだったらしいよ。サラリーマンの世界っていうのは、あんまり暴力とは縁がないし、いい大人になってから、他人に殴られるんだもんな。ところが、設楽さんは、最後の方になると、相手が手を出してきたら、しめたと思うようになったそうだよ。それで、相手の方に負い目ができて交渉が有利に運ぶし、いざとなれば、警察に訴えることもできるからね。そこまで達観できれば、怖いものはないだろうな」
恵は黙って聞いていた。
二人は、坂を上りきると、銀閣寺道で左に折れた。まっすぐ行くとなだらかな山地に突き当たるはずだが、そこから数キロ先はもう滋賀県の大津市である。
「若槻さんが相手にしてる人は、その課長さんを殴った人たちとは、ずいぶん違うような気がするわ」
突然恵がそう言ったので、若槻は面食らった。
「さっきの話? 違うって、どう違うの?」
「そのKっていう人は、自分の手を、ひどく出血するほど噛んだんでしょう? そんなこと、普通は、とてもできないと思うわ」
「たしかに、あの男は、異常だよ」
「て、いうか……。それは、一つのメッセージだと思うのよ」
若槻は歩調をゆるめて、恵の顔を見た。
「どういうこと?」
「自分の肉体に傷をつけて、それを相手に誇示するという行為は、有史以前から存在する、ほとんど全人類に普遍的なボディ・ランゲージでしょう? 唇を噛んだり、固い壁を思いっきり殴りつけたりするのと同じで……」
若槻は、自分の手に噛み付いていた時の菰田重徳の様子を思い出した。狂おしい、追いつめられた獣のような目つき。瞳孔が針の先のように収縮していた。それは、重徳自身もその行為に大変な苦痛を感じていたことを示している。そうまでして若槻に伝えなくてはならなかったメッセージとは何だろうか。
恵に言われるまでもなく、若槻にもあの自傷行為が何を意味していたのかぐらいの見当はつく。激怒。脅迫。あるいは復讐《ふくしゆう》の宣言か。
二人はしばらく押し黙ったまま白川通りを歩いた。やがて、ビルの地下一階にある『パピルス料理店』という看板の出ているレストランのドアを開ける。
予約はしてなかったのだが、オーナーである笹沼さんが壁際の席に案内してくれた。笹沼さんは若槻らの大学の先輩だった。自転車で世界中を走破した時に各国で食べたものの味を再現するため、このレストランを作ったのである。若槻は学生時代に短期間アルバイトをしたという縁で、時おり恵とともに訪れていた。
若槻はあらためて、場所が変われば気分も変わるということを、実感させられた。ワインで乾杯し、次々と料理が運ばれてくるころには、いつのまにか、恵も明るさを取り戻していた。
レストランの壁龕《へきがん》には新進作家の創作陶器が多数陳列されていた。恵の真後ろにある作品は、八方にたくさんの角の突き出した古代の祭器を思わせる独特の形をしていた。緑や黄色の釉薬《ゆうやく》が照明に映えて美しい。
「こういう作品を見ると、人間って、本当にいろいろな心を持っているんだなって思うわ」
恵は肩越しに陶器を鑑賞しながら、嘆息するように言った。
「ねえ。今までずっと心理学をやってきて、わたしが学んだ一番大切な真理って、何だかわかる?」
「さあ」
若槻には、恵が怒り出しそうな解答しか思いつけなかった。
「人間は、一人一人が、まったく違う、複雑きわまりない宇宙だということなの」
恵はワインのグラスを傾けた。若槻はつぎたしてやったが、今日は心なしか、いつもより彼女のピッチが早いようだと思った。すでに、二人でハーフボトルを三本空けているのだ。
「児童心理学を専門にして、子供と接するようになってから、本当にそのことは実感したわ。若槻さんは、子供なんか、みんな同じだと思ってるでしょう?」
「思うわけないだろ」
若槻は抗議したが、恵は聞こえないふりをした。
「みんな、そう思うのよ。子供なんて、大人みたいな複雑な悩みを持たない、脊髄《せきずい》反射で生きている動物くらいに思ってる。だけど、実際に子供たちと話をしてみると、彼らはそう単純でもないし、本当に、一人一人、みんな違うのよ。心理学の教科書どおりの子供なんて、一人もいないわ」
「言いたいことは、わかる」
「だから、人間に対して、安易にレッテルを貼って分類するなんてことには、絶対に反対なの」
若槻はうなずいた。
「まして、情性欠如者なんて言葉は、モンスターだと言ってるのと同じよ。背徳症候群に至っては何をか言わんやだわ。古くささといい、無神経さといい、どう考えても心理学者よりは警察庁か法務省の官僚が造りそうな言葉よ。あの気持ち悪い金石っていう人はともかく、わたし、醍醐先生まで、あんなことを言うとは思わなかった」
「まあ、言葉の響きは、たしかによくないよな」
若槻は話題をそらそうとした。
「たとえば、ほら、新聞で読んだんだけど、精神分裂病っていう病名を変えようという動きがあるだろう? もともとが出来の悪いドイツ語の直訳だから、全然、病態と一致してないし、多重人格と間違えそうだしね。それに、いかにも不治の病みたいな暗い語感があるから、医者からそう宣告されると、家族は絶望してしまいそうだからね。……それと同じで、情性欠如についても、もう少し違う言い方をした方がいいとは思うけどね」
「ちょっと待ってよ。若槻さんまで、単なるネーミングの問題だって言うの?」
若槻は答えに困って、黙って煙草をふかした。
「ねえ。若槻さんは、本当に、人間らしい心をまったく持たない人間が、この世に存在すると思うの?」
若槻は溜め息をつくと、煙草をにじり消した。嘘をついても、恵にはすぐにバレてしまうだろう。
「ああ。いると思うよ」
「どうして? Kっていう人のこと?」
「ああ」
「でも、どうして、そこまで決めつけられるの? その人の心の中を読んだわけじゃないでしょう?」
「もちろん、誰にも、心の中は読めないよ。だから、外に現れた、その人の行動から判断するしかないだろう?」
「それにしたって、はっきりとした証拠はないんでしょう? 疑わしいとか、漠然とした状況証拠とか、そんなことだけで、一人の人間を怪物だと決めつけるなんて」
「それは、たぶん、君が、実際にそういう人間に会ったことがないからだよ」
言ってしまってからしまったと思ったが、もう遅かった。恵はきっとした目で若槻を見た。
「そんな言い方は卑怯《ひきよう》だわ。見たことがないからわからないっていうんじゃ、反論のしようがないじゃない」
「でも、事実なんだから、しかたがないよ。醍醐先生も、言ってただろう? これは、実際に情性欠如者と会った人間、それも、彼らの素顔をかいま見るチャンスのあった人間にしか、実感できないことなんだよ」
「信じらんない……!」
恵は残っていたワインを一気に飲みほした。まるで泣いているように、目の周囲が真っ赤になっている。
「若槻さんも、金石さんも、醍醐先生も、絶対まちがってる。わたし、そのKっていう人には、ちゃんと、人間らしい感情があると思うわ」
「どうして、そう思うんだ?」
「あの作文よ」
恵は、顔にかかった髪の毛を振り払うように頭を振った。
「あれを書いた子供は、絶対に、怪物なんかじゃない」
「それこそ、根拠が薄弱すぎるような気がするけどな」
若槻は少し苛立ちを覚えていた。
「それに、さっきここへ来る途中で言ったことと矛盾するじゃないか? 君は、僕が相手にしているのは、単に頭に血が上って殴るような単純なやつらとは違う、危険な人間だって言ってただろう?」
「矛盾しないわ」
「どうして?」
恵はそれきり押し黙ってしまった。若槻はなおも追及しようとしかけたが、彼女の顔を見て、思い止《とど》まった。
今晩は、もう帰った方がいいだろう。彼は、そっと立って勘定を済ませると、心配顔の笹沼さんに頼んでタクシーを呼んでもらった。
酔いは、後になってから急に回り始めた。若槻がアパートのドアを開けた時には、足下もおぼつかないような状態だった。
台所の蛇口からじかに水を飲む。都会のビルの給水タンクには何が入っているかわからないという話を聞いていたが、そんなことはどうでもいいと思った。背広を脱ぎ捨てネクタイをゆるめただけで、ベッドの上に倒れ込んだ。
パピルス料理店を出てから、タクシーに乗り込んでドアを閉めるまで、恵は一言もしゃべらなかった。今日は、彼女と一緒にちゃんとしたホテルに泊まるつもりだったのだが。菰田重徳の一件は、若槻の生活のあらゆるところに悪影響を及ぼし始めているようだ。
その後一人で居酒屋で飲んだのがよけいで、少々悪酔いしてしまったようだった。
溜め息をついて、靴下を脱ぎネクタイを首から引き抜いた時、机の上にあるコードレスホンの親機が目に入った。留守番電話のボタンが点滅している。
ベッドに寝そべったまま枕元の子機を取り、再生ボタンを押して耳に押し当てる。
『用件は、三十件です』という機械の声が聞こえた。
ぎょっとする。一気に酔いが醒《さ》めた感じだった。この数は尋常ではない。というよりたしか機械が記録できる上限ではなかったか。
続いて機械は三十件のメッセージを次々に再生していった。
すべて無言だった。
沈黙のメッセージは、発信音が鳴った後、五秒から十秒間、録音されていた。電話は十時すぎからほぼ五分おきにかかってきている。
途中に別のメッセージが混じっている可能性もあるので、一応最後まで聞き終わってから、若槻は『用件』をすべて消去した。
でたらめに番号を押したいたずら電話にしては、度が過ぎている。明らかに若槻を知っている人間によるものだった。それも、これだけ執拗に嫌がらせをするような相手は一人しか心当たりはない。
だがどうやって、こちらの電話番号を知ったのだろう。若槻は番号を電話帳に載せていなかったし、支社で作っている名簿は、少人数に配布するだけなので、外部の人間の目に触れることはまず考えられない。
若槻はベッドの上に半身を起こした。すると、机の上の親機が待っていたように静寂を破り呼び出し音を鳴らした。一拍遅れて子機も鳴り始め、耳障りな輪唱になる。
若槻は反射的に子機を持ち上げた。電話がつながり、耳元に神経を集中する。恵からの電話だったことがわかりほっと胸を撫《な》で下ろすという展開を心のどこかで期待する。
『若槻さん? さっきは、ごめんなさい。わたし、ちょっと、飲みすぎちゃって……』
だが相手は無言のままだった。不安と緊張が走る。
若槻もあえて何も言わなかった。こちらから情報を与えてやることはない。向こうがじれて何か言うのを待つつもりだった。電話の向こうでは、やはり誰かが息をひそめてこちらの様子をうかがっているのが感じ取れた。
長い時間に感じられたが、およそ一分ほどたってから電話は唐突に切られた。ツーという音になったのを確認して、若槻も子機を戻す。手のひらがひどく汗ばんでいた。
立ち上がってワイシャツとズボンを脱いでいると、また電話が鳴る。まさか。
子機を取る。今度こそ恵じゃないかと淡い期待をしながら。
だが、やはり相手は無言のままだった。
叩き付けるように子機を戻す。すると今度は、ものの三十秒もしないうちに鳴り出した。
電話を取る。怒鳴りつけたい衝動に駆られたが、相手の思うつぼだと思い自制する。相手が何も言わないことを確認し、切る。すぐにまた電話が鳴り出す。
今度は子機を取るとすぐに切った。それでも、すぐさま電話は鳴り出した。
しばらくいたちごっこを続けてから、若槻は電話のモジュラープラグを引き抜いた。
静寂が帰ってきた。
心臓がどきどきしている。神経がひどく苛立っているのがわかる。
若槻は、冷蔵庫から缶ビールを出すと、台所の椅子にもたれながら缶からラッパ飲みした。まるで薬用アルコールのように舌を刺す。アルミ缶の金属臭以外には、ほとんど味がしない。
すでに飲みたいとも思わなくなっていたのだが、ほかにこの不快な緊張を和らげる方法が見つからない。
さいわい、五百ミリリットル缶を空ける頃には再び酔いが戻ってきて、すぐに酩酊《めいてい》状態になった。ベッドに倒れ込むと、若槻は泥のように眠った。
その晩、若槻は奇妙な夢を見た。
彼は暗い部屋に一人で立っていた。そこは、アパートの自分の部屋なのかもしれないし、菰田和也の首吊り死体を発見したあの座敷にも似ていた。
部屋の外から不思議な音が聞こえてくる。足音のようだが、ずるずると何かを引きずっているような奇妙な音も混じっていた。
蜘蛛《くも》だ。
八本の肢《あし》を動かす音と、異様に膨れた腹部を地面に引きずっている音だ。蜘蛛が帰ってきたのだ。
若槻が部屋を見回すと、あたり一面にねばねばした糸が張りめぐらされていた。そのところどころには、ばらばらになった人間の遺体の残骸《ざんがい》がかかっている。
そうか、ここは蜘蛛の巣だったのだと思う。
早く逃げろ。彼の心の中から、狂気のように叫ぶ声が聞こえてくる。ここにいたら食われてしまうぞ。
彼は逃げようとするが、床にはいつのまにか大きな黒い穴がぽっかりと開いていて、一歩も前に進むことができなかった。
壁の向こうから聞こえてくる奇妙な足音は、どんどん近づいてきた。
若槻は後ずさる。
足音はちょうど彼の真正面で止まった。
彼は息をのんで戸口を見つめていた。
いつまでたっても戸は開かない。若槻は蜘蛛はどこかへ行ってしまったのだろうと思いかけた。
すると、真っ暗な部屋に後ろから光が射し込んできた。音もなく背後の襖《ふすま》が開いていくのだ。
若槻は振り返った。
そこには、眩《まばゆ》い光を背負って、名状しがたいほど邪悪なものが息づいていた。
多くの肢のようなものが蠢《うごめ》いているが、はっきりとした姿形までは判別できない。長大な牙のような物体だけが鏡のようにぎらぎらと輝いている。
それはにやにやと笑っていた。
細長い影が戸口からするすると伸びてくる。
喰われると若槻は思ったが、身動きすらままならない。
巨大な影はゆっくりと彼の頭上に覆いかぶさってきた。
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6月20日(木曜日)
若槻《わかつき》は、その日の朝一番に京都府警に電話をかけて、松井刑事をつかまえることに成功した。向こうは忙しさを口実にして若槻を避けたい様子だったが、粘ったあげく十時にアポイントを取りつける。
悪いと思いながらも例によって書類の山を葛西《かさい》に負担してもらい、黒い大きなコウモリ傘を持って外に出た。
梅雨前線が日本列島を覆い朝から雨が降っている。爽《さわ》やかな空気というわけにはいかなかったが、外に出るのは気分転換になった。
若槻は四条駅で地下鉄に乗り、北に二つ目の丸太町駅で下りた。駅を出てからさらに少し北に歩くと、右手に京都御所の緑が見えてくる。ほどよく雨に濡れて、しっとりとしたたたずまいだった。
京都府警察本部はそこから目と鼻の先だった。交差点から御所の反対側に入れば、京都府庁や府議会などと並びの建物である。だが、松井刑事は府警本部に訪ねて来てもらいたくない様子で、近くの喫茶店を待ち合わせ場所に指定していた。
ドアを開けるとカランコロンとベルが鳴った。東京では急速に絶滅しつつある種類の喫茶店が、こちらではまだ生き残っていた。
店の中を見回すと、営業の途中らしい若いサラリーマンの三人連れがいるだけで、松井刑事はまだ来ていなかった。時計を見ると約束の十一時半にはまだ五分ほど間があった。濡れた傘を傘立てに入れて窓際の席に座った。ダージリン・ティーを注文する。
京の町に雨が降り注ぐのを見ながら、若槻は熱い紅茶をすすった。
何もかもが灰色だった。気分は梅雨空のようにすっきりしない。
警察が乗り出した時には、二、三日中にも菰田重徳《こもだしげのり》は逮捕されるものだとばかり思っていた。ところが現実には、すでに一か月と二週間ほどが過ぎながら、事態には何の進展もない。有能そうだと思った松井刑事の第一印象は、急速に色褪《いろあ》せ失墜していた。仕事もせずに血税で飲み食いしているだけではないかという近年の公務員全般への不信感が湧き起こってくる。
松井刑事が、ビニール傘をさして雨の中をやって来るのが見えた。
若槻の窓越しの会釈に曖昧《あいまい》にうなずき、松井は喫茶店に入ってきた。パンチパーマも柔和な顔つきも前に会った時と変わらなかったが、どこか疲れたような印象があった。
「どうも、お忙しいところをすみません」
「いや。何度か足運んでもろたそうやのに、会われへんで悪かったなあ」
松井はホットコーヒーを注文すると、雨でまだら模様になった背広やズボンをおしぼりで拭《ふ》き始めた。
「それで? 今日は、何か聞きたいことがあるとか言うてたけど?」
とぼけるのもいいかげにしろと怒鳴りたくなったが、若槻は、努力して窓口用のスマイルを作った。
「菰田和也さんの死亡のことです。前にもご説明しましたけど、五百万円の保険金が、いまだにペンディングのままになってるんです」
「ほう、何で?」
松井はとぼけた顔で、運ばれてきたコーヒーを飲む。若槻はむっとした。
「もしかりに殺人事件であった場合、犯人がわからないうちは、安易に保険金を支払うことはできませんし」
「うちはまだ、一度も、殺人事件とは言うてないで」
若槻は唖然《あぜん》とした。
「それは、殺人事件ではない、ということですか?」
「まあ、それは、まだ。何ともなあ……」
松井は語尾をむにゃむにゃと口の中でごまかした。
若槻は訝《いぶか》った。死体を発見した日には、松井も、まちがいなく殺人事件との心証を持っていたはずだ。自分の証言を信用するかぎり、菰田重徳がクロである可能性は高い。それがなぜ、ここまで後退するのだろう。
若槻はカバンから『指狩り族事件』の対象となった契約のプリントアウトを取り出した。
「このコピーは、先日、警察の方にお渡ししてあると思うんですけど、ご覧になりましたか? 菰田重徳氏が、以前にうちの契約で、障害給付金の詐取事件を起こしていたということなんですが?」
「ああ。それな……」
松井は、四角く膨らんだ開襟シャツの胸ポケットから煙草を一本取り出して、喫茶店のマッチで火をつけた。
「旧姓は、たしか、小坂重徳やったかな。たしかに、小坂は、故意に指を落として給付金を請求した疑いで、福岡県警に逮捕されとったわ」
思いをめぐらすように、宙に煙を吹き上げる。
「しかしな。小坂は、結局、起訴されへんかったんや。主犯格の男は、別におってな。小坂らのおった作業場を経営しとった社長なんやけど、こいつは詐欺と傷害で実刑を食らっとるはずや」
「小坂氏が不起訴になったというのは、なぜですか?」
「指を落としよったんは、小坂を含めて作業場の従業員三人やったんやけどな。三人ともヤクザの賭博《とばく》に引っ掛かって、借金が膨らんで困っとったらしい。たまたまそれを聞きつけた社長が、おのれも儲《もう》けようという魂胆で、給付金詐欺を企《たくら》みよったということなんや。ところが、よくよく調べてみると、こいつは陰で賭場を開帳しとったヤクザとも繋《つな》がりがあったらしい。そこまでは解明できへんかったけどな。ひょっとすると、最初から全部仕組まれとったことかもしれんのや」
「だとすると……」
「小坂、今は菰田重徳か。この男は、どっちかというと被害者やったというのが、福岡地検の判断やったんや」
若槻は自分の持っていた先入観が、かなり怪しくなってきたのを感じた。だが、本当にそれだけだったのだろうか。さらに何か警察も知らない裏があるのかもしれないと思う。とはいえ、この件に関してはこれ以上追及するだけの材料は持ち合わせていなかった。
「なるほど。よくわかりました。しかし、菰田和也さんの死亡については、どうなんですか? 私は、たしかに菰田重徳氏の不審な態度を目撃したし、今でも、菰田氏が、何らかの形で関与していたと確信しています。松井さんも、私の供述を信用してくださってたと思ってたんですが?」
「うん」
松井は、煙草の吸い殻を揉《も》み消すと水を飲んだ。若槻に話すべきかどうか迷っているような感じだった。
「……菰田和也の司法解剖なあ。監察医の先生に頼んで、特に念入りにやってもろたんやけど、これからは、特に他殺を臭わすようなもんは、なんも見つからんかったんや。首の回りに索条痕《さくじようこん》はなし。顔面の鬱血《うつけつ》もなし。著明な溢血点《いつけつてん》もなし。しかも死体の真下には失禁の跡があった。どれを取っても、首吊り自殺としか思われへんのや」
殺害はそれほど巧妙に行われたということなのだろうか。
「それでは、警察は疑いを解いたということですか?」
「あんたの話があるからな、まだ完全に疑いを捨てたわけやない。菰田重徳のアリバイが成立するまでは、捜査は続ける」
「アリバイ?」
「菰田重徳は、和也の死亡推定時刻の午前十時から正午までの間は連れと一緒におった言うとるんや。その連れがまた、飲み屋で知り合うたいうだけで、どこの誰なんかはっきりせんのやけどな」
たとえいい加減なアリバイでも、申し立てれば少しは時間が稼げると思っているのか。若槻には菰田の真意がわからなかった。
松井は腕時計を見て立ち上がった。
「そろそろ行かなあかん。とにかく、うちでも、全力を挙げて取り組んでるいうことは、わかってほしいんや。結論が出たら、すぐにあんたに電話するようにするから」
いつのまにか雨は上がっていたが、松井は忘れずにビニール傘を持って出ていった。
若槻は伝票を取りあげて、松井がコーヒー代の方はすっかり失念していることに気がついた。
喫茶店を出ると、すでに正午前だった。店が混んでくる前に早めに昼食をすますことにして、途中で鰊蕎麦《にしんそば》を食べる。まだ昼休みは三十分以上残っており、菰田重徳が待っていると思うと気が重かったが、葛西に仕事を代わってもらっているのでいつまでものんびりしているわけにはいかない。
若槻が地下鉄の四条烏丸駅から地上に出たときに、焦げ茶色の昭和生命京都第一ビルから、見覚えのある人物が出てくるのが見えた。金石助手だ。長袖の白いシャツに黒いジーンズという服装である。五、六十メートルほど距離があり、まだこちらには気づいていないらしい。
若槻が声をかける間もなく、金石助手は隣のビルに入っていった。
怪訝《けげん》に思って見ていると、一階の喫茶店のガラス越しに金石の姿が現れた。窓際の席に陣取って外を眺めている。
若槻は、わざと素知らぬ顔を装って喫茶店の前を通った。ビルに入る前に何気なく視線を向けたが、金石は、こちらから死角になるような位置に動いたらしく、姿は見えなかった。
八階でエレベーターを降りると、予想した通りに、カウンターには菰田重徳の姿があった。やはり手を怪我したくらいでは休みにはしてくれないらしい。
職員用のドアから総務室に入ると、葛西が難しい顔をして彼を待っていた。特注の巨大な背広を着て、愛用の小さな革カバンを持っている。今から出かけるところなのか。
「すみません。遅くなりまして。今日も来てますね」
若槻が小声で言うと、葛西は眉を上げた。
「それは今さら驚かんのやけどな。ついさっきまで、もう一人、あんたを訪ねて来た客がおったで」
金石だと若槻は思った。
「どんな人でした?」
「痩《や》せて顔色の悪い男や。銀縁眼鏡をかけとったわ。金石とか言うとったけど、心当たりあるか?」
葛西は金石にはあまり好感は抱かなかった様子だった。
「はあ。私の母校の……心理学の先生です」
犯罪心理学と言いそうになって、若槻は、あわててごまかした。匿名とはいえ事件について外部の人間に漏らしたとは言えなかった。
「わしには用件は言わへんかったけど、契約者やないんやろ?」
「ええ。たぶん、個人的な用件だと思うんですが」
「ふうん。あんたはもうすぐ帰ってくるって言うたんやけど、時間がないとかで、急に帰ってしもうたんやけどな」
葛西は疑わしい目つきで若槻を見た。
「いやな。さっき、わしが見たら、その男が、何や、えらい熱心に菰田に話しかけとったんや。菰田の方は、あまり反応はなかったみたいやけどな。それが、わしが行くと、ぴたっと口をつぐみよったんや」
若槻は赤面しそうになるのを感じた。金石助手はどういうつもりなのだろうか。
「わかってるとは思うけど、ここで客同士が話をするのは、たとえ世間話でも、あんまり望ましいことやない。それで新たなトラブルでも発生したら、うちには責任がないことでも、ややこしいことになるからな。まして、相手はあの男や。あんたの知り合いやったら、その辺はよう言うといてくれるか?」
「わかりました」
「わしは、今から至急、紫野《むらさきの》へ行ってこなあかん。職員の費消事故があったんや。お客さんが営業所に来て揉めとるらしい。あんた一人で大丈夫か?」
葛西の眉宇《びう》には懸念があったが、まさか心細いですとも言えなかった。葛西の後ろ姿を見送りながら、今更ながらいかに彼の存在を頼りとしていたか思い知らされた気分だった。
若槻は覚悟を決めてカウンターに向かった。菰田は左手に軍手をはめ、右手には包帯を巻いていた。満身|創痍《そうい》だなと若槻は思う。
「保険、まだか?」
「申し訳ございません。まだ、調査中とのことでして。もう少し、お時間をいただけませんか?」
菰田重徳は虚《うつ》ろな黒いガラス玉の目でじっと若槻の顔を見つめた。
「こちらでも、何度も督促してるんですが。とにかく、警察が、なかなかはっきりした結論を出してくれないということで」
菰田は黙って若槻の目を凝視し続けている。ふいにカウンター越しに身を乗り出すと、若槻の方に左手を伸ばした。一瞬、殴られるのかと思ったが、菰田はただ彼の肩をつかんだだけだった。指には力がなく震えている。親指が不自然に折れ曲がり、若槻の首筋に当たっていた。がさがさした感触からすると、中には紙のようなものが詰まっているらしい。うなじの毛が逆立った。
「兄ちゃん。もう、ええやろ。堪忍してえな」
菰田は呻《うめ》くような掠《かす》れ声で言った。
「頼むわ。どないしても金がいるんや」
ついに一線を越えるつもりなのか。若槻は唾を飲み込んだ。
「申し訳ございません。本社決定ということになっておりますので、何とか少しでも早くしてもらうように、もう一度掛け合って……」
「わしら、掛け金|払《は》ろたやろ。高い掛け金、無理して払ろたやんけ。そやのに、和也が死んだから、保険は払わへんのか」
菰田の顔色は蒼白《そうはく》だった。若槻は、震えているのは相手の指だけではないことに気がついた。蒸し暑い日だというのに、悪寒に襲われているように全身を小刻みに震わしている。その姿は追いつめられたネズミを連想させた。
「いえ、決してそういうことでは……。ただ、いま少し時間を」
菰田は、放心したように早口で何事かをつぶやき始めた。口の端に白い泡がたまっている。若槻はぞっとした。辛うじて和也とか成仏とかいう言葉は聞き取れるものの、それ以外は何を言っているのかさっぱりわからない。
菰田は突然立ち上がると、早足で自動ドアの方へ向かった。後ろから若槻が失礼いたしましたと声をかけたが、まったく反応はなかった。
その日の仕事が終わったのは八時過ぎだった。若槻は阪急電車に一区間乗り終点の河原町《かはらまち》で下りた。木屋町《きやまち》通りにあるスナックに着いた時には八時半になっていた。
夕方、金石から電話がかかってきて、菰田重徳についての重要な話があるのでぜひ会いたいと言うのである。金石と酒を飲むのはあまり気が進まなかったが、問い質《ただ》したいこともいくつかあったし、この時間に喫茶店というわけにもいかなかった。
その店は、値段が安い代わりにあまり客におせっかいを焼かないので、人に聞かれたくない話をするには向いていた。若槻がスナックのドアを開けると、金石はカウンターでワイルド・ターキーのオンザロックを飲んでいた。
だいたい国立大学の助手は薄給と相場が決まっているが、金石は支社に来た時のラフな服装とは一転して薄い青のダブルのスーツに身を包んでいた。左手首にはロレックスタイプのごつい金の腕時計が輝いている。華奢《きやしや》な体格の日本人には絶対に似合わない種類の時計だ。金のベルトに半ば隠れるように手首の親指側に五百円玉大の大きなホクロがあるのが目についた。
金石は若槻の顔を見ると嬉しそうな顔になった。若槻はバーテンダーにグラスをもらって、金石と一緒にボックス席と呼ぶには少々ちゃちな場所へと移った。
「今日は、お留守の時に、突然おうかがいしました」
金石が考え込むような顔をしながら口火を切った。年下の若槻と一対一になっても、ていねいな言葉づかいを崩さない。
「聞きました。わざわざ来られたのは、私に会うためではなく、あの男を観察する目的だったんでしょう?」
「おっしゃるとおりです」
金石は悪びれた様子もなかった。若槻は少しむっとした。
「私が醍醐《だいご》先生にご相談申し上げたのは、あくまでも匿名でかまわないということだったからです。無断で支社へ来て話をされたりするのは、ちょっと困るんですが」
「申し訳ありません。観察するだけにしておこうと思ったんですが、どうしても職業的な興味が抑えきれなかったもので。コモダ氏ですか……あれが、おっしゃっていたKという人物なんですね?」
若槻が当惑して押し黙ると、金石がオンザロックを作ってくれた。かなり空腹を覚えていたが、金石と一緒に晩飯を食う気にはなれない。二、三杯つき合って、話がすめば早めに切り上げるつもりだった。
「いや。すみません。若槻さんのお立場では、お答えになれませんよねえ」
金石はにやりと笑みを漏らす。赤い唇の端がゴムのように伸びて、右上の奥歯の金冠がきらりと光った。
「あの男と、何をお話しになったんですか?」
「たいしたことじゃ、ありません。蒸し暑いですねとか、いろいろと話しかけてみたんですが、ほとんど返事をしてもらえませんでした」
若槻は頭を下げて金石からグラスを受け取ると、一口すすった。
「あの無表情ですからね。外見からはわかりづらいんですが、かなり追いつめられているように見受けられました」
「追いつめられているというのは、経済的に逼迫《ひつぱく》しているということですか?」
「まあ、それもあるでしょう。毎日通ってくるとなると、電車賃も馬鹿にならないでしょうしね」
若槻は、金石の言葉にどこか引っかかるものを感じた。だが、それが何に対するものなのかはわからない。
「ほかに何かあるんですか?」
「まあ、詳しいことはわかりませんが、あの男が極度の重圧下に置かれていることだけは確かです。それももう限界に近いと思います」
菰田の今日の態度を思い出すと、金石の言うことも首肯できる。
「突然、爆発するかもしれないと?」
「それもあります。若槻さんのように、毎日、脅威と間近に接していると、どうしても慣れが生じ、深刻さを見誤るということもありますから」
あの男に慣れたりするものか。若槻は反発を感じた。やはり金石の目は第三者のものにすぎない。毎日、昼になると菰田は嵐電に乗って支社へやって来る。俺がそれをどういう気持ちで待っているかなどということは……。
「お言葉ですが、誰だって、あの男に慣れて油断するということは考えられませんよ」
「だったらいいんですが」
「まして私は、あの黒い家に行って実際に首吊り死体を見ているんです」
「黒い家ですか……なるほど」
金石は曖昧な微笑を浮かべた。
若槻は再び微妙な違和感を感じた。金石の笑みと態度から、彼がまるであの家を見知っているかのような印象を受けたのである。だが、もちろん、そんなはずは……。
その瞬間、若槻はなぜさっきの金石の言葉に引っかかったのか気づいた。電車賃だ。金石はたしかに電車賃も馬鹿にならないと言った。交通費という意味で電車賃と言うことはある。だが、京都市内を移動するにはバスを利用する方が普通なのに、わざわざ電車賃という言い方をしたのは、菰田が嵐電に乗って通ってきていることを知っていたからだとしか思えなかった。だとすると、考えられる解釈は一つしかない。金石は今日菰田を尾行したのだ。隣のビルの喫茶店に入ったのも、そのためだろう。菰田が出てくるのを待って後をつけ、嵐電に乗るのを見た。おそらくは、黒い家まで行ったに違いない。
かっとなりかけたが、金石を難詰するのは思いとどまった。明白な証拠があることではないし、金石の話を聞いてみてからでも遅くない。
「ただ、問題はあの男が爆発するかもしれないというレベルの話ではないんです。先日、若槻さんが大学にいらっしゃった時のことを、後で考えてみたんですが、やはり十分なお話ができなかったと思いました。私は、言ってみればオブザーバーみたいなものでしたし、あの場には醍醐先生だけではなく、女性の院生の方がおられたでしょう?」
「黒沢恵さんです」
「そうです。黒沢さん。あの方は、ヒューマニストなようですねえ。女性らしい、繊細で優しい心をお持ちになっています。非常に女性らしい……。でも、時としてそれが、現実を見る妨げになることがあります」
若槻は金石が何を言いたいのか測りかねていた。
「あの方は、それでもよろしいかもしれません。ご自分のお信じになる世界の中で生きて行かれればいいでしょう。でも、若槻さんは、直接の当事者ですよ。あなたは、ご自分が相手にしているのがどういう人間であるのか、ご存じでしょうか?」
「昨日のお話では、情性欠如者、おそらくは背徳症候群ということでしたけど」
金石は、うなずいた。
「今日、ほんの短い間でしたけれど、あの男を観察することができました。それだけでは、もちろん、確信を得るには十分ではない。しかし、私はあなたに警告する義務があると思います。はっきり申し上げましょう。あの男は、あなたを殺そうとする可能性があります」
漠然と危惧《きぐ》していたことではあったが、専門家の口からそう言われると、やはり衝撃があった。金石が菰田を尾行したことは、この瞬間、若槻の念頭から吹き飛んでしまった。
「しかし、私を殺す動機はないと思いますが、私を殺しても、保険金が手に入るわけではありませんし」
「そういうふうにお考えになってるだろうと思ったので、今日は、わざわざお越しいただいたんですよ」
一重まぶたの吊り上がった金石の目は、ていねいな言葉づかいとは対照的に、眼鏡のレンズの奥で鋭く光っていた。
「それは、私たちのような、ごく普通の人間の考え方です。彼らは、そうは考えないんです。彼らにとっては、目先の自分の欲望を満たすのが、すべてなんですから。若槻さんは、腹を減らした猫に餌をやって、途中で取り上げられたことがありますか?」
突拍子もない質問に、若槻は面食らった。
「いいえ。猫は飼ったことがないですから」
「自分の欲望を満たそうとしている時に、それを邪魔されると、猫は怒ります。たとえ飼い主の手であっても、血が出るほど引っ掻《か》きますよ。彼らのメンタリティは、それと、まったく変わらないんです。彼らがせっかく保険金を手に入れようとしている時に、あなたがそれを妨害したと考えれば、後先《あとさき》考えずに復讐《ふくしゆう》に走る可能性が大なんです」
「彼ら、というのは、情性欠如者のことですか?」
「厳密に言えば、少しだけ違います」
金石は足下に置いてあった黒い書類カバンを開けて、中から分厚いB5判の本を取り出した。
「私は、もともと社会生物学が専攻だったんです。私たちには考え方に共通点が多いはずですよ。アメリカ留学中に、心理学、特に犯罪心理に興味を持つようになったんです。……この本は、アメリカ精神医学会編の『精神疾患の分類と診断の手引き』の最新版、通称DSMーWですがね。アメリカでの人格異常の分類は日本とはかなり違っていて、DSMーWにも、情性欠如に相当する項目はありません」
金石は慎重な手つきでページをめくった。
「ですけど、『B群人格障害』というカテゴリーの中には、『反社会性人格障害』という項目があるんです。ここには、いくつかの要件が挙げられていますけど、簡単に要約すれば、繰り返して犯罪を行う傾向、自分の利益や快楽のために人をだますこと、衝動的であること、かっとなって暴力を振るいやすいこと、危険に対して向こう見ずなこと、無責任であること、そして、良心の呵責《かしやく》が欠如していることです」
若槻には、そのどれもが菰田重徳に該当するように思われた。
「『反社会性人格障害』は、全体として背徳症候群とオーバーラップする部分が多いと思うんですけど、最近、日本でもサイコパスという名前で知られるようになってきました。若槻さんも、お聞きになったことはあるでしょう?」
「ええ、まあ」
若槻は少し前に読んだ本のことを思い出した。たしかH書房から出た翻訳本だったが、サイコパスという言葉が日本で一般に使われるようになったのは、その本を嚆矢《こうし》とするのではないか。ちょうど、ヒッチコックの映画で一躍『サイコ』という言葉が有名になったように。
サイコパスという言葉も、もともとは漠然と病的な人格を指していたはずだが、いつのまにか情性欠如者や背徳症候群と同じような意味合いで使われるようになりつつある。
「聞いたことはありますが、その言葉には、若干疑問を抱いています。サイコパスと言うと、まるで、『悪い血』か何かのせいで、生まれつき犯罪者になることが決まっているような印象があるんですが」
「おっしゃる通りですよ。サイコパスの形質が、遺伝情報として伝えられるということは、すでに、アメリカでは定説になってます」
金石は平然として言い放った。若槻は唖然とし、この場に恵がいなくてよかったと思った。もし今の金石の発言を聞いていたら、烈火のごとく怒ったに違いない。
「しかしですね、それでは、まるっきり、ロンブローゾの生来性犯罪者説と同じことになりませんか?」
若槻は、恵が学生時代に書いた、ロンブローゾを痛烈に批判したレポートを読んだことがあったので、その名前は覚えていた。
金石はにやりとした。また、金歯がちらりと覗《のぞ》いた。
「ロンブローゾについては、お詳しいですか?」
「いや……それほどでもないですが」
金石はグラスを明かりに透かすようにしながら、滔々《とうとう》と講義口調で話し始めた。
「チェザーレ・ロンブローゾは、十九世紀のイタリアの医学者で、精神医学や法医学などの多くの分野に業績を残した才人です。たしか一八七〇年だったと思いますけど、刑務所である強盗犯の頭蓋骨《ずがいこつ》を調べているうちに、サルには存在するが人間にはめったに見られないという中央|後頭窩《こうとうか》などの多くの変異を発見したそうです。その後、彼は四百個近い犯罪者の頭蓋骨を解剖し、約六千人の体格を調査した結果、隔世遺伝による生来性犯罪者という考え方を生み出しました。ロンブローゾは、すべての犯罪者の約三分の一が、生来性犯罪者であると考えてその他の偶発的な犯罪者とは区別したんです」
「生来性犯罪者というのは、『劣等人種』という位置づけでしたよね?」
「ええ。生来性犯罪者は、類人猿に先祖返りした人間だとされていました。生まれつき犯罪者となるべく宿命づけられているというわけなんですよ。彼らはみな、長い腕、親指でものをつかめる足、低く狭い額、大きな耳、いびつで骨の厚い頭骨、大きく突出した顎《あご》、大きな犬歯、濃い体毛といった、類人猿に似た外見を持ち、脳にも何らかの奇形があることが多いとされていました」
「しかし……」
金石は、若槻の発言を封じるように、手を上げた。
「いや。あなたがおっしゃりたいことは、よくわかります。ロンブローゾの創始した『犯罪人類学』は、しょせん骨相学以上の科学性を持たない妄説であったために、今日では完全に否定されています。ですけど、サイコパスとロンブローゾの生来性犯罪者は、まったく違うんですよ。むしろ正反対だと言ってもいいくらいです」
まるで出来の悪い学生に教えているように、噛《か》んで含めるようなしゃべり方だった。
「ロンブローゾは、人類は進化してやがて犯罪のない社会を築くだろうという、一種のユートピア思想を唱えた人です。ですから、彼の言う生来性犯罪者は、人類の進化に逆行した先祖返りであり、退化した人間です。でも、サイコパスというのは、むしろ新しい環境に適応して、進化した人間なんですよ」
「犯罪者が、どうして進化してるんですか?」
いつのまにか、若槻のグラスの氷はすっかり溶けていた。
「若槻さんは、生物学科のご卒業だそうですから、生物のr戦略とK戦略というのは、よくご存じでしょう」
突然の質問だったが、さすがにこれは若槻の専門分野だったので答えられた。
「r戦略というのは、昆虫のように大量の子孫を作っておいて、後はほとんど放りっぱなしにするやり方で、K戦略は、人間のように、少数の子供を大事に育てるということだったと思いますけど」
「ええ。人間は、哺乳《ほにゆう》類の中でも特に子供を大切にする、典型的なK戦略者です。昔は乳幼児の死亡率がたいへん高く、ちょっと目を離しただけでも、すぐに子供は死んでしまいましたから、親による手厚いケアが不可欠だったんです。ところが、時代が進んで、社会保障が充実し、文字通り親がなくても子が育つようになると、r戦略の相対的有利性が増してきました。早い話が、あちこちで子供を作るだけ作って後は捨ててしまっても、社会がけっこう面倒を見てくれますから、普通に子供を育てるよりも多くの子孫を残すことができるんです。つまり、一生懸命に子育てをするよりも、子供を作って逃げる戦略の方が、有利になってしまったというわけですね」
金石は、薄くなったバーボンを飲んで喉《のど》を湿した。
「『善意で踏み固められた道も、地獄へ通じていることがある……』」
何かを思い出しているように、にやにや笑いながら言う。
「私がアメリカに留学していた時に、親しかった……ある友人に教えてもらった諺《ことわざ》です。弱者に優しいはずの福祉社会が、皮肉なことに、冷酷なr戦略の遺伝子を急速に増加させることになってしまったんです。それがサイコパスの正体なんですよ」
若槻は考え込んでしまった。金石の言葉を鵜呑《うの》みにする気分にはなれない。言っていることは、理屈としてはわからないこともないが、そこまで単純に言い切ってしまっていいものだろうか。
「しかし……待ってくださいよ。だったら、子だくさんの人は、みんなサイコパスなんですか?」
「いいえ。大家族で子供をたくさん抱えているような人は、むしろ、伝統的なK戦略者ですよ。子育てに対して、大変な労力を割いているわけですからね」
金石は、あいかわらずの講義口調だった。
「まあ、r戦略という言い方をしたのは、ちょっと誤解を招く表現だったかもしれませんねえ。サイコパスとは言っても、何もアブラムシのように大量の子孫を残すわけじゃないですからね。彼らの特徴は、子供の数よりも、むしろ、生まれた子供を平気で遺棄するということなんですよ。遺棄戦略と言い換えてもいいですけど」
「しかしですね、子供を捨てることが、即、その他の犯罪につながるとは言えないでしょう?」
「心理学を学んだ人なら誰でも知っていることですけど、親子の情愛というものは、すべての人間関係の基本なんですよ。いいですか。彼らは、自分の子供にすら愛情を抱かないんです。そんな人間が、他人に対して温かい思いやりを持てると思いますか? 遺棄戦略者は、必然的に自己中心的な情性欠如者にならざるをえないんです。そういう人間は、自分の欲望を満たすためなら、犯罪を犯すことなどためらわないでしょう」
遺棄戦略者……。子供に対する愛情を持ちながらも、身を切られるような思いで遺棄せざるをえない人たちのことは、全く金石の念頭にはないようだった。
若槻はバーボンを自分のグラスに注いだ。
金石は、『自分の子供にすら愛情を抱かない』という言葉だけを、吐き捨てるような調子で言った。もしかしたら金石自身が親子関係に何か重大な問題があったのかもしれないと、若槻は思った。彼の恵に対する態度を思い出しても、なぜか女性全般に対しての敵意を隠しているような印象を受けるのだ。
それにしても……。『自分の子供にすら愛情を抱かない』というフレーズが妙に気になっていた。頭の中で、もう少しで、何かが結びつこうとしていた。何か重大なことだという気がする。だが、一瞬後にはせっかくつながりかけた思考は分解してしまっていた。一度壊れてしまったアイデアは二度と再現することはできない。
「しかし、金石さんのおっしゃっていることは、ただの仮説でしょう? はっきりとした根拠があるんでしょうか?」
若槻は反論を試みた。
「私には、どうしても、犯罪者が遺伝によって決まっているという考えになじめないんです。犯罪を犯す遺伝子とか、あるいは、r戦略の遺伝子でもいいですけど、DNAの遺伝子座上で確定されていない以上……」
「こういうお話をしていると、結局は、氏か育ちかという論争になりますよねえ? 人間の行動は、常に、遺伝と環境という二つの因子でコントロールされています。どちらかが百パーセントで他方がゼロであるという例は、残念ながら、私は寡聞にして知りません。犯罪に関してだけ百パーセント環境が決定するなどというのは、性善説に近いおとぎ話で、日本以外のどこの国でも通用しませんよ」
金石は動じなかった。
「しかし、だとすると、逆に、遺伝の比重が百パーセントということもないわけですよね?」
「もちろん、そうです。環境に関わりなく、絶対に犯罪を犯すよう運命づけられた人間なんて、ありえませんからね。ただ、九十パーセントというのはあるかもしれないでしょう? 私たちの社会には、普通の人と比べて生来的に犯罪に走りやすい人間が、たしかに存在しているんですよ」
「おっしゃることはわかりますが、そういう考え方自体が、非常に危険ではないでしょうか?」
若槻は、いつのまにか、恵の意見を代弁をするような気持ちで金石に反論していた。
「特定の人たちが、生まれつき犯罪者になりやすいというのを認めてしまうと、今度は必然的に、彼らを隔離しろとか、殺してしまえということになりませんか?」
若槻は生来性犯罪者への対策としてロンブローゾが隔離か追放を主張したこと、さらに、彼らを殺してしまえという意見にも理解を示したことを思い出した。
「たしかに、その危険性は、私も認めますよ。しかし何よりもまず、事実を直視することが大切でしょう?」
金石は、子供をあやしているような笑顔を浮かべた。
「対策は、その後で考えればいいんですよ。人権にも十分配慮して」
金石は、奇妙なしなを作りながら言った。
「しかし、私は、かつてヒトラーが、同じような優生学的思想を唱えて、アーリア民族以外の人権や障害を持った人たちを『淘汰《とうた》』しようとしたことを、思い出さずにはいられないんですが……」
「ヒトラーが科学を悪用したのは、何も社会生物学に限ったことじゃありませんよ。彼自身がサイコパスの典型だったわけですから、当然でしょう」
こうした議論には慣れているらしく、金石は間髪を入れず切り返した。
「はっきりしているのは、サイコパスの数がどんどん増えているということ、このまま何も手を打たなければ、私たちの社会は、早晩、彼らによって食いつぶされるということですよ」
若槻は沈黙した。今度は金石が、彼のグラスにバーボンを注ぐ。
「しかし、最近になって、そういう人たちの数が本当に急増しているという証拠があるんでしょうか?」
「はっきりとした証拠とまではいきませんが、各国の犯罪統計などから私が独自に推計した資料ならあります。これまでも右肩上がりの曲線を描いていましたが、ここ十年ほどは、特に極端なカーブになっています。十年間で、ほぼ四、五倍のペースですよ。今度、私の研究室にいらっしゃった時にでも、お見せしましょう」
「かりにそうだとしても、社会保障制度のせいだけで、そんなに急激な変化があるものでしょうか? 人間の世代交代の時間を考えると、わずか十年で何倍にも増えるというのは考えにくいと思いますが」
「おっしゃるとおりです。そのことについては、私も考えていました」
金石は初めて考え込むような顔つきになった。
「……二通り、考えられると思います。まず、それまでにゆっくりと蓄積した変化が、ここ十年で、ようやくはっきりと統計に表れるようになったという解釈。これは、それまでなりを潜めていたサイコパスたちが活動を活発化させたということと、統計が整備されるようになったという二つの側面があります。もう一つは、サイコパスは単に遺伝だけによって増殖しているのではなく、環境による要因も作用しているという見方です」
「しかし、環境の変化によるのなら、それはサイコパスとは呼べないでしょう?」
「私が言っているのは、家庭が悪いとか、街に犯罪が横行しているといったたぐいの環境のことではありませんよ。遺伝子に対して直接影響するような、物理的、化学的環境のことです」
「化学的というと……環境汚染のことをおっしゃってるんですか?」
「ええ。現在ほど、人間の周囲にさまざまな遺伝毒物が氾濫している時代は、かつてなかったんですよ。まず、農業です。一九六一年に、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』を書き、ドリン系などの危険な農薬が規制されるようになりました。しかし、いったん土壌深く染み込んでしまった農薬が、実際に人体に影響を及ぼすまでには、長い時間がかかります。過去の経験に学べば、たとえ現在は低毒性であると思われていても、環境のためには化学薬品はなるべく使わない方がいい。にもかかわらず、この国では、今でも、マツクイムシの防除のためと称して、スミチオンの空中散布を行っています。住宅密集地の真上でもおかまいなしに、大量の薬剤を撒き散らすという無神経さです。マツクイムシ、マツノザイセンチュウが松枯れの主たる原因でないことは、すでにほとんど明らかと言ってもいいんですがねえ」
松枯れは自動車の排気ガスなどの大気汚染によって引き起こされているという研究結果は、若槻も聞いたことがあった。もしそれが本当だとすると、皮肉なことに、日本政府は環境汚染に対処するためにせっせと別な汚染を続けていることになる。
「それから、工業製品や工場排水などに含まれている化学物質があります。たとえば、カネミ油症で有名なPCBは、一九七二年まで、製造、使用が禁止されていませんでした。PCBは肝機能障害だけでなく、DNAに溶け込んで遺伝情報の転写エラーを引き起こします。もっと恐ろしいのは、最強の毒物と言われるダイオキシンです。ゴミ焼却場の排煙から出るダイオキシンは、食物を通じて取り込まれた後、人間の体内で何倍にも濃縮され、母乳によって新生児に効率よく送り込まれています。こちらの遺伝毒性は、PCBの比ではありません。ベトナム戦争の際、悪名高い枯葉作戦で用いられて二重体児などの悲劇を生んだ、2、4、5Tという化学物質が二個結合したのがダイオキシンですからね。それに、野放し状態の食品添加物も忘れてはなりません。本来、微生物を殺す強力な毒物である保存料。ニトロソアミンなどの発癌物質を作りやすい合成着色料。やはり発癌性が指摘されている人工甘味料。日々体内に摂取している量を考えると、こちらの方が恐ろしいかもしれません。何しろ、日本の場合、こうしたものを全部所管しているのが、あの、厚生省ですから……」
金石は愉快そうに笑った。
「こうした強烈な遺伝毒性による環境汚染が深刻化した、六〇年代の後半から七〇年代にかけて産まれた子供が、ちょうどここ十年で、次々に成人していることになるんですよ。サイコパスの数の爆発的な増加と、完全に軌を一にしています。これは単なる偶然でしょうか。さらに付け加えれば、最近問題になっている電磁波が元凶の一つだというのも、あながち妄説とも言えないんです。もしかすると、今例に挙げたものすべてが、複合的に人間のDNAを損傷し、サイコパスの増加に拍車をかけているのかもしれません」
金石は無感動に言い放った。
「いずれにせよ、原因については、まだ研究が緒についた段階ですらないんです。サイコパスの存在そのものが、ある意味ではタブーとなっていますからね。しかし、彼らが実在していることには、もはや疑う余地はないと、私は思っています」
「しかし……」
金石は、若槻の反論を遮るようにしゃべり始めた。
「問題は、彼らが社会に及ぼしている影響です。一人のサイコパスがいるだけで、経済学で言う乗数効果によって、周囲にいる何千人もの人間が影響を受けます。もちろん悪い影響です。今の日本をちょっと見てみれば、わかるでしょう? 子供たちにまで浸透した拝金主義。正義や道徳を口にすることは、ダサいと嘲笑《ちようしよう》され、他人を平気で傷つけるようなサイコパス的な価値観が、クールだとか、かっこいいとか言ってもてはやされます。たとえば……そうですねえ、今の漫画やアニメの主人公なんかは、私の目からは、どう見ても半分くらいはサイコパスとしか思えません。昔は、もうちょっと人間味があったと思うんですがねえ。今だと、相手が悪人だとなれば、善良なはずの主人公が、ためらいも見せずに殺してしまうでしょう? これがテレビゲームなんかになると、もっとひどい。人間ではあっても、相手には最初から人格は存在せず、単なる動く標的でしかないんです」
金石は小首をかしげると、含み笑いをした。
「そういう中で育った若い世代は、どうなったでしょう? 彼らの多くは、深くものを考えようとはしません。ただ感情のままに行動し、『むかつく』と、単なる怒りの衝動だけで、それもきわめて浅薄な衝動でしかないんですけど、簡単に人を殺してしまったりします。ほとんど、サイコパスのコピーと言ってもいいでしょう。そして、サイコパスまがいの行動をとる人間が増えるほど、本物のサイコパスが目立たなくなってしまうんです。言ってみれば、彼らが吐き出した毒液が環境を彼らと同じ色に染め上げて、保護色のような効果を作り出しているわけですよ」
「まるで、彼らが、私たちとは違う生物みたいな言い方ですね?」
若槻としては精一杯の皮肉を言ったつもりだったが、金石には通用しなかった。
「私は、そう思ってるんです。彼らは、いわばミュータントなんですよ。人間を人間たらしめている一番大切な要素が、すっぽりと抜け落ちていますから。SF小説に出てくるミュータントのような超能力こそありませんけど、それ以上に危険な存在かもしれませんよ。罰せられないとさえ判断すれば、彼らは平然と人を殺すでしょう。むしろ、私たちとたまたま遺伝子プールを共有している、別種の生き物とでも考えた方がいいんじゃないかと思いますねえ」
さすがにここまでくると、若槻にはついていけなかった。だが、荒唐無稽《こうとうむけい》にも思える金石の言葉を聞いているうちに、若槻の脳裏にはアリグモのイメージが浮かんでいた。
アリグモというのは、体長、六、七ミリのハエトリグモの仲間である。広く日本中に分布しているが、大きさ、形、色ともに、蟻そっくりであるため、見たという記憶のある人の方が少ないだろう。蜘蛛《くも》の肢の数は八本だが、アリグモは前の二本を上に持ち上げて触角のように見せているために、樹上の葉や枝の上を、何食わぬ顔で蟻に交じって動き回っていると、ほとんど区別がつかないほどだ。彼らが蟻ではないことがはっきりわかるのは、高い場所から糸を引いて下りてくる時だけである。
アリグモが何のためにここまで蟻そっくりに擬態しているのかは、よくわかっていない。一説には、まずい蟻に姿を似せて天敵から身を守るためであり、また別の説によれば、蟻の群れに紛れ込んで、機会を見ては蟻を襲って捕食するためだという。
若槻は菰田重徳のおよそ感情というものの感じられない真っ黒な目を思い出した。それとアリグモの姿とを重ね合わせるのは、さほど難しいことではなかった。論理を伴わないイメージだけの思考がいかに危険であるかを示す好例かもしれないと思う。
「……我々の考えるべきことは、彼らの野放図な増殖を看過するかどうかなんです。人間が人間を救うために作ったはずの福祉制度が、皮肉なことに、本来ならば淘汰されるはずのサイコパスの遺伝子を救済してるんですよ」
金石は、よほど福祉制度というものが嫌いらしかった。
「しかし、だから人為的な淘汰を行えと、おっしゃるんですか?」
「サイコパス化というのは、環境汚染がなくても、ある程度の社会性を持った哺乳類には比較的ポピュラーな突然変異なんですよ。私は、アメリカで一時、オオカミの群れの研究をしていたことがあるんです。オオカミが群れの秩序を維持するために、どのくらい高度な規律と友愛精神を備えているかを知ったら、きっと若槻さんも驚きますよ。私は、人間がオオカミから学ぶべきことは、たくさんあると思います」
金石は、爪の具合を確かめるように、広げた指を目の前にかざして眺めた。爪には透明なマニキュアでも塗っているのか、妙にぴかぴかと光っている。
「オオカミの群れの中にも、まれにサイコパスと呼んでいいような個体が生まれて来ます。群れの一員としての義務を果たさないで、自分の欲望を満たすことだけに関心がある個体です。すると、リーダーを始めとする雄たちが制裁を加えて、その個体を群れから放逐するんですよ。その現場らしきものを、私も目撃しました。おそらく群れの遺伝子プールを健全に保つための行動だと、解釈されています」
金石は、指から視線を上げると、じっと若槻の顔を見た。何気なさを装って、若槻の手の上に自分の手を重ねる。
「若槻さんは、オオカミと人間の、どっちが賢いとお思いになりますか?」
若槻が金石と別れたのは午前零時を回っていた。結局、まともな夕食も食べずじまいだった。
もちろん金石の極端な説を受け入れたわけではなかったが、そこに一笑に付すことのできない部分があることを感じたのも事実だった。もっとも彼がホモセクシュアルだとわかったのは、あまり喜ばしい発見とは言えなかったが。
スナックにいる間にまた雨が降ったらしく、外に出ると、路面が黒く濡れて、空気が湿っていた。ここからアパートまでだと二キロ近くあるが、若槻は、酔いざましも兼ねて、歩いて帰ることにした。
木屋町通りを高瀬川に沿ってぶらぶら歩いていると、嫌でも金石の言葉を反芻《はんすう》することになった。
金石は、生命保険犯罪なかんずく保険金殺人には、ほかの犯罪と比較してサイコパスの関与している割合が高いと言っていた。
その論拠には一応の筋が通っているようにも思えた。出来心による犯罪や激情による犯罪とは異なり、保険金殺人には周到な計画性と怪しまれないようにするための用心深さ、さらには長期間にわたって相手を殺害しようとする冷酷な意志を保ち続けることが必要だからと言うのである。
しかも、ターゲットとなるのは通常、家族や身内であることが多いため、事件はますますサイコパス的な色彩を帯びてくることになる。
若槻は日本で起きた有名な保険金殺人事件の主犯たちを思い浮かべた。たしかに彼らがサイコパスであると言われれば、そうかと納得してしまいそうな気がする。
だが、そんなに簡単に金石の意見を鵜呑みにすることはできない。
金石は他にもいくつかの例を挙げていた。ドイツで起きた『連続妻毒殺魔事件』や『姉弟毒殺魔事件』。日本の『細菌魔妻殺害事件』など。そのほとんどを若槻は知らなかったので、不勉強を恥じるはめになった。
本社の書庫には生命保険犯罪の事例集があったはずだ。今度借り出して研究してみようと思った。
木屋町通りから御池通りに出ると、とたんに広々として風が吹き抜けるような感じだった。さすがに、この時間になると歩いている人もまばらである。信号を渡り、京都市役所の前を通る。いかめしい古色|蒼然《そうぜん》とした建物は、五月の連休に恵と遊びに行った時に見た神戸の市役所の近代的なビルとは対照的だった。京都と神戸はほぼ同じくらいの人口を持つ都市だが、開発に関する考え方は正反対と言ってもいい。
京都に来るまでは、若槻にとって関西はどこも同じにしか思えなかったが、今ではそれぞれの都市に微妙な気質の差があることも理解していた。
彼は京都という町をしだいに好きになり始めていた。それだけに、金石の勧告に従ってここを離れるのは気が進まなかった。
金石は、若槻に転勤を希望するように強く勧めたのである。京都支社にいるかぎり菰田重徳のターゲットにされるというのが理由だった。本気で自分の身を案じてくれているらしかったので、かなり心が動揺した。
たしかに、どうしても転勤したいと思えばできないことはなかった。有力な大学のOBに泣きつくか、そうまでしなくても内務次長をわずらわせて人事課あてに申請を書いてもらえば、どこか本社の暇な部門に呼び戻してもらうぐらいのことはできるだろう。
もちろん、京都を離れ恵ともなかなか会えなくなるとしても、もう一度本社に戻れるというのは、それなりに魅力的な考えではある。
だが、人事異動の季節でもない中途半端な時期に突然本社に帰ってきた人間の姿を思い出すと、たちまち気持ちは萎《しぼ》んだ。彼らは一様に背中を丸め、昼休みになると一人で昼食を食べに出ていくのだ。周囲がその後ろ姿を見てどういう噂をしていたかは、若槻もよく知っていた。
それに、同じ尻尾《しつぽ》を巻くにしても、暴力団事務所に監禁されたとか、客に殴られて怪我をしたとかいうのなら、それなりの武勇伝にもなるし同情もされるだろう。ところが現在起きていることはと言えば、表面的には客が毎日支社に現れて保険金はまだおりませんかと聞いているだけなのである。人事課は若槻のひ弱さを嗤《わら》い、とうてい激務には耐え得ないという評価を記録に残すことだろう。
ちくしょう。若槻は道端に落ちていた空き缶を蹴り飛ばした。空き缶は風にあおられて、騒々しい音を立てながら遠くまで転がっていった。
アパートに着くと、エントランスにある郵便受けから夕刊を引き抜いた。他に何か郵便物が入っている手応《てごた》えがあった。
ダイヤル錠を開けると、中から封書が三通出てきた。うち二通は外車のディーラーと御見合い仲介業者のダイレクトメールだった。だが、三通目は彼のよく知っている筆跡の手紙だった。恵からだ。
現金なもので、何となく足取りが軽くなるのを感じる。部屋に入って、玄関の鍵を閉めると、台所で立ったまま手紙の封を切った。封筒の上部は、妙にごわごわしていた。
手紙の中身自体はたいした内容ではなかった。この前パピルス料理店の前で気まずい別れ方をしたので、仲直りのつもりなのだろう。直接そのことに触れることなく、彼女が家で飼っている二匹の猫、シュレディンガーとペトロシアンの間に子供が生まれたことなどが、恵の几帳面《きちようめん》な筆跡で便箋二枚にわたって、ぎっしりと綴《つづ》られていた。
だが、ふと手紙の日付けが気になった。六月十五日の土曜日となっている。恵が書いてすぐに投函《とうかん》したとすれば、月曜日中には着いているはずだ。配達されるのが三日ほど遅すぎる。
封筒の手触りがおかしかったことを思い出した。若槻はテーブルの上から封書の破り取った上の部分を拾い上げた。
紙が一度濡れてから乾いた跡のように、少しごわごわになっている。だが、梅雨時でもあり集配の途中で濡れることもありうる。
今度は封筒の糊代《のりしろ》の部分をていねいに引き剥《はが》して調べた。すると、本来糊がついていないはずの部分まで接着されていることがわかった。
恵はいつも、指に水道の水をつけて封をする。別の糊を使うことは、あまりないはずだった。
もちろん、絶対に別の糊を使わないとまでは言い切れない。だが、配達されたのが遅すぎることと封筒に濡れた跡があることを考え合わせると、誰かがこの封筒を湯気で開けもう一度糊で封緘《ふうかん》した可能性が強い。
若槻は二通のダイレクトメールを持って玄関を飛び出し、階段を駆け降りた。郵便ポストにダイレクトメールを放り込んでから、投函口から指を突っ込んでみた。
指先が封筒の端に触れた。ポストの幅が狭いので、封書サイズの物はどうしても中で縦になるのである。人差し指と中指の二本でつまむようにすると、封筒を持ち上げて投函口から引っ張り出すことができた。その間ほとんど十秒とかからない。
頭にかっと血が上った。菰田に恵の手紙を盗み読まれたと思うと、はらわたが煮えくり返るような気分だった。だが待てよと思い直す。はたしてこれが初めてだったのだろうか。
記憶をたどってみても、ここしばらく恵を含めて友人知人から手紙が来ることはなかった。だが……。
若槻はNTTからの口座振替の通知書に思い当たった。そういえば、今月はまだ目にしていない。
そうか。やっと謎が解けた。菰田は、NTTの通知書を見て若槻の電話番号を知ったに違いない。恵の手紙は返しておかないとバレると思ったのだろうが、NTTの方はなくなっていても気がつかないはずと、たかをくくっていたのだろう。
真相がわかっても、具体的な対応策は何も思いつかなかった。とりあえずは恵に電話して、手紙は当分支社宛てにしてもらわなければならないだろう。
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6月24日(月曜日)
曇りがちではっきりしない天気が続いていた。
若槻はマーマレードを塗ったトーストを機械的に咀嚼《そしやく》し、コーヒーバッグで淹《い》れた薄いブルーマウンテンで胃の中に流し込んでいた。
テーブルの上に置いてあるパナソニックのCDラジカセからは、七〇年代のプログレッシブ・ロックが流れている。
ピーター・ハミルのニューロティックなダミ声は、およそ朝聴くには似合わないものだったが、音楽でもかけていないことには動き出そうという気力さえわいてこないのだ。かといって、明るい曲を聴くとよけいに鬱陶《うつとう》しい気分が増した。
テーブルの上には日本経済新聞の朝刊を広げてある。だが、一通りヘッドラインを眺めただけで、あとは読む気が起きなかった。
サラリーマンが朝刊を読まなくなるのは鬱病《うつびよう》への第一歩であるという、どこかの精神科医の意見が頭をかすめる。
若槻は腕時計を見ると、トーストの残りをくわえたまま上着に袖《そで》を通し、食器を流し台に持っていった。今日もまた憂鬱な一日が始まる。考えまいとしても、今日の昼、何が起こるだろうと想像しないわけにはいかなかった。
菰田重徳は相も変わらず毎日支社に現れる。もともと口数が少なかったのが、ここ数日はますます寡黙になったような印象があった。椅子に座っても、ほとんど一言もしゃべらず若槻を凝視しているだけなのだ。
表面上は静かであり、この間の自傷行為のような騒ぎも起きていなかった。だが、水面下ではますますテンションが高まりつつあるのを感じる。金石の警告はずっと彼の耳に焼きついていた。
あの男は、あなたを殺す危険性があります。
そういえば、ずっと以前に支社の窓口に匕首《あいくち》を持った男が現れたことがあったらしい。その時は大変な騒ぎになったと葛西副長が言っていた。
菰田も、いざという時には、自分を刺すつもりなのか。左手はほとんど使えないはずだし、右手にも包帯を巻いている。かりにどこかに刃物を隠し持っていたとしても、取り出すのはスムーズにはいかないだろうし、カウンターを乗り越えてこようとする間に若槻が逃げ出す時間は十分にあるはずだ。
だが、窓口担当の女の子たちはどうなるだろう。もし、菰田が無差別に襲ってきたとしたら……。
馬鹿な。いったい何を考えてるんだ。
若槻は、とめどなく広がっていく自分の妄想にピリオドを打つようにCDラジカセのスイッチを切った。とたんに周りが静かになり、無防備になったような気がした。
強迫的に何度も、台所の小窓やベランダの戸締まりを確認する。レンズ越しにドアの外に誰もいないことを確かめ、出勤のためにアパートの戸口を出た。
支社に着いたのは始業時間の二十分前だった。葛西だけがすでに出勤していて、がらんとした総務室の中に電話で話す声が響いていた。しゃべり方からすると、相手は社内の人間らしい。
「それは、ようわかりますけど。しかし、こっちでは、あとで責任よう取りませんで。いや、それはまあ、そう言われたら、本社の決定いうことですから……」
葛西の机の横には、薄汚い綿布の袋がいくつか無造作に放り出してあった。子供が一人すっぽり入れるくらいのサイズである。一日二回やって来る本社便や営業所便を入れる袋だ。
机の上には、袋に入っていたたくさんの封筒や書類が山積みになっている。葛西はついさっきまで、便の封筒を開けて中の書類に日付け印を押すという作業をしていたらしい。本来は女子職員の仕事だが、朝早く出勤した時には葛西が代わってやることも多かった。
葛西は受話器を耳に当てたまま、若槻を手招きした。手元を指さす。そこには一枚の藁半紙《わらばんし》の印刷物があった。
若槻が手に取って見ると、それは本社からの保険金の支払い決定の通知書だった。ボールペンで書き込まれていた名前を読んだ。
菰田和也。S60年、5月28日生。こども保険『すくすく』。記号番号……。
馬鹿な。若槻は呆然《ぼうぜん》とした。菰田重徳に保険金を支払う。本社はいったい何を考えているんだ。
しばらくして、葛西が憮然《ぶぜん》とした表情で電話を置いた。
「どういうことなんですか?」
若槻は色をなして葛西に詰め寄った。葛西に文句を言うのは筋違いだということはわかっていたのだが、どうしようもなかった。
「見てのとおりや。本社は支払い決定をした。まちがいではないそうや」
「しかし……なぜ?」
「警察がな、本社からの問い合わせに対して、菰田和也の死は自殺やったと思われると正式にコメントしたそうなんや。警察がそう明言している以上、いくらうちだけが怪しいと言ったかて、どうもならんわ。裁判になったら、勝ち目はゼロやしな」
馬鹿な……。
若槻は椅子の上に崩れるように座り込んだ。それでは、今まで頑張って来たのは何のためだったんだ? みすみす人殺しに生命保険金をくれてやるためだったのか。
皮肉なことに、これで、若槻を悩ませていた問題はすべて解決したことになる。もう昼休みごとに菰田の訪問に脅えることもないし、アパートの郵便物を抜き取られる恐れもない。何よりも、菰田の復讐《ふくしゆう》を恐れて転勤しようかどうしようかと思い悩むこともないのだ。
だが、それは若槻が心から待ち望んでいたものではなかった。十二指腸|潰瘍《かいよう》になりそうな緊張にずっと耐えてきたあげくに、訪れたのは、カタルシスではなくただの虚脱感だけだった。
「気持ちはわかるけどな。もうちょっとたったら、菰田のおっさんに電話したれ。たいへんお待たせいたしましたが、支払いが決定になりましたから、もう、わざわざこちらまで、足をお運びいただくには及びません、いうてな」
ふざけたような口調とは裏腹に、葛西は苦汁を嘗《な》めているような表情だった。
物言わぬ遺体となった少年の姿が若槻の脳裏に浮かぶ。
申し訳ない。まさか、こんな結果になるとは思わなかった……。
若槻は目をつぶって、心の中で手を合わせた。
支払い決定を電話で伝えた時の菰田重徳の声は、それまでとは別人のような愛想のよさだった。何度も、すんまへん、助かりましたと繰り返す。まるで命の恩人に対するような大げさな感謝のしかただった。
若槻の方はと言えば、殺人者から礼を言われる屈辱に歯を食いしばって耐えていたのだが、菰田は、そんな若槻の心情を知ってか知らずか、いつまでも電話を切ろうとせず、くどくどと礼を繰り返すのだった。
五百万円はその日の午前中に菰田幸子名義の信用金庫の口座に振り込まれた。
「……しかし、まあ、よかったじゃねえか。これで一件落着なんだから」
当初から菰田事件にかかわっていた、木谷、大迫の両次長と、葛西、若槻の四人だけが集まったミーティングで、大迫が沈滞した暗いムードを吹き飛ばすように言った。
「野郎にみすみす五百万くれてやったのは、たしかに胸くそ悪いがよ。これ以上、毎日やって来られるのも、かなわねえだろう?」
「まあ、それは……たしかに、そうなんですが」
若槻の歯切れの悪さに木谷も苦笑した。
「まあ、あんたが、菰田をクロやと信じてるのは、わかる。わしも、実際にその現場におったら、やっぱりクロやと思ったかもしれんわ。しかし、警察が、シロやと認めた以上はな、やっぱりシロなんや」
「いや、警察は、菰田がクロであると立証できなかっただけです。シロだというのとは違いますよ」
若槻は硬い声で言った。赴任以来、彼が木谷に口答えするのは、これが初めてだったため、木谷は鼻白んだ。
「とにかく、だ。一件落着だよ。一件落着。もう、これで、菰田という男とも、すっぱり縁切りだ」
大迫がとりなすように大声を出したが、思いがけないところから異論が出た。
「本当に、一件落着ですやろか?」
「え?」
葛西はじっと腕組みをしていた。たくましい前腕の筋肉が緊張して、白くなっている。
「ひょっとしたら、まだ、これからかもしれませんで」
「どういうことだよ?」
葛西は応接室のテーブルの上に置いた契約内容のプリントアウトを指し示した。
「菰田重徳と菰田幸子には、まだ二件の契約が残っとるんでっせ。しかも、こっちは、それぞれ三千万ですわ。たしかに、保険料の支払いには困っとったようやが、五百万の保険金が入った以上、それも問題やないでしょう」
「ちょっと待てよ。まさか、また、やるってのか?」
大迫は、信じがたいという顔になった。
「いくらなんでも、これだけ、すったもんだした後だぜ? 向こうだって、警察にマークされてることぐらい、わかってるだろう?」
「普通の人間とは、どだい、神経も考えることも違いますんや。むしろ、今回、保険金が支払われたことで、証拠さえ残さんかったらええんやと、自信を深めとるかもしれませんわ。わしは、可能性、なきにしもあらずと思います」
若槻は戦慄《せんりつ》した。どうしてもっと早くその可能性に気づかなかったのだろう。
「私も、ありうる……と言うより、ほとんど時間の問題だと思います」
「おいおい。若槻までかよ」
「そこまで言う根拠は、何かあるんか?」
木谷が厳しい顔になった。
「彼らには、もともと、保険のニーズなどありません。にもかかわらず、自分から保険に加入し、しかも、あれほど金に困っていた様子なのに、苦労して保険料を払い続けていたのは、最初から、犯罪による保険金の詐取を目的としていたとしか考えられません。そうでなかったら、とっくに失効させるか、解約しているはずです」
生命保険犯罪の際立った特徴の一つとして、同様の犯行を繰り返すという点がある。実際、一度だけならバレなかったと思われるのに何度も同じ手口を使ったために発覚して逮捕されたという例は、枚挙に暇《いとま》がないくらいだ。
菰田家の経済状態からして、五百万円の保険金を使い果たせばそれ以上保険料を支払い続けることはできないだろう。つまり、次の犯行はそれまでに行わなくてはならないということになるのだ。おそらくは一年以内に。
「恐ろしいこと言うな。ええ? しかし、たしかにそうだな。すると、やつは、今度はカミさんを殺《や》るってわけか……」
「大迫さん。めったなことは、言わん方がええですわ」
木谷は苦い顔をしてたしなめた。
「さっきも言うたように、菰田氏は、シロやったんですわ。それを、憶測だけで、人殺しをすると決めつけるようなことを言うと、名誉|毀損《きそん》にもなりかねません」
「しかし、現実に、その可能性が高い以上は……」
木谷は若槻が言いかけたのをさえぎった。
「勘違いしたらいかん。うちは、警察とは違うんや。警察なら、犯罪を未然に防ぐのも仕事のうちかもしれん。しかし、保険会社には、そこまでの責任はない」
今度の木谷の声には有無を言わせないものがあった。結局それが結論となり、一同は散会した。
若槻はいつしか、あの鈍重そうな菰田幸子という中年女性が哀れになっていた。
小坂重徳のような恐ろしい男と結婚してしまったばっかりに、たった一人のわが子を殺されてしまい、今度は、自分の命までもが風前の灯火《ともしび》となっている。
見過ごしにしていいものだろうか。
たしかにそれは、木谷内務次長の言うように、保険会社の領分を越えた仕事かもしれない。だが、責任はまったくないと言えるのだろうか?
そもそも、きちんとした審査を経ずに菰田重徳のような人間と保険契約を結んでしまったこと自体、保険会社の過失とは言えないだろうか。そのために殺人を誘発してしまったとしたら、保険会社は間接的に犯行に加担したに等しいのではないか。
その日、若槻は、仕事をしながら一日中自問自答し続けた。
6月28日(金曜日)
若槻の周囲にはほぼ一か月半ぶりに平和な日常が戻ってきた。保険金が支払われてからは、菰田重徳が支社に現れることはなかった。毎晩の無言電話もぴたりと止んだ。
若槻は、緊張から解き放たれたことにより神経症的な行動からも解放された。アパートにいる間中、たえまなく音楽をかけたり、一日に数十回、戸締まりを確認することもなくなった。
「あんたの顔付き、だいぶマシになってきたな」
葛西は、若槻を見ながらしみじみと言ったものだった。
「あんたは自分では気がついてなかったかもしれんけどな、ちょっと前までは、話してる途中で、顔がぴくぴくっと痙攣《けいれん》することがあったんや。……チックいうんか? このまま行ったら、ノイローゼにでもなるん違うか思って、心配してたんや」
だが、直接身に降りかかってくる脅威は消失したとはいえ、内心の葛藤《かつとう》は、むしろ強まる一方だった。
菰田和也の殺害(と彼は確信していた)に関して第一発見者として利用され、しかも事件が完全犯罪に終わってしまったという事実は、若槻の心の中でいつまでも重苦しく疼《うず》いていた。
しかも、事件は終わったはずなのに、あいかわらず若槻は毎晩、蜘蛛《くも》の夢を見続けていた。蜘蛛の巣から吊《つ》り下げられているのは、すでに干からびてしまった子供の死骸《しがい》が二つだった。
菰田和也の死について究明できなかったことで、若槻の中では兄を見殺しにしたという罪悪感が再び彼を苛《さいな》むようになっていた。それが二つという死骸の数に顕れているのだろう。
夢の中では、蜘蛛の巣が、ぶるぶると震え始めていた。早くも次の獲物がかかったのだろう。どこにいるのかは見えないが、逃れようとして必死で暴れているらしい。すると、巣にもう一つ別の振動が加わった。それはしだいに大きくなり、遂には巣全体をゆさゆさと上下に揺さぶるような動きになる。獲物の振動を聞きつけて、遠くから巨大な蜘蛛が戻ってくるのだ。
巣はなぜか明るい地面の上にうっすらと影を落としていた。やがてその上で、八本足の、グロテスクにデフォルメされた蜘蛛の姿が、ゆらゆらと揺れながら、大きく迫ってきた……。
びくっとして飛び起きた時には、たいていびっしょりと寝汗をかき、心臓が早鐘のように打っていた。
夢の意味するところは明らかなように思えた。若槻に対して次の犠牲者が出る前に何らかの行動をとれと言っているのである。それは無意識が自己防衛のために作り出したメッセージに違いない。もしこのまま看過して次の犠牲者を出した場合、彼の精神的外傷がますます深刻化してしまう可能性があるからではないだろうか。
では、具体的に、どうすればいいのだろうか。
熟考した挙げ句、彼は一つの結論に達した。
彼は支社から帰るとワープロに向かった。
六、七年前の人気機種でもあり市場には何万台も出ているはずだから、ワープロの文字からこちらの正体が発覚するとは思えない。いざとなったら、同じワープロはいくらでもあるとつっぱねればいい。それに、相手が警察に届け出るという可能性はほとんどないはずだ。
慎重に文案を練り細かい部分の言葉づかいを何度も手直ししながら、若槻は短い手紙を打った。
[#ここから2字下げ]
はいけい。菰田幸子さま。
とつぜん、このようなお手紙をさしあげて、おどろかれたことと思います。
五月に和也くんが亡くなったことは、深くおくやみもうしあげます。さぞかし、お悲しみのことと思います。しかし、和也くんは、自殺したのではありません。
私は、けいさつにつとめている者ですが、ある理由で、和也くんは菰田重徳さんによって殺されたと、信じております。
あなたは、菰田重徳さんが、かつて九州で、保険金を受け取るために、わざと親指を切り落としたことを、ごぞんじでしょうか?
重徳さんは、自分だけでなく、平気で人を殺したり、きずつけたりすることができる人間なのです。
菰田和也くんは、重徳さんにとっては、血のつながらない子供です。重徳さんは、保険金をだまし取るために、和也くんを殺したのだと思われます。
私が心配しているのは、あなたにも、保険がかかっていることです。重徳さんは、あなたも殺そうと考えているようなのです。
けいさつでは、重徳さんをしらべましたが、ざんねんながら、しょうこがありません。このままでは、あなたまで殺されてしまうと思ったので、この手紙を書きました。
とても信じられないでしょうが、いちど、よくお考えになってみてください。もし、どうしても重徳さんと別れることができないならば、保険金の受取人を重徳さんとは違う人にするか、解約してしまう方がいいと思います。
どうか、くれぐれも気をつけてください。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]けいぐ
偽の身分を騙《かた》っていること。何の証拠もない誹謗《ひぼう》中傷。まるっきり怪文書だと若槻は苦笑した。幸子の読解力を考えてひらがなを多くしたために、ますます怪しい感じがする。まさか自分がこんな手紙を出すことになるとは夢にも思わなかった。
若槻は、念のためにビニールの手袋をはめて、プリントアウトした用紙を折り畳んだ。最もありふれた安物の茶封筒に入れ、八十円切手とワープロで住所を打ったシールを貼りつける。
どこで投函しようかと考える。三日後に研修のために東京へ行く予定になっているため、新幹線に乗る前に京都駅で出すことにした。まさか、それまでに殺人が行われてしまうということはないだろう。
保険会社の職員としては、自分のやっていることは常軌を逸しており、下手をすれば懲戒解雇ものだった。
これはあくまでも、自分自身の心の負担を和らげるための便法なのだと、若槻は心の中で繰り返した。
手紙の内容を菰田幸子が信じなかった場合、あるいは信じても有効な手段が取れなかった場合、おそらく彼女は殺されるだろう。だが、そこまでは自分の責任ではない。警告したことによって義務を果たしたのだから。
もっとも、いざそういう事態が発生した時、そう思えるかどうかは、はなはだ疑問だったが。
7月1日(月曜日)
新幹線を下りてJRに乗り換えながら、若槻はとまどった。少し見ない間に、東京が見知らぬ異国へと変貌《へんぼう》してしまったようだった。
だが、いくら変化の激しい現代でも、ほんの一年半で街自体がそれほど変わるはずはない。大きく変化したのは自分の感じ方なのだろう。
京都も大都市ではあるが、町中には大きな川が流れており緑も多く残されている。ぎりぎり人間が人間らしく生きる環境を保つのには、あのぐらいのサイズが適当なのかもしれない。
東京は、あらゆる面で一線を踏み越えてしまっている。まるで巨大で複雑な迷路を見ているような気がする。
若槻は、新宿にある本社に顔を出してから、京王線に乗って調布にある研修センターに行き、久しぶりに集まった懐かしい面々と再会した。
同期入社でも、現在の勤務地は、北は稚内《わつかない》から南は沖縄まで日本全国に散っている。
遠いところからやって来たやつほど大げさにはしゃいでいたが、本社勤務の人間はさほどの感激もないような顔だった。自分も一年半前はこんな顔だったのだろうかと若槻は思った。
研修はお定まりのものだった。いくつかのグループに分かれて、『生命保険と損害保険の相互参入解禁に際し、いかなる戦略で臨むべきか』というテーマについてグループ内で深夜まで討議し、結論は一メートル四方のクラフト紙に箇条書きにする。翌朝、代表者が全員の前でプレゼンテーションをし、質疑応答とグループ間でのディベートを行うのだ。最後に、全員の投票によって、最優秀賞、優秀賞などを決めて終わりだった。
この程度のことのために、わざわざ交通費と宿泊費をかけて全国から内務職員を呼び集めることもないように思えるが、この研修には、遠い地方で苦労している人間を慰労するという目的もあるのだろう。
職員の中には定年まで地方の営業所長ばかりを歴任して終わる者もおり、なかなか東京へ出て来る機会もない。
七色のマジックペンを片手に、深夜まで気のおけない仲間とわいわい言っていると、久しぶりに心からくつろいだ気分にひたることができた。まるで、高校で文化祭の準備をしていた時のような雰囲気だった。
翌日の昼過ぎに解放されると、仲間たちは三々五々遊びに連れだって行ったが、若槻だけはもう一度本社へ行った。挨拶回りは昨日すませてある。今日は別の用があるのだった。
生命保険会社には、人事課・経理課といったポピュラーな部署のほかに、財務課・有価証券課・不動産課・外国債券投資課などという運用部門もあれば、医務課・数理課などという他の業種では見当たらないような特殊な課もあった。
それぞれが高度な専門知識を必要とするために、地下一階にある資料室には相当な数の書籍が納められている。
若槻は、天井まである開架式の棚の間を歩き回って、ようやく目指す書物を発見した。それほど古い本ではないのに、取り扱いが悪いのかすでに黒い表紙はくたびれページは一部茶色に変色している。だが、開いてみると、その茶色い部分はコーヒーか何かの染みだとわかった。
彼は自分で貸出簿に記入して、その『生命保険犯罪事例集』というタイトルの本を持ち出した。規則を厳密に解釈すれば、本社か近郊の支社の勤務でないと借り出すことはできないのだが、実際の管理は甘く、咎《とが》められることはまずなかった。返す時は、支社便で本社勤務の仲間に送って、資料室に戻しておいてもらえばいいだろう。
自分でも、なぜこんな本を借り出す気になったのかよくわからなかった。
菰田事件にはすでに一応の決着がついている。他にも懸案となっている仕事は山と残っていた。いまさらこんな本を読んでどうなるというのだ?
答えが出ないまま、若槻はボストンバッグに本を入れると総武線に乗った。運よく座ることはできたのだが、さすがに『生命保険犯罪事例集』を開く気にはなれなかった。東京にいる間だけは彼らのことを考えたくはなかったのだ。
船橋駅で電車を降りた時には、まだ日は高いものの夕方になっていた。
すぐに実家に向かうつもりだったが、まだ母親が営業所にいるかもしれない時間だった。どちらも徒歩十分ほどの距離だったので、ぶらりと行ってのぞいてみることにする。
昭和生命の船橋営業所は、町の中心部から少し離れたところにあるビルの一階にあった。若槻が入っていくと、新人らしい眼鏡をかけた女子事務員が「いらっしゃいませ」と声をかけた。
「こんにちは。京都支社の若槻です。若槻伸子の息子なんですが」と言うと、うろたえ気味に立ち上がって、そうなんですかとか、うそーとか騒ぎ立てたが、椅子をすすめるでもお茶を出すでもなく、どうしたらいいのか見当もつかない様子だった。
若槻が呆《あき》れて見ていると、当の母親が、営業所に帰ってきた。
「あれ。慎二?」
「ただいま」
「何で、こんなとこにいるの?」
若槻は腹を立てた。
「研修で帰ってくるって言っただろう?」
「今日だったっけ?」
「今日だよ」
母親はそうだったっけと繰り返しながら、「所長さんは?」と事務員に聞く。「今日は、もう帰りません」という返事を聞いて、勤務日報にその日のできごとを書き殴り、若槻に向かって「さあ行こうか」と言う。
どう見ても千葉支社で一、二を争うような優績者には見えなかったが、以前に所長から聞いたところでは、こと保険のお客さんとの約束となるとどんな小さなことでも絶対に忘れないということだった。
「今日、帰ってくるって知らなかったから、夕飯の用意、してないよ」
「知らなかったじゃなくて、忘れてたんだろ?」
母親は若槻の抗議を無視して続けた。
「だから、すき焼きでも、食べ行こか」
すき焼き屋に入って母親が名前を告げると、不思議なことにさっと座敷に通された。予約が入っていたのだと若槻は気がついた。
久しぶりに息子が帰ってくるのを母親は楽しみにしていたのだろう。それを認めるのが照れ臭くて、彼が帰ってくるのを忘れていたなどと嘘をついたに違いない。
ビールで乾杯すると、母親はしきりに若槻に肉を食べろと言った。
「もう子供じゃないんだから、いいよ。この年になると、少しは体重のことも気にしなきゃならないんだよ」
「あんた、今、何キロあるの?」
「七十四キロ」
「ふーん」
母親は不審げな目で若槻を見た。
「でも、何か、痩《や》せたみたいだねえ?」
「そう?」
「頬《ほお》のあたりが、げそっとしてるよ」
「いいんだよ。その分、腹が出てきたから」
母親はそれでも、若槻の椀《わん》にどっさり肉や葱《ねぎ》を入れた。
「保全の仕事、大変じゃない?」
「そうでもない」
「でも、最近は、いろいろとあるでしょう? うちの支社でも、こないだあったのよ。あれが……ほら、保険金殺人……」
「殺人?」
若槻はぽかんと口を開けた。
「じゃなかった……詐欺。夫婦|喧嘩《げんか》の後で、夫が遺書を残して蒸発して、奥さんが、保険金を請求したのよ。ところが、実は、初めっからグルで、夫は東北のパチンコ屋で偽名で働いていたのよ」
「ああ……。よくある話だ。どっちみち、失踪《しつそう》宣告が出るまで七年はかかるから、その間は、保険金は支払われないよ」
「そんなことも、よくあるの?」
「ああ。いや、うちでは、あんまりないな。何てったって、京都は千年の都だからね。都人っていうのはみやびだから、犯罪は、それほど多くないんだよ」
「そう。だったら、暇なの?」
「ああ。暇。暇」
「それで、高いお給料もらえるなんて、いい身分だね」
「本当だね。うちの会社は、太っ腹だ」
若槻の言うことを母親が本気にしているはずはなかった。だが少なくとも、本当のことを言うよりはよけいな心配をかけないですむはずだった。
いまでは完全に立ち直っているとはいえ、十九年前のあのショックを母親に思い起こさせるようなことだけはしたくなかったのだ。
7月3日(水曜日)
若槻はボストンバッグを持って、アパートの階段を上ったところで足を止めた。黒いゴミ袋が一つ若槻の部屋のドアの前に置いてあった。
四十五リットルのペール缶サイズの袋らしい。若槻がゴミ出しに使っているのと同じものだ。袋の中ほどを白い荷造り用のナイロンの紐《ひも》で縛ってある。口のところをよく見ると、袋は二重になっているようだった。
若槻はそっと靴の先で袋をつついてみた。たいして中身は入ってないらしく軽かった。
何だろうか。まさか、アパートの住人の誰かが、ゴミを下まで持って行くのを面倒臭がって、若槻の部屋の前に放置したわけではないだろう。
若槻はしゃがんで、袋の結び目に手をかけた。固結びになっているため簡単には解けそうもない。
ビニール袋を破ろうとした時、部屋の中で電話の呼び出し音が鳴っているのに気がついた。若槻は立ち上がって部屋の鍵を出した。うっかりして研修に出かける前に留守番電話のボタンを押してくるのを忘れていたらしい。呼び出し音は数え始めてから十回を超えてもまだ鳴り続けていた。
夜更けの空気の中で、鍵を開ける金属的な音が響いた。若槻は乱暴に靴を脱ぎ捨てると、大股に台所を横切りベッドサイドに置いてある子機を取り上げた。
「はい?」
受話器からはすすり泣きの声が漏れてきたので、彼はぎょっとした。
「もしもし?」
「若槻、さん……?」
恵の声だ。
「もしもし? どうかしたの?」
恵の返答は、声が小さい上にたえず息をすすり上げているのでよく聞き取れなかった。
「よく聞こえないよ。落ち着いて、話して。何があったの?」
「あのね……。ペトロ……がね。ペトロ……ンの子供たちが……!」
恵はまたわっと泣き出した。若槻は恵の気分が静まるのをじりじりするような気分で待った。ペトロ? 若槻は恵が下宿で飼っている二匹の猫のうち雌の方がペトロシアンという名前だったことを思い出した。たしかこの間、子供を産んだと手紙に書いてあった猫だ。
「ねえ。ちゃんと話してくれないと、わからないよ。ペトロシアンって、君の猫のことだろう? 猫が、どうかしたの?」
また泣き声が大きくなった。
「あんな……あんな、ひどいこと……どうして?」
一足先にショックを予感したのか、心臓がどきどき打ち始めた。若槻の頭の中では何が起こったのかという想像が徐々に形をとり始めた。電話の向こう側で別の声がした。
「若槻さんなんでしょ? わたし、代わりに言いますわ……。もしもし、若槻さん? わたし、石倉ですけど」
電話に出たのは石倉治子さんだった。恵が学生時代からずっと下宿しているアパートの大家さんで、若槻とも顔なじみである。五十すぎの穏やかな人柄の女性で恵に輪をかけたくらいの猫好きであり、恵がいっこうにそこを出ようとしないのも猫を飼ってもいいという条件があるからだった。
「ああ、どうも、ごぶさたしてます。あの、何があったんですか?」
「それがね。ちょっと、何て言うたらええのか、あんまりひどい。恵さんのね、猫ちゃんの首がね……切られてるのよ」
後ろから恵が激しく泣く声が聞こえてきた。石倉さんも涙声になった。
「それも、母親だけやなくて、子猫まで、みんな……。誰が、こんなことしたんやろういうて、さっき、警察に電話したとこなんです。それやのに、警察は、器物損壊やから言うて、おざなりに調書取っただけで……猫は、器物やって言うのよ。でも、こんなん、人殺しと同じやないですか?」
石倉さんが声を震わせているのを若槻は上の空で聞いていたが、ようやく声を絞り出すことができた。
「あの。僕は、今から、そっちへ行きますから」
石倉さんはほっとした声になった。
「そうしてもらえますか? 恵さん、もう、泣き通しで……」
若槻は、二十分くらいで行くと告げて電話を切った。
行く前に確かめておかなくてはならないことがある。若槻は玄関の方を向いた。足がすくんでしまい、なかなか第一歩が踏み出せなかった。だが、早く恵のところへ行ってやらなければならないという思いが、ふんぎりをつけさせる。
ゆっくりと歩いていってドアを開け、ゴミ袋を玄関の中に入れた。深呼吸すると、ゴミ袋の縛ってあるすぐ下の部分を乱暴に引き裂いた。
むっとするような臭気がたちのぼった。血の臭いであることはすぐにわかった。
息を止めて袋の口を大きく広げる。若槻は一瞬だけ中に視線を走らせて、すぐに顔をそむけた。にもかかわらず、その光景は写真のように若槻の瞼《まぶた》に焼き付いた。
数個の白っぽい球状の物体。大きな球のまわりにぐるりと寄り添うようにして、いくつかの小球がある。すべて首の付け根あたりから切断された猫の頭部だった。子猫のほとんどは目を閉じていた。おそらく、何が起きたのかもわからないまま死んでしまったに違いない。
母猫らしい中央にある大きな首は、白濁した目をかっと見開き牙をむき出していた。今でも子猫を守ろうとしているかのような凄《すさ》まじい形相だった。
7月4日(木曜日)
松井刑事は、困ったような顔をしながら煙草をふかし続けていた。すでに若槻が来てから三本目である。
「だからな。そういう細かいことは、プライバシーの問題もあるし、教えるわけにはいかんのや」
貧乏揺すりをしながら応接セットの鉄製の灰皿の上に、灰を落とす。
「この……猫のことはやな、黒沢さんの方からも届けが出てるし、悪質ないたずらとして、きちんと捜査させてもらうわ。そやけど、それとこれとを一緒にするような証拠は、何もないやろう?」
松井刑事は、合板のテーブルの上に載った写真を目の端で一瞥《いちべつ》した。レンズ付きフィルムで撮ったので、フラッシュの光量がたりずやや不鮮明だが、七つの猫の首をはっきりと確認することができる。
「いたずら? 警察では、これを、単なるいたずらとしか見ていないんですか?」
若槻は松井刑事の言葉尻をつかまえて追及した。
「いや。単なるいたずらということやないんや。たしかに、非常に悪質であることは、まちがいないし……」
松井刑事は辟易《へきえき》したようだった。
「でも、このまま放置しておいて、実際に誰か人が死ぬまでは、警察は動かないんですか?」
「いったい、誰が死ぬと言うんや?」
「ですから、先ほども説明したように、菰田幸子さんですよ。三千万円の保険金が、かかってるんですから。それに、この、猫の事件を見てもわかるように、私や、黒沢さんもいつ狙われてもおかしくない状態なんですよ」
「ちょっと、待ってくれ」
松井刑事は、左手で椅子のクッションに抱きつくような格好で、煙草を持った右手を上げた。
「わしにはどうも、あんたの言ってることが、ようわからんのや。もし、かりにやで、もし、菰田重徳さんが、奥さんの幸子さんを殺害しようと考えてるとしようや。なんで、わざわざ、あんたにこんな嫌がらせをするんや?」
「それは……」
若槻はぐっと詰まった。たしかにそう言われると、犯人の意図をきちんと説明することは難しい。
「そうやろ? すでに、菰田和也君の保険金は受け取ってるわけやから、いまさら、こんなことをする理由はない。かといってやな、これから殺人を犯そうかという人間が、わざわざ、自分に注意を引きつけるようなことをするわけないやろ?」
……手紙だ。若槻はやっと思い至った。菰田幸子に宛てて出した手紙が重徳の目に触れてしまったのだ。京都駅で投函したのは朝一番だったから、その日のうちに配達されれば、一日置いた今日、行動を起こしたとしても不思議ではない。
あれだけの男だ。妻宛ての手紙を検閲するくらいのことは、当然考えていなければならなかった。
一応、警察関係者を騙《かた》ったとはいえ、それが嘘であることぐらいはすぐに見破られるだろう。それ以外に事件について知っている人間はとなると、差出人はすぐに見当がつく。菰田はそれを見て逆に、よけいなことをすればお前もこうなるぞという警告を発してよこしたのだ。
ということはやはり、菰田はやる気だということになる。そうでなければ、こんなことをする必要はない。若槻は慄然《りつぜん》とした。菰田はあくまでも妻の殺害を強行するつもりなのだ。
だが、今の時点で警察に手紙のことを明かすわけにはいかないし、言ったところでたいして状況が変わるとも思えなかった。
「わかりました。しかし、相手は平気で人を殺すような人間です。普通の論理が通用するかどうかわかりません。ですから、菰田和也さんの死を、警察が自殺だと断定した理由を教えていただけませんか? それを聞かないと、いつまでも、命が狙われているという疑いが捨て切れないんです。黒沢さんも、事件以来、すっかりノイローゼのようになっています。猫を殺した犯人が、殺人とは関係のない、ただの愉快犯だと言って、安心させてやりたいんです」
若槻は低いテーブルの上に両手をついて、深々と頭を下げた。
「お願いします」
「おいおい。そんな真似しても、あかんぞ」
松井刑事は冷淡な口調で言ったが、若槻はずっと頭を下げ続けた。
窓口業務をやっているせいか、逆の立場に立った時に、どうすれば相手が一番困るか自然に頭が回るようになっていた。どういう事情かはわからないが、松井刑事は府警本部に訪ねてこられるのを非常に嫌がっていた。今日も、まるで誰かに聞かれることを恐れるように小声で話していた。
だとすれば、ここで物笑いの種になることはもっと嫌がるに違いない。
「こら。やめんかい」
刑事たちの大勢いる大部屋の中で、かすかな失笑が聞こえた。みなこちらに注目しているらしい。顔を上げないでも、松井刑事が困惑している様子はよくわかった。
「お願いします!」
若槻はわざと大声を出した。松井刑事は無言だった。もう一度「お願いします!」と叫んだ。笑いが起きた。いいぞ。ほかの刑事たちにはけっこう受けているらしい。まさか、おとなしく頭を下げているだけの人間を力ずくで排除することはないだろう。十秒ごとに叫んでやろうかと思った。それでもだめならここで土下座をしてやる。
「わかった。わかったから、やめい」
松井刑事は、いらだたしげに小声で言った。若槻はようやく顔を上げる。
「一応な、アリバイが成立したんや」
「え?」
「この前、話したやろ。菰田重徳のアリバイや。菰田和也の死亡推定時刻、午前十時から正午までの間、あの男と一緒におったいうやつが、見つかったんや」
若槻は愕然《がくぜん》とした。
「しかし……その男が、頼まれて偽証しているかもしれないでしょう?」
「その可能性は、ほとんどない」
松井刑事はにべもなかった。
「その男は、菰田重徳とは飲み屋で知り合っただけで、ほかに接点はない。我々がようやく捜し当てたんやが、菰田の名前も知らんかったぐらいや。それが、菰田の写真を見ただけで、たしかに、当日、一緒にいたと証言した」
「しかし……」
「まあ、聞けって。その男の証言に基づいて、当日の行動を追ってみた。こいつらは、朝っぱらから、河原でチンチロリンをやっとったんや。ところが、たまたま近くに居合わせて見物しとった暇なやつらが、何人かおったことがわかった。そいつらを捜し出して、裏を取ってある。つまり、五月七日の、午前十時から正午までの間、菰田重徳には、鉄壁のアリバイがあるんや」
頭がくらくらした。何が、どうなっているのか、わからなくなってきた。アリバイ・トリック。現実には、とてもありそうにない。しかし……。
「その……菰田和也君の当日の行動は、どうだったんですか?」
松井刑事は、煙草をくわえたままうなずいた。
「まあ、ついでやから、教えとこうか。この子は、当日は、朝、学校へ行くことは行ったらしい。ところが、学習……遅滞児とか言うんかな、小学五年生で、九九も満足に言えん状態やったというんや。授業がわからんせいやろうな、しょっちゅう、どっかへ行ってしまう。その日も、午前中の二時間目くらいには、もう、姿が見えんようになっとったらしい。学校でも、いつものことやったんで、それほど心配してなかったんやな。一応、担任が家には電話をかけたが、誰も出なかった」
「母親の幸子さんは、どこに行ってたんですか?」
「パチンコや。相当、はまっとったらしい。ちょっと金ができると、買い物に行くと言って出かけては、夕方までパチンコをして帰ってくる。和也君は、昼飯も、カップラーメンばっかりやったらしいな」
死んでしまった少年の哀れさが若槻の胸に迫った。学校でも家でも疎外され、生きていた時でさえ何一つ楽しいことはなかったのではないか。
松井刑事は若槻の心を読んだようだった。
「可哀相《かわいそう》な子なんや。自殺する前日にな、とにかく母親から、きつう叱られたそうなんや。テストの点数が、零点やったかららしいんやけど、母親らしいことを何一つせんと、よう言いよると思うわ。それで、当日、登校して、一時間目の授業で手を上げたらしい。算数の時間やったかな。母親から、授業では絶対手を上げろと命令されとったんや。教師は当てたんやが、当然、答えはわからへん。それでもまだ、手だけは上げ続ける。教師はとうとう切れて、廊下に立たしたそうや。それも、お前なんか、授業の邪魔なだけや言うてな」
若槻は沈黙した。それでは本当に自殺だったのだろうか?
「納得してもらえたかな?」
若槻は、力なく礼を言って立ち上がった。菰田和也の死は本当に自殺だとしか思えなくなってきた。だが、現実に脅威が存在していることは猫の首が証明している。
もしかすると、あの手紙が大失敗だったのだろうか。菰田重徳は本当に無実であったのに、手紙を見て逆上し猫を殺した。
いや違う。無実の人間はそんなことはしない。わざわざ危ない橋を渡って七匹もの猫を殺し切断した首を送り届ける……。単なる嫌がらせでそこまでやるとは思えない。やはりこれは、警告なのだ。
しかしなぜ。
若槻は警察からの帰りに金石の研究室に電話をかけてみた。犯罪心理学者としての意見を聞きたかったからである。
だが、電話に出た女性によれば、金石助手は不在とのことだった。ここ数日間、無断欠勤が続いているのだという。
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[#1字下げ]7月9日(火曜日)
若槻《わかつき》は、受話器を置いてからも、しばらく呆然《ぼうぜん》としていた。この三か月ほどの間に次々と降りかかってきたできごとが、どれ一つとして現実のものとは思えない。
周囲を見回すと、いつもどおり女子職員たちが端末に向かい、書類をチェックし、カウンターで訪れた客に応対している。
腕時計を見た。まだ朝の九時半である。決して丑三《うしみ》つ時でも黄昏《たそがれ》時でもない。平凡で退屈きわまりない日常の支配すべき時間だった。
いい加減にしてくれと、口の中でつぶやく。ほんの一年半前には、東京でごく普通のサラリーマン生活を送っていた。あの頃突発的に入ってくる仕事といえば、社命でカントリーリスクに関する講演会に出席するとか、外国|為替《かわせ》の動向に関するレポートを作成するという類《たぐい》のことだった。少なくとも死体の確認などという忌まわしい作業が、突然午前中の仕事の中に割り込んでくることはなかった。
死亡診断書は毎日チェックしているとはいえ、本物の死体となるとまったくの別物である。物心ついてから今年まで、彼は本物の人間の死体など一度も見たことがなかった。
それが、わずか二か月の間に二つ目の死体である。まして今度は自分の知っている人間かもしれないのだ。
どうせなら、死体確認も支社のルーティンワークにしてしまったらどうだろうか。毎朝出勤して椅子に座ると、ベルトコンベアーになったデスクの上を次々と死体が流れてくる。まだ首に紐《ひも》の切れ端が巻きついたままの首吊り死体。焼け焦げて身体を固く縮めた焼死体。腐敗して三倍くらいに膨れ上がった溺死《できし》体。それぞれ写真と顔、死亡診断書と死因を照合すると、足指に結びつけられた荷札のような書類に印鑑を押す……。
だが、いつまでも座り込んだまま、妄想に耽《ふけ》っているわけにはいかない。
若槻は不承不承立ち上がると、葛西《かさい》と木谷内務次長に警察からかかってきた電話の内容を説明した。
「それで、今から、一応、面通しに行ってきます」
「そうか。まあ、しっかりな……」
木谷も経験のないことらしく、どう言って激励したものかわからないようだった。
「それで、誰なんか、だいたいの見当はついてるんか?」
葛西が声をひそめながらたずねる。
「いやあ。この一年で、名刺は山のように配ってますからね。とにかく顔を見てみないことには」
若槻は嘘をついた。
一度言葉に出して認めてしまうと、それが現実になってしまうような気がした。いやおうなしに目の前に突きつけられるまで、その瞬間を少しでも先延ばししたかったのである。
「すんませんなあ。お仕事中、ご足労いただいて」
松井刑事が、ぱたぱたと扇子で顔をあおぎながら言った。額にはうっすらと汗がにじんでいる。
朝から雨が降っているために湿気が多く、外気温が高くないわりには蒸し暑かった。エアコンの音はしていたが、霊安室の中にはかすかに酸っぱい腐敗臭がたちこめていた。
「今のところ、身元を特定する手がかりのようなものが、他に何もないんですわ。衣服も剥《は》ぎ取られてるし、時計とか眼鏡のようなもんも、何一つ身につけてない。付近を捜索したところ、ただ一つだけ発見されたんが、若槻さんの名刺やったんですわ。まあ、死体に関係あるという確証はないんですが、おたくの会社を訪ねたお客さんかもしれんと思うんで、よう見てもらえますか?」
松井は遺体を覆っていた布を取った。
若槻は一瞬、目を見開いた。それから、横を向くと右手で口を押さえる。左手はハンカチを取り出すために忙しくズボンのポケットを探っていた。
「ははあ……。先に説明しといたほうが、よかったかもしれませんなあ」
松井はのんびりとした口調でそう言うと、脇にいた若い刑事に怒鳴った。
「おい。トイレ、連れていったれ」
若槻は刑事の腕を振り払うと、部屋の隅にある洗面台に駆け寄って嘔吐《おうと》した。
胃液がつんと鼻を刺激する。トーストとコーヒーの残滓《ざんし》をすっかり吐き出してしまってからも、胃袋の痙攣《けいれん》は止まらなかった。
「かなわんなあ。そこで吐かれると、後で排水管が詰まるんやけど」
松井の言葉を聞きながら、若槻は、これがこのあいだ恥をかかせたことに対するしっぺ返しなのだと悟っていた。だとしたら、なおさら逃げるわけにはいかない。
「失礼しました。……電話で松井さんが、面通しと言われたんで、てっきり顔が原形通り残ってるんだとばかり思ってたものですから」
若槻は、口元をハンカチで拭《ぬぐ》いながら必死に平静を装った。
「もう一度、見せてもらえますか?」
「それはよろしいけど、あんた、大丈夫ですか?」
「ええ。もう、朝飯分は、全部出しましたから」
松井は、少し見直したというような顔で若槻を見ると、もう一度布をめくった。
若槻は口を手で覆い、顎《あご》を上げて片目をすがめながら、台の上に載っている物体を見下ろした。
さっきちらっと見た時から、たぶんそうだという気がしていた。だが、ここまで徹底的に顔貌《がんぼう》を破壊しつくされてしまうと、確信は持てない。
「もし奥の方の歯が残ってたら、見たいんですけど」
今度は、松井がひどく嫌そうな顔になった。だが、黙って薄いゴム手袋をはめると遺体の顎に手をかける。
壊れた蝶番《ちようつがい》のようになった顎の残骸《ざんがい》は簡単に開いた。すでに、死後硬直が解けるだけの時間は経過しているようだ。
前歯や犬歯などは完全に消失していたが、右の上顎の小臼歯《しようきゆうし》は残っていた。そこに大きな金冠が被《かぶ》せてあるのを若槻は確認した。
やはりそうか……。
「すみません。もうひとつ。左の手首を見たいんですが」
「心あたりがあるんやな?」
松井は期待のこもった表情になると、遺体の脇の布をめくった。腕は付け根からきれいに切断されており、手のひらを上にして胴体の脇に置いてあった。
「手足は、すっかりばらばらなんですわ。左の手首ですか……?」
松井は蒼白《そうはく》な遺体の左手を掲げて見せた。手首がまるで生きているようにぐにゃりと折れ曲がる。若槻の目は、橈骨《とうこつ》の先端部分にある五百円玉くらいの大きなホクロを見つけた。位置も形も大きさも、記憶の中のそれと正確に一致する。
「わかりました。……もう、けっこうです」
若槻は目を閉じた。さっき吐いたばかりだったが、また胸が悪くなってきた。
「それで、誰なんですか、この人は?」
松井が勢い込んでたずねた。
「金石克己さん……。私の母校の心理学の先生です」
「上で、詳しい話、聞かせてください」
松井の目は、獲物を見つけた猫のように光っていた。
若槻はアパートに帰ってくると、すぐにドアをロックした。大きな音がアパートの廊下に反響する。
少し前までは、学生時代と同じように在宅時にはドアなど開けっぱなしのことが多かった。それが、いつの間にかきちんと戸締まりする癖がついている。
取るものもとりあえず冷蔵庫を開けた。五百ミリリットルの缶ビールを出して、じかに口をつけて飲む。冷たい液体が食道を流れ落ちて行き、ほてった胃の熱を冷ますのを感じる。ようやくほっと一息をついた。
それから、突然心配になって、アパートの通路に面した台所の小窓が、きちんと施錠されているかを確認する。
本来のクレセント錠以外にボルト式の面付け錠が上下に二つついており、すべてロックされていた。ある晩、菰田重徳《こもだしげのり》がガラス切りで穴を開けクレセント錠をはずして入ってくるという不吉な夢を見て矢も楯《たて》もたまらなくなり、わざわざ出勤前に近くの金物屋へ行って、錠を買ってきたのだった。
だが、しばらくたってから冷静になって考えると、ガラスには鉄線が入っており、錠を追加したりせずともそう簡単には侵入できないことがわかった。
今も、自分の被害妄想じみた行動が急に恥ずかしく馬鹿げたものに思えてきた。若槻は背広を脱いでベッドの上に放り投げ、ネクタイをゆるめただけでテーブルに向かって腰を下ろした。
彼は、金石の無残な遺体を見せられた衝撃からまだ立ち直っていなかった。
松井刑事の言葉が頭の中によみがえる。
「……栄養状態とか、細かい傷の治り具合とかを見ると、おそらく一週間から十日以上監禁されてたと思われるんですわ。その間、水しか与えられんと、かなりひどい拷問を受け続けたようですな」
彼はあおるようにビールを飲んだ。
「生きている時の傷と、死んでからの傷とでは、生体反応を見れば、すぐに区別がつきます。手足をばらばらにされたんも含めて、ほとんどの傷は、生きている間に受けたもんですわ」
「凶器は、刃渡り四十五センチ以上の鋭利な刃物。まず間違いなく、日本刀でしょう。犯人は、マル暴と接点がある可能性が大やな。背中や腹、手足の内側の皮膚には、数ミリ間隔で薄く刻んだ痕《あと》があった。人間の痛覚を司る神経は、ほとんどが皮膚の表面に分布しとるんです。そのことを知った上で、やっとるんやな。やられた方は、もう、地獄の苦しみやったはずですわ……」
生前の金石の姿が目の前にダブった。人間というものに対してあまりにも冷徹でペシミスティックな見方をしているところが好きにはなれなかったし、ホモセクシュアルであるということには抵抗があったが、それでも向こうは自分の身を心配してくれていた。
とにかく、つい最近自分と交渉のあった人物が残虐きわまりない方法で惨殺されたというのは、悪夢としか思えなかった。
それでは、いったい誰が金石をそんな目に遭わせたのか。どんなに考えたくなくとも、避けて通るわけにはいかない問題だった。
あの男に決まっている。頭の中で声が言った。金石は、研究対象として菰田に深い興味を示していた。不用意にあの男に近づこうとした結果、誘拐され、日本刀で一寸刻みにされるはめに陥ったのだ。
だが、菰田重徳は、なぜそこまでしなければならなかったのだろう。あの男は病的な復讐《ふくしゆう》心の持ち主であるとはいえ、基本的には損得勘定で動いているはずだ。もし菰田和也を殺したのでなければ、子猫の首を送りつける必要もないし、ましてや、殺人を犯すなどというのは尾籠《おこ》の沙汰《さた》と言うべきである。
それに、死体が発見された状況もまた腑《ふ》に落ちないものだった。桂川の河原に無造作に投げ捨てられていたのだという。もちろん渡月橋《とげつきよう》の近くのような人通りの多い場所ではなかったが、いかにも発見してくださいと言わんばかりだ。
そして、近くに落ちていた自分の名刺。
もしかしたら、あれもまた警告の意味合いを備えているのだろうか。
しかし、だとしたら何のために。
思考はまた出発点に戻ってしまった。
もう一度整理して考えよう。なぜ菰田重徳はシロだと思われるのか。それは警察がアリバイを確認したからだ。にもかかわらず、あの男がクロだという心証をどうしても拭えないのは、あの部屋で、死体を前にしてこちらの様子をうかがっていた菰田の目があったからだ。あれはもしかすると単なる錯覚だったのだろうか。
事件からすでに二か月以上が経過しているが、その間あのシーンは何度となく想起し夢にも出てきていた。印象は薄らぐどころか、ますます鮮明になりつつあると言っていい。
だが、それは本当に事件のオリジナルな印象そのままなのだろうか。
若槻の中で小さな疑問が生まれた。人間の記憶がいかにあやふやなものであるかはよく知っている。今回のことにしても、もしかしたら後から思い起こすたびごとに自分の勝手な創作が付け加わり、どんどん一方的に記憶をねじ曲げていったのかもしれない。
もしかすると、現在自分が持っている事件の印象は、ほとんど自分が捏造《ねつぞう》したものではないのだろうか。
……いや違う。その点に関してだけは自信があった。菰田和也の死体から重徳に視線を移した時に感じた戦慄《せんりつ》だけは絶対にまちがいない。
論理は完全に壁に突き当たった。ふと、以前に恵から聞いた言葉を思い出す。
「論理や感情が堂々巡りに陥った時には、直感や感覚の方を信じるべきよ」
なるほど。だったらそこから出発してみよう。直感に従えばやはり菰田重徳はクロなのだ。
だが松井刑事は菰田重徳には鉄壁のアリバイがあると言った。警察の目を完全にごまかすような偽装工作がはたして現実に可能なのだろうか。
若槻はしばらく懸命に考えをめぐらせたが、思考は、再び暗礁に乗り上げ、そこからは、にっちもさっちもいかなくなった。
若槻はカバンから生命保険犯罪の事例集を取り出して、テーブルの上に置いた。本社の資料室から借り出してきたものである。
ぼんやりと表紙を眺めてみる。いまさらこんなものを読んだところで新しく得るものなどないかもしれない。だが、現在ほかにできることは何一つ思いつかなかった。
ビールをあおりながら、若槻は多くの犯罪者たちがさまざまな知恵を絞って生命保険金を詐取しようとした物語に目を通していった。しばらく読むうちに、だんだんと内容に引き込まれていった。やがて冷蔵庫から二缶目のビールを出すころには、すっかり集中していた。めったに吸わない煙草に火をつけて、空き缶を灰皿代わりにしながら、無心に活字を追っていく。
一口に保険金犯罪と言っても、保険金殺人、保険金自殺、いわゆる『替え玉殺人』を含む死亡事故の捏造などのほか、保険契約の締結自体に詐欺的要素のあるものなどもあり、かなり幅広い。
その中で、古典的なケースとして挙げられていた『穀物商AM事件』というのがまず若槻の目を引いた。
正確な時と場所は不詳だが、一八八〇年代のヨーロッパの事件であるらしい。早朝、橋の中央で、穀物商AMが右耳後部からの貫通銃創を負って絶命しているのが発見された。財布がなくなっているほか、時計が引きちぎられており、状況からは強盗殺人が疑われたという。AMと同じ宿屋に泊まっていた男が容疑者として逮捕されたが、男は犯行を否認した。
男の容疑は濃厚かと思われたが、予審判事が、偶然、橋の欄干に小さな新しい傷があることに気づいた。川底を浚《さら》った結果、一方の端に大きな石をもう一方の端に拳銃を結びつけた丈夫な紐が見つかった。つまり、欄干から川の方に石をぶら下げて穀物商AMが自らの頭を撃ち抜くと、石の重みで拳銃が引っ張られて川の中に落下するというわけである。
その後の調べで、AMは破産に瀕《ひん》していたために家族のために高額の生命保険に加入したが、自殺免責があることを知って他殺に見せかけようとこうしたトリックを用いたことがわかった。
まさに推理小説を地で行くような事件だが、後にコナン・ドイルがこの話を聞いて、『シャーロック・ホームズの事件簿』の中の『ソア橋』という有名な短編を書いたという落ちまでついている。
事実は小説より奇なりという古典的な箴言《しんげん》が若槻の頭に浮かんだ。現実には、どんな事件が起きても不思議ではないのだ。
これは、『殺人を偽装した保険金自殺』だが、もし菰田重徳が和也を殺害していたとすれば、これとは正反対の『自殺を偽装した保険金殺人』ということになるだろう。そうした例は実際にはどれくらいあるのだろうか。
本をめくっていくと、やや統計が古いが警察庁が、昭和五十三年から六十年までの保険金殺人を偽装方法別によって分類している表があった。
それによれば、総数六十八件のうち、第一位が『第三者による殺人事件偽装』で二十五件である。次が『交通事故死偽装』で二十三件。『その他の事故死偽装』が十八件で、その内訳としては、溺死を装ったものが七件、ガス中毒死と失火による焼死の偽装が各四件、転落事故死偽装が三件となっている。また、どういう方法を用いたのかは定かでないが『自然死の偽装』が二件ある。
つまり、驚いたことに、自殺を偽装したものは見事に一件もないのである。一般的な死因としては自殺はごくありふれており殺人はきわめて稀《まれ》である。ところが、偽装方法に関しては、正反対になるのだ。これはどういうことだろうか。
まず、母集団が六十八件と少ないために、たまたま入っていなかっただけかもしれないという解釈がありうる。また、これはあくまでも、発覚した犯罪の統計であるから、完全犯罪が成功した例の中には何件かの自殺に偽装した殺人が存在していたのかもしれない。
だがやはり、保険金殺人にはもともと自殺を装う例が少ないのかもしれないと若槻は思い直した。期限付きとはいえ自殺免責の存在はネックであり、また殺人を自殺に見せかけることは想像する以上に困難なのかもしれない。
具体的な事例の方を見ると、外国で、ある医師の妻が奇妙な自殺願望に悩んで精神科医にかかったところ、夫の医師が妻に高額の生命保険をかけて自殺するよう催眠術で誘導していたことが発覚したという、非常に珍しいケースがあった。
また、一九八〇年には、日本でも、『自殺偽装前社長殺害事件』というのが起こっている。前記の警察庁の統計からは漏れているが、なぜかはわからない。
倒産しそうになった会社の役員二人らが前の社長が会社を受取人とする合計二億円の保険に加入していることに目をつけ、酒に酔わせた末絞殺して木の枝に吊して自殺を装ったというものだった。ただしこの時は、死因に不審を抱いた警察が捜査して、すぐに犯行が発覚している。
おそらく縊死《いし》と絞殺の場合の顔面の鬱血《うつけつ》や索条痕《さくじようこん》などの違いによって見破られたのだろうと若槻は想像した。菰田重徳はどうやってこの難問をクリアーしたのだろうか。
若槻の思考は激しく揺れ動いた。菰田重徳はやはりシロだったのかもしれない。
菰田が仕事から帰ってきて、たまたま和也の首吊り死体を発見したとする。だが、彼には指狩り族事件で逮捕されたという前歴があった。警察に疑われることを恐れたために、わざわざ若槻を呼び出して第一発見者にしたてたということはないだろうか。
菰田から支社に電話があった時間は午後一時半。菰田和也の死亡推定時刻は、午前十時から正午の間だから、充分、考えられるのではないか。
いや待て。だとすれば、子猫を殺して首を切断したのは、どういう意味なのか。菰田重徳がシロだとすればそこまでやるだろうか。しかも、菰田和也の保険金はすでに支払われている。引き金になったとしたら、菰田幸子に出した手紙しか考えられなかった。
あれは、よけいなまねをするなという警告ではないのだろうか。だとすれば、やはり菰田和也は殺されたのだ。
そして金石も。
だがもし重徳が犯人ではないとしたら……。
本をめくっているうちに、無意識にあるページで指が止まっていた。項目名を読む。『実子毒殺事件(ティルトマン夫人事件)、一九五一年、西ドイツ』
事件の概要を走り読みする。
一九五〇年の六月。エルフリーデ・ティルトマンの夫クルトは災害特約付きの五万マルクの生命保険に加入した。それ以外にもすでに多数の契約に加入していたが、保険金の受取人はすべて妻となっていた。同年九月、クルトは死亡した。
一九五一年の二月に、エルフリーデは息子のマーチンを被保険者として同時に生命保険会社三社と保険契約を締結した。当時のドイツでは十四歳未満の子供の死亡に関しては保険金を制限する規定があったが、エルフリーデはマーチンが十四歳になる前に死亡した時にも保険金の満額を受け取れるようにしてほしいと強く申し出たため、外務員は奇異の念を抱いたという。
一九五一年の三月に、マーチンは十四歳の誕生日を迎え、そして六月に死亡した。エルフリーデは葬儀ではハンカチで目を拭って、悲しみにくれる母親を演じていたが、実は、薬と偽ってマーチンに鉛の溶液を飲ませていたことが判明したのだった……。
突然、若槻の頭の中で金石の言葉がよみがえった。それはまるで金石の魂がこの世に舞い戻って若槻に霊感を吹き込んだかのようだった。
「彼らは、自分の子供にすら愛情を抱かない」
頭の中で閃光《せんこう》がひらめいた。もしかすると、自分はとんでもない勘違いをしていたのではないか。若槻は先入観から菰田重徳を疑ってかかっていた。和也が幸子の連れ子だったからである。だが、もし妻の幸子の方が犯人だったとしたら。
子供が被害者となる生命保険殺人においては、『連れ子殺し』の例が圧倒的に多い。そのことが固定観念となっていたのかもしれない。まさか母親が自分の血のつながった子供を殺すとは思わなかったのだ。
だが、そうした事件はティルトマン夫人事件以外にも現実に何件も起こっているではないか。再婚の邪魔になった子供を銃で撃ち、湖に沈める。逃げ出せないように風呂に入れておいて家に火をつける。
そう考えると、すべてのつじつまが合う。重徳には犯行は不可能だったとしても、幸子なら時間的にも十分やれたはずだ。
若槻の脳裏に鮮明な映像が浮かんだ。まず、あらかじめ欄間に紐を渡しておき、一端に輪を作って隠し持つ。次に何かの口実を作って子供を呼び寄せて、踏み台代わりのキャスターのついた椅子に上らせる。高いところにあるものを取ってくれとでも言ったのだろうか。実の母親の言葉であれば、子供も疑わず言うとおりにするはずだ。菰田重徳ではそうはいかないだろう。
幸子は背後からすばやく子供の首に輪をかける。椅子はキャスターがあるため簡単に蹴り離すことができるだろう。首が絞まると子供はほとんど瞬間的に意識を失い、暴れるいとまもないはずだ。
若槻は無意識に腕をさすっていた。エアコンのスイッチも入れていないのに鳥肌が立っていた。
だが、今自分が考えたことを信じるには、感情的に抵抗があった。
どうしても自分の母親のことを思い出してしまうのだ。父の死後、それまで外で働いたこともなかった母が、保険の外交をして、自分たち兄弟を育ててくれたことを。
子猫を守ろうとしたらしい母猫の必死の形相。
母親は子供を守るものではないのか。たとえどんな犠牲を払っても。
だが、もし金石の説が正しいとすれば、彼らが子供に対して抱く感情は我々が感じるものとは根本的に違うものなのかもしれない。それはせいぜい、昆虫や蜘蛛《くも》が自分の卵に対して抱く程度の感覚に過ぎないのではないか。
自分を捕食しかねない恐ろしい相手の腕に抱かれている赤ん坊の方は、母親の匂いを嗅《か》ぐだけで安心しきって眠りにつくというのに。
匂い……。
幸子の香水のことが、頭に浮かんだ。さらに菰田家にこもっていた異様な悪臭も。
何かが、頭の中で電光のようにつながったようだった。若槻は電話の子機を取り上げると、迷わず恵のアパートの番号をプッシュした。なぜ今まで気がつかなかったのだろう。
「はい……。黒沢です」
呼出音が七回鳴ってから恵の声が聞こえた。まだ十二時前だったが、すでに寝ていたらしい。やはり子猫のことがよほどショックで、まだ尾を引いているのだろうか。
「もしもし。若槻だけど。どうしても、今すぐ、教えてほしいことがあるんだ」
「なあに?」
彼女の声は沈んでいた。
「先月、醍醐《だいご》研究室に行った時に、先生が、『嗅覚障害』と情性欠如者が関係あるというようなことを言われたと思うんだけど」
「きゅう?」
「『嗅覚障害』だよ。臭いを嗅ぐ力が欠損していること。ほら、醍醐先生が話した、Fという名前の学生がそうだったって、言ってただろう?」
「そんなこと、言ってたかなあ。……専門じゃないから、よく覚えてないけど」
ようやく彼女は気を取り直したようだった。
「ちょっと待って。本を見れば、出てると思うから」
しばらくごそごそと本棚を探す音がしていた。若槻はじりじりしながら待った。
「あった。……だけど、これ、定説というわけじゃないわよ」
「いいよ。教えて」
「ええと。情性欠如者と診断された犯罪者の中には、しばしば、生まれつき嗅覚障害の人間が見いだされているということね」
恵は、情性欠如者という言葉を、わざとらしく誇張して発音した。
「それは、なぜ?」
「……一説によれば、赤ん坊のころに、母親の体臭や乳の匂いなどを感じ取ることができないために、感情の正常な発達が阻害されるのではないかということらしいわ」
だとすれば当然、彼らが親になった時にも子供に対して普通の愛情は持てないだろうと若槻は思った。
もちろん、逆に嗅覚障害のある人間が、そろって情性欠如者になるなどということはありえないだろうが……。
「ねえ、どういうこと?」
若槻が説明すると、恵は沈黙した。彼女には、とうてい受け入れられないような考え方であるはずだから無理もないと若槻は思った。
「その奥さん、手首を切った跡があるって、言ってなかった?」
恵の質問は、若槻には意外に感じられた。
「ああ。だけど、どうして?」
「ここに、情性欠如者は、他人だけではなく、自分の命についてもまったく無関心であるため、自殺未遂を繰り返しやすいという記述があるの。……参考になるかどうか、わからないけど」
若槻は一瞬絶句した。
幸子の手首の傷を思い出す。たまたまあれを見たことも彼女が被害者であるという先入観を作る一因だった。幸子が、自殺するつもりで保険金の免責条項について訊ねてきたのだと思い込んでしまったからだ。
だが、あの問い合わせは、幸子自身が自殺するためではなく自殺に見せかけて自分の子供を殺害するためだったのではないか。
そして、すっかり独り合点した心優しい保険会社の主任は、相手の自殺を思い止《とど》まらせようとするあまり、自分の心に残る最悪の精神的外傷までさらけ出してしまったのだ。それを聞いた幸子は、このお人好しを第一発見者にしたてることを思いついた……。
電話を切ってからも、若槻は、しばらく呆然《ぼうぜん》と考え込んでいた。まだ、決めつけるのは早すぎる。すべては仮説の域を出ていない。しかし……。
突然電話のベルが鳴って、彼は飛び上がった。無言電話の攻勢にさらされて以来、かかってくる電話に対してはすっかり恐怖症気味になっていた。恵がまた何か思い出したのだろうか。
深呼吸をして心を落ち着けてから、子機を取る。
「はい?」
「もしもし。若槻さんのお宅ですか?」
声だけで、すぐにわかった。
「はい。先日は、どうもお世話になりました」
「醍醐です。遅くにごめんなさい。もう、お休みだった?」
「いえ。まだ起きてました。先日は失礼しました」
「今、あの作文を読み返していたところなの。それで、気がついたことがあるんで、お電話したのよ。早い方がいいと思って。結論から言うと、あの作文に書かれている夢は、やっぱり異常だったわ」
奇妙な|偶然の一致《シンクロニシテイ》だった。醍醐教授も、自分と同じころ、あの事件について考えていたのだろうか。
「でも、たしか、『ゆめ』を読んだ限りでは、情性欠如であるような感じは受けないとおっしゃってたと思いますけど?」
「ええ。『ゆめ』じゃなくて、『ブランコの夢』という題の方なの。やっと思い出したんだけど、あれは、フォン・フランツの本に出てくる夢に、そっくりなのよ」
マリー・ルイズ・フォン・フランツ女史は、ユングの愛弟子《まなでし》であり、醍醐則子教授がスイスのユング研究所で学んでいた時に、教えを受けた人でもあるのだと言う。
「最初に読んだ時に、すぐに気付くべきだったわ。問題はブランコではなく、むしろ、それに対する感情的な反応なの」
「どういうことですか?」
「あの『ブランコの夢』という作文を、もう一度、最初から読み返してみると、よくわかるわ。『私は、ブランコに、乗って、こぎました』『それでも、こいでたら、もっと、ずっと、上まで、行くようになりました』『私は、すべって、ブランコから、落ちて行きました』『それから、暗い、何もないとこへ、ずっと、落ちて行きました』……」
醍醐教授は、若槻に考えさせようとしているように少し間を置いた。
「『ゆめ』の方と比べると、よりはっきりすると思うけど、単なる動作の説明だけで、情緒的な反応を示すような言葉が、何一つとしてないでしょう? 全体を通して感情表現と言える部分は、わずかに『おもしろくなってきて』という一語だけよ」
醍醐教授の声は、しだいに興奮を強めていった。
「ご存じかしら? ユングが言ったように、夢の中では、空と大地は、無意識のスペクトルの両極を示しているの。同じ無意識でも、空は集合的無意識の領域で、大地の方は、身体的な領域を示しているの。その間を急激に揺れ動くのは、人間にとって、とてつもなく大きなストレスになるはずよ。それなのに、対極の間を行ったり来たりしながら、面白がるだけで何一つ不安を感じていないなんていうのは、まったく異常としか言いようがないわ。特に、一番最後の、闇《やみ》の中に落ちて行くところでは、普通の人間なら恐怖を感じるはずよ。だけど、この人は、ただ『暗い、何もないとこへ、ずっと、落ちて行きました』と言うだけ。これはね、フォン・フランツが分析した夢と、まったくといっていいほど同じなの」
若槻は唾《つば》をのみ込んだ。
「それで、フォン・フランツ女史は、どう言われたんですか?」
「『この人間には、心がない!』と言ったそうよ」
「心がない?」
「フォン・フランツが分析した夢は、実は、有名な大量殺人者のものだったのよ。彼女は、前もって、そのことは知らされていなかったんだけどね」
その晩、若槻は、眠りにつくまでに、さらに大量のアルコールの助けを借りなければならなかった。彼の意識が暗黒の中に吸い込まれていったのは、カーテンの外が白み始めたころだった。
若槻は巨大な洞窟のような場所に立っていた。
目の前には、途方もなく大きな蜘蛛の巣があった。背景になっている無限の闇と同じく、蜘蛛の巣にもまた、限界というものがなかった。支えている点は、どこにもない。ひたすらどこまでも際限なく延びているだけだ。
ああまただと若槻は思った。そこが『死の国』であることはわかっていた。無明《むみよう》の闇を彷徨《さまよ》い続ける死者はこの蜘蛛の巣に搦《から》めとられて、餌食《えじき》にされるのだ。
目の前に何かがぶら下がっている。それが哀れな犠牲者の骸《むくろ》であることはすぐにわかった。
蜘蛛の糸でぐるぐる巻きになった死者は恨めしげな形相でこちらを見ている。その顔は兄のようでもあり菰田和也のようでもあった。すでに死んでいるために生者としての意識はないのだが、蜘蛛に食べられることによっていわば二度目の死を死ななくてはならない。それは死者なりの意識で自らの運命を嘆いているようだった。
蜘蛛の巣がかすかに震え始めた。震えはすぐに大きな揺れへと変わる。蜘蛛が帰ってきたのだ。
いつもなら悪夢はここで終わるはずだった。だが終わらない。若槻は高まる恐怖の中で待ち受けた。とてつもなく大きくおぞましい生き物が姿を現した。
それは、風船のように膨らんだ腹部と八本の節くれだった長い肢を持った生き物だった。巨大な蜘蛛……。ただし顔は違っていた。下ぶくれでひどく鈍重で陰気な女の顔。彫刻刀の切り込みのような目。
夢に特有の奇妙な観念の連合から、これは『女郎蜘蛛』だと若槻は思い込んだ。
女郎蜘蛛は暗黒の中を糸にぶら下がってゆらゆらと揺れていた。情動反応が見られない、という声がした。対極の間を揺れているのに何一つ感じていない。
女郎蜘蛛はぐるぐる巻きになった我が子の骸を引き上げると首筋に食らいついた。
死んでいるはずの子供がかっと目を見開いた。鮮血がほとばしり、女郎蜘蛛の口元からたらたらと滴る。
女郎蜘蛛は苦痛に身を震わせている子供には一切おかまいなしに、舌鼓を打ちながら肉を食いちぎっては咀嚼《そしやく》しうまそうに喉《のど》を鳴らして呑み込んだ。
彼らは自分の子供に愛情を抱かない、という声が聞こえてきた。
心がない。
おぞましい正餐《せいさん》の途中で女郎蜘蛛が、ふと若槻の方へ目を向けた。
恐怖のあまり若槻は絶叫した。そのとたん足場が消失し、彼は暗い闇の中をどこまでもどこまでも落下していった。
気がつくと、ベッドの下だった。下着が汗で、ぐっしょりと濡れている。口の中がからからで悪心《おしん》と頭痛を感じていた。
だが、夢の記憶は、まだはっきりと残っている。まだ、自分が悪夢の中にいるような気がしていた。
若槻は、吐き気をこらえながら立ち上がると、寝室の奥にうずたかく積み上げてある梱包《こんぽう》されたままの段ボールを見た。この中の一つに、大学時代に恵に影響されて読んだ心理学関係の専門書などを入れてある箱があるはずだ。どうせ二度と読む機会もないだろうと放りっぱなしにしてあったのだが……。
若槻は、苦労して段ボールを下ろしていった。中身はほとんどが本であるため非常に重い。しかも表には不精して『書籍』としか書いていないため、一つ一つガムテープを引き剥《はが》して中身をチェックしなければならなかった。
ようやく見覚えのある白い裏表紙が見えた。段ボールをひっくり返して中身を床の上にぶちまける。これだ。ユングの夢判断の本を掘り出してページを繰った。
若槻はようやく何度も蜘蛛の夢を見た理由を悟っていた。
やはりそうだ。『蜘蛛』というのは、世界、運命、成長と死、破壊と再生などを表す一方、夢の中においては、人類の集合的無意識の中で母親のイメージを表す元型である『太母《たいぼ》』のシンボルなのだ。
ユングによれば、『太母』は『母親らしい心くばり、いたわり。女性特有の呪術的な権威。理性を超えた知恵と霊的高揚。助けとなる本能、衝動。慈悲深いものすべて。育《はぐく》み、支え、成長と豊饒《ほうじよう》を促進するすべてのもの』などという肯定的な面と、『すべての秘密。隠蔽《いんぺい》。暗黒。奈落。死者の国。呑み込み、誘惑し、害をなし、運命のように逃れられない、身の毛のよだつもののすべて』などと形容される暗黒面とを兼ね備えている。
最初は人の子を取って食らう悪鬼だったが後に悔い改めて子育ての神に変わった鬼子母神《きしもじん》は、まさにこうした光と影を持つ『太母』そのものだという。
事件以来何度も繰り返して蜘蛛の夢を見たのは果たして偶然だったのだろうかと、若槻は思った。もしかすると、無意識は、最初から犯人は『母親』であるということを察知して訴えていたのではないか。
若槻は、洗面台のところへ行き、リステリンでうがいをした。鏡に映った自分の顔は死人のように青ざめている。
生ぬるい水道の水で顔を洗い、のろのろと着替えをすませる。スーツを着ると、不快な熱気が身体の周囲によどみ、まとわりつく。マウンテンバイクを担いで狭いアパートの階段を下りるだけで、じっとりと汗が噴き出してきた。
だが、御池通りを走ると、朝の微風《そよかぜ》が額の汗を蒸発させていった。
少なくとも意識的には、昨晩まで菰田幸子が犯人であることに気がつかなかった。だが、それも無理はないと思う。何と言っても、最初の菰田重徳の印象が強烈すぎたからだ。
とはいえ、後知恵ではあるが、今になってよく考えてみると、いつも重徳の背後には幸子の影がちらついていた。
死体の第一発見者に仕立てるために、若槻を指名して呼び出したのは、その前に若槻と電話で話して彼のことを知っていた幸子の指示としか考えられない。また、毎日同じ時刻に支社に現れて若槻に圧力をかけるという、異常なまでの執拗《しつよう》さも、どちらかといえば分裂型の性格のように思われる菰田重徳よりは、明らかに偏執型である幸子の方に似つかわしい。さらに自分の手を噛《か》むという自傷行為も、幸子の命令により、しかたなくやったものだとすれば少しは理解しやすくなるような気がする。
ペダルをこいで全身に血がめぐったせいか、少しは頭も働くようになったようだ。
そうだ。K町の小学校で動物が殺され女の子が沼に浮かんでいたという話も、重徳が犯人だとばかり思い込んでいたが、今となってはまったく違う解釈ができる。
抵抗のできない小動物を次々と殺していったのも、やはり菰田幸子の方だったのだ。そして彼女は、歪《ゆが》んだ攻撃性と同時に、自分を嫌疑の圏外に置こうとするような狡猾《こうかつ》さも持ち合わせていたのだろう。
他人を食い物にして生きる人間には、えてして獲物の心の弱みを嗅ぎつける独特の直感が備わっているものである。
菰田幸子もおそらく、そうした直感によってクラスの問題児であった小坂重徳が自我の弱い意志欠如型の人間であることを見抜いていたに違いない。彼女は、目立たないようにこっそり小坂重徳に近づいた。重徳は、疎外された環境の中で唯一彼に関心を示してくれた幸子に気を許し、なついたはずだ。幸子にとって、彼を好きなように操るのは造作もないことだっただろう。そして、彼女が動物を殺した直後には、必ず檻《おり》の近くで重徳が目撃されることとなった……。
よそのクラスの女の子が死んだのも幸子の犯行だと仮定すれば、動機は嫉妬《しつと》だろうと考えられる。自分の境遇と引き比べて、容姿にも環境にも恵まれて幸せな生活を送っている少女が、憎くてたまらなくなったのだ。重徳が、その少女にほのかな憧《あこが》れを示していたことも、憎悪に輪をかけたかもしれない。
遠足の時に、何らかの口実で女の子を遠くまで誘い出す。彼女のような人間にとって、そうした嘘はお手のものだ。そして、擂《す》り鉢《ばち》状になっていて容易に這《は》い上がれないような池に突き落としてしまう。
団体行動の際に、重徳がいつもどこかへ勝手に行ってしまう癖があるのも、計算のうちだっただろう。幸子が重徳のアリバイを証言したのは彼を庇《かば》うためではなく、実は自分のアリバイを作ったにすぎなかったのだ。
若槻は、自分が物語をでっち上げていることはよくわかっていた。すべては憶測の上に憶測を重ねた空中楼閣でしかない。いずれの事件に関しても、菰田幸子の有罪を立証することはおろか、疑わせるに足るような何の証拠も存在しない。
支社に着き六十歳すぎの白髪の守衛に挨拶すると、若槻はマウンテンバイクを昭和生命ビルの裏手にある駐輪場に入れた。朝食代わりに一階のエレベーターホールにある自動販売機で缶コーヒーを買って飲んだ。こめかみを汗が伝った。
とにかく、事件は昭和生命に関する限り完全に終結した。忘れるのが一番いいということは若槻にもよくわかっていた。
だが、その前にやるべきことがあった。一つだけ、どうしても心の中に引っかかっていることがあるのだ。確認するには、ごく簡単な作業が必要なだけだった。それだけすませたら、後は日々の仕事に専念することにしよう。懸案となっている仕事は山積しているのだ。
その日の午前中、若槻は、ひどい二日酔いと頭痛に苦しめられた。給湯室から持ってきた急須にウォータークーラーの水を入れて、茶碗についではがぶがぶ飲んで、大量の書類を機械的に処理していく。
十一時過ぎに書類の山が一段落した時、若槻は顔を上げた。葛西はカウンターで耳の遠いらしい老人の相手をしている。懇切丁寧に書類の書き方を説明している声が、こちらまで聞こえてきた。見回すと、うまい具合に端末も二台ほどが空いていた。
若槻は福祉事務所から郵送されてきた保険内容の照会書を持って立ち上がった。
六人家族の名前と生年月日とが書き込まれており、契約内容を教えてもかまわない旨の両親の同意書が添付されている。おそらく生活保護を申請している家族なのだろう。こちらはコンピューターで契約の名寄せ照会をして、契約がなければ『該当なし』とし、あれば詳しい内容を書き込んで、書式を返送しなければならない。
だが、若槻が端末に向かって最初に打ち込んだ名前と生年月日は、六人家族のうちの誰のものでもなかった。
『シラカワ、サチコ』『ショウワ26ネン、6ガツ、4ニチ』
『白川幸子』は菰田幸子が最初に結婚していた時の名前である。考えてみると、『コモダ、サチコ』や『コモダ、シゲノリ』および『コサカ、シゲノリ』では、すでに照会済みだが、幸子の以前の姓ではまだ一度も検索していなかった。
まさかとは思ったが、画面には十七年前にすでに消滅している契約が一件だけ現れた。消滅原因の欄を見ると、被保険者の死亡により死亡保険金を支払ったことになっている。被保険者は『ヨシオ』という名前の幸子の子供だった。
だが、いったい、どういう状況で亡くなったのだろうか。
生命保険会社各社のコンピューターには、過去に亡くなった何百万人、何千万人という膨大な数の被保険者の死因が分類され記録されている。
『シラカワ、ヨシオ』については古い契約なので詳細を知ることはできないが、コンピューターの画面上には、死因コードの『497』と、事故原因コードの『963』という数字だけが残っていた。
これらのコードは、いずれも、厚生省大臣官房・統計情報部による、『疾病・傷害および死因統計分類提要』を基にして、生命保険協会の死亡率調査委員会が改訂しているものである。
このうち、死因コードの方は、若槻もよく知っている番号だった。嫌な予感が走る。
『497』は他殺を意味しているのだ。
若槻は、いったん机に戻って、引き出しの底から『事故原因コード・ブック』を引っ張り出してきた。
この小冊子では現実に起こり得るであろう、ありとあらゆる死亡事故の状況を想定しているため、分類は詳細多岐にわたっている。『816:操縦力を失った非衝突性自動車交通事故』や『976:法的介入に基づく詳細不明の手段による傷害』など、一見しただけでは意味がよくわからない項目も多い。
『845:宇宙船事故』や『996:戦争行為に基づく核兵器による傷害』といった今日まで一度も使われたことのない『処女コード』もいつの日か出番が来るのをひっそりと待ち続けていた。
紙の上を滑っていた若槻の指が止まる。事故原因コード『963』は、ハンドブックによれば『縊首《いしゆ》および絞首による加害』となっていた。
図書館の機械で十七年前の新聞を検索しながら、若槻は自分はいったい何をしているんだと自問自答した。
今さら昔の事件を知ったところで、何が変わるというものでもない。万が一、いや、百万に一つ犯罪の証拠をつかんだとしても、すでに時効が成立している。
それでもどうしても確かめずにはいられなかった。十七年前では死亡保険金の一件書類もすでに廃棄されているので、図書館で調べる以外に手はなかった。そのために昼食を抜かなくてはならないが、どうせ今日は食欲がない。
しばらくして見つかったのは、夕刊の社会面の隅にある小さなベタ記事だった。『幼児が絞殺される』という見出しがついている。
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四日午前十一時三十分ごろ、東大阪市金岡五丁目の白川勇さん(三〇)方の居間で、長男の義男ちゃん(六)が死んでいるのを、買い物から帰ってきた母親の幸子さん(二八)が見つけ、東大阪署に通報した。同署では、義男ちゃんの首にひものようなもので絞められた跡があることから、殺人事件の可能性があると見て、五日にも司法解剖し、詳しい死因を調べる。
幸子さんは、玄関の戸を開けた時に、勇さんが家から飛び出してきて、そのまま姿を消したと話している。同署では、勇さんが詳しい事情を知っている可能性があると見て行方を追っている。
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さらに翌々日の朝刊には、『幼児殺害で、父親を指名手配』という見出しで短い続報が載っていた。
[#ここから2字下げ]
四日午前に、東大阪市金岡五丁目で六歳の幼児が絞殺死体で発見された事件で、大阪府警は、父親のA(三〇)を、殺人の疑いで指名手配した。
Aは、死体が発見される直前に家を飛び出すところを、妻のS子さんによって目撃されているが、その後の足取りはわかっていない。Aには、二年前に大阪市内の精神病院へ通院していたことがあり、最近では、仕事にも行かず朝から酒を飲むなどして、ふさぎこんでいることが多かったという。
[#ここで字下げ終わり]
まるで、白川勇に精神病院への通院歴があったという事実だけですべての説明がつくというような書き方だった。もちろん、義男ちゃんに生命保険がかけられていたという事実には言及されていない。警察発表を記事にしただけで、ほとんど裏付け取材など行っていないのだろう。
若槻はそれ以降の日付けの新聞を調べていったが、ついに勇が逮捕されたという記事は見つからなかった。
どういうことだろうか。他府県の記事であり、フォローするだけのニュースバリューがないということか、精神に障害のある容疑者の人権に配慮したということなのか。
それとも、白川勇はずっと失踪《しつそう》したままなのか。
はっとする。十七年前といえば、ちょうど菰田幸子が京都の黒い家に引っ越してきた年である。その二つの事実の間に関連はないのだろうか。
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[#1字下げ]7月15日(月曜日)
七月に入り、京都では連日の猛暑が続いていた。
大阪府堺市の小学校で発生した集団食中毒は、この日、病原性大腸菌Oー157によるものと断定された。今後、Oー157関連の入院給付金などの請求が次々と出てくる可能性があったため、保険会社としても決して無関心ではいられない問題だった。
午後二時を回ったところだった。若槻は、汗を拭《ふ》きながら支社に帰ってきた。伏見の営業所長と一緒に顧客のところへお詫《わ》びの訪問に行ってきたのである。外務職員が集金に来る日時を守らなかったために保険契約が失効しかけたという苦情だった。
一歩総務室に足を踏み入れた時、若槻はぴりぴりとした異様な緊張感が漂っているのを感じた。
木谷内務次長の机の周りに葛西と大迫外務次長が集まっており、ぼそぼそと低い声で何事かを話し合っている。そうした雰囲気に敏感な女子職員たちは、私語を交わすこともなく下を向いて、いつもより熱心にデスクワークに励んでいた。
「若槻主任。ちょっと」
若槻が帰ってきたのに気がついた葛西が、厳しい顔で若槻を手招きした。大迫もなぜか憮然《ぶぜん》とした顔つきでこちらを見た。若槻が歩み寄ると、内務次長の机の上には死亡保険金・高度障害保険金の請求書類が置かれていた。木谷は、何か不可解な表情でじっと腕組みをしたままである。
「これを見てみ。我が目を疑うで……」
葛西が硬い声で言った。いつもの陽気な笑みを浮かべようと努力しているのだが、彼の片頬《かたほお》は引きつっているように見えた。
若槻は書類を手に取った。保険金の請求者は菰田幸子。見覚えのある筆圧の強い悪筆のサインがあった。新しく作ったのか、悪趣味なほど大きな印章が押されている。つけ過ぎた朱が、紙の上にべっとりと血のように滲《にじ》んでいた。
名状しがたい不吉な予感がした。請求書式の後ろには、必要な書類一式と郵送されてきた封筒がクリップで付けられている。たった今郵送されてきたばかりなのだろう。病院の診断書には、青鉛筆で傷害部位を示すための簡単なイラストが描き込まれていた。
一目見た瞬間、若槻の体は硬直した。
「ここまでやるかよ? ……普通」
大迫がぼそりとつぶやいた。若槻は返事ができない。
「どっちにしても、請求が出た以上は、こっちとしても対応をせざるを得んやろう。いっぺん見に行ってくれるか?」
木谷が机の上に視線を落としたまま、葛西と若槻のどちらともつかずに言った。
「今回は、わしが行きますわ」
葛西が低い声で言う。
「いや、この一件は、最初から私の担当ですから、最後までやらせてください」
若槻はあわてて志願した。今度ばかりは葛西に甘える気にはなれない。
「今回は特別やからな。悪いけど、今から二人で行ってきてくれ。窓口の方は、新契約から応援を頼むから、大丈夫や」
木谷は瞑目《めいもく》して首筋を揉《も》んでいた。
「わしは保険金課長と話をするわ。設楽《しだら》さんも、びっくりするやろうなあ……」
「いきなり請求書類を郵送してくるんは、いつもの手口やけどな。問題は、用紙をいつ手にいれたかということなんや。こっちは、ついさっきまで寝耳に水やったからな」
タクシーの後部座席を半分以上占領している葛西が、低い声で言った。やり場のない怒りに声音《こわね》が震えているようだ。
「出る前に、太秦《うずまさ》営業所に電話を入れたら、何日か前に突然、菰田幸子が用紙をくれと言って現れたそうなんや」
「それで、黙って渡したんですか?」
「事務員が渡したそうや。それも、ろくに理由も聞かずにや。しかも、こっちには一言の連絡もない。まったく、考えられんわ」
「菰田幸子が来たのは、いつだったんですか?」
「先週の水曜日。『事故』のあった、すぐ翌日や」
葛西はそれっきり押し黙った。若槻も言葉の接ぎ穂を見つけられずにいた。普段は使わないタクシーに乗ったために、病院が近づくにつれ、よけいに緊張が増してくるような感じがした。
菰田重徳が入院しているという西京区の病院は、若槻の記憶するかぎりモラルリスクを疑われるリストには入っていなかった。タクシーの運転手に水を向けてみると、優秀な医師と最新の医療機器をそろえていると地元では定評がある病院らしい。
診断書には、菰田重徳は受傷後すぐに救急車で搬送されたと書かれていたから、自分で都合のいい病院を選ぶことはできなかったはずだ。
タクシーがJRの桂駅から山手の方に入っていくと、目指す病院が見えてきた。高さは三階までしかないが、建坪では前に見た山科の病院の倍以上はある。外壁の塗装もまだ真新しい。
タクシーが病院前のロータリーに入った。駐車場はほぼ満杯で、人の出入りも活発なようだ。
入口近くの案内所で菰田重徳の病室を聞き、ショッピングセンターを思わせるような、ぴかぴかのエスカレーターで三階まで上がった。葛西も、いつになく緊張した様子で、さかんに咳払《せきばら》いをする。
病室の前まで来た時、若槻はこのまま逃げ出したい気分だった。
これ以上、彼らと関わりを持ちたくなかった。世間並みの常識が通用するまともな人たちを相手に、まともな仕事がしたいと切実に思った。
今度の事件はすでに、若槻の生活のさまざまな面に暗い影を落としている。このまま彼らと関わり合いを持ち続ければ取り返しのつかない恐ろしい事態に至るという予感があった。
だが、いまさら引き返すことはできない。ネームプレートを見ると一人部屋らしかった。葛西がドアをノックする。
「はい」
応《こた》えたのは、間違いなく菰田幸子の声だった。
「失礼します」と言いながら、葛西がドアを開けて病室に入った。若槻も後に続く。
「このたびは、大変なことで……」
そう言いかけて葛西は絶句した。低く何度も咳払いをする。若槻は葛西の後ろから、ベッドのリクライニングで半身を起こしている菰田重徳の姿を見た。
重徳の大きな目は、膜がかかったように濁っていた。はたして若槻たちの姿を認めているのかどうかもわからない。皮膚からはすっかり色つやが失われ、支社に毎日現れていたころのような脂気が抜けて萎《しな》びた印象だった。まったく生気というものが感じられないのだ。
若槻の目は、包帯でぐるぐる巻きになった重徳の腕に吸い寄せられた。
両腕とも、肘《ひじ》と手首の中間あたりから先がなかった。
診断書を見た時からわかっていたことではあったが、現実にその姿をまのあたりにし、若槻は吐き気を催すようなショックを受けていた。
「いや、何と申し上げたらええんか……とにかく、大変な事故で、お力落としやと思います。これは、つまらんもんですが、お見舞いですわ」
葛西が持参した菓子折りを渡すと、幸子は嬉しそうに受け取った。
「だいたいのことは、診断書でわかっとるんですが、もう少し詳しく、事故に至った状況を、教えていただけませんやろか?」
「この人は、さいぜんから、工場で裁断機使て働いてたんやわ。それが、この前の火曜日には、何か、機械の調子、悪かったそうなんや。それで、仕事が終わった後も一人で残って、機械の点検をしとったんや。そやけど、ぼおっとしとるから、うっかり刃あをストッパーで止めとくんも忘れとったんや。したら、何かのはずみでスイッチが入ってもうて、この始末や」
菰田幸子が、得々とした口調で『説明』した。そこには、重徳への同情も降って湧いたような災難への怒りもまったく感じられなかった。
「お一人で残業されたのは、上司の方から命令があったんですか?」
若槻が質問すると、幸子は一転してがらがら声でまくしたてた。
「そんなん、命令なかったかて、残ることもあるやないの。この人は、機械の調子が心配やったさかい、確かめようとしたんや。責任感が強いんや」
「それで、事故を発見されたのは、どなたですか?」
「わたしが見つけたんや。もう、夜遅かったからな。ほかに、工場に誰もおれへんかったんよ」
「でも、奥さんは、どうして工場へ行かれたんですかね?」
「この人が帰ってけえへんから、様子見に行ったんや。そしたら、ちょうど事故があったとこで、もうちょっとほっといたら、危ないとこやったんや。それより、何やの? あんた。さっきから、ごちゃごちゃと。また何か、文句でもあるんか?」
「いや、とんでもありません。一応、詳しい事情を、上司に報告しなくてはなりませんので」
幸子の剣幕に辟易《へきえき》しながら、若槻はそっと重徳の様子を見た。先刻からベッドの上で一点を見たまま身じろぎもしない。まるで蝋《ろう》人形のようだった。
重徳はやはり冷酷な殺人鬼などではなく、単なる意志欠如者に過ぎなかったのだと、あらためて若槻は思い知らされた。
肉親の愛情に恵まれずに育った重徳は、ずっと両親の代わりになってくれる存在を渇望していたのだろう。そして、いざそうした人間が彼の前に現れた時、彼は疑いもせずに相手に自分自身を委《ゆだ》ねてしまったのだろう。
それが善意の人間であれば問題はなかった。だが、重徳のように心に致命的な弱点を抱えている人間が、よりにもよって最悪の相手と遭遇してしまったら。
若槻は目の前にいる哀れな男の姿を見た。彼は餌食なのだ。最初は指を噛《か》み切られ、そして今度は両腕まで喰いちぎられてしまった……。
「それで保険のことなんやけどな、なんぼもらえるんや?」
葛西は嫌悪感を表に出さないよう懸命に自制している様子だった。
「……まあ、事故の状況に問題がなかったら、高度障害保険金として、三千万円をお支払いすることになりますわ」
生命保険約款は、被保険者が所定の『高度障害状態』に陥った場合、死亡保険金と同額を支給すると定めている。『両眼の視力を全く永久に失ったもの』、『言語またはそしゃくの機能を全く永久に失ったもの』、『中枢神経系・精神または胸腹部臓器に著しい障害を残し、終身常に介護を要するもの』などの場合であり、この場合は明らかに『両上肢とも、手関節以上で失ったか、または両上肢の用を全く永久に失ったもの』という項目に該当していた。
幸子は、胸が悪くなるほど満足げにうなずいた。
「ほうか。そら、そうやわな。この人も、もう一生働かれへんねんから」
菰田幸子は、用済みになった物体を見るような視線で重徳を一瞥《いちべつ》した。
若槻は戦慄《せんりつ》した。両腕を失ってしまっては、重徳はもう幸子にとっては利用価値の乏しいお荷物でしかない。
いずれこの男は殺される。それはほとんど確信に近い予感だった。
「そやけど、今度は、和也の時みたいにごちゃごちゃ言わんと、早う払てほしいわ」
そう言いながら、幸子は視線を若槻に転じた。若槻は身がすくむような思いがした。急に、この無表情で鈍重な中年女が恐ろしくてたまらなくなっていた。
ベッドの上から「ああ……うう」というような声が聞こえた。どきりとして見ると、今まで彫像のように動かなかった重徳の口が、金魚のようにぱくぱくと動いていた。
「何やの? どないしたん?」
幸子が重徳の口に耳を近づけた。重徳がまたうめくように何か言ったが、若槻には聞き取れない。重徳は、自分を見下ろしている恐ろしい女に絶望的な救いを求めるようなまなざしを向けていた。
若槻は愕然《がくぜん》とした。これほどの目に遭いながら、まだ呪縛は解けていない。重徳は依然として、支配されたままなのだ。
彼は死ぬまでこの女に支配され続ける運命なのだろうか。骨の髄まで食い尽くされるまで。
「……痛い」
ようやく、重徳は声を絞り出した。
「どこが、痛いんや」
「手え……」
「手?」
「指の先が、痛い」
幸子の顔はたちまち真っ赤になった。噴き出すのをこらえているようだ。若槻と葛西がいなければ、狂ったように大笑いしていたかもしれない。
「何言うてるんや。ふははは。あんたの手なんか、もう、あらへんのやで」
「手えが、痛い……」
重徳は譫言《うわごと》のようにつぶやいた。
幻肢痛だと若槻は思った。指狩り族事件について葛西から聞いた時に、百科事典で調べたことを思い出した。
手や足が切断された後に、失われた手足がまだ存在しているように感じられることを、幻覚肢または幻肢と言う。もし切断前に手足に痛みがあれば、その感覚が切断後も神経に保存されて、すでに存在しないはずの部位の疼痛《とうつう》を感じるという現象が起きることがある。これが幻肢痛である。
幻肢痛は、成人では切断後数年間は持続すると言われている。重徳は、腕を失ったばかりではなく、今後ずっとこの理不尽な痛みに悩まされるのだろう。
「手なんか、ないって言ってるやろう。よう見てみいや。ほら」
幸子が重徳の首をねじ曲げて、包帯に包まれた切り株のような腕を見させようとした。
「……そしたら、私らは、今日は失礼しますわ」
葛西が押し殺した声で言った。これ以上重徳の様子を見るに忍びないという気持ちらしい。若槻もほっとして踵《きびす》を返しかける。
「ああ。ちょっと」
幸子が呼び止める。何事かという緊張した顔で、葛西が振り返った。
「こどうしょうがい……たらいうのんを貰うわな? それでな。この人が死んだら、もっぺん保険金もらえるんか?」
菰田重徳の治療に当たった波多野という名前の医師は、快く事情を話してくれた。
「事故が起きたのは、九日の午後十一時頃ということです。右京区内にある町工場から119番通報があって、すぐに救急隊員が向かったんですが、その時には、どういうわけか、遠位断端が、二つとも見つからなかったらしくて……」
「えんいだんたん、というのは、何のことでしょうか?」
若槻が質問した。
「身体の、切り取られた方の部分のことです。とにかく、菰田さんの容態は一刻を争ったので、それ以上、なくなった腕を捜しているわけにはいかず、菰田さんだけを病院へ搬送しました」
波多野医師は悔しそうに言った。
「……大変残念です。というのも、大型の裁断機による事故だったということですが、菰田さんの腕の切断面は、押し潰《つぶ》されてもおらず、非常にきれいやったんですよ。一般的に言って、前腕部の切断では、顕微鏡下手術を行えば、予後は良好です。切断された腕さえすぐに見つかっていれば、切断肢の再接着術は、十分可能だったと思います」
……ところが、菰田重徳の切断された腕をもう一度接着することにあまり乗り気でない人物がいたのだ。
「実際には間に合わなかったので、やむをえず、両腕の断端形成術を施さざるを得ませんでした。といっても、今言ったように切断面はきれいだったので、血管を結紮《けつさつ》しただけですが」
「それで、その腕は、結局、見つかったんですか?」
今度は葛西がたずねた。
「ええ。菰田さんが病院へ運び込まれてから四、五時間ほどたって、奥さんが、捜し出して持ってきました。ですが、高温下で放置されていたので、すでに使い物になりませんでした」
波多野医師は、再び無念さを噛み締めているような表情になった。
「遠位断端は、ビニール袋で包んだ上から氷で冷やしておけば、だいたい、六時間から十二時間はもつんです。それを、あの人は、剥《む》き出しのまま、雑菌のうようよしているミカンか何かの段ボールに入れて持ってきたんですよ。まあ、もっとも、後から冷やしたところで、どうせ間に合わんかったとは思いますがね……」
「あの女は、化けもんでっせ!」
葛西が、しわだらけのハンカチで額の玉の汗を拭《ぬぐ》いながら吐き捨てるように言った。病院を出てからは、葛西はずっと無言で、炎天下の道を早足で歩き続けた。追いつこうとする若槻のワイシャツは水をかぶったように濡れそぼった。
「やっぱり、クロか?」
大迫が、葛西の態度に驚きを隠し切れない表情を見せた。たぶん、葛西が平常心を失っているところを初めて見たのだろう。
「クロも何も……。あれは、人間とちゃいますわ。あの女には、人間の心いうもんが、ないんですわ!」
葛西の感想は、いみじくも高名な心理学者の結論と一致していた。巧みに取り繕われたうわべに裂け目が生じおぞましい本性が顔を覗かせた時、戦慄は倍加して感じられるのだ。
「まあ、女はみんな、妖怪みたいなもんだからな。中には、そんなやつもいるかもしんねえわ。だけど、考えてみたんだが、俺には、その男の方がよくわからねえんだ」
大迫は首をひねっていた。
「かみさんの言いなりに殺人の片棒を担ぐくらいは、別に不思議じゃねえがなあ。いくらなんでも、てめえの両手を切断させるか? 最近は、ヤー公でも、ゴルフができなくなるってエンコ詰めんの嫌がるっていうじゃねえか?」
「それが、同じような事件は、まったく例がないわけでもないんです」
若槻は生命保険犯罪の事例集を出して、さっき付箋をつけたページを開いた。
「一九二五年のオーストリアで、『エミール・マレク左下肢切断事件』というのが起こっています。これは、斧《おの》で、自分の左脚を切断したという事件です」
「どうやって、自分の脚を切ったんだ?」
「ええと……。ウィーンの技師であったエミール・マレクが、斧で木を切ろうとして、あやまって左脚を太腿《ふともも》から切り落としてしまったと申し立てたんですが、その事故が、保険契約の締結からたった二十四時間後に起こったということと、専門家が、一撃で脚を切り落とすのは不可能だと鑑定したこと、さらに、看護人だった男が、エミールの脚の傷跡は病院で細工されたと証言したことから、エミールは刑事訴追を受け、国中が騒然となる大スキャンダルに発展しました。ところが、エミールの妻だったマルタというのが、金髪の絶世の美女でして、新聞記者に夫の無実を訴えるなどの活動を精力的に行ったために、世論はエミールの側についたんです。結局、エミール・マレクの保険金詐欺の容疑は無罪となり、保険会社から多額の示談金を受け取ったということです」
「そりゃあ、本当に事故だったんじゃねえのか?」
「現在では、数々の状況証拠を再検討した結果、詐欺による自己切断であったことは、まちがいないと言われています」
若槻はもうひとつの付箋をつけてある箇所を開いた。
「この、マルタ・マレクという女性なんですが、……もともとはウィーンの街の捨て子だったのが、篤志家の夫婦に拾われて育てられています。マルタは、成長するにしたがって、美貌《びぼう》が際立つようになりました。それが、ある老富豪の目に留まり、愛人となり、遺言で豪邸の相続人に指定されたんですが、しばらくして、この老富豪は亡くなっているんです。その数か月後に、エミール・マレクと結婚したわけですが、生活ぶりが派手だったために、経済的に追いつめられていた中、今言ったエミールの左下肢切断事件が起こりました。その後、金を使い果たして、再び夫婦が困窮し出したころに、エミールは死亡しました。死因は、当初『肺癌《はいがん》』とされていました。その一か月後には、今度は、娘が死んでいます。マルタは、親戚の老婦人と同居することになったんですが、老婦人も、ほどなくして亡くなりました。その結果、マルタが遺産を相続しました」
誰も口を挟もうとはしなかった。全員、若槻がそうだったように、今回の事件との奇妙な類似性を感じ取っていたのだろう。
若槻は|黒い寡婦《ブラツクウイドウ》という名前の蜘蛛《くも》のことを思い出した。和名をクロゴケグモといい、日本に上陸して有名になったセアカゴケグモやハイイロゴケグモの近縁種である。毒の量はゴケグモの仲間では最も多く、噛まれると大人でも命取りになることがあるという。
|黒い寡婦《ブラツクウイドウ》とは交尾の後で雌が雄を食ってしまうことからつけられた名前だが、まさに、マルタ・マレクや菰田幸子のような人間にこそふさわしい名前ではないか。彼女たちの周囲は、いつのまにか、たまたま近くに寄り過ぎた不運な犠牲者の骸《むくろ》によって死屍《しし》累々という様相を呈すことになるのである。
「その後、マルタは別の老婦人に部屋を貸しましたが、この老婦人もまた、すぐに死んでしまいました。それで、警察が遺体を検査した結果、殺鼠《さつそ》剤などに使われる重金属のタリウムが検出されたんです。これに続いて、エミールと娘、親戚の老婦人の遺体も発掘され、すべてタリウムによって死亡したことが確認されました。さらに、マルタが時々食事の世話をしていた、別居中の息子まで、タリウム中毒で重態となっていたことがわかりました。こちらは、危うく一命を取り留めましたが、結局、マルタは殺人罪で有罪となり、死刑が執行されたということです」
若槻は事件記録から顔を上げた。
「要するに、そのエミールという男も、今回と同じに、女の言いなりになって自分の脚を切断したってことか?」
「ええ。しかも、エミール・マレクは、才能のある技師で、かなり知的水準も高かったようなんです。マルタには、それでも操られてしまうような……一種の魔性があったんでしょうね」
「そりゃ、そっちは美女だからな」
大迫が不満そうにつぶやいた。
応接室のドアが開いて、別室で電話をかけていた木谷が入ってきた。保険金課長らとの話し合いは相当難航していたようで、一時間以上かかっていた。
「内務次長。本社は、どう言うてました?」
葛西が問いかけると、木谷はにやりとした。
「何や、ぶつぶつ煮え切らんこと言うとったけど、潰すことに決まったわ。展開次第では、訴訟もやむなし、いうことや」
木谷は若槻を見た。
「一応、警察の方はあたっといてくれるか?」
若槻は「はい」と答えはしたが、警察が本当に動いてくれるかどうか、疑問だった。木谷は、若槻の心を読んだようだった。
「とはいえ、警察が摘発すんのをいつまでも悠長に待ってはおれんからな。データ・サービスを頼むことにした。四月ごろに来た、ちょっとやくざっぽい男おったやろ?」
「三善さんですか?」
「そうや。一両日中には、来るはずや」
そういうことか。ふと視線を葛西に移すと、眉間《みけん》にしわを寄せてひどく難しい顔で考え込んでいた。若槻は、葛西がそうしたやり方には反対であったことを思い出した。
うまくいった時には、たしかに手っ取り早い。その代わりに、こじれた時には、どうもならんようになるんや……。
それはそうかもしれない。だが、ほかにどんなやり方があると言うのだ。警察は、はっきりとした証拠が出るまではなかなか動いてくれない。時には、毒をもって毒を制すこともやむをえないのではないだろうか。
その点、あの男であれば、菰田幸子の相手をするのにぴったりの人材であるはずだった。
警察はやはり頼りにならないことがはっきりした。
松井刑事は外出中でつかまらず、代わりに応対した刑事は、若槻に対して露骨に迷惑そうな態度を見せた。若槻より二つ三つ若いくらいで、頭をスポーツ刈りにしている。運動部の叩き上げがそのまま警察に入ったような感じだった。
「……それは、うちでも、届けを受けて、きちんと調べることは調べてる」
「その結果、京都府警では、事件性なしと判断されたんですか?」
刑事は眉をしかめ、椅子にふんぞり返って横柄に若槻を見下ろした。
「プライバシーちゅうもんがあってやな。捜査上の秘密は、民間人に話すわけにはいかんのや」
若槻は、むかむかするのを抑えて質問を変えた。
「夜間の工場での事故ですよね。状況に、何か不審な点はなかったんでしょうか?」
「だから、そういうことを、部外者に話すわけにはいかんと言ってるやろう」
「部外者と言われますが、菰田重徳さんを被保険者として、三千万円の生命保険がかけられています。今回、もし事件性なしということになれば、高度障害保険金として、三千万円をそっくり支払わなければならないんです」
「それは、さっき聞いた。そやけどなにも、民間の保険会社のために、警察は働いとるんとちゃうんや」
刑事はいらだたしげに煙草に火をつけた。後ろで同僚の刑事が何か言うと、振り返って、何事か怒鳴った。刑事仲間だけで通じる符牒《ふちよう》らしく、若槻には何を言っているのかさっぱりわからなかったが、同僚の方は笑顔で、了解したというように手を上げた。
刑事はまずそうに煙草を吸いながら、小刻みに貧乏揺すりをしている。態度で若槻に早く帰れと促しているのはわかっていたが、こちらとしてもそう簡単に引き下がるわけにはいかない。
「しかし、もし、犯罪であった場合、保険金が支払われてしまうということは、犯罪を助長することになりますよ。どう考えても、望ましいことではないでしょう?」
「それはまあ、そうやけどな……」
「菰田重徳さんや、奥さんの幸子さんには、事情聴取はしたんですか?」
「うちでは、やるべきことは、ちゃんとやってる」
刑事はむっとしたように言った。
「その結果、あれは事故だったという結論なんですか?」
「ああ。いや……だから、それは」
若槻は腹を括った。どうせ話が聞けないのなら、ダメ元で怒らせてやるのも手かもしれない。
「私も奥さんから話を聞きましたが、あまりにも不審な点が多すぎるんです。夜遅くまで残っていた理由も曖昧《あいまい》だし、裁断機のような危険な機械を使いながら、ブレードをロックするのを忘れていたというのも、信じられません。それに、ちょうど事故の直後に、奥さんが様子を見に工場へ行ったというのは、偶然にしては都合がよすぎるんじゃないですか? 私のような素人でも、おかしいと思いますよ。それでも、警察は、事故として片づけるんですか?」
刑事はついにむかっ腹を立てた。関西人にとって標準語でまくしたてられるほど癇《かん》にさわることはないのだ。
「そやけど、本人がな、事故やと証言しとるんや! しゃあがないやろ。なんぼなんでもやな、金のために、自分の両腕を切り落とすようなやつはおらんわ!」
若槻は、それがいるんだと反論したくなる気持ちをぐっとこらえた。保険金犯罪の事例集には一九六三年に日本で自分の両手を切断した例がちゃんと載っている。だが、この刑事にそんなことを言ってみたところで何の意味もない。
若槻は時間を取らせた礼を言って、京都府警を辞去した。少なくとも警察のスタンスははっきりした。あくまでも民事事件としてとらえ、不介入の方針を貫こうとしているのだ。あとは保険会社が独自に対応を考えるより他にない。
7月17日(水曜日)
病室のドアの前に立った時に、若槻は胸苦しいような緊張を覚えた。後ろを振り返ると、三善が日に灼《や》けたなめし革のような顔に無数のしわを作ってにやりと笑った。どう考えてもこの男もまた化け物だと思う。本音を言えば、若槻としてはこんな場面に立ち会いたくはなかった。
とはいえ、尋常な状況ではないため、今回だけは三善に任せっきりにするというわけにもいかなかった。交渉が変にこじれて三善が暴走してしまい、トラブル・シューター変じてトラブル・メーカーとなっては洒落《しやれ》にならない。葛西と相談した結果、初回だけは事態の成り行きを見定めるという意味で同席することにしたのだった。
若槻は深呼吸をすると、覚悟を決めてドアをノックした。
「はい」
菰田幸子の声は、一昨日と比べて、かなり不機嫌なようだった。
「失礼します」
若槻が部屋に入ると、幸子はベッド脇のパイプ椅子に座って、編み物の道具を持ったままこちらを見据えていた。細い目に、どこか怨念《おんねん》のこもったような険のある光をたたえている。電話ではまだ何も伝えていなかったが、何か動物的な勘で対決を予感したらしい。幸子の全身から立ち上る殺気は、巣穴に侵入した外敵に立ち向かう獣を思わせた。
「ご主人の、おかげんはいかがでしょうか?」
若槻の質問に幸子は答えなかった。後から入ってきた三善に、じっと値踏みするような視線を注いでいる。
「ああ。こちらは、調査をやってもらってる、三善さんです」
「どうも」
三善は軽く会釈をしたが、名刺を出そうとはしなかった。彼の目もまた、しばらくまばたきもせずに菰田幸子を見つめていたが、重徳の方に視線を転じる。
「ほほう。これは、また……。思いきりよく、すっぱりとやったもんだな」
三善はすっとんきょうな大声を出すと、ベッドに近づいて菰田重徳の両腕にじろじろ無遠慮な視線を走らせた。重徳の耳元に顔を近づけると、低いが部屋中によく通る声で言う。
「麻酔もなしじゃ、痛かったろうが? え?」
重徳は驚いたことに、若槻の見ている前で初めてかすかな反応を見せた。のろのろと三善の方へ顔を向けたのだ。
三善は破顔し、真っ白な前歯をむき出していた。一見ひどく上機嫌なようだったが、その目は氷のように冷ややかである。
重徳は怯《おび》えた様子を見せると、すぐに自分の殻に閉じこもりロボットのような状態に戻った。
「ここまでやるやつあ、初めて見たよ。勇気があるっていうかな……」
三善は愉快そうに小さく笑った。すぐそばに座っている幸子は無言のままだったが、顔色はしだいに蒼白《そうはく》に変わりつつあった。
「しかし、奥さん。こりゃあいけねえな。いくらなんでも、やりすぎだ」
三善が重徳の腕の上に軽く手を置いたので、若槻はどきりとした。
「指一本くらいなら、まあ、こっちも、目をつぶるってこともある。ご苦労賃だ。だがなあ。両腕丸々やって、三千万ってのは、あこぎすぎると思わねえか?」
「な、何やの……あんた?」
幸子の目はきょときょとと三善と若槻の間を往復した。応対のギャップが大きすぎることに、とまどっているのだ。
「保険には、約款ってもんがついてるんだよ。細かい字で読みにくきゃ、ダイジェスト版もある。奥さん、あんた、それ、よく読んでみたか?」
「やっかん……?」
「これだよ」
三善はアタッシェケースから、『ご契約のしおり』と書かれている小冊子を取り出して、ひらひらと打ち振って見せた。
「ここに、書いてあるよな。高度障害保険金の免責事由ってのが。『被保険者が、次のいずれかによって高度障害状態になったとき』と」
三善は約款の免責事由を読み上げた。
「『保険契約者の故意』、『被保険者の故意』、『被保険者の自殺行為』、『被保険者の犯罪行為』、『戦争その他の変乱』……ただし、これに関しては、『会社の計算の基礎に及ぼす影響が少ないときは支払うこともあります』か」
「それが、どないしたんや?」
すっかり三善に気を呑まれていた様子の幸子が、ようやく声を絞り出した。
「おたくさんの場合、ご亭主の両腕を切り落としたのは、この『保険契約者の故意』か『被保険者の故意』の、どちらかに当たるわけだ。したがって、保険金を支払うわけにはいかねえな」
「何を……何を言うてんのや。どこに、そんな証拠があるんや。あるんやったら、見せてみい!」
幸子は唾《つば》を飛ばしながらかみついた。
「証拠か。証拠は、まあ、おいおい見つかるよ。裁判やってくうちには、状況証拠は、わんさと出てくるだろうな」
「裁判……?」
幸子の声は震えていた。それが怒りによるものか恐怖のためなのかは、若槻には判断がつかなかった。
「まず、そちらさんが、保険金を支払えという民事訴訟を起こすだろうが、こちらは、いくらでも受けて立つ。何年かかろうが、痛くも痒《かゆ》くもない。それから、もう一つ、刑事裁判がある。こいつの方は、遊びじゃすまねえぞ」
突然、三善はとんでもない大音声《だいおんじよう》で吠《ほ》えた。
「亭主の両腕ぶった切るとは、いい根性してるじゃねえか! え? 知ってるか? 傷害罪ってのは十年以下の懲役なんだよ! これだったら、まちがいなく限度いっぱい食らうだろうぜ! 十年間、塀の中に入ってくるか? ああ?」
幸子の顔からは完全に血の気がうせていた。唇を半開きにして、あえぐように胸を上下させている。
「み……三善さん」
若槻はなおも怒号しようとする三善をあわてて制した。鼓膜が変になりそうだった。この声なら、いくら壁が厚くても病室の外まで筒抜けに聞こえるに違いない。
「ああ。すみません。地声がでかいもんでね」
三善は何事もなかったかのように、笑顔で応じた。
「それでね、奥さん。お互い、裁判やれば、時間も金もかかるからさ。これに署名|捺印《なついん》してくれれば、こっちも、これ以上事を荒だてるつもりはないわけよ」
三善はアタッシェケースから、契約解除の用紙を出した。
「これは、この保険がなかったことにするという同意書でね。高度障害保険金は支払われないが、これまでに、おたくさんが払った保険料は、全額お返ししますということだ。いい話だろうが? え? まあ、旦那さんには気の毒だったが、奥さんが、刑務所行くこと考えればなあ?」
三善が差し出した用紙を、幸子は受け取ろうとはしなかった。三善は彫像のように身を固くしている重徳の腕の上に用紙を載せた。
「また来るからな。それまでに、どうするか、態度を決めといてくれ。言っとくがな、これ以上、変に突っぱりやがると、ろくなことにならねえぞ……!」
最後に凄《すご》みをきかせておいて、三善はさっさと病室を出て行った。幸子の方は表情の変化が乏しいために、一見落ち着いて見えたが、パイプ椅子の背もたれをつかんだ指先は真っ白になりぶるぶると震えていた。
とても一人で後に残る勇気はなかったので、若槻も曖昧に会釈すると三善の後を追った。
エスカレーターの前で三善に追いついたが、何と言えばいいのかわからなかった。三善のやり方に対する自分なりの感想を述べるべきだろうか。すると、三善の方から口を開いた。
「これでも、今日は、若槻さんがいるんでね、上品にやった方なんですよ」
「はあ」
「解除交渉っても、いろいろあるんでね。まあ、若槻さんみたいな絹のハンカチには、こういうやり方は性に合わないでしょうが。世の中、きれい事じゃすまないこともあるんで、私らみたいな、雑巾の出番もあるんですよ」
「いや。そんなことは……」
「それにしても、あの女、いいタマだ。失礼ですが、若槻さんたちの手には余るでしょう。あれは……」
三善はつぶやくように言った。
「まちがいなく人を殺してますよ」
背筋がぞくっとしたが、何と応えたらいいかわからず、若槻は黙っていた。
「一応、初めだけ立ち会いたいってことでしたね? 次回からは、私一人に、任せてもらえますか?」
明らかに三善は、若槻のような若造の監視役がついたことに不満を持っている様子だった。自分はプロだという自負があるのだろう。
この分では、若槻がいない時には三善がどんな態度に出るのか想像もつかなかったが、勝手にやってくれと若槻は思った。餅は餅屋ということがある。
若槻は三善と菰田幸子の対決を見ながら、昔見たドキュメンタリー映画を思い出していた。
アリゾナの砂漠に住むデザート・ジャイアントと呼ばれる巨大なムカデは、自分より少しでも小さいものなら何にでも襲いかかって食ってしまう。相手が大形のサソリでも例外ではない。
デザート・ジャイアントは逃げる大サソリに上から覆いかぶさり無数の脚を使ってサソリの体をがっちりと固定する。このため危険な毒針のあるサソリの尾はぴんと伸ばされたまま動かせない。相手の攻撃を完封したデザート・ジャイアントは余った体でサソリの頭越しに回り込み、長大な毒牙《どくが》をやすやすとサソリの胸に食い込ませる……。
もっとも、捕食者同士の争いは、わずかな力の差で彼我の立場は百八十度ひっくり返る。ファーブルの『昆虫記』の中では、サソリの方がムカデを鋏《はさみ》で捕えることに成功し毒針を突き刺して捕食していた。
人にはやはり適材適所ということがあるのだろう。三善の言うとおり、世の中はこうした分業で成り立っているのだから。
夜の十一時過ぎにアパートに帰った若槻を出迎えたのは、留守番電話にいっぱいのメッセージだった。
ボタンを押すと、機械が淡々と三十件のメッセージを再生していった。予想したとおり、どれも無言だった。時間はどれも午後二時から三時の間。つまり、若槻と三善が病院で幸子と会った直後である。もしかすると、幸子は病院からかけた可能性さえあった。
またかと若槻は思った。性懲りもなく、また前と同じような馬鹿馬鹿しい嫌がらせをしようというのか。使い古された手であり、もはや最初の時のようなインパクトはない。それにもかかわらず同じ手を繰り返すというのは、自ら手詰まりを暴露しているようなものだ。
だが、それでもあえて三十回も電話をかけてくるのは、なぜだろうか。三善に怒鳴られた腹立ち紛れということも考えられる。だがそれ以上に、あくまでも標的は若槻であるという意思表示ではないだろうか。
背広をハンガーにかけながら、考え込むのはやめようと若槻は思った。馬鹿げたいたずら電話の意図などをあれこれ忖度《そんたく》してもしかたがない。無視すればいいのだ。そのうちに、決着は三善がつけてくれるだろう。
電話機から無言のメッセージをすべて消去し、冷蔵庫のところに行って缶ビールを出す。すっかりアルコール依存症になりつつあると思う。最近は、アルコールの助けを借りなくては眠りにつくこともできない。そのうち、|禁 酒 友 の 会《アルコホリツク・アノニマス》のお世話にならなくてはいけないかもしれない。
ふと台所の小窓が目に入った。一瞬視野を横切っただけだったが、いったん目をそらしてから、もう一度見直した。何となく違和感を感じたのだ。
クレセント錠の向きが、上下逆になっていた。開いているのだ。
若槻は飲みかけの缶ビールを置いた。自分がクレセント錠を閉めるのを忘れたなどということは考えられない。少なくとも、ここ二、三か月は小窓を開けたことなど一度もなかったからだ。
錠に目を近づけるや、もっと大きな異状が見つかった。小窓のガラスには格子状に鉄線が入っている。その格子のちょうどマスひとつ分がガラス切りのようなもので切り取られてからもう一度|嵌《は》め込んである。内側から押すと、四角いガラス片は外に落ちた。
おそらく、この小さな穴から針金のようなものを使ってクレセント錠を開けたのだろう。だが、若槻が上下に余分の面付け錠を取りつけておいたために、小窓を開けることができず侵入を断念したに違いない。
若槻は、菰田幸子が病室で編み物の道具を持っていたことを思い出した。ああ見えて、案外手先は器用なのかもしれない。
被害妄想だと思っていたことが、現実になりつつあった。
だとすると、留守番電話にも違う意味があったのかもしれない。こちらの注意を引きつける囮《おとり》のつもりかもしれない。もし、自分が無言のメッセージに気を取られている時に、この部屋のどこかに、あの女が隠れていたとすれば……。もちろん、それが相手の意図だったと断定する根拠はない。だが、もはや単なる脅しの域を越えた、はっきりとした害意が感じられる。
若槻はしばらく迷っていたが、結局、110番した。こんなことぐらいで警察が動いてくれるとは思わなかったが、少なくとも記録にはとどめておいて損はないはずだった。
二人組の警官は十分ほどでやって来た。窓ガラスに穴を開けられただけで盗難などの被害は何もなかったと聞くと、いかにもお座なりな態度で記録を取った。ガラス窓の状態を見てもいたずらじゃないの、などと言う始末である。
だが、およそ緊張感に乏しい彼らの態度から推測できたことが、少なくとも一つだけあった。最近周辺では同じような手口の空き巣は発生していないということである。したがって、犯人はやはり菰田幸子だとしか思えない。
若槻は、仕事上のトラブルで自分が狙われている可能性があると申告したのだが、警官たちはほとんど興味を示さなかった。留守番電話の無言のメッセージもすでに消去してしまっていたので、嫌がらせの存在を示すような証拠はまったく残っていない。府警の松井刑事に連絡を入れてくれと頼んだが、生返事をするばかりだった。若槻は明日、自分で電話を入れようと心に決めた。
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7月20日(土曜日)
若槻《わかつき》は目を開けた。
首筋に手をやった時に、音のしないイヤホンがぽろりと耳から転げ落ちた。目を擦《こす》って腕時計を見る。午前一時五十四分。ベッドに寝転がってCDを聞いているうちに、うとうとしてしまったらしい。
なぜ急に目が覚めたのかは、わからなかった。何かひどく嫌な夢を見ていたような気がするのだが、内容は思い出せない。左胸の上に手を置いてみた。寝起きにしては心臓の鼓動が早かった。ちょうど早足で歩いていたくらいの感じである。
枕元のリモコンでエアコンの設定温度を見ると、二十八度になっていた。冷えすぎるので温度を上げ、そのままになっていたのだ。寝ながらかなり汗をかいたために喉《のど》が渇いていた。若槻は起き上がって、ずっと電気がつけっ放しだった台所に行き、冷蔵庫を開けた。缶ビールばかり数十本がずらりと並んでいる。冷たいアルミ缶を額に当てて転がしてからタブを開けた。
ビールを一口飲むと急に空腹を感じた。ラーメンと餃子《ギヨーザ》の軽い夕食を摂《と》ってからもう七時間ほどすぎている。何か酒のつまみになるものと探したが、冷蔵庫にも食器戸棚にも見当たらなかった。考えてみると、ここのところ忙しかったせいで買い物にも行っていない。
しかたがない。億劫《おつくう》だったが、若槻は最寄りのコンビニまで出かけることにした。どうせゴミ袋や食器用洗剤、剃刀《かみそり》の替え刃など、切らして困っているものも買ってこなくてはならないのだ。ビールを飲み干すと、財布をジーンズの尻ポケットにねじ込み、素足にスニーカーを履いた。最近の習慣で、どんなに近くへ行く時でも電気を消しドアにはきちんと鍵をかける。
一階でエレベーターを降りてエントランスから外に出た時に、空気中にいつもより強くコンクリートの匂いが漂っているのを感じた。湿り気が多いのだろう。雨が降りそうな匂いだった。
上空を見上げると、細い月は雲の中に霞《かす》んでいた。いったん傘を取りに戻ろうかとも思ったが、もう一度七階まで上がるのが面倒だったので、そのまま行くことにした。どうせTシャツにジーンズという姿だし、夏だから少しくらい降られて濡れても風邪をひくこともないだろう。
堀川|御池《おいけ》の交差点のローソンまでは、歩いて五、六分の距離だった。
こんな時間でもコンビニには客が絶えることがないらしい。水商売風の年齢不詳の女性が、アロエ入りのドリンクヨーグルトをためつすがめつしていた。
時間帯が悪いのか、買おうと思っていたパック寿司が売り切れていたので、代わりにカップ入りのスパゲッティのほか、柿の種やピスタチオ・ナッツなどの酒のつまみと、切らしていた生活雑貨類を籠《かご》に入れた。それからしばらく週刊誌を立ち読みする。
若槻がコンビニのビニール袋を下げてアパートに戻ってきた時には、二時二十七分になろうとしていた。
玄関の前には出がけには見なかった自転車が置いてあった。シティサイクルと呼ばれている買い物用の前籠のついたタイプだが、よほど持ち主が怠惰なのか汚れ放題に汚れている。チェーンから、ペダル、スポーク、リムなどは、すべて埃《ほこり》を塗り固めたように真っ黒だった。
自転車を大事にし、常にぴかぴかに磨き上げている若槻は、見ただけで不快な感じを覚えた。もっともこれならば、たとえ鍵をかけずに放置してあっても絶対に盗まれることはないという利点はあるが。
エレベーターは、こんな時間だというのに、ちょうど一足違いで上に行ってしまったところだった。たまには運動しようと思い、七階まで歩いて上がることにした。
若槻は、こういう時は、大きく腕を振って、猫のように足音を立てずに階段を駆け上ることにしていた。大腿筋《だいたいきん》や大脛骨《だいけいこつ》筋などだけではなく、腹筋や背筋などの体幹の筋肉までをバランスよく鍛えるためだ。
だが、二階まで上がったところで、妙に足が重いのを感じた。心臓の動悸《どうき》が激しくなり、額から汗が噴き出てくる。ここのところ運動不足で体重も増える一方だが、この程度の運動でこたえるとは情けなかった。
三階を過ぎたあたりで、上の方でエレベーターが止まる音がした。たぶん五階ぐらいだろう。そのあと、今度は階段を上っているような足音がかすかに聞こえてきたので、おやっと思った。
このアパートのエレベーターは各階に止まるので、普段、階段を使う人は、ほとんどいないのだ。まして、エレベーターをいったん途中で降りてから階段を上るというのは、理解に苦しむような行動だった。
若槻の足取りは自然に遅くなっていた。いつしか完全に足音を消して、上から聞こえてくる音に耳を澄ますようにしているのに気づく。六階と七階の中間にある踊り場の前まで来ると、上にいる人間の足音は、よりはっきりと聞こえるようになった。
ゆっくりと片足を引きずるような歩き方。それが虚《うつ》ろなコンクリートの空間に反響して、彼の耳にまで聞こえてくるのだ。
どこかで聞いたような記憶のある足音だった。足を引きずっているのが、まるでリズムを取っているかのように聞こえた。ある種の蜘蛛が獲物に忍び寄る時に見せる、行きつ戻りつするような動作を思わせる……。
若槻ははっとして立ち止まった。
五階でいったんエレベーターを降りてから七階まで階段を上るというのは、まさに獲物に向かって接近するハンターの行動ではないか。直接七階でエレベーターを降りた場合に、目指す相手と鉢合わせしてしまう危険を避けるためだ。
踊り場からそっと上を見上げると、足音の主はちょうど階段から七階の廊下に入ったところらしかった。若槻は、忍び足で七階まで上がった。今度はその足音をかなり間近で聞くことができた。
たしかに聞き覚えのある足音だった。
階段の陰からそっと頭だけを出して七階の廊下を窺《うかが》う。一瞬で頭を引っ込めたが、それだけで十分だった。
まちがいない……。菰田幸子《こもださちこ》だ。
その後ろ姿には見覚えがあった。無造作にゴムで束ねた剛い髪。ずん胴な体を、えび茶色の趣味の悪いワンピースに包み、保険の外務員が持ち歩くようなショッピングバッグを提げている。
歩く時に左足をわずかに引きずるようにしているのは、支社や病院で見た時に気がついた菰田幸子の癖だった。昔、足を痛めたことがあるのかもしれない。
歩数を数えていれば、菰田幸子がどのあたりを歩いているのかは、おおよそ見当がついた。足音は、ちょうど階段から五番目、若槻の部屋の前で止まった。
どうする気なのか。インターホンを押すのか。それとも……。若槻の鼓動が早くなった。いきなりガラスを破って侵入するつもりででもいるのだろうか。
だが、続いて聞こえてきた音は、彼の予測を完全に裏切った。
がちゃがちゃと鍵穴に鍵を差し込む音。
まさか。若槻は驚愕《きようがく》して息をのんだ。そんな馬鹿な。開くわけはない。
だが、錠の中でシリンダーはあっさりと回転した。ボルトが引っ込む時の金属音は、まるで拳銃を発砲したように建物中に反響して聞こえた。
なぜだ。若槻は混乱してその場に立ちすくんだ。
なぜ、菰田幸子が俺の部屋の鍵を持っているんだ。
彼は全身が耳になったように聴覚をとぎ澄ませていた。ドアが開きそして閉まる時の、蝶番《ちようつがい》の発する悲しげな音。そして再び錠がロックされる。その残響が完全に消え去る前に、若槻は息を殺して階段を駆け降りていた。悪夢の中にいるようだった。何がどうなっているのかは、さっぱりわからない。ただ何か、とんでもないことが起きようとしていることは確かだ。
一階の玄関から恐る恐る足を踏み出して、アパートを見上げる。夜空にはあいかわらず雲が垂れ込めており、微風が吹き出していた。
やはり錯覚ではなかった。若槻の部屋には消したはずの電気がついている。カーテンを引いていない窓に、ちらりと人の影が映った。
それから、ふっと電気が消えた。
若槻がいないのに気づき、帰ってくるのを待つつもりなのだ。
アパートを出て左手の、ほんの二、三十メートルほどの場所に、公衆電話があった。彼は、七階の窓に目を配りながら、足音を立てないように小走りに駆けた。受話器を取ろうとして、まだ右手にローソンの袋を固く握り締めたままであることに気づく。
買い物袋を床に置き、110番を回そうとして、不意に別の衝動が頭をもたげてきた。
菰田幸子はあの部屋で何をしようとしているのか。
馬鹿なことはやめろ、という内心の声がする。早く警察に電話するんだ。ここはあまりにも近すぎる。いつまでもぐずぐずしていると、菰田幸子が出てきた時に、鉢合わせしてしまうぞ。
だが、若槻は電話機に百円玉を入れると自分の電話番号を押した。
呼び出し音が鳴る。予想した通り幸子は受話器を取らない。
若槻が自分で吹き込んだ留守番電話のメッセージが流れてきた。
「ただいま、留守にしております。ご用件のある方は、ピーという発信音が鳴りましたら……」
若槻は、留守番電話の応答メッセージの中では決して名字は名のらないことにしていた。知らない人間に名前を教えるのは危険だという考えからだ。もし、かけてきたのが若槻の知人ならば、彼の声を聞くだけでわかるはずである。
発信音の後、♯と、四|桁《けた》の暗証番号を押す。H、E、B、※[#○に0]。……クロサワ。
「用件は、ありません」という、機械のアナウンス。
もう一度Hのボタンを押すと、受話器を通してサーという音が聞こえてきた。ルームモニター機能で、自分の部屋の音が聞こえてくる。
菰田幸子が最近の電話の機能に詳しいとは思えなかった。万一、留守番電話くらいは知っていたとしても、外から用件の有無を確かめたとしか思わないだろう。
雑音に混じって聞こえてきたのは、低く唸《うな》るような声と例の独特の足音だった。幸子は暗闇《くらやみ》の中でぐるぐると部屋の中を歩き回っているらしい。唸り声は近づいたり遠ざかったりするので一部しか聞き取れないが、間断なく続いている。
「何の……恨みがあって……」「人がおまんま食うのを」「邪魔さらす」「干乾しになれ、ぬかすんか」「保険会社が……」「金|儲《もう》けとるくせに」「ごっついビル」「駅前に」「ぎょうさん建てくさって」「……ちゃうんか」「裏で汚いことやって……」「ちょっとくらいの金」「ボケが……」「ごちゃごちゃと」「黙って、払ろたらええんじゃ」「おのれは、高い給料……」「あのガキが!」「どこ、行きくさった」「さっさと、帰ってこんかい」「帰ってこい」「帰ってきやがったら」「なますにしたるわ……!」
その声に込められた怒りと害意の凄《すさ》まじさには疑いを容《い》れなかった。だが、幸子の声は、激しているはずなのになぜか異様なまでに単調だった。そのため、人間の声というより、怒り狂ったスズメバチの羽音を思わせる。若槻は、聞いているだけで脚に顫《ふる》えが来るような感じに襲われた。
幸子の声にかぶさるようにして、何かベルベットの布の上を尖《とが》ったものでひっ掻《か》いているような奇妙な音が聞こえてきた。さらに、ときおり癇癪《かんしやく》を爆発させるのか激しく何かが叩き壊されるような音が連続して響いた。
若槻は、呪縛されたように受話器を耳に押し当てていた。三分ほどたったころ、激しく何かが壊される音がした後で、ぷつんと音を立てて接続が切れ、話し中の音に変わってしまった。
若槻は受話器を置くと、アパートを見上げた。そしてようやく警察に電話しようと思った時に、夜のしじまを裂いてかすかにドアロックが開けられるような音が聞こえてきた。
耳を澄ましていると、幸子が階段を下りてくる足音さえ聞こえるような気がしてくる。若槻はぎょっとして、とっさに電話の横にある清涼飲料水の自動販売機の陰に身を隠した。
どうしてすぐに警察に電話して、安全な場所に逃げなかったのだろう。若槻は自分で自分の取った無鉄砲な行動が信じられなかった。もし菰田幸子がアパートを出て、こちらの方向へやって来たら……。
しばらくは何事も起きなかった。さっき聞いたのは錯覚だったと思いかけた時、唐突に、アパートの玄関から菰田幸子が姿を現した。
幸子は玄関前の自転車に歩み寄ると、前籠にショッピングバッグを入れ鍵を差し込んだ。ショッピングバッグには何か細長い包みが入っていた。
幸子が大儀そうな動作でペダルを漕《こ》ぐと、よく油をさしていない自転車はぎしぎしと軋《きし》んだ。こちらへやって来るのではないかと生きた心地がしなかったが、幸い、若槻が隠れているのとは逆の、西の方向へと去って行く。
交差点を渡る時、ブレーキがキーキーというひどく耳障りな音を立てた。まるで笑い声のように聞こえる。若槻は、幸子が完全に去ったのを見届けてから、アパートに駆け込みエレベーターに乗って自分の部屋に戻った。
ドアの鍵は開いたままだった。若槻は真っ暗な部屋に入った。つい反射的に電気をつけようとしかけたが、危うく思い止《とど》まる。もし幸子が途中で振り返ってこちらを見たとしたら、部屋に明かりがついたのに気づいて引き返してくるかもしれない。
玄関脇の物入れから非常用の懐中電灯を出してきて、部屋の中を照らし出す。歪《ゆが》んだ同心円を作る光の中には思っていた以上の惨状が浮かび上がった。
食器棚のガラス器類、エアコンから、CDラジカセやテレビなどの電気製品は、すべてめちゃめちゃに叩き壊されている。さらに、カーテンやカレンダー、洋服掛けに吊るされている背広や、ベッドのマットレスなどが、鋭利な刃物でずたずたに切り裂かれていた。
やはり幸子は凶器を持って来ていたのだ。若槻はあらためてぞっとした。今晩コンビニに行ったのは、まったくの偶然だった。もしずっと部屋にいたら、今ごろ金石の死体のように滅多斬りにされていたに違いない。
それにしても、真っ暗な部屋の中で、しかもわずか数分という短時間に、よくここまで徹底して破壊しつくせたものだ。
足先に何かが触れた。拾い上げて懐中電灯で照らしてみると真っ二つになったクリスタルガラス製の写真立てだった。今年の春、天の橋立に行った時の記念写真が入っている。胸から上だけになった恵がこちらに向かって微笑《ほほえ》みかけていた。
ふいに背筋に氷のようなものが走った。
菰田幸子はどうして自分の部屋の鍵を持っていたのか。合鍵を持っているのは恵しかいないではないか。
若槻は電話に手を伸ばしたが、手に触れたのは切断されたコードのついたプラスチックの残骸《ざんがい》でしかなかった。
気がつくと部屋を飛び出していた。エレベーターに乗っている間も、いらいらと足踏みを続けていた。
一階でエレベーターの扉が開くと、全速力で飛び出して公衆電話に戻った。財布からつかみ出したコインの一部がこぼれ、床の上で跳ねた。数枚を投入口に入れるのももどかしく恵の電話番号をプッシュする。
出てくれ……。頼むから部屋にいてくれ。
祈るような気持ちで待つと、通話がつながる音がした。
「あっ、恵! 僕だけど……」
「黒沢です。ただいま、外出しております。ピーッという音が鳴りましたら……」
恵の声だった。絶望で、目の前が真っ暗になる。
「恵! 僕だ。若槻。緊急なんだ。もし、そこにいるんだったら、すぐに出てくれ! 頼む……」
若槻はせき込むような早口で言ったが、いくら待っても応答はなかった。彼は呆然《ぼうぜん》として受話器を置いた。やはり恵は留守なのだ。彼女がこんな時間に外を出歩いているはずはない。
今度はためらわず、別のボタンを押していた。
「はい。110番」
「もしもし。あの。知り合いが、誘拐……されたかもしれないんです」
「もしもし。おたく、どちらさん?」
突然、時間が止まったようだった。若槻のまわりの世界が真っ暗になり、すべての音が止む。思考だけがぐるぐると回転していた。
いったいどう言えば警察を納得させられるだろう。恵が菰田幸子に拉致《らち》されたという証拠は何一つない。合鍵のことを持ち出しても十分な根拠にはなり得ない。彼女がこんな時間に留守なのはおかしいなどと言っても、鼻で笑われるだけだろう。
だとすれば、どうしたら。そうだ。何でもいいから、警察を動かし得るような作り話をしてみれば。
……いや、だめだ。電話だけで警察が百パーセント自分の言うことを信じてあの黒い家を家宅捜索してくれるとは思えない。当然、まずは事情聴取からということになるだろう。それでは遅いのだ。もし恵がまだ生きていたとしても、若槻を殺すのに失敗した菰田幸子は、腹癒《はらい》せに、家に着いてすぐに彼女を殺す公算が大だった。何としてもその前に助け出さなくてはならない。
ここから菰田家までは七、八キロだろうか。いくらあの自転車が遅くても、三十分もあれば着くだろう。幸子が去ってから三、四分はたっている。だとすると残りは二十六、七分しかない。
それまでに警察で事情聴取を終え、担当官を納得させてパトカーを現場に向かわせる。だめだ。とても間に合うとは思えない。それに、彼の作り話にわずかでも綻《ほころ》びが見えたらすべては終わりだ。
「もしもし。おたくさんの名前、言ってもらえるかな」
相手は少し苛立《いらだ》った声に変わった。すでにいたずらだと思い込んでいるのかもしれない。
「若槻慎二と言います。四条|烏丸《からすま》の昭和生命に勤めています。誘拐されたかもしれないのは、黒沢恵。監禁されている可能性のある場所は、右京区の嵯峨駅前の近くの、菰田という家です」
「コモダ? それは、どういう……?」
いたずらではないとわかったのか、警官の声に緊張が走った。若槻は相手をさえぎって、早口でしゃべった。
「今、詳しいことを説明している暇はありません。事情は、捜査一課の松井清巡査部長がよくご存じです。早くしないと、恵は、殺される可能性があるんです。今すぐ、菰田家を調べてください!」
「あ、ちょっと! おたくさんの電話番号は……」
叩き付けるように受話器を置く。もはや一刻の猶予もならない。幸いバイクのキーはアパートの鍵などと一緒にキーホルダーに付いていた。裏手の駐車場へ行くと、若槻はSR125のイグニションキーを入れスターターボタンを押した。エンジンが力強い唸り声を上げた。
御池通りから交差点を通って、二条城を右手に見ながら押小路《おしこうじ》通りに入る。この時間は道路もそれほど混んでいなかった。飛ばせば、五、六分であの黒い家に着くはずである。
ただし、絶対にスピード違反で警察に捕まらないようにしなくてはならない。Tシャツにジーンズ、素足にスニーカーを履き、しかもノーヘルといういでたちでは、暴走族と間違えられても仕方がない。
途中、菰田幸子の姿が見えないか気をつける。いない。もうとっくに追いついてもいいはずだが。向こうはどこかの細い裏道を通っているのだろうか。
丸太町通りを通っている時に、雨がぽつりと首筋に落ちてきた。かなり前からぐずつきそうな天気だったが、とうとう降り始めた。頼むから、まだ、降らないでくれ。もう少しでいい。五分だけ待ってくれ。
路面がしだいに水滴で黒く染まってきた。
今ここで事故でも起こせば、恵は、永遠に帰ってこないぞ。若槻は自分自身に言い聞かせた。恵だけは絶対に見殺しにしてたまるか。気をつけろ。全神経を張りつめて、早く、安全に。
だが、もしかしたら恵はもう殺されているかもしれない……。考えまいとしても、最悪の可能性が頭にちらつく。耳の奥に、さっき聞いたばかりの恐ろしい声が生々しくよみがえった。
『なますにしたるわ……!』
若槻は懸命にその考えを撥《は》ねのけようとした。
菰田幸子の習性からいって、おそらく拉致した人間はすぐには殺さない。金石の時も、相当長期間監禁した上で執拗《しつよう》な拷問を加えてなぶり殺しにしているではないか。恵が捕まったとすれば、今日のことだろう。そんなに早く殺してしまうはずがない。
だが、さっきアパートへやって来たのは、明らかに、若槻をその場で殺害するためだったのではないか。心の中で別の声が反論する。自転車しかないのでは、拉致して行くのは不可能だ。今回は、あっさりとその場で息の根を止めてしまうつもりで来たのではないのか。
だとすると恵は……。
目の前に、違法駐車をしているトラックの後部が迫ってきた。避けようとして、とっさにブレーキをかけながらバイクを傾ける。すると、タイヤが横滑りして危うくバランスを崩しそうになった。
ひやっとするが、必死に体勢を立て直して転倒だけは免れることができた。
路面が少し濡れているとはいえ、ひどいふらつきようだと思う。そうだ。たしか、バイクを買い取って以来、一度もタイヤを交換していない。もうすっかり丸坊主になっているのかもしれない。そのうち取り替えなくてはと思っていながら、忙しさにかまけて、ついそのままになっていたのである。
案外こんなことが命取りになるのだろうか。
幸い、雨はそれ以上本降りになることはなく、バイクは順調に道のりを踏破した。
このまま突き当たって左折すれば、渡月橋《とげつきよう》のあたりに出る。若槻は手前の狭い道を左折した。車一台がやっと通れるほどの幅で、街路灯が少なく真っ暗である。
やがて、JRと京福電鉄の踏切を越えると、見覚えのある道に来た。若槻はバイクを徐行させる。
突然目の前に現れた黒い家は、暗い夜空をバックに不吉なシルエットとなって、ひっそりと息づいていた。ここを訪れるのは菰田重徳に呼び出された時以来だったが、昼間に見た時以上にまがまがしい雰囲気だった。いったん前を通り過ぎると、バイクを四十メートルほど離れた場所に止めエンジンを切った。時計を見ると二時四十二分だった。出発してから六分以上かかっていたが、自転車の菰田幸子にはまだ二十分あまりのアヘッドがあるはずだった。
ためしに門扉を押してみたが、びくともしない。若槻は黒い家の塀に沿って歩き、侵入できる場所を探した。
横手の細い路地に面した場所に電信柱が立っていた。ここなら上って塀を乗り越えられるだろう。ただし下りる場所は菰田家の庭になるはずだった。
若槻は、菰田重徳が飼っていたたくさんの子犬のことを思い出した。かなり吠《ほ》えつかれることになるかもしれない。だが、近所の家が警察に通報したとしても、いまさら失うものはないはずだ。場合によっては、かえって好都合かもしれない。
電柱の横に出ている鉄のバーに足をかけて上りながら、若槻はあらためて自分のやっていることを意識した。家宅侵入。それに、器物破損もつけ加わるだろう。立派な刑法犯だ。
もし恵が菰田幸子に拉致されたというのが取り越し苦労に過ぎなかったとしたら。下手をすれば懲戒解雇。会社の温情によって厳重注意くらいですんだとしても、人事記録への一行の記載は彼の未来を永遠に閉ざしてしまうだろう。
かまうものか。若槻は、電信柱から塀の上に手をかけ、体重を移した。そんなものは、恵の命と比べれば、どうでもいいことだ。
その時になって、子犬の吠える声がまったくしないことに気がついた。黒い家は森閑と静まり返っている。
どういうことだろうか。犬の鋭い嗅覚《きゆうかく》なら、若槻の臭いは、とっくに感じ取っているはずだ。
若槻は苦労して塀を乗り越えると、両手でぶら下がるようにして飛び降りた。
腰のあたりまで生い茂っている雑草の中に落ちたために、衝撃はほとんどなかった。とたんに、藪蚊《やぶか》の大群が、彼の顔を目がけて襲来してきた。閉口して両手を振り回しながら、若槻は草を掻き分けて進んだ。
雨はいつのまにか上がっていた。雲の切れ間から三日月がのぞく。月明かりに照らされた庭は荒れ放題で、まったく手入れをされている形跡がなかった。縁側に近い側では雑草は刈り取られているものの学校の校庭のように土が露出しており、さっきの雨で泥田と化していた。
やはり、どこにも犬はいないようだった。幸子が処分してしまったのだろうか。いずれにしても、ほっとしたことは事実だった。
幸いなことに、雨戸は閉まっていなかった。だが、ガラス戸には鍵がかかっている。若槻は片方のスニーカーを脱いでガラス戸に当てると、その上から慎重に力を加減して拳《こぶし》で叩いた。
一度目と二度目は力が弱すぎた。三度目にガラスが割れると、神経に突き刺さるような高いキーの音があたり一帯に響き渡った。
誰か近所の人間が今の音を聞きつけたかもしれない。若槻はスニーカーを履くと、少々焦り気味にガラスの割れた穴から手を突っ込み、棒状の掛金をはずした。
親指の付け根に鋭い痛みが走る。手を引き抜こうとして、ざっくりと切ってしまったのだ。
ジーンズのポケットからくしゃくしゃのハンカチを出して傷口を縛ったが、夜目にもみるみるハンカチの色が黒っぽく変わってくるのがわかった。しかし、これ以上ぐずぐずしているわけにはいかない。
若槻はガラス戸を開けて、廊下に上がった。
スニーカーの下で、板がみしみしと音を立てた。心臓はさっきから、早鐘を打っている。かなりの興奮状態にあっても、あの独特の異臭ははっきりと鼻腔に感じ取ることができた。
廊下の奥の障子戸を開ける。
前に菰田重徳に通された座敷は真っ暗だった。電気をつけるのは自制した。家の明かりはかなり遠くからでも見える。幸子が帰ってきた時に、すぐに侵入者がいることを気づかれてはまずい。今になって、あわてて飛び出してきたことが悔やまれた。せめて懐中電灯と、何か最低限の武器になるものは、用意すべきだった。
障子を開け放って、ガラス戸から射し込む青白い月の光を頼りにする。すでにかなり闇に目が慣れてきていて、ぼんやりとだが見通すことができる。
座敷には特に変わった様子はなかった。だが、異臭は、なぜか、以前にもまして強烈になっているようだった。湿気のせいなのだろうか。
若槻の目は右手の襖《ふすま》に吸い寄せられた。その奥が菰田和也の勉強部屋だった。
襖を開けて首|吊《つ》り死体を見つけた場所……。
今でもそこに死体がぶら下がっているような気がしてならない。
若槻は、心の中で湧き上がった迷信じみた恐怖と闘った。
それでも妄想は去らない。それどころか、襖の向こうにいる死体の姿はますますリアルになっていく。あの暗い部屋の中で、もう一度若槻が訪ねてくる日をずっと待ち続けていたのではないか。
だが、恵のことを思い出し、彼は我に返った。勇気を奮い起こして、怪我《けが》をした手を襖の引き手にかけて、そっと引く。
敷居の上で、滑らかに木が擦れる音がした。
視界いっぱいに巨大な影が映る。
ぎょっとしたが、正体は畳の上に家具類が雑然と積み重ねられているだけだった。
若槻は、部屋の中に入った。月明かりで廊下側の障子がぼんやりと光っており、大きなテーブルと四脚の椅子、整理|箪笥《だんす》、籐《とう》製の座椅子などを、はっきりと見てとることができた。菰田和也の部屋は、今は物置代わりに使われているのだろうか。
若槻は腕時計を見た。緑色の夜光塗料を塗った針は午前二時四十六分を指していた。すでに到着してから四分が経過している。幸子が戻ってくるまでには、あと十五、六分しか余裕はない。
勉強部屋の奥の襖を開ける。とたんに若槻はうっと喉を鳴らし息を詰まらせた。今までにも増してひどい悪臭が、押し寄せてきた。
ハンカチを巻いた右手を口の上にあてがって、真っ暗な細い廊下に足を踏み出す。月明かりも、ここまでは届かない。ほとんど手探りで前に進む。一歩ごとに、異臭はその強さを増していくようだった。
廊下の突き当たりには鎧戸《よろいど》があった。緊張して開けると、ただの納戸であることがわかった。中には、わずかな空間を残して天井までぎっしりと行李《こうり》や木箱のようなものが積み上げられている。
今度は、その手前の戸を開けてみる。奥座敷よりも、さらに広い部屋だった。十五畳くらいはあるだろうか。悪臭はその部屋から漂ってくるようだった。
暗闇を透かして見る。台所のようだ。窓のそばには流し台があり、壁に沿って食器棚や冷蔵庫が並んでいる。
だが若槻は、その中に台所には不似合いな大きな鉄製のケージがあるのに気がついた。大型犬用のものだろうか。無理をすれば中に人間を押し込めることもできるくらいの大きさだった。
ふと既視感《デジヤ・ヴ》のようなものを感じる。遠い記憶の中で何かが呼び覚まされる。空のケージ……。
何か大切なことを思い出しかけているような気がした。
だが、今の自分に、のんびりとここに突っ立って記憶をたどっている時間はない。
その時、若槻は板張りの床の一部が周囲と異なる色をしているのに気がついた。
二畳分ほどがまるで墨でもこぼしたように黒っぽく見える。暗闇の中で、その部分にだけ、さらに影が落ちているような感じだった。目を凝らすと、床板がなくなっているらしい。
部屋の奥には床板らしきものが積み上げられている。その横には大きなスコップが壁に立てかけられている。スコップの刃は土で黒く汚れているようだ。
若槻は床板が剥《は》がされている場所に近づいて中を覗《のぞ》き込んだ。床から地面までは四、五十センチほどしかなく、そこには驚くほど大きくて深い穴が掘られていた。
若槻はスコップを取ると穴に差し入れてみた。先端は底には届かなかった。体のバランスを崩しそうになったはずみに手が滑り、スコップは穴の中に落ちた。一瞬間を置いてどすんという鈍い音が聞こえた。深さは二、三メートルはあるかもしれない。
濃密な暗黒の底からは饐《す》えたような腐臭が立ち上っている。
若槻は食器戸棚の引き出しを探し、一箱のマッチを見つけた。擦ろうとするが、手が震えてなかなかうまくいかない。四本も立て続けに折ってしまい、五本目でやっと火をつけることができた。
火のついたマッチをかざして、穴の底を覗き込む。光が穴の底まで届いたのは、ほんの一瞬のことだったが、スコップの下には、茶色っぽい土嚢《どのう》のようなものが積み重なっているように見える。だが、火はすぐに消えてしまった。
もう一度マッチを擦る。穴の底に折り重なっている物体の頭や四肢が見えた。
吐き気を催す。マッチの火が軸をなめながら彼の指を焼いた。手を放した光は一瞬おびただしい数の子犬の死骸《しがい》を照らし出し、闇に吸い込まれるように消えた。
若槻は立ち上がり、さらにマッチを何本か擦って部屋の中を見回した。床の上にはところどころに乾いた血の跡があり、人の足跡のようなものも残っていた。一か所で、特におびただしい血痕《けつこん》が目についた。
仔細《しさい》に見ると、それは何かを引きずったような跡で、上部にガラスの嵌《はま》った木製の仕切り戸の下に続いていた。
この戸の向こうには何があるのだろう。
彼は震える手を引き戸にかけた。がらがらという音とともに、甘ったるく鉄臭い臭気が彼を包み込んだ。猫の首が入っていたビニール袋が発したのと同種の臭いだった。体中の毛穴に染みつきそうなくらい強烈で生々しい。それは生命の臭いであり同時に死の臭いでもあった。
そこは大きな風呂場だった。右手に木の蓋《ふた》をした大きな浴槽があり、左手にはシャワーのついた洗い場が二つ並んでいた。タイルは半分以上が剥がれ落ち、ところどころに血痕のような汚れが付着している。むき出しになった壁やタイルの目地《めじ》の部分は真っ黒だった。
若槻はようやく菰田家全体を覆っていた異様な悪臭の正体を悟っていた。
彼が目にしているのは、陰惨な殺戮《さつりく》の行われた現場なのだ。それも、この様子では一度や二度ではないだろう。古い血が乾いた上を幾度となく新しい血が潤して醸された臭気が、ついには家全体に染みついてしまったに違いない。さらに、それ以外の臭気、ゴミや動物性の香水の臭いなども渾然《こんぜん》一体となって、臭いの真の原因をわかりにくくしていたのだ。
正面の高い場所に明かり取りのための小さい窓があった。そこから曇りガラスを通して外の月明かりが射し込んでいた。
正面の壁に小柄な人影が見えた。こちらを向いて足を投げ出して座っている。逆光なので、上半身は黒いシルエットにしか見えない。若槻は、魅入られたように、足を踏み出していた。
もう一度、マッチを擦った。近づくにつれて、しだいに、壁に凭《もた》れている人間には、ギリシャ彫刻のトルソ像のように胴体と足はあるものの首も両腕もないことがわかってきた。
これが……恵なのだろうか。
発狂しそうな恐怖に、若槻の体は瘧《おこり》のようにぶるぶると震え始めた。
指の間で自然に炎が消えた。機械的に次のマッチを擦る。火傷《やけど》の痛みはまったく感じなかった。
切り株のような人体の脇には、丸い物体がこちらを向くようにして浴室のタイルの上に安置されていた。若槻はちらちらと揺れるマッチの炎を近づけた。
それは切り離された人間の頭部だった。両耳と鼻がそぎ落とされていたが、三善の生首であることだけははっきりとわかった。
彼は切れ切れに溜め息を吐き出した。
スポーツ刈りの頭。血液がすっかり流れ出してしまったために、日に灼《や》けた顔は濡れた新聞紙のような色になっている。落ちくぼんだ眼窩《がんか》の底にある眼球は白内障のように濁っていた。
生首は、三善が生涯の最後にどんな場面に遭遇したのかを雄弁に物語っていた。その表情は想像を絶するような苦痛に歪み苦悶《くもん》していた。
そのそばには、錆《さび》の浮いている金属加工用の大きな糸鋸《いとのこ》と肩関節のすぐ先から切断された両腕が、無造作に転がっていた。
皮膚がむず痒《がゆ》くなり、全身の毛がちりちりと逆立つのがわかった。もしかすると、菰田幸子は三善の手足を生きたまま切断したのではないだろうか。
若槻は、ある種のホタルの幼虫の行動を思い出した。
手に持った橙《だいだい》色のマッチの炎は、一瞬燃え上がった後、小さくなり、緑色がかった補色の残像を残して消えていく。
美しい光の詩情あふれるイメージとは裏腹に、ホタルはきわめて獰猛《どうもう》な肉食性の昆虫である。発光するのは雌雄が呼び合うためだが、別の種類の雌の発光パターンを真似て、だまされて近寄ってきた雄を捕食してしまう種さえ知られている。
幼虫もまた種類によって、カワニナなどの貝類のほかミミズやヤスデなどを餌としている。
自分の体よりはるかに大きなヤスデを捕食する種類のホタルの幼虫は、麻痺《まひ》性の毒液を注入し相手を動けないようにした上で、体節を一つずつ切り離しては食べるのである。
獲物がまだ生きたまま……。
アタッシェケースの裏蓋に貼ってあった三善の妻子の写真が頭をかすめた。
その時、すぐ近くで何かが動く音が聞こえた。
息が止まりそうになりながら、ゆっくりとふり返る。音は蓋の閉まった浴槽の中でしたようだった。若槻は身震いしながら、懸命に呼吸を静め耳を澄ました。
聞こえる。再び中でかすかに身じろぎするような音がした。蓋をしている木の板に手をかけて、思いきって開けた。
押し殺したような悲鳴。若槻は息をのんだ。
恵だ。生きている。彼は、全身にどっと血が巡り始めるのを感じた。恵は若槻がわからないのか、必死に這《は》いずって逃げようとしている。全裸で、手足には何重にも白いナイロンの紐《ひも》が食い込んでいた。両手を後ろ手に縛られ、さらに背中で両足とくくり合わされているために、起き上がることすらできない。口はガムテープでふさがれている。頬《ほお》がふくらんでいるのは、たぶん、布切れのようなものを詰め込まれているからだろう。幸い目立った外傷はないようだった。
「恵! 僕だ!」
若槻は手を伸ばしたが、恵はますます必死に逃げようとするばかりだった。恐怖のあまり完全に正気を失っていた。
若槻は浴槽に入ると、恵を両腕の中に抱き締めた。恵は最初は狂ったように暴れたが、しばらくすると静かになった。どうやら若槻の胸の感触を思い出したらしい。
「もう、大丈夫だ。今、助けるから」
このままでは、逃げることもできない。若槻は恵のいましめを解こうとしたが、固結びになったナイロンの紐は容易にほどけなかった。
「ちょっと、待って」
若槻は浴槽を出ると、三善の死体のそばに落ちていた糸鋸《いとのこ》を取ってきた。
恵はそれを見て、再び恐慌に襲われたように暴れ始めた。
「大丈夫だ! 紐を切るだけだから。心配しない……暴れたらだめだ!」
若槻は、恵の足首を縛っている紐を糸鋸で切断しようとした。鋸《のこぎり》の歯が細かすぎるために、なかなかナイロンの繊維を引き切ることができない。大きく速く糸鋸を引けばいいのかもしれないが、暗闇の中でしかも恵が絶え間なくもがいている状態では、彼女の体を傷つけてしまう危険性が大きすぎた。
根気よく糸鋸を使っているうちに、ようやく恵の足だけは自由にすることができた。
ふと気がついて若槻は腕時計を見た。二時五十二分。紐を切るのに時間をかけすぎたようだ。菰田幸子が帰ってくる予想時刻までは残り十分しかない。誤差を考えると実際の余裕は、ほとんどないかもしれない。
「このまま逃げよう。腕と、さるぐつわは、後でほどくから。早くしないと、あの女が帰ってくる……」
若槻は、後ろ手に縛られたままの恵を抱え上げるようにして立たせた。だが、全裸のまま外へ連れ出すわけにもいかない。彼はTシャツを脱いで、恵に上から被《かぶ》せた。Lサイズなので、裾を引っ張ればミニスカートくらいの丈にはなる。
恵はまだショックから立ち直れず、目も虚ろで立っているのがやっとのような状態だった。若槻はとりあえず行けるところまで恵を背負って行くことにした。
暗い廊下を引き返し座敷の手前まで来る。その時、玄関の方から物音がした。
若槻はぎくりとして立ちすくんだ。馬鹿な……。早すぎる。何かの間違いであってくれ。
がらがらと、玄関の戸を開け閉めする音。
帰って来た……。
若槻は自分の過ちを悟った。この家に侵入すると同時に電気をつけて恵を捜索し、できるだけ大きな音を立てて近所の人が警察に通報するようしむけるべきだった。そうすれば今頃は、彼と恵は安全なパトカーの中だったかもしれない。
若槻は進退きわまったのを悟った。あの女は刃物を持っている。素手では、とても太刀打ちできない。
だが、不意を襲えば……。いきなり襲いかかって、刃物を出す暇を与えなければ、何とかなるのではないか。
若槻は背中から恵を下ろそうとした。
縁側の廊下にぱっと明かりがついた。光は若槻らのところまで届き、彼は眩《まぶ》しさに目をしばたたいた。
来る……。板敷きの廊下をやって来る幸子の足音が、はっきりと聞こえた。
どうすべきか。戦うか。それとも……。
足音がぴたっと止まった。
どうしたのだろうか。若槻ははっとした。庭から侵入した痕跡に、気がついたのだろう。
隠蔽《いんぺい》工作などしている時間はなかった。ガラス戸は割られ、廊下にはべたべたとスニーカーの足跡が泥で印《しる》されているはずだ。気がつくのが当然ではないか。しかも、幸子は家の中にまだ侵入者がとどまっていると思っているらしい。向こうからは、突然ことりとも音がしなくなった。
若槻は恵を背負い直すと、足音を立てないようにして廊下を後ずさりした。とりあえず台所の方に退避する。
しまったと、若槻は後悔のほぞをかんだ。さっきのスコップだ。あれを穴の中に落としてしまわなければ、十分に武器として役に立ったはずなのに。
かといって、穴の中に飛び込んでスコップを取ってくる勇気もなかった。そもそも、脚立か何かがなければ這い上がれるかどうかもわからない深さなのだ。
若槻は台所の前を通り過ぎて、廊下の突き当たりにある納戸を開けた。かろうじて人間二人が入っていられるだけのスペースがある。
恵を先に入れようとすると、狭い場所に押し込められるのを嫌がり、いやいやをするように足をつっぱった。
若槻は力づけるように彼女を抱き上げると、自分から後ろ向きに納戸に入った。そっと鎧戸を閉めると、隙間《すきま》から、明かりの漏れてきている廊下の様子を見ることができた。
ぎしっと敷居の軋む音がした。
次いで、がらりと襖が開けられた。座敷からの明かりが廊下と壁の上に細長く落ちた。
その中に別の影が伸びてきた。
菰田幸子があたりの気配を窺うようにしながら、ゆっくりと廊下に進み出てきた。
光を背負っているせいで、細かい表情までは判別できなかったが、全身からただならぬ殺気を発散させている。
右手には巨大な包丁を下げていた。若槻は瞠目《どうもく》した。刃渡りは普通の出刃包丁のゆうに倍はある。山刀といってもいいくらいの大きさだ。
前に一度、同じような包丁を見たことがあった。ちょうど一年前、去年の祇園祭《ぎおんまつり》の宵山《よいやま》の晩だ。外務次長ら支社のスタッフと一緒に料亭に行った時に、カウンターの奥で板前がハモの骨切りをするのに使っていた包丁ではないか。そういえば、この家の前の持ち主は板前だった……。
警察は見当違いをしていた。金石を生きたまま数ミリ刻みにしたのは日本刀ではなかった。三善の首と両腕の切断に使ったのもあの包丁に違いない。
座敷から射し込む光を反射して、包丁はぎらぎらと輝いていた。
やがて、菰田幸子はゆっくりと近づいてきた。それにつれて人間離れした猛悪な表情があらわになってきた。鼻の頭にしわを寄せ、めくれ上がった上唇の下からは、妙に動物じみた大きな黄色い歯を剥《む》き出している。
何よりも恐ろしかったのは、その目だった。いつも眠たげに細められていたために今まで気がつかなかったのだが、幸子の目は黒目が極端に小さく、その上下左右に白目が見える四白眼だった。
異様な目をかっと見開きながら、幸子はこちらに迫ってきた。
若槻は全身の血液が凍りつくような感覚を味わっていた。
捕食者が接近してくるのを穴の中で待つウサギの感覚だった。
自分の眼球が光を反射して見つかってしまうのではないかと気づく。極力目を細めながら、じっと幸子が近づいてくるのを見守る。
幸子の注意は、今のところ、納戸ではなく台所に向けられているようだった。だらりと垂らしていた右手を上げて重いハモ切り包丁をかまえ直すと、左手を伸ばして台所の電気をつける。
しばらくは、じっと中の様子を窺いながら動かない。異常なまでの猜疑《さいぎ》心の強さと用心深さだった。それから、ようやく待ち伏せがないことを確信したらしく、すばやく中に踏み込んで行った。
風呂場の戸が開けっぱなしなのを見たらしく、幸子はすぐに足音荒く台所から出てきた。納戸の方には目もくれない。
しめたと若槻は思った。我々がすでに逃走したと思ってくれれば。とにかくここを離れてくれさえすれば、逃げ出すチャンスも生まれてくる。
菰田幸子はゆっくりと座敷の方へ戻って行った。
極限状態にあった緊張から解き放たれかけ、恵を抱いている腕から力が抜けた。恵の体が滑り落ちようとする。ひやっとして危うく抱きとめた瞬間、恵の喉の奥で発せられた、うっという声が若槻の耳朶《じだ》を打った。
普通の人間ならばまず気がつかない程度の声だった。だが、幸子は後ろから銃撃されたかのように凄まじい速度でふり返った。
若槻は絶望で気が遠くなりそうだった。自分が先に納戸に入ったことまであだになっていた。恵の身体が邪魔になって、幸子が近づいた時に納戸の扉を開けてこちらから飛びかかるということもできない。
万策尽きた……。
幸子は、どすん、どすんと床板を踏み鳴らした。隠れている人間に、もう一度、声を立てさせようというつもりだろうか。
幸子は、しばらく様子を窺っていたが、やがて確信したように納戸にまっすぐ視線を定めた。こちらに向かって一直線に歩いてくる。左足を引きずる独特の歩調で……。
若槻は、ぎゅっと恵を抱き締めた。
廊下の中ほどで、ぴたりと幸子の足が止まった。
どうしたのかと思った若槻の耳にも、一瞬遅れてそれは聞こえてきた。
サイレンだ。救急車や消防車ではなく、たしかにパトカーのサイレンだった。音はしだいに大きくなる。近づいてくる。
幸子は、憤怒《ふんぬ》の形相でこちらを睨《にら》みつけた。まるで、鎧戸を通して彼の姿がはっきり見えているとしか思えない。
それから身を翻し姿を消した。
若槻は恵を抱いたまま、納戸の中でずるずると座り込んだ。
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8月9日(金曜日)
二十歳そこそこに見える女性アナウンサーが現場からの中継レポートをしていた。まなじりを決した表情で両手でマイクを握り締めるようにしているところを見ると、これが初仕事なのかもしれない。
若槻はインスタントコーヒーを一口すすると、パジャマを脱いでワイシャツのボタンを留めた。糊《のり》の利きすぎた襟に首がこすれて不快だった。
「……凶行は、すべて、この家の中で行われたらしいということです。ええ――、当初遺体が見つかった場所以外にも捜査の範囲を拡大したところ、この家の床下からは、すでに十数体の白骨化した遺体が発見されたということで……このうち、すでに身元が特定されているのは、菰田幸子容疑者の前の夫、白川勇さんお一人だけで、今後の警察の捜査が待たれます」
画面の右隅には、『黒い家の惨劇! 続々と遺体発見』という派手な文字が躍っていた。
若槻は、涼しげな感じのする水色の縞《しま》の入った紋紗《もんしや》のネクタイを締めた。一種の条件反射で、緊張に備えてぐっと血圧が上昇するのが自分でもわかる。
「それで、この菰田幸子容疑者なんですが、行方は、京都府警の必死の努力にもかかわらず、事件発生後三週間になろうとする今日まで、杳《よう》として知れません。ええ――、菰田容疑者は、大阪の南部や和歌山県の方にも土地鑑があるということなので、すでに、そちらの方に逃亡してしまっているのではないかというのが、警察の見方です。このため、大阪府警ならびに和歌山県警にも、協力を依頼し……」
若槻は背広を着た。エアコンは利かしてあるのに、とたんに汗が噴き出してくるような気がする。
高温多湿の日本で真夏に背広を着るなどというのは、愚の骨頂だ。本社のめったに来客のないような部門では開襟シャツでもよかったのだが、あいにく窓口業務ではそうはいかない。
画面は芸能ネタに変わり、若槻はリモコンのボタンを押してテレビを消した。
マウンテンバイクを押しながら玄関のドアを開けた時、すぐ外に茶色い物体が落ちているのに気がついた。それが油蝉の死骸《しがい》らしいということは、ちらりと意識をよぎったが、気には留めなかった。そのため、後輪がドアに引っかかるのを気にして後ろを向いていた時に、うっかりその上を轢《ひ》いてしまった。
前輪で轢き潰《つぶ》される瞬間に、死んでいるとばかり思っていた蝉が悲鳴を上げた。ぎょっとするほどの音量である。それも明らかに、断末魔の異常な鳴き方だった。
若槻は立ち止まって様子を見たが、いまさらどうしようもなかった。蝉は、タイヤの大きなブロックでちょうど体の半分をぺしゃんこにされていた。にもかかわらず、強靭《きようじん》な生命力で悲鳴を上げ続け、三本の足でもがき苦しみ残った側の羽を激しく震わせている。
このまま生かしておく方が残酷というものだろう。若槻はそのままマウンテンバイクを前進させて、ひと思いに蝉を殺した。ぐしゃりと乾いた音がした。
外へ出ると、すでにじりじりと熱い太陽が照りつけていた。
あの事件以降パトロールを強化したのか、若槻が退院してからしばらくは前の路上で警官の姿が目に付いたが、ここ二、三日は見ていなかった。もう危険はないと判断しているのだろう。
朝からどうも頭の芯が朦朧《もうろう》として集中力を欠いているような気がする。寝不足がたたっているのだろうか。若槻は、菰田幸子が逮捕されるまで本当の安眠はできないものとあきらめていた。
御池通りに出ると、地下駐車場を作る工事のために交通規制が行われていて、ひろびろとした景観がすっかり台なしになっていた。
若槻がマウンテンバイクで御池通りを横切ろうとした時、信号が赤に変わったのを無視して一台の4WD車が突っ込んできた。工事の立て看板の陰になって4WD車を発見するのが遅れたため、もうちょっとで接触事故を起こすところだった。
4WD車が若槻の鼻先をかすめる瞬間、鋼鉄のガードが朝の日の光を反射してきらりと光った。もともとオーストラリアで、カンガルーを撥《は》ね飛ばしても車体に傷がつかないようにつけられたものだ。いわば車体を守るために歩行者を殺害する凶器をつけているようなものだが、いまだ規制はなく野放し状態のままである。まるで若槻を轢き殺せなかったのを残念がっているかのようだった。
スモークガラスに隠れて運転者の姿は見えない。4WD車は罵声《ばせい》の代わりにけたたましいクラクションを若槻に浴びせて走り去っていった。
ふと、さっきの蝉の運命が、頭をかすめた。
支社に着いて仕事を始めてからも、依然として頭の隅のどこか一部分が麻痺《まひ》したままのような状態が続いた。調子が出ない日というのはあるものだが、それにしても今日はよほどバイオリズムが悪いのだろうか。
第一陣の書類を片づけると、若槻は立ち上がって窓から外を眺めた。すでに太陽は中天に昇っていた。アスファルトの上に、ゆらゆらと陽炎《かげろう》が立っている。まるで、ガラス越しに見える京の町が、丸ごと電子レンジの中に入っているかのようだった。
一年半前に京都に来て以来、若槻は盆地特有の気候の厳しさを肌身で感じていた。しんしんと足下から冷え上がってくる冬の寒さもこたえたが、それ以上に参ったのは東京や千葉とは比較にならない、上下から火で炙《あぶ》られているような夏の暑さである。
これだけ暑いとどうしても外務員の活動も鈍くなり、ついつい顧客への訪問をサボって喫茶店で時間をつぶすようになるのだろう。この日、営業所から上がってきた書類はいつもより少なめだった。
だが、ちょうどその時、坂上弘美が持ってきた死亡保険金の請求書類だけは、いやに件数が多かった。ぱっと見ただけでも普通の日よりずっと多い。
ちょっとめくってみただけで、そのほとんどが同一の事故によるものだとわかった。火災で家が全焼し妻と子供二人(四歳と一歳)の計三人が焼死したという事件だった。新聞記事のコピーが付けられており、警察と消防の現場検証の結果、出火原因は放火と思われるということだった。
三人合わせると十一件もの保険に加入していた。こうした例は、つき合いで保険に入るという風習を持つ日本では決して珍しくはない。
だが、若槻はそのうち二件が加入後わずか一か月であることに気がついた。しかも保険金額はこの二件が群を抜いて大きく、合計で七千万円にもなる。
早期死亡であるため、どのみち本社扱いになるケースである。だが、書類をチェックしているうちに、暑さボケは外務員だけではないことがわかった。書類の中で必要な営業所長の印の抜けているものが数多くあった。
彼は舌打ちした。二十以上も営業所があると、どうしても書類関係にルーズな事務員や所長のいるところが出てくる。下鴨《しもがも》営業所の谷所長にはこれまでにも何度も口を酸っぱくして注意していたのに、いっこうに改めるきざしがなかった。
若槻は営業所に直通の電話をかけた。
事務員は、所長は外出中でおそらく今頃は支社に寄っているはずだと言う。
「下鴨の所長やったら、さっき、下の階におったで」
若槻の話を横で聞いていた葛西が、端末のキーボードを叩きながら言った。
「外務次長に呼ばれたんやって言ってたわ。まだ、おるんちゃうかな」
若槻は谷所長をつかまえようと思って七階に降りた。高卒の叩き上げで彼よりも十以上年上だったので今までは注意するのにも遠慮があったが、一度、釘を刺してやる必要があった。
七階では新しく外務員になる女性たちのための新人講習が行われていた。廊下の途中で急ぎ足でこちらへやって来る榊原《さかきばら》副長に会った。痩《や》せぎすの四十代後半の女性で、主に外務員の教育を担当している。
「ああ、若槻主任」
榊原副長はひどく困惑した表情だった。
「どうかしたんですか?」
「それがね、今、新人教室に来てる人の数を数えたんやけど、お弁当の数と、一人分合わへんのよ」
「余ったんですか? だったら、食べますけど」
講習に参加予定だった新人が当日になって来られなくなることはよくあった。余った弁当は支社の男性スタッフの誰かのところに回ってくる。いつも決まったように有名な仕出し弁当屋の特上の京風幕の内なので、ただで食べられるのなら歓迎だった。
「それやったらええんやけど、足りへんのよ。困ったわあ。今からでは、追加注文しても間に合わへんし、ひとりだけ、違うもんっていうわけにもいかへんし……」
若槻は眉をひそめた。
「足りなくなるはずは、ないですよね」
「そう思うでしょう? お弁当の数を勘定しても、ちゃんと合ってるのよ。新人さんの数が、一人多いんよ。今日になって急に参加者を増やしといて、連絡してこなかった営業所が、どっかあるんやわ」
若槻は廊下の一番奥にある第三会議室を見た。学校の教室ほどの広さの部屋で、墨痕《ぼつこん》鮮やかに『新人講習会会場』と書かれた紙を貼った立て看板が出ている。
榊原副長は困った困ったと言いながら廊下を駆け出して行った。若槻はしばらくその後ろ姿を見送っていた。
カウンターの向こうの時計に目をやると、夜の八時半を回っていた。
若槻は、二本の太い象牙の印鑑を指の間に挟み、交互に朱肉をつけては書類の上に押しつけるという作業を繰り返していた。ときおり印鑑の側面や指についた朱をティッシュペーパーで拭《ふ》き取る。スタンプ式の印とは違って、ある程度の力を込めて押さなくてはならないため、手がじんじんと痛み始めていた。
もうかれこれ二時間近く人間よりもむしろ産業用ロボット向きの仕事を続けていたが、いっこうに終わりは見えてこなかった。外務員一人一人の管理に関する書類に支社長印と内務次長印を交互に押しているのである。
営業や挨拶回りで一日の大半外を飛び回っている支社のトップにこれほど大量の書類に目を通している暇があるかどうかは、常識で考えればすぐにわかることである。ところが現実には、本社の別々の部課が別々に書式を作成しているために、夥《おびただ》しい量の書類が毎月、支社に対して要求されていた。
したがって、当然のことながら、誰かが支社長や内務次長に代わって印鑑を押さなくてはならないことになる。
だが、いくら単純作業とはいえ、まさか支社長印を入社したばかりの女子職員に任せるわけにはいかない。その結果として、若槻のような下っ端の役付職員があまり人目のない夜にせっせとハンコ押しをするはめになるのだった。
同じ動作を機械的に反復しているうちに、若槻の意識は集中力を失って、あらぬ方へとそれていった。
いつのまにか恵のことを考えていた。
菰田幸子が恵を誘拐するのに使った手口は松井刑事が教えてくれた。それは稚拙さと狡猾《こうかつ》さ、それに驚くべき忍耐強さの奇妙に入り交じったものだった。
七月十九日の朝、幸子は大学の構内に入り込んだ。ぼろぼろの古着を身にまとい、麦わら帽子と手拭いで顔を隠して、段ボールなどを載せたリヤカーを引いていたらしい。それがきわめて効果的な擬態となって、誰からも注目を集めずにすんだのだ。
たぶん、前もって恵がどの建物のどの部屋に入るのか下調べをしていたのだろう。リヤカーを建物の裏手に隠すと、菰田幸子は恵の研究室に一番近い女子トイレのボックスに籠《こも》った。そこで三時間以上もひたすら恵を待ち続けたらしい。
出口に一番近いボックスが朝からずっと塞《ふさ》がっていたという証言が、複数の大学関係者から得られていた。
午前中に恵は一度トイレに行っているらしい。その時は仲間と一緒だったので幸子もあきらめたのだろう。だが、昼休みにもう一度恵が来た時には、一人だった上に折悪しくトイレの中には他に誰もいなかった。
幸子は、獲物の足音を聞きつけたトタテグモのようにボックスの扉を開けて飛び出し、恵にハモ切り包丁を突きつけると、すばやくまたボックスの中に引きずり込んだ。
菰田幸子の凄《すさ》まじい形相と包丁に竦《すく》み上がって、恵は抵抗する気力を失ってしまったらしい。菰田幸子から言われるままに白い錠剤を数錠、嚥下《えんか》させられたという。
その錠剤が何であったのかは確認されていないが、のんですぐに気分がぼおっとなってきたという恵の話から、松井刑事は、モルヒネのような麻酔鎮痛剤ではないかと推測していた。
なお、入院中の菰田重徳に対してモルヒネ類似物質の一種である塩酸コデインを含む痛み止めが処方されていることが確認されている。
経口投与の麻酔剤が効くまでには時間がかかるためだろう、幸子は、恵の顔にクロロホルムかエーテルのような刺激臭のある薬品を染み込ませた布を押し当てたということだった。恵が完全に意識を失ったのを見届けて、用意していた布団袋に詰め込んで、彼女をリヤカーまで運んだ。
布団袋をリヤカーの荷台に載せると、その上を段ボールで覆い隠す。そして、大学から黒い家までの約十キロの道のりを、リヤカーを引いて帰ったらしい。獲物を毒液で麻痺させて巣穴に持ち帰る、ジガバチのように……。
常人では、たとえ考えついたにせよ、とうてい実行に移そうとは思わないような犯行方法である。白昼堂々、衆人環視の道の上を四時間以上もかけて誘拐した人間を載せたリヤカーを引くのだ。
だが、精神的、肉体的な負担を別にすれば意外に確実な方法かもしれなかった。現実に、その間、通行人は誰一人として菰田幸子に注目しなかったのだから。
無事に黒い家に帰り着き風呂場に恵を運び込むと、幸子は彼女を全裸にして縛り上げ、彼女が所持していた財布の中にあった若槻のアパートの鍵を奪った。そして彼女が昏睡《こんすい》から覚めるのを待った。
恵が目を覚ました時には、目の前に縛り上げられた三善の姿があった。
三善が幸子に捕まったのは前の晩のことらしかった。電話で契約解除に応じるからと言って、おびき寄せたらしい。かなりの修羅場をくぐっており用心もしているはずの三善の自由を、どうやって奪うことができたのかは不明である。切断された遺体の後頭部から、頭蓋骨《ずがいこつ》にひびが入るほどの打撲傷が見つかっていた。
本物の地獄絵図が始まったのはそれからだった。菰田幸子は、眠りから覚めた恵の眼前で、三善を生きたまま解体し始めたのだ。
三善が絶命した後なぜ菰田幸子が恵を殺さなかったのかは、幸子を逮捕して供述を得ないことにははっきりしない。警察が委嘱した心理学者は、若槻の首を持ち帰って見せるためだろうという意見を述べていた。恵の反応を楽しみ、自分の勝利を確認するために。
事件の直後、恵は療養のために横浜の実家に帰った。肉体的にはほとんど損傷は受けていなかったのだが、もともと脆《もろ》いところのある彼女には精神的ショックが大きすぎたのだろう。
若槻は彼女の実家に何度も電話をかけたが、一度も恵に取り次いでもらえなかった。恵が若槻と話すことで事件のことを思い出すのが心配であり、しばらくはそっとしておいてやりたいというのが、表向きの理由だった。
しかし、恵をこんな事件に巻き込んでしまった若槻に対して、彼女の両親は強い不快感を抱いている様子を隠そうともしなかった。
若槻は恵の両親の感情を抑えた穏やかな声を思い出した。二人とも、しゃべり方は実によく似ていた。決して激したり声を大きくしたりすることはなく、きちんと相手の言い分も聞きながら話す。だが、若槻は今までにこれほど頑《かたく》なな拒絶に出会ったことはなかった。
先週末、彼は直接横浜まで行って彼女を訪ねようと思ったが、断念せざるを得なかった。彼女の両親の怒りの深さを考えると、火に油を注ぐような結果にしかならないからである。いったんこじれてしまった感情は、徐々に時間をかけて修復していく以外に道はないのだろう……。
「それ、今日中やなくてもええんやろ? もう、しまいにして、内務次長のおごりで、ビールでも飲みに行けへんか? うまい地ビールを出すビアガーデンがあるんや」
仕事が一段落したらしい葛西が、声をかけてくれた。木谷内務次長もこっちを見てうなずいている。若槻が心を動かされかけた時、机の上の電話が鳴った。若槻の直通番号だった。
「はい。昭和生命、京都支社です」
「若槻主任ですか? 下京営業所の高倉ですけど」
「あ。どうも、遅くまでご苦労様です」
若槻は少し面食らった。
高倉|嘉子《よしこ》はまだ四十代の半ばだが、保険の販売額では毎月、全国ランキングの上位に入る優績者だった。
やり手として知られる弁護士の妻であり、特に金に困っているわけではない。暇を持てあまして人と接する仕事をしたいということで外務員になったらしい。それがあっという間に京都支社のナンバーワンとなり、指導所長として他の外務員をサポートしながらその地位を十数年持続していた。最近では、対談やエッセイなどが、昭和生命から出される小冊子だけではなく一般の女性誌などにも載るようになり、かなりの有名人と言ってもよかった。
高倉嘉子が成功したのは、夫の社会的地位や幅広い人脈、先行投資としてお客さんに高額の贈り物ができる経済力もさることながら、やはり本人の人格による部分が大きかった。機転がきき、明るさの中にもしっかりした芯の強さを感じさせる。
「わたし、今、西陣の織物会館の前からかけてるんです。これから、設楽《しだら》さんというお客さんとお会いすることになってるんですけど……」
音質からすると、携帯電話だろう。かすかにだが、背景に鐘の音と規則的な機械音が聞こえる。どこかで聞いたことがあると思ったが、すぐには思い出せなかった。それに、彼女が話している最中、ときおり木枯らしのような音が混じる。季節はずれもいいところだ。今日はよっぽど風が強いのだろうか。
「実は、その後で、折り入って、若槻主任にご相談したいことがあるんです」
「どんなことでしょうか?」
若槻はおそるおそる聞いた。外務員でもこのクラスになると、本社の役員などとも顔見知りだし、相談事があれば所長を飛び越して支社長か内務、外務の両次長にするのが常である。これまでに若槻に何かを頼んできたということは、一度もなかった。
よほどやっかいなことでなければいいのだが。
「それが、ちょっと込み入ってるんで、設楽さんとお会いした後で、もう一度お電話したいんです。……十時頃になってしまう思うんですけど、いいかしら?」
相手は外務職員組合の役員でもある。非常識な頼みだとは思ったが嫌とは言えなかった。
「わかりました。それでは、お待ちしてますので」
「ごめんなさいね。夜遅うに無理言うて。わたし、今日の昼頃、転換の試算で支社に行ったんですけど、その時は、あいにくと若槻主任はいはらへんかったみたいで……」
また木枯らしの音。
「そうですか。ちょっと席をはずしてたんだと思います」
「……そしたら、また、お電話します」
高倉嘉子はまだ何か言いたそうな様子だったが、結局そのまま電話を切った。
若槻が事情を説明すると、葛西と木谷は、高倉さんの頼みではしゃあないなと言いながら、引き上げて行った。
広い総務室に一人になると、急にやる気が失《う》せてくるのを感じる。それでも何とか気をとり直して、ハンコ押しを続けた。
九時ちょっと過ぎに一階にいる守衛が総務室を覗《のぞ》きに来た。小柄な白髪の老人だが、自衛隊を定年退職してから再就職したということで、鍛え方が違うためか頭も身体もまだまだしっかりしていた。
「残業ですか? いつもいつも大変ですなあ」
守衛はにこにこしながら言った。
「すみません。まだ、ちょっと、かかりそうなんですよ。十時に電話がかかってくるもんで」
「そうですか。そしたら、八階のシャッターは、開けときましょうか?」
若槻はちょっと考えた。
昭和生命京都第一ビルには、二基のエレベーターと階段室、それに建物の外側に付いた非常階段がある。火災になった場合の延焼を防ぐために、夜間には階段室から各階へ通じる入口はすべて鉄製の防火扉で閉ざすことになっていた。
もちろん、万一停電になり、エレベーターが使えなくなったとしても、非常階段があれば特に支障はないはずだ。だが若槻は、なぜか階段を開けておいてもらいたいと思った。
「そうですね。それじゃあ、お手数ですけど、そうしていただけますか? 帰る時に、声をかけますので」
「わかりました。私、ずっと守衛室におりまっさかい、何かあったら、声かけてください」
守衛は敬礼して出て行った。しばらくして、七階から順番に防火扉を締める重々しい音が響いた。
若槻はまたハンコ押しに没頭し、ようやくめどがつくところまで作業を終えて時計を見ると、九時四十分だった。
ひどく空腹を感じた。考えてみると、昼に蕎麦《そば》屋で天ザルを食べてから何も胃に入れていない。
昼間の新人教室の弁当の一件が思い出された。あの弁当が余っていれば、もう少し腹持ちがよかったに違いないと思う。実際には、余るどころか一個足りなかったのだが。
今考えてみると、そのことがひどくおかしいという気がしてくる。
各営業所には、保険の件数や金額だけでなく新人職員の採用数についても厳しいノルマが課せられている。新人講習への参加者が少ない営業所は、外務次長や支社長から後でこってりと油を絞られることを覚悟しなくてはならないのだ。
したがって受講者が増えたという場合、営業所から支社に連絡がないということは、考えにくい。人間の習性としてミスは隠しても手柄の方は喧伝《けんでん》したがるものだ。
だとすると、なぜ弁当は足りなくなったのだろうか。
ふと、恐ろしい想像が脳裏を走った。
馬鹿な。何を考えてるんだ。疲れて正常に頭が機能しなくなっているんだ。ほとんど関係妄想ではないか。
一笑に付そうとすればするほど、その想像は頭の中で信憑《しんぴよう》性を獲得していく。
菰田幸子は他府県に逃亡したと思われているが、ひょっとするとまだ京都市内に潜伏しているのではないか。京都は周囲を山で囲まれている。野宿ができる人間になら、隠れる場所はいくらでもあるはずだ。警察にしても、すべての山を捜索するなどということは不可能だ。
もし菰田幸子が危険を冒してまだ京都市内にとどまっているとすれば、理由は一つしかない。自分を殺すためである。
菰田幸子には、何か事を起こす前に入念な下調べをする習性がある。今晩、若槻を襲うために、昼間のうちに支社の様子を確認に来ていたのかもしれない。菰田幸子の外見はごく平凡だし、まさか白昼堂々支社へやってくるとは誰も思わない。新人教室の大勢の中年女性に紛れて入ってくれば見咎《みとが》められない可能性は大だろう。
あるいは、機会さえあればその場で自分を殺すつもりだったのかもしれない。だが、八階の総務室に近づけば、葛西を始め菰田幸子の顔を知っている人間に出くわす危険性がある。結局、その時は断念せざるを得なかったのだろうか。
だが、あの女の執念深さを考えると、必ずもう一度やってくるはずだ。それも、時間がたつほど警察に発見される可能性も増す以上、ほとんど間をおかずに来るだろう。そして、間違いなく自分が一人になった時を狙うはずだ。
若槻は頭《こうべ》をめぐらせ、蛍光灯の下でのっぺりと陰影を失った総務室を見回した。端末の灯が消え、人がいないということだけで、昼間とはまったく別の場所に変貌したかのような印象だった。
ふいに、自分が今一人であるという事実が、胸にひしひしと迫ってくる。
バカバカしい。やっぱり自分は疲労と空腹による低血糖で神経がおかしくなっているのだろうと思う。もし菰田幸子が自分を狙って来るとしても、どうして特定の日に、遅くまで一人で残業をしているとわかるのだ。
若槻は印鑑を取り上げかけて凍り付いた。
さっきの高倉嘉子からの電話に思い当たったのだ。あれはもしかすると……。
若槻はもう一度、記憶の中で会話を反芻《はんすう》してみた。
電話を受けた時、高倉嘉子の言葉に何となく違和感を感じた。
そもそも高倉嘉子が日頃あまり交流のない若槻に名指しで相談を持ちかけるというのも不自然なら、周囲への気配りで知られる彼女が十時に電話をするから支社で待てなどという迷惑千万なことを言うのも妙だ。
落ち着いて考えるとさらにおかしな点が見つかった。
高倉嘉子は『転換の試算のために支社に来た』と言っていた。恵のことで頭がいっぱいだったためについ聞き流してしまったが、考えてみるとまったくあり得ないことだ。現在では外務員は全員一人に一台ずつ携帯用の端末かノート・パソコンを持たされている。契約転換の試算くらいなら、簡単に自分でできるはずだ。それに彼女は、毎日のように支社に顔を出している。わざわざ来たということを告げても何の意味もない……。
はっとする。高倉嘉子は支社に来た時に菰田幸子に見られたのではないだろうか。高倉嘉子の顔は、社内、社外のさまざまな印刷物に載っている。菰田幸子からすれば絶好の標的だと映ったのかもしれない。
若槻は電話に手を伸ばしかけた。だが、それだけの理由で警察に電話をするのはためらわれた。
待てよ。思い出せ。ほかにもまだ、おかしいと感じたことがあったはずだ……。
電話のバックグラウンド・ノイズにあった、あの鐘のような音と規則正しい響き。あれは、たしかにどこかで聞いた音だ。それも、一度や二度ではない。
電車の音……。そう。それも一両編成の路面電車のような音だ。京都ではすでに市電は廃止されているから、ああいう音を出すのは京福電鉄の嵐山線と北野線、あとは叡山電鉄か京阪京津線くらいしかない。
高倉嘉子はどこにいると言っていただろう。たしか『今、西陣の織物会館の前からかけてるんです』と。だが西陣の近くを走っているような路線は一つもないはずだ。少なくとも、電話の背景音として聞こえるほど近くには……。
高倉嘉子は、わざとばれるような嘘をつくことによって、若槻に、あるメッセージを伝えようとしていたのだ。そう思ったとたん、もう一つの隠されていたヒントが、はっきりと若槻の目の前に現れた。
西陣で高倉嘉子が会うことになっていたのは、設楽さんというお客さんだということだった。彼女はその名前をわざわざ二度も繰り返した。
なぜ気がつかなかったのだろう。設楽というのはさほど多い名字ではない。ほかならぬ昭和生命の保険金課長の名前ではないか。その名に言及することによって、高倉嘉子はモラルリスクが関係していることを警告していたのではないか。
若槻は思わず立ち上がっていた。
あの木枯らしのような音の正体にやっと思い至ったためだった。
どうしてもっと早く思い出さなかったんだろう。あれとほとんど同じ音を、ほんの半月前、しかもやはり電話線を通じて聞いていたではないか。
あれは鋭い刃物が滑らかな布地の上を擦る音だ。菰田幸子が高倉嘉子にあのハモ切り包丁を突きつけて脅していた何よりの証拠なのだ。
若槻は恵のことで頭がいっぱいで上の空になっていたおのれの迂闊《うかつ》さを悔やんだ。時計を見るとすでに十時五分前である。
内線電話で、守衛室を呼び出す。だが、呼び出し音が空しく鳴るばかりで、いつまでたっても応答がない。
ふいに音が途絶えた。
受話器からは、何も聞こえない。若槻は外線のボタンを押してみたが、回線は完全に死んでいた。
受話器をそっと戻す。菰田幸子が若槻を殺すためにビルの中に侵入していることは、もはや確実と思えた。
若槻は携帯電話を持っていなかった。電話回線を切断された以上、外部に助けを求める方法はない。助かるためには、彼自身が自力で脱出する以外にはないのだ。
若槻は、武器になるものを探して総務室の中を見回したが、何一つ役立ちそうなものは見当たらない。耳を澄まして廊下の様子を窺《うかが》う。何の気配も感じられなかった。
総務室の明かりを消して廊下に出た。電気は消されており、廊下のつき当たりにある非常口の、四角い緑色の標示灯だけが明るく輝いていた。
エレベーターは二基とも一階に止まったままだった。ボタンを押して呼んでみたが動かない。明らかに意図的に止められているのだ。
思い切って非常階段の方から逃げるべきか。若槻は迷った。だが、非常階段のロックを解くと自動的に非常ベルが鳴り響くことになっている。その瞬間、彼が逃げ出そうとしていることは菰田幸子の知るところとなり、一階で待ちぶせを食らうかもしれない。
ではどうすればいいのだ。
エレベーターが止められている以上、残る選択肢は、このまま八階でじっと待つか階段を使う以外にはなかった。
もしかすると、菰田幸子は八階の防火扉が開いていることを知らないのかもしれないと思った。
エレベーターを二基とも止めたことによって、彼を、完全に追いつめたつもりでいるのかもしれない。そうした上で建物に放火でもする計画なのか……。
危険を冒して階段を下りてみようと思った。気をつけていさえすれば、いきなり菰田幸子と至近距離で鉢合わせせずにすむ。もし菰田幸子の姿を階段で発見した場合は、すぐに駆け上がれば追いつかれることはないだろう。その時こそ八階に戻って非常階段から逃げればいい。ロックをはずすには、ものの二秒とかからない。
若槻は廊下を見回して、消火器のボンベを取り上げた。使い方は火災訓練の時に覚えていた。ピンをはずしノズルを目標物に向けレバーを握ればよいだけだ。これでもいざという時、時間稼ぎくらいの役には立つはずだ。
若槻は階段室に足を踏み入れた。一階まで吹き抜けになっている細い隙間《すきま》から、手摺《てす》り越しに下を見下ろす。七階から二階までは薄暗い非常灯だけがついているようだ。一階は完全に真っ暗だった。
足音が反響しないように気をつけながら、若槻はそっと階段を下りて行った。
七階から下の階は全部階段の入口は防火扉で閉ざされているようだった。したがって、エレベーターが使えない現状では若槻には他の階に逃げ込む術《すべ》はないことになる。
各階や踊り場の手前では、必ず曲がり角に菰田幸子が隠れていないかどうか気配を窺う。
八階から五階まで下りるのに一分以上かかった。五階と四階の間の踊り場にさしかかった時、何か黒っぽいものが視野に入った。立ち止まって首を伸ばし、そっと下を見た。踊り場のすぐ下の階段で、うつぶせになって倒れている人影があった。照明が不十分でも、誰であるのかはすぐにわかった。黒っぽい染みが点々とついている青いワイシャツ。そして白髪。ぱっくりと割れている首筋からは黒っぽい液体が階段を伝って四階まで流れ落ちていた。
守衛は、下からやって来た菰田幸子に襲われて、上に逃げようとしたのだろう。だが逃げきれなかった……。
若槻は階段に消火器を置いて、守衛の上にかがみ込んだ。
手首に触れてみる。脈がない。完全に絶命していた。だが遺体はまだ温かい。殺されてからほとんど時間はたっていないはずだ。
まだ近くにいるのかもしれない。
若槻は突然、自分の呼吸が異常に速くなり、心臓が激しく打ち始めるのを感じた。落ち着け。パニックになったらおしまいだ。とにかく冷静になれ……。
若槻はそっと踵《きびす》を返すと、階段を上ろうとした。だが、やはり平常心を失っていたのか、段を踏みはずし転倒しそうになって、危うく踏みとどまる。
靴音がタップでも踏んだように階段室全体に響きわたった。
若槻は小走りに階段を駆け上がった。大丈夫だ。うろたえるな。とにかく八階へ戻れ。火災報知器のベルを鳴らし、非常階段のドアを開けて、その前で助けが来るのを待てばよい。どちらから菰田幸子が襲って来たとしても逃げ道はある。今こそ冷静に。慎重に。あわてず落ち着いて……。
不意にエレベーターが唸《うな》りを上げた。心臓をわしづかみにされたような恐怖が襲う。壁一枚隔てた階段室の隣の空間を、鋼鉄製の箱がぐんぐん上昇してくる。
若槻は必死で足を速めたが、恐怖のために過度に分泌されたアドレナリンが、逆に彼の脚から自由を奪っていた。呼吸はますます浅く速くなり、膝《ひざ》ががくがくと砕けそうになる。
日頃は苛々《いらいら》するほど低速だと思っていたエレベーターはあっさりと彼を抜き去り、彼が七階に達する前に八階に止まった。
昼間はほとんど聞こえない扉の開閉する音までが大きく響きわたる。
そして再び静寂が訪れた。
若槻は全神経を耳に集中させた。だが、それっきり何も聞こえてこない。
どうすればいいんだろう。上るか、下りるか、それともこの場にとどまるか。
階段の途中でじっとしているのは、これ以上耐えられない。手摺り越しにもう一度下の方を見る。
濃密な闇《やみ》から邪悪な瘴気《しようき》が放射してくるようだった。まるでこのビルが、そっくりあの黒い家に変わってしまったかのように。
気がつくと、いつのまにか彼は階段を上り出していた。正気の沙汰《さた》じゃないぞと心の中の声が警告する。菰田幸子は八階で彼を待ち受けているはずだ……。
だが、彼の足は止まらなかった。直感はなぜか自分が正しい方向に向かっていると告げていた。
八階の手前でしばらく待った。廊下で菰田幸子が待ちぶせをしていれば必ずわかるはずだ。人間が、すっかり自分の気配を消し去るなどということができるはずがない。かすかな息づかい。空気の動き。臭い。そして、体温……。
若槻は、しばらく息を詰めて斜め前方の空間に意識を集中していたが、長く息を吐き出した。
いない。
菰田幸子は待ちぶせはしていない。
若槻は音を立てないようにして残りの階段を上がり切った。
そっと頭を出してみたが、廊下の様子は彼が下りる前とまったく変わらないように見えた。
彼の目は、廊下の右手のつき当たりにある非常口を示す標示灯に吸い寄せられた。まさに出口から逃げ出そうとしている人間の図案。早くここから逃げろと彼を誘っているようだった。自由と安全の象徴である緑色の輝き……。
だが、そこへ行き着くまでには、四つの部屋の出入口の前を通らなくてはならない。もし、菰田幸子が四つの部屋のどれかに隠れていたとしたら。
非常口のすぐ手前にあるトイレのドアが、彼の目に飛び込んできた。
あそこなら、すばやく飛び出してくることもできる。恵を誘拐する前に、菰田幸子がずっと大学のトイレに隠れていたことを思い出した。
犯罪者というのは同じ手口を繰り返すものではないだろうか。
若槻は振り返って、エレベーターの方を見た。
階数の標示板を見ると、手前の一基は一階でずっと止められたままだ。だが、さっき上がってきた方はまだ八階にある。
エレベーターのケージというものは、八階で人を降ろせば自動的に一階に戻るものではなかっただろうか。それとも、ほかの階から呼ばれるまでは最後に動いた階にとどまっているのか。
そのどちらとも、確信が持てなかった。これまでエレベーターの動き方になど一度も関心を持ったことがなかった。それに、昼間と今とでは運転のしかたを変えているとしてもおかしくない。
若槻がそんなことに思い悩んだのも、今一つおぞましい可能性が残っているからだった。菰田幸子は八階で降りたふりをしてまだこのケージの中に潜んでいるのかもしれないのだ。
彼が不用意にエレベーターのドアを開けたとたんに、中から飛び出してきてハモ切り包丁で斬りつけるつもりなのかもしれない。あれだけの刃渡りがあれば、ドアが完全に開き切らないうちに相手に致命傷を負わせることも不可能ではないだろう。
どちらだ。若槻の目はエレベーターと非常口の間を激しく揺れ動いた。
もう一度、階段を下りるべきだろうか。だが、もう一度守衛の死体のところに戻ることを考えただけでぞっとする。しかも、もし一階の防火扉まで閉まっていた場合、退路を断たれて、袋の鼠になってしまう。
普通に考えれば、エレベーターを空にして非常口の近くに隠れるというのは可能性が薄い気がする。どうぞお逃げくださいと言っているようなものだからだ。
だが、菰田幸子の方では、こちらがそう考えることまで読んでいるかもしれなかった。あの女の驚くべき狡猾さを考えると……。
しかしこのままでは埒《らち》があかない。思いきってエレベーターの扉を開けてみるより他にないのではないか。無駄に時間を費やせば菰田幸子を有利にするばかりだ。
万が一、中にあの女がいたら。その時は一目散に走って非常口から逃げるしかない。菰田幸子は扉が十分に開き切るまでは出られない。その間に非常口を開けて外へ逃げられるかもしれない。
一方、エレベーターの扉が開く音を聞きつけて、廊下の奥から菰田幸子が飛び出してきたら。
若槻は迷った。その場合、エレベーターに乗って一階まで下りる余裕はとてもないはずだ。
ふと、守衛は階段で殺されていたのだから、守衛自身は一階の扉を下ろしてはいなかったはずだと思い当たる。それに、若槻のためにわざわざ八階の防火扉を開けておいてくれたのだから、一階の方を閉めてしまうということはないだろう。
菰田幸子に扉の操作方法がわかるとは思えない。だとすれば、一階の扉はまだ開いているはずだ。階段は最後の逃げ道になる。その場合、菰田幸子はエレベーターで一階に先回りすることはできるかもしれないが、階段の途中にいる彼を捕まえることはできないだろう。
いずれにせよ、これは賭《かけ》なのだ。
若槻は手のひらの汗をズボンで拭《ぬぐ》うと、目の前のエレベーターと左手奥の非常口まで延びている廊下の両方に対して等分に神経を配りながら、エレベーターの三角形のボタンを押す。
チン、という乾いたチャイムの音がして、エレベーターが、身じろぎしたようだった。鋼鉄の扉がゆっくりと開いていく。
若槻は走り出す姿勢を取った。
いない……。中は空だ。
非常口の方を窺うが、こちらも静まり返っている。若槻は足音を忍ばせて、エレベーター・ケージに入った。
その時、何か物音が聞こえたような気がした。
反射的に『閉』のボタンと一階のボタンを同時に押す。一瞬の間があってから、扉が再び閉じ始めた。その速度は呆《あき》れるほどのろのろとしていた。
早く閉まれ。若槻は心の中で叫び、激しく『閉』のボタンを押し続ける。
もしかすると、菰田幸子はわざと隠れ場所からすぐに飛び出さず、彼がエレベーター・ケージに入るのを待っていたのではないか。
闇の中から今にも菰田幸子が飛び出してくるような恐怖が彼に取り憑《つ》いていた。
早く……早く。
扉が閉じた。若槻は安堵のあまり、その場でへたへたと座り込みそうになる。
エレベーターが動き始めた。
若槻は高倉嘉子に心の中で手を合わせた。彼女の電話での声は毅然《きぜん》としていた。極限状況にありながら、最後の瞬間まで頭を働かせて若槻にメッセージを送ろうとしたのだ。
彼女にはどれほど感謝してもしたりないだろう。すでにこの世にはいないことはまちがいないだろうが……。
若槻はふと、エレベーターに特有の下降する感覚にひどい胸のむかつきを感じた。
どうしたのだろう。
やっとの思いで虎口《ここう》を脱したはずなのに、彼はまるで死地に陥ったかのような感覚に襲われていた。
なぜだ。ケージがぐんぐん下降するにつれて膨れ上がるこの恐怖の正体はいったい何なのだ。
階数標示を見上げる。エレベーターはすでに三階を過ぎ、二階に近づいていた。
電光のように恐ろしい認識が走る。罠《わな》だったんだ……。
その瞬間、若槻の指は二階のボタンを押していた。
菰田幸子が八階で隠れたのなら、どこかのドアを開けたはずだ。ノブが回る音。ラッチボルトの引っ込む音。トイレのスイングドアの蝶番《ちようつがい》の軋《きし》み。あの静けさの中でそんな音は、何一つ聞こえなかった。
それにもし菰田幸子が八階に隠れていたとするなら、なぜもっと早く飛び出して来なかったのか。
あの女は階段を引き返していく若槻の足音を聞き、空のエレベーター・ケージを八階に放ったのだ……。
若槻は無我夢中で二階のボタンを押し続けていたが、エレベーターは止まらない。遅すぎた。ケージは二階を素通りし、まっすぐ一階に向かっている。
絶望に目の前が真っ暗になる。あらゆるボタンをめちゃくちゃに押した。しかし、もう何の手だてもない。エレベーターには非常用の連絡装置はあっても緊急停止のためのボタンはない。彼は運転盤の上を殴りつけ、頭をぶつけた……。
到着を告げるチャイムの音が響く。
ドアが開いた。
一階の廊下は非常灯まで消えており、真っ暗だった。
どぎつい香水の臭いが鼻腔を襲う。
反射的に『閉』のボタンを押した。
ゆっくりとドアが閉じようとする。
ふいに、横手から手が伸びてきて、がっちりとドアをつかんだ。
菰田幸子が姿を現した。若槻の姿を認めて恐ろしい笑みを漏らし、閉まりかけたドアの間に強引に身体を割り込ませようとする。
瞬間、包丁を持った右手がドアの陰になった。若槻は死に物狂いで飛びかかった。虚をつかれた菰田幸子はハモ切り包丁を振るおうとしたが、長すぎる刀身がドアにぶつかって阻まれる。
その刹那《せつな》、彼は、包丁を持った幸子の右手首をしっかりとつかんでいた。もつれ合うようにしてケージから外に出る。
絶望が去ったとたんに、激しい攻撃衝動が、鳩尾《みぞおち》のあたりを熱く燃えたたせた。若槻は腕力には自身があった。いくら凶暴でも、相手は中年女だ。包丁さえ奪い取れば……。
爪が彼の目を襲った。とっさに顔を背けたが、引っ掻《か》かれたこめかみが、かっと熱くなる。血が頬《ほお》を伝う感触。
菰田幸子は左手の爪で執拗《しつよう》に目を狙ってくる。若槻は、右手で相手の右手をつかんでいるために、顔をそむけて避けることしかできない。
菰田幸子を右足で蹴ろうとしたが、体が密着しているため思うように力が入らない。
右腕を制されながらも、菰田幸子は憤怒《ふんぬ》の形相で、野獣のように唸りながら泡を噴いて暴れ回る。若槻は自分の甘さを思い知った。これではまるで山猫を押さえつけているようなものだった。
目の下を掠めていった爪が、鋭いナイフのように首筋を切り裂く。
若槻は苦痛の呻《うめ》き声を上げたが、右手だけは放さなかった。
早く……。早く包丁を奪い取ってしまえ。
彼の右手は、包丁を持った相手の手首を蒼白《そうはく》になるくらい強く握り締めていた。
菰田幸子は、それでもハモ切り包丁を放さない。喰いしばった歯の隙間から、大量の泡や唾液とともに、ガラガラヘビが威嚇する時のような音を発しながら、今度は若槻の股間《こかん》を蹴りつけてきた。彼がたじろぐと、さっと身を沈め若槻の右腕に食いついた。
激痛に若槻は悲鳴を上げた。
菰田幸子の歯が彼の腕の筋肉に食い込む。若槻は苦しまぎれに左手で幸子の顔面を殴りつけるが、顎《あご》の力はゆるまない。骨の上をぎりぎりと万力のように締めつける。犬歯が皮膚を突き破り温かい血が滴り落ちる。
たまらず若槻の指から力が抜けた。その隙を逃さず菰田幸子は右手をもぎ離す。
しまった。命綱を失って若槻はその場に立ち竦《すく》んだ。菰田幸子は左手一本でかれを壁際まで押し飛ばす。女にしては信じられないほどの膂力《りよりよく》だった。若槻は数歩たたらを踏み壁に手をついた。
向き直ると、菰田幸子は目の前で高々と包丁を振りかぶっていた。
とっさに体を捻《ひね》ってかわそうとしたが、かわしきれなかった。尻餅をつきながら、本能的に右腕で頭をかばう。包丁の先端が上膊《じようはく》部を擦ったかと思うと、鉄棒で殴られたような衝撃が骨の芯に走った。
右腕が折れたように痺《しび》れ、猛烈な悪寒が全身を襲う。若槻は這《は》いずるようにして廊下の奥へと逃れたが、裏口は防犯用の鉄のシャッターで塞がれていた。
振り返ると、菰田幸子は、包丁を持った右手首をさすりながら悠然と歩いてくる。
階段室の前の防火扉が開いているのが目に入る。若槻は方向転換して必死に階段を駆け上がった。傷口から噴き出す血液が肩から胸までを温かく濡らし、ぼたぼたと床に滴った。
四、五段で、たちまち息が切れた。手足の先が氷のように冷たい。腿《もも》にまったく力が入らない。寒気で全身に鳥肌が立つ。
踊り場から見下ろすと、菰田幸子は階段を上り始めたところだった。どうあがいても逃げきれるはずがないとたかをくくっているのか。
二階から七階まではすべて防火扉が下りていて、階段室から出られないはずだ。逃げ切るためには、いったん八階まで上がり廊下の反対側にある非常階段を使うしかない。
自分の荒い息づかいが耳の奥に反響する。
四階の手前まで来た時、膝ががっくりと折れた。
どのくらい血液を失ったのか。たぶん動脈は切れていない。動脈血は噴水のように激しく迸《ほとばし》るはず。失血死のリミットは、全血液量の半分、二リットル……。だが、このままでは、とても八階までもたない。
左手でネクタイを引き抜き、一端を口にくわえて右の腋《わき》の下を縛った。痛みは変わらないが、出血は多少緩和された。
下からあの足音が聞こえてきた。片足を引きずりながらゆっくりと階段を上ってくる。
若槻は、気力を振り絞り、立ち上がった。
視界がぼやけ眩暈《めまい》がする。吐き気を感じて唾《つば》を吐こうとしたが、口の中はからからに渇いていて何も出てこない。
ここで死ぬのかと思う。
今日がその日だったのか。
朝から漠然と不吉な予感がしていた。後になってから気づくものなのだろう。たいていのことは、気づいた時にはもう遅すぎる……。
四階を過ぎると、踊り場のすぐ前に倒れている守衛の姿が目に入った。もう、歩いて乗り越えるだけの余力は残っていない。左手を階段についてよろぼいながら守衛の死体を迂回《うかい》する。
最後の瞬間は近づきつつある。不思議と死への恐怖はない。
足音が聞こえた。間隔は十メートルくらいしかないだろう。
若槻の左手が、何かに触れた。硬くひんやりとする手触り。重い……。無意識につかんで、手元に引き寄せた。消火器のボンベだ。守衛の死体を発見した時にここに置き忘れていったのだ。
体で隠すようにして両膝の間にボンベを立て、ピンを引き抜く。左手でノズルを探った。
背後から足音が近づいて来た。
首を曲げると、四、五メートル後ろにいる菰田幸子の姿が、影のようにぼんやりと視界に入った。重いハモ切り包丁を、だらりと下げている。
若槻は痛みをこらえて、右手に消火器のノズルを持ち替えた。向き直って菰田幸子の目のあたりに狙いをつけると、左手で力いっぱいレバーを握り締める。
たちまち、高圧の二酸化炭素とともに噴出した消火剤が、真っ白な煙となって菰田幸子の頭部を襲った。
狭い階段室の中は、もうもうとした白煙に包まれた。ほとんど呼吸もできない。
獣の咆哮《ほうこう》のような声が階段室の虚《うつ》ろな空間にこだまし、ビル中に響き渡った。まともに目潰しを食ったらしく、菰田幸子は両目を押さえている。
若槻はレバーから手を離した。
煙の中から菰田幸子の白くなった頭部が現れた。視力を失ってもなお、金切り声で呪詛《じゆそ》の言葉を発しながら、二歩、三歩と若槻の方へ上ってくる。ハモ切り包丁を握った手が激怒に震えていた。
若槻は鋼鉄のボンベを頭上高く振り上げた。間合いに入った瞬間、渾身《こんしん》の力を込めて菰田幸子の脳天に叩きつける。
骨が砕ける手ごたえがあった。
菰田幸子は朽ち木のように仰向《あおむ》けに倒れた。後頭部を階段に打ちつける鈍い音。
ぐったりとした体が消火剤まみれの階段を滑り落ちていく。
若槻の視界はぼんやりとかすみ、そして暗転していった。
[#改ページ]
13
8月11日(日曜日)
「ここの電話です。終わったら、切ってもろたら結構ですから」
若槻の担当の看護婦が、仏頂面でそっぽを向きながら言った。少し太めだが目がぱっちりとした京美人である。それまでは重傷を負った彼に同情的で愛想がよかったのに、どうしたのだろうと思った。
若槻は礼を言った。三角巾で首から吊《つ》り下げている右腕を気にしながら休憩室のソファに腰を下ろし、保留になっている電話の受話器を取り上げる。
「もしもし。若槻ですが」
「……もしもし」
恵の声だった。看護婦からは、誰からかかってきた電話なのか知らされていなかったので、若槻はどきりとした。
「もしもし? 恵?」
「怪我《けが》、大丈夫なの?」
「ああ。手術もうまくいったし、問題ないよ。鋭利な刃物ですぱっと切られたんで、かえって治りは早いらしい」
「そう。わたし、ニュースで見て、びっくりして」
「うん。僕もね、まさか、あんなことになるとは思わなかった」
若槻は、受話器を握っている手のひらに菰田幸子を撲殺した時の感触がよみがえるのを感じた。
薄い素焼きの瓶《かめ》の中に納められた柔らかい豆腐のような物質。少し力を込めて叩けば脆《もろ》くも砕け散る。それが我々の全存在を司《つかさど》っているのだ。
「わたし、怪我のことも心配だったけど、若槻さんが、きっと落ち込んでるんじゃないかと思って」
若槻には自分が殺人を犯したという実感はほとんどなかった。菰田幸子の死が残したものといえば、生理的な不快感と漠然とした後味の悪さだけである。
彼は、自分のあまりにも直截《ちよくせつ》的な割り切り方に驚きを感じていた。いくら菰田幸子が残虐極まりない殺人を平然と繰り返していたとはいえ、自分と同じ人間であることに間違いはない。にもかかわらず、その命を絶ったことに対して、ゴミムシをパラジクロルベンゼン入りの毒瓶に放り込んだ時と同じくらいの感情しか湧いてこないのだ。あまりにも良心の呵責《かしやく》がないことに対して、むしろ後ろめたさを感じたくらいだった。
「大丈夫だよ。他にどうしようもなかったんだし。実は、ついさっきまで警察に事情聴取されてたんだ。目撃者はいないけど、相手が相手だからね。正当防衛は認められるだろうって言ってた」
「そう。よかった」
恵はほっと溜め息をついた。彼女の若槻を案じる気持ちが伝わってきて、彼は胸が熱くなった。
「でも、腕が使えないんじゃ、いろいろ不自由なんじゃない?」
「まあね。今、おふくろが、こっちのホテルに泊まって、毎日、看病に通ってきてるんだ。そこまでしなくてもいいって、言ったんだけどね」
「わたしも、すぐにお見舞いに行ければよかったんだけど……」
「いや。こっちは大丈夫だから。それより、君の方は、もうすっかりいいの?」
「うん」
恵は黙り込んだ。
黒い家での事件のことを思い出したのだろうかと若槻は思った。どんなにタフな人間にとっても過酷な体験だったはずだ。まして恵のように繊細すぎるほどの神経の持ち主には……。
「わたし、考えは変えないから」
恵が息を吸い込むようにして、ぽつりと言った。
「え?」
「わたしは、生まれつき邪悪な人間なんていないと信じてるわ」
若槻はちょっと絶句した。
「あんなことがあったのに、あの女が憎いと思わない?」
「怖かったし、憎かった。殺してやりたいとも思ったわ。でも、それであの人を怪物扱いするようになったら、わたしの負けだと思うの」
「菰田幸子のしたことを考えても?」
若槻は半信半疑でたずねた。
「子供っていうのは、自分が扱われたのと同じやり方で、世間に対処しようとするのよ。あの人は、きっと物心つく前から、ああいう扱いを受け続けてきたんだわ。だから、そういう生き方しかできなかった。まわりには誰も、人を傷つけたり殺したりするのが悪いことだって教えてくれる人がいなかったんだと思う」
あれほど恐ろしい体験ですら、恵の信念を変えることはできなかったらしい。彼女の強さに若槻は舌を巻きながらも安堵《あんど》を覚えていた。
「じゃあ君は今でも、菰田幸子はサイコパスじゃなかったって思うんだね?」
「サイコパスなんていう言葉は使わないで。死んだ人のことを悪くいうのは嫌だけど、わたしは、あの金石っていう人は心を病んでいたとしか思えない。あの人は、自分の心の中にある邪悪さを他人に投影していただけなんだわ」
「それはちょっと、金石さんに厳しすぎるような気がするけどね」
「若槻さんは、菰田夫妻の方に目を奪われて、金石さんの正体に気がついてなかったんだわ」
「正体?」
「本当に危険なのは金石さんみたいな人だってこと」
「ええ?」
今回の事件では金石助手は被害者である。恵の言い方は若槻にはあまりにも不当に思えた。
「そう言っても、すぐには理解してもらえないと思うけど……。わたしは、ほかにも金石さんみたいな人たちを知ってるから。それも、すぐ身近にね」
誰のことだろうと若槻は訝《いぶか》った。
「そのことで、わたし、若槻さんに謝らないといけないの」
「どういうこと?」
「こないだから、うちに何度も電話をかけてくれたでしょう? 昨日初めて、親から聞いたの」
「そのことか……。まだ君が、十分ショックから立ち直っていないっていうことだったから」
「そんなことないのよ。それは口実なの。うちの親は、わたしに若槻さんとつき合うのを止《や》めさせようとしてるだけなのよ」
「まあ、あんなことがあったんじゃ、そう思われるのも無理はないけど」
「そうじゃないの。そういうことじゃないのよ!」
恵は少し気分が高ぶっているようだった。
「うちの親は、何でも、自分たちの思うようにさせたがるのよ。わたしを、いつまでも、可愛《かわい》らしいフリルのついた洋服を着てとことこと歩き回ってるお人形さんみたいな子供にしておきたがってるのよ」
「でも、それはまあ、それだけ君を溺愛《できあい》してるわけだから」
「違うのよ。……最初から、説明させて」
恵は深く息を吸うと、堰《せき》を切ったように話し始めた。
「うちの両親は、ほとんど、政略結婚みたいなもんだったの。若い企業家と、都市銀行の支店長の娘のね。だから、お互いに、まったく何の愛情も抱いてないの。結婚しても、よそよそしさはちっとも変わらなかったらしいわ。だから、離婚するようなことになったら困ると思った周囲の人たちは、早く子供を作るよう勧めたの。子はかすがい、っていうわけよ。でも、生きたかすがいにされた人間は、たまったもんじゃないでしょう? わたしは、いつだって両方から引っ張られて、体が引き裂かれそうな気分だったわ」
「二人の愛情の板挟みだったんだ」
「それも違うの。うちの親たちは単に、わたしを使ってゲームをしてたのよ。どっちが、わたしを思いどおりに動かせるかっていうね。わたしはいつも、両親に仲良くしてほしくて、ずっと心を痛めてたわ。わたしが一方の言うことを聞いたら、もう一方を傷つけるんじゃないかって、いつもびくびくしながらね。でも、あの人たちには、そんな心配は必要なかったのよ。だって、もともと誰も愛してなんかいないんだから」
「でも、君のことは愛してたんだろう?」
「ううん。あの人たちにとって、わたしはゲームの駒《こま》でしかないの。だから、わたしが自分の意志を持つのが許せないのよ。わたしが京都の大学に来る時だって、あの手この手であきらめさせようとしたわ。今度の事件のことも、ただ難癖をつける口実にしてるだけなのよ」
親子関係がうまくいかないと、子供はどうしてもひがみっぽくなりがちである。若槻は恵の話には当然曲解や誇張もあるはずだと思ったが、彼女の両親と電話で話した時の妙にうそ寒いような感じを思い出すと、納得できる部分もあった。
「最初に金石さんに会った時、嫌な感じがしたんだけど、少し話を聞いているうちに、うちの両親と同類だってわかったわ。人間というものに対して、ひどく偏った冷酷な見方をしていると、ある種共通した雰囲気を漂わせるようになるのよ」
「それじゃあ、まるで君のご両親に何らかの人格障害があるように聞こえるけどね」
「ううん。まったく普通の人間よ。ほとんど、と言うべきかもしれないけど。問題は、あの人たちが共通して持っている病的なペシミズムなの。人生や世界に対して抱いている、底知れぬ絶望よ。彼らは、自分たちの見るものすべてに、その暗い絶望を投影するの。人間の善意や向上心が世の中を良くするなんていう可能性は、決して認めようとはしないのよ」
若槻は黙っていた。
「だから、世の中のあらゆる存在、あらゆる出来事が、彼らには必要以上に悪意に満ちて感じられるはずだわ。だから、自分たちを守るために、彼らは巧妙なトリックを使うようになるの。裏切られても傷つかないですむように、何に対しても心の絆《きずな》を結んだり愛着を持ったりはしない。そして、自分たちの存在を脅かすものに邪悪のレッテルを貼って、いざとなったら心を痛めることなしに排除できるようにしておくのよ。社会に本当に大きな害毒を流しているのは、わかりやすい人格障害を持った人よりも、むしろ、そうした一見普通の人間なんだと思うわ」
若槻は自分の冷酷さを恵に指摘されているような後ろめたさを感じていた。殺人に対する良心の呵責から自我を守るために、無意識に菰田幸子を人間のカテゴリーから外そうとしていたのかもしれない。そうした心的操作を行えば、たしかに、どんな人間でもいとも簡単に殺人者に変貌《へんぼう》することができる。それは金石が主張するようなサイコパスの存在以上に恐ろしいことかもしれなかった。
「……そういう時だけ、あの二人は団結するの。感情を捨てて、共通の利害のために協力するのよ。本当に見事なくらい。高校の世界史で合従連衡《がつしようれんこう》という言葉を習った時、わたしは真っ先に、うちの両親を思い出したくらいよ」
恵は、いつになく饒舌《じようぜつ》だった。若槻はふと金石の言葉を思い出した。『善意で踏み固められた道も地獄へ通じていることがある』本当にそんな諺《ことわざ》があるのかどうか知らないが、ペシミズムもきわまれりという気がする。しかしその逆もまた真かもしれない。つまり『悪意で作られた塀も防波堤となることがある』かもしれないではないか。恵は両親に対する反発から、心の中に固い殻のようなものを築いていた。それが偶然にも黒い家での恐ろしい体験による精神的外傷から彼女を守ったのかもしれない。
「……それで、この間から、妙に口実を作っては、父の会社の若い社員に会わせようとするのよ。普段は仲が悪くて憎み合っているあの人たちが、その時だけ、こっそり目くばせしたりして、示し合わせてるのが見え見えなのよ。見てるだけで、むかむかしてくるわ」
いつのまにか恵は聞き捨てならないことを言っていた。若槻は何気なさを装って聞き返した。
「相手は、どんな男?」
「それが、嫌なやつなの。東大出なんだけど、いかにも体育会系っていう感じに日灼けしてて、身長は百八十センチくらいで、肩幅が広くて、髪はびしっと七三に分けて、いつ会っても明るく朗らかっていう感じなのよ」
恵はその男を本当は気に入ってるのじゃないかと、若槻は心配になった。
「でも、あの人たちに気に入られて選ばれたくらいだから、そういう外見も見せかけだけっていう可能性もあるけど。どっちにしても、もう、あの人たちの言いなりにはならない。わたしの人生なんだもの。自分のパートナーは自分で決めるわ」
「うん」
心の中に、温かいものが込み上げてくるのを感じる。
「わたし、もう少ししたら、そっちへ帰るから。待っててね」
「ほんと? でも、ご両親は……」
「両親なんて、どうでもいいわ。わたし、親とは決別する決心がついたから」
「それは……嬉しいけど、まあ、しかし、一度よく話し合った方が」
「いいのよ。それより、わたしのことばかり話して、ごめんなさい」
「いや。思ったよりずっと元気そうなんで、安心したよ」
「若槻さんのことを、話してよ」
「そうだな……」
若槻は休憩室の中を見回した。さいわい他には老婆が一人うたた寝をしているだけだった。
腕を斬られて大量に出血してから貧血気味で、まだ頭がふらふらする。だが彼にはどうしても彼女に聞いてもらいたいことがあった。
「ひとつ、問題が解決したんだ。僕にとっては大きな問題が」
「どんな問題?」
「亡くなった兄貴のことなんだ。君は、気がついてたんだろう?」
「……ええ」
「いつ、わかった?」
「前から、何かあるとは思ってたけど、それがお兄さんのことだとわかったのは、若槻さんから、子供のころに虫を捕りに行った話を聞いた時」
「どうして?」
「一人で行ったのって聞いた時、お兄さんのことを言うのが、言いにくそうだったでしょう? それと、昆虫の『昆』の字の意味を聞いた時、いったん言いかけて、結局言わなかったわ。それで、後で漢和辞典で調べてみたの。そうしたら、『昆』という字は、『兄』という意味なんだとわかったのよ」
「そうか……」
若槻は、今さらながら恵の明敏さに驚いていた。
「兄貴は、小学校六年生の時にアパートの屋上から飛び降り自殺をしたんだ。僕は、ずっと長い間、それが自分のせいだと思っていた」
若槻は、自分が脅されて兄がいじめられているのを誰にも告げなかったことを説明した。恵は黙ってじっと聞き入っていた。
「だけど、もしかしたら、真相はそうじゃないかもしれないって思い始めたんだ。きっかけは、君を助けるために、あの黒い家に行った時だった」
「どういうこと?」
当然のことながら、恵には何が何だかわからないようだった。
「あの家の真っ暗な台所には、大きな空のケージがあった。土佐犬でも入れるようなやつだよ。たぶん、あの中で、金石さんが監禁されてたんだと思うんだけど……」
恵に恐怖の体験を思い起こさせてしまうようなことを言いかけて、若槻はあわてて言葉を継いだ。
「その時、既視感《デジヤ・ヴ》みたいなものを感じたんだ。でも、単なる錯覚じゃないと思った。そうしたら急に、昔見た物を思い出したんだ。夜のアパートのベランダに、空のケージが置いてあった。もちろん、黒い家のものよりはずっと小さくて、鳥籠ぐらいの大きさのやつだけどね。扉が開いていて、中には、何もいなかった。そして、僕がそれを見たのは、兄貴が死んだ晩のことだったんだ」
「何か、飼ってたの?」
「シマリスをね、兄貴が飼ってたんだ。兄貴は動物好きだったから、毎日、きちんと世話をしてたよ。餌はヒマワリの種で、中に紙を敷いて、糞の掃除もしていた。何か嫌なことや辛《つら》いことがあると、よくベランダで、じっとシマリスを眺めてた」
「……続けて」
「シマリスを逃がしたのは、僕じゃない。おふくろでもない。おふくろは、ネズミに似た小動物が大の苦手で、絶対にケージには触らなかったからね。ということは、兄貴が、死ぬ前にケージの扉を開けたということになる」
「……最後に、自由にしてやろうとしたのかしら?」
「そうは、思えないんだ。もし、そうだとしたら、兄貴なら、ちゃんと森のような場所に連れていってから放したと思う。団地のベランダから逃がしたって、シマリスが生きていけるとは思えないからね」
「でも、だったら、どういうことになるの?」
「逃がしたんじゃなくて、逃げられたんじゃないかと思うんだ。兄貴は、辛い気分を慰めるために、シマリスと遊ぼうとしてた。それが、ケージの扉を開けた時に、うっかり手から擦り抜けられてしまったんじゃないかな。前にも、一度、同じようなことがあったんだ。兄貴は、懸命になって、捕まえようとした」
「それで、屋上へ行ったの?」
「そうだと思う。古い団地で、コンクリートの張り出しみたいなものがいっぱいあったから、シマリスにとっては、屋上へ上るくらいは簡単だったはずなんだ。兄貴は、シマリスを捜しているうちに、屋上へ出たんだろう。すると、フェンスの外に座っているのを見つけた」
「それだったら……事故じゃない?」
「そのことを確認するのは、実は、すごく簡単なことだったんだ。新聞記事を検索するまでもない。おふくろが外務員をしていた関係で、兄貴はうちの保険に入っていた。だから、機械を叩いて記録を見れば、死因コードというのが出てくる。これまでは、そんなものを見ようという気には、とてもなれなかった。だけど、この間、勇気を出して確認してみたんだ」
「それで、どうだったの?」
「死因コードは482だった。これは、『不慮の墜落』を示してるんだ。念のために、これには、自殺は含まれない」
恵は溜め息をついた。
「何もかも、勘違いだったのね……。でも、どうして、そんな誤解が生まれたの?」
「兄貴が死んだ後、僕は、何もかも自分のせいだと思いこんで、まるで自閉症のようになっていた。兄貴のことは、誰とも話さなかったし、新聞の記事も見なかった。あんまり辛かったんで、今でも、その頃の記憶が、すっぽりと抜け落ちてるくらいなんだ」
若槻はふっと息を漏らした。
「昨日、おふくろに聞いてみたよ。やっぱり、兄貴は、逃げたシマリスを捕まえようとしてフェンスを乗り越え、足を滑らせて落ちたんだということだった。警察がそう断定したんだ。おふくろは、当然、僕も知ってるもんだと思いこんでたよ。もちろん、僕がそのことでずっと苦しんでたなんて、思いもよらなかっただろうね」
「でも、よかったわね。これで、若槻さんを悩ませていた罪悪感から、完全に解放されたのね」
「うん」
若槻は突然、それが何を意味するのかに思い当たった。
「いつ、こっちに帰ってくる?」
恵はくすっと笑った。
「急にどうしたの?」
「会いたい」
「嫌あね。何だか、下心ばっかりみたいで」
「いいから、早く帰って来いよ」
「どうしようかな……」
恵の気を持たせるような言い方に焦れて、若槻は叫んだ。
「わかってるだろう? 君が欲しいんだよ!」
ふと視線を感じて顔を上げると、さっきの看護婦がいつの間にか休憩室の中に来ていて呆れた表情で彼の方を見つめていた。
若槻は赤面した。
8月23日(金曜日)
若槻は左肩にショルダーバッグをかけてアパートを出た。支社での事件以来、彼の生活はかなり変化していた。当分は左腕だけしか使えないために、マウンテンバイクでの通勤はあきらめ、今では御池駅から四条駅までの一区間だけ地下鉄を利用していた。
『御池駅ギャラリー』に展示してある美術品を横目で眺め、若槻はエスカレーターに乗って地下へ下りた。
菰田幸子に斬られた傷は幸いにして感染症を併発することもなく、一週間ほどで順調に塞《ふさ》がった。
前半は千葉から飛んできた母親の伸子が、後半は恵が、それぞれつきっきりで看病してくれたこともあって、二週間目には退院できた。だが、今でも疼《うず》くように痛むことがあるために、腕にはまだ包帯を巻き時々痛み止めを服用していた。
傷に悪いということからアルコールを一滴も口にしなくなったのも大きな変化だった。つい一か月前はアル中か肝硬変への道をひた走っていたことを考えると、むしろ健康面では改善したと言えないこともない。
じっと寝てばかりいたので、性欲はひどく昂進《こうしん》していた。だがセックスも傷に障るという理由で当分の間恵からおあずけを食わされており、欲求不満が募っていた。
一番困ったのは風呂に入る時である。右腕をすっぽりとビニール袋で覆い根本をしっかりとガムテープで留めて入浴するのだが、湯船に入っても、右腕が濡れないよう絶えず気をつけているのは、けっこう骨が折れた。
一つ彼が発見したのは左腕一本では絶対に左腕そのものを洗うことができないという事実である。腿《もも》の上にタオルを広げて左腕を擦《こす》り付けたりといろいろ悪あがきをしてみたが、どれもうまくいかない。今では完全に右腕が使えるようになるまでは左腕を洗うことは断念していた。
退院してからしばらくの間は、支社の近くで待ち構えていたワイドショーのレポーターたちにマイクを突きつけられたりした。しかし、何を聞かれても彼は一言もしゃべらなかったので、ここ数日は、彼らの姿を見なくなっていた。
支社に着くと、エレベーターの前で坂上弘美たちに会った。彼女たちの挨拶に若槻も会釈を返した。事件前とまったく変わらない朝の一コマである。
彼が職場復帰してから、今日で五日目になる。記念すべき第一日目には坂上弘美が代表で花束を渡してくれ、支社の職員全員の拍手に包まれた。
三日目になると、若槻の腕の不自由さだけを残してすべては元の日常に戻り始めているようだった。もっとも、ほとんどの仕事は、あいかわらず書類をチェックしたり印鑑を押したりすることだったので、左手一本でも、それほどの不便は感じなかった。
この分だと、もし彼があの晩、菰田幸子に惨殺されていたとしても、彼の机の上には三日間だけ花が飾られ、後は忙しい日常業務に埋没するようにして忘れ去られていたことだろう。
高倉嘉子のことを思い出す。
彼女の遺体は、彼が入院している間に左京区の宝ケ池公園で全身をめった斬りにされた死体で発見された。電話の背景に聞こえていたのは、やはり叡山《えいざん》電鉄だったらしい。葬儀は盛大だったらしく、昭和生命の本社から社長以下の重役が多数列席していたということだった。若槻は葬儀に出席できなかったので、退院した翌日、高倉嘉子と守衛の墓に参ってひっそりと献花を行った。
若槻がエレベーターを降りると、総務室の前で法人営業担当の橘課長に出会った。橘課長は小脇に今日発売の写真週刊誌を数冊抱えていた。
「あ。若槻主任。これ、見た?」
橘課長は若槻の顔を見ると、喜色満面で角を折ったページを開いて見せてくれた。
そこには、菰田重徳に関する記事が出ていた。
菰田幸子が死亡した数日後、重徳は病院の屋上から飛び降りて自殺を図っていたらしい。建物が低層だったために怪我の状態は大したことがなかったらしいが、抑鬱《よくうつ》などの症状がかなり悪化したために現在は精神科病棟の方へ移されているという。
写真は、どうやって撮影したのか、重徳が病室のベッドの上で、窓の外を眺めているところだった。
若槻は写真を一瞥《いちべつ》して、目をそむけた。
橘課長は、若槻が興味を持っていると信じているらしく、親切にも次のページを開いてくれる。
二枚のそれぞれ人物を撮ったスナップ写真だった。一枚はごつごつした顔つきの男が正面を向いた証明書用らしいバストアップの写真。もう一枚はふっくらした感じの若い女性が庭のような場所で犬と戯れているところである。どちらも目には黒いスミを入れてあった。
「とにかく、今になっても、あの山のような死体のうちで身元が確認されたのは、この二人だけなんだって。後は、まだ、誰なのかもわかってないんだからねえ」
男は殺害当時三十歳の菰田幸子の前の夫とだけ書いてあった。女性の方は当時まだ二十四歳で、化粧品の訪問販売のために、たまたま黒い家を訪れたらしい。
「しかも、それ以外に、菰田幸子は、過去に、三人の実子を殺害していた疑いが濃厚なんだってさ。菰田和也とは別にだよ? 子供を殺したのは、全部、保険金目当てらしい。二件は他生保なんだけど、一件はどうも、うちらしいよ」
白川義男ちゃん、六歳……。若槻は名前を覚えていた。彼が機械で検索し図書館の新聞記事で確認した名前である。
「まあ、若槻主任も、こんな化け物に関わり合いになったのが、不運だったとしか言いようがないよね」
たしかに不運だったのだろう。自分も、小坂重徳も、その他の人々も……。だが、いったいどの程度運が悪かったのだろうか。
百万人に一人。十万人に一人。あるいは、千人に一人くらいなのか。今の日本で菰田幸子のような人間と遭遇する確率は、はたしてどれくらいあるのだろう。
総務室に入ると、ちょうど葛西が電話を置いたところだった。こちらを向いた彼の顔色が蒼白《そうはく》だったので、若槻は驚いた。
「おはようございます。何か、あったんですか?」
「うん。ちょっと、来てくれるか……」
葛西の机の上には一件書類が広げられていた。死亡保険金の請求書類である。新聞記事のコピーが付けられていた。
「見覚えあるやろ。ちょうど、菰田幸子が支社に襲って来た日に、受けつけて処理した書類や」
思い出した。放火によって家が全焼し妻と子供の三人が亡くなった事件だ。三人にかけられていた保険は十一件だが、うち二件は加入後一か月未満であり、保険金額は合計すると七千万円に達していた。
下鴨の営業所長から話を聞こうと思っていた矢先にあんな事件が起きたので、結局、それっきり若槻はタッチしていなかった。
「これな、下鴨の所長に聞いても、最初はなかなか本当のことを言いよらんかったんやけどな。きのう支社に呼んで膝詰《ひざづ》めで話を聞いたら、ようやく吐きよった。この二件に関しては、向こうから営業所を訪れて、保険に入りたいと言ってきたそうなんや。しかも、特約も何もいらん、掛け捨てで、できるだけ保険金額を多くしたいという要望やったらしい」
「それは、問題じゃないですか? 新契約は、なぜその時点で、もっと厳しいチェックができなかったんですか?」
若槻はたずねた。
「この月、下鴨は惨憺《さんたん》たる成績やったんやな。支社長や外務次長からも、相当ハッパをかけられとったやろう。それで、何とか契約を成立させようとして、営業所長が、外務員に嘘を書かせたんや。紹介を受けて、こちらから訪問した客やということにしてな」
保険会社の営業所長は常に厳しいプレッシャーの下に置かれている。毎月、営業所長会議というのが支社の中で開かれており、若槻もオブザーバーとして何度か出席したことがあったが、その異常な雰囲気に驚いたものだった。それはほとんどマルチ商法か宗教団体の集会を連想させた。
成績を上げている営業所長が、わざとらしいほど持ち上げられる一方で、年責《ねんせき》と呼ばれるノルマに達していないと集中砲火を浴びる。給料泥棒と罵《ののし》られ、人格を否定されるような叱責《しつせき》にも、じっと耐えなくてはならないのだ。他支社では、支社長に蹴りを入れられたり床に正座させられたりするところもあると聞いていた。
それを思うと、若槻は小細工をした営業所長を責める気にはなれなかった。
「今回は、まず、簡易保険から火がついた。簡保の調査は厳しいんで有名やからな。それで、うちにも問い合わせが来たんや。その結果、簡保、他生保、共済まで合わせると、保険金額は、三億円以上になることがわかった」
若槻は請求書類を見た。保険契約者および保険金受取人、宮下龍一。昭和三十八年生まれということは現在三十三歳だ。
「この男は、職業は何ですか?」
「元は鉄筋工やったということやが、今は何もやってない。無職や。初回保険料だけでも、月三十万近くなるはずやが、どうもサラ金から借りて支払ったらしい」
背筋を嫌な感触が走った。右腕の傷が、ずきんと痛む。
「それで、たった今宮下から電話があったんや。えらい剣幕でな。何で保険金を支払わんのや、今からこっちへ来て話をつける、話の内容次第ではただではおかんとか、言っとるんや。家は近くやから、おそらくあと十分か十五分で来る思うわ。内務次長は、今日は綾部の方へ行ってるから、病み上がりで悪いけど、一緒に出てくれるか?」
「わかりました」
百戦錬磨の葛西の顔がひどくこわばっている。菰田幸子の事件の時にさえ、あまり見せたことのないような表情だった。
生命保険とは何だろう。席に戻って若槻は自問した。
日本の良好な治安と貯蓄好きで勤勉な国民性にマッチしたことで、世界一の加入率を達成したシステム。平均寿命が延び日本経済が順調に発展することで、生保各社は我が世の春を謳歌《おうか》していた。だが、それもすでに過ぎ去った夢になりつつある。
日本の社会全体が現在アメリカで進行しているような巨大なモラルの崩壊に直面しているからだ。精神的な価値を軽視し金がすべてという風潮。思考力や想像力の衰退。社会的弱者に対する思いやりの欠如。その前兆は損害保険の分野ではもう始まっていた。損保業界ではすでに請求額の半分は詐欺であるとまで言われている。それが生命保険にも波及するのは時間の問題だろう。
そうなれば、やがて保障に対するコストはとてつもなく上昇することになるが、そのツケは結局、国民全員に回されるしかないのだ。
こうしたことは単なる世紀末、過渡期の現象なのか。それとも社会全体が取り返しのつかない破局に向かって驀進《ばくしん》しているしるしなのだろうか。
人間の精神に起因する危険であるモラルリスクは、かつては社会の進歩とともに減少していくと思われていた。だが、現実はまったく逆の方向をたどりつつある。その原因は死んだ金石や一部の社会生物学者の攻撃する福祉制度にあるのだろうか。日本の現在の福祉がそれほど弱者に優しいとは、若槻にはとても思えなかった。
あるいは、すべては農薬や食品添加物、ダイオキシン、電磁波などの環境汚染が、複合的に我々の存在の根幹である遺伝子を蝕《むしば》みつつあるしるしなのか。
金石は若槻の前に荒涼とした未来像を描いてみせた。
あまりにも犯罪者の数が多すぎるために、すべての刑務所が満杯となり、刑事裁判も時間がかかりすぎて、まったく機能しなくなってしまう。都市部においては、夜間に外出することは事実上不可能になる。団地はスラム化し、公共の施設はいたずらによる汚損がはなはだしく使用に堪えない。
本格的な高齢社会の到来と犯罪率の急増によって、歳出は天井知らずの上昇を見せる。加えて、脱税の横行と寄生虫のような官僚たちによって国家財政は破綻《はたん》する。いや、現在、すでに破綻してしまっていると言ってもいいかもしれない。そして、秩序が失われた暗い社会の中で、サイコパスたちが跳梁《ちようりよう》するのだと。
金石の考えでは、彼らこそ新しい社会に最もよく適応し進化した種族なのだ。そして、我々の社会はいずれ彼らに食いつぶされることになるというのが彼の予言だった。
それは病的なペシミズムが生み出した幻影なのだろうか。
死臭で充満した黒い家は、我々の社会がたどり着く明日の姿ではないと言い切れるのだろうか。
恵は、生まれつきの犯罪者はいないと固く信じている。劣悪な環境と幼児期に受ける精神的外傷《トラウマ》こそが、犯罪を生み出す温床であり、人間にレッテルを貼るのはまちがいだと。
若槻は恵を信じようと決心していた。
生命保険とは、統計的思考を父に相互扶助の思想を母として生まれた、人生のリスクを減殺するためのシステムである。
断じて、人間の首にかけられた懸賞金などではないのだ。
二十分ほどたったころ、エレベーターが唸《うな》り声を上げた。
来た、と若槻は直感し、身震いする。またひとり菰田幸子の同類がやってくるのかもしれない。
唐突に、昔テレビで見た科学番組のワンシーンがよみがえった。海外のテレビ局が制作した、蟻をテーマにしたドキュメンタリーだ。
画面では、木の枝の上で無数の蟻が狂ったように右往左往している。木のうろに棲《す》む種類の蟻らしい。巣穴に入っては、卵や幼虫、蛹《さなぎ》を必死で運び出している。何かとてつもない災厄が間近に迫っているのだ。
次のシーンで、災厄の正体がゴムボートを逆さまにしたような奇妙な格好のイモムシであることがわかる。
それは、アリノスシジミと呼ばれるシジミ蝶の幼虫だった。シジミ蝶の仲間には蟻と共生関係にあるものが多いが、この種に限り、木の上にある蟻の巣を襲って卵や幼虫、蛹を喰い尽くしてしまうのだという。
枝の上を緩慢な速度で這《は》いながら、アリノスシジミが接近すると、巣を守ろうとする蟻の群れが決死の攻撃をかける。だが、イモムシは蟻と比べてはるかに巨大であり、分厚い皮膚のためにまったくダメージを与えることができない。肢《あし》を狙おうとしてもゴムボートを被《かぶ》ったような形の突起のために蟻の大顎《おおあご》は届かない。
蟻にとっての究極の悪夢を体現したこの生き物は、大きく長い体を波打たせ無数の肢でしっかりと枝をつかみながら、遅いが着実な足取りで巣に近づいていく。
蟻の群れは、密集隊形をとりイモムシの前に最後の防衛線を張ろうとするが、相手はまったく意に介せず、突っ込んでくる。体を張った蟻の防壁もばらばらと蹴散らされ、枝から振り落とされていく。
すでに勝敗の帰趨《きすう》は明らかだった。イモムシの足取りを遅らせることさえできないのでは、どんなに残りの蟻たちが急いだところで、とうていすべての卵や幼虫、蛹を運び出すことはできない。
やがて、捕食性のイモムシは蟻の巣に到達した。悠然と巣穴に頭を突っ込んで、もぞもぞと上半身を潜り込ませる。そしてグロテスクな口器を動かして、蟻たちが運び出すことのできなかった幼虫や蛹をむしゃむしゃと貪《むさぼ》り喰らう……。
エレベーターが止まり、ドアが開いた。
中から出てきたのは、きわめて背の高い男だった。百九十センチははるかに超えているだろう。
葛西が蒼白《そうはく》な顔で立ち上がり、若槻もそれに続いた。
男は、首をすくめるようにしてガラスのドアを開け、支社の中に入ってきた。吊り上がった目の眼光は異常なほど強い。
えらの張ったごつい顎を傲然《ごうぜん》と持ち上げ、男はまばたきひとつせずに総務室の中を睥睨《へいげい》する。窓口担当の女子職員たちは全員|麻痺《まひ》したように動かない。
男と視線が合った瞬間、若槻の血圧は一気に上昇し、心臓がドラムのように激しく打ち始めた。
もしかすると本当の悪夢は、これから始まるのかもしれないと若槻は思った。
[#地付き](了)
本書は、第4回日本ホラー小説大賞の大賞受賞作に加筆したものです。この作品はフィクションであり、実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
本書は、一九九八年六月小社単行本として刊行されました。
角川文庫『黒い家』平成10年12月10日初版発行
平成11年12月9日8版発行