[#表紙(img/表紙.jpg)]
クリムゾンの迷宮
貴志祐介
[#扉絵(img/扉絵.jpg)]
1[#ここでゴシック体終わり]
焚《た》き火の中で爆《は》ぜる小枝……。
不規則だが単調な音が、頭の奥の方で響いていた。
音源は、ゆっくりと外の世界へと移動していく。音階が少し高くなり、かすかな残響やノイズを含めて、ずっと鮮明に聴き取れるようになる。今はまるで、広げた新聞紙の上に、細かい砂粒を撒《ま》き散らしているような音に聞こえる。
肌に触れる空気は、蒸し暑く、ねっとりとしていた。ときおり吹くそよ風が、額に涼を運んでくる。こちらは、水分を含んで、ひんやりと冷たい。
鼻孔に、湿った土の臭いを感じた。
そうか。これは雨音だ……。混沌《こんとん》とした意識の中で、ようやくそんな思考が形作られた。雨が降ってるらしい。
藤木《ふじき》は、体を動かそうとして異状に気づいた。体になじんだ安アパートの万年床の感触ではない。背骨や肩胛骨《けんこうこつ》の上に、ごつごつした異物感がある。地べたに直接寝ているのだ。それもビーチのような砂地ではなく、粗い砂礫《されき》か何かの上に。
ここは、どこだ。
当然の疑問に対して、頭の中には何の解答も浮かばなかった。
したたかに酔っぱらって帰宅した翌朝、昨晩起きたことが、どうしても思い出せないことはある。だが、自分の居場所がわからないというのは、初めてだった。
やはり、酒量を減らすべきなのか。若さの幻影にしがみついているつもりはなかったし、昔のような無茶はできないと自覚もしていた。だが、それにしても、これは……。
藤木はゆっくりと目を開け、上体を起こそうとした。
ひどい立ち眩《くら》みに襲われる。視野が周囲からじわりと狭まり、完全に溶暗してしまった。しばらく目を閉じて、血の巡りが回復するのを待つ。
いったい、どうなったんだ。
パニックに似た感情が沸き上がってきた。
病み上がりのように、体に力が入らない。口の中はからからで、舌を出して舐《な》めてみると、唇も乾いてひび割れかかっている。無理に唾《つば》を呑《の》み込んだら、センブリのようなひどい味がした。これは変だ。尋常な状態ではない。何かが起きた。何か、とんでもないことが起きている。
おそるおそる、もう一度目を開けてみた。
うっすらと霞《かす》む視界に映ったのは、雨に濡《ぬ》れ、一面鮮やかな深紅色に染まった異様な世界だった。
何だ……これは。
藤木は、茫然《ぼうぜん》として目の前の景色を見つめた。
どこだ、ここは。何で俺《おれ》は、こんなところにいる……。
そこは、両側を奇妙な形をした岩山に挟まれた、峡谷のような場所だった。自分がいるのは、その片側で、岩が天蓋《てんがい》のような窪《くぼ》みを作っている。岩の屋根があるおかげで、雨に濡れずにすんだらしい。
だが、それを取り巻いているのは、一度も見たことのない、それどころか、地球上にこんな場所が存在すると想像したことすらないような異様な風景だった。
不規則な丸みを帯びた岩が、寄り添うように並んでいる。単なる無機質な岩の連なりというよりは、キノコかホヤのような生き物の集合体のようだ。
それ以上に不思議だったのは、その色彩と模様だった。見渡す限りすべての岩山が、同じ横縞《よこじま》で彩られているのだ。まるで、巨大な木彫《もくちよう》に浮き出た年輪のようだ。
全体の色は、雨につやつやと濡れ光る深紅色で、その上を太くて黒い帯が何本も横断している。仔細《しさい》に見ると、ずっと細くて白っぽい筋も数多く走っており、複雑な模様を形成していた。
自分の頭が変になったとは思えなかった。幻覚にしては、あまりにリアルすぎる。
視覚や聴覚、皮膚感覚は、すでに現実を受け入れ、刻々と情報を伝えてきていた。だが、それを頭の中でつなぎ合わせて、合理的な解釈を与えることができない。
藤木は喘《あえ》ぎ、猛烈な喉《のど》の渇きを覚えた。
頭がおかしくなりそうな不条理な状況だったが、生理的な欲求の前には、疑問はとりあえず棚上げにすることにする。
手近にある水といえば、煙るように降り続いている雨しか目に入らなかった。雨水には様々な大気の汚れが溶け込んでいるはずだから、飲まないに越したことはない。短期間、新宿でサバイバル生活を送ったときも、雨水は絶対に飲まなかった。だが、今は、そんなことは言っていられない。
藤木は、ふらつく足で立ち上がった。すぐにバランスを崩して地面に手をついたとき、指先が何かに触れた。
見下ろすと、緑の円盤形の水筒だった。その横には、透明なビニールの手提げ袋に入った赤いランチボックス。それに、銀色に光る小ぶりのポーチがある。今まで気づかなかったのが不思議だった。
水筒を持ち上げると、どっしりと重みを感じた。
蓋《ふた》を開ける。中に入っているのは、水らしい。まず安全性を確かめるべきだと、理性は警告していた。だが、そんな余裕はなかった。水筒の口に舌を差し入れて味を見てから、ラッパ飲みする。
金属臭のする重い水が、たとえようもなく美味に感じられた。途中で二、三度|咽《む》せかえったものの、半分くらい飲み干してしまう。
渇きを癒《いや》すと、今度はひどい空腹を感じた。頭がくらくらして、脳が切実に糖分を欲しているのがわかる。固く縮こまっていた胃袋も、水を入れたことで急に働き始めたようだ。長い間……まるで一週間くらい、何も食べていないような感じすらする。
藤木は、手提げ袋からプラスチックのランチボックスを引き出してみた。そっと蓋を取る。
中には、ブロックタイプの栄養食品が詰まっていた。彼は一本を手に取り、少し躊躇《ためら》ってから、端を囓《かじ》った。
長時間、入れっぱなしになっていたのだろう。かなり湿気《しけ》ている。粉っぽいクッキーのような味。だが、一本、また一本と手を伸ばすうちに、気がつくと、一段目を平らげてしまっていた。
急に、残りの本数が気になり出した。まだ八本ずつ三段あるから、二ダース残っている。藤木は、いったん伸ばしかけた手を引っ込めた。いまだまったく状況が呑み込めないものの、直感が、食糧を大切にするように告げている。
人心地がついてから、藤木は、もう一度辺りの様子を眺めた。
自分は、ここへ来る前、どこにいただろう。藤木は、虚《うつ》ろに視線をさまよわせながら、懸命に記憶をたぐってみる。意識を失う前に、最後にいた場所は……。
頭の一部は、依然として霧がかかったように朦朧《もうろう》としていた。まるで、薬でも飲まされているかのように。それとも、実際に一服盛られたのだろうか。
自分の名前は、はっきりと思い出せる。藤木|芳彦《よしひこ》。四十歳。一昨年までは、大手の証券会社に勤務していた。
……バブルの時期は、我が世の春を謳歌していた。毎晩のように銀座に繰り出しては、会社の金でモエ・エ・シャンドンやヴーヴ・クリコを開け、ホステスたちの嬌声《きようせい》を聞いて得意になっていた。ヤング・エグゼクティブ。そんな実体のない馬鹿げた言葉で呼ばれることに、喜びを見いだしていたのだ。すべては幻影にすぎなかった。それがわかったのは、会社が破綻《はたん》して、ただの失業者となってからだ。
……小学校から、中学、高校と、真剣に真正面から勉強に取り組んだことはなかったが、かといってドロップアウトもせず、まじめに塾通いをし、そこそこの成績を取り、そこそこの大学に進学した。おかげで、青春時代について思い出すことなど何もない。
だが、その甲斐《かい》あって、安定した大会社に就職できた。その時はそう思っていた。何しろ、東証一部上場なのだから。お上の保証付きのようなもので、定年まで、絶対に潰《つぶ》れることなどあり得ないと。
だが、気がついたら、失業者だった。社宅からの退去期限の三日前に、杏子《きようこ》は家を出ていった。子供もなかったし、今から思えば、会社が傾きかけたときには、すでに肚《はら》を固めていたに違いない。世間体を気にして、時期を見計らっていたのだろう。もともと、妻と心が通い合ったことは一度もなかった。あの女はただ、ピーク時の俺の年収と、安定した将来という幻想に、心|惹《ひ》かれただけなのだ。
そして、俺は、失業者とホームレスの間を行ったり来たりし、辛うじて、前者の範疇《はんちゆう》に踏みとどまっている。おかげで、その二つの間には、明確な境界線が見あたらないことがわかった。最後のひと踏ん張りがきく徳俵《とくだわら》や、下値を支える抵抗線など、どこにも存在しなかったのだ。
……考えてみれば簡単だ。畢竟《ひつきよう》意志の問題だ。
誰の詩の文句だっただろうか。現実はそんなに簡単ではない。だが、とにかく俺は、少なくとも現在は、ホームレスではない。……なかったはずだ。
藤木は、頭を振った。そこまでは、比較的簡単に思い出せる。だが、その続きが、どうしても出てこないのだ。自分がなぜこんな奇妙な場所にいるのかを、きちんと説明してくれるはずの、肝心要の部分が。
目覚める前に最後にいた場所も、はっきりとはわからない。時間の感覚がめちゃめちゃに混乱していて、どれが記憶の終端だか判然としないのだ。
失業生活を送っている朽ちかけた1DKの安アパート。たそがれ時、人の目が気にならなくなってから散策する河原。ハローワーク。格安のモーニングを食べに行く喫茶店の、剥《は》がれかけたクリーム色の壁紙。唯一憂さを晴らす場所である居酒屋の、薄汚れた合板のカウンター。それらの映像が、雑然と断片的に浮かんでくるものの、そこから現在の状況へと繋《つな》がるような記憶、ミッシング・リンクは、何一つ、見つからない。
記憶喪失……。そう思い当たって、一瞬、ぞっとした。しかし、考えてみれば、それが一番合理的な説明ではないだろうか。トワイライト・ゾーンじゃないんだから、いきなり時空間を飛び越えて、こんな妙な場所に出現するわけはない。きっと、ここに至るまでの経緯が、頭の中から、すっぽりと抜け落ちているだけなのだ。それさえ思い出せば、何もかもはっきりする。
前向性健忘……。
同期入社で、営業に配属された社員が、外回りの途中で交通事故に遭ったことがあった。見舞いに行ったときに、医者から聞かされた言葉だった。頭を打ったらしく、自分の名前や身分など基本的な事柄は覚えているのだが、事故に遭遇するまでの経緯と、それ以降の事柄が、すっぽり記憶から抜け落ちてしまったのだという。
頭部に外傷を負った場合だけではなく、ある種の薬物の摂取によっても、それ以降の記憶が消えてしまうことがあるらしい。いずれの場合でも、自分の名前や社会的なバックグラウンドなど、基本的なことはめったに忘れないという。そういった情報は、何度も過剰に学習され、インプットされているから、かりに脳の一カ所が機能不全に陥っても、別の場所に情報のバックアップがあるのだ。
たしかに、自分が失業者だという事実については、脳内には無数のコピーが刻み込まれているはずだ。まるで、便所の落書きのように。藤木は、自嘲《じちよう》に片頬《かたほお》を歪《ゆが》めた。来る日も来る日も、それこそ、数え切れないくらい自問自答したのだから。
だが、かりに自分が陥っているのが一種の記憶喪失だとしても、この場所には説明がつかない。藤木は、奇妙な丸い岩の連なりを眺めながら、自分の心の中で、恐怖がじわじわと膨れ上がってくるのを感じていた。
単に記憶を失ったために、混乱が起きているのではない。記憶が空白になっている間に、どれほど奇想天外な出来事があったと仮定しても、とうてい現在の状況を説明することはできないように思える。
ひどい蒸し暑さにもかかわらず、彼は、全身に冷や汗が滲《にじ》むのを感じていた。不条理な感覚、違和感は、全身の皮膚感覚から来るもののようだ。
……蒸し暑さ。
藤木は、はっとした。途切れていた記憶の端っこに、ようやく手がかかったような気がする。
冬だった。そうだ。間違いない。一面の雪。あれは、どこだっただろう。東京ではまず感じられない、肌に斬《き》りつけるような空気の冷たさ……。自分が最後にいた場所は、間違いなく、真冬だった。
あらためて、自分が着込んでいる服を見下ろす。背広の上下に、ネクタイ。下に着ているワイシャツも長袖《ながそで》だ。
腕時計の文字盤を見ると、五時十六分を示していた。たぶん、午後だ。秒針は正常に動いている。
藤木は、バブルの名残りである、アンティークもののロレックスなどをしていたことを後悔した。機械式の時計は、クォーツより精度が劣る上に、自動巻きなので、いったん止まってから動き出すことがある。この時刻にしても、百パーセント信頼はできないのだ。
ふと、藤木は手首を返してみた。
そこには、うっすらと消えかかった傷痕があった。癒《なお》りかかった瘡蓋《かさぶた》が、破線状に残っている。そうだ。あのとき俺は、時計をはめていなかった。これは、駅……どこかの駅を出たときに、うっかり雪の上で滑ってしまい、地面に手をついたときの傷だ。
急に心臓が、早い鼓動を打ち始めた。
あれは、いったい、どこだったのだろう。東京近郊でないことだけはたしかだが。
もう一度、傷の状態を検分する。まだこの状態だということは、あれから、せいぜい二、三日しかたっていないはずだ。だとすると、この暑さはどういうことだろう。雨が降っているのに、三十度はゆうに超えているだろう。どう考えても、真夏としか思えない。
藤木はうつむき、腕を組んで考えた。水筒やランチボックスと一緒に置いてあった銀色のポーチが目に入った。
ウォレット型で、細長い紐《ひも》で肩に掛けるか、縫いつけられた帯をベルトに通すようになっている。拾い上げてプラスチックの留め具をはずし、開いてみると、中には、携帯用のゲーム機が納められていた。おそらく、今時の子供には人気がある玩具なのだろう。
ゲーム機を引っぱり出して眺める。プラスチックのボディは半透明で、中に組み込まれている基盤やICなどが透けて見える。その上に、五センチ四方くらいの液晶の表示画面と、いくつかの操作ボタンが配置されていた。
側面にあるスイッチをオンにしてみた。
小さな電子音とともに、液晶に「POCKET GAME KIDS[#「POCKET GAME KIDS」はゴシック体]」という文字が現れる。だが、それ以上のことは何も起こらない。画面は、どの操作ボタンを押しても無反応だった。
ゲーム機をよく調べてみる。ちょうどテレビのリモコンを幅広にしたくらいのサイズで、リモコンと同じ場所に、赤外線を射出ないし感知するポートがある。裏側の大きな開口部は、ゲームソフトのカセットを差し込むためのものだろう。
藤木は、もう一度ポーチを開けて、本体が入っていたのとは別のポケットに、平べったいカセットが収納されているのを見つけた。いったん本体の電源をオフにして、カセットを差し込み、電源を入れ直す。
再び、「POCKET GAME KIDS[#「POCKET GAME KIDS」はゴシック体]」の文字が現れ、すぐに消えた。そして、安っぽいファンファーレとともに、画面いっぱいに別の文章が映し出される。
[#ここからゴシック体]
火星の迷宮へようこそ。
[#ここでゴシック体終わり]
何だ、これは。藤木はつぶやいてから、はっとし、周囲を見回した。
そう言われてみると、この場所には、たしかに火星を思わせるものがある。深紅色の景色。奇怪な横縞《よこじま》で彩られた丸い岩山。だが、もちろん、ここが火星だなどということは、とうてい信じられない。ありえないことだ。馬鹿馬鹿しい。悪ふざけにしても、洒落《しやれ》にも何にもなっていない。
……しかし、少なくとも一つのことだけは明らかだと思った。このゲーム機のソフトは、市販されている出来合いのものではなく、誰かが自分に宛《あ》てたメッセージなのだ。たぶん、現在の状況に至る、すべての経緯と事情を知っている人物からの。
説明書がないので、ゲーム機の操作方法がわからなかった。迷ってからAと刻印されたボタンを押すと、前の文章が消え、次の文章が現れた。
[#ここからゴシック体]
ゲームは開始された。無事に迷宮を抜け出て、ゴールを果たした者は、約束通りの額の賞金を勝ち取って、地球に帰還することができる。
[#ここでゴシック体終わり]
ゲーム。藤木は、眉《まゆ》をひそめた。これがゲームだというのか。わけがわからないうちに、自分は、その渦中に巻き込まれているらしい。
だが、「約束通りの額」と表現されているところを見ると、自分はすでに、そのことについて一とおりの説明を受けているのかもしれない。だが、何らかの事故か手違いにより、その間の記憶を失ってしまったのだろうか。
再び、Aボタンを押す。
[#ここからゴシック体]
プレイヤーは、チェックポイントにおいて、進路に関する選択肢を与えられる。選択は、百パーセント、おのおのの裁量に任せられる。また、生存に役立つ様々なアイテムが得られる場合もある。ただし、選択肢によっては、生死にかかわることもありうるので注意。なお、各プレイヤーは、お互いに協力するも敵対するも任意である。
[#ここでゴシック体終わり]
チェックポイントという言葉で、「ゲーム」なるもののイメージが、おぼろげに浮かんできた。たぶん、ラリーの要領で定められたチェックポイントを通過して、最終的にゴールに辿《たど》り着けばいいのだろう。
だが、気になるのは別の文言だった。
各プレイヤー。
つまり、自分以外にも、このゲームに参加している人間がいるということになる。
藤木がもう一度ボタンを押すと、最後の文章が現れた。
[#ここからゴシック体]
ここから、スタート地点でもある第1CPへの道順は、以下の通り。北へ2500メートル。東北東へ1350メートル。東へ230メートル。
[#ここでゴシック体終わり]
藤木は当惑した。CPとあるのは、チェックポイントの略だろう。だが、道順の説明が大雑把すぎて、よくわからない。そもそも、どうやって方角を知ればいいのだろうか。
磁石の代わりになるような道具は、どこにもない。
背広の内ポケットを探ると、緑の百円ライターと封を切ったタバコが出てきた。四本、残っている。一本くわえて火を点《つ》け、紫煙をくゆらせながら、ゆっくりと考える。
時計だ……。
昔、ボーイスカウトで学んだ知識。太陽の位置さえわかれば、アナログ式の時計で、だいたいの方角を知ることができる。
そうだ。この時計の時刻さえ、正しければ……。
藤木は、興奮を感じた。短くなったタバコを岩壁で揉《も》み消して、危うく捨てそうになる。だが、思い直して、またくわえ直した。シケモクも、これからは貴重品になるかもしれないからだ。
雨は、いつの間にか、かなり小降りになっていた。峡谷の真ん中に出て灰色の雲が覆っている空を眺め、太陽を探す。さいわい、雲はそれほど厚くなく、ぼんやりと発光している箇所をすぐに見つけることができた。
藤木は、腕時計をはずすと、太陽の方角に短針を向けた。短針と十二時の間を二等分した方向が、南になるはずだ。したがって、その逆方向が、進むべき北ということになる……。
だが、その方角には大きな岩山が聳《そび》えている。崖《がけ》は垂直に近く、フリークライミングの達人でもなければ、とても登れるものではないだろう。
どこか、やり方を間違えたのだろうか。藤木は、記憶を呼び起こしながら、もう一度やってみたが、結果は同じだった。
やはり、時刻が狂っていたのだろうか。
もう一度、最初から、よく考えてみる。
自分が、時計を使った方角の調べ方を知っていたのは、全くの偶然だ。この「ゲーム」には、複数の参加者がいるはずだ。全員が、そんな方法を知っているとも思えない。だとすれば、もっと簡単な方法があるのではないか。
藤木は、峡谷を見渡した。両側に岩山が続いており、歩いて進めるのは、右と左のどちらかしかない。ということは、ゲーム機の与えた指示が正しいとすれば、左右どちらかが北ということになる。その後にしても、歩いただいたいの距離さえ覚えていれば、地形の制約から、おそらく、進むべき方角は自然に明らかになるのではないか。
いずれにせよ、明日の朝になれば、日の出の方角から、どちらが北なのかはっきりするだろう。
だが、ボーイスカウトで習った方法は、なぜ通用しなかったのだろうか。かりに時計の時刻が間違っていたとしても、五、六時間も遅れていたとは考えにくい。太陽の様子からすると、今が夕刻に近いのは、間違いなさそうだからだ。
もちろん、ここが火星だなどという与太話《よたばなし》を信じるわけではないが、地球上でなら……。
思わず、あっと叫びそうになり、くわえていたタバコが落ちた。
北半球と南半球とでは、やり方が違うのだ。定かには覚えていないが、南半球では、短針ではなく、文字盤の十二時を太陽に向けるのだったような気がする。
つまり、現在いるこの場所は、赤道より南ということかもしれない。それなら納得できる。いくら何でも、この景色が日本のものでないことくらいは、薄々見当がついていた。だとすれば、ここが南半球、アフリカか、南米か、オーストラリアであったとしても、何の不思議もない。
どうにかして、そのことだけでも確認できないだろうか。
藤木の目は、谷底を流れていく水にとまった。岩の割れ目に達した水は、小さな渦を作りながら吸い込まれていく。
南半球では、あらゆる渦巻きは北半球とは逆になる。これも、ボーイスカウト時代に、誰かから聞いたことだった。
もっとも、それが本当なのかどうかは、あまり自信がもてない。藤木がその話を聞いた友達は、以前に、台風が東にそれていくのは、シュート回転をしているからだなどという出鱈目《でたらめ》を教えてくれたこともあるからだ。その説明に妙な説得力を感じてしまったため、翌日には、教室で大恥をかく羽目になった。担任の教師は、本当の理由として、太平洋高気圧と偏西風の役割について説明してくれたはずだが、詳しいことは忘れてしまった。
とにかく、水が流れ落ちるときに渦巻きを作り、それが北半球とは逆向きであれば、ここが南半球だという傍証くらいにはなるかもしれない。残念ながら、日本で水がどっち巻きに渦を作っていたか、確信は持てなかったが。
だが、南半球説は、別の不可解な事実を説明してくれる。
現在の、この気温である。自分が左手首を擦りむいたのは、たしかに冬だった。それから二、三日しかたっていないとすれば、ここが南半球にあるか、あるいは赤道直下でもない限り、これほど蒸し暑いことの説明がつかない。
星が出れば、と思う。雲がもう少し晴れて、夜空の星を見ることができれば、ここが北半球か南半球かくらいはわかるだろう。
これから第一チェックポイントなる場所へ出発したとしても、途中で日が暮れるかもしれない。行動を起こすとしたら、明日の朝の方がいい。
今は、この場所を動かない方が無難だという予感があった。行く手には、どんな危険が待っているのかわからないのだ。
雲の切れ間から、満月が地表に青い光を投げかけていた。
藤木は、焚《た》き火に細い枯れ草を投げ込む手を休め、日中とはがらりと色彩を変えた岩山に目をやった。こんな場合だというのに、神秘的な美しさに、思わず見惚《みと》れてしまう。
昼間は深紅色だった岩壁は、青い月光に照らされて、赤紫色に染まっている。黒く見えていた縞は、濃紺に変貌《へんぼう》していた。薄い青色の筋は、もともと白かったところだろう。
濃紺の部分は、ちょうどビルのガラス窓のように見える。全体の形が丸みを帯びた不定形なので、超自然の魔物が棲《す》む巣窟《そうくつ》といったところだろうか。ダリかガウディが現代のインテリジェント・ビルを設計すれば、こんな感じになるかもしれない。
藤木は、夜空を見上げた。
残念ながら、雲に阻まれて、星空はほとんど見えない。天文に詳しいとは言い難いが、それでも、北斗七星と南十字星の区別くらいはついたはずなのだが。
……だが、火星なら、たしか月は二つあるはずだ。
何を考えてるんだ。藤木は、ふっと息を吐き出した。ここが火星だったら、大気が薄くて呼吸などできるわけがない。いや、そうじゃない。そもそも、火星に来ること自体が、絶対に不可能だ。
火星の迷宮へようこそ。
ゲーム機の示した、誰のものともわからないメッセージを真に受けるなんて、どうかしている。
藤木は、火勢が弱くなりかけた焚き火に、枯れ草をくべる作業に没頭した。長さは三十センチ以上あり、先端は松葉のように鋭く尖《とが》っている。下手をすると、手を突き刺しそうだった。少なくとも、日本には、こんな草は生えていない。
夜になってもさほど気温は下がらなかったので、焚き火をする必要はなかったかもしれない。この程度の小さな火では、危険な野生動物から身を守る役にも立たないだろう。枯れ草は、周囲からいくらでも見つけることができたが、百円ライターのガスは、もうほとんど残っていない。少しでも倹約に努めるべきだろう。
しかし、この心細い状況では、じっと暗闇《くらやみ》に座っているのは耐えられなかった。
藤木は、枯れ草の束を固く握り締めた。
どうして自分がこんな目に遭わなくてはならないのか。突然、怒りが込み上げてくる。何にせよ、これは偶然の出来事ではない。誰かが意図的に仕組んだ、とてつもなく手の込んだ悪ふざけなのだ。
藤木は、自分を鼓舞するために、強いて怒りをかき立てようとした。だが、月光を浴びてそそり立つ奇怪な姿の岩山を見ると、怒りは急速に萎《しぼ》んでいき、かわって得体の知れない恐怖が沸き上がってきた。
この岩山は、どう見ても作り物じゃない。ここに厳然と存在している。
これは、悪戯《いたずら》というレベルの話ではないのだ。
どうやって連れてこられたのかはわからないが、現実に自分はここにいる。
いったいここは、どこなんだ。
堂々巡りのように、同じ疑問ばかりが浮かんでくるが、それに対して、どんなに荒唐|無稽《むけい》な仮説さえ思いつかない。道を歩いている蟻が、いきなり巨大な手でつまみ上げられ、ガラス瓶の中に放り込まれた状態に近い。
これまでの人生で、これほどよるべない気持ちになったのは、初めてだった。盤石《ばんじやく》だと思っていた会社が突然|破綻《はたん》して、すべての肩書きを剥《は》ぎ取られて、社会に放り出されたときも、現在の不条理な状況に比べれば、まだ救いは残っていた。
もしかすると、自分には、ある種の根元的な弱さのようなものがあって、そのために、常にこうした窮地へと追い込まれるのかもしれない……。
そのとき、岩のかけら同士が擦れる音が、谷底に響き渡った。
藤木は、ぎくりとして中腰になった。
誰かいる。
野生動物が、それほど不用意だとは思えなかった。今の音はたぶん、人間が靴底で岩のかけらを踏みつけた音だ。
身の危険を感じる。即座に、心臓が全身に、どくどくと大量の血液を送り出し始めた。
自分がここにいることを、相手は知っている。小さな焚き火でも、見通しさえよければ、何百メートルも先から見えるはずだ。ここに人がいると知って、近づいてきたのかもしれない。だとすれば、大声を出して助けを求めるべきだろうか。
だが、相手の意図がわからない以上、迂闊《うかつ》なことはできない。
藤木は、息を殺しながら、闇を透かして見た。
そこには、人の姿があった。
目立たないように、岩山の陰に隠れてじっと佇《たたず》んでいる。
身長は、自分とそれほど変わらない。ほっそりしたシルエット。
こちらを向いた顔は、影になっているので見えないが、片方の眼が、月の光を反射して一瞬、異様に光ったのだ。
藤木は意を決して、人影に向かってゆっくりと近づいていった。
相手は、しばらくその場に立ち竦《すく》んでいた。それから、急に身を翻すと、走り始めた。
「おい! 待ってくれ!」
藤木は叫んだが、相手は立ち止まろうとはしなかった。
「だいじょうぶ! 何もしない。俺も、ここがどこだかわからないんだ!」
相手も自分と同じ立場なのではないかと思い、咄嗟《とつさ》にそう言ったのだが、効果はなかった。もしかすると、言葉が通じないのだろうか。
藤木も全力疾走しようとした。だが、スピードを出そうとしても、地面を蹴《け》る足が粗い砂礫《されき》に潜り込んでしまうため、思うにまかせない。さらに、草の上では滑りそうになる。悪戦苦闘するうちに、運動不足がてきめんに祟《たた》り始めた。息を切らし、ふらつきながら、それでも辛うじて走り続ける。
そのまま逃げ切られてしまうことを覚悟していたが、よく見ると、相手の様子も少しおかしかった。
ストライドが大きく、走る姿は藤木より様になっているのだが、闇に目が慣れていないせいか、しょっちゅう躓《つまず》きそうになるのだ。
月明かりに照らされた場所を五、六十メートル走る間に、相手は、長身でスリムな女だということがわかった。長袖《ながそで》のシャツにジーンズ姿。髪はショートカットだが、腰の辺りの丸みは、明らかに女性のものだとわかる。追跡に少し力が入った。
女は、いったん藤木を引き離したものの、小さな岩に躓いてバランスを崩し、派手に転倒した。
「おい。だいじょうぶか?」
藤木は声をかけたが、女は蹲《うずくま》ったまま答えない。
ようやく追いついて、見下ろした。女は、怯《おび》えたように藤木を見上げた。顔の造りは、ごく普通の日本人に見える。目鼻立ちは整っている方だったが、どこか、目つきに奇妙なところがあった。
「なにも、逃げなくても、よかったんだ」
藤木は、息を切らしながら言った。女は、ポーチを手に取って茫然《ぼうぜん》としている。幸い、大した怪我をした様子はない。
「……誰なの?」
ようやく発せられた女の第一声がそれだった。
「君こそ、誰だ? ここで何をしてる?」
女は、しばらく藤木を見ていたが、「わからない」と言った。
「じゃあ、君も記憶を失っているのか?」
藤木は興奮が沸き上がるのを感じた。ようやく自分と同じ境遇の人間、相談相手を見つけたのだ。堰《せき》を切ったように言葉が飛び出してくる。
「君の名前は? ここへ来る前のことを、何か覚えてないか? これは、何かのゲームらしいんだが、心当たりはないか? もしかして、ここがどこなのか、わからないかな? たぶん、南半球のどこかだとは思うんだが……」
女は顔をしかめながら、手を伸ばして藤木を制した。身長が高いだけあってリーチも長く、掌《てのひら》もほとんど男と変わらない大きさだ。
「ちょっと待って。いっぺんに、そんなに答えられないわ」
「ああ。悪かった」
藤木は大きく深呼吸して、気持ちを落ち着けた。先に、自己紹介をする。
「俺の名前は、藤木芳彦だ」
「……誰?」
女が、訝《いぶか》しげに聞き返す。
「藤木芳彦。ただの失業者だ」
「失業者?」
「君は、名前も思い出せないのか?」
女は、むっとした表情になった。
「もちろん、思い出せるわよ。わたしは、オオトモアイ」
「どんな字?」
「大きな、友達の……藍色《あいいろ》の藍」
変わった名前だなという思いが頭をかすめる。
「さっき、わからないって言ったのは、わたしが、どうしてここにいるかってことよ」
「じゃあ、ここがどこかも?」
「見当もつかないわ」
藤木は落胆した。
あらためて、藍という女性を見ると、左耳にイヤホンがはまっているのに気がついた。ジーンズのベルトにつけた機械まで、コードがのびている。有名な家電メーカーのロゴがついているため、一見ラジオのように見えるが、補聴器らしい。
「それ、だいじょうぶかな?」
藤木が指さすと、藍は、慌てたように機械をいじくった。
「だいじょうぶ……壊れてないみたい。ちゃんと、聞こえるし」
「それはよかった」
「そうでもないわ。こっちは完全にアウトだもの」
藍がぶら下げて見せたのは、藤木が持っているのと同じゲーム機だった。ポーチを肩からつるしていたため、倒れたときに岩に叩《たた》きつけられたらしく、プラスチックのボディが真っ二つに割れて基板のICが露出し、裏蓋《うらぶた》と電池は、どこかに吹っ飛んでしまっていた。
「それはもう、使い物にならないな。メッセージは見たのか?」
「火星の迷宮へようこそ、っていうヤツでしょう? 見たわ。でも、この後、これがないと困るかもしれない」
「どうして?」
「あんな何行かの文章を見るだけだったら、わざわざ、こんなもの用意することないでしょう? たぶん、この後のゲームの展開で、これが必要になってくるんだと思うの」
言われてみれば、そのとおりだと思う。あれだけの文章を伝えるのなら、紙切れ一枚で、事足りるはずだ。
「あなたのせいよ。壊れちゃったの」
藍は、藤木を睨《にら》んだ。
「いや……それは。ちょっと待ってくれ。君は、このゲームについて、どの程度知ってるんだ?」
「何も。たぶん、あなたの知識といい勝負のはずよ」
「さっきの質問に、まだ答えてもらってないな。今の状況について、とりあえず、君が知ってることを全部教えてくれ」
藍は、ジーンズの尻《しり》をはたいて立ち上がった。
「それは、ちょっと虫が良すぎるんじゃない?」
「え?」
「メッセージにも、あったでしょう? 各プレイヤーは、協調するのも敵対するのも任意だって。つまり、あなたとわたしは、今後、競争相手になるかもしれないってこと」
藤木は、少し考えた。この藍という女性は、見かけより頭がいいようだ。このゲームがゼロサム・ゲームなのかどうかは、まだ不明だ。もし、そうであった場合、勝者が二人以上存在しうるかが問題になる。こんな状況下では、お互いに協調する方が、確実に好結果を生むはずなのだが。
「……だけど、君は、ゲーム機が壊れてしまったというハンディを負っている。とりあえずは、俺と同一歩調をとった方が得策じゃないか?」
相手の弱みをつくのは気が進まなかったが、今は手段を選んでいられない。藍は唇を噛《か》んで、壊れたゲーム機を見つめていた。どこか両眼の焦点が合っていないような気がするのは、気のせいだろうか。
「そうみたいね。……わかった。わたしを一緒に連れてってくれるって約束するなら、知ってることは何でも話すわ」
「じゃあ、とりあえず、焚《た》き火のところまで戻ろう」
短い追跡劇の間に、焚き火はほとんど消えかかっていた。だが、新しい枯れ草を補給して強く吹いてやると、再び炎が大きくなる。冷静に考えれば、状況はそれほど好転したとは言い難いのだが、火を挟んでもう一人の人間がいるというだけで、こんなに心強く感じられるものだろうか。
「さっきの質問のことなんだけど」
藍は、立てた膝《ひざ》を抱えた姿勢で座っていた。大きな目に、揺らめく炎が映って見える。
「もう一度考えてみたけど、どうして、今ここにいるのかは、よく思い出せないわ。たぶん、薬か何かを飲まされたんだと思う」
「どうして、そう思うんだ?」
「目が覚めたとき、頭がすごく痛かったのよ。わたし、徹夜で仕事をすることも多いんだけど、これまで、偏頭痛なんてほとんど経験ないから」
やっぱりそうか。我々は、薬を盛られた。
「じゃあ、何もわからないんだ?」
藍は、枯れ草を一本取って火を点《つ》け、しげしげと眺めていたが、急に藤木に鋭い視線を向けた。
「だけど、その前のことは、ぼんやりとなら記憶にある」
「本当か?」
「わたし、何かの仕事っていうか、アルバイトに応募したことまでは覚えてるの。それで、その最終面接があって……」
藤木は硬直した。まるで脳の中で、何かが爆発したようだった。彼女の言葉が呼び水になって、記憶がよみがえってくる。
「そうだ! 俺もそうだった。俺は失業中で、ときどきアルバイトをして食いつなぐ必要があったんだ。それで、たしか、雑誌の募集広告に応募した」
「それ、テレビの製作会社とか何とかいう話じゃ……?」
「君もそうか?」
二人は、目と目を見合わせた。
「どんな仕事だったのかは、よく思い出せない。というより、説明自体が曖昧模糊《あいまいもこ》としていて。……それで、そのときは、追って連絡しますということで、てっきりだめだと思ってた。それが、二カ月ほどしてから、突然、最終面接に来てくれという電話があったんだ!」
「すごい。わたしより、よく覚えてるじゃない」
「今、思い出したんだ。君のおかげだ」
藤木は目を細めて、一心に炎を見つめた。アルバイトのことは、覚えていた。だが、なぜかそれはずっと以前に起きたことのような気がしていたのだ。せっかく捕まえた記憶の糸口から、可能な限りのことを思い出したかった。
「それで、俺は呼び出されたんだ。いきなりJRの切符を送ってきて。失業中だし、暇はたっぷりあるしで、否やはなかった。場所は、東京から遠く離れた温泉地だ。急行の中で、誰かにビールを飲まされた。それから、急に頭が朦朧《もうろう》としてきたような気がする。駅から出ると、雪が降っていた。その景色だけ、ぼんやりと記憶にあるんだ。十八年ぶりの大雪だったとか……」
そこで滑って、左手に擦り傷を作った。
ふと、藤木の脳裏に、奇妙な映像が浮かび上がった。赤と白の縞《しま》のある巨大な棒状の物体……それに、女性の髪の毛のようなものが絡みついている。
だが、それが何なのかは、見当もつかない。
「その場所がどこだったか、思い出せる?」
「いや、だめだ。どこか、東北か北陸の方だったような気がするんだが。君はどうだ?」
藍は顔をしかめた。
「わたしも、そのあたりがはっきりしないの。たしかに、呼び出されたような気がする。それに、たしか……日本海側だった。やっぱり、雪は降ってたと思うわ」
大きく目を見開いて、眼前にそびえ立つ岩山の神秘的な縞模様を凝視する。
「とにかく、こことは似ても似つかない場所ね」
「そうだな」
藍は、景色を眺めたまま身じろぎもしなかった。何を考えているのだろうか。
「これって、もしかしたら全部、テレビの製作会社がやったことなのかしら?」
藤木は首を振った。
「それは今、俺も考えた。究極のドッキリ物みたいな企画で。でも、ありえない。テレビでは、いくら何でも、人権を無視してこんなむちゃくちゃなことはできないよ」
「……そうね」
藍は肩を落とした。
「そうだったらいいなって、ちょっと思っただけ」
少し、沈黙が訪れた。
「君のことを、聞かせてくれないか?」
「え?」
「これから一応、パートナーになるわけだし、お互いのことを知っておいた方が、いろんな意味でいいと思うんだけど」
藍は藤木に顔を向けた。目を見開いて、ちょっと驚いたような表情が特徴だなと思う。
「いろんな意味? うーん。そうね」
初めて笑顔を見せた。なぜか鼻の付け根にしわを寄せながら笑うので、苦笑というより噛《か》みつきそうな表情になるが、不思議に感じは悪くなかった。
「わたし……実は、マンガ家なの」
「へえ、すごいじゃないか」
「どこがあ?」
「収入だって、いいんだろう?」
「あのねえ……それは、ごくごく一部の売れっ子の話よ。どの世界でもそうだろうけど、ほとんどは、食うや食わずなんだから」
「失業中の俺から見れば、羨《うらや》ましいよ」
「ほとんど似たようなもんよ。まあ、それでも、以前にアニメーターをやってたときよりは、ましかな。一日十時間働いてたのに、結婚してたら配偶者控除を受けられるくらいの収入しかなかったから」
「それでも、好きなことをやって、生計を立ててるわけだから」
「好きなことねえ。わたしが描いてるマンガを見たら、たぶん、そうは言わなくなると思うけど」
藍は、少し斜視気味の目を伏せた。
「どんな雑誌に描いてるの?」
「言っても、たぶん知らないと思う」
「知ってるかもしれない。一日一回は、必ずコンビニに行くから」
藍は、溜《た》め息をついた。
「いいわ。一番のお得意先は、『エロマンガ諸島』っていう雑誌《ほん》。後は、『エロドラード』とか、『エロニーニョ』とかね」
「それは……たしかに、あまり知らないな」
タイトルに全部エロがつくんだなと言いそうになったが、危うく思いとどまった。
「マンガの内容については、説明しなくてもわかるでしょう? アニメーターだったときに、小遣い稼ぎにそういう内容の同人誌を作って売ったことがあったの。通信販売とか、コミケットとかで。有名なアニメや漫画のキャラクターを片っ端からパクったから、もう少しで警察に捕まりそうになったけど」
「へえ」
よくわからない世界の話なので、ただ相槌《あいづち》を打つしかなかった。
「それで、その同人誌が、雑誌の編集者の目に留まって、今の仕事を始めたってわけ」
「そういうの、女性が描くんだ」
「最近はね。けっこう多いのよ。昔のその手のマンガと違って、今は、かわいい系の絵の方が受けるから」
「ほう」
藤木は、新宿で出会った、元印刷会社の営業部長というホームレスの男のことを思い出した。最終的に警察に引っ張られるまでは、読み捨てられた雑誌を拾い集め、路上で一冊百円で売っていた。藍が言うような雑誌も多数含まれていたが、昔と比べた絵柄の変遷までは気がつかなかった。
「でも、俺と違って仕事があるのに、何で、あんな胡散臭《うさんくさ》いアルバイトに応募したんだ?」
藍は、一瞬口をつぐんだ。
「胡散臭いって、広告の内容を覚えてる?」
「いや。はっきりとは」
「どうして応募するつもりになったのかは、よくわからないわ。原稿の締切だって、あるのに。ただ、何だか、今の生活を変えることができるような気がしたの。もう、何もかも、煮詰まっちゃってて……。いつかは、まともな漫画を描きたいって思ってたから、ネタになるかもって思ったのかもしれない。だけど、それが、こんなことになるなんて……」
藍は絶句した。
藤木には、慰めの言葉は見つからなかった。自分自身、今の状況にどう対処していいかわからないのだから、何を言っても白々しく聞こえるに違いない。
自分が失業した経緯について簡単に話すと、藍は、熱心に聞いてくれた。さして面白い話でもないだろうに、食い入るようにこちらを見つめている。きっと、今のこの不条理きわまりない状況を忘れさせてくれ、慣れ親しんだ日本の生活を思い出させてくれるものなら、何でもいいのだろう。
自分自身についても、それは同じだった。あれほど憎んでいたはずの淀《よど》み切った日常について話すとき、無性に懐かしさを覚える。もし、ここから無事に抜け出すことができたら、必ず生活を変えようと思った。根本的に生き方を見直し、努力して、もう一度、人間らしい暮らしに戻る……。
やがて、燃料用に集めた枯れ草がなくなり、完全な闇《やみ》が訪れた。だが、さっきと違って、パートナーがいることで、それほどの恐怖感はなかった。
今日は、目覚めてから活動していた時間はそれほど長くなかったが、明日に備えて、睡眠をとっておくことにする。
堅い砂礫《されき》の上に横たわると、目眩《めまい》のようなものを感じた。月明かり。紫の岩山。そうしたものがぐるぐると視界を回り、やがて、何もかもまっ暗に変わった。
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2[#ここでゴシック体終わり]
瞼《まぶた》越しにまばゆい光を感じて、目を覚ます。
目を開けると、一条の光が真後ろの方角から射し込んで、正面の岩山を照らし出していた。朝焼けを受けて、峡谷全体が燃えたつような薔薇《ばら》色に染まっている。影によって山々の黒い縞《しま》模様が浮き上がり、独特の丸みを帯びた輪郭が強調されていた。
藍はすでに起きていた。峡谷の景色にすっかり魂を奪われてしまったように、身じろぎもせず佇《たたず》んでいる。
「……やっぱり、正面が西か。ということは、右手が北だな」
藤木がそう言うと、藍は、立ったままこちらを振り返った。上半身を捻《ひね》ると、小さく形のいい尻《しり》の曲線が強調される。
「おはよう。よく寝られた?」
「まあまあだな」
藍の大きな目が、きらきらと輝いている。夜目遠目|笠《かさ》のうちと言うが、こうして朝の光の中であらためて見ても、彼女は個性的な顔立ちの美人だった。どことなく両目の焦点がずれて見えることさえ、眼差《まなざ》しが鋭くなりすぎるのを妨げ、女性的な魅力を醸し出すのに一役買っていた。
彼女の目の下には、うっすらと隈ができていた。昨日来のストレスもあるが、仕事では徹夜になることも多いと言っていたし、慢性的な疲労のせいなのかもしれない。年齢にそぐわない左耳の補聴器が、少し痛々しい感じだった。
「道順は、ゲーム機でわかるでしょう? いつ出発する?」
「暑くならないうちの方がいいだろう。朝飯を食って、すぐに出よう」
食べるものは、もちろん、昨日と同じブロックタイプの栄養食品だけである。藤木は水筒の水を飲みながら、今回も一段分、八本を胃袋に納めた。残りは十六本ということになる。見ると、藍もまったく同じペースで消費していた。
食べ物は、命をつなぐ燃料だが、水はそれ以上に優先度が高い。水筒の水は、これで八割方空になってしまった。藤木はひどく心細くなってきた。
今日、歩きながらまず最初にやるべきことは、水を確保できる場所を見つけることだと肝に銘じる。
だが、一度地面に接触した水は、飲用には危険がつきまとう。今思えば、昨日の雨水を水筒に納めておくべきだった。ここがどこなのかは依然として見当もつかないが、大都市の周辺よりはずっと清浄に違いない。
「何か、後悔してるみたいな顔ね」
藍が訊《たず》ねた。
「ああ。今になって、昨日の雨水を集めとけばよかったって思ってるんだ」
「だいじょうぶ。たぶん、またすぐに雨は降るわ」
「なんで?」
「だって、こんなきれいな朝焼けじゃない」
朝焼けなら雨が降るという説に、どのくらい科学的な根拠があるのかわからなかったが、とりあえず信じておくことにした。
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ここから、スタート地点でもある第1CPへの道順は、以下の通り。北へ2500メートル。東北東へ1350メートル。東へ230メートル。
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ゲーム機は、もしかしたら二度と同じメッセージを表示しない構造になっているのではないか。藤木は急に心配になったが、電源を入れると、幸い、昨日とまったく同じ文字が現れた。
あとは指示に従って歩くだけだが、その前に、移動した距離を測定する方法を決めておかなければならない。二人で知恵を出し合い、結局、一歩の長さを測り、それに歩数をかけることにした。どこまで歩幅を一定にして歩けるものなのか、あまり自信はなかったが、二人で別々に歩数を覚えていれば、大幅なずれは回避できるような気もする。
藤木の身長は百七十三センチで、地面に印を付けると、その二倍の距離を歩くのに、ほぼ七歩を要した。つまり、歩幅は約五十センチということになる。足下が悪いため、舗装された道路よりストライドが小さくなるようだ。一方、藍の身長は百七十一センチで、藤木より心持ち低かったが、歩幅は逆に、五十五センチと大きかった。たしかに、身長は同じくらいでも体型はかなり違っていて、股下《またした》は彼女の方が長そうだ。
二人は、それぞれ歩数を数えながら出発した。
喋《しやべ》っていると、うっかり数えた歩数を忘れてしまうかもしれないので、無言のまま歩く。夜が明けても、まだ太陽の高度が低いために、谷底までは充分に光が当たらず、薄暗い。ただ、ざくざくと砂礫《されき》を踏んで歩く音だけが響いていた。
褐色の地面には、ところどころに、針のように尖《とが》った草や、くねくねと曲がった灌木《かんぼく》が、生えている。やがて、少し開けた場所に出たが、羊歯《しだ》の群落が目に付く程度で、植生にさほどの変化はない。さらに進むと、再び、両側を岩山に挟まれた隘路《あいろ》にさしかかった。
「ねえ、もう、どのくらい来た?」
長い沈黙に耐えられないタイプなのか、藍が立ち止まって話しかけてきた。
「三千二百九十一歩だから、……だいたい千六百四十五メートルくらいかな」
藤木も歩くのをやめ、三千二百九十一と、何度も口の中で唱える。
「わたしはちょうど三千歩だから、千六百五十メートル。そうね。今んとこ、だいたい合ってるわ」
藤木は振り返って藍を見た。自分が覚えやすいところで止めたなと思う。
ここまでは、ほとんど一本道だった。岩山の切れ目のような場所は数カ所にあったが、どれも袋小路になっていそうな感じで、進行方向を迷うような分岐は見あたらなかった。
「さあ。こんなところで休んでいてもしかたがない。先へ進もう」
藤木は促したが、藍は崖《がけ》に歩み寄って、なにやら興味深げに観察していた。
「何かあるのか?」
「この岩。どうして、こんな縞《しま》模様なのかと思って。昨日は観察する余裕がなかったんだけど、それぞれ色の違う層が順番に積み重なってるのね」
岩肌はもう、すっかり乾いていた。こうして見ると、雨中では深紅色に見えた部分も、むしろ朱色かオレンジ色に近い。
「それが、何かの役に立つのか?」
三千二百九十一、三千二百九十一……。
「少なくとも、一つは発見があったわ」
藍は、目の前の崖を走る白い層に人差し指を当て、擦《こす》って見せた。
「ほら、ここは、こんなに脆《もろ》いのよ」
白い層は、砂岩と言うより単なる砂の塊に近かった。彼女の指がめり込むと、ぼろぼろと崩れ、剥落《はくらく》する。
「……だから?」
「つまり、この岩山を登ったりするのは、自殺行為だってこと」
藍は、出来の悪い生徒に説明するような口調で言った。
「この白いところは、雨水が染み込みやすいらしくて、かなり中の方まで湿ってる。こんな場所でロッククライミングしたら、いつ、岩が崩れるかわからないわ」
「白い層には要注意か」
三千二百……九十一。
「それだけじゃないみたいだわ」
藍は、今度は足下から平べったい岩のかけらを拾い上げた。崖から剥落したものらしい。
「これを見て」
岩の片側の表面は、崖の縞模様を形作っているのと同じ赤褐色だった。だが、その厚みは、せいぜい数ミリといったところだろう。残りの部分は、崖の白い層と同じで、きわめて脆弱《ぜいじやく》な砂岩だった。
「あの赤っぽい層は、中まで全部赤いわけじゃないのよ。表面に、こんな風なコーティングがあるだけなんだわ」
藤木は興味を引かれて、藍に近づき、岩のかけらを検分した。彼女の言うとおりだった。紅色やオレンジに見える表面部分は薄く、厳しい太陽熱で灼《や》かれているせいか、テラコッタ煉瓦《れんが》のように固い。
「だから、もし登ろうとしたら、岩山のどの部分だって、いきなり崩壊する可能性があるわね」
「……まさか、この景色は全部、人為的に作られたわけじゃないだろうな?」
岩山があまりにも奇妙な構造をしていることで、昨日からの疑いが頭をもたげてきた。何しろ、突然記憶を奪われて、火星と称する異様な景色の中に放り込まれているのだ。何もかもが、徹底的に仕組まれているのではないかと疑うのも、むしろ当然だろう。
だとすれば、この舞台もすべてセットなのかもしれない。目の前にいる、この藍という女だって、もしかすると、俺を騙《だま》すために送り込まれたのではないか……。疑念は、被害妄想的に際限なく膨らんでいった。
「うーん。それはないと思うなあ。この先どのくらい続いてるのかわからないけど、見渡す限りこんな風にしようと思ったら、信じらんないくらいのお金がかかるだろうし。それに、どう見ても、すごく古そうで、全然、人工的っていうか、それっぽくないわ」
たしかにそうだ。岩石の風化の仕方は、素人目《しろうとめ》にも、とてつもない年代の経過を示している。薬品などを使った小手先のトリックで、こんな効果が出せるとは思えなかった。
だが、こんな奇妙な場所が地球上に存在するのなら、とっくに、もっと有名になっていてしかるべきではないか。それこそ、テレビが競って、秘境物の特番でも組みそうなものだ。しかし、今までに一度も、こんな映像が流れたのを見たことがない。
「さあ。行きましょうか」
藍がさっさと歩き出した。藤木も続こうとしたが、ぴたっと足が止まってしまった。
「三千二百九十一よ」
彼女が、後ろも見ないで言った。
それにしてもと、歩数のカウントを再開しながら藤木は考える。この岩山がそんなに脆いというのは、最初に思った以上に悪いニュースかもしれない。
漠然とだが、これまで、いざというときには岩山を攀《よ》じ登ることもできると思っていた。だが、それが危険すぎて不可能であるなら、谷底を縫って進む以外に、移動の方法はないということになる。
もしかすると、もう少し歩けば、一気に開けた場所に出るのかもしれなかった。だが、ゲーム機のメッセージ、そして、その背後に見え隠れする邪悪と言ってもいい意図を考えると、そんな可能性はほとんどないような気がする。
だとすると、我々は今後、迷路のような岩山の間を、何者かが思うがままに歩かされるということになる。
迷路というより、ここは迷宮そのものだった。自然が作り出したにしては、できすぎの感がある。もしかしたら、遺棄されたテーマパークではないかという馬鹿げた考えすら、頭をかすめたほどだった。
途中で数を数えるのが怪しくなり、藤木は思考を中断した。
藍は、その間にも、周囲の様子を熱心に観察し続けているようだ。彼女の視線を追ってみる。
足下は、褐色の砂や岩山から落ちたらしい岩のかけらで覆われている。棘《とげ》の生えた雑草の群落がそこかしこにあったが、動物らしい姿はまったく見あたらなかった。
岩山の急斜面には、扇のような葉をした木が生えている。シュロの仲間のようだ。もしかすると、あの葉陰には、何か食べられる生き物が潜んでいるかもしれないと思う。だが、あそこまで登れない以上、どうすることもできない。
葛折《つづらお》りになった谷を行くうちに、大きな白い木が何本か生えている場所があった。だが、どこかで見たような木だと思うだけで、名前はわからない。
さらに先へ進むと、鋭く長い棘の生えた木立が見つかった。
「このへんって、何だか、アフリカって感じね」
藍がつぶやく。
そう言われると、そういう風に見えてくる。この棘だらけの木立の横に象やキリンを配したら、ずいぶんと似合いそうだ。
「昨日も言ったけど、ここはたぶん南半球のどこかだ。だから、アフリカっていう可能性は充分にある」
少なくとも、火星よりは。
「……だったら、ライオンとか、いるのかな?」
遠慮がちな一言だったが、藤木の気を重くさせるには充分だった。
「ライオンって、サファリパークへ行ったとき思ったんだけど、ものすごく大きな顔してるのよ。もし、前からあんなのが来たら、どこにも逃げるとこないし」
ライオンじゃなくても、ヒョウでも、ハイエナでも、たぶん同じことだ。
「たしかに、ここは逃げ場がないな。昨日、雨が降ってるときに思ったんだが、もし、谷底に鉄砲水が押し寄せてきたら、即、溺《おぼ》れ死ぬだろうな」
藤木は逆襲したつもりだったが、結果は、ますます自分の気を滅入《めい》らせただけである。
最初の生物の襲来を受けたのは、その直後だった。
「あっ」
藍が顔を押さえた。どうしたのかと思って見ると、藤木も、顔の真横を羽音が通過するのを感じた。昆虫のようだ。いったん遠ざかったかと思うと、またやってきた。
「蝿《はえ》だ!」
藍が悲鳴を上げる。
続いて、おびただしい蝿が、降って湧《わ》いたように現れた。日本では、ゴミの処分場へでも行かなければ、これだけの数の蝿にはお目にかかれないだろう。体長五ミリくらいの、真っ黒な小蝿だ。それが、顔や手などの露出した皮膚の部分を狙《ねら》って、うるさくつきまとってくる。いくら手で追い払っても、ほとんど効果はなかった。
「藤木さん! 何とかしてよ」
藍が悲鳴を上げた。
「どうしようもないさ。歩数を忘れるなよ」
「無理よ!」
「ちくしょう!」
数匹を叩《たた》きつぶしたが、蝿の群はいっこうにひるまなかった。しかたなく、頭から上着を被《かぶ》って、間断なく顔の前で手を振り続けることにする。それだけで、ひどく体力を消耗した。
幸いというべきか、黒い蝿には、吸血したり皮膚に卵を産み付けたりという魂胆はないらしく、ただ顔や手の上にとまるだけだった。どうやら、汗の臭いに惹《ひ》き付けられているらしい。
歩いている間に、気温はじりじりと上がり続けている。温度計がないので正確なところはわからないが、すでに、ほとんど体温と変わらないかもしれない。岩山に挟まれた谷底は、ほとんど無風状態で、サウナの中にいるようだった。とめどなく流れる汗と、蝿とは、皮膚の掻痒《そうよう》感をますます高めた。
ついで、深刻な喉《のど》の渇きが襲ってきた。汗をかいたせいだろう。加えて、そろそろまた空腹を感じ始めている。
藤木の歩数が五千歩に近づいてきたとき、右前方に、岩山の切れ目が現れた。
「あれか?」
思わず足取りが速くなる。歩数の計算もやめてしまい、初めて見つけた分岐点へと急いだ。
「今までが北へ向かってたんだから、こっちの方向は、東北東で合ってると思うわ」
藍が疲れ切った声でつぶやいた。
道は、そこではっきりと二股《ふたまた》に分かれていた。すべての分岐点がこんなにわかりやすいものなら、ゲーム機の指示通りにチェックポイントを通過していくのは、それほどの難事ではないかもしれない。
ふと、ずっと以前の記憶がよみがえってきた。
証券会社に入社したての頃《ころ》にやらされた、新人研修。『歩行ラリー』と称するもので、簡単な地図と指示を与えられ、二人一組になって定められたチェックポイントを通過していくというものだった。驚くくらい、現在の状況に似ているではないか。
あのときも、序盤での分かれ道は、非常にわかりやすかった。徐々に難易度が上がっていき、途中で道を間違えるペアが続出、無事にゴールできたのは三割にも満たなかったはずだ。今回も、先へ行くほど難物になっていくのだろうか。
最初の分岐点からさらに千三百五十メートル、藤木の歩幅でおよそ二千七百歩を過ぎたころ、再び斜め右への脇道《わきみち》が現れた。今度は左方向へ進む道も同時に見つかったが、もちろん、迷うことはなかった。
最後の直線は、わずか二百三十メートルである。
急に視界が開け、岩山に囲まれた平野のような場所に出た。ところどころに、今までより大きな木の木立もある。地面は、砂礫《されき》から細かく白い砂に変わった。
もはや、歩数をカウントするまでもなかった。真正面に、数人の人間が輪になっているのが見える。こちらの姿を見つけると、いっせいに立ち上がった。
藤木は大きく手を振ってみたが、全員、黙ってこちらを見つめているだけで、挨拶《あいさつ》に応《こた》える人間はいなかった。
あれが、このゲームのほかの参加者たちなのか。藤木は、昨晩、藍が言った言葉を思い出した。
「メッセージにも、あったでしょう? 各プレイヤーは、協調するのも敵対するのも任意だって。つまり、あなたとわたしは、今後、競争相手になるかもしれないってこと」
仲間になるか、敵になるか、今のところわからない人間たち。残りの距離が百メートルほどになると、一人一人の姿がぼんやりと認められるようになる。人数は、七人。こちらの二人を加えると、全部で九人だ。一人、並はずれた巨躯《きよく》の持ち主がいた。身長は、二メートル近いのではないか。それから、向こうにも一人女性がいる。あとは、背格好もそれほど違わない男たちのようだ。
藍の方を見やると、彼女の表情にも非常な緊張が窺《うかが》えた。じっと目を見開いて、前方を凝視している。しつこく顔につきまとってくる蝿の存在さえも、いまや彼女の意識の外にあるようだった。
「それは、少々まずいことになりましたね」
野呂田栄介《のろたえいすけ》が、考え込むように言った。年齢は四十二歳ということだから、藤木と二歳しか違わない。茶色いセルフレームの眼鏡をかけていて、一見物静かな学者タイプだが、したたかな感じもする。以前は先物取引会社のセールスマンだったと自称していたが、仕事を辞めることになった経緯は明らかにしなかった。
「主催者からのメッセージは、第一CPでのみ、九つに分割されているんですよ。だから、一人のゲーム機が使えないということになると、全員が、その分のメッセージを受け取れないことになる」
藤木が、藍のゲーム機が壊れてしまったと告げたとき、全員が一様に驚愕《きようがく》の表情を表したわけが、これでわかった。何も藍のことを心配したわけじゃなかったのだ。
「本当に壊れたの? もしかして、隠してるんじゃない?」
安部芙美子《あべふみこ》が、険のある目で藍を睨《にら》みながら言った。この女は、いつも眉間《みけん》にしわを寄せて、こんなに陰気な顔をしているのだろうか。年齢不詳だが、四十代後半くらいだろう。似合わないグレーのスーツを着ていた。先ほどの自己紹介では、はっきりとは言わなかったが、夫とは離婚したらしい。
「嘘じゃない。壊れたのは、私も確認した」
藤木は、むっとした。
「だったら、その、壊れた機械というのを見せてほしいわね」
「捨てたわ。持っててもしかたがないでしょう?」
藍が、相手の疑り深さに呆《あき》れたように言った。
「しょうがないわね。とにかく、藤木さんのだけでも、早く見せてもらいましょう」
安部芙美子は、吐き捨てた。
「その前に、我々二人に、みなさんの分を見せてもらいたいんだが」
藤木は、強いて明るい調子で言った。
「何で? わたしたちが見てる間に、ゆっくり見ればいいじゃない」
「みなさんは、すでにお互いのメッセージを知っている。とりあえず、条件を同じにしておきたい」
安部芙美子は、いかにも不愉快だというふうに顔を背けた。
藤木も、彼らを、まったく信用しないというわけではなかった。話し合いの結果、全員で協調していこうと意見が一致したのだし、いっさい誰も信用しないというのは、全員を無条件で信用するのと同じくらい、悲惨な結果をもたらすだろう。だが、無用なリスクは避けるに越したことはない。
「わかりました。じゃあ、先に見てもらいましょう」
野呂田は、あっさり言った。藤木がそう言い出すことを半ば予期していたようだ。
「まずは私の分からです。それほど重要な情報はありません」
野呂田がゲーム機を藤木に手渡した。ボタンを押すと、メッセージが順番に表示される。
[#ここからゴシック体]
@ 各CPでは、すべてのプレイヤーに対して同一のメッセージが与えられる。ただし、ここ第1CPでのみ、重要な情報が各プレイヤーに分割されている。したがって、全員が、すべてのメッセージを確認してから出発することを、強く推奨する。これは、スタートにおける不公平をなくすための措置である。
A ゲーム機を使ってメッセージを得る方法は、このメッセージを得た場合と、まったく同じである。
B この機械には単三アルカリ乾電池二本が使用されており、動作時間は約十時間である。万一電池が切れた場合には、新しい電池をアイテムとして獲得すれば、ゲームを継続することができる。ただし、いったん電池を外すと、過去のメッセージは、すべて消えてしまう。
[#ここでゴシック体終わり]
藍の悪い予感が当たってしまったと思う。このゲーム機はやはり、今後は、必要不可欠なものになるらしい。
藤木は、藍の様子を横目で見やった。かなり動揺しているのだろうか。虚《うつ》ろな視線で、ほかのメンバーの顔へ視線をさまよわせている。全員、彼女と目を合わせるのは避けていた。最後にこちらを見たので、だいじょうぶだというしるしに、うなずいてやる。
野呂田が言ったように、このメッセージには、それほど重要な情報は含まれていないように見える。だが、今のところこれが、ゲームを仕組んだ人物の意図を知る唯一の手がかりである以上、表面的な意味だけではなく、行間を読む必要があった。
そう思って見ると、重要な事実が浮かび上がってくる。@において、「スタートにおける不公平をなくすための措置」に言及しているということは、このゲームでは、全員の協調ではなく、競争が前提になっているということになるのだ。
一方で、あまりにも末梢《まつしよう》的すぎるAとBには、かすかな違和感を感じた。
「次は、俺《おれ》の番かな」
さっき船岡茂《ふなおかしげる》と自己紹介した男が、ゲーム機を持って進み出た。三十代前半くらいだろう。身長は百六十五センチそこそこで、眉《まゆ》を八の字に寄せて不満げな表情を見せている。組織ではトラブル・メイカーになりかねないタイプだが、競艇狂いで会社の金に手を付けて解雇されたことを、ぺらぺら喋《しやべ》ってしまうような単純さもあった。
藤木は、船岡のゲーム機の文字を見た。
[#ここからゴシック体]
ゲームに際しては、以下の事項をかたく禁止する。違反者に対しては、重大なペナルティが科せられる。
@ 崖や岩山の上に登ること。
A 複数の焚き火を近接して行うこと。
B 地表に、木の枝や石などを使って、大きな図形を描くこと。
C 笛に類する物を作成し、大きな音を立てること。
D 鏡のようなもので光を反射し、合図を送ること。
[#ここでゴシック体終わり]
「どっちみち、崖は危険すぎて登れないわよね」
藍が、藤木にだけに聞こえるような小声で囁《ささや》いた。同じ情報を共有しているということで、パートナーとしての立場を確認しようとしているのだろう。
……たしかに、藍の言うとおりだ。だが、この項目を禁止事項のトップに持ってきたのは、こちらの身を案じているためとも思えない。あえて危険を冒してまで岩山に登る人間がいたら、ゲームの主催者にとって不都合があるのだろう。
もしかすると、山の上には何かがあるのかもしれない。
「ねえ、ちょっと待ってよ。何で、この人まで一緒に見てるわけ? この人は、自分の機械を壊しちゃって、みんなに迷惑をかけてるんじゃないの」
安部芙美子が、難癖を付けてきた。
「機械が壊れたのは、不可抗力だ」
「何よ、それ? そんなの、理由に……」
「彼女は私のパートナーだ。我々は今後、二人一組で行動する」
藤木がきっぱり言うと、安部芙美子は鼻白んだが、なおも藍を仲間はずれにしようと周りの人間に訴えかけた。誰一人相手にしないのを見ると、自分のゲーム機をかき抱くようにして、後ろを向いてしまう。
「このA番って、どういう意味かしら?」
藍が訊《たず》ねた。安部芙美子の発言は、無視することに決めたようだ。
「これについては、加藤《かとう》さんからご教示をいただきました」
野呂田が、隅に座っていた小柄で頬《ほお》のこけた中年男に掌《てのひら》を向けた。
「国際的に通用するSOSのサインで、三つの焚き火を、正三角形に焚くというのがあるんですわ」
加藤|高道《たかみち》は、話しながら立ち上がった。五十一歳ということだから、この中では最年長だ。
「私は、以前、中学校の教諭をやっとったんです。そのとき、ワンダーフォーゲル部というのを指導しとりましてね。遭難したときに覚えとかなあかんサインいうんが、いくつかあります」
加藤は、仕事柄、話すことには慣れているらしく、要領よく説明した。
「たいがいのシグナルは、三つ重ねると、SOSの意味になるんですわ。たとえば、三つの火とか、三回の銃声や口笛とかやね」
「つまり、このゲームを仕組んだ人間は、我々に、外部に対してSOSを発信してもらいたくないということですか?」
藤木の質問に、加藤はうなずいた。
それも、AからDまでを見ると、空から発見されることに、きわめて神経質になっているようだ。だとすると、このあたりの上空を飛行機が通過することがあるのかもしれない。このことは、記憶にとどめておこうと思った。
その一方で、煮炊きや暖をとるために必要だからかもしれないが、単独の焚き火は特に禁じていない。これも不思議といえば不思議だった。
「『重大なペナルティ』って、何なんでしょう?」
藍の質問に、野呂田は厳しい表情になった。
「具体的な説明は、どこにもありません。……しかし私は、最悪、殺されることまで想定しておいた方がいいと思います」
たぶん彼の言うとおりだろうと、藤木は思った。たぶん莫大《ばくだい》な金と労力をかけて、これだけのことをやる相手だ。もし、誰かが外部に救助を求めることで、それまでの努力が水泡に帰すと考えれば、今さら、殺人をためらうとは思えない。
「私の機械の指示は、もう用済みなんやが……」
そう言って、加藤がゲーム機を手渡す。そこには、こうあった。
[#ここからゴシック体]
第1CPで獲得できるアイテムは、CPから南に35メートルの位置の、スピニフェックスの草むらの中にある。
[#ここでゴシック体終わり]
スピニフェックスというのは、おそらく、昨日焚き火にくべた、あの尖《とが》った草のことだろう。
「ここにあるのが、さっき回収してきた、そのアイテムです。後で、全員で公平に分配することになっています」
野呂田は、地面に並べられた雑多な品物を指さした。何だろうと、ずっと気になっていたものだ。
「こっちは、説明がほとんどないんだけど……」
色白でどことなく能面を思わせる風貌《ふうぼう》の男が、のっそりと立ち上がってきて、ゲーム機を見せた。切れ長の目は、ほとんど瞬《まばた》かない。楢本《ならもと》真樹。二十九歳のフリーターということだった。
[#ここからゴシック体]
北のルート:北へ5520メートル。西へ2660メートル。南南西へ520メートル。
[#ここでゴシック体終わり]
「これも、同じっすね」
二メートル近い巨漢が、ゲーム機を差し出した。妹尾《せのお》純一、三十一歳。多重債務者だという。性格は温和そうに見えるが、この体格の持つ潜在的な脅威を考えると、最も警戒が必要かもしれない。
[#ここからゴシック体]
南のルート:南南東へ4500メートル。東へ3800メートル。東北東へ430メートル。
[#ここでゴシック体終わり]
鶴見克哉《つるみかつや》という中年男が、黙って立ち上がると、自分のゲーム機を藤木に手渡した。腰を痛めて力仕事ができなくなるまでは、出稼ぎ労働者だったと言っていた。黒い大きな手は、節くれ立って変形している。顔の皮膚も、長年戸外で働いてきた人間に特有の鈍《にび》色で、額や頬には、鑿《のみ》で刻んだような深いしわが何本もあった。
鶴見のゲーム機にも、楢本や妹尾のと同じような内容が表示されている。
[#ここからゴシック体]
東のルート:東へ2800メートル。北東へ2680メートル。南へ3200メートル。
[#ここでゴシック体終わり]
「次は、安部さんです。西のルート」
野呂田が声をかけたが、安部芙美子はいっかな動こうとはしない。どうやら、さっきのことを根に持ち、自分の機械のメッセージは見せないつもりのようだ。
「安部さん。西のルート!」
さすがに野呂田も、苛立《いらだ》ったような声を出した。
「かまいませんよ。どうしても見せたくないんなら」
藤木が言う。
「その代わり、私の機械のメッセージも、その人には見せないことにする。みなさんも、教えないでいただきたい」
それを聞いて、安部芙美子が、しぶしぶ振り返った。仏頂面で近づいてくると、ゲーム機の液晶画面を藤木に向ける。
[#ここからゴシック体]
西のルート:西北西へ4820メートル。西南へ3210メートル。南へ690メートル。
[#ここでゴシック体終わり]
合計すると、どのルートもだいたい、八・七キロ前後になる。ここへ来るまでは四キロ強だったから、倍以上の距離だ。
「これで、七人分全部ね」
藍が言った。野呂田がうなずく。
「我々は、東西南北の四ルートのうち、どれかを選ばなきゃならんようです。しかし、今のところ、判断材料が何一つない。だから、藤木さんたちの分には期待していたんですよ」
「最初にどっちへ行くかは、偶然に任せると……そういうことではないんでしょうか?」
加藤が訊《たず》ねた。
「そうかもしれません。だとすると、藤木さんのメッセージには、もっと別の重要な情報が含まれていることになる。……大友さんのもですが」
「きっと、一番肝心のが、その娘のだったのよ」
安部芙美子が、聞こえよがしにつぶやいた。
「それを見なかったために、誰か死ぬかもしれないわねえ」
「とにかく、見てみましょう」
野呂田は、藤木を手招きした。
「ここが、第一チェックポイントです。見つけるのに、相当苦労しましたが」
野呂田が指し示した場所には、それらしいものは何もなかった。ただ、半分土中に埋もれた大きな岩が、テーブルのように鎮座しているだけである。
「ここですよ。ここ」
藤木が怪訝《けげん》な顔をしたからだろう。野呂田は笑って、岩の上の一点を指した。
よく見ると、赤い岩の上に、小さな光の点があった。その上に手をかざすと、赤い光の点は、手の甲の上に移った。手を徐々に岩から離してみても、光点の大きさはまったく変わらない。レーザー光線なのだ。もちろん、天然の光ではありえない。
光の来る方角を辿《たど》ってみると、斜め上方、背後にある岩山の上から照射されているらしいことがわかった。目を凝らして見たが、光源らしき物体は、確認できなかった。
「その光を受けるように、あなたのゲーム機を置いてみてください」
どこで光を受けるのかと思ったが、すぐに気がついた。ゲーム機のスイッチをオンにして、岩の上に置く。手で向きを調節して、光が赤外線通信用のポートに、できるだけ直角に当たるようにする。
赤外線だけなら人間の目には見えないはずだが、それでは発見できないので、可視光線を加えてあるのだろう。
前と同じゲームのファンファーレが鳴った。続いて、文字が現れる。
[#ここからゴシック体]
サバイバルのためのアイテムを求める者は東へ、護身用のアイテムを求める者は西へ、食糧を求める者は南へ、情報を求める者は北へ進め。
[#ここでゴシック体終わり]
「そういうことか……」
藤木の肩越しに液晶画面を覗《のぞ》き込んでいた野呂田が、つぶやいた。
ゲーム機を回すと、徐々にどよめきが広がった。全員が興奮して口々に何かを言い始める。場はしだいに収拾がつかなくなってきた。
「みなさん、静かに! 落ち着いて、考えましょう。これで、メッセージはすべて出揃《でそろ》ったわけですから……」
「すべてじゃないでしょう? 忘れたの? 一つ欠けてるのよ」
安部芙美子が野呂田に食ってかかった。藍への非難を蒸し返したいらしい。
「あんたの機械にも、すべてのメッセージを確認してから出発しろって書いてあったじゃないの。どうするのよ?」
「まあまあ。今さらそんなこと言っても、しょうがないやないですか。大友さんの機械は、壊れてしまったわけやし」
加藤が宥《なだ》めようとしたが、安部芙美子は一歩も引かない。
「見たら、どのメッセージも、大事なことだったじゃない? 一つだけわからないじゃ、すまされないでしょうが。もし、命にかかわることだったら、どうするのよ?」
「それで、安部さんは、具体的に、どうすべきだと言うんですか?」
野呂田が反問すると、安部芙美子はぐっと言葉に詰まった。
「どうすべきって……何よ? そんなこと、わたしに、わかるわけないでしょう!」
「だったら黙ってろよ。おばさん」
座ったまま、低い声でそう言ったのは、意外なことに、それまで口数が少なかった楢本だった。安部芙美子は、怨念《おんねん》のこもった目で彼を睨《にら》みつけた。
「とにかく、今の我々にできる最善の策は何か、考えましょう。いつまでも、人を非難し合っていても、始まらない」
安部芙美子が黙り込んだ隙《すき》に、野呂田がようやく話の主導権を取り戻した。
「とにかくこれで、東西南北のルートに、それぞれ意味があることがわかったんですから、あとは、どう人数を割り振るかを決めるべきでしょう」
「割り振るって、どういうこと?」
船岡が聞いた。
「全員が一つか二つのルートに集中するのは、危険です。どれが正解なのかわからない以上、保険をかける意味でも、我々は四組に分かれて各ルートを全部試すべきですよ。その上で、いったんここに戻って……」
「ちょっと待ってよ。あんた、先走りしすぎ」
船岡は、立ち上がって尻《しり》をはたいた。わざとらしく苦笑して見せる。
「あんたはもう、全員、この『ゲーム』っつうのをやるって決めてるけど、まだ、俺は、一言も賛成だとは言ってないんだけどな」
「そうだ」と、楢本。こちらは、胡座《あぐら》をかいたまま、身じろぎもしない。
「だいたいさあ、いきなり、こんなわけわかんないとこへ連れてこられて、姿も見せないヤツから指示通りに動けって言われたって、はいそうですかって訳にいくかよ?」
賛同者の存在に勇気づけられて、船岡は全員を見回す。
「では、どうすべきだと言うんですか?」
俺は対案があるぞと言わんばかりに、船岡は安部芙美子を見やった。
「決まってんだろうが。逃げんだよ。ここから」
「どうやって?」
「だから、それをこれから、考えるんだよ」
「時期|尚早《しようそう》だと思うね」
藤木が、船岡を見上げながら発言した。
「だいたい、ここがどこなのか、我々がこんな場所に集められた意図は何なのか、まだ、何一つわかってないんだ」
「じゃあ、あんたは、どうしろっつうんだよ?」
「とりあえずは、指示に従ってみるしかないだろう。その上で、ここからの脱出ルートについて、情報を集める」
「甘いね。大甘。そんなこと言ってる間に、完全に抜き差しならなくなっちゃったら、どうすんだよ?」
「もう、充分、抜き差しならなくなってると思うわ」
藍が、全員を見回しながら言った。
「今、ゲーム機のルート以外の道へ行って、水や食べ物なんかはどうするの? 危険な動物がいるかもしれないし……とにかく、何があるかわからないのよ?」
「そのとおりです」
野呂田が、藤木と藍を見てうなずいた。
「とにかく、今は自重《じちよう》すべきですよ」
「その前に、ここへ来る前のことを何か覚えてないか、もう一度よく考えてみた方がいいと思うんやが……」
加藤が、手を挙げて言いかけた。
「それはもう、さんざんやっただろうが? おっさん。誰もはっきりしたことは覚えてないって言ってんじゃん。記憶力ないの?」
船岡が、にべもなく撥《は》ねつける。
「そうやけど、だんだんに思い出してきたことも、あるかもしれんし……」
「ああ、もう! 前に進まねえんだよな! そういうことばっかり、ぐじぐじ言ってるヤツがいると」
「君。そんな言い方は、ないんやないか?」
加藤も、かなりむっとしたようで、中腰になりかける。
「そっちこそ、君って何だよ。そういう先公みたいな言い方されるとなあ、俺、条件反射でむかつくんだよな」
「まあまあ。喧嘩《けんか》はやめましょう」
野呂田が、険悪なムードになりかけた二人の間に割って入る。
藤木は、ふと疑惑を抱いた。たとえ薬を飲まされたにしても、全員が、ここへ来るまでの記憶を、きれいさっぱり消去されているということがあるだろうか。
加藤の呼びかけに対しても、みな、もう少し反応してもいいように思う。一部とはいえ、記憶を失っているということは、ひどく不安な気持ちにさせるものだ。少しでも空白を埋めたいと思うのが、人情だろう。だが、船岡などは逆に、そのことに触れたがっていないような感じがする。
もしかすると、少なくともこの中の何人かは、ある程度の記憶が残っているのではないだろうか。だが、あえて、そのことを公表することは望んでいない。なぜなら、それは、何も覚えていない者に対する、明確なアドバンテージになるからだ。
「決を採ったらいいんじゃないかな……」
今まで沈黙していた妹尾が、ぼそりと発言した。大きな声ではなかったが、体格がものをいうのか、全員が注目する。
「そうだ。決を採ろう」
このままでは埒《らち》があかないと思った藤木は、すぐに賛成した。
「決って、ゲームに参加するかどうかっていうこと?」
藍が訊《たず》ねる。
「それは、特に必要ないだろう。さっき野呂田さんが言ったように、東西南北の各ルートに行く希望者を募って、欠けたところがないように割り振るんだ。参加したくない者は、別行動を取ればいいだけの話だ」
ようやく話が前進したことで、ほっとしたような空気が流れた。野呂田が引き取って、てきぱきと議事を進行した。
「……それでは、四つのルートで次のチェックポイントに進み、もう一度、ここへ戻ってきて合流する。新たに獲得したアイテムは、持ち帰って公平に分ける。こういうことでいいですね?」
誰も返事はしなかったが、曖昧《あいまい》なうなずき合いで、賛成多数が確認された。
「ではまず、東へ行く人です。これは、『サバイバルのためのアイテムを求める』ということですが、どなたか希望者はいますか?」
しょっぱなということもあり、お互いに顔を見合わせるだけで、誰もなかなか手を挙げようとはしない。
「希望者は、なしですか?」
ようやく、加藤が手を挙げた。
「わかりました。では、加藤さんは東ルート。次は、西です。『護身用のアイテムを求める』人」
今度も希望者はいないだろうなと思っていたら、案に相違して、妹尾と船岡がさっと挙手した。
「二人ですか。妹尾さんと船岡さん。……それじゃあ、船岡さんは、ゲームに参加するんですね?」
「しょうがねえだろう。俺も付き合ってやるよ」
船岡はへらへらと笑い、まったく悪びれた様子はなかった。
最初の選択で護身用のアイテムを選ぶというのは、藤木には考えにくかった。二人とも、ここにいるメンバー間で、いずれ争いが起きることを予期しているのだろうか。
逆に、こういう選択肢が用意されているということは、ここには、かなり危険な生き物が存在していて、たとえば熊除《くまよ》けスプレーのようなものが、いざというとき命を守ってくれるのかもしれない。
「今度は、南のルート。『食糧を求める』……」
藤木は挙手した。どう考えても、現在、最も優先順位が高いのは食糧のはずだ。見ると、他にも三本の手が上がっている。
「ええと、楢本さん、安部さん、鶴見さん、それに藤木さんですか」
藤木は藍を見た。彼女は挙手していない。二人一組と宣言しているので、あえて意思表示をする必要はないと思っているのだろうか。
「少し人数が偏りましたね……」
「そういうあんたは、どうすんだよ?」
船岡が訊ねる。
「私は、人数が足りないところへ行こうと思ってたんですが」
「へえ。偉いねえ。自己犠牲の精神? 自分はどこでもいいってか?」
船岡が揶揄《やゆ》するように言ったが、野呂田は特に気分を害した様子もなかった。
「最後は、北のルート。『情報を求める』ということですが……すると、こちらは希望者ゼロですね?」
「情報じゃ、腹は膨れねえしなあ」
藍が、藤木の袖《そで》を引っ張った。
「ねえ。北へ行かない?」
「え?」
「情報よ。今、何よりも必要なのは、情報だと思うの」
「だけど、それも所詮《しよせん》は、このゲームを仕組んだヤツが取捨選択したもんだろう? たいして役に立つとは思えんし」
その後の言葉は、ほかの人間に聞かれないように小声で囁《ささや》いた。
「……一応、獲得したものは分配することにはなってるけど、本当にそうなる保証はないんだぜ? だとしたら、自分で食糧を取りに行くのが一番堅実だろう?」
「たぶん、みんな、そう思ってるんだと思う」
藍も声を落とした。
「でも、それってきっと、引っかけだわ」
「引っかけ?」
「ほら、こういうゲームってよく、序盤でのなにげない分岐が、ものすごく重要だったりするじゃない? そういうときって、誰もが選びそうな選択肢は、たいてい、引っかけなのよ」
藍の言葉が、藤木の記憶のどこかを刺激した。たしかに、昔、それと同じような感想を抱いたことがある。何かの、ゲームだったような気がするが……。
「相談は、まとまりましたか?」
野呂田が聞く。
「何だ何だ。もう、できてんのか?」
船岡が両手の親指をくわえて、下卑た音を鳴らした。
「我々二人は、北のルートへ変更します」
藤木は、不安が声に出ないように自制した。直感だけで、こんなに重要な決断をしてしまっていいものだろうか。だが、すでにサイは投げられたのだ。
「二人っきりになりたいってか? ちえっ。羨《うらや》ましいねえ」
「わかりました。それでは、東ルートが加藤さん一人ですから、私はそちらに入りましょう」
野呂田が締めくくる。
「もう一度、整理します。東のルートが、加藤さんと、私、野呂田。西のルートが、妹尾さんと船岡さん。南のルートが、楢本さん、安部さん、鶴見さん。北のルートが、藤木さんと大友さんですね」
やはり、声に出して賛意を表す人間はいない。どこかうやむやな感じで、進路の割り振りが決まった。誰もが、思いどおりのルートを選んだという満足感と、間違った選択をしてしまったのではないかという不安を、半々に抱えているようだった。
続いて、第一チェックポイントにあったアイテムを、全員で分配する。
食糧は、期待に反し、ごくわずかしかなかった。ピーナッツ入りのチョコレートバーが、各一本ずつと、一リットル入りのミネラルウォーターのペットボトルが、これも一本ずつである。
だが、それ以外のアイテムは、かなり役立ちそうだった。まずは、磁石である。全員、ここへ辿《たど》り着くまでには苦労したようだったが、これで、方角については悩まずにすむ。それから万歩計。ボールペン付きのメモ帳もあった。さらに、これらを入れることのできるデイパック。つばのついた帽子と、胃腸薬やビタミン剤、目薬なども含まれていた。
すべて、一人に一つずつ行き渡るようになっていたので、争いが起きる余地はなかった。だが、今後も同じであるとは限らないと思う。
分配が終わると、昼過ぎになっていた。日が落ちるまでに、次のチェックポイントへ行って帰ってくることを思うと、あまり時間がない。
九人は、そそくさと、ブロックタイプの栄養食品の残りやチョコレートバーを食べた。そして、それぞれの方向へと歩き出していった。
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3[#ここでゴシック体終わり]
「もう、そろそろなんじゃないか?」
藤木は、ベルトに付けた万歩計を見ながら言った。歩数だけでなく、それに設定した歩幅を掛け算した距離も表示されるので、第一チェックポイントへ向かうときよりは、格段に楽だった。
ゲーム機は、まず北へ5520メートル進めと指示していた。現在、ちょうど5500メートルまで来ている。
「次は、西へ2660メートルか。そうね。この辺で、左の方に分かれ道がなけりゃおかしいけど……あ! これじゃないかな?」
左手の岩山は、風がまともに当たる位置にあるためか、表面の劣化が著しく、無数の細かい亀裂《きれつ》が入っていた。ちょっと触っただけで、ぼろぼろと崩れ落ちそうな感じがする。次の岩山も同様だったが、両者の間には、切れ目があった。幅は五、六十センチくらいしかなく、隘路《あいろ》というより、単なる岩壁の隙間《すきま》である。
「本当に、ここでいいのか?」
藤木は、単なる割れ目にしか見えない入り口を見つめた。二キロ以上も奥に続いているとはとても思えない。だが、磁石を見ると、方向はほぼ真西で合っている。
「だって、ほかに見あたらないでしょう?」
藍は、万歩計のカウンターをリセットすると、体を横にして、さっさと入っていった。藤木も後に続く。
少し行ったところで、道幅は広くなっていた。どうやら、この道で正解らしい。
赤茶けた岩肌を見上げると、白っぽいグレーの塊がへばりついていた。幅約一メートル、高さは三メートル近くあるだろう。ぼろぼろの紙のような質感の表面には、呼吸孔のような無数の穴があいていた。
「これは、白蟻の巣なんじゃないかな?」
「そうなの? 生き物に詳しいのね」
藍は、大して興味がなさそうだった。
白蟻がこんなに巨大な巣を作る場所というのは、どこだろう。熱帯であることは、間違いないが。やはり、ここはアフリカなのだろうか。昆虫学者でもない素人《しろうと》には、判定は難しい。
さらに百メートルほど行くと、両側の岩山が途切れ、急に視界が開けた。緑の草が茂る平野のような場所で、ところどころには、人間の身長より高い墓碑のような物体がそそり立っている。近づいてみると、それらもすべて、白蟻の巣であることがわかった。
進路を正確に西に保つため、磁石を目の前にかざしながら進む。
「なあ。本当に、これでよかったと思うか?」
「えっ? いいんじゃないの? 道も広くなってるし、他には西へ進めるような場所もなかったし……」
「そうじゃない。最初の選択肢として『情報』を選んだことだ。今思うと、やはり、手堅く『食糧』か『サバイバルのためのアイテム』の方に行ってた方が……」
藍は、呆《あき》れたように藤木を見た。
「今さらそんなこと言ったって、しかたないじゃない。もう、こっちへ来ちゃったんだから」
「それはそうなんだが、しかし……」
「ああ、もう! 男のくせに、うじうじしないで」
男のくせに、うじうじと……か。藤木は苦笑した。結婚していたときは、杏子から口癖のように聞かされてきた言葉だった。
「今さら、しょうがないじゃない! こっちへ来ちゃったんだから。それとも、今から引き返す?」
「いや」
藤木は首を振った。
「そんなに不安なんだったら、わたしの言うことなんか聞かなきゃよかったのに。わたしだって、自信なんてなかったのよ。勘で選んだだけなんだから」
藍は唇を尖《とが》らせた。
たしかに、そうだ。自分は、どうして彼女の言いなりになって、「情報」などという不確かなものを選んだのだろう。賭《か》かっているのは、自らの命だというのに。
いや、そうじゃない。あのとき、俺は自分の判断でこのルートを選んだ。
「……俺《おれ》も、こっちが正解だと思ったんだ」
「やっぱり、勘?」
「ちょっと違うような気がするな。昔っから、いろんなゲームをしてきたけど、君が言うように、最初の選択っていうのが、けっこうくせ者であることが多かったように思う。誰もが選ぶような選択肢は、たいがいダメなんだ……」
だが、かといって奇をてらえばいいというものでもない。最初に「情報」を求めたのは、はたして、正解だったのだろうか。
しばらく沈黙が続いた。
「ねえ。わたしたちって、パートナーよね?」
「ああ。どうして?」
「もし、何か思い出したことがあるんなら、正直に言ってね。それが呼び水になって、わたしの記憶だって、よみがえるかもしれないし……」
「言ってるよ」
「本当に?」
「ああ」
「わたし、第一チェックポイントにいた人たちのうち、半分くらいの人は、本当のことを言ってなかったような気がする。少なくとも二、三人は、喋《しやべ》った以上のことを思い出してたんじゃないかな。ひょっとすると、このゲームの正体が何なのかということも、知ってるかもしれないし」
「どうして、そう思う?」
「そぶりというか、何となくなんだけど。藤木さんは、感じなかった?」
藤木はうなずいた。自分も、たしかに同じようなことを考えていた。記憶を取り戻した連中が、ほかのメンバーに情報を与えなかったとすれば、それは、このゲームの性格を暗示してはいないだろうか。
「やっぱりこれは、ゼロサム・ゲームなのかもしれないな」
藤木は、空を見上げながら言った。大きな鳥が、空高く水平な輪を描いている。鷹《たか》か。それとも、あの大きさは鷲《わし》だろうか。アフリカに、鷲はいただろうか。いたと言われても、いなかったと言われても、納得してしまいそうだった。
「ゼロサムって、何?」
「限られたパイを奪い合うようなゲームのことだ。ゼロ和《サム》と言うより有限和と言った方がわかりやすいかもしれない。得られるものの合計が決まっているから、一人の取り分が多くなれば、その分のしわ寄せは、必然的にほかの誰かのところへ来る」
「つまりそれは……蹴落《けお》とし合いってこと?」
「ああ。ほとんどのスポーツや、囲碁、将棋なんかは、典型的なゼロサム・ゲームだし、入学試験や出世競争なんかもそうだ。有限の資源を奪い合っているという観点からすると、人間社会の活動はほとんど、その範疇《はんちゆう》かもしれない」
「へえ。藤木さん……数学に詳しいんだ」
藤木は、藍の言葉にかすかな違和感を感じた。ゼロサム・ゲームと聞いただけで、すぐに、数学という言葉が出てくる人間は少ないはずだが……。
「一応、大学では理学部数学科で、専攻はゲームの理論だった」
「たしか、昨日の晩、証券会社にいたって言ってなかった?」
「ああ。少し前には、金融関係で、数学科出身者がもてはやされた時期もあったんだよ」
「株の世界なんか、その、ゼロサム・ゲームなんでしょう?」
「いや。株式市場の場合は、一応、全員が儲《もう》かったり、全員が損したりということもあり得るので、ゼロサムとは言えないけどね」
藤木は、万歩計に目を落としてから続けた。
「今、我々がやっているのが、熾烈《しれつ》な競争を前提としたゼロサム・ゲームだとすると、相当厄介だ。もし、全員がゴールできるのなら、我々は、お互いに助け合うことができる。だが、もし、限られた人数しかゴールできないとすれば……つまり、賞金を獲得して生き残れる人間の数が限られているとすれば……」
その場合は、何らかの方法により、他人を出し抜くか、叩《たた》き潰《つぶ》さなくてはならない。
藤木は、あえて最後まで言わなかった。
最悪の場合、このゲームでゴールが認められるのは、たった一人という可能性もある。その場合、たとえ現在はパートナーであっても、最終的には藍とも争わなくてはならないのだ。
「難しいことは、よくわからないけど」
考え込むようにしていた藍が、大きな濡《ぬ》れた目を藤木に向けた。
「それが藤木さんの専門だったら、勝つための方法もわかるんじゃない?」
「いや、だめだ」
藤木は吐息を漏らした。
「ゲームの理論は、実地には何の役にも立たない」
「そうなの?」
「役に立たないどころじゃない。下手をすると、必敗法になってしまうんだよ。ゲームの理論では、参加者全員が、自らの利益のために合理的な判断をするというのが前提となっている。だが、現実の人間は、必ずしも合理的な行動は取らない。ゲームの理論に忠実なプレイヤーだけが、行動を見透かされてしまうことになるんだよ。だから今は、ゲームの理論に代わるセオリーとして、心理分析を取り入れたドラマ理論というのが考えられてるんだけどね……」
何でもいい。こうして話しながら歩けるということが、救いだった。
オレンジと黒の横縞《よこじま》で彩られた岩山。墓地のように白蟻の塚が立つ草原。葉が針のように尖《とが》った草。棘《とげ》だらけの灌木《かんぼく》。
人の存在をうかがわせるようなものは、何一つない。何から何まで異質だった。もし、一人でここを歩いていたら、非現実感に呑《の》み込まれてしまったかもしれない。
最後の分かれ道は、比較的わかりやすかった。草原から、再び、切り立った岩山に挟まれた細い道に入る。南南西へ520メートル進んだところで、藍は目敏《めざと》く、岩壁に光が当たっている場所を発見した。
藍は、光の上に手をかざしてみる。掌《てのひら》の上に赤い点が輝いていた。
「やった! チェックポイントよ」
藤木は、ゲーム機をポーチから出し、スイッチをオンにすると、赤外線ポートに光を当てた。お馴染《なじ》みのチープなファンファーレ。
[#ここからゴシック体]
北のルート、第2CPへようこそ。
ここでは、情報が与えられる。
[#ここでゴシック体終わり]
藤木は生唾《なまつば》を呑み込み、Aボタンを押した。
[#ここからゴシック体]
@ ゲームの舞台は、もともとは火星に設定されている。だが、実際に諸君がいるのは地球上で、第2CPの正確な位置は、南緯17度22分14秒東経128度46分11秒である。
A 地理的な区分で言うと、ここは、オーストラリア大陸北西部、西オーストラリア州キンバリー地区の、バングル・バングル国立公園の中である。
[#ここでゴシック体終わり]
オーストラリア……。南半球だとは見当がついていたが、予想外だった。それにしても、いつの間に、どうやって連れてこられたのだろう。
「バングル・バングルって、知ってるか?」
藤木は、藍を見た。
「全然、聞いたことない」
藍は首を振った。
[#ここからゴシック体]
B バングル・バングルが誕生したのは、今から約三億六千万年前のデボン期である。当初は平坦な砂岩大地だったが、永年にわたって風雨により浸食を受けた結果、溝が峡谷となり、取り残された場所が岩山に変じて、このような奇観を造り上げたもの。赤い帯状の地層は表面が酸化鉄の薄膜で覆われており、黒い部分は、水分の多い土壌でのみ繁殖するシアノバクテリアの皮膜によるものである。バングル・バングルの岩石はきわめて脆弱なため、ロッククライミングは全面禁止されている。
C バングル・バングルという名前は、キジャ・アボリジニのこの地に対する呼び名である Purnululu が訛ったものとも、バンドル・バンドルという草の名前に由来するものとも言われている。
D バングル・バングルには、七十を超える大小の峡谷があり、南北に25キロ、東西に30キロの広さを持つ。この公園は、毎年、一月から三月までの雨期には閉園される。これは、道路が泥濘に没して外界からの交通が遮断されるためであり、この間は、レンジャーも公園内には駐在していない。バングル・バングルの外には、さらに広大な原野が広がっており、最も近い町まで300キロ以上離れている。したがって、ゲームを中途で放棄して逃げ出すのは、自殺行為でしかない。
[#ここでゴシック体終わり]
「見え透いた脅しをかけやがって」
藤木はつぶやいたが、内心では、ここに書かれていることは、まず間違いなく真実であろうとわかっていた。はったりなど、このゲームを仕組んだ奴らには必要ないのだ。
[#ここからゴシック体]
E 上記の忠告にもかかわらず、ゲームのコースから意図的に逸脱したプレイヤーは、参加資格を失うだけでなく、きわめて重大なペナルティを科せられることになる。
F 第2CPのアイテムは、ここから南へ40メートル進んだ場所にある、平らな岩の下にある。
[#ここでゴシック体終わり]
藤木はAボタンを押したが、それ以上のメッセージは出てこなかった。
「これで終わり……? たった、これだけか?」
思わずかっとなり、ゲーム機を岩壁に叩《たた》きつけたい衝動に駆られた。
「南へ行けば食糧が手に入ったし、東なら、サバイバルのための道具も選べたんだ。その代償が、こんな……糞《くそ》の役にもたたない……ちくしょう!」
藍はしゅんとしてしまっていたが、藤木の怒りが収まるのを見計らって顔を上げ、おずおずと言った。
「でも、大事なこともわかったんじゃない?」
「大事なこと?」
「ここが、オーストラリアだってこと。だから……もう、ライオンの心配はしなくてもいいし、どんな動物がいるかも、だいたい見当が付くでしょう?」
「なるほど。コアラとカンガルーには、せいぜい注意しなきゃな」
藤木が意地悪く言うと、藍はうつむいてしまった。しまったと思う。彼女に当たってもしかたがない。深呼吸をして心を静め、もう一度、メッセージを読み直す。何か、もっと重大な情報が隠されているのではないかと思ったのだ。
期待した暗号や謎《なぞ》かけのようなものは、発見できなかった。だが、一つの文章が、藤木の意識に引っかかった。
[#ここからゴシック体]
ゲームの舞台は、もともとは火星に設定されている。
[#ここでゴシック体終わり]
この、「もともとは」というのは、どういう意味だろうか。
このお遊びを企画した連中が、そういう設定で考えていたというだけのことで、真剣に考えるような意味などないのかもしれない。
だが、そうではないという可能性もある。ゲームの主催者からのメッセージは、一語一句に至るまで、計算し尽くされているのではないか。注意深く、行間を読んだ人間だけが、生き残れるようになっているのかもしれない。
だとすると、「もともとは」とある以上、そこには、何か、原典のようなものがあるはずだ。
藤木が考え込んでいるのを見て、藍は、彼がひどく落ち込んでいると思ったらしかった。
「ねえ。まだがっかりするのは早いんじゃない? F番にある、アイテムを取ってきましょうよ。もしかしたら、すごく役にたつものかもしれないし」
藤木は、恨みがましい目で藍を見やった。うっかり彼女の口車に乗ったばっかりに、みすみす貧乏くじを引いてしまった……。もちろんそれは、自分勝手な責任転嫁だ。だが、どうしても、そういう思いを払拭《ふつしよく》することができない。
「四十メートルか……君が行って、取ってきてくれ」
藤木は岩の上に腰掛けた。貴重な吸いかけのタバコを出して、火を点《つ》ける。四十男が、まるで幼稚園児のように拗《す》ねている図は、見られたものではないだろう。だが、期待が大きかっただけに、落胆は心の中で真っ黒な澱《おり》となって淀《よど》んでいた。そうなると、失望続きだったこれまでの人生と同じように、活動しようという意欲がほとんど沸かなくなってしまうのだ。
「わかったわ……」
藍は一人で、磁石と万歩計を見ながら歩いていった。地面には、丈の短い緑の草がまばらに生えていた。しばらく行ったところで立ち止まり、足下にある大きな平たい岩を見ている。
羊歯《しだ》のような草を掻《か》き分け、岩に覆い被《かぶ》さるようにして、両手を縁にかけた。持ち上げようとしているようだが、岩は動かなかった。
「ねえ! 藤木さん。こっち来て、手伝ってよ!」
藤木は、立ち上がった。俄然、岩の下には何があるのかという興味で、頭がいっぱいになっていた。だが、つい駆け足になりかけるのを我慢して、わざと、のんびりと歩く。
「これ、すごく重い……!」
「そんなやり方じゃ、腰を痛めるぞ。膝《ひざ》を曲げて、腰を落とすんだ」
藤木は、平べったい岩を見下ろした。上を向いている面が、オレンジ色をしているところを見ると、崖《がけ》から崩落したものだろう。大きさからすると、ゆうに百キロ以上はありそうだ。周囲の砂を少し掘ってから、二人で同じ方向に持ち上げることにする。
気合いを掛けると、岩が浮いた。だが、幅が広いため、向こう側にひっくり返すまでには至らない。どうしようかと思ったとき、下に隠されていたビニール袋に包まれた物体が目に入った。足を伸ばして、爪先《つまさき》で包みを蹴《け》り出す。
「はあ……。腕がちぎれるかと思った」
岩から手を離してから、藍が嘆息する。藤木は、三メートルほど先へ転がった包みを拾い上げ、幾重にも巻かれたビニールを引き剥《は》がした。
「そうか……! やっぱり、情報は、あれだけじゃなかったんだ!」
ビニールの下から出てきたのは、ゲーム機に付属していたのと同じカセット、それに、緑色のネットのようなものが二枚だった。ネットは筒状になっていて、両側にゴムの入ったギャザーが付いている。すぐに蝿除《はえよ》けだとぴんときたので、二人とも、頭からすっぽりと被る。おかげで、間断のない蝿の襲撃も、少しはしのぎやすくなった。
カセットには、ゲームの主人公とおぼしき動物の絵が描かれていた。クチバシがあるところを見ると鳥だろうか。愛嬌《あいきよう》たっぷりの面つきは、ディズニーの有名なアヒルのキャラクターに酷似している。このキャラクターをそのまま市販の製品に使ったら、たちまち告訴されるだろう。
藤木は、ゲーム機のカセットを入れ替えてから、もう一度、電源をオンにする。今までとは違う、軽快で能天気なロック調のメロディが流れた。
画面には、カラーで、ド***・ダックそっくりのキャラクターが登場した。
[#ここからゴシック体]
「やあ! 俺は、ダックビリー・プラティ君だ。よろしくな!」
[#ここでゴシック体終わり]
後ろを向いてビーバーのような尻尾《しつぽ》を振り、振り返ってウィンクする。藤木は、それがアヒルではなく、カモノハシを模したものであることに気がついた。
[#ここからゴシック体]
「食い物や道具に目が眩まずに、俺を選んだとは上出来だ! 偉いぞ! もちろん、武器なんぞは論外だがな。ご褒美に、貴重な知識をたっぷりと授けてやろう。まずは……そうだな、プラティ君の、相性診断!」
[#ここでゴシック体終わり]
プラティ君は、右手の人差し指を振り立てながら、機関銃のように長《なが》台詞《ぜりふ》を吐き出し始めた。このカセットでは、いちいちAボタンを押す必要はないらしい。画面は、藤木が文章を読んだか読まないかのうちに、どんどんと目まぐるしく切り替わっていった。
[#ここからゴシック体]
「このコーナーは、情報を選んだ賢明なる諸君と、他のアイテムを選んだヤツらとの相性を、ご親切にも、教えてやろうというものだ。まずは、サバイバルのためのアイテムを選んだ組だ。この連中は現実主義者だな。行動は合理的だ。ある程度は、話せばわかるはずだし、できるだけ、仲良くした方がいいかもしれん。いつまでもっていうわけには、いかないだろうがな。次は、護身用のアイテムを選んだ手合い。こいつらは、ゲーム序盤の協調がまやかしであることを見抜いて、最後は戦いになると予測している。要注意だぞ。どっちかというと距離を置いて、いつでも逃げ出せるようにしておいた方がいいかもな。だけど、何といっても一番恐ろしいのは、食糧を取りに行ったヤツらだ。ちょっと意外だろ? 警告しておこう。最初はいいが、後半はヤツらには絶対に近づくな。なぜかって? 悪いな。それはまだ、教えられない。後で出てくる『アイテム一覧』でも見ながら、とっくり考えるんだな」
[#ここでゴシック体終わり]
「食糧を選んだ人たちが危険って、どういうことかしら?」
藍が耳元で囁《ささや》いたが、藤木は、見にくい液晶画面の文字を追うのに精一杯で、答えを返せなかった。
それよりも、ゲームの主催者が、協調がまやかしであると事実上言明していることの方が、重大であるような気がする。最後は戦いになる……。戦いというのは、文字通り、殺し合いにまで至るということなのだろうか。
[#ここからゴシック体]
「続いては、プラティ君の、サバイバル教室! このコーナーはだな、諸君がバングル・バングルで生き延びるために必要な知恵を、大盤振る舞い! 惜しげもなく、ダイジェスト版で公開しちゃおうというものだ」
[#ここでゴシック体終わり]
プラティ君は、クチバシをぱくぱくさせながら、無意味に画面上をうろつき回った。歩くたびに、両方の黒目が、お手玉のように交互に上がったり下がったりする。
[#ここからゴシック体]
「まずは基本中の基本。優先順位だ! 一般に、遭難したときにまず考えるべきことは、@水AシェルターB暖C食糧の順となる。これはまあ、サバイバルの常識だな。だが、この順位は、ケース・バイ・ケースで入れ替わる。バングル・バングルは現在雨期だから、@水のことは、それほど心配する必要はないぞ。気温も高めで安定しているので、B暖についても、ほとんど不要だ」
[#ここでゴシック体終わり]
藤木は、一文字も見落とすまいと、息を詰めて液晶画面を見守っていた。藍も、肩越しに覗《のぞ》き込む窮屈な姿勢で、懸命に文字を追っている。
[#ここからゴシック体]
「……したがって、種子や豆類は、猛毒である可能性が高い。作物として栽培されているものでさえ、野生種は危険なことがあるぞ。よっぽど自信がある場合以外は、まず、避けた方が無難だな。ここ、バングル・バングルでお奨めの食用植物は、以下のようなものだ。@バンクシアおよびグレビリアの花。左の絵がそうだ。たっぷりと蜜を含んでいるので、花に口を付けて、直接吸えばいい。Aブラックボーイの木。特徴のある形だろう? アボリジニの少年が槍を持った姿に見立てられ、その名が付いた。おっと。この名前は差別的だというので、現在では、グラス・ツリーと呼ばなきゃいかんそうだ。緑の葉っぱの芯にある白い部分は、ちゃんと食べられる。それだけじゃない。根っこを掘ると、もっといいものが手に入ることもあるんだな。これが。Bブラッケン羊歯。緑の若芽はデンプン質に富んでおり……」
[#ここでゴシック体終わり]
藤木は、メモ帳を出して植物の大まかな形をスケッチしようとした。同じメッセージをもう一度見ることは可能なはずだが、どんなアクシデントがあるかわからない。すると、考えていることがわかったのか、藍が自分のメモ帳を出して、素早く絵を描き始めた。さすがに本職だけあって、彼の絵とは雲泥の差のうまさだった。藤木は、スケッチは彼女に任せ、メッセージの内容を覚えることに専念する。
[#ここからゴシック体]
「……というわけで、動物質の食べ物をメインに据えた方が、高カロリーだし、そもそも無難ということになる。まずは、哺乳類だ。食べ物としては理想的だが、銃器がなければ、よほどの幸運に恵まれないと捕まえられないだろう。ただし、まったく手がないわけじゃない。詳しくは、次のCPで『プラティ君の狩猟入門』を見てくれ。次は爬虫類だ。すべての爬虫類は、一応、食用に適している。毒蛇だって例外じゃない。(ただし、毒腺のある、頭部と首の一部は切り取るべし)ここでのお奨めは、ゴアンナやモニターなどと呼ばれている、ぷりぷりに太った大トカゲだ。ただし、ものすごく脂っこいので、充分過ぎるくらい火を通さないと、食えたもんじゃないぞ。調理方法については、餅は餅屋で、アボリジニの作るグラウンド・オーブンが最も適している。具体的なやり方は、次のCPの『プラティ君の料理教室』に詳しいぞ」
[#ここでゴシック体終わり]
現地で|藪の食物《ブツシユ・タツカー》と呼ばれているらしい、様々な食物の説明が流れていった。それらはすべて、オーストラリアの先住民であるアボリジニたちの、生活の知恵に基づくものであるという。
[#ここからゴシック体]
「昆虫その他の虫は、食糧源としては軽視されがちだな。外見からは、あんまり食えそうに見えないからだろう。だが、どこにでもいて、簡単に手に入るという点では、これ以上の緊急食糧はないぞ。その中でも、最高の珍味は、あの『美味**ぼ』でも何度か紹介された、ウィチェッティ・グラブだろうな。さっき、ブラックボーイの根っこを掘るといいものがあると言ったのは、こいつのことだ。見かけは少々グロテスクだがな。正体はコウモリガの幼虫で、生でも食えるが、熱を通すともっとうまい。それから、ほかの昆虫の幼虫類も、だいたいOKだぞ。ただし、ここでは、毛虫の類は、たとえ毛焼きをしても食わない方がいい。それに、体に黒い模様が浮き出ている芋虫もNGだ。カタツムリやナメクジは食えないことはないが、あわてることはない。そんなものがいるような湿った場所では、もっと食用に適した生き物が見つかるはずだからな……」
[#ここでゴシック体終わり]
最後に、プラティ君はある食糧源に言及した。バングル・バングルの中でならどこでも手に入るその生き物こそ究極のブッシュ・タッカーであり、100グラムあたり581キロカロリーの熱量が得られるという。味も、そうひどくはないとのことだった。
「つまり、このバングル・バングルという場所で餓死することなど、あり得ないということか……」
プラティ君が消えた後、藤木はつぶやいた。
「もし、このことを全員に知らせれば、争いはほとんど未然に防げるんじゃないか?」
藍の顔を見ながら、独り言のように言う。藍は黙っていた。
「……どう思う?」
「どうして、わたしに聞くの?」
藤木は、言葉に詰まった。
「そう思うんなら、話せばいいじゃない。みんな、きっと安心するわ」
藤木は、ゲーム機の画面に目を落とした。そこには、簡単な表が映し出されていた。
[#(img/p91.jpg、横199×縦572)]
スクロールしながらアイテムの種類を数えていくと、全部で七十九品目もあった。一方、チェックポイントは第七までである。つまり、その先がゴールということなのだろうか。重要度の評価は、AAA+からCまで十八段階に設定されているが、それ以外に、妙な記号が書き込まれているものも、いくつか目に付いた。
「この表も、何だか少し妙だよな」
「どうして?」
「重要度の評価とかがさ」
「でも、そういうのは、備考にちゃんと理由が書いてあるじゃない?」
藍は藤木からゲーム機を受け取ると、画面をもう一度スクロールさせた。あろうことか、『コンドーム』にA評価が付いているのに驚く。だが、備考を見ると、『水袋として使用する』と説明してあるので、一応は納得できた。また、寝袋の欄では、ナイロン綿の寝袋がAAなのに対して、羽毛の入ったものはB+にすぎない。だが、ここにも、『羽毛は水に濡《ぬ》れると機能を失うので避けるべき』との但し書きがあった。
「たしかに、そうだ。だけど、これみたいに理由のわからないものもある」
藤木が指したのは、『虫|除《よ》けスプレー(日本製)』と『バッグ・スワット・ローション(蝿除け)』と書かれたアイテムだった。前者がCという最低の評価しか与えられていないのに対して、後者は、AA+である。
「それから、もっとわからないのは、これだ」
『スネーク・バイト・キット』というのは、おそらく、毒蛇に咬《か》まれたときに応急手当をするキットだろう。オーストラリアには、多種多様な毒蛇が生息していると聞いたことがある。だとすれば、これなどは、いざというときには必需品ではないだろうか。にもかかわらず、評価はやはり最低のCである。
「虫除けは、たぶん、こっちの虫には、日本製のものは役に立たないってことじゃないかなあ」
藍は、考え込むように言った。
「じゃあ、『スネーク・バイト・キット』は?」
「これも、たぶん、実際には役に立たないっていうか……咬まれたら無駄ってことだと思う」
藤木は下唇を噛《か》んだ。そのとおりだ。どうして気が付かなかったのだろう。考えてみれば当然の話ではないか。応急手当だけしたとしても、その後、病院へ搬送してもらうことが不可能なのだから、どのみち助かるはずがない。つまり、ここでは、このキットには何の価値もないのだ。
藍からゲーム機を取り戻して、もう一度アイテムを見直していくと、物騒なものが次々に見つかった。ボウガン。スリングショット。飛び出しナイフ。伸縮式の特殊警棒。催涙スプレー。出力二十万ボルトのスタンガン……。評価は、AA〜CCぐらいと幅を持たせてあった。状況次第だということか。
これらは、「護身用のアイテム」を選んだ連中が手に入れたものだろう。最初の二つはまだ、狩猟用と考えられなくもない。だが、残りはすべて、対人用以外には用途が考えにくいものばかりだ。
ゲームの主催者は、我々にいったい何をさせようとしているのか。藤木は想像をめぐらしたが、思いつくのは、肌に粟を生ずるような恐ろしい可能性ばかりだった。
「ねえ、このマーク、どういう意味かな?」
藍が、画面を指さした。
[#(img/p94.jpg、横293×縦577)]
※[#髑髏マーク、unicode2620]……。そして、備考欄にある、「罠《わな》」の文字。
「たぶん、毒でも入ってるんじゃないか」と、藤木は答えた。
再び第一チェックポイントに戻ったときには、もうとっぷりと日が暮れていた。
「皆さん、無事に戻ってこられましたね」
野呂田が、ほっとしたように言う。
「それぞれ、チェックポイントへ到達して、たくさんのアイテムを持ち帰られたようです。今から、それを公平に分配したいと思うんですが」
「公平にって、どうやるつもりなんだよ?」
船岡が、飛び出しナイフを弄《もてあそ》びながら言った。焚《た》き火の炎がブレードに反射して、橙《だいだい》色に光っている。
「いろいろ考えたんですが、ドラフト方式がいいんじゃないでしょうか」
野呂田は、ちゃんと解答を用意していた。
「ドラフト?」
「プロ野球の新人選択会議と同じやり方ですよ。全員が順に、希望するアイテムを指名していく。アイテムの数を希望者が上回った場合は、籤《くじ》によって決める。敗者は、その代わり、次のアイテムを優先的に選べる……そんなとこなんですが」
「ちょっと待ってよ! そんなの、おかしいじゃないのよ?」
安部芙美子が、口を挟む。
「おかしいというと?」
「そうじゃない。わたしたちのグループみたいに、たくさんアイテムを提供してるとこもあれば、ほとんど何も持ってきてない人たちもいるじゃないの。それなのに、分けるのは平等にだなんて、冗談じゃないわ!」
安部芙美子が、藤木と藍を指して言っているのは明らかだった。
「アイテムはですね……必ずしも数じゃなくて、質の問題だと思いますが」
「だから、その質も量もない人たちは、入れるべきじゃないって言ってんのよ!」
「それは、我々のことかな?」
藤木は、真正面から安部芙美子を見据えて言った。
「だったら、何なのよ?」
安部芙美子は、さすがに少したじろいだようだった。
「我々が得たのは、アイテムではなく情報だ。だから、物の代わりに情報を提供する」
「どんな情報よ?」
「それは、今は言えない。アイテムの分配が全部終わってからだ」
「ふん。どうせ、ろくなもんじゃないわよ。……ねえ、みなさん。この二人ははずして、七人で分けた方がいいと思いません?」
彼女を除く全員が、またかというように、うんざりした表情を見せた。
楢本が、後ろから安部芙美子を小突いた。表情が険しくなっている。まるで、「やり過ぎるな」と言っているかのようだった。安部芙美子は舌を出した。
「わかったわ……。そうね。しょうがないわね。この人たちが飢え死にしても可哀想だから、特別にアイテムを分けてもいいわ」
あまりにもわざとらしい演技に、楢本と鶴見は、ますます渋い表情になった。
藤木と藍は目を見合わせた。ここへ来る帰り道での彼女の言葉を思い出す。
「そうか、オーストラリアだったのか。わたし、オーストラリアって、来るの初めてよ。藤木さんは?」
「いや……来たことはないよ」
妙に高揚した様子の藍に、藤木は首を捻《ひね》った。ここが、アフリカではなく、オーストラリアだとわかったところで、ほとんど状況に変化はない。
「何か、嬉《うれ》しいことでもあるのか?」
「ええ」
「ライオンがいないとか、少しでも、日本に近いとか?」
「何、くだらないこと言ってるのよ?」
藍は、鼻の根本にしわを寄せて笑った。
「やっぱり、北を選んで正解だったんじゃない! おかげで、わたしたちには、すごいアヘッドができたわ!」
藤木は、意気揚々とした様子の藍を見た。
「ねえ、わかってる? 最後の、『アイテム一覧』を知っただけでも、ほかの連中とは比べものにならないくらいのアドバンテージなのよ?」
「……それは、要するに、あいつらには教えるなっていうことか?」
「そうよ。当然じゃない?」
「だが、さっきも言ったけど、食糧に関する知識を教えるだけでも、将来起きる争いを防ぐことができるんだぜ?」
「争いをやめさせて、それで、どうなるの?」
藤木は、あまりにも冷徹な彼女の言葉に唖然《あぜん》とした。
「あなたが言ってたのよ。これは、たぶん、ゼロサム・ゲームだって。つまり、ほかの人を蹴落《けお》とさなければ、わたしたちは生き残れないのよ」
「それは、そうだが……」
「どうしたの? もう。煮え切らないわねえ!」
「情報を隠すと言っても、あいつらに、ゲーム機を見せないわけにはいかないだろう?」
「ねえ。どうして、カセットが二つあると思うの? プラティ君の方を隠してしまえば、後の人たちには、肝心の情報は教えなくてすむっていうことよ」
それが、おそらくは、ゲームの主催者の意図しているところだろう。だが、それに乗せられてしまうことには抵抗があった。むしろ、我々全員が団結して、思いどおりにはいかないぞというところを見せてやりたいと思った。
「この蝿除《はえよ》けネットだって、たぶん、そのためにあったんじゃないかしら」
「え?」
「ほら。古いカセットの指示の七番目。第二チェックポイントのアイテムが、平たい岩の下にあるって書いてあったでしょう? だから、何かアイテムを手に入れたことは、どうしてもバレてしまうわ。でも、そのアイテムがこのネットだって言えば、新しいカセットのことは言わないですむじゃない?」
彼女がそこまで考えているとは思わなかったので、藤木は愕然《がくぜん》とした。
「だが、彼らを裏切るのは……」
全員の団結を呼びかけていた、野呂田の姿を思い出す。
「どうせ、ほかの人たちだって、見つけたアイテムをごまかすに決まってるわ。一番大事なものはどっかに隠しておいて、残りを、さも正直に提出しましたっていう顔をして分け合うのよ」
「しかし、そうとも限らないんじゃないか?」
「じゃあ、試してみればいいわ。第二チェックポイントで得られるアイテムは、だいたい、頭に入ってるでしょう? もし、ほかのグループが、全然ごまかしをしていなかったら、わたしたちも、全部の情報を教えてあげることにしましょうよ。でも、もし、みんながズルしてるんだったら、こっちだけ、馬鹿正直に情報を全部教えてあげることはないわ。いいでしょう、それで?」
アイテムを一つ一つ読み上げる野呂田の声で、藤木は我に返った。
「それから、スイス・アーミー・ナイフが一本。ライフ・ツール……これは、一枚の金属板なんですが、ナイフや缶切り、栓抜き、磁石、レンズなど三十六通りの使用法があるそうです。このライフ・ツールが、二枚。それから……」
「ほら。最初から、もう違うわ。リストによれば、スイス・アーミー・ナイフは二本、ライフ・ツールは四個あったはずよ」
藍が藤木の耳元でささやいた。
次々と、各組が獲得したアイテムが披露されていった。藤木は、聞きながら深い落胆を味わった。藍の言うとおりだったのだ。すべてのグループが、何らかのごまかしをやっていた。数を過少に申告するだけでなく、いくつかの重要なアイテムでは、存在そのものがきれいに抹消されていた。カミラスのサバイバルナイフ。山刀《マシエト》。ジッポのライター。抗生物質。ボウガン。スリングショット。それに、「アイテム一覧」では「罠」だと書かれていた、FSビスケットと缶ビールも……。
アイテムがすべて読み上げられると、各人が手帳を見ながら、欲しいものをリストアップした。それから、順に希望を発表していく。
第一巡目では、スイス・アーミー・ナイフと塩の錠剤、砂糖などに人気が集まった。藤木も、ナイフを希望する。本当は、もっと別に狙《ねら》いの品があったのだが、一人だけ変わったものを希望して、注目を浴びることは避けたかったのだ。それでなくても、他人の知らない情報を得ているということで、警戒されているのだ。
何巡かするうちに、藤木と藍は、ほぼ思っていたとおりのアイテムを手に入れた。スイス・アーミー・ナイフは逃したが、代わりに小型の鉈《なた》を一丁。それから、マッチと、ナイロンの釣り糸一巻き、プラスチックの食器セット、それから、自分で発見し、持ち帰った蝿除けネットも。
最初は全員の目を引いたが、すぐに忘れ去られてしまったアイテムに、小型の高性能受信機があった。発信器なら救助を呼べる可能性があるが、受信専用であり、しかも、電池は付属していなかった。今回のアイテムには電池は含まれておらず、ゲーム機を動かすのに必需品である電池を、無意味に消費するわけにはいかないということで、自然に敬遠されたのである。
藤木は、六巡目、ほとんど最後近くになって、高性能受信機を指名し、手に入れた。特に利用目的があるわけではなかったが、「アイテム一覧」で、AAAという最高に近い評価がなされていたためである。
七巡目に、残ったアイテムの中から、藤木はコンドームを選んだ。
「おい。マジかよ。何考えてるんだよ? いいかげんにしてくれよな?」
船岡が、大声でヤジを飛ばした。
「いくら何でも、そりゃ、ないだろう? あんたら、なんか、勘違いしてるんじゃないか?」
「勘違いしてるのは、そっちだ」
藤木は、冷静に言った。
「伸縮するゴムの袋には、それなりに使い道がある」
「ああ、そうですか。だったら、まあ、せいぜい励むんだな。生きてるうちに楽しもうっていうのも、一つの考え方だ。勝手にすりゃ、いい。ただし、そんな根性で生き残れるほど、甘かねえからな」
船岡は、指で卑猥《ひわい》な形を作りながら、うそぶいた。
アイテムの分配が終わると、藤木は、ゲーム機に付け加えられた新しい情報を、全員に見せた。誰もが、ここがオーストラリアであるということ以外にほとんど役に立ちそうにないメッセージに、失望の表情を隠せなかった。安部芙美子などは、猿のように黄色い歯を剥《む》き出して、ほらわたしの言ったとおりじゃないなどと騒ぎ立てたが、今さら二人に分配したアイテムを奪い取ることもできない。
「北のルートは、やはり、はずれでした」
藤木は、照れ笑いを浮かべながら言った。
野呂田が、うなずいた。少し、だめを押しておくことにした。
「我々は、どうも、無意味に情報が重要だと思いこんでしまうみたいですね。何というか、現代の都会人の精神的な宿痾《しゆくあ》とでも言いますか。やっぱり、最初は、手堅く、食糧かサバイバルのための実用品を目指すべきだったと……」
藍が、うしろから肘《ひじ》で合図した。やりすぎるなというのだろう。安部芙美子の二の舞になる前に、藤木は口をつぐんだ。
幸いなことに、藤木の言葉を疑った人間はいないようだった。誰かが北のルートを試す必要があったのだから、むしろ二人は貧乏くじを引いたのだと、同情的な目で見られているようだ。
もちろん、各自が得たアイテムは持ち寄って、全員で平等に分けたという建前である以上、特に有利不利はないはずだったが、実際には、どのグループも見つけたアイテムからピンハネしていることは、公然の秘密といってもよかった。漠然とした罪悪感が、彼らの目を曇らせていたのだろう。
見せかけだけの協調は、すでに崩れ始めていた。それぞれの嘘《うそ》と裏切りによって徐々に広がった亀裂《きれつ》は、やがては血で血を洗う闘争へと発展するのだろうか。藤木は、全員の顔を見ながら、暗澹《あんたん》たる思いを禁じ得なかった。
[#改ページ]
4
[#ここでゴシック体終わり]
翌朝、藤木が目を覚ますと、単調な雨音が世界を覆っていた。見上げると、バングル・バングルの上空はひどく薄暗い。濃いグレーの雲が、深紅色と黒の縞《しま》のある岩山の先端に触れそうなくらい、低く垂れ込めている。
大粒の雨が、花火のような音を立てて地表に降り注いでいた。九人の人間は、岩山の下にある窪《くぼ》みで身を寄せ合うようにして、無言で空を見つめている。
ゲーム機によれば、この景色は、三億六千万年をかけて形成されたものだという。かつてここで、人類の祖先が、同じように空を見上げていたかもしれない。
その瞳《ひとみ》には、何が映っていたのだろう。雨音以外には聞こえるものもない静謐《せいひつ》な空間。心休まる光景だったのか。それとも、見渡す限りの岩山が、絶望の象徴のように見えただろうか。
ちょうど、現在の我々のように。
時刻は、午前七時を回ったところだった。全員、むっつりと押し黙ったままで、朝食を摂《と》った。
藤木と藍は、最後に残してあったブロックタイプの栄養食品を平らげ、雨水で喉《のど》を潤した。昨日のオークションで食べ物を獲得した組は、多少なりとも品数が多いようだ。だが、いずれも、余分な食糧を持っているのを周囲に目立たせないよう、気を遣っていた。
船岡を見ると、プラスチックのコップに塩の錠剤を入れて雨水で溶き、顔をしかめながら飲んでいる。たぶん、野外でのサバイバルでは何より塩分の補給が肝要だという、日本人に多い信仰の持ち主なのだろう。
朝食が終わっても、雨はいっこうに降り止む気配がなかった。
「すっかり、出端《ではな》を挫《くじ》かれちゃったわね」
藍は、藤木のそばにぴったりと寄り添うようにしていた。
「全員が、こんなに、一刻も早く出発したがってるというのに」
「どうして、そう思う?」
「だって、みんな、そんな顔してるじゃない」
藍は、ほかのメンバーの様子を観察するように、ゆっくりと頭《こうべ》を巡らせた。
たしかに、かなり浮き足立っているようだ。絶えず貧乏揺すりをしたり、溜《た》め息をついたり、腕組みをして空を見上げたりという動作ばかりが目につく。
「何も、そんなに焦る必要はないと思うがな」
藤木がつぶやくと、藍は笑って耳打ちをした。
「馬鹿ねえ。みんな、どこかに隠してあるアイテムの心配をしてるのよ」
そうか。藤木の心の中で、苦々しい思いが沸き起こる。
「だいじょうぶよ。あと一時間くらいで、空は晴れるから」
藍は予言者のように天を仰いだ。藤木も、疑わしそうに空を見た。
「ねえ。何か、面白い話でもしてよ」
「面白い話なんか、何もないよ」
「藤木さんのことでいいわ」
「俺《おれ》の人生で、君が面白がりそうなことなど、何もなかったな」
藤木は、素っ気なく言った。
「藤木さんだって、それなりに修羅場をくぐってきたんでしょう?」
「くぐらない」
「うそ。男も四十になると、絶対、いろんな経験をしてるはずだと思うな」
「君の描く漫画の世界とは違う」
「命がいくつあっても足りないような大冒険をしたり、人生を燃やし尽くすような恋をしたりとか、しなかったの?」
「君はしたのか?」
藍は、頬《ほお》を撫《な》でて考え込むような動作をした。
「したかもしれないわ」
「それでも、奇跡的に命は無事だったわけだ」
「いいえ。もしかしたら、一度、死んだのかも……」
藍は、謎《なぞ》めいた笑みを浮かべた。
「でも、今は藤木さんの話よ。だって、これまでの人生で、本当にピンチだったことはあるでしょう?」
「小さなピンチなら無数にあったよ。改札口を出ようとして切符がなかったり、とか」
「でも、今、こんな状況なのに、藤木さん、すごく落ち着いてるじゃない。きっと以前にも、似たような経験をしてるんじゃないかと思ったんだけど」
藤木の脳裏に、日本のどこにでもある公園の情景が浮かんだ。冬枯れの木立。寒々としたベンチ。灰色の愚鈍なドバトの群れ。それに、冷たい人々の視線。
「……そうだな。サバイバル生活は、まったくの初めてじゃない。短期間だが、前にも一度、そういうことがあった。考えることはといえば、その日に食べるものと寝る場所のあてだ。ただし、今の状況とは、似ても似つかないけど」
「へえ。どっかで遭難でもしたの?」
「いや。単に失業しただけだ」
「え? わかんない。どういうこと?」
周囲で聞き耳を立てている人間はいなかったが、藤木は、ぼそぼそと低い声で喋《しやべ》った。
「勤めていた証券会社が破綻《はたん》したとき、住んでいた社宅も追い出されることになった。何もかもがあまりに突然のことで、茫然《ぼうぜん》としてしまって、どうしたらいいのかわからなかったんだ。一応、不動産屋へも足を運んでみたが、無職で保証人もなく借りられる物件は、ほとんどなかった。それに、心の奥には、半分捨て鉢な気持ちも沸いていた。こうなったら、落ちるところまで落ちてやろうじゃないかという……」
藤木は、わずか一年半前の自分の気持ちを思い出して苦笑した。
「きっと、本当に落ちることはないと、心の底では信じてたんだろうな。自分はこれまで、まじめに勉強して、ずっと日の当たる道を歩いてきた。そんな自分を、社会が見捨てるはずがない。いざとなったら、きっとどこからか助け船が現れるはずだって」
「藤木さんって、メルヘンの世界に住んでたのね」
「それで、自分では現実主義者だと思っていたんだから、笑っちゃうだろう?」
「本当。大笑いだわね」
彼女の瞳の悲しそうな色が、言葉の毒を完全に打ち消していた。
「会社には転勤が付き物だと思っていたから、家具なんかには、ろくなものがなかった。だから、俺は、そのまま社宅を出た。そして、気が付いたら、駅や公園で寝泊まりするようになっていた」
「お金は、全然なかったの?」
藤木は、喉の奥に苦いものが込み上げてくるような気がした。
「社宅を出る少し前に、妻が家を出ていった。俺がタバコを買いに行っている、たった三十分ほどの隙《すき》にだ。そのとき、銀行預金の通帳やカードなんかも、ごっそり持っていった」
「それ、ちょっとひどくない?」
「杏子も、全部着服するつもりじゃなかったんだ。通帳や印鑑なんかは、少したってから書留速達で送られてきた。彼女が適当と考える、取り分を差し引いて。だが、そのときには、俺はもう社宅にはいなかった。自分の金が使えるようになったのは、だいぶたってからだ」
非現実的な深紅色の世界に目を移す。話の内容とのギャップが、違和感となって胸に迫ってくる。
「……いい年をした大人が、そのくらいのことで、完全になす術《すべ》を失うなんて、考えられないだろう? だが、実際にはそうだった。エリートサラリーマンだと思っていた自分と、それまでは見下していたホームレスとの間には、実は薄皮一枚しかなかった。それが実感としてわかったとたん、どうしていいのかわからなくなった。それまでは堅固な床の上に立っていると思っていたのに、実際には、昔の漁師みたいなもんで、板子《いたご》一枚隔てた下は地獄だったんだよ」
「でも、本気で避ける気があれば、そんなふうにはならなかったんじゃない?」
藍は、いつの間にか高くなってきた藤木の声をたしなめるように、低い声で言った。
「それは、そうだろうな。いくら何でも、郷里の親に泣きつくか知り合いや友達に事情を話せば、当座の生活資金くらいは借りられたはずだ」
藤木の脳裏に、野宿生活の思い出がよみがえった。今から思えば、あれは、屈折した中年男のピクニックに過ぎなかった。
幸い、まだそれほど寒い季節ではなかった。公園のベンチで寝起きし、水道で顔を洗う。食事は、一キロ半ほど離れた場所にあるコンビニへ行って、定時に廃棄される弁当を貰《もら》った。二日ほど経つと、こんな生活も悪くないなどと思い始める。これまでずっと肩に力を入れて生きてきたから、ここでこういう経験をするのも悪くないのではないか、などと。自分がここまで落ちていることを知ったら、知り合いはどう思うだろう。そう思うと、心の瘡蓋《かさぶた》を剥《は》がすような自虐的な快感を感じる。
だが、三日目には、市役所の職員と警察官に追い立てを食らう。公園の近所の住人から苦情が出ているのだという。誰にも迷惑を掛けていないつもりでいたので、ひどく理不尽に思えたが、もちろん、そこで争うことなど、思いもよらなかった。それでも、出て行きたいが電車賃がないというと、さっさと仕事を済ませたかったのだろう、市役所の職員は、渋々、新宿までの切符を買ってくれた。
新宿がホームレスたちの聖域であったのは、すでに遠い過去の話だった。美しい鯨《くじら》たちにサンクチュアリを与えよという議論はかまびすしいが、ホームレスたちに楽園を提供しようという声はとんと聞かない。
JRの新宿駅は、あらゆるデッド・スペースを寝泊まりに最悪な場所にしようと、思いつく限りの策を講じていた。わずかに残された場所は、先住者がしっかり占拠している。それでも、何とか片隅に潜り込み、段ボールを集めてマイホームを築いた。
そして、その日食べるものを得るための戦いが始まった。それは、誰も助けてくれない、孤独なサバイバルのためのゲームだった。
わずか五日間で、藤木は音を上げた。そして、親切な通行人から恵んでもらった百円玉で、社宅に電話を掛けた。家具を処分した金が受け取れないかと思ったからだが、管理人は、杏子からの書留が来ていることを彼に告げたのだった。
結局、どうにも耐え難かったのは、ひもじさでも、夜の寒さでも、風呂《ふろ》に入れないことでもなかった。
「何だったの?」と藍が訊《たず》ねる。
「脚だよ」
「脚?」
「目の前を行き過ぎる無数の、無関心な脚。ちゃんと行き先を持っている脚。こつこつと堅い靴底のたてる音が、絶えず、おまえは誰からも必要とされていないんだと告げる。こっちは、生きるために苦闘している。だが、あの足音が、おまえは敗残者だ、おまえのやっていることは何もかも無意味だと言い続けるんだ」
藍は、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「一つだけはっきりしてるのは、そんなふうに感じる人は、ホームレスには向かないってことね」
「誰も好き好んでなるヤツはいないけどな」
あんな思いだけは、もう二度としたくない。あのときに比べれば、今の方がはるかにましだ。少なくとも、ここには自分の努力を嘲笑《あざわら》う連中はいない。
本当にそうか。心の中で、疑問の声が起きる。おまえは、今、あのころを懐かしんでいたじゃないか。どんなに惨めで情けない姿をさらしても、周りには人がいる。最後の最後には、プライドをかなぐり捨てて助けを求めさえすれば、誰かが病院へ運んでくれたり、しかるべき施設に収容してくれる……。そんな、ぬるま湯のような生き地獄を。
藤木は、空を見上げた。藍が予言したとおり、雨はほとんど上がりかけていた。
本当の地獄は、たぶん、これから始まる。そこでは、わずかな判断ミスが、死に直結するのだ。
そう思う根拠は、二つあった。ここに集められているのが、自分も含めて、社会における落伍者《らくごしや》、不適応者ばかりであること。そして、この悪趣味な仕掛けには、相当な額の金が費やされているということである。
これを仕組んだ連中の意図が何であれ、それだけの金に見合うのは、人間の命しかないだろう。
出発の前に、短い、最後のミーティングがあった。
最終的な進路を決めるためのもので、ここで九人は、もう一度進むべきルートを選び直すチャンスを与えられた。だが、いったん選んだルートを変更しようという人間は、誰一人として現れなかった。
「当然よ」
藍がささやく。
「だって、みんな、前のルートの途中に、アイテムを隠してあるんだもの。今さら、他のルートへ行くはずがないわ」
たしかに、東、西、南のルートを選んだ連中には、今さら道筋を変更しようという気配はなかった。むしろ、藤木と藍のことを警戒しているらしい。内心、自分たちのルートに合流すると言い出されることを恐れているのだ。そうなれば、隠匿してあるアイテムから分け前を出さなくてはならないからだろう。
だが、藤木も藍も、前と同じく北のルートへ進むと明言したため、ほっと弛緩《しかん》した空気が流れた。唯一、忌々しそうな表情になったのは、船岡である。どうやら、藍に関心ないしは下心があるらしい。こんな状況にもかかわらず、よくそんな余裕があるものだと、藤木は感心する。
藤木は、東へ向けて出発しようとしている組に歩み寄った。
「野呂田さん。いろいろ、お世話になりました。加藤さんも」
野呂田が手を差し出したので、握手を交わす。藍も加わり、四人は順番に、堅く手を握りあった。
「もう、藤木さんたちとお会いすることもないかもしれませんね。でも、もし、どこかでばったり遭遇するようなことがあれば、お互いに助け合いましょう」
野呂田は、これまでで一番人懐っこい笑顔を見せた。
ここでの口約束などに何の効力もないことは、よくわかっていた。だが、それでも彼の言葉には人を勇気づける力があった。
プラティ君によれば、東ルートを選んだ組とのみ、将来、共闘できる可能性があるという。それがどこまで当を得た情報なのかはわからなかったが、藤木にしてみれば、藁《わら》にもすがるような思いだったのだ。
雨で湿った砂は、足音を吸収するようだった。北を向いて歩き出すと、ものの十分ほどで、ほかの組のたてる音は完全に聞こえなくなる。肥沃《ひよく》とは思えない大地にしがみついている木々や草の緑は、心なしか、雨によって元気を取り戻しているように見えた。
ひしひしと孤独を感じる。昨日と同じ道を辿《たど》っているのだが、昨日は、もう一度全員と会えるという思いがあった。これからは、完全にバラバラで、独力で運命を切り開かなくてはならない。
あんな連中が、それほど自分の心の支えになっていたと知って、藤木は意外の感に打たれた。どんな人間であっても、同じ境遇の仲間がいるということだけで、想像以上に励ましになるのだ。
だが、今はこれ以上、感傷に耽《ふけ》っている場合ではない。藤木は、自分を戒めた。もう、誰も助けてはくれないのだ。彼らにしたところで、今度遭遇するときには、敵になっているかもしれない。
「どうしたの? すごく、緊張してるみたい」
藍が声をかけた。
今となっては、彼女が唯一の信頼できるパートナーだった。藤木は振り返る。
「君は、緊張しないのか?」
「最初はすごく怖かったんだけど、だんだん、慣れてきたっていうか。ゲームをしてることにも、この場所にも……。そういうもんじゃない?」
嘘《うそ》だ、と藤木は思う。たしかに自分も、最初はそう思っていた。どんな状況に対しても、違和感は、時間とともに薄れていくものだと。
だが、実際には違っていた。初めの頃《ころ》は無我夢中だったが、周りの世界の不条理さは、むしろ、二晩を経過した今の方が、強く感じられる。
足下は、また、粗い砂礫《されき》に変わった。一歩一歩踏みしめるたびに、砂礫同士が擦れ合う響きが耳朶《じだ》を打つ。その音すら、どこか非現実感をともなっているようだった。
俺はいったい、ここで何をしているのだろう。なぜ、こんなところにいるのだろう。目覚めて以来、一度も納得のいく答えの得られなかった疑問が、頭の中で渦巻いていた。
第二チェックポイントへは、昨日より早く着いた。一度通った道だからだろう。道順だけを再確認して、そのまま、第三チェックポイントへと向かう。今度は、合計で五キロ半ほどの道のりだった。
第三チェックポイントへの道筋は、おおむね開けた場所が多かった。プラティ君のレクチャーのおかげで、背の高い木が、現地でガム・ツリーと呼ばれているユーカリの木であることがわかる。木立の横を通るときに、藤木は、葉っぱを一枚ちぎって揉《も》んでみた。かすかに、柑橘《かんきつ》系に近い爽《さわ》やかな香りが立つ。どうやら、レモン・センテッド・ガムという種類らしい。その向こうに見える白樺《しらかば》のように真っ白な木は、おそらく、ゴースト・ガムだろう。
棘《とげ》だらけの木は、アカシアの仲間だ。オーストラリアではワトルと呼ばれているらしい。世界中の熱帯、亜熱帯に分布しており、日本で一般にアカシアと呼ばれているニセアカシアとは、全くの別種だという。
その頃から、藤木は、うなじのあたりに、ちくちくするような、別の種類の違和感を覚え始めていた。
「何か感じないか?」
できるだけ、何気なさを装って聞く。
「何かって?」
「気のせいかもしれないけど、誰かから、ずっと監視されているような感じがするんだ」
藍は、ぎょっとしたような表情になった。
「嫌なこと言わないで。わたし、そういうのに弱いのよ」
「だけど、本当に感じるんだ」
「藤木さんの神経が過敏になってるだけじゃない?」
「今の状況を考えたら、監視を受けているくらい、驚くことじゃないだろう?」
「それはそうだけど……」
誰かに見られているという気配は、第三チェックポイントに着くまで消えず、その後も、消えるどころか、かえって強くなったような感じだった。
藤木は、最初のカセットを挿入したゲーム機で、赤い光の点を受けた。現れたメッセージは、ひどく素っ気ないものだった。
[#ここからゴシック体]
カセットを交換してください。
[#ここでゴシック体終わり]
ここからは、プラティ君のカセット以外は不要だということらしい。
藤木は、ふと不安になった。もし、ほかの組が偶然このチェックポイントを発見した場合、我々が新しい情報のカセットを隠していたことがバレてしまうのではないか。
カセットを差し直して、ポートに赤外線を受ける。前回と同じ、陽気なロック調のメロディ。
[#ここからゴシック体]
「やあ! 第3CPへよく来たな。ここでも貴重な情報がてんこ盛りだぞ。それでは、早速始めようか。お待ちかね、プラティ君の狩猟入門! 諸君のように、銃器も飛び道具もなしに動物を狩るには、どうしたらいいか? これはもう、ワナしかないぞ。ここでは、オーストラリアのトロい生き物を捕まえるのに役立つ、各種のワナの作り方を、徹底的に伝授してやることにしよう! その前に、ナイロン製の釣り糸かワイヤが必要なんだが、俺がアドバイスしたとおり、きちんと入手しておいただろうな?」
[#ここでゴシック体終わり]
藤木は、ポケットからバス・フィッシィング用の釣り糸を取り出した。五号ということは、かなり太い糸だ。色は半透明で、長さは三百メートルある。東へ行った組が、あえて隠匿もせずに提供してくれたものだ。昨晩、これを指名したときは、どこで魚を釣るつもりなんだと、ほかの組の失笑を買ったものである。
[#ここからゴシック体]
「ワナには、大別して三種類ある。スネア、デッドフォール、それにスピアトラップだ。まあ、よほどの大物狙いでない限り、スネアで用が足りるだろう。ただし、残りの二つも後で必要になってくるから、作り方はしっかりマスターしておくように。何に使うかは、まあ、おいおいわかってくるだろう」
[#ここでゴシック体終わり]
それから、プラティ君は、最も単純なリーフノット・スネアやポッサム・スネア、スプリング・スネアから始まって、かなり複雑な構造を持つ、トグル&ベイト・リリース・スネアや、ダブル・スプリング・スネアに至るまで、作り方を詳述していった。いずれも、釣り糸やワイヤで作った輪《スネア》が、動物の首や脚に引っかかって絞めるという構造のもので、狐くらいの大きさまでの小動物を捕らえるのには、きわめて有効なものらしい。
次は、デッドフォールの説明だった。動物が餌《えさ》を取ると、上から丸太や岩などの重量物が落下する仕掛けで、サイズによって、野豚や狐から、熊まで仕留めることができるという。
藤木は首を捻《ひね》った。なぜこんなに大がかりなワナが必要になるのだろう。オーストラリア産の動物で大型の獲物《ゲーム》と言えば、カンガルーくらいしか思いつかないが、それほど多数がバングル・バングルに棲息《せいそく》しているとも思えない。まして、野原にこんなワナを放置しておいたら、知らずに通る人間にとっては、きわめて危険なことにならないか。
そう思っていると、最後は、スピアトラップだった。矢継ぎ早に画面に出てくる説明を読むうちに、藤木の背筋に悪寒が走った。
基本的な構造は、スネアやデッドフォールに劣らず、単純でわかりやすかった。細い丸太の先端を尖《とが》らせて作った槍《スピア》を、撓《たわ》められた枝などに固定しておく。獲物が餌を取ったり、ラインに引っかかったりすると、とたんに槍がその体に突き刺さるという仕組みである。
[#ここからゴシック体]
「次は、最強のワナ、ボウトラップだ。よく撓る強靭な木で弓を作り、長い槍をつがえて、いっぱいに引き絞っておく。槍の先端は少し上を向くようにする。槍の後端には刻み目を付けて、トグルスイッチに引っかける。そして、トリガーバーを固定しているトグルから、ラインを三方向に張り巡らせるんだ。獲物が、うっかりラインに脚を引っかけたとたん、土手っ腹に槍が風穴を開けるという寸法だ。これなら、どんなに獰猛な肉食獣だってイチコロだぞ!」
[#ここでゴシック体終わり]
その仕掛けの図は、どこかで見た記憶があった。これは、ベトナム戦争でベトコンが多用した罠《わな》ではないのか。
だとすると、このワナが必要となる事態というのは……。
藤木は、藍の表情を窺《うかが》った。熱心にワナの形状をスケッチしているが、特に変わった様子は見られない。気づいていないのだろうか……。
プラティ君は、ワナの作り方の説明を終えると、今度は「クッキング教室」の開講を宣言し、アボリジニの野生動物の調理法について詳しく解説した。
最後に、第三チェックポイントのアイテムが、反対側の岩山の蟻塚に隠してあるとだけ言って消える。
藤木は、高さが五メートルにも及ぶ大きな白蟻の塚を調べてみた。雨に濡《ぬ》れた灰色の外殻は、軽く、溶かした紙でこね上げたような触感だ。下の方に四角い形に切れ目が入っているのが見つかった。あまりにもきれいな直線なので、自然にできたものとは考えられない。
その部分に指をかけて引き剥《は》がしてみると、ビニール袋に入った文庫本が出てきた。
「何、それ? 本?」
藤木は、厚手のビニール袋を開けて文庫本を取り出した。古本だ。かなり年季が入っているようだが、カバーが残っている。表紙の絵は、荒涼とした、どことなく、バングル・バングルに似た景色を背景に、シルエットになった怪物が闊歩《かつぽ》している図だった。表題は、赤い字で「火星の迷宮」とある。
SFにしても、ずいぶん素っ気ない題だと思う。それから、はっとした。これは、小説ではないのかもしれない。
ぱらぱらと、中をめくってみる。やっぱり、そうだ。
[#ここからゴシック体]
189
あなたは、暗く、どこまでも続く道を逃げている。後ろからは、凶暴な食屍鬼《グール》の飛び跳ねるような足音と、ふいごのような荒い息づかいが聞こえてくる。差は、どんどん詰まってきている。体力点が7減少する。
振り返ると、廊下の突き当たりに影が見えた。
正面は、分かれ道になっている。右へ行くなら230へ、左に行くなら605へ、直進するなら884へ進め。
[#ここでゴシック体終わり]
「何なの、これ?」
横から覗《のぞ》き込んでいた藍が、怪訝《けげん》な面もちで言った。
「ゲームブックだよ」
そう言ってもピンとこないようだったので、藤木は説明した。
「十数年前には、けっこう流行《はや》ったんだけどな。創元推理文庫とか、現代教養文庫とか。こうやって本のページをめくりながらやる、一種のロールプレイング・ゲームだ」
「それ、面白いの?」
「まあ、はまればね。今は、RPGは完全にパソコンやゲーム機に移っちゃったから、本でやるヤツは絶滅しちゃったんだろうな。まあ、ほとんどは暇つぶし程度だったけど、中には名作と言えるようなものも、いくつかあったよ」
「ちょっと待って。十数年前って言ったら、藤木さんは、もう立派な社会人だったんじゃない?」
「ああ。たいへん立派な社会人だった」
「それで、そんな本に、はまってたの?」
「悪いか」
「悪くはないけど……。だけど、そのゲームブックが、こんなとこで、いったい何の役に立つの?」
藤木は、一番最初から、本のページをめくっていった。主人公は、気がつくと、火星の迷宮にいる。そのことに対する説明は、特になかった。
現在、自分が置かれている境遇との類似点は、明らかだった。最初のうちは、迷うような選択肢もなく、快調に進む。すると、突然、その頁に到達した。
[#ここからゴシック体]
319
あなたは、ダンジョンに降り立つ。その瞬間、縄ばしごは朽ちて消滅してしまう。あなたは、周りを見回す。ぼんやりとした光が、東西南北の四方向へ伸びる道を照らし出している。中央の石碑には、はるか昔に滅びた文明の文字で、こう書かれている。
「魔法のアイテムを求める者は東へ、武器を求める者は西へ、食糧を求める者は南へ、老賢人の忠告を求める者は北へ行け」
東を選択するなら129へ、西なら525へ、南なら394へ、北なら661へ進め。
[#ここでゴシック体終わり]
藤木は、その頁を藍に見せた。
「これ……!」
「ああ。第一チェックポイントの選択肢とそっくりだな」
藍は、混乱したように、つぶやいた。
「ちょっと待って。じゃあ、じゃあよ……この本には、この先何が起きるかも、全部書いてあるの?」
「少なくとも、このゲームを設定した連中が、この本を参考にしたのは確かだろうな。ただし、本の内容と現実が、完全に一致するとは思えない。現に、本の中では、舞台は本物の火星になってるし」
「そっか」
「でも、先に何が待ってるか、予測する手がかりにはなると思う。その意味では、かなり重要なアイテムだ。ほかの連中を、また一歩リードしたことになるな」
だが、藍は、なぜか浮かない顔だった。
「藤木さんは、前にも、この本を見たことがあるの?」
「いや。ほかのゲームブックは、やったことがあるけど、これは初めてだ」
「さっき、変なのが出てきてたわよね」
「食屍鬼《グール》?」
「そう。それ。何のこと?」
「まあ、それぞれの作品世界によって微妙に違うだろうが、普通は、夜中に地の底から這《は》い出してきて人間を喰う化け物のことだ」
藤木は、にやりとした。
「けど、現実にはいないから、安心しろよ」
「……でも、もし、その本のとおりになるとしたら、何か、それに当てはまるようなのが、現れるんじゃない?」
「けっこう、心配性なんだな」
そう言いながら、藤木は、何となく自分も嫌な予感がし始めたのを感じた。
「ねえ、その本では、プレイヤーは、最後にはどうなるの?」
藤木は、再び本にぱらぱらと目を通した。エンディングは複数あるはずだが、無作為に散らばっているため、容易には見つからなかった。
「暇を見て、少しずつ調べてみよう。生き残るためのヒントが、何か見つかるかもしれない」
「本だったら、よかったのにね」
「え?」
「ほら、本の中では、いくらミスをしてもかまわないでしょう? でも、現実では、一度間違えると、二度とやり直しがきかないじゃない」
そのことなら、身をもってさんざん味わわされたよ。藤木は、溜《た》め息をつく。できることなら、もう一度大学の四年生に戻って別の会社に入り直すとか、最初から結婚生活をやり直すとかしてみたいものだが、過ぎたことはしかたがない。過去の失敗をふまえて、この先、なるたけ間違えないようにするしかない。
特に今回は、絶対にミスは許されない。その先には、まず間違いなく死が待っているからだ。
「すごい! 何、これ?」
藍が、悲鳴に近い声を上げた。
「やったぞ! 大物だ!」
藤木は、歓声を上げる。
水辺に仕掛けておいたスプリング・スネアに、さっそく、体長が七十センチはありそうなトカゲがかかっていた。長い尻尾《しつぽ》の付け根あたりを釣り糸の輪で絞めつけられ、弾力のあるゴースト・ガムの若木から宙吊《ちゆうづ》りになっている。ときおり後肢をもぞもぞと動かすほかは、観念したようにじっとしていた。
「これ、なんていうトカゲ?」
「プラティ君が言ってただろ? ゴアンナの仲間だ。現地ではモニターと呼ばれてる種類かもしれない」
「モニター?」
「プラティ君の解説であっただろう。水辺で後肢だけで立ち上がり、敵が来ないかどうか見張る習性があるんだ。だから、|監視するもの《モニター》と言う」
「本当に、これを食べるの?」
藍は、気が進まない様子だった。
「当然だろ。アボリジニには、すごいご馳走《ちそう》なんだぜ」
スネアから下ろそうとしたとき、オオトカゲは、突然、身をよじって大暴れを始めた。威嚇《いかく》するように、大きな口を開ける。牙《きば》らしきものは見えないが、真っ赤な口と凶悪そうな目つきは、迫力満点だった。藍は悲鳴を上げて飛び退く。
藤木は、鉈《なた》の背でオオトカゲの頭を叩《たた》いた。思ったよりタフだったため、一撃では足りずに、何度も叩いてとどめを刺すことになった。
「うっ。わたし、やっぱり、いい」
藍が、顔を背けた。
「何を言ってるんだ。生き残りたかったら、こいつを食って栄養をつけないと。まだ、出発してからろくなものを食ってないからな」
プラティ君の情報では、バングル・バングルはあらゆる種類のブッシュ・タッカーに溢《あふ》れているようだったが、今までに藤木と藍が口にしたのは、わずかにバオバブの実が数個だけだった。
バオバブの木(現地では、短縮されてボアブと呼ばれているらしい)は、異様に太い幹の上端からたくさんの枝が生えているので、まるで巨大な大根のようなシルエットを呈していた。その実は、生食が可能で、シャーベットを思わせる独特の味である。だが、エネルギー源という点では、さほどのものではない。
藤木は、ファイア・ウッドなどの火付きのいい薪《たきぎ》を放射状に並べた。すでにライターのガスは使い切っていたので、マッチから枯れ草に火を点《つ》ける。徐々に火勢を大きくして、薪を燃え上がらせることに成功する。
アボリジニの調理法では、ゴアンナや蛇、亀などは、焼けた炭の上に直《じか》に乗せることが多い。プラティ君のアドバイスどおり、じっくりとウェルダンになるまで焼く。大量の脂がしたたり落ち、炭の上でじゅうじゅう音を立てた。
すっかり焼き上がったように見えたところで、さらに熱い灰の中に埋め、芯《しん》までしっかりと熱を通す。
待っている間に、藤木は、ポケットからモスラの幼虫を思わせるグロテスクな格好をした芋虫を数匹出して、灰の上で転がした。
「何、それ?」
藍が、気味悪そうに聞く。
「これが、プラティ君の言ってた珍味、ウイチェッティ・グラブだよ」
芋虫の調理法は、熱い灰の上で転がすだけだった。表皮が堅くなり、ぱんぱんに膨らんだら、食べ頃である。
「さあ。今日の前菜だ」
藍は、こわごわ、皿の上に熱い芋虫を受け取った。普通なら、まず食べようとは思わないだろうが、空腹が勝ったらしい。
藤木も、自分の分を一口|囓《かじ》る。表皮はクリスピーで、ローストチキンそっくりだった。内部は明るい黄色に固まり、ちょうどフライドエッグの黄身のように見える。味は濃厚で、どこかアーモンドを思わせる美味だった。
最初は躊躇《ためら》っていた藍も、二匹目、三匹目と積極的に手を出す。藤木がブラックボーイの根を掘って見つけた芋虫は、あっという間に全部なくなってしまった。
次は、いよいよ、メインディッシュのゴアンナの番だった。灰の中から掘り出したトカゲに鉈で切れ目を入れ、すっかり固くなった皮を剥《は》いでいく。
肉は汁気たっぷりで、鶏肉より若干歯ごたえがある感じだった。唯一|辟易《へきえき》したのは、その脂っこさで、かなり長時間加熱して油を飛ばしたのに、まだ焼き方が足りなかったらしい。
食事が終わる頃には、日はとっぷりと暮れていた。第四チェックポイントへ向かうのは翌日に回し、その場で夜営することにする。久しぶりにたらふく食ったため、満ち足りた気分だった。
焚《た》き火に小枝をくべながら、藤木は、ぼんやりと物思いに耽《ふけ》っていた。どんどん、気持ちが沈み込んでいく。胡座《あぐら》をかき、頬杖《ほおづえ》をついた。昼間、サバイバルのために忙しく立ち働いているうちはいいが、こうして少し余裕ができると、様々な思いで頭の中がいっぱいになる。とても、プラス思考ができるような状況ではなかった。思考は、どんどん悲観的な方向へと向かう。
「ねえ。また、何か話をしてよ」
彼のそんな思いを見透かしたかのように、藍が言った。藤木は、内心ほっとしながら顔を上げる。
「あいにく、明るい話は品切れだよ。入荷は未定だ」
「いいわよ。今朝みたいな話で。藤木さんの話って、何だかすごく貧乏くさくて、こんなとき聞くと、かえってほっとするのよ」
好き勝手なことを言いやがってと思う。
「貧乏ネタも、そんなにはないよ。それより、今度は君の話を聞きたいね」
「でも、漫画の話なんかには、興味ないでしょう? 喫茶店で打ち合わせをしてるときに、もっとエロを、もっとエロをって大声で叫ぶ編集者の話とか……」
藤木は、今朝、彼女が言いかけたことを思い出した。
「そう言えば、君は、一度死にかけたって言ってたじゃないか?」
「そうは言ってないけど……」
「たしか、死にかけた、じゃなくて、一度死んだって言ってたよな」
藤木は藍の顔を見た。光の加減で、片方の眼だけが炎を映し、煌《きら》めいて見える。
「いいわ。話す。でも、全然面白い話じゃないわよ?」
「聞かせてもらおう」
藍は、横に流していた脚を引き寄せて、両腕で抱える姿勢になった。
「ちょうど、藤木さんが楽しいゲームブックにはまってた頃の話。わたしは、都内の某有名女子校へ通ってたの」
「今から、だいたい十五年くらい前か?」
すると、現在は三十前後なのだろうか。もっと若いと思っていたので、少し意外な感じがした。
「あ。年を数えてるでしょう!」
藍が、こちらを睨《にら》む。
「いいわ。教えてあげる。わたしが生まれたのは、大阪で万博があった年よ。わかった?」
「なるほど。覚えやすいな」
「とにかく、わたしは女子校にいて、成績優秀、品行方正な、とてもいい子だったわ」
「バレー部だったとか?」
「ちょっと背が高かったらバレー部っていうのは、あまりにも発想が貧困じゃないかって思うんだけど」
「じゃあ、バスケ部か?」
藍は、最低、とつぶやいた。
「漫画研究会」
「何だ。そのまんまか」
藍は、藤木の入れる茶々は無視することに決めたようだった。
「あの頃は、毎日、楽しかったわ。クラスではちょっと浮いてたけど、別にいじめられることもなかったし、漫研では、気の合った仲間もいたし。まじめで成績もよかったから、先生の受けも上々だったし」
ほっと、溜《た》め息をつく。
「でもね、そんな日々の中に、思いがけない落とし穴が待ってたの。今だとたぶん、そんなに珍しいことでもないかもしれないけど、あの頃としては……たぶん、とんでもないことだったでしょうね」
「援助交際の走りでもやったのか?」
藍は、にこりともしなかった。
「違うわ。薬物中毒よ」
予想もしなかった言葉に、藤木は絶句した。
「薬物って……睡眠薬とか?」
「逆。メタンフェタミン。覚醒《かくせい》剤よ」
藍は、焚き火の中に細い枝を投げ込んだ。大きく火花が散った。
「どうして、また?」
「友達から勧められたの。眠気が取れるいい薬だって。それに、ダイエット効果もあるって。何となく、いけない薬だっていうことくらいはわかってた。でも、あの頃は、勉強と漫画の両立で、毎晩眠くてしかたがなかったから、つい、ちょっとだけ試してみようかって思っちゃったの」
「その友達は、何でそんな物を?」
「きっかけが何かは知らないけど、彼女も軽い気持ちで薬を始めて、その頃にはもう、やめられなくなってたのね。それで、薬の売人から、薬をただで欲しかったら新しいカモを見つけろって言われてたみたい」
どう返せばいいかわからなくなり、藤木は沈黙した。
「最初は、すごい薬だって思ったわ。どんなにぐったりしているときでも、一口で、とたんにしゃきっとするんだもの」
「一口? あれは、注射するもんじゃないのか?」
「馬鹿ね。そんなんじゃ、女子高生には売れないわよ。わたしたちは、コーラに溶かして飲むことが多かったわ」
「……そうなのか」
「でも、薬の効き目はインチキだったのよ。元気は、けっして何もないところから湧《わ》いてくるわけじゃなくて、自分の体から無理やり引っぱり出してるだけだから、つけは、後になってから、必ず回ってくるのよ」
「赤字国債で減税をするようなものか」
藤木は、間抜けな応《こた》えをした。
「それに気がついてからは、やめようと思ったわ。でも、いったん体が薬に慣らされちゃうと、どうしてもやめられないのよ。やたらに苛々《いらいら》して、苦しくて、もう、薬さえあれば、後のことはどうなってもいいっていう感じになっちゃうの。薬を買うお金にも困り始めてたし、もう、どうしたらいいかわからない。このまま死んじゃおうかって、毎日、そんなことばかり考えてたわ」
藍は、唐突に口をつぐんだ。しばらくたってから、藤木が訊《たず》ねる。
「それから、どうなったんだ?」
「それだけよ」
「それだけって……」
「わたしが一度死んだっていう話でしょう? わたしは、覚醒剤中毒になったとき、一度すべてを捨てて、死んだのよ」
「じゃあ、どうやって生き返ったんだ?」
藍は、口元に謎《なぞ》めいた笑みを浮かべた。
「それは秘密。でも、そのために、わたしは、学校も辞めなきゃならなかったし、最終的には、自分の体の一部、感覚器官まで失ったわ」
藤木ははっとして、彼女の補聴器を見た。
彼女の今の態度からすると、とても嘘《うそ》や冗談を言っているとは思えない。だが、これ以上話すつもりはないようだ。その先は想像するしかない。
はたして、覚醒剤中毒によって、聴力を失うことがあるのだろうか。いや、彼女は、障害を負ったのが、ずっと後であるような言い回しをしている。だとすると……。
藤木は藍の顔を見た。
女子高生が重度の覚醒剤中毒から抜け出ようと思ったら、大人に助けを求めるしかないだろう。その結果、必然的に売人や覚醒剤を売りさばいていた組織を告発し、敵に回すことになる。
報復……。だが、たとえ暴力団でも、たかが十代の少女に対して、そこまでやるものだろうか。
そのとき、藍の表情に、怯《おび》えのようなものが走った。
「あ、あれ……」
振り返って、彼女が指さす方を見る。
驚愕《きようがく》に、息が止まるかと思った。
藤木の背後、四、五十メートルの場所に、何かがいた。
闇《やみ》の中で、うっすらと、丸い二つの燐光《りんこう》が輝いている。動物の目のようだ。さらに、その後ろにも。目は全部で六個あった。位置は比較的低いものの、体のシルエットや大きさはわからない。
三対の目は、瞬きもせずにこちらを凝視している。
藍が、藤木のそばににじり寄る。藤木は、静かに四つん這《ば》いになり、右手を伸ばして鉈《なた》を掴《つか》んだ。
息詰まるような時間が経過する。
やがて、唐突に一対の目が姿を消した。どうやら、目をつぶったのではなく、向きを変えたらしい。草むらの中に消えていくらしい葉擦れの音がする。続いて、残りの二対の目も見えなくなった。
目が消えてからも、一分以上、藤木は動くことができなかった。ようやくほっと息を吐き出し、鉈の柄を握りしめていた指の力を緩める。
掌《てのひら》にはびっしょりと汗をかき、指先は震えていた。
食屍鬼《グール》という言葉が、頭の中で木霊《こだま》する。
馬鹿馬鹿しいと一笑に付すだけの気力は、今の藤木にはなかった。
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5
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逃げろ。腹の底から突き動かされるように、衝動が沸き起こる。
逃げろ。それは、無意識の深層に眠っていた、太古からの本能の声だった。
逃げろ。死にたくなければ。……喰われたくなければ。
立ち上がって周りを見渡す。空は薄ぼんやりと発光し、地上には闇がどこまでも広がっている。真っ直《す》ぐな道の途中にいた。両側には、丸い岩山が、影絵そっくりの真っ黒なシルエットを作っている。
どちらへ逃げたらよいのだろう。
誰かが、耳元で、悪意のこもった低い唸《うな》り声でささやく。
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あなたはここで、左へ行くか、右へ行くかを選ばなくてはならない。
左を選んだ場合、あなたは、二分後に喰い殺されるだろう。
右を選んだ場合は、若干の猶予が与えられる。
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右を選んで、走り出そうとする。一生懸命進もうとするが、空気が液体のように濃密で、体が押し返される。跳び上がり、じたばたともがきながら、呆《あき》れるほど遅々とした前進を続けていった。
左右両側に等間隔に並ぶ柱の陰には、野宿する男たちがいた。何も知らずに、ぐっすりと眠っている。彼らに残された命は、あとわずかしかない。自分は、危険が迫っていることを教えてやらないことで、彼らを死の淵《ふち》へと突き落とそうとしている……。罪悪感と、深い悲しみを感じる。目頭が熱くなり、頬《ほお》を涙が伝った。だが、自分が助かるためには、やむを得ない。真っ暗な道を、音をたてずに、飛び跳ねるように進んでいく。
背後から、何か邪悪なものがやってくる気配がする。
振り向くと、街路のずっと向こう、岩山の切れ目のあたりに、光る目が見えた。一個や二個ではない。サーチライトのように光を放ちながら、何かを探している。無数の目は、こちらを向くと、ぴたりと止まった。
もう、逃げ切れないことはわかっていた。それでも、一縷《いちる》の望みを託して、最後の最後まで走り続ける。
背後から、生々しい悲鳴が聞こえてきた。眠っていたホームレスたちが、生きながら貪《むさぼ》り喰われているのだ。ばりばりという、骨を噛《か》み砕く音。血《ち》飛沫《しぶき》が石畳を覆い、暖かく濡《ぬ》らす。罪もないホームレスたちは、身を震わせて絶叫し続けている。
心の中で手を合わせながら、歯を食いしばって走り続ける。だが、獲得できた距離は、ほんの二、三メートルに過ぎなかった。
もうすぐ、自分の番だ。
足が萎《な》え、体から力が抜ける。
嫌だ。死にたくない。
助けてくれ。
誰かが、遠くから自分を見ている。
杏子……違う……藍。
背筋にふわっとした空気の流れを感じた。
驚愕《きようがく》。全身の筋肉が緊張し、飛び起きた。
降るような満天の星空の下に横たわっている自分に気づく。日本では、これほど多くの星を見たことは、一度もなかった。
体中に細かい汗の粒が浮いている。
心臓は、さっきまで疾走していた車のエンジンのように、アイドリングを続けていた。
焚《た》き火の跡に手をかざすと、すでに、すっかり冷たくなっている。谷の両側へ視線を走らせたが、光る目はどこにも見えなかった。
藪蚊《やぶか》の親玉のようなタイガー・モスキートが数匹、凶悪な羽音を立てながら、あたりを旋回していた。藤木も藍も、頭からフライ・ネットをかぶっていたが、唯一露出している手など、十数カ所を刺されていた。
夢の中で聞いた不気味な声は、この羽音だったに違いない。
ひとまず、安堵《あんど》の溜《た》め息をつく。水筒に手を伸ばし、ゆっくりと水を飲んだ。
食道を流れ落ちる冷たい感触とともに、徐々に現実が戻ってくる。同時に、自分がまだ悪夢の中にいることを再確認する。
藍の方へ目をやる。深い眠りの中にいるようだ。束の間の、幸せな夢でも見ているのだろうか。
かすかに口を開け、苦しげな寝息を立てている。
寝顔を見ようと近づき、一瞬、起きていたのかと錯覚した。両目をうっすらと、半眼に開いていたからだ。月明かりに照らされた彼女の顔を見るうちに、はっと息を呑む。
思わず揺り起こそうとして、両手を伸ばしかけた。
だが、藤木は何もしなかった。しばらくたってから、そのまま自分の寝床に戻る。
時計を見ると、夜光塗料を塗った針は、まだ四時前を示していた。体力を保つために、少しでも眠ろうと努めたものの、結局、朝まで一睡もできなかった。
夜が明けると、藤木は、昨晩、光る目が見えたあたりの地面を調べてみた。だが、土ではなく小石や目の粗い砂礫《されき》の上なので、足跡はまったく残っていない。
「たしか、このあたりだったよな?」
「うん。そうよ。全部で光が六つ……三匹いたわ」
「人間だったってことはないかな?」
藍は首を振った。
「位置が低すぎるわ。四つん這《ば》いになってたって言うんなら、別だけど」
彼女の言うとおりだった。だが、野犬の類《たぐい》だとすると、一度も唸《うな》ったり吠《ほ》えたりせず、静かに姿を消したのが、不気味でもあり、不自然に思える。
もちろん、オーストラリアには、聞いたこともないような野生動物が多数|棲息《せいそく》しているのかもしれないし、自分は動物の習性について知悉《ちしつ》しているとも言い難い。だが……。
食屍鬼《グール》。
あまりにも馬鹿馬鹿しい考えだった。だが、その言葉は、強迫観念のように心の中に居座り続けた。藤木は、笑みを浮かべようとした。無理に押さえつけるよりも、笑い飛ばした方が、精神衛生上はいいかもしれない。
そのとき、じっとこちらを見ている藍の姿が目に入った。あたかも藤木の心を読んだかのように、こわばった表情を浮かべている。
「これから、どうするつもりなの?」
藤木は笑顔を作ろうと努力し続けたが、うまくいかなかった。
「……次のチェックポイントへも早く行きたいが、今は、食糧の確保の方が急を要する。プラティ君の言ってた、優先順位の問題だ。このあたりは比較的野生動物が多いようだから、ワナを張って、獲物を捕ることに専念しようと思うんだが」
「反対よ」
藍は、言下に言った。
「一刻も早く、ここを離れた方がいいわ」
「どうして? 昨日の、あの光る目のせいか?」
「そうよ。何だか、嫌な予感がするの」
藤木は考え込んだ。
昨日食べたゴアンナの肉は、もうほとんど残っていない。この付近は、水辺もあるし、狩りに向いていることは、まず間違いないだろう。だとすれば、とりあえずはもう一日腰を落ち着けて、充分な食糧を調達してから出発した方がよさそうに思える。
だが、その一方で、自分が、昨晩から妙な胸騒ぎを感じていることもまた、事実だった。藍の直感も、この場所を離れた方がいいと告げているらしい。最初の選択肢のときに彼女の意見を容れたのは、結果として大正解だった。
さて、どうしたものだろう。論理に頼るか、直感に従うか。
決めかねてポケットに手を突っ込んだとき、指先が本に触れた。「火星の迷宮」を引っぱり出す。前回と同じく、今回も、このゲームブックと同じ選択をするのが正解なのかもしれない。まだ、バッドエンドにしか辿《たど》り着いていないが、どこかで、これとそっくりな状況が出てきたはずだ。
本を捲《めく》っていた藤木の指が、ぴたりと止まった。探していた選択肢が見つかったのだ。
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74
前夜、食屍鬼《グール》の悲しげな咆哮《ほうこう》が断続的に聞こえたものの、その位置はまだかなり遠いようだ。一方で、『賢者のクリスタル』の輝きは、ますます強くなり、財宝が隠されている場所が、ほとんど間近であることを告げている。
あなたは、ここで、進むか、この場にとどまるかの選択をしなくてはならない。
前に進む場合は、218へ、その場にとどまる場合は、769へ進め。
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「これ……まさか、昨日のことも、ゲームの一部だって言うの?」
藍が、ぞっとしたような声を出した。
「そこまではわからん。あれが野生動物だったとしたら、単なる偶然である可能性の方が高いだろうな。しかし、あえてゲンをかついで、この本に従った方がいいような気がしてきた」
「ゲームブックでは、どっちが正解だったの?」
「たぶん、進まなきゃならなかったんだと思う。俺は財宝の誘惑に負けて、その場にとどまったんだが、突然、地中から現れた食屍鬼《グール》によって喰い殺されるという、バッドエンドだった」
「……じゃあ」
「君の言うとおりだよ。正体のわからない生き物がうろついている場所に長居するのは、危険すぎる。すぐに出発しよう」
第四チェックポイントまでは、今までで最も遠く、十五キロ以上も歩かなくてはならなかった。だが、この場所を離れるという点からすると、むしろ遠い方が都合がいい。
朝食を摂《と》ってから、すぐに出発することにした。だが、わずかに残っていたゴアンナの肉の臭いを嗅《か》ぐと、藍は首を振った。
「だめよ。これ、もう腐ってるわ」
一日中真夏の高温が続く上に、雨期で湿気も百パーセント近いとなれば、それも、覚悟しておくべきだった。だが、動物質の食物がそこまで足が早いとなると、食糧事情は、ますます逼迫《ひつぱく》する。
ワナをかけて動物を捕獲する時間はなくても、出発する前に植物質の食物を採集しておいた方がいいだろう。そう判断して、藤木と藍は、進路から少しはずれたところにある木立に入り、食用になる植物を探した。
直径一、二センチの黄緑色の実が大量に見つかる。念のため、第二チェックポイントのプラティ君の解説を、もう一度読み出して参照する。間違いなく、ワイルド・プラムと俗称される、Buchanania obovata だった。味は少しプルーンに似ており、あらゆる果物の中で、最も高濃度のビタミンCを含んでいるという。
さらに、そのすぐそばで Terminalia carpentariae まで発見できたのは、僥倖《ぎようこう》以外の何ものでもなかった。こちらは、大きな木になっている萎《しぼ》んだ桃に似た緑色の実で、現地ではワイルド・ピーチと呼ばれているらしい。味の方も、干した桃にそっくりだった。
いくら生食が可能だといっても、いちどきにあまり大量に食べると、腹を下す恐れがある。二人とも、少量を胃に入れただけで我慢し、できるだけ多くの量を採集して、持っていくことにした。
食べ物探しに時間をとられ、第四チェックポイントへ向けて出発したときには、すっかり日が高くなっていた。
汗が、額をだらだらと滴り落ちる。頭には緑色の蝿除《はえよ》けネットを被《かぶ》っているので、よけいに暑苦しい。だが、涼を求めてこれを取ったとたんに、無数の黒い蝿が顔を目指して襲来するのは、明らかだった。
二人は、しばらく無言のまま歩いた。ときおり万歩計を見て、歩いた距離をチェックするだけで、あとは、極力エネルギーを使わないよう努める。
そのため、かなり注意力が散漫になっていたのかもしれない。ずっと細い谷を歩いていて、岩山の切れ目に出たとき、藤木は、思わずぎょっとして、立ち止まった。少し遅れて歩いていた藍も、藤木と同じ方向に視線を向け、立ち竦《すく》む。
そこに、異様な風体をした二人の人間が立っていた。
顔から髪の毛、首筋、捲《まく》り上げた腕に至るまで、皮膚が露出している部分にはすべて、白茶けた顔料のようなものを塗りたくってある。おそらく、乾燥する前は、赤褐色の粘土だったのだろう。ご丁寧にも、さらにその上から黒い色で迷彩模様を描いている。両目と口の周囲が黒いところは、まるでパンク・ロッカーのようだ。
向こうも、こちらの姿を予想していなかったようだ。警戒姿勢のまま、凝固している。藤木は、二人とも武器を持っていることに気がついた。背の低い方は、大型のサバイバルナイフ。その後ろにいる巨漢は、大きな湾曲した刃を持つ山刀《マシエト》を手にしている。刃渡りは、五十センチ以上あるだろう。
「妹尾さん? それに、船岡さんか?」
藤木は呼びかけてみた。舌がからからに乾いていて、妙に嗄れた声になる。少なくとも妹尾の方は、体格からすぐに判別がついた。だとすると、一緒に行動しているのは、船岡だったはずだ。
だとすると、おどろおどろしい泥の仮面も、蝿除けのためだろうと見当がついた。それに、夜になってから蝿と入れ替わりのように襲ってくる、あの獰猛《どうもう》な蚊に対しても、泥のパックは、ある程度有効かもしれない。
妹尾らの組が、日本製の虫除けスプレーを選んだことを思い出す。残念ながら、バングル・バングルの蝿には、効き目が薄かったのだろう。
妹尾は、藤木の言葉を聞いても無言のままだった。背の低い方の男が、藤木と妹尾を何度か見比べた。それから、やっと口を開く。
「何だ。藤木さんたちかよ。こんなとこで、何してんの?」
「第四チェックポイントへ向かう途中なんだ」
「へえ」
船岡は近づいてきて、じろじろと無遠慮に、藤木と藍を眺めた。藍も無言のまま、妹尾と船岡を等分に見比べている。
藤木には、妹尾の態度がひどく意外に思えた。わずか一日前までは、体格に似合わず、非常に温和な人間であるという印象を受けていた。それが今は、こちらの言葉に返事もせず、悪魔のように傲然《ごうぜん》と突っ立っている。
「あんたら、食いもんは、ちゃんと食ってるみたいだな?」
船岡は、不審そうに訊《たず》ねる。藤木らが、アイテムの分配に際して、まったく食糧を選ばなかったことを覚えているらしい。
「まあ、何とかな。餓死しない程度だが」
「何だよ? 何、食ってんだ?」
「植物の実とか」
「……今も、何か食い物を持ってるのか?」
妹尾が、重い口を開いた。無表情な顔と合わせたように、抑揚に乏しい声だった。
「まあ、少しだけだがな」
藤木は、警戒しつつ答えた。
「俺たちは、しばらく食べていない。何か食い物があったら、分けてくれ」
妹尾は、少し低姿勢になった。藤木は、すばやく彼の様子を観察する。
全員が顔を合わせたとき、最も警戒したのは、この妹尾だった。いざ戦いとなった場合、よほどしっかりした武道の心得でもない限り、体格差は決定的な要因となる。まして、現在は、妹尾と船岡は各種の武器でゲリラのように重武装していた。もし肚《はら》を決めて襲って来られたら、自分たち二人など、ひとたまりもなく殺されてしまうだろう。
「こちらも、食べ物集めには相当苦労している。だから、タダというわけにはいかない。交換だ」
「何が欲しい?」
「我々は、まったく武器を持ち合わせていない。昨日の晩、大型の野生動物らしい光る目を見て、不安になってね。……あんたたちの持っている護身用の武器を、何か譲ってほしい」
船岡が、狡《ずる》そうな目になって藤木を見る。
「武器って言われてもなあ。俺たちにも、ちょうど必要なだけしかねえんだよ」
船岡は、明らかに現在の圧倒的優位を意識していた。こちらに武器を渡した場合、その優位が若干でも解消されるのが気に入らない様子だ。
「船岡」
妹尾が、いきなりドスの利いた声で呼び捨てにした。
「え? な、何だよ?」
船岡の方は、泥のマスク越しにもわかるほど、あわてふためいた表情になった。
「おまえのスプレーを出せ」
「えっ。で、でも……」
「出せ」
それでも船岡が躊躇《ためら》っていると、妹尾は、いきなり大きな足を上げて、腰骨のあたりを蹴《け》りつけた。藍が、ひっと息を呑む。船岡は、二、三メートル吹っ飛ばされて地面に転がり、腰の上を押さえて呻《うめ》いた。ひどく痛そうなのは、あながち演技でもないだろう。
「出せと言われたら、さっさと出せ」
「……わ、わかったよ」
うっすらと涙を浮かべながら、船岡は立ち上がり、ポケットから小さなスプレーを取り出した。
「相手が動物だったら、これで充分だ」
妹尾は、船岡からスプレーをひったくると、藤木に渡した。長さ六、七センチほどの円筒で、ラベルには『CNガス、噴霧タイプ』という表示がある。北海道で使われる熊除けスプレーの類《たぐい》ではなく、都会で、暴漢から身を守る用途のものだろう。
武器としては、専守防衛用だろう。これだけでは、相手に致命傷を与えることはできない。妹尾は、先制攻撃を受けることを何より警戒して、これを選んだに違いない。
「二人分、必要だ」
藤木は、藍の方へ顎《あご》をしゃくりながら言った。どこまで強気に出ていいものか、判断がつかないが、要求するだけのことはしてみようと思った。
妹尾の泥の迷彩で彩られた顔で、小さな目が光った。しまったと思う。どうなることかと固唾《かたず》をのんだとき、妹尾は唸《うな》るような低い声で言った。
「そっちの、食い物を見せてくれ」
拒むことは、事実上不可能だった。藤木は藍にうなずき、二人が持ってきたワイルド・プラムとワイルド・ピーチを出して、地面に積み上げた。
「何だ、これは?」
「野生の果物だ。だいじょうぶ。食べられる。我々は、もう何度も食べている」
本当は、食べたのは今朝が初めてだったが、相手を安心させるために嘘《うそ》をつく。
「だ、だけど、あんたらさあ……。何で、これが食べられるってわかったんだよ?」
船岡が、痛そうに腰を押さえながら起き上がってきた。内心、ぎくりとする指摘だった。
「いろいろ、試してみた。昔、ボーイスカウトで習ったことがある。正体のわからない植物が食えるかどうか、判別する方法だ。いったん口に入れて、二回か三回|噛《か》み、すぐに吐き出す。しばらく待って、口の中が痺《しび》れるようなことがなかったら、まずはだいじょうぶだ」
「めちゃめちゃだな。もし猛毒だったら、即、死ぬんじゃねえか?」
「少なくとも、我々二人は、まだ生きてるからな。こいつはだいじょうぶだ」
藤木は、何気なく自分の下げているゲーム機に目を落とし、顔からさっと血の気が引くのを感じた。
ゲーム機を入れるポーチは、カバーを開けたままだった。ゲーム機が裏返しに入っているため、カセットのラベルに描かれているプラティ君のイラストが、はっきりと見て取れるのだ。
幸い、妹尾も船岡も、ゲーム機へは注意を向けていない。
妹尾は、しばらく野生の果物を見ていたが、船岡の方を見ることもせずに、「バトンを出せ」と言った。
今度は、船岡も懲りたのか、おとなしく黒い棒状の物体を差し出した。長さが二十センチくらいで、自転車のグリップのような感じだ。
「特殊警棒だ」
妹尾が、慣れた手つきで鋭く棒を振ると、遠心力で倍以上の長さに伸び、カチッとロックがかかる音がする。
「縮めるときは、こうする」
棒を垂直に立てて、岩の上に落とす。ごつんと音を立てて先端が岩にぶつかった瞬間、伸びた部分は柄の中にすっぽりと収まった。
特殊警棒を、藤木に向かって放り投げる。受け取ると、ずっしりと重かった。竹刀《しない》を振るように、素振りしてみる。
「殴るんじゃなくて、突くんだ。肋骨《ろつこつ》ぐらいは粉砕できる」
妹尾はそう言うと、地面に堆《うずたか》く積んであるワイルド・プラムやワイルド・ピーチを、どんどんデイパックに詰め込み始めた。
「おい、待ってくれ。それ全部とは言ってないぞ! 我々の分も……」
藤木は抗議したが、妹尾はこちらをちらりと見ただけで、完全に無視の構えだった。
催涙スプレーと特殊警棒が、バングル・バングルでどこまで役に立つかは疑わしかった。誰が見ても、この交換は割が合わないと思う。だが、藤木は、あえてそれ以上異を唱えるのはやめた。万が一、妹尾を怒らせて、強行手段を取る口実を与えてしまったら、元も子もない。それに、ゲーム機のカセットのことが気になっていた。情報は、藤木と藍のペアが持つ、唯一のアドバンテージである。万が一、このカセットの存在を知られ、奪われるようなことになっては……。
今は、何とか早くこの場を切り上げて、彼らと袂《たもと》を分かつのが得策だろう。できるだけさりげない動作で、ゲーム機を入れたポーチのカバーを閉め、ほっと一息つく。
「さて。俺たちは、そろそろ先を急ごうと思うんだが」
「ああ……?」
ワイルド・プラムを拾っていた船岡が、不機嫌そうな声を出す。今でも、藤木が藍を独占しているのが気に入らないようだ。だが、彼の関心の大部分は、たった今獲得した食糧の方へ行っていた。
「それじゃあな。幸運を祈るよ」
藤木は、片手を上げると、さっさと歩き始めた。すぐ後ろに、藍がぴったりと寄り添ってくる。
なるべく自然に。急ぎすぎるな。逃げ出そうとしていると思われては、まずい。
藤木は、振り返りたくなる衝動と戦いながら歩き続けた。五十歩ほど歩んだとき、後ろから、怒号が聞こえた。
ぎょっとして後ろを見ると、船岡が地面に仰向《あおむ》けに倒れ、それを妹尾が見下ろしている。どうやら、果物の分配をめぐって揉《も》め、殴られたようだ。船岡の顔の泥に、黒ずんだ染みが広がりつつある。
妹尾が、こちらを見た。藤木は、干渉するつもりがないことを示すために、もう一度手を挙げた。それから前に向き直って、早足でその場を後にする。
彼らの姿が見えなくなって十分ほど経ってから、安堵《あんど》の吐息をついた。後ろは、百メートルほど見晴らしのいい直線が続いているので、つけられている恐れもない。
「……怖かった」
藍が、ぽつりと言った。
「そのわりには、ずいぶん平気な顔で、あいつらのことを見ていたじゃないか?」
「平気なんかじゃないわよ!」
藍は、珍しく大きな声を出した。緊張から解放された反動かもしれない。
「あの人たち、すっかり変わっちゃってて……。特に、あの、妹尾さんっていう大きな人が」
「ああ。俺も驚いた。なにしろ、あのガタイだからな。怒らせたらまずいと思うと、生きた心地がしなかった」
この暑さにもかかわらず、鳥肌が立っていた。
たったの一日で、妹尾をあそこまで変貌《へんぼう》させたものは、何だろうか。
もちろん、生きるか死ぬかという極限状況に置かれているということ、そもそも、なぜ、こんなことになったかがわからないという不条理からくるストレスもあるだろう。だが、それだけではないような気がする。このバングル・バングルという場所には、何か人間の本性を変えてしまう魔物のようなものが潜んでいるのではないか……。
あるいは、たくさんの武器を手にしたこと自体が、心に影響を与えたのかもしれない。武器を手にすれば、どうしても使いたくなるし、神経が常にそこへ向かう。そして、あの異様な泥のメイク・アップも……。
「あいつらが、変に恐ろしく見えたのは、やっぱ、あの顔のせいかもな」
藤木は、考えながら言った。ようやく落ち着いてきて、先ほどの自分の怯《おび》えっぷりが、少し気恥ずかしくなってきたのだ。
「人間同士って、常に相手の表情や態度を窺《うかが》いながら、コミュニケーションを図るもんだろう? だから、一番重要な情報である顔が覆われてしまうと、どうしても不安になるんだよ。あいつらだって、たぶん、空腹で気が立っていただけじゃないかな」
「そうかしら」
藍は、彼の意見には不賛成のようだった。
「たしかに、あんなふうに顔を塗ってるから、恐ろしげに見えるのかもしれない。でも、それだけじゃないんじゃない?」
「それだけじゃないって?」
「ああやって、仮面を被《かぶ》るということは、外観を変えるだけじゃなく、その人の内面にも、確実に影響を与えているはずだわ」
藤木が、眉《まゆ》を上げてよくわからないことを示すと、藍は説明した。
「わたし、前にすごくつらい時期があったの。早く死んでしまいたい……。毎日、そんなことばっかり考えてたわ。そうしたら、ある人が教えてくれたの。『仮面』を被れば今よりずっと楽になるよって」
「仮面?」
「藤木さんは、ペルソナっていう言葉、知ってる?」
クレディット・カードか、携帯用のパソコンで、そんな名前のものがあったような気もするが……。
「ペルソナっていうのはね、人格を意味するラテン語なの。英語のパーソナリティの語源でもあるわ。もともとは、俳優が被る仮面のことで、その役柄から転じて、性格そのものまで指すようになったの」
藍は、意外な博識ぶりを披露した。彼女の履歴を考えると、どこでそれだけの知識を蓄えたのか、不思議な気がする。
「わたしも、最初は、人格っていうのは、心の中枢であり、支配原理だって思い込んでたわ。でも、必ずしもそうじゃないらしいの。人格《ペルソナ》とは、外界の状況、特に対人関係に対処するために習得する、いくつかの反応パターンの集積に過ぎないって言う人もいるくらいだわ」
「まあ、同じ人物が、Aという人間に対するときは仏のようで、Bに対しては鬼になるなんてことは、よくあることだからな」
藍はうなずいた。
「藤木さんは、会社に勤めてたから、わたしなんかより実感してるんじゃない? 平社員は、昇進して、周囲から課長として扱われることによって、それまで自分の内部には存在しなかった管理職としての人格《ペルソナ》を自分のものとするのよ。それが、リストラで解雇されて、暴力団に再就職すると、今度は、諸先輩の服装の趣味や、表情筋の動かし方、独特のレトリックなんかを見習い、いわば形から入ることで、一般人から恐れられるような新しい人格《ペルソナ》を身につける……」
多少戯画化しすぎの面はあるが、藍の言うことは的を射ていると思った。
「それで、君は仮面をつけたのか?」
「ええ。オーダーメイドのをね……」
藤木が思い出して訊ねると、藍は謎めいた笑みを浮かべた。
「女というのは、仮面を被るものなのよ。女なら誰だって、形がどんなに重要か、よく知ってるわ。時間をかけて入念に化粧をしたときと、すっぴんのときとでは、振る舞い方が全然違うでしょう?」
そう言えば、杏子もそんなことを言っていたと思う。
残念ながら、彼女とは、あまりこういう話をしたことはなかったが、夫婦関係がすっかり壊れてしまう前は、よく、彼女が鏡台に向かって化粧をするのを、飽かずに眺めていたことがあった。ひどく真剣な表情でアイラインを塗りながら、目を上げて藤木と視線が合うと、何見てるのよと言って含み笑いをする。女にとって、化粧するっていうのは、鎧《よろい》をつけるのと同じなんだから……。
「最近は、疲れた中年男性の間で、女装クラブがけっこう流行《はや》ってるでしょう? 女の姿に身をやつすことによって、日頃《ひごろ》背負わされている、過剰な責任やストレスから逃げ出したいっていうの」
「その気持ちは、サラリーマンなら、わからないでもないな」
……だが、ファンデーションや口紅ではなく、分厚い泥と迷彩で顔を覆い隠した場合、閉ざされた意識は、どういう方向に変容するのだろうか。
もしそこに、不断に生命を脅かされているというストレスと、周囲がみな敵であるという妄想的な敵意までが加わったとしたら。
第四チェックポイントへ着くまでの間、藤木は、何度も立ち止まっては、後ろを振り返らずにはいられなかった。もちろん、そこには誰もいなかった。見えるのは、相も変わらぬバングル・バングルの岩山や草原だけである。
プラティ君は、すでに食傷気味のBGMに乗って、陽気に登場した。
[#ここからゴシック体]
「やあ! 元気かい? 君たちの友達、ダックビリー・プラティ君だよ! まずは、ここまで無事にたどり着けたことに、心からのお祝いを言わせてくれ。さーて、このCPでは、何を教えてやろうかな? そうだな……やっぱり、このあたりで、オーストラリアの危険な動物について警告しておいた方がいいかもしれんな。せっかくの知識も、咬《か》まれて死んだ後じゃ全然役に立たないもんな。そういうわけで今回は、プラティ君の、どきどき動物ワールド!」
[#ここでゴシック体終わり]
プラティ君は、大学教授のような帽子とマント、鼻眼鏡を身につけ、教鞭《きようべん》で図を指し示しながら、猛スピードで解説していった。
[#ここからゴシック体]
「まずは、バングル・バングルの厄介者、害虫編! もう、ご対面は済んでいることと思うんだが、隙あらば諸君の顔にたかりたがる黒い小蝿がいるだろう? こいつは、藪蝿《ブッシュ・フライ》と言うんだ。本当はなかなか可愛いヤツなんだが、長期間にわたって付きまとわれると、発狂寸前まで追い込まれるぞ。でも、安心していい。小うるさいだけで、実害はないからな。こいつは、人間の汗や涙に含まれているタンパク質が好きなだけなんだ。特に日本人を好むという不思議な傾向があるが、これには、ビタミン剤を常用しているからだという説がある。それよりも困った存在なのは、ずっと大型で、人間の皮膚をしたたかに刺傷する砂蝿《サンド・フライ》だ。刺された瞬間は、ほとんど痛みを感じないが、後になって気が狂いそうな痒《かゆ》みに襲われるという、まったく困ったヤツだ」
[#ここでゴシック体終わり]
害虫の解説は、延々と続いた。凶悪な藪蚊《やぶか》の一種である、タイガー・モスキート。二人ともすでに何度も刺されていてお馴染《なじ》みだったが、マラリアの心配こそないものの、致命的な疾患である Ross River Fever に感染する危険性があるらしい。また、各種の毒蜘蛛《どくぐも》や、サソリ、ムカデも種類が豊富だった。
さらに、オーストラリアには、世界で最も多数、多種類のアリが存在しており、別名を、「蟻の大陸」と呼ばれるくらいだという。中でも、きわめて攻撃的なブル・アントや、岩山などに棲《す》んでいる毒性の強い炎蟻《フアイア・アント》には、要注意だという。
「やっぱり、バッグ・スワット・ローションを手に入れておいた方が、よかったかもしれないわね」
藍がつぶやいた。
害虫の解説が終わると、今度は、「危険な脊椎動物編」だった。
[#ここからゴシック体]
「まずは、やっぱり、毒蛇の話をしておこうか。冗談抜きで、命にかかわるからな。その辺の事情は、次のランキングを見たら一目瞭然だ。
@インランド・タイパン、Aイースタン・ブラウンスネーク、Bタイパン、Cイースタン・タイガースネーク、Dリーベスビーアイランド・タイガースネーク、E西オーストラリア・タイガースネーク、Fチャペルアイランド・タイガースネーク、Gデス・アダー、Hウェスタン・ブラウンスネーク、Iカパーヘッド、Jインド・コブラ……」
[#ここでゴシック体終わり]
プラティ君が示したのは、単位量あたりの毒の強さによる、世界の毒蛇の致死性ランキングだった。驚いたことに、一位から十位までをオーストラリア産の蛇が独占し、上位二十二種中でも、実に十九種までを占めている。
ランキングには、毒蛇のイラストと、詳しい習性の説明もあった。プラティ君によれば、毒蛇の危険度は、必ずしも毒の強さだけによるのではなく、毒の量や毒牙《どくが》の長さ、攻撃性なども考慮して、総合的に判断すべきだという。
だが、藤木の中では、新しい疑問が生まれていた。
一口にオーストラリアと言っても、西と東、北と南でも、気候風土はまったく異なっているはずだ。これらの毒蛇がすべて、バングル・バングルに棲息《せいそく》しているわけがない。気をつけるべき蛇は、どんなに多くても、せいぜい数種類だろう。
だが、プラティ君はにやにや笑いながら、なぜか、十九種類の蛇すべてに気をつけろと、オウムのように繰り返すだけだった。
そんな馬鹿なと思う。こんな狭い地域に、世界最悪の毒蛇が十九種類も分布しているはずがない。特に、何とかアイランドなどという名称が付いているものは、その島にしかいないのが普通ではないか。
……誰かが意図的に放したのでもなければ。
[#ここからゴシック体]
「最後は、哺乳類だ。実は、かくいう俺も、立派に危険な生き物の範疇だ。カモノハシには毒があるって知ってたか? 雄の後肢には毒腺のある蹴爪が付いているから、不用意に捕まえると危ないぞ。だが、このあたりにはいないから、心配は無用だ。
ここ、バングル・バングルには、真に危険な哺乳類は、たった二種類しか存在しない。そのうちの一種類が、ディンゴだ」
[#ここでゴシック体終わり]
ディンゴのイラストを見ると、外見は、日本犬、特に柴犬によく似ていた。九千年前にアボリジニがオーストラリアに連れてきた犬が、野生化したものと言われているらしい。だが、普通の犬と比べると、裂肉歯が顕著に大きいなどの相違点があり、家畜化された犬とはまったく別の野生種という説もあるという。
「あ。これ見て」
藍が、画面を指さした。そこには、ディンゴが普通の犬と異なる際立った特徴として、めったに吠《ほ》えないという事実が書かれていた。
「そうか。あの光る目は、やっぱりディンゴだったんだ」
やつらは、おそらく、焼けたゴアンナの肉の臭いに惹《ひ》きつけられてきたのだろう。最初の晩は偵察だけでも、次の晩もそうとは限らない。こんな場所で、たくさんの野犬に襲われたら、対処のしようがなかったはずだ。藤木は、第三チェックポイントから早めに移動したのが正解だったことを知り、あらためて胸を撫《な》で下ろした。
プラティ君は、唐突に次のコーナーに移った。ふと、何か忘れているような気がしたが、ゆっくり考えている暇はなかった。
[#ここからゴシック体]
「それではここで、プラティ君の、文化人類学講義! サバイバルのための情報も必要だけど、たまには文化に触れて、教養を身につけることも、人生を豊かにするためには大切だぞ。そこで、このコーナーでは、オーストラリアの先住民であるアボリジニの神話について教えてやろう」
[#ここでゴシック体終わり]
ふざけた言い方に、胸がむかむかする。だが、腹を立てたところでゲーム機のスイッチを切ることはできまいという、計算なのだろう。どこに重要な情報が紛れ込ませてあるか、わからないからだ。プラティ君は、アボリジニの神話について滔々《とうとう》と解説し始めた。
「夢見の時」というのは、アボリジニに独特の時間の概念らしい。人間は、誕生以前はこの「夢見の時」にあり、死とともに再びそこへ還《かえ》る。「夢見の時」は、地上を半人半獣の怪物がさまよい歩く太古の世界であり、人は毎夜、睡眠中にそこへ戻るのだという。
人を癒《いや》すという虹《にじ》の蛇。アーネムランドからキンバリー地方まで広く信仰されている、太母《たいぼ》の話。
プラティ君の先祖であるカモノハシが、この世に誕生することになった経緯《いきさつ》を示す話もあった。
若い女性のカモが、仲間の忠告も聞かずに、独りで小川を泳いでいると、突然飛び出してきたミズネズミによって、拉致《らち》されてしまう。ミズネズミはカモに対して、以前から、異種間のストーカー的愛情を抱いていた。彼女は、隠れ家である水辺の穴に監禁されるが、自分の感情を隠して必死にミズネズミを懐柔し、監視が弛《ゆる》んだ隙《すき》を見て、仲間のところに逃げ帰る。
だが、産卵期になって彼女が産んだ卵からは、羽毛の代わりに毛皮に覆われ、カモの嘴《くちばし》と獣のような四本の肢を併せ持った子供たちが、続々と誕生したのだった。
カモの一族は恐慌を来《きた》し、彼女は、子供たちとともに故郷の川を追放されてしまう。ミズネズミに見つかると、子供たちを殺されるかもしれないと心配した彼女は、あえて平野を捨てて、山間部の川に移り住んだ。だが、慣れない土地での心労が重なったために、カモは窶《やつ》れて死んでしまった。こうして、それ以降、オーストラリアの山間部の川には、広くカモノハシが分布するようになったのだという。
アボリジニの神話には、妙にストーカーじみた話が多いようだった。その次は、ニルという呪術師《じゆじゆつし》が、七人の姉妹をどこまでも追いかける話だった。最後は、七姉妹を岩山へと追いつめるが、彼女たちは天に飛び立ち、プレアディス星団になったという。
定説では、アボリジニの先祖は、紀元前四〇〇〜三〇〇年に東南アジアからディンゴを連れ、オーストラリア大陸に移住してきたらしい。一説によれば、この年代は数万年前まで遡《さかのぼ》る。
バングル・バングルを含むキンバリー地方は、最も早く彼らが訪れた場所だということだった。だが、彼らは、バングル・バングルに長く住み着くことはなかった。これは、厳しい気候、特に乾期に水が得られにくいことに起因していると考えられているが、別の原因があったと唱える人間もいるのだという。
[#ここからゴシック体]
「これが何と、バングル・バングルには、遠い昔から恐ろしい怪物が棲みついていたからだというんだな。ほら、よく古い物語に出てくるだろう。食屍鬼《グール》とか、|人喰い鬼《オーガ》みたいなヤツだ……」
[#ここでゴシック体終わり]
こけおどしと言うにも、あまりにも馬鹿げていた。こんな荒唐|無稽《むけい》な話で、我々の恐怖を煽《あお》り立てようというのだろうか。
一方で、アボリジニの神話そのものは、読んでいて退屈しなかった。アニメーションや語り口にも、飽きさせないための工夫がなされている。
ふと、これらのメッセージは、我々ではなく、別の人間の目を意識して作られているような気がした。
だが、しばらくすると、藤木の意識は、次に取るべき行動のことで占領されてしまっていた。
二人は、第四チェックポイントの周辺を探索した。心配したとおり、前の場所と比べると、食糧となる野生動物があまり豊富ではないようだった。木々も疎《まば》らで、水は、細い川となって流れている。そのため、動物が集まってくる場所、ワナを仕掛けるポイントが、それほどないのだ。
だが、細い水流を辿《たど》っていくと、別の発見があった。岩のトンネルをくぐり抜けたところに、大きなドーム状の空間を見つけたのだ。直径は、三、四十メートルはあるだろうか。天窓状の穴から光が射し込んでくるので、中は明るかった。
ドームの底は、わずかな縁を残して、すり鉢状の天然のプールになっていた。水は澄んでおり、小魚の群が泳いでいるのが、上から透けて見える。
「水浴びしたいなあ……」
プールの水に手を浸しながら、藍がぽつりと言った。
「すればいいじゃないか」
藤木も、きれいな水面を見たときから、飛び込みたい誘惑に駆られていた。バングル・バングルで目覚めて以来、水溜《みずた》まりの水で、体を拭《ふ》くくらいがせいぜいだった。今も、汗をかいて、体中がべとべとしている。バスタオルはないが、この気温なら自然に乾くだろう。
「じゃあ、順番に水浴びする? ジャンケンでもして」
藤木は考えた。二人しかいないのに、順番を待つのも馬鹿馬鹿しい。
「君は、服を脱いで泳ぐつもりなのか?」
「そりゃあ、そうよ」
「いいよ。着たまま飛び込んじゃえ。洗濯もできて一挙両得だ」
藍はしばらく考えていたが、「ちょっと待って」と言うとイヤホンを外し、補聴器を水飛沫のかからない岩の上に置いた。さらに、わざわざ耳栓まではめてから、きれいなフォームで岩のプールに飛び込む。
「気持ちいいわよ! 藤木さんも入ったら?」
藤木に向かって、水をかけようとする。
藤木も、上着とズボンを脱ぎ捨てると、頭からダイビングした。角度が悪くて、水面でしたたかに腹を打ってしまう。水中は、驚くほどの透明度だった。体長五センチくらいの小魚の群が、驚いて逃げ散った。水の底はさらさらした砂で、枯れ木がいくつかある程度だった。魚は、いったい何を食べているのかと思う。
水から頭を出すと、プールの縁には、すでに、藍が脱ぎ捨てたブラジャーとジーンズが置かれていた。彼女は、プールの中央付近で、優雅なストロークで泳いでいる。身長もあるし、シンクロでもすれば似合いそうだ。
藍は、こちらに戻ってくる途中で立ち上がった。そのあたりは、水深が一メートルほどしかなく、着ている長袖《ながそで》のシャツを通して、胸がすっかり透けて見えていた。
藤木の視線に気づくと、藍は、あわてて首まで水に浸かる。藤木も、すかさずに潜った。水の透明度が高いため、見え方は、ほとんど空気中と変わらなかった。藤木の方が動揺して、息を全部吐き出してしまい、水面に浮上した。
「今、見たでしょう?」
藍が、胸を押さえながら、こちらを睨《にら》んでいた。
「いや、何も見えなかった」
「嘘《うそ》」
「嘘だ……」
久しぶりに体の汗を流し、全身の筋肉をストレッチするのは気持ちがよかった。カルキ臭い日本のプールとは違って、皮膚に水が触れるだけで、体中が清められる感じがする。ハンカチで体中を擦《こす》り、着ていた服もすっかり濯《すす》いだ。
結局、小一時間、水浴に費やしてしまった。最後に、濡《ぬ》れたままの服を着けて、プールから上がる。藍は、恥ずかしそうに後ろを向いている。彼女が実にきれいなうなじをしていることを、初めて発見した。あまり日焼けしない質《たち》らしい白い肌の上で、水が玉になって弾かれていた。
しばらく見惚れてから、藤木は、現実に返った。
今晩食べるもののことを、考えなくてはならない。思わぬことで時間を潰《つぶ》してしまったので、これからワナをかけても、大した獲物は期待できないだろう……。
だが、ツキは、藤木と藍のペアに味方しているようだった。
岩のプールを出てから、わずか数十メートルの場所で、何気なく岩山の中腹を見上げた藍が、はっと息を呑んで、指さした。
藤木も視線を上げる。すると、岩山の縞《しま》模様の境目あたりに、茶色っぽい不定形の塊のようなものが見えた。
眩《まぶ》しい陽光が邪魔をして、はっきりわからない。目を凝らすうち、それが動物であるらしいことがわかった。胴体に比べてひどく小さな頭部には、大きな耳と、つぶらな目が見える。
奇妙なことに、その生き物には、頭がもう一つあった。もう一方は真っ黒で吻が長く、扁平《へんぺい》だった。黒く平べったい頭は、しばらくもう一方の頭と見つめ合っていたが、ふいにかっと口を開くと、相手を頭から呑《の》み込んだ。
それは、相当大きな蛇だった。黒い頭部以外の胴体は明るい茶色で、黒っぽい縞模様がある。小型のカンガルーに似た小動物を捕獲して、今まさに丸呑みにするところなのだ。
藤木は、反射的に足下から石を拾い上げた。投げつけようとしてから、思いとどまる。
「どうしたの?」
藍が訊《たず》ねる。
「待ってるんだ」
「何を?」
「完全に、呑み終わるのを」
それで、藍も藤木の意図を理解したようだった。
獲物が大きいせいか、蛇が完全に相手を呑み込んでしまうまでには、三十分以上かかった。途中で断念するのではないかと思ったくらいだが、やがて饗宴《きようえん》は終わり、残っているのは、丸太のように胴中を膨らませた蛇だけだった。
藤木は、狙《ねら》いを定めて、大きな石を投げた。石はそれ、岩山にぶつかって、細かい破片が飛び散った。蛇は動かない。たぶん、食事の直後で動けないのだろう。先刻とは太陽の角度が変わり、かなり目が慣れてきたせいもあって、ちろちろと舌を出しているのがわかる。
さらに、数回、石を投げつけた。微妙なコントロールの狂いで、なかなか命中しない。藍もチャレンジしたが、こちらの石礫《いしつぶて》は、完全にあさっての方角へ飛んでいった。
「ちくしょう。当たらないもんだな」
少し力を抜いて投げた石が、蛇の黒い頭部に命中した。
「やったわ!」
蛇は、ぐったりと頭をたれた。膨らんだ体がのたうち、少しずり落ちる。
ようやく要領をつかんで、藤木は次々に石を投げ続ける。軽く、放物線を描くようにした方が、狙いを付けやすいようだ。
再び、石が蛇の体に命中した。蛇は苦しげに体を伸ばし、くるりと裏返って、岩山から落下した。
落下地点に駆けつける。そこには、長さ三、四メートルくらいはある太い蛇が、力なく横たわっていた。胴体はまだ、獲物の形をそっくり残している。
「獲物だ」
藤木は、にやりとする。少なくともこれで、今晩は飢えずにすむ。
「どっちが?」
「両方だ」
「漁夫の利ね」
藍も、嫌悪感をこらえるように笑った。
藤木は、もう一度、プラティ君の以前の情報を参照してみた。その結果、縞のある大きな蛇は、無毒のブラック・ヘッデッド・パイソンで、餌食《えじき》となっていたのは、小型のカンガルーであるロック・ワラビーらしいと判明した。もちろん、どちらも充分に食用に適している。特に、ロック・ワラビーの方は、藤木の未熟なワナではまず捕獲が不可能な貴重品だった。
藤木は、鉈《なた》でブラック・ヘッデッド・パイソンの膨らんだ胴体を切り開き、ワラビーを取り出した。呑み込まれたばかりなので、まだ、ほとんど消化されていない。量的に、とても両方を食べきることはできない。二人とも、食指が動いたのは、当然、ワラビーの方だった。
再度、プラティ君の料理教室を見直す。オポッサムのような小型の哺乳《ほにゆう》類の場合は、焚《た》き火に直《じか》に投げ込んで焼くのが手っ取り早いが、ロック・ワラビーくらい大きいと、芯《しん》まで充分に熱を通すためには、アボリジニの作るグラウンド・オーブンが最適だということだった。
グラウンド・オーブンを作る場所は、粘土質の土が適している。しばらく候補地を探すと、地面から突き出ている大岩とユーカリの木立の間に、適当な場所が見つかった。
藤木と藍は、鉈で切り取った木の枝を使い、直径六十センチ、深さが四十五センチほどの穴を掘った。
穴を掘り終わると、葉の付いた木の枝を使って中を掃き清め、中にファイア・ウッドなど、燃えやすい木の薪を積み上げる。さらにその上に、平べったい石を多数乗せた。マッチで枯れ葉に火を点《つ》け、徐々に火勢を大きくして、薪に燃え移らせる。
薪が完全に燃え尽きる頃《ころ》には、石は真っ赤に焼けていた。藤木は、二本の細い木の枝を箸《はし》のように使って、焼けた粘土を取り出し、葉が付いたままの木の枝で薪の灰を掃き出した。穴には、濡《ぬ》れた草をぎっしりと敷き詰める。その上に、ロック・ワラビーを丸ごと放り込み、さらに多量の濡れた草を被《かぶ》せる。そして、先ほどの赤く焼けた石を押し込み、蒸気が逃げないように、その上を土で覆ってしまう。
あとは、待つだけだった。グラウンド・オーブンの短所は、途中で焼け具合を確認できないことである。一度開けてしまうと、中に篭《こ》もっている蒸気がすっかり抜けてしまうからだ。
二時間ほどたつと、さすがに、もうそれ以上我慢できなくなった。
被せてあった土を取りのけると、白い湯気が立ち上った。さらに、熱で萎《しお》れた草を掻《か》き出す。
ロック・ワラビーは、グラウンド・オーブンに入れたときと、あまり姿形が変化していなかった。だが、鉈で毛皮を切り開いてみると、中まですっかり蒸し焼きになっている。
味付けなどは何もしていなかったが、それでも、藤木と藍は、蛇から横取りしたご馳走《ちそう》に舌鼓を打った。
ワラビーの食い残しと、大蛇も、そのまま腐らせるには忍びなかった。そこで、何とか、保存食を作ることにする。
それぞれの肉を、携帯しやすい大きさに切り分けると、焚き火でじっくりと両面を炙《あぶ》った。すでに日は西の空に傾いているので、明日、岩の上に並べて乾し肉を作ることにする。
夜になってしまえば、もう、する事がない。藤木と藍は、交替で焚き火を見張りながら、眠りにつくことにした。
藤木は、一時的とはいえ、満ち足りた気分に浸っていた。だが、まるでプラネタリウムのようなバングル・バングルの星空を眺めているうちに、またぞろ、不安が忍び寄ってくる。
これから、いったい、どうなるのだろう。
答えの出るはずのない疑問だった。最期は、どんな生き物にも唐突にやってくる。
あのワラビーにしても、パイソンに襲われる瞬間まで、死が間近に迫っているという意識はなかっただろう。だが、死に神が音も立てずに忍び寄ってきたのに気づいたときには、もう遅かったのだ。その後、若干の運命の変転があったとはいえ、蛇の胃袋で消化されようと、蒸し焼きにされて人間に食べられようと、ワラビーにとっては大した違いではない。
そのとき、耳が、何かの音を捕捉《ほそく》した。
遠くから響いてくる……エンジン音だ。
藤木は飛び起きた。藍も気がついて、夜空を見回している。
それは、セスナ機のような小型の飛行機の音だった。
思わず、大声で叫びそうになった。だが、ゲーム機の警告を思い出して、あわてて口を閉じる。大声を出すこと自体は、禁止されていなかったかもしれない。だが、ゲームの主催者が、飛行機に救助を求める行為を容認するとは思えない。
飛行機は、しばらくエンジン音を響かせていたが、やがて遠くへ飛び去っていった。
一番近づいたときでも、まだ、かなり距離があった。どうせ、叫んだくらいで聞こえたはずがない。
今はまだ、一か八かの危険を冒すときではないのだ。
そう考えて、藤木は、自分を納得させようとした。
いつまでも、飛行機が消えていった西の空を見つめながら。
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6
[#ここでゴシック体終わり]
叩《たた》きつけるような雨が、バングル・バングル全体を騒々しい音で包んでいた。
洞窟《どうくつ》の入り口では、岩の張り出しから落下する水が、カーテンのような幕を作っている。まるで、滝の裏側に入ったかのようだった。
藤木は、ゆっくりと立ち上がって入り口まで行き、外を透かして見た。
激しい雨が木々を揺らし、深紅色の岩肌を激しく打っている。歩いてここまで来たはずの谷底は、褐色の濁流が渦巻く小さな川と化していた。
「これは、今日もやみそうにないな」
藤木は、ひとりごちた。
これ以上、谷底の水量が増えれば、洞窟の中まで浸水する恐れがあった。だが、雨がやんで水が引かないことには、どこへも行くことができない。
藍は、洞窟の奥で仰向《あおむ》けに横たわり、終始無言だった。死んでいるのではないかと、心配になるほどだ。
すでに三日間、ここに閉じこめられている。気温は多少低くなっているが、湿気が多いためか、せっかく作ろうとしたワラビーとパイソンの乾し肉も、あっという間に腐敗してしまった。二人とも、この三日間は、何も口にしていないのだ。
藤木は洞窟の中に戻り、砂の上に横たわって目を閉じた。
とにかく今は、エネルギーの消耗を最小限に抑えなくてはならない。
この雨さえやめば、ブッシュ・タッカーで栄養補給をすることができる。あちこちに仕掛けてあるワナにも、獲物がかかっているかもしれない。それまでは、できるだけ安静にして、基礎代謝をぎりぎりまで落とすよう努めなくてはならないのだ。
二人とも、妹尾らに倣って、顔や腕の露出した部分を、洞窟の入り口付近で見つけた赤い粘土で覆っていた。こうすれば、洞窟の中に迷い込んでくる藪蝿《ブツシユ・フライ》や、砂蝿《サンド・フライ》から肌を護ることができるだけでなく、体熱が無駄に失われることも防げると考えたのだ。
藤木は、いつ果てるともない苦行の時間に耐えていた。
低血糖で気が遠くなりかけているが、完全に失神して、意識を消し去ってしまうことはできない。頭の中では、脈絡なく、過去の思い出が浮かんでは消える。聞こえるのは、一緒に洞窟に閉じこめられた十数匹の藪蝿《ブツシユ・フライ》が、うるさく飛び回る音だけ。体温が低下し、泥でカモフラージュしているために、人間の存在に気がついていないらしい。
兄弟《マイト》、おかしいぜ。藪蝿《ブツシユ・フライ》たちは、オーストラリア訛《なま》りで言い交わし、さかんに騒ぎ立てる。たしかに人間の気配がするのに、ここにあるのは、ただの泥人形だ。|本当かよ《フエア・デインカム》。そこら中で、人間の臭いがぷんぷんしているのに、どこにも見あたらないのは、どうしたわけだ。
……まるで、耳なし芳一《ほういち》だ。
こうして、泥のデスマスクをつけてじっと横たわっていると、自分が、ただ死を待っているだけの存在のような気がしてくる。かつて、即身成仏したり、尸解仙《しかいせん》となることをもくろんだ人間たちは、みな、こんな気分だったのだろうか。
よけいなことは考えない方がいい。思考は、思った以上に大量の糖分を消費する。何も考えずに、ただ、気を楽に保たなくてはならない。
喉《のど》がからからだった。藤木は、再びふらふらと立ち上がると、プラスチックのコップに雨水を受けて、喉を潤した。胃袋は、ずっと石のように堅く収縮していた。だが、食道から流れ落ちてきたものを食物ではないかと期待して、蠕動《ぜんどう》を始める。だが、それが単なる水に過ぎないことに気がつくと、身悶《みもだ》えして、ご主人様に対して不満をならし始めた。
早く何とかしてくれ。何でもいいから、食物を入れてくれ。さもないと、そのうち自分自身を消化し始めるぞ。
藤木の口中に、四日前に食べたばかりのロック・ワラビーの味がよみがえった。しかも、グラウンド・オーブンで蒸し焼きにした味だけではなく、生のまま、まだ熱い体温を保っている肉にかぶりついた感触まで伴っていた。これまでに一度も、そんなことをしたことはなかったのに、イメージは、驚くほどリアルだった。
厚い皮に歯が食い込み、ワラビーの短い毛が、ちくちくと舌や軟口蓋《なんこうがい》を刺す。塩辛く獣臭い。
毛皮の下には、たしかな筋肉の存在が感じられる。強靭《きようじん》な皮は、いくら顎《あご》に力を入れても肉の上を滑るばかりで、容易に噛《か》み切ることができない。
だが、ついに、犬歯の先端が毛皮を貫き、熱い血がどっと溢《あふ》れ出す。夢中でそれを啜《すす》る。犬歯はこういう用途のためにあったのだと、ようやく悟ったような気になる。傷口からは、黄色いつぶつぶの皮下脂肪が弾けるように捲《まく》れ上がり、ついに、湯気の立つ白っぽい肉が現れる……。
想像力は、毒となって体を蝕《むしば》みつつあった。藤木は水を飲んで、何とか気分を紛らわせようとした。
絶望的な思いで外を眺めたとき、視野の片隅に何かが映る。ともすれば、泥にまぎれてしまいそうな色の物体。だが、それは、たしかに……。
藤木は、洞窟の外に出た。篠突《しのつ》く雨が頭と体に衝撃を与え、耳の中まで水が入ってくる。粘土のメイク・アップは、たちまち洗い流されてしまった。足下は、踝《くるぶし》まで水に浸かっている。一歩踏み出すと、水深はたちまち脛《すね》の半ばまでになった。
だが、藤木には、そんなことは気にならなかった。目に入るのは、ただ一つ、食物だけだった。
再び、洞窟の中に戻ったときには、藍が半身を起こして、心配そうにこちらを見つめていた。
「おい。食べ物だ」
藤木は、弾んだ声で言った。
半信半疑の表情になった藍に、手に持っているものを見せる。
「ほら、見て見ろよ。大物だ」
藤木がしっかりと掴《つか》んでいたのは、大きなカエルだった。北米原産のウシガエルと同じくらいのサイズがあるが、全身が明るい茶色で、きわめて大きな目の虹彩は金色だった。背中には、ヒキガエルのような疣《いぼ》がある。おそらく、プラティ君の食用リストにあった、ノーザン・スナッピング・ジャイアント・フロッグという種類だろう。きわめて悪食《あくじき》で、自分より小さな生き物なら、何でも食べるという。
「ほんと……すごいじゃない」
藍も、うっすらと笑みを浮かべた。
「さあ、食べようぜ」
藤木は、藍を助け起こすようにすると、ナイフの刃を開いて、カエルの股《また》にあてがった。カエルはまだ生きていた。後肢の水掻《みずか》きを藤木の手にあてがっては、必死になって蹴《け》り離そうとする。
それでも藤木は、委細かまわず刃を入れていった。カエルの片腿《かたもも》を切り取り、皮を剥《は》いで、そのまま藍に手渡す。
藍はためらわず、まだぴくぴくと痙攣《けいれん》している薄桃色の肉を口に入れた。飢えを満たす喜びで、口元がほころんでいる。本当は、食べる前に火を起こして熱を通しておきたかったのだが、マッチが濡《ぬ》れて使えなくなってしまっているだけでなく、洞窟の中では薪にも事欠く状態だった。病原菌や寄生虫のことを心配しないわけではなかったが、今は、背に腹は代えられない。
藤木は、もう片方の腿を切り取って、肉にしゃぶりついた。甘い。かすかに生臭かったが、ほとんど気にならない。たちまち肉の部分を食べ尽くしてしまい、細い骨をしゃぶり、噛《か》み砕いた。
「ねえ」
藍が、媚《こ》びるような声で手を伸ばした。
藤木は、カエルの前肢を切り取って、彼女に与えた。続いて、体の皮を剥いで、わずかについている筋肉を、ナイフで削《そ》ぎ落とす。
もともと、こんな小さな獲物で、二人分の空腹をまかなえるはずがない。だが、食べられる部分は、少しでも無駄にしたくなかった。藤木は、両手を血だらけにしながら、カエルの死骸《しがい》をひねくり回した。血の臭いに興奮したらしく、さっきから、招かれざる同居人である藪蝿《ブツシユ・フライ》たちが、周辺を狂喜乱舞していた。
内臓を探っていたナイフの刃が、カエルの異様に膨らんだ胃袋に行き当たった。
このあたりは、さほど餌《えさ》が豊富とも思えなかったが、悲劇的な最期を遂げる直前まで、このカエルは、飽食の日々を送っていたらしい。
ふと、スウェーデンの探検家であるヘディンが、中央アジアのタクラマカン砂漠で遭難したとき、コータン河《ダリア》という場所で、一匹のカエルを捕らえて食べたというエピソードを思い出した。ヘディンは、自分の命を繋《つな》ぐために殺したカエルの死を悼んで、ガリビアと名付け、後に「ガリビア自伝」なる詩まで捧《ささ》げている。
コータンダリアで、俺《おれ》は生まれた。コータンダリアしか、俺は知らない……。
たしか、そんなような詩だった。
……胃の中には、何が入っているのだろう。おそらく、昆虫か蜘蛛《くも》の類《たぐい》だろうが、もし、小魚か何かであれば。
藤木の指が、器用に胃袋の皮を摘《つま》み、切れ味が鈍ったナイフの刃を鋸《のこぎり》のように動かして、切り裂いていった。
藍が口元を押さえる。
中から出てきたのは、半分消化されかかった、中型のカエルだった。
丸三日間降り続けた雨は、その日の夕方、ようやく小降りになり、夜には完全に上がった。ブッシュ・タッカーを探す時間はほとんどなかったが、幸運にも流れで押し流されてきた岩無花果《ロツク・フイグ》の木を発見し、何個かくっついていた実で、飢えをしのぐことができた。
藤木と藍は、その晩は洞窟《どうくつ》にとどまることにした。幸い、マッチも乾き、薪も集めることができたので、洞窟の入り口近くで、三日ぶりの焚き火に当たる。
藤木は、もう一度、「火星の迷宮」を読み返していた。ここに足止めをされていた間に、ゲームブックのエンディングをすべて確認できたのが、唯一の収穫だった。
「何か、参考になること、わかった?」
藍が、炎に掌《てのひら》をかざしながら訊《たず》ねた。
「そうだな。エンディングは、一応、三種類に分かれるんだ。バッドエンドが一番たくさんあって、五通りだったかな。あとは、ハッピーエンドとトゥルーエンドと呼ばれるのが、それぞれ一つずつだ」
この本は、我々の運命を暗示しているだけでなく、このゲームを設定した黒幕の意図を推し量る手がかりにもなるはずだった。藤木は、確認するように、ページを繰っていく。
「バッドエンドはいくつかあるけど、典型的なパターンでは、どこまでも続く迷路の中を、巨大な食屍鬼《グール》に追われて逃げまどうっていう感じかな。どこまで頑張っても、絶対に勝ち目のない戦いなんだ。最後には殺され、貪《むさぼ》り喰われる」
犯人は、おたくというか、ゲームマニアなのだろうか。だが、かりにそうだとしても、単なる気まぐれや酔狂で、こんな大がかりな犯罪を行えるはずがない。つまり、目的は、別にあるはずだ。しかし、犯人がゲームマニアであること自体は、事実かもしれない。だとすると、何か別の目的を遂行するためにこんな大仕掛けを企画したが、ついつい、マニアックな方向に走ってしまったのではないか……。
「バッドエンドへと通じる罠《わな》をすべてくぐり抜けると、晴れてハッピーエンドに到達できる。最初からそうなる見込みは、かなり薄いけどね。うまく食屍鬼《グール》を回避して土牢《ダンジヨン》の中で財宝を発見し、ヒロインとともに、無事地球へと帰還するんだ」
そういえば、ゲーム機も、そんなことを仄《ほの》めかしていた。約束通りの額の賞金を勝ち取り、無事に地球へ帰還することができるとか何とか。
「ハッピーエンドと、バッドエンド以外にも、終わり方があるの?」
藍が訊ねる。もっともな質問だった。
「そう。トゥルーエンドというのがある。パソコンやゲーム機のRPGではよくあるんだが、ゲームブックでは、ちょっと珍しいかもしれないな」
藤木は、「火星の迷宮」の奥付を見た。1985年7月25日初版第1刷発行。これだけでは重版がなかったとは判断できないが、この本は、あまり売れなかっただろうと思う。あまりにも、ハイブラウ過ぎるからだ。著者は明らかに、ニューウェーブのSFの影響を強く受けており、ファンタジーの定型から抜け出ようという意識が強すぎたのではないだろうか。
「トゥルーエンドへは、ハッピーエンドへ向かう直前に分岐する。PKディック風の目眩《めくるめ》く現実崩壊の後、主人公は、精神科らしい病室で目覚めるが、火星の迷宮でのできごとが、事実だったのか、単なる彼の妄想にすぎなかったのかが、しだいにあやふやになっていくんだ。そんなある日、窓越しにヒロインを見かけるんだけど……」
藤木は結末のページを、藍に見せた。
ほろ苦いエンディングだった。当時のゲームブックでは、ほとんど禁じ手に近かったのではないか。だが、不思議な余韻を残す終わり方でもあった。
藍の感想は、身も蓋《ふた》もなかった。
「変なの」
「まあ、変といえば、たしかに変だが……」
藤木は苦笑する。なぜか、この本の肩を持ちたいような気分になっていた。
「でも、トゥルーエンドっていう名前からすると、それこそが、作者が一番書きたかった結末なんでしょうね」
なぜ、こんな結末を書きたかったのかは、作者以外には永遠にわからないかもしれない。そして、このゲームの主催者が何を望んでいるのかも。
翌朝、二人は、第五チェックポイントへ向かって出発した。
途中、何度も休憩を取って、目に付く限りのブッシュ・タッカーを集める。また、いきなりほかの組と出くわさないように警戒しながら歩いたため、予想外の時間がかかってしまった。そのため、チェックポイントに着いたときには、すでに日は西に傾いていたが、体力はむしろ回復していた。
液晶画面に現れたプラティ君は、前と比べて、少し顔つきが変化しているようだった。目が血走り、クチバシの端からは鋭い歯が覗《のぞ》き、どことなく凶悪な印象がある。BGMも、明らかに前とは異なっていた。
[#ここからゴシック体]
「さて、ここが第5CPだ! ご苦労さん。よくここまでたどり着いたもんだな。褒めてやるぞ。さて、ここで今一度、このゲームの目的を、よーく考えてみようじゃないか」
[#ここでゴシック体終わり]
プラティ君は、こちらに指を突きつけ、獰猛《どうもう》な笑みを浮かべた。
[#ここからゴシック体]
「もちろん、明敏な諸君には、もうとっくにわかってることだとは思う。だが、老婆心だと笑ってくれ。いまだに気がついていない、鈍い鈍い鈍ーい君のために、あえて思い出させてやろう。本当は、あんまり喋りすぎると、俺の身が危ないんだがな……。そもそも、ゲームの目的は何だった? 定められたCPを通り、ゴールすることだったよな? だったら、全員がゴールすれば、それでいいと思うか? 求められてるのは、そんなに簡単なことだろうか? みんなで手に手を取り合っての、横一列の完走か? 麗しき友情を再確認し、感涙にむせびながらの賞金の授与式? そして、ファーストクラスで日本へと凱旋帰国するって? まさか、そんな馬鹿げたイメージで、このゲームを捉えているわけじゃないよな? 違うよな? 頼むから、違うと言ってくれ! インストラクターとして、責任を感じるからな」
[#ここでゴシック体終わり]
言わんとすることには、だいたい見当がついていた。要するに、この正気の沙汰《さた》とも思えないゲームは、ゼロ和《サム》だということだ。勝ち残ることができるのは、おそらく、たった一人だけだろう。つまり、賞金を獲得し、生き残りたいと思ったら、他人を蹴落《けお》とさなければならないのだ。
プラティ君は、いったん画面から退場すると、僧侶《そうりよ》のような墨染めの衣を着て現れた。こちらを向いて合掌する。まるでワニのように多くの牙《きば》を剥《む》き出しているため、衣装とは裏腹に、ますます恐ろしい顔になっていた。
[#ここからゴシック体]
「ここで諸君に、仏教の要諦を伝授してやろう。永年にわたって禅寺で修行した坊主が、悟りを開いた末にたどり着く、いわば究極の真理だ。
僧に会えば僧を殺し、仏に会えば仏を殺す。
この言葉の意味はだな、生き残りたければ、自分が殺される前に、相手を殺さなければならないということだ。そのためには、先制攻撃あるのみだぞ。やれ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ……」
[#ここでゴシック体終わり]
「殺せ」という文字が、数百数千に増殖し、奔流《ほんりゆう》となって画面を流れていく。
薄々予想はついていたものの、背筋がうそ寒くなるようなメッセージだった。やはり、我々は、殺し合いをするためにここに集められたらしい。だが、いったいなぜ……。
ふいに、画面が真っ黒に変わった。
まだ、駆動時間には余裕があるはずだ。故障かと思い、藤木はぞっとした。今ここで、貴重な情報を失ったら、とりかえしがつかない。
だが、画面はすぐに元に戻った。どうやらそれも、演出のうちだったらしい。
プラティ君は、縛られた姿で椅子《いす》に座っていた。左目の回りに黒い輪ができ、頭の周囲には、きらめく星屑《ほしくず》と天使の姿をしたカモが飛び回っている。手前側から、TVカメラの先端が覗いていた。プラティ君を撮影しているという設定のようだ。
[#ここからゴシック体]
「やれやれ。俺としたことが、ヤキが回ったもんだな。ついうかうかと、余計なことまで喋りすぎちまったみたいだ。組織は、その意に逆らうものを絶対に許さない。残念だが、これで、さよならだ。いいか。諸君は、俺みたくならないように、くれぐれも気をつけるんだぞ」
[#ここでゴシック体終わり]
画面の上手《かみて》から、大きな拳銃《けんじゆう》を持ったネズミが現れた。黄色いTシャツと赤い半ズボンに、だぶだぶの青いスニーカーをはき、顔は**キー・マウスにそっくりだった。だが、愛くるしい容姿には似合わず、どことなく禍々《まがまが》しい雰囲気をまとわりつかせている。
[#ここからゴシック体]
「……そうだ! 諸君は、こういうビデオを見たことあるか? こうなったら言っちまうがな、実は、このゲーム」
[#ここでゴシック体終わり]
プラティ君がそういいかけたとき、ネズミがにやにや笑いながら、銃口を彼の口に突っ込み、引き金を引いた。プラティ君の後頭部が爆発し、派手に脳漿《のうしよう》が飛び散った。中には、紙吹雪や万国旗も混じっていて、ひらひらと落下する。
[#ここからゴシック体]
「どうもみなさん、はじめまして! 暑い中、たいへんご苦労様です。最後まで、頑張ってくださいね。僕は、キバラミズネズミの、ルシファー君です。アボリジニの神話によれば、カモノハシのプラティ君とは、遠い遠い従兄弟に当たるんですよ! さてさて、ここでたいへん悲しいお知らせです。前任者は、重大な服務規程違反があったため、処刑されました。そこで急遽、僕、ルシファー君が、ピンチヒッターとして以降を引き継ぐことになりましたあ! どうぞ、よろしくお願いしまーす※[#ハート黒、unicode2665]」
[#ここでゴシック体終わり]
ルシファー君は、気取った仕草で銃口からたなびく煙を吹き払うと、カーテンコールの役者のように、丁寧にお辞儀をした。
背後では、プラティ君の死体が、椅子ごとずるずると下手《しもて》へ引きずられていく。その様子を、こちら側のカメラが執拗《しつよう》に追っていた。モンティ・パイソン風の悪趣味な演出も、いまさら驚くにはあたらないが、藤木は妙な引っかかりを感じていた。前回のメッセージでも、同じような疑問を抱いた覚えがある。
これだけ凝ったアニメーションを作るのには、相当な時間と労力が必要だったはずだ。本当にこれは[#「本当にこれは」に傍点]、我々に見せるためだけに作られたのだろうか[#「我々に見せるためだけに作られたのだろうか」に傍点]。
[#ここからゴシック体]
「ええっとお。ここでお伝えすることは、あと一つだけなんですね。毒蛇注意の標識です。これは、アルファベットのVでーす。Venomous Snake の頭文字なんですよね。どんな形になるかは、わかりませんが、とにかくVの字を見たら注意しましょう! それから、横に数字が付いている場合には、前に出てきた、毒蛇ランキングを参照してくれとのことです。以上、ルシファー君情報でしたあ!」
[#ここでゴシック体終わり]
第六チェックポイントへの道順が示され、画面が「pocket game kids[#「pocket game kids」はゴシック体]」というロゴに戻ってからも、藤木は思考に沈んでいた。
ゲームの主催者の意図は、いったいどこにあるのか。たった今見たメッセージには、それを仄《ほの》めかすヒントが含まれていたに違いないと思う。
藤木は、これまでの人生で、ここまで必死になって何かを考えたという経験がなかった。今こそ、真剣に考えなくてはならないと思う。今考えなければ、一生、考える機会を失うかもしれない。
「キバラミズネズミって、たしか、肉食のネズミなのよね。普通のネズミは齧歯《げつし》類だから、穀物なんかを好む雑食性だけど、ミズネズミ類だけは、もっぱら、ほかのネズミなんかを襲って食べるのよ」
藍がつぶやいた。
「……よく知ってるな」
「え? うん。動物ものの番組なんかは、欠かさず見てるから」
ミズネズミか……。上から読んでも、下から読んでも、ミズネズミ。藤木は、何度も口の中で繰り返した。いくら何でも、そんなところにヒントがあるはずもなかったが、考えずにはいられなかった。
これまでの人生で様々な失敗を繰り返し、現在も、これほどの苦境にあるのは、物事を充分に考えてこなかったからだ。もしかすると、もう遅すぎるのかもしれないが、それでも、考えなければならない。
ぶつぶつと独り言をつぶやいている藤木を、藍が心配そうに見た。
バングル・バングルに来てから、藤木の意識は、ゆっくりと覚醒《かくせい》しつつあった。それが今、危機感によって、一気に目覚めたような気分だった。今の状態に比べれば、これまでの四十年間は、眠っていたに等しいという気がする。
意識の変化は、格段に鋭くなった注意力に表れた。藤木は、第五チェックポイントから二、三メートル離れたところにある蟻塚に、なぜか不審を感じたのだ。
よくよく見なければわからなかったが、蟻塚のてっぺんあたりから、非常に細い木の枝のようなものが突き出している。そのこと自体は、特に異常でもなかったかもしれない。白蟻が、もともと立っていた木を覆い隠すように蟻塚を築くことは、別段不思議ではない。問題は、二本の枝が、完全に左右対称になっているところだった。
蟻塚は三メートル以上の高さがあり、上に登るのは難しそうだ。後ろに回ってみると、地面すれすれの場所に、きわめて細い切れ目が入っているのが見つかった。
「火星の迷宮」の本が隠してあった方法によく似ているが、今度の方が、ずっと巧妙にカモフラージュしてある。どうやら、ゲームの主催者としては、こちらは見つけてもらいたくなかったようだ。
「どうかしたの?」
藍が訊《たず》ねた。ひどく気を揉《も》んでいるような様子だ。
「ここに、何かを隠してあるんだ」
藤木は切れ目にナイフを入れて、そっと引き剥《は》がしてみた。白いプラスチックか金属でできた、板状の物体が見える。
少し考えたが、それ以上、見る必要はないと判断した。剥がした蟻塚の外殻を手で押さえつけて、できるだけ元通りの外観に戻す。
「何だったの?」
藍が不審げに訊ねた。藤木が、発見したものを取り出さなかったのが、理解できないという様子だった。
藤木は目を凝らして、蟻塚の上から伸びている棒状の物体を再確認した。目立たないように樹皮のような色合いに塗られているが、間違いなくそれは、金属製のアンテナだった。
「これはたぶん、マイクロ波の中継器だ。アンテナが二本あるのは、それぞれ、受信用と送信用だろう」
「中継器って、携帯電話の?」
「同じようなものだが、たぶん、用途は別にあるんだろうな」
……盗聴器、あるいは隠しカメラだ。マイクロ波に乗せた音声や映像の情報を、ここで中継しているのに違いない。
これまでのチェックポイントでも、同じものを見落としてきたのかもしれない。いや、中継器が存在したことは、確実だと思う。
だとすると、隠しカメラや盗聴器の本体は、どこにあったのだろうか。ゲームの参加者から、簡単に見つかってしまわないような場所でなければならないが……。
常に、誰かから見られているという気配。岩山の上で、何かが光っていたのを思い出す。あれはやはり、カメラのレンズだったのではないか。上から、望遠レンズで、我々の行動を監視していたのだろう。だとすると、岩山に登ることを、神経質なまでに禁止していたことも、うなずける。
だが、根本的な理由がわからない。いったい、何のために。
射殺される寸前のプラティ君のセリフが、頭の中に浮かんだ。
[#ここからゴシック体]
「……そうだ! 諸君は、こういうビデオを見たことあるか? こうなったら言っちまうがな、実は、このゲーム」
[#ここでゴシック体終わり]
藤木は、愕然《がくぜん》とした。
その瞬間、それまで頭の中に無関係に存在していた事実が、一気に再構築されたのだ。すべてが、整然と一本のラインに繋《つな》がる。
そんな、まさか……。このゲームの目的が、そんなことだというのは、あり得るだろうか。
とても信じられない。だが、すべての事実が、それを指し示している。
思考は、なおも飛躍していく。
だとすると、岩山の上に配置された、カメラは……。
あれが、すべてなのだろうか。しかし、かけた費用を考えると、充分とは思えない。
脈絡のない映像が、頭に浮かぶ。オオトカゲが水辺にいる。ゴアンナ……。地元では、モニターと呼ばれているらしい。名前の由来は、プラティ君が解説していた。水辺などで、外敵がいないか確認するために、後肢と尻尾《しつぽ》で立ち上がって周囲を見回す習性があるからだ。
モニター……。
もしかすると、あの晩、自分が見たものは、単なる目の錯覚ではなくて……。
茫然《ぼうぜん》としている藤木に、藍が声をかけた。
「どうかしたの?」
夢から覚めたように、彼女の顔を見る。
「ねえ、藤木さんってば。ちょっと変よ?」
「ああ……何でもない。ちょっと、考え事をしていた」
たった今思いついた考えを、藍に変に気取らせてはならない。藤木は、そう答えるのが精一杯だった。
翌朝、手近にあるブッシュ・タッカーを採集して食事をとると、そのまま第六チェックポイントへと向かうことにした。距離が五キロ強と比較的短かったこともあるが、意識の中では、豪雨で三日間足止めを喰ったことも、大きく影響していた。
時間の経過が何一つ良い結果をもたらさないのは、明らかだった。だったら、なるべく早く、最終の第七チェックポイントまで踏破しておいた方がいい。それだけではゴールの要件にはならないとしても、一足早く情報を得ることには、何らかの意味があるはずだった。
第六チェックポイントへの道は南東方向であり、今まで来た方へと引き返す感じだった。このところ、順路がひどく錯綜《さくそう》しているようだ。プレイヤーたちをバングル・バングルの外に出さないためなのだろうが、それは藤木に、もう一つの心配の種をもたらしていた。
ほかの組との、接近遭遇である。
藤木にとって、さほど脅威に感じないのは、野呂田と加藤のペアだけで、あとの二組には、絶対に近づきたくなかった。
そのため、今までにもまして、慎重な移動が必要だった。岩山の間の峡谷から、急に開けた場所に出るときなどは、必ず地面に耳をつけて、人の足音が聞こえないか確認する。さらに、こちらの姿をさらす前にもう一度、岩陰から頭を出して、あたりの様子を窺《うかが》うようにしていた。
そして、そうした偏執的とも思える用心は、結果的に、実ることとなった。
すでに習慣となっている動作で、岩陰から前方を確認した瞬間、藤木は凍りついた。
「どうしたの?」
藤木は、手真似《てまね》で藍を黙らせた。彼女もすぐに察したようだった。足音をたてないように、そっと藤木の真横まで来る。
藤木は黙って、岩陰から前の方を指した。
そこには、二人の男が立っていた。距離は六、七十メートルを切るくらいだ。後ろ姿しか見えないが、身長からすると、妹尾と船岡のペアではない。
二人とも、かなり痩《や》せているのがわかった。ろくに食べていないのかもしれない。どの組も、豪雨の三日間には、苦労したはずだ。
藤木は、声をかけたい誘惑に駆られていた。彼らが楢本と鶴見だとすると、安部芙美子も一緒のはずだが、どこにも見あたらない。ということは、野呂田と加藤という可能性が最も高い。彼らとなら、少なくとも当座の間くらいは、協力関係を結べるはずだ。
二人っきり。しかもパートナーが非力な女性だということ。それは、想像していた以上に責任感とプレッシャーをもたらした。信頼できる男の相棒がいればと、痛切に思う。
藤木は、四組に分かれて出発する前の雰囲気を思い出していた。信頼できる人間ばかりではなかったが、周りに大勢の仲間がいることで、自然と心強さを感じた。あのときが、今は、ひどく懐かしい。
二人は、何事か話し合っているようだった。低い声でぼそぼそ言っているので、会話の内容までは聞き取れない。藤木は、おやと思った。ひどく痩せこけているわりには、二人とも動作がきびきびしており、元気そうに見えるのだ。
一人が、何気なくこちらを向いた。心臓が跳ね上がる。
あれは……楢本なのか。
幸い、こちらに気づいた様子はない。こっちは日陰だし、緑の蝿除《はえよ》けネットが迷彩にもなるので、たぶん、向こうからは見えないはずだ。
そう思っても、動悸《どうき》は収まらない。垣間見《かいまみ》た相手の顔は、それほどの衝撃だった。妹尾や船岡のときとは、比較にならないほどの。
バングル・バングルでの数日間で、かなり遠目が利くようになっていた。だからこそ、顔の輪郭や体つきだけで、楢本だと判断できたのだ。
そして、彼の顔貌《がんぼう》が、明らかに異常であることも……。
最も恐ろしかったのは、その目だった。異様に大きく突出しており、そのためか、黒目がひどく小さく見える。単に目つきが険しいというより、まるで猛禽《もうきん》類か何かのような感じなのだ。
荒野をさまよい歩くうちに、魔物にでも取り憑《つ》かれたのではないか。そんな妄想めいた思いにすら駆られる。
今度は、もう一人が顔を見せた。鶴見だ。間違いない。だが、彼の顔つきもまた、楢本と同様の変貌《へんぼう》を遂げていた。
いったい、彼らは、どうなってしまったんだ。
藤木は、呻《うめ》き声を漏らすのを堪《こら》えるために、右手の拳《こぶし》を噛《か》んだ。
状況はまだ呑み込めないが、唯一、はっきりしていることがあった。
彼らには、絶対に見つかってはならない。
[#ここからゴシック体]
「……何といっても一番恐ろしいのは、食糧を取りにいったヤツらだ……警告しておこう。最初はいいが、後半はヤツらに絶対に近づくな……」
[#ここでゴシック体終わり]
今は亡き(?)プラティ君の言葉が、文字ではなく音声になってよみがえる。
藤木は、どうすべきか迷った。このまま後戻りして逃げようとした場合、相手の姿を見失ってしまうことになる。しかも、荒い砂礫《されき》の上である。足音が相手に聞こえてしまう可能性は大だった。
だとすれば、このまま隠れていて、楢本らがいなくなるのを待つ方が安全かもしれない。だが、それには一つ、重大な前提が必要だった。
彼らが、こちらへやって来ては、困るのだ。いくら岩陰に潜んでいても、至近距離を通過する目から隠れおおせるかどうか、保証の限りではない。緊張のあまり、自分か藍のどちらかが物音を立てれば、一瞬で、すべてが終わるのだ。
どうすればいい。……どうすれば。
藍は、藤木の指示を待っているようだった。彼女の表情にも、暗い恐怖の影が射していた。二人分の命が、自分の選択にかかっている。
そのとき、「火星の迷宮」の一部を思い出した。昨日、ぱらぱらと捲《めく》っていたときに、偶然見た一節が。
[#ここからゴシック体]
311
あなたは、大きな岩の後ろに、ちょうど隠れられるような窪みがあるのを見つけた。
二頭の食屍鬼《グール》は、着実な足取りで迫ってきてはいるが、まだ、あなたに気がついていない。もうすぐ、三叉路にさしかかる。こちらへやってくるかどうかは、運次第だろう。
恐怖とストレスで、体力点が3減少する。
今戦っても、勝ち目はない。あなたは、全速力で逃げるか、岩陰に隠れて食屍鬼《グール》をやり過ごすか、選択しなくてはならない。
逃げるのなら87へ、隠れているのを選ぶなら614へ進め。
[#ここでゴシック体終わり]
藤木は、掌《てのひら》を下に向けて押さえつけるジェスチャーをした。このまま、ここに隠れていることにしたのだ。藍は、空気を動かすことも恐れるように、そっとうなずいた。
だが、楢本らは、いっかな、その場を動こうとはしなかった。まるで、二人がやきもきしているのを嘲笑《あざわら》うかのように、野原の真ん中に佇《たたず》んでいる。
彼らのぼそぼそとした会話は、断続的に続いていた。今後の方針について協議しているらしいが、互いに、相手に視線を向けようとはしない。声音からは、特に激高しているような感じもしないが、対立があるのかもしれなかった。
楢本が、やって来た東の方角を指して、何かしきりに言っていた。剥《む》き出した眼球は、怒り狂った昆虫を連想させる。それに対して、鶴見の方は、喋《しやべ》るのがあまり得意ではないらしく、低い唸《うな》り声だけで応じていた。鶴見の表情もまた、正視に耐えないほど醜かった。邪眼という言葉を思い出す。二人の恐ろしい目つきは、それだけで、状況をひどく険悪なものに見せていた。
やがて、何らかの折り合いがついたらしく、楢本と鶴見は真っ直《す》ぐ歩き出した。藤木は、彼らが進路を変更してこちらへ近づいてくるのを心配していたが、杞憂《きゆう》に終わった。
遠ざかっていく彼らの後ろ姿を見ながら、藤木は顫《ふる》える吐息をついた。
とにかく、危機は脱した。あとは、できるだけ彼らと距離を置くように努めればいい。
だが……。
そこには重大なジレンマがあることに、気づく。こちらも、予定通り第六チェックポイントを目指すと、彼らと平行に、ほぼ同じ方角へ向かうことになる。したがって、再び、ニアミスを引き起こす危険性が出てくるのだ。
彼らの後を付けるのも、手かもしれない。充分な距離を置いて、常に相手の所在を確認するようにすれば、ばったり出くわすという最悪の事態だけは避けられる。
藤木がそう言うと、藍は首を横に振った。
「だめ。危険すぎるわよ。もし、途中で尾行に気づかれたら、どうするの?」
「どんな選択をしたって、ある程度のリスクはあるよ」
「だめ! あの人たちの顔、見たでしょう? あの人たち、異常よ……絶対!」
藍の声は、震えていた。
「どうかなっちゃったのよ。きっと。もう、二人とも、普通の人間じゃないわ! もし、もし、見つかったら……殺されるわ!」
「わかった。わかったから、落ち着いて」
藤木が肩に手を置いて宥《なだ》めると、藍は、ようやく平静さを取り戻した。
「……それに、わたし、もう一つ気になることがあるの」
藍は、まだ、ささやき声のままだった。
「楢本さんと鶴見さんの組には、もう一人いたはずよ。ほら、あの、安部芙美子っていうおばさん。あの人がどうなったか、気にならない?」
「たぶん、逃げ出したんじゃないか。あいつらの顔を見てれば、とても一緒にはいられないって思っても不思議はないだろう」
「そうかもしれないけど……」
藍は、別の理由を考えているようだった。藤木もすぐに思いついた、あまり考えたくない可能性を。
「……もし、そうだったら、後から一人で来るかもしれない。わたしたちが、前にばかり気を取られていると、後ろから彼女に見つかってしまうかもしれないわ。もし、そんなことになったら」
藤木は想像してみた。あのおばさんなら、いきなり大声を上げて、楢本と鶴見に知らせる可能性が高いのではないか。我々は、挟み撃ちに遭うことになる。おばさんの方はさほどの脅威ではないものの、楢本らが本気で追いかけてきたら、まず逃げ切れないだろう。
「じゃあ、君は、どうすればいいと思う?」
「あんまり、根拠とかは、ないんだけど」
「いいよ。言って見ろよ」
藍は、少しためらってから、楢本らがやってきた方角である東を、指で示した。
「たぶん、あっちへ行ってみたら、いいんじゃないかと思うの」
「どうして?」
「わからない。勘よ。ただ、楢本さんたちが、どうしてああなっちゃったのか、ヒントが見つかるかもしれないでしょう? それに、少なくとも、あっちへ行けば、あの人たちからは、確実に遠くへ行けるわけだし」
おそらくそれが彼女の本音だろうなと、藤木は思った。さっきの怯《おび》えぶりからすると、無理もない。それに、自分としても、彼らからできるだけ早く遠くへ行きたいという気持ちは、まったく同じだった。
結局、藤木と藍は、第六チェックポイントへ向かうのは一時延期して、東へ行くことにした。もしかすると、ゲームの主催者には、この進路変更がゲームからの逸脱ないし脱走と映るかもしれない。だが、今は、一度も姿を見せない主催者などより、楢本らの方が、はるかに差し迫った現実の脅威だった。
彼らに捕まれば、どうなるか。そんなことは、考えたくなかった。ただ、絶対に捕まってはならないという確信だけがある。
東へ向かって歩くうち、奇妙なことに気がついた。周りの景色に、何となくだが見覚えがあるのだ。
水辺に生えている、松に似た木。オーストラリアでは、表皮がウロコを思わせるということから、クロコダイル・ツリーと呼ばれているらしい。その木の形が、記憶の中にある木と合致する。
「ここ……前に、来たことがあるわよね?」
藍が、彼の疑念を裏打ちした。
「かなり、ルートが錯綜《さくそう》してるみたいだな。これまでは、ただ、与えられた指示に従うことに汲々《きゆうきゆう》としてたから、気がつかなかったけど……」
ゲーム機の指示では、方角はひどく大雑把なものだったし、道が途中で緩やかにカーブしている場合もある。出発点である第一チェックポイントから見て、正確にどちらに進んでいるか把握し続けるのは、磁石だけではきわめて困難だった。
もしかすると、我々は、ただ同じ場所をぐるぐると歩かされているのではないか。そんな疑問も浮かぶ。もし、ゲームの主催者の意図が、自分が想像したとおりのものであるのなら……。
「思い出したわ。この先って、たぶん第四チェックポイントの近くよ。この辺へは、たしか、ブッシュ・タッカーを探しに、一度来たことがあるわ!」
たしかにそうだった。正面に見える、ひときわ高い岩山は、大雨の直前に、ブラック・ヘッデッド・パイソンがロック・ワラビーを絞め殺しているのを捕獲した場所だ。
「やっぱり、そうよ! ほら、あれを見て!」
さらにしばらく歩いたところで、藍が叫んだ。
草や木の枝を被《かぶ》せた、穴のようなもの。ワラビーを料理した、グラウンド・オーブンの跡だった。
「ほらね。わたしの言ったとおりでしょう?」
藍は得意げに言ったが、藤木は、眉《まゆ》をひそめた。
「どうしたの?」
「このオーブン、かなり手が加えてあるな」
藤木は、自分が掘った穴の大きさを覚えていた。おおよそ、直径が六十センチ。深さが四十五センチほどだった。だが、今、目の前にあるグラウンド・オーブンは、それより、はるかに大きかった。
「ほんと。……これって、もしかしたら」
藍も、不審そうに穴を見ていたが、すぐに自分なりの結論を導き出す。
「きっと、さっきの人たち……楢本さんたちが、これを見つけたんだわ。それで、調理の方法を知り、この穴を利用したのよ。だって、途中まで掘ってある穴を使う方が、ずっと効率がいいでしょう?」
「本当に、それだけだといいけどな……」
藤木は、グラウンド・オーブンに近づいた。藍が、妙な目で自分を見ている。なぜ、あんなことを言ったのかは、自分でもわからない。
オーブンは、まだ、かすかに暖かかった。使われてから、あまり時間がたっていないらしい。ところによっては、うっすらと湯気が立っているようにも見える。それに、何となく、臭いがする……。
藤木は、顔を上げた。この臭いは、どこから来るのか。周りを見回したが、特に変わった様子は見られない。いや。
グラウンド・オーブンから十数メートル離れた場所に、目が止まった。テーブルのように大きな平たい岩。なぜ、そこに異状を感じたのか。その理由は、近づいていくと、徐々に判明した。
無数の藪蝿《ブツシユ・フライ》が、いっせいに飛び立つ。だが、すぐにまた、岩の上にとまった。いつものように、こちらの顔をめがけて飛んでくるようなこともない。なぜ、それほどまでに、その岩が気に入っているのだろうか。
藤木は、赤い岩を見下ろした。異臭の源は、そこだった。おびただしい血が流れた跡と思われる染みがある。もともと赤褐色の岩の上だから、あまり目立たなかったのだろう。蝿が群がっていなければ、気がつかなかったかもしれない。
……平たい岩の上は、調理の下拵《したごしら》えをするには、好適な場所だった。
引き返してきた藤木の表情を見て、藍の顔色が変わった。
「どうしたの? ねえ、何があったのよ?」
藤木は、グラウンド・オーブンを覆っていた木の枝や草を、素早く取りのけ始めた。
何が見つかるかは、見当がついている。見なくてもいいのなら、絶対に見たいとは思わないものだ。だが、どうしても、確認しておかなくてはならない。それによっては、今後、自分たちが生き残れるかどうかの見込みに、大きな違いが生ずるのだ。
「そこに、何があるの……?」
彼女にも、もうわかっているはずだ。けっして、頭の悪い女ではないのだから。それどころか、今までに何度も、自分などとてもかなわないと思うような、明敏さを示してきたではないか。
その可能性にだけ、思いが至っていないはずがないのだ。それなのに、気づかない振りをしている。
なぜか。答えは決まっていた。……怖いのだ。現実を認めてしまうことが。自分が今、どういう状況に置かれているのかを、目の前に、はっきりした形で見せつけられてしまうのが。
藤木の手が、ぴたりと止まった。
「見てみろよ」
藍は絶対に見ようとはしないと、予想していた。そこに何があるのかは、百も承知だろうから。
だが、藤木の予想とは裏腹に、藍はゆっくりと、グラウンド・オーブンの縁に歩み寄ってきた。
そこには、大きな白い骨があった。形からすると、大腿骨《だいたいこつ》だろう。
「どう思う? こんなに大きな動物は、今までにバングル・バングルでは見たことがないだろう?」
藍は、魅入られたように白い骨を凝視していた。
「肉は、きれいに刮《こそ》げ取られているな。ささくれたようになっているのは、軟骨を囓《かじ》り、しゃぶった跡だろう」
藤木は、我知らず、藍にショックを与えるような言葉を口にしていた。なぜか、彼女の反応の鈍さに苛立《いらだ》っていた。
「……これって、まさか?」
彼女が、ようやく口にした言葉がそれだった。
「ああ、そうだ!」
藤木は、怒りのような感情が、腹の底から沸いてくるのを感じた。彼女にそれをぶつけるのは、間違いだとはわかっていた。だが、やり場のない恐怖と緊張が、無分別な行動を取らせる。
「これだけでは、まだ、確信が持てないか? だったら、もっと見せてやる。まだまだ、あるはずだ!」
藤木は、グラウンド・オーブンの中に飛び降りると、残っていた木の枝と草を穴の外へと放り出した。
それは、あっさりと見つかった。藤木は動作を中断して、しげしげと見つめる。あまりにも生々しいが故に、かえって本物とは思えない。ゴム製の玩具か何かのようだ。だが、もちろん、手を触れることなど、できなかった。
肘《ひじ》から先の、腕の骨。二つに分かれた前腕骨の周りの肉は、きれいになくなっているが、手首から先は、手つかずのままだった。五本の指には、剥《は》げたマニキュアの跡が残っている。
そして、その横には、人間の頭部があった。かっと開いた目。想像を絶する苦痛と恐怖に歪《ゆが》んだ表情。それは、断末魔を忠実に保存したデスマスクだった。何しろ、本物なのだから。
首筋からうなじの生え際のあたりまで、肉を噛《か》み取った跡があった。さすがに、顔面は食べられなかったらしい。だが、片方の耳は喰いちぎられていた。
藤木は、はっとして藍を見やった。急に、彼女がショックのあまり、精神に変調を来《きた》すのではないかと心配になったのだ。
藍は、目を覆うこともせず、茫然《ぼうぜん》と遺体を凝視している。
藤木は、遺体の残骸《ざんがい》の上に、今取りのけたばかりの木の枝や草をかけた。穴から出ると、藍を抱きしめるようにして、凄惨《せいさん》な現場から遠ざけた。
藍は、不思議そうな顔をして、藤木を見た。まるで、もっと見ていたかったのに、邪魔をされて驚いているかのようだ。
「もういい。俺が悪かった」
藍は無言のままだった。
彼女を少し離れた場所へ連れていって、岩の上に座らせる。藤木は、特別に取っておいた、最後の一本のタバコを出して、火を点《つ》けた。
まったく、味がしなかった。それでも、グラウンド・オーブンの中に篭《こ》もっていた臭い、蒸し焼きにしたワラビーとそっくりの臭いを、少しはマスキングしてくれるといいのだが。
藤木は、火葬場であり竈《かまど》でもある穴を見つめた。何があったのかは、明白だった。彼らは一線を越えたのだ。そして、一度人を喰うことを経験してしまえば、二度目はためらわないだろう。
たぶん今度は、顔であれ手であれ、気にせずに喰うのではないか。
藤木は、肺にため込んだ煙を吐き出した。
飢餓地獄に耐えかねて人肉|嗜食《ししよく》に至った人間は、けっして珍しい存在ではない。有名な「アンデスの聖餐《せいさん》」では、敬虔《けいけん》なクリスチャンであるラグビーチームの若者たちが、強い絆《きずな》で結ばれていたはずの仲間の遺体を食べた。追いつめられれば、人間は、そのくらいのことはやるのだ。
藤木は、ブッシュ・タッカーについての情報を独り占めにしたことに、強い後悔と罪悪感を感じていた。もし、バングル・バングルの中には、食用になる動植物がたくさんあることを知っていれば、彼らも、ここまでの行為には至らなかったのではないか……。
だが、楢本らの場合は、少し事情が違うような気もする。
通常の神経を持っている人間が、人肉を口にするまでには、相当な葛藤《かつとう》の時間が必要になるはずだ。それが、いくら飢えたからとはいえ、わずか十日足らずのうちに、ここまでになるだろうか。
しかも、「アンデスの聖餐」とは決定的に違う点が、一つあった。彼らは、安部芙美子を殺害して喰った[#「殺害して喰った」に傍点]のだ。あの表情が、何よりそれを雄弁に物語っている。
藤木は、身震いした。今ごろになって、ようやく、足下から戦慄《せんりつ》が這《は》い上ってきたようだった。
そうだ。彼らは、明らかに異常だった。外見からして、人間ではない肉食獣のようだったではないか。疑う余地はない。彼らには、何かが起きたのだ。何か、想像のつかないような恐ろしいことが。そして、彼らは鬼と化した。
彼らと接触してはならないという判断は、正しかった。藤木は、あらためてぞっとしていた。あのときは、まだ、そこまではわからなかったが。
捕まったら、我々も喰われる。
今や、ゲームには、新しいルールが加わった。我々は、彼らに捕まらないように逃げながら、ゴールを目指さなければ……。
喉《のど》の奥に、固いものがつかえたような気がした。
まるで、彼らは……そうだ、食屍鬼《グール》そのものではないか。
これは、もしかすると、ゲームの一部なのか。ゲームの主催者は、あらかじめ、彼らが食屍鬼《グール》に変貌《へんぼう》することまで計算して……。
そんな馬鹿なとは思う。だが、もしそうでなければ、どうして、第二チェックポイントで、あらかじめ警告することができたのだろう。
[#ここからゴシック体]
「何といっても一番恐ろしいのは、食糧を取りに行ったヤツらだ……」
[#ここでゴシック体終わり]
タバコは、すでにフィルター以外は灰になっていた。藤木は、吸い殻を投げ捨てると、無精ひげの伸びた顎《あご》を擦《こす》った。怖かった。怖くてたまらなかった。理解不能の人間たちが。そして、自分を取り巻いている狂気の世界が。
ふと脇《わき》を見たとき、草むらの中に銀色に光るものがあるのに気がついた。近づいてみると、ゲーム機のポーチだった。おそらく、死んだ安部芙美子のものだろう。
彼女の怨念《おんねん》が篭もっているような気がして、しばらくは、手を触れることができなかった。それから、勇を鼓してポーチを手に取り、ゲーム機を取り出した。どこも、壊れてはいないようだ。
スイッチをオンにする。特に、目的はなかった。彼女が、これまでにどういう情報を得たのか知りたかっただけだった。
意外なことに、ゲーム機は、何のメッセージも表示しなかった。たった二つの英単語を除いては。
そこには、画面いっぱいに「BAD END」[#「「BAD END」」はゴシック体]の文字が映し出されていた。
[#改ページ]
7
[#ここからゴシック体]
533
地下数千メートルの洞窟《どうくつ》に、かくも巨大な迷宮《ラビリンス》が存在していたことに、あなたは驚く。滅び去った、太古の火星文明の遺産なのだろう。
複雑に入り組んだ通路には、かつては満々と水がたたえられ、運河として機能していたに違いない。現在、その跡は、あらゆる方向へと際限なく延びる迷路と化している。もしかすると、毛細血管のように火星全体を覆っているのかもしれない。
不用意な足音は、周囲の石壁に複雑に反響するため、何キロも先から聞き取ることができる。あなたは、慎重に移動を開始する。怪物犬《バージエスト》の群や、狂戦士《パーサカ》たち、そして食屍鬼《グール》と遭遇すれば、即、死を覚悟しなくてはならないからだ。
極度の緊張の中で、体力点が7減少する。
そのとき、あなたの目の前に、小狡《こずる》そうな目をした侏儒《ドワーフ》が現れた。細長い昆虫のような触角を蠢《うごめ》かせながら、甘い声で取引きを持ちかけてくる。
侏儒《ドワーフ》は、あなたに魔法の法螺貝《ほらがい》を見せる。それを耳に当てれば、はるか彼方《かなた》から、怪物たちの発する小さな音や、囁《ささや》き声まで聴き取れるという。だが、法螺貝がほしければ、代わりに、あなたの持っている賢者のクリスタルをよこせと言うのだ。
あなたは、どうすべきか迷う。
たしかに、ここで怪物と出会ってしまったら、すべてが終わる。だが、賢者のクリスタルを手放したら、この先、何を頼りに迷宮を進んだらよいのだろうか。
取引きに応ずるなら155へ、拒絶するなら234へ進め。
[#ここでゴシック体終わり]
藤木と藍は、再び、第六チェックポイントを目指して歩き始めていた。
経過した時間を考えると、楢本らは、とっくに遠くへ移動しているはずだ。そう、祈りたいような気分だった。
だが、休息か食糧を得る目的で、同じ場所に居座っていることも考えられた。かりに、次のチェックポイントへ向けて出発していたとしても、ゲーム機の指示する順路は、単に周辺を行きつ戻りつするだけのものかもしれない。最悪の場合、こちらへ戻って来る途中である可能性すらあった。
だが、たとえ彼らと鉢合わせする危険を冒してでも、第六チェックポイントへ行く以外に選択肢がないことは明らかだった。ゲームを放棄して逃走を図ったとしても、待っているのは、ゲームの主催者による死のペナルティか、せいぜいが野垂れ死にの運命だろう。かといって、ここで時間を空費していても、状況は悪化する一方だ。
バングル・バングルでは、真に危険な哺乳《ほにゆう》類は二種類しかいない……。その言葉の意味が、ようやくわかった。気をつけるべきなのは、ディンゴなどではなかった。
藤木は、遅れてついてくる藍を振り返った。遺体を目撃して以来、口数が少なくなっている。だが、今のところまだ、精神はしっかりしているようだ。
「疲れたんじゃないか?」
声をかけると、黙って首を振った。
再び、黙々と歩き続ける。一度コースから外れているので、チェックポイントへたどり着くには、正しい道順をたどっているかどうか、今まで以上に注意を配らなくてはならない。
間違いを防ぐという意味では、いったん第五チェックポイントまで戻った方が確かかもしれなかった。だが、その途中には、広々とした草原が横たわっている。二、三時間は、視界を遮るものがほとんどない場所を歩くことになるのだ。とても、そんな危険は冒せなかった。
歩きながら、藤木は神に祈り続けていた。
どうか、彼らとは、出会いませんように。あの、化け物……鬼と化した連中とは。
息を詰めるように、一心に念じる。
これまでは、およそ信心とは無縁の人生を送ってきた藤木だった。数少ない例外は、大学受験前の正月に初詣《はつもうで》に行き、賽銭箱《さいせんばこ》に一万円札を入れて、元を取ろうと長々と祈ったこと。それに、杏子たちとのスキー旅行で富良野《ふらの》神社に立ち寄り、どうか横にいる彼女と結婚できますようにと願を掛けたことぐらいだ。
寝耳に水で会社が破綻《はたん》したときは、突然、理不尽な運命に対する激怒が込み上げてきた。ほかに、怒りをぶつける対象が見つからなかったからかもしれない。なぜ、自分だけがこんな目に遭わなくてはならないのかと思い、破れかぶれのように、人を呪《のろ》い、神を呪詛《じゆそ》した。もう、一生、神頼みなどしないつもりだった。
だが、藤木は今、そんなことはすっかり忘れたかのように、真剣に神に救いを求めている。
祈りというものは、どうすることもできない過酷な状況の中で、自然に湧《わ》き出てくるものらしかった。
藤木は、藍には聞こえない程度の声で、口の中でつぶやき続けた。神様。神様。神様。我々はいったい、どうなるのですか。どうか、お助けください。
すると、その声に対する回答のように、目の前にある棘《とげ》だらけのアカシアの枝に、小さな鳥が止まった。雀ほどの大きさで、全身が赤っぽく、特に、嘴《くちばし》から頭部など上半身は、鮮血を浴びたような色をしている。
藤木は歩みを止め、その鳥をまじまじと見つめた。
「……クリムゾン・フィンチね」
藍が、後ろから言った。
「クリムゾン?」
「覚えてない? プラティ君の解説に、出てきたじゃない。別名は、ブラッド・フィンチだって……」
深紅色《クリムゾン》……。単なる赤より深く、血液に最も近い色。雨に濡《ぬ》れた、バングル・バングルの峡谷の色。
|血腥い《クリムゾン》峡谷に棲《す》んでいる、|血まみれの《ブラツド》フィンチ……。
小さな鳥は、ツィー、ツィーという、甲高く神経に障る声で鳴き始めた。
その不吉な羽毛の色は、前途に待ち受けるものを象徴しているような気がした。
再び歩き始めた藤木の意識は、二つの状態の間を揺れ動いた。
歩くことに没頭していると、単調なリズムが催眠術のような効果をもたらす。無意識下に封じ込めてあったものが、徐々に浮上してくるのだ。グラウンド・オーブンの中にあった物体。少し前までは人間の手として機能していた、五本の指。想像を絶する恐怖と苦痛に歪《ゆが》んだ、デスマスク。
そうした夢想を吹き散らすのは、風によるいたずらだった。岩のかけらが崩落したり、ユーカリの梢《こずえ》が鳴ったりすると、焼け火箸《ひばし》を押し当てられたようなショックに体が硬直する。
彼らではないかと思う。今にも、そこの岩山の陰から、楢本らが現れるのではないか。気をつけろ。見つかったら、それまでだ。彼らにとって、我々は獲物でしかないのだから。
パニックの発作から立ち直るまでには、かなりの時間を必要とした。
これまで、狩られるものの気持ちなど、一度も想像したことはなかった。
自分が、そうした立場に置かれているということが、いまだに信じられなかった。
第六チェックポイント。新しい案内役であるルシファー君が、跳ねるような足取りで現れる。サンバのように賑《にぎ》やかなBGM。
ゲーム機の音量は非常に小さかったが、藤木は誰かに聞かれるのを警戒して、完全に聞こえなくなるまでボリュームを絞った。
[#ここからゴシック体]
「ようこそ、第6CPへ! ゲームも、いよいよ佳境から、終盤に入りましたね。もう、ひと頑張りです! 僕は、いつだって、あなたたちのことを温かく見守っていますからね。それでは、ルシファー君の、耳寄り情報コーナー! ここでは、あまり知られていない、とびっきりの情報をお教えしまーす。心して、よーく聞いてくださいね。いいですか? 言いますからね? 聞き逃したら、きっと、一生後悔しますよお……」
[#ここでゴシック体終わり]
さんざん勿体《もつたい》をつけてから、ルシファー君は、得意満面で両手を広げる。
[#ここからゴシック体]
「何と何と! コアラとウォンバットって、もともとは、同じ動物だったんですって! 信じられますかあ? 進化の過程で、ユーカリの樹上生活に適応した方が、コアラになったということなんですけどね。でも、そういえば、愛嬌のある顔つきが、どことなく似てるじゃないですか。ほーら、特にあの、でかい鼻のあたりとか……」
[#ここでゴシック体終わり]
子供たちを魅了するチャーミングな笑顔は、嘲弄《ちようろう》するように歪んでいた。
それからもルシファー君は、いくつかの「耳寄りな情報」について、呆《あき》れるほど饒舌《じようぜつ》に喋《しやべ》り続けたが、どれも、馬鹿げた、何の用もなさないものばかりだった。
前のチェックポイントから、つまり、プラティ君が死んでからだが、何かが変化してきている。ルシファー君というキャラクターは、前任者と比べると、言葉遣いは丁寧なものの、はるかに悪意に満ちているように思われた。
ゲームの主催者は、今後は、いっさい有益な情報は与えないつもりなのだろうか。
藤木と藍は、外から見つからないように藪《やぶ》の中に隠れた。我慢して、画面を見続ける。もしかすると、大量の屑《くず》情報の中にこそ、本当に有益な情報が、こっそりと忍ばせてあるのかもしれない。
途中、ぽつりとルシファー君が漏らした一言が、藤木の注意を引いた。
[#ここからゴシック体]
「……僕も、ポケット・ゲーム・キッズは持ってて、出待ちで暇なときとか、よくやってるんですけど、電池で二十時間も遊べるっていうのがいいですよねえ」
[#ここでゴシック体終わり]
ゲームの中のキャラクターが、そのゲーム機で遊んでいるという、陳腐なギャグだった。漫然と見過ごしても、おかしくなかった。だが、藤木の意識には、一カ所、逆棘《さかとげ》のように強く引っかかる部分があった。
ゲーム機の動作時間が、二十時間であるということ。なぜ、こんな些末《さまつ》な事実に、わざわざ言及するのだろう。
そうだ、と藤木は思い出す。たしか、これと同じような感想を、ちょっと前にも抱いたことがあった。これまでに見たメッセージのどれかを見たときだ。
ゲーム機には、過去のメッセージはすべて保存されているはずだ。とても全部を見直している時間はないが……。
いや、違う。ゲーム機のスペックに触れていたのは、プラティ君の情報ではなかった。第一チェックポイントだ。藍を除く八人が、それぞれのゲーム機に現れた情報を交換した。あのとき、最初にメッセージを見せたのは野呂田だった。そこには、もっぱらゲーム機のことが書かれており、動作時間に関する記述もあった。
あまりにも末梢《まつしよう》的すぎることに違和感を感じて、かえって、はっきりと記憶に残っていたのだ。
たしか、こうあったはずだ。この機械には、単三アルカリ乾電池が二本使用されており、動作時間は約十時間であると……。
時間が、食い違っている。
十時間と、二十時間。単なる不注意によるミスでないとすれば、そこには、何らかの意味があるはずだった。何か、重大な意味が。
長いメッセージは、終わりに近づいていた。ルシファー君は、第七チェックポイントへの道順を素っ気なく説明すると、にこやかに手を振って消えてしまった。最後の一言だけが、なぜか、藤木の目に焼き付いていた。
[#ここからゴシック体]
「……生き残るためには、持てるアイテムをせいぜいフル活用して、頑張ってくださいね。それでは、今度は、第7CPでお会いしましょう! さよーならー」
[#ここでゴシック体終わり]
これもそうだ。なぜ、わざわざ、アイテムを活用しろなどと、念を押す必要があるのだろう。わかりきったことではないか。誰も、せっかく手に入れたアイテムを、使わずに放置しておくことなど……。
はっと気がついた。
ただ一つ、獲得してから、まだ一度も使ったことのないアイテムがある。
受信機だ。
デイパックを開けて、底の方に埋もれていた受信機を取り出した。
白い樹脂製で、タバコの箱ほどの大きさだった。いたってシンプルな構造で、伸縮するアンテナと小さなスピーカー、付属品としてイヤホンが二個ついているだけだ。ラジオのようなチューニングつまみがないところを見ると、単一波長しか受信できないようだ。本来は、盗聴用なのかもしれない。
もしかしたら、主催者が、この波長で、何か有益な情報を流しているのかもしれないと思いつく。とにかく、一度、これを作動させてみるべきだ。
だが、そのためには、欠けているものがあった。電池だ。受信機の裏蓋《うらぶた》を外してみると、必要なのは単三型の乾電池だとわかった。ゲーム機と同じである。
藤木は、考え込んだ。ゲーム機の電池を流用するわけにはいかない。いったん電池を外してしまうと、これまでに得たメッセージは、すべて消えてしまうからだ。
普通のゲームならば、当然、それまでに遊んだデータのセーブ機能があるはずで、電池を入れ替えただけで、メモリーが空白になってしまうことなど考えられない。わざわざ、こんな設定にしてあるところにも、ゲームの主催者の悪意を感じる。
だが、そう警告されている以上、何か、別の手だてを考えなくてはならない。アイテムとして、電池を獲得するまで待つしかないのだろうか。
だが、考えてみると、「アイテム一覧」にも、「電池」という項目はなかったような気がする。にもかかわらず、遅かれ早かれ、電池は必要になる。
つまり、お互いに、奪い合えということなのだろうか。
ゲームの主催者は、やはり、戦いを望んでいるらしい。もし、このゲームが、自分が推測したような理由で行われているのなら、なおさらのことだろう。あらゆる場面に不和の種をまき、それが、殺し合いにまで発展するのを待っているのだ。
「ちくしょう! 俺は、いったい何をやってるんだ!」
藤木は、拳《こぶし》で膝《ひざ》を叩《たた》きながら呻《うめ》いた。
「どうしたの?」
「電池は、あったじゃないか! 君の持ってたゲーム機。機械が壊れたって、電池は使えたはずだ。どうして、捨ててきてしまったんだろう? それに、安部芙美子の機械もだ。電池だけは、抜き取って来なきゃならなかったのに……!」
実際には、「BAD END」[#「「BAD END」」はゴシック体]という禍々《まがまが》しい文字を見たとたん、考えるより早く手が動いていた。それが恐怖のゆえなのか、ゲームの主催者に対する怒りのせいだったのかはわからない。とにかく、反射的に、力いっぱいゲーム機を投げ捨てていたのだった。ゲーム機は岩山の中腹にぶつかって砕け、どこか、とんでもない方角へ落ちてしまった。今から取りに戻ったとしても、見つけることはできないだろう。
それにしても、自分の愚かな失策には嫌気が差した。棚ぼたで電池を得られる機会を、一度ならず、二度までも棒に振ってしまったのだから。
「すんでしまったことをくよくよしたって、しょうがないわ」
藤木の様子を見守っていた藍が、冷静な声で言った。
「これからどうすべきか、考えましょう」
「……ああ」
たしかにそうだ。何でもいい。新しく、電池を得る手だてを考えるべきだ。新しい電池。何か、ゲーム機以外に、電池を使っているものはないだろうか……。
藤木の目が、藍のベルトに付いている補聴器に吸い寄せられた。
「なあ……それ、もしかしたら電池が入ってるのか?」
藍は補聴器に目を落としたが、返事をしない。
「単四だったらいいんだが、もしかしたら、単三じゃないか?」
一瞬の間を置いてから、藍は黙って首を振った。
「見せてくれないか」
藤木が手を伸ばすと、藍は邪険に振り払った。
「いやよ!」
今まで一度も見たことがないような、激しい剣幕だった。
「ちょっと、見せてくれるだけでいいんだ。単三じゃなきゃ、どっちみち使えないんだし」
「だから、違うって言ってるでしょう!」
藤木は唖然《あぜん》とし、続いて、怒りが込み上げてくるのを感じた。彼女の態度は、あまりにも不自然すぎる。やはり、単三電池を使っているのだ。だが、なぜ、そこまで意固地になるのかわからない。
「君にとって、その補聴器が大事なのは、よくわかる。だが、ずっと電池を貸してくれと言ってるわけじゃない。この受信機をテストする、ほんの数分間だけ……」
「いやよ! いやったら、いや!」
藍は、警戒するかのように、数歩後ろに下がった。
「我々が生き残れるかどうかが、それにかかってるんだ!」
「だめよ。こっちへ来ないで!」
「なぜだ? ほんの少しの間じゃないか? それに、補聴器なしでも、もう片方の耳は、聞こえるんだろう?」
藍は、また後ずさりした。
「藍。頼むから、冷静になってくれ。この受信機は、何か大事な情報を知らせてくれるかもしれないんだ」
「もう、返事はしたでしょう?」
藍は、驚くほど冷たい声で言った。
「それでも、わたしの意思を無視するんなら、ここで別れるしかないわ。パートナーは、解消しましょう」
「何を言ってるんだ? 君には、ゲーム機がないんだぞ。それに、一人でいったい、どうするつもりだ?」
藤木が一歩前に出ると、藍は飛びすさった。今にも、走り出しそうな構えだ。
藤木は、しばらくぽかんと口を開いていたが、やがて溜《た》め息をついた。
「わかった……もういい」
藍の目には、まだ色濃く不信の色が浮かんでいた。
「悪かったよ。無理なことを頼んで。だが、どうしても嫌なら、これ以上無理強いはしないから」
相手を宥《なだ》めようとしながらも、精一杯の皮肉を込めた言葉だった。
「本当だよ。もう、逃げなくてもいい。我々は、生き残るためには、お互いに協力しなくちゃならない。だから、君の意思は尊重する」
その言葉で、ようやく藍は安心したらしかった。硬かった表情が、元に戻る。
「……ねえ。こんなことしてる場合じゃないわ。ワナを張らなきゃ。今晩食べるものが、何もないのよ」
藤木はうなずいた。彼女の方も、仲直りを望んでいるらしい。
それにしても、たかが補聴器の電池を貸すことに対し、あれほど激しい拒絶反応を示した藍が、どうしても理解できなかった。
何かが、意識下で明滅していた。このゲームの目的が見えたと思ったときに、一瞬だけ頭をよぎり、その後、熾火《おきび》のように、ずっと燻《くすぶ》り続けていた考え……。
だが、どうしてもそれ以上、思い出すことができない。
それは、もしかすると、自分自身が頑に意識化を拒否しているためかもしれなかった。
第七チェックポイントは、「アイテム一覧」から推測する限り、最後のチェックポイントになるはずだった。
最後のアイテムは、かなりの豪華版だった。百二十倍の双眼鏡で、「アイテム一覧」での評価も、AA+である。
だが、最も肝心の情報、ゲームのゴールに関する説明については、まったく期待はずれだった。
[#ここからゴシック体]
「ようこそ、第7CPへ! ゲームも、いよいよ佳境から、終盤に入りましたね。もう、ひと頑張りです! 僕は、いつだって、あなたたちのことを温かく見守っていますからね」
[#ここでゴシック体終わり]
ルシファー君の動きも、喋《しやべ》る内容も、その前とそっくり同じだった。ただ、第六チェックポイントという部分を、第七に変えてあるだけである。
[#ここからゴシック体]
「さてさて、CPは、ここで終わりです。長らく、ご苦労様でした。パチパチパチ……。ここから先は、ご自由に行動していただいてけっこうです。ただし、バングル・バングルの外へ出ようとする行為は、厳禁ですよ? 今さら言うまでもないと思いますが、違反者には、重大なペナルティが科せられますからね。ほんのご参考までに、これまでのCPの位置を記した簡単な地図を作ってみましたあ。移動する際には、ぜひ活用してみてくださいね※[#ハート黒、unicode2665]」
[#ここでゴシック体終わり]
落胆は、怒りへと変わった。藤木は、愛想を振りまいているネズミのアニメーションを、睨《にら》みつける。定められた順路は、すべて踏破した。だったら、ここが終着点のはずではないか。少なくとも、ゴールへの道筋は示されるものと思っていた。自由に行動しろというのは、どういうことなのだ。
もちろん、その答えは、聞かずともわかっていた。
おそらく、プラティ君が言っていたとおりなのだ。ほかのプレイヤーが生き残っている間は、ゴールなど、どこにも存在しないに違いない。
[#ここからゴシック体]
「それでは、ルシファー君の、耳寄り情報コーナー! ここでは、あまり知られていない、とびっきりの情報をお教えしまーす。心して、よーく聞いてくださいね。いいですか? 言いますからね? 聞き逃したら、きっと、一生後悔しますよお……」
[#ここでゴシック体終わり]
この後はまた、前回のように、くだらないお喋りに終始するのだろうか。藤木は、内心げんなりした。だが、続いて出てきたメッセージは、予想を裏切り、鳥肌の立つような、おぞましさに満ちたものだった。
[#ここからゴシック体]
「もう、南ルートへ行った人たちと遭いましたか? きっと、まだなんでしょうね。だって、もし遭ってれば、無事でいる可能性は、あんまりないでしょうからね。まあ、たぶん、前任者も警告していると思いますが、これからも、できるだけ遭わないようにした方がいいですよお」
[#ここでゴシック体終わり]
ルシファー君の背後に奇怪なキャラクターが現れた。人間らしいのだが、両眼が出目金のように飛び出し、尖《とが》った歯の間から、だらだらと涎《よだれ》を垂らしていた。体は針金のように痩《や》せこけ、腹が飛び出している。
まるで絵草紙にある餓鬼だ……。そう思ってから、藤木は強いショックを感じた。
これは、現在の楢本らの姿そのものではないか。だとすると、彼らの変貌《へんぼう》は予想通り、いや、ゲームの主催者が最初から意図したものだったのだ。
ルシファー君は、餓鬼に気がつくと、にこやかに握手の手を差し出した。すると、たちまち餓鬼に喰いつかれ、肘《ひじ》から先が骨だけに変わってしまった。
[#ここからゴシック体]
「おやおや……! 困ったもんですねえ。よっぽど、お腹が空いてたみたいです。でも、みなさんだって、こんなふうに囓られちゃう恐れがあるんですよ。さて、その秘密は? 実は、彼らが南ルートで獲得したアイテム、食べ物にあるんです。その点、食事を早めにブッシュ・タッカーに切り替えたみなさんは、大正解でしたあ!」
[#ここでゴシック体終わり]
餓鬼は、今度はルシファー君の脚にかぶりつき、肉を喰いちぎり始めた。
[#ここからゴシック体]
「アイテム一覧の中に、FSビスケットと缶ビールというアイテムが載ってたんですけど、覚えてますかあ? ※[#髑髏マーク、unicode2620]がついてて、罠っていう注釈があったヤツですよ。まさか、みなさんは口にはしなかったでしょうね? まあ、それでも、一口ぐらいならだいじょうぶ。大勢に影響はないですから。
でーも、南ルートをたどった人たちは、そうもいかなかったでしょうねえ。なにしろ、その後も、折に触れては、何度も同じアイテムをゲットしてるんですから。本当は、通常の食事はきちんと摂った上で、あくまでも夜食代わりに、補助的に用いる食品なんですけどねえ……」
[#ここでゴシック体終わり]
ルシファー君は、あっという間に、体の半分が骸骨《がいこつ》になってしまった。画面の下手《しもて》から、もう一匹の餓鬼が現れ、彼をがりがりと囓り始める。
[#ここからゴシック体]
「まずは、FSビスケットの秘密! FSっていうのは、何の略だかわかりますかあ? 南ルートを選んだ人たちには、一応、Famine Saver つまり、飢餓を救うものだと説明してあったんですけど、嘘でした。ぷっ。本当は、Fat Slicer なんですよ。直訳すると、脂肪を切り取るものっていうことですねえ。
FSビスケットっていうのは、すごーく強力なダイエット用食品で、脂肪の燃焼を促進するビタミンB群のほかに、基礎代謝を亢進する甲状腺ホルモンと、テストステロンなどの男性ホルモン、交感神経を刺激する向精神薬(カフェイン、アドレナリン)などが添加されていまーす。
それから、甘味料には、エリスリトールとキシリトールが使われてるんですよ。前者は、小腸で吸収されるものの、九十パーセント以上が尿から速やかに排泄されるため、事実上、カロリーはゼロです。エリスリトールには、摂りすぎると下痢をするという、困った副作用もあります。
もちろん、FSビスケットは、薬事法には、しこたま違反してるんで、すぐに発売禁止になって、大量の在庫が残されたというわけです。まあ、そのおかげで、タダみたいな値段で入手できたんですけどねえ」
[#ここでゴシック体終わり]
ルシファー君は、体中ほとんど骨になりながら、ウィンクした。
|脂肪を切り取るもの《フアツト・スライサー》……。藤木の脳裏には、巨大なナイフのイメージが浮かんでいた。まるでバターでも切るように、人間の脂肪を削《そ》ぎ落としていく。
[#ここからゴシック体]
「だけど、この中で一番問題になるのは、何といっても甲状腺ホルモンなんですよねえ。一般には、動物(ウシ、ブタ)の新鮮甲状腺を乾燥した乾燥甲状腺(チレオイド)、レボチロキシンナトリウム、リオチロニンナトリウム(チロナミン)の三種類が市販されているんですけどお、FSビスケットには、このすべてが使われていまーす。
かつて、甲状腺ホルモン剤は、FSビスケットに限らず、痩せ薬としてかなり一般的に用いられていたんですって。ところが、バセドウ病によく似た深刻な副作用を引き起こすことがわかって、使用禁止になったんですよ。甲状腺ホルモンが過剰になると、以下のような症状が現れます。動悸、発汗、手指の震え、だるさ、体重減少、食欲亢進[#「食欲亢進」に傍点]、精神的不安定、不眠、微熱、下痢、月経不順……」
[#ここでゴシック体終わり]
ルシファー君は、甲状腺ホルモンの作用について詳しい説明を続けた。酸素の消費を刺激し、心拍数や熱量の生産を高める上、大量投与では、タンパク質の分解が促進され、著しい体重の減少を引き起こすらしい。
[#ここからゴシック体]
「甲状腺ホルモンの過剰投与を受けると、どんどん痩せてく一方で、活動性はやたらめったら向上し、一時的にハイになったりしまーす。ハイというより、超活動的《ハイパー》と言った方がいいみたいですねえ。その反面、非常に怒りっぽく、攻撃的にもなるんですよお。ほーら、ちょうど、この連中みたいに……」
[#ここでゴシック体終わり]
ルシファー君は、すでに頭だけの存在になっていた。彼の耳を食いちぎろうとして歯を噛《か》み鳴らしている餓鬼に、顎《あご》をしゃくる。
[#ここからゴシック体]
「顔つきにも、すごーく特徴的な変化が現れます。だんだん眼球が突出してきて、目のサイズが、見かけ上以前より大きくなり、黒目の割合が相対的に小さくなるため、きわめて恐ろしげな顔になるんですねえ!」
[#ここでゴシック体終わり]
藤木は、遠くから垣間見《かいまみ》た楢本らの様子を思い出して、身震いした。FSビスケットは、生命の炎を煽《あお》り、残り少ない体内の燃料を、急速に消費させていったのだろう。大量に摂取したエリスリトールの作用で下痢をし、腸内が空っぽになり、食べれば食べるほど、理不尽な空腹感に苦しめられる。彼らは、ゲームの主催者の奸計《かんけい》によって、緩慢な飢餓地獄へと突き落とされたのだ。
[#ここからゴシック体]
「次は、缶ビールに隠された秘密でーす! この暑さですから、ぐっと飲み干したくなるのはわかりますが、そこを抑えて、一目でいいから缶の底を確認しておくべきでしたね。そうすれば、針の先くらいの穴をハンダで塞いだ跡が見つかったはずなんですが……。
まあ、不細工な仕事ですから、発見は容易だったと思います。それに味の方も、何だか苦かったんじゃないでしょうか? 何しろ、このビールの中には、数十種類の幻覚剤や向精神薬をブレンドした、特製のナルコティック・カクテルが入っていたんですからね! 飲まなかったみなさんは、ラッキーと言えるでしょう。パチパチパチ。
このナルコティック・カクテルは、ある麻薬シンジケートで、優秀な兵士を作るために開発されたレシピに基づいているのですが、残念ながら失敗作だったみたいです。がっかりですね。意識の明晰さを保ちつつ、良心や人間的な感情だけが麻痺するようにしたため、社会病質者《ソシオパス》というか、単なる殺人鬼、サイコ・キラーを量産することになってしまったんですねえ……。くわばらくわばら。何事も、やりすぎは禁物。やっぱり、ハシシくらいが、実用的かつ無難なようでした。
さてさて、短いお付き合いでしたけど、みなさんだけは、こんな運命に遭わないよう、お祈りしながらお別れしたいと……!」
[#ここでゴシック体終わり]
上下の顎と舌だけになっても喋《しやべ》り続けていたルシファー君を、二匹の餓鬼が唸《うな》りながら、とうとう完全に喰い尽くしてしまった。喰うものがなくなった餓鬼が、やおらこちらに視線を向けたところで、フェードアウトする。
「POCKET GAME KIDS」[#「「POCKET GAME KIDS」」はゴシック体]という初期画面に戻ってからも、ゲーム機を持った藤木の手は、小刻みに震えていた。
やはり、最初の選択肢がすべてだった。南ルートを選んだ組が、初めから、鬼ごっこの鬼、食屍鬼《グール》となる役回りだったのだ。
だとすると、楢本らとは、いかなる形の交渉も不可能だ。これからは、彼らに見つからないように、バングル・バングルを逃げ回るしかない。
彼らがエネルギーを使い果たして餓死するか、それとも、こちらが捕まって、喰われるまで……。
「本気なの?」
藍が、難詰するように言った。
「ああ。こうするよりない」
「でも、一度電池を外しちゃったら、今までの情報は全部……」
「大事なことは、頭に入ってる。それよりも今は、逃げ切ることを考えなきゃならない。そのためには、この受信機が、どうしても必要なんだ」
どうしても必要になるバングル・バングルの絵地図だけは、藍に描き写させてあった。
「そんなこと言って……。本当は、わたしに、補聴器の電池を差し出させようと思ってるんじゃないの?」
「いや。そのことは、もういいんだ」
藤木は、ゲーム機の裏蓋《うらぶた》を開けた。
「でも、どうして、その受信機が役に立つってわかるのよ?」
「ゲーム機の動作時間だよ」
藍はまだ気がついていないようだったので、藤木は説明した。
「この機種は、本来なら、単三アルカリ乾電池で二十時間動くはずだ。ところが、ゲームの主催者は、十時間しか動かないと、わざわざ断っている」
「それは……温度とか、環境のせいじゃないの?」
「それにしても、二倍も違ってくるとは思えない。必ず、別の理由があるはずだ。……たとえば、ゲーム機の中に、余分な電力を消費する別の部品が組み込まれているとかね」
「別の部品?」
「可能性だけなら、いろいろ考えられるが、俺は、盗聴器しかあり得ないと思う」
藤木は、読み返したばかりの「火星の迷宮」の選択肢を思い浮かべた。
敵の動きを聞くことができる法螺貝《ほらがい》を得ようと思えば、賢者のクリスタルを諦《あきら》めなくてはならない。侏儒《ドワフ》との取引に応じた場合は、ハッピーエンドへの道が開かれた。だが、拒絶した場合は、遅かれ早かれ、いずれかの怪物によって貪《むさぼ》り喰われてしまうのだ。
意を決して、二個の乾電池を抜き取る。
「盗聴? それ、どういうこと……?」
藤木は答えなかった。受信機に電池をセットし、スイッチをオンにする。ザーッという音の中に、何かが聞こえたような気がした。アンテナをいっぱいに伸ばし、あちこちに向けてみる。藍のそばに近づくと、ひときわ雑音がひどくなった。
「どうも、君の補聴器のせいみたいだな。少し、離れてみよう」
藍から二歩、三歩と遠ざかりながら、藤木は気がついた。
もし、自分の推測通り、ゲーム機の中に盗聴器が仕込まれていて、それをこの受信機で聞くことができるのなら、結局、自分のゲーム機からは、電池を抜き取らざるを得ない。周波数が同じなのだから、自分のゲーム機が拾った音声が、ほかをかき消してしまうからだ。
つまり、魔法の法螺貝を使うためには、どちらにしても、賢者のクリスタルは放棄しなければならないようになっているのだ。
突然、鮮明な音声が飛び込んできた。
[#ここからゴシック体]
「……あいつの強さは、半端じゃねえよ。あ、あのガタイだしよ」
「だいじょうぶだ。こっちは三人。三対一でふいを襲えば、問題なく勝てる」
「けど、あいつは、やけに用心深いし、相当いろんな武器を持ってるぜ。ボウガンとか、スリングショット、マシェト、サバイバルナイフに、スタンガンまで」
「だから、おまえの役割が重要になるんだ」
[#ここでゴシック体終わり]
喋《しやべ》っているのは、船岡と楢本のようだった。発言には加わっていないが、鶴見もそばにいるらしい。声が微妙にダブッて聞こえるのは、三人の持っているゲーム機が、重複して音を拾っているためだろう。
だが、あまりにもはっきりと会話が聞き取れることで、藤木はかえって狼狽《ろうばい》した。
彼らは、すぐ近くにいるのだろうか。
それから、蟻塚に隠されていた中継機のことを思い出す。アルカリ乾電池を食いつぶさない程度の電力で、しかも常時発信し続けているのだから、ゲーム機から出ている電波は、きわめて微弱なものに違いない。だとすると、音質の良さは、彼らが最寄りの中継機からあまり隔たってはいないということを意味するのだろう。おそらくは、どこかのチェックポイントにいるのだ。
[#ここからゴシック体]
「まさか、今さら、嫌とは言わないだろうな?」
「え? そ、そんなこたあ、ねえよ……」
「妹尾だけじゃなく、俺たちまで敵に回して、生きていけると思うか?」
「思わねえ! 思わねえって。だから、こうして、あんたらに、きょ、協力してるんじゃねえか」
「……そうだ。我々三人が力を合わせれば、必ず勝者になれる。だが、それには、あの妹尾のヤツが邪魔だ。妹尾さえ始末すれば、残りは、くたびれたオヤジに女だ。どうとでもなる。楽な獲物だな。だが、もしも、妹尾から先制攻撃を受けたら、こっちが三人でも、勝てる保証はない。いや、たぶん、やられる」
「そ、そうだな」
「おまえも、ヤツには、恨みがあるんじゃないのか? 相当、ひどい目に遭わされてたんだろうが?」
「そうだ。そうだよ。あんな野郎、普通に殺すんじゃ、もったいねえよ。お、俺を、さんざん虐待しやがって……」
「だったら、その恨みを晴らしたいとは思わないか?」
「おお。と、当然だぜ。あ、あの野郎……!」
「おまえは、妹尾のところに戻れ。勝手に逃げ出したことに、詫《わ》びを入れてな。……やっぱり、一人では生き延びる自信がありません。何でもしますから同行させてください、と。そう言えば、少しぐらい殴られても、命までは取られないだろう」
「ああ、そ、そうだな」
「その後で、タイミングを見計らって、俺たちを手引きしろ。合図は、さっき言ったとおりだ。できるだけ、ヤツの注意を引きつけておけ。その隙《すき》に、俺たちが背後から襲う」
「あ、ああ。わかった」
[#ここでゴシック体終わり]
楢本は、妹尾襲撃計画について、細かく指示を出していった。船岡は、言われるままに復唱する。声には、小刻みなカチカチいう音が混じっていた。かなり怯《おび》えているようだ。だが、ほかに生き延びる道はないと、肚《はら》を決めたのだろう。
それでも、船岡には、どうしても心に引っかかる問題があったらしかった。楢本の指示が一段落すると、精一杯の勇気を振り絞って、初めて自分から質問を試みる。
[#ここからゴシック体]
「……な、なあ、あんたたちさあ」
「何だ?」
「そのさ、あ、あんたたちの顔のことなんだけど……」
[#ここでゴシック体終わり]
しばらく、嫌な間があった。
[#ここからゴシック体]
「俺たちの顔が、どうかしたのか?」
「い、いや、その……気を悪くしないでくれよ」
「なあ、鶴見さんよ。船岡さんには、俺たちの顔が、どっかおかしく見えるそうなんだが、あんた、わかるか?」
[#ここでゴシック体終わり]
低い野獣のような唸《うな》り声。鶴見のものらしいが、状況を知らなければ、人間の声帯から発せられた声とは思えないだろう。
[#ここからゴシック体]
「鶴見さんにも、よくわからないようだな。俺たちの顔が、どうかしたか?」
「い、いや、何でもない」
「何でもないってことは、ないだろう? 言いかけたことは、最後まで言えよ。気になるじゃないか? それで? 俺たちの顔が、どうしたって?」
「ほ、本当に、何でもないんだ。お、俺の、勘違いだ。悪かった……」
[#ここでゴシック体終わり]
会話は途切れた。何でもいい。現在位置を示すようなことを、何か言ってくれないだろうか。藤木は、期待しながら少し待ってみたが、その後は、がさごそいう雑音しか入らなくなった。貴重な電池を節約するために、受信機のスイッチを切る。
「どうするの?」
藍の声は、震えていた。
「そうだな……」
情報という点では、自分たちは現在、圧倒的な優位にある。だが、その優位を生かす方法を、何一つ思いつかないのだ。
藤木は、今知ったばかりの情報を妹尾に教え、共闘したいという誘惑に駆られていた。彼と一緒なら、あの鬼どもが相手でも、むざむざと殺されることもないだろう。ここで、唯一彼らと対抗できる力を持つ妹尾を見殺しにすれば、次は、我々の番だ。
妹尾は、FSビスケットやビールを口にしてはいないはずだから、おそらく、まだ話せばわかるに違いない。彼の危機を救ったということで、恩を売っておけば……。
いや、だめだ。
藤木は、ひたすら現実から目を塞《ふさ》ぎ、都合のいい幻想に逃げ込もうとしている自分に気がついた。
まず、どう考えても、楢本らより先に妹尾を発見するのは、まず不可能だろう。船岡は、直前まで妹尾と行動を共にしていたらしいから、居場所も、ほぼ見当がついているはずだ。我々が、いたずらに周辺をうろうろしていれば、先に楢本らに見つけられてしまう危険性が増すことになる。
それに、妹尾にすべてを話すということは、我々の持っている優位を手放し、彼の支配下に入るということだ。あの鬼たちよりは多少ましかもしれないが、妹尾とて、冷酷で戦闘的な人格であることには変わりない。恩義を感じるようなこともないだろう。せいぜいが、船岡のように虐待を受けた末、あっさりと殺されてしまうのがオチだ。
頭の中で、もう一度、整理してみる。
東ルートへ行き、サバイバルのためのアイテムを求めたのは、野呂田と加藤の二人だった。野呂田は、そつなく司会役をこなしていたところを見ると、協調性を持った人物のようだった。学校の教師だったという加藤も、穏やかな人柄のように見受けられる。
西ルートで護身用のアイテムを選んだのは、今、楢本と話していた船岡と、巨漢の妹尾だ。この組は、すでに分裂している。だが、一人になったところで、妹尾は、依然侮りがたい存在だろう。
南ルートで食糧を取りに行ったのが、楢本と鶴見、それに殺された安部芙美子の三人だ。楢本らが安部芙美子を殺害して喰ったのは、もはや疑いはない。甲状腺《こうじようせん》ホルモンやナルコティック・カクテルといった薬物によって、彼ら二人は、すでに人間以外のものに変貌《へんぼう》していると考えた方がいいだろう。
そして、我々二人は、情報を求めて北ルートへ進んだ……。
プラティ君の忠告にもあったように、共闘するとすれば、野呂田と加藤のペアしかありえない。それとて、このゲームが本質的にゼロ和《サム》である以上、無期限というわけにはいかないが、少なくとも、五|分《ぶ》の条件で協力関係を作ることができるはずだ。
「……今は、ほかのグループに接触することは、考えない方がいいだろう。とりあえず、楢本らにだけは見つからないよう、逃げるしかない」
藤木がそう言うと、藍は深刻な顔でうなずいた。
むやみに動き回るのは、危険だった。藤木と藍は、安全と思われる隠れ場所を見つけると、一時間おきに受信機のスイッチを入れて、楢本らの動静を探ることにした。とにかく、彼らの位置を知ることが、最重要課題なのだ。彼らの会話には、なかなかヒントとなるような言葉は出てこなかったが、夕方近くなって、船岡の興奮した叫びが飛び込んできた。
[#ここからゴシック体]
「お、おい! これ見ろよ。赤い光だ。これ、チェックポイントじゃねえか?」
「大声を出すな。誰かに聞こえたら、どうする」
[#ここでゴシック体終わり]
楢本が、不機嫌な声で応じる。
[#ここからゴシック体]
「俺たちは、ここを通った覚えがないな。別ルートの分だろう。一応、メッセージを確認してみろ」
「ああ……。あ、あれ?」
「どうした?」
「いや。何か、変なメッセージが出てんだよ。意味が、よくわかんねえんだが」
「見せてみろ。……交換? 何のことだ?」
[#ここでゴシック体終わり]
藤木は、目をつぶった。彼らは偶然、こちらのルートの、第三チェックポイントを見つけたのだ。彼らが見ているメッセージというのは、「カセットを交換してください」に違いない。
楢本は、しばらく考え込んでいたが、低い、ぞっとするような声で言った。
[#ここからゴシック体]
「そうか。わかったぞ。いっぱい、食わされたな」
「どういうことだよ?」
「北へ行ったヤツらだ。あいつらは、別のカセットを見つけてたんだ。そのカセットがないと、ここでは、新しい情報が得られないというわけだ」
「北っていうと、あの、藤木っていう野郎と、女か! ちくしょう! そ、それじゃあ、まだ、近くにいるんじゃねえか?」
「いや。カセットを換えろと指示されているということは、ここはまだ、最初のチェックポイントだろう。ヤツらは、もう、ずっと先へ進んでるはずだ」
[#ここでゴシック体終わり]
鶴見の猛獣じみた唸《うな》り声が、途中で楢本の声をかき消す。
[#ここからゴシック体]
「北ルートの情報が、たったあれだけというのは、変だと思ってたんだ。ほかのルートとの、バランスが取れないからな。……ということは、つまり、ヤツら、自分たちの情報は隠しておいて、俺たちのアイテムだけは取って行ったわけだ。ずいぶんと、舐《な》めた真似《まね》をしてくれたもんだな。見つけたら、そのツケは払ってもらう。あの男……藤木か。ヤツは、武器の実験台にでも使うか。女は、愛玩《あいがん》用に、たっぷりと楽しませてもらうことにしよう」
「あ、ああ……そ、そうしようぜ。それがいい!」
[#ここでゴシック体終わり]
藤木は、受信機のスイッチを切った。
「あいつらの現在位置は、第三チェックポイントだ」
藍が、蒼白《そうはく》な顔で地図を手渡す。確認してみると、現在位置からは、直線距離で二、三キロしか離れていない。
「ここは、近すぎて危険だ。すぐに移動しよう」
「でも、どっちへ行くの?」
「とりあえず、あいつらとは反対の方角だ。この後、あいつらがどっちへ向かうのか、わからない。こっちへ来る可能性も考えると、最低でも、十キロは離れておきたい」
藤木は、ここにいた痕跡《こんせき》を消すために、あちこちに張り巡らしたワナをすべて撤収した。それから、静かに移動を開始する。
アカシアの梢《こずえ》に止まったクリムゾン・フィンチが、甲高い声で鳴いていた。
[#改ページ]
8
[#ここでゴシック体終わり]
ぼんやりとした月明かりが、バングル・バングルを照らしていた。
たかだか三、四十メートルほどの岩山の連なりが、威圧的なまでの存在感で迫ってくる。赤っぽい紫に、黒に近い濃紺の横縞《よこじま》。毎晩のように見ている光景が、ひどく神秘的に映り、畏怖《いふ》すら覚えるのだ。
岩山が、いつもよりくっきりと鮮明に見えるのは、楢本らから発見されるのを恐れて、焚《た》き火をやめているせいもあるだろう。
だが、理由は、それ以外にもあった。生命の危機が間近に迫っていることで、五官のすべてが、かつてなかったほど研ぎ澄まされているのだ。
生き残るために、あらゆる感覚情報の感度を上げようとする、生物としての本能のなせる業なのか。それとも、この世に別れを告げる前に、すべての感覚を再確認し、貪婪《どんらん》に味わっておきたいという、ヒトとしての意識が作用しているのだろうか。
「藍」
藤木は、肺胞を震わせるような低い声で言った。昔読んだフォーサイスの小説に、ぼそぼそした低音の方が、ささやき声より聞き取られにくいとあったのを、思い出したからである。
「何?」
藍は、初めて会った晩のように、両膝《りようひざ》を抱え、その上に顔を埋めていた。喋《しやべ》るときにも顔を上げないので、声がくぐもって聞こえる。
「この前、言ってただろう? 君が、高校生の頃《ころ》、麻薬中毒になったって」
「……メタンフェタミンよ」
「そうそう。シャブ中だったよな」
冗談めかして言ったものの、藍は反応しなかった。
「そのあと、どうやって立ち直ったかは、結局、教えてくれなかったじゃないか」
彼女は、相変わらず顔を上げようとはしなかった。叱《しか》られて泣いている、子供のような姿だった。
「続きを、今、話してくれないか」
「どうして?」
「今のうちに聞いておかないと、もう、チャンスがないかもしれない」
「……そんなの、聞いたって、しかたがないわよ」
「そうかもしれない。でも、知りたいんだ」
「何で?」
「君のことを、何でも、もっと知っておきたい。何もかも……」
藍は顔を上げた。瞳《ひとみ》が月の光を受けて光り、藤木は何となく猫を連想した。
「それって、わたしを口説いてるわけ?」
「……まあ、そう受け取ってくれてもかまわないが」
藤木は口ごもった。
「何よ、それ? 官僚の答弁みたい。そんな、逃げ道をいっぱいこしらえながらのアタックで、なびく女がいると思う?」
「こういう性格だから、しかたがない」
「恋愛より、サバイバル向きの性格なのかな?」
「玉砕よりジリ貧というのが、基本的な信条なんだ」
藍は、くすっと笑った。
「負け組の、家康タイプ?」
「弱い信長よりは、まだしも長生きできる」
「たとえ、ホームレスになってでも?」
藤木は、痛いところを衝《つ》かれて沈黙した。藍は、失言に気がついたようだった。
「……ごめんなさい」
「別に、謝ることはないよ。そのとおりだから」
「いいえ。あなたの、その慎重さのおかげで、わたしは、まだ生きてるんだわ」
「ホームレスより、はるかに悲惨な状況だけどな」
藍はうっすらと笑って、首を振った。
「ねえ……もし、二人とも、ここを生きて脱出できたら」
「うん」
「東京で、また会ってくれる?」
「もちろんだ。どこか、小綺麗《こぎれい》なレストランで、一緒に祝杯を挙げよう」
「祝杯だけ?」
「いや……それは、何でもいいけど」
藍は微笑《ほほえ》みながら、しどろもどろになる藤木を見つめていた。
「ねえ。少し、寒くない?」
「寒い? そりゃ、焚き火はしてないが、気温はかなり高めだと思うけど……」
「そばにいってもいい?」
藤木の返事を待たずに、藍は立ち上がり、すぐ横にきた。ぴったりと肩を合わせるようにして座る。彼女の呼吸と体温を皮膚で感じ、藤木の心臓の鼓動が早くなった。
「藤木さん。ほんとうは、わたしみたいな女、嫌いよね?」
「そんなことはないよ。どうして、そう思うんだ?」
「だって、背は大きすぎるし、補聴器はしてるし、職業はエロ漫画家だし、それに、昔は、重度の薬物中毒だったのよ?」
「どれも、たいしたことじゃない。君は、一生懸命に人生を生きてるじゃないか。俺は、一度も真剣になったことはなかった。……ただの負け犬だ」
藤木は自嘲《じちよう》した。
「違う。今までは、ただ、勝ち運がなかっただけ。きっと、これから流れが変わるのよ。このゲームも、絶対、あなたが勝者になる」
「……俺たち二人が、勝ち残るんだ」
返事の代わりに、藍は、藤木の首に手を回し、唇を合わせてきた。
藤木は藍を抱き寄せ、激しく唇を貪《むさぼ》った。彼女も、負けずに情熱的に応《こた》える。杏子とも、こんな風にした記憶はなかった。
こういう状況でもなければ、我々がこんな関係になることはなかっただろうなと、藤木は頭の片隅で思う。やはり、二人とも、強烈に死を意識しているからかもしれない。明日があるという保証がないからこそ、今という時を燃焼し尽くさなければと思うのだろう。 それとも、我々は単に、恐怖から逃れようとしているだけなのだろうか。
ようやく、藍が顔を離した。肩が大きく上下している。月明かりでも、顔がうっすらと紅潮しているのがわかった。
「ねえ……」
それ以上の言葉は、必要なかった。藤木は、藍の上に覆い被《かぶ》さっていった。
彼女の乳房は、藤木の掌《てのひら》の中で柔らかく潰《つぶ》れた。尖《とが》った乳首を含むと、藍は喉《のど》の奥で、うっという声を出し、それを恥じるように自分のひとさし指を噛《か》んだ。
接吻《せつぷん》のときの積極性とはうって変わって、藍は、まるで動くことを恐れているように、受動的な姿勢のままだった。細かな反応から、藤木の愛撫《あいぶ》に深く感じているのはわかる。唯一、補聴器をつけている左耳に触れようとしたときは、嫌がって顔をそむけ、手で押さえた。耳には、よほど深いコンプレックスがあるらしい。
けっして声を立てないようにしているのは、用心のためか、恥じらいのためか、判然としなかった。
こんな事をしていていいのか。藤木の頭の中で、辛辣《しんらつ》な批判の声が上がった。
楢本らから一時的に遠ざかったとはいえ、現在、彼我《ひが》にどのくらいの間隔があるかさえ定かではないのだ。性交中というのは、どんな生き物にとっても、最も無防備な瞬間だ。今襲われたら、逃げようとすることさえできず、あっさり殺されるだろう。
そうでなくても、今は、極力、体力を温存すべきではないのか。一時的な快楽のために、いったい何カロリー消費するのか考えてみろ。それに、逃げながらでは、今までのように、ブッシュ・タッカーを集めることもままならないはずだ。
だが、それでも、藤木の固くなったものは萎《な》えることがなかった。自暴自棄になっているのかもしれない。手早くベルトを弛《ゆる》め、バングル・バングルの荒野を歩くうちにボロボロになったズボンを引き下ろした。藍のジーンズを脱がせようとすると、彼女は腰を上げて協力する。軽々とブリッジのような姿勢になれるところをみると、割合に筋力は発達しているらしい。そのとき藤木は、思いついたことがあった。
「ちょっと、待ってて」
藍から離れようとすると、彼女は、下からしがみついてきた。
「どこへ行くの?」
「どこへも行かない。こんなときのために、格好のアイテムがあっただろう?」
「アイテム?」
藍は顔をしかめた。
「コンドームだよ」
「だめよ。無駄に使ったら」
「だいじょうぶだよ。水袋には、まだ、使い切れないくらい残ってるから」
「いや」
藍は、藤木の腕をつかんで引き寄せた。
「あんなもの、使わないで! ゲームのためのアイテムなんて、わたし、絶対にいやよ!」
「しかし……いいのか?」
「そんなもの、いらない。あなたとじかに触れ合いたいの」
考えてみると、馬鹿馬鹿しい心配をしていたことがわかった。妊娠する危険性が何だ。二人とも、いつまで生きられるかもわからないのだ。だとしたら、彼女の言うとおりにして、何の不都合があるだろう。
それにしても、俺は始終計算ばかりしているなと、自嘲《じちよう》気味に思う。せめて、こんなときくらい、本能の赴くままに行動すればいいじゃないか。
藤木は、そうすることにした。
途中、藍の顔に目をやると、彼女は、押し寄せてくる快感の波に耐えるように、指を噛みながら、じっと星空を見上げていた。
藤木は目を瞬く。
彼女の瞳《ひとみ》の中には、月が二重に映っているように見えた。
翌朝、まだ暗いうちに、二人は木の実で簡単に朝食を済ませ、移動を開始した。
とても、昨晩の余韻を引きずっていられるような心の余裕はなかった。夜明けとともに、猫とネズミのゲームが開始されるのだ。楢本らは、まだ、こちらをターゲットとはしていないものの、偶然にでも出くわしてしまえば、獲物にされるのは、まず確実だろう。
藤木は、朝のうちに二回、受信機を作動させた。スピーカーを使うと早く電池を消耗させるという配慮から、イヤホンを使う。どの組も、中継機から隔たった場所にいるらしく、聞こえるのは、ただ雑音だけだった。
「昨日は、ほぼ真西へ十二キロ来たから、現在位置はこのあたりだろう」
藤木は、地図を指して説明した。
「楢本らは、今ごろ、妹尾を追っているはずだ。どの方角に進んでいるのかはわからないが、たぶん、それほどの距離は移動していないだろう。我々は、この間に、南へ転進した方がいいと思う」
「でも、どんどん西へ行った方が、安全じゃないの?」
「今のことだけを考えると、そうかもしれない。しかし、このまま行くと、いずれはバングル・バングルのどん詰まりまで来てしまう。ゲームの主催者の警告に背いてバングル・バングルから外に出るのは、危険が大きすぎる。だとすると、その時点で、北か南へ行くしか、選択肢がなくなってしまう」
「下手をすると、端っこに追いつめられてしまうっていうこと?」
「うん。今のうちに、進路を変えておきたいんだ。楢本らが、南下してくる前に。そして、バングル・バングルの南端に達する前に、今度は東へ回り込む」
「円を描くようにするわけね?」
藍が、飲み込みの早さを見せた。
「ああ。たぶん、それが最も安全な逃げ方だと思う」
問題は、そうやって逃げて時間を稼いだとしても、その後の展望が何もないことだった。楢本らの自滅を期待するのは、楽観がすぎるだろう。
今のところ、唯一現実的な希望と言えば、楢本らが、妹尾との戦いで共倒れになるか、重いダメージを負ってくれることだけなのだ。
南へ向かって数キロ歩くと、見通しのいい平野は少なくなった。独特の形状の岩山が幾重にも連なり、複雑な迷路を作っている。
遠くから姿を見られる心配がないという点では、好都合な地形だった。だが、裏を返せば、角を曲がったとたん、敵に鉢合わせする危険性もある。現実には、そういう事態はあまり起こりそうにはないとは思ったが、心理的な負担は、重苦しくのしかかっていた。
二人は、長い直線の道は避けたいという気持ちから、できるだけ脇道《わきみち》へと折れるようにした。かといって、あまり細い道を選ぶと、先が袋小路になっている可能性も高い。そのたびに引き返して、時間のロスを重ねるようなことは避けたかった。
藍が、突然歩みを止めた。藤木はぎょっとした。彼女は恐怖の表情もあらわに、前方の岩山を指している。
「あそこ……! 今、何か、動いたわ」
押し殺したような声でささやく。藤木は目を凝らしてみたが、何も見えない。
「気のせいじゃないのか?」
「たしかだって! あの、岩山の割れ目みたいなとこで、何かがちらっと動いたのを見たのよ。わたしが気がついたんで、隠れたんだわ」
「動物か?」
藍は、ゆっくりと首を振った。
藤木は、静かに息を吐き出した。彼女が見たというのなら、そこに何かがいるのは事実だろう。それも、人間が。
楢本らではないと思う。そう信じたかった。時間的に、ここまで先回りしているというのは考えにくい。
だとすると、いったい誰なのか。バングル・バングル国立公園は閉園中であり、我々以外に、外部の人間が入り込んでいる可能性は小さい。
もしかすると、妹尾ではないかという疑いが生まれた。敵対するグループの襲撃を迎え撃つために、あそこに陣取っているのではないか。こちらからは見えない位置で、ボウガンが狙《ねら》っているのかもしれない。
「どうしよう?」
藍が、困ったような顔で聞く。
隠れている人間が、こちらの存在に気づいているのは、もはや間違いない。もし、それが楢本らか妹尾であれば、我々が方向を転換して逃げようとしたとたん、追いかけてくるだろう。距離は、せいぜい四、五十メートルといったところだ。とても、逃げ切れるものではない。
藤木は、覚悟を決めた。
「このまま、前進しよう」
「え? で、でも……」
「呼びかけてみるんだ。こちらに、敵意がないことを示す。君は俺の後ろにいてくれ」
藤木は、ポケットに入れてあった催涙スプレーを藍に手渡した。特殊警棒を一振りして伸ばし、ズボンの後ろ側に差す。さらに、右腕の後ろにぴったり重なるようにして、鉈《なた》を隠し持った。
「わかったわ」
藍は、藤木の腕をぎゅっとつかんだ。
一歩一歩、踏みしめるようにして前進する。鼓動が激しくなった。こめかみの血管が、ずきずきとして、破裂しそうだ。
藤木は、気持ちを落ち着けようと深呼吸した。
前方の割れ目だけに、意識を囚《とら》われてはならない。もしかすると、あれは単なる囮《おとり》で、罠《わな》は別にあるのかもしれない。極力、視野を広くもち、周囲の景色全体に気を配ろうと努める。
すると、地面の上にとまっている藪蝿《ブツシユ・フライ》に気がついた。まるで、進んでいくべき道順を示すかのように、そこここに固まっている。
血の跡だ。それも、比較的新しい。
安部芙美子の死体を発見したときにも、やはり、同じように藪蝿《ブツシユ・フライ》が集まっていた。あのときと比べると、ずっと数は少ない。だが、仔細《しさい》に眺めると、赤褐色の砂礫《されき》の上に、点々と血の跡がついているのがわかった。
藤木は、手振りで藍にそのことを伝えた。二人で、目と目を見合わせる。どういう状況なのか、まったく見当がつかないことが、不安をかき立てた。
「そこに、誰かいるんでしょう?」
藤木は、岩の割れ目から十メートルほどのところで立ち止まって、声をかけた。この距離なら、ボウガンで狙われたら百発百中だろう。
「何もしませんから、安心してください」
しばらく待ってみたが、返事はなかった。
「……こちらは、藤木芳彦と大友藍の二人です」
やはり、寂として声がない。どうしようかと考え始めたとき、割れ目の間から、重病人のように蒼白《そうはく》な顔が覗《のぞ》いた。
野呂田だ。茶色いセルフレームの眼鏡はなくなっていたが、間違いない。こちらが二人きりなのを確認すると、野呂田は安心したように口を開いた。
「よかった。あいつらかと、思いました……」
「野呂田さん。怪我をしてるんですか? 加藤さんは?」
半身を現した野呂田の服には、べっとりと血の跡がついていた。
「……あいつらは、この近くまで来てるんですか?」
藤木の質問には答えず、息も絶え絶えに言う。楢本らのことを指しているのは、明らかだった。
「正確にはわかりませんが、かなり引き離していると思います」
それを聞くと、野呂田は、ほっとしたように崩れ落ちた。藤木と藍は駆け寄って、傷の様子を見る。肩口から背中にかけて、ナイフによるものらしいひどい切り傷が、二筋ついていた。だが、どれも、致命傷になるようなものではない。
「加藤さんは、どうしたんですか?」
野呂田は、藤木の目を見ながら、ゆっくりと首を振った。
幸いなことに、野呂田が獲得していたアイテムの中には、消毒薬や抗生物質などの医薬品が含まれていた。また、「アイテム一覧」では評価の低かったスネーク・バイト・キットも、傷口の手当には役立った。
化膿止《かのうど》めの薬を付けて包帯を巻き直すと、野呂田はすぐに意識を失った。死んだように、昏々《こんこん》と眠る。岩の割れ目の奥は、かなり広い洞窟《どうくつ》になっていて、三人がゆったりと生活できそうだった。
「この人、こんな傷で、よくここまで逃げて来られたわね」
藍が、ほっとしたように言う。
「ねえ、さっきから、どうしたの?」
藤木を見て、不安げに言った。おそらく、ひどく難しい顔をしていたのだろう。
「ここは、危ないな……」
「どうして? これだけ、あいつらを引き離してれば……」
「あいつらは、野呂田さんがどっちへ逃げたのか、だいたいの見当はつけているはずだ。妹尾が片づけば、たぶん、真っ直《す》ぐこちらへやって来る」
「でも、この道が、わかるわけないじゃない?」
「じゃあ、我々は、どうして野呂田さんに出会ったと思う? この広い、バングル・バングルで?」
「どうしてって……そんなの、偶然としか」
「そうじゃない。ちゃんとした、必然性があったんだよ」
藍は、わからないというように首を振った。
「我々は、ランダムに道を選んだつもりだった。だが、実際には、逃げるものの心理として必然のパターンをなぞってしまったんだと思う。……ちょうど、野呂田さんと同じように」
「でも、あれだけ、いろんな分かれ道があったのに」
「広い道を直進することは避けて、比較的広い脇道《わきみち》に入る。考えてみると、そんなことばかり繰り返してきた。だとすると、自《おの》ずから進路は限定されてくる。ここで我々が野呂田さんと出会ったのが、何よりの証明だ」
藍は、苦しげに眠っている野呂田を見た。
「しかも、もっと悪いことには、野呂田さんは、途中、点々と血の跡を残してきたはずだ。我々は、直前まで気がつかなかったが、もし、最初から血痕《けつこん》を探していれば、ここまで導かれてくるのは、時間の問題だよ」
藍の顔に、恐怖の色が浮かんだ。
「たぶん、あいつらは、野呂田さんに傷を負わせたときに、そのくらいのことは読んでいたんだろうな。だからこそ、あえて深追いしなかったのかもしれない」
「だったら、早く、ここから逃げなきゃ……」
そう言いかけて、藍は当惑した表情になった。傷を負った野呂田を抱えていては、今までのように、身軽に動くことができない。
「まだ、少し余裕があるはずだよ。あいつらが、先に妹尾の方へ行ってくれればな」
その推測には、それほど無理はないはずだと思う。楢本らが本当に脅威を感じているのは、妹尾一人だけだ。野呂田や我々を追っているときに、背後から妹尾に襲われることが、何より怖いはずだ。だとすれば、真っ先に妹尾を排除したいと思うのは当然だろう。
楢本が言ったように、残りは、くたびれたオヤジと、女だけなのだから。
藤木は、それから一時間おきに、受信機を作動させた。だが、最初に楢本と船岡の会話を聞けたような幸運には、恵まれなかった。
一度、何か硬い物同士を擦《こす》り合わせているような、音が聞こえてきた。しばらく聞いていて、藤木は、それが刃物を研ぐ音だと見当を付けた。
ほかに、会話らしきものがまったく聞こえないところからすると、妹尾だろう。船岡は、まだ帰ってきていないようだった。
こちらから、妹尾にコンタクトする術《すべ》をまったく持ちあわせていないことが、もどかしかった。一言でいい。楢本らが船岡を取り込み、彼を狙《ねら》っていることを伝えられれば、状況はかなり変わる。そうなればもう、楢本らと妹尾のどちらが勝つかは、運次第ということになるだろう。
藤木は、溜《た》め息をついて受信機のスイッチを切った。
ゲーム機に蓄えた情報をすべて失うというコストを払って、受信機を選んだのだが、この分では……。
そうだ。野呂田は、自分のゲーム機を持っているはずだ。
そう気がついて、彼の荷物を探す。藍は急に疲れが出たのか、野呂田の横で、すやすやと寝息を立てている。
ゲーム機は、どこも壊れていなかった。周囲が静かなので、ここから拾った音は受信に影響しなかったのだろう。これで、東ルートで野呂田が見たメッセージの内容がわかるだけでなく、受信機用の予備の電池まで手に入ったことになる。
藤木は、ゲーム機のスイッチを入れた。赤外線ポートに新たな情報が入力されていない場合は、初期画面に続いて、メニューが表示されるはずだった。それによって、過去に蓄えたどのメッセージを閲覧するかを、選ぶことができる。
だが、カラー液晶に表示されたのは、予想もしない画面だった。0から9までの数字と、アルファベット二十六文字、それに、たった一行のメッセージである。
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藤木は数秒間画面を睨《にら》んでいたが、我に返るとスイッチを切った。電池の無駄な消耗は、避けなくてはならない。ゲーム機は、元通り野呂田の荷物の中に戻す。
藤木は、両手で髪の毛を後ろに撫《な》でつけた。頭が混乱して、思考がまとまらない。今のメッセージは、いったい、どう解釈すればよいのだろうか。
差し迫った問題は、山積していた。のんびりと思索に耽《ふけ》っている余裕はない。とりあえず、どうすべきか。
野呂田に直接問いただすのは、時期|尚早《しようそう》だろうという結論を出した。もう少し、様子を見てからだ。それまで、自分がこのメッセージを見たことは、秘密にしておこうと思った。
野呂田だけでなく、藍に対しても。
「楢本たちの様子がおかしいことは、すぐにわかりました」
野呂田は、バオバブの実を口に運びながら言った。
「あの……顔を見たんですね?」
藍が訊《たず》ねる。
「いや。彼らは、私たちと会ったときは、頭からすっぽりと上着を被《かぶ》って、顔を見せないようにしていたんです。強い日差しと蝿を防ぐためだとか言っていましたが……」
「じゃあ、どうやって?」
「雰囲気というか、態度ですね。それに、上着を被っていても、眼光が異様に鋭くなっているのだけは、見て取れましたから」
「それで、逃げようとしたんですか?」
藤木の質問に、野呂田はかぶりを振った。
「あのとき、すぐに逃げ出していれば、即座に殺されていたでしょう。これまで、動物的な勘で感じたことを、すぐに行動に移すという経験がなかったもので、ためらったんです。それが、むしろ幸いしました」
「彼らと、しばらく行動を共にしたんですか?」
「しばらくと言っても、二、三十分のことです。あいつらは、食糧が豊富にある場所に、案内すると言うんです。楢本と鶴見が、私と加藤さんを前後に挟むようにして、歩いていきました」
野呂田は、思い出すだけでぞっとするというように、二の腕を擦った。
「何のことはない。彼らの言う食糧とは、我々二人のことだったんです。我々は、峡谷の行き止まりに来ました。どういうことなんだと彼らに聞くと、いつの間にか、二人とも、武器を構えていました。大型のサバイバルナイフと、ユーカリの木を削って作った槍です。そして、我々に聞くんです。どちらか一人だけは、しばらくの間生かしておいてやる。どちらがいい、と」
野呂田は、しばらく沈黙した。藤木と藍は、黙って、彼が話し始めるのを待った。
「加藤さんには、まだ状況がよく呑み込めていなかったようです。馬鹿なことはやめろと言いながら、楢本に近づいて行きました。楢本は微動だにしませんでした。上着を被ったままなので、よくわかりませんでしたが、たぶん、それから起きることを予想しながら、ほくそ笑んでいたんだと思います。加藤さんは、楢本の肩に手を置きました。ちょうど、教師が問題行動を起こした生徒に対するようにです。すると、上着がはらりと滑り落ちました。今考えると、それも、楢本が、わざとやったのかもしれません」
「わざと……?」
藍が、信じられないというように訊《き》く。
「加藤さんが驚く様を、見たかったんでしょう。それから、私の反応も。あいつらの思ったとおりになりました。加藤さんは、あいつらの顔を見て、恐怖に立ち竦《すく》んでしまったんです」
沈黙が訪れた。
「それで、加藤さんは、殺されたんですね?」
野呂田は、黙ってうなずく。
「でも、あなたは、どうやって逃げられたんですか?」
藤木が、疑問に思っていたことを口にした。藍の表情を見ると、彼女も同じことを考えていたようだ。
「加藤さんは、槍で腹を刺されて、その場に崩れ落ちました。それを見て、私は必死に逃げようとした。すると、鶴見が、後ろからナイフで斬《き》りつけてきたんです。てっきり、そのまま殺されると思いました。だが、鶴見は、とどめを刺しませんでした。直前に、楢本が制止したからです」
「なぜ……?」
藍が訊ねると、野呂田は、うっすらと笑みを浮かべた。
「いちどきに、二人は食べ切れないからですよ。楢本本人がそう言ったんです。ここでは、肉はあっという間に腐敗してしまう。何度か乾し肉を作ろうと試みたが、失敗だったとね。すでに加藤さんを殺した以上、私の方は、遠くまで逃げられない程度の傷を与えて生かしておいた方が、保存が利くと考えたんでしょう。私に、ここまで逃げる力が残っていたというのは、おそらく、誤算だったんでしょうね」
必ずしも、誤算ではなかったのかもしれない。藤木はそう思ったが、口には出さなかった。
「ねえ……あの人たちに、教えてあげればいいわ。ブッシュ・タッカーの取り方や、ワナの作り方なんかを」
藍が、大きな声で言った。
「わたしが、間違ってた。今は、ゲームのことなんかより、殺し合いをやめることの方が、大事なのよ。ほかに食べるものがあるとわかったら、あの人たちだって……」
野呂田は、首を横に振る。
「もう、そういう状況じゃなくなってるんですよ。あいつらが、今さら、小動物や昆虫や木の実なんかを口にするとは思えない。あいつらは、狩りを楽しんでるんです。そして、何より、ヒトの肉に味を占めてしまった」
「そんな……」
藍は絶句した。
野呂田の判断は正しいだろうと、藤木も思った。事態は文字通り、喰うか喰われるかというところまで来ている。こちらに楢本らを喰うつもりがあるかどうかは、別問題だが。
藤木は、二人を残したまま、峡谷を戻り、何度目かの偵察に行った。受信機だけでは、楢本らの接近を発見できるかどうか心許《こころもと》ないからだ。
幸い、異状は何も発見できなかった。藤木が岩の割れ目のところに戻ってくると、二人が小声で話している声が聞こえた。
立ち止まって耳を澄ませてみたが、何を言っているのかは聞き取れない。何ごとか、藍が野呂田に対して、執拗《しつよう》に訊ねているようだ。
何を話しているのか、妙に気になった。少し離れた場所へ行って、受信機のスイッチを入れようかと思ったとき、藍が、割れ目から顔を覗《のぞ》かせた。安堵《あんど》したように言う。
「よかった。藤木さんだったのね。外で、音が聞こえたから」
藤木はうなずいて、笑顔を作った。
翌朝になると、野呂田は、かなり元気を取り戻していた。物静かな学者タイプに見えたが、もともと、頑健な体力の持ち主なのかもしれない。
この分なら、少しずつ移動を開始できるかもしれない。そう思って、イヤホンを付け、受信機をオンにしたとき、それは飛び込んできた。
[#ここからゴシック体]
「おまえ、今まで、どこにいた?」
「だ、だからさあ、あっちの草っぱらの方を、うろうろしてたんだよ。いてえ! もう、勘弁してくれよ。頼むから、殴らないでくれ……ひっ」
「途中、誰かに遭ったか?」
「誰にも、遭わねえ。ほんとだ。信じてくれ。う、ううーっ!」
「何で、戻ってきた?」
「え? そりゃ、一人っきりじゃ、この先どうしようもないって……」
「何で戻ってきた? 殴られるのは、わかってただろう?」
「そ……そんな。こ、心細くなったんだ。ひ、一人で。もし、襲われたらって」
「襲われるっていうのは、何にだ?」
「や、やめてくれ! いちいち、蹴《け》らないでくれよお」
「岩陰に隠してあった死体の一部を見つけた。蝿がたかってたんでな。損傷がひどくて、誰かはわからなかった。だが、死体には、何かに喰われたような跡があった。おまえ、何か知ってるんじゃないか?」
「お、俺は、何も知らねえ。本当だ。神様に誓う。うっ。ううっ!」
[#ここでゴシック体終わり]
藤木は、固唾《かたず》を呑《の》んだ。船岡が、妹尾のところに戻ったのだ。だとすると、楢本らも、すぐ近くにいるはずだ。藤木は、息を潜めて受信機の音声に聞き入った。藍が、「どうかしたの?」と声をかける。
[#ここからゴシック体]
「……い、犬だ」
「どこで見た?」
「だ、だから、草っぱらの向こうにある岩山だよ。五、六匹か、もっといたかも。じっと、こっちを見てやがったんだ。だから、俺は、恐ろしくなって……」
「それが、死体を喰らったって言うのか?」
「そ、それは、わからねえよ」
「この辺りに野犬がいるらしいことは、俺も知ってる。だがな、犬が、わざわざ死体を、行変岩陰に隠したりするか?」
「あ。う、や、やめて。やめてくれよお……」
[#ここでゴシック体終わり]
そのとき、まったく別の音声が、妹尾と船岡の会話に被《かぶ》さるように入ってきた。
「シュー……。足音でも立てたら、アウトだ。静かに、静かに。粛々《しゆくしゆく》と行こう」
ささやき声は、楢本だ。話している相手は、鶴見に違いない。位置関係がわからないものの、楢本らは、すでに妹尾を襲撃する態勢に入っているらしかった。
[#ここからゴシック体]
「おまえ、何か、隠してるだろう? え? こら!」
「お、俺は、何も……」
「いた。真正面。妹尾だ。船岡は、だいぶ痛めつけられてるな」
「おまえが、戻ってきたこと自体が怪しい。本当のことを言ったらどうだ?」
「今がチャンスだ。挟み撃ちにしよう。あんたは、そっちへ回ってくれ」
「俺の後を、ずっとつけてたのか? ああ?」
「最初は、スリングショットだ。命中してから、槍を使う」
「お。俺は……信じてくれ」
「ふざけるな!」
「チャンスは、一度きりだ。手負いにしたら、厄介だからな……」
[#ここでゴシック体終わり]
両方の音声がダブって聞こえるのが、何とも奇異な感じがする。藤木は、汗をかいた掌《てのひ》| (ら)をズボンで拭《ぬぐ》った。できることなら、妹尾に警告したい気持ちだった。だが、音声は聞こえているものの、彼らがどこにいるのかは、見当もつかない。
[#ここからゴシック体]
「おまえの言うことなんか、信じられるか。馬鹿」
「い、痛いいい……!」
「当たり前だろう。痛いようにやってるんだ」
「よせ、やめろ! やめてくれ!」
[#ここでゴシック体終わり]
妹尾らの声に混じって、激しい息づかいが聞こえた。楢本か鶴見の呼吸を、ゲーム機が拾っているのだ。それは、獲物に忍び寄る肉食獣の呼気を思わせた。
[#ここからゴシック体]
「いつまでも強情を張らずに、吐けよ」
「そんなこと言われても、俺、何のことか……」
「吐け」
「うううう……わ!」
「吐け」
「い、いい痛《い》てえ! 痛てえよお!」
「吐け」
「……く。や、やめ……!」
「吐け」
[#ここでゴシック体終わり]
そのとき、妹尾が短い叫び声を上げた。スリングショットだと、藤木は直感した。大型のパチンコを使って、石礫《いしつぶて》を撃ったのだ。
それが、戦いの嚆矢《こうし》だった。どのゲーム機の音声も、激しく物がぶつかったり擦れたりする音で、いっぱいになった。背景では、激しい怒号が渦巻いている。楢本が何か叫んだようだが、言葉までは聞き取れない。
鋭い悲鳴が起きた。苦痛に耐えかねて、絶叫する声だ。
誰の声だろう。藤木は、呼吸を止めるようにして、一心に聞き入った。戦いの帰趨《きすう》は、その直後から、こちらの運命に影響を与えるのだ。
[#ここからゴシック体]
「お……おまえら、化け物……!」
[#ここでゴシック体終わり]
それは、妹尾の声だった。藤木は目をつぶった。
[#ここからゴシック体]
「悪いな。おまえが生きてると、今後の俺たちの計画に差し障る。ここで、死んでくれ」
「……く、くそ。船岡。裏切ったな」
「あれだけひどい目に遭わせておいて、よく言うな。誰だって、裏切るさ……」
[#ここでゴシック体終わり]
楢本は、含み笑いした。
[#ここからゴシック体]
「だが、安心しろ。おまえの死は、けっして無駄にはしない。おまえは、俺たちのエネルギーとなって生きることになる」
「この、外道《げどう》……おまえら、ヒトの肉を……」
「うるさいやつだ。そろそろ、静かにしてもらおうか」
[#ここでゴシック体終わり]
ごつんという鈍い音。激しい絶叫が響く。再び、鈍い音が聞こえた。妹尾のゲーム機が拾っているらしい。たぶん、楢本か鶴見が、次々に大きな石をぶつけているのだ。妹尾の絶叫は、それから数分間は断続的に聞こえたが、しだいに弱まっていった。
藤木は、吐き気を覚えていた。楢本らは、相手の苦痛などおかまいなく、最も安全な方法によって、ゆっくりとどめを刺そうとしているのだ。
[#ここからゴシック体]
「案外、呆気《あつけ》なかったな。こいつも、ただ単に、でかかっただけか……」
「た、助かったよ。俺は、もう少しで、こいつに殺されてるとこだった」
[#ここでゴシック体終わり]
遺体を蹴《け》りつけているらしい音が、連続して聞こえる。それから、船岡の悲鳴。楢本か鶴見のどちらかに、手ひどく殴り飛ばされたらしい。
[#ここからゴシック体]
「暑くなると、腐敗も早い。さっさと仕事をすませようぜ」
[#ここでゴシック体終わり]
野獣のような唸《うな》り声がした。どことなく、満足そうな響きがある。続いて、金属製の物体を擦り合わせるような音。
[#ここからゴシック体]
「お……おい。あんたたち、何すんだよ?」
「まず、服を脱がせよう。それから、手足を根本の関節のところで切り外す」
「や、やめろって。何で、そんなことを……。お、おい、まさか……そんな……!」
「鶴見さんよ。見てみろよ。こいつは、相当喰いでがありそうだな。あの、加藤っていうオヤジの、倍以上あるんじゃないか?」
[#ここでゴシック体終わり]
音は不鮮明だったが、楢本と鶴見が、妹尾を解体し始めたのがわかった。すでに、すっかり手慣れた作業となっているリズムだった。ぶつぶつと肉を切断するような音に、ときおり、楢本の楽しげな軽口と、鶴見の低い唸り声が混じる。
[#ここからゴシック体]
「おい。何を呑気《のんき》に座り込んでんだ? え? 船岡さん。おまえも手伝えよ」
[#ここでゴシック体終わり]
船岡の返事は、聞こえなかった。どうやら、恐怖に竦《すく》み上がっているらしい。
[#ここからゴシック体]
「上げ膳据え膳っていうのは、ちょっと、厚かましいんじゃないか? 荒野では、働かざる者喰うべからずだぞ。え? 聞こえないのか? おまえも……」
[#ここでゴシック体終わり]
藤木は、受信機のスイッチを切った。
これ以上聞いていても、しかたがない。妹尾は死んだ。これで、残っているゲームのプレイヤーは六人ということになるが、船岡も、殺されるのは時間の問題だろう。
楢本らが、人肉しか食べない文字通りの食屍鬼《グール》と化しているのなら、その次に食糧になるのは、ここにいる三人以外には存在しないのだ。
[#改ページ]
9
[#ここでゴシック体終わり]
逃避行は、遅々として捗《はかど》らなかった。気ばかり急《せ》くが、重傷を負った野呂田を連れているため、藍と二人だったときと比べると半分以下の速度でしか歩けないのだ。
幸い、出血は止まっているので、これ以降は血痕《けつこん》を辿《たど》られる心配はなさそうだったが、一時間ほど歩くと、野呂田の消耗が著しいために休憩を取らねばならなかった。
「あいつら、今、どのあたりなんだろう?」
藍が不安げに言う。
妹尾が殺害された現場の生々しい音声は聞いたものの、それがどこだったのかは、わからずじまいだ。
「だいじょうぶだよ。まだ、かなり距離があるはずだ」
藤木は、自分自身に言い聞かせるように言った。
「それに、楢本たちは、少なくとも丸一日は現在地点を動かないはずだ。その間に、血痕が残っている場所から、できるだけ遠ざかってしまえばいい」
「どうして、あいつらは、すぐに動かないってわかるの?」
野呂田が、かすれた声で説明した。
「妹尾さんの遺体を解体してから、たっぷり喰いだめをしようと思うと、かなりの時間がかかるからですよ」
藍は、口元を押さえた。重苦しい沈黙を吹き払おうとして、藤木は言った。
「もう一度、受信機を使ってみるよ。あいつらが、まだあそこにいれば、声が聞こえるはずだ」
藍の補聴器と野呂田のゲーム機が発する電波の干渉を避けるために、藤木は、受信機を持って、四、五十メートル離れた場所へと移った。
スイッチをオンにする。機械は、一、二秒の間、沈黙したままだった。どきりとして、冷や汗が出そうになったが、次の瞬間、楢本の声が聞こえてくる。
[#ここからゴシック体]
「……どうした? え? 腹が減ってるんだろう? 喰えよ。もっと喰えって」
「か、勘弁……う……え」
「吐いたりしたら、この場で殺すからな。……鶴見さんよ。こいつは、見かけによらず、奥ゆかしい性格みたいだ。遠慮のかたまりってやつだな。ちょっと、手伝ってやってくれないか」
[#ここでゴシック体終わり]
藤木は、眉《まゆ》をひそめた。彼らはいったい、何をやってるのだろう。船岡に、無理に妹尾の肉を食べさせているようだが、何のためにそんなことをするのかが、わからなかった。
しばらく受信機に耳を傾けていたが、結局|謎《なぞ》は解けずじまいだった。
受信機のスイッチを切って、二人のところに戻ると、もの問いたげな目が、藤木を迎える。言葉少なに、「まだ、あの場所にいるようだ」とだけ答えた。
その日は結局、五キロ少々進むのがやっとだった。雨が降りそうだったので、庇《ひさし》のある夜営地を見つけるのにも、時間をとられてしまった。
藤木は、二人を夜営地に残して、見晴らしのいい場所に出た。空は雲で覆われ、風が吹きはじめていた。再度、受信機をつけてみる。
おぞましい饗宴《きようえん》は、まだ継続していた。
この気温なら、明日の朝になれば、妹尾の遺体はひどい腐臭を放ち始めるはずだ。それを防ぐためには、焚《た》き火かグラウンド・オーブンで、いったん熱を通す必要がある。
だが、受信機から漏れ聞く情報を繋《つな》ぎ合わせると、楢本らはすでに、マッチやライターなど、火を起こす手段を使い切ってしまったようだった。南ルートで与えられたのは、大半が食糧で、サバイバルに役立つアイテムは、ほとんどなかったらしい。
アボリジニなら、木と木を擦《こす》り合わせて、巧みに火種を作ることもできるだろう。だが、楢本らが、そんなノウハウを持っているとも思えない。
だとすると、明日の朝からは、新しい獲物を狙《ねら》った狩りが開始されるということになる。
その間は、食糧の心配はせずに、獲物の追跡に専念できることだろう。何しろ、たっぷりと食いだめをして英気を養っている上に、非常用の食糧まで持参しているのだから……。
気持ちが悪くなってきたので、スイッチを切った。
だいじょうぶだと、自分に言い聞かす。捕まるはずがない。
あの連中が、いくら獣じみて見えても、野生動物のように鼻が利くわけではない。迷路のようなバングル・バングルの中で、正確に我々を追尾することなど、とうてい不可能なはずだ。
しかも、こちらには、受信機という秘密兵器がある。楢本が、いくら抜け目なくても、まさか、自分たちの会話がこちらに筒抜けになっているとは、夢にも思わないだろう。
だが、いくら好材料と思われるものを並べ立ててみても、いっこうに不安は去らなかった。
何か、肝心なことを忘れているような気がして、しかたがなかったのだ。
翌朝、目が覚めると、一晩中降り続いていた小雨は、上がっていた。
何か、違和感を感じる。きな臭さ。あるはずのない光。そして熱。
顔を起こすと、焚き火が目に飛び込んできた。野呂田が、枯れ枝をくべている。焚き火の上では、串刺《くしざ》しになったトカゲのような生き物が炙《あぶ》られていた。黒地に白の網の目模様が走り、目と尾だけが赤い。|ヤモリ《ゲツコー》の仲間のようだ。
「何をしてるんだ!」
藤木は飛び起きて、焚き火に向かって突進した。表面が焼け始めたヤモリを取り上げて、狂気のように炎を踏み消す。呆気《あつけ》にとられた顔の野呂田を怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎! 誰が、火を焚いていいと言った?」
「……明け方、目を覚まして、偶然そのトカゲを捕まえたんです。お二人に、食べてもらおうと思って。それには、せめて火ぐらいは通しておかないと」
「何を考えてるんだ? ここで煙なんか上げたら、楢本らに、居場所を教えるようなもんだろうが?」
「すみません。こんな小さな焚き火だし、空も曇ってるんで、あまり目立たないだろうと思ったんですが」
「こんな危険なことを、どうして、あんた一人の判断でやるんだよ?」
「すみません。申し訳ない」
野呂田はただ、平謝りに謝るだけだった。
騒ぎで、ようやく藍が目を覚ましてきた。
「どうしたの? あ。焚き火……?」
経緯《いきさつ》を説明すると、藍の眼差《まなざ》しにも、一瞬、露骨な疑惑の色が浮かんだような気がした。
問題は、楢本らが、これに気がついたかどうかだ。藤木は、受信機を持って、小走りに庇の下から出た。歩きながら、電源をオンにする。
何も聞こえなかった。
顔から血の気が引いていくのがわかった。イヤホンをつかんで、耳に当て直す。
空電のようなノイズが聞こえる以上、受信機の故障や、電池切れが原因ではない。
楢本らは、すでに動き出したのだ。
焚き火の煙に気がついたかどうかは、五分五分だろう。だが、今後は、見られたことを前提として、行動しなければならない。
「今すぐ、ここを出るぞ!」
藤木は、二人のところに戻ると、デイパックを背負いながら言った。それ以上の説明は、要しなかった。
三人は、黙りこくったまま歩き続けた。
靴底に粘りつくような嫌な感じを覚えて、藤木は足下を見た。
バングル・バングルの中でも、このあたりの足場は、砂礫《されき》ではなく軟らかい土が主だった。それが、一晩降り続いた小雨のおかげで、粘土状になっているのだ。
点々と残る三人の足跡を見て、藤木は絶望的な気分になった。
足跡をすべて消しながら前進することなど、とうてい不可能だ。楢本らが、煙に導かれて夜営地までやって来たとすれば、足跡を追って来るのに何の造作もない。
しかも、足跡は、単に獲物の逃げた方向を指し示すだけではない。狩人に対して、獲物に関する情報を、きわめて事細かに与えてしまうのだ。
こちらの人数が何人か。体格は。男か、女か。そのうち、何人が元気で、何人が病気や怪我で弱っているのか……。
藤木は空を見上げた。雨さえ、降ってくれれば。血痕《けつこん》も、足跡も、すべてを完全にかき消してくれるような豪雨が……。
だが、天は、味方してくれるつもりはないようだった。昨晩の雨とはうって変わって、今日の空は、抜けるような好天である。
このままでは、捕まるのは時間の問題に違いない。逃げ回るのには、限界がある。
もちろん、野呂田を見捨てていけば、まだチャンスはあるかもしれない。自分たちの命を危険にさらしてまで、他人を救う理由はなかった。まして、現在の苦境を招いたのは、ひとえに彼の責任なのだから。
だが、藤木には、それができないことはわかっていた。たぶん、自分は甘すぎるのだろう。最後の最後まで、非情に徹することなど、できそうにもない。
だとすれば、いったい、どうしたらいいのか。
藤木は、大きく溜《た》め息をついた。
答えは、一つしかなかった。戦うしかないのだ。自分は今の今まで、その明白な事実から、目を塞《ふさ》ぎ耳を覆ってきた。だが、ことここに至っては……。
「藤木さん。見て!」
藍の声で、現実に引き戻される。彼女は、連なった岩山の途中にある、切れ目のような場所を見て、興奮しているようだった。まるで巨大なナイフで切ったようにV字型に切れ込んだ谷で、底部はひどく狭くなっていた。草が生い茂っている上、大きなゴースト・ガムの木が目隠しになっているので、注意して見なければ、見過ごしてしまいそうだった。
「ここを通れば、たぶん、向こうへ通り抜けられるんじゃないかな?」
藍の言うとおりだった。入り口から透かして見ると、V字谷は、かなり先まで続いていることがわかる。おそらくは、岩山の向こうまで。
「ねえ、こっちへ行った方がいいんじゃない?」
「だけど、ここで急に足跡が途切れてたりしたら、そっちへ入って行ったのが、丸わかりだろう?」
「そうでもないと思いますよ」
今朝方の失策以来、ずっと沈黙を守っていた野呂田が、口を出した。
「見てください。もう少し行くと、足下が少し良くなってるじゃないですか。あそこまで足跡を付けておいて、うまくここまで引き返せれば」
「でも、引き返してくるときに、また、足跡が付くんじゃない?」
「前の足跡の上を踏んで、後ろ向きに戻って来るんですよ」
「そうか……トリックね! うん。いいんじゃない? うまくいきそうな気がする」
藍はもう、すっかりその気になっているようだった。
それでも、藤木はなぜか気が進まなかった。理由は、自分でもよくわからない。だが、直感は、V字谷を忌避していた。
V字谷……Vの文字。
思わず、あっと声を上げそうになった。この谷の形そのものが、もしかしたら、毒蛇のサインなのかもしれない。
これまで、予告されたサインがどこにも見あたらないので、気にはなっていた。何となく、立て看板か標識のようなものをイメージしていたのだが、もし、そんなものがあれば、誰でも不審に思うはずだ。
だが、自然が作った、このVサインなら、毒蛇についての警告を受けていない人間は、うかうかと入っていってしまうだろう。情報を与える場合でも、Vは Venomous Snake の略だなどというフェイクを入れておく。生き残るためには、すべてを疑い、裏に隠された真意を読めということらしい。このゲームの主催者らしい、悪意に満ちた趣向だった。
「ここは、やめた方がいい」
「えっ、どうして?」
藍が不満の声を上げたが、藤木が説明すると、凍りついたような表情に変わった。
野呂田も同様だった。かなりのショックだったらしく、信じられないという顔でV字谷を見つめている。
「だが、今の野呂田さんのトリックは、逆に使えるな」
「どういうこと?」
「ここから先は、しばらくの間、足跡を二重に付けて歩くんだ。下が岩場になり、足跡が残らなくなる場所まで」
藍は、ぽかんと藤木の顔を見つめていた。しばらくたって、ようやくその顔に理解の色が兆した。
「そうか。あいつらを、毒蛇のいる谷に誘い込むのね? わたしたちが、こっそり後戻りして、谷に入ったと裏読みさせて……」
「うまくいくかどうかはわからないけど、やってみて損はないだろう」
他人を罠《わな》にかけ、殺害しようと企《たくら》むことに対しても、今は、何の違和感も感じなかった。
「足跡は、あまり露骨に二重にしない方がいいですね。真実味を出すためには、極力ぴったりと重ね合わせて、ところどころが、ほんのわずか、ぶれているぐらいの方が」
野呂田の提案に、藤木はうなずいた。
「これ、何かしら?」
V字谷をこわごわ覗《のぞ》き込んでいた藍が、不審げな声を上げた。
岩山の深紅色《クリムゾン》の層の上に、うっすらと文字のような白い線が浮き出ている。チョークの落書きのようだ。ゲームの参加者たちの軌跡そっくりに、捩れ、交差し、どこまでも堂々巡りをする曲線……8と読める。
ぞくりとした。これで、完全に、疑問の余地がなくなったのだ。藤木は、ポケットからメモを取り出して、確認する。
「ランキングのナンバー8は、……|死を与えるもの《デス・アダー》だ」
そこには、藍の手になる、ゲーム機にあったイラストのラフスケッチも添えられていた。巨大な楔形《くさびがた》の頭部。筋肉のかたまりのような、ずんぐりした胴体。誰が見ても、毒蛇であることは疑わないだろう。「毒牙は長く、毒液は強力無比だ」という、プラティ君の印象的な言葉が、記憶に残っていた。
V字谷から何度か迂回《うかい》を重ね、二、三キロ南下したところで、藤木は、|隠れ場所《シエルター》を探すことにした。追っ手の幻影に怯《おび》え、闇雲《やみくも》に逃げ続けようとするのは、自殺行為でしかない。こういうときこそ、毎晩きちんとねぐらを確保し、ブッシュ・タッカーによって体力を維持しなくてはならないのだ。
そのあたりの地形は、かなり複雑で、しかも、水場の周囲には草や木が豊富に生い茂っており、動物層《フオーナ》も豊富なようだった。
三人は、手分けしてブッシュ・タッカーを探すことにした。釣り糸は、まだたっぷりと残っている。藤木は、水場の周囲に、ゴアンナやオポッサムを狙《ねら》ったスネアを仕掛ける。
だが、こうしたワナは、諸刃の剣でもある。楢本らに発見されれば、近くに三人が潜んでいることがすぐにわかってしまう。
そのため、スネアの仕掛けは、三カ所にとどめた。それも、かかった獲物が宙高く吊《つ》り上げられて、遠くからでも目立ってしまう、スプリング・スネアの類《たぐい》は避けた。
藪《やぶ》の中を通ってシェルターに戻ろうとしたとき、ここは、ワナを仕掛けるには絶好の場所だという考えが浮かんだ。ふっと、プラティ君の言葉がよみがえる。
[#ここからゴシック体]
「ワナには、大別して三種類ある。スネア、デッドフォール、それにスピアトラップだ。まあ、よほどの大物狙いでない限り、スネアで用が足りるだろう。ただし、残りの二つも後で必要になってくるから、作り方はしっかりマスターしておくように。何に使うかは、まあ、おいおいわかってくるだろう」
[#ここでゴシック体終わり]
これまでに藤木が実際に作成したのは、三、四種類のスネアだけだった。より大型の獲物をターゲットにするデッドフォールやスピアトラップは、仕掛けが大がかりなため、手間がかかりすぎ、実用的ではなかったからだ。
だが、今や、事情は変わった。
楢本らが、こちらを獲物と見なすのなら、こちらも、向こうを同様に考えざるをえない。
ゲーム機に蓄えられたオリジナルの情報は、電池を取り出したときに失われてしまったので、残っているのは、簡単なメモ書きと、藍の描いたイラストだけだった。二十種類を超えるワナを検討して、結局、最も単純な落とし穴と、ボウトラップを仕掛けることに決める。
時計を見て、受信機のスイッチを入れた。すると、いきなり声が聞こえてきたので、緊張する。だが、それは楢本らではなかった。
[#ここからゴシック体]
「……これが、ブッシュ・トマト」
「なるほど。食べるものには、一応、事欠かないわけですね」
「でも、もううんざり。早く日本に帰って、もっとまともな食事をしたいわ」
「もう少しの我慢ですよ」
「どうして、わかるの?」
「別に、理由はありませんが」
「あなた、本当は、いろんなこと、知ってるんじゃない?」
「……何のことですか?」
「とぼけないで。ゲームマスターなんでしょう?」
「言ってる意味が、わかりませんね……」
[#ここでゴシック体終わり]
藍と野呂田の声だ。それっきり会話は途切れる。彼らの姿を探すと、すでに果実類を採取して、シェルターに戻っているのがわかった。会話を受信した場所からは、百メートル以上離れている。
どういうことだろう。会話の内容も、少し気になった。藍の言っていたゲームマスターというのは、いったい何のことなのか。
だが、それ以上に、彼らの話が受信機に入ったことの方が不可解だった。ゲーム機から出ている電波は非常に微弱だから、これだけ離れていれば、受信機に入って来るはずがないからだ。
その答えは、一つしか考えられない。この近くに、中継機があるのだ。それも、かなり強力なものに違いない。シェルターの付近には、機械を隠せそうな場所が見当たらなかったからだ。
あちこちを探ってみたが、何も見つからなかった。半ばあきらめかけ、何気なく岩山の上を見上げたとき、我が目を疑うようなものが目に入った。
アイテムの双眼鏡を使って、確かめてみる。間違いなかった。頂上に、アンテナが二本立っているのが、はっきりと見える。蟻塚に隠されていたものより、はるかに大きかった。ここは、中継局の中でも、枝葉ではなく幹の部分なのかもしれない。
あまり露骨に中継機に関心を示すのは、ゲームの主催者の逆鱗《げきりん》に触れるかもしれなかった。それに、確かめたところで、どのみち大して役に立つわけでもない。
藤木は、シェルターに戻り、藍と野呂田を連れ出した。藪の中に、先ほど選んだワナを作ることにする。
落とし穴については、特に指示する必要はなかった。ただ、地面に深く穴を掘って、底のまわりに、鋭く尖《とが》らせたアカシアの枝を、ぐるりと植え込む。あとは、穴の存在を木や草で覆い隠すだけである。
ボウトラップの方は、はるかに複雑で危険なため、細かく神経を使う必要があった。
最初は、強靭《きようじん》なユーカリの若枝を、野呂田と藍の二人がかりで曲げ、藤木が釣り糸を三重に撚《よ》って作った弦を結びつけて、弓を作る。
次に、枯れたアカシアの幹で、矢というよりは槍に近いものを作った。弓につがえて、真っ直《す》ぐに飛ぶよう調節するには、試行錯誤が必要だった。
それから、弓を引き絞った状態にして、槍をセットした。弓を固定しているのは、短い木の枝で作ったトグルスイッチで、そこから、釣り糸を右手に伸ばし、ボウトラップの右側面から、前方に張り巡らせる。獲物が、タイミングよく側面か正面の糸に引っかかると、発射された槍によって串刺《くしざ》しになるのだ。
ワナを作り終えると、夕方になっていた。最初に仕掛けたスネアを見に行くと、小型の有袋類がかかっていた。
火を焚《た》くのは、あまりにも危険すぎた。昼間なら煙が、夜間には炎の明かりが、想像以上に遠くから見つかってしまうのだ。
やむを得ず、生のまま食べることにした。殺してから時間をおかなければ、腐敗菌による食中毒の心配はないだろう。寄生虫の問題はあったが、今は、目をつぶるしかなかった。
朝焼けの光の中で、藤木はノートに新しい印を書き込んだ。これで、ゲームの開始以来、ちょうど二週間目の朝を迎えたことになる。
朝一番にやるべきことは、受信機をつけてみることだった。シェルターから外へ出て、スイッチを入れてみる。すると、いきなりイヤホンに、声が飛び込んできた。
[#ここからゴシック体]
「明るくなってきたな……。そろそろ小休止だ。ヤツらは、もう、そんなに遠くないはずだ。あわてることはない。弁当も持参してることだしな。たぶん、今晩か明日の晩には、追いつける」
[#ここでゴシック体終わり]
ハイエナが笑っているような唸《うな》り声が、それに答える。藤木の心臓が、激しく拍動を開始した。
[#ここからゴシック体]
「さっさと来い。船岡。誰のせいで、こんなに遅くなったと思う? ああ? おまえだ。おまえが、もたもたと歩いてるからだ。まだ生かしておいてやっている恩を、どう思ってるんだ? え?」
[#ここでゴシック体終わり]
返事はなかった。船岡は、生きてはいるようだが、喋《しやべ》れる状態ではないのかもしれない。受信機に入って来る言葉は、楢本のものだけだった。まるで、常軌を逸した一人芝居だ。
彼らの現在位置はどこだろうと思う。受信機に入ったということは、近くに中継機がある場所に違いない。チェックポイントか、もしくは……。
[#ここからゴシック体]
「その山の下で休もう。……安心しろ、船岡。まだだ。まだ、だいじょうぶだ。俺たちは、我慢強いからな。空腹には慣れている。なあ、鶴見さん?」
[#ここでゴシック体終わり]
続いて楢本が発した言葉は、藤木の背筋を凍らせた。
[#ここからゴシック体]
「おい、見てみろ。山の上だ。棒が二本立ってる……あれは、アンテナじゃないか?」
[#ここでゴシック体終わり]
パニックが押し寄せる。楢本の言っているアンテナというのは、目の前の岩山の頂上に立っているものとしか考えられない。ヤツらは、すぐそばまで迫ってきている。それも、こちらが、まったく気づかないうちに……。
どこだ。前から来ているのか。それとも、後ろか。
[#ここからゴシック体]
「何のアンテナかわからんが、真下は、健康に悪いかもしれんな。よく、電磁波にさらされてると、ガンになるって言うだろう? 船岡。おまえは、どう思う? 十年後にガンで死ぬのは嫌だろう? それまで、生きてればの話だがな……。ふん。まあ、しかたがない。ここの洞窟が、一番広そうだからな」
[#ここでゴシック体終わり]
ヤツらがいそうな場所は、この近くにはない。
藤木は、気持ちを落ち着かせようと、深呼吸した。ようやく、状況がのみ込めてきた。パニックの波は去ったが、まだ、心臓がどきどきしている。
やつらは、この岩山の、ちょうど裏側にいるに違いない。それも、あのアンテナのほぼ真下に。
背後から追ってくることを想定して、V字谷のトリックやワナを仕掛けたのだが、平行して追って来られたために、すべて空振りになってしまった。
唯一の遮蔽物《しやへいぶつ》である岩山を見上げる。丸みを帯びた岩山は、巨大な縞《しま》模様の屏風《びようぶ》のように隙間《すきま》なく連なっていた。したがって、ヤツらがこちら側に来るには、どちらに迂回《うかい》しても、かなりの回り道をしなくてはならない。実質的には、まだ、追っ手との間にはそこそこの距離が残っていることになる。
だが、直線ではわずか四、五十メートルのところに、あの連中がいると思っただけで、膝《ひざ》が小刻みに震えるようだった。
……ヤツらの姿を見たい。
無理な相談だということは、わかっていた。
今のところ、受信機からの情報を疑う理由は何もない。だが、非現実的な恐怖が支配するこの場所では、何一つ、鵜呑《うの》みにしてはいけないような気がする。
聴覚だけによる情報では、心許《こころもと》なかった。どうしても、自分の目で実際に見て確かめないことには、信用できない。
藤木は、岩山を見上げた。傾斜は急なものの、あながち、登れないこともないように見える。
ふっと息を吐き出した。馬鹿げたプランであることは、明白だった。岩山に登ることは、ゲームの主催者から厳禁されている。まして、ここにはアンテナがある。禁を破った場合、どんなペナルティが待っているかわからなかった。それに、バングル・バングルの岩山の異常な脆《もろ》さを考えると、登ること自体が自殺行為に近い。
心の中では、理性が、やめろと叫んでいた。それほどまでの危険を冒して、直接彼らの姿を見たところで、いったいどうなるというのだ。
それよりも、すぐにここから移動を始めた方が賢明だ。彼らは、夜間に活動しているらしい。だとすると、この岩山を回ってくるまで、半日以上の猶予がある。それまでに、できるだけ遠くまで逃げ延びろ。
だが、藤木は、その場を動けなかった。すでに自分が、彼らの姿を見ることを決意していることがわかった。今はただ、鼓動が正常になり、踏ん切りがつくのを待っているだけなのだ。
藍と野呂田が、起き出してきた。彼らに、水汲《みずく》みとワナのチェックなど、時間のかかりそうな仕事をいくつか頼んだ。二人の姿が見えなくなるのを待って、藤木は、岩山に登り始めた。
ゆっくりと、慎重に足場を確かめながら登っていく。たしか、白い部分が最も脆いということだったが、オレンジや黒の層も、表面が皮膜に覆われているだけだから、安心はできない。つまり、どこにも、けっして百パーセントの体重を預けてはならないのだ。
登れるはずだ。絶対に登れると、自分を鼓舞する。
以前に、フランスのフリークライマーが、エアーズロックに登る映像を見たことがあった。何のとっかかりもない完全な絶壁に、縦に一筋だけ、亀裂《きれつ》が走っている。そこに手足を差し込み、亀裂を押し広げるように突っ張って、登っていくのだ。
哺乳《ほにゆう》類でそんな場所を登れる生き物は、人間以外には、猿も含めて、一種も存在しないだろう。器具の類《たぐい》は、まったく使っていない。人間の意志の力だけが、奇跡を可能にするのだ。
思わず下を見てしまったときには、下半身から、すうっと力が抜けていくような気分に襲われた。ヤモリのように不安定な格好で岩壁に貼《は》りついている、自分の姿を意識する。今のところ落下を免れているのは、ほんのわずかな重心のバランスと、岩肌との摩擦のおかげなのだ。
自ら、バングル・バングルの岩山と一体になろうとイメージする。ぴったりと身を寄せることで、両手両脚だけでなく、体全体の摩擦を利用するようにした。岩肌に擦れて、皮膚が剥《む》け、血が滲《にじ》むのも、いっさい無視した。
気がつくと、頂上に手が掛かっていた。
たかだか四、五十メートルの高さだったが、腕の筋肉は完全に脱力状態で、指先には血が滴っていた。だが、とにかく、登り切ったのだ。
目の前には、アンテナがあった。ケーブルの先には、中継機らしきものも見える。
頂上に乗ってからも、藤木は、姿勢を低く保っていた。風の音が、耳元に大きく聞こえる。まだ早朝だというのに、太陽の直射を受けて、背中が熱かった。風が、服のすそを、はたはたと動かす。
ここからは、バングル・バングルを、ほぼ一望にすることができた。曲がりくねった岩山の迷路が、はるか彼方《かなた》まで続いているのがわかる。遠くの山の上で、大きなウェッジ・テイルド・イーグルが舞っていた。
目の前のアンテナを除けば、三百六十度、見渡すかぎり人造物らしきものは見当たらなかった。
ざらざらした岩の上を、反対側に這《は》っていき、そっと下を見下ろす。こちら側は、文字通りの断崖《だんがい》絶壁だった。
いた。
楢本。鶴見。船岡の三人だ。
真上からの視線には、人間は意外に鈍感である。だが、簡単にアンテナを見つけたことからしても、彼らの注意力は、異常に鋭敏になっているのかもしれない。細心の注意を払わなくてはならない。
まず、太陽光線の具合を確かめる。双眼鏡に光が反射して、気づかれるのを恐れたのだ。接眼レンズに目を当てると、百二十倍に拡大された、彼らの素顔が飛び込んでくる。
藤木は、思わず身震いした。
FSビスケットを食べるのを止めてからも、楢本と鶴見の面貌《めんぼう》は、ますます奇怪に変形しつつあった。
突出した眼球は、異様に鋭い光を放ち、ほとんど瞬《まばた》きしない。唇の端には泡が溜《た》まり、たえず涎《よだれ》となって滴っている。すでに、そんなことは意識の埒外《らちがい》にあるらしい。
それ以上に驚いたのは、彼らの頭部全体を覆っている、無数の吹き出物だった。
彼らの顔は、飽食のために、血色よく精気が横溢《おういつ》し、唇も血塗られたように真っ赤だった。だが、その上を、八割方、特大の面皰《にきび》のようなものが覆い尽くしているのだ。その姿は、頭部にフジツボがびっしり取り付いた、ザトウクジラを連想させた。
よく見ると、同じような変化は、手の甲など他の部分にも現れていた。
肉《しし》喰った報い、という古典的な言葉が、藤木の頭に浮かぶ。
本来は食べるはずのない同種族の肉を食べ続けたために、何らかのホルモン異常を引き起こしたのかもしれない。あるいは、食物連鎖の頂点である人体に蓄積された、高濃度の汚染物質を、一挙に取り込んでしまったことが原因だろうか。
いずれにせよ、それは、人間というより、もはや完全に食屍鬼《グール》と化した生き物の姿だった。
一方、放心したように座り込んでいる船岡の姿も、哀れをとどめた。
頭髪がほとんど抜け落ちてしまい、いくつかの房が、まばらに残っているだけである。それが、飢餓性の脱毛症によるものなのか、それとも、楢本らに囚《とら》われてからのストレスが原因なのかはわからない。
船岡は、後ろ手に手錠をかけられ、首に縄を付けられていた。縄の端は鶴見が握っており、逃走することは不可能だ。
船岡の腹は、膨らんでいた。慢性的な飢餓状態によるものではないだろう。楢本らの手で、妹尾の肉を無理やり胃袋に詰め込まれたために違いない。
藤木は、イヤホンを耳に入れ、受信機をオンにした。
[#ここからゴシック体]
「……煙の見えた位置から、真っ直ぐ南へ向かってるとすると、もうじきだろう。このまま、山に沿って南へ行こう。たぶん、ヤツらの先回りができるんじゃないかな?」
[#ここでゴシック体終わり]
鶴見が何か答えたようだったが、藤木の耳には、野獣の唸《うな》り声にしか聞こえなかった。初めて、彼らの姿と声を同時にキャッチしたことで、足下から、武者震いのようなものが這《は》い上がってきた。
[#ここからゴシック体]
「そうだな。あんたの言うとおりだ。鶴見さん。ここからは、スピードアップしようか。あんまりチンタラやってると、広い方へ逃げられてしまう恐れもある。荷物は、少し軽くした方がいい。それに、たしかに、そろそろ腹も減ってきたな……」
[#ここでゴシック体終わり]
藤木は、少し身を乗り出そうとした。そのとき、手に触れた岩が崩れ、バウンドしながら崖《がけ》を落下していった。
はっとして、身を引く。だが、一瞬だけ遅れた。
元来た道を引き返し、崖を降りながら、藤木の歯はかちかちと音を立てていた。
レンズの中で最後に見た映像が、網膜に焼き付いて離れなかった。
こちらを見上げた楢本が、にやりと笑った、その目。
巨大な白目の中に浮かんだ、カエルの卵のような小さな虹彩が。
崖を降りると、藍と野呂田が、信じられないという顔で待っていた。
「どうしたの? いったい、何やってるのよ? 崖を登るなんて、とても正気とは思えないわ!」
「それに……たしか、ゲームの禁止事項の中にも、入ってましたよね?」
だが、藤木の顔つきを見ると、二人とも口をつぐんだ。
「すぐに出発だ」
「えっ。どうして?」
「この岩山の裏側に、ヤツらがいる」
その一言で、二人とも、すべてを察したらしかった。
「でも、どっちへ逃げるの?」
藤木は、峡谷を見渡した。両側を、切れ目なく続く岩山に挟まれているため、行くか戻るかの二通りしか、選択肢がない。
「ヤツらは、南へ向かって、我々の先回りをするつもりだ」
「じゃあ、また北へ引き返す?」
藤木は考えた。楢本らは、自分たちが見られていたことには、気づいたに違いない。では、南へ向かうという言葉が聞かれたと考えるだろうか。
答えは否だった。ゲーム機に仕込まれている盗聴器と、受信機の存在を知らない限り、まさか、岩山の上にいた男が、下の会話を聞き取れるとは思えないだろう。
だとすれば、引き返すというのが、最も妥当な選択という気はするのだが。
ふと、イヤホンから、かすかな音が漏れ出てくるのに気がついた。逃げるのに夢中で、受信機のスイッチを切るのを忘れていたらしい。
いったんスイッチに手をかけてから、思い直して、イヤホンを耳に当ててみた。
[#ここからゴシック体]
「ここらで、弁当にしようぜ。鶴見さんも、腹が減っただろう? 弁当だ。弁当。ん? どうした? 船岡。何を泣いてるんだ? ははあ。わかったぞ。おまえも、弁当を食いたいんだな? だが、それは無理だ。どうしてかは、わかってるよな? 一人二役は、できないということだ」
[#ここでゴシック体終わり]
楢本の哄笑《こうしよう》が響き渡った。
[#ここからゴシック体]
「鶴見さん。準備をしてくれ。ナイフが一本あればいいだろう。妹尾のときと比べると、簡単な作業だ。あいつは、とにかく馬鹿でかかったからな。腱も固くて、なかなか切れなかった」
[#ここでゴシック体終わり]
啜《すす》り泣く声が、しだいに大きく聞こえるようになった。
[#ここからゴシック体]
「誰かはわからんが、我々の食事を観察したい連中がいるようだ。まあ、そんなに見たいんなら、見せてやる。今さら、屁でもない。あのアンテナで、世界中へ中継したけりゃ、やってもらおう」
[#ここでゴシック体終わり]
藤木は、はっとした。楢本は、双眼鏡で彼らを見ていたのが、このゲームを仕組んだ連中の一人だと勘違いをしているようだ。考えてみれば、それも当然かもしれない。
楢本もまた、常に誰かに監視されているような気配は感じていただろうし、岩山に登るのは禁止事項だというのが先入観になっているはずだから、自分が追っている獲物が、そんな場所にいるとは思わないだろう。
[#ここからゴシック体]
「どうした? え? 今ごろになって、後悔の涙に暮れてるのか? 妹尾を裏切らなきゃよかったっていうことか? まあ、それももっともだな。妹尾は、まさか、おまえを生きたまま、弁当にはしなかったろうからな。だが、おまえだって、妹尾の肉を喰ったからこそ、そんなに太ってられるんだぞ。まったく、たっぷりと脂がのってるな……」
[#ここでゴシック体終わり]
楢本は、またひとしきり笑い転げた。藤木は胸が悪くなった。無理矢理、船岡の口の中に妹尾の肉を詰め込んでいたのは、船岡を生きた食糧貯蔵庫にするためだったのだ。
[#ここからゴシック体]
「どうしてそんなに苛《いじ》めるんだっていう顔だな。別に、そういう趣味はない。ただ、おまえにもっと、怖がってもらいたいだけだ。おまえは、我々の弁当なんだからな。弁当は弁当らしく、もっともっと恐怖を感じて、しかるべきだろう? 恐ろしいか? そうだ。いいぞ。もっと恐怖を感じろ。そうすれば、血中にどっとアドレナリンが放出されて、今よりも、はるかに美味になる。知ってるか? 狩りの獲物が、家畜よりずっと美味《うま》いのは、そのせいなんだ。我々の先祖は、ずっとそうやって、本当の美味を味わってきたんだよ……」
「助けてくれ……。頼むから殺さないでくれよ……俺には、四歳の娘がいるんだよ」
[#ここでゴシック体終わり]
船岡の消え入るような声の命乞いを聞いて、咳《せ》き込むような音を立てて、鶴見が笑い始めた。獣じみた唸り声よりも、ふいに人間に戻ったような笑い声の方が、なぜか不気味に感じられる。
藤木は、受信機をオフにした。これ以上聞いていても、得るものはないだろう。
はっきりしたのは、これで、残っているゲームのプレイヤーは、確実に六人から五人へと減るということだった。
結局、藤木らは、そのまま南下を続けることにした。再び北上すれば、一時的に距離こそ開けられるものの、再び、狭い方へと追われる形になる。
楢本と鶴見は、今日いっぱいは、船岡の遺体の始末にかかりきりになるだろう。彼らが移動を開始するのは、夜間になってからに違いない。それまでに、彼らの南へ回り込んで、やり過ごしてしまうのが最善と判断したのである。
三十分ほど歩いたところで、岩山の切れ目が見つかった。切り立った断崖《だんがい》の間に、西への、すなわち、楢本らのいる方へ通じる抜け道が開いている。
南下しようという判断は、やはり正しかったようだ。もし、北へ向かっていたら、楢本らが、先にここを通ることになっただろう。その結果、簡単に追いつかれてしまったかもしれない。
楢本らが通ると思われる場所の付近では、足跡その他の痕跡《こんせき》を残さないように、細心の注意を払った。ある程度北上すれば、大量の足跡が見つかってしまうのはやむを得ない。だが、それがかえって、彼らを惑わすことになるのではないかと、藤木は期待していた。
その晩は、日が暮れてからも、休まず歩き続けることにした。暗くなれば、楢本らが動き出すのがわかっているのだ。今は、少しでも距離を稼いでおかなければならない。唯一の活路が、閉じてしまう前に。
日没後しばらくすると、予想通り、楢本らの声は受信機から途絶えた。早くも、追跡を開始したらしい。
「こっち方向へ、追ってきてるのかしら?」
藍の声は、これまでになかったほど、か細く震えていた。
「わからない。とりあえずは、北へ行ってくれるといいんだが」
その場合、問題は、どこで気がついて引き返してくるかだった。
「あいつらの移動速度は、確実に、我々よりずっと速いはずです」
野呂田が、ぼそりと言った。
「今までは、船岡を連れていたから、思うように進めなかったんでしょう。でも、もう、足手まといはいない……」
「やめましょう。そんなことを考えても、しかたがない」
「いや……。あなたたちには、私が足枷《あしかせ》になってる。あなたたち二人だけなら、もっと、早く歩けるはずだ」
「何を言いたいの?」
藍が、不審げな声になった。
「私を置いて、先に行ってください」
藤木には、彼の言葉が信じられなかった。
「……しかし、野呂田さんは、どうするんですか?」
「もう一度、話し合ってみます」
「何を言ってるんですか? 話が通じる相手でないことは、あなたが、一番よくわかってるでしょう?」
野呂田は、立ち止まった。
「とにかく、やってみますよ。これ以上、あなたたちに迷惑をかけるのは、忍びないんだ。とにかく、行ってください」
藤木はためらった。野呂田は、自ら死地に赴く決断をしているようだ。彼を、このまま見捨てて行っていいものだろうか。
だが、心の別の部分は、すばやく冷徹な計算を行っていた。ある意味では、願ってもない話なのだ。このままでは、三人とも共倒れは必至だろう。野呂田が言うように、足手まといが消えれば、より早く逃げられる。それ以上に好都合なのは、楢本らが、野呂田という獲物を得たことによって、再度の足止めを余儀なくされることなのだ。
「ねえ、本当は、違うんじゃないんですか?」
藍の声には、露骨な疑いの響きがあった。
「違うというと?」
「あなたは、自分だけ、助かりたいと思ってる。助かる方法を知ってるんでしょう?」
「……どういうことですか? そんな方法があれば、とっくに我々三人で」
「いえ。あなた一人だけ、助かる方法よ」
藤木は、いかにも当惑した様子の野呂田と、妙に殺気立っている藍とを見比べた。藍の言っていることは、単なる言いがかりにしか聞こえない。だが、もしかしたら、とも思う。
「藍。一人だけ助かる方法なんて、あるのか?」
「この人に聞いてよ。この人は、ゲームマスターなんだから」
ゲームマスター……。昼間も聞いた言葉だ。
ロールプレイング・ゲームでは、ゲームの進行係のことを、そう呼んでいる。ゲームマスターは、ゲームのルールを知悉《ちしつ》した上で、プレイヤーを導き、裁定することによって、ゲームのスムーズな進行を助ける。必要があれば、自ら新しいルールを作ることさえある。
だが、野呂田が、そのゲームマスターだというのは、どういうことだろう。
藍がそんな言葉を知っていることにも、藤木は違和感を覚えた。「火星の迷宮」の説明をしたときには、ゲームブックやRPGについては、ほとんど何も知らない様子だったからだ。
「あなたは、何か誤解してますよ」
野呂田は、落ち着いた声で言った。
「誤解じゃないわ。あなたは、最初からこのゲームを仕切ってた。もし、ゲームマスターじゃなかったら、最初に全員が集まったときに、あんなに要領よく司会進行ができるはずがないわ」
藍の声は、しだいに激していった。
「その、ゲームマスターというのは、いったい何ですか? あなたこそ、何か、我々の知らないことを知ってるんじゃないですか?」
「とぼけないで!」
藤木は、野呂田のゲーム機のスイッチを入れたときに表示された、「パスワードを入力してください」というメッセージを思い出した。
あれは、藍が言うように、彼がゲームマスターであることを示すものなのか。少なくとも、このゲームにおける野呂田のステータスは、ほかのプレイヤーとは違っているような気がする。
「一番おかしいのは、あなたが、勝手に焚《た》き火をしたことよ。あの場面で、そんな危険なことを平気でやるほど、あなたは馬鹿じゃないはずだわ」
「どういうことなんだ?」
「この人が、楢本たちに、わたしたちの居場所をわざと教えたのよ!」
藤木は、頭が混乱するのを感じた。たしかに、一瞬だけ、そんな疑いが兆さないでもなかった。だが、それには根本的な矛盾がある。
「そんなことをして、野呂田さんに何の得がある? 自分も命が脅かされることになるんだぞ?」
「ゲームのためよ」
藍は、平然と言った。
「ここで、わたしたちが遠くまで逃げ延びてしまったら、ゲームがだれて[#「だれて」に傍点]面白くなくなる。誰かが、そう考えたんだわ。そして、ゲームマスターである、この人に指令が下った」
「指令?」
「馬鹿馬鹿しい。あなたは、疑心暗鬼のあまり、妄想にとらわれてるんです」
野呂田は、首を振った。
「周りにいる人間の、誰もが疑わしく、自分を陥れるための陰謀に加担しているように思えてくる。こんな状況では、無理もないかもしれないが、私は……」
突然、空気が震え、硬質で鋭い音が響いた。野呂田は言葉を切り、四、五メートル離れたところにある地面を見つめる。
藤木には、一瞬、何が起きたのかわからなかった。野呂田が注視している場所には、細長い棒のような物体が突き立っている。
太陽が没してから、すでに二時間以上経過していた。新月であるため、岩山に挟まれた谷底に差し込んで来るのは、星明かりだけである。
藤木は振り返った。谷底は、長い直線が続いていたが、百メートル先は完全に闇《やみ》に没しており、見通すことはできない。
棒状の物体に近づいて、調べてみる。それは、四十センチほどの長さの矢だった。
「ボウガンだ……」
藤木は、茫然《ぼうぜん》としてつぶやいた。
まさか、こんなに早く追いつかれるとは。これで、何もかも終わりだと思った。楢本らは、妹尾と船岡を殺している。彼らの持っていた武器類も、そっくり手に入れているはずだった。
こちらにあるのは、小さな鉈《なた》が一丁と、特殊警棒、それにペッパー・スプレーだけである。戦っても、とうてい勝ち目はない。
だが、待っていても、彼らはいっこうに姿を現さなかった。
待てよ、と思う。ボウガンは、高性能なものなら、一、二キロもの射程を持っている。彼らは、はるか彼方《かなた》から、狙《ねら》いも定めずに矢を放っただけなのかもしれない。だとすると、まだ望みはある。こちらの存在を気取られないうちに……。
だが、藤木の希望は、次の瞬間、木っ端|微塵《みじん》に打ち砕かれてしまった。
「おおい、待ってくれ! 私だ、野呂田だ! 君たちに話がある!」
野呂田がいきなり、声を限りに叫び始めたのだった。
闇の中から応《こた》える声はない。だが、彼らにそれが聞こえたのは、確実だった。
「行きましょう!」
藍に腕を取られ、藤木は我に返った。
「逃げるしかないわ! 早く!」
気がついたら、谷底を必死に駆け出していた。砂礫《されき》を踏み、蹴散《けち》らす音が響く。足下が真っ暗なので、走るのには不安がつきまとう。小さな穴でもあれば、たちまち転倒し、大怪我をするかもしれない。だが、背後からやって来る恐怖の大きさは、そんなことを忘れさせていた。
「おおい、聞こえるか? 君たちに、提案がある! 悪い話じゃない! 聞いてくれ! もう、このゲームを……」
野呂田は、まだ、叫び続けていた。ふいにその声が途絶えたので、振り返ると、腰が砕けたようにゆっくりと尻餅《しりもち》をつき、仰向《あおむ》けに倒れるところだった。
距離があるために、今度は何の音も聞こえず、彼の体につき立っているはずの矢も見えなかった。
藤木は、ほっとしている自分に気がついた。自らの非情さに、吐き気を催しそうだった。だが、もし、彼らが野呂田を生かしておいたなら、自分たちは、絶対に逃げ切ることはできなかったはずだ。
これで、楢本らが、立ち止まってくれればいいと思う。彼らとて、みすみす新鮮な肉を腐らせるには忍びないだろう……。
ひたすら、真っ暗な谷底を走り続ける。悪夢がそのまま現実化したようだった。
恐怖が、両脚から力を奪いつつあった。藤木は、必死に自らを叱咤《しつた》した。
こんなところでは、死ねない。もう一度、日本に帰るんだ。死ぬなら、畳の上とは言わない、せめて日本の土に還りたい。こんな異様な場所で、わけもわからないうちに、殺されたくはない。どうせ死ぬなら、少しでも意味のある死を迎えたい。あんな連中の餌《えさ》になるために死ぬなど、まっぴらだ。
今にも、闇《やみ》の中から楢本らが姿を現すものと、半ば覚悟していた。だが、いつまでたっても、彼らは現れず、背後から迫ってくるはずの足音も聞こえなかった。
やがて、藍が、苦しげに息を切らせて立ち止まった。藤木も足を止める。暗闇で、しかも同じような地形が続いているので、どのくらい走ったのか見当がつかない。
藤木は、背後を振り返った。何も見えない。
ヤツらは、急いではいないのだ。必ず追いつける自信があるのだろう。
そのとき、楢本の耳障りな笑い声が、風に乗って、かすかに聞こえてきた。こちらに向かって、大声で何か叫んでいるようだが、言葉の内容までは聞き取れない。だが、声の遠さからすると、おそらくまだ、射殺された野呂田の近くにとどまっているようだ。
「あいつら、わざと、余裕を見せつけてる……」
藍が、低い声で吐き捨てるように言った。
「人間を狩るのを楽しんでるんだ」
楢本は、自分の声が獲物にどういう心理的影響を与えるか、百も承知なのだろう。自分の優位を意識し、これから始まる鬼ごっこを堪能しようとしているのだ。
藍は、呼吸を整えながら、腰に手を当てて歩き出した。藤木は、彼女の腕をつかんで止める。彼女は、驚いたように振り返った。
唇に手を当てて、左手の岩山を指さす。
「……まさか、登るの?」
黙ってうなずく。自分の足下さえはっきりとは見えない新月の夜に、砂糖菓子より脆《もろ》い、バングル・バングルの岩山に登る。どう考えても、狂気の沙汰《さた》でしかない。
だが、なぜか、それが唯一の活路であるという気がした。今すぐ、ここを攀《よ》じ登らなくてはならない。それは、理屈ではなく直感だった。
勝機は、狂気にあり。そんな言葉が、頭をよぎる。ゲーム理論に取って代わる新しい理論である、ドラマ理論について解説した雑誌記事の見出しだった。常に合理的な行動のみを選択するプレイヤー、相手に見透かされてしまうような戦略は、必ず敗北するのである。
意外にも、藍はあらがわなかった。藤木の判断に、すべてをゆだねる決心をつけているらしい。今は、間違った選択をすること以上に、意見の衝突で時間を浪費することの方が致命的だと、よく承知しているのだ。
左手の山を選んだのは、傾斜がそれほど急ではなく、いくつかの岩棚や突起が突き出ているからだった。これなら、途中で休みながら登ることもできるだろう。
藤木は、すでに一度バングル・バングルの山に登って、ロッククライミングの要領をつかんでいた。両手両脚を広げて、岩山にぴったりと抱きつくようにして、そろそろと横に進む。登りやすい地点まで来ると、岩をつかみ、足の内側で岩肌を擦るようにして、体を引き上げる。腕力にはそれほど自信がなかったが、この二週間で体重が激減しているのが幸いしたようだった。
藍も、すぐ後ろから、遅れずついてくる。女性にしては手脚が長く、筋肉質の彼女は、運動神経も優れているようだ。
ときおり、背後から楢本の声が伝わってくる。笑うような、歌うような奇妙な調子だった。まったくこちらに近づいていないことからすると、野呂田の遺体を解体する作業にかかっているのかもしれない。
ふと、何かが不自然だという気がした。なぜ、楢本は、いつまでも叫び続けているのだろうか。
二、三分が経過した。ようやく、高さ十五メートルくらいの岩棚の上に到着する。頂上までの登攀《とうはん》ルートを探そうとしていると、下を見ていた藍が、はっと息を呑《の》んだ。
藤木も谷底に視線をやり、体が硬直するのを覚える。
そこには、猫背気味の前傾姿勢になった男の影があった。両手には、ボウガンとサバイバルナイフを携えているようだ。音もなく、谷底の暗闇から現れたのだ。
男は、藤木と藍が見下ろすすぐ前に、さしかかろうとしていた。
また、遠くから、楢本の奇妙な叫び声が聞こえてきた。
そうだったのかと、ようやく藤木は得心がいった。
あの声は、こちらを油断させるための囮《おとり》だったのだ。ずっと後ろにいると思わせておき、こちらのペースが落ちている間に、鶴見が一気に肉薄して殺すという作戦だったのだろう。馬鹿馬鹿しいくらい単純なトリックだったが、危うく引っかかってしまうところだった。岩山に登っていなければ、あっさり追いつかれていたのではないだろうか。
自分が、あえて岩山に登るという破天荒な手段を取ったのは、無意識のうちに、ヤツらの罠《わな》を看破していたためかもしれない。
二人は、呼吸すら止めるようにして、岩棚の上に潜んでいた。鶴見の注意は、完全に前方に注がれているようだ。岩山を見上げようという気配はない。ほとんど足音を立てずに、大股《おおまた》に谷底を進んで行く。
鶴見の姿が前方の闇に没してから、一分間待った。それから、再び岩山を登り始める。
岩山の頂上を伝って、どこまで行けるか試してみるつもりだった。だとすると、再び、選択肢は二つに絞られる。
行くか、戻るかである。
速度で相手が上回っている以上、道は決まっていた。
たとえ、楢本が待ち受けている場所の、すぐ真横を通過しなくてはならないとしても。
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完全に夜が明ける前に、二人は、目的地にたどり着いた。うっすらと明るくなった空を背景に、山頂に立つ二本の大きなアンテナが見える。
ここで休むことにしたのは、三つの理由からだった。
第一に、しっかりした夜営のための場所があること。第二に、アンテナのおかげで、受信機がフルに活用できること。そして、三番目は、夜営地に通じる藪《やぶ》の中に仕掛けた、トラップの存在だった。落とし穴もボウトラップも、着いてすぐに、作ったときのままであることを確かめる。この付近には、こうしたワナにかかるような大型の野生動物は、あまりいないらしかった。
シェルターに潜り込むと、二人は寄り添うようにして仮眠を取ることにした。
受信機には、今のところ、何も入ってこない。藤木は少し迷ったが、そのままスイッチを入れっぱなしにする。イヤホンを耳に差し込んで眠れば、楢本か鶴見が接近してきたとき、警報機の役目を果たしてくれるかもしれないからだ。電池の消耗は痛かったが、今は、遠い慮《おもんぱか》りよりも、目先の安全を確保することに全力を尽くすべきだろう。
だが、心の底では、まさか、それほど早く彼らが迫ってくるとは思っていなかった。
夢とうつつの間をさまようような、半覚醒《はんかくせい》の状態。体は寝ているのだが、強い危機感が、完全に眠り込むことを妨げているのだ。
まるで、夢であることを意識しながら見る明晰《めいせき》夢と、白昼見る幻覚が、ごっちゃになったような感じだった。
体の中から、すうっと魂が抜け出ていく。
シェルターにしている洞窟《どうくつ》の外へ出る。太陽が、ぎらぎらと輝き、バングル・バングルを照らし出していた。
藤木は、大空に向かって浮かび上がった。
バングル・バングルの全景を鳥瞰《ちようかん》する。どこまでも迷路のように続く岩山。オレンジと黒の縞《しま》模様のコントラストが、草木の緑を背景に際立っていた。岩山の外側には、広大な草原地帯が広がっている。さらにその向こうには、大きな湖と、別の山脈があるのが見えた。
自らの荒い呼吸が聞こえる。
自分は、ハンターだ。
逃げ出した獲物を追って、夜通し歩いてきた。疲労から、脚が重く、目が霞《かす》む。汗がだらだらと流れ、たくさんの藪蝿《ブツシユ・フライ》が、うるさくつきまとう。
だが、そんなことは、どうでもよかった。逃げ出した二人の人間を狩りたて、殺すという、明確な目的があるからだ。殺戮《さつりく》の欲求に体が疼《うず》く。舌の上でとろける肉の味が、麻薬のように意識を支配していた。
殺し、バラバラに解体して、喰う。
頭の中にあるのは、ただ、それだけだ。
荒い呼吸音。
獲物は、すぐ近くにいるはずだ。
岩山の尾根伝いに逃げるという、小賢《こざか》しいトリックを弄《ろう》したために、かえって不注意になったのだろう。再び地面に降りてからは、はっきりした足跡を残していた。
今までの逃げ方を見ていると、今ごろは、すっかり追い手をまいた気になって、熟睡しているに違いない。
待ってろ。今、行くからな。
少し前に、胃袋がはち切れそうになるほど喰ったばかりなのに、早くも、胃の腑《ふ》を締めつけ体を焼き尽くすような、強烈な飢餓感が忍び寄っていた。
もう、我慢できない。
耳の奥で、獣のような息づかいが反響する。
はっとしたとたん、意識が覚醒した。
今聞いている……この音は、夢ではない。
藤木は、イヤホンを押さえた。間違いない。かすかだが、たしかに聞こえる。人が呼吸している音が。
来た。もう、やって来たのだ。ゲーム機から発せられている電波が、アンテナに捉《とら》えられるほど近くに。
藤木は、藍を揺り起こした。寝ぼけ眼《まなこ》で、不機嫌にこちらを見返す。何も言わなくても、イヤホンを指し示しただけで、完全に目が覚めたようだった。
「来たの?」
藤木がうなずくと、真っ青な顔になった。
「どこ?」
「まだ、わからない」
「どうするの?」
「ここで待っててくれ。ちょっと、見てくる」
藤木は、洞窟から頭を出した。イヤホンから聞こえるのは、相変わらず、ふいごのような呼吸音だけだった。
夢の内容を思い出す。あれは、無意識からの警告だったのかもしれない。たしかに、自分たちは、岩山から降りてからは、足跡には無頓着《むとんちやく》だった。
だが、足跡を追ってここまで来たのなら、逆にチャンスが生まれる。ここへ来るには、深い藪の中を通ってくるしかない。そして、通り道の真ん中には、二種類のワナが仕掛けてあるのだ。
藤木は、ほとんど四つん這《ば》いになるくらいまで姿勢を低くして、藪の中を進んでいった。まだ、相手の姿は見えない。
ボウトラップのライン、そして、落とし穴の横をすり抜ける。イヤホンから、荒い息づかいとともに、獣のような唸《うな》り声が聞こえてきた。
鶴見だ。
だが、楢本の声は、聞こえない。もし、鶴見と一緒にいるのなら、当然、何か話すはずだ。
これもまた、トリックなのではないか。ふと、そんな疑いが湧《わ》いた。一人であると思わせておき、もう一人が、別方向から近づいてくる……。
だが、冷静に考えれば、そんなことはありそうにない。そのためには、まず、ゲーム機に盗聴器が仕込まれていることを看破していなければならない。情報という点では、楢本らは取り残されている。そこまで気が回るはずもない。
音を立てないようにしながら、慎重に藪の中を進む。何の異状も発見しないまま、入り口まで来た。
藪に入る場所は、周囲より小高くなっており、身を隠すためには格好の大岩もあった。これも、藤木がこの場所を気に入った理由の一つだった。
岩陰に身を隠し、双眼鏡で、近づいてくる人間の姿を探す。
何も見えなかった。藤木は、その場所で、じっと待ち続けた。
ツィー、ツィー、ツィーという、けたたましい鳥の鳴き声で、はっと我に返った。
イヤホンは、いつのまにか耳から外れていた。信じられないことに、これほど緊迫した状況にもかかわらず、うたた寝していたらしい。時間にすれば、ほんの数分のことだろうが……。
アカシアの梢《こずえ》に止まって鳴いていたのは、クリムゾン・フィンチだった。何かに対して、さかんに警戒音を発しているのだ。
何かが、近づいてくる。
何か、危険な存在が。
岩陰から、そっと顔を出す。
クリムゾン・フィンチが警報を発した侵入者は、すぐに見つかった。すでに、五十メートルほどの距離まで接近している。
肉眼でも、鶴見だということは確認できた。双眼鏡を使って装備を観察する。最も心配していたボウガンは、所持していない。デイパックにも、ほとんど何も入っていないように見える。身軽になって素早く追いつき、急襲するつもりだろう。武器らしきものは、腰に下げたサバイバルナイフ一本だけだった。
藤木は、見つからないうちに、藪《やぶ》の中に後退した。
楢本は残って野呂田の遺体処理に回り、鶴見だけが来たらしい。一人でも充分と踏んでいるのだろう。
鶴見という男は、年配かもしれないが、永年の肉体労働のためか、筋骨は逞《たくま》しい。素手でやり合ったとしても、とても勝てる自信はなかった。
だとすれば、勝機は、ワナの中に誘い込むことにしかないだろう。
藪の中には、何度も往復しているため、シェルターへ通じる道筋ができていた。一見、獣道のようだが、鶴見は誤魔化されないはずだ。
藪の入り口付近で、葉擦れの音が聞こえた。
鶴見だ。入ってきた。
藤木は、すばやく後退した。もう、相手の姿を目視する機会はない。音だけで、すべてを判断するしかないのだ。
イヤホンを耳に入れる。
聞こえる。藪の入り口で、まわりを探っているような音が。
だが、かなり音量が小さくなっているような気がする。電池が切れかかっているのかもしれない。
保ってくれと、祈るような気持ちだった。せめて、これが、終わるまでは。
藤木は、こちらが後退する間もないうちに、相手が殺到してくるのを警戒していたのだが、鶴見は予想外に慎重だった。
一歩一歩、周りの状況を確かめながら、前進しているようだ。
藤木は、落とし穴の前で、鶴見が近づいてくるのを待った。葉擦れの音や、灌木《かんぼく》の梢の揺れ方で、近づいてくるのはわかるはずだ。
だが、いっこうに現れない。
立ち止まっているわけでもなかった。イヤホンの中では、鶴見が、ゆっくりとだが、着実に前進しているらしい音が響いている。
まさか、小道から脇《わき》へ逸《そ》れたのだろうか。
相手は、一本道に誘い込まれるのが、気に入らなかったのかもしれない。
だが、だからといって、藪の中を進むのは、苦労ばかり多くて、メリットはないはずだ。何より、藪を切り開くときには、騒々しい音を立ててしまうではないか。
いや、本当にそうだろうか。
顔や手が棘《とげ》で傷つくのを厭《いと》わないなら、匍匐《ほふく》前進するという手もある。
藤木は、不安を感じた。
受信機から聞こえる音に、全神経を集中する。そう思って聞くと、下生えの間を這ってくる音のような気もする。
とにかく、相手が近づいて来ていることだけは、確実だった。だが、どの方向からやって来るのか、まったくわからない。
充分な準備をして、ホームグラウンドに誘い込んだつもりだったが、ここで戦うことにしたのは、正解だったのだろうか。
藤木は、ポケットの中にある、催涙スプレーと特殊警棒を探った。こうなると、はなはだ頼りない武器である。
せめて、鉈《なた》を持ってくればよかったと思う。藪の中で敏速に動き回るために、かさばらない武器ばかりを選んだのだが、もしかすると、無意識のうちに、直接相手と向き合うような状況を避けようとしていたのかもしれない。
相手を罠に誘い込みさえすれば、それですべてが終わる。自らは、危険にさらされることも、手を汚すこともない。そんな、虫のいい考えだけが、頭を支配していたらしい。
藤木は、姿勢を低くして、周りを見渡した。
風の音。鳥の鳴き声。草を掻《か》き分ける音は、イヤホンの中からのみ伝わってくる。
とにかく、ここにいるのは危険だ。
藤木は、再び後退を開始した。鶴見と自分との間に、落とし穴と、ボウトラップという二つのワナを挟んでおきたかった。
ボウトラップのラインは、見えないように、下生えの中を張り巡らしてある。足を引っかけないように、そっとまたぎ越そうとしたとき、前方で音がした。
その場に立ち竦《すく》んでいると、また、それは聞こえた。
誰かいる。
顔から、さっと血の気が引く感じがする。音は、自分よりもシェルターに近い地点、ワナを迂回《うかい》した場所から聞こえるのだ。
ここで待っている間に、鶴見に、回り込まれてしまったのだろうか。だが、匍匐前進で、そんなに早く進めるとは、とても……。
がさっと灌木が揺れた。
藤木は、反射的に特殊警棒を引っぱり出し、強く振った。筒がロックされる金属音が、藪中に響きわたる。
灌木の陰から現れたのは、藍だった。
何をやってるんだ。藤木は、心の中で叫んだ。早く戻れ。ここは、危険……。
藍も、こちらに気がついた。
「危ない! 後ろ!」
彼女が叫ぶ。
藤木は、振り向きざま、催涙スプレーを発射した。
無色の霧が広がる。鼻孔に刺激臭を感じた。
鶴見は、下生えの間から這《は》い出て、立ち上がろうとするところだった。藤木は、相手の顔めがけて、スプレーを噴射し続けた。
鶴見は、獣のように唸《うな》りながら、一面に吹き出物で覆われた顔をそむけた。サバイバルナイフを握った右手を上げ、顔面をガードしようとする。
今だ。そう思った瞬間に、藤木は突進していた。自分にそんな勇気があるのが、不思議だった。右手に持ち替えた特殊警棒を、鶴見の手首に打ち下ろす。目測が狂い、叩《たた》いたのは指の関節だったが、相手は苦痛の声を上げて、サバイバルナイフを取り落とした。
しめた。藤木は、もう一度特殊警棒を振りかぶって、相手の頭部を強打しようとした。
殴るんじゃなくて、突くんだ……。
妹尾の声が、聞こえたような気がした。しまったと思う。
振り下ろした藤木の手は、左手でがっちりと受け止められてしまった。
左手に持ったスプレーを、至近距離から、まるで特殊メイクを施したような異様な顔に浴びせかける。
自分自身、刺激臭に目を開けていられないほどで、直撃を喰らった相手には、相当な痛手になるはずだった。鶴見は、目を閉じ涙を流しながら頬を歪めた。歯を剥き出した顔が、まるで笑っているように見える。握っている手は離さない。それどころか、ますます強い力を込めてくる。握力だけで、手首の骨が砕けそうだった。たまらず、特殊警棒を取り落としてしまう。
鶴見の右のパンチが飛んできた。警棒の一撃で、指は骨折しているはずだったが……。
顔面を庇《かば》おうとした刹那《せつな》、拳《こぶし》は鳩尾《みぞおち》に突き刺さった。藤木は、酸っぱい胃液を吐き出し、苦しみにのたうった。脚から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。
鶴見は、左手一本で、藤木の体を引き起こした。獣が咆哮《ほうこう》するような荒々しい声。何を言っているのかは、わからない。肉が腐敗しているような、ひどい口臭が鼻を突く。
目の前に火花が散った。側頭部に右のパンチを喰らったのだ。
目潰《めつぶ》しのせいで、正確にテンプルにはヒットしなかったものの、あやうく脳震盪《のうしんとう》を起こして、意識が飛びそうになる。
今度は、右脚の蹴《け》りだった。凄《すさ》まじい衝撃に、左の太股《ふともも》が痺《しび》れて、立っていることができない。藤木は、右手をつかまれたまま、地面にへたり込んだ。
満足げな唸り声。
藤木は、急速に闘志が萎《な》えるのを感じた。
体格はほぼ同じくらいだったが、膂力《りよりよく》の差は歴然としていた。それ以上に、必ず相手を倒すという凶暴な意思と、苦痛に対する耐性が比較にならない。
もう、武器はない。
殴り殺される。
そう思ったとき、背後に伸ばした左手の先が、何かに触れた。
ボウトラップのライン。
気づいたと同時に、地面すれすれに身を投げ出していた。左手の指先で、必死にラインをつかもうとする。その刹那、鶴見が怪力で引き戻した。体が浮き上がる。伸びた爪《つめ》の先端で、かろうじて弾いたラインは、ギターの弦のように顫《ふる》えた。
だが、トラップは、反応しなかった。
もうだめだ……。絶望の中に沈み込みそうになったとき、鶴見が、再び右脚の蹴りを見舞った。
息が詰まる。体が前に吹っ飛び、再び引き戻される。だが、その瞬間、指先がラインに引っかかった。
藪《やぶ》が、小さな音で鳴る。
かすかな風圧を、髪に感じた。
右手を締めつけていた鋼のような力が、ふっと弛《ゆる》んだ。
しばらくすると、暖かい液体が、藤木の肩から背中にかけて降り注いだ。頭上で、ごぼごぼという音が聞こえる。
見上げると、手製の槍は、鶴見の喉《のど》を見事に串刺《くしざ》しにしていた。泡の混じった血液が、口と、喉を貫通した傷口から溢《あふ》れ出ているのだ。
もはや、唸り声を出すことすらできないようだ。鶴見は、虚空を見上げながら、全身を真っ赤に染めるほどの血を吐き続け、胸を掻《か》き毟《むし》った。
やがて、棒のように硬直した姿勢で、後ろに倒れる。
藤木は、しばらくの間、立ち上がることができなかった。
意識は、動かなくなった鶴見に釘付《くぎづ》けになっていた。頭では死んだとわかっていても、今にも立ち上がってくるのではという思いを拭《ぬぐ》えない。
ようやく恐怖の余韻が収まって、視線を転じたとき、藍の姿が目に入った。
じっと、鶴見の死骸《しがい》を凝視している。その目には、恐怖や嫌悪に堪えながら、必死に務めを果たそうとする、苦行僧のような光が浮かんでいた。
画面いっぱいに、「BAD END」[#「「BAD END」」はゴシック体]の文字が浮かび上がる。安部芙美子のときと同じだった。
藤木はゲーム機の電源を切った。どういう仕組みなのかはわからないが、このちっぽけな玩具が、まるで、持ち主の死を認識して、笑っているような気がする。
電池を、かなり弱ってきた受信機のものと入れ替えると、鶴見の死骸のある、茂みの中へ投げ捨てる。
「……ごめんなさい」
藍が言った。
言いつけを守らず、勝手にシェルターを出たことを、謝っているのだろう。だが、彼女には、おそらく、そうしなければならない理由があったのだ。
「いや」
素っ気なく答えると、彼女は、悄気《しよげ》た顔になった。
さらに、鶴見のデイパックの中身を調べる。ゲーム機以外には、ほとんど何も入っていなかった。唯一の収穫として、外側のポケットにタバコの箱があるのを見つける。中身は二本だけだった。先にマッチやライターを使いきってしまって、そのまま残ったらしい。
普段なら藤木は絶対に吸わないメンソール入りだったが、今の状況下では、ありがたい贈り物だった。
タバコを抜き出そうとして、パッケージの片側に、乾いた血が点々とこびり付いているのに気がつく。
しばし動きを止めてから、何事もなかったように、マッチでタバコに火を点《つ》けた。節約して使っていたマッチも、もう、残り少なくなっている。
偽りの清涼感のある煙を肺胞に吸い込み、長々と吐き出した。
深呼吸すると、蹴られた腹が痛む。左のこめかみや太股も、まだ痺れたままだった。
ちくしょう、と口の中でつぶやく。
鶴見の死に顔が、まだ目の前にちらついていた。まるで壊れた井戸のポンプのように、次から次へと血を吐き出し続けていた。まるで、それが彼に残された最後の仕事であり、全部吐き終えるまでは死にきれないといった様子で……。
もう、たくさんだ。
藤木は、タバコをにじり消した。
「まだ、怒ってるの?」
藍が、遠慮がちに訊《たず》ねた。
「いや、最初から、怒ってなんかいないよ」
そう言うと、藍は少しほっとしたような顔になった。
「よかった。……これで、残ってるのは一人だけね」
「どういう意味だ?」
「だから、わたしたちが、ゴールするためには……」
さすがに口ごもる。
わたしたち。この次は、それが、「わたし」になるのかもしれない。
「俺《おれ》は、そんなつもりじゃなかった。ただ、我々の身を守ろうとしただけだ」
「それは、わかってる。でも、楢本は、必ずまた、襲ってくるわ」
「だから殺す、か?」
「そんな」
藤木は藍を見た。
「別に、非難してるわけじゃない。生き残るためなら、それもしかたがない。だけどな、俺は、どうしても気に入らないんだよ」
「何のこと?」
「俺たちが互いに殺し合うのは、このゲームを企《たくら》んだヤツらの、思惑通りだってことだ」
「だって、ほかに、どうしようもないじゃない?」
「いや。もう、うんざりだ。ゲームはやめる」
藍は、呆気《あつけ》に取られたようだった。
「やめるって、どうする気?」
「バングル・バングルから、脱出するんだよ。もっと早く、そうするべきだった」
「……でも、重大なペナルティがあるって」
「知ったことか」
藍は沈黙した。どうしていいのか、わからないようだ。
「食糧と水をできるだけ集めて、東へ行く。君は、来たくなければ残ってもかまわない。ゲーム機と受信機は、残していくから」
「馬鹿なこと言わないで!」
藍が叫んだ。
「ここには、楢本がいるのよ? わたし一人、残していくつもりなの?」
「俺は行くよ。ついてくるかどうかは、君しだいだ」
藍は、しばらくの間|逡巡《しゆんじゆん》していた。それから、固い表情でこっくりとうなずく。
霧雨が、バングル・バングルを潤していた。
細かい雫《しずく》が、草木の葉を伝って、大地に吸い込まれていく。朱色に近かった岩は、水に濡《ぬ》れて、徐々に深紅色《クリムゾン》へと変わっていった。
数キロ歩くと、バングル・バングルの東の端へ出た。
藤木は、双眼鏡で、まわりの景色を確認する。見渡す限り、赤茶けた土壌に草むらや灌木《かんぼく》が点在する平坦《へいたん》な地形だった。
「とにかく、真っ直《す》ぐ東へ向かって歩こう」
藤木は、空を見上げた。
「ここでは、ブッシュ・タッカーは、なかなか見つからないかもしれないな」
「でも、これなら、飲み水の心配はないわね」
「ああ……」
心配なのは、今晩のシェルターだった。バングル・バングルの岩山とは違い、どこにも雨露をしのげそうな場所が見あたらない。適当な場所を見つけて、穴を掘るしかないかもしれない。
それに、もう一つ。
藤木は、地面を見た。小雨が降っただけで、地面はかなり軟弱になっていた。足跡は、くっきりと残るだろう。いっそのこと、もっと激しい雨が降ってくれれば、人間が歩いた痕跡など、すべて洗い流されてしまうはずだ。だが、その場合は、シェルターの問題が、ますます深刻になってくる。痛し痒《かゆ》しと言うところだろうか。
雨に打たれながら一時間ほど歩いたところで、小川にぶつかった。本来なら、川が流れている場所ではないのかもしれない。褐色の泥を削り取った濁流が、かなりの勢いで流れている。雨量がもっと多ければ、流れも、いっそう激しさを増すことだろう。
雨期になれば、バングル・バングルへの交通がすべて遮断されるという意味が、やっと理解できたような気がした。これでは、4WD車でも、容易に先へは進めない。
藤木は、ふと思いついて受信機をつけてみた。何も聞こえない。それから、気がついて苦笑した。
このあたりには中継機が存在しない以上、受信機は無用の長物でしかない。すでに我々は、ゲームの舞台から降りているのだ。
しばらく川に沿って北へ歩き、ようやく、渡河できそうな場所を見つけた。飛び石のように突き出ている岩の上をジャンプして、向こう側に渡ったときには、ずっしりと疲労を感じた。
気温が高く、たいした降りではないことから、少し状況を甘く見すぎていたのかもしれなかった。
小雨ではあっても、すでに水は完全に服を通ってしまい、皮膚まで濡れそぼっている。体温を奪われたためか、いつになく消耗の度合いが大きいような気がする。特に、藍には、疲労の色が濃かった。
「どこかで、休憩しようか」
藤木は、周囲を見回した。依然として、どこにも雨宿りできそうなところはない。
しばらく歩いてから、小さな丘のような場所を見つけて、鉈《なた》を使って斜面に横穴を掘った。目の前を水が幾筋も流れている。穴の中も、ひどくじめじめしていた。だが、少なくとも、じかに雨に打たれるよりは数段いい。
藤木と藍は、穴の中で身を寄せ合った。濡れた下着が皮膚に張り付いて、ひどく気持ちが悪かった。だが、今は、我慢するしかない。
二人とも、そのまま眠りに落ちていった。
目が覚めると、夜明け前だった。
八時間以上、眠ってしまったことになる。
それに気がつくと、恐慌に心臓をつかまれたような気分になった。
「起きろ! すぐに出発するぞ」
寝ぼけ眼《まなこ》の藍の肩を揺すってから、穴から頭を出し、空を見た。雨はすっかり上がっていた。
……追ってきている。
それは、理屈ではなく、勘だった。
あいつは、今、我々の残した足跡を辿《たど》っている。
藤木の感じている不安は、すぐに藍にも伝わった。
「楢本……?」
「ああ。ここで眠っている間に、かなり距離を詰められたかもしれない」
「で、でも、ここは、バングル・バングルの外よ? あいつだって、警告に背いて勝手に外に出たりしたら、ペナルティがあるって知ってるはずでしょう?」
藍は、ぺったりと額に張り付いたままの髪の毛を、神経質そうにいじった。
「わたしたちは、ゲームを放棄して逃亡したんでしょう? だったら、最後までゲームに勝ち残ったのは、楢本だっていうことになるんじゃないの? 何も、こんなところまで、わたしたちを追ってくる必要なんか……」
「理屈はそうだが、たぶん、そうはならない」
「どうして?」
「それは、ゲームを主催したヤツらが期待するシナリオじゃないからだ。それに、あいつが望んでいることでもない。今、あいつの頭には、我々を殺すことしかないはずだ」
藍は沈黙した。
「楢本は、とっくに、鶴見の死体を見つけてるだろう。それで[#「それで」に傍点]、あいつは腹ごしらえができる[#「あいつは腹ごしらえができる」に傍点]。あいつには、我々みたいに、ブッシュ・タッカーを集める必要もないんだ。真っ直ぐ、足跡を追いかけてくる」
藍は、真っ青になった。
「さあ。行こう」
藤木は、藍を促した。いったん見つかってしまえば、たぶん、もう逃げ切ることはできない。しかも、迷路のようなバングル・バングルの中とは違って、見通しのいい平原では、小細工はいっさい利かない。
二人は、ひたすら逃げて、少しでも距離を稼ごうとした。
夜が明けてしばらくたつと、今度は、直射日光の地獄が始まった。
湿った服からは湯気が立ち、しばらくすると、すっかり乾いてしまった。体温の低下と風邪の心配だけは、なくなったことになる。
だが、容赦なく照りつける日差しは、雨に負けず劣らず、体力を消耗させていった。
雨宿りの場所と同じく、ここでは、日陰を探すのも難しかった。
結局、ろくに休憩を取ることもせずに、炎天下の草原を歩き続けた。頻繁に水を飲み、熱くなった頭や肩にも水をかける。コンドームの水袋に蓄えた水は、たちまち底を突いてしまった。
藤木は、我ながら、段取りの悪さに呆《あき》れるばかりだった。昨日は、あれほど周囲に水が溢《あふ》れていたのに、今は、渇きに苦しむ羽目になっている。この付近には、川はおろか、水溜《みずた》まりすら見当たらない。
太陽が中天に昇る頃《ころ》には、疲労と喉《のど》の渇きはピークに達していた。
バングル・バングルに自生する植物の中には、茎を切れば飲料水が得られるものもあったが、ここには、そうした種類は見あたらない。
ついに、藍が休もうと言い出した。これまで、めったなことでは音《ね》を上げなかったのを思うと、よほど辛《つら》いらしい。
このあたりの土壌は、どういう成分が含まれているのか、バングル・バングル以上に、毒々しい深紅色《クリムゾン》だった。木々や草の緑色とは、ちょうど補色をなしているため、ひどく際立って見える。
さらに歩いて、貧弱なアカシアの木立を見つけた。木陰というほどのものではないが、多少はましかもしれない。二人は、倒れ込むようにして、木の下に身を横たえた。
たちまち、眠気が襲ってきた。
目が覚めたら、そこに楢本がいるかもしれない。
恐怖と睡眠への欲求が、激しく葛藤《かつとう》した。
……だが、そのときは、そのときだ。
半ば、自棄《やけ》になったような気持ちだった。どうしようもないことを考えても、しかたがない。
そのまま、失神するように、眠りについた。
意識が戻ったとき、顔の上に覆い被さる影に気がつく。目を開けたとたん、容貌魁偉《ようぼうかいい》な男の顔が、飛び込んできた。
真っ黒な顔。眉上突起が張り出し、深く落ちくぼんだ眼窩《がんか》の奥では、黄色い眼がぎらぎらと光っている。鼻は平べったく、拳がすっぽりと入りそうな巨大な口からは、白く頑丈そうな歯が覗《のぞ》いていた。灰色の強《こわ》い髪は、ぼうぼうに逆立っており、白い、トウモロコシの毛を思わせる顎髭《あごひげ》を生やしていた。
殺される。
刹那《せつな》、そう思ったが、恐怖に体がすくんで動けなかった。
……だが、これは、楢本ではない。
誰なんだ。
男は、藤木が目を開けたのを見て、静かな声で何かを言った。
それが英語であることに気づくまで、しばらくかかった。「Are you all right ?」とでも言ったらしい。
額の上には、濡《ぬ》れタオルがのせられていた。
藍は、すでに目覚めていた。青ざめた顔で、男の方を見ている。
男は、オーストラリア訛《なまり》の強い英語で、矢継ぎ早に質問をしてきたが、藤木のヒヤリングの力では、ほとんど意味がわからなかった。証券会社でも、海外部門は一度も経験していないのだ。
おそらく、こんなところで何をしているのか、どうやってここまで来たのか、などと訊《たず》ねているのだろう。かりに言葉がわかったところで、答えることのできない質問だった。
藤木は、半ズボン一枚しか身につけていない男の姿を見た。おそらく、オーストラリアの原住民である、アボリジニなのだろう。日本人には馴染《なじ》みのない独特の風貌《ふうぼう》に気後れしてしまったが、こうして介抱してくれたところを見ると、善良な人物なのかもしれない。
だが、容易に警戒を解くことはできない。
この男もまた、このゲームの一部でないと、断定する根拠はないのだ。もしかすると、我々がバングル・バングルから脱出を図ったのを知って、ゲームの主催者が直接介入してきたのかもしれない。この男は、我々をバングル・バングルに戻すか、あるいは、それが不可能だと判断した場合、殺すという使命を帯びているのではないだろうか。疑心暗鬼は、つのるばかりだった。
アボリジニの男は、しばらく英語で質問をしてきたが、まともに会話が成立しないことに気づいたのだろう。黙ってプラスチックのコップを手渡してくれた。喉が渇ききっていた藤木は、目をつぶって飲んだ。中身はレモネードだった。
次いで、男は、タッパーのような容器に入ったサンドイッチをくれた。
少しためらってから、藤木と藍は、サンドイッチに夢中になってかぶりついた。それは、久しぶりに味わう、まともな食べ物だった。
できるだけゆっくりと、見苦しくならないように食べるつもりだったが、いつの間にか、餌《えさ》を横取りされるのを恐れている動物のように背中を丸め、がつがつと咀嚼《そしやく》している自分に気がつく。
サンドイッチは、たとえようもなく美味《おい》しかった。やめようと思っても、自然に舌鼓を連発してしまう。呆気《あつけ》に取られた表情の男を見ても、食べる速度を遅らせることはできなかった。
アボリジニの男は、平原を指しながら、何事か詠嘆するように言う。依然として話している内容は聴き取れないものの、どうしてこれほど豊饒《ほうじよう》な土地で飢えるのかと、言っているような気がした。
男は、草原に立っている卒塔婆のような塚を指さした。藤木はうなずいた。それこそが、プラティ君のメッセージにあった、究極のブッシュ・タッカーだったからだ。シロアリである。
言葉が通じないことはわかったはずなのに、男は、また、何事かまくし立て始めた。
だが、今度は、辛うじて一部だけ聴き取れた。繰り返し、「Flying Doctor」という言葉が出てきたからである。どうやら、二人の体力が弱っているように見えるので、医者を呼んでくれるということらしい。
男は、東を指さして、さかんに運転する手真似をした。ようやく耳が慣れてきたのか、「my car」や「10 kilometers away」といった言葉から、言わんとするところを察することができるようになった。
藤木は、ようやく警戒心が解けていくのを感じた。
おそらく、この人は、本当にゲームには関係ないのだろう。直感では、彼を信じてもいいような気がする。
……我々は、もしかすると、救出されたのかもしれない。
男は、肩をすくめると、歩き出そうとした。
そのとき、鈍い音とともに地面に土煙が立った。
細長い棒のようなものが、突き立っている。ボウガンの矢だ。
藤木は、ゆっくりと身を起こした。矢の尾羽は、ほぼ真南の方角を指している。楢本は、南にいるらしい。だが、楢本の姿はどこにも見えなかった。一キロほど離れた場所に、小高い丘があるのが目に付いた。おそらく、あそこから撃ってきたのだろう。
アボリジニの男は、驚愕《きようがく》の表情になっていた。
「Oh Shit !」とか、「Bastard !」とか叫ぶと、男は、車を置いてあるらしい東へ向かって走っていった。手真似で藤木たちにも来いと言っているようだったが、藤木はあえて無視した。藍の腕をつかんで、北へと向かう。
アボリジニの男に同行しなかったのは、追いつかれたら、三人とも殺されてしまう恐れがあるからだった。こうして二方向に分かれれば、楢本も、両方とも追うわけにはいかないだろう。
そして、その場合、まず間違いなく、こちらを追って来るはずだ。時間はかかるかもしれないが、アボリジニの男が、警察に連絡してくれれば……。
ボウガンの矢は、それっきり飛んでこなかった。これだけの遠距離だと、狙《ねら》って当たるものではない。さっきのは、単に、我々に警告し、追い立てるためのものだったのだろう。
ヤツは、この狩りを、心から楽しんでいるのだから。
四、五百メートル歩いたところだった。背後から、車のバックファイアのような乾いた音が響いた。立て続けに二回。それから、間を置いて一回。
二人は、はっとして振り返った。遮るもののない平野に、音は遠雷のようにこだました。アボリジニの男の姿は、すでに、木立の向こうに消えている。こちらからは、何が起こったのか見ることはできなかった。
「今の音、何?」
「立ち止まるな。行こう!」
彼女の腕を引っ張って、無理に歩かせる。
「でも、さっきの人が、あっちに……」
「あれは銃声だ」
「銃? そんなもの、楢本が?」
「楢本じゃない。おそらく、このゲームを監視してるやつらだ」
たぶん、スコープ付きの高性能ライフルで、遠距離から狙撃《そげき》したに違いない。それが、やつらの用意したペナルティというわけだったのだ。
やつらは、当然ペナルティを受けるべき我々の方は、あえて銃撃しようとはしなかった。予定を変更して、そのまま楢本に追わせることにしたのだ。その方が、やつらのシナリオにとって好都合だったからだろう。
そして、完全な局外者であり、何の罪もないアボリジニの方は、ためらいもなく撃ち殺してしまった。救助を呼ばれては困るというだけの理由で……。
アボリジニの男は、本当に、ただの善良な人物にすぎなかったのだ。藤木は、まだ彼に、礼すら言っていなかったことに気がついた。
怒りで、はらわたが煮えたぎるようだった。
だが、今はまだ、その怒りを解放することはできない。
この狂気のゲームが終わり、無事に日本に帰れたら、そのときは……。
「どっちへ逃げるの?」
「西だ」
見晴らしのいい平原では、隠れようがない。姿を隠すためには、どうしても、もう一度、バングル・バングルの中に逃げ込まなければならない。
黒いベルベットの上に、砕いたガラスを鏤《ちりば》めたような、満天の星空だった。
バングル・バングルの上空には、糸のような上弦の月が浮かんでいる。眠たげに細められた黒猫の目のように、何の感興もなく、じっと地上での出来事を見下ろしていた。
二色《ふたいろ》の光が彩なす空をバックに、丸い岩山が、紫色に近い深紅色《クリムゾン》のシルエットを浮かび上がらせている。対照的に、谷底の大地は重く闇《やみ》に沈んでいた。
再び、深紅色《クリムゾン》の迷宮にいる。
巨大な、目に見えない手によって、一度逃げ出したはずのゲームの舞台に連れ戻されてしまったことで、藤木は、徒労感とも絶望ともつかない感情と戦っていた。
生暖かく湿った夜風に吹かれながら、受信機のイヤホンを耳に押し当てる。
鶴見のゲーム機から取った電池も、すでに容量は残り少なかった。雑音のレベル自体が、急速にダウンしているのだ。
「何か、聞こえる?」
藍が囁《ささや》いた。
「いや」
これまでに、同じ会話を、何度繰り返したことだろうか。受信機から聞こえる音は、即、生命の危険を意味する。にもかかわらず、二人とも、まるで、何かが聞こえてくることを切望しているかのようだった。
今まで追いつかれなかったのは、単なる僥倖《ぎようこう》なのか、それとも、楢本がボウガンなどで重武装しているために、鶴見のときほど素早く追跡できなかったためだろうか。いずれにせよ、このまま中途半端な状態にいるよりは、早く捕まえて楽にしてもらいたい。無意識のうちに、そんな願望にとらわれているのかもしれない。
そのとき、受信機が、かろうじて認識できる音を拾った。人間の声だ。途切れ途切れに、何かを言っている。
「どうしたの?」
藍が、押し殺した声で言った。
「声だ。……楢本だと思う」
「何て言ってるの?」
藤木は唇にひとさし指を当てると、イヤホンからかすかに漏れ出る声に耳を澄ませた。だが、言葉の内容までは、わからない。声は、しだいに小さくなり、ついには、まったく聞こえなくなってしまった。
「だめだ」
藤木は、イヤホンを取った。
「聴き取れないの?」
「受信機は死んだ。電池が切れたんだ」
「……そんな」
「楢本の声が聞こえたということは、バングル・バングルのどこかにいるということだ。我々の後を真っ直ぐ追ってきたとすれば、それほど遠い場所じゃないだろう」
「……でも、あいつはもう、一人のはずでしょう? 誰と話してるのかしら?」
「わからん。言葉の内容までは、聴き取れなかった」
「どうするの?」
「耳を失った以上、もう、我々の優位は何も残ってない。とにかく、逃げ続けるしかないだろう」
「ちょっと、待って」
藍が、思い詰めた顔で叫んだ。藤木の視線を避けるように後ろを向くと、腰に下げた補聴器に手をかけて、ごそごそやり始める。
「これ……」
彼女が差し出したのは、単三のリチウム電池が八個だった。補聴器には、通常、これほど多くの電池を必要とするものだろうか。
「いいのか? 補聴器が使えなくなっても?」
藍はうなずいた。
「今は、それどころじゃないわ」
新しい電池を入れると、受信機はよみがえった。突然、イヤホンから、楢本の譫言《うわごと》のような声が流れ出す。
[#ここからゴシック体]
「ウサギども……逃げろ……どこまでも、逃げろ……絶対に捕まえてやる……咬《か》み殺してやる……本気で逃げられると思ってるのか? 馬鹿どもが……おまえらの逃走経路なんか、丸わかりなんだよ……足跡が見える。どんなに暗くても、俺には見える……俺の目は、すべてを見通す……おまえらの、心の中まで見える……夜も昼も関係ない……おまえらの通った後は、体温が赤外線の残像となって、ぼおっと赤く光って見える……道しるべみたいに。こっちへ来いと、案内してる……ほら。おまえらがこっちへ行ったって、木が指さしてる。俺に、告げ口してるんだ……聞こえないのか? まわり中、みんな笑ってるぞ。おまえらの馬鹿さ加減を笑ってるんだ。もうすぐ、捕まるのも知らないで……俺に捕まって、喰い殺されるのも知らないで……木も草も石も岩山も大笑いしてるんだ……」
[#ここでゴシック体終わり]
しばらく耳を澄ませてから、藤木は眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。聞こえてくる言葉は、しだいに支離滅裂になり、ほとんど意味をなさなくなっている。
「独り言だ。完全に、精神の平衡を失っている」
「発狂したの?」
「言ってることは、それに近いな」
「じゃあ、もう、追いかけてこられない?」
「いや……」
楢本は、絶え間なく独り言をつぶやいている。すでに、現実と空想、現在と過去の区別さえ付かなくなっているようだ。だが、なぜか、追跡には異常な自信を持っているのが、気になった。彼は、妄想の獲物を追っているのか。それとも、正確に、我々の後を追尾してきているのだろうか。
続いて聞こえてきた声に、藤木は愕然《がくぜん》とした。
[#ここからゴシック体]
「また、三叉路《さんさろ》だ。行く方向は、決まってる。ほら。また、左へ行った。左に行くのが、よっぽど好きらしいな。無意識に右を選ぶ人間が多いから、逆なら安全と思っているのか。馬鹿どもが。もうすぐ、わかる。俺が、教えてやるからな。すぐに、わからせてやる……」
[#ここでゴシック体終わり]
「行くぞ」
藤木は、藍を促して早足で歩き始めた。
「どうしたの? ねえ、ちゃんと、説明してよ?」
「なぜだかわからんが、あいつは、我々の後を見失わずに、ちゃんと追ってきているんだ」
質問責めにされることを予想していたが、藍は、それ以上何も聞かなかった。
真っ暗で迷路のような道を歩く。
楢本には、なぜ、我々の逃げる方向がわかるのだろうか。
これでは、まるで、先祖帰りではないか。遠い昔、人類に備わっていたであろう、狩猟のための特殊能力が、突然、賦活《ふかつ》されたかのような……。
だが、今、原因について云々してもしかたがない。重要なのは、その結果だけだ。
楢本は、我々に追いつこうとしている。それは、紛れもない事実だった。
前方に、またも、三叉路が現れた。バングル・バングルの自然は、よほど三択が好きらしい。
「どっちへ行くの?」
藍が訊ねる。
「……右だ」
藤木は、すでに、楢本が猟犬のような能力を身につけていることは、疑っていなかった。今度、ここをヤツが通ったときに、独り言を聞いていれば、どのくらい後ろにいるのかがわかるはずだ。
足下だけに注意を集中させて、ひたすら歩き続ける。今、この瞬間のことだけを考える。この先どんな運命が待っているのか、一時間先、ほんの十分先のことも考えてはいけない。いたずらに心を不安でいっぱいにし、絶望によって、生きる意志を萎《な》えさせるだけだから。
既視感《デジヤ・ヴ》……。
この状況は、よく知っている。さっきから、そんな気がしてならなかった。
「火星の迷宮」……。
巨大な迷宮の中を、食屍鬼《グール》に追いかけられ、逃げ道を求めて逃げ惑う。
ゲームブックの中では、この時点で、すでに、バッドエンドは確定している。どの道を選んでも、結局、最後には喰い殺されることになるのだ。
……馬鹿な。現実とゲームブックの中の世界とは違う。藤木は、死を望んでいるかのような内心の声に反発した。かりに、このゲームが、「火星の迷宮」をモデルに構築されていたとしても、結果まで同じになるとは限らない。
だが、不条理な感覚は、しだいに理性までを蝕《むしば》みつつあった。
受信機は、あいかわらず、楢本のつぶやく独り言を伝えている。
聞いているだけで、知らず知らずのうちに暗示にかかり、神経がおかしくなりそうだった。だが、今、受信機を切るわけにはいかない。相手の位置を知る、唯一の手掛かりなのだから。
今度は、四叉路に出た。もう一度、一番右を選択する。道は緩やかにカーブしていた。どこまでも続く、同じような形の岩山。星空。上弦の月。ときおり、同じ場所をぐるぐる回っているだけのような錯覚にとらわれる。
イヤホンの中で、楢本の声が響いた。
[#ここからゴシック体]
「ほう。やっと右か……どうして、急に気が変わった?……左へばかり行くのに飽きたのか?……だが、どちらにしても、たいして変わりはない……この足跡は、まだ新しい。一時間とたっていない……もうすぐだな……おまえらが、ただの肉になるまで……楽しみに待ってろ」
[#ここでゴシック体終わり]
藤木は、衝撃を受けた。一時間どころではない。三叉路で、初めて右の道を選んでからだと、まだ、十五分くらいしか経過していないのだ。
楢本は、もう、すぐ後ろまで迫っている。
ヤツが、我々の残した足跡を追ってきているのは間違いないだろう。だが、足跡を残さないように、柔らかい土を避けて粗い砂礫《されき》の上を歩くと、今度は、大きな足音を立ててしまう。
まだ、楢本は、残りの距離を過大評価している。だが、もし、足音を聞きつけられれば、万事休すだ。
どうすればいいのか。
また、分かれ道に来た。今度は、左右どちらかを選ばなくてはならない。
「左だ」
藤木は、とっさに一方を指した。何の根拠もなかった。直感すら、はたらかせる余裕はなかった。ただ、機械的に一方を選んだだけである。
左への分かれ道は、いやに曲がりくねっていた。しかも、進むにつれて、先細りになっている。
「ねえ。この道って……」
藍はこれまで、藤木の選んだ道には、一度も文句を言ったことはなかったが、さすがに声にも不安を隠せないようだった。
「わかってる」
藤木はそう言ったが、今さらどうしたらいいのか、見当もつかない。ここから引き返すタイムロスは、致命的だ。最悪の場合、楢本と鉢合わせをするかもしれない。
だが、このまま進んで、もし、先が袋小路になっていたら……。
藤木は、都合の悪い可能性には、目をつぶろうとした。もはや、このまま前進する以外に、選択の余地はないのだ。考えてもしかたのないことは、極力、考えない方がいい。
だが、次の角を曲がったとき、藤木たちの目に飛び込んできたのは、五十メートルほど先に立ちはだかっている岩壁の黒い影だった。
「行き止まりだわ!」
藍が、泣きそうな声を出した。藤木は、何とか登ることができるような傾斜の緩い崖《がけ》を探す。だが、三方は切り立った絶壁になっていた。
「もう、だめよ……」
「待て! あれを見ろ」
藤木は、行き止まりになっている崖のすぐ左手を指さした。大きな岩の張り出しに隠され、真っ暗な谷底のさらに陰になっているので、はっきりとは見えない。だが、駆け寄ると、そこには、幅二、三メートルほどの亀裂《きれつ》のような道が開いていることがわかった。
だが、そこからは、かすかに消毒薬のような臭いが漂ってくる。
藤木は、すぐさま駆け込もうとする藍の腕を押さえた。
「どうしたの?」
藍が、苛立《いらだ》ったようにささやく。
「早く行かないと……この先は、また、行き止まりかもしれないけど、ここしか行くとこはないのよ?」
藤木は、岩山の亀裂を見上げた。クリスマスのイルミネーションを思わせる星空を背景にして、岩山のシルエットがくっきりと見える。亀裂のような谷は、上に行くほど、はっきりと幅が広くなっていた。
V字谷だ……。潮が満ちるように、周囲から絶望が押し寄せてくる。
この臭いもまた、デス・アダーのいた谷と同じだった。ここには、間違いなく、毒蛇が放たれている。
だが、どの蛇かによっても事情は変わってくる。藤木は、V字谷の周囲の岩を見回した。まわりは真っ暗で、何かが書いてあったところで、読めるはずもない。
だが、星明かりに、うっすらと白い線が浮き出しているような気がする。
マッチを擦ってみた。
岩に光が当たったのは、わずか二、三秒のことだった。だが、そこに3というアラビア数字が書かれているのを確認するには、充分な時間だった。
3……。
それは、よりにもよって、最悪の数字だった。
ノートを見るまでもない。ほかの数字はともかく、ナンバー3がタイパンであることだけは、はっきりと覚えている。
ゲーム機に出てきたイラストは、デス・アダーのように、いかにも猛毒を持っていそうな異様にずんぐりした形ではなく、アオダイショウをよりスマートにしたような感じだった。色も平凡な茶褐色で、一見したところでは、毒蛇には見えない。
だが、プラティ君によれば、タイパンこそが、まぎれもなく世界最悪の毒蛇だということなのだ。
毒蛇の危険度は、必ずしも、毒の強さだけで決まるわけではなく、毒の量と毒牙《どくが》の長さ、攻撃性や敏捷《びんしよう》性も考慮しなくてはならない。
毒の強さではナンバー1のインランド・タイパンは、比較的引っ込み思案で温和な性質である。ナンバー2のイースタン・ブラウンスネークは、動きも早く、怒りっぽくてすぐに咬みつくが、毒牙が短いため、相手の体内深くまで大量の毒液を注入できないという弱点を持つ。
だが、ナンバー3のタイパン(コモン・タイパン)は、あらゆる点で、最悪の要素を兼ね備えていた。インランド・タイパンより一回り大きい体は、最大三・六メートルにも達し、非常に気が荒くて攻撃的である。しかも、一回の攻撃で数カ所に噛《か》みつけるくらい、運動能力に優れ、毒牙は長大、毒量もきわめて多い。
タイパンの一族は、自己防衛のためではなく、もっぱら獲物を迅速に殺すために猛毒を蓄えるようになった蛇らしい。したがって、ガラガラヘビなどとは違って、派手な体色や目立つ形、警戒音などは一切持ち合わせていない。狩猟者《ハンター》は逆に、獲物から見つけにくいよう、目立たない姿形をしていなくてはならないのだ。
考えてみれば、背景に溶け込んでしまう地味な色と、敏速に動けるスリムな体を持った毒蛇ほど、恐ろしいものはないだろう。
特に、闇夜のバングル・バングルにおいては。
だが、にもかかわらず、選択の余地はない。
ここへ入る以外に、活路はないのだ。
藤木は、先に立って隘路《あいろ》に足を踏み入れた。
消毒薬のような異臭が強くなった。毒蛇を谷から出さないために、蛇類が忌避する薬品を撒《ま》いているに違いない。
さっき、マッチの明かりを見たとき、一瞬にして目が明順応してしまった。再び暗順応し直すまでには、時間がかかる。闇に慣れていない目には、地面は宇宙空間のように漆黒に映った。
藤木は屈《かが》み込むと、手に土を掬《すく》った。不快な刺激臭を発する土を、全身に塗りたくる。
藍は、一瞬息を呑《の》んだが、すぐに藤木の意図を悟ったようだった。同じように、体中に土をまぶす。
そのとき、イヤホンの中で、楢本の声が響いた。
[#ここからゴシック体]
「二者択一は……やはり、左か」
[#ここでゴシック体終わり]
背筋に、異様な緊張が走った。藤木は、そっと人差し指を唇に当てる。
楢本は、とうとう、最後の分かれ道に入ってきた。ここで物音を立てれば、じかに聞こえるに違いない。
V字谷を隠している岩の陰から、顔だけを出して向こうを窺《うかが》う。藤木は、鶴見が持っていたサバイバルナイフを握りしめた。だが、刃の部分は、けっして岩陰から出さないようにする。星明かりを反射すれば、こちらの居場所を教えるようなものだ。
藤木の目がようやく闇を透かして見えるようになったとき、それ[#「それ」に傍点]は、姿を現した。
二本足で直立しているシルエットは、たしかに人間のようだった。
両肩には、ボウガンと、五、六十センチの湾曲した物体を背負っているようだ。
山刀《マシエト》だと、藤木は気がついた。妹尾が持っていたのを覚えている。長くカーブした刃を持つ山刀《マシエト》は、重心が刃先に近い部分にあるため、太い木の枝も、重みを利用して楽に叩《たた》き切ることができる。人間の手足を切断することなど、いともたやすいはずだ。
それ[#「それ」に傍点]は、袋小路への入り口に立って、こちらに顔を向けた。
丸い二つの燐光《りんこう》が、藤木の目に入った。薄緑色に輝いている。
藤木は呆然《ぼうぜん》とした。前に見た、ディンゴの眼にそっくりだった。
あれは、人間の眼ではない。人の眼は、闇の中で、あんなふうには光らないはずだ。
人肉を食べた人間の眼球は、獣のように光るという古い言い伝えを思い出す。あれは、本当のことだったのか……。
光る目は、闇を透かして、じっとこちらを見ている。
イヤホンの雑音に、つぶやき声が混じる。
[#ここからゴシック体]
「行き止まり……足跡は、こっちだが……罠《わな》か?」
[#ここでゴシック体終わり]
藤木は、それ[#「それ」に傍点]が、もはや人間ではなくなっていることを悟っていた。
食屍鬼《グール》……。ヒトを専門に捕食する、知能を持った肉食動物なのだ。
V字谷の入り口から、じりじりと中に向かって後退する。地面は、うっすらとは見えるようになっていたが、細部までははっきりしない。万一タイパンの尻尾《しつぽ》を踏みつけでもしたら、食屍鬼《グール》を待つまでもなく、すべてが終わる。
足下で、小石同士が軋《きし》むような音を立てた。
はっとして、動きを止める。そのとたん、イヤホンの中で興奮した唸《うな》り声が響いた。
[#ここからゴシック体]
「聞こえたぞ……そこか!」
[#ここでゴシック体終わり]
音もなく、忍び寄ってくる。だが、受信機は、かすかな足音を伝えていた。早い。大股《おおまた》で、跳ぶように近づいてくる。
もはや、足音を立てることなど、構っていられなかった。二人は、V字谷の奥に向かって駆け出した。
背後から、大きな声が聞こえた。同時に耳の中で、イヤホンが、同じ言葉をがなり立てる。
「そこにいるのか……? なぜ、逃げる? 少し、誤解があるようだ。話し合おうじゃないか」
[#ここからゴシック体]
「そこにいるのか……? なぜ、逃げる? 少し、誤解があるようだ。話し合おうじゃないか」
[#ここでゴシック体終わり]
相手の言葉は無視して、一目散に逃げた。
「俺たちは、最後の生き残りだ。お互いに、協力し合おう」
イヤホンが、小声で残りのメッセージを伝える。
[#ここからゴシック体]
「おまえたちが、俺の食糧になってな……」
[#ここでゴシック体終わり]
食屍鬼《グール》は、重い武器を持っているにもかかわらず、足取りは速かった。
あっという間に、距離が詰まってくる……。
V字谷の底は、少し幅が広がり、五、六メートルになっていた。両側にはスピニフェックスなどの草むらがある。タイパンを避けようとすると、草の生えていない中央部を走るしかなかったが、足場はひどく不安定だった。
角を曲がろうとする寸前に、藍が躓《つまず》いた。
地面から露出していた岩角に、足を引っかけたらしい。助け起こそうとすると、弱々しい声で呻《うめ》いた。
「逃げて……」
「何言ってるんだ! 早く立て!」
強引に引き起こそうとしたが、藍は首を振った。
「脚が……骨がどうかなっちゃったみたい。わたし、歩けない!」
「そんなこと言ってる場合か!」
背後から、声が聞こえた。
「どうかしたのか?」
藤木は、振り返った。
V字谷の途中に、人影があった。
楢本だ。もちろん、顔などは、まったくわからない。両手にボウガンを持って、ゆっくりと、こちらへ接近してくる。
両眼だけが、うっすらと光っていた。
藤木は、受信機のスイッチを切った。
「転んで、怪我でもしたのか? それは、大変だ。早く手当しないと、化膿《かのう》して……」
楢本は、含み笑いを漏らした。
「大事な肉が、腐ってしまう……」
のんびりとした歩調で、さらに近づいてくる。
距離が二、三十メートルになったとき、V字谷の上から射し込む星明かりが当たって、眼と歯だけが、光って見えるようになった。にやにやと歯を剥《む》き出している口元は、妙に人間じみていて、かえって不気味に映った。大勢のヒトの肉を咀嚼《そしやく》し、嚥下《えんか》したであろう口が、人間の言葉を喋《しやべ》っている。
「とりあえず、ここで生きて再会できたことを、喜び合おうじゃないか? それから、残りの人生をいかに有意義に過ごすか、真剣に考えた方がいい……もう、そろそろ秒読みが始まっているんじゃないか?」
もはや、打つ手は残っていない。
こんな場所で、ヒトの言葉を喋る化け物に、むざむざと殺されるのか。それ以上に、殺された後、自分の死体を貪《むさぼ》り食われるかと思うと、我慢ならなかった。
藤木は、サバイバルナイフを握りしめた。もとより、ボウガンと山刀《マシエト》には抗すべくもないが、せめて、最後まで戦って死にたいと思う。
藍が、よろめきながら立ち上がった。脚を痛めたらしいが、幸い、骨折などはしていないらしい。だが、目の前にいる食屍鬼《グール》から、走って逃れるのは不可能だ。
相手は、素早く走れる上に、こちら以上に夜目が利くのだから。
夜目……。
頭の中で、閃《ひらめ》くものがあった。
藍の耳元でささやく。
「目をつぶって、上から両手で押さえろ。……いいと言うまで、絶対に目を開けるんじゃない」
藍は、黙って言うとおりにした。
「愛する男の最期は、見たくないか? わかった。なるべく、音のしないように始末してやろう。おまえも、苦しみたくなければ、あまり動かない方がいいな」
藤木は、口を開いた。
「最後に頼みがある。タバコを、一本吸わせてくれないか?」
声がかすれるのは、どうしようもなかった。
食屍鬼《グール》は、にやりと笑った。
「いいだろう」
藤木はポケットを探った。鶴見が持っていたタバコの、最後の一本を取り出して、マッチで火を点《つ》ける。ゆっくりと紫煙を吐き出すと、食屍鬼《グール》に向かって話しかけた。同時に、何気ない動作で、火のついたままのタバコを、草むらに投げ込む。
「……おまえに会ったら、一つ聞きたいことがあったんだ」
食屍鬼《グール》は、不審げに、タバコの行方を見た。
「何のつもりだ?」
「おまえは、騙《だま》されてたのに気がついてなかったのか? おまえたち、南ルートへ行った連中は、毒入りの食糧を与えられてたんだ」
「何だと? 待て。おまえ……?」
食屍鬼《グール》の目が、草むらと藤木の間を往復した。その時、ぱっと炎が上がる。枯れ草に、タバコの火が燃え移ったのだ。
藤木は、いきなり藍の手を引いて、V字谷の奥へ向かう角を曲がった。
輝く炎を見たせいで、再び、夜目が利かなくなっていた。様々な色の付いた不定形の模様が、宙を舞っているように見える。
「藍。目を開けろ! 君が、俺の手を引いてくれ」
「わかった!」
藍の返事に被《かぶ》さるように、背後から激しい怒号が聞こえる。
食屍鬼《グール》の目も、炎を見た瞬間に明順応を果たしたはずだから、しばらくの間は、夜目が利かない。その間に、どれだけ逃げられるかはわからないが、最後の最後まで、あきらめないつもりだった。
藤木にとって、そこら中、コールタールのように濃密な闇で包まれていた。今は、藍の目だけが、頼りなのだ。
だが、背後から、光が射してくる。
ぎょっとして振り返った藤木は、自分の読みが甘かったことを知った。
食屍鬼《グール》は、太い枯れ枝の先端に火をつけ、松明《たいまつ》のようにかざしていた。
オレンジがかった炎に照らし出されていたのは、世にも奇怪な顔貌《がんぼう》だった。
人肉食を繰り返した報いで、無数の吹き出物で覆われた顔。眼窩から飛び出そうな眼と、不釣り合いに小さな虹彩。
まるで、人間の内面に巣くう、冷酷さ、悪意、嫉妬《しつと》、憎悪、激怒といったすべての悪が、全身から陽炎《かげろう》のように立ち上っているようだ。
「小賢しいヤツだ……もう、肉になれ」
ボウガンの矢は、ぴたりと、こちらの胸元に擬せられている。
そのとき、藤木は、食屍鬼《グール》の左手に、大きな蛇がいるのを見つけた。
ゆうに三メートル以上はあるだろう。松明の明かりを受けて、茶褐色の鱗《うろこ》が光っている。タイパンだ。
藤木の視線を追って、食屍鬼《グール》も、蛇の存在に気づいたようだった。
「何だ、こいつは?」
松明を振って追い払おうとするが、タイパンは、まったく反応を見せなかった。
赤みがかった眼で、じっと食屍鬼《グール》を見つめている。
さらに、その後に数匹のタイパンが現れた。火と煙に追われて来たらしい。
「こいつら……」
さすがに不気味なものを感じたらしく、食屍鬼《グール》は不機嫌に唸った。
瞬間、何の前触れもなく、タイパンが襲いかかった。
茶色い、しなやかなロープのような体が跳躍したかと思うと、タイパンは、食屍鬼《グール》の首筋に食らいついていた。さらに、信じられないような早業で、数カ所に毒牙を埋める。
食屍鬼《グール》は、異様な顔をさらに醜く歪《ゆが》め、絶叫した。
後に続いていた数匹のタイパンも、いっせいに攻撃を開始した。
タイパンの群は、炎を目標にして、波状攻撃を繰り返す。突然の闖入者《ちんにゆうしや》と火災によって平穏な眠りをかき乱され、怒り狂っているらしい。松明が地面に落ちる。
食屍鬼《グール》はボウガンを取り落とし、よろめきながら二、三歩向かってきた。藤木と藍は、後ずさった。サバイバルナイフを構える。
食屍鬼《グール》は、悲鳴を上げながら山刀《マシエト》をふるおうとしたが、腕が痺《しび》れているらしく、果たせなかった。
明かりが、しだいに細っていく。周囲から、ゆっくりと闇が押し寄せてきた。
食屍鬼《グール》の姿は、影絵のようなシルエットに変わっていく。
次々と、大量の毒を注入されたためだろう、懸命に歩こうとするものの、神経をやられているらしく、人形のようにぎくしゃくとした動きだった。幽鬼のような足取りで数歩進んで、ばったりと倒れた。手足が激しく痙攣《けいれん》しているのがわかった。
さらに、ところかまわず、数匹のタイパンが食いつく。
食屍鬼《グール》は、ついに、ぴくりとも動かなくなった。完全に絶命したらしい。
強靭《きようじん》なロープのような姿をした生き物の群は、その上を、さらに攻撃し続けた。すでに動かなくなっている肉体に向かって、執拗《しつよう》に咬《か》みつき続ける。
ついに松明の炎が消え、あたりが完全に闇の帳《とばり》に包まれても、無音の暗闘は続いているようだった。
いくら何でも、これは異常だ。
恐怖に半ば麻痺《まひ》しかけた頭の中でも、おかしいと気がついた。
タイパンが、いくら攻撃性の強い蛇だったとしても、これは、およそ、野生動物の取るような行動ではない。
その理由に思い当たったとき、藤木は慄然《りつぜん》とした。
ゲームの主催者は、甲状腺《こうじようせん》ホルモンやナルコティック・カクテルなどを使って、ごく普通の人間を食屍鬼《グール》に作り替えた。だとすれば、毒蛇の方にも、薬物を注射するなどして、極限まで凶暴化させたに違いない。
今まさに目の前で展開したのは、そうやって作り出された、モンスター同士の殺し合いだったのだ。
再び、藤木の目が星明かりだけの闇に慣れたころになっても、毒蛇の群は、まだ、食屍鬼《グール》の死骸《しがい》に執着していた。
もし、タイパンの注意がこちらに向けられれば、ひとたまりもない。
プラティ君の解説を思い出す。一般に、毒蛇が攻撃可能な範囲は、もたげた鎌首《かまくび》の二倍までと言われているらしい。だが、それは、ここにいる薬物中毒のタイパンには、当てはまらない。こいつらは、ターゲットに向かって疾走し、跳躍するからだ。
毒蛇の群は、疲労|困憊《こんぱい》して、動かなくなっていた。狂気じみた怒りの暴走も収まり、今は虚脱状態にあるらしい。
ここから、抜け出さなくてはならない。
ようやく、頭の中で、まともな思考が形を取った。
茂みの中に潜んでいたタイパンは、炎によって追い出されたはずだから、総出で食屍鬼《グール》を襲ったのかもしれない。だとすれば、一匹残らず、疲れ果てて、攻撃しようという気もなくなっているはずだ。
今がチャンスだ。
藍は、顔を覆って地面に蹲《うずくま》っていた。腕を取って、そっと立たせる。足音を忍ばせるようにして、食屍鬼《グール》の死体に近づいた。
一匹のタイパンが頭を上げ、こちらを見ていた。二人は、凍りついたように動きを止めて、蛇の注意がそれるのを待った。
ゆっくり、ゆっくり、その横をすり抜ける。蛇の体を踏みそうになったときには、足が震えた。これ以上ないほど慎重に、またぎ越す。
小火《ぼや》は、枯れ草だけを焼いて消えたようだった。黒焦げになった草むらから漂ってくる煙を、鼻孔に感じる。
ゆっくりと、摺《す》り足でV字谷を進んだ。
そっと。そっと。静かに。すべての蛇が、今の攻撃に参加したという確証はないのだ。絶対に、怒らせるようなことは、してはならない。
V字谷の出口が見え、藤木は、ほっと溜《た》め息をついた。
その瞬間、真後ろに、奇妙な気配を感じる。
そっと首を巡らす。一匹のタイパンが、至近距離でこちらを見つめていた。もたげた鎌首の高さは、百五十センチはあるだろう。
だが、なぜか、食屍鬼《グール》のときのようには、攻撃してこない。
砂だ、と気がついた。V字谷の入り口に散布された薬品の付着した砂を体に塗っているために、咬みつくのをためらっているらしい。
再び、ゆっくりと歩き始める。谷の出口までは、あと数メートル。そのとき、何の前触れもなく、タイパンが向かってきた。
とっさに、藍を突き飛ばすようにして、谷の外に押しやった。次いで、自分も逃れようとした瞬間、左の太股《ふともも》に激痛が走った。
藤木は、二、三歩前に足を踏み出したが、そのまま地面に倒れ込んだ。
今にも、首筋に、湾曲した鋭い毒牙が突き刺さるものと覚悟する。
だが、しばらく待っていても、次の攻撃は訪れなかった。振り向くと、すでに、毒蛇の姿は見えなくなっている。
最後の一歩で、V字谷の出口を越えていたのだ。
しかし、助かったと喜ぶことはできない。一咬みでも、充分致命的であることはわかっていた。
藤木は、よろめきながら立ち上がろうとした。
「だめよ。そのまま、寝てて」
藍の声が、妙に遠く感じる。
猛烈な神経毒が、全身に回りつつあるのがわかった。日本の熱帯夜を上回る気温にもかかわらず、悪寒で、体中の体毛が逆立つようだった。
冷や汗が滲《にじ》む。
視野が、周囲から狭まってきた。
自分の荒い呼吸音が、耳の奥に反響する。
結局は、バッドエンドだった……。
藤木は溜め息をついた。
序盤では正しい分岐を選んだし、そのあとも、それほど誤った選択はしなかったはずだ。現実はゲームよりも厳しく、それでも、うまくいくとは限らないらしい。
だが、少なくとも、俺は最善を尽くした。
その上で、この結果になったのだから、しかたがないだろう。
仰向けで見る夜空は、視野の周囲が丸く狭まっているので、まるで、井戸の中から見上げているようだった。
そこに、藍の顔が現れた。泣いている。涙の雫《しずく》が、藤木の顔に滴った。
「藍……」
自分の喉《のど》から発せられたとは思えないほど、嗄《しやが》れた声だった。
「しっ。黙って。今、手当するから」
「無駄だよ。世界で三位の猛毒だ」
……血清がないことには、どうしようもない。
「最後に、聞きたいことがある」
「だめよ。喋っちゃ、だめ!」
藍は、また、涙をこぼした。
「どうしても、聞いておきたい。このゲームについて、君が知っていること」
藍は口元を手で覆い、黙って首を振った。
「どうして? 死んでいく人間になら、教えたっていいだろう。……野呂田は、本当に、ゲームマスターだったのか?」
少しためらってから、藍はうなずいた。
「つまり、あいつは、ゲームの主催者側の人間だったわけだ。使い捨ての駒《こま》だったとしても……」
体が痺れてきた。すでに、下半身はまったく感覚がなく、腕も、ほとんど動かすことができなかった。呂律《ろれつ》が回らなくなってきているようだ。口が動かなくなる前に、一番大事な質問をしなくてはならない。
「教えてくれ……。藍。君は、どうなんだ? 君はいったい、何者だったんだ?」
藍は、両手で顔を隠してしまった。嗚咽《おえつ》が漏れる。
おいおい……。まさか、最後の最後まで、教えてくれないつもりなのか。
唇が震える。もう一度だけ質問をしようとして、すでに声帯が自由にならないことに、気がついた。
じわじわと窄《すぼ》まりつつあった視界が、完全に真っ暗になる。夜の闇とは違う。暗黒ですらない。何も存在しない、無の色……。
どうやら、聴覚も麻痺しているようだ。藍が何か言っているとしても、聞き取ることはできない。
俺は、このまま、死んでいくのか。
こんな場所で。何ひとつ、わからないままで。
悲しみが、押し寄せてきた。
……しかたがない。
あきらめの中で思う。
みな、わけもわからずに死んでいく。
この世のことなど……しょせんは……。
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259
あなたは、病院のベッドの上で、目を覚ます。
白いシーツ。白壁。白い椅子《いす》。白のテーブル。部屋の中にあるものは、すべてオフ・ホワイトで統一されているため、何となく輪郭がわかりにくい。じっと見つめていると、距離感すら、あやふやになってくる。
白衣の看護婦が、一日三回、ピンクのトレイに載せた食事と薬を持って現れる。看護婦は、あなたの質問には答えない。薬は赤と黒のカプセルで、コントラストに乏しい部屋の中では、奇妙な実在感がある。
二日に一回ほど、医師の回診もあった。医師は、手にしたカルテに何かを書き込んだり、看護婦に向かって、聞き取れない小声で指示を出したりするが、やはり、あなたには何も教えてくれない。
赤と黒のカプセルを飲むと、頭がぼんやりして、筋道立ってものを考えることができなくなる。そのため、二回に一回は、トイレに流してしまう。
あなたは、火星の迷宮のことを考える。
一つ一つのエピソードは、鮮明に思い出せる。だが、それが本当に起きたことなのかどうかは、自信がもてない。何もかもが、リアルな白日夢だったような気もする。
あなたは、左の袖《そで》をまくってみる。そこには、食屍鬼《グール》の鋭い爪《つめ》でつけられた傷が、残っているはずだった。
だが、あなたの目に入るのは、火傷《やけど》のような引き攣《つ》れだけである。
あなたは、病室の窓から、ぼんやりと外を眺めることが多くなった。四角い窓枠に切り取られた景色は、病院の正面にある広場だけだが、天気がいい日には、日差しが噴水の水に反射して、きらきらと輝く。
ある日、そこに、彼女の姿を見つけた。
花束を持ち、噴水のそばに立って、あたりを見回している。あなたは、ガラス窓を叩《たた》いて合図を送るが、彼女は、まだ、あなたの姿には気づいていないようだ。
トゥルーエンド644へ進め。
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急行「能登《のと》」の車内は、乗客もまばらだった。
目いっぱい暖房を利かしているらしいが、足下には、冷気が忍び寄っていた。窓の外に目をやると、陰鬱《いんうつ》な色の空と野山をバックにして、雪片が花びらのように風に舞っている。大陸から、大型の寒波が襲来しているらしい。
「どちらへ、いらっしゃるんですか?」
ゲームブックの一頁に目を落としていると、通路を挟んで反対側に座っていた老人が、声をかけてきた。
「……和倉《わくら》温泉まで」
別に隠す必要もないので、正直に答える。毛糸の帽子を被《かぶ》った老人は、そうですかと言い、羨《うらや》ましそうな顔をした。
「湯治ですか?」
重ねて質問してくる。話し好きな人物のようだ。
「ただの骨休めですよ。病気に見えますか?」
「いやいや。たいへん、失礼しました。ちょっと、その……だいぶんと痩《や》せておられるんで」
「外国を旅行してたんです。食べ物が、口に合わなかったんで」
「そうですか。なるほど。だから、まあ、ずいぶんと日に焼けておられるんですな」
藤木はうなずいた。老人は、まだ、いろいろと聞きたそうな顔だったが、藤木が座席に身を凭《もた》せかけて目を閉じると、あきらめたらしい。
車内には、静かな時が流れていった。車輪が線路の継ぎ目を越えるときの単調な響きだけが、体に伝わってくる。
……あれは、夢でも幻覚でもなかった。オーストラリアの原野での、十六日間の、死を賭《と》したゲームは。
藤木は、左の腿《もも》に手をやった。厚手のズボンの上から、タイパンの咬傷の跡に触れる。そこには、直径五センチ、深さ二センチほどに窪《くぼ》んだ、二つの傷痕が残っていた。
図書館で調べたところによると、蛇毒は、唾液《だえき》が変化したものであるため、多くの場合、肉を溶かす作用があるのだという。
だが、タイパンの毒の致死性は、主として猛烈な神経毒成分によるものらしい。藤木が死ななかったのは、咬《か》まれてからほとんど時間をおかずに、血清を注射されたからとしか考えられなかった。
つまり、ゲームを主催した連中は、最初から、ちゃんと十九種類の血清を準備していたことになる。
しかし、なぜ、俺《おれ》を助けたのだろうか。
日本の新聞のバックナンバーだけでなく、インターネットを通じてオーストラリアの新聞のデータベースにもアクセスしてみたが、これまでに、バングル・バングルで大量の死体が発見されたというニュースはなかった。
まだ、バングル・バングル国立公園は閉園期間が続いている。もしかすると、そのために発見が遅れているだけかもしれない。だが、藤木は、とうの昔に、すべての死体は処分され、犯罪行為の痕跡《こんせき》は消し去られたものと確信していた。
わかっているだけで、八人もの人間の命が奪われている。中でも、アボリジニの男性は、オーストラリア国籍を持っているはずだから、遺体が発見されれば、大問題になるだろう。
あれだけ周到な準備をした連中が、そんな杜撰《ずさん》な後始末をするとは思えなかった。
だとすれば、遺体が八つでも九つでも、大した違いはないはずだ。むしろ、バングル・バングルで行われたことの生き証人である、俺を生かしておいた方が、危険性は増すのではないだろうか。
ヤツらは、たかを括《くく》っている。
自分自身が手を汚しており、賞金を貰《もら》っていることから、口をつぐむはずと決めつけているのだろうか。
かりに告発に踏み切ったところで、俺一人がいくら騒ぎ立てても、こんな荒唐|無稽《むけい》な話が信じてもらえるわけがないと思っているのだろう。
自分一人が命を奪われなかったことで、軟化する気持ちなど、微塵《みじん》もなかった。
ヤツらの見通しが甘かったことを、必ず証明してやる。
JRの和倉温泉駅を降りると、駅前には雪が積もっていた。
漠然としていた記憶が、急に、はっきりとした形を取る。
階段を下りたところ、丸いフラワーポッドの前で足を滑らして、地面に左手をついた。そのときに、擦り傷ができたのだ。
あのとき、すでに、薬の作用で半ば朦朧《もうろう》としていたに違いない。車内で、何か、飲み物を勧められたような気がする。そして、駅に着くと、車でどこかへ連れていかれた……。
今、その駅前には、旅館の送迎バスが待っていた。
予約していた旅館は、駅から四、五分の距離にあった。二十階ほどもある二棟が、波の静かな七尾《ななお》湾に長い影を落としていた。
吹き抜けになったロビーには、香が薫《た》き染められており、四基ある展望エレベーターの一つで、最上階の部屋へと案内される。
日本一とも言われている高級旅館であるため、値段もそれなりのものがあった。ゲームの賞金がなかったら、まず、泊まろうなどとは考えなかっただろう。
藤木は、内ポケットに入った茶封筒を、部屋の金庫にしまった。
安アパートの部屋で気がついたとき、傍らに、この封筒が無造作に置かれていた。中には、帯封もない使い古しの札が入っていた。金額は五百万円。今の藤木にとっては、大金であることは間違いなかった。命を懸《か》けた代償としては、とても足りないが。
すでに百万円ほど減り、残りは四百万円足らずになっていたが、いずれにせよ、それを元手にして、仕事を始めるつもりはなかった。人生の再出発に、血に染まった金に頼る気にはなれない。
ヤツらが投げ与えた汚い金には、それにふさわしい使い途《みち》がある。
藤木は、システム手帳を開くと、東京へ電話をかけた。
コール三回で、深谷が出た。
「藤木だけど」
「今、どこだ?」
「能登半島だ」
探偵業という変わり種の転職を果たした昔の同僚は、ふっと笑った。
「いいご身分だな。こっちは、本来の仕事の合間に、おまえの依頼までこなさなきゃならないんで、ひいひい言ってるのに」
「その分の謝礼は、きちんと払ってるだろう。それで、何かわかったか?」
「ああ。ちょっと、待ってくれ」
手帳を繰る音。
「まずな、大友藍という名前の漫画家なんだが、誰も、聞いたことがないということだ。それから、エロ漫画業界の人間にも当たったが、『エロマンガ諸島』とか『エロニーニョ』なんていうマンガ雑誌は、どこにも存在しない」
予想通りの結果だった。
「大友藍という名前自体、偽名だと思うか?」
深谷は、笑った。
「当たり前だろう。少なくとも、『藍』の方は、絶対に本名ではありえないよ」
「どうしてわかる?」
「その女は、三十前後だよな?」
「ああ。大阪の万国博覧会の年に生まれたって言ってた」
「ということは、昭和四十五年生まれだな。その年の前後に産まれた子供には、命名に、今よりずっと厳しい制限があった。当時の『当用漢字』と、『人名用漢字別表』に含まれている漢字以外は使えなかったんだ。その中には、『藍』という文字は含まれていない」
「しかし……たしか、経理の浜中部長の娘、藍子って言わなかったか?」
「ああ。あの糞《くそ》生意気なガキな。その後、昭和五十一年と五十六年に、段階的に使える漢字が追加されたんだ。要するに、文部官僚の気紛れで、年代によって同じ漢字が使えたり使えなかったりしたわけだ」
藤木は、沈黙した。
「それからな、スナッフ・ビデオの方なんだが、これは、俺の手には負えそうにないな」
「おまえも今では、一応、プロの探偵なんだろう?」
「とは言っても、今のところ、インターネットで、それらしいホームページや、メーリング・リストなんかに当たるしか、方法が見つからないんだよ。……まあ、ネット上で囁《ささや》かれてる奇妙な噂《うわさ》だったら、いくつか仕入れたがな」
「どんな噂だ?」
「従来のスナッフ・ビデオっていうのは、おまえは見たことはないと思うが、単に人殺しのシーンを撮影したものに過ぎなかった。演出も、効果も、撮影技術もおざなりで、趣向も、たいがいは、縛られた人間を射殺するっていうだけのものだ。……まあ、そんなものに、大枚をはたくマニアがいるっていうのが、俺には信じられないがな」
藤木は、プラティ君の最後のメッセージを思い出した。やはり、椅子に縛り付けられた姿だった。
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「……そうだ! 諸君は、こういうビデオを見たことあるか? こうなったら言っちまうがな、実は、このゲーム」
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そして、ルシファー君が、プラティ君を射殺する……。
ヤツらは、あえて、あざといまでのヒントを与えていたのだ。真相に辿《たど》り着けるものなら、辿り着いてみろという挑発なのか。
「おい、聞いてるか? その、スナッフ・ビデオなんだが、最近、目の肥えた客からは、飽きられてきたっていうんだな。トレンドとしては、もっとストーリー性のある、映画のようなものに移りつつあるらしい。いわば、スナッフ・ピクチャーだな」
人は生きていく上で、常に物語を求める。映画、小説、コミック、ゲームと形こそ変われ、物語が消滅することはない。
中でも、死を描いた物語には根強い人気がある。登場人物が、作中で実際に死ぬ映画が存在すれば、これ以上エキサイティングなエンターテインメントはないはずだ。……人生に退屈した大金持ちの外道《げどう》どもにとっては。
「単なる記録映像では味気ないし、かといって、まったくの作り話とわかっても白ける。イラン映画であるだろう。セミ・ドキュメンタリーっていうのかな。そういう感じのものが、求められてるらしい。肝心の人が死ぬ場面がやらせ[#「やらせ」に傍点]じゃ困るが、面白くするためには、ある程度の編集や脚色は必要だというわけだ」
おそらく、要所要所では、死亡確認のための映像《カツト》が挿入されるに違いない。その様が、目に浮かぶようだった。
撮影スタッフが、カメラに向かって遺体を持ち上げて、致命傷になった部分を誇示する。傷がわかりにくい場合には、太い針を突き刺したり、一部を切断して見せるかもしれない。今回のように、遺体のほとんどがひどく損壊されたり、喰われてしまっている場合には、逆に、残骸《ざんがい》が作り物ではないところを見せなくてはならないだろう。どちらの場合でも、最近のようにCGやSFXが発達すると、観客を納得させるのは至難の業だろう。
また、ところどころにアニメーションを入れてみるのも、画面が単調になるのを救い、ストーリーをわかりやすく説明するためには、うまいやり方かもしれない。その意味では、プラティ君やルシファー君は、うってつけのキャラクターだ。ディズニーの逆鱗《げきりん》には触れるかもしれないが。
「……その、スナッフ・ピクチャーだが、手に入らないか?」
「おいおい。何で、そんなもの見たがるんだ?」
「確かめたいことがあってな」
「まあ、無理だな。かりに噂が本当だったとしても、伝手《つて》がないし、値段も、おまえなんかには、とうてい手が出ないよ」
「買ったヤツが、ダビングして、安く売るっていうことはないかな?」
「その辺が、妙に具体的というか、リアルな話でな。顧客は、古くからの上得意に限られてて、買うときには、絶対にダビングしないという誓約がいるそうだ。映画そのものも、特殊なコピー・プロテクションのかかったDVD―Rom入りで、厳重にシールドされた機械でしか再生できないらしい。しかも、映像の中に通し番号が混ぜ込んであって、万一コピーが出回った場合には、どこが流出元か、すぐに特定できるようになっているということだ。……まあ、ほとんど都市伝説みたいなレベルの話なんで、真偽のほどは、保証の限りじゃないがな」
「ゲームブックの方は、どうだった?」
「ああ。これは、すぐにわかった」
深谷は、「火星の迷宮」の作者だという男の本名を言った。
「もともと作家志望で、大学を卒業してからは、ゴーストライターなんかで食ってたらしい。一時期、ゲームブックに手を出し、『夢魔の時間』、『デッドリー・ナイトシェード』、『火星の迷宮』という三冊を上梓《じようし》した。だが、どれも売れ行きはぱっとしなかったらしい。その後、鬱病《うつびよう》に近い状態になり、仕事は止めてしまったらしい。ゲームソフトの脚本家に転進したという噂もあったが、確認は取れなかった。現在は、所在がわからなくなっている」
「何か、鬱病になるきっかけは、あったのか?」
「まあ、はっきりとはわからないが、当時、半同棲《はんどうせい》状態にあった恋人が突然|失踪《しつそう》したのが、相当|応《こた》えてたらしいという話だな。ある日アパートに帰ってみると、置き手紙もなしに、恋人の姿だけが消えてたらしい。最後のゲームブックになった『火星の迷宮』を完成する、ちょっと前のことだ……」
深谷は、呆《あき》れたような声になった。
「それにしても、こんな妙なことばかり調べて、どうするつもりなんだ? 俺には、まだ全然、話が見えてこないんだがな?」
「俺にもわからない」
藤木は、しばらく雑談してから、礼を言って電話を切った。
旅館にタクシーを呼んで貰《もら》い、能登半島をぐるりと一周してみることにした。どこかに、見覚えのある場所があるのではないかと思ったのだ。
能登有料道路を通って北上し、輪島《わじま》から、曽々木《そそぎ》海岸へ回る。トンネルの出口のすぐ脇《わき》から流れ落ちている垂水《たるみ》の滝では、日本海からの強風で、落下する水が吹き飛ばされて、飛沫《しぶき》となって消える珍しい光景に出会った。
海岸には、一面に、真っ白な波の花が吹き寄せられていた。波の穏やかな七尾湾とは、全くの別世界である。
能登半島の東端の禄剛崎《ろつこうざき》灯台まで行って、引き返す。今度は、国道二百四十九号線から、有名なヤセの断崖《だんがい》、能登|金剛《こんごう》へと向かった。松本清張の「ゼロの焦点」の舞台ともなった場所で、それを記念した碑が建てられていた。
特に、記憶を刺激するような場所は見あたらない。だが、一面真っ白な雪に覆われた風景を眺め、冷たい北風に吹かれているうちに、なぜか、しだいに心が癒《いや》されていくような気がした。
バングル・バングルのことを思い出す。あらゆる面において、こことは、まったく対照的な世界だった。深紅色《クリムゾン》と黒の縞《しま》模様の岩山。蝿や蟻、オオトカゲや毒蛇が支配する地。気候風土の異質さは、別の惑星を思わせるほどだ。
雨期で地上の交通がすべて遮断されたバングル・バングルへは、おそらく、気球を使って入ったに違いない。藤木は、そう推理していた。
熟練した人間なら、熱気球や、ガス気球とのハイブリッド版であるロジェ気球を使えば、夜間、こっそりと九人の人間を運ぶことぐらいは可能だろう。ただの幻影かもしれないが、夜空を去って行く気球の映像を、うっすらと覚えているような気もする。
問題は、日本から、どうやって連れ出されたかだ。
「能登半島には、外国からの密航船なんかも、漂着するんじゃないですか?」
「そうですね。中国の船とかは、よう来とりますなあ」
藤木が訊《たず》ねると、タクシーの運転手は、愛想よく答えた。名所や観光地にまったく興味を示さない妙な客だと思っているだろうが、この不景気では、とにかく長距離を乗ってくれるのは上客なのだ。
「でも、まあ、だいたいすぐに見つかりますわ。半島の外側は、ぐるっと道路が走っとるんでね。この間も、西保海岸の方で一件、ありましたわ。県外ナンバーの保冷車が、妙な場所に止まっとったんで、ドライバーが警察に通報したんですが、これが中国の密航組織の車だったんです。船から密航者を保冷車に積んで、大阪の方へ連れていこうとしとったんですな」
だとすると、深夜、人気のない浜で、というのも危険が大きすぎる。いつ、偶然通りかかった車に通報されるかわからないからだ。
「能登半島で、どこか、外国船が入る港はないですか?」
「それは、七尾港だけです。嵐《あらし》を避けるための避難港になってるし、木材を運搬してくるロシアの船とか、よう入っとりますわ」
運転手は、即答した。七尾港といえば、和倉温泉からは、目と鼻の先である。どうして、気がつかなかったのかと思う。
タクシーは再び南下して、七尾市内に戻った。スーパーマーケットなどがある中心街を抜けて、七尾フィッシャーマンズ・ワーフという建物の横を通り過ぎる。外国船が入るのは、その少し先だった。
タクシーを降りた藤木は、しばらくその場に立ちつくしていた。
港には、ビルのように巨大なガントリー・クレーンがあった。赤と白の縞。何百本という鋼製のワイヤー・ケーブルが、束ねた髪の毛のように細く見える。
それは、幻のように記憶に残っていた残像に、ぴったりと合致した。
「今年は、七尾港の開港百周年なんですわ。あのクレーンも、港の拡張工事をするために、わざわざ九州の方から、八千万円かけて曳航《えいこう》してきたそうでね」
車を降りてきた運転手が説明する。目の前には、外国から運ばれてきた木材の集積地があった。貨物の輸出入には、必ず税関の許可を受けるべしという、金沢税関七尾出張所の立て看板がある。日本語の上には、ロシア語の訳も付いていた。
その向こうには、港に停泊している貨物船の姿があった。船体には、キリル文字が見える。
ここだ……。
それは、確信に近い思いだった。
俺たちは、ここから連れ出されたんだ。
急に黙り込んでしまった藤木を、運転手が妙な顔で見ていた。
マフィアが大きな力を持っている国の船なら、金しだいで、チャーターすることも可能だろう。
税関が常時監視しているとはいっても、完璧《かんぺき》ではないはずだ。夜陰に乗ずれば、貨物船に人を積み込むこともできたのではないか。
藤木は、コートのポケットからタバコを出してくわえた。
必ず、ヤツらを見つけてやる。
タバコに火を点《つ》けながら、藤木は心に誓っていた。
今の俺は、無気力だった以前の俺とは違う。本当に恐れなければならないのは、ホームレスになることなどではない。なすべきことを何一つしないまま、最期の時を迎えることだ。
単なる娯楽に供されるために命を奪われた人々のことを思う。彼らのためにも、こんな非道なことをやった連中を、必ず見つけなければならない。
だが、ヤツらを見つけたい本当の理由は、それだけではなかった。
潮風に吹かれながら、いつのまにか、藍のことを考えていた。
今思うと、彼女には、最初から、いくつもおかしな点があった。
藍は、歩いているときに、躓《つまず》くことがしばしばあった。運動神経のいい女性にしては、妙だと思ったものだ。だが、あれは、距離感覚がつかめないための失敗ではなかったのだろうか。
それから、俺が左から静かに近づいたとき、まったく気づいた様子がなかったこと。
もっと不自然だったのは、安部芙美子や鶴見の死骸《しがい》に対したときの反応だった。普通の女性なら目を覆うような凄惨《せいさん》な光景に、じっと目を見開き、魅入られたかのように凝視していた。
最初に彼女の顔を見たとき、どこか、両目の焦点が合っていないような感じがしたのも覚えている。
二人で一夜を共にしたときのこともそうだ。彼女は、耳に触れられるのをひどく嫌がった。補聴器の電池を貸してくれと頼んだときには、異常なまでの拒絶反応を見せた。そして、彼女の補聴器のそばでは、高性能受信機に雑音が混じった。
疑惑は、眠っている藍の目を見たとき、急速に膨れ上がった。彼女の左の目の輝きは、明らかに右目とは異なっていた。のみならず、別の晩、そこには月が二重像を結んでいたように見えた……。
どれも、ひとつひとつでは決定的な証拠とは言えない。単なる偶然や、目の錯覚として、片づけることもできる。だが、これらすべてが集まったとき、彼女への疑惑は、にわかに信憑性《しんぴようせい》を増してくるのだ。
……あのゲームが、スナッフ・ピクチャーを撮《と》るためのものだったとしよう。お膳立てに、ヤツらは、大変な資金と労力をかけている。はたして、岩山の上からこっそり望遠レンズで撮影するだけで、満足するものだろうか。映画らしき体裁を整えようと思えば、ロングのショットだけでなく、必ず、クローズアップの映像も必要になるはずだ。
その場合、プレイヤーの中には、ゲームを円滑に進めるゲームマスター以外に、もう一人、潜入していなければならない人物がいる。
カメラマンだ。
だが、こっそりと小型カメラを隠し持つわけにもいかない。一緒に行動しているうちに、見つかってしまう危険性があるからだ。
だったら、どうすればいいか。
藍に対する疑惑と併せて考えると、納得のいく説明は、一つしかなかった。
彼女自身が、カメラであったということしか……。
そもそも、藍という偽名そのものが、眼《アイ》を意味していたと考えられる。
彼女は、覚醒《かくせい》剤中毒に陥っていたとき、犯罪組織とのトラブルで、自分の感覚の一部を失ったと言っていた。あれは、たぶん本当のことだろう。あの晩、彼女が発した言葉には真実の響きがあったし、嘘《うそ》をついても、得るものはないはずだ。
問題は、その、失われた感覚器官である。補聴器をしていることから、左耳のことだと速断してしまったが、実際には、左目のことを指していたのではないか。
彼女の左目が義眼だった……それも、虹彩の部分が自動的に絞りを調節するほど精巧に作られた義眼だとすると、中には、超小型のビデオカメラが組み込まれていてもおかしくない。
義眼のカメラと左耳にはめたイヤホンまでの間は、涙小管、下鼻道、耳管を経由して、コードで接続することができる。イヤホンは、補聴器に繋がっている。つまり、カメラで撮影した情報を補聴器にカモフラージュした機械へ送ることも、逆に、カメラまで電気を供給することも、充分可能なのだ。あとは、その機械で録画を行うか、中継機に向けて映像情報を発信すればいい。
そう考えると、岩のプールで泳いだとき、彼女がわざわざ耳栓をしたのも、外耳道まで伸びている端子を保護するためだったのだろう。
むろん、すべては想像でしかない。というより、ただの妄想かもしれない。
だが、もう一歩、進めてみよう。
最初の晩、藍が俺に見つかったときから、計画はスタートしていたのだろうか。
おそらく、そうではないと思う。あのときの彼女の狼狽《ろうばい》ぶりは、とても演技とは思えない。
藍は、ただ、ゲームが始まる前夜のショットを、撮ろうと思っただけなのではないか。だが、うっかり足音を立てたため、発見されてしまっただけではなく、自分のゲーム機を壊してしまうという失態を演じた。
あれが事故だったという論拠の一つは、このゲーム機にある。
第一チェックポイントでは、彼女のメッセージだけが欠けていたために、無用な紛糾《ふんきゆう》の原因にもなった。
ゲームの開始にあたっては、アメとムチ、両様の情報が用意されていたはずだ。どちらが欠けても、人を思い通り動かすのは難しい。
だが、あの場では、アメとなる情報、すなわち、ゲームに勝ち残った場合に与えられる、褒美についての説明が皆無だった。おそらく、それが、藍のゲーム機に入っていたために失われてしまったメッセージなのだろう。ゲームマスターである野呂田も、さぞかし困惑したに違いない。
このままでは、組織に責任を追及されることは必至だ。そう思った彼女は、一つの賭《か》けに出た。
ゲーム機が壊れたことを逆手にとって、俺と行動を共にする事にしたのだ。
本来ならば、もっと各プレイヤーを、満遍なく撮影する予定だったに違いない。女性であることを利用すれば、複数のグループと順番に接触するのも難しくなかったはずだ。
だが、彼女の撮る映像は、徹頭徹尾、一人のプレイヤーに偏ることになった。予定から逸脱した映像に価値を持たせるためには、一つしか方法はなかった。
藤木芳彦という男を、最後まで勝ち残らせることである。
最初の選択で、俺は、南ルートを選んでいてもおかしくなかった。むしろ、人を殺して喰う怪物となり果てて、非業の最期を遂げていた可能性の方が高かったのだ。
だが、藍は、巧みな誘導によって、俺に北ルートを選ばせた。勝ち残るためには、最も有利なルートを。
その後の展開でも、藍は、表面上、俺にイニシアティブを取らせながら、決定的な失策はしないよう、目を光らせていたのだろう。
……だが、あの晩のことは、どうだったのだろうか。
あれも、単なる演出の一つだったのか。スナッフ・ピクチャーの娯楽性を高めるために、あのあたりで、濡《ぬ》れ場が欲しかっただけかもしれない。
だが、本当にそれがすべてだったのか。
そうではないと、思いたかった。
藍は、最後まで組織のカメラ・アイに徹しきったわけではない。怪我を負った野呂田を助けたときには、自分たちも安全とは限らないことを悟ったはずだ。
その後は、とにかく生き残ることを最優先にしただろう。野呂田に向かって、ゲームマスターではないのかと問い質《ただ》したのも、その現れに違いない。本来なら、それは禁句だったはずだ。
彼女が最後に見せた涙は、今でも、瞼《まぶた》に焼き付いている。あれも、本物じゃなかったと言いきれるだろうか。
俺は、あのまま見殺しにされて当然だったのだ。その方が、手間も省けるし、危険もなかったはずだ。にもかかわらず、わざわざタイパンの血清を打って命を助けられ、賞金と共に日本まで送り届けられた。
もしかしたら、彼女が助けてくれたのではないか。そんな気がしてならなかった。
疑問はまだ、いくつも残る。
だが、今、本当に知りたいことは、たった一つだけだった。
……彼女は、今、どこにいるのだろう。
コートのポケットに突っ込んだ手が、ゲームブックに触れる。
最後の章は、何度も読んだため、暗記してしまっていた。
[#ここからゴシック体]
644
あなたは、病室を抜け出し、噴水のそばに駆けつける。
廊下やロビーは、大勢の人々でごった返している。だが、不思議なことに、誰一人として、あなたには関心を払わない。
スリッパを履いたまま玄関を飛び出すと、車寄せの向こうに、噴水がある。羽根を広げた天使が、鵞鳥《がちよう》の首を抱いている図柄の彫刻。陽光は燦々《さんさん》と降り注ぎ、吹き上げられる水を黄金色に染めている。
彼女は、そのすぐ横に立っていた。こちらに顔を向ける。風に髪が揺れた。あなたに気がついたらしく、にっこりと微笑《ほほえ》む。
あなたは、たしかに、その姿を見た。見たと思った。
しかし、彼女は、あなたの目の前で、消失してしまう。
太陽が西の山脈の向こうに沈み、夕映えは、噴水の水を深紅色《クリムゾン》に輝かせる。
あなたは、いつまでも、噴水の脇《わき》に佇《たたず》んでいる。
やがて、記憶は風化するだろう。
言葉にならない思いが、あなたの胸を締めつける。
[#地付き]TRUE END
[#ここでゴシック体終わり]
角川文庫『クリムゾンの迷宮』平成11年4月10日初版刊行
平成13年10月25日6版発行