虚淵 玄
鬼哭街
目 次
章ノ一 鬼哭雨夜
章ノ二 機拳功剣
章ノ三 恩讐追想
章ノ四 浦東地獄変
章ノ五 驟雨血風
章ノ六 愛憎之園
章ノ一 鬼哭雨夜
「ぁ……ぅ……」
苦しげに呻く少女の乳房に、鋼鉄の指が這う。
その容赦ない硬さと冷たさが少女の肌を苛む一方で、触る側の触覚デバイスは、生身の指と同等……いや、それ以上に敏感に、きめ細かな肌の柔らかさを、ぬくもりを貪って、樟《ジャン》の脳へと伝達する。
樟《ジャン》の両腕の構造は、女を扱うには向いていない。柔肌を愛撫するのでなく、むしろ相手の肉体を扱うのであれば、苦痛すら与える隙もなく破壊しつくす。そういう仕様で出来ている。法定規格を遥かに超えた重装甲サイバーアーム。
この腕で、樟《ジャン》は幾多の敵を引き裂き、叩き潰して、今いる地位と威名を手に入れた。『金剛六臂《こんごうろっぴ》』の樟賈寶《ジャン・ジャボウ》……もう武林ではそれなりに知れた名だ。
油圧チューブの無機質な唸りとともに、凶器同然の指先が少女の股を割って、その奥の秘所を浅く抉る。
「ひぐっ……ぅ……!!」
ただでさえ過敏な箇所を、過剰に責め苛む刺激。漏れ出る吐息は悲鳴に近い。それでも、樟《ジャン》の恩情が指使いを緩めることはまったくない。
もし力加減を誤って、この繊細な身体を挽肉にしてしまったとしても……大事はない。そのときは修理すれば済むことだ。
樟《ジャン》の腕がそうであるように、少女の躰もまた神ならぬ人の手による被造物。
完璧なプロポーションも、染みひとつない肌も、瑞々しい肉《ししむら》の感触も、何一つ賛嘆には値しない。そうデザインされ、設計されただけのこと。少女は自動人形《ガイノイド》……女でなく、人ですらなく、それは樹脂とカーボンで再現された模造品の女体に過ぎなかった。
「かっ……は……ぁ……」
秘裂からしとどに溢れ出るゲルも、愛液を模した合成物。のみならず催淫、回春の効果さえ備えている。一から十まで男の欲望に沿って造られた、最上級の性玩具。それがガイノイドである。
サイバネティクス技術の粋を集めたガイノイドは、決して安価な玩具ではない。
が、機械の遊び女と戯れるのは二流の慰めとみなされるのが常だ。それ専門という倒錯した趣味の持ち主でもない限り、大枚をはたいてまで抱こうとは思わない。
いくら見目麗しく、提供する快楽が生の肉に勝ろうと……だからといって、そこに何の悦びがある? 本当に雄を愉しませるのは、貶め、屈服させ、略奪し……存在そのものを汚しつくす。そんな陵辱の味なのだ。こればかりは人間の女を犯してこその醍醐味である。
心あるもの、魂を備えたもの、だからこそ傷つけることに悦びがある。空っぽの人形からは、何一つ奪い取れない。
樟《ジャン》自身、ドールフリークの客は一段下に見ていた。この特注品を手に入れるまでは。
だが、この人形『媽祖《マーチェ》』に限って言えば……
樟《ジャン》はズボンの前をはだけ、強張ったものを露わにした。
左右の鋼鉄の拳より、樟《ジャン》の生身の逸物は輪をかけて硬く逞しい……もし人間の娼婦が相手なら、そんな世辞で樟《ジャン》を笑わせることもある。だが、そんな洒脱《しゃだつ》が人形の口から出てこよう筈もない。
「……」
しかし樟《ジャン》の人形は、主の起立した大きさを目の当たりにするたび、怯えを隠しきれず身をわななかせる。
プログラムでそういう情動をエミュレートし、演技をして見せる人形も無論ある。だがそれすらも、樟《ジャン》の人形が見せる表情とは根本的な|何か《・・》が違う。
知性だけでは推し量れない共感というものがある。さながら猟犬が、追い立てられる兎から恐怖の気配を嗅ぎ分けるように……動物的恐怖というものは、被虐者の精神へ本能的に働きかけるのだ。
そんな、えもいわれぬ|何か《・・》を踏みにじる感触に確かな満足を覚えながら、樟《ジャン》は今日もまた少女の股間を凝固した欲望で貫いた。
「はうぅッ!!」
規格の容量を遥かに超えた侵入物に、今日もまた少女は悲鳴を上げる。
サイズの差違は承知していたが、敢えて樟《ジャン》は適正なパーツに交換することをしていない。そのぶん部品の消耗は激しいが、その程度の贅沢は贖って余りあるだけの、充分な稼ぎが樟《ジャン》にはある。
「ぐ……が……ひ……ぁひ……ッ!!」
もがき苦しむ指がシーツを掻きむしる様は、溺死寸前で必至に手がかりを探し求めているかのようだ。目尻には涙まで溢れている。
この苦しみも、悦びも、すべて偽り……並の人形なら、確かにそうだ。だがこの色街では誰もが知っている。樟《ジャン》私有のガイノイドは何かが違うと。目で見て、触れれば誰もが気付く。
樟《ジャン》が秘蔵の人形を貸し与える一夜には、超一流の高級娼婦と同等の値がついた。
これが道端のポン引きならば、嫉妬逆恨みの的にもなっただろうが、樟《ジャン》はこの上海にその名も轟く『青雲幇《チンワンパン》』の一員……それも腕っ節ひとつで幹部にまでのし上がり、今は磨坊街の女衒たちの総元締めとして君臨する男である。
たとえ街一番の美女を囲っていたとしても、難癖をつける者はいないだろう。ただ、訝るだけだ。あの人形はいったい何なのか? と。
その秘密を知る者は……樟《ジャン》を含めて、この世にたった六人限り。
「はうっ、が、ぁ……ふぅうっ!」
柔らかな粘膜の奉仕に、樟《ジャン》の快感は限界まで昴《たかぶ》る。射精前のさらなる膨張……それを感知した女体の器は、すかさず圧力を加えてきた。プロセッサに入力される性感に増幅がかかり、人形の嬌態《きょうたい》はさらに狂乱の度を増していく。
ガイノイドとの情事でタイミングがずれることはない。男の生理反応に応答して、人形は強制的にアクメの頂へと投げ上げられる。
「ぅ、ぁ、あううぅぅッ!!」
狙いすましたようなタイミングで肉壺は収縮と蠕動《ぜんどう》を始め、樟《ジャン》の性感にとどめの一撃を加えた。法悦の呻きを上げて、樟《ジャン》は抑えに抑えた白濁を存分に吐き散らす。
すべてが機械任せの、馴れてしまえば満足感も何もない陳腐な人形遊び……なのに性戯となれば百戦錬磨の樟《ジャン》が、今になっても飽きもせずこの機械仕掛けの肉に溺れている。
生身の女に飽きていたのもある。この街で春をひさぐ全ての女が、樟《ジャン》の所有物だといっても語弊はない。毛色の違う愉しみを探していたのも確かだ。が……
事を終えた樟《ジャン》は余韻に浸ることもなく、さっさと身を起こして煙草に火を点ける。
外は相変わらずの豪雨だった。この街か、もしくは同じ空の下の何処かで撒き散らされた、ありとあらゆる有害汚染物。繰り返し凌辱された空が今、報仇の涙を流している。汚穢《おわい》はまた大地に還り、街を、人を、より一層汚しつくす。
雨は嫌いだった。樟《ジャン》だけに限らず、誰であろうとこの街の雨を喜ぶ者はない。
雲の中で濃縮された毒素のフルコースが降り注ぐ中、出歩くような馬鹿がいるわけがない。魔都に跋扈《ばっこ》するもろもろは、今それぞれの穴蔵に隠れ潜んで、呪いの雨をやり過ごしているはずだ。
樟《ジャン》は肺に吸い込んだ紫煙の香りで憂鬱を払いのけながら、傍らでシーツにぐったりと身を投げ出した人形を見遣る。
荒い呼吸、汗に濡れた肌。メーカーの動作保証を遥かに超えた扱いを受け、息も絶え絶えの人形は、まだ回復の兆しを見せない。
こんなもので遊ぶようになって、もう一年近くになる。いかに出来が良かろうと、すぐに遊び尽くして飽きがくる玩具。手に入れたときはそう思っていた。なのに、まだ……樟《ジャン》はこの人形を手放す気になれない。
虚ろなレジンの瞳の奥に、時折かいま見えるもの……情緒エミュレーターの演出とは明らかに違う、玄妙な何か。それが何なのか樟《ジャン》には解らない。この人形を作った男なら、たぶん哀しみ≠ニでも言い表すことだろうが、そんな言葉遊びに興味はない。それでも気になる、この目つきは……
そう、あの女。一年前、この手で犯した少女と同じ目だ。
樟《ジャン》とその仲間たちで、寄って集って輪姦《まわ》して、壊した。それだけなら餓鬼の遊びで終わっただろうが、あの夜は違った。
これまで数え切れないほどの女を犯し、狂わし、堕としてきた樟《ジャン》だったが、その生贄には我を忘れるほど没頭させられたのだ。
容姿や身体だけではない。彼女には品格があった。まるで希少種の蘭か何かのように慈しみ愛でられて育ってきた、深窓《しんそう》の姫君。
育ちや身分が違うだけで、女の味はこうも違うものか……それまで女などただの肉壺だと思っていた樟《ジャン》にとって、それは衝撃的な体験だった。その悲鳴と嗚咽、赦しを乞い願う涙声……今も思い返すだけで、黒い悦びが胸に涌く。
時間にしてほんの数時間。だがあんな興奮を味わうことは、もう二度とあるまい。もちろんあの女にしてみれば、人生最後の数時間は、無限の地獄に思えただろうが。
そんな宴の記念品とも言うべき、この人形。参加者全員に配られた、気の利いたテイクアウト。
この人形を嬲ることで、自分はあの夜の余韻を味わい続けているのかもしれない。そう思えば納得がいく。ありきたりの娼婦など、それこそ飽きがくるほどに抱いてきた。
人形だって捨てたもんじゃない。裏切ることも、つけ上がることもない。生身の女が引き起こす一切の面倒とは無縁な玩具。それでいて本物の女よりなお犯し甲斐があるのなら、文句をつける筋合いは何一つない。
そして何より、稼ぎになる。傷もうが磨り減ろうが、いかようにも修理が利く人形だ。生身の躰と違って、耐用期間というものがない。いくら他の男に貸し与えて、手荒な扱いを受けてこようとも、一向に惜しくはなかった。
この雨が止んだら、また客を取らせよう。そんなことを考えながら、樟《ジャン》は吸いさしの煙草を窓の外に投げ捨てた。
……蕭。
雨の中、囁くように鈴が鳴る。
……蕭。
かつて、この鈴の音と共にあった笑顔。同じ響きを耳にすれば、今も瞼の裏に蘇る。
この世に二つとなく尊く、愛おしかった……彼女の笑顔。
鈴の音の響きは轟々たる雨音に呑み込まれ、追想の幻視もまた儚く消える。
重く、憂鬱を押し込めるように四方《よも》から迫る雨の音。立ちこめる水煙に、虚ろな輪郭を切り抜く人影が、ふたつ。
雨の上海旧市街を好きこのんで出歩くような手合いが他にいようはずもなく、彼らの姿を目に留める者は一人としていない。
かたや長身痩躯の外套姿。隣には、その腰元まで至るかどうかという矮躯《わいく》。
長身は……一目見れば幽鬼と見紛う男だった。落ち窪んだ昏《くら》い眼差し。削ぎ落としたように窶《やつ》れた頬。
聳《そび》やかす肩に纏った黒衣の、ほつれ目からはみ出た電熱線と罅《ひび》割れた液晶パネルは、かつてその外套がサーモスタット内蔵の耐環境コートだった頃の名残だろう。とうに機能を失っているのは見るまでもない。今となっては肌のぬくもりを守るだけの効果もあるのかどうか。
外套の下の胴着も長靴も、ひとしきり汚れていた。裏路地で雨風をしのぐ無宿人と見て相応の出で立ちである。そんな印象を、だがしかし、左右の手に携え持った代物がそれぞれに裏切っていた。
左手には、一振りの刀。ありふれた柳葉刀≠ニは異なる細身で反りの浅い刀身。その道の者なら倭刀≠ニ見て取るだろう。硬度に優れ、刺突と斬撃を共にこなす玄人向けの器械である。
艶の失せた黒鞘といい、飾り気のない柄頭といい、銘刀の類ではありそうにないが、その過酷な風月を偲ばせる蒼然の程は……熾烈な使い込みに耐え抜いてきた、業物の証とも取れる。
そして右手に掴むのは、瀟洒《しょうしゃ》な鈴をあしらった銀の腕輪。細緻な彫り細工に雅趣薫《がしゅかお》る、紛れもない逸品である。貴人の腕を飾るならまだしも、男の乞食同然の風体にはあまりにそぐわない。
……蕭。鈴の音が、またひとつ。
ささやかな響きが拡がって消える一刹那、その刹那だけ、また優しい追憶が男の脳裏に去来する。
肩を打ち据える水圧に項垂れながら、男……孔濤羅《コン・タオロー》は濡れそぼつ手に握った銀の鈴環を凝視する。
視線が横に逸れるまで、どれほどの時が経っただろうか。その眼は雨の帳《とばり》に煙る空よりなお昏《くら》い。
「……おい」
濤羅《タオロー》は抑揚のない声で、傍らに付き従う今ひとつの人影……華奢な矮躯に声をかける。この場に居合わせる上で、その容姿はある意味で彼以上に異質なものだった。
降り注ぐ豪雨の直中で、少女は寒気に震えることも、濡れ髪に嘆くこともない。ひたと虚空に据えたきり、微塵も動かぬ無機質な視線。見る者が見れば一目で看破できる。少女は、人間ではなかった。
年端もいかぬ小児を模した愛玩人形《ガイノイド》。肉の薄い繊細な体躯は、雄の欲望をそそるものとは思えなくても、特殊な嗜好の手合いには垂涎の的かもしれない。
もとより禁じられた欲望に応える器がガイノイドの由縁である。市場では、こうした倒錯した趣向のモデルもさして珍しいものではなかった。
呼びかけに遅れて反応し、人形の少女はゆるゆると濤羅《タオロー》を見上げる。歩く仕草、視線の動き……一挙手一動作が機械的でぎこちない。明らかに彼女には、自律運動に必要最低限なプログラムしか実装されていなかった。出荷状態のプリインストールでさえ、もう少しましな挙動を見せる。
「……」
この卦体《けたい》な同伴者をどう扱っていいものか、濤羅《タオロー》は未だに判断がつかない。
事ここに至っても、彼にこれを託した男の言葉については半信半疑……いやむしろ、九分九厘信じていない。
しかし、もし『左道鉗子《さどうかんし》』の言質に僅かなりとも真実があるのなら、そのために濤羅《タオロー》は命を差し出しても惜しくはなかった。だからただ一厘の賭といえど、乗ってみるだけの価値はある。
無言のまま、濤羅《タオロー》は左手に携えた刀を人形の少女に差し出す。
音声入力に寄らずとも、最低限の挙措《きょそ》判別プロンプトだけで、人形は濤羅《タオロー》の意図を判読した。ぎこちない仕草で両腕を掲げ上げ、その手に濤羅《タオロー》の倭刀を戴く。
少女の軽量な自重にとって、課された質量は酷なものだったのかもしれない。刀を受け取った途端、人形はぐらりと傾《かし》ぎ、あわやというところで二脚歩行のバランスを回復する。
危なげな人形少女の挙措を冷ややかに見守った後、濤羅《タオロー》は眼前の建物を、雨煙の空を透かして仰ぎ見る。
所番地に間違いはない。前世紀末の再開発の波をやり過ごした老朽建築。遺跡と見紛うアール・デコの古雅は、あるいは百年余りを遡るフランス租界時代の築かもしれない。
今となっては素性の怪しい輩が蟄居《ちっきょ》するこのアパートの、最上階のロフトハウスで、目指す男は生業を営んでいるという。探し求めた五人のうちの、まずは最初の一人。
降り注ぎ、滝のようにコートの表面を流れ落ちる、雨。分厚い布地越しに、暗い空の温度が男の肩を背中を冷やす。
総身の血はたぎり、そのくせ身体の芯は氷柱のように凍えている。凍みるような雨も、今はむしろ肌に心地よい。
今すぐに訪れるのは下策だった。この豪雨の中、女を目当てに女衒を訪ねる客などいようはずもない。間違いなく相手は疑いを懐く。
どこか雨を凌ぐ場所を見つけ、訝られない程度に身体を乾かして、それから出向くべきだろう。雨が止むまでは、待つしかない。
……蕭。また鈴の囁きが、雨音の中で囁いて、消える。
あとはただ無人の街路を、ただ纏綿《てんめん》と叩く雨だけが残った。
樟《ジャン》にとっては見るからに気にくわない客だった。風体は乞食も同然。普段ならこんな奴は、玄関先をうろつくだけでも許さない。
ところが男はドアカメラの前で、まるで魔法か何かのように懐から札束を取り出して見せた。前金で全額と言われては、商う側には難癖のつけようもない。
「……」
得体の知れない人間を招き入れて良いほど長閑《のどか》な界隈ではないが、この珍奇な客には何の危険性もなかった。軒先に立った時点で相手は、十指に余る検知器で全身くまなく走査《スキャン》されている。
結果はオールグリーン。爪楊枝ほどの凶器もなければ、生体危険物《バイオハザード》の反応もない。
驚いたことに、男は丸腰なばかりかサイボーグですらなかった。非合法パーツどころか医療パーツ、肝機能強化さえ見当たらない。今日日《きょうび》ここまで真《ま》っ新《さら》に生身な人間は珍しい。
ひとくさり考え込んだ後、樟《ジャン》はオートロックを解除した。
「……よし。入りな」
「……」
直に見ればさなきだに、気にくわない客だった。
女を使って稼ぐなら、客の求めるところを一目で見抜けないようでは務まらない。そしてその道の専門家である樟《ジャン》が察するに、どう見てもこの男、これから愉しもうという風情ではない。
女を買いに来た男にしては、あまりにも隙がなさすぎる。尖ってる、などという程度ではない。居合わす者を緊張させずにはおかない、まるで抜き身の刀のような冷ややかな気配。
そのくせ当人はまるで硬くなっている様子はなく、挙措はあくまでしなやかで緩い。そんな緩さ≠ェなお一層、危ういのだ。どこか獲物を狙う蛇のような、油断ならないものを窺わせる。
見るからに、人目のない場所で出会うのは敬遠したい類の手合いだった。とはいえ、金を持っていれば客は客。そもそも樟《ジャン》が男を恐れる理由は何一つない。
この部屋に施したセキュリティシステムは万全だ。部屋の四隅に配置されたマイクロウェーブ銃は、すでに玄関の開いた直後から来訪者に焦点を合わせ、今も追尾し続けている。
トリガーは樟《ジャン》の脳と|ダイレクトインターフェイス《DIS》で接続されている。その気になれば樟《ジャン》は小指ひとつ動かさず、相手を骨髄液まで沸騰させることができた。
そして何よりも樟《ジャン》自身が全身に百二十kg以上の非合法パーツを組み込んだ重サイボーグである。『金剛六臂』の名は伊達ではない。生身で丸腰の男など、目の開かない子猫も同然だ。何となれば金だけ巻き上げて叩き出したっていい。
「どこで聞きつけたのか知らねぇがよ……」
「困るんだよな。いきなり押しかけられても。ちゃんとアポとってくれねぇことにゃ、こっちだって持て成し方ってもんが……」
それ以上|樟《ジャン》が言う前に、男は折りたたんだ紙片を樟《ジャン》に放ってよこした。
空中でさらうと、指先で器用に広げる。オーバーサイズの義手ではあるが、必要とあらば外科医並に緻密な作業も出来た。本人に外科医の心得と繊細さがないだけだ。
本物の紙を漉《す》いた半紙に、墨でしたためられた落款と朱印。見違えようもなく青雲幇の紹介状である。
肉筆の書状は時代錯誤と見えてその実、デジタル万能の時勢にはむしろ信頼度が高い。紙は幇内の職人が手ずから漉《す》いた特製品。複雑に絡む草書の墨跡には、巧みに織り交ぜられた符丁が数カ所にある。部外者には複製も模造も不可能だ。
「……この綴りは?」
「無妄趨同人、同人趨大有」
「ふん……」
幇の符丁を持ち、それが読めるなら、男は間違いなく青雲幇ゆかりの人間である。これで樟《ジャン》も相手を邪険にあしらえなくなった。
「で? 人形がお好み、ってわけかい? あんた」
「ただの玩具なら、興味ない」
気怠げにそう嘯《うそぶ》いてから、男は底光りする眼差しを樟《ジャン》に向け、続ける。
「……だがあんたの所には、ひと味違う人形があると聞いた」
「おうよ」
樟《ジャン》は男の視線を正面から受け止めながら、しかし胸の内では依然、相手の真意を測りかねていた。
「それを聞いただけで前金で五千元か。ナリに似合わず豪毅な奴だな」
「それだけの価値はないのか?」
「そうは言ってねぇ」
商い物に自負するところをかけて、樟《ジャン》は余裕の笑みを見せる。
「もちろん、損はさせねぇよ」
樟《ジャン》は指を鳴らして、自慢のガイノイドを呼び寄せた。
衣裳部屋に控えさせていた媽祖《マーチェ》が、客の前へと進み出る。
フレームはエルメスの最新流行モデル。皮膚や頭髪の質感はもちろん、互換性のあるパーツは悉《ことごと》く最高級オプションに換装済みである。睫と虹彩の処理など、通の拘《こだわ》り所にはとりわけふんだんに金がかかっていた。
だがそんな艶やかさとは裏腹に、主《あるじ》の許へと歩み寄る足取りは妙に悄然《しょうぜん》とおぼつかない。まるきり艶の売り方を解っていない素人女も同然だった。
もとよりガイノイドの挙措は、プログラムによって統べられた完全|無謬《むびゅう》のものである。歩法ひとつにしてみても、ソフト次第で宮廷官女の気品も、あるいはトップモデルの蠱惑《こわく》も、思いのままに再現できる。
一流の女性を期待して金を払った男なら、これだけで幻滅したとしても無理はない。だが……
「……大したものだな」
「ホォ、判るかい?」
樟《ジャン》はそれまでの愛想笑いに、いくばくか本物の歓待を交えた。この客……弁《わきま》えている。なかなかどうして人形に遊び馴れているらしい。
所詮は機械人形にすぎないガイノイドにとっては、むしろこういう自然な°淘[こそ再現が困難なのだ。役者の演技と同じである。計算づくの動作より、素朴で自然な風情の方が演出は難しい。
「既存のエモーショナル・エンジンじゃ、調教したってこうはいくまい」
「独自スクリプトだな。誰が書いた?」
「書いたわけじゃねぇのさ……」
男の素性と嗜好が本物だと知れた時点で、樟《ジャン》の警戒は弛んでいた。
徒《いたづら》に吹聴すべきことではないのは承知している。が、樟《ジャン》を含む幇幹部たちが特別製のガイノイドを保有しているのは、幇の中では公然の秘密だ。
この男が青雲幇とどういう拘わりがあるにしろ、その身元に間違いがないのは符丁の半紙が保証している。こいつが警察のイヌである可能性は万に一つも有り得ない。
「例えば……ほれ」
やおら危険なほどの勢いで、樟《ジャン》は巨大な義手を伸ばして人形の頭を鷲掴みにした。油圧駆動のマニピュレーターが、あわやセラミック製の頭蓋を握り潰すかと思えた刹那、義手はぴたりと静止する。
「!?」
媽祖《マーチェ》は……動かなかった。何の自衛機能も見せず、さりとて反応しなかったのでもない。
反応できなかったのだ。瞳を一杯に見開いて、出かかった悲鳴を呑み込むように口元をわななかせ……人形は総身を硬直させていた。
「……な?」
樟《ジャン》が頭上の手をどけると、人形は脱力して床にくずおれた。ようやく肩をわななかせるほどに強張りがほぐれたらしい。上目遣いに樟《ジャン》を見上げる双眸には、哀れなほどに差し迫った、危うく儚い色がある。
恐怖、だった。この人形は怯え、畏縮している。生命なき機械人形には有り得ない反応だった。
「こいつの感情はな……ナマなんだよ」
「……ナマ?」
「皆まで言わせる気かい?」
「ああ、成る程……」
男は、相変わらず表情の読めない眼差しで人形を凝視しながら、抑揚なく呟いた。
「これが噂に聞く、魂魄転写≠ゥ」
電脳刑法における最大の禁忌。だがそれを口にする男の語調には、何の動揺も窺えない。
「なに気取ってんだよ。珍しくもねぇって顔に書いてあるぜ」
魂魄転写などという言葉が出てくる時点で、この男が一端《いっぱし》の人形狂《ドールフリーク》なのは間違いない。
「……」
はたして男が続けて口にしたのは、かなり専門分野に踏み込んだ内容だった。
「ここまで人間味を出すのに、どれくらい注入したんだ?」
「ざっと二十%ってとこか」
「……」
男を沈黙させたのは、今度こそ驚愕だったのだろうか。だが依然としてその貌《かお》には、糸ほどの動きも顕れない。
「それだけ吸い出されたら、母体が一発で壊れるのでは?」
「そんな勿体ないことはしねぇよ」
「吸い出したのはゴッソリ全部……百%だ。そいつを後から五等分したのさ」
樟《ジャン》の言葉は、殺人の自白に他ならなかった。
魂魄転写の違法性は、倫理的問題もさることながら、転写元の人体に与える苦痛と、脳が被る深刻なダメージにある。繰り返せば廃人化も免れない。
百%の吸い出し……この人形のために犠牲となった人間は、脳内に蓄えたありったけの情報信号を引きずり出されて死んだのだ。当然、その過程で味わったのは生き地獄の拷問だっただろう。
納得したのか、満足したのか、どちらともとれない沈黙のまま、男は床に座り込んだ人形の傍らに膝をつき、人形の貌《かお》を覗き込む。
「……」
これだけ言葉を交わしながら、未だに何一つ感情の動きを見せない男の態度に、樟《ジャン》は言い知れぬ不安を感じ始めていた。
まぎれもなく樟《ジャン》は、この部屋と、そこで販《ひさ》がれるガイノイドの主である。その自負を危うくさせるほど、男の沈黙は謎めいて、何か秘めたものを感じさせた。
やはりこの男は、どこかおかしい。まるで樟《ジャン》のことも、この人形とそれにまつわる秘密のことも、すべて事前に承知しているかのような……
まさか、こいつ……?
不意に樟《ジャン》は横柄な態度を一転させて、白々しいほどに顔を綻ばせた。
「なぁ、ひょっとして俺、あんたに会ったことあるか?」
「……」
「俺は、まぁ知ってるかもしれんが……訳あって人の顔の見分けがつかねぇタチでよ」
実のところ樟《ジャン》は、かつてニューラル系の改造を託した藪医者の執刀ミスが原因で、相貌失認を煩っていた。脳の後頭葉に負った外傷のせいで、他人の目鼻顔立ちを再認することができなくなる視覚障害である。非合法なサイバー化手術が横行する中、こうした事故は珍しくもない。
が、一昔前ならいざ知らず、今ではこうした失認症が深刻な障害となる例は少ない。これもまたサイバネティクス改造の普及による恩恵だった。たとえば樟《ジャン》は聴覚神経も機械化しているため、声紋を記録し参照することで話し手を識別できる。
男の声に聞き覚え≠ヘない。初対面の相手だとばかり思っていた。だがそうではない可能性もゼロとはいえない。機械任せの記憶では、この辺の機微がままならない。
「なにぶん古い知り合いだと、履歴《キャッシュ》を消しちまってることもあるかもしれねぇ。もしそうなら、気を悪くしねぇでほしいんだが……」
「構わんさ」
男の声は前にも増して静かだった。どこか優しげなものさえ窺える。
「気にしてないよ」
「そ、そうかい」
もはや気のせいではなく、男は雰囲気を変えていた。人形の頬に、まるで壊れ物を扱うように指を這わせながら、男ははっきりと相好を崩している。だがその豹変ぶりは樟《ジャン》を安堵させるより、なおいっそう不安を煽り立てた。
「俺には解るよ。姿形や声なんて問題じゃない」
「本当に大切な相手は……ほんのわずかな気配だけで、解る」
さっきまでとはうって変わった、優しく柔らかい声音。能面のような無表情よりも、この男は笑顔の方がより不気味だった。
まるでこの場に居合わせない誰か、幽霊か何かと言葉を交わしているかのような……そうだ。この男、さっきから樟《ジャン》に一瞥もよこさない。
「お前も忘れたか? 俺のこと」
「……あ?」
相変わらず男は樟《ジャン》など眼中にないまま、じっと人形を見つめている。もはや疑いはなかった。男は……人形に話しかけている。
「俺は覚えてる。忘れやしない」
「……?」
「こんな風に髪を梳いてやった。いつも……お前の髪、細くて柔らかくて……いつも誉めてやってたよな?」
何を……言ってるんだ? こいつは
「この中に」
男は慈しむように、ガイノイドの小さな顎《おとがい》を指に載せる。
「今のお前は、たった二割しか残ってないんだもんな。俺のこと、解らなくても……無理ないよな」
不意に部屋中の照明が消えた。
「!?」
停電……だとすれば即座に予備電源に切り替わるはずだ。なのに照明は沈黙したきり、復活する素振りを見せない。
不吉な予感に、樟《ジャン》は脳内のインターフェイスで部屋中のセキュリティを呼び出した。が……何の反応もない。
すべての電子機器が死んでいる。バグやフリーズとは思えない。物理的に機能を停止している。
「何……何ィッ!?」
動力が失せ、オートロックも機能しない、玄関のスライドドア。今やただの板きれと化したその引き戸を滑らせて、小さな人影が現れた。
いたいけな少女は無害と見えても、その手に恭《うやうや》しく捧げ持った一振りの倭刀は、決して歓迎できるものではない。招かれざる侵入者が、ぎこちない足取りで敷居を跨ぐ。だが警報も迎撃装置も務めを忘れて、沈黙で少女を迎え入れる。
樟《ジャン》はパニックの一歩手前にあった。
大枚をはたいて投入したセキュリティが、作動しない。あり得ないことだった。一機二機なら故障もあり得よう。だがすべての機器が一斉に沈黙するというのは……
「貴様、一体……」
こいつか? この男のせいなのか? だが……だとしたらどうやって? 手も触れずに、いつの間にそんな細工を?
「俺の声の履歴を残さなかったのは……」
「二度とこの声を聞くことがないと思ってたからか? 樟賈寶《ジャン・ジャボウ》」
「な……」
有り得る可能性が、ひとつだけ。……|電磁パルス《EMP》だ。稲妻などの高エネルギー現象で発生する電磁パルスは、あらゆる電子デバイスの導体に電磁誘導を引き起こし、わずか数ミリ秒のうちに破壊してしまう。
生体に組み込まれるサイバーウェアであれば、ある程度のEMP対策が講じられている。樟《ジャン》と彼のガイノイドが無事に済んだのもそのためだろう。だがそれも、接触するほどの至近距離からパルスを打ち込まれれば話は違う。
現にそういう武術が存在するのを、樟《ジャン》は知っていた。内家拳法家の秘奥義のひとつ……特殊な練気によって掌勢に電磁パルスを孕ませ、触れると同時に放射する。テクノロジーが戦いの形を変えていく中で、先古の武術大系が生み出した新たなる功=B
対サイバー気功術『電磁発頸』。徒手空拳でサイボーグを屠る|殺戮の絶技《アーツ・オブ・ウォー》。
「あんたは……」
樟《ジャン》はひとつの名を知っている。ただ独り……想像を絶する鍛錬の果てに、その功夫に至ったただ独りの男。
人呼んで、紫電掌″E濤羅《コン・タオロー》。決して思い返すはずのなかった男。
「死んだはずだ!」
半ば裏返った声で樟《ジャン》は糾《ただ》した。
「あんたは死んだ……あんたは、とっくの昔に!!」
「そうだ、樟《ジャン》。俺は死したも同然よ……」
男の声音は凍っていた。もはや人の声とさえ思えない。黄泉の底から吹く風なら、きっとこんな音を立てるだろう。
「同じ釜の飯を食った貴様らに、義兄弟の杯を交わした貴様らに……今日より俺は牙を剥く」
恐怖に囚われた樟《ジャン》をよそに、少女は無言のまま刀を差し出した。
「孔濤羅《コン・タオロー》はマカオで死んだ。今ここで剣を執るのは、ただ一匹の鬼……復讐の、鬼よッ!!」
殺意に凍えた鞘鳴りとともに、男は刀を抜き払う。
亡者との対面。その恐怖に呑まれてなお拳を繰り出した樟《ジャン》は、かつて名を馳せた兵《つわもの》だけのことはあった。
機械化した右腕から繰り出す『丹鳳朝陽』は、歴とした外家正調、少林拳の一手である。片腕二十二・三s、最終拳速二百六十m/s……破壊力で言えば対戦車兵器に匹敵する剛拳が濤羅《タオロー》を襲う。
拳風を浴びただけでも脳震盪。直撃すれば遺骸は原形を留めない。殺傷力過剰の剛拳は濤羅《タオロー》の体組織を、ただの一撃のもとに解体しつくす……
そう信じて疑わなかっただけに、おのれの拳が空振りに終わった事実を、樟《ジャン》は容易に受け入れかねた。刹那、閃いた剣光は……ジャンの拳を弾いたものだろうか。
ならば受けた剣ごと粉砕せんと、左拳から繰り出す『左穿花手』の追い討ち。倭刀の細い刀身など木っ端も同然に叩き折る……
そう意気込んだ大技が、またもあらぬ方向に逸れて空を切る。濤羅《タオロー》の刀に触れた途端、手応えらしい手応えもなく。
「ぐおおっ!!」
怒号とともに、樟《ジャン》は立て続けに拳を振るった。第一式『闖少林』の三十七手……左右から間髪置かず、縦横に軌道を変えて放つ連続突き。
濤羅《タオロー》は動かない。ただ白刃の輝線だけが、水飛沫のように虚空を流れ散る。そのたびに樟《ジャン》の攻撃は、見当違いの方向へと導かれて不発に終わる。
頼みの拳が、まるで意のままにならない。剣光が文目《あやめ》を描いて紡ぎ出す糸に、まるで絡め取られでもしたかのように。
濤羅《タオロー》の刀はジャンの攻撃を弾き返しているわけではない。むしろ逆に、刀身を鋼の拳に絡めるや、手前に引き寄せるようにして釣っている。敵の攻撃に手ずから勢いを加えているようなものだ。
次第、樟《ジャン》の拳はよりいっそう速度を増すものの、その拍子にわずかにベクトルを狂わされ、結果、標的を逸れて振り抜く羽目になる。
重さで勝る武器をいなす軽妙の技は、まぎれもなく戴天流剣法『波濤任櫂』……軽きを以て重きを凌ぎ、遅きを以て速きを制す。これぞ中国武術の深奥『内家拳』の極意に他ならない。
樟《ジャン》のように身体能力のみを頼みとする『外家』には、想像も及ばぬ境地である。
くっ……!
樟《ジャン》は神経回路のリミッターを解除。同時に肩の増加装甲を投棄する。
「くたばれぇぇッ!!」
双手から挂拳、蓋拳、劈拳、抛拳、横拳の六段式を一斉に放つ必殺の『阿修羅憤怒弾』。功を極めた樟《ジャン》でなくとも、機械化された肉体で繰れば速力、威力ともに達人の域である。
左右から振りかぶる拳速はもはや動体視力の極限を超え、無数の残像を伴いながら一斉に濤羅《タオロー》に襲いかかった。これぞ樟《ジャン》の『金剛六臂』たる由縁である。
おのが拳風の轟きの中、だが樟《ジャン》は……確かに聞いた。拳と白刃を挟んだ向こう側に、侮蔑を込めた憫笑《びんしょう》の吐息を。
怒濤の猛攻に応じる濤羅《タオロー》の刀は、なおいっそう軽く、速く、柔靱に……繚乱と闇に踊る白刃は、最大速度の連続拳をこともなげに捌き続ける。
馬鹿な……
連撃に連撃を重ねながらも、恐懼《きょうく》がじわじわと樟《ジャン》の思考を蝕んでいく。
両腕を動員して振るう樟《ジャン》の猛攻を、依然|濤羅《タオロー》は右手の一刀のみで防ぎ続けている。そして空いた左手は……指で剣訣《けんけつ》を結ぶでもなく、ただ緩く五指を広げて宙に浮いたまま。
それは樟《ジャン》にとって大砲の筒先も同然だった。いつか濤羅《タオロー》が繰り出す、あの左手が……その掌底で触れたとき、樟《ジャン》の命運は尽きるのだ。
触れてはならない。あの掌に触れてはならない。
刀はむしろまやかしだ。いかな利刀といえど、一撃二撃、斬られてどうなる身体ではない。我が身は鋼。すでに骨肉に非ず。だが、奴の掌だけは……
樟《ジャン》の焦りとは裏腹に、二人の間合いは悪夢のように着々と、数ミリ刻みで狭まっていく。もはや掌打の間合いまでは幾許《いくばく》もない。
凌ぎきれ……
もはや祈るような胸中で、樟《ジャン》は己を叱責した。
相手は生身の人間だ。間違いなく限界が来る。肺から酸素を注ぎ込んで動かす筋肉……そんな非効率な器官が、機械駆動の義手より勝るわけがない。このスピードで刀を振るい続ければ、いつか必ず息切れを起こす。
にもかかわらず濤羅《タオロー》の剣舞は、一向に鈍る様子がない。どう考えても有り得ぬことではあるが、まさかこのまま……濤羅《タオロー》が力尽きるより先に、樟《ジャン》の腕がオーバーヒートで停止するのでは?
有り得ない……有り得ない!
焦燥に歯噛みする樟《ジャン》は、すでにひとつの理《ことわり》を忘れていた。
内家の達人が得物を取るとき、それは硬さ鋭さだけでは語れない。丹田より発する氣を込めて振るわれたとき、ただの布帯は剃刀に変じ、木片が鉄槌へと変ずる。
同様に、鋼の刃は……
鋼の刃の変ずる果ては、ただ因果律の破断のみ。それは形在るものすべからくを断ち割る、絶対にして不可避の破壊。
樟《ジャン》が耳にしたのは、ただ一刹那の風切音。限りなく鋭く疾い、ただそれだけの気流の響き。断じてそれは……鉄と鉄とが触れ合う音ではなかった。
にも拘わらず、樟《ジャン》の右腕は肩から離れて視界の外へと飛び去った。まるで腕そのものが樟《ジャン》の身体を見捨てたかのように。途方に暮れた持ち主を見限ったかのように。
刀術とて侮るべきではなかったのだ。内家の功夫極まるとき、その手の刃を阻むものはない。濤羅《タオロー》が氣を練るだけの時間、そこまで戦いを長引かせた時点で、樟《ジャン》の敗北は決していた。
驚愕と絶望の中で、樟《ジャン》は残る左拳を引き戻すのを忘れていた。
とうに標的の失せた空間を趨り抜け、勢い余った左腕は床へ……カーペットを裂いてコンクリートの床材まで、深々と貫通して埋まる。
それとほぼ同時に、斬り飛ばされた右腕が最後に振り抜いた勢いのまま、砲弾のように部屋を飛び抜けて向かいの壁を破壊する。
樟《ジャン》はただ放心して、穴の空いた壁を眺めていた。粉微塵になって舞い上がる建材の埃の向こうに、わずかに垣間見える鉄屑は……かつてあれほどに硬く、力強く、無敵無双と頼んだおのれの腕。
あの拳で樟《ジャン》は、何者に負けるつもりもなかった。二度と膝を屈することはないと、そう信じて疑わなかった。なのに……
床に突き刺さったままの左腕の肘を、靴底で踏み押さえる脚がある。濤羅《タオロー》だった。樟《ジャン》が敗北という事実に心奪われていた隙に、舞うような身のこなしで背後へと回り込んでいたのだ。
その左の掌が、樟《ジャン》の延髄に押し当てられる。冷たいその感触は、もはや人肌の温度でさえなく、白刃の鋼も同然に感じられた。
深く静かな、濤羅《タオロー》の吸気。樟《ジャン》には解った。内力から電磁パルスを発生させる秘伝邪法の練功術。丹田を巡って練られた氣が、掌から放たれるとき……神経系を機械化したサイボーグには、免れようのない死が訪れる。
床に埋まった左拳を抜くことは叶わない。その素振りを見せただけで、紫電の炎が樟《ジャン》の脳を焼き尽くすだろう。
「俺は……違う」
死の淵に立つとき、人はとりわけ饒舌になる。樟《ジャン》はこれまでにない程に、言葉という言葉を吐き出したい気分になっていた。
「たしかに……あんたの妹にしたことは、謝る、あ謝るよッ!!」
「だが俺は、俺は殺してない! あ、あんたの妹をこんなにしたのは……」
「そうだな。貴様だけじゃない。心得てるとも」
濤羅《タオロー》の声は謳《うた》うように軽かった。わずかな殺意の重みさえない……あるいは、殺す相手を人として認識していない、声。
「いずれ一人残らず、貴様の後を追う」
「まずは貴様が先触《さきぶ》れだ。樟賈寶《ジャン・ジャボウ》、地獄に皆の席をとっておけ」
そして、灼熱の見えざる炎が樟《ジャン》の頸椎へと打ち込まれた。
掌より発した電磁パルスはテンペスト規格のシールドを通過し、鋼線を張り巡らした中枢神経に電磁誘導を引き起こす。
「ギャァァッ!!」
激痛は光の速さで樟《ジャン》の体内を燃え広がった。全身の神経に植え込まれた電子部品、そのすべてが一斉に焼き鏝《ごて》へと転じたのである。
喩えて言うなら、総身の痛点を剥き出しにされた上で硫酸の中に放り込まれたようなものだ。
「うぎゃぁァァァァァッ!!」
生身のままなら決して味わうこともなかった筈の、この世のものでない激痛……それがサイバー殺しの『紫電掌』。
「ァァ……ガ、ァァァ……」
だが生き地獄も長くは続かない。許容量を超えた刺激の前に、樟《ジャン》は肉体より先にまず精神を破壊され、すぐに苦痛すら届かない世界へ追いやられた。次いで神経系と同様に機械化されていた循環器系が停止。酸素と栄養素の供給が途絶えた脳が、ゆっくりと壊死しはじめる。
死体と呼ぶにも残骸と呼ぶにも語弊のある人型のオブジェが崩れ落ち、重い震動が床を揺する。それを見下ろす濤羅《タオロー》の双眸には、もはや何の感慨もない。
「……」
すでに樟《ジャン》の拳を封じた時点で、憤怒は胸の底に沈んでいた。
殺してみれば、この男の命に奪うだけの価値があったかどうか。
裁くには死すらも軽い。償わせるには一生涯あっても足りない。ただ濤羅《タオロー》は、この男が生き続け、日々の享楽を甘受し続けることが許せずに……それだけで剣を執った。
復讐とは虚しいものだ。遂げたところで、失われたものは戻らない。何ひとつ癒されない。
濤羅《タオロー》は顔を上げ、居合わす者たちを順に見遣った。
短くも激しい戦いを見守っていた二体の人形。かたや欠陥品の如く無反応に人命の危機を放任し……
「……」
かたや主の断末魔を、人形にはあるまじき怯えの相で看取ったガイノイド。
恐怖。それは生あるもの、滅びを知る者だけの特権。樟《ジャン》の絶叫が意味するところを汲み取った、それは……内に秘めた魂の証。
人でも機械でもない少女は、白刃を手にしたまま向き直った殺人者の視線に射竦められて、歯の根が合わぬほどに震えあがった。
その表情が、濤羅《タオロー》の胸を哀しみと憐憫で締め上げる。
「大丈夫……」
声に精一杯の優しさといたわりを込めながら、濤羅《タオロー》は怯える機械人形に歩み寄った。
「じっとしておいで。すぐに済む。……痛くはしないから」
樟《ジャン》の部屋での騒動は、警察よりもまず先に青雲幇へと通報された。この近隣に住まう者たちは、法なき街の法を心得ている。
すぐさま銃器と戦闘サイバーウェアで身を固めた若衆が数人、惨劇の現場へと駆けつける。樟《ジャン》の脳死からは五分と経っていない。にも拘わらず、部屋はすでに無人だった。
切断された左の義手以外、それらしき破損も見当たらない遺骸は、名の知れたサイバー武芸者の末期にしては奇妙に過ぎた。遺骸が調べられ死因が明らかになるのは、まだ先の話だ。
樟《ジャン》の自慢のガイノイドについては、若衆の誰もが知っていた。人形が下手人を視認していれば、メモリから画像を抽出できる。
だがその望みも、ガイノイドの残骸が回収されると同時に潰えた。
破損が酷すぎたからではない。メモリを内蔵していた頭部が、現場のどこにも見当たらなかったからだ。
ここまで来れば、追っ手には見つからない……そう確信したところで、濤羅《タオロー》は足を止めた。
「く……」
緊張が弛むと同時に、焼けるような痛みが胸を襲う。
あまりに人体の機能を逸脱した気功の運用法は、深刻なダメージとなって使い手を苛む。
電磁発勁などはその最たるものだった。使えば決まって内傷を負う。それが紫電掌の一撃の、最後の切り札たる由縁である。これも生身のままサイボーグと相対するリスクと思えば許容するしかない。
特に今夜は『轟雷功』で室内のセキュリティを一掃してから、ろくな調息《ちょうそく》もせぬままに『紫電掌』を放った。無理が祟るのも当然である。
ここまで軽功で駆けてくる間、小脇に抱えていた幼年型ガイノイドを地面に立たせてから、濤羅《タオロー》は壁に背を預けて座り込んだ。
心を静めて内息を整え、乱れきった気脈を清澄にすると、やがて内傷の痛みは潮が退くように鎮まっていった。完治させるには養生が必要だが、当面は調息だけで乗り切れる。
幼い人形は、そんな濤羅《タオロー》をしばし無言のまま見守ってから、両手に抱きかかえていた荷物を差し出した。
斬り落としてきた、樟《ジャン》の人形の首。魂魄転写を受けた有機メモリは、この中に収まっている。
「……来い」
濤羅《タオロー》は幼年型ガイノイドを招き寄せると、その懐に手を入れてPDAを取り出した。樟《ジャン》の部屋での立ち回りに備え、人形に預けておいたのだ。
『轟雷功』は周囲の電子デバイスを悉《ことごと》く破壊する。使い手が身につけた電子機器も例外ではない。電磁発勁を使うとなれば、こうした用心も必要だった。
「後ろを向け」
従順に、だが機械的な動作で踵を返す人形。その耳朶の裏に隠れるようにして設えられたマルチスロットに、PDAの端子と転送ケーブルを挿入する。ケーブルのもう一端は、同じく樟《ジャン》のガイノイドのスロットに。
接続と同時に、ただの生首だったガイノイドの有機メモリが活性化し、チックめいた瞬きを始めた。同時に幼年型の方も外部ドライブを認識。震える生首と呼応するように顔筋を小さく痙攣させる。
手順は『左道鉗子《さどうかんし》』に教わった通り、何一つぬかりはない。これでいよいよ、あの闇医者が詐欺師かどうか判別がつく。
震える指で、濤羅《タオロー》はPDAに転送コマンドを入力した。PDAの液晶画面に転送状況を示すインジケーター・グラフが表示される。
「……」
奇妙なダイアログも、不正処理のアラートも一切ない。何の変哲もないデータ転送。だが……
「……か……」
それまで一切の声を発していなかった幼年型ガイノイドが、不意に喉から息を漏らした。能面のような無表情が崩れ、不自然なほどに瞼が見開かれる。
PDAの画面上では、淀みなく処理されていく筈のグラフの帯が、突如として狂ったように踊り始めた。樟《ジャン》から奪った人形の首から、濤羅《タオロー》の持参した人形へ……ただのビット情報とは異なる何か≠ェ、転送ケーブルを通過し始めている。
「あぁぁぁぁぁうぅぅぅあぁぁぁぁ……」
壊れたラジオか何かのように、意味を為さない発声を繰り返す幼年型ガイノイド。それと共鳴するように生首の方も、声こそ出さないが、激しく顎と眼球を痙攣させる。
そっと手を伸ばし、震える生首の額に触れる濤羅《タオロー》。セラミックカーボンの頭蓋が、じんわりと熱を帯びている。
「……」
その表情を強張らせるのは、未知なるものへの畏怖だった。
まぎれもない脱魂燃焼《レイスバーン》……今この現場を押さえられただけで、第一級の電脳犯罪が成立する。
魂というものを定義する法律用語はない。それゆえ刑法においては、その怪現象そのものを犯罪の証拠として認定する。即ち、転送ログの消滅と、転写元の記録媒体の自然崩壊。
かすかな異臭が鼻をつく。樹脂製の頭髪が焦げつきはじめている。データを吸い出される生首は、すでに触《さわ》れないほどの高温を放っていた。中の有機メモリは溶解を始めているだろう。
脱魂燃焼《レイスバーン》の結果として、出力側となったドライブは修復不能な破損を被る。
炭素、珪素《けいそ》、磁気媒体、いずれにせよ例外はない。生体の脳から量子化された情報は、なぜか転写されるたびに元の記録メディアを破壊してしまう。脳細胞は死滅し、ハードディスクは溶解し……ことごとく修復不能な死≠迎える。
ただのデータ転送が、いったいどういう原理で物理的崩壊をもたらすのか? そのエネルギー、熱量はどこから発生するのか?
脳生理学、電脳情報学、いや物理法則そのものを根本から揺さぶる怪現象。だがすべては謎に包まれたまま、解明の試みさえ為されていない。
それは魂の禁忌を暴くことに躊躇した、学会の権威者たちによる計らいだった。脱魂燃焼《レイスバーン》は研究自体が禁忌であり、ただ神の摂理≠ニいう戒句だけで事足れりとされているのが現状である。
魂は唯一無二のもの。それを複製することは、人智を超えた法則により規制される。それ故に……
魂魄転写の犠牲者は脳に障害を被る。その度合いは、転写された情報量に比例する。樟《ジャン》の自慢の人形と、残る四体のガイノイドのために、かつて一人の少女が生贄となった。彼女の脳は、細胞の最期の一片に至るまで壊死して果てたのだ。
「か……は……く……ぁ……」
気が触れたようにフリッカーを続けるPDAの画面。人形の細い生体は音程の外れたノイズを放ち続け、その腕に抱かれた生首の方は、うっすらと煙を漂わせはじめる。
「……」
どれほどの時が経っただろうか。濤羅《タオロー》が意識したよりも、それは短い時間だったかもしれない。
はたと人形が目を閉ざし、奇声を発していた口を噤む。
PDAに目を遣ると、画面はいつの間にか元に戻り、何事もなかったかのように転送終了のダイアログを表示していた。
しばし躊躇した後、濤羅《タオロー》は転送ケーブルをスロットから抜く。湯気を立てる生首は、地面に落ちるがままに捨て置いた。
小さな肩に手を乗せて、そっと揺すると……人形は微睡みから醒めたように目を開けた。
視線が合う。凝《じっ》と見返す人形の視線は、真っ直ぐ濤羅《タオロー》の眼に。それから焦点を引いて濤羅《タオロー》の顔全体を捉え、彼の手がおのれの両肩に乗っている有様を、少し当惑したように交互に眺める。
雨の中、焦点の定まらない視線を虚空に漂わせていた瞳が、今ははっきりと意味のある挙措を見せている。
濤羅《タオロー》には言葉もなかった。樟《ジャン》の部屋で人形を見たとき、確かに感じた気配と同じもの。
姿形など問題ではない。本当に大切な相手は……ほんのわずかな気配だけで、解る。
だから濤羅《タオロー》には理解できた。この世に二人となく大切に、慈しんだ妹の魂を。
声もなく、笑顔もなく、だが見違えようのない……それは彼女の眼差しだった。
「瑞麗《ルイリー》……」
その名に万感の想いを込めて呼ぶ。涙は遅れてやってきた。
「……」
声を殺して慟哭する濤羅《タオロー》を、幼い人形は困惑めいた眼差しで見守っていた。
章ノ二 機拳功剣
そこは、時に置き去りにされた部屋だった。
紫檀を彫り抜いた虎像が声なき咆吼を放ち、掛け軸には墨筆の龍が雄渾に躍る。かそけき明かりすら電気ではなく、鯨油に火を灯す龕灯である。
内装から調度品に至るまで、その寝室は古色蒼然たる宮殿式で統一されていた。
連子窓から忍び込むのは、はるか悠揚たる長江を渡って届いた風。だが運び込まれたその夜気は、油煙と錆の匂いを孕み、過ぎし日の江南の開豁《かいかつ》な爽気はない。
天蓋つきの寝台では、老いたる帝王が死に瀕していた。
李天遠《レイ・ティエンユエン》。その名を聞けば無頼の輩はことごとく顔色を失う。江南に長くその歴史を刻み、今なおアジアの黒社会にその名を轟かせる秘密結社『青雲幇』の、彼こそは当代寨主であった。
だがそんな肩書きの威勢も過日のもの。病床に痩せ衰えた矮躯《わいく》は、ただ死に瀕した老人のものでしかない。
体内器官の機械化で延命を図ることは容易《たやす》いが、敢えてそうしたサイバー化を忌避《きひ》する高齢者も、まだ珍しくない。李《レイ》もまた、肉体の機械化に抵抗を持つ最後の世代の一人だった。
いかがわしい先端技術を拒んで天寿を全うせんとする気概も、しかし彼の侍医たちには通じなかったのであろう。老人の枕辺は、容赦なくテクノロジーの侵略を受けている。
寝台のぐるりを取り囲み、消えゆく命を冷然と見守る生命維持装置。冷却ファンの抑えた唸りも、かそけき静謐を掻き乱すには充分だ。一群の医療装置は、その存在感だけで室内の古雅を蹂躙していた。
せめて今際のきわぐらい、過ぎた時代の郷愁に浸りつつ果てたかったものを……
死に際さえままならぬ我が身を、老いた帝王は嘆息する。
持って生まれた肉体に固執する老人の頑迷さは、健全な器官まで切り捨てて機械部品と交換している今日日の若者たちからすれば、物笑いの種でしかあるまい。
だが同様に李《レイ》もまた、人と機械の境界を脅かして憚《はばか》らない手合いには、どうあっても心許せない。
四肢や臓腑《ぞうふ》のみならず脳にまで配線を巡らし、半導体を詰め込んだ怪物たち。
彼らの肉体のみならず、それを良しとする心理そのものに、李《レイ》は悪寒を禁じ得なかった。連中は人なのか? 機械なのか? 己の魂の拠り所を何処と心得ているのだろうか。
特に、あの男……
部屋の静寂を蹴散らすように、颯爽と足を運ぶ音が床を踏み鳴らす。おのれを阻む者は何もない。自らそう自負し、他者にもそう認めさせて憚らない、そんな傲岸さがありありと窺える足音の主は、李《レイ》には馴染みのものだった。
男……劉豪軍《リュウ・ホージュン》は李《レイ》の枕辺で踵を鳴らすや、取り繕った恭しさで拱手抱拳《きょうしゅほうけん》する。
「……お休みの所、失礼いたします」
艶やかな繭紬《けんちゅう》の布地に龍の刺繍をあしらった長衫《ちょうさん》は、香港の最新モード。そんな華美な出で立ちが何のけれんも感じさせないのは、その風貌の端麗さと、匂い立つような気品ゆえであろうか。
だがこの男、姿形は至極真っ当な人間と見えて、その実、脳と脊髄以外に生まれ持った身体は残っていない。生身の肉体と見分けがつかぬ機械の身体。李《レイ》からして見れば、なまじ無機物の本性を露わにするよりおぞましい姿である。
加えて、その心根に至っては……およそ温もりのある血が巡っているとは思えない。
「こんな夜更けに、何の用かね? 劉《リュウ》副寨主」
幇会bQの肩書きを背負うには、男の容姿は若すぎたものの、その威風は充分すぎて余りある。寨主の前でこうも物怖じせずに振る舞えるのは余程の傑物か、さもなければ只の馬鹿だけだ。
「寨主にあられましては、本日もご機嫌麗しゅう……」
口調ばかりは慇懃でも、澄ました声音には畏敬など欠片もない。むしろ痩せ枯れた四肢の、寝台に縫い止められた有様をまるで見下すかのような……そんな冷笑めいたものさえ窺わせた。
「何の用か、と訊いておる」
嗄《しわが》れた声に、底冷えのするような険がまじる。老いさばらえてなお李《レイ》は寨主。若造の不遜を是《ぜ》とすることはない。
王位とその簒奪者《さんだつしゃ》……互いに狸芝居で腹を探り合う関係はとうに過ぎていた。悲しいかな、戦いの趨勢《すうせい》は既に決している。いかに人の世に徳と義があろうとも、最後に審判を務めるものは、流れ過ぎる時間の非情さなのだ。
それゆえ、一方は憎悪と憤りを隠すこともなく。もう一方はそれに怖じることもなく飄々と。それがこの二人の会談の、いつも変わらぬ空気であった。だが……
「濤羅《タオロー》が街に戻りました」
短く言い捨てた劉《リュウ》の言葉に、老人の陰鬱に渇いた眼が鋭さを増す。
「ほう。濤羅《タオロー》が……な」
「今夜、私の配下の一人が奴の手にかかりました」
「まぎれもなく紫電掌=B見違えようはありません」
「一年前、奴はマカオで死んだと……そう告げたのは貴様だったか?」
「面目次第もありません」
「彼奴の命運は貴様の鬼眼≠もってしても見抜けなんだか。善哉《ぜんざい》、善哉《ぜんざい》……」
乾涸らびた喉から悪意もあらわな笑いを搾り出したあとで、李《レイ》は炯々《けいけい》たる眼光で劉《リュウ》を見据える。
「一年か……隠れ潜んで傷を癒し、卑劣な裏切りで削がれた英気を養っておったとすれば、大凡《おおよそ》、その程度かかるであろうな」
「いささか空想を逞しくしすぎではありませぬか?」
白々しく諫言する劉《リュウ》を無視して、李《レイ》はますます語気を荒げる。
「壮士は去りて還らず、江湖に義侠の志は潰《つい》え……されど天意は必ずや示される」
「貴様の奸計に屈せず、孔濤羅《コン・タオロー》は戻ってきた。あ奴こそは真の功夫。これぞ天の采配と言わずして何たるか」
「随分な言われようですな。まるで私が外道か何かのようだ」
「違うとは言わさんぞ。『鬼眼麗人《きがんれいじん》』」
「貴様の心胆は、その身体と同じ。……姿形ばかり人を装って、一皮剥けば化生《けしょう》の本性が隠れておる」
面と向かって罵倒された劉《リュウ》が、ようやく表情らしい表情を見せる。だがそれは怒気とは程遠い、冷ややかな憫笑だった。
「貴方と貴方の幇会のために粉骨砕身してきた後輩に、ずいぶんな御言葉ですね」
「たわけ……」
病床の虜囚となった李《レイ》も、上海の現状は風の便りに聞いている。青雲幇が好漢侠客の風を吹かせたのも、今は遠い昔のこと。
「今の青雲幇には義≠烽ネければ仁≠烽ネい。血に飢えた亡者の群ではないか」
「心外ですな。私は今という時代に沿って、組織を刷新してきただけのこと」
「古い時代に生きた方々には、お気に召さない形だったようですが」
「貴様は義侠《ぎきょう》の精神を根絶やしにした。先代が尊び培ってきたすべてを貶めた」
「悪鬼の業《わざ》に人は抗せず、されど必ずや天が裁きを下す」
「我らが幇会を悪鬼羅刹の巣にしおった報い……いよいよ受ける時が来たのだ」
「悪鬼……ですか。この私が」
嘆息して宙を仰ぐ劉《リュウ》。その視線は虚空を流れ……やがて天井の片隅の監視カメラを捉えて止まる。レンズに向けたそれとない目配せに、だが臥所の李《レイ》は気付かない。
「私には私なりに、慈悲の心もあるのですがね」
劉《リュウ》の声音がわずかに変わる。先程までより若干低く、ほんのわずかに抑揚を欠いた……ただそれだけの変化でありながら、致命的な何かが欠け落ちた口調。
「例えば……だ。すぐ目の前に、生きながら朽ちんとしている老人がいたとする」
「彼の残り少ない余生には、何一つ慰めがない」
「一生涯をかけて築いた世界が汚され、崩されていく様を、成す術もなく見守るしかない。屈辱を噛みしめながら」
李《レイ》の乾涸らびた顔が怒気に染まるのも構わず、劉《リュウ》は冷笑に口元を歪める。
「哀れだね。まったく……見るに偲びない」
「いっそ引導を渡してやるのが慈悲、と……そう思う俺は、やはり悪鬼なのかい? 寨主」
「貴様は……」
一声を発したその直後、李天遠《レイ・ティエンユエン》はこの世の人でなくなっていた。言いさした言葉を何が阻んだのか、それすらも理解できぬまま。
苦痛に襲われる暇《いとま》すらない、迅速な死。殺す者の心はどうあれ、死に方としては慈悲深い。
モニター装置の警報音に安眠を破られた侍医が、おっとり刀で老寨主の寝室へと駆けつけたのは、数分の後だった。
寝室では、仰臥する寨主を囲った生命維持装置の群れが、おのおの勝手気ままにアラート音の重奏を奏でている。
それを傍らで見守っているのは、誰あろう劉豪軍《リュウ・ホージュン》……『鬼眼麗人』の渾名で知られる幇会のナンバー二ではないか。それがなぜ、こんな夜更けに寨主の寝所にいるのか?
だがそんな侍医の疑念は、劉《リュウ》の冷ややかな一瞥を浴びた途端に消し飛んだ。
この視線の前では、ただの一挙手とも間違いは赦されない……彼に見据えられた者は皆、そんな得体の知れない緊張感にとらわれる。
「ろ、老師の様態が急変を……」
「見ての通りだ」
端正な顔を仮面のように引き締めて、劉《リュウ》は寝台の寨主へと視線を戻す。
その凝視から免れて安堵したのも束の間……李《レイ》老人が明らかに息絶えているのを見て取って、侍医は再び恐慌の一歩手前まで追いつめられる。
「慌てずとも良い。今さら貴様に出来ることは何もない」
侍医の狼狽ぶりとは裏腹に、劉《リュウ》はあくまで泰然自若。この非常時において平素と変わらぬ冷淡な居住まいは、さすが副寨主の器と言うべきか、あるいは冷酷と言うべきか。
「いったい、何が……」
「さてな。私も今来たところだが……」
劉《リュウ》は無造作に骸の上掛けを捲り、胸元をはだける。痛ましいほどに肋の浮き出た老師の胸には、黒々と鬱血した手形が惨たらしく残っていた。
「ただの一撃で五臓六腑がことごとく破裂している。……この掌痕、まさしく『黒手裂震破』。戴天流の内功掌法に違いない」
「な、内功……?」
武芸を心得る劉《リュウ》の見立てに、門外漢の侍医は私見の挟みようもない。
「事の次第は一切伏せておけ。いま寨主の死が露見しては青雲幇の存亡が危うい」
「この場の采配は貴様に一任する。報告はすべて私に直々に」
「は、はい……」
毅然と下知をくだす劉《リュウ》の言葉に、侍医は一も二もなく頷いた。
事態の重大さに錯乱しつつある彼にとっては、副寨主の判断だけが頼みの綱だ。差配できる人間がこの場に居合わせたという偶然を、ただ天に感謝するばかりである。
事後処置の手配を始める侍医に背を向ける前に、劉《リュウ》は横目でもう一度、天井の監視カメラを見遣る。眼下に繰り広げられた秘め事のすべてを見届けた電子の眼。レンズの輝きが、唯一の証人として冷ややかに劉《リュウ》を睨み据える。
「……」
劉《リュウ》は颯爽たる足取りを淀ませることもなく、今は死せる王の霊廟と化した寝室を後にした。
浦東《プードン》、金融貿易区……
雲をついて林立する摩天楼。過剰供給の電力を誇示するかのように夜通し輝くイルミネーションは、アジア圏における金融、文化の中心地を担う次世代モデル都市としても、面目を果たして余りある。
陸路にひしめく有輪車両はもちろんのこと、ビルの合間を縫うようにして空中に敷設された誘導軌道を、悠々と飛翔する推力推進車両《スラスト・ヴィーグル》の往来もまた、まるで都市という巨大な肉体を循環する血流のように、昼夜を問わず交通量を減らさない。
|スラスト・ヴィーグル《SV》による都市区画への侵入が規制されない街は、アジア圏においては未だこの上海しかない。何千台ものSVの無線操縦を並列処理できる管制システムと、螺旋状に街区を往復する誘導軌道。いずれも巨額を投じたインフラ整備の賜物である。
そんな光の洪水を地上三百メートルの高みから見下ろしながら、だが劉豪軍《リュウ・ホージュン》はその果ての、黄浦江の対岸に広がる深い闇を遠望する。絢爛な景観とは対照的に、外灘を中心とする上海旧市街は、死の沈黙に包まれている。
二十一世紀初頭の混乱期、再開発計画の破綻によって上海市が衰退の一途を辿る中、すでに多国籍企業の活動拠点として機能し始めていた浦東は、企業と癒着した市当局による不当な政策によってその富を独占し、旧市街の零落をよそに栄華の階段を上り続けた。
言うなれば、旧市街の屍肉を貪ることで肥え太ってきた金融貿易区。その爛熟した繁栄が邪なものを孕んで見えるのは、古き上海の怨念が陰を落としているせいか。
闇に沈んだ対岸に、劉《リュウ》は想いを馳せる。あの闇のどこかに、今も孔濤羅《コン・タオロー》は隠れ潜んでいるのだろう。胸に凝《こご》った憎悪で殺意の刃を研ぎながら……
「孔《コン》のことを考えてるのかい?」
想いに耽る副寨主の背中に、部屋の主が声をかける。いま三百メートル眼下の絶景を睥睨《へいげい》する劉《リュウ》の立つ場所は、上海電脳義肢公司ビル最上階。取締役社長|呉榮成《ン・ウィンシン》の執務室である。
歴代社長の執務を支えた黒檀のデスクを足枕にして、磨き抜いた革靴を横柄に投げ出した呉《ン》には、企業家の風格など欠片もない。高級スーツの出で立ちこそ豪奢だが、伝法な口調といい、下卑た笑顔から滲み出る横柄さといい、胡乱な酒場で女でも侍らせていた方が余程様になる風体である。
事実その印象は、間違ってはいない。この男は堅気ではなく青雲幇の香主。それも劉《リュウ》の腹心の一人だ。
最先端サイバーウェアの開発で世界的に知られた気鋭メーカーが、M&Aによって青雲幇の手中に堕ちたのは半年前。顔ぶれを一新した株主たちにによって社長の椅子に据えられた呉《ン》は、言うなれば傀儡である。
幇会副寨主たる劉《リュウ》が、今こうして社長室の窓の展望を恣《ほしいまま》にしている有様にも、実は何の不思議もない。
上海電脳義肢公司の買収は劉《リュウ》が幇香主としてのキャリアの総仕上げに成し遂げた偉業であり、これによって青雲幇は上海の覇権のみならず、アジア黒社会の雄として威名を轟かすまでになった。
第四次産業革命とも謳われるサイバネティクス技術の実用化が、皮肉にももたらした新たなる社会的脅威……サイバーウェポンや電脳ドラッグ、ガイノイドによるポルノ産業……いずれも、犯罪結社の金脈として旨味あるものばかりである。
いち早く規制に踏み切った欧州に対し、法整備の出遅れた東欧とアジア圏では裏サイバネティクス市場が猖獗《しょうけつ》を極めた。かつてメコン・デルタが麻薬の産地として隆盛を誇ったかのように、いま東南アジアは非合法サイバーウェアの一大拠点として、全世界の暗黒街における需要を賄っている。
その中心地がここ上海であり、世界屈指のパーツメーカーを傘下に収めた青雲幇なのだ。
かつて何人たりとも想像し得なかったサイバネティクス・マフィアの誕生……その立役者である劉《リュウ》の功績は計り知れない。その若さにも拘わらず副寨主の座にまで上りつめたのには、相応の理由があった。
「しかし解せないね。奴はあんた自身が引導をくれてやったんだろ? 一年前に」
「そのつもり……だったのだがな」
夜景に見入りながら返事を返す劉《リュウ》は、心ここにあらず、の態である。
「是非もない。俺とて人の子だ。仕損じることもある」
「よく言うぜ」
語り手に似合わぬ謙虚さを、呉《ン》は鼻で嗤い飛ばす。
「俺に言わせりゃ、あんたはとっくに人外化生《じんがいけしょう》の域に踏み込んでるぜ。『鬼眼麗人』の旦那」
「化生《けしょう》……か。そういう貴様はどうなんだ? 『網絡蠱毒《もうらくこどく》』」
劉《リュウ》もまた冷ややかに微笑しながら、かつての異名で呉《ン》を呼ばわる。
「脳まで増設しているサイボーグに、俺だけ怪物扱いされては心外だ」
「あんたらサイバネ拳法家の連中に比べれば、俺なんて可愛いもんさ」
「それに、とりわけあんたはな……」
「手足を取っ替え引っ替え機械にしたぐらいじゃ、到底及ばない場所まで行っちまってるように見えるんだがね?」
劉《リュウ》は相手の舌弁に背を向けたまま、窓の外の夜景に冷たく微笑む。呉《ン》のとりわけ剽げた口調が、実は畏怖の色を隠すためのものと……彼は見抜いていたのだろうか?
「その化生《けしょう》を出し抜いて生き延びたとなると、あの孔《コン》もまた人の域にはいないのかもしれん」
「果たして、この上海に舞い戻ってきた今……奴は、いったい何者なのかな?」
「考えたくもないね。他の奴らに訊いてくれ」
「……連中はまだ揃わないのか?」
「すぐにも飛んでくるさ。なんせ事が事だけに……お? 噂をすれば何とやら」
社長室直通のエレベーターに、今まさに二人の客人が乗り込んだことを、呉《ン》は居ながらにして察知した。彼の脳はセキュリティを含むすべての社内LANに常時接続されている。
ほどなく……必要以上に広大な社長室の対面で、大扉が音もなく滑り開いた。秘書の取り次ぎもなければ案内もない。このビルにおいては、望めば直々に最上階まで推参できるのが青雲幇の香主たちである。
禿頭に黒の長袍をまとった剽悍な男は『百綜手《ひゃくそうしゅ》』こと斌偉信《ビン・ワイソン》。幇会内では盟証≠ニ呼ばれる参謀役を務め、普段から劉《リュウ》の補佐役として采配を振るっている。
その隣で、女だてらに鋭い眼芒を放つのは『羅刹太后《らせつたいこう》』朱笑嫣《チュウ・シャオヤン》。彼女は陪堂=c…幇内部での揉め事に対処する、いわば仕置き役≠フ香主である。
「この面子に、この場所とは……いったい何の相談だ? 副寨主」
「何だか知らないけどさ。今あたしが暇持て余してるわけじゃないのは知っての事だろうね?」
斌《ビン》はともかく、今まさに樟《ジャン》殺しの調査に奔走している最中だった朱《チュウ》の見幕は穏やかでない。
青雲幇の手の者がいち早く現場を押さえたため、女衒の死は表沙汰にはなっていない。官吏に代わり下手人を捜すのは陪堂=c…幇内での揉め事を処理する朱《チュウ》の役だった。
「その件《くだん》の、樟《ジャン》殺しの下手人だがな……」
呉《ン》が言いさすのを、劉《リュウ》が手で遮る。
「調べの方は、どの程度進んだ?」
忌々しげに嘆息して、来賓用のソファに腰を降ろす朱《チュウ》。副寨主を相手に、いずれの香主も遠慮がないのは、彼らの付き合いの長さもさることながら、揃いも揃って徳や礼節といった言葉とは縁遠い人格の持ち主であるが故だ。
「とりあえず、樟《ジャン》の腕……」
「高周波ブレードかナノワイヤーでも使わない限り、ああも見事にゃ斬れないもんだが、だとしたら破断面に特徴が残る」
「ただの刀でブッタ斬ったとしか見えないんだよね。ま、充分な速さがありゃ出来んこともない」
「下手人はかなりヘヴィな筋力、神経強化をしてると見ていいね。……それと、EMP」
「たぶん高出力のマイクロウェーブ砲か何かだ」
「まず外から樟《ジャン》の部屋の警備システムを黙らして、それから押し入って打々発止《ちょうちょうはっし》……あと、最後の決め手にも使ってる」
「樟《ジャン》のパーツの回路はシールド越しに焼き切られてた。よほどの至近距離からブチ込まれたんだな」
「わざわざそんな方法でトドメ、ってのも解せないんだがね。わざと苦しませるつもりだったのかも。趣味のいい野郎だぜ。まったく」
「……」
「武器屋を片っ端から当たらせてる。ここ数日のうちにEMPウェポンの商いがなかったか……」
「ご苦労だった」
皆まで言わせず割り込む劉《リュウ》。
「だが残念ながら、無駄骨だ」
「あん?」
「さらにもう一人、犠牲者が出た。……李《レイ》寨主が亡くなられた」
胡乱げに眉を寄せていた朱《チュウ》と斌《ビン》が、驚愕に顔を強張らせる。
「寨主が……!? 馬鹿な、一体いつ?」
「三時間ほど前になる。まだ情報は抑えている。事が事だけに、な……」
「警備カメラに録画が残ってる。見てくれ」
劉《リュウ》からの目配せに頷いて、呉《ン》が備え付けのスクリーンに画像を表示する。
李天遠《レイ・ティエンユエン》の寝室に据えられた監視カメラの画像。わずかな画像の乱れは、暗所での映像に階調補正をかけた結果だろう。細部までが鮮明に記録されている。
「……ここだ」
予めマーキング済みの尺位置をサーチして、呉《ン》は問題のシーンを再生した。
斜め俯瞰の画角の中、寝台に横たわる李《レイ》寨主の枕辺に、長衫の人影が立ちはだかる。老人は眠ってはおらず、来訪者と口論の最中なのか、目を剥いて激昂している。口角に泡を飛ばす老人に、やおら掌撃を振り下ろす長衫の男。
「……寨主と面識のある相手、か?」
呉《ン》は暗殺者の顔周辺をトリミングして引き延ばし、凶行の瞬間をもう一度再生する。その風貌は李《レイ》寨主のみならず、この場に居合わす全員が見知っているものだった。
「孔濤羅《コン・タオロー》……!?」
「そう、奴だ。間違いない」
一年の時を隔てたとはいえ、斌《ビン》や朱《チュウ》がその顔を見誤ることはなかった。かつては劉《リュウ》の許で、共に働いた男である。
「樟《ジャン》を殺したのも奴だろう」
「鋼も断ち切る戴天剣法、そして秘伝の電磁発勁……雷鳴気≠ニ紫電掌≠セな」
「武器屋を問い詰めても埒はあかない。奴が使ったのは刀一振り……あとは生身に備わった技だけだ」
「そんな馬鹿な……」
「奴には、あんたが直々に引導を渡したんだろうが。劉豪軍《リュウ・ホージュン》」
「あのときは仕損じた……と、いうことか」
悪びれた風もなくあっさりと認める劉《リュウ》。立て続けの驚愕に言葉をなくして二人の香主は、食い入るようにスクリーンを見つめている。
「生きていただけでも驚きだが……なぜ奴が寨主を?」
「そりゃ、寝返ったからだろ」
呉《ン》が苦虫を噛みつぶしたような顔で、斌《ビン》の問いを受ける。
「劉《リュウ》は、奴を斬った時にはもう青雲幇の香主だったんだぜ。奴が幇会そのものに裏切られたと思ってたって不思議はない」
「そんな孔《コン》が、いまさら寨主に恩義を感じてると思うかい? この一年で誰の飼い犬に成り果ててたとしたって、驚くことはないさ」
かつての幇会員を刺客に仕立て、寨主を襲わせる黒幕……心当たりはいくらでもある。
同じサイバネ裏マーケットの利益を争うロシア系シンジケート、市場を荒らされ殺気立つユーロマフィアの諸勢力。青雲幇を取り巻く勢力図は、決して穏当なものではない。
「だが、孔《コン》が寨主を屠るためにこの上海へ戻ったのなら……何で先に樟《ジャン》を手にかけた?」
「不思議か?」
「当然だ。寨主暗殺などという大事を請け負っていたのなら、なぜその直前に、あたら幇会を警戒させるような真似をした?」
「孔《コン》が樟《ジャン》を憎む理由、それを考えれば納得できよう」
「あの男が上海に戻ったら、まず何をすると思う?」
場に居並ぶ全員が沈黙する。誰も、自ら答える役を負いたいとは思わなかった。
「……当然、妹の消息を訪ねるだろうな」
「そこで瑞麗《ルイリー》の死んだ顛末について知る」
「……まさか」
笑い飛ばそうとした斌《ビン》を遮って、さらに劉《リュウ》が言葉を続ける。
「『左道鉗子』の謝逸達《ツェ・イーター》がな、先週から行方が知れんそうだ」
「あの医師が孔《コン》の手にかかったとすれば……洗いざらい喋らされたとしても不思議はないな」
「……」
「とかく妹のこととなれば見境のつかなくなる男だ。事情を知れば、寨主殺しの首尾なぞ意中から失せたに違いない」
「何を差し置いても妹の仇討ちを先に……そう思えば、まず誰よりも襲いやすいのは樟《ジャン》だ」
「で、次はアタシ達の誰かが狙われる、ってわけ?」
それまで沈黙を守っていた朱《チュウ》が、低く抑えた声で呟く。
「孔《コン》を始末しない限り、その危険はつきまとうと思っていい」
「上等じゃないのさ……なら探す手間が省けるってもんだわ」
朱《チュウ》の双眸は、虚勢でなく本物の憎悪に燃えていた。孔《コン》の怨念よりも、孔《コン》が彼女の身を脅かすという事態そのものに激昂しているらしい。
「舐めやがって……内家拳の腸詰め肉なんざ、この手で挽肉にしてやるよ!」
「否、我々が出るまでもない。奴はすでに墓穴を掘った」
闘志に昴《たかぶ》る朱《チュウ》を余所に、斌《ビン》はあくまで冷静である。
「なるほど俺たちは奴にとって、妹の仇かもしれん。だが孔《コン》が李《レイ》寨主を手にかけた以上、奴はもう青雲幇の仇敵だ」
「奴を始末するために幇会を総動員しても、俺たちが後ろ指をさされることはない」
「幇を動かすってのかい? 馬鹿をお言いでないよ」
「あんな狗コロ一匹のために? 幇会の面子はガタ落ちじゃないか!」
「自重しろ、朱《チュウ》。お前とてもう幇会の香主だぞ」
「さては怖じ気づいたね? 斌《ビン》。『百綜手』で鳴らした暗器の腕、もう錆ついちまったのかい?」
抑えの効いていた斌《ビン》だったが、これには流石に顔色をなくす。だが口を開いたのは劉《リュウ》が先だった。
「随分と孔《コン》に拘《こだわ》るんだな。朱《チュウ》」
「それは、拳法家としての意地か?」
「だとしたら、何さ?」
「『紫電掌』を侮れば命はないぞ」
「……」
朱《チュウ》の眼差しが静かに凍る。殺気さえ孕ませて。それを受け止める劉《リュウ》は、逆撫でするを承知の上で、なお能面のような無表情を崩さない。
音もなく鍔競り合う視線が、際限なく空気を重くする。
「さっきも言ったことだが……」
「寨主の死は、まだ誰にも漏らしていない。察して欲しいものだな。斌《ビン》」
「……どういう意味だ?」
「速やかに寨主の葬儀を執り行いたいところだが、下手人が野放しのまま、というのは如何にも拙《まず》い」
「李《レイ》寨主の逝去を触れ回るより先に、まずは孔《コン》の始末に目途をつけねばならん」
「……幇会は動かすな、と?」
「猟犬を放て。孔《コン》の首に賞金をかける。フリーランスの連中に奴を狩らせろ」
「随分と詰めが甘いね」
「お前は口を出さんでいい。朱《チュウ》、くれぐれも先走って寨主の仇討ちなど考えるなよ」
柳眉《りゅうび》を逆立てる朱《チュウ》が何か言う前に、さらに劉《リュウ》は言葉を継ぐ。
「お前は、樟《ジャン》殺しの下手人さえ追っていればいい。寨主の件とは無関係だ」
「……ああ、成る程」
出かかった怒気を呑み込んで、得心した朱《チュウ》は獰猛な笑みを満面に浮かべる。
「そいつは樟《ジャン》の一件だけで仕置きしていい、ってわけね」
「そうだ。くれぐれも混同するな」
「……さてと。それじゃぁお方々、話がまとまった所で解散しちゃぁくれないか? 俺も執務が溜まってるんでね」
緊迫の余韻が残る空気を混ぜ返すように、呉《ン》が気楽な声を挟む。
「フン、飾り物が何を言うか」
「時は金なり、って奴だよ。盟証」
「方針は決まった。動こうぜ。今日は朝から忙しい日になる」
今世紀初頭の大規模な再開発計画と、それを破綻させた経済恐慌は上海の運命を決定づけた。
住民を立ち退かせたものの、いざ解体という段になって計画が頓挫し、放置された廃屋の群れ。旧市街のそこかしこに、区画整理の途中で放棄されたゴーストタウンが散見される。
この南市、敦仁里も、そんな上海の暗部を物語る景観のひとつである。
未明から濤羅《タオロー》は盛り場を離れ、この寂れきった街区に身を潜めていた。樟《ジャン》を手にかけた以上は青雲幇が動くに違いない。街にいては人狩りに遭う。
もはや訪《おとな》う人もない、うち捨てられた関帝廟が、今は濤羅《タオロー》の根城である。金箔は残らず剥ぎ取られ、鮮やかな朱に塗り込められていたはずの柱や梁も、色落ちして生木を晒している。
往時にはどれほどの人が詣でたのかも定かでないが、長年に渡って炊き込められた香の残り香は、朽ちかけた建材に染みついて今も離れない。
そんな黴と、線香の残滓《ざんし》の漂う空気の中に、瑞々しいミントの芳香剤が薫る。
連れ歩いていたガイノイドの服を脱がし、濤羅《タオロー》は買い込んできたデオドラントペーパーをたっぷりと使って、身体の隅々まで汚れを拭い取ってやった。
老廃物など生じないガイノイドの肌だが、それでも何日もの間、煤煙と酸性雨の街を連れ回してきただけに、白い肌のそこかしこに煤の流れた跡がある。
むろん今日までこの人形に、こんな心づくしを施したことはない。『左道鉗子』の言葉に半信半疑だったうちは、勝手についてくるというだけの荷物に過ぎなかった。
だが今は、もう違う。この人形の有機メモリの内部には……愛する瑞麗《ルイリー》の欠片が詰まっている。
「こんな風に風呂に入れてやるなんて、もう何年ぶりだろうな」
語りかける声にも、我知らず想いがこもる。
「……」
「お前はませた女の子だったから、こういうこと嫌がるようになったの、俺よりも早かったんだよな」
「まだ餓鬼だった俺には、何が何だか解らなくて、嫌われたのかって勘違いして……傷ついたっけな。あの時は」
「……」
返答が戻ることはない。濤羅《タオロー》とて承知している。それでも、話しかけずにはいられなかった。
もう幾度となく繰り返してきたことだ。星なき夜空に、雨音の響きに、いつも瑞麗《ルイリー》の面影を想っては、虚しく語りかけてきた。
そんな独言に比べれば、こうして手で触れられる躰を前に語るのは、幾ばくかは報われる。
身体を拭き終わった後は、ほつれた髪にドライシャンプーの泡をまぶし、丹念に解きほぐす。
ナイロンの頭髪の手触りは、もちろん瑞麗《ルイリー》のそれとは似ても似つかない。だがそれでも、指に覚えている感触をそこに重ねて追想することはできる。
そうだった……髪を梳いて結う段になると、いつも瑞麗《ルイリー》は兄を呼ばわって手伝わせた。侍女は髪結いが下手だとか、それに比べて濤羅《タオロー》の方がまだ器用だとか、そんな言い分を理由にして。
自慢の髪を兄に触らせる瑞麗《ルイリー》は、何であんなにも嬉しげだったのか。人形の髪を梳りながら、妹の弾むような笑顔を思い出す。
「お前のために、兄妹らしいことなんて何一つしてやれなかったのに……」
「そんな俺なのに……どうしてお前は、あんなにも……俺に懐《なつ》いてくれたんだ?」
「……」
あの笑顔も、今はない。ただ虚ろな眼差しが、無意味な問いかけを繰り返す濤羅《タオロー》に注がれるばかり。
そんな彼女の前に、濤羅《タオロー》はポケットから取り出した鈴の腕輪を掲げて見せる。
「ほら、これ。憶えてるか? 誕生日の贈り物だっただろ?」
人形の手を取り、その細い手首に、腕輪を通してやる。かつて瑞麗《ルイリー》にそうしてやったのと同じように。
そっと揺すると、銀の鈴が蕭々と鳴りさざめく。だが人形は、戸惑ったように小首を傾げ……だがそれ以上の興味は示さない。
「嬉しくないか? あの時は、あんなに喜んでくれただろ? 気に入ってくれてただろ?」
掠れた声で訴えかけながら、だが濤羅《タオロー》は承知していた。少女が返答することはない。濤羅《タオロー》が誰なのかも、彼の言葉の意味すらも理解するまい。
今この人形に詰まっているのは、かつて瑞麗《ルイリー》だった魂魄の、ほんの断片でしかない。考えることも、声を出すことも、表情を見せることも出来ず、ただ濤羅《タオロー》の為すがまま、途方に暮れたように身を委ねていることしかできない。
何もかもが、虚しい。
「お願いだ……笑っておくれ……もう一度、声を聞かせてくれ……」
眦《まなじり》から溢れ出た雫が、小さな白い手に落ちる。
濤羅《タオロー》は知っていた。彼女の身に何があったかを。何が瑞麗《ルイリー》をこんな姿にしたのかを。
彼の大切な妹は、数人がかりで犯されながら死んでいった。身体のみならず魂まで凌辱され、人として死ぬことさえ許されず……死よりなお悲惨な境遇に堕とされた。こんな慰み物の人形に。
「御免よ……御免よ、瑞麗《ルイリー》……」
すべて濤羅《タオロー》が悪かった。安穏な暮らしに背を向けて、幇会の凶手として剣に生きる道を選んだ兄。慢心するあまり、みすみす罠にかかった愚かしさ。彼は妹を守れなかった。側にいてやれなかった。
あのとき、裏切りに気付いていれば。上海を留守にしなければ。濤羅《タオロー》は、妹を護ってやれた。
だからこれは、濤羅《タオロー》に課せられた罰……妹の変わり果てた姿を前にして、贖いようのない罪を思い知る。揺るがしようのない事実を再認する。
もう二度と瑞麗《ルイリー》は還らない。それが人の死だ。神ならざる人の手で曲げ得るものではない。
『左道鉗子』が何と請け合おうと、やはり信ずるには値しない。あの闇医者はたしかに稀代の天才かもしれないが、だからといって天意を覆せる道理はない。
昴《たかぶ》りすぎた心を鎮めるために、床に置いてあった倭刀を握りしめる濤羅《タオロー》。その重みを確かめ、鞘の中で震える刀身の冷たい音を聞くうちに、慟哭は怨嗟へと変わる。
「……もう誰にも、お前を触らせはしないからな。瑞麗《ルイリー》……」
「お前を殺した奴らは……一人残らず地獄に落とす」
「奴らが奪ったお前の欠片……俺が残らず、取り戻してやる」
夜半……自宅でくつろぐ劉豪軍《リュウ・ホージュン》の許を、呉榮成《ン・ウィンシン》がじきじきに訪問した。
「えらい一日だったな。今日は」
劉《リュウ》は独り黙々と玉杯の汾酒を傾けながら、鷹揚に頷いて迎える。
「こんな夜更けに自らお出ましとは、余程の大事か? 呉《ン》社長」
「表の大事と、裏の大事が一件ずつな。まず……」
家僕が退がるのを待ってから、呉《ン》は劉《リュウ》に一本のフラッシュメモリを投げ渡す。
「こいつが本物の証拠映像だ。煮るなり焼くなり好きにしな」
本物……寨主の寝室の監視カメラに録画されたままの、未編集の映像である。
「世話をかけたな。榮成《ウィンシン》」
「なんの」
腹心の中でもただ一人、寨主の死の真相について知る立場にあったのがこの男だった。無論、ただ知るというばかりではない。彼は歴とした共犯者である。
寨主の暗殺と同時進行で併走した情報操作。証拠の隠滅、捏造……かつて凄腕のハッカーとして腕を鳴らした呉《ン》にとっては、朝飯前の工作だった。もとより腕っ節ではなく、そういう手練を見込まれて幇に登用された男である。
加えて呉《ン》は、今では幇会の内部に身を置く立場にはない。いかに青雲幇の傀儡とはいえ、あくまで上海義肢公司は表稼業である。その采配を任された呉《ン》は必定、幇会と距離を取らざるを得ない。謀反の計画を持ちかけるには誂え向きの相手だった。
事実、誘いを受けた呉《ン》は二つ返事で承諾した。驚きさえしなかった。いつか劉《リュウ》ならばやるだろうと思っていた……それが呉《ン》の正直な感想だった。
「これで青雲幇もあんたのもんか」
「そういう話は、寨主の葬儀を出すまでは謹んで欲しいな」
「寨主殺しを孔《コン》に被せるたぁ、相変わらず考えることがエグいね」
「もとは俺の配下だ。せっかく上海に戻って来たのなら、役立ってもらうのが当然だろう」
「樟《ジャン》の死に様を見て、ひと目で孔《コン》だって見破ったのかい?」
「かつては俺も、奴と同じ戴天流門下に身を置いたことがある。紫電掌の手際は知り尽くしているからな」
「そういや、そうだったっけね……」
サイバネ拳法家は多くの場合、外家拳の修練の果てに肉体の機械化に踏み切るケースが主流である。劉《リュウ》のように内家拳の修業に見切りをつけてサイボーグ化を果たす者は珍しい。
「しかし、てっきり斌《ビン》の言うように幇会を動かして孔《コン》を狩るつもりだと思ってたんだがな」
「あの場で面子がどうのと言い出すとは、あんたらしくもない」
「だから斌《ビン》も俺を疑わない」
「私怨の敵より、幇会の沽券が優先……俺もなかなか出来た副寨主だと思わないか?」
「へいへい。お見逸れしましたよ」
「幇会の手助けもなしに俺たちだけで奴を始末しようってのは、ぞっとしねぇ話だもんな」
「気弱だな。朱《チュウ》が聞いたらまた怒り狂うぞ」
「……あいつ、何で孔《コン》のことになるとあぁムキになるんだ?」
「流派の意地、というやつだ。拳法家でないお前には、解らんのも無理はない」
武術の大系は大別して二つに分けられる。かたや膂力、瞬発力を鍛え上げ、型と技法を磨き抜くことに終始する外家拳法。一方で、呼吸や血流を律することで経絡をめぐる氣≠鍛え、駆使する内家拳法。
その方法論の差違から、事あるごとに優劣が取りざたされてきた両派だが、古来その趨勢は決まっていた。所詮、人の筋骨は虎とも象とも違う。いかに鍛錬を重ねても肉体にはおのずと限界がある。
それに対して、内功の世界は深遠無辺。極めるのは至難でも、その果てには人智を超えた驚異の世界が待ち受けている。
結局、外家の使い手は多々あれど、真に内家の深奥を極めた達人には誰一人として及ばない。それが武林の定石であった。
だが、サイバネティクス技術の普及がすべてを一変させた。肉体的限界という枷は消え、外家の武術にもまったく新しい可能性が拓けたのである。
いかに気功の達人が岩盤を砕き、素手で刃を弾いて見せようと、超音速で繰り出される義手義足の前では、氣を練る暇も与えられない。羽毛のように宙を舞う軽功の術をもってしても、知覚増強型サイボーグのレーダーロックオンを振り切ることは叶わない。
こうして内家、外家の力関係は逆転し、秘技秘法をもって武林に君臨した内家拳は武道としての命脈を断たれた。かつて外家を畏怖せしめた数々の気功術も、今は一部の行者たちが、古来の修身法として細々と伝承するばかりである。
「朱《チュウ》のようなサイバー外功派の拳法家には、我が手で内功派から武林の覇権を奪ったという自負がある」
「それが今になって生身の内家功夫に遅れを取ったなど、許せる話ではあるまいな」
「そういうあんたは、どうなんだい?」
「俺は濤羅《タオロー》の腕を知っている」
「奴の電磁発勁は、サイバー外家に対抗するためだけに編み出された内家の絶技だ。油断してかかると痛い目を見るぞ」
「それほどのもんか? 電磁発勁ってのは」
「遇し方、次第だな。ともに一撃必殺となれば、功の冴えだけで勝負は決まる」
「内家拳との立ち合いは、濁流を泳ぐようなもの」
「流れに乗れば征するし、流れに呑まれれば溺れて果てる」
「ふぅん」
「……で、もうひとつの大事とは?」
「ああ、そっちは歴とした正規業務さ。カスタマーサポートって奴だ」
外に控えていた部下を呼ばわり、下知を下す呉《ン》。ほどなく義肢公司の技術者たちが恭しく運び込んできたのは、最高級モデルのガイノイドを納める化粧箱だった。大きさは小振りな棺ほどもあるが、形状は伝統に則ってヴァイオリンケースのそれを模している。
「日頃ご愛顧いただいております弊社製品の修理が終わりましたので、本日はお届けに参上した次第」
「ああ、成る程……」
得心した劉《リュウ》が、杯を置いて立ち上がる。
「なにもお前が出向くほどの用向きではあるまいに」
「いいや……あんたの人形に限って言えば、万に一つも間違いがあっちゃいけねぇからな」
いつも通りに剽げた呉《ン》の口調。だがそれでも緊張の色は隠せない。正規の業務と言いながら、むしろ呉《ン》は寨主謀殺の話題について取り沙汰している時より固くなっている。
「うちの商品の中でも随一……たぶん世界中どこを探しても、これ以上金のかかってるガイノイドはない」
「外装だけでも市販モデルが三十体は賄える。そいつをあんたは、肌に五ミリ傷がついたってだけで総交換ときたもんだ」
「感心せんか?」
「いやいや、滅相もない」
「こいつが絡むときばかりは……あんた、いつだって本気だもんな」
劉《リュウ》は呉《ン》の差し出したプラチナの鍵を受け取り、ケースに設えられた古風な錠前に差し込んで、回す。
ケースの開封に連動して起動信号が送られ、中のガイノイドが覚醒した。内張りの中で衣擦れの音がした後、白く細い腕がゆっくりとケースの蓋を持ち上げる。
最新デザイナーズブランドの旗袍《チャイナドレス》に身を包んだ少女が、気怠げに身を起こす。豊かな黒髪がドレスの白緞子よりもなお艶やかに煌めいて、肩の上を滝のように流れ落ちる。
その傍らに片膝をついて、劉《リュウ》は人形の頬に指を添え、無言のまま凝視した。修復の成果を確かめているのだろう。
普段は軽口の絶えない呉《ン》だが、今ばかりは口を噤んで、その様子を見守っている。
呉《ン》は、劉《リュウ》という男の様々な側面について知っている。だがそのどれよりも怖気立つものを感じるのは、この人形と一緒にいるときの彼だ。この人形を前にしたとき、劉《リュウ》の意中からは森羅万象が意味を失う。
その肌に、家僕の不注意から傷が付いたときも、きっとそうだったのだろう。怒りに駆られた劉《リュウ》が粗相したメイドを打擲《ちょうちゃく》したときも、彼は相手の顔さえ見ていなかったという。メイドは文字通り四散して即死した。
「……申し分ない仕上がりだ」
抑えた声で評する劉《リュウ》。呉《ン》は我知らず安堵の吐息を漏らす。
「孔《コン》がこの人形を見たら、どんな顔をするかねぇ」
普段のペースを取り戻した呉《ン》は、さも呆れたと言わんばかりに頭を振った。
劉《リュウ》もまた冷笑で応じる。
そんな二人の男たちに、見上げた視線を往復させるガイノイド。物問いたげな眼差しには、断じて既製の感情スクリプトではない生々しさが見て取れる。彼女もまた、魂魄転写を施された非合法ガイノイド……孔濤羅《コン・タオロー》の妹から作られた五体のうちの一つだった。
「返す返すも罰当たりなのはあんただよ、劉《リュウ》。なにも殺した女と同じ顔に造らなくたっていいもんを」
劉《リュウ》が金額に糸目を付けず、オーダーメイドで設計させた機械仕掛けの少女。小首を傾げるその顔は……今は亡き孔瑞麗《コン・ルイリー》の風貌を、寸分違わず再現したものだった。
同じ夜、同じように酒を傾けながら、しかし朱笑嫣《チュウ・シャオヤン》の心中は笑いとは対極にあった。
今日一日、配下の者たちに街中を馳せさせたものの、孔濤羅《コン・タオロー》の行方は杳《よう》として知れない。
階下のリビングには、子飼いのサイバネ拳法家たちが集まっている。孔《コン》の居所が知れ次第、連中を率いて強襲する態勢なのだが、待機はもう半日以上も続いていた。手下たちの士気は弛みはじめ、朱《チュウ》の苛立ちは臨界に達している。
独り自室に篭もった朱《チュウ》だが、下の連中が何を話題にしているかは容易に想像がつく。
寨主の死は伏せられたまま……だが、今日になって朱《チュウ》が標的を一人に絞り込んだことで、樟《ジャン》殺しの下手人については誰もが知るところとなった。
『紫電掌』が生きている……上海に戻り、『金剛六臂』を手にかけた……
幇会内のみならず、やがては市井でも噂になることだろう。
孔濤羅《コン・タオロー》。かつての青雲幇内では随一の気功派拳士……奴もまた上海では知れた名だ。特にサイボーグを毛嫌いしていた李《レイ》寨主の下では、随分と厚遇されていた。
たしかに犯罪組織のサイバー武装化が進む中、『電磁発勁』というのが便利な駒だったのは間違いない。生身だというだけで敵の警戒は格段に弛む。触れただけで重装甲サイボーグを破壊するような武芸≠ネど、誰も予期するはずがない。
同じ幇会にいた頃も、闇討ち専門の凶手と思えばこそ、朱《チュウ》はあの男を捨て置いたのだ。尋常な立ち合いとなれば、所詮は内家の奇術師ごとき、外家サイボーグの敵ではない……その暗黙の了解が脅かされることはなかった。
なのに樟《ジャン》の腰抜けは……
「くそったれ!」
朱《チュウ》は手にしたグラスを手加減もせず壁に投げつけた。
亜音速で宙を飛んだグラスは砕けるより先に壁にめり込み、建材の内側で粉々になる。
死んだ樟《ジャン》を悼む心など、朱《チュウ》は毛ほども持ち合わせていない。『金剛六臂』などという二つ名でいい気になっていたものの、所詮は二流の使い手だった。あの程度の男、子供に寝首を掻かれたとしても意外には思わない。
だがそんな理《ことわり》を解するのは、樟《ジャン》の力量を知る者だけ。市井の噂は、あくまでも……青雲幇のサイボーグ武芸者が内家拳に後れを取った、ただその一点にだけ終始する。
あの程度の奴を、たとえ末席といえども幹部に連ねるべきではなかった。奴には青雲幇の面子を背負うだけの器などなかった。
くそったれが……
青雲幇香主にあるまじき無様な最期を晒した樟《ジャン》も腹立たしければ、恐れげもなく青雲幇に挑戦状を叩きつけてきた孔《コン》の大胆さも許せない。
卑怯が取り柄の闇討ち屋なら、それらしくもっと姑息に立ち回っていれば相応なものを……真っ向から挑んできた孔《コン》の不敵さは、朱《チュウ》にとって屈辱でしかない。
負け犬が、図に乗りやがって……
いっそ真っ先に朱《チュウ》のところへ乗り込んでくれば、八つ裂きにしてやったのに。朱《チュウ》と樟《ジャン》との力量差は決定的である。孔《コン》の紫電掌など、恐れるまでもない稚戯だ。
にも拘わらず、樟《ジャン》程度の奴を手にかけただけで、今も得意絶頂になっているであろう孔《コン》を思うと、それだけで朱《チュウ》は腑が煮えくり返る。
酒を呷っても募る一方の、やり場のない怒り。
「……」
気分が荒れて落ち着かないとき、朱《チュウ》は生身の娘を痛めつけて己を慰撫するのが常だった。脆くて臆病で、可愛い悲鳴を聞かせてくれる小娘たち。嬲り尽くして潰れる頃には、たいてい朱《チュウ》の気分も晴れている。
だが生憎、今は生贄を取り寄せている余裕などない。そもそも先月もそうやって、かれこれ五人以上も長江で魚の撒き餌にしてしまい、口やかましい劉《リュウ》から諫められたばかりである。
結局、今夜も代用品で我慢するしかない。
「瑞麗《ルイリー》!」
朱《チュウ》は語気荒く、部屋の片隅に蹲《うずくま》るペットを呼ばわった。
主の語調だけで、その虫の居所の悪さをペットは悟ったのだろう。まるで折檻を待つ子供のようにまごつきながら、それでも小走りに近寄ってきた。逆らったり躊躇したりすれば容赦なく罰を受ける。その辺の因果は、もう充分すぎるほど身体に教え込まれていた。
そういう怯えた仕草が、なおいっそう朱《チュウ》の嗜虐心を煽る。時折こいつがガイノイドだということを忘れてしまう程だ。
「機械仕掛けの玩具にしちゃ、ほんと、イイ出来だね。おまえは」
劉《リュウ》から贈られたガイノイド、『ベネトナシュ』……朱《チュウ》もまたこの人形を、魂魄転写の元となった少女の名で呼び慣わしていたが、あの酔狂な副寨主のように顔まで彼女に似せているわけではない。
朱《チュウ》の人形はあくまで規格品だけで構成されている。何せ消耗の激しさが、他の香主たちの比ではない。
「ねぇ瑞麗《ルイリー》、お前の兄貴が生きてたそうだよ」
「……?」
「……ハン、そうは言ったって、どうせ憶えちゃいないんだろうね」
「あれほど大事だった兄上様の記憶は、いったい誰の瑞麗《ルイリー》の所に行ったんだろうねぇ?」
朱《チュウ》にいくら詰られようと、人形にはその内容が理解できない。主の厳しい口調が、叱責なのか何なのか……それが判断できず、ただ怯えたように畏縮するだけだ。
「……ケッ、犬畜生が」
言葉で嬲る面白味はないが、それでも朱《チュウ》にとって幸いだったのは、この人形が辛うじて数の概念を理解できるということだ。それだけでも遊びの趣向はいくらでも懲らしようがある。
「今夜はカウント六百だ。いいね?」
人形の瞳が怯えに見開かれた。六百秒。普段より四割も短い。
朱《チュウ》はソファに仰向けに身を投げ出して、スキャンティを下にずらした。露わになったその下腹部の、元の性器とは別に設えられたスリットから、歪な形状のオブジェが滑り出る。男のそれをオーバーサイズで再現した張型……女体を責め立てるためだけの器具である。
ただの性玩具と違うのは、触覚神経が朱《チュウ》の性感帯に直結されている点だ。さながら本物の男と同様に、朱《チュウ》はこの張型から悦びを汲み取ることができる。
「さぁ、始めるよ」
朱《チュウ》がクロームメタルの指を鳴らして合図すると、ベネトナシュは貪りつくようにして、朱《チュウ》の股間に顔を埋めた。
「んぐ……」
歪に反り返った張型の先を、躊躇なく口腔に押し込み、喉を鳴らして舌で愛撫する。
「く……フフ、そうだ……もっと頑張りな……」
「ん……んぐ……」
己の行為にどういう意味があるのか、もちろん人形は理解していない。その有機メモリが認識しているのは、事の因果関係だけ……この奉仕≠怠れば、そのときは罰≠ェ待っている。
カウント六百、それは主がペットに下した処刑宣告である。猶予は六百秒。それまでに彼女の奉仕が主を絶頂まで導けなければ、主の鉤爪が容赦なく振り下ろされる。
無論、ガイノイドに死という概念はない。動力源を失えば機能を停止するだけのこと。メモリさえ無事なら、またハードウェアの交換で元通りに動作するようになる。
にも拘わらずこの特製の人形は、破壊されることに恐怖を見せた。まるで本物の人間が命に固執するかのように、人形の少女は、我が身が機能を失っていく行程に悶え苦しみ、いつも最後の瞬間から逃れようと必死になって抗うのだ。
何度繰り返しても、馴れるということはないらしい。レストアされ再起動するごとに、人形は以前と変わらぬ初々しさで、朱《チュウ》の死の遊戯≠ノ興を添えた。
痛みを恐れるガイノイド。エミュレートではなく、本物の感情……そのくせ壊れれば修理もできる。真性のサディストである朱《チュウ》にとって、これほど遊びがいのある玩具はない。
懸命に口で奉仕を続ける人形少女の背中に、朱《チュウ》は死をもたらす鋼の指を這い回らせて、その硬さを思い知らせるかのように、白い尻の上でリズミカルにタップさせる。
意志も感情もないガイノイドに使うには語弊のある表現とはいえ、明らかに人形の少女は必死≠セった。健気なほどひたむきに、舌を蠢かし、頬を窄めて吸いつきながら、喉の奥に朱《チュウ》の器官を呑み込んだまま頭を上下に振り動かす。
奉仕の開始より二百秒。朱《チュウ》は薄笑いを浮かべたまま、まだ余裕を見せている。長い指が人形の股間に忍び込み、その奥の花芯に冷たく触れる。
「!!」
過剰に調整された性感を刺激され、人形は激しくわなないた。底意地の悪い妨害に、だが気を逸らされている場合ではない。彼女の恐れる死≠フ刻限は着々と迫っている。秘所をまさぐる硬い感触に耐えながら、なお一心に朱《チュウ》の逸物を頬張り、喉の奥で揉み続ける。
「瑞麗《ルイリー》」
叱責めいた冷たい声で、朱《チュウ》が人形の行為を中断させる。
「……!」
「次は下の口で頂戴」
「……」
躊躇っている暇はなかった。残り三百秒。人形はかじりつくようにして朱《チュウ》の身体の上に這い昇ると、太く長い張型を、なかば強引に迎え入れた。
「ぅ、ぐ……ッ!!」
自ら焦って挿入したとはいえ、無理な行為だったのは否めなかった。硬く大きすぎる異物の感触が、必要以上に過敏にチューニングされた性感帯を、耐えがたい苦痛で責め苛む。
だがそれも、彼女を待ち受けている最期≠フ恐ろしさに比べれば、余程ましなのだろうか。ベネトナシュは自ら苦痛を貪るかのように、遮二無二腰を揺すり下ろす。
「んん……フゥ……いいじゃない……効くわぁ……」
朱《チュウ》が陶然と甘い声を出す。ひたむきな奉仕が、ここにきて漸く功を奏してきたかその吐息は熱く湿りはじめていた。
蜘蛛の足のように音もなく、ベネトナシュの首にからみつく朱《チュウ》の指。気道の圧迫は、人間のそれと同程度の苦痛をガイノイドに課す。
「んぐっ……が……く……」
「ゥ……ウフ……いいよ、その調子……」
喜悦の呻きを上げながら、じわじわと緊縛の度を増していく朱《チュウ》の指。人間ならとうに窒息している。呼吸や血流を必要としないガイノイドだからこそ保っているが、このまま頸骨の神経嚢を断たれれば……
少女には涙を流す機能はない。悲鳴を上げることもない。焦燥と絶望の狭間に落ち込んでいく想いを訴える術《すべ》は、ただ弾み車のように腰を振り続けるしか他になかった。
残り五十秒。
「ハ……ァハ……あふぅぅッ!」
偽りの男根から流れ込む快感の波。だがそれ以上に朱《チュウ》を酔わせるのは、悲痛に歪んだ人形の顔と、それに重なる一年前の面影だ。
そうだ……あの時も、こんな風に……あの女を嬲ってやった……
「あのパーティーは最高だった。何よりも……孔《コン》の妹だってのが良かったよ
いつも気障《キザ》に取り澄ましてた気功野郎が、蝶よ花よで可愛がってた妹を……あたしはこの手で壊してやった
昔年の溜飲が晴れる心地。肉の快楽より嗜虐の趣より、その爽快感に朱《チュウ》は笑いが止まらなかった。
そう。苛立つ必要はない。今もこうして瑞麗《ルイリー》の忘れ形見を犯している朱《チュウ》を思えば、孔《コン》は血の涙を流すだろう。なんといい気味だろうか。
溜め込んだ鬱憤から解放されて、朱《チュウ》はいよいよ凌辱の悦びを堪能した。張型が貪る快楽の泉に、脳の芯が白熱化していく。
「はふッ、ゥウッ……くうぅぅぅッ!!」
絶頂の恍惚感のあまり、朱《チュウ》はつい力加減を誤った。拍子抜けするほどの脆さで人形の頸骨が折れ、あらぬ角度にねじ曲がる。
朱《チュウ》が絶頂の果てに脱力するのと、機能停止したベネトナシュが四肢の力を失うのとは、ほとんど同時だった。
「……はぁ……はぁ……」
カウントは……さて、結局はどうなっただろうか。我を忘れて熱中するあまり、朱《チュウ》はペットと戯れるルールを忘れていた。
ほぼ真横に傾いた人形の首は、断末魔の怯え顔のまま、相変わらず哀しげに朱《チュウ》を見下ろしている。その表情は、本物の人間と見紛うほどに生々しい。
「今となっちゃ犬ほどのオツムもないアンタだけどさ……」
「こうして殺す間際の顔は……昔の瑞麗《ルイリー》のまんまだね。そこだけが楽しめる」
悦楽の余韻に息を荒げながら、朱《チュウ》はいつまでも壊れた人形の顔に見入って、邪悪な悦びに浸っていた。
……そのまま、どれほどの時が流れただろうか。心地よい脱力感の中で、朱《チュウ》は間近な喧噪の音を聴き留めた。
階下だ。どうやら相当に激しい乱闘らしい。朱《チュウ》の集めたサイボーグ達が戦っている。この家に押し入ってきた誰かと。
「おやおや……」
最初に樟《ジャン》を襲ったのは、孔《コン》なりの打算だとばかり思っていた。万全の勝機があったからこそ、真っ向から立ち会うような蛮勇を見せつけたのだと。
だがそれさえも買い被りだったようだ。一度ならず二度までも、正面切っての殴り込み。しかもよりによってこの朱笑嫣《チュウ・シャオヤン》の前に、逃げも隠れもせず現れるとは……奴は知恵者でも何でもない。ただ身の程を知らぬだけの馬鹿だ。
鼻で嗤って、朱《チュウ》は人形の首を縊《くび》り折った手にさらに力をこめた。メリメリと骨格が破断して、首は胴からもげ落ちる。
階下から聞こえてくるのは、罵声と悲鳴……どれも聞き覚えのある部下のものばかり。
「情けないねぇ。まったく」
揃いも揃って内家の肉達磨《にくだるま》相手にいいようにあしらわれているらしい。だが、それでまた孔《コン》が思い違いをしようとも……構わない。
愚かしいほどの図太さも、今はもう大目に見てやってもいい。誤った認識は、即座に正されることになる。奴はすぐにもこの場所で、本物のサイバネ外家拳を相手にすることになるのだから。
やがて音もなく陰のように、孔濤羅《コン・タオロー》は部屋に入って来た。右手には抜き身の倭刀。鞘は傍らに寄り添う幼年型のガイノイドが掲げ持っている。
奇妙な同伴者を訝った朱《チュウ》だが、すでに相手は正気の埒外にいる男である。敢えて拘《こだわ》りはしなかった。
「てっきりあんたは、呉《ン》か斌《ビン》のとこに行くかと思ったんだがね」
「順番はどうだっていい」
「たまたま貴様が、近かった。だから貴様が先に死ぬ」
不敵な物言いに逆上しかかった朱《チュウ》だが、事ここに至って急くことはない。この男は嬲り殺しにするものと決めている。
胸の上に覆い被さった人形の残骸を払い除けると、朱《チュウ》はソファから立ち上がり、手の中に残った頭部を掲げ上げた。
「用があるのは、このガラクタかい?」
高らかに嘲笑しながら、孔《コン》に向けて人形の首を放り投げる朱《チュウ》。受け取った孔《コン》は、悲愴な相のまま停止した生首の貌《かお》に、無言のまま見入る。
「感動のご対面ってヤツだねぇ? 折角ならブチ壊しちまう前に訪ねて来りゃ良かったのに」
「どうせならさ、あんたの手足もいでダルマにして、それからこの玩具で愉しむべきだったよね。あんたの見てる目の前で」
悪意も露わな朱《チュウ》の挑発に、だが孔《コン》は何ら反応を見せないまま、投げ渡された人形の首を傍らの連れにそっと差し出す。幼年型ガイノイドは、片手に倭刀の鞘を掴んだまま両腕を広げて、あらたな荷物を抱き留めた。
「退がってろ」
従順に頷いて、人形は小さな歩幅も慌ただしく部屋を出ていく。
後に残った二人には、もとより相手を立ち去らせる気など毛頭ない。生きてこの部屋を出ていくのは、どちらか一方だけと決している。
電子化された朱《チュウ》の義眼は、可視光を捉えるばかりではない。視野をサーモグラフに切り替えれば、孔《コン》の脈拍も体温分布も一目瞭然だった。
表情をどう繕おうと、身体までは嘘をつけない。案の定……孔《コン》の疲労は明らかだった。たった今も五人からの戦闘サイボーグと渡り合ったばかりなのだから。
「ハンデが必要なんじゃない?」
「貴様がそう言うなら、是非もない」
「貴様の自慢の『鷹爪功』、五手までは見逃してやる。俺が攻めるのはそれからだ」
一端は抑えていた朱《チュウ》の憤怒も、さすがにこれは抑えかねた。孔《コン》の応じた是非もないハンデ≠ニは、朱《チュウ》を利することだったのだ。
「……呆れたね。あんた本気でアタシに勝つ気でいるわけだ」
「のみならず、貴様を殺す」
柳眉逆立てる朱《チュウ》を前に、孔《コン》の語調はあくまで冷たい。
「貴様は俺から妹を奪った。だから俺は貴様から、その愚にもつかない驕慢《きょうまん》を奪う」
「まるで釣り合いが取れんが……そのぶんは、貴様の命を上乗せして良しとしよう」
「大きく出たね……」
両腕の義手を握っては開き、威嚇するように禍々しい金属音を立てる朱《チュウ》。鋼の四肢から繰り出す攻撃を、孔《コン》が受けうるとすれば一振りの倭刀だけ。
あの刀を、まずは右手共々奪ってやれば……少しは減らず口も慎むだろうか。
ひとくさり笑った後で、朱《チュウ》は貫手を奔らせた。
朱《チュウ》の強化義手には、樟《ジャン》の重装義手のような剛性やトルクがあるわけではない。だがそれを補って余りあるスピードと柔軟さ、さらに朱《チュウ》自身の技の功≠ェある。
完全に間合いの外、そう見せかけた距離から腿力の伸びを効かせて一気に相手の急所を突く。呵責《かしゃく》ない初手の『急落鷹爪』。狙ったのが急所でなく右手の刀だという以外、一切の遊びはない。朱《チュウ》をして会心の疾さの奇襲である。
応じる暇さえない……そう見えた孔《コン》は、だが事も無げに右半身を退いて朱《チュウ》の指先を避けた。
読みやがったか!?
朱《チュウ》は内心で歯噛みしながらも、すでに獲物は両手の間合いの内である。左右から穿指で挟み込むように襲う『旱天鷹翅』。今度こそ躱わす余地はない……
鏘々《そうそう》と金音ふたつ。顎を閉じるはずだった双手が、弾き返されて再び左右に開く。朱《チュウ》の指を迎撃した孔《コン》の剣戟は、律儀にも峰打ちだった。あくまで『五手まで譲る』約定に撤する腹か。
「なら死になッ!!」
怒声一喝、朱《チュウ》はついに殺意を剥き出した連撃を繰り出した。
左手は跳ね返された勢いのまま下に流し、一転して下段から掻き上げる『深渓鳶翼』加えて右手は逆に大上段から振り下ろす勾手の『旋空飛燕』で追い討ちをかける。
孔《コン》はまず下段の攻撃を刀で真っ向から受け止めた。その衝撃を肩で殺そうとせず、逆におのれの腿力を加えて背後に跳躍。続く勾手を見越していたかのように、やすやすとその間合いから逃れる。
「どうした? あと一手」
着地と同時にそう嘯く孔《コン》に、朱《チュウ》は間髪入れず突きかかる。『旋空飛燕』の後手に隠した爪撃の三連環。
孔《コン》は退がると見せかけて二手を受け流し、三手目は身を捻りつつ踏み込んで朱《チュウ》の体側へと逃れた。
翻ったそのコートが、すぐ眼前を掠め過ぎる……そう見えた刹那、朱《チュウ》は強烈な衝撃に顔面を打ちのめされた。
コートの裾に阻まれた朱《チュウ》の視線、まさにその死角を衝いて振り下ろされた孔《コン》の踵が、布地もろともに左眼窩を直撃したのだ。
長衣の裾を目眩ましに繰り出す、電光石火の後ろ回し蹴り。戴天派の『臥龍尾』……本来なら剣術に交えて使う隠し技である。
いかに鮮やかなクリーンヒットとはいえ、金属繊維で補強された朱《チュウ》の頭蓋は砕けも歪みもしない。だが精密機器の電子義眼は、この衝撃に耐えられない。非力な内家の蹴り技で、朱《チュウ》は左目を失ったのだ。
「〜〜〜ッ!!」
逆上のあまり言葉を失う朱《チュウ》を、鼻を鳴らして嗤う孔《コン》。右手の倭刀は構えを解いて、刀身を肩に預けている。
「知りたいか? 貴様の攻撃がなぜ当たらんか」
冷たく歪んだ孔《コン》の笑みは、今まさに踏みにじられつつある朱《チュウ》の面目を嘲笑ってのものだろう。
「拳も脚も、貴様がこの俺めがけて繰り出そうと思った時点で、すでにその一撃は放たれている」
「外家の拳≠ヘ意≠謔閧熬xい。先んじて放たれた意≠フ後を、遅れて拳≠ェ飛んでくる」
「俺はそれを払いのければ済むだけのこと。欠伸が出るほど簡単だ」
朱《チュウ》に言い返す言葉はない。速さでは明らかに朱《チュウ》の拳撃が上回っている。にも拘わらず的を外すのは……彼女の知る理《ことわり》では説明がつかない。
「ところがこの刀は、な」
語りながら孔《コン》は、担いだ倭刀を一転させて突きつける。刹那、禍々しいほどに鋭い煌めき放った白刃が、切っ先をぴたりと朱《チュウ》の目線に据える。
「ひとたび抜き払ったが最後、刃圏に捉えた万物を、俺の意に先んじて斬って捨てる。内家の刀≠ヘ意≠謔閧燻セい」
「刀をして既に意。我が刃はすでに一刀如意≠フ境地にある」
「……外家の力馬鹿では十年経っても至らぬ場所だ」
「……ッ!!」
歯噛みするあまり軋みを立てる朱《チュウ》の顎骨。
言わせておくのか? たかが内家の手妻《てづま》使いに、これ以上、得意面をさせておくのか? その名も聞こえた『羅刹太后』が……
「俺の間合いで貴様が隙を見せたとき、それが最後だ。この一刀が貴様を断つ」
「……遊びは終わりだ。貴様も得物を取れ。『羅刹太后』」
「たわけがッ!!」
総身を鋼と化した朱《チュウ》を前に、この男は……まだ拳と刀の差があると抜かすのか?
猛り狂う激情に身を任せ、朱《チュウ》は再び孔《コン》に躍りかかる。
拳速の風切る唸りは切れ目さえなく、一陣の突風の如し。より速く、より複雑に……鷹爪拳の秘技を尽くして放つ、虚実入り乱れての連続技。この『一嘴双爪繚乱舞』は、同じサイバネ外家の拳士を相手にしても、未だかつて破られたことはない。
それでも孔《コン》は刀でいなし、或いは軽功の跳躍で躱わしながら、すべて危なげなく回避する。加えてなお挑発の言葉を続ける余裕さえ見せながら。
「……ただ一度だけ、貴様にはチャンスがある」
「貴様にとって致命打になるこの掌、『紫電掌』の一撃だけは……俺は意≠謔閧煬繧ゥら放つだろう」
悠然と語る孔《コン》の声音に、いつしか悪意以上の感情が加わる。朱《チュウ》の前で始めて見せる……剥き出しの憎悪が。
「この手で貴様に触れるとき、俺は想いを込めるだろう。俺の怒りを、瑞麗《ルイリー》の悲しみを」
「ほざけぇぇッ!!」
白刃の文目を潜り抜けて放った渾身の穿掌が、ついに孔《コン》の刀に先んじる。殺った……そう確信した次の瞬間、朱《チュウ》は何の手応えももたらさない指先に気付き、次いで肘から先の消え失せた己の右腕に瞠目した。
孔《コン》の喉を抉るはずだった貫手は、五指を揃えたそのままの形で天井に突き刺さっている。
いつ斬られた? 防御に徹していたはずの刀の、いったい何手目が斬撃だった?
ついに孔《コン》が見せつけた内功派刀術。朱《チュウ》の右肘の破断面は、まさしく昨夜検めた樟《ジャン》の腕の残骸と違わない。
これが、重さ硬さを備えた刀の仕業だというのか? たとえレーザーや超音波でも、斬られた♀エ触ぐらいは残るというのに。
「得物を取れと、言った」
怒りのあまり眩暈に襲われ、朱《チュウ》はよろめいて床を踏みしめた。
もうこれ以上の屈辱は許されない。速やかにこの男を殺す。全身全霊を傾けて。
「いいともさ……」
左の義手の手首から、極太のワイヤーケーブルが躍り出る。ただの金属光沢ではない輝きは、びっしりと鑢状に植え付けられたダイヤモンド粒子の刃だ。
武芸における軟鞭の長さは、使い手の顎から爪先までを目安とするが、朱《チュウ》の鞭はそれに倍する長さがある。ここまでオーバーサイズでは素早く振り回せるものではない……そんな常識に囚われるのは、サイバネ武術を知らぬ者だけだ。
左手を捻った途端、重く長いワイヤーは生あるもののように総身をうねらし、末端までが瞬時に宙に浮く。
「抜かせたね。このあたしに、鞭を……」
不敵な含笑に嗜虐の色さえ滲ませながら、朱《チュウ》はその破壊力を見せつけるかのように、おのれの周囲に鞭を振り巡らせて結界を張った。縦横無尽に宙を奔るワイヤーの表面で、ダイヤの鑢《やすり》刃が流星雨の如く輝きを放つ。
その速度と重さに加えた摩擦の切れ味は、想像するだに恐ろしい。
「鱠になりなッ!!」
瀑布が飛沫を散らすがごとく、輝線の残像を虚空に撒きながら、鋼の鞭の猛連打が一斉に孔《コン》を襲う。爆竹の束が弾けるかの如き轟音が室内に轟き渡る。鞭頭が大気を裂く衝撃波だ。その速度はもはや音速を凌いで余りある。
応じる孔《コン》の刀術もここに軽捷の極みを見せた。前後左右から軌道を変えて襲いかかる鞭の猛攻を、倭刀が受け流すごとに火花を咲かす。
殺意を滾らせて襲い来る鞭と、それを無心のままに迎撃する剣の舞……孔《コン》の総身を飾って狂い咲く火花と剣光。
猛攻を続ける軟鞭が、やおら狙いを逸らして横に奔る。
空振り……そう見えた軟鞭は、翻って傍らのデキャンタを跳ね飛ばす。
あらぬ方向から飛来した重いガラス器を、すんでのところで躱わす孔《コン》。その頭上に、今度は宙に浮いたサイドテーブルが落下する。床を転げて避けたところを、背後から襲うCRTディスプレイ。
変幻自在に挙動を変えるワイヤーの動きは、もはや尋常の軟鞭術のそれではない。
まるでそれ自身が攻撃本能を備えた大蛇のように、踊り狂うワイヤーは部屋中の家具や調度品を弾き飛ばす。その悉くが孔《コン》を狙っているのだ。『羅刹太后』の軟鞭は、その間合いに存在する物体すべてを凶器と化す。
「斬ってみろ! 内家ッ! 斬ってみろッ!!」
絶技は、しかし鞭使いの手練だけによるものではなかった。朱《チュウ》の腕から伸びたワイヤーは、それ自体が神経回路と動力を宿した義肢=c…文字通り手の延長なのだ。伸縮、屈折も自在なら撓りの柔剛も意のままの、それは金属の触手だった。
鞭の先端に掬い上げられ、革張りのアーミングチェアが飛来する。刀で捌ける質量ではない。孔《コン》は躊躇なく躱わす体だ。
が、身を捻った孔《コン》の眼前で椅子は真っ二つに引き裂かれ、それに代わって横殴りの鞭が、倍加する勢いで襲いかかってきた。椅子の軌道を目眩ましにした、孔《コン》の『臥龍尾』と同じ騙し技……朱《チュウ》なりの意趣返しである。
もはや足運びだけでは躱わしきれない。孔《コン》はたまらず背後に転倒しながら、辛うじて鞭の奇襲を避ける。
得物を逃した朱《チュウ》の鞭は、そのまま床でバウンドするや、今度はガラガラ蛇の跳躍さながら一直線に孔《コン》を襲う。軟鞭では有り得ない突き≠フ攻め手。まさしくサイバネ武術の真骨頂だ。
床を転がる孔《コン》は、咄嗟の判断でコートの裾を跳ね上げた。その布地を易々と貫通した朱《チュウ》の鞭頭は、だが紙一重の見切りで首を逸らした孔《コン》の頬を、浅く掠め過ぎただけに終わる。
肝を冷やす暇もあらばこそ、孔《コン》はさらにコートを振りかざし、分厚い布地を鞭に絡みつかせる。ほんのわずかな摩擦抵抗が、鞭を引き戻す朱《チュウ》の手を一刹那だけ遅らせた。
その一髪千鈞を引く瞬間に……孔《コン》は鑢状の鞭頭を左手で掴み取る。
もし孔《コン》が完全に素手であったなら、朱《チュウ》は迷わず鞭を引き、その五指を豆腐のように削り落としていただろう。だが、鞭と孔《コン》の指とを隔てる一枚の革手袋。その厚さを削る一ミリ秒があれば……
くっ……
鞭を掴まれたことの意味を弁えたのは、朱《チュウ》の武人としての判断の賜物であった。変幻自在のワイヤー軟鞭は、朱《チュウ》の腕の延長。縦横無尽に操るその配線は、朱《チュウ》の運動神経に直結されている。
まさに刹那の判断で、朱《チュウ》は左腕の全回路を遮断。上腕部の緊急解除ボルトに着火して、肩と腕との結合を解く。切り離された左腕が、鞭を介して流れ込んだ電磁パルスに焼き尽くされたのはその直後だった。
みたび間合いを取って相対する両者の間に、傷ひとつない残骸と化した朱《チュウ》の義手が床に落ちる。
極限下の応酬に、朱《チュウ》はもはや矜持《きょうじ》も、憎悪もなく、そこまで追いつめられたことの屈辱に心を割く余裕さえない。戦う前の予告の通り、孔《コン》は朱《チュウ》の驕慢を根こそぎ奪い取っていた。いま朱《チュウ》の意中にあるものは、起死回生の一手だけ。今や両腕を失った彼女だが、まだそれで勝敗が決したわけではない。
「キエェェッ!!」
朱《チュウ》は鷹の嘶《いなな》くが如き奇声とともに床を蹴り、高々と孔《コン》の頭上に跳躍した。肉を斬らせて骨を断つ、起死回生の鴛鴦脚。
立て続けに繰り出す蹴り技の、左右どちらか一方は孔《コン》の刃に迎撃されるだろう。だがそのとき残る一脚は、確実に相手の脳天を砕く。
これが生身とサイボーグとの決定的な差だ。動脈ひとつ破られればそれまでの人体も、総身が武器のサイボーグとなれば話は違う。両手片足を失おうと大事はない。ただの一撃でも相手に届けば勝ちなのだ。
戦いは脳か脊椎を破壊するまで続く。残りの器官は使い捨ての部品も同然だ。
頭上から迫る朱《チュウ》の双脚に、だがそのとき、孔《コン》の一刀が有り得ない動きで応じる。……刃は下段へと趨《はし》ったのだ。無防備な頭を上段に晒したままで。
馬鹿がッ!!
朱《チュウ》の踵が孔《コン》を捉えるその直前、孔《コン》の身体が沈み込む。無論、その程度で獲物を逃す朱《チュウ》ではない。鴛鴦脚の後手は六通り。今さら孔《コン》がどう動こうと逃れることは叶わない。
白刃の軌跡が天空へ半月を描く。だがもう何もかも遅い。一刀が応じうるのは一脚のみ。のこるもう一脚は……
振りかざした刀身はしかし、朱《チュウ》の脚を狙ったものではなかった。中空に大きく輪を描いたその軌道に、ダイヤの煌めきが輝線を流す。
「!?」
先んじて下段に趨らせた孔《コン》の一刀は、その切っ先で、床に転がっていた朱《チュウ》の義手……その軟鞭の先端を突き刺していたのだ。孔《コン》は再び床に伏せりざま、頭上に振りかざした一刀で、吊り上げたそれを空中に振り回したのである。
渦を描いて旋回する鞭とその端の義手は鎖分銅の要領で、まんまと朱《チュウ》の脚を絡め取った。
「な……」
必殺を期した脚捌きを封じられ、姿勢制御を失った朱《チュウ》。その胴が地に落ちるよりも速く、孔《コン》は足を踏み変えて身を起こす。
成す術もなく虚空に浮いた数分の一秒間。朱《チュウ》の目を捉えて離さなかったのは、広げた五指に紫電の氣を纏う、その必殺の左手と……昏く燃える双眸の光。
そこに見た怨嗟は死よりなお冷たく、憎悪は地獄よりなお熱かった。
防ぐことも、避けることも叶わない断末魔の一瞬。秒針にして一目盛に足りず、魂には無限に等しいその時間、朱《チュウ》は始めて味わう恐怖と絶望を噛みしめた。
落下する朱《チュウ》の鳩尾を、孔《コン》の左手の掌打が捉える。踏み込みも間合いも完璧。床から足腰を経て手首まで加速された勁力は、朱《チュウ》の身体を手毬のように部屋の対面まで撥ね飛ばした。
だがその破壊力の苛烈極まる正体は、見た目の形には顕れない。猛り狂うEMPの炎に総身を内側から焼かれ、想像を絶する激痛を味わいながら、朱《チュウ》は壁に激突するより先に絶命していた。
左掌を引きつつ、宙に泳いだままだった刀身を守りの形に戻して残心……再び静の構えに戻った濤羅《タオロー》は、だが床に転がった朱《チュウ》が骸と化したまま動かないのを見て取るや、膝を折って喀血した。
乾坤一擲の紫電掌は、またしても濤羅《タオロー》の臓腑に深い傷を負わせていた。
昨夜の内傷が言えぬうちから、引き続いての電磁発勁。しかも今夜は朱《チュウ》に二回、下の五人にも三回まで『紫電掌』を振るう羽目になった。自ら望んで寿命を削っているようなものだ。
「……フン」
そう、望むところだ。もはやこの命に未練はない。引き換えに瑞麗《ルイリー》の仇を討てるなら、安い買い物ではないか。
えずく濤羅《タオロー》の傍らに、気がつけば彼の連れるガイノイドが佇んでいた。傷つき、血を流す人間の無様な様は、その目にどう映るのだろうか。依然、機械の少女に言葉はない。
「……」
未だこの子の笑顔を、その喉に声が戻ることを期待している己に気付いて、濤羅《タオロー》は苦衷に顔を歪める。
諦めたはずなのに。絶望を、運命を、もう受け入れたはずだったのに。
精神を水のようなものと仮定してみよう
記憶の中の声が蘇る。戯れ興じるように楽しげな、それでいて、ぞっとするほど冷ややかな声。
ある瓶の中の水を五つの杯に汲み分けて、それから別の瓶に集め直す。……最初の瓶と新しい瓶と、中の水は同じものなのか否か?
「ふざけるな……」
言葉が口を衝いて出た。『左道鉗子』、邪悪の権化。奴は人間の魂を瓶や杯で計れると思っている。
あんな男の言葉を信じるべきではない。奴は正気ではない。すべては奴の妄想だ。
なのに、そう思うのに何故……
なぜ俺は、まだここにいる?
ここには遠からず幇会の救援が大挙して押し寄せてくる。長居するのは自殺行為だ。もとより惜しい命ではないが、討たねばならない仇はあと三人。ここはまだ死に場所ではない。そう弁えていながらも……
差し出した濤羅《タオロー》の手に、少女の人形が預かり物を手渡す。朱《チュウ》が投げよこしたガイノイドの首、そして転送ケーブルとPDA。
俺は……何をしている?
己の中の自問を余所に、濤羅《タオロー》の手は淀みなく昨夜と同じ作業を再演している。……二つのガイノイドのメモリをケーブルで連結し、PDAを接続。転送コマンドの呼び出し。
俺は……
RETURNキーを押す手前で、ようやく指が止まった。無意識のうちに用意万端整えた濤羅《タオロー》自身の手が、最後の決断を迫っている。
もし『左道鉗子』の言質に偽りがないのなら、これから起こることは、ただの脱魂燃焼《レイスバーン》とも違う。データの転送だけでは終わらない。転写先の人形のメモリは空でなく、昨夜|樟《ジャン》のガイノイドから回収した瑞麗《ルイリー》の断片が収まっている。
汲み取った水に、もう一杯。注ぎ足された水は、瓶の中で混ざり合う。
そのとき起きるのは、誰も見たことのない奇跡。『左道鉗子』の仕組んだ魔術が、いよいよ濤羅《タオロー》の前で実演される。
悪魔の医者。憎んでも憎み足りない。奴は瑞麗《ルイリー》を実験台にした。濤羅《タオロー》のたった一人の妹を。
だが鬼畜外道の輩であっても、その才能は本物だ。かつてあの男は学会の寵児だった。そんな人の世の栄華に背を向けてまで、魂の神秘を追い求めた男だ。
彼はこの世の誰よりも深く、未知なるものが潜む深淵へ……魂魄転写という禁断の領域に踏み込んだ。人としての境界線を踏み越えて。
天の才は、天の理《ことわり》を覆すのか? それは有り得ないと言い切れるのか?
答えのない煩悶。その逃げ道を求める一心で、濤羅《タオロー》はPDAのキーを叩いた。即座に転送が開始される。もう後戻りはできない。
「……あう……」
ぴくりと身を震わせ、何かに驚いたように目を見開いて硬直するガイノイド。昨夜と同じ脱魂燃焼《レイスバーン》。だが昨夜よりはるかに凌ぐ悪寒が、濤羅《タオロー》の心胆を締め上げる。
「う、あ、か、ふ……」
前回の、いかにも機械人形然とした痙攣とは様子が違う。今夜の彼女は……まるで本物の子供が瘧の発作を起こしたかのように、震え方まで生々しい。
ただの脱魂燃焼《レイスバーン》ではない。それは素人目にも解る。
暗鬱《あんうつ》に捩れた己自身の心中を、ここにきてようやく濤羅《タオロー》は理解した。
「俺は……『左道鉗子』の才能を疑っているわけではない。瑞麗《ルイリー》の復活を諦めきっているわけでもない
「ただ、恐ろしいだけなのだ。それを疑わなくなったときの俺自身が
瑞麗《ルイリー》が蘇ると、そう信じてしまったとき……この俺がどうなってしまうのかが……
信じたかった。だが信じるのが怖かった。
今この場で魂魄転写を初める必要はなかった。もっと安全な場所まで逃げ延びてからでも良かった。
だが濤羅《タオロー》はもうこれ以上、惑わされたくなかった。真相を先送りにしたままでは、もう一歩たりとも先には進めなかった。
それとも、いっそ……いっそ今この場に、青雲幇の処刑人たちが踏み込んできてくれたなら……問答無用の十字砲火が、濤羅《タオロー》とこの人形を八つ裂きにしてくれたなら……
このまま、答えを見ずに済む。結末を知らずに済む。
いっそ、俺は……
わずかな異臭が鼻をつく。ガイノイドの抱いた生首は焦臭い煙を上げていた。溶解し液化した有機メモリが、耳といわず目といわず穴という穴から漏れ出て床に滴っている。脱魂燃焼《レイスバーン》は終わっていた。
PDAの液晶画面は、転送完了のダイアログを表示したまま待機中。エラー件数は……ゼロ。
すべてのデータを抽出し終えた人形は、立ったまま微睡むかのように、薄く半眼に瞼を下ろしている。
何も……変わりはない。触れて揺り起こせぬものかと、濤羅《タオロー》は恐る恐る手を伸ばす。
はたと居眠りから醒めたかのように、少女が目を開けて彼を見上げた。
不意の悪戯に面食らったかのような、かすかな驚きの相。ただそれだけの表情が、まるで枯れ枝に不意に咲いた花のように、活き活きと人形の貌《かお》を彩っている。
「あ、に……さ、ま……?」
「……!?」
驚愕、歓喜、そして……畏れ。あらゆる激情の渾然《こんぜん》となった塊が濤羅《タオロー》を打ちのめす。
「……解るのか? 瑞麗《ルイリー》、俺が……」
「あに、さま……ルイリ、の……あに、さま……」
たどたどしい発音で、馴れない言葉を少しずつ口に昇らせて、それから人形の少女は、はにかんだような笑顔を見せた。
いや、人形と言っていいのだろうか? この眼差しを、微笑みを、過ぎし日のままの妹の顔を。
故人は、決して戻らない。生まれ落ちた身体を抜け出て、生き永らえる人間はいない。
「あはっ。あにさま……すごく、へんなかおしてる」
「……瑞麗《ルイリー》……」
そんな理《ことわり》を知りながら、だが濤羅《タオロー》は歓喜に泣いた。この幸福の瞬間に、心魂のすべてを注ぎ込んで泣いた。
左道とは、天の理《ことわり》に背く道。そこに踏み出す者を外道という。そこに住まう者を鬼という。
許されざる禁忌の向こう側に、決して届かなかったはずの願望が待ち受ける……それを知ってしまったとき、人は人であることを辞める。
いま濤羅《タオロー》は自覚していた。己が人の道を外れ、鬼の道に堕ちたことを。
もはや何物も彼を阻みはすまい。この一刀で、命を削る渾身の拳で、死んだ妹が蘇るというのなら……もはや何物を惜しもうか。何をか恐れん、人ならぬ鬼が。
天意も知らぬ。神仏も知らぬ。我はこの一刀に賭ける修羅。
「クク……ククク……」
哄笑が喉を衝いて出る。それは産声……濤羅《タオロー》が心に育んだ怨念の卵から、ついに殻を破って孵った鬼の声。人ならぬ化生《けしょう》の笑い声だった。
そう、もう化生《けしょう》で構わない。残り三つの瑞麗《ルイリー》の欠片、そのすべてを手に入れる日まで。
章ノ三 恩讐追想
目を閉ざせば思い出す。繚乱と咲き散る桃の花。その下で紡いだ想い出の数々……
爛漫と咲く桃花の下で、濤羅《タオロー》は剣を執っていた。
そよ風が梢を揺らすたび、白い花弁は飛沫を散らすが如く盛大に宙を舞う。まるで満ちに満ちた木の生気が、蕩々と溢れ出るかのように。
日課の鍛錬をするのに、今日に限って道場でなくこの桃園を選んだのは、ほんの気紛れである。ただ眺めているだけでも心沸き立つ桃の咲きぶりを眺めるうち、無性に身体を動かしたくなったのだ。
魔都上海の喧噪も遥かに遠い、崑山は陽澄湖の畔にある孔家の私邸。若い兄妹と使用人だけが住まうには些か広さを持て余すものの、さりとて引き払うとなると、この先祖伝来の桃園が惜しい。
代々続くこの中庭が今の時代に命脈を繋いでいるのも、濤羅《タオロー》の父が大枚をはたいて設えた近代設備の賜物である。中庭は与圧された透過樹脂の天蓋で覆われ、桃園は汚染物質を被ることなく、春のうららかな陽光だけを浴びている。
道着ではなく平服のままだが、花香を孕んだ空調はむしろ涼やかで心地よい。
服気の調息によって丹田に満たした内気を、閉息して呑み込み、練気を繰り返す。次第次第に身体が軽くなるのを実感してから、おもむろに佩刀《はいとう》の鞘を払い、提膝平衡の姿勢から形取りに入る。
二十八刀三十六剣、しめて六十四|套路《とうろ》の戴天流刀剣法は、刀剣いずれにも対処できるが、畢竟《ひっきょう》そのすべてを活かすとなれば、斬撃が刺突を共にこなす器械が最適だ。
細身で反り浅く片刃の刀身……主なところでは太極刀や倭刀が誂え向きだが、濤羅《タオロー》は南派侠拳門の鋏刀を好んで使っている。
舞い落ちる花弁の一枚を切っ先で払うと、薄片は音もなく二重に割ける。
なきに等しい重さの手応えを、確かに指先で捉えたことに、濤羅《タオロー》は満足する。今日は功夫の冴えがいい。氣が剣先にまで満ち満ちている。
二手、三手と形取りを重ねていく濤羅《タオロー》の節奏に、ふいに柔らかな琴の音が添えられた。
「……ん?」
見ればいつからそこにいたのか、木の根元に腰を降ろした瑞麗《ルイリー》が、嫋々と琴を奏でている。濤羅《タオロー》の視線に応えて、悪戯っぽく微笑む妹。
瑞麗《ルイリー》もまた、この沸き立つ桃の咲きぶりに心誘われ、一曲奏でたくなったのだろう。練習に茶々を入れられるのは困りものだが、もとはといえば道場でなくこんな場所で剣を振るっている濤羅《タオロー》が悪い。桃花の風雅には、むろん琴の音の方がよく似合う。
それに耳に快い音曲は、さして鍛錬に障ることもなかった。むしろ小気味よいそのリズムに剣の節奏を重ねてみれば、ますます一手一手の鋭さが増す。
軸足を踏み変えながら、『雲霞渺々』、『四海縦横』、『沙羅断緬』の三連続剣。疾る剣風が囃子のように、琴の調べに拍子を刻む。兄の応答に喜色を浮かべて、瑞麗《ルイリー》の演奏もまた爪弾く弦の数を増やしていく。
響き幾重にも入り乱れ、奥深さを増していく琴の音に、釣られて激しさを増す濤羅《タオロー》の剣舞。二人の琴と剣の技は、互いに競い合うように、それぞれ玄妙の度を深めていく。
濤羅《タオロー》の丹田で、かつてないほどに充溢する内息。その手応えに心が湧く。
今ならば……未だ達していない絶技秘剣の一つも、あるいはものにできるのではないか? 武に生きる者として抗えない欲求が、濤羅《タオロー》を虜にする。
「撥ッ!」
濤羅《タオロー》は長嘯一声《ちょうしょういっせい》、地を蹴って高らかに宙を舞う。旋子転体で姿勢の天地を逆転させながら、眼下の虚空に舞い散る花弁、そのうちの十枚を見定める。
極限まで高まる氣。流れすぎる一秒を百に分かちた刹那の視野に、それら純白の薄片は凍りついたように止まって見える。
剣が奔る。一刹那よりも僅かな六徳の間、よりなお細い虚の瞬間……
傍目には十条の剣光が、まったく同時に迸ったように見えただろう。これぞ戴天派剣法の絶技『六塵散魂無縫剣《りくじんさんこんむほうけん》』。神速にして細緻《さいち》の剣刺は、薙ぎ払ったとしか見えない刃影が実は悉く刺突の残影という、超絶の秘技である。
歇歩《シエブ》の姿勢で着地を決め、刻んだ虚空を仰ぎ見れば……微風に舞って宙に浮く花弁は、その数、たった十四片。十枚悉くを両断していれば、白い薄片は二十を数える道理である。
失意の吐息とともに刀を検めれば、その切っ先に三枚の花弁が貼りついていた。十手のうち三手は、花弁を斬るまでに刃速が至らなかったのだ。
剣の研鑽に励んで十余年、未だこの奥義の会得には至らない。あらためて濤羅《タオロー》は戴天派剣法の奥深さに感じ入る。
ふと目を上げると、とうに琴を弾く手を止めた瑞麗《ルイリー》が、拗ねたように目を眇めている。
「酷いわ兄様。わたしの琴を聴いていてくれるんだとばかり思ってたのに」
「ああ、済まん……」
途中からの冒険は、伴奏を無視して舞い手だけが先走ってしまったようなものだ。琴を弾く瑞麗《ルイリー》が面白いわけがない。
「兄様ったら、いつもそう」
「剣を手に取ったら最後、私なんて眼中にないものね」
「そういう訳じゃ……ない」
むくれる妹を宥《なだ》めようにも、濤羅《タオロー》はいまひとつ歯切れが悪い。
そもそも……剣舞に打ち込むあまりすっかり失念していたが、今日は瑞麗《ルイリー》にどんな風に声をかけるか、朝からそのことにばかり頭を悩ませていたのだ。
なのに出会うや否や、まだ一言も要件を切り出さないうちから機嫌を損ねてしまうとは。濤羅《タオロー》は我が身の迂闊さに歯噛みする。
「だってお前、俺の剣に合わせて弾いてくれたんだろ? お陰で勢いが乗りすぎた」
「私の曲のせいだっていうの?」
相変わらず脹れ面だが、兄のこの言い分は、瑞麗《ルイリー》にとってまんざらでもないらしい。
「いいわ。ちゃんと聴いてたっていうのなら、何の曲だか当ててごらんなさいよ」
「途中までは『碧霄吟』だったな。でもその先は、ちょっと……」
濤羅《タオロー》は言い淀んだものの、瑞麗《ルイリー》は不機嫌面を脱ぎ捨てるようにして破顔した。まるで雲間から日が射したかのように表情が明るくなる。
「その先は出鱈目よ。いま私が作りかけの曲。……だって兄様の剣、どんどん速くなっていくんだもの。『碧霄吟』じゃ追いつけないわ」
「おまえの意匠だったのか、あれは」
妹が舞や楽曲に見せる造詣の深さは知っていたが、これには濤羅《タオロー》も驚いた。
「いや……素晴らしかった。てっきり大家の名曲だとばかり……」
「おだてたって何にも出ないわよ。もう」
朗らかに笑ってから、ふいに瑞麗《ルイリー》は面相を畏敬に改める。
「そんなものより、兄様の最後の剣の方がよほど物凄かったわ。速くて眩しくて……稲光かと思ったくらい」
「あれはな……しくじったんだ」
妹の賛辞に、しかし濤羅《タオロー》は憫笑とともに目を逸らす。
「つくづく俺は至らない。この身を剣に捧げておきながら、まだ届かない秘技奥義がいくつあることか……」
己の凡夫の器を思うたび、濤羅《タオロー》はかつて同じ戴天派の兄弟子だった豪軍《ホージュン》の才能に嫉妬じみた羨望を懐く。あれほどの傑物が、義のためとはいえ天賦の才を捨てざるを得なくなるとは……つくづく運命とは皮肉に運ぶものらしい。
「剣って、そんなにも深いもの?」
瑞麗《ルイリー》の声音の翳りを、濤羅《タオロー》は耳ざとく聞き留める。
こと務め事に話が及べば、決まって瑞麗《ルイリー》が見せる愁い顔。心優しい妹は、未だに気持ちを整理できていないのだ。幇会の凶手を務める兄の生業について。
だが祖父も父もそうであったように、濤羅《タオロー》もまた孔家の男子。誇り高き青雲幇の一員である。
「なぁ瑞麗《ルイリー》……」
「剣は不祥の器なれど、没義道《もぎどう》を斬るのが侠の剣……お前も心得ているだろう? 俺たち青雲幇の大儀は」
「……」
「情理を尽くすではままならぬのが人の世だ。避け得ぬ凶事というものはある。千人に一人の汚れ役だが……兄を恥じてくれるな」
「私だって……」
思いの丈を口走ろうとして、瑞麗《ルイリー》は口ごもる。
「……私だって、解っています。これでも孔家に生まれた身ですもの。だけど……」
「だけど……ときどき思うの。いつか兄様の心の中に、剣の他には何ひとつなくなってしまうんじゃないか、って」
「瑞麗《ルイリー》……」
「この屋敷の桃園のことも、帰りを待つ私のことも、何もかも忘れて……どこか手の届かない場所に行ってしまいそうで」
何をか言わんや、だ。
白刃の下をかいくぐり、返り血の飛沫を浴びる日々。だが幾度修羅道をくぐり抜けようと、この生家に戻れば瑞麗《ルイリー》がいる。いつの日も変わらず優しい、妹の笑顔が迎えてくれる。
そう思えばこそ濤羅《タオロー》は、辛うじて心の均衡を保っていられた。掟や大儀で支えられるほど、彼の精神は強靱ではない。
今日まで凶手という過酷な務めを果たしおおせてきたのも、心に妹の面影を留めておけばこそ、なのだ。
「剣を揮う兄様は、なんだか真っ直ぐすぎて……怖い」
陰鬱な空気を払おうとしてか、瑞麗《ルイリー》はまた笑顔を見せる。
「だから、その剣の道の幾分かでも、この妹のことを想ってくれたらな……って」
妹の心遣いに甘えて、濤羅《タオロー》は笑い返してこの場を流すこともできた。だがそうするには、彼女の無理に繕った笑顔の固さが、あまりにも痛ましかった。
そんなことはない、そう声を大にして叫びたかった。だがそうしたところで、瑞麗《ルイリー》は哀しげに笑うだけだろう。思いの丈を伝えようにも、濤羅《タオロー》の言葉はあまりに拙《つたな》い。
なぜこんな日に限って、瑞麗《ルイリー》を悲しませてしまうのか? 今日という特別な日に、彼女を想う気持ちを知らしめたくて、形にして伝えたくて、そのために濤羅《タオロー》は朝から頭を悩ませているというのに。
「瑞麗《ルイリー》、目を瞑ってごらん」
「……?」
小首を傾げる妹の顔に、濤羅《タオロー》はそっと掌を添えて、有無を言わさず瞼を下ろさせる。
「……手を出して」
言われるがまま、所在なげに差し出された細い手首。濤羅《タオロー》は懐をまさぐり、朝からずっと携えていた悩みの種……今日のために匠に誂えさせた、銀の腕輪を取りだした。
どの頃合いを見計らって、どんな言葉とともに贈ればいいのか……ついに妙案は浮かばなかった。が、もう体裁を取り繕っている場合ではない。こんな風に瑞麗《ルイリー》を嘆かせないための、そのための贈り物なのだから。
ひやりと手首に触れた感触。驚いた瑞麗《ルイリー》が手を退くと、ちりん、と玲瓏の鈴が鳴る。
「……!?」
「誕生日、おめでとう」
元来が朴訥《ぼくとつ》な濤羅《タオロー》は、これまで贈り物などしたことがない。むかし幼子の頃の瑞麗《ルイリー》に玩具を買い与えたのとは訳が違う。こんなとき、どういう手順があるのか、どんな言葉が相応しいものか、てんで見当がつかなかった。
「その……気に入ってくれたら、嬉しい」
どうして己の口からは、こう当たり前の台詞しか出てこないのか? 花も恥じらう乙女を前に、何の雅もない己の無骨さが、濤羅《タオロー》には我慢ならなかった。
むろん婦人の扱いに長けた者に助言を仰ぐことも、考えなかったわけではない。が、それはそれで釈然としなかった。己の偽らぬ心を伝えるのに、人の言葉を借りていいものか迷ったのだが……
案に違わず、妹は放心のていで手首の腕輪を眺めている。とめどなく濤羅《タオロー》の胸に湧き上がる不安。
意匠が好みに合わなかったか? 重さ大きさが煩わしかったか? 思えば彼女が金物の腕輪など身につけていた試しがない。迂闊だった。あんなもの、琴を弾くときはきっと邪魔になる。
「……済まん。その……」
詫びる言葉にさえ窮する濤羅《タオロー》に、だが瑞麗《ルイリー》は慌てたようにかぶりを振る。
「私……ごめんなさい。その、あんまりに嬉しかったから、つい……」
さり気なく目元に触れる指で、滲み出た涙を拭い取る様子に、濤羅《タオロー》はただ途方に暮れるしかない。悲嘆の心には笑顔を被せ、そして今度は涙しながらも喜びを口にする、少女という性の摩訶不思議に。
「ありがとう、兄様。本当に嬉しい」
そっと瑞麗《ルイリー》が手首を振ると、優しく囁くようにまた鈴が鳴る。
「これからは、ずっと一緒です。寂しくなんかない……」
「この鈴が鳴るたび、私、兄様のこと思い出します」
そして瑞麗《ルイリー》が、再び見せた微笑みは……晴れた秋空のように澄み渡った、濤羅《タオロー》がそうあって欲しいと願った通りの笑顔だった。
冬の夜、凛烈と澄んだ闇の彼方には、街の灯がとりわけ眩く見える。
虹口のスラム街に隠れ住む闇医師|謝逸達《ツェ・イーター》の診療所からは、遠く彼方に燦然と輝く金融貿易区の夜景が見て取れた。
もっと高台から全景を一望できる窓ならば、それだけでも値が付いただろう。だが黄浦江の寒水を挟んだ手前側に、のしかかるほどに大きくそびえ立つ廃墟の群が、浦東の輝きを怨みがましげに遮っている。
百年を遡った昔には、今の浦東がそうであるように近代アジアの象徴たる壮麗な建築美を誇った、外灘のアール・デコ高層建築郡。長江より訪れる船舶を迎え入れる外灘は、古き良き時代の上海の玄関口でもあった。
イギリス領事館をはじめサッスーンハウス、旧・中国銀行本店など、ネオルネサンスやネオバロックまで入り乱れた華美な建築郡は、都市機能の中枢を他に譲った後も上海の歴史的名刹として観光客を集め続け、その賑わいが絶えることはなかった。
だが財政破綻と、それに拍車をかけた金融貿易区の優遇政策によって文化財の維持にすら手が回らなくなった市当局は、この歴史ある老朽建築物を崩れ去るがままに放置した。
今では安全性の問題から立ち入りさえ封鎖され、観光客は黄浦江を巡る遊覧船から寂れた廃墟を望んでは、在りし日の栄華を偲ぶばかりである。
寂れ果てた外灘地区を全景に、はるか対岸の浦東の灯を望む……いつ見ても寂寥の募る侘びしい夜景を、謝《ツェ》はいつものように酒瓶を呷りながら眺めていた。
我が身の凋落を思い知らせる、なんと寓意的な眺めだろうか。
未完成のジグソーパズルのように形を失った侘びしい輪郭の隙間隙間から、彼方の浦東のイルミネーションを垣間見るたびに、謝《ツェ》は我が身の運命の皮肉さについて思い致さずにはいられない。
かつて彼は、あの光の中に身を置いたこともあった。誰が知ろう。このうらぶれた老骨が、かつては電脳神経学の権威であり、魂魄転写の第一人者として学会を賑わせた時の人だったとは。
精神と肉体の分離。記憶と性格の数値化、量子化。人格の複製の可能性と、その前に立ちはだかる脱魂燃焼《レイスバーン》という謎……科学史上かつてないほど先鋭的で、加熱した研究分野。その旗手を担うのが謝《ツェ》博士だったのだ。
だがその技術によって脅かされる倫理観、予期される法的問題はあまりにも甚大だった。
精神という神秘の世界。その根幹を神ならぬ人が掴み、恣《ほしいまま》にすることの脅威。その責を負うには、まだ人類の社会はあまりに未熟すぎる……そう判断するだけの謙虚さが、学会の識者たちにはあった。
各方面から糾弾され、ついには学会を追放されて、謝《ツェ》が生涯を捧げた研究には禁忌≠ニいう名の重石が載せられ封印された。
過日の栄華も夢と消え……今では、この体たらく。裏路地に幾人蠢くとも知れぬ、湿気た非合法サイバネ医師の一人でしかない。
夢追い人の墓は侘びしいものよ……
憂愁の想いに浸りながら噛みしめる静寂を、不意の騒音が打ち砕く。物騒な界隈には相応な程度に補強してあったはずの扉が、いとも容易く蹴り破られ、黒外套の男が現れた。
驚いて腰を浮かせかけた謝《ツェ》は、侵入者の風体を見て取るや、落ち着きを取り戻して座り直した。予期せぬ来訪者ではなかったからだ。
「呼び鈴ぐらいはあった筈だが?」
毒づいてはみたものの、皮肉が通じる相手でないのは解りきっている。抜き身の白刃を提げ、袖に返り血の染みをつけた男を前に、むしろ謝《ツェ》の平静さこそ異常であった。
暖房機の唸りを余所にみるみる冷えていく室温は、吹き込む外気の冷たさか、それとも男の発する殺気のせいか。
「……質問はひとつだ」
爛々と燃える双眸の前に、男は左手を掲げ上げる。銀で鋳られた小さな鈴が、この場にそぐわぬ朗らかな清音を鳴らす。
「これを売ったのは貴様だそうだな? 謝逸達《ツェ・イーター》」
瀟洒な銀細工の腕輪。久しく目にしていなかったが、むろん謝《ツェ》には見覚えがあった。
「その通り。儂が故売屋の石《セッ》に売った。飲み代のカタにな」
「もし『紫電掌』の孔《コン》と出会ったなら、きっと高く買い取るだろうとも言っておいたが……」
「石《セッ》には仇になったか。何も奴を斬らんでも良かろうに」
「咎のない奴でさえ、斬った」
「だから貴様は……斬るだけでは済まさん」
「君の妹の腕輪を売ったから、かね?」
「とぼけるな!」
白刃が唸り、傍らの戸棚が真っ二つになって崩れ落ちる。
「貴様は悪魔だ。『左道鉗子』……人の魂を売る下司がッ!!」
渾名で呼ばわれて、謝《ツェ》は冷笑に口元を歪めた。
『左道鉗子』……忌まわしい異名には訳がある。
かつて魂魄量子化の研究においては旗手を担っていた謝《ツェ》だが、彼の確立した精神コードの抽出方法は、被験者の痛覚神経に過度の刺激を与え続けることで転送に伴うノイズを遮断するというものだった。マニュアル化されたそれは事実上、拷問と同義の内容だったのである。
実験中の事故≠ノよって発狂、あるいは廃人化する被験者は後を絶たなかった。
学会からの追放も、謝《ツェ》の妄執にも近い学究心に歯止めをかけることはなかった。それどころか栄誉を手放すことで法や倫理の束縛からも解放された謝《ツェ》は、自らアンダーグラウンドに身を投じ、嬉々として悪魔の研究を続行したのである。
肉体の完全放棄、不老不死の可能性。活動の場所を変えても、謝《ツェ》が示唆する展望に魅せられて集う者は後を絶たなかった。ある者は資金を提供し、またある者はおのが身を献体として差し出して……
犯罪の領域へと足取りも軽く踏み込んだ謝《ツェ》の人体実験は、この頃まさに猖獗《しょうけつ》の極みにあった。いつしか、彼が脳膜を切り開くメスには『左道』の名が冠せられていた。
また魂魄転写という技術を思わぬ方向に応用しはじめたのが、ガイノイドによるセックス産業である。
被験者を死に至らしめない程度に抽出した魂の欠片≠ナも、ガイノイドの情緒スクリプトに付加する形で生体メモリに書き込むと、その人形は決して演算では表現できない人間味≠醸し出すようになる。ただの人形とも生身の女とも違う性奴隷、これが一部の性倒錯者に絶大な人気を博したのである。
こうして魂魄転写を施された非合法ガイノイドは、ブラックマーケットで法外な価格で取引されるようになり、新たな犯罪市場を形成しはじめた。
むろん闇医者たちが模倣したのは、かつて謝《ツェ》博士が確立した転写プロセスである。転写元となる脳は損傷を受け、時には生命すら危うくさせる。その需要を満たすために、サイバネティクス技術の普及によって廃れていた臓器売買というビジネスが形を変えて復活した。生体脳の売買である。
人ひとりの脳が壊死するまでに、上手く行けば五十体以上のガイノイドに魂魄転写を施すことができる。人買いや誘拐の末、闇医者たちのラボに消えた犠牲者は数知れない。
貧窮した麻薬中毒者の中には、頭を壊されるのは薬も同じと割り切って、自分の脳細胞を切り売りするような手合いまで現れる始末である。
そんな実状を知るだけに、大切な妹が『左道鉗子』の許へ連れ去られたと知ったとき……濤羅《タオロー》の怒りと絶望は極まった。
「答えろ。貴様は瑞麗《ルイリー》に何をした?」
「勘違いしてもらっては困るが、私はあくまで依頼に応えただけのことだ」
「樟賈寶《ジャン・ジャボウ》、斌偉信《ビン・ワイソン》、朱笑嫣《チュウ・シャオヤン》、呉榮成《ン・ウィンシン》、そして副寨主の劉豪軍《リュウ・ホージュン》……」
「この五人が君の妹を私のクリニックに担ぎ込んできた。彼らの人形の部品≠ニしてね」
「嘘だ!!」
血も吐かんばかりに濤羅《タオロー》は叫んだ。
「豪軍《ホージュン》が……奴がそんなことをする訳がない! あいつは……」
「マカオで誰に斬られたか、まさか忘れたわけではあるまい?」
「……ッ!!」
濤羅《タオロー》の身体が揺らぐ。いま謝《ツェ》を前にして懐く憤怒より、なお重くのしかかる絶望に脚の力を奪われたのだ。
「……何故、知っている?」
「だから言ったではないか。劉豪軍《リュウ・ホージュン》がここに来たと。彼の口から直々に聞いたよ」
「嘘だ……」
膝の固さを失って、濤羅《タオロー》は俯いたまま床に頽れた。
「そんな馬鹿な……嘘だ……」
「いいや、他でもない劉豪軍《リュウ・ホージュン》の計らいだった」
自失のていの濤羅《タオロー》を前に、謝《ツェ》はあくまで冷然と言い放つ。
「さもなければこう大それたことはできんよ。私も今では、そこいらの闇医者と変わらない」
サイバーポルノ業界に於いて、極めて歪んだ形とはいえ需要と供給を見出した魂魄転写のテクノロジー。だがその一方で、謝《ツェ》の本来の課題である魂の複製、転写保存という研究は袋小路に突き当たっていた。
被験者の脳細胞を破壊する脱魂燃焼《レイスバーン》、転送に伴う地獄の苦痛……この二点については、未だ解明の糸口すら見つからない。
不死を求め、謝《ツェ》に期待を託したスポンサーたちも、廃人化の危険を冒してまで精神の転送を図るより、やがて肉体の機械化と脳そのものの延命処置に期待を見出すようになっていった。
かつて『左道鉗子』の二つ名で鳴らした風評も、後見人を失った後の凋落は目を覆うばかりであった。今ではこうして他の闇医者たち共々、ガイノイドの非合法改造で糊口を凌いでいる有様だ。
天意は魂魄の複製を決して許さず、また人の魂が、滅びる運命の肉体を離れて器を変えようとする試みも、厳しく罰したのだろうか。
「来る日も来る日もジャンキー共の相手ばかり……まるごと一人分の実験台を手に入れる機会などありはしない」
「そんな折、旧知の友人から誘いがあった」
「とある少女を拷問したい。精神の壊れるまで徹底的に……立ち会えば丁度良い実験の機会ではないか、とね」
「一も二もなく乗ったよ。私は」
「経験則上、レイプというのは只の拷問より効率的なのだ」
「神経系に与える損傷は最小限だが、きわめて高い精神的ストレスを発生させ、最終的には自我や感情が認識と分断を起こす」
「自分が人でなくモノ≠ニして扱われることを許容する……そういう精神状態が、転写には理想的でね」
怨念の一刀を携えて現れた濤羅《タオロー》を前にして、謝《ツェ》のさも得意げな弁舌は悪意ある挑発以外の何物でもない。一度は膝を折った濤羅《タオロー》も、再び狂おしい程の怒りを呼び覚まされる。
「……ここで、瑞麗《ルイリー》は死んだんだな?」
「処置の結果、三時間で脳波計は沈黙した。君の言う死とは、そのことか?」
剣柄を握る手に力がこもるあまり、刀身が小刻みに震える。白刃の冷たい反射光が薄暗い室内にちらちらと躍り……だが濤羅《タオロー》の双眸は、なおいっそう凍っている。
そんな眼差しを受け止めてなお、謝《ツェ》の顔に恐怖の色はない。
「私が施術したことを、君は喜ぶべきだったんだぞ?」
「今日日、魂魄転写を請け負う闇医者はごまんといる」
「そんな手合いにかかっていれば、彼女は百%不可逆な処置を受けていただろう」
「その点、私の実験は……彼女の蘇生を目論むものだった」
「……何?」
「君の妹は生きている」
「彼女は肉体こそ滅んだが、その魂が器を変えただけのこと」
「人形のプログラムに作り替えて、か……!?」
憫笑でかぶりを振る謝《ツェ》の仕草は、教え子の呑み込みの悪さを嘆く教師のようだった。
「例えば、だ。精神を水のようなものと仮定してみよう」
「ある瓶の中の水を五つの杯に汲み分けて、それから別の瓶に集め直す。……最初の瓶と新しい瓶と、中の水は同じものなのか否か?」
「精神に対する除算と加算だ。はたしてプラスマイナスはゼロになるのか……」
「脱魂燃焼《レイスバーン》の解明には繋がらない実験だが、こと魂の量子化という点では、興味深い試みになる」
蕩々と語る謝《ツェ》の語調は、死を目前にした人のそれではない。その異常なまでの自信を訝《いぶか》る心が、濤羅《タオロー》の殺意を臨界点の手間で留まらせている。
「君の妹の脳は、ありったけの内容を吸い出されて壊死した」
「だがその魂は失われたわけではない。分断され、場所を変えて保存されている」
「これらを再結合させて、もとの孔瑞麗《コン・ルイリー》を再生できるとしたら……どうかね?」
「……出来るのか?」
「判らんよ」
「言っただろう? 実験だと。結論はこれから出る」
「ただし、私の理論と技術を信じるのなら……君は私に感謝するだろう。妹の恩人としてね」
異端科学者|謝逸達《ツェ・イーター》の伝説は、濤羅《タオロー》も聞き知っている。人間の精神を脳とは違う媒体に移す……それこそが彼の目指した最終目標だ。
「この実験、クライアント達には無許可でしたことだ」
「彼らとしては、レイプされる少女の精神を転写できる技師だけが必要だった。私の思惑など興味すらなかっただろう」
「とはいえ、相手は青雲幇の幹部たちだ。あんな連中からサンプルを回収して廻るなど、この老骨には酷すぎる」
「それができるスタッフを雇う富もツテもない。見ての通りの貧乏暮らしでね」
「そこで私は、自発的な協力者が現れるのを待つことにした。一人だけ、心当たりがあったからな」
「君の生存は、私なりの情報網で掴んでいた。いずれはこの上海に舞い戻ると踏んでいたよ」
「……まさか一年も待たされるとは思わなかったがね」
軽い眩暈が濤羅《タオロー》を襲う。怒り、混乱、そして……愚かしいほどに儚い、希望。
どこまでが真実なのか。どこまでが正気なのか……この謝《ツェ》という男の頭の中は。
「俺に、貴様の走狗になれと?」
「君は妹の仇討ちをする腹だったようだが、事態はそこまで捨てたものではない」
「いや、むしろ輪をかけて嘆くべきかな? 今の彼女たち≠フ境遇を考えれば」
「五等分された君の妹は、こうしている今も慰み物になり続けている。彼女を辱めた者たちの手許でね」
「ひとつ白馬の騎士にでもなって、彼女たちを救い出してみてはどうかね?」
「貴様……」
老科学者の理論を検証できるほどの知識は濤羅《タオロー》にない。むしろ彼の培ってきた知識と、かつてそれに伴った名声には、嫌悪だけでなく畏怖さえ懐いていた。
否……老科学者の語る内容を世迷い事として一蹴するには、あまりにも濤羅《タオロー》は弱かった。瑞麗《ルイリー》の死を否定する言葉なら、いっそどんな戯言でも信じたい……そう願う心の隙があった。
己が、いつしか老科学者の言葉の幻惑にまんまと呑み込まれていることを自覚していた濤羅《タオロー》は、ただ怒りの声をぶつけるしか他になかった。
「貴様は人の命を……魂を、何だと思ってる……!?」
「さて、何と思うべきなのか」
濤羅《タオロー》の怒気を淡泊に受け流して、『左道鉗子』は肩を竦める。
「その問いの答えを追い求めて、私は一生涯を費やしてきた。……挙げ句の果てが、このザマだ」
気怠げに腕を振って、乱れきった部屋の有様を示す謝《ツェ》の口元には、自嘲の笑みさえ浮かんていた。
「さて、返事を聞かせてくれないか? 君を待った甲斐があったのかどうか」
「私の準備は万端、整っている。あとは君の一存次第だ」
「……」
力の限りに握りしめた濤羅《タオロー》の手の中で、倭刀の柄がかすかに軋む。
この剣で……残らず斬って捨てる腹だった。仇は『左道鉗子』だけではない。彼を裏切った豪軍《ホージュン》。瑞麗《ルイリー》を辱めた香主たち。一人残らずその全員を。
そう、殺すとなれば残らず全員。その誓いさえ確かなら、誰から先に始末しようと順序にさしたる意味はない。
「いいだろう……」
押し殺した声で呟くと、濤羅《タオロー》は抜き身の倭刀を鞘に収めた。
「貴様の言うとおり、まずは幇会の奴らから先に、狩る」
香主たち全員を血祭りに上げ、連中のガイノイドを残らず回収してみれば、謝《ツェ》の言質には裏が取れる。この男をどうするかは、それから決めても遅くはない。
濤羅《タオロー》は凶手として、幾多の人間を狩ってきた。そんな己の直感に依るなら、この老科学者は逃げも隠れもするつもりはない。先の弁舌も、延命のためのものではない。この男は本当に瑞麗《ルイリー》を蘇らせる……或いは、そんな妄想に憑かれた狂人だ。
今夜こうして探し出したように、次もまた容易に居場所を掴めるだろう。ここで殺さずとも見逃すことはない。
「決まりだな」
寿《ことほ》ぐように手を打ち鳴らし、謝《ツェ》は改心の笑顔で頷いた。こんな笑顔で執刀に臨む医師がいれば、どんな患者でも安堵して身を任せるだろう。かのファウストと約定を結んだ悪魔も、あるいはこんな顔をしていたかもしれない。
「それでは君に、預けるものがある」
「……こいつは?」
「この日のために用意しておいた、特別なガイノイドだ。連れて行け」
ガイノイド。今時、夜の街に繰り出せばいくらでも目につく性玩具。濤羅《タオロー》から見れば虫酸の走る悪趣味だった。
「これ自身に歩かせても良し、邪魔ならトランクにでも詰めて持ち歩けば良かろう。そう思って幼年型にした」
「こいつを、どうしろと?」
「さっきの喩え話で言うところの新しい瓶≠セよ」
準備してから、よほど永らく放置されていたのだろう。起動した機械仕掛けの少女が起きあがると、前髪から薄く埃が散り落ちる。
「この人形のメモリには特製のユーティリティがインストールしてある」
「水≠汲み変え、混ぜ合わす……魂魄転写と再結合のプログラムだ」
「私が香主たちに贈ったガイノイドからメモリの内容物を吸い出し、回収した他のデータと結合させる」
「君はこの人形のメモリに、五体のガイノイドの魂魄を片っ端から転写していけばいい」
「五体分が揃ったとき……君の妹は、この人形の中に復活する」
「彼女は生体脳から人工脳へと百%の移行を果たす、最初の人類になるだろう」
謝《ツェ》の語り口に、濤羅《タオロー》は空恐ろしいものを感じ取る。
「瑞麗《ルイリー》が元通りになったかどうか、どうやって確かめる?」
もとより人の魂の質や量など、単位で計れるものではない。ひとたび引き裂かれた瑞麗《ルイリー》の魂魄を寄せ集めて、それが過不足ないものとどうして言えるのか?
「それこそがこの実験の焦点だ」
「器を変えた孔瑞麗《コン・ルイリー》の魂が、果たして孔瑞麗《コン・ルイリー》その人と言えるか否か……」
「ただ一人の肉親である君にしか判断はできまい。だからこそ君を選んだのだ」
「すべてが終わったら、ぜひとも君の主観を聞かせてほしい。この人形の中にいる魂が、本当に君の知る妹かどうか」
「……」
そう、この『左道鉗子』とて、答えを持ち合わせているわけではない。彼自身がその答えを求めて、こんな場末にまで零落してきたのだから。
ベッドから降りて立ち上がった幼年型ガイノイドは、空虚な眼差しをぴたりと濤羅《タオロー》に据えている。オーナーとして認識をした様子だが、それ以上の挙措は一切見せない。
謝《ツェ》の言うとおり、本当に空の瓶=c…基本動作系のドライバ以外は何ら実装されていないらしい。
「報告を待っているよ。孔濤羅《コン・タオロー》」
握手を求めて手を差し出す謝《ツェ》を余所に、濤羅《タオロー》は妙に冷え冷えとした眼差しで部屋を見渡している。
「ここの設備なら、手足を義肢にするくらいは訳もないんだろうな」
「無論だ。十分もあれば事足りる」
「そいつは何よりだ」
言い終わる前に、左手の鞘から白刃が躍った。
床が傾ぐ……不意の違和感に襲われ、だが謝《ツェ》は身体の均衡を取り戻すこともできず転倒した。
手がかりを求めて泳いだ腕が、書類戸棚をひっくり返す。倒れた床は血に染まっていた。謝《ツェ》の右脚……かつて膝のあったあたりから、鮮血が飛沫いている。
ここに至ってようやく、謝《ツェ》は片脚を切り落とされたことに気がついた。痛みは認識と同時に襲いかかってきた。
「あまり血の抜けんうちに処置をしろ。この程度で死なれてはつまらん」
悲鳴を上げてのたうちまわる謝《ツェ》を冷然と見下ろし、濤羅《タオロー》は刀を血振りしてから再び鞘に滑り込ませる。
「がッ……ぐゥ……!!」
「他人の痛みなど意に介さん奴が、なかなかどうして、我が身の痛みには達者に嘆くじゃないか」
「〜〜〜ッ!!」
無論この程度で溜飲が下がるはずもないが、今夜のところは濤羅《タオロー》も自制することにした。もし再び相見えるようなら、そのときは片脚どころでは済まさない。そう心に決めて、あとは一瞥もくれずに蹴破った扉から出ていった。
「……」
後に残された人形もまた、この場の状況に対処するルーチンは何一つ持ち合わせていない。ひとしきり環境を走査した後は、血の海に沈む謝《ツェ》には目もくれず、オーナー認識した人物の後をたどたどしい足取りで追いかけた。
「これが、見つかった樟《ジャン》のガイノイドの首」
呉《ン》がテーブルに載せた残骸は、見るも無惨な有様だった。磨坊街の裏路地にうち捨てられていたのを、見つかるまで三日あまり放置されていたのだ。柔らかい外装を鼠に食い荒らされて、セラミックの骨格が剥き出しになっている。
「有機メモリは完全に焼けついている。間違いなく脱魂燃焼《レイスバーン》だ」
「そしてこれが……」
続いて呉《ン》はもう一つ、今度は破損の具合の少ない生首をテーブルに載せる。
「朱《チュウ》の部屋に残されていたガイノイドの残骸。こいつのメモリも、また同上」
「つまり孔濤羅《コン・タオロー》は、妹から魂魄転写されたガイノイドのデータを吸い出してまわってる」
「俺たちへの意趣返《いしゅがえ》しもあるだろうが、孔《コン》にとっちゃむしろ、人形の方が目当てなのかもしれん」
「何を血迷って、そんな真似を?」
「さあね。仰せの通り、血迷ってるだけかもな」
「あいつの妹の可愛がり方、度が過ぎていたもんな」
「その妹の脳が切り身になってばらまかれてるとなりゃ、トチ狂ったとしても不思議はない」
「で、どうなんだ? 奴を追う手筈の方は」
「……名うての賞金稼ぎが何人か、行方知れずになっている」
応える斌《ビン》の声は憮然として固い。
「やはり賞金を懸けたのは間違いだったかもしれん。猟犬どもは孔《コン》の居場所を掴んでも、横槍が入るのを用心して報告をよこさない」
「で、挙げ句の果てに返り討ちに遭って、追跡は振り出しに戻るわけだ」
「どうしてそう、揃いも揃って馬鹿ばかりなんだ?」
「朱《チュウ》と同じだ。連中もサイボーグ……外家拳法の矜持《きょうじ》がある。孔《コン》を内家のものと侮ってかかり、まんまと奴の刀の錆になる」
「やはり幇会の兵も動かすべきだ。寨主のことも、いつまでも伏せておくわけにはいかない」
「まだ早い」
盟証の諫言を吟味する素振りすら見せず、劉《リュウ》はあっさりと一蹴する。
「寨主の葬儀には、下手人の首級を捧げなければならん。そうでなければ幇の面子にかかわる。まず孔《コン》の首を穫ってからだ」
「しかしよ、限度ってものがあるだろう」
劉《リュウ》と示し合わせているつもりでいる呉《ン》も、ここまで来ると副寨主の腹が見えなくなってくる。
「まずいぜ。朱《チュウ》や樟《ジャン》が孔にやられた件は、もう街に知れ渡ってるんだ。奴の始末に手間取ってたら、それこそ幇の面子が危うくなる」
「このうえ最後に、実は寨主まで殺られてました、なんてオチがついてみろ。俺たちゃ黒社会の笑い物だぞ」
「孔《コン》を相手に、幇会内から犠牲を出すことこそ下策だ」
「実際、孔《コン》は手強い。樟《ジャン》に続き朱《チュウ》までもが後れを取った。事は慎重に進めるべきだ」
「時間をかけりゃいいってもんか?」
「それこそ最善の策なのさ。奴の『電磁発勁』に対しては」
いつになく食い下がる呉《ン》を前にして、劉《リュウ》はあくまで従容と続ける。
「電磁発勁というやつは、使い手の身体に相当な無理をかける」
「幇会の凶手だった頃は、そういう事情を考慮して、奴の任務の合間には充分なインターバルがあった」
「ところが今、奴はそんな風に身体を労っていられる立場じゃない。一夜目に樟《ジャン》。翌日に朱《チュウ》……」
「それ以降、奴は毎日のように追っ手の賞金稼ぎどもと渡り合っているわけだ」
「サイボーグとの立ち合いを重ねるごとに、孔《コン》の生命は磨り減っていく。俺たちの前に現れる頃には、半死半生の有様だろうな」
「……」
「幇の兵隊を噛ませ犬にして浪費する必要はない。もうしばらく、野良犬どもをけしかけて消耗させてやれ」
筋は通っている。誰よりも戴天派の電磁発勁について知る人物の言葉だ。説得力も充分にある。だがそれでも、劉《リュウ》の人柄を知っている二人は釈然としない。
「珍しいよな。あんたがそこまで雑兵に心を割くなんて」
「リスクより能率を優先するのが、あんたのスタイルだと思っていたが」
「人は誰しも成長するものさ」
「李《レイ》寨主亡き今、明日の青雲幇を担う身としてはな……今まで以上に、幇会の皆には愛を感じる」
「馬鹿抜かせ」
毒づく呉《ン》は一笑しようとしたらしいが、依然固いままの空気の中では不発に終わる。
「賞金の額を上乗せしろ。それと、情報提供にも手当を出すとしよう」
「ガセが集まるばかりだぞ?」
「そいつを選り分けていれば気休めぐらいにはなる。手持ち無沙汰なんだろう? お前らも」
「……」
劉《リュウ》の棘のある言い方に、斌《ビン》の眼差しが険しくなる。すぐにも普段の鉄面皮を取り繕ったものの、それでも苛立ちの程は隠しようがない。
おもむろに腰を上げてから、斌《ビン》は見下ろす視線で劉《リュウ》を凝視した。
「忘れないでくれよ、劉《リュウ》。いま幇会を采配する一手一手が、後々に次期寨主の器を問う材料になる」
「俺たちが担ぐあんたには、下手を打ってほしくない」
「心しておくさ」
「……」
なお釘を刺すように鋭く劉《リュウ》を一瞥してから、斌《ビン》は背を向けて社長室の専用エレベーターに乗り込んだ。その背中を見送った後から、さも愉しげに破顔する劉《リュウ》。
「脅かしてくれるな。斌《ビン》の奴」
「俺の器量の次第によっては、出し抜いて次期寨主を狙うと……そう言いたかったのか? あれは」
「奴はともかく、俺にはそんな甲斐性はねぇよ。劉《リュウ》」
笑う副寨主とは裏腹に、呉《ン》はいつになく神妙に、抑揚を抑えた声で応える。
「だから……なぁ、腹割って教えてくれ。いったい何を考えてる?」
「何のことだ?」
「……」
視線だけで真意を問いただす、そんな度胸は呉《ン》にはない。とりわけ相手が劉《リュウ》ともなれば。
「朝早くから邪魔したな、社長」
固い空気を意にも介さず、劉《リュウ》は颯爽とソファから腰を上げた。
「腹黒い連中の事は放っておいて、経営業務に励んでくれ」
白々しくそう言い残すと、斌《ビン》を送り戻ってきたエレベーターに姿を消す。
「……くそったれ」
高速エレベーターのケージが数十階を下った後で、呉《ン》は罵りながら黒檀の机を一蹴りした。
「内輪で揉めてる場合かよ? えぇ」
晴れ渡った寒空の下、ただ寂獏と響き渡る潮騒のざわめき。
訪なう者とてない砂浜には、海の彼方から流れ着いた漂流物が回収されることもなく積み上がり、それに便乗して不法投棄された廃棄物の山が、打ち寄せる波に洗われるがまま放置されている。
宝山区、呉淞口に程近い海岸である。待ち人と落ち合うのは、人目さえなければ何処でも良かった。濤羅《タオロー》が敢えてこんな場所を選んで指定したのは、単に瑞麗《ルイリー》が海を見たがったという、それだけの理由だ。
「わぁ……」
砂浜を一面覆い尽くすガラクタの数々に、瑞麗《ルイリー》が目を輝かす。錆と重油と藻の絡まった奇怪なオブジェの群は、子供の無垢な目で眺めれば心躍らせる異世界の景観に見えたかもしれない。
「ここ、すごいっ! リューグージョーのおにわみたい!」
小躍りして指し示す瑞麗《ルイリー》の様に、自然と濤羅《タオロー》の頬も弛む。
「タマテバコもあるかな? あるかなっ?」
「ハハ……どうだろうね。あるかもしれないよ」
濤羅《タオロー》が曖昧に頷いただけで、瑞麗《ルイリー》はもう駆け足で海岸に向かっていた。
一望したところ、ガスボンベや不発弾といった爆発物の類は見当たらない。鋭利な金属や細菌、汚染物質といった類の危険物なら、今の瑞麗《ルイリー》には目くじらを立てて注意する程のこともない。とりわけ頑強というわけではないが、それでもガイノイドのボディは人間のそれほど脆弱ではない。
「……」
打ち寄せる波と戯れる様を見守りながら、濤羅《タオロー》は初めて『左道鉗子』のクリニックで出会った夜のことを思い出す。
あのとき渡されたのが死体も同然の抜け殻だったとすれば、今の彼女ははっきりと生命の息吹を取り戻している。瑞麗《ルイリー》の、生命を。
その魂魄は、まだ二体のガイノイドから回収したぶんだけしかない。言葉はたどたどしく、記憶もあやふやだが、何よりも今の瑞麗《ルイリー》は感情を取り戻している。
思考力や認識力はまだ伴わない。言ってみれば言葉を覚えたての子供のような有様だ。慎みや恥じらいといった思慮分別を忘れているぶん、むしろ今の瑞麗《ルイリー》は感情表現が素直で初々しい。
濤羅《タオロー》は手近な場所に転がっている廃車を見繕い、そのフェンダーに腰を降ろした。兄が動き回る意思がないと見てとるや、瑞麗《ルイリー》はすぐに駆け戻ってきてせがむように手を引く。
「あにさまもぉ、タマテバコいっしょにさがすっ! ルイリとさがすぅ」
「ハハ……俺じゃ解らないよ。玉手箱なんて」
「見つけたら運んであげるから。瑞麗《ルイリー》が探しておいで」
「うんっ」
素直に頷いてまた散策へと戻る瑞麗《ルイリー》は、ほんの一時たりとも凝っとしてはいられないらしい。まるで幼い子供の頃の妹を見ているようで、濤羅《タオロー》の心は追想へと飛ぶ。
剣の修練にばかり打ち込む濤羅《タオロー》に、いつも幼い妹は遊び相手をせがんでいた。あの頃、構ってやれなかった罪滅ぼしを、今からでもできるだろうか。
「ねぇね、あにさま、このぼう、ランリョーオーのバチそっくり」
「ああ……」
瑞麗《ルイリー》が拾い上げた金属のチューブは、片隅から赤いケーブルが剥き出しになって垂れ下がり、なるほど『陵王』の舞楽で使う、紅緒をつけた桴《ばち》に見えなくもない。
「憶えてるのか? 『蘭陵王』……」
「もっちろん」
胸を張る瑞麗《ルイリー》はいかにも自慢げだ。
「あにさまに、おそわったんだもん。わすれたりしないよ」
瑞麗《ルイリー》は勇ましくチューブを振りかざし、小さな左手にも剣印を結ぶ。
蕭、蕭、蕭……
腕輪の鈴を打物に見立てて振り鳴らし、鼻歌で奏でる旋律は……たしかに『陵王乱序』の竜笛の伴奏だ。剥き出しの膝を高々と上げながら、出手《ずるて》の舞が始まった。
ああ、そうだった……思い出した
幼い頃、剣の鍛錬に明け暮れる兄を羨んで、剣術を覚えたいと駄々を捏ねだした瑞麗《ルイリー》を宥めるために、濤羅《タオロー》は手ずからこの舞を教えてやったのだ。
蘭陵王。むかし斉の国に眉目秀麗な王がいた。だが彼の兵たちは、王の美貌に見惚れるあまり戦にならない。そこで王は厳めしい龍の仮面を被って戦場に望み、見事、周の軍を撃ち破ったという。
美しき猛将の勇姿を舞曲にしたこの『蘭陵王』は、数ある舞楽のうちでもとりわけ軽快華麗なものとして知られる。
舞らしからぬ素早く大胆な動作は、小さな瑞麗《ルイリー》には剣の形取りと差のない物に見えたのだろう。瑞麗《ルイリー》は夢中になって練習に励み、座敷と言わず庭と言わず、一日中舞い踊っていたものだ。
あの頃そのままの元気さで、瑞麗《ルイリー》は伸び伸びと身体を広げて、海岸をはずむように駆け回る。足運びはいかにも拙いが、伸びやかに腕を振りつつ宙を跳ねる走舞《わしりまい》は、見ているだけで幼い活力を分け与えられるようだ。
濤羅《タオロー》の心を澱ます諸々の想いが、洗い流されるように晴れていく。いつしか彼も舞手の瑞麗《ルイリー》と一緒になって、『囀』の台詞を口ずさみ、手拍子を打っていた。
小さな身体で、それでも力一杯に大きく桴を振りかざす三軍叱責の仕草。子供が演じるには滑稽なほど勇ましすぎて、それがむしろ愛らしい。
こんなにも……こんなにも幸福なひとときを、また再び味わうことになろうとは。
思いの丈に胸が詰まり、つい気が緩むと、途端に息が続かなくなった。堪えきれずに囃し声を止め、濤羅《タオロー》は立て続けに咳き込む。
「もうっ。まじめにやってよ。あにさま!」
小さな頬を膨らませて兄を叱りながら、それでも瑞麗《ルイリー》は楽しげに舞い踊る足を休めない。
「すまん、すまん……」
笑って詫びながら、濤羅《タオロー》は口元に添えていた手をそっと拭う。赤々と散った吐血の飛沫も、コートの黒い布地になすりつければ、さほど目立つことはなかった。
こうして過ごす時間が、永遠であってほしかった。残された時間のすべてを、あの笑顔とともに過ごしたかった。
他ならぬ濤羅《タオロー》自身、我が身の行く末は理解していた。度重なる電磁発勁の使用によって、既に濤羅《タオロー》は回復不能なまでの内傷を負っている。
悔いはない。そう思っていた。最愛の妹を失った今、生きながらえる理由もない筈だった。
だが今、こうして舞い踊る人形に瑞麗《ルイリー》の面影を見るうちに、いつしか再び生に執着しつつある自分がいる。遠い日に過ぎ去った幸せな想い出を、共に過ごした平和な日々を、また取り戻して再現できそうな、そんな希望さえ懐いてしまう。
だがそれは決して、叶わない。残る仇は、あと3人……ある者は鉄壁の牙城に篭もり、またある者は極め抜いた武術を駆使して、濤羅《タオロー》の前に立ちはだかるだろう。
今は上海義肢公司社長の座に昇りつけた『網絡蠱毒』呉榮成《ン・ウィンシン》。暗器の達人『百綜手』こと斌偉信《ビン・ワイソン》。そしてかつての兄弟子、『鬼眼麗人』の劉豪軍《リュウ・ホージュン》……これより待ち受ける死闘の果てに、この身体が保つ望みは、ない。
避けて通れはしなかった。奴らに囚われた、瑞麗《ルイリー》の欠片。その全てを取り戻して初めて、瑞麗《ルイリー》は完全になれるのだ。
たとえこの身が朽ち果てようと、瑞麗《ルイリー》、お前だけは……
笑い踊る瑞麗《ルイリー》の姿を胸に焼きつけ、その姿に誓いを立てる。
必ず戻してやる。元通りのお前に……
濤羅《タオロー》のそんな悲愴な想いを余所に、瑞麗《ルイリー》はただ爛漫と、いつまでも波打ち際を舞い続けた。
「……」
ふと背中に視線を感じ、濤羅《タオロー》は肩越しに背後を窺う。
その男は濤羅《タオロー》の視野に入る前から、敢えて大仰に足音を立てながら近づいてきた。ことさらに害意がないことをアピールしているのは、相手が何者で、今どういう立場にあるのかを弁えているが故だろう。
浅黒く肌艶の悪い、これといった特徴のない中年男だった。くたびれたハンチング帽に安物の耐環境コート。どこにでもいる人夫の風体だ。
それでも、時計の針は申し合わせた通りの時刻を示している。ここで落ち合うはずだった人物なのは間違いない。
再び浜辺に目を遣ると、瑞麗《ルイリー》は踊りに夢中になるあまり、かなり先まで離れている。会話を聞きとがめられる気遣いは、ない。
「……変装ぐらいしてると思ったが。真っ昼間から大手を振って出歩くとは、大した度胸だな」
開口一番、男は冷笑まじりに濤羅《タオロー》を揶揄する。
「あんたを追って、この上海に何匹ハイエナがうろついてるか知ってるのかい?」
「知りたくもないな。煩わしい」
今朝までに五人からの刺客を斬っている。すべて追っ手の気配を察した時点で奇襲に先んじて討ったため、まだ逃げ場を失ったことはない。だがそれも時間の問題だろう。
いずれ青雲幇が直々に組織だった追跡を始めれば、上海は連中の庭だ。瞬く間に包囲される。
むしろ未だに幇会が動かず、野犬ばかりが噛みついてくる有様に、濤羅《タオロー》は内心で首を傾げていた。幇の中枢にいるはずの斌《ビン》や劉《リュウ》が、なぜその威を嵩にかかって攻めてこないのか?
「街はあんたの噂で持ちきりだぜ」
海からの風に首を竦めながら、男は濤羅《タオロー》の横に並んで廃車の屋根に肘を預ける。
「墓穴から出てきた『紫電掌』が、何をトチ狂ったか、もとの飼い主の青雲幇に噛みついて廻ってる……」
「もう香主が二人も斬られた。あんたの首には三十万元、居場所の情報だけでも二万元……」
「あんたは売らなかったのか?」
「売った上でノコノコこの場に来ると思うかい?」
「そうだな。あんたは二万元の賞金を棒に振って、わざわざ俺に会いに来た」
鋭く探るように男を一瞥しつつ、濤羅《タオロー》は穏やかな口調で続ける。
「理由はどうあれ、俺が青雲幇に仇なす人間だからだ。違うか?」
男は濤羅《タオロー》の視線に応じることもなく悠然と、取り出した煙草に火を点けた。
「俺はもちろん、あんたを知ってる。その名も高き『紫電掌』の孔濤羅《コン・タオロー》だ」
「だがその紫電掌の旦那がよ、いったいどういう訳あって俺なんぞと会いたがるのか、そこんところを知りたくてな」
「なぜなら、俺もあんたを知ってるからさ。秦賢《チン・シェン》」
「それともミハイル・スチュグレフと呼んでやろうか? 同志《タヴァーリシシ》」
「……」
沈黙の中、ただ潮風だけが轟々と、男の煙草から紫煙を運び去ってゆく。
「何処の誰だい? そのスチュグレフってのは」
「グルジア・マフィアの壊し屋≠ウ。姿形はモンゴロイドだが、頭蓋骨の中の脳味噌はスラブ産」
「青雲幇の足元を掬うチャンスを狙って、この上海でこそこそ動き回ってる工作員だ」
「詳しいね」
「まだ青雲幇にいた頃、そいつを斬るよう仰せつかったことが二度ほどある」
「最初に斬ったのは影武者で、二人目もいまいち確証がなかった。むしろ俺の感じゃ、秦賢《チン・シェン》、あんたが本命と睨んでたんだ」
「ふぅん……」
男は気のない相槌をうって、吸いさしの煙草を砂浜に捨てる。
「だがもし、俺がそのスチュグレフだとしたら……まずいよな。二人揃って街に戻る訳にはいくまい?」
「どっちか片方は、この場で死体になるしかないぜ」
「俺を死体にする必要はないし、あんたに死体になられても困る。俺は生きてるスチュグレフに用があるんでな」
「同志スチュグレフの都合はお構いなしか?」
濤羅《タオロー》は薄く笑って、廃車のフェンダーから腰を上げる。
「訳あって、『上海義肢公司』を墜としたい」
「となると城攻めだ。刀一本じゃ話にならん。……そこで、あんた達の手を借りたい」
大手企業を標的としたテロが頻発する中、今では数多の企業が、その私有地内に限ってのみ超法規的な自衛手段を取ることが容認されている。
特に上海義肢公司のような後ろ暗い事情のある企業は、私設軍といっても過言ではないほど重武装の保安セクションを保有しているのが常だった。
次なる標的を呉榮成《ン・ウィンシン》に定めた濤羅《タオロー》だったが、敵もまた襲撃を警戒してか、あれきり社屋に立て籠もったまま外出する隙を見せようとしない。こうなると強硬手段に訴えざるを得ないが、ならばそれ相応の兵力を用意するしかない。
そこで濤羅《タオロー》が着目したのが、スチュグレフたちロシアン・マフィアの破壊工作員だった。
「ロシアの御同胞にとっても、悪い話じゃないだろう? 青雲幇の屋台骨をへし折ってやれるチャンスだぞ」
「ああ、大いに結構な話だな」
いつの間にか眼眸に鋭いものを含ませながら、スチュグレフは声音の温度を下げる。
「だがその程度のことで、何で我々があんたに頼らなきゃならない?」
相手が話に乗ってきた手応えを感じて、濤羅《タオロー》は内心でほくそ笑む。
「もういい加減、解ってもいいんじゃないか。スチュグレフ、この街に来て何年経つ?」
「もとから中国人でないあんたが、いくら骨を折ってみたって無駄なんだよ」
「いくら顔を変えて、完璧な広東語を身につけてもな、それだけじゃ肝心の所には入り込めない。それが中国人の黒社会ってもんだ」
幇会を初めとしたアジアの伝統ある犯罪組織は、その歴史の深さたるや西欧のシンジケートとは格が違う。永らく鉄の結束を誇ってきた彼らは、その独特の嗅覚で巧みに異分子を嗅ぎ分けるのだ。そういった機微に疎い西欧人では、決して牙城を切り崩せはしない。
「あんた達には協力が必要なはずだ。この街と青雲幇の事情に通じた人間の……な」
「それが貴様だ、ってのか?」
「一年ぶりの古巣だが、まだ俺個人で使えるコネは残ってる」
「あんたらは金と兵隊。こっちは情報と、機材調達のルートを用意する。どうだ?」
スチュグレフは表情の読めない顔で、遠い水平線を眺めている。中国人に似せて作り直した偽りの顔は、それこそ仮面のように動かない。
「……いま上海義肢公司が潰れたら、青雲幇も終わりだな」
「……」
「かれこれ足かけ四年以上、俺は中国人に成りすましている」
「お前らと同じ物を食って、同じように喋って、振る舞って……そうこうするうちに、お前らの考え方も身に付いた」
「礼、仁、信、義、勇、知=c…中国人が二言目には口に出す大好きな決まり文句の一セット。だよな?」
スチュグレフの並べた六文字に、思わず濤羅《タオロー》は失笑する。
「いかにも、小学の六徳だ」
「特にお前らにとっては、親兄弟の絆ってのが何よりも大事なはずだ。そして幇会の誓いってのは、血の絆より固いそうじゃないか」
「それをここまで平然と、容赦なく裏切るなんて……そんな中国人、俺はまだお目にかかったことがねぇ」
「そんな奴を俺は信用してもいいのかね?」
「まさか西洋人のあんたに孝悌《こうてい》を説かれるとはな」
飄々《ひょうひょう》とした口調とは裏腹に刃の如く鋭いスチュグレフの視線を、濤羅《タオロー》は冷笑で受け流す。
「いかにもあんたが語るのは、人が人として生きる道。だがな、俺はもう人であることを辞めた」
「……」
「だからあんたたちにも義を尽くすつもりは毛頭ない。ただ利用させてもらうだけだ」
「そんな風にあんた達も、俺を使い捨てる気で利用しろ。しち面倒臭いことは考えるな」
「……お前がどこまで堕ちようと勝手だが、俺は地獄の底まで付き合う気なんて更々ないぜ」
「なら、慎重にな。うまく途中下車することだ」
すげなく言い捨てた濤羅《タオロー》だが、すでにスチュグレフの脳裏の天秤がどちらに傾いているのかは、確信を持っている。青雲幇から裏サイバネティクス市場の覇権を奪取することは、ロシアンマフィアの悲願のはずだ。いくら危険な博打でも、スチュグレフは必ず乗ってくる。
「……本国の方に掛け合ってみる。今夜じゅうに返事しよう」
「期待してるよ」
スチュグレフは踵を返し、立ち去ろうとして……しばらく歩いてから振り向いた。
「お前が俺を狙って殺した二人目だがな、そいつも確かにスチュグレフだった」
「……なに?」
「ドミートリィ・スチュグレフ。俺の弟だ。あのときの復讐の誓い、忘れたことはない」
「……」
それだけ言い残すと、スチュグレフは二度と振り返ることなく去っていった。その背中を見送りながら、濤羅《タオロー》は凶手として生きてきた日々に想いを馳せる。
顧みれば屍の山。積み上げた怨恨は数知れず……そんな人生に疲れ、厭きぬだけの価値があったのは、共に瑞麗《ルイリー》が生きてくれたからだ。
だから瑞麗《ルイリー》のいない世界には、何一つ尊ぶものはない。何もかも壊していい。誰一人生き残らずとも構わない。
全てが供物だ。己自身も含めて。
「……ねぇ、あにさま?」
「ん?」
いつの間に側まで戻ってきたのか、振り向いた濤羅《タオロー》は不安げに彼を見上げる瑞麗《ルイリー》と目が合った。
「なんのおはなし、してたの? いまのおじさん、だれ?」
「何でもない。知らない人だよ」
嘘にも何ら疚しいものは感じない。濤羅《タオロー》は普段と変わらず朗らかに妹を諭した。瑞麗《ルイリー》は何も気にしなくていい。
「もうすぐ、何もかも元通りになるからな」
「?」
「じきにもっと巧く舞えるようになる。琴の弾き方も思い出す。……お前は、昔のままの瑞麗《ルイリー》に戻るんだ」
「お前の失ったもの全て、俺がこの手で取り戻す」
「? ? ?」
精一杯の笑顔で妹を慈しみながら、濤羅《タオロー》は胸に渦巻く狂気の熱さを感じていた。
章ノ四 浦東地獄変
差し向かいの椅子に座らせた少女の顔に、呉榮成《ン・ウィンシン》は息を詰めてメーキャップブラシの筆先を近づける。
眉よりも睫《まつげ》よりも、雄弁に表情を物語るアイライン。ここに筆を入れるには、精神集中が欠かせない。余計なことを考える余裕はない……
……
にも拘わらず、抑えきれない指先の震え。
まだ早い∞何のことだ?
腹黒い連中の事は放っておいて、経営業務に励んでくれ
「……ちっ」
忌々しげに舌打ちして、呉《ン》はパレットとアイラインブラシを机に置いた。
「もういい。やり直しだ。ペトルーシュカ」
苛立たしげな主の言葉に、ペトルーシュカと呼ばれたガイノイドは神妙な手つきで顔を拭い、小一時間ほどもかかったメーキャップを落とす。
解らねぇ……劉《リュウ》の奴、いったい何を考えてる?
李天遠《レイ・ティエンユエン》を殺して寨主の座を奪い、仇討ちに現れた濤羅《タオロー》にその罪を被せる。一挙両得の名案だ。
そのために呉《ン》は一肌脱いで、結果まんまと寨主殺しの汚名を孔濤羅《コン・タオロー》に着せてやった。
だが劉《リュウ》は|詰めの一手《チェックメイト》に躊躇する。いま寨主の死を喧伝すれば、仇討ちの名目のもと幇会を挙げて孔《コン》を抹殺できるというのに。
面子……だと?
ふざけるなよ劉《リュウ》……あんた、そういう戯言とは一番無縁な奴だったろうが
だが劉《リュウ》が韜晦を決め込む以上、呉《ン》が気を揉んだところで埒はあかない。何もかも、考えるだけ無駄だった。
今いるこの部屋は、そんな煩わしい諸々から心を解放するために設えたものだというのに……以前なら寝食を忘れて打ち込めた道楽に、今夜も呉《ン》は没頭しきれない。
ガイノイドを性欲処理装置としてしか見ない下司な手合いとは違い、呉《ン》はオールビスク愛好家の流れを汲む、真の趣味人としてのドールフリークだった。本職ドールマイスターのそれにも劣らないこのデザイン工房も、もとは社長室の奥から続く休憩室を大改装したものだ。
名うてのハッカーとして鳴らす手合いの大概がそうであるように、呉《ン》もまた芸術家肌の美意識の持ち主だった。
だが彼は、さながらチェスゲームの如きネット犯罪の技巧の美学だけでなく、デジタル情報で紡ぎ上げられた仮想空間にはない、指先で感じ取れる確かな感触というものを求めていた。
そんな呉《ン》の無聊《ぶりゅう》を慰めるのが、こうしたガイノイドのカスタマイズである。緻密可憐な自然物を、見分けがつかぬほど完全に模倣してのけるメカトロニクスの構造美は、呉《ン》の指先と審美眼を愉しませて止まない。
実際、『網絡蠱毒』の二つ名で世間を騒がせていた頃も、呉《ン》は表稼業としてガイノイドデザイナーの看板を下げていた。
そんな呉《ン》にとって、劉《リュウ》から贈られた上海義肢公司という玩具は最高のプレゼントだったと言っていい。幇会の経済的、戦略的基盤という意味合いとはまったく別に、あくまで個人的な趣味の領域でも、呉《ン》は与えられた役職を存分に堪能していた。
何一つ不自由ない、満ち足りた毎日。それが、こんな形で脅かされることになろうとは。
樟《ジャン》に続き朱《チュウ》とその配下が襲われてから、はや五日。依然、凶手|孔濤羅《コン・タオロー》の行方は杳として知れない。
次に狙われるのが自分だと解ってはいても、幇会が本腰を入れて対策を講じない以上、自分の身は自分で護るしかない。結局、呉《ン》は己の居城とも言える上海義肢公司本社ビルから一歩も踏み出さずに毎日を送っていた。
狂言でテロリストの犯行予告を捏造し、警備体制は大幅に強化した。だがシステム化された防衛に鉄壁の二文字は有り得ない。必ず裏をかく手段が存在する。それは他でもない呉《ン》自身が、かつて第一線の電脳犯罪者だった頃に奉じていた鉄則である。
劉《リュウ》や斌《ビン》は、いざとなれば持ち前の武芸を頼みにして事に臨むつもりかもしれないが、武芸者でない呉《ン》にその選択肢はない。いつ何処から襲いかかって来るやも知れぬ暗殺者の脅威に、ただ震えて待つしか手がないのだ。
ささくれ立った神経をなお刺激するかのように、秘書室からのコール音が鳴り響く。
「……何だ!?」
呉《ン》がこの部屋にいる間は、社用の類は一切取り次がぬよう再三言い含めてある。苛立ちを隠さぬ呉《ン》の応答に、恐縮する秘書の声。
『それが……斌偉信《ビン・ワイソン》氏より遣いの方なのですが……』
「……」
青雲幇がらみの来客となれば、さしもの呉《ン》も捨て置くわけにはいかない。
「いいだろう。通せ」
正直なところ、劉《リュウ》と秘密を共有する立場にある呉《ン》にとっては、幇会の人間とはなるべく顔を合わさずにおきたかった。とりわけ盟証|斌《ビン》の手の者ともなれば尚更だ。
劉《リュウ》がチンタラやってるせいで、斌《ビン》の奴まで動き出しやがった……
やがて工房へと現れたのは、鏡写しのような容姿をした二人組のサイボーグだった。
「元兄弟か……」
「|お久しゅうございます《お久しゅうございます》。呉香主《ン香主》」
兄の元家英《ユン・カーイン》、弟の元尚英《ユン・ソーイン》。合わせて『元氏双侠』の異名で恐れられている双子のサイボーグである。幇会内でも名の知れた使い手だ。
「お前ら、いつから伝言屋なんぞ務めるようになったんだ?」
「否、左様な些事ではありませぬ」
「我ら兄弟、斌《ビン》盟証の下知を受け、呉《ン》香主の身辺をお護りすべく馳せ参じた次第」
「護る、だぁ?」
呆れと焦りの相半ばする苛立ちが、呉《ン》の声を裏返らせる。
「不忠の奸賊|孔濤羅《コン・タオロー》が、青雲幇香主のお歴々を脅かしております」
「御身は代替なき幇会の要なれば、用心にも重ねた用心を」
「けっ……」
斌《ビン》の腹の内は読めている。護衛などと名目を立てながら、その実状は呉《ン》の周辺に目を光らせる心算だ。劉《リュウ》に不審を懐き始めた斌《ビン》であれば、真っ先に劉《リュウ》と繋がりそうな呉《ン》の動きも牽制しようとするだろう。
「冗談じゃねぇぞ、畜生。他人様の芝生を土足で荒らそうってのか
「本日より何処なりともお供させて頂きます故、どうか……」
「拳士風情が粋がってくれるなぁ。おい」
「は……」
斌《ビン》の周到さもさることながら、この兄弟の白々しいほどに格式張った物言いもまた、とりわけ呉《ン》の癪に障る。
「お前らの筆頭株だった羅刹太后でさえ、奴にはまんまとブチ殺されたってのによ……」
「この期に及んでサイバネ外家の皆さんは、身体を張って俺を護って下さるってか。有り難くって涙が出るね」
「……」
あからさまな呉《ン》の罵倒を、しかし双侠は眉一つ動かさず聞き流す。
「拳士の護衛なんぞ当てにするかよ。一切合切収まりがつくまで、俺はこのビルから一歩も出るつもりはねぇ」
「お前らの世話にはならねぇよ」
「|ですが《ですが》」
「あぁ解ってる解ってるって。ガキの遣いじゃねぇってんだろ?」
「帰れと言われてはいそうですかと引き払ったんじゃ、盟証さまに叱られちまうもんな」
「警備課に社内の通行証を発行させるから取りに行け。レベルA二までは出入り自由だ」
「ただし業務妨害をやらかしたら即刻ビルから叩き出す。あと俺の目につく場所にもしゃしゃり出て来るな」
「……」
「ここの警備は万全だ。お前らなんぞが気を揉むまでもねぇ。いいからカフェラウンジで油でも売ってな」
「……は。承知致しました」
呉《ン》の予想に反して、双侠は妙にしおらしく我を折った。意地を通さぬところをみると、さては徒《いたずら》に呉《ン》を刺激しないよう斌《ビン》からも言い含められていたのだろうか。
どいつもこいつも腹の探り合い……まったく、よくもここまで野良犬一匹が引っかき回してくれたもんだ
深く溜め息をついて、呉《ン》は目の前に鎮座する人形、ペトルーシュカに注意を戻す。
彼のコレクションの中でもとりわけ手をかけた、最も貴重なガイノイド。意匠を凝らしたボディの機構は、呉《ン》の最高傑作と言っていい。
「困ったもんだな。お前の兄貴は」
「……?」
意味不明な問いかけに小首を傾げるペトルーシュカ。そのさりげない素朴な仕草は、情緒エミュレートならではの鼻につくあざとさが微塵もない。
以前の呉《ン》は、人形のこの手の演技≠ノついては否定的だった。生粋のビスクドール愛好家である彼から見れば、わざわざガイノイドに感情スクリプトなど組み込んで人間の真似をさせるなど無粋の極みである。まして本物の人間から魂魄を転写するなど愚の骨頂だ。
人形は人形のままでいい。エナメルの眼のコッペリアは、ただそのままで美しいのだから。
だがこの『左道鉗子』の作品≠ノ触れて、呉《ン》はそんな持論を改める気になっていた。呉《ン》にしてみれば劉《リュウ》の酔狂に付き合ったというだけの乱痴気騒ぎに過ぎなかったが、いざ私有してみると、これはこれでまた趣がある。
何と言っても総容量の二十%に及ぶ大量の魂魄ソースを、あの『左道鉗子』が手ずから転写したガイノイドだ。その有機メモリには値を付けられないほどの価値がある。巷に溢れる違法ガイノイドとは格が違うのも当然であろう。
そういった意味でも、ペトルーシュカは呉《ン》のコレクター精神に訴える逸品といえた。
「もしかしたらお前には、とっておきの花舞台に立ってもらうかもしれないぜ」
「……?」
孔瑞麗《コン・ルイリー》の脳から魂魄転写されたガイノイドに対して、孔《コン》の懐く感心は妄執の域に達している。
奴の狙いは、やはり……
もし万が一、孔《コン》自らが呉《ン》の前に立ちはだかることになったときは……あるいはそこが、付け入る隙になるかもしれない。
「兄者……」
「言うな。羅刹太后の朱《チュウ》どのが不覚をとった以上、我ら外家拳士に矜持を語る弁はない」
「社屋内に留まれただけでも良しとせねば。後は我らなりに出来る形でこの砦を護り抜くのみ」
呉《ン》の嘲りに内心穏やかならぬものを押して忍びながら、兄弟は憮然と歩みを進める。
「呉《ン》香主がここを動かぬのであれば、孔濤羅《コン・タオロー》は必ずや乗り込んでくる。あ奴は、そういう男だ」
「あの孔《コン》と、ついに矛を交えるか……」
この兄弟、外家拳士にありながら、内家気功派の濤羅《タオロー》とも交友を結んでいた数少ない好漢たちである。幇会の元に義兄弟の契りを交わせば、流派の違いなど些事同然……かつては酒を酌み交わしながら、共に意気投合したものだ。
「未だに解せぬ。あれだけの益荒男《ますらお》が、何を思って斯様な所行を……」
「ああ、それよ」
「兄者は聞いておらぬか? この一件、孔《コン》にとっては妹の仇討ちだという噂」
「……滅多なことを言うでない。根も葉もない風聞だ」
言葉では尚英《ソーイン》を戒めながら、だが家英《カーイン》の表情もまた苦虫を噛みつぶしたように渋かった。兄が思うところもまた弟と変わらない。
そう察した尚英《ソーイン》は、敢えて先を続ける。
「兄者も見たであろう? 呉《ン》どのの連れていたガイノイド、あれは尋常な人形の挙措ではない」
「奴の妹が、劉《リュウ》副寨主率いる香主郎党の人形のために供されたという話、もし本当だとすれば……」
「言うな」
今度こそ家英《カーイン》は断固たる声で一喝した。
「もし孔《コン》に報仇の義が立つというのであれば、それなりに筋の通しようがあろう」
「なのにあ奴は口上を述べ立てるでもなく、ただ餓狼の如く血を求めるばかり」
「いかな仕儀があるにせよ、いま明らかなのは孔《コン》の咎のみ。同胞殺しの不義不忠は見過ごせぬ」
「む……」
「それとも尚英《ソーイン》、おぬし、いっそ副寨主が孔《コン》の刃にかかれば幸いとまで言いたいか?」
「……馬鹿な。俺は何も……」
「それでいい」
言下に否定した弟へと、家英《カーイン》は含みを込めて重々しく頷く。
「俺とてな、近頃の鬼眼麗人の専横ぶりは目に余る。李《レイ》寨主の檄《げき》あらば今すぐにでも彼奴《きゃつ》の首を獲りに行く」
「兄者……」
「されど刃は、たとえ没義道《もぎどう》に向けたものであろうと、それを糺《ただ》す義が伴って初めて誅《ちゅう》となる」
「ただ段平を振りかざすだけで斬奸《ざんかん》の名目が立つならば、誰も徳など説こうとはせん」
「……うむ」
「ゆめ忘れるな。我らは義兄弟の契りで結ばれた幇の輩《ともがら》。牙で我《が》を通す野犬の群とは違うのだ」
「それをあまねく知らしめるためにも、孔《コン》の奴めは斬らねばならん」
「……気が重いな」
「うむ……」
突き詰めれば双侠の胸中は、その一点に帰結するのであった。
闇の中、埃の臭いの立ちこめる空気が、沈黙に澱んでいる。時の止まったような沈黙の中……やおら静寂を破ったのは、重い引き戸を滑らせる軋りだった。
重油の臭気を孕んだ河の風と、曙光を間近に控えた淡い黎明が、永らく閉鎖されていたその空間に流れ込む。細く開かれた搬入口の外は、黄浦江に臨む南市・紹寧碼頭の岸壁だった。
流れ込む外気に攪拌《かくはん》されて埃の舞い踊る薄闇を、さらにマグライトの光線が静寂を真っ二つに切り裂く。
「こっちです、兄貴。足下に気をつけて」
押し殺した声に続く足音は、ふたつ。ライトの光源は闇の中を漂い動いた挙げ句、倉庫の奥の壁際で止まった。
「……こいつが?」
高さだけで身の丈を上回る木箱が五つ、防水シートを被せられて整列している。ラベルも何もない生木の側面に手を触れながら、そう低く問うのは『紫電掌』こと孔濤羅《コン・タオロー》の声だった。
「型落ちの新古品ですが、マジモンの軍用ですよ」
「武装・弾薬ともフル装備のまま揃ってます。戦争だっておっ始められますよ」
かたや得意げに嘯く案内役の若者は、面構えばかりは一端の悪党だが、しばしば濤羅《タオロー》を窺い見る眼差しには純朴な畏敬の念が見て取れる。
梁力為《リャン・リクウァイ》。青雲幇に属する末端の構成員だ。普段は故売屋や情報屋の真似事で糊口を凌いでいる三下だが、時には青雲幇の使い走りを務めることもある。濤羅《タオロー》も幇会の凶手を務めていた頃、何度か連絡要員として使ったことがあった。
「こいつら人民軍の格納庫に眠ってただけの新品でしてね。それでも書類上じゃ、耐用年数を超えたため廃棄処分、ってわけですよ」
「あとは製造番号だけ打ち直して、南米かアフリカに転売すれば……軍部のお偉方も義肢公司も、いい小遣い稼ぎになるわけです」
「役人絡みの横流しに手を出したのか? 梁《リャン》」
「こいつらはこの倉庫に隠したまんま、あと三ヶ月は寝かしておく手筈なんです。消えても暫くは誰も気付きやしませんて」
「あとはそれから、ソフトの類っすけど……」
梁《リャン》はジャンバーの懐をまさぐって、二枚のメモリカードを取り出した。
「こっちがスラストヴィーグルの|割り込み《インターセプト》キャンセラー。こいつをインストールしたSVなら、どこだろうと好き放題に飛び回れます」
「それとコイツ……今回、いちばん手に入れるのが厄介だった代物ですがね」
そう言って梁《リャン》はもう一枚、赤いテープでマーキングされたメモリカードを濤羅《タオロー》に渡す。
「むかし呉《ン》の組んだ『網絡蠱毒』です。ネットで野生化して自己進化した奴を、さらに俺のダチがリライトしてます」
「最初の挙動はただの防御プログラムですけど、防壁を崩された途端に殺人ワームに化ける仕組みだそうです」
「感染したハードは物理的に壊すしかなくなるんで、気をつけて扱って下さいね」
殺人ワーム・プログラム……ネットワークが普及し、その利用者の大半がインプラント神経端子を介したダイレクト結線インターフェイスを使用する今日、都市攻撃に於いてはかつてのBC兵器に相当する威力を発揮する。
旧来の大量殺戮兵器よりはるかに安価で、しかも地理的な制約を一切受けない点、標的を恣意的に選別して絞り込むことが可能な点など、とりわけテロリストにとっては理想とも言える攻撃手段だ。
「すまんな、梁《リャン》。色々と苦労をかけた」
「なぁにこの程度、お安い御用ですって」
軽薄に笑ってから、梁《リャン》はやおら表情を神妙に改める。
「こいつで、いよいよ……討って出るんですか?」
「……何?」
「劉《リュウ》の一派を潰すんでしょう?」
「兄貴が上海に戻って、劉《リュウ》の取り巻きをブッ殺して廻ってるって聞いて、あぁ、やっぱりなって思ったんですよ」
「……お前が知るべきことじゃない」
濤羅《タオロー》が表情を固くする一方で、梁《リャン》はますます口調に熱を込める。
「誤魔化さなくてもいいんです。俺たちだって気持ちは同じだ」
「鬼眼のヤロウが副寨主になってから、青雲幇は滅茶苦茶です。戦闘サイボーグばかりがのさばって外道働きの連発ですよ」
「……」
「李《レイ》寨主は病気になったきり動けねぇって、幇会は鬼眼の好き放題です。最近は寨主にお目通り叶った奴さえいない」
「……ひょっとしたら、李《レイ》寨主ももう生きちゃいねぇんじゃねぇかって噂する連中もいますよ」
「もうみんな我慢の限界なんだ。だから兄貴、どうか手伝わせてください。一声かけりゃ兵隊も揃います」
真っ直ぐに見つめてくる梁《リャン》の視線を、濤羅《タオロー》は正視できずに顔を背ける。
「俺は……そんな器じゃ、ない」
「いいや、孔《コン》兄貴の威名なら上海中に轟いてます。もう青雲幇を立て直せるのは、兄貴、あんたしかいねぇんです……」
そこまで捲し立ててから、はたと梁《リャン》は口を噤む。間近に迫ってくるディーゼルエンジンの排気音を聞き止めたのだろう。
「やべぇ、兄貴、隠れないと」
「いや……心配ない」
梁《リャン》と違って、濤羅《タオロー》には相手が解っている。まさかこうも早く現れるとは聞いていなかったが。
エンジン音は倉庫の表で止まり、半開きだった倉庫の搬入口が、外から全開に引き開けられる。徐行のまま、我が物顔で倉庫内に乗り入れてくるハーフトラック。
ハロゲン灯の射るようなアッパーライトが、真っ向から梁《リャン》と濤羅《タオロー》の目を眩ませる。
その光源の背後から、悠然と歩み寄る複数の人影。
「兄貴、こ、こいつら一体……」
狼狽する梁《リャン》に、スチュグレフは邪に歪んだ笑みを投げかけた。
「|お邪魔だったかな《イズヴィーニチィ》? 同志《タヴァーリシシ》」
意味は解らずとも聞き違えようのないロシア語のイントネーション。梁《リャン》の表情が驚きに凍る。
それ以上のリアクションを梁《リャン》が起こすより早く、濤羅《タオロー》は行動に移っていた。
立ち竦む梁《リャン》の後頭部に素早く手を伸ばし、玉枕の穴道を指先で一突き。途端に意識を失い、昏倒するところを抱き留めて、今度は胸の窮絞穴を突く。
致命的な勁絡を封じられて循環器系が麻痺した梁《リャン》は、意識を失ったまま酸欠で絶命した。先に玉枕を突いて眠らせたのは、疑うことすら知らなかった愚かな心酔者に対する、濤羅《タオロー》なりの慈悲だ。
「指ひとつ閃けば地獄行き……流石は名にしおう凶手だけのことはあるな」
「あんた達がいきなり現れなければ、なにも殺すことはなかった」
「そういう寝言を言い出すかと思って、口封じに出向いたわけよ」
スチュグレフは冷たく笑いながら、後ろ手に隠し持っていた自動拳銃からサイレンサーを外し、安全装置をかけてホルスターに戻す。
「もっとも、あんたの方が手は早かったがな」
二人のやり取りを余所に、スチュグレフの部下たち……いずれも容姿は東洋人を擬装しているが、まぎれもなくロシア人……は、梁《リャン》が濤羅《タオロー》に見せた木箱のひとつにバールを揮い、さっそく開けにかかっていた。
中から現れたのは、球体をやや撓めたラグビーボール型のオブジェである。
木枠を組んで固定されたその直径は、大人の背丈にやや劣る程度。塗装も表面処理もない地金剥き出しのメタリックな質感は、ただ無骨に機能性だけを要求した、軍用機械ならではの冷酷な没個性ぶりを醸している。
「さて、専門家に検めてもらおうか」
梁《リャン》の死体をハーフトラックへと運び込んだ男が、代わりに古式ゆかしい木製の樽を荷台から担ぎ下ろす。樽の側面に捺されたキリル文字の焼き印に、濤羅《タオロー》が眉を顰めた。
「……キャビア?」
「おうよ。黒海産の最高級品だ。一口どうだい?」
本気とも冗談ともつかぬ台詞を言いながら、スチュグレフは樽の蓋にバールを突っ込んで開封すると、タールのように黒く波打つ内容物に何の躊躇もなく手を突っ込む。
「……」
しばし樽の底をまさぐってからスチュグレフが引っぱり出したのは、ポリ袋で厳重に梱包されたバスケットボール大の包みだった。
「こいつは誰だ?」
スチュグレフが配下の一人に訊くと、問われた男は樽のロットナンバーを確認し、「ミーシャですね」と応じた。
「起こしますか?」
「ああ、用意しろ」
一匙で数千元はするであろう高級キャビアを惜しげもなく床にこぼしながら、スチュグレフはポリ袋の梱包を解き、内容物を取り出した。
ドーム状の金属容器の外周に、やはり金属製のフレキシブルチューブが蜷局を巻いている。完全義体化《フルボーグ》ボディの標準規格に併せた脳ポッド……いわば極限までコンパクトにモジュール化された人間≠ナある。
ドーム部分は脳を収めた対ショック構造のポッドと生命維持装置、周囲のチューブには脊椎の中枢神経嚢が収まっている。
「……ずいぶんと無茶な密入国だな」
「車のトランクに隠れて越境するよりは、余程快適だと思うがね」
かたやスチュグレフの下知を受けた男は、トラックのダッシュボードからモバイルPCとハンディカムを持ち出してきた。
巻き取り式のケーブルを引き出すと、梱包を解かれた脳ポッドにPC、さらにその先にハンディカムという順番で数珠繋ぎに接続していく。
「……OKです」
手渡されたハンディカムの電源を入れ、スチュグレフはレンズを覗きこみながらマイクに向かって語りかけた。
「おはよう同志ミーシャ。お目覚めの時間だぜ」
モバイルPCのスピーカーがぶつぶつとノイズめいた呟きを漏らした後、ロシア語で喋り始める。
『……ああ、見えてる。あんたがミハイルか?』
「そうだ。ようこそ上海へ。空の旅はどうだった?」
『最低だ。ヴァシリの野郎、よりによって俺がもう百回は見てるポルノに繋ぎやがって……』
声音こそ中性的な合成音だが、語調だけが妙に生々しい。この脳……ミーシャの本来の口調なのだろう。
『もうVRはうんざりだ。はやくリアルな手足を動かしたい。今回のボディはどこだい?』
「いま見せる。確かめてくれ」
スチュグレフはハンディカムを木箱の中のアサルト・ギアに向ける。途端、スピーカーから洩れた甲高いノイズは……どうやら喝采の口笛だったらしい。
『三十七型重機動甲装か……こいつぁいい。火力と機動力はピカイチだ。短時間の作戦行動なら絶好のボディだな』
『……もう少し寄ってみてくれ』
ミーシャに言われるがまま、スチュグレフはアサルトギアに歩み寄り、ハンディカムの画角を変えて細部を撮影する。
『……よし。あとは中身だ。端末をメンテナンスポートに繋いでくれ』
指示された通り、スチュグレフはモバイルPCのスロットとアサルトギアの外部端子をケーブルで接続した。
即座にパフォーマンスチェックが始まり、PCの液晶画面上にアサルトギアの詳細スペックが表示される。
むろんスチュグレフが目で追って把握するより、データをダイレクトに認識するミーシャの脳の方が速い。合成音ながらも喜びも露な含み笑いが、スピーカーを軋らせる。
『……クックック。痺れるねぇ。五・五十六o多連装《ファランクス》チェーンガンにスマート・グレネード、高周波振動バイスときやがった』
『第一種突撃装備じゃねぇか。これなら首相官邸にだって殴り込んでやるぜ』
『オーケイ。すぐにも繋いでくれ。早速このボディを試してみたい』
「おいおい、まだVR酔いが醒めてないだろう? 麻酔が抜けるのを待てよ」
『舐めてくれるなよ。こちとら十五の春から肉のボディを捨ててんだ。目ェ醒ましてから五分でフランカーを飛ばしたこともあるんだぜ』
『経済運転《エコノミーモード》ならバッテリーも保つ。残り五体、そのトラックに積むんだろ? フォークリフトの代理ぐらいはしてやるよ。いい馴らしになる』
「ま、あんたがそう言うなら……」
スチュグレフは外部ハンドルを操作してアサルトギアの背面にある緊急ハッチを開く。開放されたハッチの下から露わになったソケットにミーシャの脳ポッドを填め込んだ。
アサルトギアの動力が目覚め、滑らかな外装ベアリングが柘榴のようにはぜ割れて展開し、内側に折りたたまれていた四肢が伸び上がる。
光学センサーの集中したターレットが回転し、周囲の空間を認識する。起立する二足歩行の姿勢御に危なげなところはない。自負するだけあって、ミーシャは身体の乗り換えには馴れているらしい。
稼働中のアサルトギアは、その威容だけで見る者を畏怖せしめる。無骨な金属の構造物が生物的な素早さと滑らかさで動き回る様は、恐竜並に巨大進化した節足動物を思わせる。
もはやモンスターと呼ぶしかない姿形にも拘わらず、それは人間の脳を備え、ボルトの一本に至るまで身体として一体化した、まぎれもないヒト≠フ一形態なのだ。
「どうだい紫電掌の……」
駆動音も勇ましく闊歩するアサルトギアの姿に惚れ惚れと見入るスチュグレフは、心ここにあらずといった口調である。既に彼の脳裏には、襲撃作戦の成功が絵図面として描かれているのだろう。
「あんたの電磁発勁ってやつは、コイツとやり合っても勝ちを取れるもんかね?」
濤羅《タオロー》は無言のまま首を横に振った。こんな火力の塊のような化け物が相手では、ロックオンされた時点で肉片も残さず粉砕される。近づく隙さえ与えられまい。
ただし裏を返すなら、照準に捕捉されない限りどうとでもなる。つまりは戦い方次第ということだが、今そんな事を言い張ってロシア人たちを挑発する必要もない。事が済むまで、この連中は重要な戦力なのだ。
「他のパイロットもすぐに覚醒させる。コンディションの調整には半日もあれば充分だ。決行は予定通り今夜に」
「わかった」
ミーシャのアサルトギアはマニピュレーターを駆使し、アンバランスなシルエットとは裏腹な安定感と力強さで、次々と木箱をトラックの荷台に積み込んでいく。後日この倉庫を検めた青雲幇の人間は顔色をなくすだろう。盗人の痕跡は、床についたキャビアの染みだけだ。
「今のうちに休んでおきな。生身のあんたには休息が必要だろ?」
「……そうさせてもらおうか」
濤羅《タオロー》は撤収の準備を進めるロシア人たちに背を向けて、独り倉庫を出ていった。ふと、自ら手にかけた梁《リャン》を思い、遺骸をロシア人から取り戻したい衝動に駆られたが……今更、そんな感傷を懐いたところで何の意味もない。
瑞麗《ルイリー》の魂を賭けたこの戦いのために、人の心を捨てて鬼になると、そう決めたのは他ならぬ自分自身ではないか。
曙光を浴びて虹色に染まる黄浦江をしばし眺めた後、濤羅《タオロー》は足早に岸壁を後にした。
また上海の街に夜が訪れる。だが今夜がいつになく熱い夜になることは、まだ誰にも知れてはいない。
短い仮眠から醒めた後、導引法で内息を整えているうちに、ロシア人たちと落ち合う刻限はすぐ間近にやってきた。
近代兵器を山ほど抱えていくスチュグレフ達に比べれば、濤羅《タオロー》には準備というほどの準備はない。倭刀の目釘を改め、柄巻を固く締め直すと、それだけで用意は整った。
「それじゃ、また出かけてくる」
形ばかりの耐環境コートに袖を通して、濤羅《タオロー》は壁際に踞る瑞麗《ルイリー》に声をかける。
「危ないから外には出ちゃいけない。それと、ここにある警報機が鳴ったら、誰かが来る徴《しるし》だ。すぐにどこかに隠れること。いいね」
いつもなら素直に頷くはずの瑞麗《ルイリー》だが、なぜか今夜は背中を向けたきり返事をしない。
「……瑞麗《ルイリー》?」
まさか聞こえていないんだろうか。それとも反応できないのか? 途端に濤羅《タオロー》の中で不安が膨れ上がる。今の瑞麗《ルイリー》には何が起こっても不思議はない。彼女の存在そのものが奇跡と言っていい程なのだ。
恐る恐る正面に廻って覗き込むと……彼女は故障したわけでも、何か異常をきたしたわけでもなく、ただむくれ顔でそっぽを向いているだけだった。
「あにさま、ぜんぜんルイリとあそんでくれない」
何のことはない、瑞麗《ルイリー》は子供っぽい悋気《りんき》で退屈を訴えていただけだった。安堵と、そんな妹の幼い反応を慈しむ気持ちが濤羅《タオロー》の緊張をほぐす。
「ごめんよ。でも、今夜も大事な用事があるんだ」
細い首に無理をかけないよう、小さな頭をそっと撫でながら、濤羅《タオロー》は誠意を込めて諭した。
「今夜は瑞麗《ルイリー》のために特別なお土産があるよ」
「帰ってきたら、いっぱい話をしよう。いろんなことをして遊ぼう」
「ほんとう?」
「ああ」
「今夜、俺が帰って来たら……瑞麗《ルイリー》は、もっといろんな事を楽しいと思えるようになる。いろんな話ができるようになる」
「また一歩、もとの瑞麗《ルイリー》に近づけてあげられるよ」
「だからそれまで、ここでじっとして待っててくれ。いいね?」
「……うん」
確実に安全を期するなら、今ここで瑞麗《ルイリー》の動力を落として待機状態にしていけばいい。ガイノイドのパワーボタンは項《うなじ》の皮膚の裏側にある。盆の窪を強く押し込むだけでいい。
機能を凍結した状態でどこかに隠してしまえば、彼女自身がトラブルを引き起こす恐れはなくなる。
だが、そんな風に彼女を人形然として扱うことに、濤羅《タオロー》は気が咎めた。今こうして溌剌《はつらつ》と言葉を交わしている妹が、また身じろぎもせず冷え切った、ただの機械人形の姿に戻るというのは……たとえ一時的なこととはいえ、まるでもう一度彼女を殺してしまうようではないか。
今の瑞麗《ルイリー》の肉体は、生命なき愛玩人形のものでしかない。だがそれは濤羅《タオロー》にとっては──愚かしいことではあるが──出来うる限り目を背けたい現実なのだ。
「それじゃあ、行ってくる」
今夜、生きて戻った時には……またひとつ、瑞麗《ルイリー》の魂の欠片を持ち帰る。
次に彼女が思い出すのは何だろうか。舞楽の技芸かもしれない。貞淑な気品かもしれない。いつも兄をからかっては困らせた、目から鼻へ抜けるような機知かもしれない。
そんな風にして少しずつ、瑞麗《ルイリー》は元に戻っていく。そんな行く末に想いを馳せるだけで、濤羅《タオロー》の胸には温かいものが広がる廟を出しなに、濤羅《タオロー》は入り口の周囲に配置した導体センサーを確認した。巧みに隠匿された三機のセンサーは、よほど注意深く探さない限り見つけられまい。
もし何者かが侵入しようとしても、中の瑞麗《ルイリー》は先んじて異状を知ることができる。
もう少し厳重な防御策を講じたいところではあるが、あまり剣呑なトラップを配置すると、万が一にも瑞麗《ルイリー》が作動させてしまう危険があった。
出来ることなら、あまり長く瑞麗《ルイリー》を独りにしておきたくないが……今夜の戦いの展開は予断を許さない。局面ごとに臨機応変の判断を迫られる乱戦となるだろう。
「……待ってろよ。瑞麗《ルイリー》」
独り、誰にともなく呟くと、濤羅《タオロー》は死に絶えた街の夜闇へと消えていった。
濤羅《タオロー》が去った後、瑞麗《ルイリー》は海辺から拾ってきた金属チューブや、腕輪の鈴を玩具にして漫然と時を過ごした。
一人遊びはつまらない。それでも兄の言いつけは絶対だ。
いい子にしていれば必ず帰ってきてくれると、兄はいつも約束してくれた。だから瑞麗《ルイリー》はいつも待ち続けた。広いお屋敷で、独りぼっちで……
そう、あの頃の彼女が暮らしていたのは、ここではないどこか別の場所。
時折、水面《みなも》から浮かび上がるように蘇る記憶の断片がある。それはどこかの景色であったり、だれかの面影であったり、いずれにせよひどく朧気で心許ない。
それでも、とみに思うのは……そういった人や景色と向き合っていた自分は、今の自分とは何かが大きく異なっていた気がする。
「……」
しかし今の彼女は、なお深く自省を続けるほどの関心も根気も持ち合わせていなかった。漠然とした感慨に飽きると、瑞麗《ルイリー》はまた腕輪や髪飾りや服の裾を手慰みにしながら暇を潰しはじめた。
そうやって、どれほどの時間を過ごした後だったろうか。
ゆっくりと床に散った瓦礫を踏み砕く足音を聞きとがめ、はたと瑞麗《ルイリー》は顔を上げた。廟内に、誰かがいる。
「?」
もし誰かが来ても、そのときは先に瑞麗《ルイリー》に解る仕組みになっていると、出掛けに濤羅《タオロー》は言っていたのに……
「こんばんは。瑞麗《ルイリー》」
その男の眼差しは優しく親しげで、まるで瑞麗《ルイリー》のことを見知っているかのようだった。
「……?」
「俺のことは憶えているかい?」
「???」
言われてみれば、たしかに見覚えがあるような気がしなくもない。
「う〜んと、ねぇ……」
少女は男の貌《かお》にしげしげと見入った挙げ句、はたと手を打った。
「そうだっ! あにさまのおともだちっ!」
そう、覚えている。この人もよく屋敷に遊びに来た。いつも濤羅《タオロー》と親しく話していたものだ。
「……うんと、ぇえっと……リュウさん、だよね?」
「……そうだよ。瑞麗《ルイリー》」
「今の君にとっては、俺もその程度の存在でしかないんだね」
どこか遠くに視線を飛ばして、男は苦笑する。その微笑がなぜか寂しげなものに思えて、途端に瑞麗《ルイリー》は申し訳なくなる。
「……ごめんなさい」
「でもね、もうすぐルイリは、いろんなこといっぱいおもいだすんだって。あにさまがそういってた」
「そしたらリュウさんのことも、もっとちゃんと、おもいだすとおもうの」
「そうか。それは楽しみだ」
男は頷いて、まるで瑞麗《ルイリー》を励ますように明るい声音で続けた。
「幸せな想い出が、たくさん見つかるといいな」
「うん!」
男が半歩脇へ寄る。すると瑞麗《ルイリー》は、その彼の背後にもう一人、誰か別の人間が付き従っていたのに気がついた。
薄暗い廟の中にいてなお眩しいほどに輝く白緞子の旗袍《チャイナドレス》が、瑞麗《ルイリー》の目を魅了する。
「紹介しよう。俺の連れの瑞麗《ルイリー》だ」
「え?」
「だって、ルイリはわたしだよ?」
「そう。だがこの娘も君と同じ瑞麗《ルイリー》なんだ」
「この顔をよく見てごらん。見覚えがないかい?」
「……?」
狐につままれたような面持ちで、瑞麗《ルイリー》は長く艶やかな黒髪と憂いを含んだ美貌に見入る。確かにそれは……幾度となく鏡の中に見出したことがある。そんな気がする。今の瑞麗《ルイリー》とはまったく違う顔だというのに。
「……うん、そうだよね。ルイリのおかおだね」
「ルイリのかおしたルイリがいて、でもわたしもやっぱりルイリで……」
「うぅ、あれ? よくわからなくなっちゃったよぉ……」
頭を抱える瑞麗《ルイリー》を、男は相変わらず静かに微笑し続けながら、柔らかい眼差しで見守っている。
「いいんだよ。色々と考えて疲れただろう?」
「うん……」
「大したことじゃない。忘れておしまい。いま君は夢を見てるんだ」
「ゆめ? ……これ、ゆめなの?」
「そうだ。だからゆっくりお休み。次に目を覚ますときは、濤羅《タオロー》も戻っているよ」
男の掌が優しく瑞麗《ルイリー》の顔を覆い、そっと瞼を撫で降ろす。
「さよなら、瑞麗《ルイリー》。濤羅《タオロー》のことは眠ってお待ち」
「うん。さよならリュウさん」
「あにさまがかえってきたら、おはなしするね。リュウさんのゆめをみたって」
「それはいいね。きっと驚くよ」
楽しげに笑って去っていく足音を聞きながら、瑞麗《ルイリー》はいつまでも目を閉ざして、不思議な夢が終わるのを待ち続けた。
車両の調達はスチュグレフ達に一任していたが、ロシア人が用意した|SV《スラストヴィーグル》は乗るだけでも心許ない代物だった。明らかにがたのきたガスタービンエンジンの不規則な唸りが、車体を不安なほどに振動させる。
「本当にこいつ、対岸まで渡れるんだろうな?」
窓の外を、危ういほど間近に飛びすぎていく黄浦江の黒い水面を眺めながら、濤羅《タオロー》は陰気な口調でぼやく。
「文句言うなよ。ジャンク屋から拾ってきた廃車なんだ。飛ばせるようになるまで部品揃えるだけでも一苦労だったんだぜ」
スチュグレフが拾ってきたSVトラックは、元を辿ればベル社の軍用モデルの払い下げ品だった。本来の機内レイアウトはヘリボーンのそれに準拠していたものを、前のオーナーはコックピットとカーゴルームを隔てる間仕切りを取り払い、無理矢理マイクロバス風にアレンジしていたらしい。
それを今度は、五体のアサルトギアを積み込むために乗客用の座席を取り払い、再びカーゴスペースに戻している。スチュグレフと濤羅《タオロー》はドライバーシートの背中と積み荷のアサルトギアに挟まれる形で、床に直接座り込んで機体の震動に晒されていた。
「……仕方ねぇだろ。盗難車じゃ金融貿易区には入れねぇよ」
有輪車両よりも高価な上に煩瑣《はんさ》な登録が必要なSVは、非合法に調達するのが難しい。また手動《マニュアル》運転が許されるのは郊外のみで、都市部での運用は交通管制センターによって徹底的にモニタリングされる。登録番号を照会されれば、疚《やま》しい車は一発で露見してしまう。
夜霧が輝きを孕みはじめたかと思うと、不意に晴れたその向こうから浦東《プードン》のイルミネーションが視界の中に立ち現れる。
それと前後してSVは緩やかに減速し、まるでいきなり地に足を降ろしたかのように、自動運転ならではの無謬の安定感に落ち着く。
無線に交通管制局の定型アナウンスが入り、この車両が完全管理エリアに入ったこと、以後の運行は管制局からのナビゲーションとオートドライブに一任される旨を告げてきた。
ドライバーが音声入力の目的地選択で上海義肢公司本社ビルを指定すると、SVトラックは徐行のままレーンを横断し、最短距離の誘導軌道に合流する。
「渡しておくぞ」
濤羅《タオロー》は梁《リャン》から仕入れたメモリカードのひとつ──SVオートドライブの強制解除プログラムを収めた一本を、ドライバーに投げ渡した。
これを使えば、管制局からの|割り込み《インターセプト》をブロックして車両のコントロールを取り戻せる。誘導軌道などお構いなしで勝手放題に動けるようになるが、即座にエアポリスが飛んでくるのは言うまでもない。
「さてと、パーティー会場が近づいて来たな」
嘯きながらスチュグレフが、携え持った突撃カービン銃の機関部に装弾子を叩き込む。このSVには武装がないため、万が一の時には乗員自らがガンナーになるしかない。
濤羅《タオロー》も愛用の倭刀は下げ緒に肩を通して背中へ廻し、渡されてあったカービン銃に初弾を装填する。銃器に関しては専門外だが、それでも扱い方ぐらいは知っている。
さらに、腰のベルトに挟んだ鉤撃ち銃もチェックしておく。ガス圧で三十mの極細ワイヤーとハーケンプローブを射出する簡易な装置で、ウインチもなければ再装填もきかない使い捨てだが、そのぶんコンパクトに携行できる。
「そんな物、何に使おうってんだ?」
「この車が堕ちそうになったら、こいつで隣の車に飛び移る」
真顔で応じる濤羅《タオロー》の口調は、冗談とも本気ともつかない。
その背中の刀と鉤撃ち銃を見比べたスチュグレフは、何をか言わんやという風情でかぶりを振った。
「見えてきたぞ」
ドライバーの呼びかけに振り向けば、上海義肢公司ビルは正面のキャノピー一杯にその威容を晒して立ちはだかっていた。
交通管制局から到着車両の照会をされたのだろう。無線に受付嬢からの着信が入り、慇懃な口調で来訪目的とアポイントメントの有無を質してくる。
「始めるか……ちょいと揺れるぜ。お客さん」
再三に渡る義肢公司ビルからの呼びかけを無視して、ドライバーは濤羅《タオロー》から受け取った違法プログラムを起動した。
途端に車体が大きく震えたかと思うと、黄浦江を渡ってきたときと同様、まるで荒波に揉まれる小舟のように揺れはじめた。機体の姿勢御が管制局のコンピュータからドライバーの操縦桿に戻ったのだ。
即座に管制局からの警告音声が立て続けに鳴り響く。オートパイロットの喪失がただのマシントラブルの類ではないと見て取るや、合成音のメッセージは係官の肉声に取って代わった。
「車体ナンバーKYVB4862、あなたは空路交通法に抵触する重大な違反を犯している。繰り返す……」
「オイ・ヨイ・ヨーイ! そりゃ気の毒だったナァ」
ドライバーは躁めいた哄笑で一蹴するや、スロットルを解放した。誘導軌道を滑空するのとはうって変わった荒々しい加速で、SVは上海義肢公司ビルめがけて突進する。
「出番だ、野郎ども!!」
スチュグレフはロールバーに掴まって身体を支えながら機体の最後尾まで移動し、カーゴルームにひしめく金属球たちへと一喝しながら、後部の貨物用ハッチを開放した。
『おうよ、いつでも落としてくんなッ』
音声出力で応じるミーシャに続き、異形のサイボーグたちが次々に雄叫びを上げる。
SVはビルに絡みつくような軌道を描いて壁面すれすれを飛びながら、徐々に高度を上げていく。
まず最後尾に乗っていたアサルトギアが、スチュグレフの振るうサバイバルナイフで、機内にボディを固定していたハーネスを切断された。
機首が上向いたぶん、SVの車内には緩い傾斜がかかっている。支えを失った球形のボディは、その傾斜を重々しく転がりながら貨物ハッチの縁を乗り越え、地上百mあまりの空中へと放り出される。
自由落下状態に陥ったところで、アサルトギアは機体側面のスラスターを点火。文字通り砲弾よろしく火の玉となって、義肢公社ビルの壁面へと突入する。
超高硬度のベアリング外殻に身を固めたまま、スラスター推進で敵要塞へと突入。外壁を突き破った後は四肢を展開して内部から破壊の限りを尽くす……それが三十七型空挺アサルトギアの設計思想に基づく運用法である。
間を置かずスチュグレフは二本目のハーネスを切断し、次のアサルトギアを虚空へと送り出す。
義肢公司ビルに蜷局《とぐろ》を巻いて絡みつく蛇のような軌道を描きながら旋回上昇を続けるSV。その後部ハッチから次々と転がり堕ちては、クレーンから振り下ろされる破砕鉄球の如く、唸りを上げてビル内に突入していくアサルトギア。
五体の鉄球が残らずビル内に突入するまで、所要時間は二分弱。だがすでに内部は阿鼻叫喚の地獄絵図にちがいない。
「よし、離脱……」
「まだだ」
興奮したスチュグレフの声に、濤羅《タオロー》が冷ややかに割り込む。その手に構えたカービンの銃口は、ぴたりとスチュグレフに据えられていた。
「……!!」
怒りに目を剥いたのも束の間、スチュグレフは動揺を押し隠して声のトーンを落とす。
「ここでそんなものブッ放したら、貴様だって無事じゃ済まんぞ」
「そうだ。誰一人助からない。……解っているなら抵抗するな」
「……」
スチュグレフもまた、ストラップで脇に吊った自分の銃を意識しないでもなかったが、右手から銃把までの距離、銃把から安全装置までの距離……どれをとっても濤羅《タオロー》の銃口の前には遠すぎる。
「もっと接近しながら高度を取れ」
「馬鹿野郎! すぐにも市警のエアボーンが来るんだ。撃ち墜とされてぇか!?」
「なら急げ。手間は取らせん」
短い返事には何の逡巡もない。その声に本気の響きを聞き取ったドライバーは、スチュグレフの許可を得るのも待たず操縦桿を操作した。狭い機内で銃を乱射されれば、機内の人間は一人として無事には済むまい。
SVはビルの壁面を舐めるようにして垂直に上昇し、四十階辺りの高度で再びホバリングに戻る。
右手にカービン、左手に機内側面のロールバーを掴んだまま、濤羅《タオロー》は油断なく後ずさり、空いたままの貨物ハッチの縁までにじり寄る。
「何を……考えてやがる?」
「これから地獄を覗いてくる。あんた、俺に付き合うつもりはないんだろ?」
すぐ足元に奈落が口を開けているにも拘わらず、濤羅《タオロー》はロールバーから左手を放し、背中をハッチの縁に押しつけてバランスを保ちながら、腰に差した鉤撃ち銃を引き抜く。
「あばよ、同志」
別れの仕草に銃口を小さく振ってから、濤羅《タオロー》は斜め頭上のビルの壁面へと向けてハーケンを射出した。展開式の鉤と強力粘着剤のカプセルを組み込まれた射出体が、高速でワイヤーを手繰り出しながら虚空を横断し、ビルの壁面に食らいつく。
SVの機体が突風に揺れ、宙に渡されたワイヤーが遊びを失う。
その途端、濤羅《タオロー》はワイヤーの張力に引っ張られて虚空へと飛ばされていた。
「クソッタレがぁッ!!」
隙を見て引導を渡すつもりだった相手をまんまと取り逃がして、激昂したスチュグレフが貨物ハッチの縁から発砲する。
だがもう遅い。ドップラー効果で遠ざかる怒号と銃声を聞きながら、濤羅《タオロー》はワイヤーの末端で遠心力に身を任せ、斜めに傾いた振り子の軌道で高度百五十mの虚空を滑空した。
重力加速とビルの壁面で渦を巻く突風が、コートの裾を引きちぎらんばかりに翻弄する。風圧に歯を食いしばったのも束の間、明かりの消えた総ガラス張りの壁面が致命的な勢いで濤羅《タオロー》に肉薄する……
あわや叩きつけられんという寸前に、濤羅《タオロー》は右手に構えたカービン銃を乱射した。高層建築の突風をものともしない分厚い強化ガラスも、銃弾の前では病葉《わくらば》同然だ。ほんの数発で亀裂が走り、あとは内外の気圧差が割れた一面を木っ端微塵に吹き飛ばした。
ダイヤモンドダストのような破片の中をくぐり抜け、濤羅《タオロー》は様子も定かでないフロアの内部に突入する。
すぐさまワイヤー銃のグリップから左手を離し、鞠のように床を転がって着地のショックを分散。そのまま勢いを完全に殺しきる前に床を蹴って立ち上がり、カービン銃を肩付けして構えるまでが一動作……武術家として極限の修業を積んだ者ならではの離れ芸である。
素早く周囲に視線を巡らし、飛び込んだ場所を確認しながらも、まず濤羅《タオロー》は手近な遮蔽物の陰へと身を寄せる。
そこは迷路のようにパーティションが立ち並ぶワークステーションだった。窓から突っ込んだ拍子に二つ三つほどブースを蹴散らしてしまっている。窓に明かりがなかったことから察してはいたが、残業組がいなかったのは幸いだった。
慎重に警戒しつつ、それでも足早に部屋を通り抜けて廊下に出る。
耳を澄ませても、このフロアに騒動の気配はない。爆音や警報ベルの発信源は、はるか下のフロアだ。
下階に突入したアサルトギア五機を鎮圧するために、保安部隊の大半は階下へと向かっている筈だ。連中を囮にして、濤羅《タオロー》独りはある程度は自由に行動できる。
だがロシア人たちが陽動の役を果たす時間はそう長くない。連中は社内LANにインテリジェント・ワームを注入し次第、早々に撤収するだろう。
ミーシャたちの武装は過剰と見えて、実のところは楽観できるほどのものではない。このビルの保安部隊であれば、充分に対処できるだけの装備を備えている可能性は極めて高い。
奇襲によるアドバンテージを消化した時点で、襲撃部隊は引き際と見切るだろう。
目指す呉榮成《ン・ウィンシン》を、いかに短時間で見つけだすか。今現在も、社内のVIPは護衛に護られて安全な場所へと誘導されているに違いない。
その中から呉《ン》を見つけだし、そして警護の弛んだ隙を見て襲うとなると……標的を探すのは騒ぎに乗じて、そして仕留めるのは事態が沈静化した後で、ということになる。
万事はロシア人たちの暴れ方次第だ。さっさと鎮圧されても困るが、あまり度を過ぎた暴れ方をされては、呉《ン》たちがビルから退去するかもしれない。
人気のないエレベーターホールに出ると、階数表示でようやく現在位置が解った。三十九階。予想より上のフロアに飛び込んでいたらしい。ひとまず目指すべきは最上階……五十五階の社長執務室フロア。
直通エレベーターで乗り込むのが一番たやすいが、それではドアベルを鳴らして訪問を告げるも同然だ。ひとまず非常階段で近づいて、そこからエアダクトでも探して忍び込む手だろうか。
ホールを横切って奥まった廊下に入り、突き当たりにある非常階段のドアノブに触れたところで……金属のノブの冷たさだけではない、それ以上の悪寒が背筋を趨る。
レバー型のノブにカービン銃のスイベルを引っかけ、濤羅《タオロー》自身はその脇に身を退いたまま、そっとベルトを引いてノブを動かした。
予期こそしていたものの、それでも思わず首を竦めるほどに盛大な銃声が、反対側からドアを蜂の巣にする。
金属製のドアが一瞬でよじくれた鉄屑になって蝶番からもげ落ちた。少なく見積もって三挺以上のマシンガンによる集中砲火。敵はすでに非常階段で濤羅《タオロー》を待ち伏せていたのだ。
早すぎる……たまたまこの三十九階近辺に居合わせた保安チームだろうか。出だしから幸先の悪い展開だった。
相手の銃撃が途切れたところで、濤羅《タオロー》は半身を乗り出し、咄嗟に見咎めた踊り場の人影に向けてカービン銃の乱射を浴びせる。
立ちこめた暗闇を真っ白に暴きたてるハレーションの如き銃口炎。銃声は狭い空間に反響し、途方もない轟音となって濤羅《タオロー》の鼓膜を直撃する。
あまりの轟音と閃光に五感を攪乱された濤羅《タオロー》は、視野に捉えていたはずの人影を、気配に至るまで見失ってしまった。むろん撃った弾が当たったのか外れたのかも見当がつかない。
たまらず身を退いて壁の陰に隠れたところで、今度はさっき以上に壮絶な銃弾の応酬が、踊り場から返礼とばかり浴びせられる。
……くっ!!
これでは埒があかない。濤羅《タオロー》は廊下を駆け戻ってエレベーターホールまで退却しながら、まだ弾の残っているカービン銃を苛立ちまぎれに投げ捨てた。
ひとたび撃つごとに、この轟音と反動……身構えれば全身が硬直し、内息が滞って丹田の氣が乱れる。こんな厄介な武器を使っていては内功が駆使できない。
勝手知ったる得物の倭刀を背中から抜き払いつつ、エレベーターホールに戻った濤羅《タオロー》は支柱の影に身を潜めて、調息、閉息、練気の行程をこなすいったい何人を相手取る羽目になるのかは定かでないが、ここに居合わす敵に増援が加わる可能性は薄い。保安部隊の主力はまだ階下のアサルトギアと交戦中の筈だ。新たな侵入者が濤羅《タオロー》独りと知れれば、今いる人数以上の兵員を動員してくることはあるまい。
はたして敵はほどなく姿を現した。非常階段へと続く廊下から、まず二人の人影が中腰でホールに侵入してくる。残りは廊下に潜んだまま援護の体勢を取るのだろう。
戦闘サイボーグではないにしろ、プレート入りの防弾ベストにサイバーサイトつき短距離制圧火器《CQBW》という重武装は、ビル警備員どころか軍の特殊部隊に相応しい。
ヘルメットの下の顔面を覆うのは、無数のレンズが複眼のように並んだ集中光学バイザー。暗視鏡だけでなく各種熱線、マイクロ波、さらにサイバーサイトから送られる照準情報までをも画像処理し、装着者の網膜に直接投影するシステムだ。
もらった……
ハイテク装備に身を固めた兵士たちを前にして、だが濤羅《タオロー》は勝機の確信にほくそ笑む。ああいう小道具に頼る手合いを相手取ってこそ、電磁発勁≠フ真骨頂というものだ。
丹田に貯めた氣をさらに練る。迫り来る前衛の二人は、明らかに警戒が甘い。濤羅《タオロー》が廊下に捨てた銃を見て、すでにこちらに戦意がないものと高を括っているのだろう。
気息充溢した濤羅《タオロー》の知覚は、すでに二人がそっと床に踏み降ろす靴底の音まで聴き分けている。ここまで引き付ければもう充分だろう。まずは、この二人から……
「呵ッ!!」
鋭い吐気とともに放つ渾身の『轟雷功』。濤羅《タオロー》の横隔膜を中心に、辺り一面へと発散された電磁パルスの衝撃波は、その圏内に捉えた電子機器を悉く破壊する。
今回その餌食となったのは、先行した警備兵たちの光学バイザーだった。生命維持に直接関わるサイボーグの体機構に比べると、この手の副次的な携帯装備はシールド処理が徹底していない。『紫電掌』の指向性パルスを使うまでもなく無力化できる。
はたして二人の前衛は、何の前触れもなく視野を闇に閉ざされて恐慌に陥った。
うち片方はそのまま思慮を取り戻すこともなく……そしてもう独りは、何はともあれバイザーを外そうとヘルメットに手をかけたところで……どちらも白刃の餌食と化すまでに、零コンマ数秒の時差しかなかった。
廊下に待機していた残りの三人は『轟雷功』の圏内になく、光量増幅された視野の中で一部始終を見届けることになった。
突如、フロア中央の支柱の影から躍り出た賊の刀に、先行した二名が何の反応もせず、案山子のように棒立ちのまま叩き斬られる様は、悪い冗談としか思えなかっただろう。
何があったのか理解もできぬまま、それでも三人の警備員たちは廊下からホールに躍り出て、散開もせずに銃を構える。相手は刀を持った一人だけ。一斉掃射で仕留めれば何ら脅威たり得ない。
そんな三人の反応に、濤羅《タオロー》は呆れるどころか憐憫さえ抱いて苦笑した。彼我の距離、およそ十五メートル。わずかそれだけの間合いの差で、銃弾に軍配が上がるとでも思ったのだろうか?
いかに神経を電子化し、弾丸が音速を超えようと、一挙手一動作を判ずる心の速度≠ワでは変わらない。それを鍛え得るのは内家の功夫のみである。
よって彼らは、戦いに臨んだその時点で致命的なハンディキャップを追わされているも同然なのだ。トラックレースに喩えるならば、濤羅《タオロー》とはすでに走り出す地点が違う。たかが音速の弾丸初速程度では取り返せないほどに。
丹田に内力満つるとき、身体は凌虚の若く華嶽を超え、息は紫府に遊ぐ。それが内家拳法の軽功術=c…
まず一歩目の踏み切りは右斜め前方。濤羅《タオロー》は身体を横に傾けながら一気に壁まで跳躍する。そこから続けて壁を蹴り、引き続き旋転しながらさらに頭上へ。
およそ人間として有り得ない動きに、警備員の照準は完全に惑わされた。虚しく交錯する火線を眼下に見ながら、今や姿勢の天地を逆転させた濤羅《タオロー》は、そのまま爪先で天井を踏んで一気に三歩を疾走した。
軽功の達人にかかれば重力など何の束縛にもならない。垂直であれ逆さであれ、腿力をこめて踏める足掛かりさえあれば、それだけで事足りる。
不用心にも密集していた警備員たちは完全に虚を衝かれた。まさか予期すらしなかった真上からの奇襲。振り仰いだ視線が恐怖に凝る。コートの裾を翻し、頭上から襲いかかる濤羅《タオロー》の姿は、まさしく死神の似姿そのものだっただろう。
愚か者……
怯む隙に銃を構えていれば、まだ活路もあったものを。
真上を駆け抜けざまに一人目の頸動脈を裂き、その背後に旋転しながら落下する途中で二人目の背中を薙ぎ払い、着地と同時に放った突きで残る三人目を仕留める。防具など物の数にも入らない。内勁を込めて放つ戴天剣は戦車の正面装甲すら断ち割ってのける。
絶命した警備員が折り重なって倒れるのを残心しつつ見届けてから、濤羅《タオロー》は倭刀を血振りして鞘に収めた。
気を抜いている暇はない。いま殺した五人の心音は保安部の司令室でモニターされているだろう。全滅したとなればこの三十九階には増援が大挙して押し寄せてくる。
調息を怠らなければ、内傷の疼きもまだ今のところは抑えておける。濤羅《タオロー》は引き続き軽功術で疾駆しながら、非常階段を一気に駆け上がった。
二十一階の様相は、文字通り戦場と化していた。
いかに保安部の武装が軍隊なみといえど、常勤の警備員に支給されている火力は自動小銃までが限度である。機動兵器との交戦までは想定されていない。
襲撃者の装備は三十七型重機動甲装……皮肉にも上海義肢公司の製品である。そのスペックを鑑みるだけで警備員たちが太刀打ちできないのは明白だった。
たった一体のアサルトギアが、群れなす保安要員を虫けら同然に薙ぎ倒していく。
「退がれ! 退がるんだッ!!」
然るべき装備を携えてようやく到着した増援に、武装警備員たちは胸の中で喝采を叫ぶ。
二十o携行レールガン。初速八千m/sで劣化ウラン徹甲弾を射出する重火器である。これならば装甲を施されたアサルトギアにも通用しよう。
「援護頼む!」
眦《まなじり》を決したガンナーの叱咤に、生き残っていた警備員たちはバリケードの陰から身を乗り出し、迫り来るアサルトギアにありったけの弾丸で集中砲火を浴びせる。
かつてない密度の弾幕を浴びて、アサルトギアがセンサーと関節部分を防御する。動きの鈍ったその隙に、ガンナーはレールガンの照準スコープを敵の中枢ユニットに向け……そこで彼を睨み返すスマートグレネーダーの砲口と目を合わせてしまった。
一手先んじて火を噴いたアサルトギアのランチャーは、既にサーチ済みの地形における最適効果の手段として、FAE榴散弾を自動選択していた。射出された弾体は、まず粒子燃料を詰め込んだカプセル霰弾を扇状に撒き散らし、続いて高圧電流のスパークを散らす。
霰弾から飛散し、すでに通路の角やバリケードの裏にまで充満していた粒子燃料がこれに引火。粉塵爆発を引き起こして辺り一面を炎のヴェールで包み込む……
耐火性ボディアーマーを着用した警備員たちに対しては、破片榴弾ほどの直接殺傷力こそないものの、衝撃波によるスタン効果は覿面だった。居合わせる全員が吹き飛ばされて銃を取り落とし、ことごとく無力化される。
「ぐ……」
辛うじて気絶を免れたガンナーは、床に転がったレールガンの砲身を掴んだものの、破断したパワーケーブルを見て顔色を失う。
膨大な電力を要するレールガンは、外部バッテリーパックからの供給を絶たれれば只の鉄塊でしかない。
そして再び顔を上げたそこには、目と鼻の先まで肉薄していたアサルトギアが、格闘戦装備の高周波振動バイスを今まさに振り下ろさんとしていた。
生身の人間を相手に非効率きわまる過剰殺傷……『嗜虐性』という人格の一側面を見せつけたのは、この鋼鉄の化け物がまぎれもなく脳を備えた人間≠ナある証といえよう。
「ひィ……」
恐怖と絶望に身を凍らせたガンナーが、そのとき目の当たりにしたものは……一瞬のうちに急所という急所を破壊され、糸が切れたように頽れる鋼鉄の残骸だった。
「あ……?」
「|大事ない《大事ない》。|安心めされよ《安心めされよ》」
炎の中から忽然と現れた、拳法着姿のサイボーグ。つい昨日に通達されたばかりの、青雲幇からの用心棒たちだ。
彼らが手に携えた護手鉤《ごしゅこう》と浮萍拐《ふへいかい》を、初見では鼻で嗤った警備員たちだったが……たった今、その前時代的な武器が軍用アサルトギアを瞬殺してのけた光景は、まざまざと目に焼きついている。
「ここより上の階は安全だ。速やかに非戦闘員の誘導を」
「あ、ああ……」
狐に摘まれたような面持ちのまま撤退を始める警備員たちを見守りながら、元氏双侠は改めて、破壊しつくされた二十一階の惨状を見渡す。
そこかしこに転がる遺体は武装したものばかりではない。逃げ遅れた従業員のものも数多く見当たった。
「……」
みしり、と、元尚英《ユン・ソーイン》の手の中で拐の柄が軋みを上げる。
「尚英《ソーイン》……」
「このすべてが……」
感情を押し殺した声は、しかし隠しきれないほどの怒気に燃えていた。
「すべて、孔濤羅《コン・タオロー》めの差し金か?……このすべてが……」
兄の手を肩に乗せられて、尚英《ソーイン》は感情を鎮めた。憤怒に呑まれている場合ではない。今この場での務めは他にある。
「階下に降りるぞ。下にはまだ敵がいる」
「……ああ」
社長室の端末から外部のネットを巡回しつつ、呉《ン》は己が帝国の末路を眺めていた。
階下に突入した五機のアサルトギアは保安部隊の奮闘によって概ね鎮圧されたものの、連中が社内LANの幹線に直接注入したインテリジェント・ワーム……もっとも効率的に経営上のダメージを与えるよう調整されたクラック特化AIは、物理攻撃によって社内がパニックに陥った数分間のうちに、器材や人員の損失よりなお致命的な被害をもたらしていた。
すべてのワームが駆逐され、メインサーバの支配権が社内のオペレーターの手に戻るまでに要した時間は二百秒。だがその三分余りの間に、公司は貴重なパテントや特許権の大半を二束三文で投げ売りし、加えて暴落途中の株券や不良債権を手当たり次第に購入していた。
さらに複数の匿名BBSに片っ端から公開された新製品の開発図面や数々の機密情報。株価は今こうして見守っている間にも急転直下の下落を続けている。
社内に食い込んだスマートワームと、あらかじめネット上で待機していたハッカー達とが連携して、迅速な電撃作戦を遂行したのだ。被害総額はもはや想像もつかない。数百億元単位でも収まるかどうか。もはや上海義肢公司は企業としての命脈を断たれたも同然だった。
……ちっ
呉《ン》にとっては、もとより拾い物も同然だった社長の椅子だ。蜜月の終わりは名残惜しいが、それ以上の感慨はない。むしろ気にかかるのは、騒動の最中に三十九階で発生した遭遇戦の報告である。
十五分ほど前……社長室の警護に呼び戻した一班が、移動途中の三十九階で新たな警報を察知し、侵入者と交戦したのちに全滅した。後詰めの部隊の報告によれば、現場の痕跡からしてアサルトギアによる襲撃ではない。殉職したガードマン達はすべて刀剣の類で斬殺されていたという。
誰あろう、まごうかたなき孔濤羅《コン・タオロー》の仕業だ。あの男はもうこのビルの中にいる。
これだけの騒ぎが……まさか手前ェ独りのための陽動だってのか? 孔《コン》っ!!
何もかも……俺一人を狙ってのことか?
考えるほどに悪寒が背筋を蝕む。そこまでの執念を向けられて、一体どうしろというのか?
どうせここにいても出来ることは何もない。上海義肢公司はもう終わりだ。それもこれも劉《リュウ》のせいだ。あの男が孔《コン》を放置し続けたのが悪い。呉《ン》にしてみれば、我が身に咎められる謂われはない。
今となっては、命あっての物種……
そうと決めれば呉《ン》の判断は速かった。この場は退散するに越したことはない。
「ペトルーシュカ、おいで……」
脇に控えていたガイノイドを側に呼び寄せ、デスクの抽斗から護身用の拳銃を取り出しながら、呉《ン》は高速エレベーターを社長室フロアへと呼び寄せ、すでに社長室の警護に集っていた完全武装の警備員たちに下知を飛ばす。
「三十九階からの侵入者は、遠からずこの階を目指してやってくる。何としても迎え撃て。私は万が一の場合に備えてこの場を離れる」
「……おい、お前」
念のため、警備員の中から特に屈強な一人を選んで、同伴を命じる。
不安げな眼差しで見送る他の警備員たちを後目に、呉《ン》は到着したエレベーターに、護衛一人とドレスの少女人形を引き連れて乗り込んだ。
目指すは四十五階、飛空ヴィーグル専用の第二駐車場。屋上のヘリポートを使うのは不用心すぎる。何が仕掛けられているやら知れたものではない。
こうなると斌《ビン》も、簡単にゃ収まらないだろうな
先日|斌《ビン》が主張した通り、やはり孔《コン》については早急に手を打つべきだったのだ。
それを渋った劉《リュウ》の責任を、盟証は徹底して追及するに違いない。下手をすれば幇会はトップ二人の間で分裂だ。
だが何よりも由々しいのは、幇会そのものの行く末である。劉《リュウ》の政策によって、青雲幇は収益の基盤をほぼ完全に裏サイバネティクス市場へと移行させてきた。それがここにきて、命綱とも言える上海義肢公司を失ったのだ。
下手をすりゃぁ、青雲幇自体がぶっ潰れたって不思議はねぇ。いっそここは、さっさと雲隠れする手かなぁ……
そんな呉《ン》の思考を……突如エレベーターケージの屋根を突き破って奔り出た銀光が中断させる。
「な……」
凝然と目を見開いたときにはもう、隣にいた警備員がヘルメットごと脳天を串刺しにされていた。刀身に冷たく波打つ倭刀ならではの刃文が、みるみる血飛沫に染まっていく。
件《くだん》の襲撃者は呉《ン》の脱出を見越して、もっとも逃げ場のない場所に網を張っていたのだ。……社長室直通エレベーターのケージの屋根で。
呉《ン》は咄嗟に、手にした拳銃を傍らのペトルーシュカのこめかみに突きつけた。いざこの局面を迎えたときの行動を、予め決めていた周到さがものを言った。
「動くんじゃねぇッ!」
「……」
はたして頭上の襲撃者は、それ以上の行動を起こさない。血刀がするりと屋根の上に引き戻され、即死した警備員の骸がケージの壁面に寄りかかったまま頽れる。もし呉《ン》が何の思慮もなく銃口を頭上に向けていれば、たちどころに隣にいた警備員の後を追っていただろう。
「へ、へへ……余程コイツにご執心だな。紫電掌」
明るいケージの中からは、上にいる孔《コン》が一体どこの隙間からケージ内を窺っているのか判らない。見えざる敵との睨み合いが続くうち、呉《ン》の顔を脂汗が伝い落ちる。
やがてエレベーターはゆるやかに減速し、四十五階に到着した。滑り開いた扉から後ろ足で出る間も、呉《ン》は人形に銃を突きつけたまま離さない。
床も支柱も打ち放しのコンクリートが剥き出しのSV駐車場は、地下にある昔馴染みの有輪車両用駐車場とさほど変わらない。フロアを一巡する形で敷かれたタキシング通路の左右に駐車ブースが区分けされ、色とりどりのSVが搭乗者を待って鎮座している。
唯一の相違は出口の外にあるのが地上路へと向かう傾斜路ではなく、テラス状にせり出した離着陸デッキになっている点だけだ。
呉《ン》は通路の真ん中まで出たところで、ペトルーシュカをそこに立たせたまま、さらに駐車ブースまで後退する。むろん拳銃の照準はペトルーシュカの頭部に据えられたままだ。
濤羅《タオロー》もまた、狭い視野から呉《ン》が失せたところで整備用ハッチを蹴り破り、ケージ内へと降り立った。抜き身の倭刀を手に提げたまま、エレベーターから半歩だけ踏み出して、銃を構えた呉《ン》を凝視する。
両者はちょうどペトルーシュカを真ん中に挟んで直線上に対峙する形になった。
「あらためて紹介するぜ。俺の自慢のペトルーシュカ≠セ」
「このまま俺が引金を引けば……お前の可愛い瑞麗《ルイリー》のデータは、木っ端微塵に吹き飛ぶぜ」
「そのときは貴様も命を落とす。生まれてきたことを後悔するような死に方で」
「ハハハ、そいつぁ願い下げだな」
張り詰めた乾笑を張り上げた後、呉《ン》は不敵に口元を歪めて銃の構えを解く。
「撃ちゃあしねぇよ、勿論。何たって俺の大事なボディガードだからな」
「なぁそうだろうペトルーシュカ? そろそろ頼もしいところを見せてくれよ」
「ぅ……」
それまで冷然と濤羅《タオロー》を見据えていたペトルーシュカが、ふいに小さな呻きを漏らす。その目にははっきりと苦痛の色が……プログラムされた人格でない、生きたまま封じ込められた魂の痕跡が……垣間見えた。
「う、ぐ、うぅぅぅぅ……ッ!!」
いったい何が起こったのか、ペトルーシュカはまるで急激な痛みの発作にでも見舞われたかのように、激しく震える身体を掻き抱きながら、両肩を押さえてその場にへたり込む。
「な……」
悶え苦しむ人形へと、訳も解らず駆け寄る濤羅《タオロー》。すでに呉《ン》の銃口は余所を向いている。緊張の糸が解けたあと、つい瑞麗《ルイリー》を想う心が冷静な思慮より先に立った。
「瑞麗《ルイリー》、どうし……」
震える肩に手を触れようとしたその直前、稲光のような刃の一閃がその喉元へと奔る。何の前触れもなく放たれた、それはペトルーシュカの繰り出す一撃だった。
少女の腕の間合いでは、断じて有り得ないはずの奇襲攻撃。濤羅《タオロー》が反応できたのは、ひとえに内家武芸者として培った無意無想の防御本能によるものだ。体勢が崩れるのも構わず限界まで後ろへと反り返り、そのまま一転して膝立ちに起きあがる。
だが……いま彼を襲った武器を見て取った濤羅《タオロー》は、その場で凝然と凍りついた。
鎌、である。だがそれはペトルーシュカが手に持った得物ではない。
いや、人形の少女は腕そのものを失っていた。さっきまで右肩があった場所からは細く長い腕節が伸び拡がり、鎌はその先端に直付けされている。
まるで蟷螂が折り畳んでいた前肢を伸ばし拡げたかのような……そう、ペトルーシュカの腕そのものが展開し、内蔵されていた刃を露わにしたのだ。
「ひぃぃぃぃッ!!」
悲痛な絶叫とともに、今度はペトルーシュカの左腕が縦にはぜ割れる。ドレスの裾を裂いて現れたのは、やはり右と同じ腕節と鎌。このガイノイドは内蔵武装を擬装した戦闘型だったのだ。
苦悶の叫びを上げながら、ペトルーシュカは倍以上に延長された両腕を振りかざして濤羅《タオロー》に襲いかかる。その固く直線的な挙動は、先刻までの生物的な滑らかさとは似ても似つかない。四肢を駆動させるドライバプログラムそのものが交代したらしい。
鎌の斬撃そのものは危なげなく躱わしたものの、予想もしなかった敵にどう対処していいものやら判断できぬまま、濤羅《タオロー》は守りの姿勢で後退する。
素早く視線を巡らせれば、すでに呉《ン》の姿は見当たらない。もういずれかのSVに乗り込んでいるのだろうか。
このままでは取り逃がす……
再び風巻く唸りとともに左右から鎌が迫る。だが反撃に転じた濤羅《タオロー》は、左右から襲いかかる鎌のうち一方を倭刀の峰でいなし、返す刀で残る一方を鎌の付け根から断ち切った。
「キャァァァッ!!」
直後、絹を裂くような絶叫がガイノイドの喉から迸る。その、あまりに瑞麗《ルイリー》を彷彿とさせる悲痛な声に、濤羅《タオロー》は愕然と凍りつく。
「あぅぅッ!! あぐぅぅぅッ!!」
怯む濤羅《タオロー》を苛烈な連続攻撃で容赦なく追い立てるペトルーシュカ。だがその頭部だけは髪を振り乱し、愛くるしかった美貌を痛々しく歪めて涙を散らしている。
腕を引き裂いて鎌を出したときの苦しみようから、察するべきだった。恐らくは……別プログラムにボディの制御を譲った今も、痛覚だけはそのままに彼女の神経網を直撃しているのだろう。
「く……」
これが呉《ン》の用意した、濤羅《タオロー》と対峙するための秘策だった。
ペトルーシュカのボディを徹底的に改造して武装化し、さらに元々の有機メモリとは別に戦闘ドローン用の戦略AIを積んで、有事には割り込み制御させる。
従来の痛覚神経をそのままに残したのは、ひとえに濤羅《タオロー》の戦意を萎えさせるためだ。
呉《ン》の目論見通り、濤羅《タオロー》は完全に戦意を削がれて逃げに徹するしかなくなった。敵と見なして尋常に渡り合えば、その刃の痛みを受け止めるのは人形の中に囚われた瑞麗《ルイリー》の魂魄なのだ。
間合いが大きく開いたところで、ペトルーシュカは破損した節を基部から破棄した。さらに内側の腕節がもう一度展開し、今度は黒光りする筒状の武器が滑り出る。
「!?」
それが放熱ジャケットを被せた銃身と見て取るや否や、濤羅《タオロー》は傍らに停まっているSVの陰へと身を躍らせた。
間一髪、一連の銃声とともに銃口炎が狂い咲き、機銃掃射の弾幕が周囲一面に吐き出される。
飛び散る跳弾の火花の下、身を屈めて遮蔽物の隙間を駆け抜けながら、濤羅《タオロー》はSVの間を駆け抜けて反対側の通路にまで逃れ出た。依然、逃げたはずの呉《ン》の姿は見当たらない。
倭刀を身体に引き付けて構えたまま、車体の陰に身を隠す。戦闘形態に変型したガイノイドは追ってこない。ただ痛ましい啜り泣きの声がコンクリートに反響し、いずこからともなく耳に届く。
落ち着け……
死線に於いて動揺すれば、即ち活路を見失う。心頭滅却、鏡水の如き心で気息を調え、はじめて功は成るというもの。極限下においてこそ内家の心得が問われるのだ。
目を閉ざして調息に専念しながら、濤羅《タオロー》は全身を神経の針にして駐車場内を探った。
キチ…… キチ……
かすかに聞こえる、腕節の冷たく触れ合う音が……じわじわと近づいてくる。濤羅《タオロー》を目指し一直線に……整列して駐車したSVの並びを、まるで無視して移動している。
慌てず騒がず、濤羅《タオロー》は頭上を仰ぎ見る。
ペトルーシュカはそこにいた。スカートの下に隠していた夥しい数の節足を蠢かし、天井を這う配管にしがみつきながら、蜘蛛のように濤羅《タオロー》へと忍び寄ってきたのだ。
黒く虚ろな銃口と目が合った刹那、濤羅《タオロー》は考えるより先に動いていた。
銃声。弾丸。閃く火炎。そのすべてを別個に判じるほどの切迫の間。
身を翻した濤羅《タオロー》の背後で、その残像の如く遅れてはためいたコートの布地が、唸り飛ぶ弾丸に縫われて糸屑を散らす。
貫通した無数の弾丸の、うち数発が背後にあったSVの車体を貫き、そのうち一発の曳光弾が燃料タンクを直撃し……
轟と花開く大輪の爆炎。床に転がった濤羅《タオロー》は、あわやというところで熱波と衝撃をやり過ごす。
幸か不幸か、火炎は帳《とばり》となって両者を分かち、ペトルーシュカの追い打ちを未然に防ぐ形となった。
濤羅《タオロー》はすかさず起きあがり、再び仕切り直しになった戦いの次の局面に備えつつ……
だが燃えはぜる火炎の音とは別に、うねりながら音階を上げていくガスタービンエンジンの駆動音を聞き留める。
このフロアのどこかに、緊急始動をかけているSVがいる。いまこの駐車場から緊急発進しようという人間には、ただの一人しか思い当たらない。
猛然と通路に駆け出た濤羅《タオロー》を、まるで待ち構えていたかのように一条のアッパーライトが射竦める。タキシング路にも拘わらずスラスターを点火して突進してくる一台のSV。その急加速からして濤羅《タオロー》を轢き殺す意図は判然である。
余人ならいざ知らず、殺意の程では遅れをとらない濤羅《タオロー》は、すでに危機感に立ち竦むような当たり前の生理反応など持ち合わせていない。片手をライトに翳して目を直撃する分だけを遮りつつ、迫りくる車体に真っ向から立ちはだかった。
間一髪……フロントバンパーがその身体を捉える直前で、濤羅《タオロー》はボンネットの上に身を投げ出し、風防の縁にしがみつく。
だが飛びついたその直後に、彼は違和感に慄然となった。
アッパーライトに目が眩んで判別しきれなかったが……事前に調査したとろこでは、呉《ン》の私有するプライベートSVはジャガーだった筈。だが今|濤羅《タオロー》が掴まっているのは、同じスポーツタイプではあるが、シトロエン製のSVだ。
目を眇めてスモークのかかった風防の奥をのぞき見れば、あに図らんや……パイロットシートは無人だった。
囮か!?
気付いたときにはもう遅く、SVは加速に乗ったまま離着陸デッキを通過して虚空へと躍り出ていた。待ち受けていたといわんばかりに、高高度の猛烈なビル風が風防の上の濤羅《タオロー》を襲う。
歯を食いしばりつつ首を巡らした視野の隅には、今まさに離着陸デッキから飛び立つもう一台のSVがあった。
「ククッ、馬鹿が……」
遅れて発進したジャガーのコックピットで、呉《ン》は会心の笑みを噛み殺していた。
前後して義肢公司の駐車場から発進した二台のSVは、管制局のコントロールに身を任せ、眼下を行き交うSVの群……ビルの谷間を流れる誘導軌道へと合流すべく降下していく。
孔《コン》を乗せたシトロエンは上り車線。呉《ン》のジャガーは下り車線。すでに両機の距離は二百mばかり開いている。先に誘導軌道に入るのは、手前の下り車線へと入るジャガーの方だろう。
後部警戒カメラの画像をズームして、呉《ン》は反対車線へと降下していくシトロエンを見送った。その屋根には依然、黒いコート姿の人影がイモリのように張り付いている。
勝負はついた。いま孔《コン》が自動運航中のSVの風防を強引に開けば、それだけで安全装置が働いて強制着陸を余儀なくされる。かといって、あのまま車外に張り付いていればなお悲惨だ。
誘導軌道に入ったが最後、孔《コン》は巡航速度二百km/hで併走する車両の流れに乗って、呉《ン》とは反対方向へと連れ去られていく。
軌道には通行車両の燃費効率を上げるため、強い追い風の人工気流が空気抵抗を相殺している。走行中の風圧だけで吹き飛ばされることはないだろうが、それでも生身を曝していられる場所ではない。
力尽きるか、あるいは燃料切れを察知したオートドライブが着地場所を見繕うまで、ああやって屋根にしがみついているしかあるまい。
後方警戒カメラの解像度では、孔《コン》の顔までは判別できない。だが呉《ン》は、あの男が為す術もなくこのジャガーを見送っている顔を想像しただけで、腹から湧き上がる哄笑を抑えきれない。
「馬鹿が……ヒャハ、馬ッ鹿野郎がァッ!!」
その手で樟《ジャン》や朱《チュウ》を殺し、上海義肢公司の警備網まで突破した怪物を相手取り、呉《ン》は勝利を収めたのだ。
たしかに地位も名誉も奪われた。だが彼は、あの死に神のような男を前にして、こうしてまんまと生き永らえた。それだけで喝采を叫んでいい。
高度調整を終えたジャガーは、誘導路を行く他の車両と併走に入るべく、滑らかに加速を始める。
あばよ。孔濤羅《コン・タオロー》
勝者の余裕に胸躍らせながら、呉《ン》はこれが見納めとばかり再び後方カメラに注意を戻した。
豆粒のサイズまで遠ざかったシトロエン。たしかにその上に孔《コン》はいた。
画素の荒れた望遠画像でも目も綾な白刃の照り返し。突風にたなびくコートの裾が、まるで怒気の炎の如く肩より高い位置を舞っている。
立って……立ってどうしようというのだ?
地上百二十mの高みにありながら、命綱もなしに立ち上がって……何を、どうする?
咄嗟に呉《ン》は、カメラの画角を最大ズームにまで引き延ばす。画像が切り替わったその刹那……求める孔《コン》の姿は、忽然と消え失せていた。
「……」
今や完全に無人となったシトロエンが、蕭々と上り車線の流れに吸い込まれていく。
「……何処だ? 野郎……何処に行った!?」
呉《ン》は側頭部のTAユニットから巻き取り式のケーブルを引き出すと、ジャガーのコンソールパネルに接続する。都市を網羅する情報ネットへと神経端子をジャックイン。
目も絢なデータハイウェイの煌めきを尻目に都市交通管制サービスへアクセスし、難なくオペレーターのパスコードを盗み出して、交通モニタシステムに侵入する。
回線内の混乱した様子から、何か非常事態が起こっているのは一目で知れた。呉《ン》のアクセスを正規オペレーターのものと認識したシステム側は、すみやかに要求に応じる。
脳内視覚野のほぼすべてを使って処理できる限りのウィンドウを開き、昇り車線を飛ぶすべてのSVの警戒カメラから寄せ集められた画像情報を一気にブラウズする。
……いた。呉《ン》のジャガーと同じ下り車線、はるか後方を走るSVの屋根に、死神の如き黒い影。
正気の沙汰とは思えなかった。降下途中のシトロエンから飛び降りた孔《コン》は、呉《ン》と同じ下り車線を行くSVの屋根へと着地したのだ。
その影が、ふいにまた画像から消え失せたかと思うと、代わって別のカメラアイが、死鳥の翼のように翻るコートの裾を見咎める。
「……な……馬鹿な……」
ただ立っているだけでは厭きたらず、それはSVの屋根から屋根へと飛び移りながら、車両の流れを駆け下りてくるのだ。
上空を行く併走車両に次から次へと跳躍して高度を稼いでから、スリップストリームが来るのを見定めて滑空し、はるか下方を行く先行車両の屋根へと着地する。その繰り返しでじりじりと前へ進みながら、ときに左右を抜けていく追い越し車両があれば目敏く見定めて飛び移る。
上下左右に交錯して併走する無数のSVの群をことごとく足場として活用しながら、孔《コン》は着実に呉《ン》のジャガーとの距離を詰めてくる。
内家武芸の軽功術……呉《ン》とて見知らぬものではない。だがそれを、高度百mあまりを高速疾走するSVの上で駆使できるものかと問われれば、一笑に伏しただろう。今この悪夢のような光景を目の当たりにしていなければ……
真の恐怖とは、危機を理解することではない。理解を超えた危機に直面したとき、人はその意味を知ることになる。
「ペトルーシュカッ!!」
悲鳴に近い叱咤で、呉《ン》は異形の戦闘体型のままトランクルームに待機していた戦闘ガイノイドをけしかける。
下知《げち》を与えられたペトルーシュカは、開け放たれたジャガーの尾部から躍り出るや否や、無数の節足とドレスの襞を広げて気流に乗り、迫り来る敵を迎撃すべく車両の流れを溯っていく。
その後ろ姿を見送る呉《ン》の脳裏には、数多の算段が入り乱れていた。
不安定な足場でこそ本領を発揮する多脚機動ドローン。その形態を模したペトルーシュカなら、今度こそあの男に引導を渡すかもしれない。そうでなくても、今こうして管制局のシステムに割り込みをかけたままなら、このジャガーのオートドライブを解除して全速力で飛び去ることもできる。
だが今夜この場を逃げ延びて、それですべてが終わるのか?
虚空に身を投じてまで追いすがってきた黒衣の姿。その恐怖が冷え冷えと呉《ン》の胸を凍てつかせる。
あれはもはや人ではない。常軌を逸した何か……狙った獲物を仕留めるためだけの狩猟者だ。
そうだ。ただ勝算を読んで賭けるだけの勝負に……命まで預けておけるのか?
戦いの帰趨を何かに任せて、それで安穏としていられる局面はとっくの昔に終わったのだ。もう、逃げるだけでは足りない。
殺す……奴はこの手で殺す!!
忘れていた獰猛な衝動が胸に湧き上がる。いつしか呉《ン》は幇会の香主でも、大企業の社長でもない、稀代の電脳犯罪者『網絡蠱毒』の呉榮成《ン・ウィンシン》に戻っている自分に気がついた。
管制局のシステムに居座ったまま、呉《ン》は彼と同様にログオンしている全オペレーターのIDを検索し、同時に秘中の秘とも言うべきコードをネット上で検索する。
目指すプログラムはすぐに見つかった。かつて若き日の呉《ン》が組み上げ、ネット上へと解き放ったAIプログラム。それは誰に気付かれることもなくネットワークを回遊しながら、数多のウィルスやワクチンを喰い貪り、さながら壺の中で共食いを繰り返した毒虫のように、今も成長を続けていた。
人呼んで網絡蠱毒=Bのちに呉《ン》の二つ名ともなったこの自律型ワーム・プログラムは、ネット上に公表されたあらゆるデータ攻撃・防御手段をリアルタイムで解析し、無効化するルーチンを常に編み出していくのだ。
既存の手段で駆逐することは事実上不可能であり、製作者である呉《ン》の暗証コードにのみ応答して、指定されたシステムを徹底的に破壊し尽くす。
「さぁ、久々の出番だぜ。俺の可愛い使い魔ども……
永らく味わっていなかった興奮に身を任せながら、呉《ン》は秘蔵のインテリジェント・ワームに攻撃対象を指示する。……呉《ン》を除く、誘導軌道管制システムにログオン中の全ユーザー。
実行……同時にシステム内の回線に、次々と声なき絶叫が轟き渡った。ダイレクト結線を介してジャックイン中のオペレーターが、サイバー化した神経系を直接攻撃に晒されて、一人また一人と殺人ワームの餌食となっていく。
その悲鳴は音として聞こえなくても、錯乱したパルスと化して消えていく入力信号、連発されるエラーコードと警告の大混乱が、断末魔の苦痛を物語る。
呉《ン》は未だ己自身の手で殺人を犯したことはない。が、こうしてネット回線を駆けめぐる阿鼻叫喚の残響には、幾度、陶然と聞き入ったことか知れない。
役目を終えた殺人ワームには、引き続いて新規ログオン者への無差別攻撃を指令する。これでもう誰の邪魔も入らない。呉《ン》は悠々とシステムのクラッキングに着手した。
片手間に監視モニタに意識を向ければ、すでに孔《コン》とペトルーシュカは交戦に入っている。思いきった反撃に移れない孔《コン》は、明らかに分が悪い。
さらに多脚機動モードで稼働中のペトルーシュカにとって、この足場の不安定な戦場はまさに独壇場だった。
無数の節足を空力的に操作して滑空中にも軌道を変え、しかも飛び移った先のSVでは、屋根どころか側面や底面にまでしがみついて足場とする。対する孔《コン》とは運動手段の自由度が格段に違う。
逃げの一手に徹する標的を追跡しながら、執拗に機銃の弾丸を浴びせるペトルーシュカ。流れ弾は容赦なく周囲のSVの車体を抉って破壊していく。
次々と制御を失い、あるいは空中で爆散しながら脱落していく罪もない一般車両。
連発する救難信号と、泡を食った警察担当者からの問い合わせが殺到するものの、もはや管制センター内には生きてそれに応答できるスタッフなどいない。呉《ン》は鼻で嗤って通信を遮断し、回線速度を確保する。
……よし
さしたる手間もなくクラッキングは完了した。下り車線の誘導軌道における全SVのオートドライブを統轄するシステムが、今や丸裸で呉《ン》の前に晒されている。
お楽しみは……これからだぜェ
歪んだ遊び心にとらわれた呉《ン》は、まず各SVの車外に設えられた警報スピーカーに干渉した。
戦いの中|濤羅《タオロー》は、沸々と胸に湧く焦りを懸命に押さえ込んでいた。
これだけ不利な状況下で戦闘ガイノイドと相対しては、ただ防戦一方にならざるを得ない。呉《ン》のジャガーとは一向に距離を詰められず、戦況は膠着……いやむしろ、長引けば濤羅《タオロー》に不利だ。
いま彼は吉利《ジリ》製SVバンの側面に左手一本でぶら下がり、相手の機銃の照準から身を隠している。ペトルーシュカは車体を挟んだ反対側を併走するSVのいずれかに乗って、濤羅《タオロー》の熱源反応を探っているのだろう。それとも、あの昆虫めいた機動力でこちら側に回り込んでくるか……
相手の出方を判じかねているところで、突如、バン側面にあるスピーカーホーンが嘲るような哄笑を放ち始めた。……驚くほど鮮明な呉榮成《ン・ウィンシン》の音声で。
『さぁて皆さんお立ち会い!』
『これより御覧に入れますのは、『紫電掌』こと孔濤羅《コン・タオロー》が演じます一世一代の空中大サーカス!! さぁさとくと御覧じろ!!』
「な……」
奇態な声に身構えた直後、掴まっていた吉利《ジリ》が突如、狂ったようなバレルロールを開始する。
「!?」
あわや振り落とされかかった所で跳躍し、隣のSVへと飛び移る濤羅《タオロー》。そこへ今度は併走するトラック型SVが急旋回をかけて突っ込んでくる。
再び飛び退いた眼下で、激突して爆発炎上する二台のSV。
呉《ン》かッ!!
敏腕ハッカーの本分に立ち戻った『網絡蠱毒』が、その特技ならではの手段で牙を剥いてきたらしい。誘導軌道に乗っているSVのオートドライブそのものに干渉し、濤羅《タオロー》を墜落させる腹だ。
着地する先々のSVが、ことごとく乗り手を拒む荒馬のように振り落としにかかり、あるいはもろともに自滅しようとする。もはや濤羅《タオロー》は一瞬たりとも留まることなくSVからSVへと跳び渡るしか他になかった。
呉《ン》自身の処理能力では同時操作できるSVの数に限りがあるのと、彼に濤羅《タオロー》が飛び移る先のSVを予期できるだけの戦闘センスがないことが、せめてもの幸いだった。もし着地点にあるSVの機動を妨害されていたら、濤羅《タオロー》はひとたまりもなく墜落していただろう。
これ以上は、保たない……
決断のときだった。呉《ン》を仕留めるその前に、まずは呉《ン》を守るペトルーシュカをどうにかしなければ。
高く弧を描いて跳躍しながら、濤羅《タオロー》は周囲に視線をめぐらせる。すぐさま視野に捉えたペトルーシュカは、眼下を行くSVの屋根にいた。次の一跳びに渾身で臨めば……届く。
着地先のSVで蠍歩《シエブ》に構え、数分の一秒間だけ練気。車体が呉《ン》によって旋転を始める直前に、一気にペトルーシュカの頭上めがけて躍りかかる。
「撥ッ!」
ここに至っては、やるしかない。余計な痛みを与えるのは忍びないが、せめて一太刀のもとに頚だけを落とせれば……
だが滑空中の濤羅《タオロー》が薙ぎ払おうとしたその刃の前に、よりによってペトルーシュカは、泣き叫ぶ頭頂部を盾のようにして突き出してきた。
く……ッ!!
これでは頸を刎ねるどころか頭部そのものを両断してしまう。躊躇いに刃速の鈍った倭刀を、ペトルーシュカの鎌が弾き返した。
有機メモリを納めた頭部は、濤羅《タオロー》には決して攻撃できない場所である。そこを最大の防御手段として活用するよう、戦闘AIはプログラムされていた。
ペトルーシュカと同じ車両の屋根に、背中合わせに着地する濤羅《タオロー》。すかさず追い打ちをかけようと振り向く人形に背を向けたまま、濤羅《タオロー》はさらに併走する車両の屋根へと跳躍した。
その背中を逃すまじと機銃の銃口が追尾する。だが濤羅《タオロー》は足場を蹴ると同時に、電磁発勁の『轟雷功』を放っていた。放射されたEMPはペトルーシュカのシールドされた神経回路を焼くほどの出力はなかったが、その足場にしているSVを制御不能に陥らせるには充分だった。
足元のSVが不意にバランスを失ったせいで、ペトルーシュカは照準を狂わされ火線から濤羅《タオロー》を逃す。
即座に人形もまた跳躍し、墜落するSVと運命を共にすることは逃れたものの、新たに飛び移ったのははるかに下層を走る車両だった。先んじて無事に跳んだ濤羅《タオロー》とは、いまや大幅に高度差が空いている。再び肉薄してくるには、幾許かの余裕があるだろう。
なお幸いなことに、続いて濤羅《タオロー》が着地したアストンマーチンのSVクーペは、風防が割れて口を開けていた。
おそらくペトルーシュカの撒き散らした流れ弾によるものだろう。中のパイロットも絶命している。車内で異常の発生したSVは緊急着陸させられるのが普通だが、どうやら管制システムが呉《ン》に乗っ取られたせいで安全装置が働かないらしい。
こいつだ!
濤羅《タオロー》は即断し、割れた風防の下に滑り込んでシートにしがみついた。
ここに至って、何を思ったか一台のSVに乗り込む孔《コン》の様は、むろん呉《ン》の監視下にあった。
何だぁ? 手前ェの棺桶を選んだのかい?
誘導軌道を行くすべてのSVが呉《ン》の意のままになっている今、敢えてその一台に乗り込むなど自殺行為も同然である。中に入れば振り落とされることはないにしろ、ならばビルの壁面にでも叩きつけてやればいい。
だが、孔《コン》が乗ったSVのコントロールを乗っ取ろうとしたところで、件《くだん》のクーペは監視システムからの割り込み信号を拒絶する。
? ……ははぁん
この期に及んで何かと思えば……孔《コン》は乗り込んだSVの操縦系にプロテクトを入力していた。
それも管制局の誘導電波そのものを遮断する|割り込み《インターセプト》キャンセラーではなく、自車と管制センターの間に防壁を巡らせただけ。子供騙しも同然の対処といえた。
ならば何のことはない。防壁を破って再び操縦権を奪取するだけのことである。その道に通じた呉《ン》にしてみれば、憐憫をもよおすほど愚かで痛々しい抵抗だった。
『いけないなぁ孔《コン》くん。交通ルールは守ってもらわないと』
悠々とプロテクト破りのルーチンを探る片手間に、呉《ン》は車内スピーカーに干渉して車内の孔《コン》に嘲りを浴びせる。
「ずいぶんと愉しんだ様子じゃないか。呉《ン》」
マニュアル操作に戻った機内で操縦桿を握った孔《コン》は、己の命運を知ってか知らずか、泰然と返事を返す。
「やはり貴様には社長の椅子なんかより、テロリストの方が似合ってる」
『ハハハ、違ぇねぇ』
『お前の死出の手向けによ、このSVも何処か素敵なところに突っ込ませてやろうじゃないか。発電所とか病院とかな』
「……破れるのか? この防壁が」
『お茶の子さいさいってなもんよ。……ほれ、この通り』
濤羅《タオロー》の握る操縦桿が不意に手応えを失い、入力に反応しなくなる。車体は再び、呉《ン》が統べる管制センターのコントロール下に戻ったのだ。
『さ、言い残すことはあるか? 紫電掌よぉ』
「最後に通信してくれたことを感謝する。呉榮成《ン・ウィンシン》」
死に行くものには不似合いな不敵さで、濤羅《タオロー》は冷然と嗤った。
「貴様の死に様は見届けられないが、これで悲鳴だけは聞いておけそうだ」
『……あ?』
孔《コン》の言葉を判じかねた呉《ン》は、そこでようやく異変に気がついた。システム全体に拡張した意識を、まるで氷の触手のような冷気が包み込んでいく。
な……まさか……
擬装防壁。なぜ気がつかなかったのか。呉《ン》が食い破ったはずのプロテクトコードが、いま呉《ン》の側のシステムで再構築され別の形に化けている。あまりにも馴染み深いその構造体は……他ならぬ、彼の編み出した網絡蠱毒≠フそれだった。
ふ、ふざけるなッ!
呉《ン》だけが知る暗証コードでワームの停止を試みる……が、許諾されない。このプログラムは呉《ン》のオリジナルではなかった。誰か第三者が手を加えている。
な……な……そんな!!
まさか我が身で味わうとは思いもしなかった、スマートワーム網絡蠱毒≠ノよる神経攻撃。
即座に呉《ン》はログアウトし、ジャガーのコンソールに繋いだケーブルを引き抜こうとした。が、腕が凍りついたように動かない。すでに殺人ワームの触手は呉《ン》の神経網の奥深くにまで食い込んでいた。
「冗談じゃ……」
茫然と呟きかけたそのとき、想像を絶する激痛が呉《ン》の脳髄を焼きはじめた。
もはや何の危険もないオートドライブで巡航するアストンマーチンの車内で、濤羅《タオロー》は眉一つ動かさず、スピーカーから迸る悲鳴に耳を傾けていた。三人目の仇……この手で直々に殺してやれたわけではないが、末路としては順当だ。
呉《ン》との対決に備えて、万一のこともあろうかと梁《リャン》から仕入れておいた対電脳戦の備えが、まさか最後の決め手になろうとは。
かつてない形の戦いに疲弊した濤羅《タオロー》は、思わずクーペのシートに深く身を預けて吐息をつく。ともすれば噎せ返りそうになる胸の苦しさは、二度に渡って駆使した『轟雷功』の影響だろう。今夜もまた、随分と寿命を縮めたようだ……
軽い衝撃が、クーペの車体を不吉に揺する。まるで車体の底面に何かが衝突したような。
……!!
咄嗟に濤羅《タオロー》が飛び退いた操縦席のシートを真下から突き破り、鋭い鎌がその切っ先を覗かせた。
ほんのいっときだけ意識から外れていた戦闘ガイノイド、ペトルーシュカ。だが彼女に組み込まれた戦闘AIは、依然、濤羅《タオロー》をターゲットとして認識したまま追跡を続けていたのだ。
シートを貫いた不意打ちから辛くも逃れた濤羅《タオロー》だが、狭いクーペの車内には行き場のあろう筈もない。必定、割れたキャノピーの開口部から転がり出る形となった濤羅《タオロー》は、そのまま車体から落下しそうになる。
もはや手掛かりを掴む暇もない。そう即断した濤羅《タオロー》は、咄嗟の反射運動でアストンマーチンの側面を蹴り、何はともあれ真横へと跳んだ。
もはや完全に運任せの跳躍の果てに……虚空を泳ぐ浮遊感の絶望と恐怖に包まれながら、濤羅《タオロー》は全神経を動員して足がかりと着地先を探り求める。
さし伸ばした左手が、すぐ上を追い抜いていくSVの裏面に引っかかった。その途端、横に跳んだ身体に新たな角度のベクトルが加わり、濤羅《タオロー》は駒のように回転しながら車体の進行方向へと投げ飛ばされる。
その落下先の軌道に別のSV。着地は無理でも蹴ることはできる。
もはや後のない濤羅《タオロー》は、下方に新たな跳び先を探しつつ、起死回生の軽功術で次のSVのリアフェンダーを蹴り、狙い定めた着地地点へと体躯を跳ばした。
咄嗟に見定めた逃避先……それはひときわ大型のコンテナトラック型SVだった。広いカーゴ部分の屋根に肩から激突するような姿勢で落下した濤羅《タオロー》は、受け身らしい受け身も取れずコンテナの尾部へと転がっていく。
そのまま転落しそうになるところを、すんでのところで左手が突起物を掴み、濤羅《タオロー》はコンテナの縁すれすれの場所で身を支えた。
九死に一生を得たものの、もとより人体の構造は、おのれの膂力、瞬発力の完全発揮に耐えうる強度を備えていない。それでもなお内家拳士が極限の運動力を発揮しうるのは、内力によって臓腑を守り、血流を律する調息の功が成ってのことだ。もし気息が乱れ、内力の散じたまま限界の体技に頼れば……
膝立ちになろうとした濤羅《タオロー》の視野が、やおら帳《とばり》に覆われたように暗くなる。
……迂闊!
ブラックアウト。連続した高Gに晒される戦闘機パイロットを見舞う症状である。急加速により血流が足へと偏って引き起こされる脳貧血。極限の状況下で濤羅《タオロー》が駆使した軽功は、じつにジェット機の超音速機動に匹敵する肉体的負担をかけていたのだ。
闇に閉ざされた世界の中で、吹き抜ける風の冷たさだけが、濤羅《タオロー》に我が身の位置を認識させる。高度百mを疾駆する、断崖の突端にも似たSV車両の縁。逃げ場などあろう筈もない。
コンテナの屋根に震動が伝わる。濤羅《タオロー》の反対側、車体の正面側にもう一体、招かれざる便乗者が飛び乗ったのだ。
むろん問うまでもなくペトルーシュカ……死闘の果てに、ついに訪れた勝機を必殺のものとするべく、戦闘AIが選定した無謬《むびゅう》の攻撃ポジション。最後は、避ける暇とてない近距離からの機銃射撃で決着をつけようというのだろう。
大型SVの先頭と後尾で、両者は長いコンテナを間に挟んで向かい合う。絶体絶命の窮地にあって、だが濤羅《タオロー》の胸中は凪いだ湖面のように静かだった。
この恐怖、この緊張。かくもまざまざと感じ取れるのは、今この身を晒した危機を知るが故だろう。
目を閉じてなお知りうるのは……それを告げるのが目ばかりではないからだ。
前髪をなぶる風の音。未だ放さぬ右手の倭刀を翳してみれば……ほんの微かな差とはいえ、その風さえもが音色を変える。
そう……空気の流れに心を致せば、正面に立ちはだかるガイノイド、その背中に遮られた気流の乱れが感じ取れる。
漆黒の濤羅《タオロー》の視野に、いま鮮明に敵の位置が浮かび上がった。放熱ジャケットにまとわりつく熱気、焼鉄と硝煙の匂い……機銃の照準は、今まぎれもなく濤羅《タオロー》の眉間に据えられている。
もとより視力で捉えうる弾道ではない。ならば視界を失っただけで、何の不都合があろうか。
眼の色境に在らず≠ニも、まぎれもなく敵はそこに在る=B耳の声境に。鼻の香境に。舌の味境と身の触境に……そして意の法境に。世界は、森羅万象は平素と変わらぬ姿でそこに在る≠フだから。
流れを取り戻した内息が、丹田に充溢する。濤羅《タオロー》は静かに膝を上げ、肩の力を抜いて倭刀を構える。
ガイノイドの下肢を支える無数の節足が、僅かに……ほんの僅かにだけ固くコンテナの屋根を噛む。その音が、震動が、あますところなく濤羅《タオロー》に告げた。機銃の反動に備えた、射撃のための予備動作。
極限まで高まる氣。一刹那よりも僅かな六徳の間、よりなお細い虚の瞬間……それよりも……虚よりなお空……空よりなお清……清よりその果ての浄の境地……
濤羅《タオロー》は踏み込んだ。大きく前へと。
すでに視力も明暗を判じる程度には戻ったと見えて、閃光の気配だけは確かにあった。その仄光る光源へ向けて突進しながら、超音速で迫り来た殺気の礫を、倭刀の切っ先で払いのける。
大きな動作は必要ない。二つ、三つ、四つと続いて、殺気の礫は連続する。
その悉くを打ち払いながら、ようやく濤羅《タオロー》は銃声を聞いた。ここまでの四手、どうやら音速より速かったらしい……そんなことを漫然と意識しながら、なおも濤羅《タオロー》は、引き続き迫る礫を落とす手を休めない。
世界を象る六境のすべてを、余さず濤羅《タオロー》は捉えていた。いつしか視野が元通りに像を結んでいたことにすら、すぐには気付かなかったほどに。
成った、か──
戴天剣法が秘奥技、『六塵散魂無縫剣』。今ここに……絶技、開眼。
秒間数十発の回転速度で撒き散らした銃弾が、ただ一発の例外もなく倭刀の防御に弾かれたという事態を、ペトルーシュカの戦闘AIはどう判じたのか。いずれにせよ、突進する濤羅《タオロー》に内懐まで踏み込まれた彼女に、続く挙動ではどう対処する術もなかった。
白刃一閃、刎ね飛ばされた人形の首が高々と宙に跳ぶ。流星の尾のように靡くそのブルネットの頭髪を、濤羅《タオロー》は返す刀の峰で絡め取った。
引き戻す倭刀と入れ違いに、左から繰り出す掌底の一撃。
とどめに打ち込まれた『紫電掌』は、ペトルーシュカのボディとそれを統べる戦闘AIを完全破壊し……だが、そんな苦痛の源とすでに分かたれていた頭部は、悲痛な絶叫を放つこともなかった。
弾き飛ばされたペトルーシュカの残骸が、眼下の地表へと落下していく様を、濤羅《タオロー》は取り戻した頭部を抱えたまま見守る。しばし失っていた視力は、もう焦点や距離感まで回復していた。
右手には、いつもと変わらぬ倭刀。この一刀が今しがた、長年追い求めた悲願の秘剣をものにしたとは……悪い冗談としか思えない。
悶え苦しみ、絶望に哭くほどに鋭く研がれる功の冴え。師の薫陶とはあまりにかけ離れた現実に、濤羅《タオロー》は我知らず失笑を漏らした。
これが剣の理《ことわり》というのなら……かつての修業は何だったのか?
師匠ならきっと邪法と罵るだろう。憎炎の剣、執念の剣、いずれは己自身をも食らいつくす鬼道の技と。
だが、それでいい。剣は人を斬り、命を絶つ利器。やがて、それを執る者もまた滅びるのは……むしろ道理ではないか。
歪んだ笑みを顔に貼りつかせたまま、濤羅《タオロー》は眼下を飛び過ぎる街の灯を眺めていた。
章ノ五 驟雨血風
舞い散る桃の花の下で、また瑞麗《ルイリー》は琴を弾いていた。
嫋々《じょうじょう》と琴をかき鳴らす旋律は、まるで終わりゆく桃の季節を嘆いているかのように儚く哀しく……なのに普段の清澄な風雅がない。
どこか危うい、心騒がされるものを孕んだ演奏は、弾き手が心乱れる胸中を律しきれていないからだろう。まるで思いの丈を弦にぶつけるかのように、秘めてなお激しい感情が、ひしひしと聴く者に伝わってくる。
身につまされる思いでその演奏を聴きながら、濤羅《タオロー》は遠く離れた四阿から妹の姿を見守っていた。客人を取り次ぐ家僕の声にも、ただ生返事を返すばかりだ。
「浮かない顔だな」
ほどなく通された来客は、開口一番、無遠慮にそう指摘する。幼い頃から互いを知り合う兄弟弟子の間柄だけに、物言いにも遠慮がない。
「瑞麗《ルイリー》がな。また口を利いてくれなくなった」
辟易と呟く濤羅《タオロー》もまた、彼の前では取り繕うことをしなかった。深く嘆息しながら、困憊しきった面持ちで豪軍《ホージュン》に向き直る。
「外地での務めとなると、決まってこれだ。明日の朝には出発だっていうのに、まったく……どうしてこう聞き分けがないんだか」
「お前、どうせまた藪から棒に切り出したんだろう? もっと事前に話しておけばいいものを」
濤羅《タオロー》の困憊《こんぱい》を余所に、豪軍《ホージュン》の声はあくまで朗らかだ。この兄妹の諍いはもう飽きがくるほどに見慣れている。
「仕方なかったんだ。あいつ、いつも俺の仕事の話になるとすぐ話題をそらすから」
「もう素直に謝っておけよ。蟠《わだかま》りを残したまま発つつもりか?」
「ああ、もう構わん。たまには良い薬になるかもしれん」
憮然として嘯いてから、かぶりを振る濤羅《タオロー》。
「あいつはどうも、兄の俺に甘えすぎているきらいがある……先行きが心配だ」
「そうは言っても、満更でもないんだろうが。お前だって」
「俺はともかく、あまり機嫌を取ってばかりじゃ、あいつを娶る男が泣きを見る」
「それは大変だ」
「……おいこら、他人事じゃないだろうが」
気安く相槌をうつ豪軍《ホージュン》を、濤羅《タオロー》は真顔に戻って諫める。
「これからあいつを支えていくのは、俺じゃない。委細あんたに引き受けてもらわなきゃならないんだ」
「心得てるさ。兄者」
豪軍《ホージュン》は底意地の悪い笑みを浮かべて、恭しく叩頭する。
「やめてくれ……」
「なぜいかん? 俺の妻になる女性の兄君なんだ。拝跪《はいき》するのが当然だろうが」
「馬鹿を言うなよ。戴天流門下じゃ俺はあんたの……」
「それはもう言わない約束だろうが」
話がここに至ると決まってそうするように、豪軍《ホージュン》は項《うなじ》に移植した接続プラグへと、これ見よがしに指をやる。
「こいつひとつを埋め込むだけで、勁穴が四つも麻痺したよ。俺の内功はもう以前の三割にも満たない」
「……」
高度情報化の爛熟とも言えるネットワーク・ソリューションの進行により、今や社会のあらゆる局面において、一線で活躍する人材には必須となったダイレクト結線インターフェイス。
事情は黒社会においても変わらない。武芸だけでなく、その類い希な将器を買われて香主に抜擢された劉豪軍《リュウ・ホージュン》だったが、それは同時に、サイバネティクスという時代の潮流に身を任せることをも意味していた。
「近頃は、外家の連中からも誘いを受けててな」
「いずれは義肢の類にも手を出すかもしれん。そうなれば俺は勁絡そのものを失って、氣を巡らすことすら叶わなくなる」
「豪軍《ホージュン》……」
「お前と磨いた内家の拳に、未練がないと言えば嘘になるが……そもそも武門に身を投じたのは、親兄弟と青雲幇に尽くすためだ」
「その幇会が、俺に武でなく知謀を求めるのなら是非もない。剣の道は諦めるさ」
事も無げに語る豪軍《ホージュン》を前にして、濤羅《タオロー》は内心、忸怩たる思いを禁じ得ない。
「幸い、俺なんぞいなくても、戴天流はお前という後継者に恵まれた」
「それは……」
濤羅《タオロー》の口を衝いて出かかる言葉はしかし、今となってはあまりに詮無い。
本当なら……免許皆伝はあんたが授かるべきだった
「あんたこそ真の功夫だった。俺なんて及びもつかないのに……
「寿《ことほ》いでくれよ濤羅《タオロー》。俺は、これでいい」
かつての弟弟子が胸に秘める葛藤を、豪軍《ホージュン》もまた察していたのだろうか。その笑顔は秋空のように濁りなく涼しかった。
「立身出世も悪くない。とりわけ妻を持つ身ともなれば、な」
「ひとつ覇道を進んでみるさ。時代錯誤の剣客なんぞより、瑞麗《ルイリー》には余程いい暮らしをさせてやれるだろう」
「……」
これでいい……そう言って豪軍《ホージュン》が笑うなら、それは何一つ間違いのないことなのかもしれない。
はたと気付けば胸の蟠りを解かれている自分に、濤羅《タオロー》は苦笑する。そんな風に語らう相手の心をいなしてしまう包容力が、昔からこの男にはあった。
劉豪軍《リュウ・ホージュン》という男の不思議な眼差し。見る者によってその眼光は、あるときは涼やかな秋風に、またあるときは氷結した刃に変わる。
彼を畏れる一部の手合いが『鬼眼麗人』などと渾名しているのも、解らない話ではない。敵に廻せばこれほど脅威となる男もいないだろう。
「ともかく明日になる前に、瑞麗《ルイリー》には一言詫びておけ」
「俺だってあの子の笑顔を見ていたい。お前の留守中、ずっと沈んだ顔でいられては叶わん」
「そうだな……」
この男を朋《とも》とする我が身の幸。そして、やがてこの男へと嫁ぐ瑞麗《ルイリー》の幸。不祥の剣を振る凶手の身にありながら、これほど幸多き世界に生きて……濤羅《タオロー》は罪の意識さえ懐いてしまう。
長く残酷な時を隔てた未来で、濤羅《タオロー》は目を覚ました。
朽ち果てた関帝廟の中、一刀を抱いたまま床に伏せて、どれほど眠りを貪っていたのだろうか。外からは重くのしかかるような雨音が、廟内の空気を押し包んでいる。
現世は夢と誰かが言った。ならば今|濤羅《タオロー》が直面する現実も、或いは遠き日の彼が桃花の下で魘されている悪夢なのだろうか。
だとしても、今の濤羅《タオロー》に救いはない。すでに復讐の剣鬼となり果てた彼は、とうに悪夢の一部分である。このまま悪夢の一部分を演じ続けながら、夢の終わりまで戦い続けるしか他にない。
……馬鹿馬鹿しい
濤羅《タオロー》はそう己を一喝して戒める。
仮眠のつもりが、感傷を夢に見るほど深く寝入ってしまうなど、度し難い怠慢である。不覚を取って奇襲を許せば命取りになっていただろう。
……疲れが溜まったか?
連日、休みなく死闘に臨んできた濤羅《タオロー》だが、わけても昨夜の戦いはかつてなく熾烈で……とりわけ犠牲も多すぎた。
スチュグレフたちに生贄の形で差し出した上海義肢公司には、深夜シフトの従業員も大勢いただろう。
さらにこの誘導軌道で巻き添えを食った一般車。その殆どが呉《ン》の辺り構わぬ攻撃によるものだったが、濤羅《タオロー》自身もまた『轟雷功』の放射で一台のSVを堕としている。
それに、梁……この手で殺した。最後まで騙しきったまま。
意にも介さぬ、そう思っていた。現に、その手に剣柄を執っていた間は、何の呵責《かしゃく》も感じなかった。
だが……今こうして惨劇の場を離れた後には、むしろ目に焼き付いた地獄が生々しい。残る斌《ビン》と劉《リュウ》を倒す頃には、どれほど屍の山が積み上がっていることか。
……考えるな
「己は化生《けしょう》。己は修羅。そう思い定めていた筈だろうが……
沈む思いを振り払おうと意識を外に向け、そこでようやく濤羅《タオロー》は、思いのほか静かな廟内の空気に気がついた。ここ最近の瑞麗《ルイリー》が居ながらにして振りまいていた活気が、今朝はない。
慌てて首を巡らせば、彼女は昨夜持ち帰ったペトルーシュカの首を、漫然と弄《もてあそ》んでいる。
黙然と想いに耽るその横顔は、今の幼い姿をした瑞麗《ルイリー》には似合わず、むしろ遠い日のままの彼女の物憂げな横顔を思わせて……濤羅《タオロー》の息を詰まらせる。
瑞麗《ルイリー》は兄の視線に気付くと、静かに微笑んだ。
「めがさめた?」
舌足らずな口調はそのままに、だが情緒を程々に慎んだ仕草には、毒気を抜かれるほどの大人びた風情がある。
昨夜この廟に戻ってすぐに、ペトルーシュカからの魂魄データを彼女へと転写した。結果は……たしかに覿面といえよう。瑞麗《ルイリー》はまた明らかに変わった。だがそれは、言葉を発するようになったり、兄の顔を認識したりといった、目に見えて解りやすい変化ではない。
瑞麗《ルイリー》は無邪気にはしゃぐようなことをしなくなった。強いて言うなら、彼女は……思慮とでも言うべきものを取り戻したのだろうか。
「あにさまのねがお、しあわせそうだった」
「たのしいゆめを、みてたの?」
「……いや……」
嘘ではない。いかに優しい夢であろうと、醒めてみれば極めつけの悪夢だ。今日の日に繋がる過去に、あんな情景があったなど……思い出すだけでも腑が煮えくり返る。
憎しみの在処を求めるときは必ずそうしてきたように、濤羅《タオロー》はシャツの布地越しに胸の傷跡を探る。
胸板を斜めに横切る一文字の刀傷。袈裟掛けの一太刀を浴びて濤羅《タオロー》は船から落ちた。あのときの豪軍《ホージュン》も……笑っていた。何の邪気もなく朗らかに。
「わたしもね、きのう、ゆめをみたの」
「あにさまのいない、ひとりぼっちのとき……ゆめのなかで、ホオジュンとあったよ」
見えざる鎚の一撃が、濤羅《タオロー》の心を打ちのめす。
「……思い出したのか? あいつを」
「うん」
「あにさまがだいすきだったホオジュン。とっても、かわいそうなひと」
邪気のない瑞麗《ルイリー》の一言一言が、まるで足元に奈落の口をこじ開けていくかのようだった。
「……何があったんだ!?」
掠れた声で質しながら、濤羅《タオロー》は瑞麗《ルイリー》の小さな肩を掴む。
「なぜ豪軍《ホージュン》はお前をこんな風にした? どうして……教えてくれ、瑞麗《ルイリー》!!」
「あにさま……いたい……」
抗議の声に、慌てて手を離す濤羅《タオロー》。
そんな狼狽した兄の様を、なにか不思議なものでも眺めるかのように、瑞麗《ルイリー》はすぐに表情を和らげてクスリと笑う。
「あにさま、すごくこわいかお」
「ホオジュンのこと、おこってるの?」
「……」
己を陵辱して殺した男について、こうも無邪気に問いかけることなどできはしないだろう。だとすると瑞麗《ルイリー》は、まだ豪軍《ホージュン》について全てを思い出したわけではない……ということか。
傷を癒すために身を潜め、秘かに上海に戻る算段をつけるうち、一年の歳月は飛ぶように過ぎた。その間、常に濤羅《タオロー》を苛み続けた疑問はただひとつ。……何故、豪軍《ホージュン》は彼を斬ったのか?
いったいどんな由縁でこんな仕打ちを受けたのか、濤羅《タオロー》には皆目見当もつかない。まして、既に豪軍《ホージュン》の妻となっていた瑞麗《ルイリー》にまで累が及ぼうなど、想像できるはずもなかった。
そうと解っていれば、こんな傷など構わずに上海へ戻るべきだったのだ。何もかもが遅すぎた。
左道鉗子の口から瑞麗《ルイリー》の末路を聞き出した濤羅《タオロー》は、それきり事の次第を問うことを辞めた。
後に残ったのは、冷たく結晶した殺意のみ。
もはや理由など問題ではない。どんな訳があれ、ああも残酷な手段で妹の命を奪った豪軍《ホージュン》とその一派……断じて許すつもりはなかった。
「いい。もう奴の話はやめよう」
「へんなあにさま」
言葉を濁す濤羅《タオロー》に、瑞麗《ルイリー》はまるで子猫をからかうような悪びれない笑顔で追い討ちをかける。
「ホオジュンとけんかしたの? あんなに、なかよしだったのに」
「……」
昔から瑞麗《ルイリー》は、その悪戯心を発揮して幾度となく兄を弄《もてあそ》んできた。こんな風に、こそばゆい困惑へと追い込まれていく感覚こそ、記憶にあるがままの瑞麗《ルイリー》との会話ではないか。
小悪魔的な笑顔には嫣然《えんぜん》としたものさえ感じさせる。まるで話の内容よりも、それに戸惑う濤羅《タオロー》の様を見て笑っているかのような……そう、この笑い方。まぎれもなく遠い日のままの瑞麗《ルイリー》だ。
なら懐かしさに涙ぐんでもいい程なのに。なのに……この、そこはかとない不安は何だろうか。
「……」
謎めいた瑞麗《ルイリー》の態度に心惑わされるうちに、それまで意識すらしなかった疑問が、タオローの中に湧き上がる。
……果たして俺が、瑞麗《ルイリー》の何を知っているというのか?
彼女を元に戻す……そう心に誓った。死を賭すとも厭わない、それが濤羅《タオロー》にとって今生最後の執念だった。
だがその肝心の元の瑞麗《ルイリー》≠ノついて、果たして自分はどの程度のことを知っているのだろうか?
雅楽を愛し、いささか兄想いが過ぎて甘えがちで、着飾るときは白緞子、それも旗袍より胡服の着物が好きな……
だがその程度のことが瑞麗《ルイリー》のすべてなのかと問われれば、無論そんな筈はない。
そう、いつも瑞麗《ルイリー》は謎だった。ひょんなことから怒ったり、笑ったり……その目まぐるしい変化を愛でるばかりで、ただ振り回されていただけの濤羅《タオロー》には、彼女の心の動きを先読みできたことなど一度としてありはしなかった。
あらためて最悪の危惧が……かつて『左道鉗子』の診療所で懐いたのと同じ、決して直視したくなかった疑念が再来する。
もし五体のガイノイドからすべての魂魄を回収しても、それで甦った瑞麗《ルイリー》が元のままの彼女だと……そう確かめる術があるのか?
「瑞麗《ルイリー》、お前は……」
柔らかく滑らかな頬に掌を這わせながら、だが濤羅《タオロー》はそこで言葉に詰まる。
本当に孔瑞麗《コン・ルイリー》なのか?∞この俺の妹なのか?
問えはしない。問えるはずもない。
それを疑ってしまったら、今日まで化生《けしょう》に身を窶《やつ》して剣を執ってきた濤羅《タオロー》の、磨り減っていく生命と引き換えに戦い抜いてきた意味の、そのすべてが瓦解してしまう。
「お前は……」
鬩《せめ》ぎ合う心の軋轢に耐えきれなくなった濤羅《タオロー》を、そのとき、剣士としての感覚が救済した。
左手に掴んだ鞘の中から、刀身の冷気がじわじわと沁み出し、濤羅《タオロー》の五体に浸透していく。
刀気と同じ温度に冷えた意識の中で、感じ取る……幾重にも束ねた殺意の気配。
廟の外に誰かいる。警報機の仕掛けは作動していない。が、だからといって鍛え上げた武人の感覚に疑いの余地はない。
入り口の外で空気が動いた。何かサッカーボール大の球形のものが、歪に跳ねながら廟内へと転がり込んでくる。投げ込んだ者の所作に殺気はなかった。取り敢えず脅威の対象ではない。が……
足元まで転がってきたそれを、濤羅《タオロー》は爪先で押さえて止める。見覚えのある男の双眸が、死相となって濤羅《タオロー》を下から睨み上げていた。
昨夜ともに上海義肢公司を襲った、ミハイル・スチュグレフ。今や生首と成り果てたそれは、むろん外にいる連中が刈り取ってきたものだろう。永らく上海に根を張ったロシアン・マフィアの狗も、ここにきて命運が尽きたらしい。
「……」
こんなものを転がす代わりにガスかグレネードでも投げ込めば事足りようものを、あまつさえ外に居並ぶ殺気の群は、その存在を隠そうともしない。
彼らにとっては安易で着実な処刑より、まずは廟内に立て籠もる濤羅《タオロー》を畏怖せしめることこそ肝要なのだろう。それだけの憎しみ、それだけの怒り……そうするだけの理由を持ち合わせた者たち。
「瑞麗《ルイリー》、俺につかまれ」
兄の硬い語調に、遊びではないことを悟ったのだろう。瑞麗《ルイリー》は蕭々《しょうしょう》と従った。片膝をついて屈んだ濤羅《タオロー》の首に両腕を巻き付け、体重を預ける。
空いた右手に鞘込めの倭刀を携えて、濤羅《タオロー》は瑞麗《ルイリー》を抱いたまま、ゆっくりと廟の入り口から外に出た。
降りしきる酸性雨の帳《とばり》の中、殺意の群れは人型を取って佇んでいた。
見渡した限りで二十人はいようか。いずれも毒素の雨に躊躇いもなく晒した総身には、そこかしこに鋼鉄の輝きがある。
いずれ劣らぬサイバネ外家拳の使い手たち。当然ながら銃器を手にした者はない。その手に携え保つのは朴刀、狼牙棒、鉄扇、鶏爪鉞……半生を賭けた研鑽《けんさん》の果てに、ついにはその得物の操作に特化させて我が身そのものまで改造した、身器一体の戦鬼たち。
「……久しいな。『紫電掌』」
最初に口を開いたのは、雲をつく巨躯をレザーの長袍に包んだ重サイボーグ……『怒濤戟刀』の黄景東《ウォン・チントン》だった。異名の元となった総重量八十kgの方天戟を、いとも軽々と肩に担いでいる。
「『羅刹太后』を屠ったという噂の電磁発勁、ぜひ一つご指南賜りたく、我ら推参した次第」
勿体をつけた黄《ウォン》の口上に、居並ぶ拳士たちが失笑を漏らす。これより始まる戦いが一方的な殺戮に終わることは誰の目にも明らかだった。ご指南≠ェ聞いて呆れる。
さしもの濤羅《タオロー》ですら絶望せざるを得ない、それは壮々たる面子の揃い踏みだった。『四悪趣坊』古鐘萍《クー・チョンピン》、『烈士呉鉤』小澤如《シャオ・ツゥルー》、『鮫歯童子』舒宏偉《スー・ホンウェイ》……かつては濤羅《タオロー》ともども青雲幇に名を連ねた侠客たち。
いささか遅きに失したものの、ついに幇会が直々に濤羅《タオロー》抹殺に動いたらしい。
「……あにさま?」
身を押しつけた濤羅《タオロー》の心拍と体温を感じ取り、その胸中を余さず読みとったのだろう。物問いたげに兄の顔を窺う瑞麗《ルイリー》の面持ちは神妙だった。
濤羅《タオロー》は、彼自身にも意外なほど落ち着き払ったまま微笑する。
「しっかり掴まってるんだ。何も……心配はいらない」
今ここを死に場所にするわけにはいかない。まだ斌《ビン》と劉《リュウ》が生きている。瑞麗《ルイリー》の魂はあと二つの断片を残している。ここで終わらせるわけにはいかない。これが悪夢であろうとも……
「絶対に離さずに……目を閉じたままでいろ。そうすれば、すぐに済む」
そして何より、今この腕の中にまた、護らねばならないものがある。
敵はいずれも達人揃い。しかも鍔競り合ったところで何ら得るところはない。ここは逃げの一手に尽きる。
決め手となる紫電掌も、今度に限っては当てにはならない。氣を込めた掌打を繰り出そうにも、激しい体捌きに及んでは、左手は瑞麗《ルイリー》の腰を抱き支えているだけで塞がれる。右手は……防御に徹するとなればなおのこと、倭刀を手放すわけにはいかない。
だがこの窮地にあってなお、濤羅《タオロー》の心は軽かった。否、窮地なればこそ、と言うべきか。
倭刀の下げ緒を口に銜えて、右手一本で鞘から抜き払う。雨に晒された刀身から立ち上る剣気が、頬に冷え冷えと心地よい。
ひとたび剣を手に取れば、つい先刻まで苛まれていた葛藤の、その記憶さえ意中にない。
剣鬼たれ。ただ瑞麗《ルイリー》のためだけの剣鬼たれ。それで我が身は救われる。何もかもから解放される。
そう胸の内で高らかに唱いながら、濤羅《タオロー》は首を振って鞘を傍らに放り捨てると、居並ぶ群狼の包囲の中に、静かに一歩を踏み出した。
「黄《ウォン》たちが濤羅《タオロー》との交戦に入った模様です」
「……そうか」
SVリムジンの後部座席で身をくつろがせながら、斌偉信《ビン・ワイソン》は運転手からの報告に頷いた。
「その場に集まったのは何人だ?」
「『怒濤戟刀』、『鮫歯』の舒《スー》ほか十八名。さらに元氏双侠と鍾馗団の面々も現在向かっています」
「うむ……」
青雲幇が擁するサイバネ拳法家のうち、一流どころと目される使い手はほぼ全員が出揃った。
劉《リュウ》の支配体制に不満を懐く古参の幇会員たちの中には、むしろ孔《コン》に与《くみ》する感情を抱く者も少なくなかったが、それも昨夜までの話である。
孔《コン》の手引きによる上海義肢公司の襲撃、加えてついに公開された李《レイ》寨主殺害の証拠映像によって、侠客たちの足並みは揃った。今や孔濤羅《コン・タオロー》に同情を寄せる者は一人もいない。
最初からこうしていれば……それを思うたび、あの男によってもたらされた損失の大きさが悔やまれる。
正直なところ、あそこまでの真似を孔《コン》がしてのけるとは斌《ビン》も予想しなかった。たかが凶手くずれの一匹と侮っていたのは否めない。
その結果がこれだった。上海義肢公司は再起不能。もはや青雲幇は裏サイバネティクス市場からの撤退を余儀なくされた。この機に乗じてロシアンマフィアはシェアを独占することだろう。失地回復の望みはない。
孔《コン》への怒りもさることながら、今日までその暗躍を許してきた副寨主に対する不審の声も、当然ながら上がっている。劉《リュウ》にはもう、かつてのように人心を掌握して権威を振るうことは望めまい。
このまま幇会の中枢に居座り、パワーゲームの棋士であり続けようとするならば……もうこれ以上、劉《リュウ》を担いでいても甲斐はない。いやむしろ、彼を副寨主の座から追い立てるぐらいの腹づもりでいた方がいい。
李《レイ》寨主の死を公表し、外家拳士たちを動かしたのも、劉《リュウ》の了解を取り付けた上ではない。すべては斌《ビン》の独断だ。
これで充分、と、思いたいが……
決め手とするには弱すぎる。今の孔《コン》は理屈では推し量れない。有り得ないと思えた死地でさえ、まんまと切り抜けてのける男である。……もはや魔性の眷属と思ってかかった方がいい。
「やはり次善の策がいる。確実に奴を葬るために……
いま斌《ビン》が胸に秘めた策に、劉《リュウ》は間違いなく難色を示すだろう。だがそれを敢えて押し通す。そうできて初めて、今日までの二人の力関係を覆す端緒が掴めるのだ。
武者震いに胸高鳴らす斌《ビン》を乗せて、リムジンは一路、劉豪軍《リュウ・ホージュン》の私邸へと馳せた。
腕に抱いた人形によって必殺の掌打を縛られた濤羅《タオロー》は、右手の倭刀一本で渡り合うしか他にない。
だが装甲されたボディは尋常の斬撃など受け付けず、よしんば内勁を込めた一刀といえど、それが致命打になる保証もない。生身の人間と違って決まり切った弱点がなく、痛覚も持ち合わせないサイボーグが相手では、迂闊に必殺を狙ったところで逆に痛恨のカウンターを返されかねない。
唯一、明確な急所は脳……だが双方がそれと心得ているだけに、頭部を狙った攻撃はいち早く見抜かれてしまう。
必定、攻めあぐねて防戦一方に徹する羽目になる。勝てる道理など有り得ない。
にも、拘わらず……その頃|斌《ビン》が車中にあって危惧していた通り、まさに孔濤羅《コン・タオロー》の奮迅は魔性の域まで至っていた。
四方から打ちかかる敵の間を駆け抜けながら、その攻撃をことごとく躱わし、欺き、受け流し、数を嵩《かさ》にかけて攻めかかる外家拳士たちを旋風の如き体捌きで翻弄し続ける。
逃げに徹するのみならず、隙あらば倭刀の斬撃はサイボーグたちの頭蓋を襲う。むざむざ斬られることはなくても、上段のガードを誘ったその一刀は、一転して足元を狙う周到な騙し討ちへと変化する。
一人、また一人と脚部を斬り落とされる者が続出し、戦場が刻一刻と位置を変えるうちに包囲の輪が綻びていく。
だがそれでも、形勢は変わらない。遅れて駆けつけた幇会の拳士たちが続々と追いすがり、脱落者に取って代わっていく。
雨の中、いつ果てるとも知れぬ死闘を続ける濤羅《タオロー》の形相は、まさに修羅のそれだった。浅く掠め過ぎる刃や棘に幾多とも知れぬ傷を負い、その背に降り飛沫《しぶ》く雨を薄紅色に染めながら、なお竜巻の如き腿力も、振りかざす刃速も衰えない。
そんな光景を、劉《リュウ》は自室でくつろぎながらスクリーン越しに眺めていた。
「見えるか? 瑞麗《ルイリー》。お前の兄の戦いぶりが」
「……」
その画像の意味するところを解しているのか否か、劉《リュウ》の膝の上のガイノイドは、ただ漫然と気怠げな眼差しをスクリーンに注いでいる。
画像は戦場を遙か七百mの彼方から見守る偵察ドローンから送られてくる。死闘を演じる誰一人として、その覗き見に気付く者はない。
『このままでは、孔濤羅《コン・タオロー》は包囲を突破してしまいますが』
「その様子だな」
ドローンの操作要員が無線でよこす報告に、劉《リュウ》は鷹揚《おうよう》に相槌を打つ。
『……宜しいのですか? 我々から援護もできますが』
「それには及ばん」
「濤羅《タオロー》が離脱し次第、帰投しろ。誰にも気付かれんようにな」
すげない指令を下して無線を切ると、再び劉《リュウ》は人形の肩を抱き寄せ、その耳元に囁きかける。
「しっかりと目に焼き付けておけ。あの奮闘も、すべてお前一人を求めてのことだ」
「……」
「今はまだ遠い画《え》だけしかないが……いずれはすぐ間近から見せてやれる」
「そのときは、奴の叫びを聞いてやれ。涙の味を舐めてやれ」
「奴の流す血の一滴一滴までが……瑞麗《ルイリー》、すべてお前のものなんだ」
『四悪趣坊』が振り下ろす狼牙棒の下をかいくぐり懐へと飛び込んだところで、濤羅《タオロー》は一刹那だけ、首に廻された瑞麗《ルイリー》の腕に注意を向ける。
細い腕は彼の首を固く掻き抱いたまま緩んでいない。今このタイミングでならば振り落としてしまう気遣いはない。
そう確信するや否や、濤羅《タオロー》は彼女の体重を支えていた左腕を解き、乾坤一擲《けんこんいってき》の氣を乗せて紫電掌の一撃を放っていた。
「グワガァァァッ!!」
予期しなかった致命打に総身を強張らせ、足元を流れる汚水の中へと飛沫を上げて倒れ込む四悪趣坊。濤羅《タオロー》は再び瑞麗《ルイリー》の腰を抱きとめるや、即座に倭刀を構え直して次なる相手に備え……そこでようやく静寂に気付く。
落雷直前の帯電のように、辺り一面に張り詰めていた殺気が、今はない。
倭刀を握ったまま右手の裾で、額から目に流れ込む血を拭い取る。いざ普段の視界を取り戻してみると、さっきまでの暗く狭窄《きょうさく》な視野が嘘のようだった。
豪雨によって嵩《かさ》を増し、流れの速まった水路の底に、濤羅《タオロー》は膝まで汚水に浸かりながら立っていた。立ち回りに没頭するあまり、どこをどう辿ってこんな場所にまで到ったのか、今となっては記憶が判然としない。時間の経緯さえ見失うほどに、戦いは長く熾烈を極めた。
ともあれ、今倒した敵を最後に、追撃者たちの姿は見当たらない。
撒いた……のか?
数十人もの戦闘サイボーグを相手取り、その包囲から脱したとは……まさに奇跡に等しい僥倖だった。
だが予断は許されない。すべての追っ手を切り伏せながら逃げ延びてきたわけではない。大半は乱戦の最中で濤羅《タオロー》を見失ったというだけのことだ。
ぐずぐずしていれば、すぐにまた捕捉されるだろう。今のうちに安全圏まで逃げ延びるしかない。
一歩踏み出そうとしたところで……突如、肺腑を内から引き裂くような激痛に見舞われ、濤羅《タオロー》はつんのめるようにして蹲る。
く……
かつてない程の内傷の疼き……連日に渡って駆使してきた電磁発勁のダメージが、ついに濤羅《タオロー》の命を脅かすまでに累積したらしい。
早すぎる……そう濤羅《タオロー》は胸の内で歯噛みする。
あと二人……劉《リュウ》と斌《ビン》……奴らを斬らねば、死んでも死にきれん……
水路の側壁に背中を預けて、膝の笑い出した両脚を辛うじて支えながら、濤羅《タオロー》は気息を整えて内傷の痛みを封じ込めようとする。
「くるしいの? あにさま」
左腕に抱いた瑞麗《ルイリー》が、か細い声で問うてくる。
「いや……大丈夫……」
その不安げな声に己の義務を思い出し、濤羅《タオロー》は空元気を振り絞って気丈を装った。
「大丈夫だ……もう少しで……休憩できるから……」
「くるしいのね、とっても」
憔悴にそげ落ちた濤羅《タオロー》の頬に、すべらかで柔らかい感触が押しつけられる。瑞麗《ルイリー》の頬だった。
「がまんしないで。いたいのも、くるしいのも、みんなルイリにちょうだい」
ぴったりと頬を寄せたまま、瑞麗《ルイリー》は兄の耳元に囁きかける。
「こうやって、すいとってあげる。だからあにさま、ないていいよ。こわがっていいよ。ルイリがいっしょだから」
「瑞麗《ルイリー》……」
事情をまるで弁えていない彼女だが、それでもその健気な言葉の真摯さだけは本物だった。苦痛とは異なる熱いものが、濤羅《タオロー》の胸に込み上げる。
死んで……たまるか……
俺はもう、独りじゃない……もう決して瑞麗《ルイリー》を独りにはしない……生きて……帰るんだ。二人で……
間近に迫った死期を前にして、あまりにも虚しい誓い。だがそうでもしなければ、濤羅《タオロー》は膝を支えていられなかった。もうただの一歩も踏み出せそうになかった。
水の流れに逆らって水路を溯り、ようやく堤の上にあがるタラップに辿り着く。倭刀の峰を口に咥え、空いた右手で一段目に掴まったところで、はたと濤羅《タオロー》は動きを止めた。
「……あにさま?」
緊張を察した瑞麗《ルイリー》もまた、わずかに声を固くする。
再び倭刀の柄を右手に掴み直して、濤羅《タオロー》は肩越しに背後を窺った。殺気の主は、後方頭上……水路対岸の堤の上に二つ並んだ、鏡写しのように類似した立ち姿。
「|往生際が悪いぞ《往生際が悪いぞ》、紫電掌《紫電掌》」
二人同時に発する声が、まるで伽藍《がらん》に反響するように重なって耳に届く。
「|我ら元兄弟に背中を見せながら《我ら元兄弟に背中を見せながら》、|なお生きて逃れる所存か《なお生きて逃れる所存か》?」
両者とも寸分たがわぬ仕様の重装サイボーグ。ともに両手に一対の武器を携え、ただその得物だけが相違する。
護手鉤《ごしゅこう》を繰るのが兄の元家英《ユン・カーイン》、浮萍拐《ふへいかい》を使うのが弟の元尚英《ユン・ソーイン》。濤羅《タオロー》からしてみれば、今この場では誰よりも遭いたくなかった二人であった。
「……先に行くんだ。瑞麗《ルイリー》」
双侠の姿を油断なく視野の隅に捉えつつ、濤羅《タオロー》は左手に抱えていた瑞麗《ルイリー》をタラップに掴まらせる。
「ルイリ、あにさまといっしょにいたい……」
「駄目だ」
今度ばかりは濤羅《タオロー》も、妹に甘い顔を見せる余裕はなかった。あの双子の恐ろしさは充分に心得ている。瑞麗《ルイリー》を庇いながら戦える相手ではない。
「この梯子を登った先で待ってるんだ。俺もすぐに行くから」
「……」
切なく視線で訴えかける瑞麗《ルイリー》だったが、兄の横顔から切迫した気配を感じ取ったのか、最後には悄然と頷いた。
「あにさま、これ……」
瑞麗《ルイリー》はタラップに掴まりながら、帯に挟んでいた金属棒を引き抜いて濤羅《タオロー》に手渡す。呉淞口の海岸で拾った廃品のチューブ。彼女が雅楽遊びに使う桴《ばち》だった。
「おまもりなの。もってて」
「……わかった。ありがとう」
せめて彼女を安心させようと濤羅《タオロー》は笑顔を装って、受け取った金属チューブを腰の後ろのベルトに挟む。
「さあ、早く行け」
「……うん」
植えられたタラップ間の距離は成人向けで、瑞麗《ルイリー》の小さな背丈では身体を精一杯に伸ばさなければ次の段を掴めない。
それでもようよう上へと登っていく瑞麗《ルイリー》を見届けてから、濤羅《タオロー》は身体ごと対岸へと向き直った。
そんな濤羅《タオロー》に応じるように、元氏双侠もまた軽い身ごなしで水路の中へと身を躍らせる。
汚水の急流の中へと着地する二人だが、着水の水飛沫はごく僅かで慎ましい。ただこれだけの動作でも卓越した体術の功が窺い知れる。
「貴様が本当の意味で、マカオから生きて帰ってくれたなら……我ら、心から喝采できたのだがな」
「我らの知る孔濤羅《コン・タオロー》は、やはり異境にて果てたらしい。貴様は、ただの抜け殻だ」
「……」
「副寨主やその一派との間に、どういう確執があったのかは知らぬ」
「だがいかな由縁があったにせよ……幇への忠義まで見失う理由があろうか」
忠義、か
「フン……」
こうして外道に堕ちた身で聞けば、なんと虚しい言葉だろうか。
瑞麗《ルイリー》こそが全てだった。彼女だけが全てを癒してくれた。その重さを、尊さを悟ったのは、すべて失った後だった。
義侠が何だ。忠孝が何だ。そんなものに意味があったなら、なぜ瑞麗《ルイリー》はあんな目にあった?
「揃いも揃って能書きばかりが達者だな。外家のお歴々は」
邪に口元を笑み歪めながら、濤羅《タオロー》はかつての朋友たちを憎々しく挑発する。
「つくづく、くだらん。そんなお題目に顕現《けんげん》があるというのなら、ぜひともご教授願おうじゃないか」
「貴様は……」
怒気に殺意を滲ませて、双侠は身構えつつにじり寄る。
「義と忠孝は侠者の魂。その魂を失った貴様は、もはや生ける亡者も同然」
「亡者は在るべき所へ還れ。いざ、我らが天誅の前に倒れ伏すべし」
誰から踏み出すともなく……三者は互いに渦を描くようにして、足元の汚水を踏み散らしつつ移動し始めた。
回り込み、回り込まれ、つねに三者のいずれか一人を焦点に、残る二人が渦を描いて左右に馳せる。堤の上から見下ろせば、それは奇怪な組円舞と見えたかもしれない。
かつてこの兄弟は母胎にいる間に環境汚染の影響を受け、半身の繋がった身体で産まれ落ちたという。内臓の大半を共有せざるを得ず、寿命を悲観されていた兄弟だったが、そんな幼い二人を救ったのは、当時ようやく普及の兆しを見せはじめたサイバネティクス技術であった。
生まれながらにして半身の機械化を運命づけられ、ともにサイバネ外家拳士としての人生を選んだ元兄弟。そんな彼らがその生涯を費やして会得した外家の功とは、一糸乱れぬ絶妙のコンビネーション殺法だった。
決して挟み込まれぬよう、つねに両者を同時に視界に収めるべし……
もし挟撃を許せば、即ちこちらの命運は尽きる
濤羅《タオロー》は彼らの戦術を知っていた。双侠との戦いは、つねに間合いの読み合いである。一方が迫ればそれは嘘。むしろ残るもう一方を意識して、側面へ回り込まれるのを避けねばならない。
極度の緊張を強いられたままの、一触即発の死のステップ。ただ立っているだけでも目が眩む有様の濤羅《タオロー》にとっては、一歩毎に気力が足から漏れ出ていくかのようだ。
持久戦に勝機はない……
そう断を下した濤羅《タオロー》は、誘いかけるように寄ってきた相手から退くと見せかけて足を踏み換え、迅疾の剣刺を突き入れた。
対するは兄の護手鉤《ごしゅこう》使い、元家英《ユン・カーイン》。ぬかりなく右手の得物の湾曲した鉤部分で倭刀の切っ先を掬いつつ、左の護手鉤《ごしゅこう》の月牙部分で斬り込んでくる。
攻防一体を旨とする護手鉤《ごしゅこう》は、握った拳面を覆うように配された月牙と拳輪側の棘で攻めかかるかたわら、拳眼側に大きく突き出た鉤で相手の得物を絡め取り破壊する機能も持つ。それを左右一対で繰れば効果は倍増だ。硬く細身の倭刀で立ち会うには、甚だ与《くみ》しにくい相手である。
濤羅《タオロー》は左右の鉤に倭刀を奪われないよう機敏に刀身を翻しつつ、それでも間断なく攻めかかる。さらに眼法では打ち合う家英《カーイン》のみならず、その向こうに控える弟・尚英《ソーイン》も捉えて逃がさない。
兄と剣戟を散らす濤羅《タオロー》の側面に、すかさず回り込もうとする尚英《ソーイン》からは、常に反対側へと身を滑らせて逃れ続ける。
立て続けの刺突を浴びせて家英《カーイン》を足止めしながら、その体躯を遮蔽物にして尚英《ソーイン》から身を隠す……流水の中の円舞は、家英《カーイン》を中心に濤羅《タオロー》と尚英《ソーイン》が巡り廻る形となった。
濤羅《タオロー》が引いた倭刀の剣先を、なお捉えようと連続して鉤を振った家英《カーイン》が、ともに空振って護手鉤《ごしゅこう》を左右に開く。
絶好の反撃のチャンス。ここぞとばかり濤羅《タオロー》は戴天流『貫光迅雷』の一突きで勝負をかける。
だがそれは誘いだった。まんまと濤羅《タオロー》を釣った家英《カーイン》は背転跳躍で大きく後ろへと身を翻し、入れ違いにその下を潜り込むようにして、背後に控えていた尚英《ソーイン》が水面すれすれの旋風脚で濤羅《タオロー》の膝に襲いかかる。
慌てて飛び退く濤羅《タオロー》に、尚英《ソーイン》は旋転の勢いを殺さず、そのまま独楽のように回りながら浮萍拐《ふへいかい》の連続攻撃を仕掛けてくる。苛烈な勢いに押され、今度は濤羅《タオロー》が防戦一方に立たされる形となった。
拙い、これは……!!
慄然となった時にはもう遅い。尚英《ソーイン》と入れ違いに濤羅《タオロー》の刃圏から逃れた家英《カーイン》は、易々と濤羅《タオロー》の背後に回り込んでいた。
進退、ここに窮まる。
兄弟の連携がその神髄を見せる必殺奥義『阿吽覆滅陣』……左右から一斉に襲いかかる双鉤、双拐の同時連続攻撃。
拐の連打に撲殺されるか、或いは護手鉤《ごしゅこう》の月牙で鱠《なます》に刻まれるか。いずれにせよ二人の間に挟まれた獲物を待ち受けるのは、逃れようのない死あるのみ。四つの凶器から繰り出される怒涛の連撃は、ただの一刀で凌ぎきれるものではない。
死線に晒された濤羅《タオロー》が、そのとき咄嗟に手を伸ばしたのは……瑞麗《ルイリー》から渡されていたお守り≠フ桴《ばち》。彼女が肌身離さず持ち歩いていた金属チューブだった。
ベルトから引き抜いたそれを鉄鞭代わりに尚英《ソーイン》の浮萍拐《ふへいかい》を防ぎ、右手の倭刀では家英《カーイン》の鉤に応じる。俄仕立ての二刀流で、濤羅《タオロー》は双侠の覆滅陣を迎え撃った。
「見事なり、紫電掌」
切れ目ない剣戟音の向こうから、双侠の揶揄《やゆ》する声が届く。
「だがその奮迅、いつまで保つかな……」
倭刀は……無銘とはいえそれなりの業物。濤羅《タオロー》の手練にも積み重ねてきた功がある。だが馴染みの薄い硬鞭術、加えて特に鍛造されたわけでもない廃物のチューブが得物では、達人の技と渡り合うには荷が勝ちすぎる。
刀剣とは間合いの勝手が違う上、鉄製の管には次第次第に罅が走り、破壊の兆しを見せている。必定、濤羅《タオロー》は鉤の家英《カーイン》の攻めをせき止めながらも、拐の尚英《ソーイン》にはじわじわと肉薄されつつあった。
凌ぎきれるか……
息が上がりはじめた濤羅《タオロー》は、一か八か、攻めかかる尚英《ソーイン》の眼前でコートの裾を振り払う。突如目の前で翻った布地に尚英《ソーイン》が怯んだ隙をついて、起死回生の足技『臥龍尾』。
踵は相手の顔面を捉えたが、踏み込みの浅い足技は勁力が足りず充分な威力に至らない。だがそれでも不意打ちの一撃は尚英《ソーイン》の動きを遮り、覆滅陣の連環に綻びを作った。
ここぞとばかり濤羅《タオロー》は汚水の中に身を転がして、すかさず双侠の狭間から逃れ出る。
仕切り直すにも、まずは距離……再び包囲されないだけの間合いを稼ぐのが先決だった。濤羅《タオロー》は軽功の脚捌きで迷わずバックステップに移る。
縦列のまま突進して追いすがる双侠。もろともに一方向へ馳せるばかりなら左右の挟撃には持ち込めまい。
……そう安堵しかかった濤羅《タオロー》の予断を、双侠はまたも連携の体技で裏切った。
後続の尚英《ソーイン》が大きく地を蹴って、先行して駆ける家英《カーイン》の肩へと飛び乗り、そこを足場にさらに高々と宙に身を躍らせる。……退がる濤羅《タオロー》の頭上を飛び越えて。
挟撃は、なにも左右から仕掛けるばかりではない。
……!!
濤羅《タオロー》は次手に詰まった。今さら左右に逃れようにも下肢の運びが間に合わない。
退けばそこは尚英《ソーイン》の落下点。正面と頭上からの同時攻撃に晒される。かといって動かず家英《カーイン》を迎え撃てば、背後に着地した尚英《ソーイン》によって再び挟み込まれる形になる。
対処の術を即断したのは濤羅《タオロー》の意識でなく、右の一刀と左の鉄鞭……一刀如意≠フ境地に至った手中の得物そのものだった。
ますは斜め後方頭上の尚英《ソーイン》。先に見て取った跳躍の勢いだけで落下軌道を読みとりながら、そこに左手の金属チューブを擲《なげう》つ。さらに、そのまま半身になりながら右手一本で倭刀の刀身を水平に寝かせ、打ちかかる家英《カーイン》の双鉤を同時に受け止める。
凝ッと背筋を逆撫でるような騒音を響かせて、倭刀と噛み合う二本の鉤。だが濤羅《タオロー》が耳を向けるのは、後方……飛来したチューブを打ち払う尚英《ソーイン》の拐の音。
かかった……
敵の得物を捉えた家英《カーイン》の鉤は、その本来の用途のままに、倭刀の薄い刀身を砕き折るべく勁力を注ぎ込まれ……だがそこで、逆に倭刀に曳かれる形で突進方向へと吊り上げられた。
「む!?」
濤羅《タオロー》は敢えて下肢を崩し、突進してきた家英《カーイン》の上体を真上へと逃がしたのである。仰向けのまま水中に倒れた濤羅《タオロー》は、倭刀の柄を放すや否や、つんのめる姿勢で大きく泳いだ家英《カーイン》の胸板を腿力の限りに蹴り上げる。
まんまと巴投げの要領で投げ飛ばされた家英《カーイン》の先には、今まさに着水寸前の尚英《ソーイン》の身体があった。既にフェイントで投げられた金属チューブに応じてしまった尚英《ソーイン》には、咄嗟に対応しようにも間に合わない。
空中で衝突した双侠は、もつれ合うようにして水面に落下し派手な水飛沫を上げた。
「おぉぉッ!!」
間髪入れず跳ね起きた濤羅《タオロー》は、鬼面の相で雄叫びを上げながら、二人が起きあがるのに先んじて躍りかかる。今や左右ともに空となった諸手はともに掌打……もはや気息の限りを託して放つ双撃紫電掌の構え。
二本の護手鉤《ごしゅこう》を引っかけたまま宙高く飛んでいた倭刀が、猛スピードで旋回しながら落下して水面を貫き、底のヘドロに突き刺さる。絡み合った三つの刃物が鏘然とさんざめき……そして死闘は幕を閉じた。
屍肉と鉄屑と相半ばの躯が二つ、逆巻く流れに運び去られながら沈んでいく。独り生き残った濤羅《タオロー》には、だが友を手にかけた感傷に浸る余裕もなかった。頽れかかる膝を震わせながら、ただ気息の導引だけに意識を向ける。
いま気息を乱したら、終わりだ。衰弱の極みにあった身体に鞭打って、なおも電磁発勁の大技を駆使したのである。ほんの僅かでも気を緩めたら、たちどころに肺腑の血管が裂け破れよう。
まだだ……まだ……
内傷を癒す径絡の順路……中涜《ちゅうとく》から風市《ふうし》、環躍《かんやく》へと氣を運び、淵液《えんえき》の間から戻して循環させる。薄氷を踏むように慎重に気息を巡らせつつ、濤羅《タオロー》は家英《カーイン》の護手鉤《ごしゅこう》を払い落として倭刀を引き抜き、ゆっくりと流れを渡って側壁に辿り着く。
タラップにかけた手は、己の体重さえ支えられるか危ういほどに震えていた。だがこの梯子を登り切れば、そこに瑞麗《ルイリー》が待っている。早く顔を見たい。無事な姿を見せてやりたい。
指が痺れる。目が霞む。タラップを登る四肢に力が入らない。あと何段登れば堤の上なのか、それさえも解らない。
次の一段で、きっと着く。また瑞麗《ルイリー》と再会できる。そう祈りつつ、己に言い聞かせつつ、無限に思える反復運動を繰り返す。
あの子をちゃんと安心させたら、ほんの少しだけ一緒に休もう。次の、その次の死闘の前に。
俺は……死なない
「瑞麗《ルイリー》が俺を支えてくれる。復讐の誓いはまだ胸にある。まだ……
降りかかる雨の勢いが、ずっしりと背中にのしかかる。その重さに耐えて、酸性雨に蝕まれ変色したコンクリートの表面を見つめながら……気がつけば濤羅《タオロー》は堤の上で四つん這いになり、荒い息を吐いていた。
登攀は、すでに終わったのだ。
「あにさま?」
呼ばわる声に顔を上げれば、瑞麗《ルイリー》はすぐ目の前に。万感極まった濤羅《タオロー》の意識が、つい導引のリズムから逸れる。
その途端、喉から夥しい吐血が迸った。
壊死した肺胞の組織もろとも吐き出された鮮血が、コンクリートの上で毒々しい飛沫の花弁をまき散らす。昏倒しかかるのを必至に堪え、濤羅《タオロー》は絶え間ない喀血《かっけつ》をひたすらに耐え抜いた。
このまま意識を失えば、もう二度と目覚めることはない……それは本能的に察しがついた。
自分自身の血に溺れ噎せ返り、息を吸うことさえ叶わない。そんな、いつ終わるとも知れぬ責め苦が続く。
ようやく、わずかながらも浅い吸気を取り戻した頃には……濤羅《タオロー》は堤の上に仰臥したきり、起きあがる気力さえ失せていた。手足が重い。感覚が遠い。まるで我が身のものとは思えない。
それでも、まだ生きてはいる。取り敢えず今回のところは、死神の誘いを退けたらしい。
頭を押しつける硬いコンクリートの感触が、ふいにふわりと離れた。
瑞麗《ルイリー》だ。細い腕で難儀しながらも濤羅《タオロー》の頭を抱え上げ、間近に顔を寄せている。健気な腕力での抱擁はいかにも危うく弱々しいが、それでも濤羅《タオロー》は雲の上に乗ったような安らぎを覚えていた。
「いたいね。あにさま、くるしいよね」
「でももう、だいじょうぶだからね……」
「瑞麗《ルイリー》……」
少しでも多くの酸素を求めて薄く開いた口に、柔らかく芳しい感触が押しつけられる。
瑞麗《ルイリー》の唇。その優しい感触に陶然としかかって……えもいわれぬ違和感が濤羅《タオロー》の意識を急激に醒めさせた。折しもそんな彼の歯の隙間から、やおら蠱惑的に蠢く小さな舌が滑り込み、口腔をゆるりと一巡していく。
身悶えして抵抗しようにも、今の彼には瑞麗《ルイリー》の腕を振りほどく力さえ残っていない。
「あにさまの、あじがする」
艶然と笑う瑞麗《ルイリー》の唇も、その奥でちらりと覗く舌先も、濤羅《タオロー》の血の色に染まり濡れ光っていた。まるで色鮮やかな口紅を挿したかのように。
「瑞麗《ルイリー》、何を……」
「おもいだしたの。いろんなこと」
「ルイリはもう、しってるの。どういうことすると、らくになれるか」
解らない。こんな笑い方をする瑞麗《ルイリー》は知らない。濤羅《タオロー》の知る妹は……こんな顔で笑ったりしない。
慈しむように濤羅《タオロー》の顔を覗き込みながら、瑞麗《ルイリー》は下肢だけで腰の上によじ登り、馬乗りの姿勢になる。
「ルイリはね、いろんなひとのオモチャだったの。みんな、いつもおこってたり、こわがってたり」
「でもそのひとたちは、ルイリのこと、いじめたり、こわしたりして、そうするのがきもちよくて、しあわせになれたの。すこしだけ」
「……おまえ……」
思い出した≠ニ、彼女は言った。そう……有り得ない話ではない。樟《ジャン》の処にいたのも、朱《チュウ》の処にいたのも、ここにいる瑞麗《ルイリー》なのだから。
「だから、あにさまもルイリをたべればいいの。そしたらきもちよくて、らくになるの」
シャツの裾から忍び込んだ指先と掌が、妖しく濤羅《タオロー》の腹を胸板を這い上る。そんな風に触ることによって雄の身体からどんな反応が返るのか、委細承知しているかのように。
蕭……と、彼女の腕輪の鈴が鳴る。甘く妖しく囁くように。
「……やめ、ろ……」
そんなことは求めていない。決して許されはしない。
俺は……お前をそんな目に遭わせた奴らが許せなくて、俺は……
「だってね、だってね、ルイリはいつもいろんなひとにたべられながら、あにさまのこと、おもってたんだよ」
「あにさまも、こんなふうにルイリをたべてくれたなら、しあわせにしてあげられたのかなって」
妹の指先に乳首を弄《いら》われる、おぞましいほどに過敏な感触。囁きかける瑞麗《ルイリー》の、もう一方の手は下へ……濤羅《タオロー》のベルトのバックルへと伸びる。
「だからね? あにさま」
「……ッ!」
右腕は……動ける。言うことを聞く。そう気付くや否や、濤羅《タオロー》は覆い被さる瑞麗《ルイリー》の項《うなじ》に手を回し、盆の窪にある感圧スイッチを強く押し込んでいた。
拍子抜けするほど呆気なく、瑞麗《ルイリー》はくたりと脱力したきり動かなくなった。
「……あ……」
張りの失せた関節がぐらりと傾ぎ、彼女の矮躯はまるで壊れた玩具のように無造作に、仰臥する濤羅《タオロー》の上から転げ落ちる。見開かれた瞳からは、さっきまでの輝きが嘘のように消え失せ、今はガラス玉のように虚ろな光沢が残るだけ。
いざ動力が切れてしまえば、彼女はあくまで人形だった。懐かしい笑顔を見せて、懐かしい口調で語らうというだけの、生命なきからくり細工。
もう一度スイッチを押せば、彼女はすみやかに再起動するだろう。幾分も損なわれることなく、その有機メモリの内容物がまた再生される。それは生前の瑞麗《ルイリー》の、まぎれもない魂の一部の筈……
……そうなのか?
再び人形の項《うなじ》に指先を置き、あと数ミリ指を押し込むだけのところで、濤羅《タオロー》は動けなくなる。
濤羅《タオロー》はこの子に、身も心も差し出すと誓った。たとえ記憶が欠けていても、言葉遣いが危うくても、それでも濤羅《タオロー》は確信していた。共に育った兄妹だからこそ解る本質的な部分で、彼女はまぎれもなく妹の瑞麗《ルイリー》だった。それを疑わせる兆しなど何一つなかった。
だが、さっきのあれは何だったのか?
あんなにも妖しく濤羅《タオロー》を誘惑し、堕とそうとした少女。あんな媚態は、断じて瑞麗《ルイリー》のものではない。濤羅《タオロー》の知る妹は、もっと優しく貞淑で、穢れを知らない乙女だった筈だ。
いったい何処で……何がどう間違ったのか?
この人形に宿っているのは、本当に瑞麗《ルイリー》なのか? それとも彼女のふりをしている何か別のものなのか?
そうだ。魂が不滅だなどと……一体どこの誰が保証してくれたのか?
思えばあの左道鉗子でさえ、最後まで言明はしなかった。
「判らんよ」
「言っただろう? 実験だと。結論はこれから出る」
そう……あの男はただ単に、結果に対して無責任な予測を示したに過ぎない。
自分は今日の今日まで、ひどく虚しい奇跡を信じ続けてきただけではないのか?
雨よりなお冷たい認識が、音もなく濤羅《タオロー》の脳裏に染み渡っていく。
たとえば屠殺され、目方を量って切り分けられた牛の肉を、ふたたび一頭分かき集めたとする。それで牛が生き返るかといえば……もちろん否、だ。それはただの屍肉の山でしかない。
たしかに量子化された情報は、時とともに腐れたり欠損したりするものではない。回収したそれは情報量としての帳尻は合うだろう。
だが魂とは、もっと神聖で未知なるものではないのか? ただのコードの羅列と同次元に扱えるものなのか?
ルイリーの魂は、生まれ持った肉体から無理矢理に引き剥がされて量子化され、分断されたまま一年ものあいだ放置されてきた。
その課程で何の変質もなかったとなぜ言えようか? 今になって無事に繋がって再生するなどと、何を根拠にそんな望みを懐けるのか?
今日までの戦いが、まさか何の意味も持ち合わせない徒労だとしたら……
「違う……」
とめどなく脳裏を過《よ》ぎっては去る絶望を、濤羅《タオロー》は声の限りに否定する。
「違う! 断じて違うッ!!」
彼女は濤羅《タオロー》の名を呼んでくれた。笑顔を投げかけ、途切れ途切れの思い出を語ってくれた。
いま縋れるのはその記憶だけ。ほんの刹那だけ味わった、慰めの感触だけ。
「瑞麗《ルイリー》……」
力なく呻きながら、濤羅《タオロー》は人形の無反応な頬を掌で包み込む。
彼女はさらに変わっていく。残る二体のガイノイドから魂魄を回収していけば……その都度、瑞麗《ルイリー》は新たな側面を取り戻し、身につけていくことだろう。それはかつて、彼女の一部分であった筈のものなのだから。
だがすべての変化を遂げて完全なる魂となった後、彼女は……彼の愛した妹で居続けてくれるのか?
「お願いだ……お願いだから、瑞麗《ルイリー》……」
天意も神仏も見放した彼が、今さら何に縋り、乞い願えばえばいいのか。それすらも判らず濤羅《タオロー》はただ嗚咽に声を震わせるしかなかった。
「……戻ってくれ。元のお前に……俺の知ってる瑞麗《ルイリー》に……」
土砂降りの雨の中、誰に聞き届けられることもなく、濤羅《タオロー》はただ泣き続けた。
「ようこそ盟証」
劉《リュウ》は席を立ちもせず、いつも通り人形の瑞麗《ルイリー》に酌させた玉杯を呷りながら、斌《ビン》を自室に迎え入れた。口上がどうあれ、その歓待が口先だけなのは、漫《そぞ》ろな声音を聴けば敢えて察するまでもない。
「……折り入って相談がある」
「ふむ?」
ようやく劉《リュウ》は顔を上げ……だがその視線は斌《ビン》を素通りし、彼の傍らに侍るガイノイドへと注がれる。孔瑞麗《コン・ルイリー》より魂魄転写され斌《ビン》へと贈られた一体……『ラースヤ』である。
「お前が人形同伴とはな。珍しいこともあったものだ」
人もなげな劉《リュウ》の態度にも苛立ちを表に出さず、斌《ビン》は平静を装って切り出した。
「濤羅《タオロー》の始末に秘策がある」
「ほほう」
「俺に断りもなく幇会の外家拳士たちを死地に追いやっておきながら、ここにきて秘策ときたか。……宜しい。伺おうじゃないか」
そこまで早く情報を把握している劉《リュウ》に対し、斌《ビン》は畏怖より先に疑念を懐いたが、今ここで拘《こだわ》ることでもない。まずは本題が先決だ。
「この『ラースヤ』を使う」
「昨夜も呉《ン》が試した手だ。このガイノイド自体を武装させ、奴にぶつける」
「……俺からの贈り物を、随分と粗略に扱ってくれるな」
案の定、咎めるような劉《リュウ》の声音。だがそれも予測の内である。劉《リュウ》がその秘蔵のガイノイドに寄せる執着を知ればこそ、斌《ビン》はこんな提案を持ち出したのだ。
相手には気取られぬよう、斌《ビン》は左眼窩に埋め込んだ多機能義眼を録画モードに切り替え、隣室に控えている付き人へ画像と音声を送信し始めた。
手筈は万事、申し合わせている。これから斌《ビン》と劉《リュウ》が交わす会話の内容は、余さず幇会内のネットワークへと配信されるのだ。
「孔《コン》の目当てはこいつらのメモリの中身だ。真っ向から壊すこともできず、それだけで剣が鈍る」
「結果として呉《ン》の人形は敗れたが、策そのものは悪くない」
これを卑劣な手段と嘲る者が幇会内に現れよう筈がない。すでに腕に覚えのある者は総出で孔《コン》に挑みかかった後である。
「今度は自爆を前提にして、対人地雷も積ませよう。さらに二体を同時にけしかければ……確実に濤羅《タオロー》を殺れる」
「二体、だと?」
「そうだ。あんたの人形も借り受けたい」
「単体で戦わせても呉《ン》のときの二の舞になりかねん。ここは大事を期して臨みたい」
「……」
怒っているのか、呆れているのか……一切の反応を見せぬまま、劉《リュウ》はまた瑞麗《ルイリー》に玉杯を差し出して汾酒を注がせる。
さぁ、どう出る? 鬼眼麗人
劉《リュウ》にとってはかけがえのない恋人を模したガイノイド。だが副寨主の自覚があるのなら、この提案は決して断れまい。躊躇する一分一秒が、劉豪軍《リュウ・ホージュン》を幇会の笑い者へと変えていく。
「解るだろう豪軍《ホージュン》。玩具ひとつに拘《こだわ》ってる場合じゃないんだ」
真摯な語調を装って畳みかけつつ、斌《ビン》は胸の内で嗤う。せいぜい醜態をさらすがいい。皆が見ている。これで誰が幇のトップに相応しいか知れ渡ろうというものだ。
「断る」
劉《リュウ》の返答は短く、そして速やかだった。あまりのことに斌《ビン》が怒声を放つタイミングさえ逸しているうちに、眼差し涼やかな美丈夫はさらに飄々と言葉を重ねた。
「みすみす壊すと解っていれば、その人形もお前には預けておけんな。偉信《ワイソン》」
「その『ラースヤ』も返してもらおう。置いて行け」
「あんたは……」
もはや演出でも何でもない、本物の怒りに眩暈さえ覚えながら、斌《ビン》は言葉を搾り出す。
「あんたは幇と人形と、一体どっちが大事なんだ!?」
「どっちも俺の玩具だ」
「どちらを壊すのも俺の勝手だ。貴様の口出しは許さん」
傲然と言い放つ劉《リュウ》の声には、何の邪気も気負いもなかった。
「……狂ったか? 豪軍《ホージュン》」
「俺が正気だとでも思っていたのか? 今日まで」
「俺は新妻《にいづま》を貴様らに輪姦させた上、五つに引き裂いて配った男だぞ。そんな奴が正気だとでも?」
「……ッ!!」
あらゆる表情を欠落させてわななく斌《ビン》に、劉《リュウ》はさらに笑いかける。
「どうした偉信《ワイソン》? あまり心騒がすと、得意の暗器が冴えをなくすぞ」
「……ここで冴えなければ、どうだというんだ?」
「俺の頚《くび》を落とせん」
「ほざくな……」
劉《リュウ》の、この場に於いては異常と言える朗らかな微笑を前にして、斌《ビン》もまた引きつった笑みを浮かべる。
「貴様のその貧弱なボディを潰す程度、本気の五分も必要はない」
「ほう?」
「虚勢はやめろ。貴様のポテンシャルは承知している」
「死んだ呉《ン》のパーソナルデータを回収した。そこに、あんたのボディの仕様書もあったよ……」
「笑わせる。貴様の義体スペックは生身より幾分マシというだけの、屑同然の性能しかない」
「……」
脳と脊椎以外は総交換したと言われている豪軍《ホージュン》の義体だが、その内容は信じがたいほど貧弱なものだった。パーツ構成に、一切の電子デバイス、金属部品が含まれていないのだ。
|運動神経の鋼化《ハードワイヤード》もしていなければ機械駆動の関節もない。骨格のセラミック化と筋肉繊維の補強、あとは内臓に耐ショック構造を組み込んだだけ……これではお世辞にも戦闘用サイボーグとは言えない。
「貴様自身の設計だそうだが……そのボディの構成、孔《コン》を恐れてのことか?」
「何のことだ?」
「とぼけるな。結局貴様は、ことの始まりから孔《コン》との対決を見越していたんだろうが」
「あんたがマカオで孔《コン》にとどめを刺したというのは……あれは、嘘だな?」
「まぁ、な」
懐かしむように視線を泳がせる劉《リュウ》。
「もとより、あの程度のことで死ぬ奴とは思っていない」
「哀れな奴よ……」
「奴を殺し損なったばかりに、復讐を畏れて、敢えてEMPの影響を受けないパーツだけでボディを組み上げたわけだ」
「……だがその結果はどうだ?」
「その肌で刃を弾けるか? 拳で鋼鉄を砕けるか? 亜音速で機動できるような足腰か?」
「やれやれ……」
呆れ果てたと言わんばかりに苦笑して、頬杖をつく劉《リュウ》。
「二言目には速さだの硬さだの……貴様ら外家の連中は、どうしてそう単細胞なんだ?」
「肉体機能だけが全てなら、この星には恐竜しか生き残らなかっただろうに」
不敵極まるそんな余裕も、斌《ビン》の眼にはもはや空威張りとしか映らなかった。今こうしている刹那にも、両腕に内蔵したレーザー誘導|袖箭《ちゅうせん》は一瞬で劉《リュウ》を矢襖《やぶすま》に仕留めるだろう。
即座にそうしてのけないのは、斌《ビン》もまた劉《リュウ》という男に対してなけなしの恩情を残していたからだ。何を契機にここまで錯乱したのかは知れないが、かつては幇会の権威を手にするべく共に知謀を巡らせた仲である。
「これが最後だ、豪軍《ホージュン》……」
「その人形をよこせ。それで貴様は死なずに済む」
押し殺した斌《ビン》の言葉に、だが劉《リュウ》は出来の悪い冗談でも聞いたような白け顔で苦笑した。
「余程、俺を殺すのは気が引けるらしいな」
億劫そうに玉杯を置くと、机から立って長杉を脱ぐ。義体の意匠は、完全に人体のそれを模したものだ。金属製の強化は一切ない。
バレェダンサーを思わせる、細身の体躯に最適量の筋肉だけを纏ったプロポーション。一見しただけでは薄手のボディスーツに身を包んだだけの、生身の人間としか思えない。
「よし、じゃあこうしよう。この勝負に次期寨主の座を賭けようじゃないか」
「痴れ言を抜かすなッ!!」
「痴れ言なものか。お前は前寨主の仇討ちを果たすんだ。皆だって納得するさ」
「……何……だと?」
言葉の意味を図りかねた斌《ビン》に、劉《リュウ》は屈託なく笑いかけた。
「李《レイ》寨主を殺したのは俺だ」
「な……!?」
たしかに劉《リュウ》は、それができる立場にあった。だが斌《ビン》は幇会の状況を知り、劉《リュウ》という男の狡猾さを知るだけに、そこまで馬鹿げた可能性など想像だにしなかった。
老いた寨主は死に瀕し、ただ座して待つだけでその座は手に入る。事を急いて暗殺などというリスキーな手段に訴えるなど愚の骨頂でしかない。
「貴様は……」
有り得ない……そう否定していたのは、劉《リュウ》の理性を疑っていなかった頃の斌《ビン》だ。今こうして彼の錯乱ぶりを目の当たりにした後で、何を信じろというのか?
「この場の会話は、余さず外部に配信している」
「皆が聞いたぞ。豪軍《ホージュン》。今の貴様の言葉をな」
「何とまた厄介なことを」
かぶりを振る劉《リュウ》の嘆息は、この期に及んでも我が身を嘆くものとは程遠い。むしろまるで斌《ビン》の身を同情するかのようだった。
「それじゃお前、今この場で俺を殺さんと幇会に示しがつかんじゃないか」
「ああ、その通り……」
言われるまでもない。いま斌《ビン》が相対しているのは、幇会を蔑ろにし、寨主殺しまで自白した許し難い奸賊である。ここでこの男を誅せずして何の香主か。何の侠客か。
「いったい何を血迷って、こうも奇態な死を望んだか……いや、知りたいとも思わん」
「さらばだ、朋友。せめて死出の花道は飾ってやろう」
「そいつは粋な計らいだ」
笑いながら斌《ビン》が袍服の袖から抜き払った両手は、何人であれ視認できなかったろう。そう自負にかけて言える神速の、のみならず周到な暗器攻撃。
投げ放たれた八本の擲箭《てきせん》は、いま佇立する劉《リュウ》の位置のみならず、予想しうる回避の未来位置まで残らず標的に捉えている。その弾道は義眼から照射されるレーザーサイトに導かれ、損じることは万に一つも有り得ない。
はたして劉《リュウ》は動かなかった。案山子《かかし》のように棒立ちのまま、擲箭の雨に身を晒す。
結果、八のうち四の切っ先が眉間、咽、心臓と肺動脈を同時に抉る……過《あやま》たずそうなる筈の擲箭が、寸前の虚空でかき消すようにして消滅する。
ただひとり斌《ビン》だけが、その四本の行方を見届けた。
なぜか待ち受けてでもいたかのように、擲箭の照準点に差し上げられた劉《リュウ》の両手……必殺必中の四本はその手の中に、文字通り吸い込まれるようにして収まってしまったのだ。
「さっそくお得意の『影縫八卦』か。なるほど大道芸としては見事なものだ」
「だが、殺しの技としてはどうなんだ? 一人相手に八本も投げまくるというのは」
斌《ビン》は挑発に耳を貸すこともなければ、追撃を迷いもしなかった。不測の事態が勝負の趨勢を乱しても、そこで惑わされれば即ち出遅れる。他ならぬ暗器使いの斌《ビン》自身が心得る鉄則である。
圧倒的優位を疑わぬまま、斌《ビン》は続けて暗器の応酬を放つ。初速を三段階に変えながら六個の棗核箭《そうかくせん》を投じ、さらにその弾道の合間を縫うように湾曲した軌道で三枚の鉞《ばち》を飛ばす。
互いを追い抜き、交錯しつつ、絡み合うようにして襲い掛かる一群の投擲暗器。虚実入り乱れたその弾道は見切ろうと注視するほどに、逆に幻惑されて回避を見誤る。
これぞ『百綜手』必殺の『幻影錯綜刺』。躱わすはおろか見切れもすまい……
その確信が、立て続けに九度鳴り響く剣戟音で木っ端微塵に砕かれる。劉《リュウ》は両手の中にあった擲箭を振り払い、全ての暗器をただの一つも見逃さず打ち落としたのである。
「な……」
一度ならずニ度までも奥義を封じられ、さしもの斌《ビン》も我が目を疑わざるを得なくなった。
有り得ない……何だ? 今の動きは!?
断じて言える。斌《ビン》の投じた暗器の中に一つとして尋常なものはなかった。何一つ増幅センサーの類を実装していない劉《リュウ》が、ただ動体視力だけで捉えられるはずがない。
よしんば捕捉できたとしても、未配線の運動神経では反応が追いつくまい。
まるで斌《ビン》の投げ放つ暗器の数々を、向きやスピードから種類に至るまで、すべて予め見越していたかのような。
まさか……
それを可能とするのは、唯一……斌《ビン》の修めた外家拳法とは本質的に思想の異なる、もうひとつの武術体系。
「俺の義体の仕様書を見た、と言ったな」
手の中に残った擲箭をあっさりと背後に投げ捨てながら、劉《リュウ》の口調はまるで茶飲み話に興じるかのようにさり気ない。
「なら、疑問に感じなかったのか? このボディの開発費も知っているはずだ」
「鋼化神経も機械化もなし。そんなボディの一体どこに、あれだけの費用がかかったのか」
「……」
斌《ビン》の脳裏を過《よ》ぎるのは、李《レイ》寨主の侍医によって提出された検死報告の内容だった。
「僅かな外傷にも拘わらず、内臓には壊滅的な破損。死因は内家拳法の気功術によるものと推定される……
劉《リュウ》は寨主殺しの濡れ衣を孔《コン》に着せた。あの証拠映像同様に、検死結果もそれらしく改竄するだろう。気功術による殺しなど、サイボーグには不可能だ。
だがもし本当に、劉《リュウ》の手にかかった寨主の死因が内傷によるものだとしたら……
「馬鹿な……」
有り得ない。だがそれ以外にこの怪事は説明がつかない。
「貴様……内功を繰っているのか!?」
「その通り」
「このボディ、貴様ら外家のブリキ人形とはいささか構造が違ってな」
脅威の程を知った斌《ビン》は、驚愕よりもまず先に闘争本能に従った。
内家拳法……そうと知れれば、もはや一切の遠慮は無用。ただ死力を尽くして仇敵に向かうのみ。
斌《ビン》は左右の義腕から最後の武器ふたつを解放する。飛爪《ひそう》と飛鐃《ひにょう》……かたや鋼鉄の鈎爪、かたや鋭利に問いだ半月型の刃である。いずれも義腕のリールから繰り出される単分子ナノワイヤーで連結され、振り回せば圏内のすべてを八つ裂きに切り刻む。
「飛び散って果てろ、劉豪軍《リュウ・ホージュン》ッ!!」
猛然と大気を鳴らし、巻き起こされる凶刃の竜巻。その渦中に、劉《リュウ》はあくまで従容と足を踏み入れる。まるで春の日の花園をそぞろ歩くが如く。
その動きを喩えるなら、さながら立ち上る狼煙の一条。飛び交う刃の巻き起こす旋風に、ただ煽られる煙のように悠揚と身を捻り体を流し……
たったそれだけの体捌きによって、唸りを上げる刃の旋風は、ことごとく彼の身に触れることも許されなかった。
「な……」
絶句する斌《ビン》の両肩に、劉《リュウ》の両手が乗せられる。労をねぎらうようなその体勢が、勝負の決着を告げていた。飛爪も飛鐃も、こんな密着した間合いで繰り出せる武器ではない。別の得物に持ち替える……そんな暇など与えられないのは火を見るより明らかだ。
「何を驚いているんだ? 斌《ビン》」
「そんなに意外か? この俺に負けたのが」
「……ッ!!」
すべてが理解を超えていた。一体どこで手を誤って敗北に至ったのか、それすらも解らない。この立合を百度繰り返しても、百度とも同じ結果に終わることだろう。
ただ慄然と立ち竦む斌《ビン》を、劉《リュウ》は柔らかく抱き寄せて、歓待するように背中を叩く。
「冥土の土産だ。ひとつ味わってみるがいい。これが戴天流気功術・裏奥義……」
その先は秘め事を耳打ちするように、唇を寄せて囁いた。
……紫電掌、だよ
気功を操るサイボーグ。その存在が理解できないのと同様に、斌《ビン》は総身を焼く苦痛の程も予期しようがなかった。
騒ぎの収まる頃合いを見計らって、謝逸達《ツェ・イーター》は劉《リュウ》の私室を訪れた。
いつものように椅子に身をくつろがせた副寨主は、まるで何事もなかったかのように玉杯の汾酒を呷っている。
「他には誰も来ないのか?」
そう謝《ツェ》に問う語調にも、修羅場を踏んだ余韻はない。
「この部屋のことは全部、外に伝わっていたんだろう?」
「命がけで青雲幇に尽くそうという連中は、みな孔濤羅《コン・タオロー》を追って出払っている」
「残った連中に、君に楯突こうという奴はおらんよ。……特に、あんな戦いを見せられた後ではな」
「フン……」
謝《ツェ》は部屋を横切って、片隅で震えているガイノイドに歩み寄る。斌偉信《ビン・ワイソン》が伴って連れてきた彼私有のガイノイド、ラースヤは、主の末路を目の当たりにして恐慌の直中にあった。
そんな彼女を憐れみもせず、謝《ツェ》は専門家ならではの無情な的確さで手を伸ばすと、あっさり動力を落として沈黙させる。
「この屋敷にはもう誰もいない。君と私だけだ」
「幇会の屋台骨を折った奴と、寨主を殺した奴が共に野放しか」
「大義と志があれば人の輪は幾度でも甦る。が……青雲幇はもう終わりだな」
「それだけのことをした甲斐はあったかね?」
「充分に。……まだ仕上がってはいないがな」
呆れたように鼻を鳴らすと、謝《ツェ》はラースヤの肢体をソファに横たえ、懐から取り出したPDAを接続してチェックを開始した。耳と口は劉《リュウ》との会話に向けたまま、目と指先だけで的確に作業を進めていく。
「なぜ、一年も待ったのだ?」
「一年で済んだと言うべきだ。五年だろうと十年だろうと、俺はあいつの帰りを待っていた」
「奴の役目だった。彼女のために狂うのも、血を流すのも、すべて奴の義務だった。俺じゃなかったんだ」
「ずいぶん大勢を巻き込んだな」
「構いはせんさ。すべて瑞麗《ルイリー》への捧げ物だ」
「……」
作業を終えて立ち上がった謝《ツェ》は、一言言いたげな面持ちで義足になった左足を見下ろす。そんな仕草が劉《リュウ》の失笑を買った。
「その脚も、俺が詫びる筋合いじゃなかろう? 左道鉗子、あんたもまた俺と同じ当事者の一人だろうが」
「筋書きを書き直したのは君だ。こうも血腥い趣向にリライトされては、私なんぞに出番はない」
ラースヤのチェックに引き続き、謝《ツェ》は劉《リュウ》のガイノイドについても点検を始めた。こちらは動力を落とさない。白い旗袍《チャイナドレス》の人形もまた、大人しく蕭々と謝《ツェ》の作業に身を任せている。
「いいじゃないか。どうであれ、あんたの実験は成就する」
「その足は自慢の研究のために捧げたものと思っておけばいい」
「……好き放題言いおって」
憮然とそう呟きながらも、謝《ツェ》はPDAの表示を見届けて満足げに頷いた。
「……問題ない。君の人形の転写プログラムも生きている」
「別ドライブと接続し、同種の情報構造体を認識したら、自動的に転写を始めるだろう」
「結構」
孔瑞麗《コン・ルイリー》という魂を五つに汲み分け、改めてそれをひとつの瓶に集める……当初、その瓶≠フ役割を果たすのは、この劉《リュウ》のガイノイドの筈だった。
だが劉《リュウ》はそれを拒み、もう一つ別のシナリオを謝《ツェ》に示した。そもそも舞台を提供したのは劉《リュウ》である。謝《ツェ》としては従うしか他になかった。
「……相当に変わるのか? この子は」
「断片二つ分の孔瑞麗《コン・ルイリー》とは、もう会っているんだろう?」
「ああ。可愛かったよ。……俺のことは名前しか覚えていなかったが」
孔濤羅《コン・タオロー》に渡したガイノイドには、その居所を見失わないよう発信器が仕込んである。受信機は劉《リュウ》が預かっていた。その気になれば彼はいつでも、もう一方の瑞麗《ルイリー》の片割れに会いに行くことができた。
「再統合の結果として、一律に同じ変化を遂げるとは限らない」
「この二体から部分再生した孔瑞麗《コン・ルイリー》が思い出すのは、また違った記憶の断片だろう」
「そうか……」
自嘲とも寂寥ともつかぬ乾いた色が、劉《リュウ》の双眸を掠め過ぎる。
「真っ先に蘇るのは、俺を憎んでいた瑞麗《ルイリー》かもしれないんだな」
「あり得んことではない。それが強い想いであったなら」
「……おいで。瑞麗《ルイリー》」
「……」
劉《リュウ》は傍らのガイノイドを手招くと、優しく頬に指先を這わせながら、その顔を覗き込んだ。まるで今生の別れを告げるかのように。
「俺は……お前と過ごせて、幸せだった」
「ほんの一欠片しかないお前だったが、むしろそれで俺には充分だった」
「……お前は何もかも忘れて、ただ俺だけを見ていてくれた。ただ俺のことだけを」
「……」
劉《リュウ》の視線を茫然と受け止める人形の面持ちには、もちろん主の言葉を理解している気配など欠片もない。
かつて同じような虚しい一人語りに、孔濤羅《コン・タオロー》が悲嘆の涙を落としたことを、劉豪軍《リュウ・ホージュン》は知る由もない。だがもしそれを知れば鼻で嗤っていただろう。
決して受け答えなど期待しない、こんな会話の真似事を、劉《リュウ》は一年に渡って繰り返し……そうやって心の慰めを得ていたのだから。彼は不平など懐かなかった。ただ分け与えられたものだけで満足してきた。
「さようなら、俺の瑞麗《ルイリー》。……まず一歩だけ、元のお前に還るがいい」
別れを告げて人形から手を放すと、劉《リュウ》は謝《ツェ》に向けて頷いた。
「……始めてくれ」
劉豪軍《リュウ・ホージュン》邸の敷地に侵入した濤羅《タオロー》を出迎えたのは、異様な静寂だった。
上海に戻った後も、厳重すぎる警備のせいで決して近寄れなかった劉《リュウ》の私邸。まず先行して上海義肢公司を襲わざるを得なかった程に、その警戒には隙がなかった。
だがそれでも、いまや濤羅《タオロー》は我が身に残された時間の短さを知っている。もはや悠長に策を練っている暇はない。せめて劉《リュウ》だけは差し違えてでも仕留めようと、無理を承知でここまで来てみれば……
……何があった?
無言で従う瑞麗《ルイリー》の手を引き、右手には抜き身の倭刀を構えたまま、裏庭の闇をすり抜ける。
主だった侠客の面々が、今も濤羅《タオロー》の姿を求めて上海中に散っているのだとしても、この手薄さは説明がつかない。まるで邸内に誰一人として居合わせないかのような沈黙ぶりである。
もしも罠だとするならば……この先まで瑞麗《ルイリー》を連れていくのは危うい。
「……瑞麗《ルイリー》、ここに隠れて待ってるんだ」
小さく囁きかけてから放そうとした手を、瑞麗《ルイリー》が握り返す。
「ルイリ、あにさまといっしょにいたい」
「……」
再び起動して以来、瑞麗《ルイリー》はいっときたりとも濤羅《タオロー》の手を放そうとしない。だが本来なら庭に忍び込む段で後に残しておくべきところを、乞われるままにこんな場所まで連れてきてしまったことさえ迂闊なのだ。
邸内にまで踏み込むとなれば、もう微塵も油断は許されない。今の衰弱した状態で、他ならぬあの劉豪軍《リュウ・ホージュン》と渡り合うやも知れぬのだ。そうなれば瑞麗《ルイリー》を庇う余裕などあろう筈もない。
どうあっても彼女を連れていくわけにはいかない……そう意を決した濤羅《タオロー》の手が、我知らず瑞麗《ルイリー》の肩に乗る。
ほんの少し指を巡らせれば、項《うなじ》のパワースイッチにはすぐ届く。……そんな発想がふと脳裏を掠めたそのとき、急に瑞麗《ルイリー》が片手を伸ばし、肩の上にある濤羅《タオロー》の手を押さえた。
「……」
「ここでまっていればいいのね、あにさま」
頷く瑞麗《ルイリー》の笑顔は、いつも通り微塵の邪気もない。だが彼女に手を押さえられたタイミングの気まずさが、濤羅《タオロー》の心を騒がせる。
あの刹那、彼女に対し懐いた感情は……あるいは不義と見なされても仕方ないものだったかもしれない。急に態度を改めた瑞麗《ルイリー》が──まさかとは思うが──まるでそんな彼の心中を見透かしていたかのようで、濤羅《タオロー》は胸に得体の知れない不安を抱え込む。
「……すぐに戻る」
そう短く呟いて、畏怖にも似た感覚を断ち切った濤羅《タオロー》は、音もなく馳せて邸内へと踏み込んだ。
「……」
邸内の奥深くにまで踏み込む頃には、濤羅《タオロー》も確信を固めつつあった。
理由はどうあれ、ます間違いなくこの館は完全に無人だ。罠かどうかを訝るよりも、何か異状事態があったと考えるべきかもしれない。
油断なく刀を構えたまま、濤羅《タオロー》は足音を忍ばせて邸内を巡り……やがて家主の私室とおぼしき場所に辿り着いた。
内装の趣味趣向からして、おそらくは劉《リュウ》の私室。ここにきてようやく、あきらかな異状の痕跡が見つかった。……見違えようもない乱闘の跡。
床に散り、あるいは壁や天井に突き刺さった投射武器の数々。擲箭、鉞、棗核箭……いずれも暗器使いの斌偉信《ビン・ワイソン》が得手とするものばかり。
あの『百綜手』が、ここで戦いを演じたのだろうか。
だが、誰と?
広い室内を見渡し、まず最初に目に留まった物言わぬ先客は、人形。それは遺骸というより残骸と呼ぶのが相応しかろう。
そのガイノイドは、濤羅《タオロー》が追い求めていた一体。瑞麗《ルイリー》の魂魄を封じ込め斌《ビン》の手に渡った筈のものだった。不自然に身を捩った姿勢でソファに横たわる様は、あきらかに動力を失っている。
その頭部の穴という穴から、粘液質のものが零れ出て床にまで落ちていた。いったん沸騰し液化した有機メモリが、漏れ出たまま冷えて凝固したものだ。
今日までに濤羅《タオロー》が幾度となく目にしてきた、脱魂燃焼《レイスバーン》の残滓……この人形のメモリは、すでに吸い出された後だ。
「……」
さらに周囲に視線を巡らせた濤羅《タオロー》は、なぜかデスクの肘掛け椅子が、不自然にも壁向きに反転しているのに気がついた。
ゆっくり油断なく回り込み、その椅子に座る人物を検める。
斌偉信《ビン・ワイソン》はそこにいた。浅く項垂れた首は居眠りでもするかのように……だが見開かれた瞼の間からは、濁った眼球が虚空を見つめている。
見たところ外傷らしいものはない。だが……ニューラル系の誤作動、生命維持システムの故障、いずれにせよ何らかの痕跡は残る。
重改造を受けたサイボーグを、ここまで何の外傷も残さず死に至らしめる方法といえば……ただひとつしか思い当たらない。他ならぬ濤羅《タオロー》が、誰よりも熟知する手段。
電磁発勁……か?
己以外にその秘技を修めた人物といえば、濤羅《タオロー》は一人しか心当たりがない。その男が内功を使うなど、今となっては有り得ない筈だ。
だが斌《ビン》を殺したのも、彼のガイノイドからメモリの内容物を抜き取ったのも、おそらくは同じ人物の仕業だろう。
そしてそれは、ここに居合わせる筈だったもう一人の男……この部屋の主に他ならないと、そう考えるのがごく順当だ。
劉《リュウ》……なのか?
疑念を胸に抱く濤羅《タオロー》の目が、ふと奇妙なものを捉えた。斌《ビン》の死相、その固く噤んだ口元から、小さな薄桃色が覗いている。
「……」
濤羅《タオロー》は差し伸ばした倭刀の切っ先を斌《ビン》の口にねじ込んで、慎重にこじ開けた。はらりと一枚こぼれ落ちた薄片は、清らかな桃の花弁。それが乾ききった斌《ビン》の口腔に、ぎっしり一杯に詰め込まれている。
「……そうかい」
ただそれだけで濤羅《タオロー》は、斌《ビン》の骸をこの場に残した人物のメッセージを余すところなく受け取った。
もうこの場所に用はない。
濤羅《タオロー》は、その手で仇を討ち逃した苛立ちを紛らわすかのように、ぞんざいに倭刀を一閃させる。
斌《ビン》の死骸の上顎から上が斬り飛ばされ、喉まで詰まっていた桃の花が一斉に部屋に撒き散らされた。おびただしい花弁が高々と舞い上がり、羽毛のように揚々と漂い落ちるその様は、さながら満開の桃花の下で望む光景を思わせた。
飛び散った花弁の最後のひとひらが、ついに床まで落ちる頃……すでに部屋は、ふたたび死者だけの空間になっていた。
章ノ六 愛憎之園
死に絶えた景色の中を、渺々と風が吹き渡る。
分厚く空を覆っていた雲も、孕んだ毒素を洗いざらい流して溜飲を下げたのか、嵐の後の風に運ばれて彼方へと去り、今は澄まし顔の満月が煌々と夜を照らしている。
そんな楚々たる月華の下、鬱蒼と立ち並ぶ、ねじくれ黒ずんだ立ち枯れの木々。
枝葉も全て抜け落ち、タール状の汚染物をべったりとこびりつかせた梢は、奇病の苦悶に宙を掻きむしる指先を思わせる。まるで燦然と輝く空の月に向けて、縋り付こうと手を伸ばす亡者の群のように……
その梢がかつては爛漫と白い桃花を咲き誇らせていたなどと、誰が知ろうか。誰が偲ぼうか。
この荒廃を憂えるのは、過日この庭の雅に心を和ませた記憶を持つ者だけの特権である。
そんな資格を正しく備えた一人が、いま傾いた四阿に身をくつろがせ、変わり果てた死の庭園を、過ぎ去った日々そのままに慈しむような眼差しで眺めている。
青雲幇副寨主、劉豪軍《リュウ・ホージュン》。否……今となっては、そんな肩書きで彼を呼ばわる人物がいるのかどうか。
かつて忠義を誓った組織と、彼に付き従ったすべての者を手ずから破滅に導いておきながら、その眼差しに昏い翳りは微塵もない。
鬼眼と渾名される双眸が、いま穏やかに見守り続けるものは……林立する枯れ木の合間を、幽霊のように散漫とさまよう白い影。冴々と冷たい月光を受ける白緞子の旗袍《チャイナドレス》が、深淵を仄光りながら泳ぐ深海魚を思わせる。
彼が瑞麗《ルイリー》と呼ぶガイノイド。かつて彼の愛した少女と、同じ貌、同じ名を持つ機械人形。
言葉もなく、感情もなく、ただ呆と虚空を眺めるばかりだった彼女が……今は澎湃《ほうはい》と涙に暮れている。
「……何処?」
呻吟の合間に囁く声が、吹きすさぶ夜風にかき消されて散る。
「兄様が……兄様がいない……ここは何処? 兄様は何処?」
切々と、誰に問うともなく繰り返される虚しい泣訴。たとえ誰かが答えても、彼女はその言葉を解すまい。
いま人形の少女を責め苛むのは、何の前触れもなく取り戻した、底抜けの寂寥感。その故を解するだけの理性はまだ彼女にない。
今の彼女は、五つに裁断された断片のうちの二片だけ。だがその涙は、悲嘆の由縁は、かつて彼女が孔瑞麗《コン・ルイリー》だった頃から持ち越したそのままの感情である。
「……何もかもが昔のままだな。瑞麗《ルイリー》」
夢見るように独り嘯く劉《リュウ》。その微笑は少女の嗚咽を嘲るものか、あるいは歪んだ慈愛の形なのか……あくまで余人の理解の域外にその心を置いたまま、鬼眼麗人は追憶に浸る。
「あの日も君は……そうやって俺の前で泣いていた」
なにもかもが、辛いの。
あなたの愛も、あなたの慈しみも、すべて私には辛いの。枷《かせ》なの。
誰もかもが私を愛して、いつだって私は幸福で……
だから私のいるこの場所が楽園だって、あの人は信じて疑わない。
ならいっそ地獄に堕ちたかった。この身を炎で焼かれたかった。
そうやって私が泣いて助けを求めれば、あの人だって……気付いてくれたかもしれないもの。
「いつだって、俺が思い出すのは泣いている君ばかり……」
「……当然かもな。あの頃から君の笑顔は、奴にだけ向けたものだったんだから」
劉《リュウ》は四阿を出てそぞろに足を運び、気がつけば泣きはらす少女の傍らに立っていた。すぐ目の前で震える肩までの、決して届かぬ隔たった距離。その立ち位置の間隔までも、無意識のうちに正しく再現している。
「でも御覧よ。君が囚われていた世界は、もう楽園でも何でもない」
「見ての通り、ほら……ここは君が望んだ通りの地獄だろう?」
慈しむように、癒すように、劉《リュウ》は穏やかな口調で語り続ける。
だがただ蕩々と涙する人形は、彼の言葉に応じることも、その意を解することもない。
「……兄様……兄様……」
決して届かない詮無い言葉を、敢えて連ねる劉豪軍《リュウ・ホージュン》。反響すら帰らぬ虚ろな深淵に、募るがままの想いをただ注ぎ込む……それは静かな狂気の形だった。
「もう心配はいらない」
「君を焼いた業火の熱さ……その苦痛も、絶望も、余さず奴に伝わった」
「もう待たされることはないよ。程なく奴は駆けつける。君を救うためだけに、何もかも擲って」
ささやかな鞘鳴りを立てて、劉《リュウ》はそっと佩剣を抜き払い、祈りを捧げるように起立させて掲げ持つ。西洋拵えのレイピアだが、刺突を主とする片手剣という点で、扱いの要訣は変わらない。戴天流剣術を極めた劉《リュウ》にとっては過不足ない得物である。
「すべては、君の望むがままに……」
「首尾良く結末に至った後は、瑞麗《ルイリー》……この俺にも微笑んでくれるかい?」
月光を吸って冴え冴えと冷える刀身を、凝っと眺める劉《リュウ》の眼芒に……このとき、激しくも静かな炎が灯る。
「俺は君が求め欲した通り、この世を地獄に変えてやった。だがな……君のためだけに終わらせたりはない」
「君と同じ地獄に、奴もまた突き落とす。骨の髄まで焼きつくしてやる。君を焼いたのと同じ火で」
レイピアの刀身を濡れ光らせる月光が、若鮎のように跳ね上がる。
刹那、枯れ枝の一本が音もなく切り落とされて宙に浮き……続く剣光の閃きを浴びて、さらに形を失った。
虚空で木の枝を捉えた劉《リュウ》の剣戟は、それを切り刻むのみならず、文字通りに霧散させていた。砕かれた破片はただの一片たりとも落下するだけの質量を留めず、すべて風に掠われて飛び去ったのである。
かくも軽捷な剣技の冴えは、むろん凡夫の至るところではない。かつて稀代の天才と謳われた内家剣術家の、まさに入神の域にある功だった。
「早く来い、孔濤羅《コン・タオロー》」
「我らが姫君はお待ちかねだ。最後の供物が供されるのを」
劉《リュウ》の私邸に残されていたSVの一台を借用し、雨上がりの夜空を馳せること数十分。辿り着いた崑山、陽澄湖畔の孔《コン》家邸宅は、思えば上海に戻って以来始めて訪なう、一年ぶりの帰宅だった。
「……ルイリ、このおうち、しってるよ」
傍らの瑞麗《ルイリー》が、濤羅《タオロー》の服の裾を掴んで訴える。
「なんだかとっても、なつかしい」
「……ああ、そうだな」
明かりの失せて久しい邸内を見渡して、濤羅《タオロー》は呟く。
「懐かしいな。ここは」
わずか一年、主の失せたまま放置されていただけで、邸宅は見る影もなく寂れ果てていた。家人が去り、物取りの類に物色された後も、棄民やら何やらに蹂躙され尽くしたのだろう。
汚染された風雨に抗する手入れが絶えた後は、かつての明美な中庭も無惨な有様だった。天蓋が破れ、降り注ぐ油煙と酸性雨を浴びるだけ浴びた桃林は、もう二度と花を結ぶことはあるまい。
だがそれでも目を眇めて眺めれば、心にまざまざと蘇る過ぎし日の景観が、この廃景に重なって見える。あの頃……たとえ外の世界は非情でも、ここだけは優しさと慈しみに満ちていた。今となっては、遠すぎる日々。
劉《リュウ》の残したメッセージに拠るなら、この桃花の庭こそが決戦の舞台。すべての因果を閉ざすには、なるほど相応しい場所かもしれぬ。
中庭に踏み込んですぐ、濤羅《タオロー》は寂々と尾を引く呻吟を聞きとがめた。
「な……」
漂う霧のようにおぼつかない足取りで、立ち枯れの木々の合間にゆらめく白い影。過日ここに遊んだ瑞麗《ルイリー》の亡霊かと思うほど……それほどに少女は、胸に焼き付けた面影と寸分違わぬ容姿をしていた。
「兄様……何処……」
「瑞麗《ルイリー》……ッ!!」
叫べども少女は答えない。涙を湛えた瞳は、だが何処に焦点を合わすこともなく虚ろに宙を彷徨い続ける。
「残念だったな」
濤羅《タオロー》の背後、母屋の柱の陰から歩み出た人影が、揶揄するように声をかける。胸の内の憎悪がそのまま形を取ったかのような……懐かしく、そして怨み連なる立ち姿。
「俺の手元に残した瑞麗《ルイリー》に、斌《ビン》に預けてあった断片を付け加えた。だがあの子が取り戻したのは、胸に秘めていた哀しみだけだ」
「お前の集め損なった残りが、彼女だ。そこの小さな瑞麗《ルイリー》と違って、あの瑞麗《ルイリー》には俺たちの顔の見分けがつかんらしい」
「貴様……」
何を思って腹心の斌《ビン》を手にかけたのか、加えて左道鉗子の秘技たるはずの瑞麗《ルイリー》の再生法について、なぜこの男が知っているのか、糺すべき疑問はいくらもあった。
だが今|濤羅《タオロー》の胸に渦巻くのは、今日この日まで積み重ねてきた絶望と怨嗟の嵩ばかり。
「よく戻ったな、濤羅《タオロー》」
「待ちかねたぞ。この日を」
「俺とて……」
待ちかねた。今一度この男と対峙するためだけに、濤羅《タオロー》は死神から命を買い戻したのだ。義も忠もすべて質草にして。
「何ともはや、変わり果てたザマじゃあないか」
「妹一人のために、よくぞそこまで堕ちたものよ」
鬼眼麗人の冷酷な憫笑が、生々しい既視感を伴って過日の光景を呼び戻す。いつも涼やかな笑顔で濤羅《タオロー》たち兄妹を見守っていた……あの頃と寸分違わない劉豪軍《リュウ・ホージュン》の微笑。
「ああ、そうとも。俺は変わった」
「だが、貴様は……」
言いさして濤羅《タオロー》は、あらためて中庭に佇む人形を凝視する。
引き裂かれた瑞麗《ルイリー》を宿す人形のうち、豪軍《ホージュン》が手許に残した最後の一体。その容姿は無論、持ち主が求め欲する容《かたち》に整形したものだろう。彼女が生前の瑞麗《ルイリー》に瓜二つだという、その事実が物語るもの……
あの貌と黒髪を、慈しんだのも、陵辱したのも、つまりは等しく同じ劉豪軍《リュウ・ホージュン》なのだ。
その笑顔で、涼やかな目のままで、貴様は……
俺を斬り、瑞麗《ルイリー》を辱めたのか? 豪軍《ホージュン》……ッ!!
もしもこの男が、見る影もないほどに豹変していたのなら濤羅《タオロー》はただ憎しみだけを胸に抱いたまま報仇の剣を執っていただろう。
友の豹変を嘆き、彼をそんな翻心に追いやった事情だけを悔やめばそれで良かった。過ぎ去った日の回想は、ただ美しいまま心に秘めておけば済んだ。
このあまりにも無情な現在は、過去と断絶したものと……そう信じておきたかった。
そんな儚い望みさえもが、劉《リュウ》の微笑を前にして、音を立てて瓦解していく。
「劉《リュウ》ゥッ!!」
もはや呼吸も技もなく、濤羅《タオロー》はただ激情に駆られるがまま、振りかざした長段平を力任せに叩き下ろす。
戦意も緊張も窺わせない弛緩しきった佇まいの劉《リュウ》に、それは致命的な凶刃となるはずだった。……が、そんな倭刀をすげなく阻んだのは、待ち構えていたかのように閃いたレイピアの刀身だった。
「その無様な剣は何だ? 濤羅《タオロー》。免許皆伝の名が泣くぞ」
柔よく剛を征するが要訣の内家剣術においては、こんな力任せの鍔競りにもつれ込むなど悪手の極みである。しかもせせら笑う豪軍《ホージュン》の剣は、渾身で押し迫る濤羅《タオロー》の刀を前にびくともしない。
外見でそれと看破できないものの、その圧倒的な膂力の落差は、まぎれもなく劉《リュウ》の体躯が機械化されていることの証だった。
嘲りも露わに揶揄されながら、だがそれでも濤羅《タオロー》は、なおも怒りと憎しみを注いで、微動だにしない刀身を圧し込める。
「貴様を友と信じた俺が……度し難いほどに愚かだった。みすみす瑞麗《ルイリー》を死なせてしまった」
「その過ちを、今ここで濯《そそ》ぐ。劉豪軍《リュウ・ホージュン》、貴様の血でな!!」
言い放つや否や、濤羅《タオロー》は柄に添えていた左手を放し、狙いすました紫電掌の一撃を豪軍《ホージュン》に見舞う。
右手一本の支えでは豪軍《ホージュン》の剣圧を支えきれず、倭刀は無様に撥ね退けられたものの……それでも致命的なEMPの掌撃は、たしかに豪軍《ホージュン》の胸板を捉えていた。
剣を弾かれた勢いで数歩後ろによろめき退がる濤羅《タオロー》。その表情が驚愕に強張る。電磁発勁の直撃を受けながら、豪軍《ホージュン》は何事もなかったかのように涼しい顔で立ちはだかったままだ。
「おいおい何だ? 今の優しげな一撫《ひとな》では」
不発……ッ!?
命を削るのと引き替えに放った必殺の技が、どこをどう間違って無為に終わったか……報われぬ結果とは裏腹に、無理を押して放った気勁は内傷でずたずたになった臓腑をさらに激痛で締め上げる。
「く……」
目が眩むほどの痛みに襲われながらも、いま濤羅《タオロー》は豪軍《ホージュン》を屠る一念だけに取り憑かれ、肉体の苦痛など意中に割り込む隙もない。
壊れかかった肉体の限度も顧みず、濤羅《タオロー》は今度こそ戴天流の秘術を尽くした殺法で鬼眼麗人に斬りかかる。
『驟雨雹風』『鳳凰吼鳴』『貫光迅雷』の三手に目眩ましの虚手を交えた連環套路《れんかんとうろ》。もはや一度ならず二度三度と急所を抉り、骸にしてなお重ねて殺さんとする鏖殺の剣である。
悠然と後手で受ける豪軍《ホージュン》のレイピア。流麗に舞うが如き剣筋は、熾烈極まる倭刀の脅威をまるで理解していないかのように安穏たる余裕を見せて……にも拘わらず、まるで示し合わせていたかのような的確さで濤羅《タオロー》の刺突のことごとくに応じてのけた。
囮、誘いの手には目もくれず、殺意の刃だけを的確に……跳ね上げられ、或いは打ち落とされて、倭刀の刃はすべて虚空に流される。
「な……」
かつて同じ不倶戴天門下にいた兄弟子との立合と思えば、これは至極順当な応酬だった。幾度となく木剣で交わした組み手、乱取り……ただの一度として濤羅《タオロー》の攻めが彼に届いたためしはない。
だが今や濤羅《タオロー》の執念は剣に鬼神の冴えを添え、もはや往年の豪軍《ホージュン》にとて勝るとも劣らない。いやそれ以前に今の豪軍《ホージュン》には、往年の剣など揮えようはずがないのだ。
「五手のうち三手までが殺し技か。まさに執念で磨いた鬼剣だな。なかなかに魅せてくれる」
な……馬鹿なッ!!
信じがたい事ではあった……が、いま見届けたばかりの現実は揺るがしようがない。豪軍《ホージュン》が振るった剣は明らかに、濤羅《タオロー》の太刀筋を目で見て認識するより先んじていた。まるで剣そのものに意が宿ったかの如く……
「な、内勁……!?」
「ほほう、流石に斌《ビン》よりはよほど察しがいいな」
さも感心げに眉を上げて、皮肉めかした賞賛を送る豪軍《ホージュン》。その平易きわまる軽剽な挙措は、濤羅《タオロー》の察した理解を絶する現象とはかけ離れて余りある。
「馬鹿な、貴様は戴天流を捨てたはず……」
「何故そう思う? 俺がサイボーグだからか?」
にこやかに両手を拡げて、豪軍《ホージュン》はそのとりたてて奇抜なところもない細身の体躯を誇示する。
「見ての通りこのボディには、過剰な強度やパワーなんてない。素材こそ人工物だが、構造そのものはあくまで人体を模倣したものだ」
「ただし模倣は徹底している。内臓も、循環系も、生身の肉体にある器官は残らず詰め込んだ。……ありとあらゆる器官をな」
「な……に?」
色を失う濤羅《タオロー》の様に、理解の兆しを見届けたのだろう。豪軍《ホージュン》は今度こそ微笑に圧倒的な不敵さを覗かせた。
「……そうだ。経絡もまた然り。手足に走る三陰三陽十二経……全身六百五十七箇所すべての経穴が、この義体には完全に備わっている」
「我らの先達が培ってきた千古の知恵だ。俺が決めた仕様に沿って、榮成《ウィンシン》に設計させた」
それは発想の転換だった。機械とは、自然の機運を逸脱するものばかりではない。そもそもの始まりにおいて、それは自然を模するところこそが起点だった。
だが設計者である劉《リュウ》の意図を、開発に携わった技術者たちは誰一人として理解し得なかっただろう。それは失われた神秘の知恵、かつて内家功夫の先達たちによって培われた、別体系の自然科学に根付くものだった。
「生身の貴様と同様に、この義体は丹田で氣を練り、全身に巡らせて、森羅万象の気運の流れに身を委ねることができる」
「今や俺は人造器官の強度とパワーで、内家気功術を駆使できるのさ」
「内傷を患うことも、肉体限界に縛られることもない。まさに究極の功夫だ」
「……ッ!!」
考えるだにおぞましかった。大地の気脈と内経を照応せしめ、無為自然の天道と一体となる……それは肉体の機械化などという安易な方法では決して至れぬ聖域のはずだった。
それゆえ豪軍《ホージュン》の達した結論は、濤羅《タオロー》にとって、拳士として奉じ信じてきた理想をもっとも醜悪な形に歪めたものだったと言っていい。
「一度は薫陶を受けた戴天流を、諦めるならまだしも……そうまでして辱めるか、豪軍《ホージュン》!」
「ふざけるんじゃない。機械の身体に身を堕とした貴様に、語らせるような内家の功夫があるかッ!!」
「やれやれ、貴様も外家の石頭どもと変わらんな」
濤羅《タオロー》の檄に痛痒すら感じていないのか、豪軍《ホージュン》はさも幻滅したかのように嘲り笑う。
「二言目には誇りだの意地だの……そんなものに煩《わずら》わされて、その身に修めた武の形ひとつしか認められん」
「だがな、この義体を手に入れた俺の前には、もはや外家も内家もない」
「そんな括りに囚われた流派など過去の遺物だ。問題にもならんよ」
「史上初の内勁駆動型サイボーグ。現存する唯一の試作品……どうだ、武林の頂点に立つに相応しい姿だとは思わんか?」
「黙れ……」
倭刀の切っ先を青眼に据え、いまいちど必殺を期した『峨眉万雷』の構えで、濤羅《タオロー》は摺り足に間合いを詰めていく。
「それ以上の狂った世迷い言は……まず俺の戴天流を破ってからほざけ」
「フフ……死に損ないがよく言った」
レイピアの切っ先がゆるやかに半月を描き、その剣柄が撓めた胸梁の向こうでぴたりと静止する。総身を弓弦に、さながら矢を引き絞るが如く剣柄を引いた構えは、同じく戴天流、『竜牙徹穿』の型。
両者とも刃圏に入るや否や、六十四|套路《とうろ》すべての剣戟を一気呵成《いっきかせい》に紡ぎ出す、決め技前提の必殺剣である。
ともに気息を巡らし導引の呼吸に入る二人。同じ内家剣の激突となれば、その趨勢は丹田の氣の充溢ぶりで決すると言っていい。
「断っておくが、先の通り俺に電磁発勁は通用せんからな」
一触即発の状況下、なお嘯くだけの余裕を見せて、豪軍《ホージュン》は見せつけるように首筋をさらす。
「俺を紫電掌で仕留めたくば……ここ、だ。直に頭を狙うしかない」
人工経絡に干渉せぬよう、気穴を避けて埋設されたダイレクト接続端子。徹底して電子デバイスを省いた豪軍《ホージュン》の義体において、そこだけが唯一、電磁誘導を引き起こしうる弱点だった。
「ただし問題なのは、果たして次に勝機が訪れるまで、貴様の身体が保つのかどうか……」
そう言葉尻を浮かせたまま、豪軍《ホージュン》は無造作に一歩詰め寄った。何の気負いもないその一歩で、両者の間合いが致命的なほどに深々と交錯する。
この瞬間、この刹那を待ち受けていた濤羅《タオロー》の倭刀が、どうして見過ごそうものか。白刃は堰を切ったかの如く、剣光の網目を編んで迸る。
迎え撃つ豪軍《ホージュン》のレイピアは、あくまで先の緒戦の再演で、危なげなく受け流す。
内家剣術家どうしの立ち会いは、つまるところ先の読み合いに終始する。
受け手の剣は、攻め手の剣戟に重さが乗るのに先んじてその軌道を封じにかかる。それに絡め取られまいと、即座に攻め手もまた型を変え……こうして両者の刃は技の出始めで切っ先を交え、すぐさま次手へと移るため、軽く鋼の触れ合うばかりの剣戟が猛スピードで連環する形になる。
その応酬が軽快なばかりで迫力に欠けるかといえば、まったく逆だ。もしその場に居合わせて見届ける者がいたならば、両者の間で鬩ぎ合う気迫の熾烈さに総毛立ったことだろう。
ともに秒間十数手に及ぶ刺突のうち、どれか一手でも応じ損なえば、それが必殺の決め技へと化ける。まさに一髪千鈞を引く集中力の競い合いが、間断なく繰り返されるのだ。その緊張の密度は尋常ではない。
舞い飛ぶ剣先が風を生み、ぶつかり合ううちに颶《つむじかぜ》と化して、枯れ木を鳴らし夜気をさざめかす。かつて遠く及ばなかった兄弟子|豪軍《ホージュン》の絶技を前に、濤羅《タオロー》はさながら獲物に喰らいつく餓狼の執拗さで、一歩も譲らず食い下がる。
それは剣士として潰えゆく濤羅《タオロー》の生命の、最後の燃焼だったのだろう。殺意も闘志も一刀に託し、彼は忘我の境地にあった。
過剰供給のアドレナリンに軋みを立てる筋肉も、臨界を超えて駆使される心臓と肺の悲鳴も、一切耳に届かない。
「フフ……見事なものだ」
怒濤の攻めに応じる豪軍《ホージュン》の呟きには、掛け値なしの賞賛が込められていた。
「よくぞそこまで戴天流を仕上げてのけた。俺に代わって流派を嗣いだだけのことはある」
「……ッ!!」
だが豪軍《ホージュン》の賛辞が意味するところは、言葉とは裏腹だった。
この極限下の応酬において、なお戯言を弄《ろう》するだけの余裕……それが何よりも歴然と、両者の圧倒的な力量の差を物語っている。
せめて……せめて一太刀……!!
焦りに駆られた濤羅《タオロー》は、捨て身の一手を繰り出した。差し違えるのも辞さぬ覚悟でひときわ深く踏み込むや、『放手奪魂』の斬撃を袈裟懸けに振り下ろす。
相討ち覚悟の一刀を前に、だが劉《リュウ》は身を退くどころか逆に前へと踏み込んで応じた。白刃の下に身を滑り込ませ、間一髪のきわどさでくぐり抜けて躱わす。
すれ違う両者の間に、刹那、割り込む繭紬《けんちゅう》の布地。豪軍《ホージュン》が翻した長衫《ちょうさん》の裾である。刹那、その布に目線を阻まれた濤羅《タオロー》は、戦慄に背筋を凍らせた。
臥龍尾!?
咄嗟に左腕に内力を込め、側頭部を防御する濤羅《タオロー》。はたして長衫《ちょうさん》の裾を目眩ましに繰り出されていた豪軍《ホージュン》の後ろ回し蹴りは、ブロックした腕に炸裂した。
衝撃を受け流すにも脚捌きだけでは応じきれず、濤羅《タオロー》は大きく飛び退いて転倒を免れる。両者は互いの間合いから脱し、再び距離を置いて対峙する形になった。
ここに至るまで交わされたのは二百手余り。大概の勝負であればとうに決着がついている。だがこの戦いは、共に手の内を知り尽くした同門対決。力量が伯仲するほどに展開は膠着する。
……否、帰趨だけで語るなら、既に勝敗は決したも同然だった。
いまだ悠然とレイピアの切っ先を揺らして誘いをかける豪軍《ホージュン》に対し、濤羅《タオロー》は陸に打ち上げられた魚のように呼吸を荒げ、固く噛みしめた口元からは血の泡が覗いている。
はじめに豪軍《ホージュン》が言及した通り、既に濤羅《タオロー》の身体は秒読みの段階にあった。肺腑で破れ拡がった内傷からは、もう止めようがない程に流れ出した淤血《おけつ》が気道を遡ってこみ上げてくる。
かたや最先端技術の結晶である人工ボディ。かたや酷使に酷使を重ねて擦り切れた肉体。やはり雌雄は競うまでもなかった。
だがそんな自明の理でさえ、未だ揺るぎない闘志を秘めた濤羅《タオロー》の眼光は、頑として認めていない。剣を執る手と、地を踏む足が一揃いある限り、決着は有り得ぬと……殺意の執念に彩られた双眸がそう語っている。
そんな濤羅《タオロー》の気概を見て取ってか、豪軍《ホージュン》は嘆息して哀れみの眼差しを向ける。
「なるほど。決着まではまだ遠いと……あくまでそう言いたいわけか」
豪軍《ホージュン》は構えを解き、無防備に剣先を下ろす。
「ここまではただの内家の技比べ。これでまだ足りんというのなら……良かろう。今度は内家外家の区別を超えた境地を見せてやる」
言葉とは裏腹に、無造作にレイピアを提げたまま佇立するその体勢は、いかなる技を繰り出す型にもなっていない。その謎めいた態度がなお一層、濤羅《タオロー》の警戒心を掻き立てる。
「たとえば……」
決して油断はしていなかった。むしろ意識は研ぎ澄ましていた。にも拘わらず濤羅《タオロー》は、続いて起こった現象の数々を順序立てて把握することができなかった。
爆音。巻き上がる砂埃。震撼した朽木の列が一斉に梢を落とす。
そして立ちこめる粉塵の中、濤羅《タオロー》は確かに……前後左右から襲いかかる四人の豪軍《ホージュン》を見て取った。
「な……」
息を呑む間もあらばこそ、かくも奇怪な現象に応じ得るわけがない。
濤羅《タオロー》は成す術もなく、四方から閃いたレイピアの剣光に目を奪われたまま……気がつけば両手両脚の筋肉を深々と抉られていた。
「ぐぁっ……ッ!?」
思わず苦悶の声を漏らしながら、四肢から一斉に血飛沫を撒き散らす濤羅《タオロー》。その姿を豪軍《ホージュン》は、まるで一歩も動いていないかのように元の立ち位置に佇んだまま、冷笑を込めて一瞥する。
「……と、まぁこんな塩梅だ」
「機械の義体で内家の軽功術を使うとこうなる」
はたして不意の爆音と衝撃波は、豪軍《ホージュン》の体術が音速の壁を破った結果であった。彼は濤羅《タオロー》の周囲をぐるりと一巡しながら、立て続けに四度の刺突を送ったに過ぎない。
だがその速度が人間の動体視力を逸脱して余りあっただけに、濤羅《タオロー》の目にはただ剣を繰り出す残像だけしか映らなかったのだ。無理からぬ。各種センサーで知覚を拡張していた『百綜手』の斌《ビン》ですら、捕捉し得なかった体捌きである。
「内功の威力は深淵無辺。たとえ水準以下の性能しかない義体でも、こうして内勁で操れば規格外のパワーを発揮する」
まるで先程の会話から一切の寸断もないかのように言葉を続けながら、豪軍《ホージュン》はわずかに残った長衫《ちょうさん》の残骸を肩から払い落とす。裾長の上着は超音速の空気抵抗をもろに受け、大部分が破れちぎれて消し飛んでいた。
無論、彼が四手とも急所を狙わなかったのは手心である。その気になれば四度が四度とも即死に至らしめるに充分な突きだった。結局、豪軍《ホージュン》にとってこの対決はどこまで行っても戯れ合いに過ぎないのだ。
もはやどう足掻いても濤羅《タオロー》に勝機はない。腱まで断たれていないとはいえ、四肢の傷は動作を奪うのに充分な深手である。
「いっそ倒れ伏してしまえば、楽になるものを」
「ふざ……けるな……」
濤羅《タオロー》は頽れなかった。手にした倭刀を放すこともなかった。
普通なら腕を持ち上げることはおろか、自重を支えて立っているだけの脚力さえ残っていまい。それでもなお彼を立ちはだからせるのは、憎悪と執念……その身の丈に収まらぬほどの嵩の憎しみが、張力となって傷ついた四肢を内側から支えているのだ。
「……貴様だけは許さない」
その一念が潰えぬ限り、己は死してなお倒れはすまい。そう濤羅《タオロー》は理解していた。
とうに骸も同然の我が身を衝き動かす、今となっては唯一の動力。その源を少しでも確かなものにするために、彼は浅い呼吸の限りを尽くして、怨嗟を口に昇らせる。
「何もかも貴様が奪った。貴様のせいですべてが壊れた……」
「瑞麗《ルイリー》は、俺の全てだった……」
「瑞麗《ルイリー》もまた同じだと、なぜ気付いてやらなかった?」
濤羅《タオロー》の呪詛の狭間に、ふと豪軍《ホージュン》が、いつになく冷め切った呟きを差し挟む。
「……何だと?」
ここに至るまでの死闘の間、決して途絶えることのなかった豪軍《ホージュン》の薄笑いが、なぜか跡形もなく消えている。ただそれだけの変化でありながら、だが二人を取り巻く空気の質が一変していた。
「俺が瑞麗《ルイリー》を幸せにできると、いつか貴様はそう言ったな」
「馬鹿も休み休み言え。俺にそんな資格があるものか。瑞麗《ルイリー》にとっては俺なぞ、路傍の石も同然だった……」
ときに冷酷に嘲るように、ときに謎めかせて弄《いら》うように、絶えず豪軍《ホージュン》が口元に覗かせていた静かな微笑。そんな、彼を彼たらしめていた超然たる笑みが剥ぎ取られ、いま豪軍《ホージュン》は剥き出しの素顔を晒していた。まるで石膏の死面《デスマスク》のような、一切の感情を欠いた……虚無。
「今になって、何を言い出す……」
「貴様こそが瑞麗《ルイリー》の伴侶……あの子と将来を誓い合った男だろうが!」
「彼女がそれを望んだか?」
「貴様の前で俺のことを語ったか? 婚儀の話題に笑顔を見せたか?」
返す言葉が見つからないことに、濤羅《タオロー》は今更のように気がついた。
そう。確かに……瑞麗《ルイリー》が自分から新妻としての夢を語ったことはない。ただ照れているだけと察して気にも留めなかったが、それにしては度が過ぎていた。
瑞麗《ルイリー》はもとが闊達な質の娘だ。それが人生最大の祝い事を間近に控えて、何故ああも寡黙だったのか。
「少し考えれば、気付いたはずだ。貴様だけが気付いてやれたんだ」
「彼女が恋い焦がれたのは、ただ一人、貴様だけだった」
「ば……」
どんな罵倒より嘲笑よりも、その一言は濤羅《タオロー》の理性を叩きのめした。妹を持つ兄として、それは意味を解することすら憚られる忌詞《いみことば》だった
「馬鹿な……」
「俺たちは、兄妹……」
「だからこそ瑞麗《ルイリー》は苦しんだのだ!!」
「ただ兄としての優しさしか見せなかった貴様に、どれほど瑞麗《ルイリー》が心|苛《さいな》まれていたか……」
「貴様さえ気付いていれば……瑞麗《ルイリー》の想いを汲んでいてやれば……彼女は救われていたんだ!」
「そんな……」
濤羅《タオロー》の脳裏を去来する数々の情景。
人一倍、兄を気遣う妹……人一倍、兄に頼りきりだった妹……ただそれだけのことと思っていた。そこに道ならぬ情念があるなどと、どうして考えが巡ろうか。
「そんなこと、許されるわけが……」
「ほう、許されんか。貴様も徳に篤《あつ》い君子だな」
「貴様を想い患って追いつめられて、あの子が少しずつ壊れていったのも、相応の罰というわけだ」
「そんな……」
「愛しい男と結ばれぬまま、形だけの幸福を手に入れるより、瑞麗《ルイリー》は掛け値なしの絶望を求めたのさ」
「あの夜、生きながらに喰い貪られて……なのに瑞麗《ルイリー》は笑っていたよ」
「貴様を想うのが苦衷なだけに、いっそどんな痛みも苦しみも、あの子にとっては悦びだった」
「瑞麗《ルイリー》は自ら進んで朱《チュウ》たちに身を差し出した。地獄の責め苦を求めてな」
「……」
「あの子には……あの子こそ、貴様しかいなかったんだ!」
愕然と返す言葉もない濤羅《タオロー》に向けて、いまや秘め隠してきた狂おしいほどの怒りを剥き出しにした豪軍《ホージュン》が糾す。
「貴様だけが救えた! 彼女の想いを、病んだ心を……貴様だけが癒してやれた!」
「そん……な……」
眩暈が濤羅《タオロー》の上体を揺らす。踏みしめた大地そのものが硬さを失って解け崩れていくかのような、眩暈。
瑞麗《ルイリー》の幸こそすべてだった。彼女の笑顔があったからこそ、かつての日々には生きる意味があった。
そのすべてが偽りだったとしたら? 今日まで懐いてきた怒りと憎しみ……それは何処に振り向けるべきなのか? 生死を賭して揮った剣は、奪ってきた生命は何だったのか?
「……嘘だ……」
ただひとつ救いを期待しうるのは、否定と拒絶。だがそうやって力なく拒む濤羅《タオロー》の声を、豪軍《ホージュン》は邪にせせら笑う。
「あの子の撒き散らされた腑《はらわた》を拾い集めながら、貴様は瑞麗《ルイリー》の裸の心に触れてきた」
「貴様はその手で瑞麗《ルイリー》を組み立て直して、彼女の内側を覗いたはずだ」
「貴様を偽ることもしない、おのれの心を秘め隠すこともできない、そんな剥き出しの瑞麗《ルイリー》をな」
『だってね、だってね、ルイリはいつもいろんなひとにたべられながら、あにさまのこと、おもってたんだよ』
『あにさまも、こんなふうにルイリをたべてくれたなら、しあわせにしてあげられたのかなって』
あのとき、濤羅《タオロー》は畏れて泣いた。彼を怯えさせたのは、ふたつの可能性……果たして魂魄転写された瑞麗《ルイリー》の魂が、変質し歪んでしまったのか、或いはあの再生の姿こそ、正しく元のままの瑞麗《ルイリー》なのか。
もし後者なのだとすれば、そのときは濤羅《タオロー》が胸に懐いてきた瑞麗《ルイリー》の像、それこそが変質し歪んだものだったということになる。
「愛してやったか? 抱いてやったか? 貴様にはそうする務めがあったんだぞ」
「彼女が貴様の全てだったという、その言葉に嘘がないならな!」
「黙れ……」
もはや濤羅《タオロー》は聞くに堪えなかった。これ以上、語らせてはならない。あの口を噤ませねばならない。
言葉で封じられないのなら、残る手段はただひとつ。
「黙れぇェッ!!」
狂おしく一喝するや、濤羅《タオロー》は倭刀を振りかざして豪軍《ホージュン》に躍りかかった。さっきまで憎しみだけで支えられていた四肢が、今は絶望と恐怖という、なおいっそう強く禍々しい感情を糧に、躍動するだけの力を取り戻していた。
だがそんな勢いだけの一太刀が通用する相手ではない。濤羅《タオロー》の狂態に豪軍《ホージュン》は眉一つ動かさず、億劫そうに振り払ったレイピアですげなく倭刀を打ち返す。
「権威を極め、武を極め……俺は手に入れたすべてを瑞麗《ルイリー》に捧げるつもりだった」
「あの子のためならば世界も獲る。柄にもなく意気込んだ頃もあったよ」
乾いた声で笑った後、豪軍《ホージュン》の眼芒に常軌を逸したものが滲む。
「だが彼女は何も望まなかった。彼女が求めたのは、ただ一人、貴様だけだった」
「俺が手に入れてやれるものにはどれも、屑ほどの価値さえなかったのさ」
「ならば良し。花は彼女のためだけに咲けばいい。鳥は彼女のためだけに鳴けばいい」
「瑞麗《ルイリー》の望まざる世界、彼女に幸のない世界に……遺すべきものなど何がある?」
鬼眼麗人、劉豪軍《リュウ・ホージュン》。その手に掴んだ権勢で、すべてを滅びへと追いやった狂気の暴君……誰が知ろうか。その心の虚無を。
それは絶望という名の死病だった。すべての真相を知った日から、豪軍《ホージュン》という男は死につつあったのだ。誰に気付かれることもなく、じわじわと蝕まれながら。
「この桃園こそ世界の容《かたち》だ。何もかも……こうして枯れて滅びればいい!」
哄笑とともにレイピアの切っ先が風巻く唸りを上げ、濤羅《タオロー》の総身を斬り刻む。逆上した濤羅《タオロー》の剣が冴えを失う一方で、豪軍《ホージュン》の剣は依然その神速を損なわない。
それでいて、刃が抉るのは急所を外れた血と肉ばかり。豪軍《ホージュン》は徹頭徹尾、獲物を生殺しのままに弄《もてあそ》ぶ腹づもりだった。
「……嘘……だ……」
濤羅《タオロー》もまた、もはやその身にいくつ刃を受けようと意中にない。豪軍《ホージュン》に一矢報いる……その一念の前に苦痛も疲労も忘れ、ただ獣の如く猛り狂って襲いかかるばかりである。
「貴様こそが、濤羅《タオロー》……最初で最後の価値ある供物だ」
あくまで冷然と、的確に、外科医の手並みで寸刻みに濤羅《タオロー》を削っていきながら、血霧の飛沫に魅入られたように陶然と、豪軍《ホージュン》は微笑する。
「俺は貴様を生贄の祭壇に載せる。この世のすべてを薪にして、瑞麗《ルイリー》の元に届けてやる」
四阿の陰に蹲り、少女はその死闘を見守っていた。人として未だ不完全な彼女の思考では、あの鍔競り合う二人の男たちが誰なのか、自分とどういう関わりを持つ人物なのか、理解することは叶わない。
それなのに、何故か……戦う二人の、うち一方の男の姿が、少女の注意を捕らえて放さない。
黒衣の総身を血で彩られ、しゃにむに白刃を振るうその姿は、猛々しさとも凛々しさとも程遠い。まるで手負いの猛獣が断末魔の苦痛に悶え狂うかのような、痛ましく哀れを誘う有様だった。
だがそんな無惨な光景を前にして、それを眺める少女の心は、不思議な安らぎに満たされていく。
そう……ほんのつい今しがたまで、彼女は何の由縁かも解らない悲しみに苛まれていた。
兄≠スる人が恋しいと、側にあるべきその人が居ないと、肝心の兄≠ニは誰なのかさえ理解できぬ少女にとって、それは出口のない迷路のような無限の悲嘆の責め苦だった。
なのに今、涙は止まっている。血みどろになりながら死に果てんとしている彼を眺めるうちに、気がつけば少女は胸を締め上げる悲しみを忘れている。
もしや、涙に暮れて乞い求めたその人とは……
「そうよ。あれが、あにさま」
いつの間にか傍らにいたもう一人の少女が、姉妹のようないたわりを込めて彼女に囁きかける。
「兄様……あれが……」
「そう」
小さな瑞麗《ルイリー》は両手を巡らせて、白い旗袍《チャイナドレス》の少女を背中から包み込んだ。
「こうしてあにさまのこと、みてて……ねぇ、どんなきもち?」
「気持ち……」
「温かい……うぅん、なんだか……熱い、くらい……」
「でしょう? わたしも、そう」
小さな手が旗袍のホックをはずし、ゆるやかに隆起する胸を夜気に晒す。細い指先に胸の蕾を摘まれて、旗袍の瑞麗《ルイリー》は甘く湿った吐息を漏らす。
「あ……」
「ねぇ、おぼえてる? あにさまのだいじな、けん」
「ものすごくはやくて、じまんにしてた、けんのわざ」
「それがほら。いまはもう、あんなにもおもく、にぶくなって……」
「ぁ……ぅ……」
あどけない容姿を真っ向から裏切って、小さな瑞麗《ルイリー》の指遣いは淫猥なうえに容赦ない。たちまち旗袍の下の成熟した女体が、堪えきれない喜悦のうねりに身を震わせはじめる。
「それでもまだ、あにさまはたたかってるの。ただルイリのためだけに」
言葉遣いの稚拙さとは裏腹に、悠然と勝ち誇ったその声音は、略奪者の残酷な喜びに熟れている。
「だから、いまのあにさまは、ルイリのためだけのもの」
「なにもかも……ルイリのために」
「何もかも……何もかも……」
熱に浮かされたように反芻しながら、少女の妄想はとめどなく拡がっていく。あの力強く躍動する手も足も、激しく動悸する胸板も、すべてが彼女のためのもの……
その貌に浮かぶ苦悶の相も、喉から迸る慟哭も、何もかもが愛おしい。その全てが、彼女たち……妹″E瑞麗《コン・ルイリー》に捧げられた犠牲。
情欲に駆られるがまま、旗袍の瑞麗《ルイリー》は手許にある熱く小さな身体を掻き抱く。まだ肉の薄い太股に指を這わせ、ぎこちなく切迫した手つきで、その奥の秘所へと指を這い進める。
「んふ……」
小さな瑞麗《ルイリー》は、下着の隙間から股間へと忍び入ってきた感触に、だが拒むことも怖じることもなく、猫が呻くような吐息を喉から漏らす。
「うれしいよね。しあわせだよね。あなたもルイリだから、わかるよね」
互いの手と手で官能を循環させながら、あられもなく呼吸を乱していく二体のガイノイド。身体の器は違えども、同じ面影を想い、同じ情欲に身を焦がす、ふたつでひとつの魂。
「あんなにもつよく、はげしく、あにさまはルイリのことをおもってくれる……」
「なんてしあわせ……ね? 瑞麗《ルイリー》」
耳朶を銜え、甘い囁きで煽りながら、小さな瑞麗《ルイリー》もまた着衣を解いていく。細く肉の薄い華奢な肢体は、もう一人の瑞麗《ルイリー》とは対照的でありながら、つましいほどに小さな桜色の乳首は、すでにもう固く尖って欲情を露わにしている。
ふた回りも小さな相手に身を委ねたまま、旗袍の瑞麗《ルイリー》は抗うこともなく組み敷かれた。兄の死闘に目を奪われて以降、すでに彼女は我と我が身を見失ったまま、ただ押し寄せる官能の波に流されるがまま身を任せている。
二人、裸体を重ね合わす少女たち。だがその熱く潤んだ眼差しは、どちらも血闘の最中にある濤羅《タオロー》へと注がれている。
「ほら、みて。……あにさま、あんなにくるしそう」
「兄様……兄様の血……あんなに赤く……」
「すてきだよね。きれいだよね。あにさまの……ちまみれの、かお」
小さな瑞麗《ルイリー》は舌先を伸ばし、下に組み敷いた瑞麗《ルイリー》の乳首を弄《いら》うように舐め上げる。
「ちのあじって、しってる? なめてみたこと、あるんだよ」
「とってもとっても、あまかったよ。あにさまは……」
そう陶然と囁きかけてから、瑞麗《ルイリー》はおもむろに互いの腿と柔襞を絡ませあった。
「ぅあうぅぅッ!!」
「ふ……ぅ……」
我が身もろとも燃え尽きよとばかりに激しい勢いで腰を揺すり上げる瑞麗《ルイリー》も、その堪えがたいほどの刺激に翻弄されて、悶え叫ぶ瑞麗《ルイリー》も、ともに全身全霊を傾けて意識するのは、濤羅《タオロー》の声、濤羅《タオロー》の眼差し……
豪軍《ホージュン》が嗜虐の喜びも露わに振るうレイピアの切っ先に、全身を浅く鋭く切り刻まれ、そのたびに痛ましく苦悶を叫びながらも……なお濤羅《タオロー》は半狂乱のまま、見るも無惨に衰えた鈍重な太刀筋で打ちかかる。
その絶望の叫びを、執念を、少女たちは我が身を蹂躙する快楽の荒波に重ね合わせて味わった。その破滅的なほどに飽くなき情念が、我が身へと注ぎ込まれる様を夢想すれば……総身を焼く快楽は際限なく昴《たかぶ》っていく。
「兄様ぁ、兄様ぁ……ッ!!」
「あにさまはもう……わたしたちのもの」
「あなたと……わたしと……瑞麗《ルイリー》のもの」
息つく間もない忘我の境地で、互いを貪り合う少女たち。上に被さる小さな瑞麗《ルイリー》は、相手を愛撫する傍らで、その手にPDAと接続された転送ケーブルをたぐり寄せる。すでに一端のコネクタは、彼女自身の後頭部のスロットに接続が済んでいる。
「ぁぅぅ……あ、兄様……もっと、もっとぉ……」
もう一方の瑞麗《ルイリー》は、とめどなく膨れ上がっていく喜悦の嵩に意識を奪われ、耳元へと忍び寄るケーブルに気付かない。
「さぁ、いっしょに……あにさまのところへいこう」
「もういちど、ほんとうのルイリになって……あにさまの、そばに……」
「あぁっ、はぁぁッ、ふああぁッ!!」
相手が絶頂の頂へと投げ上げられたその瞬間、瑞麗《ルイリー》はその接続スロットへコネクタを挿入した。堰を切ったように雪崩れ込んでくる、もう一人の自分。二人ぶんの女体の絶頂感が、彼女の細く華奢な体躯の中には収まりきらないほどの怒濤となって押し寄せる。
「はぁぁぁあぁっ……ッ!!」
堪えきれずに迸らせた歓喜の悲鳴が、夜の静寂《しじま》に響き渡る。
男たちの戦いはすでに剣士どうしの立ち合いではなく、一方的な私刑の様相を呈していた。
荒々しい呼吸に肩を震わせ、踏み込むごとに足をもつれさせる有様の濤羅《タオロー》には、もはや軽捷流麗な戴天剣の套路《とうろ》など見る影もない。
総身に刻まれた刀傷はもう数える意味もないほどに夥しく、失血の量を鑑みれば、動くどころか立っていることさえ何かの間違いとしか思えない。
そんな彼を弄《もてあそ》ぶが如く、豪軍《ホージュン》は哄笑も高らかに悠揚とレイピアを繰り、生殺しの刺突をじわじわと刻み込んでいく。
「ハハハ、まったくいいザマだな。濤羅《タオロー》」
「剣の誇りも、明日に繋ぐ命も、すべて瑞麗《ルイリー》に捧げ尽くしたか」
挑発の言葉も、濤羅《タオロー》の耳には五割方届いていない。
絶え間ない激痛に苛まれるうち、もはや痛みは鮮烈さを失い、今では肉を裂くレイピアの切っ先にも、固い感触の冷気しか感じない。
「それでいい。貴様は血も肉も骨も魂も、残らずここで絞り尽くして果てろ。瑞麗《ルイリー》の目の前でな」
「貴様はもう人でなくていい。瑞麗《ルイリー》の中にだけ生きればいい。それなら俺は……貴様を赦《ゆる》さんでもないぞ。濤羅《タオロー》」
「……っ……」
生きたまま鱠に刻まれながら、彼の意識は虚無の中を泳いでいた。
俺は……
生涯を尽くして求めた剣の道。従容と受け入れた侠客の運命《さだめ》。
この世界がどんなに過酷で、非情であろうと、ただひとつ護り抜けるものがあるならば、それでいいと……迷うことなく歩んできた人生。
それらすべてが、根底からまやかしだったとしたら?
過去の幸福も、慰めも、何もかも彼の設えた虚構で……その陰で大切な人は、ずっと涙に暮れていたのだとしたら?
否、と……そう頑なに拒絶し続けるには、もう彼はあまりにも疲れていた。今となっては信ずるものさえない。
朋友を失い、希望を失い、人としての情と尊厳は自ら望んで捨て去った。このうえ瑞麗《ルイリー》まで見誤っていたのだとしたら、もう彼の中には何も残らない。
瑞麗《ルイリー》……お前は……
ひとつ屋根の下に暮らした妹の心。なぜ解ってやれなかったのか。
理解できて当然だった。なのに気付きもしなかった。
あるいは、目を逸らしていただけかもしれない。心の底で、理解することを畏れて、拒んで、彼女の想いを……彼女への想いを……
……もしそうなら、運命とはかくも残酷なものか。
なぜ俺の妹に生まれた……なぜ俺を兄に持った……瑞麗《ルイリー》ッ!!
もう何もかも忘れてしまいたかった。悲嘆に疲れ、煩悶に疲れ、痛みにも絶望にも飽いた。
逃げ込む場所には……そう、ひとつだけ心当たりがある。
心頭滅却。今日まで内家の武術家として、たゆまず精進してきたことではないか。痛みを忘れ、畏れを、懊悩を忘れて心を解き放つ秘訣。
剣をして、すでに意……おのが想念を滅却し、心魂万感その一刀に託すべし……
かつて、幾多の死闘に臨んでそうしてきたのと同じように、濤羅《タオロー》は動き止め、我と我が身の在りようを忘れて……その手に携えた倭刀へと、万事を委ね、投げ渡す。
ここまで心掻き乱されておきながら、いざ剣を縁《よすが》に脱却するとなれば、己を律するのは思いのほか容易だった。つまるところ濤羅《タオロー》も、その才と研鑽の深さにおいては、やはり非凡な武人であった。
手の中の刀が重みを失い、切っ先が青眼の高さまでゆるゆると持ち上がる。図らずもその型は正調、戴天流……『雲霞渺々』の構えを成していた。
「フン……ようやく底が見えてきたようだな」
無形なること霞の如く、柔靱なること柳の如し。静かな構えの中に無限の変化を秘めたカウンター狙いの防御型。微塵の隙もないないその姿を見届けた豪軍《ホージュン》は、鼻を鳴らして目を眇める。
「最後に何が残るかと思えば、よりによってその一刀か。つくづく天晴れな剣客ぶりだ」
「やはり貴様は性根から剣鬼。人を愛するのも、誰かの愛に応えることも、なるほど出来ぬ相談だろうな」
反駁の余地などない。そう。我は剣鬼。ただ一振りの剣としてここに在る。
ならば何を問うまでもない。この死闘の意味も、傷つき血を流す意義も、何一つ思い悩むことはない。
浮世の苦衷から解放されて、いま濤羅《タオロー》の心はいつになく軽かった。
「貴様のその剣をへし折って仕上げ、というわけか」
「いいだろう。次の一撃で完膚なく叩きのめしてやる」
豪軍《ホージュン》は漫《そぞ》ろに携えていたレイピアの柄を持ち直し、『貫光迅雷』の構えを取った。内懐まで肉薄した鍔競り合いの最中、刹那の隙を見抜いて必殺の一撃を見舞うこの技は、むろん間合いの外で構えてみたところで用を成さぬ。
だが音速の壁すら破る豪軍《ホージュン》の踏み込みがあれば、そもそも間合いなどという概念が意味を持たない。
最後の最後に、豪軍《ホージュン》はこれ以上ないほどに濤羅《タオロー》を圧倒した上で決着とする腹なのだろう。それが豪軍《ホージュン》の憎しみの形。孔濤羅《コン・タオロー》という男の存在をすべて否定せんとする彼の意思。
百舌の早贄にあやかる戯れ事はここまでだった。次はまたあの超音速の剣が来る。
そうと明らかに察していながら、もはや濤羅《タオロー》に畏怖はない。ただ寂寥が一陣の風のように、空漠の心を吹き過ぎる。
こんな絶望で幕を引くべく、我が生涯が在ったというのか。こんな形で逃避するためだけに、今日までの精進があったというのか。
豪軍《ホージュン》、俺は……
叩きつけられる剣気。疾風よりなお速く、雷鳴よりなお囂々と、すべてを超越した豪軍《ホージュン》の体躯が再び奔る。
先刻同様、ついぞその影を濤羅《タオロー》が見咎めることはなかった。ただ刀だけが意識の埒外で奔った。
豪軍《ホージュン》は知らない。かつてその白刃もまた音速を征し、銃弾の雨さえ凌いでのけたという事実。修羅の檄斗の直中に、孔濤羅《コン・タオロー》の開眼した伝説の戴天流絶技。
思えば今の濤羅《タオロー》には、活路を見出す意味も、刃を交える意味さえもない。だが彼の手の中の倭刀は、そんなことに頓着しなかった。もとより剣に理由はない。刃圏に捉えれば、すべからく斬って棄てるのみ。
あらゆる流派を過去の遺物と、そう放言してのけた豪軍《ホージュン》を前にして、今ふたたび『六塵散魂無縫剣』が夜気を裂く。
激突する鋼と鋼が、鏘然と闇に鳴り響く。鈍くくぐもった残響は、剣匠が魂を込めた業物の断末魔。いずれか一方の剣が折れ飛んだのは間違いない。
衝撃波に巻き上げられた粉塵が濛々と中庭に立ちこめ……程なく夜風に吹き散らされて消える。ふたたび静寂を取り戻した景色の中、月明かりを浴びて影を落とすのは、ただ立ち並ぶ朽木の群れだけだった。
死線を交錯させた男たちの姿はそこになく、代わりに冴え冴えと煌めく刃の断片が、爆心地の指標として大地に突き立っている。
天を刺して屹立するその金属片は、レイピアの刀身だった。
ぶつかり合った当人たちは、そこから十歩あまり離れた場所に折り重なって倒れていた。仰臥した濤羅《タオロー》の上に、豪軍《ホージュン》が俯せに覆い被さる形である。
結局|濤羅《タオロー》の倭刀が打ち払ったのは、レイピアの太刀筋のみ。だが剣を折られてなお豪軍《ホージュン》は突進を止めず、濤羅《タオロー》もまた身を躱わさなかった。結果、濤羅《タオロー》は音の壁を破って突進する豪軍《ホージュン》の体当たりをもろに受け止めた形で、この位置まで吹き飛ばされたのだ。
内臓破裂は衝突の直後。さらに地面に叩きつけられた時点で背骨と腰椎も粉砕された。今度こそは致命傷である。即死しなかっただけでも僥倖……そもそも内傷と失血だけでも、とうに瀕死の有様だったのだ。
結局、刃を身に浴びるまでもなく、濤羅《タオロー》の命運は尽きていた。
「……何故……」
目の前にある豪軍《ホージュン》の顔を見上げながら、断末魔の吐息の中、濤羅《タオロー》は掠れた声を絞り出す。その双眸から澎湃《ほうはい》と涙が溢れ出る。
「……一体どうして、俺たちがこんな仕打ちを受ける……?」
そんな濤羅《タオロー》を見下ろす豪軍《ホージュン》の貌は、一切の表情を欠いた虚無である。彼は彼で、もう冷笑も怒りも見せつける必要はなくなっていた。
豪軍《ホージュン》の体当たりは、もとより意図してのものではない。両者が衝突した時には既に、彼もまた身体の制御を失っていたのだ。レイピアを叩き折った濤羅《タオロー》の倭刀は、そのまま切っ先を転じて豪軍《ホージュン》の胸を貫き、人工心臓と脊椎を串刺しにしていた。
「俺は……」
「俺はみな愛していた。お前も、瑞麗《ルイリー》も……」
「だとしても、貴様は愛し方を間違えた」
口元に血の泡を吹きながら、豪軍《ホージュン》が呟くように抑揚なく糺す。これまでのどんな揶揄や嘲笑よりも、その乾ききった静かな声は濤羅《タオロー》の心を突き刺した。
「貴様に絶望した瑞麗《ルイリー》が、この俺を狂わせた」
「やめろ……」
涙声で懇願しながらも、濤羅《タオロー》は力なく左手を掲げ、豪軍《ホージュン》の首筋に触れる。これ以上、ただの一言も聞きたくはなかった。いっそ己の鼓膜を破りたかった。
そんな濤羅《タオロー》を前にして、豪軍《ホージュン》は最後の嗜虐心を催したのだろうか。死相に彩られた貌に、いま再び持ち前の冷ややかな微笑が蘇る。
「何もかも……貴様が元凶だ」
「俺も、彼女も……濤羅《タオロー》、貴様に……」
「豪軍《ホージュン》っ!!」
慟哭の叫びとともに、濤羅《タオロー》の左手を紫電の気功が巡る。その手に掴んだ接続プラグに、今生最後の電磁発勁が打ち込まれる。
鬼眼麗人の微笑は、最後まで揺らぎもしなかった。ただその双眸だけが静かに曇り濁っていき、最後に虚ろな空漠だけを残した。
「豪《ホー》、軍《ジュン》……」
身体の芯から滲み拡がる冷気が、蝕むようにして全身を覆っていく。まるで身体の内外を隔てるものが消え失せたかのように、体温が外気温と等しくなっていく。
夜の静寂の中、濤羅《タオロー》は独りきりだった。今日まで孤剣のみを輩《ともがら》に戦ってきた彼ではあったが、これほどの孤独感は味わったことがない。
この世の生きとし生けるもの……いや、冷たい夜風も月も含めた森羅万象の全てから、拒絶されていくような疎外感。あらゆる物との関わりが、断たれていく。目にしたものも、手に触れ、聞き留めたものも……すべてが彼の中から消えていく。
たまらなく心細かった。だが泣こうにも、涙腺が凍りついている。
冷たく乾いた瞼さえ閉ざすこともできず、濤羅《タオロー》は声にならない叫びを上げて、呼んだ。彼をこの世界に繋ぎ止めてくれる者を。彼のことを忘れずにいてくれる者を。
「……」
不意に……あたたかく柔らかい感触が、優しく頬を包み込む。
吹雪の中で出会った灯火のように、それは消えゆく彼の魂を芯から癒し、温めた。
「兄様、聞こえますか?」
「……瑞麗《ルイリー》?」
紛れもなく彼女だった。過ぎし日からは変わり果てた姿形……それさえももう見届けられない濤羅《タオロー》ではあったが、彼を優しく掻き抱く手つき、鈴振るような声の抑揚、いま耳元で囁くのは間違いなく、彼のただ一人の妹だった。
「瑞麗《ルイリー》……本当に、瑞麗《ルイリー》……なのか?」
「はい、兄様。……永らくお暇《いとま》致しました」
「こうしてもう一度逢えると信じて、今日まで……本当に、長かった」
「ああ……」
長く、あまりにも長く待ちわびた安らぎと、癒し。
長かった。本当に。
瑞麗《ルイリー》の魂を取り戻す。そのためなら死すら厭わぬと心に決めてここまで来た。果たして悲願の叶った今、滅びゆく我が身に何の未練があるはずもない。
なのに……ここにきて痛いほどの悔恨が、濤羅《タオロー》の胸を締め上げる。
彼女と語らい、その笑顔を見届ける……ただそれだけの一欠片の命さえ、残しておけなかったとは。
また彼女の琴の音を聴きたかった。もう一度、舞い踊るあの姿を見たかった。なのにもう、叶わない。こうして今、瑞麗《ルイリー》は目の前にいるというのに。
「こんな幕切れのために、俺は……」
その先は言葉にならない。ただ滂沱と溢れる涙が頬を伝い落ちる。
「俺は……お前の傍にいたかった……お前とともに生きたかった……」
今、彼の足元に口を開けている冷たい深淵。そこにはもう瑞麗《ルイリー》はいない。ひとたび堕ちていけばもう、決して逢うことは叶わない。
かつて、その手で死を紡ぐ凶手の身であった濤羅《タオロー》……まさかその彼自身が、死の影にこれほど怯えることになろうとは。
「やっとお前を取り戻して……なのに今度は、俺が消えるのか?」
「これで俺は……また独りなのか? 今度こそ、もう二度と……」
「いいえ、大丈夫」
「兄様さえ、そう望んで下さるのなら……私たちは離れ離れになったりしない」
「私と一緒に、来てくれますか? どこまでも一緒に」
「……」
望むべくもない。だがそんな願いが叶うなら、魂も、来世も惜しくはない。
「連れていってくれ……頼む……」
「もう二度と放さないでくれ……俺を一人にしないでくれ……」
「ありがとう、兄様。嬉しいわ」
「約束よ。私たちは永遠に一緒。ね?」
「瑞麗《ルイリー》……」
誓うとも。何を引き替えにしたっていい
お前さえ一緒なら、俺は……
そう胸の内で幾度も繰り返すうちに、濤羅《タオロー》の意識は闇に呑み込まれ、千々に乱れて散っていった。
計測を終えた諸データに、謝逸達《ツェ・イーター》は改めて目を通す。
多くの犠牲と引き換えに手に入れた結果ではあったが、いざ手にしてみれば心躍るような期待感はない。あらゆる数値が予測された範囲内に収まっている。
細かな検証をする前ではあるが、すでに科学者としての経験が培った直感が教えていた。恐らく……ここから突破口となるような手掛かりは何一つ掴み取れまい。
「いかがですか? ドクター謝《ツェ》」
計測装置から身を起こした少女が、澄ました顔で訊いてくる。容姿だけ見れば年端もいかぬ子供だが、明らかにその挙措と言葉遣いには、成熟した淑女の気品がある。
「いま君のメモリ内に構築されたマトリクスは、明らかに高度な精神活動として認められる。魂と呼んでも良かろう」
「……有り体に言えばだな、並の人間を計測したのとまるで変わらん値しか出てこない」
「もっと別のものを期待していたのかしら?」
「まぁ、目新しい驚きがなかったのは事実だ」
「何か間違いがないかを検証するとき、いちばん途方に暮れるのは……何の間違いも見当たらん時だよ」
「正直、ここまで完璧な結果が出るとは、予想さえしなかった」
「では実験は成功ですの?」
謝《ツェ》は即答せず黙したまま、傍らに置いてあった安酒のグラスを手にとって呷る。
「確かに今の君という存在は、ひとつの成果だ」
「生体脳を乖離《かいり》した魂魄データが、これほどのレベルで精神活動を維持している例は過去にない」
「もはや情報体としての君と、君を収納した記録媒体とは、ソフトウェアとハードウェアとして区分されている」
「バックアップを残すことは不可能だが、それさえ除けばもう脱魂燃焼《レイスバーン》を気にする必要はない」
「君は情報体として何ら欠損することなく、別の記録媒体へと移転できるだろう」
「肉体のサイボーグ化でも脳の老化までは止められないが、そんな限界さえ超越した所に君はいる」
「事実上……人類初の不老不死を手にしたわけだ」
「まぁ」
まるではしたない現場を見咎められたかのように、少女ははにかんだような微笑を浮かべる。
「そんなに大層なものを欲しがった憶えはないんですけど……」
「皮肉だな。それを求めて身を滅ぼした亡者どもが、どれだけ大勢いると思う?」
「でも、そういった方々の犠牲があってこそ、博士もようやく成功に漕ぎ着けたのでしょう?」
「成功、か……」
忌々しげに言葉を濁して、謝《ツェ》はグラスに酒瓶の中身を継ぎ足した。
「そう、成功と言っていいなら……その通りだったのだが」
「何かご不満がありそうね」
「……」
「魂魄の、生体脳から人工の記録媒体への移行。それが私の研究のテーマだ」
「今回の実験の成否はな、君が正しく元のままの孔瑞麗《コン・ルイリー》としてそのボディに移転できたのかどうか……その一点に尽きるのだよ」
「そうではないかもしれない、と?」
「情報とは、加工するごとに劣化する」
「とりわけ今回、君に施した手法では、小出しに抽出した魂魄コードを後から再統合するという、多くの段階を踏むものだった」
「課程が複雑なだけエントロピーは増大する。今だから言えるが、満足いく結果が出る可能性は限りなく低かった」
「まぁ、ひどい」
まるで他人事を話題にして興じるかのように、少女は穏やかに眉を顰める。
「あなたにも確信がなかったなんて……兄様が聞いたらどんな顔をするかしら」
「私は予想屋ではなく科学者だ。疑わしいからこそ実験する。万事は試行錯誤だよ」
「再生した君の総体に若干の誤差が生じるのは、むしろ前提だった」
「問題はその誤差が生命としてのゆらぎの許容量に収まるか否かだ。それが実験の主眼だったのだが……」
「あいにく私は、元の君と面識がない」
「本当の孔瑞麗《コン・ルイリー》≠ノついては一切知らんのだ。現在の君と比較し検証することができん」
「それが叶うとすれば、孔瑞麗《コン・ルイリー》という人物像をよく知る人間……君の兄上や劉《リュウ》氏に頼るしかなかったのだ」
「それが二人揃って、あのザマではな……」
そこまで聞いて、少女はまるで抑えきれなくなったかのように声を立てて笑いはじめた。
「本当の私≠知る人間が……よりによってその二人ですか。ウフフ」
愛くるしい笑顔のまま一息ついた後、少女は好奇心もあらわに謝《ツェ》の表情を覗き込む。
「じゃあ博士。もしこの頭の中身が瑞麗《ルイリー》じゃないとしたら、今の私は何者なんです?」
「そのときは、君の魂が人間のものかどうかも疑わしいな」
「君は地獄から這い出てきた悪魔かもしれんし、フランケンシュタインの怪物なのかもしれん」
「何と呼び習わすにしろ、私の出る幕じゃない。坊主か神父の出番だよ」
「左道鉗子ともあろうお方が、随分と弱気ですこと」
「いっそ蘇った君が廃人で、実験が明らかな失敗で終わっていれば、まだ諦めもついたんだがね」
無邪気な容姿に似合わぬ皮肉に、謝《ツェ》もまた鼻を鳴らして毒づく。
「失敗は失敗でひとつの結果。確かな結果は確実な前進の一歩でもある」
「成功か失敗かも判らん、結果は保留……実験そのものが徒労に終わったようなものだ。科学者としては屈辱だよ」
捨て鉢に嘯きながら酒を呷る老人を、少女はしばし苦笑とともに見守ってから、やがて謎かけをするように取り澄ました声で問いかけた。
「じゃあ博士、ひとつ伺っていいかしら」
「かつて医学界の寵児だったドクター謝《ツェ》と、闇医者の左道鉗子とでは、いったいどちらが正しく元のまま≠フ貴方なんですか?」
「……痛烈だね」
冷ややかな一瞥を返す謝《ツェ》に、少女は艶然と微笑みかける。
「貴方だけじゃなく、貴方をよく知る方々に片端から訊いて廻ってもいいでしょう」
「でもそれで、誰かが納得できる答えを出してくれると思います?」
「……無理ですよね、きっと。そんな回答を欲しがるようなら、あなたの研究自体がナンセンスですわ」
「……」
謝《ツェ》の短い沈黙は、あるいは鼻白んでいたせいかもしれないが、いずれにせよ彼もまた、そういう感情をむざむざ面《おもて》に出す質《たち》ではなかった。
「……君は、それでいいのかね?」
「魂に正体などないと、そう嘯《うそぶ》くのは簡単だ。……だが君自身が本当に、それでいいと思っているのか?」
「君の孔瑞麗《コン・ルイリー》という自我を、自分が何者なのか確かめたいとは思わないのか?」
穏やかに詰問する謝《ツェ》から目を逸らし、少女は足元にあるジュラルミンの箱に視線を向ける。乱雑にとり散らかった床の有象無象に混じって、ぞんざいに放置されているそれは、脳外科医用の緊急搬送ケースである。
緊急時、致命的な重傷を負った患者でも頭部さえ無事ならば、このケースは最長四十八時間に渡って脳の機能を維持したまま保存できる。
「この人は、私を瑞麗《ルイリー》と呼んでくれました」
「最後の最後になるまで、瑞麗《ルイリー》の気持ちには気付いてくれなかった人だけれど……」
「いいんです。彼がそう呼んでくれるなら、私は孔瑞麗《コン・ルイリー》で構わない」
「……」
「自分が誰かなんてことを気にするような、そんな孤独なんて……これからの私たちには縁がないもの。そうでしょう?」
「君は……」
自ら『左道鉗子』の根城を訪れた少女が提案した、さらなる実験=c…謝《ツェ》としては、出来うることなら最後まで、その申し出はただの冗談と思っておきたかった。
異端外道の科学者として悪名を馳せた彼ではあったが、そんな謝《ツェ》をして躊躇させる領域に、少女は進もうとしているのだ。
「今回、君が処置に耐えきれたのは、偶然の賜物だったのかもしれん。なにぶん不明確な部分が多すぎる」
「再び君のような存在が生まれる保証は、まだない」
「いま現在この世界で、君は極めてユニークな、唯一無二の貴重な存在なんだ。私としては……無謀な試みはさせたくない」
「心配して下さるんですか?」
「魂魄の再統合は、たしかに君の断片については首尾良く行ったが……別人物の魂魄まで統合するとなれば、まったく話が変わってくる」
「私のメモリは、まだ充分に領域が空いてます。あと一人ぶんくらい大丈夫でしょう?」
「容量の問題ではない。君ら二人の精神は文字通り融合してしまうんだ」
「双方がどんな影響を及ぼしあうか……正直なところ、私にも結果は予測できん」
「未知の惑星の大気に身を晒すようなものだ。危険すぎる」
「それでも、むろん興味はおありですよね?」
「……」
「実験が無駄なまま終わるのを嫌がっていたのは博士の方じゃないですか」
「どうせ私、役に立たなかった用済みのモルモットですもの。もう一度くらい冒険してみてもいいでしょう?」
「君は……怖いとは思わないのかね?」
少女の爛漫な笑顔は、それだけ見れば容姿に相応の無邪気なものだった。
「この人は約束してくれました。今になって私が裏切るわけにはいきません」
「……」
黙然と押し黙ったまま、謝《ツェ》は床の脳搬送ケースを引っ張り上げて手術台に乗せる。
「……断っておくが、まず魂魄転写の段階だけでも結果は保証しかねるぞ」
「回収した時点でも、彼の消耗はかなりのものだった。今後の処置に耐え得るかどうかは危ういところだ」
「首尾良く行ったとしても、記憶に欠損が残る可能性は極めて高い。人格さえ維持しているかどうか……」
「構いません。最善を尽くしてください」
「当代随一の医学博士、左道鉗子のお手並みを信じます」
何ら悪びれたところのない少女の微笑に、謝《ツェ》は深々と溜息をついた。
「すべて終わった後で、またその皮肉を聞けるといいんだがな……」
目を醒まし、男は辺りを見回した。
どこだろうか、ここは……
一面に咲き乱れる桃の花。見渡す果ては花霞にぼやけ、天地の分け目も判然としない。
息を呑むほどに美しい……だが見知らぬ場所だった。何故こんな所に迷い込んだのか……いやそもそも、思えばここに来る前は何処にいたのか、それさえも見当がつかない。
男はなにひとつ憶えていなかった。なのに不思議と、不安はない。むしろ忘れていた故郷の景色の中に立ち戻ってきたかのような、そんな安堵さえ感じる。
見渡せば咲き誇る花も、爽やかな風の感触も、諸手を上げて彼のことを歓迎しているかのようだ。何故か確信を持って……解る。ここには、彼のことを脅かすものなど何一つありはしない。
ふと耳を澄ませば、……蕭。
蕭……と、優しく、囁き誘《いざな》うような鈴の音。
どこからかともなく届くその音色は、すぐに男の心を虜にした。美しい響きに導かれるままに、彼は桃の木の間を進んでいく。
鈴の音はいよいよ軽快にリズムを刻み、やがて雅楽の打物《うちもの》拍子に。
その少女を、はじめ彼は桃の精かと見紛《みまが》った。
着物の裾を軽々と翻し、まるで舞い散る桃の花弁と戯れ合うかのように、伸びやかに桴《ばち》を振る走舞。鈴の音の拍子に乗って、蝶のように鳥のように、少女は晴れやかに舞い踊る。
ああ、あの舞は……
そう、あの舞は知っている。
蘭陵王……愁いの美貌を仮面に隠し、鬼神を演じた若き王の物語。
そうだ。彼女のことは知っている。
彼女の舞い踊る姿を、何よりも大切に胸に秘めてきた。嵐の中も、凍てつく夜も……それだけを慰めに耐えてきた。だからまだ憶えている。あの舞姿だけは忘れはしない。
入り乱れる安摩乱声《あまらんじょう》の竜笛《りゅうてき》に陶然と聞き入るうち、男の胸をえもいわれぬ安堵が満たしていく。
彼女が誰であろうとも……気後れするような必要はない。二人は今この場所で出会ったのではない。二人のために用意された約束の地が、ここなのだ。
咲き誇る桃も……竜笛の調べも……ただ二人を祝福するためだけに、ここにある。
舞の手を休めて、少女は満面の笑顔とともに彼を振り返る。まるで千年の時を経て花咲いた蓮の如く、その貌は溢れんばかりの喜びに輝いて……
「ようこそいらっしゃい。濤羅《タオロー》」
そう呼びかけられても、男は何の違和感も感じない。遠い昔からそう呼ばれることを、待ち望んできたのかもしれない。
「約束通り、来てくれたわね」
「これからは、もうずっと一緒。もう決してあなたを放さない」
「瑞麗《ルイリー》……」
初めて口にするような、それでいて何故か懐かしい響き。そう、彼女の名は瑞麗《ルイリー》。なんと麗しい名前だろうか。
抱擁は固く、優しく、互いの鼓動の溶け合うままに。二人が満たされたままに世界は環を閉じ、完成する。
この場所に還るまで、長い長い道のりを旅してきたような……なぜか、そんな気がする。
もしかしたらそれは、思い出すだけでも辛くなるような……耐えがたい道程だったのかもしれない。
だけど、もういい。こうして何もかも忘れ去ったまま……そう、それで構わない。
もうこれ以上求めるものはない。この喜びは、きっと時の終わりまで続くのだろうから。