沙耶の唄
虚淵玄
『ネェネェ、今度ノすタfセセf劔。ゥI撥D錐年ハ、ドッカ渙ィtーとモ遊ベヒ料牴xLナイ?』
ぶよぶよと蠢く肉塊が、暗く粘ついた声でそう言った。
『すホサyネ祭ォ? ワザワエャWCQエヒ]?ア角マデ行ッ閂ト:麸と?』
『ハハ、勘(煕ヒ&ヤッテクレヨ津久葉。コイツ今WCQエヒ]?ア角咨まッテンダ。ナンカオf&ノ前、コ6GBbュlナッテ始メテすけームVワユア性タ縷ンダカラサ』
似たような肉塊があと三つ、目の前に並んでいる。テーブルを囲んで、カップに注がれた汚水をさも美味そうに啜り上げながら、金切り声と呻り声とそれ以外の奇声を交わしあっている。
『ナニヨクC。5ユーとシタコトナチw蚪/1ノガソンwPム麓ナ(思議?』
『二十Aナ像ナッテ初y(VQウッテノハ、今日日ソウソウイ梗WfA繙ャナイカナ?』
『子供Aノ嫡ハ何トナク怖セ1駐タノヨ。アPム麓、ナン¢c觝物ミタイデサ』
注意すれば、こいつらの会話の意味を酌み取れないこともない。おかげで僕は、辛うじてこいつらの不信感を誤魔化せるギリギリのところに留まっていられた。
こいつらが勝手に話し合っているうちは放っておけばいいが、こちらに話しかけてきたときまで無視するわけにもいかない。姿形はどうであれ、こいつらは僕の“友達”ということになっている。
もちろん、否定したいのは山々だが――僕はもう、とうに抵抗を諦めていた。
これが悪夢であってくれればと、どれほど願ったことだろうか。
だが毎朝目を覚ますたびに、世界は昨日と同じように醜く歪んだ姿のまま、そこにあった。
こいつらの中に混じって、こいつらの一員である振りをして、僕は暮らしていかなければならない。これまでそうやって過ごしてきた3ヶ月と同様に、これから続く一生涯のあいだ、ずっと。
『デモ、イキナ9悋セッテ滑レ啅昃? 青海$ーャン、悧ルDナイ?』
『要領ハす羃ユッョ促ソウ変ワルモリジャナイノLオ4ナ。重心ヲ羃ユッョ促シテ、靴ノ羚2ヨ縁デこん?cPPーるスル感覚トカ』
口調から察するにこいつは『|耕司《こうじ》』だ。その隣でキィキィといちばん頻繁に啼いているのが『|青海《おうみ》』だろう。
となれば、僕の隣にいるやつは『|瑶《よう》』だ。かつての端正な面影も、今ではもう見る影もない。すぐ傍でぷるぷると身を震わせながら、そいつが放つ|吐瀉物《としゃぶつ》のような|饐《す》えた匂いを、僕はつとめて意識しないようにしていた。
『耕司ニソウ翼罘u」乕モンダカラサ、騙サレタトG!XEjヤッテミタわe#nh。ソシタ[3緻ウ、楽シクッテ』
『フゥン……ワタシモ見テミニh希ナ。青海チャン拠隘けーとヤルトコロ』
『ダカラサ、ネ? 今度ノすき滑篥行。ツイデZ塾ィけーと旅行ニシチャエバン濕チオイシク鬆ム3イッテわけヨ』
そう、何もかも変わり果ててしまった。
目に映る物すべてが姿を変えて、なのに関係性だけはそのままに残った。僕はこいつらと同じ大学に通うサークルメイトで、かつてはかなり親しい付き合いがあった。冬休みには毎年連れだってスキー旅行に行ったりもした。
今となっては懐かしい、もう決して戻らない日々の思い出。いっそこいつらも含めて、誰も彼もが僕のことを憶えていなければ、僕はこの世界の『異物』でいられたのだろう。宇宙人か何かに|攫《さら》われて、違う惑星にでも来てしまったのだと思えば、その方がまだ慰めがあった。
だが、ここは間違いなく地球で、日本で、僕は僕の産まれ育った街に住み、生まれてこのかた二〇年間、慣れ親しんだ社会に属している。ただ、僕一人にだけそう見えなくなってしまった――それだけのことだ。
世界はもう僕の知る姿をしていない。僕には帰る場所がない。
『デ翫R9ァ……すけーとハす烏HネBV%んくニ行ケバデ肱ルジャナイ。ワザワザすサGー場ニ行ッテマデ、ヤル?』
『ダカラ、屋内ジャ愧Tテサ、屋苞ァ+けーと。凍ッタ塘1Dpデ滑レルトコロ』
『ソンナ都合ノイ冕トコ、アルカナァ……何ダカスッゴク霞'\デソウ』
ともかく、今のこいつらの話題が何であれ、|益体《やくたい》もない内容なのは察しがつく。聞いているふりだけして黙っていればいい。
そう思った矢先に――
『ナァ郁紀、オ前ハドウ思ウ?』
肉塊のひとつが、ぎょろり、と血走った目玉を裏返してこっちを凝視してきた。僕に話しかけているのだ。
「どう……って?」
内心の嫌悪感を必死で押し隠しながら、僕は何気ない素振りを装って返事をし……しようとした。だが声が掠れてうまくいかない。
『イヤ、ダカラサ。今年ノ冬ノすア9)ス=ダヨ。オ前モ――行クヨナ?』
肉塊の頂上あたりにある孔が、グチャグチャと吐き気を催すような蠢きかたをして言葉めいたものを吐き出す。あそこがつまり耕司の頭で、顔で、口なわけだ。3ヶ月前の僕にはそう見えていた部位なのだろう。
「わからない」
直視はできなかった。さりげなく目を逸らして、僕は当たり障りのない返事をした。
『何カ、他ノ予定デモアルノカ?』
「いや、別に」
耕司――親友だった。この場にいる皆がそうだ。かけがえのない人たちばかりだった。それ以上の関係になってくれようとした人さえいた。
今はもうその面影さえない。その寂しさに、悲しみに泣いた夜は数知れない。
そうやって三ヶ月。泣いて、泣きはらして、今は嫌悪だけが残った。耕司らしき肉塊と青海らしき肉塊と瑶らしき肉塊に囲まれて、僕は以前と何一つ変わらない素振りを装って茶番を続けている。それが課題だ。こいつをこなせなければ僕はまた病院に送り込まれるだろう。
以前と違って、もう二度と外に出てこられない病棟へと連れて行かれることになる。
それだけは願い下げだった。
『ナァ……別ニ、運動スルノガ傷ニ障ルトカ、ソウイウHクケデモナインダロ?』
「どうだろうな。――今日の診療で、先生に聞いてみる」
もう我慢の限界だった。こいつらの姿を眺めるのも、おぞましい声を聴いているのも。
なかば辛抱を忘れて、僕は性急に席から立っていた。
『オイ、フミノリ――』
そいつの発声器官の周りでびらびらと|靡《たなび》く繊毛から、糸を引く粘液の飛沫が僕の顔に降りかかった。とっさに顔を庇ったが間に合わなかった。腐らせた卵の中身のような汚臭の汁が、僕の顔をべったりと濡らしていた。
もう何もかもどうでもいい。椅子なり机なり、いますぐ手に届く物を片っ端から掴み取ってこいつに叩きつけて、息の根が止まるまで叩きつけて、すべて終わりにしてしまいたい。
――衝動を、僕はすんでのところで堪えた。
気取られてはいけない。僕の目にどう見えていようと、この世界で正常なのは彼らの方だ。異常なのは僕の方なんだ。
「だから、今日も診療なんだ。もう時間だから」
愛想笑いを浮かべたつもりだったが、上手くいったかどうかは解らない。僕は財布に手を入れ、最初に指に触れた紙幣を確かめもせずにテーブルに置いた。注文した飲み物の代金には充分だろう。釣り銭が出るかもしれないがどうでもいい。一刻も早くこの場を立ち去りたい。
「それじゃ」
文字通り逃げるようにして、僕はその場を後にした。
僕は狂ってなんかいない。
「ねぇねぇ、今度のスキーだけどさ。今年は、どっかスケートも遊べる所にしない?」
|高畠青海《たかはたおうみ》のそんな提案に、|津久葉《つくば》|瑶《よう》は眉をひそめた。
「スケートぉ? わざわざスキー場にまで行ってスケート?」
「ハハ、勘弁してやってくれよ津久葉。こいつ今そっちにハマってんだ」
笑いながら、|戸尾耕司《とのおこうじ》が青海の発言をフォローする。彼女の言動の突飛さは今に始まったことではなく、それを周囲にフォローするのはいつも、青海の彼氏である耕司の役目だった。
瑶の目から見ても二人は似合いのカップルだ。ときどき妬けることもある。
「なんせ青海ってさ、この前、この歳になって初めてスケートやったんだ」
「なによぅ。スケートしたことなかったのがそんなに不思議?」
「二十歳になって初体験ってのは、今日日そうそういないんじゃないかな?」
「子供の頃は何となく怖かったのよ。あの靴、なんだか刃物みたいでさ」
「でも、いきなりやって滑れたの? 青海ちゃん、凄くない?」
「要領はスキーとそう変わるもんじゃないからな。重心を前に出して、靴の前の縁でコントロールする感覚とか」
「耕司にそう言われたもんだからさ、騙されたと思ってやってみたワケよ。そしたらもう、楽しくって」
そうか、デートに行ったんだ。――孤独な羨望がちくりと瑶の胸を刺す。
恋人同士が普通に楽しむ二人の時間を、耕司と青海もまた楽しんでいる。それは決して妬くようなことではない。瑶はたまたま運が悪かっただけだ。
「ふぅん……わたしも見てみたいな。青海ちゃんがスケートやるところ」
内心の乱れを紛らわそうと、瑶はつとめて明るい声を出した。
羨ましいとか、自分に運がないとか――そんなことを思っちゃいけない。瑶にだって大切に思う相手はいる。その相手が瑶との時間を過ごせないのは、彼に途方もない災いが降りかかったからだ。それこそ“運がない”どころでは済まされない、正真正銘の不幸が。
「だからさ、ね? 今度のスキー旅行。ついでにスケート旅行にしちゃえば二倍おいしく楽しいってワケよ」
「でもさぁ……スケートはスケートリンクに行けばできるじゃない。わざわざスキー場に行ってまで、やる?」
「だから、屋内じゃなくてさ、屋外スケート。凍った湖とかで滑れるところ」
「そんな都合のいいとこ、あるかなぁ……何だかすっごく混んでそう」
言いながら、瑶はそれと気取られないようにそっと“彼”の横顔を伺い見る。
そう、さっきから耕司と青海の談笑に瑶が加わっているという三角形の会話しかないが、今このカフェラウンジでテーブルを囲んでいるのは二組のカップルなのだ。つまりもう一人、瑶の彼氏――と、呼んで良いのかどうか、未だに微妙な距離なままの――人物が同席している。
「なぁ郁紀、お前はどう思う?」
もしかしたら、耕司は瑶の内心の痛みを察したのかもしれない。そういう心遣いの細やかな優しさが彼にはある。
「どう……って?」
耕司から話を振られた、瑶の隣の席の“彼”――|匂坂郁紀《さきさかふみのり》は、返事になってない呟きで曖昧に混ぜ返した。
「いや、だからさ。今年の冬のスキーだよ。お前も――行くよな?」
まるで腫れ物に触れるかのように、耕司はやんわりと言葉を継ぐ。これが数ヶ月前ならば、耕司はこんな気後れした態度を見せず、毅然として郁紀の態度を|詰《なじ》っただろう。そういう遠慮のいらない友情を、耕司と郁紀は長年の付き合いの中で築いてきたはずだった。
「わからない」
郁紀の返事は短くそっけない。伏し目がちに視線を逸らし、いかにも気乗りしない態度は、沈黙の殻をこじ開けられたことがつくづく気に入らない風だった。
「何か、他の予定でもあるのか?」
「いや、別に」
親友であるはずの耕司ですら、今の郁紀には以前のような態度で接することができないでいる。まして瑶などは、どんな言葉をかけていいのかさえ判らない。
あの夏の終わりの日の出来事は、数ヶ月経つ今もなお深い爪痕を残している。郁紀だけでなく、彼を取り巻くすべての人々に。
「なぁ……別に、運動するのが傷に障るとか、そういうわけでもないんだろ?」
「どうだろうな。――今日の診療で、先生に聞いてみる」
そう答えるのが我慢の限界だとでも言わんばかりに、郁紀はそそくさと席から立ち上がった。
「おい、郁紀――」
さすがに少し咎める語調で、耕司が郁紀を呼び止める。
そのとき――郁紀はまるで怯えて身を|竦《すく》めるような勢いで、手で顔を庇っていた。
もしかしたら、耕司の口から唾が飛んだのかもしれない。だとしてもそれは日常の会話でたまに起こる程度の不注意だったはずだ。少なくとも瑶の目からは、はっきりそれと判るほど明らかなものでさえなかった。どう考えても、躍起になって身を庇うほどのことではない。
たとえ耕司の唾が飛んだにしても、郁紀の態度は輪をかけて他人に不快感を与えるものだった。
「だから、今日も診療なんだ。もう時間だから」
吐き捨てるようにそう言う郁紀の口調には、気まずくなった空気を和ませようなどという配慮は欠片ほどもなかった。
自分のコーヒー代のつもりか、テーブルに紙幣を置く手つきさえ、何か|穢《けが》らわしいものに触れるかのような手つきだった。
「それじゃ」
逃げるように――そんな比喩そのままの|気忙《きぜわ》しい足取りで、郁紀はカフェラウンジを出ていった。
残された3人は重い沈黙のまま、テーブルに視線を落としていた。置き去りにされた一万円札が、所在なさげにテーブルの上で揺れている。
よく見れば、郁紀の注文したコーヒーには一口も飲んだ様子がなかった。
「やってられないわね、もう」
溜息混じりに呟く青海。そんな彼女を咎めるように耕司が小さくかぶりを振る。
「郁紀には――もう少し時間が必要なんだと思う」
「だってもう3ヶ月よ? 何なのよアレ!? つきあってるこっちが変になりそうよ」
「俺だって解らない。解るはずもないと思う。お前だって想像つくか? あんな惨い形で家族全員を奪われて……平気でいられるわけないよ」
それは、いつ誰の身に降りかかってもおかしくない悲劇だった。
タンクローリーの横転事故。巻き込まれた匂坂家の車は原型を留めていなかった。郁紀の父母は死体の判別さえ難しい有様だったという。
郁紀自身もまた一時期は生存を絶望視されていた。彼が今こうして退院し、社会生活に復帰しているのは奇跡以外の何物でもない。
「見舞いに行ったときなんて、もっと酷かったじゃないか。誰が誰かも解らずに、怯えて、暴れて、ベッドに縛りつけられて……今は、よくあそこまで立ち直ってくれたと思う」
「それにしたって変よ、匂坂くん。あたしたちのこと見る目つき、アレ何なの? まるでこっちが人間じゃないみたい」
「よせ、青海」
耕司が強い語調で制止したのは、親友への思いやりよりむしろ、この場に居合わす瑶への心遣いだったのだろう。
瑶にはそんな耕司の優しさが嬉しい反面、それに甘えるのもまた、耕司の言うとおり良くないと思う。
郁紀は被害者なのだ。誰よりも同情されるべきは彼だ。
瑶が郁紀に想いを寄せたのは、あくまで瑶ひとりの気持ちの問題だ。ついに瑶が勇気を出して彼に告白したとき、その場で郁紀が返事を返せなかったのも、咎めるようなことではない。
むしろ瑶には、軽い気持ちで即答せず、彼女の気持ちを真摯に受け止めてくれた郁紀の人柄によりいっそう好意を|懐《いだ》いていた。
ノーと言われなかっただけで二人の仲は成立したも同然、と、耕司や青海は楽観して当事者たちを置き去りにはしゃいでいたが――それきり、未だに郁紀の回答はない。
想いを告げた瑶が郁紀と再会したのは、その一週間後――集中治療室の窓ガラス越しに見る、重体の郁紀の痛々しい姿だった。
そして永遠に思える50日が過ぎ、退院した郁紀は、どこか人が違っていた。
事故の前に瑶が告げたことを、はたして憶えているのかどうか……それさえも今では疑わしい。
彼女の想いは宙吊りにされたまま、もう冬を迎えようとしていた。
|丹保凉子《たんぼりょうこ》医師にとって、その青年はもっとも厄介な患者だった。
「その後の経過はどうですか? 匂坂さん」
「いえ、別段……これといって問題もなく」
硬く平滑な声で、宙に吐き捨てるように無造作な口調。まるで誰もいない場所で独り言を漏らすかのような。
彼が自己と世界との間に張り巡らした障壁の堅さと厚さは、心理カウンセラーではない凉子にもあきらかに伝わった。
「吐き気や目眩、幻聴や幻覚といった体験は?」
「いえ、何も」
匂坂の視線は凉子に向けられているようでいて、その実、ほんのわずか斜め下に逸れている。ほんの上辺でだけ会話の体裁を装った没交渉。完璧とも言える拒絶だった。
これでは問診が成り立つわけがない。凉子は溜息をついてカルテを置く。
「匂坂さん……あなたが当院で受けた処置は、脳神経医学の分野では世界的に最先端の治療でした。そのことは御存知ですよね」
マイクロマシンによる硬膜下血腫の除去――日本ではまだ、ここT大付属病院にしか設備のない治療法である。脳挫傷により絶望視されていた匂坂郁紀の生命を、唯一、救いうる手段だった。
「最先端であるということは、まだまだデータの出揃っていない、危険性の伴う治療法だったという意味でもあります」
「そうでしょうね」
匂坂郁紀の口元が、ぴくりと動いた。
苦笑のような、悪意を込めた冷笑のような――だがその意味するところを凉子が理解できないうちに、彼はまたもとの無表情に戻っていた。
「――普通、こんなことを言って脅かすのは医者として問題なんですが……施術後に重大な脳障害をきたしたケースも報告されているんです。予後の経過には充分に注意しなければなりません」
そういう意味合いがあっての、週に一度の検診である。凉子としてはもう少し真面目な態度で患者に協力してもらいたい。
「先週のMRIはどうでした?」
凉子の不意を衝くようにして、匂坂郁紀が逆に訊いてきた。
MRI……磁気共鳴撮像のことだ。これにより脳外科医は患者の頭を切開することなく脳の状態をつぶさに観察できる。庶民には縁のない専門用語をさらりと口にした匂坂について、凉子は彼のプロフィールを思い出す。
「そういえばあなたも、医者の卵だったわね」
「先生が心配しているような脳機能不全は、画像診断だけでも充分に判るはずですよね? 何か異常はあったんですか?」
「……いいえ」
異常はない。微塵もない。手術は厳しい成功率をクリアして、奇跡的とも言える成果を上げていた。
だが、それでも凉子には何かが引っかかる。
あえて口幅ったい言い方をするならば『医者の勘』だ。この患者はどこかおかしい。斜に構えた態度の裏に、何かを隠しているような気がしてならない。ひどく切迫した――怯え、あるいは苦痛。
もしそれが非器質性の障害だとすればお手上げだ。彼自身が異常を訴えてくれない限り、こちらとしては対処のしようがない。
「大丈夫ですよ先生。現に僕は今こうして、病院の外でも何不自由なく生活しています。問題なんてないでしょう?」
「……ねぇ匂坂さん、こういった難しい手術は予後不断が原則なんです。もう少し私たちを信用してもらいませんと」
「そうですよね。僕だって先生方を信用したい。どんな相談にも乗ってもらえるんですか?」
「ええ、もちろん」
先週もこれとまったく同じような問答をした。苛立ちを笑顔で覆い隠して凉子は頷く。
「じゃあ、先週の話の続きなんですが。――先生。あれから|奥涯《おうがい》教授については何か解りましたか?」
「……」
返答に窮して、凉子は笑顔を強張らせる。
そうだった。先週もこの患者はこの話題を持ち出した。部外者の彼が決して知るはずのない人物についての質問を。
「奥涯教授のことは、その……あなたの治療とは、何の関係もないでしょう?」
「信頼しろと言った矢先に、いきなり隠し事ですか?」
こういう論理の飛躍で医師を困らせる患者というのは少なくない。彼らにとってみれば自分の生命にかかわる事柄なのだから、無理からぬことだとも思う。
だが凉子は匂坂にそういう短絡的な焦りを見出せない。その冷静さは医師に対する質問というより、被疑者に対する詰問に近い。
「なにぶん、だいぶ前にここを辞められた方ですからね……私個人としても、交流があったわけではないし……」
「辞めた理由は御存知ない?」
「ええ。おそらく個人的な事情でしょうね」
最初こそ怯んだが、今はもう淀みなく言葉が口から出てきた。最初から嘘をつく覚悟でいれば、凉子もこうして鉄面皮を装える。
「それにしても、匂坂さん、なぜあなたはそんなに奥涯教授に|拘《こだわ》るんです? お知り合いですか?」
「教授はいま失踪中なんです。知ってましたか?」
「いいえ」
返答するのがやや速すぎたかもしれない。もっと驚いた顔をすべきだっただろうか。
「近頃、教授の身内の人間と懇意にしていましてね。その人から調査を頼まれているんです」
身内だと? 凉子は匂坂の言葉に眉をひそめた。
「奥涯教授に縁者の方はおられない筈ですが?」
「ほう、誰から聞きました?」
「それは……噂話に」
個人的な交流はなかったと、さっきそう言ったばかりだった。
「なるほど。そんなことが噂になる程度には、奥涯教授は有名人だったわけですね?」
「まぁ、一風変わった人だったみたいですね」
「なのに誰も、彼が大学を辞めた理由を知らないと?」
「……」
凉子は黙り込んだ。彼女にとっては話題が話題だけに、笑顔で取り繕うにも限度がある。
だが、ここにきてようやく匂坂も、凉子の機嫌を察したらしい。妙に固かった口調をほんの少しだけ和らげた。
「先生、僕はどうしても奥涯教授に会わなきゃならないんです。彼がいなくなったせいで行く当てがなくなり困ってる子がいるんです。力になってもらえませんか?」
「それはむしろ警察の領分なんじゃないかしら」
すげなく言い放つ凉子にとって、実のところその提案は危険な賭けだった。奥涯雅彦の失踪が警察沙汰になった場合、捜査は大学にも及ぶだろう。だが奥涯がここでしでかした不始末は、決して公にできることではない。大学は一丸となって証拠隠滅に当たらなければならなくなる。
むろん、凉子自身もまた――
だが、匂坂が本当に警察に捜索願いを出すことはあるまい。まず間違いなく彼の言い分は嘘だ。奥涯雅彦に、彼の行方を気にかけるような親族は存在しない。その点は入念に確認を取っている。だからこそあの事件は闇に葬ることができたのだ。
それにしても――ただの患者であるという以外にこのT大とは何の縁もない匂坂が、どうやって奥涯のことを知ったのか?
「匂坂さん、私の知っている範囲のことは喜んでお教えします。ですが、奥涯教授は今年の四月に辞表を出して、以後は何の音信もないんです。どこか長期の旅行にでも行かれたか……その程度しか想像つきません」
「……そうですか」
食い下がるかと思いきや、匂坂はあっさりと引き下がった。
依然、匂坂の予後は心配だった。加えて彼と奥涯雅彦とを結ぶ謎の糸については、輪をかけて不安を煽られた。
それでも今、凉子にできることは何もない。この患者が心を開いてくれない限りは。
しばし躊躇してから、凉子は匂坂のカルテに『経過は良好』と本日付の診断を記入する。
「匂坂さん、それでは来週の診察ですが、今日と同じ四時でも――」
言いさして凉子が目を上げると、匂坂はすでに椅子を立ち、診察室を出ていくところだった。
この、豚の臓物をぶちまけて塗りたくったかのような光景が、病院の廊下だということは理解できている。
病院の廊下の壁に相応しい色は? もちろん白だ。白一色だ。間違ってもこんな色で塗ったりはしない。そして多分――さっきからそこいらを右往左往している腐肉の塊みたいな生物たちには、この廊下が白く見えているんだろう。
だから僕には解っている。この廊下が本当は『白い』ということも、また周囲の肉塊たちが実は人間なのだということも。
つまり、おかしいのは僕の方だ。それが認識できているから、僕はまだ日常生活を送っていられる。
ここT大医学部に比べれば遥かにランクが落ちるとはいえ、僕もまた歴とした医大生であり、奇しくも脳神経外科学を専攻している。自分の身に起こったことは――信じがたいとはいえ――概ねのところで想像がつく。
これは病理的なものではない。おそらくは失認症の一種、まだ未知のタイプの認知障害だろう。
僕と同じ治療を受けて、脳障害になった患者もいると、そう丹保医師――と名乗る肉の塊――も言っていた。つまりは僕もそういう失敗例の一人というわけだ。なにが天下のT大医学部だ、ざまぁみろ……そう、あの知った風な女医に嘲笑をぶつけてやりたくなる。
とはいえ、僕に執刀した医師たちを恨む気持ちはない。彼らが僕の命の恩人であることに変わりはない。手術の成功率がきわめて低かったことも、またそれ以外に僕が助かる道はなかったことも、充分に理解できている。
要するに、僕は運がなかった。ただそれだけのことに尽きるのだ。
とにかく今の僕の症状は、生半可な精神症などと違って治療法などない。
僕は一生涯、この障害を抱えたまま、それと折り合いをつけて生きていくしか他にない。補聴器や車椅子に慣れるのと同じように、僕はこの吐き気を催すような景観に『慣れる』しかないのだ。
もちろん辛かった。たやすく受け入れられることではなかった。
だが今は、まるきり絶望しているわけではない。こんな僕にも希望はあった。たった|一縷《いちる》の希望が。
おぞましい世界を少しでも見ないですむよう、僕は可能な限り足下に視線を落としたままで、家路を急いだ。
山の手の郊外にある、閑静な住宅街の一軒家。この不必要にでかい家屋が、今では丸ごと僕一人のものだ。3ヶ月前の事故で、僕以上に運のなかった父と母は他界した。集中治療室にいた僕は葬儀にさえ出られなかった。
父の経営していた会社は人手に渡ったが、この家と、当面暮らしていくのに困らないだけの遺産は手元に残った。
悲しいか、と問われればむろん頷くが……あの事故で僕が奪われたのは両親だけではない。むしろ気儘な一人暮らしの立場を手に入れたことが、結果として僕の救済に繋がった。
もしも両親が健在だったら、素性も解らぬ女性との同棲など、決して許しはしなかっただろうから。
「おかえり!」
玄関を開けた僕を、台所から弾むような声が迎える。鈴の音のように明瞭に透き通った、まぎれもない人間の声。それを耳にした途端、今日一日の間に聴かされ続けた奇声と不協和音の名残が、洗い流されるようにして僕の記憶から消える。
「ただいま、沙耶」
奥から廊下を駆けてくる足音さえ耳に心地よい。こんな足音を聴くことはもう街では叶わない。ここだけだ。沙耶と住まうこの家でだけ聴くことができる足音だ。
「遅かったね。ちょっと心配しちゃったぞ」
「ごめんよ。今日は病院に寄っていく日だったから」
「あ、そうだっけ」
彼女の微笑み。小首をかしげるその仕草。僕が失った世界のすべてがそこにある。
僕が事故の後に会った中でただ一人――もしかしたら世界でたった一人かもしれない――僕の認知障害の例外になった少女。
たしかに肌は白く見えすぎる。瞳の色もちょっと奇妙に感じる。髪の色だって本当はもっと違うのだろう。だが彼女の容姿は人間の、まぎれもない人間の肢体のものだ。
姿だけではない。その声も、そして――
靴を脱ごうと屈んだ僕の首根に、彼女はいつものように腕を廻し、その小さな胸で優しく抱きしめてくれる。
冷たくもない、粘ついてもいない、まぎれもない人間の――肌。その髪に薫る芳しい少女の匂い。
今の僕が五感のすべてで肯定し、許容できる唯一の存在。それが沙耶だった。
それだけではない。彼女は僕に微笑んでくれる。僕のことを抱きしめてくれる。
それが今の僕の魂をどれほどに救済するかを彼女は知っていて、そんな風に僕に必要とされることを、なぜか喜んでくれている。
もし彼女に出会うことなく、この|汚穢《おわい》に歪んだ世界にただ独り取り残されていたら、ほどなく僕は本物の狂気に冒されていただろう。今の僕は彼女によって生かされていると言ってもいいほどだ。
「今日は一日、どうしてた?」
「居間の模様替え。もう半分ぐらい塗り終わったよ。で、今はね、郁紀の晩ごはん作ってるの。昼間、テレビで作り方やってたから」
「そうか。楽しみだな」
「もうちょっと時間かかりそうなの。待っててくれる?」
「いいよ。じゃあ僕は居間の続きをやってる」
鼻歌交じりに台所へ戻っていく沙耶を見送ってから、僕は居間に入った。
世界の色彩が不愉快ならば、快いと思える色に塗り替えてしまえばいい。そう気付いた日に僕はホームセンターで手当たり次第にペンキを買い込み、沙耶と一緒に色々な配合を試してみた。
すでに寝室は隅々までこのペンキで塗り込めてある。以来、事故の後はとんとご無沙汰だった安眠を得られるようになったのは言うまでもない。
居間の塗装では、沙耶がカーテンをどうするか悩んだらしく、窓の周囲が手つかずになっていた。僕は迷わずカーテンを剥ぎ取り、窓ガラスごと刷毛でペンキを塗りたくっていった。
今の僕には窓の外を見たくなることなんて有り得ない。雨戸を閉めっぱなしにしておけば隣家から不審がられることもないだろう。
「ご飯、できたよ〜」
「こっちで食べよう。持ってきてくれるか?」
トレイに膳を乗せて運んできた沙耶が、居間に踏み込むやクンクンと鼻を鳴らす。
「ペンキの匂い、平気?」
そいうえば、閉め切った室内には塗料の溶剤の臭気が立ちこめているはずだ。だが、もっと嫌な匂いを外でさんざん嗅がされてきた僕には、べつだん気になるようなものではない。
「沙耶は嫌いかい?」
「ううん、平気。郁紀が大丈夫なら、いい」
沙耶がテーブルに乗せた料理は……残念ながら、お世辞にも食欲をそそるような色味と匂いをしていなかった。だがそんなのは外食すれば毎度のことだ。
「いただきます」
日頃の習慣どおりに諦観と覚悟を決めて、無心に料理を口の中に運ぶ。
案の定、胃が痙攣しそうな味だったが、悪いのは沙耶じゃない。きっと彼女は昼の料理番組で教えられた通りに調理したのだろう。単にそれを僕の味覚が受けつけないだけのことだ。
「……おいしくない?」
「うー、まぁ、ね……」
こんなときに不正直になっても沙耶は喜びはしない。彼女は僕の障害について理解している。
「気にしないで。明日はまた別のものを作ってあげるから」
「ごめんな、いつも……折角、作ってくれたのに」
「いいのよ。こうやって色々試していけば、いつか郁紀でも美味しく食べられるメニューが見つかるかもしれないじゃない」
今の僕にとって、食事は気の進まない義務のようなものだ。いくら嫌でもこれを果たさなければ生命が維持できない。
生きていれば沙耶の言うとおり、いつかまた美味いと思えるものを食えるかもしれない。沙耶と出会えたように。
「沙耶は食べないの?」
「うん。私は……もう済ましたから」
この家に暮らすようになってからも、沙耶は僕と一緒に食事をしたことがない。なぜ彼女がそれを厭がるのか、不思議だったし悲しくもあったが、だからといって無理強いする気はなかった。
そうでなくても沙耶は知覚の壊れてしまった僕の|奇癖《きへき》について、色々なことを我慢してくれている。
「そういえば今日、もういちど病院で君のお父さんのこと訊いてみた」
「パパの?」
|奥涯雅彦《おうがいまさひこ》。沙耶の父親で、T大医学部の教授。沙耶の唯一の縁者である彼は、現在、行方不明になっている。彼の失踪の謎を解くことを、僕は沙耶に約束していた。
「やっぱり、何も教えてくれない。何か隠している雰囲気なんだが……」
「――そう」
もっと落胆するかと思ったが、沙耶の反応は意外に醒めていた。
「……心配じゃないのかい? お父さんのこと」
「ううん、そういうわけじゃないの」
どこか煮え切らない表情でかぶりを振ってから、沙耶はふたたび僕に笑顔を向けた。
「ありがとう、郁紀。私のために色々と」
「君はそれ以上のことを、僕のためにしてくれるんだ」
ごちそうさま、と僕は手を合わせて箸を置いた。料理は一口たりとも残していない。味がどうあれ、これは沙耶の気持ちだ。そう思うだけで耐えがたいことも耐えられる。
「じゃあ、お風呂にする?」
「ああ。また背中、流してくれるか?」
「うん!」
この家に来て以来、沙耶はもう新妻気取りだ。
沙耶――
なぜ君は、そこまで僕に……
「ぁ……ふぅぅ……」
貪欲に、弾み車のように跳ね上がっては沈み込む細い腰。そのたびに僕の固く尖った欲望が、彼女の熱く締まった胎内で搾り上げられ、揉み下ろされる。
「ぃい、ぃぃのお……凄ィ……ぁっ……熱い……奥まで……」
可憐な、|穢《けが》れを知らぬかに見えるか細い肢体が、そんな印象を真っ向から裏切って熱く|淫蕩《いんとう》な汗を滲ませ、底知れぬほどに淫らな動きで快楽を貪り続ける。
沙耶、僕の可愛い沙耶――本当にこれでいいのか?
何が君をそこまでさせるのか。身も心も捧げて尽くすほどの、何が……この僕にあるというのか。
「ふぅ、郁紀ぃィ、もっと……もっと突き上げて……奥に、あ、当たってるのぉ……あううぅっッ」
それとも、ただの同情なのか? 人として社会と繋がる術を、何もかも失ってしまった僕への哀れみなのか? たったそれだけの理由でここまで乱れ狂えるほどに、君は淫らな子だっていうのか?
「フミノリ……凄く、いい……お願い……もっと、もっとメチャクチャにしてェ……ッ! わ、わたし……もぅ……ぉ。おかしくなっちゃ……ウゥゥッ!」
騎乗位で僕を跨いで貪りながら、艶やかな笑みとともに見下ろす眼差しには、歪んだ倒錯も、露ほどの邪気もなく、ただとろけんばかりの喜悦に潤んでいる。
その悩ましい嬌声とともに弾む白い躯が――あまりにも不条理で――夢のようで――この僕の身体を背骨から腰まで貫いて焼く快楽もろとも、もしかしたら幻なのではないかと……
そう恐れて、この手で彼女を確かめたくて、僕は薄い乳房に手を差し伸べ、|縋《すが》るようにして両手で掴む。
「ひゃうゥっ!」
途端に、小動物のような悲鳴を上げて、全身を痙攣させる沙耶。
桜色に尖った乳首が僕の指の間で揉み潰されるたびに、細い喉が酸素を求めて反り返り、ぜいぜいと呼吸を荒げる。
「あああ、ぃぃ……郁紀……バラバラに、なっちゃい、そう……もう……」
ここにいる。今たしかに沙耶は僕とともにいる。確かなのは今この瞬間だけ。信じられるのは僕と繋がっている彼女ただ一人だけ。
「郁紀ィ……|膣《なか》に……膣にちょうだい……私の内側に、郁紀のをちょうだい……」
頷いて、僕は彼女を突き上げる腰に拍車をかける。喘ぎ声をさらに1オクターブ上に跳ね上げて、沙耶の痴態はより一層の激しさで狂い咲く。
「イクぅ、イッちゃうのぉ! 郁紀……ねぇ、ぃ、一緒に……一緒にぃぃ!」
この先、運命がどれだけ残酷になろうとも、何よりも僕が怖いのは――沙耶、君を見失ってしまうこと。
「ぁ、あ、あぐうぅぅッ!」
絶頂にむせび泣くような声を上げて痙攣する沙耶の躯。最後の緊縛にきつく呑み込まれて、僕もまた彼女の胎内に熱く滾った精を吐き出す。
「ぁぁぁ……熱ぃょ……郁紀」
微笑みのまま放心し、ぐったりと脱力した沙耶の躯を、僕は抱き寄せて包み込む。柔らかく汗ばんだ肌の感触を、情熱に上気した体温を、両腕で確かめる。疑いようのない沙耶の存在を。
「……郁紀? 泣いてるの?」
沙耶に指摘されるまで、僕は頬を濡らす涙に気付かなかった。
「――どうしてなんだ、沙耶? なぜ僕にここまでしてくれる?」
「郁紀……」
「解らないんだ。解らないのに、僕だけが……どんどん君に惹かれていく。君なしじゃ耐えられなくなっていく」
僕は腕に力を込めて、よりきつく沙耶を抱きしめる。この肌が溶け合わさって二度と離れなくなることを、願って。
「教えてくれ……どうすれば、君を失わずにいられる? 僕は何をすればいい? どうやって君に報いればいい?」
「……こうやって、抱いていて」
甘く優しく、沙耶は僕の胸の中で囁いた。
「郁紀に抱いてもらうの、大好き。ずっと一緒にこうしていたい。だから、わたしは郁紀から離れたりしない」
「なぜ――なぜ、僕なんだ?」
「それはね、郁紀がひとりぼっちだから」
僕に抱き留められたまま、沙耶は上目遣いに僕を見つめ返す。
「それは、沙耶もひとりぼっちだったから」
哀しみを癒す哀しみの言葉。沙耶の瞳は深く虚ろで、その虚ろさゆえに限りなく優しかった。
「だから沙耶にも、郁紀しかいないの。この世でただ一人だけ、わたしを抱きしめてくれる――大好きな郁紀」
今ならば、言える。
たとえ僕の目に映る世界がどんなに醜く崩れていこうと、僕にはただ一人、沙耶さえいてくれればそれでいい。
今日こそは、面と向かって彼と話をしよう。そう心に決めた。
後込みしていても何も始まらない。先延べにすればするほどに、辛い時間は長引いていく。
もう一度、勇気を出そう。
瑶が木曜日四限のコマに入れているのは生化学。この日、郁紀と顔を合わせる講義はここだけだ。
受講者の多い基礎科目なので二〇〇人収容の大教室で行われるが、席の埋まり具合は半分程度なので、座る席を選ぶのにはさして不自由のない講義である。
瑶が好んで着くのは中列あたり。いちばん聴講しやすい位置なので他の受講生もここに集中する。
たいていは郁紀も一緒に、瑶の隣の席に着く。並んだ空席がない場合には潔く諦めてしまうのが、『恋人未満の親しい友人』として仕方のない距離だったが、そんな場合でも二人はそれぞれ最寄りの空席を探すのが常だった。
今日も教室はさして込み合うこともなく、瑶がそれとなく荷物を置いて自分の隣席をキープしていても、誰も迷惑がったりしない。
だが――ついに郁紀は来ることなく、定刻通りに現れた講師が授業を始めてしまう。
10分ほど経ったところで、瑶はそれとなく首を巡らせて教室内を見渡した。
いた。いつの間に入ってきたのか、最後列の片隅の席に一人だけ孤立して、郁紀が座っている。
瑶には気付かなかったのだろうか? いや、あり得ない。だいたい真面目に講義を受ける気であれば、好きこのんであんな不便な席に着くわけがない。
やるせない想いとともに、瑶は隣席の荷物を手元に引き寄せた。
講義が終わり、そそくさと教室を出ていった郁紀を、瑶はあやうく取り逃がしそうになりながら、かろうじて廊下で追いついた。
「匂坂さん!」
呼ばれたとたん、郁紀はまるで怒鳴りつけられでもしたかのようにビクリと総身を硬直させ、それから億劫そうに振り向いて瑶を見た。
「……何か?」
痩せた――あらためて瑶はそう痛感する。瑶が親しんだ面影よりも、目の隈と頬骨があきらかに目立っている。かなりの心労に|苛《さいな》まれているのか、よほど栄養状態が悪いのか、あるいはその両方か。
必要以上に緊張した、苛立っているようにも、何かに脅えて気後れしているかのようにも見える態度。視線は落ち着きなくそわそわと泳ぎ、決して瑶と目線をあわせようとしない。
ただこうして向き合っているだけでも、瑶は胸が締め上げられるように悲しくなった。何が彼をここまで変えてしまったのか。
今日こそは――そう胸に奮い起こした勇気を、あらためて確かめる。
「あの、お話があるんです。ちょっと……いいですか?」
11月の寒空に、吹きっ晒しのベンチで談笑しようなどと思う者がいるはずもなく、中庭は人影のないままに寂しく静まりかえっていた。
「話って、何?」
――憶えてないんですか? と、そう口走ってしまいそうになり、瑶は核心に触れる言葉をぐっと堪えた。
「匂坂さん、最近、ちょっと様子が変です。見てて……心配になります」
「そうかもね。まぁ、あんな目にあった後だから」
何事もない風を装ってそう笑う、その笑顔さえもが引きつって見える。
こうして話し合うときの間合いも、瑶の記憶にある距離より、きっかり一歩ぶん遠い。
「本当に、それだけなんですか?」
「君にはそれだけじゃないように見えるのかい?」
邪険に混ぜ返されて気後れしそうになるところを、瑶は堪えた。
「何か……我慢してるみたいに、見えます」
「……」
匂坂は無言のまま、足下の枯れた芝生を靴先で蹴っている。自分の意気が萎えないうちに、瑶は思い付くままに言葉を続けた。
「どうしようもないものを無理して、壊れそうになるほど頑張って我慢してるみたいに……今の匂坂さんは、そう見えます」
「そうかい」
もはや誤魔化しも否定もせず、郁紀は固く乾いた呟きだけで瑶の言葉を聞き流した。それは|韜晦《とうかい》よりもあからさまな拒絶の意思表示だった。
だが、瑶はすでに覚悟を固めている。今日ばかりは退くことはできない。
「友達って……こんなときのために、いると思うんです」
心から真摯に、彼を想う気持ちを伝えたい一心で、瑶は訴えた。
「ご家族のことは、本当に残念だったと思います。でも……匂坂さんは独りぼっちじゃありません。|戸尾《とのお》くんや、青海ちゃんや、それに――私が、います」
言葉を尽くす瑶の内側では、すでに歯止めが利かなくなっていた。胸の中で渦巻く諸々の想いの、そのすべてが、今この場で吐き出してしまわなければ行き場を失ってしまうような、そんな焦りがあった。
「一人で背負い込んだりしなくても、私たちで何とかできることだって、あると思うんです」
「たとえ何もできないにしても、話してさえくれれば、あなたが少しでも楽になるかもしれない」
「私、匂坂さんの力になりたいんです。他のみんなも同じ気持ちだと――」
「やめてくれ!」
瑶の訴えを断ち切ったのは、唐突すぎる怒声だった。
決して怯むまいと心に決めていた瑶だったが、そんな彼女の決意を挫くほどに、郁紀の表情の険しさは常軌を逸していた。
彼の双眸に宿るのは、怒りなどという血の通った感情ではなく……嫌悪、だった。もはや殺意の域にまで届こうかというばかりの、冷ややかな憎しみの情。
「そういえば君にはひとつ、返事しなきゃいけない用件があったね」
郁紀は――憶えていた。憶えていてなお、こんな冷ややかな態度で今日まで瑶に接してきたのだ。
ただそれだけで瑶にはもう充分すぎる回答だった。これ以上、さらに重ねて言葉で心を引き裂かれるのには耐えられそうになかった。
「僕は君のこと、とりわけ特別に意識したことなんてなかった。君に好意を持たれても、どう接すればいいのか迷ってた。僕が君のことどう思ってるのか、正直な気持ちが自分でも判らなかったから」
「匂坂さん……」
「でもね、今ではもうはっきりと答えが出てる。あれから考える時間だけはたっぷりとあったからね。――津久葉さん、僕はあんたのことが大嫌いだ。顔も見たくない」
泣いてはいけないと――そう自分を抑えようとしたときには遅かった。瑶の瞳からはすでに止めようのない涙が溢れ出てしまった後だった。
「もう二度と会いたくない、って言うのは無理だね。同じ学校に通ってるんだし。だからせめて、今後は僕に声をかけないでくれないか? 目障りなんだよ。つくづく」
「ひどい……」
思わず瑶が漏らした呟きに、郁紀が口元をつり上げる。見るに耐えないほどに歪んだ、それは残酷な冷笑だった。
「君さ、少しは頭を冷やした方が良かったんだよ。どうせ青海や耕司に|嗾《けしか》けられてその気になってただけなんだろ? 自分一人でのぼせてるぶんには勝手だけどさ、他人を巻き込むなっていうんだ」
すでに瑶には限界だった。
涙を見せてしまった後でも、声を上げて泣くのは、絶対に彼の前でだけは嫌だった。もうどんなに自分が無様に見えようと構わない。今この場で泣き崩れるのに比べれば。
だから走った。冷たく笑う郁紀に背を向けて、瑶は息もできないままに中庭を駆け去った。
瑶と郁紀が連れ立って中庭に行くところを、先に見咎めたのは青海の方だった。
しゃしゃり出て割り込むのは気が引けて、かといって放ってもおけず、結局、耕司と青海は中庭の二人に気付かれない物陰から一部始終を見届ける羽目になった。
「あいつ……」
青海としては、今すぐに郁紀に詰め寄って一発かましたい心境だった。そういう青海の気性を理解している耕司が、最後まで彼女の袖を固く掴んでいなければ、実際にそうしていたかもしれない。
瑶に続いて、郁紀もまた億劫そうな足取りで立ち去り、ふたたび無人になった中庭を前にして、耕司は深い溜息をついた。それでも喉の奥に溜まった苦いものは消えなかった。
「どうしちまったんだかなぁ、あいつは……」
さっきの瑶に対する態度は、耕司といえども許し難いものだった。それでもやはり、先に立つのは当惑である。
郁紀との付き合いは長い。この大学に入る以前からの仲である。そんな耕司の知る限りでも、郁紀があそこまで他人に冷酷な態度を取ったことはない。
どう考えても、郁紀は事故を境に人が変わってしまったとしか思えない。
「ねぇ耕司、このまま放っておくつもり?」
「放っておきたくないにしたって、俺たちに何ができる?」
「覗き見よりマシなこと、よ」
青海はどうやら完全に怒り心頭の様子だった。
「あたし、匂坂くんに一言いってやらなきゃ気が済まないわ」
「それで津久葉の気が晴れるってもんでもないだろうに」
「だったらあたしの気だけでも晴らすわよ!」
耕司と郁紀が友人同士だったように、瑶もまた青海の親友だった。そういう関係で引き合わされたのが郁紀と瑶の間柄だ。青海が親友の心配をするのも当然ならば、郁紀に対して怒るのも当然のことだった。
「あたし、匂坂くんと二人だけで話してみたいわ。耕司はついて来なくてもいいから」
「……本気かよ」
「そのかわり、瑶のこと見ていてあげて。あの子、たぶん心底傷ついてるから……泣き終わった後で、誰かの優しさが必要になると思う」
「なぁ、それって俺とお前の役回りが逆じゃないのか?」
「あたしみたいな性格だとね、慰め役は無理。励ますつもりで余計に傷跡拡げちゃうのがオチなのよ」
「……なるほど、納得いった」
「あ、嫌な言い方」
「じゃあ、まぁ、そっちは程々にしとけよな」
青海がそれ以上むくれる前に耕司は会話を切り上げて、瑶の行方を捜すことにした。
不愉快だった。たまらなく不愉快だった。それと同時に爽快でもあった。
今日の津久葉瑶とのやりとりで、とうとう僕は一線を越えてしまった。
遠からずこういう破局に至るものと覚悟はしていた。相手に対して不快感しか抱けないようになってしまった今となっては、事故より以前の人間同士の繋がりをそのままに維持することなど、どだい不可能な相談だったのだ。
今日のトラブルは耕司や青海の耳にも入るに違いない。匂坂郁紀は性格が一変したと、皆がそう確信するだろう。それはそれで、もう構わない。――少なくとも、それだけの理由で精神病院に送られたりはしないだろう。今日より輪をかけて奇異に思われるような行動をしなければ。
このまま耕司たちと疎遠になっていくようなら、なおいい。それだけでも心労の種は減る。そう考えれば肩の荷が下りたような心境だった。もう|徒《いたづら》に干渉してくるような手合いはまっぴらだ。僕からしてみれば近寄られるだけでも鳥肌が立つというのに、連中ときたら、そんな都合はまるでお構いなしなのだから。
そんな風に、今まで僕のことを脅かし続けてきた奴らが、今日に限っては僕のことを怖がっていた。それを思うと胸がすく一方で……やはり少しは気が咎める部分も、なくはない。
あのとき徹底的に言い負かして追い払った相手が、かつて親交のあった瑶だと――実感はないものの、僕も理屈の上では理解していた。べつに瑶その人の人格にまで恨みはないのだ。傷つけるのは不本意だった。
こんなことなら、いっそ交際を申し込まれたその場で断っておくべきだったかもしれない。
瑶――綺麗な女性だった。むろん悪い印象なんてなかった。だが面白半分に僕と彼女との間を取り持とうとする耕司と青海の動きは、正直なところ玩具にされているようで不愉快だったし、当の瑶もまた、あの二人にいいように踊らされているという自覚を、まるで持ち合わせていなかった。そういう彼女の鈍さは、見ていて歯がゆかった。
それでも、誰に悪意があったわけでもない。あの頃の僕には、誰かを傷つけてまで我を通そうとするほど意地を張る理由もなかった。何となく瑶と付き合ってみて、それで仲間同士の輪が崩れずに済むのなら、それもいいのかもしれない――と、そんな妥協も心にあった。
だが今の僕には、そこまで寛大に身辺のことを流れに任せておけるような心の余裕はない。
他人と向き合って話をするだけでも我慢ならないほどに辛いのだ。誰かに優しくなれというほうが無理な相談だ。
考えるうちに、どっと疲れが湧いた。早く沙耶の待つ家へと帰りたいのは山々だが、その途中で混み合った電車に乗ったり、繁華街の人の群れを眺めたりすることを思うと気が滅入る。
ふと見ると、手近なところにベンチがあった。僕は腰を下ろすと目を閉じて、不快きわまる世界を視野から閉め出した。臭気や騒音まで防ぎようはないが、こうやっていれば気休め程度には神経を鎮められる。
T大付属病院で意識を取り戻したときも、世界はこんな風に闇、だった。
眼球と視神経には異常がないにもかかわらず、視力だけが回復しなかったのだ。
事故の後遺症による脳障害。そう判断するしかなかった。
失明したのはショックだったが、今から思えばそのころの苦悩など、まだ生易しいものだった。当時はまだ残りの聴覚、触覚、嗅覚、味覚には何の異常もなかったのだから。
本当の悲劇は、視力が回復してからだった。
せめてもの幸いは、まだ失明状態のうちに、僕の巻き込まれた災厄と、僕が受けた脳外科手術の特殊性について理解できていたことだろう。
悪夢としか思えない病室の有様や、身の毛もよだつ容姿をした医師と看護婦を見た僕は、初めのうちこそ錯乱したものの、すぐにその異常の原因がどこにあるのか察しがついた。
もし意識の回復と同時に視力も取り戻していたらと考えると、ぞっとする。いきなり地獄のような景観と直面した自分は、訳も分からないまま発狂していたに違いない。
やがて僕の視覚異常は、徐々に触覚や味覚、嗅覚にも伝播していった。人間の知覚において視覚の占めるウェイトは、他の感覚器のそれらと比較にならないほどに大きい。
料理の味も、シーツの触り心地も、見舞いの花から薫る匂いも、すべてが目に見えた外観から想像した通りのものに――生理的嫌悪をかき立てるばかりの不快で耐え難いものに――変化していった。
そのうち、診療に訪れる医師の声までもが人間の言語からかけ離れていくに至って、僕は自殺を決意した。新しい世界と折り合いをつけて生きていく自信など、とうてい僕には持ち得なかった。
その夜、沙耶と出会うまでは。
せめて苦しみの少ない死に方はないものか――そんなことを考えながら、いつしか睡魔が意識を濁らせていた。
眠りながら悪夢を見ているのか、目覚めていて悪夢めいた現実を見ているのか、どちらとも判然としない状態で夜を過ごしていた僕は、いつの間に彼女が病室に入ってきたのか判らなかった。
気がつくと、ベッドサイドに佇んで興味深げに僕を見下ろしている顔があった。
膿汁色の粘液にまみれた顔でもなく、|蚯蚓《みみず》のような繊毛にびっしりと覆われた顔でもない。白く滑らかな頬も、つぶらな瞳も、愛らしく繊細な鼻立ちも……すべてが僕の諦めていたものだった。まぎれもない人間の、輝くほどに美しい少女の顔だった。
「ぁぁ――」
感動のあまり吐息が出た。目が見えるようになってから始めての安堵と喜びを、そのとき僕は噛みしめた。
そんな僕の反応は、むしろ彼女にとって意外だったらしい。
「怖くないの? わたしのこと」
時計を見れば……なるほど、時刻はちょうど丑三つ時だった。こんな時間に年端もいかない女の子が病院の中をうろついているわけがない。どんなに想像力のない輩でも、まず思い当たるのは幽霊か何かだろう。
だが僕からしてみれば、彼女が幽霊でも何でも良かった。地獄に仏とはこのことだ。
「君は――誰だい? なぜ、ここに――?」
「わたしは沙耶。パパのこと探しに来たの」
僕と同じ入院中の患者か、それとも夜勤の看護士か、いずれかを父に持つ子供なのだろう。そう僕は理解した。非常識な話ではあるが、子供のやることと思えば仕方ないかもしれない。むしろこの病院の警備が問題だ。戸締まりもろくにできていないのか。
「あなた、怖がらないんじゃ、つまらない」
「あ、ちょっと――」
すぐにも立ち去ろうとする彼女を、僕は藁にもすがる思いで呼び止めた。呼び止めてどうするかまで考えていないことに気がついたのは、彼女が振り向いた後だった。
「なぁに?」
見つめ返す深い瞳に呑み込まれ、魂の芯から洗われ癒され――僕は頭の中が真っ白になりながらも、躍起になって意味を成す言葉を探した。
「……女の子にお願いしていいことじゃないんだが、今は、君にしか頼めない……」
もう恥も外聞もなかった。僕は口を衝いて出るがままの言葉を吐き出した。
「手を……握らせてもらえないだろうか」
沙耶は怪訝そうに小首を傾げ、それから、さも面白そうに破顔した。僕には眩しすぎる笑顔だった。
「変な人。そんなこと言い出したの、あなたが初めて」
沙耶が白く細い手を差し伸べる。僕は壊れ物を扱うように――それこそ、ひとひらの雪を溶け崩さないよう手に乗せるような心地で、彼女と掌を重ね合わせた。
人のぬくもり。柔らかく繊細な指と指。感触はたしかに僕に伝わった。僕の掌の先に、たしかに彼女は実在していた。
喜びの涙が溢れ出た。思えばそのとき、僕は運命から救済されたのだ。
「この半月の間に、初めて……人に触れた。人だと感じられる身体に」
「……?」
「他の人じゃ、駄目なんだ。僕、事故にあって、その後遺症らしいんだけど……人がヒトの姿に見えないんだよ」
「ふぅん……ほんとに、不思議な人」
沙耶はゆっくりと指を曲げて、僕の指に優しく絡めてきた。
「あなたって面白い。明日の夜も、また来ていい?」
「ああ、そりゃあもう。――いいのかい? 君は、そんな事をして」
「大丈夫よ。夜はわたしのものだから」
その日から、毎夜の逢瀬が始まった。
毎晩、午前3時過ぎ。当直看護婦の巡回の隙間を巧みに狙いすまして、沙耶は僕の病室へとやってきた。
恐れ入ったことに、なんと彼女はこの病院の施設内に人目を忍んで住み着いているのだという。
「これだけ広いと、隠れる場所には事欠かないから」
驚く僕に、そう言って沙耶は事も無げに笑った。
もともと彼女は郊外の一軒家に、この病院に勤める医学教授の父と二人きりで暮らしていたのだが、ある日を境に父親が家に帰らなくなり、以来ずっと独りぼっちだったという。
父親の帰りを家で待つことに飽いた沙耶は、ある晩、思い立ってこの病院に侵入し、以来、父の手がかりを探しながら2ヶ月あまりもの期間、院内で生活していた。
「学校には行かなくていいのかい?」
「いいの。勉強はぜんぶパパに教えてもらったから。沙耶はとっても頭がいいんだよ」
不思議な少女だった。あどけない容姿や話しぶりとは裏腹に、大人たちの目を欺いて独力で衣食住を確保する生活力。常識の欠落は幼さ故のものだとしても、会話の端々に窺わせる聡明さや知識の深さは、およそ子供のものとは思えない。
だが、そんな些細な疑問など僕はまったく気にならなかった。僕にとっては沙耶こそが唯一の人間、この狂った世界の中でたった一人の隣人だった。世界の常識や基準よりも、沙耶の存在こそがよほど信ずるに足るものだった。
「あぶなくないのか? 見つかりそうになったことは?」
「ぜんぜん平気。ここにいれば食べる物にも不自由しないし、パパの家に独りぼっちでいるよりも、ずっと楽しいよ」
沙耶は無邪気に笑って舌を出しながら、
「入院してる患者さんたちのうち、ちょっと精神的に参ってそうな人を事前にチェックしといてね、ときどき部屋に真夜中に忍び込んで、脅かしたりするの。その人が大騒ぎしても、そういう患者さんの言うことはみんな真に受けたりしないから。結局は悪い夢ってことで片づけられちゃうし」
そういえばこの病院は怪談話が絶えないことで有名だ。
まさかこうして本物の悪戯娘が隠れて住み込んでいようとは、いったい誰に想像できるだろうか。
「じゃあ僕も、最初はそのつもりで?」
「うん。――ごめんね。怒った?」
あまり誉められた話ではないが、そのおかげでこうして沙耶との知遇を得たと思うと、僕としては厳しくたしなめる気にもなれなかった。
「もうやらない方がいい。その代わり、夜は僕の話し相手になってくれないか?」
「うん。沙耶もその方が楽しい」
僕は自分が抱え込んだ知覚の障害を、用心深く隠し通した。
ここの医師たちに僕を救う術がないのは考えるまでもなく明白だったし、まだ試行錯誤の段階にあると言ってもいいほど先進的な治療を受けたという現実は、よりいっそう僕を慎重にさせた。
術後の障害としてこれほど奇異な症例を示した患者に、医師たちがどういう興味を示すか――僕自身、医大に籍を置いている身だからこそ、彼ら研究者が僕にどれだけ因業な視線を向けてくるか、容易に想像できた。僕は自らの尊厳に賭けて、断じて哀れなモルモットに成り果てる気などなかった。
だから僕は毎日の不快感と嫌悪感を押し隠して平素を装い続け、医師たちもまた僕のストレスの兆候を、入院生活によるものと判断して見過ごした。
僕のよすがは沙耶だった。夜になれば彼女が忍んでくるという期待だけを支えにして、僕は日中の責め苦を意志の力で乗り越えた。
患者の胸に確かな希望があるかないかで、予後の経過は大きく変わる。僕もまた沙耶という秘密の介護人に支えられ、医師たちが目を見張るほどのペースで様態を回復させていった。
退院を翌朝に控えた最後の夜、僕は思いきって沙耶に切り出した。
「君は――これからもずっと、この病院に居続けるのかい?」
「うん。けっきょくパパの手がかりはなかったけど、もう他にいるところもないし。バレそうになるまでは、いいかなって」
裏を返せば彼女には、強いてこの場に留まる理由もないということだ。
勇気を出して、僕はおずおずと声を落としながら提案した。
「良かったら……僕の家に来ないか?」
「え?」
「家族はもういないから、部屋はいくらでも余ってる。人目を忍ぶような必要もないし、住み心地もそんなに――悪くないんじゃないかと――」
「ずっと、郁紀と一緒に暮らすの?」
嫌なのか? と、そう聞き返す勇気は僕にはなかった。代わりにあわてて付け加えた。
「君の父さんのことは、代わりに僕が探してあげる。約束するよ。必ず居場所を見つけてみせる」
「……難しいと思うよ。それ」
やや当惑したように視線を泳がせながら、沙耶は言った。
「たぶんパパ、何か悪いことをしてこの病院を辞めたんだと思う。だから警察とかは困るの。なるべくこっそりと探さなきゃいけないし」
「頑張るよ。どんなことだってやる。僕は――」
勢い余って歯止めがきかず、僕は秘めた心の本音まで口にしてしまった。
「――沙耶と、離れたくないんだ」
沙耶は困惑しきった顔で、しばらく考え込んだ後、
「……少しだけ、考えさせて」
そう言い残して、いつもより早く僕の病室を出ていった。
退院祝いに渡された花束は、色も匂いも吐き気を催すような代物だったが、それでも僕は笑顔を繕って受け取った。
耕司や瑶や青海を名乗る肉塊が出迎えにやってきた。入院中に何度か見舞いに来たときもそうだったが、事故以前から既知だった人物が無惨に変わり果てた姿で目の前に現れるのは、本当に辛かった。
絶望のあまり思わず滲み出た涙を見咎められたので、嬉し泣きだと言い張って誤魔化した。
廊下でも、ロビーでも、そして駐車場で耕司の車に乗るまでの間も、僕はおぞましく塗り込められた世界に必死で目を凝らし、沙耶の姿を探そうとした。だがどこにも彼女はいなかった。
車窓から遠ざかる病院の門を見続けた。|一縷《いちる》の望みを託して。
それでも、最後まで沙耶は姿を見せなかった。
耕司たちが帰った後、生まれ育った家の門前にひとり取り残された僕は、あらためて周囲を見渡した。
僕は転居の経験がない。生まれてから今日までこの家で、僕は育ち、暮らしてきた。ここ以外に自分が帰るべき場所などあり得ない。そう思っていたはずの場所は――無惨なほど変わり果てていた。
門から玄関に至るまでの庭と植木。幼い頃からの想い出はいくらでもあった。そのすべてが|穢《けが》され蹂躙された気がする。それほどに家の景観は歪み、爛れた形で僕の目に映った。
この家にはもう、懐かしむものも、想い出を呼び起こす場所も、何一つ残ってはいない。かつて我が家と呼んでいた、今は見知らぬ異世界だ。
「……僕にはもう、帰る場所なんてない」
独りそう呟いてから、僕は憫笑しながら2階に上がった。
見る影もない有様の僕の寝室。
そのベッドの上に、きつく両膝を抱え込み、まるで捨て猫のように身を縮こまらせた沙耶が座っていた。
立ちすくむ僕の顔を、気後れしたように上目遣いで窺いながら、沙耶は消え入りそうにか細い声で問うた。
「本当に……ここにいても、いい?」
答える代わりに、僕は沙耶を抱きしめた。決して逃すまいと固く、力を込めて。
沙耶もまた拒まなかった。
匂坂家の門前に立ったところで、青海は深呼吸をし、昴った神経をいったん落ち着けた。
むろん、それで怒りまで冷めるわけではない。言いたいことをはっきり言ってやるためにも少しは冷静になっておかないと、逆上して言葉もろくに出てこなくなるのでは困る。
インターホンの呼び鈴を押して待つ間、青海は門の外から見渡せる範囲で匂坂家の庭を見渡した。
青海とて、他人の家の美観について難癖をつけるほど神経質なたちではないが、それにしてもあんまりだと思う。
生えるがままに放置された雑草と、厚く積み上がった枯れ葉の層。手入れしていないどころか、一歩も足を踏み入れていないのではなかろうか。一見したら廃屋かと思うほどだ。
まだ夕暮れ時だというのに、すでに窓という窓が固く雨戸を閉ざしている。気が早い、というのではなく、察するに朝からずっとあのままなのだろう。
一体どういう生活をしているのだろうか? 家族を失って独り暮らしになったにしても、この無頓着さは限度を超えている気がする。
そういえば気のせいか、どこからともなく生肉の腐ったような臭気が流れてくるが、まさか匂いの元はこの庭だろうか?
相変わらず呼び鈴に応答はない。もう一度押し、さらに何度も押し、そんなことを10分あまり続けた後で、ついに我慢ならなくなった青海はインターホンのカバーを開けてみた。
案の定、電池が取り外してあった。
すでに郁紀にしてみれば、滅多なことでは来るはずもない来客に備えることよりも、新聞や保険の勧誘に煩わされないことの方が優先度として上だったのだが、そんな彼の価値観も青海の関知するところではない。他人を舐めているとしか思えないこの処置にふたたび思考の温度を急騰させられた青海は、荒々しく門を押し開けて庭に踏み入り、玄関へと向かった。
門のインターホンからしてあれなら、ノックしたところで居留守を使われるかもしれない。こうなったら問答無用でドアを開けて怒鳴りつけてやろう。いや、鍵ぐらいは掛けているかもしれないが、そのときは……
案に反して、玄関のドアノブは青海の手の中で何の抵抗もなく回転し、勢い余った青海は必要以上の大きさにドアを引き開けてしまっていた。
その途端、むっとするほどの異臭が押し寄せて青海の息をつまらせる。
“……え? な、なに……?”
立ちすくむ青海をよそに、ドアの内側に釣られたカウベルがガラガラと騒々しく鳴りわたる。中にいる郁紀は、これで来訪者の存在に気がついただろうが――
『ォガェリナザィ』
青海は耳を疑った。廊下の奥の部屋から、たしかにそういう声が聞こえた。人間の発声とは思えない、だが動物の鳴き声にしては複雑すぎるイントネーション。
「――誰かいるの?」
返事はない。代わりに、なにか濡れた柔らかいものが転がるようなピチャピチャという音が、家の奥へと遠ざかっていった。
「……」
いま耳にした音の正体について、なかなか意味をなす思考を形にできないまま、青海は呆然と空っぽの玄関を眺めていた。何もない、空っぽの……そう、郁紀が脱いだはずの靴もない。まだこの家の主は靴を履いたまま、外をうろついているということだ。
郁紀はまだ帰宅していない。ならこの家は無人、ということになる。
ならさっきの音は――青海の空耳だろうか?
さっきまで昴っていた感情が、嘘のように冷え切っていた。青海はカウベルを鳴らさないようドアを開けたままにして、廊下に一歩、踏み込んだ。
ギシ、と神経を逆撫でするような音を立てて床板が軋む。どうして息を殺して静かに動こうとしているのか、考えてみれば青海にも不思議だったが、なぜかそれはとても肝心なことのように思えた。
屋内の匂いの強烈さは、外で嗅いだものとは比べものにならない。魚の臓物をかき集めて腐らせたような、鼻の曲がりそうな汚臭。台所に、何か傷み物の食べ物でも放置してあるんだろうか? そういえば廊下の奥から、何か物音がする。
軋む床板を一歩ずつ踏みしめながら進むうち、廊下は突き当たりで左右に分かれていた。一方は明るく、もう一方は暗い。青海は明るい方の部屋を覗き込んだ。
台所だった。ここばかりは雨戸もなく、採光窓からの外光が差し込んでいる。
音の正体はレンジの上で煮立っている鍋だった。俎板の上には包丁と、途中まで刻まれた人参が転がっている。何の変哲もない夕飯前の家庭の景色。それらすべてを窓からの夕陽が、熟れすぎて腐乱した果実の色に染め上げている。
どうしようもない違和感――当然だった。ここで料理をしていたのは誰で、その人物はいったい何処に行ったのか?
「誰かいないんですか?」
そう呼びかけてから、自分の声がどうしようもないほどに震えていることに気づき、青海は後悔した。
静まりきった家の中に、むなしく響く彼女の声は、なぜか愚かしいほど無防備なものに思えた。
ふいに青海のストッキングに、じわり、と冷たい感触が染み込んできた。
おそるおそる爪先に触ってみると、指先に糸を引く薄緑色の粘液がついた。
魚の死んだ水槽の、藻がびっしりと繁殖して中が見えないほどになった後の濁り水。そんなような液体がうっすらと床を濡らしている。間違いなく悪臭の元はこれだった。
靴を履いたまま上がるんだった……青海は心底そう思った。他人の家だからという遠慮は、とうに意識になかった。
未練がましい気持ちで、もと来た方を振り返る。いま青海がいる位置は、さっき玄関からは死角だった場所だ。奇妙な声と、何かが動く物音がしたのは、きっとこの台所だろう。
……隣は、おそらく居間だろう。外から見たとおり雨戸を閉め切っているらしく、真っ暗い闇の中は何も見透かせない。
青海としては、できることなら振り向きもせずにこの家を出ていきたかった。だがそうすると、あの闇に背を向けたまま廊下を戻らなくてはならない。それだけは絶対にできない相談だった。
理性というより、何か不条理な強迫観念に突き動かされるままに、青海は一歩だけ居間に踏み込んだ。
暗い。何も見えない。それに強烈な汚臭。廊下や台所の比ではない。
手を横に伸ばして壁を探る。電灯のスイッチは拍子抜けするほど簡単に見つかった。藁にすがる思いで青海はスイッチを押した。
色。色。色。
臓物の紫と腐肉の茶色と鮮血の真紅と脂肪の黄色と、それ以外の言葉にならない色彩の狂乱が壁を床を窓を天井を塗り込めていた。
偏執的なほどに丹念な刷毛使いによる、ただ一筋の塗り残しもなく分厚い重ね塗り。この部屋を塗り潰した人間の憎しみと悪意と狂気の程を、余すところなく物語る色合いだった。
あまりの毒気に当てられて、青海は脚の力が抜けた。たまらず崩れるように座り込んだ途端、床を濡らしていた粘液が彼女のジーンズに染み入ってくる。冷たい感触に犯されるふくらはぎ、股、尻……
そして、首筋。
思わず首に当てた手の甲に、さらに冷たい粘液がピチャリと飛び散る。
上だ。青海の頭上から滴り落ちてくるのだ。
青海の生涯で最悪の不幸は、そのとき上を仰ぎ見てしまったことかもしれない。
天井に張り付いて待ち伏せし、今まさに直下の獲物へと襲いかからんとしていた捕食者の容姿を、青海はつぶさに、あますところなく目にしてしまった。
悲鳴を上げる直前に、口も鼻もすっぽりと覆われていた。臍から下腹にかけてを一気に引き裂かれ、内臓を貪り食いながら青海の中へと侵入してくる異物。
その感触を感じる頃には、すでに青海の精神は完全に崩壊していた。
覚悟を決めて電車に乗ってはみたものの、やはりラッシュアワーの間近な混雑には耐えきれず、途中駅で降車した僕は残りの帰路を歩いて戻った。
普段よりだいぶ遅くなってしまった。沙耶も心配しているだろう。怒ってなければいいが。
門をくぐって庭に入ったところで、なぜか開け放しになったままの玄関に気がついた。
廊下の奥の居間からは電灯の明かりが漏れている。舌鼓を打つような音と――何か、馥郁と鼻をくすぐる匂い。
沙耶だろうか? いったん呼びかけようとしてから、僕は思い直して黙ったまま家に上がった。
奇妙な匂い。だが決して不快ではない。むしろ胸のすく爽やかな芳香に思えた。どこか沙耶の髪の匂いにも似ている。
覗き込んだ居間の光景に、はじめ僕は戸惑った。
床一面に何か草のようなものが敷き詰めてある。ハーブのような香りの元はこれだろう。それ以外にも果物か野菜みたいな大小の塊が、そこかしこに散らばっている。
その真ん中で、沙耶は僕に背を向けて座り込み、夢中になって何かを頬張っていた。
「沙耶?」
「あ――」
呼びかけに振り向いた沙耶は、心底驚いたらしく目を見開き、それから、まるで悪戯の現場を見咎められたかのように、さも気まずそうな顔つきで僕から目を逸らした。
「なにを食べてるんだい?」
「これは、あの、その――」
沙耶は見ていて気の毒になるほどに狼狽していた。そういえば沙耶は食事の場面を決して僕に見せたことがない。よほど恥ずかしがっていたんだろうか。何だか僕はとんでもなく卑劣な覗き見をしてしまったような気分になり、途端に沙耶に申し訳なくなった。
「ひとつ、いいかな?」
僕は手近なところに転がっていた果実らしきものを拾い上げ、手を挙げて制止しようとする沙耶の反応を待たず、口に運んでみた。
不思議な食感だった。
歯触りは桃か洋梨のように、柔らかく弾力がある。良く噛むとシャリシャリと奥歯で潰れていき、そのたびに瑞々しい汁気が口一杯に広がる。それに、鼻に抜けるような強い香り――僕が今まで味わったことのあるどんな食べ物とも違う。
「なにか味付けとか、調理してあるのか? これ」
「調理ってほどのことは……捌いてから、ちょっと溶かして食べやすくしただけで、ほとんど生なんだけど」
「ふぅん」
僕は別の塊を手にとってみた。今度は硬そうな芯のまわりに厚い果肉がついている。囓り取るとこれも、味は似たようなものだった。
「ねぇ大丈夫? それって――」
「うん。僕でも食べられる味だ。っていうより、美味いよ。これ」
「――そうなの?」
沙耶は面食らったように目を白黒させていたが、やがて可笑しそうに笑い転げはじめた。
「あはっ、そーなんだぁ。郁紀もこういうのが好きだったんだ。なぁんだ、あれこれ工夫して頑張ってたわたしがバカみたい」
「沙耶って、いつもこういう物を食べてたのか?」
「こんな大物は久しぶりだけどね、うん。近所の公園とかで獲ってこれるやつ」
たしかに少し離れた場所に、都内有数の緑地公園がある。こんな果物が成っているなんて聞いたこともないが――そうか、今の僕に果物っぽく見えるというだけで、たぶん本当は別のものだ。
「ごめんね。いちばん美味しいところは、さっき沙耶がぜんぶ食べちゃった」
「いいよ、また今度で。でもこれで、明日から一緒に食事ができるね」
「うん!」
沙耶は本当に嬉しそうだった。もちろん僕も同じだ。一人で食べる味気ない食事に比べれば、誰かと食卓を共にするだけで、どんなに食が進むことか。
「まだまだ一杯あるし、食べきれないぶんは冷やせば2、3日は大丈夫だよ。ちょっと味は落ちるんだけどね」
「じゃあ、早めに片付けておこうか」
小さい果肉はタッパーに、大きいものは鍋やボールに入れてラップをかけて、僕らは残りの食料を手分けして冷蔵庫に詰め込んだ。明日からの晩餐を思うと、今からもう心が躍る。
こうやってひとつずつ、僕は生きる楽しみを取り戻していくのだろう。沙耶と一緒に。
沙耶が僕を導いてくれる。彼女となら僕は生きていける。
――本当にあったコワ〜イ話:病院編――
――第4章 某有名大学付属病院の怪――
『都下有数の設備を誇る某大学付属病院。ここに研修生として通ったKさんの、ショッキングな最新体験談! あなたは信じる? 信じない?』
うちの病院で奇妙なことが起こるようになったのは、今年の春先からなんです。
入院中の患者さんが、夜中に悪夢に|魘《うな》されて目を覚ます、ってことが何度もありまして。それもみんな物凄く怖い夢ばかりらしいんです。不眠症になっちゃって睡眠剤を処方しなきゃならなくなった人も沢山いて。何人かはそれがもとで転院しちゃったぐらいです。
不思議なのは……患者さんたちの見る夢っていうのが、話を聞くとみんな同じらしいんですよ。ベッドの枕元に、何かものすごく気持ち悪い姿をした怪物が立っていて、じっとこっちを見下ろしてくる、っていう……
でも本当に奇妙なことが起こり始めたのは、その頃からだったと思います。
うちの病院がある大学のキャンパスってね、けっこう野良猫が居着いたりしてたんですよ。学生がエサあげたりするから、近所の野良猫が集まってきて。
それが気がついたら、だんだんと数が減ってるんです。それも、猫たちが大学に来なくなったっていうより、その近辺で猫を見かけなくなったんです。
犬の散歩も見かけなくなりました。噂だと、飼い主がコースを変えたんじゃなくて、犬の方が嫌がって大学の傍に寄りつかなくなってきたんだとか。
そのうちに、今度は医学部の中からなくなる物が出てきました。
臓器、です。
死体を解剖して移植用に摘出した臓器が、保管場所から消え失せる、っていうトラブルが立て続けに起こったんです。何度か責任問題にもなったそうで。それに本当は二度や三度の話じゃなくて、私たち研修生には伏せられたところで、もっと何度も同じ事が起こってたらしいんです。
この病院には何か棲み着いてるんじゃないか、って、そういう噂をする人たちも出てきました。
清掃員の方が、夜中につけられたとしか思えないような奇妙な汚れを見つけることが何度もあって。廊下を何かが這いずった跡とか、天井裏から壁に滴った変なシミとか。
夜中に宿直の看護婦さんが妙な物音を聞いた、って噂もよく聞きました。そんな日に限って入院中の患者さんの悪夢騒ぎがあったりするんです。
最後に、これは――病院の中じゃ、絶対に言っちゃいけないことになってるんですけど……
一度だけ、産婦人科でとんでもない騒ぎが起こったらしいんです。
新生児が一人、夜のうちにいなくなったとか。
それが本当なら警察が来たりニュースになったりしたでしょうけど、それは偉い人たちが手を尽くして表沙汰にならないように取り計らったんだっていう話です。もちろん噂ですよ?
でもそういった奇妙な出来事も、夏の終わりごろからふいに途絶えてなくなったんです。
今では悪い夢に|魘《うな》される患者さんなんて、ほとんどいません。猫もまたキャンパス内で見かけるようになりました。
それにしても今年の夏、あの病院で何が起こっていたのか……今になって思い出しても気味が悪いんですよね。
……………………
「駄目だ」
「……」
青海と連絡が取れなくなって、三日が経過していた。
アパートにも帰宅した形跡はなく、実家でも心当たりはないという。青海の両親はすでに捜索願を出している。
「まぁ、あいつのことだからな。何事もなかったみたいにヒョッコリ顔出しそうな気もするんだが」
「……うん。だといいけど……」
瑶の表情は暗い。もちろん青海の心配もあるのだろうが、三日前の郁紀との遣り取りも、まだ吹っ切れていないのだろう。
あれきり瑶は郁紀と会っていない。郁紀もまた彼らの前に顔を出すことはなかった。授業の合間には何となくこのカフェテリアに集っていた四人組が、今では二人しか残っていない。
「ねぇ戸尾くん、もう一度考えてみようよ。どこか青海ちゃんの行きそうな場所に心当たり、ない?」
「いや……一通りは確かめたし、なぁ」
耕司は曖昧に言葉を濁した。もちろん嘘だ。あの日の夕方に青海が行くつもりだった場所を、耕司だけは知っている。だが耕司としては、今の瑶の前で郁紀の話題を持ち出したくはない。
気まずい沈黙を救うようなタイミングで、講義開始前の予鈴が鳴った。
「じゃあ、俺、行くわ」
「……うん」
耕司の記憶が確かなら、瑶にも次のコマの授業はあるはずなのだが、彼女は心ここにあらず、といった|態《てい》で席を立とうともしない。
かけるべき言葉も思い当たらず、耕司は後ろ髪引かれる思いのままカフェテリアを後にした。
青海の行方、瑶の様子、どちらも耕司には心配だった。そしていずれの心配事に心を向けても、たどり着く疑問符の場所はひとつだった。
“郁紀は、いったい……”
青海と連絡が取れなくなってから、まず最初に耕司が問いつめたのは郁紀だった。彼と直談判しようと意気込んで去っていった青海が、耕司の知る彼女の最後の姿だったからだ。
郁紀の返事は、取りつく島もないほどにそっけない否定だった。なぜ青海が彼の家に行ったなどと推測されるのか、それさえも釈然としない様子だった。当然といえば当然だ。あの日、郁紀が瑶を泣かせる様を青海たちが見ていたことは知られていない。
そもそも、はたして青海は本当に郁紀の家を目指したのだろうか? 彼女の行動は勢い任せの感情的なものだった。途中で頭を冷やして気が変わったとしても何の不思議もない。
あるいは郁紀の家に辿り着く前に、何かのトラブルに遭ったのだろうか?
そのいずれかであろうと耕司は踏んでいた。――いや、彼の深層心理まで正しく表現するならば、そのいずれかであってほしいと願い、信じ込んでいた。もう一つ考えうる可能性について、耕司は無意識のうちに考えることを拒んでいた。
すなわち、郁紀が嘘をついている可能性。青海が彼と会っていた可能性。彼女の失踪に、郁紀が関与しているという可能性……
青海の一件を担当することになった刑事が聞き込みに来たときも、耕司は別れ際に彼女が告げた目的地について、『N区S駅』とまでは正確に答えたが、その先は曖昧に濁していた。目的についても知らないと言い張った。
もちろん青海の捜索には協力したい。だが彼女は郁紀の家までは行っていない。そう郁紀自身が言っているのだから間違いない。なら警察に教えるべき情報はそれだけで充分だ――そんな理に沿わない理屈が、耕司を縛っていた。いま精神的に微妙な状態にあるらしい郁紀のことを巻き込みたくはないという気持ちが働いてのことだった。
矛盾は、それと気付かぬ耕司自信の心に重く|蟠《わだかま》っていた。ただ郁紀に対する疑問だけが、形にならないまま耕司の思考をループしていた。
物思いに耽るあまり、歩きながらも周囲の様子はまるで目に入っていなかった耕司だったが、むしろそんな状態だったからこそ、学生たちの往来の向こう側に垣間見えた親友の後ろ姿に目ざとく気がついたのかもしれない。
“――郁紀?”
講堂に向かうのかと思いきや、様子が違う。どうやら帰宅するつもりらしい。
奇妙だった。今日の午後には医学部必修の基礎科目があるというのに。
ほんのいっときだけ耕司は立ち止まったか、逡巡したのは一瞬だけだった。
気付かれないよう慎重に距離を計りながら、耕司は親友の後をつけはじめた。
郁紀は家に帰るわけではない。駅で逆方向の電車に乗った時点で、それは明確になった。
方向から推理して、かかりつけのT大病院に行くのかとも思ったが、最寄りのはずの駅に着いても郁紀は降りる気配を見せない。
“どこに向かってる……?”
最初のうちこそ、耕司は自分のやっている事がひどく馬鹿げたことに思えたし、こっそり後をつけるなどというやり方にも気が咎めるものがあったが、そんな呵責も郁紀の行動が謎を深めるにつれ、忘れ去られていった。
その行動が不可解であればあるほどに、彼の性格を一変させた真相へと迫る手がかりになりそうな気がしてならない。どんな些細な情報でも、ないよりはいい。
すでに耕司にも、郁紀の豹変が事故だけを原因とするものとは思えなくなっていた。より納得できる理由が欲しかった。今の郁紀を信用していいのかどうか、それを判断するためにも。
郁紀が電車を降りた。べつだん何があるとも思えない郊外住宅地の小さな駅だった。改札へと消えていく彼の背中を見失わないよう、耕司も他の降車客に混じって後を追う。
駅前にはロータリーもなければ、商店街と言えるほどの賑わいもない。小さな書店とコンビニエンスストア、あとはスーパーマーケットが一軒あるだけの寂れぶりだった。先を行く郁紀を見失う心配はなかった。
すでに通い慣れている道程なのか、郁紀は脇目もふらず足早に先を急ぐ。丘陵地をなかば強引に切り拓いた、坂道だらけの新興住宅地だった。宅地にしきれなかった斜面や雑木林がそこかしこに残っている。進学のために上京してきた耕司は、東京でもわずか小一時間ほど都心から離れるだけで、こんなにも閑静な土地があるとは思ってもみなかった。
やがて郁紀は、とある一軒家の玄関口に吸い込まれるようにして消えていった。呼び鈴も押さずノックもせず、まるで自分の持ち家に入るかの如き遠慮のなさを、耕司は|訝《いぶか》る。
しばらく待って、郁紀が出てくる様子がないのを確かめてから、耕司は門前に近づいて表札を検めた。
――奥涯――
郁紀にそんな名前の知人がいるとは聞いていない。それよりも、投函口からはみ出すほどに溜め込まれた捨てチラシの紙束の厚さが耕司の目を引いた。この家は空き家ではなかろうか。そう思って見ればどことなく、両隣の家より寂れた雰囲気がある。
2ブロックほど離れたところに小さな児童公園があり、奥涯家の表玄関を見張るだけならそこからでも事足りた。幸い裏口があるような家屋には見えない。
耕司は公園のベンチに腰を下ろし、煙草を買い足して置けば良かった、などと些細なことを後悔しながら、腰を据えて監視を始めた。
1時間が経ち、2時間が経った。奥涯家には誰も出入りする気配がない。夕暮れがゆっくりと家々の景観を変えていった。
持ち合わせた煙草の箱が空になり、あとは苛立ちとの戦いが始まった。何度か気晴らしに携帯電話で青海の番号をリダイヤルし、無駄と知りつつも短いメールを打った。もちろん何の反応もなかった。
やがて空の暮色が蒼く深まり、街灯が点る頃合いになって、ついに郁紀が家から出てきた。来掛けと同様すたすたと足早に、駅の方角へと戻っていく。
耕司は少し判断に迷ったが、今日のところは郁紀の追跡よりもあの家の正体を探る方が先だと結論した。
まず念のためにチャイムを押し、何の反応もないことを確かめてから、周囲に人目がないことを確認し、玄関のノブに手をかける。鍵はかかっていなかった。
中に入った途端、鬱蒼とこもった空気が耕司の鼻を刺激した。黴と埃の溜まった、明らかに人の出入りが途絶えて久しいと判る空き家独特の臭気だ。
それに加えて、何とは名状しがたいが、放置された水槽が放つような湿った汚臭がかすかに匂う。やはりこの家に住人はいない。
明かりのスイッチに触れたが反応がない。主電源が落ちているのか、それとも電力が来ていないのか。
耕司はオイルライターに火を灯して手元を照らした。厚く埃の積もった床には、真新しい足跡が繁く行き来している。郁紀のものだろう。靴のままだった。耕司もまた遠慮せず、土足で玄関に踏み込んだ。
心許なく揺れるライターの明かりの中に、屋内の死んだような静寂と薄闇が暴かれる。
まず驚いたのは、まるで損なわれていない居住者の生活臭だった。家財道具から食器、調度品に至るまで、なにも持ち出されたものはないように見える。
埃の積もり具合からして、空き家になって数ヶ月は経過している様子だが、だとすると家人は着の身着のままで家を出ていったらしい。長期の旅行にでも出ているのだろうか?
居間のカレンダーは今年の4月のまま放置されていた。
廃屋然とした静寂の中、過日の暮らしぶりがそのままに窺える屋内は、海底に沈没した客船の中を彷彿とさせた。墓所めいたその沈黙が、ふと耕司の脳裏に不吉な連想を呼び起こす。
家主の生活は途絶えたが、家主が立ち去ったとは限らない。今こうして進んでいる足下にでも、干涸らびた変死体が転がっているのでは――
ライターよりもましな光源が欲しかった。せめてマグライトでもあれば気の持ちようが大分違っただろう。
郁紀のものとおぼしき足跡を辿って、耕司は二階へと上がった。据えた空気の中に紙の匂いが薫りはじめる。古本屋、あるいは司書のバイトでもやっていれば嫌でも嗅ぎ慣れる、放置された書物の匂いだ。
果たして2階は書斎だった。天井まである書架に詰め込まれた、おびただしい本の密度には、床の強度を心配したくなる。耕司も医大生だけあって、この部屋の主が医学関係者なのは一目で判った。それもかなり高度な。
書架の内容は、一介の学生では見たことも聞いたこともないような専門書のオンパレードである。臨床医学より研究者寄り、という程度の判断しかつかない。
どうやら郁紀はこの家で過ごした時間の大半を、ここで費やした様子だった。乱れた埃の有様から、家捜しの痕跡が容易に見て取れる。
特にデスクの引き出しや書類棚には引っかき回して探ったらしく、中身が明らかに荒れていた。
ふと耕司は、サイドテーブルに平積みになっている数冊の本に気がついた。デスクに着きながらもっとも頻繁に参照した本なのだろう。そういう位置にどんな類の書物があるかによって、その人物の正体が窺い知れたりもするのだが――
耕司は眉をひそめた。3冊の本はどれも歳経た重厚な革表紙の洋書で、学術書というよりはむしろ、ガラスケースに収まっていそうな|稀覯書《きこうしょ》の類にしか見えない。
表題もまた謎だった。『Traite des Chiffres』――これは記号論の本だとしても、『Ars Magna et Ultima』というのは占いか何かの本だろうか?
さらにもう一冊の『Voynich manuscript』――何かの写本だということらしい。だが開いて数ページ|捲《めく》ってみたところ、まるで意味をなさないアルファベットの羅列が並んでいるだけで、まったく読めたものではない。暗号でも使っているのだろうか。
いずれにせよ、どれも医術とは縁もゆかりもない本である。この奥涯氏を医者だとする推察には、にわかに自信がなくなってきた。
ふと視線を落とすと、椅子の足元に黒光りする金属光沢を見咎めた。
ポケットサイズのマグライトだった。この部屋にはそぐわない異物だったが、おそらくは郁紀が持ち込んだものだろう。
ささやかな安堵を味わいながら、耕司は手明かりをオイルライターからライトに持ち替えた。小さな寸法からは意外なほどの強力な白色光が闇を追い払う。
これならば――そう気を取り直して、耕司は家の他の場所も見て回ることにした。
「……ん?」
オイルライターの弱い光では判らなかった奇妙なものに、耕司はすぐ気がついた。
汚れだ。
特にドアノブや階段の手すりが著しい。手垢などというレベルではなく、まるで汚れ雑巾を巻いて掴んだかのような、妙に黒ずんだ液状の汚れが、そこかしこにこびりついている。
注意して見れば、壁の低い位置、床に近いあたりにも、飛沫のような|汚穢《おわい》が散った痕跡があちこちで目についた。水を|濯《すす》がないままのモップで乱暴に床を拭いて廻れば、こんな汚れがつくかもしれない。
「……」
奥涯氏の生活の名残だろうか? そう考えるにはあまりに奇怪な痕跡だった。全身から汚水を滴らせながら屋内をうろつく居住者の姿を想像して、耕司はわけもなく胸が悪くなった。
書斎の隣に寝室があった。ふと耕司は直感に駆られて、クローゼットの中を検める。
空のままのスーツケースが二つも見つかった。長期の旅行に出かけるのならば、どう考えても家に残っていてはおかしい代物だ。
体温が数度下がる。やはりここに住んでいた人物は、この家のどこかに――
さっさと逃げ出してしまいたい気持ちを堪えつつ、耕司は二階から降り、一階の捜索を始めた。
もし変死体でもあるようなら即座に警察を呼ばなければならない。すでに屋内には耕司の指紋がいたるところについている。いま第一発見者になって通報すれば不法侵入を咎められるだけだが、それが後日になってからでは申し開きが立たなくなる。
マグライトの明かりの中で見ると、居間の汚れようは輪をかけて酷かった。ソファーなどはヘドロの底から引き上げてきたかのような有様だ。
台所。水回りの様子を一目見て、耕司はシンクに近づくのをやめた。この家の住人がどういう暮らしをしていたのか、もう想像もしたくなかった。
浴室の前まで来た。
耕司の脳裏を、テレビドラマでよく見るようなワンシーンが過ぎる。風呂桶に満たした湯に浸かって、手首を剃刀で切る自殺の場面。
そういえば映画か何かでは、殺し屋が犠牲者の死体を風呂場で解体して処理するシーンもあった……
覚悟を決めて、耕司はそっと浴室の扉を開け、白くぼんやりと浮かび上がる陶製のバスタブの内側に、マグライトの光を差し入れた。
湾曲した肋骨の輪郭が、ひからびた腐肉と血をこびりつかせて真っ黒に染まっている。
下肢の力が抜けかかるのを、壁に手をついて堪えつつ――耕司は違和感に駆られ、必死に思考を組み立てようとした。
骨。骨にしては――小さい。それに数が多すぎる。
人間の骨では、ない。
何度か深呼吸して気持ちを落ち着けてから、耕司は浴室に踏み込み、浴槽の中をもっとよく観察した。
小さな骨は浴槽の半ばぐらいの深さまで、それこそ落ち葉か何かのように堆積していた。明らかに人間ではない小動物……犬や猫、それと鼠や雀といった生物の死骸のようだ。
それにしても量が異常だ。これだけの骨を溜めるとなると、いったい何匹分の死骸を集めればいいのだろうか?
骨は残らずバラバラに解体されている。ただ死骸を浴槽に放り込んで白骨化させただけとは思えない。
だがその理由は、どの骨にも溝状の傷が幾重にも刻まれていることで明らかになった。――肉を歯でこそげ落とした跡だ。
耕司自身の理性のためにも、それが人間の仕業とは考えたくなかった。
おそらく何らかの肉食動物を、この家でペットとして飼っていたに違いない。餌として与えた小動物の骨を、家主は浴槽に放り込んで溜まるがままにしてきたのだろう。
だがなぜ、ちゃんと処分しなかったのか? 餌の食い残しなど、生ゴミとして破棄すればそれで住むことだろう。それとも家から出られない理由でもあったのだろうか?
人間の骨ではないと判った時点で安堵しかかったのも束の間、耕司はこの家にまつわる不可解な謎がなおいっそう不気味なものに思えてきた。
だいたい、こんな家に上がり込んで郁紀は一体なにをしていたのか?
「どうした? 耕司」
「!?」
ぎょっとして振り向いた耕司のペンライトが、背後にいた郁紀の無表情な顔を照らし出す。
「不法侵入だぞ。耕司」
「お前だって……同じだろうが……」
激しい動悸の合間から、耕司はかろうじて声を絞り出した。
郁紀は耕司の横から浴室の中を覗き込み、それから何食わぬ顔で扉を閉める。珍しいものなど何も見つからなかったと言わんばかりに。
「僕はこの家の人と知り合いなんだ。頼まれて捜し物をしに来ただけさ」
「知り合いって……いつから? いったい何者なんだ?」
耕司としては、まだ自分と親しく付き合っていた頃の郁紀が、こんな異常な家の住人と交流を持っていたなどとは信じたくなかった。
「いずれお前にも紹介するよ。僕の恩人とも言える人だから」
耕司の方を見ようともせずにそう言って、郁紀は再び家を出ていこうとする。
「おい、郁紀……」
ようやく動悸が治まって人心地ついた耕司は、その後を追いながら声をかけた。
「お前まさか、近頃様子がおかしいのは、その知り合いっていう奴のせいなんじゃ――」
玄関口に立った郁紀が、肩越しに耕司を一瞥する。
思わず耕司が立ちすくむほどに、その眼差しは冷ややかで感情を欠いていた。
「僕の後をつけて来たんだね? 耕司」
「……」
むろん言い逃れの言葉などあろうはずもない。耕司は郁紀の視線に射|竦《すく》められたまま生唾を呑み込んだ。
「そういうのは、迷惑だ。二度とやらないでもらいたい」
「――ああ」
それ以上は何も言わず、郁紀は耕司一人を玄関に置き去りにしたまま、戸外へと出ていった。
そのときまで耕司の胸の中には、匂坂郁紀のことを、気心知れた親友として|慮《おもんばか》る気持ちが残っていたのだろう。
だが今の耕司には、ただ凍み入るような畏怖の想いしかなかった。
彼の知る郁紀という人間はもういないのではないか? いま耕司を睨み据えていった人物は、郁紀の皮を被った別の何者かではないのか?
そんなことを耕司は、なかば本気で考え始めていた。
目障りな、奴……
どうしてああも僕に干渉してくるのか?
社交辞令として声をかけてくるというのなら、まぁ僕だって我慢する。だが興味本位で他人のプライベートに首を突っ込んでくるというのは……明らかな侵害だ。
相手に関心を持つことがすべからく好意であると、そういう勘違いをしている手合いがよくいるものだが、あの耕司がまさしくそうだ。
他人の都合にとやかく首を突っ込むことが、あいつにとっては僕に対する心配の表れなんだろう。
なんて迷惑な。
もしこれ以上、耕司が僕のやることに横槍を入れてくるようなら、何か手段を講じなければならないんじゃないだろうか。
沙耶に言われた通り、奥涯教授の捜索はできるだけ密かに進めなければならない。それを耕司はぶちこわしにしかねない。
沙耶は『手がかりになりそうな物など何もない』と言っていたが、あにはからんや、教授の家は探す価値のありそうな場所があまりにも多かった。今日一日では無理だと途中で諦めたが、この調子では、あの書斎を調べ尽くすだけでも何日かかることになるのやら。
あと何回か、あの家には通わなければならないだろう。だが耕司に場所を知られたのは厄介かもしれない。あいつはまた邪魔しに来るんだろうか……
『――チョット、匂坂ョXン?』
自宅の門をくぐろうとした僕を、身の毛もよだつような声が呼び止めた。
思わず身構えそうになるのを抑えて、何食わぬ顔で振り向くと――うじゃうじゃと沸き立つ肉の山が、剥き出しの眼球でじっと僕を睨んでいる。
『コンバB&ワ、匂坂サン。今オ帰リャIスカ?』
「ええ、まぁ――」
判った。僕の家の隣に住んでいる|鈴見《すずみ》とかいう中年男だ。職業は絵描きだか何だかで、仕事勤めの女房の代わりに、日がな一日じゅう家にいるらしい。
最近では近所付き合いといえる程の交流もない相手だが、今日に限ってなぜ声をかけたりしてきたのか……
『オ一人ノ暮ラ稱ホTハモウ、慣レマシ觸カ?』
「ええ、はい。おかげさまで」
『……色々ト大変デシ&鉉ノガ、アナAQハマダ若イ。過ギタコト{ムラEモ先ノコトヲ考エテ頑張ッテ熙Rjサイ』
「はぁ」
――何のつもりだ? ただ説教がしたくて呼び止めたのか?
『コ△ダケ立派ナオ宅ダト、ヤハリ一人デ面倒ヲ摘Xモノハ大変ナノHリ0ト$ナイデスカ?』
「まぁ、そうですね。苦労してます」
『セメテ家政婦サxワILトモ雇ワレテハドウA^\MDMカ? オ父上モソウシ夲癲ラレタノデショウ?』
「ええ。でも、まだ学生の身ですし、蓄えには限りがあるんで。そういう浪費はちょっと」
『ソウデスカ――』
隣家の肉塊はそれでもまだ何か言いたげに、ゆらゆらと蠢いている。見ているだけで僕の中の嫌悪感が臨界に近づいていく。
『デモ、セメテ庭ダケG$Tツ一度、手ヲ入レテハ虔潭デスカ? 良カッタ6ェラ私モオ手伝イシマスヨ』
「あ、いえ。お構いなく。一人でも何とかなりますから」
……なるほど。僕の家の体裁が悪いと、あんたの家の美観まで損なわれて困る、というわけか。俗物が気取りやがって。
僕は形ばかりの愛想笑いを返すと、さっさと門の内側に退散した。
玄関から中に入るまでの間、鈴見の視線はずっと僕の背中に張り付いたように付きまとっていた。
どいつもこいつも……癪に障る! いっそ誰もいない場所に行って暮らしたい。沙耶と二人きりで。
逃げるようにして家に入っていく隣家の青年を、|鈴見洋佑《すずみようすけ》は腹立ち紛れの溜息とともに見送った。
何なんだ? あの態度は。人と話しながらも、まるで汚いものを見るように終始、目を逸らして嫌そうに……
匂坂家の長男は、昔からあんなに感じの悪い男だっただろうか? いや、そんなことはない。ご両親が健全な頃は、やや内気ながらも繊細そうな、ごく普通の青年だった。
やはり慣れない一人暮らしがストレスになっているんだろうか。あの調子では精神を病んでしまいかねない。……それとも、もうとっくに参っているのだろうか?
うんざりした気分で、洋佑は匂坂家の庭を見渡した。
夕食の席に着いても、洋佑の脳裏には隣家のことが残っていた。
「――どうしたの? あなた。難しそうな顔して」
「うん……今日ね、隣の家の息子に会ったよ」
「お隣のって、フミノリお兄ちゃん?」
「ああ。庭のこと、ひとこと言っておいた」
「そうよねぇ……せめてあの匂いだけは、どうにかしてもらいたいわよねぇ」
隣家から漂ってくる悪臭は日に日に酷くなっていく。これには鈴見家の誰もが閉口していた。
「あの草叢の中に死んだ猫でもいるんじゃないかしら? でも、住んでいて気付かないのかしらね? あの匂いに」
「まさかとは思うが、生ゴミをそのまま庭に捨てているんじゃあるまいな?」
「そんな。いくら何でもそこまで……」
「いいや、今の様子だとやりかねん。一日中ずっと雨戸を閉め切って、何をやってるのかも判らない。どういう暮らしをしてるのやら……」
「お兄ちゃん、アタマおかしくなっちゃったのかな?」
「これ、博美。そういう言い方はダメよ」
「いや、あれは本当にちょっと度を過ぎてる。ひょっとしたら偏執狂か何かかもしれんな」
「……大丈夫なの? それ」
「早く自覚して医者にでも行ってもらわんことには、何ともなぁ……」
その夜は一分一秒が、僕を拷問のように|苛《さいな》みながら過ぎていった。
奥涯家の捜索から戻った僕を迎えたのは、空っぽの家の静寂だった。沙耶は行く先も告げずに姿を消していた。
彼女が夜の散歩に出るのは珍しいことではない。僕もよく同伴することがある。だがそれは決まって人通りの途絶えた深夜、それも長くても二時間かそこいらの外出だ。
今、時刻はすでに午前五時。もうしばらくすれば空が黎明の兆しを見せ始める。
僕が戻る直前に沙耶が出ていったのだとしても、もう半日近い時間が経っている。
僕は一睡もできないまま、ただ悶々と時を過ごすしかなかった。気分を紛らわすために他の部屋のペンキ塗りを進めようと思っても、それはそれで作業に身が入らない。
こんな事なら奥涯家の捜索をもっと早めに切り上げて帰宅していれば良かった。耕司などにかかずらって無駄にした時間が惜しくてならない。
このまま沙耶が戻らなかったら――そう考えると頭髪を引き毟りたくなるほどの焦燥に駆られる。久しく遠ざかっていた真の孤独への恐怖が、じわじわと僕を圧迫していく。
……やがて玄関のカウベルが鳴り、「ただいま」と待ち望んだ懐かしい声が階下から届いたとき、寝室にいた僕は安堵すると同時に、一晩のあいだに溜めこんだ心理的疲労がどっと押し寄せてきて足元がおぼつかなくなった。
「あぁ疲れた。やっぱり往復すると遠いなぁ」
「沙耶! いったいどこに――」
階段を上ってきた沙耶が、なにやら小脇に分厚い書類の束を抱えているのを見て、僕は言葉を失った。
「――それは?」
「郁紀のカルテとか、手術の記録。今日は古巣の病院に行って来たの」
よいしょ、と彼女が荷物を下ろすと、とたんに膨大な紙の束が崩れて床を覆い尽くす。沙耶はお気に入りのクッションを抱き寄せて腰を下ろすと、さもくたびれた風に「んうぅぅ」と唸って大きく伸びをした。
「こ、こんな夜中に? T大から歩いて戻ってきたのか?」
「ごめんね。本当はもっと早く帰れると思ってたんだけど、調べだしたらキリがなくって」
沙耶は床に散らばった書類を一枚ずつ拾っては、慣れた手つきで仕分けなおしていく。
「けっきょく、ぜんぶ持ち出してきちゃった。あー重かった」
疲れているせいだろうか。僕には沙耶の話の脈絡がまったく解らない。
「だから……そんなもの持ってきて、どうするつもりなんだ?」
「どうするって――もちろん、調べるのよ。家で時間かけてじっくり」
そんなことを言いながら、沙耶は束になったMRIの写真フィルムを次から次へと蛍光灯に翳していく。遊んでるのかと思いきや、たまに「あ、これ要チェック」などと|嘯《うそぶ》いて別の山に仕分けたりと、どうやら只の冗談とも思えない仕草を見せている。
「君、解るのか? こういうの」
「パパに色々と教わったから。……ふぅん、なるほどね。そういうこと。……これじゃ、いつまで経っても治せないよねー」
「……治せない、のか?」
「人間のお医者さんじゃ、ね」
沙耶の口調は、冗談とも本気ともつかなかった。
「わたしでも、まだちょっと難しいかな。色々と試してからでないと」
さらりとそう言いながらも、沙耶が書類を捌いていく手つきは止まらない。見ていると、最初はあまりに早くて解らなかったが、彼女は手に取った一枚一枚について斜め読みするかのように視線を走らせていた。
――まさか、本当にこの子は僕のカルテを読み通そうとして、いや、|読み通している《・・・・・・・》のだろうか?
「なあ、沙耶?」
「うん?」
涼しい顔をして沙耶はカルテから視線を上げる。
「今日はもう疲れたし……寝ないか?」
「郁紀がそうしたいなら、そうする」
沙耶はにっこり笑って、仕分け途中の書類を放り出すと、すぐさま僕の服を脱がしにかかった。
「お、おい……」
「ね〜寝る前に一回だけ。ね? いいでしょ?」
こんな容姿でありながら、沙耶のセックスに対する貪欲さは大人顔負け――いや、ちょっと異常とさえ言ってもいい。
その情熱だけでなく、こんな細い身体のどこから湧き出てくるのかと思うほど、体力もまた際限がない。僕に存分に貪らせ、なお足りぬのか僕を貪り、そうやっていつも先に音を上げるのは僕の方だ。
「なぁ沙耶……こう毎日続けてちゃ身体に毒じゃないのか?」
「え? 郁紀、どこか具合が悪いの?」
「いや僕は、別に……ちゃんと大人の身体になってるし、平気なんだけど。でも沙耶はまだ――」
「アハハ。平気だよぉ」
小悪魔的に笑いながら僕をベッドへと押し倒す沙耶は、いつもと変わらない甘い重さと感触で、僕の自由を奪ってしまう。
「平気なわけないだろ! 今まで避妊もしてないってのに」
呆れたことに、沙耶はそういう用心にもまるで無頓着だった。避妊具を使わないどころか、事に及んでは必ず膣に子種を出せと強要する。まさか知らないわけじゃないだろうが、だとしたら敢えて妊娠したがっているとしか思えない。
「郁紀はさ、沙耶に子供産ませるの、嫌?」
「……」
真っ直ぐな視線で見つめ返されながらそう問われては、ただもう言葉に詰まるしかなかった。
「……嫌も何も、沙耶みたいに小さい身体じゃあ無理だって。母胎の負担ってのは大変なんだぞ?」
「ん〜、郁紀が心配してることって、わりと的はずれなんだけど……」
沙耶は僕の話を聞いているのかいないのか、むしろ理解していないのは僕の方だと言わんばかりの当惑顔で返答に窮していたが、
「――でも、それって郁紀が沙耶のこと大事に思ってくれてるからなんだよね。うん、それはそれで嬉しい」
そう言って、満面を無邪気な笑顔で輝かせた。
「……」
そんなあどけない笑顔に毒気を抜かれている間にも、彼女は僕の腰からベルトを外し、ズボンを脱がせにかかっている。
「な、なぁおい、だから沙耶――」
「大丈夫。じゃあ今夜は郁紀が心配しないような方法でしてあげる」
からかうような口調で言いながら、沙耶は僕の股間を暴き出すと、白く繊細な指で竿と睾丸をそれぞれに包み込む。
たおやかな、まるで汚れを知らないかのような五指に優しく絡め取られる感触は、それだけで倒錯的な喜悦に雄の本能を引きずり出される快感だった。
「う……」
そして沙耶は、反応しはじめた僕の股間に顔を寄せると、愛らしいその唇を窄めてカリ首の辺りに吸い付いた。
「……ッ!」
ただでさえ過敏な部分に、やや力を込めた吸引のキス。不意打ちの激しい刺激に思わず腰が浮く。
「――痛かった?」
慰めるようにやさしく指で竿をさすり上げながら、上目遣いに訊いてくる沙耶。
「いや……大丈夫……」
それにしても沙耶は、いったいどこでどうやって、こんなにも雄を喜ばせる術を体得してきたんだろうか?
不思議になるほどに彼女の奉仕は的確で手際よかった。細い指の一本一本が、まるでしなやかな蛇のように僕の肉茎に絡みつき、淫猥に蠢いて欲望を腰の奥から吸い上げていく。
十指のすべてを動員した奉仕に僕が酔い痴れているところに、さらに唇と舌が加わった。
「んく……ちゅぅ……」
まったく未知の刺激に、僕は一瞬で達してしまうかと思うほどの快感で脳を灼かれた。
膣への挿入とはまた違うぬめりと熱と圧力が、四方から僕を圧し包む。
見下ろせば、沙耶は華奢な顎と頬のラインを壊してしまいそうなほどに歪ませながら、小さな口で僕の欲望を頬張っている。
無理しているんじゃないか――そう心配になるほどに危うい光景なのに、僕を翻弄する舌使いは貪るように積極的だ。まるで母猫の乳房を躍起になって吸う子猫を思わせる。
眺めているうちに僕は、まるで沙耶のあどけなく清楚な彼女の顔を陵辱しているかのような気分になってきた。ひときわ禁忌感を刺激し、そそられる倒錯の歓喜。
可憐な花を敢えて散らす、そういう黒い情熱はどんな男の胸にもある。夜毎に僕を狂わせる沙耶の肉体は、まさにそういう獣じみた欲望を狙い撃つかのように刺激する妖花だった。
「なぁ、沙耶――」
これ以上は堪えきれない。ほどなく僕は放ってしまう。
だが、どこへ?
いざその瞬間が来たら、沙耶は口の中のものを一体どうするつもりなのか……
注意を促したつもりの僕を、沙耶はよりいっそうの激しい奉仕で責め立てる。
「お、おい、だから、もう、出ちゃうって――」
腰を引こうとしたのに、沙耶はそれさえ許さない。
がっちりと僕の腿を抱え込み、舌と唇はますます激しく、さらに喉の奥にまで呑み込まんばかりの勢いで吸い貪る。
沙耶を心配しようにも、もう僕の身体はとうに限界を超えていた。
限界を超えて注ぎ込まれる快楽に、ついに理性が決壊し、僕は溜めに溜め込んだ勢いのままに一気に白濁を吐き出していた。――僕をくわえ込んだ沙耶の喉深くへと。
とんでもないことをした……僕は狼狽のあまりパニックになりかかっていた。
いくら何でも口の中になんて、我ながらあんまりだと思う。
たとえ沙耶が気にしないにしても、喉に詰まらせたら大変だ。まさか窒息でもしたら……
だが慌てふためく僕を余所に、沙耶はまるで獲物を逃すまいとするかのように僕の腰にしがみついたまま、ゆっくりと喉を鳴らして、|噎《む》せることもなく嚥下していく。
「――んぐ――んぐ――」
何を? ――もちろん問うまでもない。たったいま僕があられもなく吐き出した欲望のすべてを、だ。
「……」
こういうことを女性にやられるのは初めての体験で、正直なところ僕はショックに打ちのめされていた。
この手の倒錯した奉仕は、サディスティックな男が女性に強要してやらせるものだと、僕はそういう先入観で認識していたのだが、それを沙耶は――
「ん――ぷはぁ……ウフ、美味しかったよ。郁紀」
沙耶は、まるでとっておきの悪戯を仕掛けてのけたかのような小悪魔的な笑みで、途方に暮れる僕を見上げてきた。その唇を割ってチロリと覗いた小さな舌が、まだ口元に残る白濁の残滓を舐めとってから消える。
あの舌が、さっきまで僕のを……そう思うと、空恐ろしいほどに強烈な官能がふたたび僕の頭を痺れさせる。
「これだったら、郁紀だって心配ないでしょ?」
「あ……いや、まぁ――」
そういう問題ではないのだが、僕はどう返事していいものやら判らない。
「ねぇ……駄目だった? こういうのだと、気持ちよくない?」
急に気弱になってそう訊いてくる沙耶に、僕は慌てて、
「そ、そんなことない。充分に――良かった」
そう言葉に詰まりながらも肯定した。
事実、気持ちよすぎて気が変になりそうだった。それはそれとして……
「……でも沙耶、なにもあんなもの、飲み込まなくたって……」
「えぇ〜? そんなぁ……アレは沙耶に頂戴よぉ」
沙耶はまるで、お菓子を取り上げられそうになった子供のように血相を変えて僕にすがりついてきた。
「郁紀のは、一滴だって残さずに欲しい。沙耶の中に出してほしいの」
「中に、って……」
やはり沙耶は本気で、僕との子供を求めているんだろうか?
僕は――嫌だとまでは思わない。もちろん早急すぎる気はしないでもないが、いまさら世間体が気になることはないし、僕と沙耶だけの問題だというのなら、むしろ歓迎したい。
だがそれはそれとして、普通のセックスだけならまだしも、口淫の時まで『飲みたがる』理由にはならないだろうに。
――いや、不潔だとかタブーだとか、そういう価値観は人それぞれだろうし、特に沙耶には通用しないんだろうが。
「……郁紀は、嫌?」
「……」
こうして沙耶に懇願の眼差しで見つめられると、僕にはもう何の抵抗もできない。
「嫌なんかじゃ――ないさ。沙耶さえそれでいいのなら、僕だって」
そう答えると、彼女は安堵したように表情を和ませ、満ち足りた様子で僕の胸板に|凭《もた》れかかってきた。
「郁紀、大好き」
甘えた声で囁く彼女の躯は、僕の上に被さるとなお一層、華奢で軽く感じる。
こんなにも小さな女の子と、僕は本気で夫婦になろうというのだろうか?
自問してから、僕はまだこの期に及んで怯んでいる自分が嫌になってきた。
こんなにも真っ直ぐに気持ちをぶつけてくる沙耶を、僕が受け止められないでどうする?
僕もいい加減覚悟を決めて、|益体《やくたい》のないモラルなんてものは綺麗さっぱり忘れてしまった方がいい。
何もかも、僕と沙耶だけの問題なんだ。いまさら世間体なんて気にする柄でもあるまい。むろん沙耶の保護者と話をつける必要はあるだろうが……やはり奥涯教授は、なるべく早く探し出さなければ……
心地よい疲労感に包まれて眠りに落ちていく僕は、今日の沙耶の奇行についての疑問など、とっくに関心を失っていた。
――ともかく、沙耶は戻ってきた。それだけでいいじゃないか。
午後2時。鈴見洋佑にとっていちばん人生が充実するひとときだった。
妻と娘を家から送り出した後、午前中のうちに掃除と洗濯を済ませ、ゆったりと昼食を取ったあとは、いよいよイーゼルに向かう番である。
売れっ子の画家というほどのこともない。個展を開くのも赤字が前提だ。だが書斎のマッキントッシュで片手間にこなす副業のエディトリアルデザインで、日々の暮らしに苦のないだけの糧は得ている。
雑誌社に勤める妻の収入と合わせれば、家のローンと娘の学費を賄ってなお余裕のある生活ができた。
欲を出さずに悠々自適。洋佑の理想そのままの生活だ。
己の人生と、その象徴ともいえる我が家を洋佑は愛していた。庭の草を刈り、ガラス窓と廊下を磨き、台所とトイレと浴室を清潔に保つこと。それは自分自身が風呂で身を清めるのと同等の喜びがある。
手の爪の伸び具合や腹の減り具合と同じように、各部屋の戸の閉まり具合、花瓶に活けた花の鮮度、製氷皿にある氷の量、そういった家の諸々の状態を的確に把握できているのが洋佑の自慢であり、それらが過不足ないコンディションに保たれた屋内で、こうして二階のアトリエに座りテレピン油の匂いを嗅いでいるとき、彼はこの上もない満足感に満たされるのである。
パレットの上で求める色味を探して絵の具をこねながら、ふと喉の渇きを覚えたときも、すぐに洋佑は冷蔵庫のオレンジジュースの買い置きが乏しいことに思い至った。
乏しいといえば、そろそろ入浴剤と粉石鹸も補充しておかねばならない時期だ。夕飯の食材を買いに行くついでに、それらもスーパーで買い足すとなると、かなりの大荷物になるだろう。
さて、それでは作業をどの辺で切り上げて買い物に行ったものか……そんなことを漫然と考えながら、洋佑は階下に下りて台所に向かう。
そのとき首筋を微風がくすぐった。洋佑は廊下の途中で立ち止まる。
隙間風。どこからともなく――有り得なかった。家の窓はどこもかしこも閉ざされている。すべて昼前の掃除のとき、洋佑がこの手で閉めた。
風の出所を探して、洋佑は居間に入った。
異臭があった。隣の匂坂家から漂ってくるのと同じ、腐った沼の瘴気のような鼻を突く匂い。あの庭から風が吹き込んでいるのか。
ささやかな風圧にカーテンが緩く膨らんでいる。庭に続くガラスサッシが開いていた。
鍵の傍のガラスに穴が空いている。それも割ったのではなく、薬品か何かで溶かしたような奇妙な穴だった。何者かがその穴から手を入れて開鍵し、サッシを開けたのだろう。
胸を騒がす怒りと、それに倍する恐怖が洋佑を虜にした。
耳を澄ましても、物音はない。侵入者はすでに目的を果たして出ていった後なのか? だが空き巣だとしたら部屋に物色された後がないのが妙だ。それとも、洋佑が来るのに気がついて、とっさに何処かに隠れたか――
右手には絵の具がついたままのパレットナイフがあった。何の気なしに、手に持ったまま階下に下りてきたようだ。
洋佑は麻痺しかかった思考でナイフをじっと見つめた後、考え直した。これではあまりに心許ない。
代わりに、テーブルの上にあった灰皿を手に取った。ガラス製だが分厚く頑丈な|拵《こしら》えだ。それなりに鈍器といえるだけの大きさと重さを備えている。
隅々まで手入れの行き届いた、我が身の一部のように思えていた屋内が、まるで見知らぬ異界のように感じられた。
動悸が切迫していくのを意識しながら、洋佑は居間の中を見渡した。身を隠せそうな場所は、そうない。ダイニングから台所へ抜けたか、それとも客間へと逃れたか、ふたつにひとつ。
台所は洋佑の下りてきた階段に近い。動きがあったなら廊下にいたうちに判ったはずだ。となると、まず怪しいのは客間の方か。
洋佑は摺り足で移動し、客間へ続く引き戸に手をかけた。
それにしても――臭い。隙間風が運んでくる臭気だけで、こんなにも匂うものだろうか? まるで匂いの元が部屋の中にあるようではないか。
覚悟を決めて、引き戸を開け放つ。
畳敷きの和室は無人だった。さらに押入があるが、あそこには人が入れるだけのスペースはない。
やはり、家の中にはもういないのか……安堵に似た脱力が、洋佑の緊張を緩ませる。
足首を掴まれたのは、そのときだった。
驚愕に身を凍らせた隙に、掴まれた脚を引っ張られ、洋佑は受け身も取れないままに転倒する。引き戸のレールに激しく頭を打ちつけて、目の奥で星が散った。
洋佑の足首を掴んだ手は――果たしてそれが手と呼べるモノかどうかは別として――居間のソファの下から伸びていた。
床との隙間は五センチもないはずの、その狭すぎる空間に、庭からの侵入者は潜んでいた。
断じてそれは人間ではなかった。
「うわああぁあっ!?」
悲鳴を上げた洋佑が床から起きるよりも早く、さらに無数の手らしきモノが彼の腕と脚に絡みつき、洋佑の自由を奪う。
『ォヂヅィデ。ゴワグナィガラ』
くぐもった、泡立つような声とも思えぬ音声とともに、冷たく軟質の感触が洋佑の上に乗り上げてくる。
「ひぃッ、ひぃッ、ヒィィィッ!」
すでに喉が痙攣して悲鳴さえも出ない。パニックに陥った洋佑の耳元に、ふたたび不気味な声が囁きかける。
『ィダグジナィョ。ゴワガラナィデ。ィダグジナィガラ』
そして洋佑の両耳と鼻から、細くうねる管状のものが頭蓋の中に進入してきた。
そのおぞましい感触に発狂する一歩手前の状態で、洋佑の意識は断絶した。
「お時間を取っていただいて、ありがとうございます」
そう神妙に頭を下げながらも、耕司はその女医の若さに内心で驚いていた。
薄い化粧にもかかわらず三十路を越えているようには見えない。この若さで最先端の脳外科医というのだから、よほど優秀な人物なのだろう。
「いいのよ。あなた達みたいな人が来てくれたのは私としても、ありがたいところだし」
一見すると冷ややかに見える、やや整いすぎた感のある美貌とは裏腹に、彼女は気さくに笑って答えた。
「はじめまして。匂坂郁紀くんの主治医の丹保です」
「郁紀の友人で戸尾耕司といいます。彼女は、津久葉瑶」
紹介を受けた瑶も、やや恐縮した面持ちでぺこりと頭を下げる。
駄目でもともと――そう覚悟を決めてT大付属病院を訪れ、郁紀の主治医に面会を申し入れた耕司と瑶だったが、まさかこんなにも簡単に診察室に通されるとは思ってもみなかった。
「匂坂くんの件について話が聞きたいっていうことだけど、それは私の方でも同じでね」
「はぁ……」
「彼、一昨日の診察に来てくれなかったのよ。留守電に入れた伝言にも返事がないし」
一昨日……郁紀があの奇妙な空き家を家捜ししていた日だ。耕司は表情を曇らせた。病院の予定まですっぽかして、彼は何をやっていたのか?
「彼、学校ではどんな様子?」
「どうもこうも……もう滅茶苦茶です」
横にいる瑶がぴくりと肩を震わせたのを目に留めて、耕司はもうすこし言葉を選べば良かったと後悔した。
「事故の前と、まるで人が違ったみたいに見えます。僕たちも色々と、その、どうしていいか解らなくて……それで今日は、先生の話を伺えたら、と」
「……あなたたちも医大生?」
「え? はい」
「彼のカルテ、見てみたいと思う?」
「……見せてくれるんですか? そんなもの」
怪訝そうに訊き返す耕司を、丹保女医はしばらく見つめたあと、
「そう思った人がいるみたいなのよ。それも病院には無断で、ね」
溜息混じりにそう呟いた。
「一昨日の晩、この病院に誰かが押し入ってね。保管庫から匂坂くんのカルテを盗んでいったの」
「――本当ですか?」
面食らった耕司と瑶の顔を、丹保は再びまじまじと眺めてから、疲れた風に苦笑してかぶりを振った。
「まぁ、あなた達は無関係そうね。ちょっと安心したわ」
「あ、当たり前です」
「でも、犯人は匂坂くんの様態に興味があるか、それとも彼の治療記録を消したかったのか――いずれにせよ彼に関わりのある人間としか思えないわ」
「はぁ……」
耕司の脳裏を不吉な空想が過ぎった。まさかカルテを盗んだのは、郁紀本人ではあるまいか――
丹保女医の顔を窺うと、彼女もまた沈鬱な面持ちで耕司の視線を受け止めた。それだけで耕司は、丹保もまた彼と同じ疑念を抱いていることを察した。
「あなたには、他に心当たりはない? 匂坂くんの知り合いで、そういうことをやりかねないような人」
丹保は何気ないつもりで訊いたのかもしれないが、耕司は真っ先に、郁紀を尾行して行き着いたあの不気味な家について考えが及んだ。
「知り合いだか何なのか、自分にもよく解らないんですが――たぶん医者か医学関係の人で、奥涯っていう……」
丹保の表情がありありと変わったのを見て取って、耕司は言葉を止めた。
「……ご存じなんですか?」
「匂坂くんがその男と、いつ、どうやって知り合ったのか分かる?」
「いえ、こっちが知りたいぐらいです。先生、いったい何者なんですか? あの奥涯っていう人は」
丹保は苦々しい顔で言葉に詰まっていたが、やがて深々と溜息をついた。
「――いいわ。その気になれば簡単に調べがつくことだし。奥涯雅彦はうちの大学にいた教授よ。色々と不祥事があって、半年以上前に免職になったけど」
「不祥事って、いったい何を?」
「そこから先は部外者に話せることじゃないわ。どのみち匂坂くんには何の関係もないことよ」
すげなく言い放つ丹保に対し、たしかに耕司は食い下がるだけの言葉を用意できなかった。だがこの奥涯という人物については、郁紀についての謎を解き明かす唯一の手がかりのように思えた。
「先生、もしかしたら匂坂郁紀は――刑事事件に関わっているかもしれないんです」
意を決して、耕司は打ち明けた。これには丹保のみならず、横にいる瑶も眉をひそめる。
「どういうこと?」
「彼を訪ねていったきり行方不明になってしまった人間がいます。もちろん、郁紀は否定していますが」
「それって……青海ちゃんのこと?」
ショックに呆然となる瑶のさまが、耕司にはいたたまれなかった。
「すまん、津久葉……君には言えなかった」
丹保も、いよいよ深刻な顔で眉根に皺を寄せていた。
「その奥涯という人物が、いま郁紀の関心の焦点になっているらしいんです。彼が何者で、郁紀が彼の何について探っているのか、それが判れば少しは事情が見えてくるかもしれません。 お願いです先生、教えてください。この病院でいったい何があったんですか?」
「……」
しばしの間、丹保医師は目を泳がせて逡巡していたが、それでも最後にはかぶりを振った。
「……ごめんなさい。こればかりは……私の一存で話せる事柄じゃないの」
「先生――」
「でも、少しだけ待って。私は私なりに色々と調べてみる。放っておける状況じゃないのはよく理解できたから」
「――お願いします」
耕司もすでに手は尽きた。あとはこの若い女医を信用して任せるしか他にない。歯がゆくはあったが、ただの友人でしかない彼には出来ることにも限度があった。
「お互い、携帯の番号を交換しておきましょう。何か判ったら連絡するわ。あなた達も、何か新しい動きがあったらすぐに私に教えて」
「ええ。わかりました」
俺は……一体、どうなった……?
混濁の中から、洋佑はごくわずかずつ思考を取り戻していった。
寒い、いや――暑い。
生温かい舌と冷たい|蛞蝓《なめくじ》とが交互に肌の上を這い回っているかのような、|掻痒《そうよう》。
何がどうなっているのか判らない。おそるおそる目を開ける。
「う――」
壁も、天井も、アイツに覆われていた。
居間で洋佑を襲い、洋佑の頭の中に入り込んできた『アイツ』――
恐怖が、あっけなく理性を噛み砕く。
「ぅわ、わ、わぁぁ……ッ」
体の上に覆い被さっていたものを払いのけ、身悶えした途端、洋佑は寝転がっていた場所から転がり落ちた。
床――なのか? 毛足の長い絨毯かと思ったそれがざわざわと蠢き、洋佑の指の一本一本に絡みついてくる。
すべて|蚯蚓《みみず》だった。
「ヒィッ!」
手足にまとわりつく|蚯蚓《みみず》をブチブチと引きちぎって立ち上がろうとするが、バランスが取れずにまた転ぶ。その途端、床の|蚯蚓《みみず》が一斉に洋佑の全身を絡め取る。
一体ここはどこなんだ……
俺はどこに連れてこられたんだ……!?
ぶよぶよと蠢く部屋の出口を求めて、洋佑は|蚯蚓《みみず》敷きの床を這い回った。
だが外の廊下も、隣の部屋も、どこもかしこも血と腐肉と胆汁で出来ていた。逃げ場所はなかった。
「何なんだ……何なんだよォォ……」
おぞましいことに、この地獄のような場所は……間取りだけは慣れ親しんだ洋佑の家とまったく一緒だった。洋佑は半狂乱になったまま、悪夢の中で歪んでしまったかのような家の中をさまよい歩いた。
アトリエに相当する小部屋には、骨を組み合わせて作ったイーゼルに、血まみれのカンバスが乗せてあった。まるで何かの冗談のように、洋佑のアトリエと寸分違わぬ位置だった。
「畜生……ここから出して……出してくれぇぇッ!」
泣きわめきながら洋佑は腕を振り回し、周囲の物を手当たり次第に殴りつけた。
骨のイーゼルが砕け散り、破片が洋佑の拳を裂く。
鋭い痛み――だが悪夢は覚めない。これが悪夢でないというなら何だというのか?
暴れる力すら使い果たした洋佑は、床にくずおれて啜り泣いた。祈ったこともない神に祈った。
軋るようなドアの開閉音が、洋佑の耳朶を打つ。
階下……玄関? また誰かがやって来た?
『タダイマ』
身の毛もよだつような鳴き声に洋佑は慄然となった。アイツだ。あの化け物がまた戻ってきた……
『ぱぱタダイマ〜。オナカスイタ〜』
『アラ……イナイノカシラ。買イ物ニ行ッテルノカナ?』
『ウ〜、ゴハン、マダナノ〜?』
ひたひたと湿った足音を立てながら、何かが階段を上ってくる。洋佑は脅え、|竦《すく》み上がりながらも、震える手で床を探り――さっき壊したイーゼルの骨を手に取った。
折れた骨の先端は鋭利に尖っている。両手で持って体重をかければ、身を守る程度の武器にはなるかもしれない。
『アナタ? イナイノ?』
怪物の呻き声が、だんだんと廊下を近づいてくる。洋佑は息を殺し、部屋の入り口から死角になる壁際に背を押しつけて待った。
心臓の鼓動がガンガンと耳の中で鳴り渡る。この音を聞きつけられたらそれまでだ。今度こそ喰い殺されるかもしれない。泣き声を堪えるだけでも必死だった。
そしてついに、洋佑のいる小部屋の扉がゆっくりと押し開かれた……
『――アナタ?』
「ぅわぁぁぁっ!」
恐怖のあまり裏声になった怒声とともに、洋佑は扉を開けたモノに襲いかかった。
どろどろの粘液と肉汁にまみれた生物がそこにいた。おぞましさに身が凍るより先に、洋佑は骨の杭を振り下ろす。
『ギャアアアアッ!』
怪物が絶叫した。杭は相手の身体の中心に刺さり、反対側にまで貫通していた。悪臭を放つ肉塊がうねり、身を|捩《よじ》る。そいつは苦悶していた。そう理解した途端、洋佑の中でかっと血が燃え上がる。
勝てる。今ならこいつを殺せる。また頭の中に入られる前に、とどめを刺してしまえば助かる。
「うおおおおっ!」
洋佑は両手で掴んだ骨を捻り上げ、刺さったままの杭で何度も執拗に怪物を抉った。
ゴブゴブと泡立つような声をあげて怪物が痙攣する。助けを求めるかのように、震える触手が宙に差し伸べられる。
「死ね、死ね! 死ねぇぇッ!」
びくびくと撥ねる怪物の身体を床に押し倒すと、洋佑は渾身の力で踵をその上に踏み下ろした。何度も、何度も……そのたびに、相手の呻きと痙攣は弱まっていった。
ついに怪物がぴくりとも動かなくなったところで、洋佑は荒い息をつきながら、骸から杭を引き抜いて立ち上がった。
『……ぱぱ?』
小さな鳴き声に振り向くと、もう一匹、さっきより小さい怪物が階段の踊り場からこちらを窺っていた。
そうか、まだいたのか――
死に物狂いの暴力が、洋佑に爽快感と、力の感触をもたらしていた。今度はもっと楽にやれる。小さいし、さっきの怪物より弱そうだ。
洋佑は躁的な笑みを浮かべながら、骨の杭を構えて二匹目ににじり寄った。
小さい怪物は甲高い悲鳴を上げながら、階段を駆け下りていく。
逃がすものか……洋佑は雄叫びを上げながら、怪物の後を追いかけた。こいつらを皆殺しにすれば、もしかしたら悪夢から覚めるかもしれない。その可能性に思い至り、殺意がますます獰猛に膨れあがる。
『ぱぱ! ヤメテ! ぱぱァ!』
逃げる怪物が転んだ隙に、ダイニングで捕まえた。洋佑はその小さな身体に馬乗りになって、力の限りに杭を振り下ろす。繰り返し突き刺し、ぶよぶよの肉体が完全に形を失うまで、容赦なく杭の先で抉り、引き裂き、執拗に殺し尽くす。
やがて屋内で聞こえる音は、洋佑の荒い息づかいだけになった。
化け物は、二匹とも殺したはず……だが悪夢の世界は一向に終わる様子がない。
ふらふらとおぼつかない足取りで、洋佑は玄関から外に出た。
「……あは、は、あはははは……」
空も、街も、狂っていた。
ねじくれた輪郭。沸き立つ色彩。汚臭に澱んだ重い大気。
どこにも逃げ場はなかった。悪夢の終わりはなかった。
そのとき洋佑の精神の中で、最後の理性が砕け散った。
「こんにちわ。おじさん」
少女の声に呼ばわれて、洋佑は振り向いた。
隣家の門の前に、その女の子は立っていた。透けるように白い肌、清楚なワンピース。|汚穢《おわい》に埋め尽くされた世界の中で、その姿は輝くばかりに美しく見えた。
「おじさんには、わたしがどう見える」
「ああ……とっても……可愛いよ……」
洋佑の中で、ぞわり、と狂おしい欲望が鎌首をもたげる。
「ほんと? じゃあ実験は成功かも!」
なにやら小躍りせんばかりに喜んでいる少女に、洋佑は歩み寄り、その艶やかな長髪にそっと手を触れる。
「こんな可愛らしい女の子は――この世界には――キミ一人しかいないんだろうねェ」
「……おじさん?」
洋佑の、澱んでねばついた視線に何か不穏なものを感じ取ったのか、少女はやや怪訝そうに、立ちはだかる中年男の顔を仰ぎ見る。
「お嬢ちゃん、おじさんと遊んでくれるかい?」
「いいけど……何するの?」
「そりゃあもう、おじさんが愉しめそうなこと、全部さ」
喜色満面でそう|嘯《うそぶ》いてから、洋佑は少女のワンピースの襟元に手をかけると、一気に引き裂いた。
「ひっ!」
愛くるしく繊細な顔が驚きと恐怖に凍る。その表情が洋佑の嗜虐心に火をつけた。二匹の化け物を殺したあとも胸に燻り続けていた暴力衝動の残り火に、新たな燃料が注ぎ込まれる。
「いい顔だよ、お嬢ちゃん……おじさんにもっと可愛らしい顔をして見せてくれないかい?」
「や……嫌ぁ!」
怯えきった少女は半泣きで匂坂家の玄関へと逃げ帰っていく。洋佑は狩猟の心地よい興奮を存分に味わいながら、後を追って走った。
「嫌ぁ! 来ないでぇ!」
必死になったところで、大人の脚力にはかなうはずもない。廊下を駆け抜け、台所に逃げ込んだ少女を洋佑は易々と捕まえた。背後から抱きすくめ、身動きできないように床から持ち上げる。
「は、放して! そんな……どうして? どうしてなの!?」
「だから言っただろう? お嬢ちゃんが可愛らしすぎるからだって」
細い手首で抗う手応えを、大の大人の腕力で余裕を持って楽しみながら、洋佑は体重をかけて少女を押さえ込み、まだ身体に巻き付いている残りの布切れを破き取った。
「嫌だぁ、こんなの嫌ァッ! やめてぇえ!」
身体の下で若鮎のように跳ね回るなめらかな肢体に、洋佑は|陶然《とうぜん》と見入る。固く小さく実を結んだ薄桃色の乳首。柔らかくも引き締まった腹と細い腰。狂気のように歪んだ世界の中で、こんなにも清らかな身体を組み伏せている感覚には、たまらなく倒錯した趣があった。
白い肌を貪りつくさんと、洋佑は少女の胸を腹をくまなく舌で舐め上げる。その感触に少女は身を硬くし、息を詰まらせて嗚咽した。
「こんなの……こんなはずじゃ、ないのに……」
啜り泣く少女の声が、洋佑の征服欲を存分に満たす。洋佑が悪夢に蹂躙されているように、洋佑もまた、このいたいけな少女を存分に蹂躙できるのだ。被害者から加害者への転身には、胸のすくような開放感があった。
すでに準備万端整った男根をズボンから引っ張り出し、張りつめた切っ先で、硬く噤んだ少女の秘裂を弄ぶようにつつく。とうとう少女は声を張り上げて泣き叫びだした。
「やだよぉ、怖い……怖いよォ! ……郁紀いぃ!」
「アハハ、まだ何もしてないじゃないか」
泣きじゃくる少女の耳元に、洋佑は優しく囁きかけた。
「今からそんなに怖がるようじゃあ……挿れたあとは、どんな声を聞かせてくれるのかな?」
「やめ――」
見開かれた少女の瞳を覗き込みながら、洋佑は一気に深々と突き入れた。
「ヒ、ぃ、いた、痛いィ!」
まだろくに濡れてもいない股間を力ずくで割られ、少女が甲高い悲鳴を漏らす。予想に反して破瓜の手応えはなかったが、未熟な容姿とは裏腹に、洋佑を包み込む少女の感触は驚くほど充実していた。
「おやおや、ずいぶん男に慣れてるねェ。可愛い顔して本当はエッチな子だったんだ」
「……もうやめて……乱暴にしないで……」
「いやいや、こんな悪い子にはお仕置きが必要だと思うね。おじさんは」
笑いながらそう言って、洋佑は思うさま乱暴に腰を突き上げる。そのたびに少女は苦悶に喘ぎ、首を振って溢れ出た涙の飛沫を散らす。
やがて抵抗するだけの力も失せたか、少女はぐったりと脱力し、ただ洋佑の仕打ちを耐え抜くことだけに専念しはじめた。それでも容赦なく股間を抉る洋佑の、欲望に爛れきった|双眸《そうぼう》に、涙で濡れた眼差しで訴えかける。
「どうして……どうして、優しく、してくれない……の……」
「可愛いからだよ! いじめたくなるほど可愛くて、壊したくなるほど綺麗だからだよ!」
快感に荒く呼吸を乱しながら、洋佑は吠えるようにして答えた。少女が嗚咽の合間に絞り出す掠れた声が、絶望の眼差しが、よりいっそう喜悦を昴らせる。
「助けて……助けてェ……郁紀……」
いつものように、街の景観は僕の神経を逆撫でする。だが今日は普段ほどの嫌悪も感じない。
だんだんと慣れてきたこともあるし、それに何より今日は、連日続けてきた奥涯邸での捜索に、ようやく成果らしいものがあったからだ。
その封筒は、おそらく|抽斗《ひきだし》のトレイから裏側へ落ち込んでしまったのだろう。書き物机から全部の|抽斗《ひきだし》を引っ張り出した後で、その奥に折れ曲がって挟まっていた。
中身は3点の風景写真だ。今の僕にはまともな景色として認識できないが、多分どれも何かの建物の外観を撮影したものらしい。
それぞれの写真の裏には肉筆で住所の走り書きがあった。長野県M村、栃木県S町、それに静岡県H町。どれも聞いたことのない町名だけに、人里を離れた|辺鄙《へんぴ》なところなんだろう。
写真の隅にプリントされた日付は10年以上前のものだった。何のために撮られたのか、どういう意味のあるものなのか、僕には理解できないが、沙耶にこれを見せれば何か心当たりがあるかもしれない。
ともかく、これは沙耶がまだあの家にいたときに見逃した手がかりだ。それを僕が探し出したと知ったら、彼女はどんな顔をするだろうか。
沙耶――早く会いたい。彼女が僕の帰りを待っていると思うだけで、家路を急ぐ心が浮き立つ。
門を入ってすぐに、また玄関のドアが開け放たれているのに気がついた。これで二度目だ。
だが玄関に立った途端、台所の方から沙耶の啜り泣く声が聞こえて、僕は凍りついた。
いや、沙耶の声だけじゃない。なにか湿っぽく唸るような息づかいも――
靴を脱ぐ暇さえ惜しかった。僕はとてつもなく嫌な予感に囚われたまま家の中に駆け込んだ。
怪物が僕の家の中にいた。沙耶を床に組み伏せて犯していた。
ぬめる全身からの分泌物を沙耶の肌に塗りたくり、彼女の弱々しく震える脚の間に身体を割り込ませて、獣じみた荒々しさで全身を揺すり上げている。
沙耶の性器は痛ましいほどに押し広げられ、そこに食い込んだ怪物のおぞましい器官は、深く、深く奥底まで沙耶の内側を蹂躙していた。
怪物の動くリズムに合わせて、沙耶の啜り泣く声がしゃくり上げるように上擦る。涙に濡れた瞳が僕を見た。息も絶え絶えのまま、彼女はか細い声で僕を呼ぶ。
「……郁紀……助けて……」
どす黒い怒りが、一瞬のうちに僕を内側から染め上げた。衝動のあまりの強烈さに僕は目眩さえ覚えていた。
我を忘れて沙耶の身体に没頭していた怪物が、ようやく首を巡らせて僕の方を見る。僕は自分でも驚くほど冷静に無駄のない動きでヤツの傍らをすり抜けると、台所のシンクの横にある肉切り包丁を手に取った。
そして有無を言わさず、ヤツの目玉の並んだ顔とおぼしき部分を切り払う。
絶叫を上げて怪物は沙耶の上から離れた。今の一撃で視覚を失ったらしく、伸ばした触手を|遮二無二《しゃにむに》振り回して僕を遠ざけようとする。
僕は殺意に凝り固まったまま、落ち着いてヤツの触手を掴み上げ、さらに二度三度と包丁を蠢く肉の中に突き入れた。
刃先は面白いほど易々とヤツを切り裂き、体液が間欠泉のように吹き出して僕の顔を染める。
縦に横に切り裂いて、そのたびに轟くヤツの絶叫を聞いているうちに、ようやく僕の感情は、怒りと認識できるだけの熱さに高まってきた。
こいつは――沙耶を――僕の沙耶を――
許せない。殺したぐらいじゃ断じて許せない。
「ああああああッ!!」
僕は我を忘れて吼え猛りながら肉塊を斬って斬って斬って斬って斬りまくり、ヤツが微動だにしなくなってからも切り刻み、それから屍がもう苦痛を感じないことに気がついて余計に逆上し、さっさと殺してしまった悔しさに駆られて包丁を突き立てた。
やがて、まともな思考力を取り戻したところで、僕は切っ先の欠けた包丁でガリガリと台所の床を引っ掻き続けているだけの自分に気がついた。
怪物はもういなかった。さっきまで怪物だった残骸が、あたり一面に散らばっているだけだった。
手を止めて、床を削る音がなくなったところで、消え入りそうな沙耶の泣き声が僕の耳に届く。
「沙耶――」
何を言っていいのか判らないまま、僕は片隅にうずくまっていた沙耶の身体を抱き上げた。沙耶は一瞬だけ怯えたようにビクリと身を固くしたが、相手が僕だと気付いた途端、わっと声を上げて泣きながら僕に|縋《すが》りついてきた。
「郁紀……郁紀……怖かった……怖かったよぉぉ」
返す言葉もなく、僕はただ強く彼女を抱きしめることしかできなかった。
沙耶がこんな目に遭っていいわけがない。何もかもが――そう、自分自身も含めて許せなかった。沙耶を護れなかった。傍にいてやれなかった。僕次第でこんなことは未然に防げたかもしれないのに……
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
声にならない涙声で、沙耶が繰り返す。僕はいたたまれずに彼女の頬を胸に押しつけた。
「沙耶は何も悪くない。沙耶のせいじゃない」
そう言い聞かせようとする僕の腕の中で、沙耶は激しくかぶりを振る。
「ううん、違うの。わたしがやったの……」
わけがわからない。沙耶は何を言っているんだ?
「君がやった、って……何を?」
「わたし、この人の脳をいじったの」
泣き腫らした目で、沙耶は散らばった肉塊を見やり、
「この人の頭の中を、郁紀と同じ状態にして……郁紀が感じるのと同じように世界が見えるようにしたの」
僕は沙耶が何を言っているのか理解するのに時間がかかり、その言葉をどう受け止めて良いのか、さらに時間をかけて迷った。
「それは――いったい――どうやって?」
途方に暮れて、そう訊き返すのが精一杯の僕に、沙耶はようやく感情をおちつけて、沈んだ声で語り始めた。
「……わたしには、そういうことが出来るの。ほかの生き物の身体を組み替えたり、調整したり……わたしに生まれつき備わってる能力なの」
「……」
「どこをどういじればいいのかは、その生き物によってまちまちだから、ちゃんと勉強してからでないと駄目だけど……郁紀の脳に何があったのか、わたしは下調べして解ってたから。だから同じことが出来るかどうか、他の人で実験してみたの」
「なんで……そんなことを?」
「そうすればみんな、郁紀みたいに、わたしに優しくしてくれるように――なるかと思って」
沙耶のその呟きに込められた孤独の色が、哀しい祈りが、僕の胸を締め上げた。
「それなのに、この人は……ぜんぜん優しくなんかなかった。沙耶のこと虐めたいって、壊したいって言って、あんな……」
その先は言葉にならず、沙耶はまた僕の胸の中でさめざめと泣き始める。涙する沙耶の背中をさすりながらも、僕の思考はほとんど真っ白に麻痺していた。
沙耶は――この子は、何者なのか? 僕にはとうてい答えが出せそうにない。
けれど、そんな僕にでもひとつだけ、今この場で明確に答えを出せることがある。
それは沙耶の間違い……彼女が根本的なところで勘違いしている、ひとつの事実。
「僕が沙耶に優しいのは、僕が事故に遭ったからだって……そう君は思ったんだね?」
「……うん」
|悄然《しょうぜん》と頷く沙耶に、僕は微笑してかぶりを振った。
「違うよ。それはただの始まりでしかない」
「……?」
「そんな簡単なことじゃないんだよ。僕と沙耶が出会って、それから二人で過ごした時間の――その一日一日の積み重ねが、今の僕らの関係を作ってるんだ。解るかい?」
「郁紀……」
「あの日から今日まで、沙耶と一緒にいた僕だから……沙耶に優しくして、大切にしてあげたいって……そう思う僕になった。そう思われる沙耶になったんだ。これって――大変なことだろう?」
また沙耶の目から涙が溢れた。だがそれはさっきまで僕の胸を濡らしていた涙より、ずっとあたたかいものだった。
「うん、わかってる。――さっき、やっとわかった」
泣きながらも沙耶は笑う。涙に濡れた晴れやかな笑顔で。
「沙耶には郁紀しかいないんだって。郁紀みたいな人は、もう他に誰もいないんだって」
いま僕は、今まで沙耶と共にあったどの瞬間よりも痛切に、彼女との絆を感じていた。たぶんきっと沙耶も同じだっただろう。
ふたたび僕は沙耶を深く抱き寄せ、そっと唇を重ねた。沙耶もまた僕の頭をかき抱き、唾液と舌とで情熱を交わした。確かめ合った。
そのとき沙耶は、僕にとって世界のすべてだった。
沙耶にとっても、僕が世界のすべてだった。
そして、いま世界は二人だけのものだった。
そうだ。ぼくはまだ彼女に肝心なことを言っていない。
なぜ今になるまで言葉にしていなかったのか。あまりにも当然すぎることだったが、それはやはり――一度は口に出して誓わなければならないことだった。
「沙耶、僕は君のことが――」
「――待って」
なぜか沙耶は僕の唇に指を当てて、その先の言葉を遮った。
「その前に、郁紀。ひとつだけ確かめさせて。あなたの望みを」
「僕の……望み?」
沙耶は頷き、いつになく真顔で僕の目を覗き込んだ。
「さっきも言ったけど、私には、私にしかできない方法で生き物の身体に干渉できる。人間の脳をいじる方法も、これでちゃんと確認が取れたわ。だから――」
沙耶は言葉を切り、深く息を吸ってから、言った。
「今なら、あなたの頭を元の状態に戻すことも、できるの」
「……何だって?」
それは今まで、僕が自分の未来から、完全に切り捨てていた可能性だった。
「その人にやったのと逆のことを、郁紀にしてあげればいいだけ。とっても――簡単なことよ」
沙耶の言葉の意味するところを、僕は何度も頭の中で反芻し、確かめた。
「だから郁紀、教えて。あなたが昔の暮らしに戻りたいかどうか。あの事故で失ったものを、取り戻したいのかどうか」
僕は――
※選択肢
・取り戻したい→離別エンド.txt
・もういらない→以下続行
僕はどう答えただろうか……事故の後、はじめて目を開けて恐怖したあの日なら。
どう答えるべきだったと思うだろう……この先、幾歳月もの時を経てから今日の日を思い出したときには。
でも、今ここで答えろというのなら、迷うまでもなく回答はひとつだ。
僕は見る影もなくバラバラになった怪物の骸を見て、沙耶に訊いた。
「あの人は、誰だったんだい?」
「……隣の家に住んでたおじさん。名前は知らないけど」
「ああ、鈴見さんか」
もちろん見知らぬ他人ではない。何度も言葉を交わした。昔は今より付き合いもあった。
その彼を、ついさっき、僕はこの手で殺したわけか。
――さしたる感慨はなかった。
隣家に住む画家の鈴見さん。あの気さくな中年男の面影は、僕がどこか遠い場所に置き去りにしてきた記憶にすぎない。
かたや僕が殺したあの死骸は、吐き気を催すような汚らわしい怪物だ。生かしておくだけでも胸が悪くなるような、殺してはじめて安堵できるような害虫だ。
あいつ、うちの庭が汚いとか何とか言いがかりをつけてきたっけな。嫌な奴だった。沙耶が何をしたにせよ、どうせアイツには生かしておく価値なんてなかった。殺してしまえて清々した。
偽ることのない、今の僕の気持ち。
この手を誰かの血に染めたことに、何の葛藤も感じていない。
僕があの事故で失ったのは、つまりはそういうことだ。沙耶が言うように取り戻すことなんて、もう二度と叶わないものだ。鈴見という男の命と同様に。
「なぁ沙耶。僕の異常を治すことは、医者には絶対にできないことだったんだ」
「……郁紀?」
「人間にできないことを、簡単に出来るっていう君は――人間じゃ、ないんだね?」
「……」
沙耶は複雑な表情で俯いた。
すべてが歪んで目に映る僕に、ただ一人まともな姿で見えた沙耶。僕は彼女だけが特別なのだと思っていた。
だが、そうじゃない。彼女もまた他と同じように、真実の形からはかけ離れた、歪んだ姿で僕の目に映っているのだろう。
今の僕だから、今の沙耶がいる。――そう、さっき僕自身がそう言った。僕が驚くようなことじゃない。
僕は立ち上がり、切り刻まれた鈴見の死骸に歩み寄った。
「昔読んだ漫画でさ……事故から生き返ったせいで世界が当たり前に見えなくなる男の話があった。今の僕みたいにね」
いまさら気がついたことだが、こいつら、体臭は鼻が曲がりそうなのに、血や腑からはわりと良い匂いがする。僕にはもう嗅ぎ慣れた芳香だ。
「その男の目には人間が石くれに、機械のロボットが美女に見えるんだ。だから男は、人とは似ても似つかないロボットに恋をしてしまうんだ」
床の包丁を手に取って、肉片のひとつを拾い上げると、腱から切り離して皮を剥き取ってみた。
ああ、やっぱり。
いつも僕と沙耶が食べてるモノにそっくりだ。
「なぁ、コレ。美味そうだし、食べちゃおうか?」
「郁紀……」
「あ、ごめん。今はそんな気分になれないよね。でも死んじゃえば肉は肉だし、捨てるのも勿体ないと思わないか? また冷蔵庫に仕舞っておこうよ」
「あなたは……いいの?」
「いいよ」
気安く僕はそう答えた。どうせ迷う余地なんて欠片もない。
「あと隣の家に、奥さんと娘さんがいるはずなんだ。旦那がいなくなったら騒ぐかもしれないし……通報される前に狩っとこうと思うんだが」
「そんな風で……あなたは、いいの?」
沙耶は再びそう訊いてきた。どこか恐れている風すらあった。
沙耶に僕のことを納得させるには、まだ言葉が足りないようだ。
「――さっきの漫画の話だとね、人でないものを愛した男は、最後に自分が人間であることを辞めて、恋を成就させるんだ。ハッピーエンドだよ。だろう?」
「郁紀……」
「沙耶と一緒にいられるのなら、僕はもう何もいらない。何もかもこのままで、いい」
僕は包丁と肉と放り捨てて、もういちど沙耶を抱き上げた。
「もう、言ってもいいよね? 沙耶、君のこと――愛してる」
沙耶がとめどない涙を手で拭う。だがその表情にはもう、さっきの怯えの色はない。
「あなたのこと、後悔させたくないのに……なのに……」
僕は言葉に誓い、沙耶はそれを許した。もう二人は何も恐れなくていい。沙耶はもう泣かなくていい。
「……でも、嬉しい。――わたしって、身勝手だよね」
「身勝手でいいよ。沙耶のワガママなら聞くよ、僕は」
微笑みを交わし、満ち足りた気分になったまま、僕らは二人で部屋の片付けを始めた。
人間一人分の肉となると、なかなかどうして、相当な量だ。そういえば前にも似たようなことがあった。
「あとの二人だけど――たぶん、おじさんが殺してる。悲鳴とか、聞こえたし」
「そうか。そりゃ好都合だ」
ここの片付けが終わったら、そっちの肉も回収しよう。当分は食事に困らなくて済みそうだ。
だが溜めこむにしても、そんなに冷蔵庫に入るだろうか……
そうか。隣の家の冷蔵庫も借りればいいんだ。
「この写真……知ってる」
大変だった一日をようやく終えて、ベッドに就こうとしたところで、僕は奥涯邸からの収穫物を沙耶に見せた。
「この一枚、見覚えがあるよ。うん、たしかに沙耶の知ってる場所」
三枚の写真のうち、沙耶が関心を示したのは、裏に栃木県の住所が書き留められた一枚だった。
「これは……家だよね。それと、木と……山?」
「そう。郁紀すごいね。写真も見られるようになった?」
「まぁね」
知覚異常になった当初、僕はもっぱら距離感に頼って景色を把握していた。手前の家屋と彼方の山との区別、山並みとその上の雲との区別……そういうものは距離とスケールから推し量るしかなかった。
だが最近では、山や空がどう見えて、人工の建築物とはどう違って見えるか等々、だんだんと輪郭だけでも判別できるように慣れてきた。以前なら平面に描画された写真の類は、何が写っているのやら皆目検討もつかなかったのだが。
三枚の写真のいずれも似たような情景だった。市街地ではなく、木々に囲まれた森の中の一軒家。おそらくは別荘か何かの類だろう。
「パパはね、別荘だって言ってた。ここにいれば誰にも見つからないって」
「ふむ……」
裏の住所が、それぞれ写真の建物のものならば、たしかに人目を忍んで隠れ住むには絶好の場所かもしれない。だが三軒も?
写真の日付がかなり以前で、しかも誤差数日の同時期に重なっているのが気になった。
もしかしたら、この三枚は購入する別荘の候補として撮影されたものなのかもしれない。隠れ家としていちばん妥当な物件がどれか検討するために。
そして、沙耶の見知っていた家屋はひとつ。――正解は栃木県S町のこの家か。
関東のロードマップを開いて場所を確認した。東京から自動車でおおよそ三時間ほどか。
「お父さんがここにいる可能性は?」
「電話してみたけど出なかったよ。たぶんいないと思う」
「でも、最近に立ち寄ったことはあるかもしれないよね」
僕は考え込んだ。どうせ手詰まりなら、わずかな可能性にも賭けてみるしかない。この別荘に奥涯教授の手がかりが残されている望みは……限りなく低いが、ゼロではない。
「明日にでも行ってみようかな。ここ」
「え〜?」
沙耶が少し不服そうな声で口を尖らせたのが意外だった。
「でもここ……遠いんでしょ?」
「行って調べて、帰ってきても、まぁ半日もあれば充分さ」
「そのあいだ、沙耶はお留守番なの?」
何を言い出すかと思えば……僕は少し呆れて笑いながら、沙耶の頭をなでた。
「少しは我慢してくれよ。なぁ、沙耶だって、お父さんのこと見つけたいんだろ?」
「……」
沙耶は複雑な面持ちで沈黙した。それから上目遣いに僕の顔を窺いながら、おずおずと切り出した。
「ねぇ、郁紀……パパのことは、もういいよ」
「――え?」
拍子抜けした僕は言葉を失った。
「いいって、でも……君のお父さんだろう? 心配じゃないのか?」
「いいの。わたしにはもう郁紀がいるし」
そう言って沙耶は、ぬくもりを求めるように僕の横にすり寄ってくる。
「パパっていっても、本当の意味でのお父さんっていうわけじゃないの。沙耶のこと教育してくれたし、ある意味では愛してくれてたのかもしれないけど、でも……郁紀の方が優しくて、あったかい」
沙耶の気持ちは、たしかに嬉しくもあったが――また同時に寂しい言葉でもあった。
「本当に、僕だけでもいいのか?」
「うん。郁紀は嫌? 沙耶と二人きりじゃ」
「いや……でも、うん。そうだな。やっぱり奥涯教授には会ってみたい」
ようやく自分の心情を説明できる言葉を見つけて、僕は言い直した。
「沙耶のこともっと良く知りたいから。僕以外に沙耶のことを知っている人がいるなら、ぜひ会ってみたい」
「ふぅん、そうなんだ……」
沙耶はべつに怒った風もなく、ただ僕のそういう思考が彼女にとっては珍しいのか、小首を傾げて考え込んだ。
「それに……うん。やっぱり明日、この場所に行ってみよう」
奥涯教授の件とは別に、僕の頭の中で、ある計画がだんだんと形になりつつあった。
もしこの別荘で教授が見つかればそれも良し。見つからなければ――それはそれで、この場所は別のことに役立ってくれそうだ。
「沙耶、寂しいかもしれないけど、ちょっと我慢して待っててくれ」
「うん」
頷いてから、沙耶は問いかけるような眼差しで僕の目を覗き込んできた。
「やっぱり……郁紀にはさ、家族とか、友達とか、もっともっと大勢いたほうがいいのかな?」
「そりゃあ、その方が楽しいだろうね……」
そう言ってから、僕は沙耶が拗ねやしないかと思い慌てて付け足した。
「でも勘違いしないでくれよ、たとえそういう人たちに囲まれて暮らしてたとしても、沙耶だけは僕にとって特別な一人なんだからね」
「うん。ウフフ、ありがと」
くすぐったそうな笑い声を上げて、沙耶は僕に頬ずりしてきた。
「沙耶も、郁紀が喜びそうなこと――郁紀のためだけに頑張るからね」
その日、耕司の受講する講義はすべて午前中に偏っていた。
最後の科目を終えて、昼飯がてら瑶と合流しようかと廊下を歩いていたところで、携帯電話の着信音が鳴り響く。
ついうっかり、買って間もないカメラ付きの新型の方をホルダーから取り出しかかってから、着信メロディの違いに気付いて舌打ちした。古い方の携帯だ。鞄のポケットに入っている。
世間の流行りにつられてカメラ付き携帯を買ってみたはいいものの、シンプルな旧式にも捨てがたい便利さがあり、耕司はどちらにするか決めかねたまま両方を持ち歩いていた。まだ番号を転送することもなく、新しい方の番号を教えていない知人からは旧型に着信がくる。
ようやく鞄から引っ張り出し、着信者名を見たところで耕司は凍りついた。
郁紀だ。
なぜ今になって? どういうつもりで?
彼の方から電話をよこす望みなんて、もう万に一つも有り得ないと思っていただけに、こうして本当に携帯を鳴らされてみると、どうも素直に喜ぶ気になれない。
「――はい?」
『やぁ耕司。今日はもう、講義はないよな?』
「……ああ」
以前から、木曜の午後は耕司が暇を持て余してブラブラしていることを、たしかに郁紀なら知っている。
『相談がある。駐車場に来てくれないか?』
「今すぐにか?」
『ああ、待ってる』
手短に用件を伝えただけで、通話は切れた。
どういう心境の変化だろうか――携帯をジャケットのポケットに突っ込みながら、耕司は郁紀の真意を|訝《いぶか》る。
ここ一週間ばかりの間、明らかに耕司や瑶との接触を避けていた郁紀だけに、この豹変ぶりは不気味とさえ言える。
ようやく話をする気になった……というのなら、良い兆候として受け取れるのだろうが。
そうは思っても耕司は、胸の内から一抹の不安を拭いきれなかった。
「――待たせたか?」
「いいや」
耕司が駐車場に停めていたアコードのフェンダーに寄りかかって、郁紀は待ち受けていた。
会うのは、あの奇怪な空き家での夜以来――明るい場所で面と向かって話すのは、かなり久しぶりかもしれない。そのせいだろうか、耕司には親友の表情に奇妙な違和感を感じた。
どこがとは言えないが、何かが決定的に違う。
「前にも話したと思うが、僕は今、奥涯っていう人について色々と調べなきゃならない」
「――そうらしいな」
「それがな、ここにきて色々と難しくなってきたんだ。やっぱり僕一人じゃ無理かもな、って」
郁紀は――以前よりも余裕がある。以前の、まるで何かに脅かされ追い立てられているかのような切迫した雰囲気がない。表情が和み、照れ隠しの微笑めいたものさえ浮かべている。
「で、お前にも手伝ってほしいんだ。耕司」
――にも関わらず、この郁紀の変化が、なぜか耕司にはまったく好ましいものに思えない。なぜか、直感的に。
「いったいどういう風の吹き回しだ?」
内心の疑念を秘め隠したまま、耕司は表情を抑えて郁紀に問うた。
「だってお前も関心あるんだろう? 耕司」
しれっとして巻き返す郁紀。曖昧な微笑はあいかわらず曖昧模糊としたまま、決してその裏の真意を窺わせない。
「お前も僕の後から、奥涯教授の家を色々と探し回ってたじゃないか。僕とお前とでバラバラに探すなんて二度手間だよ。どうせなら協力して、もっと効率的にやろう」
「……」
なぜだろう。
ほほえむ郁紀の眼差しの奥底に、ねっとりと絡みつくような悪意の色を見いだしてしまうのは。
「ともかく、今日は脚が必要なんだ。車を出してくれないか?」
「まぁ、構わんが……」
郁紀の車は例の事故で廃車になっている。他人に頼るのも解らなくはない。
耕司はアコードのロックを開け、助手席に郁紀を招き入れた。自らも運転席に乗り込み、エンジンをスタートさせる。
「……で? どこに行くんだ?」
「栃木の北の方。那須高原の近所だな」
「栃木ぃ?」
さすがにこれには耕司も言葉を失った。
「住所はこれだ。この建物を探してほしい」
そう言って、郁紀は裏に所番地のメモ書きがある写真を耕司に手渡した。
冗談でも何でもなく100キロ余りのドライブを強要されていると知り、耕司は頭に来るのを通り越して呆れかえっていた。
「今から出発すれば、夕方ごろには着くだろう?」
「……まぁ、そうかもしれんが」
深く溜息をつき、ハンドルを指で叩きながら耕司は気持ちを鎮めた。ここまで来れば乗りかかった船だ。この友人の奇行にも、とことん付き合ってやるしかない。
「別荘か何かか? これは」
「たぶん。そこに奥涯教授もいるらしい」
あの異様な家の主と対面することになるのかと思うと、耕司はまったく気乗りしなかったが、そんな場所に郁紀一人を行かせるのは余計に心配だ。
こうなれば、覚悟を決めるしかない。
「東京に戻るのは夜中かもな」
「悪いな、世話をかけて」
「……いいさ」
それ以上の言葉を喉の奥に引っかけたまま呑み込んで、耕司はアコードを発進させた。
郁紀の微笑が気にかかる。まるで仮面のように顔に貼りついた無機質な笑みが。
昼休みのカフェテリアで、瑶はひとりテーブルに着き、冷めていく昼食をよそに、ただ見知った顔を探して視線をさまよわせ続けていた。
耕司と申し合わせていたわけではない。何か別の用事があってカフェテリアに現れなかったとしても、べつだん何の不思議もない。以前にもそういうことはあったし、そんなときは青海や郁紀とだけで雑談に興じたものだ。
その青海も郁紀も、今はいない。
一人で食べる食事の味気なさ……よりむしろ、食欲さえ萎えさせるほどの不安感が、瑶の箸を止めていた。
青海がいないのは病欠や用事のせいではない。
郁紀にはなぜ嫌われたのかも解らない。
頼りがいのある耕司が相手なら、たとえとりとめのない話題だろうと話しているだけで気が紛れた。
こうして、ただ独りだけ取り残されてみると、自分がどれだけ孤独というものに耐性がないか、瑶はまざまざと思い知らされた。
何もかもが、瑶からすべてを奪い去るべく企まれたことなんじゃないか……そんな被害者妄想さえ湧き上がってくる。
いったい何が起こっているのか?
青海はどこに消えたのか? 本当に郁紀は関係がないのか?
それとも、耕司や丹保医師が心配しているように、郁紀が鍵を握っているのだろうか?
先週の木曜日……瑶にとっては忘れようもない日である。郁紀の言葉に傷つけられ、独りでは吐き出しようもない心の痛みを持て余していた瑶を、たまたま通りかかった耕司が目にとめてくれた。瑶を心配し、話を聞いて慰めてくれた。それしきのことで水に流せることでもなかったが、あのときの耕司の気遣いで、たしかに瑶は癒された。
時刻として丁度その頃、青海は郁紀の家に向かっていた……そして、それきり姿を消した。
昨日、耕司とともに訪れたT大病院ではじめて明かされた事実である。
だとしたら……
さらにもう一つの仮定を積み重ねる。とある疑問を解くために――すなわち、一体どうして青海は郁紀の家へ行こうなどと急に思い立ったのか、という疑問。
たとえばあの日、耕司が瑶と出会ったのが偶然じゃないとしたら?
瑶と郁紀の間に何があったのか、耕司も青海も知っていて、それで二人ともそれぞれに行動を起こしたのだとしたら?
青海は中庭での光景を見たのかもしれない。立ち聞きしたのかもしれない。有り得ない話ではない。
「……」
そこまで考えると、瑶は内側から身を切り裂かれるような感覚にとらわれる。
あくまで仮定だ。だがもしそれが真相だとすれば――青海の身に何があったにせよ、それは瑶にも責任の一端があることになりはすまいか?
「……」
声にもならない痛ましい呻きを上げて、瑶は頭を抱えた。
セルフサービスで持ってきたトレイの上の料理は、すでに冷め切っている。どのみち喉を通りそうにもない。
心|苛《さいな》まれて、焦らされて、なのに瑶は独りでは何の行動も起こせなかった。もとから|闊達《かったつ》なたちでも、勘が鋭いわけでもない。こんなとき何をどう判断し、どういう行動に移ればいいのか、瑶にはまるで見当もつかなかった。
たとえばこれが青海なら、見当がつかないなりに直感で動こうと、そういう前向きな思考を持てたかもしれない。そんな親友の行動力に、これまで瑶は頼りきりだった。青海のいない今、どんなに自分が無力で役に立たない存在か、瑶は思い知らされていた。
堂々巡りの自己嫌悪。瑶はそれを終わらせることもできず、ただ深みにはまっていくしかない。
そのときポケットで鳴り響いた携帯電話の着信音は、むしろ瑶にとっては救いの手だった。
メールの着信だ。タイトルはない。発信者は――
「青海……ちゃん!?」
我知らず声に出していた。それほどの驚きだった。
だがメールを開いて表示された文章は、ますます瑶を困惑させるものだった。
『あなたは匂坂郁紀について興味があるか? Yesなら今から郁紀の家に来ること。一人だけで。誰にも内緒』
「……」
文体からして、青海の書いたものとは思えない。だが確かに発信者名は高畠青海となっている。
深呼吸をし、はやる気持ちで入力ミスをしないよう慎重に、瑶はテンキーを操作して返信メールを作成した。
『青海ちゃんなの? 今どこにいるの?』
送信――液晶画面は滞りなく完了を告げる。
さらに先方からの返信を待つまでの間にも、瑶には考えることがいくらでもあった。
誰か別人が青海の携帯を手に入れて、このメールを打ったのだろうか? だとしても、なぜ瑶宛てに?
はたと、思い当たった。
過去に青海と交わしたメールの数々。女友達ならではの気安さで、そうとう気恥ずかしい内容のものもあった。一人だけでどうしようもなく気持ちが昴ったとき、心密かに慕っていた郁紀への気持ちを書き綴り、親友に読ませたりもした。
青海は自分の携帯にパスワードを設定していたのだろうか? そうだとしても、このメールを送ってきた人間には通用しなかったことになる。つまり、いま瑶にメールを送ってきた人物は、過去に青海と瑶が交わしたメールの履歴をすべて読むことが可能なのだ。
“匂坂郁紀に興味があるか?”
もう一度、瑶は奇怪なメールの文面を読み直した。郁紀に興味を抱きそうな人物として、瑶が指名されたということか。
唐突にまた着信音が鳴る。瑶は一瞬だけ身を|竦《すく》ませてから、液晶画面を見た。また高畠青海名義の着信。タイトルはない。
『すべて会ったときに話す。一人だけで来ること。誰にも内緒』
青海ではない。悪戯にしたって度が過ぎている。青海は瑶を怖がらせて楽しんだりはしない。
不安のあまり泣きそうになった。瑶の精神は、こういう説明のつかない不条理に立ち向かえるようには出来てない。
誰なのか。青海の携帯を手に入れて、しかも郁紀の秘密を知っていると|嘯《うそぶ》く人物――いったい何処の誰なのか?
自分一人ではどうにもできない。一も二もなく耕司か誰かに相談したい。……事実、瑶は耕司の携帯をダイヤルしようとして、すんでのところで思いとどまった。
今こうしている間にも、このメールの送信者は間近に潜み、瑶のことを監視しているのかもしれない。そんな薄ら寒い思いに囚われて、瑶はカフェテリアの中を見渡した。
“一人だけで来ること。誰にも内緒”
文字列の無機質な書体が、まるで突きつけられたナイフの切っ先のように瑶を脅かす。
だが――瑶は携帯を握りしめて、胸の動悸を抑え込んだ。
さっきまで、食事も喉を通らないほどに自分を責めていたのは、こんな自分の臆病さが嫌だったからではないのか。
いま自分に何ができるのか知りたいと、座して待つ以上のことがしたいと、そう望んでいたのは瑶自身ではなかったか?
携帯を握る手が震えているのが、自分でも分かった。
どんなにか楽だろうか……このまま自分の臆病さを許して、青海も郁紀も、何もかも自分の窺い知らないことと割り切って、逃げてしまうことができたなら。
それは嘘偽りのない瑶の本心だった。人としての義務や尊厳をすべて|擲《なげう》ってでも、瑶はこの得体の知れない状況下から逃れたかった。
だが――一方では、瑶自身にもよく解っていた。自分という人間にはそれさえも叶わないのだ。
そうやって逃げた先で、何もかもが手遅れになった後で、どれだけの自己嫌悪が自分を|苛《さいな》むことになるか……自分がそういう後ろ向きな後悔にどれだけ囚われる性格なのか、瑶はちゃんと|弁《わきま》えていた。
結局、ひとりぼっちの瑶はあまりにも臆病すぎた。彼女には逃げようという意志も、そういう決断をくだす勇気さえも持つことができなかったのだから。
昼下がりの住宅街は、どこか薄ら寒いような静寂をたたえていた。
見えないところに回収され損なった生ゴミでも放置されているのか、そこはかとなく嫌な異臭が漂っている。
なんのことはない、こんな日常の景色さえ、今の瑶にはどこか不吉なものに見えてしまう。まるで近隣の住人がすべて死に絶えてしまった、白日の下のゴーストタウンに立っているかのようで……
弱気の虫を追い払い、瑶は匂坂邸の門前で呼び鈴を押した。
そういえば今日は大学でも郁紀を見なかった。もしかして、家にいるのだろうか?
まさかあの嫌なメールを送ってきたのが彼なのでは――考えたくない可能性だった。瑶は膨らみすぎた想像をつとめて意識の外に追いやった。
呼び鈴に返答はない。
一週間前の夕刻に、やはり沈黙したままの呼び鈴を前にして、同じように青海が途方に暮れていたことを、もちろん瑶は知る由もない。
だが今回、瑶は青海のときのように待たされ続けることはなかった。
彼女の不意を衝くようにして、ポケットの中の携帯が着信音を鳴り響かせる。
「……!」
またメールだった。青海名義で、タイトルはなし。
『そのまま入ってこい。鍵は開いている』
戦慄して瑶は周囲を見渡した。やはり――見られている。
恐々として監視者の姿を探すうち、瑶は視界の隅で見咎めた。匂坂邸の2階……固く閉ざされたカーテンの布地が、ほんのわずかだけ揺れるのを。
監視者は――メールの主は――この家の中に、いる。
それ以外の窓はカーテンどころか雨戸まで閉め切られていることに、いまさらながら瑶は気がついた。
あの家の中で何が起こっても、外にいる人間はきっと誰も気付かないだろう。
今度こそ瑶は、今すぐ後も振り返らずに走って逃げ出したいという強烈な願望にとらわれた。
だがその恐怖と同じぐらい……いや、それに数倍する恐ろしさを、いま現在、彼女を見張り続ける視線に対して感じていた。
もう、逃げられっこない。
瑶は門の前に立ちすくんだまま、めそめそと泣き出した。
そんな彼女の手の中で、また携帯電話が着信音を鳴らす。急き立てるように、脅して催促するように。
ふらふらと、まるで自分の脚とは思えないほどおぼつかない足取りで、瑶は匂坂邸の門をくぐった。
玄関に入ると、今度こそ疑いようのない悪臭が嗅覚を打ちのめす。
日中にもかかわらず屋内は薄暗かった。
郁紀の靴はない。彼は留守のようだ。だが――
土間の片隅、下駄箱の裏に押し込まれて隠れている一足の靴に、瑶は目をとめた。
見覚えのあるその靴を物陰からつまみ出し、つぶさに観察してからも、瑶はその事実を受け入れずに済むような思考の逃げ道を探していた。
たしかに青海はこれと同じ靴を持っている。彼女のお気に入りだから瑶も知っていた。だからといって青海がこの家にいるとは限らない。同じ店で同じ靴を買った別人が脱いだのかもしれない。そう、青海がここにいるわけがない――
はたと思いつき、瑶は固く手に握ったままの携帯で、登録済みの短縮ダイヤルを押した。
おそらくは他の誰よりも頻繁にダイヤルしてきた、青海の携帯番号。
電波が最寄りの中継所へと|奔《はし》る一瞬の間。続いて……
鳴った。聞き覚えのある着信メロディ。間違いなく青海の携帯電話だ。
2階だった。さっきカーテンが動いた部屋。やはりまだ、あそこにいる。
青海の携帯の持ち主が、瑶の意図を理解するまでの、ごくわずかな時間の間だけその着信音は鳴り響き……そして、止まった。今はじめて、瑶は姿なき誘導者の存在を肌身に感じた。
「……誰ですか?」
意を決して呼びかける。だが、返事はない。向こうから姿を見せる意図はないらしい。
生唾を呑み込んで、瑶は玄関から廊下に上がり、階段に足をかけた。
青海かもしれない。郁紀かもしれない。二人で瑶をからかって楽しんでいるに違いない。もしかしたら耕司もその場にいるかもしれない。
なんと心慰められる想像だろうか。あり得るかどうかの可能性を棚に上げてでも、瑶はその想像を信じたかった。信じずには一歩も進めなかった。
「青海ちゃん……だよね? 匂坂くんだよね?」
一歩ずつ階段を上がりながら、瑶は涙声で呼びかけた。すでに彼女はしゃくり上げながら泣いていた。
無様に泣き崩れた顔を見られて、きっと笑われるんだろう。からかわれるんだろう。それでいい。この上もなく幸せだ。だから一刻も早くこの仕打ちを終わらせてほしい。
足早に階段を登り切ろうにも、膝ががくがくと震えて満足に動かず、のろい足運びは重くのしかかる静寂の時間をいたずらに引き延ばしていた。その一刻一秒に瑶は泣いて許しを請うた。
そうやって、どれほどの時間を耐え抜いてからだろうか。気がつけば瑶は2階の廊下に立っていた。
沈黙が瑶を出迎える。薄闇の中に、禍々しく悪意に満ちた静寂だけを漂わせて。
「青海ちゃん……青海ちゃぁん……」
弱々しく訴えかけながら、瑶は摺り足で前に進む。
「出てきてよぉ、お願いだよぉ……こんなの、もう……嫌だよぉ……」
目の前に半開きのドアがあった。たぶんこの中の部屋から、門の前の瑶を見ていたはずだ。
自分がドアノブに手をかけ、ゆっくりと引き開けるのを、瑶は心の奥のどうしようもない部分に追いやられた思考で、なすすべもなく意識していた。
部屋には、誰も、いない。
ただ息の詰まるような悪臭と湿った空気だけが、ねっとりと瑶を包み込む。
「もう……やめて……」
限界だった。もう一歩たりともこの場から動けはしなかった。
そこまで瑶の意気が萎えて追いつめられるのを、相手は待ちかまえていたのかもしれない。
背後から瑶の両腕に、同時に絡みつく感触――柔らかくも強靱な、ぬめりけと弾力のある何か。
自由を奪われるのと同時に、さらに容赦ない|指めいたもの《・・・・・・》が瑶のブラウスを引き裂き、強引に中へと進入してくる。
瑶は絶叫した。まさかこんな声を出せるだけの力が自分の中に残っていようとは思わなかった。本能の奥底から沸き上がる力が、これが瀬戸際とばかりに荒々しく瑶の身体を駆り立て、縛めを振りほどこうと|遮二無二《しゃにむに》、四肢を暴れさせた。
だが、後ろから瑶を羽交い締めにする力は頑として揺るぎもしない。
代わりに、冷たくヌラヌラと湿ったものがブラジャーの隙間から押し入れられ、両方の乳房を包み込むに至って、瑶の悲鳴はさらに1オクターブ跳ね上がった。
成すすべもない瑶の両胸を、侵入者は容赦なく揉み上げ、搾り、おぞましい刺激に|竦《すく》み上がって凝った乳首に吸着して翻弄する。自分の肌を舐め上げられるズルズルと湿った音が、胸の谷間から瑶の耳に届く。
乳房に貪りついてくる感触のおぞましさと嫌悪感、もはや理解の範疇にないその恐怖に、瑶の精神は崩壊の一歩手前まで追いやられた。すぐにも悲鳴で喉が裏返って声が出なくなり、呼吸すらもできなくなって、瑶は窒息しかかったまま髪を振り乱して抵抗する。
唐突に、乳房とブラジャーの隙間に滑り込んでいたものが引き抜かれ、同時に瑶の両腕が縛めから解かれた。
脱力しきった両足では体重を支えることもできず、瑶はそのまま床に倒れ込んだ。
すでに身体の奥底にまで残っていた力を、今の抵抗で使い果たしてしまった。まるで自分の身体が糸の切れたマリオネットのように感じられた。
たった今、瑶を背後から捕らえたモノは――今も、部屋の片隅の薄暗がりに潜んでいる。
その気配をひしひしと感じながら、だが瑶は振り向くことさえ出来なかった。そこにいるモノを見たら最後、瑶は自分が発狂してしまうであろうことを充分に理解していた。
すぐ間近で、カチカチとテンキーを押す音が秘めやかに連続する。
この場にあってはならないほど軽やかな電子音とともに、瑶の手の中で光が瞬いた。液晶画面の冷たい光。新たなメールの着信だった。
瑶は、画面に現れる文字から目をそらすことさえ出来ない。
『美人だね。柔らかくて大きくて、とっても素敵なおっぱいだね。  あなたの身体は、さぞかし簡単に雄を誘えるんだろうね』
こいつだ。こいつだったのだ。青海の携帯からメールをよこしてきたのは、いま瑶の胸を触っていったモノだ……
「神様……」
大きな声も出せず、身動きもできないまま、瑶は床に小さく丸まって啜り泣いた。
「ああ、神様……助けて……お願い……」
闇の中に蠢くモノが、ブクブクと泡立つような音をたてた。
瑶には、なぜが理解できた。――それが嘲り笑うそいつの声だと。
『そうやって、郁紀を誘おうとしたんだね。  わたしの郁紀を奪おうとしたね。泥棒猫』
ひやりと、再び足首を掴まれる感触があった。悪寒はふくらはぎを腿を這い登り、ゆっくりと瑶の下肢を覆い尽くしていく。
雌として生まれ持った本能の奥底で、瑶はまざまざと悟っていた。
自分は今から、この生き物に犯されるのだ。死ぬよりなお残酷な運命を、拒むこともできず……
「やめて……」
声にならないほど小さな声で、瑶は懇願していた。
人ならぬモノの慈悲にすがることの虚しさを、絶望的なほど理解しながらも。
「お願い……それだけは……許して……」
ブクブクと――またそいつは、嗤った。
そいつは瑶の悲しみを、絶望を、心の底から喜んでいた。
のしかかってくる異形の体重を振り払うだけの力など、すでに瑶には残っていない。ただ、冷たく粘ついた感触にヌラヌラとくすぐられるたび、ぞわりと鳥肌の立つ肌が悪寒に震え、痙攣を返す――それが瑶の肉体にできる精一杯の反応だった。
目の中が暗くなる。意識が泥沼のような暗い淵に、深い深い暗闇の奥底へと沈み込んでいく。
いいように左右の乳房を弄ばれ、乳首を吸われ、内股の間に割り込んできた重みに両脚を拡げられていくのを、どこか思考の遠いところで感じている。
――あなたは、殺したりしない――
瑶の、もはや人並みに稼働することのなくなった精神が、そのとき人の耳を越えた領域から囁きかける声を聞いた。優しさと邪悪さを兼ね備える少女の声。嬉々として蝶の羽をむしるような、残酷なほどに無邪気な声。
――かわりに、私たちの幸せを分けてあげる。喜びなさい、ヨウ。死ぬまで愛してあげるから――
甘い囁きとは裏腹に、拒みようのない固さと力強さが、瑶の身体の中心に押し当てられる。
それは未だ瑶の経験したことのない、鋭く残酷な激痛だった。
耐え難い痛みではあったのだろうが、それを痛みとして認識できるだけの精神が、すでに形を留めていなかった。
そういえば……
深々と秘所を抉り、彼女の胎内でずるずると|蠕動《ぜんどう》を続けているものを、ぼんやりと見下ろしながら、瑶はどうでもいいことのように、とある感慨を|懐《いだ》いていた。
……まだ私……好きな人にキスしてもらったことも、なかったっけ……
東北自動車道で宇都宮を過ぎたあたりから、空に粉雪が舞いはじめた。
「下が雪道になってなきゃいいがな……」
助手席の郁紀は、白くけぶった車窓の彼方に視線を飛ばしたきり黙っている。心ここにあらず、といった様子のまま、すでに小一時間ほどもそうしている。
相手が視線に気付いていないのをいいことに、耕司は横目ながらも無遠慮に郁紀の横顔を観察した。
今の郁紀に対して自分が|懐《いだ》いている、危険信号のような直感の正体が、未だに耕司には分からない。
郁紀は耕司を避けなくなった。面と向かって話すようになった。それなのに何故か今の郁紀は、かつて耕司たちを遠ざけようとしていた頃の彼よりも、余計に遠くへ行ってしまったような気がしてならない。
助手席に座っている郁紀は、たしかにリラックスしている。だが、じっと虚空の一点に据えられたまま動かない視線は……他人の思惑などいっさい関係ない次元で、すでに決定づけられた、たったひとつの結論だけを見据えているような……
そう、今の郁紀は『完結』している。上辺だけは当たり障りなく、だが芯の部分は誰にも触れない、そんな強固な態度を予感させるのだ。
「――青海だけどな」
探りを入れるように、耕司は何の前振りもなく切り出した。
「いなくなって今日で一週間になる。まだ何の連絡もない」
「そう」
どことも知れぬ彼方を見据えたままで、そっけなく郁紀は頷いた。
「心配だね。どうしたんだろう」
「……」
もし耕司が、目指す山荘の近辺の天候や山道の具合などについて話題にしたのだとしても、郁紀はこれとまったく同じ口調で、同じ返事をしただろう。そう思わせるぐらい彼の語調は実がなく空虚だった。
「もう一度訊くが、お前、何か思い当たる節はないか?」
「いや、ぜんぜん」
これもまた、青海が失踪した直後に耕司が問い|質《ただ》したときと、まったく同じ返答だ。
「……まるで気にかけてないみたいだな」
「そんなこと、ないさ」
ここにきて今更のように郁紀は、さも心外だ、と言いたげに残念そうな顔をしてみせる。
「彼女、僕の家に来る途中でいなくなったんだろう? もちろん僕だって心配だよ」
やり場のない苛立ちが、唐突に耕司の内側から湧き上がる。できることなら今すぐ郁紀を殴り飛ばして、いったい頭の中で何を考えているのか、洗いざらい白状させてやりたかった。
青海は耕司の恋人なのだ。気が気でないほどに心配なのだ。それをこんなにも薄情に受け流されて黙っていられるわけがない。赤の他人ならまだしも、郁紀は耕司の親友だった男だ。郁紀は――
そう、こんなに冷淡な男じゃなかった。断じて。
何が彼をここまで豹変させたのか、たとえ郁紀を尋問しようとも答えは出てこないだろう。
以前のように、ただ殻に閉じこもっていただけの頃ならば、あるいは問い詰める術もあったのかもしれない。だが、こうして賢しく|韜晦《とうかい》するようになった今では……お手上げだ。郁紀は誰であろうと欺き続け、決して本心を見せないだろう。
なら手がかりは、自らこの手で掴むしかない。
「青海はな、津久葉のことでお前に話があったんだ」
「――ふぅん」
津久葉瑶の名前を聞いた郁紀は、気まずそうに苦笑した。だが耕司はその笑みの裏側に、同情よりなお冷たい、見下すような憐憫の色を見て取った。
「津久葉さんか……参ったね。まぁ、あんな事があった後だからさ。最近、声がかけづらくて」
「……」
有り得ない。
瑶に対する感情がこんなにも冷ややかだったなら、告白された時点で拒絶できたはずだ。だが郁紀はそれをしなかった。事故に遭う前の郁紀は。
耕司はあらためて痛感した。いま目の前にいる男は、匂坂郁紀としての記憶だけを持ち越した、まったく別の人格なのかもしれない、と。
西那須野塩原インターチェンジを降りる頃には、気がかりだった雪も止んでいた。だが既にこの近辺ではすでに降雪も珍しくない時期なのか、間近に見る山並みは梢の下に白く凍った雪化粧を残している。
国道を逸れて細く曲がりくねった山道に分け入っていく頃には、タイヤチェーンを怠ったことを後悔せずにはおれない状況になってきた。
それでも耕司は危なっかしいハンドリングでアコードを駆りながら、ロードマップの心許ない誘導を頼りに、山道を|虱潰《しらみつぶ》しに当たっていく。
もはや所番地で正確な位置が絞れるような土地ではない。地図にない私道だろうが何だろうが、手当たり次第に乗り入れて写真の景色を探していくしかない。
「本当に、こんな場所に別荘なんてあるのか?」
「人目につかない所だからこそ、奥涯教授は気に入ったはずなんだ」
「……」
聞けば聞くほどに、耕司の中で奥涯という男の人物像には負の要素が増していった。
半ば森に呑み込まれかかっていたその私道を見つけたのは、郁紀の方だった。
雪を被った地表からは、雪の重さに負けないだけの丈に育った雑草が生え揃い、その荒れ具合はほとんど獣道に近い有様だった。
「これ……本当に道か?」
アコードを停車させ、耕司は窓から顔を出して暗い森の奥を見透かそうとする。視界は梢の重なりに阻まれて、荒れた私道がどこに続いているのかも判然としない。
「写真だと、どう見える」
郁紀に促されて、耕司は渡されていた写真の情景と、森の彼方にそびえる山の稜線とを見比べる。
「……なるほどな。アングルは間違いない」
「行ってみよう」
郁紀の口調は相変わらず平坦だったが、そこには耕司に有無を言わさないほどの静かな気迫があった。
愛車のサスペンションが乗り越えられる道なのかどうか、はなはだ不安ではあったが、どのみち引き返せるわけもない。耕司はギアを二速にホールドし、凍った雪を踏みつぶしながらアコードを私道へと分け入らせていった。
高地での日暮れは早い。
のろのろと車が森の中を進む間にも、梢の隙間から垣間見える空はどんどん明るさを失っていく。
アコードの排気音と、雪や下生えがタイヤに踏みつぶされていく軋みの他には、何の音もしない静寂の森。郁紀もまた黙したままじっとフロントガラスの彼方を睨んでいる。
不吉なまでの静けさの中で、耕司はかつて、郊外の住宅街で奥涯邸の前に立ったときと同じ、薄ら寒くなってくるような違和感に――一歩ずつ異界へと踏み込んでいくことを、原始の本能が|忌避《きひ》する声に――囚われていた。
やがて、暮れなずむ空を|矩形《くけい》に切り取るその影は、唐突に森の中に現れた。
「……」
車を止めて、耕司は改めて手元の写真と目の前の建築物とを見比べる。たしかに、間違いない。
隣の郁紀に声をかけようとすると、すでに親友は無言のまま助手席のドアから降りるところだった。
「おい……」
声をかけようとしたが無駄と悟り、耕司はかぶりを振ってからその後を追った。アコードのダッシュボードを開け、フラッシュライトを取り出して、雪の積もる別荘の前庭へと踏み込んでいく。
写真が撮影されたのは、どうやら相当昔らしい。実際の山荘は見るからに風雪に痛み、廃屋然とした状態だった。老朽化もさることながら、手入れされていないのも大きいだろう。
玄関は施錠されていたらしい。だがそれを郁紀は何の躊躇もなく蹴り破る。いまさら何をか言わんやといった気分で、耕司は黙って見守った。
屋内は窓という窓が分厚いカーテンに閉ざされて、ことのほか暗い。
郁紀は自前のライトを点灯し、ずかずかと上がり込んで家捜しを開始した。
耕司としては気が進まなかったが、この別荘も東京の本宅と同様、住人が去ってかなり立つのは見るからに明らかだ。遠慮するのはやめて、郁紀とは別の部屋から物色を始める。
が……屋内に入って間もないうちに、耕司は捜索がほとんど無意味であることを知った。
何もない。家具調度品は必要最低限――いや、部屋によってはまったく何もない。がらんどうの空間に分厚く埃が積もっているだけの空き部屋さえある。
数少ない家具類も、その半数以上は、まるで運び込まれてから一度も使ったことがないような新品だった。空のままの|抽斗《ひきだし》、傷も手垢もひとつもないまま、黴と湿気に傷んで埃を被っている。
本宅の汚れ具合とは、また別の意味で不気味な家屋だった。人が住まないモデルルームを放置して寂れるがままに任せた――そんな印象がある。
辛うじて生活の痕跡があったのは、トイレ、浴槽、台所……それと寝室のベッドひとつだけ。
かつてこの家で過ごした人間は、食って寝る以外の活動を何一つしなかったのだろうか。
|訝《いぶか》りながらも、耕司は窓のカーテンを|捲《めく》って外を見た。暮色はますます濃くなり、庭は闇の中に沈みつつある。
庭も調べようと思うなら、完全に暗くなる前の方が賢明かもしれない。
さしたる収穫も期待できない屋内の捜索は打ち切って、玄関から外に出た。
あらかた光を失った空の下では、地を覆う残雪の、骨のように冷たい白さの方が、むしろ燐光を放っているかに見える。その輝きは幻想的でありながら、今の耕司には現世と隔たった感覚をことさらに意識させられるようで不快だった。
玄関ポーチの横に、半地下にめり込む形で粗末なドアがあった。むろん施錠されていたが、正面玄関で郁紀がやらかした狼藉を考えれば、いまさら遠慮したところで仕方ない。
思い切って蹴りつけると、拍子抜けするような脆さで扉は内側に開いた。打ちはなしのコンクリートの階段が闇の底へと下っていく。地下室があるらしい。
「……」
こういう|胡乱《うろん》な場所は、できることなら自分ではなく郁紀に探してもらいたいところだが、そうも言ってはいられない。
耕司はライトの明かりを頼りに、冷たい闇の中へと踏み降りていった。
……行ってみれば何のことはない、そこは小さな貯蔵庫とボイラー室だった。こんな山奥に孤立した一軒家では当然の設備だろう。
申し訳程度に棚に積まれた保存食は賞味期限をとうに過ぎ、ボイラーもここ数年は稼働した形跡がない。
耕司が思うに、奥涯氏の別荘は東京の本宅よりも久しく人が出入りしていないように見える。
ここに奥涯氏がいるかもしれないという郁紀の情報は、まったくの誤りか……それとも、最初から嘘なのか。
途方に暮れたまま耕司は地上に戻り、別荘の壁に沿って周囲をぐるりと巡ってみようと歩き出して……そして裏庭の存在に気がついた。
荒れようは前庭より酷い。すでに庭というよりも森の空閑地というべき有様である。ここは、まだ別荘に人が出入りしていた時分からすでに放置されていたのだろう。
かつては薪割り小屋か何かだったらしい丸太小屋の残骸は、倒壊してからどれほど経つのか、朽ち果てて茸の培地になり果てている。その脇で、まだ形を留めている石積みの円筒があった。
井戸だ。
滑車も|釣瓶縄《つるべなわ》も当然ない。おそるおそる近寄り、覗き込んでみると、水はすでに枯れていた。深さは10メートルとないだろうが、泥がどれだけ堆積しているかにもよる。
結局、別荘の外にも屋内と同様、気を引くようなものは何もない。
井戸の縁に寄りかかり、耕司はしばし思案した。奥涯という人物は何を思って、こんな|辺鄙《へんぴ》な山奥に別荘を購入し、訪れていたのだろうか。
家捜しした限りでは、複数の人間が逗留していたとはとても思えない。
“人目につかない所だからこそ――”
さっき郁紀が口にした言葉が脳裏に蘇る。ここは隠れ家か何かなのだろうか。あるいは隠れて住むのが目的ではなく、何か人目に晒したくない物品を隠しておくための場所なのか?
だとすれば、ただ寝泊まりした以上の痕跡がないのにも説明はつく。
はたと、耕司は昨日会ったT大病院の女医を思い出した。彼女なら何か知っているかもしれない。
ポケットから携帯電話を取り出し、登録したばかりの番号を呼び出す。電波状況は――危ういところだが、通じそうだ。
期待はしかし、すぐさま落胆に変わった。丹保医師の番号は定型メッセージとともに留守番電話サービスに接続される。
かけ直そうかとも思ったが、よくよく考えれば郁紀と一緒のときに彼女と連絡を取るのは問題だろう。耕司と瑶が主治医のところまで押しかけていったと知れば、郁紀はまた機嫌を損ねるに違いない。
単独でいる今のうちに、知らせられるだけの情報は伝えておこう。
「どうも、戸尾耕司です。昨日はお世話になりました……」
なるべく要点だけを簡潔に、耕司は現状をメッセージに記録した。郁紀に奥涯教授の別荘だという場所まで連れてこられたこと。所番地を説明し、ここが本当に奥涯という人物の所有物件なのか確かめたい旨……
「……東京に戻ったらまたこちらから連絡します。では」
通話を切り、耕司は昨日の会見のことを思い返す。丹保医師は言葉の通り、調査を進めてくれるのだろうか。彼女が最後まで頑として口を割らなかった奥涯教授についての秘密が、いまだに気にかかる。
彼女を信用していいのかどうか、帰り道に瑶とも話し合ったが、けっきょく結論は出なかった。
――そうだ、瑶は今どうしているだろう? 今日はまだ顔も会わせていない。
行き先も告げずに栃木にまで来てしまったが、青海のことがあって間もないだけに、ひょっとしたら今ごろは心配しているかもしれない。
軽い気持ちで、耕司は瑶の番号を呼び出し……そしていつもより長く続く呼び出し音に少しだけ戸惑った。
どこかに携帯を置き忘れているんだろうか?
諦めて切ろうとしたその直前、ふいに回線が繋がる。
最初に耕司の耳に届いたのは、奇妙なノイズだった。電子的なものではない。もっと生々しく湿った雑音――そう、たとえば誰かが遠くで呻くような、啜り泣くような、そんな声にならない肉声に似た――
違う。これは本当に泣き声だ。誰かが電話口の向こうで泣いている。苦しみに悶えている。
「つ、津久葉? 津久葉なのか!?」
『……だ、れ……?』
返答があった。たしかに津久葉瑶の声――だろうか? |呻吟《しんぎん》に掠れ潰れて、声音の質はよく解らない。
只事ではない状況を察知して、耕司はとてつもない不安に駆られた。
「耕司だ、戸尾耕司だよ! 津久葉なのか? 今どこなんだ!?」
痛ましく地を這うような鳴き声がしばらく続き、その後から、絞り出すような声がぽつりぽつりと漏れてきた。
『……わた、し……怪物に……襲われて……そしたら……身体が、ね……何か、ヘン……なの……』
「な……何があった? おい津久葉、大丈夫か!」
瑶は錯乱しているのか、何を言っているのかまるで要領を得ない。だが言葉と言葉の間を阻む苦しげな息づかいからは、今まさに瑶が途方もない傷みに|苛《さいな》まれているのが判る。
『どんどん……腐って、いくの……肌が、崩れて……さっき……耳が、取れ、ちゃった……』
わけもわからないまま、抗いようのない絶望が耕司を呑み込んでいく。
100キロ余り離れた東京で、瑶の身に今、いったい何が起こっているのか?
声に聞こえる以上のことは想像に任せるしかない。しかも――耕司には何も打つ手がない。
『……助けて……戸尾、くん……こんなの……こんな形の、指……私の、手じゃ……ない……』
「津久葉! 警察を呼べ! 助けを呼ぶんだ!」
『……嫌……こんな、姿……人に、見せ……られない……』
言葉の途中で瑶が咳き込む。ただの咳ではない。ゴボゴボと激しく咽せ返り、気道に詰まった何かを吐きだしている。
「津久葉!!」
携帯電話にむけて怒鳴る耕司の声は悲鳴に近かった。いま瑶が直面している状況への、想像を絶した恐怖に、耕司の理性もまた蝕まれていた。
そのせいで――
横合いからの不意打ちで手から携帯電話を叩き落とされたのにも、耕司は咄嗟の反応ができなかったし、その瞬間まで、すぐ傍に忍び寄っていた郁紀の存在には気付きもしなかった。
「な――」
罵声を浴びせようとした耕司の顎に、郁紀の右手が掴みかかる。耕司より小柄な郁紀の体格からは予期できない強さだった。
井戸に寄りかかる姿勢で背を向けていたのも災いした。井戸の縁を支点にして仰け反る形に体勢を崩された耕司は、力をかける当てがなく、ただ闇雲に手足を振り回して暴れるぐらいしか抵抗の術がなかった。
均衡はすぐに崩れた。
ぞっとするような浮遊感と、暗転する視界。
井戸の中に落とされた――そう理解する前に、猛烈な衝撃が耕司の背中に叩きつけられる。
凍てつくような冷気。さらに口の中に流れ込んでくる汚水。溺れかかった耕司は|遮二無二《しゃにむに》両腕を振り回し、井戸の側壁に指がかかったところで、ようやく上下の感覚を取り戻して姿勢を立て直した。
泥の中で四つん這いになったまま、飲みかかった泥水を何度も咽せて吐き出す。
この泥のおかげで落下の衝撃から守られたことを思えば、井戸の底の有様は耕司にとって|僥倖《ぎょうこう》だったのだが、今の彼にはそんなことを感謝するだけの余裕などあるわけもなかった。
「ふ、郁紀――」
怒鳴ろうにも、掠れた呻き声しか出てこない。それが狭い井戸の底で反響し、なおいっそう意味不明な声に変換される。
かたや、井戸の外で甲高く笑い転げる郁紀の声は、耕司の耳にも明瞭に届いた。
「電話中に邪魔して悪かったね。――ほら、返すよ」
嘲り声とともに、郁紀が井戸の中に耕司の携帯を投げよこす。あわや顔に当たりかかったところで耕司は受け止めたが、掴み取ったそれはバッテリーを抜き取られ、何の用も成さなくなっていた。
「何のつもりだ、貴様――」
冗談事では済まされない。いま耕司が何の怪我もしていないのは奇跡に等しかった。打ち所が悪ければ命を落としていただろう。
いや、打ち所がどうあろうと、この状況は――
手がかりを探して、耕司は井戸の側壁を手で探った。だが泥にぬめる石壁には指をかけられる場所などひとつもない。独力でここから出る術がないのは、明白だった。
「落ちた拍子に死んでれば、まだ苦しまずに済んだだろうに。耕司、君って本当に運がないんだね」
「お前、おい……まさか」
本気なのか? そう問いかけようとして、耕司はいまさらのように何もかも合点がいった。
今日になっていきなり豹変した郁紀。どうしても悪意の印象を拭いきれなかった笑顔。あの笑顔は耕司に向けたものでなく、親友の死相を思い描いてのものだったのだ。
「……どうして……」
理屈だけは思考の中で繋がっても、それでも耕司は納得できなかった。
なぜ郁紀に殺されなきゃならない? 親友だったはずの男に?
たしかに彼は余計な詮索を望んでいなかった。だがそれは、命を奪うほどの動機になるのか?
「べつだん、今すぐ殺す必要なんてなかったんだけどね。もしかしたら、お前は僕の邪魔をするようになる奴かもしれないし。 せっかく人目につかない所まで出かけるんなら、ついでに……と、思ってさ」
「ついでに、って、お前……そんな理由で、俺を……!?」
「お前、死ぬのに理由がほしいのか?」
冷ややかに郁紀が混ぜかえす。さも呆れたと言わんばかりに。
「何様のつもりだ? 耕司。人は何の理由もなく死ぬんだよ。僕の両親がそうだったし、僕も危うくそうなりかけた」
「む――無茶苦茶だ!」
「そんなに理由が欲しいなら、一人でじっくり考えなよ。そこでなら、時間はたっぷりあるだろう?」
井戸を覗き込んでいた郁紀の顔が――消えた。闇の中の耕司と外界とを結ぶ、ただひとつの接点が。
「郁紀ッ! おい! 郁紀ッ!!」
声の限りに耕司は叫んだ。いま郁紀が立ち去れば助かる望みなどないのは火を見るより明らかだ。こんな山中の井戸の底に取り残されたら最後、いくら助けを呼んだところで誰の耳にも届かない。
「津久葉が! 津久葉が大変なんだ! おい郁紀! 聞いてくれ! ここから出してくれぇ!!」
今の郁紀に慈悲を乞うことの空しさを悟る思考力さえ、耕司には残されていなかった。
ただ必死だった。祈る相手は神でも悪魔でもなく、郁紀ただ一人だけだった。奇跡を願うのと同じ気持ちで、ただ郁紀の変心に|一縷《いちる》の望みを託して叫んだ。
やがて空の闇色が井戸の底と同じ深さになると、耕司は頭上にあった井戸の縁を見分けられなくなった。もう何時間叫び続けているのか、耕司にも解らなくなってきた。
それでも耕司は叫び続けた。沈黙とともに絶望が自分を殺すだろうことを、彼ははっきりと理解していた。
気分はたまらなく爽快だった。
難問に思えた課題を、完璧に、これ以上ないほど抜かりなく、やり遂げたという達成感。パズルの最後の1ピースが、緩くもなくきつくもなく、吸い込まれるようにぴったりと定位置に収まった……そういう類の快感があった。
僕は人を殺した。誰にも見つからない場所で、誰に知られることもなく。
浅く雪の積もった山道を一人、徒歩で市中まで降りる道程は、はてしなく遠く感じられたが、寒さも疲労もまったく苦にならなかった。
耕司の車に乗って帰る誘惑にも駆られはしたが、それでは画龍点睛を欠く。耕司の死体もろとも、あいつの自動車まで隠匿できる場所として、この別荘は完璧だったのだ。
所番地から|辺鄙《へんぴ》さが想像できた時点で、頭の中にあった計画だった。
もし別荘で奥涯教授の足取りが見つからなかったとしても、それならそれでこの物件は、もう誰が訪れることもない忘却の地だということになる。邪魔者を始末するには絶好の場所ではないか。わざわざ栃木まで出向いた手間を無駄足にすることはない。
得物のつもりで肉切り包丁を隠し持って行ったのだが、そんな手間をかける必要さえなかった。涸れ井戸とは――何とまた好都合な舞台装置があったものか。運命が僕に味方しているとしか思えない。
しかもあの馬鹿は立ち位置の危険さを気にもせず電話に夢中になっていた。回り込んで近づく僕には最後まで気付きもしなかった。
ともかく、僕と沙耶との生活に余計な詮索を入れてきそうな人間が、これで一人、完璧に地上から姿を消した。あと一人始末すれば、今度こそ完成だ。
津久葉瑶。耕司ほど積極的に行動を起こしそうな人間ではないが、だからといって油断はできない。戸尾耕司と高畠青海が消えたことを結びつけて考える程度の知恵は、あの女にもあるだろう。
井戸の横で耕司が電話していた相手が瑶だというのも、考えようによっては好都合だった。
あそこでもし別の第三者に居場所を報告されたりしていたら、その人物も探し出して始末する羽目になっていただろう。
会話の内容がよく解らなかったのが気がかりではあるが、何やら意味の分からないことを怒鳴りつけていた様子からして、さほど密な情報の交換があったとは思えない。まぁ、いずれにせよ瑶の始末は急ぐに越したことはないだろうが。
日暮れからほぼ夜通し歩き続けて、ようやく那須塩原の駅に着く頃にはもう始発電車が動き始めていた。
特急電車に乗って東京までわずか1時間。疲れを癒す暇もなかったが、それも苦にならないぐらい僕の神経は昴っていたし、瑶を殺す算段を考える時間は寸刻だって惜しいところだった。
耕司と同じようにあの別荘を使うのは危険だし、そもそもどうやって誘い出すかが問題だ。
瑶に対しては先日、つい我慢しきれなくなって癇癪を爆発させてしまったばかりだ。彼女は耕司のようにあっさり僕を信じることはないだろうし、そうなると、二人きりになれる状況を作るのも難しい。
いっそ僕一人で悩むより、沙耶の知恵を借りるのも手かもしれない。
とはいえ、僕にだってそれなりにプライドというものがある。できることなら彼女には、男として頼りがいのあるところを見せてやりたいのだが――
さしたる妙案も浮かばないまま家の前まで来てしまい、けっきょく僕は降参した。
まぁ、当面の懸念だった耕司を一人で始末できただけでも、胸を張っていい成果だ。
奥涯教授があの別荘に行った痕跡はなく、捜索そのものは空振りに終わったが、どのみち沙耶はもうさほど教授の行方を気にかけてはいない。まだ捜索を続けているのは僕の満足のためだ。べつだん焦る必要はない。
「ただいま」
いつもとは半日、時間のずれた朝帰り。小走りに階段を下りてくる音が廊下の奥から聞こえる。沙耶はそんなに僕の帰りが待ち遠しかったのだろうか。そう思うと何だかこそばゆい。
「おかえり、郁紀!」
いつもより二割増の明るい笑顔とはしゃぎようで、沙耶は僕の首根に抱きついた。
「遅くなってごめんな。色々、予定が変わったもんで……」
「ううん。わたしの方も、もうちょっとで準備が終わるとこ」
「準備?」
何のことか怪訝に思って僕が聞き返すと、沙耶は悪戯っぽく含みのある笑顔を浮かべる。
「郁紀をね、びっくりさせる準備」
「……どういうこと?」
「まだナイショ。それより、郁紀、疲れてるでしょ? お腹空いてる? それとも、お風呂?」
沙耶に言われるまで僕は、自分の空腹をろくに意識もしなかった。
まる一晩、何も口に入れないで歩き続けたことを思い出した途端、胃袋が痛いほどに主張を始める。だが雪道の泥と汗で汚れきった身体のまま、くつろいで食事する気にもなれない。
「――軽く何か口に入れて、それから風呂に入りたいな。暖まるまでゆっくり」
「そう言うと思って沸かしてあるよ、お風呂。一晩中外にいたんだもんね。寒かったでしょ?」
「ああ、そりゃあもう」
沙耶は本当に手回しがいい。僕の望むことをすべて先回りして叶えてくれる。
「ふぅん、大変だったんだぁ……」
二人揃って湯船に浸りながら、僕は昨日の冒険を沙耶に語り聞かせた。
「殺すのは思った以上に楽だったんだよ。ただ、帰り道がね」
ほどよい湯の温度ももちろん、僕の腹に乗った沙耶の背中の感触も心地よい。沙耶は僕に寄りかかった姿勢で、夜通し歩いて強張った僕の脚の筋肉を揉みほぐしてくれていた。
彼女が力を込めるたび、可愛らしい鎖骨が浮き上がり、そこから浅く柔らかい曲線を描く乳房が湯の中を泳ぐのが見える。
ああ、我が家に帰ってきたんだな――と、しみじみ満ち足りた気分を満喫する時間。積もり積もった疲労感が、ベッドで眠るまでもなく癒されていく。
居間や寝室と同様に、この風呂場も僕と沙耶の色に塗り込めた安らぎの空間だ。玄関や廊下は万が一のとき人目に触れても問題ないよう、元の色彩のまま残してある。自分の家でありながら、僕が心底リラックスできる場所は三部屋しかない。
「この季節でも、山の寒さは尋常じゃないね。薄着で行ったのはつくづく失敗だった。夜中あたりは凍死するんじゃないかってヒヤヒヤしたよ」
「その耕司って人の服も取り上げて、重ね着してくれば良かったのに」
「おいおい、耕司は井戸に落としたんだってば。着てた服も井戸の底だよ」
「あ、そうか」
照れ隠しに舌を出してから、笑い転げる沙耶。
「――で、あと心配なのが、津久葉瑶って女の人?」
「耕司が消えたのと僕のことを結びつけて考えそうなのは、そいつ一人だけだからね。彼女の始末が終わったら、やっと安心できるんだが」
「ふぅん」
沙耶は、何やらいわくありげな目つきで肩越しに僕を一瞥する。
「その人の殺し方、もう郁紀は考えてあるの?」
「それが……まだなんだ。色々と考えたんだけどね。だから沙耶の知恵も借りようかと思ってさ」
「まっかせといて」
いつになく自信ありげな様子で、沙耶はニッコリと頷いた。
「沙耶はね、郁紀が想像もつかないような方法を知ってるよ。もう解決したも同然なんだから」
「そ、そうか」
「さぁてと、もういい加減、仕上がってる頃だし――」
何かを期待しているかのように、うきうきと声を弾ませながら、沙耶は湯船から立ち上がって湯気の中に裸身を晒す。
「出よ、郁紀。見てほしいものがあるんだ」
「目を瞑って、わたしがいいって言うまで開いちゃ駄目。わかった?」
「あ、ああ……」
何やら訳のわからない約定を言い含めてから、沙耶は目を閉じた僕の手を引いて二階への階段を上がっていく。
つまり僕を驚かせるような秘密が、二階に用意してあるということなんだろうが……|訝《いぶか》っていた僕は、そのとき上階から聞こえてくる呻き声のようなものを聞き咎め、驚くのを通り越して警戒に身を固くした。
「さ、沙耶、上に何かいるんじゃ――」
「目を開けちゃ駄目!」
ぴしりと言い放ってから、沙耶は僕を落ち着かせようとしてか、そっと腕を撫でる。
「危ないものじゃないから、安心して。大丈夫」
「あ、ああ……」
沙耶に先導されて階段を上るうち、その声はだんだんとヴォリュームを増していく。寝室だ。もう聞き間違えようのないほど明らかな、苦しげな啜り泣き。沙耶は誰かを僕らの家に上げたのだ。
一昨日あんな危険な目に遭ったばかりだというのに、何とまた不用心な――そう苛立ち呆れながらも、ふと僕は気がついた。
啜り泣き、だって?
そんな風に感情の表現として僕にも伝わる音声を出せるのは、沙耶一人だけではなかったのか?
僕は盲目のまま沙耶に導かれ、寝室に踏み込んだ。いまや隔てるものもなく、僕の目の前で|呻吟《しんぎん》に身を震わせている誰かがいる。だが奇妙なことに、今の僕には耐え難い臭気となって感じられるはずの人間の体臭が、ない。
「さぁ、ご対面! 郁紀、目を開けて」
促されて瞼を上げた僕は――しばし呆然と言葉を失った。
津久葉瑶。一糸まとわぬ裸体の彼女が、胎児の姿勢で床に|蹲《うずくま》り、小さく身をわななかせている。
初めて見るその露わな肢体は、思っていたよりもはるかに豊満で蠱惑的だった。あどけなく純潔そうな風貌からは想像できなかった成熟したプロポーションに、僕は目を奪われる。
いや、そんなことよりも、なぜ彼女がここにいる? こんな格好で何をしている?
いや、そんなことよりも――
「どう? 郁紀。この子の躯、どんな風に見える?」
「……綺麗だ。でも、なんで僕にもちゃんと……」
そうだ。
いま僕の目の前で肌を晒している女性は、間違いなく、僕の記憶の中にあるがままの津久葉瑶……
事故の後の僕に付きまとって閉口させられた、あの腐肉の化け物ではない。僕の知覚にも正しく人間の姿として捉えられる容姿をしている。
「この子ね、郁紀のことが好きだったんだって」
知っている。だが沙耶に話したことはない。
どうしてそれを沙耶が知っているんだ?
「だからわたし、この子の躯を造り替えてあげたの。ちゃんと郁紀にも可愛がってもらえるような姿に」
そこで沙耶は言葉を切って、沙耶は僕の反応を窺い、満足げに頷いてから続けた。
「わたしの同類にしてあげたの」
「どうして……どうやって?」
沙耶が瑶を選んだ経緯も不可解だったが、それ以上に不可解なのは、沙耶の言葉――彼女が瑶に対して行ったという内容だった。
躯を――造り替える、だと?
「ねぇ郁紀、おとといも言ったでしょ? わたしには他の生き物の身体に細工ができるんだって」
たしかに彼女はそう言っていた。そうやって隣家の鈴見の脳を弄ったと。
べつに彼女を疑っていたわけではないが、鈴見については実のところ、沙耶がいったい何をしたのか僕がこの目で確かめたわけではない。やはり今の今まで僕は沙耶の主張を言葉半分に聞いていたのだろう。
だが、この瑶は――
「隣のおじさんにしたような小細工じゃなくて、今回のは大がかりな変換だったけど、でもこれがわたしの能力の本当の使い方なんだよ。実際にやってみたのは、これが初めてなんだけど」
「これが……本当に、瑶?」
他ならぬ瑶にしか見えない僕自身の質問としては奇妙なものだったかもしれないが、僕だって、津久葉瑶という人間の本来の容姿が、僕の目に瑶として見えない姿形であるはずだということは理解している。
ようやく僕の存在に気がついたのか、瑶は顔を上げてこちらを向いた。
どんよりと曇った目の中に、何かを理解したらしき輝きがほのかに点る。僕を見つめる瑶の眼差し。忘れられるはずもない。
これは――整形手術なんていう次元のものじゃない。どう見ても人間とは思えないほど歪みねじくれた生物が、まさに人間そのものの姿に変身したのだ。
僕の中で両者を統合で結ぶことは不可能だった。この瑶は、つまり――人間だった頃の瑶とはまったく別の生き物なのだ。
沙耶は言っていた……自分の同類、と。
「ヒト科ヒト目の生体構造についてはね、沙耶はもう、この星でいちばんのエキスパートなの。いっぱい勉強したからね」
瑶という初めての作品を前にして語る沙耶の口調は、いかにも誇らしげだった。
「勉強って……何を、誰から学んだんだ? いつ、どうやって?」
奥涯教授であるわけがない。こんな芸当をしでかし、その方法を沙耶に伝授できるような教師などいる筈がない。これは人智を越えた所行だ。
「だって……毎日、郁紀のを注ぎ込んでもらったじゃない。わたしの中に」
言ってから、沙耶はちょっと照れたように頬を赤らめる。
「あれ、要は人間っていう生き物の設計図みたいなものだから。わたしにはそれを読み解くことができるの。好きなように弄ることもね」
「……」
本当に、この子は――いったい何者なんだろう?
人間じゃないことは納得していた。だがそれだけではない。沙耶は、人間を超越した何かなのだ。
「でもねー、やっぱり最初だったもんだから、手際よくできなくって」
沙耶が近づくと、瑶は恐れおののくように身震いして、逃れようと床を這う。だが手足の動かし方がまるで出鱈目で、思ったように動けないらしい。まるで――新しい身体の動かし方が分かっていないかのようだ。
怯えたような呻り声も、まるで言葉になってない。
「――喋れないのか?」
「うん。あいにく|精神《こころ》の方は壊れちゃったみたい」
溜息をついて、沙耶はちょっと悔しげに首を捻る。
「何だかんだで変身が終わるまでに二〇時間もかかっちゃったから。ちょっと可哀想なことしちゃったかな。かなり苦しかっただろうし」
「……」
瑶が床から、|縋《すが》りつくような眼差しで僕を見る。助けを求めているのかもしれない。だが今の彼女はそれを声に出して求めることも、いや、僕の名を呼ぶことさえもできない。
「で、どう? 気に入ってくれた?」
目を輝かせてそう訊いてくる沙耶に、僕は途方にくれた。
「どう……って?」
「だって郁紀、友達や家族が欲しいって言ってたでしょ? だからこれは、沙耶からのプレゼント」
何の邪気もなくそう言われて、僕はますます返答に詰まる。
「プレゼントって、おいおい……子犬か何かじゃあるまいし」
「似たようなもんだよ。どうせ頭の中なんて真っ白なんだから」
僕を喜ばせようという気持ちは嬉しいが、どうにも沙耶は根本的なところで常識に欠けるきらいがある。
「いや……人間一人を監禁し続けるっていうのは、多分かなり厄介なもんだと思うよ?」
「大丈夫だよぉ。ほら、こうやって鎖で繋いであるし」
一糸まとわぬという表現に唯一の語弊があるとすれば、それは瑶の首に巻かれた革製の首輪だった。いったい何処で手に入れてきたものか、ペットショップで売っているような飼い犬用のそれだ。その首輪に嵌められたクロームメタルの鎖が、ベッドの支柱に繋がれている。
沙耶はやおら鎖を引っ張り、まだ逃げようとする瑶を転ばせた。
しゃくり上げるような悲鳴を上げて、瑶は無様に床に転がる。その様は沙耶の言うとおり、まるっきり知性の欠けた動物のようだった。
「それにこの子、どっちみち逃げ出して何かしようとか、そういう難しいことはもう出来ないから。ね? これでもう郁紀が心配することなんてないでしょ?」
それは――たしかに、そうだ。
津久葉瑶を殺すつもりで、さっきまで知恵を絞っていた僕だが、その難題は思わぬ形で解決がついた。
おそらく健常な人間が今の彼女を見ても、在りし日の津久葉瑶とは似ても似つかない姿に見えるだろう。しかも記憶もない、言葉も喋れない、となれば……完璧ではないか。沙耶は命を奪うことなく瑶の社会生命を抹殺したのだ。
だが、沙耶が提案しているように、僕がこの瑶を『所有』するというのは――
「……嬉しくない?」
ふと気がつけば、沙耶はさっきまでの自信が嘘のように意気消沈していた。
「わたし、また何か勘違いしてた? 郁紀のこと困らせちゃった?」
「いや――」
「この子の世話はちゃんとわたしが一人でやるよ? 郁紀に面倒くさい思いなんてさせないよ? それでも……駄目?」
違うのだ。僕は沙耶の好意を|無碍《むげ》にしようなんて、これっぽっちも思っていない。
それでも僕が、いま床に転がって悶えている裸身を正視できずにいる理由を、どう沙耶に説明したものか。
「そういうことじゃない……違うんだ」
あの事故以来、3ヶ月ぶりに見る沙耶以外の人の姿。それも、女、それも――こんなにも豊満に雌の色香を備えた、美しい女。
嬉しくないわけがない。そう思う一方で、ここで喜んでいいわけがないという理性の声もまた、無視できない。
「嬉しいよ。嬉しいんだけど――素直に喜んでいいのかどうか、沙耶のこと思うと、さ……」
「?」
きょとんと、狐につままれたような面持ちで沙耶は小首を傾げる。
「いやだって、ほら……この子だって女の子だからさ。僕が沙耶の他に、別の女の子と一緒に暮らすっていうのは……嫌じゃ、ないのか?」
しばらく考えて、沙耶はようやく僕の言わんとするところを理解したようだった。
「アハハッ! そんなぁ。郁紀って考えすぎだよぉ」
「……」
僕の心配は杞憂なんだろうか。仮にも一人の女性を愛することを誓った男である以上は、当然の心遣いだと思うのだが。
それとも沙耶は、女の裸体を前にした男が感情とは別の次元で反応せざるを得なくなるということを、理解してくれていないんだろうか。
「あぁ可笑しい。――ほんとに優しいんだね、郁紀って」
「……そうか?」
「この子はね、郁紀のこと喜ばすためだけに沙耶が用意したの。郁紀がこの子のこと好きになって、この子と過ごすのを楽しいって思うようになってくれたら、それだけ沙耶も嬉しいんだよ。それ、遠慮するようなことじゃないよ」
「こう言っちゃ何だが……」
僕は自分の嘘偽りない心境をどうやって言い表したものか、途方に暮れながらも切り出した。
「男って――その、ものすごく下劣な生き物だから――ほら、瑶の躯って、沙耶のハダカとはまたぜんぜん違う特徴があるだろ? これって――沙耶のこと好きだって思う気持ちとは全然別のところで――その、かなり気をそそられる、ってのが――」
しどろもどろに言葉を繋げていくうちに、沙耶はますます面白がり、ついには腹を抱えて笑い転げていた。
「うんうん、分かる分かる。郁紀は男の子だからそれでいいの。正常な本能だよ?」
おどけた口調で僕の肩を叩きながら、沙耶はもう一方の手で目尻を拭う。どうやら涙が出るほどに可笑しかったらしい。
「じゃあさ、この子を可愛がるときは、沙耶も一緒にまぜてよ。沙耶の躯だけじゃできないような遊び方、みんなで楽しもうよ。ね?」
「……いいのか?」
繰り返し念を押すように聞き直す僕に、そのとき沙耶は、今まで見たこともないような微笑を見せた。落ち着いた、ぞっとするほどに落ち着いた静かな笑み。いつもの明るい微笑とは決定的に何かが違う、どこかひどく妖艶で大人びた微笑。
「郁紀と沙耶は恋人どうし。で、津久葉瑶はそんな二人のペット。この子はわたしと郁紀に可愛がられるたびに、そのことを思い出すの。これから毎日、ずっとね」
その笑みと言葉が孕んだ毒を、僕は聞き逃さなかった。そしてようやく、沙耶が瑶を狙った動機に合点がいった。
今となってはもう無理だが、もし瑶の末路について彼女自身の見解を問うことができるなら、間違いなく彼女は僕に殺される方を望んだだろう。今の瑶の境遇は、ただ殺される以上に惨い有様に違いない。そうと|弁《わきま》えた上で沙耶は、こんなことをしたのだ。
なんと|邪《よこしま》な、おぞましい沙耶。
人は彼女を恐怖するだろう。忌み嫌うことだろう。そんな沙耶の邪悪さが、いま僕は愛おしくてたまらない。
沙耶が瑶にした仕打ちの残酷さ。その邪悪さのなんと人間的なことか。
姿形がどうあろうと、その魂の形がなんと僕らの間近にあることか。
彼女は僕を想う心とまったく同じ熱量で、瑶という女を火刑に処したのだ。瑶の悲惨さを見れば解る。沙耶がどれほどに激しく熱く、僕のことを愛しているのかが。
いつしか僕は、沙耶からの贈り物を諸手をあげて歓迎する気持ちになっていた。
「沙耶は、気に入ってるのかい? このペットのこと」
「うん。とっても綺麗で、触り心地もいいんだよ」
「そうか。じゃあ二人でこいつと遊ぶときも、沙耶は沙耶で楽しめるんだね? 僕が遠慮することはないね?」
「もちろん!」
満面の笑みで頷いてから、沙耶は再度鎖を引っ張り、倒れていた瑶を床から引き起こす。
「ぁぅ……」
「ねぇ郁紀、触ってごらんよ。柔らかくて気持ちいいよ?」
「ああ」
哀れを催す潤んだ眼差しで見つめてくる瑶。その瑞々しい肢体を、たわわに実った乳房を、僕は今度こそ何の遠慮もなく視線で嘗めるように鑑賞しながら、詰め寄った。
まず指先で髪に触れる。沙耶のそれと同じ、さらさらと流れるような滑らかな手触り。その感触を堪能しながら、僕は慰撫するように瑶の頭をそっと撫でてやる。
「……」
追いつめられたような瑶の表情が、ほんのわずかに安堵で和む。僕が誰なのか、心のどこかではまだ記憶しているのかもしれない。こんな風に優しく彼女に接してくれる相手だと、今なお思いこんでいるのかもしれない。――愚かにも。
僕は髪を撫でる手を止めると、おもむろに両手で左右の乳房を鷲掴みにした。
「ぅッ……!」
いきなりの乱暴な扱いにうろたえて、瑶が痛々しく顔を歪める。だが僕は容赦なく、優しさとは正反対の欲望の赴くままに、指先と掌でその大きさを貪りつくす。
柔らかい。本当に柔らかい。力を込めて掴めば掴むだけ、まるで指が内側に吸い込まれていくかのようだ。
そう、こういう感触は、沙耶の細く引き締まった躯では味わうことができない。そもそも、沙耶の繊細な躯をこんな乱暴に扱おうなんて思ったこともない。だが……
「ひぐッ、ううぅぅッ!」
たっぷりと手に余る乳房を下から掬い上げ、絞るように揉みながら、指先で乳首にも触れてやるようにすると、瑶はとうとう痛みに耐えかねて細い悲鳴をあげ始めた。
過敏な場所への刺激は、ほんの少し優しさを欠いただけでも充分な苦痛になるようだ。
むろん今の僕の指使いは、『ほんの少し』なんていう程度のものではない。左右とも両手の人差し指と親指の二本で乳首をつまみ上げ、捻り潰すようにして転がしてやると、瑶の悲鳴はますます甲高く、息づかいも激しくなっていく。
これはこれで――いいものだ。力に蹂躙される女の反応というやつは。
「郁紀ぃ、もう凄く元気になってるよ?」
横から沙耶に指摘されるまでもなく、自覚していた。部屋着のスラックスの下では僕の欲望が、すでに有り余る硬度で屹立している。
「こういう立派な女の躯と、沙耶みたいなのと、郁紀はどっちが興奮するの?」
「そうだな……ただ躯だけが目当てなら、こっちかも」
「うー、なんだか妬けるぅ」
不満げに唇を尖らせる沙耶。そんな表情がまた愛らしい。
「それでもいいって言ったのは、沙耶だろ? ほら、沙耶も一緒に」
「うん。やらせてやらせて」
沙耶は瑶の上体を背中から抱きかかえると、後ろから廻した両手で瑶の乳房を掴み上げた。
僕の指使いを真似するように五指を次々と蠢かし、存分に弾力を堪能する。
「あはっ、何度やっても面白い!」
「くぅ……うううぅ……」
啜り泣く瑶の顔と、沙耶の手の上で万華鏡のように形を変えていく二つの乳房を眺めているうちに、また別の嗜虐のアイデアが僕の中に湧いてきた。
「じゃあ、僕はこっちで」
スラックスを脱いで、いきり立った竿の切っ先を瑶の乳房に圧し当てると、掻き回すようにして左右の胸の谷間に割り込ませていく。
「沙耶、もっと真ん中に寄せてくれ」
「うん、こう?」
僕の意図を察した沙耶が、たっぷりとした左右の脂肪で僕の竿を挟み、圧迫する。たまらない感触だった。
沙耶の両手が外側から瑶の乳房を押し上げ、押し潰すのにあわせて、僕もまたその中央で腰を暴れさせ、竿を|蠕動《ぜんどう》させて瑶の胸を|苛《さいな》む。
「うううぅぅ……」
「ねぇ郁紀、それ気持ちいい?」
「ああ、これはこれで……」
沙耶の膣を貪るのとはまた違う、柔らかく暖かい質量の感触。まだ味わったことのなかった快楽に、早くも射精感がこみ上げてくる。
僕はさらに腰を密着させ、ペニスの切っ先を瑶の顔に突きつけた。
前後に往復するたびに、泣き声を漏らす瑶の唇や鼻を、赤黒く張りつめた僕の亀頭が威嚇するようにつつきちらす。
そのたびに瑶は怯え、声にならない呻きで慈悲を乞うように抗議する。
「沙耶……もっと強く」
「こう? こう?」
「あぐうぅッ!」
さらに容赦なく乳房を掴み寄せられ、瑶が苦悶に身震いする。
その痙攣と、乳房の圧力を通して伝わる沙耶の手の感触と――僕は二人分の奉仕を一身に受けて、一気に快楽の絶頂まで押し上げられる。
限界――次の瞬間に、僕の欲望がたっぷりと瑶の顔面にぶちまけられた。
「ひぅッ!?」
何の前触れもなく眼前で炸裂したものが、瞼や鼻筋にべったりとこびりつき、僕の体温の熱気で瑶の顔を覆い尽くす。
その突然の襲撃に狼狽した瑶が、顔にへばりついた異物から逃れようと、必死になって首を振り、空しい抵抗をする。
「うわぁ、いっぱい出た……」
瑶の肩越しに、彼女の顔を覗き込んだ沙耶が、|陶然《とうぜん》と羨むように呟いた。
それから瑶の頭を掴んで無理矢理に横を向かせ、そうやって汚された彼女の顔と直面すると、たった今僕が吐き出したものを、|弄《いら》うような舌使いで愛おしげに舐め取っていく。
「これはね、ぜんぶ沙耶のだからね……」
沙耶が舐めとっている間にも、顔を伝い落ちる白濁は瑶の口へと流れ込み、それを飲みかかった瑶が苦しげに|噎《む》せ返る。
「あ、駄目駄目! 飲んじゃ駄目!」
慌てた沙耶が、有無を言わさず瑶の唇を奪う。強引に舌を割り込ませ、瑶の口内を蹂躙してから、流れ込んだ僕の精液を周到に吸い上げる。
湿った音を立てて、唇が離れた。あとには唾液とそれ以外の粘液が淫らな糸を引いて残る。
「瑶になんて、あげない。……ぜーんぶ、沙耶がもらうの」
満足げに呟いてから、沙耶は舌でかき集めた僕の精液を、喉を鳴らして嚥下した。
そうやって嫣然と笑う沙耶を、瑶は何が起こっているのか理解できていない、怯えに曇った眼差しで見つめている。
そんな、女二人の激しいペッティングを眺めているうちに、僕は早くも二度目の欲望で身体の芯が熱くなっていくのを感じた。
胸だけでは飽き足りない。せっかくの沙耶からの贈り物だ。もっと存分に堪能しなきゃ罰が当たる。
沙耶の指責めと僕の摩擦で赤く腫れた瑶の乳房。そこから臍へ、下腹へと掌を這わせ、僕は瑶の股間の茂みの中へと指を差し入れてみた。
「ひゃっ!」
またしても過敏に、まるで電撃でも浴びせられたように総身を硬直させる瑶。だが僕の指先は、そのときはっきりと探り当てていた。瑶の花芯が、疑う余地もないほどの量で蜜を漏らしていたことを。
この女――濡れてる。あんなことをされたのに。
そのとき、僕の中で津久葉瑶という女性の尊厳は完全に意味を失った。
それで心底『可愛い』と思えるようになった。
「ははっ」
僕は瑶の上体を手荒く突き倒し、彼女が悲鳴を上げるのも構わずに、左の足首を掴んで高々と頭上まで吊り上げた。
「あうぅ、あううぅ……ッ!」
片足を床からほぼ直角になるまで拡げられ、大きく晒し出された瑶の秘部。
今の瑶には羞恥心なんてものを感じる情動はないんだろうが、それでも自分の体勢がいかに無防備なものかは理解できるのだろう。まるで狩り立てられる小動物のように呼吸を荒げて身もだえし、僕から逃れようとする。
そんな瑶の抵抗をがっちりと腕力で封じたまま、僕は床に投げ出された右脚の腿を跨いで膝立ちになり、股間の屹立の先端を、じくじくと蜜を染み出させる瑶の秘裂へとあてがった。
「ひっ」
過敏な粘膜が触れ合った途端、瑶の息遣いは悲鳴の域にまで高くなる。
僕を抵抗なく受け入れるにはまだ濡れ具合が足りないだろうが、大丈夫だ。強引に押し入るのに充分なだけ僕の欲望は硬く凝っている。
痛みの予感にパニックを起こしかけている瑶の反応を充分に鑑賞し愉しんでから、僕は思いきり腰で彼女を刺し貫いた。
「あぐぁぅぅッ!!」
身構えていただけでは事足りなかったらしく、瑶の押し殺した悲鳴には断末魔の痛ましさがあった。何となく僕は、包丁で鈴見を刺し殺した夜のことを思い出す。
「うううっ! あううううッ!!」
挿入物の責め苦から逃れたい一心でのたうつ瑶。
だが右足は僕に跨られ、左足は僕の両手に抱えられ、がっちりと横位の姿勢で固められた瑶の下肢は、大きく拡げられたまま動かすこともできない。いくら上体だけを|捩《よじ》っても、彼女が僕の腰から解放されることはない。
「ふぅッ! くふぅぅぅッ!!」
今の瑶にできることは、ただ為す術もなく僕の腰使いの蹂躙に身を任せることだけ。
「辛そうだね〜」
涙を滲ませて喘ぐ瑶の顔を、沙耶が興味津々の態で覗き込む。
瑶の内側の感触は、沙耶のそれとはまるきり違っていた。
未熟な容姿とは裏腹に、驚くほど柔靭でしなやかに僕を吸い、包み込むのが沙耶だが、それに比べて瑶の身体は、明らかに未開発だ。侵入に慣れていない膣はまだまだ硬く狭く、蜜のぬめりも僕の|蠕動《ぜんどう》に追いつくほどの量を出せずにいる。とはいえ、攻める側からすればこういう抵抗の強さも快感の刺激なのだが。
「気持ちいい? この子」
「うん、まぁ」
股間だけで味わう満足度で言えば沙耶が上だが、瑶の恵まれた体躯には、そこだけではない蹂躙の快楽を与えてくれる。
彼女の痙攣にあわせて|漣《さざなみ》のように震える腿の肉。荒波に揉まれるように上下に翻弄され振り乱されるふたつの乳房。それらを眺め、肌に感じているだけでも、充分に僕の劣情を刺激する。
「ウフッ、じゃあ沙耶も」
横倒しにされた瑶の脇腹に沙耶は馬乗りになると、瑶の腰骨のあたりに花芯の蕾を押し当てた。
「あ……」
瑶を|苛《さいな》む僕の振動が、沙耶の過敏な部分にも伝播して、甘く湿った吐息を漏らさせる。
「可愛い……ほんとに可愛い。この子……」
うっとりと夢見るように呟きながら、沙耶は空いている左手で瑶の乳房を揉みしだく。
「んううう……うぅ……うぅ……うぅ……」
瑶の喘ぎは次第にリズミカルに、とろけるように熱くなっていく。
愛液の滑りが充分間に合うようになって、ようやく僕の動きを快楽として受け止められるようになってきたらしい。
「ねぇ――郁紀――イキそうに、なったら――」
瑶の腰骨で自らを慰め、切なく吐息を上気させながら、沙耶は肩越しに振り向いて僕に訴えかけてきた。皆まで言わせずとも彼女の望みは理解できた。
「ああ、分かってる。大丈夫……」
僕と瑶の間で、淫猥に細い腰を擦り上げる沙耶。その秘裂の、しとどに濡れた輝きを確かめて、僕は沙耶の準備もまた充分に整っているのを見届ける。
絶頂の瞬間に向けて、僕は腰の動きを加速させる。それに応じて瑶の息遣いもまた焼き切れそうなほどに切迫していく。
「あああ、ああああっ……」
「沙耶、もう――」
「うん――いいよ、郁紀――」
頭の芯から、背骨を駆け下りていく灼熱の射精感。
いよいよという瞬間になって、僕はそれまで固く抱きかかえていた瑶の下肢を突き放し、沙耶の尻を両手で掴んだ。
「郁紀ィ――ッ!」
期待に叫ぶ沙耶の尻を手で拡げ、精一杯の形まで押し開かれた沙耶の濡れ光る中心に、僕は爆発寸前の亀頭を突き入れた。
「あああああッ!」
歓喜と苦痛のないまぜになった絶叫とともに、沙耶は僕の衝撃を受け止める。
そんな仕打ちを受けてでもなお沙耶が求め欲する喜びを、僕の欲望のすべてを――僕は慣れ親しんだ熱く柔らかい緊縛の中で、存分に解き放す。
「はぁ、あ、熱……い……」
ぶるぶると、胎内にほとばしる飛沫の熱さに忘我の境地で打ち震えながら、満ち足りた表情で僕の体温に浸る沙耶。
瑶はつい寸前まで胎内で荒れ狂っていた暴虐の余韻に荒い息をつきながらも、やおら断ち切られたその感触に呆然となり、霞んだ目で僕と沙耶とを見比べている。
3人ともに脱力し、折り重なって床に身を投げ出したまま、僕らは嵐の後の静けさの中で、情交の後の生ぬるい空気を嗅いでいた。
まるで抜け殻になったような空っぽの疲労感にくるまれて、ベッドに仰向けになったまま、僕は今日から始まる新しい暮らしに思いを馳せた。
腕の中には添い寝する沙耶。床には丸く縮こまって眠る瑶。つい昨日までは想像もつかなかった形の三人家族。
いつだって変化をもたらすのは沙耶だ。新しい部屋、新しい食事、新しい家族。すべて僕の絶望を癒すためだけに――死にかかっていた僕の運命にふたたび喜びをもたらすためだけに、沙耶が示してくれた道。
そしてまた、僕も変わった。
目障りだった者たちのうち、僕は二人を殺し、さらに廃人になったもう一人を奴隷にした。それだけのことをした後で、こうして心安らかに眠りに落ちようとしている僕は……間違いなく、かつての匂坂郁紀ではない。
これから先、沙耶はどこまで行くのだろうか。
僕はどんな風に変わっていくのか。
未知なる世界への漠然とした不安。決して不快ではないその宙吊りの感覚の中で、僕は沙耶の髪を指先で弄りながら、問う。
「君は――いったい、何者なんだい?」
眠っているなら、答えたくないなら、それでいい。僕は答えを期待するでもなく、虚空へと問いかけた。
だが沙耶は、身じろぎして僕の方を向いてから、深い瞳の奥底を僕に覗き込ませる。
「うまく、言葉では説明しにくいんだけどね――」
しばらく考え込んだ後、沙耶は自らの内側に探りを入れるかのように、淡々と言葉を探して紡ぎはじめた。
「タンポポって花があるよね。種を風に乗せて飛ばすやつ」
「うん?」
「綿毛の種は風に運ばれて、故郷から遠く遠く離れて、もしかしたら草木なんか一本も生えてない砂漠に落ちちゃうかもしれない。 そんなとき、たった一粒のその種が何を思うか……それを想像してくれれば、解ってもらえるかもしれない。わたしのこと」
「……」
僕はしばらく自分の中で、沙耶の答えを吟味した。その間にも沙耶は、例え話の先を続ける。
「種は、もちろん草の種だからね。その気になって頑張れば、砂漠を砂漠じゃなくしてしまえる。 ただ一粒だけの種でも、もしかしたら、頑張ろうって思うようになるかもしれない。頑張って育って増えて、いつかこの土地が一面のタンポポ畑になるまで頑張ろうって、そう思うかもしれない。そんな風にタンポポの種が心を決めるとしたら、どんなときだと思う?」
「……それは?」
沙耶は優しく微笑んで、僕の頬に手を差し伸べた。
「それはね、その砂漠に――たった一人だけでも――花を愛してくれる人がいるって知ったとき。 タンポポの花は綺麗だね、って、種に話しかけてくれたとき」
「……」
沙耶の細い指が、慈しむように僕の頬をまさぐるのを、僕は安らかな至福の中で感じる。
「あなたのこと、大好き」
囁く沙耶を、僕は胸の中で抱きくるんで、無言のまま頷いた。
「ずっと傍にいて。いつまでも、わたしの隣に」
「ああ、もちろん」
睦言の優しい甘さをお互いに確かめ合いながら、僕らは眠りの底へと沈んでいった。
それは生きながらの埋葬だった。
死のような静寂と、死のような冷気だけが、世界の全て。
声が枯れ、叫び続けるだけの力もなくなってからは、耕司の思考能力は完全に麻痺していた。
ある意味でそれは慈悲深い、本能の麻酔だったのかもしれない。彼は自分が誰なのかを忘れ、どうしてこんな闇の底に囚われているのかも忘れ、そうやって徐々に命を蝕んでいく冷気の感覚から逃避していた。
代わりに彼は夢を見ていた。
20年余りの人生の中身を脈絡なくランダムに拾い上げたラッシュフィルムの上映会。幸せで楽しい場面だけでなく、辛く悲しい場面もあったが、それらでさえも彼がいま死のうとしている場所よりは暖かく快適だった。ただそれだけで夢は充分に慈悲深かった。
たとえば、山の夢。
幼い頃に兄と連れだって行った昆虫採集。虫籠に入りきらない蝶をビニール袋に詰めていくうち、気がつけば窒息した蝶の翼が袋いっぱいに詰まっていた――
たとえば、恋人と過ごした日々。
馴れ初めは合コンだった。青海が|下戸《げこ》だと見破ったのは彼だけだった。無理して飲んだ酒を裏路地で吐いている彼女を介抱し、それから二人は缶ジュースで乾杯をやり直し、それから――
たとえば、深い海の夢。
真っ暗な夜の海。
彼は水底まで潜ってから頭上を見上げ、水面越しに月を眺めていた。どこか遠くで自動車が走っている。その音をぼんやりと聞きながら、彼は海の底から、丸い、明るい、月の輪の光を――
彼の中に残っていた何かが、その夢に異を唱えた。
海になんて……夜の海で素潜りなんて……したこと、あったか?
点のような違和感が連鎖して線になる。夢と|現《うつつ》とを隔てる境界線。
何が、頭に引っかかったのか……そう、自動車だ。自動車の排気音。どこか遠くから聞こえてくる……
音がやおら変化する。アイドリングの低音へ、そして空吹かしの後に、断ち切ったような静寂。そして――ドアが開き、閉まる音。
誰かが車でやってきて、いま車外に降り立った、らしい。これは夢じゃない。たしかに耳で捉えた本当の音――
その途端に理解した。
ここは海の底じゃない。丸く光っているのは月じゃない。
あれは――井戸の外。もうとっくに夜は明けているのだ。そして車でやってきた誰かが、すぐ近くにいる……
そこまで思考が繋がったところで、彼の中に戸尾耕司が還ってきた。
「助けてくれ!」
いざ叫んでみれば、思いの外すんなりと声は出た。あるいは喉の痛みなど無意識が遮断してしまうほど、耕司の本能は必死だったのだろう。
「誰か! ここだ! 井戸の底にいるんだ! 助けてくれぇ!!」
ただひたすら叫びまくった。声は狭い井戸の中で、彼自身の耳を|聾《ろう》するほどに反響し、すぐにも耕司は自分が何を叫んでいるのか、はたして意味のある言葉になっているのかさえ分からなくなった。
だがそんなことは問題ではない。ただ聞き届けてもらえれば――誰であれ外にいる人物に、井戸の底で死にかかっている自分のことを伝えられさえすれば、いい。
それはほんのわずかな時間だったのかもしれないが、希望と絶望の|端境《はざかい》に立たされた耕司にとっては、無限とも思える時間だった。
やがて頭上で真円を描いていた外光に、虫に食われたような欠損が生じる。――井戸の中を覗き込む人物のシルエットが。
「戸尾くん? 生きてるのか?」
女性だ。慣れ親しんだ声ではないが、聞き覚えのある声ではあった。誰だろうか――なぜか容易には思い出せない。
「ちょっと待ってろ。すぐに助ける」
影が消え、ふたたび外光が真円に戻る。ふたたび取り残されたのかという不安が膨れあがってパニックになりかかるのを、耕司は取り戻した理性の力で押さえ込んだ。――たしかに言った。助けると。見捨てられたわけじゃない。
待つ間に、耕司はそこに置き忘れていたかのように失念していた自分自身の身体を思い出し、おそるおそる動かしてみた。
節々は痛むし、末端はかじかんで感覚が失せている。だがまったく動かせないような場所はない。憔悴してはいるものの、たしかに自分は五体満足で生きている。
だいぶ時間がたってから、再びさっきと同じ人影が井戸の縁に現れた。
「君、怪我はないか? 自力でロープを登れるか?」
「いや、ちょっとそれは……」
指先を動かすのがやっとという程度の有様で、そんな芸当を演じる自信は耕司にはない。
「ふむ――まぁ仕方あるまい。いったん私もそっちに降りる」
声の後、結び目の瘤を作った一条のザイルが井戸の中に投げ入れられる。
すぐ手元にまで届いたザイルの確かな手触りに、耕司は今度こそ本当に安堵を感じながら、ようやく心にできた余裕で疑問を|懐《いだ》くことができるようになった。――いったい誰なんだろうか? この救いの主は。
ザイルが揺れ、光が遮られる。点灯したままの大型ライトをベルトで肩に吊った人物が、慎重にザイルを伝い降りてきた。
やがて耕司と同じ泥の中に立ち、狭い井戸の中で対面した相手は――
「せ、先生?」
「外の誰かを期待したかい?」
T大付属病院の脳神経外科医、丹保凉子医師。それは耕司が予想だにしなかった人物だった。
病院で見た白衣とタイトスカートからは一変し、厚手の皮コートとデニムジーンズに、踵のない編み上げブーツという選択は、最初から山歩きを覚悟していたとしか思えない実用一辺倒な出で立ちだった。
ライトも携帯用ではなく、大径レンズの電球と、側面の小型蛍光灯とを切り替えられる大型の万能タイプだ。非常用の備えではない、明らかなサバイバル用品である。
「……ひどい有様だな。ほら、これ」
丹保医師は耕司のなりを頭から爪先まで眺めて苦笑すると、ポケットからフラスクを取り出し、渡した。
「飲み込まず、ゆっくり一口ずつ舐めるようしろ。少しはマシになるだろう」
「あ――ありがとう、ございます」
フラスクで酒を持ち歩くなんて、アル中の中年男のような……そう感じる耕司の価値観は半ば偏見かもしれないが、若い女医の持ち物としてあまりに不釣り合いな印象は否めない。
何はともあれフラスクの蓋を開けて一口含み――その途端、舌を焼く液体のあまりの強烈さに、耕司はあやうく|噎《む》せかかった。
「な、何ですか、これ?」
「スピリタスウォッカ。気付け薬に良し、消毒に良し、浴びせてから火を点ければ、効くような相手にはかなり効く」
淡々と、まるで冗談とも思えない口調で|嘯《うそぶ》いてから、丹保女医は暗い笑みを浮かべた。そんな彼女をまじまじと眺めて、あらためて耕司は当惑する。
これが――あの丹保凉子という女医と同一人物なのか?
病院の診察室で見せた、理知的で物腰柔らかな若手医師の面影は欠片もない。まるで能面のような硬い表情と、射るように鋭い、突き放すような眼光は……
たしかに暗い井戸の底で、一燈のライトが作り出す不気味な陰影に彩られた顔を見ているのだから、表情の違いはそのせいだと無理に納得することもできる。だとしても、この口調の豹変ぶりは何なのか?
「あの……先生はどうしてここに?」
「電話をよこしたのは君だろうが」
ぎろりと、まるで出来の悪い生徒の失言を咎めるように凉子は耕司を一瞥する。
「行方不明者を捜してる二人組が、妙な留守電のあとに揃いも揃って音信不通になったりしたら、何かあったと思うのが普通だろ?」
「は、はぁ……」
それでも凉子の素早い行動がいまひとつ納得できない耕司だったが、その一方で、彼女の言葉が意味するもう一つの事実に慄然となった。
「――じゃあ、津久葉は? 津久葉瑶にも連絡を?」
「したよ。君と一緒で繋がらない。正直なところ、私はてっきり君も死体になってるもんだと思ってたんだがね」
「……」
そう、耕司は殺されかけたのだ。それも最後まで親友と信じていた男に。
怒りと悔しさがどっと胸の中に蘇る。許せない裏切りだった。裏切られた自分の愚かしさにも我慢がならなかった。
おまけに津久葉瑶の安否も不明だという。まさか彼女もまた耕司のように、郁紀の手によって――
「まぁ落ち着け。ここで君がいくら殺気立ってみたところで始まらん」
さも鬱陶しそうな語調で凉子が|嘯《うそぶ》く。耕司の方を見ようともしていない。
「何かあったと思ったのなら、警察には届けてくれたんですか?」
「警察だと?」
相変わらず耕司に背を向けて井戸の側壁ばかりを眺めながら、凉子は冷ややかに失笑する。
「――そうか、君はまだ、そういう形でケリがつけられるものだと思っているわけか」
「どういう意味です?」
人もなげな凉子の態度に、半ば喧嘩腰で食ってかかろうとする耕司。そんな彼を凉子は手で制し、ライトの光輪で側壁の一角に注意を促す。
「戸尾くん、こいつには気づかなかったのか?」
「は?」
――見れば、明らかに石の質が違う部分があった。凉子がさっきから耕司を差し置いて調べていたのはこれらしい。
「……?……気づきませんでした。ずっと真っ暗だったんで」
「ふぅん」
凉子はさらに視線をじりじりと動かし、その横にある石積みの隙間を凝視した。手を平たく伸ばせば、大人が手首を差し込むこともできなくはない……そんな程度の間隙がある。
「君、いいところに落ちてくれたよ。|瓢箪《ひょうたん》から駒ってやつか?」
陰惨な笑みとともに呟いてから、凉子はためらいもなく片手を石の隙間に押し入れた。
まさぐり、手をひねる数秒の間。それから何か硬いものが噛み合うようなガリ、という音が石の奥で響く。
「……先生?」
凉子は間隙から手を抜くと、色の違う石壁を押した。さして力を込めないうちに、石はゴロゴロと滑車の転がるような音とともに、奥へと滑り込んでいく。
「――こういう仕掛けか。やられたよ。前に来たときは気づきもしなかった」
「前にも……来た?」
聞き捨てならない言葉だったが、凉子は答えずに開口部を覗き込む。ライトの光が照らし出すコンクリートの通路が、耕司の位置からも見えた。
「私は先に進むが、戸尾くん。君はここに残ることを勧める」
何の温情もなく簡潔に凉子が告げる。耕司は、たったいま彼女が見つけた地下道と、井戸の外から吊られたザイルを見比べた。
ほとんど精製アルコールに等しいウォッカの作用で、身体はもう汗ばむほどに暖まっている。指の感覚も戻ってきた。が、まだロープ登りができるほどの握力は出せそうにない。
かといって。またこの井戸の底で一人になるなど――考えただけで身震いがした。
「一緒に行きます。連れてってくさだい」
「……フン、まぁ好きにしろ」
振り向きもせずに、凉子は開口部へと身を滑り込ませる。耕司も躊躇することなく後を追った。
「前にお会いしたときと、ずいぶん雰囲気が違いますね」
ライトの光を頼りに慎重に歩を進める凉子。その背中に耕司は皮肉をこめて言葉を投げる。
「ここは病院じゃない。君は患者じゃない。営業スマイルが必要か?」
「じゃあ、こっちが先生の地ですか?」
「さあ、どうだかな。どうだっていいことだろう」
ふいに凉子が足を止め、床に注目する。耕司も後ろから覗き込んだ。埃をかぶったロープの束が丸めてうち捨てられている。
「……何です?」
「あの井戸から降りてきたやつの小細工さ」
凉子はロープを拾い上げ、観察してから耕司にも渡した。
「長さは私が使ったロープのほぼ2倍。途中に結び目があって、端は両方とも切断されてる。この両端が繋がって輪になってたのさ」
「……え?」
「外のどこかにこの輪を引っかけて、井戸の底まで伝って降りる。その後、ナイフで輪を切って井戸の中に引っ張り込めば――井戸の底に降りた痕跡は残らない」
凉子はライトで行く手を照らす。10メートルほど先に終点があった。閉ざされた木製の扉。
「こうやって、ここに逃げ込んだ奴は追っ手の目をくらませたのさ。やられたよ。まんまと騙された」
「先生、さっき、前にも来たっていうのは……」
「ああ。君や匂坂くんだけじゃない。私も以前、奥涯を追ってこの別荘に来た」
乾いた口調で語りながら、凉子はコートの前を開き、その裏地に吊ってあったものを引っ張り出す。
「ほかに出口がないとしたら――ヤツはまだ、あの扉の向こう側にいるわけだ」
はじめ、耕司はそれが棍棒か何かに見えた。まさか凶器を持ち出すとは思わずに唖然とし、それからより子細に眺めて正体が解ってからは、今度こそ愕然となった。
銃だ。
それも映画で見るようなスマートな拳銃ではない。水平二連銃身の猟銃を、銃床を切り落とし、銃身もぎりぎりの長さまで切りつめて隠し持てるサイズに縮小した、おそろしく暴力的な代物だった。
「な――何ですかそれ!」
「ショットガン。一二番口径」
まるで煙草の銘柄でも問われたかのように平然と、凉子は返答する。
「私にはこいつを持ち歩く資格なんてないし、こんな風に改造するのも銃刀法違反だ。他に質問は?」
「……そんなもの持ち出して、いったいどうするつもりです?」
凉子は肩越しに耕司を一瞥し、今まで以上に陰惨な微笑を見せた。
「奥涯の正体を初めて知ったとき、私はただの善良な一般市民だった。交通違反すら無縁の、ね」
改造猟銃の銃口をゆらりと剣呑に揺らしながら、耕司がただの女医だとばかり思っていた女は、刺々しくも自嘲的な口調で先を続ける。
「あのときにコイツがあったなら、私はたぶん奥涯をきっちり殺せていただろう。そうなってれば、もしかしたら、君たちがこんな災難に巻き込まれることもなかったかもしれない。その点は申し訳ないと思ってるよ」
「……」
耕司はただ黙って聞いているしかない。事態がどんどん自分の手を離れた場所へと転がっていくのを、ただ何もせずに眺めているしかない。
「だから、これから私がやることは一切合切、君とその友達が足を突っ込んでる泥沼な有様を終わらせてやるための手続きだ。その辺をよく理解して、余計な口は突っ込まないこと。いいね?」
耕司は黙したまま力無く頷いた。それ以外の返答などできるわけもなかった。
左手でライトを、右手でショットガンを構えたまま、凉子は突き当たりの扉に歩み寄り、大きく深呼吸をする。
それから存分に体重を乗せて勢いをつけた踵の一撃で、そのドアを蹴り開けた。
拍子抜けするほど安っぽい音を立ててドアは枠から外れ、奥へと倒れ込む。
舞い上がった埃がライトの光を浴びて、煙のように白く|濛々《もうもう》と逆巻いた。
広い。軽く20畳以上のスペースはあるだろう。中を一目見た耕司の印象は、物置部屋になった手術室、というものだった。
タイル張りの床に排水溝、真ん中には明らかに手術台とおぼしい可動式のテーブルが置かれ、一方の壁際にはホーローのキャビネットと薬戸棚、もう一方にはライティングデスクと本棚がずらりと並んでいる。
そこまでは耕司にも理解の及ぶ器物だったが、それらのテーブルや戸棚の上に所狭しと置かれた物品は、どれひとつとして正体の解らない異様な品々ばかりだった。
|精緻《せいち》な細工を施した飾り鏡。どこかの未開部族の民芸品のようなグロテスクな小像、仮面。吐き気を催すような色合いで織り上げられたタペストリ。赤ん坊の頭ほどもある水晶球……
総じてアンティークの類、と見えなくもないが、いずれにも共通するのは、どこか見る者の生理的嫌悪を掻き立てるような悪趣味な意匠である。
どれもこれも、制作者がまるで後世に悪意だけを伝えようとしたかのような、そんな邪な意図を感じさせるものばかりだ。
東京の奥涯邸で見たような|稀覯書《きこうしょ》めいた本もあちこちに積んであったし、戸棚の一角には、羊皮紙だかパピルスだか、明らかに紙ではない巻物を並べた一角もある。
そして、そこかしこの空いた壁には、びっしりとチョークか何かで描かれた意味不明な図形の数々。二枚ほど並べられた移動式の黒板にも、所狭しと奇怪な落書きめいた文様が描き込まれている。どれもこれも、眺めているだけで目眩がしてくるような――
「見るんじゃない」
耕司の隣で、凉子が短く叱咤した。
「いいか、ここから動くな。絶対に何かに触ったりするな。目を惹くようなものがあっても、見つめたりしちゃいけない。まずいと思ったらすぐに目を逸らして自分の靴を見ろ。わかった?」
「は、はぁ……」
凉子はライトの光源を電球から蛍光灯に切り替えて、部屋全体を照らせるよう手近な台の上に置くと、ショットガンを仕舞い、さらに耕司を当惑させるような道具を取り出した。――デジタルハンディカムと、缶入りのスプレー塗料。
左手ではスプレー缶をカラカラと振って|攪拌《かくはん》し、右手には電源を入れたカメラを構え、横に開いた液晶画面を見つめながら、凉子は部屋の奥へと踏み込んでいく。
そうやって凉子は壁や黒板の図形を撮影し、撮ったはしから真っ黒いスプレー塗料で乱雑に塗りつぶしはじめた。
「あの、先生……?」
「レッスン1。妙な図形やラテン語の文章とかは、絶対に読むな。見つめるな。機械の目で記録しておいて、あとで注意深く調べればいい。現物はその場で塗り潰すか何かして破壊しろ」
言われてみればたしかに、凉子は図形の類を絶対に直視せず、つねにデジカムのスクリーンに映る画像をちらちらと確認するだけで動き回っている。
言わんとするところは理解できたが、だからといって彼女の行動の真意がまるで掴めないことに変わりはない。
「いったいどういう……」
「ここまで深入りしたんなら、後学のために黙って聞いておけ。――あと水晶球とか鏡の類も危ない。下手に壊すと藪蛇になったりするから、とりあえず布でも被せるか、ペンキを浴びせて封印しろ」
耕司はだんだんと空恐ろしくなってきた。郁紀も異常だったが、この女医はさらに常軌を逸しているのではなかろうか。
ウォッカでその場凌ぎの生気を取り戻しているとはいえ、依然、耕司は井戸の底の一夜で疲弊しきったままだった。
不安はダイレクトに体調を掻き乱し、耕司は立っていられないほどの目眩と吐き気を催しはじめる。
「……とりあえず、こんなところか」
壁という壁に塗料を塗りたくり、室内のこもった空気をシンナー臭で汚しきったところで、凉子はやや安堵したように呟いてからスプレー缶を投げ捨て、ハンディカムをポケットに仕舞った。
「奥涯って人は、どうなったんです?」
間近にあったテーブルの角で体重を支えつつ、耕司は凉子に訊いた。
「ん? ああ。そこにいたよ」
凉子はライティングテーブルの上の書類に目を通しながら、さもどうでもいいことのように、部屋の片隅にある|支那《しな》風の|衝立《ついたて》を指さした。
|そこに《・・・》、|いた《・・》――その無感動な過去形の答え方は、言葉以上に雄弁に、ある事実を物語っている。
「……」
確かめずにはいられなかった。耕司はふらつく足取りで部屋を横切り、凉子が指さした衝立に――そこに描かれた、鱗に覆われた蛸のような絵柄は極力見ないようにして――近寄った。
衝立の裏にあったのは、重厚そうな一脚の安楽椅子だった。そこに腰掛けていた人物が、もちろん耕司は初対面だったが、件の奥涯雅彦その人なのだろう。
閉ざされた地下室で人知れず乾涸らびていくうちに、奥涯の骸はかなり萎縮してしまったらしい。そのミイラは子供ほどの上背しかなく、在りし日の体格は、ぶかぶかになった背広の寸法から察するしかなかった。
落ちくぼんだ眼窩と、だらりと垂れ下がった顎の中に闇が凝っている。
昨夜、井戸の底で耕司を包み込んでいたのと同じ闇。それらの虚ろな空洞に比べれば、右のこめかみに空いた小さな穴は、むしろ慎ましいものだ。
椅子の手摺に乗った右手には、自決の手段となったらしい小さな回転拳銃が今なお握られている。凉子のショットガンを見た後では、玩具のように華奢な銃に見えた。
さっき部屋中に塗料を撒き散らしている途中で、凉子はこの骸を視界の隅に捉えていたのだろう。
それでも眉一つ動かさず平然と作業を続行していた彼女の心胆に、耕司は呆れるのを通り越してむしろ感心していた。つくづく、とんでもない人間ばかりと関わり合いになっていると思う。
だがそんな凉子が現れなければ――耕司は運命の皮肉を自嘲しながら、思った――自分もまた、ここに座っているミイラの仲間入りを果たしていたわけだ。井戸の底で、誰にも見つかることなく。
不意に、視界が暗くなった。
無理を押して動き回ったのものの、スピリタスウォッカの加護もここまでのようだ。
遠退く意識を食い止めるすべもなく、耕司は最後まで奥涯雅彦の虚ろな双眸と目を合わせたまま、床に昏倒した。
次に目を覚ましたとき、耕司は乾いた柔らかい感触に身を預けていた。
いくら黴と埃の匂いがしようとベッドはベッドだ。冷たい泥の中で眠った一夜の後では、なおさらそう思う。
暖色の柔らかい照明。ランプだった。部屋の天上には電灯が吊られていない。
この殺風景な内装――思い出した。奥涯の別荘の地上階。井戸に落ちる前に家捜していた部屋だ。
「お目覚めかい?」
声をかけられて首を巡らすと、凉子が壁際に寄せた椅子とテーブルに着いて何かを読んでいた。
テーブルに載せたランプの明かりを頼りに、彼女が検めているのは、山のように積み上げられた書類とファイル。地下室から持ってきた奥涯のものだろうか。
無表情に中身に目を走らせながら、片手に持ったサンドイッチを時折、口に運んでいる。
「食べる元気があるようなら、そこに」
凉子はファイルから目も上げず、手振りだけでベッドサイドに置かれたコンビニエンスストアの袋を示した。
「俺を……どうやって、ここに?」
いくら凉子とはいえ、女の腕力で耕司を担いだまま井戸のザイルを登って出られたとは思えない。
「あの地下室、本棚の裏に開かない扉があってね」
ファイルを調べ、なおかつサンドイッチを食べるのに差し障らないだけの間を開けながら、凉子は独り言のように話した。
「苦労して破ってみたら、別荘のボイラー室に出た。反対側は薄くモルタルを塗って隠してあったんだな。隠し部屋に機材を運び込んでからドアを塞いで、その後は井戸から出入りしていたんだろう。周到なもんだ」
「……そこまでして隠さなきゃならないものが、あの部屋にあったんですか?」
「昔はね。それに、さっきまでも」
サンドイッチを食べ終えた手で、凉子はファイリングされていないルーズリーフの束を手に取り、軽く振って見せる。
「世界中の研究者が、だれもかも学会で演壇に上ってリサイタルをやりたがるわけじゃないのさ。自分一人が秘密に通じて、最後には自分の死体もろとも秘密の墓穴に仕舞いこんで満足するような、そういう変態野郎もいるんだよ」
その奥涯の秘密というのが何なのか、耕司にはいまだに皆目検討もつかない。ただ、地下の隠し通路で凉子が口にした言葉から察するに、それが郁紀に何らかの害を及ぼしたもの、という推論はできる。
「郁紀は――どうなっちまったんですか?」
もうその問いに答えてくれるのが誰であろうと構わない。耕司は相手構わずそれを問い糾したい心境だった。
「地下の死体と、郁紀と、いったいどういう関係があるんです? 先生はいったい何を追いかけているんです?」
「今それを調べてるところだよ」
耕司の心境などまるで意中にない口調で、凉子は冷たく言い放った。
「私が匂坂くんから聞いたところによると、彼は奥涯の親族から調査を頼まれている、という話だった」
「……ええ。それは俺も聞いてます」
「ふむ? そうか。一貫してるんだな」
呟いて、凉子はまた別のファイルから数枚のルーズリーフを抜き取る。
「だが奥涯に血縁者はいない。私は匂坂くんが嘘をついているものとばかり思っていた。だが――もう一つの可能性を考えるべきだった。彼は奥涯の親族を名乗る何者かに|唆《そそのか》されていたのかもしれない」
一息ついてから、凉子は横目に耕司を一瞥した。
「『沙耶』という名前に心当たりは?」
「沙耶? ――いいえ。誰なんですか」
「さて誰なのか、|何なのか《・・・・》……読めば読むほど解らなくなっていく」
忌々しげに溜息をつき、ふたたび書類の束に視線を戻す凉子。
「間違いなく言えるのは、そいつが奥涯の研究の核にあるモノらしい、ということだけだ。もし匂坂くんがこの沙耶と呼ばれるものとすでに深く関わっているのなら、彼はもう引き返せない所まで踏み込んでいる、ということになる」
そう|嘯《うそぶ》く凉子の口調に、断固とした冷酷さを聞き取って、耕司は背筋に寒いものを感じた。
「だとしたら……どうするつもりなんです? 郁紀を」
答えの見えていた質問だったが、そう問わずにはいられなかった。そんな耕司の張りつめた口調が、また凉子の乾いた笑みを誘う。
「さっきも言ったよね。1年前の私も手元に銃を持ってればって、どれだけ後悔したか知れないんだ。――もう二度と後悔するつもりはない」
「俺が警察に行けば、済むことです」
耕司の言葉に、しかし凉子は何の反応も見せなかった。まるで今の一言が聞こえていなかったかのように。
「郁紀がやったことは殺人未遂です。俺が訴えれば、あいつは犯罪者として――」
「目撃者は? 物証は? 匂坂くんが君を殺す動機は?」
粘り強く耕司が続けた言葉を、凉子が強い語調で断ち切る。
「なあ戸尾くん。君は警察の仕事についてひどく勘違いしてる。彼らの職分は正義を貫くことでも、市民の安全を守ることでもない」
「そ、そんな」
「不条理な物事について、きちんと条理に沿った体裁を整える――これが警察っていう役所の仕事だ。彼らの思考はいつだって、より理解しやすい方、より説明しやすい方に傾いていく。それこそ水が低い方へ低い方へと流れていくように。 事実がどうあろうと彼らには興味ない。彼らが関知するところではないんだよ。小説より奇なる事実、なんてものは」
「……そこまで決めつけることないでしょう。話してみなきゃ判りませんよ」
「そう、判らない。そこが問題だ」
|嘯《うそぶ》いて、凉子は袋から新しいサンドイッチを取り出す。さっき耕司に一瞥をくれたきり、以後は視線さえよこさない。こうして話している間も、彼女の注意は目の前の書類にだけ注がれていた。
「君が錯乱した親友の手で井戸に落とされたと主張する。すると警察はあとふたつばかり『真実』の候補を用意するだろう。君が狂言自殺で親友を陥れようとしてる、とか。或いはもっとシンプルに、事故で井戸に落ちた君が錯乱して親友を疑ってる、とか。 この3案のどれかが捜査っていうレースで勝ちを競うわけだ。勝ち馬は誰にも判らない。こんな博打に君は身代潰すまで賭ける気かい?」
「……」
耕司はもう何も言えなかった。
果たして自分には、郁紀があんな真似をするに至るまでの経緯を筋道立てて、誰もが納得できるように説明できるだろうか? そもそも彼自身がまだ納得できていないというのに?
「そして、一番の問題は……」
耕司が言葉に詰まったところで、凉子はいつもの冷ややかで平坦な口調に戻った。
「君がそういう乱痴気騒ぎに手こずっている隙に、匂坂郁紀を追いつめるチャンスを逃すことだよ。身辺で火の手が上がれば、彼は手遅れになる前にさっさと姿をくらますだろう。そうやってまた万事が振り出しに戻る」
サンドイッチを噛む間だけ凉子は口を止めて、それから付け足した。
「私が奥涯を取り逃がしたように、ね」
「……」
固く重苦しい沈黙の中、凉子がファイルの頁を|捲《めく》る紙の囁きだけが、淡々と時を刻んでいく。
「教えてくださいよ、先生――」
沈黙の重さに逆らって、耕司は押し殺した声で訊いた。
「あなたが警察を差し置いてまで処刑しようなんて思うほど、そこまで許し難いことって何なんです? 奥涯って人はあの地下室で何をやってたんですか?」
凉子は得意の非情な沈黙で、耕司の問いを無視する。だが耕司も今度は譲らなかった。黙々とルーズリーフの整理に没頭する凉子に、ずっと視線の圧力を与え続ける。
やがて、何か得心が行ったかのように手元のルーズリーフを並べ替えると、凉子は束にしたばかりのそれを脇に置き、ようやく身体ごと耕司の方に向き直る。
「――なあ、戸尾くん」
いざ差し向かいになると今度は、凉子は静かな口調とは裏腹に、有無を言わさぬ眼差しで耕司を正面から見据える。
「君はここいらへんで降りた方がいい。那須か日光の温泉でゆっくり羽を伸ばして、何もかも忘れる気になってから東京に戻ってきなさい」
「忘れろ……と?」
その言葉を自分の口で繰り返し呟いた途端、耕司の中に、静かな、だが抑えきれないほどに猛る怒りが湧いてきた。
「青海は俺の恋人でした。郁紀は俺の親友でした。それを忘れろ、と?」
「そうだ忘れろ。これは提案じゃない。警告だ」
耕司の怒気を平然と跳ね返す固い声で、凉子は言い放った。
「今まではどうであれ、これからの君の人生に、その二人は一切関わりを持たないだろう。断言してもいい」
「じゃあ津久葉は!?」
すでに耕司の激した声は叫びに近くなっていた。
「彼女はどうなる? あの子は電話口で俺に助けを求めてた! どこかで酷い目に遭わされてたんだ!」
「そりゃ何十時間前の話かね?」
「……ッ!」
「私が君を助けてから何時間経ったと思う? そうでなければ井戸の中の君が、あと何時間保ったと思う?」
凉子はかぶりを振って、冷然と続けた。
「遅すぎるよ。彼女はとっくに死んでるだろう。誰もが君ほど幸運だなんて思わない方がいい」
「あんたは……」
怒りのあまり、耕司の声は|砥石《といし》のようにざらついていた。
「……あの井戸で俺の死体を見つけても、あんた、何とも思わなかったんだろうな」
そんな耕司を前にして、凉子は恐れげもなく平然と肩を|竦《すく》める。
「そりゃ覚悟してたからね。まさか生きてるとは思わなかったよ」
「……」
耕司は改めて、この丹保凉子という女性と語り合うことの虚しさを思い知らされた。
どんなに粘ろうと、耕司の言葉がこの女性を恥じ入らせたり、考えを改めさせたりすることはないだろう。ここまで良心の基盤が食い違った人物とは語り合うだけ無駄だ。
耕司はベッドから脚を下ろし、ふらつく足取りで立ち上がった。
「……どのくらい、俺は寝てたんです?」
「ざっと半日ばかり。消耗したあと速やかに休息が取れるってのは羨ましいね。若いうちだけだよ、そういう無茶が利くのは」
腕時計を見ると、時刻は午前4時。つまり凉子に救われたときは既に夕刻だったのだ。あの井戸の底で耕司はほぼ一両日を過ごした算段になる。我ながらよく保ったものだ。
記憶の間隙が補間され、ようやく耕司は日付の感覚を取り戻す。すでに土曜日が終わり、今は日曜の早朝、ということか。たしかに瑶と電話口で話してからかなりの時間が経ってしまった。
凉子の用意した食料の中から、耕司はスポーツドリンクとゼリータイプの栄養食を二つばかり掴み取ると、ドアに向かった。足元がまだ頼りないが、この程度なら気力でカバーできる。
「念のため訊かせてもらうが、どこに行くつもりだい?」
「東京へ」
凉子に負けず劣らず硬い口調で、耕司は短く返答した。
「津久葉瑶はまだ間に合うかもしれない。彼女を助けに行きます」
「……人の話を聞かないヤツだね、君は」
「聞く耳持たないのはお互い様でしょう」
持ち前の嘲るような冷笑で耕司を見送るかと思いきや、凉子は深い溜息をついて、どこか疲れたようにテーブルに頬杖をついた。
「もう少し待つ気はないか? こいつのどこかに――」
凉子はテーブルに積み上がった書類の山を顎で指し、
「――奥涯が沙耶と名付けたモノが何だったのか、答えが隠されてるはずだ。そいつを突き止めて、ちゃんと対策を講じてから動くべきだと私は思う」
「津久葉が死んでると決めてかかってるあんたなら、当然そう思うでしょうね」
本音を言えば耕司とて、これから単独で事に当たるのは、あまりにも心細かった。
だからといって凉子が何かの助けになるかといえば――きっと彼女は、耕司がもっとも望まない形での決着をつけようとするだろう。彼女を頼みにするわけにはいかない。
「戸尾くん」
部屋のドアを開けて廊下に出かかった耕司の背中を、再度、凉子が呼び止める。
「仮にも一度は殺されかかってるんだ。もう二度と殺されるな」
そう言って、凉子は書類の山の傍らに置いてあったものを無造作に耕司に投げよこした。
受け取った途端、ずっしりと重い質量が耕司の手にかかる。
「これは――」
禍々しいほどに冷たくいびつな金属塊。
拳銃だった。地下で奥涯の死体が手にしていたものだ。
「あと4発入ってる。安全装置はない。引き金をひくだけで弾が出る。……どこでどう使うかは、君の判断に任せるよ」
「……」
もし耕司に普段の慎重な思考力があったなら、こんな手に余る代物は迷わず突き返していただろう。
銃が決め手になるような結末などは破滅以外にあり得ない。そんな負け戦のつもりで彼は東京に戻るわけではないのだ。
だが――すでに耕司もまた、凉子の属する領域へと我知らずに踏み込んでいたのだろう。彼は理性より本能の忠告を選んで、その小さくも致命的な凶器を、拒むことなくポケットに納めた。
たしかに耕司は瑶を救うつもりだった。郁紀にも生きたまま罪を償わせるつもりだった。
だがそんな彼の意志とは裏腹に、耕司の中の直感は、はっきりと迫り来る破滅の足音を聞いていた。
独り、別荘の玄関から外へと踏み出した耕司は、明け方の森の冷気をあらためて痛感した。
吹きさらしの前庭の気温は刺すほどに冷たい。あんなにも冷たく思えた地中の泥よりも、外気はなお一層厳しかったという事実を、今さらながら理解した。
どうやら狭い井戸の底にこもって流れのなかった空気は、夜の冷気を幾分か和らげていたようだ。もし外気の冷たさに晒されて一夜を過ごしていたならば、間違いなく耕司は凍死していただろう。
私道から前庭に乗り入れる形で停車している車が今は二台。耕司のアコードの隣に止められた軽自動車は、丹保凉子のものだろう。
愛車の運転席に座っただけで、僅かながらも自分の縄張りに戻ったという感覚が耕司を安堵させる。
乾ききって紙のようにかさついた喉に、まずスポーツドリンクを少量ずつ、それからゼリー少量を流し込んだ。36時間あまり放置された胃袋が突然の補給を受けて痙攣し、あやうくえずいて吐き出しかかるのを、意志の力で抑え込む。
エネルギーが要るのだ。どんなに苦しかろうと、これから立ち向かう難題を乗り越えられるだけの体力だけは、どうあっても取り戻さなければならない。
必要量として自分に課しただけの食料を嚥下し、しばらくシートに|凭《もた》れて人心地ついたところで、耕司はリアシートに投げ出してあった鞄のポケットから、予備の携帯電話を取り出した。
たまたま二つの電話を持ち歩いている時期だったという偶然が、まさかこんな形で幸運に転じるとは。
匂坂郁紀の登録番号を呼び出し、通話ボタンを押そうという段になって、耕司の胸中を荒波のように入り乱れた感情が過ぎる。
怒りと、絶望と、痛みと、憐憫。いま親友にどういう感情を|懐《いだ》いて接すればいいのか、いまだに耕司は心が決まらない。
いずれにせよ、悠長に悩んでいる時間などはない。まだ青海と瑶を救う望みがあるとするならば、すでに一刻を争う状況の筈……そうでない場合の可能性などは、いま考えるべきことじゃない。
意を決してボタンを押し、耕司はいつもより数倍長く、数倍大きく反響する呼び出し音に耳を押し当てた。
いま郁紀の携帯電話は着信者の名前を表示していることだろう。それを目にした持ち主は、いったい何を思って携帯を手に取るだろうか。
『……』
繋がった。
沈黙の向こう側から、驚きと、畏怖と、暗い怒りの情念がひしひしと伝わってくる。
「よぉ。そんなに意外か? 死人からの電話は」
わずかに溜飲の下がる思いで、まず耕司は先手のジャブを放った。
『……驚いたね。どうやって?』
返答する前に、耕司の脳裏に閃いた咄嗟の思いつきが、素早く交渉の策略を形にする。
「井戸の底に仕掛けがあったのさ。地下の隠し部屋に行くための、な」
言葉を切って間を置いてから、耕司は郁紀を出し抜いたという満足感を声に滲ませる。
「逢えたぜ。奥涯雅彦と」
『……』
郁紀が息を呑む気配。これで主導権は完全に握った。さらに耕司は語調の不敵さをそのままに、真実を虚構で粉飾する。
「何もかも解った。『沙耶』ってやつのことも全部。お前たちは終わりだよ、郁紀。何もかもバラしてやる。所構わずにぶちまけてやる。証拠はちゃんと揃ってるからな」
『貴様は……』
郁紀は怒りに我を忘れていた。声だけでもそれが解った。耕司にとってはのるかそるかのハッタリだったが、まんまと功を奏したようだ。
だが一方で、郁紀が『沙耶』という言葉にこれほどの反応を見せたことに、耕司の中にまだ残っている友情の残骸が、心の深い場所で傷みに呻く。
“匂坂くんがこの沙耶と呼ばれるものとすでに深く関わっているのなら――”
ついさっきの凉子の言葉。冷ややかな語調が、よりいっそう冷酷に耕司の耳の中で蘇る。
“彼はもう引き返せない所まで踏み込んでいる”
――余計な感慨に囚われている場合ではない。
「郁紀、青海と津久葉はどこだ?」
相手に思考する暇を与えずに、耕司は矛先を転じた。ここからが正念場だ。
「俺にだって情けはある。お前の出方次第では、考えんでもない」
『……?』
「お前がこれ以上、誰も傷つけないというのなら、俺にしたことは忘れてやる。この別荘で見つけたことも。 俺だってこれ以上、お前と沙耶に関わり合いを持つのは願い下げなんだ。青海たちさえ無事に戻ればいい」
『青海と、瑶ね……』
言葉尻を長く引きずりながら、郁紀が懸命に思考を巡らせているのが判る。耕司の言葉が信用できるか否か、交渉の余地があるのかどうか――郁紀にとっても正念場だろう。今度は彼が手札を見せる番だ。
『青海のことは本当に知らない。彼女は僕の家まで来ていない。でも瑶は――』
一息置いた郁紀は、どういうつもりか、そこでぞっとするような含み笑いを漏らした。
『瑶は……どうだかなぁ。彼女自身が戻りたがるかどうか』
「……お前のところにいるんだな?」
所在と、何はともあれ生きてはいるという確証を得たことの安堵。
だがそれは同時に、最後に瑶の声を聞いたときのあの苦悶ぶりが、郁紀と無関係ではないことも意味していた。
あのとき、瑶もまたすでに郁紀の罠にかかっていたんだろうか。
どんな仕打ちをされたのか、そして今どういう扱いを受けているのか――
『彼女はね、念願叶ってようやく僕の持ち物になったんだよ。お前と青海のお膳立ても、ようやく実を結んだわけだな』
悪意を込めた郁紀の皮肉に、耕司の胸を暗澹たる感情が覆い尽くしていく。
自分はどこまで、この男に絶望すればいいんだろうか。かつての友情の記憶は、どこまで|貶《おとし》められていくんだろうか。
知らずと涙が滲んでいた。だがそんな弱気を声に顕さないよう努めながら、耕司は端的に要求を切り出す。
「津久葉を解放しろ。彼女の安全を確認したら、お前らについての証拠を破棄してやる」
『信用できるか。そっちが先に――』
「お前に選択の余地を与えるつもりはないよ。郁紀」
耕司は直感で引け際の感触を得ていた。これ以上手の内を見せればブラフを見破られる危険がある。
「あとでまた連絡する。それまでによく考えておけ」
それ以上の返答を待たず、耕司は電話を切った。
郁紀はまだ耕司が栃木の別荘にいることを知らない。実際に耕司が彼の前に現れるのが何時間後なのか、何分後なのか、判断できずに混乱するだろう。その混乱が耕司に付け入る隙を与えるかもしれない。
実際は――3時間。今から車を飛ばして東京に戻るには、それだけの時間がかかる。
はたして今の耕司の体力で、それだけの時間の運転に耐え得るだけの集中力を維持できるかどうか、甚だしく不安ではあった。
意識は鮮明になってきたものの、身体はまだどこか眠りから醒めていないのか、動作がワンテンポずれるような気怠い重さが両肩にのしかかっている。
弱気は禁物だと解ってはいたが、それでも耕司は、まだ数日前までの日常を振り切れないままでいた。
まだ殺すの殺されるのといった話題は地平線の彼方にあった頃。自分が他人の命を背負って奔走するような羽目になるなどと、想像もしなかった頃。そんな頃の自分が一刻ごとに遠ざかっていく気がする。
すべてが終わった後で、ふたたび元に戻るのだろうか?
それともこの変化は取り返しのつかないままに、耕司と、耕司の生きる世界を蝕み続けていくんだろうか。
すでに時間は耕司の味方ではない。今は一分一秒すら惜しい。
そうと解っていながらも、5分だけ、そう心に誓って、耕司は自分に甘えを許した。
きっかり5分間だけ、ハンドルに|凭《もた》れかかって泣いた。
そうして涙腺が空になり、心が乾ききってから、耕司はイグニッションを捻りアコードを発進させた。
沈黙した携帯電話を、僕はしばらくのあいだ眺めていた。
怒りは……無論ある。だがそれに勝るほどの冷たく重たい感慨が、上から僕の感情を圧迫して縛り上げていた。
危機感――我ながら意外なほどに、僕はごく冷静に状況を受け止めていた。
「ご――しゅじん――さま?」
電話の最中もずっと股間で奉仕を続けていた瑶が、怯えたように顔色を窺ってくる。
黙り込んだ僕を機嫌を損ねたものと勘違いしたのか、さっきまでよりなお一層、懸命に乳房を竿に擦り寄せ、献身的な舌使いで僕の亀頭を包み込む。
瑶はなけなしの記憶を繋ぎ合わせてか、若干ながらも言葉を取り戻していた。そうと解ってから沙耶はペットに芸を仕込む楽しみを見出し、昨夜から彼女に言語を教えなおしていた。
「おこら――ないで――ヨウ――がん、ば――る、から――」
許しを請う目で僕を見上げながら、瑶は息継ぎをする間も惜しんで、口での奉仕に身を入れる。
頭に白く霧が湧くような性感への刺激は明らかに思考の邪魔だったし、そもそも興奮は、すでに僕の中から失せていた。
中断させようかとも考えたが、瑶のすがりつくような眼差しと視線を合わせたところで、僕の中に別の思惑が形になる。
沙耶の計らいで、こうして僕は家族を得た。そのことが僕に、今まで意識もしなかった類の責任を自覚させはじめていた。
僕は今、新しい匂坂家における家長であり、唯一の男でもある。僕は同じ屋根の下の女性たちを保護し、安心させ、幸福に生活させる義務がある。
それを考えたら、こんなところで|徒《いたづら》に焦りや狼狽を表に出していいわけがない。
「続けろ、瑶」
「は、い――」
瑶の豊満な胸に股間を預けたまま、僕は快楽を満喫するのとは別の部分の思考を使って、状況を吟味した。
一昨日、あそこで耕司を確実に仕留められなかったという時点で、すでに僕はどう転んでも清算しようのない失点を負っている。悔しいとか、腹立たしいとか、そういう感情論はとりあえず棚に上げておこう。
つまりは、引け時なのだ。
耕司がいつの段階で井戸を出て、その後どれだけの情報を得て、どれだけの人間と接触したのか、もう僕には確認のしようがない。
すでに問題がどこまで拡大しているか解らない以上、今からもう一度耕司を処理しても、安全を確保したことにはならないだろう。
喩えるなら耕司とは、用水池に投げ込まれた毒瓶のようなものだった。今さら水から毒だけを|濾《こ》し取るわけにはいかない。そういう事態になったらどうするか――
考えるまでもない。水を飲むのを諦める。これしかあるまい。新しい生活を始めるには、他に飲める水がある場所を探すしかない。
「ねー郁紀、誰と話してたの?」
口寂しくなって階下の冷蔵庫まで行っていた沙耶が、好物の|肋肉《スペアリブ》を頬張りながら戻ってきた。
僕は不安や焦りといった感情を自分の中から追い出し、さも何でもない風を装って肩をすくめる。
「ちょっと厄介なことになりそうだ。耕司のやつが生きててさ」
「あらま」
藪から棒に、緊張は一切交えずに切り出したことで、沙耶は怯えたり警戒したりするより先にまず呆気に取られて目を丸くした。
「なぁ沙耶、僕たち、この家を引き払った方がいいかもな」
「うーん、そうかぁ……」
顎に手を当てて視線を落とし、沙耶も考え込んだ。
事の重大さは当然、彼女にも察しがつくだろうが、それでも沙耶が狼狽する段階をスキップして思考の段階に入ったことは、僕の目論見通りといえた。
だいたい、目の前にいる僕は瑶を股間に奉仕させ続けている最中なのだ。これで深刻な気分になれという方が無理な話だろう。
「まぁどっちみち鈴見さんの一家が消えたのがバレれば、この近辺も騒がしくなってただろうし。遅かれ早かれ、こういう日は来てたと思うよ」
「……うん」
名残惜しそうではったが、それでも頷く沙耶の顔に悲壮なものはなかった。
これでいい――そう僕は内心で満足した。
こうやって自分はこれからも、沙耶との日常を守り抜いていくのだろう。僕には――それが出来るのだ。
今回うまく乗り切ったことで、僕の中には新たな自信が湧いてきた。
「そんなことより、沙耶、もう――そろそろ」
「え? あっ、駄目駄目!」
僕が促すと、沙耶は慌てて肋肉を放り出し、ひたむきな口淫に没頭している瑶を押しのける。
「あうっ……」
「もぅっ! 郁紀ったら、瑶のおっぱいだと沙耶のときより硬くなる!」
「いや、それは……」
責める言葉とは裏腹に、沙耶は優しく情熱的に僕を口腔に迎え入れた。
「んぐ……ちゅ……ぱぁふ」
すでに瑶によって存分に高められていた僕の絶頂は、貪るような沙耶の舌と喉であっというまに臨界を越える。
「沙耶、もう――」
「……いいよ、たっぷり――」
沙耶が言い終わるより先に、僕は彼女の喉の奥にまで突き入れて、息詰まるその表情を眺めながら溜まった欲望を解き放つ。
「ぐっ、んぐっ……ッ!」
苦しげに呻きながらも、沙耶は僕の腰を放すまいと腕を巡らして抱きかかえ、喉の奥で逆流する精子を、|噎《む》せることなく上手に飲み下す。
「……ぷはぁ、ごちそうさま」
「欲張りだよなぁ、沙耶は」
僕は苦笑しながらも、傍らに放置されて所在なげにしている瑶を見やった。
「絶対に独り占めなんだな。それ」
「当然でしょ。ほかの女にあげたりしたら承知しないんだから」
沙耶はむくれたようにイーッと歯を剥いてから、僕の下腹に頬ずりを始める。
「……本当に、嫌だよ?」
一転して弱気に訴える沙耶は、つくづく可愛らしい。僕は思わず彼女の髪に指を差し入れ、くしゃくしゃと掻き混ぜてしまう。
「大丈夫。安心していいよ。……さ、じゃあ急いで支度しよう」
「うん」
旅の荷物は少なくていい。車は鈴見家のを拝借しよう。
口座の残高も引き出せるだけ引き出して、現金にして持っていった方がいい。それと、武器だ。包丁よりもっと頼りになる得物がほしい。
耕司は追ってくるだろう。奴はまだ瑶のことを救い出せると思い込んでいる。だが僕だって逃げ出すためだけにこの家を離れるわけではない。
耕司の出方が判らない以上、一カ所に留まっていたら防戦一方に立たされることになる。みすみすそんな愚を冒すつもりはない。もう一度主導権を掴むチャンスを窺って、それから場所を変えて対決すればいい。
次に会うときこそ、この手で殺そう。きちんと最後まで息の根を止めよう。
そう決意したところで、総身に武者震いが走った。殺意の味は射精感に似て甘美だった。
ふと目を上げれば、窓からは既に朝日が射し込んでいいた。
凉子は眼鏡を外し、文字との格闘に疲れた目頭を揉んでほぐす。
夜ごとの悪夢よりもなお悪夢的な一夜だった。しかもまだ、すべてが終わったわけではない。ついさっき、ようやく|戸羽口《とばぐち》に立ったばかりだ。
案の定、奥涯雅彦が書き残した資料は素直に読み通せるような代物ではなかった。
奥涯が磁気媒体に信頼を置かない古いタイプの記録者だったのは幸いだった。プログラミングによる暗号化が施されていたらハッカーのつてを当たるしかなかっただろう。
さすがに肉筆の記録の全文を暗号化するほどの手間は|厭《いと》ったようで、結果として奥涯が選択した手段は、じつに簡素なものだった。
地下室で見つけた膨大なファイルの内容は、学生時代のノートや論文の草稿といった紙屑が主体である。その中に散在する形で紛れ込んでいるルーズリーフが、本命の日記と研究記録だった。
初めのうちは凉子にも、ファイルの各所に挟まっているその記述が何なのか理解できなかった。片面にだけ書き込まれ、裏が白紙のままのそのルーズリーフは、記述が行ごとに断絶していて繋がらず、全体としてまったく意味を成さない内容だったからだ。
だが意味不明の頁だけを選り分けていくうちに、自ずとカラクリは判明した。各行の続きは別のルーズリーフの同じ行へと続いていたのだ。
たとえば日記の場合、一日の記述をまず一行目から始めたら、行末まで書いた文章の続きは次行ではなく、次ページの1行目へと書き連ねていく。
こうして二日目は2行目、三日目は3行目……という案配に記録を進め、頁の全行が埋まったところでそのルーズリーフを解体し、数冊のファイルの各所へとランダムに挿入して隠匿していったのである。
当然、ルーズリーフのノンブルに規則性はない。おそらくは対応する乱数表があるのだろう。それが見つからない以上、ばらばらのルーズリーフの順列は手探りで解き明かしていくしかなかった。
気が遠くなるようなその作業に、凉子は果敢に挑戦した。まず有象無象のファイルからルーズリーフだけを回収し、その1行目の文章に対応する前後の頁を逐一、探して並べていく。
日記は行数分の日数を書き溜めたところで、また研究レポートの方はおそらく30枚を一区切りとして、奥涯は元本を解体したらしい。
復元が比較的容易だったのは日記の方だった。日ごとの記述量が一定でないために、後半のページには空行ばかりが増えていくことになる。つまり、どこか1行にしか記述のないルーズリーフは日記の綴りの最終頁。あとは空行の多いページほど末尾に近いものとして選別できる。
忍耐強い作業の甲斐あって、すでに日記の方は数冊分まで復元が終わっていた。
改めて通して読み直したその内容に、凉子はこれまでにも何度か経験してきたのと同じ、絶望的な脱力感を覚える。
この諦観、秘められた事実を知った後にくる忌々しい無力感を、一度でも味わった者は――以後の人生で繰り返し同じ衝撃に打ちのめされ続けることになる。
なぜなら秘密とは連鎖するからだ。おぞましい世界の真相をほんの片鱗でも垣間見てしまったら最後、あとはゆっくりと|捲《めく》れていくヴェールの裏側を、目を逸らすことも叶わず、ただ凝視し続けるしかない。
いつか積み重なった狂気の重さに理性が屈服する日が訪れるまで。
――生物とのコミュニケーションに成功。きわめて貪欲な好奇心。あきらかな知性体であることを確認。確認された発声パターンと反応動作については別途資料を参照のこと。
――『彼』の知識欲はきわめて貪欲である。学習効率は驚くほど高い。反面で、『彼』自身の自己顕示の欲求は皆無である。
どうやら自我という意識そのものが希薄なもよう。人類とは明らかに異なる精神構造である。
――驚異的な言語の学習力。いや、コミュニケーション能力の発展というべきか。彼の発音間違いに私が失笑しただけで、すぐさま彼は『駄洒落』という概念を発見してしまった。
以来、私を『笑わせようと』学習済みの語彙を総動員してひっきりなしに『駄洒落』を連発している。数日中に会話に支障のない語学力を身につけるかもしれない。
――人類言語による質疑応答を開始。彼は私を質問責めにする一方で、私からの質問にはまったく回答できない。
返答から察するに、どうやら彼が精神活動を開始したのは彼がこちら側の宇宙に実体化した直後のことらしい。彼の故郷についての情報は一切なし。
落胆する一方で、知性の発現からわずか1週間あまりの間にこれほどの知能を獲得した、彼という生物への興味は尽きない。
仮説:彼は自然発生的な生物ではなく、より高次の知性体によって設計された存在、いわゆる人工知能ではあるまいか。
だとすれば自我を持たないまま知識欲だけを発揮する彼の精神構造に納得がいく。彼は異世界から送り込まれた探査ロボット的な存在かもしれない。
ざっと目で追ったそれらの記述に、凉子は何度目かの引きつった笑みを浮かべる。
これを狂人の妄想として、ただの空想の産物にすぎない戯言として笑い飛ばせるほどに自分が無知であったなら、どんなに救いとなるだろうか。
だが凉子は不幸にも、あまりにも多くを知りすぎている。
かつて奥涯が彼女の日常へと持ち込んだ怪異の数々を思い起こせば、彼がここに綴った内容のすべてが、鳥肌が立つほどの信憑性を持ち始める。
――彼の思考力が人類を遥かに凌駕していることを確信。
午前中、素数について解説し、ルーカスによるメルセンヌ素数の判定について説明したところ、彼はつらつらと暗算で結果を列挙しはじめた。
私の知識で追いつく限り10番目の『89』までは正解だったが、彼はその先の値を苦もなく列挙していく。
その後も彼は暗算を続け、私が目を離していた数時間のうちに、ふと見れば70個あまりの値がメモ書きに残されていた。
現在、世界中のコンピューターを動員して探し求められているメルセンヌ素数だが、2001年に39番目が確認されて以来、新たな発見はないはずだ。
試しに値のうち幾つかを選出して私のノートPCに入力し、ルーカステストを行ったところ、そのすべてが正解だった。おそらく残りは確認するまでもないだろう。
どのみち彼はこれまでに『嘘をついて虚勢を張る』という心理的活動を行ったためしがない。その点でも彼の回答は信用に値する。
これで発見のプロセスさえ公開できるなら、賞金だけで私は億万長者になれるんだが。……むろん彼についての研究の秘匿性は、つまらぬ金銭などよりも遙かに重要なことだ。
彼は数学においてはコンピューターさえ凌駕する、まったく人智を越えた認識力を備えている、としか言えない。
――彼の希望により、新たな学習内容へと移行する。
あれほどの数学的適性を示しておきながら、彼の興味は社会学と自然科学に集中している。(あるいは彼にとって、人類の理数系学問など退屈すぎるのだろうか)
特に、生物の生殖と繁殖のプロセスについて彼が示した興味はこれまでにないものだった。感情表現と言うべきものを持ち合わせない彼について適切な表現ではないかもしれないが、遺伝子という概念について理解するにあたり、彼は『興奮を覚えて』いたようだ。
もっとも、その感覚は彼自身にとっても当惑すべきものだったらしい。彼は彼自身にも説明できないその衝動を『本能』と言い表していた。それが彼なりに適切な表現なのだとしたら、これは極めて興味深い。
彼はこの世界に来てから獲得した知性だけでなく、より深いレベルでの精神活動を行っていることになる。これを端緒に彼のルーツを探ることが可能なら、彼という存在の正体を掴めるのではなかろうか。
備考:彼の発生地として候補に上げられる位相および世界については別途資料『銀の鍵に関する考察』を参照。
――彼の部屋に書物を運び込むだけで一日を費やす。
すでに彼は私を介して獲得できる知識だけでは飽き足らなくなったらしい。すでに彼が習得した語学力を鑑みれば驚くほどのことでもないが、それでも読破のスピードは尋常ならざるペースである。
その後もしばらく、奥涯と『彼』との蜜月の記録は続く。
凉子は脳裏に思い描いた。夜ごと井戸の底へと降り立ち、あの奇怪な実験室で、人ならざる何かと交渉を続ける老教授の姿を。
その光景は、かつて幾度となく凉子の眠りを|苛《さいな》み、悲鳴とともに夜の静寂を破らせた悪夢の光景と、示し合わせたように合致していた。
だが――そこから先の記述は、凉子の最悪の悪夢さえをも超越していく。
――彼がきわめて奇態な要求をした。食物と書物以外のものを彼が欲するのは、これが始めてのことだ。
あろうことか――生物の精子、である。食物とは別にそれを胎内に吸収したい、というのだ。またしてもその欲求について『本能的衝動』という表現を使っている。
彼は自らを『雄の精子を必要とする存在』であると規定し、それゆえに自分が『雌』であると主張しはじめた。明日からはあの生物を『彼女』と呼ぶ必要がありそうだ。
――『彼女』の演ずる人格模写、あれは果たして遊技としての模倣なのか?
人文関係の文献に傾倒しはじめた彼女の挙措は、近頃、驚くほど人間味を帯び始めている。雌という自己認識。そして既に充分すぎるほどに蓄えた知識量。これらを基盤に彼女は人間としてのアイデンティティを獲得しようというのだろうか?
彼女の笑い。怒り。そして今日私に見せた――涙。
あれはあくまで我々の行動模写なのだろうか。さもなければ、彼女はすでにもう……
果たして『魂』とは、あらゆる知性が獲得しうるものなのだろうか。
私は今、生命の神秘よりなお深遠な瞬間に立ち会っているのかもしれない。
――今日は彼女の誕生日。一年遅ればせながら、私は真心の贈り物を捧げたいと思う。
『沙耶』とは、私の母親が飼っていた雌猫の名前だ。幼少期の私にとってあの猫は唯一の友であり恋人だった。もし私の将来に子宝を授かるようなことがあるのなら、女の子には是非ともその名を与えようと、私は心に決めていたものだ。
誕生日おめでとう、沙耶。
その魂を語り示すべく、君はそう名乗る資格がある。
――沙耶が自ら発見した『能力』は、日々驚くべき成果を上げている。
彼女が一種のアーティストであることは間違いない。はたして彼女がその体内で、ラットの精子を素材として創出したものはいったい何なのか?
現段階ではレトロウィルスの一種という解釈しかできない。しかもその逆転写酵素は、彼女の意図を忠実に再現している。
沙耶の『作品』によって変身を遂げたラットたちの――いや、かつてラットだったものたちの――なんと美しく愛くるしいことか。
彼女が分泌する数多の酵素と各作業肢の機能については別途の生物学的所見に記した通りだが、一連のラットに対する施術を観察した印象として、沙耶の体器官は多種族の肉体へと生化学的な干渉を行うべく特化したのではないかという仮説はますます強固なものとなった。
凉子は昏い眼差しで、まだ未整理のままのレポートの山を見遣った。おそらくこの紙束が遠心分離された暁には、この日記で言及されている数々の『別途資料』が姿を現すのだろう。
生物学的所見――この『沙耶』なる存在と対峙する前に、是非ともその記述にだけは目を通しておきたいものだ。何の準備もないまま対決に臨むのは、どうあっても願い下げだった。
凉子は腕時計の針を確認する。午前七時。戸尾耕司がどこにも寄り道せずに車を駆ったのだとしたら、そろそろ東京に着く頃合いだろう。
あの強情な青年は、脚の一本ばかり撃ち抜いてでも制止するべきだったのかもしれない。――今となっては心底そう思う。
目指す匂坂邸から2ブロックほど離れた位置にアコードを停め、耕司は静まりかえったその家を見据えていた。
燦々と降り注ぐ朝の光の中で、匂坂の家だけはまるで景色から切り抜いた穴のように暗い瘴気を漂わせているような――そう感じるのは、耕司の先入観のせいだろうか。
窓という窓が閉ざされて、中の様子は窺えない。いま郁紀が在宅かどうか、確かめる術はない。
おそらくは近隣の住人だろう。犬の散歩の散歩中らしい通行人がアコードの傍らを通り過ぎざま、ちらりと車内の耕司を一瞥していく。
車の中に乗っていてもなお目を惹く有様なのだろう。無理もない――井戸の底で泥にまみれて一夜を過ごしたまま、風呂にも入らず着替えもせず、浮浪者と見紛う格好である。
バックミラーで覗き込めば、見返してくるのは憔悴に|窶《やつ》れた亡者の顔だ。無精髭も目元の隈も、これが自分のものとは信じがたい。
ここであまり人目を惹くと、不審者として通報されかねない。さっさと決断を下して行動するべきかもしれない。
アコードを徐行させて郁紀宅の前まで乗りつけると、素早く周囲を見渡して人通りがないのを確認し、車外に降りる。
もし邸内に誰かいるなら車の音は聞き咎められているだろうが、気にしたところでどうなるものでもない。
耕司は足早に門を潜って庭を抜け、玄関のドアノブに手をかけた。呼び鈴も鳴らさなければノックもしない。そんな訪問の礼節を|弁《わきま》えるような段階ではない。
ノブは何の抵抗もなく滑らかに廻った。鍵はかかっていない。
耕司はドアに耳を押し当て、しばらく屋内の物音に耳を澄ませた。まるきり空き巣の行動だな、と我ながら情けなくなる。
――屋内に動きのある様子はない。改めて耕司は門の外を振り向き、誰も見ていないのを確かめてから、素早くドアを開けて屋内に身を滑り込ませた。
鼻を突く異臭。だがすでに何が起ころうと驚かないだけの覚悟を固めている耕司は、さほどうろたえることもなく、ただ冷ややかに警戒心だけを尖らせる。
かつてこの家には何度も来た。何度この敷居を跨いだか知れない。血の通った想い出はいくらでもある。
それが――なぜ、奥涯の本宅や別荘に踏み込んだときと同じ不吉さを匂わせて、耕司の神経を逆撫でするのか。
まるで親しい故人の遺影を|穢《けが》されたような怒りと哀しみが、耕司の胸を締めつける。
耕司は靴も脱がなかった。彼とて、いま何のためにここにいるのかは|弁《わきま》えている。
雨戸という雨戸を閉め切った屋内は暗く、各部屋の開きかけのドアの隙間から覗き見られる室内は闇に塗り潰されている。
車からライトを持ってくれば良かった――そう後悔しかかってから思い出す。ライトは井戸の外で郁紀に襲われたとき落としたままだ。今は栃木の別荘の裏庭に置き去りにされている。
この家は無人なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
空気の粒子のひとつひとつが沈黙のうちに彼を威嚇し、首筋に牙を立てる。
部屋という部屋に満ちた|胡乱《うろん》な闇のどこかに、彼を脅かすものがあるんだろうか。井戸で果たせなかったことの決着をつけるために、不意打ちの機会を狙っているという可能性は充分にあり得る。
一階の廊下を一巡し、階段を上がって二階へ、そしてまた廊下だけを巡り歩く。ゆっくり慎重な歩調で注意深く。だが背後に忍び寄る気配も、物陰から隙を窺う視線も感じない。
何事もなく二巡したたところで、耕司はこの家には誰もいないと確信した。
気がつけば耕司の右手は、ポケットの中に潜んだ拳銃の冷たさを探っていた。もしも郁紀と|出会《でくわ》していたなら、自分はこれを抜く気でいたんだろうか。
そう考えて、改めて耕司は自分の行動が解らなくなってきた。
郁紀と再会したとき、いったい自分はどうするつもりなのだろう? 口汚く罵るだけか? 自首でも促すのか? それとも――
やめよう。今考えることじゃない。
考えれば立ち止まってしまう。止まって考え始めたら、恐ろしさのあまり二度と歩き出せないほどに|竦《すく》んでしまう。
そんな救いのない決断は先送りにして、今はただ進め。追いつめる相手との距離を詰めろ。
ともかく郁紀はいなかった。彼との再会の形は、出会したときに自ずと決まるだろう。その瞬間にさえ迷わなければいい。
それにしても、この汚水溜めのような臭気は何なのか。
郁紀が、耕司たちを日常から閉め出していた三ヶ月間の生活……彼がこの家で営んでいた暮らしとは、いったいどういうものだったのか?
居間に踏み込み、壁を手探りして電灯のスイッチを入れた瞬間に、その答えが耕司の眼前に晒された。
「……ッ」
彼は、何処まで行ってしまったんだろうか。
耕司が、郁紀の内部に巣喰う狂気を目に見える形で見届けたのは、思えばこれが初めてだった。
この塗装が数日中の出来事でないのは、部屋の隅に溜まった埃の量から明らかだ。
この錯乱した色彩に囲まれて、郁紀は幾晩の夜を過ごしたのだろう。
こんなにも明らかな|徴《しるし》がありながら、なぜ――なぜここまで逸脱してしまうより前に、気付いてやれなかったのか?
壊れていく郁紀の正気の、その軋みを、断末魔を、聞き届けられなかったのか? 二人の友情はそんなにも|益体《やくたい》のないものだったのか?
変わり果てた居間に立ちつくす耕司の中で、いま怒りの矛先はすべて己の無力さに向いていた。できることなら在りし日の郁紀に、独り孤独に内なる苦痛と戦っていた友に詫びたかった。
自分には郁紀を救えたかもしれない――耕司がそう感じるのは傲慢な思い上がりかもしれなかったが、だとしたらそれは彼の優しさ故だった。
居間を通り抜け、引き戸の向こう側の台所に向かう。
さっきから耕司を|苛《さいな》む汚臭の中で、とりわけ気にかかっていたある種の臭気が、ここではよりいっそう強まっていた。
血臭……時間をかけて幾重にも重ね塗りされた、|饐《す》えた血の匂い。
きちんと手入れして使われているシンクを覗き込む。
水を流しただけでは落ちきらない赤茶けた澱みが、うっすらとシンクの縁に残っている。
よりいっそう見誤りようのないものは、食器洗いの布巾の染み。
汚しては洗い、洗っては汚し、を繰り返してきた生活の証。だがいったい、毎日どんなものを拭き取るのに使っていたら、ああいう色に染まるのだろうか。
限りなくおぞましい悪夢を眺める心地で、耕司はすぐ脇にある冷蔵庫を眺めた。
それに触れるだけの勇気を奮い起こせるまでの間、ただ棒立ちのまま眺め続けていた。
それから意を決し、分厚い扉に手をかけて、開けた。まず冷凍庫。それから冷蔵庫。
広い冷凍庫にぎっちりと詰まっていたのは、形も大きさもまちまちな冷凍肉だった。きちんとラップにくるまれて霜を被っているそれらの塊は、何の肉かまでは判断つかない。
だが冷蔵庫の肉は解凍済みで、すぐにも食べられるよう準備されていた。
チルドルームの奥から手招きするように差し伸べられた5本の指を、耕司は長いあいだ凝視していた。
細くたおやかな女性の指。青白く変色した肌が蝋細工を思わせる。
青海の手が思い出せない。何度もキスしたあの指と指の形が、今すぐに思い出せない。
郁紀との電話の直後に泣いて以来、耕司はもう泣くまいとは思っていたし、実際に涙は出なかった。
だが耕司はむしろそれを後悔した。あのときはまだ早かったのだ。
涙で自分を鎮める必要があったのは、ここ……今度こそ本当に取り返しがつかないほど、理性の世界と断絶してしまったことをまざまざと確信した瞬間。今度こそ完全に郁紀についての迷いが断ち切られた今この瞬間だった。
耕司はポケットから奥涯の拳銃を取り出し、その銃握を両手で、祈るようにして包み込んだ。
いま耕司の正気の|在処《ありか》を保証する、形ある確かな輪郭。もっとも慈悲深い破局の形。
彼はこれで匂坂郁紀を殺すだろう。
憎悪のためでなく――
断罪のためでなく――
この世が彼の理性によって照らし出せる場所であることを、確かめ、保証するためだけに、耕司はあの異物を抹消しなければならない。
深く息を吸い、それから吐いた。片手の五指を拡げ、目の前に翳して確かめる。
大丈夫、震えてはいない。新しい目的に立ち向かう準備はできている。
拳銃を再びポケットに仕舞うと、耕司は携帯電話を手に取った。
※選択肢
・郁紀に電話する→BADEND.txt
・凉子に電話する→以下続行
携帯電話の着信音が、作業を進める凉子の手を止めさせた。
着信者名義の『戸尾耕司』という表示に、凉子はそれと気付かず安堵の吐息を漏らす。
「丹保だ。どうした?」
『郁紀の家を調べました』
電話越しにもはっきりと、凉子は耕司の語調の変化に気がついていた。打ちのめされ、疲弊しきった者ならではの、無味乾燥でざらついた声。
『郁紀は――人を殺してます。もう何人かも解らないほど大勢を、殺して……喰ってます』
「……」
まぁ初心者にしては、のっけから厳しい事態に直面したわけだ。
凉子は耕司の受けた衝撃の程を察して、あえてコメントは差し控える。
『青海も、それにたぶん津久葉も、もう生きてはいないと思います。先生……俺が間違ってました』
「君は生きているうちにこの電話をかけてきたんだから、まだ致命的な間違いを犯したわけじゃない」
慰めになっているかどうかはさておき、それは凉子にしては上等な評価の言葉だった。
「ともかく、もう今度こそ間違うな。私が戻るまで動くんじゃない。君が相手にしているヤツは――一筋縄じゃいかない相手だ」
沙耶についての理解を深めつつある今、凉子は昨夜にはなかった確信を込めてそう断言できた。
『郁紀はもう、俺が生きてることを知ってます。誰に助けられたかまでは教えてませんが、ともかく奴は警戒してるはずです』
「そうか――」
耕司の行動は軽率だったが、いまさら後悔したところでどうにもならない。むしろ耕司が郁紀に与えたであろうプレッシャーを、どう活用するか――それを考えた方が前向きだ。
それに凉子の存在が露見していない点もワイルドカードと考えていい。使い方次第では切り札にもなる。
『先生の方は、何か手がかりは掴めましたか?』
「まだ充分な量とはいえない」
凉子は未だテーブルの上に散らばったままの残りのルーズリーフを横目に、答える。
「そうだな――夜までには目処をつけて、夜半には東京に戻ろう。それまで君は余計なことをせず、大人しくしていろ。いいね?」
『……はい』
生気のない耕司の声は、むしろ凉子を安心させた。
こうなった人間は我を張ったり意地を通したりしない。ただひとつ成すべきことのために手段を選ばず邁進する、そういう機械になりきった人間の声だ。
耕司は匂坂郁紀を葬ると決め、それを完璧に成し遂げるためならば、主義の食い違う凉子の助力を得ることも辞さないでいる。評価に値する変化だった。
電話を切った後、凉子は未だ復元待ちのルーズリーフの束を、暗鬱な気分で数えた。
時間はない。おそらく全貌を掴むまでには至るまい。
断片だけの知識で事に当たるしかないだろうが、それでもせめて掴んでおきたい要点は……生態的所見のレポート。沙耶と呼ばれる生物の、直接的な能力と、弱点。
ここから先はツキに恵まれることを期待するしかない。祈るような気持ちで凉子はまた紙束との格闘を再開した。
夏の事故からこのかたハンドルを握っていないだけに、僕にとって自動車の運転はかなり危険な試みだった。
なにせ今の僕には、道が道に、車が車に見えていない。今朝になって必要に迫られるまで、正直なところ公道での運転は危険すぎると諦めていたのだ。
だがこの3ヶ月、それなりに知覚異常と折り合いをつけて生活してきた僕は、目に見える諸々の物体のうちどれが自動車でどれが歩行者か、そういった判別が出来るまでになっていた。
信号の赤青も、赤や青には見えなくとも意味するところは理解できたし、ウィンカーやブレーキランプの点灯といった先行車の挙動も、おおまかのところ察しがついた。
さすがに道路標識の理解まではできないが、いざやってみればそれほどの不自由もなく、僕は後部座席の沙耶と瑶を無事に目的地まで運ぶことができた。
自宅を破棄した僕たちの逃亡先に、名案を出したのは沙耶だった。彼女がまだ奥涯教授の自宅で暮らしていた頃、深夜の散歩で見つけた廃墟があるという。
まだ宅地開発の途中にあるような郊外丘陵地の住宅街では、ほんの少し奥に分け入っただけで、ろくに人も通わないような|辺鄙《へんぴ》な森林と出くわすことが珍しくない。沙耶がかつて『遊び場』にしていたのも、そういう日常のすぐ裏側に隔離された結界のような場所だった。
かつては閑静な森の中で開業されていた個人経営の療養所。不況の折りに倒産し、そのまま地所の買い手もつかぬまま放置され、忘れ去られてしまったのだろう。
いったん沙耶たちをここに待避させたあと、すぐさま街へと引き返して諸処の準備を済ませ、僕はようやく戻ったところだった。
一目見た外観だけでこの廃墟は気に入っていた。さして広くない前庭には不法投棄された建材や粗大ゴミが山になり、ていのいいバリケードになっている。ここならば自宅にいた頃よりもさらに他人の干渉はなさそうだ。
あらゆる人間をおぞましい怪物として認知してしまう僕は、人間の生活感もまた薄汚いヘドロの染みや汚臭と感じてしまう。むしろこういう廃墟のような人間性の欠落した景観の方が、質素で飾りのない、心安らぐ空間に感じられた。
「ただいま」
沙耶たちが他人と勘違いして警戒しないよう声をかけてから、僕は彼女らが潜んでいる地下室へと下りていく。
「おかえりなさい。車、平気だった?」
「もう全然問題ない。一方通行の標識もどういうのか解ったし。スピードさえ出さなければどこを走っても大丈夫だよ。で、そっちは?」
「ひととおり調べたけど、やっぱり、あれからずっと人が来た様子はないみたい。ここは安全だよ」
「そうか。ならいいんだけど」
こういう廃墟は暴走族の溜まり場になったり、浮浪者が居着いたりしてないもんかと、少し不安ではあったんだが。
「たぶん、表に積み上げてあるゴミのせい。あれ、普通の人間にはちょっと耐えられないんじゃないかな?」
「ふぅん……」
僕には一向に気にならない、というよりむしろ快適に感じるんだが。まぁそういうものなんだろう。
「で、郁紀の買い物は? いいの見つかった?」
「ああ、もちろん」
僕もちょっと自慢したい気分で、キャンプ用品店で購入した新しい得物から包装を解く。長さ1メートル近い柄のついた薪割り用の斧だ。いちばん大きくて頑丈そうなのを買ってきた。
「刃渡り15センチ以上のナイフは銃刀法違反だなんて張り紙してあるのに、その隣でこんなもの売ってるんだよ? お笑いだよね」
頼もしい重さを両手で確かめ、バッタースイングで一振りしてみる。鋼鉄の斧頭が危険きわまりない威力で、ちょうど人間の首の高さを薙ぎ払う。
空を切る刃の荒々しい唸りを聞いて、床にうずくまっていた瑶が怯えたように身を|竦《すく》める。
「切れ味とか、どう? 瑶で試してみたら?」
「いや、それはちょっと……」
突拍子もなく物騒なことを言い出す沙耶に、僕はさすがに面食らった。
「心配いらないよ? 今の瑶の身体だったら、刃物とかの傷はわりと簡単に治っちゃうから」
「いや、それにしたって痛いだろ」
「そっか……うん、そうだね」
そこをきれいに忘れていたらしく、沙耶は何も解っていない瑶に向けて照れ隠しの笑いを向けた。
「でもさぁ、痛くされたときの瑶の声って、それはそれで可愛いよね?」
「いや……やっぱり、人間に斧で斬りかかる、ってのは気が退けるよ」
「そうなの? じゃあ耕司サンは?」
「そりゃ、だって――」
問われるまでもないことなんだが、まだ沙耶には解らないらしい。
「――ヤツは僕には人間に見えないから。斬ろうが潰そうが平気なもんさ」
「ふぅん、そんなに違うんだ?」
「そうさ。人間には良心があるからね。どんなに憎い人間だろうと、人を殺すと思うとブレーキがかかるもんだ。そこが僕の勝算でもある」
「……本当に?」
そう確認する沙耶の表情はやけに神妙だった。どうにも彼女は、僕が耕司と直接対決することに不安があるらしい。
「体格じゃあいつが上だし、普通に喧嘩したんじゃ勝ち目は薄いかもしれないけどね。でも僕にとっての『化け物退治』が、あいつにとっては『人殺し』なんだ。こいつは大きいよ。あいつはきっと最後の瞬間で隙を見せる」
「なんだか……不安なんだよね。そういう心理戦っていうの。確実じゃない、っていうか……」
いつになく真顔で床を見つめていた沙耶は、そう呟いてから、視線を上げてまっすぐに僕を見る。
「ねぇ、やっぱり私が狩った方が良くない?」
沙耶の気持ちは嬉しい。たとえそれが意味合いの上で僕を信じていないということになるとしても、彼女は我が身の危険より僕の身を案じてくれているのだ。
だが、その気持ちは僕だって引けを取らない。
「沙耶の腕力だとさ、瑶みたいな女の子なら楽にねじ伏せられるだろうけど、男を相手には厳しいと思うんだ」
僕の頭には、沙耶を鈴見に強姦されたときの苦い記憶があった。沙耶も僕の考えていることに察しがついたらしく、一瞬だけむっつりと押し黙ったが、それでも意固地になって食い下がった。
「でもね、あのおじさんも、最初の不意打ちは上手くいったの。大抵の人間はね、沙耶を見たら力が抜けて動けなくなっちゃうんだよ。病院だってそうだった。平気で話しかけてきたのって郁紀だけだよ」
「ふむ……まぁ、それも一理あるかもな」
いまいち僕には説得力がないんだが、沙耶の容姿がショッキングで、それに驚いた相手が戦意を喪失する、というのはあり得る話だ。
鈴見が沙耶より優位に立ったのも、僕と同じ知覚障害を植え付けられて、沙耶のことを可愛い女の子として認識するようになってからのことだ。
だが、恐怖が人を弱くするばかりとは限らない。場合によっては凶暴化させて余計に手がつけられなくなるかもしれない。
だからそういう威嚇も結局のところ、沙耶が言うような『確実ではない心理戦』と変わらない。
「じゃあさ、沙耶、こういうのはどうだろうか――」
ふいに思いついた新しい作戦を、僕は沙耶に話して聞かせた。すると沙耶はそれまでの暗い表情を一転させて破顔した。
「それ名案! うん、郁紀って頭いい!」
「何もそこまで……」
策略としての善し悪しよりも、沙耶は僕の請け負う危険の度合いが減ったというだけで、充分に名案なのだろう。まったく現金なものだ。そこがまた可愛いが。
「で、いつごろ来るの、耕司さん」
「わからない。いずれ奴の方から電話があるだろう。そしたらここに誘い出して仕留める」
耕司は必ず追ってくる。僕には解る。あいつが僕と沙耶を放っておくわけがない。
逃げると決めたらただ逃げに徹しても良かったのだが、それでも僕としてはなるべく早い時期に、耕司の存在については抹消しておきたかった。
だから奴からの接触があれば、それが明らかな罠でない限り、進んで対決に応じるつもりだ。
「せっかく人間一人ぶんの肉が仕入れられるのに、ここだと腐らせちゃうね。冷蔵庫ないし」
「他の動物を誘う餌にできないか? 野良猫とかカラスをおびき寄せてさ――」
「それ危ないよぉ。万が一取り逃がしたとき、余所に持って行かれて他人に見つかったら大騒ぎになるよ?」
「そうか。それもそうだ」
人間というやつはとことん危険で、おまけに近寄るだけでも臭くて汚くて|辟易《へきえき》するというのに……皮肉にも、食用肉としては最高に美味なのだ。家の冷蔵庫に残してきた分はつくづく残念でならない。
「まぁ、この辺だと森にも色々と棲んでるから。そんなに食事には困らないんじゃないかな」
「3人分だよ? 大丈夫かい?」
「まっかせて。これでも沙耶、狩りは得意なんだから。頑張っていっぱい捕まえてくるよ」
「そうか。じゃあ今日からは沙耶が一家の大黒柱だな」
「うふふ」
僕におだてられて、沙耶は得意げに笑う。こういうところは本当に子供っぽくて可愛らしい。
「今度はどのぐらい、のんびりできるかなぁ」
沙耶の声はごく普通にさりげなく、だから僕はその問いが行き着く先にある虚無に気付かず、聞き流すところだった。
「どのぐらい――かな」
そうなのだ。
いつまでも、ずっと……じゃない。
どんなに安全な隠れ家と思えても、いずれは引き払う潮時がくる。僕が耕司の口を封じ損ねたように、ほんの些細な手違いで、僕らの生活は脅かされてしまう。
この廃墟にも、いつかは肝試しに来るような馬鹿がいるかもしれない。新しい宅地開発の対象になるかもしれない。
僕は沙耶とともに生きていくために、人と違う生き方を選択した。そんな僕らが安住の地を見つけることは――この人間ばかりが|犇《ひし》めく世界では、たぶん有り得ない。それこそ世界の外側にでも逃げ延びない限り。
「――長い旅だと、思えばいいさ」
僕は沙耶を抱き寄せ、その細い両肩を両手でそっと包み込みながら、囁きかけた。
「どうせ人生なんて旅みたいなものなんだ。永遠に変わらない場所なんてない。時の流れを見送るか、自分自身が流れていくか、それだけの違いだよ」
「そうだよね」
沙耶は笑った。力のない静かな笑い。それは諦観かもしれないし、憐憫かもしれなかったが、だとしても安らかに満ち足りた笑いだった。
「それでも、独りぼっちじゃないし、だから沙耶は寂しくなんかないよ。郁紀も、そうだよね?」
「ああ」
僕だって、後悔はない。
この腕の中に沙耶を抱き続ける――そのための代価が要るとしても、惜しいものなんて何もない。
「それにね――」
沙耶は僕を励ますように、やや弾んだ口調で付け加える。
「いつかは、私たちが人目を忍んで暮らさなくても良くなる日が、きっと来るよ。それは約束してあげるから」
その夢想のような言葉に、なぜか彼女は確信に近い自信を込めていた。
「それは明日かもしれないし、ずっとずっと先のことかもしれない。いつ|徴《しるし》が来るのか、私にも分からないの。初めてのことだから。――ほんのちょっぴり、怖いんだけどね」
僕には理解も及ばない、沙耶の謎めいた予言。初めてのことじゃない。彼女は僕の想像を絶した奇跡を、これまでに何度も起こしてきた。
「僕らにも……希望があるのかい?」
「うん」
晴れやかに頷く沙耶。
「きっとそれが、沙耶が郁紀に贈ってあげられる最後のプレゼント。沙耶の、最初で最後の務め」
その日の時計の針は、まるで世界の終わりの日のようにゆっくりと、気を持たせて時を刻んだ。
持て余すほどに長い時間を使って、耕司は自分のアパートに戻り、シャワーを浴びて服を替え、久しぶりに満足な食事さえ摂った。
仮眠を取るぐらいの備えをしておいた方がいいのは充分、承知していたが、どんなにリラックスしようとしても眠りだけは訪れなかった。心を鎮めれば鎮めるほどに、ただ神経が冴え渡っていくばかりだった。
仕方なく、夕方から夜にかけての街をそぞろ歩いた。
休日の繁華街は平和な賑わいに満ちていた。道行く人々の笑顔は眩しく、街灯はどこまでも明るく、一足早いクリスマス模様のショウウィンドウには、まるで世界中の幸せを寄せ集めて詰め込んだように華やかだった。
それらすべてが、まるで今生最後の景色のように、耕司の脳裏に消しがたく焼き付いた。
世界がこんなにも美しいのは、その背後に潜む狂気のおぞましさ故だろうか。
この街の輝きを享受することは、もう二度と耕司には叶うまい。そう思うからこそ今、目に映るすべてがいつになく懐かしいのかもしれない。
長い長い時間をかけて、耕司は更けていく街の夜を眺め続けた。初恋の人の弔報を遠い未来で聞くかのような、取り返しのつかない距離を噛みしめた。
午後8時――電話が鳴った。丹保凉子からの着信だった。
応答は短く、二人は落ち合う場所だけを申し合わせて通話を切った。
こうして戸尾耕司にとって最後の、心安らぐ夜が終わりを告げた。
待ち合わせた深夜営業のファミリーレストランに、凉子は予定よりも1時間近く遅れ、午前1時になって現れた。
小脇には何やら重そうなダッフルバッグを抱えている。バッグの輪郭が崩れるほどにゴツゴツと突起を浮き出させている内容物の数々については、耕司も問い|質《ただ》す気にはなれなかった。
「済まんね。色々と準備に手間取った」
言葉とは裏腹にまるで恐縮した風もなく席に着く凉子を、耕司は咎めることもなく、無表情のまま黙礼で迎えた。
時間が時間だけに、広い店内はぽつりぽつりと孤島のように数卓が埋まっているばかりである。気怠げに注文を取りに来たウェイトレスを、コーヒー2杯の注文で追い払った後は、耕司と凉子は忘れ去られたかのように客席の片隅で孤立していた。
「――で、調べ物は終わりましたか?」
耕司はこれで3杯目になる、薄墨のように味気ないコーヒーを半ば義務感で啜りながら、言葉短く凉子に問う。
「待たせただけの甲斐はある、と思いたいね。なにぶん確証を得るまでには至ってないんだが」
「郁紀も相当、焦れてると思います。こちらから連絡すると言ったきり、まる一日放置してますからね」
「そんなにも彼は君との接触を意識してるのか?」
「『沙耶』っていう名前には、露骨なほど反応してました」
耕司は乾きの治まらない喉にもう一口、薄いコーヒーを流し込んで、沈黙の時をやり過ごす。
「……そうか。やはり、『沙耶』なのか……」
呟く凉子の|顰《しか》め面は、明らかにコーヒーの不味さのせいだけではなかった。
「今なら丹保先生は、もう答えを知ってるんですね? 沙耶というのが何なのか」
半ば詰問に近い口調の耕司を、凉子はしばらくコーヒーに没頭するふりをして放置していたが、それもカップが空になるまでしか持たない|韜晦《とうかい》だった。
「君は私の忠告を無視した愚か者なわけだが――」
茶色い染みだけの残ったコーヒーカップを凝視しながら、凉子は硬く乾いた口調で切り出す。
「もう一度だけ、性懲りもなく言わせてほしい。戸尾くん、君は手を引いてすべてを忘れるべきだ」
「性懲りもないですね」
かつて同じ忠告に怒りを向けた耕司は、今度は冷ややかな失笑で返答した。
「俺がまだ、先生や郁紀とは境界線を挟んだ反対側にいるとでも?」
「君はまだ、いちばん致命的なものまでは見ていない」
そう言ってから、凉子はさらに小馬鹿にするような笑みを浮かべる。
「君にとってこの事件は、無二の親友がいきなり正気を失ってカニバリズムに目覚めたっていう、|ただそれだけ《・・・・・・》の内容なんだろう?」
ただ、それだけ――
それは耕司が最後まで受け入れられず、ついには殺意という強迫観念に逃げ込むことでしか整理のつけられなかった事態だというのに、凉子の口振りではまるで、この悪夢がほんの序の口であるかのようだ。
凉子のそういう病的なシニシズムは一体どこに根があるのか、いまだに耕司には解らない。解りたくもない。
「それだけじゃないとしたら、残りは先生の妄想なんじゃないですか?」
「そう思えるならまだ君の傷は浅いってことさ」
そしてまた凉子は、相手に共感や理解を求めない捨て鉢な口調で、ぞんざいに結びをつける。
「今ならまだ、時間が君の傷を癒してくれるだろう。君は最後の一線を踏み越えていない」
以前のように感情的になったりせず、耕司は凉子の言葉を噛みしめた。
最後の一線――たしかに郁紀はその向こう側にいる。
耕司はいま自分の殺意を肯定できるほどに逸脱してしまったが、それでも郁紀を殺した後でその肉を食いたいとまでは思わない。そういう点で耕司はまだ、郁紀には及びもつかない。
ならば、凉子はどうなのか? 井戸で耕司を救ってからこのかた、さも知った風な口で耕司を|揶揄《やゆ》し続けている彼女は、どれほど郁紀に近い場所にいるというのだろうか。
「先生の傷は、俺よりも深いと?」
耕司が皮肉めかしてそう問うと、凉子の冷笑は反転して内側を向き、毒々しく爛れた自嘲に切り替わる。
「この銃はね、実家の父のものなんだ」
そう言って凉子は、ダッフルバッグの内容物が硬い輪郭を浮き立たせている箇所をコツコツと叩いた。
「こいつがロッカーから消えたせいで、父は責任を問われて地元の猟友会から除名させられた。申し訳ないと思ってるよ。私は両親にとっては自慢の娘なんだ。それが金庫の銃を盗み出すなんて想像もしてないだろう」
「――そうするだけの必要が、先生にはあったと?」
「いいや、全然」
拍子抜けするほど簡単に凉子は否定する。
「その頃にはもう、奥涯のことは一件落着していた。――少なくとも私はそう思っていた。奴は姿を消したきり、もう二度と私の前には現れないだろうと安心してた。この銃で何かを撃とうとか、殺そうとか、そういう必要があったわけじゃない」
「じゃあ、なぜ――」
「眠れなかったんだよ。ただ、それだけ」
それ以上に明快な説明の仕方を考えるのに、凉子はじっくりと言葉を選ぶ必要があったらしい。しばらく間をおいてから、つらつらと語りはじめた。
「それまではベッドサイドに鉈を隠しておいたんだ。夜、独りで部屋にいるのが耐えられなくてね」
「どんなに世界が底抜けに滅茶苦茶になっていこうと、悲鳴を上げて逃げ回る以外の選択肢が自分にはあるんだって――そう納得させるためにはね、部屋の中に何かひとつ頼りになる武器を置いておきたかった」
「……」
耕司には言葉もなかった。こんなにも重度の被害者妄想を抱えた人間が、天下に名だたるT医大で最先端の医師として通用しているという現実に、呆れるのを通り越して感嘆していた。
「でも、それじゃ大した効き目はなかった。悪夢は日毎にひどくなっていく一方で。安眠するには鉈じゃまだ足りなかったんだ。それで父の銃を盗んできた。 こんな風に銃身を詰めるとね、散弾がもっと広範囲に飛び散るようになって殺傷力が増すんだそうだ。アメリカでも重罪になる改造なんだとさ。私はそれをクローゼットの奥に突っ込んで、それでようやく眠れるようになったよ。――三日に一晩ぐらいはね」
そこまで語って、ようやく吐き出すだけのものを吐き出せたのだろう。凉子は一仕事終えたと言わんばかりのくつろいだ微笑で、付け加えた。
「銃はいいよ。本当に。相手に向かってぶっ放すも良し、それで駄目なら自分の口に突っ込んで引き金をひくっていう選択肢もある」
「先生は――専門家の治療を受けるべきです」
「端的な感想ありがとう。でもね、君だって他人事じゃなくなるよ。これ以上先に進むんならね」
郁紀と対決する前に凉子と接触したことが、はたして正解だったのかどうか、すでに耕司は半信半疑だった。
郁紀を司直の手に委ねるつもりがないという点においては、彼も凉子も一緒だった。
恋人と親友を殺したのみならず、その遺骸まで辱めた郁紀には、裁判という形で情状酌量のチャンスが与えられることさえ許し難かった。
どんな罪を背負い込むことになろうと郁紀はこの手で始末する。そうしなければ二度と自分に夜の眠りが訪れないであろうことを、耕司は理解していた。
共犯者がいるのは心強い。が、それは足を引っ張らないだけの人物に限った話だ。
謎を暴くと息巻いていた凉子が、その実、愚にもつかない妄想ばかりを頭に詰め込んでいたのだとしたら、耕司としても色々と考え直さねばならなくなる。
「この先、すべてを先生に任せろと言うのなら――先生のこと、信用させてください」
決然と譲らぬ意志を込めて、耕司は凉子に言い放った。
「先生をそこまで追いつめるほどのものが、奥涯っていう男にあったという証拠を。彼が何をしでかしたのか、すべて俺に見せてください」
「そこまで言うかね。まったく」
呆れ果てたと言わんばかりに凉子は苦笑してかぶりを振ると、さして勿体ぶることもせず、ボストンバックの中から一冊の紙束を取り出した。表紙のない剥き出しのルーズリーフを、紐だけで綴ったものだ。
「1行読んだら、続きは次の頁の同じ行だ。まぁ、さわりだけでも読んでみるといい」
促されるままに、耕司は肉筆の記述に目を通し――3分足らずで読むのをやめた。
「怪奇SFの草稿か何かですか? 罪のない悪ふざけですね。彼にはこんな子供っぽい趣味があったわけだ」
意図して言葉に失笑を交え、耕司はたったいま目にしたものを|貶《おとし》めることに腐心する。奥涯の本宅で見た骨の山や、郁紀の家で嗅いだ正体不明の悪臭については、つとめて思い出すまいとした。
「1年前、奥涯がうちの大学に持ってきた試料も、その文章と同じぐらい突拍子もないものだった」
耕司の嘲りを非情なほど完全に無視して、凉子は淡々と語りはじめた。
「奴は大学の機材を無断で使って、こっそり検査をしようとしたらしい。だがドジを踏んで露見した。そこから先はもう大騒ぎでね……」
「奥涯が使おうとした機材から察するに、奴はそいつをP3レベルのバイオハザードとして取り扱うつもりだったらしい。その程度の用心で充分だったのかどうかも知れたもんじゃないんだが。 近隣の住民を退去させるべきだったんだが、まぁ、そこは偉い人たちが偉い人なりに頑張って、全部なかったことにしてくれたよ。 その代わり私たちはキャンパスじゅうのネズミを一匹残らず駆除する羽目になった。ネズミと、かつてネズミだった何かをね」
かつて耕司と初対面の時に言葉を濁した奥涯雅彦の真相を、いま凉子は包み隠さず、合成音声のような淀みない無感情で語り上げていた。
「事の究明には、けっきょく皆が匙を投げた。奥涯が持ち込んだ試料がどういう起源のものなのか、誰にも突き止めることはできなかった。 ――まぁ結局、みんな賢明だったわけだ。理性は理性、戯言は戯言、そういう線引きを危うくしないで済む程度ってもんを心得ていた。 でも生憎、当時の私はそこまで賢明じゃなかった」
そこでいったん言葉を切って、凉子はまた攻撃的なほどに|躁《そう》めいた自嘲の笑みを浮かべる。
「あれこれ探って、暴き出して、私は奥涯が何をしていたのか知った。彼がかかわっていた連中や彼を|唆《そそのか》した連中も突き止めた。 鉈と添い寝するようになったのはその頃からだ。この世の理性ってものがどんなにタガの弛んだ、穴だらけの、頼りない代物なのか理解するようになったのは、ね」
「……」
凉子が垣間見せる静かな狂気の迫力に気圧されて、耕司は逃げ場を求める心地で手元のルーズリーフを漫ろに|捲《めく》り、適当な一文を目で追った。
『――この生物の体表を覆う筋組織は、繊維状ではなく網状、つまり一定方向ではなく全方向に向けて伸縮する強靭な組織である。このため刃物による裂傷や穿孔といった外傷はほとんど意味を成さない。いかなる方向にも自在に収縮する筋組織が、たちどころに傷を塞いでしまう――』
戯言だ。戯言でなければ何だというのか?
こんな内容を真に受けるなら、その他のすべて――世界の法則を統べる理屈のすべてが戯言になってしまうではないか。
「……じゃあ先生は、信じるんですね? この内容を」
「疑う理由なんて、とっくの昔に見失ったからね」
凉子はふたたびダッフルバッグに手を入れた。今度彼女が取り出したのは、500ccサイズとおぼしいステンレス製の魔法瓶だった。
「こいつが沙耶を倒す切り札だ。調達するのに手間取ったが、多分こいつは|覿面《てきめん》に効く」
「……ついていけません」
限界だった。耕司は包み隠さずに吐き捨てた。
「沙耶が何だろうと、もうどうでもいいです。俺は郁紀を終わらせることができれば、それでいい。――あなたには、任せておけません」
「……そうか」
いざ説得を諦める気になると、凉子の|首肯《しゅこう》は冷酷に短かった。今この瞬間に彼女は、彼女なりの良心から耕司を切り捨てたのだろう。
「いいだろう。君は匂坂郁紀を仕留めるために全力を尽くすといい。私もその機に乗じさせてもらうとする。君の邪魔はしないし、君が仕損じたときにはきっちりと私が帳尻を合わせてやる」
決然とした語調。だがそれでも耕司は、このパラノイアを患った女医を信じ切ることができない。
「あなたの持ち合わせている理由で、郁紀を殺せるんですか?」
「潔癖性なんだよ。私は。ああやって人の世界の|埒外《らちがい》に隠れ棲んでいるような奴らが我慢ならない。 奴らは寝室のゴキブリだ。枕元でかさこそ這い回る音を無視して眠れるか? 見つけ次第、殺して駆逐する。そうせずにはいられない。私の精神衛生上の問題だ」
そういう心情は分からないでもない。耕司の理由だって似たようなものだ。
殺人を正義で裁きたい、というのではない。青海と瑶の復讐がしたい、というのでもない。そういう理由なら、耕司は一切合切を警察に委ねても納得できただろう。
それで決着にできないのは、相手があの郁紀だからだ。親友と信じていた男に全てを覆されてしまったからだ。
耕司はこの理不尽を、裏切られた自分自身のすべてもろとも破壊したかった。そんな自傷の衝動が、いま彼を衝き動かしていた。
「さあ、それじゃあチェックメイトに駒を進めよう。匂坂くんを呼びだすといい」
耕司は頷いて、携帯電話を取り出すと、これが最後になるであろう親友へのリダイヤルを入力した。
まるで待ち受けていたかのように、すぐに通話は繋がった。
「待たせたな、郁紀。こっちの準備は整った」
『……耕司。今どこにいる?』
よほど耕司からの連絡を待ちわびていたのだろう。郁紀の声は何の抑揚もなくなるほどに乾ききり、固まっていた。
「お前のすぐ背後、とでも言っておこうか」
そんな憮然とした郁紀を、耕司は嗤うだけの余裕さえあった。ことによると凉子の躁的な嗜虐心が伝染したのかもしれない。
「で? 津久葉を解放する決心はついたのか?」
『ああ。背に腹は変えられない』
白々しい――郁紀の家の冷蔵庫を思い出し、耕司は胸の内でそう吐き捨てる。
郁紀、貴様は瑶のどこを喰ったんだ? 何の咎もなかった彼女を、貴様は牛か豚のように解体したのか?
『耕司、お前は集めた資料のすべてを証拠ともども持ってこい。その内容を見て納得できたら、僕らは瑶を引き渡す』
「いいだろう。場所は?」
『まずはO線のY駅まで来い。そこでお前が独りなのを確認してから、詳しい場所を教える』
「念の入った話だな」
『妙な細工はなしだ。45分以内に来い』
そして耕司の返答を待ちもせず、郁紀は一方的に通話を切った。
「……俺が単独なのを確認するまで、居場所は教えないつもりみたいです」
「ただの医大生にしちゃ心得てるな。感心だ」
まるで本気で誉めているかのような凉子を、耕司は視線だけで咎める。
「私の車はここに置いていこう。戸尾くん、君の車のトランクに人一人が入る隙間はあるかい?」
「大丈夫ですが……正気ですか? 映画の見過ぎですよ」
「そんじょそこいらの映画よりは危険な冒険なんだよ。これは」
凉子は|嘯《うそぶ》いて、ダッフルバッグを抱えて席を立つ。
「……で、この店を待ち合わせに選んだのは君だったな」
「そうですが、何か?」
「コーヒーの責任を取れ」
そう言って凉子は、ウェイトレスが置き去りにしていった伝票を耕司の前に置いた。
指示された通りY駅に到着した後も、耕司はその都度郁紀からの電話を受け、2度、3度と目的地を変更させられた。
耕司が単独なのを確認するという郁紀の口上を、次第に耕司は疑いはじめていた。郁紀は指示した場所に耕司が到着するのを時間だけで見計らって連絡をよこしているのではないか。
そうは思っても、油断はできなかった。郁紀はいつどのタイミングで、耕司が助勢を連れていないか確かめようとしてもおかしくない。ここで下手を打って郁紀を警戒させたら、奇襲を企む凉子の思惑も水泡に帰すのだ。もうしばらく、凉子には狭いトランクの中で我慢してもらうしかない。
緑地公園、河原の河川敷、そして4度目の誘導は、まだ麓までしか開発の進んでいない丘陵地の、森に覆われた頂だった。
カーナビの地図では行き止まりの|隘路《あいろ》しかないが、郁紀の話によれば、その突き当たりに古い療養所の廃墟があるという。
耕司の直感に囁くものがあった。それまで引き回された深夜の緑地公園や河川敷も、たしかに人通りのない場所ではあったが、今度の目的地は明らかに、間違っても人が寄りつかない場所だ。
いよいよこれが、本命か。
勾配のきつい坂を上り、民家の姿か消え失せたあたりから、予感は確信に変わっていった。すぐ足元まで開発の手が迫っていながらも、まだ切り開かれていない森の闇は予想以上に深い。
密かに隠れ済むには絶好のロケーションだろう。あるいは密かに誰かを抹殺するのにも。
こういう忘却の土地というのは、市街地から距離を隔てたところにばかりあるのではない。生活圏の直中であろうと、人の注意を惹かないというだけで、世界の死角はいくらでも発生しうる。
アコードのヘッドライトの中に、ふいに朽ち果てた門柱が幽霊のように立ち現れた。どうやら終点のようだ。
徐行で門柱の側まで車を寄せてから停車し、耕司はエンジンを切って森の静寂に身を任せた。
ほとんど間を置かず、携帯電話が着信音を鳴らす。むろん相手は確かめるまでもない。
「……着いたぞ」
『ああ、聞こえてた。ようこそ我が新居へ』
アコードの排気音を聞いて耕司の到着を察知できるだけの近場に、もう郁紀はいる。武者震いが耕司の背筋から肩までを駆け抜けた。
『中に入って来いよ。瑶も待ってる』
それだけ言って、通話が切れる。
ダッシュボードから昼のうちに新しく調達したマグライトを取り出し、ポケットの銃の重みを確認してから、耕司はドアを開け――タイミングを合わせてトランクのロックも解除する。凉子なら、いちいち状況を説明せずとも察しはつくだろう。
室内灯が点きっぱなしだと、ドアとトランクを閉めていないのが気取られる。そう気付いた耕司は素早く室内灯の電球を外し、それから車外に降り立つと、ことさらに大きな音を立てて運転席のドアを閉めた。
さして広くない前庭には不法投棄された粗大ゴミが山になり、ていのいいバリケードになっている。
冷蔵庫や原付バイクなどは可愛いもので、コンクリートの瓦礫や石膏ボードの切れ端といった、明らかに業者の投棄した廃材もうずたかく積み上がっている。ここまで人目を気にせずに好き放題できるというだけで、どれだけ人の立ち寄らない場所なのかは察しがついた。
ちらりと横目に車の尾部を窺う。薄く開いたトランクルームは何の動きも見せずに沈黙している。凉子も心得たものだ。おそらく郁紀の注意が耕司だけに向いた頃合いを見計らって出てくる腹だろう。
思いのほか月は明るく、戸外にいる限り手明かりがなくても足元に不自由はない。耕司は警戒を怠ることなく、ゴミの山を迂回しながら奥の建物を目指す。
傍らの廃棄物の中にはいったい何が埋まっているのか、辺り一面には薬品めいた不快な刺激臭が立ちこめていた。
こんな場所には浮浪者でも近寄らないだろう。およそ人が居着くような場所ではない。雨風だけを凌ごうというのでも、他にいくらでも快適な場所を見つけられるだろう。
扉のない、虚ろな空洞だけになった玄関口に立ったところで、耕司はちらりと背後を顧みる。門柱のところに停めてきたアコードは、ちょうど粗大ゴミの山に遮られて建物から死角になる位置だった。
もしこの廃屋の中から郁紀が見張っていたとしても、トランクルームから這い出す凉子の姿は見咎められまい。彼女は望んでいた通りの奇襲のチャンスを得られるだろう。
こうして日常から切り離された不吉な静寂の中に、ただ独り佇むというのは、いったい何度目の経験だろうか。
地下墓地のように静まりかえった家屋の中へ踏み込み、そこで人知を越えた営みの痕跡を目にするという体験が、すでに耕司の日常の一部になってしまったかのようだ。
これまで踏み込んできた家屋は、無人で、寂れてこそいたが、それでも家としての体裁だけは整っていた。|空蝉《うつせみ》のように生々しくも新しい骸としての家だった。
だが今度は違う。いま夜の森の中に幽鬼のように浮かび上がる壁と柱の構造物は、かつて人の営みがあった場所という痕跡さえも削げ落ちた、完全な廃墟だった。
骸として喩えるのなら、白骨だ。往年の面影など見る影もないほどに風化した、死そのものしかない場所だ。
行き着くところまで行き着いたのだ。きっと、ここが終着だ。
郁紀はどういう挙に出るだろうか。耕司のことを亡き者にしようと企んでいるのは間違いない。だが、どうやって?
マグライトを点灯しようとして、耕司は思い留まった。
手明かりを持ってうろつけば、歴然と位置を知らせて廻ることになる。おそらく待ち伏せを仕掛けているであろう郁紀を、一方的に利することになる。
左手に、すぐ点灯できるようスイッチに指をかけたままのマグライトを掲げ持ち、同じように右手には拳銃を構えた。
ここぞと思った瞬間には照らし出した場所に銃口を向けられるよう、常に銃とライトが同じ方向を向くよう心がけながら、足音を忍ばせて暗い廃墟の中へと踏み込んでいく。
目が慣れるまでしばらくかかったが、がらんどうの窓から差し込んでくる月光だけが頼みだ。あらゆる輪郭が、薄ぼんやりと滲んだ濃淡でしか判らない。
それでも、これで中に潜んでいる郁紀と条件は同じはずだった。
どちらが先に物音を立て、どちらが先に気配を察知するか。そういう気が遠くなるほど隠微で危険な神経戦になる。
廊下の左右に扉を開け放たれたままの、あるいは扉そのものが失せた部屋が並んでいる。それらの一室ごとに、耕司は戸口に身を寄せて気配を探り、無人なのを確かめながら、慎重に先へと進んでいった。
廃墟に入る前から鼻を|苛《さいな》んでいた悪臭が、いつの間にか変質していた。より獣臭に近い、生々しく有機的な汚臭。まぎれもなく、郁紀の自宅に立ちこめていたあの――
『――この生物の体表を覆う網状に伸縮する強靭な自在に裂傷や穿孔と外傷はたちどころに意味がないないないない――』
耕司は歯を食いしばり、狂人の手記を頭から振り払う。
あんなものを真に受けてどうする? この肝心なときに、余計なことを考えるんじゃない……
ぐじっ
物音に、耕司は総身を硬くして廊下の奥を凝視した。
今の音は――誰かが、泥のぬかるみで脚を滑らしたかのような、湿った音は――ずっと奥の部屋から聞こえた。
何かがいる。物音を立てるような何かが。
足音を殺したまま、耕司は左右の銃とライトをいつでも使えるように身構えて、音のした方角へとにじり寄っていった。
ぐじっ、ぐじっ、と――泥を|捏《こ》ねるような奇妙な異音。近付くにつれてさらに、今度はひゅうひゅうと、獣めいた苦しげな息遣いが聞こえてくる。
郁紀だろうか。いや、有り得ない。奴は今も息を殺して待ち伏せをしている筈だ。こんなにも不用心に物音を立てるわけがない。
進むにつれて、コンクリートと建材の隙間から漏れ聞こえてくるだけだった異音が、いつしか直に耕司の耳に届くようになっていた。
『……ゥ……ゥ……ゥ……』
耕司はとある部屋の前に立っていた。
それまで通り過ぎてきた部屋と同様、ねっとりとした液状の闇に満たされた一室。
だがその部屋の住人は闇だけではなかった。明らかに何かが、いる。
まるで手負いのように、息をするだけでも苦しげな、どこか啜り泣きにも似た――
――啜り泣き――?
「……誰だ?」
押し殺した秘め声で、耕司は闇の奥に問いかけた。
声を出して居場所を明かすぐらいなら、いっそライトを点けても同じことだったが、なぜか耕司は、そこまで不可逆的な行動を取ることに躊躇があった。
――啜り泣き――そう、最後に聞いた彼女の声は――電話口の向こうの――啜り泣き――
ぴたりと、まるで息を詰めるように、喘息めいた呼吸音が沈黙する。
そして、
『――コゥジ、グン?』
声ではない、断じて人間の声ではない異音が、冒涜的なほど言葉めいたイントネーションで闇の中に囁く。
イメージが、悪夢の中の妄想でしか成し得ない連想で、耕司に直感と理解をもたらした。
「……津久葉?」
そんなわけがない。
あの津久葉瑶が、こんな声を出すわけがない。こんな匂いを放つわけがない。
『――コゥジ、グン――ォネ、ガィ――コ、ロ、シテ――』
瑶でないとしたら、なぜ耕司の名を知っている? なぜ耕司に向けて訴えかける?
だがそれでも、瑶であるはずはない。瑶は人間だ。いまこの闇の奥にいるモノのように、ズルズルと湿った音を立てて這い回ったりするわけがない。
『――イタ、イノ――クルシ、ィノ――ゴノ、ガラダ、ズッド――ダズゲデ――ゴォジ、グン――』
蠢くそれは耕司の方へと近寄ってきた。
手遅れになる前に、取り返しがつかなくなる前に、左手のライトを点けるべきだと耕司の理性は叱咤していた。さもなければ踵を返して逃げるべきだと。
だが耕司はそのどちらを受け入れることもできずに、ただ闇の中の不定型な輪郭へと、空しく問いかけることしかできなかった。
「津久葉なのか? なぁおい……まさか、津久葉なのか?」
『――ジナゼデ――モゥ――ィャ――ォネガイ――ゴロジデェェ――』
ぬめり粘つく柔らかい質量が、耕司の爪先の上に乗る。
意志とはまったく別系統の反射的な行動で、耕司はライトを点灯し、足元のそれを照らし出していた。
白い光が、総てを暴く呵責ない真実が、最後の一撃となって耕司の理性を破砕した。
恐怖にショートした思考が、『銃』と『引き金』という2単語の間で永久ループに陥り凝結する。
もっとも従順に反応したのは右手人差し指だった。
予想を上回る閃光と轟音。ただ一瞬だけ閃いた圧倒的な破壊力は、だがその一瞬後にはもう再びぬばたまの闇に呑まれて消えている。
そして、銃声の残響に痺れかかった耕司の耳に――ふたたび闇の底から届くか細い声。
『……ィ……タ……ィ……』
「うわぁっ、わああああッ!!」
耕司は悲鳴を上げながら、ただ己の指先にのみ救いがあるかのような錯乱に囚われて、|遮二無二《しゃにむに》、引き金に絡んだ指を屈伸させた。
さらに3回、闇と閃光と沈黙と爆音が交錯して入れ替わる。むろん狙いもへったくれもない。狙わずとも脅威の対象はすぐ足元、外しようのない至近距離である。
銃に残った弾数についての凉子の忠告は、とうに思考の外側へと吹き飛んでいた。
ふたたび重く冷たい闇に総身を包み込まれた後も、耕司は取り憑かれたようにトリガーを引きまくり、とうに空っぽの機械細工でしかなくなった拳銃を、ガチャガチャと空しく作動させ続けていた。
パニックのあまり凍りついていた下肢が、今になって二本脚で直立していることの不自然さを思い出したかのように、もつれて後方へとバランスを崩し、耕司の尻を硬い床に叩きつける。
座り込んだ姿勢のまま、それでも耕司は錯乱の反復で銃の空撃ちを続けていた。そうし続ける以外に彼は、一瞬前にライトが捉えた|もの《・・》を記憶から消し去る方法が思いつかなかった。
とうに左手から取り落としたマグライトは、床に転がってあらぬ方向を照らしている。
4発の弾丸は、たしかに標的を捉えたはずだった。人間なら4回死ぬだけの破壊を、耕司の指はもたらしたのだ。そしてそれは耕司の切り札でもあった。
つまり今、闇の底に独り座り込んでいる自分は、すでにもう丸腰なのだと――そう耕司が理解した、そのとき。
重く冷たい腐肉の塊が、津波のように耕司の上にのしかかってきた。
『イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイィィィィィッ!!』
もはや悲鳴さえ声にならなかった。耕司は仰向けに床に押し倒され、恐怖に喉を詰まらせたまま、胸から上まで覆い被さってくるモノに必死で抵抗した。
「ひ……ひ……ひぃ……ッ!!」
左手一本で顔を庇い、右手はありもしない救いの道を求めて出鱈目に床をかきむしる。
すでに耕司の思考力は、原始的恐怖だけを残した野生動物のそれと同程度にまで退行していた。
あるいは、だからこそ――いよいよ最後という瞬間に右手が掴んだ硬い感触を、直感で武器と認識できたのかもしれない。
腕にありったけの力を注ぎ込み、耕司は自分の上に乗っているモノを、右手に掴み取った質量で振り払う。
グシャリと水枕を叩くような音をたてて、襲撃者は耕司の上から転がり落ちた。
身体の自由を取り戻すやいなや耕司は膝立ちになり、新たな得物を救いの護符のように両手で掴む。掴んでから初めて、それが錆の浮いた鉄パイプの断片だと気がついた。
『……ィ……ィ……ィ……』
まだ呻く。まだ啜り泣きの声が。
「おああああぁぁッ!!」
悲鳴と怒号のない交ぜになった絶叫を上げながら、耕司は鉄パイプを振り上げ、床に|蹲《うずくま》っているそいつに叩き下ろした。
分厚く柔らかい肉が衝撃を吸う、身の毛もよだつような感触が両腕に伝播し、湿った音が耕司の耳にまで届く。
その音が感触が、耕司の脳裏を生理的嫌悪だけで塗りつぶし、ただ一色の破壊衝動で染め上げる。
「くそおォ! 畜生ォォォ!!」
銃の空撃ちと同じく取り憑かれたような反復で、耕司は鉄パイプを振りかざし、滅多打ちにそいつを叩きのめす。
10回目の打撃で声がやみ、20回目で|蠕動《ぜんどう》が止まり、30回目からは肉を打つ手応えがビシャビシャとより水っぽい音に変質しはじめていた。
耕司がようやく|打擲《ちょうちゃく》の手を止めたのは、彼が打ちのめしていたのが何であれ、すでに生命のない骸に成り果てていると理解してから――そう理解できるだけの思考力が彼の中に戻ってきてからだった。
手の中で、血なのか体液なのか判然としない汚物にまみれた鉄パイプが、ずっしりと重くなる。
“君はまだ、いちばん致命的なものまでは見ていない”
脳裏に蘇る凉子の声。今ならば耕司は、彼女の慈悲深い配慮を理解できた。彼女と同じ醒めた視点で、かつての自分の愚かしさを嘲笑うことができた。
戸尾耕司として積み重ねてきた20年間の人生の記憶――それが尊いと、愛おしいと思うなら、こんな場所まで来てしまってはならなかったのだ。
絶望の黒い炎が、耕司の中のすべての感情を焼き尽くし、焼き尽くしてもなお燃えさかり、やり場のない熱量となって沸々と血を滾らせる。
耕司はその熱を怒りとして認識することにした。……そう、いま彼はまぎれもなく怒っていた。憎んでいた。彼に真実という名の毒を盛り、彼の魂の無垢なる部分を根こそぎ|鏖殺《おうさつ》した者を。
そして憎悪の虜となった耕司は、すぐ背後まで忍び寄っている何者かの気配と息遣いを感じ取った。
振り向きざまに、ありったけの殺意を込めて、右手の鉄パイプを横薙ぎに一旋させる。
不意打ちを狙っていた相手は反撃を予期していなかったらしく、たじろいで大きく後ろに跳び退いた。床に落ちたマグライトの光の中で、いびつに歪められた影絵が踊る。
惜しくも空を切った鉄パイプを構えなおして、耕司は第二の襲撃者と対峙した。
「匂坂郁紀……」
これほどの怨嗟の声で、かつての親友の名を呼ばわるとは、耕司自身も思ってもみなかった。
「おいおい、今の一振り……まるっきり手加減抜きかよ?」
この期に及んでなお、郁紀は笑っていた。その手に構えた大振りな斧さえも、何かの冗談だと言わんばかりに。
「参ったなぁ。正直なとこ、お前はもう少し迷うもんだと思ってたんだけど」
「迷う、だと? 俺が? 貴様に?」
耕司もまた、嗤った。嗤わずにはいられないほど郁紀の言い分は滑稽だった。
「貴様、青海をどうした? 津久葉にいったい何をした? それを考えてもまだ俺が、貴様を殺すのに迷うだと?」
「……そいつは言いがかりのつけ方が逆だろ、耕司」
郁紀は声のトーンを落とし、暗鬱とした眼差しで耕司の撲殺した肉塊を見遣る。
「耕司の分際で、僕の瑶を酷い目に遭わせやがって……瑶の10倍は痛めつけてから殺してやる。覚悟しろ」
床のライトの淡い光を受けて、凶々しい照り返しを放つ斧の刃。その殺意の輝きが闇の中に弧を描く。
郁紀が力任せに振り下ろしてきた斧を、耕司は鉄パイプで受け止めた。
手首から肩にかけてを重く硬い衝撃が駆け抜ける。が、体格に恵まれた耕司は姿勢を崩すこともなく斧を押し返す。
二度三度と斧が唸りを上げて、立て続けに耕司を襲う。歴とした道具として設計された郁紀の得物には、耕司がたまたま拾っただけの棒きれよりも数段勝る威力と操作性があった。
耕司は斧の刃から身を守るのに手一杯で、なかなか反撃に移れない。鋭利な斧を受け止めるたび、鉄パイプの表面に浮いた赤錆が削り取られて宙に散る。
「このォッ!」
上段から振り下ろされた斧を受け止めたところで、耕司は相手が斧を引き戻すより先に鉄パイプで押し返し、郁紀の姿勢を後ろに崩す。
郁紀は仰け反りながらもバランスを取ろうと踏みとどまり、そのせいで下肢を動かせなくなった。
その隙を狙って耕司はローキックを繰り出し、郁紀の外腿を強烈に蹴りつける。
「ぐっ!」
呻いて後退しながらも、郁紀は耕司の追い討ちを防ごうと出鱈目に斧を振り回す。
だが戦いのペースを奪還した耕司は深追いせず、泰然と立ったまま郁紀を目だけで威嚇した。
「お前、喧嘩に慣れてねぇな?」
「うおぉッ!」
怒声とともに反撃に出る郁紀。だが耕司に蹴られた右足に痺れがきたらしく、斧のスピードは鈍っている。
耕司は落ち着いて斧を鉄パイプで打ち返しながら、郁紀の疲弊を待った。
「死ねッ! 死ねぇッ!!」
裏返った雄叫びとともに重い刃を振りかざす郁紀。だが勝負はすでに勢いよりも冷静さが勝機を掴む段に入っている。
郁紀が何度目かに大きく振りかぶったところで、耕司はその動きが充分に衰えているのを見計らい、一気に踏み込んで左腕を伸ばし、斧の柄を掴んで止めた。
「ッ!?」
怯んだ郁紀の、がら空きになった脇を狙いすまして、耕司は右手の鉄パイプを叩き込む。
メキリ、と肋の折れる手応え。
「がふッ……」
たまらず|蹲《うずくま》る郁紀。その無防備な後頭部を見下ろしながら、耕司は自分でも驚くほど醒めた心境で、とどめの一撃を振り下ろすべく鉄パイプを高々と掲げ持つ。
左足首に何かが巻きついたのは、そのときだった。
「な……!?」
予期せぬ感触にうろたえた瞬間、柔らかくも強靭なそれは右足にも絡みつき、耕司は抵抗する暇もなく床へと引きずり倒された。
身を|捩《よじ》り、背後の見えざる敵に鉄パイプを振り下ろそうとする耕司だが、その右手もまた軟体の圧力に絡め取られた。
ズボンの生地越しには判らなかった冷たい粘膜の感触を剥き出しの手首に感じて、耕司は総毛立つ。
さっきの化け物が、まだ……
「……いいぞ……沙耶」
|蹲《うずくま》ったままの郁紀が、痛みに眉を寄せながらも、勝利を確信した残虐な笑みを浮かべて声援を送る。
沙耶――
こいつが――
耕司は死に物狂いでのたうち回り、四肢に絡まる不気味なものを振り解こうとした。
だがその軟体の緊縛は次から次へと数を増し、まるで群体の蛇のように耕司の自由を奪っていく。
「う――わ――うわぁぁぁッ!?」
もはや耕司は半狂乱だった。自分を引きずり倒した生物がどういう容姿をしているのか、想像しただけで正気ではいられなくなった。
絶叫する耕司の喉が、粘液の圧迫に屈して沈黙する。首に巻きついたもっとも致命的な緊縛が、呼吸や血流のみならず頸椎ごと耕司を断絶しようと、じわじわと圧力を増していく……
殺される――そんな思考を最後に途絶えかかった耕司の意識が、ふいの轟音によって引き戻された。
『ギャァァァァ!!』
おぞましい異形の悲鳴。耕司を戒めていたものが解け、萎縮して引き戻されていく。
動作の自由を取り戻した耕司が最初に目に留めたのは、硝煙たなびくショットガンを片手に廊下の奥から駆け込んでくる凉子の姿だった。
「先生!」
返答の代わりに、凉子はもう一方の手に持っていた銀色の筒を、床に倒れた耕司へと投げよこした。
待ち合わせたレストランで見せられた魔法瓶。凉子が語るところの『切り札』――
「そいつの中身を! ヤツにぶちまけろ!」
叱咤しながら、凉子は5歩ほど離れたところに|蹲《うずくま》っている郁紀にショットガンの狙いをつける。連銃身の改造猟銃にはまだもう一発が装填されている。
さっきの怪物は――まだ凉子の一撃から立ち直れないらしく、ビチャビチャと体躯をのたうたせながら苦悶を顕していた。
だがこいつらに銃弾が決め手にならないのは耕司も経験済みである。チャンスは、今しかない。
「貴様ら……何を……」
肋骨の痛みに歯を食いしばりながら、凉子と耕司を睨む郁紀。
逸る気持ちを鎮めつつ、耕司は立ち上がって慎重に魔法瓶の蓋を開けた。これが劇薬か何かの類なのは想像するまでもない。
開封と同時に白い霧が|濛々《もうもう》と立ち上り、ふいに周囲が冷気に満たされる。
こいつは――
内容物に見当がついた耕司は、それでも容赦することなく、床で痙攣している肉塊めがけて魔法瓶を投げつけた。
煙幕弾のように白く濃密な霧を振りまきながら、魔法瓶は虚空に放物線を描き、振りまかれた中の液体が、床と、そこに蠢く存在に洗礼のごとく浴びせられる。
『ヒィギャァァァァァァッ!!』
今度の悲鳴は散弾銃の一撃さえも比較にならない、文字通り断末魔の絶叫だった。
『ヒィッ! ヒィッ! ヒィッ! ヒギギギィッ!!』
白煙に包まれて暴れ狂う怪物の苦悶の叫びに、負けじとばかり甲高い哄笑を浴びせる凉子。
「アハハハッ! どうよ? マイナス197度だよ! ねぇ冷たい? 熱い? ザマぁないわねぇ!!」
悪夢の対象を撃退した歓喜は、凉子にとって理性を引き替えにしても惜しくないものだったのか……けたたましく笑う彼女の顔は、明らかに正気を踏み外した躁狂のそれだった。
「キ、サ、マ……貴様らァ!!」
叫びにドス黒い呪詛を乗せ、郁紀がよろめきながら立ち上がる。怒りのあまり骨折の痛みさえ麻痺したらしい。
彼の手にした薪割り斧を、もちろん凉子は脅威として見くびらなかった。哄笑の残滓として冷酷な笑みを口元に残したまま、ショットガンの引き金をひく。
ジュッと暗い炎が銃口から漏れ出ただけで、彼女の銃は沈黙した。
「……チッ!?」
銃器の専門家ではなかった凉子は、弾薬の保存状態にまで注意を払うだけの知識を持ち合わせていなかった。どのみち彼女は、実際にその銃を持ち出すような事態になれば、自分も身の破滅だろうと高を括っていたのだが。
怒りと狼狽に舌打ちしながら、凉子はショットガンの薬室を開け、慣れない手つきで不発弾をつまみ出す。その間にも郁紀は、斧頭を床に引きずりながら幽鬼のような足取りで凉子に詰め寄っていく。
危ない――耕司は郁紀に駆け寄ろうと一歩を踏みだしかかったところで、動くこともできずに再びバランスを崩してつんのめった。
片足が床から離れない。靴底のゴムが貼りついている。さっき沙耶に浴びせた液体窒素の仕業だった。耕司の立っている辺りまで床底に極低温が伝播していたのだ。
凉子がポケットからたどたどしく新しい実包を引っ張り出す。郁紀が間合いを詰めながら斧を両手に持ち振りかぶる。
「畜生!」
悪態とともに、耕司は靴底を強引に床から引き剥がした。だが駆け寄るには間に合わない。
再装填したショットガンの薬室を勢い込んで閉めてから、凉子は照準をつけようと顔を上げた。
郁紀はすぐ目の前だった。あまりにも近すぎた。そして斧は凉子の頭上から、風巻く唸りとともに振り下ろされる途中だった。
「やめろぉッ!」
骨の折れ砕ける音と、腱の断ち切られる音と、肉の潰れひしゃげる音とが混然と飛沫を散らす。
「ぁぐ……ッ」
分厚い刃は凉子の左肩から、鎖骨と|肩胛骨《けんこうこつ》、さらに数本の肋までを砕いて肺を潰し、胸の半ばまで達していた。
衝撃に凝然と目を見開いた顔のまま、凉子の唇から|間歇泉《かんけつせん》のように血の筋がほとばしる。
即死――で当然の傷だったが、凉子はいかなる意志の力を振り絞ってか、生涯最後の数秒間を勝ち取った。血に濡れた唇をニヤリと笑みの形に浮かべると、ショットガンの銃口を持ち上げる。
正面に、ではなく、横に。
銃口の先には、体表の半分に絶対温度77ケルビンの白い霜を屍衣のように纏い、それでもまだ弱々しく蠢いている沙耶がいた。
「やめろぉぉッ!!」
郁紀の叫びに12番ゲージの銃声が重なる。耕司が撃った拳銃弾とは比較にならないほどの轟音と閃光が、廃墟の中の大気を振動させる。
破壊は徹底的だった。着弾の衝撃で、沙耶が液体窒素に冒されていた部分は根こそぎ跡形もなく消し飛んだ。
氷結したまま粉微塵に砕け散った沙耶の体組織が、文字通り雪のように部屋一面に降り注ぐ。
そうして開いた開口部は、沙耶の特性をもってしても塞ぎ得るような傷ではなかった。
体表の半ば近くを引き剥がされたその身体から、中身が――およそ生物の組成とは思えないような毒々しい色の液体や粘液や脂が、逆流するようにして噴き出した。
『……ァ……ァ……ァァァ……』
細く、悲しげなほどに弱々しい声で啼きながら、怪物が死の痙攣に身を震わせる。
「沙耶――」
郁紀は凉子の肩に斧を打ち込んだ姿勢のまま、感情という感情の抜け落ちた、呆けたような表情でそのさまを見守っていた。
再び鉄パイプを手に、今度こそ背後から郁紀を一撃しようとしていた耕司だったが、忌むべきその殺人鬼のあまりにも透明な表情に、彼はしばし毒気を抜かれて立ちすくんだ。
骸から斧を抜いた郁紀が、ぼんやりと、そこにいるのが誰かさえ判らないといった風情で耕司を見る。
その虚ろな眼差しを見て、耕司は悟った――もう郁紀の中には、殺すほどのものさえ残っていない、と。
郁紀が、必要以上に短く構えた斧を顔の高さまで持ち上げる。斧頭の刃は逆を向いていた。
「……」
止めるべきなのか、どうなのか、耕司には判断がつかなかった。たとえ止めるべきだったとしても、止められる言葉が見つからなかった。
ゆっくりと、だが決然と、郁紀は頭を後ろに反らし……次の瞬間、まるでバネ仕掛けの玩具のように機械的な勢いで、頭を斧の刃に叩きつけた。
ゴッ……と、鈍く湿った音を立てて額が割れる。飛沫は耕司の顔にまで飛んだ。
呵責ない勢いの自刃だったが、その一撃で死には至らなかった。
顔面を真紅のオブジェに変えた郁紀は、再び、さっきよりもゆっくりと頭を反らし、そして燃え残りの生命の最後の力までを振り絞って、血染めの刃へと叩頭した。
一度目よりも湿った音だった。
それきり、ぷつりと糸が切れた操り人形のように、郁紀は前のめりに|頽《くずお》れた。
耕司はしばらくの間、いったいなぜ自分が鉄パイプを構えたままこんな場所に立っているのか、それさえも解らなくなるほどに置き去りにされた気分で、二体の凄惨な骸を眺めていた。
廃墟の中のこもった空気は|噎《む》せるほどの血臭が立ちこめ、霜の降りた床にじわじわと広がっていく血糊は途絶えることなく流れ続けていたが、それでもなおその光景は、一枚の絵画のように静謐だった。
ひたり、と、湿った微かな音が静寂を破る。
耕司は思い出したかのように、致命傷を負っていた怪物を見た。
それは明らかに死体も同然だったが、それでもまだ動いていた。ずるずると、もはや何の脅威にもならないほど緩慢な動きで、血の海になった床を横断しようとしていた。――郁紀の方へと。
不意に、それまで忘れていた猛烈な怒りが、耕司の中に蘇った。
「……死ねよ」
低く呟いて、耕司は鉄パイプの切っ先で怪物をこづく。苦しげにわななきながら、それでも怪物は前進をやめなかった。
耕司は逆上した。
「死ねよ! もう死んでろよ! これ以上、郁紀に近寄るんじゃねぇよ!」
もう何の抵抗も出来ない肉塊に、繰り返し鉄パイプの殴打を叩き込む。今ここでこいつを止められなければ、今度こそ自分の負けだと……なぜか耕司は何の脈絡もなく、そんな思いこみを|懐《いだ》いていた。
耕司の|打擲《ちょうちゃく》に、だが怪物は最後まで屈することなく、ついに郁紀の骸の前まで来た。
「触るな! 郁紀に触るな! テメェは――何様だってんだよ! あぁ!?」
もはや半泣きになりながら、怒りにまかせて耕司は鉄パイプを振り回していた。耕司の血飛沫を浴びた顔に、さらに怪物の|汚穢《おわい》な体液が飛び散った。
怪物は、ふるふると細く震える触手を伸ばして郁紀の肩に触れ、それから愛おしむように血染めの頬を撫でて――
そして動かなくなった。
最後の瞬間までその怪物は、郁紀を手放そうとしなかった。そして郁紀と繋がったまま死んだ。
耕司は、ついに自分が何も取り戻せなかったことを知った。
「ねぇねぇ、今度のスキーだけどさ。今年は、どっかスケートも遊べる所にしない?」
隣に座っている青海が、剥き出しの頬骨をカタカタと鳴らしながら提案した。
身体中を虫食いのように噛み千切られて、彼女はずいぶん痩せたように見える。そういえば近頃とみに体重を気にかけていたが、これでもうダイエットは必要ないだろう。
「ハハ、そういえば青海って、このあいだ初めてスケートやったんだって?」
青海の突拍子もない提案を郁紀が笑って受け止める。声ではたしかに笑っているが、斧で真っ二つになった顔面からは表情を読みとるのが難しい。
「二十歳になって初体験ってのは、今日日そうそういないんじゃないかな?」
「子供の頃は何となく怖かったのよ。あの靴、なんだか刃物みたいでさ」
「うん解る。あの靴で顔を蹴られたら、きっと僕みたいになっちゃうよね」
郁紀のくだらないジョークに、青海と瑶が声を立てて笑う。
こんな風に朗らかに笑うなんて、昔の瑶からは想像もつかない。
晴れて郁紀と恋仲になって、彼女は本当に幸せそうだった。
「でも、いきなり蹴って殺せたの? 青海ちゃん、凄くない?」
「要領はバットとそう変わるもんじゃないからな。思い切り振り回して、斧頭の重さに任せて叩きつける感覚とか」
「郁紀にそう言われたもんだからさ、騙されたと思って殺ってみたワケよ。そしたらもう、楽しくって」
この、そこはかとない違和感は何だろう? 何かがおかしい。それと指摘はできないが――
「ふぅん……わたしも見てみたいな。青海ちゃんが食べられるところ」
ああ、そうだ。
羨むような瑶の笑顔を見て、耕司はやっと気がついた。
「なぁ津久葉……」
「うん? どうしたの耕司くん?」
「お前だけ、なんで……普通なんだ?」
耕司の質問の意味が解らないのか、瑶はきょとんとして小首をかしげる。
「普通って? 私はいつも普通だけど?」
「でもお前、たしか、あのとき――」
「ああ、うんうん」
耕司の言わんとするところを察したらしく、納得顔で頷く瑶。
「なんだ、私が耕司くんと違う姿になってた頃のこと? ずいぶん昔の話じゃない」
「昔……なのか?」
「そうだよぉ」
瑶はふたたび、瑶らしからぬ|闊達《かったつ》な表情で、耕司の当惑を笑い飛ばす。
「だって耕司くんも、今じゃ私たちの仲間じゃない」
「――」
ああ、そうか。
耕司は自分の手足を見下ろし、そこでブヨブヨと蠢いている触手の塊を眺めて、納得した。
目が覚めると、枕もマットレスも寝汗でぐっしょりと濡れていた。
いつもの、悪夢。もう何度目になるのかも判らない。近頃では叫んで跳び起きるようなこともなくなった。
ズキズキと偏頭痛に疼く頭を抱えて、耕司はベッドから状態を起こす。
午前4時。
休眠はまだ全然足りてない。だがもう今夜は眠れないだろう。
とりあえず、煙草だ。一箱あれば朝までは保つ。昨日の買い置きはどこに仕舞ったんだったか。
ぼんやりと居間まで彷徨い出て、そこでまた馴染みの客人と出くわした。
「ひどい有様だね。まったく」
「――ああ、先生。いたんですか」
ダイニングテーブルに座っている斬殺死体は、今日もいつものように土気色の顔でマグカップのコーヒーを啜っていた。
「毎晩、ずいぶんと辛そうじゃないか。ろくに眠れてないんだろう?」
「そうでもないですよ。薬を飲めば、わりと何とかなります。まだ」
気さくに受け答えながら、耕司はテーブルの差し向かいに腰を下ろす。
さっきのような凝った演出の悪夢よりは、まだこういう幻覚の方が|与《くみ》しやすい。症状としてはより重いのかもしれないが。
「あのとき私の忠告を聞き入れてれば、ここまで追いつめられることなんてなかっただろうに」
「もう止めましょうよ。それは。過ぎたことじゃないですか」
凉子は生前と同じ、冷たく躁的に歪んだ含み笑いで身体を揺する。胸元まで引き裂かれた左肩の先で、余り物のようにぶら下がっている腕がグラグラと揺れた。
「そう……けっこう折り合いをつけてるんだ」
「先生だって、そうだったんでしょう? 普段は優秀な脳外科医で通用してたんだから」
「上辺だけ取り繕うだけなら、そんなに難しいことじゃないからね」
死体は肩を|竦《すく》めて――といっても動くのは無事な右肩だけだが――さも不味そうな顔でまた一口コーヒーを啜る。
「でもね、たぶんこの先はもっと悪くなるよ。心の傷は時間が癒してくれるけど、君はまぁ、言ってみれば毒に感染したようなものだから」
そうなのだろう。
人は夜の巡り来るたびに夢を見る。記憶がいくら遠ざかろうと、悪夢は夜毎に新しく生え代わった牙を、耕司の心に突き立てる。
そうやって心の狂気は、じわじわと種から芽吹き、やがて耕司に残されたすべてを覆い尽くしていくのだろう。
「俺の場合、先生っていう前例を見て学んでますからね。抜かりはありませんよ」
「へぇ、そうなの?」
耕司は自信の笑みで頷き、席を立って洗面所に行くと、鏡の裏の薬棚に隠してある凶器を取り出す。
奥涯の拳銃。耕司があの夜から持ち帰った、異界の唯一の忘れ形見。
「ものすごい苦労したんですけど、結局、ようやくそのスジの人と渡りをつけましてね。弾も買ってあります。驚きましたよ。銃そのものより高いなんて」
「おやおや」
鏡に映る居間では、斧の断面が左右反転した凉子が、喝采するかのようにマグカップを掲げて耕司を誉めそやかしている。
「で、何発買ったわけ? 弾は」
「一発だけです」
今度は耕司が肩を|竦《すく》めた。生者の特権として、ちゃんと両肩で。
「それ以上、必要になるような状況は――俺は願い下げなんで」
「ふぅん……」
鏡の中の斬殺死体は、どこか神妙な表情で頷いた。
「ほんと、|弁《わきま》えてるんだね。戸尾くん」
しばしの沈黙。
耕司としては、死体を相手にしめっぽい雰囲気になるのは遠慮したいところだった。
「ねぇ先生、いい加減ファミレスのコーヒーは止めましょうよ。何なら新しいのを淹れますから――」
言いさして耕司が振り向くと、そこには無人のダイニングテーブルが、深夜の静謐に沈んでいた。
「……」
してみると、ようやく耕司は正気の人間たちの世界に舞い戻って来たらしい。
一本目の煙草に火を点け、深々と紫煙を吸って吐き出しながら、耕司は独り居間にくつろぎ、手の中の拳銃に見入った。
いま自分が危うい均衡の上に立っていることは、耕司も自覚している。
凉子が“最後の一線”と言っていた場所が、今ちょうど耕司の一歩後ろにあった。そしてそこを踏み越えた耕司には、もはや心に防壁となるものなど何もなかった。
奥涯雅彦の妄想も、丹保凉子のパラノイアも、すべてが実体の脅威となって彼に狂気と絶望の何たるかを教えていた。
世間でも、すでに匂坂郁紀は猟奇殺人犯として指名手配されている。
無人となった彼の自宅と隣家の鈴見家から大量の人肉が発見されるまでに、さほどの時間は要さなかった。両家の冷蔵庫の中からは、鈴見洋佑とその妻子、高畠青海の4人が発見された。
衣服などの遺留品には津久葉瑶のものもあったが、発見された遺体の断片の中に彼女と思われるものが含まれていなかったことで、耕司の悪夢は少なからず厚みを増した。
同時期に謎の失踪を遂げたT医大の丹保凉子医師についても、郁紀の主治医だったことから事件との関連を疑われている。
とある廃墟の裏庭に人知れず埋められた二人の遺体については、おそらく誰に見つかることもないだろう。事件は迷宮入りするに違いない。
ただ独り真相を知る耕司には、それを明るみに出す意図など毛頭ない。これまでも、これからも。
奥涯の手記は戯言ではなかった。つまりは、それ以外のすべてが戯言だった。
人をして万物の霊長などと、そんな脳天気な戯言を誰が言ったのか?
人類の英知だの、勇気だの、そんな戯言に価値があるものと信じて疑わずにいられるのは――この深淵を覗き込んだことがない、幸福な者たちだけなのだ。
そんな無知にして無垢なる幸福を人々と分かち合うことは、もう戸尾耕司には叶わなかった。
彼は知ってしまったのだ。真実という名の狂気に冒されて、|穢《けが》されて、二度と何も信じられなくなったのだ。
この自分が、毒に冒されたというのなら――真実こそが毒なのだろう。
純粋な酸素が生体にとって有害であるように、剥き出しの真実は、ヒトの精神を破壊する。
酸素は5倍の窒素で包まれてはじめて、大気として許容される。同じことだ。戯れ言で希釈された片鱗だけの真実を呼吸することで、人は健やかなる心を維持できるのだ。
“どんなに世界が底抜けに滅茶苦茶になっていこうと――”
耕司の脳裏を過ぎるのは、生前の、本物の丹保凉子が自ら口にした言葉だった。
“悲鳴を上げて逃げ回る以外の選択肢が、自分にはある――”
それは紛れもなく、彼女が胸に秘めていた慰めの形なのだろう。夜毎に襲い来る悪夢に立ち向かうための護符だったのだろう。
先人の教訓を胸に刻んだ耕司には、もちろん、準備に抜かりはない。
ただ一発の弾丸は、いつでも洗面所の鏡の裏で、耕司に救済を保証してくれている。