離別エンド
「そりゃあもちろん、戻れるっていうのなら、もとに戻りたいと――思う」
深く考えることもなく、僕はそう答えた。自分にそれ以外の返答があり得るなんて思いもしなかった。
その件について深く考えることをやめたのは、もう大分昔のことだった。たしかに数ヶ月前の僕ならば、その返答に迷いはなかっただろう。
だが現在の僕にとってはどうなのか? 今になってそう望むことが何を意味し、僕と沙耶に何をもたらすのか――そう考えだすと、たちまち自分の本心がどこにあるのか解らなくなってしまう。
沙耶に急かされて出した回答は、そんな心許ないものだった。
「そう……うん、そうよね。当たり前よね」
そのとき沙耶が見せた表情は、哀しむような、それでいて何か安堵したかのような、どちらにも取れる不思議な微笑だった。その笑顔を見た僕はにわかに不安になった。まるで僕の軽率な一言が、どうしようもなく沙耶を傷つけてしまったかのような気がした。
「なぁ、沙耶、僕は……」
「いいの、郁紀。もう何も言わないで」
沙耶は僕の言葉を封じ込めるようにまた唇を重ねて、さっきまで以上に情熱的な舌使いで僕を求めてきた。その甘い舌の感触に僕は|陶然《とうぜん》となる一方で、大切な一言を――さっき沙耶に遮られた肝心な言葉をどうにかして口に出そうと、焦りを感じ始めていた。
「沙耶――」
どういうわけか――言葉が出ない。思考がうまくまとまらない。沙耶のキスがもたらす陶酔が唇だけでなく全身へと染みわたり、僕の意識をぼやかしていく。
「おやすみなさい、郁紀」
優しく囁きかける沙耶の声が、どこか遠くから聞こえてくる。
「心配しないで。次に目が覚めるときには、何もかもが終わっているから」
それは、困る。
眠る前に、君に告げなきゃならないことがある――せめて一言だけ――
むなしくそう念じながらも、僕は深い忘却へと誘われていった。
目が覚めたとき、まず感じたのは腐臭だった。
鈴見さんの死体には蠅がたかりはじめ、その匂いはごく当然のように、肉が腐る匂いだった。たしかに僕にもそう嗅ぎ取れた。
夜はすでに明けていた。差し込む夜明けの明かりの中に、沙耶の姿はもう見あたらなかった。
血まみれの床さえ見なければ、あとは幼い頃から見慣れてきた我が家の台所。それに引き替え、昨日まであれほど心安らぐ色合いに見えた居間の彩色を今になって改めて見ると、僕には今まで遠ざかっていた世界との距離が痛感できた。
無駄と知りつつ、僕は沙耶の姿をもとめて家中をうろつき廻った。小一時間ほどもそうやって、現実を受け入れまいと無駄な努力を続けた。
それから警察に電話した。受話器の向こう側からの声は、思わず涙が出るほど懐かしかった。沙耶以外に聞く人間の声は本当に久しぶりだった。
後で知ったことだが、鈴見さんは僕に殺される前に自分の家族を殺していたらしい。その辺の順序は解ってもらえず、僕は一家3人を惨殺した容疑で逮捕された。さらに僕の家から高畠青海の遺留品が見つかり、僕の罪状は都合4人の殺人および死体棄損という線で落ち着いた。
取り調べに対し、僕は正直に正確に、ありのままを話した。刑事さんたちはもちろん信じてくれなかったが、後から来た精神科の先生は、僕のことを信用し、僕を留置所よりもっと清潔な白い部屋に移してくれた。
そう、この部屋の白さが、ごく普通に僕には真っ白く見える。
結局、僕には罪を償うことができないという結論ですべてが片付けられてしまったらしい。
僕が体験してきたことは確かに現実だ。が、それはこの部屋の外の世界とは折り合いのつかない現実なのだ。だから先生はこの小さな空間を切り分けて、僕だけのために与えてくれた。僕が僕の現実を生きる場所として。
哀しいが、仕方ないことだと思う。より大勢の人が信じる大多数の現実で、この世界は成り立っている。その枠からはみ出た場所に僕は踏み出してしまったのだ。
今、たしかにこの部屋の壁は――白い。その事実だけに感謝して、僕はこれからの一生涯を送る。
沙耶なんていう少女はいなかった。と、誰もが口をそろえてそう断言する。それならそれでいい。彼らの世界には本当に沙耶は存在しないんだろう。
だが僕一人しかいないこの部屋でなら、僕は沙耶の声を聞いてもいいんじゃないだろうか。ここは僕だけの現実――沙耶とともに過ごした、たしかに現実だったあの日々と地続きの場所なんだから。
そう思って待って、待ち続けて、どのくらい経ってからだろうか。
ある夜、僕は廊下の床を何かが這いずる音で目を覚ました。
普通なら眠りを妨げるような音ではないのだろうが、その夜の僕には予感があったんだろう。いつもより浅い眠りの中で、彼女の気配を待ち受けていた。だからすぐに判った。
「沙耶なんだね?」
『……』
答えはない。だが扉の外からはたしかに、何かと葛藤するような彼女の気配が伝わってくる。
「なぁ、どうして声を聞かせてくれないんだ?」
『……』
ためらうような沈黙の後、扉にある細い覗き窓から、小さな器具が差し入れられた。
携帯電話。メモ帳機能が選択され、液晶画面にはいま入力されたばかりのテキストが表示されている。
『わたしの声、きっと変に聞こえるから』
僕はつい可笑しくてクスリと笑った。沙耶でも、こんな風に恥ずかしがることがあるなんて。
「そんなこと、僕はぜんぜん気にならないよ。君の声が聞きたい。姿が見たい」
そう言って、覗き窓から電話を返す。しばらく間があってから再び電話が差し込まれた。
『あなたが憶えている姿の沙耶でいたい。お願い。許して』
「……そうか」
うすうす察していたことだ。
すべてが歪んで目に映る僕に、ただ一人まともな姿で見えた沙耶。僕は彼女だけが特別なのだと思っていた。
だが実際は――その特別の意味合いが違っていたんだろう。彼女だけが特別に歪まなかったのではない。歪んだら逆に普通に見えるような、彼女だけがそういう特別な姿をしていたのだ。
沙耶の本当の姿は、僕が知るのとは他にある。今の僕にならそれが見えるだろう。
だが当の沙耶が嫌がるのなら仕方ない。女の子のそういう心理は、僕だって解らないこともない。ちゃんと酌んであげるべきだろう。
「あの日、君に言おうとしてたこと――保留になってたの、憶えてる?」
問いかけてから、また携帯を返す。
『もう忘れてくれてると、思ってた』
戻ってきた液晶画面のテキストに、僕は苦笑した。そんなに薄情な奴だと思われていたんだろうか。
「忘れたりするもんか」
その先を言うのは……誰も聞いてはいないだろうが、さすがに恥ずかしい。今度は僕も携帯電話のテンキーを操作し、かな文字を入力した。
あ―― もう一度、あ、い―― さ、し―― た、ち、つ、て―― ら、り、る――
変換、確定――僕は覗き窓の外に携帯を返した。
扉の外で、何かが震えるような気配があった。
音が聞こえたわけでもない。その様が見えたわけでもない。それでも僕には、なんとなく解った。……沙耶は泣いていた。声を殺して。
「……僕は、構わなかったんだよ」
今さらそんなことを言ったって、何の慰めにもならないかもしれない。
だが僕は――そう、構わなかった。
もとの身体に戻りたい気持ちもあるにはあった。だがそんな願いは捨てたって良かった。どこまでも沙耶と一緒に、たとえ禁じられた領域にまで踏み込もうとも、手を取り合って進んで行けたと思う。
沙耶だって解っていたはずだ。僕の覚悟を。あの日の僕が何を言おうとしたか、判ったからこそ制止したんだ。その一言を聞いてしまえば後に戻れなくなっていたから。
そうなる前に、彼女は全てを終わらせて、そして僕の前から去った。
『ごめんなさい。わたしは、意気地なしだった』
差し入れられてきた携帯の画面を見て、僕はかぶりを振る。
「君だけが悪いんじゃない。あのとき僕に迷いがなければ、君だって勇気を出せた。そうだろ?」
『あなたが、怖かった。わたしのせいで変わっていくあなたが』
「仕方ないさ」
仕方ない。沙耶は僕を奪い尽くすことが、僕はすべてを|擲《なげう》つことが、お互いにできなかった。僕らは二人とも、幸せになるには弱すぎた。
「沙耶は、これからどうするんだい?」
『またパパを捜す。あの人なら、わたしを還す方法を知ってるはず。わたしの、もといた場所に』
「そうか……帰りたいんだね? 沙耶は」
声と文字とで交わす会話に、少しだけ間が空いた。その間のうちに何度、頭の中で「Yes」と「No」を繰り返すだけの時間があっただろうか。
『うん』
ようやく戻ってきた携帯電話の文字は、妙に心許ないものに見えた。
「そうか。お父さん、見つかるといいね」
『がんばる』
別れの時だった。彼女は道を決め、僕はそれを祝福した。その先に言葉は必要ない。
「もしも気が変わったら……僕はずっとここにいるから。いつでも来ていいからね」
『うん、ありがとう。     さよなら、郁紀』
最後のテキストを見届けて、僕はそのまま携帯を外に戻した。
「さよなら、沙耶」
返事をするように、ぺたぺた、と優しく扉を叩いた後、またずるずると床を這う音が廊下を遠ざかっていった。
そして夜の静寂の中に、独り、僕は取り残された。
その日以来、僕は待ち続けている。
沙耶は本当に、還るべき場所に還ったのかもしれない。
もしかしたら父親の行方を捜し続けて、今日もまだ何処かをさまよい歩いているのかもしれない。
辛いだろうと思う。寂しいだろうと思う。
もしも孤独に耐えきれなくなり、挫けそうになったときには、きっとまた僕のところに戻ってくるだろう。
彼女に優しい言葉をかけて、慰めてやれるのは、この僕しかいないんだから。
だから僕は待つ。彼女の声を、面影を、夢に見ながら待ち続ける。
この白い僕だけの世界で、いつまでも。