[#ここから2字下げ]
イラスト/武内崇
作画・彩色/こやまひろかず・蒼月タカオ・MORIYA・simo氏
ロゴデザイン/yoshiyuki(ニトロプラス)
装丁/WINFANWORKS
[#ここで字下げ終わり]
Interlude
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-sometime,somewhere-
「ケリィはさ、この島の名前の由来って知ってたっけ?」
軋《きし》むハンドルをのんびりと操《あやつ》りながら、シャーレイが訊《き》いてきた。
ケリィと呼ばれた助手席の少年は、「いいや」と返事しようとして、激しい揺《ゆ》れに危うく舌《した》を噛《か》みそうになる。
二人が乗っているピックアップトラックは、馬車が廃《すた》れはじめた頃の産物ではあるまいかと思えるほどの老朽車《ろうきゅうしゃ》で、おまけに今走っているのは舗装路ではなくジャングルの悪路である。牛もかくやという徐行ではあったが、それでも固いシートの上の揺れようは嵐の海のボートのようだ。
廃車寸前のポンコツとはいえ、これでもアリマゴ島に四台しかない貴重な自動車のうち一台なのだ。――もっとも、入り江にわずか三〇戸余りの漁村があるだけのアリマゴ島では、そもそも車を必要とする人間の方が希有《けう》だった。自動車なしでは暮らしに困るという人間は、少年の家族と、通いの家政婦であるシャーレイぐらいなものである。漁村から遠く離れたジャングルの最奥にある少年の家までは、このオンボロトラック以外に交通手段がない。
「アリマゴ、って、『蟹《かに》』のことでしょ?」
少年の言葉に、シャーレイが頷く。
「大昔、この島は海の神様にお供《そな》え物をする場所でね。ところがあるとき、病気の母親に食べさせるものがなくて困ってた女の子が、つい神様への供物《くもつ》に手をつけてしまって、それで女の子は崇《たた》りに遭って沢蟹《さわがに》の姿に変えられちゃったの」
「酷《ひど》い話だなぁ」
「で、それ以来、この島で捕れる蟹を食べると、どんな病気もたちどころに治るって話になってね。少女の母親も、それで長患《ながわずら》いから回復したってわけ」
「ますます酷いじゃん。とんでもない神様だね」
呆《あき》れはしたが、民話としては殊更珍しくもない、テンプレート通りの伝承である。似たような話を捜《さが》せば世界中の至る所で見つかるだろう。
「その、神様が祭ってあった社《やしろ》っていうのは?」
「もうないわ。本当にあったのかどうかも解らない。|噂《うわさ》だと、ちょうどケリィのお屋敷の建《た》ってる辺りがそうだって」
じゃあ蟹にされた少女は、こんな奥深いジャングルの奥まで、わざわざ供え物を盗みに分け入ったというのか。浜辺で魚でも掴《つか》まえた方が、よっぽど楽だっただろうに。
「村のみんながお屋敷に近付きたがらないのも、そのせいよ。不吉な場所なんだって。あんまり出入りすると崇られるって、あたしも脅かされてるのよ」
「そんな……じゃあ住んでる僕はどうなのさ?」
「ケリィはもう、余所者《よそもの》、って感じじゃないからね。村じゃアタシの弟みたいな扱いじゃない」
弟扱いというのにはやや釈然としないものがあったが、たしかに少年は、屋敷から一歩も出ないで籠《こ》もりきりの父とは対照的に、シャーレイの買い物や雑用には必ずトラックに便乗し、ほぼ毎日のように入り江の漁村に通っている。
この島に越してきて、そろそろ一年になるだろうか。今では島民の誰もが、少年を見かければ気安く声をかけてくれるようになった。最初のうちは喧嘩ばかりしていた村の悪童たちとも、最近では一緒につるんで|悪戯《いたずら》をしかける事の方が多い。
生まれ故郷から遠く離れた異郷ではあったが、それでも少年は、このアリマゴ島が好きだった。
移り住んできて最初の数週間は、代わり映《ば》えのない退屈な毎日に辟易《へきえき》していたものの、眩《まばゆ》い南国の太陽と、色とりどりに移り変わる海の輝きは、いつしか彼の心を虜《とりこ》にしていた。
だが誰も寄りつかない屋敷から一歩も出ようとしない父は、ここでの暮らしを愉《たの》しんでいるとは思いがたい。
「父さんも、ちゃんと村の人と付き合うようになれば、もうちょっと違うんじゃないかなぁ」
「う〜ん、どうかなぁ」
道に突き出た大岩を巧《たく》みなハンドル捌《さば》きで乗り越えながら、シャーレイは苦笑いをする。
「ファーザー・シモンとか、あの方のこと目の敵《かたき》にしてるからね。アタシもしょっちゅう説教くらうんだよ。あのお屋敷で働いてたら、いずれ悪魔に魅入られるって」
「……そうなんだ」
いつも温厚なシモン神父が、陰ではそんな風に父のことを話していたのだと知って、少年は少なからず落ちこんだ。だが仕方ない。むしろその程度≠ナ済んで幸いだったと思うべきだ。もし仮にシモン神父が、本当に父の行状をすべて知ることとなったら、きっと自分たち親子はこの島からも逃げ出す羽目になるのだろう。
シャーレイは片手で腰を叩き、鞘込《さやご》めのままベルトに挿《はさ》んである銀製の飾りナイフを示した。
「ほら、このナイフ。肌身離さず持ってろってファーザーに押しつけられたのよ。霊験あらたかなお護《まも》りなんだって」
「……いつも果物の皮剥《む》くのに使ってるよね、それ」
「まぁ切れ味良くて使いやすいしね。重宝《ちょうほう》はしてるんだけど」
あくまで気安い口調で続けるシャーレイは、少年と違って、まるで話題に陰鬱《いんうつ》なものを感じていない風だった。
「シャーレイは、怖くないの? 父さんのこと」
やや気後れしながらも発した少年の問いに、シャーレイはあっさり頷いた。
「普通の人じゃないのはよく解ってるし、村の人たちが薄気味悪く思うのも無理ないと思うわ。ああいう研究をしてるなら、都会を離れてこんな辺鄙《へんぴ》な島に隠れ住む羽目《はめ》になったのも、仕方ないと思う。でもね、だからこそ|凄《すご》い人なんだよ。キミのお父さんは」
父親の話題になると、なぜかシャーレイの雰囲気《ふんいき》はとても大人びた知的なものになる気がする。少年とは四歳離れているだけで、まだ決して大人の女性というわけではないのだが。
「彼の知識や発見は、どれひとつ取っても世の中を根刮《ねこそ》ぎひっくり返しちゃうような大変なものばっかりよ。そりゃ怖がられて当然だし、だから秘密にしてるのも仕方ないけど……でもアタシ、本当はね、あの力をちゃんと世の中のために役立てて使ってくれたらどんなにいいかって、いつも思ってるんだ」
「……そんなこと、出来るのかな?」
「あの方は|諦《あきら》めちゃってるね。でもケリィ、キミにならきっと出来ると思う」
真顔でそう言われて、少年はむしろ|憮然《ぶ ぜん》となった。「何だよ。父さんの一番弟子はシャーレイじゃないか。それをやるとしたらシャーレイだろ」
屋敷に通っているシャーレイが、ただの家事雑用だけでなく、父の仕事の手伝いもしていることを少年は知っている。父曰く、シャーレイという少女はこんな孤島で燻《くすぶ》っているのは惜しいほどの頭脳と才覚の持ち主なのだそうだ。秘密主義者の父をしてそんな風に重用させる程、彼女の素質は際立ったものがあるのだろう。
だが当のシャーレイは、開けっぴろげに大笑いしてかぶりを振る。
「アタシは弟子なんかじゃないよ。せいぜい助手がいいところ。雑用係。お手伝い。だから肝心なところは何も教えてもらえないしね。
でもケリィ、キミは間違いなくお父さんの跡継ぎなんだよ。いまお父さんが続けてる研究は、何もかも、いつかケリィに引き継がせるために準備してるものばっかりだから。ただ、今はまだ早すぎる、ってだけ」
「……」
真摯《しんし》に語り聞かせるシャーレイの口調は、まるで本当に弟を気遣う姉のようで、少年は複雑な想いに囚《とら》われて口ごもる。
自分を産んで間もなく他界したという母親のことは憶えていない。少年にとって家族と言えるのは父親ただ一人だけだった。偏屈で、厳格だが、それでも優しくて偉大な父。少年がこの世の誰よりも敬愛してやまない人物だ。
だから、そんな父が息子よりも先に別の助手≠|寵愛《ちょうあい》するようになったのは、始めのうちは甚《はなは》だ面白くなかった。屋敷に来るシャーレイのことを本気で疎《うと》ましく思った時期もある。だがシャーレイの明るい気性と優しさによって彼の心が絆《ほだ》されるのに、さほど時間はかからなかった。
まるで家族がもう一人増えたようだった。シャーレイは少年の父を、まるで自分の父親であるかのように尊敬し、その息子についても実の弟であるかのように可愛《かわい》がって面倒を見た。女親のいない少年にとって、姉≠ニいう存在が殊更《ことさら》に大きな意味を持ってしまうのは当然の成り行きである。
否《いな》――本当にそれだけなのかと、近頃は奇妙な胸騒ぎさえ覚える。
シャーレイの優しさも、陽気さも、賢さも、充分に知っている。だがそれだけではなく、何気ない彼女の仕草《しぐさ》――たとえば今こうして鼻歌交じりにトラックのハンドルを握っている横顔など――が、ちょっと戸惑ってしまうほどに|綺麗《き れい》だと感じるのは、いったい何故《なぜ》なのだろうか?
「ケリィはさ、どんな大人になりたいの? お父さんの仕事を引き継いだら、どんな風にそれを使ってみたい?」
「……え?」
心ここにあらず、だった少年は、シャーレイの問いかけに不意をつかれた。
「世界を変える力、だよ。いつかキミが手に入れるのは」
「……」
父の遺産。それについて思いを馳せたことがないと言えば|嘘《うそ》になる。その価値も、その意味も、それなりに理解しているつもりではいる。
その用途についても、勿論《もちろん》――
だがそれを言葉にして口に出すのは、とくにシャーレイを前にしては、あまりにも憚られた。子供じみた幼稚《ようち》なユメだと笑われるのは嫌だ。とりわけ彼女にだけは。
「……そんなの、内緒だよ」
「ふぅん?」
悪戯っぽく流し目を寄越してから、シャーレイはにっこりと笑った。
「じゃあ、大人になったケリィが何をするのか、アタシにこの目で見届けさせてよ。それまでずっとキミの隣にいるから。いい?」
「……勝手にしろよ」
気恥ずかしさのあまり、少年は目を逸《そ》らした。
そうせずにはいられないほど、年上の少女の笑顔は、彼にとって眩しすぎた。
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白蝋《はくろう》のような肌。
青黒く浮き上がった静脈が、罅割《ひびわ》れのように頬をびっしりと覆っている。
苦悶《くもん》に引きつった表情は、まさに断末魔のそれだ。
死んでいる――そう一目で知れた。
死んでるのに、まだ、動いている。
それはヒトの容《かたち》をしていても、既《すで》にヒトではない何かに成り果てているのだだと――どうしょうもなく明白に、少年はそう|理解し《わかっ》てしまった。
外は夜。もちろん街灯などない島である。それでも明るい月の光は、明るすぎるほど白々と、静かに窓から射し込んで惨劇《さんげき》の現場を照らしている。
村外れの鶏《にわとり》小屋だった。日中、なぜか姿を見せなかったシャーレイを捜して少年は村中を巡り、日が暮れてからも諦めず、ここに辿り着いた。
食い散らかされた鶏の死体と、その奥で、震えながら噎《むせ》び泣く死人[#「死人」に傍点]の許へと。
コロシテ――
大好きな女性《ひと》の顔をしたソレは、噎び泣くように、そう懇願《こんがん》してきた。
そっと少年の足許に投げ置かれた銀のナイフが、月の光を受けて凶々《まがまが》しく輝く。
怖いの――
自分の手じゃ、出来ない――
だから、お願い。キミが、殺して――
今ならまだ、きっと間に合う――
「そんな……」
かぶりを振って、少年は後退《あとずさ》った。
出来るわけが、ない。
どんな姿になろうとも、シャーレイはシャーレイだ。ずっと一緒にいると約束してくれた、大切な家族――いや、それ以上に大事な人なのだ。
お願いだから――
苦しげに喘《あえ》いだシャーレイの口から、ぞろりと鋭利な乱杭歯《らんくいば》が覗《のぞ》く。狂おしくなるほど哀れに泣きながら、少女は飢《う》えた獣《けもの》の|吐息《と いき》を漏《も》らした。
もう――|駄目《だめ》だから――抑えきれなくなる前に――早く――
瘧《おこり》のように震え、身悶《みもだ》えしながら、シャーレイは剥き出した牙で自分自身の前腕にかぶりついた。
ずる……
ずる……と、血を啜《すす》り上げる音が少年の鼓膜をくすぐる。
オネガイ――
執拗《しつよう》に乞《こ》い願うその声を、少年は自分自身の悲鳴でかき消して、鶏小屋から走り出た。
怖かったのは、恐ろしかったのは、変わり果てたシャーレイよりむしろ――足許に放り寄越されたナイフの輝きだった。
何が起こったのか解らない。解りたくもない。
ともかく、誰かに助けを乞わなければ。
きっとこの悪夢のような出来事を解決してくれる大人がいるはずだと、そう少年は信じた。
きっとシャーレイは助かる。誰かがきっと救ってくれる。
それを決して疑うまいと、祈るように自分自身に言い聞かせた。
シモン神父の教会までは、全力で走れば、たぶん五分もかからない。
泣き喚《わめ》きながら少年は走った。足の痛みも、動悸《どうき》の苦しさも、まったく意識しなかった。
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ナタリア・カミンスキー。そう女は名乗った。
南国の熱帯夜にはおよそ不釣り合いな|漆黒《しっこく》のレインコートに身を包み、なのに汗一つかく様子がない。青白い貌《かお》は冷酷そのものの無表情。はたして血が流れているのか、人並みの体温があるのかどうかさえ疑わしい。
それが、少年を|阿鼻叫喚《あびきょうかん》の地獄絵図から連れだした、命の恩人の風体《ふうてい》だった。
「さて坊や、そろそろ質問に答えて欲しいんだけど」
冷ややかな女の声に背を向けたまま、少年は、遠い彼方《かなた》で焼け落ちる漁村の様子を|凝視《ぎょうし》していた。
つい昨日まで平和だった村。つい数時間前まで月明かりの下で静かに眠っていた村が、いま業火に焼かれていた。入り江を挟んだ対面にある断崖から見下ろすその光景は、俄には信じがたい、タチの悪い悪夢にしか思えなかった。
そこで目にした優しい笑顔の数々が、もう決して戻らないなど――どうして納得できようか。
「……何が、どうなってる?」
乾いた声で問う少年に、ナタリアが鼻を鳴らす。
「先に質問したのはこっちだよ。坊や。いい加減、正気に戻ってくれないかい?」
「……」
少年はかぶりを振った。たとえ命の恩人であろうとも、今の自分の問いに対する答えがない限り、何一つ|喋《しゃべ》る気にはならなかった。
頑《かたく》なな沈黙から、ナタリアは彼の意図《いと》を汲《く》み取ったのだろう。さも面倒くさそうに|溜息《ためいき》をついてから、淡々と説明を始めた。
「今、あの村で暴れてる連中は二グループあってね。片方は『聖堂教会』の代行者。君が知ってるような優しい神父様とは訳が違う。神に背《そむ》いた罰当たりは皆殺しにしていい、と信じて疑わない連中だ。もちろん吸血鬼なんて見つけたら容赦しない。血を吸われた奴らも残さず殺すし、いちいち見分けてる余裕がなくなれば、血を吸われてるかもしれない[#「かもしれない」に傍点]奴であろうとも殺し尽くす。つまり今回は連中、まったく余裕がないってこと。
で、もう一方の『協会』は、ちょいと説明が難しいんだが――そもそも吸血鬼なんていう|奇天烈《き て れつ》なモンを生み出したのが誰なのか、その秘密を独り占めしたいっていう連中だ。当然、独り占め≠ェモットーなわけだから、他に事情を知ってそうな奴は残さず殺す。口封じ。証拠隠滅《いんめつ》。徹底的にやらなきゃ意味がない。
まぁそんな訳で、少年、君はとっても運がいい。今この島で、あいつらの大掃除[#「大掃除」に傍点]から逃げ延びて生きてる住人は、たぶん君人ぐらいなもんだろう」
おそらくはナタリアが予期していたよりもすんなりと、少年は事情を呑《の》み込んだ。何故そんな剣呑な連中がこのアリマゴ島にやってきたのか、その経緯についても察しがついた。
少年はシモン神父に助けを乞い、それを受けた神父は、また他の誰かに連絡をつけた。そんな伝達が島の外にまで及ぶうちに、どこかの過程で、それを決して聞かれてはならない者たちの耳にまで届いたということだ。
経緯はさておき、発端が誰なのかは疑うまでもない。――彼自身である。
少年がシャーレイの懇願を聞き届け、勇気を出して、愛しい少女の心臓をナイフで抉《えぐ》っていたならば、こんな惨状には至らなかった。
そうすることで、魂《こころ》にどんな空洞が空こうとも、二度と夜を安らかに眠れなくなろうとも――それ以上は誰も死なずに済んだ。
懐かしいあの場所は、少年が自ら火を放ったのも同然なのだ。
「……あんたは、どっちの味方なんだ?」
「私は『協会』相手のセールスマンさ。ヤツらが欲しがってる秘密″をこっそりと確保し、売り渡すのが仕事だ。勿論、こうして大事になるより前でなけりや商売にならない。今回はちと出遅れちまったね」
そう飄々《ひょうひょう》と肩を竦《すく》めるナタリアは、きっと、こんな光景をもう何度も見届けてきたのだろう。黒いコートの女は、まるで染みついた匂いのように、死と焔《ほのお》の気配を芬々《ふんぷん》と放っていた。
「さあ、それじゃあ坊や。振り出しに戻ろうか。そろそろ私の質問にも答えておくれ。
封印指定――といっても君には何のことやら解らんか。まぁともかく、だ。今回の吸血鬼騒ぎの元凶になった悪い魔術師が、この島のどこかに隠れてるはずなんだ。君、何か心当たりはないかい?」
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この場では余談に過ぎないが、ある意味では核心ともいえる件がある。
ケリィというのは少年の正しい名前ではない。
遠い異国で生まれた彼の名前は、この土地の人々にとっては甚《はなは》だ発音が難しかった。まず最初にシャーレイが彼をケリィという略称で呼び、それが島民の間でも定着してしまった。少年も、『ケリトゥグ』などという妙な発音で呼ばれるぐらいなら、いっそ略称の方がまだマシだと諦め半分に受け入れていた。
正しくは、切嗣《きりつぐ》という。
封印指定の魔術師、|衛宮矩賢《えみやのりかた》の嫡子《ちゃくし》が彼だった。
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深夜、ジャングルの奥のバンガローに帰宅した切嗣を、父は安堵《あんど》の表情で迎えた。
「ああ、切嗣、無事だったか。本当に良かった……」
顔を見るなり、抱擁《ほうよう》される。もう何年ぶりになるかも解らないほど久しい父の腕を切嗣は背中と両肩に感じた。堅物の父がこんな風に感情を露《あら》わにすることなど|滅多《めった 》にない。それだけでも、普段秘められている親子の情を感じずにはいられなかった。
それから手を放し、父は表情を一転させて険しく切嗣を詰問にかかる。
「今日は絶対に森の結界から出るなと、さんざん言い含めておいた筈《はず》だぞ。なぜ私の言いつけを破った?」
「……シャーレイが心配だった」
少女の名前が出た途端、父は気まずそうに目を逸らす。ただそれだけの仕草でも、事の次第を確認するには充分すぎた。
「父さんは、彼女の身体に何が起こったか、知ってたんだね? だから僕に外出するなって命令したんだね?」
「……あの子については、本当に残念だ。試薬は危険だから決して触るなと言っておいたんだが。どうやら好奇心に勝てなかったらしいな」
苦りきった口調ではあったが、そこには悔恨《かいこん》も慚愧《ざんき》もなかった。まるで子供に悪戯で割られてしまった花瓶について語るかのような、遣り場のない怒りと苛立《いらだ》ちだけがあった。
「……ねえ父さん、なぜ死徒の研究を?」
「もちろん、私とて本意ではないさ。だが我ら衛宮の探求には、どうあっても久遠《くおん》の時が要る。私か、さもなければ切嗣、せめてお前の代までには、寿命についての対策を講じておく必要があった。死せる運命《さだめ》に縛《しば》られた肉体では、『根源』は遠すぎる」
月明かりの下で見たシャーレイの哀れな姿が、切嗣の脳裏にまざまざと蘇った。
「父さんは……いずれ僕のことも、あんな姿に?」
「馬鹿を言え。吸血衝動を抑えされない死徒化など失敗だ。――その点、図《はか》らずもシャーレイは早々に答えを出してくれたな。手間|暇《ひま》かかった試薬だったが、どうやら結果は芳《かんば》しくない。また根幹から理論を見直さなければ」
「……そうなんだ」
切嗣は頷き、納得した。
父は続ける気なのだ。この程度の|犠牲《ぎ せい》にはめげることもなく、何度でも繰り返し、満足いく結果を手にするまで。
「切嗣、この話の続きはまた今度にしよう。今は逃げるのが先決だ。――悪いが、お前に荷造りさせている余裕はない。そろそろ協会の連中がこの森の結界を見破る頃合いだ。すぐにも出るぞ」
そう言う父の方はといえば、かねてから旅支度《たびじたく》を調えていたと見えて、部屋の片隅《かたすみ》に大型のスーツケースを二つ並べている。逃亡の準備は既に済んでいたのだ。なのに今の今まで出発を遅らせていたのは――ここに息子が戻ってくるものと、最後まで疑わず、諦めなかったからなのか。
「……逃げられるの? 今から」
「こんなこともあろうかと、以前から南側の海岸にモーターボートを隠しておいた。備えあれば憂《うれ》いなし、だ」
両手にスーツケースを提《さ》げて玄関へと向かう父の背中には――無論、なんら警戒の意識はない。
重い足を引きずるようにして後に続きながら、切嗣はズボンのポケットから、ナタリアに借りた拳銃をそっと引き抜いた。
三二口径。至近距離から落ち着いて狙えば、子供でもきちんと当てられる。そう黒いコートの女は請《う》け負《お》った。あとは切嗣の問題だ。
無防備な父の背後に銃口を向けながら、少年は、燃え上がる漁村の光景を、変わり果てたシャーレイの末期を思い浮かべようと心に念じ――なのに胸に湧《わ》き起こるのは、一〇年余り積み重ねてきた父との記憶。その秘めた優しさと情愛に気付かされてきた、思い出の数々だった。
愛されていた。期待されてた。自分もまた愛した。誇《ほこ》っていた。
せめて目を瞑《つむ》りたいと、そう思う気持ちとは裏腹に、切嗣は両目を見開いて狙いを定め、そっと速やかに引き金を絞った。
ぱん――思いのほか軽く乾いた音。
後ろから頸《くび》を撃ち抜かれた父は、つんのめるようにして前に倒れた。そのまま切嗣は歩みを止めずに近寄りながら、続けて後頭部に一発。二発。それから立ち止まり、背骨めがけてもう二発を撃ち込んだ。
信じられなかった。自分の冷静さに、他でもない切嗣自身が|怯《おび》えた。
最後まで迷っていた。たしかに心に|葛藤《かっとう》はあった。なのに銃を手にした後は、まるですべてが予定調和であるかのように手が動いた。彼の身体は、胸の内の想いを一切|斟酌《しんしゃく》することなく、機械仕掛けの速やかさで為すべきコト≠遂行した。
こういうのも、才能というのだろうか――そんな皮肉な感慨が脳裏に浮かび、何の達成感もないままに虚無《きょむ》へと還る。
木張りの床に、ゆっくりと血の染みが拡がっていく。父はもういなかった。そこに転がっているのはただの屍《しかばぬ》でしかなかった。こんなモノ[#「モノ」に傍点]が元凶で、こんなモノ[#「モノ」に傍点]を奪い合って、この島の住人はすべて殺され、燃やされた。
|素晴《すば》らしい人だとシャーレイは言った。世界を変えてしまえる力の持ち主だと。切嗣もまたそう思っていた。
幼い二人は、魔道を何だと思っていたのか。魔術師という生き様に何を期待していたのか。
はじめ、切嗣は自分が泣いているのにさえ気付かなかった。悲しいのか悔しいのかも解らない。ただ、底抜けに虚《うつ》ろな喪失感だけがあった。
右手の銃が重い。耐えきれないほど重い。投げ捨てようとしたが出来なかった。指が銃把に固く絡《から》みついたまま動かない。
暴発させる危険も畏れず、切嗣は乱暴に右手を振り回し、何とかして銃を手放そうとした。だがムキになればなるほど、指はまるで縋《すが》るかのように固くきつく銃を握り締める。
そのとき誰かが荒々《あらあら》しく彼の腕を掴み、するりと手品のように簡単に、その手から銃を奪い取った。そこでようやく切嗣は、すぐ隣にいるナタリアの存在に気付いた。
「坊やに警告されたほど、ここの結界は手強《てごわ》いモンじゃなかったよ。わりと簡単に突破できた」
なぜか叱《しか》りつけるかのようにきつい口調で、ナタリアが吐き捨てる。
「……怒ってるのか? あんた」
「そうと解ってりゃ、こんなもの、坊やに渡すまでもなかったからね」
切嗣から取り返した拳銃を忌々しげに|一瞥《いちべつ》してから、彼女は安全装置を戻して懐《ふところ》に仕舞《しま》った。
「でも結局、あんたが間に合うかどうかは運任せだったわけだろ?」
事実、際どいところだった。衛宮矩賢は今まさに屋敷を出ようとしていたのだ。この場を無事に逃げ延びたなら、彼は再び姿をくらまし、また何処《どこ》かで死徒の研究を再開していたことだろう。この島で引き起こした惨劇を再発させる危険も、一切|顧《かえり》みることなく。
運になど頼れなかった。断じて、逃がしてはならなかったのだ。
「この人を、確実に殺そうと思ったら――僕がやるしかなかった」
「そいつは子供が親を殺す理由としちゃ下《げ》の下《げ》だよ」
憮然として吐き捨てるナタリアに、切嗣は泣き濡れた顔のまま、何かが吹っ切れた気分で笑いかけた。
「……あんた、いい人なんだな」
その笑顔をナタリアはまじまじと見つめ、それから溜息をついて、衛宮矩賢の死体を肩に担《かつ》ぎ上げた。
「島の外までは連れ出してやる。後のことは自分で考えな。――何か、持っていくものは?」
切嗣はきっぱりとかぶりを振った。
「何もない」
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結局のところ……続く数年の歳月を、切嗣はナタリア・カミンスキーの許《もと》で過ごした。
当然ながらナタリアは、孤児をただの子供として養うほどの余裕も恩情も持ち合わせていない人物だった。必定、切嗣は一端の働き手として使役される羽目になったが、それは彼が望んだことでもあった。
ナタリアから学ぶことで自らを|鍛《きた》えるということは、取りも直さず、ナタリアと同じ道――即ち狩人≠ニしての人生を歩むという決意に他ならない。
外界という現実に身を曝した切嗣は、ほどなく思い知らされた。アリマゴ島での惨劇は、決して希有《けう》な事例ではなく、この世界の闇の領域では日常|茶飯事《さはんじ》のように繰り返されている愚行なのだと。
求道に執心するあまり、災厄《さいやく》を撒き散らすことも辞さない魔術師たち。そしてそれを秘密裏《ひみつり》に収拾するためならば手段を選ばない二大組織。神秘とその秘匿《ひとく》を巡る闘争は、至る所で頻発していた。それこそナタリアの仕事が稼業として成立するほどに。
衛宮矩賢という魔術師を葬り去った行為などは、悲劇の再発を防ぐなどという名目には程遠い――ほとんど大海から一滴の水を掬《すく》い上げたに等しい、虚しいほどに些細な処置だったのだ。
あの日、この手で父を殺したことに、本当の意味で価値を見出そうと思うなら……
それは父と同じ異端の魔術師たちを、全て残らず狩り殺した果てに、ようやく見出せる救済でしかなかった。
封印指定執行者。
条理の外の魔を狩る猟犬。そんな人ならざる修羅の生き様を、少年は何の躊躇《ちゅうちょ》もなく決意した。
ナタリアは組織に属さず、報奨金のみを目当てに獲物を狩る完全なフリーランスだった。彼女が標的とするのほ、貴重な研究成果を上げながらも魔術協会の管理を離れて隠棲し、秘密裏にさらなる真理を探究しようとする『封印指定』の魔術師たちだ。彼ら異端者を審問の名の下に抹殺《まっさつ》する『聖堂教会』とは異なり、魔術協会はその研究成果の確保こそを最優先する。
わけても貴重なのは魔術師たちの肉体に刻まれた『魔術刻印』だ。歴代を重ねて深めた魔道を後継者の肉体そのものに刻み込むことで、彼らは次なる世代により深淵なる探求を託《たく》すのである。
ナタリアは協会と交渉し、衛宮矩賢の遺骸から回収された魔術刻印の一部を、息子の切嗣に継承させた。貴重な要所を協会側が押さえた上での譲歩であり、矩賢が息子に託そうとした総刻印の二割にも満たない『残り|滓《かす》』でしかなかったが、それでも切嗣が魔術師として自立するには充分だった。もとより切嗣には、父の遺志を継いでさらなる研究を進める意図など毛頭なかった。
魔術を|生涯《しょうがい》の目的としてでなく、ただの手段の一環とする形で、切嗣はナタリアから教えを受けた。事実、それは少年が女ハンターから叩き込まれた数々の手段≠フ一つでしかない。
追跡術。暗殺術。多種多様な兵器の取り扱い――猟犬の牙≠ヘただ一本限りではない。あらゆる環境と条件の下で獲物を追いつめ、仕留めるためには、次々と多彩な技術や知識を身につける必要があった。
ある意味でそれは、人類の英知の極北たる側面でもあった。自らと同じ容姿をした二本足の獣を狩るために、人間がどれだけの歴史と知性を費やして『殺人』のテクノロジーを磨き上げてきたのかを、切嗣は身をもって学び取った。
血と硝煙《しょうえん》にまみれた歳月は、飛ぶように過ぎた。
青春期のもっとも多感な時期を、苛烈《かれつ》すぎる経験と鍛錬《たんれん》の中で過ごした衛宮切嗣の風貌には、既に少年のあどけなさなど欠片《かけら》も残っていなかった。年齢不詳《ふしょう》と思われがちな東洋人であることもあいまって、三通ある偽造パスポートはすべて成人として登録され、ただの一度も疑われることなく通用した。
よしんば背丈《せたけ》や髭《ひげ》の薄さについて気に留める者がいたとしても、その沈鬱《ちんうつ》に冷えて枯《か》れきった眼差《まなざ》しを、まさか十代の少年のものだと思いはすまい。
その日――
師であり相棒でもあるナタリアが、生涯最悪の危機に直面したときも、切嗣はそれを知った上で一切の感情を面《おもて》に出すことなく、着々と自分の務めを果たしていた。
内心は焦《あせ》りと動揺に乱れきっていたものの、どのみち切嗣にナタリアを援護する手段など何一つなかったのだ。いま彼女が戦う戦場は、高度三〇〇〇フィート以上もの空の上――ジャンボジェット旅客機の内部だった。
事の発端は、『魔蜂使い』の異名で知られる魔術師、オッド・ボルザークの追跡から始まった。
限定的ながらも死徒化に成功し、自らの使い魔である蜂《はち》の毒針を介して配下の屍食鬼《ししょくき》を増やすという危険きわまりないこの魔術師は、顔を変え、偽の身分を繕って一般人に成り済ましたまま、長らく消息を絶っていた。その彼が、パリ発ニューヨーク行きのエアバスA300に搭乗するという情報を得たのが四日前。ナタリアは、この容姿も偽名も判らない標的を二八七人の乗客の中から探し出すという困難極まりない狩り≠ノ、敢然《かんぜん》と挑戦した。
相棒の切嗣は同乗せず、代わりにニューヨークへ先行して有望な情報筋を辿り、ボルザークの変装を見破る手掛かりを追う役を任された。師弟《してい》二人は空と地上から密接に連絡を取りつつ、密閉された空間の中で、静かに、着実に、獲物の座席を絞り込んでいった。 離陸から約三時間――暗殺そのものは思いのほか速やかに達成された。が、むしろそれは本当の惨劇の幕開けでしかなかった。
ボルザークが税関を欺いて機内にまで『死徒蜂』を持ち込んでいたことが、致命的な番狂わせになった。ナタリアが仕留めそこなった蜂は次々と乗客を刺し、ジャンボジェットの客席は瞬く間に屍食鬼たちの跋扈《ばっこ》する地獄へと|変貌《へんぼう》したのだ。
逃げ場のない閉鎖空間で、際限なく増殖する屍食鬼たちに襲われたのでは、さしものナタリアといえども状況は絶望的である。刻一刻と悪化していく状況を、為《な》す術《すべ》もないまま無線で聞きながら、だがそれでも切嗣は、ナタリアの生存の可能性を決して見捨てなかった。
ナタリアが再三に渡り切嗣に言い含めてきた大原則――『何があろうと手段を選ばず生き残る』という信条は、あの百戦錬磨《れんま》の女狩人に今回も活路をもたらすものと、切嗣は固く信じていた。既に沈黙したきり二時間が経過する野外無線機の前に腰を据えたまま、彼はただ黙然と、相棒からの通信を待ち受けていた。
やがて、夜空の星が黎明の青灰色に掻《か》き消されはじめた頃、ついに無線が沈黙を破り、疲れ切った女の声をノイズ混じりに届けはじめた。
『……聞こえてるかい? 坊《ぼう》や……寝ちまっちゃいないだろうね?』
「感度良好だよ、ナタリア。お互い徹夜明けの辛《つら》い朝だね」
『昨夜の君がベッドで安眠してたんだとしたら後で絞《し》め殺してやりたいよ……さて、良いニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?』
乾いた笑い声の後で、ぶっきらぼうに問いかけるナタリア。
「良い報せから話すのがお約束だろう?」
『オーケイ。まず喜ばしい話としちゃあ、とりあえずまぁ、まだ生きてる。飛行機の方も無事だ。ついさっきコックピットを確保したばかりでね。機長も副操縦士もご臨終《りんじゅう》ってのが泣けるところだが、操縦だけなら私でもできる。セスナと同じ要領で何とかなるなら、の話だけどさ』
「管制塔と連絡は?」
『つけたよ。初めは悪ふざけかと疑われたけどね。優しくエスコートしてくれるとき』
「……で、悪い方は?」
『ん。――結局、咬《か》まれずに済んだのは私だけだ。乗員乗客三〇〇人、残らず屍食鬼になっちまった。コックピットから扉一枚隔てた向こう側は、既に空飛ぶ死都ってわけ。ぞっとしないねぇ』
「……」
切嗣が想定しうる最悪の――そして、万が一の場合には有り得るものと覚悟していた状況だった。
「その有様で、あんた……生きて還ってこれるのか?」
『まあ扉は充分に頑丈《がんじょう》だしね。今もガリガリ引っかかれてるけど、ブチ破られる心配はないさ。――むしろ着陸の方が不安でねぇ。こんなデカブツ、本当にあしらいされるもんなんだか』
「……あんたなら、やってのけるさ。きっと」
『励《はげ》ましてるつもりかい? 嬉《うれ》しいこったね』
引きつった笑いの後に、力のない溜息。
『空港まであと五〇分ちょっと。祈って過ごすには長すぎるねぇ。――坊や、しばらく話し相手になっておくれ』
「……構わないよ」
そうやって、他愛もない話が始まった。まず連絡の途絶していた過去二時間の報告から始まり、それから死んだボルザークに対する語り尽くせぬ罵詈雑言《ばりぞうごん》が開陳され、あとは自然と、二人が過去に仕留めてきた魔術師や死徒たち、共に潜り抜けてきた|修羅場《しゅら ば 》の回想へと話が及んだ。
普段は多くを語らないナタリアだが、今日に限ってはことのほか饒舌《じょうぜつ》だった。客席から聞こえる屍食鬼たちの|唸《うな》り声や、延々《えんえん》とコックピットの扉を叩き続ける音から気を逸らそうと思うなら、そうやって話し続けるのが一番だったのだろう。
『――坊やがこの稼業を手伝いたい、って言い出したときにはね、ほんと頭を痛めたもんさ。どう言い聞かせようと諦めそうになかったからねぇ』
「そんなに僕は、見込みのない弟子だったのか?」
『いや違う。……見込みがありすぎたんだよ。度を過ぎて、ね』
ひときわ乾いた苦笑とともに、ナタリアはそう告白した。
「……どういう意味だい?」
『指先を、心と切り離したまま動かすっていうのはね − 大概の殺し屋が、数年がかりで身につける覚悟なんだ。坊やはソレを最初から持ち合わせた。とんでもない資質だよ』
「……」
『でもね、素質に沿《そ》った生業《なりわい》を選ぶってのが、必ずしも幸せなことだとは限らない。才能ってやつはね、ある一線を越えると、そいつの意志や感情なんぞお構いなしに人生の道筋を決めちまう。人間そうなったらオシマイなんだよ。何をしたいか≠考えずに何をすべきか≠セけで動くようになったらね……そんなのはただの機械、ただの現象だ。ヒトの生き様とは程遠い』
長らく少年の成長を見守ってきた師の言葉は、彼の心に、冷たい霜《しも》のように染み通った。
「僕は、さ。――あんたのこと、もっと冷たい人だと思ってた」
『何を今更。その通りじゃないか。私が坊やを甘やかしたことなんて、一度でもあったかい?』
「そうだな。いつだって厳しくて、手加減抜きだった。――あんた、手抜させずに本気で僕のこと仕込んでくれたよな」
『……男の子を鍛えるのは、ふつう父親の役目だからね』
通信機の向こうで、ナタリアはしばし口ごもった後、何かに呆れたかのように溜息を交えながら、しみじみと告白した。
『坊やの場合、そのチャンスを奪っちまったのは、この私が原因みたいなものだ。まぁ何ていうか……引け目を感じないでもなかったんだろうさ』
私に教えられる生き方なんて、他にはなかったからねぇ――そうナタリアは自嘲気味に笑って付け足した。
「……あんたは、僕の父親のつもりで?」
『男女を間違えるなよ、失礼なヤツめ。せめて母親と言い直せ』
「……。そうだね。ごめん」
軽口で返したかったが、切嗣にはもうそんな余裕はなかった。|掠《かす》れた声で、そう詫《わ》びるのが|精一杯《せいいっぱい》だった。
顔も見えない無線の会話では、当然、お互いの表情など知る由もない。だから今の切嗣の心境も、ナタリアには伝わらなかったのだろう。
『……長い間、ずっと一人で血腥《ちなまぐさ》い毎日を過ごしてた。自分が独りぼっちだってことさえ忘れてしまう程《ほど》にね。
だから、まぁ……フン、それなりに面白可笑《おもしろおか》しいモンだったよ。家族、みたいなのと一緒ってのは』
「僕も――」
今になってそれを告げることに、一体どんな意味があるのかと、そう冷淡に自問する声を胸の内に聞きながら、それでも切嗣は言葉を続けた。
「――僕も、あんたのこと、まるで母親みたいだって思ってた。一人じゃないのが、嬉しかった」
『……あのな、切嗣。次に会うときに気恥ずかしくなるようなことを、そう続けざまに言うのはやめろ』
ナタリアの声には、わりと本気に近い困惑の色が窺えた。彼女もまた、照れる≠ニいうのには慣れていないのだ。
『ああもう、調子が狂うねぇ。あと二〇分かそこらで着地《ランディング》だってのに。土壇場《どたんば》で思い出し笑いなんぞしてミスったら死ぬんだぞ。私は』
「……ごめんよ。悪かった」
意味のない詫び言だった。
ナタリアが滑走路《かっそうろ》への着地に挑む必要はない。
彼女が再び切嗣と会うこともない。
それを理解しているのは切嗣だけだ。
屍食鬼たちを、増殖に先んじて殺し尽くせなかった時点で、ナタリアの生還はないものと切嗣は観念した。亡者たちに埋め尽くされた旅客機は、操縦者不在のまま大西洋に墜落するしかない。『魔蜂使い』ポルザークの抹殺は、ナタリア・カミンスキーと全乗客の命を犠牲にした上で完了する――その結末を、切嗣は苦い達成感として甘受するつもりでいた。
だが切嗣とて、師であるナタリアが土壇場で発揮《はっき》する勝負強さを侮っていたわけではない。『何があろうと生き残る』という不屈を信条とする彼女が、万が一にも、機体を墜落の運命から救ってしまう可能性を、切嗣は見逃さなかった。――予想しうる、最悪の事態を。
自らの生存を最優先するナタリアは、それが結果としてもたらす事態にも躊躇しないだろう。
三〇〇体に及ぶ屍食鬼たちを満載したまま旅客機を着陸させ、飢えた亡者の群れを空港に解き放つことになろうとも ー そうする以外に助かる望みがないのなら、ナタリアはきっと断行する。そういう彼女だと知っていたからこそ、切嗣は万が一≠フ場合に備えるために死に物狂いで準備を整えた。
さらなる災厄の拡大を避けようと思うなら――あのエアバスA300は、決して着陸させてはならない。
それはナタリアの安否《あんぴ》がどうであれ、揺るがしようのない事実だったのだ。
深夜のニューヨークを奔走《ほんそう》してありったけのコネに渡りをつけ、やっとの思いで、ブラックマーケットに流出していたブローパイプ携行地対空ミサイルを確保したのが、つい一時間ほど前。
そして今、切嗣は洋上に浮かべたモーターボートの上で、ナタリアの乗機が視界に現れるのを待っている。ジャンボジェットの航路の直下、ニューヨーク国際空港へのアプローチに際して機体が高度を下げ、ミサイルの有効射程に入るギリギリのポイントだった。
武器の買い付けに躍起になる間も、盗難した船で射撃位置を目指す間も、切嗣は自分という人間の精神構造を疑い続けていた。
ナタリアの死を諦観《ていかん》するだけならまだ解る。むしろそれが惨劇の回避に繋がるのだと自分を慰《なぐさ》めたとしても、それはまだ正常な反応だ。
だが、愛しい女が生き残るという奇跡≠ノ備えて、あらためて彼女を確実に殺す算段を着々と滞《とどこお》りなく進めている自分は、いったいどういう人間なのか? せめて杞憂に終わったなら、まだ慰めもあっただろう。だが現実はどこまでも残酷に、衛宮切嗣を追いつめた。あくまで彼自身の手でナタリアを抹殺させるべく、今、奇跡の生還を果たしたエアバスA300は、暁《あかつき》の空から銀翼を輝かせて切嗣の前に姿を現す。
『……ひょっとすると、私ももう、ヤキが廻ったのかも知れないね』
無線の向こうの切嗣はニューヨークのホテルにいるものと信じて疑わず、ナタリアは依然、油断しきった長閑《のどか》な声でそうぼやいた。
『こんなドジを踏む羽目になったのも、いつの間にやら家族ゴッコで気が緩《ゆる》んでたせいかもな。だとすればもう潮時だ。引退するべきかねぇ……』
「――仕事をやめたら、あんた、その後はどうするつもりだ?」
切嗣も、声だけはまだ平静を装っていられた。その一方で彼の両腕は、担ぎ上げたブローパイプ・ミサイルの照準を旅客機の機影に据えていた。
『失業したら――ハハ、今度こそ本当に、母親ゴッコぐらいしかやることがなくなるなぁ』
涙に滲《にじ》む目が、それでも正確に距離表示を読み取る。――1500m以内。必中確実。
「あんたは――僕の、本当の家族だ」
小さく、罅割れた声でそう囁いてから、切嗣はミサイルを射出した。
数秒間の手動誘導。その指先で殺意の照準をナタリアの乗機に据え続ける間に、彼女との思い出のすべてが脳裏を過ぎる。
だがその責め苦も長くは続かない。いよいよ弾頭のシーカーがジェット機の放熱を捕らえると、ミサイルは切嗣の制御を離れ、飢えた鮫《さめ》じみた呵責《かしゃく》無さで標的へと襲いかかる。
翼下のエンジンに直撃を受け、翼をもぎ取られて斜めに傾ぐ機影を、切嗣はその日ではっきりと捕らえた。
その後の崩壊は、もう風に吹き消される砂絵の如く――空力特性を失った鉄塊《てっかい》は挽《ひ》き|潰《つぶ》されるようにして捻《ねじ》れ寸断され、粉微塵《こなみじん》の破片《はへん》になって朝の海へと静かに降っていく。朝焼けの中にキラキラと舞い落ちるその様は、まるでパレードの紙吹雪《かみふぶき》を連想させた。 水平線の彼方から、曙光《しょこう》の最初の一筋が射した。ついにナタリアが浴びることのなかった、今日という日の光に照らされながら、衛宮切嗣は独り、声を殺して泣き続けた。
また再び、顔も見知らぬ大勢を救った。誰に知られることもなく。 見ていてくれたかい? シャーレイ……
今度もまた殺したよ。父さんと同じように殺したよ。キミのときみたいなヘマはしなかった。僕は、大勢の人を救ったよ……
もし仮に切嗣の行為が、その意図が人々に知れ渡ったとしたら、彼らは感謝するのだろうか? 結果として屍食鬼の恐怖から免《まぬが》れた空港の人々は、切嗣を英雄と讃《たた》えるのだろうか?
「ふざけるな……ふざけるなッ! 馬鹿野郎ッ!!」
早くも余熱の冷めはじめたミサイルの射出筒を握りしめ、切嗣は明けゆく空に向けて吼える。
名誉も、謝恩も欲しくなかった。ただもう一度ナタリアの顔が見たかった。いつか面と向かって『母さん』と呼べる日を待っていた。
こんな結末を願ったわけじゃない。それでも正しい判断だった。どうしようもなく、異論の余地もなく、切嗣の決断は正しかった[#「正しかった」に傍点]。死ぬしか他にない者が抹殺され、死ぬ理由のない者たちが救われた。これが『正義』でなくて何なのか。
もう戻らない、遠い日の面影を思い出す。眩しく透き通った日差しの中で、どんな大人になりたいか≠ニ問うてきた、愛《いと》おしい人の眼差しを。
あのとき、切嗣は答えるはずだった。――もしも世界を変えられるなら、奇跡がこの手に宿るなら、『僕は正義の味方≠ノなりたい』と。
あの頃はまだ解っていなかった。正義≠ニいう名の天秤が、何を奪い、何をこの手に為さしめるのかを。
正義≠ヘ父を奪っていった、母も同然だった人を奪っていった。その血の感触を手に残し、彼らを懐かしく偲《しの》ぶ権利さえ切嗣から奪っていった。
愛しい人々。その声も、その面影も、もう決して安らかに回顧《かいこ》することなど叶《かな》わない。代わりに彼らは、永遠に悪夢の中で切嗣を苛《さいな》み続けることだろう。非情の判断で彼らを見捨て、その命を摘《つ》み取っていった切嗣を、決して放《ゆる》しはしないだろう。
それが正義≠ニやらの仕打ちだ。憧《あこが》れ求めた理想の代価だ。
いまさら止められるはずもない。立ち止まったその瞬間から、追い求めたものは無為になる。支払った代価も、積み上げた犠牲も、すべて無価値に|崩《くず》れ去る。
きっと自分はこれからも、胸に宿る|理想《ユメ》に従うのだろう。それを憎みながら、呪いながら、|過《あやま》たず成し遂げていくのだろう。
受け入れよう、と、心に誓う。
この呪いを受け入れよう。この怒りを受け入れよう。そしていつか涙の涸《か》れ果てた彼方に、すべてが報われる日を祈ろう。
この手に担う残酷が、ヒトの極みにあるならば。
きっと地上の全ての涙をかき集め、拭い取ることも叶うはず。
それは衛宮切嗣の、少年の日の終わり――
脆《もろ》く、忌まわしく、そして揺るがざる道を定めた朝だった。
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ACT13
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-48:11:28
まだ未明の時刻に、言峰綺礼《ことみねきれい》は遠坂《とおさか》邸の門前に立った。
アーチャーの召喚以来、実に十日ぶりの訪問である。それ以前の三年間、短いながらも魔術師見習いとして過ごした学舎でもある洋館は、この冬木《ふゆき》において教会以上に馴染み深い場所でもあった。
「ようこそ、綺礼。待っていたよ」
非常識な時間の来客にもかかわらず、遠坂時臣《ときおみ》は呼び鈴に応じてすぐさま玄関に現れた。昨夜の冬木教会での会見から一睡《いっすい》もしていないのだろう。綺礼は師弟の礼に則《のっと》って深々と頭《こうべ》を垂れた。
「冬木を退去する前に、一言、ご|挨拶《あいさつ》に上がりました」
「そうか……急な話で本当に済まなかった。こういう形で君と離別するのは、私としても残念だ」
言葉とは裏腹に、時臣の表情には綺礼を見限った疚《やま》しさなど微塵もない。当然といえば当然である。時臣の知る限りにおいて、言峰綺礼とは、ただ遠坂家が聖堂教会から借り受ける形で預かった駒《こま》でしかないのだ。
綺礼にとって聖杯戦争は何の報償もない、単に上層部からの任務として課せらた戦いでしかなかった――そういう理解であれば、いま綺礼と袂《たもと》を分かつのは裏切りでも排斥《はいせき》でもなく、ただの責務からの解放である。別れを告げるにあたっては、ただ労をねぎらうだけのことだろう。
「昼の便でイタリアに発ち、まずは父の遺品を本部に届けます。しばらくは日本に戻ることもないかと」
「そうか……上がって、少し話をしていく時間はあるかね?」
「ええ。問題ありません」
綺礼は胸の内の感情を一切覗かせることなく、再び遠坂家の敷居を跨《また》いだ。
[#中央揃え]×      ×
「返す返すも、残念でならない。綺礼、どうか君には璃正《りせい》さんに代わって、我が遠坂の悲願の成就を見届けてほしかったのだが……」
時臣以外の家人がすべて失せたにも拘わらず、応接間は埃《ほこり》一つなく清潔に保たれていた。おそらくは低級霊か何かを使役しているのだろうが、戦時に於いてもこの余裕ある気配りは、さすが時臣といったところか。
「君のアインツベルンに対するスタンドプレイは、まあ遺憾《いかん》ではあるが、あくまで私に有利な展開を期してのものだったのだろうと理解している。代行者なりの流儀だったのかもしれんが、やはり私に対しては事前なり事後なりに一言欲しかった。そうと知っていれば私とて、むざむざ昨夜の会合に君を同伴したりはしなかっただろう」
寛大なる許容の態度に、綺礼はさも痛み入ったとばかりに目を伏せた。
「導師には、最後までご迷惑をおかけしてしまいました。面目次第もありません」
謝罪に頷いた上で、時臣は真顔のまま、熱を込めた真摯さで言峰に語りかけた。
「たしかに我々を引き合わせた契機は聖杯戦争だったわけだが、経緯はどうあれ、私は君という弟子を得たことを今でも誇りに思っている」
綺礼はつい感情を抑えるのを忘れて失笑を漏らしそうになったが、そんな弟子の内心は露《つゆ》知らず、時臣は嘘|偽《いつわ》りない真意を込めて先を続けた。
「素養についてはまぁ致し方ないとはいえ、修練に励む求道者《ぐどうしゃ》としての姿勢は、師である私でさえ敬服させられるものだった。――なぁ綺礼、どうか今後とも、亡きお父上のように君もまた、遠坂との縁故を保っていってほしいと思うのだが、どうだろう?」
「願ってもないお言葉です」
綺礼は灰《ほの》かな笑みさえ見せて頷いた。過去三年間を通じて、終始、弟子の人格と精神性を見誤ってきた時臣は、今回もまた、その微笑の意味を履き違えたまま、さも喜ばしそうに頷き返した。
「まさに君は、鑑《かがみ》となるべき人格の持ち主だ。ぜひ我が娘にも見習わせたい。今回の聖杯戦争が終わった後も、綺礼、君には兄弟子として凛《りん》の指導に当たって欲しいのだ」
そして時臣は、かねてからテーブルの片隅に用意してあった書簡を時臣に差し出した。
「……導師、これは?」
「まぁ簡略なものではあるが、遺言状のようなものだ」
そう告げてから時臣は、まるで柄《がら》にもないことを口にしてしまったかのように、決まり悪げな苦笑を浮かべた。
「万が一、ということも考えておくべきだと思ってね。凛に遠坂の家督を|譲《ゆず》る旨《むね》の署名と、それからアレが成人するまでの後見人として君を指名しておいた。これを『時計塔』に届けてくれれば、後の諸事は協会の方で面倒を見てくれる」
いよいよ口先だけではなく本気なのだと思い知らされ、綺礼は皮肉な思いに囚われる一方で、彼ならではの生真面目《きまじめ》な気性から、その責任を重く受け止めた。あくまで綺礼は聖職に就く身である。託《たく》された務めを果たすことにかけては誠実かつ厳格でなければならない。
「お任せください。不肖《ふしょう》ながらも、御息女については責任を持って見届けさせていただきます」
「ありがとう。綺礼」
短い言葉に重い謝意を込めてから、さらに時臣は、書簡の隣に置いてあった黒炭の細長い箱を手に取り、綺礼へと渡した。
「開けてみたまえ。これは君個人に対して、私から贈りたい」
促されるままに箱を開けると、そこには|天鵞絨《ビロード》の内張の中に、一振りの瀟洒《しょうしゃ》な短剣が収められていた。
「これは――」
「アゾット剣だ。当家伝来の宝石細工でね、魔力を充填しておけば礼装としても使える。――君が遠坂の魔道を修め、見習いの過程を終えたことを証明する品だ」
「……」
綺礼は短剣を手にとって見つめた。その鋭利に研ぎ上げられた切っ先を、じっくりと時間をかけて眺めた。
すべての感情をうち消したその面持ちも、あるいは時臣の目には、感激に極まっているものと写ったのかもしれない。
「我が師よ……至らぬこの身に、重ね重ねのご厚情。感謝の言葉もありません」
「君にこそ感謝だ。言峰綺礼。これで私は後顧《こうこ》の憂いなく最後の戦いに臨むことができる」
無垢《むく》なほどに澄《す》んだ笑顔でそう言って、時臣はソファから腰を上げた。
今――綺礼は、運命というものに想いを致さずにはいられない。
それは偶然の堆積《たいせき》に意味を見出す虚しい試みだという。ならば今この時、このタイミングで、遠坂時臣が言峰締礼に刃物を手渡すという出来すぎた事態にすら、なんの必然もないというのか。
「長く引き留めてしまって、済まないね。飛行機の時間に間に合うといいのだが――」
――そして今、応接間の出口の方を向いた時臣が、あまりにも無防備すぎる背中を綺礼の眼前にさらけ出すのも、ただの偶然の仕業というのか?
「いえ、心配はご無用です。導師」
――或いはそれが必然ならば、運命とは、ただひたすら愚鈍《ぐどん》と過ちと蒙昧《もうまい》によってのみ紡《つむ》ぎ上げられていくのだろうか。ヒトの祈りを、希望を裏切り、すべてを裏目へと導いていくために?
綺礼は笑った。いつになく朗《ほが》らかに。
「もとより、飛行機の予約などしておりませんので」
自分にもこんな笑い方が出来るのだという事実に驚いた。目の前の背中へと突き入れた短剣の手応えすらも、その意外性の前には霞《かす》んだ。
「……あ?」
友愛と信任の証《あかし》たるアゾット剣の切っ先は、|肋骨《ろっこつ》の|隙間《すきま 》から滑《なめ》らかに侵入し、心臓の真ん中を突き破っていた。修練を積んだ代行者ならではの正確無比な刺突《しとつ》であった。殺意も、何の予兆もなく、刺された時臣自身でさえも、胸の激痛が何を意味するのか|咄嗟《とっさ 》に理解できなかっただろう。
それでも、心臓の最後の一鼓動が送り出した血流が脳を一巡するまでの間、時臣には思考の猶予《ゆうよ》があった。よろめく足取りで振り向き、晴れやかな笑顔のままに手を血に染めた綺礼を見つめた時臣は――だが最後まで、その眼差しに理解の色を宿すことなく、ただ途方に暮れるばかりの呆《ほう》けた顔のまま、カーペット敷きの床に倒れ伏した。
きっとこの魔術師は、最後まで自らの認識に固執し、事実を事実として理解することもなく果てたのだろう。らしいと言えば、らしい。自らの生きる道を確信し、常に迷いなく足を踏み出し――すぐ足許に口を開けた陥落《かんらく》に、ついぞ目を遣ることすらしなかった人物であった。
冷えてゆく|亡骸《なきがら》の|傍《かたわ》らに、やおら燦然《さんぜん》たる気配が湧き起こり、煙《きら》びやかなる黄金のサーヴァントが実体化する。
「――フン、興醒《きょうざ》めな幕切れだ」
紅《あか》い双眸《そうぼう》には|侮蔑《ぶ べつ》も露わに、アーチャーはかつてのマスターの死相を|爪先《つまさき》で小突いた。
「もう一悶着《ひともんちゃく》ぐらいあるかと期待していたのだがな。見よ、この真抜けた死に顔を。最後まで己《おのれ》の愚劣さに気付かなんだという面《ツラ》だ」
「すぐ傍に霊体化したサーヴァントを|侍《はべ》らせていたのだ。油断したのも無理はあるまい」
綺礼の皮肉に、アーチャーは痛快そうな笑みで応じた。
「早くも諧謔《かいぎゃく》を身につけたか。綺礼、その進歩ぶりは褒めておこう」
そんなアーチャーに綺礼は真顔で、改めて厳粛に問いかける。
「本当に異存はないのだな? 英雄王ギルガメッシュ」
「お前が我《オレ》を飽きさせぬ限りに於《お》いては、な。さもなくば綺礼、お前もまたここに転がっている骸《むくろ》のように打ち捨てられるまでのことだ。覚悟を問われるべきは、むしろお前だぞ」
そう混ぜ返されても、綺礼は動じることなく頷いた。
確かに、命を託《たく》す相手としてこれほど危険な存在はあるまい。これは言葉通りの意味で悪魔との契約になるだろう。恩も忠節も一切無縁、利害すらも測りがたい、気まぐれで横暴な絶対者たるサーヴァント。
だが――だからこそ相応《ふさわ》しい。
かつて綺礼に何の答えももたらさなかった仁義や道徳の類《たぐい》とは、まるで無縁なこの英霊こそ、これより先の戦いに綺礼を導いていく道標となるに違いない。
上着の袖《そで》を捲《まく》り上げ、腕に刻まれた令呪を晒《さら》して、綺礼は厳《おご》かに唱《とな》え上げた。
「汝《なんじ》の身は我の下に、我が命運は汝の剣に。聖杯のよるべに従い、この意、この理《ことわり》に従うのなら――」
「誓おう。汝の供物を我が血肉と成す。言峰綺礼、新たなるマスターよ」
魔力供給のパスは滞りなく繋がり、再び|効力《ちから》を得た左手の令呪が鈍痛《どんつう》とともに光を宿す。
契約は完了し、今ここに、聖杯を巡る最強にして最悪の一組が、誰に知られることもなく誕生した。
「さあ綺礼、始めるとしようか……お前の采配《さいはい》で、見事この笑劇に幕を引くがいい。褒美に聖杯を賜《たま》わそう」
「異存はない。英雄王、お前もせいぜい愉しむことだ。望む答えを得るその|瞬間《しゅんかん》まで、この身は道化に甘んじるとも」
愉悦《ゆえつ》に光る血色の瞳と、感慨に沈む黒い瞳《ひとみ》は、互いに了解を交わしあった。
[#改ページ]
-47:42:07
朝の爽気《そうき》の中、衛宮切嗣は|深山《みやま》町にある廃屋の前に立った。
築九〇年を数えるほどの老朽物件でありながら、解体も改築もされず、庭には前時代の土蔵を残したまま、という条件が彼の眼鏡《めがね》に適《かな》い、アイリスフィールのための予備拠点として買い入れた屋敷である。何やら込み入った由来があるらしく、契約に際して地元の暴力団と一悶着起こしかかる羽目になったものの、あれほど早期に市外のアインツベルンの森が攻略されてしまったことを思えば、結果としては決して無駄な買い物にはならなかった。
セイバーはここにはいない。令呪を通じて感じ取れるはずのサーヴァントの存在感を、今は間近には感じない。おそらくは昨夜の遠坂との会見で仕入れたライダー陣営の居所を目指して、既に発《た》った後なのだろう。切嗣も後から追うつもりでいる。
ウェイバーという見習い魔術師については、居場所さえ把握《はあく》できたなら暗殺は|容易《たやす》い。――が、あくまでそれはセイバーが敵のサーヴァントを引きずり出した後の話だ。昨夜も切嗣は、単身で冬木教会から帰宅する遠坂時臣を尾行しながらも、ついに襲撃することが叶わなかった。アーチャーがどこから監視していることやら判らない状況では、そのマスターに手を出すのは自殺行為にしかならないからだ。
確たる標的を見出しておきながら、だが切嗣はそこへと直行せず、敢えてこの廃屋に立ち寄った。
ただの直観だけでなく、数々の諸要素から導かれたひとつの予見……おそらくは、妻と言葉を交わすのはこれが最後の機会になる。
私情に流されてのことではない。むしろ逆だ。三体ものサーヴァントが脱落した今、聖杯の殻《から》≠ナあるアイリスフィールがどのような様態にあるか、切嗣は過たず理解している。自らの心の弱さを|弁《わきま》えるなら、ここに来てはならなかった。
今ここで妻と対峙するのは、切嗣にとっての試練であり、罰だ。
自らが求める聖杯の生贄《いけにえ》として、かつて愛した女が衰え死にゆく姿を直視して――それでもなお揺るがない自分であるならば。
そのときは、衛宮切嗣にはもう何の憂いもない。以後は一切の葛藤も逡巡《しゅんじゅん》も抜きにして、彼は機械の如く精密に的確に、その手で聖杯を掴み取ることだろう。
いわばこれは、戦闘兵器としての自分に対して最後に課す強度試験だ。
耐えきれず砕け散るようなら……そのときは衛宮切嗣という男も、その懐いた理想も、|所詮《しょせん》はその程度のものだったというだけのこと。
荒れ果てた庭を横切って土蔵の前に立ち、取り決め通りの符丁《ふちょう》でノックをする。すぐさま舞弥《まいや》が、分厚い鉄扉を内から押し開けて顔を覗かせた 一言も発しないうちから、切嗣は舞弥の変化に気付く。
いついかなるときも任務に絡む最低限の諸要素しか気にかけない、冷淡で虚ろな眼差しが、今日に限ってはどこか硬く切迫したものを孕《はら》んでいる。まるでこの場に切嗣が現れたことに動揺しているかのように。
「……マダムに、お会いになるのですか?」
切嗣が無言で頷くと、舞弥は少しだけ咎めるかのように目を伏せる。
「彼女の状態は、今は……」
「解っている。承知の上だ」
この蔵の中で何を目にすることか、それを|弁《わきま》えた上でなおも切嗣はやってきたのだと――そう理解した舞弥は、それ以上何も言わず切嗣に道を譲ると、自らは彼と入れ違いに蔵の外へと出た。
二人が対面する場に居合わせるべきではないという心遣いなのだろうが、これもまた舞弥らしからぬ配慮である。短い期間とはいえ行動を共にするうちに、彼女はアイリスフィールに何らかの感情移入をするようになったのかもしれない。――丁度《ちょうど》、九年前の切嗣がそうであったように。
暗い土蔵の片隅で、静かに魔力を脈動させる魔法陣の中に横たわる眠り姫。その姿が、切嗣に既視感を呼び起こす。
初めて出会ったときも、そうだった。アハト翁に案内されて、アインツベルンの工房の最奥、羊水槽《ようすいそう》の中で眠る彼女と引き合わされた。
聖杯の外装殻――たった九年で用済みになる装置に、なぜこんなにも美しい姿を与えたのかと、不思議に思ったのを憶えている。
こいつが聖杯なのか、と傍らの老魔術師に問うたとき、眠っていたはずの彼女が目を開けた。ゆらめく羊水越しに見たその瞳、深い深い緋色の奥底に魅入られたあの瞬間は、今もなお切嗣の中にまざまざと焼き付けられている。
丁度、あのときとまったく同じように。
覗き込む切嗣の目の前で、アイリスフィールは目を開け、そして柔らかく|微笑《ほほえ》んだ。
「あ――キリツグ、だ――」
まるで霞を掴もうとするかのように心許ない手つきで、彼女はそっと切嗣の頬に指先で触れる。
ただそれだけの動作さえ、今の彼女には精一杯の大儀なのだと――冷えきった指の弱々しい痙攣《けいれん》が、有《あ》り体《てい》に告げている。
「――夢じゃないのね。本当に――また、逢いに来てくれたのね――」
「ああ。そうだよ」
思いのほか容易に、声は出せた。ナタリアを撃ったときもそうだった。手先にも、言葉にも、決して支障はない。どんなに心が軋《きし》んでも、想いが砕け散っても、この両手は十全に与えられた使命を果たす。
勝てる――と、そのとき確信した。
いま衛宮切嗣は万全だ。その機能の信頼性には全幅の保証ができる。
人としての強さなど、もとより自分には求めるまでもなかったのだ。どんなに迷おうが、苦しもうが、そんな障害《バグ》はハードに何の影響ももたらさない。彼の目的意識を遂行するシステムは、別のドライブで滞《とどこお》りなく稼働する。
あらためて思い知る。――自分は、ヒトとして致命的に壊れているが故に、装置として万全なのだと。
「私はね……‥幸せだよ……」
機械でしかない男の頬を、そっと慈しむように撫でながら、アイリスフィールは囁きかける。
「恋をして……愛されて……夫と、娘と、九年も……あなたは、全てを与えてくれた……私には望むべくもなかった、この世の幸せの全てを……」
「……すまない。色々な約束を、果たせなかった」
語り聞かせた。常冬の城で。外の世界には何があるのかを。咲き乱れる花について語った。輝く海について語った。
いつか城の外に連れ出して、それら全てを見せてやると誓った。
今にして思えば、なんと無責任な約定だったことか。
「ううん、いいの。もう」
不実な誓いを咎《とが》めることなく、アイリスフィールは微笑んだ。
「わたしが取りこぼした幸せがあるなら……残りは全部、イリヤにあげて。あなたの娘に――私たちの、大切なイリヤに」
そこで切嗣は理解した。滅びを間近に控えながら、なおも気丈に笑えるアイリスフィールの強さ――その源泉がどこにあるのかを。
「いつかイリヤを、この国に連れてきてあげて」
祈りを子に託すとき、母親には恐れるものなど何もない。
だからこそ彼女は笑える。怖じることなく粛々と、自らの末路を歩んでいける。
「あの子に、私が見られなかったものを全部……見せてあげて。サクラの花を、夏の雲を……」
「わかった」
切嗣は頷いた。
それは聖杯を求める機械には不要な挙動。まったく意味のない契約。
だからこそ、ヒトとして頷いた。
この手に聖杯を掴み、世界の救済を成し遂げた、その果てに……用済みとなった機械は、ふたたびヒトに戻るだろう。
そのときようやく、彼は妻を偲んで泣ける。今度こそ本当に、父親として惜しみなく娘を愛してやれる。
それは遠くない未来の話。わずか数日の後には訪れる結末の向こう側でしかない。
ただ――現在《いま》ではない。それだけのこと。
「これを……返さないと、ね……」
アイリスフィールは、震える手を自らの胸にあてがうと、その指先に精一杯の力を込めて、渾身《こんしん》の魔力を紡ぎ出す。
ふいに何もない彼女の手の中から黄金の光が溢れ出し、土蔵の薄闇を暖かく照らし上げる。
「……ッ」
切嗣が息を呑んで見守る中、輝きは徐々に形を変えて輪郭《りんかく》を整え、やがて煌びやかな金属の質感を具現化させて彼女の手の中に収まった。
黄金の、剣の鞘。
「アイリ……」
「これは……この先、あなたにこそ必要なもの。あなたが最後の戦いに挑むとき、きっと役に立つ……」
アイリスフィールの声は以前よりなお増して、力なく萎《しお》れていた。
無理もない。壊れゆく彼女の容態を土壇場で食い止めていた、最後の護りたる奇跡の宝具――概念武装として彼女の体内に封入されていた『|全て遠き理想郷《アヴァロン》』を、今、彼女は自らの手で分離してしまったのだ。
「私は……大丈夫。舞弥さんが守ってくれる……だから……」
「……判った」
冷徹に判断するならば。
元来がセイバーの所有物である『|全て遠き理想郷《アヴァロン》』は、サーヴァントからの魔力供給があって初めて効力を発揮する宝具である。この先、セイバーとともに前線に立つ望みのないアイリスフィールが装備していたところで戦略的な価値はない。
たとえ彼女の崩壊に多少なりとも歯止めをかけることができたとしても、そこには気休め程度の意味しかない。
――過たず、動じることなく、そういう判断を下すことが、今の切嗣には可能だった。
切嗣は差し出された黄金の鞘を受け取ると、衰弱した妻の身体を、そっと冷たい床に横たえ、立ち上がる。
「じゃあ、行ってくるよ」
「はい――お気をつけて、あなた」
別れの言葉は、短く、簡素に。
そして衛宮切嗣は、乾ききった目のままに、妻の寝所を後にした。
外で所在なげに待っていた舞弥は、土蔵から出てきた切嗣を見て、静かに息を呑んだ。
その手に携えた輝く宝具の正体を察し、今それが切嗣の手に預けられていることの意味を、たちどころに悟ったせいでもある。だがむしろ、本当の意味で舞弥を竦ませたのは、切嗣自身の面持ちの変化だった。
「今日じゅうに、ライダーのマスターを仕留めてくる。セイバーは先行しているな?」
「……はい。今朝方、あなたが来る少し前に」
「良し。――舞弥、君は引き続きアイリの警護を頼む」
「分かりました……あの、切嗣?」
淀みない足取りで門を出て行こうとした師を、舞弥は途惑いぎみの声で呼び止める。
「どうした?」
肩越しに振り向いた切嗣の双眸を、しばらく彼女は見つめた後、浅いため息とともに目を伏せた。
「やっと、戻りましたね。昔のあなたの顔に」
「……そうか」
低く相槌《あいづち》を打つと、切嗣は頷くこともなく背を向けて、そのまま門を出て行った。
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-47:39:59
嘘のように凪《な》いだまま過ぎた一日のあとで、ウェイバーは状況の意味を確信した。
朝一番に床を出ると、老夫婦には帰宅が遅くなる旨を告げ、そのまま朝食も摂らずに新都へと向かう。
ラッシュアワーにはまだ早い時間だったが、冬木から隣町へ通う勤め人も多いのだろう。駅へ向かうバスは既に満員の有様だった。
慣れない人の波に揉《も》まれながらも、そんな喧噪《けんそう》さえもが、今のウェイバーには空虚なほど安穏《あんのん》に感じられる。
ここ数日、付かず離れず隣にあった圧倒的な存在感。その騒がしさと暑苦しさと鬱陶しさに比べれば――まるで祭りの後の空き地に取り残されたような気分だった。
勿論、ライダーの気配が途絶えているわけではない。こうしている今現在も、霊体化したサーヴァントの威圧的な雰囲気はすぐ隣から伝わってくる。
ところがあの巨漢は、実体化をしないのだ。一昨日の夜にキャスターと戦って以来、ずっと霊体のまま姿を現さない。
これが他のサーヴァントであれば、何の不思議もない当然の状況だ。戦闘状態でもない限り、わざわざ実体をとって無駄な魔力を浪費する理由などないのだから。が、ことイスカンダルに限ってそれはない。そもそもあの男は、実体で在りたいがためだけに聖杯を求めているような男である。
これが数時間かそこいらのことならば、ただの気まぐれかと思うこともできた。だが丸一日ともなれば明らかな異常だ。あのライダーが柄にもなく、敢えて実体化を差し控えている理由――心当たりも、なくはない。
霊体であろうともマスターであればサーヴァントとの会話は可能だし、ウェイバーが呼びかければ、ライダーはすぐにも応じることだろうが、今のウェイバーにはそれが憚《はばか》られた。どんな返事が返ってくるか、何となく察しがついている以上、その返事に対処できる状況も万全に整えた上でなければ、問答を始めたくなかったのだ。
そのための、早朝からの買い物だった。
まずは始業早々の百貨店へ行き、アウトドア用品の売り場で、冬山用の分厚い寝袋と断熱シートを一式。それなりの出費にはなったが、ライダーが買ってきたゲーム機に比べれば可愛いものである。
むしろ頭に来たのは、薬局のブースにあった栄養ドリンクと使い捨てカイロの値段だった。馬鹿馬鹿《ばかばか》しいほどに安い。これと同程度の効果をもたらすアイテムを、手持ちの薬品で魔術的に作製しようとしたら、明らかに数十倍のコストがかかる。どうしようもなく魔術師としてのプライドを損なわれた気分になり、ついうっかり必要以上に買い込んでしまった。
あらためて現代という時代に生きることの虚しさをウェイバーは痛感した。生まれる時代が違っていれば、ただ魔術を学んでいるというだけでも敬服され、あるいは恐怖されていたことだろう。なぜ自分はそういう世界ではなく、ホッカイロ徳用一〇パック四〇〇円などという世知辛《せちがら》い場所に生を受けてしまったのか?
ともかく必要なだけの買い物を済ませると、あとは寄り道もせずにバスで深山町に引き返す。マッケンジー宅最寄りの停留所を二つばかり乗り過ごし、より目的地に間近などころで降りた。目についたコンビニで鰻玉《うなたま》丼弁当を購入し、レンジで加熱。冷めてから食べるのも嫌なので、あとはなるべく足早に先を急ぐ。
本当は、一刻も早くライダーに事情を問《と》い質《ただ》したくてうずうずしていた。何の説明もなく顔を見せないサーヴァントが腹立たしくて仕方なかった。もしウェイバーが今以上に迂闊であったなら、半日早くそれを詰問《きつもん》していただろう。そして多分、思い知らされていたはずだ。――魔術師としての自分の未熟さ、無力さと、敢えてそれを問うまいと沈黙を守っ
ていたライダーの配慮について。
そんな惨《みじ》めな思いをするのだけは、断じて願い下げだった。そもそも自分のサーヴァントから余計な気遣いを受けたというだけでも、充分に屈辱的である。
たしかに自分は非力で、無能だ。だがそれを自分から認めるのだけは嫌だ。己の力量を重々に承知しつつ、なおも最善の結果を出す手筈《てはず》を整えているのだと、そう胸を張って豪語できるだけの準備をした上でなら、あのライダーにも弱みを見せずに済む。そう思えばこそウェイバーは、ライダーの沈黙に対し、自分もまた意固地になって沈黙を守り続けた。
やがてウェイバーは住宅街を抜け、緑地公園という名目で開発から取り残された雑木林に辿《たど》り着いた。
遊歩道すらない梢《こずえ》の隙間を、迷うことなく奥へと進む。夜と昼とではまったく印象が違うものの、ウェイバーにとって、ここはそれなりに見知った場所である。
ようやく目指す場所に着くと、要所要所に問題がないか確認し、ウェイバーは安堵《あんど》の吐息をついた。さっそく落ち葉の積もった地面に断熱シートを敷き、コンビニで買った弁当を食べ始める。レンジの加熱は既に冷めきり、味も何もあったものではなかったが、まあ今さらどうでも良かった。ともかく今はカロリーの摂取《せっしゅ》が大前提なのだ。
『――美味《うま》いのか? それは』
まる一日と一晩ぶりに聴くライダーの声。よりにもよって霊体のくせに、最初の興味は食い意地か、と、ウェイバーはほとほと呆れかえった。
「いいや。不味《まず》い。日本の食文化も底が知れるな」
|憮然《ぶ ぜん》と答えるウェイバーに、霊体のライダーがさも切なそうに溜息をつく。
『|坊主《ぼうず 》、貴様さっき新都《しんと》で『お好み焼き・鍾馗《しょうき》』を素通りしおったな? あそこのモダン焼きは絶品であったというのに、惜しいことを……』
「また食いたいんなら、さっさと実体化できるぐらいまで回復しろよ」
『……』
沈黙は妙に気まずげだった。だが今のウェイバーにはそこそこに余裕がある。|仏頂面《ぶっちょうづら》で鰻玉井をもっさもっさと頬張《ほおば》りながら、魔術師見習いの少年は先を続けた。
「ここが何処《どこ》だか解ってるよな? オマエを召喚《しょうかん》した場所だよ。霊格は極上とは言わないまでもそれなりだし、あの晩の魔法陣も、まだ解《ほつ》れてない。オマエにとって、冬木でいちばん相性のいい地脈はここだろ? 回復の効率も段違いに捗るはずだ」
そもそも一昨日の夜の段階で、ウェイバーは気付いているべきだった。『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』ほどの大宝具を二夜連続で行使しておきながら、何の代償もないはずがない。
いかに他の英霊たちから魔力をかき集めた大魔術といえど、あれだけの固有結界を展開し維持する負担は並大抵のものではない。さらに対キャスター戦においては、ライダー自身もまた結界内での戦闘で満身|創痍《そうい》の有様だった。
そしてその消耗はライダーにとって、あれほどまでに固執していた実体の維持を諦め、回復に専念しなければならなくなるほど深刻なものだったのだろう。
「ボクは今日一日、ここにいる。何もしないで寝てるから、死なない程度でいくらでも魔力を持って行けばいい。そうすれば、オマエも少しはマシになるだろ」
ライダーの霊体は、しばし口ごもるかのような気配を見せてから、やがて気の技けた苦笑を漏らした。
『……ははは。気付いたなら気付いたときにそうと言えよ。後になって見透《みす》されていたと解るってのは、なんだ、うん、いささか面映《おもば》ゆいぞ』
「バカ! オマエこそさっさと言えよ! いざってときにオマエが満足に動けないようじゃ、危ないのはボクの方なんだからな!」
あらためてウェイバーは頭に来た。面映ゆい≠ネどとぬけぬけと言うライダーがどうしょうもなく腹立たしい。ここで不甲斐《ふがい》なさを恥じ入るとしたら、それはウェイバーの方なのだ。
ライダーが実体化を差し控えるほど魔力を切り詰めている理由は、問うまでもなく歴然――彼が回復に要する魔力の消費量に、マスターであるウェイバーからの供給量が、まるで追いついていないということだ。
もちろん、屈辱的ではある。自分がライダーほどの強大なサーヴァントを従えるには相応しくない、|脆弱《ぜいじゃく》な二流のマスターであることが、これで証明されたも同然なのだ。悔しいし、恥ずかしい。が、それ以上に立腹するのがウェイバーならではの心情である。
まぁ、自らのサーヴァントの状態を正確に把握《はあく》できなかった自分にも、たしかに非はあろうが、それでも圧倒的に悪いのは自己申告しなかったライダーである。魔力が足りないなら足りないと、それこそ普段のようにウェイバーの頭をひっぱたいて横柄に要求してくれば、ウェイバーにもそれなりの覚悟を決めて、あるいは何らかの準備ができたかもしれないというのに。
弁当を完食し、脂《あぶら》っこいげっぷが漏れるのに辟易《へきえき》しつつ、さらに続けてウェイバーは栄養ドリンクを一本ずつ飲み干しながら、傍らの霊体に問いかけた。
「……なんで黙ってたんだよ? ずっと」
『いや、もう少し踏ん張りがきくかと思っておったのだがな。河での戦闘の消耗《しょうもう》が、思いのほか堪《こた》えてなぁ』
無理もない。ライダーはキャスターが招いた海魔の上陸を食い止めるために、『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』の固有結界を限界以上まで維持し続けたのだ。いくら何でもあれは無茶だった。あの時点でウェイバーは、セイバーたちとの同盟よりも、自らのサーヴァントを|慮《おもんばか》るべきだったのだ。
「結局、オマエの切り札って、実はとんでもなく魔力を食い潰すんだろ」
『いやぁ、規模の割には燃費は良いぞ。|軍勢《ヘタイロイ》の連中はまぁ、召喚っつうか、実際のところ勝手に押しかけてくるようなもんだし、それから皆が総出で結界を維持するわけだからな。余は連中の骨折りに凭《よ》りかかってるだけで済む』
「嘘つけ。あれだけ馬鹿げた大魔術なら、発動するだけでも大事《おおごと》なんだ。その点、最初に号令かけるのはオマエ一人なんだから。『座』にいる連中に呼びかけるだけで、オマエ、とんでもなく消耗するはずだろ」
『……』
「最初はボクも見過ごしてたよ。オマエが言うとおり、並外れて効率のいい宝異なのかと思ってた。最初にアサシンの連中を倒したとき、オマエがボクの魔術回路から持っていった魔力量、どう考えても少なすぎたからな」
それがもとで、ウェイバーは『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』の消費魔力を見誤っていたのだ。馬鹿正直に納得してしまった自分に、返す返すも腹が立つ。あくまで魔術は等価交換という大原則に立ち戻るなら、あんな規格外の大魔術が、そう易々《やすやす》と発動できるわけがない。自らのサーヴァントが桁外《けたはず》れの大馬鹿野郎であることを、ウェイバーは念頭に置くべきだったのだ。
過剰摂取した精力剤による、今にも吐き戻しそうなほどの胸焼けを何とか堪えつつ、ウェイバーは断熱シートの上に寝袋を広げ、靴を脱いでその中に潜り込んだ。
「ライダー、本当はオマエ、ボクが負担するべきぶんの魔力まで自前の貯蔵魔力だけで賄《まかな》ってきたんだろ。その上で、二度もあんな無茶をやらかして……一体全体、どういう了見だ!?」
『だって……なぁ』
さも言いにくそうに口を濁してから、ライダーは嘆息《たんそく》する。
『まぁ正味の処《ところ》、サーヴァントとしての余は生粋《きっすい》の魂喰らい《ソウルイーター》であるからして。全開の魔力消費に坊主を巻き込めば、そのときは、命すら危うくしかねんからな』
「ボクは――それでいいんだ」
思い詰めた昏《くら》い眼差しで地を見つめたまま、ウェイバーは低い声で嘯く。
「聖杯を、ただオマエに獲ってきてもらうだけなんて、嫌だ。これはボクが始めた戦いだ。ボクが血を流して、犠牲を払って、その上で勝ち上がるんでなきゃ、意味がないんだ」
新都散策の折に、あっさりと笑い飛ばされた戦いの意義。だがそれでも、ウェイバーは捨てきれない。諦めきれない。どんなにちっぽけだと笑われようと、この胸には、誰にも譲れないモノがある。
「聖杯の使い道なんて知るか! ボクはな、後のことはどうだっていい。ただ証明したいだけだ! 確かめたいだけだ! このボクが――こんなボクにだって、この手で掴み取れるものがあるんだってことを!」
『――だが坊主、そいつは聖杯が本当にあった場合[#「本当にあった場合」に傍点]の話だよな?』
思いもよらないライダーの言葉に、ウェイバーは面食らってしばし言葉を失った。
「……え?」
『皆が血眼になっちゃあいるが、件《くだん》の冬木の聖杯とやらが本当に噂通りのシロモノだってぇ保証はどこにもない。違うか?』
今になってライダーが何を言い出すのか、ウェイバーには相手の真意がまるで見えなかったが、たしかにその問いは否定しきれるものではなく、とりあえずは頷くしか他になかった。
「そりゃ、そうだが。でも……」
『余はな、以前にもそういう在るか無いかも知れぬモノ≠追いかけて戦ったことがある』
述懐の言葉は、なぜか苦々しく冷ややかで、いつもの晴れやかな覇気とは程遠い。
『|最果ての海《オケアノス》を見せてやると――そういう口上を吹き散らし、余は世界を荒らしに荒らして廻《まわ》った。余の口車に乗って、疑いもせずについてきたお調子者を、|随分《ずいぶん》と死なせた。どいつもこいつも気持ちのいい馬鹿揃いだったよ。そういう奴から先に力尽きていった。最後まで、余の語った|最果ての海《オケアノス》を夢に見ながら、な』
「……」
『最後には、余を疑うようになった小利口な連中のおかげで、東方遠征は御破算になった。だがそれで正解だった。あのまま続けていれば、余の軍勢は何処に辿り着くこともなく総倒れで終わっただろう。
この時代の知識を得たときは、まぁ結構、堪《こた》えたわい。まさか大地が丸く閉じているなんて、悪い冗談にも程がある。だがそれでも、地図を見れば納得するしかなかった。|最果ての海《オケアノス》なんて何処にもありゃしなかった。余の|理想《ユメ》は、ただの妄想でしかなかった』
「おい、ライダー……」
たとえそれが真相だとしても。
よりにもよってイスカンダル自身の口からそんな言葉が出るというのは、ウェイバーにとって、たまらなく嫌だった。
あんなにも鮮烈に、直向きに、その景色を胸に想い描いておきながら――なぜこの男は今になって、こんなにも醒《さ》めた声で、懐き続けたユメを否定するのか。
だが、声に出しかかった糾弾《きゅうだん》の言葉は、喉元で萎んで消える。
糾《ただ》せば知られてしまう。自分が、ライダーと同じ夢を共有していたのだと。無断の覗き見で彼の内側に踏み込んでいたのだと。そんなことは絶対に白状できない。それこそウェイバーの誇りに関わる。
『余はなぁ、もう、その手の与太話《よたばなし》で誰かを死なせるのは嫌なんだ。聖杯の在処《ありか》が確かなら、命を賭《か》けようという貴様の意気込みに報いてやることもできようが……生憎《あいにく》、まだそうとも言いきれぬ。丸い大地と同じくらいに途方もない裏切りが、潜んでいないとも限らぬからな』
「でもボクは……それでも、オマエのマスターなんだぞ」
そう意地になって反駁《はんばく》しながらも、だが一方で心の奥底では、そんな自分に呆れて失笑してしまう。
ろくに魔力も供給できないくせに。
無理を押して戦っていたサーヴァントの虚勢を、見抜くことすらできなかったくせに――と。
だがそんなウェイバーの胸中などお構いなしに、霊体化したライダーの声は普段と変わらぬ豪放さで、呵々と大笑いするばかりだった。
『坊主、貴様も言うようになったではないか! うむ、たしかに魔術回路の方も、普段より威勢良く廻っとる。地脈から吸い上げられる分もあるし、日中を休息に費やせば、夜にはまだ一暴れできそうだな』
経路《パス》を通じてライダーへと吸い上げられていく魔力量の多さは、ウェイバーも自覚していた。さっきまでの胸焼けは既に嘘のように消え去り、逆に今は猛烈な疲労感で指先を動かすのも|億劫《おっくう》だった。発汗すらなく総身から力が抜けていく。|瞼《まぶた》を開けているのも辛いほどだ。
「……で? 一暴れって、次は一体ナニやらかすつもりだ? オマエ」
『ふむ、そうさなぁ……今夜はじゃあ、まずセイバーの奴でも相手をしてやるか。もう一度、森のあの城を攻めてみようではないか』
「また酒樽《さかだる》片手におちょくりに行くわけじゃないだろうな?」
『当然だ。奴とは語るだけのことは語り尽くした。あとは矛《ほこ》を交えるまでよ』
飄々と言い放つ声は、だが内に秘めた獰猛さを滾らせている。気安く挑むようでいながらも、ライダーとて、あのセイバーが難敵であることは充分に承知しているのだろう。壮烈な激戦になることは、もとより覚悟の上とみえた。
「……この調子で、夜までにどの程度まで回復できそうだ? オマエ」
『そうさな……あくまで概算の上での予見だが。『|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》』の使用は、まぁ最大出力となると危なっかしいが、飛ばすだけなら問題なかろう』
思案する風に一息置いてから、さらに霊体のライダーは溜息混じりに続ける。
『だが『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』は――おそらくあと一回の展開が限度だな』
「そうか……」
当然といえば当然だった。むしろ最後の一枚といえども切り札を手元に残せたことを僥倖《ぎょうこう》と考えるべきだ。
『使いどころとしては、対アーチャー戦だな。あの金ピカの出鱈目《でたらめ》ぶりには、余もまた切り札を以て処するしかない。だから他の敵には、戦車だけで事に当たることになろう』
戦略としては間違っていない。が、そうなるとまた別の疑問がウェイバーの内に湧き起こる。
「だったら……ライダー、なんでわざわざセイバーとも戦うんだ?」
『ん?』
「だってオマエ、もうアイツのことは眼中ないみたいなこと言ってたじゃないか。余裕がなくなってきたんなら、今後は戦いの回数も絞っていくべきだ。
そりゃアーチャーは……まぁ、オマエ勝手に変な約束しちゃったし、今さら後には退《ひ》けないんだろうけどさ。セイバーのことは、他のサーヴァントに相手をさせて脱落するのを待つ手だってある」
ウェイバーの真面目な提案に、応じたのは気の抜けた失笑だった。
『おいおい、坊主。指があったら額に一発かましてるところだぞ』
「な、なんだよ!? ボクは当たり前の戦略を話してるだけだろうが!」
ここでライダーに実体があればウェイバーは額《ひたい》を庇っているところだが、相手が霊体のままであれば、矮躯《わいく》の魔術師もまだ強気でいられる。
『セイバーの奴めはな、余が倒さねばならんのだ。それが同じ英霊としての余の務めだ』
「……なんだよ、それ?」
『あの馬鹿娘は、余が正しく征してやらねば永遠に道を踏み誤ったままだろうて。それではあまりに不憫《ふびん》に過ぎる』
ライダーの言い分は、ウェイバーにとってはまるで理解の外だったが、ともかくその判断が、毎度の如《ごと》く聖杯戦争を度外視した征服王なりの動機によるものだということだけは判った。
そういう余計な発想は、マスターとして戒《いまし》めるべきなのだろうが――実のところウェイバーも、内心ではセイバーとの対決を間違いなく回避できるものと楽観していたわけではない。他力本願で脱落を待つには、セイバーというサーヴァントの性能はあまりに強力に過ぎる。より強そうなライバルといえばアーチャーだが、あの謎めいた黄金のサーヴァントも、待ちに徹して対立者を絞り込む心算でいるようにウェイバーには見える。ライダーより先にセイバーと当たってくれる望みは薄い。
ライダーが最後まで勝ち残るためには、結局のところセイバーとは、かなり高い確率で直接対決する羽目になるだろう。
「……まぁ、好きにすれば……いいさ……」
毒づいたつもりが、声は欠伸に紛れてほとんど意味のないものになった。いよいよ眠気が耐え難い。真新しくごわついた寝袋にも、今では羽布団《はねぶどん》のように柔らかい温もりを感じる。
『いいから、無理せんで寝ていろ坊主。今の貴様には休息こそが戦いだ』
「ん……」
言いたいことはまだ色々あるが、それはまた目覚めた後でいい。姿のないライダーと話すのは、ひっぱたかれる心配のない安堵感を差し引いても、どうにも物足りなくて違和感がある。何よりも、今はもう口を開くだけでも一苦労だ。ただひたすらに、眠い。
とうとうウェイバーは虚脱感に身を任せ、深い眠りの底に沈んでいった。
[#改ページ]
-37:02:47
アイリスフィールが次に目を開けたとき、土蔵の採光窓からは緋《ひ》に染まった夕陽《ゆうひ》が差し込んでいた。
意識の断絶は、まるで今日一日の時間そのものが欠落したかのようだ。それほどに深く昏々《こんこん》と眠りに陥っていたのだろう。もはや用を成さなくなりつつある肉体の休眠は、|睡眠《すいみん》どころかむしろ仮死状態に近いものだった。
容態は、かなり落ち着いている。休息もそれなりに功を奏した様子だった。さすがに立ち上がるのは無理でも、今ならば会話程度は支障なくこなせそうだ。
ふと傍らを見れば、久宇《ひさう》舞弥は影絵のように静かに、身動き一つせず壁際の一画に座っている。アイリスフィールが最後に見たときと寸分違わぬ位置と姿勢。だが伏し目がちな視線の鋭さは抜き身の刃に似て、油断も倦怠《けんたい》も一切なく虚空のどこかを見据えている。
それは頼もしく思えるのと同時に、生身の人間というよりむしろ使い魔や機械人形の類を見るようでいて、アイリスフィールですら、ある種の畏怖《いふ》を禁じ得なかった。どのような鍛錬と精神力が、あれほどの集中力の維持を可能とするのか、とても想像が及ばない。
ささやかな畏敬の念とともに、ふとアイリスフィールは思った。――久宇舞弥という女性は、衛宮切嗣が目指した在り方を、彼以上に体現している存在なのかもしれない。
「――ねぇ、舞弥さん」
溜息に近い|囁《ささや》き声で呼びかけると、舞弥は犬笛を聞いた猟犬のように、素早く静かにアイリスフィールを注視する。少しだけ申し訳なくなった。アイリスフィールとしては、ただ無駄話がしたかっただけなのだ。
「あなたは、なぜ切嗣のために戦うの?」
「……それ以外に、何もないからです」
保護対象が苦痛や不都合を訴えているのではなく、ただ会話を求めているだけだと理解した時点で、舞弥は少しだけ緊張を和《やわ》らげ、静かに黙考してから返答した。
「私には、家族のことも、自分の名前も思い出せない。久宇舞弥という名前は、切嗣が最初に作ってくれた偽造パスポートの名義です」
「――え?」
面食らうアイリスフィールに、舞弥は口元の隅で小さく笑みめいたものを覗かせた。決して感情を表に顕さない彼女にとって、それは最大限の気安さの表明だったのかもしれない。
「憶えているのは、そこがどうしようもなく貧しい国だったということだけ。希望もなく、未来もなく、ただお互いに憎み合い、奪い合うことでしか生きる糧を得られない場所でした。
戦争は決して終わらず、軍隊を維持《いじ》する資金さえないのに、それでも殺し合いを続けるしかない毎日……そのうちに、誰かが思いついたんです。兵隊を徴用して訓練するより、子供を攫《さら》ってきて銃を持たせた方が安上がりで手っ取り早い、とね」
「……」
「だから銃を渡されるより以前のことは憶えてません。そんな風に、先に精神《こころ》が壊れてしまったから、そのぶんだけ生命《いのち》が長持ちしたんです。敵を狙って、銃爪《ひきがね》を引く。そういう機能だけを残して、あとは全てを捨て去って……それができなかった子は、できた子たちより先に死んでいきました。そして私は、たまたま切嗣と出会った日まで生き残れた」
語りながら舞弥ほ、自らの手を見下ろす。細くて長い指には、だが女性ならではのたおやかさとは無縁な、どこか鋭利な凶器を連想させる固さがあった。
「私はヒトとしての中身が死んでいる。ただ外側の器だけがまだ動いて、昔馴染みの機能を維持してます。それが私の生命《いのち》≠ナす。拾ったのは切嗣だ。だから切嗣が好きなように使ってくれればいい。……それが、私がここにいる理由です」
決して幸《さち》多い来歴の持ち主ではあるまいと、そう漠然《ばくぜん》と予感してはいたものの、いま端的に語られた舞弥の過去は、アイリスフィールの予想を遥かに凌駕《りょうが》したものだった。
返す言葉もなく沈黙するアイリスフィールに、今度は舞弥が、気まずさを気遣うかのように語りかける。
「むしろ私には……マダム、貴女の熱意こそ意外だった」
「――え?」
まさか舞弥の方から話の穂を接いでくるとは思いもよらず、アイリスフィールは些《いささ》か以上に驚いた。
「貴女は生まれ育った城に閉じ込められたまま、外の世界を知らずに生きてきた。そんな貴女が、世界を変革しょうという切嗣のために、あれほど必死になって戦うだなんて……」
「私は――」
舞弥の言葉に、改めてアイリスフィールは自省する。
世界を救う≠ニいう理想に突き動かされてきた夫、衛宮切嗣。我が身を切り刻んでまで聖杯を追い求めるその姿を直に目の当たりにした上で、今なお自分が、彼と全く同じ想いを胸に抱いていると言えるのか。
「――そうね。本当は、切嗣の理想がどういうものか、きちんと理解できているわけではないわ」
そう。答は――否、だ。
「結局、解った風なふりをしていただけなのかもね。ただ愛しい人と共に歩みたいと思っただけなのかも。舞弥さんの言うとおり、私は切嗣が変えようとしている世界のことをまるで解ってない。私の中の理想なんて、何もかも、切嗣の受け売りでしかないわ」
「……そうなのですか?」
「ええ。でも切嗣には内緒」
アイリスフィールにとっては不思議な感覚だった。夫の前では決して明かせない胸の内を、こうも易々と語り聞かすことができる相手がいるというのは。
「切嗣にはいつだって、彼が正しいと言い聞かせてきた。彼の理想には、私が命を|捧《ささ》げるだけの価値がある、ってね。そうやって理解者のふりをしてきたわ。同じ理想を懐いて、そのために死ぬ女なら――ただ夫のためだけに死ぬ女より、よほど切嗣にとっては重荷にならないでしょう?」
「成る程」
切嗣への愛情とも、セイバーへの信頼とも違う、依存の感覚。アイリスフィールが初めて懐くこの感情は、もしかしたら友情≠ニ呼ばれるものだろうか。
「ではマダム、貴女には、貴女自身のための願いはないと?」
重ねて問われて、アイリスフィールは、今度は舞弥と共に切り抜けた森での戦いを回想する。あのとき言峰綺礼の圧倒的な強さを前にして、彼女を駆り立てた闘志は、一体どこから沸《わ》いてきたのだろうか。
「願いは……いいえ、確かにある。私は切嗣とセイバーに勝ち抜いて欲しい。あの二人に、聖杯を掴み取って欲しい」
それは同時に、アイリスフィールの死でもある。切嗣との決別をも意味する。
だとしても、その祈りこそが――アイリスフィールを内側から突き動かす源泉だ。
「それは……第三魔法の達成という、アインツベルンの悲願ですか?」
「いいえ。なにもユスティーツァの大聖杯にまで到らなくてもいい。私が求めているのは戦いの終焉《しゅうえん》よ。切嗣が求める通りに世界の仕組みが変わり、すべての闘争が終息するならば、ここ冬木で聖杯を求め争う戦いについても例外じゃない筈でしょう? どうか今回の四度目を、最後の聖杯戦争にしてほしいの。聖杯の器のために犠牲になるホムンクルスを、もうこれ以上、増やしたくない」
そこで舞弥は、半ば閃きでアイリスフィールの真意に思い至った。
「……ご息女の、ことですか?」
「ええ」
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。ホムンクルスの母胎《ぼたい》から魔術師の精を受けて産み落とされた錬金魔術の集大成。直接会ったことのない舞弥も、その存在はもちろん聞き及んでいる。
「大お|爺様《じいさま》の計画ではね、私より以後の『聖杯の守り手』は、より機能を洗練されたホムンクルスになるそうよ。ただ胎内に聖杯を秘め持つのではなく、逆に追加の魔術回路をさらに外装として被せることで、肉体そのものを聖杯の『器』として機能させる構想なの。
大お爺様は今回の第四次≠ェ始まるより以前から、第五次≠フ可能性を見越していた。だから私にイリヤを産ませたのよ。もし私と切嗣が失敗すれば、そのときはあの子が『天衣』の実験台として採用される。六〇年後の裏打ちを用意するために、ね」
醒めきった声音が、このとき、情愛の温度を帯びた。
それはアイリスフィールという存在が、決してただの人形として生きたのではないという証である。彼女には心があった。他者を愛し慈《いつく》しみ、幸あれば微笑み、悲嘆には涙する、そんな当然の胸の温もりを、ヒトと変わることなく持ち合わせていたのだ。
「あの子を抱いて、おっぱいをあげて……でも私には解ってた。コレ[#「コレ」に傍点]も結局は『器』の部品でしかないんだってこと。大切な我が子のことを、そんな風に諦めなきゃならない母親の気持ちが、あなたには解る?」
「……」
返す言葉もなく、舞弥は沈黙の中で、アイリスフィールの吐露する感情を噛みしめた。
「でもそれが、アインツベルンのホムンクルスに負わされた宿命なのよ。あの子も、さらに私の孫も、みんな同じように娘を産むたびに、この悲しみを味わうことになる。いつか冬木の聖杯が降霊される時が来るまで、この連鎖は続けられていく。
だから私は、最後にしたい。私のこの身体だけで、アインツベルンの妄執を終わらせたい。もしそれが叶えば、私の娘は運命から解放される。あの子は聖杯なんて縁のないまま、最後までヒトとして寿命を全うできるようになる」
「母親としての情、ですか……」
そう問われて、ようやくアイリスフィールは自らの内側をあまりにも多くさらけ出したことに気付き、きまり悪げに苦笑した。
「そうなのかもね。舞弥さん、あなたには想像もつかない?」
「本当なら、解って然るべきなのでしょうが。これでも一度は母親になった身ですから」
「――え?」
あまりに意外な言葉に、アイリスフィールは耳を疑う。
その驚きに対して詫びるかのように、舞弥はやや語調を和らげて続けた。
「私にも、実は出産の経験があるんです。意外に思うかもしれませんが」
「……結婚の経験が?」
「いいえ。父親が誰かも判らない。戦場ではね、私たち女の子は全員が、兵舎で大人たちに毎晩輪姦されてましたから。あれは幾つの頃だったか……ともかく、初潮がきてすぐでした。
子供には名前もつけてあげられなかった。今では生きているかどうかも判らない。もし死んでいなかったとしたら、きっとまだ戦場で殺し合いを続けているでしょう。キャンプでは、五歳になった子供には銃が渡されてましたから」
「そんな……」
かつて幼年兵だった女が淡々と語る凄惨な過去には、衰弱しきったアイリスフィールでさえも動揺せずにはいられなかった。
「驚かれましたか? でもこんな話、今ではもう珍しくもないんです。最近は世界中のゲリラたちが、兵士に子供を使う|費用対効果《コストパフォーマンス》を知ってます。私たちみたいな初期のケースが、高い成果を証明してしまいましたから。私のような経験をする子供たちは減るどころか、むしろ鰻《うなぎ》登りに増えてるんです」
静かに語り続けるうちに、舞弥の眼差しは次第に冷たく乾いていく。その声音には、もはや怒りも悲しみもない。そんな血の通った感情とは程遠い、ただ底抜けの絶望だけしか、彼女の追憶する景色には伴わないのだろう。
「マダム、貴女ははじめて見た世界を美しいと感じて、そこに生きる人々を幸せだと思ったのかもしれない。でも私に言わせれば、あの冬の城から一歩も出ないで暮らしていた貴女の方こそ羨《うらや》ましかった。この世界の醜《みにく》さも、おぞましさも、何一つ見ることなく済んだなんて」
舞弥のそんな感慨は、恨《うら》み言でこそなかったものの、それでも言葉にした時点でアイリスフィールの無垢さを咎める意味合いを持たざるを得なかった。
舞弥自身も後からそうと気付いたのか、打ち消すようにかぶりを降って、より断固たる言葉で結びをつける。
「こんな世界を、もし本当に違う形に変えてしまうことができるなら……それを成し遂げる切嗣になら、この命はどう使い捨てられようとも構わない」
ただ戦うこと以外に何もない、と、そう舞弥は自らについて語った。その言葉にはきっと微塵の誇張もない。理想もなく、悲願もなく、その心にはただ焼き尽くされた焦土のように空虚な洞《うろ》があるだけだ。
彼女の内面は衛宮切嗣と真逆でありながら、戦士としての両者はあまりにも相似していた。その矛盾《むじゅん》があらためてアイリスフィールの心を締めつける。きっと舞弥の存在は、切嗣にとって手本であると同時に戒めなのだろう。彼女を側に置くことによって、切嗣は己の矛盾を封じ込め、冷酷非情の狩猟機械として自らを完成させられるのだ。
「あなたは……切嗣が理想を遂げた後、どうするつもり?」
アイリスフィールにそう問われて、舞弥はこのとき初めて当惑に視線を彷復《さまよ》わせた。
「――生き残るなどと、考えてはいません。もし仮に命を繋いだとしても、もう私に生きる意味はない。切嗣によって変革された世界というのは、きっとそういう場所でしょう」
すべての戦火が根絶された世界には、戦火の中の処方しか知らない人間に居場所はない。その諦観は、舞弥にとっては当然すぎる結論なのだろう。
それがあまりにも哀しく、悔《くや》しくて、アイリスフィールの口を衝《つ》いて言葉が出る。
「ううん、そんなことはない。舞弥さん、あなたには戦いの後で果たさなきゃならないことがある」
「……」
物問いたげな女戦士の視線を正面から受け止めて、アイリスフィールはきっぱりと告げた。
「捜さないと。あなたの本当の名前と家族、それにあなたの子供の消息を。それは忘れ去られていいことじゃない。はっきりと確かめて、刻みつけていかなきゃならないことよ」
「そうでしょうか……」
アイリスフィールの熱意とは裏腹に、舞弥の懐疑的な声はあくまで冷め切ったままだった。
「もし真に平和な時代が来るなら、私のような人間の記憶は悪夢でしかない。塞《ふさ》がった傷を徒《いたずら》に開き、痛みをもたらすだけだ。せっかくの理想郷に、憎しみの種を持ち込むだけでは?」
「違うわ。だってあなたの人生は夢じゃない。歴《れっき》とした事実なんだから。それを闇に葬った上での平和なんて、それこそ罪深い欺瞞《ぎまん》でしかないわ。
私、思うの。本当に平和な世界っていうのは、ただ痛みを忘れていられる場所なんかじゃない。もし二度と痛みを生まずに済む場所まで辿り着いたなら、そのとき人間は、過去に置き去りにしてきた痛みや犠牲を、本当の意味で悼《いた》んで、偲ぶことができるようになるんじゃないかしら」
「……」
舞弥は押し黙り、しばらくアイリスフィールを見つめて――それから、ほんの少しだけ朗らかな面持ちで、頷いた。
「その言葉は、もっと早くに切嗣にかけてあげるべきでした。もしかしたら彼は、今よりずっと救われていたかもしれない」
そんな舞弥の感想は、アイリスフィールの胸に、喜びと寂しさを同時に呼び込んだ。
おそらく――朽ちゆく彼女には、もう二度と、夫と言葉を交わす機会はない。
「――それなら、舞弥さん。あなたが彼に伝えてあげて。私の言葉で、慰めてあげて」
舞弥は頷く代わりに、|曖昧《あいまい》に肩を竦めて見せた。
「善処は、します。でもそれは戦いが終わった後の話です。現状は予断を許さない。彼も、私も、当面は気を抜くことなどできません」
冷淡な返答に、だがアイリスフィールは、舞弥なりのユーモアの気配を嗅ぎ取った。そんな言い様で相手を笑わせようとしたのかと思うと、むしろそれが滑稽でならない。
「本当に、あなたって人は――」
途方もない振動が土蔵を揺るがしたのは、そのときだった。
驚きに身を強張らせるアイリスフィールの肩を、舞弥の腕が即座に抱き起こす。一瞬で臨戦態勢に切り替わった刃の如き眼差しは、既に右手で構えたキャレコ短機関銃の銃口ともども、揺らぐことなく鉄扉へと据えられている。
再び土蔵が震撼《しんかん》する。今度こそはっきりと、分厚い鉄扉が外から内側に掛けて歪《ゆが》み撓《たわ》んだ。何者かが猛烈な力で土蔵の扉を殴打《おうだ》している。重機でも動員しなければ不可能な荒技ではあったが、聖杯戦争の参加者たる二人にとって、それは驚くべき事態などではなく――むしろ絶望に背筋を|凍《こお》らせるしかない。
今、土蔵の中へと押し入ってこようとするのがサーヴァントであるならば、もはや舞弥の武器で抵抗することなど不可能だ。かといって退路もない。まさに絶体絶命の危機である。
だが恐懼《きょうく》に竦むより先に、二人の脳裏を過ぎるのは信じがたいという疑念であった。
誰が、一体どうやってこの土蔵を――アイリスフィールの所在を掴んだのか?
使い魔による|斥候《せっこう》、千里眼による探知であれば、防御結界でそれと知れた筈だ。そんな前置きも一切抜きにサーヴァントを投入してきたのだとしたら、敵は予《あらかじ》めこの土蔵のことを知っていたとしか思えない。
三度目の激震。先に屈服したのは鉄扉そのものでなく、蝶番《ちょうつがい》の埋まった壁の方だった。
割れた漆喰《しっくい》の破片を散らしながら、扉が土蔵の内側へと倒れ込む。矩形《くけい》に切り抜かれた外界は血染めにも似た夕陽の朱。
その中に聳《そび》え立つ雲を衝くような巨躯《きょうく》は、紛れもなく――ライダーのサーヴァント、征服王イスカンダルのそれだった。
舞弥の手の中で、絶望の握力がキャレコの銃把《じゅうは》を軋ませた。
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ACT14
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-37:02:20
夕闇の訪れる頃には、今日一日の張り込みが空振りに終わるのではないかと、そんな漠たる直感がセイバーを苛んでいた。
アーチャーのマスター、遠坂時臣から得た情報に従い、深山町の指示された所番地に赴いたセイバーは、そこで確かにマッケンジーなる老夫婦の住居を見出した。呼び鈴に応えて現れた老婦人の話によれば、たしかにここ数日間、孫とその友人が逗留《とうりゅう》しているという話である。老婦人はセイバーもまた彼らの友人の一人だと勝手に思い込んでしまったらしく、|訝《いぶか》ることもなく気軽に応対してくれた。
語り聞かされた二人の風体は、間違いなく、ライダーとそのマスターのものだった。ところが肝心のサーヴァントの気配が、まったく感じられない。この程度の規模の家屋なら、もし屋内にサーヴァントが隠れ潜んでいたなら、たとえ玄関先からでもそれと察しがつくはずである。
聞けば二人は、今朝早くに外出したきり戻っていないという。さては何らかの手段でセイバーの来訪を予知し、逃げ出したのかとも疑ったが、あの征服王に限ってそんな弱腰は考えにくい。むしろ雌雄《しゆう》を決するためならば正面から出迎えてきそうなものだ。
結局、行き違いになったのはただの偶然と判断したセイバーは、大人《おとな》しく門前を辞し、少し離れた場所からマッケンジー宅を見張って、ライダーたちの帰宅を待つことにした。
無論、応対してくれた老婦人には、真の事情については一切を伏せたままにしておいた。ウェイバー・ベルベットに誑《たぶら》かされているとはいえ、あの家の住人はあくまで無関係の一般人である。聖杯戦争に巻き込んでいい道理がない。そういった節目については、きっとあのライダーも配慮するはずだ。
冬木市全域を危機に陥れたキャスターの暴挙を阻《はば》むために、ライダーは聖杯戦争を棚上げにして振る舞った。そんな、英霊としてごく真っ当な誇りの在り方を、あの征服王は決して違《たが》えないだろうとセイバーは判断していた。いずれ戻ってきたライダーがセイバーの姿を見咎めれば、きちんとサーヴァント戦に相応しい場所を選んだ上での対決を望むことだろう。
さすがに、ただ往来をうろうろしていたのでは人目を惹《ひ》きすぎるとすぐに気付き、セイバーは最寄りのバス停のベンチで時を待つことにした。以来、まんじりともせず待つうちに数時間が経過し、現在に至る。
直に老人宅を見張れる位置ではないが、ライダーが戻れば必ずやサーヴァントの気配を嗅《か》ぎつけ、セイバーのことを見出すはずだ。そこで逃避や奇襲といった手段に走る相手ではない。セイバーの挑戦の意図を敢えて汲み、戦いに向いた場所へと誘導しにかかるだろう。
奇妙な話ではあるが、ライダーの、戦闘代行者たるサーヴァントとしての在り方について、セイバーは全幅《ぜんぷく》の信頼を置いていた。たしかに相容れない哲理の持ち主ではあるが、あの英霊が自らの王の誇り≠前提として動いていることに疑いの余地はない。正々堂々と挑みかかるかぎり、裏切られることはない。ライダーは自らの誇りを損なうような戦略を決して選ばないだろう。
むしろセイバーの不安は、正面より背後にある。
彼女のマスターである衛宮切嗣は、彼女とは全く異なる意図と方針でライダーのマスターを狙っていることだろう。現にセイバーが今こうしている瞬間にも、彼女をライダーを釣る餌《えさ》と見なして、どこか遠くから監視しているかもしれない。――いや、そう覚悟しておいて間違いあるまい。ライダーが全力を投じてセイバーと対峙するその瞬間を、切嗣はマスター暗殺の絶好のチャンスと狙って待ち構えているはずだ。
それを思うと、セイバーの心は重く沈む。
いっそ切嗣がアーチャーやバーサーカーのマスターを狙って、魔術師同士の決着をつけてくれるというなら、まだいい。サーヴァントを頼みとしない権謀術数による勝利というものを完全否定するセイバーではない。切嗣は切嗣なりに正しく切実な理由で聖杯を求め欲している。必勝を万全としたい気持ちも解らないではない。
だが、ライダーこと征服王イスカンダルとの決着は、セイバーとしても、どうしても譲れない一線だった。
ただ聖杯を奪い合う戦闘機械としてのサーヴァントではなく、己が誇りを頼みとする英霊同士として競い合うのでない限り――セイバーは、先日の『聖杯問答』での蟠《わだかま》りを精算することができない。
自らの暴虐なる王道を憚《はばか》りなく掲げ、『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』という破格の容《かたち》にしてまで誇示したイスカンダル。その彼を、同じく騎士王の理念の表象たる『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』で打破することなくしては、アルトリアの王道は喝破《かっぱ》されたままに終わってしまう。
ライダーの最終宝具は、思い返すだに総身が震える強大無比な代物だ。たとえセイバーの宝具の最大出力を以てしても、必勝を確信することは難しい。
対軍宝具と対城宝具の激突がどのような結末をもたらすかは、想像の域を超えている。そんな危険な賭に勝敗を託すなど、衛宮切嗣であれば一笑に付す愚行であろう。だがセイバーにとって聖杯とは、自らの理想の正しさを前提とした上で掴み取るべきものなのだ。彼女の王としての根幹を脅かすものがある以上、それを避けた上で聖杯に到る道など、それこそセイバーには許容できない。征服王になお勝る王道を証してこそ、聖杯は騎士王を選ぶはずなのだ。
だからこそ、先日のランサー戦のように、もしライダーとの決着においても切嗣が余計な介入をしてくるようならば、今度こそセイバーにとっての聖杯戦争は瓦解《がかい》する。そんな方法で勝ち残ったとしても、その果てに差し出された聖杯を、セイバーは決して手に取ることなどできない。
ライダーがまた固有結界を展開し、自らのマスターもその内側に連れ込んだ上で戦うならば、余計な邪魔が入る気遣いはない。だが切嗣もまたライダーの手の内については知っている。彼がもし、『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』の発動に先んじて何らかの策を弄《ろう》するとしたら……
背を丸めてベンチに掛けたまま、セイバーは奥歯を噛みしめた。衛宮切嗣の行動を読みきれない自分がもどかしい。強敵との対決を前にして、心をそこに集中できないのが歯痒《はがゆ》い。
不安とともに待つ時間、北風の冷たさは殊更に厳しくセイバーの総身を苛み続けていた。
[#中央揃え]×      ×
セイバーの危惧《きぐ》した通り、衛宮切嗣はそこにいた。
距離にして八〇〇メートル余り。ひとつ街区を隔てた公団住宅地の、六階建てマンションの屋上である。
雑居ビルなどと違い、公団マンションの屋上、それも居住者による利用を考えていない構造のものは、出入りが困難な反面、いざ居座ってしまえば滅多なことでは邪魔が入らない。給水塔の影に身を隠せば階下から見咎められることもなく、狙撃を意図した待ち伏せには絶好のロケーションである。
煙草の煙や匂いさえ、ここであれば誰にも気付かれない。水と食料ともども持ち込んだ煙草を遠慮なく吸い潰すことができたぶんだけ、切嗣の精神的負担はセイバーのそれより遥かに軽かった。
二脚架で支えたワルサー狙撃銃のスコープは、マッケンジー宅の門前を。
それとは別に用意した観測手用スコープで、バス停にいるセイバーの挙動もつぶさに見て取れる。
二つの望遠鏡を休みなく交互に覗くのは難儀ではあったが、舞弥に頼れない以上は仕方ない。アイリスフィールの護衛を託してある舞弥は、もう最終局面まで動かせない。以後の狩り≠ヘ切嗣が単独で進めていくしかない。
セイバーより遅れてマッケンジー家の監視を始めた切嗣だが、サーヴァントの気配を感知できるはずのセイバーが手持ち|無沙汰《ぶさた》に待ちぼうけを食っている様子を見れば、ライダーが不在なのは明らかだ。となればマスターも同様だろう。まさかこの状況で平然と居留守を決め込めるほど肝《きも》の据《す》わったマスターではあるまい。敵のサーヴァントが門前をうろつきはじめたら、慌ててライダーを呼ぶはずだ。
切嗣はセイバーと違って、狙う獲物が拠点を留守にしているという事態を、より深刻に憂慮していた。よりにもよって切嗣たちがグレン・マッケンジーの存在を知った翌朝に、早々から家を出て戻らないというのは、タイミングとして出来過ぎている。確証こそないものの、ウェイバー・ベルベットが敵襲を察知して逃走した可能性は、かなり高いと考えていい。
それでも一縷《いちる》の望みを託して待ち伏せを続けている切嗣だが、ここは思案のしどころでもあった。
もしウェイバーが再びマッケンジー家に戻るのであれば、時限爆弾で家もろとも吹き飛ばすという手もあるが、既に彼が逃走した後ならば、今頃はとっくに別の拠点を見定めていることだろう。再びあの家に現れる公算は低い。
ソラウを餌にしてケイネスを釣ったのど同様に、あの家の老夫婦を利用してウェイバーを罠《わな》に嵌《は》める策というのも――通用するとは思えない。
敢えて要害としての備えを度外視し、ただの一般人の家を隠れ|蓑《みの》として拠点に選んだウェイバーの判断を、切嗣は高く評価していた。わざわざ解りやすい場所に大仰な工房を構えた御三家やケイネスよりも、余程賢明な策略である。そういう判断ができる魔術師が、まさか寄宿先の家主に情をかけるとは考えにくい。ウェイバーにとってマッケンジー夫婦は使い捨ての道具でしかないはずだ。
貴重な時間を浪費しているという|焦燥《しょうそう》と、早計は禁物だという用心とが、切嗣の内側で閲ぎ合う。
ウェイバーの帰還を悲観する一方で、彼の不在が偶然である可能性を捨てされない要因は――あの少年魔術師が情報戦で切嗣を出し抜くに到った経緯が、どうしても想像つかないという点だ。
当初、ライダーのマスターとして現れた彼については、完全にノーマークだった。その後の追加調査で素性については掴めたものの、その時点でもウェイバー・ベルベットについてのプロファイリングは、突発的偶然でマスターとなってしまった見習い魔術師でしかなく、こと戦闘においては|素人《しろうと》同然、と結論するしかなかった。
無論、経験の多寡を能力に直結して考える切嗣ではない。駆け出しの頃の自分が既にどれだけ悪辣《あくらつ》な暗殺者であったかを切嗣は記憶しているし、そんな自分を希有《けう》な例だとは思っていない。
だが、幾度《いくたび》か戦場で観察したウェイバー・ベルベットの有様から推《お》し量るに――あれが、はたして本当に切嗣を出し抜くほどの難物であったかどうか。
答の出ない思惑のループに、形のない苛立ちを懐き始めた頃……
不意に、鋭い痛みが左手小指の付け根を焼き焦がし、切嗣の背筋を凍らせた。
「……ッ!?」
久宇舞弥を本格的に助手として使役するようになって以来、切嗣は彼女の頭髪を一本、呪的処理を施した上で小指の皮下に埋め込んであった。舞弥の方は逆に、切嗣の髪を指に仕込んでいる。もし一方の魔術回路が極端に停滞した場合――即ち、死に瀕《ひん》するほどに生命力が衰えた場合には、もう一方に委ねてある頭髪が燃焼してその危機を告げる、という仕組みである。
無線や使い魔で窮状《きゅうじょう》を伝える暇すらないほどの最悪の事態を想定したそれは、つまるところ手遅れの結末≠告げる信号に他ならない。それが今、このタイミングで発動したことが何を意味するか……
動揺より|狼狽《ろうばい》よりなお先に、衛宮切嗣は状況認識とその対処にすべての思考を動員していた。
舞弥が瀕死――即ち、彼女が土蔵に匿っているアイリスフィールの危機。経緯も原因も今この時点で問うことではない。
すべてに優先するのは、早急なる援助――そして選択しうる手段において、もっとも最速のソレは――右手の令呪が可能とする奇跡。
「令呪を以て我が傀儡《かいらい》に命ず!」
拳を握りしめるとともに、切嗣は自動機械の如き速やかさで文言を唱え上げた。
「セイバー、土蔵に戻れ! 今すぐに!」
切嗣の手の甲に刻み込まれていた令呪の一画が、今、その法外の魔力を覚醒させて赫《かく》と光を迸《ほとばし》らせる。
セイバーにとっては、掛け値無しの不意打ちだった。
即座に理解できたのは、自分が何か強烈な魔術の対象とされたこと。次の瞬間にはもう、彼女は周囲の空間認識を完全に剥奪《はくだつ》され、天地も方角も解らない移動≠フ直中に放り込まれていた。
まさにそれは、『サーヴァントを統《す》べる』という一点にのみ特化した極限の呪法の成せる技だった。因果律を崩壊させる一歩手前の極限速度、光速の数パーセントに及ぶ瞬時≠フうちに彼女は空間上の距離を突破し、異なる二点間の移動を完了させられていたのである。
とはいえ、彼女もまた闘争≠ノ特化した剣の英霊たる超越者である。バス停のベンチからまったく違う場所へと跳ばされた£シ後でありながら、そこが見覚えのある土蔵の中だと判別できた時点で、今の怪異が切嗣の令呪による強権発動だったこと、そしてサーヴァントを護りの拠点に急行させなければならないほどの事態が発生したのだという事情を、たちどころのうちに理解した。空間突破の完了から土蔵の床に着地するまでの数ミリ秒で、セイバーは偽装のスーツ姿から白銀の甲宵へと既に転身を遂げていた。
事態は――もはや誰に問うまでもなく、一目のうちに瞭然《りょうぜん》だった。
荒々しい力業によって打ち破られた鉄扉。魔法陣の上に仰臥《ぎょうが》するはずのアイリスフィールの姿はなく、代わりに総身を血に染めた久宇舞弥の身体が、うち捨てられたかのように床に転がっている。
「マイヤー!」
駆け寄ったセイバーは、彼女の傷の深さに|眉《まゆ》を顰めた。アインツベルンの森で負わされていたダメージの比ではない。今度こそ早急に処置しなければ命に関わる重傷だ。
輝くサーヴァントの霊気を間近に感じてか、舞弥がうっすらと瞼を開ける。
「セ、イ……バー……?」
「マイヤ、しっかり! 今すぐ手当をします。大丈夫だから――」
差し伸べられたセイバーの手を、だが舞弥は拒むように押しのけた。
「早く……外へ……追って、くださ、ぃ……ライダーが……マダム、を……」
「……ッ」
令呪で跳ばされたことよりもむしろ、そんな舞弥の反応にセイバーは瞠目《どうもく》させられた。
自らの傷の深さを自覚できていない舞弥ではあるまい。己がいま命の瀬戸際にいることも充分に理解していよう。だがこの寡黙《かもく》なる暗殺者の助手は、それよりまず連れ去られたアイリスフィールの救援を優先せよと促《うなが》している。
「だが、それでは――」
言い返そうとしたところで、セイバーは悟《さと》った。
この女もまた騎士なのだ。誇りの形こそ違えども、その身に背負った責務のために命すら投げ出す胆力は、セイバーの知る騎士道のそれだ。
この土蔵に匿った貴人を守り通すと――久宇舞弥は切嗣に、そしてアイリスフィール本人に誓ったのだろう。果たしきれなかったその約束をセイバーに託すため、いま彼女はここで命を削《けす》っている。
「……私は、だいじょう、ぶ……すぐ、に、切嗣が……だから……早く……」
セイバーは歯噛みして目を閉じた。
ただ理《ことわり》のみで計るなら――今こここでセイバーが舞弥を案じて費やす一分一秒は、そのままアイリスフィールを窮地へと追いやっていくのだ。
舞弥はまだ後から駆けつける切嗣によって救われる望みがある。が、連れ去られたアイリスフィールの命運は、今すぐにセイバーが追わない限り何の保証もない。土蔵に残された襲撃の痕跡を見れば、それがサーヴァントの仕業であることは明白だ。追撃は、同じサーヴァントであるセイバーにしか叶わない。
「――マイヤ、どうか切嗣が来るまで持ち堪えてください。アイリスフィールは必ずや、私が」
舞弥は頷いて、安堵したかのように目を閉じる。
彼女の誓いを、新たな誓いの言葉で引き継いだセイバーは、もうそれ以上迷わなかった。
颶風《ぐふう》の勢いで土蔵から飛び出ると、そのまま地を蹴《け》って一跳びに屋根へと登り、暮れなずむ空の彼方に敵影を探す。
令呪の強権による移動が瞬間であった以上、襲撃者がこの場を立ち去ってからのタイムラグはほぼ皆無に等しいはずだ。まだそう遠くまでは行っていない。気配の感知は可能圏外でも、視認ならまだ間に合うだろう。
瓦屋根の上からサーヴァントの超視力で周囲を見渡したセイバーは――探すまでもなく即座に、敵の姿を捕捉した。
距離にして半キロ余り先……商店街とおぼしい区画の雑居ビルの屋上に、その威容は立ちはだかっていた。屈強な体格に、燃えるような巻き毛と深紅《しんく》のマント。まざれもなくそれは、幾度《いくたび》も戦場で行き会ったライダーこと征服王イスカンダルに他ならない。
まさか――本当にライダーが!?
先の舞弥による目撃談にも、そこだけは疑念を懐いていたセイバーだった。
あの剛胆さが取り柄の英雄王が、まさかこんな姑息《こそく》な手段に訴えるなどとは、俄《にわか》には信じがたい話である。が、彼方の巨漢がその豪腕の中に、眠るアイリスフィールの身体を抱え込んでいる光景は、もはや見違えようもない。いかにしてセイバーたちの新たな隠れ家を看破《かんぱ》したのか定かでないが、たった今ここを襲撃して舞弥に重傷を負わせしめたのは、あのライダーに間違いない。
まるで追撃を誘いかけるかのように堂々と身を晒していたライダーは、セイバーの視線を受け止めるや否や、身を翻《ひるがえ》して建物の向こう側へと姿を消す。
「くっ……!」
即座に追おうと身構えたセイバーは、そこで相手が他ならぬ騎兵の英霊《ライダー》≠ナあることに舌打ちした。
このまま跳躍《ちょうやく》して街を駆け抜け、追いすがるのは容易な話だ。が、それは相手がセイバーと同様に歩行《かち》であった場合の話である。途中からライダーが『|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》』に乗って逃げ始めたら、いかにセイバーの脚力であっても勝ち目はない。
だがセイバーにも騎乗スキルは備わっている。空飛ぶ宝具に追いすがって目的地を突き止めるならば、瞬発的なスピードよりも、長距離の巡航速度で徒歩より勝る機動力が必要だ。
メルセデス・ベンツしかなかった以前なら、とても敵わぬと悲観したセイバーだったかもしれないが……幸か不幸か、彼女には昨日舞弥に届けられたばかりの新たな騎馬≠ェ用意されている。
その先見の明ある用意の良さについてのみ衛宮切嗣に感謝しながら、セイバーは身を翻し、騎乗に邪魔な魔力甲骨を解除すると、廃屋の庭に停めてあったそれ≠ノ飛び乗った。
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-36:48:13
衛宮切嗣は、死神の気配に敏感だった。
もう数え切れぬほど幾度となく、人の死を見届けてきたせいかもしれない。目に見えず、音にも聞こえず、それでも骸から生命《いのち》が抜け落ちる瞬間を待ち受けている何か[#「何か」に傍点]が間近にいれば、何となくそれと察しがつく。
とりわけ、奴ら[#「奴ら」に傍点]の勝ち誇った歓喜≠感じるときは、もはや留めようもない生命《いのち》の終わりを、手遅れの誰かを看取るときと決まっている。
だから切嗣は、土蔵の静寂を前にして立ちつくしたその瞬間に、既に心のどこかで観念していた。
きっとまた自分は、ここで誰かの最期を見届けることになるのだと。
キャレコ短機関銃を腰だめに構えつつ、そっと足音を殺して、鉄扉の破られた土蔵の中に踏み込む。殺意も、それ以外の危険の気配もない。血臭《けっしゅう》に澱《よど》んだ空気からはもう既に、戦いの余熱は冷めきっている。
床に蹲《うずくま》る小さな影の、浅すぎる呼吸にも、身じろぎもせず冷めゆく体温にも、驚きなど懐かなかった。
それは、いつか見ることになると判りきっていた光景だ。
もとより、命だけしか救ってやれなかった少女である。切嗣と出会った時点で既に、彼女の心は死んでいた。ナパーム弾と硝煙《しょうえん》の洗礼の中で生き存《ながら》えた命でありながら、その幸運に、彼女はむしろ戸惑っていた。
再び人として生きることに、もはや何の価値も、喜びも感じない。
だから拾われた命は、拾い主の手に譲り渡すと――死んだ目をした少女は、切嗣に告げた。それが十一年前の出会いだ。
切嗣もまた、それを受け入れた。
遠からずこの少女は死ぬと、確信に等しく予期できた。生みの親も、育ての親も、その手で殺してきた切嗣だ。そんな自分の傍らに侍らすならば、いずれは彼女もまた死に追いやることになるだろうと判っていた。
だがそれでも、道具[#「どうぐ」に傍点]は多いに越したことはない。いずれ彼女一人を使い捨てることで、二人かそれ以上の人命を救える局面があるならば、むしろ望ましい結末だと……切嗣は少女に名前を与え、国籍を与え、彼自身の技術と知識を分け与えた。それが久字舞弥という、末路を決定された存在の始まりだった。
だからこそ、今さらそこには、喪失も嘆きも有り得ない。――それが道理だ。当然の帰結だ。
なのに何故、|膝《ひざ》が震えるのだろうか。|喉元《のどもと》に息が詰まるのだろうか。
抱き起こすと、舞弥は薄く瞼を上げて虚《うつ》ろな眼差しを彷復わせ、それから切嗣の顔を認めた。
「……」
どんな声をかければいいのかも判らず、切嗣は途惑いに唇《くちびる》を噛む。
感謝も、労《ねぎら》いの言葉も、ただの無為な修辞でしかない。今この場で多少なりとも意味をもつ言葉があるとするならば――『お前はここで死ぬ』と、その結論を告げてやることだけだ。
もはや、任務も役目もないと。何を思い煩《わずら》う必要もないと。
本当に彼女をただの道具≠ニだけ見なしてきたのなら、切嗣はそう声に出して言えるはずだ。
「……」
なのに、枯れきった喉からは一声も出ない。ただ呆《ほう》けたように無様に唇だけが痙攣する。
そんな切嗣の面持ちを見上げて、舞弥は、小さくかぶりを降った。
「……だめだよ。ないたら……」
「……」
指摘《してき》されるまで切嗣は、|目尻《め じり》に溢《あふ》れかけていた涙に気付かなかった。
「それは……おくさんのために、とっておいて。……ここでないたら、だめ……あなた、よわいから。いまはまだ……こわれちゃ、だめ……」
「僕は――」
何かを、致命的に間違えた。今さらのように切嗣はそう痛感した。
道具として使い捨て、結果次第でそれを良しとできる命だと――衛宮切嗣がそうであるように、久宇舞弥もそうなのだと、何故そんな勝手な見立てを今日まで信じていられたのか。
こんな自分に、今、こんな言葉をかけられる女なら。
彼女にはもっと違う生き方が、死に様があったはずではないのか。
「けさ、やっと……むかしのままの、キリツグに、なったんだから……こんなことで、ゆれたら、だめ……」
「――ッ」
その通りだ。この場所で、違う女を、同じように抱き上げながら、衛宮切嗣は己の外道を確かめた。
その歪みこそが条理を覆すと。
正しき在り方では決して成し得ない奇跡を遂げるのだと。
そう自らを戒めた。まだほんの半日しか経っていない。
「――安心しろ、舞弥」
光の失せつつある双眸を見据えて、切嗣は、低く抑えた声で告げた。
「後はセイバーに任せろ。舞弥、お前の役目は……終わりだ」
彼女という機能を欠いたままでも、衛宮切嗣という装置は支障なく稼働するのだと請け合った。
だからもう、無理をして息を継ぐこともないと。
痛みを堪えるまでもなく、思考を保つまでもなく、すべて手放して逝《い》けばいいと。
ただ冷酷に徹したその宣言に、久宇舞弥は、小さく一度だけ――頷いた。
「舞弥……」
応えはない。
訂正も、否定も、言い残した言葉も、すべて既に遅かった。切嗣の腕の中にあったのは、もうこれ以上冷たくなりようもない、ただの亡骸《なきがら》にすぎなかった。
ライダーの逃亡先は、明らかに新都方面だった。
高所から高所へと跳び渡って移動しているのか、雑居ビルや広告塔の上に繰り返し現れては消えるその後ろ姿を、セイバーは繰り返し見咎めた。身を隠すだけの配慮がないのは、追跡するセイバーの脚力を完全に侮《あなど》っているが故《ゆえ》か。
だとすれば、それは誤算だ。
渡る闘志とともにセイバーが解き放つスロットルに応えて、双輪の猛獣は猛々《たけだけ》しい怒号を張り上げる。V型四気筒1400ccのエンジンが轟かす大音声は、まさに鋼鉄の獅子――重く猛り狂う凶暴な大型肉食獣のそれに似て、夜のしじまを獰猛に震撼させる。
セイバーの騎乗スキルを最大限に発揮させる目論見で、衛宮切嗣が用意した機動手段は、四輪ではなく二輪だった。シートの中でハーネスに縛られたまま操縦≠ノ徹する自動車よりも、自らが車体の一部となって重心を制御し、外気に身を晒《さら》したまま騎乗≠キるバイクこそ、サーヴァントとて強化されたスキルの真価を最大限に発揮しうるものと見込んだからだ。
無論、超常存在であるサーヴァントによる運用が大前提である以上、その性能はヒトとしての操縦者の限界を度外視したもので構わない。本来なら実用性皆無と一笑に付されるであろう机上プラン止まりの車体構成を、敢えて切嗣は実行に移していた。
ベースとなった車体は現時点で最強のモンスターマシンとされるYAMAHA・V-MAX。元より一四〇馬力もの出力を叩き出す1200ccエンジンをさらにボアアップし、加えて吸気系やツインターボチャージャー、それに伴う駆動系の強化を全面的に施して、最終的に出力二五〇馬力を上回る異形の怪物へと変貌させられたソレが、いまセイバーの駆る白銀の騎馬だった。
無論、ここまで限度外の改造を施したのでは、すでに二輪車としての構造上、まともな走行が望めない。膨大《ぼうだい》なトルクを持て余したタイヤは路面を掴みきれずにスピンするだけだし、いざグリップしてしまえば即座に前輪を振り上げて搭乗者を蹴り落とすことになる。
もはや物理的に御し得ないはずの怪馬を、いまセイバーが十全に制した上で疾駆させている秘策は、彼女の虎の子たる戦闘スキル、魔力放出の|賜物《たまもの》だった。セイバーの背中から迸る魔力の噴流は、身体の下で暴れ狂う車体を強引に路面に押さえ込み、その馬力のすべてをステアリングに沿った加速のみに動員させていた。
すでに技巧による操作というよりも、力任せに猛獣を組み伏せているに等しい荒技だ。あまつさえ矮躯のセイバーにとって、総計三〇〇キロを上回る超重量バイクの巨体が相手では、操縦姿勢までもが厳しい。ダミータンクに覆われたエンジンの上に、ほとんど腹這いも同然の体勢となってハンドルを握りながら、大排気量の激震を全身で受け止める羽目になる。その姿はまさに、猛獣の背中に必死でしがみつく子供のようだ。
が、その試練をセイバーは苦としていなかった。むしろ鋼の巨獣が猛れば猛るほどに、彼女の内なる興奮も加速されていくかのような感がある。
メルセデスを駆ったときとは比較にならない疾走感、そう、この感覚は、まざれもなく馬上のそれだ。
現代科学の粋たるモンスターマシンを駆っていながらも、いま彼女の精神《こころ》は懐かしき戦場へ――槍を掲げて敵陣へと突貫する騎兵の|魂《たましい》へと立ち返っていた。
この性能なら、或いは――
先行するライダーとの距離は、徐々に開いていく。建物から建物へと跳躍して移動する相手と、路上を辿るしかない経路の差だ。
だが焦る必要はない。たしかに瞬間的な加速とトップスピードにおいては、サーヴァントの敏捷性《びんしょうせい》はこのV-MAXをも凌駕するだろう。だが鋼鉄の機構は、燃料の持つ限りその駆動速度を維持できる。長時間の追跡戦となったとき、それが意味するところは大きい。
深山町の入り組んだ街路は、地を馳せて追う側にとっては大きな枷《かせ》だ。しかも極限の加速力を追求してフルチューンされたV-MAXの走行特性はドラッグレース仕様も同然であり、旋回性など皆無に等しい。が、『速くては曲がれない』という条理さえ、サーヴァントの手練を前にしては意味を為さない。
すでにマシンの特性を把握しきっていたセイバーは、カーブに差し掛かるたびに減速するどころか逆にスロットルを開き、さらに過剰なトルクを後輪へと注ぎ込む。そうやって、車重をも覆す急加速が前輪を浮かせたその隙に、セイバーは魔力放出の瞬発で強引に車体を傾け、破壊的なまでの直進性を半ばねじ曲げるようにして方向転換を成し遂げていった。
ライダーは既に未遠川を渡って新都に入ったのか、もうその姿は見えない。が、セイバーは慌てることなく、行く手の夜空に視線を飛ばす。
追ってくるセイバーが決して諦めないものと、既にライダーは腹をくくっていることだろう。いまアイリスフィールの身体を抱えて運んでいる彼には霊体化して姿を眩ますことは叶わない。新都に逃げ込んだ時点でライダーが取り得る選択肢は、そのまま身を潜めて追跡をやり過ごすか、或いは『|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》』に騎乗して一気に距離を引き離そうとするかだ。ライダーの気性を鑑《かんが》みて、セイバーは後者と踏んでいた。ならば見失ったとしても焦る必要はない。あれだけ膨大な魔力を放つ飛行宝具であれば、決してセイバーの視力からは逃れ得ない。
問題は、地上から追うことの不利だが――
いったん『|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》』が出てくれば、そこから先は飛行方向から目的地を察し、着地点を先読みして移動することになるだろう。操縦技術の競い合いというよりも、狩人としての追跡術《トラッキング》が問われることになる。
有り得ない速度と挙動で先行車の間をすり抜け、追い抜いていくV-MAXの暴走を、道行く誰もが愕然《がくぜん》と見送る。そんな視線を意にも介さず、セイバーは頭上の索敵に意識を集中していた。行く手を阻む障害物は気流の流れだけで察知できる。たとえ目を瞑って操縦していても衝突する気遣いはない。
――いた!
猛禽の視力に等しいセイバーの霊感が、ついに空を駆ける魔力の波動を感知する。人目を憚ってか雷鳴を撒き散らすことなく、速度も以前より抑えめだが、紛れもなくあれはライダーの宝具の手応えだ。
方角は、東。どうやら新都を抜けて冬木市の外にまで逃げ延びる腹らしい。
むしろ僥倖、とセイバーは断じた。そういうことならこちらも道幅の広い国道を使って、マシンの加速力を存分に発揮できる。
ブロードブリッジを一気に駆け抜け、そのまま六車線の大通りに乗ったセイバーは、さらに大胆にスロットルを開いてV-MAXを駆り立てた。
容赦ない乗り手の駆使に、タコメーターが六〇〇〇回転を越え――その途端、エンジン音が予想外の豹変を遂げる。
怒濤《どとう》の爆音だった重低音の響きが、やおら耳をつんざくほどの強烈な高音域へと跳ね上がり、より凶暴に、猛烈に、夜気を切り裂いて轟き渡る。それまでとは桁違いの猛加速が車体もろともセイバーを弾丸へと変え、周囲の夜景を流星にして背後へと吹き飛ばしていく。
まさにそれは、鋼の猛獣に潜んでいた真の魔性が覚醒した瞬間だった。エンジニアリングの粋たる暴挙の設計、Vブースト機構……高回転域に達した時点で四気筒のエンジン構造を二気筒に変形させ、吸気量を一気に増幅させて極限の加速を得るという、V-MAXならではの特異構造がそれだった。本来ならばツインターボと組み合わせるなど有り得ない機構であり、この設計はバイクとしての範疇《はんちゅう》を完全に逸脱するものだ。
もはや水圧も同然の空気抵抗に晒され、必死に車体を保持しながらも、それでもセイバーは不敵な笑みを浮かべずにはいられなかった。
この車両は、機械の基本原則たるヒトの道具≠ニしての領域の、明らかな埒外にある。まさに科学の英知が産み落とした鬼子だ。その孤独さ、哀しさに、同情を越えた共感すら懐いた。
これ[#「これ」に傍点]の真価を完全に発揮させてやることは、人外の魔であるサーヴァントにしか叶うまい。きっと今夜セイバーの手綱で地を駆けるためだけに、こいつはこの世に生を受けたのだ。
「――いいだろう。燃え尽きるまで駆ってやる!」
轟風《ごうふう》の中に呟きを散らしつつ、セイバーはなおもスロットルを開け放つ。スピードメーターの針はとうに時速三〇〇キロを超え、なおもじりじりと禁断の領域へ這い上がっていく。
地を行く光にあるまじきヘッドライトの光芒《こうぼう》は、はるかな高みからも見て取れた。
「ライダー、おい、あれ……ボクらのことを追ってきてないか?」
先にそれに気付いたウェイバーが御者台の下を指差した。マスターの指摘に目をやったライダーは、ささやかな驚きに眉を上げる。
「ほぉ? 誰かと思えばセイバーか。こりゃ探す手間が省けたわ。……つうか、なぁ坊主、オートバイという乗り物はあんなにも速いものなのか?」
「バイク? あれが?」
ウェイバーの視力では光の点としか見えないそれは、どう考えても彼の常識の範囲内で理解できる二輪車のスピードではない。
「いや、そんな無茶な……でもたしかに、セイバーのクラスならそれなりの騎乗スキルが顕現するだろうし、そう考えれば有り得るのか、なぁ……」
「ほォ、よりにもよって『騎兵』として余に挑んできたか」
ライダーはさも痛快そうに、浮猛な含み笑いを漏らす。
「フフン、面白いわ。奴の方からしゃしゃり出て来た以上、もうあのけったいな森の城まで出向く必要もなくなったが……そういうことなら余の方も、相応の趣向で臨んでやらんとなァ」
そう言ってライダーは神牛の手綱を繰り、戦車《チャリオット》の高度を一気に落とす。
「お、降りるのかよ!?」
「気が変わった。あの小娘とは尋常に車輪≠ナ勝負を決めてやる。この先の森を抜けていくのに、それなりに長く幅のある道が続いておったよな。フフフ、誂《あつら》え向きの戦場《コース》だ!」
むざむざ頭上の優位を捨てて敵の土俵に上がるのかと抗議しかかったところで、ウェイバーは一昨日に見た『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』の威力を思い出す。セイバーの宝具特性を鑑みれば、むしろ距離が離れている状態こそ危ない。敵の宝具の破壊力が逆に仇《あだ》となるような接近戦を挑む方が手堅いのは確かだ。
「よし、それでいい。いいけど慎重《しんちょう》にやれよなオマエ!」
「ハッハッハ! 坊主もようやく闘争の妙味《みょうみ》ってモンが解ってきたか。まぁ案ずるな! 天にも地にも我が疾走を阻《はば》むものはない!」
幸いにして眼下の国道に一般車の姿はない。蛇行《だこう》するアスファルトの峠道《とうげみち》がこれより超常の戦場となろうとも、下手な巻き添えを出す心配はなさそうだ。
じわじわと肉薄してくるセイバーに先行すること二〇〇メートル余り。ついに着地した『|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》』は、傲然と路面を蹴り立てて挑戦者の追撃に応じはじめた。
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-36:45:26
新都上空に現れたライダーの飛行宝具と、それを捕捉したセイバーの進路変更を、遥かなビルの高見から見守る三つの眼差しがあった。
満足げな双眸が一人。疲弊《ひへい》しきった隻眼《せきがん》が一人。あとの一人は――狂気に濁りきった眼光の熾火を、はたしてヒトの眼差しとして数えていいものか。
「よもや本物のライダーが現れるとはな……実に好都合な展開だ。|間桐雁夜《まとうかりや》、君は戦場において常に幸運を味方につけるな」
皮肉を込めて嘯きながら、言峰綺礼は隣に立つ雁夜の肩を叩いて賞賛を送る。雁夜はそれを、まだ無事な右目を胡乱《うろん》げに曇《くも》らせて睨み返した。
「神父……こんな小細工に、本当に令呪を二つも費やすだけの意味があったのか?」
二画を失った右手の令呪を不満そうに見下ろす雁夜に、綺礼はなおも微笑みかける。
「案ずる必要はないのだ。雁夜、私に協力する限り、君は惜しむことなく令呪を浪費して構わない。――さぁ、手を出したまえ」
綺礼は干涸らびて筋の浮いた雁夜の右手を取ると、低く聖言を紡ぎながら、令呪の残滓《ざんし》に指を這わせる。それだけで、すぐさま潰えていた令呪は再び輝きを取り戻し、もとの三画の形を復元させた。
「あんた、本当に――」
「言った通りだ。雁夜。監督役の任を受け継いだ私には、教会の保管する令呪を任意に再配分する権限がある」
「……」
相手の真意を計りかねた雁夜は、まじまじと綺礼を凝視《ぎょうし》した後、溜息とともに自らのサーヴァントを一瞥する。
彼の背後に侍る巨体は、あろうことか、ライダーのサーヴァントである征服王イスカンダルのそれに他ならなかった。緋色のマントも赤い巻き毛も、天をつく屈強な体格も――そのすべてが、先程セイバーを伴って冬木市外へと駆け去っていった|戦車《チャリオット》の乗り手と寸分も違わない。唯一の相違は、赤く燃える怨念を滾《たぎ》らせた|不気味《ぶきみ》な双脾……こればかりは見誤りようもない、狂化を果たしたサーヴァントならではの徴《しるし》である。
その屈強な腕に抱えられているのは、今も意識を失ったまま昏睡《こんすい》を続けるアイリスフィールの細い身体だった。こちらのライダー≠アそが、久宇舞弥の守護する土蔵から『聖杯の守り手』を拉致《らち》し、セイバーの追撃を新都にまで誘導してきた当人なのだ。
「……もういいぞ。バーサーカー」
雁夜が頷くと、征服王の巨躯は燃え上がるように漆黒《しっこく》の霞《かすみ》となって崩れ落ち、禍々《まがまが》しい甲冑《かっちゅう》の姿へと立ち戻った。ライダーの外見を模していた闇の霊気はそのまま手足に纏《まと》い付き、黒い甲冑の細部を霞ませて隠蔽《いんぺい》する。
本来の姿を取り戻したバーサーカーに、綺礼はあらためて呻《うな》った。
「変身能力とはな……つくづく、バーサーカーのクラスには惜しい宝具を持っている」
「もともとこいつは、他人を装って武勇を立てた逸話を幾つも持ってる英霊だからな。狂化したせいで、今ではただの『偽装』の能力にまで劣化しているが」
バーサーカーが総身に纏う黒い霧は、本来ならば容姿やステータスを隠蔽する効果だけでなく、任意の人物の外見を模倣して敵の目を欺くという宝具能力を備えていた。バーサーカーとして理性を剥奪された後では発揮し得ない能力だったが、雁夜はそれを令呪によって強引に再現し、一回限り、偽ライダーへの偽装を可能とさせていたのだ。
「|ar《ア》……|ur《ア》……」
狂気の黒騎士は、セイバーを乗せたまま東へと遠ざかっていくヘッドライトの光芒を、今も恨めしげに見送っている。滾る憎悪に肩が震え、甲冑をギチギチと軋ませるものの、それ以上の挙動は起こせない。それは雁夜が行使した第二の令呪――『アイリスフィールを攫ってセイバーから逃亡せよ』という絶対命令による束縛だ。セイバーに対して異常な執着を示すバーサーカーを思惑通りに動かすには、そう強権で縛った指示を下すしかなかった。それはバーサーカーにとってよほど耐え難い枷《かせ》だったのか、指令を完遂した今も、黒い騎士は壊れた機械仕掛けのように四肢を痙攣させ、執拗に抵抗を続けている。
その執念に背筋を冷やした雁夜は、また歯止めのきかなくなる暴走に陥《おちい》るより先に、半ば強引にバーサーカーへの魔力供給を断ち切った。現界を維持できるだけの魔力を失ったサーヴァントはたちどころに霊体へと戻り、支えを失ったアイリスフィールの身体は屋上の床へ無造作に放り捨てられる。その衝撃に、眠るホムンクルスは苦しげに小さな呻きを漏らすが、依然として目覚めることはない。休息していた魔法陣から強引に引き剥がされたことで、アイリスフィールの意識はさらに希薄になっているのだろう。
「この女が、本当に『聖杯の器』なのか?」
「正しくはこの人形の中身≠ェ、だがな。あと一人か二人のサーヴァントが脱落すれば、正体を現すことだろう。……聖杯を降ろす儀式の準備は、こちらで引き受ける。その間、この女の身柄は私が預かろう」
弛緩《しかん》した女の身体を担ぎ上げる僧衣の男に、雁夜は、なおも無言の詰問を視線で示す。それを受けた綺礼は、だが依然として悠揚《ゆうよう》に微笑みを返すばかりだった。
「心配するな。聖杯は、約束通り君に譲り渡す。私には、願望機など求める理由がないのでね」
「それ以前にもうひとつ、あんたは俺に約束したはずだ。神父」
「ああ、その件か。――問題ないとも。今夜零時に教会を訪れるがいい。そこで遠坂時臣と対面できるよう、既に段取りは整えてある」
「……」
一体、この神父は何を企《たくら》んでいるのか? ――一向に窺《うかが》い知れないその真意が、間桐雁夜の胸の内を騒がせる。
一度は遠坂時臣に師事しておきながら、聖杯戦争に参加するため袂《たもと》を分かってマスターになったという食わせ者。だが前回の聖杯戦争にも参加した間桐家からしてみれば、遠坂家と聖堂教会の癒着《ゆちゃく》はとうに推察済みだったし、だとすれば監督役の息子でもあったこの代行者が、時臣の走狗《そうく》としてアサシンを召喚したことは、半ば自明も同然だった。
その彼が、今日の昼になっていきなり聞桐邸の門を叩き、協力を申し出てきたのである。日く、監督役だった言峰璃正の死は遠坂に責任があり、息子である自分は父の仇を討つべく、間桐の手を借りて時臣を処断したいのだ、と。
疑わしいのは重々承知でも、言峰綺礼の提示した条件は雁夜にとってあまりにも旨味《うまみ》がありすぎた。
時臣を罠に掛ける算段だけでなく、『聖杯の器』を預かるアインツベルンの潜伏場所についても調べ上げ、さらには監督役の管理下にあった保管令呪さえ密かに継承しているというこの男は、聖杯戦争の後半戦における切り札をすべて手中にしているも同然だった。
バーサーカーという爆弾を抱え、身内でさえ信用できない孤立無援の雁夜にしてみれば、その助勢は万軍に相当するほど心強い。ただしそれは、言峰綺礼という男の言質《げんち》をすべて鵜呑《うの》みにしていい場合の話、である。
今こうしてアインツベルンのホムンクルスを確保し、消費した令呪の供給さえ惜しげもなく保証されておきながら……今なお雁夜は、目の前の神父が悠然と浮かべる微笑みを、信用しきれずにいた。
この男の態度には、あからさまな余裕がある。それは決定的な秘策を握るが故の自信の顕《あらわ》れなのかもしれないが、それだけと断ずるには、あまりにも――彼には、戦いに臨むという危機感、策を巡らすという緊張感が欠落しすぎているのではないか。
強《し》いて言うならばあの笑顔は、むしろ遊戯に興じている子供に近い。恩師に背き、父の敵を討つという名目で共闘しているこの状況を、あの神父は愉しんで≠「るのではないか……
「二人揃って人目に付くのはまずい。まずは雁夜、君が先に戻れ」
「……あんたは?」
「些事《さじ》ではあるが、まだこの場で済ませるべき用件が残っている。――忘れるなよ雁夜。今夜零時だ。そこで君の悲願は成就する」
神父はその顛末《てんまつ》に、まるで雁夜自身よりも期待を託しているかのような口ぶりで念を押す。雁夜は再度、その微笑みを不審の眼差しで射抜いてから、ゆっくりと背を向けて屋上の昇降口に戻っていった。
同盟者が立ち去る足音に、言峰綺礼は油断のない眼差しで耳を傾け、やがてそれが完全に消えたことを確かめると――あらためて屋上の片隅、雨ざらしの廃材が放置されている一画に視線を向けた。
「――人払いは済んだぞ。何者か知らんが、そろそろ顔を見せたらどうだ?」
有無を言わさぬ威圧を込めた呼びかけに、白々しいほどの沈黙の間を置いた後、ほどなく不気味にきしるような忍び笑いが、冷ややかに夜気に紛れ込む。
「ホホ、気付いておったか。さすがは歴戦の代行者。雁夜ごときとは勘の鋭さが違うのォ」
物陰から、ぞわりと不定形の影が盛り上がる。一見、なぜか綺礼はそれを、おぞましく密集した虫の大群かと見紛った――が、月明かりはすぐさま錯覚を払い、痩《や》せ枯れた矮躯《わいく》の老人が静かに歩み出てくる姿を露《あら》わにした。
「案ずるな代行者。儂は敵ではない。今おぬしと組んでいる小童《こわっぱ》の身内でな」
そんな名乗りを謳《うた》う人物となれば、綺礼に心当たりのある人物は一人しかいない。
「間桐、|臓硯《ぞうけん》……か?」
「左様。儂の名を知っておるとは、成る程、遠坂の小倅《こせがれ》も弟子の躾《しつけ》が行き届いておるな」
老魔術師は皺《しわ》に埋もれた唇を歪ませて、にたり、と人外の笑みを溢した。
峠道に立ちこめる闇の濃さは、既に黄昏時《たそがれどき》のそれではなく夜のものだった。
墨汁のようにねっとりと行く手を|遮《さえぎ》る暗闇を、ヘッドライトの光芒《こうぼう》で切り裂きながら、セイバーは鋼《はがね》の猛獣を駆り立てる。
このルートは既に、アインツベルンの出城まで往復する際に使ったことがある。行きはアイリスフィールの運転で、戻りはセイバー自らがメルセデスのステアリングを握り、道程を確かめた。たった一往復の経験とはいえ、セイバーにはそれで充分だ。卓越したサーヴァントの記憶力によって、彼女は道幅や傾斜の緩急《かんきゅう》からコーナーリングのタイミングに到るまで、すべてを|詳細《しょうさい》に思い起こすことができる。
ついさっき、ライダーの『|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》』が高度を落とし、遥か前方の路上へと着地するのをセイバーは視認していた。何のつもりか征服王は、ここにきてただの逃走に徹するのではなく、地を征《ゆ》く騎馬としての競い合いでセイバーの挑戦に応ずる気になったらしい。
その武骨な心意気は、アイリスフィールの身柄を押さえるという策略とは相容れないもののように思えたが、そこはライダーとそのマスターとの思惑の齟齬《そご》なのかもしれない。契約に縛られたサーヴァントの行動が、往々にして多くの矛盾を孕んだ結果をもたらすことは奇異ではない。それは他でもないセイバー自身が、衛宮切嗣との確執を通じて嫌というほど思い知らされている。
こと対決の局面において、ライダーが彼ならではの意地を通してくれたことは、セイバーにとっても喜ばしかった。これだけの高速で追走劇を繰り広げる二騎の間には、いかに切嗣といえども割り込む術はないだろう。願ってもない状況だ。
問題は――握りしめたハンドルの振動から疑いようもなく伝わってくる、危ういがたつきの感触だ。
ヒトの手になる機械装置としては、V-MAXは充分すぎるほどの健闘を果たしている。だが哀しいかな、先行する標的は条理の外にある疾走宝具だ。乗り手のセイバーの騎術によって魔性を引き出されているとはいえ、その材質と構造の強度にはおのずと限度がある。
市内からここに到るまで限界性能を発揮し続けてきたエンジンと駆動系は、いよいよ崩壊の兆しを見せ始めていた。乗機のコンディションを己が肉体の延長のように把握できるセイバーの騎乗スキルは、その臨界に達した苦悶の声をはっきりと聞き取っていた。
このままでは、まずい……
車体の負担を鑑みて減速するなど論外だったが、このまま無理な駆動を継続すれば、数分を待たずこのバイクは分解してしまう。どうにかして車体を補強する算段をつけない限り……
|咄嗟《とっさ 》に閃《ひらめ》いた対処法は、当のセイバー自身にも可否の判断がつきかねたが、もはや逡巡《しゅんじゅん》の|猶予《ゆうよ》もなかった。セイバーは意を決し、サーヴァントとして授かった自らの可能性に全てを託した。
戦闘時に彼女の総身を覆う、白銀の甲冑――そのフォルムに、自らの身体ではなく、代わりにV-MAXの車体構造を強く想念して重ね合わせる。戦いに臨んで愛馬を護る|馬鎧《カタフラクト》のイメージ。騎乗スキルによる一体感を支えに、今度こそこの物言わぬ鋼の猛獣を、自らの手足として認識する……
やがて紡《つむ》ぎ上げられた彼女の魔力は、V-MAXの各部、限度を超えた走行の応力が集中する要所を包み込むようにして具現化し、固く柔靱《じゅうじん》に補強しはじめた。
――良し!
想定外の応用ではあったが、セイバーの騎乗スキルは見事にその離れ業《わぎ》を成し遂げた。新たな輝鋼の外装をまとったV-MAXの形態は異形にして壮麗《そうれい》。その怪物的馬力に屈することのない屈強な車体を手に入れたことで、機械仕掛けの獅子は今度こそ正真正銘の魔獣と化して、エグゾーストの咆哮《ほうこう》を高らかに轟かす。
さらにセイバーは、風王結界を鏃《やじり》型に広げて正面へと突き出し、車体正面を覆い込む。圧縮された気圧の傘《かさ》によって完全な空力特性を得たV-MAXは、ついに空気抵抗からも解き放たれた。
速度計の針はとうに振り切れて用を為さない。セイバーの魔力の駆使によって物理法則を越えたその疾走は、既に時速四〇〇キロを越えている。さらに魔力放出による圧迫で後輪を強引にアスファルトへと食らいつかせたまま、セイバーはカーブでもスロットルを一切|弛《ゆる》めず、ねじ伏せるかのようなハングオンでコーナーリングを突破していく。
これなら、いける――ようやく掴んだ勝機の階《きざはし》に、セイバーは奮起する。
先行する『|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》』との距離はじわじわと、だが着実に狭まりつつあり、ただの光点としか見えなかったその姿も、今では雷気を散らしつつ猛回転する車輪のさまがはっきりと見て取れる。
一方で、着地して以来ずっと御者台から後ろばかりを眺めていたウェイバーは、猛然と迫り来るヘッドライトの勢いに息を呑み、慌ててライダーのマントを引っ張った。
「ライダー、このままじゃ追いつかれるぞ! おい、ちゃんと後ろ見てるのかよ馬鹿!」
焦りも露わなウェイバーの声を、ライダーは鼻で笑い飛ばす。騎兵の|座《クラス》を得て現界した英霊たる彼ならば、もはや振り向くまでもなく、迫り来るセイバーの気迫はまざまざと感じ取れた。
「セイバーめ。ただの機械仕掛けを以てしてその走り、まずは見事と称えておこう。だが――」
嘯《うそぶ》きながらもライダーは、持ち前の獰猛な含み笑いに口元を歪める。
「生憎《あいにく》とこちらは戦車[#「戦車」に傍点]でな。ただお行儀良く駆け比べ、というわけにはいかんぞ?」
そしてライダーは、巨大な車体を横滑りさせて一気に路肩へと寄せはじめた。
サイズにおいて大型トラックをも凌駕する『|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》』の車輪両側面には、凶々《まがまが》しい弧を描いて張り出した特大の鎌《かま》が固定されている。そしていまライダーが疾駆する国道の左右には、道路に覆い被さるようにして鬱蒼《うっそう》と茂る原生林があった。舗装路ぎりぎりまで車輪を寄せれば、必定、鎌の刃は密生した木々の中へと突っ込まれることになり――
「余の後塵《こうじん》を拝する≠ニはこういうことだ、セイバー!」
帯電した車輪がガードレールを紙細工のように踏み砕き、暴虐の伐採《ばっさい》を開始する。
太い成木の幹といえども、時速四〇〇キロ余りの速度を維持して疾走する厚刃の大鎌が相手では、鉋屑《かんなくず》も同然だ。瞬時に叩き斬られた木の幹は、すべて撓りながら弾け飛び、片っ端から虚空へ巻き上げられていく。さながらチェーンソーが木屑を撒き散らす様相を、数百倍にスケールアップしたかのような悪夢の景観が具現した。
その盛大な破壊ぶりに、セイバーは息を呑む。
「く……ッ!」
抛《ほう》り上げられた樹木の束が雨あられと降り注ぐ先は、当然、後続するセイバーの頭上である。直撃は無論のこと、今の走行スピードならば掠めてハンドルを取られただけでも間違いなく死に繋がる。
減速は――有り得ない。退がってやり過ごせる試練ではない。活路は唯一、突破あるのみだ。
覚悟を決めたセイバーは、臆することなく、降り注ぐ木々の真《ま》っ只中《ただなか》へと突っ込んだ。
雪崩落ちては路面で跳ね返り乱舞する降下物。その紙一重《かみひとえ》の間隙を、V-MAXは蛇《へび》の如く軌跡を捻りながらすり抜ける。ブレーキングを愚と断じたセイバーは、加速によって浮き上がった前輪をそのまま振りかざすようにウィリーさせつつ、魔力放出による姿勢制御を立て続けに駆使して極限の操車を演じてのけた。そのあまりに華麗な双輪の演舞に、見守るウェイバーは畏怖すら忘れて目を奪われ、またライダーは喜悦に極まった轟笑を放つ。
「ふははははッ! 上等! それでこそ|誉《ほま》れも貴き騎士の王! まっこと貴様は戦場の華よな!」
笑いながらもライダーの戦車《チャリオット》は機敏に横へと軌道を滑らせ、次なる伐採物へとにじり寄る。
「さぁ、続けていくぞ――木の次は石の雨だ!」
大鎌の刃が次なる餌食《えじき》としたのほ、なんと路肩の法面《のりめん》を覆い固めていたコンクリートブロックであった。樹木の幹などとは比較にならない強度と密度を誇る石の壁を、鎌の刃は容赦なく削岩して瓦礫に粉砕し、飛沫《しぶき》の如く撒き散らしてセイバーの行く手にぶちまける。
木《こ》っ端《ぱ》よりもなお致命的な岩石の洗礼。だが――それを見据えて突き進むセイバーの口元は、このとき不敵な笑みすら刻んでいた。
「侮《あなど》るなよ、征服王!」
石の雨を木の雨より脅威と見なすのは、あくまで当たったとき≠フ話である。もとより全てを躯《かわ》わしてのける覚悟なら、火が降ろうが矢が降ろうが同じ事。セイバーは全幅の信頼を以てV-MAXの駆動輪に勝機を託し、勇猛華麗のハンドリングでコンクリート片の狭間を縫いつつ押し通る。
むしろ法面の舗装にまで大鎌を揮《ふる》ったことで、ライダーの戦車《チャリオット》は加速の伸びを失《うしな》った。樹木より大幅に手応えのあるコンクリートブロックの切削は、さしもの神牛の蹄《ひずめ》にとっても無視しきれない抵抗となったのだ。
セイバーの第六感が、絶妙の勝機の到来を予感する。ここから続く数手を|過《あやま》たずに打ってのけた先に、紛れもない起死回生のチャンスがあると――
法面の頂近くから崩落した、ひときわ巨大なコンクリートの塊《かたまり》が、V-MAXの行く手に転がり落ちる。幅も長さも二メートルを軽く上回る扁平な大塊は、さながら石の衝立《ついたて》だ。
真正面の進路を遮ったそれを、セイバーは揺るがぬ視線で見据え、避けることなく一直線にV-MAXを突進させながら、大きく風王結界を振りかぶる。
「はあぁぁぁッ!!」
気勢一喝《いっかつ》、渾身の横薙《よこな》ぎで振り払った気圧塊の一旋は、魔力放出の支えとともに重く激しくコンクリート塊を強打し、数トンはあるかと見えたそれを軽石のように易々と空中に叩き上げた。少女の細腕ではあり得ない物理法則への裏切りは、まさしくサーヴァントでこそ叶う不条理だ。
猛烈にスピンしながらも再び虚空を舞ったコンクリート|塊《かい》は、致命的な放物線の彼方で、先行する戦車《チャリオット》の真上へと狙い過たず落下する。哀れを催すウェイバーの悲鳴に、今度こそライダーが振り向いた。抜き放ったキュプリオトの剣を振りかざし、丸い目をぎろりと剥いて頭上の大塊を睨み据える。
「せぃやあぁぁッ!!」
力比べでは負けぬとばかり、豪放に振り払った銅剣の一撃はコンクリート塊を直撃。再び軌道を曲げられた岩盤はさらに激しく旋転し、まるで回転|鋸《のこぎり》のような勢いで落下すると、戦車《チャリオット》の背後の路面に深々と突き刺さった。
その有様を見て取ったセイバーの総身を、電流の如き啓示が趨《はし》る。
アスファルトを抉ったコンクリートの衝立――平らな表面を真上に向けて、浅く突き刺さった角度は僅か三〇度余り。未来予知に等しい戦闘直感が先読みした勝利の鍵がそこにあった。
今こそ――
ハンドルを握る右手親指の下、かねてから意識し続けていた一つのボタンがある。騎乗スキルの導きでV-MAXを駆るセイバーは、そのボタンの機能≠知らず、だがそのボタンの役目≠承知していた。それがこの鋼鉄の荒馬に隠された秘中の秘、最後の切り札に他ならないものだと。
躊躇なくセイバーは、その赤いボタンを根本まで押し込み――そして双輪の猛獣が、ついに逆鱗《げきりん》の咆哮を放つ。
猛回転するエンジンの内部、気化燃料の充満するピストン内部へと噴霧された|亜酸化窒素《ニトロ・オキサイド》ガスが三〇〇度の灼熱に膨張し、その出力を禁断の領域にまで突破させる。五割増の急加速に駆られたV-MAXの突進は、もはや疾駆という名の暴虐だった。極限の加速を得た車体を辛くも御しつつ、セイバーのステアリングが狙うのは、たったいま眼前に出現した俄仕立ての傾斜路である。
悲鳴の如き軋みを上げてコンクリート片の上を踏む前輪。そして上向きに跳ね上がった車体を、猛り狂う後輪のトルクが容赦なく虚空へと打ち上げる。重力の軛《くびき》すら蹴り落とし、宙高く――
ライダーにとって、まさにそれは予想だにせぬ奇襲であった。かつて我が物顔で天を駆けていた彼が、まさか頭上に舞う敵を仰ぎ見ることになろうとは。
戦車《チャリオット》のスピードが減退したその隙に、V-MAXのニトロチャージャーによる最大加速、さらに偶然の産物である即製のジャンプ台までをも利用して、ついにセイバーはライダーを剣の間合いに捉えた。それもポジションは白兵戦において絶対優位となる敵の頭上。まさにこれこそ、勝利の女神が剣の英霊に約束した必勝のチャンスであった。
「ライダーッ、覚悟!」
乾坤一擲《けんこんいってき》の気迫をもって振りかぶった風王結界が――そのとき、ほんの僅かな躊躇に滞《とどこお》る。
応じたライダーが愛用の宝剣を振り上げる。激突する刃と刃。威力においては位置的優位を占めるセイバーが競り勝つはずの斬撃であったが、結果は五分の拮抗《きっこう》に終わった。風王結界はライダーの防御を押し切ること叶わず、すんでのところで跳ね返される。
落下するV-MAXと、駆け抜ける|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》の間には、さらなる剣戟《けんげき》のチャンスはなかった。セイバーは咄嗟の魔力放射で滑空《かっくう》のスピードを抑え、車体のバランスをぎりぎりで立て直し、辛うじて後輪からの着地を遂げて、全ての衝撃をタイヤとサスペンションに吸収させる。
必勝の好機を逃したセイバーではあったが、その胸中を乱すのは、それとは別の焦燥だ。
アイリスフィールが――いなかった!?
断じて見間違えではない。V-MAXを跳躍させ、ついに間近に目の当たりにしたライダーの戦車《チャリオット》の御者台には、騎手たるライダー自身と、そのマスターしかいなかった。
ならば、土蔵から連れ去られたはずのアイリスフィールは何処に?
セイバーはフルブレーキングで三〇〇キロ余りの車体を押さえ込み、路面にタイヤを滑らせながら荒れ狂う双輪を制止させた。迷うことなくライダーの追走に専念してきた彼女であったが、ここにきてセイバーの胸中は疑念の群雲に覆われていた。
そもそも、ライダーは一体どこを目指して駆けていたのか?
市街地から東へと抜けるこの国道……辿り着くその果ては、アインツベルンの森である。一度はライダーも酒樽を小脇に抱えて通った道であるはずだ。アイリスフィールを攫ったその後に、彼はわざわざ敵の領土を目指すような逃走路を選んだというのか? 冷ややかな焦りが、セイバーの奥歯を軋らせる。
そもそもこれが逃走でなかった[#「逃走でなかった」に傍点]としたら?
ライダーのマスターはどうやって深山町のあの土蔵を知ったのか――そう、知るはずもない。ライダーの陣営はアインツベルン勢が拠点を変えたことを知らない。今もセイバーたちが森の城にいるものと思いこみ、馬鹿正直に攻め込む心算で夜空に戦車《チャリオット》を駆っていたのではないか。
では、土蔵にいた舞弥とアイリスフィールを襲い、連れ去ったのは?
真相は依然として見えないものの、謀《たばか》られた、という予感だけは確信となってセイバーの胸を焼き焦がしていた。セイバーがライダーを追って|躍起《やっき 》になっていた隙に、征服王に濡れ衣を着せた本当の下手人は、まんまとアイリスフィールを手中にしたまま逃げおおせたことだろう。
こんな処《ところ》にいる場合ではない。急ぎ新都に引き返し、アイリスフィールを探さなければ。
だが――その判断は歴然でありながら、セイバーは動けない。嵐の気配に張り詰めた総身は、無駄な挙動を一切許すことなく、いま眼前にある脅威だけを注視して身構えている。
おおよそ一〇〇メートル余りの距離を隔てて、ライダーの戦車《チャリオット》もまた制止していた。しかもその向きは反転している。それまで一顧《いっこ》だにせず後塵を浴びせるのみだったセイバーに向けて、二頭の神牛が、そして戦場の恭悦《きょうえつ》に沸《わ》く征服王の双眸が、射抜くかのようにセイバーを見据えている。
もはや推《お》し量るまでもなく、その意図は歴然だった。――ライダーは仕掛ける気でいる。
彼自身をも巻き込んで出汁《だし》にした陰謀の在処など、もとより眼中にすらなく。ひとたび斬られた以上は斬り返すまで、と。次は征服王が威を示す番と意気込んでいる。
そもそもライダーが、もとよりセイバーに挑みかかる目的で東を目指し駆けていたのだとしたら、罠に嵌められたセイバーとは違い、この状況に何の異存もありはすまい。
故に。今ここでライダーを放置し冬木に駆け戻ろうとするならば、それはこれより放たれるライダーの一撃を、無防備な背中に受けることを意味していた。
ここで、決めるしかない――もはや選択の余地なく受け入れるしかなくなった決着の瞬間を前にして、剣柄を握るセイバーの小手が、ギシリと緊迫の軋みを上げる。
|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》の御者台に縮こまるウェイバーは、隣に聳え立つライダーの闘気が、今まさに最高潮に達しつつあるのを感じていた。
征服王が見据える標的は、ざっと一〇〇メートル余り前方。アイドリング中の大型バイクに跨ったまま、固い面持ちでこちらを睨み返してくるセイバーのサーヴァント。
冬木新都からここまで、猛然とライダー達を追走してきたセイバーが、なぜ今になって急に静止したのかは定かでない。が、ライダーは追っ手が立ち止まったと見て取るや、そのまま駆け去って距離を開けるのでなく、即座に|戦車《チャリオット》に急制動をかけて反転させ、こうして真っ向から対峙する構図に持ち込んだ。当然といえば当然だ。ライダーの目的は最初からセイバーとの対決である。相手が追撃を諦めたのならば、もちろん次はこちらから仕掛ける番だ。
だが――未熟ながらもマスターの役を負うウェイバーは、ひりつくような焦燥に歯噛みする。
この距離、この位置関係は、明らかに拙《まず》い。
末遠川でキャスターを葬った、セイバーの宝具。『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』をひとたび目にした後ならば、この場の趨勢《すうせい》は歴然だった。遮蔽物のない一直線の道路。周囲には巻き添えの危惧もなし。しかも互いに静止しての睨み合い――明らかにこの状況は、セイバーの宝具の独壇場だ。
その程度、|戦上手《いくさじょうず》のライダーならば理解はしている筈なのだ。彼もまた未遠川ではセイバーの宝具の威力を見届けている。たしかに理性を疑う言動は多々あれど、こと軍略においてこのサーヴァントが見誤ることは断じてない。
|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》の機動力を最大発揮できる疾走中ならば、まだしも回避の目処が立っただろう。なのに何故ライダーは、みすみす脚力の優位を捨ててまで、ここでセイバーと対時することを選んだのか。
「なぁ、おい、ライダー……」
「うん。仮にも余のマスターである貴様には、一応ここで一言、断りを入れておかねばならんだろうな」
ウェイバーの疑問を見透かしてか、ライダーは不遜《ふそん》な笑みを浮かべたまま、それでも視線だけはセイバーから逸らすことなく、傍らの少年に呼びかけた。
「これより余は、聖杯を狙う必勝を差し置いて、ちょいと大きな|博打《ばくち》に出る。令呪で止めようと思うなら、今のうちだぞ?」「……」
この傲岸《ごうがん》なるサーヴァントの気性を知った上でなら、それがどれほど由々しい発言か理解できる。
理性あるマスターならば令呪に訴えてもやむなしと、当のサーヴァント自身が観念するほどの無茶無謀を、今ライダーは企んでいる、ということか。
「オマエ……本気でここから仕掛けるつもりか? この間合いから[#「この間合いから」に傍点]? 真っ直ぐに[#「真っ直ぐに」に傍点]?」
「河で見せられた光の剣。セイバーが構えに入ってからアレを発動させるまでの隙に、余の|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》がこの距離を駆け抜けるか否か、という勝負なわけだ」
ウェイバーは顔色を失ったまま、改めて彼我の距離を推し量る。
ぎりぎり[#「ぎりぎり」に傍点]だ。あまりにもぎりぎりだ。
記憶にあるセイバーの宝具発動までのタイムラグと、ライダーの宝具の加速力。どちらを鑑みても、まったく可否を計りようがない。いま両者が対峙するのは、まさにそういう[#「そういう」に傍点]距離だった。
「……勝算はあるのか? ライダー」
「まぁ、五分だな」
あくまで堂々と、悠然と、征服王は断言する。軍略を|司《つかさど》る者にとって、もっとも重く苦しい数字を。
勝てる確率が半分ならば、残り半分は即ち敗北だ。コインの裏表で生死を占うようなものである。そんなものは断じて戦略≠ナはない。強いて言うならば苦肉の策≠セ。それ以外に一切の活路がないような局面でしか、発想し得ない愚行だ。
「なんでオマエ……そんな無茶を?」
「無茶だからこそ、さ」
そう嘯いて獰猛に微笑むサーヴァントの眼差しは、あくまで勝利≠フみを――たった五割しかない筈の不碓定な未来を見据えている。
「ここまで拮抗した状況から勝負を挑まれたら、負けた方はそれこそ何の言い訳も面目も立たぬ。紛れもない完敗≠セ。あのこまっしゃくれた娘も、自慢の剣を、まさかこの間合いから踏み折られるとは思うまい。そんな形でこの征服王に完敗すれば、あ奴とて今度こそ己が不明に痛み入り、改めて余の麾下《きか》に加わる気になるかもしれん」
「……」
眉根に皺を刻みつつ、ウェイバーは嘆息するしかなかった。
結局は、それか。聖杯を巡る殺し合いよりも、彼ら英霊にとっては誇りの競い合いこそがなお重いというのか。
「……オマエ、そうまでしてあのセイバーが欲しいのか?」
「うん、欲しいな」
何の衒《てら》いもなくライダーは頷く。
「戦場《いくきば》において、アレは紛れもなく地上の星だ。理想の王がどうとかいう戯言《ざれごと》なんぞほざかせるよりは、余の軍勢に加えてこそ本当の輝きを放つというものだ」
そうやってこの覇王は、過去幾度となく王侯や武将を打破しては、その権威にも財にも目もくれず、相手の魂《たましい》≠サのものを召し抱えてきたのだろう。
故に、征服王。
滅《ほろ》ぼすことなく、貶《おと》めることなく、立ちはだかる敵を制覇する――それこそが彼の掴み取るべき勝利の形なのだ。
たまさか聖杯だけを縁《よすが》に繋がる契約者《マスター》ごときが、その是非《ぜひ》を、どうして問うことができようか。
「……やれよ、ライダー。オマエのやり方で勝てばいい」
諦めにも似た溜息とともに、ウェイバーは吐き捨てた。
捨《す》て鉢《ばち》ではない。一日がかりの休息によって魔力を補充したライダーにとって、今この瞬間は大勝負を挑む上で逃しようのないチャンスだ。次にセイバーと対峙したとき、ライダーのコンディションを今よりましな状態に維持しておける保証はない。
ならば、数字の上での勝率よりも、ライダーの闘志に賭ける。
無理で道理を蹴散らす征服王に、最後まで意地を通させるなら――理《ことわり》を越えたその破天荒《はてんこう》にこそ、いま真に信じうる勝機がある。
硬い面持ちでそう自分に言い聞かせるウェイバーに、ライダーは、どこまでも図太く雄々しい笑みで応じた。
「フフン、坊主、貴様もいよいよ覇≠フ何たるかを|弁《わきま》えてきたようだな」
その自信は虚勢ではない。大博打などと嘯いておきながら、他ならぬライダー自身が、誰よりも自らの必勝を信じて疑わずにいる。
「|彼方にこそ栄え在り《ト・フィロティモ》――いざ征《ゆ》かん! |遥かなる蹂躙制覇《ヴィア・エクスプグナティオ》!!」
ついに解き放たれる真名に、猛然と雷気を迸らせる神牛の戦車。その強壮なる嘶《いなな》きは、かつて初戦でバーサーカーを蹄にかけたときの比ではない。
「――風よ!」
それを見て取ったセイバーも、風圧の護りから自らの宝剣を抜き放つ。
逆巻く旋風《かぜ》を押しのけて、晒された黄金の輝きは燦然《さんぜん》と光を呼び集め、今こそ騎士の王道を示さんと魔力を滾《たぎ》らせる。
「|AAAALaLaLaLaLaie《アァァァララララライッ》!!」
征服王の咆哮とともに、アスファルトを蹴り立てて突進する怒濤《どとう》の蹄。その覇気に気圧されながらも、今度ばかりは失神すまいとウェイバーは必死に目を見開く。突き進む行く手から、今まさに放たれんとする最強の対城宝具、その光に先んじてライダーの疾走がセイバーを蹴散らす瞬間を、決して見逃すまいとして。
真っ向から対峙した征服王の突進に、セイバーの背筋を戦慄が趨る。一〇〇メートルの間合いを瞬時のうちに走破する神牛の疾駆。|瞬《またた》き一つの間にはもう、|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》の威容は津波の如くすぐ眼前にまで肉薄している。
だがしかし、貴き宝剣の柄がその手の中にある限り、自らの必勝に迷いはない。振りかざす黄金の輝きに、謳うべき真名ただ一つ。
「|約束された《エクス》――」
猛り馳せる雷神の化身が今まさに、セイバーの矮躯をその蹄にかけんとした、刹那《せつな》――。
「|勝利の剣《カリバー》!」
彗星の如く放たれた金色《こんじき》の閃光が、すべての闇を白く反転させる。
「――ッ!」
その眩さに視野を奪われ、焼かれ、思わず目を背けてしまったウェイバーは――激しい衝撃の中、ひどく冷静な思考で理解した。
セイバーの宝具の光を、その目で見たということは即ち……|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》が届く最後の一歩を前にして、騎士王の一撃が先んじたという結末。
だがそれでも、肩に廻された豪腕の頼もしい感触は、消えない。敗北を悟ったその思考こそ、今なお自分が生きて意識を保っていることを意味している。
恐る恐る目を開けたウェイバーは、そこに呵責《かしゃく》ない破壊の痕跡を目の当たりにした。
『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』の一撃は、路面の舗装を瞬時に焼滅させ、彼方の森の木々までをも一瞬のうちに吹き飛ばし、道路とその延長戦上に真一文字の傷跡を刻んでいた。気化したアスファルトの悪臭が鼻をつくその直中に、ウェイバーは五体満足のまま宙に浮いて……否、巨漢の肩に担ぎ上げられたままぶら下がっていた。少年マスターの矮躯を小荷物のように抱えているのが誰かは、無論、確かめるまでもなかったが。
「あっちゃぁ……しくじったかぁ」
さも心底悔しそうなライダーの|呟《つぶや》きは、だが状況に即して考えるなら呑気に過ぎる言葉であった。
見たところライダーも無傷ではある。が、彼が駆っていた戦車と、手綱を握っていた二頭の神牛は、跡形もなく消え失せていた。宝具『|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》』は『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』の直撃をもろに受け、かつてのキャスターの海魔と同様に、灰も残さず吹き飛ばされたのだろう。
そんな死線の、際どくも一瞬の直前に、敗北を悟ったライダーはウェイバーを抱えて御者台から飛び降り、危ういところで対城宝具の火線から逃れ出たのだ。九死に一生を得た二人であったが、それでも代償は大きい。今までライダーが主力兵器として頼みにしてきた天翔る|戦車《チャリオット》は、これを最後に失われてしまった。
だが、まだ終わりではない――ウェイバーはくじけかかった失意の心を、すぐさま戦意で塗り潰す。『|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》』を奪われても、征服王の真の切り札は他にある。
「ライダー! 『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』を――」
言いさしたウェイバーに向けて、ライダーは小さく、だが断固とかぶりを振る。休息中に語らった後半戦の目論見《もくろみ》を、今なお征服王は翻す気がないのだ。セイバー相手に動員できるのは戦車《チャリオット》まで。あと一度の発動が限度であろう親衛隊の召喚は、あくまで対アーチャー戦に温存するものと。
しかし、いかに屈強なライダーといえど、機動力を失った上での白兵戦となれば、これは明らかにセイバーの独壇場《どくだんじょう》である。その体格の優劣においては比較にならない両者だが、そういう条理の外にあるのがサーヴァントの戦いだ。その華奢《きゃしゃ》な容姿にも拘《かか》わらず、セイバーがどれほど怪物的な戦闘能力を誇っているか、ウェイバーは今日までの戦いで充分すぎるほど思い知らされている。
勿論ライダーとてそれは同じことだろうに、それでも征服王は怖《お》じることなく堂々と、キュプリオトの剣を構えたままセイバーと対峙し、退く素振りなど一切見せない。
一髪千鈞《いっばつせんきん》の睨み合いを、だが先に崩したのはセイバーだった。
再び風を纏《まと》った剣を納めると、彼女はバイクのスロットルを開け放ち、空転する後輪を滑らせて一気に車体を反転させ、ライダーに背中を見せた。そのまま隙に付け入る暇も与えず、セイバーは後輪がグリップを取り戻すと同時に再び急加速をかけて、あとは猛然たる排気音だけを残して一気に冬木市街へと駆け戻っていった。
ウェイバーたちには慮外《りょがい》だったが、むしろ追撃してきたセイバーにこそ、ここで勝負に拘泥《こうでい》できない事情があった。彼女をライダーとの交戦に導いた奸計の主を突き止め、その手からアイリスフィールを取り戻すためには、たとえライダーとの決着を差し置いてでも、一刻も早く撤退しなければならなかったのだ。
あっという間に視界から消え、遠ざかっていくバイクの咆哮を、取り残されたウェイバーはむしろ|呆然《ぼうぜん》と聴いていた。その猛々しい排気音に耳を傾けていたライダーが、むぅ、と得心顔で頷く。
「バイクか……ふむ。あれは良いモノだ」
「――ッ、オマエ、勝負に負けた後の第一声がソレか?」
戦いの余韻を一気に脱力させられて食ってかかったウェイバーは、そこではたと由々《ゆゆ》しき事態に気付き、悄然《しょうぜん》となった。
「なぁ、ライダー……ボクら、どうやって街まで帰るんだ?」
「そりゃあ、まぁ。歩くしかないわな」
「……そうだよな」
宵闇《まいやみ》の中、遥か彼方に|瞬《またた》く新都の光を遠望し、ウェイバーは深い溜息をついた。
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-36:38:09
間桐、臓硯――
名ばかりしか知らぬ間桐の黒幕を前にして、言峰綺礼の意識は臨戦態勢のそれに移りつつあった。
夜の街を賑《にぎ》わす照明の死角を、巧みに立ち位置に選びながら佇《たたず》む矮躯の影。萎びた容姿とは裏腹に、その正体がどれほど危険な存在か、時臣からは重ねて言い含められている。表向きにこそ隠居を表明しているものの、魔道の秘術で人ならざる延命を繰り返し、数代を重ねて間柄家を支配し続けてきた極めつけの怪人。ある意味ではマスターである雁夜より、危険度において数段勝る要注意人物だ。
「言峰綺礼。あの堅物の璃正めの息子と聞くが、相違ないかの?」
「いかにも、そうだが」
嗄《しゃが》れた声の問いかけに、綺礼は首肯で応じる。
「ふむ――意外よのォ。鳶《とんび》が鷹《たか》を生むとの喩《たと》えもあるが、まさかあの男の胤《ほね》からこんな曲者《くせもの》が育つとは」
「用件は何だ。聞桐臓硯」
綺礼は挑発をきっぱりと無視して、老魔術師に質した。
「雁夜の味方であるはずのお前が、なぜそんな場所に忍んで覗き見を?」
「なに。先行き危うい息子を案ずる親の情じゃよ。雁夜めがどのような助勢を得たか、ひとつこの目で直々に見届けてやりたくなったのでな」
好々爺《こうこうや》めいたにやけ顔は、髑髏のように干涸らびた風貌の中にあって明らかに異質である。もとより、こういう笑い方をするようには出来ていない顔、としか見えない。
「雁夜に取り入る上でおぬしが並べた口上は、余さず儂の耳にも入っておる。何でも、おぬしも遠坂の小倅を亡き者にしようと企んどるそうだが」
「その通り。あの男は我が父を――」
「よせよせ。二度も繰り返して戯言を聞かすでない」
深い雛の奥に落ち窪《くぼ》んだ眼差しが、炯、と鋭く綺礼を射抜く。
「賢《さか》しく立ち振る舞いすぎたの、言峰綺礼。おぬし、遠坂の目を盗んで動いているにしては大胆すぎる。そもそも時臣を亡き者にしようと思い立った時点で、おぬしなら雁夜の手など借りることなく十全に事を成し果《おお》せたはずじゃ。――儂とて伊達《だて》に歳を食ってはおらん。雁夜ごときを騙せたとしても、億の目までは誤魔化せん」
「……」
内心で、この老魔術師に対する評価を改めて再認しながらも、綺礼は平静を装った。
「おぬしの狙いは、遠坂の小倅などではなく雁夜自身じゃろう。違うか?」
「……そこまで私を疑うならば、なぜ雁夜に忠告しない?」
キチキチと軋るような、まるで虫の群れが唸り鳴くかのような不気味な音が湧いた。ややあって、綺礼にはそれが、この老人の忍び笑いなのだと解った。
「そうさのォ、まぁ、他愛《たわい》もない好奇心、といったところか。おぬしがどういう手練手管《てれんてくだ》で雁夜めを壊す≠フか、儂にも興味が尽きぬでなぁ」
その弄言が戯れ言か真意か、綺礼には、にわかに判別がつかない。
「……間桐のために戦う雁夜の勝機を、みすみす潰していいというのか? 臓硯」
「雁夜の? 勝機じゃと? カカカ、そんなものは最初から皆無も同然じゃわい。あんなクズめが聖杯に到るというのなら、それこそ過去三度の殺し合いが茶番に堕するというものじゃ」
「解せぬ話だ。間桐は、聖杯を悲願する御三家の一角ではなかったか?」
綺礼の問いに、臓硯は鼻を鳴らす。
「儂に言わせれば、遠坂の小倅やアインツベルンの連中こそ馬鹿の極みじゃ。前回の大番狂わせをまともに記憶しておるなら、此度《こたび》の四度目がおかしくなる[#「おかしくなる」に傍点]と警戒するのは当然であろうに。
儂はな、最初から今回の戦いは様子見に徹するものと決めていた。実際、蓋《ふた》を開けてみればキャスターがあのザマじゃ。明らかに英霊とは程遠い悪霊なんぞを招き寄せる辺り、聖杯戦争のシステムは間違いなく何かが狂いはじめておる。まずはその正体を突き止めることこそ肝要でな」
「……」
おそらく、この人知を越えた怪人は、繰り返される聖杯戦争の度に、その中心に身を置いてきたのだろう。そして前回の監督役である言峰璃正ですら知り得なかった何か[#「何か」に傍点]を、間桐臓硯は掴んでいるのだ。
「では、何のための雁夜とバーサーカーだ? ただ傍観するつもりだったなら、なぜサーヴァントを用意した?」
「いやなに、いかに胡乱とはいえど、せっかく六〇年に一度の祭りじゃからな。小童《こわっぱ》どもの戯れを遠目に眺めているだけ、というのも味気ない。儂とて儂なりの愉しみが欲しくもなるわさ」
剽《ひょう》げた口調で言ってから、臓硯はさらに歪みきった笑みで相好を崩す。
「まぁ勿論、もしまさか仮にもあの出来損ないが聖杯を掴み取ってくるならば、それに越した結末はないんじゃが。とはいえ儂は、どうにも堪え性がなくてのォ。裏切り者の雁夜めが悶え苦しむ様は、本当に――ああ。見ていて飽きぬ。間桐の勝利を祈願したい気持ちもあれば、雁夜の無様な末路を見届ける誘惑にも抗い難い。クク、まったく迷い処よのぅ」
笑う臓硯の嗄れ声が、綺礼にはただ耳障りだった。いっそこの出会いが戦場で、言葉ではなく生死を遣り取りする成り行きであったなら、どんなにか幸いか。相手が危険極まる魔術師と重々に承知した上でもそう思う。それほど綺礼にとって、間桐臓硯という存在には容認しがたいものがあった。
「貴様は……肉親の苦悩が、そこまで見ていて愉しいか?」
表情を殺して問う綺礼に対し、臓硯はからかうように眉を上げる。
「おお、心外よな。むしろおぬしは儂の喜びを|理解し《わかっ》てくれるものと思ったのだが」
「――なに?」
「儂はこう見えても鼻が利く。言峰綺礼、おぬしからは儂と同類の匂いがするぞ。雁夜という腐肉の旨味に釣られて這い寄ってきた蛆虫《うじむし》の匂いが、な」
「……」
綺礼は無言のまま、ゆっくりと僧衣の裾《すそ》から黒鍵を抜き放った。
もはや理屈ではなく、あの老魔術師とは殺《や》るか殺られるかの結末しかないと理解したからだ。いま臓硯はそういう間合い≠ノまで踏み込んできた。それは命を賭ける上での絶対領域、急所を抉《えぐ》る一撃を避けようと思うなら、迎え撃つしか他にない必殺必至の一線だった。間桐臓硯はそれを踏み越えた。足運びではなく言葉によって。
解き放たれた冷厳な殺意を、だが臓硯は、なおも悠然と含笑しながらやり過ごす。
「……ほほう? いささか買い被りすぎたかの。てっきり同好の士を得たものとばかり思っていたが。どうやらおぬし、自身の外道ぶりにまだ照れを残しておるのか。――カカ、青いのぅ。自慰《じい》の如き秘め事にでも耽《ふけ》っている気でおったのか?」
示威も警告もする気はなかった。予備動作すら窺《うかが》わせない瞬時のうちに、綺礼は左右二本の黒鍵を投擲《とうてき》し、老人の矮躯を串刺《くしざ》しにしていた。
とはいえ、白刃を前にしてなおも揺らぐことのなかった臓硯の余裕は、はたして虚勢ではなかった。二本の刃に買かれた瞬間、老魔術師の輪郭《りんかく》はまるで泥細工のように溶け崩れ、再び物陰に蟠《わだかま》る正体不明の影に戻ってしまったのだ。
警戒に身を強張らせる綺礼に、さも楽しげな囁き声が何処からともなく嘲弄《ちょうろう》を送る。
『おお、怖い怖い。青いとはいえ教会の狗《いぬ》。からかうとなれば命懸《いのちが》けか』
次の黒鍵を構えながら、綺礼は影の中で蠢《うごめ》くものに目を凝《こ》らした。
さっき刺し貫いたかに見えた間桐臓硯の肉体は、幻覚の類だったのか。或いは間柄臓硯の肉体には、もとより輪郭というものが存在しないのか。――老練の魔術師ともなれば、どのような不条理とて有り得る。それでいちいち驚いていたのでほ、代行者など務まらない。
『クク、またいずれ見《まみ》えようぞ、若造。次に会うときまでには、儂と五分に渡り合えるよう、己の本性を充分に肥《こ》え太らせておくがいい。クカカカカッ……』
不気味な哄笑《こうしょう》を後に残して、臓硯の気配は闇に溶け入り、消失した。後には刃を構えたまま案山子《かかし》のように立ち尽くす綺礼だけが残された。
「……ッ」
綺礼は苛立ちのあまり、行き場を亡くした黒鍵を屋上の床に叩きつける。
まさに、今の老人は掛け値無しの怪物だった。生かしておいていい道理がない。
いずれ引導を渡さずにはおれない仇敵。そう彼は、間桐臓硯について確信した。
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更《ふ》けていく夜の闇を可能な限り意識すまいと、今夜も間桐|鶴野《びゃくや》はアルコールに耽溺《たんでき》していた。
何事もなく過ぎた昨夜の平穏さも、今となっては恨めしい。凪《な》いだ海には必ず後から荒波が押し寄せる。きっと不穏な沈黙のうちに終わった昨日のぶんまで、今夜は剣呑《けんのん》な騒動が巻き起こるに違いない。
連日、この冬木市を脅かしている夜の怪異の実体を、当然ながら鶴野は知っている。彼は由緒正しい間桐家の家督を嗣いだ嫡男であり、かつて聖杯を求めて久遠《くおん》の探求に乗り出した偉大なる血脈の末裔である。本来ならこの酸鼻《さんび》なる戦いに、当事者の一人として参ずるべき立場にいたのが彼だった。
そんな責務に背を向けて泥酔に甘んじている自分を、だが鶴野は微塵も恥じていない。むしろ弟の雁夜に比べれば、人間として当然すぎる態度だと、胸を張って断言できる。
長らく勘当されたきり間桐家と断絶していた雁夜が、なぜ今になって帰郷し、聖杯戦争に参加しようなどと思ったのか、鶴野には理解できない。理解したいとさえ思わない。何であれ弟を翻心《ほんしん》させた事情については、いくら感謝しても足りるまい。さもなくば、あんな姿にされて戦いに駆り出されたのは鶴野の方だったのかもしれないのだから。
雁夜が召喚陣より呼び出し、契約した、黒くおぞましい怨霊《おんりょう》の姿を思い出す。――あのときの恐怖を記憶から遠ざけるためには、ただ重ねて酒瓶を呷《あお》るしかない。
あんなモノが他にあと六体、今もこの夜の闇の中で血肉を喰らいあいながら相克《そうこく》していると知っていれば、正気でいられる方がどうかしている。今の冬木は正真正銘の魔界だ。そんな場所で平静な精神を保っていようと思うなら、頼れるものはアルコール以外に何があるのか。
一人息子の慎二《しんじ》は遊学という名目で国外に出した。鶴野とて、今の冬木に居残ることなど本当は願い下げなのだ。が、彼にはこの間桐邸を離れられない理由がある。遠坂から譲り受けた小娘を地下の轟《むし》倉で調教し、間桐の次期頭首として相応しい器に仕立て上げることは、臓硯から仰せつかった重要な役目なのだ。
そう、当代の間桐家を預かる主として、鶴野は十全に役目を果たしてる。そもそも今回の聖杯戦争は様子見に徹するのが当初の臓硯の方針だったのだ。しょせん雁夜はあの老魔術師の玩具《おもちゃ》にされているにすぎない。いま間柄の正道を踏まえているのは鶴野の方だ。魔術回路の数など問題ではない。たとえ子供一人を嬲《なぶ》りものにするしか能のない身だとしても、真に間桐の未来へと繋《つな》がる道を歩んでいるのは自分の方なのだ……
そう自らに言い聞かせ、弟を嗤《わら》い蔑《さげす》みながら、また一口、鶴野は胃の中に酒精を注ぎ足す。
間桐の魔術師になるというのは、即ち影の頭首、臓硯の傀儡《かいらい》に成り果てることと同義である。それを理解して、一度はまんまと逐電《ちくでん》しておきながら、みすみす出戻って刻印虫《こくいんちゅう》の苗床となった雁夜の度外れた愚かしさには、同情の余地など一片もない。もとより弟に対する肉親の情など皆無だ。兄より秀でた才を持ちながら、間桐歴代の呪われた宿命を鶴野一人に押しっけて出て行ったあの男に、どうして今さら情をかける必要があるのか。
ああ、なぜ今夜はこんなにも眠気の訪れが遅いのか。いつものようにさっさと昏睡の中に転がり落ちてしまいたい。酒が足りない。酔いが足りない。屋敷の外の出来事など一刻も早く忘却し、夜明までの時間を跳び越えたいというのに――
代わりに鶴野に浴びせられたのは、テーブルの上のワインクーラーに溜めてあった氷水だった。
冷たさに悶絶し、酔いを剥ぎ取られたその直後、今度は容赦ない衝撃が頬骨を打ちのめし、床の絨毯《じゅうたん》に鶴野を這わす。
パニックに見舞われた鶴野が、悲鳴すら喉に詰まらせて見上げたそこには、幽鬼と見紛う不気味な男が立ちはだかっていた。
汚れも皺も顧みずに着古したコート。手入れの足りない|無精髭《ぶしょうひげ》。風体《ふうてい》だけを見比べるなら、部屋着姿の鶴野よりなお、その男は場末の飲み屋の酔漢に相応しく見えただろう。だが眼光がすべてを裏切っていた。男の眼差しの温度は、すでに冷酷とか非情といった域ですらなく、どこか手負いの獣《けもの》じみた妄執の殺意に凍《こご》えていた。目を合わせたその直後に、鶴野は相手の素性や状況の理解をすべて棚上げにしたまま、ただ絶望と諦観の虜《とりこ》になった。
この男が誰であれ、いかにして屋敷の外の厳重な防護結界を突破してきたのであれ、今さら何の関係もない。いま鶴野の眼前にいるのは、彼がこの一週間余りもの間、ひたすら酒の助けを借りて遠退けつづけてきた恐怖そのものに間違いなかった。
「……アイリスフィールは、どこだ?」
質問の内容よりまず先に、返答できなければ殺されるのだという確信に等しい理解が鶴野に訪れた。――それからようやく、質問の内容がまるで理解できないことに気付いて、鶴野は救いようのない絶望に突き落とされた。
「わ、私は、私は……」
呂律も回らず呻く鶴野を、氷点下の視線で見据えたまま、男はおもむろにコートの懐から凶器を抜き、その必要以上に武骨な銃口で鶴野の掌《てのひら》を床に押しっけると、すんなりと銃爪《ひきがね》を引いた。
聞く者の理性を根こそぎ吹き飛ばすほどの轟音とともに、鶴野の右手が四散する。
あまりにも脈絡のないまま自身の一部が欠損したショックに鶴野は唖然《あぜん》となり、その直後に襲ってきた激痛に悲鳴を上げてのたうち回った。
「し、しししし知らない知らない知らない私は何も知らないッ! あああぁぁッ! 手がッ! ぎゃああああッ!」
「……」
衛宮切嗣にとって、意に沿わぬ相手から情報提供を要求するという経験は、豊富すぎるほどに豊富である。その長年に渡って培った直感は、ただ冷淡に、もうこの場では尋問《じんもん》も調査も一切必要ないと告げていた。
間桐鶴野の魂はもう完全に折れている。どういう事情か知らないが、鶴野は切嗣が訪れるよりずっと以前から、自らを崖っぷちに追い詰めていたのだろう。結果として切嗣は彼を崩壊させる最後の一撃になったらしい。今のこの男ならば、目先の苦痛から逃れるためなら臓硯を裏切ることすら躊躇するまい。こうなってしまった人間は真実しか語らない。鶴野はここ数時間のうちに起こった事態について、本当に何も知らない≠フだろう。
即ち――拉致されたアイリスフィールが運び込まれたのは、この間桐邸ではない。
寸刻を争う状況下で、防護結界の突破に数時間を費やした挙げ句、結果がただの空振りとあっては、さすがの切嗣も悔恨《かいこん》に歯噛みせざるを得なかった。
消去法で詰めていけば、アイリスフィールを連れ去ったのは間桐の陣営としか考えようがない。ライダーのマスターには切嗣が用意した隠れ家を看破するだけの諜報《ちょうほう》能力などなかったはずだし、遠坂には、昨夜組んだばかりの同盟をこんな形で反故《ほご》にするだけの理由がない。
既存の七組のマスターとサーヴァントとは別の、新たな敵性勢力が現れた可能性も、限りなく低いがゼロではない。だがそれは今の段階で勘繰ったところで詮無い話である。現時点では、まだサーヴァントを温存し、最終局面に備えてアイリスフィールの身柄を必要とするはずの三マスターの中から、見えざる敵を捜し出すしかない。
土蔵の襲撃より既に四時間余りが経過している。過ぎゆく時間は一秒ごとに切嗣を勝利から遠ざけていく。立ち止まって考え込む余裕などありはしない。
痛みと恐怖に啜り泣く鶴野にはもう|一瞥《いちべつ》も与えることなく、切嗣は足早に食堂を出て、間桐邸を後にした。
続く遠坂邸にて魔術防御陣を突破するのに、切嗣はさらに三時間弱を要求された。
手際としては奇跡に等しい離れ業である。遠坂時臣の設置した結界は対魔術師向けの防衛システムとして極上の部類に入り、正攻法では一年がかりでも切り崩せなかっただろう。魔道に何の成果も求めず、ただ術理の陥穽《かんせい》を見破り定めることのみを突き詰めてきた『魔術師殺し』だからこそ、そんな短時間で防壁を解体できたのだ。
だが比較上の所要時間としてそれがどんなに短くても、今の切嗣の焦りを募らせるのには充分すぎるロスタイムだった。戦いの場において、かつてこれほどまで後手に回ったことはない。ついに裏門から中庭を突破し、母屋にまで到達した時点でも、なおも切嗣の胸中は切迫した焦燥に苛まれていた。捨て身も同然の危険な賭けで防御結界をすり抜けたとはいえ、間桐邸のときと同様、これがアイリスフィールの奪還に繋がる一手だという保証は何処にもないのだ。
切嗣より先んじてアイリスフィールを迫ったはずのセイバーも、まず間違いなく失敗している。魔力供給のパスに末だ手応えがある以上、撃破されたということはないはずだが、もし無事に保護されたならアイリスフィールは発信器を作動させ、切嗣に位置情報を送ってくるはずなのだ。それがない以上、セイバーの追跡も無駄に終わったと判断するしかない。
慎重に窓枠の封印を排除した後、ガラス切りを使って内鍵も外し、ついに切嗣は遠坂邸の内部にまで踏み込んだ。邸内は明かりを灯すこともなく静寂に沈んでいる。まるで留守宅のような気配だが、大邸宅だけに俄には判断しきれない。歴としたマスターである時臣は、間桐の長男よりは慎重だろう。鉢合《はちあ》わせになった場合には戦闘を覚悟しておくべきだ。無論その場合にはアーチャーに備えてこちらのセイバーも呼び寄せる必要がある。令呪を消費し、再度の強制召喚を余儀なくされるだろう。
未だ戦闘力が未知数なアーチャーに対し、セイバーを正面からぶつけるのは何としても避けたいところだったが、ここは戦略を選べる状況ではない。それでもせめて、事を構えるのはアイリスフィールの居場所に確証を得た後にしたかった。もし万が一、現時点でまったくノーマークの敵がアイリスフィールを押さえているなら、ここで切嗣が間桐や遠坂と対決し消耗するのほ完全に敵の思う壷《つほ》だ。業腹なことに、そんな最憲の事態すら今は可能性として警戒に値する。
ふと、闇に閉ざされたとある部屋に踏み込んだところで、切嗣の嗅覚《きゅうかく》が無視しきれないものを嗅《か》ぎ取った。
血臭。かなり時間が経過しているが、間違いない。
眼筋に魔力を集中させ、暗視の術を起動させる。たちまち詳らかになる室内の内装。どうやら客間か何からしい。テーブルの上には放置されたままのティーセットが二人分。
そして豪奢《ごうしゃ》なカーペットの中央に、まざれもない多量の血痕があった。
乾ききったその痕跡を、切嗣は子細に眺めて検討する。飛び散った飛沫ではないが、ただの怪我で済む出血量でもない。経験上、刺殺された人間が倒れた後の染みのように見える。
一応の用心で、さらに切嗣は邸内の他の部屋もくまなく捜索して廻る。だが既に目的は状況の把握よりむしろ住人の捜索へと傾いていた。
媒介として、術の起点として、とかく魔術において重要な要素となるのが血液だ。自らの領内で、呪的な意図もないままに流された血液をそのままに放置しておくのは、魔術の嗜《たしな》みとして論外ともいえる。そして切嗣の事前調査によれば、遠坂時臣という男はそういう不始末とは程遠い人物だ。
やがて、さほどの苦もなく地下室の工房にまで辿り着いた時点で、予感は確信へと変わった。在宅であれば無論のこと、たとえ留守中であったとしても、魔術師が自らの工房へ無断で他者を踏み込ませるはずがない。おそらく時臣は邸内にいないのみならず、自宅の様子すら把握できない状況にある。
さらに確信を確証へと固めるため、切嗣はポケットから、点眼薬容器で持ち歩いている試薬のひとつを取り出した。サキュバスの愛液を基剤として精製したそれは、とりわけ男性の血液や老廃物について反応し、詳細な識別を可能にする。
まず洗面所で試薬の反応を確認し、それから客間の血痕について測定すると、明らかに反応の結果は同一だった。ここ数日の間、洗面所で髭《ひげ》を剃《そ》った人間は一人だけ。その人物の血液が客間のカーペットに染みている……
これで遠坂時臣の死亡ないし脱落は、ほぼ確定と見て間違いなかった。
まったく予期しなかった展開に、切嗣はつとめて冷静になりながら状況を考察する。
邸内に戦闘の|痕跡《こんせき》はない。放置されたティーカップはむしろ客人の歓待を示唆《しさ》している。この部屋で時臣は、客としてもてなした何者かと和《なご》やかに歓談した後、重傷ないし致命傷の流血をする羽目になった。どうやら魔術師に対する闇討ちは切嗣の専売特許ではないらしい。
だがアーチャーのサーヴァントはそのとき何をしていたのか。まさかマスターの窮地《きゅうち》を座視していた筈もない。敢えてその可能性があるとするなら……時臣がアーチャーにとって既にマスターとして用済みだった場合。次なる契約者と申し合わせた上で時臣を謀殺したのなら、この結末にも納得がいく。
推理が辿り着く先の、重く苦々しい回答に、切嗣は臓腑の捩《ねじ》れる心地だった。
遠坂時臣の知古であり、彼が|賓客《ひんきゃく》と見なして隙を見せてもおかしくない人物。
アーチャーの新たなマスターとなり得る、今から改めて令呪を獲得した可能性が大な――即ち過去にサーヴァントを喪失してマスター権を失い、なおかつ未だ存命の人物。
それは考えるまでもなく一人しかいない。そして再びサーヴァントを得て聖杯戦争へと再起したのなら、その男がアイリスフィールを拉致して『聖杯の器』を手元に押さえようとするのも、当然の采配だ。
こうして――ついに衛宮切嗣は、言峰綺礼との対決を不可避のものと覚悟した。
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-30:20:45
深夜にも拘わらず、丘の上の教会には煌々と明かりが灯っていた。
地上における安息を約束する神の御家を前にして、些細ながらも矛盾した感傷が間桐雁夜の足を止めさせる。
祈りの場所という形だけの慰撫《いぶ》に、易々と乗せられ安堵する人間の単純さ。それを嗤う一方で、そんな欺瞞《ぎまん》にさえ縋《すが》らなければ生きていけない人間の弱きに、共感せずにはいられない気持ちもある。
人の世の苦しみがすべて神の試練だと説かれたら、雁夜はその手で神とその使徒を絞め殺したい衝動に駆られたことだろう。だが神ならぬ人の手が、真に誰かの救済をもたらし得るのかと問われれば――刻々と朽ちゆく己の身体を顧みて、雁夜は悄然《しょうぜん》と黙るしかなかった。
一歩、また一歩と着実に、雁夜は聖杯へと詰め寄っている。だがそれに倍する速度で、体内の刻印虫は彼の生命を蝕《むしば》んでいく。耳を澄ませば、総身から血肉を啜り、骨を削り喰らう蟲たちの鳴き声が聞こえてきそうだ。じくじくと身を苛み続ける刻印虫の痛みは、すでにもはや雁夜にとって呼吸や心臓の鼓動と同等なほど肉体の一部に成り果てていた。意識は常に朦朧《もうろう》と曇り、気を抜くと時間の経過すらあやふやになる。
決して自らに許すまいと誓っていた諦観の念が、罅割《ひびわ》れから染み込む水のように、じわじわと心を浸食していく。
あと何回、戦えるのか。
あと何日、生きていられるか。
この手に聖杯を掴み、桜《さくら》の救済を勝ち取ろうとするならば、それこそ最後の頼みは奇跡を期待するぐらいしかないのではないか。
ならば雁夜は祈るべきなのか。いま眼前に聳え立つ切妻屋根の頂から、地に這う彼《ムシ》を超然と見下ろす十字架に、膝を屈して希《こいねが》うべきなのか。
冗談じゃ……ない……ッ!
屈辱的なまでの弱気に憑かれた自分を、雁夜は呪うように|叱咤《しった 》する。
なにも自分は、愚にもつかない救いを求めてこんな時間に教会に赴《おもむ》いたのはない。むしろ真逆だ。今宵の雁夜は仇敵《きゅうてき》の血を求めてここに来た。言峰綺礼の言を信ずるならば、今、礼拝堂で雁夜の来訪を待ち受けているのは遠坂時臣その人だ。懺悔《ざんげ》でもなく、礼拝でもなく、ただ怨念の決着のために雁夜は祭壇の前に立つ。一度は敗退した時臣との決闘に、有り得ないはずのリターンマッチを言峰綺礼は用意してくれた。今夜こそはあの憎き魔術師に一泡吹かせる最後のチャンスだろう。断じて疎《おろそ》かにはできない。
胸に燃え上がる憎悪の炎は、肉体の苦痛も、|葛藤《かっとう》と絶望も、すべてを焼き清めて灰にする。今の雁夜にとっては、これこそがあらゆる信仰に勝る救いであり癒《いや》しだった。
ただの一矢も報いることなく終わった前回の戦いの記憶が、よりいっそう雁夜の内側で怒りを煽る。
葵《あおい》を奪った時臣を、桜を棄《す》てた時臣を、この手で叩き伏せる瞬間にだけ思いを致す。それだけで聖杯の遠さも、敗北への恐怖も忘れられた。憎しみに駆り立てられる自動機械になりきったときにだけ、間桐雁夜の胸中はすべての辛酸から解放される。口元に笑いさえ湧いてくる。今ならばバーサーカーを解き放つことにさえ恐怖はない。それで時臣の心臓を決り取り、その返り血を満身に浴びることができるなら――失うモノなど何もないとさえ思えてくる。
獣のような吐息に肩を震わせつつ、雁夜は教会の門前にまで歩を進めると、総身に殺意を滾らせながら、ゆっくりと扉を押し開けた。
礼拝堂の中を柔らかく照らし出す燭台《しょくだい》の灯とは裏腹に、静謐《せいひつ》すぎる空気はまるで凍えたように静止している。どこか墓所じみたその気配に些細な違和感を感じた雁夜ではあったが、それも信徒席の最前列に座る人物の後頭部を見替めた途端、溢れかえる怒りに塗り潰された。
「遠坂、時臣……ッ!」
殺意を込めて呼びかけた声に、しかし返答はない。完璧な黙殺を、あの魔術師なりの傲岸な態度と理解して、雁夜は大股に通路を進み、時臣との距離を詰める。
「俺を殺した気でいたか時臣? だが甘かったな。貴様に報いを与えるまで、俺は何度でも……」
だが時臣は、背後の雁夜に無防備な背中を晒したまま、何の反応も見せない。さすがに雁夜も、不信感と警戒から歩調を弛めた。
まさか雁夜を謀る目的で囮《おとり》の人形でも座らせてあるのではないか。だが間近に見るその肩幅、丹念に整髪された巻き毛の艶《つや》も、垣間見える耳の形も、まざれもなく遠坂時臣そのものだ。かつて目に焼き付けた怨敵の姿を、決して見誤る雁夜ではない。
あとはもう手を伸ばせば届く距離まで来て、雁夜は足を止める。なおも微動だにしない時臣の背中を、憎悪と、あとは何やら得体の知れない混乱と不安に苛まれたまま凝視する。
「遠坂――」
手を伸ばす。
一昨日、彼の攻撃をすべて阻んだ防御炎。その灼熱を思い出した本能が接触を忌避《きひ》する。だがそれでも、あと数センチ先に晒された首筋を、鷲掴みにしてへし折る衝動はあまりにも抗いがたく――ついに震える指先は、瀟洒《しょうしゃ》なタイに飾られた襟元にまで届く。
そうして、わずかに触れただけで、信徒席に凭《もた》れかかっていた屍は均衡を崩した。
弛緩しきった四肢は糸の切れた人形も同然だった。遠坂時臣の冷え切った骸は、積み木が崩れるかのように頽《くずお》れて、雁夜の腕の中に転がり込んだ。
「――」
そのとき間桐雁夜を見舞った混乱と衝撃には、実際にハンマーで頭を一撃されたのと同等の破壊力があった。
抜《ぬ》け殻《がら》のように虚ろな死相は紛れもなく本物であり、その容貌は疑いの余地なく遠坂時臣のそれだった。その時点で雁夜には、時臣の死を事実として受け入れるしか他になかった。
かつての見下しきった高慢な冷笑、慇懃《いんぎん》で冷酷な口調と嘲りの言葉の数々、それら遠坂時臣にまつわる記憶の全てが雁夜の思考を飽和させ、破裂した。その破裂は、時臣という存在を起点として雁夜の中に渦巻いていた情念を、動機を、衝動を、すべて等しく吹き飛ばしてしまうものでもあった。
「な――何――何故……?」
そして、物言わぬ骸を抱えたまま呆然と立ちつくしながら、雁夜は己の内側にぽっかりと空いた空洞の大きさに愕然《がくぜん》となった。その洞《うろ》はあまりに大きすぎて、間桐雁夜という人格の輪郭すらも崩壊させ、判別できないほど変容させてしまうものだった。
そのときになって初めて雁夜は、仇敵・遠坂時臣という要素を喪失した後の自分自身について、予期もしなければ想像も及ばなかったということに、あまりにも遅蒔きながら気付いた。抑えきれない動揺のせいで、雁夜は一体なぜ自分が時臣と戦っていたのか、何を望んで聖杯戦争に参加したのか、そんな大元の事情についてすら即座に思い出せなくなる有様だった。
そして――
「……雁夜、くん?」
――たった今、礼拝堂の中へと足を踏み入れたばかりの新たな来訪者の存在に、背後から呼びかける懐かしくも愛おしい声の主に、雁夜はついに致命的なその瞬間まで気付くことがなかった。
茫然《ぼうぜん》自失の態《てい》で振り向いた雁夜は、なぜそこに遠坂葵が立ち尽くしているのか、事の次第がまったく呑み込めなかった。もしまともに思慮が働く状態であったなら、誰かに呼ばれたのでなければ葵がこんな場所を訪れるはずもないという道理に思い至っただろうし、予め礼拝堂に時臣の死体を配置することができた人物が一人しかいないことも――さらに遡《さかのぼ》って、時臣を殺した容疑者についても、難なく察することができただろう。
「あ――う――」
だが混乱の極みにあった雁夜は、意味を為す言葉を口にすることもできないまま、ただ徒《いたづら》に呻き声を漏らすしかなかった。よろめき退がったその拍子に、腕の中に抱えていた時臣の骸が、頭陀袋のようにドサリと礼拝堂の床に落ちる。かつての夫の変わり果てた姿を、葵は長い間、凝視していた。凝視したまま動かなかった。
「葵、さん……俺は……」
一言も発することなく、葵は吸い寄せられるようにゆっくりと時臣の骸に歩み寄る。わけもなく気圧された雁夜はさらに後退り、わずか数歩で障害物に背中を遮られた。彼を裁くかのように厳めしく微動だにしないそれは、礼拝堂の祭壇だった。
床に膝をつき、時臣の死相を抱え上げる葵を、雁夜は逃げ場を失ったまま見守るしかなかった。なぜ葵がそんなことをするのか、雁夜には解らなかった。――否、理解したくなかった。なぜ彼女が幼なじみの自分を一顧だにせず時臣の骸を見つめているのか、その頬を滔々《とうどう》と濡らす涙が何なのか、雁夜は頑《かたく》なに理解を拒み、それ故に彼はただの一言も発することができなかった。
たしか記憶が定かなら――この自分は、誰よりも愛しかった女性《ひと》を二度と泣かせるまいとして、命を捨ててまで戦ってきたはずなのに――
だとしたら、今、目の前で|嗚咽《お えつ》する彼女は誰なのか。それを受け入れてしまっただけでも、間桐雁夜は崩壊してしまうのではないか。
彼女は雁夜を見ていない。まるで空気か何かのように無視したまま、夫の遺骸に涙を注いでいる。悲劇のヒロインである彼女は、まさに回転軸として世界の中心に在った。そんな彼女から無視される雁夜は、舞台の塵芥《ちりあくた》も同然に、書き割りの染みも同然に、まったく意味のない存在だ。自分の立ち位置を、存在そのものを消し去られたかのような錯覚に雁夜は恐怖した。今すぐ喚き散らして彼女の注意を惹《ひ》きつけたい衝動にさえ駆られた。が、枯れきった喉からは一言の声も出てこない。
だがやがて、ようやく顔を上げた葵に直視されたときに、雁夜は悟った。――黙殺はむしろ慈悲深かったのだと。あのとき世界から消え失せていれば、まだ幾許《いくばく》かの救いがあったのだと。
「……これで聖杯は間桐の手に渡ったも同然ね。満足してる? 雁夜くん」
聞き慣れた声でありながら、聞いたこともない声色《こわね》だった。なぜなら心優しい|幼馴染《おさなな じ》みだった彼女は、雁夜の前ではただの一度も、誰かを憎悪したり呪ったりしたことがなかったのだから。
「俺は――だって、俺は――」
なぜ咎められなければいけないのか? 遠坂時臣は諸悪の根源だった。あの男さえいなければ全てが上手くいくはずだった。そもそもなぜこいつはこんな場所で死んでいたのか? 訊きたいのはむしろ雁夜の方だった。
「どうして、よ……」
女は、だが雁夜に発言を許す暇すら与えず逆に問うてくる。
「間桐は、私から桜を奪っただけじゃ物足りなかったの? よりにもよって、この人を、私の目の前で殺すだなんて……どうして? そんなにも|私たち《とおさか》が憎かったの?」
わけがわからない。
この女は、なぜ葵そっくりの顔で、葵のような声で、こんなにも滾る憎悪を、冷たい殺意を、間桐雁夜に向けてくるのか。
雁夜は葵を救ったはずなのだ。彼女の愛娘に未来を取り戻すはずなのだ。それがなぜ恨まれるのか? この女は一体誰なのか?
「そいつが――そいつの、せいで――」
力なく震える手で時臣の死相を指差しながら、雁夜は精一杯の声で糾す。
「その男さえ、いなければ――誰も不幸にならずに済んだ。葵さんだって、桜ちゃんだって――幸せに、なれた筈――」
「ふざけないでよ!」
鬼女の形相で女は叫んだ。
「あんたなんかに、何が解るっていうのよ! あんたなんか……誰かを好きになったことさえない[#「誰かを好きになったことさえない」に傍点]くせにッ!」
「――あ――」
ぴしり、と。
決定的な亀裂の音が間桐雁夜を崩壊させた。
「俺、に、は――」
好きなヒトがいた。
暖かくて、優しくて、誰よりも幸せになってほしいヒトがいた。
彼女の為ならば命さえ惜しくないと、そう思ったからこそ雁夜は、今日までどんな痛みにも苦しみにも耐えて、耐えて、耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて耐えてきたのだから否定されていいわけが許せるわけがない俺は何のために誰のせいで死ぬぐらいならいっそオマエガシネバイイ嘘だ嘘だ嘘だ俺には好きなヒトが間違いなく確かに俺には――
「俺には……好きな……人が……」
軋る声で呟きながら、雁夜は両手に力を込める。
彼の全てを否定した言葉、それを重ねて否定するために。その口を噤《つぐ》ませるために。その声を産み落とした喉を締め上げる。
女が酸素を求めてぱくぱくと口を開け閉めする様は、まるで池州《いけす》から上げられた魚のようでいて、それでもなお彼を罵倒《ばとう》する言葉を紡いでいるかのように見えて、なおいっそう雁夜を激高させた。
黙らせなければ、すべてが終わる。今日までのすべてが無意味になる。そんなことが許せるわけがない。
もはや狂気こそが、実のところ間桐雁夜を救済する最後の砦《とりで》でもあった。にも拘わらず、そんな最低限の救いさえ、彼は土壇場で掴み損ねた。――チアノーゼの土気色に変わり果てていく女の風貌が、胸に秘め置いた最愛の面影にあまりに似すぎていることに、否、そのものであることに、結局、雁夜は気付いてしまった。
「……あ」
はたと脱力した両手から、葵の喉が滑り落ちる。
どさりと床にくずおれた彼女は、昏倒したきり身じろぎもしない。生死を確認できるほどの冷静な判断力など持ち合わせているはずもない雁夜には、それが時臣のそれと同じ、事切れた屍に見えた。
「あ、あ……」
たった今、力の限りに葵の首を絞めたばかりの両手を見つめる。何よりも大切だったモノ、彼が生きる意味そのものだったモノを摘み取っていった十指は、まるで他人のもののように強張ってはいたが、疑いの余地なく、誤魔化しようもなく彼自身のものだった。
まるで轟のようだ、と思った。震え蠢く両手の指は、桜の膚《はだ》を這い回る淫虫たちにそっくりだった。
「あああぁああアアアァあああァあああ……ッ!」
壊れた顔を掻きむしる。
干涸らびた髪を引きちぎる。
喉から迸る絶叫は悲鳴なのか慟哭なのか、それすらも解らない。
最後の一欠片の理性さえ失い、ただ獣じみた本能で逃走だけを乞い求めて、雁夜はけつまずきながら礼拝堂の外へと走り出た。
星一つない夜の闇が、すべてを失った男を出迎えた。
冬木教会の礼拝堂には、司祭しか知らない秘密がある。
礼拝堂とその裏の司祭室とを隔てる壁には、実のところ間仕切りとしての意味しかなく、礼拝堂で起こる物書はすべて司祭室に筒抜けになるよう配慮された造りになっているのだ。
故に言峰綺礼は、司祭室の椅子でゆったりと寛ぎながら、礼拝堂で展開された悲劇のすべてをつぶさに聞き届けることができた。
深く物思いに耽るかのようなその横顔に、傍らで見守っていた黄金のサーヴァントが問いかける。
「くだらぬ三文劇ではあったが、まぁ初めて書いた台本にしては要くない。――どうだ綺礼? 感想は」
「……」
黙然と宙を眺めながら、綺礼は手にしたグラスからワインを呷る。
不思議な感覚だった。想い描いていた通りの筋書せが、血肉と魂を備えた人間たちによって、そのままに演じて再現されたのだ。
番狂わせは何もなかった。間桐雁夜も、遠坂葵も、それぞれ綺礼が伝えた用件を鵜呑《うの》みにし、指定された刻限通り、完璧なタイミングで教会を訪れて対面した。時臣の死体という小道具も、まさに思惑《おもわく》通りの効果を発揮した。治癒魔術の応用で死斑《しはん》と死後硬直を調整しておいたため、実際には死後半日以上も経過した死体だとは誰にも看破できなかっただろう。
だが、何一つ予想を裏切らなかった展開ならば、何の驚きもない筈なのに――いざ最後まで見届けてみると、奇妙な興奮がある。
敢えて言うならば、生々しさ、だろうか。
先の愁嘆場《しゅうたんば》は役者が演じた絵空事ではない。たしかに綺礼の誘導はあったが、自らの内面を剥き出しにした人間同士がぶつかり合い、火花を散らした魂の輝きは、まざれもない本物なのだ。その鮮度、その臨場感は、予測どころか期待すらしていなかったものだった。
ギルガメッシュの問いにどう答えたものか判じかねながら、綺礼は、あらためて口に含んだワインの芳香を吟味《ぎんみ》する。そう、驚きといえば、むしろこの酒だ。
「……何故だろうな。前にも飲んだことがあるというのに。……このワインが、こんなにも味わい深いとは気付かなかった」
真顔で酒杯を見つめる綺礼に、英雄王は微笑んだ。
「酒の味というやつは、肴《さかな》によっては思いのほか化けるものだ。綺礼よ、どうやら見識を広めることの意味を理解しはじめたようだな」
「……」
満悦なギルガメッシュに返す言葉を思いつかないまま、綺礼は空にしたグラスを置いて席を立つ。後に控えた諸事を思えば、そう寛《くつろ》いでばかりもいられない。礼拝堂に倒れている葵の様態は間違いなく手当てを必要とするだろうし、遁走した雁夜を回収して次の役目を仕込む段取りもある。
だが司祭室を出る前に、もう一度、空のグラスを一瞥した綺礼は、そこでようやく、飲み終えた酒を名残《なごり》惜しいと感じている自分に気がついた。
切に思った。――これほどに美味と感じる酒ならば、ぜひまた飲んでみたいと。
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ACT15
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-25:48:06
ウェイバー・ベルベットが深山町のマッケンジー老夫婦宅にまで帰り着いたのは、既にもう夜空も白み始めようかという頃合いだった。
夜の国道を歩きに歩くこと数時間。途中でタクシーを拾うことができなければ、きっと朝になっても街までたどり着けずにいただろう。あんな辺鄙《へんぴ》な場所で空車と行き会った幸運に、感謝するべきか怒るべきか。本当にツキに恵まれるべき瞬間は、セイバーとの戦闘の最中にあったのだ。我が身の運気の的外れぶりには、ほとほと悲しくなるばかりだった。
タクシーから下車し、長すぎた一夜の行軍に深々と溜息をついたところで、ウェイバーは彼の名を呼ぶ声を聞きとがめた。
「――おぉい、ウェイバー。こっちだ。こっち」
声のする方角は、あろうことか、頭上である。
見上げると、てっきり就寝しているものとばかり思っていた家主のグレン老人が、なんと二階の屋根の上に腰を下ろして、玄関先のウェイバーに手を振っていた。
「お、お爺さん? な……何やってんだよ!?」
「いいからいいから。まぁお前も上がっておいで。ちょっと話をしようじゃないか」
「詰って、そんな……何でまた屋根の上で?」
「ここはな、普段見えない景色が見える場所じゃ。朝一番の光を浴びるには最高の場所でなあ」
まさか耄碌《もうろく》して前後を見失ったのかと疑いたくなるほどの奇行である。正直なところ付き合わされるのは願い下げだった。寒さを堪えながら足の筋が吊るほどに歩き通した夜の後だ。もう一秒でも早くベッドに潜り込んで疲れた身体を休めたい。
「お爺さん……話すならさ、せめて明日の朝にしない?」
「まぁまあ、そう言うな」
口ぶりこそ穏やかではあったが、なぜがグレン老は頑《がん》として譲らない。
『まぁ行ってやれ坊主。あの御老、何やら折り入って話がある様子ではないか』
ウェイバーの肩口から、彼にしか聞こえない野太い声がそう告げた。ライダーも今ではようやく魔力の温存を承諾するようになり、セイバー戦の後の帰路はずっと霊体化したままでいる。
『余はまあ、その辺をぶらついて見張っておるから安心せい。遠慮はいらん』
「遠慮っつうか、じゃなくてだな……」
声に出して反駁《はんばく》しそうになり、ウェイバーは慌てて口を噤んだ。もちろんグレン老には霊体化したサーヴァントの姿など見えていない。いまウェイバーが喋ればすべて奇態な独り言に見えてしまうだろう。
どいつもこいつも、ボクの都合なんかお構いなしで……
聖杯戦争も大詰めの今、何が悲しくて無関係な老人の奇癖になぞ付き合わなければならないのか憤懣《ふんまん》やるかたないウェイバーだったが、これ以上渋って口論になるのは尚のこと億劫だったし、それでなくても朝帰りの理由について聞かれたら返答に窮する羽目になるのだ。結局、彼は観念し、老人の待つ屋根を目指した。
マッケンジー宅には、近隣家屋とは違う奇妙な部分が一つだけある。それが二階の屋根裏部屋と天窓だ。二階の踊り場からさらに屋根裏部屋に続く梯子を登れば、あとは天窓から簡単に屋根の上に出られる。たまたまそういう造りになってしまった、というのではなく、どうやら家を建てた当初から簡単に屋根に登れる構造に設計されていたらしい。慣れてしまえば屋上に出るかのような気安さで、屋根の上に乗ることができた。
とはいえ、いかに上るのが簡単といえども、霜が降るほどの冬の早朝に居座る場所としては忍耐がいる。現に天窓から出たウェイバーは、吹きさらしの北風に思わず身を竦めた。遮るもののない風の冷気は、地上の比ではない。
「まぁ座れ。ほれ、コーヒーも用意してある。あったまるぞ」
グレン老は朗らかに言いながら、傍らに用意した魔法瓶から湯気の立つ液体を注いでいる。ダウンジャケットの上から幾重《いくえ》にも毛布にくるまり、防寒体勢は万全の様子だ。老骨に|鞭《むち》打って一体なにをしているのか、ウェイバーはほとほと呆れ果てた。
「お爺さん……いったい何時からここにいるのさ?」
「明け方に目が覚めてみたら、まだお前が帰っていないと解ってな。まぁ、この時間ならそろそろ春の星座も見えてくる頃だし、久々に空でも眺《なが》めながら孫の朝帰りを待ってみようか、とな……」
あまりの酔狂ぶりに返す言葉もないまま、ウェイバーは手渡されたコッフェルのコーヒーを|仏頂面《ぶっちょうづら》で啜る。わざわざ早起きしてまで宵の星座を眺めようなどと思うなんて、人間、歳を取るとこんなにも暇を持て余すようになるのだろうか。
「何じゃウェイバー、小さい頃はお前もここが大のお気に入りだったじゃあないか。何度も一緒に星を眺めたろ。憶えとるか?」
「ん……まぁ、ね」
知りもしない過去の出来事に、適当に相槌をうちながら、ウェイバーは眼下の景色を見渡す。
立地が丘の斜面にあるだけに、屋根の上からは、深山町から海岸に至るまでの冬木市の全域が見渡せた。空気は冷たく澄み渡り、海は程なく訪れる夜明の気配で真珠色に染まって、遥か彼方を行く船影もぽつぽつも視認できる。
「どうだ? いい眺めじゃろ」
「……」
ウェイバーにとって、それは戦場の全景だ。美しさに心を許す余裕などあるはずもない。
「初めは出張で来た土地だったが……このフユキに骨を埋めようかと相談したら、マーサも二つ返事で承知してくれた。住まいはミヤマの丘に建てて、必ず屋根に出られる天窓をつけようと決めてな。……だが、クリスの奴は結局トロントが忘れられなかったんじゃなぁ。あれの子たちは、日本人として育つもんだとばかり思ってたんじゃが」
回想に耽るグレン老の眼差しは、遥か遠く海の果て、離反した息子たちのいる故郷を眺めているかのようだった。
「……そんなに好きなの? 日本が」
「まぁな。だが、それが息子たちと喧嘩《けんか》別れするほどの理由でよかったのかといえば……まぁ悔しいが……」
孤独に過ぎ去った日々を偲《しの》ぶように、老人は溜息をつく。
「こうして、お気に入りの屋根の上に座ってな、孫と一緒に星を眺めるってのが、昔から夢だったんじゃ。まさか叶うとは思わなかったが」
「――え?」
苦笑混じりに語られる述懐の、聞き捨てならない違和感に、ウェイバーは背筋を固くする。
そんな彼をいなすかのように、グレン老は静かにかぶりを振って、告げた。
「本物の孫たちは、この屋根に来てくれたことなんぞ一度もないよ。マーサも高い所は苦手だし。儂が星を眺めるときは、いつだって独りきりじゃった……」
「……」
危機感や狼狽よりも、より徹底的にウェイバーを打ちのめしたのは、いたたまれない恥の感覚だった。
「なぁウェイバー、お前さん、儂らの孫ではないね?」
暗示を、破られた。――それも魔術の素養など何にもない、ただのお人好しの老人に、だ。
「ボクは――」
「うん、誰なんだかな。まぁ誰だったとしてもいいんだが。どうして儂もマーサもお前さんのことを孫だと信じ込んでたのか不思議ではあるが、まぁこれだけ長生きするとな、世の中、不思議な事柄はどう考えたって不思議なままだと諦めもつくもんさ。……ともかくお前さん、儂らの孫にしては、ちょっと日頃から優しすぎたわなぁ」
「……怒って、ないんですか?」
掠れきった声でウェイバーが問うと、グレン老は複雑ながらも穏やかな面持ちで首を傾げた。
「まぁ、そりゃあ怒って当然のところなのかもしれんがな……マーサのやつ、ここ最近は本当に愉しそうによく笑うようになったからなぁ。以前じゃ考えられんことだ。その辺はむしろ、お前さんがたに感謝したいぐらいでな」
「……」
「それに見たところ、お前さん、儂らに何か悪さをしようと思ってこの家に住み着いてるわけでもなさそうだしな。お前さんも、あのアレクセイとかいう男も、|今日日《きょうび》珍しいぐらい性根の真っ直ぐな若者だ。一体なにが目当てでこんなことをしとるのかは、まぁ、儂が理解しようとしたって仕方ない事柄なんだろうさ」
ウェイバーの基準に照らせば、いまこの老人はあまりにも無防備で、愚鈍に過ぎた。時計塔の学舎の中ならば、実験用のラットですらもう少し賢しいだろう。
なぜ恨《うら》まれないのか解らない。なぜ糾弾されないのか解らない。魔術協会という狭い世界の枠組みしか知らないウェイバーにとって、老人の寛容さば完全に理解を逸していた。
「むしろな、お前さんがたの事情も知らんまま、はたして頼めることなのかどうなのか解らんが……出来ることなら、もうしばらくこのままで、続けていてほしいんじゃ。
儂はともかく、マーサの方はまだ当分、違和感に気付く様子もなさそうじゃ。これが夢だか何なのか解らんが、儂らにとっては宝物なんじゃよ。優しい孫と過ごす時間、というのはな」
惨めさに苛まれながら、ウェイバーは我が手を見下ろす。
いつか必ず神秘の奥義を紡ぐものと信じて疑わなかった指先。きっと自分にはその才があるものと――たとえ誰に否定されようと、せめて自分だけは自分を見限るまいと、頑迷に信じ抜いてきた可能性。
なのに、結果はどうなのか。
催眠暗示などという基礎の基礎ですら、ついに満足に成し得なかった。不運とか、事故だとか、そんな言い訳すら成り立たない。『もっと騙してくれ』と頼んでくるほどお人好しの老人を相手にしてさえ、彼の術はろくに効果を維持できなかったのだ。
あの男であれば、いきなり押しかけてきて笑顔で酒を酌み交わしただけで、成し遂げてしまう程度のことなのに。ウェイバー・ベルベットの魔術ではそれすらも至らず、あまつさえ相手から温情まで受けている。
悔しさを通り越して滑稽ですらあった。――そう、とどのつまり道化でしかない。
ありもしないものを見つめ、目の前のものに気付きもせず、自分好みの自画像を鏡だとばかり思い込んできた。時計塔で彼を嘲笑ってきた連中の心境が、今ならばよく解る。ウェイバー自身、彼らと一緒に自分の愚かさを笑いたかった。
とはいえ、今は笑えない。グレン・マッケンジーとマーサの夫妻は、喜劇を期待しているわけではない。彼らは彼らなりに真撃《しんし》な事情で、ウェイバーを頼っているのだ。思えば、嘲りの対象となる以外の役回りを託されるのは、これが初めてではなかろうか。
「……申し訳ないけど、約束はできません。無事にまたここに帰ってこられる保証はないんで」
「すると、命懸けなのかね? お前さんがたは」
「はい」
セイバーの宝具の閃光に眼前まで迫られたのは、つい半日前の出来事だ。あのとき覗き込んだ死の淵を、すぐに忘れられるウェイバーではない。
グレン老人は深く考え込むように押し黙ると、重々しく頷いた。
「それがお前さんにとって、どれほど大切な事柄なのかは解らんが……これだけは言わせてほしい。人生、長生きした後で振り返ってみればな、命と秤《はかり》にかけられるほどの事柄なんて、結局のところ一つもありはせんものじゃよ」
「……」
それは、ウェイバーが青春を賭してきた摂理とは、真っ向から反する訓戒だった。
魔道とは、死を観念するところより始まるもの――己が命を燃やし尽くした果てにしか決して届くことのない境地を目指す、それが今日までの彼の本懐だったはずなのに。
だがむしろ、自分の身の丈《たけ》に合った生き方を捜すなら、この穏やかな老人の言葉にこそ真理はあるのかもしれない。
言い様のない喪失感を抱えたまま、ウェイバーは朝焼けを見守った。
このとき、ついに第四次聖杯戦争の最期《さいご》の一日が幕を開けたことも、まだ彼には知る由もなかった。
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-17:21:41
その日の冬木市は、過去に例のない異常気象の一日として人々の記憶に残っている。
連日の北風が嘘のようにぱったりと途絶え、重く澱《よど》んだかのような空気を、真夏もかくやというほど強烈な日差しがじっとりと蒸し上げて、そこかしこに季節外れの陽炎《かげろう》を生んでいた。気象予報士にも説明のつかない不可解な高温多湿は、冬木市を中心とするごく限られた地域のみに留まり、そこはかとなく市民が感じはじめた怪異の予感をますます騒がせた。
相次いで起こった都市ゲリラ事件と、酸鼻な猟奇殺人、幼児失踪事件は依然として解決の糸口すら見つからず、夜間の戒厳令は解除される見込みも立たぬまま、さらに一昨日《おととい》には未遠川での工業廃水災害――連日の怪事に神経を尖《とが》らせ、疲れ切っていた人々にとっては、もはや天候の異常すら、さらなる災厄の予兆としか感じられなかった。
[#中央揃え]×      ×
照りつける日差しがじりじりと影の角度を変えていくのを、衛宮切嗣は木陰に腰を下ろしたまま、まんじりともせずに見守っていた。
最後に睡眠をとってから四〇時間以上が経っているが、依然、神経は張り詰めたまま休息を求めようとしない。
危機的な状況下だからこそ隙を見計らって休みを取り、いざというときに万全の姿勢で臨めるコンディションを維持するのが、戦闘のプロの心得だ。すでに先触れの結界は要所に配置してあるから、いざ誰かが近づいてくれば即座に意識を覚醒させられる。待機状態で控えている今ならば、意識を数分刻みでレム睡眠に切り替え、疲労の蓄積を消化していくことも可能だろう。
だが、今の切嗣はそういう定石《じょうせき》の用心すら眼中にない。感情を抜きにして適確最善の状態を維持できるのも機械≠セが、焼け付くことも辞さない覚悟の状況下でなら限界を超えて酷使できるのもまた機械≠セ。そういう稼働状態に自らを切り替えたのは、肌身に迫って感じる決着≠フ予感に他ならない。
いま切嗣が待機するのは、冬木市深山町の西に位置する円蔵山《えんぞうさん》の中腹、柳洞寺《りゅうどうじ》の裏手にある池のほとりだった。
昨夜の遠坂邸で、時臣の脱落と言峰綺礼の再起を確信した切嗣は、即座に新都の教会を強襲したが、代行者の根城だったはずのそこは既に蛻《もぬけ》の殻だった。つい小一時間ほど前までは人の居た形跡が残っており、おそらくは紙一重の差だったのだろう。間桐邸と遠坂邸への侵入に手間取ったことが、致命的なロスタイムとなった。
その時点で、切嗣はアイリスフィールの捜索をきっぱりと断念した。これ以上彼女に執着すれば、あとはますます敵の術中に嵌っていくものと判断がついたからだ。まともな勝機を掴もうとするならば、切嗣は妻を想う夫としてではなく、聖杯を求めるマスターとして戦いに臨むしかなかった。
アインツベルン陣営の切り札ともいえる『聖杯の器』を手放したことで、切嗣は御三家以外の外来マスターと同じ条件から聖杯戦争に参加せざるを得ない。優位を活かし、守りに徹しながら敵のミスを誘う策略ではなく、先行するライバルを出し抜くための奇襲作戦が要求される。そう考えた場合、先の先を取る戦略として有効なのは、現時点から既に終盤戦を見越した足場を固めて罠を巡らせておくという手だった。
表向きには生存戦《バトルロイヤル》としての体裁を繕《つくろ》っている聖杯戦争だが、展開が進むにつれて戦況は陣取り合戦の様相を呈しはじめる。聖杯降臨の儀式を執り行うことが最終目的とされる以上、その祭壇として適切な場所を確保することは、勝利者にとって避けては通れない課程なのだ。
冬木において、聖杯の召喚場所に相応しいだけの霊格を備えた土地は四カ所。
第一の要所は、天然の大洞窟『龍洞』を擁する円蔵山である。ここにはユスティーツァを基盤とする大聖杯が設置され、御三家のみが知る秘密の祭壇として、一八〇年の昔から用意されてきた大本命だ。
土地の提供者である遠坂家は、最上の霊脈を自らの拠点として確保する優先権を持っていたが、円蔵山に充溢する魔力は強力すぎて、次代の術師を育成する生活の場としては危険すぎたため、第二位の霊脈に居城を構えた。それが現在の遠坂邸である。ここも大聖杯には劣るものの、それでも聖杯を降臨させるには充分な霊力で支えられている。
第三位の霊脈は、当初、移植してきたマキリに譲られたが、後々に土地の霊気が一族の属性にそぐわないことが判明したせいで、間桐邸は別の場所へと移築され、もとの霊脈は後から介入してきた聖堂教会に確保された。現在、冬木教会が建つ丘の上がそこである。円蔵山から大きく離れ、河を挟んだ反対側にある新都郊外に位置するが、霊格の点では第二位とさほど遜色《そんしょく》はない。
第四の霊脈は、もともとこの土地に存在したものではなく、三つの霊脈が魔術的に加工されたことで微妙に変調をきたしたマナの流れが、一〇〇年余りを経て吹き溜まりを成し、とある一点に蟠るようになった結果に出現した、いわば後発的な霊地である。その後の調査で儀式に充分な霊格が備わっていることが確認され、三度目の聖杯戦争からは候補地としてマークされるようになった。現在、ここは新都の新興住宅街の真ん中に位置し、問題のポイントには真新しい市民会館が建てられている。
言峰綺礼は、たとえ『聖杯の器』を手中に収めたとしても、最終的には四カ所の霊地のうちのいずれかで儀式を完成させなければならない。そこに先んじて罠を張り、待ち伏せることが出来るなら、逆転のチャンスは充分にある。
むしろ冬木教会が無人のまま放置されたことで、切嗣は遠坂邸と冬木教会という第二、第三の霊脈を、図らずも優先的に確保できる立場にあった。不幸中の幸いともいうべきこの利点を最大限に活かすべく、切嗣は朝までのうちにありったけの爆薬を持ち込んで二つの建物をトラップ化し、そして昼以降は柳洞寺を新たな拠点として、張り込みを続けている。
おそらく綺礼は、ここ円蔵山を儀式の場所として選んでくるものと、そう切嗣は目星をつけていた。敵が冬木教会から姿を消したのは、もちろん隠遁《いんとん》の意図もあろうが、予め確保してあった霊脈をみすみす手放した以上は、最初からより高位の霊地で儀式を行う意図があったと推測される。そう考えれば、遠坂時臣を抹殺した時点で手中にできたはずの遠坂邸についても、綺礼はあっさりと立ち去っているのだから、ならば残るは円蔵山の大聖杯しかない。
無論、すべてがミスリードのためのブラフであり、綺礼が再び冬木教会か遠坂邸に舞い戻ってくる可能性もゼロではないが、そのためにも切嗣は、どちらの建物にも踏み込んだら最後、生きては帰れないだけの仕掛けを施してきた。爆殺後に瓦礫《がれき》の中から『聖杯の器』さえ確保すれば、それで苦もなく勝負は決まる。――もちろんアイリスフィールの生命については、既に喪われているものと達観している。
さらに、こちらの裏をかく意図があるとすれば、第四の霊脈である冬木市民会館も無視はできないが、ここについては切嗣は、監視用の使い魔を一匹配置するだけで良しとした。後から霊格を確認されたそこは、いかなる勢力の手に渡ることもなく、呪的な防御が施されることもないまま現在に至る素の土地≠ナある。他の三つの儀式候補地が攻めるに難く守り易い£n勢であるのに対し、市民会館は魔術戦の観点から言えばまったく要害の態《てい》を成していない。
もし仮に言峰綺礼が市民会館に現れたとしても、そのときは正面切って強襲をかけるまでのこと。たしかに最悪の展開ではあるが、後手に回ってしまうことのリスクが一番低いのもここである。優先順位で言うならば、やはり是が非でも押さえなければならないのは円蔵山の方だ。
せめて舞弥が無事ならば、市民会館の方を確保させ、万全の備えで綺礼を迎え撃つこともできただろう。が、それは悔やんでも詮《せん》無い。今となっては頼れるのは自分だけだ。
ふと切嗣は、ナタリアを喪って間もない頃を思い出した。チームを組まない単独行動の経験は、考えてみれば意外と少ない。それを意外と感じてしまうのは――結局、いつも生き残るのは切嗣独りだけだったからだろうか。
思えば切嗣は、孤独という言葉とは縁遠い人生を歩んできた。それは孤独であることより遥かに残酷な生涯でもあった。常に切嗣の隣には誰かがいた。その誰か≠殺し、あるいは死なせる原因を作ってきたのもまた、他ならぬ切嗣自身だった。
舞弥も、アイリスフィールも、出会った時から離別を約束されていた者たちだ。そして案の定、またしても切嗣は単身生き残ったまま、最後の戦いに臨もうとしている。こんな風に始まり、こんな風に終わるのが、きっと衛宮切嗣の天命なのだろう。自分のような人間が誰かに身罷《みまか》られて逝くなどと、そんな不条理が許されるはずもない。
――寺の山門に設置してあった結界が、接近する存在を感知した。切嗣は益体のない感慨を打ち切り、キャレコ短機関銃を手に境内《けいだい》の様子を窺う。だが警戒の必要はなかった。近づいてくる魔力の波動は、切嗣にとっては既知のものだ。
そういえば――おそらくは彼にとって最強の助勢である存在を、味方の頭数に入れていなかったことに、切嗣は我ながら呆れて失笑した――彼女もまだ、生きていた。切嗣の策略から外れて動くこの高潔な騎士を、はたして味方≠フ頭数に入れて良いのかどうかは微妙なところだが。
身を隠していても、サーヴァントが自らのマスターの居場所を見誤るはずもなく、セイバーは迷うこともなく切嗣が身を潜める梢《こずえ》の前までやってくると、会話の圏内、かつ斬撃の圏外という微妙な間合いで足を止めた。親しく言葉を交わすには遠すぎるその距離こそが、このサーヴァントとマスターとを隔てる心の距離でもあった。 細身のスーツ姿は、普段の端然たる佇まいを崩すこともなく、だがそれでも表情ばかりは憔悴《しょうすい》の色を隠せなかった。英霊である彼女にとって肉体的な疲労は皆無でも、心を急《せ》くあまりの消耗とは無縁ではいられないのだろう。アイリスフィールの隣に侍っていた頃の凛然《りんぜん》たる眼光は、いま明らかに勢いを減じていた。
無言の視線で出迎えた切嗣に、セイバーもまた、形ばかりの挨拶を交わすことさえ無為に思えたか、偶然と視線を落としたまま口を開く。
「――昨夜から、市街をくまなく巡ってアイリスフィールを捜しています。が、依然、手がかりもなく……申し訳ありません」
何ら顧みることなく放置していたサーヴァントが、一夜の間、何に時間を費やしてきたか、切嗣には興味もなかったし、また聞いたところで予想通りの無為な行いには、返す言葉も思いつかなかった。
この期《ご》に及んでセイバーの目的は、なおもアイリスフィールの救出≠ノある。
夜半から今朝にかけて、切嗣が着々と言峰綺礼に対する死の罠を準備していた間、おそらくこのサーヴァントはただがむしゃらにアイリスフィールの姿を追い求め、捜す宛《あ》てもないままに市内を馳せ巡っていたのだろう。
それは騎士としての意地なのか、ひとたび仕えた者に対する愚直なまでの忠誠心なのか……彼女の行動は、計画性もない愚策であると同時に、いち早く妻の生存を諦観して戦略を転換した切嗣に対する、痛切な批判でもあった。
無論、そんな当てつけのためにこんな場所まで足を運んだわけではあるまい。セイバーはただアイリスフィール捜索の途中で柳洞寺に立ち寄り、そこに己のマスターの気配を感じ取っただけのことだ。だが二日ぶりに顔を合わせた二人は、その指針と行動の落差を改めて目の当たりにすることで、結局ますます互いの齟齬を再認することしかできなかった。
薄暗い木陰から、冷ややかにこちらを見返す切嗣の眼差しを受け止めて、セイバーの胸中に乾ききった予感が訪れる。――おそらくは、全ての戦いが終わるその時まで、彼女は自らのマスターと真っ当な形で言葉を交わすことは一度たりともないのだろう、と。
「……では、私は引き続きアイリスフィールの捜索に戻ります。何かあった時には以前のように令呪による召喚を」
それだけ告げると、セイバーは|踵《きびす》を返して境内へと戻っていった。無論、呼び止められることも、去り際の労いも、何一つありはしなかった。
聖杯の争奪という観点に立つならば、切嗣の行動こそが上策であることは、セイバーとて理解している。だからこそ、この場は任せておけばそれでいいと、疑うことなく判断することもできた。切嗣を単独で捨て置くことに不安はない。いざサーヴァントを必要とする局面になれば、令呪の強制力が空間すら超越して彼女を呼び寄せることは、昨日、実体験をもって確認済みだ。
下界と山門を繋ぐ長い石段を下りながら、セイバーは不快なほど照りつける日差しに目を眇めた。
斬り伏せるべき敵の姿は見えず、守るべきものの在処も見定められず……一刻の猶予もないという、ただひたすら確たる直感だけが、ある。
向かうべき場所さえ解らないまま、ひりつくような焦燥だけが、彼女を内側から駆り立てていた。
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-16:05:37
季節外れの夏日がもたらした茹《ゆ》だるような熱気も、言峰綺礼とは無線だった。
冷たい水気に澱んだ闇の中は、地表の喧噪から完全に隔絶されている。夜を待って行動を起こすまでの隠遁《いんとん》場所として、そこは絶好の条件を揃えていた。
冬木教会を立ち退いた綺礼が、ひとときの隠れ家として利用していたのは、かつて|雨生龍之介《うりゅうりゅうのすけ》とそのサーヴァント・キャスターが根城とし、酸鼻の限りを尽くした所行で血に染めていた地下空洞――冬木市の下水道網の奥にある貯水槽《ちょすいそう》であった。以前に彼の召喚したアサシンが痛恨の失態を演じた因縁の場所だが、その記憶が綺礼に潜伏場所としての着想をもたらしたことは皮肉という他にない。
かつて璃正の差配により全てのマスターから標的とされていたキャスターが、未遠川での乱闘まで生き存《ながら》えたという事実が、この場所の秘匿《ひとく》性を何よりも証明している。唯一、ここを看破《かんば》して踏み込んできたライダーとそのマスターも、今になって再びキャスターの工房に着目することはまずあるまい。
安全の確保を確信した上で、綺礼は現状の戦局を鑑みる。
遠坂時臣を排除し、間桐雁夜を籠絡《ろうらく》し、聖杯の器を確保した上で、セイバーとライダーを相食《あいは》む形で衝突させ、自らの所在も隠匿――
すべて彼が、聖杯戦争への復帰を決意してから一日のうちに上げた成果である。
運気に助けられた部分もあるとはいえ、万事があまりにも上首尾に運び、混迷を極めた戦況の趨勢《すうせい》を一気に塗り替えてしまったことには、当の綺礼本人ですら空恐ろしいほどの驚きを覚えていた。
戦局の初期段階で遠坂時臣が占めていた優勢を、いま綺礼はまるごと簒奪《さんだつ》した形で受け継いでいる。今回の聖杯戦争における最強のサーヴァントとして現界したアーチャーを手中に収め、相性の上でその難敵となっていたバーサーカーをマスターもろとも傀儡にした時点で、もはや綺礼の優勢を脅かす要素は皆無であった。
セイバー対ライダーの結末がどのような形で決着したにせよ、勝ち残った方をアーチャーの超宝具によって撃滅すれば、それでサーヴァント戦は決着する。もし万が一、騎士王と征服王の双方が生存、あるいは罷り間違って和解し協力して挑みかかってきたとしても、そのときには抑えの要員であるバーサーカーがいる。葵の一件でもはや廃人同然の雁夜だが、バーサーカーは自発的にセイバーを襲うであろうから司令塔としてのマスターなど必要ない。
強いて言うなら、帰趨《きすう》の見通せない対ライダー戦に備えた謀略を二、三巡らせておければ万全なのだが、それはアーチャーが良しとしない。そしてこの戦いは綺礼個人のものではなく、英雄王のための闘争でもある。真っ向からの争覇を競うのが闘士《プレイヤー》の望みであるのなら、その意向もまた尊重されるべきであろうというのが綺礼の見解だった。その点、言峰綺礼の観念は、サーヴァントを道具として使役するばかりの魔術師たちとは一線を画していたとも言える。
そもそもアーチャーとの関係においては、令呪ですらただの一画たりとも行使するつもりはなかった。あれほど強大な自我を振りかざす男であれば、強引にこちらの意に沿わせるような形で動員したところで、結局は逆効果にしかなるまい。あのサーヴァントは手駒として操るのでなく、天候や風向きといった環境的要因のひとつと見なして利用する≠フが最善だ。船乗りは風を操ることなどできないが、帆の張り方によって自在に船を操れる。それと同じことである。
現に今現在、アーチャーは陰気な地下に引きこもるのを嫌って野放図に外を出歩いている。綺礼もまた、必要なときにはアーチャーの方から駆けつけてくるものと了解しているから何の不安も感じはしない。こと英雄王に関する限り、綺礼は自らの使い魔というよりも、利害の一致した同盟者として認識していた。
むしろ璃正から受け継いだ令呪には、より有効な使い道が他にある。魔術刻印を持たない綺礼にとって、たとえ消費型といえども術の行使のバックアップとなる手段が得られたことは極めて大きい。今の彼ならば熟達した魔術師と戦闘になった場合でも、充分に勝機が見出せる。
今夜、おそらくは最後となるサーヴァント同士の激突によって、聖杯の行方は決まるだろう。傍観する立場の綺礼はただ、座して時を待つのみだ。マスターである彼が憂慮すべきは、むしろサーヴァント戦の埒外《らちがい》にある謀略戦――そこにこそ、綺礼にとっては本命ともいうべき敵がいる。
衛宮切嗣。現段階でなお綺礼の足を掬《すく》って優位を覆す存在がいるとするならば、奴だ。
もとより彼との対時を心待ちにしてきた綺礼である。だが相手は徹底した暗殺者である以上、どうしても望ましい形での邂逅《かいこう》が叶わない。衛宮切嗣と真正面から対峙できる状況を作り出そうとするならば、常に戦局をリードし、|先制権《イニシアチブ》を碓保し続ける必要があった。切嗣に主導権を奪われたら最後、綺礼は相手の姿すら目にすることもなく、背後から仕留められることだろう。それでは意味がない。
衛宮切嗣がこの貯水槽を捕捉していないことはまず確実だ。さもなければ雨生龍之介はより早い段階で抹殺されていたことだろう。ここに隠れている限り、切嗣からの奇襲はない。今はせいぜい相手を焦らし、空回りさせておけばいい。対決の場はあくまで綺礼の側で誂《あつら》えるつもりだった。
理詰めで動くであろう切嗣の予測をすべて裏切り、彼の側から、待ち受ける綺礼の前へと進んで姿を現さざるを得なくなる環境――目処《めど》はすでについている。あとはただ夜の訪れを待つのみだ。
苦しげな坤き声を聞きとがめ、綺礼は闇の一画に目をやった。そこにはバーサーカーの手で拉致させてきたアインツベルンの人形が仰臥《ぎょうが》している。無造作に横たえてあるのではなく、簡易ながらも魔法陣を組み、周囲の魔力を流入する処置を施してあった。地脈とはずれた場所だが、かつてここではキャスターが生贄《いけにえ》の魂を思うさま貪《むさば》り食った経緯があり、今でもその名残として染みついた魔力が溜まっている。その供給が彼女にとって心地よいものかどうかはさておき、様態を安定させる程度の効果は充分にあるはずだった。
無論、今すぐに腹を割き、件《くだん》の『聖杯の器』を引きずり出しても何ら不都合はないのだが、綺礼としては今一度、この女と言葉を交わす機会が欲しかった。わざわざ手間をかけて魔力を与えているのも、そのためだ。
「聞こえているか? 女」
「……」
掠れた吐息とともに、ホムンクルスが瞼を開ける。
虚ろな眼差しは焦点を失い、明らかに視力を減じていたが、それでも怨敵の声音には判別がついたらしい。
「言峰……綺礼……そう、案の定、お前の差し金だったのね……」
「間もなく聖杯戦争は決着する。おそらくはこの私が、お前たちアインツベルンの悲願を遂げる担い手となることだろう」
自負するほどに期するものもないが、それは控えめに見積もっても当然の結末と言えた。
「相変わらず協力的な態度ではなさそうだが、私ではそんなに不満かね?」
「当然よ……私が聖杯を託すのは、ただ独り……断じてお前などではないわ。代行者」
今となっては喋ることさえ難儀であろうに、それでも声音に憎しみを浸らせて言い捨てる女の気迫に、綺礼はやや眉を顰めた。
「解せぬな。貴様はただ聖杯を運ぶだけが能の人形だ。勝敗の帰趨より、儀式の達成こそが最大の目的のはず。この期に及んで、なぜそこまで特定のマスターに固執する?」
「そう、解るはずもないでしょうね……聖杯に託す祈りさえ持たないお前には」
憎々しげな嘲りの言葉に、またしても綺礼は当惑する。――この女は本当に人形なのか? 魂など持ち合わせないはずのホムンクルスに、何がここまで感情の真似事《まねごと》をさせるのか?
「言峰綺礼……お前は戦う意味すら解らない虚ろな男。お前では、決してあの人には勝てない……覚悟なさい。私の騎士が、私の夫が、いずれ必ずお前を斃す……」
「……なぜ、貴様が私について語る?」
加えて綺礼を戸惑わすのは、女の語る言葉の中身だ。なぜ、この人形はそこまで適確に彼の本心を見抜くのか。時臣も、そして父や妻ですら、決してそこには至らなかったというのに。
「フフ、怖いの? いいわ、教えてあげる……お前の中身は、すべて衛宮切嗣に見抜かれているわ。だからこそ彼はお前を警戒し、最悪の敵と見なしてきた……きっと切嗣は、だれよりも冷酷に、誰よりも容赦なくお前に牙を剥く。覚悟することね……」
成る程――満足いく得心とともに、綺礼は頷いた。
あの男ならば或いは、と思った。この自分を理解しうる存在がいるとするならば、きっとそれは自分の同類であろうと。
果たして衛宮切嗣はその期待を裏切らなかった。ただの一度も出会うまでもなく、彼は言峰綺礼について、掛け値無しに適確な評価を与えていたのだ。
「感謝するぞ女。それは私にとって福音だ。衛宮切嗣は、やはり私が考えていた通りの男だったのだな」
だが、綺礼に向けて返されたのは、さも呆れ返ったと言わんばかりの失笑だった。
「……どこまでも愚かな男。お前が? 切嗣を理解するですって? ……ふふん、片腹痛いわね。誰よりも彼とは程遠い男のくせに」
「――何だと?」
我知らず声に苛立ちが覘いた。それほどに聞き捨てならない言葉だった。
「そうよ……切嗣にお前が見抜けたとしても、その逆は有り得ないわ。……あの人の精神《こころ》に在るものを、言峰綺礼、お前は何一つ持ち合わせていないのだから」
なおも嘲笑の言葉が続くより先に、綺礼は女の細首を鷲掴みにした。奇《く》しくも森での死闘の再演ともいうべき構図だったが、いま綺礼の胸に渦巻く怒りと当惑は、あのときの比ではなかった。
「……認めよう。確かに私は空虚な人間だ。何一つ持ち合わせているものなどない」
嘯く声は、はじめは抑揚を失って平坦ですらあった。むしろ激情の色は後から遅れて現れた。
「だがそんな私と|切嗣《ヤツ》とがどう違う? あれほどの永きに渡り、何の益もない戦いにばかり身を投じて――そこから何一つ学ぶことなく、ただ殺戮《さつりく》だけを繰り返してきた男が!あれほどの無軌道が、あれほどの徒労が、迷い人でなくて何なのだ!?」
問う。力の限りに問い糾す。
思いつく限りの試練、求めうる限りの受難を経て、なお至らぬ答えを求めるあまり、苦悩する魂は吼えるが如くに詰問した。
「さあ人形、答があるというのなら、この私に告げるがいい。衛宮切嗣は何を望んで聖杯を求める? ヤツが願望機に託す祈りとは何だ!?」
そして綺礼は挑むかのように、ホムンクルスの喉から手を離した。ただ一度限りの返答のために呼吸を許す。生半可な返事を返すなら今度こそ息の根を止めるという無言の警告を込めて。
だがそれでも、人形の女は恐懼《きょうく》など欠片も見せなかった。綺礼の膝下に蹲り、弱々しく噎せながら懸命に酸素を貪る様には断末魔の哀れさがありながら、それでもなお頑として綺礼を睨み続ける眼差しには、まるで勝ち誇ったかのような嘲りと、誇らしげな優越があった。
まるで、膝を屈しているのは、言峰綺礼の方だとでも言わんばかりに。
「いいわ、教えてあげる。――衛宮切嗣の悲願は人類の救済。あらゆる戦乱と流血の根絶。恒久的世界平和よ」
綺礼には、はじめそれがあまりにも質の悪い冗談としか思えず、失笑を返すのにさえ数秒を要した。
「――なんだ、それは?」
「お前に解るはずもない。それがお前と彼との差異。信念の有無よ」 この女の語る人物は、はたして綺礼が知る衛宮切嗣と同一人物なのだろうか。それすらも綺礼には疑わしくなってきた。いったい衛宮切嗣は、この人形の前で、どのような人間として振る舞ってきたのだろうか。
「……女よ、貴様はそもそも、衛宮切嗣にとっての何なのだ?」
「妻として、彼の子供を産んだわ。彼の心を、苦悩を、私は九年に渡って見守った。……ただの一度も彼と遭ったことのないお前とは違ってね」
九年間。或いはその間、ただ戯《たわむ》れの虚言を吹き込み続けて過ごしたのではと疑えないこともない。だがそれはあり得ぬと綺礼の直観が否定する。この女の自我の芯《しん》にあるものは、まず間違いなく、衛宮切嗣に対する信頼だ。実のない嘘を基盤にして、ここまで強固な人格が形成されうるとは思えない。そもそもこの女は、元来ただの人形に過ぎない存在なのだから。
怒りの焦点が、目の前の女からずれはじめた。憂いを隠さぬ溜息をついて、綺礼は傍らに用意してあった椅子に腰を下ろす。
「アイリスフィール・フォン・アインツベルン。貴様は九年の歳月を、良き妻で在り続けたのか? 衛宮切嗣の愛情を勝ち取ってきたのか?」
「……なぜそんなことを、お前が気にかけるの?」
「解《げ》せぬからだ。貴様らの絆《きずな》が。――お前は切嗣を夫として誇り、信任している。まるで本物の夫婦であるかのように。だが衛宮切嗣が聖杯を求める男なら、お前はその悲願を遂げるための道具に過ぎないはずだ。余計な愛情など注ぐ道理がない」
「……そんな彼を愚かと笑うなら、私はお前を赦《ゆる》さない」
それは譲れぬものを賭けた者だけが口にできる、断固とした言葉だった。
「……私には父も母もない。愛によって産み落とされた身体でもない。だから良き妻≠ェどんなものか知りようもない。それでも……彼から与えられてきた愛こそ、私にとっての全てよ。それだけは誰にも侵させない」
「ならば、お前は妻として完璧であろうよ。アイリスフィール」
賛辞でもなく、皮肉でもなく、ただ何の興味もない判定を下すかのように綺礼は告げた。
「だが、だからこそ切嗣の気が知れない。そこまで妻であるお前を愛しておきながら、なぜ……恒久的な世界平和だと? なぜそんな無意味な理想のために、愛する者を犠牲にできる?」
「……奇妙な問いね。お前のような、自らも認めるほどに無意味な男が……他人の理想を無意味と嗤うの?」
「誰であれ嗤うだろう。思慮分別のある大人なら」
さっきまでとは全く方向性の異なる怒りが、今また綺礼の胸の内に膨れ上がりつつあった。
「闘争は人間の本性だ。それを根絶するというなら、人間を根絶するのも同然だ。これが無意味でなくて何なのだ? 衛宮切嗣の理想とは――そもそも理想として成り立っていない。まるで子供の戯れ言だ!」
「……だからこそ彼は、とうとう奇跡に縋るしかなくなったのよ……」
達観に声を鎮めて、アイリスフィールは呟いた。
「あの人は、追い求めた理想のために、すべてを喪《うしな》ってきた……救いようもないモノを救う矛盾のために、常に罰せられて、奪われてきた……私もまた、そういう一人よ。今日までに幾度となく、彼は愛する人を切り捨てる決断を迫られてきた……」
綺礼は椅子から立ち上がりながら、底抜けに昏い目でアイリスフィールを凝視した。
「これが、今回限りの話ではなく――あの男の生き方そのものだと?」
「そうよ。切嗣は、理想を追うには優しすぎる人。いずれ喪《うしな》うと解りきった相手でさえ、愛さずにはいられないなんて……」
綺礼にとって、もはや問答は事足りていた。目の前に踞るホムンクルスに対する興味は、既に片鱗《へんりん》もなく失せていた。
「……解ったよ」
固く強靭な指先を女の首筋にあてがい、血流を寸断する。
そうやって衰弱しきった相手の意識を苦もなく刈り取りながら、綺礼は静かに嘯いた。
「よく、解った。それが衛宮切嗣か」
抗《あらが》うこともできずに昏倒した女をそのままに捨て置いて、虚無なる心の代行者は、何処《いずこ》ともつかぬ宙の闇を見つめる。
結局のところ、綺礼はことの始まりから大きく履き違えていたのだろう。――疑問には合点がいった。そして期待は落胆に散った。
衛宮切嗣は、無意味な行いに|葛藤《かっとう》しながら答を掴んできたのではない。
あの男はただ単に、価値あるモノをすべて無意味に帰してきただけなのだ。
願いを持たなかったのではなく、有り得ないものを願ったからこそ、虚無の連鎖へと墜ちていった。その徒労が、その浪費が、あまりにも愚かしく度し難い。
なるほど切嗣は、言峰綺礼の内なる空洞を見抜いたかもしれない。その虚ろさに畏怖を覚え、警戒したかもしれない。だが彼《ヤツ》は断じて、そんな空虚さを抱えることの意味にまでは思い及ばなかっただろう。綺礼が懐く狂おしいまでの渇望など、まったく理解の埒外だっただろう。
すべて切り捨てるばかりの繰り返しだったと語られる、衛宮切嗣の生涯。
あの男が放棄してきたという、数多の喜びと幸福。そのうちもっとも些細な断片でさえ、綺礼から見れば、生命《いのち》を賭けて守り抜き、殉《じゅん》ずるに足りるだけの価値があったはずなのだ。
そんな小さな一片すら見出せずに迷い続けた男からすれば、切嗣という男の生き様は、もはや憧憬《どうけい》も羨望《せんぼう》も通り越した果てにある。
あの癒しようのなかった飢えが、埋めようのなかった喪失が、そこまで貶められ愚弄されたなら――なぜこれを赦せようか? 憎まずにいられようか?
胸の奥底より沸き上がるどす黒い感情が、綺礼の口元を笑みの形に歪ませる。
ついに得たのだ。戦う意義を。
もはや聖杯など興味ない。願望の成就などまったく眼中になくとも、それでいい。
その奇跡に全てを賭した一人の男の理想を、目の前で、木っ端微塵に砕いてやることができるなら――たとえ自らにとって何の価値もない聖杯であろうとも、奪い取るだけの意味はある。
武者震いに腕が震えた。今すぐにもありったけの黒鍵を抜き放ち、目につくもの全てを串刺しにしてやりたいほどの昂揚《こうよう》が胸を焼く。
血臭に濁りきった闇の中、言峰綺礼は声を上げて笑った。数年来久しく絶えて無かった、それは魂の躍動だった。
[#改ページ]
-04:16:49
夢すら見ることもない深い眠りの底から、ウェイバーは覚醒する。
瞼を開いた先の外界は、眠りの中と変わらず暗い。昼間、眠りに就《つ》いた雑木林《ぞうきばやし》の中は、もう星明かりすら届かぬ深い闇に沈んでいる。
再び、夜が訪れたのだ。サーヴァントを統べる者たちにとって、逃れようのない戦いの時間が。
殺意の如く冷え切った夜気にも、だが心細さは感じない。そんな不安も畏怖もすべて霞《かすみ》のように消し飛ばしてしまう揺るぎない気配を、すぐ傍らに感じる。
既に実体化していたライダーは、準備万端整った戦支度《いくさじたく》のまま、神妙にホメロスの詩集を紐解《ひもと》いていた。
ウェイバーにとっては重くて鬱陶しいばかりのハードカバーも、征服王のいかつい両手の中にあっては心許ないほど小さく薄っぺらに見える。そんな活字の小世界に、巨漢は夢中で没頭していた。まるでページひとつ捲る動作すらもが面白くて仕方なく、それをなし得る指先の感触さえも愛《いと》おしむかのように。
本当に好きなんだなぁと、呆れるのを通り越して苦笑してしまう。いまライダーに不意打ちで『なぜ受肉したいのか』と問えば、もしかしたら世界征服の野望など綺麗さっぱり失念したまま、『指がなければホメロスが読めない』と答えてしまいかねない。この男はそういうヤツだ。憧《あこが》れの英雄譚に没頭し、美酒美食をかっくらい、そういう日常茶飯事の欲求と変わらぬレベルで世界制覇の野望を弄《もてあそ》ぶ。そんな出鱈目《でたらめ》な器によって多くの男達を魅せ、この世の果てまでも極めようとした。
人類の歴史には、かつてこんな男さえもが居たのだ。
「――ん? おぉ、目が覚めたか坊主」
もう何度読んだかも知れないアキレウスの冒険に、今なお興奮冷めやらぬのか、ライダーははしゃぐ子供のようににやつきながらウェイバーを見た。彼は誰に対しても変わらずに、こういう笑顔を向けるのだろう。かつて生死を共にした英雄達にも、ウェイバーのような出来損ないの契約者《マスター》にも。
「……夜になったら起こせって言っておいたのに、何やってたんだよオマエ」
「あ〜すまんすまん。つい夢中になってしまってなぁ。だがまぁ、夜も更けるにはまだ遠い。今夜はいつもほど焦らず落ち着いて構えていた方がいい気がしてな」
「何でさ」
重ねて問うと、巨漢は今さら考え込むかのように小首を傾げて顎をかき、
「……うむ、まぁ何となく、な。べつだん根拠があるわけでもないが、今夜あたりに決着がつきそうな予感がするのだ」
そう、さも事も無げに言ってのけた。
ウェイバーも、ただ小さく頷いたきり、理由を問うたりはしなかった。彼とて説明はつかないが、膚に感じる空気として、聖杯戦争の|佳境《かきょう》を感じ取ってはいたのだ。
そう、強いて言うならば――夜の空気が静かすぎる。
ウェイバーの知る限りにおいて、脱落した競争相手は、ライダーが手ずから粉砕したアサシンと、未遠川で倒されたキャスターのみ。だが当然、彼が窺い知らぬ場所でも戦局は展開し、推移しているはずだ。
彼が連日連夜に感じ取ってきた、この街における怪異の気配。それがどことなく変質を遂げている感がある。混沌とした騒がしさから、張り詰めた緊張の重さへと。
昨夜戦ったセイバーの焦りようも、そんな印象を懐く原因のひとつだ。アインツベルンの陣営もまた、何か急を告げる状況にあるのだろう。
だからウェイバーには、ライダーの直感に異を唱える気にはなれなかった。数多の戦場を駆け抜け、戦略を差配してきた征服王であればこそ、その第六感は素人のウェイバーよりも余程確かなはずだ。
果たしてロード・エルメロイことケイネス講師は健在だろうか。――かつて仇敵《きゅうてき》として憎悪した相手の消息についてさえ、今ではある種の感傷で慮りたくなる心境だった。
英霊と共に戦いに臨むというのが、どれほど想像を絶する荒行なのか、ウェイバーは身を以て思い知らされた。いくら才人として持て嚇《はや》されてきた人物であろうとも、魔術師の常識だけでは測りされないのが聖杯戦争だ。彼が自分と同じ苦労を味わわされているのだと思えば、まぁ大いに痛快に感じる一方で、|僅《わず》かながら同情も禁じ得ない。同じ六人のマスターのうち、ただ一人ケイネスだけは、良くも悪くもウェイバーと縁故がある人物なのだ。
遭えば殺し合うしかない相手について、そんな|呑気《のんき 》な感慨を懐いている自分に、あらためてウェイバーは自らの心境の変化を実感した。
――そう、予感がどうあれ、彼にとっての聖杯戦争は既に終わっているも同然なのだ。
嘆息しかかったそのとき、小さくもはっきりとした衝撃が、寝覚めの眠気を蹴散らした。
「な――今の、は?」
「妙な魔力の波動だったな。以前にも似たようなのがあったが」
ライダーの指摘で、ウェイバーは思い出す。聖堂教会がマスターに招集をかけたときの狼煙。あのときとまったく同じ感触だった。
ともかく空を見渡せる場所を求めて、そそくさと雑木林の外に出ると、果たして北東の方角に魔力の煌めきがちらついている。それも前回より明確な色彩を伴って。
「あのパターンは……」
「何だ? 何かの符丁なのか?」
ライダーの問いに、ウェイバーは当惑しつつも頷いた。
「色違いの光で、四と七……『|Emperor《達成》』と『Chariot《勝利》』だよな。あんな狼煙を上げるってことは……まさかあれ、聖杯戦争が決着したって意味なのか?」
ウェイバーの解釈に、ライダーが眉を顰める。
「何だそりゃあ。余を差し置いていったい誰が勝ちを攫っていったというのだ?」
たしかに奇妙な話だった。聖杯戦争は、敵対するすべてのマスターとサーヴァントを脱落させた末にはじめて決着がつくはずだ。今ここにライダーとウェイバーが健在である以上、勝利宣言など成り立つはずがない。
「……そもそも、あれ冬木教会の方角とは全然違うよな。おかしいよ。聖堂教会の連中が上げた狼煙《のろし》じゃないのかも」
「ああ、なんだ。そういうことなら納得だ」
ウェイバーが疑問を口にするや、ライダーが不敵に鼻を鳴らして頷く。
「な、何だよ?」
「要するに、誰か気の早いヤツが勝手に勝《か》ち鬨《どき》を吼《ほ》えとるわけだ。『文句があるなら此処《ここ》に来い』 という、アレは挑発であろうよ。つまりは、決戦の場所を定めて誘いをかけとるってことだ」
我が意を得たりと言わんばかりに、ライダーは獰猛な笑顔で夜空にきらめく狼煙を睨む。
「良い良い。あたら探し回る手間が省けたというものだ。あんな挑発を受けて、黙っていられるサーヴァントがおるはずもない。生き残ってる連中は、すべてあの狼煙の場所に集結することだろう。――フフン、余の睨んだ通りだ。やはり今夜が決戦の大一番となりそうだな」 征服王の屈強な巨躯が、歓喜にも似た闘志で打ち震える。
そんな猛々しい英霊の様を、ウェイバーは、どこか遠いものを眺めるかのように冷めた眼差しで見守っていた。
「そうか。これが――最後なんだな」
「応ともさ。さぁ、目指す戦場が定まったとあれば、余もまた『騎手《ライダー》』のクラスに恥じぬ形で馳せ参じなくてはなるまいて」 ライダーはキュプリオトの剣を抜き放ち、切っ先を宙高く掲げ上げる。
「出でよ、我が愛馬!」
呼びかけとともに切り裂いた虚空から、空間を断裂させて迸る光。英霊たる証の輝きを纏って夜の中へと躍り出たのは――ウェイバーにも見覚えのある、勇壮な駿馬《しゅんめ》だ。
有角の英霊馬ブケファラス。かつて王を背に戴いて東方世界を蹂躙《じゅうりん》した伝説の蹄の主。今また時空を越えて盟友≠フ元へと馳せ参じた彼女は、さっそく新たな戦場を求めるかのように嘶いてアスファルトの路面を踏み鳴らす。
イスカンダルの切り札たる『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』の面々は、その総勢を一気に揃えるとなれば固有結界を展開して世界からの干渉を免《まぬが》れる必要があるものの、末遠川《みおんがわ》で伝令役を請け負ったミトリネスがそうであったように、わずか一騎を具現させるだけならば通常空間でも許容の範囲となる。『|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》』を失った今、ライダーが自らの座《クラス》の本領を発揮しょうと思うなら、なるほど彼女≠フ背の上こそが相応しい場所だった。
「さぁ坊主、戦車の御者台よりはちょいと荒れる乗り心地だが、まぁそこは腹を括《くく》って耐えることだ。ほれ、乗るがいい」
跨った愛馬の上でライダーは腰を後ろにずらし、ウェイバーが割り込めるだけの隙間を空けて呼びかける。だがウェイバーは、冷めた苦笑いとともにかぶりを振った。
世に無双たるこの駿馬の背は、英雄にこそ相応しい。凡俗で卑小な者が、断じて居て良い場所ではない。
たとえば、基礎の基礎たる催眠魔術ですら下手を打つほどの無能な魔術師など――
自らの力量すら|弁《わきま》えず、王が覇道を歩む足を、ただ引っ張るばかりだった道化など――
いま征服王イスカンダルが駆け抜けんとする栄光の道を、踏んで穢《けが》していいわけがない。
ウェイバーには解っていた。昨夜セイバーへと挑みかかったライダーの決断を、最後の土壇場で台無しにしたのは、マスターである自分の存在なのだ。あのときライダーが乾坤一擲の覚悟で『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』の光に挑んでいれば、あるいは紙一重の差でセイバーの宝具に競り勝ち、騎士王を神牛の蹄にかけていたかもしれない。そんなぎりぎりの勝負を諦めざるを得なかったのは、同じ御者台にウェイバーがいたからだ。ライダーは最後の瞬間に、傍らにいた道化を守って戦車《チャリオット》から飛び降りるしかなかった。当然である。彼を現界せしめている契約者《マスター》を犠牲にできるわけがない。あのとき、セイバーとライダーの勝敗を決してしまったのは、弱点となるマスターが側にいたかどうかの差であった。
かつて、ウェイバー・ベルベットこそは勝利者に足る器だと、そう舞い上がっていた頃もあった。
だが今は違う。この二週間を通して、本物の英雄というものが何なのかを目の当たりにした後ならば。己の無能さ、矮小さを思い知らされた今ならば。
負け犬には、負け犬なりの意地があった。決して届かぬ貴い背中を、せめて穢すことなく見守ることができるなら――
「我がサーヴァントよ、ウェイバー・ベルベットが令呪をもって命ずる」
少年は右手の拳を掲げ、未だ手つかずのまま温存してきた令呪を露わにした。それこそが目の前の英霊を縛る枷であり、彼の覇道を阻む最悪の障害だった。
「ライダーよ、必ずや、最後までオマエが勝ち抜け」
それは強制されるまでもない、当然の命題でしかない。だからこそウェイバーは命じた。契約の魔力を発して消えていく令呪の第一画を、むしろ清々しい気分で見送りながら。
「重ねて令呪をもって命ずる。――ライダーよ、必ずやオマエが聖杯を掴め」
立て続けに、第二の令呪が消えていく。その輝きに、ほんの少しだけ胸が痛んだ。今ならまだ間に合うという益体もない迷いが心を掠めた。――あまりにも馬鹿げた、取るに足らない未練だった。
「さらに重ねて、令呪で命ずる」
断固として、最後の一画を掲げ、ウェイバーは馬上の王を見据える。せめて今この瞬間だけは、怯むことなく彼と対時したかった。マスターとして最後に残った、それがせめてもの誇りだった。
「ライダーよ、必ずや世界を掴め。失敗なんて許さない」
矢継ぎ早に解放された三つの聖痕は、秘蹟《ひせき》たる魔力を飛散させ、渦巻く風を生んだ後に虚しく消える。魔術師としてのウェイバーがこれほどの魔力量を行使する機会は、生涯を通じてもう二度とないだろう。だがそれでも、彼は生まれて初めて、心から自分の行為を爽快だと感じた。後悔などあろう筈もない。すべてを失う対価として、それは充分な贈り物だった。
我が手を見下ろせば、そこには刻み込まれた契約の証など跡形もなく失せていた。
「……さあ、これでボクはもう、オマエのマスターでも何でもない」
ウェイバーは俯いて、足下に向かって吐き捨てた。今ライダーがどんな顔でこちらを見ているかなど知りたくもなかった。戦いを放棄した臆病さに呆れているかもしれないし、無能なマスターから解放された安堵に笑っているかもしれない。どちらの顔であれ見たくない。出来ることなら出会った経緯さえも忘れ去ってほしいほどだ。
「さあ、もう行けよ。どこへなりとも行っちまえ。オマエなんか、もう……」
うむ、と素《そ》っ気《け》なく頷く声がした。
あとは大地を蹴り立てて走り去る馬蹄の音をきくばかり――と、そう思っていたウェイバーの首根が、ひょいと無造作に掴み上げられて、次の瞬間、彼は軽々とブケファラスの背中へと連れ去られていた。
「もちろん、すぐにも征《ゆ》かせてもらうが。――あれだけ口喧《くちやかま》しく命じた以上は、もちろん貴様も見届ける覚悟であろう? すべての命令が遂げられるまでを」
「ば、ば、馬鹿バカ馬鹿ッ! あ、あのなぁ、おいこらッ」
あまりにもあっさりと自らの意志を覆されて、ウェイバーは声が裏返るほどに狼狽した。その慌てようを笑うかのようにブケファラスが太く鼻を鳴らす。馬のくせに、笑い方までもが乗り手にそっくりだと感じた途端、ウェイバーは彼自身にも訳の分からない癇癪《かんしゃく》に駆られて喚き散らした。
「令呪ないんだぞ! マスター辞めたんだぞ! 何でまだボクを連れて行く!? ボクは――」
「マスターじゃないにせよ、余の|朋友《とも》であることに違いはあるまい」
相変わらずの呑気な笑顔でかけられた言葉が、他でもない自分自身に向けられたものだと理解できた途端、ウェイバーの内側の、一番強固な部分が崩壊した。――後生大事に守っておきながら、壊れるときは、ほんの一瞬でしかなかった。
一気に溢れ出た涙の量はあまりにも多すぎて、それが鼻から下まで流れる頃には鼻水と入り交じって無茶苦茶《むちゃくちゃ》になるものだから、まともに息をすることすらできない。まして声を言葉にすることなど無理に等しいというのに、それでも、息を詰まらせながら、彼は問わずにはいられなかった。
「……ボ――ボクが……ボクなんか、で……本当に、いいのか……オマエなんかの隣で、ボクが……」
「あれだけ余と共に戦場に臨んでおきながら、今さら何を言うのだ。馬鹿者」
泣きじゃくる少年の涙を、まるで酒の席の痴《し》れ言《ごと》であるかのように笑い飛ばしながら、征服王はばんばんと彼の細い肩を叩いていなす。
「貴様は今日まで、余と同じ敵に立ち向かってきた男ではないか。ならば、|朋友《とも》だ。胸を張って堂々と余に比類せよ」
「……ッ」
ウェイバーは自嘲を忘れた。今日までの屈辱を、明日への怯えを、いま死に臨むこの瞬間の恐怖を忘れた。
ただ、勝ちに征《ゆ》くのだ≠ニいう揺るがぬ認識だけが、空っぽの胸に根を下ろす。
敗北もない。恥辱もない。彼はいま王と共にある。その覇道を信じて馳せるなら、どんなに頼りない足ですら、いつかは世界の果てにまで届くだろう――疑いもなくそう信じられた。
「さて、ではまず第一の令呪に答えるとしようか。坊主、刮目《かつもく》して見届けよ」
「……ああ。やってみせろよ。このボクの目の前で!」
勝ち鬨にも似た嘶きを張り上げて、伝説の英馬が疾駆しはじめる。心を繋いだ王と魔術師を、決戦の死地へと運ぶために。
狼煙が示す運命の場所は、未達川を渡った向こう岸。冬木第四の霊脈たる地であった。
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-04:10:33
冬木市民会館――
総工費八〇億円あまりを投じて建設されたこの施設は、駅前センタービル計画と並んで冬木新都開発のシンボルとも言うべき建築物である。
敷地面積六六〇〇u、建築面積四七〇〇u、地上四階、地下一階のRC造で、二階層式コンサートホールには一三〇〇人余りを収容する。有名建築家の設計による斬新なデザインは、近代的な公民館というよりもむしろ古代の神殿を彷彿《ほうふつ》とさせる赴きがあり、その壮麗さは、まさに新都開発にかける冬木市の意気込みを窺わせるものといえた。
もっとも、完成しているのはまだ外装だけで、落成式典に向けて現在も内装の仕上げが急ぎ進められてはいるが、本格稼働が始まるのはまだ先の話だ。必要最低限の防災装置を除けば、まだ配電設備すら敷設されておらず、作業員が引き払った深夜ともなれば、その清潔さと壮麗さが無人の静謐《せいひつ》を嫌が応にも強調し、一種異様な非現実感を伴う空間になる。
もちろん市の建設計画に魔術的な要素についての配慮などあるはずもなく、この冬木の土地における最も新しい霊脈の要点が、市民会館の建設予定地として選ばれたのは、まったくの偶然でしかない。――或いは見方を変えるなら、そういう希有な偶然を招き寄せたこともまた、この場所の霊的な特異性なのかもしれないが。
言峰綺礼は屋上の上に立ち、自ら打ち上げた魔術信号が夜風に煙をたなびかせる様子を、静かな面持ちで見上げていた。
警備らしい警備もない建物への侵入は、ただ錠前を破るだけで事足りた。すでに儀式の用意と迎撃の準備も滞りなく完了している。あとは、狼煙に釣られて現れる残敵を、座して待つだけのことだった。
戦いに臨んで、彼が感情を表に出すことはない。流血の予感に昂ぶる獰猛さも、緊張を和らげる軽口も、代行者には不要だ。神意の道具として徹底的に条件付けられてきた彼らは、ただ成すべき事を為す平常心のみによって死地へと赴《おもむ》く。そういう長年の研鑽が、今も綺礼の表情を、臨床医じみた冷静さと無感動で装っている。
だが――
「フン、今宵はまたいつになく猛々しい面構えではないか。綺礼」
悠然と靴音を鳴らしながら屋上に現れたアーチャーの揶揄《やゆ》に、綺礼は内心で苦笑する。
普段と変わらぬはずの鉄面皮が、すべてを見抜くあの英霊の目にはどのように映っているのか。本人すら気付かぬ感情の機微でさえ、アーチャーの目からは逃れ得ない。
初めのうちこそ動揺していた綺礼だが、今ではもう慣れたものだった。そうか、自分は猛っているのか――と、まるで他人事のようにそう了解しただけだった。
たった今、夜の街から戻ったばかりなのか、英雄王はいつもの豪奢で軽薄な遊び着のままだった。艶《なま》めかしいほどに紅い双眸には、ただ享楽の余韻を残すのみで、やはり決戦に臨むという緊迫感は見受けられない。もっともこの英霊の場合には、外見と内面の剥離など有り得ない。彼にとっては聖杯を巡る決着も、所詮は遊興の域を出ないのだろう。
「さて、どうするのだ綺礼? 我《オレ》はただここで待ちかまえていればそれで良いと?」
アーチャーに対しては、差配ひとつでマスターの格付けが問われることになる。それを重々承知していた綺礼は慎重に思考した後、かぶりを振った。
「お前の力を聖杯の間近で解放されたら、儀式そのものを危険に晒すかもしれない。存分にやりたいというのなら、迎撃に出てもらおう」「うむ、良かろう。だが我《オレ》の留守にここを襲われた場合はどう対処するつもりだ?」
「バーサーカーに足止めをさせ、その隙にお前を呼び戻すことになるだろう。そのときは令呪の助けを借りるが、構わないかね?」
「許す。ただし聖杯の安全まで保証はせぬぞ。今宵の我《オレ》は手加減抜きでいく。こんな狭苦しい四阿《あずまや》は丸ごと吹き飛ばしてしまいかねん」
「最悪の展開だが、そうなればそれもまた運命だな」
あっさりと頷いた綺礼に対し、アーチャーはわずかに目を眇《すが》めた。
「綺礼よ、どうやら見たところ戦う意味については答を得た様子だが。今でもまだ聖杯に託す祈りはないのか? 奇跡を手にしても何一つ望まぬと?」
「ああ。それが何か?」
「まだ未完成とはいえ、『器』そのものは既にお前の手の内にある。今ならば、あるいは悲願の先約≠ョらいは受理されるかもしれないぞ」
「……フン、成る程な。もしそれが可能なら、聖杯が降臨したと同時に、即座に奇跡が遂行されるわけか」
気のない様子で嘆息し、綺礼はしばし考え込んだが、結局、かぶりを振って否定した。
「やはり願いなどは思いつかん。強いて言うなら――この最後の戦いに余計な邪魔が入らないでほしいことぐらいか。致し方ないとはいえ、辺り一帯は民家だからな。出来ることならもっと徹底的に人払いができる場所で、気兼ねなく決着をつけたかった」
面白味もない返答に、ギルガメッシュは呆れたのか鼻を鳴らす。
「やれやれ。やはりお前が心に秘めたモノは、聖杯の側から汲み取らせるしかあるまいよ」
つまるところ、この二人は誰よりも聖杯の間近に在りながら、誰よりもそれに執着していなかった。彼らは共に、聖杯を手にすることよりも、それに群がる者たちを駆逐することにこそ意義を見出しているのだ。
「――ああ、それとな。もし仮に我《オレ》が戻るより先にセイバーが現れるようなら」
立ち去り際に英雄王は、何か余興でも思いついたかのように足を止めた。
「そのときは、しばらくバーサーカーと戯れさせてやるがいい。あの狂犬は、そのために今日まで生かしておいたのだからな」
「承知した」
アーチャーが、何を理由にセイバーに固執するのか、綺礼には未だに判然としない。だが初戦の因縁で抹殺を公言していたバーサーカーについては、間桐雁夜の調査を通じてその真名が明らかになるや、英雄王は一転してその存在を許容するようになった。日く、『あの狗をセイバーに噛みつかせるのもまた一興』との談である。彼女にまつわる事柄が絡めば、自らの憤怒《ふんぬ》すら保留にできるほど、あの騎士王に向けた関心はギルガメッシュにとって重いらしい。
「そういえば綺礼、セイバーが後生大事に守っていた人形めはどうした? 何でも聖杯の器とやらはアレの中にあるという話だったが」
「ああ、あれか」
綺礼はその存在について、話題に上らせることさえ失念していた。今となっては彼には何の興味もない、その名を思い出す必要性すら見当たらない女だった。
「ついさっき、殺したよ。もう生かしておく理由もなかったのでな」
[#中央揃え]×      ×
目を開けて、アイリスフィールは辺りを見回した。
不思議な感覚だった。意識は限りなく鮮明なのに、脈絡ある思考がまとまらない。
彼女自身の精神ではなく、彼女を取り巻く世界の方が、混濁し、意味性を失っているらしい。
矢継ぎ早に数多の景色が目の前を過ぎっては消えていく。その様子を眺めながら、ただ無性に、堪えきれないほどの哀しさと虚しさが湧き上がる。
目に映る情景は、悉《ことごと》くが歓喜や幸福とは無縁だった。ただその一点においてのみ共通の、乱脈な景色の万華鏡。
慟哭《どうこく》があった。屈辱があった。無念の怨嗟と喪失があった。
流血と焦土。裏切りと報復。数多を費やして何一つ得ることのない、限りなく高価な徒労の連鎖。
見覚えのある雪景色が、繰り返し循環する。厳めしい冬の城に自らの全てを封印した一族の物語。
そこでようやく、思い至る。――今、彼女が俯瞰《ふかん》していたのは、二〇〇〇年に渡るアインツベルンの聖杯探求の旅なのだ。
始まりのユスティーツァ。そして彼女を鋳型《いがた》として産み落とされてきた数多の人形の乙女たち……ホムンクルス。偽りの生。
練金の秘技により紡がれて、見果てぬ悲願の成就のために、ただ産み落とされては使い潰されていく、ヒトの姿をした消耗品。
彼女たちの血と涙をインクに、罅割れた骨と凍えた指をペンにして、ただひたすらにアインツベルンは失意と迷走の歴史を綴ってきた。その嘆きが、その絶望が、アイリスフィールの胸を締め上げる。
こんなものが見える場所があるとしたら、それはきっと、全ての争いの焦点として、全てを見届けてきたモノの中に違いない。
そして、ようやくアイリスフィールは理解する。自分は今、聖杯の中身を覗き込んでいるのだと。
始まりのユスティーツァを深奥に懐いた、円蔵山の大聖杯。そして全てのホムンクルスもまた、『冬の聖女』たる彼女を基盤として共有する規格品。だからこそ彼女らは、同じ痛みを共有して分かち合う。
――否、果たして本当にそうか?
「どうして泣いているの? お母様」
はたと気付くと、アイリスフィールは暖炉《だんろ》の優しいぬくもりに守られて、懐かしい子供部屋にいる。
窓の外には、凍てつく吹雪。荒れ狂う風の唸りに心騒がされたのか、幼い両手は護りを求めるかのように、母の二の腕にしがみつく。
「ねぇお母様、こわいユメを見たの。イリヤがサカヅキになっちゃうユメを」
怯えながらも、無限の信頼を込めて見つめ返してくる、イリヤスフィールの紅い双眸。母親と、その姉妹たちとまったく同じ容姿でありながら、なぜか、この子だけを別格に、誰よりも愛おしいと思ってしまうのは――
「イリヤの中にね、ものすごく大きなカタマリが七つも入ってくるの。イリヤは破裂しそうになって、とっても怖いんだけど逃げられなくて、そのうちユスティーツァさまの声が聞こえてね、頭の上に真っ黒い大きな穴が……」
たどたどしく語る娘の肩を、アイリスフィールは固く抱き寄せ、その白銀の前髪に、涙に濡れた頬を擦り寄せた。
「大丈夫、大丈夫よ。……決してそんなことにはさせない。あなたがそれを見ることはないわ。イリヤ」
数多の姉妹たちの中で、唯一アイリスフィールだけが懐く、誰と分かち合うこともできぬこの哀切な祈り――それは母≠ニしての情だ。
歴代のホムンクルスの中で、初めて自らの母胎から継嗣を産み落とした一人。数多の同族の中で唯二 彼女だけが我が子を想う心を与えられ、そして、その身に課せられる運命を嘆くことになったのだ。
次なる聖杯の器として用意されたイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。この子もまた、二〇〇〇年の妄執《もうしゅう》に巻き込まれていく歯車の部品。
そう、この連鎖は終わらない。いつか誰かが決着を示すまで。
第三魔法、|天の杯《ヘブンスフィール》――その成就こそが唯一の救い。
数多の声が、アイリスフィールを押し潰す。彼女と同じ無数の姉妹が詠っている。
聖杯を――
どうかこの手に聖杯を――
森の奥の、用済みとなったホムンクルス廃棄場。山を成して積み上げられた同胞たちの骸が嘆願する。腐乱し蛆の湧いたすべての顔が、幼いイリヤのそれに重なって、痛ましい声で希《こいねが》う。
「大丈夫――」
狂おしいほどの愛を込めて、母は娘を抱きしめた。
「イリヤ、あなたはきっと運命の枷から解き放たれる。私がすべてを遂げるから。父さんが、きっと叶えてくれるから……」
そのとき、はたとひとつの疑問が彼女の脳裏を過ぎった。
これが聖杯の見せる夢ならば――こんなにも鮮明に内側を覗き込めるほど、もう器≠ェ容《かたち》を成しているというのなら――外装であった自分は、一体どうなってしまったのか。
喩えるならこれは、卵の殻が、内なる雛のハラワタを見るようなもの。
だとしたらそれは大きな矛盾だ。雛が孵《かえ》る頃には、殻など砕け散っているはずなのに。
ならば――今、こうして夢を見ている自分は誰なのか。
抱きしめたイリヤスフィールの可細い身体を、はっきりと腕の中に感じながら、彼女は娘を抱きしめる我が手そのものに、まじまじと見入る。
消え去ったアイリスフィール。砕け散った殻を、雛が啄《ついば》んで呑み込んだのだとしたら……
ふと見れば、窓の外の吹雪は既にない。夜の闇かと見紛ったそれは、濃密に渦を巻く黒い泥だ。
恐れも、驚きもなく、ただ静かな理解とともに、彼女はそれを見つめていた。泥は部屋の四隅から染み入り、暖炉の煙突から滴り落ちて、優しく彼女の足下を浸してゆく。
そうだ。自分が誰であるかなど些細なこと。
きっと彼女は、ついさっきまで誰でもなかった。そして今でも、アイリスフィールという、既に消え去った女の|人格《ペルソナ》だけを仮面として被った何者か[#「何者か」に傍点]でしかない。
だとしても、いま彼女が胸に宿すアイリスフィールの願望≠ヘ本物だ。最後まで愛娘を想い、その未来を嘆願しながら逝った母の祈りは、そのままに彼女の中に受け継がれている。
そう、彼女は祈りを遂げるべきモノ。
諸人の願望を叶えるべしと、そう望まれて、そう仕組まれて、祭り上げられた存在だったはず。
「――ええ、大丈夫よイリヤスフィール。終わりはすぐそこまで来ているわ」
初めて抱きしめる幼子の耳元に、彼女は優しく囁きかけた。
「だから私たちはもう少しだけ、この場所で待っていましょう。きっとお父さんは来てくれる。私たちすべての祈りを遂げるために」
総身に絡みつく灼熱《しゃくねつ》の泥が、黒く優雅に女のドレスを染め上げる。
やがてくる成就のときを期待して、漆黒を身に纏った女は嫣然《えんぜん》と微笑んだ。
さあ、すべての嘆きを刈り取ろう。すべての苦悩を刈り取ろう。
間もなく彼女は、それを成すだけの能力《ちから》を手に入れるのだ。全てを呪い叶える万能の願望機として。
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ACT16
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-04:08:29
午前二時――
寝静まった街の静寂は、普段に増して徹底している。宵っ張りの住人も、度《たび》重なる事件に肝を冷やしてか、ここ数日は夜間外出自粛の呼びかけに従って大人しく屋内に引きこもっている。街路からは車の影すら消え、街灯だけが白々しく照らし出すアスファルトは、冬の夜気に冷え切っている。
人の営みが完全に途絶えた町並みは、まるで等身大に引き延ばされた玩具の情景の中にいるかのようだった。常人の認識の埒外にある場所を異界≠ニ呼ぶならば、まさしくこの夜の冬木市がそうだ。
そんな異様な景色の中を、ただ一騎、我が物顔に駆け抜ける英馬。躍動するその背中に運ばれて、ウェイバーは死地へと馳せる。すぐ背後には分厚く雄大な英雄王の胸板が、その高鳴る鼓動すら伝わってくるほど間近にあった。
もし仮に今夜を生き延びたとしても、この張り詰めた静かな昂揚を、ウェイバーは生涯忘れるまい。世に『真実のとき』と称される時間がある。すべての欺瞞や粉飾から解放された剥き出しの魂が、見渡した世界の在りようを受け止めて、ただ心震わせるばかりの瞬間。今まさに彼が噛みしめているものこそ、それだった。この世のあらゆる謎と矛盾に、答えもないまま納得する瞬間。生きる意味も、死ぬ価値も、言葉にするまでもなく判然だと感じ取れる瞬間。人生を苦難にする迷いと不明のすべてから解放された、それは至福の時間であった。
騎馬は眠る町を悠々と抜け、闇色に澱む河水を湛えた岸辺へと躍り出る。目指す大橋は、沈黙の夜にあってなお、虚ろな水銀灯の輝きに白々と照らし出されていた。
「ライダー、あれ……」
指さすウェイバーに、征服王が頷いて応じる。
白日の如く照明された橋の上にありながら、人造の光など贋作と嘲笑うかのように、なお燦然《さんぜん》と黄金に輝く偉容。その深紅の眼光の珂責なき冷酷さは、数百メートルの距離を隔ててなお、ウェイバーの総身を戦慄で凍らせる。
アーチャーのサーヴァント、英雄王ギルガメッシュ――
覚悟がなかったわけではない。もとより避けては通れぬと解りきっていた相手だ。それでも、いざあらためて実物と相対してみれば、その威圧感はあらゆる心の護りを飛び越えて魂の芯を押し潰しにかかってくる。
「怖いか? 坊主」
ウェイバーの震えを感じ取ったライダーが、静かに問うてくる。少年は虚勢も張らず素直に頷いた。
「ああ、怖いね。それともこういうの、オマエ流に言うなら『心が躍る』ってやつなのかな」
張り詰めた声での返答に、征服王はにんまりと破顔する。
「その通りだ。敵が強大であるほどに、勝利の美酒に馳せる想いが至福となる。フフン、|弁《わきま》えてきたではないか」
勇ましく嘯くライダーを、ブケファラスは堂々たる歩みで橋の袂《たもと》へと運ぶ。
四度目の、そしてこれが間違いなく最後になる邂逅だった。原初の英雄王と伝説の征服王。ともに幅広の四車線道路を我が物顔で占拠する二人にとって、行く手を阻む障害は、ただお互いがあるのみだ。譲りようもなければ避けようもない、橋上の一本道。王たる者が覇道を競う上で、そこは運命的なまでに必然の戦場だった。
ブケファラスが蹄を止めた。まさしく乗り手の意を汲んだその停止に、ライダーは鬣《たてがみ》を掻いて労う。
「坊主、ひとまずここで待て」
「――え?」
ライダーは愛馬の背を降りて地に立つと、待ち受ける敵に向かって悠然と歩を進めた。アーチャーもまた申し合わせたかのように、傲岸に踵を鳴らしながら歩み寄ってくる。
彼らはただ武を競うばかりの闘技者ではない。ともに覇を争う身である以上は、まず矛を交える上での筋を通す必要がある。
「ライダー、自慢の戦車はどうした?」
開口一番、不穏な剣幕でアーチャーが質す。
「ああ、それな。うぅん、業腹ながらセイバーのヤツに持って行かれてなぁ」
呑気に肩を竦めて返したライダーを、アーチャーは血色の目を眇めて見据えた。
「……我《オレ》の決定を忘れたか? 貴様は万全な状態で倒すものと告げておいた筈だが」
「ふむ、そういえば、そうだったか」
その威圧に怖じることもなく、ライダーは限りなく不敵に、獰猛に、口元を歪めて微笑した。
「確かに余の武装は消耗しておる。だが侮るなよ英雄王。今宵のイスカンダルは、完璧でないが故に完璧以上[#「完璧以上」に傍点]なのだ」
支離滅裂なその言い様を、だがアーチャーは戯れ言と嗤うことなく、鋭利な眼差しで切り刻むようにライダーの総身を見渡した。
「――成る程。たしかに充溢するその王気《オーラ》、いつになく強壮だ。ふん、どうやら何の勝算もなく我《オレ》の前に立ったわけでもないらしい」
事実、宝具ひとつを失った身でありながら、今のライダーが滾らせる魔力の総量は以前より数段増していた。ウェイバーが無駄に使い潰した≠ツもりでいた三画の消費令呪が、図らずも効果を発揮しているのだ。
令呪による強権発動は、その内容が漠然としたものであるほどに効果を減じる。その点、先のウェイバーの命令は具体性を欠くものばかりで、令呪の用途としては事実上、空費も同然のものだった。だが一方で、サーヴァントの意志を曲げる絶対命令としてでなく、両者の合意の元に発動された令呪は、ただの強制に留まらず、サーヴァントの行動を補助し増幅する手段となる。この場合、たとえば切嗣のセイバーが成し遂げた『空間転移』がそうだったように、ときに令呪は魔術の常道すら覆す魔法≠ノ等しいレベルの破天荒までをも可能とするのだ。
たしかに効き目の薄い使い方ではあったが、サーヴァントの本意に則《のっと》り、なおかつ三画すべてを立て続けに発動したことで、ウェイバーの令呪はライダーに確たる効果をもたらしていた。――その行動が勝利≠志す限りにおいて、ライダーには普段の供給量よりなお増幅された魔力量がもたらされる。有り体に言うならば、今のライダーは過去かつてないほどに絶好調≠ナあった。
「なぁアーチャー、宣言といえばもう一つ、前の酒宴で申し合わせた件もあったであろう」
「お前とは殺し合うしか他にないという結論か?」
「その前に、まずは残った酒を飲み尽くすという話だったではないか」
これより死闘を控える身とは思えぬほどの邪気のない笑みで、ライダーは英雄王に促す。
「あのときは、無粋な奴腹《やつばら》が宴席をぶちこわしにしおったが……あの瓶酒、まだ少しばかり残っておったぞ。余の目は誤魔化せん」
「さすがは簒奪の王よ。他人《ヒト》の持ち物については目敏《めざと》いな」
アーチャーは苦笑して、再び異世界の財宝庫≠ゥら酒器一式を手元に呼び寄せる。瓶の底に残った神代の銘酒を、二つの杯にありったけ注ぎ空けてから、二人の王はまるでグローブを交える拳闘者のように、厳《おごそ》かに杯を打ち合わせた。
「バビロニアの王よ、最後にひとつ、宴の締めの問答だ」
「許す。述べるがよい」
杯を掲げたまま、真顔ながらも眼差しにだけは悪童じみた稚気《ちき》を残して、イスカンダルは切り出した。
「たとえばな、余の『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》を、貴様の『|王の財宝《ゲート・オプ・バビロン》』で武装させれば、間違いなく最強の兵団が出来上がる。西国のプレジデントとかいう奴も屁《へ》じゃあるまい」
「ふむ、それで?」
「改めて、余の盟友とならんか? 我ら二人が結べば、きっと星々の果てまで征服できるぞ」
それを聞いた英雄王は、まるで痛快な皮肉でも聞かされたかのように、屈託なく大笑した。
「つくづく愉快な奴よな。道化でもない奴の痴れ言でここまで笑ったのは久方ぶりだ」
だが笑いながらも、その冷酷なる鬼気は微塵も衰えない。この金色《こんじき》の王者にとって、殺意と愉悦とはほぼ同義に等しいのだろう。
「生憎《あいにく》だがな。我《オレ》は二人目の友など要らぬ。我が朋友は後にも先にもただ一人のみ。――そして、王たる者もまた二人は必要ない」
そんな断固たる返答に、征服王は落胆の色すら見せず、ただ静かに頷いただけだった。
「孤高なる王道か。その揺るがぬ在りように、余は敬服をもって挑むとしよう」
「良い。存分に己を示せよ征服王。お前は我《オレ》が審判するに値《あたい》する賊《ぞく》だ」
二人の王は互いに最後の酒を呷ると、空に干した杯を捨て、|踵《きびす》を返した。両者はそれきり二度と振り返ることもなく、互いにもといた橋頭へと戻る。
二人の最後の乾杯を、緊張の面持ちで見守っていたウェイバーは、溜息で王の帰還を出迎えた。
「オマエら、本当は仲がいいのか?」
「まぁ、今から殺し合うとあってはな。あるいは余が生涯最後に視線を交わす相手になるかもしれんのだ。邪険にできるはずもなかろうよ」
「……馬鹿いうなよ」
剽げた口調のイスカンダルに、ウェイバーは押し殺した声で反駁した。
「オマエが殺されるわけないだろ。承知しないぞ。ボクの令呪を忘れたかっ?」
「そうだな。――ああ、その通りだとも」
ライダーは精悍《せいかん》に微笑んで、待たせていたブケファラスの背に再び跨ると、腰に佩いた剣を抜き放つ。
「集えよ、我が同胞! 今宵、我らは最強の伝説に勇姿を記す!」
王の呼びかけに応じるかのように、河からの霧を蹴散らして橋へと吹き込む熱砂の風。
時空の彼方より寄せられる、かつて王とともに夢を見た英霊たちの想念を、いまキュプリオトの剣が束ねて紡ぎ上げる。
無窮の蒼天。その果てまでも見極めんと、誰もが心を一つにして見据えた、陽炎に霞む地平線。
時を越えて戦場を求める勇者たちの心象は、現実をも浸食し、無人の大橋を旋風《つむじかぜ》吹きすさぶ大平原へと変転させる。
そして、誂えられた決戦の舞台へと、一騎また一騎と駆けつける英霊たち。
「あぁ……」
勢揃いした『王の軍勢《|アイオニオン・ヘタイロイ》』の偉容は、ウェイバーにとっては二度目の光景だ。もはや驚愕こそないものの、イスカンダルの王道の具現たるこの究極宝具の意味するところを知った今では、初見のときになお勝る畏敬の念に打ちのめされる。
光り輝く騎馬の精鋭――ひとたび征服王と結んだ主従の絆は、現世と幽世の隔絶すらも踏み越える。
永遠へと昇華された彼らの戦場は、具現する場所を選ばない。征服王が再び覇道を掲げるならば、何処なりとも臣たちは駆けつける。
それが、王と共にあるという誇り。
共に戦うということの、昂ぶる血潮の歓喜なのだ。
「敵は万夫不当の英雄王――相手にとって不足なし! いざ|益荒男《ますらお》たちよ、原初の英霊に我らが覇道を示そうぞ!」
『おおおおおおおおッ!!!!』
イスカンダルの雄叫びに、居並ぶ軍勢が喝采《かっさい》で天を衝き上げる。
沸き立つ荒海の如き大軍勢を前に、たった独りで対峙するアーチャーは、だが微塵も狼狽を見せることなく、ただ泰然と、ただ堂々と立ちはだかる。黄金に彩られたその立ち姿は、ただ一身にして峻厳たる孤峰の如し。その威圧感は、まさに半神たる英霊ならではの破格のものに違いなかった。
「来るがいい、覇軍の主よ。今こそお前は真の王者の姿を知るのだ……」
不敵に嘯く英雄王へと、ついに英霊の軍勢は英馬プケファラスに率いられた楔《くさび》形陣形で突貫する。
先陣を切るライダーが吼えた。その雄叫びに呼応して騎兵たちが鬨を放った。怒濤と轟く烈唱に、ウェイバーもまた、可細くも精一杯の気を吐いて声を重ねた。
『|AAAALaLaLaLaLaie《アァァァララララライッ》!!』
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-03:59:48
冬木市民会館からの狼煙は、当然、新都の東端であてもなくアイリスフィールを探し彷徨っていたセイバーの目にも留まっていた。
打ち上げられた信号の意味こそ理解できなかったが、それが聖杯戦争に関係する事態であることは疑いの余地などなく、既に藁をも掴む心境だったセイバーは、一も二もなく狼煙の元へと馳せ参じた。
奇しくも末遠川を渡ることなく目的地に辿り着いたセイバーは、大橋に陣取ったアーチャーに迎撃されることもなく、誰よりも早い一番乗りで冬木市民会館へと到達したのだった。
静寂の夜気の中、セイバーはV型四気筒エンジンの排気音を轟かせ、まだタイルのセメントも真新しい前庭へとV-MAXを乗り入れる。
見渡す視野に敵の姿はない。闇に潜む殺意の気配もない。となれば――敵が潜むのは建物の中か。
明かり一つない市民会館の外壁をしばし見据えた後、セイバーはV-MAXのハンドルを巡らせ、来場者用の誘導路を辿った。そのまま建物の下へと呑み込まれていく傾斜路を降り、地下駐車場へと突入する。
月明かりも届かぬ地下室の、ヘッドライトの白光に切り裂かれた闇の向こう側に、打ち放しのコンクリートの冷たい壁面が冷たく浮かび上がる。一〇〇台余りを収容する設計の広い駐車場は、まだ利用者もないままに、建設請負業者の車が数台ぽつぽつと停められているばかりで、あとはがらんどうの空間が、埃《ほこり》じみた空気を澱ませている。
V-MAXの野太いアイドリングも、地下墓地《カタコンベ》を思わせる不気味な静寂の中へと吸い込まれていく。セイバーは油断ない眼差しで周囲を覗った。四方に蟠る濃い闇の奥、そこかしこに林立する支柱の影……敵が身を潜める場所には事欠かない。そして何より彼女の直観が、今まさに空気を飽和させている殺気を感じ取っている。
「A……」
地を這うが如き怨嗟の声。まさに光なき地下にこそ相応しい亡者の唸り。
一度ならず二度までも標的とされたセイバーが、その声の主を違えるはずもなく――
「URRRRRRRRッ!!」
咆吼とともに轟いた立て続けの炸裂音にも、彼女は咄嗟に反応できた。
身を翻して飛び退いたセイバーの過去位置、取り残されたV-MAXの車体が、まるで雨粒の飛沫を散らすが如き火花に包まれる。鉄の愛馬は、ただの一瞬で原形も留めぬ残骸へと成り果てた。焼け付くような火薬の匂いが、セイバーの鼻をつく。
この武器は――ッ!
セイバーには見覚えがあった。衛宮切嗣に謀られたランサーのマスターたちを、無惨な骸へと変えた火線の雨。この現代世界で主流とされる機械仕掛けの射出武器だ。
再び闇の奥で紅蓮の炎が乱れ咲く。マズルフラッシュに照らし出されたバーサーカーの黒い影が、異形の姿に引き延ばされて地下室の壁に乱舞する。セイバーは迷わず床を蹴り、乱れ飛ぶ鉛弾の洗礼をかいくぐって駆け抜けた。流れ弾は想像を絶する破壊力をもって、コンクリートの床や壁に大穴を穿っていく。明らかにそれ[#「それ」に傍点]は、舞弥が使っていた武器とは比較にならないほどの脅威だった。サーヴァントである自身にとってさえ当たれば致命傷になる威力を察し、セイバーは歯噛みする。
彼女には当然、バーサーカーが|短機関銃《サブマシンガン》を手に入れた経緯など知る由もない。言峰綺礼が監督役としての職権で用意した近代火器を、左右の手に一挺ずつ、黒き狂乱の騎士はまるで己が腕の延長であるかのように自在に操っていた。銃身も弾倉も憎悪の魔力に浸された近代火器は、それだけでセイバーさえも脅かす凶悪無比な魔術兵装と化している。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッ!!」
吼え猛る黒騎士の怒号に負けじとばかり、二挺《ちょう》のマシンガンは灼熱の絶叫でセイバーを襲う。超音速の弾丸は決してセイバーの剣速を凌ぐものではないが、それが毎秒二〇発余りとなると回避に徹するしか術がない。
その由来と時代を問わず、手にした武器の悉くに宝具の属性を付加するバーサーカー。同じ宝具としてのカテゴリーに格上げされた時点で、剣≠ニ銃≠ニいう武装の落差はセイバーを圧倒的な不利へと追いやっていく。
工事施工がまだ未了なのをいいことに、内装業者が駐車場の片隅に積み上げたまま放置していた塗料缶の山を、流れ弾の一発が吹き飛ばした。灼熱の弾丸は溶剤に引火し、爆裂。地下の闇を紅蓮の炎で照らし出す。
弾幕に阻まれて一向に間合いを詰められないセイバーは、起死回生の手段を求めて四方に視線を馳せる。そのとき彼女が見出したのは、壁際の駐車スペースに駐められていた一台の軽トラックだった。
――あれだ!
壁際に追い詰められて退路を断たれる危険を敢えて冒し、セイバーは見定めた車両めがけて突進する。逃がすまじと追走しながら両手のマシンガンを乱射するバーサーカー。唸り飛ぶ弾丸の猛攻に間一髪先んじて、セイバーはトラックの影に転がり込むと、下段から掬い上げる峰打ちの一刀で、車体を宙に浮き上がらせた。
そこへセイバー目掛けて殺到した弾丸の雨が、トラックの車体を紙細工のように揉み潰す。切り刻まれ、破片を撒き散らす車両の陰に隠れつつ、さらにセイバーは裏返ったシャーシに一層から体当たりして、そのまま今度はバーサーカーめがけて突進した。
立て続けにマシンガンの銃弾を叩き込み、トラックの車体を容赦なく鉄屑へと粉砕していくバーサーカー。いかついトラックのフレームはもはや数瞬のうちに四散する運命にあったが、それでもセイバーにしてみれば、剣の間合いに距離を詰めるまで即製の盾≠フ役を果たしてくれれば事足りる。
「うおおおおッ!」
車体を貫通した弾丸が頬を肩口を掠め飛ぶ。火花を散らして燃料タンクを抉った一発が、中のガソリンに引火し、もはや原型を留めぬほどに崩壊した車体を炎上させる。だがそれでもセイバーの突進は止まらない。
ついに敵との距離が一〇メートルを切ったところで、ここぞとばかりセイバーはトラックの残骸をバーサーカーめがけて突き飛ばした。燃えさかる鉄屑が鞠《まり》のように転がりながら迫り来るのに対し、黒騎士は避けることもなく、拳の一撃で粉砕せんと片腕を振り上げる。
――まさにその隙こそをセイバーは狙っていた。
「はぁッ!!」
裂帛《れっぱく》の気合いとともに、彼女は電光石火の踏み込みで、先に投じた燃えるトラックの車体へと再度肉薄、そのままの勢いで繰り出された渾身《こんしん》の突きは、目眩ましの役を果たしていた炎の鉄塊を貫通し、反対側のバーサーカーにまで切っ先を届かせた。
遮蔽物《しゃへいぷつ》の陰のセイバーの動きを完全に見過ごしていたバーサーカーには、これを避ける術がない。三度目の対戦に及んで、ついに一撃。セイバーの剣先が直撃の手応えを得る。
だが――
――浅いッ!?
盾に阻《はば》まれて標的を視認できなかったのはセイバーの側も同じである。勘を頼りの刺突は辛くも命中打となったものの、さすがに必殺に至るほどの幸運まではなかった。風王結界の切っ先はたしかに黒い兜の眉間《みけん》を捉えたが、その内側の|頭蓋《ず がい》を砕き割るには至らなかった。
表から銃弾雨、裏から剣の串刺しを受けた元[#「元」に傍点]トラックの車体が、今度こそ真っ二つに崩壊する。バーサーカーの被害は致命傷でこそないが、顔面にしたたかな刺突をくらった直後とあって、よろめき仰《の》け反《ぞ》ったまま体勢を直せずにいる。追い打ちの一撃を浴びせるには充分すぎる隙だ。なおも勝機はセイバーにあった。
まだ燃える車両の残骸を蹴散らしながら、セイバーはさらに大きく踏み込んで剣を大上段に振りかぶる。今度こそ逃しはしない。無防備なバーサーカーの脳天を正面から見据え、真っ向唐竹割りの斬撃に勝利を賭す。
体勢、速さ、タイミング、全てにおいて万全だった。まさに剣の英霊の名に恥じぬ会心の一撃。それは決着を確信させるに充分すぎて――だからこそ、刀身が虚空に阻まれた瞬間のセイバーの|驚愕《きょうがく》はひとしおだった。
なんとマシンガンを捨てて素手に戻ったバーサーカーは、両の掌を眼前で打ち合わせ、そこで風王結界の刃を挟み取って止めていたのだ。その絶技は、二重の意味で有り得ない不条理だった。必殺を期したセイバーの追い打ちに無理な姿勢から応じたというだけではない。そもそも不可視である風王結界の剣筋は決して見抜けないはずなのだ。だが黒い騎士はそれを白刃捕りで封殺してのけた。まるでセイバーの執る剣を、その形状から刃渡りに至るまで、すべで熟知していた[#「熟知していた」に傍点]かのように。
はたと、バーサーカーに武器を触られているという状況の致命的な意味を悟ったセイバーは、戦慄《せんりつ》に総毛立った。内心の驚愕を棚に上げたまま、ともかく力任せの蹴りを黒騎士の胸板に叩き込む。たまらず後過ったバーサーカーは剣から手を放し、セイバーはすんでのところで、相手の黒い魔力に愛剣を浸食されずに済んだ。
そこかしこに燃え移った火の手に反応し、天井のスプリンクラーが猛然と水幕を撒き散らす。豪雨のように降り注ぐ防火水を満身に浴びながら、白銀と黒の騎士は凝然と睨み合った。
あらためて、見過ごせない疑問がセイバーの胸中を騒がす。
このバーサーカーには、風王結界の幻惑が効いていない。不可視の鞘に守られた宝剣の姿を、明らかに見知っている。それは即ち、英霊となる前の彼女について既知であることと同義ではないのか。
倉庫街で、末遠川で、この黒騎士は異常な執念を見せながらセイバーに襲いかかってきた。もしあれがマスターの指示でなく、この狂える英霊自身の怨恨によるものだとしたら……
凝視するほどに細部のぼやける黒い霧。意味合いにおいては風王結界とも相通ずる幻惑の守りを身に纏ったバーサーカーは、決して英霊としてのその素顔を看破することが叶わない。だがここにきてセイバーは、もはや確信せざるを得なかった。――あれはまず間違いなく、この自分に緑《ゆかり》のある騎士だと。
「……その武練、さぞや名のある騎士と見込んだ上で問わせてもらう!」
意を決したセイバーは、水煙を隔てて対峙する敵に声を張って呼びかけた。
「この私をブリテン王アルトリア・ペンドラゴンと|弁《わきま》えた上で挑むなら、騎士たる者の誇りをもって、その来歴を明かすがいい! 素性《すじょう》を伏せたまま挑みかかるは騙し討ちにも等しいぞ!」
土砂降りの水音に、かたかたと乾いた金属音が入り交じる。微《かす》かながらも、ぞっとするほど冷ややかに耳に忍び込んでくるその昔は、まざれもなくバーサーカーから発していた。
――黒い霧に包まれた下の全身鎧《フルプレート》が、震えている。
それは四肢《しし》を覆うすべての甲が、漣《さざなみ》のように細かく振れて互いに打ち合う音だった。
「貴様……」
そしてセイバーはようやく気付く。地を這う怨嗟の唸りのような不気味な音を。
軋るような、啜り泣くようなその声は、黒い兜の奥から漏れていた。バーサーカーが総身を痙攣させながら、今、抑えきれぬ情念を漏らしている。
笑い声――そう理解してしまった途端、言いようのない悪寒がセイバーを貫いた。
何の推察も根拠もない、ただ第六感による導きだけで、悟る。先の誰何《すいか》は致命的な誤りだったと。
その名を問うてはならなかった。この敵は素性を忘却に沈めたまま葬り去るべき相手だったのだと。
だが気付くのが遅すぎた。彼女にとって最悪の呪いを呼び込むであろう文言は、すでに彼女自身の口から放たれてしまった後だった。
黒い騎士の総身を塗り潰していた霧が、渦を巻いて縮んでいく。降り注ぐ水煙の中、ついに漆黒の甲宵が細部に至るまで露わになる。
華美に走らず、武骨に墜ちず、それは機能美と豪奢さを紙一重のバランスで両立させた完璧な鎧だった。
猛々しくも流麗な、匠が技の限りを尽くした細緻な拵え。刻み込まれた無数の疵《きず》すら、数多の武勲を物語る彫り細工となって勇猛の華を添えている。あらゆる騎士が羨望して止まぬであろう理想の戦化粧。
かつてそんな鎧姿で戦場を馳せた勇者を、セイバーは知っていた。キャメロットの円卓で誰よりも眩く輝いた無双の剣士。誰よりも完成された騎士だった忠勇の武人。
「貴方は――そんな――」
見間違いであってほしかった。彼こそは『騎士』として在るべき姿を体現した理想だったのだ。その勇姿が、狂化による呪いに侵されて黒く澱んだ姿など、決して有り得てはならなかった。
そんなセイバーの想いを嘲るかのように笑い猛りながら、黒い騎士は鞘込めのまま携え持っていた剣の柄に手をかける。それは拾ったものでも、他から奪ったものでもない。あくまでその名を秘し続けたこの英霊が、ついに手に執った彼自身[#「彼自身」に傍点]の宝具であった。
ゆっくりと鞘から抜き放たれるその刀身を、セイバーはただ為す術もなく凝視することしかできなかった。
もはや見違えようもない、彼女自身の剣と相通ずる意匠。人ならざる者の手によって鍛えられた証である精霊文字の刻印。怜悧《れいり》なる刃の照り返しは月下に輝く湖水の如し。いかなる打撃に晒されようと決して毀《こぼ》れることのない無窮の剣。
それは、ただ一人『完璧なる騎士』と謳われた彼だけが持つことを許された剣だった。その名も高き『|無毀なる湖光《アロンダイト》』――もはやいかなる名乗りよりも明らかに、持ち手の真名を知らしめる証。
「……|Ar《アァ》……|thur《サァ》……」
怨嗟を込めて呼ぶ声が、黒い兜の中に反響する。その振動が最後の一押しどなって、先のセイバーの一撃によって生じた面《バイザー》の亀裂が破断した。
砕け散った兜の下から、黒髪の素顔が露わになる。
かつて数多の婦人を羨望の虜とした端然たる美貌は、無惨なまでに見る影もない。昔年の憎悪に|窶《やつ》れ果て、ただ憎しみを滾らせる双眸のみが光を放つ鬼の相。それは呪詛《じゅそ》の果てに自らの全てを見失った、生ける亡者の貌だった。
「……ぁ、……」
セイバーの膝から力が抜けた。肩を背中を打ち据える水飛沫の重さに耐えかねたかのように、いま不屈の騎士王は絶望に忘我して、濡れそぼつ床に膝をつく。
――いずれ英雄として、最低限の誇りさえも見失う羽目になる――
いつか誰かに、そんな言葉で諫められたこともある。
だとすれば、この呪いはあの時から既に始まっていたのか。
「……そんなにも、貴方は……」
もはや往年の尊厳も貴顕もない、|狂乱の座《バーサーカークラス》に堕して変わり果てたその姿を前にして、セイバーは溢れ出る涙を止めようもなく、ただ質すことしかできなかった。
「……そんなにも私が憎かったのか、朋友《とも》よ……そんな姿に成り果ててまで……そうまでして私を恨むのか、|湖の騎士《サー・ランスロット》!」
最後まで誇りを掲げ、誉れを信じて戦い抜いてきた少女の――
それが、敗北の瞬間だった。
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-03:59:32
静寂の中、焦臭い匂いが鼻をつく。広い建物のどこかで火災が起こっているらしい。
急ぎもせず、躊躇いもせず、澱みなく静かな足取りで、衛宮切嗣は無人のエントランスホールの中央にゆっくりと進み出る。
全身の筋肉は適度に緩み、余計な力がこもった場所はどこにもない。その一方で精神は凍えた湖水の如き静謐の鏡となって、周囲一帯の全景を映し出している。聴覚より鋭く、視覚より明晰に、一切の死角なく、どんな些細な動きがあろうとも即座に見抜く探針に自らを変えて、薄闇の中をそぞろ歩いていく。
この冬木市民会館のどこかに、言峰綺礼がいるはずだ。衛宮切嗣の到着を待ち受けて。
結果的に、切嗣が講じた待ち伏せの策はすべて空振りに終わったが、それを悔やむ感情は皆無だった。むしろ言峰綺礼という謎めいた敵の正体が、ようやく把握できたことが収穫だ。切嗣のあらゆる予測が裏切られたことで、言うなれば消去法によって答は導き出された。
つまるところ、あの男は聖杯に興味がない。
なべて全てのマスターが聖杯を求め争っているはずたという先入観が、今日まで切嗣の目を眩ませてきた。だからこそ、どこまでも聖杯と結びつかない言峰綺礼の挙動が、謎めいた不気味なものに見えて切嗣を悩ませてきたのだ。
だが今夜、聖杯降臨の儀式に及ぶ上での綺礼の戦略を見届けて、あらためて切嗣は、そもそもの大前提から違《たが》えていたことを理解した。
ここ冬木市民会館を祭壇として使うにあたり、綺礼の準備はあまりにも|杜撰《ず さん》に過ぎた。ただでさえ魔術的な要害としての基盤がない|脆弱《ぜいじゃく》な砦だというのに、守りの備えを講じた形跡が一切ない。いかに限られた時間の中でも、せめて簡易な罠や障壁の類は設《しつら》えておいて当然のはずだ。そもそも、そんな準備も間に合わないうちから、他のサーヴァントを呼び集めて決着をつけようとする判断が有り得ない。百歩譲って、防御手段を講じる魔術にまるで心得がなかったのだとしても、ならば四カ所の霊脈のうち、どうして最も防戦に不向きな場所を選んだりしたのか。
ここまでくれば切嗣も、合点するしかなかった。――つまり言峰綺礼にとって、聖杯の降臨は二の次なのだ。あの男はただ単に、待ち伏せの可能性が最も低い場所として冬木市民会館を選んだ。無事に聖杯を降ろすことよりも、残るマスターとの最終決戦そのものを有利に運ぶ主導権を欲したのだ。
言峰綺礼は聖杯ではなく、そこに至るまでの流血にこそ目的を置いている。その理由は定かではないし、もはや解き明かす必要すらもない。あの代行者が誰を標的と見定めているのか、それが明白なだけで既に充分だ。
緩く指を絡めたトンプソン・コンテンダーの銃把《じゅうは》、その固い胡桃《くるみ》材の感触を確かめながら、切嗣はまだ写真でしか見たこともない男の面影に想いを馳せる。
一体どこで、どのような形で言峰綺礼との因縁が生じたのか、もはや思索するのも虚しい試みだ。他者からの殺意に対し、まるで憶えがないなどと断言できるほど切嗣の人生は安穏ではなかった。ただ切嗣に対する私怨だけで、この聖杯戦争に踏み込んだ部外者――その可能性を除外してきたのは、あくまで確率上の理由でしかない。そんなイレギュラーが最終決戦にまで生き残り、聖杯の行方さえ混乱させるほどの番狂わせを演じるというのは、たしかに無限小の希有な事態ではあるが、今その現実を前にしては、ただ事実として受け入れるしか他にない。
衛宮切嗣は、物事について真理や答を求めたことなど一度もない。彼にとって顧みる価値があるのは、常に状況≠サのものだけだった。
多くを救うと、ただそれだけを心に誓ってきた。救う命に貴賤はない。犠牲と救済を推し量る秤には、理由も事情も一切関係ない。だからそのように生きてきた。己の所行の意味を問うなど愚の骨頂と断じてきた。
故に――もはや切嗣の胸に、かつて言峰綺礼に対して懐いていた畏怖や危機感は微塵もない。
その目的の在処が知れた時点で、あの男は、ただ切嗣の行く手を阻むだけの障害物へと意味合いを堕した。たとえどんなに強敵であろうとも、挑むべき姿さえ確かになれば、それは感情の対象とはならない。畏れることなく、憎むことなく、侮ることなく容赦なく、ただ排除することを意図するだけだ。それが、殺人機械としての己に切嗣が課した、唯一にして無二の機能であった。
冬木市民会館の主要部ともいえる、一階から三階までを占める広大なコンサートホール。すべての内装設備を終え、あとは柿《こけら》落としの公演を待つばかりとなった舞台の上に、綺礼は死んだホムンクルスの遺体を安置していた。
柔らかだった腹部の内側に、今は明らかな異物感があった。おそらく臓器に紛れ込んでいた聖杯の器が、既に本来の形を取り戻しているのだろう。いま腹腔《ふくこう》を切り裂けばそれを手に取ることもできただろうが、綺礼は焦る気などなかった。あと一人でもサーヴァントの魂を回収すれば、それで外装も自ずと崩壊し、聖杯は露わになることだろう。ただ、待つだけでいい。
アーチャーは大橋でライダーを、バーサーカーは地下駐車場でセイバーを食い止めている。万事、理想通りの展開だった。今ならば、もう誰も綺礼の邪魔をしない。
コンサートホールを後にして廊下に出る。途端に、充満していた黒煙の匂いが押し寄せた。おそらく火元となったのは地下での戦闘だろうが、臭気の密度からして、既にかなり建物の各所にまで燃え移っている様子だ。だが火災警報を含め外部に繋がる回線はすべて遮断済みである。火の手が建物の外にまで及ばない限り、近隣の住民も気付くことはあるまい。
歩を進めるごとに募《つの》りゆく昂揚。祝福の聖句が、口を衝いて出る。
――主は我が魂を蘇らせ、御名のために我を正道へと導かん。たとえ死の谷の陰を歩むとも、禍《わざわい》を恐るるまじ。主が我と共にあるが故に――
居る。今こそ出会いを確信する。
衛宮切嗣はすぐ近くまで来ている。綺礼が彼を求めるように、彼もまた綺礼を求めて。
炎は既に闇を払って廊下のそこかしこにちらちらと踊《おど》りはじめている。頬《ほお》を撫《な》ぜる熱気も、だが気にならない。胸の内に滾る血潮の方が遥かに熱い。
いま始めて、綺礼は祝福を感じていた。生涯を通じてただの一度も彼を顧みることのなかった神が、ようやく導きを示している。
求めていたのは、この憎しみだ。歓喜とともに剣を執る理由《わけ》だ。
――貴方の鞭と貴方の杖《つえ》が私を慰める。貴方は我が敵の前で宴を設け、我が頭《こうべ》に油を注がれる。杯は溢れ、我に恵みと慈しみをもたらすだろう――
壁を天井を這う炎の舌は、煉獄へと続く標《しるべ》となって二人の男を|誘《いざな》い招く。
彼らは黙々と進んだ。揚々と進んだ。迷うことなく対決の場へと。
そして、邂逅は地下一階。舞台直下の大道具倉庫。
燻る黒煙の向こう側に、衛宮切嗣は僧衣の長身を見出し……
ゆらめく陽炎の彼方に、言峰綺礼は怨敵の黒いコートを見定める。
その手に執るは黒鍵の輝き。ガンオイルの艶に濡れ光る魔銃の銃身。
その殺意を両者が識っていた。その熾烈さを互いが覚悟していた。
ならば、もはや交わす言葉すらある筈もない。
ついにその目で直接にお互いを目の当たりにした二人は、そのとき同時に、ひとつの結論を了解する。
七人のマスター。七人のサーヴァント。そんなものは所詮ただの状況≠ナしかなかったのだと。
衛宮切嗣にとって、この戦いは――
言峰綺礼にとって、この冬木の戦場は――
すべて、いま目の前に立ちはだかるあの敵を討つためだけにあったのだ。
炎の中に、刃が躍る。
右に三本、左に三本、計六本の黒鍵を抜き身に構えたまま、疾駆する代行者。
風を巻いて迫るその影に、暗殺者の銃が照星を据える。
今ここに、最後の対決は書もなく幕を切って落とした。
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-03:59:04
大地をどよもし、砂煙を巻き上げて迫り来る『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』――
あまりにも圧倒的なその光景を前にしてなお、英雄王ギルガメッシュは微塵たりとも動じない。
その壮観を見据える紅い瞳に宿るのは、あくまで血色の愉悦のみ。この世の全ての悦楽を極め尽くした王のみが知る、尋常の埒外にある感覚だ。
事実、アーチャーは悦に入っていた。
時の果てにまで招かれておきながら、戦とは名ばかりの茶番を繰り返す日々に飽いていた。そんな彼が今ようやく、敵≠ニして認めうる相手を得たのだ。
あのライダーからの挑戦は、全力を以て争覇するに値する。
「夢を束ねて覇道を志す……その意気込みは褒めてやる。だが兵《つわもの》どもよ、|弁《わきま》えていたか? 夢とは、やがては須《すべから》く醒めて消えるが道理だと」
アーチャーは手にした鍵剣で虚空から宝物庫を解錠する。だが『|王の財宝《ゲート・オブ・バビロン》』の展開はない。取り出したのはただ一振りの剣のみだ。
「なればこそ、お前の行く手に我《オレ》が立ちはだかるのは必然であったな。征服王」
――果たしてそれは、剣≠ニ呼びうる得物であったかどうか。
あまりにも異形の武器だった。柄があり、|鍔《つば》があり、刃渡りはおおよそ長剣の程度。だが肝心の刀身≠ノ当たる部分が、刃物としての形状を逸脱しすぎている。三段階に連なった円柱と、その切っ先には螺旋《らせん》状に捻くれた鈍い刃。三つの円柱は挽《ひ》き臼《うす》のようにゆっくりと、交互に回転を続けている。
そう、それはもはや剣ではない。この世に剣≠ニ呼ばれる概念が現れるより以前に誕生したモノが、既知の剣の容《かたち》である筈もない。それはヒトより以前に神が創りしモノ。世界の始まりに記された神の業《わざ》の具現であった。
挽き臼じみた三つの円筒は、天球の動きに呼応して、それぞれが地殻変動に等しい重さとパワーを軋ませながら廻っている。滾り溢れる膨大な魔力は測定の埒外だ。
「さぁ、見果てぬ夢の結末を知るがいい。この我《オレ》が手ずから理《ことわり》を示そう」
頭上高々と掲げ上げたアーチャーの手の中で、始まりの剣は徐《おもむろ》に旋転の速度を上げている。一転ごとに疾《はや》く、なお疾《はや》く……
その脅威を直観だけで悟ったライダーは、ブケファラスの手綱を急き立てる。
「来るぞッ!」
先手はアーチャーに許した。それはいい。許すとしてもただ一撃。次手を待つことなく『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』は黄金の孤影を蹂躙《じゅうりん》する。
ならば要《かなめ》は、その一撃をいかに凌ぐかに尽きよう。無類の宝具を誇るアーチャーであれば、それは奴なりに勝機を信じうるだけの切り札であるに違いない。
対軍宝具か?
対城宝具か?
それとも対人宝具の狙い撃ちで、陣頭のライダーだけを確実に仕留める腹か……
轟、と颶風《ぐふう》の唸りを上げて、アーチャーの剣柄から膨大な魔力が迸る。
「さあ目覚めろ『エア』よ。お前に相応しき舞台が整った!」
エア――古代メソポタミア神話において、『天』『中』と別たれた大地と水の神。
その名で呼ばわれるこの『乖離剣《かいりけん》』こそは、神代において世界の創造に立ち会った原初の剣。始まりの刃が果たした役とは、即ち――末だ無形であった天と地とを切り分かち、その判別に確たる姿を与えたことに他ならない。
今、傲然と烈風を巻き上げ旋転する神の剣が、再び創世の奇跡を演ずるに及んで、黄金の英雄王は昂然《こうぜん》と声を張り宣言する。
「いざ仰げ――『|天地乖離す開闢の星《エヌマ・エリシュ》』を!」
天が絶叫し、地が震撼する。
宇宙の法則を軋ませて解き放たれた膨大なる魔力の束。
アーチャーが振り下ろした切っ先は、そもそも誰を狙ったものでもない。
もはや誰を狙うまでもないのだ。乖離剣の刃が断ち落とすのは、たかが敵≠イときでは収まらない。
疾駆するライダーの眼前で、大地が断裂し、奈落を開く。
「むん!?」
やおら足下に生じた危機を見咎めたライダーにとっても、疾駆するブケファラスの勢いは既に制止できるものではない。
「ひっ――」
もはや避けようもない落下の運命に、ウェイバーが悲鳴を噛み殺す。とはいえ無論、いま彼を運ぶのは、その程度の危機に臆する程度の馬でもなければ騎手でもない。
「はぁッ!」
ライダーの手綱に応え、英馬は豪快な後肢の一蹴りで高々と宙を舞う。
肝を凍らす跳躍と滑空。ウェイバーにとっては無限に思えた一刹那の末に、ブケファラスが再び踏みしめたのは、果たして地割れの対岸の大地であった。
だが安堵などする暇もなく、ウェイバーは後続の騎馬隊の惨状に色を失った。
脚力においてブケファラスに及ばなかった近衛兵団は、大地の断裂を渡りきれず、雪崩《なだれ》のように為す術もなく奈落の底へと墜ちていく。より後列の騎馬たちは間一髪のところで踏み止まり、落下の憂き目を免れたが、それはまだ惨劇の皮切りに過ぎなかった。
「坊主、掴まれッ!」
叱咤とともに、ライダーがウェイバーを抱えたままブケファラスの鬣にしがみつく。
危機を察した英馬が安全圏へと飛び退く間に、地割れはさらに幅を広げ、周囲の土を、騎兵たちを呑み込んでいく。
否――大地だけではない。亀裂は地平から何もない虚空にまで延び拡がり、空間を歪ませて大気を吸い上げ、逆巻く風とともに周囲の全てを虚無の果てへと吹き飛ばしていく。
「こ、これは……ッ」
さしもの征服王ですら、それは言葉を無くす光景だった。
英雄王の執る乖離剣。その一撃が穿《うが》ったのは大地のみならず、天にまで及ぶ世界そのもの[#「世界そのもの」に傍点]だ。その攻撃は、もはや命中の是非、威力の可否を語るものですらなかった。兵が、馬が、砂塵が、空が――およそ切り裂かれた空間を拠り所としていた万物が、渦巻く虚無へと呑み込まれて消えていく。
ブケファラスが渾身の力で蹄を踏ん張り、真空の気圧差に抗っている間にも、『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』が紡いだ熱砂の大地は、罅割れ、砕かれ、まるで砂時計の終わりのように虚無の奈落へと崩落していく。
その一刀を揮《ふる》うより前の有象無象《うぞうむぞう》は、何ら意味を成さぬ混沌にすぎず――
その一刀が揮われた後に、新しい理《ことわり》が天と海と大地を分かつ。
解き放たれた天地創世の激動は、もはや対城宝具の域にすらない。形在るモノのみならず、森羅万象すべてを崩壊させる規格外。それこそが英雄王を超越者たらしめる『対界宝具』の正体だった。
空が墜ち、大地が砕け、全てが無に帰していく闇の中、ただひとつ燦然《さんぜん》と輝くアーチャーの乖離剣。その光は、さながら新しき世界を初めて照らす開闢《かいびゃく》の星の如く、煌々と破滅を締めくくる。
ライダーもウェイバーも、その全てを見届けるには至らなかった。もとより彼らのいた固有結界は、召喚された英霊たちの総魔力によって維持されていたものだ。世界そのものが消え去るより先に、軍勢の過半数を失った時点で結界は破綻し、歪められていた宇宙の法則は再び従来の姿へと立ち戻る。
そして、夢から覚めたかのように、二人を乗せたブケファラスは夜の冬木大橋へと着地した。
橋の対岸には、嫣然と微笑みながら立ちはだかる黄金のアーチャー。両者の位置関係は変わらず、戦いは冒頭へと時間を巻き戻されたかのようだった。
目に見える唯一の変化は、アーチャーの手の中で今も重々しく捻れ唸る乖離剣の存在のみ。
そして見えざる致命的な変化は――ライダーの切り札、『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』の消失であった。
「ライダー……」
蒼白の面持ちで見上げてくるマスターに、巨漢のサーヴァントは、厳かな真顔で問うた。
「そういえば、ひとつ訊いておかねばならないことがあったのだ」
「……え?」
「ウェイバー・ベルベットよ。臣《しん》として余に仕える気はあるか?」
総身を激情が震わした。そして堰を切ったかのように、涙が滂沱《ぼうだ》と溢れ出た。
決して届かぬと知りながら、それでもなお憧れ待ち望んだ問いだった。返答は捜すまでもない。それは自らの心の奥に、宝物のように秘めながらも用意してあったのだから。
「あなたこそ――」
いま初めて名を呼ばれた少年は、涙も拭わず胸を張り、揺るがぬ声で返答した。
「――あなたこそ、ボクの王だ。あなたに仕える。あなたに尽くす。どうかボクを導いてほしい。同じ夢を見させてほしい」
誓いの言葉に、覇道の王は微笑んだ。その笑みは臣下にとって、どんな褒美にも勝る報酬《ほうしゅう》だった。
「うむ、良かろう」
心浮き立つ歓喜に包まれたその直後――ウェイバーの身体が、本当に宙に浮く。
「……え?」
王は少年の矮躯をブケファラスの背から掴み上げ、そっとアスファルトの路面に下ろした。馬上の高みを失い、もとの身の丈の視野に戻されて、改めて味わうその低さと矮小さに、ウェイバーはただ戸惑うしかなかった。
「夢を示すのが王たる余の務め。そして王の示した夢を見極め、後生に語り継ぐのが、臣たる貴様の務めである」
もはや、遥か手の届かぬほどの高みに見える鞍の上から、征服王は断固と、だが朗らかに笑いながら勅命を下した。
「生きろ、ウェイバー。すべてを見届け、そして生き存《ながら》えて語るのだ。貴様の王の在り方を。このイスカンダルの疾走を」
励ますように蹄を鳴らしたブケファラスの嘶きは――これより死地へと赴く王と、艱難《かんなん》の任を帯びた臣下と、はたしてどちらに向けたものだったか。
ウェイバーは俯き、それきり顔を上げなかった。イスカンダルはそれを首肯と受け取った。言葉などは必要ない。今日より時の終わりまで、王の姿は臣を導き、臣はその記憶に忠ずるだろう。誓いの前には離別さえ意味を持たない。イスカンダルの魔下において、王と臣下を結ぶ絆は、時を越えて永遠なのだから。
「さあ、いざ征《ゆ》こうぞ、ブケファラス!」
そして征服王は愛馬の脇腹を蹴り、最後の疾走に赴いた。待ちかまえる仇敵を目掛け、裂帛の雄叫びを上げながら。
彼は戦略家であった。勝負の帰趨がとうに決していることも充分に承知していた。だが、それ≠ニこれ≠ニは話が別なのだ。征服王イスカンダルは、もはやあの黄金の英霊に向かって突進していくより他の処方など、何一つ思い当たらなかった。
諦観もない。絶望もない。あるのは胸張り裂けんばかりの興奮ばかり。
強い。ヤツはあまりにも強い。世界そのものすら切り裂くあの英雄は、まさしく天上天下に最強の敵に違いない。
なればこそ、あの男こそが最後の敵だ。
アレこそは、ヒンドゥクシュウの峰より高く、マクランの熱砂よりなお熱い、この世の最後の難関だ。なればこそ、なぜ征服王が挑まずにおれようか。アレを乗り越えたその先こそが世界の果てだ。いつか見た遠い夢が、いま眼前で成就を待っている。
『|彼方にこそ栄え在り《ト・フィロティモ》』――届かぬからこそ挑むのだ。覇道を謳い、覇道を示す。この背中を見守る臣下のために。
行く手に聳える英雄王は、悠揚と挑戦者を見据えつつ、その財宝庫の貯蔵を解き放つ。二〇、四〇、八〇――綺羅星《きらぼし》の如く輝きながら虚空に展開する宝具の群れ。その光が征服王に、かつて遥かに仰ぎ見た東方の星空を回想させる。
「|AAAALaLaLaLaLaie《アァァァララララライッ》!!」
胸震わす歓喜に吼えながら、愛馬と共に馳せる。
傲然と唸りを上げて迫り来る星々の雨。間断なく容赦なく、衝撃が総身を蹂躙する。だがそんな痛みなど、この疾走の昂《たか》ぶりに比べれば、取るに足らない些事でしかない。
最果て≠ノなど至りようもないと――そんな弱気に駆られたこともあった。愚かな。何たる失態か。
求め臨んだその果て≠ェ、いま彼の行く手に屹立《きつりつ》する。数えきれぬほど幾多の丘を越え、幾多の河を渡った末に、ついに見出した到達点。
ならば、越える。
あの敵の上を踏み渡る。
一歩、さらにもう一歩先。ただひたすらにそれを繰り返す。積み重ねればいずれ必ず、あの遥かに遠い姿にさえ、剣先は届くはずなのだ。
囂々《ごうごう》と降り注ぐ星の群れ。ともすれば意識さえ遠退きそうなその猛威に、ついうっかり姿勢が傾《かし》ぐ。
気がつけば、いつの間にか自らの足で駆けていた。愛馬ブケファラスはどこまで至り、そしてどこで果てたのだろうか。最後まで果敢に役目を果たした朋友《とも》を弔《とむら》ってやりたいものの、なればこそ立ち止まれない。いま彼が前へと踏み出すこの一歩こそ、散っていった者たちへの弔いなのだから。
黄金の宿敵が、さも知った風な呆れ顔で何か言っている。だが聞こえない。耳元を掠め過ぎる閃光の、その烈風の音さえ、もう耳に届かない。
聞こえるのは、ただ――波の音。
遥かなる最果ての、何もない海岸に打ち寄せる、この世の終わりの海の音。
ああ、そうか。と、晴れやかな心地で理解する。
なぜ今になるまで気付かなかったのか。――この胸の高鳴りこそが、|最果ての海《オケアノス》の潮騒だったのだと。
「ははっ……あっはっはっはっはッ!」
波打ち際を夢見て走る。蹴散らす波飛沫の感触が、爪先に心地良い。真っ赤に足下を濡らすそれは、あるいは彼自身の腹から迸る流血だったのかもしれないが、だとしたらどうだというのか。いま彼は海を夢見ているのだ。これに勝る至福があるものか。
待ち受ける英雄王は、もう、すぐにも目の前だ。あと一歩――さらにその次の踏み込みで、振りかざした剣は|彼奴《きゃつ》の脳天を断ち割るだろう。
「はああァァァッ!!」
天まで届けと高らかに勝ち鬨を吼えながら、キュプリオトの剣を振り下ろす。
勝利を確信した絶頂の瞬間。瞬きのうちに過ぎるはずのその刹那が、なぜか永遠のように引き延ばされる。まるで時間《とき》が静止したかのように――否、事実として止まっていた。時の流れではなく彼自身が。
振り下ろした剣が届く直前で、その刀身と手足と肩と腰に巻き付いていた頑強な鎖の縛めに、征服王は嘆息した。
|天の鎖《エルキドゥ》――英雄王が蔵に有する秘中の秘。天の|牡牛《おうし》すらをも捕らえる縛鎖《ばくさ》。
「――まったく、貴様……次から次へと珍妙なモノを……」
不思議と悔恨はなかった。ただ、ついうっかり些細なものに蹴躓《けつま》いてしまったという自嘲が、血染めの口元に苦笑を昇らせる。
キュプリオトの剣は届くことなく、だがギルガメッシュの乖離剣は、その鈍い切っ先でイスカンダルの胸板を貫通していた。じわじわと捻れ廻る刀身の感触を、肺腑《はいふ》の内側に感じる。つくづく途方もない剣だなぁ、と、征服王はまるで他人事のように呆れつつも感心していた。
「――夢より醒めたか? 征服王」
「……ああ、うん。そうさな……」
此度《こたび》もまた、遂げられなかった。見果てぬ夢は見果てぬがままに終わった。だが思えばそれは、かつて生涯を賭した、ただ一度限りの夢だったはずなのだ。
遠い昔、小アジアに見た夢想――再びまたこの極東の地で、あの頃と同じ夢を見た。
そんな数奇な顛末に想いを馳せて、イスカンダルは微笑する。
二度までも同じ夢を見たのなら、三度目があっても不思議はない。
つまりは――
そろそろ、次の夢を見る頃合いだ。
「此度《こたび》の遠征も、また……存分に、心躍ったのぅ……」
血霧に霞む眦を細めながら、イスカンダルは満ち足りた声で呟く。その満悦の相を見届けて、ギルガメッシュは厳かに頷いた。
「また幾度なりとも挑むが良いぞ。征服王」
全身をくまなく宝具の雨で串刺しにされながら、ついに天の鎖に阻まれるまで歩みを止めなかった好敵手に、英雄王は最大の褒美――偽らざる賞賛の念を賜《たま》わした。
「時空《とき》の果てまで、この世界は余さず我《オレ》の庭だ。故に我《オレ》が保証する。世界《ここ》は決して、そなたを飽きさせることはない」
「ホォ……そりゃあ、いい、な……」
最後に、そんな呑気な相槌を打ってから、ライダーのサーヴァントは静かに消滅していった。
時間にして、それはほんの短い戦闘だった筈だった。騎馬の英霊が速駆けで橋の対岸に渡るまでの、わずか数秒に満たない攻防で終わった筈だった。
だが瞬き一つすることなく全てを目に焼き付けたウェイバーにとって、それは一生涯に相当するほど長く重い時間だった。
もはや忘れようもない。たとえ心に蓋をしようと、忘れられるはずもない。今この数秒で目の当たりにした光景は、既に彼の魂の一部となって、決して切り離すことなど叶わない。
ただ独り、路上に取り残されたその位置で、ウェイバーは身じろぎひとつできずに立ち竦んでいた。動かなければならないと重々承知していながらも、一歩でも足を動かせば脱力し跪いてしまいそうだった。
だが、いま膝を落としてはならない。それだけは決して。
黄金のアーチャーは、残忍な血色の双眸でウェイバーを見据えたまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。目を逸らすわけにはいかない。いかに恐怖で総身が凍ろうと、それだけは理解できた。いま目を逸らせば、命はない。
隠しようもない怯えに震えながらも、あくまで目を逸らそうとしない少年の前に立ち、アーチャーは一切の感情を欠いた声で問うた。
「小僧、お前がライダーのマスターか?」
恐怖に凍えた喉からは、声など出せるはずもないと思ったが、彼≠ニの由縁を問われた途端、ほんのいっときだけ硬直が解けた。ウェイバーはかぶりを振って、掠れた声で返答した。
「違う。ボクは――あの人の臣下だ」
「ふむ?」
アーチャーは目を眇め、ウェイバーの総身をくまなく見渡して、そこでようやく、その身体のどこにからも令呪の気配が伝わってこないことに気付いた。
「――そうか。だが小僧、お前が真に忠臣であるならば、亡き王の仇を討つ義務があるはずだが?」
二度目の問いにも、不思議なほど静かな心で、ウェイバーは再び回答できた。
「……オマエに挑めば、ボクは死ぬ」
「当然だな」
「それはできない。ボクは『生きろ』と命じられた」
そう――死ねないのだ。王に託された最後の言葉を、胸に刻んだ今となっては。
ウェイバーはどうあっても、この窮地を逃れなければならなかった。敵のサーヴァントを前にして、身を守る術とてなく、もはや万事休すの絶望的状況にありながら――それでも決して、諦めることだけはできなかった。そんな風に、あの誓いを蔑ろにすることだけは。
それは、或いは死を受け入れて観念するより、はるかに残酷な責め苦であっただろう。
逃れようもない死を前にして、為す術もなく震えながら、ただ眼差しだけで不屈を訴える少年。その小さすぎる背丈を、ギルガメッシュはしばし無言で見下ろした後、小さく一度だけ頷いた。
「忠道、大儀である。努《ゆめ》その在り方を損なうな」
マスターでもなく、逆徒でもない雑種とあっては、手にかけるだけの理由はない。それが王である彼の決定だった。
|踵《きびす》を返し、悠然と歩み去っていく黄金の英霊を、ウェイバーは言葉もなく見送った。やがてその姿が視野から失せ、河を吹き渡る冷たい風が、ずっと張り詰めていた戦場の空気を余さず吹き散らしていった後、少年はただ独り、夜の中に取り残された自分に気付いて、そこでようやく、すべてが終わったことを理解した。
生き存《ながら》えたことの奇跡に、あらためて膝が震える。
あのアーチャーは心変わりする直前まで、確かにウェイバーを殺す気でいた。呼吸も同然に放つ殺意で、無言のうちにそう宣告していた。もしウェイバーが目を逸らすか、腰を抜かすか、返事に声を詰まらせていたなら、事実そうなっていたことだろう。
ただの命乞いと嗤うなら、それは英雄王の呵責《かしゃく》なさを知らぬだけのこと。恐怖に抗い、まだ命があるというだけで、それはひとつの闘争、ひとつの勝利だった。ウェイバー・ベルベットがたった一人で、初めて挑み、勝ち取ったものだった。
無様でちっぽけな戦いだった。雄々《おお》しさとも華々しさとも程遠い。誰を屈服させたわけでも、何を奪い取ったわけでもない。生きて窮地を免れたという、ただそれだけのことでしかない。
だがそれでもウェイバーには嬉しかった。誇らしかった。あのとき、あの状況下で、有り得ない結末に辿り着けたことの尊さは、ウェイバー当人にしか解らない。その誉れは彼の中だけにある。たとえ傍目に無様であっても、恥じる理由がどこにあろうか。
彼は王命を遵守した。すべてを見届け、生き延びた。
褒めてほしかった。あの大きくて分厚い掌に。大雑把《おおざっぱ》で遠慮のない胴間声《どうまごえ》に。今度こそ照れ隠しなんていらない。素直に胸を張って、あの男に手柄を自慢できたはずなのだ。
なのに――沈黙に沈む夜の中、ウェイバーはどうしようもなく独りだった。傍らにはもう誰もいない。十一日前の彼がそうだったように、いま再びウェイバーは、この非情で無関心な世界の隅に、ただ一人だけで取り残されていた。
彼だけの戦い。彼だけが孤独のままに乗り越えたものを、誰も気付いてくれない。誰も褒めてくれない。
だがそれが残酷な仕打ちかといえば――否、だ。
褒め言葉なら、ついさっき、充分すぎるほどに贈られた。この世で一番雄大な王が、彼を認めて、登用したのだ。臣下の列に加えると言ってくれたのだ。
ただ単に、事の後先が逆になっただけのこと。
彼はもう、遠い未来のぶんまで褒められた後なのだ。だから残る余命の全てを費やして、あの賛辞に釣り合うだけの手柄を積み上げていくしかない。
そう。あのとき、あの言葉があったというだけで――もう彼は孤独ではない。
それを理解した瞬間に、彼が少年であった日々は終わった。
そして彼は初めて知った。ときに涙とは、屈辱とも後悔とも無縁のままに流れるのだと。
今、誰もいない橋の上から、流れゆく河の黒い水面を見下ろしながら、ウェイバー・ベルベットは惜しげもなく頬を濡らす。
それは熱く清々しい、一人の男の涙であった。
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――泣いている女の姿が見える。
美しい顔を悲嘆に濕れさせ、葛藤の罅を眉根に刻んで、女は声を殺して泣いている。
自らを責めて。
自らを恥じて。
すべての咎を追わされた罪人として、彼女は永遠に涙に暮れる。
誰もが、彼女を指差して言う。――不貞の妻と。裏切りの王妃と。
華々しき伝説に目を眩まされ、何一つ真実を知らぬ衆愚どもが、彼女を詰り、貶める。
彼女を娶った夫たる人物が、そもそも男ではなかった[#「男ではなかった」に傍点]ことすら知りもせず。
ただ一人、心を捧げて愛した貴い面影。
なのに、彼女について思い出せるのは、苦悩と憂いの涙だけ。
そう、彼≠烽ワた彼女を悲しませた。
愛してしまった――
愛されてしまった――
そこに、陥落のすべてがあった。
彼女とて、初めはすべてを諦めて達観していたのだろう。
乱世に荒れ果てた国を救うには、理想の王が必要で――そして王の傍らには、気高く貞淑《ていしゅく》な后が必要だった。それが諸人の求める統治の形だ。
その美しき理想が実現できるなら、一人の女の人生など取るに足らない代価である。
王が男ではなかったとしても。性別を偽った、女同士の形骸だけの婚儀だったとしても。それは国体という大儀のために、必要な犠牲だったのだ。
それでも、彼≠ヘ彼女を救いたかった。
初めて王宮に昇り、拝謁《はいえつ》の栄に浴したその瞬間《とき》から、この女のために命を燃やし、すべてを擲《なげう》って尽くすと誓った。
笑顔でいてほしいと、幸福を感じてほしいと切に願った。
そんな彼≠フ想いそのものが、何よりも彼女を苦しめていたのだと知ったのは、すべてが手遅れになった後だった。
彼女もまた、彼≠愛してしまった。
女としての幸福を手放した彼女には、恋そのものが禁忌《きんき》であったにも拘わらず。
たとえ許されざる恋だとしても、罪を背負って貫く道も、意を決すればあるはずだった。
愛した女を真に救いたいと思うなら、すべてを敵に廻してでも想いを遂げるのが、男の本懐であるはずだ。
だが――それが彼≠ノは叶わなかった。
彼女が女≠ナなく人間《ヒト》≠ナなく、王の治世を支えるための『王妃』という部品でしかなかったように。
彼≠烽ワた男≠ナなく人間《ヒト》≠ナなく、王に尽くす『騎士』という装置でしかなかったのだから。
人呼んで『湖の騎士』――武勇に優れ、忠節に厚く、立ち振る舞いは優雅にして流麗。かの者こそは騎士道の華を体現する者と、誰もが羨望し賛辞した。
諸人のみならず精霊にまで祝福された理想の騎士。その称号こそが彼≠フ誉れであり、同時に彼≠フ呪いでもあった。
完璧なる王≠ノ仕えた完璧なる騎士=\―そう望まれ、託され、それに殉ずる生き様しか許されなかった男。
その人生は当人のものではなく、騎士道を崇め奉る全ての人々のものだったのだ。
そして、彼≠フ仕えた王は完璧に過ぎた。非の打ち所のない英雄だった。滅び行く国を救いうる唯一の『騎士王』に、『湖の騎士』が叛意を抱けるわけがない。
彼≠ヘ完璧なる主君に忠義した。貴き友情を誓い合った。
その麗しき騎士道の陰で、踏みにじられ、顧みられることすらなかった女の涙を知りながら。
どんな在り方が正しかったのか、今となっては知りようもない。
非情に徹して理想を貫くべきだったのか、亡義道を畏れず愛を護るべきだったのか。
ただ葛藤に苦しむがまま、徒《いたづら》に時間《とき》ばかりを費やすうちに、やがてもたらされたのは最悪の結末だった。
王の失墜を目論む謀略によって、王妃の不義は暴露され、死罪を宣告された妃を救出するためには王に仇なすしか他になく――そうして彼≠ヘ全てを失った。
裏切りの騎士――
その不貞によって円卓の調和を乱し、結果として国を滅ぼすに至る戦乱の端緒を開いた彼≠、人々は嘲りを込めてそう呼び習わす。
過ぎ去った歴史に刻まれた、もはや雪《そそ》ぎようもない汚名。
だから彼女は、まだ泣いている。かつて『完璧なる騎士』だった男に道を踏み誤らせた己を責めて。
結局、彼≠ェしたことといえば――愛した女に、永遠の慟哭を与えただけ。
せめて、彼≠ェ騎士でなかったならば、あの恋は遂げられただろうか。
誇りも恥も知らぬ浅ましき身であれば、あの王の面体に泥を塗り、妃を連れ去ることに、何の躊躇もなかったかもしれない。
だが彼≠ヘ騎士だった。騎士として完璧すぎた。
恋敵であり、愛する女に苦難の道を歩ませた元凶であるはずの王に対し、結局彼≠ヘ只の一度も、ほんの僅かな憎しみすら懐くことができなかったのだ。
そう、なぜあれほどの名君を貶めることなどできようか。常に誰よりも勇敢に、誰よりも高貴に、苦難の時代を切り拓いていった誉れの王。
清廉にして公正。義に篤く情に流されず、只の一度も過ちを犯さなかった無謬の王。
かの王は、ついにただの一度も彼≠責めなかった。円卓を追われた後の彼≠ニ矛を交えたのも、他への示しがつかなかったが故の苦渋《くじゅう》の選択であり、王その人の本意ではなかった。決して許されざる裏切りを犯した彼≠ノ、王は最後まで高潔な友誼で応えたのだ。
なぜ恨めようか。なぜ憎めようか。かくも正しき$ケ者を。
だが――ならば彼≠フ無念は、あの女《ひと》の涙は、いったい何処に向かえばいいのか?
死後も持ち越された悔恨は、時の流れの果てに摘み取られ、始まりもなければ終わりもない|座《ばしょ》で、延々と彼≠苛み続け……そしてやがて、彼方より呼び招くひとつの祈りを聞く。
来たれ狂える獣よ、と。
来たれ執念の怨霊よ、と。時の果てより|誘《いざな》う声。
その声が、かつての彼≠フ願望を呼び覚ます。
そも、騎士でさえなかったならば。
誉れなき、理《ことわり》なき獣なら、畜生道に墜ちた鬼ならば、あるいはこの無念を遂げられるのではあるまいか。
そう、狂気こそが救いの揺籃《ようらん》だ。
獣であれば迷わない。迷わなければ苦しまない。何も望まれず、何も託されず、ただ己の欲するがままに五体を駆動させる獣にさえ成れたなら――その願いが、時の果ての祈りと結びつく縁《よすが》となり、いま彼≠ヘ何処とも知れぬこの戦場にいる。
もはや己の名も忘れ、己を律する誓いも忘れ、ただ双腕に染みついた殺戮の技芸を存分に揮うばかりの我が身。それを恥じる誇りもない。それを悔やむ心もない。それが『バーサーカー』と呼ばれる今の彼≠フ有り|様《よう》だ。
後悔などある筈もない。この堕落こそ、この解脱こそ、まぎれもなく彼≠フ求め欲したものだ。
まして、度し難き運命の悪戯が、かくも皮肉な再会を仕組んでくれたとあっては。
「……|Ar《アァ》……|thur《サァ》……」
口を衝《つ》いて出るその呼びかけも、もはや名と体を示す意味など思い出せない。
それでも、今、激しい雨の中で跪く白銀の剣士こそが、昔年の恩讐を重ねた相手であることだけは、決して見違えたりしない。
かの貴き貌《かんばせ》が、希望と祈りを託された輝きの姿が、いま絶望に膝を屈している。秘め隠された絆の真相を知り、闇に葬られた怨嗟を知り、王は王たる自尊を忘れて悲嘆する。
――そんなにも私が憎かったのか、朋友《とも》よ――
そうだ。この姿を見たかったのだ、と――心の中の獣が哭く。心の中の騎士が泣く。
いざ知るがいい。かつて貴様を輝かせるためだけに費やされた涙を。貴様のために心を殺し、摩耗《まもう》していった者たちの嘆きを。
今こそ想いの丈を叩きつけるべく、漆黒に墜ちた騎士は怨念の剣を振り上げる。
――そうまでして私を恨むのか、|湖の騎士《サー・ランスロット》!――
そうとも。あぁ、そうだとも。
あのとき、騎士でなく男として――
忠臣でなく人として、貴方を憎悪していたならば――
己《おれ》は、あの|女《ひと》を救えたかもしれないのだッ!
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言峰綺礼についての、戦術面における分析――情報源は、二度に渡り彼と交戦した久宇舞弥。
|長距離《アウトレンジ》における黒鍵投擲。一投は予備動作含みコンマ三秒以下。連投はコンマ七秒以内に四本を確認。末視認標的に対しても支障なく攻撃。半霊体の刀身は鉄骨を貫く威力。的中率――幻術下になければ一〇〇%。
|近接戦《インファイト》における八極拳。詳細は不明だが達人の域。ナイフで武装した舞弥を一撃で重傷に。寸勁《すんけい》の破壊力は二打で生木を叩き折る。極めて危険。
全身を覆う僧衣に防弾加工、プラス|呪的防護処理《エンチャント》。9mmパラベラムでは貫通、及び衝撃による制圧効果ともに無し。
他方、事前の諜報の成果――遠坂時臣による魔道教練の成果報告によれば、言峰綺礼の魔術習熟度は見習い課程の終盤程度。際立った適性は霊体治療のみ。魔術戦闘において有効な手段があるとすれば、それは持ち前の戦闘技術に|肉体機能増幅《フィジカル・エンチャント》を上乗せされた場合だけと推察。
最後に、戦略予測。
これまで自らの手の内を徹底的に秘匿してきた衛宮切嗣の戦術について、言峰綺礼が分析材料を得ていたとしても、それは噂や伝聞の類に留まっていると見ていい。今回の聖杯戦争で切嗣が奥の手≠駆使したのは、対ロード・エルメロイ戦ただ一度限りであり、あの時点ではまだアインツベルン城の結界はアサシンの潜入すら阻む密度を備え、さらに綺礼本人もまた舞弥、アイリスフィールとの戦闘に拘《かかずら》っていた。結論として、綺礼には固有時制御と起源弾についての予備知識はなく、それに対処する手段の用意もないと判断して間違いない。
――以上が、最終対決に及ぶにあたって衛宮切嗣が参照しうる諸情報だった。
まず両者の初手は、黒鍵対銃弾。当然ながら綺礼が圧倒的に不利。だが得物の差を覆せるだけの魔術を恃《たの》みとするならば、綺礼は切嗣の銃口に怖じることなく間合いを詰める挙に出るだろう。
はたして代行者は六本の黒鍵を翼のように振りかざし、真正面から切嗣めがけて突進してくる。あれは間違いなくこちらの初弾を防ぐ策があってのことだ。
まさに切嗣の術中だった。対処されてこそ[#「対処されてこそ」に傍点]必殺必滅。それが彼の|礼装《コンテンダー》の放つ魔弾である。
先手の必勝を確信して、切嗣は狙い定めたコンテンダーを発砲する。その殺意、その予備動作から、弾道は綺礼に筒抜けだっただろう。聖堂教会代行者たる人型の修羅ともなれば、判断速度は銃弾のそれすら凌駕する。
目に見えてそれと解るほど盛大に、綺礼は魔術を発動させた。
両手に構えた黒鍵のすべてが、一気に刀身の太さを数倍にまで膨張させる。もともと魔力を編んで成形された半実体の刀身に、さらに法外の魔力を注ぎ込んで『強化』したのだ。武器そのものの許容量を明らかに逸した暴発同然の術行使だが、ただ一発の銃弾に処するだけならば事足りる。綺礼は肥大化した六本の剣を胸前で重ねて扇状に拡げ、・30-06スプリングフィールド弾の大破壊力を完全に封殺してのけた。
弾丸が凄烈な火花を散らして跳弾し、その直後、過剰な魔力の充填に耐えかねた黒鍵がすべて崩壊する。
刀剣で銃弾を凌いだ絶技も、だがその時点で敗着の悪手だ。魔術刻印すら持たぬはずの綺礼が、予想外の大技を力任せに行使したことに驚かされたとはいえ、それはよりいっそう致命的なフィードバックとなって綺礼の魔術回路を破壊するに至る。衛宮切嗣の起源≠ノ抵触したことで、綺礼の魔力は暴走し自らの肉体を瞬時に死滅させる――筈だった。
砕け散った六本の黒鍵の破片の中から、なおも猛然と迫りくる黒い僧衣姿の勢いに、切嗣は思わず瞠目《どうもく》する。
「|Time alter《固有時制御》――|double accel《二倍速》!」
当惑よりなお先んじて、脊髄《せきずい》反射が呪文を紡いだ。
間一髪、飛び退いた切嗣の鼻先を、轟然と振り上げられた綺礼の右※[#「足+(山/而)」Unicode U+8E39]|脚《たんきゃく》が掠め過ぎる。続けて放たれた追い打ちの左※[#「足+(山/而)」Unicode U+8E39]|脚《たんきゃく》も、切嗣の首を狩るには至らなかった。綺礼の会心の|連環腿《れんかんたい》が空を切るのみに終わったのは、ひとえに切嗣の倍速移動で間合いを幻惑されたが故だ。
まさに予想の範疇外だった、魔銃コンテンダーによる『起源弾』の不発――その理由に切嗣は思い至らず、その驚愕を綺礼は知り得ない。綺礼としても、まさか自身が手にした魔術の特異性が、期せずして切嗣の切り札を無効化しようなどとは、想像だにしなかっただろう。
そもそも正当な魔術師でなく、魔術回路の開発も充分でない綺礼は、付け焼き刃の魔術を行使するために、璃正から得た予備令呪を転用することで魔力源としていたのだ。もとより使い捨ての消耗品でしかないという令呪の特性が、結果として綺礼を救った。術が発動し、それと接触した起源弾が効果を発揮したときにはもう、魔力源たる令呪は既に綺礼の腕から消失した後だったのである。
初撃による必殺という目算を完全に狂わされた切嗣は、兎《と》にも角《かく》にも次手を講ずるしかなくなった。だが反撃は慮外だ。空振りに終わったとはいえ、綺礼の蹴り技の破滅的な威力は一目だけで瞭然だった。拳法家としてのこの男の手練は桁外れだ。近接戦に勝機はい。
切嗣は後に控える振り戻し≠フダメージを度外視し、固有時制御を発動したたままの状態で、一気に綺礼の攻撃圏内から離脱した。まずは距離を稼がねば話にならない。黒鍵の投擲ならばまだ処しようもある。もはや勝負は完全な間合い≠フ競り合いだった。切嗣は退き、綺礼は迫る。双方にとっての最善の攻撃位置が完全に食い違っている以上、明暗を分かつのは互いの脚力だ。
固有時制御による機動力こそが、切嗣の頼みの綱だった。まずはコンテンダーの弾丸を再装填するだけの隙がいる。そして相手の拳が届かず、かつ予測だけで弾道を躱わし得ないだけの近距離から、今度こそ確実に仕留める。たとえ魔弾としての効果がなくとも、大型猛獣すら屠《ほふ》る狩猟用カートリッジの貫通力ならば、舞弥の報告にあった防弾服であろうと凌《しの》げまい。固有時制御の連続行使が自殺行為だと解っていても、今は他に策などなかった。
だが――この時点でもまだ切嗣は、言峰綺礼という男の脅威について見誤っていた。
綺礼が蹴りを外したのは、あくまで切嗣の動作速度を見誤ったが故の間合いの読み違いでしかなく、決して切嗣の動きが捕捉し得ないほど速かったからではない。並の倍速で動くと解ったならば――そう|弁《わきま》えた上で間合いを見計るだけのこと。
故に切嗣は、たちどころに二度目の|驚愕《きょうがく》を味わわされる結果となった。
彼我の距離は五歩以上。まずは万全の安全圏と見なしたその間隙を、長身の代行者はわずか一歩で詰め寄ったのである。何の脚捌《あしさば》きも見せないままに地面を滑走してのけた『活歩』の歩法。まさに八極拳の秘門たる離れ技であった。
慄然となった切嗣の内懐に、僧衣の長身が死神の如く滑り込む。八極拳が最大効果を発揮する至近距離。その拳は、八方の極遠に達する威をもって敵門を打ち開く……
踏み込んだ震脚《しんきゃく》がコンクリートの床を雷鳴のように打ち鳴らし、繰り出された巌《いわお》の如き縦拳が、切嗣の胸板を直撃する。金剛八式、衝捶《しょうすい》の一撃。もはや胸元で手榴弾《しゅうりゅうだん》が炸裂したも同然の破壊力だった。吹き飛ばされた切嗣の身体は藁屑《わらくず》のように宙を舞い、林立する支柱のひとつに叩きつけられる。受け身など望むべくもなかった。鉄拳のクリーンヒットは一撃で胸郭を破壊し、肺と心臓をもろともに粗挽《あらび》き肉へと変えていたのだ。
固めた拳の先に確実な死の手応えを感じ取りながら、綺礼はゆっくりと吐気して残心する。一髪千鈞を引く生死の競り合いも、決するときは瞬時の刹那だ。虚しいといえば、あまりにも虚しい。この結末を、狂おしいまでに求めて待ち望んでいたはずなのに。
脱力感が、綺礼の注意力を鈍らせる。まさかその隙を狙いすました奇襲があろうとは思いもよらず、次なる驚愕を味わうのが自分の番だとは露知らず。
眉間《みけん》に激痛。迸る深紅が視野を覆う。
何が起こったのか理解するよりもまず、銃声を認識した両腕が頭をガードする。そこへ容赦なく浴びせられる9mm弾の雨。ケブラー繊維と防護呪符を重ねた両袖が、なんとか銃弾を凌いだものの、至近弾による脳震盪と、そして何より死体に撃たれたことの驚きが、綺礼を出遅れさせる。
切嗣にとっても自らの蘇生[#「蘇生」に傍点]は予想外だった。綺礼に踏み込まれた時点で免れようもない即死を観念したし、事実、彼の心肺器は完全に破壊され、断末魔の痙攣を残すのみの有様だったのだ。
だが、血流の途絶えた脳が酸欠死するまでの数秒間に、処置しようもないはずの重傷が完全再生を果たしていた。もちろん切嗣自身が行使した|治癒《ちゆ》魔術などではない。だがその奇跡に、切嗣は驚きこそすれ疑問を懐くことはなかった。何が起こったのかは即座に判断がついたからだ。
宝具『|全て遠き理想郷《アヴァロン》』――セイバー召喚の聖遺物としてアハト翁《おう》より託《たく》され、以来アイリスフィールの肉体を保護し続けてきた聖剣の鞘。老化すら阻む絶大な治癒能力を備えたそれを、切嗣は妻との別れに及んで託されていたのだ。セイバーの正規マスターである切嗣の体内に封入されたことで、『鞘』は契約のパスを通じてセイバーからの魔力を供給され、今まさに十全の効果を発揮していた。
その機能を知っていたとはいえ、実際に確認することのなかった切嗣は、まさか即死同然のダメージすら修復できるとは予想だにせず、この仕切り直しは彼にとっても想定外の展開だった。むしろ蘇生を自覚したその直後に、綺礼を欺《あざむ》く戦略を思い立った切嗣の思考こそ驚嘆に催しただろう。彼は目を開けることも、呼吸の再開に咳《せ》き込むことも堪えて、死体を装ったまま奇襲のチャンスを窺っていたのだ。
惜しむらくは、右手のコンテンダーが再|装填《そうてん》を要する状態だったことに尽きる。完全な不意打ちを仕掛けようと思うなら、懐のホルスターに収まったキャレコ短機関銃で、左手による|抜き撃ち《クイックドロウ》を仕掛けるしか他になかった。しかも綺礼の防弾対策が万全な以上、狙えるのは頭しかない。
無理な姿勢、勘任せの曲撃ち、そして小さい標的という三重苦が、射撃の名手たる切嗣をして必殺を逃させた。弾丸は命中したものの綺礼の脳天を貫通はせず、額の皮を抉《えぐ》り取るだけに留まった。曲面で構成された頭蓋骨《ずがいこつ》に対しては、銃弾が有効角度を逸れることがままある。実戦射撃における原則としてヘッドショットが忌避《きひ》される由縁《ゆえん》だ。
仕留め損ねたと悟った時点で、切嗣はキャレコのセレクターをフルオートに切り替え、間髪入れず制圧射撃で綺礼の動きを封じ込める。同時に右手の指はコンテンダーのスプールを引き、銃身を振り下ろして空|薬莢《やっきょう》を排出していた。暴れ馬のように荒れ狂う|短機関銃《サブマシンガン》の反動を、左手一本で御すだけでも至難の業だというのに、さらに切嗣の右手はまったく別の作業を滞《とどこお》りなく遂行できた。まさに自らを戦闘機械たらしめる鍛錬《たんれん》の成せる技である。
加えてさらに精神は、まるで左右どちらの腕とも別系統の回路であるかのように、極限の集中力をもって秘策たる呪文を詠唱する。
「|Time alter《固有時制御》――|double accel《二倍速》!」
変革される体内時間。強敵から盗み取った僅かな隙を最大限に活用し尽くすために、条理を捻じ曲げ、骨身を削る。
加速に燃え上がる四肢《しし》を駆使して、床から跳ね起き、さらにバックステップで距離を取る。キャレコの弾が切れた。綺礼が体勢を立て直す。キャレコを棄てて空いた左手に・30-06弾を掴む。迫る綺礼。凄まじい速さ――開けたままのコンテンダーの薬室に次弾を装填。薬室閉鎖。照準――
綺礼は拳打にまだ三歩遠い。
再度、怒号するコンテンダー。綺礼の回避は間に合わない。黒鍵を抜く猶予もない。
もとより綺礼には躱《か》わす気がなかった。
歩法を駆使して切嗣に追いすがりながら、綺礼もまた令呪を発動させている。体機能強化――反射の加速、右手屈筋、橈骨筋《とうこつきん》、回内筋の瞬発力増幅。防弾僧衣の袖の強化までは間に合わない。あとは身に積んだ|功夫《クンフー》に託すのみ。
コンテンダーの撃発に先んじて、綺礼もまた右腕を振りかざす。魔装の凶器と化していた肘先が螺旋《らせん》を描き、竜巻を生まんばかりの勢いで唸りを上げる。
いちかばちかの『纏《てん》』の化勁《かけい》だった。本来ならば敵の拳を巻き取って流すだけの受け技を、令呪二画ぶんの魔力を注ぎ込んだ超速で揮ったのである。
初速毎秒二五〇〇フィートの弾丸を、神速で閃いた腕が絡め取る。それでもなおケブラー繊維の袖を焼き裂きながらも直進する・30-06弾は、硬化した腕と鎬《しのぎ》を削ってグラインダーの如き怪音を発する。
飛び散った火花は、まさに物理法則の断末魔。そしてついに約三〇〇〇フットポンドに及ぶ運動エネルギーは、魔道の超常に屈服した。弾道を捻じ曲げられてあらぬ方向に飛び去ったコンテンダーの第二射に、切嗣は背筋を凍らせる。
怪物――もはやそう形容するしか他にない。今の言峰綺礼の戦闘能力は単身で死徒にも匹敵するのではないか。一体どのような執念が、生身の人間をここまでの凶器に錬磨しうるのか。
不意に襲いかかる激痛に切嗣は呻き、よろめいた。体内で連続して改竄《かいざん》され続けてきた時間の流れが、ついに外界の修正を余儀なくされたのだ。全身いたる所で血管が破断し、本来有り得ないはずの負荷に晒されてきた四肢の骨に、次々と亀裂が生じる。
だが綺礼の方も、そんな切嗣の隙に付け入ることなく、出方を窺うかのように動きを止めていた。引き裂かれた僧衣の右腕からは、おびただしい血が滴《したた》っている。なまじ術の扱いが未熟なままに過度の魔力を行使したせいだろう。コンテンダーの一撃を受け流した代償として、限度を超えた強化魔術に晒された右腕は、重篤なダメージを負っていた。
二人は互いに次の一手を仕掛けるタイミングを見計って睨《にら》み合いながら、戦局を推し量る。
綺礼の分析する切嗣の手の内――行動を加速する何らかの魔術、さらに心臓を破壊されても即時再生するほどの回復力。ならば、たとえ致命傷を見込める急所であろうとも徒《いたづら》な攻撃は無効と|弁《わきま》えるしかない。脳を瞬時に破壊できるだけの一撃だけしか、決着は見込めない。対する自身の損耗……右腕は腱から骨まで至る破損。拳を砕く覚悟で揮ったとしても一撃が限度。また額の裂傷は軽微だが、流れ出た血で左目を封じられている。立て続けの銃撃で僧衣の防弾性はかなり削《そ》がれたものの、裏地に貼った防護呪符はまだ健在。黒鍵の残数は一二本。予備令呪は残り八画。
切嗣の分析する綺礼の手の内――起源弾を無力化しつつ発揮できる不可解な魔力行使。絶招を極めた八極拳。近接戦闘ではこちらが圧倒的に不利。対する自身の損耗……キャレコ喪失。コンテンダーは要再装填。残る武装はナイフ一本と手榴弾二つ。初撃で受けた胸の傷は、どうやら行動に支障ないレベルで治癒した様子だが、固有時制御によるダメージ――
手足の腱に探りを入れようと力を込めて、ようやく切嗣は違和感に気付く。
動く。十全に動く。ついさっき確かに砕けた骨が軋み一つ上げない。まるで何の損傷もないかのように――否、ただ痛みの残滓があるだけで、ダメージはまったく皆無[#「まったく皆無」に傍点]だ。
……成る程な
自らが体内に秘めた切り札の真価を、今になって切嗣は理解した。どうやら『|全て遠き理想郷《アヴァロン》』の治癒能力は、敵からの攻撃だけでなく自傷に対しても有効らしい。この発見は、桁外れの強敵と対峙して窮地にある切嗣にとって、最大の活路となり得る。
即ち――
「|Time alter《固有時制御》・|triple accel《三倍速》!」
禁断の呪言を紡ぐとともに、切嗣は敢然と綺礼に躍りかかる。予想域を遥かに超えた加速に、綺礼が応じる手を誤った。ハンマーのように振り下ろされたコンテンダーの銃床を、つい傷ついた右腕で防御してしまう。硬い胡桃材の一撃は撓骨と尺骨をもろともに粉砕し、今度こそ完全に綺礼の右腕を封殺した。
右腕で殴りかかると同時に、切嗣の左手は腰の鞘からサバイバルナイフを引き抜いていた。いかに綺礼の拳法が脅威だろうと、三倍速で畳みかければ勝機はあると踏んだのだ。本来なら自殺行為に等しい固有時制御の濫用《らんよう》だが、セイバーの鞘の護りがある今、これは戦術として充分に有効だ。
鞘を払いざまの突き上げは避けられた。そこから振り下ろした斬撃と、返す刃での横薙ぎは、左腕で阻まれる。だがこの三手のうちに切嗣は綺礼の左外へと踏み込んでいた。綺礼が左目の視野を失っていることを見込んでの策だ。左へと回り込み続ける限り、切嗣は相手の死角から存分に仕掛けられる。
迫り来る切嗣の刃に、だがしかし綺礼は体を巡らすことなく、すべて左半身で応じにかかった。どのみち転身は意味がない。折れた右腕では切嗣のナイフを捌くことなど不可能だ。綺礼は死角を衝かれる不利をやむなしとした上で、敢えて左で戦うしかない。
立て続けに閃くナイフの連撃。もはや常人では視認すらできず、稲妻じみた残像だけを目にするしかないそれを、綺礼は悉《ことごと》く左手で防ぎ、受け流した。三倍速のスピードにすら食い下がって対処する綺礼の手練に、切嗣は戦慄する。うち数撃は明らかに視野の外から斬りつけたというのに、代行者の左腕はまるで見えているかのように確実に切嗣のナイフを防ぎ通す。
さては――『聴勁《ちょうけい》』ッ!?
切嗣も聞き及んだ憶えだけはあった。功夫も達人の域になると、視覚で敵を捉えることなく、腕と腕とが触れあった刹那に相手の次の動作を読み取ることが可能だと。
だとすれば死角を攻めても意味がない。攻撃をブロックされ続ける限り、綺礼には目が見えているも同然だ。この男の積み上げた功夫は、もはや速さの優位だけで覆すことなど不可能なのか。
ナイフを振るう一撃ごとに、腕が、脚が、心臓が、猛烈な痛みで悲鳴を上げる。固有時制御の振り戻し≠ェ容赦なく切嗣の肉体を崩壊させ、それと同時に『|全て遠き理想郷《アヴァロン》』が損壊を修復していく。セイバー本人が使用すればいざ知らず、切嗣の体内で鞘≠ェ発揮しうるのはあくまで治癒効果だけであり、負わされたダメージ≠サのものを無効化する防護の役は果たさない。肉が避け、骨が砕ける激痛は、終わることなく連続して切嗣の神経を蹂躙《じゅうりん》し続ける。
だがそれでも切嗣は躊躇しない。する必要などない。身体が機能を維持し続けるなら、何を感じようが問題外だ。聖剣の鞘の効果に全てを託し、切嗣はどこまでも外界の時間を裏切って自らを加速し続ける。
「うおおぉぁぁぁぁッ!!」
死に続けながら蘇生し続け、その痛みに絶叫しながらも、切嗣は目の前の敵だけを見据えてナイフを振るう。破れては閉じる血管が、一挙手一投足ごとに降り撒いた血飛沫を霧と散らす。
ふいに綺礼が足を踏み換え、左前の構えを反転させた。ついに聴勁の限界かと思いきや、その足が内側から切嗣の前足に絡みつく。鮮やかな『鎖歩《さほ》』の足捌きによって、切嗣はまんまと体勢を崩された。転倒を免れようと踏み止まれば、間違いなく綺礼のカウンターが来る。だが後ろに反った重心はもう取り戻しょうがない。
ならば――吐血の絡んだ喉の奥から、切嗣はさらなる詠唱《えいしょう》を放つ。
「|Time alter《固有時制御》・|square accel《四倍速》ッ!」
激痛の炸裂に意識を沸騰《ふっとう》させながら、切嗣の身体が地を蹴って反り返る。そのまま空中で背転し、綺礼の間合いから逃れ出ながら、揮身の力で左手のナイフを投擲。まさか予想だにしなかった再々加速に、綺礼は聴勁をもってしても飛来するナイフを躱わせなかった。唸りを上げて飛んだ刃の切っ先は綺礼の太腿を直撃し、ケブラー繊維を切り裂いて深々と肉を抉る。
切嗣は四倍加速を維持したままスクリューのように猛然と倒立背転を繰り返し、一瞬のうちに一〇メートル余りも離脱した。逃すまじと引き抜きざまの黒鍵を投じる綺礼。だが切嗣はそれを難なく避けながら、コンテンダーの再装填を開始する。
スプールを引く。銃身を落とす。
綺礼が馳せる。左脚に突き刺さったままのナイフを意に介さず、刃がさらに傷を挟り拡げるのにも躊躇せず。
弾き出された空薬莢が宙に舞う。真論の輝きが目に焼き付く。
綺礼の左手が黒鍵を抜いた。まとめて四本。片手で扱える限界数。
新たな弾丸を薬室へ。滑らかに滑り込むその速度すら、四倍に加速された時間の中ではもどかしい。
綺礼が黒剣を投げた。正面ではなく上へ。大道具倉庫の高い天井の下で、ブーメランのように旋転しながら宙を舞う四本の刃。黒鍵本来の用途ではない。意図は不明。もはや察する暇すらない。
銃身を振り上げ、薬室を閉鎖。ふたたび獰猛無比の凶器としての役目を取り戻すコンテンダー。
迫る綺礼。秘門歩法であれば再び切嗣を捕捉しうる距離。だがそこまでだ。今の切嗣ならばさらに身を躱わし、綺礼の踏み込みを避けながら銃撃することができる。
頭上より落下する黒鍵の刃。その放物線が鳥籠のように自分の左右背後を囲っていると気付き、ようやく切嗣は綺礼の策を知る。
動きを縫われた[#「縫われた」に傍点]――綺礼の突進を避けようとすれば、動いた先には黒鍵の刃が待っている。綺礼は最初から切嗣の移動を封殺する意図で黒鍵を投げていたのだ。
活路は唯一。打たれる前に撃つのみ。
切嗣がコンテンダーを照準する。焦りもない。怯えもない。ただ眼前の敵を撃ち抜く一念だけがある。
綺礼が右脚で床を蹴って跳躍する。一踏みで五歩を渡る箭疾歩《せんしっぽ》。着地と同時に左脚は砕けるだろうが問題ない。次の一撃で勝負を決める。容赦なく揮身の震脚すら決める覚悟であった。狙うは|八大招《はちだいしょう》・|立地通天炮《りっちつうてんほう》。顎下から突き上げる一撃は、今度こそ相手の頭蓋を打ち砕くだろう。
殺《と》った――双方が共に確信する。
殺《と》られた――双方が同時に理解する。
共に必殺を確約された拳と銃身とが、いま最後の交錯を果たす。
死線の際にいた衛宮切嗣と言峰綺礼は、上階での異変など気付く由もなかった。
彼らがいた大道具倉庫の直上、コンサートホールの舞台。そこに冷え切ったまま安置されたアイリスフィールの遺体。
護り手≠スる彼女が生命活動を停止したことで、体内の臓器はいち早く聖杯の器としての形態を取り戻し、残るサーヴァントの魂の回収を待ち受けていた。
その器が、アーチャーの勝利によって、とうとう四休目のサーヴァントの魂を汲み上げる。
既に封印の術式はなく、膨大な魔力の集積は、その余波だけで周囲に灼熱《しゃくねつ》をもたらした。
美しいホムンクルスの亡骸《なきがら》が、瞬時に燃焼して灰に帰す。それだけでは収まらず、ついに外気に触れた黄金の杯は、床を焦がし、緞帳《どんちょう》を焦がし、炎の渦で無人の舞台を席巻する。
見る間に炎上する舞台の上で、黄金の器は、まるで見えざる手に掲げ上げられたかの如く中空に浮いていた。ついに『始まりの御三家』が悲願した聖杯降臨の儀式が、祭司すら不在のまま、人知れず開始されたのである。
そして――未だ閉ざされたままであるはずの門≠ノ、ほんの僅かな、毛筋はどの罅に似た間隙が生じた。その極小の隙間から、門≠フ向こう側に波打つモノ[#「モノ」に傍点]が器の中へと滲み出る。
ソレ[#「ソレ」に傍点]は、ただ泥≠ニしか形容できなかった。黒い、ただひたすらにドス黒い、泥のような何か≠セった。
滲んだ後から一滴がしたたる。一滴の後から一条が伝う。あとは亀裂から堰《せき》が破れるかの如くであった。見る間に黒い泥の奔流は器の中から溢れ出て、舞台の床へと降り注ぐ。
その黒すぎるモノ[#「モノ」に傍点]を受け止めうるだけの強度など、床板は備えていなかった。泥は真新しい建材を浸食し、蝕み、綿雪を溶かす雨のように深く深く流れ込んでいった。
魔銃の銃爪《ひきがね》が引き絞られるその瞬間――
震脚に床が踏み鳴らされるその瞬間――
切嗣は綺礼しか見ていなかった。綺礼は切嗣しか見ていなかった。
両者はともに最後まで、やおら天井に穴を穿って上階から流れ落ちてきたモノ[#「モノ」に傍点]に気付かなかった。
生と死が擦れ違うその剃那、二人の男はもろともに、頭上から降り注ぐ黒い泥を満身に浴びていた。
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-03:52:18
もはや、痛みだけが認識できる全てだった。
間桐雁夜という人間が痛みを感じているのか、それとも痛みという概念に雁夜というゴミが付着しているのか、その区別すらおぼつかなかった。どちらでもいいような気がした。
何がどう痛いのか、一体どうしてこんな苦痛を味わっているのか、そういった因果すら判然としない。
呼吸が痛い。心拍が痛い。考えるのが痛い。何かを思い出すのが痛い。
逃げ場所はなかった。耐える術もなかった。以前はあったような気がするが、見失った。自ら棄ててしまったのかもしれない。
身体の中で蟲が哭《な》く。蟲どもが苦しみに身をよじる。彼を苦しめていた元凶だった筈のモノたちまでもが断末魔の痙攣をしている。
バーサーカー。きっとあの黒い怨霊のせいだろう。今バーサーカーは戦っている。マスターが供給できる魔力量をはるかに逸脱して暴走している。蟲たちは精製できる限度を超えた魔力を吸い上げられて悶絶し、苦しみにのたうち回ることで、雁夜の臓腑を掻き回し、捩じ曲げている。
だがそれは、仕方がないのだ。そうするしかないのだ。
バーサーカーは戦わなければならない。そうあの神父が言っていた。誰だったかもう名前も忘れたが、ともかく約束してくれたのだ。雁夜に聖杯を渡すと。だから戦い続けねばならないと。
聖杯――今はもうそれだけが、雁夜の中で意味を持つすべてだ。
聖杯さえ獲れば戦いは終わる。聖杯さえあれば桜が救える。
そのために今日まで耐えてきた。ずっとずっと痛みに耐えてきた。
他にも何かあった気がするが、思い出そうとするとあまりにも痛む。きっと、考えてはいけない理由《ワケ》があるのだろう。
ここが何処なのかもよく解らない。冷たい闇の中にいた筈なのに、今は妙に熱くて、息苦しい。何かが焦げたような匂いがする。それはもしかしたら自分の身体なのかもしれないが、どうでもいい。どうせもう身体など動かせない。いま大事なのはバーサーカーが戦うことだ。そして桜が救われることだ。
桜――ああ、もう一度、逢いたい。あの子の顔が見たい。
でも凜は駄目だ。あの子には逢えない。もう二度と顔向けできない。――いや、何故だ?
考えるだけで痛みが襲う。脳が、意識が、魂が軋む。
何かがおかしい。どこかで、致命的なほどに大事な事柄が壊れている。破綻《はたん》している。
そんな違和感に囚《とら》われたのも束の間、雁夜の思考は、再びまた絶え間ない苦痛の渦へと呑み込まれていく。
痛い――
どこまでも、ただ痛い。苦しい――
もう幾度、吹き飛ばされて宙に浮いたのか。
もう幾度、無様に床に叩き伏せられたのか。
セイバーは既に数えるのを止めた。もう憶えてすらいなかった。
最優の剣のサーヴァントなどと、誰が烏滸《おこ》がましく謳《うた》ったか――今の彼女は、荒波に翻弄《ほんろう》される小舟も同然だった。バーサーカーが振りかざす漆黒の剣に、ただ為す術もなく叩きのめされ、打ち据えられるばかりの繰り返し。反撃ひとつできなかった。挑む気にさえなれなかった。絶望に沈んだ彼女の胸には、既に一片の戦意すら残っていなかった。かつて龍の化身とまで讃えられた騎士王の勇姿とは程遠い、それはあまりにも無惨で哀れな有様だった。
アイリスフィールを救うはずだった。共に聖杯を掴むと誓っていた。ここで膝を屈するわけにはいかないのだと、充分に解っていたはずだった。
だが、勝てない。あの男には、あの剣には、決して勝てる道理がない。
『|無毀なる湖光《アロンダイト》』――アーサー王の『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』と対を成す、人類《ヒト》が精霊より委ねられた至高の宝剣。
それが漆黒に染まっている。怨念の魔力にまみれた、|狂戦士《バーサーカー》の剣に堕している。
彼こそは、類い希《まれ》なる人徳と無双の武練を兼ね備えた『完璧なる騎士』のはずだった。騎士道の峻厳《しゅんげん》なる峰に咲いた華。その姿、その在り方は、同じ道を志すすべての者たちの宝だった。
それが狂乱に身を委ねている。紅い双眸に憎しみを滾らせ、獣のように吼え猛りながら。
貴様が憎い、と。
貴様を呪う、と。
剥き出しの感情を込めて振り下ろされるあの剣を、どうして躱わすことができただろう。
正視できなかった。涙に目が曇り、失意に脚が萎えていた。せめて致命傷の直撃を避けようと寸前で身を|庇《かば》うことだけが、今のセイバーには精一杯だった。
サー・ランスロット。湖の騎士。
その真名を見破る手がかりは、思えば随所にあったのだ。
友の名誉のために名を秘して馬上試合に臨むべく、扮装で姿を偽った逸話。罠に落ちて武器を奪われ、丸腰のまま敵刃に迫られても、楡の木の枝だけを手に執って勝利した無窮の武練。
だがたとえ察しが及んだとしても、セイバーは頑として認めなかっただろう。誰もが賛礼し憧憬した彼が、バーサーカーという|座《クラス》に貶められるなど――まさかその適正を『湖の騎士』が持ち合わすなどとは。
朋友と信じていた。たとえ致し方ない経緯から矛を交えるに至ったとしても、心根だけは通じ合っているものと思っていた。方や騎士道の体現者たる臣であり、方や騎士道の守護者たる王だったのだ。
だが、そんな絆は、彼女一人の甘えた幻想に過ぎなかったのか。
彼は赦してなどいなかった。受け入れてなどいなかった。あの結末を、あの悲運を、死してなお恨み呪っていたのだ。
ランスロットとギネヴィアの恋――是非もないその不義を、だがアルトリアは背信とは見なさなかった。すべては、王が性別を偽ったが故の歪みから生じたことなのだ。その矛盾を、生涯に渡って一身に背負い続けなければならなかったのがギネヴィアだった。
その犠牲の重さをアルトリアは理解していたし、感謝していた。負い目でもあった。むしろ相手がランスロットであったことに安堵すら懐いたほどだ。王と理想を共にする彼ならば、国体を危機に晒すことなく、責任を分かち合ってくれるものと信じた。事実、彼はそうしてくれた。正道を踏み外す苦悩に身を焦がしつつ、影ながらギネヴィアを支え、王を支えてくれた。
それが醜聞《しゅうぶん》として暴露され、二人が袂を分かつしか他になくなったのも、キャメロットに仇なす叛徒の企みがあってのことだ。ランスロットは愛する女を見殺しにできず、アルトリアは王の責務としてそれを断罪するしかなくなった。
誰も間違ってなどいなかった。誰もが正しく在ろうとしたが故の悲劇だった。
そう思えばこそアルトリアは、最後まで『王』として胸を張って戦えたのだ。
そしてついに、あの丘の上に取り残されて、血染めの戦場を見渡したときも、その結末を肯《がえ》んぜぬ理不尽と、天に向かって糾すことができた。
正しい道を貫いて、正しい結末に至らぬとしたら、齟齬があったのは天の運気だと。
ならば願望器の奇跡さえあれば、その運命は覆せると。
そう信じればこそ誇りを貫けた。そう信じればこそ戦えた。
だが――
「■■■■■■■■■■■■■■ッ!!」
飽くことなく叩きつけられる『|無毀なる湖光《アロンダイト》』の猛攻に、セイバーの聖剣が軋みを上げる。勝利を約束されたはずの光の剣は、だが戦意を見失った主の手の中にあって、その意義をまったく無為にしていた。何の反撃もできず防戦に徹するセイバーを、どこまでも呵責《かしゃく》なく責め苛むバーサーカー。彼の騎士たる本懐を解き放つ銘剣が抜き放たれた今、その技の冴えと威力は以前の比ではない。もし仮にセイバーが万全だったとしても、果たしてその剣圧に括抗《きっこう》し得たかどうか。
だが、相手の剣の猛威に軋み、痺れる手足の痛みも、今のセイバーの意中にはない。そんなものより数段勝るほど無惨で容赦ない打擲が、彼女の|精神《こころ》を砕きにかかっている。
あぁ、友よ……これが貴方の本心なのか?
そこまで運命に絶望していたのか? それをもたらした王を、その国体を、憎悪し呪っていたというのか?
同じ理想を懐いた筈だった。共に国を救おうと身命を賭した。
その志に差異がなかったならば、なぜこんな憎しみが、後悔が残るのか。
――救うばかりで導かなかった――
違う。違うと言ってほしい。
ランスロット、貴方《あなた》にだけは解ってほしかった。貴方こそが理想の騎士だったのだから。
私の在り方を正しいと、是非もないと頷いてほしかった……
――道を見失った臣下を捨て置いて、自分だけが聖者であろうとした――
「やめろぉッ!!」
唸りを上げる黒い剣に、崩れかけた意地で抗いながら、セイバーは声の限りに叫んだ。
「……やめて、くれ……頼む……」
嗚咽に震える膝が、床に落ちる。
もう動けない。限界だった。次の一撃は防御すらできない。
或いは、救いはそこにしかないのかもしれない。
そんなにも悔やまれ、遺恨だったというのなら――振り下ろされたその刃を、ただ受け止めて血を散らすしか、償う術《すべ》はないのかもしれない。
そんな自失と諦観を、あわやセイバーが受け入れかかってしまったそのとき、不意にバーサーカーが動きを止めた。
セイバーも、そしてバーサーカーも知る由《よし》もなかったが、遡《さかのぼ》ること数十秒前、地下駐車場に隣接する機械室に潜伏していた間桐雁夜の体内で、ついに刻印虫がその機能を停止していたのだ。狂化したサーヴァントの現界を維持するために、ただでさえ限界ぎりぎりまで雁夜から吸い上げられていた魔力量が、最終宝具の解放に伴ってさらに倍化し、ついに過負荷によって刻印虫を圧殺したのである。
そして、本来ならばマスター不在でも数時間は現界を存続できるはすの予備魔力を、暴走状態だったバーサーカーは、僅か十秒あまりのうちに使い尽くしてしまった。その瞬間まで彼を殺戮機械として駆動させていた魔力が、唐突に枯渇《こかつ》したせいで、バーサーカーはまるで故障したかのように急停止を余儀なくされた。
何の前触れもなく訪れた静寂の中、セイバーは、潰えゆくバーサーカーの心臓の鼓動をはっきりとその手に感じ取っていた。握り締めた剣柄越しに、黒い甲冑を深々と背中まで貫通した愛剣の刃を介して。 かくも皮肉な決着の形を、いったい誰が予想し得たか。
僅かな間隙に勝ちを拾った、その浅ましいまでの貪欲《どんよく》さに、他でもないセイバー自身が恥じ入り、泣いていた。
斬れる道理がないと、その手にかけていいわけがないと思っていた相手すら、斬ってしまった。もはや彼女もまた、妄執の|虜《とりこ》――かつてディルムッドが末期に罵った通り、数多の屍を踏み越えてなお願望機の奇跡を欲するしかない。それが今のセイバーの偽らざる姿だったのだ。
「……それでも私は、聖杯を獲る」
震える籠手に涙の粒が散り、剣先から伝い落ちるバーサーカーの血糊と混ざり合う。
「そうでなければ、友よ……そうでもしなければ、私は何一つ貴方に償《つぐな》えない」
「――困った御方だ。この期に及んでなお、そのような理由で剣を執るのですか」
懐かしい声がした。
見上げれば、騎士は過日そのままの、凪いだ潮水の如く静かな、穏やかな眼差しで、泣き崩れる王を見守っていた。サーヴァントとしての契約が破棄され、今まさに消滅せんとする間際、彼は狂化の呪いからも解放されたのだ。
「ランスロット……」
「……ええ、忝《かたじけな》い。だが私も、こういう形でしか想いを遂げられなかったのでしょう……」
我が身を貫いた剣をまるで慈しむように見つめながら、ランスロットは苦笑して、続ける。
「私は……貴方の手で、裁かれたかった。王よ……他の誰でもない、貴方自身の怒りによって、我が身の罪を問われたかった……」
裏切りの騎士、円卓の破綻の元凶と呼ばれた彼を、ついに最後まで苛むことなく見過ごした唯一の友に向けて、ランスロットは切々と訴える。
「貴方に裁かれていたならば……貴方に償いを求められていたならば……きっとこんな私でも、贖罪《しょくざい》を信じて……いつか私自身を赦すための道を、探し求めることができたでしょう。……王妃もまた、そうだったはずだ……」
それこそが――王《とも》と同じ理想を胸に抱きながら、その理想に殉ずるにはあまりにも人間《ヒト》として弱すぎた、ある男と女の後悔だった。
そして二人は、ついに救いを得ることなく生涯を終えた。誰よりも貴い人を裏切ってしまったという自責を、終生、その胸に抱いたままで。
その無念は、果たして誰に訴えるべきだったのか。誰が誰を、どう責めればよかったというのか。
深く息をついて、ゆっくりと身体の強張《こわば》りを解きながら、ランスロットは騎士王の腕の中に倒れ込む。受け止めたその身体の軽さに、セイバーは喉を詰まらせた。消えゆくサーヴァントの肉体には、もはや現《うつつ》の重さなどろくに残っていなかった。
「こんな歪んだ形とはいえ、最後に貴方の胸を借りられた……」
微睡みの中で夢を見るかのように、湖の騎士は穏やかに呟き、嘆息する。
「王の腕に抱かれて、王に看取られながら逝くなど……はは、この私が、まるで……忠節の騎士だったかのようではありませぬか……」
「何を――貴方は――」
焦燥がセイバーを急かす。彼が消えてしまう前に、告げなければならない想いがあった。聞き届けてほしい言葉があった。
まるで≠ナはなくまさに≠セと。
まさに貴方こそは忠節の騎士だったと。国に、王に捧げられたその剣の尊さを、誰よりも私が知っていたのだと。
だからこそ見過ごしたのだ。たとえ禁断の過ちといえど、そんなものでは決して覆せないほどの恩義ある人たちだったのだから。
辱《はずかし》めたくなかった。失いたくなかった。そう願えばこそ目を瞑り、その罪の在処を否定したのだと。
それはアルトリアの偽らざる想いであり、そして――決してかの騎士の救いとはならない言葉だった。
眠るように目を閉ざし、力尽きた騎士の亡骸は存在を失っていく。その残滓にすがりつきながら、それでもセイバーは胸の内を言葉にできない。
「ランスロット、だって、貴方は……ッ!」
貴方は咎人《とかびと》などではないと――そう言い聞かせることに何の意味があるのか。
誰が彼の罪を否定しようども、誰よりもその罪を赦せないと糾しているのは、他ならぬ彼自身だというのに。
なぜ、その孤独な想いを察してやれなかったのか。あまりにも高潔すぎた騎士の魂を、狂気に至るほどの自責から解放してやれなかったのか。
――王は、人の気持ちが分からない――
円卓を去る間際に残された、あれは――いったい誰の言葉だったか。
ついに報われることのなかった騎士の亡骸が、最後の残光とともに、消え失せる。
「――待て……待って、くれ……ランス――」
重みを失った腕の中の、どこまでも空っぽな空白を見つめながら、セイバーは嗚咽にわなないた。
声すらも出ない。一声すら自分に許せない。忠君の最後の瞬間にさえ満足な言葉を与えてやれなかった自分を、今さらどんな言い訳で慰めろというのか。
王たらば、孤高であるしかない――
そう自らに言い聞かせ、ただ救国の道ばかりを探し求めながら、いったい自分は、どれほど多くの者たちの想いを、苦悩を、見過ごしてきたのだろうか。
忠勇のうちに散ったガウェインは、使命に殉じたギャラハッドは、その最期に何を胸に懐いたのか。彼らはもしや、至らぬ王を戴いたことを後悔し、未練を残しながら果てたのではないか。そうではないとなぜ言い切れるのか。
声にならない慟哭を張り上げる。悔恨は千の鏃《やじり》になって胸の内に突き刺さる。
もし、王としての自分の在り方が違ったならば――
或いは、破滅とは別の結末があったのか? 誰もが救われた筈なのか?
「……まだだ……」
涙に掠れた喉から漏れる――常勝の王としての執念の声。
「まだ償える……まだ、間に合う……私には聖杯がある。運命を覆す奇跡がある……」
勝利の剣に縋りつき、立ち上がる。
人の心を汲めずとも、孤高の王と罵られようとも、そんな是非など二の次でいい。
それでもこの手が勝ち取った勝利を、故郷に、臣民にもたらし得るならば――それこそが、彼女が王≠ニしての自身に課した機能の全てだ。
この手に聖杯さえ掴めれば、すべて償える。精算できる。
今はもう、それだけが、王としての道を選んだ彼女のすべて。
満身|創痍《そうい》の身体を引きずるようにして、セイバーは歩き始めた。
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殺し続けた。
銃弾で。ナイフで、毒で、爆弾で。
貫いた。切り裂いた。燃やした。沈めた。押し潰した。
一度としてその意味を疑わず、その価値を慎重に推し量り、天秤《てんびん》の傾いた方を救うべく、もう一方を空にするべく、殺した。殺して殺して殺し続けた。
そう、それは正しい。多くを救うべく、犠牲を認める。増えた不幸の数よりも、守られた幸福の数が勝るなら、世界はほんの少しだけ救済に近づくはずではないか。
たとえ足下に、おびただしい数の屍が積み重なっていたとしても。
それで救われた命があるなら。守られた数こそが貴いはずだ。
「――そうよ、切嗣。あなたは正しい」
ふと見ると、傍らに妻がいた。優しい慈愛に満ちた笑顔で彼の傍らに寄り添っている。切嗣の隣で、ともに屍の山の上に佇んで。
「きっと来てくれると思ってた。あなたなら、ここに辿り着けると信じてた」
「アイリ――」
懐かしく愛おしい顔。にも拘わらず何かが気にかかる。
見たこともない黒いドレスのせいか。それもある。だがもっと重要なことを見過ごしている気がしてならない。
そうだ、セイバーはどうなったのか? 残る三組の敵はどうなったのか? 言峰綺礼はどうなったのか? 疑問が、あまりにも多すぎる。いったい何から訊けばいい? 仕方なく切嗣は、まず最初に思い当たった疑問を口にした。
「ここは――どこだ?」
「ここはあなたの願いが叶う場所。あなたが求めた聖杯の、内側よ」
歓迎の笑顔で答えるアイリスフィール。切嗣は言葉を失い、辺りを見回す。
脈動する海の如き黒い泥。
朽ち果てた屍が、そこかしこに山を成しては沈んでいく。
空は赤い。血のように赤い。黒い泥の雨が降る中、漆黒の太陽が天上を支えている。
吹き渡る風は、呪いと怨嗟。
言葉に喩えようとするならば、ここは――地獄でなく何なのか?
「これが……聖杯だって?」
「そうよ。でも怖がらなくていい。コレはまだ形のない夢のようなものだから。まだ産まれ落ちるのを待っているだけ」
ほら、あそこ――と、アイリスフィールが空を指差す。黒々と空に渦を巻くそれ、始め太陽かと見紛ったこの世界の中心は、天上に穿たれた|孔《あな》≠セった。底抜けに深く重い闇を湛えた、孔。全てを押し潰すかのような超質量。
「アレが、聖杯。まだ形を得ていないけれど、もう器は充分に満たされてるわ。あとは祈りを告げるだけでいい。どんな願いを託されるにせよ、それを成就させるに相応しい姿を選び取る。そうやって現世での姿と形を得ることで、アレは初めて外≠ノ出て行くことができるの」
「……」
「さぁ、だからお願い。早くアレに|容《かたち》≠与えてあげて。あなたこそ、アレの在り方を定義するに相応しい人間よ。切嗣、聖杯に願いを告げて」
切嗣は言葉もなく、そのおぞましい孔≠眺めた。
あそこにあるものは、断じて、まともな神経の人間が許容できるモノではない。なのにどうしてアイリスフィールは平然と笑っていられるのか。そう、その笑顔こそが最大の違和感だ。
なぜなら――
「……お前は、誰だ?」
畏怖の念を怒りで押し殺しつつ、切嗣は目の前の妻に向けて問うた。
「聖杯の準備が整ったなら、アイリスフィールは既にもう亡い[#「既にもう亡い」に傍点]はずだ。だとしたら貴様は、いったい何者だ?」
「私は、アイリスフィール。そう思ってくれて何の問題もないのよ」
切嗣は右手の魔銃――綺礼と戦っていた時そのままに握り締めていたコンテンダーの銃口を、相手につきつけた。
「はぐらかすな。答えろ!」
殺意の銃口を前にして、黒いドレスの女は、ただ寂しげに微笑した。まるでそんな事柄を問い詰める切嗣のことを哀れむかのように。
「……そうね。これが仮面であることは否定しないわ。私は誰か既存の人格を殻≠ニして被った上でなければ、他者と意思の|疎通《そつう》ができない。あなたに私の望みを伝えるためには、こういう姿を取るしかないの。
でもね、私が記録したアイリスフィールの人格は、まぎれもない本物よ。彼女が消滅する寸前、最後に接触したのは私なの。だから私はアイリスフィールの最後の願望を受け継いでいる。斯《か》く在《あ》ってほしい≠ニいう願いを体現することこそ私の本分なのだから」
その告白を、切嗣は理論というより直観で理解した。
聖杯の内側≠ニ称するこの場所で、何者でもない誰か≠名乗るこの存在こそは――
「――お前は、聖杯の意志なのか?」
「ええ、その解釈は間違っていない」
我が意を得たり、とばかりに、アイリスフィールの姿をしたモノは頷いた。だが一方で切嗣は、さらに不穏な困惑に眉根を寄せる。
「馬鹿な。聖杯はただ純粋無色の力≠ナしかないはずだ。それが意志など持ち合わすはずがない」
「以前はそうだったのかもしれない。でも今は違うの。私には意志があり、望みがある。この世に産まれ出たい≠ニいう意志が」
「そんな……」
おかしい。何かがおかしい。
もしそれが事実なら、コレは、切嗣が求め欲していたような都合の良い願望機=@などではない。
「――意志があるというならば、問おう。僕の願望を、聖杯はどうやって叶えるつもりだ?」
さも不思議なことを訊かれたかのように、アイリスフィールは小首を傾《かし》げた。
「そんなことは――切嗣、あなたなら誰よりも良く理解できてるはずじゃない?」
「……何だ、と?」
「あなたという人間は、その在り方そのものが限りなく聖杯《わたし》に近いのよ。だからこそ、いま私と繋がっていても理性を保っていられる。普通の人間なら、あの泥を浴びた時点で精神が崩壊しているわ」
朗らかに、晴れやかに、言祝ぐように語るアイリスフィール。
その笑顔が、なぜかどうしようもなく切嗣の心を騒がせる。
「世界の救い方なんて、あなたはとっくに理解してるじゃない。だから私は、あなたが成してきた通り、あなたの在り方を受け継いで、あなたの祈りを遂げるのよ」
「何を――言ってる?」
切嗣には理解ができない。間違っても理解したくない。
「答えろ。聖杯は何をするつもりだ? アレが現世に降り立ったら、いったい何が起こるんだ!?」
どこまでも噛み合わない問答に、アイリスフィールは諦めたかのように嘆息し、頷いた。
「――仕方ないわね。じゃあそこから先は、あなた自身の内側に問いかけてもらうしかないわ」
白くたおやかな掌が、切嗣の眼前に翳《かざ》され――
そして世界が暗転した。
大洋に二隻の船が浮いている。
片方の船に三〇〇人。もう一方の船に二〇〇人。総勢五〇〇人の乗員乗客と、あとは衛宮切嗣。仮にこの五〇一名を、人類最後の生き残りと設定しよう。
それでは衛宮切嗣の|役割演技《ロールプレイ》を受け持って、以下の命題に取り組むがいい。
二隻の船底に、同時に致命的な大穴が開いた。船を修復する技術《スキル》を持つのは切嗣だけだ。片方の船を修復する間に、もう一方の船は沈没する。さて、キミはどちらの船を直すだろうか?
「……当然、三〇〇人が乗った船だ」
キミがそう決断すると、もう一方の船に乗った二〇〇人がキミを捕らえて、こう要求してきた。『こちらの船を先に直せ』と。さあ、どうする?
「それは……」
回答を言葉として口にするより先に、切嗣の手の中にキャレコ短機関銃が出現した。
まるで自動機械のように、猛然と火を噴《ふ》く銃口を、切嗣は呆気にとられて見守る。
吐き出された銃弾は一発ごとに四人を貫通し、瞬く間に二〇〇人すべてを鏖殺《おうさつ》してのけた。
――正解。それでこそ衛宮切嗣だ
屍の山を積んだまま海中に没していく船を、切嗣は呆然と見送った。甲板に散らばる死体はどれも、見覚えのある顔ばかりのような気がした。
さて、生き残った三〇〇人は傷ついた船を棄て、新たに二隻の船に分乗して航海を続ける。今度は片方の船に二〇〇人、もう一方の船に一〇〇人だ。ところがこの二隻の船底に、またしても同時に穴が開いた
「おい……」
キミは小さい方の船に乗る一〇〇人に拉致され、先にこちらの船を直せと強要される。さあ、どうする?
「そんなのは……だが……」
白刃《はくじん》が閃き、爆弾が炸裂し、一〇〇人が海の藻屑と消えた。それが衛宮切嗣のやり方だった。かつて彼が積み重ねてきた通りに、殺戮は遂行された。
――正解
「馬鹿な……そんな馬鹿な!」
何が正しいものか。
生き残ったのが二〇〇人。そのために死んだのが三〇〇人。――これでは天秤の針が|真逆《あべこべ》だ。
いいや計算は間違っていない。確かにキミは多数を救うべく少数の犠牲を選んでいる。さあ、それでは次の命題《クエスト》だ
切嗣の抗議に|頓着《とんちゃく》せず、ゲームマスターは先を続ける。
一二〇人と八〇人が秤にかけられた。切嗣は八〇人を虐殺《ぎゃくさつ》した。
次は八〇人と四〇人。『魔術師殺し』は四〇人の断末魔を見届けた。どの顔も記憶にあった。かつて彼がその手で殺《あや》めてきた人々のそれだった。
六〇人と二〇人――
二五人と一五人――選択は続く。犠牲は続く。屍の山は積み重なっていく。
「これが……貴様の見せたかったモノか?」
悪辣《あくらつ》なゲームの趣旨に吐き気さえ覚えながら、切嗣は聖杯の意志≠名乗るモノに向けて糾す。
そうだ。これがキミの真理。衛宮切嗣の中の回答だ。即ち、願望機としての聖杯が遂げるべき行いだ
「違うッ!」
両手を血みどろに染めながら、切嗣は絶叫する。
「こんなモノ望んじゃいない! こうする以外の方法があってほしいと……だから僕は『奇跡』に頼るしかないと……」
キミが識りもしない方法を、キミの願望に含めるわけにはいかない。キミが世界の救済を願うなら、それはキミが識《し》る手段によって成就されるしかない
「ふざけるな! そんなもの……一体どこが奇跡だっていうんだ!?」
奇跡だとも。かつてキミが志し、ついに個人では成し得なかった行いを、決して人の手では及ばぬ規模で完遂する。これが奇跡でなくして何なのか
五人が残った。すべて切嗣にとって大切な人たちだった。だが三人か二人を選べと迫られた。
絶望に啼きながら銃爪《ひきがね》を引いた。衛宮矩賢の顔が吹き飛んだ。ナタリア・カミンスキーの脳漿《のうしょう》が飛び散った。
「貴様は……現世に降りて、コレを……全人類を相手にコレをやるのか? それが僕の理想の成就だと!?」
そうとも。キミの願望は聖杯の容《かたち》として最適だ。衛宮切嗣、まさにキミこそが『|この世全ての悪《アンリマユ》』を担うに相応しい
残り三人。二人を救うか、一人を選ぶか。震える手がナイフの柄を握り締める。
もはや涙も枯れ果てて、幽鬼のように虚ろな目で、切嗣は久宇舞弥の身体を切り裂いた。繰り返し、繰り返し、ナイフの刃を振り下ろした。
そうして、世界に二人だけが生き残る。
もはや天秤に載せようもない、計りようもない等価の価値。四九八人の命と引き替えに守り抜かれた、最後の希望。
全てを成し遂げた切嗣は、放心し、抜け殻のようになったまま、暖炉のぬくもりに包まれている。
懐かしく、優しく、暖かい部屋で、妻≠ニ娘≠ニが笑顔を弾ませている。
つまりはこれが――彼の求めた、平穏の世界。
もう二度と争いのない、誰も傷つくことのない、完成された理想郷。
「おかえりなさいキリツグ。やっと帰ってきてくれたのね!」
満面を喜びに輝かせながら、イリヤスフィールが小さな両手で父の首にぶらさがる。
雪に閉ざされた北の最果ての城、ここにだけ安らぎがあった。
血塗られた生涯の末に、あるはずもない優しさを見出した。
このささやかな子供部屋だけが世界の全てであるならば、もう何の葛藤も必要ない。
「――ね? 解ったでしょう。これが聖杯による、あなたの祈りの成就」
至福のときを分かち合う夫に、アイリスフィールが微笑みかける。
あとはただ、それを祈るだけでいい。
妻を蘇らせろと。娘を取り戻せと。
無限に等しい魔力の前に、それは|雑作《ぞうさ》もない奇跡。
後に残るのは幸福だけだ。全てが滅んだ死の星に、残された最後の人類として、三人の家族は末永く幸せに暮らし続けることだろう。
「……もう、クルミの芽を探しに行くこともできないね……」
窓の外には雪景色すらなく、ただ深海の底のように渦巻く黒い泥だけがある。そんな景色を眺めながら、ぼんやりと呟く切嗣に、イリヤスフィールは笑顔でかぶりを振る。
「ううん、いいの。イリヤはね、キリツグとお母様さえ一緒にいてくれればいいよ」
狂おしいほどに愛おしい娘の頭を掻き抱きながら、切嗣は|澎湃《ほうはい》と涙を落とした。
「ありがとう……父さんもイリヤが大好きだ。それだけは、誓って本当だ……」
両手だけが淀《よど》みなく動く。想いとは無関係に、そう仕組まれた機械仕掛けのように。愛娘の小さな頤《おとがい》の下に、コンテンダーの銃口を押し付ける。
「――さよなら、イリヤ」
きょとんと途方に暮れた少女の頭が、銃声とともに破裂する。
泣き濡れた切嗣の頬に、銀髪の絡まった肉片が飛び散った。
アイリスフィールが絶叫する。目を剥き、髪を振り乱し、狂乱に我を忘れて叫ぶ。
「何を――あなたッ、何をォッ!?」
鬼女の形相で掴みかかってくる妻を、切嗣は逆に組み伏せて、その細い喉に指を絡みつかせた。
「聖杯《おまえ》は、在ってはならないモノだった……」
この女の中身が何≠ナあれ、その殻として纏ったアイリスフィールの人格は本物なのだ。娘を殺された絶望と慟哭、我が子を殺した夫への憎悪は、本当のアイリスフィールもまた間違いなく懐いたであろう、まぎれもない本物の感情なのだ。
それを直視し、それを受け止めながら、切嗣は両手に渾身の力を込めて、妻の首を締め上げる。
「……あなた、何を……なぜ聖杯を、私たちを、拒むの……私のイリヤ……そんな、どうして!?」
「――だって、僕は――」
喉から漏れ出た己の声は、ただ虚ろな、がらんどうの洞《うろ》を吹き抜ける隙間風のようだった。悲しみもなかった。怒りもなかった。当然だ。衛宮切嗣の中にはもう何もない。求め続けた奇跡に背を向け、その裏切りの対価すら手放した。もはや今の彼の内側に、残されたものなどあるわけがない。
「僕は――世界を――救うから、だ」
ただひとつ、最後まで貫いた信念の言葉。その響きのなんと空虚なことか。
白い顔を鬱血させながら、アイリスフィールが切嗣を凝視する。いつの日も、慈愛と憧れだけを込めて彼を見つめてきた緋色の瞳が、底抜けの呪詛と怨嗟に染まる。
「――呪ってやる――」
優しかった細い五指が、切嗣の肩に掴みかかる。食い込んだその五指から、黒い泥が流れ込む。
「衛宮切嗣……オマエを呪う……苦しめ……死ぬまで悔やめ……絶対に、赦さない……」
「ああ、いいとも」
憎しみに染まった泥が、血管を巡り、心臓に流れ込む。すべてを失った男の魂を浸していく。それでも切嗣は手を弛めない。頬を伝う涙の意味さえ忘れて、黒いドレスの女を絞殺しながら、告げる。
「それでいい。言ったはずだ。――僕は、オマエを担うと」
震える手の中で、女の頸椎《けいつい》が砕け折れる。
そして再び景色が変転する。
――深く|精神《こころ》を犯した|心象《ユメ》は、終わってみれば一瞬の間だったらしい。
気がつけば切嗣は、もとの大道具倉庫に立っていた。
右手にはまだ撃鉄の起きたままのコンテンダー。そして目の前には、跪いたまま人事不省に陥っている言峰綺礼。
切嗣は天井を見上げ、今なお辺り一面に滴り落ちては床を焦がしていく黒い泥を見遣る。切嗣と同時に綺礼もまた、あの泥を浴びたのだろう。そしておそらくは、同じモノを目の当たりにしたはずだ。
あの泥が、聖杯から溢れ出た中身なのだとしたら――器はここの上階、コンサートホールの舞台の上で、引き続き降臨の儀式を進めているに違いない。
急ぐ必要があった。
綺礼が意識を取り戻し、立ち上がろうとして、背中に押し付けられた切嗣の銃口に阻まれる。
すぐさま状況を理解した綺礼は、その皮肉な顛末《てんまつ》に苦りきった笑いを漏らした。あれほど苛烈《かれつ》に生死を競《せ》り合っておきながら、結果として勝敗を決したのは、たまさかどちらが先に目を覚ましたかというだけの偶然でしかないとは。
それとも、或いは――自らの意志で悪夢を終わらせた者こそが、先に目覚める道理だったのか。
「……愚かすぎて理解できん。なぜ、あれ[#「あれ」に傍点]を拒んだ?」
低く抑えた、怒りと憎しみを秘めた声だった。いま初めて衛宮切嗣は、言峰綺礼の声を直に聞いた。
「……貴様には、アレが、受け入れて良いモノに見えたのか?」
乾いて掠れきった、虚ろなほどに磨《す》り減った声だった。いま始めて言峰綺礼は、衛宮切嗣の声を直に聞いた。
二人は共に聖杯の中に潜むモノと接触し、その正体を理解した。切嗣は聖杯の意志なるモノと疎通をし、それを綺礼は見届けた。そして切嗣の選択は、綺礼にとってあまりにも理解と許容の埒外にあった。
「お前は……ッ、全てを擲《なげう》ち、犠牲にして、此処まで辿り着いたはずだ! そうまでして手に入れたモノの価値を、なぜ今になって無にできる!?」
「アレがもたらすモノよりも、アレが犠牲にするモノの方が重い。――ただ、それだけの話だ」
「ならば私に譲れ!」
そのとき、綺礼は衛宮切嗣を――かつて自らと相似したかもしれず、もはや自らとはあまりにも真逆なこの男を、心の奥底から憎悪し抜いた。
「お前にとって不要なモノでも、私には有用だ! あれ[#「あれ」に傍点]は……あんなモノが産まれ出るというのならッ、私の迷いの全てに答がもたらされるに違いない!」
綺礼は切嗣の意図を知っている。最愛の者すら手にかける覚悟で願望機を拒絶したこの男が、次に何をするつもりでいるのか解っている。そして、それだけは許すわけにはいかない。今日この日に至るまでの、言峰綺礼の全ての遍歴に賭けて。
「頼む、殺すな! あれ[#「あれ」に傍点]は自らの命を、誕生を望んでいる!」
振り向くことすら許されぬまま、激した声で希《こいねが》う神父を、暗殺者は氷の眼差しで見下ろした。
「ああ、貴様こそ――愚かすぎて理解できないよ」
指先が滑らかに銃爪《ひきがね》を絞り、撃針が・30-06スプリングフィールド弾の信管を抉り打つ。
刹那に閃く銃火と轟音。
|過《あやま》たぬその一発で、切嗣は言峰綺礼の心臓を背中から撃ち抜いた。
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煉獄の如く燃えさかる炎の中、セイバーは歩みを進める。
バーサーカーに負わされた損耗は、自己再生能力で治癒できる域を優に超えていた。かつて曇り一つなかった白銀の鎧は、繰り返しバーサーカーの剣に叩きのめされて黒い狂化の|煤《すす》に汚れ、血の気の失せた膚は白蝋のように青褪《あおざ》めている。膝は軋み、足腰は震え、呼吸は鞴《ふいご》のように荒い。一歩踏み出すごとに気の遠くなるような痛みが襲う。
よろめきながら、躓きながら、だがそれでもセイバーは進むのを止めなかった。
彼女には責務があった。王として果たさねばならない誓いがあった。そしてそれを遂げるために唯一残された道は、聖杯を手にすることだけだった。だから進んだ。傷ついた身体を鞭打ち、歯を食いしばって耐えながら。
ついに一階へ辿り着き、エントランスを抜けて両開きの扉を開け放つ。眼前に、広大な吹き抜けのコンサートホールが開けた。そして正面の舞台の中央には、燦然《さんぜん》と輝く黄金の杯が、炎に囲まれて浮いていた。
「あ……」
一目で知れた。まざれもなくあれこそが目指す聖杯だと。
ホムンクルスの肉体を無機物へと還元することで精製された黄金の器。その行程を知らぬままのセイバーではあったが、目の前の光景は多くを察するのに充分すぎた。
彼女は『器の護り手』だった。聖杯を切嗣とセイバーだけに委ねるものと意を決していた。他の誰かに『器』を奪われるぐらいなら、身を挺してでも死守しようとしたことだろう。そして、いま儀式の現場にアイリスフィールの姿はなく、何者かの手によって聖杯の降臨は着々と進められている。
「アイリスフィール……」
その面影を偲んで、セイバーは嗚咽に唇を噛む。
剣に賭けて守ると誓い、そして果たせなかった。またしても自分は誓約を破った。
かつて愛する故国を救えなかったように。
友を苦悩から救えなかったように。
自責と屈辱に胸を引き裂かれながら、セイバーの脳裏を過ぎるのは、常冬の城での記憶。誓いを交わしたときに託されたアイリスフィールの言葉だった。
――セイバー、聖杯を手に入れて。あなたと、あなたのマスターのために――
「……はい、せめてそれだけは、貫く。それだけが……」
今の彼女に残された、全て。
未だ彼女が剣を執り、息を吸い、心臓を鼓動させている、ただひとつの理由であった。
決して違えるわけにはいかない一歩を、セイバーが踏み出した、そのとき。
「――遅いぞセイバー。昔馴染みの狂犬と戯《たわ》れるにしても、この我《オレ》を待たせるとは不心得も甚だしい」
セイバーの行く手、観客席を抜ける通路の中央に、黄金色の絶望は忽然と立ちはだかった。
「……アーチャー……ッ」
「フフ、何という顔をしている? 我が財宝に見惚《みと》れるにしても、少しは慎め。そう露骨に欲を面《おもて》に出しては品位に欠けるぞ。まるで飢えた痩せ狗《いぬ》のようではないか」
セイバーとて、敵の出現をまったく予期していなかったわけではない。
この市民会館に、末だ生き残っていたサーヴァントが全て集結することは自明の成り行きだった。他のライバルたちが潰し合う展開になったとしても、共倒れに期待を託すなど虫が良すぎる話である。あと一戦、ライダーかアーチャー、いずれか一方とは間違いなく立ち会うものと覚悟は決めていた。
だが――傷一つないアーチャーの甲冑、そして有り余るほどに充溢《じゅういつ》する魔力の気配を見て取って、セイバーは歯噛みする。
間違いなく、あの黄金のサーヴァントは無傷だ。それどころかまるで消耗していない。
既にバーサーカー戦によって満身創痍のセイバーが、アーチャーを相手に勝機を見出すとしたら、相手が先にライダーと演じた筈の死闘の影響、その損耗の度合いに一縷《いちる》の望みを託すしかなかった。だが、いざ対峙したアーチャーには前戦のダメージなど片鱗《へんりん》も見当たらない。
まさかあの征服王をして、一矢報いることすら叶わなかったとは……未だ真名すら知れぬこの謎のサーヴァントは、そこまで圧倒的だというのか。
だが、あらゆる望みが潰えたかに見えたこの状況下で、なおもセイバーを衝き動かすのは、獰猛なまでの怒りの念だった。
もはや勝機がどうの、戦略がどうのは意中にない。ただ、許せなかった。今の彼女と聖杯の間を誰かが立ち阻むという事態そのものが。
「……そこを、退け……」
怨嗟の如く押し殺した声で、セイバーは呟いた。狂おしいまでのその執念は、かつて翠緑に澄んでいた瞳を、黄鉛色に濁らせはじめている。「聖杯、は……私のモノだ……ッ!」
もはや自らの負傷など意に介さず、怒りに滾る叫びとともにアーチャーへ斬りつけんとするセイバー。だが一歩踏み出したその脚を、すかさず虚空から放たれた投射宝具の一撃が串刺しにする。
たまらず転倒して地に伏せながら、それでもセイバーは苦悶の声を噛み殺す。見渡した周囲には、続々と宙から現れ出でる『|王の財宝《ゲート・オブ・バビロン》』の兵器軍が、すべて切っ先をセイバーに向けたまま待機していた。
あとは主の号令一下、無数の原初宝具はセイバーへと殺到し、今度こそ彼女を矢襖《やぶすま》に仕留めることだろう。たったいま左足を刺し貫かれたばかりのセイバーには、咄嗟の回避など望むべくもない。
「セイバーよ……妄執に堕ち、地に這ってなお、お前という女は美しい」
絶体絶命の窮地に歯を食いしばるセイバーの凶相を、アーチャーの血色の双眸は、曰くしがたい不気味な感情を込めて見つめている。
「奇跡を叶える聖杯などと、そんな胡乱なモノに執着する理由など見当たらぬ。セイバー、お前という女の在り方そのものが、既に希《たぐいまれ》なる奇跡≠ナはないか」
死地にはまるで似合わない、どこか穏やかなものさえ覗わせるアーチャーの語調は、追い詰められたセイバーの警戒心をよりいっそう煽り立てるものだった。
「貴様は……何を……」
「剣を棄て、我が妻となれ」
この局面、この状況下において、それはどんな不意打ちよりも天外な一言だった。さしものセイバーですら、ここまで常軌を逸した物言いには、しばし言葉を失うしかなかった。
「……な、馬鹿な……何のつもりだ!?」
「理解できずとも歓喜はできよう? 他ならぬこの我《オレ》が、お前の価値を認めたのだ」
ただ一人、アーチャー自身にとってだけは、その論法は何の不可思議もない当然の帰結だったのだろう。黄金のサーヴァントは傲然と胸を張ったまま、見初めた女を見下ろしていた。
「下らぬ理想も誓いとやらもすべて棄てよ。そのようなモノは、ただお前を縛り、損なうだけだ。これより先は我《オレ》のみを求め、我《オレ》のみの色で染まるがいい。さすれば万象の王の名の許に、この世の快と悦のすべてを賜わそう」
「……ッ」
憚《はばか》りないその物言いは、しばし当惑の中にあったセイバーを、ふたたび怒りの虜にさせるのに充分なものだった。
「貴様は、そんな戯れ言のために……私の聖杯を奪うのか!?」
吼《ほ》え糾したセイバーの鼻先に、上空からの宝具の第二射が炸裂し、その衝撃だけで彼女を吹き飛ばす。
「お前の意志など訊いていない。これは我《オレ》の下した決定だ」
アーチャーは満面を嗜虐の愉悦に染めている。まるでセイバーの怒り抗う姿すらもが愛嬌であるかのように。
もとよりこの破格の英霊は、相手を対等に見て闘争するという発想なぞ当初から持ち合わせていないのだろう。敵とは即ち、玩弄《がんろう》し、辱め、屈服する様を観賞するための慰み物でしかない。セイバーが全てを賭して臨むこの死闘すら、アーチャーにとってはただの遊興に過ぎないのだ。
「さあ、返答を聞こうではないが。間うまでもなく決した答ではあるが、お前がどんな顔でソレを口にするのかは見物だ」
「断る! 断じて――」
言い終えるより先に、唸りを上げて飛んだアーチャーの宝具が、傷ついたセイバーの左足を再度抉る。激痛に悶絶するセイバーの呻き声に、|呵々《かか》と大笑するアーチャー。
「恥じらうあまり言葉に詰まるか? 良いぞ。何度言い違えようとも許す。我《オレ》に尽くす喜びを知るには、まず痛みを以て学ぶべきだからな」
宙に浮遊し、威嚇《いかく》するかのように切っ先を揺らしながら、じりじりとセイバーに躙《にじ》り寄る宝具の群れ。
もはや堪えようもない憤怒が、セイバーの思考を沸騰させる。こんな屈辱に甘んじながら嬲り殺しにされていくぐらいなら、いっそ自滅を覚悟の上で怨敵に一泡吹かせたかった。
もはや二の太刀を考えず、ありったけの余力を動員すれば、『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』の一撃を放つだけの魔力は何とか賄《まかな》えるかもしれない。あれほど底の知れぬ英霊ともなれば、対城宝具に抗しうるほどの防御手段があったとしても不思議はないが、勝ち誇り油断しきっている今のアーチャーは隙だらけだ。まさかセイバーが反撃に転ずるなどとは想像すらしているまい。
だが――今セイバーのいる位置からアーチャーを狙うなら、その射線の先には舞台の上の聖杯がある。たとえアーチャーを一撃で消し炭に変えてやったとしても、そのときは聖杯もまた、もろともに焼き尽くされてしまうだろう。それでは何の意味もない。
どうすれば……ッ!
極限の選択を強いられながら活路を探るセイバーは、そのとき、ホールの中に現れた第三の人影を見咎めた。
二階席の高さにある壁面から、テラス状に張り出したボックス席。炎が描く陰影の奥に、まるで亡霊の如く佇むロングコートのシルエット。 ――それはセイバーである彼女と契約した正規のマスター、衛宮切嗣の姿に間違いなかった。
絶望的だった状況に、一縷の光明が射す。
切嗣の手に今なお残る令呪の強制権。自らのサーヴァントに対してのみ、奇跡に等しい不条理すら可能とするあの魔術の助けを借りれば、或いはこの状況を打破できるのではないか。
いかに切嗣とて、セイバーのこの窮状を見れば、取り得る決断は一つだろう。幸い、アーチャーは切嗣に気付いていない。
切嗣が右手を掲げ、その甲に刻まれた令呪の輝きを露わにする。
具体的にどのような命令が下されるのか、そこは切嗣の一存である。だが彼がどんなに奇抜な戦略を用意しようと、セイバーは応じてのける覚悟を決めた。アーチャーに抗しうるだけの援護が得られるならば、どんな手であろうと構わない。
痛覚を遮断して死力を尽くせと言われれば、セイバーの肉体は全身の負傷を完全に度外視し、身体が崩壊するまで最大限のパワーを発揮できるだろう。瞬間移動で聖杯の元まで馳せろと言われれば、この致命的な位置の不利を解消できる。聖杯を保護しつつアーチャーのみを葬るだけの、精妙な出力調整で『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』を放つことも可能かもしれない。それが令呪だ。マスターとサーヴァントが同意の下に行使する令呪であれば、どのような無理も押し通る。そのためだけに特化した魔術だけが成し得る驚異に、セイバーは最後の期待を託す。
――衛宮切嗣の名の許に、令呪を以てセイバーに命ず――
呟く声は耳でなく、セイバーの魂の根幹そのものに働きかける。決して聞き違えることなどできないその声が、断固と明確に宣言する。
――宝具にて、聖杯を破壊せよ――
どう解釈すればいいのか、理解しようもないその言霊に、セイバーの思考は空自と化した。
「……な……?」
旋風が渦を巻き、周囲の炎を薙ぎ払う。解除された風王結界の中から、黄金の剣が姿を見せる。
セイバーの思考が理解を拒んでも、サーヴァントとしてのその肉体は、何の疑問もなく令呪の機能を受け入れた。柄を執る者の意図などまったく斟酌《しんしゃく》しないまま、宝剣は光の束を紡ぎ上げていく。
「な、馬鹿な――何のつもりだ!?」
さしものアーチャーも、これには瞠目した。聖杯を背にしている限り、セイバーは決して奥の手を使えぬものと、高を括っていたからだ。
「……ッ……違うッ!!」
セイバーが吼えた。声も張り裂けんばかりに絶叫した。振り上げられた黄金の剣が、大上段で縫い止められたかのように凝固《ぎょうこ》する。
伝説の騎士王として、そして最優クラスたるセイバーのサーヴァントとして彼女が備え持っていた特級の対魔力は、令呪の縛りすら瀬戸際で食い止めるほどのものだった。剣を振り下ろさんと駆動する全身の筋肉を、彼女は渾身の力で封印する。強権と抑止、鬩《せめ》ぎ合う二つの力はセイバーの中で荒れ狂い、その細い身体を今しも引き裂かんばかりだった。
その激痛、想像を絶する苦しみと重圧に、セイバーはディルムッド・オディナの最期を思い出す。かの悲運の英霊が味わった苦悶と屈辱を、今、彼女は身を以て体験しているのだ。
総身を苛む魔術の猛威に悶えつつ、セイバーはボックス席の衛宮切嗣を凝視し、叫ぶ。
「何故だ!? 切嗣――よりにもよって貴方が、何故ッ!?」
有り得ない。こんな命令は有り得ない。
セイバーに勝るとも劣らず、衛宮切嗣は聖杯を必要としていた筈だ。その彼がなぜ、今になって聖杯を拒絶するのか? 愛する妻が命を捧げた儀式の成就を、なぜ今になって無為にするのか?
血を吐くように胸の内を吐露した、あのとき彼が語った悲願すら、すべて虚言だったというのか?
セイバーの尋常ではない様相が、令呪によるものと察したアーチャーは、そこでようやく衛宮切嗣の存在に気がついた。
「おのれ、我が婚儀を邪魔立てするかッ、雑種めが!」
それまでセイバーに狙いを定めていた宝具の群れが、一斉に反転し、切嗣のいるボックス席を照準する。
だが鏖殺《おうさつ》の宝具爆撃が解き放たれるより一瞬早く、切嗣は再度右手の甲を、眼下のセイバーに向けて示していた。――最後に残った、令呪の一画を。
――第三の令呪を以て、重ねて命ず――
「やめろおおおォォッ!!」
自らの誇りが、希望が、今度こそ砕け散る瞬間を目前にして、セイバーが涙を散らしつつ絶叫する。
――セイバー、聖杯を破壊しろ!――
それは、もはや抗えるはずもない暴威だった。
重ね掛けで増幅された令呪の強制力は、泣き叫ぶセイバーの身体を蹂躙し、圧搾《あっさく》し、その総身からありったけの残存魔力を引きずり出して、破滅の光へと収束させた。
解き放たれた光の束は、ホールを縦断し、舞台に浮かぶ聖杯の器を直撃する。先んじて安全圏に逃れていたアーチャーは直撃を免れたものの、それでも間近に直視した光量の凄まじさに目を眩まされ、切嗣を処刑する気を逸した。
かつてアイリスフィールの一部であった黄金の聖杯は、閃光の灼熱に抗うこともなく、静かに形を失い、消えていった。その末路を正視できず、セイバーは目を閉ざす。――今、最後の希望が潰えた。彼女の戦いが終わった。
ならば、こんな無惨な結末を、どうして目を開けたまま見届けられようか。
実際、彼女はもう二度と瞼を開くことなど叶わなかった。本人の意図に反して強制的に発動されたセイバーの宝具は、残存魔力の全てを根こそぎ奪い去り、サーヴァントとしての肉体を維持できるだけの余力すら食い潰していったのだ。もうセイバーには、この世界に留まる力もなければ意志もなかった。そして勿論、契約者であるマスターもまた、彼女を繋ぎ止める意向などありはしなかった。
剣を振り下ろした姿勢のまま、セイバーの身体は現世から切り離され、瞬く間にその実体を消失していく。
現実世界との接点を失っていく間際、セイバーの脳裏を過ぎった最後の感慨は、衛宮切嗣という人物についての謎だった。
娘と睦《むつ》まじく戯れていた父親。妻が信じた夫。救世を願った戦士。正義に絶望した殺人者。幾つもの矛盾する人間性を垣間見《かいまみ》せておきながら、最後にその全てを裏切り、否定した男。
結局、セイバーが彼について確かめられたものといえば、その冷酷さと非情さだけでしかない。
ついに最後まで、解り合うことも、信頼を築くこともなく――否、むしろ最後の最後になって、彼女はマスターの真意を見失ったのだ。
だがそれも、当然か――
消えゆく意識の中、セイバーは自嘲する。
たった三度の命令だけしか縁《えにし》のなかった男について、いったい何が見抜けただろうか。この自分は、かつて、もっと身近に仕えてくれた者たちの心すら見通せなかったというのに。
すべては、人の気持ちが分からない王≠ノ課せられた――長く婉曲《えんきょく》な、罰だったのかもしれない。
傷つき、何一つ報われることなく消えていったセイバーだったが、そんな彼女にとってせめてもの救いがあったとすれば、それは直後に引き起こされた惨劇を目の当たりにせずに済んだことだろう。
聖杯を消滅させた『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』の光は、それだけでは収まらず、アップステージの舞台天井を吹き飛ばし、そのまま市民会館を真っ二つに引き裂く形で貫通した。既に延焼の進んでいた建物はこの打撃に耐えされず、上階の構造が崩壊。支えを失った屋根がホール内に雪崩れ込む形で転落する。
そして、降り注ぐ瓦礫の中、露わになった夜空に切嗣はそれ≠見た。
黒い太陽――泥との接触で観た|心象《ヴィジョン》の中にあった、この世の終焉の|徴《しるし》。
ついに切嗣は理解し得なかったが、その実体は真正に孔≠セった。降臨の儀式の祭壇と、深山町東端にある円蔵山の地下に秘められた『大聖杯』の魔法陣とを結ぶ空間のトンネル。六〇年に渡り地脈のマナを貪り続け、今またさらに六人の|英霊《マレビト》の魂を受け止めた大聖杯が内に湛える、肥大化した途方もない魔力の渦。それが黒々と唸りを上げるそれ≠フ正体に他ならなかった。
アインツベルンのホムンクルスから摘出される『器』とは、結局のところ、その孔を開くための鍵であり、また孔の形態を安定させるための制御装置に過ぎない。それを知らなかった切嗣のミスは致命的だった。彼はセイバーに指示すべき破壊の対象を誤ったのだ。『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』によって焼き払われるべきは天上の孔の方だった。たしかに『器』による制御を失ったことで、黒い太陽は融解を始め、ゆっくりと窄まり閉じっつある。だがしかし、ソレが完全に閉ざされるまでの間、孔の向こう側から溢れ出る黒い泥を押し留めることは、もうどうやっても不可能だった。
本来ならばそれは、この世界から『外』への突破口を穿つためだけに使われる無属性の力であるはずだった。だがかつて蒔《ま》かれたひとつの過ちの種が、ソレをすべて余すところなく漆黒の呪いの色に染めていた。
『|この世すべての悪《アンリマユ》』の呪詛に染まった黒い泥。すべての生命を焼き裁く破滅の力が、今、滝の如き怒涛となって市民会館の上に降り注ぐ。
一階の平土間席にいたアーチャーは、その洗礼から逃れる退路など何処にも見出せなかった。
「な……何だと……ッ!?」
飛沫を上げて押し寄せる黒い泥の波に、黄金のサーヴァントは為す術もなく押し流された。否、流されるだけの姿すら、一瞬の後には残らなかった。アーチャーの身体は泥と触れあった瞬間に分解吸収され、厚みも輪郭も失ったまま、泥の奔流と同化してしまったのだ。
津波のようにホールの平土間を呑み込み、渦を巻く黒い泥を、ボックス席で難を逃れた切嗣は、ただ呆然と見守っていた。空から降り注ぐ呪いの滝はなお止まず、ホールから溢れた泥は川となって市民会館のエントランスから流出し、周囲一帯の街区へと拡がっていく。
そして、殺戮が始まった。
安穏と眠りに耽る人々の生命を嗅ぎ当てた死の泥が、灼熱の呪いとなってその枕元に襲いかかる。
家を焼き、庭を焼き、眠る者も目覚めて逃げる者も分け隔てなく焼き尽くし――大聖杯の内側で六〇年を待ち受けたソレは、束の間の解放に欣喜雀躍《きんきじゃくやく》するかの如く、その手に触れた全ての命をことごとく殺し尽くしていった。
後に判明したその数は、およそ五〇〇名余り。焼け落ちた建物は実に百三十四棟。以後もついに原因の解明されなかった大災害は、長らく冬木市市民の記憶に深い傷跡を残すことになる。
ほどなく天上の孔は消失し、泥の流出も途絶えた。だが泥から生じた火災はなおも勢いを衰えさすことなく、逃げまどう人々を逐一捕らえ、黒焦げの骸へと変えていく。夜を煌々《こうこう》と紅蓮に染めて、死の宴は終わることなく延々と続けられた。
崩れゆく市民会館を出て、衛宮切嗣はその|一切合切《いっさいがっさい》を見届けた。
滅びゆく生命《いのち》の有様は、彼を悪夢の中で苛んだ光景とあまりにも類似する、だが紛れもない現実だった。
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世界が燃えるユメを見た。
恐ろしさに震えながら、少女は羽布団の中で目を覚ます。
暖炉のぬくもりと光に守られた寝室は、いつもと変わらず安泰だった。窓の外の凍てつく夜も、決してベッドの少女を脅かしたりはしない。
厚いガラスを隔てても、外で猛烈に唸る吹雪の書は、なおもささやかに忍び込んでくる。焼き殺される人たちの泣き声に聞こえたのは、きっとあの音だ。
――どうしたの? イリヤスフィール――
声とともに、優しい母の手を頬に感じる。どんなときも離れることなく少女と共に居てくれる母の声。その響きと感触に安堵する。
少女も、その母親も、かつて『冬の女神』と呼ばれたとある魔術師の人格を基盤として設計された存在だ。故に少女の内側には、常に母がいる。叔母がいる。遠く『始まりのユスティーツァ』にまで遡る人形たちの系列が、すべて少女の中に記録されている。
だから、独り羽布団にくるまり眠る夜も、少女は決して孤独ではなかった。呼びかければいつでも母は声を聞かせてくれるから。姿を見せてくれるのだから。
「あのね……こわいユメを見たの。イリヤがサカヅキになっちゃうユメを」
流れるような銀髪と、優しい緋色の眼差しに慰められながら、少女はたどたどしく悪夢を語る。
「イリヤの中にね、ものすごく大きなカタマリが七つも入ってくるの。イリヤは破裂しそうになって、とっても怖いんだけど逃げられなくて、そのうちユスティーツァさまの声が聞こえてね、頭の上に真っ黒い大きな穴が開いて……それで、世界が燃えちゃうの。キリツグがそれを眺めて泣いてるの」
そうだ、夢の中には彼がいた。遠い異国の地で、いま大変な仕事を請け負っているのだという父が。
それを思い出した途端、さっきまでの悪夢に何か不穏な意味があるような気がして、再び少女は不安になる。
「お母様……キリツグはへいきかな? ひとりぼっちで、こわい思いをしてないかな?」
父の身を案ずる少女に、やさしく微笑みかける母の面影。
――大丈夫。あの人はイリヤのために頑張るわ。|私たち《アインツベルン》の祈りを、きっと彼は遂げてくれる。もう二度と、イリヤが怖い思いをしないで済むように――
「……うん、そうだね。そうだよね」
知っている。あの人は負けず嫌いの頑張り屋さんだ。だからきっと大切なお仕事もきちんと終わらせて、もうすぐこの城に帰ってくる。その日が来るのを、少女は指折り数えて待っていた。ひとりのっちで眠るベッドは冷たいけれど、それでもお母様が隣にいてくれる。彼女は孤独ではない。――いつの日か、その矛盾について正しく理解する時が来るまでは。
常冬の雪に閉ざされた城の中、少女はいつまでも待ち続ける。父と交わした約束を、心の中の宝物にして。
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落日の空は血の色だった。
見渡す大地も血の色だった。
そこに転がるすべての骸が、かつて一人の少女を信じ、彼女を王として戴き、共に凱歌を歌った者たちだった。
彼らは逆徒の企みによって二つに引き裂かれ、互いに互いを敵として殺し合い、そして諸共にこの戦場に果てた。アーサー王の最期の地、カムランの丘の麓《ふもと》に。
時の彼方で見た夢から醒め、再び血染めの丘に頼《くずお》れたアルトリアは、その荒涼たる眺めを呆然と眺める。
この結末を変えるために、彼女は死後の魂を『世界』に委ね、奇跡を求めて旅立ったはずなのに。
決して戻らぬと決めた場所、もう二度と見ることのないものと信じていた景色の中に、少女は、今また再び膝を落としている。
だが、これは終着ではない。閉じた輪の中を巡る、道程の一点だ。
アルトリアという英霊は、サーヴァントとしての契約から解放された後も、『英霊の座』ではなくこのカムランの丘へと連れ戻される。何故なら彼女は、まだこの場所で果てるという運命を全うする直前にあるからだ。
つまり彼女は、現世での死を得て、正規に英霊となった上で召喚されたサーヴァントではなく。
今際のきわに『世界』と契約を交わし、死後の魂を守護者として差し出す代わりに、聖杯を手にする手段をとりつけた――それが、アルトリアというサーヴァントの真相《カラクリ》だったのだ。
契約は聖杯の取得をもって執行される。即ち、アルトリアは聖杯を手にすることがない限り、何度だろうとこの時間軸に呼び戻される。永遠に、死ぬことすら許されず、彼女は時の彼方《かなた》で聖杯を争奪する戦いに動員され続けるのだ。
よって、アルトリアの時間は死の直前で静止したまま動かない。いつか彼女が聖杯を勝ち取る日まで、カムランの丘は幾度だろうと彼女の前に巡り来る。繰り返し、永遠に、この光景は彼女を責め苛み続けるのだろう。
まずはその一巡目を、たった今、果たしたというだけに過ぎない。
死の丘に取り残された彼女は、すべてが、契約の瞬間のままだった。
頬は泣き濡れたまま、籠手《こて》は返り血に染まったまま、そこに握った槍は、我が子の心臓を薫いたままに。
叛徒の逆臣であり、我が身の血を分けた悲運の息子モードレッド。愛憎の果てに全てを失った彼を、ついに仕留めたその瞬間――この世ならぬ慟哭に呼び招かれた『世界』の意志が、奇跡を求める英雄との間に契約を結んだ瞬間――そこが、静止したままの彼女を永遠に捕らえ続ける牢獄だった。
意味を失った時間の中で、永遠と同義の刹那の中で、彼女は次なる召喚を待ちわびながら、落日に染まる戦場跡を見渡す。
いつの日も、彼女は正しく在った。誇りに賭けてそう信じていた。にも拘わらず、彼女はこのような滅びに至る|萌芽《ほうが》を見過ごした。ランスロットの、そしてグィネヴィアの苦悩を見過ごしたのと同様に。
その不明が、彼女自身にとってもまた不明である限り――それがアルトリアという王の限界だ。
だとすれば、このカムランの丘の惨状は、ただの運命の気まぐれではなく、アルトリアという王の治世の果てにある必定の結末なのだろう。
「ぐ……」
堪えきれぬ嗚咽が、漏れる。
遠く過ぎ去った日の平原を思い出す。男たちが腕前を競う闘技場の賑わいに背を向けて、ただ一人、岩に刺さった選定の剣の前に立った少女のことを。
あのとき、彼女は何を思ったか。
何を心に誓って、あの剣の柄に手をかけたのか。
想い出はあまりにも隔たりすぎて、涙に曇る目ではもう見通せない。
ならばきっと――贖うべき過ちは、あの始まりの日にあったのだ。
流れ落ちる涙を、もう彼女は止めようとしなかった。時の流れに取り残されたこの場所で、彼女が何を思い、どう振る舞おうと、それが歴史に刻まれることはない。ここで彼女が王として装う必要はない。ならば己の弱さを許していい。無様さを許して構わない。
そう|弁《わきま》えた上で思い起こす。遂げたかった理想を。救いたかった人々を。
彼女が王であったばかりに、滅び去っていった全てのモノを。
「……ごめん、なさい……」
慟哭《どうこく》に喉を詰まらせながらも、詫びずにはいられなかった。誰に届くこともない声と知りつつ、少女は繰り返し懺悔《ざんげ》した。
「ごめんなさい……ごめんなさい……私が、私なんかが……ッ……」
いつの日か、果てしない戦いの末に、彼女は聖杯を掴むだろう。そのときは必ずや、もはや自明である罪の所在を、奇跡によって打ち消そう。
こんな自分は――そもそも、王になどなるべきではなかったと。
次なる戦いに呼び招かれるまでの、永遠にして刹那の時間、安息という名の責め苦の中で――少女は涙に暮れて詫び続ける。
終わらない罰を課されて。
贖いされぬ罪に怯えて。
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-03:11:56
――渦を巻く。
罪が、この世の悪性が、流転し増幅し連鎖し変転し渦を巻く。
暴食色欲強欲憂鬱憤怒怠惰虚飾傲慢嫉妬が巡り巡り犯し侵し冒して渦を巻く。
反乱罪牙保罪恐喝罪姦淫罪毀棄罪枢要罪脅迫罪窃盗罪逃亡罪誣告罪放火罪侮辱罪不敬罪余桃罪誘拐罪買収罪堕胎罪自殺関与罪賭博罪死体遺棄罪兇徒聚衆罪遺棄罪偽証罪贓物罪略取誘拐罪暴行罪皆々全て悉く須く死罪極刑につき恨め憎め拒絶否定し殺せ殺せ殺せ許容せず殺せ殺せ殺せ認めず殺せ殺せ殺せ殺せ否良し殺せ殺せ殺せ是認し殺せ殺せ許諾し殺せ否々何をつまらぬ殺せ殺せと馬鹿の一つ覚えのように退屈だその程度が何だと――
――!?
呪いの声の渦が蟠る。そこに有り得ないはずのモノを認識する。すべてを押し潰す否定の中で、高らかに『是』を謳う声がする。
有り得ない。この怨嗟と呪詛の渦の中で是正肯定など有り得ない。なぜなら森羅万象すべて余さず憎悪し邪とし醜いと断ずるが故に正気はなく受容はなくその重さに耐えられる筈もなく――
――然り。と、それでも堂々と宣ずる声がする。
然り、だ。もとより世界は斯くの如く在り。そのような依然の事実を前にして、何を嘆く? 何を驚く?
――!?
呪いの声は問う。
何を以て是とするや?
誰が認める? 誰が許す? 誰がこの悪に責を負う?
そんな、闇の全質量を賭けた糾弾に――艶《つや》やかなる哄笑が答える。
愚問なり。間うまでもなし。
王が認め王が許す。王が世界の在り方の全てを背負う。
――!?
泥は問う。王は何者かと。
そして問うてしまってから矛盾に気付く。
個≠フ存続など決して許さぬこの場所で、泥は自らの中に他者を認めてしまった。有り得ぬはずの異物を抱えてしまった。
それが、王。即ち原初の絶対者。天上天下の唯一存在。
彼《か》の者の名は――『英雄王』ギルガメッシュ。
「即ち、この我《オレ》に他ならぬ!」
黒い泥が飛沫を散らし破裂する。自らの怨嗟《えんさ》の総量を以てしても、ついに消化しきれなかった異物。その圧倒的自我の容《カタチ》を吐き戻す。
そして燃えさかる廃墟の中、彼は再び大地に立った。
黄金律の均整を備えた完璧なる肉体は、もはやサーヴァントとしての霊体ではなく、現世の肉より成る正真正銘の実体だ。あらゆる生命を否定する泥が、自らの内に紛れ込んだ不純物を結晶化させて破棄した結果、かの英霊はついに受肉を果たして現世に帰還したのである。
灼熱地獄の直中にあっても、王者として放つ威風は周囲の炎すら寄せ付けず、ギルガメッ シュは彫像の如き裸身を堂々と晒したまま、さも厭わしげに鼻を鳴らした。
「――あのようなモノを廟望機などと期待して奪い合っていたとはな。此度《こたび》の茶番、つくづく最後まで度し難い顛末であったか」
だが、これはこれで要くない――期せずして得た新たなる肉体を検分し、その感触に英雄王は満足する。
「再びこの時代に君臨し、地上を治めよという天意か……フン、また随分と下らぬ試練を課されたものだ。まぁ良い。業腹だが受けて立つとしよう」
いかに煩雑《はんざつ》に思えても、それが神々からの挑戦とあっては背を向けるわけにもいかない。英雄王である我が身の因果に、あらためてギルガメッシュは苦笑した。
深い闇を潜り抜けて、言峰綺礼の意識は覚醒した。
まず最初に感じたのは熱気。ついで人脂の焼ける匂い。目を開けて見渡した周囲は、天を焦がすほどの火災に見舞われている。
「ここは……」
再びまたあの泥に触れ、聖杯の中の心象世界に取り込まれたとも疑った。が、すぐ隣で彼を見守っている裸身の男の存在に気付き、その可能性を否定する。
「ギルガメッシュ……何が、あった?」
「世話の焼ける男だ。瓦礫の下からお前を掘り当てるのは難儀であったぞ」
茫洋と霞む思考を凝らして、事の前後を把握しようとする。最後にある記憶は、市民会館の大道具倉庫。跪いたまま、背中から撃たれた。――どう考えても即死のはずだ。
僧衣の胸元を裂き、撃ち抜かれたはずの場所を検める。一瞬、黒い泥の印象が目に焼き付く。
「……?」
気のせいだった。胸板には傷一つない。心臓の上に手を当ててみる。
鼓動が、ない。
「……私に何か治療を施したのか? ギルガメッシュ」
「さて、どうだかな。見たところ死んでいる様子だが、お前は我《オレ》と契約で繋がっていた。我《オレ》があの泥で受肉した拍子に、お前はお前で、何らかの不条理に囚われたのかもしれん」
結果的にギルガメッシュを侵食しきれなかった黒い泥は、かつてアーチャーのサーヴァントとしてマスターと結線していた魔力供給の経路《パス》を遡り、言峰綺礼の肉体にまで到達していたのだ。そして心臓に代わる生命力の供給源となり、綺礼の負傷を癒して蘇生させた。
つまり今の綺礼は事実上、『|この世全ての悪《アンリマユ》』からの魔力供給によって存命しているも同然の状態にある。
「全てのサーヴァントが消滅し、残ったのは我《オレ》だけだ。この意味が判るか? 綺礼」
「……」
未だ思考の判然としないまま、綺礼はギルガメッシュの赤い双眸を見つめ返す。
「聖杯を勝ち取ったのは我々だ。故にその結末を刮目《かつもく》して見るがいい。聖杯が真に勝者の願望を汲み取るのであるならば、この景色こそが――言峰綺礼、お前の求め欲していたモノだ」
紅蓮の地獄。風に運ばれる|阿鼻叫喚《あびきょうかん》の声。舞い踊る炎の壁を、綺礼はまじまじと凝視する。
「これが……私の、望み?」
然り。いま胸の内の空虚を埋めていくモノを、満足感≠ニ称するならば。
「こんな破滅が、嘆きが……私の愉悦だと?」
然り。いま胸の内に高鳴る昂揚を、歓喜≠ニ称するならば。
そしてついに、言峰綺礼は自らの魂の正体《カタチ》を識る。
崩れゆく物の美しさ。
苦しみ悶える者の愛おしさ。
耳に届く悲鳴の快さ。焼けてねじくれた遺骸の可笑しさ。
「……ははッ」
沸き立つ感情を抑えきれない。絶望とともに哄笑が迸る。
何という邪悪。何という鬼畜。
神の愛より外れた道が、これほど色鮮やかな喜びに満ちていたとは。
「何なんだ? はははッ、何なんだ私は!?」
もはや自らの心を抉る絶望までもが甘く好ましい。止まらない笑いに総身が震える。手足の指先から頭頂までを、くっきりと鮮明に意識する。
ああ、いま私は生きている――
確固たる実存として、ここに在る――
初めて識った。初めて実感した。己と世界との繋がりを。
「こんな歪みが? こんな汚物が? よりにもよって言峰璃正の胤《たね》から産まれたと? ははははっ、有り得ん! 有り得んだろうッ? 何だソレは!? 我が父は狗でも孕ませたというのか!?」
己の精進とはあまりにも莫逆の場所に見出した真理。その皮肉が痛快でならない。
何と馬鹿げた回り道だったのか。儚《はかな》い夢を見ていたことか。
善なるものを貴いと、聖なるものを美しいと、それを真理と疑わなかったばかりに、綺礼は二〇年余りの人生を溝《どぶ》に棄ててきたのだ。己の内に潜む本性が、まったく違う在り方で世界を見てきたことに気付きもせず。
「――満たされたか? 綺礼よ」
笑い疲れて息切れを起こし、それでもなお腹を抱えている神父に、ギルガメッシュが穏やかに問う。
「いいや、まだだな。これでは足りん」
激情のあまり滲み出た涙を拭いつつ、綺礼はかぶりを振った。
「確かに――問い続けるだけだった人生に、私はようやく回答を得た。進展としては大きいさ。
ところがな、これがまったく何の解決にもなっていない。問題が解かれる過程を、道筋を省略して、ただいきなり回答だけを投げ渡されたのだ。これでは一体、そもそも何を、どう納得しろというのだ?」
神が万物の造物主であるならば、すべての魂にとって快なるもの″こそが真理のはずだ。道徳とはそれを求める知恵のはずだ。
だがここに、道徳の教えとはまるで真逆の歓喜を得た魂が実在する。他ならぬ自分自身がそうなのだと、綺礼はたったいま確信した。
それは善悪の定義、真理の在処を揺るがす矛盾だ。捨て置けるはずがない。
「こんな怪異な回答を導き出した方程式が、どこかに必ず、明快な理《こどわり》としてあるはずだ。否、なくてはならない。それが一体どのようなものなのか……問わねばならん。探さねばならん。この命を費やして、私はそれを理解しなければ」
腹が捩《ねじ》れるまで笑いに笑ったその後も、残滓のような微笑の兆しは綺礼の顔に張り付いたまま残った。おそらくその表情は、今後の彼の面持ちの底に、常に居座ることだろう。それは己と世界の有り様を受け入れ、それを是とする者だけが浮かべうる、悠然たる悟道の笑みだった。ここに刷新された言峰綺礼の新たなる風貌を、ギルガメッシュは良しとした。
「どこまでも飽きさせぬ奴……それでいい。神すら問い殺す貴様の求道《ぐどう》は、このギルガメッシュが見届けてやる」
綺礼は改めて周囲を見渡し、聖杯によってもたらされた極上の景色を|満喫《まんきつ》する。
一街区をまるごと炎に包んだ黒い泥の濁流も、おそらく大聖杯の中に残る総量と比べれば、ほんの一雫《ひとしずく》に過ぎなかったはずだ。その全てが余さず解放された暁《あかつき》には、どれほどの地獄が具現することやら想像もつかない。
そう――あの存在もまた綺礼と同じ、倫理の理《ことわり》に挑むモノだ。今にして思えば、まだ定かならぬ夢としてその存在を幻視したあの時にも、綺礼の胸には期待があった。あのようなモノ≠ェ本当に誕生し、その実在を証明することが出来たなら、倫理の問いにまるで違う可能性が拓《ひら》かれるのではないかと。
「|この世すべての、悪《アンリ、マユ》――」
焦がれるような想いを込めて、綺礼はその名を口にする。
いつかまた至らねばならない。そして次こそは見届けねばならない。その誕生を、その|存在価値《レゾンデートル》を。
――ふと、躍る炎の帳《とばり》の彼方に、綺礼は人影を見咎めた。
傷つき破れ、煤にまみれたロングコートを炎熱に煽られながら、その人物は夢遊病患者めいた頼りない足取りで、燃える街路をふらふらと彷徨い歩いている。
衛宮切嗣だった。どういう経緯でかは知らないが、セイバーを失ってなお、彼はこの大火災の中を生き存《ながら》えたらしい。
歩き方の覇気のなさとは裏腹に、しきりに周囲を見回す仕草だけは鬼気迫るほどに必死で、その様子はさながら灼熱地獄を徘徊《はいかい》する哀れな亡者のようだった。明らかに、炎に巻かれ焼き殺されるのも厭わず、何かを探し求めている。
よもや、綺礼を殺し損ねたと知って、この期に及んでなお追い縋《すが》ってきたか――
そう思った矢先に、視線が合った。虚ろな空洞のような眼差しを、綺礼ははっきりと真正面から受けた。
受けて立つとも――
右手と左足の怪我はそのままだが、今ならば負けるという気がしない。先の決着の不本意さを改めて思い出す。借りは、返さなければ気が済まない。
だが、そんな綺礼の意気込みは裏切られた。落ち着きを欠いた切嗣の視線は綺礼をあっさりと素通りし、そのまま何事もなかったかのように、引き続させわしなくあちこちを見回しながら、彼は何処へともなく歩き去っていった。
「……」
浮き立つほどに弾んでいた気分が、ふと気がつけば、なぜか言い様がないほど苦々しく澱《よど》んでいた。
「ん? どうしたのだ綺礼」
どうやらギルガメッシュの方は、いま綺礼が見咎めた人影に気付かなかったらしい。綺礼は無言でかぶりを振り、英雄王の問いをあしらった。
衛宮切嗣の様子は明らかに奇妙だった。かつての鋭い眼光など見る影もない、まるで空虚な洞《うろ》のような目をしていた。あんな心ここにあらずの有様では、きっと視野の内にあるものすら満足に認識できていないだろう。綺礼と目があったことにさえ気付かなかったのかもしれない。
あの男はもう、見ての通りの抜け殻だ。もはや相手にするだけの価値もない。他者を救うなどと嘯きつつもこんな大災害を招いた切嗣こそ、本当の意味での敗残者である。きっとせめてもの罪滅ぼしに生存者でも探しているつもりなのだろう。まさに愚《ぐ》の骨頂《こっちょう》だった。あの様子では奴自身が程なく煙に巻かれて死ぬ。殊更気にかけるまでもない、今となっては何の意味もない存在だ。
――そう|弁《わきま》えて、自らに言い聞かせておきながら、なおも綺礼の胸の内には、拭いされない澱《おり》が残った。
たとえ抜け殻に成り果てていても、ただの残骸だったとしても。
それでもあの[#「あの」に傍点]衛宮切嗣が、言峰綺礼を見過ごしたまま去っていったという事実には、曰く言い難い屈辱感があった。
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-01:03:14
壊れた機械が、ただ静かに機能を止めるのではなく、予想外の偶然で稼働を続けることがごく希にある。
雁夜が深山町の間桐邸にまで這い戻ることができたのは、つまりはそういう希有なケースの一例であった。
ここ数ヶ月間、雁夜の肉体そのものは事実上の危篤《きとく》状態であり、それが刻印虫の精製する魔力によって無理矢理に駆動されていたというだけに過ぎない。その刻印虫が、バーサーカーの暴走による過負荷の魔力供与によって死滅した以上、雁夜の身体は身動きひとつできないまま速やかに生命活動を停止するはずだった。
にも拘わらず雁夜は、地下室から立ち上がり、崩れゆく市民会館を脱し、燃えさかる街路を抜けて、冬木市を横断する長い夜道を踏破した。それは聖杯などに頼ることのない、ひとつの奇跡の成就であった。
だがその稀少さを理解することも、有り得ない幸運に感謝することも、今の雁夜には叶わない。
既に時間の感覚が失せていた。因果の脈絡が失せていた。何をどうやって今夜の戦いを潜り抜けたのか、その記憶すら曖昧だった。壊れた身体に負けず劣らず、精神《こころ》もまた摩耗しきっていたのだ。ただ桜を救う≠ニいう一念だけが、雁夜をここまで運んできた。
馴染み深い、腐臭に満ちた闇を見下ろす階段に辿り着き、雁夜は安堵と喝采に吐息をつく。
この階段を下りた先、蟲蔵の闇の奥に桜はいる。あと少し、あと少しで辿り着く。
案の定、誰にも邪魔されることはなかった。刻印虫を通じて雁夜の動向を監視していた臓硯は、雁夜が新都での決戦の場で死亡したものと思い込んでいるに違いない。あの老怪物を出し抜くチャンスを虎視眈々《こしたんたん》と狙っていた雁夜にとって、今このタイミングを逃す手はなかった。もう雁夜の中に虫はいない。アレはバーサーカーに喰い殺された。雁夜より先に音を上げた。雁夜は虫に勝ったのだ。
だから今なら――今ならきっと、囚われの桜を救出し、逃がすことができる。
雁夜は階段を下りていく。歩いているのか、這っているのか、転がっているのかも判然としないが、ともかく闇の中へ降りていく。キィキィとざわめく蟲どもの声がする。予期せぬ侵入者に驚き、憤《いきどお》っている。急がないと。臓硯に気付かれる前に急がないと。
ざわざわと蠢く闇の奥に、小さな少女の輪郭がある。今夜もまたいつものように、蟲どもに犯され、蝕まれている桜。宙に彷徨っていたその虚ろな眼差しが、はたと、近寄ってくる雁夜に焦点を合わせる。
「……おじさん……?」
「桜――助けに来たよ。もう、大丈夫だよ――」
この一言を告げられる日を、どれだけ待ち望んできたことか。
もうキミに絶望はいらない。もうキミに諦観はいらない。悪夢はここで終わり、もう二度と訪れない。
少女の柔肌に食い込んでいた手枷と足枷を外す。さあ行こう桜。キミの未来を取り戻そう。
雁夜は桜と手を取り合って蟲蔵を出る。こっそりと誰にも気付かれず、夜の深山町を抜け出す。葵と凛は隣町で待っていた。懐かしい禅城《ぜんじょう》の屋敷の庭で、母と姉妹は再開を果たす。喜び笑いあう三人を連れて、雁夜は旅立つ。誰にも見つからない場所へ。誰にも邪魔されない場所へ。そうして優しいばかりの時間が過ぎていく。いつか約束した通り、皆が揃って幸せに遊んでいる。花畑を駆け抜けて戯れる桜と凛を、葵が笑顔で見守っている。桜がせっせと白詰草《しろつめくさ》を集め、凛がそれを編んでいる。出来上がった花冠は、『お父さん』へのプレゼントなのだと、二人はそう言ってはにかみながら雁夜にそれを被せる。お揃いの花冠を被せられた葵が微笑んで雁夜の手を握る。ああ、ありがとう。笑いながら、泣きながら、雁夜は愛しい者たちを抱きしめる。父さんは幸せだ。こんな妻と娘たちに囲まれて、この世の誰よりも幸せだ。だから後悔なんてない。命を賭けた甲斐《かい》はあった。痛みも苦しみも報われた。欲しかったモノはすべて手に入れた――
[#中央揃え]×      ×
蟲蔵の冷たい闇の中、桜は目の前に転がっている男の死骸を見守っていた。その男は最期の最期まで、何やらよくわからない譫言《うわごと》を呟きながら、なぜか満ち足りた笑顔を残して死んでいった。
ワケが分からない。どうしてこの男はここに戻ってきたのだろう? なぜこんな哀れな姿になるまで生きていたのだろう? 何も解らない桜だが、それでも彼がなぜ苦しみ、なぜ死んだのかだけは、はっきりと理解できる。
――お爺さまに、逆らったからだ。
そんなこと、マキリの家の人間なら誰だって知っているはずなのに。なぜかこの人だけは、大人のくせに、とても愚かで物分かりの悪い人だった。
何故だろう。なぜこの人は、こんな無意味な死に方をしたんだろう。
しばらく考え込んだ末――ああ、そうか。と、桜は理解する。
きっとこれは、今夜の授業だ。
お爺さまに逆らって、余計なことを考えたりしたらどうなるか。その実例を桜に見せつけるために、このヒトはここで死んでいったのだ。
はい、よく解りました。お爺さま。
少女は従順に頷いて、蔵の蟲たちに群がられた男の遺体が、徐々に小さくなって消えていく様を、最後まで見届け、目に焼きつけた。
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00:00:00
――気が付けば、焼け野原にいた。
大きな火事が起きたのだろう。
見慣れた町は一面の廃墟に変わっていて、映画で見る戦場跡のようだった。
夜が明けた頃、火の勢いは弱くなった。
あれほど高かった炎の壁は低くなって、建物はほとんどが崩れ落ちた。
……その中で、原型を留めているのが自分だけ、というのは不思議な気分だった。
この周辺で、生きているのは自分だけ。
よほど運が良かったのか、それとも運の良い場所に家が建っていたのか。
どちらかは判らないけれど、ともかく、自分だけが生きていた。
生きのびたからには生きなくちゃ、と思った。
いつまでもココにいては危ないからと、あてもなく歩き出した。
まわりに転がっている人たちのように、黒こげになるのがイヤだった訳じゃない。
……きっと、ああはなりたくない、という気持ちより。
もっと強い気持ちで、心がくくられていたからだろう。
それでも、希望なんて持たなかった。
ここまで生きていた事が不思議だったのだから、このまま助かるなんて思えなかった。
まず助からない。
何をしたって、この赤い世界から出られまい。
幼い子供がそう理解できるほど、それは、絶対的な地獄だったのだ。
そうして倒れた。
酸素がなかったのか、酸素を取り入れるだけの機能がすでに失われていたのか。
とにかく倒れて、曇り始めた空を見つめていた。
まわりには黒こげになって、ずいぶん縮んでしまった人たちの姿がある。
暗い雲は空をおおって、じき雨がふるのだと教えてくれた。
……それならいい。雨がふれば火事も終わる。
最後に、深く息をはいて、雨雲を見上げた。
息もできないくせに、ただ、苦しいなあ、と。
もうそんな言葉さえこぼせない人たちの代わりに、素直な気持ちを口にした。
苦しくて苦しくて、生きている事さえ苦しくて、いっそ消えてしまえば楽になれるのだろうどさえ思った。
朦朧とした意識で、意味もなく手を伸ばした。
助けを求めて手を伸ばしたのではない。
ただ、空が遠いなあ、と。
最期に、そんな事を思っただけ。
そうして意識は消えかけ、持ち上げた手はパタリと地面に落ちた。
……いや。
落ちる、筈だった。
力無く沈む手を握る、大きな手。
……その顔を覚えている。
目に涙を溜めて、生きている人間を見つけ出せたと、心の底から喜んでいる男の姿。
――それが、あまりにも賭しそうだったから。
まるで、救われたのは俺ではなく、男の方ではないかと思ったほど。
そうして。
死の直前にいる自分が羨ましく思えるほど、男は何かに感謝するように、ありがとう、と言った。
見つけられて良かったと。
一人だけでも助けられて救われたと、誰かに感謝するように、これ以上ないという笑顔をこぼした。
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エピローグ
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翌日
チャンネルはどこも、昨夜の冬木新都の大火災のニュースで持ちきりだった。
マッケンジー家の朝の食卓も、さすがに今日ばかりは沈鬱なムードにならざるを得ない。
テーブルを囲む人数がいきなり一人減ったというのも大きかった。ここ数日間、この家に居着いていた大男の客人が、急な用事で昨日のうちに帰国したのだ。連日のもてなしへの感謝と、別れも告げずに辞する非礼への詫びは、ウェイバーが預かった言葉として代弁した。
「アレクセイさんは、無事にイギリスに着いたかしらねぇ……」
心配顔で呟くマーサ夫人に、ウェイバーは気安く頷いた。
「明け方にヒースローから電話してきたよ。時差を考えろってんだよ、まったく」
咄嗟の嘘にも、心は揺らがなかった。我ながら|鉄面皮《てつめんび》にも磨きがかかったものだ――と、ウェイバーは内心で自分に呆れる。
「あら電話が? 気付かなかったわ。ウフ、でもまぁ、あの人らしいじゃないの」
くすりと笑って頷いてから、夫人はテレビの映像に目を戻し、再び表情を曇らせる。
「……残念だけれど、近頃こう物騒なことばかりだと、むしろ良かったのかもしれないわ。心おきなく観光するなら、また時期を改めて来てもらった方がいいかもねぇ」
「……」
現場から中継で送られてくる無惨な焼け野原の光景を、ウェイバーは忸怩《じくじ》たる想いで眺める。
冬木市民会館の近辺を見舞った大惨事は、間違いなく聖杯戦争の余波によるものだ。残った三組のマスターとサーヴァントのうち、一体だれがこんな非道をしたのかは定かでない。だが、もし仮に自分とライダーが最後まで戦いの場に留まっていられたのなら、制止できたかもしれなかった事態だと思うと、やはり遣り切れない悔いが残った。
だが、もうこれ以後の悲劇はないはずだ。最悪の幕引きではあったが、冬木の夜を脅かす怪異は、今日より先には続かない。無事の人々にまで多くの犠牲を強いた第四次聖杯戦争は、昨夜、間違いなく終焉した。
その苛烈さを思い返すに――改めて、自分がまだ生きていることの奇跡を思い知る。
「……ねぇ、お爺さん、お婆さん。ちょっと相談があるんだけど、いいかい?」
神妙な声で切り出したウェイバーに、二人はコーヒーを啜る手を止めた。
「どうしたのだ? 改まって」
「うん、実はね……しばらく休学しょうど思うんだ。もちろんトロントの父さんにも相談してからだけど。学校の勉強よりも、別のことに時間を使いたくなって」
「ほう」
「あらまぁ」
思わぬ孫の発言に、老夫婦は目を丸くする。
「でもまた、どうして急に……もしかして、学校が嫌になったの?」
「いや、そういうわけじゃない。ただね……今まで勉強以外のこと、ろくに興味持たなかったのを、ちょっと後悔してるんだ。それでね……うん、旅をしようかと思う。外の世界を見て回りたい。これから先のことを決める前に、もっと色んなことを知っておきたい」
「まぁ、まぁ」
夫人は何やら嬉しげに胸前で手を合わせ、朗らかに微笑む。
「ねぇ聞きましたかグレン? ウェイバーちゃんったら急に、まるでアレクセイさんみたいなことを言い出したわ」
その評されようが、少しだけ嬉しく、またほんの少しだけ寂しくて、ウェイバーは苦笑いを浮かべる。
「ともかく、まぁ色々と準備というか、先立つものも必要になるし、まずはアルバイトでも始めようかって。……それで、さ。ここからが本題なんだけど。この冬木で、英語しか喋れなくても勤まる働き口って、ないかな?」
ふぅむ、とグレン老人が思案顔で腕を組む。
「んん、まあこの街は、日本にしては珍しく外来居留者も多いしな。儂の同僚のつてを頼れば、けっこう色々と見つかるとは思うが」
「ウェイバーちゃん、それじゃあ――もうしばらく日本に?」
目に見えて明るい顔になったマーサ夫人に、ウェイバーは頷いた。
「うん、もし構わないようなら……目処がつくまでこの家で厄介になっても、いいかな?」
「もちろんですとも!」
まるで小躍《こおど》りせんばかりの喜びようで夫人が手を叩く。そんな老妻の隣で、グレン老人は真顔のまま、ウェイバーだけに解るように小さな目礼を寄越してきた。ウェイバーもまた軽く肩を竦めて、照れながらもウィンクを返した。
自室に戻って一人になったウェイバーは、朝の光に洗われる室内を、あらためて見渡した。
十一日――それだけあれば、過ごした人間の色合いは嫌が応にも部屋に染みる。
読みかけの雑誌。食い散らかされた煎餅の袋。そこかしこに転がるワインの空き瓶。
かつてこの部屋で眠り、飲み食いした、もう一人の人間の痕跡。ウェイバーのものではない色彩。
幽霊だとか、使い魔だとか、そんな前知識を思い返すだに呆れてしまう。冗談ではない。ただの霊魂ふぜいが、どうすればこれだけどぎつい色≠残していくというのか。
もうこの色≠ェ部屋を染めていくことは、二度とない。
ここはこれから、ウェイバーだけが生活し、ウェイバー一人の人格によって染め上げられていく。古い色は上から塗り潰されていく。それは是非もないことだ。
惜しいとか、寂しいとか思うなら、せめて上塗りする色を、少しでも明るく鮮やかなものにしていくしかない。誰よりも鮮烈だった彼の色を、どうか霞ませないように。
ベッドに腰掛け、ナップザックに入れてあった『イリアス』のハードカバーを取り出す。
たった十一日の間に、手垢《てあか》で黒ずむほど手繰られた貢。何度読み返したのか知れない本を眺めて、いつも愉しげににやけていた大男の顔を思い出す。英雄アキレウスの冒険に嬉々《きき》と胸を躍らせて、その勇姿に自ら挑み、ついには自身の生涯までをも伝説にしてしまった男。
そんな男が、隣にいたのだ。そんな男と共に過ごして、戦った。
夢見た景色は妄想だなどと、どの口でそんな駄法螺《だほら》を吹いたのか。最後の最後で、あんなにも嬉しげに駆け抜けておきながら――
羨ましかったのは、事実だ。連れて行って欲しいとさえ思った。
なのに彼はウェイバーを置いていった。ウェイバーを臣下に誘い、その返答を聞いた直後、そういう決定を下した。あのときウェイバーの返事が違うものだったとしたら、また違った決定があったのだろうか。
何が臣下だ大バカヤロウ! だけビオマエは友達なわけだし、最後まで戦うっていうんなら、まぁ、ついて行ってやってもいいぞ
たとえばそんな風に、あくまで対等でいようと食い下がるだけの意地があったなら――あの男はやっぱり気持ちよく笑って、もしかしたら最後までウェイバーも一緒に愛馬に乗せていってくれたかもしれない。
「……要するに、まだまだ全然なってない≠チてことだな。ボクは」
独りそうごちて、嘆息する。結局あの男と並び立つには、全くもって足りていないのだ。土壇場でそれがばれてしまった。悔しいし、惜しい。プライドだけは人一倍だと自負していたというのに。
だが、焦るほどのこともない。かの大王が旅を始めた年齢《とし》にさえ、ウェイバーはまだ至っていないのだ。かつてあの男が大いに驚き、胸躍らせた冒険の数々は、今もまだきっと世界中に残っている。それを探して旅立とう。いつかはこんな自分でも、どこかに遠い海を見つけられるかもしれない。
――ふとテレビの片隅に、置き去りにされた紙袋が目に留まる。
そういえばあいつ、あんなに喜び勇んで買い物をしておきながら、結局、包み紙を解くことさえしなかった。
ウェイバーは袋を開けて、手つかずのままのゲーム機とソフトを取り出した。わざわざコントローラーを一つ余計に買いたしてある。無様にも目頭が熱くなったが、堪えた。
「……ボクはな、こんなくだらない玩具で遊ぶ気なんてないんだが」
それでも、なるべく新しいものに興味を持とうと心に決めたばかりでも、ある。せっかく手元にあるものならば、減るモノでもなし、とりあえず試してみるのもいい。
だけど本当に面白いのかね、これ?
ウェイバーは訝しげに眉を顰めつつも、ともかくパッケージの中身を検め、まずは説明書にある通りに、テレビとゲーム機の端子をケーブルで繋ぐところから始めた。
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半年後
「―― I know that my Redeemer lives,and that in the end he will stand upon the earth.」
葬送は冷たい雨の中、しめやかに進行する。
喪主を務めるのは、まだ年端もいかぬ少女だ。
悲しみも不安も面《おもて》に顕すことなく、表情を引き締めて、少女は課せられた務めを果たす。その気丈さを健気に思いこそすれ、だが不憫《ふびん》だと哀れむ者はいない。
もとより、そのような一族の葬儀なのだ。それを当然とする先代によって、そのような教育を施された担い手なのだ。弔《とむら》いの席に招かれたのは皆、それを承知する者ばかりである。
「And after my skin has been destroyed,yet in my flesh I will see God;I myself will see him with my own eyes ―― I,and not another.How my heart yearns within me ……Amen.」
そして棺は大地に贈られ、祈りの言葉の締めくくりをもって、参列者は一人また一人と去りはじめた。やがて静かな雨の中には、喪主の少女と、式事を執り行った神父だけが残される。
「ご苦労だった。新たな頭首の初舞台として、まずは充分な働きだ。お父上もさぞや鼻が高いことだろう」
淡々と賛辞する綺礼に、凛は無言で頷いた。その左腕には既に遠坂家伝来の魔術刻印が、まずは一割ほど刻み込まれている。移植されて間もない刻印は、今もまだ身体に馴染まず痺《うず》き続けていることだろうが、少女はその苦痛を一切面《おもて》に出すことなく、最後まで式に臨んだ。その意志力は、彼女の年齢を鑑みれば異例のものと言っていい。
事後を協会に託した時臣の書簡は、彼の人柄を物語るかのように、一分の隙もない完璧なものだった。遺体の移送と刻印の摘出《てきしゅつ》は、凛の後見人である言峰綺礼の立ち会いの下、ロンドンの協会本部において過誤なく執り行われ、すべての刻印は信頼できる時臣の知古の手で、厳重に保管されながら、いずれ残らず凛の肉体へと移される日を待っている。
身体に極度の負担をかける刻印の移植は、後継者の第二次性徴が完了するまでの間に、段階的に行われるのが好ましい。そのため先代頭首が急死を遂げた場合の措置には往々にして様々な困難が伴うものだが、時臣の差配は全てを見越していたかのように万全だった。遠坂家が積み上げてきた魔道の集大成は、一切の遺漏なく凛へと受け継がれることだろう。
だが遺体の搬送や摘出手術、それに伴う様々な手続きや折衝《せっしょう》のせいで、時臣の亡骸が故郷に戻るまでには半年に及ぶ期間を要した。それ故、今になって実現した遅すぎる葬儀には、故人の人望と功績にも関わらず、ある程度の事情を知るごく少数の縁者しか招かれなかった。これもまた、魔術師としての宿業といえよう。
墓地から一切の人気が失せたのを見計らい、綺礼は裏門に待たせてあるハイヤーを見遣った。
「そろそろ、お母上を連れてきてはどうかね?」
「――ええ。そうする」
本来なら喪主を務めるはずだった未亡人、遠坂葵は、病床にあるため人前には出られなかった。ともかく外向きにはそういう触れ込みになっていた。だが凛としては、せめて父の棺に土がかかる前に、母と最後の対面をさせてやりたかった。
凛は、他の参列者がいる間ずっと待たせていた母親を車から降ろし、車椅子に乗せて時臣の墓前まで連れてきた。まだうら若く美しい未亡人は、面《おもて》に何の感情も見せず、夢見るような朧な眼差しで虚空を見つめている。
「お母さん、ほら、お父様に最後のお別れを言ってあげて」
凛に促されて、夢見人の眼差しがはたと地上に焦点を結ぶ。
周囲の墓碑の列を見渡して、葵はやや気後れしたかのように目を|瞬《またた》いた。
「あ――ええと、凛? 今日は誰かのお葬式なの?」
「そうよ。お父様が死んだのよ」
「まぁ大変、早く時臣さんの喪服を出さなくちゃ。――ねぇ凛、桜の着替えを手伝ってあげて。ああどうしましょう。私も支度しなくちゃいけないのに……」
葵はしばらく車椅子に座ったまま狼狽を見せたあと、不意に糸が切れた人形のように俯き、再び顔を上げると今度は誰もいない空に向けて優しく微笑みかけながら、手を差し伸べて指を揺らしはじめた。
「ほら、あなた。ネクタイが曲がっていますよ。あと背中にも糸屑が。うふふ、しっかりなさってください。あなたは凛と桜の自慢のお父様なんですよ……」
彼女にしか見えない夫に向けて、甲斐甲斐しく語りかける母の姿を、凛はただ黙って耐えながら見守っていた。
遠坂葵が酸欠による後遺症で脳に障害を負うに至った経緯を、もちろん綺礼は凛に話していない。凜に解っているのは、葵もまた父親同様、四度目の聖杯戦争に巻き込まれた犠牲者ということだけだった。
現実を正しく認識する能力を失った葵は、ある意味で幸福だったのかもしれない。彼女の内側の世界は、遠坂家にまだ桜がいて、時臣が健在だった頃に巻き戻されたきり止まっていた。葵は日々、広くなりすぎた遠坂邸の中を彷徨いながら、記憶の中の夫や次女と語らい、笑いあい、満ち足りた家族という夢の中に生きていた。
そんな母親の介護をする凛は、ただ独り現実の世界に取り残され、彼女には決して踏み込むことのできない幸福のパントマイムを見せつけられながら毎日を送っている。誰と悲しみを分かち合うこともできないまま、幼い次期頭首は魔道の家門の重みを背負い、刻印の痛みに耐えていかねばならない。まだ小学生の少女にとって、それはあまりに過酷すぎる運命だった。
言峰綺礼にとって、このような悲運の少女の後見人という役を仰せつかったことは、大いなる幸運だった。
他者の苦しみと悲嘆にのみ喜びを見出すという畸形《きけい》の感性。そんな自らの本性に開眼した綺礼から見れば、凄の現状は、多感な少女の成長環境としてこれ以上ない程に望ましい境遇である。それを誰よりも間近に観賞できる立場に身を置くというのは、まさに極上の美酒の瓶を与えられたに等しい。
だが――それで実際に綺礼が酬《むく》われているかといえば、これが業腹なことに、全く否だ。
世にも希なる苦境を背負っておきながら、この幼い少女は、決して涙を見せなかった。それどころか弱音一つすら漏らさなかった。
今も、父の葬儀を正しく理解することさえ叶わない母親の惨めな有様を前にして、凄は辛抱強く感情を抑え、母の様態が安定するのを待っている。本当ならまだ親に甘え足りないであろう年頃の子供にとっては、とても耐えきれない光景のはずなのに。
凛はそれを自らの運命として認め、受け入れ、そして毅然《きぜん》と立ち向かっている。その類い希なるプライドと克己心《こっきしん》は、遠坂凛という少女の最大の美徳であり、また綺礼にとっては小癪《こしゃく》きわまりない難点だった。
たしかにこの娘は極上の酒の瓶かもしれないが、その瓶の蓋が開かないとあっては、甘露どころか癇癪《かんしゃく》の種だ。
その身にいかなる辛酸が降りかかろうとも、そのすべてが、凛という宝石の原石を研磨する役を果たすばかりである。おそらくは愛する母親の無惨な醜態も、彼女の人格形成において傷《トラウマ》となるどころか、むしろ逆に人間の弱さと惨さを見つめることで、慈悲と寛容の心を養う結果になりかねない。
この少女は魔道という外法の道を歩みながらも、かつて彼女の父親がそうであったように、魔術師ならではの歪みや欠落を抱えることすらなく、真にヒトとして均整の取れた人格を形成してしまうかもしれない。綺礼としては、甚《はなは》だ面白くない話だった。あの時臣の胤ともなれば、さぞや盃《いびつ》な花を咲かせてくれるものと期待していたというのに。
内心の心境を秘め隠したまま、綺礼は励ますかのように凛の小さな肩に手を置く。
「またしばらく、私は日本を留守にするが……今後について、何か不安はあるかね?」
「……ないわよ。あんたに頼ることなんて、何も」
硬く強張った声で、少女は綺礼の顔すら見ようともせず、ぶっきらぼうに答える。
凛は父の遺言に従い、言峰綺礼が後見人を務めることには何の異論も差し挟まなかったが、それでも彼に向ける嫌悪の情は隠そうともしなかった。時臣の助手として同じ戦場に臨み、結果ついに時臣を守りきれなかった綺礼に対して、凛は今でも怒りと不信を懐いているのだろう。
そんな凛の拙《つたな》い憎しみが、綺礼としては可笑《おか》しくて仕方がない。いつか真相を知った時、この少女がどんな顔をするのだろうか。今から楽しみでならない。
「次に会うのは、半年後だ。その時に二度目の刻印移植も執り行う。体調管理には充分に気をつけるように」
「……言われなくても、解ってるわ」
「今後もますます、私は外地での勤めに駆り出されることが多くなる見込みだ。済まんが当面、日本に腰を据えることはできそうにない。後見人として不甲斐《ふがい》ないとは思うが――」
「お忙しそうで結構ね。いいわよ。あんたがいなくたって、遠坂の家と母さんは私一人で面倒を見る。あんたは異端狩りなり何なりにコキ使われてくるがいいわ」
ふん、と虚勢を張ってそっぽを向く凛。今日の態度は、普段にも増して刺々《とげとげ》しい。やはり今日という日は少女にとって、ひときわ重く苦しいものなのだろう。
ふと綺礼の脳裏に、ささやかな娯楽の趣向が閃く。
「――凛、これよりお前は名実共に遠坂の頭首となる。今日この日のために、私から門出の品を贈りたい」
そう言って綺礼は、懐から鞘込めの短剣を取り出した。
かつて時臣が死の直前、友誼《ゆうぎ》の証として綺礼に贈ったアゾット剣。今日の葬儀にあたって、綺礼もまた故人を偲ぶべく、想い出の品を持参していた。自ら手にかけた者に対しても、そういう殊勝な心掛けを致せるのが言峰綺礼という人物だ。
「かつて私が、魔術の修行の成果を時臣師に認められた折、戴いた品だ。――以後、これはお前が持つといい」
「――これが、お父様の――」
凛は差し出された短剣を手に取り、鞘の中の刃を検める。柄の革巻きに、刀身の魔法文字に、そっと恭《うやうや》しく触れる。かつてその細工を刻んだ父の指先に、思いを馳せるかのように。
「……お父様……」
少女の手の中で、短剣は漣《さざなみ》のように小さく震え――曇り一つないその刀身に、ぽたり、と涙の雫が落ちる。
それは凛が綺礼の前で見せた、初めての涙だった。
ついに待ち望んだ美酒の味わいを得て、綺礼の胸は喜びに震える。
凛は知らない。いま彼女の涙を受け止めている刃が、かつて時臣その人の心臓から血を吸ったのだという真相を。彼女はこれより、あの短剣に愛する父の想い出を託しつつ、さぞや大切に所蔵することだろう。それが他でもない父を殺めた凶器だとは知りもせず。
その悪辣なる皮肉。踏み躙られる心の純朴《じゅんぼく》。まさに言峰綺礼の魂を歓喜させる醍醐味《だいごみ》だ。
俯いたまま涙にむせぶ凛は、そんな彼女を見下ろして声もなく笑う神父の面持ちに気付きもせず、いつまでも運命の剣を握りしめていた。
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五年後
月の綺麗な夜だった。
衛宮切嗣ほ何をするでもなく、縁側で月を眺めている。
冬だというのに、気温はそう低くはない。わずかに肌寒いだけで、月を肴《さかな》にするにはいい夜だった。
傍らには一人の少年がいる。彼もまた何をするでもなく、切嗣と一緒に月見をしている。
名前は|士郎《しろう》。
かつて切嗣が全てを喪った炎の中で、唯一の救いをもたらした存在だった。
あれからもう五年が経つ。当時まだ子供だった士郎も、近頃は随分と逞しくなった。
火事で身寄りをなくした士郎を、切嗣は義子として引き取った。それからアイリスフィールの隠れ家として購入した土蔵のある廃屋を、どうにか暮らしていける程度に手直しし、二人でそこに住み着いた。
なぜそんなことをしたのかは、彼自身にもはっきりしない。他に行く当てなどなかったというのもあるが、それを言うならそもそも、もう生き続ける理由すらなかったのではなかったか。
かつて衛宮切嗣という人間に備わっていた目的も、信念も、あの日の炎とともに燃え尽きた。焼け野原に取り残された男は、ただ単にまだ心臓が動いているというだけの、ただの残骸でしかなかった。
実際、あのまま士郎を見出すこともなくその場を歩み去っていたならば、切嗣は本当の意味で死んでいただろう。
だが彼は出会った。誰もが死に絶えた炎の中で、辛くも一命を取り留めた子供と。
その奇跡が、かつて衛宮切嗣と呼ばれた抜け殻の、新しい中身になった。
今にして考えても、それは奇妙な生活だった。
妻と娘を棄てた男が、とりあえずは父親の素振りを通し――
両親を奪われた子供が、とりあえずは息子の素振りを通し――
気がつけばそんな毎日の繰り返しが、変わらぬ日常となっていった。
士郎はまだ四〇にも届かない切嗣を『爺さん』と呼んでいた。むべなるかな、とも思う。
切嗣の内に残った活力と、明日より先の日々に託す想いの程は、事実、老人のそれと大差なかったのだから。
あれから以後、ただ優しいままに巡り過ぎていった季節は、まるで他人の夢の中にいるようだった。
喪うばかりだったはずの人生なのに、五年前のあの日を境に、切嗣の前から去っていった人物は一人もいない。
士郎も、大河《たいが》も、雷画《らいが》老人や藤村《ふじむら》組の若衆も、出会った日から今もなお消え去ることなく共に居る。
かつて出会いとは、別れの始まりでしかなかったというのに。
だが、そんな幸福を手に入れたが故の、当然の対価だったのか。
それ以前にひとたび喪ったモノは、もう二度と取り戻せなかった。
幾度となく切嗣は旅に出る≠ニ士郎を偽って家を留守にし、アインツベルンの所領に赴《おもむ》いた。冬の城に一人だけ置き去りにしてしまった娘を助け出すために。
だが切嗣が何度執拗に訪れようと、ユーブスタクバイトは森の結界を開こうとはしなかった。当然といえば当然だ。切嗣の土壇場での裏切りによって、アインツベルンは聖杯を求める四度目の挑戦を無為にされたのである。むしろ制裁があってこそ然るべきだったが、アハト翁はそれすらもしなかった。裏切り者の狗はただ放逐したきり、無様に野垂れ死ぬまで生き恥を晒すのが相応の報いだと断じたのだろう。或いは娘のイリヤスフィールと引き裂かれたまま生涯を終えることこそ、切嗣に対する最も覿面《てきめん》な罰だと判断したのかもしれない。そして、それは事実だった。
かつて『魔術師殺し』などという悪名を轟《とどろ》かせていた頃の切嗣なら、或いは極寒の森の結界を突破し、城中の娘の元まで辿り着く望みもあったかもしれない。だが『|この世すべての悪《アンリマユ》』と接触したことで切嗣を蝕んだ呪いは、死病も同然に切嗣の肉体を衰弱させていた。手足は萎え、目は霞み、魔術回路は八割方の機能を失って、もはや半病人も同然だった切嗣には、結界の起点を探し出すなど望むべくもなく、ただ吹雪《ふぶき》の中を凍死する寸前まで彷捏い歩くのが関の山という有様だった。
そして、そんな何度目かの無理が崇ったか――近頃では切嗣も、漠然と、自らの死期を間近に感じはじめていた。どのみち、あの黒い泥の呪いを身に受けた時点で、とうに余命は限られたものだったのだろう。
最近は家にこもって漫然と過ごしながら、想い出に耽ることが多くなった。
この自分の人生は、いったい何だったのだろうかと――
そんな事を考えながら、今も士郎と、ただ何をするでもなく月を見ている。
「……子供の頃、僕は正義の味方に憧れてた」
ふと、そんな言葉が口を衝いて出た。
遠い、遠い昔から水面《みなも》の底にあった難破船のような、長い間ずっと置き去りにしたまま忘れていた言葉だった。――そう。いつだったか、自分は誰かにそう言おうとして、果たせなかったのだ。あれは一体いつのことだっただろうか。
だが、そんな切嗣の声を聞いた途端、士郎はやにわに不機嫌な顔になる。
「なんだよそれ。憧れてたって、諦めたのかよ」
士郎は、切嗣が自らを否定するような言葉を嫌う。彼は切嗣という男に深い憧憬を寄せていた。そしてその想いに対し、切嗣は内心で、常に忸怩たる感情を抱いていた。
少年は義父のことを何やら偉大な人物だと思い込んでいる。衛宮切嗣の過去を――その生涯がもたらした災禍と喪失を何一つ知りもせず、切嗣のことを目標にしてしまっている。
士郎の中にある自己犠牲と正義感は、ある種の歪みと言っていいほどに過剰なものだ。そしてどうやらそれは切嗣に対する的外れな羨望から端を発しているらしい。父子として過ごした歳月に唯一の後悔があるとしたら、それだ。士郎は切嗣のようになりたいと言う。切嗣が歩んできた道を辿りたがっている。それがどんな愚挙なのかを教え諭すことが、ついに切嗣にはできなかった。
もし仮に士郎が切嗣と同じように生き、同じように壊れていくとしたら、この五年間の優しい日々さえもが、結果として呪いだったことになってしまうというのに。
諦めたのかと、士郎は質す。その問いがあまりにも胸に痛い。――そうだ。素直に諦めていたならば、どれほど多くの救いがあったことか。
切嗣は遠い月を眺めるふりをして、悲痛な思いを苦笑で誤魔化す。
「うん、残念ながらね。ヒーローは期間限定で、オトナになると名乗るのが難しくなるんだ。そんなコト、もっと早くに気が付けば良かった」
もっと早くに気付いていれば――願望機による奇跡などという甘言に釣られることもなかったはずだ。
かつて切嗣は理想のために、世界を滅ぼす悪魔を解放しかかった。その過ちに気付くのが遅すぎたばかりに、途方もない数の人々を犠牲にした。その中には士郎の本当の両親までもが含まれる。
あの地獄は、今もなお円蔵山の地下深くに潜んでいる。もちろん手は打った。切嗣はあの戦いから持ち越した爆薬の類をやりくりし、数年がかりで何カ所かの地脈に手を入れて、円蔵山へと流れ込むレイラインの一部に瘤《こぶ》≠ェ発生するように細工を施しておいた。それは彼が生涯最後に講じた魔術の行使でもあった。
いずれ地脈から集まるマナは長い時間をかけてその瘤に堆積《たいせき》し、臨界点を越えたところで、ごく局地的な大地震を円蔵山直下に引き起こすことになる。早ければ三〇年、遅くとも四〇年のうちに癌≠ヘ破裂するはずだ。計算上では間違いなく円蔵山の地下空洞を崩落させ、『大聖杯』を封印できる。生きてその成果を見届けることは叶わないものの、六〇年後に巡り来る五度目の聖杯戦争を阻止するための措置として、今の切嗣に出来たのはそれが精一杯だった。
士郎は、さっきの切嗣の苦し紛れの説明についてしばらく考え込んでいる様子だったが、やがて彼なりに納得したのか、「そっか。それじゃしょうがないな」 と、神妙な顔で頷いた。
「そうだね。本当に、しょうがない」
切嗣もまた、悼《いた》みを込めて相槌を打つ。
仕方がない、と――
そんな言葉では何の弔いにも、償いにもならないと知りながら、ただ遠い空の月を眺める。
――ああ、本当に、いい月だ――
こんなにも月を綺麗だと思った夜は、生まれて初めてかもしれない。こんな景色を、切嗣と一緒に、士郎が想い出の中に刻み込んでくれることが、たまらなく嬉しかった。
「うん、しょうがないから俺が代わりになってやるよ」
楚々と夜を照らす月明かりの中で、少年は、ごくさりげない口調で誓いを立てた。
かつて切嗣が憧れ、諦めたモノになってやる≠ニ。
そのとき、はたと悟った。
彼もまた、かつて誓おうとしたのだ。誰よりも大切な人に、その言葉を告げようとした。
あのとき胸に懐いた誇らしさを、決して見失うまいど思っていた輝きを――忘れていた。たった今この瞬間まで。
「爺さんはオトナだからもう無理だけど、俺なら大丈夫だろ。まかせろって、爺さんの夢は――」
士郎は誓いの言葉を続ける。今夜この景色とともに、忘れようもない思い出として、自らの胸に刻み込んでいく。
そうだ。こんなにも綺麗な月の下ならば――彼はきっと忘れるまい。
衛宮士郎の始まりの想い、その貴《とうと》く無垢な祈りのカタチは、きっといつまでも美しいものとして、その胸に生き続けることだろう。
やがて少年は、愚かなる義父の理想を嗣いで、数多の嘆きを知るだろう。数限りない絶望を味わうだろう。
だがそれでも、この月の夜の思い出が彼の中にある限り、きっと彼は今この瞬間の自分に立ち戻れる。畏れも知らず、悲しみも知らず、ただ憧れだけを胸に秘めて強く在ろうとした幼き日の心に。
それは――いつしか始まりの自分を忘れ、ただ磨り減っていくしかなかった切嗣には、望むべくもなかった救済だ。
「そうか。ああ――安心した」
士郎《かれ》は、たとえこの自分のように生きようと、この自分のように過《あやま》つことはない。
その理解に、胸の内のすべての疵が癒されていくのを感じながら、衛宮切嗣は目を閉じた。
斯くして――
その生涯を通じて何を成し遂げることもなく、何を勝ち取ることもなかった男は、たったひとつ最後に手に入れた安堵だけを胸に、眠るように息を引き取った。
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――ケリィはさ、どんな大人になりたいの?――
眩い日差しの中で、彼女に訊かれる。
その微笑みを、その優しさを、決して失いたくないと。
こんなにも世界は美しいのだから、今この瞬間の幸せが永遠であってほしいと。
そう思うから、誓いの言葉を口にする。
今のこの気持ちを、いつまでも、決して忘れずにおきたいから。
――僕はね、正義の味方になりたいんだ――
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あとがきに代えて
[#地から4字上げ]虚淵玄
物語作品の二次展開というものは、はたして是≠ネのでしょうか? 否≠ネのでしょうか? アニメ化、ゲーム化、ノベライズ、続編、外伝……大好きだった作品についてのそういった報せに、かつて胸躍らせずにはいられなかった頃が私にもあります。
愛して止まないあのキャラに、もう一度会いたい。新たなる勇姿を見てみたい。そんな無垢なる願いを懐いて完成を待ち受けた日々。遠く過ぎ去った幼い頃の、懐かしい思い出です。
さて世紀の境目も踏み越えた今、やはり等しく大好きな作品について、そういう報せを聞いたときの私はといえば、まず間違いなく眉を顰《ひそ》め、不安に胸を苛《さいな》まれてしまいます。
もちろん不安が杞憂《きゆう》に終わり、素晴らしい追体験を味わえることも多々あります。でもそれ以上に大方のケースでは、失意と落胆、大切な記憶を陵辱されたという憤《いきどお》りだけを味わっているのが事実です。
二次展開というものは、はたして是≠ネのでしょうか? 否≠ネのでしょうか? 是≠ナあってほしいという『祈り』は、今もなお心の奥底にあります。かつて終わらない物語に憧れた頃の気持ちは、今でもなお忘れられません。
ところが、『感情』は声高に否≠ニ叫ぶのです。どうせろくな事にはならない。ただネームバリューを利用され、旧来のファンが食い物にされるだけだ。新しい作り手は、どうせ成功したところで評価も名声も原作者と分かち合うことしかできない。そんな仕事に情熱を注いでくれるわけがない。適当にお茶を濁す程度の品質で放り出し、あとは広報のお祭り騒ぎで売り逃げしてそれっきり。 − そんな光景ばかりを、もう何度も見せられてきました。今さら『祈れば想いは届く』などと、どうして脳天気に信じられましょうか。
そして、『理性』は渋々ながら是≠ニ呟くのです。もう、仕方がないんだと。
今やアニメ、ゲーム、ライトノベルを総括するオタク娯楽のジャンルは、膨大な利潤をもたらす『産業』として機能しています。そう、もはや『産業』なのです。量産と消費のサイクルをどこまでも加速していくことを良しとする市場原理。生産者にとっては収益こそが、消費者にとっては間断ない供給こそが理想とされるシステムの中では、一つの物語が、ただ一つの商品のみで完結するなど愚の骨頂なのです。有限資源たるアイディアは、原作からゲームにアニメにコミックにノベライズにフィギア化にグッズ展開にそのまたリメイクに、それから新装版に愛蔵版に文庫版にディレクターズカット版に新訳版に復刻版に……と、徹底的なリサイクルを心がけるのがエコロジーというものです。そうして膨大に提供される商材をいかに貪欲に買い集めるかで、ファンの信心が試されます。その物語にまつわる派生物について経済活動を継続することだけが、物語を愛し続ける<Xタンスとして正調とされるからです。
リサイクルによる原料の劣化など、まさに再生紙に紙質を問うが如きナンセンス。どうせ買う側は気にかけず惰性で買い続けるのだから、売る側が気にするわけありません。そうやって経済が活性化し、そのサラリーで数多のパパが家族を養っているというのに、どこの馬鹿が難癖をつけられましょうか? 二次展開は儲かるのです。あっちこっちで色々な人たちの収益になるのです。そんな公共の利益に否≠叫んだら、大勢の人を怒らせます。怖い思いをします。仲間を失い、スポンサーを失い、オマンマの食い上げになります。それが理解できる程度には、私も大人になりました。空気を読んで、業界の常識と慣例を尊重して、にこやかに是≠ニ受け入れる日本人の美徳を身につけました。
――二次展開とは是≠ネのでしょうか? 否≠ネのでしょうか?
そこには確かに情熱があり、でもそれに倍する打算があります。
多くの素晴らしい派生が生まれ、それに倍する冒涜が氾濫してます。
アキハバラの賑わいを散策しながら、なぜ自分は笑顔でいられないのか。大勢の同好の士に囲まれながら、常に心の底に蟠《わだかま》り続けるドス黒い感情は何なのか。
そのうち、考えるのが疲れました。ええ、面倒臭いこと思い悩むのが苦手な性分なんです。考え込むぐらいなら身体動かしてたほうが余程いい。
ウダウダ四の五の言うくらいなら、テメェがテメェの納得できるような二次展開やってみりやあいいじゃんか。外野に突っ立って顰《しか》め面だけしてる方がよっぽど卑怯なんじゃないか。
もちろん、とんでもない綱渡りです。原典を愛する心があっても、それを支える技術と、達成する体力が伴わない限り、成功などおぼつきません。そして失敗のリスクは途方もなく甚大《じんだい》です。損なわれるのは自分の評判だけではない。自分が愛した物までも冒涜する結果になるのですから。
まぁ、結局やっちまったワケですが。
私にとって物語を書くことは、草花の仕組みに似ています。
花の美しさに魅せられて、その感動が心の中で実を結び、そしてやがて種を撒き散らす。胸に残ったその一粒の種から、かつて見た花をもう一度咲かせたくて、誰かにそれを見せたくて、だから芽吹かせて育てようと必死になる。
私には主義主張なんてないんです。世に問い糾《ただ》したい思想なんてない。褒めてもらいたい独創性もない。ただ、いつか誰かに貰った種が心の中にあるだけです。ガンアクションが好きで、変身ヒーローや武侠片やサイバーパンクやコズミックホラーやマカロニウェスタンが大好きで、その好きっぷりがもはや自分一人の内側に仕舞い込みきれなくなって、こんな稼業に就いてしまいました。だから私がやってきたことは、いつだって二次展開だったんです。それが否≠ナあってたまるもんですか。胸を張って是≠セと叫びたい。引け目なんて感じたくない。あまりにも虚しい、恥も外聞もない寄生虫どもが跋扈《ばっこ》する二次展開産業の中で、それでも私は、書くことの喜びを貴いモノだと信じたいのです。
『俺は、Fateが好きなんだ』と――そう叫び通すことだけに一四〇〇貢余りを費やした拙作を、今ここに謹んでお届けいたします。
長く苦しい戦いでした。正直、血ヘド吐く思いで書き上げました。でもその甲斐はあった気がします。きっとこれが、私なりの答えなんだろうど、そう覚悟を決めて皆さんにお見せできる程度のものには仕上がったと思ってます。
二次展開とは是≠ゥ否≠ネのか……もう今後の私が迷うことなどないでしょう。
己の全てを賭けて是≠セと言い張れるものを書き続けること。そういう自分を拠り所にして、否≠ニ見えたものを否定し抜くこと。
要するに、それしかないんです。この四冊を書き上げた経験が、私自身にそう教えてくれました。
一時は筆を折ることさえ考えた私ですが、改めてこのFate/Zeroという作品には、様々な形で救われた気がします。
ええ、答えは得ました。
大丈夫ですよ読者の皆さん。虚淵も、これから頑張っていくから。
[#改ページ]
解説
[#地から4字上げ]奈須きのこ
こうして彼の歩みは終わった。
長く―――特筆すべき悪性を持たない、誰もが持つ平凡な願いを第一にしてしまった何者かの長い旅路は、ようやく元いた場所に辿り着き、幕を下ろしたのである。
残された多くの咎。
救われる事のなかった彼の理想が果たされるのは、これより十年後の話となる―――
[#中央揃え]◇
「ああ―――やってくれたな、虚淵玄」
四巻読了後。切なくも重苦しい気持ちで本を閉じ、空を仰いだ私は、そう、心からの感謝を呟いた。
あまりにも酷い。
あまりにも重い。
あまりにも、救われる者がない。
だが―――それらの犠牲を踏み台にして、なお胸に残る輝きがある。
破壊と創造は手を組んで現れる。何もかも焼け落ち、誰もかも灰になった。本来哀しみしかないその荒野に、ひっそりと芽吹く命がある。
失ったものたちに比べればあまりにも小さな、けれど、だからこそ尊いその輝きに、物語に介入する術を持たない我々は目を細めるしかない。
願わくば、彼の物語に一抹の価値を。
彼本人に与えられずとも、その人生を受け継ぐ者が現れん事を―――
既に読了した読者の皆様がまったく同じ気持ちである事に、私はなんら疑いを持っていない。
圧倒的なスピード感。
雪崩のように襲いかかる終局に次ぐ終局。
息つく事さえ許さない、切り取られた一瞬の如き英霊たちの激突。散りゆくものたち。
三巻までの激闘など準備運動にすぎない。虚淵玄の本領はこの四巻でこそ牙をむく。のしかかる重圧にあえぎながらも貢をめくる手が止まらぬ地獄を、貴方もつい先ほどまで味わっていたハズだ。
にも関わらず、この清涼感、満足感は何事だろう。胸に哀しみはあれど未練はない。
果たされなかった物語にも意味はある。絶望の淵から奇跡を叫ぶ強さ。後に繋がっていく物語の強さを、私はたしかに見せてもらった。
この四巻をもって「Fate/Zero」は外伝ではなく、紛れもなく本編に連なる物語となった。それぞれが異なる形式の物語であるが、相互に補完し合い、深みを増していくのなら「Zero」はゼロではなく肉のある一である。もしくは、これを凌駕したかだ。
[#中央揃え]◇
今更ではあるが、「Fate/Zero」はPCゲーム「Fate/stay night」の十年前、ある正義の味方の事の始まりを描いた小説だ。
正義などという、言葉にした時点で胡散臭さの代名詞になるような|飾り物《フェイク》≠主役においた物語。実に面倒くさく泥くさい話を、虚淵玄はこのように料理した。
小説であるZero、
ヴィジュアルノベルゲームであるstay night、
ともに形式も作風も異なり、テキストを綴るライターも異なっている。
原作のライターと本書の著者である虚淵玄。
この二人は趣味趣向で共通する部分はあれ、根本はあまりにも違う。作風、思想、得意分野、肉食菜食、睡眠時間、はては女の子の趣味まで!(あ、いや、後半のはあんまり関係ない。うん、ないな)
そんな虚淵玄が書き上げる「Zero」は当然、「stau night」とは彩りも硬質さも違うものだ。
だが、根本にあるものは恐ろしいまでにズレていない。
「Zero」が発表された時、おそらく多くの読者が期待と不安を抱いたと思う。虚淵玄が優れたライターであるからこそ、他のライターの世界観で戦う事に不協和音が生じるのではないかと。
しかし―――結果は皆さんご存じの通り、異なる楽器で演奏しながらも音程を合わせた、見事なセッションとなった。
これだけの名プレイヤーが「Fate」という楽譜を演奏してくれた事を感謝しつつ、皆さんにもその奇跡を堪能してほしい。解説の席で感謝の意を述べるのは筋違いではあるが、この場を借りて氏にお礼を言いたい。ありがとう、と。
そして氏の苦悩を、わずかばかりでも解消できた事も喜びたい。
自分の書いた物語に埋没できない≠ニ、氏はよく私に語る。
故に物語で遊ぶ事はできないと。が、それはあらゆる物語を冷静に、冷徹に観測・解析できるという異能に他ならないと思うのだ。
私が物語に沈みこむダイバーなら、氏は水面から深度を測るスキャナーだ。その解析力、その理解力は潜るしか能のない私から見れば、脅威以外の何物でもない。
二次展開とは何か
近年、虚淵玄はその悩みをぼそりと口にする。
彼をその人柄から兄貴と呼んで親しみつつも豪快に振り回されたりする私だが、彼が自分とは違う角度で純粋である事も、それなりに理解しているつもりだ。
こんな話がある。
氏がとある同人誌で、メディアミックス展開について答えたものだ。
「〜そもそも、せっかく書いたものをアニメやゲームにされていいのか。貴方は完成品としてソレを世に出したハズだ。それが違うメディアになるという意味をよく考えてほしい。単に違うもの≠ノなり、完成したカタチからどんどん損なわれていっている事に気づいてほしい〜」
それは多くの原作者≠ェ漠然と思いながらも、どうしても膝を屈してしまう拡がる事への喜び≠セ。でもそれでいいのかな、と心の奥底で首を傾げても、その喜びの前には個人の矜恃《きょうじ》など些末事だ、と誰もが疑問を飲み込んでしまう。
それを完成から遠ざかる事ではないか≠ニ思い詰められる純粋さ。武士の潔さに通じるものが虚淵玄にはあり、それが故の二次展開への苦悩≠ェある。
同誌の中で虚淵玄はこうも言っている。
「〜商業的な二次展開は非ですが、非商業的な二次展開は是です〜」
さもありなん。「Fate/Zero」を生み出す時、氏が望んだのは何の商業的打算もない、純粋な氏が夢見たFate≠セった。そこには不必要な要素も、時代に迎合した贅肉もない。氏が良しとする在り方が、この時代にとってあまりにも不利なスタンスである事を理解しながらだ。
自分が心の底から良しとしたものを、読者が良しとしてくれるか―――
幸運な事に「Fate」は多くのユーザーに愛された作品だ。そんな多くのユーザーを相手にして、虚淵玄は自分の愛するFate≠ナ真っ向から立ち向かう道を選んだ。
いや、それ以外に選べなかった。
「Fate/Zero」が、衛宮切嗣が、血を流しながらも前進する物語になったのは当然かもしれない。
今の自身に偽善を感じ、筆を折ろどうした数えされぬ何者か。
それでも物語を愛した自身を信じ、書き続ける事を選んだ多くの貴方。
願わくば、その物語に一抹の価値を。
彼本人に与えられずとも、その人生を受け継ぐ者が現れん事を。
[#中央揃え]◇
……などと綺麗にまとめながら、これで深夜一時にピンポーンと軽やかにやってきた虚淵さんが「こういうの考えたんだけどやっていいですかね?」と気軽にトンデモネー展開を言いはなつ日々も終わりなのだなあ、としんみりする奈須きのこなのであった。
[#改ページ]
フェイト/ゼロ Vol.4「煉獄の炎」
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2007年12月29日初版発行
著者―――――――――虚淵玄(ニトロプラス)
発行者――――――――竹内友崇
発行所――――――――TYPE-MOON
http://www.typemoon.com/
FAX:03-3865-6166 MAIL:info@typemoon.com
イラスト―――――――武内崇
作画・彩色――――――こやまひろかず・蒼月タカオ・MORIYA・simo氏
ロゴデザイン―――――yoshiyuki(ニトロプラス)
装丁―――――――――WINFANWORKS
印刷―――――――――共同印刷株式会社
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Fate/Zero offlcial web slte:http://www.fate-zero.com/
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