[#ここから2字下げ]
イラスト/武内崇
作画・彩色/こやまひろかず・蒼月タカオ・MORIYA・simo氏
ロゴデザイン/yoshiyuki(ニトロプラス)
装丁/WINFANWORKS
[#ここで字下げ終わり]
ACT9
[#改ページ]
-96:06:02
灰燼《かいじん》――
そう呼ぶに相応《ふさわ》しい惨状《さんじょう》だった。
破壊はあまりに徹底的すぎて、それをもたらした者の意図《いと》すら窺《うかが》わせぬほどに均等だ。すべてが暴風雨に吹き飛ばされたかのように、まるで原形を留めていなかった。
だが無論、これは天災ではなく人為である。そもそも地下貯水槽に暴風雨が襲い来るわけがない。対軍宝具、あるいは対城宝具による大破壊……キャスターの工房にもたらされた傷痕は、それ以外に考えられなかった。
「ヒデェ……あんまりだ……ッ!」
惨状を目の当たりにした|雨竜龍之介《うりゅうりゅうのすけ》は、惜しみなく涙を流して慟哭《どうこく》した。見るに忍びないほど哀れを誘うその悲嘆《ひたん》ぶりには、誰であれ同情したくなることだろう。無論、事情を知らなければの話ではあるが。
昨夜も昨夜で、また魅惑的な餌食《えじき》を求めて夜の渉猟《しょうりょう》に出かけていった龍之介とキャスターだったが、空も白み始める頃合いになって意気揚々《いぎようよう》と帰ってきてみれば、二人の憩《いこ》いの工房は、見るも無惨《むざん》な姿へと変わり果てていたのである。
「精魂込めて俺達が仕上げてきたアートが……酷《ひど》すぎる! こんな、こ、これが人間のやることかよォッー!!
しゃくり上げる龍之介の肩をそっと抱いて、キャスターは優しくあやすかのように慰《なぐま》めの言葉をかけた。
「リュウノスケ、貴方は人間性というものの中に潜む真の醜悪《しゅうあく》さについて、まだ理解がなかったのですね。ならば嘆《なげ》くのも無理はない……
ねぇリュウノスケ、本当の美と調和というものを理解できるのは、ごく一握りの人間だけなのです。むしろ大方の俗物は、芸術の聖性に触れた途端、嫉妬《しっと》に駆られた獣《けもの》と化す。連中にとって、美とは破壊の対象にしかなり得ないものなのです」
キャスターとしても、もちろん居城を荒らされたことへの憤怒《ふんぬ》はある。が、一方では苦々しくも認めざるを得ない安堵《あんど》の念もまたあった。彼とてかつては一国の軍勢を率いた元帥《げんずい》である。壊滅させられた下水道の怪魔たちと、工房内の苛烈《かれつ》なまでの破壊の程を見量れば、昨夜ここに押し入った襲撃者が、真正面から戦うには危険すぎる難敵であったと理解できるだけの戦略眼は持っていた。
龍之介ともどもここを留守にしていたのは、むしろ僥倖《ぎようこう》だったかもしれない。その認識が、この狂気のサーヴァントをして怒りを抑えさせるほどの冷却剤となっていた。
「私たちの創造は、常に愚昧なる破壊との相克《そうこく》という試練に晒《さら》されているのですよ。……なればこそ、被造物に過度の愛着を抱くのは禁物だ。ひとたび形を与えられた物は、いずれ壊れゆく運命にあるのです。むしろ我々創造者は、創作の過程にこそ喜びを懐《いだ》くべきなのです」
「……壊れたぶんだけ、また造りゃあいい、ってこと?」
「その通り! いつもながらリュウノスケ、その端的なる理解は貴方の美徳ですよ」
朗《ほが》らかに破顔するキャスターに絆《ほだ》されて、龍之介は涙を拭《ぬき》い、深い溜息《ためいき》とともに周囲を見渡した。
「オレたち、あんまり楽しみすぎたせいで――もしかして、バチが当たったのかなぁ?」
そう呟《つぶや》いた途端――キャスターの態度が一変した。
悄然《しょうぜん》と下がった龍之介の両肩を鷲掴《わしづか》みにし、荒々しく向きを変えさせて、ぎらつく双眸《そうぼう》の真正面に彼の顔を固定する。
「これだけは言っておきますよ、リュウノスケ。……神は決して人間を罰しない。ただ玩弄《がんろう》するだけです」
青髭《あおひげ》の眼差しは燃えるようでいて、だがその表情は怒りや憎しみといった一切の表情を欠いていた。それは今まで彼が露わにしてきたありとあらゆる激情と、まったく位相の異なる感情の発露であった。
「だ、旦那《だんな》?」
「かつて私は、およそ地上にて具現しうる限りの悪逆と涜神《とくしん》を積み重ねた。リュウノスケ、あなたの為した邪悪など私のそれに比べれば子供の手習いも同然だ。
だが殺せども穢《けが》せども、この身に下るはずの神罰はなく――気がつけば邪悪の探求は八年に及んで放任され、看過《かんか》され続けた。千の幼子《おさなご》の嘆きと悲鳴は、すべて虚《むな》しく闇に消えた!」
「……」
「結局、最後に私を滅ぼしたのは神ではなく、私と同じ人間どもの欲得でした。教会と国王が、断罪の名目で私を縛《しば》り、処刑したのは、とどのつまり私の手中にあった富と領土を簒奪《さんだつ》したいがためだけの奸計《かんけい》でしかなかったのです……
我が背徳《はいとく》に歯止めをかけたのは、裁きなどとは程遠い、ただの略奪! 我が罪よりもなお輪をかけて浅ましいヒトの悪徳だったのですよ!」
今まさに、この恐ろしい悪魔の逆鱗《げぎりん》に触れているのだとまぎれもなく理解しながらも――そのとき雨生龍之介の心に湧《わ》き上がってきたのは、だが恐怖ではなく、やるせない寂《さみ》しさと痛ましさの念だった。
キャスターの弁舌よりむしろ、何か大切なものが根刮《ねこそ》ぎ欠落したかのようなその面持《おちも》ちから、龍之介は理解したのだ。この偉大なる狂人が胸に秘めた、底知れぬほどに深い慟哭を。
「でも、旦那……それでも、神様はいるんだろ?」
そっと静かに呟いた龍之介の言葉に、キャスターは息を呑み、この純朴《じゅんぼく》で忠実なマスターの顔をまじまじと見つめた。
「……何故、リュウノスケ? 信仰もなく、奇跡も知らぬ貴方が、そのように思うのです?」
「だってこの世は、退屈だらけなようでいて――だけど探せば探すほど、面白オカシイことが多すぎる」
そう言って龍之介は、天地のすべてを抱きしめようとするかのように両手を拡げた。
「昔から思ってたよ。こんなにも至る所に愉快《ゆかい》なことが仕込まれまくってる世界ってヤツは、出来すぎてるぐらいな代物だって。ちょっと見方を変えれば気づく、知恵を巡らしゃ探し出せる伏線が満載だ。いざ本気で楽しもうと思ったら、この世界に勝るほどのエンターテインメントは他にねえよ。
きっと誰かが書いてんだよ。脚本を。登場人物五〇億人の大河小説を書いてるエンターテイナーがいるんだよ。……そんなヤツについて語ろうと思ったら、こりゃあもう、神様としか呼びようがねえ」
キャスターはしばし無言のまま、龍之介の言葉を吟味《ぎんみ》するかのように、虚空《こくう》に視線を彷徨わせた。それから再び自らのマスターを見据《みす》えて、低く厳粛な声で問うた。
「――ではリュウノスケ、はたして神は、人間を愛していると思いますか?」
「そりゃぁもう、ぞっこんに」
何ら気負うこともなく、陽気な殺人鬼は即答した。
「この世界のシナリオを、何千年だか何万年だか、ずっと休まず書き続けてるんだとしたら、そりゃ愛がなきゃやってられねぇ見でしょ。
うん。きっともうノリノリで書いてんだと思うよ。自分で自分の作品を楽しみながら。愛とか勇気とかに感動してさ、愁嘆場《しゅうたんば》にはボロボロ泣いて、んでもって恐怖とか絶望とかにはハァハァ目ぇ剥《む》いていきり勃《た》ってるわけさ」
自ら語る内容を確かめるかのように龍之介はいったん言葉を切って、それから確信も新たに結論づけた。
「神様は勇気とか希望とかいった人間賛歌が大好きだし、それと同じぐらいに血飛沫《ちしぶき》やら悲鳴やら絶望だって大好きなのさ。でなけりゃぁ――生き物のハラワタが、あんなにも色鮮やかなわけがない。
だから旦那、きっとこの世界は神様の愛に満ちてるよ」
「……」
キャスターは、まるで一葉の聖画を前にした敬虔《けいけん》なる信者のように、静粛をもって龍之介の言葉を受け止めた。そうして、ようやく面を上げたその表情は、静かな至福に満《み》ち溢《あふ》
れていた。
「この時代、もはや民草《たみくさ》に信心はなく、為政もまた神意を捨てた、そんな最果ての地と思っていましたが……まさかこんなにも新しく瑞々《みずみず》しい信仰が芽吹いていようとは。心服しました、リュウノスケ。我がマスターよ」
「いやそんな。照れくさいって」
とりあえず身に余る賛辞を受けていることだけは理解できて、龍之介ははにかんで視線を泳がせた。
「しかし――貴方の宗教観に依るならば、我が涜神も茶番にすぎないのでしょうか」
「いやさ、汚れ役だってきちっと引き受けて笑いを取るのが一流のエンターテイナーってもんでしょ。旦那の容赦《ようしや》ないツッコミには、きっと神様も大喜びでボケを返してくると思うけど」
そう返答された青髭≠ヘ、もはや愉快《ゆかい》で仕方ないかのように腹を抱えて笑い転げた。
「涜神も! 礼賛《らいさん》も! 貴方にとっては等しく同じ崇拝であると仰《おお》せか! あぁリュウノスケ、まったく貴方という人は深遠な哲学をお持ちだ!
あまねく万人を愛玩《あいがん》人形とする神が、自身もまた道化《どうけ》とは……成る程! ならばその悪辣《あくらつ》な趣向も頷ける!」
ひとくさり笑った後で、キャスターはぎらつく双眸に悽愴《せいそう》な色を宿らせる。それは芸術という病理に取《と》り憑《つ》かれた者の、狂おしいまでの情熱に似ていた。
「宜《よろ》しい。ならばひときわ色鮮やかな絶望と慟哭で、神の庭を染め上げてやろうではないですか。娯楽の何たるかを心得ているのは神だけではないということを、天上の演出家に知らしめてやらねば!」
「何かまたスゲェことやるんだね!? 旦那ッ」
かつてないほどの興奮を露《あら》わにずる青髭≠ノ、龍之介もまた期待で小躍《こおど》りする。
「そうと決まれば、前祝いです。リュウノスケ、今日の宴《うたげ》はとりわけ趣向を凝《こ》らして愉《たの》しむとしましょう」
「合点《がってん》承知だ! 燃やされちまったヤツのどれよりもCOOLなのを仕上げるよオレ!」
今夜の龍之介たちの収穫≠ヘ五人。何処《いずこ》とも知れぬ闇の中に連れ込まれた子供たちは、今もまだ声もない程に震え上がったまま身を寄せ合って、誘拐犯たちの狂態を見守っている。
呪われた求道者《ぐどうしゃ》たちが新たなる趣向に目覚めた今、罪なき幼子らの魂《たましい》には、もはや一片の救済も期待できはしなかった。
[#改ページ]
-95:28:46
ふと窓の外に目をやると、夜は既《すで》に明けていた。
昇り来る朝日には何の感慨も懐かず、衛宮切嗣《えみやきりつぐ》は引き続き、情報の整理作業を続行する。
三日前に舞弥《まいや》と落ち合った新都《しんと》駅前の安ホテルは、今でも隠れ家の一つとして機能していた。ルームサーヴィスの類《たぐい》は一切断った上で、壁に冬木《ふゆき》市全域の白地図を貼り、諸処《しょしょ》の情報をラベルとマーカーで逐一《ちくいち》、漏《も》らさず記録していく。
連日の巡回ルートと時間。使い魔からの情報、霊脈の変動。警察無線から傍受した失踪《しっそう》事件の推移と、検問の位置……夜の冬木の状況を委細《いさい》漏らさず書き込んだ図表は、混沌《こんとん》に入り乱れたモザイク模様を呈《てい》している。
右手で黙々と作業を続けながら、左手では栄養補給。巡回の帰りに買ってきたファーストフードのハンバーガーを、切嗣は半ば無意識の反復運動で口に運んでは咀嚼《そしゃく》していた。宮廷料理もかくやというアインツベルンの食卓を、九年間飽《あ》くほどに味わってきた切嗣には、ジャンクフードの殺伐《さつばつ》とした食感がむしろ心地良いほどだ。何よりも、手先と思考を中断することなく食事を済ませられるのが素晴らしい。
地図上に一通りの記入を済ませると、切嗣は一歩下がって全体を俯瞰《ふかん》し、あらためて聖杯戦争の動向を把握《はあく》した。
アーチャー――遠坂《とおさか》邸に動きはなし。初日のアサシン撃退以来、時臣《ときおみ》は穴熊《あなぐま》を決め込んだまま、不気味なまでの沈黙。
バーサーカー――間桐《まとう》邸を出入りするマスターらしき人影を、使い魔が何度か確認。見るからに無防備で襲撃は容易《ようい》に見えるが、バーサーカーの謎めいた特殊能力は、同様に不可解な宝具を持つアーチャーに拮抗《きっこう》しうる。遠坂を牽制《けんせい》する意味で、今は放置し泳がせておく手か。
ランサー――重傷のロード・エルメロイに代わり、その許嫁《いいなづけ》であるソラウ・ヌァザレ・ソフィアリが行動を開始。おそらく現時点では彼女がランサーを統《す》べているのだろう。『偽臣の書』による代行マスターなのか、あるいは令呪そのものを強奪してランサーと再契約を果たしたか……前者であれば、ソラウを抹殺《まっさつ》したところでサーヴァントへの魔力供給は断絶されず、ランサーを無力化することにはならない。ソラウに襲撃をかけるか否《いな》かは、もう少し動向を窺う必要がある。
キャスター――昨夜もまた市内で数名の児童が失踪した。監督役による懸賞《けんしょう》も虚《むな》しく、依然キャスターは何の憚《はばか》りもなく狼藉《ろうぜき》を繰り返しているのだろう。
ライダー――手掛かりなし。常にマスター共々飛行宝具で移動するため追跡が困難。一見豪放に見えて隙《すき》のない難敵である。
ライダーとアーチャーについては、アインツベルン城で療養していた久宇《ひさう》舞弥がついさっき目を覚まし、電話口から、アイリスフィールの伝聞という形で多くの情報をもたらした。
呆《あき》れたことに、あの人を食ったサーヴァントたちはこぞってセイバーの元へと押しかけ、酒盛りを始めたのだという。それだけならば他愛もない挑発で済んだところを、事態は思わぬ展開を見せ、結果的にライダーが途方もない宝具を露見させてアサシンを消滅させるに至った。
ライダーが行使したという『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』なる宝具も気にはなる。が、切嗣にとってよりいっそう気懸かりなのは、アサシンの末路についてだ。
際限なく増殖するサーヴァントというのが、一体どういうカラクリによるものだったのかは定かでない。が、昨夜アインツベルン城を襲ったというアサシンの軍勢が、総戦力を動員したものだったことは間違いあるまい。そうでなければ、非力を数で補おうという人海戦術は意味を成さない。遠坂邸での狂言とは異なり、今度こそアサシンは完全消滅したものと考えていいだろう。
では――そのマスターは?
切嗣は深い溜息を吐き、今日一本目の煙草《たばこ》に火を点けた。結局のところ、懸念が行き着くところはそこ≠ネのだ。
言峰綺礼《ことみねきれい》。第四次聖杯戦争における最大の『異物』――
切嗣にはこの男がどういう意図でこの戦いに参加しているのか、未だに理解できない。
倉庫街での乱戦の折にアサシンを見かけた時点では、切嗣は、アサシンのマスターは遠坂時臣の傀儡《かいらい》となって斥候《せっこう》役を務めているのかと睨《にら》んでいた。だがその後の言峰綺礼は、立て続けに不可解な行動を取る。
冬木ハイアットでのケイネス襲撃を見越して、センタービル建設現場で待ち伏せを仕掛けていた件――
アインツベルン城での籠城戦で、まるで森の東側での戦闘の裏を掻くかのように反対方向から侵入してきた件――
どうにも気にくわないのは、どちらも切嗣が標的だったと仮定した場合にのみ、筋の通った説明がつくという点である。
手の込んだ狂言を仕組んでまで敗退を演出し、冬木教会に保護されておきながら、なおも多数のアサシンを統べて諜報《ちょうほう》活動を進めるという手口は、敵ながら天晴《あっぱ》れというほかない。が、その戦術を完壁なものとするためには、綺礼は冬木教会から一歩も出てはならなかった筈《はず》なのだ。
そもそもアイリスフィールとセイバーの陰に潜む衛宮切嗣の存在は、今でこそロード・エルメロイの陣営に露呈したものの、一昨日の時点ではまだ誰にも捕捉されていなかったはずなのだ。もし仮に遠坂の情報網で切嗣の暗躍《あんやく》を事前に察知していたとしても、まさか切嗣こそが真にセイバーの契約者であるという真相は予測すら及ばなかっただろう。にもかかわらず、大局の戦略を差し置いてまで切嗣を狙ってきた意図とは何なのか?
理屈ではない私怨《しえん》、というのも有り得る話だが、可能性としては極めて低い。既に調査した言峰綺礼の経歴は、切嗣とはまるで接点のないものだった。かつて切嗣が暗殺した魔術師や、その仮定で犠牲《ぎせい》となった人々の中に、綺礼の知古や縁者がいたとは考えにくい。
ともかく、確信を持って言えるのは――アサシンを失った後でも、言峰綺礼は必ずや切嗣の行く手に立ちはだかってくる。この男の行動原理が何なのであれ、それが聖杯戦争の埒外《らちがい》にあるのは明白だ。サーヴァントを失ったからといって大人しく脱落してくれるような手合いではない。
苦り切った溜息とともに、切嗣は肺《はい》の中の紫煙《しえん》を吐き捨てた。
言峰綺礼について考えていると、まるで底なしの闇と向き合っているような感覚に囚《とら》われる。まさに原初の恐怖とでも言うべき悪寒《おかん》だ。
切嗣の戦術は徹頭徹尾《てっとうてつび》、相手の裏を掻《か》く≠アとに終始する。敵が何を狙い、何処《どこ》を目指して進んでいるのかを見極めることができれば、自《おの》ずと相手の死角や弱点も見えてくる。そして、とかく魔術師というものは、こと目的意識≠ノついては人並み以上に明々白々なのが通例だ。だからこそ切嗣はこれまで手際よく着実に獲物≠狩ることができた。
それだけに、言峰綺礼のような表も裏も解らない敵≠ニいうのは最大の脅威である。しかもそんな難敵を前にして、今の切嗣は護りに廻《まわ》っている。
まるで思考を読まれているかのように、こちらの手口を見透かしてくる追跡者。切嗣を狩る側でなく狩られる側に立たせる、唯一の想定外要素――
「……貴様は、何者だ?」
つい、口に出して呟いていた。言峰綺礼について思案すればするほどに、解答は遠ざかり、焦《あせ》りは募《つの》る一方だ。
いっそ殺してしまえればどんなに気が楽か。今後もまた得体の知れない奇襲を警戒し続けねばならないリスクを鑑みれば、それも一つの手ではないのか。
切嗣は隣町の貸しガレージに、遠隔操作仕様に改造したタンクローリーを一台、隠匿《いんとく》している。都市ゲリラに誂《あつら》え向きの安価な巡航ミサイルというわけだ。間桐や遠坂が籠城《ろうじょう》 策を取った場合の切り札として用意したものだが、これを綺礼が潜伏する冬木教会に突っ込ませれば、あの代行者とてひとたまりもあるまい……
……馬鹿《ばか》な。いい加減にしろ
切嗣は自戒して、苛立ち紛れに吸い殻を灰皿に押しつけた。
いま自分が優先的に仕留めなければならない敵は他に大勢いる。勝ち進まなければならないのは聖杯を巡る戦いだ。聖杯戦争の観点からいえば、言峰綺礼は既に敗残マスターの一人にすぎない。たとえ切嗣を狙う意図が謎のままでも、そこに拘泥《こうでい》して肝心の戦いを忘れるようでは元も子もないのだ。
焦りに囚われる自分自身の有様が切嗣を苛立《いらだ》たせる。これは判断力が曇《くも》りはじめた兆候かもしれない。リセットする必要がある。
最後に睡眠《すいみん》をとってから七〇時間が経過した。アンフェタミンの薬効で眠気は苦にならないが、識域下には気付かぬうちに着実に疲労が蓄積し、予期せぬところで集中力を鈍《にぶ》らせているのだろう。
昼に舞弥と合流するまでに、多少ながら時間がある。その隙に疲労を解消しておくべきだ。
衛宮切嗣は自らを一個の機械装置として認識している。己《おの》が心身に対しては愛顧もなければ矜持《きょうじ》もない。彼自身の体調と健康管理は、彼が繰《あやつ》る数多の銃器を整備するのと同じ次元で扱われる。より確実に万全に、十全の機能を果たし得る状態を維持するだけのことだ。
切嗣はトイレを済ませてベッドに横になると、自己催眠の呪文で意識を解体しにかかった。ストレスを識域もろともに消し飛ばす荒療治――精神の|解体清掃《フィールドストリッピング》である。
自己催眠の術としてはさほど高度なものではないが、一時的とはいえ自らの人格を無意味な断片にしてしまう行為には抵抗感を懐く者が多く、好んで実践する者は滅多《めった》にない。だが切嗣はただ効率の観点からこの休眠方法をベストとし、頻繁《ひんぱん》に使っている。
およそ二時間もすれば、散り散りになった意識が自然再生し、それこそ生まれ変わったような気分で目を覚ますことになるだろう。その間、肉体は生ける屍《しかばね》となったまま放置されるが、今のところこの隠れ家は安全だ。
ほどなく切嗣は、仇敵《きゅうてき》の姿をも心から閉め出して、夢も観ない眠りへと陥《おちい》っていった。
窓の外では、朝日を浴びた街が新たな一日を始めようとしていた。
[#改ページ]
-91:40:34
「今日はまた随分《ずいぶん》と上機嫌だな。アーチャー」
相変わらず言峰綺礼の私室に我が物顔で居座る金色のサーヴァントは、どういうわけか今朝から終始、不穏な笑みを絶やさない。
ふつう笑顔というものは同室者の気分を和《なご》ませるものなのだろうが、あいにく綺礼は他人の笑顔を喜ぶような性質《たち》ではなく、また英雄王の喜悦《きせつ》というのも、その内容を想像すればただ不安を煽《あお》られるだけのものでしかなかった。
「聖杯とやらの格は未だに見えぬが――たとえガラクタであったとしても良しとしよう。我《オレ》はそれ以外の愉しみを見出した」
「ほう……意外だな。贋物《にせもの》ばかりの醜悪な世界と嘲《あざけ》っていたこの時代で、か?」
「それは変わらぬ。だが、聖杯戦争とやらは最後まで見届ける気になった」
おそらくは、昨夜アインツベルン城の中庭で饗《もてな》された奇妙な酒宴が、アーチャーの心境に何らかの変化をもたらしたのだろう。綺礼もまた途中まではその内容を見届けた。思い当たる節といえば――ライダーか、それともセイバーとの問答か。
「我《オレ》はな、傲慢《ごうまん》なる生を好む。器《うつわ》の卑小《ひしょう》さを弁《わきま》えず大望を懐く者。そういう奴は見ているだけで我《オレ》を愉しませる」
解《げ》せない顔でいる綺礼に向けて、アーチャーは悠然《ゆうぜん》とワインのグラスを傾《かたむ》けながら先を続けた。
「傲岸《ごうがん》にも二種類あってな。器が小さすぎる場合と、望みが大きすぎる場合。前者は珍しくもない愚昧《ぐまい》にすぎんが、後者はなかなか得難い珍種だ」
「いずれも愚かであることに違いはないではないか」
「凡俗《ぼんぞく》な賢《さか》しさよりも、希有《けう》な愚かしさの方が尊かろう? 人として生まれ落ちながら、人ならざる領域の悲願を懐き、そのために人であることを捨てた者――見ていて飽きぬのだ。そういう者の悲哀と絶望は」
何かを言祝《ことほ》ぐようにグラスを掲げてから、アーチャーは中身を一息で優雅に飲み千した。どんなに豪放な飲み食いをしようとも、この英霊には貪欲な印象が伴《ともな》わない。これもまた王の風格というものか。
「綺礼、そういうお前こそ、今日は珍しく上機嫌に見えるぞ」
「ただの安堵だ。煩《わずら》わしかった重荷から、ようやく解放されたのでな」
言峰綺礼の右手に刻まれていた令呪は、既にない。昨夜のアインツベルン城での戦闘で、彼のサーヴァントであるアサシンが敗退し消滅したせいだ。
綺礼はマスターとしての権限を失った。また見方を変えれば、彼自身の言うとおり、今度こそ本当にマスターとしての責務から解放されたとも言っていい。これで綺礼の教会暮らしにも、ようやく名目通りの実体が伴ったことになる。
「消えた令呪というのは、その後どうなる? あれだけの魔力の塊《かたまり》だ。まさか完全に消失するわけではあるまい?」
「理屈の上では、再び聖杯の元へと還る。令呪はあくまで聖杯による賜《たまもの》だ。サーヴァントを喪《うしな》ってマスターの資格を失った者からは、聖杯がその令呪を回収するわけだ。そして、もし仮にマスターを失って契約を解消されたサーヴァントが出てきた場合、聖杯は回収した未使用分の令呪を新たな契約候補者へと再配布する」
七人のマスターに分配される二一刻印の令呪は、使用して消費されることがない限り、現世に残り続けるのである。そして最終的に未使用のまま残った令呪は、すべて監督役の手に委ねられることになる。
「では、この後の展開次第では、新たなマスターが現れる可能性もあるということか」
この英雄王であれば、およそ己《おのれ》の欲望に無関係な事柄には興味を持ちそうにないところだが――
ギルガメッシュの問いに些かの違和感を感じつつも、綺礼はさらに説明を続けた。
「そうだな。だが聖杯に選ばれる適格者というのは、そうそういるものではない。だから新たなマスターを捜《さが》す段になっても、けっきょく聖杯は以前にマスターとして見込んだ人間を優先的に選ぶ傾向がある。
とりわけ『始まりの御三家』のマスターたちは別格の扱いだ。サーヴァントを失っても、その時点で他に未契約状態のサーヴァントがいれば、令呪を失うことすらなく継続してマスター権を維持できるという。過去に何度かそういう事例があったそうだ」
「――」
黙して耳を傾けるギルガメッシュの眼差しに、何か不穏な圧力を感じて、綺礼はいったんそこで言葉を切った。
「どうした? 先を続けよ。綺礼」
「……ともかく、戦いから脱落したマスターを聖堂教会が保護するのも、それが理由だ。彼らは残りのマスターに空席が生じた場合、かなりの確率で『使い残し』の令呪を再贈与される可能性が高い。だからこそ、聖杯戦争の参加者は、敵対するマスターを無力化するだけでなく殺そうとする。たとえ資格を失った者でも、万全を期するならば生かしておくべきではないのだ」
「フフン」
何やら愉快げに鼻を鳴らして、ギルガメッシュはワイングラスの中の葡萄《ぶどう》色を転がす。
「その理屈でいけば――綺礼、お前が再び令呪を得る可能性もまた大なのではないか?」
英雄王の指摘に、今度は綺礼が鼻を鳴らす番だった。
「有り得ぬよ。聖杯が私に期待したのが、時臣師の説の通り、遠坂陣営の援護であったなら、もう私はその役目を果たし終えた。アサシンによる調査はすべて済み、時臣師は既にすべてのマスターとサーヴァントに対する必勝戦略を用意している。今さら私の出る幕はない」
「我《オレ》に言わせれば、そもそもその時臣の仮説こそが疑《うたが》わしい。あの男が、そこまで聖杯に肩入れされるほどの器とは思えぬからな」
「自らのマスターに対し、よくもそこまで憚《はばか》りなく言えたものだ」
失笑する綺礼に向けて、ギルガメッシュは真紅の瞳をぎろりと向ける。
「綺礼、我《オレ》と時臣との主従関係について大きく誤解しているようだな。
時臣は我《オレ》に臣下として礼を尽くし、供物《くもつ》として魔力を献上している。そういう契約だからこそ我《オレ》は彼奴の召喚に応じたのだ。我《オレ》を他のサーヴァントどものような走狗《そうく》と同列に見なすでない」
「ならば令呪の存在はどう捉えている?」
「気に食わん。……が、臣がよき臣下たらんと務めるならば、ときには諫言《かんげん》に耳を傾《かたむ》けるのも吝《やぶさ》かではない」
綺礼は苦笑を禁じ得なかった。
ギルガメッシュが聖杯戦争の真の目的を知るようなことがあれば……その時点で時臣との契約関係は破綻するだろう。無論その場合でも、令呪を持つ時臣の方が圧倒的に有利ではあるが。
「当面はキャスターの首級《しゅきゅう》をめぐる競争としての局面が続くが、それが終わって間引けるだけの敵が間引かれた後は――アーチャー、おまえの出番だ。こうして呑気《のんぎ》に油を売っている暇《ひま》はなくなるぞ」
「時臣めの手緩《てぬる》いやり方では、それもまだまだ先の話であろうよ。当面は別の趣向で無聊《ぶりょう》を慰めるしかあるまい。――綺礼、お前はさっき、アサシンがすべて役目を果たしたと言っていたが?」
「ああ、例の件か」
行き掛かり上、綺礼が巻き込まれることになったギルガメッシュの娯楽=\―各マスターの、聖杯探求の動機を知りたいという無益な好奇心を満たすこともまた、アサシンに課せられた使命であった。
「まあ、それなりの調べは済んでいる。昨夜のうちに、アサシン自身から報告させるべきだったな。そうすれば説明の手間も――」
「いいや、これでいい」
なぜか断固たる口調で、ギルガメッシュは綺礼の言葉を遮《さえぎ》った。
「あんな影ごときの言葉などに興味はない。綺礼、これはお前の口を介して語られなければ意味のない報告だ」
「……」
一向に解せないアーチャーの意図を訝《いぶか》りつつも、綺礼は仕方なく、手短に要約した内容で各マスターの人物像を列挙していった。
サーヴァント、もしくは随伴者との会話を盗み聞きして得た情報だけでも、彼らが聖杯戦争に臨む意図については、推察に充分すぎるだけの材料が揃《そろ》っている。
ランサーのマスター、ライダーのマスターについては、べつだん聖杯に託《たく》するだけの願望があるわけでもなく、ただ魔術師としての栄誉のために勝利を求めているだけのこと。
キャスターのマスターに至っては、そもそも聖杯の何たるかさえ理解していない。ただの快楽殺人の延長として、聖杯戦争に加わっているにすぎない。
バーサーカーのマスターは、何とも青臭《あおくさ》いことに贖罪《しょくざい》≠求めている。自身がいったん間桐家から逐電《ちくでん》したことで、代わりに次期頭首に祭り上げられることになった遠坂の次女を、今になって解放しろという要求……そのための取引材料として、彼は聖杯を勝ち取るという使命を課されている。しかもどうやら、時臣の妻の葵とも過去の因縁があるらしい。ある意味では五人の敵対マスターの中で、もっとも卑俗で凡庸《ぼんよう》な動機の持ち主といえた。
セイバーのマスターについては――綺礼は、アーチャーを虚言であしらった。
アサシンは、昨夜の予期せぬ退場に至るまでの間、ついに衛宮切嗣を捕捉することを果たせなかったのだ。あの男だけが唯一、まるで最初のアサシン脱落を狂言と見抜いていたかのように、最後まで身辺の秘匿《ひとく》を徹底して立ち振る舞っていた。もし真にその洞察に至っていたのだとすれば流石《さすが》というほかない。それでなくとも間諜《かんちょう》の英霊の探知から逃れ続けた周到さは賞賛に値《あたい》する。あらゆる点であの男は、他のマスターたちとは別格の存在であった。
それに、もし仮に綺礼が衛宮切嗣の真意を探り当てていたとしても、それをアーチャーに語り聞かせるようなことは決してなかっただろう。
今となっては見過ごせぬ疑念も幾つかはある。だがそれでも、衛宮切嗣との対峙を待ち望む綺礼の目的意識は変わらない。それは聖杯戦争などとは関わりない綺礼個人の問題であり、たかが興味本位の部外者なぞを踏み込ませるつもりは毛頭ない。
そこで綺礼は、アインツベルン勢については昔年《せきねん》の妄執《もうしゅう》、つまりは聖杯の降臨を実現させたいという悲願のみを或めているという説明を提造《ねつぞう》した。はたしてアーチャーは綺礼の内心に気付いた素振りも見せず、さして面白くもなさそうに聞いているばかりだった。
「――ふん。期待はずれもいいところだな」
五人ぶんのプロファイリングを聞き終えたアーチャーの、それが第一声であった。
「所詮《しょせん》は雑種。どいつもこいつも凡俗なばかりで何の面白味《おもしろみ》もない。くだらぬ理由で我が宝を求めおって……いずれも酌量《しゃくりょう》の余地なく極刑に処すべき賊《ぞく》どもだ」
どこまでも勝手気ままな言いように、綺礼は呆れて溜息をついた。
「これだけ他人を煩わせておいて、出てきた感想がそれか。徒労に付き合わされた身にもなってみろ」
「徒労だと?」
そこですかさず英雄王が、何やら意味深な笑みを浮かべて混ぜ返す。
「何を言うか。綺礼、お前とアサシンの骨折りには充分な成果があったではないか」
弄言《ろうげん》の意味を計りかねて、綺礼は凝っとアーチャーを見据えた。
「私をからかっているのか? 英雄王」
「解せぬか。まぁ無理もない。己の愉悦の在処《ありか》さえ見定められぬ男だからな」
綺礼の凝視《ぎようし》を鼻で嗤《わら》って、アーチャーは悠然と続けた。
「――自覚がなくとも、魂というものは本能的に愉悦を追い求める。喩《たと》えれば血の匂いを辿《たど》る獣のように、な。そういう心の動きは、興味、関心として表に現れる。
故に、綺礼。お前が見聞きし、理解した事柄を、お前の口から語らせたことには、既に充分な意味があるのだ。もっとも多くの言葉を尽くして語った部分が、つまりはお前の『興味』を惹《ひ》きつけた出来事に他ならぬ。
とりわけ『愉悦』の源泉を探るとなれば、ヒトについて語らせるのが一番だ。人間という玩具《がんぐ》、人生という物語……これに勝る娯楽はないからな」
「……」
綺礼としても、今度ばかりは油断を認めざるを得なかった。
英雄王ならではの無軌道な、ただの余興だとばかり思っていた。それがまさか、こんな形で綺礼の心を解体する腹でいたとは、まったく予想の外だった。
「まずお前が意図的に言葉を伏せた人物については除外しよう。自覚のある関心はただの執着でしかない。お前の場合は、もっと無自覚な興味にこそ注目するべきだ。
さてそうなると、残る四人のマスターのうち、お前が最も熱を込めて語った一人は誰だったか……?」
綺礼は不吉な胸騒ぎを覚えた。この話題は、できることなら早々に切り上げてしまいたかった。
そんな綺礼の動揺に、アーチャーはますます気を良くしたと見えて、満足げな笑みのままワインで喉《のど》を潤《うるお》す。
「バーサーカーのマスター。たしかカリヤとか言ったかな? 綺礼よ、この男については随分と子細に報告してくれたではないか」
「……事情の入り組んでいる人物だ。それなりの説明を要したというだけのことだが」
「フン、違うな。お前はこの男についてのみ、『入り組んだ事情が見えてくるほどの掘り下げた調査』をアサシンに強要してしまったのだ。お前自身の無自覚な興味によって、な」
「……」
さらなる反駁《はんばく》を重ねる前に、綺礼は自らの行いを内省した。
間桐|雁夜《かりや》……要注意人物とは思っていた。時臣に対する遺恨《いこん》もさることながら、彼の従えるバーサーカーは宝具の簒奪という怪能力を備えており、アーチャーにとっては鬼門中の鬼門である。
だが脅威の程度として格付けするなら――雁夜とバーサーカーは、必ずしも上位には来ない。
なにせ俄仕立《にわかじた》ての魔術師が狂化したサーヴァントを背負わされているのだ。おそらく五組の敵の中では誰よりも消耗《しょうもう》の早いチームである。策を弄《ろう》するまでもなく、持久戦に持ち込めば事足りる。
捨て置けば勝手に自滅する。ある意味ではもっとも与《くみ》し易《やす》い敵である。そんな相手の内情を子細《しさい》に調べ上げるというのは――一歩退いて見れば、たしかに不合理な行いだったかもしれない。
「……判断のミスは、認める」
長年を修身に努めてきた聖職者ならではの謙虚さで、綺礼は頷《うなず》いた。
「たしかに考えてみれば、間桐雁夜は短命で脆弱《ぜいにゃく》な敵だ。長い目で見れば脅威ではなく、注目には値しない。私が彼を過大評価していたことで、アーチャー、結果的におまえの余計な詮索《せんさく》を招いてしまった」
「フフン、そうきたか」
綺礼の譲歩に対しても、アーチャーの妖しく光る赤い瞳《ひとみ》は、依然、何を考えているのかまるで窺い知れない。
「では綺礼、ここから先は仮定の話だ。――万が一の奇跡と僥倖が重なって、バーサーカーとそのマスターが、最後まで生き永らえるシナリオを想定してみろ。そのとき何が起こるか、お前には思い描けるか?」
「――」
仮定。あくまで架空の絵空事ならば……
間桐雁夜が追い求める最終局面、それは遠坂時臣との対決だ。勝機などあろう筈もないが、それも仮定として勝ち果《おお》せ、さらには聖杯すら手にしたとする。そのとき雁夜が向き合うものとは何か?
……考えるまでもなく、それは己の闇に他ならない。葵《あおい》のために娘を取り戻すという大義のために、今度は葵から夫を奪うという矛盾《むきゅん》。その矛盾《むじゅん》に気付かない、いや気付こうとしない心とは、すなわち嫉妬と劣情を押し隠している自己|欺瞞《ぎまん》に他ならない。
血みどろの勝利の果てに、間桐雁夜は、そんな己の内側のもっとも醜い部分を直視する羽目《はめ》に陥るだろう。
黙考する綺礼の横顔を見守るアーチャーが、またも得心げに微笑する。
「なあ綺礼よ。もういい加減に気付いてもいいのではないか? この問いかけの本質的な意味に」
「……何だと?」
アーチャーの仄《ほの》めかしに、ますます綺礼は当惑する。
ここまでの自分の思索には、何の陥落もないはずなのだが……
「教えろアーチャー。間桐雁夜の勝利を仮想することに、一体とういう意味がある?」
「ないさ。意味など微塵《みじん》もない。――おいおい、そう怖い顔をするな。何度も言うが、我《オレ》はお前をからかっているわけではない。
考えてもみよ。その思弁の無意味さに、ついぞ言峰綺礼が気付かなかった≠ニいう事実。そこには明白にして揺るがぬ意味があるとは思わぬか?」
これ以上思い煩えばますまずアーチャーの思う壺であろう。綺礼はもはや思考を放棄して椅子の背もたれに体重を預けた。
「説明しろ、アーチャー」
「もし仮に、他のマスターについて同じ課題を与えられていれば、お前は早々にその無意味さに気付き、詮無いものとして一蹴《いっしゅう》していたはずだ。ところがカリヤについては、そうならなかった。お前は平時の無駄のない思考を放棄し、延々と益体《やくたい》のない妄想に耽《ふけ》っていた。
無意味さの忘却。苦にならぬ徒労。即ち、紛《まぎ》れもなく『遊興』だ。祝えよ綺礼。お前はついに『娯楽』の何たるかを理解したのだぞ」
「……娯楽、即ち、愉悦だと?」
「然り」
断言するアーチャーに対し、綺礼もまた断固としてかぶりを振った。
「間桐雁夜の命運に、ヒトの『悦』たる要素など皆無だ。彼は生き長らえる程に痛みと嘆きを積み重ねるしかない。いっそ早々に命を落としたほうがまだ救われる人物だ」
「――綺礼よ、なぜそう『悦』を狭義に捉える?」
物分かりの悪い教え子を嘆くかのように、アーチャーは深く嘆息した。
「痛みと嘆きを『悦』とすることに、何の矛盾があるというのだ? 愉悦の在り方に定型などない。それが解せぬから迷うのだ。お前は」
「それは許されることではない[#「それは許されることではない」に傍点]!」
怒声は、なかば反射的なものだった。
「英雄王、貴様のようなヒトならざる魔性なら、他者の辛苦《しんく》を蜜《みつ》の味とするのも頷ける。だが、それは罪人の魂だ。罰せられるべき悪徳だ。わけても、この言峰綺礼が生きる信仰の道に於いてはな!」
「故《ゆえ》に愉悦そのものを罪と断じてきたか。フフ、よくぞそこまで屈折できたな。つくづく面白い男だよ。お前は」
なおも言い返そうとしたところで、綺礼は、不意に襲いかかってきた激痛に悶絶し、身を折った。
「――ッ!?」
左の上腕、肘《ひじ》に程近いあたりの部位に、焼けつくような痛みがあった。もちろん理由など思い当たらない。――が、この痛みは既知のものだ。これと同じ怪異は三年前に体験済みだった。あのときは、左手の甲。それが全ての始まりだった。
痛みは、ほどなく熱を帯びた疼《うず》きに取って代わった。綺礼は驚きに思考を麻痺《まひ》させたまま、上着の袖を捲り上げ、左の腕を検める。
果たして、それは見紛いようもない運命の聖痕だった。アサシンに対して一度消費した状態そのままの、二画の令呪が、形も大きさもそのままに再現されていた。
「ほほう。やはり我《オレ》の予想通りか。それにしても随分とまた早かったな」
「馬鹿な――」
新たなる令呪。焼き付けられたその痺《しび》れは紛れもなく本物と理解できたものの、それでも綺礼は呆然と言葉を失った。
有り得ない事態である。
未だ全てのマスターは健在。契約にはぐれたサーヴァントなど一人もいない。そんな状況で新たな令呪が贈られるなど、過去には一度として前例がない。
それも『始まりの御三家』ではなく、それどころか聖杯に何ら期するところのない落伍者《らくごしゃ》に、ふたたび同じ令呪が与えられるなど、まったく説明がつかない異常事態だ。
「どうやら聖杯は、言峰綺礼によほどの期待を託している様子だな」
艶やかな邪さを秘めた含み笑いで、アーチャーは綺礼の狼狽を見守った。
「綺礼、お前もまた聖杯の求めに応じるべきだ。紛れもなくお前には、願望機を求めるだけの理由がある」
「私が……聖杯を?」
「それが真に万能の願望機であるならば――聖杯は、お前自身にすら理解の及ばぬ、心の奥底の願望を、そのままに形を与えて示すことだろう」
心得顔で語るアーチャーの面持ちに、綺礼はどこか既視感があった。思い当たるのは――そう、聖書の挿絵《さしえ》に描かれた、エデンの園《その》の蛇《へび》だ。
「綺礼よ。思索は決してお前に答えをもたらさない。倫理に縛られたその思索こそ、お前という人間を歪《ゆが》めている元凶なのだ。
ならば、聖杯を手にして祈れ。しかる後に、アレのもたらしたものを見届けて、それを自らの幸福の形と知ればよい」
「……」
今日まで、思いも至らなかった発想だった。
いうなればそれは、目的と手段の逆転だ。願望の何たるかを知り得ぬが故に、願望機そのものを手段とし、結末を占《うらな》わせるという逆説。
ただ答えを得るだけならば――たしかに覿面《てきめん》な手段では、ある。
「……だがそれは、六つの願望を殺し潰した後に、はじめて手に入る結末だ。私個人の要求で聖杯を求めるならば、それは……我が師をも敵に廻す、ということになる」
「せいぜい強力なサーヴァントを見繕《みつくろ》うことだな。この我《オレ》と争うのであれば」
まるで他人事のように気安く忠言しながら、アーチャーは新たに注いだワインを呷《あお》った。
「そもそも前提として、まずお前は他のマスターとの契約下にあるサーヴァントの誰かを奪い取るところから始めなければならないわけだが。
ならばいっそ――いや、言うまい。フフ、ここから先は綺礼、万事がお前次第なのだから」
二度目の聖痕、その意味するところを持て余す綺礼の葛藤が、ますますアーチャーを興じさせるのか、英雄王の紅い双眸は血色の愉悦に濡れ光る。
「求めるところを、為すがいい。それこそが娯楽の本道だ。そして娯楽は愉悦を導き、愉悦は幸福の在処を指し示す。
道は示されているぞ、綺礼。もはや惑うまでもないほど明確に、な」
[#改ページ]
-91:23:15
騎士たる者に不可欠の要素《ファクター》といえば、何を置いてもまずは剣と鎧《よろい》だが、それら具足に勝るとも劣らず重要なのが、騎馬である。
鞍《くら》に跨《またが》り、手綱《たづな》を自在に操って、戦場を勇壮に駆け抜ける姿こそが騎士の本懐だ。なにも馬とは限らない。他の四足獣、戦車《チャリオット》、或いは幻獣の類であってもいい。歩行《かち》よりはるかに勝る機動力を我が物とする爽快感は、すべての『騎乗』に共通する本質的な喜びだ。
騎士の王として生涯を送ったセイバーにとって、何かを駆る≠ニいう行為は、もはや衝動に等しいほど魂の根幹に根ざしている。おそらくはサーヴァントとして具現した彼女に備わる『騎乗』というスキルも、そんな心の有り様によるところが大きいのだろう。
それにしても、素晴らしい――静かな感嘆を胸に秘めつつ、セイバーはメルセデス・ベンツ300SLのステアリングを撫でさする。
機械装置の操縦という感触は、駿馬《しゅんめ》を愛《め》でるのとはまったく異質なものであろうと思い込んでいたのだが、いざ体験してみれば、その精妙で奥の深い挙動は、まるで生物を相手にしているかのような錯覚を覚える。
血も通わなければ心も持たぬ歯車細工と、知識としては理解しているものの、乗り手であるセイバーの意を忠実に汲んで、雄《おお》々しく力強い疾駆《しつく》で応えるメルセデスの恭順ぶりには、まるで愛馬を扱うかの如き信頼と満足を懐いてしまう。
これは、アイリスフィールが夢中になるのも道理だ
そう納得する一方で、ふとささやかな疑問がセイバーの脳裏を過ぎる。――何故《なぜ》、あんなにも楽しんでいた自動車の運転を、今巳のアイリスフィールはセイバーに譲《ゆず》る気になったのだろうか?
「運転の感想はどう? セイバー」
そう助手席から問うてくるアイリスフィールは、見るからに満足げだ。まるで玩具を与えられて喜ぶ息子を見守っている母親のようだった。
「実に素晴らしい乗り物です。これが私の時代にもあったらと思わずにはいられない」
偽ることなく笑顔で応えて、セイバーは暫《しば》し懐いた杞憂を胸から拭い去った。アイリスフィールは、セイバーがきっと喜ぶものと確信した上でメルセデスの運転席に座らせたのだろう。つまりは彼女なりの厚意、騎士の忠節に対する褒美《ほうび》なのかもしれない。ならば変に勘繰ることなく、ありがたく堪能《たんのう》させてもらうのが礼というものだ。
「それにしても、サーヴァントのスキルって本当に凄《すご》いのね。初めて触る機械なのに、あなたの操縦って完壁よ」
「私も、いささか奇妙な感覚ではありますが――まるで遠い昔に腕に覚え込ませた技術を振るっているような感じです。理屈で理解するというより、自然と次の操作が思い当たるのです」
ふぅん、と関心げに唸《うな》りながら、アイリスフィールは何やら不穏な笑いを浮かべる。
「ふと思ったんだけど。どこかの闇市場で最新型の戦車か爆撃機でも買い付けてきて、あなたを乗せたら、それで聖杯戦争は一気に片付いちゃうんじゃない?」
いくら冗談とは解っていても、セイバーは呆れて苦笑いするしかなかった。
「面白い発想ではありますが、断じて言えます。――いつの時代にも、私の剣に勝る兵器などない、と」
セイバーの不敵な言い分に、だがアイリスフィールは異を唱えたりはしなかった。ひとたびサーヴァント同士の戦いを目にすれば、それが驕りでも何でもない事実であると理解できる。
「それにしても、マイヤはますます冬木市の内部に深く入って行きますが――」
先導として先を行く久宇舞弥のライトバンを見つめながら、セイバーはやや声音を固くする。
「――大丈夫なのですか? その、新しい拠点にするという屋敷は、こんなにも戦場の直《ただ》中《なか》にあって」
「その点は、べつに不安がるほどのことじゃないわ。遠坂と間桐は堂々と市内に砦《とりで》を構えているし。他の外来マスターにしても大方がそう。むしろあんな離れた立地に城を置いたアインツベルンの方が異質なぐらい」
暗闘が大原則とされる聖杯戦争においては、拠点の位置的な立地条件はさほどの意味を持たない。『地の利』とされるのはむしろ、地脈の質や霊的条件といった魔術的な要素である。
「むしろ所在を知られてないという点で、切嗣が用意したっていう新しい拠点の方が、以前の城よりも有利かもしれないわ」
「……」
本人も意識してのことではないだろうが、やはり切嗣の名前が出た途端に、セイバーの面持ちには影が差す。
無理もない、とアイリスフィールは既に諦《あぎら》めの心境だった。両者の軋轢《あつれき》は最初から予測されていたことなのだ。そこをフォローするためにこそ現状のアイリスフィールのポジションがある。こうなればいっそ面目躍如《めんもくやくじょ》と思っておくしかない。
何の変哲もないライトバンとクラシックスポーツカーという奇妙な取り合わせの二台は、やがて冬木大橋を渡って深山《みやま》町へと入った。周囲の様相は新都からがらりと一変し、地味ながらも歴史を感じさせる閑静な住宅が軒を連ねるようになる。
「この辺りまでくれば、トオサカやマキリの拠点も、その気になれば歩いて行けるほどの距離しかないはずよ。随分と思い切った場所を選んだものだわ……」
「それがむしろ盲点、という発想は有り得ます。敵の意表をつくという点に限って言えば、切嗣の思考は常に的確です」
そんな私情抜きの評価を語るのにも、やはり声音《こわね》ばかりはどうしようもなく固い。セイバーとて、あくまで戦略上の見地で語るなら切嗣の理論を否定する気はないのだろう。彼女が許容できないのは、その冷徹なる戦略のみを起点とし結論とする、切嗣の方法論なのだ。
ほどなく先行する舞弥が、低く長い漆喰塀《しっくいべい》の傍《かたわ》らでライトバンを路肩に寄せ、停車させた。どうやら目的地に着いたらしい。
「ここが……ふぅん。また随分と不思議《ふしぎ》な建物ねぇ」
ライトバンの後ろにつけたメルセデスから降り立って、開口一番、アイリスフィールは当惑を口にした。
まず間違いなく時代の節目を跨いでいるとおぼしい、古色蒼然《こしょくそうぜん》たる純和風建築だった。どこか時の流れに忘れ去られた感のある深山町においては、さほど珍しくもない様式の家屋だが、それにしても木造平屋の造りにしてはやや広大すぎる敷地面積は、近代日本の住宅事情に照らせば、かなり希有な例外というほかない。
しかもその寂《さび》れようがまた尋常《じんじょう》でない。よほど長い期間に渡ってこの家は空き家として放置されてきたのだろう。住み手もないままに取り壊されることもなく、こうして市街の一画にただの無意味な空洞としての面積を専有し続けてきたというのは、或いは何らかの曰《いわ》くのある家屋だったのかもしれない。
「お二人には、今日からここを行動の拠点としていただきます」
ライトバンから降りてきた舞弥が事務的な口調でそう言って、アイリスフィールに鍵束を差し出した。
「あ、それはセイバーが預かっておいて」
「――解りました。アイリスフィール」
屋敷の鍵というものは主《あるじ》が預かるのが筋ではあるが、セイバーはとりたてて訝ることもせず、舞弥から鍵束を受け取った。
門と玄関の他に、勝手口や離れ家の分もあるのだろう。普通の民家にしては数が多い。どれも近代的なシリンダー錠《じょう》の鍵だったが、ひとつだけ、妙に古めかしい鋳造製の鍵がある。
「マイヤ、この鍵は何でしょうか。他のものとは随分違いますが」
「庭にある土蔵のものです。古いですが、立て付けに不安がないのは確認済みです」
そう答えてから、あらためて家屋の状態に思い至ったのか、舞弥は冷淡そうな顔をほんの僅かに曇らせた。
「つい先日、名義を買い取ったばかりなもので、申し訳ないのですが、見ての通り何の準備もありません。生活の場としては相応しくないかもしれませんが……」
「構わないわ。とりあえず雨風さえ凌《しの》げるなら文句は言いません」
育ちの賤《いや》しからぬ令嬢にしては殊勝に過ぎるコメントといえたが、実際、荒廃の程度で言うならば、戦場となった森のアインツベルン城も大差ない有様である。
「――それでは、私はこれで」
おそらくは切嗣に何か別件の任務を託されているのか、舞弥は別れの挨拶《あいさつ》もそこそこにライトバンに戻ると、セイバーとアイリスフィールを空き家の門前に残したまま走り去っていった。
「さて、それじゃあセイバー、新居の点検といきますか」
「そうですね……」
門の鍵を開けると、案の定、長らく何の手入れもされていない荒れ放題の前庭が現れた。平屋の母屋には、石造りの城のような聳《そび》え立つ威圧感など皆無だが、それでも丈《たけ》の高い雑草の向こうに身を潜めるかのような陰鬱《いんうつ》な佇まいは、充分に不気味《ぶきみ》である。
「この国なりの幽霊屋敷って趣《おもむき》かしらね」
ところがアイリスフィールは廃屋の荒れようを全く気にした風もなく、むしろ何やらうきうきと嬉しげに辺りを見回している。まるで遊園地のお化け屋敷に期待する悪童といった趣だ。彼女が時折こうして垣間見せる稚気《ちき》は、微笑《ほほえ》ましいやら呆れるやらで、いつもながらセイバーは反応に困った。
「あら? どうかしたのセイバー?」
「――いいえ。貴女が構わないというのなら、それはそれで助かる話です」
幾多の戦場を駆け抜けてきたセイバーにとっては野営など慣れたもので、廃墟の不気味さなど何程のこともない。アイリスフィールさえ納得してくれるというのなら、この空き家を拠点とすることには何の不都合もなかった。
「きっと廊下は板張りで、干し草を編み固めた床に、紙の間仕切りで部屋を分けてるのよ。ウフフ、むかし日本のお屋敷を見てみたいって話したの、切嗣は憶えていてくれたのかしら」
「……」
あの冷酷な機械のような男が、戦いの場でそんな気心を尽くすとは到底思えなかったが、アイリスフィールの上機嫌に水を差すのも気が引けて、セイバーは黙っていた。
そうやって、埃《ほこり》の積もった屋内を検分しながらはしゃいでいたアイリスフィールではあったが、やがて母屋を隅々まで確認し終えると、今度はうって変わって真顔に転じ、何やら深刻そうに思案を始めた。
「期待していたほどの内容ではありませんでしたか?」
「ううん。それは堪能《たんのう》できたんだけどね。――魔術師の拠点として考えると、ちょっと難しいのよね。ここ」
物見遊山の気分に浮かれていただけかと思いきや、ああ見えてアイリスフィールも、押さえるところだけは押さえていたらしい。痩せても枯れても一流の魔術師である。
「結界の敷設はいいんだけれど、工房の設置がね……まぁこの国の風土からすれば仕方ないんだけれど、こうも開放的な造りだと、魔力が散逸しすぎるわ。とりわけアインツベルンの術式ともなると……う〜ん、困ったなぁ。できれば石か土で密閉された部屋が欲しかったんだけれど……」
セイバーははたと思い当たり、まだ使っていない最後の鍵を取り出した。
「マイヤの話ですと、庭にも別棟の倉庫があるとか。そちらも見てみましょう」
「――ああ、これなら理想的!」
土蔵の中に一歩踏み込みや否や、アイリスフィールは満足げに頷いた。
「ちょっと手狭だけれど、ここならお城と同じ要領で術式を組んでも大丈夫ね。とりあえず魔法陣を敷いておくだけで、私の領域として固定化できそう」
或いは切嗣は、最初から土蔵のある物件を探し求めて、この物件を押さえたのかもしれない。いくら日本といえども近代化が徹底されつつある現代では、土蔵というのはちょっと探したぐらいでは見つかるものではない。
「じゃあ、さっそく準備に取りかかりましょうか。セイバー、車に積んである資材を持ってきてくれる?」
「はい。一通りここに運びますか?」
「今はとりあえず、錬金術系の道具と薬品だけで充分よ。えぇと、確か……そう、赤と銀の化粧箱にまとめてあったはず」
「判りました」
メルセデスのトランクに詰め込んだ荷物のうち、とりわけ軽くて小さい、それでいて慎重《しんちよう》な扱いを指示されたひとつだ。荷造りをしたのは舞弥だが、セイバーも見覚えはあった。
セイバーが化粧箱を抱えて戻ってみると、その間にアイリスフィールは魔法陣を描く場所を見定めていたのか、土蔵の片隅の床を指し示す。
「それじゃあ、悪いけどセイバー、手を貸してくれる? あの場所に、六フィート径で二重の六亡星《ろくぼうせい》を描くの。方角はあっちを頭に」
「――はい」
セイバーも、過去に後見人の手ほどきで魔術の基礎ぐらいは習得している。アイリスフィールの指示通りに手を動かすことぐらいは苦もなくできるだろう。
故に、その当惑は指示の内容についてではなく、指示の意図そのものに対するものだった。
「水銀の配合からお願いしていいかしら。配分は私の方で指示するから、慎重に――」
「アイリスフィール、ひとつ伺いますが」
やはり看過はできない。意を決し、セイバーは今朝方からずっと胸に懐いてきたささやかな疑問を口にした。
「――今日の貴女は、なにか物に触れることを慎重に避けている節がある。私の気のせいでしょうか」
「……」
「車の運転、鍵の扱い……その程度なら気にするまでもないと思っていましたが、肝心の魔術の実演まで、やはり、ご自身でなさろうとしない。私の勘違いであればそう言ってください。今日の貴女には、なにか不都合なことでもあるのですか?」
さも言いにくそうに視線を泳がせて、アイリスフィールは口ごもる。セイバーはあくまで静かに、詰問《きつもん》にならぬよう配慮しながら、さらに重ねて相手を質した。
「もしも体調の不安なら、事前にそうと教えておいてもらわなければ。いざとなれば私は貴女の身を守るという務めがある。それ相応の配慮が必要になります」
「……御免なさいね。たしかに、隠してどうこうなるものでもなかったわ」
観念したように溜息をついて、アイリスフィールはセイバーに向き直ると、「手を出して」と促した。
「セイバー、いまから私は精一杯《せいいっぱい》の力であなたの手を握るわね。いい?」
「? ええ、どうぞ」
訳も分からないまま、セイバーはアイリスフィールの手を取った。人の子にしては美しすぎる完壁な均整の細指が、そっとセイバーの手に絡み――それきり、か弱く痙攣《けいれん》を繰り返すばかりで、一向に圧力を加える気配がない。
「……アイリスフィール?」
「ふざけてるわけじゃないのよ。今の私には、これで精一杯なの」
きまり悪そうに苦笑いしながら、アイリスフィールは告白した。
「指先に引っかけたりするのが精一杯で、握ったり摘《つま》んだりはとても無理。壊れ物や機械の類の操作はできないわ。朝、着替えるのにもかなり苦労しちゃった」
「い、一体どうしたのです? どこか怪我《けが》でも?」
泡を食うセイバーに、だがアイリスフィールは事も無げに肩を竦《すく》めただけだった。
「ちょっと体調が優れなくてね、触覚を遮断してるの。五感のひとつを封じるだけでも霊格をかなり抑えられるから、他の行動には支障をきたさなくて済むってわけ。こういう融通が利くのってホムンクルスの強みよね」
「そんな簡単に済ませていい話ではないでしょう! そもそも身体の不調というのはいったい何なのです? 手当てが必要なのでは?」
「そこは気にしなくていいわ。セイバー、忘れているかもしれないけれど、私は普通の人間ではなくてよ? 風邪《かぜ》をひいたからって医者に診てもらうってわけにもいかないの。――この不調は、まぁ、私の構造的欠陥とでもいうべきものだから。大丈夫。今は心配してもらわなくても、私自身の処置でどうにかなるわ」
「……」
そう言われて納得できるものでもなかったが、これ以上の事情を問い質せば、それはアイリスフィールの、ホムンクルスという作られた存在≠ニしての本質を赤裸々《せきらら》に暴き立てることになりそうで、さすがにそれはセイバーとしても気が引けた。アイリスフィールが、ただの人形ではない自分≠ニいう自我をささやかな誇《ほこ》りの拠《よ》り所《どころ》としていることは、セイバーも重々承知していたからだ。
「まぁ、そうは言っても色々とセイバーには迷惑をかけちゃうのよね。今日みたいに、もう車の運転はあなたに任せるしかないし、魔術の儀式にも、こうして手を貸してもらわなきゃならないわ。済まないんだけれど、宜しく頼むわね。私の騎士様」
「――勿論《もちろん》です。こちらこそ余計な詮索をして申し訳ありませんでした。お許しを」
「いいのいいの。さ、それより手早く陣の敷設《しせつ》を済ませちゃいましょう。きちんと地脈に繋《つな》いだ魔法陣で休息すれば、私の具合もちょっと好転するはずだから」
「判りました。それでは改めて、手順の説明をお願いします」
そうして二人は、土蔵を臨時の工房にするための儀式を再開した。アイリスフィールの指示に沿って水銀を精錬し、アインツベルン式の魔法陣を組み立てる作業は、勿論それなりの集中力を要するものではあったが難度の高いものではなく、二人は魔術の師弟《してい》というよりも、まるで姉妹《しまい》のように睦《むつ》まじく、和やかな空気の中で作業に没頭することができた。
セイバーは、アイリスフィールと土蔵で過ごしたその時間、共に交わした微笑みを、決して忘れることなく胸に刻みつけておこうと心に決めた。まだその時点では決して確信があったわけではなかったが、それでも無意識のうちに予感だけは懐いていたのかもしれない。
この気高く麗《うるわ》しい姫君と紡《つむ》いだ幸福な想い出は――結果として、これが最後になるのだと。
[#改ページ]
-90:56:26
遙《はる》かな西の彼方より、砂塵《さじん》を巻き上げて迫り来るその軍勢を、始めは誰もがただの夷敵《いてき》としか思わなかった。
襲来するより以前から、その強壮さだけは風の便りに聞こえている。遙か西方ギリシアの、マケドニアとかいう小国の王座を実父より簒奪し、以来瞬《またた》く間に近隣諸国を平定してコリントスの盟主となった若き王。
イスカンダル――
その野望は海峡を跨ぎ、ここペルシアの大帝国にまで不埒《ふらち》なる腕を伸ばすという。
無論、栄えある祖国に忠義する防人《さきもり》たちは、侵略に怖じる弱気なぞ持ち合わせない。男たちは武人の威信を賭けて、征服王の軍勢を迎え撃つ。彼らが驚異し、畏《おそ》れおののくのは、異様なまでの士気に支えられた敵軍の苛烈さを目の当たりにしてからだ。
神意なく、大義なく、それはたった一人の暴君の欲望を叶《かな》えるためだけに駆り集められた軍勢の筈《はず》なのに――あまりにも勇壮に、あまりにも凄烈《せいれつ》に、敵兵は滾《たぎ》る闘志も高らかに雄叫びを上げながら攻め寄せる。一命を賭して祖国を守護せんと心に誓った将兵たちを、ついには敗退せしめるほどに。
だがむしろ、敗軍の将たちが本当の驚きを知るのはそれからだ。
悪辣なる侵略の暴挙を吼《ほ》え糾《ただ》す捕虜たちに向けて、若き征服王はまるで悪戯《いたずら》の言い訳をする子供のように悪びれもせずに放言する。――貴様らの国が欲しいのではない。余はただ東に行きたいだけだ。と。
さらなる侵略の橋頭堡《きょうとうほ》か? ――否、違う。
その野心はイランの平野を超えて、遙かマハラジャの領土をも狙うのか? ――否々、それよりもっと東へ向かう。
そうして途方に暮れる異国の民に、王《かれ》は晴れやかにこう語るのだ。
『余は世界の終端に至るのだ。遙かなる東の際《ちわ》、『|最果ての海《オケアノス》』をこの目で確かめたい。その砂浜に足跡を記したい』
もちろん、誰も信じはしない。真意を隠す空言と、当たり前のように聞き流す。
だがその男は本当に、勝ち取った占領地での支配も利権も、すべて地元の豪族に拠《ほう》り投げ、自らは軍を引き連れてさらに東へと去っていく。その背中を呆気《あっけ》にとられて見送りながら、ようやく敗残の将たちは理解する。
あの覇王が、はにかみながらも語った理由≠ノは、一片の虚偽もなかったのだと。
ただ東に行きたかった。たまたま邪魔だったから蹴散《けち》らした。
そんな理由のためだけに栄華も誇りも奪われて、故国を踏み荒らされた将たちこそ無惨である。
はじめ、彼らは悲憤する。
それから、そんな馬鹿馬鹿しい理由によって消し飛んだ我が身の威勢を、憐《あわ》れんで自嘲《じちょう》する。
だがやがて、すべてを失った彼らは思い出す。
あの山並みの向こうに何が見えるか――
あの空の彼方《かなた》に何があるのか――
それはすべての男たちが、かつて少年の日に思いを馳《は》せたユメではなかったか。
そんな童心の夢想を捨てて、ただひたすらに名利と功績を重ねに重ね、武将として、為政者として、現在《いま》という日の地位を築き上げてきた男たち。そんな彼らの存在理由《レゾンデートル》を一夜のうちに崩していったのは――よりにもよって、彼らが棄《す》てた遠き日の憧憬《ユメ》を今も変わらず胸に燃やしている一人の男だったのだと。
そう理解してしまった後に、男たちは再び武器を取る。
彼らがまだ英雄でもなく、将でもなく、ただの少年であった頃、はじめて手にした兜《かぶと》と槍を、蔵の奥から引っ張り出して。誇りも意地も失った心に、あの頃の胸の高鳴りだけを取り戻し、彼らは東へと去りゆく大王の背中に追いすがる。
そうやって王の軍勢は、勝ち進むたびにその数を増していった。
それは傍目《はため》にはさぞかし異様な集団であったことだろう。
打破された英雄が、敗走した将軍が、失位した王たちが、みな一様に笑いさんざめき、期待に目を輝かせながら轡《くつわ》を並べていたのだから。
いざ『|最果ての海《オケアノス》』へ向けて――
男たちは大呼し、合唱する。
東へ。もっと東へ。
いつかあの男≠ニ共に、伝説の浜辺を見るその日まで。
遠征は果てしなく続く。
灼熱の砂漠を、凍える牙峰を、荒れ狂う大河を乗り越えて、未知なる獣の牙を逃れ、未知なる異民族の未知なる兵器と戦術に幾度となく翻弄《ほんろう》されながら。
そうして数多の兵《つわもの》たちが、故郷を遠く離れた異郷に果てた。
彼らはその目に、進み続ける王の背中を焼きつけて逝《い》く。
その耳に、遙か彼方の潮騒を聴きながら逝く。
力尽きたその亡骸《なきがら》は、みな一様に誇らしげな笑みを浮かべていたという。
やがて――夢の中の景観は、いつか見た露《もや》に煙る海岸へと立ち戻る。
打ち寄せる波の音の他には何もない、茫洋《ぼうよう》と見果てぬ久遠《くおん》の海。
かの王が見果てぬ夢に思い描き、そして、ついに見ることの叶わなかった場所。
だからきっと、これは彼≠フ記憶にある情景ではなく――
その激烈なる生涯を通じて、常に彼≠ェ胸に懐いてきた心象の景色なのだろう。
時の彼方より届いた英霊の記憶、その目眩《めくる》く夢路の終わりに、少年は、最果ての波の音を聞く。
その潮騒は、彼≠フ胸の内に鳴り響く鼓動であったのかもしれない。
[#中央揃え]× ×
街に出よう、と提案すると、ライダーは一も二もなく快諾《かいだく》した。
勿論ウェイバーとしては、古都ロンドンとは比べるべくもないこんな極東の田舎町《いなかまち》に何の興味があったわけでもない。ただ探したい本があっただけだ。
図書館を使えれば話は早かったのだが、同伴するのは歩く発達性低気圧ともいうべき大男である。静粛が義務づけられる空間に連れて行くのはあまりにも無謀すぎる。そもそもライダーは召喚初日に図書館の玄関を破壊した前科があった。まさかバレてはいないと思うが、それでも好きこのんで犯行現場を再訪したいとは思わない。
そうなると、本屋だが――地元の書店が現地語の本しか扱っていないのは当然で、ちゃんと英語で書かれた書物を探そうと思ったら、かなりの大型店舗を探すしかない。当然、繁華街まで出向く羽目になる。
思えば日中の冬木新都を出歩くのは、これが初めての体験だった。今までは別段なんの用件もなかったのだから当然である。近頃では既に覆い隠しようもないほど妖気に侵された夜の街とは一転し、明るい陽光に照らし出された市街地は、怪異の気配など微塵もない長閑な日常の空気を、今もなお保っていた。
「しかしまた、どういう風の吹き回しだ?」
「別に。ただの気分転換だよ」
のほほんと問うライダーに、ウェイバーは憮然《ぶぜん》と返事をした。べつに何が不愉快だったわけでもないが、ライダーに指摘《してき》されるまでもなく、気分転換などという無意味な行為はウェイバーの方針にまったくもって相応しくない。
ただなんとなく――ほんのひとときでも聖杯戦争のことを忘れたかったというのは、事実である。
ウェイバーの内側で、この戦いに参加するという行為の意味合いに変化が生じつつあった。それは些細《ささい》な変質ではあったが、ひとたび考え始めると際限なく意識を占めつづけ、息苦しさのあまり窒息《ちっそく》しそうになる。
「――いいんだよ、オマエは何も考えなくて。大体オマエだって、盛り場を出歩きたいって一昨日からずっとゴネてたじゃないか」
「うむ。異郷の市場をひやかす愉しみは、戦《いくさ》の興奮に勝るとも劣らぬからな」
「……そんな理由で戦争ふっかけられた国は、本当に気の毒だよな」
憮然と言い捨てたウェイバーの呟きが何か引っかかったのか、ライダーはいささか怪訝《けげん》そうな面持ちで小首をかしげた。
「何だ坊主《ぼうず》? そのまるで見てきたかのような言いぐさは?」
「いいんだよ。こっちの話だ」
サーヴァントと契約を交わしたマスターは、ごく希《まれ》に、夢という形で英霊の記憶を垣間見ることがある。その事実をライダーが知っているのかどうかはさておき、ウェイバーはそれ以上、今朝《けさ》方の夢については言及したくなかった。記憶の覗《のぞ》き見などされて快《こころよ》いと思う者がいるはずはないし、ウェイバーとてそれを見たくて見たわけでもない。
これぞと思った書店があったのは駅前の商店街で、近辺にはライダーが興味を示しそうな商店も色々と揃っていた。こういう場所であれば、ウェイバーの用事が済むまでの間、征服王が手持ち無沙汰《ぶさた》になって問題を引き起こす心配も、ひとまずは無さそうだった。
「じゃあボクは、しばらくこの本屋にいるから」
「うむ」
「取り敢えずオマエは何やっててもいいけど、このアーケードからは絶対に出るな。昼間だからって油断するなよ。もし万が一ボクが襲われたら、オマエだって一巻の終わりなんだからな」
「うむ、うむ」
ライダーは聞いているのかいないのか、そのギラギラと光る丸い目は既にもう、周囲の酒屋やら玩具屋やらゲームセンターやら関西風お好み焼きショップやらを舐《な》めるようにして見定めている。
「……征服するなよ。略奪するなよ」
「えっ!?」
「『えっ?』じゃねぇぇよッ! もうッ!」
人目憚《はばか》らず喚き散らしそうになるのをすんでのところで抑えて、ウェイバーは征服王の分厚い掌《てのひら》に財布を押しつけた。
「万引きも、無銭飲食も、一切ナシだ! 欲しいものがあったらきちんと金を払え! それとも令呪で言い聞かせないと判らないか!?」
「はっはっは。何を無粋な。マケドニアの礼儀作法はどこの宮廷でも文明人として通用したのだぞ」
真に受けていいのかどうか判断に苦しむ自慢を言い残して、財布片手に鼻息も荒く買い物客の波へと紛れ込んでいくライダーの背中を、ウェイバーは苦々しい心持ちで見送った。甚《はなは》だしく不安ではあったが、ああ見えてもライダーが異国文化に対して出鱈目《でたらめ》なほどの適応力を備えているのは確かである。昨夜マッケンジー老夫妻を懐柔《かいじゅう》した手並みからしても、それは明らかだ。
さっき渡した財布の中身をすべて散財されたら、ここ冬木における聖杯戦争の軍資金は半ば以上が消え失せることになるのだが、あのライダーが引き起こすトラブルが金銭で解決できるなら安いものである。聖杯さえ手に入れた曉《あかつき》には、たとえ帰りの渡航費がなくなっていたとしても何とか道は開けるだろうたぶん。そうなったらそうなったでもうどうとでもなれコンチクショウと開き直ることができる程度には、ウェイバーもほんの少しだけ器の大きい男に成長していた。
ウェイバーの方はといえば――たとえ目当ての本が見つかったとしても、購入までは考えていない。立ち読みでも用件は事足りる。第一、そんなものを読んでいる処《ところ》をよりにもよってライダーに見咎《みとが》められることだけは絶対に願い下げだった。買って持ち帰るなどという危険を冒《おか》せるわけがない。
外来住民の多い土地柄のせいか、洋書コーナーの内容は観光ガイドと低俗なペーパーバックだけではなく、小規模ながらもそれなりの品揃えがあった。さほど期待はしていなかったのだが、案に反して探していた本は比較的簡単に見つかり、ウェイバーはさっそく速読でその内容に目を通し始めた。
本を手にすると、時間を忘れる。それが幼い頃から変わらぬウェイバーの気質であった。テクストを読み解き把握する能力については誰にも負けないと誇っている。だがそんな才も時計塔では、調べ物に便利な見習い司書としていいように扱き使われるだけだった。無駄に難解な術理解説を見かけるたびに、自分ならもっと明快に書き直せるのに、と臍《ほぞ》を咬んだことは数知れない。
だがそんな屈辱の想い出も、ページを捲《めく》るうちに次第と意識の外へと追い払われていく。それほどに今ウェイバーが手にする本の記述は、心を奪い、彼方へと思いを馳せさせる内容を備えていた。
一体どれほどの間、そうやって黙読に耽っていただろうか。
ふとウェイバーは、二本足で動き回るには巨大すぎる質量の接近を感知して、素知らぬ顔で本を棚に戻した。振り向くと、折しもひょっこりと洋書コーナーの売り場を覗き込んだライダーと目があった。
「おお、いたいた。そうチビっこいと本棚の間にいたんじゃ全然見えんなぁ。探すのに苦労したわい」
「普通の人間は本棚より小さいんだ馬鹿。――で、ナニ買ってきたんだよ?」
はたしてライダーの片手には不穏なほどに大きな紙袋が提げられている。だがライダーは自慢したくて仕方なかったらしく、早速その場で中身を見せびらかしはじめた。
「ほれ! なんと『アドミラブル大戦略W』は本日発売であったのだッ。初回限定版だ!
フハハ、余のLUC《ラック》はやっぱり伊達《だて》ではないな!」
予想の斜め上を行くほど馬鹿馬鹿しすぎる買い物に、ウェイバーは偏頭痛《へんずつう》を覚えた。
「あのな、そういうものはソフトだけ買ったって――」
言いさしたところでウェイバーは、ソフトひとつを包装するには大きすぎる紙袋が、まだ分厚く膨《ふく》らんだままなのに気付き、征服王が抜かりなくハードもまるごと買ってきたのだと悟って沈黙した。
「さぁ坊主、帰ったらさっそく対戦プレイだ! パッドも二つ買ってきたからな!」
「ボクはな、そういう下賤《げせん》で低俗な遊戯《ゆうぎ》には興味ないんだよ」
そうウェイバーが鼻を鳴らして言い捨てると、ライダーは何が哀しいのやら沈鬱に眉根《まゆね》を寄せて、深々と嘆息した。
「あ〜もう、なんで貴様はそうやって好きこのんで自分の世界を狭めるかなぁ……ちったぁ楽しいことを探そうとは思わんのか?」
「うるさいな! 余計なことに興味を割くぐらいなら、真理の探究に専念するのが魔術師ってもんだ! ボクにはな、テレビゲームなんぞに消費していい脳細胞なんてこれっぽっちもないんだよ!」
「――んで、そういう貴様が興味を持ってたのはこの本か?」
さっきウェイバーが棚に戻した一冊を、あっさりと言い当てて手に取るライダー。あまりにも致命的な不意打ちに、ウェイバーは動転のあまり我を忘れて奇声を上げた。
「ちちち違わい! っつぅか何で判った!?」
「コレ一冊だけ逆さまに本棚に入ってりゃあ、誰だって気がつくわ。――っておい、『ALEXANDER THE GREAT』って……こりゃ余の伝記ではないか」
恥ずかしさの度合いでいうならば、かつてケイネス講師に論文を嘲笑《あざわら》われたときでさえ、ウェイバーはここまで赤面したことはなかったと断言できる。
「おかしなヤツだなぁ。そんな真偽も判らん記録なんぞアテにせんでも、当の本人が目の前にいるんだから、直に何なりと訊けば良いではないか」
「ああ訊いてやる! 訊いてやるよ!」
半泣きになりそうになるのを意地になって堪えながら、ウェイバーはライダーの手から本をひったくり、気になっていた記述のあるページを捲ってつきつけた。
「オマエ、歴史だとすっげえチビだったってことになってるぞ! それがどうしてそんな馬鹿でかい図体で現界してるんだよ!?」
「余が矮躯《わいく》とな? そりゃまたどうして?」
「見ろよコレ! オマエがペルシアの宮殿を陥《お》としてダレイオス王の玉座に座ったときの記録ッ、足が届かなくって踏み台の代わりにテーブルを用意したって書いてある!」
「ああ、ダレイオスか! そりゃ仕方ねぇわ。あの偉丈夫と比べられたんでは是非《ぜひ》もない」
その名を聞いた途端に征服王は呵々《かか》大笑《たいしょう》して手を打ち鳴らし、それから、まるで懐かしい朋友《ほうゆう》の面影に思いを馳せるかのように、しんみりと遠い眼差しで宙を見つめた。
「――かの帝王はなぁ、その器量のみならず体躯もまた壮大であった。まっこと強壮なるペルシアを統べるに相応しい逸者《それもの》であったよ」
噛《か》み締《し》めるようにそう語るライダーの目線は、どうにも身の丈三メートルに迫る大巨人を見上げているかのように思えてならず、ウェイバーはうそ寒いものを感じて脳裏の想像を打ち切った。
「納得いかない……なんだかすっごく納得いかない!」
「それ言ったら、アーサー王なんか女だぞ女。余の体格の逸話なんぞよりよほどタチが悪いわい。
まぁ要するに、だ。何処の誰とも知れんヤツが書き留めた歴史なんてもんは、べつだん真に受けて有り難がるほどのもんでもないってことだな」
てっきり屈辱に腹を立てるものかと思いきや、まるで他人事のように涼しい顔で笑い飛ばしたライダーを、ウェイバーはまじまじと見つめた。
「どうでもいいっていうのかよ? ――自分の、歴史だってのに」
「ん? 別に気にすることでもないが。……変か?」
「変だろ」
なぜか自分がムキになっていることさえ気付かずに、ウェイバーは食い下がる。
「いつの時代だって、権力者ってのは、自分の名前を後世に遺そうと思って躍起《やっき》になるもんだろ。妙な誤解とかされてたら、怒るのが普通だろうが」
「フン、そりゃまぁ、史実に名を刻むというのも、ある種の不死性ではあろうがな。余に言わせりゃ何の益体もありゃせんわ。そんな風に本の中の名前ばっかり二〇〇〇年も永らえるぐらいなら、せめてその一〇〇分の一でいい。現身の寿命が欲しかったわい」
「……」
苦笑しながら嘯くライダーの言葉は、はたして冗談とも本気ともつかなかったが――ついさっき、征服王の歴史を繙《ひもと》いていたばかりのウェイバーにとって、それは思わず返事に窮するほどの重い言葉に聞こえてしまった。
史上最大の帝国を築き上げるという偉業を成し遂げておきながら、その栄華に酔う暇《ひま》もなく、アレキサンダー大王の生涯はわずか三〇歳という若さのうちに幕を閉じる。
それがどれほどの無念であったは推《お》し量《はか》るべくもない。が、当の本人が己の短命を嘆く言葉を口にすると、それがいかに軽薄な口調であれ、聴く側にとってはどうしようもなく重い意味を感じてしまう。
「あ〜あ。あと一〇年あったらなぁ。西方だって遠征できたんだけどなぁ」
「……いっそ聖杯に願うなら、ついでに不老不死も叶えたらどうだ?」
なおも気安く放言する征服王の傍らで、ウェイバーは沈黙に我慢がならず、適当な相槌《あいづち》を返す。
「不死かぁ。イイなそれ。死ななかったら宇宙の果てまで征服し放題だなぁ」
やにさがるライダーは、そこで何に思い当たったのやら、だしぬけに憮然となった。
「……そういえば、ひとたび掴《つか》んだ不老不死をあっさりと手放した馬鹿者もおったっけな。フン、やっぱりあの野郎は気に食わん」
いったい何の事やらウェイバーには判らなかったし、そもそもそんなライダーの独言には気を払ってさえいなかった。今の彼は、昨夜の聖杯問答でライダーが吐露した願望の意味を改めて思い知ったことで、さらに別のことを気にかける余裕などなかった。
黄昏の中に帰路を急ぐ間も、ウェイバーは終始押し黙ったままだった。
間もなく街が夜闇に沈めば、そこはふたたび聖杯を巡る戦場と化す。ウェイバーもまた一人のマスターとして、己のサーヴァントを従えて戦いに臨まなければならない。
恐怖はない。不安さえもない。
自らのサーヴァントが紛れもなく最強であることを、ウェイバーは確信とともに知っている。――昨夜、彼はついにライダーの真の宝具を目の当たりにしたのだから。
今でもまざまざと思い出す、熱砂を吹き渡る風の乾いた匂い。
目に焼き付いた、輝く騎兵の大軍勢。
その陣頭に毅然と立ち、雄々しく、誇らしく王道を糾す大王の威容。
『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』――
あんなにも滅茶苦茶《めちゃくちゃ》に度外れた宝具を持つ英霊に、負ける道理などあるわけがない。イスカンダルはきっと全ての敵を退《しりぞ》けて勝ち残ることだろう。
それは確かに征服王イスカンダルの勝利であるかもしれないが――果たして、ウェイバー・ベルベットの勝利といえるのか?
そう、忘れたわけではない。名家の連中に無能と蔑まれ、軽んじられてきた屈辱を、行動を以て返上するために、自分は全てを擲《なげう》って聖杯戦争に身を投じたのだ。一人前の魔術師として戦い抜く、その実力を証明することが、ウェイバーの至上命題だったのだ。
なのに冬木で彼を待っていたのは、ウェイバーの存在など問題外のままに展開していく戦い……マスターの指針など一顧《いっこ》だにせず、勝手気ままに力ずくの勝利をもぎ取っていくサーヴァントの存在だった。
この先、ライダーは当たり前のように悠々と勝ち進むに違いない。その一方でウェイバーは、ただひたすらサーヴァントの背後に怯《おび》えて身を隠したまま、最後まで何の役に立つこともなく、戦いの結末を見届けることになるのだろう。
ただ運良く最強のカードを引き当てたというだけの、分不相応の腰抜けとして、ウェイバーは聖杯を掴むのだ。栄えあるライダーの勝利の陰で、最後まで嘲笑われ続けた道化として。
もし仮に、ライダーが敗北するような状況があったとしたら、たとえば――無能なマスターに足を引っ張られた場合、ぐらいなものか。
どうしようもない口惜しさとともに、改めて痛感する。
こんな戦い……終わったところで、きっと自分は何一つ変わらない。
あまりにも強大に過ぎる英霊の傍《かたわ》らで、ただひたすら自分の小ささを、惨《みじ》めさを、思い知らされる屈辱《くつじょく》。それは時計塔で焦らされ続けてきた不遇より、なおいっそうウェイバーのプライドを貶《おとし》めるものだった。
「――なぁ〜にを黙り込んどるのだ? んん?」
呑気に緩みきった胴間声《どうまごえ》が、ほとんど真上に近い高みから降ってくる。振り仰げばそこには、いつものように、何が面白いんだか不思議になるほど無邪気に笑った顔がある。
見上げるその角度が癪《しゃく》だった。
見下されるその角度が、どうしようもなく悔しかった。
ボクは、オマエが――嫌いだ!
口を衝《つ》いてそう言いそうになるのを、ウェイバーは最後の矜持《きょうじ》で堪えてそっぽを向き、代わりにもっと婉曲《えんきょく》な皮肉を口にした。
「別に。オマエのこと、つまんないなって思っただけだ」
「なぁんだ。やっぱり退屈しとるんじゃないか。だったら意地張らずにこのゲームを――」
「違う!」
相変わらず、どうしようもなくピントのずれた返答に、とうとうウェイバーの癇癪《かんしやく》が破裂した。
「オマエみたいな、勝って当然のサーヴァントに聖杯を獲らせたって……ボクには何の自慢にもならない! いっそアサシンとでも契約してた方が、まだやり甲斐《がい》があったってもんだ!」
ふ〜ん、と呑気に鼻を鳴らして、ライダーはぼりぼりと顎《あご》を掻いた。
「そりゃ無茶だったんじゃないかのぅ。たぶん死んでるぞ。貴様」
「いいんだよ! ボクがボクの戦いで死ぬんなら文句ない! そう思ってボクは聖杯戦争に加わったんだ!
それが――何だよ! いつの間にやらオマエの方が主役じゃないか! いつだってボクが命令するより先に勝手なことばっかりしやがって! ボクの立場はどうなる? いったい何のためにボクはニッポンなんかに来たんだよ!?」
「そんなこと言われてもなぁ……」
ウェイバーの剣幕とは裏腹に、ライダーはのほほんと和んだ風情のまま、まるきり糠《ぬか》に釘《くぎ》の有様である。
「貴様が聖杯に託《たく》す願いが、余を魅せるほどの大望であったなら、この征服王とて貴様の差配に従うのも吝《やぶさ》かではなかったが――如何《いかん》せん、背丈を伸ばしたいってだけが悲願じゃなぁ」
「勝手に決めるなよ! それッ!」
ますます激昂《げきこう》するウェイバーの頭に手を置いて、イスカンダルはいなすかのように「まぁ、いいじゃんか」と遮った。
「なぁ坊主、そんなに焦らんでも良かろうて。なにもこの聖杯戦争が貴様にとって人生最大の見せ場ってわけじゃなかろう?」
「何を――ッ……!」
この大儀式が一世一代の大勝負でなくて何なのだ、と――そう言い返せばウェイバーは、ますますイスカンダルの風下に立ってしまうだろう。何せ征服王にとっては、聖杯は現世に受肉するための手段でしかない。彼にとっての本命は、その後に控える世界征服にこそあるのだから。
「いずれ貴様が真に尊いと誇れる生き様を見出したら、そのときには嫌が応にも自分のための戦いを挑まなければならなくなる。己の戦場を求めるのは、そうなってからでも遅くない」
「……」
願望機という奇跡の前にして、希《こいねが》うものはただ一つ、ヒトとしての肉体のみ――なんと愚かで馬鹿げた取引か。そうウェイバーは呆れていた。そんなものを大望≠ニ吹聴するライダーは、極めつけの馬鹿だと思ってきた。
だがそれは――聖杯と己自身とを秤《はかり》にかけて、己にこそ価値ありと断言できる者ならば、何の矛盾もない望みではないか?
そんなにも傲慢に己を誇れるコイツは、そもそも、いったい何なのだ?
その問いに矢も盾もたまらず、わざわざ史書の記述に答えを探すことさえした。だがそこに列挙される偉業の数々を読み進めても、なおさら重ねて痛感させられるだけだった。
この男はただどうしようもなく雄大で、強烈で、余人には及びもつかぬ器量の持ち主だったのだ。――あんなにも勇壮に輝く精鋭たちに、崇《あが》められ、奉《たてまつ》られて、死してなお忠義されるほどに。
結局、認めるしかないのだ。征服王の悲願をクダラナイと嗤うのは、つまりは征服王とは程遠い――クダラナイ肉体で、クダラナイ人生を歩んでいる者なのだ、と。
「……この契約に納得できないのは、なにもボクだけじゃないだろう」
沈黙の中で屈辱を噛み締めた後、ウェイバーは押し殺した声でそう問うた。
「ん?」
「オマエだって不満だろうが! こんなボクがマスターだなんて! 本当はもっと違うマスターと契約してれば、よっぽど簡単に勝てたんだろ!」
声を軋《きし》らせてそう糾《ただ》すウェイバーの心中に、まるで理解が及ばぬのか、ライダーは平然と、
「ふむ、そうさなぁ」
と空を仰夢見た。
「まぁ確かに、貴様がもう少しイイ体格《ガタイ》をしておれば、今よりは釣り合いが取れたかもなぁ」
さも他愛ない冗談であるかのようにそう笑い飛ばす征服王だったが、それはウェイバーにしてみれば極めつけの愚弄《ぐろう》でもある。矮躯のマスターが、より一層の怒りに歯噛みしたそのとき、ライダーは肌身離さず持ち歩いている地図帳を開いて、最初の見開きページを指し示した。
「ほれ坊主、見てみよ。余が立ち向かっている敵の姿を」
「……」
A2版の面積の中でちんまりと網羅され、色分けされた全世界。その全てをライダーは、やがて相対する敵≠フ容《かたち》として見なしていたということか。
「ここに描かれた敵≠フ隣に、我らの姿を描き込んでみよ。余と貴様と、二人並べて比べられるように」
訳も分からぬライダーの言葉に、ウェイバーは途方に暮れた。
「そんなのは――」
「無理であろう?どんな細筆でも無理だ。針の先ですらなお太い。描きようもないんだよ。――これより立ち向かう敵≠前にしては、貴様も余も同じ、極小の点でしかない」
だから、釣り合いもクソもあったもんじゃないのさ。と、巨漢のサーヴァントは豪放に笑って言った。
「この肉体は、征すべき敵《ユメ》に比べれば|芥子《けし》|粒《つぶ》よりなお小さい。貴様も余も揃って同じこと。至弱にして極小、これ以上ちっぽけになりようもないほどに小さいのだ。そんな二人の背比べなんぞに何の意味がある?」
「……」
「だからこそ、余は滾《たぎ》る」
獰猛《どうもう》な笑みとともに、ライダーはそう不敵に嘯《うそぶ》いた。
「至弱、極小、多いに結構。この芥子粒に劣る身をもって、いつか世界を凌駕《りょうが》せんと大望を懐く。この胸の高鳴り……これこそが征服王たる心臓の鼓動よ」
ウェイバーは俯《うつむ》くしかなかった。
慰められたわけではない。とどのつまりは嗤われたも同然なのだ。
この胸に暗澹《あんたん》と蟠《わだかま》る怒りも、煩悶《はんもん》も、すべて取るに足らない瑣事《さじ》でしかないと。そんな小さい悩みなど、征服王の目には留まらないのだと。
「……要するに、マスターなんてどうでもいいって言いたいんだな。ボクがどんなに弱かろうと、そもそもオマエにとっては問題にもならないんだな」
「何でそうなるんだ、オイ」
ライダーは眉根を寄せつつも苦笑して、ウェイバーの背中を叩いた。
「坊主、貴様のそういう卑屈さこそが、即ち覇道の兆しなのだぞ?
貴様は四の五の言いつつも、結局は己の小ささを判っとる。それを知った上でなお、分を弁《わきま》えぬ高みを目指そうと|足掻《あが》いている。まぁ色々と心得違いもあるにせよ、『覇』の芽はたしかにその胸に根付いておるのだ」
「……それ、褒めてないそ。馬鹿にしてるぞ」
「そうとも。坊主、貴様は筋金入りの馬鹿だ」
悪びれもせずに笑いながら、ライダーは断言した。
「己の領分に収まる程度の夢しか懐かないような、そんな賢しいマスターと契約していれば、余はさぞかし窮屈な思いをしておっただろう。だが貴様の欲望は己の埒外を向いている。『|彼方にこそ栄え在り《ト・フィロティモ》』といってな。余の生きた世界では、それが人生の基本則だったのだ。
――だからな、坊主。馬鹿な貴様との契約が、まっこと余には快いぞ」
「……」
屈託《くったく》のないライダーの笑顔を正視できず、ウェイバーは顔を逸らした。
なぜこの大男は、嬉《うれ》しくもない事柄に限ってばかり自分を褒めそやすのだろうか。
馬鹿だと言われて喜ぶ馬鹿が、いったいこの世の何処にいるというのか。
やるせない感慨を持て余しながら、いったいどんな顔をしてライダーに向き合えばいいのやら判らず、いっそ消え入りたいほどの心境になっていたウェイバーは――その直後、何の前触れもなく異質な悪寒に見舞われた。
「うッ……!?」
まったく励起《れいき》させていないはずの魔術回路が、まるで痙攣するかのように疼く。
もちろん原因はウェイバーにはない。周囲の空気中のマナに異常な乱れが生じ、それに同調した魔術回路が乱脈に陥っているのだ。
見上げればライダーも、面持ちを引き締めて西の方角を睨んでいる。サーヴァントの知覚力には、この異常な魔力の発生源までもが明白なのだろうか。
「……河、だな」
低い声でそう呟く声は、既に戦場に臨む戦士の声色だった。それを聞いたウェイバーは、既に今夜の戦いが火蓋《ひぶた》を切って落とされているのだと理解した。
聖杯戦争は、続くのだ。――胸に葛藤《かっとう》を懐くような暇など、与えられることもなく。
[#改ページ]
ACT10
[#改ページ]
-84:34:58
異常なる魔力の気配を感知したのは、なにもウェイバーたちばかりではない。
未遠川《みおんがわ》付近から放出される呪的波動は、儀礼呪法クラスの多重節|詠唱《えいしょう》、それも数十人がかりでなければ為し得ぬほどの魔力を動員したものに相当した。必定、冬木市にいるすべての魔術師――即ち聖杯戦争に参加する全てのマスターが、たちどころにそれを察知することになった。
ランサーと、新たに彼のマスター権を獲得したソラウ・ヌァザレ・ソフィアリは、折しも新都を索敵する目的で、最も見晴らしの良い高所である建設途中の冬木センタービル屋上に陣取っていた。今夜の未遠川からはいささか異常な量の霧が湧《わ》き上がり、センタービルから西方向の視野を極端に悪化させている。人間の視力では、ライトアップされた冬木大橋の姿だけが茫洋と霞《かす》んで見える程度だ。
「――何が起こっているか見えますか? ランサー」
ソラウの問いに、サーヴァントならではの超常の視力で霧を見透かしていたランサーが頷く。
「やはりキャスターです。河の中に陣取って何かやっているらしい。子細なところまでは見えかねますが」
相変わらず秘匿《ひとく》という発想が根底から欠落した、魔術師にあるまじき無防備さである。監督役の計らいによって他の全サーヴァントから一斉に標的にされているというのに、その自覚すらないのだろうか。
「仕留めるなら、今が絶好のチャンスよね?」
「然り。何をやっているにせよ、奴が成果を上げるより先に引導を渡すのが賢明かと」
無論、それだけではなく――ソラウは自らの手の甲に刻まれた、許嫁ケイネス・アーチボルトより奪い取った令呪を見下ろしつつ、思った。――キャスターの出現は、おそらく他のマスターたちもまた察知しているに違いない。監督役からの報償である追加令呪を狙うなら、競争相手に先んじて一刻も早くキャスターを倒す必要がある。
首尾良くキャスターの首を獲った曉には、ケイネスの愚行によって一画を欠いたこの令呪も、再び完全なる形を取り戻す。元より在るべき三画の令呪の容《かたち》――英霊ディルムッドとの絆《きずな》が瑕疵《かし》なき姿を取り戻すのだと思うと、それだけでソラウは胸の熱い高鳴りを抑えきれなくなりそうだった。
「私は討って出ますが、ソラウ様はどうかここに居残り、我が武功をご検分くださいますよう」
「そんな! 私だって今はマスターです。お側から援護します」
縋《すが》るような眼差しに、ランサーは決然とかぶりを振った。
「なりません。憚《はばか》りながら、貴女にはケイネス殿のように武の心得があるわけではない。あの河岸は死地となりましょう。自衛の叶わぬ貴女を守りながらの戦いは、私にとっても至難。どうか、ご理解ください」
「でも……」
そうは言われても、ほんのいっときといえどもランサーの傍らを離れるというのは、今のソラウにとっては、ただ心細いという以上の辛苦である。
「それとも――ソラウ様もまた、このディルムッドの矛先に曇りありと疑われますか? 恣意《しい》なる戦いに戯《たわむ》れるものと?」
目を細めてそう質すランサーに、ソラウは慌《あわ》ててかぶりを振った。ランサーに対してケイネスが与えてきた屈辱を、ふたたびソラウが重ねるなど論外だ。今もなおケイネスに忠誠を誓うランサーに対しては、ソラウこそが真に忠義に値するマスターであることを、ぜひとも理解させなければならない。
「ランサー、現場の判断はすべて貴方に任せます。どうか存分に、悔いなき戦いを」
「忝《かたじけ》ない」
静かにそう頭《こうべ》を垂れてから、ランサーは鉄骨の足場を蹴って、眼下の街の灯《あかり》の中へと身を躍らせた。
そのまま、林立するビルの屋上から屋上へと跳躍を繰り返し、一路、河を目指して馳せていくサーヴァントの後ろ姿を、ソラウは苦く切ない感慨で見送った。
ケイネスとマスターを交代して以来――未だ一度もあの英霊は、ソラウに笑顔を向けてくれたことが、ない。
切嗣が用意した新拠点から、異常魔力の発生源たる未遠川までの距離を、セイバーの駆るメルセデスはものの数分で走破した。
深山町の古い町並みは道幅が狭い上に複雑で、普通に考えれば所要時間は優に三〇分を上回るところだったが、サーヴァントの騎乗スキルはそんな条理を完全に覆す奇跡を成し遂げた。衝突と紙一重のハンドリングで細道のカーブを駆け抜けていく白銀の車体のスピードは、もはや物理法則の縛りすら疑いたくなるほどの非常識であった。
路地から川沿いの通りに躍り出たところで華麗なスピンターンを決めてメルセデスを停車させると、セイバーはガルウイングのドアが開ききるのも待たず車外へと躍り出て、堤防の上にまで駆け上がる。常人では視界を失うほどの濃霧も、サーヴァントの視線を阻《はば》みはしない。
はたして仇敵《きゅうてき》は視線の真正面、二〇〇メートルほどの距離を隔てた川幅のほぼ真ん中に、悠然と佇《たたず》んでいた。後から助手席を降りて堤防の上に上がってきたアイリスフィールもまた、魔力強化した視力によって霧の中の人影を見届け、苛立たしげに眉を顰める。
「やっぱり案の定、キャスターだったのね」
セイバーは頷いて、油断なく敵サーヴァントの挙動を観察した。相変わらずマスターを伴わず単独のキャスターは、中州があるわけでもない河心で、まるで水面に立っているかのように直立している。よく見れば、その足場になっているのは水面下に集うおぞましき異形の影たちだ。先日、森の中で戦ったあの怪魔の群れたちが、いまキャスターの足の下に浅瀬を形成するほど集合しているらしい。
キャスターが何らかの大規模魔術を遂行中であることは、この尋常ならざる魔力の放射から疑う余地もない。川を起点に発生しているこの異常な霧も、おそらくはその余波によるものだろう。当のキャスターは詠唱どころか精神集中の素振りさえ見せず、ただ漫然と棒立ちしているだけに見えるが――その手の中の魔道書からは、猛り狂う魔力の渦動が、周囲の空間を歪めるほどに滔々《とうとう》と溢れ出ている。
破格の魔力炉であると同時に独白の術式までも編み上げる宝具……狂人の手に与けておくには、これほど危険な凶器はない。
「ようこそ聖処女よ。ふたたびお目にかかれたのは恐悦の至り」
相変わらず慇懃《いんぎん》に一礼するキャスターの仕草に、セイバーの瞳が怒りに燃える。
「性懲《しょうこ》りもなく……外道め、今夜は何をしでかすつもりだ!?」
「申し訳ないがジャンヌ、今宵の宴の主賓《しゅひん》は貴女《あなた》ではない」
ぞっとするほど禍々《まがまが》しい邪笑に顔を歪め、かつてないほどの狂気の相を露わにしながらも、キャスターは応じた。
「――ですが、貴女もまた列席していただけるというのなら、私としては至上の喜びですとも。不肖ジル=ド=レェめが催《もよお》す死と退廃の饗宴《きょうえん》を、どうか心ゆくまで満喫《まんきつ》されますよう」
高笑いするキャスターの足許で、暗い水面が騒ぎ出す。召喚師の足許に集った無数の怪魔たちが、やおら夥《おびただ》しい数の触手を一斉に突き出して――あろうことか、頭上に頂くキャスターのローブ姿を呑み込んでいくではないか。
一見、使い魔たちの反逆によってキャスターが襲われているかに見える光景だったが、触手の束に総身を巻き取られていくキャスター自身は、高らかな狂笑のトーンをさらに一音階跳ね上げて、もはや奇声に等しい金切り声を誇らしげに張り上げる。
「今また再び我らは救世の旗を掲げよう! 見捨てられたる者は集うがいい。貶められたる者も集うがいい。私が率いる! 私が統べる! 我ら虐《しいた》げられたる者たちの怨嗟《えんさ》は、必ずや『神』にも届く! おぉ天上の主よ! 我は糾弾《きゅうだん》をもって御身を讃えようッ!」
泡立つ水面が膨張し、触手に呑まれていくキャスターを押し上げる。いつしか彼の足場となっていた怪魔の群れは一段とその数を増していた。川底の深さを考えると、もはやその数は想像するだに恐ろしい。
「キャスターが……吸収されていく!?」
慄然《りつぜん》となるセイバーの眼前で、召喚師の身体を中心に群れ集っていく怪魔の数は、なおも膨大《ぼうだい》さを増していく。『|螺湮城教本《プレラーティーズ・スペルブック》』による召喚は、まさに無尽蔵であった。夥しい数の触手は互いに絡み合い融合して、もはやひとつの肉塊《にくかい》を形成しつつある。
吐き気を催すほどに穢《けが》らわしい粘液に濡れ光る、それはまさに肉の中州、肉の島だった。だがそれでもなお足りぬのか、怪魔の集合体はなおも膨張を繰り返す。
既に姿すら見えなくなったキャスターの声だけが、勝《か》ち鬨《どき》のように響き渡る。
「傲岸なる『神』を! 冷酷なる『神』を! 我らは御座より引きずり下ろす! 神の愛した子羊どもを! 神の似姿たる人間どもを! 今こそ存分に貶め、陵辱し、引き裂いてやろう! 神の子たちの嘆きと悲鳴に、我ら逆徒の哄笑《こうしょう》を乗せて、天界の門を叩いてやろう!」
汚肉の集積は、もはや球状になるまでその体積を漲《みなぎ》らせていた。いやむしろ、この姿こそが異界の魔性の本体なのかもしれない。今日までキャスターが使役してきた使い魔たちは、すべてコレの断片に過ぎぬ雑兵でしかなかったのだろう。
「あれは……」
夜闇を背景にそびえ立つ異形の影。そのおぞましくも圧倒的な威容に、セイバーは息を呑んだ。
深海の覇者たる鯨や|大王烏賊《だいおういか》でさえ、これほどの巨体を誇りはすまい。この世ならざる領域の海を支配する悪夢の姿。まさに『海魔』と呼ぶに相応しい水棲《すいせい》巨獣であった。
いまアイリスフィールとともに立つ堤防は幸いにして無人だが、河の対岸の民家には既に軒並み明かりが灯り、深夜にもかかわらず狂騒の声が風に運ばれてくる。これほど露骨な怪異が衆目に晒されたのだから当然のことだった。せめてもの幸いは、視野を遮る濃密な夜霧のせいで、怪物を目撃できるエリアが限定されていることだろう。住民のパニックは、まだ限定された範囲にしか拡がっていない。
ともあれ、秘して為すべしという聖杯戦争の暗黙の了解は、これで完全に破られた。
「奴を侮《あなど》っていました……まさかこれほどの怪物まで召喚してくるなんて!」
「いいえ、いくらサーヴァントでも召喚して使役できる使い魔の格≠ノは限度があるはずよ。――尤《もっと》も、使役する≠アとさえ考えなければ、その限りではないけれど」
気丈なはずのアイリスフィールが、今回ばかりは声音に隠しようのない畏怖《いふ》を露わにしていた。
「召還後のコントロールを度外視して、ただ招き寄せる≠セけならば……どんな強大な魔物だろうと、理屈の上では可能だわ。ただ『門』を拡げるだけの魔力と術式さえあればいいんだから」
「……あの化け物は、キャスターの制御下にはない、と?」
「そう考えておいて間違いないわ」
アイリスフィールの震撼は、それが魔術師なればこそ理解できる恐怖であったが故なのだろう。だがセイバーとて、事の重大さを理解するのに苦はなかった。
「魔術とは魔を繰る術《すべ》≠フこと。でもアレ[#「アレ」に傍点]は、そんな手先の理屈なんか通用しない真性の『魔』だわ。どこまでも果てしなく貪《むさぼ》り喰《く》らい、呑み込む、そういう渇望の概念をそのままに具現化させたモノ。あんなものを呼び寄せるなんて行為自体が、既に『術』でも何でもないのよ!」
怒りに拳を握りしめつつ、セイバーは、かの魔術師の狂気を想った。
「では、あの怪物は誰に戦いを挑むわけでもなく……?」
「そうよ。ただ食事[#「食事」に傍点]に招待されたってだけ。こんな街ひとつぐらい、数時間とたたず喰らい尽くしてしまうわ」
「――ッ!!」
もはや戦いの何たるか、勝利の何たるかという認識さえ、キャスターからは欠落してしまったのだ。あの狂乱のサーヴァントは、聖杯戦争という行為そのものを破壊し無為に帰すつもりでいるのだろう。この街のすべての生命もろともに。
聞き覚えのある雷鳴の轟《とどろ》きに、セイバーは振り向いた。折しも二人がいる公園の広場に、輝く神威の戦車が降り立ったところであった。手綱を握る巨漢のサーヴァントが、先客に向けて不遜《ふそん》な笑みを投げかける。
「よぉ騎士王。良い夜だ――と言いたいところだが、どうやら気取った挨拶を交わしておる場合じゃなさそうだな」
「征服王……貴様またしても性懲りもなく、戯《ざ》れ言《ごと》を垂らしに来たか?」
油断なく身構えるセイバーをいなそうとでもするかのように、ライダーは鷹揚《おうよう》に手を上げる。
「よせよせ。今夜ばかりは休戦だ。あんなデカブツをほっぽったままでは、おちおち殺し合いのひとつも出来ゃせんわ。
さっきから、そう呼びかけて廻っとるのだ。ランサーは承諾した。じきに追いついてくるはずだ」
「……他のサーヴァントは?」
「アサシンは余がぶち殺してしまったし、バーサーカーは論外だ。アーチャーは――声かけるだけ無駄だろ。ありゃ馴れ合いに応じる柄じゃない」
セイバーは頷いて、厳粛な面持ちで籠手を胸甲に当てた。
「了解した。こちらも共闘に異存はない。征服王、しばしの盟だが、ともに忠を誓おう」
「フフ、こと戦《いくさ》となれば物分かりが良いな。……んん? どうした、マスター連中は不服か?」
「……」
無論、不服というわけではなかったが、過去の蟠《わだかま》りをあっさりと棚上げしてしまったライダーとセイバーの割り切った潔さに、アイリスフィールは些《いささ》かばかり鼻白んでいた。ウェイバーに至っては露骨な警戒心を隠そうともせず、まだライダーの戦車《チャリオット》の御者台から小心に顔を覗かせているだけで、一向に降りてくる素振りを見せない。
きっと戦場を生きる者たちにとっては、敵を殺すのも、同盟を結ぶのも、ともに私情を差し挟む余地のない冷酷な判断という点で同次元のものなのだろう。こればかりは、同じ乱世を駆け抜けた者同士でなければ共有できない精神性である。
とはいえ、今は何を差し置いてもキャスターの暴挙を止めなければならない。誓いが信に足るものならば、ここは力を合わせるのが最も賢明な判断だ。
「構いません。アインツベルンは休戦を受諾します。ライダーのマスター、宜しくて?」
アイリスフィールの呼びかけに、ウェイバーも不承不承といった態《てい》で頷いた。
「……アインツベルン、あんたたちに策は? さっきランサーから聞いたが、キャスター本人と戦うのはこれが最初じゃないんだろ?」
たしかにセイバーにとっては、これは自陣の森での攻防戦のリターンマッチとも言えた。ランサーの助力を得て辛くも退けたキャスターが、さらに桁違《けたちが》いの戦力を得て逆襲に現れたのだ。だがこちらも、今度はランサーだけでなくライダーとも盟を結んでいる。趨勢《すうせい》は、まだ断じて悲観的ではない。
「――ともかく速攻で倒すしかないわ。あの怪物、今はまだキャスターからの魔力供給で現界を保っているんだろうけれど、アレが独自に糧《かて》を得て自給自足を始めたら、もう手に負えない。そうなる前にキャスターを止めなくては」
得心したセイバーが頷く。
「奴の、あの魔道書ですね」
自律式召還魔力炉、『螺湮城教本《プレラーティーズ・スペルブック》』――あの破格の宝具が今、キャスターの身体ともども海魔の心臓の役を果たしているのだ。
「成る程な。奴が岸に上がって食事[#「食事」に傍点]をおっ始める前にケリをつけなきゃならんわけだ。しかし――」
さも嫌そうに眉を顰めて、ライダーはうねくる暗緑色の巨体を眺める。
「当のキャスターはあの分厚い肉の奥底ときた。さて、どうする?」
「引きずり出す。それしかあるまい」
ライダーのぼやきに、背後の闇から新たな声が応じた。街灯の光の中に、双槍の麗影が進み出る。天駆ける戦車《チャリオット》よりわずかに遅れたランサーの参陣であった。いよいよ対キャスター同盟の三サーヴァントが揃い踏みである。
「奴の宝具さえ剥き出しにできれば、俺の『|破魔の紅薔薇《ゲイ・ジャルグ》』は一撃で術式を破壊できる。……無論、奴がそうやすやすと二度目を許すとも思えんが」
「ランサー、その槍の投撃で、岸からキャスターの宝具を狙えるか?」
セイバーの問いに、ランサーは不敵に微笑んだ。
「モノさえ見えてしまえば、雑作もないさ。槍の英霊を舐めんでもらおうか」
「良し。ならば先鋒は私とライダーが務める。いいな? 征服王」
「構わんが……余の戦車に路《みち》は要らぬから良いとしても、セイバー、貴様は河の中の敵をどう攻める気だ?」
そうライダーに問われて、今度はセイバーが笑みを覗かせる番だった。
「この身は湖の乙女より加護を授かっている。何尋《なんひろ》の水であろうとも、我が歩みを阻むことはない」
「ほう、それはまた希有な奴……ますます我が幕下に加えたくなったのう」
ライダーの手前勝手な言い分に、いつもなら柳眉《りゅうび》を逆立てるはずのセイバーも、このときばかりは鋭い一瞥だけで聞き流した。
「放言のツケはいずれまた払ってもらう。今はまず、あの化け物の腑《はらわた》からキャスターを暴き出すのが先決だ」
「ハハ、然り! ならば一番槍は戴《いただ》くぞ!」
哄笑とともに、ライダーが戦車《チャリオット》の牡牛《おうし》に鞭をくれ、雷鳴高らかに虚空へと駆け上がる。まだ心の準備が出来ていなかったらしいウェイバーの悲鳴は気にもとめず、征服王の疾駆する宝具は一直線に巨大な海魔へと突進を始めた。
「セイバー、武運を!」
呼びかけるアイリスフィールに頷いて、騎士王もまた岸から河中へと身を躍らせた。
輝く足甲が水面を蹴り、銀の飛沫を燦然《さんぜん》と散らす。――が、その爪先は沈まない。セイバーが蹴る水はまるで大地と変わらぬ強固さで、その疾走を受け止める。まさに湖の精霊に祝福された王たる者のみが可能とする奇跡だった。
肉薄するにつれ、海魔の姿はいよいよ強大に、まるでセイバーにのしかかるかのようにして、醜悪な威容で彼女を圧倒した。
うねくる触手が蛇の群のように縦横無尽に張り巡らされ、迫り来る騎士王を迎撃せんと鎌首をもたげる。
だがその奇怪さもおぞましさも、決して彼女の疾走を阻《はば》み得《え》ない。いまセイバーの心は恐怖とも焦りとも無縁だ。
決着をつけるぞ、キャスター!
闘志も新たに振りかざした風王結界の斬撃が、まずは一太刀目を容赦《ようしゃ》なく海魔に浴びせた。
[#中央揃え]× ×
遙か彼方、鳥すらも飛ばぬ高々度の雷雲の中を、デジタル暗号化された無線波で互いに囁きを交わす声があった。
『コントロールよりディアボロT、応答せよ』
「こちらディアボロT、感度良好。何事だ?」
『冬木市警察より災害派遣要請。ただちに哨戒任務を中断し、急行されたし』
災害派遣? ――ヘッドホンから聞こえた言葉に、仰木《おおぎ》一等空尉は耳を疑った。
ヘリや|哨戒機《P3C》というならまだ解る。だが領海哨戒中のF15戦闘機を呼び戻す災害=@とは、一体どういうことなのか。
「コントロール、指令内容を明確にしろ。何がどうなってる?」
無線機の向こうで、わずかに気まずい沈黙が生じた。
『……あー、いいか、笑うなよ。先方は……怪獣が出た、と行っている』
亜音速航行中のコックピットで聞くには、極上の冗談といえた。笑うなというのが無茶な注文である。
「そいつは傑作だ。俺も空自に入隊した甲斐《かい》がある」
『ともかく正式な要請なんだ。ディアボロT、未遠川河口の状況を観察し報告せよ』
「……冗談だよな、おい?」
『ディアボロT、復唱せよ』
管制官の苛立たしげな声は、彼もまたこの理解に苦しむ悪戯に巻き込まれている側の立場であることを物語っていた。仰木一尉は溜息とともに抑揚なく定型の復唱を返す。
「ディアボロT了解。本機はこれより未遠川河口の偵察にあたる。|通信終わり《オーバー》」
それでも仰木一尉は、いま交わした交信の内容が俄には信じがたかった。こんな馬鹿げた遣り取りがボイスレコーダーに録音されたのかと思うと、何ともいたたまれない気まずさを覚える。
「……ディアボロU、聞いての通りだ。進路反転。引き返すぞ」
『了解。しかし……いいんですかね?』
僚機《りょうき》ディアボロUのパイロットである小林《こばやし》三等空尉も、馬鹿げた指令を訝《いぶか》る気持ちを隠すことなく声音に顕《あらわ》している。
だが、良いも悪いも、復唱を返した指令については実行するしか他にない。せめてもの慰めは、目的地の冬木市が帰投空路上にあるという点だ。いったい誰が責任を取るのか知らないが、無駄な道草による高価なジェット燃料の浪費は、とりあえず最小限で済む。
『もし本当に怪獣がいたら、交戦許可って下りるんですかねぇ?』
なかば捨《す》て鉢《ばち》な小林三尉の台詞に、仰木一尉もまた鼻を鳴らした。
「これが怪獣映画なら、俺達きっとヤラレ役だぜ。『光の巨人』が出てくる前の噛ませ犬だ」
『笑えませんよ。それ』
操縦者たちの心中はともあれ、アフターバーナーの轟音も高らかに銀翼を翻《ひるがえ》すF15Jの雄姿は、普段と変わることなく圧倒的に勇壮だった。
[#改ページ]
-84:30:16
水上で展開される英霊たちの戦いを、アーチャーは上空の遙かな高みから見下ろしていた。
「何ともはや、醜穢《しゅうわい》なる眺めよ……」
地上五〇〇メートルの高度にて英雄王が身を預けているのは、黄金とエメラルドで形成された光り輝く舟≠セった。
『|王の財宝《ゲート・オブ・バビロン》』――原初の英雄であり、かつて世界のすべての財宝を手中にしていたギルガメッシュの宝物庫には、以後のあらゆる伝説、神話伝承に語り継がれる宝具の原形《オリジナル》が所蔵されている。
いま彼を高空に遊泳させるこの黄金の船もまた、そういった神の秘宝≠フひとつだ。これはバビュロンより散逸した後に古代インドへと伝わり、やがてラーマーヤナ、マハーバーラタの二大叙事詩に『ヴィマーナ』の名で記述されることになる飛行装置に他ならない。
「いかに雑種とはいえ、少しばかりは名を馳せた猛者《もさ》どもであろうに……それが揃いも揃ってあのような汚物の始末に明け暮れるとは。嘆かわしいにも程があるな。そうは思わんか時臣?」
だが舟に同乗を許されていた遠坂時臣の胸中は、物憂《ものう》いほどに呑気なアーチャーのそれとは対照的に、怒りと焦燥《しょうそう》に乱れていた。
なべて魔術は秘匿されるべし――その大原則を厳守するためにこそ、遠坂は魔術協会より管理者《セカンドオーナー》としての役職を賜《たまわ》っているのである。キャスターの狼籍は、聖杯戦争の継続を危うくさせるのみならず、時臣個人の沽券《こけん》までも完膚無《かんぷな》く踏みにじるものだった。
解き放たれた巨獣がこのまま暴れ狂えば、未曾有《みぞう》の大惨事を引き起こすことは明々白々だ。もはやキャスター狩りの報償や、聖杯戦争の行方といった次元の問題ではなかった。今この場で速やかに、あの怪物は抹消しなければならない。これ以上の目撃者が増える前に、遠坂家の威信に賭けて。
「王よ、あの巨獣は御身の庭を荒らす害獣でございます。どうか手ずからの誅戮《ちゅうりく》を!」
「そんなものは庭師の仕事だ」
時臣の要請を、だがアーチャーはけんもほろろに一蹴した。
「それとも時臣、よもや貴様は、我《オレ》の宝具を庭師の鋤《すき》も同然と愚弄《ぐろう》したいのか?」
「滅相《めっそう》もありません! しかし、御覧の通り――他の者どもでは手に余る有様です」
実に端から見ていても、その戦いの絶望的な趨勢《すうせい》は歴然であった。
絶え間なく責め立てるセイバーとライダーの刃に傲然と身を晒しならがも、海魔の巨体は一向にダメージを負う気配がない。
勿論、サーヴァントたちの攻撃が手緩いわけではない。岩をも砕く剛剣も、雷撃を孕《はら》んだ蹄《ひづめ》の蹴りも、容赦なく海魔の肉を挟り割いては腐汁のような血飛沫を撒《ま》き散《ち》らしている。だがそうやって膾《なます》に刻まれた疵痕《きずあと》は、瞬く間に新たな肉によって埋まり治癒《ちゆ》してしまうのだ。
肉体の再生能力は、かつてキャスターが召喚し使役していた怪魔たちにも備わっていたものであり、驚嘆するほどのことはない。だがなにぶん今回の大海魔は規模があまりにも大きすぎた。まるで泥沼に縦穴を穿《うが》とうとしているようなものだ。二人のサーヴァントがもたらす破壊の規模が、再生のペースに追いつかないのである。
騎士王と征服王による連携《れんけい》攻撃も、河岸の堤防を目指す海魔の動きを辛うじて遅らせるのが精一杯という有様だった。
「真の英雄たる神威を知らしめる好機です。どうか、ご英断を!」
英雄王は、さも忌々《いまいま》しげに目を眇《すが》めると、船縁に頬杖をついていた右手を一振りし、傍らの虚空に四挺の宝剣、宝槍を出現させた。光り輝く原初宝具は轟雷の唸りを上げて、真下で蠢《うごめ》く汚肉の山へと直進する。
咄瑳《とっさ》に気付いて身を翻したセイバーとライダーは巻き添えを免れたが、キャスターの海魔にはそんな機敏さなど望むべくもない。四本の剣と槍はことごとく直撃し、山をも穿つその威力によって、実に巨獣の体躯の三割余りを粉微塵に吹き飛ばした。
かつてない大打撃。だが、なおもキャスターの咲笑は耳障りに鳴り響く。
「馬鹿な――」
呆然と呟く時臣の眼下で、うごめく肉が風船のように膨れあがり、見る見るうちに損壊部分を覆い潰していく。
あの巨大な肉塊は、おそらく体構造においては原生動物《アメーバ》も同然の単純さしかないのだろう。骨格も臓器もなく、したがって弱点も存在しない。どこをどう破壊されようとも行動に支障はなく、桁外れの再生力によって忽《たちま》ちのうちに欠損を取り戻してしまう。
「――引き上げるぞ。時臣。もはやあの汚物は見るに耐えぬ」
真紅の瞳に嫌悪感を露わにしながら、アーチャーは吐き捨てるように宣言した。
「そんな……英雄王、どうかお待ちを!」
「時臣、お前への義理立てと思って宝剣宝槍の四|挺《ちょう》を使い捨てた。あんなモノに触れて穢《けが》 れた以上は、もう二度と回収する気にもならぬ。我《オレ》の寛容を安く見るでない」
「あの怪物を倒しうる英雄は、御身しかあらせられませぬ!」
時臣もまた必死であった。事ここに及んでは、忠臣の慎《つつし》みなど保っていられるはずもない。
「あれほどの再生力がある以上、奴は総体を一撃のもとに消し飛ばすしか他にない。それが叶うとすれば英雄王、御身の『乖離剣《かいりけん》』をおいて他には――」
「痴《し》れ者《もの》がッ!!」
双眸を紅蓮《ぐれん》に燃やし、今度こそアーチャーは怒気|漲《みなぎ》る一喝《いっかつ》を放った。
「我が至宝たる『エア』をここで抜けと? 弁《わむま》えよ時臣! 王に対してその妄言、刎頸《ふんけい》にも値するぞ!」
「……」
歯噛みしながらも面を伏せ、時臣は沈黙した。
確かに、有り得ない。ギルガメッシュの気位からすれば、切り札たる秘蔵の一刀は、彼自身が『格』を認めた相手に対してしか抜き放たれることはない。
だがキャスターの海魔を確実に葬り去るならば、それしか他に手段がないのもまた事実である。
右手の令呪を意識せずにはいられなかった。ここで一画を消費したとしても、代わりにキャスター討伐の報償として聖堂教会からの令呪補充を得られれば帳尻は合う。が――その選択は、間違いなく英雄王との関係を決裂させる結果をもたらすだろう。
かくなる上は、他のサーヴァントたちに一縷《いちる》の望みを託《たく》すしか他にないのだろうか。……その場合、もし仮にキャスターの覆滅が果たせたとしても、そのときは璃正《りせい》神父の提示した追加令呪は時臣以外のマスターの手に渡ることになる。
遣り場のない怒りに、時臣は爪が掌を挟《えぐ》るまで拳を握りしめた。
なぜこうも思惑が裏目に出るのか? 鉄壁の準備、万全の策術を揃えて臨んだはずの聖杯戦争に、なぜこんな番狂わせばかりが起こるのか?
そのとき、天が割れんばかりの轟音が鳴り響き、時臣は凝然《ぎょうぜん》と頭上を振り仰いだ。
光なき雷鳴のようなそれは、音の壁が打ち砕かれた衝撃波《ソニックブーム》の残響に他ならない。はたして夜空を背景に北から南へと流れ過ぎた一対の灯火は、ジェット戦闘機の識別灯に他ならなかった。
「くそう……」
事態は寸刻みで悪化の一途を辿っていく。だが冬木の管理者《セカンドオーナー》たる遠坂時臣は、為す術《すべ》もなく座視するしかない。
眼下で繰り広げられる怪奇の景観に、二人のイーグルドライバーはただ言葉を失うしかなかった。
「……何だ? あれは……」
仰木一等空尉は思考の限りを尽くして、ありとあらゆる錯覚の可能性を検討した。その中には、自分自身の正気を疑うという選択肢までも次善として含まれていた。
『六時方向にも、妙な光が浮いてます。ヘリじゃない……UFOか何かですか? あれ』
僚機の小林三尉もまた、その動転ぶりは無線越しの声音だけで明らかだ。となればやはり、これは仰木一尉だけに見えている幻覚ではないということになる。
『コントロールよりディアボロT。状況を報告されたし』
「報告は――いや、その――」
そもそも、言葉でどう説明しろというのか?
災害? 未確認機? 領空侵犯?
怪獣――いや、そんな単語は論外だ。そんなモノを意味する通信符丁は空自にない。
説明には、それに先立つ認識が必要不可欠だ。だがその認識の段階において、いま仰木一尉の思考力はどうしようもなく無力であった。
『もう少し高度を下げて接近してみます』
「ま――小林、待て!」
何か名状しがたい悪寒に囚われて、仰木一尉は反射的に僚機を制止した。だが小林三尉のF15は、すでに緩旋回から降下へと移る機動を終えた後だった。
「戻って来い! ディアボロUッ!」
『もっと間近からの視認なら、あれが何なのかが――』
二機の戦闘機が傍観者でいられたのは、そこまでが最後だった。
相手は高射砲や対空ミサイルといった既存の兵器ではなく、したがって小林三尉には、どの程度の距離から敵の攻撃圏内に入るのかを推し量ることも不可能だった。一〇〇メートル以上の長さを瞬時に伸縮する触手など、想像すら及ばなかっただろう。
いきなり操縦桿《そうじゅうかん》が制御を失った後も、彼には自機にいったいどういう異常が起こったのか理解できなかった。まるで空中で見えない壁に激突したかのような衝撃と錐揉《きりも》み落下の激震に、悲鳴を上げるのが精一杯だった。
そんな死に様であったとはいえ、ある意味でそれは、すべてを見届ける羽目になった仰木一尉に比べれば、まだ幸せな末路だったのかもしれない。
河面の肉塊の表面から、いきなり極太の綱のようなモノが何条も躍り出て小林三尉の機体に絡みつき、ターボファンエンジンの推力をものともしない強引さで引き寄せてしまう光景は、もはや悪夢としか言いようがなかった。
肉塊に激突してもなお、機体は爆発しなかった。ねじくれた屑鉄《くずてつ》の塊と化したF15Jは、うねくる巨大な原形質にズブリとめり込み、そのまま跡形もなく呑み込まれてしまった。
「小林――」
すべてを直視してしまった仰木一尉の脳裏には、思考も理解も飛び越えて、ただ桁外れの認識だけがもたらされた。
ああ、あれは――喰われた[#「喰われた」に傍点]のだ、と。
『コントロールよりディアボロT、いったい何が起こってる!? 報告を!』
「目だ。目がある。そこいらじゅうにびっしりと……」
距離を隔てた濃霧越しにも、なぜか仰木一尉の目には手に取るように詳細に見て取れた。蠢く肉界の表面から疣《いぼ》のように現れ出た眼球が、一斉に見開かれて上空の獲物を凝視している様子が。
機密されたコックピットの中にいながらも、仰木一尉はその視線≠感じていた。
そうだ。アレはどうしようもなく飢《う》えている。小林を喰って味をしめ、次の獲物を狙って、じっとこちらを見つめているのだ……
桁外れの恐怖が、逆に起爆剤となって凶暴な怒りを激発させた。
「――ディアボロT、交戦開始《エンゲージ》ッ!」
『ま、待て仰木! いったい何が――』
かまびすしくがなり立てる通信機を強引に切り、代わって全兵装のセイフティを解除する。AIM7スパロー四発、AIM9サイドワインダー四発、M61バルカン砲940発すべて準備良し。
喰われる前に、殺す。
もはや正常な思考を失った仰木空尉の口元が狂笑に歪む。世界最強の戦闘機、F15の操縦桿《そうじゅうかん》を握る彼こそは、正真正銘の死神である筈なのだ。
小林の仇《かたき》……挽肉《ひきにく》にしてやる。消し炭にしてやる。
機首を翻し、ヘッドアップディスプレイの照準器で眼下の敵を苦もなく捕捉する。あれだけ大きければ外しようもない。飽和攻撃《サチュレーションアタック》、全弾を叩き込んでやる――
ガツン、と、ぞっとするような振動が機体を揺るがした。
真後ろ――極限まで研ぎ澄まされていた仰木一尉の闘争本能が、そう告げる。だが咄瑳に振り向いてしまったことが、結果として、既に半ばまで壊れかけていた自らの理性に、とどめの一撃を与えることになってしまった。
風防《キャノピー》の向こう側、亜音速の対流空気に晒される機体の背面に、漆黒《しっこく》の人影が忽然《こつぜん》と直立していた。兜に覆われた顔の中に、爛々《らんらん》と光る双眸が燃えている。底なしの憎悪と狂気を秘めた眼差しが、コックピットの中を凝《じ》っと見据えていた。
密閉され、無線も切られた鋼鉄の棺桶《かんおけ》の中で、誰に届くこともない仰木一尉の絶叫が響いた。
「あれは……」
遙か高みを高速で飛翔するF15の有様を、遠坂時臣は魔力で強化した視覚によってつぶさに見て取った。
いきなり機体の背面に出現し、鈍《にぶ》く輝くチタン装甲に取りついた漆黒《しっこく》の人影……あんな真似が出来るのはサーヴァントしか有り得ない。その容姿からして、綺礼の報告にあったバーサーカーで間違いあるまい。
その鎧に纏《まと》う漆黒の色が、まるで墨汁を垂らした染みのように、じわじわと戦闘機の装甲を侵食していく。
かつてアーチャーの宝具を簒奪し、鉄屑を魔槍、魔剣にまで転じさせたバーサーカーの奇怪な能力――凡そ武器≠ニしての概念が及ぶ万物に対してソレは通用するのだろうか。いま再び発現した黒い魔力による侵食は、最新科学の結晶たる音速の銀翼をも、瞬く間に異形の姿へと変貌《へんぼう》させていく。
「■■■■■■■〓〓〓〓■■ッ!!」
やがて全長20メートルにも及ぶ機体をくまなく支配下に置いた黒騎士は、伝説の龍騎兵《ドラグーン》よろしくその背部に掴まったまま、怨念に穢れた咆吼《ほうこう》で高空の夜気を震わせた。
バーサーカーとそのマスターが最優先の標的と見なしているのが誰なのか、時臣は綺礼からの忠言によって聞き及んでいる。
あにはからんや、漆黒の魔力に隅々まで食い潰された鋼鉄の凶鳥は、改めて機首を巡らすと、虚空に浮かぶアーチャーの輝舟《ヴィマーナ》へと一直線に突進してきた。
「ほほう、またしてもあの狂犬か。……面白い」
倉庫街での初戦とはうって変わって、アーチャーは邪悪に歪んだ微笑でもってバーサーカーの挑戦を迎える。英雄王の心境にいかなる変化が生じたのか、時臣には知る由もない。もはや推し量ろうという気すらも起こらなかった。
いずれにせよ、あの敵については以前から、手ずから討ち果たさねばならないという覚悟を決めていた。個人的にも少なからぬ因縁のある相手である。労を厭《いと》うつもりはない。
時臣は船縁から眼下に視線を馳せた。おそらくは近隣で一番の高所、最も間近に時臣たちを監視できる場所と当たりをつけ――果たして、見定めた高層マンションの屋上に、目指す相手の姿を見出す。
今度は身を隠すこともなく、男は単身そこに佇んでいた。
苦悶《くもん》に歪んだまま固まった左半面は死者のそれ。憎悪に燃える右の隻眼《せきがん》は悪鬼のそれ。
見下ろす時臣のそれと交錯した視線が、無言のままに対決のときを宣言している。
「王よ、私はマスターの相手を」
「良かろう。遊んでやるがいい」
輝舟《ヴィマーナ》は滑るように空中を移動し、目指す降下点の真上へと時臣を運ぶ。着地点までの高度差は概算八〇メートル弱。魔術師にとっては恐るるまでもない距離だ。
「それでは、ご武運を」
時臣は礼装の杖を掴み、外套《がいとう》の裾《すそ》を翻して艫《へさき》に立つと、そのまま怖じることもなく空中へと身を躍らせた。
独り船上に残ったアーチャーは、あらためて双眸を嗜虐《しぎゃく》の色に燃やし、迫り来る鋼の機影を見据える。
「地に伏すが相応の犬の分際で、王の舞う天に昇るとは……戯《たわむ》れにしても度《ど》し難《がた》いぞ、雑種!」
解き放たれた『|王の財宝《ゲート・オブ・バビロン》』より、迸《ほとばし》る投射宝具の六連撃。眩《まばゆ》く光る矛が、刀が、流星の如く輝く尾を引いてバーサーカーを迎え撃つ。
異形の力を得た双発ターボファンエンジンが、金切り声で怪鳥の咆吼を張り上げた。急加速で倍加した相対速度にものを言わせて、黒いF15は、展開された宝具の弾幕に紙一重の間隙《かんげき》を見出してすり抜ける。
それでも、一旦擦れ違っただけで必殺を諦めるようなアーチャーの宝具ではない。六挺のうち三挺――斧、鎌、曲刀の三つが猛スピンして起動を変え、さらにF15の後に追いすがる。
だが命中の直前に、黒いF15はさながら生物のごとくエルロンとフラップを蠢かし、空力上あり得ない程の急激な回避運動でアーチャーの宝具の切っ先を回避した。そのまま二撃目、三撃目と猛烈な水平旋転《バレルロール》を繰り返し、すべての宝具の追撃を虚しく虚空に散らしていく。最初の旋回の急激なGだけで、コックピットの仰木一尉は内臓破裂に至り即死していたが、もちろんそんな瑣事《さじ》を気にかけるバーサーカーではない。
全弾回避を果たすと同時に、F15は強引なインメルマンターンでアーチャーめがけて機首を巡らせ、左右翼下のパイロンからロケットモーターの炎を撒き散らした。射出された二発のスパローミサイルが、返礼とばかりにアーチャーのヴィマーナに襲いかかる。
通常兵器が用を成さないサーヴァント戦においても、ひとたびバーサーカーの魔力に侵された武器であれば話は別だ。憎念の魔力を帯びた二六ポンドの炸薬《さくやく》は、いずれか一発が当たるだけでも塵殺《おうさつ》の威力にして余りある。
「猪口才《ちょこざい》な……」
アーチャーは不敵に微笑んで、ヴィマーナの舵輪に手を触れた。直後、一気に加速した光の舟は、バーサーカーの強引な空中機動とは比較にならぬ優美華麗な飛翔でもってミサイルの弾道から身を躱《か》わす。叙事詩において思考と同じ速度で天を駆けると調《うた》われた飛空宝具の、まさに物理法則外の運動である。
「〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓ッ!!」
狂える黒騎士が咆吼した。禍々しいその叫びに応じるかのように、二発のスパローはカナード翼を歪み捩《ねじ》らせて反転し、ひとたび逃したヴィマーナへと再び追撃の牙を剥く。かつてはレーダー波の照射によって誘導される電子兵器に過ぎなかっ。たミサイルも、今はバーサーカーの憎悪の対象を猟犬の如く追尾する魔道器へと変貌を遂げていた。
だがアーチャーは脅威の再来を鼻で嗤って、再度『|王の財宝《ゲート・オブ・バビロン》』を展開。取り出した二枚の盾を空中に放ち、呪装化ミサイルを叩き落とす。爆風に煽られて揺れる舟の中、英雄王の紅い双眸は、次第に熱狂の色を帯びはじめていた。
「面白い……こういう趣向の戯れ合いは久しいぞ。たかが獣ごときの分際で、随分と興じさせるではないか!」
アーチャーの哄笑も高らかに急上昇するヴィマーナ。バーサーカーのF15もまたその背後に食らいついて追尾する。両者は一気に音速の壁を破り、夜の雲海の上へとまろび出て、さらなる絶空の死闘を繰り広げ始めた。
夜霧に冷えきった大気の中を、遠坂時臣は舞い降りる。
質量操作と気流制御の二重呪法による自律落下。熟練の魔術師であれば苦もなくこなす芸当であり、むしろその練度を問うならば、優美さの度合いによって格付けが決まるところだ。
完全な垂直を維持したまま滑り下りる直線軌道と、羽毛のように軽やかな着地。そして着衣と整髪には一切の乱れもなし。――まさに模範演技ともいうべき時臣の手練《てだれ》には、尋常の魔術師であれば溜息を禁じ得なかっただろう。
だが間桐雁夜は外法の徒である。その心には魔術への敬愛も憧憬《どうけい》もない。
畏敬は憎悪に。羨望《せんぼう》は怒りに。今や姿形まで醜く歪められた雁夜にとっては、相も変わらぬ時臣の優美さ華麗さが、ひたすらに呪わしい。
貴様は――いつだって、そうだった
その言動。その物腰。一分の隙もない無謬《むびゅう》の気品。かつて葵と雁夜の目の前に現れた最初の日から、この男は『完壁』であった。常に持ち前の優雅な余裕で、雁夜に対し『格』の違いを意識させ続けてきた。
だが、それも今夜限りで終わる。
この男が後生大事にしてきた優雅さなど、殺し合いの場においては何の足しにもなりはしない。遠坂家ご自慢の家訓とやらは、今ここで存分に泥《どろ》を塗り、砕いてやる……
既に戦闘を開始したバーサーカーは雁野から容赦なく魔力を絞り上げ、体内で刻印虫どもが暴れ狂う激痛は、まるで手足をやすり鑢《やすり》でこそ刮ぎ切られているかのように、骨を軋ませ、目を眩ませる。
だがそんな責め苦の応酬でさえ、いま雁夜の胸を焦がす憎しみに比べれば、まだ温《ぬる》い。
「――変わり果てたな。間桐雁夜」
怜悧《れいり》な目元を痛ましげに細めるその仕草にも、戦いに臨む緊張とは程遠い余裕を見せて、時臣はなお殊更《ことさら》に雁夜を挑発する。
「ひとたび魔道を諦ゆておきながら、聖杯に未練を残し、そんな姿になってまで舞い戻るとは……今の君ひとりの醜態《しゅうたい》だけでも、間桐の家は堕落の誹《そし》りを逃れられんぞ」
勿体ぶった口上に、雁夜は潮りの笑いを返した。掠《かす》れた喉から漏れ出たそれは、彼自身の耳にも、まるで虫の鳴き声のようだった。
「遠坂時臣、質問はひとつだ。……なぜ貴様は、桜を臓硯の手に委《ゆだ》ねた?」
「……なに?」
まったく慮外の問いだったのか、時臣が眉を顰める。
「それは、いま君がこの場で気にかけるべき事柄か?」
「答えろッ、時臣ィッ!!」
激情のあまり吼える雁夜に向けて、時臣は嘆息しつつも返答する。
「――問われるまでもない。愛娘の未来に幸あれと願ったまでのこと」
「何……だ、と?」
あまりにも理解を超えた返答に、しばし雁夜の思考は空白となった。そんな雁夜の虚にますます呆れたかのように、時臣は淡泊《たんぱく》な口調で続ける。
「二子を設けた魔術師は、いずれ誰もが苦悩する。――秘術を伝授しうるのは一人のみ。いずれか一子は凡俗に堕とさねばならない[#「凡俗に堕とさねばならない」に傍点]というジレンマにな」
凡俗――
がらんどうの雁夜の脳裏に、その一言が反響する。喪われた桜《さくら》の笑顔、そして凛《りん》や葵と遊び戯れる姿……あのささやかな幸福の記憶に、時臣の言葉が入り交じる。
あの、遠い日の母子たちの姿を――この男は、ただ凡俗≠ニだけ切り捨てるのか?
「とりわけ、わが妻は母体として優秀すぎた。凛も、桜も、ともに等しく稀代の素養を備えて産まれてしまったのだ。娘たちは二人が二人とも、魔道の家門による加護を必要としていた。
いずれか一人の未来のために、もう一人が秘め持つ可能性を摘《つ》み取《と》ってしまうなど――親として、そんな悲劇を望む者がいるものか」
滔々《とうとう》と語る時臣の理屈が、雁夜にはまるで理解できなかった。――否、理解したくなかった。この魔術師の理念をただの一片たりとも理解してしまったら、その場で嘔吐《おうと》してしまいそうだった。
「姉妹双方の才能について望みを繋ぐには、養子に出すしか他にない。だからこそ間桐の翁の申し出は天恵に等しかった。聖杯の存在を知る一族であれば、それだけ『根源』に到る可能性も高くなる。私が果たせなくても凛が、そして凛ですら到らなかったなら桜が、遠坂の悲願を継いでくれることだろう」
「貴様……」
なぜ眉ひとつ動かさず、そんな絶望を物語れるのか。
ともに『根源』への道を志せというのなら、それは――
「……相争えというのか? 姉と妹で!?」
雁夜の糾弾に、時臣は失笑混じりの涼しげな表情で頷いた。
「仮にそんな局面に至るとしたら、我が末裔《まつえい》たちは幸せだ。栄光は、勝てばその手に、負けても先祖の家名にもたらされる。かくも憂いなき対決はあるまい」
「貴様は――狂ってるッ!!」
歯を剥いて唸《うな》る雁夜に対し、時臣はひときわ冷淡な一瞥をくれて、嘲るように嘯いた。
「語り聞かせるだけ無駄な話だ。魔道の尊さを理解せず、あまつさえ一度は背を向けた裏切り者にはな」
「ほざけェ!!」
限度を超えた憎しみが、怒りが、雁夜の体内の刻印虫《こくいんちゅう》を励起させる。総身を巡る激痛と悪寒。だがそれすらも、今の雁夜には祝福だった。
さあ蝕《むしば》め。我が身を喰らえ。そうして生み出された魔力はすべて、あの怨敵を呪う糧となる……
周囲の物陰からぞわぞわと、押し寄せる津波のように蟲《むし》たちが這《は》い集う。姿形は蛆《うじ》に似て、大きさばかりは肥えた鼠《ねずみ》ほどもあるおぞましい這虫《はむし》たち。そのすべてが、雁夜がマスターとなるにあたって間桐臓硯《ぞうけん》より託された牙――条理の外の戦場に臨むための武器だった。
「俺は貴様らを許さない……薄汚い魔術師どもめ……ッ!
殺してやる……臓硯もッ! 貴様もッ! 一人残らず殺し尽くすッ!!」
雁夜の怨嗟《えんさ》を受けた蟲たちが、やおら一斉に苦悶めいた痙攣に身を振らせはじめる。やがて次々とその背中に真一文字の亀裂が走り、鋼のように黒光りする甲羅と羽が露わになる。
そうして一匹、また一匹と――這虫から脱皮した巨大な甲虫たちが、かまびすしく唸る羽を広げ、雁夜の周囲を巡って空中へと舞い上がり隊伍を組んだ。瞬く間に大群を揃え、ギチギチと威嚇《いかく》するように鋭い顎を鳴らしながら、獰猛《どうもう》なる本性を現した『翅刃虫《しじんちゅう》』たちは戦闘態勢を整える。俄仕立ての蟲使いである間桐雁夜の、それは最凶にして必殺の攻撃手段であった。
ひとたび牙を立てれば猛牛の骨をも砕く肉食虫の大群を前にして、だが遠坂時臣の態度は、なおも泰然たるものだった。
そもそもが魔術師としては年期も格も雁夜より数段勝る。死と隣り合わせの雁夜の秘術も、時臣からしてみれば驚異でもなければ畏怖にも足りぬ。ここで旧知の恋敵と雌雄を決することに、運命の皮肉を嗤う余裕さえあった。
「――魔術師とは生まれついてより力≠る者、そして、いつしかさらなる力≠ヨと辿り着く者。その運命を覚悟するより以前から、その責任は血≠フ中にある。それが、魔術師の子として生まれるということだ」
冷淡に語り聞かせながら、時臣は自らの礼装であるステッキを振りかざし、柄頭に填め込まれた大粒のルビーから炎の術式を呼び起こす。
虚空に描いた防御陣は遠坂の家門を模し、夜気を焦がして紅蓮と燃える。触れればすべてを焼き尽くす攻性防御。素人芸《しろうとげい》も同然の敵を前にしては大人げないきらいもあったが、手加減する気は毛頭ない。
何故ならば――
「君が家督を拒んだことで、間桐の魔術は桜の手に渡った。むしろ感謝するべき筋合いとはいえ……それでも私は、君という男が赦せない。
血の責任から逃げた軟弱さ、そのことに何の負い目も懐かぬ卑劣さ。間桐雁夜は魔道の恥だ。再び相見えた以上、もはや誅を下すしかあるまい」
「ふざけるな……この人でなしが……」
「違うね。自らに責任を負うのが人としての第一条件だ。それが果たせない者こそ、ヒト以下の狗《いぬ》だよ。雁夜」
「蟲どもよ、奴を喰えッ、喰らい殺せェェェッ!!」
唸りを上げて襲撃する甲虫の群れを、舞い踊る灼熱の炎が迎え撃つ。
今宵《こよい》三番目の死闘のステージが、今また火蓋を切って落とされた。
[#改ページ]
-84:25:22
「凄ぇ……凄ェよ! マジ凄ェえ!」
雨生龍之介は興奮のあまり、辺り構わず奇声を張り上げながら身を震わせていた。
川縁にたむろする野次馬は彼一人ではなかったが、いまさら龍之介一人の奇態を気にかける者など一人もいない。誰もが眼前で繰り広げられているこの世のものならぬならぬ怪現象に目を釘付けにされている。
河面では暴れ狂う大怪獣。上空ではUFOと自衛隊機が火花を散らす。
誰もが陳腐と鼻で嗤いそうな、誰も見たことのないスペクタクル。
ざまあみろ、と龍之介は喝采する。
どいつもこいつも大口を開けて、馬鹿みたいに目の前の現実を眺めている。それまで自分たちが盲信し、後生大事に崇め奉っていた常識≠ニかいうクソクダラナイ偶像が、音を立てて崩れ去っていく様を、連中は為す術《すべ》もなく見守っているしかない。
どうよオマエら? 今日までずっと損してきたんだぜ。悔しいだろ。情けねぇだろ。
常識の枠の外にはどれだけ|面白可笑《おもしろおか》しい世界が待ち受けているか、オマエらは予想もしなかった。試してみようとさえ思わなかった。
俺か? 俺はもちろん解ってた。予想してたし、期待してた。いつかきっと物凄いモノが見られるって。だから普通じゃやらないような事をやらかして、毎日サプライズを探し求めて、血眼になって走り回ってきた。
そうして――やっと見つけたのだ。探し求めていた玉手箱を。
ああ、間違いなく神様はいる。この大怪奇こそがその証拠。
哀れな子羊どもの慄《おのの》く顔を見たいがためだけに、奇妙奇天烈《きみょうきてれつ》な不条理を仕掛けまくってはほくそ笑んでいた、偉大なる天上のトリックスター。ずっと龍之介が追い求めてきたその神様が、ついに姿を現して、至る所に仕込まれてきたビックリ箱が一斉に火を噴《ふ》いたのだ。
もう退屈なんてサヨナラだ。手間暇かけて人殺しなんかするまでもない。これからは放っておいてもガンガン死ぬ。潰されて千切られて砕かれて喰われて死んで死んで死にまくる。金髪の腸はどんな色か、黒人の脾臓《ひぞう》はどんな感触か、まだ見たことのないハラワタも次から次へと見られるだろう! 毎日毎日、世界中そこいら中でお楽しみが巻き起こる! ひっきりナシの終わリナシに!
「ああァッ、主はいませり、主はいませりィ!」
ガッツポーズも高らかに、龍之介は人生の勝利を歌い躍りながら、怪獣になって暴れ狂う盟友に声援を送った。
「やっちまえェ青髭の旦那! ブッ潰せ! ブッ殺せ! ココは神様のオモチャ箱だぁ!!」
見えない手に突き飛ばされたのは、そのときだった。
たまらず尻餅《しりもち》をついてから、驚いて周囲を見渡す。龍之介に触れるほど間近にいた人間は、一人もいない。それどころか、周囲の連中は龍之介と目を合わせるや次々と悲鳴を上げて後退る。まるで河中や空中の怪異と同じモノが、すぐ目の前に現れたかのように。
「何? ねぇ、何?」
さらなる珍事は何処にありやと、期待のあまり辺りの連中に問いかけてから、ふと腹に触れた掌に熱い滑り気を感じ……それから彼はしげしげと、真っ赤に染まった我が手を凝視した。
「うわぁ……」
赤。混じりけのない艶やかな赤。
輝くほどに鮮やかな、ずっと求めていた原初の色。
あぁ、これだ。――そう忽《たちま》ちに理解して、龍之介は青褪《あおざ》めた唇で微笑んだ。
ずっと探して、いろんな場所を掘り返して、どうしても見つけられなかった本当のアカ。
慈《いつく》しむようにそっと、彼は鮮血の迸る腹腔《ふくこう》を抱きしめた。
「そっかぁ……そりゃぁ気付かねねぇよなァ……」
灯台下暗しとはよく言ったものだ。まさかこんな身近なところに、探し求めていたモノが隠れてたなんて……
湧き上がる脳内物質に陶然と飽和する頭蓋《ずがい》。二発目の銃弾は、その額の真ん中を撃ち抜いた。
鼻から上が跡形もなく消し飛んだ後も、彼の口元だけは至福の笑みのままだった。
仕留めた――そう手応えで確信しながら、船上の甲板に片膝をついていた衛宮切嗣はワルサー暗視狙撃銃の銃口を下ろした。
キャスターの海魔の位置よりさらに二〇〇メートルほど下流、冬木大橋に程近い河心である。キャスターの出現時、ちょうど港湾区画で張り込んでいた切嗣は、すぐさま手近な桟橋で無人の大型快速船を見繕い、無断拝領してここまで乗り付けた。
無論、巨獣化したキャスターへの攻撃は最初から念頭にない。このパニック下で切嗣が狙ったのは、またしても『マスター狩り』である。
空気中の粒子によって効力を削がれる光量増幅型スコープは、この濃霧の下ではものの役に立たなかったが、魔術師を見分ける上で肝心の赤外線スコープの方には何の支障もない。切嗣は河岸に続々と集まってくる野次馬の中から、魔術回路に特有の放熱パターンがないかと捜索を続け、結果として今、まずは一人を射殺した。
この状況下で、魔術回路を励起させたまま川縁を俳徊《はいかい》していた人間となれば、どう考えても聖杯戦争の関係者以外にはあり得ない。今のがキャスターのマスターだった可能性は、確率として六割強。とりあえず殺しておくに越したことはない。
ちなみに同刻、そこから程近い高層マンションの屋上で交戦していた二人の魔術師については、仰角のせいで切嗣からは死角となり、彼の銃撃を免れていた。
「……まずいな」
首尾良く戦果を上げたとはいえ、背後に向き直って状況を確認する切嗣の表情は苦りきっていた。海魔の進撃を阻むセイバーとライダーの奮闘は、どう贔屓目《ひいきめ》に見ても旗色が悪い。
もし仮に、いま射殺した標的が当たり≠セったとしても、魔力の供給が途絶えてから実際にサーヴァントが現界を保てなくなり消失するまでは、ある程度の時間を要する。そうなる前にキャスターが河岸まで辿り着き捕食≠開始したら終わりだ。新たな魔力源を得た海魔は、今度こそ物理的に排除するしか他になくなる。
そして今、無限再生を繰り返す不死の怪物は、いよいよ川岸の浅瀬にまで乗り上げようとしていた。
絶望感に歯噛みしつつ、それでもなお怖じず、屈せず、セイバーは剣を揮《ふる》い続けていた。
いかに深く斬りつけた一撃も、次の瞬間には跡形もなく傷が塞がり、何の効果ももたらさない。すべては徒労――否、ほんの僅かとはいえ海魔の歩みを遅らせるという意味だけはあるものの、それも遠からぬ結末を思えば、ただの悪足掻《わるあが》きに等しい。
左手さえ使えれば……
詮無い悔恨と知りつつも、そう思わずにはいられなかった。ライダー、そしてアーチャーの苛烈な宝具をもってしても、この怪物を倒すには至らない。いかに多勢で蹂躙《じゅうりん》しようとも、すべての傷が一度に再生してしまうのでは意味がないのだ。この化け物を倒そうと思うなら、ただ一撃のもとに全身を、一片の肉片も残さず焼き払う――対軍宝具ではない、対城宝具が必要なのだ。
それ為し得るであろう『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』が、今のセイバーには叶わない。彼女の総魔力に匹敵する膨大なエネルギーを一気に解き放つ必殺奥義には、どうあっても両手での振り抜きが必要だ。
無論、ここでランサーに向けて恨み言を述べ立てるのは、セイバーの誇りに賭けて有り得ない発想だった。この左手のハンデは、ランサーと尋常なる決着を誓ったが故の負債である。アインツベルンの森で左手の役≠買って出たランサーの心意気には、騎士王の名に賭けて報いなければならなかった。
「おぉいセイバー! このままじゃ埒があかん。いったん退《ひ》け!」
すぐ頭上の戦車《チャリオット》から呼びかけるライダーの声に、セイバーは怒声を返した。
「馬鹿を言うな! ここで食い止めなければ――」
「そうは言っても手詰まりであろうが! いいから退け。余に考えがある!」
「……ッ」
是非もなかった。セイバーは最後に置《お》き土産《みやげ》とばかり渾身《こんしん》の一撃を叩きつけると、ライダーの後に続いて水面を駆け、ランサーとアイリスフィールが待つ河岸にまで退却した。セイバーが水を蹴って堤防の上に跳び乗ると同時に、ライダーの戦車《チャリオット》もまた雷鳴で宙を踏み鳴らしつつ着地を果たす。
「――いいか皆の衆、この先どういう策を講じるにしろ、まずは時間稼ぎが必要だ」
前置きも抜きにして、ライダーは早急に切り出した。さしもの征服王も、今回ばかりは普段の悠々たる余裕はない。
「ひとまず余が『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』に奴を引きずり込む。とはいえ余の精鋭たちが総出でも、アレを殺し尽くすのは無理であろう。せいぜい固有結界の中で足止めするのが関の山だ」
「その後は、どうする?」
そう問うランサーに、ライダーは、
「わからん」
あっけらかんと即答した。とはいえ巫山戯《ふざけ》ているわけではないのは、真剣な面持ちから明らかである。
急場凌ぎの時間稼ぎ――征服王の秘策をもってしても、いま出来ることはそれだけなのだ。
「あんなデカブツを取り込むとなれば、余の軍勢の結界が持つのはせいぜい数分が限度。その間にどうにかして――英霊たちよ、勝機を掴みうる策を見出してほしい。坊主、貴様もこっちに残れ」
言うや否や、ライダーは御者台の中からウェイバーをつまみ出した。
「お、おい!?」
「いざ結界を展開したら、余には外の状況が解らなくなる。坊主、何かあったら強く念じて余を呼べ。伝令を差し遣わす」
「……」
いくら同盟中とはいえ、他のサーヴァント二人を前にして自分のサーヴァントと別行動を取るというのは、ウェイバーの認識からすれば危険極まりない無謀と思えたが、とはいえ同盟相手の裏切りを警戒していたのではどうにもならない状況であるのも確かである。内心では戦々恐々としながらも、少年は仏頂面《ぶっちょうずら》で頷いた。
「セイバー、ランサー、後は頼むぞ」
「……うむ」
「……心得た」
請け負う二人の声は、だがともに限りなく苦い。ライダーの決断が、それだけでは何の解決にもならない応急対処でしかないことは、その場にいる誰もが理解していた。
だがそれでも、一度は見込んだ英霊たちに全幅《ぜんぷく》の信を置くのか、ひとたび意を決したライダーはそれ以上の憂い顔を見せず、あとは振り向きもせずに猛然と巨大な海魔めがけて戦車《チャリオット》を突進させていった。
[#改ページ]
-84:23:46
ほどほど斬新《ざんしん》な趣向の遊戯に、いっときは興の乗ったアーチャーであったが、埒もない宝具とミサイルの応酬を三度四度と繰り返しているうちに、早くも彼は高々度での空中戦に飽きがきはじめていた。
度重なる|格闘機動《ドッグファイト》の末に、いまアーチャーのヴィマーナはバーサーカーのF15を追尾する位置にいた。あと少し距離を詰めれば絶好の攻撃ポジションである。それを承知のバーサーカーは追撃を引き離そうとフルスロットルで機体を駆り立て、ついには落下加速も動員するべく垂直降下という挙に出ていた。
「無駄な足掻きを……」
ほくそ笑みながらもアーチャーはヴィマーナを疾駆させ、苦もなくバーサーカーの背後を追い立てる。両者は瞬く間に雲を突き抜け、灯火《とうか》の瞬く冬木の大地へと吸い込まれるように落ちていく。
「いっそ汚物に頭から突っ込んでみるというのはどうだ? 雑種」
アーチャーは射出態勢の宝具を円環状に展開し、四方からバーサーカーを牽制してその退路を封じ込めた。これでバーサーカーが取りうる進路は直下の未遠川――堤防を目指して這い動くキャスターの海魔と、まさに直撃の軌道であった。
もはや免れようのない激突の衝撃を少しでも和《やわ》らげようとしたか、F15はすべてのフラップを直立させて大気に爪を立て、最大減速を試みる。
うねくる巨大な肉塊が忽然と消失したのは、そのときだった。
吶喊《とっかん》したライダーが至近距離で『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』を発動し、配下のサーヴァントたちとともに展開した固有結界の内に海魔の巨体を取り込んだという実状は、アーチャー、バーサーカー共に知る由もなかったが、自慢の宝具にこれ以上一滴の汚穢《おわい》も浴びせたくなかったアーチャーは、衝突のタイミングを見越して宝具の実体化を解いていた。その隙をバーサーカーが見過ごす筈もなく、魔装化したF15は機体を軋ませるほどの強引な引き起こしで河面に突っ込む直前の機首をねじ曲げ、ほとんど直角に等しい軌道を描いて墜落を回避した。
衝撃波による水柱のカーテンを左右に巻き上げながら水面すれすれを滑走し、黒いF15は河岸で成り行きを見守るサーヴァントたちと擦れ違う。そのとき機上の狂える黒騎士は、白銀と紺碧《こんぺき》の甲冑に身を包む騎士王の輝影を、はっきりとその目に焼き付けた。
「……」
黒い兜の奥、澱《よど》んだ怨念を湛える双眸が、そのとき紅蓮の炎のごとく凄烈《せいれつ》に燃え立った。
遠坂時臣の基準に照らせば、それは魔術勝負と呼ぶにはあまりにもお粗末《そまつ》に過ぎる、滑稽《こっけい》な茶番でしかなかった。
時臣はただ淡々と防御陣を維持し続けるだけで、攻撃と呼べる挙にはまだ何一つ出てはいない。にも拘わらず、対する間桐雁夜の様態は、すでに瀕死《ひんし》のそれである。
まったくの自滅であった。今の雁夜にとっては、魔術の行使そのものが致命的な自傷行為なのだろう。当人とてそれは弁《わきま》えているであろうに、雁夜は愚かにも限度を超えた術を躊躇《ちゅうちょ》なく行使し続け、結果、当然の対価を支払う羽目になっていた。
見るも無惨な有様だった。全身の毛細血管がいたる処《ところ》で破裂を続け、見ている間にもひっきりなしに血の飛沫を散らしている。もはや直立も叶わず、よろめく姿はまるで血霧の中で無様に溺れているかのようだ。苦痛のあまり白目を剥《む》いたその顔は、既に意識を留めているのかどうかさえ解らない。
あれだけ息巻いておきながら……蓋《ふた》を開けてみればこの体たらくか?
何よりも哀れなのは、そこまで命を削って魔力を動員しておきながら、雁夜の攻撃は時臣に対して毛ほどの損害も与えられていないことだった。
飛んで火に入る夏の虫――まさに諺《ことわざ》の実演であった。間断なく襲いかかる甲虫の群れは何の芸もなく時臣の火炎陣へと突入し、ただの一匹も突破を果たすことなく焼き尽くされて消えていく。そもそも蟲使いが炎に対して真正面から挑みかかるという行為自体、極めつけの愚挙なのだ。それでも雁夜は攻撃の手を緩めない。我と我が身を削りながら、虚しく蟲たちを駆り立てては消し炭へと変えていく。
もはや失笑にすら値しない。このどうしようもなく非力な敵に対して、時臣は侮蔑《ぶべつ》を通り越して憐憫《れんびん》すら懐いていた。ほどなく炎は雁夜の蟲を一匹残らず焼き払う。その頃には雁夜自身もまた苦痛に耐えかねて悶死《もんし》していることだろう。時臣は術の維持にだけ注意を払いつつ、ただ悠然と座視しているだけでいい。それで鉄壁のうちに勝負は終わる。
だが高貴なる魔道を奉じる時臣にとって、道を踏み外して堕落した魔術師の醜態を、なおもこれ以上、目の前で見せつけられるというのは、あまりにも不快の度が過夢た。
「|Intensive Einascherung《我が敵の火葬は苛烈なるべし》――」
二節で紡いだ呪言に応えて、防御陣の炎が蛇のようにうねり、雁夜めがけて伸び拡がる。雁夜は防御すらしなかった。そもそもこの即製魔術師には、攻撃呪文に対抗する術理さえ知識があったのかどうか疑わしい。
「殺……コロシテヤル……トキオミ……ゾウ、ケ、ン……」
生きながらに焼かれても、雁夜は悲鳴すら上げることもなく、代わりにただ延々と呪詛の呟きだけを繰り返していた。内側から虫に食い潰された身体には、もはや熱さを感じる痛覚さえ残されていなかったのかもしれない。
総身を包む炎を振り払おうと身悶《みもだ》えするうちに、彼は防護フェンスを押し破り、そのまま屋上の縁を踏み越えて、裏路地の闇の底へと落下していった。
最後に、まだ周囲に蠢《うごめ》いていた蟲たちの残りを火炎で一掃《いっそう》してから、時臣は術を解除し、溜息とともに着衣の襟元を整える。
死体は――もはや確かめるまでもない。たとえ息があったとしても長くは保つまい。あとは契約相手を失ったバーサーカーが自然消滅するのを待つだけだ。
当初の時臣の予想では、間桐は今回の聖杯戦争を辞して見送るものとばかり思っていた。それが何故、雁夜などという勘当した落伍者を俄マスターに仕立てて送り込んできたのか、その意図はまったくもって理解に苦しむ。最後まで時臣は、雁夜がいったい何を求めて戦いに馳せ参じたのか、知ることはなかった。
何の達成感もない、ただ後味の悪いばかりの勝利については、それ以上思《おも》い煩《わずら》うことなくすっぱりと忘却し、時臣は河の方に向き直って、キャスターを巡る闘争の顛末《てんまつ》を検分しにかかった。
ライダーの奇策によって、海魔の巨体は河面から跡形もなく消え去った。――が、姿形は見えずとも、位相のずれた結界の中で暴れ狂う魔物の気配は、その場に集ったサーヴァントと魔術師たちにははっきりと感知できた。
「……どうする?」
その場に蟠《わだかま》る沈黙の重さに耐えかねて、ウェイバーが口を開く。
「時間稼ぎとか言われても、その間にボクらが何も思いつかなかったら、結局は元の木阿弥《もくあみ》だ。なぁおいアインツベルン、何かいい手はないのかよ!?」
「そんなこと言われても――」
言いさしたアイリスフィールの懐で、ふいにピロピロと場違いなほど軽薄な電子音が鳴り出した。他ならぬアイリスフィール自身が面食らい、慌ててその音源を取り出す。
携帯電話。万が一の場合に備えてと、切嗣から渡されていたものだ。当然、着信相手が誰なのかは言うまでもない。だが原則的にこれを使って会話するという事態はまず有り得ない予定だったのと、この場の切迫した状況も相まって、アイリスフィールはいったん習い憶えたはずのその使用法を、咄瑳に思い出せなかった。
「えぇと、あの――これ、どうするのかしら?」
思わす傍にいたウェイバーに訊いてしまう。話の腰を折られて苛立っていたウェイバーは、喧《やかま》しく鳴り続ける電話をアイリスフィールの手からひったくり、通話ボタンを押して耳に当てた。魔術師とはいえさほど格式張った家柄の出でもないウェイバーは、ごく一般人の常識の範囲で、機械の扱いにも心得があった。
『――アイリか?』
通話の向こう側から低い男の声がして、今更ながらウェイバーは狼狽えた。通話ボタンを押してすぐに持ち主に返せば良かったものを、勢い余って自分で出てしまったのだ。
「いや、ボクは、じゃなくて……」
『? ――そうか、ライダーのマスターだな。調度いい。おまえにも話がある』
「だ、誰だアンタは?」
『そんなことはいい。キャスターを消したのはおまえのサーヴァントの仕業《しわざ》だな?』
「……そうだけど、一応」
『質問だ。ライダーの固有結界、あれは解除したときに中身を狙った場所に落とせるか?』
意図の見えない質問ではあったが、一刻を争う状況下で、質問者の真意を問い返している時間も惜しい。ウェイバーは時計塔で習った固有結界の基本法則を反芻《はんすう》し、一度だけ目にした『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』の性質と考え併せて、慎重に解答した。
「ある程度、せいぜい100メートルかそこいらの範囲だと思うが、可能なはずだ。外に再出現するときの主導権はライダーにあるだろうから」
『いいだろう。後で僕がタイミングを見計らって信号弾を打ち上げる。その真下でキャスターを解放しろ。できるな?』
「……」
問題は、いま現在結界の内側にいるライダーとの意志疎通だが、そういえば後で伝令を寄越すと言っていた。結界の内外の連携については、ライダーもまた意識していたのだろう。
「出来る――と、思う。たぶん」
それにしても電話先の相手は誰なのだろうか? おそらくはアインツベルンの陣営の人間だろうが、話しぶりからしてどこか近くからこちらを見張っているようにしか思えない。
『もうひとつ。その場にいるランサーに言ってやれ。セイバーの左手には対城宝具がある、とな』
「はぁ?」
ますます途方に暮れたウェイバーが問い返したものの、通話はそこであっさりと切れ、後には虚しい空電音だけが残された。
「――どうかしたのか?」
ウェイバーからの意味ありげな凝視を感じ取ったランサーが、胡乱《うろん》そうに問いかける。
「それが……あんたに言伝があった。『セイバーの左手は対城宝具』だとか何とか……」
ランサーは愕然と、またセイバーは気まずそうに、ともに表情を一変させた。
「本当なのか? セイバー」
「……」
ここでその話題を持ち出すことだけは避けたかったのだが、韜晦《とうかい》したところで始まらない。セイバーは面持ちを落としたまま無言で頷いた。
「それは……キャスターのあの怪物を、一撃で仕留め得るものなのか?」
「可能だろう。だが――」
さらに頷いてから、セイバーは揺るがぬ眼差しで真っ直ぐに槍の英霊を見つめて、続けた。
「ランサー、わが剣の重さは誇りの重さだ。貴方と戦った結果の傷は、誉《ほま》れであっても枷《かせ》ではない。
森で貴方が言った通りだ。この左手の代替にディルムッド・オディナの助勢を得るなら、それこそが万軍に値する」
今ここでランサーに負い目を感じさせたところで、それは何の益にもならない。セイバーは共に騎士道を奉ずる者同士として、あくまでランサーとは余計なしがらみを抜きにしたまま、いずれ訪れるであろう決着のときを迎えたかった。
ランサーは黙したまま、まるで位相を隔てた向こう側でライダーの軍勢と戦う海魔の姿を透かし見るかのように、目を眇《すが》めて河面を見つめていた。
「――なぁセイバー、俺はあのキャスターが赦《ゆる》せない」
ぽつり、とそう漏らす静かな語調とは裏腹に、麗しき魔貌の眼差しは、何らかの決意の色が宿っている。
「奴は諸人の絶望を是《ぜ》とし、恐怖の伝播を悦とする者。騎士の誓いに賭けて、あれは看過できぬ悪≠セ」
ランサーは右手の赤槍をいったん地に突き立てて手放すと、残る黄槍の竿の中程を、両方の手で握りしめた。そのとき、誇り高き槍兵が一体何をしようとしているのかをたちどころに悟ったセイバーは、瞠目して声を上げた。
「ランサー、それは――駄目だ!」
「いま勝たなければならないのは、セイバーか? ランサーか? 否どちらでもない。ここで勝利するべきは、我らが奉じた『騎士の道』――そうだろう? 英霊アルトリアよ」
そう涼しい顔で微笑みながら嘯くと――ランサーは、自らの宝具たる双槍の片割れを、何の踊踏もなく真っ二つにへし折った。
『|必滅の黄薔薇《ゲイ・ボゥ》』に込められていた膨大な呪力が旋風を呼んで噴出し、そして見る間に散逸していく。それが伝説の具現たる宝具のひとつであったことを思えば、消えゆく姿はあまりにも儚《はかな》く呆気なかった。
必勝の切り札たる宝具を、自らの手で破棄するサーヴァントなぞ、誰が想像し得たであろうか。セイバーだけでなく、アイリスフィールとウェイバーも、ランサーの挙にはしばし言葉も出なかった。
「我が勝利の悲願を、騎士王の一刀に託す。頼んだぞ、セイバー」
胸に込み上げる思いの丈が、セイバーの左手≠ノ、固く、力強く拳を握らせる。必滅の呪いから解き放たれ、たちまちのうちに傷の癒えた騎士王の腕は、その激情にまぎれもなく確かな握力で応答した。銀の籠手がギシリと軋み、武者震いにわななく。
「掛け合おう、ランサー……今こそ我が剣に勝利を誓う!」
開帳される風王結界。轟風を巻き上げて姿を現す黄金の剣。光り輝くその刀身は、約束された勝利を言祝ぐかのように燦然と闇を照らし出す。
「あれが、アーサー王伝説の……」
ついに目の当たりにした貴き至宝の剣を前にして、ウェイバーが呆然と呟いた。
まるで長い夜の果ての暁光を見るかのように、胸に蟠《わだかま》っていた焦りが、不安が、その輝きに優しく払拭されていく。
そう、これこそが騎士の理想《ユメ》。
血みどろの戦場、死の恐怖と絶望に晒された極限の地獄において、それでもヒトよ尊くあれ≠ニ謳い、輝きに散りゆく者たちが、胸に思い描く全ての結晶。
「勝てるわ……」
歓喜に声を震わせて、忘我のままにアイリスフィールが呟く。
だがそんな希望の念に異を唱えるかのように、おぞましい呪詛の咆吼が夜気を震撼させて轟き渡る。――否、声ならざるその叫びは、猛り狂うターボファンの爆音に他ならない。
頭上を仰ぎ見たセイバーは、そこに憎悪の化身を見出した。漆黒の魔力に侵された鉄の化鳥に騎乗して、狂乱の英霊は今また再び騎士王に牙を剥かんとしていた。
「A《ア》――urrrrrr《アァァァァァァ》ッ!!」
バーサーカーの血も凍る叫びとともに、20mmバルカン機関砲の六連銃身が猛然と炎を迸らせる。
[#改ページ]
-84:19:03
予期せぬ展開を見守りながら、衛宮切嗣は舌打ちをした。
既に快速船はここぞと思い定めた位置まで移動させてから投錨《とうびょう》し、脱出用に積み込んであった発動機付ゴムボートの準備も済んでいる。首尾良くセイバーは必殺宝具を取り戻し、あとはライダーを呼び戻してキャスターの海魔を解放させるだけ――そう思った矢先に、いったい何を血迷ったのか、それまでアーチャーと戦っていたバーサーカーが唐突にセイバーに矛先を転じたのだ。
だが、思えばセイバーがバーサーカーからの理由なき挑戦を受けるのは、これが二度目だ。倉庫街での初接触でも、黒い騎士は標的を見失った途端に、飢えた獣の如くセイバーに襲いかかった。一度限りならただの偶然で済んだとしても、二度目となるとそうも言っていられない。そもそも今回は、当初の標的であるアーチャーの健在を完全に無視した上での豹変だ。
勿論、並外れた自尊心を誇るアーチャーにとっても、この狼藉は許し難い侮蔑である。
「血迷ったか? 狂犬めがッ!」
怒声とともにヴィマーナを加速させ、アーチャーはバーサーカーの背後に必殺の間合いまで肉薄する。もはや『|王の財宝《ゲート・オブ・バビロン》』の宝具投射からはいかなる超絶機動であろうとも回避不能な近接距離。――だが、その判断が逆に仇となった。
やおらF15の機体下面から、鬼火のような灼熱《しゃくねつ》の火球が連続して撤き散らされ、後続するヴィマーナの鼻面に浴びせかけられる。
「何ッ!?」
もとはフレアディスペンサーと呼ばれる、敵の熱戦追尾ミサイルの照準から逃れるために囮《おとり》の熱源を射出するというだけの装置でしかなかったものが、バーサーカーの魔力に侵されて凶悪化した結果、追尾性の焼夷《しょうい》兵器にまで変貌を遂げていたのだ。それまでの空中戦で、敵は背後に対する攻撃手段を持たないものと早合点していたアーチャーは、予期しなかった反撃に咄瑳の対処が間に合わなかった。燃えさかる火球の真っ只中にヴィマーナは舳先《へさき》から突っ込み、紅蓮の炎に包まれてコントロールを失うと、そのまま錐揉《きりも》みとともに河面へ墜落していった。
ついにアーチャーのヴィマーナを撃墜した成果も、だが今のバーサーカーには眼中にないのか、水中に没したアーチャーの行方を見定めることもせず、鋼の凶鳥はひたすら執拗《しつよう》にセイバーを追跡し、容赦なく20mm砲弾の雨を浴びせかける。
セイバーにとって、バーサーカーの駆るF15はまったく未知の兵器だったが、彼女の未来予知にも等しい第六感スキルは、その脅威の性質をすこぶる正確に捉えていた。最初の機銃掃射を受ける直前から、それが広範囲に破壊をもたらす攻撃だと察知したセイバーは、堤防にいたのではアイリスフィールを巻き込む危険があると即断し、再び水面を駆け抜けて河中へと退路を求めていた。
やむを得ない判断であったとはいえ、それは結果として彼女をより一層の窮地へと導くことになった。
サーヴァントならではの脚力を駆使して、ジェット戦闘機に拮抗《きっこう》するほどのスピードで水上を疾駆するセイバーではあったが、一切の遮蔽物《しゃへいぶつ》がない広大な河面は、上空から掃射を浴びせかけるバーサーカーにとっては絶好の狩場に他ならない。
駆け抜けるセイバーの後を間一髪で掠めながら、豪雨の如く降りそそぐ砲弾は水面を抉《えぐ》り、まるで瀑布《ばくふ》を逆さにしたかのように猛烈な水飛沫を高々と撤き散らす。
いかに大口径とはいえ、たかが砲弾[#「たかが砲弾」に傍点]程度であれば、サーヴァントの脅威にはなり得ない。とりわけセイバーの身体能力をもってすれば回避など雑作もなく、その気になれば刀身で打ち返すことも可能であろう。が――米国ゼネラルエレクトリック社が誇るM61機関砲の毎分12000発という連射速度は、いかに超常の英霊といえども対処しきれる量ではない。ましてバーサーカーの魔力によって宝具属性を帯びている武器ともなれば、ただの一発がたちどころに致命傷となる。
ようやく左手を取り戻した矢先に……ッ
セイバーは臍《ほぞ》を噛む。今ならば遠慮なく宝具攻撃に訴えて上空のバーサーカーを撃滅することも可能なのに、敵の執拗で間断のない攻撃は、彼女に反撃をチャンスを窺うとこすら許さない。バーサーカーの戦術は、まるでセイバーの手の内を知り尽くしているかのように的確で周到だった。獅子《しし》を狩らんとするならば、ただの一度も牙を剥かせることなく追いに追い立てて括《くび》り殺すのが上策と、そう心得ている猟師の手並みである。
ふいに不穏な地響きが、河岸から辺り一面に拡がった。正体不明のその震動がいったい何を意味するのか、理解が及んだのはその場に居合わせる魔術師たちだけだ。――震源は、ライダーの展開した固有結界の内側だろう。暴れ狂う海魔の激震が、とうとう通常空間にまで及びはじめている。いよいよライダーの結界が限界に近づきつつある予兆だ。
状況をライダーに知らせなければ。そう思い立ったウェイバーは、思念を集中して己のサーヴァントに呼びかける。念話の心得がないウェイバーには、口頭でしか意志の疎通が叶わない。が、それを知っているライダーは、たしか伝令を寄越す≠ニ言っていたはずだ。
ふいにウェイバーの傍らの空間が揺らめき、一人の騎士が姿を現した。
「親衛隊《ヘタイロイ》が一人ミトリネス、王の耳に成り代わり馳せ参じてございます!」
精悍《せいかん》な仕草で略式の礼を取る英霊に、つい気圧《けお》されてウェイバーは口ごもったが、それどころではないのだと思い直して心を奮い立たせ、見知らぬ英霊に指示を下した。
「これから合図を待って、指定された場所にキャスターを放り出せるように結界を解いてほしい。できるよな?」
「可能ですが――事は一刻を争います。すでに結界内の我らが軍勢は、あの海魔めを足止めし続けることが叶いそうになく……」
「解ってる! 解ってるんだよ!」
ぼやきながらも、ウェイバーは祈るような気持ちで、バーサーカーの攻撃を躱わし続けるセイバーを見遣った。
「畜生、バーサーカーの奴……あいつ何とかならないのか!?」
「――俺が行こう」
そう決然と応じたランサーが、もはや一槍のみとなった赤槍を掴んで姿を消す。いったん霊体と化して虚空を渡った槍兵は、狙い違わすF15の機上にて再び実体と化し、黒い魔力の脈打つ鋼鉄の翼に片手でしがみついて身を固定させた。
「そこまでにしてもらうそ、狂戦士!」
叫ぶや否や、ランサーは右手に掴む『|破魔の紅薔薇《ゲイ・ジャルグ》』を振りかざし、その切っ先で異形化した機体を刺し貫く。
あらゆる魔力の循環を遮断する紅い槍の一刺しは、まさにバーサーカーの怪能力に対する天敵である。だがその効果を、すでに黒騎士は倉庫街での戦いで一度身を以て思い知らされていた。狂化してなお周到さを失わぬ謎のサーヴァントは、ランサーの宝具を前にして二の轍《てつ》を踏むような真似はしなかった。
赤槍が機体を抉る直前、バーサーカーは命運尽きたF15にあっさりと見切りをつけ、その両腕で機体の要所だけを力任せにもぎ取ると、虚空に高々と跳躍した。直後、『|破魔の紅薔薇《ゲイ・ジャルグ》』の魔力遮断によってたちまち屑鉄の塊へと還ったジェット戦闘機は、翼上のランサーもろとも墜落し、派手な水飛沫を上げて未遠川へと没入する。
最後にバーサーカーが奪っていった機体の部位は、まさにバルカン砲のユニット一式を収容していたそこだった。間一髪でランサーの槍との接触を免れた機関砲は、今なお充填《じゅうてん》された漆黒の魔力に脈動し、黒騎士の宝具属性を失っていない。
「■〓〓〓〓■■■■■■〓〓〓〓ッ!!」
総計二〇〇キロ近い六連砲身と樽《たる》型弾倉を担ぎ上げたまま、あらためてバーサーカーは空中から眼下のセイバーを照準する。魔力に加速された回転砲身が瞬時にスピンアップを果たし、怒濤の砲弾が今まさに奔流《ほんりゅう》せんとする刹那、セイバーはついに絶体絶命を悟った。
航空機から飛び降り、落下しながらもセイバーを狙うバーサーカーの射程はこれまでより格段に短い。もはや砲弾初速に先んじる暇《いとま》はなく、全周囲どの方向に身を躱わそうとも、降りそそぐ砲弾の雨の圏内から逃げきることは叶わない。
いちかばちか……ッ!
かくなる上は差し違える覚悟ででも宝具に訴えるしかないと、セイバーが剣を振りかざしたその瞬間、やおらあらぬ方角から飛来した輝鋼の閃《ひらめ》きが空中のバーサーカーを直撃した。
槌《つち》と斧と弩弓《どきゅう》が漆黒の鎧を抉り抜き、大鎌が回転する砲身を両断する。さらに弾倉を直撃した火箭《かせん》は20mm砲弾の残弾をありったけ一斉に誘爆させ、空中で紅蓮の炎を大輪に狂い咲かせた。その破片と爆風をもろに浴びたバーサーカーは、為す術《すべ》もなく吹き飛ばされて虚空に放物線を描き、そのまま石礫《いしつぶて》のように河面へと没した。
驚きに背後を仰ぎ見たセイバーに向けて、冬木大橋のアーチの上に傲然と立ったアーチャーが、周囲を取り巻く投射宝具の輝きを後光の如く身に纏いながら、邪な笑みを送っくる。
「さあセイバーよ、示すがいい。お前の英霊としての輝きの真価、この我《オレ》が見定めてやる」
言われるまでもない――セイバーはアーチャーの不遜な言葉に無言の一瞥を返すと、ふたたび河面に視線を戻して黄金の剣を構え直す。
障害はすべて除かれた。今こそ、決着の時だ。
バーサーカーの退場を見届けた切嗣は、すでに安全圏を目指して疾駆しはじめていたゴムボートの上から、狙い定めた虚空の一点に向けて照明弾を打ち上げた。燃えさかる黄燐の炎は、今のセイバーの立ち位置と、切嗣が乗り捨ててきた快速船とを結ぶ直線上の真上に位置していた。
「あれだ! あの真下!」
即座にそれを見て取ったウェイバーが、傍らに控えていたライダーの伝令に叫ぶ。英霊ミトリネスは頷くや否や姿を消し、王と仲間たちが待ち受ける固有結界の内側へと取って返した。
その直後、まるで待ち構えていたかのように河上の大気が震撼し、英霊たちの想念によって侵食されていた空間が、元の在るべき姿を取り戻す。まず蜃気楼《しんきろう》のように異形の影が夜空を覆い、そして忽ちのうちに実体を取り戻して、おぞましい巨体を水面に落下させた。切嗣が撃ち上げた信号弾の、まさに直下の位置である。
巨大質量の着水が生んだ猛烈な水飛沫が、津波のように河岸に襲いかかる。だが唯一、海魔と真正面から対峙するセイバーだけは、ただ一滴の飛沫《ひまつ》も浴びはしない。いま彼女から迸る魔力は逆巻く風を呼び、その気圧差によって水の壁を押し退けるほどの密度があった。
海魔の再出現と同時に、ライダーの戦車『|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》』もまた暗い夜空へと躍り出る。満身創痍《まんしんそうい》の有様は、固有結界内での戦いの激しさを物語って余りあるものだったが、その堂々たる飛翔の力強さは依然として健在だ。
「――ったくッ! 一体なにを手間取って……ぬわぁ!?」
罵声《ばせい》を吐く暇もあらばこそ、セイバーの剣に漲る光の密度を見て取ったライダーは、即座に何が起ころうとしているのかを理解して、緊急旋回し危険域から離脱する。一方で、そんな機敏な回避などキャスターの海魔には望むべくもなく、うねくる巨大な肉塊は、おぞましい異形の吼《ほ》え声で、その未知なる輝光の脅威に威嚇を返すしか他に術《すべ》がなかった。
機は、満ちたり。
柄を握りしめる両腕に澤身の力を込めて、騎士王は黄金の剣を振り上げる。
光が集う。まるでその聖剣を照らし飾ることこそ至上の務めであるかのように、輝きはさらなる輝きを呼び集め、眩く束ね上げていく。
苛烈にして清浄なるその赫耀《かくやく》に、誰もが言葉を失った。
かつて夜よりも暗き乱世の闇を、祓《はら》い照らした一騎の勇姿。
一〇の歳月をして不屈。一二の会戦を経てなお不敗。その勲《いさお》は無双にして、その誉れは刻を超え不朽《ふきゅう》。
輝けるかの剣こそは、過去現在未来を通じ、戦場に散っていくすべての兵《つわらの》たちが、今際のきわに懐く哀しくも尊きユメ――『栄光』という名の祈りの結晶。
その意志を誇りと掲げ、その信義を貫けと糾し、いま常勝の王は高らかに、手に執る奇跡の真名を謳う。
其《そ》は――
「|約束された《エクス》――勝利の剣《カリバー》ッ!!」
光が奔《はし》る。
光が吼える。
解き放たれた龍の因子に、加速された魔力は閃光と化し、渦巻き迸るその奔流が、夜の闇もろともに海魔を呑み込んでいく。
河水が瞬時に沸騰《ふっとう》し蒸発していくなか、恐怖の具現たる魔性の巨体は、総身を構成する一分子に至るまでを悉《ことごと》く灼熱の衝撃に晒されて、声にならぬ絶叫を張り上げた。
だが焼き尽くされていく海魔の中枢、分厚い汚肉の城塞の中で、キャスターはただ声もなく、その白く眩い破滅の刹那を心奪われたまま見守っていた。
「……おぉ、ォ……」
そう――まぎれもなくこれは、遠い昔に彼が見知った光。
かつて彼もまた一人の騎士として、その輝きを追って馳せたのではなかったか。
回想は、いささかの曇りなく鮮烈に、ジルを過ぎし日へと呼び戻す。
ついにランスで成し遂げたシャルル王の戴冠式に、大聖堂のステンドグラスから差し込んできたあの光。救国の英雄として参列したジルを、ジャンヌを、アルス・ノヴァの奏《しら》べとともに包み込んでいた、白く輝く歓喜の祝福。
ああ、間違いなく――この光だ。
今でもなお憶えていた。鬼畜に堕ち、総身を悪徳にまみれさせてなお、あの日の記憶は色褪《いろあ》せることなく、心に刻まれたままだった。
たとえその結末が、屈辱と憎悪に染められ、どんなに貶《おとし》められていったとしても――過ぎし日の栄光だけは、誰に否定されることも、覆《くつがえ》されることもなく、この胸の内にあったのだ。
いかなる神にも運命にも、決して奪えない、穢せないモノ……
はらはらと流れ落ちる己が涙の清冽さに、ジル=ド=レェは呆然となった。
自分は何を惑っていたのか。何を見失っていたのだろうか。
ただ顧《かえり》みて、認めれば――それだけで良かったのではないか?
「私は、一体……」
誰に向けるでもない呟きが口から漏れるよりも先に、白い光はすべてを事象の彼方《かなた》に消滅させていった。
[#中央揃え]× ×
すべてを焼き尽くす殲滅《せんめつ》の光を、高き橋梁の上から睥睨《へいげい》するアーチャーは、満面の笑みであった。
「見届けたか征服王。あれがセイバーの輝きだ」
呼びかける声は傍らの虚空に。そこには過酷な戦いを終えたばかりのライダーが、神牛の戦車《チャリオット》を空中に静止させたまま、やはり『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』の極光を眺めていた。
「あれだけの光を魅せられてもなお、お前は奴を認めぬのか?」
アーチャーの問いかけに、ライダーは鼻を鳴らす。だがその面持ちにあるのは侮蔑ではなく、何か悲壮なものを眺めるかのような沈鬱さだった。
「時代《とぎ》の民草の希望を一身に引き受けたが故の、あの威光――眩しいが故に痛々しいわ。あんなモノを背負わされたのが、ただの夢見る小娘だったと知ってはな」
見下ろす河面には、いま激烈なる死闘を終えて肩で息をするセイバーの矮躯がある。その小さき肩に課されていたものの重さを、ライダーは昨夜の問答で知ってしまったのだ。それは磊落《らいらく》なる彼の気性をもってしても、決して許容できない在り方≠セった。
「そんな娘が、蝶《ちょう》よ花よと愛でられることも、恋に焦がれることもなく、理想≠ネどという呪いに憑《つ》かれた果ての姿がアレだ。痛ましくて見るに耐えぬ」
「なればこそ、愛《う》いではないか」
征服王の憂い顔とは対照的に、黄金のサーヴァントの微笑は際限なく淫《みだ》らに、欲望の爛《ただ》れを隠そうともしない。
「アレが懐いていた身に余る理想《ユメ》は、きっと最後には懐いた当人をも焼き果たしたに違いない。その散り際の慟哭の涙――舐めればさぞや甘かったであろうな」
陶然と想いを馳せるアーチャーの横顔に、ライダーはぎろりと刃の眼差しを向ける。
「……やはり貴様とは相容《あいい》れぬな。バビロニアの英雄王」
「ほう? 今更になって察したか」
その呼称に、黄金の英霊は改めて破顔した。
「ならば如何《いかん》とするライダー? その怒り、今すぐにでも武をもって示すか?」
「それが出来れば痛快であろうが、貴様を相手の戦となると、今宵の余は些か以上に消耗しすぎとる」
虚勢を張ることもなく正々と白状してから、ライダーは小馬鹿にするようにアーチャーを見遣った。
「――無論、見逃す手はないと突っかかって来るならば相手せんわけにもいかんがな」
「構わぬ。逃亡を許すそ征服王。お前は十金の状態で潰さねば、我《オレ》の気も収まらぬ」
悠然たるアーチャーの宣言に、ライダーは悪戯っぽく眉を上げた。
「んん? ははぁん。さては貴様もあの黒いのに撃ち落とされたダメージが残っておるな?」
「……我《オレ》は挑発には死を以て遇するぞ」
戯れ言を解する気など微塵もない紅蓮の双眸が殺意に染まるのを見て、ライダーは笑いながら神牛の手綱を繰り距離を取った。
「次に持ち越しだ、英雄王。我らの対決は、即ち聖杯の覇者を決する大一番となることだろう」
聖杯を手にするべきは、王≠スる格の英霊のみ。つまりは征服王か英雄王の二択であるという認識を、依然ライダーは疑うことなく確信しているのだろう。不敵な笑みだけを後に残して、英霊イスカンダルは橋梁《きようりよう》の頂を離れると、そのまま自身のマスターが待つ河岸へと宙を駆け下りていった。
「果たして、どうかな? ……我が至宝を賜《たま》わすに値するのが一人のみだとは、まだ我《オレ》は決めていないそ。ライダー」
独り嘯くアーチャーの意中には、もう一人別の英霊があった。むしろ関心の度合いで言うなら、英雄王の興味はその一人にこそ注がれている。
今宵、見定めた類い希な輝きは、原初の英霊の想いを遠い過去へと誘うものだった。
――かつて、 一人の男がいた。
泥より作られて人と成った身でありながら、神の子の隣に並び立とうと背を伸ばした愚かなる道化者。
だが身の程を弁《わきま》えぬその傲岸は、当然ながら天上の神々の怒りに触れ、男は神罰によって命を落とす。
泣き濡れながら息絶える彼の末期を、英雄王は今も忘れない。
なぜ泣くのか、とあのとき問うた。我《オレ》の傍らに身を置いた愚かさを、今になって悔いるのか、と。
そうではない――と、彼は答えた。
『この僕の亡き後に、誰が君を理解するのだ?誰が君と共に歩むのだ?朋友《とも》よ……これより始まる君の孤独を偲《しの》べば、僕は泣かずにはいられない……』
そうして男が息を引き取るのを看取ったとき、唯我独尊の王は理解した。――人の身にあって人を超えようとしたこの男の生き様は、王が蔵に蓄える財の全てと比してもなお、貴《とうと》く眩いものだった、と。
「ヒトの領分を超えた悲願に手を伸ばす愚か者……その破滅を愛してやれるのは天上天下にただ一人、このギルガメッシュをおいて他にない。
儚くも眩しき者よ。我が腕に抱かれるがいい。それが我《オレ》の決定だ」
夜霧の中に金色の偉容が消え去った後も、その邪《よこしま》な哄笑の残響は、いつまでも尾を引いて残った。
[#改ページ]
ACT11
[#改ページ]
-84:15:32
夜霧の彼方で、巨大な海魔の影が目も眩むほどの白光に呑み込まれて消えていく様を、ソラウは遠く離れた新都のセンタービル屋上から見届けた。
ただでさえ視界の利《き》かぬ霧の中、しかもこれだけの距離ともなると、肉眼では戦況の推移など見届けようもない。今すぐこの場で偵察用の使い魔を準備できるだけの用意もなく、彼女は巨大海魔や戦闘機の乱舞する河岸の様相を、ただ気を揉《も》みながら遠巻きに眺めているしか術《すべ》がなかった。
ともあれ、戦いの気配は一段落したが、なおも右手の令呪は消えることなく残っている。取りも直さすそれは、ランサーが戦いに勝ち残り健在であることを意味している。
良かった……
吹きさらしの高所を荒れ狂う突風に難儀しながらも、ひとまずソラウは安堵した。すぐにもランサーは朗報を携えて戻ってくることだろう。勝利が他のサーヴァントたちとの共闘によるものだとすれば、ソラウ以外のマスターもまた報償の追加令呪を受け取ることになるだろうが、そんなことは些細な問題だ。今はただ、彼女とサーヴァントとを繋ぐ令呪が三画の姿を取り戻すことだけが嬉しい。
吹き抜ける風の喧《やかま》しさがなければ、ソラウはもっと早い段階で、背後に忍び寄っていた襲撃者の気配に気付いていたかもしれない。彼方の戦場に気を取られるあまり、身近な周囲の警戒を怠っていたことは、戦闘訓練どころか護身の心得すらない令嬢には咎《とが》めようもないところであった。
いきなり足払いをかけられて、コンクリートの床に仰向けに転がされる羽目になってからも、彼女はいったい何が起こったのか理解する暇もなかった。つい助けを求める反射運動で突き出した右手が、何者かに荒々しく掴まれる。だが無論、その人物はソラウを転倒から助け起こす意図など微塵もなく、代わりにさらにおぞましい激痛の一撃を彼女の手首に叩きつけた。
「あ――」
細く優美だった手首の断面から、まるで閉め損なった蛇口のように鮮血が迸り出る様を、ソラウは信じられない気持ちで見守った。
右手が、ない。
ただの一撃で、あっさり切り落とされたのだ。決して手入れを欠かすことのなかった自慢の指も爪も、そして何より大切な手の甲の令呪も、まとめてソラウの右腕から消え去った。奪い去られた。
痛みより、失血の悪寒より、なおいっそう絶望的な喪失感がソラウの思考を真っ黒に染めた。
「あ、あぁ、あっ! ああああああッ!!」
錯乱した悲鳴を張り上げて、ソラウは床を転げ回り、消え失せた右手の行方を探し求めた。
駄目だ。アレがなければ困る。ディルムッドを呼べない。ディルムッドに構ってもらえない。
いよいよとなれば、あの全画を費やして『私を愛せ』と命じ、縛ることもできたはずなのだ。だから右手は困る。どうあっても、たとえ命に代えてでも、あの令呪だけは取り戻さなければ……
だが冷たいコンクリートの床面をいくら探しても、そこには飛び散った己が血飛沫の色しかなく――あとは、冷然と動くことのないブーツの爪先が一対、目の前に佇んでいるばかり。
激しい出血に視界が霞んでいくなか、ソラウは床に転がったまま頭上を見上げて、そこに見知らぬ黒髪の女の顔を見咎めた。哀れみはおろか何の感情も伺わせることなく、女はただ無表情に、悶絶するソラウを見下ろしている。
「手……わたし、の、手……」
まだ無事に残っている左手で、すがりつくように女のブーツに掴みかかり――そこでソラウの意識は途切れた。
サバイバルナイフで力任せに切り落とした女魔術師の右手首を、久宇舞弥は何の未練もなく放り捨てた。その手首に刻まれたまま残っている令呪は、然るべき手段を用いれば回収できるのだろうが、今この場で舞弥にその術《すべ》がない以上は何の価値もありはしない。
手早く右手首の断面を緊縛して、それ以上の失血を封じると、舞弥は意識を失ったままの標的を肩に担ぎ上げ、空いている方の片手で携帯電話に衛宮切嗣を呼び出した。
『――どうした、舞弥?』
「新都でソラウ・ヌザァレ・ソフィアリを確保しました。令呪は右手ごと切除しましたが、命に別状はありません」
『良し。速やかにその場を離れろ。すぐにもランサーが戻ってくるはずだ』
「了解」
必要最低限の会話だけで済まして通話を切ると、舞弥は足早に階段を駆け下りて階下を目指した。アイリスフィールの手によって移植されたホムンクルスの肋骨《ろっこつ》は、まだ身体に馴染みきらず鈍痛を残しているものの、動作には何の支障もきたさない。おかげで今夜も、舞弥は負傷する前と何ら変わることなくランサーとその新たなマスターを尾行し続け、ついにはサーヴァントが留守の隙にソラウを捕縛する好機を掴むことができた。
ランサーのマスター交代は、果たして切嗣の推測が当を得たわけだが、依然、彼はマスター権を失っているはずのケイネスについても抹殺対象として見なしている。ひとたびマスターとして選ばれた人間は、たとえ令呪を失おうとも警戒して当たるのが切嗣の方針だ。
舞弥に対し、ソラウを殺すことなく生け捕りにしろと命じたその真意は、この女の口からケイネスの潜伏場所を訊き出す意図があってのものだろう。その尋問《じんもん》はソラウにとってさぞかし過酷な経験となることだろうが、だとしても舞弥には同情も憐憫《れんびん》も皆無だった。
人と人とが戦うという状況下において、残忍さは何ら希有なものではない。切嗣はもとより舞弥もまた、そのシンプルな事実をありのままに理解しているだけのことだった。
[#中央揃え]× ×
新都の夜道は、深夜の静謐《せいひつ》とは程遠く、ひっきりなしに救急車やパトカーが往復している。非常灯を瞬かせて馳せ廻る彼らにしてみても、一体どういう事態でこんな夜半に駆り出されたのか、事態の全貌は知るまいし、おそらくは明日以降も決して知りうることなどあるまい。
夜更けに独り歩道を行く長身の僧衣姿は、普段であれば不審人物として職質するのに充分な対象だっただろうが、立て続けに届けられる救助要請や封鎖指令に忙殺《ぼうさつ》される今夜ばかりは、たかが通行人一人に頓着《とんちゃく》している余裕などあろう筈もない。幾度となく言峰綺礼の傍らを走り過ぎていったパトカーは、ただの一台も彼に注意を払うことさえしなかった。
黙々と冬木教会への帰路を急ぐ綺礼にしても、その胸中は深く思索に囚われたきり、未だ騒動の余韻から醒《さ》めやらぬ街の混乱ぶりなどまったく眼中にはない。
常に命令には忠実に、義務には従順に、倫理には厳格に。そう努めてきた綺礼である。その言動はいつでも必要に迫られた上での、疑う余地のない選択ばかりだった。
だからこそ――自らの行動の意味を測りかねるという当惑は、これが初めてのことだ。
はじめは遠坂時臣の援護をする意図で、綺礼は師が戦いに臨むその現場へと駆けつけた。が、時臣の交戦相手が間桐雁夜であると見届けた途端、綺礼は助勢に参じるのでなく、物陰に身を潜めたまま顛末を見届けるという、サボタージュも同然の行動を選択してしまった。
時臣と雁夜の戦力達については理解していたし、そもそも助太刀《すけだち》など意味のない局面であったことも確かである。ただ戦いを傍観したというだけなら、それはそれで理に適った判断と言えなくもない。
だがその後の行動については、完全に領分の逸脱である。
雁夜をマンションの屋上から転落せしめた時点で、時臣は完全勝利を確認したのか、敵の死体を確認することすらしなかった。師の大胆さに半ば呆れつつも、綺礼はフォローするつもりで雁夜の死体を探し……ほどなく裏路地に転がっているその姿を見出したとき、雁夜にはまだ呼吸があった。
無論、忠実に遠坂陣営の走狗《そうく》であろうとするならば、速やかにとどめを刺すのが当然の義務だ。なのにそのとき綺礼の脳裏を去来したのは、今朝方、アーチャーと交わした会話の内容だった。
言峰綺礼が己を知ろうとするならば 衛宮切嗣だけでなく――否、切嗣よりなお優先して、間桐雁夜の行く末を見届けるべきだという忠言。
あれは総じて不愉快な談話だった。耳を貸す余地などまるでない戯れ言だ。
だがそれならば一体何が、時臣と雁夜の対決を前にした綺礼に、座視などという柄でもない行動を選択せしめたのか。助太刀無用と思うならその場に留まる必要もなかった。他のマスターの姿でも探し求めて駆け回っていた方が、まだしも有意義だったのではないか。
そして、時臣の繰る炎がついに雁夜を捉《とら》えた瞬間……あのとき自分が懐いたものは、まぎれもなく落胆の念ではなかったか?
ふと気がついたときにはもう、綺礼は傷ついた雁夜の肉体に、応急処置の治癒魔術を施しはじめていた。そうやって昏睡《こんすい》状態ながらも様態の安定した雁夜を運んで戦場を離脱し、こっそりと人目を忍んで間桐邸の門前に置き去りにしてきたのが、おおよそ一五分ばかり以前のことだ。
雁夜の手には、依然として令呪の刻印も残っていた。未遠川での戦闘を最後まで見届けることのなかった綺礼だが、どの程度の損傷を被ったにせよ、バーサーカーもまた健在であるらしい。
深山町から新都の外れまで、冬木市を横断する長い距離をそぞろ歩きながら、今も綺礼は答えの出ない自問に懊悩《おうのう》していた。――いったい自分は、何故あんなことをしたのだろうか。
味も解らぬ葡萄酒をただ買い集めて貯め込むのとは訳が違う。ただ益体がないというだけの行為ではない。これまでにも綺礼は時臣に無断で暗躍し、ときには虚偽の報告さえ重ねてきたが、それらとて直接的に時臣を妨害するようなものではなかった。衛宮切嗣に託す対峙の期待と、時臣の聖杯獲得は、決して相反するものではなかった。
だが、時臣を宿敵として付け狙う間桐雁夜を延命させたことは、まぎれもなく時臣の仇《あだ》となる。言い訳の余地のない謀反《むほん》だ。確たる意図すらないままに、自分は途方もないことをしでかした。今夜明らかに綺礼は、遠坂時臣の忠臣としての一線を越えたのだ。
そこまで事の重大さを自覚しておきながらも、なぜか綺礼の胸に後悔の念はなく、むしろ不可解な高揚感さえ感じている。
アーチャー――あの英雄王たる英霊に、自分は誑《たぶら》かされているとでもいうのか?
歩みを進める足よりも、心の方が疲労は大きかった。
ふと珍しく綺礼は、父の璃正と語らいたいと思った。どこまでも綺礼に対して誠実でありながら、決して綺礼の苦悩を理解し得ない父ではある。だが綺礼とて、思えばまだ一度として、真に胸襟《きょうきん》を開いた上で父と向き合ったことはないのではないか。
たとえ深く落胆させることになろうとも、恐れることなく心情を吐露すれば――たとえ父との関係が決定的に変化しようとも、或いはそれが、綺礼に全く新しいものを提示してくれるのではあるまいか。
漠然たる期待を胸に、とりあえずは煩悶を棚上げにして、綺礼は夜道を歩き続けた。
[#改ページ]
-82:09:51
第四次聖杯戦争監督役、言峰璃正神父にとっては、まさに疲弊《ひへい》の極みにある夜だった。
彼にとって聖杯戦争の監視はこれで二度目だが、ここまで処置に困る騒動が引き起こされるなどとは、さすがに予想しようもなかった。
問題の規模が規模だけに、証拠隠滅には聖堂教会だけでなく魔術協会も暗躍していた。二大組織の双方にとって、今は縄張りや責任範囲についてとやかく言うよりも、まずは事態の収拾に奔走《ほんそう》することを優先しなければならない状況だったのだ。
未遠川での怪事については、工業廃水の化学反応によって発生した有毒ガスという建前でひとまず報道を眩ませた。ガスの毒性には幻覚作用があるため、川沿いの住民で自覚症状のあった者はすぐさま緊急病院で診断を受けるようにと、巡回中の広報車から呼びかけを行っている。もちろん夜間診療を受け付けているすべての病院には、暗示洗脳の技術を習得した魔術師や代行者が紛れ込んで待機している。これで目撃証言の大半は握り潰すことができるだろうが、さすがに噂の類までは隠滅しきれない。
ついさっき、中東の武器商人からF15戦闘機二機を購入する手筈を整えたのは、時計塔のコネクションによる成果だった。中古品のC型ではあるが、このさい背に腹は代えられない。取り急ぎ日の丸を書き込んだ二機のF15は今夜中に築城基地に到着し、あとは隙を見て差違部品を交換してJ型に化けさせることになる。
日本の自衛隊という組織は、とかく予算については針の筵《むしろ》に座らされているも同然であり、一機あたり一〇〇億円を上回る戦闘機を一度に二機も損失したという不祥事は、どうあっても隠滅したいところだろう。今後は、こちらで用意する代替機を餌にして交渉を進め、どうにかして証拠隠滅の片棒を担がせる方向に持っていくしかない。
絶え間ない電話の応酬が一段落し、とりあえず息をつける程度に落ち着いた頃には、夜も大分遅くなっていた。が、すぐさま璃正は礼拝堂に待たせている客人の存在を思い出し、溜息混じりに椅子を立って、引き続き監督役としての職務を再開した。
「お待たせして申し訳ない。さすがに今夜は少々、取り込んでいるもので」
疲弊を隠しようもない璃正の声に、暗い信徒席から気取った笑い声が返る。
「致し方ありますまい。事が事ですからな」
続いて、車|椅子《いす》の車輪がささやかに軋む金属音。暗がりから進み出た人影は、座したままの姿勢であった。
見る影もなく窶《やつ》れ果て、立って歩くことも叶わなくなったその姿が、かの神童ロード・エルメロイの成れの果てだとは、過日の彼を知る何人がはたして看破しうるだろうか。だがその双眸に宿る執念ともいうべき意志の力は、かの天才魔術師の苛烈な気性を伺わせる名残《なごり》でもある。
再起不能も同然の肉体的ダメージを負ったケイネスではあったが、それでもエルメロイ家の人脈のつてで、日本在住の優秀な人形遣いに渡りをつけた彼は、莫大な謝礼と引き換えに、なんとか両腕の機能だけを取り戻し、ひとまずは車椅子で叶う範囲の行動の自由を得ていた。分厚くギブスを嵌められた右手の小指も、今ではきちんとその痛みを認識できる。
「さて、神父殿。私の申告についての判定はどのように?」
慇懃《いんぎん》な微笑とは裏腹に、ケイネスの声には半ば恫喝《どうかつ》めいた含みさえある。禁断症状を前にして薬を乞い求める麻薬中毒患者というのは、さながらこんな風情かもしれない。妄執めいた気迫を隠そうともしない元[#「元」に傍点]魔術師の顔を、璃正はまじまじと凝視する。
決して望ましい展開ではない。が、盟約は盟約だ。水面下で遠坂と盟を結ぶ璃正個人の思惑は抜きにして、聖堂教会の体裁のためにも、筋は通すしかない。
「……たしかにキャスター討伐の戦いにおいては、ランサーのサーヴァントが重要な働きを示したことが、監視係たちの報告からも確認されている」
「それでは、令呪一画を譲り受ける資格は間違いなく私にあるわけですね?」
「それなのだが……」
璃正神父は眉を顰めて、訝《いぶか》るようにケイネスを一瞥した。
「無論、ランサーのマスターには確約通りの報償が与えられることになろうが……ケイネス・アーチボルト殿、現状の貴殿をマスターの一人と見なしていいものかどうか」
ケイネスの双眸が一瞬だけ憎悪に澱み、すぐさま紳士然とした慎みを取り戻した。
「ランサーとの契約は、許嫁のソラウと分散する形で結んでいる。たしかに私個人がマスターであると息巻くつもりはない。私とソラウは二人で一人のマスターなのだ」
「今では魔力供給も令呪の管理も、すべてソラウ女史がお一人で担っているのでは」
歯を剥きだして笑うケイネスの表情は、愛想笑いと解釈するにはあまりにも無理があった。
「戦略上の配慮で、今は令呪をソラウに預けてある。だがランサーとの契約の主導権は今も私にあるのです。疑うならばランサーから直々に確かめればいい。第一、教会に対するマスター申告においても登録名義は私個人の名前になっているはずだ」
璃正神父は溜息をついた。ここで食い下がって難癖をつけたところで、何がどう変わるというわけでもない。璃正にとっての頭痛の種は、時臣以外のマスターにも令呪を分け与えなくてはならないという番狂わせである。ここでケイネスへの令呪追加を渋ったところで、出し惜しみした令呪も結局は彼の許嫁に与える羽目になる。アーチボルトの陣営の内輪擦めに首を突っ込んでも、璃正には益するところなど何もない。
「――宜しいでしょう。貴殿を資格者として認めます。さあケイネス殿、手をお出しなさい」
差し出したケイネスの手に、綺礼は慣れた手つきで秘蹟を行い、右腕に蓄積されていた令呪の一画を転写した。痛みすら伴うこともなく、処置そのものはものの数分で完了した。
「それでは引き続き、マスターとして誇りある戦いを――」
「ええ、勿論ですとも」
ケイネスは満面の笑顔で頷いてから、背を向けた璃正神父に向けて、車椅子の座席に隠し持っていた拳銃の狙いをつけた。
神の御家たる静謐《せいひつ》の空間を、乾いた銃声の轟きが打ち砕く。
頽《くずお》れる老神父の身体にはもはや一瞥もくれることなく、ケイネスは再び右手の甲に宿った聖痕の文様に、うっとりと見入った。
今となっては、一画限り……まだ未消費の令呪を温存している競争相手に比べれば、たたでさえ不利なのだ。この上セイバーやライダーのマスターに、さらに新たな令呪を獲得させるなど、断じて見過ごせるはずがない。
監督役の暗殺はそれなりに物議を醸《かも》すことだろうが、今回の聖杯戦争において、拳銃などという小道具を好きこのんで使う魔術師はケイネスとは他にいる。まず先に容疑者となるのは、アインツベルンが飼っている薄汚い鼠《ねずみ》の方だ。
込み上げる笑いを、ケイネスは抑えきれなかった。再びマスターの資格を得た満足感に浸りきっていた彼には、たったいまロード・エルメロイの誇りを地に落とした行為について、自らを責《せ》め苛《さいな》む心は皆無であった。
[#中央揃え]× ×
礼拝堂に一歩踏み込んだところで、綺礼は死の気配を察知した。
僅かな血臭《けっしゅう》と、さらにほんの僅かな硝煙《しょうえん》の残り香。何者かが神の御家において許されざる狼籍を働いたのは間違いない。
待ち伏せの気配はなかったが、それでも綺礼は慎重に足を運んで、信徒席の間を抜け――そして祭壇の前まで来たところで、その傍らに路《うずくま》る人影に気がついた。
「父上――」
口を衝いて出た呼びかけは、だが虚しいものだと知れていた。代行者として鍛《きた》えられた彼の観察眼は、璃正神父の姿を認めると同時に、その背中に穿たれた弾痕と床の血溜まりにも気付いていたからだ。
頭の芯《しん》が痺《しび》れたような心地のまま、綺礼は父の骸を子細に検めた。
カソックの右袖を捲《まく》り、腕に刻まれた預託令呪の数を確認する。案の定、一画だけ足りない。璃正は管理していた令呪の一画を誰かに譲渡し、おそらくはその相手によって殺された。キャスター討伐に功績のあったマスターの一人が、共闘者たちにまで報償が分配されることを厭って凶行に及んだのだ。推し量るまでもない顛末だった。
だがいかに魔術師といえど、死んだ老神父の腕からありったけの令呪を奪い取ることはできなかったのだろう。監督役の預託令呪は聖言によって保護されている。本人の許諾なしに、魔術によってこれを抜き取ることは事実上不可能だ。唯一、秘密の聖言を知る璃正が死んだ今、前回の聖杯戦争から持ち越された令呪はすべて、ただの死斑《しばん》に成り果てた。
――否、それを良しとする璃正だろうか?
綺礼は父の右手を取り上げ、その指先に、出血とは異なる血の付着を見咎めた。こすりつけた痕跡がある。璃正神父は今際のきわに、自身の出血に指を浸して、それをどこかに擦りつけたのだ。
そうと解った上で探せば、血文字はことのほか簡単に見つかった。
床板に、赤黒く掠れた筆致で記された遺言は、『jn424』――信仰と無縁の者ならば、それは意味不明な暗号とでも思えたかもしれない。だが璃正の敬虔《けいけん》さを受け継いだ綺礼にとっては、その意味するところは歴然だ。
ヨハネ福音書4:24。その聖なる文言を、綺礼は記憶にあるがまま諳《そら》んじる。
「神は御霊なり。故に神を崇める者は、魂と真理をもって拝むべし――」
その声に呼応するかのように、冷え切った璃正の右腕で、すべての令呪が淡い輝きを取り戻す。
ひりつくような鈍い痛みとともに、ひとつ、またひとつと己が腕に転写されていく令呪の光を、綺礼は言葉もなく見守った。
紛れもなくそれは、父が息子へと託した信任だった。
自身の骸《むくろ》を最初に見出すのは息子であろうと、そう璃正神父は信じた上で、聖職者にのみ判じうる符号を血で書き記したのだろう。令呪の管理を預かり、聖杯戦争の在り方を正しく守護するという監督役の重責。それを引き継がせるに値する聖人であると、そう息子について確信し、最後までそれを疑うことなく逝ったのだ。
綺礼が新たに手にした令呪を秘匿し、今なおマスターとしての権利を温存していたことも知らず――
ただの気まぐれで、恩師・時臣に仇なす災いの種を秘め育てている事実も知らず――
「――ッ!」
頬を伝い落ちる滴《しずく》の感触に、綺礼は愕然となって顔を押さえた。
父親の亡骸《なきがら》と、その遺志を前にして涙する……それは人として当然のことだろう。にも拘わらず綺礼はそのとき、まるで奈落の縁で足場を踏み損なったかのような、半ば恐懼《きょうく》にも等しい混乱に囚われていた。
直視してはならない。――内なる声が、そう厳然と自戒する。
いま心に湧き上がる感情を、言峰綺礼、おまえは決して理解してはならない。認めてはならない。何故ならそれは――
涙。最後に流したのはいつだったか。そう忘れるまでもなく三年前だ。流れ落ちる涙を手に掬《すく》い取《と》り、あの女[#「あの女」に傍点]は言ったのだ。『貴方はわたしを愛している』と――
心の中の遮断機《ブレーカー》が、追想を頑《がん》として拒絶する。
顧《かえり》みてはならない。自省してはならない。あの日に流した涙は、あのとき懐いた感情は、忘却の淵に沈めておかねばならないモノだ。
かつて掴んだ答え。
辿り着いた真理。
それを直視せず回避しているからこそ、まだ自分が自分でいられるのだとしたら
今また流れる涙も、決して理解してはならない。あのときと同じこの感情は、封じ込めていた悟りを、理解を呼び覚まず。
だがそんな理性の警告を余所《よそ》に、記憶は封印の隙間から滔々《とうとう》と溢れ出る。
この別離は、望んだ結末とは程遠い――あのときも、そう思った。
病み衰えた女の末期《まつご》の枕元で、綺礼は己が求め欲するものを悟ったのではなかったか。
コノオンナヲ、モット■■■■タイ、ト――
モット■■■■スガタガミタイ、ト――
父も、彼女も、ともに深く言峰綺礼を愛し信頼していた点で共通だ。
綺礼という人間の本質を決定的なまでに履き違えていた点で共通だ。
だからこそ綺礼は、三年間、常に心の奥底で願っていたのではなかったか……
この父親が死ぬ前に、せメテ極メツケノ■■■■ヲ味ワワセテヤリタイト……
血の匂いを辿る獣のように――魂《たましい》は愉悦を追い求める――
心の内に居座った紅玉のような双眸が、邪笑とともに囁きかける。
愉悦こそは魂の容《かたち》だと、そう彼[#「彼」に傍点]は語ったのではなかったか。そこにこそ言峰綺礼の本性があるのだと――
「……主よ……御名を崇めさせ賜え。御国を来たらせ賜え。天に御心の成るが如くに、地にもまた成させたまえ……」
日々の祈りで慣れ親しんだ主祷文を咄嗟に口ずさんだのは、一種の防衛本能であったのかもしれない。そうやって聖職者としての本分に立ち戻ることで、彼はバラバラに分解しかかっていた己の心を、すんでのところで緊縛することができた。
「我らが仇を赦すが如くに、我らの罪を赦し賜え……どうか我らを誘惑に遭わすなかれ。我らを悪より救い賜え……Amenn」
止めどなく頬を伝う涙の、その呪わしき真実を忘却の彼方に封じ込め、綺礼は父の冥福を祈って十字を切った。
[#改ページ]
-72:43:28
「この――無能めがッ 口先だけの役立たずめがッ!」
激しい罵倒の応酬にも、ランサーはただ悟然と頭を垂れて甘んじるしか他になかった。
「ただのいっとき、女一人の身を守ることもままならぬとは、度し難いにも程がある! はんっ、騎士道が聞いて呆れるわ!」
口角に泡を飛ばしながらも吐き散らすケイネスは、だがむしろ狼狽の度合いでいえば、失態に恥じ入るランサーよりもなお見境《みさかい》をなくしていた。持ち前の偏執的な癇性もあいまって、今ロード・エルメロイの逆上の程は、憤死すら危ぶまれるほどの有様だった。
新たな令呪を獲得し、意気揚々と隠れ家の廃工場へ戻ってきたケイネスだが、無事に対キャスター戦を終えて先に戻っていたはずのソラウの姿はそこになく、気を揉んで待つ彼の許にようやく帰還したのは、沈鬱な面持ちのランサーがただ一人きりだったのだ。
「一時の代替《だいたい》とはいえ、ソラウは紛れもなく貴様のマスターだったのだろうが! それを守り果《おお》せることすら叶わんで、一体何のためのサーヴァントだ!? よくも一人でおめおめと帰って来られたな!」
「……面目次第もありませぬ」
「さては貴様――キャスターと戦ううちに、またしても稚気に駆られおったか? マスターへの配慮すら疎《おろそ》かにして、愚かな英雄気取りにうつつを抜かしておったのか!?」
ランサーは力なくかぶりを振った。持ち前の美貌《びぼう》を悲痛に歪ませるその様は、彼もまた、この痛恨の成り行きに切歯《せっし》していることを物語っている。だがそれを斟酌《しんしやく》できるだけの精神的余裕など、今のケイネスにはあるはずもない。
「恐れながら、主《あるじ》よ……正規の契約関係になかった私とソラウ殿では、互いの気配を察することもままならず……」
「なればこそ細心の注意を払って然るべきだろうがッ!!」
にべもなくケイネスは一喝し、サーヴァントの弁明を封殺する。
通常、契約によって結ばれたマスターとサーヴァントは、いずれか一方が甚大《じんだい》な危機に陥れば、もう一方にも気配でそれが伝わる。事実、アインツベルンの森においても、ランサーはそうやって間一髪のうちにケイネスの救出を果たしたのである。
ところが今回の場合、ランサーはソラウと契約魔術の術理に則った結束を取り交わすことのないまま出陣してしまった。あくまでケイネスへの忠義立てに拘ったランサーの意地が、逆に仇となったのである。
結局、戦いを終えたランサーが冬木タワービルの屋上に戻ってみれば、残してきたソラウの姿はなく、ただ床に飛び散った血痕だけが、由々《ゆゆ》しい顛末を示すばかりだった。
ただひとつ確実に言えるのは、ソラウがまだ生きているという事実だけだ。ランサーの現界を維持し、その行動の糧を与えている魔力の供給は、依然として淀《よど》みなく彼の内へと流れ込んでいる。おそらく何者かに拉致《らち》されたことはほぼ間違いないとしても、下手人はまだ今のところ、彼女の命を奪う意図はないらしい。
他のサーヴァントであれば、あるいは魔力供給の経路《パス》を、ある程度の指向性とともに認識することも可能であったかもしれない。だが不運なことにランサーは、契約者と魔力提供者を別個にするという変則的な契約を結んだせいで、供給される魔力に対する知覚力が著《いちじる》しく劣っていた。ソラウが生きているらしいと推測はできても、その魔力が一体どこから流入してくるのか、彼にはまるで見当がつかない。新都でのソラウの捜索《そうさく》も、何ら手掛かりのないままでは雲を掴むようなものでしかなく、最後にはこうして単身のままの帰還を余儀なくされたのだ。
「ああ、ソラウ……やはり令呪を渡すべきではなかった……魔術戦など、彼女には荷が勝ちすぎたんだ……」
「お諫《いさ》めしきれなかったこのディルムッドの責でもあります。だがソラウ様の決断は、ケイネス殿の再起を祈願してのものでした。そうあっては是非もなく――」
ケイネスは、悋気《りんき》に昏《くら》く濁《にご》った眼差しでランサーを凝視した。
「よくもぬけぬけと言えたものだな。惚《とぼ》けるなよランサー、どうせ貴様がソラウを焚《た》きつけたのであろうが」
「な……断じてそのようなことは……」
「ハッ、白々しい! 貴様の間男ぶりは伝説にまで名を馳せる有様よ。主君の許嫁とあっては、色目を使わずにはいられない性《さが》なのか?」
跪《ひざまず》いて面を伏せたままのランサーの双肩が、危ういほどに激しく震える。
「――わが主《あるじ》よ、どうか今のお言葉だけは、撤回を」
「フン、勘に障ったか? 怒りに耐えぬか? 何となれば私に牙を剥くつもりか?」
激情を抑える英霊に、ケイネスはなおも嘲りを浴びせた。
「ようやく馬脚を顕《あらわ》したようだな。無償の忠義を誓うだなどと綺麗事を抜かしておきながら、ひとたび劣情に駆られれば翻心するケダモノめが。貴様がしたり顔で語る騎士道なんぞで、このケイネスの目を眩ませるとでも思っていたか?」
「ケイネス殿……何故、何故解ってくださらない!?」
喉を軋らせて糾すランサーの声は、もはや泣訴《きゅうそ》に近かった。
「私はただ、ただひとえに誇りを全うしたいだけのこと! 貴方と共に誉れある戦いに臨みたかっただけのこと! 主《あるじ》よ、なぜ騎士の心胆《こころ》を解してくださらぬ!?」
「聞いた風な口を叩くなッ、サーヴァント!」
あくまで冷酷に容赦なく、ケイネスはランサーの訴えを叱咤《しった》で切り捨てた。自らのサーヴァントに対する不審不満が、このとき彼の中ではついに沸点を超えていた。
「身の程を知れよ傀儡《かいらい》め。そうとも、所詮貴様はサーヴァント。魔術の技で現身を得たというだけの影ではないか! 貴様の語る誇りなど、亡者の世迷い言でしかない。あまつさえ主《あるじ》に対して説法するなど烏滸《おこ》がましいにも程がある!」
「――ッ」
あまりの言われように声もない英霊の様が、ケイネスの胸に歪んだ嗜虐の喜びを生む。ここぞとばかり右手に再び宿した令呪をランサーの鼻面に突きつけて、魔術師は勝ち誇った嘲笑《ちょうしょう》を高々と放った。
「悔しいと思うなら、そのご大層な誇りとやらで我が令呪に抗《あらが》ってみせるがいい。――フフン、叶うまい? それが貴様の正体よ。その意地も矜持《きょうじ》も、令呪を前にすれば屑同然。それがサーヴァントという傀儡《くぐつ》のカラクリだろうが」
「……ケイネス……殿……」
笑うケイネスを前にして、ランサーはがっくりと項垂れたまま、もう何の反駁《はんばく》もしなかった。萎《しお》れた双肩にも、虚ろに床を眺める双眸にも、かつて群れなす強豪を前に双槍を振るった晴れやかな覇気は、もう微塵も残っていなかった。
その無惨な姿を眺めているうちに、ケイネスはやっと積もり積もった溜飲が下がるのを感じた。
今にしてようやく、ケイネスはこの英霊と理想的な形での主従関係を確立できたのかもしれない。遅きには失したが、このランサーはもっと早期に――それこそ召喚の直後にでも、こうして徹底的に打ちのめしておくべきだったのだ。そうすればこの小生意気なサーヴァントも、妙な思い違いを懐くことなく、もっと従順に動いていたことだろうに。
「――主《あるじ》よ」
長い沈黙の間をおいて、ふとランサーが冷えた声でケイネスを呼ばわる。
「何だ? まだ何か言いたいことでもあるか?」
「……否、そうではなく。何かがここに近づいてきます。おそらく『自動車』なる装置の駆動音かと」
ケイネスにはまだ何も聞こえないが、常人の聴覚はサーヴァントのそれに遠く及ばない。そして、程なく夜も明けようかという頃合いにこんな廃工場を目指してやってくる自動車ともなれば、ただの通りすがりであろう筈もない。
思えば、ここを拠点と見定めた折に周囲に施した偽装結界も、そろそろ綻びがくる頃合いか……既に魔術師ですらなくなった我が身を自嘲し、ケイネスは乾いた笑みを浮かべた。
「ランサー、出向いて蹴散らせ。容赦はいらぬ」
「御意」
頷くや否や、即座にランサーは霊体化して姿を消した。
助手席のアイリスフィールに指示されるがまま、セイバーが運転するメルセデス300SLは、次第に新都区域を東へと外れ、人気のない郊外へと分け入っていった。
「この道を真っ直ぐに進めば、左手に廃工場が見えてくるはずよ。そこが……ランサーたちの拠点らしいわ」
その所在と道順は、つい先程、携帯電話によって切嗣からアイリスフィールにもたらされた情報である。
未遠川での激戦の後、一言もなく姿を消したランサーは、おそらくマスターの元へと舞い戻ったのだろうと察しがついたが、その居所を掴んだという切嗣の報告が届いた途端、セイバーは即座の行動を主張した。
「それにしても……大丈夫? この連戦、あなたにとっては負担じゃないの?」
「問題ありません、アイリスフィール。むしろランサーとの対決は、今夜のうちにこそ果たしたい」
凛然《りんぜん》とそう宣言した後で、今度はセイバーが気遣わしげに助手席を一瞥する番だった。
「貴女こそ、アイリスフィール、大丈夫なのですか? さっきから様子が優れないように見えるのですが」
メルセデスのステアリングを繰る一方で、セイバーは傍らのアイリスフィールの青褪めた血色と、しきりに額の汗を拭う挙措《きょそ》を目敏《めざと》く見咎めていた。川辺を離れてしばらく経ってから、ずっとこの調子である。平静を装ってこそいるものの、彼女が無理を押しているのは傍目にも明らかだ。
「……気にしないで。セイバー。あなたさえ隣にいれば……
あ、見て。あの建物。たぶんあれが問題の廃嘘よ」
まだ新都地区に新興住宅街としての絵図面が描かれるよりはるか以前の、おそらくは製材所か何かの跡地であろう。開発の波に取り残され、華やかな街の賑わいから忘れ去られたかのようなその場所は、枯《か》れ薄《すすき》の茂る丘の中腹に、ひっそりと佇んでいた。
開け放たれたままの門から敷地の中へと徐行で乗り入れ、セイバーはメルセデスのエンジンを止める。車外に降り立ったアイリスフィールは、静まりかえった周囲に油断なく視線を配り、頷いた。
「――たしかに、魔術結界の痕跡がある。でも妙ね。手入れもろくにしてないのか、もう綻《ほころ》びかかってるわ」
「いや、この場所で正解です。アイリスフィール」
遅れて運転席から降りたセイバーが、静かな面持ちで断言する。研ぎ澄まされた剣士の直感は、いち早く決戦の気配を嗅《か》ぎ取《と》っていたのだろう。
果たして――セイバーの宣言に応じるかのように、艶貌《えんぼう》の槍兵は、寂れきった廃墟を背にして忽然《こつぜん》とその姿を現していた。
「よくぞこの場所を見破ったな。セイバー」
「私の――味方が調べ上げて、報せてきた。ここが貴方の所在だと」
つい『マスターが』と言いそびれたのは、セイバー自身すら自覚しなかった感情の機微によるものだった。真のマスターが誰なのかは秘匿する方針であるという認識もある。が、それ以上に彼女の中では、切嗣を主《あるじ》として認めたくないという心境の方が大きく影を落としていた。
ランサーは、いつになく重く沈んだ面持ちで、しばし言葉を選ぶかのように逡巡《しゅんじゅん》してから、やがてひとつの問いを来訪者に向けた。
「我が主《あるじ》の許嫁がいま何処にいるか……セイバー、よもやおまえに心当たりはあるまいな?」
セイバーとアイリスフィールは、共に当惑の面持ちで、互いに顔を見合わせる。
「知らないが――それが何か?」
「いいや。忘れてくれ」
ランサーの長い溜息には、失意より安堵の割合がはるかに大だった。もとよりセイバーに対しては問いたくもない質問だったのだ。ひとたび好敵手と認めた相手が、人質などという姑息な手段に訴えるなどという可能性は、彼にとっては想像するだけでも厭わしいものだった。
「――ところで、いいのかセイバー? よもや世話話に興じに来たわけでもなかろうが、キャスター相手にあれだけの大技を放ったおまえには、それ相応の消耗があるのでは?」
「それは他のどのサーヴァントも同じこと」
事も無げにセイバーはそう流した。たしかに彼女の言うとおり、先刻の河岸での戦いでは、何の消耗もなく無事に切り抜けた者はいない。
「もう今夜は、誰もがこれ以上の荒事を控えて守りに入っているはずだ。――だからこそ、こと今夜に限っては、余計な横槍が入る心配もない」
静かな闘気を総身に滾《たぎ》らせたまま、セイバーが一歩進み出る。華奢《きゃしゃ》な矮躯を威容と錯覚させるほどの気迫は、やがて輝く魔力を伴って、彼女の金身を輝く甲冑で包み込む。
「既に夜明けも程近いが……残り少ないこの夜を逃せば、我ら二人が心置きなく雌雄《しゆう》を決する好機が、次にいつまた訪れるか知れたものではない。今を逃す手はないと私は思う。――どうだ? ランサーよ」
秘めた憂いに表情の失せていたランサーの美貌が、このとき、ようやく微笑の兆しを顕《あらわ》した。
「セイバーよ……この胸の内に涼風を呼び込んでくれるのは、今はもう、おまえの曇りなき闘志のみだ」
セイバーもまた、内心ではランサーの覇気のなさを訝《いぶか》る気持ちがなきにしもあらずだったが、彼の笑みを目にしたことで、すべてを杞憂と割り切ることができた。ああいう笑い方が出来る男には、どんな遠慮も気遣いも無用だ。それはすべてを乗り越えて己の信念を全うできる者だけが浮かべることのできる微笑であった。
ランサーは、胸の内の悲嘆と鬱屈をすべて払い飛ばすかのように赤い長槍を振りかざすと、その切っ先をセイバーに向けてぴたりと正眼に突きつけた。
セイバーもまた風王結界を解き放ち、旋風の中から宝剣の黄金を露わにする。ディルムッドの|破魔の紅薔薇《ゲイ・ジャルグ》を前にしては、空気圧による刀身の隠蔽も意味を成さない。
そして何より、時空の彼方で巡り会ったこの好敵手は、己が誇りの具現たる宝剣の光で照らすに相応しい英霊であると、今や騎士王は揺るぎなく確信していた。
ほのかに黎明《れいめい》に染まりはじめた透明な空気の中で、二人のサーヴァントの闘気が音もなく張り詰め、鬩《せめ》ぎ合う。感受性の強い者ならば、その気迫に中てられただけでも実際の斬撃に等しいショックを受け、心臓麻痺を起こしていたかもしれない。居合わせるアイリスフィールも、全身の細胞が必殺の予感に竦み、息どころか脈すらも滞《とどこお》らせる程だった。
そして――踏み込みの一歩と裂帛の気合いは、彼我ともに同時。
三日と一夜のあいだ預けられたままだった両雄の激突が、今ここに再演の誓いを果たす。
その状況は、前々日の夜の倉庫街における対峙の再現でありながら、再び斬り結んだ二人の鍔競《つばぜ》り合いは初戦の再演には程遠く――より短絡にして苛烈《かれつ》、愚直にして凄絶な、真っ向切っての力と力のぶつかり合いだった。
もはや互いに惑わすことも、探り合うこともない。ランサーの槍ははなから一本。セイバーの剣もまた太刀筋を露わにしたままで、共に奇策も秘策もない。より速く、より重く、どちらも相手の一撃を凌駕《りょうが》する会心の一撃を追い求めて、ただひたすらに刃を趨らせ交錯させる猛烈なる攻め技の応酬が繰り広げられる。
絡《から》み合《あ》うように鎬《しのぎ》を削る宝剣と魔槍の火花は、まさに百花繚乱《ひゃっかりょうらん》の狂い咲き。人外のパワーとスピードで駆使される伝説の宝具の衝突は音速を超えて光速に迫り、観測が意味を失う領域の瀬戸際で極限の冴えを競い合っていた。
いったい一〇合なのか一〇〇合なのか、それすらも肉眼では判別しきれなかった剣戟《けんげき》を交わしてから、やおら両者は距離を開け、互いの間合いから離脱する。
「セイバー、おまえは――」
言葉尻を浮かせて言《い》い淀《よど》むランサーの面持ちには、苦々しい当惑の色があった。
今夜のセイバーの剣戟は、僅かながらも明らかに、初戦の時よりも軽くて鈍い。その差を見逃すランサーではなかった。それはセイバーの消耗によるものではなく、剣を繰る彼女の戦術そのものが異なるせいだった。
セイバーは左手の親指を固く掌の内に握り込んだままで、剣の柄に絡ませていない。残る四指の先だけを柄に引っかけるのみに留め、僅かに剣先のコントロールを補助しているだけで、その斬撃には左の腕力がまるで込められていないのだ。
ここ一番の決戦と自ら宣言しておきながら、セイバーは故意に左手を使わず、右手一本で黄金の剣を執っていた。
その理由は、無論、ランサーにとっては歴然である。
たしかにランサーは、一度は魔槍『|必滅の黄薔薇《ゲイ・ボゥ》』によってセイバーの左手握力を封殺したものの、先の対キャスター戦において呪いの黄槍を破棄し、手ずから勝ち取ったアドバンテージを反故《ほこ》にするという挙に出ている。誇り高きセイバーが、そんなランサーの譲歩に甘んじることを潔しとせず、敢《あ》えて自らの片手を封じたまま戦いに臨むというのなら、成る程、騎士王の意地こそ遖《あっぱれ》と讃えるしか他にない。
だが――それは潔癖な譲歩ではあっても、ランサーが心底から歓迎できるものではなかった。
『|必滅の黄薔薇《ゲイ・ボゥ》』を捨てたことにより、いらぬ配慮をセイバーに強要することになったのだとしたら、それは結果としてランサーの行為が、二人の尋常なる決着に水を差したことになってしまう。互いに何一つ思い残すことのない、死力を尽くした勝負こそがランサーの望むところである。セイバーが、過ぎた成り行きに拘《こだわ》って手心を加えているとなると、この勝負はランサーにとって些か以上に心苦しいものになる。
「――勘違いは困るぞ、ランサー」
そんなランサーの心中を察したのか、セイバーは凛然と澄《す》ました面持ちのまま、小さくかぶりを振った。
「今ここで左手を使えば、きっと慚愧《ざんき》が私の剣を鈍らせる。貴方《あなた》の槍の冴《さ》えを前にして、それは致命的な不覚となるだろう」
「セイバー……」
「故《ゆえ》に、ディルムッドよ。全力で貴方を倒すための、これが私にとって最善の策[#「策」に傍点]だ」
セイバーは毅然《きぜん》と言い放ち、片手で掲げるには重すぎる長剣を、低く下段に構え直す。その双鉾に宿るのは、凛烈にして透明な闘志のみ。油断もなければ躊躇もない。
きっと彼女にとっては、手傷の多さも膂力《りょりょく》の差も、勝負においてはあくまで二次的な要因に過ぎないのだろう。アルトリアの剣に勝利をもたらす最大の要素《ファクター》とは、いかにその戦意を曇りなく研ぎ澄まし得るか、その一点に懸かっているのだ。
自らの迷いを断つためならば、腕一本すら惜しくはない。――胸に秘めた誇りこそを最大の武器と弁《わきま》える、それは騎士の王たる者の貴すぎる在り方だった。
今のセイバーは紛れもなく必死≠ナあった。彼女もまたそういう境地で決着する勝負をこそ望んでいる。――そう理解したランサーの身体の芯に、烈《はげ》しくも心地よい痺れが宿る。
「……騎士王の剣に誉れあれ。俺は、おまえと出会えて良かった」
両者とも、望むところは共に同じ。
いずれも譲れぬ一本の道ならば、先へと進む一人の背中は、後に残る一人からの敬意によって見送られなければならない。
なればこそ――後顧なく、未練なく、命を賭した刃の真価を問うに足るだけの戦いを。
ともに引き締めた緊迫の面持ちが、ともに口元に微笑を刻む。
「フィオナ騎士団が一番槍、ディルムッド・オディナ――推して参る!」
「応とも。ブリテン王アルトリア・ペンドラゴンが受けて立つ。――いざッ!」
ふたたび激突し乱舞する白刃の閃光は、武を本分とする者たちの歓喜に輝いてさえ見えた。
[#改ページ]
-72:37:17
廃工場の奥の暗がりに身を潜めたまま、外で演じられる戦いの行方を見守っていたケイネスの胸中は、当の騎士たちの清廉な覚悟とは裏腹に、ただ焦燥の一念に焼かれていた。
勝負が長引けば長引くほどに、焦れる想いが歯を軋らせる。
なぜ勝てない?
あそこまで舐められ、手心を加えられておきながら、なぜランサーの槍はセイバーに届かない?
煎《せん》じ詰《つ》めれば、答えは明白――要するにランサーは弱いのだ。セイバーより遙かに劣るのだ。
今となっては、イスカンダルの英霊を掴み損なったことが悔やまれてならない。
当初の予定通りに征服王をサーヴァントとして手中に収めていれば、きっとこんなごとにはならなかった。土壇場で聖遺物を盗まれ、急遽《きゅうきょ》、代わりのサーヴァントとして見繕《みつくろ》ったディルムッドではあったが、たとえ格の落ちる英霊であったとしても、マスターとなる自分が紛れもなく一流である以上、多少の不利はどうとでも補える。サーヴァントが至らぬ部分は自らの才覚で補えば良いと、ロード・エルメロイにはそんな不敵な魂胆《こんたん》さえあった。
だが魔術回路を失った今、かつての楽観はケイネスにはない。唯一残った一度限りの令呪と、劣等なサーヴァントを使いこなして戦いを生き残るには、これまで以上に慎重な配慮をしていくしかない。
確実なる勝機がないのなら、いっそマスターを連れて逃げるべきなのだ。一体どういう経緯で『|必滅の黄薔薇《ゲイ・ボゥ》』を失ったのかはまだ聞き出していないが、ともかく左手の治癒《ちゆ》を許した以上、セイバーに対する勝算はますます薄くなったはずだ。
そんな際どい戦闘に拘泥《こうでい》している場合ではない。より優先すべき任務がランサーにはある。ソラウの居場所を探り当て、救出することは、今のケイネスにはとても一人では成し果《おお》せない。サーヴァントを使役しなければまずもって不可能だ。
なのに――一体どこまであのランサーは愚鈍《ぐどん》なのか? その程度の状況判断すらままならないのか?
歯痒《はがゆ》さのあまりケイネスは頭を掻きむしった。いっそここで令呪を使ってしまえればどんなに楽か。なぜ手元に残った令呪が最後の一画限りなのか。ソラウが持ち去った二画があまりにも惜しい。彼女さえ、ケイネスのことを信頼していてくれたなら……
そのとき、ふいに不自然な風の流れがケイネスの項《うなじ》をくすぐった。
はたと身を竦ませたその手元に、一枚の紙片が舞い落ちる。何の変哲もないメモ用紙。だがそこに簡潔に記された文章は、ケイネスの目を釘付けにした。
『――恋人を死なせたくなければ、声を立てずに後ろを見ろ――』
凝然と目を見開いたまま、ケイネスはそっと車椅子の車輪を巡らせて身体の向きを変える。闇に塗り込められた廃工場の奥に、天窓からの黎明がそこだけスポットライトのように差し込む一画がある。
淡く冷たいその光の中に、眠るように横たわる女の輸郭《りんかく》があった。
「……ッ!」
いかに薄暗くても、遠目であろうとも、その風貌を見誤るケイネスではない。
青褪めたソラウの顔は、何があったのか痛々しく窶れてこそいたが、口元に被さった一房の髪が微風にそよいで震えている。呼吸の証だ。まだ生きている。
風に運ばれてきたメモ書きの戒めを忘れ、ケイネスが思わず声を上げそうになったところで、さらにもう一人の人物が、さながら闇から浮かび上がる幽鬼のように、淡い光の輪の中に踏み出して姿を晒した。
くたびれたコートに、手入れの足りない頭髪と無精髭《ぶしょうひげ》。見るからに冴えない風貌とは裏腹に、その双眸だけが炯々《けいけい》と刃の光を放つ。――忘れもしない、ケイネスの魔術回路を無惨に引き裂いたあの男。恨み連なるアインツベルンの飼い犬だ。
おそらくはセイバーとランサーが戦いに没頭している隙に、意識のないソラウを運んで裏口から忍び込んできたのだろう。男が手にした短機関銃の銃口は、横たわるソラウの脳天に、揺らぐことなくぴたりと据えられている。
よりにもよって……奴が……ッ!
その蛇のような冷酷さと周到さを身を以て思い知らされているケイネスは、沸き上がる怒りや憎しみより――それらになお勝る深い絶望に、がっくりと項垂《うなだ》れた。
思いつく限り最悪の展開だ。誰よりも想定したくなかった最悪の敵の手に、愛する女が捕らわれている。
だがパニックに陥る一歩手前で、理性の声がケイネスを踏みとどまらせる。
あの男がわざわざ姿を晒し、ソラウの無事を確かめさせたことには、きっと何らかの意味があるはずだ。
「……」
ケイネスは肩越しに背後を伺い、廃嘘の前の敷地で剣戟に明け暮れるランサーの姿を一瞥した。戦う二人のサーヴァントからは、ソラウたちがいる位置は死角になっていて見通せない。両者とも目の前の敵に処するのに全身全霊を傾けたまま、新たなる闖入者《ちんにゅうしゃ》にはまったく気付いた様子がない。
男の意図するところが何なのか、確たる予想もつかぬまま、ともかくケイネスは無言の首肯で、相手の意向に従うことを示した。
すると男は、空いている方の手でコートの懐から一巻きの羊皮紙《ようひし》を取り出し、無造作に拡げてから宙に放り上げた。先のメモ用紙とは比較にならない重量のある羊皮紙だったが、ただ風に乗せて運ぶだけならごく簡易な気流操作で事足りる。羊皮紙はクラゲのようにゆらゆらと浮遊して虚空を渡り、そっとケイネスの膝上に舞い降りた。
余人には何ら意図の汲《く》めない図版と記号の羅列に見えただろうが、その記述はケイネスにとっては慣れ親しむほどに見慣れた格式の、一分の隙もなく定型通りの術式文書だった。――ただしその内容は、そうそう滅多なことで見かけるものではなかったが。
―――――――――――――――――――
束縛術式:対象――衛宮切嗣
衛宮の刻印が命ず:下記条件の成就を前提とし:誓約は戒律となりて例外なく対象を縛るもの也:
:誓約:
衛宮家五代継承者、矩賢《のりかた》の息子たる切嗣に対し、ケイネス・エルメロイ・アーチボルト並びにソラウ・ヌザァレ・ソフィアリの両人を対象とした、殺害、傷害の意図および行為を永久に禁則とする
:条件:
…………………………………………………………………
―――――――――――――――――――
「……ッ!」
自己強制証文《セルフギアス・スクロール》――権謀術数の入り乱れる魔術師の社会において、決して違約しようのない取り決めを結ぶときにのみ用いられる、もっとも容赦ない呪術契約のひとつ。
自らの魔術刻印の機能を用いて術者本人にかけられる強制《ギアス》の呪いは、原理上、いかなる手段を用いても解除不可能な効力を持つ。たとえ命を差しだそうとも、次代に継承された魔術刻印がある限り、死後の魂すらも束縛されるという、決して後戻りのきかない危険な術だ。この証文を差し出した上での交渉は、魔術師にとっては事実上、最大限の譲歩を意味する。
ケイネスとて、そうそう何度も目にしたことはないが、たしかに書面は正式で何ら不備はない。宣誓者本人の血で記された署名には明らかに魔力が脈動し、すでに呪戒が術として成立し機能していることを証明している。
つまり――証文の後半に記された条件が成立した時点で、あの男、衛宮切嗣が自由意志の一部を放棄することは、解除不可能な呪いによって既に決定づけられているのだ。
ケイネスは震える手で羊皮紙を握りしめたまま、何度も繰り返し、誓約成立の条件文を読み直した。次にもう一度目を通せばその内容に変化が生じるのではないかと希《こいねが》うかのように、幾度となく執拗に記述を目で追い、せめてその内容に違う解釈が成り立つ余地はないかと必死に思考を巡らせた。
だが動転する思考とは別の、心の中のいちばん醒めた部分で、ケイネスはすでに自らの屈服を認めていた。自分自身と、その愛する女が、生きて再び故郷へ帰還し得るという可能性――事ここに至っては、まさにそれこそが、望みうる全てではあるまいか。
あと数瞬でも躊躇すれば、衛宮切嗣は手にした銃の引金を絞ることだろう。そして一発目の銃弾がソラウの命を奪った後、あの銃口はそのままケイネスへと向けられるに違いない。選択の余地などどこにもないのだ。全てを喪うか、あるいはこの証文だけを最後に掴んで縁《よすが》とするか……それだけの違いしかない。
そうして、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの心は砕けた。
最後に一画だけ残された右手の令呪を、彼は昏く虚ろな、抜《ぬ》け殻《がら》のような眼差しで見据えて、それからランサーのマスターとして最後の強権を発動した。
何の前兆もなく、脈絡もなく――艶やかなる朱は地に咲いた。
驚愕は等しく全員のものだった。セイバーも、アイリスフィールも、そして当のランサーすらも、そのまったく予期すらしなかった唐突すぎる結末に、愕然と目を見開くしかなかった。――わけても当事者たるランサーの驚きこそ、最たるものだっただろう。その激痛と絶望に対して、彼には何の予感も覚悟も持ち合わせていなかったのだから。
赤い槍の竿を伝って地面に滴り落ちる紅蓮の花を、ランサーは呆然と言葉もなく凝視していた。いかに信じがたくとも、それは彼自身の鮮血だった。
頼みの愛槍の切っ先は彼の心臓を抉っていた。そこへ刃を力の限りに突き入れたのは、他でもない彼自身の両腕だった。
勿論、意図したわけでも、望んだわけでもない。彼の赤槍が抉るとすれば、それはセイバーの心臓のはずだった。彼の心臓が抉られるとすれば、それはセイバーの剣によるものだとばかり思っていた。
その闘志を、その覚悟を、完全に無視した上で彼の肉体から随意を奪ったもの……それが叶うほどの強要は、当然ながら令呪の他には有り得ない。
セイバーとの決闘に専念するあまり、そのすぐ傍らの、暗い廃工場の闇の中で交わされた密やかなる盟約について、ランサーには最後まで察知できなかったのだ。
『残る全ての令呪を費やして、サーヴァントを自決させる』――それが衛宮切嗣の提示した、自己強制《セルフギアス》の発動条件であった。令呪をすべて消費させ、なおかつサーヴァントを完全消滅させる、もっとも完全無欠な形での聖杯戦争からの撤退を、ケイネスは要求されたのである。
「あ……」
ランサーの見開かれた両目から、赤い涙が流れ落ちる。
彼にとって、主君による謀殺はこれが二度目だ。その不遇なる結末を覆す事だけに執心し、ふたたび英霊の座より罷《まか》り越《こ》して現界することを悲願したディルムッド・オディナ。だがその結果として彼にもたらされたのは、かつての悲劇の再現――あの絶望と慟哭の、全き追体験でしかなかった。
血の涙に濡れた瞳で、英霊は背後を振り向く。折しもそこには、彼の結末を見届けるために廃工場から出てきた二人のマスターの姿があった。虚ろに呆けた面持ちで車椅子に座るケイネスと、その傍らで、意識を失ったソラウの身体を抱きかかえたまま佇む一人の男。アインツベルンの城で見た、名前も知らぬセイバーの真のマスター。
「貴様らは……そんなにも……」
地面に流れ拡がる自らの血溜まりに跪き、ランサーは低く掠れた声を絞り出す。
「そんなにも勝ちたいか!? そうまでして聖杯が欲しいか!? この俺が……たったひとつ
懐いた祈りさえ、踏みにじって……貴様らはッ、何一つ恥じることもないのか!?」
その美貌は憤怒の血涙に歪み、いまや見る影もない鬼相と化していた。憎しみに我を忘れたランサーは、もはや誰彼の見境もなく、切嗣に、セイバーに、そして世界の全てに向けて、喉も張り裂けよとばかりに怨嗟の叫びを吐き散らした。
「赦さん……断じて貴様らを赦さんッ! 名利に憑かれ、騎士の誇りを貶めた亡者ども……その夢を我が血で穢すがいい! 聖杯に呪いあれ! その願望に災いあれ! いつか地獄の釜に落ちながら、このディルムッドの怒りを思い出せ!」
現界を解《ほつ》れさせ、茫洋たる影へと崩れていきながら、彼は消えゆく最後の瞬間まで、呪詛の禍言《まがごと》を叫んでいた。そこに輝かしき英霊の姿はなく、ただ怨念に吼える悪霊の声だけを残響させて、やがてランサーのサーヴァントは完全に消減した。
「……」
茫然自失《ぼうぜんじしつ》の面持ちのまま、ランサーの消失した後の空間を眺めているケイネスの膝元に、切嗣は、まだ昏睡を続けるソラウの身体を無造作に預け渡した。恋人の窶れた寝顔をそっと手で撫でさすりながら、ケイネスは力の失せた声で切嗣に問う。
「――これで、おまえには強制《ギアス》が?」
「ああ、成立だ。もう僕にはおまえたちを殺せない」
ゆっくりと後ろへ下がりながら、切嗣はポケットから取り出した煙草を銜《くわ》えて火を点《とも》す。――或いはそれが、合図だったのかもしれない。
「僕には、な」
彼が低く呟いたそのときにはもう、遠く離れた物陰ですべての成り行きを見守っていた久宇舞弥が、既にステアー突撃銃の引金を深く静かに引き絞っていた。
暗視照準器のレティクルに捉われていたケイネスとソラウに、フルオート射撃の銃弾が容赦なく浴びせられる。もはや月霊髄液の保護もなく、身を挺《てい》して庇《かば》うサーヴァントもいない二人にとって、5.56mm高速弾の洗礼は逃れようもない死の風だった。かつてあれほど軽視していた銃弾の猛威によって、魔術師とその許嫁は全身を引き裂かれながらコンクリートの地面に放り出された。
魔術としての自己強制《セルフギアス》の機能に仕掛けられたトリックばかりを疑って、肝心の宣誓内容そのものに潜んでいた陥穽《かんせい》を見逃したことが、ついに天才魔術師の命運を奪うこととなったのだ。
「ぐ、ぁ……あァ……ッ!!」
痛みすら感じる間もなく即死したソラウはむしろ幸いだったかもしれない。ケイネスは蜂《はち》の巣にされて車椅子から転げ落ちた後も、無惨なことにまだ呼吸を止めていなかった。むろん致命傷は全身数カ所に渡り、どうあっても救命の望みはない。たとえ秒読みとなった余命でも、そのすべてを死の苦しみに悶えて過ごすなら、それは残酷なはどに長すぎる時間だっただろう。
「……が……殺、せ……ッ……殺し、て……」
「悪いが、それは出来ない契約だ」
足許から弱々しく乞う声に一瞥をくれることもなく、切嗣は吸い込んだ紫煙を長々と吐きながら、淡泊な声で応じた。
痛みに噎《むせ》び泣く声は、だがそれ以上続くこともなかった。見かねて駆け寄ったセイバーの剣が、一閃のもとにケイネスの首を刎ねて、その苦悶を終わらせたからだ。
かくして騎士王の剣はランサーとの誓いを果たすことなく、代わりに栄誉とも誇りとも程遠い、介錯の血にだけ穢れることとなった。
「衛宮、切嗣――」
翠緑《すいりょく》の瞳は冷ややかに燃えていた。それは仲間を見る目ではなく、広義における味方に対して向ける視線でもない。かつてキャスターの狂気に、黄金のアーチャーの驕慢《きょうまん》に向けられたのと全く同じ、仇敵と見定めた者を射抜くためだけの刃の眼差しであった。
「今ようやく、貴様を外道と理解した。道は違えど目指す場所は同じだと、そう信じてきた私が愚かだった……」
依然、切嗣が無言のままでも、もはや問答の余地もない。たったいまセイバーが目にした所行は、邪悪∴ネ外の何物でもないのだから。
「私はこれまで、アイリスフィールの言葉であれば信に足ると、そう思って貴様の性根を疑うことはしなかった。だが今はもう、貴様のような男が聖杯を以て救世を成すなどと言われても、到底信じるわけにはいかない。
答えろ切嗣! 貴様は妻すらも虚言で踊らせてきたのか? 万能の願望機を求める真の理由は何だ!?」
「――」
切嗣は――その眼差しだけは、まるで厭わしいものを眺めるかのようにセイバーを見据えていても、よれた煙草を燻《くゆ》らす口元には、依然、ただ一言の言葉が上ることもない。それは吼えかかる野犬を眺める目つき。そこにあるのは、最初から言葉で解り合うことを全面的に放棄した、決定的な断絶だけだった。
斬るしかない、と、そう諦観に似た静かな決意を、既にセイバーは懐きつつあった。
この主《マスター》には、もはや剣を向けるしか他にない。たとえ令呪に阻まれ果たせずとも、この断絶は明確な敵意として形にするしかない。それは聖杯戦争における彼女の陣営の破綻《はたん》を決定づけることになるだろう。だがどのみち、衛宮切嗣と共に歩む限りは、彼女が真に望む聖杯に至るとは到底思えない。
「たとえ我が剣が聖杯を勝ち取ったとしても、それを貴様の手にも託す羽目になるのだとしたら、私は……」
脳裏を過ぎるカムランの落日、心に秘めた悲願の祈りが、セイバーの言葉を最後の最後で掠れさせる。
その悲痛な空白に、彼女のすぐ背後から別の声が割り込んだ。
「答えて、切嗣。いくら何でも今回は、あなたにも説明の義務があるわ」
夫に全幅の信頼を寄せていたアイリスフィールも、流石に今度ばかりは声音を固く尖《とが》らせるしかなかった。
セイバーと違って彼女は、夫の思考と方法論について充分に承知していたし、それを理解してもいた。だが言葉で語り聞かされてきた理念と、眼前で繰り広げられたその実演とでは、衝撃の度合いにおいて雲泥の差があった。
ついさっきランサーにロード・エルメロイの縁者について問われたときも、内心では『まさか』という冷たい予感めいたものを感じながらも、彼女の中の良識はその可能性を否定した。いくらなんでも、そこまでは、と……
結局、妻であるアイリスフィールでさえ、切嗣の悪辣さを見くびっていたということだ。
「――そういえば、僕の殺し方≠直に君に見せるのは、これが初めてだったね。アイリ」
それまでの貝のような沈黙とはうって変わって、衛宮切嗣は乾いた声で応答した。セイバーを見つめていた昏く冷淡な眼差しは、アイリスフィールへと転じた途端に、恥じ入るような萎れた感情を露わにした。
「ねえ切嗣、私ではなくセイバーに話して。彼女には貴方の言葉が必要よ」
「いいや。そこのサーヴァントには話すことなど何もない。栄光だの名誉だの、そんなものを嬉々としてもてはやす殺人者には、何を語り聞かせても無駄だ」
あくまでアイリスフィールと会話する体裁のままに、彼はセイバーに対する侮辱の言葉を臆面《おくめん》もなく口にした。無論、それを看過するセイバーではない。
「我が眼前で騎士道を穢すか、外道ッ!」
柳眉を逆立てた騎士王の一喝にも、切嗣はまったく動じない。依然セイバーは眼中にないかのように、その眼差しを妻にだけ向けたまま、だが彼は、ここに至ってようやく胸の内をさらけ出すかのように、滔々と語りはじめた。
「騎士なんぞに世界は救えない。過去の歴史がそうだったように、今これからも同じことだ。こいつらはな、戦いの手段に正邪があると説き、さも戦場に尊いものがあるかのように演出してみせる。歴代の英雄どもがそういう幻想を売り込んできたせいで、いったいどれだけの若者たちが武勇だの名誉だのに誘惑されて、血を流して死んでいったと思う?」
「幻想ではない! たとえ命の遣り取りだろうと、それが人の営《いとな》みである以上、決して侵してはならない法と理念がある。なくてはならない! さもなくば戦火の度《たび》に、この世には地獄が具現する羽目になる!」
凛然と反駁する声に、だが切嗣は鼻を鳴らす。
「ほら、これだ。――聞いての通りさアイリ。この英霊様はよりにもよって、戦場が地獄よりマシなものだと思ってる。
冗談じゃない。いつの時代も、あれは正真正銘の地獄だ。戦場に希望なんてない。あるのは掛け値なしの絶望だけ。敗者の痛みの上にしか成り立たない、勝利という名の罪科だけだ。
その場に立ち会ったすべての人間は、闘争という行為の悪性を、愚かしさを、弁解の余地なく認めなきゃならない。それを悔やみ、最悪の禁忌としない限り、地獄は地上に何度でも蘇《よみがえ》る」
冷酷無比なる鉄面皮でしか切嗣を知らなかったセイバーにとって、そこには初めて目にする衛宮切嗣の横顔があった。――底知れぬ悲憤、悲嘆に擦り切れるまで打ちのめされた男の、それは怨嗟にも似た独白だった。
「なのに人類はどれだけ死体の山を積み上げようと、その真実に気付かない。いつの時代も、勇猛果敢な英雄サマが、華やかな武勇|譚《たん》で人々の目を眩ませてきたからだ。血を流すことの邪悪さを認めようとしない馬鹿どもが余計な意地を張るせいで、人間の本質は、石器時代から一歩も前に進んじゃいない!」
その目に宿す怒りの念は、はたして誰に向けたものなのか――それはもう問うまでもない。
この冬木の地で戦いの火蓋が斬って落とされたその日より、目の前で颯爽《さっそう》と武勇を誇る英霊たちの輝かしい姿を、切嗣は抑えきれぬ憤怒とともに見守ってきたのだろう。
英名を遺す者、英名に憧《あごが》れる者、その双方に向けた遣り場のない怒り……それは人々の祈りが『英霊』という概念を生み出す構造そのものへの憎しみだった。
「――それじゃあ切嗣、あなたがセイバーに屈辱を与えるのは……英霊に対する憎しみのせい?」
「まさか。そんな私情は交えないさ。僕は聖杯を勝ち取り世界を救う。そのための戦いに、もっとも相応しい手段で臨んでいるだけだ」
定石《じょうせき》通りの戦いであれば、ソラウを捕縛するのでなく速やかに殺していれば、魔力供給を絶たれたランサーはほどなく自然消減していただろう。だが切嗣は、はぐれサーヴァントとの再契約という形での敗者復活の可能性さえ摘み取る方針だったのだ。対キャスター戦の展開如何では、冬木教会に保護されていたケイネスが再び令呪を得ることも有り得ると想定し、ここまで婉曲な罠《わな》を準備した。
敵マスターの令呪を以てサーヴァントを消滅させ、その後にあらためてマスターも抹殺するという、完全無欠の障害排除……そこでセイバーに求められたのは、ランサーに勝利することでなく、切嗣がケイネスを籠絡《ろうらく》する間だけランサーの注意を逸《そ》らしておくという陽動の役だけだったのだ。
「今の世界、今の人間の在りようでは、どう巡ったところで戦いは避けられない。最後には必要悪としての殺し合いが要求される。だったら最大の効率と最小の浪費で、最短のうちに処理をつけるのが最善の方法だ。それを卑劣と蔑むなら、悪辣と詰《なじ》るなら、ああ大いに結構だとも。正義で世界は救えない。そんなものに僕はまったく興味ない」
「……」
セイバーは、消えていくランサーが最後に遺した怨嗟の眼差しを思い起こした。そして血溜まりに転がる男女の無惨な骸を、その死相に刻み込まれた苦悶の色を、いたたまれぬ想いで直視し、見据えた。
「だがそれでも、貴方は――」
思うところを口にしようとしたセイバーは、自身の声が思いのほか低く平静なことに気がついた。そこでようやく彼女は、切嗣に向ける複雑な感情が、ついさっきの憤怒ではなく、ある種の憐憫へと入れ替わっていることを意識した。
そう、これは憐れむべき男なのかもしれない。
救済は世界にとってではなく、彼自身に対して必要なのではあるまいか。
「――衛宮切嗣。かつて貴方が何に裏切られ、何に絶望したのかは知らない。だがその怒りは、その嘆きは、まぎれもなく正義を求めた者だけが懐くものだ。
切嗣、若き日の本当の貴方は、『正義の味方』になりたかったはずだ。世界を救う英雄を、誰よりも信じて、求め欲していたはずだ。――違うか?」
それまで切嗣がセイバーに対して示してきた態度は、全くの黙殺か、あるいは冷ややかな蔑視か、そのいずれかでしかなかった。だが今、静かに質すセイバーの声を聞いた切嗣は――このとき初めて、彼のサーヴァントに向ける眼差しに、それ以外の情念を露わにした。
深く、煮えたぎるような怒りの念を。
黎明の静寂を掻き乱し、自動車の排気音が近づいてきた。やがてヘッドライトを煌々《こうこう》と照らしながら廃工場の敷地に乗り入れてきたのは、久宇舞弥が運転するライトバンだった。狙撃手としての役を終えた後、新都へ戻る切嗣を迎えに来たのだろう。
切嗣はセイバーから目を逸らすと、あとは振り向きもせずにライトバンに歩み寄り、助手席のドアに手をかけた。その背中に、なおもセイバーは言葉を投げる。最後に一言、どうしても言っておかねばならないことがあった。
「切嗣……解っているのか? 悪を憎んで悪を為すなら、後に残るのも悪だけだ。そこから芽吹いた怒りと憎しみが、また新たな戦いを呼ぶだろう」
重い声で嘯くセイバーの言葉に、切嗣は、はじめて応じる気になったのか振り向こうとして――だが結局、思い直したかのように目を背け、虚空に視線を据えたまま、
「終わらぬ連鎖を、終わらせる。それを果たし得るのが聖杯だ」
そう、誰にともなく独言《ひとリごと》のように嘯いた。
「世界の改変、ヒトの魂の変革を、奇跡を以て成し遂げる。僕がこの冬木で流す血を、人類最後の流血にしてみせる。
そのために、たとえこの世の全ての悪[#「この世の全ての悪」に傍点]を担うことになろうとも――構わないさ。それで世界が救えるなら、僕は喜んで引き受ける」
「……ッ」
限りなく静かに冷ややかに、胸の内の決意を言い放つ切嗣に対し、セイバーはもう何一つ諫《いさ》める言葉を持ち合わさなかった。
たとえその手段と道筋が、許容しがたいほどの邪悪であったとしても――聖杯を望むその信念に曇りはない。認めざるを得なかった。この戦いで聖杯を捧げるべきマスターがいるとしたら、それは衛宮切嗣をおいて他にはない、と。
切嗣を乗せて走り去るライトバンを、無言のまま見送るセイバーの元に、曙光《しょこう》の最初の一筋が差し込む。冬木を魔境と成さしめる夜の闇は去り、街は陽光とともにふたたび日常≠ニいう名の仮面を被る。
「切嗣は……もう、行ったわね?」
「――アイリスフィール?」
その問いを怪訝《けげん》に思う暇もあらばこそ、セイバーはすぐさまアイリスフィールの異常に気がついた。
虚ろに宙を泳ぐ視線。蒼白の血色。そして滝のように額を流れ落ちる汗……
きっと夫が傍にいる間だけは異常を気取られまいと気を張っていたのだろう。その緊張が失せた途端、アイリスフィールは立ったままに昏倒し、糸が切れた人形のようにその場に頽《くずお》れかかった。
咄嗟に抱き留めたセイバーだったが、腕に抱いた細い身体の異常な発熱に、彼女はいよいよ抜き差しならない状況を理解する。
「アイリスフィール!? 気を確かにッ!」
[#中央揃え]× ×
その朝、衛宮切嗣が声高らかに謳った決意は、その意気込みにおいて何の虚偽もなく、まぎれもない彼の本心であったことだろう。
だが、奇《く》しくも喩えとして口にしたその言葉が、真に意味するところは何だったのか――切嗣はそれを、わずか数日の後にまざまざと理解することになる。
絶望よりなお深い崩落の中に。
悔恨よりなお深い慟哭の中で。
[#改ページ]
ACT12
[#改ページ]
-65:49:08
間桐雁夜は漆黒の夢の中にいた。
何も見えない。何も聞こえない。
ただ、肌に触れる闇の圧倒的な密度を、重さとして感じる。
ここは、何処だ――そう問いかかったところで、気付く。
何処でもない。ここは誰かの内側なのだと。
だから雁夜は、闇に向けて問うた。――おまえは誰だ? と。
重くのしかかるような圧力の闇が、轟々と唸る。吼える風のように。割れる地のように。
我は――
疎《うと》まれし者――
嘲られし者――
蔑まれし者――
闇の中、ひときわ重々しく渦を巻く濃密な影が、ぞわぞわと蠢《うご》いて人型を象る。
漆黒に沈む甲冑と兜。闇よりもなおおぞましく光る炯々《けいけい》たる双眸《そうぼう》。
バーサーカー――間桐雁夜の呪詛の具現、否、その憎しみが時の果てより招き寄せたサーヴァント。
我が名は賛歌に値せず――
我が身は羨望に値せず――
我は英霊の輝きが産んだ影――
眩き伝説の陰に生じた闇――
地の底より這い上がる瘴気《しょうき》のように、怨々と響く嘆きの声は四方から雁夜を圧し包む。
あまりのおぞましさに、雁夜が目を逸らそうとした途端、やおら冷たい鋼の篭手《こて》が伸び迫り、食らいつくようにして雁夜の襟首を掴んだ。
痩せ衰えた雁夜の体躯はそのまま宙へと吊り上げられ、バーサーカーの眼前――その狂気に渦巻く眼光を直視するしかない位置に固定される。
故に――
我は憎悪する――
我は怨嗟する――
闇に沈みし者の嘆きを糧にして、光り輝くあの者たちを呪う――
「……ッ」
容赦なく喉を締め上げる篭手に抗って、苦悶の呻きを漏らす雁夜の視野に、また違う景色が茫洋と霞みながら立ち現れた。
燦然《さんぜん》と輝く光の剣。その柄を握る玲瓏《れいろう》たる若武者。
雁夜にも見覚えはあった。あれは、アインツベルンの繰るセイバーのサーヴァント……
あの貴影こそ我が恥辱――
その誉れが不朽であるが故、我もまた永久《とわ》に貶められる――
黒い騎士の兜が割れる。
露わになったその面貌は闇に塗り込められたままだったが、熾火《おりび》のように燃える双眸の下には、ガチガチと餓え震える乱杭歯《らんぐいば》が、はっきりと見て取れた。
貴様は、贄《にえ》だ――
冷酷にそう宣言すると、バーサーカーは有無を言わさぬ力で雁夜を抱き寄せ、その凶々しい牙で頸動脈《けいどうみゃく》を食い破った。
激痛に雁夜は絶叫する。
だがその叫びにも何ら斟酌《しんしゃく》することなく、狂える黒騎士は雁夜の喉笛から溢れ出る血飛沫を啜《すす》り上げ、喉を鳴らして嚥下《えんか》する。
さあ、もっと寄越せ――
貴様の生命《いのち》を、貴様の血肉を――
我が憎しみを駆動させるために――ッ!!
嫌だ……
やめてくれ……
助けてくれッ!
あらん限りの言葉で許しを請い、助けを求めても、この闇の中に救済などあろう筈もない。
容赦なく吸い上げられていく血潮。
視界が真紅に明滅し、痛みと恐怖に掻き乱された思考は、次第次第に脈絡を失っていく。
それでも最後に残ったありったけの力を振り絞り、雁夜はもう一度、声の限りに叫びを上げた。
[#中央揃え]× ×
――悲鳴とともに目覚めた場所は、だが、やはり闇の中。
それでも、冷ややかに湿った空気と、饐《す》えたような匂い、そして幾万もの蟲たちが這いずりまわる忌まわしいざわめきの音は、それが紛うかたなき現実の感覚であることを告げている。
「……」
先の悪夢と、この現実と、はたしてどちらが間桐雁夜にとって慈悲深い世界なのか――
少なくとも、この瀕死の身体を意識しないで済んだぶん、むしろ悪夢の方が幸せであったかもしれない。
炎に焼かれながらビルの屋上から堕ちた自分が、一体どういう奇跡に救われて、こうして生きたまま再び間桐邸の地下の蟲倉に戻ってきたのか、雁夜の記憶だけではまったく理解が及ばない。
手足の感覚は殆《ほとん》どないが、手枷に繋がれて壁際に吊られていることは判る。自分の足では立つこともできず、ぶら下がる全体重を受け止めている両肩は抜け落ちそうなほどに痛むものの、それすらも、全身を蟲たちに這い回られる掻痒感《そうようかん》に比べれば、如何ほどのものでもない。
蟲たちの顎が焼け焦げた皮膚を舐め取ると、その下からは真新しいピンク色の皮膚が覗く。火傷は――どういうわけか、治癒に向かっているらしい。
おそらくは、苗床《なえどこ》である雁夜の身体を少しでも長く維持しようとする刻印虫の作用であろう。だがそれも全くの無駄だ。皮膚を再生するための魔力を強引に賄《まかな》ったことで、雁夜の体内に残されていたなけなしの生命力は、既に枯渇《こかつ》しかかっていた。そっと息を吸い、吐くだけのことでも、じわじわと身体が消耗していくのが、はっきりと実感できる。
もうじき、自分は死ぬ――
抗《あらが》いようのないその認識とともに、脳裏に去来するのは、葵の、そして桜の面影。
命と引き換えに救うと誓って……結局、何一つ果たせなかった。その口惜しさと慚愧が、身体の痛みよりなお痛烈に雁夜の心を締めつける。
そして、愛しい者たちの回想の次には、遠坂時臣の澄まし顔が、間桐臓硯の哄笑《こうしょう》が、胸の内を真っ黒に塗り潰す。
「畜生……」
枯れきった喉の奥から、ありったけの力で、雁夜は怨嗟をひりだした。
「畜生……畜生ッ、畜生……」
鳴咽に呻くその声に、さも愉快そうな含み笑いが後から被さる。
ゆっくり杖を突き鳴らして足許の蟲たちを追い散らしながら、雁夜のいる壁際に近づいてくる老いさばらえた矮躯は、他でもない怨嗟の相手、間桐臓硯のものだった。
「まったく。随分なザマに成り果てたのう、雁夜よ」
老魔術師は手にした杖の柄を雁夜の顎の下に差し入れて、強引に仰向かせる。もはや罵倒を浴びせる気力さえない雁夜には、まだ用を成す右目に憎悪と殺意を込めて、相手を睨み据えるのが精一杯だった。
「勘違いするでないそ。ワシはなにも責めておるわけではない。これだけの手傷を負って、よくぞ生き長らえたまま戻ったものよ。――雁夜、誰に助けられたのかは知らんが、貴様は此度の勝負にかなりの運気を味方につけておるようだな」
猫なで声で息子≠慰撫《いぶ》する臓硯は、いつになく上機嫌で――それ故に、笑み崩れた相好は限りなく邪悪なものに見えた。
「既に三人のサーヴァントが果て、残るは四人。正直なところ、まさか貴様がここまで食い下がるとは予想しておらなんだ。これは、ひょっとすると――この博打でワシが大穴を引き当てる可能性も、あながち捨てたものではないかもしれん」
そこで、と、臓硯は言葉を切って勿体をつけた間を空ける。
「改めてひとつ、掛け金を上乗せしてみるのも悪くない。雁夜よ、貴様にはワシがここ一番の局面に備えて秘蔵しておいた切り札を授けてやる。さあ――」
ぐり、と杖の握りに喉仏を圧迫され、たまらず噎《む》せそうになった雁夜が口を開いたその瞬間、何かが鼠のように機敏に臓硯の杖を這い上がり、雁夜の口腔へと飛び込んだ。
「が、ふぐぅッ……ッ!?」
おぞましさと苦痛に悶絶する雁夜。吐き出そうと思っても間に合わず、侵入を果たした虫は喉から食道へと容赦なく侵入を続け、ついには痙攣する腹の中にまで至って収まった。
その直後――今度は腹腔に焼《や》き鏝《ごて》を挿し入れられたかのような猛烈な灼熱感が、雁夜の身体を内側から焼き焦がす。
「ぐあぁぁぁぁッ……があぁッ!?」
あまりの熱さに、雁夜は手枷の鎖を激しく鳴らして身を捩《ねじ》りもがいた。それまで滞っていた全身の血流が荒れ狂うように沸騰し、心臓が破裂せんばかりに早鐘を打ちはじめる。
それは濃縮された魔力の塊だった。たちまちのうちに活力を取り戻した雁夜の体内の刻印虫が、一斉に活動を再開する。雁夜の全身に張り巡らされた疑似魔力回路がかつてない励起を始め、四肢が引き裂かれるのかと思うほどの凄まじい痛みをもたらした。――だがそれは即ち、麻痺していた雁夜の手足に再び感覚が戻ったことも意味していた。
切り札≠フ充分な効果を見届けて、臓硯は声高らかに哄笑した。
「|呵々々々《カカカカ》ッ、覿面《てきめん》じゃのう。
いま貴様に呑ませた淫虫はな、桜の純潔を最初に啜った一匹よ。どうだ雁夜よ? この一年、じっくりと喰らいに喰らった娘の精気――極上の魔力であろう?」
その限りなく残忍な仕打ちに持ち前の嗜虐心を満足させたのか、老魔術師は満面の笑みのまま踵を返した。そのまま悠然と蟲倉から立ち去る間際まで、臓硯の嘲りの声は、引き続き雁夜の耳を苛み続けた。
「さぁ戦うがいい雁夜。桜から奪ったその生命《いのち》、存分に燃やし尽くせ。血肉も骨も残さず費やして聖杯を掴むがいい! 貴様ごときに出来るものならなァ」
そして、倉の門扉が開閉する重々しい音の後、周囲は再び冷たい闇と、蟲たちの這いずり囀《さえず》る噪音《そうおん》の中に閉ざされる。
雁夜は独り、声を殺して噎《むせ》び泣《な》いた。
[#改ページ]
-64:21:13
生温い午後の日差しが、古びた土蔵の外壁を優しく温めながら、ゆっくり中天から過ぎつつある。
だが倉の中の空気は静かに冷えきったまま、小さな採光窓からわずかに差し込む光だけを受け入れて、黄昏《たそがれ》のように淡い薄闇の中にあった。
セイバーは壁際の床に座ったまま、ただ時を待っていた。
傍らの魔法陣には、胸元に手を組ませた姿勢で仰臥させたアイリスフィールが、依然、昏睡を続けている。早朝のうちに彼女をここに運び込んで以来、セイバーは身じろぎ一つすることなく、眠る彼女の横顔を見つめ続けていた。
昨日、アイリスフィールと二人で描いた魔法陣は、果たしてその機能を果たしているのだろうか?
ホムンクルスである彼女にとっては、この陣の中で休息を取ることが唯一の養生であるという話だった。共に敷設の儀式を執り行ったのが、まるで遠い昔の出来事のように思える。
事実、長い一夜ではあった。
共闘と妨害の入り乱れる混戦の果てにようやく打倒したキャスター。
そして、あまりにも心苦しい形で結末を迎えたランサーとの対決。
昨夜一晩で聖杯戦争は大きく進展した。二人のサーヴァントが脱落し、そのいずれの戦いに於いても、セイバーは中心的な役割を果たすこととなった。
疲弊がないといえば嘘になる。だが今はそれ以上に、アイリスフィールの状態が気がかりだ。
たしかに昨日の朝の段階で、既に兆候はあった。アイリスフィールはそれを、ホムンクルスとしての機能的欠陥と言っていた。だがこんなにも急激に様態を悪化させるような原因は、どう考えても、昨日一日のうちには思い当たらない。彼女は傷を負ったわけでも、殊更《ことさら》に過酷な運動をしたわけでもない。セイバーと正規に契約したマスターであるならば、連戦によるセイバーの疲弊が、供給魔力量の増加となって重荷になったかもしれないが、それを被るのは切嗣であって、代行マスターのアイリスフィールではない。
採光窓から差し込む幽《かす》かな日差しは、午後が過ぎるにつれて徐々に角度を浅く変えてゆく。
やがて――わずかな身じろぎの気配が、静止した空気を漣《さざなみ》のように騒がせた。
はたと目を見張るセイバーの前で、アイリスフィールが苦しげに呻《うめ》きながら、ゆっくりと上体を起こす。
「……セイバー……?」
顔にかかった銀髪の房を気怠《けだる》げに払いのけながら、彼女は茫洋とした眼差しで、傍らで見守るサーヴァントを見つめた。
「アイリスフィール、具合はどうですか?」
「……ええ、うん。もう大丈夫みたい」
そんな筈がなかろう、と問《と》い質《ただ》しかかったセイバーだったが、見ればアイリスフィールの血色は、どうにも普段と変わらず健常な様子である。つい今しがたまで昏睡状態だったとは思えない。
あふ、と慎《つつ》ましやかに欠伸《あくび》を漏らす様は、充分な休眠を終えて健《すこ》やかに目覚めた朝のようですらある。
「ふぅ――。どうやら、心配させてしまったみたいね。御免なさい」
「い、いえ。本当に大丈夫であれば、それに越したことはないのですが……しかし……」
「ええ。あなたの言いたい事は解るわ。セイバー」
苦笑しながらアイリスフィールは、手櫛《てぐし》で長い髪を梳《す》き、わずかに寝乱れた着衣の端々《はしばし》を直した。
「どうやら私、ここにきて色々と問題があるみたい。こうやって安静にしていれば平気だけれど――セイバー、もうこの先は、あなたの隣でサポートを続けるのは無理かもしれない」
「アイリスフィール……」
ことのほかあっさりとそう申告するアイリスフィールに、むしろ肩すかしをくらう形となったセイバーの方が面食らった。
「御免なさいね。不甲斐《ふがい》ないとは思うんだけれど、あなたの足手まといになるよりは――」
「いや、そうではない。むしろ自重してくださったのは助かります。私はてっきり、貴女が無理を押して戦い続けようとするのを諫めなければならないのかと身構えていたもので……」
決まり悪げに口ごもるセイバーに、アイリスフィールは衒《てら》いのない笑顔を向けた。
「そういう心配はご無用よ。私たちホムンクルスは人間と違ってね、ちゃんと自分の身体の構造を把握してるんだから。燃料切れのランプが灯るのを、無理して隠そうとするような自動車があったら、そんなのは正真正銘の故障でしょう?」
「……」
的確ではあったが不穏当ともいえる比喩に、セイバーは今度こそ沈鬱に黙り込み、それから生真面目《きまじめ》な眼差しで、アイリスフィールを正面から見据えた。
「……アイリスフィール。たしかに貴女は事実として人造の存在かもしれないが、私はそれを普通の人間と区別して考えることは決してしない。だからどうか貴女も、必要以上に自分を卑下するような言い方はやめてほしい」
真っ向からそう諭されて、今度はアイリスフィールが俯《うつむ》く番だった。
「……優しいわね。セイバーは」
「貴女という人に触れた者ならば、誰もがそう思って当然です。アイリスフィール、貴女はひときわ以上に魅力的な人柄の持ち主だ」
そう言ってセイバーは、会話が必要以上に重くならないよう、あえて冗談めかした口調で付け足した。
「女性であれば、往々にして体調の不如意《ふにょい》があるのは当然です。養生に気兼《きが》ねなどいらない」
これにはさすがにアイリスフィールも、気恥ずかしげに苦笑するしかなかった。
「それを言ったらセイバー、あなただって女の子でしょうに。――その、色々と大変だったんじゃないの?ずっと男のふりをしてなきゃならなかった頃は」
「いや、それがですね――」
アイリスフィールに笑顔が戻ったのが嬉しくて、ついセイバーも普段より気安く先を続けてしまった。
「ご存じかもしれませんが、生前の私はとある宝具の加護を受けていまして。無病息災どころか老化さえ止まり、こと体調においてはありとあらゆる不都合から解放された身でした。一〇年経っても、姿形は見ての通りの有様で」
「……」
そこではたとセイバーは、アイリスフィールがまたしても心苦しそうな憂い顔になっているのに気付き、あわてて口を噤《つぐ》んだ。
他愛もない話題の一体何が相手を消沈させてしまったのか、皆目見討もつかなかったが、ともかく今のアイリスフィールは徒《いたずら》に冗談を交わしているような心境ではないのだと、そう察するしか他になかった。
「――何はともあれ、アイリスフィール。心配することは何もありません。確かに貴女の援護は心強かったが、敵の数も残り少ない。たとえ私単独であろうと、充分に戦い抜いていけるでしょう」
「……セイバー、あなたが本当に『単独』であったなら、私だって心配はしないわ」
含みのある言葉が意味するところに思い当たった途端、セイバーもまた苦い想いに喉が詰まる。
そう、単独ではないのだ。彼女がセイバーのサーヴァントとして契約を交わしたマスターもまた、依然、同じ戦場に居るのだから。
「ねぇ、セイバー……あなたは、これから先も、切嗣を仲間と思って戦っていける?」
即答は、難かった。それだけでも騎士王の胸中の葛藤は歴然だった。
「……他のマスターたちが、揃って利己的な探求や欲望ばかりを求めているならば、聖杯は切嗣の手に渡るべきだと考えます。そのための剣になることに、私は異存はない」
抑えた声でそう返答してから、それでも隠しきれない苦悩がセイバーの眉根を顰ませる。
「――だが、願わくば剣≠ニなるのは私一人であってほしい。切嗣に、彼なりのやり方で介入されるのは、もう二度と耐え難い」
ディルムッドの末路を思い出すたび、セイバーの胸は鈍い痛みに締め上げられる。
いくら切嗣という人間を理解し、譲歩しようと思っても、あの光景はどうしようもなくセイバーの許容を越えていた。
「マスター自らが手を汚すまでもなく、サーヴァントである私が確実に勝利を勝ち取れるものと、そう切嗣を納得させられるような戦いを演じていくしかないのでしょう。残るサーヴァントは三人。私としても、意地に賭けても負けられない相手ばかりだ」
アイリスフィールは頷いた。頷くほかなかった。切嗣の卑劣さを目の当たりにしてもなおセイバーが戦意を失わずにいてくれるというのは、この上もなく有り難い。だが一方で、セイバーが今なお期待しているような最低限の信頼すら、切嗣には望めないだろうとも予期できた。確実な勝利≠ニいう言葉の意味合いそのものが、『騎士王』と『魔術師殺し』では雲泥《うんでい》の差があるのだ。
勝利を掴むまで不屈の闘志で何度でも立ち上がるという意気込みと――
敗北に繋がるすべての可能性を徹底的に排除するという周到さと――
どちらも目指すところは同じでも、その過程は致命的なまでに違う。
「……聖杯はね、私にとっては自分自身も同然なの。それを降臨させるための『器』を、私は生まれてからずっと預かってきたから」
アイリスフィールの言葉に、セイバーは頷いた。
「聞いています。貴女が『器の護り手』を務めていることは」
とはいえセイバーも、これまで四六時中行動を共にしてきたアイリスフィールが、一体どこにどういう形で『聖杯の器』を隠匿しているのかまでは知らない。互いの信任が確かな以上、敢えて知る必要もない事柄だった。セイバーはただすべての戦いを勝ち抜いた後で、改めてアイリスフィールの手からそれを受け取ればいいだけのことなのだ。
「……だから、私の宝≠ヘね、どうあっても私の愛する人たちの手で受け止めてほしい。夫と、それからセイバー、あなたにね」
祈るようなその言葉に、セイバーは決然と頷く。
「以前、召喚されて間もない頃にも誓いました。貴女を守り抜き、最後まで勝ち残ると。あの言葉を違えるつもりはありません」
「……」
アイリスフィールは、ただ曖昧《あいまい》に微笑んで頷くことしかできなかった。
勿論、この清廉なる騎士王にこそ、切嗣と聖杯を分かち合って欲しいと願う気持ちに嘘はない。
もし仮に、『始まりの御三家』の当初の目的である根源への到達≠果たそうと思うなら、全てのサーヴァントを倒した後でセイバーにも令呪で自害を強要し、七人全ての英霊が聖杯への供物となる形で戦いを終えなければならない。だがアイリスフィールと切嗣が聖杯に託《たく》す願望は、そこまで大それたものではない。
全ての闘争を終結させるという世界の改変≠ヘ、壮大な願望であるかのように思えるが、それでも所詮は奇跡≠フ域を出ない祈りである。その成就による変革が、あくまで世界の内側≠セけに終始するという点において、『根源の渦』を目指して世界の外側=@へまで到達せんとする試みに比べれば、よほど生易《なまやき》しい話なのだ。
ただ現世における奇跡だけを願うなら、古《いにしえ》のユスティーツァ自身を器とする大聖杯を完全|覚醒《かくせい》させる必要はない。敵対する六人のサーヴァントをすべて倒すだけでも、切嗣とセイバーの願望を共に叶えるだけの魔力は充分に補える。
二人が、この苛烈な生存戦《バトルロイヤル》を勝ち抜くにあたって、アイリスフィールが案じるとすれば――それは敵の強大さより、むしろ切嗣とセイバーの間の軋轢《あつれき》だ。
在り方も信念もまるで食い違う二人の衝突は免れない。ならせめてそれを可能な限り緩和《かんわ》することが、彼らの間に立つ自分の役目だと、そうアイリスフィールは自覚していた。だがこの先、彼女が最後まで責任を持ってそれを果たせるかといえば……望むべくもない、というのが現実だ。
なぜならば、アイリスフィールの身体は既にもう――
「? 人の気配が近づいてきます。アイリスフィール」
セイバーが警戒に面持ちを引き締める。一歩遅れて、アイリスフィールもまた庭に張った結界の反応で来訪者を感知した。
「――ああ、大丈夫。この気配は舞弥さんだわ」
土蔵の扉をノックしてから入ってきたのは、はたして久宇舞弥その人だった。相変わらず感情を面に出さない冷淡な美貌を前にして、セイバーがやや不機嫌そうに視線を逸らす。無抵抗なランサーのマスターとその恋人を容赦なく射殺した冷酷さについては、たとえそれが切嗣の策略をただ忠実に遂行しただけであっても、やはりセイバーとしては認めがたい行為だったのだろう。
そんなセイバーの内心を知ってか知らずか、いつものように舞弥は、挨拶も前置きも一切抜きに、ただ端的に本題に入った。
「遠坂時臣より密使がありました。使い魔に書状を持たせて。マダム、貴女宛のものです」
「密使?」
アイリスフィールたちが引き払った後の森の城は、そうとは知らずに攻め込んでくる他のマスターを陥れるため、切嗣の手によって悪質なトラップハウスと化している。その監視は舞弥の蝙蝠《こうもり》に任されていたのだが、つい先程、そこへ魔術師本人ではなく使い魔が文書を携えて現れたのだという。
「翡翠《ひすい》で作られた鳥でした。切嗣の話だと、たしかに遠坂の魔術師が好んで使う傀儡《くぐつ》だそうです」
「聞いた話では、確かにそうね。それで、問題の文章っていうのは?」
「こちらに――」
差し出された便箋を手に取り、アイリスフィールは目を通す。文面は、充分に礼を尽くした上でそれ以上の無駄は一切省き、限りなく簡潔明瞭《めいりょう》に用件を告げていた。
「……つまり、共闘の申し入れってわけね」
僅かに小馬鹿にしたように鼻を鳴らすアイリスフィール。セイバーも、あのアーチャーのマスターが何を企《たくら》むのかと思っていただけに、これには釈然としない面持ちだった。
「同盟ですか? 今になって?」
「残るライダーとバーサーカーの対処に、トオサカは不安を持ってるんでしょうね。そこで一番与しやすいと見えた私たちに誘いをかけてきた。――要するに、他の二組に比べれば舐められてるってこと」
交渉に応じる気があれば、時臣は今夜零時に冬木教会で待っているという。
「あくまで中立を貫くはずの聖堂教会の監督役が、よくもそんな会見を許可したものね」
「それが、既に監督役の神父は死亡しているそうです。今の聖杯戦争は、監督役が不在の状況だとか」
舞弥の説明に、アイリスフィールは納得して頷いた。
「切嗣が言っていた、トオサカと教会の繋がりも、これで裏が取れたようなものだわ。味方につけていた監督役が死んで、慌てて策を講じてるのね」
「……アイリスフィール、相手はあのアーチャーを従えている魔術師です。信用に足るとは思えない」
あの黄金の英霊に対する嫌悪感を思い出してか、セイバーは険しい顔で断言した。
「今の私は左手の傷も癒え、万全の状態です。同盟など結ぶまでもなく、ライダーも、バーサーカーも、私一人で討ち取って見せる。無論、アーチャーとて例外ではありません」
セイバーの意気込みに、アイリスフィールはいったん頷いたものの、それでも再び思案顔のまま腕を組んだ。
「セイバーの言い分も尤《もっと》もだけれど、トオサカから、また別の形での譲歩を引き出すという手もあるわ。相手にあって私たちにはないもの……たとえば、情報とかね」
アイリスフィールの言葉に、舞弥が頷いた。
「確かに。もし仮に遠坂がライダーの陣営の拠点を掴んでいるのであれば、それは策を弄してでも聞き出す価値があります」
「――相変わらず掴めていないの? あんな子供に、切嗣が手を焼くなんて」
「ライダーとそのマスターは、常に高速の飛行宝具で姿を現すので、陸路から後を追うのは不可能なのです。私の蝙輻も、あのスピードにはとても追いつけず、追跡は失敗してばかりです」
「……姿を隠す手際については、あのロード・エルメロイより優秀ってわけ?」
「意外ですが。この冬木で魔術師が工房を設《しつら》えそうな場所は全てチェックしているのです。なのにライダーのマスターだけは、どうしても網にかからない」
舞弥の語るとおり、目下のところ切嗣が一番頭を悩ませているのは、ウェイバー・ベルベットの拠点の捜索だった。ありとあらゆる魔術師の手管を知り尽くしているはずの衛宮切嗣ではあったが、まさか宿泊費をケチって無関係な民家に寄宿するマスターが存在するなどとは、さすがに想像のしようもなかったのである。
「しかしそんな情報を、トオサカのマスターが把握している可能性が?」
いまいち納得しかねる風なセイバーに対し、舞弥が首肯して応じる。
「遠坂時臣は今回の聖杯戦争において、かなり初期の段階から周到な準備を進めています。監督役の件が好例です。それに――」
そこで一旦言葉を句切り、舞弥はアイリスフィールの表情を窺った。黙って聞いている彼女もまた、どうやら舞弥と同じ事柄に思い当たっている様子だった。
「――それに、遠坂はアサシンのマスターを裏で操っていたと思われる節がある。あの男が言峰綺礼に対して影響力を及ぼしうる立場にいるのなら、彼の誘いは我々にとっても無視できない意味合いを持つことになるかと」
「コトミネ……?」
セイバーにとっては初めて聞く名前だった。が、アイリスフィールと舞弥の張り詰めた面持ちを見れば、それが彼女たちにとって重大な意味を持つ人物であることは容易に察しがついた。
「憶えておいて、セイバー」
いつになく硬い声で、アイリスフィールが告げる。
「今回の聖杯戦争で、もし切嗣を負かせて聖杯を獲る者がいるとしたら……それが言峰綺礼という男よ。切嗣自身がそう言っていた。彼は事の始まりから、この綺礼という男を天敵としてマークしていたの」
舞弥とアイリスフィールの口調は、決して多くを語っていたわけではない。それでもセイバーには、彼女たちがその言峰という人物について、まるで面識があるかのように明確な人物像を持っているように感じられた。
そこではたと、セイバーもまた思い至る。アインツベルンの森での戦いで、城から避難したアイリスフィールと舞弥に重傷を負わせた、謎の襲撃者の存在に。
「この話、受けましょう」
きっぱりと決意を固めた声で、アイリスフィールはそう宣言した。
「同盟を結ぶかどうかはさておき、トオサカの手の内には探りを入れる必要があるわ。今夜の冬木教会で、それを確かめさせてもらおうじゃない」
セイバーとしても、そこまで明確な意図を示されれば是非もない。それに問題の言峰という人物についても気になった。あの切嗣をして天敵と言わせしめるほどの相手なら、余程の要注意人物に違いない。
「――ところで、セイバー。今日はあなたにも用件が」
不意に舞弥から声をかけられ、セイバーはやや戸惑った。
「私に?」
「はい。あなたがメルセデスを充分に乗りこなしているという話だったので、切嗣の指示で、より市街戦向けの機動手段を用意しておきました」
それを聞いたセイバーは、俄然、興味をそそられた面持ちになった。
「それは心強い。あの『自動車』よりもなお戦《いくさ》向きな機械とは、願ってもない支援です」
「いま門の外に停めてあります。使い物になるかどうか、確認しておいてもらえますか?」
「ええ。それは是非にも」
期待を隠せぬ足取りで土蔵から出ていくセイバーを、見送る舞弥は相変わらずの無表情であったが、その内心では彼女もまた人並みに、騎士王アルトリアという存在の脅威に溜息をついていた。――普段のセイバーはどう見ても、やや大人びているというだけの小柄な少女にしか見えない。あれがかつて戦乱の時代を塗り替えた武勲の王であるなどと、いったい誰が信じられようか。
舞弥にしては珍しい、任務とは無縁な益体もない感慨である。さらになお珍しく無駄口めいたものを言いかけたところで、ドサリと何かが倒れる音に彼女は不意をつかれた。
振り向くと、さっきまで魔法陣の中で半身を起こしていたアイリスフィールが再び横になっている。様子が尋常ではない。蒼白の顔面からは滝のように汗が流れ落ち、苦しげな呼吸は輔《ふいご》のようだ。
「ま、マダム? ……どうしました!?」
慌てて駆け寄り抱き起こすと、腕に抱いた細い身体は異常なまでに発熱していた。
「……セイバーは……見てないわよね?」
苦しげにそう問うてくるアイリスフィールの声には、だが怯えも狼狽の色もなかった。突如として異常をきたした自身の身体について、彼女は何の疑問も持っていないらしい。
「マダム、貴女の身体に、一体何が……」
「……ウフフ、舞弥さんも、慌てることって、あるのね。……ちょっと……可愛い、かも……」
「馬鹿なことをッ、それどころではない。すぐにもセイバーと、それに切嗣を呼んできます。どうか気を確かに!」
立ち上がろうとする舞弥の肩を、そっとアイリスフィールが手を添えて制した。
「異常ではないのよ。これは――予《あらかじ》め決まってたこと。むしろ今まで『ヒト』として機能できたことの方が、私にとっては、奇跡みたいな幸運だったの」
意味深な言葉が含むところを察して、舞弥はとりあえず動揺を収め、緊張しつつも普段の冷静さを取り戻した。
「……切嗣も、承知の上なのですか?」
アイリスフィールは頷いてから、「だけど」と力なく言葉を足した。
「セイバーには……知られたくないの。彼女は、大事な戦いを控える身……余計な心配は、させたくないわ」
大きく息をついてから、舞弥は再びアイリスフィールの身体をそっと魔法陣の中に横たえた。それがホムンクルスである彼女を休息させるのに一番の姿勢であることは知っていた。
「……私も、あまり立ち入ったことは知らずにおくべきでしょうか?」
「……いいえ。舞弥さん……あなたには、むしろ話しておきたいわ。……いい?」
舞弥は頷いてから、いったん立ち上がって土蔵の外を窺い、庭にセイバーがいないことを確かめると、そっと扉を閉めて戻ってきた。
「大丈夫です。今ならセイバーに聞かれることはない」
アイリスフィールは頷いてから、乱れた呼吸をいったん収め、それから静かに語り始めた。
「私は、聖杯戦争のために設計されたホムンクルス……それは、あなたも知っているわね?」
「……はい」
「器の守り手――聖杯を降霊するための依代《よりしろ》としての『器』を、管理し、運搬するっていう私の役目は、本当は説明として正しくないわ。
前回の聖杯戦争で、アハトのお爺様はサーヴァント戦に負けただけでなく、何より重要な聖杯の『器』までも乱戦の中で破壊されてしまったの。三度目の戦争は、勝者が決まるより先に『器』が喪われたことで、無効になってしまった。そのときの反省を活かして、お爺様は今回の『器』に、自己管理能力を備えたヒトガタの包装[#「包装」に傍点]を施すことにしたのよ」
淡々と語る語調は、まるで他人事のように|余所余所《よそよそ》しかった。醒めきった諦観の念が、自身の身体について彼女にそう語らせるのだろう。
「それが――私。『器』そのものに生存本能を与え、あらゆる危険を自己回避して聖杯の完成を成し遂げるために、お爺様は『器』に『アイリスフィール』という擬装《ぎそう》を施したのよ」
「そんな……では、貴女は……」
舞弥の心とて木石ではない。その衝撃の真実には、さすがに色を失った。
「既にサーヴァントは三人が消滅し、いよいよ戦いは大詰めになってきた。それに伴って、私の中身もまた本来の『器』としての機能を取り戻すために、余計な外装をどんどん圧迫しはじめているわけ。これから先、私はさらにヒトガタの機能を破棄して、もとの『モノ』に還っていくわ。次はきっと動けなくなるだろうし、その後はきっと――舞弥さん、こうしてあなたと話をすることもできなくなるでしょう」
「……」
しばしの間、舞弥は唇を噛んで沈黙した後、あらためて真顔で先と同じ問いを口にした。
「切嗣は、すべて承知の上なのですね? 今の貴女がどういう容態なのかも」
「ええ。だからこそあの人は、私にセイバーの鞘《さや》を預けたの。……『|全て遠き理想郷《アヴァロン》』……その効果は知っている?」
「老衰の停滞《ていたい》と無制限の治癒能カ――そう聞いています」
「その効果が、私という殻≠フ崩壊を押し留めてくれているの。本来ならとっくに駄目になっているはずの私が、まだ人間の真似事《まねごと》を続けていられるのは、そのせい。……尤も、今みたいにセイバーとの距離が離れてしまうと、途端にボロが出るんだけれど……」
もはや身を起こすことすら叶わない、まるで死病の床にいるかのようなアイリスフィールの様態に、舞弥は目を伏せた。
この場にセイバーが居合わせればどんな反応を示すことか、舞弥でさえ想像には難くない。騎士の鑑《かがみ》たるあの少女は、自らの受難より他者の痛みを苦とする人物だ。彼女が掴み取ろうとしている勝利が、アイリスフィールの犠牲《ぎせい》を前提としているものだと知ったとき、セイバーがこれまで通りに迷いなく剣を執《と》ることができるかどうかは疑わしい。
「……何故、私には教えたのですか?」
舞弥の問いに、アイリスフィールは安らかな微笑を返した。
「久宇舞弥――あなたなら、決して私を憐れんだりしない。きっと私を認めてくれる。……そう、思ったから」
「……」
沈黙のまま、舞弥は相手の微笑みをじっと見つめて、それから静かに頷いた。
「マダム、私は――貴女という女《ひと》を、もっと遠い存在だと思っていました」
「そんなこと、ない。――解ってくれた?」
「はい」
舞弥は、きっぱりと首肯《しゅこう》し、それを是とした。
ヒトとして生まれ落ちながら、道具として生きた女だからこそ。
道具として造られながら、ヒトとして生きた女の末路を良し≠ニ認めた。
「私が、この命に代えてでも――アイリスフィール、最後まで貴女をお守りいたします。だからどうか、衛宮切嗣のために死んでください。あの人の理想《ユメ》を叶えるために」
「ありがとう……」
震《ふる》える手を差し伸べて、アイリスフィールは舞弥の手を握った。
[#改ページ]
-62:48:35
胸元の高さから見上げてくる黒い瞳は、まるで一対の宝石のようだった。
そう――事実その通りなのだと、あらためて遠坂時臣は痛感する。この少女こそは、五代を重ねた遠坂がついに手に入れた至宝。奇跡にも等しい希有なる輝石だ。
遠坂凛。
まだ幼いながらも既に将来の美貌を予感させる容《かんばせ》は、母方の風貌よりむしろ、時臣の母の若かりし頃に面影を似せている。
時刻は夕暮れ。夜の闇が押し寄せるより僅かに手前の黄昏時だった。
妻の実家、禅城《ぜんじょう》の門前を訪れた時臣は、だがその門より内に踏み込む気はなかった。今の時臣は聖杯を巡るマスターの一人。修羅《しゅら》に身を置く立場である。鉄壁の安全を期して妻子を託した禅城《ぜんじょう》の領地に、血の匂いを纏ったまま立ち入ることは許されない。
用件を告げることもなく、自分を門の外まで呼びだした父親を、凛は緊張を隠しきれない面持ちで見上げている。父はただ娘の顔を見に来たというだけではなく、何か重大な用件を携《たずさ》えてここを訪れたのだと、少女は直感だけでそう理解しているのだろう。
戦いを終えるまでは、会うこともないと思っていた。そんな時臣の決意を揺らがせたのは、昨夜の言峰璃正神父の急死であった。
父の朋友であり、時臣の後見人でもあった老神父。密約により彼からの後援を受けていたことは、時臣にとって、自らの必勝を信ずる上での大きな要素であった。
無論、後ろ盾がなくなった程度のことで弱気に駆られる時臣ではない。が、それまで傲岸不遜《ごうがんふそん》なまでに確信していた勝利の道に、万が一≠ニいう暗雲を感じ始めたこともまた事実である。
あの老練にして屈強な神父が倒れたように――自分もまた、|志半《こころざしなか》ばにして倒れることも有り得るのではないか?
昨日までの聖杯戦争は、時臣にとって、いわば成功を約束された儀式であった。
だが頼みとしていた仲間の死に及んで、今更ながらも彼は、一人の闘争者として、生死の境の戦いに身を投じんとする自分を自覚したのである。
もし仮に……これが凛と語らう最後の機会だとしたら?
年端《としは》もいかぬこの少女に、自分は何を告げるべきなのか。
「……」
凛は固唾《かたず》を呑んで、黙したままの父を見守り、その言葉を待っている。
時臣は、父である自分に対して娘が懐いている敬意と憧憬を知っていた。
今ここで彼女に与える言葉は、きっと凛の今後を決定づけることになるのだろう。
否――未来は惑うまでもなく、とうに決している。凛は六代目頭首として遠坂の家門を嗣《つ》ぐしか他にない。
思えばそれこそが、時臣が娘に対して懐く小さな疚《やま》しさの根元かもしれない。
片膝をついて身を屈め、凛の頭に手を載せた。――途端に凛が、呆気にとられたかのように目を見開く。
そんな娘の反応に、時臣は今になって思い出した。こんな風に娘の頭を撫でてやったことなど、過去に一度もなかったのだと。
凛が驚くのも無理はない。時臣もまた、一体どういう力加減であれば優しさを示せるのか、触れてみて初めて分かる戸惑いがあった。
「凛……成人するまでは協会に貸しを作っておけ。それ以後の判断はおまえに任せる。おまえならば、独りでもやっていけるだろう」
何を話せばいいのか迷っていたはずが、ひとまず口火を切ってみれば、後は次から次へと言葉が湧いて出た。
もし仮に≠ニ思うなら、伝えておくべき事柄はいくらでもある。家宝である宝石の扱い、大師父からの伝承の件、地下の工房の管理――それらの諸々について、時臣は的確に要点をかいつまみ、真摯《しんし》に耳を傾ける凛に、逐一《ちくいち》、言い含めていった。
その身の刻印こそまだ譲らないものの、それは事実上、凛を次代の遠坂頭首として指名するも同然の訓戒《くんかい》だった。
余談だが。
遠坂時臣は決して天才だったわけではない。
歴代の遠坂において、むしろその資質は凡庸でさえあったといえよう。
練達の術師として一目置かれるまでになった今日の時臣があるのは、ひとえに彼が、その家訓に忠実であり続けただけのことだ。
常に余裕を持って優雅たれ――
一〇の結果を求められれば、二〇の修練を積んでそれに臨んだ。課せられた試練の数々を、優雅に、綽々《しゃくしやく》と通過するための、それが時臣の処方であった。強《し》いて他者より抜きん出たところを探すなら、その徹底した自律と克己《こっき》の意志だけが、時臣の強みであったと言えるだろう。
師であり父であった先代も、息子が魔道を志す上でどれだけ険しい道を歩むことになるか、充分に予見していたはずだ。だからこそ、先代は時臣に魔術刻印を譲渡する前夜、改めて息子に問うたのだ。――『家督を嗣ぐか否か?』と。
それはごく儀式的な、名目だけの問いであったのだろう。時臣は嫡子として、未来の頭首となるべくして教育を受けてきたし、幼少より彼の中に培われてきたその誇りは、それ以外の人生など夢想すらさせなかった。
それでも――そこに問い≠ニいう体裁があった以上は、曲がりなりにも時臣には選択の余地≠ェあったということだ。
今にして思えば、それは時臣にとって、先代である父からの、最大の贈り物だったといえる。
遠坂時臣は自らの意志によって魔道を歩んだ。決して運命に流されたわけではない。
その自覚こそが、時臣に鋼の意志を与えてくれた。以後の厳しい修練の日々を内側から支えてくれたのは、これが自ら選んだ生き方なのだ≠ニいう気高き自負の念だった。
そんな風に、かつて父から贈られたのと同じ宝を、自分の娘たちにもまた与えることが出来たなら――時臣は切にそう思う。
だが、それは叶わない。
凛には、そして桜には、そもそもの始まりから選択の余地などなかったのだ。
かたや全元素、五重複合属性。かたや架空元素、虚数属性。姉妹は二人が二人とも、奇跡に等しい希有の資質を生まれ持った。もはや天賦《てんぷ》の才などという域にはない、呪いにも等しい宿業である。
魔性は魔性を招き寄せる。あまりにも条理の外側に突出しすぎた適正を持つ者は、必然的に日常の外側にあるモノを引っかけて≠オまうのである。そこに本人の意図が介在する余地はない。そんな運命に対処しうる手段はただひとつ――自らが意図して条理の外を歩むことだけだ。
時臣の娘たちは、自らが魔道を理解し、身に修めることでしか、その血に課された魔性に処する術《すべ》を持たなかったのである。なのに遠坂という家門の加護を与えてやれるのは姉妹のいずれか一人のみ、というジレンマは、どれほど長らく時臣を苛んできたか知れない。後継者になりそこなった一方にも、その血に誘われて現れた怪異の数々は容赦なく災厄をもたらすだろうし、そんな一般人≠魔術協会が見つければ、連中は嬉々として彼女を保護≠フ名の下にホルマリン漬けの標本にすることだろう。
だからこそ間桐から来た養子の希望は、まさに天恵に等しかった。二人の愛娘はともに一流の魔道を継承し、どちらも血の因果に屈することなく、それぞれが自らの人生を切《き》り拓《ひら》いていけるだけの手段を得たのである。その時点で時臣は、父としての重責から解放されたも同然だった。
だが、果たして本当にそうなのか? ――自問すればするほどに、時臣は胸が苦しくなる。
凛の才能は、時臣より遙かに容易に魔道の秘奥を修めるだろう。
だが自ら選び取った運命としてその道を進むのに比べれば、逃れられざる宿業として決定された道を辿るのは、どれほどの辛苦があることか。
これより始まる凛の試練に、何の導きも与えられぬまま、彼女の前を去る羽目になるのだとしたら――それでも遠坂時臣は、父親として十全だったと言えるのか?
胸の内の迷いを問うかのように、時臣はもう一度、凛の頭を撫でる手に想いを込めた。
凛はその大きな手にされるがままに身を任せながら、それでも黒く澄んだ瞳で揺るぎなく父を見上げている。そこには不安も、戸惑いも、微塵もない。
――ああ、そうか
そんな無条件の敬服と信頼が、ようやく時臣の中に答えをもたらした。
この子には詫《わ》びる言葉も、行く末を案じる必要もない。誇り高き遠坂の嫡子に、去りゆく先代の一人としてかけるべき言葉は、あと一つしかありはしない。
「凛、いずれ聖杯は現れる。アレを手に入れるのは遠坂の義務であり、何より―――魔術師であろうとするのなら、避けては通れない道だ」
きっぱりと頷く少女の眼差しに、時臣の胸は誇らしさで満たされた。
かつて彼自身が頭首の座を受け継いだ時でさえ、これほどの誉《ほま》れを感じたことはない。
「それでは行くが。後の事は解っているな」
「はい。――行ってらっしゃいませ、お父さま」
決然と、澄んだ声でそう答える凛に首肯すると、時臣は立ち上がった。
ふと門の中の屋敷に視線を送ったところで、窓からこちらを窺い見ている葵と目が合う。
長らく連れ添った妻との疎通には、もう言葉を交わすまでもない。
送られてくる眼差しには、信頼と激励が。
返す目礼には、謝意と保証を込めた。
そうやって時臣は妻子に背を向けると、後は振り向くこともなく、禅城邸の前を立ち去った。
迷いとは、余裕なき心から生まれる影だ。それは優雅さとは程遠い。
深く家訓を刻み込んだ胸に、凛の眼差しが、あらためてそう教えてくれた。
我が子に対して詫びなければならない自分があるとするならば、それは――敗北した自分、ついに聖杯への悲願を果たせぬまま終わった自分だ。
凛を前にして、恥じることなき父であろうとするならば、遠坂時臣は完全無欠の魔術師でなければならない。
なればこそ――この手で遠坂の魔道を完遂させる。
愛する娘を教え導くに相応しい、真に十全たる父となる。
決意も新たに、時臣は黄昏の道を踏んで帰路を急いだ。
再び、冬木へ。程なく訪れる夜の闇を目指して。
[#改ページ]
-58:16:21
深夜の冬木教会での会見について、遠坂時臣が提示した条件には、もちろん列席者の人数も指定されていた。
会見に望むのは両家のマスターとサーヴァント、それに介添人が一名まで。
単独での行動に支障があるアイリスフィールにとって、これは願ってもない条件だった。いざ万が一にも戦闘となる場合に備えれば、セイバーの腕を借りるわけにもいかない。舞弥もまた傍にいてくれるなら、それだけで安心度は数段増す。
勿論、五分の条件として遠坂側もアーチャーの他にもう一人を列席させるのは当然だったが――はたして時臣が何ら含むところもない様子でアイリスフィールたちに引き合わせた人物は、彼女らを鼻白ませるに充分な相手であった。
「紹介しよう。言峰綺礼――私の直弟子であり、いっときは互いに聖杯を狙って競い合った相手でもあったが、今となっては過ぎた話だ。彼はサーヴァントを失い、既にマスター権も手放して久しい」
言うことはそれだけか、とアイリスフィールは視線の圧力で相手を牽制したが、時臣はそんな紹介だけで事足れりとばかりに平然としている。余程相手を舐めているのか、さもなくば――本当に遠坂は、アイリスフィールたちと言峰綺礼との確執を知らないのかもしれない。
有り得る話ではあった。ただの飼い犬に甘んじる男に対して、衛宮切嗣の嗅覚があそこまで警戒を示すとも考えにくい。言峰綺礼が遠坂時臣の思惑を離れて独自に行動していた可能性は、むしろ極めて高いのではないか。
眉一つ動かすことなく目礼する綺礼を、アイリスフィールと舞弥はともに氷の視線で見据えた。まさか時臣が初手から綺礼との関係を露見させるとは思ってもみなかった彼女たちは、早速、この会見における戦略を編《あ》み直す必要に迫られていた。
一方でセイバーは、時臣たちの後方の壁に悠然と寄りかかっている、赤い瞳のサーヴァントから目が離せなかった。今夜のアーチャーはセイバー同様に戦支度を解き、この時代に合わせた平服の装いである。革《かわ》とエナメルの艶《つや》に飾られた衣装は、悪趣味なほどに華美なようでいて、だがこの黄金の英霊の圧倒的な存在感が伴うと何の違和感も感じさせない。
血の色に濡れた双眸は、まるで視線だけでセイバーの衣装を剥き柔肌《やわはだ》を舐め回すかのように、何ら臆することなく欲望を露わにしていた。今すぐにでも剣を抜き斬りつけたい衝動に駆られるセイバーではあったが、今夜の会見にはアイリスフィールの思惑もある。今はただ黙して耐えるしか他になかった。
「不肖、この遠坂時臣の招待に応じていただき、まずは感謝の言葉もない」
女たちの剣呑《けんのん》な気配に気付いているのかいないのか、時臣は慇懃《いんぎん》に澄ました顔で場を取り仕切る。
「此度の聖杯戦争も、いよいよ大詰めの局面となってきた。残っているのは案の定、『始まりの御三家』のマスターたちと、飛び入りの外様が一人。――さてアインツベルンの各方は、この戦局をどうお考えか?」
「別段、何とも」
冷ややかに取り澄ました声でそう答えてから、さらにアイリスフィールは不敵に付け足した。
「我らは最強のセイバーを統べるが故に、姑息《こそく》に機を窺う必要もなく。ただ当たり前に勝ち進むまでのこと」
「成る程――」
挑発めいたその返答に、時臣は失笑を返す。
「それならば当方の見解のみ、忌憚《きたん》なく述べさせていただくとしよう。我ら相互の戦力分析は、まぁひとまず棚に上げるとして。ここはひとまずバーサーカーとライダーについて。
我々としては当然ながら、最終的には『御三家』のみに絞り込まれた最終戦で聖杯の帰趨《きすう》を決したいところだが、残念ながら今回の間桐は戦略を誤った。脆弱《ぜいじやく》なマスターに負荷のかかるサーヴァントを押しつけ、みすみす自滅を早めている有様だ。おそらく勝ち上がってくるのはライダーだろう。かの英霊、イスカンダルの強力さについては、各方《おのおのがた》もご存じかと思う」
時臣はいったん言葉を切ってアイリスフィールの反応を伺い、相手の沈黙を受けて、さらに先を続けた。
「二〇〇〇年をかけて悲願した聖杯に、どこの馬の骨とも知れぬ新参者が手を伸ばすというのは、アインツベルンにとっては殊更《ことさら》に業腹な流れかと思うが、如何か?」
「こと新参という点においては、トオサカもマキリも似たようなものでしょうに」
普段であれば、ここまで憚《はばか》りない物言いをするアイリスフィールではなかったが、今夜の時臣に対しては徹底して強行に押し切る方針である。普段の和やかな貞淑《ていしゅく》さを捨てて傲然と眦《まなじり》を決すると、その美貌はにわかに凄味を帯びて女帝の貫禄を示すのだった。
だが時臣とて、それで萎縮《いしゅく》する程度の人物ではない。依然、慇懃な微笑みを絶やさぬまま、微塵の動揺も見せはしない。
「既にアインツベルンが願うのは、第三魔法の成就そのものに尽きるはず。ならば今なお『根源』を目指すこの遠坂時臣に聖杯を託せば、それでもう充分に本意に沿うはずだが?」
それを聞いたアイリスフィールは、存分に見下した冷笑を時臣に投げかけた。
「トオサカは物乞いの真似事までして、我らから聖杯を奪いたいと?」
「フッ……聞き手の品性を疑いたくなる解釈だが、まぁ置いておこう。問題は、聖杯についての正しき知識を持ち合わせぬ者が、最終戦にまで勝ち残りつつある現状だ。そのような外様《とざま》の手に聖杯が渡ることは万に一つも許せない。――そこのところはお互いに合意できるはずだ」
要するに――時臣の懸念とするところはライダーの脅威のみ。そうアイリスフィールは得心した。
相手の目論見が見えてきたならば、いよいよこちらも手札を開示する頃合いである。
「もとより我らアインツベルンは他家と馴れ合うつもりなどなく。同盟など笑止千万。――ただし、敵の対処に序列をつけてほしいというなら、そちらの誠意次第では一考してもいいでしょう」
「……つまり?」
「トオサカを敵対者として見なすのは、他のマスターを倒した後――そういう約定なら応じる用意もあります」
持って回ったアイリスフィールの言い回しに、時臣は冷然と頷いた。
「条件付の休戦協定、か。落とし所としては妥当だな」
「こちらの要求は二つ」
あくまで交渉の主導権を主張するかのように高飛車に、アイリスフィールは切り出す。
「まず第一に、ライダーとそのマスターについて、そちらが掴んでいる情報をすべて開示すること」
それを聞いた時臣は、内心でほくそ笑んだ。そんな惰報を要求する以上、アインツベルンは本気で自らライダーを打倒する覚悟でいるのだろう。まさに目論見《もくろみ》通りの展開である。
「――綺礼、お伝えしなさい」
時臣の下知《げじ》を受け、それまで無言で傍らに控えていた総礼が、抑揚のない声で説明を始めた。
「ライダーのマスターはケイネスの門下にいた見習い魔術師で、名前はウェイバー・ベルベット。現在は深山町中越《なかごえ》二丁目のマッケンジーという老夫婦の家に寄生している。聖杯戦争とはまったく無縁な一般家庭だが、ウェイバーの暗示によって、彼を実の孫だと思い込まされている」
すらすらと淀みなく語る綺礼に、あらためてアイリスフィールと舞弥は戦慄《せんりつ》した。おおよそ予測はしていたものの、アサシンを統べていた綺礼が徹底した諜報作戦を展開していた可能性は、まさに現実のものだったのだ。
「……さて、もう一つの条件というのは?」
上機嫌に促す時臣に、アイリスフィールは険しい面持ちで向き直ると、今度こそひときわ断固たる口調で言い放った。
「第二の要求は――言峰綺礼を、聖杯戦争から排除すること」
それまで悠然と構えていた時臣も、さすがにこれには瞠目《どうもく》した。一方で綺礼の方は、依然として眉一つ動かすことなく、一切の表情を消した面持ちのままだった。
「なにも殺せとまでは言わないわ。それでもこの戦いが終わるまでの間、この冬木から――いや、日本から退去してもらいます。さっそく明朝にでも」
「……理由を説明してもらえるかね?」
とりあえず外面の動揺を抑え込んだ時臣が、やや低い声で質す。惚《とぼ》けているわけではないと見て取ったアイリスフィールは、いよいよこの師弟間の齟齬《そご》に確信を持った。――明らかに時臣は、綺礼の行動について関知していない。
「そこの代行者は、我々アインツベルンと少なからず遺恨があります。トオサカの陣営が彼を擁《よう》するのであれば、我々は金輪際《こんりんざい》、そちらを信用することはできない。むしろ最優先の排除対象と見なし、ライダーたちと協力して攻撃に転じます」
「……」
どう見ても巫山戯《ふざけ》ているとは思えないアイリスフィールの剣幕に、ようやく時臣は、自らが伺《うかが》い知らぬ経緯があることを察し、傍らの綺礼に疑念の眼差しを投げかけた。
「どういう事かね? 綺礼」
「……」
依然、綺礼は仮面の如き無表情で沈黙を押し通す。だがアイリスフィールの言い分に対し、何の反駁《はんばく》も返さないという時点で、その沈黙が意味するところは充分に確だった。
溜息をつき、あらためて時臣は感情を殺した面持ちでアインツベルン勢を凝視する。
「この総礼は、死んだ璃正神父の代理として監督役の庶務を引き継いでいる。その彼を追放するというのなら、こちらからもひとつ条件がある」
アイリスフィールは小さく頷いて先を促した。
「――昨夜の戦いで見せてもらった、そちらのセイバーの宝具だが、あまりにも威力が壊滅的すぎる。今後はその使用に制限を課したい」
これにはセイバーも眉根を寄せた。既に遠坂側はライダーとの対決をセイバーに押しつける意図が明白である。そこに加えてこの条件は、理不尽としか言いようがない。
「何故トオサカが我々の戦略に口を挿む?」
「当家は冬木の地を預かる管理者《セカンドオーナー》でもある。今後、聖堂教会の隠蔽工作を抜きにして聖杯戦争を進めるとなれば、過剰な騒乱を戒めるのは当然だ」
ここで不意に、それまで無言だった舞弥が口を挿んだ。
「昨夜のセイバーの宝具が、近隣私設に被害を与えましたか?」
「――幸いながら、最小限ではあった。たまたま射線上に大型船舶があったのでな。だが一つ間違えば河岸の民家が一掃《いっそう》されていたのは確かだ」
「その船を配置したのは我々です」
舞弥の言葉に、時臣だけでなくセイバーもまた眉を上げた。たしかに好都合な位置に船があったせいで彼女は心置きなく『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』を使用できたのだが、まさかそこに切嗣の配慮があったとは、言われてみるまで気付かなかった。
「余談ながら、破壊された船の持ち主にも保険が下りたことを確認しています。そちらに戒められるまでもなく、我々アインツベルンはセイバーの破壊力に充分な配慮を払っているのです」
「その配慮を明文化してほしいと要求しているのだ」
舞弥の言葉を遮るように、時臣は断固としてそう主張した。
「冬木市内において、地表での宝具使用は無条件で禁止。また空中においても、間接的に民家に被害を出す形であれば同様とする。――この条件を承諾できるか? アインツベルンのマスターよ」
「……呑めば、間違いなく言峰綺礼を退去させるのですね?」
「ああ。私の責任において保証する」
きっぱりと頷く時臣の横で、綺礼が、誰に見咎められることもなく歯噛みした。
アイリスフィールがセイバーを伺う。セイバーは小さく頷いて、承諾の意志を示した。セイバーとて、己の宝具で徒に犠牲を出すつもりは毛頭ない。遠坂時臣の条件がその程度の戒めならば、べつだん足枷となるような内容ではなかった。
「――結構です。それでは条件の履行を確認した上で、我々は休戦に同意します」
[#中央揃え]× ×
会見を終え、両家のマスターたちが立ち去った後の教会に、言峰綺礼は単身で居残った。
先に時臣が語った通り、今の綺礼は、現在冬木市の各地で今なお事後処理の活動を続けている聖堂教会スタッフの取りまとめを引き受けている。監督役であった父、璃正の死によって、現場の指揮系統は甚だしく混乱していたため、第八|秘蹟《ひせき》会から正式の後任者が寄越されるのを待っていられる状況ではなかった。
とはいえ、各所の連携と進行の管理さえ適切に指示してやれば、それぞれの現場での作業は今なお充分に円滑だった。生前の璃正の指示がそれだけ適切であったという証拠である。綺礼の仕事は、いわば璃正が敷いたレールの通りに諸事が運ぶよう旗を振るだけで、何ら難しい判断を要求されるものではなかった。
だがそれも、今夜のうちに見切りをつけなくてはならない。
綺礼としては、時臣がアインツベルンとの同盟を目論みはじめた時点で、自身の立場が危うくなることは覚悟していた。先の会見での決定も、何ら意外なものではない。アインツベルンの女たち――と、その背後で糸を引いている衛宮切嗣――は、既に綺礼を由々しい脅威として見なしている。また一方で遠坂時臣にとっても、ただの助手≠ニしての綺礼の存在よりは、アインツベルンとの協調の方が遙かに価値があるのは明白だった。
結局、綺礼はその腕に再び刻まれた令呪のことも、密かに璃正から受け継いだ保管令呪の存在も、時臣には明かさなかった。セイバーの真のマスターである衛宮切嗣が今なお姿を潜めていることも教えなかった。
間桐雁夜を救ったことに加えて、そこまで重要な情報を今なお秘匿しているという時点で、既に綺礼は時臣の部下としての役目を自ら放棄しているようなものなのだ。こうして時臣から見限られたことについても、今さら文句を言える筋合いではない。
一通り、各スタッフへの電話連絡を終えて一段落した綺礼は、独り自室に戻ると、寝台の縁に腰を下ろして、無人の教会の静謐に耳を澄ました。
闇を見据え、自分自身の心に向けて問いかける。
その生涯において、幾千度、幾万度重ねてきたのかも知れぬ問い。
今夜のそれは、ひときわ切実で逼迫《ひっぱく》していた。今度ばかりは夜が明けるまでに、答えに至らなければならないのだから。
――我は、何を望むのか?
事後処理に当たる工作員たちから寄せられた数多の報告のうち、綺礼にとって見過ごせないものが二件ある。
ひとつ――キャスターの海魔によって混乱の直中にあった河岸にて、公衆の面前で変死を遂げた一人の成人男性。死体は瀬戸際で聖堂教会により確保され、警察の手に渡ることなく済んだ。とりわけ顔面の損壊が激しく身元の判別は不可能だったが、右手には明らかな令呪の痕跡があり、その他の身体的特徴から鑑《かんが》みて、キャスターのマスター、雨生龍之介のものと断定してほぼ間違いない。死因は――三〇口径かそれ以上の大口径ライフル弾、二発。
さらにもうひとつの報告からは、よりいっそう生々しい状況の再現ができる。
つい数時間前、新都郊外の廃工場で、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトとソラウ・ヌァザレ・ソフィアリの射殺死体が、これまた巡回中の教会スタッフによって発見され確保された。現場にうち捨てられていた署名済みの自己強制証文《セルフギアス・スクロール》は、下手人がいかに悪辣な策謀でランサーのマスターを抹殺したのかを赤裸々に物語る証拠となった。
衛宮切嗣――あの冷酷非情なる狩猟機械が、一人、また一人と獲物を仕留めていく足跡。
おそらくは、今もこの夜のどこかで、あの男は戦い続けている。ただ座して迷うしかない綺礼を余所に、彼は着実に聖杯へと歩みを進めている。
かつて虚無なる戦いに身を投じ続けた男が、九年の沈黙を破って再起した『冬木』という戦場。だがその意図も、その理由も見定めることなく、綺礼はここを去ろうとしている。
無限の願望器を手にしたとき、あの男は何を祈願するのか。
その回答は、果たして本当に綺礼の間隙をも埋めるに足るものだったのか。
「……貴様は、何者だ?」
つい、口に出して呟いていた。かつて祈りにも似た予感をもって衛宮切嗣に期待した答え≠、いま綺礼は危ぶみはじめている。脳裏を去来するのは、その身を挺してまで切嗣を護ろうとした女たちの存在だ。彼女らは切嗣に何を見込んでいるのか。或いは切嗣の目的意識は、すでに第三者と共有できる程度の凡俗に堕しているのか。
深い静寂を、騒々しく掻き乱す気配を感じ取った。外の廊下から近づいてくる。綺礼にとってはもう馴染みの気配であった。ただ黙って歩いているだけでも、あの英霊が絢爛《けんらん》と放つ威圧感は隠しようがない。神の御家に踏み込む上での憚《はばか》りや自粛とは、およそ無縁の存在であった。
ノックもせずに堂々と綺礼の部屋に踏み込んできたアーチャーは、物思いに沈む綺礼を一目見て、嘲りとも哀れみともつかぬ冷笑で鼻を鳴らした。
「この期に及んで、まだ思案か? 鈍重にも程があるぞ。綺礼」
「……時臣師を一人で帰らせたのか? アーチャー」
「館までは送り届けてやったさ。近頃はアサシンよりも悪辣な毒蜘蛛《どくぐも》が夜をうろついているそうだからな」
綺礼は頷いた。あの衛宮切嗣が、先程の会見をただ傍観していたはずがない。往路か帰路の道筋で時臣を襲う算段を立てていたのは明白だ。綺礼はそう事前に充分に言い含めておいた。――時臣ではなく、アーチャーに。
「それにしても、律儀なヤツだ。己を見限った主君の身をまだ案じるとはな」
「あれは当然の判断だ。そもそも私は時臣師の道具としての役割を終えている。既にこの冬木に留まる理由などない」
「――本気でそう思っているわけではあるまい?」
全てを見透かすアーチャーの視線を、綺礼もまた無言で睨み返した。
が、図星なのは否定しようもない。でなければ無為に座り込んでいたりなどせず、さっさと冬木を立ち去るための身支度を初めているはずの綺礼だ。
「今なお聖杯はお前を招いている。そしてお前自身もまた、なお戦い続けることを望んでいる」
重ねて指摘するアーチャーに、綺礼は無言のまま、反駁《はんばく》を放棄する。
どのみちアーチャーを前にして韜晦《とうかい》は無意味だ。この英霊は、綺礼が自分自身をも欺《あざむ》いている嘘でさえ見通してしまっている。そしておそらくは、綺礼が求め欲する答えの在処《ありか》すら、既に承知しているのだろう。
あの真紅の双眸は、迷路を彷復《さまよ》うモルモットを、上から俯瞰《ふかん》する観察者の眼差しだ。誘導も救助もせず、その煩悶《はんもん》を見下して興とするのが英雄王の愉悦なのだろう。
「……物心ついて以来、私はただ一つの探索に生きてきた」
自らの心の闇に語りかけるかのように、綺礼はアーチャーを前にして語った。
「ただひたすらに時を費やし、痛みに耐え……その全てが徒労に終わった。なのに今、私はかつてないほどに答え≠間近に感じている。
きっと、私が問い質してきたモノは、この冬木での戦いの果てに、ある」
そう声に出して語ったことで、綺礼は、今日まで自分を駆り立ててきたものが何だったのかを、あらためて理解した。
とうの昔に、言峰綺礼は遠坂時臣の走狗ではなく、自分自身のための戦いに挑みかかっていたのだと。
「そこまで自省しておきながら、いったい何をまだ迷う?」
冷ややかにアーチャーに問いつめられて、綺礼は、拡げた両の掌をじっと見下ろし、それから声もなく嘆くかのように顔を覆った。
「予感がある。――全ての答えを知った時、この私は、破滅することになるのだと」
衛宮切嗣に託した期待が、もし裏切られるとしたら――
そして間桐雁夜の末路に、違う何かを見出すとしたら――
今度こそ綺礼は、一切の逃げ場を封じられた上で対峙《たいじ》することになるだろう。父の死に、そして妻の死の間際に見出しかかった何か[#「何か」に傍点]と。
いっそこのまま、全てに背を向けて去るべきではないのか。最後まで遠坂時臣の従順なる弟子《でし》として、師の差配に従い退却する。名目としては申し分ない。
以後はすべてを忘却し、何も問わず、何も求めず、草木のように無為に生涯を過ごせばいい。何を失うにせよ、間違いなくそこに安息だけは約束されている。
「――くだらぬ事を考えるなよ、綺礼」
すかさず夢想を遮って、アーチャーが戒めの言葉を放った。
「そんなにも都合良く生き方を変えられるなら、今日のように悩むお前が出来上がるわけがない。常に問いながら生きてきたお前は、最後まで問いかけながら死んでいくのだ。答えを得ぬままでは安息もないぞ」
「……」
「むしろ祝うべきであろう? 永きに渡るお前の巡礼が、ついに目的地に至るのだ」
「……おまえは祝福するのか? アーチャー」
頷くアーチャーの面持ちには、依然として恩情の一片もなく、むしろ蟻塚《ありづか》を眺める子供のように無邪気な喜悦で輝いていた。
「言ったはずだ。ヒトの業《ごう》こそ最高の娯楽だと。お前が持って生まれた自らの業と対面する瞬間を、我《オレ》は心待ちにしているのだ」
憚《はばか》りなくそう放言する英雄王に、むしろ今度は綺礼の方が苦笑した。
「そうやって愉悦を貪ることのみに執心して生きるというのは、さぞ痛快なのだろうな……」
「羨むぐらいなら、お前もまたそう生きてみればいい。愉悦の何たるかを理解できれば、破滅など畏れるまでもなくなるぞ」
そのとき、廊下の外の司祭室で電話のベルが鳴り響いた。綺礼は用件を察しているのか、何ら訝ることなく自室を出ていって受話器を取り、二言三言の短い応答の後、すぐに切ってアーチャーの待つ部屋に戻ってきた。
「――何だ? 今のは」
「父の配下だった聖堂教会の工作員からの連絡だ。今では全ての連絡は私に宛てて寄越される」
妙に清々した風な綺礼の面持ちに、アーチャーは眉を顰《ひそ》めた。
「何か、よほど心が浮き立つような報せでも受けたのか?」
「そうかもな。たしかに、決め手にもなりうる情報ではあった」
そこまで言って、綺礼はさらに先を続けるかどうか一瞬だけ逡巡してから、結局、観念した風にかぶりを振って告白した。
「先の会見の後で、アインツベルンの連中を尾行させた。生前の父の指示だと言ったら疑いもせずに果たしてくれたよ。おかげで、いま連中が隠れ潜んでいる拠点の調べがついた」
綺礼の言葉が意味するところをアーチャーが呑み込むまでに、一拍の間が空いた。
それから英雄王は腹を抱えて大笑し、何度も手を打ち鳴らした。
「なんだ綺礼――お前というヤツは――ッ! もとより続ける覚悟なのではないか!」
この期に及んで、立場を利用してまで敵対陣営の動向を探るのは、もちろん戦いを継続する意図なくしては有り得ない。綺礼は煩悶《はんもん》する一方で、戦略の手だけは着実に打ち進めていたのである。
ただそこに、覚悟が伴わなかっただけの話だったのだ。――ほんの数分前までは。
「迷いはしたさ。止める手もあった。だが結局のところ――英雄王、おまえの言うとおり――私という人間は、ただ問い続けることの他に処方を知らない」
嘯きながらも綺礼は上着の袖を捲り、あらためて腕に刻まれた令呪の在処を確かめた。
左の上腕には、再びサーヴァントとの契約を可能とする綺礼固有の令呪が2画。
さらに右腕全体には、父の遺骸から回収した保管令呪の群れ。まだ契約の対象を特定されずにいる無数の令呪は、サーヴァントを律するという本来の用途だけでなく、より汎用性の高い無属性の魔力を練り出すことにも転用できる。いわば擬似的な魔術刻印として機能させることが可能なのだ。消耗品であるという点を除けば、今の綺礼は歴代の刻印を積み重ねた名門魔道にも匹敵するほどの魔術を、その身に備蓄していることになる。引き続き聖杯戦争を継続するには、充分にして余りある備えといえよう。
これより先は、大義もなく、名目もなく、今度こそ正真正銘に言峰綺礼ただ一人の戦いである。
自らの内なる虚無を埋めるために、その空洞の容《かたち》を確かめるために――衛宮切嗣に問う。間桐雁夜に問う。そして願望機たる聖杯に問い詰める。
「ハハハッ、――しかしな、綺礼。さっそくだが由々しい問題があるぞ」
ひとくさり笑ってからアーチャーは、その血色の双眸に、悪戯めいた――というにはあまりにも邪悪で剣呑な色を顕《あらわ》した。
「お前が自らの意志で聖杯戦争に参ずるならば、いよいよ遠坂時臣は敵であろうが。つまり今お前は何の備えもないままに、敵対するサーヴァントと同室しているのだ。これは大層な窮地ではないか?」
「そうでもない。命乞いの算段ぐらいはついている」
「ほう?」
興味深そうに目を眇《すが》めるアーチャーに、綺礼は澄まし顔で先を続けた。
「時臣師と敵になる以上は、もうこれ以上、彼の虚言を庇う必要もない。――ギルガメッシュ、まだおまえが知らぬ聖杯戦争の真実を教えてやろう」
「……何だと?」
胡乱げに眉を顰めるアーチャー。綺礼は満を持して、師である時臣より知らされた聖杯戦争の正体を語り始めた。
「この世の内≠ノ生じた奇跡が、世界の外≠ノまで通じるわけがない。願望機の争奪などは茶番だ。『始まりの御三家』が目論んだ聖杯の真意は他にある。
そもそもこの冬木の儀式はな、七体の英霊の魂を束ねて生贄とすることで『根源』へと至る穴を空けようとする試みだ。奇跡の成就≠ニいう約束も、英霊を招き寄せるための餌でしかない。その餌≠ノまつわる風聞だけが一人歩きした結果、今の聖杯戦争という形骸だけが残ったのだ」
それは間桐、遠坂、アインツベルンとそれに連なる者たちのみに許された秘密、外来のマスターと、全てのサーヴァントに対しては、決して知られてはならない真実だった。
「今回、かつての『御三家』の悲願を正しく成就しようとしている唯一の魔術師が、遠坂時臣だ。彼は七人のサーヴァントをすべて殺し尽くすことで『大聖杯』を起動させる。七人全て[#「七人全て」に傍点]だ。解るな? ――時臣師があれほど令呪の消費を渋っていた理由がそれだ。彼は他のマスターたちとの闘争においては二画までの令呪しか使えない。最後に残る一画は、すべての戦いが終わった後で、自らのサーヴァントを自決させるために必要だったからだ」
そこまで聞かされたアーチャーは、だがむしろ冷淡に感情のない顔で、低く押さえた声で問うた。
「……時臣が我《オレ》に示した忠義、あれはすべて嘘偽りだったと言うのか?」
綺礼はかつての師の人格を鑑《かんが》み、ゆっくりとかぶりを振った。
「彼はたしかに、『英雄王ギルガメッシュ』に対しては掛け値なしの敬意を払っていたのだろう。だがな、アーチャーのサーヴァント[#「アーチャーのサーヴァント」に傍点]であるおまえは別物だ。いわば英雄王の写し見、彫像や肖像画と同列の存在でしかない。画廊では一番見栄えのする場所に飾るだろうし、前を通るときは恭《うやうや》しく目礼もするだろう。――そしていざ模様替えの際に置き場がないとなれば、丁重に破棄させていただく、というわけだ。
結局のところ、時臣師は骨の髄まで『魔術師』だったというだけのことだ。突き詰めればサーヴァントという存在が道具にすぎないことを、彼は冷静に弁《わきま》えている。英霊は崇拝しても、その偶像には幻想など抱かない」
全てを聞き終えたアーチャーは、それで納得がいったと言わんばかりに一度だけ大きく頷くと、再び持ち前の邪悪な微笑を浮かべた。寛容にして残忍、鷹揚《おうよう》にして絶対。全ての価値基準を己ただ一人の審美のみによって断ずる、それは絶対者たる王の笑みだった。
「時臣め――最後にようやく見所を示したな。あの退屈な男も、これでやっと我《オレ》を愉しま
せることができそうだ」
その言外に意味するところを汲めば、血も凍るほどに凄惨な宣言であった。
「さてどうする英雄王? それでもなお、おまえは時臣師に忠義立てして、この私の叛意《はんい》を咎めるか?」
「さあ、どうしたものかな。いかに不忠者とはいえ、時臣は今なお我《オレ》に魔力を貢いでいる。いかに我《オレ》でも、完全にマスターを見限ったのでは現界に支障をきたすしな……」
そこまで言ってからアーチャーは、白々《しらじら》しいほど思わせぶりに綺礼を凝視した。
「ああ――そういえば一人、令呪を得たものの相方がおらず、契約からはぐれたサーヴァントを求めているマスターがいた筈だったな」
「そういえば、そうだった」
露骨すぎる誘惑に失笑すら返しながら、綺礼は頷いた。
「だが果たしてその男、マスターとして英雄王の眼鏡《めがね》に適《かな》うのかどうか」
「問題あるまい。堅物すぎるのが玉に瑕《きず》だが、前途はそれなりに有望だ。ゆくゆくは存分に我《オレ》を愉しませてくれるかもしれん」
――斯《か》くして。
運命に選ばれた最後のマスターとサーヴァントは、このとき、初めて互いに笑みを交わしあったのだった。
[#中央揃え]× ×
深き地の底に閉ざされた閣の中、ソレ[#「ソレ」に傍点]は微睡《まどろ》みの淵をさまよっていた。
浅い眠りの中、夢に見ていたのは――かつて遠い日に託された、途方もない、際限もない祈り≠フ数々。
良き世界を。良き人生を。咎なき魂でありたいと。
そう渇望するあまり、すべての悪性を余所に求めずにはいられなかった、いと弱き人々の願い。
その祈り≠ノ応えることで、かつてソレはひとつの世界を救済した。
我が身の他に罪は無し。我が身の外に咎はなし。
憎むべきは我一人。厭うべきは我一人。
そう請け負うことで諸人を救い、彼らに安寧をもたらした。
故に――
ソレ[#「ソレ」に傍点]は救済者にして聖者でなく。賛礼もなく、唾棄され、呪われ、蔑まれ……いつしかヒトであった頃の名前さえ奪われて、その在り方≠ノついての呼称でのみ、語り継がれる概念に成り果てた。
それもこれも、今となっては、幾星霜を隔てた追憶の夢。
あれから、どれほどの月日が流れたか。
今、安穏と眠る褥《しとね》の在処に、ソレ[#「ソレ」に傍点]は呆然と想いを馳せる。
何やら煩瑣《はんさ》な成り行きがあったような気がする。そう、ほんの六〇年ほど前。瞬き一つほど昔の話。
あまりにも刹那の出来事で、些細なところは定かでないが――気がつけばソレは、暗く生温い母胎のような場所にいた。
地の底に、深く息づく無窮の闇。
かつてそこは、無限の可能性を秘めた卵≠フような場所だった。そんな場所に、さながらただ一粒だけ到達した胤《たね》の如く、ある日流れ着いたソレ[#「ソレ」に傍点]は根を下ろし、そのときを境に、何物でもなかった闇は孕《はら》み腹《ばら》となり、ソレ[#「ソレ」に傍点]を育み成熟させるための子宮へと意味合いを変えたのだった。
以来、浅い眠りに微睡みながら、ソレ[#「ソレ」に傍点]は母の胎盤《たいばん》から滋養を授かる胎児のように、霊脈の地に流れ込む魔力を着実に啜り上げ、着実に肥え太りながら、誰に気取られることもなく、ただ時を待っている。
いつの日か、この深く熱い闇を抜け、産まれ落ちるその時を。
ふと、ソレ[#「ソレ」に傍点]は――すぐ間近から聞こえた声に耳を傾ける。
今、確かに、誰かが言った。
……この世の全ての悪[#「この世の全ての悪」に傍点]を……構わない……喜んで引き受ける……
ああ、呼ばれている。
招かれている。祝福とともに。
応えてやれる。今ならば、きっと。
既に闇の中で膨大に膨れ上がった魔力の渦は、ソレ[#「ソレ」に傍点]に確たる容《かたち》を与えつつある。
かつて遠い日々に託された、数多《あまた》の祈り≠フ数々も、今ならば具現が叶うだろう。
斯く在れ≠ニ祈られた姿そのままに。
斯《か》くの如く為せ≠ニ望まれた所行の全てを。
パズルのピースはすべて揃った。
噛み合った運命の歯車は、いま敢然《かんぜん》と回りだし、成就の刻《ゼロ》をめがけ唸りを上げて加速する。
あとは――産道が開くのを待つばかり。
やがて世界を紅蓮に染め上げる産声を、微睡みの中で夢に見ながら……
ソレ[#「ソレ」に傍点]は誰に知られることもなく、今はまだ、暗い地の底で秘めやかな胎動を繰り返すのみだった。
[#改ページ]
解説
[#地から4字上げ]田中ロミオ
さあ『Fate/Zero』三巻の来襲である。
皆さん覚悟はお済みだろうか?
読書というのは書物を侵略する行為だ。たいがいは読了とともに支配が完了する。
そうして記憶で物語を反芻《はんすう》しながら、じっくりと批評する。これが大人の読書だ。
しかしその法則も、ときには崩れることがある。
読んでいたつもりが、いつの間にか読まされている。支配したつもりが、気がつけば操られている。
『Fate/Zero』三巻を読み進めた時、それは起こる。
言うまでもなく本書は怪物的ビジュアルノベル『Fate/stay night』の外伝作品であり、前巻にも増して激化する展開を見せながらも、なお波乱の予兆を含む起承転結の『転』の巻でもある。
執筆するのは、精緻《せいち》な筆致で知られるPCゲーム界の巨星、虚淵玄その人だ。
本書を通読した方は、淀みなく綴られる小気味よい文体に、Fate世界の生みの親である奈須きのこ氏の気配を強く感じているのではないだろうか。
そしてまた虚淵玄氏をよく知る方は、原作の味を再現した巧緻極まるテキストの狭間に、においたつほどの『ウロブチ』を嗅ぎ取っているはずだ。
同じ物書きの視点から見た場合、この筆力にまず嫌にさせられる。
巧い。圧倒的に巧い。
自分の文体、自分のジャンル、自分の土俵で、巧いならまあ話はわかる。
だが人の土俵で、これだけ相撲を取ってしまえるというのは、ただ事ではない。
特にこのFateという作品は、世界観を使いこなすのに並々ならぬ力量を必要とするのではないかと思う。
虚淵氏のことはデビュー作から同人活動に至るまで全てストーキングしている。だから巧いことは知っていた。
だというのに『Fate/Zero』ではしばしば驚かされてしまう。
読み進めるほどに羨望が増す。
面白いのに、苦しい。面苦しいという状態に陥る。
工芸品のような乱れのない出来映えと、煮え立つ燃えの魂が、高い水準で両立できることを見せつけられる。
読み終わった時には感嘆のため息が出た。
これをただ純粋に楽しめる読者の皆さんは幸せである。
さて、同業者による嫉妬話はここまでにして、少し個人的な所感と行きたい。
実際のところ、読了とともに沸きあがった感情はひとつふたつではない。
美辞麗句や筋書きを不器用に連ねてしまう危険を避けようとすれば、かえって冷徹に評することになるのだが、もちろん感情のままに書き殴ることもできる。
ネタバレにならない範囲で少し触れてみよう。
三巻では物語の転機となる、様々な出来事が描かれる。
あんなことや、こんなこと。
あまつさえそんなことまで?
セイバーいじめ極めて順調。
ライダー、おまえはまたッ!!
ウェイバァァァァァァァァッ!
逆ギレ? いや違う、これは……そう、空回り! つらすぎる!
ああ、ランサー……
エルメローイ!
ギ ル ガ メ ッ シ ュ(誘い受け)
こんな感じ(全然わからんわ)。
いや、ネタバレにならないようにするとこのくらいしか……。
とにかくこれだけのものを読まされ、私は自分を抑えられなくなってしまった。
外出した。
気分的にはフェラーリなのだが、残念ながらわたしはフェラーリ幻想しか持ち得ない。親からもらった二本の足で行くぞ。
目的地はない。散策だ。
時折、気忙しげに行き過ぎる通行人たちに、警戒の視線を向ける。
建物の屋上に目を光らせる。
尾行を気にしてみたりする。
なぜそんなことを?
決まっている。
そこに聖杯戦争の参加者が潜んでいるかも知れないからだ。
そう。
私は脳内聖杯戦争に参加したつもりになってしまったのだ。これはキツい。
だが構うものか、今日はイタタ日和だ!
……と、つい私の宝具である『|個人的な妄想《プライベート・ファンタズム》』が加速してしまった。
『Fate/Zero』、おそるべしである。
[#改ページ]
フェイト/ゼロ Vol.3「散りゆく者たち」
―――――――――――――――――――
2007年7月27日初版発行
著者―――――――――虚淵玄(ニトロプラス)
発行者――――――――竹内友崇
発行所――――――――TYPE-MOON
http://www.typemoon.com/
FAX:03-3865-6166 MAIL:info@typemoon.com
イラスト―――――――武内崇
作画・彩色――――――こやまひろかず・蒼月タカオ・MORIYA・simo
ロゴデザイン―――――yoshiyuki(ニトロプラス)
装丁―――――――――WINFANWORKS
印刷―――――――――共同印刷株式会社
―――――――――――――――――――
Fate/Zero offlcial web slte:http://www.fate-zero.com/
(C)Nitroplus/TYPE-MOON
落丁、乱丁本の交換については、FAXまたはE-mailで受け付けております。
上記FAX番号、またはE-mailアドレスまでお問い合わせください。
無断転載、複製を禁ず
Printed in Japan.