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イラスト/武内崇
作画・彩色/こやまひろかず・蒼月誉雄・MORIYA・simo
ロゴデザイン/yoshiyuki(ニトロプラス)
装丁/WINFANWORKS
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プロローグ
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――八年前――
とある男の話をしよう。
誰よりも理想に燃え、それ故に絶望していた男の物語を。
その男の夢は初々しかった。
この世の誰もが幸せであってほしい、と、そう願ってやまなかっただけ。
すべての少年が一度は胸に懐《いだ》き、だが現実の非情さを知るうちに諦め、捨てていく幼稚な理想。
どんな幸福にも代価となる犠牲があるものと  その程度の理は、どんな子供も、大人になるまでのうちに弁《わきま》える。
だがその男は違った。
彼は誰よりも愚かだったのかもしれない。どこか壊れていたのかもしれない。或いは聖者と呼ばれる類の、常識を逸した天命を帯びていたのかもしれない。
この世のすべての生命が、犠牲と救済の両天秤に載っているのだと悟り……
決して片方の計り皿を空にすることは叶わないのだと理解したとき……
その日から、彼は天秤の計り手たろうと志を固めた。
より多く、より確実に、この世界から嘆きを減らそうと思うなら、取るべき道は他になかった。
一人でも多くの命が載った皿を救うため、一人でも少なかった方の皿を切り捨てる。
それは多数を生かすために、少数を殺し尽くすという行為。
ゆえに彼は、誰かを救えば救うほど、人を殺す術に長けていった。
幾重にも、幾重にも、その手を血の色で上塗りしていきながら、だが男は決して怯《ひる》まなかった。
手段の是非を問わず、目的の是非を疑わず、ただ無謬《むびゅう》の天秤たれと、それだけを自らに課した。
決して命の愚を量り違えぬこと。
ひとつの命に卑賤《ひせん》はなく、老いも若きも問うことなく、定量のひとつの単位。
男は分け隔てなく人々を救い、同じように分け隔てなく殺していった。
だが彼は、気付くのが遅すぎた。
すべての人を等しく公平に尊ぶならば。
それは、誰一人として愛さないのと同じこと。
そんな鉄則を、もっと早くから肝に銘じておいたなら、まだ彼には救いがあった。
若い心を凍らせ、壊死させ、血も涙もない計測機械として自身を完成させていたなら、彼はただ冷淡に生者と死者を選別し続けるばかりの人生を送れただろう。そこに苦悩はなかっただろう。
だが、その男は違った。
誰かが歓喜する笑顔は彼の胸を満たし、誰かの慟哭《どうこく》する声は彼の心を震わせた。
無念の怨嗟《えんさ》には怒りを供にし、寂寥《せきりょう》の涙には手を差し伸べずにはいられなかった。
人の世の理を超えた理想を追い求めておきながら――彼は、あまりにも人間すぎた。
その矛盾に男は幾度、罰せられたか知れない。
友情もあった。恋慕もあった。
そんな愛おしい一つの命と、赤の他人の無数の命が、天秤の左右に乗ったとしても――彼は、決して過《あやま》たなかった。
誰かを愛した上で、なおその命を他者と等価のものとして、平等に尊び、平等に諦める。いつでも彼は大切な人を、出会いながらにして喪っているようなものだった。
そして今、男は最大の罰を科されている。
窓の外には凍てついた吹雪。森の大地を凍らせる極寒の夜。
凍土の地に建てられた古城の一室は、だが優しく燃える暖炉の熱に守られている。
そんなぬくもりの結界の中で、男は、ひとつの新しい生命《いのち》を抱き上げていた。
その、あまりにも小さな――儚いほどにちっぽけな身体には、覚悟していたほどの重さもない。
手に掬《すく》い取った初雪のように、わずかに揺すっただけでも崩れてしまいそうな、危ういほどに繊細な手応え。
弱々しくも懸命に、眠りながらも体温を保ち、緩やかな呼吸に唇を震わせる。今はまだそれだけが限界の、ささやかな胸の鼓動。
「安心して、眠っていますね」
彼が赤子を抱き上げる様子を、母親は寝台に身を預けた姿勢のまま、微笑ましげに見守っている。
御産の憔悴《しょうすい》からまだ立ち直れず、血色は優れないものの、それでも高貴な宝石を思わせる美貌は些《いささ》かも衰えていない。なにより、疲弊による窶《やつ》れをかき消すほどの至福の色が、優しい眼差しと微笑みを輝かしている。
「慣れてるはずの乳母たちでも、この子、むずがって泣くんです。こんなに大人しく抱かれているなんて初めて。――解ってるんですね。優しい人だから大丈夫、って」
「……」
男は返す言葉もなく、ただ呆然と、手の中の赤子とベッドの母親とを見比べる。
アイリスフィールの微笑みが、かつてこれほどに眩しく見えたことがあっただろうか。
もとより幸とは縁の薄い女である。誰一人として、彼女に幸福などという感情を与えようと思う者はいなかった。神の被造物たらぬ、人の手に因る人造物……ホムンクルスとして生まれた女には、それが当然の扱いだった。アイリスフィールもまた望みはしなかった。人形として造られ、人形として育てられた彼女には、かつては幸福という言葉の意味さえ理解できていなかっただろう。
それが、今――晴れやかに笑っている。
「この子を産めて、本当に良かった」
静かに、慈しみを込めて、アイリスフィール・フォン・アインツベルンは眠る赤子を見つめながら語る。
「これから先、この子は紛《まが》い物の人間として生きていく。辛いだろうし、こうして紛い物の母親に産み落とされたことを呪うかもしれない。それでも、今は嬉しいんです。この子が愛しくて、誇らしいんです」
外見は何の変哲もない、見るからに愛らしい嬰児《みどりご》でありながら――
母の胎内にいるうちから幾度となく魔術的な処置を施されたその身体は、もはや母親以上に人間離れした組成に組み替えられている。生まれながらにして用途を限定された、魔術回路の塊とも言うべき肉体。それがアイリスフィールの愛娘《まなむすめ》の正体だった。
そんな残酷な誕生でありながら、アイリスフィールはなお「良し」と言う。産み落とした己を是とし、生まれ落ちた娘を是とし、その生命を愛して、誇って、微笑む。
その強さ、その貴《たっと》き心の在りようは、まぎれもなく母≠フものだった。
ただの人形でしかなかった少女が、恋を得て女になり、そして母親として揺るがぬカを得た。それは何者にも侵せない幸≠フ形であっただろう。暖炉のぬくもりに護られた母子の寝室は、今、どのような絶望とも不幸とも無縁だった。
だが――男は弁《わきま》えていた。自分が属する世界には、むしろ窓の外の吹雪こそ似つかわしいのだと。
「アイリ、僕は――」
一言を発するごとに、男の胸には刃が突き刺さるかのようだった。その刃とは、赤子の安らかな寝顔であり、その母の眩しい微笑みであった。
「僕は、いつか、君を死なせる羽目になる」
血を吐く思いで放たれた宣言に、アイリスフィールは安らかな表情のまま頷いた。
「解っています。もちろん。それがアインツベルンの悲願。そのための私なのですから」
それは、すでに確定された未来。
これより六年を経た後に、男は妻を連れて死地へと赴く。世界を救う一人の犠牲として、アイリスフィールは彼の理想に捧げられる生贄となる。
それは二人の間で、何度も語られ、了解された事柄だった。
すでに男は繰り返し涙を流し、自らを呪い、そのたびにアイリスフィールは彼を赦し、励ました。
「あなたの理想を知り、同じ祈りを胸に懐いたから、だから今の私があるんです。あなたは私を導いてくれた。人形ではない生き方を与えてくれた」
同じ理想に生きて、殉じる。そうすることで彼という男の半身となる。それがアイリスフィールという女の愛の形。そんな彼女だったからこそ、男もまたお互いを許容できた。
「あなたは私を悼《いた》まなくていい。もう私はあなたの一部なんだから。だから、ただ自分が欠け落ちる痛みにだけ耐えてくれればいいのです」
「……じゃあ、この子は?」
羽毛のように軽い嬰児の体重、その質量とは異なる次元の重圧で、今や男の両足は震えていた。
この子供は、彼の掲げる理想に対し、まだ何の理解も覚悟もない。
彼という男の生き様を断じることも、赦すこともできない。そんな力はまだ持ち合わせていない。
だが、そんな無垢な生命であろうとも、彼の理想は容赦するまい。
ひとつの命に卑賤はなく、老いも若きも問うことなく、定量のひとつの単位――
「僕に……この子を抱く資格は、ない」
狂おしいほどの愛おしさに潰されそうになりながらも、男は声を絞り出した。
腕の中の赤子の、ふくよかな桜色の頬に、一雫の涙が落ちる。
声もなく鳴咽しながら、とうとう男は膝を屈した。
世界の非情さを覆すため、それ以上の非情さを志し……それでも愛する者を持ってしまった男に対して、ついに科された最大の罰。
この世の誰よりも愛おしい。
世界を滅ぼしてでも守りたい。
だが男には、解っている。もしも自らの信じる正義が、この穢れない命を犠牲として要求したとき――彼が、衛宮切嗣という男がどんな決断を下すことになるか。
いつか来るかもしれないその日に怯えて、その万が一の可能性に恐怖して、切嗣は泣いた。碗の中のぬくもりに胸を締めつけられながら。
アイリスフィールはベッドから上体を起こし、泣き崩れる夫の肩に、そっと手を載せる。
「忘れないで。誰もそんな風に泣かなくていい世界、それが、あなたの夢見た理想でしょう?
あと八年……それであなたの戦いは終わる。あなたと私は理想を遂げるの。きっと聖杯があなたを救う」
彼の苦悩をあまさず知る妻は、どこまでも優しく、切嗣の涙を受け止めた。
「その日の後で、どうか改めて、その子を――イリヤスフィールを抱いてあげて。胸を張って、一人の普通の父親として」
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――三年前――
神秘学の語るところによれば、この世界の外側には次元論の頂点に在る力≠ェあるという。
あらゆる出来事の発端とされる座標。それが、すべての魔術師の悲願たる『根源の渦』……万物の始まりにして終焉、この世の全てを記録し、この世の全てを作れるという神の座である。
そんな世界の外≠ヨと到る試みを、二〇〇年前、実行に移した者たちがいた。
アインツベルン、マキリ、遠坂。始まりの御三家と呼ばれる彼らが企てたのは、幾多の伝承において語られる『聖杯』の再現である。あらゆる願望を実現させるという聖杯の召喚を期して、三家の魔術師は互いの秘術を提供しあい、ついに万能の釜≠スる聖杯を現出させる。
……だが、その聖杯が叶えるのはただ一人の人間の祈りのみ、という事実が明らかになるや否や、協力関係は血で血を洗う闘争へと形を変えた。
これが『聖杯戦争』の始まりである。
以来、六〇年に一度の周期で、聖杯はかつて召喚された極東の地『冬木』に再来する。そして聖杯は、それを手にする権限を持つ者として七人の魔術師を選抜し、その膨大な魔力の一部を各々に分け与えて、『サーヴァント』と呼ばれる英霊召喚を可能とさせる。七人のいずれが聖杯の担い手として相応しいか、死闘をもって決着させるために。
――かいつまんで要約すれば、言峰綺礼の受けた説明はそのような内容だった。
「君のその右手に顕れた紋様は『令呪』と呼ばれる。聖杯に選ばれた証、サーヴァントを統べるべくして与えられた聖痕だ」
滑らかに、だがよく通る声でそう説明を続ける人物は、名を遠坂|時臣《ときおみ》と名乗っていた。
南伊はトリノ、小高い丘の上の一等地に建てられた瀟酒《しょうしゃ》なヴィラの一室には、いま三人の男がラウンジチェアに腰を落ち着かせていた。綺礼と時臣、そして二人を引き合わせ、この会談を取り持った神父、言峰|璃正《りせい》……綺礼の実の父親である。
近々八〇に手が届こうという父の友人にしては、この遠坂という風変わりな日本人は若すぎた。見たところ年齢は綺礼とそう変わらないものの、それでいて落ち着いた風采《ふうさい》と貫禄は堂に入ったものだ。聞けば日本でも古い名家に連なる血筋で、このヴィラも彼の別宅だという。だが何よりも驚かされたのは、彼が出会い頭に何の気負いもなく自らが『魔術師』であると名乗ったことだ。
魔術師という言葉そのものは奇異でも何でもない。綺礼もまた父と同じ聖職者であったが、彼ら親子の職分は世間一般に知られるところの神父≠ニは大きく性格の異なるものだ。綺礼たちの属する『聖堂教会』は、教義の埒外《らちがい》にある奇跡や神秘を、異端の烙印とともに駆逐し葬り去る役を負う。つまりは、魔術などという涜神《とくしん》行為を取り締まる立場にある。
魔術師たちは魔術師たちで結託し、『協会』と称する自衛集団を組織して聖堂教会の脅威に拮抗している。現在、両者の間には協定が取り交わされて仮初めの平穏を保っているものの、それでも聖堂教会の神父と魔術師とが一堂に集っての談義というのは、本来ならば有り得ない状況であろう。
父、璃正の話によれば、遠坂家は魔術師の一門でありながら古くから教会とも縁故のある家柄だという。
右手の甲に浮かび上がった紋様状の三つの痣に、綺礼が気付いたのは昨夜のことだ。父に相談したところ、璃正は翌朝早々に息子をトリノにまで連れだし、そしてこの若き魔術師に引き合わせた。
以後、挨拶もそこそこに時臣が綺礼に語り聞かせたのは、先のような『聖杯戦争』なる秘談についての解説である。綺礼の手に浮かんだ痣の意味……すなわち、三年後に巡り来る四度目の聖杯の出現に際して、綺礼もまた奇跡の願望機を求め争う権利を得たのだという事情。
戦え、という要請には何の抵抗もない。聖堂教会での綺礼の役目は、実地における直接的な異端排除、つまりは歴とした戦闘員である。魔術師を相手に生死を賭すのは彼の本分と言っていい。むしろ問題なのは、魔術師同士の抗争である聖杯戦争に、聖職者である綺礼までもが魔術師≠ニして参加しなければならないという矛盾である。
「聖杯戦争の実態は、サーヴァントを使い魔として使役する戦いだ。よって勝ち残るためには召喚師としてそれなりの魔術の素養が必要になる。……本来なら、聖杯がサーヴァントのマスターとして選ぶ七人は、いずれもが魔術師であるはずなのだが。君のように魔術と縁のない者が、これだけ早期に聖杯から見初められるというのは、きわめて異例のことだろうな」
「聖杯の人選には、序列があるのですか?」
いまだ納得しきれない綺礼の問いに、時臣は頷く。
「先に話した『始まりの御三家』――今は間桐と名を変えたマキリの一門と、アインツベルン、それに遠坂の家に連なる魔術師には、優先的に令呪が授けられる。つまり……」
時臣は右手を差し上げ、その甲に刻まれた三つの紋様を示した。
「遠坂においては今代の当主である私が、次の戦いに参加する」
ではこの男は、こうも懇切丁寧に綺礼を先導しておきながら、遠からず彼と矛を交えるつもりなのだろうか? 解せない話ではあったが、ともかく綺礼は順を追って質問を重ねることにした。
「先程から仰有っているサーヴァントというのは、いったい何でしょうか。英霊を召喚して使い魔にする、というのは……」
「信じがたい話だとは思うが、事実だ。それがこの聖杯の瞠目すべき点と言えるだろうな」
歴史や伝承に名を残す超人、偉人たちの伝説。人々の間で永久不変の記憶となった彼らが、死後、人間というカテゴリーから除外されて精霊の域にまで昇格したものを『英霊』という。それは魔術師たちがごく普通に使い魔とするような魑魅魍魎、怨霊の類とは格が違う。いわば神にも等しい霊格の存在だ。その力の一部を招来して借り受ける程度のことは出来たとしても、彼らを使い魔として現界させ使役するなど、尋常に考えれば有り得ない話である。
「そんな不可能を可能とするのが聖杯の力、と考えれば、アレがどれほど途方もない宝具か解るだろう。サーヴァントの召喚も、あくまで聖杯の力のほんの一欠片でしかないのだから」
そう語っている自分自身が呆れ果てたと言わんばかりに、遠坂時臣は深く吐息をついてかぶりを振った。
「近くはたかだか百年程度の過去、遠くは神代の太古から、英霊は召喚される。七人の英霊はそれぞれ七人のマスターに従い、おのがマスターを守護し、敵であるマスターを駆逐する。……あらゆる時代、あらゆる国の英雄が現代に蘇り、覇を競い合う殺し合い。それが冬木の聖杯戦争なんだ」
「……そんな大それたことを? 何万人もの住民がいる人里で?」
すべての魔術師は、自らの存在を秘匿せんとするのが共通の理念である。科学が唯一普遍の原理として信仰されるこの時代においては、まったく当然の態度であろう。それを言うなら聖堂教会とて、決してその存在が公になることはない。
だが英霊ともなれば、ただ一人だけでも大災害をもたらすほどの威力を秘めている。その現身とも言えるサーヴァントを七体、人間の闘争の道具として激突させるというというのは……それはもはや、大量殺戮兵器を駆使した戦争と大差ない。
「――むろん、対決は秘密裏に行うというのが暗黙の掟だ。それを徹底させるための監督も用意される」
それまで沈黙を守っていた綺礼の父、璃正神父が、ここにきて口を挿んだ。
「六〇年おきの聖杯戦争は、今度で四回目。すでに二度目の戦いの時点で、日本の文明化は始まっていたからな。いかに極東の僻地とはいえ、人目を気にせず大破壊を繰り返すわけにもいかない。
そこで、三度目の聖杯戦争からは我ら聖堂教会から監督役が派遣される取り決めになった。聖杯戦争による災厄を最小限に抑え、その存在を隠蔽し、そして魔術師たちには暗闘の原則を遵守させる」
「魔術師の闘争の審判を、教会が務めるのですか?」
「魔術師同士の闘争だからこそ、だ。魔術協会の人間では、どうしても派閥のしがらみに囚われて公平な審判が勤まらない。協会の連中とて、外部の権威に頼るしか他になかったわけだ。
それに加えて、そもそもの発端が聖杯の名を冠された宝具とあっては、我ら聖堂教会も黙ってはいられない。それが神の御子の血を受け止めた本物[#「本物」に傍点]である可能性も無視できないからな」
綺礼と璃正は、父子ともども第八秘蹟会というセクションに席を置いている。聖堂教会のなかでも聖遺物の管理、回収を任務とする部門である。聖杯と呼ばれる秘宝は数々の民話や伝承に現れるが、中でも教会の教義において、『聖杯』の占める比重はひときわ大きい。
「そういう事情で、前回、世界大戦の混乱に紛れて開催された第三次聖杯戦争の折にも、まだ若造だった儂が大役を仰せつかったというわけだ。次回の戦いにおいても、引き続き儂が冬木の地へ赴き、お前たちの戦いを見守ることになる」
父の言葉に、綺礼は首を傾げざるを得なかった。
「待ってください。聖堂教会からの監督役とは、公平を期すための人選ではないのですか?その肉親が聖杯戦争に参加するというのは問題なのでは……」
「そこは、それ。まあルールの盲点といったところか」
堅物の父にしては珍しい、含みのある微笑が、綺礼には腑に落ちなかった。
「言峰さん、息子さんを困らせてはいけない。そろそろ本題に入りましょう」
遠坂時臣が、意味ありげな言葉で老神父に先を促す。
「フム、そうですな。――綺礼、ここまでの話は全て、聖杯戦争を巡る表向きの℃柾に過ぎん。今日、こうして儂がお前と遠坂氏を引き合わせた理由は他にある」
「……と、言いますと?」
「実のところ、冬木に顕れる聖杯が神の御子の$ケ遺物とは別物だという確証は、とうの昔に取れている。冬木の聖杯戦争で争われるのは、あくまで理想郷《ユートピア》における万能の釜のコピーでしかなく、魔術師たちのためだけの宝具にすぎない。我々教会とは縁もゆかりもない代物だ」
さもありなん。でなければ聖堂教会が『監督役』などという大人しい役目に甘んじているわけがない。聖遺物の$ケ杯が懸かっているとなれば、教会は休戦協定を反故にしてでも魔術師たちの手からそれを奪い取ることだろう。
「聖杯が、本来の目的通り『根源の渦』へと到るためだけの手段として用いられるのなら、これは別段、我ら聖堂教会の関知するところではない。魔術師たちが『根源』に向ける渇望は、とりたてて我らの教義に抵触するわけでもないからな。
――が、だからといって放置するには、冬木の聖杯は強大に過ぎる。なにせ万能の願望機だ。好ましからざる輩の手に渡れば、どんな災厄を招くか知れたものではない」
「では、異端として排除すれば――」
「それもまた困難だ。この聖杯に対する魔術師たちの執着は尋常ではない。真っ向から審問するとなれば、魔術協会との衝突も必至だろう。それでは犠牲が大きすぎる。
むしろ次善の策として、冬木の聖杯を望ましい者≠ノ託せる道があるのなら、それに越したことはないわけだ」
「……成る程」
綺礼にも、この会見の真意が徐々に呑み込めてきた。なにゆえ父が魔術師である遠坂時臣と交流があったのかについても。
「遠坂家はな、かつて祖国に信仰を弾圧されていた時代から、我々と同じ教義を貫いてきた歴史を持つ。時臣くん本人についても、その人柄は保証できるし、何より彼は聖杯の用途を明確に規定している」
遠坂時臣は頷いて、その先の言葉を引き継いだ。
「『根源』への到達。我ら遠坂の悲願はその一点をおいて他にはない。だが――悲しいかな、かつて志を同じくしたアインツベルンと間桐は、代を重ねるごとに道を見失い、今では完全に初志を忘れている。さらに外から招かれる四人のマスターについては言わずもがな、だ。どのような浅ましい欲望のために聖杯を狙うことやら知れたものではない」
つまり、聖堂教会が容認しうる聖杯の担い手は、遠坂時臣をおいて他にはない、ということだろう。いよいよ綺礼は、自分の役割について理解に到った。
「では私は、遠坂時臣氏を勝利させる目的で、次の聖杯戦争に参加すればいいのですね?」
「そういうことだ」
ここにきてようやく、遠坂時臣は口元に微笑めいたものを覗かせた。
「むろん表面上は、君と私は互いに聖杯を奪い合う敵同士として振る舞うことになろう。だが我々は水面下で共闘し、力を合わせて残る五人のマスターを駆逐し、殲滅する。より確実な勝利を収めるためにね」
時臣の言葉に、璃正神父が厳かに頷く。すでに聖堂教会による中立の審判、という形態そのものが茶番なのだ。教会もまた独自の思惑で、この聖杯戦争に関わっているのだろう。
だとしても、綺礼にとって是非はなかった。教会の意向が明らかならば、一人の代行者としてただ忠実にそれを全うするだけのことである。
「綺礼くん、君には派遣という形で聖堂教会から魔術協会へと転属し、私の従弟となってもらう」
引き続き事務的な口調で、遠坂時臣は話を進めた。
「転属――ですか?」
「すでに正式な辞令も出ているよ。綺礼」
そう言って、璃正神父は一通の書簡を差し出した。聖堂教会と魔術協会の連名による、言峰綺礼宛の通達文だった。手際の良さに、綺礼は驚くのを通り越して呆れ返る。昨日の今日で、よくもここまで早急に事を運んだものだ。
とどのつまり、最後まで綺礼の意思は介在する余地がなかったわけだが、別段そのことに腹を立てる理由もなかった。もとより綺礼には意思などない。
「当面は日本の当家で、魔術の修練に明け暮れることになるだろう。次の聖杯戦争は三年後。それまでに君は、サーヴァントを従え、マスターとして戦いに参加できるだけの魔術師となっていなければならない」
「しかし――構わないのでしょうか? 私が公然とあなたに師事したのでは、後の闘争でも協力関係を疑われるのでは?」
時臣は冷ややかに微笑してかぶりを振った。
「君は魔術師というものを解っていない。利害のぶつかった師弟どうしが殺し合いに及ぶことなど、我々の世界では日常茶飯事だ」
「ああ、成る程」
綺礼は魔術師を理解しているつもりはなかったが、それでも魔術師という人種の傾向については充分に把握していた。彼とて、これまで幾度となく異端≠フ魔術師と張り合ってきた代行者である。その手で仕留めた人数も一〇や二〇では収まらない。
「さて、何か他に質問はあるかね?」
締めくくりに時臣からそう尋ねられたので、綺礼はそもそもの発端からの疑問を口にした。
「ひとつだけ。――マスターの選別をする聖杯の意思というのは、一体どういうものなのですか?」
それは時臣にとって、まったく予期しなかった問いだったらしい。魔術師は暫《しば》し眉根に皺を寄せてから、間を空けて返答した。
「聖杯は……もちろん、より真摯にそれを必要とする者から優先的にマスターを選抜する。その点で筆頭に挙げられるのが、先にも話した通り、我が遠坂を含む始まりの御三家なわけだが」
「では全てのマスターに、聖杯を望む理由があると?」
「そうとも限らない。聖杯は出現のために七人のマスターを要求する。現界が近づいてもなお人数が揃わなければ、本来は選ばれないようなイレギュラーな人物が令呪を宿すこともある。そういう例は過去にもあったらしいが――ああ、成る程」
語るうちに時臣は、綺礼の疑念に思い当たったらしい。
「綺礼くん、君はまだ自分が選ばれたことが不可解なんだね?」
綺礼は頷いた。どう考えても彼には、願望機などというものに見出される理由が思い当たらなかった。
「フム、まあ確かに、奇妙ではある。君と聖杯との接点といえば、お父上が監督役を務めていたという点ぐらいだが……いや、だからこそ、という考え方もある」
「と、いいますと?」
「聖杯はすでに、聖堂教会が遠坂の後ろ盾になる展開を見越していたのかもしれない。教会の代行者が令呪を得れば、その者は遠坂の助勢につくものと」
そう言ってから、時臣は満足げにいったん言葉を切り、
「つまり聖杯は、この遠坂に二人分の令呪を与えるべくして、君というマスターを選んだ。……どうかね? これで説明にはならないか?」
そう、不敵な語調で結びをつけた。
「……」
この尊大な自信は、なるほど遠坂時臣という男に相応しい。それが嫌味にならないだけの貫禄をこの男は備え持っている。
たしかに魔術師としてはきわめて優秀な男なのだろう。そして、その優秀さに見合うだけの自負も持ち合わせていることだろう。故に、彼は決して自らの判断を疑うことなどないのだろう。
それはつまり、ここでいくら問おうとも、いま時臣が出した回答以上のものは得られないという事――綺礼は、そう結論づけた。
「日本への出立は、いつに?」
綺礼は内心の落胆を面《おもて》に出さず、質問の内容を変えた。
「私は一旦イギリスへ寄って行く。『時計塔』の方に少々、用事があるのでね。君は一足先に日本に向かってくれ。家の者には伝えておく」
「承知しました。……では、早速にでも」
「綺礼、先に戻っていなさい。儂は遠坂氏と少し話がある」
父の言葉に頷いて、綺礼は一人、席を立つと黙礼して部屋を辞した。
[#中央揃え]×      ×
後に残された遠坂時臣と璃正神父は、互いに無言のまま窓の外に目を向け、門から出ていく言峰綺礼の背中を見送る。
「頼り甲斐のあるご子息ですな。言峰さん」
「『代行者』としての力量は折り紙付きです。同僚たちの中でも、アレほど苛烈な姿勢で修行に臨む者はおりますまい。見ているこちらが空恐《そらおそ》ろしくなる程です」
「ほう……信仰の護り手として、模範的な態度ではありませんか」
「いやはや、お恥ずかしながら、この老いぼれにはあの綺礼だけが自慢でしてな」
峻厳さで知られる老神父は、だが時臣にはよほど気を許しているものと見えて、衒《てら》いもなく相好を崩した。その眼差しからは、一人息子に向けられる信頼と情愛がありありと窺《うかが》えた。
「五〇を過ぎても子を授からず、跡継ぎは諦めておったのですが……今となっては、あんなにも良くできた息子を授かったことが畏れ多いぐらいです」
「しかし、思いのほか簡単に承諾してくれましたな。彼は」
「教会の意向とあれば、息子は火の中にでも飛び込みます。アレが信仰に賭ける意気込みは激しすぎるほどですからな」
時臣は老神父の言を疑うつもりはなかったが、彼が璃正神父の息子から受けた印象は、そんな信仰の情熱≠ネどという熱意とはいささか食い違うものだった。綺礼という男の物静かな佇まいには、むしろ虚無的なものを感じていた。
「正直なところ、拍子抜けしたほどです。彼からしてみれば、何の関係もない闘争に巻き込まれたも同然のことだったでしょうに」
「いや……むしろアレにとっては、それが救いだったのかもしれません」
わずかに言葉を濁してから、璃正神父は沈鬱に呟いた。
「内々の話ですが、つい先日、アレは妻を亡くしましてな。まだ二年しか連れ添っていなかった新妻です」
「それは、また――」
意外な事情に、時臣は言葉を失う。
「態度にこそ出しませんが、それでも相当堪えているはずです。……イタリアには思い出が多すぎる。久しい祖国の地で、目先を変えて新たな任務に取り組むことが、今の綺礼にとっては傷を癒す近道なのかもしれません」
璃正神父は溜息混じりにそう語り、それから時臣の瞳を真っ直ぐに見据えて続けた。
「時臣くん、どうか息子を役立ててください。アレは信心を確かめるために試練を求めているような男です。苦難の度が増すほどに、アレは真価を発揮することでしょう」
老神父の言葉に、時臣は深々と頭を下げた。
「痛み入ります。聖堂教会と二代の言峰への恩義は、我が遠坂の家訓に刻まれることでしょう」
「いやいや、私はただ先々代の遠坂氏との誓いを果たしたまでのこと。――あとはただ、あなたが『根源』へ辿り着くまでの道程に神の加護を祈るばかりです」
「はい。祖父の無念、遠坂の悲願、我が人生はそれらを負うためだけにありました」
責任の重さと、それを支えて余りあるだけの自信を秘めて、時臣は決然と頷いた。
「今度こそ聖杯は成るでしょう。どうか見届けていただきたい」
時臣の堂々たる態度に、璃正神父は胸中で、亡き朋友の面影を祝福した。
友よ……君もまた良い跡継ぎを得たのだな
[#中央揃え]×      ×
地中海からの爽風に髪を吹き煽られながら、言峰綺礼は、丘の頂のヴィラから続く九十九折りの細道を、一人、黙然と引き返していた。
つい先程まで語り合っていた遠坂時臣という人物について、綺礼は受け止めた印象の数々を思い返し、整理する。
おそらくは艱難《かんなん》多き半生を過ごしてきたのであろう。そうやって舐めてきたぶんだけの辛酸を、すべて誇りへと転化してきたかのような、揺るぎない自負と威厳を備えた男。
ああいう人物のことはよく理解できる。他ならぬ綺礼の父が、あの時臣と同類だ。
この世に生まれ落ちた意味、おのれの人生の意味を自ら定義し、疑うことなく信念として奉じている男たち。彼らは決して迷うことも、躊躇《ためら》うこともない。
人生のどんな局面においても、生涯の目的として見定めた何か≠全うするためだけのベクトルで、明確な方針で行動できる鉄の意思。その信念の形≠ェ、たとえば綺礼の父の場合は敬虔《けいけん》なる信仰心であり、そしておそらく遠坂時臣の場合は、選ばれた者としての自負――平民とは違う特権と責任を担う者としての自意識なのだろう。あれは、近頃では滅多に見つからない本物の貴族≠フ生き残りだ。
今後当面、遠坂時臣の存在は綺礼にとって大きな意味合いを占めることになるのだろうが……だとしても、彼は綺礼とは決して相容れない種類の人間だ。父の同類というだけで、間違いなくそう言える。
理想だけしか見えていない者に、理想を持てずに迷う苦しみなど理解できる道理がない。
時臣のような人間が信念の礎としているような目的意識≠ニいうものが、言峰綺礼の精神からはごっそりと欠け落ちているのだ。そんなものは二十余年もの人生を通じて、ただの一度も持ち合わせたことがない。
物心ついた時から、彼にはどんな理念も崇高と思えず、どんな探求にも快楽などなく、どんな娯楽も安息をもたらさなかった。そんな人間が、そもそも目的意識などというものを持ち合わせているわけがない。
なぜそこまで自分の感性が世間一般の価値観と乖離《かいり》してしまっているのか、その理由すらも解らなかった。ただとにかく、どのような分野であろうとも、前向きな姿勢で成し遂げようと思えるだけの情熱を注げる対象が、綺礼には何一つ見当たらなかった。
それでも神はいるものと信じた。まだ自分が未熟であるが故に、真に崇高なるものが見えないだけだと。
いつの日か、より崇高なる真理に導かれるものと、より神聖なる福音に救われるものと信じて生きてきた。その希望に賭けて、縋《すが》った。
だが心の奥底では、綺礼とて、すでに理解してしまっていたのだ。もはや自分という人間は神の愛をもってしても救いきれぬと。
そんな自分に対する怒りと絶望が、彼を自虐へと駆り立てた。修身の苦行という名目を借りて、ただ徒《いたずら》に繰り返された自傷行為。だがそうやって責め苛むほどに綺礼の肉体は鋼の如く鍛えられ、気がつけば他に追従する者もないまま、彼は『代行者』という聖堂教会のエリートにまで登りつめていた。
誰もがそれを栄光≠ニ呼んだ。言峰綺礼の克己と献身を、聖職者の鑑として褒めそやした。父の璃正とて例外ではなかった。
言峰璃正が息子に向けている信頼と賞賛の程を、綺礼は充分に理解していたし、それがどうしようもなく的外れな誤解であるという現実には、内心、忸怩《じくじ》たるものがあった。この誤解はきっと生涯、修正されることはないだろう。
綺礼が内に抱えた人格の欠落は、今日に至るまで誰にも理解されたことがない。
そう、ただひとり愛したはずの女にすらも――
「……」
立ち眩みにも似た感覚を覚えて、綺礼は歩調を緩め、額に手をやった。
死別した妻のことを思い返そうとすると、まるで靄《もや》がかかるかのように、なぜか思考が散漫になる。霧の中で断崖絶壁の縁に立つような気分。その先には一歩たりとも踏み出してはならないという、本能的な忌避感《きひかん》。
気がつけばすでに丘の麓だった。綺礼は足を止め、はるかに遠ざかった頂上のヴィラを顧《かえり》みた。
今日の遠坂時臣との会見で、ついに満足な答えを得られなかった最大の疑問……その問いこそが、綺礼にとっては最も気懸かりだったのだが。
何故、聖杯≠ネる奇跡の力は言峰綺礼を選んだのか?
時臣による説明は、苦し紛れの後付けでしかない。聖杯が時臣の後援者を欲しただけだというのなら、綺礼でなくても、より時臣と親密な関係にある人材が他にいくらでもいたはずだ。
次の聖杯の出現までには、まだ三年もの猶予があるという。ならこんなにも早々に令呪を授けられた綺礼には、きっと選ばれるだけの理由があった筈なのだ。
だが……考えれば考えるほどに、ただ矛盾ばかりが綺礼を悩ませる。
本来なら、彼は決して選ばれない≠ヘずの人間だ。
綺礼には目的意識≠ェない。よって理想も、願望もない。どう転んだところで彼は、万能の願望機≠ネどという奇跡を担えるわけがないのだ。
暗鬱な面持ちで、綺礼は右手の甲に現れた三つの徴《しるし》に眺め入った。
令呪とは聖痕であるという。
はたしてこれより三年の後、自分は何を背負う羽目になるのだろうか。
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――一年前――
目当ての女性《ひと》の面影は、すぐに見分けがついた。
休日の昼下がり、小春日和の陽光が燦々《さんさん》と降りそそぐ芝生には、そこかしこではしゃぎ廻る子供たちと、それを見守る親たちの笑顔が目につく。噴水を囲む公園の広場は、家族連れで和む憩いの場として大勢の市民に親しまれていた。
そんな中でも、彼はまったく迷わなかった。
どんな人混みでも、離れた場所からでも、彼は苦もなくただ一人の女性を見分ける自信があった。たとえそれが、月に一度逢えるかどうかもおぼつかない、限りなく他人に近い間柄の相手だとしても。
木陰で涼む彼女のすぐ脇まで彼が歩み寄ったところで、ようやく彼女は彼の来訪に気がついた。
「――やあ、久しぶり」
「あら――雁夜《かりや》君」
慎ましい愛想笑いに口元を綻《ほころ》ばせながら、彼女は読みかけの本から目を上げた。
窶《やつ》れた――そう見て取った雁夜は、やるせない不安に囚われる。どうやら今の彼女には何か心痛の種があるらしい。
すぐにも原因を問い質し、どんなことだろうと力を尽くして、その何か≠解決してやりたい――そんな衝動に駆られはしても、それは雁夜には出来ない相談だった。そんな遠慮のない親切を尽くせるほど、雁夜は彼女に近しい立場には、ない。
「三ヶ月ぶりかしら。今度の出張は、ずいぶん長くかかったのね」
「ああ……まぁね」
眠りの中、優しい夢には必ず現れる彼女の笑顔。だがその実物を前にすると、面と向き合う勇気がない。これまでの八年間がそうだったように、これからも未来永劫《みらいえいごう》、雁夜はその笑顔を直視できないだろう。
そんな風に気後れをしてしまう相手だから、出会い頭の挨拶の後には、どういう話題を持ち出したものか判断に迷って、微妙な空白の間ができる。これもまた毎度のことだ。
それが気まずい沈黙になるまで長引かないように、雁夜はより気負うことなく話しかけられる相手の姿を探す。
――いた。芝生で遊んでいる他の子供たちに混じって、元気に跳ね回る二房のツインテール。幼いながらも母親譲りの美貌の兆しを既に見せ始めている女の子。
「凛ちゃん」
呼びかけて、雁夜は手を振った。凛と呼ばれた少女はすぐに気付いて、満面に笑顔を咲かせて駆け寄ってくる。
「カリヤおじさん、おかえり! またオミヤゲ買ってきてくれたの?」
「これ、凛、お行儀の悪い……」
困り顔で母親が窘《たしな》める声も、幼い少女にはまるで届いていない。期待に目を輝かせる凛に、雁夜もまた笑顔で応じながら、隠し持っていた二つのプレゼントのうち片方を差し出す。
「わぁ、キレイ……」
大小のガラスビーズで編まれた精巧なブローチは、一目で少女の心を虜にした。彼女の年齢を考えれば少し背伸びをした贈り物だったが、凛が歳不相応にませた趣味をしているのは雁夜もちゃんと心得ている。
「おじさん、いつもありがとう。これ、大事にするね」
「ハハ、気に入ってくれたのなら、おじさんも嬉しいよ」
凛の頭を撫でながら、雁夜はもう一つ用意したプレゼントを受け取るべき相手を捜す。どういうわけか、公園のどこにも見当たらない。
「なあ、桜ちゃんはどこにいるんだい?」
そう雁夜に訊かれた途端、凛の笑顔が空洞になった。
子供が、理解の及ばない現実を無理に受け入れるときならではの、諦めと思考停止の表情。
「桜はね、もう、いないの」
固く虚ろな眼差しのまま、凛は棒読みの台詞のようにそう答えると、それ以上雁夜に何か訊かれるのを拒むかのように、さっきまで遊んでいた子供たちの輪の中へと戻っていった。
「……」
不可解な凛の言葉に戸惑ううちに、ふと雁夜は、視線で凛の母親に問いかけている自分に気がついた。彼女は暗い眼差しを、何かから逸らすようにして虚空に向けている。
「どういうことなんだ……?」
「桜はね、もう私の娘でも、凛の妹でもないの」
乾いた口調は、だが娘の凛よりも気丈だった。
「あの子は、間桐の家に行ったわ」
忌まわしいほどに親しみ深いその呼び名が、雁夜の心をざっくりと抉《えぐ》る。
「そんな……いったいどういうことなんだ、葵さん」
「訊くまでもないことじゃない? 特に雁夜くん、あなたなら」
凄の母――遠坂葵は、固く冷ややかな口調で感情を押し殺して、あくまで雁夜の方を見ないまま淡々と語った。
「間桐が魔導師の血筋を嗣ぐ子供を欲しがる理由、あなたなら、解って当然でしょう?」
「どうして、そん稔こと……許したんだ?」
「あの人[#「あの人」に傍点]が決めたことよ。古き盟友たる間桐の要請に応えると、そう遠坂の長《おさ》が決定したの。……私に意見できるわけがない」
そんな理由で母と子が、姉と妹が引き裂かれる。
もちろん納得できるわけがない。だが葵と、そして幼い凛までもが納得せざるを得ない[#「納得せざるを得ない」に傍点]理由はよく解る。つまり魔術師として生きるというのは、そういうものなのだ。その運命の非情さは雁夜とてよく知っていた。
「……それでいいのか?」
いつになく固い声でそう質《ただ》す雁夜に、葵は力無い苦笑を返す。
「遠坂の家に嫁ぐと決めたとき、魔術師の妻になると決めたときから、こういうことは覚悟していたわ。魔導の血を受け継ぐ一族が、ごく当たり前の家族の幸せなんて、求めるのは間違いよ」
そして、なおも言い返そうとする雁夜に向けて、魔術師の妻は優しく、だがきっぱりと拒むかのように――
「これは遠坂と間桐の問題よ。魔術師の世界に背を向けたあなたには、関わりのない話」
――そう、小さくかぶりを振って言葉を足した。
雁夜はそれ以上、もう身動きもできなかった。まるで自分が公園の立木の一本にでもなったかのような、無力さと孤立感で胸を締め上げられた。
かつて少女だった頃の昔から、妻になり、二児の母になったその後も、葵が雁夜に接する態度は何一つ変わらなかった。三つ年上の幼馴染みは、まるで本物の姉弟のように、いつも雁夜に優しく親身に、気兼ねなく接してくれた。
そんな彼女が、二人の立ち位置の線引きをはっきりと示したのは、これが初めてのことだった。
「もしも桜に会うようなことがあったら、優しくしてあげてね。あの子、雁夜くんには懐いてたから」
葵の見守る視線の先で、凛は明るく元気に、そう振る舞うことで悲しみを追い払うかのように、一心に遊びに興じている。
そんな凛の姿こそが答えであると言わんばかりに、そして、傍らで言葉に詰まったまま佇立《ちょりつ》する雁夜を拒むかのように、遠坂葵は、どこにでもいる休日の母親の和みきった面持ちのまま、ただ横顔だけで雁夜を遇《ぐう》した。
だがそれでも、雁夜は見逃さなかった。見逃せるはずもなかった。
気丈に、冷静に、運命を肯定した遠坂葵。
そんな彼女も、かすかに目尻に溜まった涙までは隠しきれていなかった。
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二度と見ることもあるまいと思っていた故郷の景色の中、雁夜は足早に歩を進めた。
何度、冬木市に舞い戻ろうと、川を渡って深山町にまで踏み込むことは決してなかった。思えば一〇年ぶりになろうか。日毎に開発の進む新都と違って、この辺りはまるで時が止まったかのように変化がない。
記憶にあるままの閑静な町並み。だが歩調を緩めてそれらに見入ったところで、蘇ってくる思い出には快《こころよ》いものなど一つもない。そんな益体《やくたい》もない郷愁には背を向けたまま、ただ雁夜は、小一時間ほど前の葵との問答ばかりに思いを馳《は》せていた。
『……それでいいのか?』
目を伏せる葵に、思わず投げかけた詰問の言葉。あんなにも険しい声音が自分の口を衝いて出たのは、ここ数年来ないことだった。
目立たず、誰の妨げにもならず……そう心がけて生きてきた。怒りも、憎しみも、雁夜はこの深山町の寂れた町並みに置き去りにしてきた。故郷を捨てた後の雁夜には、拘《こだわ》るほどの出来事など何もなかった。どんなに卑劣なことも、醜い事柄も、かつてこの土地で嫌悪した諸々に比べれば、取るに足らないものばかりだった。
だから――そうだ。今日のように声にまで感情が出たのは、きっと八年前のこと。
あのときも雁夜は、同じ声音と剣幕で、同じ言葉を、同じ女性に投げかけたのではなかったか。
『それでいいのか?』――あのときも、問うた。年上の幼馴染みに向けて、彼女が遠坂の姓を得る日の前夜に。
忘れもしない。あのときの彼女の面持ち。
困ったように、申し訳なさそうに、それでもはにかみに頬を染めて、彼女は小さく頷いた。その慎ましい微笑に雁夜は敗北した。
『……覚悟していた……ごく当たり前の家族の幸せなんて、求めるのは間違いよ……』
そんな言葉は、嘘だ。
八年前のあの日、彼女が若き魔術師のプロポーズを受け入れたとき、その笑顔はたしかに幸福を信じていた。
そして、その微笑みを信じたからこそ、雁夜は敗北を受け入れた。
葵を娶《めと》らんとする男は、或いは彼こそが、彼女を幸せに出来る唯一の男なのかもしれない、と。
だがそれは間違っていた。
その致命的な間違いを、雁夜は誰よりも身につまされて理解していた筈だった。魔術というものが、いかにおぞましく唾棄《だき》すべきものか、それを痛感したからこそ雁夜は運命を拒み、親兄弟と決別してこの地を去ったのではないか。
にも拘わらず、彼は許してしまった。
魔術の忌まわしさを知り、それに怯えて背を向けた彼でありながら……誰よりも大切だった女性を、よりによって、誰よりも魔術師然とした男に譲ってしまった。
いま雁夜の胸を焼くのは、悔恨の念。
彼は一度ならず二度までも、同じ言葉を間違えた。
『それでいいのか』と問うのではなく、『それはいけない』と断じるべきだった。
もし八年前のあの日、そう断じて葵を引き留めていれば――或いは、今日とは違う未来があったかもしれない。あのとき遠坂と結ばれなければ、彼女は魔術師の呪われた命運とは無縁のまま、ごく普通の人生を歩んでいただろう。
そして今日、もしあの昼下がりの公園で、そう断じて遠坂と間桐の決定に異を唱えていたならば――彼女は呆《あき》れたかもしれない。部外者の戯言と一蹴したかもしれない。だがそれでも、葵はあんな風に自分だけを責めることはなかった。涙を噛み殺すような思いをさせずに済んだ。
雁夜は、断じて許せなかった。二度も過ちを重ねた自分を。そんな自分を罰するために、決別した過去の場所へと戻ってきた。
そこにはきっと、ただひとつ、償いの術がある。かつて自分が背を向けた世界。我が身可愛さに逃げ出した運命。
だが今ならば、対決できる。
この世でただ一人、悲しませたくなかった女性《ひと》を想うなら――
夕闇の迫る空の下、鬱蒼《うっそう》とそびえ立つ洋館の前で足を止める。
一〇年の時を経て、間桐雁夜はふたたび生家の門前に立った
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玄関先で繰り広げられた、ささやかながらも剣呑《けんのん》な押し問答の末、ほどなくして雁夜は勝手知ったる間桐邸の中で、応接間のソファに腰を据えていた。
「その面《つら》、もう二度とワシの前に晒すでないと、たしかに申しつけた筈だがな」
雁夜と差し向かいに座りながら、冷たく憎々しげに言い捨てる矮躯《わいく》の老人は、一族の家長たる間桐臓硯である。禿頭も手足も木乃伊《ミイラ》と見紛うほどに萎びていながら、それでいて落ちくぼんだ眼下の奥の光だけは爛々《らんらん》と精気を湛《たた》えた、容姿から風格から尋常ならざ怪人物である。
実のところ、この老人の正確な年齢は雁夜にも定かでない。ふざけたことに戸籍上の登録では彼が雁夜たち兄弟の父親ということになっている。だがその曾祖父にも、さらにその三代前の先祖にも、臓硯という名の人物は家系図に記録されていた。この男がいったい何代に渡って間桐家に君臨してきたのかは知る由もない。
語るもおぞましい手段によって延齢に延齢を重ねてきた不死の魔術師。雁夜が忌避《きひ》する間桐の血脈の大元たる人物。現代に生き残る正真正銘の妖怪が彼だった。
「聞き捨てならない噂を聞いた。間桐の家がとんでもなく恥さらしな真似をしてる、とな」
いま相対しているのが冷酷無比かつ強大な魔術師であることは、雁夜とて重々承知していた。だが怖じる気持ちは毛頭ない。雁夜が生涯を通じて憎み、嫌悪し、侮蔑してきたすべてを体現する男。たとえこの男に殺されるとしても、雁夜は最後まで相手を蔑み抜く覚悟を固めていた。すでに一〇年前の対決からして、そういう気概で臨んだからこそ、雁夜は掟破りの離反者として間桐を離れ、自由を得ることができたのだ。
「遠坂の次女を迎え入れたそうだな。そんなにまでして間桐の血筋に魔術師の因子を残したいのか?」
詰問調の雁夜に、臓硯は忌々《いまいま》しげに眉を顰《しか》める。
「それを詰るか? 他でもない貴様が? いったい誰のせいでここまで間桐が零落したと思っておる?
鶴野《びゃくや》めが成した息子には、ついに魔術回路が備わらなんだ。間桐純血の魔術師はこの代で潰えたわ。だがな雁夜、魔術師としての素養は、鶴野よりも弟であるおぬしの方が上だった。おぬしが素直に家督を受け継ぎ、間桐の秘伝を継承しておれば、ここまで事情は切迫せなんだ。それを貴様という奴は……」
口角に泡を飛ばす勢いでまくし立てる老人の剣幕を、だが雁夜は鼻を鳴らして一蹴する。
「茶番はやめろよ吸血鬼。あんたが今さら間桐一族の存続なんぞに拘ってるとでも? 笑わせるな。新しい代の間桐が産まれなくても、あんたには何の不都合もあるまい。二〇〇年なり一〇〇〇年なりと、あんた自身が生き続ければ済む話だろうが」
そう雁夜が言い当てた途端、臓硯はそれまでの怒気を嘘のように収めて、ニヤリと口元を歪める。およそ人間らしい情緒など欠片も窺えない、それは怪物の笑みだった。
「相変わらず、可愛げのない奴よのう。身も蓋もない物言いをしおって」
「それもこれも、あんたの仕込みだ。くだらない御託で誤魔化される俺じゃない」
ククク……と、さも愉快げに老人は喉の奥から湿った音を鳴らす。
「左様。おぬしや鶴野の息子よりも、なおワシは後々の世まで生き長らえることじゃろうて。だがそれも、この日毎《ひごと》に腐れ落ちる身体をどう保つかが問題でな。間桐の跡継ぎは不要でも、間桐の魔術師は必要でのう。この手に聖杯を勝ち取るためには、な」
「……結局は、それが魂胆か」
雁夜とて、概ね察しはついていた。この老魔術師が妄執《もうしゅう》のごとく追い求める不老不死。それを完壁な形で叶える『聖杯』という願望機……数世紀を経てなお往生《おうじょう》せぬこの怪物を支えているのは、その奇跡に託す希望だけなのだ。
「六〇年の周期が来年には巡り来る。だが四度目の聖杯戦争には、間桐から出せる駒がない。鶴野程度の魔力ではサーヴァントを御しきれぬ。現にいまだ令呪すら宿らぬ有様じゃ。
じゃがな、此度の戦いは見送るにしても、次の六〇年後には勝算がある。遠坂の娘の胎盤からは、さぞ優秀な術者が生まれ落ちるであろう。アレはなかなか器として望みが持てる」
遠坂桜の幼い面影を、雁夜は瞼の裏に思い出す。
姉の凛よりも奥手で、いつも姉の後について廻っていた、か弱い印象の女の子。魔術師などという残酷な運命を背負わされるには、あまりにも早すぎる子供。
湧き上がる怒りを飲み下し、雁夜はつとめて平静を装う。
今ここで臓硯と相対しているのは交渉のためだ。感情的になって益になることは何もない。
「――そういうことなら、聖杯さえ手に入るなら、遠坂桜には用はないわけだな?」
含みのある雁夜の言い分に、臓硯は誑しげに目を細める。
「おぬし、何を企んでいる?」
「取引だ、間桐臓硯。俺は次の聖杯戦争で間桐に聖杯を持ち帰る。それと引き換えに遠坂桜を解放しろ」
臓硯は一呼吸の間だけ呆気に取られ、それから侮蔑も露わに失笑した。
「カッ、馬鹿を言え。今日の今日まで何の修行もしてこなかった落伍者が、わずか一年でサーヴァントのマスターになろうだと?」
「それを可能にする秘術が、あんたにはあるだろう。爺さん、あんたお得意の蟲使いの技が」
老魔術師の目を真っ向から見据えながら、雁夜は切り札の一言を口にする。
「俺に『刻印虫』を植えつけろ。この身体は薄汚い間桐の血肉で出来ている。他家の娘なんかよりはよほど馴染みがいいはずだ」
臓硯の面《おもて》から表情が消え、人ならざる魔術師の顔になる。
「雁夜――死ぬ気か?」
「まさか心配だとは言うまいな? お父さん[#「お父さん」に傍点]」
雁夜が本気なのは、臓硯も理解したらしい。魔術師は冷ややかに値踏みする眼差しで雁夜を眺めながらも、ふむ、と感慨深げに息をつく。
「確かに、おぬしの素養であれば鶴野よりも望みはある。刻印虫で魔術回路を拡張し、一年間みっちりと鍛え抜けば、あるいは聖杯に選ばれるだけの使い手に仕上がるやも知れぬ。
……それにしても、解せぬな。なぜ小娘一人にそうまでして拘る?」
「間桐の執念は、間桐の手で果たせばいい。無関係の他人を巻き込んでたまるか」
「それほまた殊勝《しゅしょう》な心がけじゃのう」
臓硯はさも愉しそうに、にんまりと底意地の悪い笑みを浮かべた。
「しかし雁夜、巻き込まずに済ますのが目的ならば、いささか遅すぎたようじゃのう? 遠坂の娘が当家に来て何日目になるか、おぬし、知っておるのか?」
やにわに襲いかかってきた絶望が、雁夜の胸を押し潰す。
「爺ぃ、まさか――」
「初めの三日は、そりゃあもう散々な泣き喚《わめ》きようだったがの、四日目からは声も出さなくなったわ。今日などは明け方から蟲蔵に放り込んで、どれだけ保つか試しておるのだが、ホホ、半日も蟲どもに嬲《なぶ》られ続けて、まだ息がある。なかなかどうして、遠坂の素材も捨てたものではない」
憎しみすら通り越した殺意に、雁夜の肩が震えた。
今すぐにもこの外道の魔術師に掴みかかり、皺首を力の限り絞め上げ、へし折りたい――そんな抗いがたい衝動が、雁夜の内側で猛《たけ》り狂う。
だが雁夜とて承知していた。痩せても枯れても臓硯は魔術師。この場で雁夜一人を殺してのける程度のことは造作もない。力業に訴えたところで雁夜には欠片ほどの勝算もないのだ。
桜を救おうと思うなら、交渉以外の手段はない。
雁夜の中の葛藤を見透かしたのか、臓硯はまるで満足した猫が喉を鳴らすかのように、陰鬱な含み笑いを漏らした。
「さて、どうする? すでに頭から爪先まで蟲どもに犯されぬいた、壊れかけの小娘一匹。それでもなお救いたいと申すなら、まぁ、考えてやらんでもない」
「……異存はない。やってやろうじゃないか」
雁夜は冷えきった声でそう答えた。もとより他に選択肢はなかった。
「善哉《ぜんざい》、善哉。まぁせいぜい気張るがいい。だがな、キサマが結果を出すまでは、引き続き桜の教育は続行するぞ」
カラカラと嗤う老魔術師の上機嫌は、雁夜の怒りと絶望を玩《もてあそ》ぶ愉悦によるものだった。
「ひとたび我らを裏切った出戻りの落伍者なぞよりも、アレの産み落とすであろう子供の方が、はるかに勝算は高いからな。ワシの本命はあくまで次々回の機会じゃ。今度の聖杯戦争は負け戦《いくさ》と思って、最初から勝負を捨ててかかる。
だがな、それでも万が一、キサマが聖杯を手にするようならば――応とも。そのときは無論、遠坂の娘は用済みじゃ。アレの教育は一年限りで切り上げることになろうな」
「……二言はないな? 間桐臓硯」
「雁夜よ、儂に向かって五分の口を利こうと思うなら、まずは刻印虫の苦痛に耐えて見せよ。そうさな、まずは一週間、虫どもの苗床《なえどこ》になってみるが良い。それで狂い死にせずにおったなら、おぬしの本気を認めてやろうではないか」
臓硯は杖に寄りかかって大儀そうに腰を上げながら、いよいよ持ち前の邪悪さを剥き出しにした人外の微笑を雁夜に向けた。
「では、さっそく準備に取りかかろうかの。処置そのものはすぐに済む。――それとも、考え直すなら今のうちだが?」
雁夜は無言のまま、ただかぶりを振って最後の薦踏を拒絶した。
ひとたび体内に虫を入れれば、彼は臓硯の傀儡となる。もうそれきり老魔術師への反逆は叶わない。だがそれでも、魔術師の資格さえ手に入れたなら、間桐の血を引く雁夜はまず間違いなく令呪を宿す。
聖杯戦争。遠坂桜を救済する唯一のチャンス。生身のままの自分では決して手の届かない選択肢。
その対価として、おそらく雁夜は命を落とすだろう。他のマスターに仕留められずとも、わずか一年という短期間のうちに刻印虫を育てるとなれば、虫に食い蝕《むしば》まれた雁夜の肉体には、ほんの数年の余命しか残されまい。
だが、構わない。
雁夜の決断は遅すぎた。もし彼が一〇年前に同じ覚悟を決めていたならば、葵の子供は母親の元で無事に暮らしていただろう。かつて彼の拒んだ運命が、巡り巡って、何の咎《とが》もない少女の上に降りかかったのだ。
それを償う術はない。贖罪《しょくざい》の道があるとすれば、せめて少女の未来の人生だけでも取り戻すことしかない。
加えて、聖杯を手にするために、残る六人のマスターを悉《ことごと》く殺し尽くすというのであれば……
桜という少女に悲劇をもたらした当事者たちのうち、少なくとも一人については、この手で引導を渡してやれる。
遠坂、時臣……
始まりの御三家の一角、遠坂の当主たるあの男の手にもまた、間違いなく令呪が刻まれていることだろう。
葵への罪の意識とも、臓硯への怒りとも違う、今日まで努めて意識すまいとしていた憎悪の堆積。
昏《くら》い復讐の情念が、間桐雁夜の胸の奥で埋火《うずみび》のように静かに燃えはじめていた。
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ACT1
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-285:42:56
ウェイバー・ベルベットの才能は、誰にも理解されたためしがなかった。
魔術師として、さして名のある家門の出自でもなく、優秀な師に恵まれたわけでもない少年が、なかば独学で修行を重ね、ついには全世界の魔術師を束ねる魔術協会の総本部、通称を『時計塔』の名で知られるロンドンの最高学府に招聘《しょうへい》されるまでに到ったという偉業を、ウェイバーは何人たりとも及ばぬ栄光であると信じて疑わなかったし、そんな自分の才能を人一倍に誇っていた。我こそは時計塔|開闢《かいびゃく》以来の風雲児として誰もが刮目《かつもく》するべき生徒であると、少なくともウェイバー個人はそう確信していた。
確かにベルベット家の魔術師としての血統は、まだ三代しか続いていない。先代から世継ぎへと受け継がれ、蓄積されていく魔術刻印の密度も、世代を重ねることで少しずつ開拓されていく魔術回路の数も、ウェイバーは由緒正しい魔術師の家門の末裔《まつえい》たちには些か劣るかもしれない。時計塔の奨学生には、六代以上も血統を重ねた名門の連中が珍しくもなく在籍している。
魔術の秘奥《ひおう》とは一代で成せるものではなく、親は生涯を通じた鍛錬の成果を子へと引き継がせることで完成を目指す。代を重ねた魔導の家門ほど力を持つのはそのせいだ。
また、すべての術師が生まれながらにして持ち合わせる量が決定づけられてしまう魔術回路の数についても、歴史ある名家の連中は優生学的な手段に訴えてまで子孫の回路を増やすよう腐心してきたのだから、当然またここでも新興《しんこう》の家系とは格差がつく。つまり、魔術の世界とは出自によって優劣が概ね決定されてしまう……というのが通説である。
だが、ウェイバーの認識は違った。
歴史の差などというものは経験の密度によっていくらでも覆《くつがえ》せるものである。たとえ際立った数の魔術回路を持ち合わせていなくても、術に対するより深い理解と、より手際の良い魔力の運用が出来るなら、生来の素養の差などいかようにも埋め合わせがきく――と、ウェイバーは固く信じて疑わなかったし、自らがその好例たらんとして、ひときわ積極的に自分の才能を誇示するよう努めてきた。
だが、現実はどこまでも過酷だった。血統の古さばかりを鼻にかける優待生たちと、そんな名門への阿諛《あゆ》追従にばかり明け暮れる取り巻きども。そんな連中こそが時計塔の主流であり、ひいては魔術協会の性格を完全に決定づけていた。講師たちとて例外ではない。名門出身の弟子ばかりに期待を託し、ウェイバーのような血の浅い′、究者には術の伝承どころか魔導書の閲覧すら渋る有様だ。
なぜ術師としての期待度が血筋だけで決まるのか。
なぜ理論の信憑性が年の功だけで決まるのか。
誰もウェイバーの問題提起に耳を傾けなかった。講師たちはウェイバーの論究を煙に巻くような形で言いくるめ、それでウェイバーを論破したものとして後は一切取り合わなかった。
あまりにも理不尽だった。その苛立ちはますますウェイバーを行動へと駆り立てた。
魔術協会の旧態然とした体制を糾弾すべく、ウェイバーがしたためた一本の論文。その名も『新世紀に問う魔導の道』は、構想三年、執筆一年に渡る成果であった。持論を突き詰めつつ噛み砕き、理路整然と、一分の隙もなく展開した会心の論文。査問会の目に触れれば、必ずや魔術協会の現状に一石を投じるはずだった。
それを――事もあろうに、ただ一度流し読みしただけで破り捨てた降霊科《ユリフィス》の講師。
名をケイネス・エルメロイ・アーチボルトといった。九代を重ねる魔導の名家アーチボルトの嫡男であり、周囲からは『ロード・エルメロイ』などと呼ばれ持てはやされている。学部長の娘と婚約をとりつけて、若くして講師の椅子まで手に入れたエリート中のエリート。ウェイバーがもっとも軽蔑してやまない権威を体現する、鼻持ちならない男であった。
『君のこういう妄想癖は、魔導の探求には不向きだぞ。ウェイバーくん』――高飛車に、声音には憐憫《れんびん》の情さえ含めながら、冷ややかに見下してきたケイネス講師の眼差しを、ウェイバーは決して忘れない。ウェイバーの一九年の生涯においても、あれに勝る屈辱は他にない。
仮にも講師職を務めるほどの才を持つのであれば、ウェイバーの論文の意味を理解できないはずがない。いや、理解できたからこそあの男は妬《や》いたのだろう。ウェイバーの秘めたる才能を畏怖《いふ》し、嫉妬し、それが自らの立場を危うくしかねない脅威だと思ったからこそ、あんな蛮行に及んだのだ。よりにもよって――智の大成たる学術論文を破り捨てるなど、それが学究の徒《と》のやることだろうか。
許せなかった。世界に向けて問われるべき自分の才覚が、ただ一人の権威者の独断によって阻《はば》まれるなどという理不尽。だがそんなウェイバーの怒りに対し、共感を寄せる者は誰一人としていなかった。それほどまでに魔術協会は――ウェイバー・ベルベットの観点からすれば――根深いところまで腐りきっていた。
だが……憤懣《ふんまん》やるかたない日々を過ごすうちに、ウェイバーはひとつの風聞を耳にした。
名にしおうロード・エルメロイが、その虚栄の経歴に最後の総仕上げを施すべく、近く極東の地で魔術の競い合いに参加するという噂。
その聖杯戦争≠ネる競技の詳細を、ウェイバーは夜《よ》っぴて調べ上げ、その驚くべき内容に心を奪われた。
膨大な魔力を秘めた願望機『聖杯』を賭して、英霊を現界させ使い魔として駆使することで競われる命懸けの勝ち抜き戦。肩書きも権威も何ら意味のない、正真正銘の実力勝負。
それはたしかに野蛮であったが、単純かつ誤解の余地のない優劣の決定だった。不遇の天才がここ一番の面目躍如を遂げるためには、まさに理想の花舞台に思えた。
興奮醒めやらぬウェイバーに、さらに幸運の女神が微笑む。
発端は管財課《かんざいか》の手違いだった。ケイネス講師の依頼でマケドニアから届けられた、さる英雄ゆかりの聖遺物……一般の郵便ともども弟子のウェイバーに取り次ぎを託されたソレは、本来ならばケイネス本人の立ち会いのもと開封されるよう厳命されていたはずの特別な配送だったのだ。
それが聖杯戦争におけるサーヴァント召喚のための触媒であると、ウェイバーはすぐに気がついた。そのとき彼は、まさに千載一遇の好機を得ていたのだ。
もはや腐敗しきった時計塔に未練はなかった。主席卒業生のメダルの輝きも、冬木の聖杯がもたらすであろう栄光に比べればゴミのようなものである。ウェイバー・ベルベットが戦いに勝利したとき、魔術協会の有象無象は彼の足許にひれ伏すことになるだろう。
その日のうちにウェイバーはイギリスを後にし、一路、極東の島国へと飛んだ。時計塔でも、誰がケイネス宛ての荷物を奪ったのかはすぐに判明したことだろうが、それでも追っ手がかかるようなことはなかった。ウェイバーが聖杯戦争に関心を持っていたことは誰にも知られていなかったし、またこれはウェイバーの知らなかった事実だが、ウェイバー・ベルベットという生徒の器からすれば、せいぜいが恥辱の腹いせにケイネスの荷を隠匿する程度が関の山であろう、というのが大方の共通認識であった。まさか、かの落第生が死を賭した魔術勝負に参加するほどの身の程知らずであろうとは誰も予想だにしなかったのだ。その点において、たしかに時計塔の面々はウェイバーという人物をまだまだ侮りすぎていた。
かくして極東の片田舎、運命の土地、冬木市において、いまウェイバーはベッドの上で毛布のぬくもりにくるまりながら、ひっきりなしに湧いてくる笑いを噛み殺していた。いや、噛み殺しきれずにいた。カーテンの隙間から漏れ込んでくる朝の日差しに、数秒おきに右手の甲をかざして見ては、ウフフ、イヒヒと悦《えつ》に入った忍び笑いを漏らしていた。
聖遺物を手に、冬木の地に身を置き、さらに充分な魔術の素養を備えた者……これを聖杯が見逃すわけがない。はたしてウェイバーの手の甲には、サーヴァントのマスターたる証、三つの令呪が昨夜からくっきりと浮かび上がってきていた。明け方から庭でけたたましく鳴き喚く鶏の声も、まったく気にならなかった。
「ウェイバーちゃ〜ん、朝御飯ですよ〜う」
階下から呼びかける老婆の声も、今朝は普段と違ってまったく不愉快ではない。ウェイバーは今日という記念すべき日をつつがなく開始するために、速やかにベッドを出て寝間着を着替えた。
閉鎖的な島国民族の土地にありながら、冬木市という町は例外的に外来の居留者が多く、おかげでウェイバーの東洋人離れした風貌も、さほど人目を惹くようなことはなかった。それでもウェイバーはさらに慎重を期すため、とある孤独な老夫婦に目をつけて、彼らに魔術的な暗示をかけてウェイバーのことを海外遊学から戻ってきた孫であると思い込ませ、首尾良く偽の身分と快適な住居とを手に入れていた。ホテル住まいをする費用がないという問題も一挙両得に解決されて、ウェイバーはますます自分の機転に惚れ惚れしていた。
爽快な朝を満喫するため、庭で騒ぐ鶏の声をつとめて意識から追い出しながら、ウェイバーは一階のダイニングキッチンに下りた。新聞とテレビニュースと炊事の湯気に彩られた庶民的な食卓が、今日も何の警戒もなく寄生者を迎え入れる。
「おはようウェイバー。よく眠れたかね?」
「うんお爺ちゃん。朝までグッスリだったよ」
にこやかに返答しながら、ウェイバーは配膳されたトーストに分厚くママレードジャムを塗る。一斤一八〇円の食パンのふにゃふにゃした歯応えは、日頃から甚だ不満だったが、そこは多めのジャムで我慢していた。
グレン・マッケンジーとマーサ夫妻はカナダから日本に移り住んで二〇年余り。だが日本の暮らしに馴染めなかった息子は生国に戻って家庭を持ち、一〇歳まで日本で育てた孫も、顔を見せないどころか便りもないままに七年が経つという。――以上の情報は、ウェイバーが催眠術で老人から聞き出したものだ。誂《あつら》え向きな家族構成を気に入ったウェイバーは、老夫婦が理想として思い描く孫のイメージを暗示で自分とすり替え、まんまと二人の愛孫『ウェイバー・マッケンジー』に成り済ましていたのである。
「それにしても、なぁマーサ。今朝は明け方から鶏の声がうるさくてかなわんが、アレは何だろうね?」
「うちの庭に鶏が三羽いるんですよ。一体どこから来たのかしらねえ……」
咄嗟《とっさ》に言い訳しようとして、ウェイバーは口に詰め込んでいたパンに咽せかかる。
「あ、あれはね……友達のペットを預かってるんだ。なんでも旅行で留守にするとかで。今夜には返してくるから」
「あらあら、そうだったの」
さほど気にかけていたわけでもなかったらしく、二人はすんなりと納得した。この老夫婦の耳が遠かったのは幸いと言えよう。三羽の鶏のけたたましさは、その日すでに近隣の住人から存分に顰蹙《ひんしゅく》を買っていた。
だが苦労の程から言えば、一番災難だったのはウェイバーである。昨夜、令呪が宿ったと知るや喜び勇んで儀式の生贄の調達にかかったものの、まさか町の近隣で養鶏場を見つけるのがこんなに大変とは思わなかった。やっとのことで鶏小屋を探し当て、さらに三羽を捕まえるまでにまた小一時間。白みはじめた空の下をようやく家に帰りついた頃には、すでに全身鶏糞まみれ、啄《ついば》まれた両手は血まみれだった。
時計塔にいた頃なら生贄用の小動物などいくらでも用意されていたというのに、どうして自分ほどの天才魔術師が、たかだか鶏三羽のためにここまで惨めな思いをするのか、ウェイバーは悔しさの余り泣きたい気分だったが、それでも朝まで右手の令呪を眺めているうちに気分はすっかり晴れやかになった。
儀式の決行は今夜。あの鬱陶《うっとう》しい鶏どももそれまでの命だ。
そしてウェイバーは最強のサーヴァントを手に入れる。二階の寝室のクローゼットに隠してある聖遺物――あれがどれほど偉大な英霊を呼び寄せる媒介となるのか、すでにウェイバーは知っている。
干涸《ひか》らび、なかば朽ち果てた一反《いったん》の布。それはかつて、とある大王の肩を飾っていたマントの切れ端である。アケメネス朝ペルシアを殲滅し、ギリシアから西北インドに到る世界初の大帝国を建設した伝説の『征服王』……その英霊が、今宵、召喚によってウェイバーの膝下に降《くだ》るのだ。彼を栄光の聖杯へと導くために。
「……お爺さん、お婆さん、今夜は友達の家に鶏を返しに行くから、帰りは遅くなると思うけど、心配しなくていいからね」
「うむ、気をつけるんだよ。近頃は冬木も物騒らしいからな」
「本当。あの噂の連続殺人鬼、また犠牲者が出たそうですよ。恐い世の中になったものねえ」
長閑《のどか》な食卓で、安物の八枚切り食パンを頬張りながら、いまウェイバーは生涯最高の幸福感に包まれていた。相変わらずの鶏の鳴き声が、ほんの少しだけ耳障りではあったが。
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-282:14:28
その闇は、一〇〇〇年を経て蓄積された妄執に澱《よど》んでいた。
衛宮切嗣とアイリスフィールが当主の呼び出しを受けて赴いたのは、アインツベルン城の礼拝堂――この氷に閉ざされた古城の中でも、もっとも壮麗かつ暗鬱な場所だった。
神の恩寵《おんちょう》を讃える癒しの場などでは、むろんない。魔術師の居城における祈祷の場とは、すなわち魔導の式典を執り行う祭儀の間である。
故に、仰ぎ見る頭上のステンドグラスも聖者の絵姿ではなく、そこに描かれているのは聖杯を求めて彷徨したアインツベルン家の悠久の歴史だった。
始まりの御三家においても、アインツベルンが聖杯に費やした歳月はなお古い。
凍てついた深山に自らを封じ込め、外部との交わりを頑なに断ったまま、彼らはおよそ千年もの昔から聖杯の奇跡を追い求めてきた。だがそんな彼らの探求は――挫折と屈辱、そして苦肉の打開策。その繰り返しだったと言っていい。
独力での成就を諦め、ついに遠坂とマキリという外部の家門との協定を余儀なくされたのが二〇〇年前。
そうして始まった聖杯戦争でも、つねにマスターの戦闘力で遅れを取ったが故に、ただの一度として勝利せず――結果として、戦慣れした魔術師を外から招き入れるしかないという決断に至ったのが九年前。
いわば衛宮切嗣は、血の結束を誇りとしてきたアインツベルンが二度目に信条を曲げてまで用意した切り札だった。
回廊を歩きながら、切嗣は漫然と、絵窓のうち比較的新しい一枚に目を留めた。
そこに描かれているのは、アインツベルンの『冬の聖女』ことリズライヒ・ユスティーツァと、その左右に侍《はんべ》る二人の魔術師が天空の杯に手を差し伸べている姿である。その絵柄の構図、意匠のバランスとを観察すれば、いかに二〇〇年前のアインツベルン家がマキリと遠坂を卑下し、そんな彼らの助力を仰がざるを得なかったことに屈辱を感じていたか、ありありと窺い知れる。
今度の戦いに勝ち残れば――切嗣は胸の中の皮肉に、独り、小さく苦笑した――この自分の姿も、あんな風にさも不本意だと言わんばかりの構図でステンドグラスに組み込まれるのだろうか。
冬の城の主《あるじ》たる老魔術師は、祭壇の前で切嗣とアイリスフィールを待ち受けていた。
ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルン。八代目当主の座を嗣いでからは『アハト』の通り名で知られている。延齢に延齢を重ね、すでに二世紀近い永きに渡って生き長らえながら、聖杯探求≠ェ聖杯戦争≠ヨと転換されて以降のアインツベルンを統べてきた人物である。
ユスティーツァの時代こそ知らない彼だが、以後の第二次聖杯戦争から、一度ならず二度までも大敗を喫してきたアハト翁にとって、今回の三度目のチャンスに臨んでの焦りは並々ならぬものだった。九年前、当時魔術師殺し≠フ悪名を轟かせていた衛宮切嗣を、その腕前だけを見込んでアインツベルンに迎え入れたのも、老魔術師が勝利に逸るあまりの決断だった。
「かねてよりコーンウォールで探索させていた聖遺物が、今朝、ようやく届けられた」
氷結した滝を思わせる白髭の束を手でしごきながら、アハト翁は落ちくぼんだ眼窩《がんか》の奥の、まったく老いを窺わせない強烈な眼光で切嗣を見据えた。永らくこの古城に住まう切嗣だが、顔を合わせるたびに当主から浴びせられる偏執症《へんしゅうしょう》めいたプレッシャーには、だいぶ以前から辟易《へきえき》していた。
老当主が手で示した祭壇の上には、仰々《ぎょうぎょう》しく梱包《こんぽう》された黒炭の長櫃《ながびつ》が載せられている。
「この品を媒介とすれば、剣の英霊≠ニして、およそ考え得る限り最強のサーヴァントが招来されよう。切嗣よ、そなたに対するアインツベルンの、これは最大の援助と思うがよい」
「痛み入ります。当主殿」
固く無表情を装ったまま、切嗣は深々と頭を垂れた。
アインツベルンが開祖以来の伝統を破って外部の血を迎え入れたことを、聖杯は何の不思議もなく受け入れたらしい。衛宮切嗣の右手にはすでに三年も前から令呪が刻まれていた。まもなく始まる四度目の聖杯戦争に、彼はアインツベルン千年の悲願を背負って参戦するのである。
切嗣の隣で、同様に恭しく面《おもて》を伏せているアイリスフィールに、老当主は視線を転じる。
「アイリスフィールよ、器の状態は?」
「何の問題もありません。冬木においても、つつがなく機能するものと思われます」
淀《よど》みなく返答するアイリスフィール。
願望機たる万能の釜≠ヘ、それ単体では霊的存在でしかなく実体を持ち合わせていない。よってそれを『聖杯』として完成させるには、依り代となるべき聖杯の器≠ノ降霊させる必要がある。それを巡る七人のサーヴァントの争奪戦そのものが、いわば降霊の儀式と言ってもいい。
その器たる人造の聖杯を用意する役は、聖杯戦争の開始以来、代々のアインツベルンが請け負ってきた。そして今回の第四次聖杯戦争で『器』を預かる役を任せられたのがアイリスフィールである。彼女は切嗣とともに冬木へと向かい、戦いの地に居合わせなくてはならない。
アハト翁は、その双眸《そうぼう》に狂おしいまでの強い光を宿したまま、厳《いか》めしく頷いた。
「今度ばかりは……ただの一人たりとも残すな。六のサーヴァント総てを狩りつくし、必ずや第三魔法、|天の杯《ヘブンズフィール》を成就せよ」
「「御意《ぎょい》に」」
魔術師とホムンクルス、ともに運命を負わされた夫妻は、呪詛《じゅそ》めいた激情を込めて発せられた老当主の勅命に、声を揃えて返答する。
だが内心において、切嗣はこの老いさばらえた当主の妄執に呆れはてていた。
成就……アインツベルンの長《おさ》が万感の思いを込めるのは、ただその一言のみ。そう、もはやアインツベルンの精神には成就≠ヨの執念しかないのだ。
魂の物質化という神の業。失われたとされるその秘技を求めて一千年……そんな気の遠くなるような放浪のうち、彼らはすでに手段と目的とを履き違えるまでになっていた。
その永きに渡る探求が無益なものでなかったという確証を得たいがためだけに、ただそれが在る≠アとを確かめたいためだけに聖杯を掴まんとするアインツベルン。彼らにとって、呼び出した聖杯が何のためのものであるかという目的意識は、もはや眼中にさえない。
いいだろう。お望みの通り、あんたの一族が追い求めた聖杯はこの手で完成させてやる
アハト翁に劣らぬ熱を込めて、衛宮切嗣は胸の中で呟いた。
だが、それだけでは終わらせない。万能の釜の力を以て、僕は僕の悲願を遂げる……
[#中央揃え]×      ×
私室に戻った切嗣とアイリスフィールは、当主に託された長櫃を開け、その中身に目を奪われていた。
まさか、本当にこんなものを見つけてくるなんて……」
滅多なことでは動揺しない切嗣も、こればかりは感銘を受けたらしい。
剣の鞘、である。
黄金の地金に、目の醒めるような青の琺瑯《ほうろう》で装飾を施した豪勢な拵《こしら》えは、武具というより王冠や笏杖《しゃくじょう》といった、貴人の威を示す宝具を思わせる。中央部に彫られた刻印は、失われて久しい妖精文字。この鞘が人ならざる者の手による工芸品であることを証明している。
「……なんてこった、疵《きず》一つない。これが一五〇〇年も前の時代の発掘品だって?」
「これ自体が一種の概念武装ですもの。物質として当たり前に風化することはないでしょうね。聖遺物として召喚の媒介に使うまでもなく、これは魔法の域にある宝物よ」
内張の施されたケースの中から、アイリスフィールは黄金の鞘を恭《うやうや》しく手に取り、持ち上げる。
「ただ装備しているだけで、この鞘は伝説の通りに持ち主の傷を癒し、老化を停滞させる……もちろん、本来の持ち主≠ゥらの魔力供給があればの話だけれど」
「つまり、呼び出した英霊と対にして運用すれば、これ自体をマスターの宝具≠ニして活用できるわけだな」
鞘の神々しいまでに美しい意匠に見惚れていたのも束の間、早くもそれを道具≠ニして実用的に扱う方向で思考しはじめている切嗣に、アイリスフィールはやや呆れた風に苦笑した。
「あなたらしいわね。道具はどこまでも道具、というわけ?」
「それを言うなら、サーヴァントにしてもそうだ。どんな名高い英雄だろうと、サーヴァントとして召喚されればマスターにとっては道具も同然……そこに妙な幻想を持ち込む奴は、きっとこの戦いには勝ち残れない」
父親や夫としてではなく、戦士としての側面を覗かせるとき、衛宮切嗣の横顔は限りなく冷酷になる。かつて、まだ夫の心の内を理解するより以前のアイリスフィールには、そんな切嗣が畏怖の対象だった。
「そんなあなたにこそ、この鞘は相応しいと――それが大お爺様の判断なのね」
「果たして、そうなんだろうか?」
切嗣は明らかに不満げだった。手を尽くして用意させた聖遺物に対する、これが婿養子の反応だと知ったなら、アハト翁は怒りに言葉を失っていただろう。
「大お爺さまの贈り物が、ご不満?」
切嗣の不遜《ふそん》を咎めるどころか、どことなく面白がっている風な様子でアイリスフィールが訊く。
「まさか。ご老体はよくやってくれた。他にこれほどの切り札を手にしたマスターはいないだろうさ」
「じゃあ、何がいけないの?」
「これだけ縁《ゆかり》の品≠ニして完壁な聖遺物があるなら、間違いなく召喚に応じるのは目当ての英霊になるだろう。マスターである僕との相性などは二の次にして、ね……」
本来ならば、サーヴァントの召喚に及んでは、招き寄せられる英霊の質はマスターの精神性によって大きく左右される。召喚する英霊を特定しなければ、原則的には召喚者の性格と似通った魂の持ち主が呼び出されることになる。だが聖遺物による縁《えにし》はそれに優先される要素だ。聖遺物の来歴が確実であればあるほど、現界する英霊は単一に絞り込まれていく。
「……つまりあなたは、『騎士王』との契約に不安があるのね」
「当然だろう。およそ僕ぐらい騎士道なんてものと程遠いところにいる男はいないぜ」
やや冗談めかした風に、切嗣は酷薄《こくはく》な笑みを浮かべた。
「正面切っての決闘なんて僕の流儀じゃない。それが生存戦《バトルロイヤル》ともなれば尚更だよ。狙うとしたら寝込みか背中だ。時間も場所も選ばずに、より効率よく、確実に仕留められる敵を討つ。……そんな戦法に、高潔なる騎士サマが付き合ってくれるとは思えないからね」
アイリスフィールは黙して、曇り一つない鞘の輝きに見入る。
確かに切嗣はそういう戦士だ。勝利のためにはどんな手段も厭《いと》わない。おそらく試してみるまでもなく、かつてこの鞘を帯びていた人物との相性は最悪だろう。
「……でも、惜しいんじゃなくて? 『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』の担手ともなれば、間違いなく『セイバー』のクラスとしては最高のカードよ」
そう。
この輝く鞘こそは、かの至上の宝剣と対になるもの。遠く中世より語り継がれる伝説の騎士王、アーサー・ペンドラゴンの遺品に他ならない。
「そうだな。ただでさえ『セイバー』は聖杯が招く七つの座《クラス》のうちでも最強とされている。そこに、かの騎士王を据えられるとなれば……僕は無敵のサーヴァントを得ることになるだろう。
問題はね、その最強戦力をどう使いこなせばいいのか、なんだ。正直なところ、扱い易さだけで言うなら『キャスター』か『アサシン』あたりの方が、よほど僕の性に合ってたんだけどね」
そのとき――贅を尽くしたフランボワイヤン式な内装に全く似つかわしくない、軽薄な電子音が、二人の会話に割り込んだ。
「ああ、ようやく届いたか」
黒檀の重厚な執務机の上に、無造作に置かれたラップトップ式のコンピューターは、まさに手術台の上のミシンの如き珍奇《ちんき》な組み合わせだった。由緒正しい魔導の家門の常として、科学技術にまるで利便性を見出さないのはアインツベルンも例外ではない。アイリスフィールの目には卦《け》体きわまりなく映るこの小さな電算機は、切嗣個人が城に持ち込んだ私物である。こういう機具の使用に抵抗感を持たない魔術師というのはそれだけで希有な存在だが、切嗣がまさにその一人だった。かつて彼が城に電話線と発電機を設けるよう要求した折は、老当主と一悶着あった程である。
「……何なの? それ」
「ロンドンの時計塔に潜り込ませていた連中からの報告だ。今度の聖杯戦争のマスターについて、調べさせていたんでね」
切嗣は執務机に戻ると、慣れた手つきでキーボードを操作し、新着の電子メールを液晶ディスプレイに表示した。それが『インターネット』と称する、近頃、都市部で普及しはじめた新技術によるものだという説明は、アイリスフィールも聞いたことがあったが、彼女には夫の丁寧な説明でさえ一割程度も理解できずにいた。
「……ふむ、判明したのは四人まで、か。
遠坂からは、まぁ当然ながら今代当主の遠坂時臣。火¢ョ性で宝石魔術を扱う手強い奴だ。
間桐は間桐で、当主を継がなかった落伍者を強引にマスターに仕立てたらしい。無茶をする……あそこの老人も必死だな。
外来の魔術師には、まず時計塔から一級講師のケイネス・エルメロイ・アーチボルト。ああ、こいつなら知っている。風≠ニ水≠フ二重属性を持ち、降霊術、召喚術、錬金術に通ずるエキスパート。今の協会では筆頭の花形魔術師か。厄介なのが出てきたもんだ。
それと、聖堂教会からの派遣が一人……言峰綺礼。もと第八≠フ代行者で、監督役を務める言峰璃正神父の息子。三年前から遠坂時臣に師事し、その後に令呪を授かったことで師と決裂、か。フン、何やらキナ臭い奴だな」
引き続き画面をスクロールさせながら、詳細な調査内容に目を通していく切嗣の様子を、アイリスフィールは手持ち無沙汰に眺めていたが、そのうちにふと気がついた。いつの間にか、モニターに見入る切嗣が表情を引き締め、剣呑な面持ちになっている。
「……どうか、しました?」
「この、言峰神父の息子。経歴まで洗ってあるんだが――」
アイリスフィールは切嗣の後ろから液晶ディスプレイを覗き込み、彼の指さしている箇所に目を走らせた。紙でなく画面から文字を読みとるのには慣れていないので難儀したが、真顔の切嗣の前ではそんな愚痴も言っていられない。
「……言峰綺礼。一九六七年生まれ。幼少期から父、璃正の聖地巡礼に同伴し、八一年にはマンレーサの聖イグナチオ神学校を卒業……二年飛び級で、しかも主席? 大した人物のようね」
切嗣は憮然《ぶぜん》として頷いた。
「このまま行けば枢機卿《すうきけい》にでもなりかねない勢いだったが、ここで出世街道を外れて聖堂教会に志願してる。他にいくらでも展望があったのに、何故、よりによって教会の裏組織に身を落とすような真似をしたのか」
「父親の影響かしら? 言峰璃正も聖堂教会の所属よね」
「だったら最初から、父親と同じ聖遺物回収を目指したはずだ。たしかに綺礼は最終的に父と同じ部署に落ち着くが、その前に転々と三度も所属を変えて、一度は『代行者』にまで任命されたこともある。まだ十代のうちに、だぞ。生半可な根性でできることじゃない」
それは聖堂教会においてもひときわ血腥《ちなまぐさ》い部署、異端討伐の任を負う修羅の巣窟とも言うべき役職である。『代行者』の称号を得たというのは、すなわち第一級の殺戮者、人間兵器としての修練を潜り抜けてきたことを意味している。
「狂信者だったんじゃないかしら。幼くて純粋すぎるほどに、一線を越えて信仰にのめり込むことも有り得るわ」
アイリスフィールの意見に、だが切嗣はまたしてもかぶりを振った。
「違うだろうな……それだと、ここ三年のこいつの近況が納得できない。
魔術協会への出向なんて、信仰に潔癖であれば無理な相談だ。いちおう聖堂教会からの辞令だったらしいし、教義そのものより組織に対して忠義を誓っていたのかもしれないが、だとしても、ここまで本気で魔術に打ち込む理由はないはずだ。
――見なよ。遠坂時臣が魔術協会に提出した、綺礼に関する報告だ。修得したカテゴリーは練金、降霊、召喚、朴占《ぼくせん》……治癒魔術については師である遠坂すら越えている。この積極性は何なんだ?」
アイリスフィールはさらに先へとテキストを読み進め、結びの文章に総括されている言峰綺礼の能力分析に目を通した。
「……ねえあなた。たしかにこの綺礼というのは変わり者のようだけれど、そこまで注目するほどの男なの? 色々と多芸を身につけてるみたいだけれど、格別に際立ったものは何もないじゃない」
「ああ、そこがますます引っかかるんだよ」
解せない様子のアイリスフィールに、切嗣は根気よく説明した。
「この男は何をやらせても超一流≠ノは到らない。天才なんて持ち合わせていない、どこまでも普通な凡人なんだよ。そのくせ努力だけで辿り着けるレベルまでの習熟は、おそろしく早い。おそらく他人の十倍、二十倍の鍛錬をこなしてるんだ。そうやって、あと一歩のところまで突き詰めて、そこから何の未練もなく次のジャンルに乗り換える。まるでそれまで培ってきたものを屑同然に捨てるみたいに」
「……」
「誰よりも激しい生き方ばかりを選んできたくせに、この男の人生には、ただの一度も情熱≠ェない。こいつは――きっと、危険なヤツだ」
切嗣はそう結論づけた。その言葉の裏に秘められた意味を、アイリスフィールは知っている。
彼が『厄介だ』と言うときには、敵を疎《うと》んじてはいても、実のところ脅威とまでは見なしていない。そういう敵に対する対処も勝算も、すでに切嗣の中では八割方完成している。だが『危険だ』というコメントは……衛宮切嗣という男が本気で牙を剥くべき相手と見込んだ場合にだけ、贈られる評価なのだ。
「この男はきっと何も信じていない。ただ答えを得たい一心であれだけの遍歴をして、結局、何も見つけられなかった……そういう、底抜けに虚ろな人間だ。こいつが心の中に何か持ち合わせているとするなら、それは怒りと絶望だけだろう」
「……遠坂時臣やアーチボルトよりも、あなたにとっては、この代行者の方が強敵だと?」
しばし間をおいてから、切嗣はきっぱりと頷いた。
「――恐ろしい男だな。
たしかに遠坂やロード・エルメロイは強敵だ。だがそれ以上に、僕にはこの言峰綺礼の在り方≠ェ恐ろしい」
「在り方?」
「この男の中身は徹底して空虚だ。願望と呼べるようなものは何一つ持ち合わせないだろう。そんな男が、どうして命を賭してまで聖杯を求める?」
「……聖堂教会の意向ではないの? あの連中は冬木の聖杯を聖者ゆかりの品と勘違いして狙っている、っていう話よね」
「いいや、たかだかその程度の動機しかない人間に、聖杯は令呪を授けない。この男はマスターとして聖杯に選ばれた。聖杯を手にするだけの由縁を持ち合わせているはずなんだ。それが何なのか、まるで見えないのが恐ろしい」
深く溜息をつき、沈鬱な眼差しで、切嗣はじっと液晶ディスプレイに見入った。無味乾燥な文字のみによって語られる言峰綺礼の人物像から、それ以上のものを見出そうとして。
「こんな虚ろな、願望を持ち合わせていない人間が、聖杯を手にしたらどうなると思う?
この男の生涯は絶望の積み重ねだけで出来ている。願望機としての聖杯の力を、その絶望の色で染め上げるかもしれない」
暗い感慨に耽《ふけ》る切嗣を、アイリスフィールは戒める意味で、力強くかぶりを振った。
「私の預かる聖杯の器は、決して誰にも渡さない。聖杯の満たされる時、それを手にするのは――切嗣、あなただけよ」
アインツベルンの長老が、ただ聖杯の完成だけを悲願とするのであろうとも……若い二人には、その先にこそ叶えるべき願いがある。夢がある。
切嗣はラップトップコンピューターの蓋を閉じ、アイリスフィールの肩を抱き寄せた。
「どうあっても、負けられないな」
彼の妻たる女は、いま自らの家門の悲願より、夫たる男と志を同じくしている。その事実は深く切嗣の心に響いた。
「……策が閃いたよ。最強のサーヴァントを、最強のままに使い切る方法が」
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同じ頃、遠く海を隔てた東の地においても、衛宮切嗣と同様にイギリスに潜ませた間諜《かんちょう》からの報告を受け取っている者がいた。
正調なる魔術師である遠坂時臣は、切嗣のように俗世の最新技術などは用いない。彼が得意とする遠隔通信の手段は、宝石魔術を代々継承してきた遠坂家ならではの秘術である。
冬木市は深山町の高台に聳《そび》える遠坂邸。その地下に設けられた時臣の工房には、俗にブラックバーン振り子と呼ばれる実験道具に似た装置が用意されている。ただの物理科学の器具と違うのは、振り子の錘になっているのが遠坂伝来の魔力を帯びた宝石である点と、それを吊す紐を伝ってインクが宝石を濡らす仕掛けになっていることである。
この振り子の宝石と対になる石が、遠坂の間諜には預けられている。その石をペン軸の先端に填めて文字を書くと、それに共振して振り子の宝石が揺れはじめ、滴り落ちるインクが下のロール紙に寸分違わぬ文字を描き出す、という仕組みなのだ。
いま魔石の振り子は、ちょうど地球の反対側のロンドンにある対の石に共振しはじめ、一見無秩序に見える奇怪な反復運動で、すらすらと正確に報告者の筆致を再現しはじめた。
それに気付いた時臣は、まだインクの生乾きの用紙を取り上げて、逐一、その記述に目を通していった。
「――何度見てもいかがわしい仕掛けですね」
その様を傍らで見守っていた言峰綺礼が、忌憚《きたん》のない感想を漏らす。
「フフ、君にはファクシミリの方が便利にでも見えるかね?
これなら電気も使わないし故障もない。情報漏洩の心配も皆無だ。なにも新しい技術に頼らなくても、われわれ魔術師はそれに劣らず便利な道具を、とうの昔に手に入れている」
それでも綺礼から見れば、誰にでも扱えるFAXの方が利便性ははるかに高いと思えたが、そういう手段を誰もが℃gうという必然性は、きっと時臣の理解の外にあるのだろう。貴人と平民とでは、手にする技術も知識も異なっていて当たり前……今の時代にもそういう古風な認識を貫いている時臣は、まさに筋金入りの魔術師≠セった。
「『時計塔』からの最新の報告だ。神童≠アとロード・エルメロイが新たな聖遺物を手に入れたらしい。これで彼の参加も確定のようだな。ふむ、これは歯応えのある敵になりそうだ。これで既に判明しているマスターは、我々も含めて五人か……」
「この期に及んでまだ二人も空席があるというのは、不気味ですね」
「なに。相応しい令呪の担い手がいない、というだけのことだろう。時が来れば聖杯は質を問わず七人を用意する。そういう員数合わせについては、まぁ概ね小物だからな。警戒には及ぶまい」
時臣らしい楽観である。三年の期間を師事してよく解ったが、綺礼の師たるこの人物は、こと準備においては用意周到でありながら、いざ実行に移す段になると足元を見なくなるという癖がある。そういう些末な部分に気を配るのは、むしろ自分の役目なのだろう、と、すでに綺礼も納得済みだった。
「まぁ用心について言うのなら――綺礼、この屋敷に入るところは誰にも見られていないだろうね? 表向きには、我々は既に敵対関係なのだからね」
遠坂時臣の筋書き通り、事実は歪曲して公表されていた。すでに三年前から聖杯に選ばれていた綺礼だが、彼は時臣の命により右手の刻印を慎重に隠し通し、今月になってからようやく令呪を宿したことを公にした。その時点で、共に聖杯を狙う者同士として師の時臣と決裂したことになっている。
「ご心配なく。可視不可視を問わず、この屋敷を監視している使い魔や魔導器の存在はありません。それは――」
「――それは、私が保証いたします」
第三者の声が割り込むとともに、綺礼の傍らに黒い影が、ゆらり、と蟠《わだかま》った。
それまで霊体として綺礼に同伴していた存在が、実体化して時臣の前に姿を現したのである。
長身|痩躯《そうく》のその人影は、だが人間とは桁違いの魔力を帯びた人と異《い》なるもの≠セった。漆黒のローブに身を包み、白い髑髏を模した仮面で貌《かんばせ》を隠した怪人物。
そう、彼こそは第四次聖杯戦争に臨んで最初に呼び出され、言峰綺礼との契約によって『アサシン』の座《クラス》に宿ったサーヴァント――ハサン・サッバーハの英霊だった。
「いかな小細工を弄《ろう》そうとも、間諜の英霊たるこのハサンめの目を誤魔化すことは叶いませぬ。我がマスター、綺礼の身辺には、現在いかなる追跡の気配もなし……どうかご安心くださいますよう」
主《あるじ》たる言峰綺礼の、さらに上に立つ盟主として時臣のことを了解しているのだろう。アサシンは恭しく頭を垂れて報告した。
さらに綺礼が言葉を続ける。
「聖杯に招かれた英霊が現界すれば、どの座《クラス》が埋まったかは間違いなく父に伝わります」
聖杯戦争の監督を務めるにあたり、現在、専任司祭という形で冬木教会に派遣されいる璃正神父の手元には、『霊器盤』と呼ばれる魔導器が預けられている。これには聖杯が招いた英霊の属性を表示する機能がある。
マスターの身元は個々の申告によって確かめるしか他にないが、現界したサーヴァントの数とそのクラスについては、召喚がいずこの地で行われようと、必ず『霊器盤』によって監督役の把握するところとなるのだ。
「父によれば、現界しているサーヴァントはいまだ私のアサシン一体のみ。他の魔術師たちが行動を起こすのは、まだ先のことと思われます」
「うむ。だがそれも時間の問題だ。いずれこの屋敷の周囲には他のマスターの放った使い魔どもが右往左往するようになるだろう。ここと間桐邸、それにアインツベルンの別宅は、すでにマスターの根城として確定しているからな」
御三家に対する外来の魔術師たちのアドバンテージは、その正体が秘匿されている点にある。それゆえ聖杯戦争の前段階では、どの家門でも密偵を使った諜報戦に明け暮れることになる。
綺礼は時臣の情報網を信用していないわけではなかったが、残る二人の謎のマスターが、その上を行く手段で正体を隠蔽している可能性も警戒していた。そういう策略家の敵に対処するとなれば、綺礼が得たアサシンのサーヴァントは最大限のカを発揮する。
「この場はもういい。アサシン、引き続き外の警戒を。念には念を入れてな」
「御意」
綺礼の下知《げじ》を受けて、アサシンはふたたび非実体化してその場から姿を消した。根本的に霊体であるサーヴァントは、実体から非実体へと自在に転位することができる。
他のクラスにはない『気配遮断』という特殊能力を備えたアサシンは、隠密行動においては他の追従を許さない。自ら勝ちを狙うのでなく時臣を援護するのが役目の綺礼にとって、アサシン召喚は最善の選択だった。
戦略はこうだ。
まず綺礼のアサシンが奔走し、他のマスター全員の作戦や行動方針、サーヴァントの弱点などについて徹底的に調査する。そして各々の敵に対する必勝法を検証した後で、時臣のサーヴァントが各個撃破で潰していく。
そのために時臣は、徹底して攻撃力に特化したサーヴァントを召喚する方針でいるという。だが彼がどんな英霊に目をつけているのか、まだ綺礼は聞かされていない。
「私の手配していた聖遺物は、今朝ようやく到着した」
綺礼の表惰から察したと見えて、時臣は問いに先回りしてそう答えた。
「希望通りの品が見つかったよ。私が招くサーヴァントは、すべての敵に対し優位に立つだろう。およそ英霊である限り、アレを相手にして勝ち目はない」
そうほくそ笑む時臣は、持ち前の不敵な自信に満ちあふれていた。
「さっそく今夜にも召喚の儀を行う。――他のマスターの監視がないというのなら、綺礼、君も同伴するといい。それにお父上も」
「父も、ですか?」
「そうだ。首尾よくアレを呼び出したなら、その時点で我々の勝利は確定する。喜びは皆で分かち合いたい」
こういう傲岸《ごうがん》なまでの自信を、何の衒《てら》いもなく誇示できるところが、遠坂時臣の持ち味といえよう。その器の大きさに、綺礼は呆れると同時に敬服もしていた。
ふと綺礼は、振り子の宝石に目をやった。ロール紙に認《したた》められる宝石の揺れは、まだ止むことなく続いている。
「まだ他にも、続きがあるようですが」
「ん? ああ、それは別件の調査でね。最新のニュースじゃない。――おそらくアインツベルンのマスターになるであろう男について、調査を依頼しておいたんだ」
外界との接触を断絶しているアインツベルン家についての情報は、ロンドンの時計塔においてもきわめて手に入りにくい。だが時臣はそのマスターについて心当たりがあると、かねてから語っていた。手元の紙を巻いて書見台に置くと、彼は新たな印字を手元に取り寄せる。
「――今から九年ほど昔になるか。純血の血統を誇ってきたアインツベルンが、唐突に外部の魔術師を婿養子に迎え入れた。協会でもちょっとした噂になったんだが、その真意を見抜いたのは、私と、あとは間桐のご老体ぐらいなものだろう。
もともと錬金術ばかりに特化したアインツベルン家の魔術師は、荒事に向いていない。過去の聖杯戦争での敗因も、すべてそれが原因だった。それでいよいよ連中も痺れを切らしたのだろう。招かれた魔術師というのがいかにも≠ニいう人物だった」
喋りながらもざっと流し読みを済ませた印字紙を、時臣は綺礼に手渡した。『調査報告:衛宮切嗣』という記述を見咎《みとが》めて、綺礼の目がわずかに細まる。
「この名前……聞き覚えがあります。かなり危険な人物だとか」
「ほう、聖堂教会にも轟《とどろ》いていたか。魔術師殺し≠フ衛宮といえば、当時はかなりの悪名った。表向きは協会に属さないはぐれ者だったが、上層部の連中は奴をいろいろと便利に使っていたようだ」
「教会《われわれ》で言うところの、代行者のようなものですか?」
「もっと性《たち》が悪い。あれは魔術師専門に特化した、フリーランスの暗殺者のようなものだった。魔術師として魔術師を知るが故に、もっとも魔術師らしからぬ方法で魔術師を追いつめる……そういう下衆な戦法を平然とやってのける男だ」
嫌悪もあらわにそう語る時臣の語調で、綺礼はむしろその衛宮切嗣という人物に興味を持った。たしかに噂には聞いていたし、過去に聖堂教会と対立したこともあるらしく、要注意人物という勧告も受けていた憶えがある。
渡された資料に目を通してみる。記述の大部分は、衛宮切嗣の戦術に関する考察――彼の仕業と推測される魔術師の変死や失踪と、その手口の分析に費やされていた。読み進むうちに、時臣がこの男を忌避する理由が段々と綺礼にも見えてきた。狙撃や毒殺はまだ序の口。公衆の面前で爆殺したり、乗り合わせた旅客機ごと撃墜、などという信じがたい報告もある。かつて無差別テロ事件として世間に報道された大惨事が、じつはただ一人の魔術師を標的とした衛宮切嗣による犯行ではないかという推測まであった。確証はないものの、列挙された証拠を読む限りでは確かに信憑性が高い。
暗殺者、という表現はなるほど至極妥当だった。魔術師同士の対立が殺し合いに発展するケースはままあるが、それらは往々にして純然たる魔術勝負、決闘じみた形式の段取りで解決されるのが常である。その意味では聖杯戦争もまた同様で、戦争≠ネどと称されながらも決して無秩序な殺戮ではなく、いくつかのルールや鉄則が厳然として存在する。
そういう魔術師として尋常な℃闥iによって戦いに臨んだ記録は、衛宮切嗣の戦歴には一行たりとも存在しない。
「魔術師というのはな、世間の法から外れた存在であるからこそ、自らに課した法を厳格に遵守しなければならない」
声音に静かな怒りを湊ませながら、時臣は断言する。
「だがこの衛宮という男は徹底して手段を選ばない。魔術師であるという誇りを微塵も持ち合わせていないんだ。こういう手合いは断じて許せない」
「誇り……ですか」
「そう。この男にしても、かつては魔術師となるにあたって厳しい修練を経てきたのだろう。ならばその苦難を凌ぎうるだけの信念も持ち合わせていたはずだ。そういう初志は、たとえ力を得た後でも決して忘れてはならない」
「……」
時臣の言うことは間違いだ。苛烈な訓練に、何の目的もないまま没頭するほどの愚か者も、この世には存在する。それは綺礼が誰よりもよく知っている。
「――ではこの衛宮切嗣は、何を目的に殺し屋などを?」
「まぁ、おそらくは金銭だろうな。アインツベルンに迎えられた以後は、外道働きもぱったりと途絶えた。一生遊んで暮らせるだけの富を得たのだから当然だろう。――その報告書にもあるだろうが、奴が関わってきたのは魔術師の暗殺だけではない。事あるごとに世界中で小遣い稼ぎをやっていたらしい」
時臣の言うとおり、報告書の末尾には、魔術師がらみの事件とは別に、衛宮切嗣の経歴がずらりと列挙されていた。なるほど、およそ思いつく限りの世界中の紛争地に切嗣は姿を現している。殺し屋ばかりでなく傭兵としても相当な荒稼ぎをこなしてきたと見える。
「……この書類、少しお借りしてもいいでしょうか?」
「ああ、構わんよ。私に代わって吟味してもらえれば助かる。こちらは今夜の召喚の準備で忙しいんでね」
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地下の工房を辞《じ》し、一階に戻った綺礼は、廊下の途中で、特大のスーツケースを相手に悪戦苦闘している小さな少女と出くわした。
「こんにちわ。凛」
べつだん愛想というほどの愛想も交えずに挨拶すると、少女は鞄を引きずり歩く足を止めて、大きな瞳でじっと綺礼を見据える。この屋敷で凛と顔を合わせるようになって三年が立つが、未だに綺礼に対する彼女の眼差しから猜疑《さいぎ》の色が消えることはない。
「……こんにちわ。綺礼」
いささか硬い声で、それでも丁寧に挨拶を返す凛の取り澄ました態度は、その幼さにも関わらず、既に一端《いっぱし》のレディの片鱗を見せていた。他ならぬ遠坂時臣の娘である。年代の小学生とは一線を画した風格も当然というものだ。
「外出かな? ずいぶんと大荷物なようだが」
「ええ。今日から折禅《ぜんじょう》のお家でお世話になりますから。学校も向こうから電車で通います」
聖杯戦争の開始に先駆けて、時臣は隣町にある妻の実家に家族を移すという決定を下していた。戦場となる冬木市に彼女らを置いて危険に晒すわけにはいかないという、当然の配慮である。
ところがそれが、娘の凛にとっては甚だ不服らしい。現に今も物腰こそ丁寧ではあるが、愛らしい口元を露骨にとんがらせた表情は見るからに不機嫌である。淑女の卵とはいえまだ子供だ。そこまで徹底した慎みは望めない。
「綺礼はお父様の傍に残って、一緒に戦うんですね」
「ああ。そのために弟子として招かれたのだからね。私は」
凛はただの無知な子供ではない。遠坂の魔道を受け継ぐ後継者として、既に時臣による英才教育が始まっている。これから冬木で起こる聖杯戦争についても、ごく初歩的な知識は持ち合わせている。
母親の実家に避難させられる理由も、正当なものとして納得してはいるはずだ。それでもなお不満なのは――彼女が去った後も、綺礼だけは我が物顔で遠坂の屋敷を闊歩《かっぽ》しているところにあるのだろう。
凛が父の時臣に寄せる敬慕はとりわけ強い。そのせいか、正当な後継者である凛よりも先に時臣の弟子となり、魔術を学んでいた綺礼に対しては、何かと風当たりが強いのだ。
「綺礼、あなたを信じていいですか? 最後までお父様を無事に守り通すと、約束してくれますか?」
「それは無理な相談だ。そんな約束ができるほど安穏な戦いであったなら、なにも君や奥様を避難させる必要もなかっただろう」
綺礼は気休めなど抜きにして、正味のところを淡々と語った。すると凛はなおのこと憮然と目元を険しくし、鉄面皮な兄弟子を睨みつける。
「……やっぱり私、あなたのこと好きになれない」
こういう年相応に拗《す》ねたことを言うときにだけ、綺礼はこの少女に好感を懐くのだった。
「凛。そういう本心は人前で口にしてはいけないよ。でなければ君を教育している父親の品格が疑われるからね」
「お父様は関係ないでしょ!」
父親を引き合いに出された途端に、凛は顔を真っ赤にして癇癪《かんしゃく》を起こした。綺礼の期待通りである。
「いい綺礼? もしあんたが手え抜いてお父様に怪我させるようなことになったら、絶対に承知しないんだからねっ! わたしは――」
そのとき、まさに絶妙とも言えるタイミングで、玄関の方から葵が姿を見せた。すでに外出の身支度を済ませている。なかなか凛が来ないので様子を見に来たのだろう。
「凛! 何をしているの? 大声を出して」
「――ぁ、えぇと、その――」
「お別れの前に、私を激励してくれていたのですよ。奥様」
落ち着き払ってフォローする綺礼に、凛はなおいっそう腹を立てるものの、それでも母親の手前何も言えずにそっぽを向く。
「荷運びを手伝おう。凛、そのスーツケースは君には重すぎるだろうから」
「いいのっ! 自分でできます!」
凛はさっきまでよりもっと強引にスーツケースを引っ張り、そのせいでなおいっそう進むのに悪戦苦闘しながらも、ともかく玄関へと去っていった。大人げないと解ってはいても、ついつい事あらば凛をからかいたくなってしまうのが綺礼の癖だ。
後に残った葵が、貞淑《ていしゅく》に綺礼に頭を下げる。
「言峰さん。どうか主人をよろしくお願いします。あの人の悲願を遂げさせてあげてください」
「最善を尽くします。ご安心ください」
綺礼から見ても、遠坂葵という女性は妻として出来すぎた人物だった。慎み深くも気遣いは細やかで、夫を理解しつつも干渉はせず、愛情より忠節を前に立てて日々の務めを果たす――一昔前であったなら良妻賢母の鑑であっただろう。フェミニズムの浸透した昨今では化石のような人種である。なるほど時臣という男は、自分にうってつけの人間を配偶者として選んだようだ。
綺礼は玄関の車寄せまで母子を見送った。タクシーではなく自家用車で、ハンドルは葵が握る。運転手だけでなくすべての使用人には、先週から暇が出されていた。無用な巻き添えを出さないための配慮であるのと同時に、念には念を入れた防諜対策でもある。使用人まで警戒するという思考をまるで持ち合わせていなかった時臣に対し、これは綺礼が半ば強引に進言したことだ。
車が走り出す直前に、凛は母親の目を盗んで、綺礼に向けて舌を出した。綺礼も苦笑してそれを見届けてから、人気の失せた邸内へと引き返した。
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時臣はまだ地下の工房から出てこない。綺礼は誰もいなくなった居間を我が物顔で独占して、あらためて衛宮切嗣に関する報告書を子細に読み込んだ。
この一面識もない異端の魔術師に、なぜこれほどまでに興味を惹かれるのかは解らない。師である時臣が拒絶する人間像というものに、ある種の痛快さを感じたせいだろうか。
この屋敷で三年に渡り続けられた時臣と綺礼の師弟関係は、どこまでも皮肉なものだった。
綺礼の真摯な授業態度と呑み込みの速さは、師からしてみれば申し分のないものだったらしい。そもそも魔術を忌避して然るべき聖職者でありながら、あらゆるジャンルの魔術に対して興味を懐き、貪欲な吸収力でそれらの秘技を学んでいった綺礼の姿勢は、時臣を大いに喜ばせた。いまや時臣が綺礼に対して寄せる信頼は揺るぎなく、一人娘の凛にまで、綺礼に対して兄弟子の礼を取らせている程である。
だが時臣の厚情とは対照的に、綺礼の内心は冷めていく一方だった。
綺礼にしてみれば、なにも好きこのんで魔術の修練に没頭していたわけではない。永きに渡る教会での修身に何ら得るところのなかった綺礼は、それと正逆の価値観による新たな修行に、いくばくかの期待を託していただけのことだ。だが結果は無惨だった。魔術という世界の探求にも、やはり綺礼は何の喜びも見出せず、満足も得られなかった。心の中の空洞が、またすこし径を拡げただけのことだった。
そんな綺礼の落胆に、時臣は露《つゆ》ほども気付かなかったらしい。はたして父の璃正と同類≠ニいう見立ては、ものの見事に的中した。時臣が綺礼に寄せる評価と信頼は、まさに璃正のそれと同質だった。
父や時臣のような人間と自分との間に引かれた、超えようのない一線。それを嫌というほど意識させられてきた綺礼には、だからこそ時臣の忌避する人物像というものに惹かれたのかもしれない。この衛宮切嗣という男は、あるいは線のこちら側≠ノ属する存在ではあるまいか、と。
衛宮切嗣に対する時臣の警戒は、ひとえに魔術師殺し≠フ異名に対するものだったらしい。そんな時臣の要請によって作製された調査書は、あくまで対魔術師戦における戦闘履歴≠ノ焦点が当てられ、それ以外の記述はきわめて簡素なものだった。
だが、切嗣という男の遍歴を年代順に追っていくうちに、綺礼は、ある確信を得つつあった。
この男の行動には、あまりにもリスクが大きすぎる。
アインツベルンに拾われるより以前のフリーランス時代に、切嗣がこなした数々の任務。それらの間隔は明らかに短すぎた。準備段階や立案の期間まで考えれば、常に複数の計画を同時進行していたとしか思えない。さらにそれに平行して、各地の紛争地に出没しているが、よりによってそのタイミングが、戦況がもっとも激化し破滅的になった時期にばかり該当している。
まるで死地へと赴くことに、何かの強迫観念があったかのような……明らかに自滅的な行動原理。
間違いなく言える。この切嗣という男に利己という思考はない。彼の行動は実利とリスクの釣り合いが完全に破綻している。これが金銭目当てのフリーランサーであるわけがない。
では――何を求めて?
「……」
いつしか綺礼は報告書を脇に退け、顎に手を添えて黙考に耽っていた。衛宮切嗣という人物の、余人には理解の及ばない苛烈な経歴が、綺礼には他人事には思えなかった。
誇りのない魔術師、信念を見失った男、そう時臣は言っていた。
だとすれば、切嗣のこの狂信的な、まるで破滅を求めたかのような遍歴は……あるいは、見失った答えを探し求めての巡礼だったのではあるまいか?
そして、飽くことなく繰り返された切嗣の戦いは、九年前に唐突に幕を閉じる。聖杯を勝ち取る剣闘士《グラディエイター》を求めた、北の魔術師アインツベルンとの邂逅《かいこう》。
つまり、そのとき彼は答え≠得たのだ。
いまや綺礼は切実に、衛宮切嗣との邂逅を待ち望んでいた。ついに彼はこの冬木での戦いに臨む意義を得ていた。
依然、聖杯などというものに興味はない。が、それを求めて切嗣が九年の沈黙を破るとなれば、綺礼もまた万難を排してそこに馳《は》せ参じる意味がある。
この男には問わねばならない。何を求めて戦い、その果てに何を得たのか。
言峰綺礼は、是が非でも一度、衛宮切嗣と対峙しなければならない。たとえそれが互いの生死を賭した必滅の戦場であろうとも。
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結論から言って、間桐雁夜の精神力はついに苦痛に耐え抜いた。だが肉体はその限りではなかった。
三ヶ月目にさしかかる頃には、すでに頭髪が残らず白髪になっていた。肌には至る所に瘢痕《はんこん》が浮き上がり、それ以外の場所は血色を失って幽鬼のように土気色《つちけいろ》になった。魔力という名の毒素が循環する静脈は肌の下からも透けて見えるほどに膨張し、まるで全身に青黒い罅《ひび》が走っているかのようだ。
そうやって、肉体の崩壊は予想を上回る早さで進行した。とりわけ左半身の神経への打撃は深刻で、一時期は片腕と片足が完全に麻痺したほどだ。急場凌ぎのリハビリでとりあえず機能は取り戻したものの、今でも左手の感覚は右よりもわずかに遅れるし、早足で歩く際にはどうしても左脚を引きずってしまう。
不整脈による動悸《どうき》も日常茶飯事になった。食事ももはや固形物が喉を通らず、ブドウ糖の点滴に切り替えた。
近代医学の見地からすれば、すでに生体として機能しているのがおかしい状態である。にもかかわらず雁夜が立って歩いていられるのは、皮肉にも、命と引き換えに手に入れた魔術師としての魔力の恩恵だった。
一年間に渡って雁夜の肉体を喰らい続けてきた刻印虫は、いよいよ擬似的な魔術回路として機能するまでに成長し、今では死にかけの宿主を延命させようと図々《ずうずう》しく力を発揮している。
すでに魔術回路の数だけで言うなら、今の雁夜はそれなりの術師として通用するだけのものを手に入れていた。間桐臓硯にしてもその仕上がりは予想以上のものだったらしい。はたして、雁夜の右手には今やくっきりと三つの令呪が刻まれている。聖杯もまた間桐の代表として彼を認めたのだ。
臓硯の見立てでは、もはや雁夜の生命は保ってあと一ヶ月程度だという。雁夜当人からしてみれば、それは必要にして充分な期間だった。
もはや聖杯戦争は秒読みの段階にある。七体のサーヴァントが残らず召喚されたなら、明日にでも戦いの火蓋は切って落とされるかもしれない。戦闘の期間は、過去の事例を鑑《かんが》みるに、概ね二週間足らず。雁夜の死期までには充分に間に合う。
だが、今の雁夜が魔術回路を活性化させるのは、すなわち刻印虫を刺激することを意味する。当然、その際の肉体への負担は他の魔術師の比ではない。最悪の場合、戦いの決着を待たずして刻印虫が宿主を食い潰す可能性も充分に考えられる。
雁夜が戦わなければならないのは他の六人のマスター達だけではなかった。むしろ最大の敵というべきは、彼の体内に巣食うモノだった。
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その夜、いよいよ最後の試練に挑むべく間桐邸の地下へ赴こうとしていた雁夜は、途中の廊下でばったりと桜に出会した。
「……」
出会い頭に桜が浮かべた怯えの表情が、ほんのわずかに雁夜の胸を痛ませる。
今となっては仕方がないとはいえ、この自分までもが桜の畏怖の対象になるのは、雁夜には辛かった。
「やぁ、桜ちゃん。――びっくりしたかい?」
「……うん。顔、どうかしたの?」
「ああ。ちょっとね」
とうとう左目の視力が完全になくなったのは昨日のことだ。壊死して白濁した眼球ともども、その周囲の顔筋まで麻痺した。瞼や眉を動かすこともできず、およそ顔の左半分が死相じみた有様で仮面のように硬直している。鏡で見た自分でさえぞっとするのだから、桜が怖がるのも無理はない。
「また少しだけ、身体の中の『虫』に負けちゃったみだいだ。おじさんは、きっと桜ちゃんほど我慢強くないんだね」
苦笑いをして見せたつもりが、またしても不気味な表情になってしまったのか、桜はますます怯えたように身を竦《すく》める。
「――カリヤおじさん、どんどん違う人みたいになっていくね」
「ハハ、そうかもしれないね」
乾いた小さな笑い声で濁しながらも、
――君もだよ。桜
そう、雁夜は胸の内で沈鬱に呟いた。
今は間桐の姓を名乗る桜もまた、雁夜の知る少女とは別人のように変わり果てた。 人形のように無機質な、空虚で昏い眼差し。その目に喜怒哀楽の情が宿ることなど、この一年を通して見たことがない。かつて姉の凛と仔犬のようにじゃれ合っていた無邪気な少女の面影は、もうどこにも残っていなかった。
無理からぬ話である。この一年、間桐家の魔術継承者となるために、桜が受けた仕打ちを思えば。
たしかに桜の肉体は魔術師としての素養を充分に備えていた。その点では雁夜やその兄の鶴野などは及びもつかぬほどに優秀だった。が、あくまでそれは遠坂の魔術師としての適性であって、間桐の魔術とはそもそも根本から属性が違う。
そんな桜の身体をより間桐寄り≠ノ調整するための処置が、この間桐家の地下の蟲蔵で『教育』の名を借りて日夜行われてきた虐待だった。
子供の精神《こころ》とは、どこまでも未熟である。
彼らには固い信念もなければ、悲嘆を怒りに変える力もない。残酷な運命に対し、意志の力で立ち向かうという選択肢は与えられていない。それどころか、子供たちは未だ人生を知らぬが故に、希望や尊厳といった精神もまた、まだ充分には培われていない。
それ故に、極限の状況を強いられたとき、子供たちはむしろ大人より安易に、自らの精神《こころ》を封殺《ふうさつ》できる。
未だ人生の喜びを知らぬが故に諦められる。未来の意味を解さぬが故に絶望できる。
そんな風に、一人の少女が虐待によって心を閉ざしていく課程を、雁夜はこの一年間に渡って目の前で直視する羽目になった。
身体の内から寄生虫に食い貪《むさぼ》られていく激痛に見舞われながら、それでもなお雁夜の心を責め苛んだのは自責の念である。桜の受難は、まぎれもなくその責任の一端が雁夜にもあったのだ。彼は間桐臓硯を呪い、遠坂時臣を呪い、それと同じ呪詛の念を自分自身にも向けていた。
唯一、ささやかな救いといえば――人形のように自閉した桜が、雁夜にだけはさほど警戒することもなく、顔を合わすたび二言三言、他愛もない言葉をかけてくれたことだ。それは同類相哀れむ情なのか、かつて彼女が遠坂桜だった頃の縁《えにし》によるものなのか、いずれにせよ少女は、臓硯や鶴野といった教育者≠ニは別種の存在として、雁夜のことを認識してくれていた。
「今夜はね、わたし、ムシグラへ行かなくてもいいの。もっとだいじなギシキがあるからって、おじいさまが言ってた」
「ああ、知ってる。だから今夜は代わりにおじさんが地下に行くんだ」
そう答えた雁夜の顔を、桜は覗き込むようにして小首を傾げた。
「カリヤおじさん、どこか遠くへ行っちゃうの?」
子供ならではの鋭い直感で、桜は雁夜の運命を察したのかもしれない。だが雁夜は、幼い桜を必要以上に不安がらせるつもりはなかった。
「これからしばらく、おじさんは大事な仕事で忙しくなるんだ。こんな風に桜ちゃんと話していられる時間も、あまりなくなるかもしれない」
「そう……」
桜は雁夜から目を逸らし、また彼女だけにしか立ち入れない場所を見つめている風な目つきになった。そんな桜がいたたまれず、雁夜は無理に話の穂を接いだ。
「なぁ桜ちゃん。おじさんのお仕事が終わったら、また皆で一緒に遊びに行かないか? お母さんやお姉ちゃんも連れて」
「お母さんや、お姉ちゃん、は……」
桜は少し途方に暮れてから、
「……そんな風に呼べる人は、いないの。いなかったんだって思いなさいって、そう、おじいさまに言われたの」
そう、戸惑いがちな声で返事をした。
「そうか……」
雁夜は桜の前に膝をつき、まだ自由が利く方の右腕で、そっと桜の肩を包んだ。そうやって胸に抱き寄せてしまえば、桜から雁夜の顔は見えない。泣いていると気付かれずに済むだろう。
「……じゃあ、遠坂さんちの葵さんと凛ちゃんを連れて、おじさんと桜ちゃんと、四人でどこか遠くへ行こう。また昔みたいに一緒に遊ぼう」
「――あの人たちと、また、会えるの?」
腕の中から、か細い声が問うてくる。雁夜は抱きしめる腕に力を込めながら、頷いた。
「ああ、きっと会える。それはおじさんが約束してあげる」
それ以上は、言えなかった。
叶うなら、より違う言葉で誓いたかった。あと数日で間桐臓硯の魔手から救ってやれると、それまでの辛抱なんだと、今、この場で桜に教えたかった。
だが、それは赦されない。
すでに桜は絶望と諦観《ていかん》で精神《こころ》を麻痺させることによって、精一杯に自分を護っていた。非力な少女が耐え難い苦痛に抗するためには、そうやって痛みを感じている自分≠消し去ってしまうしかなかったのだ。
そんな子供に、『希望を持て』だの、『自分を大事にしろ』だのと――そんな残酷な文言を投げかけられるわけがない。そういう気休めの台詞は、口にした当人だけしか救わない。彼女に希望を与えるというのは、絶望≠ニいう心の鎧を奪い去るのと同じこと。そうなれば幼い桜の心身は、一夜と保たずに壊れるだろう。
故に――
同じ間桐邸で日々を過ごしながら、雁夜は自分が桜にとっての救いの主≠ナあるなどとは、ただの一度も漏らさなかった。彼は桜と同じく臓硯によっていじめられて≠「るばかりの、桜に負けず劣らず無力な大人として、ただ傍にいてやることしかできなかった。
「――じゃあ、おじさんはそろそろ、行くね」
涙が止まった頃合いを見計らって、雁夜は桜から手を放した。桜はいつになく神妙な面持ちで、雁夜の、左半分が壊れた顔を見上げてきた。
「……うん。ばいばい、カリヤおじさん」
別れの言葉が、この場には相応しいものと、彼女は子供ながらに察したらしい。
背を向けて、とぼとぼと立ち去っていく桜の背中を見送りながら、そのとき雁夜は痛切に、心から祈願した。――手遅れになってくれるな、と。
雁夜はいいのだ。すでにこの命は桜と葵の母子のために使い捨てるものと決めている。雁夜自身について手遅れ≠ェあるのだとしたら、それは聖杯を勝ち取るより先にこの命が潰えることだ。
むしろ恐ろしいのは、桜の手遅れ=\―もし首尾よく雁夜が聖杯を勝ち取り、桜を母の元へと送り返すことができたとしても、それであの少女は、心を固く覆った絶望という名の殻から、再び外に出てきてくれるのだろうか。
この一年のうちに桜が負った心の傷は、きっと永く尾を引くだろう。だがせめて、それが時間とともに癒えるものであってほしい。彼女の精神が、致命的なところまで壊されていないものと信じたい。
できるのは祈ることだけだ。あの少女を癒すのは雁夜ではない。そんな役目を請け負えるだけの余命など、彼には残されないだろう。そればかりは、未来の命が保証されている者たちに託すしかあるまい。
雁夜は踵を返し、ゆっくりと、だが決然とした足取りで、地下の蟲蔵に降りる階段へと向かった。
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-270:08:57
冬木市深山町の片隅、とある雑木林の奥の空き地。
周囲に人目がないことを入念に確かめてから、ウェイバー・ベルベットは召喚儀式の準備にとりかかった。
今日一日に渡ってけたたましく鳴き喚き、終始ウェイバーの神経を逆撫でし続けてきた鶏どもに、まずは心底清々しながら引導を渡してやる。
滴る生き血がまだ熱いうちに、地面に魔法陣の紋様を刻まなければならない。手順はもう何度も練習してあった。消去の中に退去、退去の陣を四つ刻んで召喚の陣で囲む。――手違いは許されない。
「|閉じよ《みたせ》。|閉じよ《みたせ》。|閉じよ《みたせ》。|閉じよ《みたせ》。|閉じよ《みたせ》。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」
呪文を唱えながら、ウェイバーは細心の注意で鮮血を大地に滴らせていく。
同じ深山町にある遠坂邸の地下の工房でも、そのとき同様の儀式の準備が執り行われていた。
「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。祖には我が大師シュバインオーグ。
降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路《さんさろ》は循環せよ」
朗々と唱えながら遠坂時臣が描く魔法陣は、生贄の血ではなく溶解させた宝石によるものだ。この日のために魔力を充填し、蓄積してきた宝石を、時臣は惜しげもなく動員していた。
見守るのは璃正、綺礼の言峰父子。
綺礼は祭壇の上に乗せられた聖遺物に目が釘付けだった。一見すると木乃伊《ミイラ》の破片か何かにしか見えないそれは、遙かな太古、この世で初めて脱皮した[#「この世で初めて脱皮した」に傍点]蛇の抜け殻の化石だという。
ソレが招き寄せるであろう英霊を思うと、綺礼ですらも畏怖を禁じ得なかった。
時臣の鉄壁の自信が、今ならば納得できた。ことサーヴァントである限り、時臣が選んだ英霊には決して勝てる道理がない。
同刻、遠く地の果てのアインツベルン城では、衛宮切嗣が礼拝堂の床に描き終えた魔法陣の出来を確認していた。
「こんな単純な儀式で構わないの?」
脇で見守っていたアイリスフィールには、それが思いのほか簡素な準備として目に映ったらしい。
「拍子抜けかもしれないけどね、サーヴァントの召喚には、それほど大がかりな降霊は必要ないんだ」
水銀で描いた紋様に、歪みや斑《むら》がないか仔細に検証し栓がらも、切嗣は説明する。
「実際にサーヴァントを招き寄せるのは術者ではなく聖杯だからね。僕はマスターとして、現れた英霊をこちら側の世界に繋ぎ止め、実体化できるだけの魔力を供給しさえすればいい」
出来映えに満足がいったのか、切嗣は頷いて立ち上がると、祭壇に縁《えにし》の聖遺物――伝説の聖剣の鞘を設置した。
「さあ、これで準備は完壁だ」
「召喚の呪文は間違いなく憶えて来たであろうな?」
念を押すように訊いてくる間桐臓硯に、雁夜は闇の中で頷いた。
腐臭と饐えた水気の臭いが立ちこめる、深海のような緑の暗闇。深山町の丘の頂に聳《そび》える間桐邸が、地下深くに隠匿《いんとく》している蟲蔵である。
「いいじゃろう。だが、その呪文の途中に、もう二節、別の詠唱を差し挟んでもらう」
「どういうことだ?」
胡乱《うろん》げに問う雁夜に、臓硯は持ち前の陰惨な笑みを投げかけた。
「なに、単純なことじゃよ。雁夜、おぬしの魔術師としての格は、他のマスターどもに比べれば些か以上に劣るのでな。サーヴァントの基礎能力にも影響しよう。
ならば、サーヴァントのクラスによる補正で、パラメーターそのものを底上げしてやらねばなるまいて」
召喚呪文のアレンジによるクラスの先決めである。
通常、呼び出された英霊がサーヴァントとしてのクラスを獲得する際には、その英霊の属性に応じたものが不可避に決定されてしまう。が、その例外として召喚者が事前に決定できるクラスも二つある。
ひとつはアサシン。これは該当する英霊が、ハサン・サッバーハの名を襲名した一群の暗殺者たちのうちの一人、として特定されてしまうため。
そしてもう一つのクラスは、凡そあらゆる英霊について、とある付加要素を許諾するだけで該当させることができるクラスであるが故
「今回、呼び出すサーヴァントには、『狂化』の属性を付加してもらう」
それがもたらす破滅的な意味を、まるで歓迎するかのように、臓硯は喜色満面で宣言した。
「雁夜よ、おぬしには『バーサーカー』のマスターとして、存分に働いてもらおうかの」
その日、異なる土地で、異なる対象に向けて呼びかける呪文の詠唱が、まったく時を同じくして湧き起こったのは、偶然と呼ぶには出来すぎた一致であった。
いずれの術者も、その期するところの悲願は同じ。
ただひとつの奇跡を巡り、それを獲得するべく血で血を洗う者たち。彼らが時空の彼方の英雄たちへと向ける嘆願の声が、いま、一斉に地上から放たれる。
「告げる――」
今こそ、魔術師としての自分が問われる時。しくじれば命すらも失う。それをひしひしと実感しながらも、ウェイバーは決して怖じなかった。
力を求める情熱。目標へと向けてひた走る不断の意思。ことそういう特質において言うならば、ウェイバー・ベルベットはまぎれもなく優秀な魔術師であった。
「――告げる。
汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ――」
全身を巡る魔力《いぶつ》の感触。およそ魔術師である限り逃れようのない、体内を魔術回路が蠕動《ぜんどう》する悪寒と苦痛。
それに歯を食いしばって耐えながら、ウェイバーはさらなる詠唱を紡ぐ。
「――誓いを此処に。我は常世《とこよ》総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者――」
切嗣の視界が暗くなる。
背中に刻み込まれた衛宮家伝来の魔術刻印が、切嗣の術を援護するべく、それ単体で独自の詠唱を紡ぎ出す。切嗣の心臓が、彼個人の意志を離れた次元で駆動され、早鐘《はやがね》を打ち始める。
大気より取り込んだマナに蹂躙《じゅうりん》される彼の肉体は、今、人であるための機能を忘れ、一つの神秘を成し得る為だけの部品、幽体と物質を繋げる為の回路に成り果てている。
その軋轢《あつれき》に苛《さいな》まれて悲鳴を上げる痛覚を、切嗣は無視して呪文に集中する。傍らで固唾《かたず》を飲んで見守るアイリスフィールの存在も、もはや彼の意中には、ない。
召喚の呪文に混入される禁断の異物、招き寄せた英霊から理性を奪い狂気のクラスへと貶《おとし》める二節を、雁夜はそこに差し挟む。
「――されど汝はその眼《まなこ》を混沌に曇《くも》らせ侍《はべ》るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者――」
雁夜は尋常な魔術師と違い、魔術回路そのものを別の生物として体内に寄生させている身である。それを刺激し活性化させる負担は、他の術師の痛みすら比にならぬほどの激痛だった。唱えるうちに四肢が痙攣《けいれん》し、端々《はしばし》の毛細血管が破れて血が滲《にじ》み出る。
無事に残った右目からも、赤く染まった血涙が流れ出て頬を伝い落ちる。
それでも、雁夜は精神の集中を緩めない。
背負ったものを想うなら――ここで退けるわけがない。
「――汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」
そう呪祷の結びをつけるとともに、時臣は身体に流れ込む魔力の奔流を限界まで加速する。
逆巻く風と稲光。見守る綺礼たちでさえ目を開けていられないほどの風圧の中、召喚の紋様が燦然《さんぜん》と輝きを放つ。
ついに魔法陣の中の経路はこの世ならざる場所と繋がり……滔々《とうとう》と溢れる眩いばかりの光の奥から、現れいでる黄金の立ち姿。その威容に心奪われて、璃正神父は忘我の呟きを漏らす。
「……勝ったぞ綺礼。この戦い、我々の勝利だ……」
かくして、嘆願は彼ら[#「彼ら」に傍点]の許《もと》にまで届いた。
彼方より此方へと、旋風《つむじかぜ》と閃光を纏って具現する伝説の幻影。
かつて人の身にありながら人の域を超えた者たち。人ならざるそのカを精霊の域に格上げされた者たち。そんな超常の霊長たちが集う場所……抑止の力の御座より来《きた》る、あまねく人々の夢で編まれた英霊たちが、そのとき、一斉に地上へと降臨した。
そして――
夜の森に、闇に閉ざされた石畳に、いま凛烈なる誰何《すいか》の声が響き渡る。
『問おう。汝が我を招きしマスターか』
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ACT2
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-268:22:30
首尾よく召喚を成功させ、ウェイバーは得意絶頂のうちに今日という日を終えるものと、そう本人は期待していた。
にっくき鶏との激闘に費やされた昨晩とはうって変わって、今夜は大義を果たした心地よい疲労に浸りながら、満足のうちにベッドに就くはずだった。
それが――
「……どうして、こうなる?」
空っ風の吹きすさぶ新都の市民公園で、独り寒さに身を縮こませつつベンチに腰掛けているウェイバーは、いったいどこをどう間違えて自分の予定が裏切られたのか、未だに理解しきれない。
召喚は成功した。まさに会心の手応えだった。
召喚の達成と同時に、招かれたサーヴァントのステータスもまたウェイバーの意識に流れ込んできた。クラスはライダー。三大騎士クラスの括《くく》りからは外れるものの、それでも基礎能力値は充分にアベレージ以上。申し分なく強力なサーヴァントだ。
白煙にけぶる召喚陣から、のっそりと立ち上がる巨躯《きょく》のシルエットを目にした瞬間。その昂揚《こうよう》たるや、ウェイバーはあやうく射精してパンツを台無しにしかかったほどである。
……思い返せば、その辺りからどうにも雲行きが怪しくなってきた。
ウェイバーが認識するところの使い魔≠ニいうのは、あくまで召喚者の傀儡である。魔術師から供給される魔力によって、かろうじて現界していられるだけの存在。術者の一存次第でいかようにも使役できる木偶人形。使い魔とは本来そういうものだ。ならばその延長上にあるサーヴァントとて、概ね似たようなものであろうと想像していた。
が、召喚陣から出てきたアレは――
まず最初に、燃え立つように炯々《けいけい》と光る双眸《そうぼう》の鋭さだけで、ウェイバーは魂を抜かれた。目を合わせたその瞬間に、そのサーヴァントが、自分より圧倒的に強大な相手であることを、彼はなかば小動物めいた本能的直感で察知していた。
目の前に立ちはだかった巨漢の、圧倒的な存在感。その筋骨隆々《きんこつりゅうりゅう》たる体躯《たいく》から香る、むくつけき体臭までも嗅ぎ取るに至って、ウェイバーは認識した。こいつは、幽霊だとか、使い魔だとか、そういう展理屈を抜きにして本当にでかい男[#「でかい男」に傍点]なのだと。
聖杯に招かれた英霊が、だたの霊体であるのみならず物質的な肉体≠得て現界することは、ウェイバーも知識として知っていた。が、虚像でも影でもない、掛け値なしの実体である分厚い筋肉の塊によって目の前を塞がれるという感覚は、ウェイバーの想像を絶して脅威的だった。
ところで、ウェイバーは大男が嫌いである。
なにもウェイバーが人並みより少しばかり小柄だから、というだけの理由ではない。たしかに彼の肉体はいささか脆弱なきらいがあるが、それというのも幼少から魔術の学習に明け暮れるあまり、身体を鍛えるような時間的余裕など持ち合わせていなかったからであり、決して引け目に感じるようなことではない。むしろ肉体よりも優先して磨き上げた頭脳こそウェイバーの誇りなのである。
が、そんな当たり前な物事の道理が、大男の筋肉には通じない。こういう手合いが岩の塊みたいな拳を振り上げ、振り下ろすまでのタイムラグというのは、どうしようもなく早すぎる。いかに簡潔な弁論であろうとも展開する時間はなく、魔術を行使する猶予もない。
つまり――でかい筋肉には、拳が届くほどに近寄られたら終わり、なのである。
「……だから訊いておろうが。貴様、余のマスターで相違ないのだな?」
「は?」
それは大男が発した二度目の問いだった。大地を底から揺すり上げるような野太い声。そんな聞き漏らしようのない声でありながら、最初に問われたときは相手に圧倒されるあまり意識できなかったらしい。
「そ――そう! ぼぼぼボクが、いやワタシが! オマエのマスターの、ウ、ウェイバー・ベルベットです! いや、なのだッ! マスターなんだってばッ!!」
何かもう色々な意味で駄目だったが、ともかくウェイバーは精一杯の虚勢を張って目の前の筋肉に対抗した。……それにしても、いつの間にやら相手の体格はさっきよりいっそう巨大で威圧的になっている気がする。
「うむ、じゃあ契約は完了、と。――では坊主、さっそく書庫に案内してもらおうか」
「は?」
ふたたびウェイバーは気の抜けた返事を余儀なくされた。
「だーかーら、本だよ。本」
鬱陶しそうにそう言い直して、巨漢のサーヴァントはウェイバーにのしかかるように、松の根を思わせる剛腕を伸ばしてくる。
殺される――そう思った直後、ウェイバーは浮遊感に見舞われた。大男が彼の襟首を掴んで、ひょいと軽々しく持ち上げたのだ。そのときまでウェイバーは、自分が腰を抜かして地面に座り込んでいたことに気付かなかった。なぜ途中から相手が輪をかけて巨大化して見えたのか、ようやく合点がいった。
「貴様も魔術師の端くれなら、書庫のひとつやふたつは設えておるのだろう? さぁ案内しろ。戦《いくさ》の準備が必要だ」
「い、戦《いくさ》・・・・・・?」
巨漢にそう指摘されるまで、ウェイバーはすっかり綺麗に聖杯戦争のことを失念していた。
当然、行きずりの民家に寄生しているだけのウェイバーが書庫なんぞ持ち合わせている筈もなく、やむなく彼はライダーを連れて図書館に行くことにした。
冬木市の中央図書館は、まだ開発途中の新都にある市民公園の中にあった。正直なところ、夜中に街中を出歩くのは気が引けたのだが――それというのも近頃、冬木市では猟奇的な殺人事件が頻発したせいで、警察が非常事態宣言を敷いていた――ウェイバーにとっては巡回中の警官に見咎められて職務質問を受ける危険より、目の前のでかい筋肉に何をされるか判らない、という危機感の方が重大だった。
幸いなことに、巨漢は雑木林から出るや否や、掻き消されるように不可視になった。サーヴァントならではの霊体化、という能力だろう。鎧を着込んだ大男と連れだって歩いていたのでは不審人物どころの騒ぎではないので、その点はウェイバーも大いに助かったが、それでも威圧的な存在感はまとわりつくようにしてウェイバーの背中に圧力をかけ続けてきた。
運良く誰にも出会さずに冬木大橋を渡って新都に入り、目指す市民公園まで着いたところで、ウェイバーは奥にある小綺麗な近代建築を指さした。
「本なら、あそこにいくらでもある――と、思う」
すると、ウェイバーにのしかかっていた圧力がふわりと遠のいた。どうやらライダーは霊体のまま建物の中へと入っていったらしい。
――そうして、ひとり取り残されて待つこと三〇分あまり。訳の解らない脅威から解放されたウェイバーは、ようやく冷静に考えを整理する猶予を得た。
「……どうして、こうなる?」
さっきまでの自分の醜態を思い返して、ウェイバーは頭を抱えた。いかに強力な存在であろうともサーヴァントは彼の契約者。主導権はマスターであるウェイバーこそが握っている。
たしかにウェイバーの呼び出したサーヴァントは強力だ。それはケイネスから盗んだ聖遺物の来歴から充分に承知していた。
英霊イスカンダル。またの名をアレキサンダー、アレクサンドロス等の名でも知られる。ひとつの人名が様々な土地の発音によって呼びならわされるに到った経緯こそ、すなわちかの英雄の『征服王』たる由縁である。齢二〇歳にしてマケドニアの王位を継ぐや否や、古代ギリシアを統率してペルシアへの侵攻に踏み切り、以後エジプト、西インドまでをも席巻《せっけん》する『東方遠征』の偉業を、わずか一〇年足らずで成し遂げた大英雄。後にヘレニズム文化として知られる一時代を築いた、文字通りの大王≠ナある。
そんな偉人の中の偉人たる男であろうとも、ひとたびサーヴァントとして呼び出された以上は、決してマスターには逆らえない。まず第一の理由は、サーヴァントの現界がウェイバーを依り代としていること。あの大男はウェイバーからの魔力供給によって現代の世界に繋ぎ止められているのであり、ウェイバーに万が一のことがあれば消え去るしか他にない。
すべてのサーヴァントには、マスターの召喚に答えるだけの理由――すなわち、マスターとともに聖杯戦争に参加し、勝ち抜かねばならない理由がある。即ち、彼らもまたマスター同様、聖杯を求める願望があるのだ。願望機たる聖杯が受け入れる願いとは、最後まで勝ち残った唯《ただ》一人のマスターによるものとされているが、のみならず、そのマスターが従えたサーヴァントもまた、ともに願望機の恩恵に与る権限を得るのだという。つまり利害が一致する以上、サーヴァントはマスターと協調関係を保つのが当然なのだ。
さらに加えて切り札となるのは、マスターがその手に宿す令呪である。
三つの刻印をひとつずつ消費して行使される、すなわち三度限りの絶対命令権。これがマスターとサーヴァントの主従関係を決定的なものにしている。令呪による命令は、たとえ自滅に到る理不尽な指示であろうとも、決してサーヴァントには逆らえない。これが『始まりの御三家』の一家門、マキリによってもたらされたサーヴァント召喚の要となる契約システムなのだ。
裏を返せば、三つの令呪を使い切ったマスターは、則、サーヴァントによる謀叛《むほん》の危険に晒されるわけだが、そこはマスターが慎重に立ち振る舞う限り回避できるリスクである。
そう、この手に令呪の刻印がある限り――腹の内の苛立ちを抑えて、ウェイバーはうっとりと自分の右手に見入りつつほくそ笑んだ――どれほどデカイ筋肉であろうとも、魔術師ウェイバー・ベルベットに逆らえる道理はないのである。
あのサーヴァントが戻ってきたら、その辺の鉄則をひとつガツンと言い聞かせてやらねばなるまい……
そんなことを考えていたウェイバーの背後で、突如、豪快な破壊音が轟いた。
「ひっ!?」
驚きのあまり跳び上がって振り向くと、図書館の玄関を閉鎖していたシャッターが、ぐしゃぐしゃに歪んで引き裂かれている。そこから悠々たる足取りで月明かりの中に現れたのは、他ならぬウェイバーのサーヴァント、ライダーその人だった。
初見が暗い森の中だっただけに、充分な明かりの中でその風体を仔細《しさい》に見て取れたのは、思えばこれが最初だった。
身の丈は二メートルを優に超えて余りあるだろう。青銅の胴鎧《どうよろい》から伸びる剥き出しの上腕と腿《もも》は、内側から張り詰めたかのような分厚い筋肉の束に覆われ、熊でも素手で絞め殺しかねないほどの膂力《りょりょく》を窺わせる。いかつく彫りの深い面貌《めんぼう》に、ぎらつくほど底光りする瞳と、燃え立つように赤い髪と髭。同じく緋色《ひいろ》に染め上げられ、豪奢《ごうしゃ》な裾《すそ》飾りによって縁取られた分厚いマントは、さながら劇場の舞台を覆う緞帳《どんちょう》を思わせる。
そんな恰好の大男が、近代設備の図書館の前に堂々と仁王立ちしている様子は、どこか滑稽なものすら感じさせる取り合わせだったが、けたたましく鳴り渡る警報装置のサイレンに浮き足立ったウェイバーには、面白がっている余裕などあろう筈もない。
「バカッ! バカバカバカッ! シャッター蹴破って出てくるなんて何考えてんだオマエ! なんで入るときみたいに霊体化しないんだよッ!?」
食ってかかるウェイバーに、だがライダーは妙に上機嫌な笑顔で、手にした二冊の本を掲げて見せた。
「霊体のままでは、コレを持って歩けんではないか」
分厚いハードカバーの装丁と、大判だが薄い冊子。どうやらライダーはその二冊を図書館から持ち出したかったらしい。だがそんな些末な理由のために治安|擾乱《じょうらん》なぞされたのでは、マスターとてたまったものではない。
「もたもたしてるな! 逃げろ! 逃げるんだよ!」
「見苦しいそ、狼狽えるでない。まるで盗人《ぬすっと》か何かのようではないか」
「盗ッ人じゃなくて何なんだよオマエ!」
そう喚くウェイバーの剣幕に、ライダーは憮然となった。
「大いに違う。闇に紛れて逃げ去るのなら匹夫《ひっぷ》の夜盗。凱歌《がいか》とともに立ち去るならば、それは征服王の略奪だ」
まったく話の通じない相手に、ウェイバーは頭を掻きむしる。ともかく、あの二冊の本を持たせている限り、ライダーは頑として霊体化することなく、深夜のコスプレ怪人として堂々と闊歩する気でいるらしい。
切羽詰まったウェイバーは、ライダーに駆け寄ると、その手の中から本を二冊とも引ったくった。
「これでいいだろ!? さあ消えろ! いま消えろ! すぐ消えろ!」
「おお、では荷運びは任せた。くれぐれも落とすなよ」
満足げに頷いて、ライダーは再び不可視になる。
だがウェイバーも安堵している暇はなかった。図書館の警報は間違いなく、いずこかの警備会社にまで届いているだろう。ガードマンが駆けつけてくるまでにどれほどの猶予があるか、もう知れたものではない。
「ああもう――どうして――こうなるんだよッ!?」
今夜何度目になるのか判らない嘆きの言葉を吐き捨てながら、ウェイバーは全力で駆けだした。
[#中央揃え]×      ×
ここまで逃げれば安全、と気を抜けたのは、冬木大橋のたもとにある遊歩道まで、全力疾走で駆け続けた後だった。
「はー、はー、はー、……」
普段から鍛錬を怠っていたウェイバーにとっては、まさに心臓の破裂しかねない地獄の長距離走だった。もはや立っている余力さえなく、道端に膝をつきながら――改めて、ライダーが図書館から持ち出した本を検《あらた》める。
「……ホメロスの詩集? それに……世界地図? 何で?」
ハードカバーの豪奢《ごうしゃ》本は古代ギリシャに名高い詩人の書物。もう一冊の薄い方は、学校の授業で使うようなカラー刷りの地理の教材だった。
途方に暮れるウェイバーの背後から、ひょいと差し伸べられたいかつい腕が、指先で地図帳を摘み上げていく。
いつの間にやら再び実体化したライダーは、どっかりと路面に胡座《あぐら》をかいて座り込むと、ウェイバーから取り返した地図帳をぱらぱらと捲《めく》りはじめた。
「おいライダー、戦《いくさ》の準備っていうのは……」
「戦争は地図がなければ始まるまい。当然ではないか」
何が嬉しいのか、ライダーは妙にニヤニヤと顔を綻ばせながら、まず地図帳の冒頭のグート図法による世界地図に見入る。
「なんでも世界はすでに地の果てまで暴かれていて、おまけに球の形に閉じているそうだな……成る程。丸い大地を紙に描き写すと、こうなるわけか……」
ウェイバーの知る限りでは、英霊はサーヴァントとして聖杯に招かれた時点で、聖杯からその時代での活動に支障がない程度の知識を授けられるのだという。つまりこの古代人も、地球が丸いことを納得出来るぐらいには弁えているのだろう。だからといって、どうしてライダーが泥棒まがいのことをしでまで世界地図なぞ欲しがったのか、ウェイバーには皆目見当もつかない。
「で、……おい坊主、マケドニアとペルシャはどこだ?」
「……」
相変わらず傲岸不遜《ごうがんふそん》なライダーの態度、しかもマスターに対して名前ではなく坊主呼ばわりという不敬ぶりに憮然となりながらも、ウェイバーは地図の一角を指さした。途端――
「わっはっはっはっは!!」
まるで弾けるような勢いで豪快に笑い出したライダーに、またも度肝を抜かれて竦《すく》み上がるウェイバー。
「はははッ! 小さい! あれだけ駆け回った大地がこの程度か! うむ、良し! もはや未知の土地などない時代というから、いささか心配しておったが……これだけ広ければ文句はない!」
持ち前の巨躯に相応《ふさわ》しく、ライダーは笑い声もまた雄大だった。どうにもウェイバーは同じ人間サイズの存在を相手にしているというより、地震や竜巻と向き合っているような気分になってきた。
「良い良い! 心高鳴る! ……では坊主、いま我々がいるのは、この地図のどこなのだ?」
ウェイバーはおっかなびっくり、極東の日本を指さした。するとライダーは大いに感心した風に唸《うな》って、
「ほほーぅ、丸い大地の反対側か……うむ。これまた痛快。これで指針も固まったな」
いかつい顎を撫でながら、さも満足げに頷いた。
「……指針って?」
「まずは世界を半周だ。西へ、ひたすら西へ。通りがかった国はすべて陥としていく。そうやってマケドニアに凱旋し、故国の皆に余の復活を祝賀させる。ふっふっふ。心躍るであろう?」
しばし呆気に取られたあとで、ウェイバーは怒り心頭に目眩さえしながら吼えた。
「オマエ何しに来たんだよ! 聖杯戦争だろ! 聖杯!」
ウェイバーの剣幕に、むしろライダーは白けた風に溜息をついた。
「そんなもの、ただの手始めの話ではないか。何でその程度のことをわざわざ――」
言いさして、そこではたと思い当たったかのように手を打ち鳴らすライダー。
「そうだ聖杯といえば、まず最初に問うておくべきだった。坊主、貴様は聖杯をどう使う?」
やおら感情の読めない口調になったライダーに、ウェイバーは何か名状しがたい悪寒を感じた。
「な……何だよ改まって? そんなこと訊いてどうする?」
「そりゃ確かめておかねばなるまいて。もし貴様もまた世界を獲る気なら、即ち余の仇敵ではないか。覇王は二人と要らんからな」
さらりと言い捨てたその言葉は、およそサーヴァントが令呪を持つマスターに向けるには、これ以上ないほどに無茶な放言だったが、この大男の野太い声がわずかに冷酷さを帯びたというだけで、ウェイバーは心胆から震え上がった。マスターである自分の根本的な優位さえ失念してしまうほど、それは圧倒的な恐怖だった。
「ばっ、バカなっ! 世界、だなんて……」
そこまで言葉に詰まってから、ウェイバーは唐突に、威厳を取り繕う必要性を思い出す。
「せっ世界征服なんて――ふん、ワタシはそんな低俗なものに興味はない!」
「ほう?」
ライダーは表情を一転させて、さも興味深げにウェイバーを見つめる。
「男子として、天下を望むより上の大望があるというのか? そりゃ面白い。聞かせてもらおう」
ウェイバーは鼻を鳴らし、精一杯の胆力ですかした冷笑を取り繕った。
「ボ……ワタシが望むのはな、ひとえに正当な評価だけだ。ついぞワタシの才能を認めなかった時計塔の連中に、考えを改め――」
言い終わるより前に、空前絶後の衝撃がウェイバーを一撃した。
ほぼ同時に「小さいわッ!」というライダーの大音声の一喝が轟いた気もしたが、衝撃と怒号はどちらも負けず劣らず強烈すぎたせいで、ウェイバーにはその区別さえつかなかった。
実際のところ、ライダーはさしたる力もこめず、ぺちん、と蚊でもはたき落とす程度の加減で平手打ちを見舞ったに過ぎないのだが、小柄で脆弱な魔術師にはそれでも強烈に過ぎたらしく、ウェイバーは独楽のようにキリキリ舞いをした挙げ句、へなへなと地面に崩れ落ちた。
「狭い! 小さい! 阿呆らしい! 戦いに賭ける大望が、おのれの沽券《こけん》を示すことのみだと? 貴様それでも余のマスターか? まったくもって嘆かわしい!」
よほど腹に据えかねたのか、ライダーは怒るどころか泣きださんばかりの呆れ顔で魔術師を喝破した。
「ぁ――ぅ――」
こんなにも真っ向から、身も蓋もなく暴力に屈服させられるなど、いまだウェイバーには経験のないことだった。張られた頬の痛みより、むしろ殴られたという事実の方が、より深刻にウェイバーのプライドを打ちのめした。
顔面蒼白になり巷がら唇を震わすウェイバーの怒りようを、だがライダーはまったく斟酌《しんしゃく》しない。
「そうまでして他人に畏敬されたいというのなら、そうだな……うむ坊主、貴様はまず聖杯の力で、あと三〇センチほど背丈を伸ばしてもらえ。そのぐらい目線が高くなれば、まぁ大方の奴は見下してやれるだろうよ」
「この……この……ッ」
これ以上はないというほどの屈辱だった。ウェイバーは逆上すらも通り越し、貧血めいた眩暈に囚われながら、全身を身震いさせていた。
許せない。どうあっても許せない。
サーヴァントの分際で、ただの従僕に過ぎぬ身の上で、この大男は完膚無きほど徹底的にウェイバーの自尊心を否定した。こんな侮辱は、たとえ神であろうとも許さない。このウェイバー・ベルベットの威信にかけて――
ウェイバーは爪が掌を抉《えぐ》るほど握りしめた右手に――その甲を飾る三つの刻印に力を込めた。
令呪に告げる――聖杯の規律に従い――この者、我がサーヴァントに――
ライダーに……何を、どうする?
忘れたわけではない。何のために時計塔を見限り、こんな極東の片田舎にまでやってきたのか。
すべては聖杯を勝ち取るために。そのためにサーヴァントを呼んだ。この英霊との関係の危機が許されるのは二度までだ。三度から後は――令呪の喪失。すなわちマスターとしての決定的敗北を意味する。
そんな重大な局面の、最初の一度が、まさか今だとでもいうのか? まだ召喚から一時間と経っていないのに?
ウェイバーは俯《うつむ》いたまま深く深呼吸を繰り返し、持ち前の理性と打算で、胸の内の癇癪をどうにかして抑え込んだ。
焦ってはならない。たしかにライダーの態度は許し難いが、まだこのサーヴァントはウェイバーに刃向かったわけでも、命令を無視したわけでもない。
この猛獣を打ち据えるための鞭を、ウェイバーはただ三度しか振るうことができないのだ。ただ吼えられたぐらいで使ってしまえるほど、それは軽々しいものではない。
充分に平静を取り戻してから、ウェイバーはようやく顔を上げた。ライダーは相変わらず地べたに座ったまま、マスターを罵倒したことも、いやマスターの存在すらも忘れたかのように、背を向けて地図帳に読み入っている。その桁外れに広い背中に向けて、ウェイバーは感情を殺した声で語りかけた。
「聖杯さえ手にはいるなら、それでワタシは文句はない。そのあとでオマエが何をしようと知らん。マケドニアなり南極なり、好きなところまで飛んでいくがいい」
ふーん。と、ライダーは気のない生返事――なのかどうかも判らない大きな鼻息――を吹いただけだった。
「……ともかくだ。オマエ、ちゃんと優先順位は判ってるんだな? 真面目に聖杯戦争やるんだな?」
「ああもう、判っておるわい。そんなことは」
ライダーは地図帳から顔を上げ、肩越しにウェイバーを一瞥《いちべつ》しながら、さも鬱陶しそうにぼやく。
「まず手始めに六人ばかり英霊をぶちのめすところから、であろう? しち面倒な話だが、たしかに聖杯がなければ何事も始まらん。安心せい。くだんの宝はちゃんと余が手に入れてやる」
「……」
余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》の発言に、だがウェイバーはいまひとつ納得しきれない。
たしかにこの英霊、見かけ倒しではない。ウェイバーがマスターとして得たサーヴァント感応力で把握できる限りでも、図抜けた能力値の持ち主だ。
だが、なにもサーヴァント同士の闘争が腕相撲で競われるわけではない。いくら屈強な肉体を備えていたからといって、それで勝ち残れるほど聖杯戦争は甘くはないのだ。
「ずいぶん自信があるようだが、オマエ、何か勝算はあるのか?」
ウェイバーは敢えて挑発的に、精一杯の空威張りでライダーを睨《ね》めつけた。自分はマスターなのだから、サーヴァントに対して高圧的な態度を取るのは当然であろう、という主張も込めて。
「つまり貴様は、余の力が見たい、と?」
するとライダーは、これまでとはうって変わって静かな、どことなく不安にさせられる抑揚のない口調で、ウェイバーの視線を受け止めた。
「そ、そうだよ。当然だろ? オマエを信用していいのかどうか、証明してもらわないとな」
「フン――」
鼻で笑って、巨漢のサーヴァントは腰の剣を鞘から抜き払った。豪壮な拵《こしらえ》の宝剣ではあったが、それ自体からは宝具と思えるほどの魔力は感じられない。だが剣を手にしたライダーの剣呑な雰囲気に、やおらウェイバーは不安になった。まさか、生意気な口を利いたからって斬られるんじゃあ……?
震え上がるマスターを一顧だにせず、ライダーは抜き身の剣を頭上に掲げ、
「征服王イスカンダルが、この一斬にて覇権を問う!」
そう虚空に向けて高らかに呼びかけてから、何もない空間に向けて荒々しく刃を振り下ろした。
その途端、まるで落雷のような轟音と震動が、深夜の河川敷を盛大に揺るがす。
度肝を抜かれたウェイバーは、ふたたび腰を抜かして地面に転がった。ただの空振りだったはずのライダーの剣が、いったい何を斬ったのか――
ウェイバーは見た。切り裂かれた空間がぱっくりと口を開けて裏返り、そこから途轍《とてつ》もない強壮なモノが出現するさまを。
そして、ウェイバーはサーヴァントの何たるかを思い出す。
英雄を伝説たらしめるのは、その英雄という人物のみならず、彼を巡る逸話や、彼に縁《ゆかり》の武具や機器といった象徴≠フ存在である。その象徴≠アそが、英霊の具現たるサーヴァントの隠し持つ、最後の切り札にして究極の奥義。俗に『宝具』と呼ばれる必殺兵器なのだ。
だから――間違いない。今ライダーが虚空から出現せしめたソレは、まぎれもなく彼の宝具であろう。その存在の内に秘められた、規格外の、法外に過ぎる魔力の密度は、ウェイバーにとて理解できる。それはもはや人の理、魔術の理すら超越した奇跡の理《ことわり》に属するものだった。
「こうやって轅《ながえ》の綱を切り落とし、余はコレを手に入れた。ゴルディアス王がゼウス神に捧げた供物でな。……余がライダーの座《クラス》に据えられたのも、きっとこいつの評判のせいであろうな」
さして自慢する風もなく嘯《うそぶ》くライダーではあったが、その兵器を前にして浮かべる誇らしげな笑みは、彼が絶大なる信頼を寄せてそれを愛用してきたことの証であろう。
「だがな、これとてまだ序の口だ。余が真に頼みとする宝具はまた別にある。まぁいずれ機会があれば見せてやろう。そこまでするに値する強敵がいれば、の話だがな」
ウェイバーは改めて、ライダーを畏怖の目で眺めた。魔術師である彼だからこそ、いま目の前にある宝具の破壊力は理解できる。近代兵器に換算すれば戦略爆撃機にも匹敵しよう。小一時間も続けて暴走させれば、新都あたりの全域は余裕で焦土の山にしてしまえる。
もはや疑いなく言える。このライダーこそは、ウェイバーが望みうる最強のサーヴァントだ。その威力はすでにしてウェイバーの想像を超えている。この男に倒せない敵があるとするなら、それはもう天上の神罰を以てしても降《くだ》せない存在であろう。
「おいおい坊主、そう呆けたツラを晒していても始まらんだろうに」
底意地悪くにやつきながら、ライダーは腰を抜かしたままのマスターに声をかける。
「取り急ぎ聖杯が欲しいなら、さっさと英霊の一人や二人、居場所を突き止めて見せんかい。さすれば余がすみやかに蹂躙《じゅうりん》してくれる。……それまでは、地図でも眺めて無聊《ぶりょう》の慰めとするが、まぁ文句はあるまい?」
脱魂しきった表情で、ウェイバーはゆっくりと頷いた。
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氷に閉ざされた、最果てのアインツベルン城。
いにしえの魔術師がひそやかに命脈を保つ、人も通わぬ深山の古城は、その日、久方ぶりに風雪から解放されていた。
空が晴れ渡るまでには到らなかったが、乳白色に霞んだ空でも雪の日よりは格段に明るい。羽ばたく鳥もいなければ青い草木もない冬の大地にも、光だけは存分にある。
こんな日は、父がどんなに忙しかろうと疲れていようと関係なく、二人で城の外の森を散歩する。それは、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンと衛宮切嗣が取り交わした不文律《ふぶんりつ》の第一条だった。
「よーし、今日こそは絶対に負けないからね!」
そう意気揚々と宣言しながら、イリヤスフィールは父の先に立ち、ずんずんと森を進んでいく。深い雪を小さなブーツで苦労しいしい踏み分けながら、それでも目はせわしなく周囲の木々を窺い、何一つ見落とすまいと、一分の油断も隙もない。少女は今、父親との
真剣勝負の真っ最中だった。
「お、見つけた。今日一個目」
背後の切嗣が、そう得意げに宣言したのを聞いて、イリヤスフィールは驚きと腹立ちに目の色を変えて振り向いた。
「うそ! どこどこ? わたし見落としたりしてないのに!」
真っ赤になって悔しがる愛娘に不敵な笑みを返しながら、切嗣は頭上の小枝のひとつを指さす。霜の降りたクルミの枝から、小さく慎ましやかな冬芽が覗いていた。
「ふっふっふ、先取点だな。この調子でがんがん行くぞ」
「負けないもん! 今日はぜったい負けないもん!」
冬の森で父と娘が繰り広げる競い合いは、クルミの冬芽探しである。今年のイリヤの戦績は十二勝九敗一引き分け。通算スコアはイリヤが四二七個に対し、切嗣が三七四個である。目下、イリヤの圧勝ではあるのだが、ここ数回は切嗣が怒濤《どとう》の三連勝を収め、チャンピオンに多大なプレッシャーを与えていた。
ムキになって先を急ぐイリヤスフィール。その様子を見守りながら、切嗣は苦笑いが止まらなかった。父親が見つけた冬芽がどれなのか、いちいち確認するあたり、今日は娘も必死と見える。いよいよ、今度ばかりは手の内を明かす羽目になりそうだ。
「あ、あった。イリヤも一個みーつけたっ」
はしゃぐイリヤの後ろから、切嗣は意地の悪い含み笑いを投げかける。
「ふふふ、父さんも二個目を見つけたぞ」
今度こそイリヤは、まるで水飛沫《みずしぶき》を飛ばされた猫のように跳び上がった。
「どれ? どれ!?」
少女からしてみれば、今度ばかりはプライドに賭けて、見落としなどなかったと断言できるのであろう。事実、彼女は見落としてなどいなかった。ただ単に張り合う相手が、じつに大人げなく狡猾《こうかつ》なだけである。
十秒後のイリヤの反応を予期して笑いを噛み殺しながら、切嗣は二個目≠ニ宣言した冬芽を指さした。
「えー? あの枝、クルミじゃないよ?」
切嗣が示したのは、それまでイリヤスフィールが標的外のものとして無視してきた枝である。
「いやいやイリヤ、あの枝はサワグルミといってだな、クルミの仲間なんだよ。だからあれも、クルミの冬芽だ」
狐につままれたような面持ちで二、三秒ほど黙ったあと、イリヤスフィールは真っ赤に頬を膨らませて喚きだした。
「ずるーい! ズルイズルイズルイ! キリツグずっとズルしてた!」
まったくもってズルである。前々回から切嗣は、クルミの冬芽にサワグルミの冬芽を加算していた。もはやインチキというよりも詭弁の領域の反則である。
「だってなぁ、こうでもしないと父さん勝ち目ないし」
「そんなの駄目なのっ! キリツグだけ知ってるクルミなんてナシなの!」
憤懣《ふんまん》やるかたないイリヤスフィールは、父親の膝をポカポカ叩きはじめる。
「ハハハ、でもイリヤ、またひとつ勉強になっただろう? サワグルミの実はクルミと違って食べられない、って憶えておきなさい」
まるで反省の色を見せない父親にむけてイリヤスフィールは、うー、と小さな歯を剥いて脅かすように唸る。
「そういうズルイことばっかりやってたら、もうイリヤ、キリツグと遊んであげないよ!」
「そりゃ困る――ゴメンゴメン、謝るよ」
最後|通牒《つうちょう》をつきつけられた切嗣は、素直に恐縮して謝った。それでようやく、イリヤスフィールも機嫌を直しはじめる。
「もうズルしないって約束する?」
「するする。もうサワグルミはなし」
でも今度はノグルミって手があるよな……と、切嗣は胸の中でほくそ笑んだ。
性懲りのない父の心算を余所に、まだ他人を疑うということを知らないイリヤスフィールは満足げに頷いて、えっへん、と胸を張る。
「よろしい。なら、また勝負してあげる。チャンピオンはいつでも挑戦を受けるのだ」
「はい、光栄であります。お姫様」
恭順の証として、今日の冬芽探しでは切嗣が馬になるということで話がついた。
「あははっ! 高い、高い!」
父親の肩車は、イリヤスフィールの大のお気に入りだった。彼女の足では踏み込めないような深い雪の中でも、切嗣の長い脚ならば難なく渡ってしまえる。おまけに視野も高くなり、冬芽探しにはますます有利だ。
「さぁ、しゅっぱーつ!」
「ヤーヴォール!」
切嗣は首に娘を跨《またが》らせたまま、小走りに木立《こだち》の中を抜けていく。スリリングな刺激にキャッキャと声を上げてはしゃぐイリヤスフィール。
そんな、肩に掛かる重みの少なさが、父親には哀しかった。
イリヤスフィールより以前には子育ての経験などないし、子供の成長の度合いというのがどの程度のものなのか、切嗣は実感として知っているわけではない。が、今年で八歳になる娘の体重が十五キロに満たないというのは、どう考えても異常だと理解できた。
おそらくは、出産の段階で無茶な調整を受けたのが原因だろう。切嗣とアイリスフィールの愛娘は、明らかに成長が遅れていた。このまま年齢を重ねても、身体がちゃんと成人の体格に到るかどうか。
いや、むしろ期待の方が虚しい。魔術師である切嗣の知識は、すでに私情を抜きにして冷酷な見立てを済ませている。おそらく十中八、九、イリヤスフィールの成長は第二次性徴の前段階で止まるだろう。
それでもどうか、彼女が自分の身の上を不遇と思わないほどに、幸多くあってほしいと――そう願うのは親のエゴでしかない。が、その想いが胸を穿《うが》つときの、その痛みは、まぎれもなく切嗣という男の愛情の証でもあった。
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森のとば口でじゃれ合う父娘の小さな姿を、城の窓から見送る霧翠色の眼差しがあった。
窓辺に佇むその少女の立ち姿は、か弱さや儚さからは程遠い。結い上げていてもなお軽さと柔らかさが見て取れる美しい金髪と、細い体躯を包む古風なドレスは、まさしく深窓の令嬢に相応しい可憐な記号だが、それでいて彼女の雰囲気には、居合わせるだけで部屋の空気を引き締めるような、凛烈で厳格なものがある。とはいえ、その冷たさは氷の冷酷さよりむしろ、清流の爽やかな浄気を思わせて清々しい。重く暗鬱なアインツベルン城の冬景色には、どこかそぐわない人物だった。
「何を見ているの? セイバー」
背後からアイリスフィールに呼びかけられて、窓辺の少女――セイバーは振り向いた。
「……外の森で、ご息女と切嗣が戯れていたもので」
訝《いぶか》るような、困惑したような、わずかに眉根を寄せた硬い表情でありながら、それがまったく少女の美貌を損なっていない。浮ついた媚のある笑顔より、きりりと清澄に張りつめた眼差しの方がよく似合う、そんな希有な質の美人である。
この瑞々《みずみず》しい存在感が、どうして英霊の実体化した姿などと信じられようか。だが、彼女はまぎれもなく『セイバー』……聖杯が招いた七英霊のうち一人、最強の剣の座《クラス》に据えられた、歴《れっき》としたサーヴァントであった。
そんな彼女の隣に並んで、アイリスフィールは窓の外を窺う。折しもイリヤスフィールを肩車した切嗣が、森の奥へと駆け込んでいくところだった。
「切嗣のああいう側面が、意外だったのね?」
微笑するアイリスフィールに、セイバーは素直に頷いた。
彼女の位置からでは、結局、少女の顔までは見えず、かろうじて母親譲りの銀髪を目に留めたのみだったが、それでも視野から消える間際に聞こえた甲高い笑い声は、たしかに歓喜に満ち溢れたものだった。それだけでも、遊び戯れていた父と子の仲睦まじさを察するには充分だった。
「忌憚《きたん》なく言わせていただければ。私のマスターは、もっと冷酷な人物だという印象があったので」
セイバーの言葉に、アイリスフィールは困り果てた顔で苦笑した。
「まぁ、それは無理もないわよね」
召喚されてよりこのかた、セイバーはただの一度もマスターの切嗣から言葉をかけられたことがない。
サーヴァントを、あくまでマスターの下僕に過ぎない道具同然の存在として扱うのは、たしかに魔術然として道理に叶った態度かもしれない。だがそれにしても切嗣のセイバーに対する姿勢は度が過ぎていた。一切言葉を交わさず、問いかけも黙殺し、視線すら合わすことなく、切嗣は自らの呼び出した英霊を拒絶し続けた。
切嗣のそういう人もなげな態度には、セイバーもまた、面《おもて》にこそ出さなかったが内心では大いに不満を感じていたに違いない。そんな彼女が切嗣に対して懐いていた人物像が、いま城の外で愛娘と戯れている男の姿と、大きく隔たっていたのも当然であろう。
「あれが切嗣の素顔だというなら、私はマスターからよほど不興を買ったのでしょうね……」
苦々しげに呟くセイバーの表情に、いつもの端正な横顔からは窺えない本音が垣間見えて、アイリスフィールは思わず笑ってしまった。それを見てセイバーはますます憮然となる。
「アイリスフィール、なにも笑うことはないでしょう」
「……ごめんなさいね。召喚されたときのこと、まだ根に持ってるのかな、と思って」
「いささか。……私の姿形がみなの想像するものとは違う、というのは慣れていますが。なにも二人揃って、あれほど驚く事もないでしょう」
風格こそ颯爽《さっそう》とした威厳に満ちながら、その実、セイバーの容姿は十代半ばの少女のそれでしかない。かつて彼女が輝く召喚陣の中から立ち現れたとき、儀式に臨んでいた切嗣とアイリスフィールは揃って言葉を失った。
それもそのはず。切嗣が招いた英霊とは、男性としてその名を歴史に名を刻んだ偉人だったからである。
コーンウォールより出土した黄金の鞘の主、即ち、聖剣エクスカリバーの担い手として知られる唯一人の英雄王アーサー・ペンドラゴンの正体が、まさか年端もいかぬ少女であったなどとは、後世の誰が想像し得ようか。
「……確かに私は男として振る舞っていましたし、その嘘が嘘として後の歴史に伝えられずに済んだのは本懐ですが……私があの鞘の持ち主であることを疑われたのは、正直なところ不愉快でした」
「そうは言ってもね、仕方がないのよ。あなたの伝説はあまりに有名すぎるし、それが一五〇〇年もかかって脚色されてきたんだもの。私たちが知っているアーサー王とは、イメージのギャップが凄すぎて」
苦笑いするアイリスフィールに、セイバーは不服そうに疲れた吐息をもらす。
「容姿についてとやかく言われても仕方がない。岩から契約の剣を抜いた時点で不老の魔法がかかり、私の外見年齢は止まってしまいましたし、そもそも当時の臣民は王である私の外見になど疑問を抱いたりしなかった。私に求められたのは、ただ王としての責務を果たすことだけでしたから」
それは、どれほどに苛烈な青春であったことか。
異教徒の侵攻に晒され、壊滅の危機に瀕していたブリテン国。魔術師の予言に従ってその救世主の任を負わされ、十の年月、十二もの会戦を常勝のうちに戦い抜いた龍の化身≠スる若き王。
その武勲にも関わらず、最後には肉親の謀叛によって王座を奪われ、ついに栄華のうちに終わることを許されなかった悲運の君主。
そんな激しくも痛ましい命運を、こんなにも華書な少女が背負ってきたという真相は、アイリスフィールの心にも重くのしかかる。
「切嗣には……私の正体が女であったが故に、侮《あなど》られているのでしょうか? 剣を執らせるには値せず、と」
アイリスフィールの感慨を余所に、セイバーは切嗣たちが分け入っていった森の彼方を遠望しながら、乾いた声で呟く。
「それはないわ。彼にだってあなたの力は透《み》視えている。セイバーの座《クラス》を得た英霊を、そんな風に見損なうほど、あの人は迂闊《うかつ》じゃない。……彼が腹を立てているとするなら、それは別の理由でしょうね」
「腹を立てている?」
セイバーは耳ざとく聞き咎める。
「私が切嗣を怒らせたというのですか? それこそ理解できない。彼とは未だに一度も口を利いたことがないというのに」
「だから、あなた個人に対しての怒りじゃないの。きっと彼を怒らせたのは、私たちに語り継がれたアーサー王伝説そのものよ」
もしも切嗣の呼び出した英霊が、伝承に伝え聞く通りの成人男性の<Aーサー王であったなら、彼はここまでサーヴァントを拒絶することはなかっただろう。ただ何の感情も交えず冷淡に、必要最低限の交渉だけで接していたに違いない。そうすれば済むところを、敢えて無視≠ニいう態度を貫くというのは、裏を返せば大いに感情的な反応なのだ。
切嗣は、かつて岩に刺さった契約の剣を抜いたのが年端もいかない少女だったという真相を知った途端、アーサー王伝説のすべてに対して隠しようのない憤りを懐きはじめたのであろう。
「たぶんあの人は、あなたの時代の、あなたを囲んでいた人たちに対して腹を立てているのね。小さな女の子に王≠ニいう役目を押しつけて良しとした残酷な人たちに」
「それは是非もないことでした。岩の剣を抜くときから、私も覚悟を決めていた」
その言葉には何の卑下もないらしく、セイバーの表情は依然、冷ややかに澄んでいる。そんな彼女に、アイリスフィールは困ったように小さくかぶりを振る。
「……そんな風にあなたが運命を受け入れてしまったのが、なおのこと腹立たしいのよ。その点についてだけは、他でもないアルトリアという少女に対して怒っているかもしれないわ」
「……」
返す言葉がなくなったのか、セイバーはしばし黙《もく》して俯《うつむ》いた。だがすぐに顔を上げた彼女の目つきは、なおいっそう頑なになっていた。
「それは出過ぎた感傷だ。私の時代の、私を含めた人間たちの判断について、そこまでとやかく言われる筋合いはない」
「だから黙ってるのよ。あの人は」
あっさりとアイリスフィールに受け流されて、今度こそセイバーは、む、と口ごもる。
「衛宮切嗣と、アルトリアという英雄とでは、どうあっても相容れないと――そう諦めてしまっているのね。たとえ言葉を交わしたところで、互いを否定し合うことしかできないと」
その点については、アイリスフィールもまた同意見だった。こうしてセイバーと時間を過ごすほどに、この誇り高き英霊と、切嗣という男の精神性がどれほどかけ離れたものであるかを、重《かさ》ね重《がさ》ね痛感する。
どちらの言い分もアイリスフィールには理解できたし、それぞれに共感できる部分もあった。だからこそこの二人が分かり合うことは決してないだろうという諦観も、またアイリスフィールの結論だった。
「……アイリスフィールには感謝しています。貴女という女性がいなければ、私は今回の聖杯戦争に戦わずして敗北していたことでしょう」
「それはお互い様よ。私だって、夫には最後に聖杯を手にするマスターであってほしいんだから」
かねてから英霊アルトリアとの相性を危惧していた切嗣は、その打開策として、誰にも想像の及ばないような奇策を考案していた。
サーヴァントとマスターとの、完全なる別行動、である。
もとより両者の契約には距離的な制約があるわけではない。どんなに遠方であろうともマスターの令呪はサーヴァントを律することが可能であり、同様にサーヴァントへの魔力供給も、マスターが人事不省に陥らない限りは継続される。それでもマスターがサーヴァントに同伴して共闘するのは、ひとえに意思の疎通の問題だ。慎重な判断が要求される戦闘の各局面において、すべての判断をサーヴァントに託すわけにはいかない。どうあってもマスターは戦いの現場に居合わせながら、司令塔となってサーヴァントを采配する必要があるのだ。
切嗣がサーヴァントの行動を把握しないまま、マスター単独で行動しようというのは、無論、セイバーを信頼してのことではない。切嗣は自分の代理として、セイバーの行動を監督する役をアイリスフィールに委《ゆだ》ねたのである。
決して無謀な選択ではない。もし仮に切嗣のサーヴァントに叛意《はんい》があったとしても、聖杯を求めている以上は、決してアイリスフィールを殺める気遣いはない。アイリスフィールがいない限り、セイバーはたとえ他のサーヴァントを総て倒したとしても聖杯を手にすることはできない。冬木の聖杯を降霊させるためには、アイリスフィールが隠し持つ『聖杯の器』が必要不可欠なのだ。それ故、セイバーはアイリスフィールの身柄をマスター同然に保護しぬく必然性が生じてくる。
この変則的なチーム編成は、ひとえに切嗣とセイバーとの戦術的意相性によるものだった。騎士の英霊たるセイバーは、サーヴァントとしての能力といい、宝具の性能といい、すべての面において真っ向勝負≠前提とした戦士である。何よりも彼女の精神性が、それ以外の姑息な戦術を許諾すまい。ところがマスターである衛宮切嗣が、本質的に策謀奇策を頼みとする暗殺者《ヒットマン》である以上、そんな二人が足並みを揃えて行動できる道理がない。
むしろ相性という観点から言えば、アイリスフィールこそセイバーのパートナーとして適任であろう、というのが切嗣の見立てだった。彼の妻は確かに人外のホムンクルスといえど、それでも名門アインツベルン家の一員として、生まれ持った気品と威厳とがある。騎士が忠義を尽くすべき淑女としての風格は、まぎれもなくアイリスフィールに備わっていた。
事実、召喚より以後の数日に渡って寝食を共にしてきたセイバーとアイリスフィールは、お互いに理解を深めるにつれて敬意を交わすようになっていた。生まれてこのかた、高貴さを空気のように当たり前に呼吸してきたアイリスフィールは、セイバーが自らの時代において知る通りの姫君≠ナあったし、また育ちの良いアイリスフィールにとっても、セイバーの礼節には心地よい、しっくりと肌に馴染むものがあった。
それ故、契約上のマスターである切嗣ではなく、その妻であるアイリスフィールが代理マスター≠ノなるという申し出を、セイバーは易々と許諾した。彼女もまた現実問題として切嗣というマスターとの協調に不安を感じていたし、より存分に剣を振るう上では、アイリスフィールの方がより主《あるじ》として相応しい、と認識していた。そして二人はサーヴァントとしての契約とは違う、騎士の礼に則った主従の誓いを交わし、今もこうして聖杯戦争の準備を進めている。
「アイリスフィールから見た切嗣は、いったいどのような人物なのですか?」
「夫であり導き手。私の人生に意味を与えてくれた人。――でも、セイバーが聞きたいのはそういう話じゃないわよね?」
セイバーは頷く。彼女が知りたいのはアイリスフィールの主観ではなく、セイバーでは知り得ない衛宮切嗣の側面について、である。
「本を正せば優しい人なの。ただ、あんまりに優しすぎたせいで、世界の残酷さを許せなかったのね。それに立ち向かおうとして、誰よりも冷酷になろうとした人なのよ」
「そういう決意は、私にも理解できる。決断を下す立場に立つのであれば、人間らしい感情は切り捨てて臨まなければならない」
そういう意味では、切嗣とセイバーは似たもの同士、という見方もできなくはない。切嗣がアーサー王の英霊に向ける感情は、あるいは同族嫌悪なのかもしれない。
「聖杯の力によって世界を救済したい――そうアイリスフィールは言いましたね? それが貴方と切嗣の願いだと」
「ええ。私のは、あの人の受け売りでしかないけれど。でもそれは命を賭す価値があることだと思うわ」
アイリスフィールの言葉に、セイバーもまた眼差しに熱を込めて頷く。
「私が聖杯に託す願いもまた同じです。この手で護りきれなかったブリテンを、私は何としても救済したい。……貴女と切嗣が目指すものは正しいと思います。誇って良い道だと」
「そう……」
微笑みながらも、アイリスフィールは曖味に言葉を濁した。
誇り――それこそが、問題なのだ。
アイリスフィールの脳裏に、夫の言葉が蘇る。切嗣がセイバーと別行動を取る真意についての説明が。
「君たち二人は存分に戦場の華になってくれ。逃げ隠れせず盛大に、誰もがセイバーというサーヴァントから目を逸らせなくなるほど華やかに。
セイバーに注視するということは、つまり僕に背中を晒すのと同じ意味だからね』
……切嗣は、戦局をアイリスフィールとセイバーに託す気など毛頭ない。むしろ彼ならではの手段によって積極的に戦況を塗り替えていく心算である。敵の背後へと忍び寄る暗殺者、その罠を確実なものとするための囮であり陽動にすぎないのが、セイバーの役回りなのだ。
固く口止めされているアイリスフィールだったが、どのみち戦いが始まれば切嗣の行動は自ずと明らかになるだろう。そうなった後で、この誇り高き清廉の騎士がいったい何を思うことか……今から考えるだけで、アイリスフィールは気が重くなる。
「アイリスフィール、貴女は切嗣という夫を深く理解し、そして信頼しているのですね」
アイリスフィールの憂鬱を知りもせず、セイバーは窓の外の父娘の睦まじい様子に」見入っている。
「こうして見ていると、貴女がた夫婦が、ごく普通の家族としての幸福を得ていたらと思わずにはいられない。
でも同じように切嗣もまた、私が王でなく人としての幸を得るべきだったと感じているのなら……どちらも同じぐらいに、詮無《せんな》い望みなのでしょうね」
「……そう思って、切嗣を恨まずにいてくれる?」
「勿論です」
頷くセイバーの潔い面持ちに、アイリスフィールはますます、このサーヴァントを裏切っているという罪の意識を感じた。
「しかし――アイリスフィール、良いのですか? ここで私などと話していて」
「え?」
問い返すアイリスフィールに、セイバーは、やや言いにくそうに視線を逸らす。
「つまり――ああやって切嗣のように、ご息女との別れを済ましておくべきだったのではないかと。明日には……問題の聖杯が現れるという、ニホンなる国に向けて発つのでしょう?」
「ああ、そういうこと。――いいのよ。私とあの子の間には、お別れなんて必要ないの」
アイリスフィールは静かに微笑した。それはセイバーの心遣いに対する謝意の顕れのようであり、それでいてどこか、心騒がされるほどに寂しく虚ろな笑顔だった。
「アイリスフィールとしての私はいなくなるけれど、それで私が消えてなくなるわけではない。彼女が大人になれば、それはちゃんと理解できるわ。あの子も私と同じ、アインツベルンの女ですからね」
「……」
アイリスフィールの言葉は謎めいていて理解しきれなかったが、それでも内に秘められた不吉な意味合いを感じ取ったセイバーは、表情を引き締めた。
「アイリスフィール、貴方は必ず生き残ります。最後まで私が守り抜く。この剣の誇りに賭けて」
厳粛な騎士の宣言を受けて、アイリスフィールは朗らかに笑って頷いた。
「セイバー、聖杯を手に入れて。あなたと、あなたのマスターのために。そのときアインツベルンは千年の宿願を果たし、私と娘は運命から解き放たれる。――貴女だけが頼りよ。アルトリア」
このときセイバーは、まだアイリスフィールの憫笑の意味を理解できていなかった。
雪のように輝く銀髪と玲瓏《れいろう》な美貌の中に、あたたかな慈愛を湛《たた》えたこの女性が、果たしてどのような宿命の元に生まれついたのか――騎士がすべての真相を知るのは、まだ先の話である。
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公明正大《こうめいせいだい》なる勝負の結果、クルミの冬芽探しはイリヤスフィールの勝利に終わり、チャンピオンの連敗は三で歯止めがかかった。加えて言うなら、アインツベルンの森にはノグルミの樹が見当たらなかった。
勝負を終えた二人は、並んでのんびりと歩きながら帰路につく。森の奥まで踏み込んだせいで、アインツベルン城の威容は靄《もや》の彼方で影絵のように霞《かす》んでいた。
「次は、キリツグが日本から帰ってきてからだね」
雪辱を果たしたイリヤスフィールが、満面の笑顔で父親を見上げる。直視できないその顔を、切嗣は精一杯の平静を装って受け止めた。
「そうだね……次こそは、父さんも負けないからな」
「うふふ、頑張らないと、もうすぐ一〇〇個まで差が開いちゃうよ?」
さも得意げな愛娘の笑顔は、多くを背負いすぎた男にとって、あまりにも酷すぎる重石だった。
一体どうして告白することができようか。――これが娘との最後の思い出になるかもしれない、などとは。
これより待ち受ける死闘を、切嗣は決して侮ってはいない。だが是が非でも勝利だけは勝ち取る。そのためには、おのが命を擲《なげう》つことも辞さない。
ならば――ふたたびこの冬の森での遊戯を娘と約束しようにも、それは勝利の二の次でしかない。
すべてを救う。そのためにすべてを捨てる。
そう誓った男にとって、情愛とは茨の棘でしかない。
誰かを愛するたびに、その愛を喪う覚悟を心に秘め続けねばならないという呪い。それが衛宮切嗣の、理想の対価に背負った宿命だった。情愛は彼を責め苛むばかりで、決して癒すことはない。
なのに何故――切嗣は、白く凍てついた空と大地を見渡しながら自問する。
なぜ一人の女と、血を分けた我が子とを、こんなにも愛してしまったのか。
「キリツグとお母様のお仕事、どのぐらいかかるの? いつ帰ってくる?」
イリヤスフィールは父親の苦悩を露知らず、弾んだ声で問いかける。
「父さんは、たぶん二週間もすれば戻ってくる。ー母さんは、その、だいぶ先になると思うんだけど……」
「うん。イリヤもお母様から聞いたよ。永いお別れになる、って」
何の曇りもない顔でそう返されて、切嗣は最後のとどめとも言うべき重圧に打ちのめされた。雪道を踏み分ける膝から力が抜けかかる。
妻は覚悟した。そして娘に覚悟をさせた。
衛宮切嗣が、この幼い少女から母親を奪うのだという現実を。
「お母様は、これからはイリヤと会えなくても、ずっとイリヤの傍にいてくれるんだって。だから寂しくなんかないって、ゆうべ寝る前に教えてくれたよ。だからイリヤはこれからも、ずっとお母様と一緒なの」
「……そうか……」
そのとき切嗣は、真っ赤な血に染まったおのれの両手を意識した。
もはや幾人を殺したかのも解らない、穢れきった両の腕。この手が人並みの父親として我が子を抱きしめることなど、決して赦されないものと――そう自分を戒めてきた。
だが、その戒めこそが逃避だったのではないか?
もはや、この子が母に抱擁されることは永遠にない。そして父である切嗣までもが、その役を辞するとしたら……この先、誰がイリヤスフィールを抱きしめてやれるのか。
「――なぁ、イリヤ」
切嗣は、傍らを歩く娘を浮び止めると、腰を落として少女の背中に手を廻した。
「……キリツグ?」
八年間、こうして小さな躯を腕に抱きしめるたびに、切嗣は胸の内でおのれの父性を疑ってきた。さも父親然として振る舞う欺瞞を嫌悪し、そうせずにはいられない自分を冷笑してきた。
だがそれも終わりだ。これより先は、この子のただ一人の父親として、腕の中のぬくもりを受け入れていかねばならない。逃げることなく。偽ることなく。
「イリヤは、待っていられるかい? お父さんが帰ってくるまで、寂しくても我慢できるかい?」
「うん! イリヤは我慢するよ。キリツグのこと、お母様と一緒に待ってるよ」
イリヤスフィールは、今日という思い出の日を、最後まで喜びのうちに全うする気でいるのだろう。明るく弾むその声は、どこまでも悲嘆とは無縁だった。
「……じゃあ、父さんも約束する。イリヤのことを待たせたりしない。父さんは必ず、すぐに帰ってくる」
衛宮切嗣は、またひとつ重荷を負った。
愛という、総身を締め上げる茨の棘に耐えながら、彼はいつまでも我が子を固く抱きしめていた。
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雨生龍之介《うりゅうりゅうのすけ》はスプラッター映画を軽蔑していた。が、そういう娯楽の必要性には、それなりに理解があった。
ホラーの分野だけでなく、戦争映画、パニック映画、さらにはただの冒険活劇やドラマ作品に到るまで、どうして虚構の娯楽というものは飽くことなく人間の死≠描き続けるのか?
それはつまり、観客は虚構というオブラードに包んだ死≠観察することで、死というものの恐怖を矮小化できるから、なのだろう。
人間は智≠誇り無知≠恐れる。だからどんな恐怖の対象であれ、それを経験≠オ理解≠ナきたなら、それだけで恐怖は克服され理性によって征服される。
ところが、死≠ホかりは……どうあっても生きているうちに経験できる事象ではない。したがって本当の意味で理解することもできない。そこで仕方なく人間は、他人の死を観察することで死の本質を想像し、擬似的に体験しようとする。
さすがに文明社会においては人命が尊重されるため、疑似体験は虚構に依らざるを得ない。が、おそらく日常茶飯事に爆撃や地雷で隣人が挽肉にされているような戦火の地においては、ホラー映画など誰も見ようとはしないのだろう。
同じように、肉体的な苦痛や精神的ストレス、ありとあらゆる人生の不幸についても、虚構の娯楽は役に立つ。実際に我が身で体感するにはリスクが大きすぎるイベントであれば、それらを味わう他者を観察することで、不安を克服し解消するわけだ。――だから銀幕やブラウン管は、悲鳴と嘆きと苦悶の涙に満ちあふれている。
それはいい。理解できる。かつては龍之介も人並み以上に死≠ニいうものが恐かった。特殊メイクの惨殺死体、赤インクの血|飛沫《しぶき》と迫真の演技による絶叫で再現された陳腐な死≠眺めることで、死を卑近で矮小なものとして精神的に征服できるのであれば、龍之介は喜んでホラー映画の愛好家になったことだろう。
ところが雨生龍之介という人物は、どうやら死≠ニいうものの真贋を見分ける感性もまた、人並み以上に鋭かったらしい。彼にとって虚構の恐怖は、あまりにも軽薄すぎた。プロットも、映像も、何から何まで子供だましの安易なフェイク。そこに死の本質≠ネんてものは微塵も感じ取れなかった。
フィクションの残虐描写が青少年に悪影響を及ぼす、などという言論をよく見かけるが、雨生龍之介に言わせれば、そんなものは笑止千万な戯言だ。スプラッターホラーの血と絶叫が、せめてもう少し真に迫ったものであったなら、彼は殺人鬼になどならずに済んだのかもしれないのだから。
それはただ、ただひたすらに切実な好奇心の結果だった。龍之介はどうあっても死≠ノついて知りたかった。動脈出血の鮮やかな赤色、腹腔の内側にあるモノの手触りと温度。それらを引きずり出されて死に至るまでに、犠牲者が感じる苦痛と、それが奏でる絶叫の音色。何もかも本物に勝るものはなかった。
殺人は罪だと人は言う。だが考えてみるがいい。この地球上には五十億人もの人間が韓めいているそうではないか。それがどれほど途方もない数字なのか、龍之介はよく知っている。子供の頃に公園で砂利の数を数えたことがあるからだ。たしか一万個かそこいらで挫折したが、あのときの徒労感は忘れようがない。人の命はその五十万倍。しかもそれが毎日、これまた何万という単位で生まれたり死んだりしているという。龍之介の手になる殺人など、一体どれほどの重みがあるというのか。
それに龍之介は、人ひとりを殺すとなればその人物の死を徹底的に堪能し尽くす。ときには絶命に到るまで半日以上も死に至る過程≠愉しむこともある。その刺激と経験、一人の死がもたらす情報量は、取るに足らないひとつの命を生かし続けておくよりも、よほど得るところが大きかった。それを考えれば、雨生龍之介による殺人はむしろ生産的な行為と言えるのではないのか。
そいう信条で、龍之介は殺人に殺人を重ねながら各地を転々と渡り歩いた。法の裁きは恐くはなかった。手錠をかけられ虜囚《りょしゅう》となる感覚は――実際に何人かをそういう目に遭わせた末に――恐れるまでもない程度にきちんと理解≠ナきていたし、絞首刑も電気椅子も、どんな結末に到るものなのかは充分に観察済み≠セった。それでも彼が司直の追跡から逃れ続けている理由はといえば、ただ単に、自由と生命を手放してまで刑務所に行ったところで得る物など何もないからであり、それならより享楽的に日々の暮らしを楽しむ方が、ポジティブで健康な、人として正しい生き方であろうと思っていたからだ。
彼は殺す相手の生命力、人生への未練、怒りや執着といった感情を、ありったけ絞り出して堪能する。犠牲者たちが死に至るまでの時間のうちに見せる末期の様相は、それ自体が彼らの人生の縮図とも言える濃厚で意味深なものばかりだった。
何の変哲もない人間が死に際に奇態な行動を見せたり、また逆に、変わり種に思えた人間が凡庸きわまりない死に方をしたり――そういった数多の人間模様を観察してきた龍之介は、死を探求し、死に精通するのと同時に、死の裏返しである生についてもまた多くを学ぶようになっていた。彼は人を殺せば殺すほど、殺した数だけの人生について理解を深めるようになっていた。
知っているという事、弁えているという事は、それ自体が一種の威厳と風格をもたらす。そういった、自分自身に備わった人間力について、龍之介は正確に説明できるほどの語暈を持ち合わせていなかったが――強いて要約するならば、COOLである≠ニいう表現がすべてを物語る。
喩えて言うならば、小酒落たバーやクラブに通うようなものだ。そういう遊び場に慣れていないうちは空気が読めずに浮いてしまうし、愉しみ方もわからない。だが場数を踏んで立ち振る舞いのルールを身につけるようになっていけば、それだけ店の常連として歓迎され、雰囲気に馴染んでその場の空気を支配できるようになる。それがつまりCOOLな生き様、というものだ。
言うなれば龍之介は、人の生命というスツールの座り心地に慣れ親しんだ、生粋の遊び人だった。そうして彼は新手のカクテルを賞味するような感覚で次々と犠牲者を物色し、その味わいを心ゆくまで堪能した。
実際に比喩でも何でもなく、夜の街の享楽では、龍之介はまるで誘蛾灯《ゆうがとう》が羽虫を引き寄せるかの如く、異性からの関心を惹いた。酒脱で剽軽《ひょうきん》、そのくせどこか謎めいた居住まいから醸し出す余裕と威厳は、まぎれもない魅力となって女たちを惑わした。そういう蠱惑《こわく》の成果を、彼はいつでも酒の肴の感覚で愉しんだし、本当に気に入った女の子については、血みどろの肉塊にしてしまうほど深い仲になることもしばしばだった。
夜の街はいつでも龍之介の狩場だったし、獲物たちは決定的な瞬間まで捕食者である龍之介の脅威に気付かなかった。
あるとき、彼は動物番組で豹《ひょう》を見て、その優雅な身のこなしに魅せられた。鮮やかな狩りの手口には親近感さえ覚えた。豹という獣は、あらゆる意味で彼の規範になるCOOLな生物だった。
それ以来、龍之介は豹のイメージを自意識として持ち合わせるようになった。つねに衣服のどこかには豹柄をあしらった。ジャケットやパンツ、靴や帽子、それが派手すぎるようなら靴下や下着、ハンカチや手袋の場合もあった。琥珀色の猫目石《キャッツアイ》の指輪は、中指に填《は》めないときでも常にポケットに入れておき、本物の豹の牙で作ったペンダントも肌身離さず持ち歩いた。
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さてそんな雨生龍之介という殺人鬼は、つい最近になってモチベーションの低下≠ニいう由々しき事態に悩まされていた。
かれこれ三〇人あまりの犠牲者を餌食にしてきた彼だったが、ここにきて処刑や拷問の手口が、似たり寄ったりの新鮮味に欠けるものになってきたのである。すでに思いつく限りの手法を試し尽くしてしまった龍之介は、どんな獲物を嬲り、断末魔を見届けるのにも、もう以前ほどの感動や興奮を味わえなくなっていた。
ひとつ原点に立ち戻ろうと思い立った龍之介は、かれこれ五年ぶりになる実家に帰省し、両親が寝静まった深夜になってから裏庭にある土蔵に踏み込んだ。彼が最初の犠牲者を隠遁したのが、もはや家人たちにすら放棄されていた、その崩れかけの土蔵の中だったのだ。
五年ぶりに再会した姉は、姿形こそ変わり果てていたが、それでも龍之介が隠したそのままの場所で弟を待っていた。物言わぬ姉との対面は、しかし、これといった感慨ももたらさず、龍之介は無駄足だったかと落胆しかけたが、そのとき――蔵に詰め込まれたガラクタの山の中から、一冊の朽ちかけた古書を見つけたのである。
薄い和綴《わと》じの、虫食いだらけのその本は、刷り物ではなく個人の手記だった。《おくづけ》には慶応九年とある。今から百年以上も昔、幕末期に記されたことになる。
たまたま学生時代に漢書を齧《かじ》ったことのある龍之介にとって、その手記を読み解くこと自体には何の苦もなかった。――が、その内容は理解に苦しんだ。細い筆文字で、とりとめもなく書き綴られていたのは、妖術がどうのこうのという荒唐無稽《こうとうむけ》な戯言だったのだ。しかも伴天連がどうのサタンがどうのという表記が散見されるあたり、どうやら西洋オカルトに関する記述らしい。異世界の悪魔に人身御供を捧げて式神を呼び出し云々というのだから、もうまるっきり伝奇小説の世界である。
江戸の末期という時代において蘭学は異端のジャンル。その異端の中でもさらに最異端であるオカルトの書物となると、ただの悪ふざけにしては少々度が過ぎている感もあったが、どのみち龍之介にとって、その本の記述の信憑性などは最初からどうでもいい事柄だった。実家の土蔵から出てきたオカルトの古書というだけで、すでに充分COOLでFUNKYである。殺人鬼が新たなるインスピレーションを得るには充分な刺激だったのだ。
さっそく龍之介は手記にあった霊脈の地≠ニされる場所に拠点を移し、夜の渉猟を再開した。現代では冬木市と呼ばれるその土地に一体どういう意味があるのかは知らなかったが、龍之介は新たな殺人については雰囲気作りに重点を置くという方針で、極力、和綴じの古書の記述を忠実に再現しようと務めた。
まず最初に、夜遊び中の家出娘を深夜の廃工場で生贄にしてみたところ、これが予想以上に刺激的で面白い。まだ未経験だった儀式殺人というスタイルは、完全に龍之介を虜にした。病みつきになった彼は第二、第三の犯行を矢継ぎ早に繰り返し、平和な地方都市を恐怖のどん底に叩き落とした。
そうして、都合四度目の犯行――今度は住宅街の真ん中で、四人家族の民家に押し入った雨生龍之介は、今まさに凶行の真っ最中で恍惚に酔いしれていたのだが、さすがに四度も同じことを繰り返していれば熱狂の度合いも冷めるのが道理で、頭の片隅では理性による警告の声が、ブツブツと耳障りに囁きはじめていた。
いい加減、今度ばかりは羽目を外しすぎたかもしれない。
これまで龍之介は全国を股に掛けて渡り歩きながら犯行を重ねてきた。同じ土地で二回以上の殺しを重ねたことはないし、遺体の処理も周到に済ませてきた。龍之介の犠牲者のうち大半は行方不明者として今も捜索されている有様だ。
だが今回のように遺体や物証を隠しもせず、連続して事件を起こしマスコミを刺激しまくっているのは、やはり考えるほどに愚行だったと思えてならない。様式に拘りすぎたせいで、普段の慎重さを完全に忘れていた。特に今回はまずい。これまでの三回で、いつも生き血で魔法陣を描く段になって失敗して血が足りなくなったため、今度こそは完全な魔法陣を描けるようにと、少し多めに殺すことにしたのだが、やはり就寝中の一家を皆殺しというのは少々センセーショナルに過ぎたかもしれない。いよいよ警察は血眼になるだろうし、地域の住人の警戒心も段違いに増すだろう。何よりもそれは秘めやかなる豹≠フスタイルではない。
とりあえず、冬木市に拘るのは今夜限りでやめよう――そう龍之介は心に決めた。黒ミサ風味の演出は気に入っているので今後とも続けていきたいのだが、それも三度に一度ぐらいのペースに自重するべきかもしれない。
気持ちの整理がついたところで、あらためて龍之介は集中して儀式に専念することにした。
「♪閉じよ《みったせー》閉じよ《みったせー》閉じよ《みったせー》閉じよ《みったせー》。繰り返すつどに四度――あれ、五度? えーと、ただ満たされるトキをー、破却する……だよなぁ? うん」
鼻歌交じりに召喚の呪文を暗唱しながら、龍之介はリビングルームのフローリングに刷毛で鮮血の紋様を描いていく。本当なら儀式というのはもっと荘厳にやるべきなのだろうが、そんなのは辛気くさいばかりで龍之介のスタイルではない。雰囲気重視といっても所詮は自己満足なのだし、むしろフィーリングの方が肝心だ。
今夜の魔法陣は、例の手記に図解されていた通りに、一発で完壁に仕上がった。こうもすんなり出来てしまうと、むしろ準備の甲斐がない。このためだけに両親と長女を殺して血を抜いておいたというのに。
「♪閉じよ《みったせー》閉じよ《みったせー》閉じよ《みったして》閉じよ《みったして》閉じよ《みったっせっ》っと。はい今度こそ五度ね。オーケイ?」
余った血は部屋の壁に適当に塗りたくってファインアートを気取ってみる。それから部屋の片隅に転がしてある生き残り――猿轡《さるぐつわ》とロープで縛り上げた小学生の男の子を振り向いて、反応を伺おうと顔を覗き込んでみたものの、幼い少年は泣きはらした瞳で、切り裂かれた姉と両親の骸を凝視してばかりいる。
「ねー坊や、悪魔って本当にいると思うかい?」
震える子供に問いかけながら、龍之介は芝居がかった仕草で小首を傾げる。当然、猿轡をされた子供には返答など望むべくもなく、ただ恐怖に身を竦《すく》ませることしかできない。
「新聞や雑誌だとさぁ、よくオレのこと悪魔呼ばわりしたりするんだよね。でもそれって変じゃねえ? オレ一人が殺してきた人数なんて、ダイナマイトの一本もあれば一瞬で追い抜けちゃうのにさ」
子供は良い。龍之介は子供が大好きだった。大人が怯えたり泣き喚いたりする様は時折ひどく無様で醜いときがあるが、その点、子供はただひたすらに愛らしい。たとえ失禁しようとも子供であれば笑って許せる。
「いや、いいんだけどさ。べつにオレが悪魔でも。でもそれって、もしオレ以外に本物の悪魔がいたりしたら、ちょっとばかり相手に失礼な話だよね。そこんとこ、スッキリしなくてさぁ。『チワッス、雨生龍之介は悪魔であります!』なんて名乗っちゃっていいもんかどうか。それ考えたらさ、もう確かめるしか他にないと思ったワケよ。本物の悪魔がいるのかどうか」
龍之介はますます上機嫌に、怯える子供の前で愛嬌を振りまいた。普段は喋るのも億劫なのだが、とかく血を見ると――そして死に瀕した者の前に立つと、彼は人が変わったように饒舌になる癖があった。
未っ子を一人だけ殺さずに生かしておいたのは、血の量が三人分で充分だったというだけで、取り立てて深い意味はなかった。後々、儀式が済んでから何か他に楽しい殺し方を試してみよう、という程度に思っていたのだが
「でもね。やっぱりホラ、万が一本当に悪魔とか出てきちゃったらさ、何の準備もなくて茶飲み話だけ、ってのもマヌケな話じゃん? だからね、坊や……もし悪魔サンがお出まししたら、ひとつ殺されてみてくれない?」
「……!」
龍之介の発言の異常さは、幼い子供であろうとも充分に理解できた。悲鳴も上げられぬまま、目を見開いて身を振りもがく子供の様を見て、龍之介はケタケタと笑い転げる。
「悪魔に殺されるのって、どんなだろうねえ。ザクッとされるかグチャッとされるのか、ともかく貴重な経験だとは思うよ。滅多にあることじゃないし――ぁ痛ッ!」
不意に見舞った鋭い痛みが、龍之介の躁状態に水を挿す。
右手の甲、だった。何の前触れもなく、まるで劇薬を浴びせられたかのような激痛があった。痛みそのものは一瞬で治まったものの、痺れるようなその余韻は、皮膚の表面に貼りついたように残っていた。
「……何、だ? これ……」
痛みの退かない右手の甲には、どういうわけか、入れ墨のような模様が、まったく心当たりのないうちに刻み込まれていた。
「……へぇ」
不気味さや不安を感じるよりも先に、龍之介の伊達男としてのセンスが反応した。何だかよく解らないものの、三匹の蛇が絡み合うようなその紋様は、なにやらトライバルのタトゥーのようで、なかなかどうして酒落ている。
だが、にやけていたのも束の間、背後で空気が動くのを感じ取った龍之介は、さらに驚いて振り向いた。
風が湧いている。閉め切った屋内に、決して有り得ないほどの気流。微風にすぎなかったそれは、やがて、みるみるうちに旋風となってリビングルームに吹き荒れる。
床に描かれた鮮血の魔法陣が、いつしか燐光《りんこう》を放ちはじめているのを、龍之介は信じられない気分で凝視した。
何らかの異常が起こることは、むしろ期待していたのだが――こうもあからさまな怪現象はまったく予想の外だった。まるで龍之介が軽蔑してやまない低級なホラー映画のような、大げさすぎる演出。子供騙しのようなその効果が笑うに笑えないのは、それが紛れもなく現実だったからだ。
もはや立っているのも危うくなるほどの突風は竜巻のように室内を躁躍し、テレビや花瓶といった調度品を吹き飛ばして粉砕していく。光る魔法陣の中央には靄状のものが立ち上り、その中で小さな稲妻が火花を散らしはじめる。この世のものとは思えない光景を、だが雨生龍之介はまったく怖じることなく、手品に見入る子供のように期待に胸躍らせながら見守った。
未知なるものの幻惑――
かつて死≠ニいう不思議の中に見出した蠱惑《こわく》。そして飽くほどに重ねた殺人の果てに、いつしか見失っていたその輝きが、今――
閃光。そして落雷のような轟音。
衝撃が龍之介の身体を駆け抜けた。それはまさに高圧電流に灼かれるかのような感覚だった。
かつて雨生という一族に伝えられていた異形の力。今は子孫にすら忘れ去られ、それでもなお連綿《れんめん》と継がれてきた血によって、今日この日まで龍之介の中に眠り続けてきた『魔術回路』という神秘の遺産が、いま津波に押し流されるかのようにして解放された。そして龍之介に流入した外なる力≠ヘ、たったいま彼の中に開通したばかりの経路を循環し、それから再び外部へと流れ出て、異界より招かれたモノへと吸い込まれていく。
――いわば、それは例外中の例外だった。
もとより冬木の聖杯は、それ自身の要求によって七人のサーヴァントを必要とする。資質ある者がサーヴァントを招き、マスターの資格を得るのではない。聖杯が資質ある者を七人まで選抜するのである。
英霊を招き寄せる召喚もまた、根本的には聖杯によるもの。魔術師たちが苦心して儀式を執り行うのも、より確実に、万全を期してサーヴァントとの絆を築くための予防策でしかない。たとえ稚拙な召喚陣でも、呪文の詠唱が成されなくても、そこに依り代としてその身を差し出す覚悟を示した人間さえ居るのなら、聖杯の奇跡は成就する……
「――問おう」
立ちこめる靄の中から、細く柔らかい、それでいて不思議なほどよく通る声が呼びかけてきた。
いつしか風は止んでいた。光を放っていた魔法陣の輝きも今は消え、床に描かれた鮮血は、まるで焼け焦げたかのように黒ずんで干涸《ひから》びている。そうして薄れゆく靄の中、先の声の主が忽然《こつぜん》と龍之介の前に姿を現した。
まだ若いらしく皺一つない顔。ぎょろりと剥いた大きな双眸《そうぼう》に、てらてらと脂ぎった頬。土気色の顔色もあいまって、龍之介はムンクの絵画を連想した。
服装もまた奇異である。雲を突くような長身を、ゆったりと幾重にも重ねたローブに包み、豪奪な貴金属の留め具で飾ったそのスタイルは、まさに漫画の中に出てくる悪の魔法使い≠サのものだ。
「我を呼び、我を求め、キャスターの座《クラス》を依り代に現界せしめた召喚者……貴殿の名をここに問う。其は、何者なるや?」
「……」
龍之介は少しだけ返答に窮《きゅう》した。血の召喚陣から稲妻と煙とともに出現した――にしては思いのほか普通の人間である。具体的にこれといった姿形を期待していたわけでもないのだが、それが仰々しい怪物でなく、ごく普通の人間の容姿をしていたことに、むしろ龍之介は途方に暮れた。たしかに服装こそ奇妙奇天烈ではあるが、だからといってこの男が、はたして本物の悪魔なのかどうか。
しばらく頭を掻いてから、龍之介は覚悟を決めた。
「えと、雨生龍之介っす。職業フリーター。趣味は人殺し全般。子供とか若い女とか好きです。最近は基本に戻って剃刀とかに凝ってます」
ローブの男は頷いた。どうにも名前以外の部分は聞き流されている風な様子だった。
「宜しい。契約は成立しました。貴殿の求める聖杯は、私もまた悲願とするところ。かの楽園の釜は必ずや、我らの手にするところとなるでしょう」
「せい――はい?」
何の事やらすぐには解らず、龍之介は小首を傾げた。そういえば確かに、土蔵で見つけた古書の中にそんなような記述があった気もする。つまらない箇所なので読み飛ばしていたのだが。
「……まぁ、小難しい話は置いといて、サ」
龍之介は軽剽に手を振って、部屋の片隅に転がしてある子供を顎で指した。
「とりあえず、お近づきにご一献どうデスか。アレ、食べない?」
異相の男は、何の表情もない能面のような顔で、縛り上げられた子供と龍之介とを見比べる。龍之介の言葉と意図を理解しているのか、それさえも窺い知れない沈黙の間のうちに、はたと龍之介は不安に駆られた。もしかしたら失礼に当たる勧めだったかもしれない。悪魔が子供を食べるなんて、考えてみれば誰がそう決めつけたというのか。
男は無言のまま、ローブの懐から一冊の本を取り出した。分厚く重厚な装丁の、本がまだ貴重品であった時代の骨董古書。まさしく悪魔が持ち歩いていそうな小道具である。
その表紙を装丁する革が何なのか、龍之介は一目で看破した。
「あ、スゲェ! それ人間の皮でしょ?」
龍之介も昔、犠牲者の生皮を剥いでランプシェードを作ろうとしたことがあるから見覚えがある。結局、工作の苦手な彼は途中で挫折したのだが、同じ指向の作品を最後まで仕上げた先達がいると知っては、リスペクトせずにはいられない。
龍之介の賛辞を、男は、ちらりと一瞥をくれただけで無視すると、おもむろに本を開いて手早くページを捲り、何か意味の取れない言葉を一言二言ばかり呟いてから、それで事足りたかのように本を閉じ、また懐に仕舞ってしまった。
「……?」
解せないまま見守る龍之介を余所に、男は床に転がされた男の子に歩み寄る。先刻からの怪事の連発に、少年は輪をかけて怯え、必死の様子で身を振りながら、床を這って男から逃げようとしている。
そんな子供を見つめる男の眼差しが、なぜか優しく慈愛に満ちているのに気がついて、龍之介はますます困惑した。どういうことだろうか。
「――怖がらなくていいんだよ。坊や」
異相の怪人は、その面貌に不釣り合いなほど柔和で静かな声で、男の子に語りかけた。囚われの少年は、ここでようやく相手の温情に満ちた表情に気がついたのか、暴れるのをやめ、縋《すが》るような眼差しで男の表情を窺う。
それに応じるように、男は微笑して頷くと、腰を屈めて少年に手を伸ばし――戒めのロープと猿轡を、優しく解いて外してやる。
「立てるかい?」
まだ半分腰の抜けたような有様の少年を助け起こし、男は励ますように背中を撫でてやった。
龍之介は、もちろんこの男が悪魔であることを露ほども疑わなかったが、それにしても子供の遇し方についてはまったく釈然としなかった。まさか本当に、命を救うつもりなのだろうか?
それにしてもこの男、見れば見るほど奇妙な風貌である。黙っているときは亡者じみた恐ろしげな顔立ちが、笑うと途端に邪気のない、まるで聖者のように清らかな表情になる。
「さぁ坊や、あそこの扉から部屋の外に出られる。周りを見ないで、前だけを見て、自分の足で歩くんだ。――ひとりで、行けるね?」
「……うん……」
健気に頷く少年に、男は満面の笑顔で頷くと、小さな背中をそっと押しやった。
少年は言われた通り小走りに、両親と姉の死体には目もくれず、血まみれのリビングを横断する。扉の外の廊下には、二階へ上る階段と玄関。そこまで行けば彼は殺人鬼の手から逃れ、生き延びることが叶うだろう。
「なあ、ちょっと……」
さすがに見かねて声をかけた龍之介を、男は素早く手で遮って制止した。勢いに呑まれた龍之介は、気を揉みながらも為す術もなく、逃げていく子供の背中を見送るしかない。
少年がドアを開け、廊下に出る。目の前には玄関の扉。さっきまで恐怖の色だけに塗り込められていた瞳が、そのとき、ようやく安堵と希望で輝きを取り戻す。
次の刹那に、クライマックスは待ち受けていた。
玄関を向いた少年は、ちょうど階段に背を向けていた。その階段の上、リビングルームからは見えない二階の踊り場の辺りから、いきなり何かが雪崩を打って階下の少年に襲いかかったのである。極太のロープの束――いや、無数の蛇の群れ――いずれとも形容しがたい生物、いや生物の器官らしきソレは、男の子の背後からくまなく全身に巻き付くや、有無を言わさぬ力でもって一瞬のうちに幼い身体を階段の上へと引きずり上げ、二階へと連れ去った。
そして――魂切る絶叫。無数の生物が一斉に舌を鳴らすかのような湿った音と、細い骨を砕き折る乾いた響き。なまじ様相が見えないだけに、上階で起こっている出来事はより一層おぞましく想像力を刺激した。
その悪夢のような音色に、異相の男は目を閉ざして顔を上向け、まるで酔いしれるかのように聴き入っていた。胸に当てられた手が震えている。どうやら感動の顕れであるらしい。
だが、感極まっていたのは龍之介もまた同じ……いや、彼の場合は何が起こるのか予期していなかっただけに、よりいっそう強烈なカタルシスに見舞われていた。
「恐怖というものには鮮度があります」
みずから企てた惨事の余韻が、まだ抜けきっていないのか、悪魔は――今となっては疑いの余地もあるまい――陶然と夢見るような口調で語りはじめた。
「怯えれば怯えるほどに、感情とは死んでいくものなのです。真の意味での恐怖とは、静的な状態ではなく変化の動態――希望が絶望へと切り替わる、その瞬間のことを言う。
如何でしたか? 瑞々《みずみず》しく新鮮な恐怖と死の味は」
「――く――」
龍之介はすぐに言葉が出てこなかった。
階段の上で、今も子供の遺体を貪り食っているらしい何か≠ヘ、おそらくこの男が用意したものだろう。彼自身が血の魔法陣の中から現れ出たのと同じように。きっと最初に、あの人皮で装丁された本を開いたときに、何かが起こったに違いない。
手段そのものにも度肝を抜かれたが、なお素晴らしいのはその哲学である。龍之介などでは及びもつかない、創意工夫で磨き抜かれた耽美《たんび》なまでの邪悪。これほど鮮烈で感動的な死の美学≠持ち合わせた存在は、もはや最大級の賛辞をもって讃えるしかない。
「COOL! 最高だ! 超COOLだよアンタ!」
気が遠くなるほどの歓喜に小躍りしながら、龍之介は男の手を握って何度も振った。親友や恋人を得たとしても、どんなセレブに出会ったとしても、これほどの感動はないだろう。殺人鬼・雨生龍之介は、この退屈な世界の中で、いま初めて心から心酔し敬愛できる人物にでくわした。
「オーケイだ! 聖杯だか何だか知らないが、ともかくオレはアンタに付いていく! 何なりと手伝うぜ。さぁ、もっと殺そう。生贄なんていくらでもいる。もっともっとCOOLな殺しっぷりでオレを魅せてくれ!」
「愉快な方ですね。貴殿は」
龍之介の感激ぶりに気をよくしたのか、男は持ち前の邪気のない笑顔で、激しい握手にやんわりと応じた。
「リュウノスケといいましたか。貴殿のような理解あるマスターを得られたのは幸先がいい。これはいよいよ、我が悲願の達成に期待が持てそうです」
――聖遺物のないまま召喚が成されたとき、それに応じる英霊はマスターと精神性の似通ったものになるという。この悪質な殺人鬼が期せずして招き寄せたのは、彼になお輪をかけて残虐な所行で後世に名を知らしめた、正真正銘の嗜虐《しぎゃく》の英霊だった。いや、その性質を踏まえるならば、英霊というよりも怨霊と呼ぶのが相応しい。
「あー、そういえば、オレまだアンタの名前を聞いてない」
ようやく肝心なところに思い至った龍之介が、馴れ馴れしく問いかける。
「名前、ですか。そうですね。この時代で通りの良い呼び名といえば……」
男は唇に指をあて、しばし考え込んだ後、
「……では、ひとまず『青髭』とでも名乗っておきましょうか。以後はお見知り置きを」
そう親しみをこめて、天使のような笑顔で答えた。
こうして、第四次聖杯戦争における最後の一組――七番目のマスターとサーヴァント『キャスター』は契約を完了した。行きずりの快楽殺人鬼が、魔術師としての自覚も、聖杯戦争の意義も知らぬまま、ただの偶然だけで令呪とサーヴァントを得たのである。
運命の悪戯というものがあるならば、それは最悪の戯れ事と言ってよかっただろう。
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草木も眠る丑三つ時、などという表現は、魔術師とサーヴァントには当てはまらない。
夜の闇の中に、どれだけ数多くの油断ならない駆け引きが交錯していることか、影の英霊たるアサシンには誰よりもつぶさに見て取れる。
とりわけ、この冬木市に集った魔術師たちにとって、関心の焦点とも言えるのは二カ所。深山町の丘に立つ間桐家と遠坂家の、いずれも劣らぬ二軒の豪壮な洋館である。
聖杯を狙うマスターの居城として、明々白々なこの二軒には、最近では監視を目的とした低級な使い魔が昼夜を間わず右往左往している。無論、館の主《あるじ》とてその程度のことは覚悟の上であり、いずれの館も敷地の中には探知と防衛を意図した結界が十重二十重に張り巡らされ、魔術的な意味合いでいえば要塞化も同然の処置がなされている。
魔力を備えた人間が、主《あるじ》の許可なくこれらの結界に踏み込めば無事には済まないし、それはさらに膨大な魔力の塊とも言えるサーヴァントともなれば尚更である。実体、霊体を問わず、察知されることなくこの城塞級の結界を潜り抜けるのは、どう足掻いたところで無理であろう。
ただし、その不可能を可能たらしめる例外もまた存在する。アサシンのクラスが保有する気配遮断スキルがそれだ。戦闘力において秀でたものを持たない反面、アサシンは魔力の放射を限りなくゼロに等しい域まで抑えた状態で活動し、まさに見えざる影の如く標的に忍び寄ることができる。
さらに加えて、言峰綺礼のサーヴァントである今回のアサシンにとって、今夜の潜入任務はとりわけ容易だった。いま彼が潜入している庭園は、かねてから敵地と見なされていた間桐邸の敷地ではない。つい昨日までマスター綺礼の同盟者であった、遠坂時臣の邸宅なのである。
綺礼と時臣が他のマスターを欺いて水面下で手を結んでいたのは、もちろんアサシンも承知している。その密約を護るために、アサシンは幾度となくこの遠坂邸の警護を請け負ってきた。結界の配置や密度はとうの昔に確認済みだし、当然、その盲点についても熟知している。
霊体化したままの状態で、数多の警報結界を苦もなく回避して進みながら、アサシンは内心で遠坂時臣の皮肉な運命を嗤っていた。あの高慢な魔術師は、配下に従えた綺礼にかなりの信任を置いていたようだが、まさかその子飼いの犬に手を噛まれる羽目になろうとは思いもすまい。
綺礼がアサシンに時臣の殺害を命じたのは、ほんの小一時間ほども前である。何が綺礼の翻意を促したのかは定かでないが、おそらくは先日の、時臣によるサーヴァントの召喚が発端であろう。聞けば時臣が契約したのはアーチャーのサーヴァントだそうだが、察するに、その英霊が綺礼の想像以上に脆弱だったのかもしれない。それで時臣との協力関係にメリットがなくなったのだとすれば、今夜の綺礼の判断にも納得がいく。
『徒《いたずら》に慎重になる必要はない。たとえアーチャーと対決する羽目になろうとも恐れる必要はない。すみやかに遠坂時臣を抹殺しろ』
それがマスター綺礼からの指示だった。おそらく戦闘能力においては最弱であろうアサシンと比してすら、恐るるに足りず≠ニ侮られるとは――時臣が召喚したアーチャーの英霊は、よほど期待を裏切った見込み違いの相手だったのであろう。
庭も半ばまで来たところで、ただ素通りするだけで済む結界の盲点はなくなった。ここから先は、物理的な手段で結界を崩し、除去しながら進む必要がある。不可視状態の霊体のままでは出来ない作業だ。
植え込みの陰に屈み込んだ姿勢で、アサシンは霊体から実体へと転位し、髑髏の仮面を被った長身痩躯の姿を露わにした。遠坂邸の結界とは気配の違う、幾多もの視線≠ェ遠くから浴びせられるのを感知する。おそらくは敷地の結界の外から遠坂邸を監視している、他のマスターたちの使い魔であろう。時臣その人に察知されない限り、出歯亀《でばかめ》はいっさい気にする必要はない。聖杯を巡るライバルである時臣に対して、彼らがアサシンの潜入を警告する理由など有り得ない。みな競争相手の一人が早々に脱落する様子を、高みの見物とばかり見届けるだけだろう。
声もなくほくそ笑んでから、アサシンは最初の結界を結んでいる要石を動かそうとして手を伸ばし――
次の瞬間、稲妻のように光り輝きながら真上から飛来した槍に、その手の甲を刺し貫かれていた。
「……ッ!?」
激痛、恐怖、そしてそれに勝る驚愕。眩い槍の一撃を予期すらしなかったアサシンは、信じられない思いで頭上を振り仰ぎ、投手の姿を探す。
いや、探すまでもない。
遠坂邸の切妻屋根《きりづまやね》の頂に、その壮麗なる黄金の姿は立ちはだかっていた。満点の星空も、月華の光すらも恥じらうほどに、神々しくも燦然と輝くその偉容。
傷を受けた怒りも、その痛みすらも忘れ、アサシンはただその圧倒的な威圧感に恐怖した。
「地を這う虫ケラ風情が、誰の許しを得て面《おもて》を上げる?」
地に伏せたアサシンを、燃えるような真紅の双眸《そうぼう》で見下ろしながら、黄金の人影は冷然と、侮蔑以上の無関心でもって問い質す。
「貴様は我《オレ》を見るに能《あた》わぬ。虫ケラは虫らしく、地だけを眺めながら死ね」
黄金の人影の周囲に、さらなる輝きが無数に出現する。空中から忽然《こつぜん》と顕れたそれらは、剣であり、矛であり、一つとして同じ物はなかったものの、そのいずれもが絢爛《けんらん》たる装飾を施された宝物のような武具だった。そしてそのいずれもが、残らず切っ先をアサシンに向けていた。
勝てない。――思考ではなく本能の域から、アサシンは痛感した。
あんなモノに勝てるわけがない。勝敗を競うだけ愚かしい。
仮にもサーヴァントであるアサシンに傷を負わせた以上、あの黄金の影もまた間違いなくサーヴァント。それも遠坂邸への侵入を阻んだ以上は、時臣をマスターとする――即ち、アーチャーの英霊であろう。
アレを、恐れる必要がないと?
おのれのマスターの言質にアサシンは逆上しかかり、そこではたと、綺礼の言葉に矛盾がなかったことを悟った。
あんなにも圧倒的な敵の前では、恐れるまでも――そう、恐怖する余地すらもなく
ただ絶望し、諦めるしか他にない。
風を切る瞼りとともに、無数の輝く刃がアサシンへと降りそそぐ。
アサシンは視線を感じた。敷地の外から注視する使い魔たち。第四次聖杯戦争における最初の敗者、ただの一矢も報いることなく無様に果てるサーヴァントを、他のマスターたちが見守っている。
そして最後の瞬間に、ようやくアサシンは理解した。マスター言峰綺礼と……その盟主たる遠坂時臣の真意を。
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肉を切り裂くのみならず深々と地を穿《うが》つ、無数の宝具の轟音を、遠坂時臣は自室の安楽椅子にくつろいだまま聞き届けた。
「さて、首尾は上々……と」
独りそう呟いた魔術師の横顔を、シェードランプのそれとは違う黄金の輝きが照らし出す。
ただ居合わすだけで周囲の薄闇を払わずにはいられない黄金の立ち姿は、ついさっき屋根の上から侵入者を処刑したそれと同じである。霊体化して屋内に戻り、再び時臣の部屋で実体化したアーチャーのサーヴァントは、満足顔のマスターの傍らに、昂然《こうぜん》と立ちはだかった。
間近に見るその姿は、堂々たる長身に、磨き抜かれた黄金の甲冑《かっちゅう》を纏ったものだった。燃え立つ炎のように逆立った金髪と、端正というには華美すぎるほど艶《つや》やかな美貌の青年。血のような真紅の双眸は明らかに人のものでなく、見つめられた者すべてを萎縮させずにはおかない神秘の輝きを放っている。
「随分とつまらぬ些事に、我《オレ》を煩《わずら》わせたものだな。時臣」
時臣は椅子から立つと、恭《うやうや》しく、かつ優雅な仕草で一礼する。
「恐縮であります。王の中の王よ」
マスターとして召喚したサーヴァントに対するには、およそ考えられる以上に謙《へりくだ》った態度といえた。だか遠坂時臣は、自らが招いたこの英霊に対して礼を尽くすことに何の躊躇もなかった。自身もまた貴き血統を継ぐ者として、遠坂時臣は高貴なるもの≠フ何たるかを誰よりも弁えているものと自負している。今回の聖杯戦争に勝ち抜くために時臣が召喚した、この偉大に過ぎる英霊は、下僕ではなく賓客としてもてなすべき相手であった。
アーチャーとして現界したこの男こそ、かの『英雄王』ギルガメッシュ。古代メソポタミアに君臨した半神半人の魔人。およそ英雄としてもっとも古い起源を持つ、人類最古の王なのだ。
高貴なることを尊ぶのが時臣の信条である。令呪の支配権があろうとも、どのような体裁の契約を交わしていようとも、それで貴賤《きせん》の上下が覆《くつがえ》るものではない。たとえサーヴァントであろうとも、この黄金の青年は最上の敬意をもって遇するべき存在であった。
「今宵の仕儀は、より煩瑣《はんさ》なお手間をかけぬよう今後に備えた露払《つゆはら》いでございます。かくして『英雄王』の威光を知らしめた今、もはや徒《いたずら》に噛みついてくる野良犬もおりますまい」
「うむ」
時臣の言い分を、アーチャーは首肯して認めた。礼は尽くせど、必要以上に阿《おもね》り萎縮することのない端然とした時臣の態度は、この時代になかなか望むべくもない。それはこの英雄王も理解していた。
「しばらくは野の獣どもを食い合わせ、真に狩り落とすべき獅子がどれなのかを見定めます。どうかそれまで、いましばらくお待ちを」
「良かろう。まだ当面は散策だけで無聊《ぶりょう》を慰められそうだ。この時代、なかなかどうして面白い」
そんなアーチャーの言い分を聞いた時臣は、内心のわずかな苛立ちを仏頂面で糊塗《こと》した。
たしかに彼の契約したサーヴァントは英霊として最強である。が、この気儘《きまま》な好奇心による放浪癖だけは頭痛の種だった。現界してからこのかた、一夜として大人しく遠坂邸に留まっていたためしがない。今夜とて、アサシンの襲来するタイミングにあわせてアーチャーを屋敷に留め置くために、時臣はかなりの労力を説得に費やした。
「……お気に召されましたか? 現代の世界は」
「度《ど》し難《がた》いほどに醜悪だ。が、それはそれで愛でようもある。
ただ肝心なのは、ここに我《オレ》の財に加えるに値するだけの宝物があるのかどうか、だ」
皮肉な笑みで嘯《うそぶ》いてから、やおらアーチャーは赤い瞳に神威を込めて、おびやかすように時臣を見据える。
「もし、我が寵愛に値するものが何一つない世界であったなら――無益な召喚で我《オレ》に無駄足を踏ませた罪は重いそ。時臣」
「ご安心を。聖杯は必ずや英雄王のお気に召すことでしょう」
時臣は怖じることなく、自信を込めて返答した。
「それは我《オレ》が検めてから決めること。……だが、まぁ良い。当面はおまえの口車に乗ってやろう。この世の総ての財宝は我の物。その聖杯とやらがどの程度の宝であれ、我の許しもなしに雑種どもが奪い合うなど、見過ごせる話ではないからな」
傲岸《ごうがん》にそう言い放つと、英雄王は踵《きびす》を返し、実体化を解除して霞のように姿を消した。
『おまえの見繕う獅子とやらにも、手慰みぐらいは期待しておこう。時臣、委細《いさい》は任せておくそ』
影なき影の声に、時臣は頭を垂れた。ほどなく英霊の気配が室内から消えるまで、礼の姿勢は崩さなかった。
「……やれやれ」
黄金の威圧感が消え失せたところで、魔術師は深く嘆息した。
サーヴァントには、もとの英霊が保有していたスキルとは別に、現界するクラスが決定した時点で新たに付加されるクラス別スキルというものがある。アサシンの『気配遮断』やキャスターの『陣地作製』、セイバー、ライダーの『騎乗』などがそうだ。同様にアーチャーのクラスを得て現界したサーヴァントには、『単独行動』という特殊スキルが与えられる。
マスターからの魔力供給を絶ったまま、ある程度の自律行動できるというこの能力は、たとえばマスター個人が最大魔力を動員した魔術を発動したい場合や、またマスターが負傷してサーヴァントへ充分な魔力を供給できない場合などに重宝する。が、その反面、マスターは完全にサーヴァントを支配下に従えておくことが難しくなる。
アーチャーとなったギルガメッシュの単独行動スキルはAランク相当。これだけあれば現界の維持はもちろん、戦闘から宝具の使用まで、一切をマスターのバックアップなしでこなせるが……それをいいことに英雄王は、時臣の意向などお構いなしに、常日頃から勝手気ままに冬木市を闊歩する有様だった。終始|経路《パス》を断たれたままの時臣は、自分のサーヴァントが何処で何をしているのやら全く把握できない。
おのれの世界以外にはとんと興味のない時臣は、英雄王ともあろう男が、いったい何を愉しみに大衆の営みを渉猟して歩くのか、まったく理解が及ばない。
「まぁ当面のところは、綺礼に任せておけばいい。――今のところは予定通りだ」
そうほくそ笑んで、時臣は窓から庭を見下ろす。忍び込んだアサシンが果てた辺りは、過剰な破壊によって土砂が抉られ、そこだけ爆撃でもされたかのような惨状を呈していた。
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「アサシンが――殺られた?」
あまりにも呆気ない結末に拍子抜けしながら、ウェイバー・ベルベットは目を開けた。
先程まで視覚で捉えていた遠坂邸の庭の光景とは一転して、慣れ親しんだ私室――寄生中の老夫婦宅の二階部屋に視野が戻る。さっきまで瞼の裏に見出していた映像は、使い魔にしていた鼠の視覚を横取りしていたものだ。その程度の魔術であれば、ウェイバーの才覚をもってすればどうということもない。
聖杯戦争における序盤の、まず当然の策として、ウェイバーは間桐邸と遠坂邸の監視から始めていた。郊外の山林にはアインツベルンの別邸もあったのだが、北の魔術師はまだ来日していないのか、現状では蜆《もぬけ》の殻で監視するまでもない。
両家ともに、表向きはまだ何の動きも見せず、いっそのこと誰か痺れを切らせたマスターが遠坂か間桐の拠点に殴り込みをかけたりしないものかと、虚しい望みを託して監視を続けていたのだが、まさかそれが図に当たるとは思ってもみなかった。
「おいライダー、進展だぞ。さっそく一人脱落だ」
そう呼びかけても、床の上に寝そべった巨漢は「ふぅん」と気のない相槌を打つだけで、振り向く素振りさえ見せない。
「……」
ウェイバーは甚だ気にくわない。
仮にも彼の個室に――厳密には他人の家だが、この際それは置いておいて――こうもむさ苦しい筋肉達磨が日がな一日寝転がっている有様が、ウェイバーには甚だ落ち着かなかった。用のないときは霊体化していろと命じても、ライダーは『身体のある方が心地よい』と突っぱねて、終始こうして巨体を晒している。実体化している時間が長引けば、それだけマスターがサーヴァントに供給しなければならない魔力もロスが多く、ウェイバーからしてみればたまったものではないのだが、そんな事情などライダーはお構いなしである。
なお許し難いことに、ウェイバーの貴重な魔力を食い潰してまでライダーが何をしているかといえば……実に、何もしていないのだ。こうしてウェイバーが偵察活動に励んでいた今も、さもくつろいだ風に頬杖を着いて寝転がり、のほほんと煎餅を齧りながらレンタルビデオに見入っていた。こんなサーヴァントなど、普通に考えたら有り得ない。
「おい、解ってるのかよ! アサシンがやられたんだよ。もう聖杯戦争は始まってるんだ!」
「ふぅん」
「……おい」
逆上しかかったウェイバーが声を上擦らせると、ようやくライダーは、さも面倒くさそうに半身を捻って振り向いた。
「あのなぁ、暗殺者ごときが何だというのだ? 隠れ潜むのだけが取り得の鼠なんぞ、余の敵ではあるまいに」
「……」
「それよりも坊主、凄いのはコレだ、コレ」
一転して語り口に熱を込め、ライダーはブラウン管の画像を指さす。今ビデオデッキで再生されているのは、『実録・世界の航空戦力パート4』……ライダーはこの手の軍事マニア向けの資料を、文献、映像を間わず片っ端から漁っていた。もちろん実際に調達するのはウェイバーの役目だ。さもなければ巨漢のサーヴァントは自分で本屋やビデオ屋に赴こうとするものだから、マスターとしては気が気ではない。
「ほれ、このB2という黒くてデカイやつ。素晴らしい。これを十機ばかり購入したいのだがどうか」
「――その金で国を買い取った方が早いそ、きっと」
ウェイバーが捨て鉢にそう吐き捨てると、そうかぁ、とライダーは真顔のまま唸った。
「やはり問題は資金の調達か……どこかにペルセポリスぐらい富んだ都があるなら、手っ取り早く略奪するんだがのぅ」
どうやら現界してよりこのかた、ライダーは世界征服の野望に向けて現代戦のリサーチをしているらしい。聖杯から授けられる知識というものにも限度がある。たとえばステルス爆撃機一機あたりの単価なんぞは、その範薦にはないのだろう。
「取り敢えず、このクリントンとかいう男が当面の難敵だな。ダレイオス王以来の手強い敵になりそうだ」
「……」
このサーヴァントを召喚して以来、ウェイバーは胃痛が耐えない。首尾良く聖杯を手にしたとしても、その頃には胃潰瘍になっているかもしれない。
目の前の巨漢の存在を意識から閉め出して、ウェイバーはより前向きなことを思考することにした。
何にせよ、真っ先に脱落したのがアサシンだったというのが有り難い。自らのサーヴァントであるライダーが、戦術的には正面から勢いで押し切るタイプの戦力であることぐらい、ウェイバーも認識していた。そうなるとむしろ脅威になるのは、奇策を用いてこちらの足許を掬おうと企むような敵である。アサシンはその代表格と言えた。得体の知れなさで言えばキャスターのサーヴァントも厄介だが、姿も見せずに忍び寄ってくるアサシンこそが、当面の直接的な脅威であったのだ。
セイバー、ランサー、アーチャーの三大騎士クラス、そして暴れるだけが能のバーサーカーは、まったく恐れるに足りない。ライダーの能力と宝具をもってすれば、力押しだけで充分に勝ちを取りに行ける。あとはキャスターの正体さえ突き止めれば――
「――で、アサシンはどう殺られた?」
のっそりと起きあがって胡座を組みながら、不意打ちのように唐突にライダーがウェイバーに問いかける。
「……え?」
「だから、アサシンを倒したサーヴァントだ。見ていたのであろう?」
ウェイバーは口ごもった。たしかに見てはいたがーあれはいったい何だったのか?
「たぶんトオサカのサーヴァント……だと思う。姿恰好といい攻撃といい、やたらと金ピカで派手な奴だった。ともかく一瞬のことで、何が何やら……」
「肝要なのはそっちだ。たわけ」
さも呆れた風な声とともに、ウェイバーの眉間にペチンと何かが炸裂した。まったく予期しなかった痛みと驚きで、腰を抜かして仰向けに転倒してしまう。
それはライダーの中指だった。曲げた指の先を親指の腹に引っかけてから弾き出す、いわゆるデコピンというやつだ。むろん力などはこもっていない。が、松の根のように固くいかついライダーの指ともなると、それだけでウェイバーの柔肌が赤く腫れ上がるほどの威力である。
またしても暴力。またしても肉体的|打擲《ちょうちゃく》。恐怖と逆上がウェイバーを錯乱させ、口を利くだけの理性さえ奪い去る。自分のサーヴァントに叩かれたのはこれが二度目だ。彼自身の人生においても二度目だ。
怒りのあまり呼吸さえままならず、ウェイバーはぱくぱくと口を開閉する。そんなマスターの動転ぶりにも構わず、ライダーは深々と盛大に溜息をついた。
「あのなぁ。余が戦うとすれば、それは勝ち残って生きている方であろうが。そっちを仔細に観察せんでどうする?」
「……ッ」
ウェイバーは言い返せなかった。ライダーの指摘は正論だ。家で寝転がって読書とビデオと茶菓子に明け暮れているようなサーヴァントに言われたくはなかったが、たしかに今後の問題になるのは、負けて倒された敵よりも、未だ健在な敵の方である。
「まぁ、何でも良いわ。その金ピカだか何だかを見て、気になるようなことはなかったか?」
「そ、そんなこと言ったって……」
あんな一瞬の出来事で、いったい何が解るというのか?
とりあえず、アサシンを葬ったあの攻撃が宝具によるものだというのは察しがつく。使い魔の目を通しても、膨大な魔力の破裂を見て取れた。
だがそれにしても、アサシンめがけて雨のように降りそそいだ武具の数は
「……なぁライダー、サーヴァントの宝具って、普通は一つ限りだよな?」
「原則としてはな。ときには二つ三つと宝具を揃えた破格の英霊もいる。たとえばこのイスカンダルがそうであるように」
そういえば現界した夜、ライダーはウェイバーに宝具を見せながら、切り札は他にあると言っていた。
「まぁ、宝具を数で捉えようとするのは意味がない。知っておろうが、宝具というのは、その英霊にまつわるとりわけ有名な故事や逸話が具現化したものであって、必ずしも武器の形を取るとは限らない。ひとつの宝具≠ニいう言葉が意味するのは、文字通り一個の武器かもしれないし、あるいはひとつの特殊能力、一種類の攻撃手段、といった場合もある」
「……じゃあ、剣を十本も二十本も投げつける宝具≠チていうのも、アリか?」
「無数に分裂する剣、か。ふむ、有り得るな。それは単一の宝具≠ニして定義しうる能力だ」
「……」
そうはいうものの、アサシンを倒した攻撃はまた違う。投擲《とうてき》された武具にひとつとして同じ形のものがなかったのを、ウェイバーは使い魔の目で見届けていた。あれは分裂したのではない。それぞれが元から個別の武器だった。
やはり、あの全てが宝具だったのだろうか? だがそれは有り得ない。地に這ったアサシンに殺到した刃物は、二つや三つといった数ではなかった。
「まぁ、良いわ。敵の正体なぞは、いずれ相見えたときに知れること」
ライダーは磊落《らいらく》に笑いながら、深く考え込んでいたウェイバーの背中をひっぱたいた。衝撃に背骨から肋骨まで揺さぶられて、矮躯の魔術師は咽《むせ》せかかる。今度の打撃は屈辱的ではなかったが、こういう荒々しいスキンシップは願い下げとしたいウェイバーであった。
「そ、そんなんでいいのかよ!?」
「良い。むしろ心が躍る」
不敵な笑みで、ライダーは放言した。
「食事にセックス、眠りに戦《いくさ》――何事についても存分に愉しみ抜く。それが人生の秘訣であろう」
「……」
ウェイバーはその中のどれひとつとして楽しいと思ったことがない。いや、うち二つについては経験すらない。
「さぁ、ではそろそろ外に楽しみを求めてみようか」
首筋の腱をボキボキと鳴らしながら、巨漢のサーヴァントは大きく伸びをした。
「出陣だ坊主。支度せい」
「しゅ、出陣って……どこへ?」
「どこか適当に、そこいら辺へ」
「ふざけるなよ!」
ウェイバーの怒り顔を、ライダーは立ち上がって天井に近い高みから見下ろし、微笑んだ。
「トオサカの居城を見張っていたのは貴様だけではあるまい。となればアサシンの死も既に知れ渡っていよう。これで、闇討ちを用心して動きあぐねていた連中が一斉に行動を起こす。其奴らを見つけた端から狩ってゆく」
「見つけて狩る、って……そんな簡単に言うけどな……」
「余はライダー。こと脚≠ノ関しては他のサーヴァントより優位におるぞ?」
嘯きながら、ライダーは腰の鞘から剣を抜き放とうとする。あの宝具を呼び出そうとしているのだと悟って、ウェイバーは慌てて制止した。
「待て待て待て! ここじゃまずい。家が吹っ飛ぶ!」
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冬木市新都の郊外、小高い丘の上に立つ冬木教会に、その夜、予定通りの来訪者が現れた。
「――聖杯戦争の約定に従い、言峰綺礼は聖堂教会による身柄の保護を要求します」
「受諾する。監督役の責務に則《のっと》って、言峰璃正があなたの身の安全を保証する。さあ、奥へ」
万事申し合わせていた両者にとっては失笑ものの茶番であったが、門前ではまだ誰の目があるかも解らない。言峰璃正は厳しい面持ちで公正なる監督役を装ったまま、同様に敗退したマスターの役廻りに甘んじている息子を、教会の中へと招き入れた。
外来居留者の多い冬木市においては、教会という施設の利用者も他の街に比べて数多く、この冬木教会は極東の地にありながら、信仰の本場である西欧なみに本格的で壮麗な構えになっている。が、一般信者たちの憩いの場というのは表向きの擬装でしかなく、もとよりこの教会は聖杯戦争を監視する目的で聖堂教会が建てた拠点である。霊脈としての格も第三位であり、この地のセカンドオーナーである遠坂家の邸宅に匹敵するという。
当然、ここに赴任してくる神父は、マスターとサーヴァントの死闘を監督する役を負った第八秘蹟会の構成員と決まっている。即ち、三年前からこの教会で一般信者を相手に日々の祭祀《さいし》を司ってきたのは、他ならぬ言峰璃正その人であった。
「万事、披かりなく運んだようだな」
奥の司祭室にまで綺礼を通したところで、璃正神父は演技を止めて訳知り顔で頷いた。
「父上、誰かこの教会を見張っている者は?」
「ない。ここは中立地帯として不可侵が保証されている。余計な干渉をしたマスターは教会からの諫言《かんげん》があるからな。そんな面倒を承知の上で敗残者に関心を払う者など、いる道理があるまい」
「では、安泰ということですね」
綺礼は勧められた椅子に腰掛けると、深く溜息をついた。そして――
「――念のため、警戒は怠るな。常に一人はここに配置するように」
冷ややかな命令口調で、誰にともなく語りかける。もちろん父に向けた言葉ではない。傍らにいる璃正神父も、息子の奇怪な発言をまったく詔る素振りを見せない。
「――それと、現場の監視をしていた者は?」
「はい、私でございます」
虚空に問いかけたかに見えた綺礼の言葉に、今度は返答の声が上がった。女である。部屋の片隅にある物陰から、まるで湧いて出たかのように黒衣の女性が現れる。
綺礼も璃正も、その出で立ちには眉ひとつ動かさなかった。――が、それは本来であれば有り得ない人物を示す姿恰好の女であった。
小柄で柔らかな体格を包み込む漆黒のローブと、その顔に填められた象徴的な髑髏の仮面。それは、まぎれもなく暗殺者の英霊、ハサン・サッバーハであることを示す装束である。
「アサシンの死の現場に居合わせた使い魔は、気配の異なるものが四種類おりました。少なくとも四人のマスターが、あの光景を見届けたものと思われます」
「ふむ……一人足りないか」
思案げに目を細めてから、綺礼は傍らの父を見遣る。
「父上、『霊器盤』は間違いなく、七体のサーヴァントの現界を感知していたのですね」
「ああ、相違ない。一昨日、最後の『キャスター』が現界した。相変わらずマスターからの名乗り出はないが、此度の聖杯戦争のサーヴァントはすべて出揃っているはずだ」
「そうですか……」
綺礼としては、できれは五人全員に今夜の茶番を見届けてもらいたかったのだが。
「そもそも今の局面で御三家の邸宅を監視するというのは、聖杯戦争に参加するマスターとして当然の策でございましょう」
脇に控える髑髏の女――ハサン・サッバーハでしか有り得ないはずの人物が、言葉を挟んだ。
「その程度の用心も怠るような者であれば、どのみち我らアサシンを警戒する神経など最初から持ち合わせおりますまい。結果としては問題ないかと」
「うむ」
マスターである言峰綺礼がサーヴァントを喪ったのであれば、その手に刻まれた令呪もまた、未使用のままに消滅するはずである。だが彼の筋張った手の甲には、依然、三つの聖痕が黒々と刻まれたまま残っている。
つまり……アサシンのサーヴァントは消滅していない。いま言峰親子の傍に侍る仮面の女こそが、真のハサン・サッバーハなのだろうか。
「死なせて惜しかった男か? アレは」
そう言峰から問いかけられた仮面の女は、冷然とかぶりを振った。
「あのザイードは、我ら[#「我ら」に傍点]ハサンの一員としても、取り立てて得手のない一人でした。彼奴一人を喪ったところで、我々の総体には大した影響もございません。が――」
「が、何だ?」
「――大した影響でないとはいえ、それでも損失は損失でございます。言ってみれば指の一本が欠け落ちたようなもの。無益な犠牲であったとは思いたくありませぬ」
謙った物言いとは裏腹に、内心ではこの女が大いに不満を懐いているのを、綺礼は耳ざとく聞き取った。もちろん無理からぬことである。
「無益ではない。指一本の犠牲で、お前たちは他のマスターをまんまと欺いたのだ。すでに誰もがアサシンは脱落したものと思っているだろう、これで隠身を、主戦略とするお前たちが、どれだけ優位に立てたと思う?」
「はっ。仰せの通りでございます」
黒衣の女は深々と頭を垂れた。
アサシンが排除されたものと油断しきっている敵対者たちの背後に、今度こそ影の英霊は、誰一人として予期し得ない脅威となって忍び寄ることになる。いったい誰が知ろうか――敗退マスターとして教会に逃げ込んだはずの男が、今もまだ膝下にアサシンのサーヴァントを従えていようとは。
それは聖杯戦争という奇跡の競い合いにおいても、明らかに怪異な事態だった。
たしかにハサン・サッバーハという名が示すのは、単一の英霊ではない。山の長老≠意味するハサンの名は、かつて暗殺者《アサシン》≠フ語源ともなった、中東のとある暗殺者集団の頭目が襲名する称号でしかない。つまりハサンを名乗る英霊は歴史上に幾多も存在する。もちろん女のハサンがいたところで何の不思議もない。
だが大原則として、聖杯戦争に招来できるアサシンのサーヴァントはただ一人きりである。他のマスターから支配権を強奪することによって二人以上のサーヴァントを従えることも、理屈の上では不可能ではないが、だからといって二人以上のアサシンを同時に配下に置くというのは、明らかに聖杯戦争の原理を逸脱していた。
「どのような形であれ、ともかくこれで戦端は開かれたわけだ」
厳かに嘯く老神父の声には、揺るがぬ勝利への期待が込められていた。
「いよいよ始まるぞ、第四次聖杯戦争が。どうやらこの老骨も、今度こそ奇跡の成就を見届けられそうだな」
父の熱意とは心の温度を共有できないままに、綺礼はただ黙して、薄闇のわだかまる神父室の片隅を見据えるばかりだった。
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ACT3
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-162:26:29
冬木市新都――
未遠川より東の住宅地は、かつて高度成長期に原野から開拓されたニュータウンで、もとより歴史ある深山町の町並みとは趣を異にしていたが、旧国鉄の跡地を利用して近代オフィス街を建設しようという官民一体のプロジェクトにより、今また大規模な再開発の波に晒されている。
オフィス街として予定されている地区のビル群も四割方が未完成ではあるが、すでに駅前パークとショッピングモールの整備は終わり、清潔かつ無機質な、華美でありながら無個性な、そんな新都の未来図をすでに完成させている。市庁舎も次々と新都へ移転し、鉄筋と硝子とモルタルの現代建築へと新生して、都市機能の中枢を着実に深山町から簒奪《さんだつ》しつつある。
休日だけあって人出も多い昼下がり。北風に身を竦ませながら、お互いに関心を払うこともなく行き交う人混みの中に、衛宮切嗣は誰の注意を惹くこともなく、無色無臭の存在となって紛れ込んでいた。
着古してよれたシャツとコートに、手荷物ひとつないという緩んだ風体は、とても外来の人間とは思われまい。実のところ入国したその足でこの冬木市新都にまで来たのだが、久しいとはいえ仮にも日本は彼の生国である。往来に馴染むのはどこの国よりも容易《たやす》かった。
ついさっき、何の気なしに自販機で買ってしまった煙草の紙パッケージを、切嗣は複雑な心境で見下ろした。
喫煙の習慣をやめて九年になる。遠い異郷のアインツベルンでは吸い慣れた銘柄が手に入らなかったというのもあるが、それ以上に母子への心遣いがあった。それが、いよいよ戦いの本番という気構えで冬木駅に降り立った途端、遠い昔の習慣のままに、自販機にコインを投入していた。
気を取り直し、通りがかったコンビニエンスストアで使い捨てライターを購入してから、煙草を開封する。整列したフィルターの白さが眩しい。
一本を銜《くわ》えて、火を点けた。一〇年近いブランクがあるとは思えないほどに、無駄なく自然な動作でそれができた。肺に流れ込む芳香の痺れも、まるで昨日味わったばかりであるかのように慣れ親しんだ味わいだった。
「……」
己の心の在りようが切り替わっていく感覚をまざまざと感じつつ、切嗣はあらためて往来の景色を見渡し、検める。
冬木市には、三年ほど昔にも正体を隠して偵察に訪れたことがあるのだが、そのときから比べても新都の様相は完全に一変していた。予想できなかった事態ではないが、それでも想像していた域を超えている。この近辺の地理事情は、もういちど改めてチェックしなおす必要がある。
区画の変化にやや難儀しながらも、切嗣は目指すホテルに到着した。
ロビーとフロントの体裁こそ整えてはいるが、中身はビジネスホテルに毛が生えた程度の安宿。家族連れから浮気まで、いちばん利用者の幅が広いこういうホテルこそ、隠れ家としては重宝する。
切嗣はさも勝手知ったる風を装って、ロビーを素通りしエレベーターで七階に向かう。すでに三日ほど前から、彼の忠実なる部下が七〇三号室に逗留《逗留》しているはずだ。
久宇舞弥《ひさうまいや》との関係は、魔術師の世界に当てはめて言うなら弟子≠ニいうことになるのかもしれない。
だが魔術を探求の対象としてでなく、ただの手段としてのみ修得した切嗣にとって、師だの弟子だのといった意識は毛頭なかった。舞弥にはただ単に、自分が知る限りの戦う手段≠教え込んだというだけのこと。それも彼女自身をその手段≠ノ組み込むためだけの目的で、である。まだ聖杯の存在を知らず、決して成就し得ない理想を求めて絶望的な戦いを繰り返していた頃の話だ。
だから舞弥との関係はアイリスフィールよりも古い。妻にすら見せたことのない、切嗣のもっとも血塗られた側面も、かつて彼と共に戦ってきた舞弥は知っている。
取り決め通りのリズムで七〇三号室の扉をノックすると、待ち構えていたかのように即座に扉が開かれた。余計な挨拶は一切抜きに、僅かに視線を交わしただけで再会の瞬間を終わらせると、切嗣は無言のまま室内に入ってドアを閉める。
舞弥とはそうそう久しいわけではない。切嗣が一線を退いた後も、彼女は外地で聖杯戦争に備えた準備を進めるべく切嗣の指示で奔走してきたし、打ち合わせのためにアインツベルン城まで出向いてもらったことも幾度となくある。
色白の端正な美人だが、アイライナーどころか口紅すらも使わない艶とは無縁の女だった。つねに訝《いぶか》しげに眇《すが》めているかのような切れ長の眼差しが、ことさらに冷淡な印象を煽っている。絹のような漆黒のストレートヘアに目を奪われる男は多いだろうが、その冷ややかな鋭い眼差しで一瞥を送られれば、どんな色事師であろうとも籠絡《ろうらく》は諦めるに違いない。
かれこれ、もう一〇年以上の付き合いになる。出会った頃にはまだ少女だった彼女だが、外見の幼さが抜け落ちてからは、持ち前の怜悧《れいり》な刃物のような印象によりいっそう磨きがかかった。こういうタイプの美人と一緒にいれば、大抵の人間は威圧されて気疲れを感じるのだろうが、切嗣は逆だった。つねに現実に即した舞弥は、時として切嗣以上に的確かつ容赦ない判断を下すことができる女だ。切嗣は彼女の傍にいても、自分の卑劣さを恥じたり、冷酷さを憎んだりせずに済んだ。それはある種の安息だったと言ってもいい。
「昨夜、遠坂邸で動きがありました」
開口一番、舞弥は本題に踏み込んだ。
「映像は記録したので確認してください。それと、装備品一式はすべて到着しています」
「解った。まずは状況を」
頷いて、舞弥は部屋に備え付けのテレビに繋いだデコーダーにスイッチを入れる。
切嗣が伝授した魔術の中でも、とりわけ低級な使い魔の操作において才能を示した舞弥に、切嗣は斥候《せっこう》や偵察の任務を任せることが多かった。今回も切嗣が日本入りするより以前から、間桐邸と遠坂邸の監視を命じてある。
舞弥の得意とする使い魔は蝙蝠《こうもり》だが、他の魔術師と異なり、彼女の蝙輻には腹に超小型のCCDカメラが括りつけてある。もちろん切嗣の入れ知恵だ。魔術師の幻術や結界迷彩は、暗示により観察者を幻惑する類のものが多く、そういう手合いは電子機器への対策を怠っている場合がよくある。録画映像は後々の検証にも役立つし、使い魔の動きが鈍重になるデメリットを差し引いても、カメラの併用は効果的だった。
十三インチのブラウン管に、昨夜の遠坂邸での一部始終が映し出される。映像は不鮮明ながら、何が起こったのかを確認するには事足りた。髑髏の仮面のサーヴァントが、為す術もなく黄金のサーヴァントに蹂躙《じゅうりん》され消滅していく様を、切嗣は眉ひとつ動かさずに確認する。
倒されたサーヴァントの白い仮面は、まぎれもなくアサシンのクラスの象徴である。
「この展開、どう見る?」
「出来過ぎのように思えます」
切嗣の問いに、舞弥は即答で応じた。
「アサシンの実体化から、遠坂のサーヴァントの攻撃までのタイムラグが短すぎます。待ち構えていたとしか思えません。霊体化した状態の侵入者を、早い段階で察知したのだとすれば解りますが、それも気配遮断スキルを持つアサシンが相手では考えにくい。……遠坂は、事前に侵入者があることを承知していたのではないかと」
切嗣は頷いた。もともと彼に仕込まれただけあって、舞弥の分析は切嗣のそれと同じところに辿り着いていた。
「そう考えると、ますます納得いかない映像だな。待ち伏せするほどの余裕があったなら、どうして遠坂はみすみすサーヴァントを晒すような真似をした?」
第二次、第三次と聖杯争奪の歴史を重ねてきた遠坂家のマスターともなれば、当然この戦いのセオリーについては知り尽くしていて然るべきである。自陣である遠坂邸が他のマスターに監視されていたことを知らぬ道理がない。
にも関わらず、遠坂時臣は何の躊躇もなく庭先にサーヴァントを出現させた。これは普通に考えると愚策でしかない。
聖杯戦争は、過去に名を馳《は》せた英霊同士の対決である。そして英雄の伝承には、多くの場合、戦術のパターンや得手不得手といった情報が含まれている。つまり英霊たちは、最初から手の内や弱点が露見しているも同然なのだ。
そのためサーヴァント戦では、英霊の正体を秘匿するのが鉄則となる。すべての英霊が真名を明かさずクラスを呼称としているのも、そういう配慮である。
昨夜の遠坂は、サーヴァントの容姿と、そして宝具らしき手段による攻撃というふたつの手がかりを他のマスターに与えてしまった。どちらも決定的にサーヴァントの真名を露見させる程のものではなかったとはいえ、これは苦もなく回避できたはずのリスクである。アサシンを邸内にまで誘い込んでから葬れば、誰の目に留まることもなかったのだから。
「見せなくてもいいものを見せたのは――最初から見せる意図があった、ということでしょうか」
舞弥の指摘に、ふたたび切嗣は頷く。
「だろうな。そうすることで誰にどういうメリットがあったのか、それを考えれば自ずと答えも出る。……舞弥、アサシンのマスターはどうなった?」
「昨夜のうちに教会に避難し、監督役が保護下に置いた旨を告知しました。言峰綺礼という男だそうです」
その名を聞いて、切嗣の眼光が冷ややかな凄味を帯びた。
「舞弥、冬木教会に使い魔を放っておけ。ひとまず一匹でいい」
「……いいのですか? 教会の不可侵地帯にマスターが干渉するのは禁じられているはずですが」
「監督役の神父にバレないよう、ギリギリの距離をうろつかせておけ。コントロールも本腰は入れず片手間でな。実際には何もしなくていい」
切嗣の不可解な指示に、舞弥は眉を顰めた。
「教会を監視するのではないのですか?」
「監視しているフリをする≠セけでいいんだ。むしろ絶対に見破られないぐらいに注意深く隠しておけ」
「……はい。わかりました」
切嗣の意図は見えないものの、それで彼に是非を問う舞弥ではない。彼女は早速、今も遠坂邸に貼りついてる三匹の蝙幅のうち一匹に向けて、新都の外れの冬木教会へと飛ぶよう思念を送った。
切嗣はテレビの電源を落とし、続いて舞弥の用意した装備品の点検に入る。
ベッドのシーツの上に整然と並べられ、切嗣のチェックを待ち受けていた品々は、魔術師に相応しい道具など唯のひとつとして見当たらなかった。短剣や杯といった祭具の類、護符や仙草、霊石などは一切ない。そこにあるのは、いずれも最新鋭かつ高性能の選りすぐりだが、それ以外の点では何の変哲もない通常兵器ばかりだった。どれひとつとして魔力を帯びたものはない。
これが魔術師殺し≠フ異名で呼ばれた衛宮切嗣という魔術師の、異端ならではの流儀なのだ。
およそ魔術師という生き物の最大の弱点は、その驕慢《きょうまん》による油断にある。彼らは自らが神秘と人智の中間に位置する者と信じて疑わない。おのれを脅《おびや》かす者が神以外にあるとするならば、それは同じ魔術師以外には有り得ないと、そう信じて疑わないでいる。
よって彼らは、戦闘においてはひたすらに魔術の気配に過敏になる。どんな些細な術であれ行使される前に見破ること。そのための魔力の感知と、ぬかりない抗魔術対策こそが勝利の鍵であると――それがいずれの魔術師にとっても変わらない戦いのセオリーなのだ。
結果として彼らは、魔術に依らない純物理的な手段による攻撃を二次的な脅威として軽視する。どんな鋭いナイフも、強力な銃弾も、実際に魔術師の肉体を抉るその瞬間までは恐れるまでもない。そしてそうなる前に魔術の力は、幻術で、麻痺で、あるいは防護の結界で、低俗な攻撃手段を悉く無力化してしまうだろう。
だが、彼らは科学技術というものを軽視している。人間が魔術に頼ることなくどれだけのことが出来るのか――多くの魔術師が、それを正しく認識していない。
敵の予期せぬ攻撃こそが、すべての戦いにおける勝利への近道である。数多の魔術師との死闘を通して、切嗣はひとつの公式を得ていた。――魔術師は、魔術に依らぬ攻撃にこそ脆弱さをさらけ出す、と。
その公式に、冬木の聖杯戦争という状況を当てはめた末の解答が、これら舞弥に用意させた一連の装備品である。その中でもとりわけ異彩を放つのは、シーツの中央、ガンオイルの香りに包まれて横たわる一挺《いっちょう》のライフルだ。それは職工の技と最新電子技術とがもっとも獰猛《どうもう》な形で結晶した芸術品だった。
根幹《こんかん》となるのは、ワルサーWA2000セミオートマチック狙撃銃。全長九〇センチ弱というライフルとしてはコンパクトなサイズでありながら、弾倉と薬室を銃把より後ろに配置したブルバップ構造により、銃身の長さは実に六五センチにも及ぶ。・300ウィンチェスター・マグナム弾を使用し有効射程は一〇〇〇メートル以上。現存する世界最高級、そして最高性能のライフルである。本体単価一万二千ドルという高コストのため、わずか一五四挺しか生産されることのなかった幻の銃の、うち一挺がこれだった。
標準装備のシュミット&ベンダー社製照準器の代わりに、切嗣はふたつの照準装置を同時に使用できる構造の特製スコープマウントを発注し、銃の直上と左斜め側面に、いずれも特大の光学照準器を並列して固定していた。
うちメインとなる片方は、米軍最新鋭装備のAN/PVS04暗視スコープ。いわば超高感度のビデオカメラとでも言うべき装置で、対物レンズから入るごく僅かな光線を電気的に増幅し、大幅に明度を上げて表示する。月明かりの下なら六〇〇ヤード、星明かりだけでも四〇〇ヤードの視界を倍率三.六倍で捕捉するという、まさにエレクトロニクスによる梟の眼≠セ。本来ならば技術漏洩を防ぐため国外輸出を禁止されている、米軍の最新鋭装備である。
さらにその横に補助用として装着されているのは、スペクターIR熱感知スコープ。こちらも闇の中での視野を得る電子装置だが、こちらは光量増幅ではなく、被写体の熱パターンを捉えて画像表示する。摂氏マイナス五度から六〇度までの温度変化を、二〇〇メートル先から一.八倍の倍率で捉えることが可能だ。
魔術回路の発動が術者の体温に変化をもたらすことに気付いた切嗣は、研究と鍛錬を重ね、今ではサーマル映像の熱分布から魔術回路の状態を読み取れるまでになっていた。常人と魔術師の判別は無論のこと、魔力を放出した後の隙を見抜くこともできる。重く嵩張《かさば》る暗視装置をわざわざふたつも併用しているのは、夜間戦闘だけでなく対魔術師戦を意識した構成なのである。
日進月歩の技術革新で年々小型化が進んでいるとはいえ、それでも暗視照準器はまだ単体でペットボトルほどの寸法があり、ただの光学照準器とは比較にならないほど嵩張る。なまじ銃自体がコンパクトに設計されたデザインだけに、その上に巨大なスコープが二つも並んでいる様は、不格好なほどに不釣り合いだった。銃本体とあわせた総重量は一〇キロを上回る。もはや狙撃銃というより分隊支援火器のレベルである。重装備もここまでくると実用性に支障をきたすものだが、切嗣は敢えてこの選択をベストとした。
この暗視狙撃銃は、たしかに魔術に比べれば性能は劣る。魔術を行使すればより明敏に闇を見透かし、敵の魔術師の位置を見破ることも可能だろう。だが切嗣はこの銃によって、一切の魔力を外に漏らさぬまま標的を狙い撃つことが出来るのだ。
何の魔力も感知できない闇の中から、数百メートルもの距離を隔てて攻撃される可能性――プロの軍人であればことさら不可解でもない事態でも、そういう方面では素人同然という魔術師は実に多い。人智を越えた神秘の世界に踏み込んでおきながら、その実、自らがどれだけ狭い世界での固定観念に縛られていることか、自覚できている魔術師はなかなかいない。
切嗣は超重量級の狙撃システムをベッドから抱え上げ、遊底の可動の滑らかさと引き金の重さをチェックして、最高の状態にあることを確認した。
「射程五〇〇メートルで零点規正しておきました。確認しますか?」
「いや、いいだろう」
出来ることなら照準の確認だけでなく、射撃の感覚を掴むためにも試し撃ちをしておきたいところだったが、あいにく法治国家の日本にあっては、そうそう簡単な話ではない。既に聖杯戦争の戦端が開かれている以上、早ければ今夜にでもこの銃を使う羽目になるかもしれないが、切嗣は舞弥の仕事に全幅の信頼を置いている。
ワルサー狙撃銃の他にもう一挺用意されていたライフルは、前衛となり斥候を務める舞弥のためのステアーAUG突撃銃である。これもまた照準装置を切嗣のそれと同じ暗視スコープに交換してあったが、それ以外は標準仕様のため重量は五キロに満たない。
さらに二人の予備兵装《サイドアーム》として、二挺のキャレコM950短機関銃が用意されている。大型拳銃とそう変わらないコンパクトな寸法と強化プラスチックを多用した外見は、先のワルサー狙撃銃に比べると玩具のような印象を与えるが、ヘリカル式と呼ばれる特殊な弾倉に五〇発もの9mm軍用弾《パラベラム》を装填し、毎分七〇〇発の発射速度を誇る凶悪な武装である。
その他、対人手榴弾とスタングレネード、発煙筒、C2プラスチック爆弾も束で用意されている。北の地の果てから切嗣が飛ばした指示の通りに、舞弥は委細漏らさず装備を調えていた。――が、切嗣の無表情な眼差しは、まだ満足の色を示さない。
「預けておいたやつは、どこだ?」
「……こちらに」
舞弥はクローゼットの奥から、紫檀《したん》で設《しつら》えられたケースを両手で恭しく取り出した。ただでさえ笑みひとつ浮かべない美貌が、心なしか、さらに畏敬の念に強張っているかに見える。
差し出されたケースを受け取ると、切嗣はそれをサイドテーブルに乗せ、慣れた手つきで留め金を外して蓋を開けた。
ベッドの上の武装はすべて、今日の日のために新調した品々である。アインツベルンの財力に物を言わせて揃えさせたそれらは、たしかに法外に高価で貴重な最新鋭装備だが、資金と然るべきコネクションさえあれば苦もなく集められる商品商掃であり、それ以上のものではない。
だがその紫檀のケースの中で、長い沈黙とともに眠っていた一挺の拳銃は、金銭で購えるものではない。それは、かつて切嗣が幾多もの戦場で愛用し、そして九年前の引退に際して舞弥の手に託しておいた、世界に一挺限りの、切嗣ただ一人のためだけの銃なのだ。
金にあかせて買い揃えたハイテク装備は、言うなれば魔術師殺し♂q宮切嗣の武装である。だがそれらとは別に、魔術師♂q宮切嗣の武器もまた存在した。すなわち『礼装』――魔術師が魔術を行使して戦いに臨むための武器である。
トンプソンセンター・コンテンダー。胡桃材《ウォールナット》から削り出したグリップとフォアエンドに、一四インチもの長い銃身は、さながら鞘に収まった短剣を連想させる。拳銃らしい部品といえば引き金と撃鉄があるだけで、あとは胴輪《シリンダー》も遊底《スライド》も見当たらないシンプルな外観は、中世末期の|先込め拳銃《パーカッションピストル》に近い。
実際、コンテンダーは中折れ式の薬室にただ一発の弾丸を装填するだけの、単発式拳銃である。本来この銃は射的競技用のスポーツ拳銃だが、切嗣のそれは狩猟用ライフルの大口径弾を使用できるよう銃身を交換したハンティング仕様に、さらに魔弾≠フ使用に則してライフリングと撃針に魔術的処置を施したものである。
使用するのは・30 - 06スプリングフィールド弾。ボトルネック構造のライフル用力ートリッジで、そもそも拳銃弾とはサイズも威力も格が違う。大型軍用ライフル用の・308ウィンチェスター弾よりも、さらに一割増のパワーを発揮する・30 - 06は、いわゆるハンドキャノンクラスのマグナム弾をも遥かに凌駕する威力を誇る。拳銃として携行する銃から発射するには、過剰きわまりない火力と言えよう。
だがこの銃の真の脅威は、炸薬と弾頭が発揮する物理的な破壊力ではない。
銃ともどもケースに収まっていた専用弾――いま一二発が残っているそれらは、鉛の弾頭の芯に切嗣自身の骨から摘出した骨粉が封印されている。切嗣の魔力を込めて撃ち出されるとき、その『魔弾』は切嗣という魔術師の起源≠サのものを対象に叩きつけることになる。いわば擬似的な概念武装と言ってもいい。
魔術師は魔術に固執するあまり、テクノロジーが盲点になる――それはあくまで傾向の話であり、裏を返せば一般論に過ぎない。なるほど世の魔術師の大半は、暗視装置や熱感知スコープといった手段によってまんまと隙を衝かれ敗北するだろう。だが、ただの経験則や法則だけでは決して測れない例外というものもある。魔術師に対する一般論は、その一般をさらに逸脱した魔術師には通用しない。そういう相手を称して切嗣は強敵≠ニ呼ぶ。
策謀の通用しない強敵≠ノ当たるとなれば、そのときは――切嗣もまた、独りの魔術師として、持てる秘術の限りを尽くして立ち向かうしか他にない。そのときはこのコンテンダーが、切嗣の持つ唯一にして最強の牙となる。
心の時計を巻き戻しながら、切嗣はケースからコンテンダーを取り上げた。過去に幾度と巻く切嗣の手の汗を吸い取ってきた胡桃材の銃把は、九年のブランクを隔ててなお、まるで絡みつくようにぴったりと掌と指に収まった。
掌が銃把を握っているのか、銃把に掌が握られているのか、それさえも判然としない一体感。静かに指に力を込めれば、それだけで銃が手の骨と融合し、腕の延長になったかのような錯覚を憶える。
人差し指で用心鉄の下のスプールを引くと、薬室《チャンバー》のロックが解除され銃身がガクリと前に倒れ込む。解放された薬室に、同じくケースから取り出した魔弾の一発を滑り込ませ、手首のスナップで銃身を跳ね上げて薬室を閉鎖する。これで銃本体に弾薬を加えた総重量は二〇六〇グラム。切嗣の右手が何よりも慣れ親しんだ手応えだ。
久しい手触りとは思えない、あまりにも馴染んだ凶器の感触に、切嗣の胸に苦いものが湧き上がる。
果たして自分の手は、ここまで完壁に、妻と娘の感触を思い出すことができるのだろうか?
彼女たちの頬の柔らかさ、指の細さを、どれだけ切嗣は憶えているというのか?
切嗣はケースからもう一発の弾薬を左手で取り出すと、両手に染みついた再装填《リロード》の手順を実演してみた。
薬室解放、露出した薬莢《やっきょう》のリムに指先を引っかけて外へと弾き出し、返す手で薬室内に二発目の弾薬を滑り込ませて、即座に銃身を跳ね上げ薬室閉鎖――
|所要時間《タイム》は二秒に近かった。邪念が手捌きのキレを鈍らせている。
「……衰えたな」
「はい」
切嗣の自嘲的な呟きに、舞弥は斟酌《しんしゃく》なく頷いた。彼女はパートナーの往年の腕前を見知っている。
切嗣は再装填した弾薬を銃から抜き取り、床に落とした一発も拾って、二発の弾とコンテンダーを再びケースに収めた。
「そこのワルサーよりもな、イリヤの体重は軽いんだ。もう八歳になるのに……」
独り、苦々しい述懐を漏らしかけた切嗣の意識は、完全に緩みきっていたのだろう。背後から回り込むようにして彼の内懐へと踏み込んできた舞弥の動きに、彼は完全に不意を衝かれた。
蛇のように素早く伸びた手が切嗣の首に巻きついて後頭部を捕らえ、動きを封じられたその口を――柔らかく乾いた唇が、奪う。
胸を締め上げる面影とは似ても似つかない、違う女の味と感触。男の郷愁を断絶させるのに、それは容赦ないほどに覿面《てきめん》だった。
「……いま必要なことだけに意識を向けてください。余計なことは、考えないで」
蠱惑《こわく》的な舌使いの余韻を残した掠れ声で、舞弥は静かに切嗣を律した。
「……」
言葉もないまま、切嗣は胸の中の情感が冷却されていくのを感じる。冷めきった心の中で、痛みはもう遠く霞んでいる。
こういう女だ。他ならぬ切嗣が、かつて戦場で拾った少女を、こういう女に仕上げてしまった。
衛宮切嗣という機械を、より機械らしく動作させるための補助機械。それが久字舞弥である。切嗣がこの戦いを勝ち抜くために、必要不可欠な最後の武器……それはこの女に他ならない。
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-162:27:03
衛宮切嗣と久宇舞弥が新都の安ホテルで合流した丁度その頃、冬木市の最寄り空港であるF空港の滑走路に、ボラーレ・イタリア航空のドイツ発チャーター便が舞い降りた。
同じ冬の凍気といえど、日本のそれはアインツベルン城の厳しさには比べるまでもない。昼下がりの柔らかい日差しを見上げて、アイリスフィール・フォン・アインツベルンは心が軽くなる。
「ここが、切嗣の生まれた国……」
良い所だ。写真やら何やらで知識だけはあったものの、肌身に感じる空気から、アイリスフィールは改めてそう感じた。
軽いのは心だけではない。旅客を装って来日するにあたり、彼女は普段の城中で来ているようなドレスではなく、可能な限り市井に馴染めるだけの外出着を用意していた。踵の低いブーツに膝上丈のスカートという軽装だけでも、まるで生まれ変わったかのように動作が軽い。
とはいえ、とかく外の世界の常識を忘れがちな隠遁生活を送るアインツベルンでは、庶民の服装≠ニして認識されるドレスアップが既に庶民を逸脱していた。シルクのブラウスと膝上丈のロングブーツ、銀狐のファーをあしらったカジュアルコート、どれもこれも高級ブティックのショーウィンドーでしかお目にかかれないような、見るからに生地と仕立ての違う逸品である。ファッションモデルでなければ明らかに着負けする装束が、生まれ持った貴品を育ちの良さで磨き上げたアイリスフィールには馴染みすぎるほどに馴染んで、むしろ彼女の流れるような銀髪と美貌を飾るに相応しい華になっている。
これでもアインツベルンの基準の範囲で、アイリスフィールは充分に市街地での擬装に配慮したのだが、どだい彼女ほどの美人が大衆に紛れ込もうというのが無理な相談でしかない。
「どう? セイバー。空の旅の感想は」
一足先に滑走路に降り立ったアイリスフィールは、後に続いてタラップを降りてくる小柄なサーヴァントに問いかける。
「別段、どうということも。期待していたよりは味気ないものでした」
その言葉に偽りはないのであろう。セイバーの瑠璃色の瞳は、あくまで平静である。
「あら残念、もっと驚いたり感激したりしてくれるかと思ったのに」
「……アイリスフィール、さては私を原始人か何かと勘違いしていますね」
不満げに眉根を寄せるセイバーに、アイリスフィールは邪気のない照れ笑いを返す。
「英霊ともなれば、空を飛ぶぐらいは驚くほどのことでもないのかしら?」
「そういうわけではありませんが、サーヴァントとして現界した私には現代の知識が与えられていますから。――れに、セイバーのクラスにある私には騎乗スキルが備わっています。いざとなれば、この飛行機という機械を乗りこなすことも可能です」
さらりと言われて、アイリスフィールは驚きに目を丸くする。
「操縦――できるの?」
「おそらくは。私の騎乗というスキルは乗り物≠ニいう概念すべてに適用される能力ですから。鞍に跨り手綱を握れば、あとは直感で何とかなります」
セイバーの表現に、アイリスフィールは吹き出してしまった。彼女は飛行機のコックピットを見ていない。鞍も手綱も見当たらない計器だらけの操縦席と対面したら、何を思うだろうか。
とはいえ、スキルに対する彼女の説明は真実だろう。セイバークラスの騎乗技能は幻獣、神獣を除くすべての乗り物を駆使できるという。必要とあれば車やバイクといった文明の利器を扱うことも可能に違いない。
「でも少し残念ね。生身の身体で飛行機に乗ったサーヴァントなんて、たぶんあなただけでしょうから」
「……その点は申し訳なく思っています。私が不甲斐ないばかりに」
「あら、いいのよ。――気にしないで。そういう意味じゃないの」
外来のマスターたちは、当然何らかの手段で日本に渡航してくるわけだが、アイリスフィールのようにサーヴァントと二人連れを装って旅客便に乗るなどは異例であろう。
原因はセイバーにあった。彼女は英霊でありながら、他のサーヴァントにはない幾つかの制約があったのだ。中でももっとも由々しいのは霊体化できないという点である。彼女は実体化を解除して高速で移動したり、休息の際に霊体化してマスターからの魔力供給を抑えるといった、全てのサーヴァントが基本的に備えているはずの能力を持ち合わせていない。切嗣との契約や召喚の方法に落ち度があったわけではなく、アルトリアという英雄の魂が他の英霊とは異なる条件下でサーヴァントとして機能している故……らしい。詳細なところはアイリスフィールにも解らない。
何よりも厄介なのは、不可視になって衆人の目を逃れ、自らの存在を秘匿することが出来ないという問題である。まさか現界したときそのままの鎧甲冑姿で出歩くわけにもいかず、セイバーは人間を装って当世風の衣装を纏い、アイリスフィールに同伴するしかなかった。
――ただし、こと服装の都合に限って言うなら、アイリスフィールはセイバーの制約をむしろ歓迎していたのだが。
「セイバーと二人で旅が出来たのは、とっても楽しかったわよ。あなた、いくら見てても飽きないし」
「? アイリスフィール、何か変わった事でも?」
「ううん、何でもないのよ? 気にしないで」
笑み崩れた顔を誤魔化して、アイリスフィールはそっぽを向く。その様に、ますます胡乱《うろん》げに目を細めるセイバー。
「……貴女がそういう笑い方をするときは、何か含むところがあってのこと。何でしょう、正直に言ってほしい」
「あなたがずっと実体なのは、なにも悪いことばかりじゃない、ってこと。おかげで私には、あなたの服を選ぶ楽しみが増えたから」
「……」
何を暢気な――と言い返そうとして、セイバーは溜息をついた。霊体化できないという制約は、本来ならばマスターから罵倒されても仕方ないほどのデメリットである。楽しまれるのも不本意ではあるが、だからといって笑い事ではないのだと主《あるじ》を戒めるのも、それはそれで本末転倒である。
「アイリスフィール、本当に私のこの恰好は、この時代の往来に馴染むものなのですか?」
「ええ、……多分。私もこの国は初めてだし、ちょっぴり不安もあるけれど」
日本という国の庶民感覚を身につけた第三者がこの場に居合わせたなら、断固としてアイリスフィールの認識に異を唱えたことだろう。
アイリスフィールが出立の前からセイバーの体格を採寸してオーダーを出し、フランクフルトの空港でテイラーから受け取った彼女のための現代衣装は、濃紺のドレスシャツにネクタイ、フレンチ・コンチネンタル風のダークスーツという取り揃えだった。もはや完壁なる男装である。
身長一五〇センチ半ばの少女が着るには、あまりにも突飛で馬鹿げた服装――かと思いきや、これをセイバーが身に纏うとなると俄然話が違ってくる。
いわゆる男装の麗人、といった倒錯的な美しさではない。凛とした硬質の雰囲気で引き締められたセイバーの美貌は、女性的な色艶とはまた異なった向きのものである。そんな彼女の男装は、もはや浮世離れした絶世の美少年としか言いようがないほど決まっていた。細い体躯と、あきらかに髭とは無縁な色白できめ細かな肌も、まだ男性なりの色香が身につかない少年の清純無垢な雰囲気として素直に納得できてしまうほどだった。
「私の恰好と釣り合いを取って選んだ服なんだけれど、セイバーは気に入らない?」
「はあ、いえ別に。それなりに動きやすい衣装ですし、男装には昔から慣れています」
鎧甲冑から着替える必然性は、当然ながらあったのだが、ドレスアップの段階でアイリスフィールが必要以上の趣味に走ったことは、どう転んでも否定できないだろう。
カーゴエリアから降ろされた荷物は飛行機に同乗してきたメイドたちに一任し、アイリスフィールとセイバーは手ぶらのまま税関へ向かった。メイドたちは二人と別行動で冬木市郊外の森にあるアインツベルンの別邸に荷物を搬送した後、そのまま帰国する手筈になっている。今回の聖杯戦争に、アイリスフィールは傍の者を侍《はべ》らすつもりはなかった。無関係な者を不要な危険に晒すことはない。その気になれば身の回りの諸事は自分一人でも片付けられたし、何にも増して、心強いセイバーが伴侶として隣にいてくれる。
滞りなく入国手続きを済ませ、空港ロビーへと解放されるまでに、さほどの時間はかからなかった。が、そこに到るまでの係官たちの態度――誰も彼もが例外なく、肝を潰して目を白黒させながらアイリスフィールとセイバーを遇したことは、早くも二人にそこはかとない不安を感じさせた。
「やはり、これは……私の服装に問題があるのでは?」
ロビーを行き交う人々から浴びせられる視線を察して、セイバーは気まずそうに呟く。
「まあ、ちょっと目立ちすぎかもしれないわよね……」
アイリスフィールも苦笑いするしかなかったが、実のところ視線を集める原因は彼女にもあった。なにせ二人が二人とも絶世の美形である。エキセントリックな服装も、常識離れの度合いで言えばむしろ釣り合いがとれていて、なまじ似合っているだけにたちが悪い。周囲からの注目は奇異の眼差しではなく、もはや陶酔を孕んだ羨望の視線であった。
「――行きましょうセイバー。気にしてても始まらないわ」
そう言ってアイリスフィールは、苦い顔で俯いていたセイバーの手を取った。
「せっかくの日本だもの。戦いが始まる前に、思う存分に満喫しないと」
「いや、アイリスフィール、満喫とかそういう問題では――」
口ごもるセイバーを半ば引っ張るようにして、アイリスフィールは弾むような足取りでハイヤー乗り場を目指す。そんな彼女の表情が、どういうわけかセイバーには、これまで見たこともないほどに活き活きと輝いて見えた。
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二人が冬木市に到着したのは、ほどなく夕焼けが西の空を染めようかという、午後も大分経ってからだった。
「凄い活気ねえ……」
駅前パーク広場でハイヤーを降り、宵の頃に向かう雑踏の賑わいに身を晒したところで、アイリスフィールは目を輝かせて感想を漏らした。
だがその隣に付き従うセイバーは、さながら戦場の地形を吟味する指揮官のように、醒めた眼差しで周囲を見渡している。
「すでに切嗣も、この地に辿り着いている手筈でしたね?」
「ええ。私たちより半日早い予定でね」
すでに入国の段階から、切嗣は自らの存在を秘匿するべく、アイリスフィールたちとは完全に別のルートを辿っていた。彼はまず旅客便を乗り継いで新大阪国際空港に降り立ち、そこから鉄道で冬木市に到っている筈である。
「合流の算段はしなくても良いのですか?」
「大丈夫よ。彼の方から私たちを見つけてくれるはずだから」
セイバーは面《おもて》にこそ出さなかったが、内心では、ろくな段取りもない切嗣とアイリスフィールの行動方針にいささか呆れ返っていた。
「では、今後の方針は?」
「そうね……当面は、状況の変化を見極めながら、柔軟に臨機応変に」
「つまり、何もすることがないと?」
「そういうこと」
憮然とするセイバーに、アイリスフィールは子供じみて見えるほど悪戯っぽい仕草で微笑する。
「でもそれじゃあ勿体ないわよね。折角こんな遠い国にまで来たんだし」
にこやかに周囲の雑踏を見渡すと、アイリスフィールは何の気負いを見せることもなく歩き出す。隣のセイバーが慌てて付き従うほどに、その歩調は毅然《きぜん》として淀みない。
「ど――どこか敵のサーヴァントを見つける当てでも?」
「ううん。まさか」
あっけらかんと否定してから、アイリスフィールはくるりと振り向いて、請うような眼差しで連れを正視する。
「ねぇセイバー。折角の機会なんだから、この街を見物しておきましょうよ。きっと面白いと思うわ」
「……」
予想だにしなかった申し出に、セイバーは一瞬だけ呆気に取られたが、すぐに表情を厳しく引き締めた。
「アイリスフィール。油断は禁物です。こうして冬木の土地に踏み込んだ以上は、もう敵地にいるものと覚悟してください。聖杯戦争は、もう始まっています」
「ええ。そこはセイバーが頼りよ。もし近くにサーヴァントがいれば、気配でそれと判るんでしょう?」
「それはまあ……そうですが」
霊体・実体を問わず、サーヴァントはサーヴァント同士で互いの気配を感じ取ることが出来る。もちろん索敵能力には個人差があるし、中にはアサシンのような気配を消すスキルを持ち合わせた者もいる。
「私の場合、感知できるのはおおよそ半径二〇〇メートル程度が限界です。それも相手が何らかの能力を行使している場合に限ります」
「そう……でもそれなら、今この場で私たちを狙っているサーヴァントはいないのね?」
「はい。しかし――」
「じゃあ、こっちから誘い出すぐらいのつもりで行きましょう。どうせ探す当てなんてないんだし」
見えざる敵を探し求めて、敢えて挑発的に街中を闊歩するというのも、なるほどひとつの策ではあった。大題不敵な手段だが、これといって際立った探査能力を持ち合わせているわけでもないセイバーが、積極的に敵を探そうとするならば、それしか他に方法はない。どのみち霊体化できない時点で、すでに彼女は隠密行動という選択肢を失っている。
だが筋の通った話と認めた上で、なおセイバーはアイリスフィールの方針に不純なものを感じていた。いやどう考えても、彼女はただ単に物見遊山をしたいがためだけに、セイバーを誘っているとしか思えない。
「アイリスフィール、やはりどこかに拠点を構えてから、切嗣も交えて、いったん方策を詰めるべきです。この街の外れには、アインツベルンの用意した城があるのでしょう?」
「それはまぁ……そうだけれど」
今度はアイリスフィールが言葉を濁す番だった。彼女とて、自分が危機感を欠いた軽率な行動をしようとしているという自覚はあるらしい。何か事情があるのかと察して、セイバーは重ねてアイリスフィールに質す。
「この街を見て回るのに、どうしてそう拘るのですか?」
「私ね……初めてなの」
やや気後れした風に、アイリスフィールは俯き加減で答える。セイバーは呆れ半分に溜息をついた。
「――知っての通り、私は聖杯に招かれるに及んで、この世界の知識を得ています。むろん戦場となるこの土地についても。アイリスフィール、ここはさほど大きな都市でも観光地でもありません。とりわけ見るような名所などないはずです」
「ううん、そうじゃないの。そうじゃなくて――」
アイリスフィールはまるで子供のように、説明になってない否定で頑なに拒んだ後、しばらく逡巡《しゅんじゅん》してから、端的に白状した。
「私――外に出るのが初めてなの」
「……は?」
すぐには理解が及ばず、セイバーは呆然と聞き返す。
「だから、外の世界を出歩くのは、これが――生まれて初めてなの」
「では貴女は……これまでの生涯を、ずっとあの城で?」
きまり悪そうに俯いたまま、アイリスフィールは小さく頷く。
「私、この聖杯戦争のためだけに造られた人形だったから。外を出歩く必要なんてないって、そう大お爺様も仰有っていたわ」
セイバーとて、かつてのアルトリアとしての生涯が幸多いものだったわけではない。
だが、あの氷に閉ざされた城中に、生まれてからこのかた篭の鳥のように囚われ続けてきた人生などというものがあるのなら、さすがにそれには同情を禁じ得なかった。
「もちろん、何も知らないわけじゃないのよ? 特に切嗣が来てくれてからは。彼は映画とか、写真とか、外の世界の景色や出来事をいっぱい私に教えてくれた。ニューヨークだとか、パリだとか、大勢の人が色々な暮らしをしている世界のことを。もちろんこの日本についてもね」
アイリスフィールは侘《わ》びしそうに笑い、それから辺りの雑踏を、さも愛おしげに見渡す。
「でも……この目で本当に世界を見るのは、これが初めて。だから嬉しくて、つい、はしゃぎ過ぎちゃったみたい。御免なさいね」
セイバーは静かに目を伏せて頷くと、ダークスーツに包まれた細い肘を、そっとアイリスフィールに差し出した。
「……セイバー?」
「私とて、この街を歩くのは初めての経験ですが――それでもエスコートは騎士の役目です。及ばずながら努力します。さあ、どうか」
「――ありがとう」
朗《ほが》らかな喜びに目を輝かして、アイリスフィールはセイバーの肘に腕を絡ませる。
夜までには、まだ大分時間があった。
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繁華街の直中でも、セイバーとアイリスフィールの取り合わせは存分に衆目を集めた。
輝く銀髪にカシミアのコートという装いを、決して華美なものにさせずしっくりと調和させるほど気品に満ちた若い女性と、その腕を預かって傍らに侍る玲瓏《れいろう》な美貌の少年。こんな組み合わせは、映画スターの集うカクテルパーティにでも行かない限り、お目にかかれるものではない。
そんな銀幕の中にしか有り得ない幻影が、いま日本の地方都市の街路を悠々と闊歩している。道行く人は誰もが一瞬、歩みを忘れて目を見張った。
二人の歩みは、逢い引きというほどには睦まじくもなく、観光というほどの感嘆もなく、ただ歩道の往来に流されるがまま、漫然とそぞろ歩いているに過ぎない。時折ふと足を止め、暮れなずむ夕陽に輝くビルの窓や、煌《きら》びやかなショーウィンドウの中身といった、どうということもないものをさも嬉しげに眺めたりはしても、決して店に入って散財したり、カフェテラスで憩うようなこともない。
まるで部外者としての身の程を弁えているかのように、二人は喧噪の中に紛れ込みながらも、それでも一定の距離を置いて慎ましく街の営みを見守っているばかりだった。
いつしか冬の低い太陽は山の稜線《りょうせん》の向こうへと完全に沈み、夜の帳の降りた市街は別の顔を見せ始める。色とりどりのイルミネーションが瞬く景観に、アイリスフィールは陶然と溜息をついた。
ここ冬木市より美しい夜景を見せる街など、世界中にはごまんとあろう。だがアイリスフィールにとっては、いま目の当たりにするこの夜、この感動こそが、初めて手に入れた宝物だった。
「本当に、綺麗……大勢の人の営みがあるというだけで、夜がこんなに眩しいなんて……」
感極まって漏らしたアイリスフィールの呟きに、セイバーは無言のまま頷いた。彼女とて、かつて生きた世界とは遠く時空を隔てたこの場所で初めて目にする景色に、何の感慨も湧かないわけではない。が、外面だけは安穏と構えていても、その裏で彼女は針のように神経を尖らせていた。
ここは、既に敵地――その認識は変わらない。
セイバーは決して索敵能力に優れたサーヴァントではないし、場合によっては、徘徊するセイバーの存在を敵のサーヴァントの方が先に察知するかもしれない。衆人環視の中で堂々と襲いかかってくる敵がいるとは考えがたいが、それでも今は、いついかなるタイミングで奇襲を受けようとも不思議のない状況下である。
それでもなおアイリスフィールを箸《たしな》めることなく、束の間の自由を満喫したいという彼女の希望を聞き入れたのは、自らの剣に託した揺るがぬ自信故だ。
彼女は冬木の聖杯が設けた最強のクラス、剣《セイバー》の座に招かれた英霊である。こと近接戦闘において、彼女を凌駕するサーヴァントは存在しない。どんな不利な状況から戦端が開かれようとも、活路を拓く自信はある。
奇襲は、むしろ望むところだ。堂々と受けて立ち、返り討ちに仕留めるまでのこと。彼女を相手に策を弄そうとする愚か者には、セイバーのクラスが伊達ではないことを思い知らせてやればいい。
「……ねえセイバー、次は海を見に行かない?」
興奮を隠しきれぬまま誘うアイリスフィールに、男装の少女は微笑んで頷いた。自らの緊張は、決して相手には気取らせない。
アイリスフィールを護ると誓った。だからセイバーは、いまアイリスフィールが味わっている歓喜もまた、そのままに守り抜く。それは誇り高き騎士としての意地だった。
未遠川を跨ぐ冬木大橋を渡った対岸の挟には、広大な海浜公園があった。
夜も更け、人通りも途絶えた寂しい歩道を、二人は連れだって散策した。海からの北風が遮るものもなく渺々《びょうびょう》と吹き渡り、アイリスフィールの長い銀髪を流星の尾のように巻き上げる。デート中のカップルたちも、夏期ならいざ知らず、冬の夜には寒気を嫌って寄りつかないこの場所だが、初めて海を目にするアイリスフィールは、故郷で飽くほどに慣れた寒さなど意にも介さない。
「ここは、明るいうちに来るべきでしたね……」
ただ寒々しい闇を湛えるばかりの夜の海を見遣りながら、セイバーは少し申し訳なさそうに口にする。だが闇に沈んだ水平線に目を凝らすアイリスフィールは、まったく頓着していない。
「いいのよ。夜の海も綺麗だわ。まるで夜空の合わせ鏡みたい」
延々と寄せては返す波の音に聴き入りながら、アイリスフィールは満面の笑みだった。今日一日の散策がよほど嬉しかったのか、色白の頬をかすかに紅潮させている。こうして見ると子持ちの人妻とは思えない、まるで年端もいかない少女のように、その笑顔は純朴で無邪気だった。
「殿方に連れ添われて見知らぬ街を歩くのが、こんなに楽しい経験だなんて――本当、思いもしなかったわ」
「殿方の紛い物で、事足りましたか?」
さも嬉しげなアイリスフィールに、セイバーは、この堅物の英霊には珍しい、やや皮肉げな口調で混ぜ返す。
「充分に。非の打ち所もなかったわ。セイバー、今日のあなたはとっても素敵なナイトだったわよ」
「光栄です。姫」
慇勲《いんぎん》にお辞儀するダークスーツの少女を前に、アイリスフィールは、いささか照れくさそうに顔を逸らして海の方へと向き直った。
「セイバーは、海は好き?」
「好きかと言われると、どうだか……」
苦笑して、セイバーは遠き故郷に想いを馳せる。
「私の時代の、私の国では……海の彼方は、つねに夷敵の押し寄せてくる場所でしたから。忌々しく思うことはあっても、憧れたことはありません」
「そう……」
セイバーの返答に、アイリスフィールは少しだけ表情を曇らせる。
「……何だか、申し訳ないわ。あなただって同じ女なのに。
アーサー王として生きたあなたには、殿方とデートを楽しむなんて、そんな余裕はなかったのよね」
「まあ、それはそうですね」
セイバーは涼しげに笑って肩を竦めた。女を捨てたことに後悔はない。代わりに、雄々しく戦場を駆け抜けた誇りが、その小さな胸には詰まっている。
「アイリスフィールこそ、本当は私ではなく、切嗣と街を歩きたかったのではありませんか?」
セイバーの問いに、今度はアイリスフィールの方が醒めた微笑を浮かべた。
「あの人は……駄目よ。辛い想いをさせてしまうわ」
返答の意味が解らず、セイバーは怪訝《けげん》な顔をする。
「切嗣は、貴女と過ごす時間を楽しまないのですか?」
「いいえ。きっと私と同じぐらいに、幸せを感じてくれるでしょうね。……だから駄目なの。あの人は、幸福≠ナあることに苦痛を感じてしまう人だから」
「……」
その言葉の意味を噛みしめ吟味して、セイバーは衛宮切嗣という男の中にある矛盾を理解しようとする。
「――己が幸福に値しない人間である、と、そういう引け目を負っているのですか?」
「そうかもしれない。あの人はいつも自分の中で、自分自身を罰している。理想を追いかけて生きるなら、もっと本当の意味で冷酷にならないと駄目なのに」
アイリスフィールは遠い眼差しで海を見渡す。今もこの街のどこかに身を潜め、同じ目的のために奔走しているはずの夫を想って。
取りなす言葉をかけようとして、セイバーは思い留まった。
……今となっては、期せずして沈んだ話題に会話が流れてしまったのが悔やまれる。今日という日の締めくくりは、快い空気のままに終わらせたかったというのに。
さり気なく、セイバーはアイリスフィールの二の腕を掴んでそっと引き寄せた。ただそれだけの所作で、アイリスフィールは落ち着いた眼差しのままセイバーと視線を交わす。
「……敵のサーヴァント?」
「はい」
違えようのない感覚だった。一〇〇メートルほど横手の物陰から、まるで挑発するかのようにあからさまに気配を放っている。明らかにセイバーを意識していながらも、それでいて距離を詰めるのではなく、むしろゆっくりと遠ざかっていくのは――
「どうやら、我々を誘っているようです」
「ふうん。律儀なのね。戦う場所を選ぼうってわけ?」
アイリスフィールは声に緊張を顕すこともなく、依然、悠々と落ち着き払ったまま応じる。戦いに臨んでこの余裕は、すなわちセイバーに託した絶対の信頼の証でもあった。あらためてセイバーは良い主《あるじ》に恵まれたことを胸の内で感謝する。
「どうやら相手の思惑も、私たちとそう変わらなかったみたいね。これ見よがしに気配を振りまいて、噛みついてくる相手を誘い出す……セイバー、あなたと同じ真っ向勝負のサーヴァントと見ていいんじゃない?」
「となると、クラスはランサーかライダーですね。相手に取って不足はない」
そう頷くセイバーに、アイリスフィールもまた不敵な笑みを返す。
「それじゃあ、お招きに与るとする?」
「望むところです」
敵がより自分に有利なフィールドに誘い込もうという腹であれば、みすみす誘いに乗るのは危険を伴う。が、そんな小細工に臆するほどセイバーは脆弱ではなく、彼女の主《あるじ》もまた自らのサーヴァントを過小評価していない。
敵の気配が遠ざかっていく方角に向けて、悠然と自信の足取りで歩き出すセイバー。アイリスフィールもその後に続きながら、ポケットの中に忍ばせてあった手の平サイズの装置にスイッチを入れる。切嗣から託されていたそれは何でも『発信器』といって、別行動中の切嗣にアイリスフィールたちの位置を伝えるための機械らしい。魔力を使わない機械仕掛けの小道具を、切嗣はよく好んで使う。
アイリスフィールはセイバーの力量を信じていた。願わくば、これより出会う敵がセイバーよりはるかに格下で、彼女の誇り高いサーヴァントが一太刀のもとに瞬殺してのけるような――そんな安易な展開を期待していた。
そう、出来ることなら……切嗣が戦いに介入するより先に、騎士には勝負を決めてほしかった。
[#改ページ]
-154:15:41
河口も間近な未遠川の川幅を跨ぐ冬木大橋は、全長六六五メートルの偉容を誇る、三径間連続中路アーチ形式の橋である。
アーチの頂は高さ五〇メートル以上。その高みにあって海から吹き込む風をもろに受ければ、すぐさま足を踏み外して眼下の川へと落下するのは当然の末路であり、熟練の整備工とて命綱なしに上ることは決してない。
そんな冷たい鉄骨の上に、ウェイバー・ベルベットは命綱も何もなく両手両足だけでしがみついていたものだから、このさい致し方なく、普段から心掛けている威厳や余裕を示すことは綺麗さっぱり諦めていた。
すぐ隣には、彼のサーヴァントのライダーが、どうにも憎らしいほどに威厳たっぷりの態度でもって胡座をかいて座っている。
「ラ、イ、ダー、早く……降りよう、ここ……早く!」
寒さと恐怖に、ひっきりなしに歯を鳴らしながら訴えかけるウェイバーの声も、巨漢のサーヴァントはどこ吹く風である。
「見張るには誂《あつら》え向きの場所だ。まぁ今暫くは高みの見物と酒落込もうではないか」
手にしたワインの酒瓶を、時折ぐびりと呷《あお》りながら、漫然と彼が見下ろしているのは橋の西側の袂《たもと》、河口から海岸にかけてを覆う広い海浜公園の敷地である。ウェイバーの視力では捉えられないが、ライダーの談によれば、そこに目下の標的――かれこれ四時間ほども追いかけ廻しているサーヴァントの気配があるという。
敵との接触を求めて市街を徘徊していたライダーたちが、そのサーヴァントの気配に気付いたのは午後も遅くなってからのことだった。
ところがさっそく襲いかかるのかと思いきや、ライダーは遠巻きに相手を監視するばかりで、一向に仕掛けようとしない。疑問に思ったウェイバーが問い質すと、ライダーは鼻を鳴らしてこう答えた。
「アレは明らかに誘っておる。ああもあからさまに気配を振りまいていれば、気付かぬ方がおかしい。すでに余だけでなく、他のサーヴァントたちも奴を見つけて様子を窺っていることだろう。
放っておけば、いずれ気の短いマスターが痺れを切らせて仕掛けるやも知れん。それを期待して成り行きを見守る手だな」
ライダーの方針は、ウェイバーの目から見ても非の打ち所もなかった。むしろ意外でさえあった。この豪放磊落《ごうほうらいらく》な巨漢のサーヴァントが、思いのほか狡猜な策略を巡らしていたことが。
たしかにライダーの言う通り、誘いに乗ってむざむざ挑みかかるのは愚の骨頂である。そんな手に乗る愚か者たちは、放っておいても互いに喰らいあって数を減じていくだろう。あの挑発しているサーヴァントがどれほどの自信家かは知らないが、ライダー以外のサーヴァントが喧嘩を買ってくれるのなら、それはそれで好都合だった。どちらか一方が敗退したところで、勝ち残った方をライダーに潰させる。まさに漁夫の利というものだ。
さて、そうと決まれば後は根比べである。市内をあてどなく彷徨するサーヴァントの気配を、ウェイバーとライダーは一定の距離を置いたまま追跡し続け、今もこうして見張っている。
とはいえ――視野の広い高所に陣取る理屈は、むろん解らなくもないが、それにしても限度というものがあるだろう。サーヴァントならいざ知らず、生身の人間にすぎないウェイバーは、ここから落ちれば確実に死ぬ。その程度の理屈が解らないはずもあるまいに、なぜこの巨漢はこうもウェイバーの身の安全に無頓着なのか?
「お、降りる! いや、降ろせ! も、も、もう嫌!」
「まぁ待て。落ち着きのない奴め。坐して待つのも戦《いくさ》のうちだぞ」
ライダーは酒瓶を呷《あお》りながら、そう鷹揚《おうよう》に答えるばかりで、ウェイバーの半泣きの顔を見ようともしない。そもそも両者の間には、高い所は危険≠ニいう共通認識からして無いようだ。
「そんなに手持ち無沙汰なら、預けてある本でも読んでおれ。良い書物だぞ」
そう言われて、ウェイバーは肩に引っかけたナップザックの忌々しい重量を思い出す。余計な重みを請け負う余裕など一グラムたりともない状況なのに、分厚いハードカバーの詩集のなんと恨めしいことか。
それは、ライダーが現界してすぐさま図書館を襲撃し奪ってきた本のうち一冊だった。古代ギリシア詩人ホメロスが記した『イリアス』――神と人間が入り乱れて戦ったトロイア戦争を描く大叙事詩である。
地図帳は、まだいい。世界征服を嘯くライダーが現代の地理に興味を示すのは、馬鹿げているとはいえ解らなくもない。
だがこの詩集は何なのか? いざ戦いに臨む段になって、ライダーは地図帳を家に置いてきたくせに、このイリアスを持ち歩くことに最後まで固執した。無論、彼が自分の持ち前の装備以外の物品を持ち歩くとなれば実体化し続けているしかなく、時と場合によっては人目を忍んで霊体化してもらわ惹ければ困るのだから、結局ウェイバーが荷物持ちをやらされる羽目になる。
たしかにライダーは本の調達を『戦《いくさ》の準備』と言い張っていた。だが兵法書でも何でもない本一冊が、いったい戦場で何の役に立つというのか?
「ライダー……なんで、こんな本、持って、きた?」
怨念じみた苦渋の声で質すウェイバーに、英霊はひどく厳粛な面持ちで答えた。
「イリアスは深遠だ。戦いの最中にも、ふと詩歌の一節が気になって仕方がなくなるときが、ままあるのでな。そんなときには、すぐさまその場で読み返さんと気が済まんのだ」
「……」
相手が何か途方もなく出鱈目なことを言っているような気がしたが、恐怖のせいで頭がよく回らない。
「その場で、って……戦場で?」
「うむ」
「戦場で……戦いながら? 剣、振りながら?」
「そうだ」
さも当然のことだと言わんばかりに、ライダーは涼しい顔で頷く。
「……どうやって?」
「右手で剣を執るときは左手で。左手が手綱を握るときは、隣の小姓に音読させた」
「……」
想像を絶する解答に、ウェイバーは言葉を失った。
「驚くようなことではあるまい。余の時代の武人《もののふ》は皆、行住坐臥《ぎょうじゅうざが》が戦《いくさ》とともにあった。飲み喰らいながら戦い、戦いながら女を抱き、眠りながらもまた戦う。その程度、誰でも出来て当然だ」
開いた口が塞がらない。たしかにこの男なら、本当にやりかねない事だが……
「……嘘だろ?」
「当たり前だ。馬鹿者」
失笑とともにウェイバーの額にデコピンが炸裂する。
「ぎゃあ〜〜〜ッ!!」
避けるどころか、悶《もだ》えることさえ不可能だった。なにせ両手両足とも鉄骨にしがみついているだけで精一杯なのだ。ウェイバーは痛む額をさすることすらできず、ただ、あられもない悲鳴を上げるしかなかった。
「だがな坊主、この程度の冗談ならば誰もが笑い飛ばしたのは、真実だ。青くなって呆けるようでは、まだまだ肝が細すぎるのぅ」
豪放に笑うライダーを前にして、魔術師は額の痛みにぼろぼろと落涙しながら、つくづくこの英霊をサーヴァントに選んだことに後悔した。
「帰りたい……イギリスに帰りたい……」
「そう急くなと言うておろうに。ほれ、状況もようやく動きそうだぞ」
「……は?」
ライダーはいかつい顎で、眼下の海浜公園を指す。
「この征服王としたことが、つい今しがたまで気付かなんだが――そこの公園な、どうやらもう一人別のサーヴァントがおった様子だ。そいつも気配を隠しておらん。それどころか、我らが追っていた奴に近づいていく」
「じや、じゃあ――」
「二人とも、どうやら向こうの港の方に向かうらしい。売り言葉に買い言葉、というわけだ。これは一戦やらかすと見て良かろう」
剽《ひょう》げた風に笑いながらも、その双眸には、いつの間にか獣じみた鋭い眼光が宿っている。まだ傍観の構えとはいえ、それでも英霊イスカンダルの魂は、今ようやく戦場へと戻りつつあるのだ。
そんなライダーの頼もしさより、ウェイバーの胸を占める想念は、鉄骨の上で身動きできない自分の情けなさの方が勝っていた。――さらに加えて言うならば、彼の心の大部分を占領していたのは、もう地面に降ろしてもらえるのなら何がどうなろうとも構わないという気持ちだった。
[#中央揃え]×      ×
海浜公園の東側に隣接する形で広がるのは、無味乾燥なプレハブ倉庫が延々と連なる倉庫街である。港湾《こうわん》施設も兼ね備えたその区画は、さらに東の工業地帯を新都から隔てる障壁の役割も担っている。夜ともなれば人通りも絶え、まばらな街灯が無益にアスファルトの路面を照らしている様が、よりいっそう景観を空虚にしている。無人のデリッククレーンが暗い海に向かって整然と並んでいる様もまた、まるで巨大な恐竜の群れが立ったまま化石化しているかのようで不気味だった。
人目を忍んで行われるサーヴァント同士の対決には、なるほど、うってつけの場所である。
大型車輌の行き来を考慮して幅広に設けられた四車線の道路を、セイバーとアイリスフィールは、さながら約定に赴く決闘者《デュエリスト》の如く、堂々と歩んだ。敵もまた、すでに逃げも隠れもせず姿を現している。無人の大通りの真ん中に立ちはだかる長身の人影は、その出で立ちの異様さもさることながら、何よりも沸々と放つ法外の魔力によって、人ならざる超常の存在であることを暴露している。
二人のサーヴァントは、およそ一〇メートルほどの間合いを隔てて立ち止まり、対時した。
ついに出会った最初のサーヴァント。これより死を賭して競うことになる敵を、セイバーはつぶさに観察する。
癖のある長い髪をざっくりと後ろに撫でつけた、端正な男だった。まず真っ先に目を惹くのは、その得物。身の丈をさらに上回る二メートル余りの長竿は、もはや武具として見違えようもない。七つのクラスの中でも騎士≠フ座《クラス》として恐れられる三つ――セイバー、アーチャーに並び立つ槍≠フ英霊。彼こそはランサーのサーヴァントに相違あるまい。
異様なのは、その象徴的でもある長柄の得物が一本限りではなかったことだ。
ランサーは右手に緩く握った長槍の穂を肩に預けているのとは別に、左手にももう一本、右のそれより三割ほど短い拵《こしら》えの短槍を携えていた。
槍の長さを活用して自在に操るとなれば、当然、両手を使って一本を構えるのが当然である。刀剣ならいざ知らず、二本の槍を同時に使うという流儀は尋常には想像しがたい。
二本の槍にはいずれも柄から刃先まで、びっしりと呪符らしき布が巻き付けられ、その実体を見ることができない。おそらくは宝具としての真名を秘匿するための対策だろう。
「よくぞ来た。今日一日、この街を練り歩いて過ごしたものの、どいつもこいつも穴熊を決め込む腰抜けばかり。……俺の誘いに応じた猛者は、お前だけだ」
そう低く朗らかな声で讃えてから、男――ランサーの英霊は、身構えることもなく飄々とセイバーに問う。
「その清開な闘気……セイバーとお見受けしたが、如何に?」
「その通り。そういうお前はランサーに相違ないな?」
「いかにも。――フン、これより死合おうという相手と、尋常に名乗りを交わすこともままならぬとは。興の乗らぬ縛りがあったものだ」
それにはセイバーも同意らしく、鉄面皮を装っていた表情をわずかに弛《たゆ》める。
「是非もあるまい。もとより我ら自身の栄誉を競う戦いではない。お前とて、この時代の主《あるじ》のためにその槍を捧げたのであろう?」
「フム、違いない」
今から命の遣り取りに臨もうとしている者とは思えない、妙に涼しい表情で、ランサーは苦笑した。改めて見ると、ひときわ以上に目見麗しい男である。
高い鼻梁と凛々しい眉の精悍《せいかん》な顔立ち。固く切り結んだ口元には厳格でストイックな意思を窺わせながらも、どことなく穏やかな憂いを秘めた眼差しが、男ならではの色香を強く匂い立たせている。左目の下には涙粒のような黒子《ほくろ》がひとつ。それが印象的な目元によりいっそうの艶を添えている。
実に、視線ひとつで女心をとろかしてしまいそうな美丈夫だった。――否、はたしてその嫣然《えんぜん》たる風情は、容貌だけによるものか?
セイバーの後ろに控えていたアイリスフィールが、わずかに息を詰まらせながら眉根を寄せる。
「……魅了《チャーム》の魔術? 既婚の女に向かって、ずいぶんな非礼ね。槍兵」
ランサーは明らかに、女を惑わす霊力を放射していた。ホムンクルスとして魔術の使用に特化したアイリスフィールの肉体だからこそ、人一倍の抗魔力によって抵抗《レジスト》できたが、並の女性ならただの一目でこの男の虜になっていただろう。
だがアイリスフィールの抗議に、ランサーは苦笑して肩を竦める。
「悪いが、持って生まれた呪いのようなものでな。こればかりは如何ともしがたい。俺の出生か、もしくは女に生まれた自分を恨んでくれ」
魅惑の呪いの代表格といえば『魔眼』だが、さっきまでランサーが直視していたのは前に立つセイバーだけで、その後ろのアイリスフィールには視線を向けていなかった。おそらく魅了が発動したのは、アイリスフィールがランサーの顔を見た折であろう。魔眼ならぬ『魔貌』といったところか。
セイバーは鼻で笑って、ランサーを眇《すが》め見た。
「その結構な面構えで、よもや私の剣が鈍るものと期待してはいるまいな? 槍使い」
「そうなっていたら興醒めも甚だしいが、成る程、セイバーのクラスの抗魔力は伊達ではないか。……結構。この顔のせいで腰の抜けた女を斬るのでは、俺の面目に関わる。最初の一人が骨のある奴で嬉しいそ」
「ほう、尋常な勝負を所望であったか。誇り高い英霊と相見えたのは、私にとっても幸いだ」
嘯いて、セイバーも静かな微笑を返した。限りなく透明で凄烈な、生命の遣り取りに臨む者同士だけが浮かべ得る笑みだった。
「それでは――いざ」
ランサーは担いでいた右の長槍を一旋させて持ち直し、左の短槍もまたゆるゆると切っ先を持ち上げる。二本の槍を、まるで翼を拡げるかのように大きく掲げたその構えは、まったく流儀の読めないものだった。
セイバーもまた、体内に沸々と漬っていた闘気を、ここにきて解き放つ。迸《ほとばし》る魔力が、竜巻のように渦を巻いて少女の細身なダークスーツを包み込み――次の瞬間、彼女は白銀と紺碧に輝く甲冑に身を包んでいた。魔力により編まれた鎧と籠手は、この麗しき英雄王の、英霊としての本来の姿であった。
「セイバー……」
緊張に生唾を呑みながら、アイリスフィールが後ろから呼びかける。二人のサーヴァントの放つ闘気と、その緊張に張り詰めた大気を敏感に察した彼女は、たちどころに悟っていた。――この戦い、自分の割り込む余地など微塵もない、と。
それでも、ただ傍観するだけでは済まされ濠い。彼女は代理とはいえ、セイバーのマスターを務める身である。
「……気をつけて。私でも治癒呪文ぐらいのサポートは出来るけど、でも、それ以上は……」
皆まで言わせず、セイバーは頷いた。
「ランサーはお任せを。ただ、相手のマスターが姿を見せないのが気懸かりです」
セイバーの言うとおり、この場にまだ姿を見せていないランサーのマスターは、それ単体で独立した脅威だった。普通ならマスターはサーヴァントの傍らに同伴し、戦況に応じた指示を飛ばす一方で、魔術によるサポートを行うのが常道である。ランサーのマスターは、配下のサーヴァントを信頼しきって全権を委任しているのでもない限り、必ずどこか間近な場所に身を潜め、ランサーの戦いぶりを見守っているはずである。
「妙な策を弄するかもしれない。注意しておいてください。――アイリスフィール、私の背中は貴女にお任せします」
翡翠色の瞳が、物静かに語っていた。怯えるまでもないと。
剣の英霊を信じよ。
その英霊により主《あるじ》と認められた、アイリスフィール自身を信じよ。――と。
「……わかったわ。セイバー、この私に勝利を」
「はい。必ずや」
決然と頷いて、セイバーは一歩を踏み出す。
身構えて待ち受けるランサーの、その長槍の間合いへ向けて――
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-154:09:25
アイリスフィールの発信器からの信号に導かれて、夜の倉庫街へと駆けつけた衛宮切嗣と久宇舞弥は、人気の途絶えた静寂に出迎えられた。
聞こえるのは海から吹き込む風の音ばかり。あとは死のような沈黙と停滞した空気が、何の変哲もない夜のしじまを装っている。
にも拘わらず――
「……始まってるな」
辺り一帯に張り詰めた魔力の気配だけで、切嗣は状況を正しく理解した。
誰かが結界を張っている。おそらくは敵のサーヴァントのマスターだろう。聖杯戦争とは無縁の通行人から、この街路の奥の状況を隠蔽するための擬装だ。おのれの行いを衆目から覆い隠すのは魔術師にとって鉄則である。
一〇キロ余りもある異形の狙撃銃を小脇に抱えたまま、切嗣は暫し思案した。発信器からの信号で、アイリスフィールたちのいる位置はほぼ正確に解っている。問題は、どうやってその場所に接近し、そして何処から見守るか、だ。
戦闘に身を投じる気は毛頭ない。そのための狙撃銃である。距離を隔てた位置から戦況を見極め、隙を見て敵のマスターを狙い撃つのが切嗣の目的だった。もとより霊的存在であるサーヴァントに傷を負わせることができるのは、同じ英霊であるサーヴァントだけに限られる。切嗣と舞弥の銃にどれほどの威力があろうとも、サーヴァント相手には豆鉄砲ほどの効果もない。サーヴァントの相手をするのはあくまでセイバーの役目だ。それも敵のサーヴァントが自分のマスターの保護に神経を割けなくなる程度まで、戦況を加熱させてくれればそれでいい。
「あの上からなら、戦場がくまなく隅々まで見渡せますが」
舞弥がそう言って指さしたのは、岸壁の闇夜を背景に聳え立つデリッククレーンだった。操縦席の高さは目算でも三〇メートル余り。誰にも気付かれることなく上に登れば、最良のポジションから眼下を俯瞰できる。
舞弥の意見に異論はなかった。が、だからこそ切嗣は首を横に振った。
「たしかに、監視にはあそこが絶好だ。誰が見たってそう思うだろう」
「……」
皆まで言わせることもなく、舞弥は切嗣の意図を理解する。
「舞弥は東側の岸壁から回り込め。僕は西側から行く。――セイバーたちの戦闘と、それとあのデリッククレーンの両方を見張れるポイントに着くんだ」
「解りました」
AUG突撃銃を腰の高さに構えたまま、舞弥は小走りに音もなく倉庫街の物陰へと消えていく。切嗣もまたアイリスフィールの発信器の反応を窺いながら、油断のない足取りで反対方向へと移動を始めた。
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アイリスフィールは、ただ驚愕に息を呑んでいた。
いま彼女の眼前で繰り広げられる戦いの、度外れた凄まじさ。
推し量るにそれは、ただの前時代的な決闘でしかないはずなのだ。
ともに甲冑を身に纏い、剣と槍とを鍔競り合わせるというだけの、一対一の武人の対決。
だが迸る魔力の量が違う。激突するその熱量が違う。
ただ鋼と鋼が打ち合うだけで、これほど破壊的な力の奔流が吹き荒れることなど有り得ない。
踏みしめる足が路面を穿つ。
空振った一撃の風圧が街灯を割る。
超高速の剣戟は、もはやアイリスフィールの視力で捕捉しきれない。ただ、激突し相克しあう二人の余波を見届けることしか叶わない。
倉庫の外装から引き剥がされたトタン材が、まるでアルミホイルの一片のように異常な形に歪んで軽々と宙を舞い、アイリスフィールのすぐ脇を吹き飛んでいく。なぜあの建物の壁が剥がれたのかは理解できない。きっと程近い辺りの虚空を、セイバーの剣かランサーの槍が擦過した――ただ、それだけのことだったのだろう。風が唸る。
この世界の物理法則にあるまじき狼藉《ろうぜき》に、大気がヒステリーをおこして絶叫している。
荒れ狂うハリケーンの直中にあるかのように、無人の倉庫街はいま容赦なく蹂躙《じゅうりん》され、破壊されつつあった。
たった二人のヒトガタが白兵戦を演じているだけで、街が崩壊していくのだ。
聖杯戦争――
その脅威と驚愕を、いまアイリスフィールは目の当たりにしていた。神話、伝説の世界の住人を、この現世に具現させ激突させるという意味を。
それはまさに、あり得べからざる神話の再演。
雷が天を裂き、荒れ狂う波濤《はとう》が大地を砕く、幻想でしか成立し得ないはずの奇跡の具現。
これが……サーヴァント同士の戦い……
かつて想像だにしなかった領域の世界を、アイリスフィールは瞬きする隙すら見出せずに注視し続けるしかなかった。
そして驚愕の念は、セイバーとて同じだった。
彼女とて、幾多の戦場を先陣切って駆け抜けた騎士である。剣と槍と盾の鬩《せめ》ぎ合いについては、食器の扱いも同然に熟知し、慣れ親しんでいる。
そんな彼女の知る限り、槍≠ニいうのは両手で扱うのが常道の武器。その原則に例外はない。
よってセイバーは、ランサーのサーヴァントが二本の槍を携えて現れたことを、擬装の策と勘繰《かんぐ》っていた。
彼が槍の座《クラス》に据えられた英霊である以上、その手に執る槍が宝具であることはまず間違いない。そして聖杯戦争の鉄則として、宝具の正体を見破られることは自らの真名を暴かれるに等しい。
ランサーの槍に巻かれた包帯状の呪符は、間違いなく槍の正体を秘め隠すためのものだ。彼とそのマスターは、真名の秘匿についてとりわけ慎重である。
ならば、さらに敵を惑わす策略として、偽の槍まで用意するという周到さも充分に考えられる。どちらか一方の槍が偽物で、ただの棒きれに過ぎないとしても、対時するセイバーは二本の槍を同時に警戒し続けなければならない。
だとすれば、右の長槍、左の短槍――はたしてどちらが、あのランサーの真の槍≠ネのか?
その見極めに勝機があると判断し、セイバーはランサーの槍裁きを見切るのに専念していた。愛用の得物とその囮《フェイク》では、必ずや技の重みに虚≠ニ実≠フ差が生じるのが道理である。
ところが――
これで三度目になる踏み込みを阻まれて、セイバーは大きく飛びすさり間合いを取った。
「どうしたセイバー。攻めが甘いそ」
「……ッ」
ランサーの揶揄にも返す言葉がない。もう三〇合ばかりも打ち合いながら、セイバーはただの一度も敵を己の刃圏に捉えていない。
ランサーが右腕一本で刺突を繰り出し、縦横無尽に振り払う長槍の穂先は、両手で繰られるのに遜色ない速度と重さを誇っていた。いや、片腕だけで操作されるその槍は、むしろ尋常な両手の槍術にはない変幻自在で奇抜な挙動を繰り返し、予想外の角度からセイバーに奇襲をかけてくる。
それでも竿状武器の宿命として、連撃の合間にはしばしば隙を見せるのだが、虚を衝いて懐に飛び込もうにも、そのタイミングに限って左の短槍が、周到にセイバーを牽制している。さっきからセイバーの打ち込みは、隙のない短槍の切っ先で封殺されたままだ。
二本の槍のいずれにも虚≠ェない。このランサーの英霊は、左右それぞれの短長の槍を、それぞれ左右の腕一本で何不自由なく操っている。いかな研鑽《けんさん》を積んだ槍術が、これほどの離れ業を可能とするのか。
……この男、出来る!
初戦でありながら、早くも予想外の難敵に巡り会った戦慄に、セイバーの総身を武者震いが駆け抜ける。
だが驚愕の念は、ランサーとて同じだった。
攻めの手数の多さでいえば、傍目にはランサーが優位に立って防戦一方のセイバーを圧倒しているかに見えよう。が――実態は違う。
ランサーは初手から今に至るまで、セイバーを不用意に近づけないよう追い散らすのに手一杯だった。軽口を叩いて揶揄してはみても、攻めに転じられないのは彼とて同じだったのだ。
本来なら両手武器である槍のリーチと重量を、片手武器同然のスピードと柔軟さで駆使している彼である。しかも長短二本の槍を併用して間合いの遠近にも対応している。武装の優位さで語るなら、ただの一刀を振りかざすばかりのセイバーに遅れを取る道理はない。
にも拘わらず――
何とまた卦体《けたい》な剣を……
ランサーは内心で独りごちた。超高速の剣戟《けんげき》を視認できずにいたのは、傍観するアイリスフィールだけではない。同じサーヴァントでありながら、ランサーもまたセイバーの執る剣が見えなかったのである。
ランサーは知る由もない。これこそが英霊アルトリアの宝具のひとつ、|風王結界《インヴィジブル・エア》の脅威である。
剣の周囲に、大量の空気を魔力で集積して束縛し、光の屈折率を変えて不可視にする。宝具の能力としては決して派手な部類ではないが、こと近接戦闘における効果は絶大だ。
セイバーと相対した敵は、見えざる剣の斬撃を受け、また自らの攻撃も不可視の剣に阻まれる。ランサーの焦燥も当然だった。セイバー自身の挙動から太刀筋を読みとる程度のことはできても、刀身の長さが判らないのでは間合いの計りようがない。
結果としてランサーは、明らかに相手の攻撃圏外と判断できる距離を維持し続けることでしか、セイバーの剣に対処できなかった。流麗で派手な技を連発する槍捌きが圧倒的に見えるのは上辺だけの話である。変則攻撃による幻惑でセイバーの出鼻を挫《くじ》いてはいるものの、ランサーもまた決め手となる攻撃を繰り出すチャンスを一向に掴めない。
この女、手強い……!
最初の敵を前にして、早くも死力を尽くした激闘を予感し、その血の滾《たぎ》りにランサーは悽愴な笑みを浮かべる。
二人の英霊は、眼前の対決に気を取られるあまり、周囲の警戒に意を割く余裕などなかった。
否、たとえあったとしても、その忍び寄る存在をはたして察知してたかどうか……
何故ならば、火花散らす剣と槍の斬舞からは遠く距離を隔てながら、音もなく忍び寄ってきたその影は、サーヴァントの霊感すらも欺く『気配遮断』スキルを備え持っていたからだ。
海を渡って吹き込む突風に漆黒のローブを煽られながら、白い髑髏面の下でほくそ笑む無貌の唇。
誰がその存在を予期し得ようか。昨夜、数多の目撃者の眼前で消滅したはずのサーヴァント『アサシン』が、いま再び夜の倉庫街に姿を現したのである。
誰に気づかれることもなくアサシンが身を潜めていたのは、セイバーとランサーの対決を見守るのに絶好の高所――岸壁に聳え立つデリッククレーンの上だった。戦場となっている倉庫街の街路からは五〇〇メートル近く離れている。人間の視力など及びもつかないサーヴァントの目であれば、この距離からでも死闘の直中にあるランサーとセイバーの、その表情までもが見て取れた。だがこの遠距離にアサシンのスキルを重ねれば、戦闘中の二名はもちろん、他にそれを監視しているサーヴァントがいたとしても、まず察知される気遣いはない。
さらに隠身に鉄壁を期するなら、実体を纏わずに霊体のまま斥候を行うことも可能であったし、その場合はもっと標的に接近することもできた。が、霊体の状態ではアサシン自身の知覚もまた『霊視』の感覚のみに限定される。今夜のアサシンに与えられた任務は、戦闘の状況を肉眼で見届ける≠アとなのだ。
マスターの意図を理解していたアサシンは、その指令を従容に受け入れ、ただ黙然と彼方の死闘を注視し続けていた。
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死闘の続く倉庫街より南東に遙か十五キロ。
夜の沈黙に抱かれた冬木教会の地下室にて、闇の中に座す人物がいた。
目を閉ざし、それでいて微睡むこともなく、静寂の中に神経を尖らせている漆黒の人影は、言峰綺礼の僧衣姿である。
傍目には瞑想に耽るかのようなその横顔が、いま耳朶《じだ》に海風の唸りを聞き、瞼の裏に剣戟《けんげき》の火花を眺めていようとは、誰に想像し得ようか。
彼の視覚と聴覚が認識しているのは、遠く離れた倉庫街で人知れずに展開されているサーヴァント戦……今この瞬間に彼のサーヴァントであるアサシンが見届けている光景と、寸分違わぬ知覚であった。
彼が行使しているのは、三年に渡る修行の成果だった。遠坂時臣により伝授された魔術のひとつ、共感知覚の能力である。
魔力の経《パス》が繋がった契約者に対し、綺礼はこうして感覚器の知覚を共有することが可能だった。聖杯戦争において、サーヴァントの行動を遠隔地から完全に監視できるこの術は極めて有用度が高い。特に斥候能力に長けたアサシンを従えているのであれば、鬼に金棒とも言うべき能力である。
唯一の難点といえば、共有の対象である契約者の同意がなければ行使できない点であろう。現に、この術を綺礼に伝授した当の時臣本人は、アーチャーの知覚への割り込みを許されていない。気高い気位の英雄王からすれば、たとえマスターといえども覗き見などは慮外千万であるらしい。
だが、否、だからこそ、そのための綺礼とアサシンなのだ。
「――未遠川河口の倉庫街で、動きがありました。いよいよ最初の戦闘が始まった様子です」
そう綺礼が語りかける闇の中には誰もいない。代わりに、そこには卓上に乗せられた古めかしい蓄音機が、真鍮製の朝顔を言峰に向けて傾けている。果たして、ただの骨董品と見えた蓄音機は、人語によって綺礼の言葉に応答した。『最初、という言い分はあるまい。公式には第二戦≠セよ。綺礼』
かすかに歪んだ音質ではあるが、余裕のある酒脱な声は、まぎれもなく遠坂時臣のものである。
よくよく見れば、その骨董装置は、古式ゆかしい朝顔型の集音部分があるせいで蓄音機と見紛うが、その下にあるべきターンテーブルと針がない。代わりに朝顔の終端にあるのは、針金の弦によって支えられた大粒の宝石である。
この装置は時臣によって綺礼に貸し与えられた、遠坂家伝来の魔導器だった。これと同じ装置が遠坂邸の工房にも据え付けられ、おそらくは今、時臣もまた朝顔に対面して座しているはずである。二つの装置の宝石は距離を隔てて共振し、朝顔から伝わる空気の振動を相互に交換しあう。つまりは遠坂家の宝石魔術を応用した通信装置≠ェこれだった。
冬木教会が言峰璃正神父の管轄下に収まった時点で、時臣はこの宝石通信機を教会に運び込んでいた。無論、目的は影の協力者である璃正神父と、その息子――聖杯戦争の開始と同時に、まず最初の敗北者として教会に保護される段取りになっていた言峰綺礼とに、密かに連絡を取ることにあった。
目下、目論見はすべて順調である。教会の中の綺礼に外部との連絡手段があるなどとは、誰も想像すまい。もともと魔術師でない綺礼にしてみれば、なにもこんな奇妙な装置を使わずとも無線機で充分事足りるように思えたが、遠坂の宝石通信機は無線と違って万に一つも傍受される心配はない。より慎重を期すると思えば、時臣の流儀に沿うのもさして無益ではなかった。
ともあれ当面は、アーチャーに代わって、アサシンと綺礼が時臣の目となり耳となる。綺礼はアサシンの視覚を自分なりに観察し、マスターとして与えられたパラメーターの透視能力も動員して、なるべく子細に状況を描写した。
「戦っているのは、どうやら――セイバー、それにランサーのようです。とりわけセイバーは能力値に恵まれています。大方のパラメーターがAランク相当と見受けます」
『……成る程な。流石は最強のクラス、といったところか。マスターは視認できるか?』「堂々と姿を晒しているのは、一人だけ……セイバーの背後に控えています。銀髪の女です」
『ふむ、ならばランサーのマスターには身を隠すだけの知恵がある、と。素人ではないな。この聖杯戦争の鉄則を弁えている……待て。セイバーのマスターだが、銀髪の女だと?』「はい。白人の若い女です。銀髪に赤い瞳。どうにも人間離れした風情に見えますが」
真鎗の朝顔の向こう側から、黙考の沈黙が伝わってくる。
『……アインツベルンのホムンクルスか? またしても人形のマスターを鋳造したのか…-あり得ぬ話ではないが……』
「ではあの女が、アインツベルンのマスターなのですか?」
『ユーブスタクハイトが用意した駒は衛宮切嗣だとばかり思っていたが……まさか見込みが外れるとはな』
胸の内に湧いた奇妙なささくれを、はじめ綺礼は自覚できずにいた。すこし間をおいてからようやく、それが落胆の念だということに気がついた。
「ともかく、その女は聖杯戦争の趨勢《すうせい》を握る重要な鍵だ。綺礼、決して目を離すな』
「……了解しました。では常時、一人を付けておく[#「一人を付けておく」に傍点]ことにします」
そう謎めいた言葉で請け負ってから、綺礼は引き続き、彼方で繰り広げられている二人の英霊の激斗を注視する。
だが火花散らす剣戟の閃きも、迸る魔力の奔流も、どこか彼には先刻よりも色褪せて見えた。
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岸壁間際の集積場に積み上げられたコンテナの山の隙間から、切嗣はそっとワルサー狙撃銃の銃口を覗かせ、電子の目で夜の闇を透かし見た。
まずは熱感知スコープ。……いる。夜気に冷え切った黒と青の空漠を背景に、くっきりと浮かび上がる赤やオレンジの反応色。ひときわ大きく白熱する熱源は、おそらくサーヴァント二体ぶんの映像だ。激しく交錯する両者の放熱は、潭然一体となって大輪のフレアを咲かせている。
それよりも遥かに小さいが、まぎれもなく人体の放熱パターンとして映っている反応が、あと二つ。道路の真ん中に佇立《ちょりつ》してサーヴァントの対決を見守っているのが一人、そしてもう一人は――やや離れた倉庫の屋根の上に、身を潜めるようにして鱒っている。
どちらが狙うべき標的なのかは、容易に判断がついた。
確認のため切嗣は熱感知スコープのアイピースから目を離し、隣の光量増幅スコープを覗き込む。薄緑色の燐光に彩られた深海のような視界は、だが熱線視界よりはっきり鮮明に闇の帳《とばり》を暴き出す。
やはり往来に立っている方がアイリスフィールだった。さも誇り高いセイバーのパートナーに相応しく、隠れ潜むことなく堂々と戦うよう、彼女には予め言い含めてある。
ならば屋根の上にあった熱源こそが、敵のマスター……切嗣のセイバーと渡り合う二槍の使い手、ランサーの主《あるじ》であろう。
闇に身を潜めたまま、切嗣は冷酷にほくそ笑んだ。望ましい最良の展開だ。ランサーのマスターは幻影や気配遮断といった魔術的な迷彩で自分の位置を隠匿していたのだろうが、それで事足れりとして機械仕掛けのカメラアイに対する配慮を怠った。これまでに切嗣の餌食となってきた魔術師たちと、まさに同じ轍を踏んでいる。
さっそく口元のインコムで、戦場の反対側に陣取っている舞弥に呼びかける。
「舞弥、セイバーたちの北東方向、倉庫の屋根の上にランサーのマスターがいる。見えるか?」
『……いいえ。私の位置からは死角のようです』
可能であれば、切嗣と舞弥との十字砲火で万全を期したかったのだが、あいにく攻撃可能なポジションにいるのは切嗣一人だけらしい。だが問題はない。距離は三〇〇メートル弱。切嗣の腕前であれば確実に一撃で仕留められる。狙撃手の存在に勘付いていない以上、あの魔術師に・300ウィンチェスター・マグナム弾を防御する術はない。
銃身上に備え付けられた二脚架を拡げ、狙撃体勢に入ろうとしたところで――切嗣は思い留まり、いったんワルサーの銃身を巡らせてデリッククレーンの上に狙いをつけた。
途端に、彼の段取りは根底から覆される。
胸の内で舌打ちしながら、切嗣は再びインカムに囁きかけた。
「舞弥、クレーンの上だ……」
『……はい。こちらもいま視認しました。読み通りでしたね』
切嗣が暗視スコープで捕らえた人影は、舞弥のAUG突撃銃の照準装置にも捕捉されていたらしい。
切嗣と舞弥に続き、セイバーとランサーの死闘を覗き見る第三の監視者が、いまデリッククレーンの操縦席に姿を見せていた。
予期できた事態ではある。聖杯戦争の緒戦においては、積極的な対決よりもむしろ傍観が上策だ。堅実なマスターであれば、他のサーヴァントが戦闘に入っても決して嘴《くちばし》を突っ込まず、それでも抜かりなく監視にだけは馳せ参じるだろう。そして戦いの末に、勝者が疲弊しきっていれば乱入して漁夫の利を捜うも良し。そう都合よく事が運ばなかったにしても、敵の手の内を探ることはできる。
いの一番にセイバーたちの戦いの現場へと駆けつけた切嗣だったが、彼は観客《ギャラリー》が自分たちだけで終わるとは思わなかった。だからこそデリッククレーンという最良の監視ポイントをみすみす放棄し、後に現れるかもしれない新たな監視者のために、敢えてその場所を譲ったのである。結果は見事に思惑通り。敵はデリッククレーンが見張られているとは露知らず、観戦に誹え向きな特等席を占拠して、結果、切嗣たちの前に姿を露呈させた。
とはいえ、切嗣にも計算外の要素はあった。
暗視スコープの薄緑の画像を、改めて切嗣は凝視する。新たなる監視者の出で立ち……全身を覆う漆黒のローブと、顔に填められた髑髏の仮面。信じがたいことではあったが、それは昨夜、遠坂邸の庭で消滅して果てたはずのアサシンに他ならなかった。
舞弥の使い魔が録った画像に釈然としないものと感じていた切嗣は、死んだはずのアサシンの再登場にも、ことさら驚きの念はなかった。その面妖さはこのさい置いておくとしても、問題なのはデリッククレーンの上に陣取ったのがサーヴァントだという点である。
いま切嗣がランサーのマスターを狙撃すれば、まず間違いなく相手を即死に至らしめるだろう。だが同時に、銃撃の位置はアサシンにも露見する。アサシンは決して戦闘力に秀でたクラスではないが、それでも超常存在たるサーヴァントの端くれ。いかに切嗣が魔術師といえど太刀打ちできる相手ではない。
セイバーの助勢は期待できなかった。現状ではセイバーと切嗣の距離が、アサシンと切嗣の距離よりも遙かに遠い。そもそもセイバーは切嗣がここにいるという事実すら了解していないのだから、咄嵯に反応できるわけがない。
さらに加えて彼女はランサーとの死闘の真っ最中である。たとえマスターを屠られて魔カの供給が途絶えたとしても、サーヴァントは独力である程度の時間は現界を保てるから、ランサーのマスターを倒しただけで即座にランサーをも排除できる、というわけではないのだ。
残る手段があるとすれば――令呪。
マスターの令呪による命令権は、サーヴァントの能力の範囲内に留まるものではない。サーヴァントに抵抗のない、マスターとの同意に基づいた命令であれば、令呪はその英霊のポテンシャルを逸脱した奇跡すらも可能にする。何となればセイバーをいま切嗣のいる場所まで瞬間移動させ、アサシンからの防衛に当たらせることも不可能ではあるまい。ただし、その場合には無防備なままのアイリスフィールがランサーの前に置き去りにされる羽目になる。
――諸々の要素について、切嗣は思案を総動員して検証し、すみやかに結論を下した。ライダーのマスターを仕留める絶好の機会ではあるが、今夜のところは見送るしかない。
一旦そうと決めれば、切嗣はそれ以上何の未練も残さなかった。
「舞弥、引き続きアサシンを監視してくれ。僕はランサーを観察する」
『了解』
静かに吐息をつくと、切嗣はワルサーの重い銃身を二脚架に預け、心を落ち着けて暗視スコープの映像に見入った。
策を巡らす余地がなくなった以上、切嗣にとって今夜のセイバーの戦いは徒労でしかない。みすみす宝具を使ったりせず、程良いところで切り上げてアイリスフィールともども逃走してくれれば有り難いのだが――あの誇り高い英霊に限って、そういう思考は期待できまい。
ともあれ、一度ぐらいは自分の手駒の力量を見極めておくのもいいだろう。
「……では、お手並み拝見だ。かわいい騎士王さん」
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セイバーとランサーの対決は、依然、拮抗したまま続いていた。
むしろ互いが互いの力量を計りあぐねて小手調べに終始するようになってからは、いよいよ膠着の様相を呈しはじめていたと言ってもいい。
無論、たかが小手調べといってもサーヴァントの話である。その余波を食らった街路には、惨憶たる破壊の爪痕が刻まれていた。すでに二棟の倉庫が倒壊し、路面のアスファルトは畑の畝のように掘り返されている。戦場となったその一角だけが、まるで直下型の大地震に見舞われたかのような有様だった。
そんな惨状の直中に、セイバーとランサーは、どちらもいまだ掠り傷ひとつ負わないままに対時し、互いに次の一手を見計らって睨み合っている。両者とも疲弊の色はない。
「名乗りもないままの戦いに、名誉も糞もあるまいが――」
二槍の切っ先に殺意を漲らせながらも、その眼差しだけは涼しげなまま、ランサーはセイバーに語りかける。
「ともかく、賞賛を受け取れ。ここに至って汗一つかかんとは、女だてらに見上げた奴だ」
「無用な謙遜だぞ、ランサー」
不可視の剣を掲げたまま、セイバーもまた口元に笑みを刻んでいた。
「貴殿の名を知らぬとはいえ、その槍捌きをもってその賛辞……私には誉れだ。ありがたく頂戴しよう」
共に素性も知らず、縁もゆかりもない異境の地にて相対した二人であったが、このとき両者の心には確かに相通ずるものがあった。
どちらも自ら鍛え上げた技と力を矜持とし、それに匹儔するだけの敵と見《まみ》えれば惜しみなく畏敬を捧げる――そんな戦士としての誇りを胸に秘めた者同士であることを、二人の英霊は理解しあっていたのである。
だが――
『戯れ合いはそこまでだ。ランサー』
どこからともなく響き渡った冷淡な声に、セイバーとアイリスフィールが目を見張る。
「ランサーの……マスター!?」
凝然とアイリスフィールは周囲を見渡すが、それらしい人影はない。声は不自然な反響を伴い、男の声か女の声か、そもそも何処から響いたのかさえも判然としなかった。おそらくは幻覚による偽装だろう。あくまで敵はアイリスフィールたちの前に姿を見せない腹
でいるらしい。
『これ以上、勝負を長引かせるな。そこのセイバーは難敵だ。速やかに始末しろ。――宝具の開帳を許す』
見えざる魔術師の言葉に、セイバーは表情を引き締める。
宝具――いよいよサーヴァントとして本気の牙を剥けと、そうランサーは促されているのだ。
「了解した。我が主《あるじ》よ」
それまでの瓢とした気風とは裏腹に、ランサーは粛然と声を落として、武器の構えを改めた。
左手に持っていた短槍を、何の未練もなく足下に放り捨てる。
では……あの長槍の方が、ランサーの!?
セイバーの凝視する前で、ランサーの右手の長槍から、呪符の緊縛が剥がれ落ちていく。
それは、深紅の槍だった。さっきまでとは桁違いの魔力が、不吉な蜃気楼のように、ゆらり、と槍の穂先から立ち上る。
「――そういう訳だ。ここから先は殺りに行かせてもらう」
ついに露わになった必殺の得物を、今度こそ両手に構え直して、ランサーは低い声で呟いた。
セイバーもまた剣の構えを低めに変えて、それまで以上に慎重にランサーとの間合いを計る。
宝具が発揮する効果は、大別して二つに分類される。
ひとつは真名を宣言するとともに一撃必殺の大威力を発揮するタイプ。セイバーの必殺奥義はこれだ。今は不可視の結界に護られている『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』だが、偽装をかなぐり捨ててその真名を叫べば、彼女の宝剣は光の奔流を放ち一千の軍勢を薙ぎ払う。まさに大地を焦土にまで変える対城宝具であり、おいそれと行使するわけにはいかない最終手段だ。
それに対してもう一方は、武器の属性そのものがすでに宝具としての性質を帯びているタイプ。セイバーの場合、『|風王結界《インヴィジブル・エア》』がこれに相当する。それ単体で敵を殲滅するほどの効能はないものの、戦いそのものを有利な方向へ導いていく利器≠ニしての宝具。効果がさほど強大でないというのは、言い換えれば使い勝手よく駆使できるということで、うまく活用すれば結果として勝敗を決する切り札にもなりうる。
果たして、あのランサーの赤い槍は――
おそらくは、後者。そうセイバーは直感した。ランサーは引き続きセイバーと打ち合う構えでいる。次の一撃で勝負を決める、という切迫した気迫は、今のところ見受けられない。
「……」
沈黙のまま、だが緊張の密度は倍増しで、両者はじりじりと摺《す》り足で間合いを詰めていく。
――仕掛けたのはランサーが先だった。
これまでの曲芸めいた変則自在な槍の舞いに比べると、いっそ愚直にすら思える一直線の突き込み。|風王結界《インヴイジブル・エア》で隠されたセイバーの剣の間合いを推し量ることも、否、警戒することさえも放棄したかのような無策の刺突である。
当然の対応として、セイバーは手にした剣で、苦もなくランサーの槍を打ち払う。果たして、それはとりたてて重くも鋭くもない凡庸きわまる一撃だった。が……
異変の皮切りは突風だった。
噛み合った槍と剣を中心にして、突然何の前触れもなく一陣の烈風が、旋《つむじ》を巻いて吹き荒れたのである。
「な!?」
驚愕の声を漏らしつつ、セイバーが三歩ばかり退いてランサーの槍から離れる。ランサーは泰然と構えたまま追わない。見守っていたアイリスフィールの目には、一体なにが起こったのか解らない。
今の突風、ただ一瞬ではあったが、べつに魔力の奔流というわけでもなかった。どこから生まれた風なのかは謎だが、決してそれがランサーの槍による脅威とは思えない。
にも拘わらず、驚愕はセイバー独りのものだった。ランサーは不敵な微笑で、そんな彼女の驚きを嗤っている。
「晒したな。秘蔵の剣を」
「……」
得意げに呟くランサーと、解せないとばかりに黙するセイバー。今のささやかな怪現象の正体を正しく理解していたのは、当事者たるこの二人だけだった。
風は、セイバーの剣から生まれたものだ。……正しくは、彼女の『|風王結界《インヴィジブル・エア》』の内から。
光を屈折させるほどに凝縮され圧搾されていた結界内の空気が、ほんの一瞬だけ漏れ出たのである。それもランサーの槍と打ち合った瞬間――風を束ねていた剣の魔力がほつれたのだ。
そしてその刹那に、破られた結界の内にあるセイバーの真の剣≠フ姿を、ランサーは垣間見ていた。先のランサーの呟きは、まぎれもなく彼の槍が『|風王結界《インヴィジプル・エア》』を暴いたことの証であった。
「刃渡りも確かに見て取った。これでもう、見えぬ間合いに惑わされることはない」
そう嘯くや否や、ランサーは立て続けに刺突を放ってきた。
まさに宣言の通り、槍は俄然勢いを増して、苛烈で無駄のない攻めに転じていた。セイバーの剣の間合いを把握した上での、狙いすました無謬《むびゅう》の技。ただの一刺たりとも捨て置けば致命傷を免れない――そう見て取ればこそセイバーも、ただ身を躱わすばかりでは応じきれず、すべての槍撃を剣で打ち払って防ぎ抜く。
刹那、明滅するかのように残像を残す黄金の剣の姿[#「黄金の剣の姿」に傍点]。
くっ……
またも|風王結界《インヴィジブル・エア》から漏れ出た気圧が、今度は立て続けの烈風となって混ざり合い、逆巻いてセイバーの金髪を激しく煽る。もはや疑いの余地はない。ランサーの赤い槍は|風王結界《インヴィジブル・エア》を削っている。続けざまに迫る槍の穂と交差するたびに、不可視であったはずのセイバーの剣は刹那の隙だけ姿を晒し、それが連続するにつれ、まるでコマ落としの動画のように黄金の刀身の全貌をさらけ出していく。
だが……この槍の筋ならば……
まだ応じようもある――そうセイバーは己を鼓舞した。両手で構えて繰る一槍、これならばセイバーとて心得のある順当の槍術だ。
間断ない連撃の最中に、わずかに狙いの甘い一撃をセイバーは目敏《めざと》く見咎めた。これならば打ち払わずとも身を捩《よじ》るだけで、あとは鎧の硬度で防げる。死中に活を求めたカウンターを放つなら、ここが待ちわびた好機に違いない。
即断のうちに、セイバーは剣先を翻してランサーの肩口へと打ち込んだ。脇腹を掠める赤槍の穂先は、看過すると決めた以上は意に介さない。この浅さであれば槍は鎧に弾かれ、対するセイバーの剣は袈裟懸けに敵を断ち割るものと――
痛みに先んじた直感が、セイバーを失地から救った。
振り下ろす剣を宙に泳がせたまま、セイバーは総身を横に投げ出して転身する。間一髪、とは言い難かった。唸りを上げて擦過《さっか》したランサーの槍は、たしかに血の雫を散らしていたのだから。
誰の流血かは言うまでもない。
地を転がりつつランサーの追撃から逃れたセイバーは、即座に立ち上がって相手を牽制する。が、その眉根には苦痛の色を隠せない。
「セイバー!」
何が起こったのか、理解はさておきアイリスフィールは魔力を編んで、セイバーの脇腹に向けて治癒の術をかけた。
「――ありがとうアイリスフィール。大丈夫、治癒は効いています」
そうは言いながらもセイバーがまだ脇腹を庇う構えなのは、まだ消えぬ痛みの残滓であろうか。
「やはり、易々と勝ちを獲らせてはくれんか……」
そう呟きつつもランサーは落胆した風もなく、むしろ興じるかのように声を弾ませる。この男、強敵と競い合うことが心底に悦びであるらしい。
噛みしながらもセイバーは、冷静に、脳裏でパズルのピースを組み合わせるようにして、信じがたい一連の事態を、意味を成す形に並べ替えていく。
ランサーの槍は鎧が防ぐはずだった。にも拘わらず、槍の切っ先はセイバーの血に濡れた。
そして――いまセイバーの鎧には、依然として傷ひとつない。
そこから成り立つ推測があるとすれば、槍が触れたその刹那だけ、セイバーの鎧が消え失せて刃を素通りさせた、という現象だ。
霊体化を果たせないセイバーではあったが、戦支度である甲冑は任意に実体化させ、また消滅させることが可能である。つまりセイバーの鎧とは魔力で編まれたものであり、アイリスフィールが買い揃えた着衣のように現《うつつ》の実体があるものではない。
さらに加えて、やはり不可解だった|風王結界《インヴィジブル・エア》の亀裂……ランサーの槍と噛み合ったその刹那にのみ、風を編む結界に綻びが生じた。
「……そうか。その槍の秘密が見えてきたぞ、ランサー」
セイバーは低い声で呟いた。相見えた難敵の手強さを、あらためて噛みしめながら。
あの赤い槍は、魔力を断つのだ。
とはいえ魔術の効果を根元から破棄したり解除するほど強烈なものではない。今もセイバーの鎧は健在だし、|風王結界《インヴィジブル・エア》も問題なく機能している。槍の効果は刃の触れた一瞬のみ。その刹那だけ魔力の流れを遮断し、無力化するのであろう。
なるほど宝具として格別の破壊力を誇るものではないが、それでも充分に脅威となる能力だった。サーヴァントの武装の優劣は、それが帯びた魔力や魔術的な効能によって決すると言っても過言ではない。だがこのランサーを前にしては、強力な武装を誇るサーヴァントほど、その優位を覆されてしまう。
「その甲冑の守りを頼みにしていたのなら、諦めるのだなセイバー。俺の槍の前では丸裸も同然だ」
揶揄するかのようなランサーの言葉に、セイバーは鼻を鳴らした。
「たかだか鎧を剥いだぐらいで、得意になってもらっては困る」
ランサーの槍の脅威を認識してなお、セイバーは畏怖の心を持ち合わせなかった。まだ形勢はどちらに傾いたわけでもない。
セイバーの全身を覆っていた銀色の甲冑が、そのとき飛沫の如く四方に飛散した。
驚きに息を呑むアイリスフィール。目を眇《すが》めるランサー。
胸甲、腕甲、スカート状の長い草摺《くさずり》から足甲に到るまで、ただのひとつも残さなかった。セイバーは自ら、甲冑を除装したのである。澄んだ金属の音色とともに撒き散らされた甲冑の断片は、セイバーからの魔力を断たれて、すぐに霞のように消滅していく。
「防ぎ得ぬ槍ならば、防ぐより先に斬るまでのこと。覚悟してもらおう。ランサー」
青い帷子のみと惹った軽装で、セイバーは再び構えを取った。低く下段に、それも刀身を後ろに流して、半身でランサーに対時する。防御など眼中になく、ただ揮身の一振りで逆袈裟に斬り上げるのみを期した必殺必中の構えである。
セイバーが、次の捨て身の一撃で勝負を決する覚悟でいることは、誰の目にも明らかだった。
「思い切ったものだな。乾坤一擲《けんこんいってき》、ときたか」
ランサーの面持ちは、なにか懐かしいものにでも出会ったかのように満足げでありながら、だがその口調は緊張の色がありありと窺えた。
鎧を脱いだセイバーは、ただ身軽になったばかりではない。鎧の形成と維持に要していた魔力を、今、彼女はすべて攻撃に注ぎ込むことができる。『魔力放出』のスキルを保有するセイバーにとって、この意味するところは大きい。
『魔力放出』とは、手にした武器や自らの四肢に魔力を高圧で蓄積し、任意のベクトルで瞬発的に噴射することで、運動能力を格段に高めるという荒技である。いわばセイバーの一挙手一動作が魔力によるジェット噴流を帯びているのも同然なのだ。体躯の上では細身の少女でしかない彼女が、大剣を軽々と振りかざすパワーファイターとしての戦闘スタイルを発揮できるのも、ここに秘訣がある。
余剰魔力のすべてを近接戦の機動力に転化することができるセイバーが、鎧に要する魔力までも『魔力放出』に動員した場合、そのパワーとスピードは少なく見積もっても六割増し……充分に一撃必殺を狙い得る破壊力といえよう。
鎧を奪われたことの不利を、鎧を捨てることの利点で覆す。それがランサーの破魔の槍≠ノ処するセイバーの結論だった。
「その勇敢さ。潔い決断。決して嫌いではないがな……」
ランサーは猛牛を前にした闘牛士の如く、あえて挑発するかのような軽い足運びで横へ横へと位置を変えていく。
「この場に限って言わせてもらえば、それは失策だったぞ。セイバー」
そんな言葉に惑わされることもなく、セイバーは不敵な笑みで応じる。
「さてどうだか。諫言《かんげん》は、次の打ち込みを受けてからにしてもらおうか」
ランサーとて弁えていよう。次のセイバーの突進の前には、剣に対する長槍の間合いの優位など、まったく意味を為すまい。セイバーのスピードを捕捉できなければ、すなわち一刀両断の末路が待っている。
相手の軽敏なフットワークを静かに見据えながら、セイバーは斬りつけるタイミングを計る。彼女が総身に帯びた魔力の密度から、ランサーはその突進のスピードを見積もっていることだろう。だが、彼女にはさらに重ねてもうひとつ秘策がある……
僅かに、ほんの僅かに、ランサーの足運びが鈍る。
アスファルトが捲れあがって砂利も同然になっていた足場に、ごくささいな支障があったのだろう。わずかにランサーの下肢に力がこもり、その動きが停滞する。
見逃すセイバーではなかった。
ばん、と破裂する大気の咆吼。それまで不可視だった黄金の宝剣が、その輝きで夜闇を反転させる。
大気を圧縮し屈折させる幻惑の『|風王結界《インヴィジブル・エア》』には、ほかに二次的な用途がある。結界を解いたその瞬間、超高圧に凝縮されていた空気を烈風の一撃として敵に叩きつけるという、一度限りの遠隔攻撃。
今セイバーが秘策としたのは、さらにその応用だった。敢えて剣先が背後にくるほどに大きく振りかぶった構えの意図は――突撃の、さらなる加速である。
黄金の剣より解き放たれ、セイバーの真後ろに向けて迸った大気の噴流。それは鎧を捨てた潭身の『魔力放出』にさらに上乗せされて、彼女の体躯を超音速の砲弾に変えた。
このときのセイバーのスピードは、通常の踏み込みの実に三倍に達していた。迎撃も、回避も、すでにセイバーが踏み出した時点で手遅れだった。たとえランサーの槍がセイバーに重傷を負わそうとも、その刹那にランサーは即死に討ち取られているだろう。まさに肉を斬らせて骨を断つ覚悟の、捨て身にして必勝を期した一刀限りの斬撃。音速に数倍する超々高速の突進が大気の壁を突き破り、衝撃波が周囲の瓦礫を木の葉のように吹き飛ばす。
ランサーは動かない。もはや迎撃を諦めたかのように、赤い槍の切っ先は微動だにしない。
代わりに動いたのは――足、だった。
極度に集中した意識の中で、刹那よりなお短い時の流れが、長く引き延ばされて緩慢に流れる。
そのときセイバーは悟った。ランサーの隙が偽《ブラフ》であったこと。彼は偶然に足を踏み違えたのではなく、予めその位置に身を置くべくして立ち止まったのだということ。
即ち、ランサーの意図した必勝の位置――二槍から一槍に持ち替えたランサーが、左手から短槍を手放した地点。
脳裏に蘇るランサーの台詞。それは失策だったぞ
そのときセイバーは見届けた。必勝の期を掴んだランサーの凄烈なる笑み。眼光が言葉よりなお雄弁に語っていた。『その不覚を衝かせてもらう』と……
槍を執る腕でなく、ランサーの爪先が足下の砂利を蹴り上げる。宙に浮いたのは砂利だけではなかった。先にランサーの捨てた短槍。その切っ先が、正確にセイバーの方を向いたまま空中へと跳ね上がる。長槍と同様に全長を覆い隠していた呪符の緊縛は、すでに解けて、その下の黄色い地金を剥き出しにしていた。
セイバーの第六感、理論的思考を超越した天賦の戦闘判断が、自らの失策をつまびらかにする。
槍の正道は両手で一槍――その先入観こそが罠だった。左右の片腕に一本ずつの槍を繰る手並みを、ただの幻惑としか見なかったのが。
もとよりあれがランサーの正道であったならば。
あのサーヴァントが、そもそも二本の魔槍≠フ遣い手として名を轟かせていた英霊であったならば。
そう、宝具とは――決して単一とは限らない。
ランサーの蹴り上げた黄色い短槍、その切っ先が、赤い長槍に劣らぬほどの禍々しい魔力を渦巻かせてセイバーを睨み据える。もはや制動をかけることも叶わず直進するしかないセイバーの喉笛を刺し貫く瞬間を、刹那の後に待ち受けて……
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ACT4
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-153:59:42
「……いかんなぁ。これはいかん」
冬木大橋のアーチの上から、倉庫街での戦いを遠望していたライダーは、そう低い声で唸ってから立ち上がった。
「な、何がだよ?」
巨漢のサーヴァントが初めて見せる焦りの表情に不安を煽られたウェイバーは、鉄骨にしがみついた姿勢のままで質す。
「ランサーの奴め、決め技に訴えおった。早々に勝負を決める気だ」
「いや、それって好都合なんじゃ……」
「馬鹿者。何を言っとるか」
ガン、と、ライダーは踵の下の鉄骨を踏み鳴らす。全身で鉄骨に貼りついていたウェイバーは、その震動に骨まで揺すぶられて、またしても悲鳴を上げそうになる。
「もう何人か出揃うまで様子を見たかったのだが、あのままではセイバーが脱落しかねん。そうなってからでは遅い」
「お、お、遅いって――奴らが潰し合うのを待ってから襲う計画だっだじゃないか!」
「……あのなぁ坊主、何を勘違いしておったのか知らんが」
ランサーは眉を顰めて、まるで笑えない道化師の芸に興醒めしたかのような表情で足許のマスターを見下ろした。
「たしかに余は他のサーヴァントがランサーの挑発に乗って出てこないものかと期待しておった。当然であろう? 一人ずつ捜し出すよりも、まとめて相手をした方が手っ取り早いではないか」
「……」
ウェイバーは返事を忘れ、自分と、この剛胆きわまりない英霊との間に開いた認識の落差に呆然となる。
「まとめて……相手?」
「応とも。異なる時代の英雄豪傑と矛を交える機会など滅多にない。それが六人も揃うとなれば、一人たりとも逃す手はあるまい?」
ライオンが低く喉を鳴らすような、檸猛で剣呑な唸りがライダーの喉から漏れる。だが唇の端を吊り上げた表情は笑みのように見えなくもない。ウェイバーは、それがこの男ならではの含み笑いなのだと理解した。
「現に、セイバーとランサー。あの二人にしてからが、ともに胸の熱くなるような益荒男《ますらお》どもだ。気に入ったぞ。死なすには惜しい」
「死なさないでどーすんのさッ!? 聖杯戦争は殺し合いだってばギャワゥ!」
半ばヒステリーまじりに糾すウェイバーの声は、デコピンの一撃で無惨に中断させられた。
「勝利してなお滅ぼさぬ。制覇してなお辱めぬ。それこそが真の征服≠ナある!」
ライダーはそう胸を張って言い放つと、腰の剣を抜き払い、虚空に一閃させて空間を切り裂く。
すぐさま渦巻く魔力の奔流とともに、煌々《こうこう》と輝きながら現界する大型宝具。巻き起こる突風に吹き飛ばされそうになり、ウェイバーは悲鳴を噛み殺して鉄骨を抱きしめた。
「見物はここまでだ。我らも参じるぞ、坊主」
言うが早いが、ライダーはマントを翻して跳躍し、その宝具の士に騎乗する。
「馬鹿馬鹿馬鹿! オマエやってること出鱈目だ!」
「ふむ? 気に食わぬなら、この場所に残って見ているか?」
「行きます! 連れて行け馬鹿!」
「ぃ良し。それでこそ我がマスター」
豪快に笑って、ライダーはひょいとウェイバーの襟首を掴み上げると自らの隣に乗せる。
「いざ駆けろ、|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》!」
征服王の呼びかけに、彼の宝具が雷鳴の轟きで呼応する。
[#中央揃え]×      ×
逆巻く烈風。生と死の錯綜。
紅蓮に舞った血の華が、すれ違う剣士と槍兵の間隙で艶やかに咲き乱れ――そして刹那のうちに散る。
駆け抜けたセイバーの静止と、両者の反転とは同時だった。
ともにいまだ直立し、敵と対時する意志を失わない。二人の英霊は健在である。
決着を先送りにしたのは、土壇場で趨勢を判じたセイバーの即断が、かろうじて突撃の軌道をごく僅かに傾かせ得るタイミングだったが故だ。
結果、セイバーを串刺しにせんと待ちかまえていた黄色の短槍は、胸ではなく左腕を抉るに留まり、同時に彼女が振り上げた黄金の剣もまた浅く流れてランサーの急所を外した。斬撃の切っ先が捉えたのは、ランサーの左腕……奇しくも両者の負傷は同じ部位である。
だが、果たしてダメージの応酬は等価であったのか否か。
「つくづく、すんなり勝たせてはくれんのか。……良いがな。その不屈ぶりは」
ざっくりと肘裏を抉った傷を意に介さぬかのように、ランサーは悽愴《せいそう》の笑みでセイバーを見据えている。果たしてランサーの負傷は、まるでフィルムの逆回しを見るかのように、誰に触れられることもなく閉じ合わさり癒着して、痕も残さずに消失してしまった。サーヴァントの自己治癒能力としても有り得ぬ回復のスピードは、身を隠したまま勝負を見守る彼のマスターが、治癒魔術を施したのであろう。
そんなランサーとは裏腹に、セイバーの端正な美貌は苦痛と焦燥を隠せずにいた。
ただ宙に浮いていただけのランサーの槍と、柄を両の手に掴まれていたセイバーの剣とでは、当然のように威力が違う。セイバーの下腕に穿たれた短槍の傷跡は、ランサーに比べて軽傷である。すくなくとも外見上は。
「……アイリスフィール、私にも治癒を」
「かけたわ! かけたのに、そんな……」
傷を負った当のセイバーよりも、援護するアイリスフィールはさらに狼狽を露わにしていた。
魔術師としてのアイリスフィールはまぎれもなく一級である。修行の密度と高度さは無論のこと、元来が魔道に特化して設計≠ウれ造られた$g体なのである。たかが治癒魔術程度の行使にミスを犯すようなことは有り得ない。万が一に失敗があったとしても、それならそうとアイリスフィール自身に知れる。
なのに――
「治癒は、間違いなく効いてるはずよ。セイバー、あなたは今の状態で完治しているはずなの」
「……」
油断なくランサーを警戒しながらも、セイバーは左腕の傷を凝視する。出血もさほどのことはなく浅手に見えるが、まずいことに腱を切られた。五指のうち肝心の一本である親指が動かない。これでは充分な握力で剣柄を執ることができない。
セイバーとて、アイリスフィールの手際に間違いがないのは知っている。なのに腕は癒えていない。左手の親指は、まるでそれが彼女の生まれ持った欠損であるかのように、まったく動こうとしない。
セイバーが仕掛けてこないのをいいことに、ランサーは余裕の構えで腰を屈め、地に落としたままだった黄色の短槍を左手で拾い上げる。
「我が『|破魔の紅薔薇《ゲイ・ジャルグ》』を前にして、鎧が無為だと悟ったのまでは良かったな」
もはや効能を見せた後では秘めるまでもないと断じたのだろう。ランサーは自らの宝具の真名を惜しげもなく口にした。
「が、鎧を捨てたのは早計だった。そうでなければ『|必滅の黄薔薇《ゲイ・ボウ》』は防げていたものを」
嘯きながらも、右手に赤の長槍を、左手に黄の短槍を、それぞれ翼のように大きく掲げて構えるその姿勢は、戦闘の開始時とまったく同じ。それは幻惑の構えなどではなく、まさにこの戦士が熾烈《しれつ》な鍛錬の末に身につけた我流の殺法であったのだ。
「成る程……ひとたび穿てば、その傷を決して癒さぬという呪いの槍。もっと早くに気付くべきだった……」
魔を断つ赤槍。呪いの黄槍。さらに加えて、乙女を惑わす左目の泣き黒子――これだけ揃えば断定は容易い。ケルトの英雄譚に綴られるその威名は、伝承の区分でいえばアーサー王伝説とも類縁にある。他ならぬセイバーが、ここに到るまで思い至らなかったことこそ不思議であった。
「フィオナ騎士団、随一の戦士……輝く貌≠フディルムッド。まさか手合わせの栄に与るとは思いませんでした」
「それがこの聖杯戦争の妙であろうな。――だがな、誉れ高いのは俺の方だ。時空を越えて『英霊の座』にまで招かれた者ならば、その黄金の宝剣を見違えはせぬ」
第四次聖杯戦争に参ずるランサーのサーヴァント……ケルトの英霊、ディルムッド・オディナ。
ついに真名を看破されたランサーは、むしろ清々しいほどの面持ちで目を眇めた。
「かの名高き騎士王と鍔競り合って、一矢報いるまでに到ったとは――フフン、どうやらこの俺も捨てたものではないらしい」
ひとたび英霊として時間列から隔離された彼らであれば、歴史の前後は関係ない。招かれた時代において過去に当たる伝説ならば、彼らは自分自身より後世の英雄についても知識を持ち合わせている。ディルムッドもまた、後に彼の故郷を栄光へと導くことになるアーサー王を伝説として知るのである。
「さて、互いの名も知れたところで、ようやく騎士として尋常なる勝負を挑めるわけだが――それとも片腕を奪われた後では不満かな? セイバー」
「戯れ事を。この程度の手傷に気兼ねされたのでは、むしろ屈辱だ」
毅然とそう言い放ちながらも、セイバーは内心で歯噛みせざるを得なかった。
ただの一刺が、高くついた……
セイバーは再び魔力を編んで白銀の鎧に身を包んだ。依然、ランサーの『|破魔の紅薔薇《ゲイ・ジャルグ》』の前には魔力の浪費でしかないが、それでもより致命的な『|必滅の黄薔薇《ゲイ・ボウ》』を防ぐ役には立つ。|風王結界《インヴィジブル・エア》にも再び周囲の大気を収散させ、黄金の宝剣を不可視の鞘に包み込む。
いかなる手段をもってしても癒せない黄槍の呪いは、おそらく槍自体を破壊するか、その持ち主たるディルムッドを倒さぬかぎり解除《ディスペル》できまい。残る右腕一本で、セイバーはランサーの二槍を打ち破らなければならないのだ。『魔力放射』のフォローがあれば右手だけで剣を繰るのもさほどの苦ではない。が、両手での渾身の振り抜きが封じられたとなると、彼女の必殺奥義たる『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』は放てない。
しかし――ここにきてセイバーの闘志は、萎えるどころか一層に昂っていた。
二つの宝旦ハのうち片方を牽制にして、まんまともう一方の宝具への油断を誘った周到な知略。謀られたことへの怒りより、その策謀に対する賞賛の念が先に立つ。
この敵に不足はない。
聖杯戦争の初戦にして、申し分のない好敵手を得た。剣に生き抜いた武人として、この巡り合わせに昂揚せずにいはいられない。今ここに対時するディルムッド・オディナとは、手練のみならず知謀まで尽くした極限の競い合いを強いられることだろう。
そんなセイバーの意気込みは、言葉に出さずともランサーに伝わったのであろう。満足げな笑みを口元に刻む彼もまた、実のところ心の内はセイバーと変わらなかった。必殺の罠のつもりで用意した『|必滅の黄薔薇《ゲイ・ボウ》』の奇襲を、左腕ひとつの代償で凌いだセイバーへの畏敬と、この戦いの勝利の価値がより高値にまで吊り上がったことへの歓喜。
騎士たる二人の英霊は、その闘魂の形までもが似通い、相通ずるものだった。
「覚悟しろセイバー。次こそは獲る」
「それは私に獲られなかった時の話だぞ。ランサー」
両者は不敵な銚発を交わし合いながら、互いの必殺を見計らい、じりじりと慎重に間合いを詰めていく。
一触即発の宝剣と魔槍。
冷たく清澄な緊迫の空気が――そのとき、不意に轟いた雷鳴の響きに破られた。
「――!?」
ともに凝然と、東南方向の空を振り返るセイバーとランサー。轟音の元は明らかだった。
もつれ合う紫電のスパークを夜空に撒き散らしながら、こちらを目掛けて一直線に空中を駆けてくるソレに他ならない。
唖然となったアイリスフィールが、その驚愕を口にする。
「……戦車《チャリオット》……?」
形の上でだけ判ずるならば、それは古風な二頭立ての戦車だった。轅《ながえ》に繋がれているのは軍馬でなく、隆々と筋肉をうねらせる逞しくも美しい牡牛である。その蹄が何もない虚空を蹴って、壮麗に飾られた戦車を牽いてくるのだ。
否、それらはただ安直に宙に浮いているわけではない。戦車の車輪が踏み鳴らし、牡牛たちの蹄が蹴り立てるのは、大地ではなく稲妻だ。
蹄と車輪が虚空を蹴る≠スびに、紫電が蜘の巣状の触手を閃かし、轟々たる雷鳴で大気を揺すり上げるのである。そのつど迸る魔力の圧力は、おそらくセイバーやランサーが繰り出す渾身の一撃にも匹敵するだろう。
これほどの怪異、これほどの魔力の放出が、サーヴァントの宝具でないわけがない。それは勘繰るまでもなく、セイバーとランサーの対決に介入せんとする意図で現れた第三のサーヴァントに違いなかった。
「……ッ」
セイバーも、ランサーも、ともに緊迫の面持ちで言葉もなく戦車の推参を睨み据える。
アイリスフィールはもちろん、いまだ姿を見せないランサーのマスターもまた、戦慄の念は同じであっただろう。
あれほど盛大な雷気を纏う英霊となれば、おそらくは雷神かそれに由来する存在。そして牡牛に縁《えにし》のある雷神となると、真っ先に思い当たるのはオリュンボスの至高神である。
それはさすがに英霊の格にすら収まらぬだけに有り得ないが、その眷属《けんぞく》たる英霊というだけだったとしても、途轍もない脅威には違いない。
雷電に乗った戦車は、居丈高にセイバーとランサーの上空を旋回すると、それから速度を緩めて地上へと降り立った。対時していた二人の英霊のちょうど真ん中、両者の矛先を阻む位置である。着地と同時に目映い雷光が収まり、御者台に立ちはだかる威風堂々たる巨漢の姿が露わになった。
「双方、武器を収めよ。王の御前である!」
やおらそう吼えた大音声は、天駆けて現れたときの雷鳴にも匹敵した。炯々たる眼光は、その気迫だけで対時する剣と槍の切っ先を押し返さんばかりの圧力である。
むろん、セイバーもランサーも各々が名の通った英霊である。たかだか怒鳴られたぐらいで威圧される器ではない。が、この新たな英霊の目的が襲撃ではなく、ただ単にセイバーとランサーの対決に水を挿すためだけに横槍を入れてきたのだと解ると、二人はその意図を判じかねて躊躇せざるを得なかった。
ひとまず両名の気勢を削いだところで、巨漢の御者は厳かに先を続ける。
「我が名は征服王イスカンダル。此度の聖杯戦争においてはライダーのクラスを得て現界した」
居合わす全員が、今度こそ呆気にとられた。聖杯戦争の場において、まさか攻略の要たる真名を自ら名乗るサーヴァントなど有り得るはずがない。そして誰にも増して動転したのは、ライダーの隣で御者台に踞《うずくま》っていたウェイバーだった。
「何を――考えてやがりますかこの馬ッ鹿はあああ!!」
錯乱のあまり、もはやライダーの巨躯に対する畏怖さえも忘れたウェイバーは、金切り声で喚きながら征服王のマントに掴みかかる。
べしっ、と非情のデコピンが夜気に鳴り、抗議の声は沈黙に沈んだ。右手中指以外には何事もなかったかのように、ライダーは左右のセイバーとランサーを見渡して問いかけた。
「うぬらとは聖杯を求めて相争う巡り合わせだが……矛を交えるより先に、まずは問うておくことがある。
うぬら各々が聖杯に何を期するのかは知らぬ。だが今一度考えてみよ。その願望、天地を喰らう大望に比してもなお、まだ重いものであるのかどうか」
何を言わんとするのか、まだ判然としない問いではあったが、しかしセイバーはその真意に直感だけで不穏なものを感じ取り、我知らず眦《まなじり》を決していた。
「貴様――何が言いたい?」
「うむ、噛み砕いて言うとだな」
ライダーはここで、威厳だけはそのままに、妙に瓢々とくだけた口調に切り替わった。
「ひとつ我が軍門に降り、聖杯を余に譲る気はないか? さすれば余は貴様らを朋友《とも》として遇し、世界を征する快悦を共に分かち合う所存でおる」
「……」
あまりにも突拍子も意い提案であった。セイバーは怒りすらも通り越して呆れかえり、その対面のランサーもまた話についていけず途方に暮れていた。
征服王イスカンダル。たしかに破格の英霊であろう。人類の歴史において、世界征服という野望の実現に彼ほど迫った者はいない。
だがそれにしてもこの人を食った提案はどうか。いきなり現れて堂々と真名を名乗り、あげく矛すら交えぬ前から恭順を要求するなどとは、もはや聖杯戦争という枠組みを端から意に介していないとしか思えない破天荒である。英断なのか愚挙なのか、それすらも判じがたい。
「先に名乗った心意気には、まぁ感服せんでもないが……その提案は承諾しかねる」
苦笑まじりにかぶりを振るランサーだったが、その目だけは笑っていない。刃物のように威嚇的な眼光で、征服王の睥睨《へいげい》と真っ向から火花を散らす。
「俺が聖杯を捧げるのは、今生にて誓いを交わした新たなる君主ただ一人だけ。断じて貴様ではないそ、ライダー」
「……そもそも、そんな戯言を述べ立てるために、貴様は私とランサーの勝負を邪魔立てしたというのか?」
そうランサーに続いて問いかけるセイバーの顔には、美貌の槍兵と違って笑みすらなかった。生真面目な彼女にとっては、ライダーの提案そのものが不愉快きわまるものだった。
「戯れ事が過ぎたな征服王。騎士として許し難い侮辱だ」
セイバーとランサーの双方から容赦ない敵意の視線を向けられて、ライダーはさも困窮した風に「むぅ」と唸りながら、いかつい拳をごりごりと自身のこめかみに押しつけた。
どことなく愛矯のある仕草でありながら、そのくせ威風堂々たる居住まいは微塵も揺るがないのだから、これはこれで実に希有な存在感の持ち主といえよう。
「……待遇は応相談だが?」
「「くどい!」」
なおもおもねるように申し出るライダーを、セイバーとランサーは声をそろえて一蹴する。さらにセイバーの方は、憮然としたまま続けて言葉を付け加える。
「重ねて言うなら――私もまた一人の王としてブリテン国を預かる身だ。いかな大王といえども、臣下に降るわけにはいかぬ」
「ほう? ブリテンの王とな?」
その宣言によほど興味を惹かれたのか、ライダーは大仰に眉を上げた。
「こりゃ驚いた。名にしおう騎士王が、こんな小娘だったとは」
「――その小娘の一太刀を浴びてみるか? 征服王」
低く押さえた声とともに、セイバーは剣の構えを取る。依然、左手に握力はなく、四指を柄に添えただけだが、その刀身からゆらめき上る闘気はランサーに浴びせていたものより厳しい。ライダーは眉を盛めて、深く溜息をついた。
「こりゃー交渉決裂かぁ。勿体ないなぁ。残念だなぁ」
そうぼやいて俯いた拍子に、ライダーは足下から見上げてくる怨みに満ちた視線と目があった。
「ら、い、だぁぁぁ……」
腫れあがった額の痛みと、それに勝る惨めさ口惜しさで、ウェイバーの声はどん底まで低く掠れていた。
「ど〜すんだよお。征服とか何とか言いながら、けっきょく総スカンじゃないかよお……オマエ本気でセイバーとランサーを手下にできると思ってたのか?」
マスターからの問いを、巨漢のサーヴァントは何ら悪びれた風もなくハハハと剛胆に笑いとばした。
「いや、まぁ、ものは試し≠ニ言うではないか」
「ものは試し≠ナ真名バラしたンかい!?」
逆上したウェイバーは、そびえ立つランサーの胸鎧に、非力きわまる両手の拳でポカポカと連打をくれながら泣きじゃくった。哀れを誘う光景に、アイリスフィールは軽蔑したものか同情したものか解らず、何ともいたたまれ惹い心地になった。
そんな、微妙に弛緩した空気が――
『そうか、よりにもよって貴様か』
低く地を這うような怨嵯の声によって、ふたたび凍りついた。
いまだ姿を現さぬランサーのマスターである。自らのサーヴァントに宝具の使用を促して以来、ふたたび黙して戦いを見守っていた彼ないし彼女が、ここにきて何のつもりか口を挟んできた。それも先刻とはうって変わって、何か曰くがあるとしか思えない憎悪の念を剥き出しにした声で、である。
『いったい何を血迷って私の聖遺物を盗み出したのかと思ってみれば――よりにもよって、君みずからが聖杯戦争に参加する腹だったとはねえ。ウェイバー・ベルベット君』
忌々しげに名を呼ばわれて、ウェイバーはその憎悪の対照が自分であると理解した。のみならず、その声の主が誰であるかも。
「あ……う……」
なぜ予測できなかったのか。時計塔で講師を務めるほどの地位にあれば、たとえイスカンダルのマントを盗まれた後でも、他の英霊の聖遺物を用意することぐらいは出来て当然だったではないか。だとすればこの冬木の地において、あの男が今度こそウェイバーの仇敵として立ちはだかることになったとしても、何の不思議もない展開である。
『残念だ。実に残念だなぁ。可愛い教え子には幸せになってもらいたかったんだがね。ウェイバー、君のような凡才は、凡才なりに凡庸で平和な人生を手に入れられたはずだったのにねぇ』
幻覚で撹乱されて、声の出所は判然としない。にもかかわらずウェイバーは、もう幾度味わったか知れない胃の腑の反り返る感覚を――講師ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの酷薄な細面の、侮蔑と憐憫の入り交じった碧眼が、頭の上からじっと自分のことを見下ろしてくる感覚を――まざまざと再体験していた。
何か気の利いた嘲《あざけ》りの言葉でも投げかけてやりたかった。ウェイバーは彼を出し抜き、まんまとこうして英霊イスカンダルをサーヴァントとして従えたのだ。永らく時計塔で受けてきた辱めに対する、最高の意趣返しではないか。
そうだ。もう講師と教え子の関係ではない。いまや奴は正真正銘の敵なのだ。存分に憎んでいい。命さえ奪ってしまっていい。そうまでしてやって当然の相手なのだ。
但し――それは逆もまた然り、なのだが。
ウェイバーは、時計塔で過ごしてきた数年間、寝ても覚めてもあの高慢な講師を敵視し続けてきた。殺してやりたいと思ったことさえ何度もある。――が、逆にその相手からの敵意に晒されたのは、これが初めての経験だった。少年はいま初めて、本物の魔術師が殺意を込めた視線というものを体感していたのである。
声の主は、ウェイバーが恐催に固まっているのを目敏く見て取ったのだろう。ぞっとするほど冷ややかな猫撫で声で、弄うように先を続けた。
『致し方ないなぁウェイバー君。君については、私が特別に課外授業を受け持ってあげようではないか。魔術師同士が殺し合うという本当の意味――その恐怖と苦痛とを、余すところなく教えてあげるよ。光栄に思いたまえ』
事実、ウェイバーは恐怖に身を竦ませていた。屈辱を感じるゆとりさえなかった。
真に魔術師たることは、死を観念することに他ならないと……言葉の上でしか理解していなかったその大原則を、今こそウェイバーは身に染みて味わっていた。それほどまでに、何処からともなく浴びせられるあの男の視線はおぞましく致命的だった。魔術師が殺意を胸に懐くというのが、これほどまでに決定的な死の宣告≠ナあったとは――ウェイバーはついぞ知らなかった。
独り恐怖に震えていた少年の小さな肩を、そのとき、優しく力強く包み込むものがあった。
その硬く大きく温かい感触に、他ならぬウェイバーが面食らった。この巨漢のサーヴァントの手――いかつく節くれ立った五指は、矮躯のマスターにとって畏怖の対象でしかなかったというのに。
「おう魔術師よ。察するに、貴様はこの坊主に成り代わって余のマスターとなる腹だったらしいな」
いずこに潜むとも知れぬランサーのマスターへ向けてライダーは呼びかけると、じつに底意地の悪い憫笑で顔を歪めた。
「だとしたら片腹痛いのう。余のマスターたるべき男は、余と共に戦場を馳せる勇者でなければならぬ。姿を晒す度胸さえない臆病者なぞ、役者不足も甚だしいそ」
『……』
沈黙の降りる中、姿無き者の怒りの気配だけが夜気を伝播する。ライダーは呵々と剛胆に大笑すると、今度は誰にともなく夜空に向けて、大音声を張り上げた。
「おいこら! 他にもおるだろうが。闇に紛れて覗き見をしておる連中は!」
セイバーも、ライダーも、これには怪語な顔をした。
「――どういうことだ? ライダー」
問いかけるセイバーに向けて、征服王は満面の笑みとともに親指を立てて示す。
「セイバー、それにランサーよ。うぬらの真っ向切っての競い合い、まことに見事であった。あれほどに清澄な剣戟を響かせては、惹かれて出てきた英霊が、よもや余ひとりということはあるまいて」
アイリスフィールは内心で、いずこかに潜んでいるであろう切嗣が看破されたのかと肝を冷やしていたのだが、どうやらライダーの意中には他のサーヴァントのことしかないらしい。再びライダーは辺り一面に轟き渡れとばかりに、大声で呼びかける。
「情けない。情けないのう! 冬木に集った英雄豪傑どもよ。このセイバーとランサーが見せつけた気概に、何も感じるところがないと抜かすか? 誇るべき真名を持ち合わせておきながら、コソコソと覗き見に徹するというのなら、腰抜けだわな。英霊が聞いて呆れるわなぁ。んん!?」
そうしてひとくさり豪笑を放った後、ライダーは、軽く小首を傾げて不敵に口元を歪めると、とことん挑発的な眼差しで周囲の闇を見渡した。
「聖杯に招かれし英霊は、今! ここに集うがいい。なおも顔見せを怖じるような臆病者は、征服王イスカンダルの侮蔑を免れぬものと知れ!」
ライダーの大熱弁は、遠く離れたコンテナ集配場で暗視スコープ越しに顛末を見守っていた衛宮切嗣の許にまで届いていた。同じく反対側から監視している舞弥の耳にも聞こえていた。
太古の英雄の思考回路は、切嗣の理解を遠く絶して、もはや嘆息ひとつしか出てこない。
「……あんな馬鹿に、世界はいちど征服されかかったのか?」
『……』
インコムの向こう側の舞弥もまた、語る言葉を持たない様子だった。
切嗣や舞弥と同様に、密かに状況を見守っていたアサシンの視覚聴覚を通じて、遙か彼方の冬木教会に陣取る言峰綺礼もまたライダーの所行を見届け、聴き取っていた。そして綺礼は見聞きしたすべての詳細を、傍らの宝石通信機を通して遠坂時臣に実況していた。
『……これは、拙《つたな》いな』
真鍮の朝顔から、遠く遠坂邸からの苦り切った言葉が漏れ出る。相手が眼前にいないと知りつつも、綺礼もまた眉を顰めて頷いてしまった。
「拙いですね」
時臣も、綺礼も、ライダーの放言を衛宮切嗣のように嗤《わら》い飛ばすことなどできなかった。何故なら彼らは、よりにもよってこの類の挑発だけは断じて見過ごさないであろう一人の英霊について、ともに心当たりがあったからである。
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黄金の光は、ひとしきりライダーが吼えたてた直後に現れた。
そのあまりの眩さに若干は怯みこそすれど――居合わす者たちの胸には、すでに驚きの感情はなかった。これより姿を現すのが、ライダーの挑発に乗ってきた第四のサーヴァントであることは、もはや察するまでもない。むしろ恐るべきは、こんな緒戦から一つ所に四人ものサーヴァントが集結してしまったという事態である。もはや誰一人として、次の展開を推し量ることはできなくなっていた。
果たして、金色の輝きは地上一〇メートル余りの高さに佇立する街灯のポールの頂上に、輝く甲冑の立ち姿となって現界した。その眩く絢爛《けんらん》な偉容に、ウェイバーが思わす息を呑む。
「あいつは……」
以前に見たのがほんの一瞬だったとはいえ、これほど強烈な存在を見違えるわけがない。高い街灯の上に悠然と立ちはだかるのは、昨夜、遠坂邸に侵入したアサシンを圧倒的な破壊力をもって葬り去った謎のサーヴァントに他ならなかった。
全身をくまなく甲冑で覆った重装は、キャスターのものとは思えない。またライダーの呼びかけに応じて現れたのだとすれば、それは挑発を挑発と判断するだけの理性を持ち合わせている証であり、即ち狂化したバーサーカーでも有り得ない。
となれば、消去法で残るのは――三大騎士クラスの最後のひとつ、アーチャー。
「我《オレ》を差し置いて王≠称する不埒者が、一夜のうちに二匹も涌くとはな」
開口一番、黄金の英霊はさも不愉快げに口元を歪めて、眼下に対時する三人のサーヴァントを侮蔑も露わに睥睨《へいげい》する。傲然たる態度とその口調は、ライダーの尊大さに通ずるようでいて、だが根幹から異なるものだった。征服王の声と眼差しは、ここまで冷酷で無慈悲ではない。
ライダーもまた、まさか自分以上に高飛車な相手が現れようとは予想外だったらしく、いささか毒気を抜かれたかのように困惑顔でボリボリと顎の下を掻いていた。
「難癖つけられたところでなぁ……イスカンダルたる余は、世に知れ渡る征服王に他ならぬのだが」
「たわけ。真の王たる英雄は、天上天下に我《オレ》ただ独り。あとは有象無象の雑種にすぎん」
もはや侮辱と呼ぶにも度の過ぎる宣言を、アーチャーはさらりと言い捨てた。これにはさすがにセイバーも色を無くしたが、ライダーは寛容に聞き流したのか、呆れたように溜息をついた。
「そこまで言うんなら、まずは名乗りを上げたらどうだ? 貴様も王たる者ならば、まさかおのれの威名を憚《はばか》りはすまい?」
ライダーがそう混ぜ返すと、アーチャーの真紅の双眸は、ますます傲岸な怒りを帯びて眼下の巨漢を睨み据える。
「問いを投げるか? 雑種風情が、王たるこの我《オレ》に向けて?」
順当に考えるならば、ライダーの言い分にこそ理がありそうなものだったが、どうやらアーチャーの観点からするとそれは度し難い不敬であったらしい。真名を秘めおこうという打算とは明らかに次元の違う、ただひたすらに感情的なばかりの癇性《かんしょう》でもって、黄金の英霊はいま殺意を剥き出しに放射しはじめていた。
「我が拝謁《はいえつ》の栄に浴してなお、この面貌を見知らぬと申すなら、そんな蒙昧《もうまい》は生かしておく価値すらない」
そう断じたアーチャーの左右の空間に、ゆらり、と陽炎のような歪みが生じ――次の瞬間、眩い刃の輝きが忽然と虚空に出現していた。
抜き身の剣と、そして槍である。どちらも目を奪われるほどの装飾に彩られ、のみならず隠しようもないほど猛烈な魔力を放っていた。明らかに尋常な武器ではなく、宝具としか思えない代物である。
まぎれもなく、昨夜の怪異――アサシンを一方的に抹殺せしめた不可解なる攻撃の再現である。昨夜の遠坂邸を監視していた者たちは、全員がそれを理解した。
「……ッ」
ウェイバーが恐懼《きょうく》した。姿なきランサーのマスターが息を呑んだ。遠く離れて監視する切嗣と舞弥もまた、緊張に身を固くした。
そして、いま一人の男――ライダーとウェイバー同様に、日中からランサーの動きを追尾し続け、今もこの倉庫街に身を潜めたまま顛末を見守っていた一人のマスターもまた、戦場を覗き見る使い魔の視覚を通じて、アーチャーの奇怪な攻撃態勢を凝視していた。
そう、疑いようもなく同じであった。もはや間違いなくあのアーチャーは、昨夜アサシンの侵入から遠坂邸を守護した黄金の英霊、即ち遠坂時臣のサーヴァントに他なるまい。
「はは、はははは」
闇の中、昔年の憎悪に隻眼を血走らせて、間桐雁夜は笑いを漏らした。
待ち望んだ時がきた。一年間に渡る生き地獄の中、この瞬間だけを夢見て耐えてきた。
遠坂時臣……
葵の夫でありながら、桜の父でありながら、あの母子の幸福を踏みにじった男。
間桐雁夜が望んだ全てを手に入れ、その全てを貶めた、憎んでも呪ってもなお足りぬ怨敵。今こそ昔年の恨みを晴らすのだ。胸に滾《たぎ》る憎悪を刃に変えて、あの男に挑む時がきた――
「殺せ……」
憎しみを声に出して発露させるのは、想像を絶する悦楽だった。高じすぎた憎悪は歓喜にも似て甘いのだと、いま雁夜は初めて理解した。
時臣自身は後回しでもいい。まずは奴のサーヴァントを粉砕し、憎き魔術師を聖杯戦争から脱落させてやる。挫折の屈辱にまみれた時臣の顔を思い浮かべただけで、狂おしいほどの興奮が身体の芯から沸き上がる。
「殺すんだバーサーカー! あのアーチャーを殺し潰せッ!!」
そのとき、あらぬ場所から轟と吹き荒れた魔力の奔流は、誰一人として予期しないものだった。
居並ぶ全員が瞠目して見守る中で、巻き上がる魔力は次第に凝固して形を成し、屈強な人影として実体化を果たす。
セイバーとランサーの戦いの場となっていた四車線道路を、さらに海側へ二ブロックほども進んだ先に、その影は立っていた。――そう、まさに影≠ニしか形容しようのない異形の風体である。
その長身で肩幅の広い男≠フ総身は、一分の隙もなく甲冑に覆われていた。が、セイバーの纏う白銀の鎧や、アーチャーの豪奢《ごうしゃ》な黄金拵えとはまったく違う。その男の鎧は黒かった。精緻《せいち》な装飾もなければ磨き上げた色艶もない。闇のように、奈落のように、ただ底抜けに黒かった。面貌すらも無骨な兜《ヘルメット》に覆われて見えない。細く穿《うが》たれたスリットの奥に、熾火《おきび》のように爛々《らんらん》と燃える双眸の不気味な輝きだけが、ある。
サーヴァント。それは間違いないだろう。だとしてもその不吉な姿は一体いかなる英霊なのか?
既に姿を現していたサーヴァントたちが、それぞれに持ち合わす輝き≠フ要素を、その黒い騎士はまったく備えていなかった。アルトリア、ディルムッド、そして征服王イスカンダルと、いまだ名も知れぬ黄金のアーチャーにも、それぞれが備え持つ華≠ェある。それは英霊としての誇りの発露。諸人の賞賛と憧憬《しょうけい》が結晶した伝説という栄誉。彼らを|貴い幻想《ノウブル・ファンタズム》≠スらしめる不可欠の要素である。
だが新たに現れた黒い騎士には、それがない。強いて言うならばアサシンに近いだろうか。その黒い鎧にまとわりつく闇は、まぎれもない負の波動≠ナあった。
ならば、それは英霊と呼ぶよりも、むしろ怨霊と称すべき何かであろうか……
「……なぁ征服王。アイツには誘いをかけんのか?」
油断なく黒い騎士を見据えつつ、それでも口調だけは軽剰に、ランサーがライダーを揶揄する。受けたライダーは顔を顰めた。
「誘おうにもなぁ。ありゃあ、のっけから交渉の余地なさそうだわなぁ」
黒い騎士から放たれるのは、掛け値なしの殺気のみであった。魔力から生じた旋風すらもが、怨嗟《えんさ》の呻《あお》り声に似て禍々しい。
バーサーカー……誰もが確かめるまでもなく了解した。あれほどに凶悪な殺意の波動は、もはや狂乱の英霊の座《クラス》しか思い当たらない。
「で、坊主よ。サーヴァントとしちゃどの程度のモンだ? あれは」
ライダーからそう問われたウェイバーだったが、矮躯のマスターは呆気に取られたままかぶりを振る。
「……判らない。まるっきり判らない」
「何だぁ? 貴様とてマスターの端くれであろうが。得手だの不得手だの、色々と観える≠烽フなんだろ、ええ?」
ひとたび英霊と契約しマスターとなった者ならば、他のサーヴァントのステータスを読み取る≠スめの透視力を授けられる。英霊を招いた聖杯から与えられる、マスターならではの特殊能力だ。アイリスフィールのような代行マスターでは叶わぬ相談だが、ライダーの正式なマスターであるウェイバーは、他のサーヴァントの能力偏差をライダーのそれと比較して、戦況をより有利な方向へ導くための策を練ることが可能だった。現にウェイバーは、目の前にいるセイバーとランサー、そしてアーチャーの能力値をすでに透視し把握している。だが――
「見えないんだよ! あの黒いヤツ、間違いなくサーヴァントなのに……ステータスも何も全然読めない!」
狼狽しきったウェイバーの弁明に、ライダーは胡乱げに眉を顰め、あらためて黒い騎士を凝視した。
闇色の甲冑は、何の特徴もない没個性で、装着者の素性を物語るような手掛かりは一切ない。――否、むしろ見れば見るほどに細部がぼやけ、ますます不鮮明になっていく。
ライダーだけではなかった。セイバーもランサーも、そして見守るアイリスフィールも気がついた。いくら目を凝らして観察しても、バーサーカーの容姿は正確に捉えられないのである。
まるで焦点のずれた映写のように、黒い甲冑の輪郭は常にぼやけ、霞み、ときには二重三重にぶれて見えた。どうやらそれは、ある種の幻覚であるらしい。その影響は視覚だけでなく、マスターの透視力にまで及んでいる。あの英霊は自らの素性を幻惑させるような特殊能力なり呪いなりを帯びているのだろう。少なくともバーサーカーのクラス別スキルでは有り得ない。
「どうやら、アレもまた厄介な敵みたいね……」
アイリスフィールの呟きに、セイバーは頷いた。
「それだけではない。四人を相手に睨み合いとなっては、もう迂闇には動けません」
バトルロイヤルの常道で言うなら、もっとも劣勢な者を総掛かりで潰すのがいちばん堅実な戦術である。従って、もしこの場で弱みを見せようものなら、最悪の場合には四対一の絶望的な戦いを強いられる羽目にもなりかねないのだ。そうなってはいかにセイバーといえども勝ち目はあるまい。
誰が誰に対して仕掛けるか、さらにその隙を誰が衝くか――この場を生き延びるためには、すべての敵の動向を正確に見極めるしかない。それはどの英霊に対しても言えることだ。
セイバーとランサーにとっては、それぞれお互いが当座の敵だ。ひとたび誇りを賭けて斬り結んだ以上は、何を差し置いてでもその決闘が最優先である。が、それはあくまで一対一の尋常な勝負を、後顧《こうこ》の憂いなく行える場合の話であり、ここまで邪魔が入ったのでは、決着は見送らざるを得ない。
ライダーは今のところ、明確に誰かを標的に見定めているわけではない。現時点での彼の目的は、この聖杯戦争に参ずる英霊たちの顔触れを見定めておきたいだけだろう。だが臆することもなく罷《まか》り出てきた以上は、誰の挑戦も受けて立つだけの覚悟はあると見ていい。
アーチャーは、明らかにライダーとセイバーを敵視している。それぞれに『征服王』と『騎士王』の名乗りを上げたことが、この黄金の英霊にとってはいたく不興であるらしい。とりわけ挑発の主であるライダーについては、最優先の標的とするだろう。
問題は、残る一人だ。
バーサーカー。この見るからに異様な黒騎士がいったい何を目論んでこの場に実体化したのか、判断のつく者は誰一人としていなかった。ただでさえ状況は収拾がつかないほどに混乱している。まともな思慮のあるマスターであれば、こんな戦略もへったくれもない混沌の直中に敢えてサーヴァントを放とうとは思うまい。
必定、誰もが一様にバーサーカーを懐疑と警戒のうちに注視していたが、ここにも一人だけ例外がいた。アーチャーの真紅の双眸だけは、疑いも迷いもなく、ただ純然たる怒気と殺意を秘めて眼下のバーサーカーを見下ろしていた。
黒い騎士のおぞましい凝視が、街灯の上に佇立する彼一人だけに向けられたものであると、黄金の英霊は過たずに理解していたのだ。
「誰の許しを得て我《オレ》を見ておる? 狂犬めが……」
卑賤なる者は眼差しすらも卑しく汚らわしい。それを浴びせられるのは貴人として耐え難い屈辱である。いまやアーチャーにとって、王を僭称《せんしょう》したライダーよりもなお、不躾《ぶしつけ》なるバーサーカーは度し難い咎人《とがにん》であった。
彼の左右に浮いていた宝剣と宝槍が、やおら反転して向きを変えた。切っ先が新たに見据えるのは、最優先の抹殺対象となったバーサーカーである。
「せめて散りざまで我《オレ》を興じさせよ。雑種」
冷厳なる宣告とともに、槍と剣とが虚空を奔る。
何処からともなく出現せしめた武器を、触れもせずに射出する――それがこの黄金の英霊の射手《アーチャー》たる所以であろう。だがその無造作きわまる宝具の扱いは異常に過ぎた。英霊にとって虎の子であるはずの宝具を、まるで石礫《いしつぶて》か何かのように無造作に投げつける、そんな杜撰《ずさん》な投擲《とうてき》である。
それでも、その破壊力は絶大であった。まるで発破をかけられたかのように路面が吹き飛び、木っ端微塵に砕け散ったアスファルトが粉塵となって視野を覆い尽くす。
「……ッ!」
誰からともなく全員が息を呑んだ。
濛々《もうもう》たる粉塵の中から、黒い長身の影がゆらめき現れる。
バーサーカーは健在だった。わずかに逸れた足許では、路面がクレーター状にごっそりと抉られている。アーチャーの投じた剣と槍のうち、やや遅れて飛んだ槍の方が標的を外した結果である。そして、槍よりも先に標的へと届いたはずの剣は、何の破壊ももたらしていない。
なぜならば、その剣はバーサーカーの手の中にあったからだ。
神速で展開された攻防を、はたして幾人が見届けたであろうか。少なくともアイリスフィールとウェイバーには、いったい何が起こったのか理解さえもできなかった。
正確には――まず第一撃として飛来したアーチャーの宝剣を、バーサーカーは何の苦もなく掴み取り、そうやって獲得した得物によって、続く第二撃の宝槍を打ち払ったのである。
「……奴め、本当にバーサーカーか?」
張り詰めた声で呟くランサーに、ライダーが瞼り声を交えて応じる。
「狂化して理性を無くしてるにしては、えらく芸達者な奴よのぅ」
宝具とは、そもそも使い手である英霊のためにだけ特化した専用の武器である。他の英霊が手に執ったところで満足に扱える道理もない。間髪入れず飛来した追い討ちを鮮やかに打ち払うなどという神業めいた剣技など、どう考えても発揮するのは不可能だ。
だがそんな驚きよりもなお、アーチャーにとっては怒りが先に立ったらしい。艶やかな美貌からはあらゆる表情が削げ落ちて、ただ零下の殺意のみに凍えていた。
「――その汚らわしい手で、我が宝物に触れるとは……そこまで死に急ぐか、狗ッ!」
ふたたびアーチャーの周囲に輝きが躍る。その背中を飾る後光のように、ぐるりと黄金の偉容を巡って展開した新たなる宝具の群れ――その数、十六挺。
槍や剣ばかりではない。斧がある。槌も矛もある。さらには用途も素性も知れない奇怪な形態の刃物もある。
そのいずれもがひとつ残らず鏡のように磨き上げられ、なおかつ膨大な魔力を滾《たぎ》らせていた。どれひとつとして遜色のない神秘の具現……それらはすべて例外なく、正真正銘の宝具であった。
「そんな、馬鹿な……」
思わずそう漏らしたのはウェイバーだった。だが他の英霊たち、マスターたちとて思いは同じであっただろう。
英霊の宝具がひとつ限りとは限らない。ときには三つ四つと宝具相当の超兵器を秘蔵する者もいるにはいる。だが多くてもその程度が限度だ。
それを――あの黄金のアーチャーは、まるで無尽蔵の備えがあるかのように次々と抜き放っては使い捨てていく。しかも昨夜の対アサシン戦から通算して、ただのひとつも同じ武器はない。
「その小癪な手癖の悪さでもって、どこまで凌ぎきれるか――さぁ、見せてみよ!」
アーチャーの号令一下、虚空に浮いた宝具の群れが先を争ってバーサーカーへと殺到する。
轟音は夜気を揺るがし、炸裂する閃光は夜空すら払わんばかりであった。
これほどの大破壊が、刀剣やそれに類する武具の投擲に過ぎないなどと、いったい誰が信じようか。無数の宝具を雨のように浴びせられた倉庫街の街路は、もはや絨毯《じゅうたん》爆撃に晒されたかのような有様だった。
それでもなお、アーチャーの猛攻は止まない。落雷のごとき宝具の落下は、バーサーカーの立ち位置を街区《がいく》もろとも消し飛ばさんばかりの勢いで、撃って撃って撃ち据える。攻撃は間断なく、それどころか次第に激しさを増していく。――何故ならば、標的たるバーサーカーが一向に倒れ伏さないからである。
誰もが驚愕に目を奪われていた。多数の敵と対時する一触即発の場にあるという危機感さえ、このときばかりは皆の意中になかった。
まさに初撃の驚異の再演であった。バーサーカーは、いの一番に飛来した矛を空いていた左手で掴み取り、あとは右手の剣ともども縦横無尽に振りかざして、続けざまに襲い来る宝具の洗礼を片っ端から打ち返していったのである。
その技巧は精緻《せいち》にして無謬《むびゅう》。もはや華麗ですらあった。アーチャーから奪い取った宝具でありながら、扱いに窮する様子は微塵もない。まるで両手の延長であるかのように自由自在に駆使する様は、どう見ても、長年使い込んだ愛用の得物でしか発揮し得ない練度である。
攻め手も受け手も、ともに常軌を逸していた。
思えば他の三人とは異なり、あの黄金のアーチャーと暗黒のバーサーカーは、いまだ真名の知れない謎の英霊である。セイバーも、ランサーも、その脅威に戦慄した。いずれ聖杯戦争を勝ち進めば、あの二人と矛を交える展開も有り得るだろう。が、あそこまで理解を絶した怪物を前にして、彼女らは一体どういう処方で立ち向かえばいいのだろうか?
「――どうやらあの金色は宝具の数が自慢らしいが、だとするとあの黒いヤツとの相性は最悪だな」
二人のサーヴァントが声もなく瞠目する一方で、独り余裕の構えを見せていたライダーが、したり顔で呟いた。
「黒いのは武器を拾えば拾うだけ強くなる。金色も、ああ節操なく投げまくっていては深みに嵌る一方だろうに。融通の利かぬ奴よのう」
征服王の冷静な指摘の通り、バーサーカーはアーチャーの宝具の猛攻を前にして一歩も譲らない。それどころか、より強力な宝具が飛来するたびに、手元のそれを放り捨てて新たな得物を掴み取り、周到に持ち替えていく。
ひときわ凄烈な轟音とともに、十六挺の宝具のうち最後のひとつが打ち落とされた。
真空のような静寂の中、立ちこめる粉塵の中に立ちはだかるのはバーサーカー独りだ。それ以外は倉庫も街灯も、周囲一帯の建造物はすべて倒壊して果てていた。黒い騎士の右手には戦斧、左手には片刃の曲刀が残っている。残る宝具はすべてバーサーカーの足許に散らばり、あるいは辺りの瓦礫の中に突き刺さったまま果てていた。黒い甲冑に届いた刃は、ただの一本もない。
手元に残った二本の宝具を、バーサーカーは何気なく掲げ上げ――そして何の予備動作もなしにアーチャーめがけて投げ放った。
投擲の狙いは曖昧だったのか、それとも最初から当てる意図などなかったのか、斧と曲刀とが命中したのはアーチャーの足場になっていた街灯のポールだった。曲刀は半ばの辺り、斧は頂上に近い辺りに直撃し、鉄柱をバターのように寸断してのける。
三等分された街灯のポールは地響きを立てて倒壊した。が、無様に地に伏したのはそれだけだ。黄金の英霊は鉄柱が寸断されるより先に身を翻し、何事もなかったかのように地表に着地を決めていた。
「痴《し》れ者が……。天に仰ぎ見るべきこの我《オレ》を、同じ大地に立たせるかッ」
――否、何事もなかったという観察は余人の感覚でしかなかったらしい。
ここにきてアーチャーの憤怒は臨界にまで達したのだろう。眉間に刻まれた縦皺が、美貌を凶相に変えている。
「その不敬は万死に値する。そこな雑種よ、もはや肉片一つも残さぬぞ!」
怒りのあまり、いまや紅蓮に燃えるかの如き双眸をバーサーカーに向けながらアーチャーが呪える。みたびその周囲に空間を歪ませて現出する刃の群れ……
次なる宝具の輝きは三十二を数えた。今度ばかりはライダーまでもが押し黙った。
十六宝具の連撃を、ついに凌いでのけたバーサーカーであったが、まさかそれに倍する攻撃までもが繰り出されようとは思うまい。それを言うなら他のサーヴァントたちとて同様だった。もはや黄金のアーチャーの潜在力は、誰にも見積もることなど出来ない域にあった。
『……ギルガメッシュは本気です。さらに『|王の財宝《ゲート・オブ・バビロン》』を解き放つ気でいます』
宝石通信器から届く言峰綺礼の実況に、遠坂時臣は頭を抱えた。
戦場たる倉庫街から遠く離れた遠坂邸の地下においても、状況の把握に不自由はなかった。アサシンを操る綺礼との連携は期待した通りの成果を上げている。態勢は万全のはずだった。
唯一、計算外だった要素といえば――最強を期して呼び出した英霊ギルガメッシュが、よりにもよってアーチャーのクラスで現界を果たしたことか。
アーチャーのクラスの特徴は宝具の強大さにあると言っても過言ではなく、ランクEX相当という桁外れな宝具を持つギルガメッシュに対して聖杯がこのクラスを割り当てたことは、たしかに必定だったかもしれない。だが結果として唯我独尊の英雄王に、とりわけ高い単独行動スキルを与えることになってしまったのは、まったく誤算だったという他にない。
英雄王ギルガメッシュの威名を畏敬する時臣は、認め得るかぎり最大限に相手の意思を尊重する気でいた。だがまさか、こうも早期からその許容範囲が脅《おびや》かされることになろうとは……
ギルガメッシュの動員は最後の切り札でなければならない。今はまだアサシンによる諜報のみに徹するべき時期なのだ。必殺宝具『|王の財宝《ゲート・オブ・バビロン》』を繰り返し衆目に晒すような軽率――それもあのバーサーカーのような得体の知れない敵を相手に全力投球など、断じて見過ごせる話ではない。
単独行動スキルを有し、マスターに依存しないサーヴァントを律するとなれば、あとは令呪に依るしかない。ただ三度限りの強制命令権。マスターを尊重する心掛けなど欠片も持ち合わせていないギルガメッシュをサーヴァントにするとあっては、なおのこと貴重なものだ。
どんな時でも余裕を持って優雅たれ――それが遠坂に代々伝わる家訓である。それを肝に銘じてきた自分が、よりにもよって、他のマスターの誰よりも先んじて令呪を消費する必要に迫られるなどとは……
『導師《マスター》よ、ご決断を』
通信器の向こう側から、綺礼が固い声で催促する。時臣は歯噛みしながら、右手の甲を凝視した。
憎悪に燃えてバーサーカーを凝視していたアーチャーの眼差しが、やおら方角を転じた。
視線は東南。その彼方には深山町の丘陵と高級住宅街がある。まさしく遠坂邸の方角であると、はたして何人が気付いたか。
「貴様ごときの諫言で、王たる我《オレ》の怒りを鎮めろと? 大きく出たな、時臣……」
さも忌々しげに口元をひくつかせつつ、アーチャーが押し殺した声で吐き捨てる。周囲に展開していた無数の宝具が、一斉に輝きを潜めたかと思うや、何処にともなく消え失せた。
「……命拾いをしたな、狂犬」
憤懣やるかたない面相ではあったが、すでに真紅の双瞭からは殺意の炎が失せていた。
その傲岸《ごうがん》さだけは揺るぎないままに、黄金のアーチャーは居並ぶサーヴァントたちを婢睨する。
「雑種ども。次までに有象無象を間引いておけ。我《オレ》と見《まみ》えるのは真の英雄のみで良い」
最後にそう放言してから、アーチャーは実体化を解いた。黄金の甲冑姿が質感を失い、輝きの残滓だけを残して消えていく。
誰も予想しなかった形で、黄金と閣の騎士の対決はあっけなく終結した。
「フムン。どうやらアレのマスターは、アーチャー自身ほど剛毅《ごうき》な質《タチ》ではなかったようだな」
呆れた風に苦笑しながら嘯くライダー。だがそんな呑気に構えている場合ではないことを、他の面々は心得ている。アーチャーに負けず劣らず脅威であったバーサーカーは、今も彼らの前に立ちはだかっている。
兜のスリットの奥に茫洋《ぼうよう》と光る双眸は、当初の標的を見失ったせいか所在なげに虚空を彷程い……そして新たなる獲物を見定めて、ふたたび燭々と燃えさかった。
怨念の色だけに染まった視線に見据えられ、セイバーの背筋を悪寒が奔《はし》り抜ける。
「……|er《ア》……」
地の底から湧いたような声だった。崇るような、呪うような、人語としての意味すら成さない怨念の呻き。
誰もが始めて耳にした、バーサーカーの声音だった。
「……|ar《ア》……|er《ア》……ッ!!」
まるで人型の呪いであるかの如く総身に殺意を涯らせたまま、黒い騎士は白銀の騎士王を目掛けて突進した。
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そもそもサーヴァントは現界を保つだけでなく、一挙手一投足に及ぶまで魔力を消費する。ことが戦闘に及んではその消費量も数倍増しだ。そのための魔力は、マスターの魔術回路から吸い出され、サーヴァントへと供給されていくことになる。
そして魔術回路の活性化とは、間桐雁夜にとって、刻印虫に肉体を蝕まれる地獄の苦痛に他ならない。
サーヴァントが霊体化していれば、魔力の消費量は最低限で済む。この状態であれば雁夜も、時折、動悸や眩暈に苛まれる程度のことで済んだ。
だが、バーサーカーを実体化させてからの苦痛は、まさに想像を絶していた。
体内で覚醒した異物が嬬動を始め、肉に食い込み、骨を軋らせる。雁夜の疑似魔術回路たる刻印虫は、宿主である雁夜の許容量などお構いなしに、吸い上げた魔力を惜しみなくバーサーカーへと供給していった。
痛みなどという表現すら生温い。身体の内側から別の生物に侵蝕され、略奪されていく――生きながらに貪り食われる激痛が、恐怖とおぞましさによって倍増しになる。
「ぐ……が、ぐぁ……ッ!!」
身を潜めた闇の中で、雁夜は必死で悲鳴を噛み殺しながら、喉から胸にかけてを掻きむしった。皮膚が裂け血が滲《にじ》むのと同時に、両手の指の爪もまたメリメリと剥がれ落ちていく。
なお悲惨なことに、バーサーカーのクラスがマスターに要求する消費魔力は他のサーヴァントよりも数段勝る。英霊召喚の折、臓硯がサーヴァントの狂化≠雁夜に強いたのは、まさにあの悪辣《あくらつ》な老魔術師ならではの歪んだ嗜虐であった。
虫どもが背骨を齧る。虫どもが神経を溶かす。虫どもが、雁夜の中に巣食うおびただしい虫どもが虫どもが虫どもが虫どもが虫どもが虫どもが虫どもが……
「がぁぁぁぁッ……」
堪えきれずに漏らした悲鳴も、掠れた呻《うめ》きにしかならなかった。激痛は喉の奥につかえたまま外に出ていかない。雁夜は啜り泣きを漏らしながら、体内を荒れ狂う幾千もの蹂躙《じゅうりん》に耐え続けた。
表通りで展開されるアーチャーとバーサーカーの攻防も、もはや監視して見届ける余裕などはなかった。やおら激痛の嵐が凪いだときも、雁夜は状況を理解できるだけの思考力を、すぐには取り戻せなかった。
「……はぁ……はぁ……」
荒い呼吸で苦痛の残滓を鎮めながら、雁夜はふたたび使い魔の視野を借りて戦場を観察する。いまだ残っているサーヴァントは三人。アーチャーの姿は既にない。戦闘は小休止を迎えていた。
倒した――わけではあるまい。おそらくは戦況を不利と悟った時臣がサーヴァントを撤退させたのだろう。
あれだけ圧倒的に見えた黄金のアーチャーを前に、雁夜のバーサーカーは一歩も譲らなかった。代々血を重ねて磨き上げた遠坂の魔術に、雁夜はたかが一年でものにした俄《にわか》仕立ての魔術で、充分、互角に張り合ったのだ。
「……ふふ、ははは……」
憔悴《しょうすい》し、脱力しきったまま、雁夜は乾いた笑いを漏らした。
やった。あの高慢な魔術師に、雁夜のような常人をつねに見下し続けてきた連中の顔に、ついに泥を塗ってやった。雁夜は胸の内で時臣に、臓硯に、それ見たことかと嘲笑を浴びせてやった。
俺は負け犬なんかじゃない。虫けら同然の落伍者などと、もう誰にも呼ばせはしない。俺は貴様らと戦える。貴様らを恐怖させ、脅《おびや》かしてやれる……
今夜のところは、ここまででいい。怨敵たるアーチャーが撤退した今、さらに苦痛を押して戦い続ける理由はない。他のサーヴァントたちは勝手に殺し合うに任せておけばいいのだ。
そう気を抜いた矢先だっただけに、バーサーカーが次なる標的をセイバーに見定めて突進していったとき、他の誰よりも狼狽したのは雁夜自身であった。
「やめろ……戻れ! 戻ってこいバーサーカー!」
声に出して呼びかけて、思念を送る。この程度の単純な指示ならば離れた位置からの念話だけでも充分なはずなのに、黒い騎士はまったく応じる素振りを見せない。むしろバーサーカーの興奮によって要求された魔力量が、鎮まりかかっていた刻印虫を一斉に励起させ、ふたたび雁夜の肉体を激痛で打ちのめす。
「バーサーカァァッ! やめろオ!!」
痛みのあまり、雁夜の声は絶叫に近かった。もはや令呪を使うだけの精神的猶予もない。苦痛の奔流に攫われて、雁夜は遠退きかかる意識を手放さないよう繋ぎ止めておくだけで精一杯になっていた。
黒い騎士は野獣の如き勢いで、アスファルトの舖装を蹴散らし突進する。ただ一人セイバーだけを目掛けて、黒い殺意を渦巻かせながら。
無論、セイバーとて油断していたわけではない。即座に剣を構え直して防御に入る。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!」
低く地を這うような不気味な気迫とともに、バーサーカーは手にした得物≠セイバーの脳天に振り下ろす。
危なげなく不可視の剣で受け止めたセイバーだったが、受け止めたその武器の正体を見極めたところで、彼女は愕然《がくぜん》となった。
鉄柱――さっきまでアーチャーが足場にし、バーサーカーに切り倒されて地に転がっていた街灯のポールの、残骸である。セイバーへと突進しながら、黒い騎士は足許にあったそれを拾い上げていたのだろう。
長さ二メートル余りに寸断されたその鉄屑を、さながら槍に見立てたかのように両手で構えて、バーサーカーは凄まじい圧力でセイバーの剣を圧迫してくる。だが驚くべきはその膂力《りょりょく》より、得物がただの鉄屑でしかない[#「ただの鉄屑でしかない」に傍点]という点だ。
|風王結界《インヴィジブル・エア》に隠されたセイバーの剣は、まさしく宝剣の中の宝剣。他に並ぶものとてない至高の宝具である。たかが路傍で拾った鉄塊などで鍔競《つばぜ》り合うなど有り得ない。
そんな風にセイバーの剣と拮抗しうるだけの強度を備えているとするならば、それは英霊の宝具しか他に考えようがない。が……
「なん……だと?」
歯を食いしばって耐えながら、セイバーは目を疑った。
バーサーカーの手にした鉄柱が、黒く染まっている。葉脈のような黒い筋が、幾重にも鉄柱に絡みつき、今もじわじわと広がりながら侵蝕していく。
起点はバーサーカーの両手だった。黒い籠手《こて》に掴まれたその場所から、黒い筋は蜘の巣状に鉄柱金体に広がっているのだ。
それはバーサーカーの魔力――殺意と憎悪に濁りきった、黒い騎士ならではの魔力であった。それが手を介して鉄柱全体に浸透している。
「貴様は……まさか!?」
驚愕とともにセイバーは理解した。このバーサーカーの宝具の正体を。
見守るランサーとライダーも、辿り着いた結論は同じであった。
「……そういうことか。あの黒いのが掴んだものは、何であれヤツの宝具[#「ヤツの宝具」に傍点]になるわけか」
感心した風にライダーが唸る。英霊の宝具とは、形ある固有の武器として顕現するものばかりではない。時にはサーヴァント自体の身に備わった特殊能力≠ニして発揮されるタイプの宝具もある。このバーサーカーの場合がまさにそれだ。
だとしても、なんと驚くべき能力《ちから》だろうか。アーチャーの投げ放った無数の宝具を、まんまと強奪して自在に駆使したバーサーカー。あの驚愕の手練《しゅれん》も、今ならば納得できる。バーサーカーの籠手で掴まれたその瞬間に、アーチャーの宝具はその支配権を黒い騎士に乗っ取られていたのである。
のみならず、何の変哲もない鉄屑までもが、ひとたびバーサーカーの手に渡れば他の宝具と鍔競り合うほどの強烈な魔力を帯びる。先の黄金のアーチャーとはまた違った意味で、バーサーカーは無尽蔵の宝具を持ち合わせているようなものだった。
二撃、三撃――豪快な槍捌き≠ナもって、バーサーカーはセイバーを責め立てる。迎えるセイバーは防戦一方だった。剣柄に添えた左手には力が入らない。ここにきてランサーの『|必滅の黄薔薇《ゲイ・ボウ》』に負わされた傷が響いていた。右手一本の握力しか当てにできない不自由な剣技を、魔力放射のサポートで何とか支えて応戦していたものの、勢いに乗ったバーサーカーの怒溝の連撃を前にしては防戦一方に立たざるを得ない。反撃の糸口が掴めないまま、次第次第にセイバーは劣勢へと追い込まれていく。
「セイバー……ッ!」
切迫したアイリスフィールの声。騎±王の額に、いつしか焦燥の汗が滲みはじめる。
遠く見守る衛宮切嗣の目にも、セイバーの危機は明白だった。だがサーヴァント同士の対決に、今の切嗣の武装では介入のしようがない。
せめて、バーサーカーのマスターの居場所だけでも見抜ければ、まだ対処のしようもあるが……二つの暗視スコープを併用しても、一向にその姿は見当たらない。
「……舞弥、そっちからバーサーカーのマスターは視認できるか?」
『いいえ。見当たりません』
インコム越しの返答に、切嗣は眉を顰めた。切嗣と舞弥のポジションは互いに死角をフォローしている。これで見当たらないということは、相手もまたサーヴァントに直接指示を与えられるような位置にはおらず、それよりも身を隠すことを優先しているのかもしれない。
どうやら相手はランサーのマスターよりも慎重な性格と見える。なまじ優秀な魔術師よりも、切嗣にとってはこういう増長のない相手の方がむしろ難敵だ。
「まずいな……」
状況はセイバーとバーサーカーの一騎打ちではない。その横には無傷のランサーとライダーが控えている。弱肉強食のバトルロイヤルにおいては、あからさまな劣勢に立たされるのは最悪の展開だ。他のサーヴァントのマスターたちは当然のように考えるだろう。――この場でバーサーカーに加勢すれば、いともたやすくセイバーを脱落させられる。さらにその後で消耗したバーサーカーを仕留められれば一挙両得。彼らは最低限の労力でもって二人の敵を脱落させられる……
切嗣はライフルの照準を頭上へと向け、あらためてデリッククレーンの上を確認した。相変わらず髑髏の面のアサシンはそこに居座っている。迂闇な行動は切嗣自身の命取りにもなりかねない。
「……くそっ」
歯噛みしながらも、切嗣には静観以外の選択肢はなかった。
指一本が利かないばかりに冴えを失ったおのれの剣が、セイバーにはもどかしい。
いま自分がどれだけ危険な状況にあるのか、もちろん彼女は理解している。傍観するライダーへの牽制も含めて、このバーサーカーとの競い合いは互角の拮抗に持ち込んでおかねばならない。今、この状況につけ込まれたら――彼女に凌ぎきる余力は、ない。
バーサーカーは容赦なく、まさに狂乱の英霊に相応しい檸猛な苛烈さでセイバーに食らいつく。矢継ぎ早に繰り出される鉄柱の槍≠ヘ、まさに獣性と呼ぶに相応しい荒々しさでありながら、その技の冴えと正確さばかりは達人の域にある。
セイバーを圧倒するのはその勢いだけではなかった、いかに手負いとはいえ、最強のサーヴァントたるセイバーにさえ反撃の隙を与えない猛連撃。しかもその得物は、魔力で強化されているとはいえ、歪みねじくれた鉄柱の残骸なのだ。
断じてただの狂犬ではない。このバーサーカー、もとの英霊は相当な使い手≠ナある。狂化してなおこの手練。尋常な腕前ではない。
「貴様は……一体!?」
瞠目するセイバーに答えを返すはずもなく、黒い騎士は裂帛《れっぱく》の気迫とともに鉄柱を振りかぶる。次の一撃は大技だ。ガードもろともにセイバーの矮躯を叩き潰さんばかりの勢いで――
だが、振り下ろされた鉄柱はセイバーにまで届かなかった。
長さ二メートル余りもあった鉄柱が、その半ばあたりから切り落とされて宙に舞ったのである。セイバーの宝剣と鎬《しのぎ》を削るほどに強固だったバーサーカーの疑似宝具。それを藁《わら》しべのように容易く両断してのけたのは、闇に閃いた一条の紅だった。
呆気に取られたセイバーの前に、ランサーの背中があった。さっきまでの敵であった騎士王を背後に庇う態勢で、艶貌の槍兵はバーサーカーと対峙する。
「悪ふざけはその程度にしておいてもらおうか。バーサーカー」
右手の長槍――『|破魔の紅薔薇《ゲイ・ジャルグ》』の切っ先を黒い騎士に突きつけて、ランサーは冷ややかに宣言した。打ち合った宝具の魔力を打ち消す彼の赤槍であれば、なるほどバーサーカーの黒い魔力に侵蝕された疑似宝具であろうとも、ただの鉄塊と何の違いもない。
「そこのセイバーには、この俺と先約があってな。……これ以上つまらん茶々を入れるつもりなら、俺とて黙ってはおらんぞ?」
「ランサー……」
死闘の最中ではあったが、これにはセイバーも感極まるものがあった。この槍の英霊は、その誇りの形において、まさに彼女が奉ずるのと同じ騎士道≠ノ忠実であった。
とはいえ、それを天晴れと評する者ばかりがこの戦場に集ったわけではない。
『何をしているランサー? セイバーを倒すなら、今こそが好機であろう』
姿なき声が冷厳にそう糺《ただ》す。不興も露わな声音は、よりにもよってランサーのマスターのものだった。だがランサーは、この英霊にしては意外なほど厳格な面持ちで、
「セイバーは! 必ずやこのディルムッド・オディナが誇りに賭けて討ち果たします!」
そう虚空に向けて声高に言い放った。
「何となれば、そこな狂犬めも先に仕留めて御覧に入れましょう。故にどうか、我が主《あるじ》よ!
この私とセイバーとの決着だけは尋常に……」
『ならぬ』
熱を帯びたランサーの嘆願を非情に断ち切って、彼のマスターは、よりいっそう冷ややかに断言する。
『ランサー、バーサーカーを援護してセイバーを殺せ。令呪をもって命ずる[#「令呪をもって命ずる」に傍点]』
緊迫した空気でその場が凍りつく。
令呪。サーヴァントに対する絶対命令権。いかな英霊であろうともこれに逆らうことは叶わない。故にランサーにはもはや自由意思などはなく――
ぐるりと反転した赤槍の切っ先が、唸りを上げてセイバーに襲いかかった。咄嗟に飛び退いた彼女の眼前を、長短二本の魔槍が立て続けに擦過し空を切る。
真後ろの標的に、振り向くのにすら先んじて左右の槍を繰り出すという驚愕の槍技は、まさに変幻自在の二槍流、ランサーの真骨頂である。その鋭さにはもはや一片の呵責《かしゃく》もない。
「ランサー……っ!」
呼びかける途中で、セイバーは言葉に詰まった。こちらに向き直ったランサーの、怒りと屈辱で歪みきった悲痛きわまりない表情が、何よりも雄弁に英霊ディルムッドの心中を物語っていた。
令呪に束縛されたランサーの身体は、もはや彼個人のものでなく、サーヴァントという冷酷無比な機械装置でしかない。英霊ディルムッドが鍛え上げた技と能力のすべてが、彼の信条とは関わりなしに発揮され、マスターの至上命令を遂行するためだけに動員される。その無念さは、同じ英霊としてセイバーにも察して余りあった。
そんなランサーの傍らに、さらにバーサーカーが進み出る。状況が変わっても、依然、黒い騎士の標的はセイバーのみであるらしい。さっきランサーの赤槍で両断された鉄柱を、今度は長剣よろしく正眼に構えていた。若干形状が変わったところで、その宝具には何の支障もないらしい。
絶体絶命だった。
左手のハンデがなければ、あるいは活路も見出せたかもしれないが、今のセイバーはバーサーカー一人に対処するだけで既に限界にあったのだ。ここにきて更にランサーまでをも敵に廻しては、万に一つも勝ち目はない。
「……セイバー……済まん……」
ランサーは苦しげな呻きとともに、じりじりと間合いを詰めてくる。その居たたまれない面持ちとは裏腹に、左右の二槍からは殺意を秘めた魔力が陽炎のようにゆらめき立ち上る。
その隣に並び立つ黒い騎士は、相変わらず無言のまま、だが殺意の波動の密度は倍増しでセイバーに迫り寄る。黒い葉脈にびっしりと覆われた鉄柱の断片は、ただの剣よりもおぞましい異形の凶器となって、その鈍い切っ先でセイバーを威圧する。
それら圧倒的な脅威を静かな眼差しで見据えつつ、セイバーはアイリスフィールへ向けて横目にちらりと目配せを送った。
「アイリスフィール、この場は私が食い止めます。その隙に――」
進退窮まったセイバーの思考は、すでに極限の選択に向き合っていた。そうせざるを得ない窮地であった。いかに敗色が濃くなろうとも、アイリスフィールだけは守り抜かねばならない。たとえ身を挺することになったとしても……
「その隙に、せめて貴女だけでも離脱してください。出来る限り遠くまで」
淡々とそう注進するセイバーの真意は、アイリスフィールとて察するまでもなかった。誇り高き騎士の少女は、自らの命と引き換えにアイリスフィールの活路を拓こうというのだ。
アイリスフィールは決然とかぶりを振った。ここでセイバーを死なせるつもりは毛頭なかった。
「アイリスフィール! どうか――」
「大丈夫よセイバー。あなたのマスター[#「あなたのマスター」に傍点]を信じて」
含みのある言葉の裏を察したセイバーは、だがむしろ当惑に眉を顰める。
切嗣が――この場に来ている?
セイバーの困惑をよそに、実際、アイリスフィールは信じきっていた。
彼女にも、セイバーにも、ここに到るまでは何の落ち度もない。彼に言いつけられた通り、二人は盛大に、華々しく戦った。現に今、セイバーは今この戦場の焦点にある。誰もが小さな騎士の窮地に目を釘付けにしている。
破魔と必滅の二槍も、黒い殺意に染まった鉄塊も、アイリスフィールを脅《おびや》かしはしなかった。これは切嗣が目論んだ通りの展開。即ち――いま自分たちは敵に対して優位にある。
だから――どうかお願い。あなた
何処にいるとも知れぬ夫に向けて、アイリスフィールは何の疑いも差し挟まずに、ただ念じた。
妻の思念が届いたわけでもなく、ただ冷徹な状況の把握だけによって、衛宮切嗣は為すべき行動を判断した。
器の預かり主≠スるアイリスフィールの保護はすべてに最優先する。セイバーが彼女を護りきれなくなった以上は、もう一刻の猶予もない。
「……舞弥。僕のカウントに合わせてアサシンを攻撃しろ。制圧射撃だ」
インカムの向こう側から緊張の気配が伝わり、それから即座に『了解』という返答が届く。
今この場で、ランサーのマスターを殺す。状況を打破できる手段は他にない。
「――六」
低い声で秒読みを始めながら、切嗣は熱感知スコープのレティクルをランサーのマスターに重ねる。
このWA2000狙撃銃は、カスタマイズして日本に持ち込ませるより以前に、アインツベルン城でも試射しているから、銃自体のクセは呑み込んでいる。暗視システムとの相性までは確認していないが……そこは舞弥の手際を信じるしかない。
「――五」
舞弥の報告によれば――照準器の調整は距離五〇〇メートルを零点としている。レティクルの十字線と銃弾の弾道が一致するのは、銃口から五〇〇メートル先、ということだ。
長距離の射撃においては、銃弾は直進するのではなく、きわめて緩やかな放物線を描く。つまり零点規正時の距離より手前の標的を撃つ場合、着弾点はレティクルより上にずれることになる。
ランサーのマスターまでの距離は三〇〇メートル弱。慎重に、切嗣は照準点を補正する。
「――四」
ランサーはマスターの令呪によって不本意な行動を強いられている。マスターを喪った直後の彼がどういう反応をするかは予想できないが、そのまま継続してセイバーを襲うとは考えにくい。そして再び直接的な脅威がバーサーカー単体になれば、セイバーとてアイリスフィールを連れて脱出する算段がつけられるだろう。
残る問題は切嗣本人の安全だ。アサシンのすぐ膝元で発砲するという無謀を、こうなれば断行するしかない。
「――三」
せめてリスクを分散するために、タイミングを合わせて舞弥にも銃撃させる。彼女のAUGが撒き散らす5・56mmレミントン高速弾の威力とて、サーヴァントであるアサシンを傷つけることは叶わないが、それでも予想外の銃撃を受けたアサシンは、すぐ手前から単射で発砲するもう一人の狙撃手を見過ごすかもしれない。――勿論、見込みとしてはかなり甘いが。
「――二」
もしもアサシンが陽動にかかって舞弥を敵と認識しても、充分離れた位置にいる彼女には逃げ切れるだけの公算がある。むしろそれ以前に、アサシンは他のマスターにまで存在が露見するのを避けて退散するかもしれない。
ただし、そのいずれの可能性も外れた場合には、アサシンはすぐ足許の切嗣に襲いかかってくることだろう。そのときは腹を括って対決するしかない。勝算云々は関係ない。他に選択肢はないのだ。
「――一」
静かに息を吐き出しながら、切嗣はゆっくりと引き金を絞り込んでいく。ワルサーの銃口は微塵も揺るぐことなく、その虚ろな空洞でもって標的に必殺の凝視を送る。
そのとき、耳を聾《ろう》する轟音が轟いた。
舞弥のAUGのフルオート射撃でも、もちろん切嗣の狙撃でもない。そんな小銃程度の発砲とは比較にならないほど盛大な、大地を揺るがさんばかりの衝撃。
それはまさに、戦場を不意に見舞った落雷であった。昼夜を逆転させるほどの眩い閃光と、さらに――そんな雷鳴すらも圧するほどの猛々しい咆哮。
「|AAAALaLaLaLaLaie《アアアアララララライッ》!!」
稲妻は天上から大地に降るのでなく、地表を真横に駆け抜けた。否――稲妻と見えたそれは、迸る雷気を纏った戦車の疾走であった。
間一髪、身を翻したランサーは回避が間に合ったものの、セイバーだけに気を取られていたバーサーカーは振り向く暇さえなかった。
ライダーが雄叫びとともに手綱を繰った二頭の神牛は、まず四本の前肢で黒い騎士を大地に踏み倒し、続く四本の後肢でもって容赦なく蹂躙《じゅうりん》した。滾《たぎ》る雷気の紫電をまとった蹄は、ただの一蹴りであろうとも大打撃であっただろうに、都合八回に渡って踏みしだかれたバーサーカーのダメージは致命的であったに違いない。ライダーの戦車が駆け抜けた後、には、立ち上がる力さえ失せて仰臥《ぎょうが》したままの黒い甲冑姿が転がっていた。
急停止し反転した戦車の上で、たったいま轢殺《れきさつ》したばかりの敵を見下ろしたライダーは、闘気に昂った面相をニヤリと笑みの形に歪める。
「――ほう? なかなかどうして、根性のあるヤツ」
果たして、バーサーカーは息絶えてはいなかった。弱々しく痙攣しながらも、ゆっくりと上体を起こしにかかっている。神牛に蹴り潰された黒い騎士が、それでも辛うじて身を捻《ひね》り、戦車の軌道から転がり出ていたことに、ライダーは気付いていた。そうやってバーサーカーは、とどめの最大打撃であった車輪による蹂躙を、辛うじて免れていたのだ。
すぐ鼻先を駆け抜けていったライダーの宝具、その圧倒的すぎる破壊力を目の当たりにして、セイバーは言葉を失っていた。
『|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》』……その威力は明らかに対人宝具でなく、対軍宝具の域にある。今の疾走ですら、ライダーが手心を加えていたのは明らかだ。彼がその気であったなら、ランサーとて逃げ切れず、セイバーもまた諸共に蹄と車輪の餌食になっていたであろう。
地に伏したバーサーカーは、立ち上がろうとして弱々しく足掻きながらも、どうやら戦闘続行が不可能なまでに深刻な打撃を受けたものと自覚したらしい。やおら動きを止めたかと思うと、そのまま陽炎のように茫と輪郭を霞ませ、霧散するように消えていった。実体化を解き、霊体となって退散したのだ。
「と、まあこんな具合に、黒いのにはご退場願ったわけだが――」
まるで何事もなかったかのように、太い首を捻ってボキボキと鳴らしてから、戦車の上のライダーは虚空に向けて呼びかける。
「ランサーのマスターよ。どこから覗き見しておるのか知らんが、下衆な手口で騎士の戦いを穢すでない……などと説教くれても通じんか。魔術師なんぞが相手では」
そこまで言ってから、巨漢のサーヴァントは檸猛きわまる含み笑いで見えざる相手を威圧した。
「ランサーを退かせよ。なおこれ以上そいつに恥をかかすというのなら、余はセイバーに加勢する。二人がかりで貴様のサーヴァントを潰しにかかるが、どうするね?」
『……』
姿なき魔術師の怒りの気配が、その場一帯に立ちこめる。だが、それも長引きはしなかった。
『――撤退しろランサー。今宵は、ここまでだ』
それを聞いたランサーは、安堵の吐息とともに槍の切っ先を下げる。
「感謝する。征服王」
美貌の槍兵の呟きに、ライダーはニンマリと満足げに破顔した。
「なぁに、戦場《いくさば》の華は愛でるタチでな」
もう一度、ランサーは視線だけでライダーに謝意を伝えると、続けてセイバーにも頷いた。
言葉などは必要ない。交わすべき誓いは明確なのだ。セイバーもまた首肯を返す。
決着は、いずれまた――
それだけを確認してから、ランサーは霊体化し姿を消した。
破壊の嵐が吹き荒れた戦場に、静寂が訪れる。
そしてほどなく思い出したかのように、岸壁に打ち寄せる波の音が、遠く離れた市街地の喧噪が、ひめやかに夜気をくすぐりはじめた。ランサーのマスターが付近一帯に張り巡らしていた結界を解いたのであろう。
セイバーは、最後に残ったライダーに向けて複雑な想いの入り交じった視線を向ける。
「……結局、お前は何をしに出てきたのだ? 征服王」
「さてな。そういうことはあまり深く考えんのだ」
セイバーからの問いに対し、巨漢のサーヴァントはまるで他人事であるかのように平然と肩を竦た。
「理由だの目論見だの、そういうしち面倒くさい諸々は、まぁ後の世の歴史家が適当に理屈をつけてくれようさ。我ら英雄は、ただ気の向くまま、血の滾るまま、存分に駆け抜ければ良かろうて」
「……それは王たる者の言葉とは思えない」
憮然とそう返すセイバーの声は固い。廉潔《れんけつ》なる騎士道を奉じる彼女の信念は、ライダーの野放図な行動原理とは程遠いところにあった。
「ほう? 我が王道に異を唱えるか。フン、まぁそれも必定よな」
ライダーは鼻で嗤って、セイバーの挑発的な視線を受け流した。
「すべて王道は唯一無二。王たる余と王たる貴様では、相容れぬのも無理はない。……いずれ貴様とは、とことんまで白黒つけねばならんだろうな」
「望むところだ。何となれば今この場でも――」
「よせよせ。そう気張るでない」
ランサーは軽く笑って、セイバーの左手を顎で指した。
「イスカンダルたる余は、けっして勝利を盗み取るような真似はせぬ。セイバーよ、まずはランサーめとの因縁を清算しておけ。その上で貴様かランサーか、勝ち昇ってきた方と相手をしてやる」
「……」
言い返したいところではあったが、左手親指のハンディキャップはライダーを前にしては大きすぎる。バーサーカーを一撃で退散せしめたこの英霊の戦闘力は、決して侮れるものではない。
「では騎士王、しばしの別れだ。次に会うときはまた存分に余の血を熱くしてもらおうか。……おい坊主、貴様は何か気の利いた台詞はないのか?」
そう声をかけられても、ライダーの足下で御者台にへたりこんでいる少年は返事を返さない。ライダーが襟首を掴んで持ち上げてみると、矮躯のマスターは白目を剥いて気絶していた。どうやらバーサーカーに突撃した折のライダーの気迫が強烈すぎたらしい。
「……もうちょっとシャッキリせんかなぁ、こいつは」
ライダーは嘆息して自らのマスターを小脇に抱えると、二頭の神牛に手綱を入れた。牡牛は嘶《いなな》きとともに雷気を放つと、蹄から稲妻を散らして虚空へと駆け上がる。
「さらば!」
轟雷の響きとともに、ライダーの戦車は南の空の彼方へと駆け去っていった。
アイリスフィールは、ようやく張りつめていた緊張から解放されて安堵の吐息をついた。あらためて見渡せば、辺り÷帯の破壊の程は凄まじい限りである。当然と言えば当然だった。五人ものサーヴァントが一堂に会し、うち何人かは惜しげもなく宝具を炸裂させたのだ。
「序盤からここまで派手なことになった聖杯戦争なんて、過去にあったのかしらね……」
破壊の痕跡は、アイリスフィールたちが危惧するような事柄ではない。聖杯戦争の隠匿は聖堂教会の監督役が責任を負う。この大震災さながらの有様も、きっと教会の組織力を動員して、ぬかりなく糊塗することだろう。
セイバーは黙したまま、ライダーの飛び去った空の果てを見据えている。その怜悧な横顔には、さっきまでの死闘から持ち越した興奮や憔悴の色はない。ただ凛然と静かに戦場の跡に佇む少女の鎧姿は、まるで一葉の画であるかのように美しく侵しがたかった。
だがアイリスフィールは、そんなセイバーの端然たる居住まいとは裏腹に、彼女が負っている甚大な傷について知っている。
「セイバー、左腕は――」
「はい。手痛い失態でした。ライダーの言うとおり、まずはランサーと決着をつけて傷の呪いを解かないことには、他のサーヴァントとの戦いにも差し障ります」
淡々とそう告げる騎士王の口調には、アイリスフィールに不安を与える要素など微塵もなかった。そんなセイバーの気丈さが、むしろアイリスフィールの胸には堪えた。
「……ありがとうセイバー。あなたのお陰で、生き残れた」
目を伏せてそう言うアイリスフィールに、セイバーは微笑みを向ける。
「私が前だけを向いて戦えたのは、背中を貴女に預けていたからです。アイリスフィール」
その強さ、逞しさと優しさに、改めてアイリスフィールは痛感した。
自分より一回りも幼い、年端もいかない少女の姿でありながら――こんな小さな躯で、細い腕で、なのに彼女はどこまでも騎士であり、英雄であった。
「勝負はこれからです、アイリスフィール。今夜の局面は、これから始まる戦いの最初の一夜でしかありません」
「……そうね」
「いずれも劣らぬ強敵揃いでした。異なる時代から招き寄せられた英雄たち……ただの一人として尋常な敵はいない」
そう嘯くセイバーの声には、焦燥もなければ畏怖もない。嵐を前に、戦士の心は静かに奮《ふる》い立つ。その昂揚《こうよう》、その血の滾《たぎ》りは、いかなる時代のいかなる世界にあっても変わらない、英雄たる魂の証であった。
南の夜空を見据えたまま、少女は静かに呟いた。
「これが……聖杯戦争」
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その空間は闇に閉ざされていた。
空漠なる闇≠ナはない。ねっとりと濃縮され、饐《す》えるほどに糜爛《びらん》した、限度を超えて黒すぎる――闇=B
噎《む》せ返るほどに濃密な血の臭気。そこかしこから沸き上がる、弱々しい呻きや啜り泣き。そんなおぞましい気配の数々から察するに、視界を閉ざす闇の帷《とばり》はむしろ慈悲深い目隠しであったのかもしれない。
そんな闇の中、まるで水底《みなぞこ》から見上げた満月のように、茫洋とした光を放つ円形がある。
手鞠《てまり》大の水晶球だった。おぼろな光と見えたのは、球の中に浮かび上がる映像である。
荒れ果てた瓦礫の山の夜景だった。が、それは初めからそうだったわけではない。破壊し尽くされたその景観は、つい二〇分ほども前までは無人の閑静な倉庫街であった。そこで繰り広げられた熾烈なる戦いのすべてを、遠見の水晶球は余さず映し出していたのである。
そして、そのすべてを見届けた二人の人物は、球の茫洋たる光を顔に浴びて、それぞれに異なる喜悦の相を浮かび上がらせていた。
「――スッゲェ。マジにスゲェ!!」
切れ長の目を、童子のように無邪気な歓喜に輝かせて歓声を上げるのは、天文学的な確率の稀少度によって超常の世界に踏み込んだ快楽殺人鬼、雨生龍之介であった。
「なぁ青髭の旦那、今のアレ全部リアルなんでしょ? SFXでも何でもないガチだったんでしょ? たまんねえ〜。プレステなんか目じゃねぇわ!」
ただの偶然でキャスターのサーヴァントと契約を果たして以来、日常を乖離した怪異にばかり見舞われてきた龍之介であったが、刺激と娯楽に貪欲な彼は、それらすべてを極上のエンターテインメントとして、何の抵抗もなく甘受していた。
「で、セイハイセンソウだったっけ? 旦那も今のアレに噛むんでしょ? やっぱり旦那もアレなの? 空飛んだり光ったりとか?」
「……」
キャスターは答えずに、熱を帯びた眼差しで水晶球を見つめている。映し出される小さな夜景の中、そこに佇むさらに小さな人影に、まるで憑かれたかのように見入っている。
倉庫街での戦いを監視しはじめた当初から、キャスターはこの有様だった。マスターである龍之介の興奮を余所に、他の英霊たちには目もくれず、ただ一人の人物を見定めて目で追い続けていた。
華著な体躯を包み込む白銀の甲冑。流れる砂金のような美しい髪。七人のサーヴァントのうち一人として、セイバーの座《クラス》に招かれた英霊の少女。
誰よりも小さな躯で、誰よりも雄々しく、凛々しく、いかな窮地にも怖じることなく毅然と立ち向かうその姿から、キャスターは目を逸らせなかった。逸らせるはずもなかった。その遠く懐かしき姿、どこまでも気高く高貴な横顔こそ、彼が時空を越えて追い求めてきた幻影であったのだから。
「……旦那?」
龍之介は、さっきから一向に黙して答えぬキャスターの貌を伺い見て唖然となった。
頬の痩けた青白い異相が、いつの間にか、澎湃《ほうはい》と溢れる涙に濡れている。
「――叶った」
激情のあまりに掠れた声で、キャスターは呟いた。
「全て、叶った。まさか……或いは、とは思っていたが……聖杯は、まさしく本当に万能であった……」
「叶ったっ――てぇ? ええと?」
何が? と問うしかない龍之介であった。キャスターの喜びようは何やら並々ならぬ事のようだが、彼にはその由縁がまったく解らない。
「聖杯は私を選んだのですよ!」
マスターの当惑など眼中にもないまま、己の歓喜を共有せんとばかりに、キャスターは龍之介の手を取ってぶんぶんと振り回す。
「ただの一度も戦うまでもなく、我々は勝利を遂げたのです。間違いない。すでに聖杯は我らが手中にある!」
「いや俺……そのセーハイってやつ、まだ見たことも触ったこともないんスけども?」
「そんなことは問題ではない!」
目を剥いて断言し、キャスターは水品球に映る少女を指で指し示す。
「見たまえ! 彼女こそが答えだ! あの凛々しき面影、神々しき居住まい……あれこそは紛れもなく我が運命の乙女≠ノ他ならぬ!」
龍之介は眉を顰めて、水晶球に映る人影をしげしげと観察する。時代がかった甲臂に身を包んだ少女だか少年だか、いずれにせよ現代日本においてはキャスターに負けず劣らず珍奇な恰好をした美人である。
「……知り合い?」
「いかにも。彼女こそは我が光。彼女こそは我が導き。彼女が私に命を与えた。我が人生に意味をもたらした……」
語るうちにまた激情を抑えきれなくなったのか、キャスターは感涙に咽びながら、両手で頭を掻きむしる。
「かつて神にすら見捨てられ、屈辱のうちに滅んでいった彼女が――、今、ついに復活を遂げた! これが! これほどの奇跡が! 我が願望の成就でなくして何だというのか!?」
龍之介は、依然まったく事情が呑み込めなかったが、ともかく敬愛する『青髭』が今かぎりなくハイになっているということだけは理解できた。そして、まださほど長くもない付き合いの中で知ったことだが、『青髭』がこんな風にカッ飛んで≠「るテンションのときには、しばしば龍之介さえ仰天させ感嘆させるほどの素敵な趣向を提示することがある。まったく新しい犯し方、嬲り方、そしてとどめの殺し方……龍之介が師と仰ぐこの怪人物は、まさに嗜虐の芸術家であった。
そんな次第で、青髭ことキャスターが喜んでいるこの状況は――どういう事情であれ――龍之介にとっても期待のできる喜ばしい状況と思って間違いなかった。
「なんだかオレも楽しみになってきたよ。青髭の旦那」
「そうだろう! そうだろうとも!」
髪を振り乱して泣き笑いながら、キャスターは両手で水晶球を掴み抱えると、その冷たい表面に額を押し当てて、球の中に浮かぶ少女の面影に、むしゃぶりつかんばかりの執念を込めて熱い視線を注ぎ込んだ。
「鳴呼、乙女≠諱A我が聖処女よ……すぐにもお迎えに馳せ参じまするぞ。どうか、しばしお待ちを……」
蛇の吐息のような湿った含み笑いが、いつまでも闇の中に尾を引いた。
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顛末を見届けたところで、言峰綺礼は現地のアサシンに帰還を命じ、知覚共有を断ち切った。
デリッククレーンの上からの眺望と、潮の香る夜風の感触が意識から分断され、綺礼の五感はもといた教会の地下室へと引き戻される。
いつの間に現れたのか、璃正神父もまた綺礼の傍らに佇み、彼が時臣に宛てて語る実況に聴き入っていたらしい。戦いの終わった今は、表向きの監督役としての職務を果たすべく、さっそく携帯電話で誰かに指示を送っている。
「――神明二丁目、そう、海浜倉庫街だ。損壊は広範囲で甚大。……ああ、それでいい。都市ゲリラの線で処理しよう。Dプランに沿って、あとは現場の判断で頼む――」
璃正の指示で動く聖堂教会のスタッフは、すでに冬木市のあちこちに分散して待機している。彼らは聖杯戦争から引き起こされるであろう様々なトラブルに対処するべく、事前からぬかりなく準備を整えている。
警察や自治体への根回しも万全だ。おそらく明日の朝刊では、あの倉庫街の惨状が、とことん事実を歪曲された形で紙面を飾ることだろう。
采配に奔走する璃正を横目に、綺礼は今夜の戦いから明らかになった事実関係について頭の中で分析する。
時計塔のエリート魔術師ロード・エルメロイが、一度は英霊イスカンダルの聖遺物を手にしておきながら紛失したという情報は、時臣の間諜によってもたらされていた。にも拘わらずイスカンダルはライダーのサーヴァントとして聖杯戦争に参戦し、またそのマスターらしき少年に対しては、ランサーのマスターが並々ならぬ因縁を匂わせていた。
即ち――まず間違いなく、ランサーのマスターはロード・エルメロイであろう。彼はあのウェイバーとかいう少年に聖遺物を奪われた後で、新たに英霊ディルムッドに縁《えにし》の品を入手したものと思われる。
間桐の術者がバーサーカーを召喚したことは、監督役たる父、璃正に対して間桐臓硯から申告があった。当然、それは綺礼と時臣にも筒抜けだったわけだが、まさかあれほど強力なサーヴァントであったとは予想外だった。敵の宝具を奪取するというあの奇怪な能力は、時臣のギルガメッシュにとって天敵となるに違いない。
時臣を利する展開を仕組むとすれば……まずは、他のサーヴァントにバーサーカーを潰させる必要がある。この場合ランサーが適任だ。ディルムッドが見せた宝具『|破魔の紅薔薇《ゲイ・ジャルグ》』は、バーサーカーの能力を封じる決め手になる。
いまだ謎の存在であるキャスターとそのマスターは、結局姿を現さなかったが、クラスの特性を考えればそれは意外でも何でもない。それ以外はバーサーカーを除いてすべてのサーヴァントの真名が明かされた。しかも脅威度の高いセイバーとバーサーカーが深手を負い、とりわけセイバーのダメージは後の展開に尾を引く甚大なものだ。ギルガメッシュが盛大に宝具をひけらかす羽目になったのはまずかったが、その真名までは露見せずに済んだし、アサシンが健在であるのも気付かれていない。状況は遠坂時臣の陣営が断然優位にある。
冷淡に、そんな分析を脳裏で整理したものの、綺礼の胸の内には何ら高鳴るものがなかった。
聖堂教会の意向通りに、遠坂時臣は勝利を収めることだろう。そう導くという綺礼の任務にも、さほどの障害は予見されない。これまでと何ら変わらない、何を期待するほどのこともない退屈な任務。それがこの三年の総括だ。
「――恐れながら、綺礼様」
乾いた感慨に耽《ふけ》る綺礼の傍らに、黒い影が音もなく参じる。髑髏の仮面と黒いローブの女――倉庫街での斥候を務めたのとは別のアサシンである。
「……何だ?」
「はい。教会の外で気になるものを見つけましたので、ご報告を」
そう言ってアサシンが恭しく差し出したのは、首をねじ切られた蝙輻の死骸だった。死後幾許《いくばく》もないらしく、いまだ微かに体温が残っている。
「――使い魔か?」
「はい。結界の外ではありましたが、明らかにこの教会を監視する意図で放たれたものかと」
「……」
奇妙な話だった。この教会は聖杯戦争における中立の不可侵領域として定められている。徒《いたずら》に干渉しようものなら、監督役によって令呪の削減や一定期間の交戦禁止といったペナルティが課されることもある。
そんなリスクを冒してまでこの教会を監視する理由は、誰にもないはずだ。――ひとつの仮定を除いては。
綺礼がアサシンを失い教会に保護された顛末を、狂言ではないかと疑っているマスターが既にいるとしたら?
「……」
アサシンの手から蝙輻の死骸を摘み上げ、綺礼はさらに奇妙なものを目に留めた。蝙輻の腹にバンドで縛りつけられた、手の平大ほどの電子部品。ボタン電池と――おそらくはワイヤレスのCCDピンホールカメラ。
この蝙鱈が魔術師の使い魔だとするなら、これほど奇妙な組み合わせはない。魔術師という人種が世間一般のテクノロジーを軽蔑し忌避する傾向にあるのは綺礼とて知っている。いま師事している時臣などはその最たるものだ。使い魔の視覚を借りるだけでなく、機械的手段で映像記録まで録ろうなどという発想は、およそ尋常な魔術師には思い及ぼない。
『――徹底して手段を選ばない。魔術師であるという誇りを微塵も持ち合わせていない――』
まるで不意の稲妻のように、かつて時臣から聞かされた言葉が綺礼の脳裏に蘇る。
そうだ。同じ魔術師でありながら、魔術をただの手段としか見なさず、ただの電子機械と同列に取り扱うような神経の持ち主であれば――使い魔にこういう細工を施すことも、やりかねない。
その意図も正体も判らない、ちっぽけな小動物の死骸に、綺礼は長い間見入っていた。それは五人のサーヴァントが激突した今夜の大乱戦よりも、より深く重い意味合いを伴って、彼の心に位置を占めていた。
[#中央揃え]×      ×
マンホールの鉄蓋を持ち上げ、横にずらす――ただそれだけのことにも小一時間近くを要した。それは憔悴しきった間桐雁夜にとって、最後の力を振り絞ってでも困難なほどの重労働だった。
ようやく鉄蓋に隙間が開き、饐えた下水道の臭気の中に清々しい外気が流れ込んできたときには、僅かながらも生き返った心地がした。そうやってほんの僅かに蘇った力を総動員し、雁夜は鉄蓋を横に押しのけてから、ずるずると芋虫のように地表へと這い上がる。外の街路は無人だった。夜の静寂の中、雁夜の姿を見咎める者はいない。
先にサーヴァントたちが激闘を交わしたのと同じ倉庫街だが、あの四車線道路からは三ブロックばかり離れた路地である。
他のマスターたちとは違って即製の魔術師にすぎない雁夜は、およそ油断や驕りの類とは無縁であった。尋常にサーヴァントともども前線に立ったところで、他の魔術師と互角に渡り合う自信はない。そもそも彼の従えるサーヴァントはバーサーカーである。すぐ隣で戦略の指示を与えようなどと思ったところで、コントロールを受け付けるはずがない。
ならばいっそ、バーサーカーは敵に爆弾を投げつけるぐらいの心積もりで解き放ち、暴れ狂うに任せて、雁夜白身は穏身を最優先して安全な場所から様子を窺うのみに徹するべきだと判断したのだ。
昼間にランサーの気配を察知して追跡し、この倉庫街でついに戦端が開かるに到ってからも、雁夜は姿を晒さないように万全を期して、臓硯から授けられた使い魔の『視蟲』だけを戦場に差し向け、自身は離れた場所から下水道に潜り込み、地下から接近して戦況を見張っていたのである。
冷たいアスファルトの上に脱力しきった身体を仰臥させたまま、雁夜は長い時間を、乱れた呼吸を鎮めることに費やした。
全身が血まみれだった。いたるところで毛細血管が破裂し、爛《ただ》れて裂けた皮膚からじくじくと滲み出ている。
以前、原子炉の事故で被爆した犠牲者の闘病記をテレビで見たことがある。今の雁夜はあの末期状態と大差がなかった。生物としての雁夜の肉体はとっくに死滅し、崩壊しかかっている。それを強引に延命させ、まがりなりにも生者さながらに駆動させているのは、全身に触手を張り巡らした刻印虫の魔力である。
雁夜自身、自分の身体が、今もこうして目に見える形で残っていることが信じられない。バーサーカーに魔力を供給している間に、身体中、肉片の一欠片たりとも残さず虫どもに貪り尽くされたような感がある。
たった一度の戦闘を経験しただけで、この有様だ。
バーサーカーを駆る負担は想像を大きく超えていた。おまけにまるで制御が利かない。あれはまさに血に飢えた獣だった。ひとたび解き放ったが最後、目に映るすべてを屠るか、今回のように力尽きるまでは決して止まらない。あれ以上戦いが長引いていたら、本当にまずかった。雁夜の身体は限界を超えた魔力消費に追いつかず、完全に刻印虫に食い潰されていただろう。
雁夜にとって、サーヴァント戦は正真正銘の綱渡りなのだ。限界が訪れるより先に決着をつけてバーサーカーを鎮めなければ、待ち受けているのは自滅である。
「……、……ッ」
これより先に待ち受けているだろう戦いの数々に思いを馳せて、雁夜は暗潜たる想いに嘆息した。
はたして遠坂時臣を倒すまでの道程は、どれほどに遠いのか。
さらにその果て、すべての敵を倒して聖杯に辿り着くまでは、なんと果てしない彼方にあることか。
だが桜の救済は、そのすべてを乗り越えた先にしか――ない。
進むしかないのだ。脱落は許されない。この血肉の最後の一滴まで燃え尽きることになろうとも、雁夜はそこに辿り着かねばならない。でなければ、すべてが無意味だ。
衰弱しきり、軋みを上げる身体に鞭を打って、雁夜はよろめきながらも立ち上がった。いつまでも、ここで寝ているわけにもいかない。
ライダーの宝具の直撃を受けたバーサーカーのダメージは甚大だ。完治させるまでには時間がかかる。勿論、その回復に要する魔力はすべて雁夜から、刻印虫を介して搾り取られていくのだろう。
休息が、必要だ。
立っているのもおぼつかない身体を、路地の壁にしがみついて辛うじて支えながら、雁夜はよろめく足取りで夜の中へと消えていった。
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あとがき
[#地から6字上げ]虚淵玄
虚淵玄は、心温まる物語を書きたい。
過去の私の芸歴を知る入ならば、笑えない冗談だと眉を顰めることだろう。だって他でもない私自身がそう思う。この指がキーボードを叩くたび、現れ出るのは狂気と絶望の物語ばかりなのだから。
昔は、それでも、まだマシだったと思う。手放しで喜べるようなエンディングではないにせよ、劇終のシーンに立つ登場人物には、『まぁ今後も色々と大変だろうが、頑張れや』と背中を叩いて送り出してやれるような、そういう結末を描けた頃が、私にも、あるにはあったのだ。
それがいつの頃からか、出来なくなった。
ヒトの幸福という概念にどうしようもない嘘臭さを感じ、心血を注いで愛したキャラたちを、悲劇の縁に突き落とすことでしか決着をつけられなくなった。
物事というのは、まぁ総じて放っておけば悪い方向に転がっていく。どう転んだところで宇宙が冷めていくことは止められない。理に適った展開≠セけを積み上げて構築された世界は、どうあってもエントロピーの支配から逃れられないのである。
故に、物語にハッピーエンドをもたらすという行為は、条理をねじ曲げ、黒を白と言い張って、宇宙の法則に逆行する途方もない力を要求されるのだ。そこまでして人間賛歌を謳い上げる高潔なる魂があってこそ、はじめて物語を救済できる。ハッピーエンドへの誘導は、それほどの力業と体力勝負を作者に要求するのである。
虚淵玄は、その力を失った。今もまだ取り戻せない。この『バッドエンド異存症』との闘病は現在進行形で続いている。もしかしたらこれは不治の病なのかもしれないし、もう私は潔く『愛の戦士』への憧れに見切りをつけ、青白い馬に跨って病原菌を撒き散らす側に転身した方がいいのかもしれないが……諦めがつかないのだ。未だに私は往生際悪く、人々に勇気と希望を与える物語を作りたいと願望して止まないのだ。(これを書いている今現在、『勇気』を『幽鬼』と誤変換するような、そんなIMEを使ってる時点で――あ、今『IME』が『忌め』になった――もうどうしようもないとは思うのだが)
ぶっちゃけた話、筆を折ろうかとさえ思った。『スパイダーマンU』を観たときのことだ。糸が出せなくなったことで自分の秘めたる願望に気付いたピーターの姿に、私もまた、『ひょっとして、もう本当はシナリオなんか書きたくないんじゃねえの?』などと思い始めてしまった。
翌晩、友人である奈須きのこ氏の元を訪れたのは、その辺の告白を聞いてもらいたかったのが真意であった。ところがその席で、私が胸の内をさらけ出すより先に、武内崇氏から開口一番、思わぬ提案が出たのである。
その後の経緯は、きのこ氏の解説にもある通りだ。切嗣と綺礼の対決シーンだけを描く短編という当初の構想が、妄想に歯止めが利かなくなり、気がつけば七組分のマスターとサーヴァントの構想が出揃っていた。私は、再び物語を紡ぐことを愉しんでいる自分に気がついた。『Fate/Zero』という企画は、まさに私のライター生命を救ってくれたのである。
いま私は、救済によって終結する物語を書いている。正確にはその一部を、だ。
そう、『Fate』という壮大な物語は、主人公、衛宮士郎によって大団円に導かれることが、既に約束されているのである。たとえその過程にある『Zero』がどんなに残酷な結末に終わろうとも、作品世界全体のハッピーエンドは揺るがない。
いま私は、思う存分、何の引け目もなく手加減抜きのバッドエンドを描く機会に恵まれたのだ。この胸の内に巣食う病理をどこまでさらけ出そうとも、総体として見れば、あくまで私は愛の戦士・奈須きのこ≠フ片棒を担いでいることになるのである。ヒャッホウ!
まぁその、私個人の問題について根本的な解決がついたわけではないのだが、それでも、再びこうして書くことを愉しんでいる自分≠見出せたことは、間違いなく大きな前進だった。
この身は今もまだ一歩ずつ、前へと進むことができるのだ。その果てに何処に辿り着くことになるにせよ、今は嬉しくて仕方ない。
現時点の構想として『Fate/Zero』は全四巻を予定している。
その結末において、慟哭するセイバーの姿を目の当たりにした読者が、どうか怒りと悲しみのあまり最終巻を破り捨て、そのまま衝動的に「Fate/stay night』を再インストールし、彼女が救いを得るに至るまでをもう一度見届けずにはいられなくなるような、そんな物語を書き上げてみたい。
[#改ページ]
解説
[#地から6字上げ]奈須茸
魔術世界に万全を叶える『奇跡』あり。
器物は聖杯と呼ばれ、完成の為あらゆる儀式がつくされた。
されどいまだ『神秘』を体現した例はなく。
聖杯という概念が成立してから幾星霜、犠牲は小金のように浪費された。
――いわんや、たかだか二百年。
冬木の術式はいまだ若く。その成就の為、数多の天稟を礎とするは必定である。
かくて、ここに七人の魔術師と七騎の使い魔あり。
集いしもの喚ばれしもの、ともに超然の理にある貴人。
汝等、さらなる超理、さらなる高みを目指すのなら。
いざ、自らを以て最強を証明せよ――
[#中央揃え]◆
奇跡はただ一人にのみ与えられ、また、唯一であるからこそ価値がある。
ゲーム『Fate/stay night』の時代より遡ること十年。
ここに、虚淵玄によるもう一つの『Fate』が幕をあけた。
その名はZero。まだ誰も見た事のない聖杯戦争。語られる事のなかったある男≠フ結末をあらわす、壮大なプロローグである。
………………などと。Zero本編の格好良さにひきずられてこっちも格好つけてみたものの、長続きしないのでやめておきます。
虚淵玄。冷徹なまでの客観性、優れた文章力を持つ剣筆の達人。まれに剣先が音速を超える。また、物語のコントロールカはPCゲームライター界でもトップクラスで、これまで多くの作品を築いてきた。殺し屋とかダンピイルにもなる。あと人肉を食べたりする。口癖はうん、おいしいよコレ。今さら自分などが語るのもおこがましい偉大な先人の一人だ。
この方にノベライズしていただける喜びを、まずここに残しておきたい。
氏の筆によって描かれる新しい『Fate』。その魅力に打ちのめされたのは、誰よりも原作者である私だった。
[#中央揃え]◇
さて。本書は第四次聖杯戦争のお話です。
『Fate』版聖杯戦争のルールは実に単純で、
1. 七人の魔術師と、その使い魔であるサーヴァントのバトルロイヤル。
2. サーヴァントとは英霊という概念のその時代に即した&ィ質化である。
3. マスターにはサーヴァントを御する三つの絶対命令権。
4. 最後に残った者に聖杯が与えられる。
というもの。他に細かい規則もありますが、そんなのは枝葉みたいなもので根幹さえあれば成立します。実にシンプルかつベーシック。それ故に、どのようなドラマを組み込むかは書き手の裁量次第となります。過酷なボーイミーツガール物にするもよし、熾烈なバトルロイヤル物にするもよし。
Fate/stay nightでは前者でした。ではZeroは?
はい、言うまでもありません。虚淵玄の真骨頂。命を削りあう生粋のバトルロイヤルが展開されます。Fate/stay nightで「血と慟哭とバッドエンドが足りぬ」と思った貴方、お待たせしました! これが生存競争を本質とする、正しい「聖杯戦争」です!
今まで語られてこなかった衛宮切嗣の内面。
断片的な情報しかなかった第四次聖杯戦争。
出てくる魔術師、サーヴァント、どいつもこいつもボスクラスという情け容赦のない殲滅戦。
そう。Zeroは正史であり、同時に、『Fate/stay night』とは在り方を別にする伝奇アクションなのである。
言うなれば公式の外典。根幹は紛れもなくFateが、細かい枝葉は虚淵玄氏が奏でる独特の旋律だ。そこには『Fate/stay night』にあったゲームとしての都合など一切ない。物語が望むまま、登場人物たちが踊るまま、まっしぐらに終局へと突き進んでいく。
その疾走感。いずれくる絶望と、その後に約束された希望を想いながら、衛宮切嗣とその宿敵であるあの男≠フ対決を心待ちにしてほしい。
[#中央揃え]◇
と、第一巻の解説らしく綺麗に終わらせればいいところで、みなさん気になっているであろう舞台裏を語りましょう。どうしてあの虚淵玄がZeroと関わったのか。これが語るとあまりにも長い、というか古い話になるのです。
そもそも虚淵氏とFateの因縁は2002年から始まっていたのだった。
当初セイバールートを書いていた私は体を壊し、このままだと近いうちに入院する、という状況にあった。まだタイプムーンが同人であり、Fateがイリヤルートを含めた四ルートで考えられていた頃の話である。
「奈須だけでは終わらない」と判断した武内は「おまえが信頼できるライターさんにインタリュードを頼んでみたりするのはどうか」と持ちかけ、私は虚淵氏を「ちょっと映画観に行きません?」と甘い餌でフィッシュ。とにかくロックな虚淵氏は面白い事ならなんでもやるというお返事で「うそ、言ってみるもんだな!」と喜んだのですが、ふと「自分もいつこんな感じでオシャカになるか分からないし、もしかしたらFateが自分だけでシナリオを書く最後のゲームかも知れぬ」と思いいたり、やはり自分一人でなんとかする、と計画を引っ込めたのであった。
(この後、タイプムーンが同人から商業になったので虚淵氏の寄稿は難しくなったし、あの人はあの人で浄化の紋章なんつー面白いコトをやってたので無理っぽかったのですが)
それから二年後。2004年の夏、ホロウ開発の夏。
色々なサブライターさんにシナリオをやってもらったホロウだが、ここでも武内が凄いコトを言い出した。
「イクリプス(番外編)扱いで、虚淵さんに一本お願いしてみたらどう?」
凄いのである。私などはファン心理が強すぎてあの方にお願いするのなんてもう無理も無理、神さまに語りかけるようなものなんで、「……まあ、武内の方から言うのなら止めませんが……」と中立の構え。そして虚淵氏とたまたま夕食を共にしていた時、武内が真っ向から「虚淵さん、こんな話があるのですが」とストレートにいったーっっっ!! ロシアンフックをくらうグレート巽ばりの直撃である。
そう、グレート巽。見識の広い読者なら分かっていただけると思う。読者の予想を常に上回る男、それがグレート巽。この例えが示す通り、武内の直球を受けた虚淵玄氏は静かにうむ、と頷き、あろう事かとんでもないカウンターをぶっ放した。
「あの。それだったら、いっそ第四次聖杯戦争を書かせてくれません? フェイトゼロ、みたいな」
いっっったぁぁぁあああっっっっっっ!!
これである。もうすんごいのである。正直ホロウをゲームにするよりそっちのがいいんじゃないかと思ったぐらいである。
で、その日のうちに打ち合わせは始まり、
「ところで、第四次ってどんな話なんです?」
「んー、セイバーがギルとイスカンダルにいじめられる話!」
と気安く返答するダメきのこ。
私の頭にあった第四次聖杯戦争の要点は二つ。
一つはセイバーの挫折。
人間の理想像となって民を導く王。滅私奉公、清廉潔白なアルトリア。
人間を超越した絶対的な支配者としての王。君臨者ギルガメッシュ。
そして他を省みない暴君ではあるが、その欲望が結果的に民を幸せにする奔放な王。人間のまま君臨者となった征服王イスカンダル。
この三者三様の激突がゼロにおけるセイバーの物語。
あともう一つは、言うまでもなく切嗣の物語だ。そのあたりを押さえてくれれば好き勝手やってもらっていいですよ、とまさに丸投げの奈須きのこ。つーか他には何も考えていませんでしたよ。
「分かりました。好き勝手やらせていただきます。あ、でも文章とかは可能なかぎりFateっぽくさせてください」
タイプムーンユーザーへの配慮も忘れない男・虚淵玄の職人芸であった。
んで、あれよあれよと話は決まっていき、打ち合わせは続き、なんと一巻の原稿があがったのが2004年冬。ホロウまだできてないっつーのに一巻分脱稿されても!?
(※多忙な方なので2005年は色んな仕事との両立となり、それ以降はようやく人並みのペースになってくれました)
そうした上で「ZeroはFateあっての話ですから、Fateが一般の方に届けられる状況でなければ発刊はやめましょう」という虚淵氏の意向と、コンシューマ版の発売の時期を重ね合わせ、一年以上寝かす事になりますが2006年冬に発表しよう、という流れになった。
以上が虚淵玄氏とZeroの馴れ初めなのでした。
こんな感じで作っている当人たちが一番楽しんでいた企画ですが、物語が完結に向かって走り始めた今、ZeroはFateを楽しんでくれた全ユーザーの期待にそうものだと確信しています。
一巻はまだまだ序の口。いよいよ本戦開始の二巻、激闘と驚愕の三巻、そして絶望の四巻(現在出筆中!)と、引き続き虚淵Fateをお楽しみください。
いやいや。虚淵の聖杯戦争はほんと地獄だぜ。
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フェイト/ゼロ Vol.1「第四次聖杯戦争秘話」
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2006年12月29日初版発行
著者―――――――――虚淵玄(ニトロプラス)
発行者――――――――竹内友崇
発行所――――――――TYPE-MOON
http://www.typemoon.com/
FAX:03-3865-6166 MAIL:info@typemoon.com
イラスト―――――――武内崇
作画・彩色――――――こやまひろかず・蒼月誉雄・MORIYA・simo
ロゴデザイン―――――yoshiyuki(ニトロプラス)
装丁―――――――――WINFANWORKS
印刷―――――――――共同印刷株式会社
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