萱野 葵
ダンボールハウスガール
T
卵色の月が木々の間から覗《のぞ》いている。
さわさわと葉ずれの音が杏《あん》の耳元を優しく撫《な》でていた。
首を持ち上げて月の芯《しん》に目を凝らすと、その中に深い空洞がぽっかりと口を開けて、薄い雫《しずく》を垂らしているように思えた。
菫色《すみれいろ》の雲と夜ふけの柔らかな風……公園の濃い緑の樹木に取り巻かれて生きてゆける自分を、杏は心から幸せだと感じた。夜の空気の中で満ちてくる、甘い初夏の花の匂《にお》いを胸に吸い込みながら、杏はひんやりとしたベンチに静かに横たわった。
若い方の刑事が部屋の中をじろじろと見回しながら、足元に転がった雑誌を踏み潰《つぶ》して歩くのを、杏は不機嫌に眺めていた。入ってきた瞬間から、彼らの不躾《ぶしつけ》な陽気さは変わらない。
「仕事は?」
「辞めました」
「なんだプータローか……だから泥棒に狙《ねら》われたんじゃないの?」
まるで加害者扱いだな、と杏はジーンズのポケットにつっこんだ手を握り締め、唇を噛《か》んだ。
「別れた男にやられたとか。いるの、今」
「別に」
「案外狂言だったりして……これ」
若い刑事が杏をからかうように呟《つぶや》いてにやにやした。
「ああ、結構そうだったりして」
杏は腹を立てて返事をする。
「何しろ大学時代はお勉強ばっかりしてて、淋《さび》しい孤独な女の子だったし」
刑事の顔がちょっと陰り、杏は微笑を悟られないよう下を向いた。おまえらは所詮《しよせん》ノンキャリアだろう、こっちをヤンキー上がりの頭の弱いプータローだと思ってるんだろう。残念ながらあんたとはレベルが違うんだよ、あんたみたいな馬鹿な刑事とは地球が滅びることになっても絶対つきあわないんだよ……お腹《なか》の中ではたぎった油が湯気を立てているが、話が長引くのがいやなので杏は黙っていた。
「これから生活どうするの?」
年上の刑事が現実的な質問をする。
「多分犯人みつからないと思うし……見つかってもお金は返ってこないと思うからさ」
取られたのは二百万円の入った通帳で、しかもすでに引き出されていた。会社勤め時代に爪《つめ》に火を灯すようにして貯《た》めたお金だ。盗まれたことに気付いてからというもの、何も食べられず、代わりに水をガブ飲みしてすごした。なんとか一年何もしないで暮らしていける、ようやくそう思って仕事を辞めたっていうのに。両手を床について、這《は》うようにして電話まで動いた。そして目眩《めまい》を堪えながら一一〇番した。青い光が視界をうろうろして、なんにも見えない。
「取り返せないんですか?」
「……無理、だろうな」
年長の刑事が同情した口調を作って答える。
「なんで」
「そんなヤツがお金持ってるはずないもの……残念だけどさ。まあ、しばらくは実家にでも戻るとかさ。あなたもまだ若いんだから、また働いて取り戻せるよ」
「二百万を、ねえ」
「命取られるよりいいだろ?」
「……」
「襲われるよりいいだろ?」
相変わらず無礼な若い刑事が再びからかうように杏を見た。
いや、その二つの選択肢はいい勝負だ、と杏は舌打ちする。だって二百万だぜ。
「暗証番号が電話番号とか誕生日とかだったんだろ? それでその辺から保険証か郵便物か何か探し出して、引き出されたんだな」
「……」
「返ってこないお金のことなんか考えるよりさあ、誰かに幸せにしてもらいな」
そう言って別れ際、若い刑事が杏の肩をぽんと叩《たた》いた。うるさいなあ、幸せって、つまり金のことだろ? 警察の残していった指紋採取の粉を拭《ふ》き取りながら、杏は泥色の雫が床に垂れるほどぎゅっと雑巾《ぞうきん》を握り締めて、悔しさに堪えなければならなかった。だが、我慢できずに枕《まくら》を力一杯殴り、それを床に叩きつける。チクショー、この手で泥棒を串刺《くしざ》しにしてやりてえ。
その男が捕まったと連絡があったのは、それから一ヵ月も経たないある夜のことだ。付近のアパートばかり三十件も空き巣を重ねていた二十代の妻子持ちの男だった。運送屋をやっていたが倒産して、空き巣で暮らすようになったという。
怒りが受話器の内側で火膨れのように赤く広がってゆく。
「妻子持ち……妻子持ちなんですか?」
「乳児が一人いてね」
「じゃあ、その妻に言って下さいよ。金返してくれって……どうせ知ってたんだろうし」
「それが、そんなヤツの女だからどうせ共犯だろうと思ってたんですが、知らないって言ってるんですよ」
「でも、その妻と子供は、……今飢え死にしてるわけじゃないですよね」
「ええ、まあ」
杏は唇を舐《な》めた。
「じゃあ、子供のミルク代を払う代わりに子供を餓死させれば金を返せますよね。返せないほど貧しいと言っても、生活できてるんだから。死にかけてるわけじゃないんだから」
「いや、結構奥さんも苦しんで、ショックを受けていましてね……」
相手の言葉は「妻」から「奥さん」に変わっている。それに気付いた途端、頭の中でマグネシウムが燃えるような閃光《せんこう》が弾けた。
「それはこっちには関係ない。自殺とかして、自分の保険金で返させればいいでしょ?……運送屋の倒産も知ったこっちゃないです。ちがいますか?」
そう言いながら喉《のど》の奥に大きな玉が詰まって、うまく言葉と息が発せられなくなってしまった。杏は口をもぐもぐさせながら、電話口に向かって、懸命に喋《しやべ》り続けようとした。
通帳の二百万という数字が目の前をちらちらした。その小さな数字の羅列にのみ、すべての恐怖感と不安を溶け込ませて、ちっぽけな安らぎを見いだしていた自分の、幾つもの夕暮れが蘇《よみがえ》ってくる。十日に一度は記帳に行き、その額を眺めながら、果てしなく続く退屈な日没を、窓の枠に座って幸福にやりすごしていた日々。一人で小さなテーブルに向かい、ひっそりと食事をしているときも、熱いシャワーで首筋を擦《こす》っているときも、そして苺《いちご》模様の日光の匂いのしみ込んだふわふわする布団の中に滑りこむ瞬間にも、ただ一つ、その通帳のことを気にかけることだけで、心が温かく潤ったんだ。限りない思い出の詰まった、ブルーとピンクとグレーのカラフルで優しい手触りの通帳……。それらが再び喉に込み上げて、杏は唾《つば》をごくっごくっと飲み込んだが、胸の違和感は消えず、必死で気管の辺りをシャツごしに握り締めた。何だかすごくキモチワルい。
泥棒の家族が目に浮かんだ。せめてヤツが身寄りのない浮浪者同然の中年男だったら……人生を捨ててたなら許してやれる。けど、泥棒とその白痴みたいな妻は自分の快楽のために考えもなく子供を作ったんだ。そして食べられなくなってあっさりウチに入った。泥棒の、きっと太ったニキビだらけの妻は、三ケタのかけ算もアルファベットの筆記体も覚束ない頭で、それでも結構楽しそうに乳母車を押して近所の公園に行く。そして仲間の髪の茶色い目の細い女どもと一緒に、子供を砂場で遊ばせている。夫が泥棒をしようと、妻はいつも被害者で、少し苦しみながらもやはり足りない頭で幸せそうに生きてくんだ。乳母車を押して、少し恐いお仲間の若い母親に守られて。この子には罪はないわよねえ、なんて茶色い頭に真っ赤なピンをしたやっぱりぶくぶく太った仲間が泥棒の家に遊びにきて、冷蔵庫からコーラを勝手に出しながら言ってるにちがいない。妻は少し具合を悪くして布団に入っている。十代から犯罪に手を染め、なんの代償も払わずに楽しく生き続け、泥棒の魂の腐った薄いDNAが頭の足りない女の腹で膨らみ、ぶよぶよした体だけ大きい低能児が出てきただけなのに。そして妻と子供は泥棒が持ってきた杏の金で肥え太る。夫が泥棒だと分かったって自分のたるんだ脂肉と子供のミルクで爛《ただ》れた肉をナイフでこそぎ取って杏に返そうとする気にもなんないで、ひたすら悲劇の加害者の妻を演じてるんだ……。奴《やつ》らの煎餅《せんべい》布団を引きはがして食ってやる。奴らの粗悪な脂だらけの汚い屑《くず》のような肉も、大きな火の上で炙《あぶ》って食ってやる。そうでもしない限り、奴らの低能さと希薄で単純な感情は、せいぜい泥棒と妻の涙の再会と泥棒の平和な社会復帰を促すだけだろう。
「犯人のデータを教えて下さい」
「そう言われてもねえ……名前は……ええと、山田マサヒロ、っていうヤツで、年はええと二十七……市内に住んでます」
「それで……詳しい住所は?」
「それは……教えられないんですよ」
「加害者に人権があるんですか」
杏は唸《うな》るように言った。
「そう言われてもなあ……お金盗《と》られたことは本当|可哀相《かわいそう》だと思いますよ。必ず実刑食らわせますから。……こっちもねえ、あんたが加害者になんか報復とかしちゃうと困るんですよ。加害者といえどもそういう輩《やから》からは保護してあげないとね」
杏の体がかーっと火照った。頭に血が昇り口が渇き、言葉が終息してゆく。
受話器の向こうで静かに電話の切れる音がした。
白パンのようにふかふかとしたモノトーンのベッドの中で、杏は点滴を打たれて横たわっていた。ぽたりぽたりと規則的におちる薬液が、雨の雫《しずく》のように優しく見える。
「気が付きましたか?」
赤ら顔の看護婦が微笑して杏を見た。
「覚えてないかしら……道で倒れて運ばれてきたのよ。痙攣《けいれん》していてね、口から少しだけど泡も吹いてて……覚えてる?」
「いや……警察……行こうとして……」
「警察?」
「……いえ、あの、どの辺に倒れてたんですか?」
「この病院の先にある川の橋のところ……どうしたの? 癲癇《てんかん》の傾向があった?」
杏は首をふった。
「じゃあ、なにかとてもショックなことがあったのね?」
看護婦は優しく杏の髪の毛を撫《な》でた。陽気な微笑を湛《たた》えた逞《たくま》しい丸い顔が近付いてくる。杏は切り口上で答えた。
「泥棒に入られたんです」
「まあ」
看護婦が目を丸くする。
「二百万、盗られて……犯人は捕まったんですけど、お金は返ってこないって」
「あらまあ、それはそれは……それで警察に?」
「だって、二百万ですよ……」
「その泥棒に、何かされた?」
「え?」
「いえ、あんなにショック状態になってたから……ちょっとね」
「お金だけです」
杏はぶっきらぼうに答えた。
「そう。だったら不幸中の幸いかもね」
そう言って看護婦は慰めるように首を傾げながら杏を見る。
杏は軽蔑《けいべつ》して彼女に背中を向け、唇を血がにじむほど噛《か》んだ。
薄暗がりの谷底を思わせる深夜の病院の廊下を、杏は爪先《つまさき》で歩く。首筋に一本、口から吐き出された泡の残りが線のように引かれていて、そこからかすかに金属の匂《にお》いがしている。こっそりと裏口から出る瞬間、出口に置かれた観葉植物のむせるような匂いが、春先の夜の空気をぬって鼻の中に入ってきた。
最後に財布に入っていた八万円だけを身につけて、杏の浮浪生活が始まった。
昼間のうちにアパートを引き払い、夜中になるのを待って、川原に衣装ケースとガラステーブルと布団とテレビとCDラジカセを捨てた。拾っても使えないようにするために、木刀で力一杯ガラステーブルとテレビのブラウン管を殴りつけ、布団をカッターで引き裂いて川に流した。そしてラジカセのCDを入れる部分を靴底で丁寧に踏み潰《つぶ》す。衣装ケースには油をかけて焼いた。プラスティックの焦げる嫌な臭いが、いつまでも川原に残った。
征服の快感に微笑しながら、杏は川原を登る。
家に戻って荷物をまとめると、アパートのそばのカプセルホテルに飛び込んだ。
シャンプーセット、石けん、歯磨きセット、タオル、バスタオル、ビニールシート、ビニール袋十枚、ティッシュ、Tシャツ、ブラウス、ソックス、ストッキング各三枚、ジーンズ、セーター各二枚、ダウンジャケット、ワンピース、厚手のコーデュロイのパンツ、スパッツ一枚、グランドコート、パジャマ、タンクトップ、ブラッシ、ソーイングセット、爪《つめ》切り、ウォークマン、ヒール、テープ五本、文庫本十冊、預金通帳。
それが杏のボストンバッグに詰め込まれた全財産だった。
それから何日かの間、カプセルホテルに泊まりながら、昼間は図書館か公園に行って、本を読んで過ごした。喫茶店は金がちょっとでもかかるから、決して入らない。コーヒー一杯飲んでも、五、六百円はする。よく、コーヒー一杯くらい、と言うが、杏にはまるで理解出来ない。あんな液体を飲むだけで、お腹《なか》の足しにもならないのによく金を払えるもんだと思う。あれだったら牛丼《ぎゆうどん》に生卵を乗せて、味噌汁《みそしる》と一緒に流し込む方がずっと腹が一杯になる。杏は今までも出来るだけ喫茶店というものに入らなかった。どうしても休みたいというときは、ファーストフードで済ませた。だいたい喫茶店なんて無用の長物なのだ。世の中の喫茶店は、全部ファーストフードかレストランにしてしまえばいい。
しかしファーストフードでさえも、今の杏にとって、決して安いと言えるものではない。それで杏は殆《ほとん》ど大体、コンビニエンスストアでご飯を買って食べた。
ホテルから図書館へ直行して、昼までずっと本を読む。十二時になると図書館を出て、近所のコンビニエンスでお握りとサラダとジュースを買って、公園へ行く。まだ少し寒くて、杏は足の先を擦《こす》り合わせるようにして丸くなった。温かいお茶を買えばよかったと舌打ちする。
回りにはサラリーマンや学生が、お昼休みでまばらに座っている。枯れた椿の花が、くしゃっと逆さに地面におちて、褐色に変わった花びらをだらしなく開かせている。杏はお弁当を食べる人々の群れに溶け込んでやろうと思って、きちんといつも十二時に図書館を出、一時には図書館に戻る生活をしていた。
それから一時から五時くらいまで本をまた読み続ける。だがその後、やることは何もなかった。それでまたコンビニエンスに行って夕ご飯を買う。夕飯にはお弁当セットを買う。昼と同じようにお握りで済ますと、栄養失調になってしまいそうだからだ。そして再び公園に行く。昼休みと同じく、またきちんと一時間、六時になるまで意地になったように公園に貼《は》りついている。そして腕時計を睨《にら》み続け、六時きっかりに公園を抜けて、カプセルホテルへ帰っていった。ホテルで横になってテレビを見た。それからたっぷり時間をかけてお風呂《ふろ》に入り、昼間の寒さを全部洗い流してから眠りに就く。
次の日にはまた、図書館へ行った。こんな生活のおかげで、杏の平均睡眠時間は十時間を超えていたし、図書館の本は二割近く読み切ってしまった。初めは暇をつぶすために、読むのに時間のかかりそうな純文学を選んで読んでいたのだが、めぼしい物がなくなってくると推理小説やSF小説に手を伸ばした。それもおもしろくなくなると、インド史やモンゴル史や神道の歴史など手当たり次第乱読し、最後には数学の本まで読んだ。
それに飽きると、川原に行って、土手の樹にぽつぽつと咲いている白い小さな花を摘んだり、公園の池の水面に浮かぶ淡い日の光の輪に向かって石を投げつけてやったりした。木々の間から漏れてくる浅い陽光が杏の体に縞馬《しまうま》のような影を作る。
ポケットに乱暴にねじ込まれた万札が、もう五枚しか残っていない。そのくしゃくしゃの紙が、消えていくたびに、杏の神経はじりじり痛み、擦り切れそうになる。その紙はやがて千円札が数枚と、銀色の硬貨、やがて数枚の茶色い軽い硬貨に変わる。
一日に何度もホテルのベッドの上にそれを投げ出して、拳《こぶし》で擦ってしわを伸ばした。夜はそれをパジャマのお腹のゴムに括《くく》りつけ、硬貨だけをベッドサイドに置いて眠った。公園や図書館の中で、何回も無意識にポケットに手を滑り込ませ、お札の枚数を指で数えていた。このままホテルにいるわけにもいかないよな……。
オーケストラサークルのトランペットや演劇部の発声練習、そして体育会の掛け声を間近に聞きながら、杏は舌打ちする。今はうるさいだけだが、それは数年前、自然なBGMとして聞いていた雑音だった。
新芽を吹き始めている大学の通りの風景に、別に何の郷愁も覚えたりはしないが、杏の足はそこに向かう以外の方法を知らない。
母校の大学は寮があるので、寮生のふりをすれば、夜に構内をうろついていても、べつに怪しまれることもなかった。しかし寮内部ではなく、構内の木々の中で眠るつもりだった。
人の気配の失《う》せた夜九時、茂みに作られた木の葉に埋もれたベンチに、杏はごろりと横たわる。夜はまだ冷え込みが厳しい。朝起きると、腕や足の関節が、ずきずき痛んだ。セーターをベンチに敷き、体の上には羽毛入りのグランドコートを被る。どんなに厚着をしても、空気の一番冴《さ》えざえとする午前四時ごろには夢の中にまで冷気が忍び込んできて、一度目が覚めてしまうのだった。杏は腹を立ててお腹の辺りにずり下がったコートをもう一度首の回りに持ち上げてきつく巻きつけ、目を閉じる。
だが、そうしているうちに、次第に夏の気配が近付いてきた。少しずつ明るくなるのが早くなり、冴えざえとした空気は鋭角を削《そ》ぎおとして柔らかく甘やかなものに変わってきた。紫色の空が紅鮭色にうっすらと焼き色をつけるころになると、もう空気は体を圧迫する刺《とげ》を持ってはいない。
ホテル代が必要なくなったため、後の支出は食事代と、銭湯代、コインランドリー代だけになった。
家を出てから十日に一遍くらいの割合で、洗濯へ行っていた。粘りに粘って一枚のシャツを三日くらい着ていた。最初は気にならなかったが、次第に背中に汗のしみがたまりだす。日中汗ばむと、蒸れたような匂《にお》いが襟元からはい昇ってきた。杏は苛立《いらだ》って、大学のトイレで、石けんを擦りつけて力任せに洗った。洗剤と違ってよい匂いはせず、脱水を省略した重い洗濯物は、杏の枕元《まくらもと》の低木の上に無造作にかけられたまま、枝をしならせる。
パジャマなんていらなかったな、と乾いた洗濯物を詰めるために鞄《かばん》の中を整理しながら杏はまた舌打ちする。カプセルホテルではそれなりに役に立ったが、今はいつも外で暮らしているので、全然使うこともない。質に入れることもできない。しかしもしかして必要になったらと思うと、捨てることも出来ない。どこか怪我《けが》をして応急処置の包帯にしたり、ジーンズの膝《ひざ》が切れたときの当て布にしたり、冬になったらシャツの下に着て、寒さをしのいだり――。
畳んでしまった洋服を全部鞄に入れて持って、杏はまだ明るいうちから銭湯にでかけてゆく。湯が濁ってないうちに。毎日入る習慣だったから、体がべたべたするような不快感がついてまわったけれど、二日に一度だけに抑えていた。
ボストンバッグを抱えての移動だが、鞄はそれほど重くない。金はタオルの内側に隠したスーパーの透明なビニール袋に入れて、浴場に持って入った。帰り道で、湿ったお金をハンカチに挟んで乾かしながら歩くのが、楽しかった。寝る前には必ず大学の公衆電話の脇《わき》にあったメモ用紙を集めてきて、一日の支出と残高を細かく計算する。コインランドリーが一回二百円、洗剤が百円。月に三回で九百円。銭湯が一回三百四十円、月に十五回で五千百円。雑費はこの合計の六千円だ。
交通費は一銭もかからなかった。銭湯とコインランドリーと大学の三地点を、繰り返し動いているだけだからだ。
食費は一日二食に抑えて目標は八百円と決めた。
コンビニのお弁当は、最近学食に入れ替わった。値段がコンビニのお弁当と同じくらいで、コンビニよりずっとまともで、ボリュームがあるということが分かったからだ。それでも杏は安いものを選ぶ。そば、うどん類をメインにして。サラダは毎日大量に食べる。大学にはこのごろ新しい学食が出来て、そこのサラダは若布《わかめ》とコーンがたっぷり入っているので、杏はそこにばかり通い詰めていた。そば、うどんで栄養が澱粉《でんぷん》と脂肪に偏り過ぎていると思うときは、蛋白質《たんぱくしつ》を摂《と》るために、豚肉の生姜焼《しようがや》き定食やハンバーグ定食などを貪《むさぼ》り食べた。これにはサラダがついてくるので、サラダ分の金は浮く。そば・うどんが三百円台、サラダが百五十円だから、四、五百円の定食を食べても、そば・うどんにサラダを食べた場合と比べて高くはつかない。ときに贅沢《ぜいたく》をしたくなると、六百円の握り寿司定食を食べた。食券を回収し忘れる店員がたまにいる。そうするとそれを何回も使って食べてやった。楊子を歯茎に垂直に突き刺して、杏は嘲笑《あざわら》うように店員を見る。どん臭いヤツ、あいつがカウンターに入ってるときにまた来て、何回でも同じ券を使ってやろう……。
これが月に三十日なので、大体三万円になった。
でも、杏は食費には支出表をつけてはいなかった。なんとなくその日、たくさん食べたくなれば、千円を超えても食べてしまった。そして次の日、出来るだけ安く抑える。ジュースも買ったし、チョコレートやポテトチップスも買った。
健康を損ないたくない。それが一番の思いだった。今ここでちょっとの食費を倹約することが、後に多額のクスリ代や医療費を招くんだと思う。
昼休みは学生でいっぱいなので、杏の食事時間はかつてのようにサラリーマンやOLと同じく十二時に始まって一時に終わる、というわけにはいかない。杏の昼ご飯は十一時になったり、二時になったりした。しかし何時に食堂にいっても、必ず回りで学生たちが喋《しやべ》りに興じながら食事をしている。まるで野生の豚みたいにうるさく肥えた連中だ。うどんを啜《すす》る杏の横でレポート用紙をめくる音が耳障りで、杏は女が隣の女と話をしている間にうどんの汁をレポート用紙の上に飛ばす。女が振り向く前に杏は立ち上がり、トレーを片付けに戻る。アメフトの薄汚いユニフォームをつけた体育会の男たちが数人、大げさな身振りで仲間に手まねきをしている。
雑費をゼロにする方法を思いついたのは、そういう男たちを一週間ばかり食堂で見続けたある日のことだ。毎日あいつらを見ていたのだから、もっと早く思いつけばよかった。それはシャワーと洗濯を大学の体育会の更衣室でやるという方法だった。
洗濯機とシャワーの使用料はタダなので、必要なのは洗剤代とシャンプー・リンス、石けんだけということになる。このおかげで、月々の「雑費」は千円以下になった。それらの商品も大学の購買部で買ってくるので、定価の二割引きになる。
結局杏はもう殆《ほとん》ど学校から出なくなった。あらゆる生活必需品は購買部で買ったし、食事、洗濯、入浴、睡眠とすべての生活を大学内でこなした。学校に住むと、これほどまでにお金がかからないものなのか、としみじみと思う。もしも宿無しになりたい人がいたら、学校に住めばいいんだ。
「何してるっスか?」
熟睡していた杏に、不意に熊のようなものが話しかける。次第に冴えてくる視界に目を凝らすと、首にブルーのタオルを巻いた若者が立っている。
「具合でも悪いっスか?」
杏はベンチの上にむくりと起き上がって時計を見る。七時半だった。
「大丈夫ですか? こんなとこで眠っちゃって」
「……」
若者はジョギングの姿勢を崩さない。
「この大学の人っスよね」
「……」
「オレ、入ったばっかりっス……何年生の人っスか?」
「もう卒業した」
杏はむっつりして答える。
「ここの卒業生の人なんスか……何だ」
彼は人懐こい笑みをうかべる。
「じゃあ、サークルの指導かなんかで……へへ、昨日遅くまで飲んでたんでしょう。俺《おれ》、学寮に住んでるっス。女子寮もありますから寮のロビーのソファで仮眠した方がいいんじゃないスか? 案内しましょうか。こんなところで――」
「うるさい」
杏は低い声で答えた。
若者が弾かれたように口をつぐんで、しかし、じゃ、失礼します、と礼儀正しく言って再びジョギングの姿勢で去ってゆく。
杏はまたベンチに横たわった。
だが、この出来事以来、大学の茂みのベンチで、体育会系の学生たちが登校してくる七時ごろには目を覚ました。
昼まで寝ていたいが、学内有名人にされてしまうだろう。学生新聞が取材にくることだってあるかもしれない。そうしたら取材料を何とかうまく巻き上げてやりたい。でもそうしたら学生でないことがばれて、追い出される。
だから浅い眠りのために朦朧《もうろう》とする目を擦《こす》りながら七時には起きた。そしてひたすらやることはなかった。二時間その辺をやみくもに歩きまわり、九時の始業とともにすでに冷房を入れ始めた図書館へなだれこむ。大学に住みついてからは、学内の図書館にしか行かなくなった。杏の母校の図書館は十階建てのかなり大きなビルだ。そして洋書ばかりが多い。
杏は最初、やはりまえと同じように、純文学を読み続けた。まえの図書館よりは詳細に、隅々まで読み込んだ上に、気に入った本をむぞうさに読み直す。それからわずかに置いてある推理ものやSFものを本棚から乱暴に引きぬいてくる。
それが終わると哲学書や教養書に手を伸ばしていった。カントだのヘーゲルだの、大学入試のとき世界史で名前だけ聞いたことのある哲学者の本を見付けだしてくる。さっぱり理解出来なかった。杏は分からないまま、ただ文字を眺め、呟《つぶや》くように頭に入れ、唇を引っ張ったり目の脇《わき》を擦ったりしながら読み続けた。
本がおもしろくなくなると、杏は突然席を立つ。
空調の音が大きく響く図書館の人気のないトイレに、杏は数冊の重い本を持ち込む。そしてカッターナイフで本の中身を丸や三角や星形にざくざく切り刻んでトイレの窓からその断片を投げつける。紙が雪のように暗い建物の狭間《はざま》に舞い降りてゆく。杏は笑って手を振ってやる。
小さな興奮に浸ったまま、広い張り出し窓から外に目をやると、樹木の葉の一枚一枚がこっちをじろじろ見詰めている。夜、その中で眠る自分の勇敢さを、皆に吹聴してやりたい。こんな勇敢さってのは、そうそう持ってるヤツはいやしない。
図書館の難しいスペイン語の雑誌を、杏は絵を見るようにぼんやり眺めて時間をつぶした。湿った本の間から漏れてくる南国の匂《にお》いの中に、オレンジの樹や、岩塩の上に疎《まば》らに草の生えた平原や、干上がった太陽が立ち上がってくる。
大学のメインストリートでは、学生たちが髪を掻《か》き上げながら風の中をゆっくりと歩いてゆく。
杏のポケットの中のくしゃくしゃの紙切れは、とうとう一枚残らず消えてしまった。カットオフジーンズのポケットの襞《ひだ》を裏返して、杏はため息をつく。それからぱんぱんと乱暴にポケットを叩《たた》いて、鞄《かばん》を腕に抱えた。
それから周囲を威嚇するように見回すと、大学を後にする。まず食料を漁《あさ》るために。大学にいれば、得られる食料は限られてくる。学内のゴミ箱は学食の残り物くらいしか入っていない。それから購買部のお菓子、ジュース類。と言っても品数は少ないし、何より一番困るのは、街中のレストランやファーストフードのように、すこし古くなった物はすぐに廃棄するということがないので、手付かずの大量の余り物に、ありつけないことだった。
そもそも人の食べ残しなんか、この自分が食うべきもんじゃない。ちょっと冷えたハンバーガーやフライドポテトなんかが、そのまま捨てられているというシーンが、頭の中に朧気《おぼろげ》にあった。世間ではそれを憂えているが、その恩恵に今与《あずか》れるのだ。杏の足は自然にファーストフードに向かっていた。
適当なファーストフードを見つけ、その裏の方へ回ると、開いている調理場から調理人らしき男が杏を見て、胡散臭《うさんくさ》そうな顔をする。杏は男を睨《にら》み返して素通りした。
考えてみれば、夜にならなければ余りも出ないだろうし、店員もいなくはならない。杏は諦《あきら》めて駅の方へ戻った。冬になったら寒くて大学のベンチでは眠れない。学寮もムリだ。それで考えた挙げ句、駅の構内で眠ることに決めていたのだった。
寝心地のよさそうな、柄がわるくなく、そして他人に無干渉な野宿者たちのいる駅をいろいろと思い浮かべる。上野は見るからにヤバそうだったし、下北沢はあまり利用者がいない。いないということは、駅をゆく人々からの注目率が高くなるということである。駅内住人からの干渉だけでなく、歩行者たちからの干渉もきっと多いだろう。それに利用者がいないということは、多分下北沢の駅が、住むのには好環境じゃないからに違いない。だいたい「野宿」と言えばJRのような気がした。私鉄駅に野宿者は似合わない。杏は結局|渋谷《しぶや》か新宿に絞った。東京でも最も大きな駅で住人も多く、上野と比べればまだヤバいイメージも少ない。
どっちにしようか、と迷って、一瞬のうちに結論が出た。よく考えれば、新宿以外道はなかった。大学が新宿の方に近いのだ。洗濯とシャワーはまだ大学で済ませるつもりだった。それに夏冬には図書館にも避難したい。新宿からだったら、大学まで歩いて行ける。
杏は今、ハンバーガー屋が閉店になる時間まで、新宿駅の構内に行って座っていようと思った。しかし、よく注意して見ると、構内には住人は少なかった。正確には、住人は西口地下通路への改札を出て都庁方面へ抜ける、外の空気をもろに受ける場所に、固まって住んでいた。ちょっと前に行なわれた強制撤去で、一時住人は減ったようだが、結局行くところのない人々は、以前より数は減ったものの、ここに戻ってきていた。ここでは雨露はしのげるが、灼熱《しやくねつ》の暑さも冬の寒さもしのげそうもない。今はロータリーに停車しているタクシーの排気ガスを真っ向から吸い取って、臭気に膨らんだ熱気が一挙に押し寄せているし、冬はきっと外よりも少しは暖かいだろうが、そんなものは真冬の電話ボックスの中での夜明かしと、さして変わらないだろう。
――ったく使えねえな、新宿。
杏は腹立ちまぎれに前方から来る邪魔な通行人にぶつかりながら歩いた。
東口改札を抜けたメトロプロムナードにも行ってみた。こちらは新宿三丁目方面と西口を結ぶかなり長い地下通路で、何よりも涼しい。通路中に冷房を効かせているのだろう。しかしこんな、好環境なところに、住人が殆《ほとん》どいない。いないということは条件がわるい証拠だ。多分夜になると、駅員が追っ払いにくるに違いない。
選ぶ余地はなさそうだった。
「ここじゃ、灼熱攻めじゃん」
癖になってるいつもの舌打ちをしながら、杏は西口へ行った。
ハンバーガー屋が閉店したあと、杏はその裏口へ行った。排水口からむっとする風と油と残飯の臭いが立て続けに襲ってくる。確かに雑誌で見たように、たくさんの手付かずのメニューがゴミ箱にぶち込まれていた。他の連中と鉢合わせするのはいやだったから、急いでハンバーガーのきれいで新鮮そうなのを探しにかかる。真ん中の方のものを慎重に取り出すと、それはちょうど型崩れもしていない。そのうえたっぷりとソースとマヨネーズがかかっていた。
「食べられそう……かな」
杏は多少緊張ぎみにそれをしげしげ眺める。そしてさらに大盛りのポテトと、デザートのアップルパイを取り出した。
そのときふと、大切なことに気付く。ジュース類は流してしまうので、余りというものが存在しない。となると……これからさき永遠に、手付かずのジュースを飲めないってことか。たまに百二十円拾うことが出来ない限り。それに百二十円を拾うのも苦労がある、と杏は地面を蹴飛《けと》ばした。百円だけ拾ってもすぐ自販機へ走ることもできない。それに二十円だけ拾っても、何も買えない。ジュースを買うには二十円拾ってから百円拾う機会を辛抱強く待たなければならないし、百円を拾っても、二十円を見付けることを願うしかない。
そう思うと、急に喉《のど》が渇いて耐えられなくなってきた。今日のところは公園の水を飲むしかない。いつか飲み残し、あるいは食べ残しに手をつけなければならなくなるにしても、出来るところまでは手付かずのものを食べて過ごしたい。
杏は拾いだした食べ物を抱えると、近くの新宿中央公園へ行った。暗い公園の木々が、ざわざわと音を立てる。何かの生き物がうごめいているように見えて、杏は背中が寒くなった。手早く食べてあの西口地下通路へ戻ろうと思った。ハンバーガーとポテトを貪《むさぼ》り食うと、腹の芯《しん》が暖かくなってくる。だが乾いたパンに水気を吸われた口の中が、ごわごわと膨れあがってくる。両方同時に食べ終わると、水道に走って水を飲んだ。それからいい気分で、アップルパイをたいらげる。
泡が縁まで盛り上がったコーラやジンジャーエールが頭に浮かんでは消えた。
どこかでバイクのエンジン音がし、やがて遠ざかってゆく。次第にひんやりとしてきた空気は、結構美しかった。
杏はゴミを片付けると西口へ向かって歩きだした。
それから三十分後。杏は地下通路を出て、先ほどの公園へ歩きだしていた。
「こんなこと出来るかよ……」
お腹《なか》の中でぶつぶつ言って、杏は壁を蹴りつける。それから通路の壁に貼《は》りついて、しばらくじっとしていた。しかしどうしてもしゃがむきっかけがつかめなかった。一気にしゃがんで、壁に寄りかかってじっと目を閉じればいい、それだけのことなんだ。でも実際やるとなると、電車の網棚に乗ってみるとか、公園で噴水に入っていくときのような勇気が、必要になるのだった。
だがそんな勇気を出してちょっとしゃがんでも、人が通りかかるたびに、立ち上がってしまう。
そうするうちに杏の足は自然に元来た道を戻っていた。公園なら少なくとも人の目は気にならない。なにしろ回りは樹だけだ。変なヤツが近付いてきたら、すぐに樹の中へ隠れてしまおう。そうでなければ公園内の派出所のまえの辺りをうろうろしよう。そう考えると逆に西口よりも安全な気がして、杏は公園へ向かった。
それに緊張して、どうせ今夜は眠れやしないだろう。
先程座ったベンチにはもう何枚かの木の葉が積もっていた。握り締めるとそれは乾いた音とともに手の中で分解してゆく。
木々の梢《こずえ》がひどく音を立てた。杏はぴくっと体をすくめて膝《ひざ》を抱え、夜に立ち向かう。
しかしその瞬間、杏はぴくんと弾かれたように地面を見て、そこに反射する淡い光に目を凝らした。ゆっくりと視線を空に移すと、そこには柔らかな卵色の月が雲間から丸く顔を覗《のぞ》かせていた。
恐かねえよ……底知れない奥行を感じさせる滑らかな月に向かって、嘲《あざ》ける笑みを浮かべてやった。
夜露に濡《ぬ》れた楡《にれ》の葉が、靴の裏に貼りついている。杏はゆっくりと回りを見回し、そしてベンチに横たわった。
腹が痛い。拾ってきたもののうちのどれが悪かったのかは分からない。少し白っぽく膜のかかっていたポテトを、味が変わってないからといって全部平らげたせいか。それともハンバーガーに雑菌が繁殖していたのだろうか。そのせいかその後、杏は脂肪の多いジャンクフードばかりの生活でも、太ることがなかった。
それでも食欲が衰えないのが不思議だ。
いいものだろうが、悪いものだろうが、とにかく体に入れる、そして出す。その繰り返しをやってれば、何とか生きてけるはずだ。お腹の中ではきっとたくさんの菌糸が喧嘩《けんか》しているに違いない。そんなもの、水で薄めれば治るだろう。
ひねりすぎた水道の蛇口から水が飛び散って、杏のTシャツをびしょびしょにする。シャワー代わりだな、と頭を水道に埋めて指の腹でがしゃがしゃと擦《こす》った。そのシャワーの向こうに、暑さに上気した樹木が、美しく枝をきらめかせていた。金の糸のように、弧を描く水が、杏の髪から滴りおちている。
日が陰り始め、鳥が木々の上の方からばさばさと音を立てて去っていった。そうすると急にあたりが暗くなって、森は涼しくなる。杏はようやく食料探しに腰を上げる。
ファーストフードには必ず手付かずの食物があった。だから杏は決して食べられないくらいの量のハンバーガーを拾ってくることはない。しかしちゃんと翌日の分はキープしておいた。最初の夜、一回分の食料しか貰《もら》ってこなかったために、次の日夜になるまで空腹に悶絶《もんぜつ》していたのだ。
本当に切羽詰まれば、他人の目など関係なくゴミ箱を漁《あさ》るのかも知れないが、今はそこまでしたくない。それで最初の夜は公園の水をがぶがぶ飲んだ。そうすると、何となくお腹が満たされた。
しかしその教訓で、次の日の分を用意しておくようになった。杏はもともと朝食を摂《と》らないから、昼時の分と合わせてふたつのハンバーガー、ポテト、そしてときに萎《しな》びたサラダ類を拾ってくる。
それからファーストフードに飽き足らなくなって、レストランを探すようになった。レストランにも意外と作り残しがあった。レストランの店員を外から見ながら、彼らと親しくなって、自分のためにスパゲティーなんかを作らせたいもんだ、と杏は思う。おろし大根と明太子のたっぷり乗ったサラダうどんが目の裏側に甘く浮かぶ。それからトマトソースの夏野菜の冷たいスパゲティー。それに大振りの氷を瑠璃色《るりいろ》のカットグラスに浮かべたテオレグラッセをつけて。でも、そこまではありつけなくても、昼間のうちに新宿を歩き回ってめぼしいレストランを探しておくと、結構多彩なメニューにありつくことができた。ラザニア、マカロニグラタン、海老《えび》チリソース、ピザ、フライドチキン、卵やき……。しかも持ち帰り用のパッケージにきちんと包まれてきれいに残っている。
それからお金を持っていたころよく食べていたコンビニのお弁当。ある夜ふっとコンビニのまえを通ると、売れ残りのお弁当が捨てられていた。杏は人通りが途絶えるのを苛立《いらだ》ちつつ待って、一括して捨てられているビニール袋の中に首を突っ込む。賞味期限の過ぎたものばかりだったが、ごくたまにまだ期限の切れていないお弁当が出てきた。
食べ物を拾って帰るとき、粗大ゴミ置き場に古びた炬燵《こたつ》の板を見付けた。それを背負って公園に行き、ベンチに置くと、いい机代わりになった。ベンチと違って平らなその板の上に、杏はハンバーガーとポテトを半分に割って置いた。半分を机の向こう側に置き、半分だけを食べる。板の木目に、傷が何本か幾何学的な模様を作っている。裏面は緑色のけばだった布張りで、たくさんの埃《ほこり》がこびりついていた。口の中にマスタードの辛さが急速に広がる。反対側に置いたハンバーガーを何となく地面に叩《たた》きつけて足で踏み潰《つぶ》すと、紙の中からケチャップソースが激しく飛び出して、杏の靴の側面を安っぽい赤色に染めた。
いつも大学まで歩いていって、体を洗う。シャワールームの狭い空間で、現金を持っていたころに購買部で買った最後のシャンプーをひねり出して、杏は回りを見回した。白っぽい雫《しずく》の滴るシャワーカーテンの裾《すそ》から始まって、湯煙のたつシャワールームの隅から隅までを舐《な》め回すように見て、杏は今まで自分がそれらの物を全然視野に入れなかったことに驚いた。自分が持っていたころは、本当に気付かなかったのだ。使い捨てシャンプーはパックの中に半分以上あるのがあっさり置き去りにされていた。石けんなど、シャワールームの石けん置きの上に、大きい石けんがそのままになっている。
それらを拾いまくっては片っ端からタオルにくるむ。シャンプーの甘い果物の香りがむれたタオルから立ち上がってくる。石けんの表面が溶けかけているのにひやひやしながら、杏はそれを腕に抱え込んで持ち帰った。
洗剤も切れていたから、洗濯をするときにもおちているものや置き忘れを探した。洗剤の置き忘れはとても少なく、ようやく洗濯機の裏側に、埃まみれの洗剤の小さなパックを見つけるまでは、風呂《ふろ》用の石けんを泡立てて使わなければならなかった。
もう大学にいたころと違って、そんなに頻繁にシャワーや洗濯に通うことも出来なかった。初夏の太陽は頭の芯《しん》を直撃する。線路と平行に歩きながら、時折追いぬいてゆく電車を杏は睨《にら》み、その冷房の効いた小さな箱に納まった連中を声を出して呪《のろ》った。そうする間にも、熱気が容赦なく杏の耳めがけてぶち当たってくる。杏は洗濯物をためるだけためこんで、溶けかけたアスファルトに時折足を取られながら、大学への道を全財産を抱えて歩いた。
しかし杏が新宿中央公園にいたのは、一週間だけだった。絶えず襲いかかってくる虫の大群に、怒りが爆発したのだ。
寝転んだ杏の足元に、木々の隙間《すきま》から放たれた蚊の大群が、一晩中休むことなく襲ってきた。それも眠りにつくときには羽音をまるでたてず、翌朝トイレの鏡を覗《のぞ》き込むと、右目の目蓋《まぶた》が膨れあがっているのだ。目のまわりは掻《か》きすぎて、その日の昼すぎには皮膚が破れて血が小さな穴から盛り上がってしまった。目をハンカチで隠すようにして、杏は近所の雑貨屋へ歩いていった。そして蚊遣りブタを買ってきて、ベンチの下に置いて寝た。傍の池に、ボウフラが涼しげに泳いでいるのを見て、杏は目につく小石を次々に池に投げ込んでやった。
蚊取り線香は蚊以外の虫を追い払ってはくれなかった。ときどき木の間からおちてくる毛虫や耳元でじーじーと動き回る羽虫、ベンチまではい昇ってくる蟻……。
行くところは西口しかなかった。七日目の朝、森を出ると、地下通路をふらつき、一番眠り易い場所を探した。
しかし歩行者の視線を避けることと、他の連中からからかわれたり変なことをされたりするのを避けることを考えると、構内で暮らすのを想像するだけでうんざりしてしまう。最初に考えていたよりは、駅で眠ることはずっと不快なことだった。
杏は意識的に、そういう住人たちを観察しながら、ふらふらと地下通路を歩いてゆく。
たくさんのダンボールの家が、地下通路に軒を並べている。これじゃん! それを今まで全く視界に入れていなかったことが、不思議に思えた。
一つだけのダンボールに荷物を詰め込んでいるヤツ、二つ分くらいのダンボールで作られた狭い家から首を出して眠るヤツ、そして畳一畳半くらいの広さのあるダンボールの家にすっぽりと入って眠り、その傍には乳母車にいっぱいの家財道具を乗せているヤツ……。大きなダンボールの住人の屋内には、新しい布団一式が置かれ、風除《かぜよ》けにたくさんの傘が、家の回りに張り巡らされていた。
その箱の群れは新鮮なコルクの匂《にお》いを感じさせ、丸く敷き詰められた西口通路のタイルの上でカタカタと時折陽気な音を立てていた。
吸い寄せられるようにそれらの回りをぐるぐると回り、その淡い茶色の脆《もろ》い家々を眺めた。夜まで待って、ダンボールを探しにいくことにした。近所のゴミ置き場のダンボールはとても汚かった。奥の方に積まれているものは食べ物やジュースが付着して湿っていたし、上の方のものは水や唾液《だえき》が必ずひとつはこびりついている。ため息が思わず漏れる。その日は虫に堪えて公園で眠った。
翌日、杏は再びきれいなダンボールを見付けに歩き回った。オフィス街や電化製品店街を中心に、書類やコンピューターなんかの入っていた箱を探す。みかんやなすの空き箱は、やはり使いたくない。捨てられている多くは、小さいダンボールばかりだった。杏は家具屋や楽器屋まで回った。灼熱《しやくねつ》の日差しが、タンクトップからむき出しになった肩をじりじりと焼いている。
それでもその日の夕方には、いろいろなところからかき集めてきたダンボールで、かなり大きな家を作れるメドがついた。とにかく一分の隙もなく作らねばならなかった。ちょっとでも外から見えると、女の宿無しだとばれてしまう。
家作りに取り掛かった。通行人がじろじろ見ながら通り過ぎてゆくが、知ったことではなかった。
ダンボールの底を外して、筒状にして、繋《つな》げる。小さいものだと、解体して一枚の平面にしてから、二つか三つつぎ接《は》ぎにしたものをひとつの面として使用しなければならない。それは手間のかかる仕事だった。鋏《はさみ》やガムテープも必要で、そんなに手間がかかるにもかかわらずバランスがわるい。いつ崩れるか分からない。だから杏はもともと大きな箱を拾ってきて、筒状に縦に並べるだけで高さ、幅、奥行のかなり豊かな家を作った。鋏もガムテープも、もちろん使わないで。
中に入ると、しゃがみ込めるくらいの高さがある。横たわっても、アタマから足まですっぽり入る。幅は両手を広げられるくらいである。
中のコルク臭い甘い空間にわずかな隙間から入りこんでくる光の筋と、不思議な匂いのする温かい風が心地よかった。杏はその優しい広がりの中に、どすんと身を埋める。箱の下の石のタイルが、ひやりとする。紙の上から、そっとタイルを触ってみる。指先に僅《わず》かな碁盤目状の筋が伝わってくる。ようやく蟻や毛虫から解放され、ほっとして横たわろうとすると、弱った蚊が一匹だけよれよれになって杏の前に飛び出してきた。思わず手のひらで力一杯|叩《たた》きつぶすと、びちゃっと音をたてて、誰のものかわからない鮮血が、杏の手の中で弾け飛んだ。
食料探しのマニュアルも覚え、入浴と洗濯のメドが立ち、そして家作りが済むと、杏は再び暇を持て余してしまう。それでこの辺の図書館に、また通い出した。それまでは昼間も、よりよい食べ物屋やダンボールを見つけるために歩き回らなければならなかったから、図書館に行くのは久しぶりだった。
図書館のコピールームの鋏をトイレに持っていって、伸びすぎた前髪を切る。目を通り越して鼻の下まで伸びている薄い茶色のくせのない髪を、杏はむやみに指で引っ張った。それから注意深く後ろと横の髪の毛をざんぎりにする。耳の下で不揃《ふぞろ》いに尖《とが》っている髪は、その丈のまま首の後ろまで一周していた。
鋏はタダで使うことができたから、細かいもので不自由するのは、歯磨きだけだった。トイレにもシャワー室にも、置き忘れがなかった。どんなにチューブをつぶして中身をひねり出しても、もうさすがに何も出てこない。それで、気持ちわるいのを我慢して、歯磨きなしで磨いていた。歯ブラシの方ももうケバだっていたが、買い替えられないのでそのままだった。
朝十時に起床、図書館へ向かう。昼になると、近くの公園で、前日拾ったご飯を食べ、また図書館へ戻る。三時くらいになると大学へ行ってシャワーを浴び、ときに洗濯をし、今度は大学の図書館で、閉館時刻の八時まで本を読む。これで、少なくとも八時までは暑さから逃れられる。それからしぶしぶ図書館を出て、新宿に戻る。その後ダンボールの家の中で大の字に寝ていて、食べ物屋の閉店時刻になると家を出て拾いにゆく。そして帰宅。家の中で食事をして、それが大体二時半くらいになる。その後就寝。
そんな生活が乱れることなく続いている。
ときどき、昼間、図書館に行くときに彼らの家を横目で眺める。ダンボールの角から、レモンイエローの不気味な液体が沁《し》みだしている家があったりして、杏は顔をしかめた。通路よりもさらに、階段の脇《わき》や踊り場などの方が、一層強くアンモニアの臭いを発酵させていた。痕跡《こんせき》などどこにもないのに、臭いだけが強固に生き続けている。
階段脇の防火用水の栓を勝手に開けて、ジュースの空瓶に水を溜《た》めて飲んでいる男がいる。それから、顔を洗っている。水の勢いが強すぎて通路がびしょびしょになっている。腰にはコンビニの袋をぶら下げていた。
それらいろんな液体がこっちまで流れてきたら我慢ならない、と杏は思う。
しかし連中は、はじめの心配に反して、あまり干渉してこなかった。出入りするところを見られていないわけはないのだから、女が住んでいることは知っているはずだ。なのに嫌がらせをされることも、話しかけられることさえも殆《ほとん》どなかった。
駅の物産展の陳列台から転がり出た無傷の桃を、トイレの水道でよく洗って、杏はダンボールに寝転びながら頬張《ほおば》る。熟れた爽《さわ》やかな汁が、口の中に溢《あふ》れてくる。淡い赤紫色の果肉が、前歯でこそぎ取られるたびにきゅっきゅっと音を立てた。天井から垂れた細い蜘蛛《くも》の糸が、かすかな風にゆれている。
新宿の歌舞伎町《かぶきちよう》からコマ劇場へ抜ける道を、杏はしかめつらをして歩いている。夕方から少し涼しくなったので、シャワーを浴び洗濯を終えた後、遠回りをして散歩しながら帰ろうとして、にわか雨にあったのだ。急いでコンビニに逃げ込んだが、サンダルから覗《のぞ》く指先とブラウスの肩の部分だけはびしょ濡《ぬ》れになってしまった。ようやく乾き始めた路上を横切りながら、杏は前から来る学生の集団を見ないですむように地面を向いて歩いていた。そのとき濡れた小さな紙から浮き上がってくる文字に出合ったのだ。
フリードリンク・フリーフード
そこにおちている五十枚近い券をすべて拾い、よく覗き込むとクラブのタダ券だった。杏は無造作にそれをポケットに入れた。そしてダンボールの中でしっかり点検する。
そのうちの半分はハンバーガーのタレだのガムだのがついていて、使いものにならなかったが、汚れの少ないものは濡らしたティッシュで巧妙に拭《ふ》いて、きれいにした。
その夜、タダ券を持って歌舞伎町のそのクラブへ行った。入り口の女はそれを見せると、少しイヤな顔をして傍にいた黒服に合図する。黒服は無表情に、杏を中のボックス席へと案内し、灰皿を置くと去って行った。
格好をつけるために、昨日ベンチで拾った煙草を取り出す。周囲の人間たちが自分を薄い微笑で眺めているような気がして、杏は無意識に回りを睨《にら》みつけるように見回していた。
高校生の多いありきたりのクラブだった。客の服装もカジュアルで、杏のタンクトップにジーンズ、サンダルという格好も全然不釣合ではない。
杏は気取った手つきで煙草をつぶすと、じろりとフードコーナーを一瞥《いちべつ》する。拾い物しか食べていなかった喉《のど》が、ごくっと音をたてた。
湯気のたつカレーがあった。飴色《あめいろ》の大学芋があった。ホワイトソースを絡めた貝の入ったスパゲティー、真っ赤なプチトマトがたっぷりと乗っているサラダ、フライドチキン、ポテト、アンデスメロンの薄切り……。
喉から溢れ出てきた唾液《だえき》が、口の両脇に向かってはみ出してくるのに、それほど時間はかからなかった。皿にはサラダのドレッシングと大学芋のタレが混じりあい、糸を引いていた。口の中に詰め込まれたものが咀嚼《そしやく》される時間は殆どなかった。席に戻ることもなくフードコーナーのそばに棒立ちになって、杏は皿を空にするために必死に食べた。果物はフォークを使わずに三切れずつ一遍に口に放りこむ。甘さも辛さも感じなかった。
割れるような音楽が暴力的にお腹《なか》の底に響いてきて、杏の咀嚼に拍車をかける。額にうっすらと汗がにじみ、とろけそうな意識の中でひたすら機械的に食べ続けたあと、急激な満腹感が突然殴りつけるように襲ってきて、ようやく杏の手は皿の上で止まった。
それから今度はドリンクを取りに行く。メロンフィズをなめるように飲んだが、杏の視線はまだ食べ物の方を向いていた。ラムコークを飲むと、急に目がとろんとし、騒々しい極彩色の店内が、遠ざかっていった。
もともと踊る気なんかない。ダンスフロアを醒《さ》めた目で眺めながら、杏は噛《か》み千切るように煙草をふかす。時折苦さとまずさに咳《せ》き込みながら。
もちろん客は全部高校生というわけではなかった。OL風の三人組が懐かしそうに軽く腰を揺すっている。仕事の帰りなのか、スーツ姿だ。普通の通勤着よりは多少気張っているところを見ると、今日のクラブは前からの約束だったのだろう。
そこへ、三人組の茶色の髪の男たちが近付いてゆく。OLたちがカクテルを飲んでいる脇に立ち、なにか話し掛けている。口紅を前歯につけたOLたちが大きく口を開けてげらげらと笑う。なにを言って笑わせたのか、杏の位置では聞こえない。煙草のフィルターをぎゅっと噛んで、杏は舌打ちし、鼻から笑い声をもらす。
杏は口の端にだけ微笑を残して、光の輪の中に溶けている彼らを眺めた。
再び暴力的な空腹が戻ってきたことに気付いて、煙草を乱暴につぶすとフードコーナーへと足早に戻っていった。厨房《ちゆうぼう》から新しく、湯気のたつトマトとニンニクのスパゲティーが運ばれてきていた。
駅のトイレはだいたい地下鉄の方が綺麗《きれい》だった。新宿駅の地下鉄のトイレは東口まで歩かなければならないので、急いでいるときには役に立たない。しかし、暇を持て余して、終電が終わった直後の静かな地下道を散歩しながらトイレに行きたいと思うと、杏はスキップするように東口まで歩いてみるのだ。
トイレの床のタイルの目が、JRのトイレより大きくて白っぽく、どことなく会社のトイレに似ているのだった。それに比べるとJRのトイレは、中学校のトイレのようにしか見えない。
どちらのトイレを選んでも、ときにはトイレットペーパーがついていて、ときにはついていなかった。杏はトイレットペーパーのついているトイレから、ロールを抜き取って持ち歩いていたから、困ることはなかったが、もし今自分が急死したら、トイレットペーパーが鞄《かばん》から出てくるんだと想像したときだけ、涙が出そうになった。
トイレの床をふと見ると、ティッシュペーパーの空き袋が、何枚も転がっている。中にはまだティッシュが相当残っているものもある。それを指先にトイレットペーパーを巻き付けて拾い上げ、一番内側の二、三枚を取り出して鞄に突っ込む。床に転がっているものだけではなく、鞄置きの台の上に、放置されている手付かずのティッシュペーパーもあった。袋が破られていないものも、用心深い杏は中だけを取り出して袋を捨ててしまった。
そうするうちに、ティッシュの中のチラシも何となく収集し始めていた。
杏は入った汚らしいJRのトイレで、鞄置きの上に放置された三枚のティッシュペーパーのチラシを、一列に並べて眺める。全部テレフォンクラブの女性専用ダイヤルのチラシばかりだ。足元に散らばったチラシが、さらに三枚あった。それも鞄置きの上に載せて二列の紙をじっと眺める。モスグリーン、レモンイエロー、ショッキングピンク、エメラルドブルー……安っぽくどぎつい色どりに、杏は思わず愉快になり、大笑いしていた。
考えてみれば、汚いのは外側のビニールだけで、この紙は決して床や台の上に密着してはいない。杏は紙をビニールから丁寧に抜き取った。そして小さく折り畳むと、持ち歩いているトイレットペーパーのロールの芯《しん》に、ぎゅっと詰め込んでトイレを出た。
それから、トイレに入るのが楽しみになった。そんなことは殆《ほとん》どなかったが、たまに個室ががら空きのことがあると、杏は一つ一つ、丁寧にそれらを点検し、一番ティッシュの置き忘れが多いところを選んだ。以前は、ティッシュそのものの置き忘れだけを問題にしていたが、次第にそこに付着しているチラシの色の種類を基準に、トイレの個室を選ぶようになった。
そして、台の上に置かれたティッシュの紙を、出来るだけビニールに触れないように慎重に取り出し、さらに、床に落ちている空き袋の中で、ビニールに破れ目のないものだけを台に載せて、指先をペーパーに包んで、そっと取り出す。
トイレにあった無傷のティッシュとチラシは、とにかく全部持ち帰った。そして、ダンボールに帰ってから、今まで集めた紙と比べてみる。その中で、同じものがある場合は、より皺《しわ》のない、綺麗な方を選んで、あとは捨てた。
東京都がダンボールを置けないように建てた大きな柵《さく》とオブジェが押し寄せてきたので、杏は通路から献血ルーム付近までダンボールと炬燵板《こたついた》を背負って移動した。徒歩五分ほどの移動だったが、炬燵板のせいで手に赤い筋が何本もついた。ダンボールは手の中でするすると滑り、持ちにくかった。
他の連中に対する不快感が溢れ出てくる。あたしは昔からここに来るはずの人間だったんだ。大学のころから、恐らくずっと。そのころはこんなに人はいなかった。もしあのころみたいだったら、撤去なんてされなかったはずなんだ。ちょっと不況になったからって、人の寝床に安易に侵食して来んなよ。
夜、駅のトイレでワンピースに着替え、ヒールを履いた。足にべとべとと貼《は》りつくストッキングが、気持ち悪かった。洗面台に置き去りにされていた口紅はもう殆ど残っていない。杏はかんかんとそれを流しのタイルに打ちつけ、中の赤い色素を引きずりだして、乱暴に口の回りに塗りつけた。
新宿駅を抜けて、大学方面のオフィス街へ向かう。有名なホテルに入って、その日のパーティースケジュールが書かれたプレートを素早く見る。適当なパーティーを選び、エレベーターに乗る。
会場の入り口で、杏は誰かを探すような素振りで、中へ入っていった。受付嬢は怪しみもしなかった。
部屋へ入ると、杏は誰とも視線を合わせず、ぐるぐると迂回《うかい》しながら、料理のテーブルヘ近付いていく。だぶだぶと胸の浮いたワンピースの着心地がわるかった。胸元のリボンをいじり回しながら、杏は毅然《きぜん》とした足取りで進んだ。
取り皿に、ゆったりとした手つきでキャビアとフォアグラを載せる。それから薄いクリーム色のテリーヌ。鮭色のコールドビーフ。その回りに茶色に輝くとろりとした煮凝《にこご》り。角切りの小さなトマトと葡萄色《ぶどういろ》のオリーブのかけら。みんな一切れずつ取って、部屋の隅でそっと口に詰め込んだ。とにかく話しかけられないことだけを願った。そのために、部屋の隅だけを縫ってうろうろした。とにかく性懲りもなく細かく動き回ることだ。なんとなく忙しそうな雰囲気を醸していれば、むりに話しかけてくる人もいないだろう。
それからまた皿を持ってテーブルへ行く。骨なしの白身魚のクリーム煮を一切れ。フルーツ入りのサラダを山盛りにする。薄い鴨肉《かもにく》のオレンジソース添えも一つ取った。それからモスグリーンの豆の味のする冷たいスープ。それらを持ってまた部屋の隅を振幅五、六メートルぐらいでうろうろしながら食べた。
だが少し経つと自分ににこやかに目で笑いかける見知らぬ中年男がいる。杏はぺこりと頭を下げて出来るだけ中年男から離れた。だが人込みの中、テーブルの料理を漁《あさ》りまくってぐるりと一周すると、偶然目の前に中年男が立っていた。
「久しぶりだね、桜井さん」
誰だよサクライって。だがその瞬間から杏はサクライになる。
「どうも」
「元気だった?」
「ええ……まあ」
無意識にポケットに手を突っ込もうとし、ワンピースだったことを思い出して苛々《いらいら》した。相手の靴下の色も気に入らなかった。
「阿部さんは元気?」
「いや……亡くなられたとか……」
男の目がカッと大きくなり、杏は愉快になった。
「ほ……本当? それ……ウソでしょ? ど、どうして」
「事故らしいけど」
男があまりに取り乱しているので杏は急いでその場を逃げ出し、隣のテーブルへ行く。
「事故って何の?」
男が追いかけてきて聞いた。
「いや、よく知りません」
杏は男を振り払うように言う。
「又聞きだから。ご家族に聞いてみて下さい」
強い口調でそう続けると、男は意気消沈したように、もう追ってはこなかった。
その後クリームづけのチョコレートケーキと酸っぱい味のするクレープを取った。そしてメロンを五切れと苺《いちご》を十粒。最後にてらてらと黒光りする金色の器に入ったレモンのシャーベットを三杯もお代わりして、さりげなく会場を出た。
胸のリボンにいつのまにか飛びはねた豆のスープが、時間が経つにつれて布の奥にしみこんでいきつつある。杏はリボンを引き千切り、そのしみに口をつけてみた。しかしスープの味はもう残ってはいない。
電話ボックスに入って、ゴム製の手摺《てす》りの上に腰掛け、受話器を握る。そして耳に当て、誰かと喋《しやべ》るふりをして、周囲を眺めた。通りを歩く人々は、皆一様に疲れている。今日一日で、いったい何歩歩いたのだろう。ボックスには、たくさんのビラが貼《は》られていて、電話の上に小さなメモ用紙が残っていた。そこには何も書かれてはおらず、杏はがっかりして分厚い紙を指先で弾いた。
杏はワンピースのままボックスの床にぺたりと座って足を放り出す。小雨がガラスを伝い始めて外を歩く人々は足早になった。
まずいな……今日のハンバーガーは水気たっぷりかもしれない。湿気《しけ》たポテトは悪くないけど……。
別にいいか、と思い直す。食えなくなったら服を質入れすればいい。日本中が洪水になって、全部のハンバーガーとポテトが水没したら、取り敢えず水面に浮いている中身のハンバーグとレタスの切れっ端を広げた傘か何かで集めて食っちまおう。トマトの輪切りが浮いてたら、いちばんいいんだけど、トマトなんかは自分よりもっと機敏なヤツに取られちゃいそうだしなあ……もし掬《すく》い取れる傘が手元になかったら、それが本当の命取りだ。
ボストンバッグの中に傘はなかった。雨の季節になったら、飢え死に出来るんだ。杏は妙な解放感を覚えながら、電話の上に置き去りになったままの腐りかけのアップルパイの包みを取り出して大きく噛《か》みちぎり、不審気にボックスを眺める通行人を睨みつけた。そんなに怖いかよ。
ハンバーガーの水没なんて、お前らが考えてるほど大したことじゃないんだよ――。
いつのまにか持ち主に見離されて垂れ下がった受話器の中から、規則的な電子音が流れている。
U
ひと月後。新宿某所。
「おい、そんで暇なのかよ」
「いや、……じゃない、ううん、これから、ええと、ピアノのレッスンに……」
「え? ピアノ? おまえお嬢様なの?」
「ち、がう。仕事が、ピアノの先生」
「へえー、ピアノ教師ー、……今度会おうよ、な」
「忙しいんだよ」
「忙しいって何がだよ、オレがピアノ習いに行くからさ。オレ憧《あこが》れてんだよ、ピアノ教師とか保健の先生なんかに」
「へえ、そうなの……悪いけどまた今度ね」
杏はそう言って受話器を思わず置く。バイトの初日、初めての相手だった。引き伸ばせばバイト代が増えるのは分かっていたが、これ以上長く喋《しやべ》る気力が残っていなかった。切った瞬間緊張がどっとほぐれて、首筋から額にかけて、冷汗が一気に吹き出してくる。電話を置いてあるクリーム色の小さなテーブルに置かれた冷たい味なし紅茶の缶を、ぎゅっと握り締めて、飲み込んだ。
ふん、と鼻で笑ってその鼻を人差し指の先でつーっと撫《な》でると、鼻の天辺にも脂っぽい冷たい汗がべったりとついている。
二時間ほど前、拾ったティッシュのチラシを見ながら2QQ2の事務所に電話してみた。今日にでもきてみて下さい、と電話の向こうの男が言う。杏はダンボールの家に戻り、戦場へでも行くような気分で事務所へむかった。
くねった道の終わりに、小さな階段がついている。地下に通じるその階段をおりていくと、薄赤い部屋があって、それが事務所らしかった。薄赤いのはオレンジのシェードがかけられた天井の丸い電灯のせいらしい。空調の風が、杏のささくれだった頬《ほお》の薄い皮膚を優しく撫《な》でる。もじゃもじゃに髭《ひげ》を伸ばした男が、手持ち無沙汰《ぶさた》に煙草を吸いながら、男性週刊誌をめくっている。
「あの、さっき電話した者ですけど」
「ああ、バイトの子ね」
男は退屈が解けたことにほっとしたような顔で杏を見た。
彼が説明してくれた内容というのは、ざっとこんな感じだった。
営業時間は二十四時間。男が電話してくるのは夜中も明け方もひっきりなしだから、どの時間でも出勤することが出来る。オールナイトの勤務は当然給料もいい。タイムカードを入れて、それからは個室に籠《こ》もり、誰とも顔を合わせずにひたすら相手と喋り続ける。何時間やっても構わない。もちろん長くやればやるほど稼げるが、ただ単に個室に籠もった時間そのものだけが問題なのではない。問題はむしろその時間内の接続率だ。接続率がわるければ、いくら長くやってもそんなに努力は報われない。接続率、というのは、全バイト時間中のうちの、正味の通話時間のことである。回線がすいていて、自分のところへ回ってくるまえに他のバイトの子にとられてしまうこともあるから、個室に入っている間ずっと話し中というわけにはいかない。こういう場合、例えば一時間のバイト時間中、三十分喋って七百五十円ならば一時間喋れば千五百円、という計算にはならない。バイトの士気を高めるためなのだろうが、接続率が五十%、つまり三十分ならば一分あたりのバイト代は例えば二十五円だけれど、九十%ならば三十円などと、細かく規定されている。だから、会話を盛り上げて一回の電話を長く繋《つな》げることがうまく出来れば、バイト代がたくさん入ることになる。
「まあ頑張って」
男は気のない声で言い、空き室に杏を案内して立ち去った。
部屋にはソファと電話だけが置かれ、ひどく殺風景だ。ソファは中のスプリングがはみだしているし、床にはジュースのしみらしきものがついていて、環境はあまり良くはない。杏は言われた通り受話器を取り、回線が接続するのを待った。電話はなかなか繋がらなかった。かける人の少ない時間帯なのだろうか。それとも今日はバイトが多くてみんなが間髪を入れずに取ってしまうのだろうか。耳元ではトゥルルルル、というコール音ばかりが優しく流れ続ける。
杏はまた舌打ちをすると、欠伸《あくび》を噛《か》みころした。
その日の夕方。杏は無表情なオーナーがくれた千円札五枚を、くしゃくしゃにまるめてポケットへつっこんだ。それからもう一度取り出し、手に握り締めてみる。やっぱり手でこの感触を楽しんでいたい。
これに触れなくなってどのくらい経っただろう。やっぱり自分はこの紙が好きなんだなあと実感して、このぺらぺらする紙五枚に素直にひれふした敗北感が、胸の中で弾ける快感になった。
少し湿り気を帯びた、しかしごわつく紙が人差し指と中指の間で踊る。裏道の住宅街を回って帰るとき、木の上に咲いたオレンジ色の花が、夜の中に生彩を放っていた。
杏はノンストップで2QQ2バイトに通い続けた。一日六時間で、大体一万円、月に三十万円。
OL時代の銀行口座に、バイト代を全部いったん入れて、そこから一万円ずつ出してきて使った。閉店前の路地裏に潜み、素早くごみ箱に顔を埋める時間が生活の中から消去された。いくら体が丈夫とはいえ、拾い喰《ぐ》いにはさすがに限界が来ていたのだ。他の連中は自分よりもっと丈夫なのだろうか。とにかく再びコンビニの明太子お握りが、杏の主食となった。夏物の靴下も、ストッキングも洗剤も、すべて手に入れることが出来るようになった。ウォークマンの電池も、特売のを買い溜《だ》めした。ときにはレストランで、赤や黄色の苦いピーマンや茄子《なす》の入ったトマトの冷たいスパゲティーや紫色のキャベツに縁取られたバジリコたっぷりの魚介サラダや、何層にも重ねられた柔らかな皮で出来たミルク味のクレープさえ食べた。それから柔らかなお餅《もち》と甘いほうれん草の入った温かなうどん、細い葱《ねぎ》の入ったとろりとした金色のフカヒレラーメン、そして白と紅色の縞《しま》が薄く刻まれた新鮮な鯛《たい》の刺身とおろしたてのぴりぴりするわさび……。
そして豊かな泡のでる薄い薄荷味の真っ白な歯磨きを心ゆくまでチューブからひねりだし、ぴかぴか光る固い毛の新しい歯ブラシに載せ、口の中を隅々まで磨き、デパートの一階売り場で買ったフランス製の洗顔料で顔を一つも引っ掛かりがなくなるまでつるつるに洗い上げる。クリーム色の包装紙に包まれた新しい石けんと、百合の花の香りのするシャンプーとリンス。
その美しい品物のパッケージが発する輝きの中に、昼間喋った男たちのだみ声が溢《あふ》れだし、杏は顔をしかめてまた舌打ちする。不快な熱が手の中の品物にこもる。口の端を歪《ゆが》めて鼻で笑うくせが、定着してしまったのに気付いた。手鏡の中に滑らかな肌と、少しひびわれた唇の肉が、半分だけ映っている。鏡の中の丸い銀紙色の枠に区切られた顔に、握りこぶしをかつんとぶつけてからダンボールに横たわった。
風がいろんな空気を運んで緩やかに吹いている。
高層ビル群の一角で、夕暮れ近く、昼間の灼熱《しやくねつ》の火照りを残した空の下、窓拭《まどふ》きの男がビルに足をつけてはゆらゆらとゆれている。彼の命綱は風のクッションの上でビルの屋上から頼りなげに垂れ下がっている。ふっと風は強くなって、彼の腰についている手拭《てぬぐ》いが空に舞った。それは左右に優雅にたなびいて、生き物のようにおちていった。
再び空の下で迎える夏だった。首筋を伝う汗はシャンプーの匂《にお》いを帯び、街のそこかしこに大振りのポプラが枝を広げている。
東口へぬけるガード下には、リヤカーの上に男が犬を抱いて寝ている。なにもかも汚らしく古めかしい男の所持品の中で、ドッグフードだけが新しかった。犬も男と同様、暇そうに眠っている。彼らにはダンボールの家もないのだ。
リヤカーの男の隣に、体中皮膚病に冒された男が、赤い布団の上で横たわっている。彼の体は布団の色と同じ赤い発疹《はつしん》に満ちていて、木苺《きいちご》のように滴る水玉模様が、足までずっと続いていた。しきりと下着の中へ手を入れては、尻《しり》を掻《か》いている。彼の指が忙しくはい回る尻の辺りから、下着を通して、鮮やかな血が点描を描いている。男の布団からは石けんのような綿がはみ出て、すべて色を持った彼の所持品の中で、唯一清らかな乳白色を醸し出していた。
夾竹桃《きようちくとう》のピンク色は日ごとに濃さを増して光り、薔薇《ばら》の葉は燃えるように輝いていた。水に揺らぐ魚捕り網が、網目模様に日差しを反射するように、木々の下の地面は、さまざまな葉の形に煌《きら》めいている。
日盛りに冷房を避けて陽光ゆらめく街を散歩するのが、杏の日課となっていた。
ゆっくりと熱した道を噛み締めるように歩いたあと、バイトで冷気に当たるのが何より爽《さわ》やかだったからだ。午後二時、杏は相手に欠伸を隠すこともなく受話器を握り続ける。眠く、そして怠《だる》かった。連日続いた熱帯夜のおかげで夜はよく眠れなかった上に、ここに来る前にオリーブオイルとニンニクのスパゲティーの大盛りと苺のシャーベットを三杯も食べ、お腹《なか》が膨れすぎていたのであった。
ようやく受話器を置いて十分と休まず、杏は再び受話器を取った。あまり部屋でぼんやりしていると、経営者が覗《のぞ》きにくるからである。
「もしもし、ちょっと、ちょっと聞いてくれよ」
受話器を取った途端、相手の興奮した声が耳に飛び込んできて、杏は面倒臭くなり受話器を少し耳から遠ざけた。
オリーブオイル混じりの唾液《だえき》が、口の回りでべたべたとした。
「今オレ彼女といてさ」
「ふうん」
「でも、縛ってる」
「なんで?」
「ムカついたから」
「趣味でやってる?」
喋《しやべ》りながら彼の声の語尾がぶるぶる震えた。彼の息が荒くなった。
「違う。茶色の長い髪の、制服姿の今風の子でさ、しょっちゅう2QQ2にかけて相手と会って、お金|貰《もら》ってたみたいでさ。……分かるだろ?」
「カノジョじゃないじゃん」
「おとといの午後から彼女だよ」
「ムカついた理由は?」
「ビンボーって言われた」
「今は?」
「バスルームに閉じ込めてる。もうすぐ出してやるさ。あ、喚《わめ》いてる喚いてる」
「ふうん」
「イジメてるわけじゃないんだぜ、半分喜んでるさ」
「ふうん」
「……おまえ、オレと喋るのが恐くなったんだろう?」
「……うん、……別に」
再び食欲が増してくる。たっぷりたっぷりチリソースのかかった湯気のたつジャガ芋とトマトソースの入ったオムレツを想像し、唾《つば》を飲み込んだ。
「気のない返事だな……おまえ名前なんていうんだ?」
「杏」
「アン、か。外人みたいだな……ところでよ、今度……あっ、ちょっと待って」
受話器ごしにがさがさという音がし、彼の声が遠退いた。
「なんか騒いでるからちょっと待って」
「もういいよ」
「まあまあ、そう言わないで。けど、これって一時間五千円だってよ、今雑誌見たら。なんでこんな高いのォ?」
やっぱりビンボー。
「払える?」
「いや、ちょっとヤバい。じゃあまたな、外人のお姉ちゃん」
最後の声が半分ほどで遮断され、ツーツーという音に変わる。杏は埃《ほこり》を被った部屋に据え付けられている雑誌を乱暴に掴《つか》むと立ち上がった。今日のバイトはもう切り上げるつもりだった。
縛られた女にはいい薬だ、どうせフライドチキンの色をした見たくもないようなニキビだらけの背中を露出して歩いている子供だろう、杏は帰り道に立ち寄ったケンタッキーの鶏の唐揚げを歯茎に力を込めて噛み千切る。それから久しぶりに深夜の異臭漂う路地裏に潜んだ。分厚い玉葱《たまねぎ》と太いソーセージの挟み込まれたぱさぱさした半透明の袋に包まれたホットドッグをファーストフードのごみ箱の底から取り出す。酸っぱくなった玉葱の香りと変質したソーセージの舌にしみる味が感覚器を殴りつけてきた。道端に不法駐車された自転車にぶつかり、腹をサドルで打った。杏は爪先《つまさき》でそれを力まかせに蹴飛《けと》ばす。がしゃがしゃと派手な音をたてて、高波のようにうねりながら、何十台もの色とりどりの自転車がドミノ倒しになった。
そこここに路上生活者の自警団のビラが貼《は》られている。派手な目玉の絵の描かれたダンボールの家から出てきた連中が、そのビラを無表情に眺めて、やがて腰を曲げて汚れたビニールを中指に引っ掛け立ち去っていく。住人が増えるにつれ、自治会が組織された。そして夜の見回りをするようになったらしかった。
時々大急ぎで腰の警棒を押さえながら走ってゆく警官の姿が見られるのは、まだその多くが、通行人のためではなくて、連中のためらしかったが、それでも去年の秋から比べると、住人の増加の割りには走る警官の姿は明らかに減っていた。
杏は地道に同じ生活を続けた。感情を入れずに2QQ2で見ず知らずの男を相手に喋り、図書館に通い、コンビニでストッキングを買い、寝る前にはダンボールの家でウォークマンを聞く。
杏が献血ルーム脇《わき》に引っ越してから以後、数ヵ月の間に、住人の移動は確実に進んでいた。そして今はほぼ全員が、この西口交番前に集合していた。そこは通路ではなかったから、連中は一列に並ぶのではなく、集落のように形を作って生活した。そのためか、以前よりも結束力が強くなったようである。
だがそれより大きなことは、ダンボールの家の作りそのものの変化だ。
家は杏が最初に西口地下通路に住み始めたときとは打って変わって、殆《ほとん》ど全てのダンボールの家が重装備になっていた。もう、新聞紙にくるまっているだけの人間は一人もおらず、必ずダンボールの住居を持っている人間たちばかりだったし、その一つ一つは大型化し、今やその殆どが、二、三個のダンボールではなく五、六個のダンボールで作られていた。さらに家の外壁は洗濯用のロープや太い紐《ひも》等でぐるぐる巻きにされ、鍵《かぎ》(昔のトイレについていたような金メッキのくの字形のものだ)さえつけられるようになっていた。以前と違って、傘を外に張り巡らした家は少なくなっていた。家自体が頑丈になっているので、傘を開いて張り巡らす等という不格好なことはする必要がなくなったのだろう。
わずかな隙間《すきま》から外を覗《のぞ》いて舌打ちし、杏はダンボールの中に寝転がった。夕方になって、酒屋へ行き、ここで暮らすようになって初めてのアルコールを飲んだ。一番高いビールを買って、一気に飲んだ。つまみのピーナッツの紅色の皮を、ダンボールから通行人の足元めがけて飛ばす。ビールの弾けた泡が口中いっぱいに広がって、わずかな痛みを感じる。目の前にある交番の血色のランプと、どこか陽気さを漂わせる街の空気。半ばをすぎた夏の力を失った光が、薄紫色に霞《かす》んで、杏とそのダンボールの家の回りを優しく取り巻いていた。
――どいつもこいつも同じなんだよな。
誰と喋ってももう興奮を覚えなくなっていた。凡庸な、風采《ふうさい》の上がらないヤツら。忍び笑いを漏らす、高飛車で少し頭の弱い種馬ども。
連中はいつも杏を馬鹿にし、ある時は懇願し、最後の目的に向かって喋り続ける。
杏はとにかく金のために、外で逢《あ》う約束をするのを出来るだけ引き伸ばす。それが済めば異常に高い電話料金を恐れて切られてしまうのが目に見えているからだ。いたいけな女言葉を使い続けるのは面倒だったが、何よりお金のために耐え忍ばなければならなかった。
中には逢う約束を焦らず、純粋に女とのお喋りを楽しむ目的の、大人しい男もいる。彼らは別に下品な話をするわけでもない。ごく普通の会話、例えば、どこに住んでいるのかとか、お酒は強いのかとか、どんな音楽を聞くのかとかいったことについて静かに、延々と喋り続ける。杏にはそういう男が、他の多くの、高飛車で鼻持ちならない男よりもさらに分からない。ただ単に喋るだけだったら、それこそ会社や学校の女どもと喋ればいいのに。
バイトの部屋に雑誌を持ち込んで、読みながら喋る。それからスナック菓子とジュース。ポケットサイズのゲームでも持っていたらいいのに、と思う。
「……でね。でさ、ねえ、聞いてる?」
「……っあっ、うん、うんっ、聞いてる聞いてる。ちょっと今、受話器が、あれでね」
そんな訳の分からない言葉でしばしば誤魔化しながら、本当に寝ているときもあった。
眠気覚ましのガムを噛《か》んで、コーヒーやドリンク剤を飲み、やっと神経を叩《たた》き起こす。
「でさあ、オレの彼女、どうも会社の上司と付き合ってるらしいんだよね……」
「……会社の上司……」
杏は朦朧《もうろう》としたまま鸚鵡《おうむ》返しに答える。
「彼女のアパートに遊びに行ったとき、電話かかってきて、受話器取った瞬間、彼女、すんごく、あ、やべえ、って顔したんだよ。で、会話をチェックしてたら、何か妙に事務的な口調でさ。友達じゃないなって感じ? それで、あとでこっそり留守電のメッセージ聞いたら、案の定同じ男の声で三件も入ってんだよ」
「ふうん」
「あれ絶対だよ。最近しみじみ、やっぱり男は中年にならないと魅力ないよね、なんて言うんだぜ」
「そうなんだ……」
杏は手元のメモ用紙に、意味もなく動物の絵を描きながら呟《つぶや》いた。それから紙に一枚ごとにボールペンで穴を開けていった。
「そんでさ、明日オレと会わない?」
「彼女は?」
「いんだよ。あいつが先に浮気したんだから」
「そうか」
「会ってくれるの?」
「まあね」
「絶対だな? じゃ、どこにするどこにする?」
「……じゃあ、新宿」
そう言った直後、杏は自分が新宿駅に住んでいることを思い出した。
「新宿? いいよいいよ。東口にでもしようか」
「あ、やっぱ渋谷がいい」
「いいよお。どこでも行くよお。じゃ、渋谷。三時にハチ公前なんてどう? あんまり平凡すぎるかな? 見つからないと――」
「いや、いい、そこでいい」
「本当? 絶対来る? もし来なかったら……」
「行く行く。大丈夫」
「どんな格好してくる?」
「じゃあ……白のブラウスに、ブルーのスカート……だな……」
「OK。じゃ、待ってる、明日な」
「うん」
だが、相手は電話を切らない。
「ところでさ、仕事、何やってるの?」
質問されることなど殆《ほとん》どないので、杏は慌てる。
「仕事か……」
「アルバイトでしょ、どうせ」
「え?」
「だって、こんな時間、電話してるんだもんなあ」
「……」
「それともプータロー?」
「土方じゃないよ」
相手は笑いだす。
「そんなん分かってるよ。でも何かやってることあるでしょ?」
「そっちこそ、会社さぼってんの?」
杏の口調に、いつのまにか不快感がにじんでいる。
「営業だよ、営業。外ずっと回ってて、疲れたから家に戻ってるんだよ、後二時間くらいで会社へ帰るんだ」
「何の営業?」
「OA機器ってヤツ? 修理もやってるから大変でね」
「ふうん」
「そっちは何の仕事だよお、こっちばっかり言わせておいて」
「しつっこいなあ」
杏はとうとうヒステリックな声を上げた。
「先生だよ」
「先生? 何の?」
「高校教師だよ」
「ああ、だから言うの渋ってたんだ」
相手は妙に納得した声を出す。
「でも、今日は学校は?」
「非常勤。週に四日。今日は休み」
「そう。何教えてんの?」
「ええと、地理……かな」
「へえ、すごいじゃん。女教師じゃん」
「そうそう」
「大学出てるんでしょ?」
「まあね」
「どこ?」
「都内の一流私立大」
杏は退屈さのあまり壁に爪《つめ》で穴を開けながら答えた。しかし時計を見ると、すでに一時間以上経っている。さらに一時間以上長引かせることが出来そうな相手だ。
「大丈夫大丈夫、最近はセンセイったって皆怪しいんだから」
「あんたは高卒?」
「うん、そう。勉強好きじゃなかったからさ」
「ふうん」
「本当言うと、大学半年だけ行ったんだけどね」
「どこ?」
「都内の三流私立大」
「へえ」
「面倒だから高卒で通してる」
「格好いいじゃん」
「ねえねえ、高校教師って、同僚の男で女生徒たぶらかしてるヤツいる?」
「いない、いない」
「じゃあ職場不倫とか流行《はや》ってたりする?」
「しない、しない」
「雑誌に出てるような話はないんだ」
「ないと思うよ。皆職員室で、机に向かって無言でお弁当食べるんだ。授業で使う世界地図をぐるぐる巻きにして、足元に立て掛けて、倒れないように注意しながら、お弁当のフタを半分だけ開けて、中身を隠しながら食べるんだよ。地図が倒れると、皆があたしを見るからね。食べおわるとすぐに図書室へ行って、国勢図会を見るのよ。あれは何度見ても飽きないからねえ」
相手が沈黙しているので、杏は喋《しやべ》り続けた。少しでも時間を延ばしたかった。
「同僚も、自分のクラスが騒いでいる以外は、他のクラスを注意しようとしないで、無視してるんだよ。他のクラスの生徒と関わらないようにしたいっていうよりは、他の教師と関わりたくないんだろうね。ほら、今はどこにも就職できなかった学生が、仕方なく教師になるんだよ。だから皆、頭の出来に問題があるか、性格に問題があるか、どっちかしかいないんだよねえ。修学旅行の打ち合わせやなんかにしても、生徒の小遣いだとかソックスの色だとかを決めるために、二時間も三時間も使うんだもんねえ。その間にお茶菓子を山のように食べるんだよ。特に独身の女教師が。そういうのは必要経費で落ちるからさあ。それでも結局決まらなくて、三日くらいかけて決めるんだよ。集合時間なんかでも、朝の八時集合か、七時四十五分集合かで、何時間ももめるんだよ。だから女生徒に手出す暇なんてないんだよ――」
突然電話ががちゃんと切れた。
杏はため息をつく。頭の悪い野郎だぜ、と鼻で笑いながらも、耳の中で切断音が、刺し傷になって残っている。確かにおもしろい話じゃなかった。仕方がない。でも、久しぶりに動かした口の筋肉は、何となく爽《さわ》やかに感じられる。
杏はまた受話器を取り直してうとうとしながら、次の相手と回線が繋《つな》がるのを待った。
次の相手とも微睡《まどろ》みながら喋った。色腿《いろあ》せた威圧的な口調が子守歌のように心地よく耳に流れこんでくる。
「……明日新宿西口改札んとこで、レモンイエローのミニスカート履《は》いて待ってろ」
断続的に入ってくる彼の生暖かい言葉のうち、そこだけが妙な生彩を帯びて耳の中に飛び込んできて、杏ははっと目を覚ます。
「レモンイエロー?」
「レモンイエローが好きなんだよ。二時。分かったな?」
「分かった」
杏はまた無意志的に約束をし、電話を切った。受話器を眺め、心地よい軽蔑《けいべつ》に鼻を鳴らす。所詮《しよせん》ヤツらはこんなものなのだ。明日の二時に改札の前でそわそわしている男がいるか、見に行ってみようかと思う。
杏は部屋を出てコンビニに走り、もう一度コーヒーを買いにいった。一日に二回も飲んでは体に悪いと思い、カフェオレにしておいた。それから部屋の壁にもたれた。
頭の中が、密度の薄い冴《さ》えざえとした水でいっぱいだった。それは青く冷たく澄んでいる。そして水の外側は白壁の滑らかな無人の丸い部屋であった。退屈だ。
杏はふうっと吐息を漏らして、カフェオレを一気に飲み干した。
西口の安売り電気店で、杏は店員の愛想に耳を傾けることもなく、手当たり次第に携帯電話をいじり回す。白いエプロンをした中年の男が声をかけるのをやめて杏の手先を睨《にら》み始める。店員と一言も口をきかないまま、パンフレットと説明書を三十分近くかけて熟読すると、杏は初めてそばに仏頂面で突っ立ったままの男に微笑《ほほえ》みかけた。
学生時代に運転免許を取っておいたことがこれほど武器になるとは思わなかった。携帯電話を買うときに必要な証明書のうち、免許証を除く他の証明書は、公共料金の支払い証明書と一緒に提出しなくてはならないので、杏にはどうしようもないのだった。それに、他の証明書といっても、OL時代の社員旅行のおかげでパスポートこそまだ持っていたが、今は健康保険証もないのである。
それから、携帯電話で2QQ2に電話してバイト契約を抹消してもらい、アルバイト情報誌で調べておいた、家庭教師センターに十口いっぺんに登録した。学生時代もこのバイトをやったことがあり、経験上、なかなか口が回ってこない、ということを知っていたからである。
電話の向こうでは、受付嬢が「住所と電話番号をおっしゃって下さい」と言う。杏は新宿区新宿三丁目三八―一、と西口の場所を答える。それから、引っ越したばかりで、ちょっとまだ電話つけるのに時間かかりそうなので、取《と》り敢《あ》えず携帯にかけて下さい、と言った。相手は怪しむこともなくいともあっさり分かりました、と答えて、携帯の番号を聞いてくる。電話が入るのはいつになりますか? と聞かれることを杏は心配していたのだが、不思議とそんな質問を投げ掛けてくる相手はいなかった。
2QQ2のバイトをやっていたころは、事務所が女の子たちの家族に相当気を使っていたので、自宅に連絡があることは決してなかったし、フレックスなので、無断欠勤による呼び出し、というものも存在しなかった。しかし、家庭教師のバイトは、教える子供が見つかり次第、センターの方から連絡があるので、2QQ2に出した履歴書のように、適当な連絡先で通すわけにはいかない。
携帯電話しか持ってないような者を家庭教師にしたいという親がいるだろうか、と思ったが、それ以外方法はなかった。だから登録する際に、経験豊富であることばかりをしきりに主張した。勉強など殆《ほとん》ど忘れかけており、一流国立大学受験生などを押しつけられても困るので、成績の振るわない子をたくさん担当した経験があることを強調した。学生ばかりの中で、そのPRは際立っているはずだ。
その目論見は見事に当たって、その十口のセンターのうちのひとつから、一週間も経たないうちに口が回ってきた。異例の早さだ。しかも、あまり勉強が得意ではない子という杏の条件にもあっている。中学三年の女の子で、高校受験まで追い込みなので、週に五日、一回三時間という希望だった。学生時代、センターを通してやった家庭教師は、せいぜい週に二日、一回二時間程度のものだった。だから杏は少なくとも三人は教えようと思っていたのだが、これならこの子だけで、十分に稼ぐことが出来そうである。時給は三千円で、これも少し高めだ。ひと月の収入はゆうに二十万円近くになり、ほどほどに稼げるメドがついた。何より2QQ2と違って居丈高でいられる仕事は、自分の性に合っている。
杏はお金を得るようになってから久々に口にするハンバーガーのまずさに舌打ちしながら家庭教師について考える。去年はよくこんなものを拾ってまで食べられたものだ。バーガーの間から滴る肉汁は人工的な甘味料を含み、粗悪な油は胸を締め上げるような濃い匂《にお》いを放っている。
ただ一つ、食べたいものがあった。木彫りの椀《わん》の縁ぎりぎりまでよそわれた、熱く褐色の湯気をたてる味噌汁《みそしる》である。夏の暑さがおさまるにつれ、その渇望はますます強くなった。ごろごろと入れられたぶつ切りのジャガ芋やぬるぬるするなめこ、昆布とかつおで時間をかけてダシを取った濃く塩辛い大豆のスープ。店ではどうしても飲めない味だ。唾液《だえき》を飲み下す音が自分の耳に響いた。杏は指についたバーガーのマヨネーズを軽蔑《けいべつ》して眺め、繰り返ししゃぶった。
いつのまにか蝉の声は虫の声に替わっている。
「こら、ちゃんとしてなさい」
客が来たことを喜んではしゃぎ回る幼稚園児の妹を叱《しか》り、母親が顔を赤らめた。
「すいません、先生がいらっしゃって、きっと嬉《うれ》しいんです」
中学生の少女も、母親も大人しそうである。高級マンションの五階の部屋の窓外には、美しい夜景が漂う。七時ごろに父親が帰ってきて、一緒に夕食を取って下さいと言われた。ナツメグを効かせたスペアリブに秋野菜のたっぷり入ったコンソメスープ。デザートの葡萄《ぶどう》入りパウンドケーキ。レストランとは違う化学調味料の混入していない味が、杏の口腔《こうこう》をとろりと溶かす。スペアリブは冷たく、ナイフを通しても肉汁がしみだしてはこない。しかし口に含んだ瞬間、隠された汁が溢《あふ》れだすのだった。スープを一口飲み、口の中で野菜を転がしながら、肉を一切れ切って食べる。骨についている肉を隅々までこそぎ取ると、杏はようやく一息ついてグラスの水を飲み干した。
食事をしながら、おもに父親がよく喋った。夫婦そろって高卒なので、娘だけは学歴のことで劣等感を味わわせたくない。自分でクラブやゴルフ場を経営している他に、マンションを二つも持っているので、幸いお金には全く不自由していない。お金に糸目はつけず、私立のいいところの女の子の集まっている高校、大学に行かせたい。出来ればエスカレーター式ののんびりしたところ。先生にも、成績が上がったらお礼をさせて貰《もら》う。しかし今は、偏差値が五十もなくて中以下の高校しか入れない。せめて偏差値六十くらいの高校へ行かせたい。先生は有名な私立大学を出ているそうで、頼りにしている。娘もお姉さんみたいに思って、きっと仲良くなれると思う。あと半年ですが、どうぞよろしくお願いいたします。
スープ皿を斜めにし最後の液体をスプーンで掬《すく》い取りながら、杏はじっと耳を傾ける。それから少女の顔をそっと覗《のぞ》き込んだ。彼女は敏感に杏の視線に気付き、にこっと笑いかけた。杏は慌てて笑い返す。
「こちらこそよろしくお願いします」
取り敢えず慇懃《いんぎん》に杏は答える。
「それで……今の偏差値は……?」
子供の成績に興味を持っているふりをするのが、これから半年続くことになる。
少女の顔が強ばり、薄く頬《ほお》が染まった。
「そうですねえ、……四十五くらいかあ?」
父親がそう言って娘の顔を見ると、娘は、血がにじむほどぎゅっと唇を噛《か》み締め、むっとした顔で父親を睨《にら》んだ。
「偏差値なんて、別に関係ないんです。私も中学時代、数学の偏差値が、ええと……四十くらいだったことが……」
杏が出任せにそう言うと、娘の顔がすうっと解けていった。本当はどのくらいの成績だったっけな……数学で五十点を取ったことが、確か中学三年のとき一度あったような気がするが、定かではない。それにそもそも、杏の育った県には、少なくとも高校受験の段階では、偏差値というものが存在しなかった。
「それに」
杏はごくりと一呼吸置いて顔を上げた。
「にこっと目を見て笑える素直な子って、今まで教えた子でも、いい高校へ行きました。やっぱり素直さが一番大切で……」
「本当ですか?」
両親は揃《そろ》って身を乗り出す。体の内側が火照るのを感じながら、杏はゆっくり頷《うなず》く。母親の緩い襟元から覗く淡い紫色の下着が、リビングのクリーム色の電灯にゆれている。
「先生、もっと食べて下さい。スープ、お代わりなさいます?」
杏が何も答えないうちに、母親がカラになった杏のスープ皿をさらってゆく。
「八重歯がきらっとして、可愛《かわい》いね」
杏は子供に向かって囁《ささや》いた。この仕事も、実際身を置いてみると、あまり居丈高でいるわけにもいかないのだ。一応最初のうちは。
「もてる? 学校で」
「え……そんなこと……」
子供ははにかみながらそう言い、父親は楽しそうな笑い声を上げる。スープのお代わりを持ってきた母親が、嬉しそうに娘の髪をくしゃっと撫《な》でた。
シャープペンシルの先をぐしゃぐしゃと噛みながら、恵美は熱心に数学の問題を考えている。杏は先程母親が持ってきた苺《いちご》ジャムのたっぷり入ったワッフルを一口ずつ千切って飲み込んでいる。ワッフルはあまり好きではない。しかしクリーム入りの方まで綺麗《きれい》に食べると、濃い香りを放つ熱い紅茶を、何もいれずにごくごくと飲み干した。舌の先が少しひりひりする。大きな窓ガラスの向こうに見える色腿《いろあ》せた木々が時折強い風に煽《あお》られている。
恵美との勉強は、とてもうまくいっていた。六時から九時までということになっていたので、杏は毎日五時十分にはダンボールの家を出て、彼女の家へ向かう。それから曜日ごとに決めている科目をこなしてゆく。月曜日は国語、火曜日は数学、水曜日は英語、木曜日は理科、金曜日は社会。次の日にテストがあるという時などは、変則的にその科目をやることもある。
七時半になると、母親が決して少なくないおやつを運んできてくれた。ケーキや鯛焼《たいや》きや今日のようにワッフルのときもあれば、梨や巨峰などのフルーツのときもあり、あるいはうどんやインスタントラーメンのときもあった。そして九時になると、食事が出されることもあった。それは普段大体四時半ごろに帰ってきて夕食を済ませてから勉強を始める子供が、ときに六時ぎりぎりに帰ってきて、食事する間もなく部屋にこもらなくてはならないとき、子供のために食事を用意してキッチンで待っている母親が、「先生もどうぞ」と言って勧めるといった場合だ。
ここに来て、もう三回は野菜のたっぷり入ったカレーをご馳走《ちそう》になっていた。
夕食を取るためにキッチンに行くと、ときどき、母親が取ってつけたように、
「先生、恵美の調子はどうですか?」
と尋ねてくる。
「いいんじゃないですかね」
杏はたいてい、皿に気を取られながら答える。子供は勉強が終われば友達と長電話をし、なかなか部屋から出てこない。この家には電話が三台あった。新築のマンションらしく、壁はぴかぴかとしていて、床も滑りそうに磨かれている。冷蔵庫の上に、木彫りの熊がある。業を煮やした母親が、少女を部屋に呼びに行くと、杏はしばしばその間に冷蔵庫を開けて、大急ぎでソーセージやチーズなどを口に詰め込むのを日課としていた。苺のショートケーキがいくつかあるときなどは、苺だけをすべてのケーキから取って食べてしまった。おそらく母親は、少女の小さな妹を叱《しか》るだろう。
杏が皿に残っていたワッフルの屑《くず》を、指に唾《つば》をつけて一粒ずつ掬い上げていると、問題を解いていた恵美がふっと思い出したように勢いよく鞄《かばん》をかき回し始めた。
「先生これ見て!」
杏の目の前に六十五点と書かれた漢字テストのプリントが飛び込んでくる。
「この前は五十点だったんです」
「すごいすごい」
杏が抑揚をつけて誉めると、恵美は目をきらきらさせて杏を見つめ、自分もワッフルを手に取って半分にわり、一口口に放りこんだ。そして再び教科書に戻る。口の回りにジャムが赤く残っていた。
「あ、そうそう、先生、あした、計算のテストあるの。あたし漢字より得意なんです。絶対八十点取りますから」
そう言って椅子《いす》をくるりと回し、杏を振り返る。杏は指についた屑を未練がましくなめながら、恵美の美術の教科書を眺めていた。日本人画家が描いた、雪景色の中の蕎麦屋《そばや》の屋台の水彩画が美しく、じっと見惚《みと》れていたのだ。
急に喋《しやべ》りかけられて口を半開きにしたまま恵美を見上げた杏を見て、恵美はくすっと笑った。
時計のかちかちという音と、空気清浄器のしゅんしゅんという音に、少し眠気を覚えながら、杏は水彩画を眺め、時折目を上げては空になったワッフルの皿を見た。ようやく時計が九時をつげる。
「あ、先生、紅茶もっともらってくる」
恵美はそう言って立ち上がり、金色のお盆に二つの湯気のたつ白いカップと、ハムサンドまで持って戻ってきた。
「先生……お願いがあるんですけど……」
お茶を飲みながら恵美はおずおずと言う。
「何?」
「あ、これ、食べて下さい……」
そう言ってハムサンドを杏の前にぐいぐいと押し出してから、恵美は大きく息を吸い込んで言った。
「クラブへ連れていってほしいんです」
「……そういうのは友達との方がおもしろいんじゃないの?」
「そうなんだけど……何か子供だけだと不安で……あと、お母さんが、先生とならいいって」
「ふうん」
「ねー連れてってよお、先生。新宿の安いとこでいいから」
「うん……そうだな」
紅茶のカップを玩《もてあそ》びながら、ため息をつく。杏はハムサンドを一口囓《かじ》った。
「分かった、連れてくよ」
ガムのかすがついた鼠色のタダ券が頭に浮かぶ。少し味の濃すぎるジャンクフードも。杏はもう一度ため息をついた。
その週の土曜日の夜、杏は例のワンピースを着て、恵美の家に出掛けていった。
「先生、まあお綺麗《きれい》になられて……」
大きな果物の柄のエプロンをつけた母親が杏を見て取ってつけたように言って、杏は苦笑いした。
「うちの子が無理を言いまして本当にごめんなさい。今日はよろしくお願いいたします。これ、少ないですけど……」
渡された封筒には一万円が入っている。杏はちょっと胸が詰まった。うまくすればこれが全額浮かせられるのだ。袋に詰められたぱりんと乾いたお札が手の中で次第に温まっていった。
「連れていくだけでこんなに頂いてしまって、いいんでしょうか……」
思わず頬《ほお》を緩めながら母親を見上げると、母親は朗らかな笑みを浮かべて頷《うなず》く。
二人は新宿に向かった。恵美は茶色のぴったりしたシャツを着て、どこから引っ張りだしたのか、黒い革のミニスカート、黒の革のブーツを履いていた。身長は百六十程度であるものの、まだ肉のつき始める前のすらりとした体の恵美には、そんなモノトーンの格好がよく似合った。元々小麦色の肌に、その黒い生地がしっとりと溶け込んでいた。頬だけがほんのりと上気している。ビューラーでしっかりとくせをつけたらしく、長くびっしりと生え揃《そろ》ったまつげが、目を大きく見せていた。リップは薄い金茶色だ。髪は染めてはいないものの、大きなカーラーでカールをしぬいたあとが見えていた。くるっとした外巻きになり、肩まで柔らかく伸びている。
「ふーん、かっこいいじゃん。でも寒くない?」
「全然。若いですから」
「悪かったね」
杏は胸元のリボンの取れたあとを指でなぞりながら恵美を睨《にら》んだ。
「でも先生も、すごく可愛《かわい》い。全然変わっちゃいますね」
「どうも」
駅の階段を下りると杏は恵美を誘導して、新宿コマ劇場に続く歌舞伎町の通りを、地面ばかり見ながら歩いた。
「先生何してるんですか?」
しばらく無言で探し続け、杏はようやく足元から拾い上げた小さなカードを恵美に突き付ける。
「え? 何ですか? フリードリンク、フリーフード……?」
「クラブのタダ券」
「えー。もう、先生やだあ。こんなの拾うなんて。道で配ってるのをきちんと貰《もら》いましょうよ」
恵美が呆《あき》れ果てたように杏を見た。杏はふんと鼻を鳴らして微笑した。
しばらく歩くと黒服が立っていて、恵美の方に、素早くタダ券を手渡す。
「それで入ろう」
杏は恵美を促した。
それからは前と一緒だった。前と同じクラブだったのも不思議だったが、きっといつもあの場所でタダ券をばらまいている店なのだろう。
受付の女はタダ券に相変わらず少しイヤな顔をし、黒服は無表情に二人を席に導き、無愛想に聞く。
「お飲み物は?」
杏はオレンジジュースを二つ注文した。
「踊ってきたら?」
「えー……」
「踊りたいんでしょー」
「ちょっとは、そりゃ」
杏がジュースの来るのを待たずに立ち上がると、恵美は慌てて後をついてきた。だが杏の行き先はフードコーナーだった。
杏が小さな皿に料理をいくつか取ると、恵美は急いでそれを真似る。
結局恵美が盛ってきたのは、欲張り過ぎて、ピラフの下にサラダドレッシングがしみこんでしまった見るからにおいしくはなさそうな代物だった。でも彼女は嬉しそうにそれを頬張っている。
「おいしいですね……」
「そうかねえ」
食べおわっても、杏が座っているので、恵美も踊りに行こうとはしない。
「踊りたくないんですか、先生は?」
あまりにも食い入るようにダンスフロアを見ている恵美を見て、杏は仕方なく踊るよ、と立ち上がった。事前に一万円を貰っていなかったら、勿論《もちろん》そうはしない。
「やったあ」
水を得た魚のように、恵美はフロアに跳ねるように駆け出してゆく。ここで自分だけ踵《きびす》を返したら恥ずかしがるだろうな、と思うと少し笑みがこぼれた。
しかし適当に体を動かしているうちに、だんだんと心地よい感覚が頭に滑り込んできて、耳の脇《わき》を伝う汗の玉を感じながら、杏も無意識的な反復の動きを繰り返していた。足や腕で適当にリズムを取るように踵《かかと》を蹴立《けた》てていれば、それで体裁がついた。恵美の足がめまぐるしく回転している。目を虚《うつ》ろに見開き、顔を火照らせ、肩で息をしていた。フロアの中心近くまで行き、体を懸命にくねらせて汗まみれになり、それが杏の場所からも光って見えた。
杏は緩慢な動作の途中、ソファの方の客を眺める。相変わらずの華やかな笑みと甘い酒に包まれた男女が、縞《しま》状の光の渦の中にゆらいでいた。そこから発酵するすえた湿度の高い風が、杏の体に一挙に流れ込んでくる。女性たちの飴色《あめいろ》のストッキングの中のほっそりしたふくらはぎ、腕の金色の鎖、ハイヒールと同じ色のぴったりしたスーツ。それを取り巻き、しきりに煙草をふかす男たちのつやつやした頬と首筋にまとわりついた少し茶色の髪、そして缶ビールをつかむ意外に細い指先とひらりと裏返ったライトブルーのストライプのネクタイ……。
杏はその先にいる恵美に目をやった。
茶色い髪のピアスの若者に、振り払うことが出来ないまま喋りかけられている恵美の、困惑と陶酔の入り交じった表情がライトの真下でくっきりと見える。
ミラーボールの光の粒が、恵美の頬に当たると、蝋石《ろうせき》のように半透明に青白く光っていた。その頬に引きつけられるように杏は彼女に見入る。するとゆっくりと彼女の頬が新鮮な果汁のようなオレンジ色に染まってくる。まあ、楽しそうで何よりだ。
杏は鼻をふんと鳴らして踊るのをやめ、席に戻った。
さっきまでいた席のテーブルには、いつのまにか灰皿の上に口紅のくっきりとついた細身の煙草が、一口だけ吸って置き去りにされている。火は消えており、殆《ほとん》どそのままの長さで、煙草は残されていた。杏はそれを手に取って、そばにあったクラブのマッチを乱暴に擦り火をつけた。ざっくりとフィルターぎりぎりまで大きくくわえると、苦さと舌のぴりっとする刺激が口中に溢《あふ》れてくる。杏は軽く咳《せき》をした。
しばらくして、恵美が杏の側へやってきた。
「先生、ひっどーい、一人で帰ってきちゃって。恵美置き去りにして」
「飽きちゃったよ」
「あの人かっこいいでしょう」
恵美が茶色の髪の男を見ながら言った。
「別に」
「……先生、煙草吸うんでしたっけ?」
「普段は吸わない」
「ふうん……」
恵美は両手を膝《ひざ》の上でしっかりと揃え、妙に改まった態度で、杏を眺めていた。
「吸う?」
杏は恵美の顔に煙草を近付ける。
「ううん……あたしはいい……」
首を振った恵美の口のわずかな隙間《すきま》に、杏はむりやり煙草を差し込んだ。
恵美の目が大きくなり、躊躇《ためら》いがちに一息飲み込んだ後、彼女はひどく咳き込んで顔を背けた。
「やめて下さい……、もう、すっごくまずい、気持ち悪いです……」
「覚醒剤《かくせいざい》入りの煙草だからね」
恵美が杏を見る。目の表面に薄い膜がかかり始める。
「え、そんなのあるんですか……?」
「あるわけないじゃん」
恵美は何も答えず不愉快そうな顔で目をそらし、ダンスフロアに顔を向けた。
それから二人はもう一度、食べ物を取りにいった。恵美は、皿に一切れのハムを載せただけで戻った。しかしそれも持て余すように、フォークでぐるぐると突き回している。
「踊り過ぎて疲れちゃった」
言い訳めいた口調でそういう恵美に返事をせずに、杏は胸のリボンのあとを触っていた。ソファではまだ、スーツの男女が何か話し込んでいる。
教え子とのつきあいはクラブだけでは済まなかった。
夏休みの半ばのある日、杏は恵美と、日帰りの遠出をした。休みの間中、恵美は夕方からの家庭教師に加えて、昼間は夏期講習に出掛けており、強いクーラーと他校の生徒たちの迫力のせいで多少疲労気味であった。それで両親が、気晴らしをするように勧めたのである。その同伴者にはすぐさま杏が選ばれた。今回は両親のたっての頼みなので、勿論特別手当てつきである。
前夜の雨の影響で、気温の低い、涼しい日であった。
新宿で待ち合わせて、しばらく駅の通路をうろうろした。
「どこ行くんですか?」
恵美が不安そうな顔で聞くので、杏は憮然《ぶぜん》とした顔を作った。行くところなど決めていない。
「この前はクラブに行ったから、今度はのんびりしたところにしましょうよ」
少女がそう提案する。
杏はたまたま目の前にあった階段を上った。少女が眠そうな表情で、それに従う。それから、どこへ行くとも決めずに、止まっていた電車に乗り込んだ。
「このまま終点まで行ってみませんか?」
「なんで」
「川とか野原とかね、好きなんです」
「クラブだけじゃないのか」
「えー、そりゃそうですよー。夏休みに、いつも従兄《いとこ》の家へ行くんです。いいところですよ。あたしもああいうところに住みたかった。普段住むには東京はあんまり良くないです。空気も食べ物もおいしくないし」
年寄りのようなことを言う。
次第に一駅の区間が長くなり、地方の列車の趣きを帯びてきた。幾つかの橋を越えると、もう窓の外は田畑ばかりだ。
「変な名前の駅名が多いですね、田舎って」
恵美は車内の案内図を見ながらぶつぶつ言った。
「どうせだから、終点まで乗ってみましょうよ、この電車、気持ちいいから」
脇を緑一色の、古そうな列車が、二両編成で擦り抜けてゆく。
「あれ、乗ろう。終点着いたら」
杏は言った。
「きっと終点から接続してるから」
何の根拠もないが、杏は言い切った。
「あれ、何線ですか?」
「さあね。乗りゃ分かるよ」
「じゃあ、乗ってみましょうか?」
恵美は預けるような表情で杏を見上げた。
二人は終点まで行き、そこから先程見た緑色の電車に乗り換えた。やはり緑の電車は、終点の駅で杏たちを待っていた。
ちょうど目についた駅で、杏は電車から勢いよく降りた。恵美が慌ててついてくる。二人は駅前を歩き回り、近くを流れる川へ降りていった。町の駄菓子屋の壁には、売り出されて間もないころのオロナミンCやボンカレーの広告看板がまだ貼《は》られたままだった。商品を握り締めて微笑《ほほえ》んでいるタレントの顔にサビが点々と浮かんでいる。
「ちょっと……ここで待ってて」
杏は恵美を残したまま、その駄菓子屋へ入ってゆく。
「あの、この外にある看板、譲って貰《もら》えないでしょうか」
店の老婆は不思議そうな顔をした。
「別に……構わないけど……なんで?」
「あ、何か懐かしくて」
「いいよ。けど、あんた壁から外せるかね?」
「あ……」
何だか壁から取り外したら、家ごと崩れてしまいそうな感じがした。
「持ってくのは構わないよ。どうせもう大昔のヤツだからね」
「どうも。でも、取り外す工具も何もないので、やめます」
それから杏は面倒臭そうにソース煎餅《せんべい》と麩《ふ》菓子を二つずつ買った。老婆がタダでは帰さないぞという顔で仁王立ちになっていたからである。
「取っといてあげる、あんたが今度来たときのために」
安い買い物をすると、急に親切になった老婆が言った。
「看板を? くれるんですか?」
「そう」
「……そりゃありがとうございます……」
今度来たってこんなヤツに自分の顔が分かるものか、と思いながら杏は頭を下げておいた。
外で待っていた恵美に駄菓子を与える。恵美は珍しそうに、それを手に取る。
「こういうの……あんまり食べたことないんです……お母さんが、体によくないから、普通のお菓子にしなさいって」
「ああ、材料が悪いからな」
「でもおいしい」
恵美は煎餅を舐《な》めながら言った。
それから二人は土手を降りて行った。午後二時を少し回ったところだったが、あまり気温が上がらないその日は、もう夕暮れのような日差しであった。雲間から僅《わず》かに降り注ぐ光に、川面がきらきらと光っている。歩いている恵美の首筋から、透明の汗が流れだすのを、杏は後ろから眺めながら、ついていった。
川べりに座ると、恵美は母親が二人のために用意してくれたというお弁当を広げた。
分厚い卵焼き、タコの形のウインナー、串《くし》に刺したミートボール、五目ご飯……。
「あたしも一緒に作ったんですよお」
そう言って恵美は杏を覗《のぞ》き込む。
「感心感心」
杏はそう言っただけで、恵美に見向きもせずに食べ物を口に詰め込んだ。
「味噌汁《みそしる》もあるんですよ」
恵美が取り出した魔法瓶を、杏は驚いて見る。麦茶かなにかだと思っていたのである。
「飲みます?」
「うん」
紙コップに彼女が注いでくれた味噌汁には、しめじと分葱《わけぎ》が入っている。カップからはあの匂《にお》い、天然のダシ汁の匂いがした。杏は興奮に目眩《めまい》を感じた。
おいしい。このバイトは確かにおいしい。
「先生、一人暮らしなんでしょ。こういうの、久しぶりじゃん?」
恵美が大人びた口調で言った。
「先生の部屋ってワンルームマンションみたいなの?」
「ああ、そう」
「あたしも一人暮らししたいなあ。でも親が反対してるから。大学行ったらそうしたいんだけど、東京にいたら無理だよねえ。地方に行こうかなあ」
「なんで?」
「だって自由になれるじゃないですか。今だったら学校に行けば先生もいるし、家には親がいるし、でも大学行って一人で住めば、小言も言われないし、多少の不便は気になりませんよ。あたし食事作るの好きだし」
「ふん」
「何で鼻で笑うんですか。ねえねえ、一人暮らしの必需品て何ですか? 先生の家には今どんなものがあるの?」
「……別にないよ、必需品なんて。何にもなくてもやってけるさ。現にウチも新聞とか取ってないし、テレビも殆《ほとん》ど見ないし」
そう言ってから、これでは答えになっていないな、と杏は思う。
「ふうん」
納得したのかしないのか、恵美はしばらく黙って、ぼんやりとしたまま、川の水のうねりに目を細めていた。ひどくリラックスしているようだ。
「ところであの」
少したってそう口を開いたとき、恵美は親密な微笑を口元に浮かべて杏を覗き込んでいた。
「あの……この前のクラブのときの煙草って……」
「なに」
「本当に変なもの入ってたわけじゃないんですよね」
「うん」
「あの……それで」
「なに?」
恵美はしばらくもじもじしてから、ウインナーの断片を杏の口にそっと押し込んだ。
「これ、絶対親に秘密ですよ」
「うん」
「クスリってどうやって手に入れるの?」
恵美が感情を込めない声で囁《ささき》き、そして数回|瞬《まばた》きした。しかしその顔は熟れた林檎《りんご》のようにのぼせていた。
「何の」
「眠り薬。あたし、テスト前って眠れないの……最近一時ごろまで。どうしても十一時までには眠らないと、絶対成績上がらないと思って。でも、入手方法が分からないんです」
病院だよ、と答えようとしたとき、恵美が弾んだ声で言った。
「なんか、ああいうクラブではいっぱい売り買いされてるってクラスの子が言ってて」
「ふうん」
「なんか、一粒一万円とか……」
「一粒一万?」
「それで、飲んでみたくて」
「何で」
「何となく」
大量に口に詰め込みすぎた卵焼きが喉《のど》につっかえた。思わず胸を叩《たた》いて咳《せ》き込んだ杏の顔を覗き込んでから、恵美はそっと味噌汁を差し出した。こんなときに味噌汁飲んでも喉に詰まるだけなんだよ、もっとまともなもんないのかよ、と思いながら、杏はそれをがぶ飲みした。
川の向こうには、膨らみかけた秋薔薇《ばら》が点々と咲いている。
「また一緒に遊びに行きましょうね」
恵美が親しみをこめて杏の肩をぽんと叩く。
「おう」
杏は公園のベンチから拾ってきた男性週刊誌から顔を上げないまま答える。恵美は杏の顔色を見届けてから、安心したように問題集に戻った。
「先生、この三角形が合同であることを証明するのは二つの辺とその間の角度が等しいっていう方じゃなくて、二つの角とその間の辺が等しいっていうのを使うんですよね?」
「え……? あ、そう、そうだよ」
杏は今度は読みかけのページからしぶしぶ目を上げて答える。
「本当ですかあ?」
恵美が半信半疑で杏を覗き込む。杏はあたふたと目を動かし、それから素早く頭を働かす。しかし頭の中では図形が絡まってうまくいかなかった。それよりも週刊誌中の連載物の対談が頭にちらつく。杏はお腹《なか》を膨らませるように力強く答えた。
「本当だって。あたしが本当って言ったら本当なんだよ」
恵美が安心し、シャープペンをノートに擦《こす》りつけるように式を書き始める。そのかりかりという尖《とが》った音以外は、しばらくの沈黙が続いた。
「先生の……連絡先、いいですか?」
勉強が終わったあと、恵美からそう言われて、杏は喉にドーナッツをつまらせかける。今日の紅茶はロイヤルミルクティーだ。ちょっと甘すぎるな、と杏は思っていた。
「え、連絡先」
「急に、お休みの連絡しなくちゃいけなくなったときのこととかもあるし、やっぱ恵美の先生だし……それに、お母さんに内緒で、また遊びに行きましょうよ」
恵美一人だけなら誤魔化せるかもしれないが、この質問が母親からの指令だったら面倒だ。よく考えると、今までこの質問が恵美から出されなかったのは不思議であった。でも、毎日ここへきているので、急ぎの用でもないかぎり、杏の連絡先を知る必要など感じなかったのだろう。センターから紹介されて来たこと、経験者であるということ、そして出身大学の名前のおかげで、すでに両親も恵美も、絶大な信頼を、杏に対して抱いていたようだ。
「今は携帯電話しかない。引っ越したてでさ、自宅に電話入れるときって権利金とか高いからね。それに折角自宅に電話つけても、どうせいないからさ、意味ないと思って。携帯の番号でいいね」
有無を言わせない杏の口調に気圧《けお》されたように、恵美は頷《うなず》いた。
杏はさらさらと携帯の番号を書く。書きながら、その090から始まる四ケタ―四ケタの数字を見てため息をつく。普通の電話と同じ表示方式だったら、自宅の電話番号だと言うことが出来たのに。思わずいつもの舌打ちが出る。
「これから家の方に電話つけてもね、多分ずっと留守番電話にしてると思うからさ、何かあったら携帯の方に電話して。そっちの方が、確実だから」
「あ、はい、分かりました」
恵美は特に疑っている様子もなく頷く。冷たい汗が耳の後ろに急激に吹き出してくるのを感じた。恵美はその紙を眺めながらストローの先をもぐもぐと噛《か》んでいる。
その週の終わり、英語の小テストがあった。単語の綴《つづ》りだけだったが、恵美は七十点を取ったB5サイズの答案をひらひらさせて、嬉《うれ》しそうに杏に報告した。
本人よりも両親が喜んで、デパートの商品券五千円分を、杏に贈った。
その夜先生のための特別料理と母親が称する夕食をご馳走《ちそう》になった後、父親が杏に心配そうに訴えてくる。
「先生、今まで三ヵ月の分割で納めてきた指導料が、どうも値上がりするらしいんですよ。さっきセンターに電話してみたんですけどね」
「そうなんですか……」
聞いてみると両親はセンターに、杏の手にするバイト代の二倍半近い額を納めているらしい。いくらここの家が財産家であるとはいえ、その負担は相当なものであることが察せられた。たかが斡旋《あつせん》するだけで、センターは現場の教師の一・五倍ものお金を取っている。杏は皿の上の冷めた鶏肉を噛み千切った。
「こうしませんか?」
杏は言った。
「いったんセンターとは契約を破棄して頂いて、新しくあたしと個人的に契約を結んで頂くんです。勿論《もちろん》センターに払って頂く額より格安でお引き受けいたします。あたしも親御さんがセンターに払って頂いてる額の半分も貰《もら》ってないんです」
「え、そんなこと出来るんですか? だったら助かるなあ……」
杏は指をぽきぽきと鳴らしながら、電卓を太い手で叩く父親の緑のゴルフシャツを眺めていた。
「そうしたら先生に今までの五割増しの給料を払いましょう。そんだけ払っても、百万は得になりますから」
電卓から顔を上げて父親が言った。キッチンで皿を拭《ふ》いていた母親がちょっと不安そうな顔で柱の陰から首を出す。
「大丈夫だよ、高校入れればそれでいいじゃないか」
父親がそう言うと、母親は慌てて首を引っ込めた。
鼻緒の破れたラバーソールをホッチキスで留めながら、杏はいつものように舌を鳴らす。これはマンションの燃えないゴミ置き場から見付けてきたものだ。しかし何かの病気が足から移るような気がして、すぐには履けなかった。初秋の強い太陽光線で十分に消毒し、その後石けんをつけたティッシュで何度も擦《こす》った。最後にはティッシュの繊維片が溶けてサンダルの踵《かかと》の部分にたくさん付着してしまった。黒のエナメル地に金色の花が描かれている、可愛《かわい》い柄だった。しかしそれは、たった三日履いたところで、突っ掛けのところが切れて使いものにならなくなってしまったのだ。それでも杏はそれを図書館に持ち込んでホッチキスで何箇所も留めた。でもそれはちょっと走ると、すぐにばらばらに解体してしまうのだ。
真夜中。ぬるい風の漂う地下道で、杏は腹をたててサンダルを足で投げ上げている。サンダルは低い地下道の天井に、からんと大きな音をたててぶつかり、杏の足先十メートルのところに落下した。からん、からんという音が前後にこだましている。どぶ川の臭《にお》いと居酒屋の匂いがぬるい風をかき混ぜている。杏は片足飛びをしながら、やっとサンダルのところへ辿《たど》り着く。しかし鼻緒のすっかり取れたラバーソールは何の引っ掛かりもなく足を拒絶している。壊れたラバーソールを蹴飛《けと》ばそうとしたとき、反対の足が外側にぐきっと曲がる。いったーい、……杏は思わず地下道の壁に寄り掛かって顔をしかめた。靴底の高いラバーソールで、足を挫《くじ》いたらしい。向こう側にいた二人組の女が、にやにやしながら杏を眺めていた。杏が睨《にら》みつけると二人は話をやめ、視線をそらす。
大きなため息をつき、杏は足を引きずって歩きだした。壊れた方のサンダルは諦《あきら》めるつもりだった。
地下道の出口に、たくさんの自転車が黄色の紙を貼《は》られて積み上げられている。よろよろとそこへ歩み寄ると、思い切りそれを蹴飛ばした。そのとき車のライトが近付いてくる気配がする。暗い地面に溶けだすような美しいライトだ。思わず蹴飛ばすのを止めて息を潜めたとき、一番向こう側に積まれていた自転車が、ちょうど地下道の前を縦に横切ろうとしたパトカーのドアめがけて倒れこんだ。
「おい、なんであんなことやったんだよ、ガラスが割れたらただじゃ済まなかったんだぞ、分かってんのか?」
深夜の警察署はひどく蒸し暑い。もう秋になっているのに、刑事たちの体温がぶくぶく沸騰しているようだ。分厚い下敷きで胸元を煽《あお》いでいる刑事の首にも、小さな液体が流れた痕跡《こんせき》が、幾筋もついている。
杏はそれを見て、鼻の奥で小さく笑った。
「おい、何笑ってんだよ」
「すいませんでした。……」
「すいませんじゃないよ」
「たまたま通りかかって、ぶつかっちゃったんです……」
「しょうがないなあ……ドア、修理に出さないといけないんだぜ」
刑事がコンビニのかつ丼《どん》の包みを開けながら言った。油っぽい匂いが部屋に満ちる。警察で片方だけ貸して貰ったスリッパがじめじめと気持ちわるかった。
「名前と住所教えて」
名前の欄だけを書いて、住所を躊躇《ためら》っていると、刑事が顔を見合わせた。
「おまえ、家出人か」
「まさか……」
「仕事は?」
「ちょっといろいろ……へへ」
杏は卑屈な笑みを浮かべて刑事を上目遣いに見る。
「何やってんの?」
「ええと……いろんな現象を研究……してますね。まあ、学者みたいなもんです……」
「研究? 何の?」
「えー、だからそれはまあ、いろんな……」
「怪しいなあ、何の研究か言ってみな」
「おもに住宅の素材に関することですけど……」
「建築学か?」
「まあそんなところかな。自分で建築もしているし……」
「で、どんな素材がいいんだよ?」
「やっぱり軽くて風通しがよくて――地震のとき下じきになったりしないものがいいんじゃないですかね」
「へえ」
立ち上がろうとしていた刑事が興味を持ったように座り直したので、杏は唇を少し持ち上げるように尖《とが》らせた。
「ところであの、ちょっとトイレに……」
「トイレー? ああ、この部屋出て突き当たり。その小さいリュックは置いてけよ」
むっと口を噤《つぐ》んだまま、杏は足を引きずるように歩きだす。そのとき刑事の一人がふっと気付いたように言った。
「足、どうした? 大丈夫か?」
「別に……」
「挫いたんじゃないか?」
杏は面倒臭そうにかぶりを振って部屋を出る。ガラス窓の外は真っ暗で、室内とはうって変わって、秋の冷たい気配が廊下の隅々にしみ込んでいるのが分かる。じわっとした空気が、素足の毛穴をくすぐって、杏はふくらはぎをぼりぼりと掻《か》いた。斑《まだら》な血の筋が足につき、爪《つめ》の中に凍った色の血液がついた。
トイレの細長い洗面台の先に、蝶番《ちようつがい》つきの広い窓があって、杏はほっと胸を撫《な》で下ろす。和式便器に借りたスリッパをねじ込むと、近くにあったブリキのバケツを逆さに置いて、雑巾《ぞうきん》の詰まったプラスティック容器の並ぶ窓の桟に飛び乗った。地面までは一・五メートルほどだ。蝶番が邪魔になって体がつかえてしまったが、脇腹《わきばら》をゆするようにして何とか擦り抜けると、杏は勢いをつけてぽんと下へ飛び降りた。裸足《はだし》のほうの足が尖《とが》った小石を踏みつけ、じいんと痺《しび》れるような音をたてる。
小さなリュックには五百円入りの小銭入れと、駅前で配っていたティッシュ、食べかけのクリームパンだけしか入っていない。マリンブルーのデニム地に、菫色《すみれいろ》の紐《ひも》のついた巾着形《きんちやくけい》を思い出し、ちょっとだけ名残り惜しさが押し寄せてきたが、杏は足の下の小石を蹴飛ばすようにして、そのまま歩きだした。ジーンズの内側に、さらし布で丁寧に巻いた通帳とキャッシュカードは、自分の手元にあるのだ。それを指先で触れながら、さらに腫《は》れてきた裸の片足を引きずって、杏はダンボールの家に向かって歩きだした。
柔らかな日差しの舞い散る秋の午後を味わいながら、ゆっくりと歩いて界隈《かいわい》を散歩するのは楽しかった。セーターの背中についたはぜの葉が、鮮やかな赤い光を放っている。
バイト前のひととき、杏は近所の住宅街のスーパーで出来合いの惣菜《そうざい》を買っていた。それから新しいタオルも。すると、一人の中年の主婦が、レジの女性に文句を言っているのが聞こえてきて、杏は耳をそばだてた。
「外の自動販売機でコーヒーを買おうとして千円入れたら、お釣りが出てこないのよ」
「申し訳ございません、少々お待ち下さい」
店員は急いで店長を呼びに行き、店長は、なんだ、また故障かよ、と言いながら出てきた。杏はそれをさり気なくつけていく。主婦の手に提げたビニール袋からはみ出ている万能ねぎの先が、少し萎《しお》れていた。
杏はその傍のスーパーを早足で探す。そして外に自動販売機があるのを確認し、真っすぐにレジに歩いて行った。
「すいません、外の自動販売機、故障してるみたいで、千円札入れたら出てこないんですけど……」
「もうジュースはお買い上げになったんでしょうか?」
「いいえ……」
それから急いでつけくわえた。
「お札入れた後で、気に入ったジュースがなかったんで、千円札払い戻ししようとしたんです。でも、出てこないんです」
レジの女性は困ったように杏を見て、レジを休止中にした後、自分で外の販売機のところへ行った。杏も後ろからついてゆく。
「……千円、入れたんですか?」
店員が少し不思議そうな声で聞いた。
「はい……あ、入れたときは1000って赤い字で表示が出たんですけど、すぐ消えちゃったんです」
杏は口の脇《わき》を掻《か》きながら呟《つぶや》いた。店員は何度も払い戻しレバーを捻《ひね》った。
「おかしいな……ちょっと待ってて下さい」
そう言って店員が走り去ってゆく。
やがて店長がやってきて平謝りした。
それから店長も払い戻しレバーを何度もがちゃがちゃといじくり回した。それから自動販売機の扉を開けようとするので、杏はちょっと急いでるんですけど、と多少強い口調で言った。店長はまた、すみません、と言い、店内に走り去った。
そして、どこからか千円札を持ってきて杏に渡した。
「どうも」
と杏は表情を殺して言う。そうでないと笑みがこぼれてきそうだったからである。
「こちらこそ申し訳ありません……ちょっと故障してたみたいで」
店長は頭を下げた。
杏は千円を持ってその場を離れながら、今度はどこへ行くか考えていた。コンビニの方がいいのかもしれない。スーパーだと確実に責任者が出てきてしまうが、コンビニだったら、学生しかいないというところもありそうだ。そういうところで、大学生に、不愉快そうな顔をして「自動販売機壊れてますよ」と言えば、弾かれたように千円を出してくれそうな気がした。
杏はそこから二百メートルほど先にコンビニを見付けて、バイトの学生相手に、さきほどと同じセリフを繰り返してみた。
すると店員はやはりあたふたして、自動販売機の払い戻しレバーを弄《いじ》りながら、「すいません」を繰り返す。そして、最後に、レジの千円札を引き抜いて、持ってきてくれた。
それからその辺のコンビニやスーパーの自動販売機を荒らし回った。二度も行ったら疑われるだろうと思い、全部一度ずつしか回らなかったので、すぐに行く店はつきてしまった。治り切らない足が少しつったように痛み始める。折角買った新しい靴が擦り切れてしまうのもたまらなかった。
結局、八軒の店を回ったところで諦《あきら》めてしまった。それらの千円を、杏はいちいち銀行に入金する。日々の食事代その他の経費は、バイト代から捻出《ねんしゆつ》しているので、この八千円は、まるまる貯金に回せるな、と思うと、甘美な思いが込み上げてきた。
公園は木々の湿気で凍りつくようだった。もう木々は色を失っていた。干涸《ひから》びたミルクコーヒー色の葉は歩くたびにぱりぱりと音をたてて壊れ、湿気を失った乾いた土も、白い肉をむき出しにしているだけだ。
銀行に行った帰り道、路上で売られている薔薇《ばら》の花を買う。真っ赤な薔薇が五本。セロファンが薄いピンク色で美しかった。花の深い内部に、イエローの花粉が可憐《かれん》に吸い付いている。その花芯《かしん》に鼻を突っ込んで、思い切り息を吸い込むと、それが顔にぺったりとついて、肌がかゆくなった。
植物の濃い匂《にお》いに満ちた夜の新宿駅を幸せな気分で横切って歩いていると、切符売り場で、路上生活者らしき男が、切符を買うために財布を出している若い男の横にやってきて、金を無心している。杏は思わず若者の反応を、食い入るように見た。若者は一瞬|眉間《みけん》に不快な皺《しわ》を浮かべた後、弾かれたように財布を開けている。千円札がひらりと舞って、あっというまに汚い男の手の内側に吸い込まれていった。不意をつかれたためだろう。
翌日、開店と同時にファッションビルのトイレに入るとすぐ、杏は洗面台付近を見渡した。人はまだまばらで、化粧を直す店員がたまに入ってくる程度だ。杏はトイレを出て店をうろうろする。すると店員たちが杏を吸いつくように見据えるので、杏は彼女たちを睨《にら》みつけて店を出た。立ち食い蕎麦屋《そばや》で月見蕎麦を食べてトイレに戻ると、ようやく客がぽつぽつと入ってくる。
杏はトイレの洗面台の前をうろうろしながら、長い時間をかけて口紅を塗るふりをした。パーティーのとき以来使っていない壊れかけの口紅である。しかし、なかなかめぼしい人間が現われない。杏が苛立《いらだ》って鏡を指先で弾いたとき、ふっと背後から人の気配がした。
こいつだ! 杏は心の中で叫ぶ。紺のジャケットに長い水色のフレアスカート。銀縁の丸いメガネ。茶色の鞄《かばん》。ニキビだらけの素肌。腕には何冊かのハードカバーを、丁寧にブックバンドでまとめて抱えている。小さな唇がわずかに上を向いて、小さくハミングでも歌い出しそうに膨らんでいた。杏は少し軽蔑《けいべつ》して鼻を鳴らす。
彼女がトイレに入っている間、それでも杏は多少緊張気味に、何度も唾液《だえき》を飲み下しながら、トイレのピンク色の壁に寄り掛かっていた。
やがて彼女がトイレから出てくる。そして手を洗い、鏡を覗《のぞ》き出した。
「あのー、すみません……」
杏はおずおずと切り出す。2QQ2をやっているときでさえ出したことのない借金専用の透明な声色を使って。
「はい?」
彼女は杏を見た。
「あたし、さっきこのビルの中で、お財布落としちゃったんです……」
「え? お財布を?」
「お店の人には言ったんだけど、キャッシュカードも一緒に落としちゃったから……それで、今困ってて……あの、悪いんですけど……見ず知らずの人にこんなこと言うの、本当勇気いるんですけど……」
「いいですよ」
彼女はにこっと笑って言った。小鳥の鳴き声のように、澄んだ声だった。
「今日バイト代出たばかりなの」
「バイト……」
「ええ、大学でね、心理学やってるんだけど、その関係で、子供たちと遊ぶ仕事なの」
「へえー、楽しそうですね。……子供になつかれそうな方ですもんね」
杏は自分の言葉を遠くから聞こえるこだまのように感じながら言った。
「そうかしら……ところでいくら必要なんですか?」
彼女は杏を覗き込むようにして、穏やかに聞いた。
「あ、あの、交通費の千円と……」
手に浮いた血の筋をじっと見つめながら、杏はわざと吃《ども》る。
「家はどこなの?」
彼女が心配そうに聞いた。
「帰れるの? ちゃんと」
「あ、本当は伊豆の奥から来てるんです……」
「伊豆ー?」
彼女が頓狂《とんきよう》な声を上げる。
「それじゃあ千円じゃ全然じゃない」
「ええ……でも、初対面の人にそれ以上お借り出来ないですから……」
「千円で、どうするつもりだったの?」
「……」
視線を床におとし、可憐な表情を作る。笑みがもれ出さないように。
「東京に遊びにきたのね?」
「ええ……ここで洋服をまとめ買いするつもりで……さっきずっとほしかったヤツ見付けたんですけど、でももう買えないなあ、なんて。せっかく東京出てきたのに。今度来れるのは来年の春休みくらいになりそうだし……参ったなあ……って感じで」
「春にはもう目当ての洋服はなくなってるわよ」
「そうなんです……けど」
彼女は鞄から封筒を取り出し、そこに入っているお札を数えた。
「これで、その洋服買って、それから伊豆まで帰れる?」
そう言って、二万円を出す。
「あ、それくらいあれば……」
杏はごくっと唾《つば》を飲み込んで答えた。
「でもあの、大丈夫なんですか? そんなに」
「両親と住んでるからそんなにお金に困ってないの。それにあなたは人を騙《だま》す人に見えないし……東京で放っておかれたら、悪い人にどこかに連れ込まれちゃいそうなタイプに見えるし……あなたの電話番号は念のために教えて貰《もら》うけど、いいよね?」
「あ、もちろん」
彼女はアドレス帳を出した。
「名前は?」
「……山口恵美」
「山口……さんね。電話は?」
杏はぎょっとして俯《うつむ》く。はっきり覚えている番号と言えば、自分の携帯だけである。みるみるうちに頭から血が引いていった。心臓がどくどくと音をたてた。どうしよう、伊豆の市外局番でなければ……。
「0543の……」
適当に並べた。この局番が果たして伊豆かどうかはよく分からないが、せめて静岡県であってほしい……確か静岡ではあったような気はする。会社勤めをしていたころ、電話をかけさせられたんだっけ……。
「あの、それで、あたし今日伊豆に帰ったら、明日一番にでも口座に振り込ませて貰いますから……それとも現金書留の方がいいですか?」
「口座でいいわよ。口座番号は……今書いてあげるね」
彼女は自分の名前と口座番号をメモに書き、杏に渡す。
「じゃあ、本当に明日、振り込みますから」
「ちゃんと帰ってね。気をつけて」
それから二人は一緒にトイレを出た。彼女は本屋に寄るから、と言ってすぐにその店を去っていった。杏は彼女の名前の書かれた紙を、近くの枯れたポプラの枝に突き刺すと、金を一万円だけ財布に入れ、残りを預金しに行った。記帳した通帳に、一万円が増えているのを確認して、ジーンズのさらし布の中に滑り込ませる。昨日買った温室|薔薇《ばら》の芳しい匂《にお》いが、ダンボールの家をほんのりと紅色に染めていた。
十一月。もずの声が頭上で響いている。くすんだ赤と黄色が斑《まだら》になった葉が、地面を厚く覆っていた。葉は湿って何枚かくっつきあい、薄く重なって秋の弱腰な光の中に輝いている。吐息はひんやりした空気に、ミルク色に染まった。
机の上に赤いマジックで落書きされたノートが投げ出されている。それから、シネ! と書かれた英語の教科書。先程からその前にずりおちそうな姿勢で座って、恵美は無言でそれを眺めていた。六時からずっと、恵美はその姿勢で動こうとしない。
「一番仲いい子だったんです……」
恵美が机から目を離さずに呟《つぶや》く。やがて静かに、恵美の体が痙攣《けいれん》しだす。しかし目は潤んではいない。きつく噛《か》んだ唇が強い意志を表していた。杏は手に持ったゴムの赤いボールを玩《もてあそ》び、美術の教科書を広げた。枯れ草色に広がる一面の草原と、ブリキの盥《たらい》と小さな木の家が描かれているアメリカ人画家の絵。
「先生、今日はテレビでも見ませんか」
恵美が杏を気遣うようにようやく口を開く。
「たまにはいいでしょう? 勉強飽きちゃって……」
お父さんにはばれないから、先生はちゃんとバイト代貰えるようにしておくから。
それなら何だっていい。
テレビでは討論会が行なわれていて、女の評論家が何か喋《しやべ》り続けている。子供が犯罪を犯したときの親の心情は……子供を失った親の心情は……どうやら教育問題らしい。そうだよな、子供を心配する親の心情だけが、この世界では絶対なんだよな。分かった、そうやって苦悩してみたいから生むわけだな。子供を失った親は大騒ぎをしてくれるから、子供の命は尊いわけだ……路上生活者が死んだところで騒ぐ親はいないから、路上生活者の命なんか尊いわけないもんな、そう、あたしたちは汚い肉塊だ。幼くて可愛《かわい》らしい子供の生命と比べたら蜘蛛《くも》の糸より軽い価値しかない……。
頭にかっとアドレナリンが昇り、手の内側が湿ってきた。目の前が白い閃光《せんこう》で覆われ、もうテレビを見続けられなくなったそのとき、女の評論家のしているピアスと切れ込みの大きいブラウスの間から覗《のぞ》く豊かな胸が飛び込んでくる。胸元を気遣わしげに触っている女を見て、閃光が少しずつ溶けていった。許してやるよ、所詮《しよせん》おまえらも娼婦《しようふ》にしかなれないんだ。杏は思わず声を上げてくすくすと笑う。
「これ、おもしろいですか?」
恵美がテレビの画面を不思議そうに見ながら聞く。
「おもしろいよ」
そう答えてから仰向けになって、ヨーグルトを掻《か》き込んだ。一番好きなプレーンの真っ白なヨーグルトだ。
「明日も学校か……」
恵美が俯いたまま机に呟きかけるように言う。
それからつまらなそうにテレビのチャンネルを回した。いかがわしい娼婦どもの顔が、料理番組に変わる。
恵美はヨーグルトをスプーンでくちゃくちゃと混ぜて一口食べると乱暴にベッドの上に寝転んだ。
「――クスリ、貰《もら》ってきてやろうか」
「え? 先生持ってるの?」
恵美がけだるそうにゆるく首を上げる。
杏は首を横に振る。
「でも、欲しいっていうんならさ」
「くれるの……もしくれるなら、あたし買う。……お小遣いには困ってないから、高く買うから」
その言葉を聞いた途端、杏の頭の中に、薬入手のだいたいの段取りがさっと組み立てられた。
寒さのために、体のふしぶしが痛んで、熱っぽかった。朝起きると、肩の付け根がきしんだ。グランドコートはとっくに着ていたけれど、上の暖かさに対して下が寒すぎる。ソックスを二枚重ねて履き、スパッツの上からコーデュロイのズボンをまとっていたが、とても耐えられそうもない。
久しぶりに自分の大学へと顔を出した。お金が出来てからは、洗濯も風呂《ふろ》も、新宿駅の近辺のコインランドリーや銭湯で済ませているので、もう一切大学に行く理由もなくなっていたのだ。最初に住んだのはここだったな、と郷愁を噛《か》み締めながら、真っすぐ歩いて一番奥の、大学内診療所へ向かう。
診療所は、静かで厳粛な雰囲気が溢《あふ》れていた。
待合室に座っている大学生は、男子学生一人であった。どこがわるいのか大きな鞄《かばん》を腕に抱え込むようにして持ち、体全体から澱《よど》んだ、陰気な雰囲気を漂わせている。
「いたたたたた……いたーい……」
杏はお腹を押さえて呟いた。
「どうしたの?」
保健婦が驚いて、受付窓口の中から飛び出してくる。
「ちょっと胃が痛くて……急に……」
すると待っていた男子学生が、
「この人先にして貰っていいですよ」
と言った。
「あなたはここの学生さん? 学籍番号お願いします」
保健婦がボールペンを片手に聞く。
「いえ、あの、卒業生なんだけど……」
杏は定期入れにずいぶん長いこと眠っていた大学四年生当時の学生証を見せる。
「今日ちょっとここの図書館に用があって、来てから少し経って急に胃が痛み出して……あんまり苦しいんで、ここで薬頂いてこうと思って……」
「そう、分かりました、卒業生なのね。保険証は? 今日持ってる?」
「いえ。今日は……」
「じゃあ一ヵ月以内に持ってこれる?」
「はい……あの、すみません、今ちょっとお金が……」
「じゃあ今日はいいわ。本当は現役の学生さんしか無料診療は出来ないのよ。でもまあ急に痛くなったんじゃしょうがないわよね。今度、保険証持って来たとき、一割か三割か、保険の種類に応じて負担して貰うことになるけど……」
大学の診療所は、保険証と学生証を見せれば、学生たちはタダであった。杏はもう卒業しているので、保険証を提示して診て貰うにしても、個人負担分は取られるのが普通である。本来ならばここで診て貰う資格もない。普通の病院に行け、と言われるだろう。
でも普通の病院だったら、保険証がないと次に持ってきて下さいと言われるし、一銭も払わずに帰ることはきっと不可能だ。
大学の診療所はそうではなかった。学生だったころ、風邪を引いてここを利用したとき、偶然保険証を忘れてきたことがあった。しかしここではとても親切に診てくれ、しかも次に保険証を持ってくることを条件に、薬代も含めて一切を無料にしてくれたのである。貰った薬袋はずいぶんたくさんの薬で膨らんでいて、薬局で普通に買ったら三千円くらいしそうであった。これが全部タダだったのだ。それに保険証を持って来いという督促も一切なかった。
そして卒業した今でも、大学の保健婦は「今日は一銭も払わないでいい」と快く言ってくれている。大学構内には、どうも善人の群れだけが生活しているようだ。
「中へ入って」
優しい声で受付の女性が言った。
「順番に割り込んですみません……」
かすれた声で謝り、杏は診察室へ入ってゆく。俯《うつむ》いたままの頬《ほお》が、また緩みかけた。それをかき消すように、イタイ、イタイと唱えながら。
「どうしました?」
四十がらみの男の医者が聞いた。
「胃が……痛くて痛くて……」
「いつからですか?」
「さっき急に……でも以前から神経性胃炎を患ってるんです。もう治ったと思って、薬飲むのやめてたら……」
「どこかで治療を受けていらっしゃったんですね?」
「はい……あの、睡眠薬を頂いていました」
「なるほど」
「それで……今日、あの、病院で頂いてるような睡眠薬を貰えないかと思って……」
医者はさらさらとカルテを書いていたので、しばらく診察室には沈黙が溢《あふ》れた。
「でも、胃が痛いなら胃薬でしょう」
「いや……そうじゃなくて、食べ過ぎとか、胃酸過多とかじゃないんで……あの、普通の胃薬じゃあ……」
医者はしばらく杏の胃を軽く押して、様子を見ていた。杏は胃を押されるたびに、ひゃっと叫んだ。
「睡眠薬は出せませんねえ。かかりつけの医者がいるなら、そちらでいつも飲んでいるのを貰った方がいいです。私が下手に出すのはよくないですから。それに、今はとにかく胃が痛くて来たわけでしょう? だったら対症療法的に、胃痛を緩和するのが先決でしょう。それに神経性であろうと急性であろうと胃炎には胃の薬を出すのが普通じゃありませんか」
杏はむっと押し黙って医者を睨《にら》みつける。それから医者の後ろにある白い棚の脱脂綿や消毒薬や金盥《かなだらい》も。こんなの簡単に打ち破れる、杏は白い棚を睨んで笑った。素手にタオルを巻いて腕を垂直にガラスに突き立てて。ガラスは薄そうだし、ちゃちな止め金は半分壊れかけている。こんな木棚……。
「ずいぶん痛むみたいですねえ。二週間分の胃薬を出しておきますから、今日はぐっすり休んで下さい。その睡眠薬と一緒に飲んでも大丈夫ですよ。弱いから、これは」
「じゃ、ついでに風邪薬も下さい」
杏は、ぶっきらぼうに付け加え、受付で一番大きな薬袋からはみ出そうなくらいの薬を保健婦の手から奪い取るようにして帰ってきた。
痺《しび》れるような寒さが地下通路を駆け抜けてゆく。街は枯れた木の葉の色から、一転して鮮やかな赤と緑のクリスマスの飾りに変わっていた。街路をきらめかせる黄金色の光が、噴水の水を虹色《にじいろ》にしている。氷の屑《くず》のように見えるその噴水が実は全く凍っていないのが、杏にはとても不思議だった。
こないだの冬、初めての路上暮らしの中で寒さの応《こた》える夜をしのぐために思いついたアイデアが、ふたつあった。ひとつは大きなゴミ用ビニール袋に、下半身だけ入って、腰のところは紐《ひも》で縛って寝るというもの。もうひとつは、空のペットボトルに、トイレで汲《く》んできた熱いお湯を入れて、栓をしっかりしめて抱いて寝る、というものである。
ひとつ目の問題点は、きれいなビニール袋を探すのに、手間がかかることだった。そしてふたつ目の問題点は、ペットボトルの熱伝導があまりよくないことだ。出来れば空缶にお湯を入れて使いたいのだが、なにしろ缶は小さい。それでもペットボトルのような蓋《ふた》つきならば、十本くらい回りに置いて眠れば温かいだろう。しかし缶には蓋がついてはいない。ちょっとでも倒れたら、そのお湯はすぐに瞬間冷却して、杏を氷づけにしてしまう。だから杏はそのあまり暖まらない空のペットボトルを何本も集めるしかなかった。多くの場合、それらは蓋なしで捨てられていたので蓋は蓋で拾った。それで杏の湯たんぽは大体ボトルと栓の銘柄が違っている。何となく清涼飲料水よりもただの水の方がきれいに思えて、ボトルにはミネラルウォーターを選んでいる。
しかし、どんなに湯たんぽを使っても、ボール紙だけの地面はやはりつらく感じられた。寒いだけではなく、コンクリートのごつごつとした固さが応えた。
杏は下半身ビニール袋にくるまったまま、体を起こし、壁に背中をつけ、膝《ひざ》を抱える。グランドコートは長いので、こうすれば足首まですっぽりと包み込むことが出来る。
素手のまま先程拾ってきた餃子《ギヨウザ》を、何もつけずに立て続けに口に放りこんだ。五つほど息もつかずに食べ終えると、最後の一つがどうしても詰め込めなくなった。杏はそれを足で踏み付け、ぐしゃぐしゃにつぶした。他の連中が拾えないようにするためだった。いつか拾いすぎたハンバーガーを、ダンボールの脇《わき》に立て掛けた炬燵板《こたついた》にぶつけて遊んでから眠ったことがあった。すると翌朝ハンバーガーは綺麗《きれい》になくなっていて、杏は舌打ちしたものだ。
鰯《いわし》の缶詰の空缶を灰皿にして、夏にクラブで吸って以来、ボストンバッグの底に眠っていた煙草を吸ってみた。それから青白い煙の彼方《かなた》を、目で辿《たど》るが、途中でそれは空気の中に途切れてしまう。しかし杏は諦《あきら》めなかった。目をきらきらさせて、その煙の吸い込まれてゆく方を、じっと見つめ続けた。
「ねえ、先生、あれ持ってきてくれた?」
杏はポケットから、ばらばらの錠剤を数粒取り出す。病院で貰《もら》った薬のうち一ダース分だけ、ミシン目に沿って一粒ずつ切り離して持ってきたのである。
「こういうのなんですか……。これが一粒一万……先生、どこで? クラブで?」
「入手ルートは部外秘だから」
「へ……え……」
恵美はしげしげと杏を眺めた。
「これで、本当に、眠れるのかな……」
恵美が自分に問い掛けるような調子で呟《つぶや》く。すっかり痩《や》せてしまった細い首筋が目立っていた。成績は停滞し、もう小テストを嬉々《きき》として見せることもなかった。
「大丈夫でしょ」
「これ、一粒一万だったら、三粒買っていいですか? 三万。今持ってくる」
「三粒で三万か……」
「だって、それくらい貴重なものなんでしょう?」
しばらく躊躇《ためら》った後、杏は言った。
「これ十二粒で三万でいい」
杏はポケットにあった粒を全部出し、ざっと机に空ける。恵美はそれをぼんやり手で触っていた。
「こんなに……。でもこんなに貰って三万は……」
「いや、それでいい」
あたしって本当善人だ……杏は少し感動した。だいたい一度に搾取するのはよくない。恵美の親に怪しまれる。十二粒で十二万……子供の小遣いが突然十万円以上消えたら、きっと親は子供を追及する。ここはひとつ、少しずつ少しずつ子供の小金を吸い取ってやろう……
「じゃあありがたく……はい、三万。でも先生って気前いいんだ……」
「別に」
恵美はしげしげと薬を眺めている。
「それ三、四粒一気に飲んじゃった方がいいから。あとアルコールで飲むと結構眠れるってさ」
「お酒、全然ダメなんだけどな……でもそうすれば、眠れるのかな……」
「梅酒で呷《あお》ってみな」
杏は薬を眺めながら付け加える。もっと貰えたのに。やはりかすかな未練が胸をよぎった。しかし気を取り直して手元のぱさぱさとする美しい紙幣を、丁寧に三つ折りにする。掏《す》り取られないように小銭入れと見せ掛けた小さな財布に詰め込むためだ。その間、恵美はむっつりと黙り込んだまま、錠剤をじっと握り締めていた。
「でも、効くか効かないかは本人の体調次第だから」
「分かってるって、効かなくても別に先生に文句言ったりしませんよ」
でも、その夜、十二時ころ、ダンボールの家の中で杏の携帯電話が鳴った。
「先生……」
恵美の声はひどくふわふわとか細く頼りない。
「先生がくれたヤツ、あれすっごい効くう」
本当かよ。
「お酒と一緒に飲んでみたの……そしたら眠くなってえ、体が浮くようで……」
気怠《けだる》い声で恵美はぶつぶつと呟いた。
「よかった」
「あの薬、お腹まで空いてくる薬なんですねえ……、友達に自慢できる……気分が、……よくなる……」
「……」
しばらく声が途切れた。眠りかけたらしい。
「どうもありがとうございました……お、休み、なさ……い」
「お休み」
恵美はまだなにかぶつぶつと呟きかけながら受話器を置いた。杏はしばらく膝《ひざ》を組んで壁を指でなぞっていた。重く言葉が心の中で引っ掛かっているような、変にすっきりしない恵美の声。
まだたっぷりと膨れている、大学診療所と書かれた薬袋を手に握り締めてみる。中身を取り出すと、五十粒以上残っている。
「あと四回に分けて……十二万、か……」
袋を手のひらに載せて重さを確かめるようにしながら、杏は呟いていた。
家庭教師のバイトに出掛ける前の数時間、杏は繁華街のビルのトイレを歩き回る。どんどん大胆になってきて、一人ではない女にも喋《しやべ》りかけてみるようにもなった。数人づれの方が貰《もら》える額が当然多いからだ。
実際二人組の女に話し掛けてみると、二人は同情し、また、一人がその気になるともう一人もださないわけにはいかなくなり、つられるようにしていくらか杏に渡してしまうのだった。
マヌケな女ども……貰った金額の大体半分程度を銀行に預金に行きながら、いつも杏が呟く言葉だ。
まだまだお金を持っているヤツはいる。そう、女どもよりももっとたくさん。
ある夜、駅で半分酔っ払って、しかし完全には酔っていない男に杏は近付いて行った。
「あのー、すみません……」
相手の眠気と多幸感に満ちたぼんやりした顔に、ゆっくり表情が表れる。
「なあにー?」
薄赤い顔の酔っ払いは目を上げて陽気そうな笑みを浮かべた。杏は彼の目を覗《のぞ》き込んで囁《ささや》いた。
「ちょっとお金ちょうだーい」
「え?」
「帰りのお金があ……ちょっとでいいの、ちょっとで……カンパしてえ」
「遊び過ぎたんじゃないのお? ちゃんと取っとかないとダメだよお」
そんなことを言いながらも、酔っ払いは杏の手をさすり、結局三千円くれた。女たちから貰うのと同じくらい簡単だった。
その日から夜になるたび、毎日休まずに出掛けていった。勿論《もちろん》全部が物分かりのいい男ばかりではない。そう思うと、杏は哀しそうな素振りで、
「あの……あたし、地方から出てきて……ちょっと東京のこと分からないんですけど、この辺に安い旅館あるかご存じありませんか? カプセルホテルくらいの」
と言ってやったりする。
「旅館? これから泊まるの?」
「ええ……でも、本当は帰りたいんですけど……お金……お財布おとしちゃって。今日中に帰らないとまずいんですけど。キャッシュカードならあるんですけど、もうこの時間じゃ下ろせないし、安いホテルに泊まって、明日朝一で下ろして、払おうと思ってるんですよね」
「家どこなの?」
「福島なんですけど……もうすぐ最終の時間で……電車乗りたいんですけど、どうしよう……」
酔って気の大きくなっている相手に、杏は間髪を入れずに切り出す。理性的に考えるひまをヤツらに与えてはならない。
「あの……それで、必ずお返ししますから、お金貸して頂けないでしょうか?」
「いくら?」
「五千円、とか……」
「五千円……はちょっときついなあ……三千円は?」
「あ、それでも十分です。あとは自分でなんとかしますから」
酔っ払いは財布から少し惜しそうに三千円を出す。
杏は電話番号と名前を書くためにメモ用紙を取り出した。
福島の市外局番はいくつだっけ……またこの前と同じ疑問が、杏を苦しめる。面倒臭い、伊豆にしておけば良かった。東京が03、それより北だから……杏は02で始めることにし、0234と書いておく。この前よりもあまり緊張しなかったのは、相手が酔っていて、追及してきそうになかったためと、場慣れしてきたためだろうか。この間も、伊豆といっても静岡県であれば、いや、それも無理なら東海地方ならどこでもいいと思って書いた。今回もそうだ。0234が福島でなくても、東北地方だったらどこでもいい。
「明日振り込みますから、口座番号教えて頂けますか?」
「え?……いいよ、三千円くらい。部下に奢《おご》ったと思えば」
男は杏が自分の電話番号まで渡したので、すっかり不信感を解き始めた。
「分かった。よし、五千円貸そう……いや、あげる。貧乏サラリーマンだからあんまり援助出来なくて悪いけど、きみは特別」
そう言って、彼は五千円札を杏に握らせる。
杏は立ち上がってそれを急いで財布へねじこむ。
約五万円が、そういう手段で貯《た》まった。夜になるたび何度も通帳を眺め、そしてお札を数えた。お風呂《ふろ》にも持って入った。スーパーのビニール袋に包んで、タオルで隠して目の前の洗面台に置いておいた。お風呂帰りに公園のベンチに座って凍える指でお札のしわを伸ばしているとき、まるでキャンデーを噛《か》み砕いて中から甘いフルーツシロップが溢《あふ》れてきた瞬間のようなじわっとする気持ちに包まれる。髪から白い湯気が立ち上り、急速に湯上がりの体が冷えてゆく。だが、その冷酷な夜風さえもお札のおかげで心地よかった。
「困りますな、あなたが住所を言えないんでは」
少年課の刑事は不機嫌な顔で言う。
「あなたが一応引受人なんですから」
「はあ」
杏の携帯に警察から電話が入ったのは、夜八時を回ったころだった。
「山口恵美という中学生をご存じですか?」
「はい」
「あなた彼女の家庭教師さんだそうですね?」
「はい」
「彼女、スーパーでマニキュアとリップクリームを盗みましてね、こちらに連れて来てるんですけど、どうしても親のことを喋《しやべ》らないんですよ……申し訳ないですが、こちらにお越し下さいませんかね」
軽い間があった。杏は腹を立ててダンボールの壁を軽く蹴《け》った。それから諦《あきら》めて答える。
「――はい。行きますよ」
「助かります。すいませんねえ」
杏はダンボールの家を出てグランドコートを体に巻きつけ、近所の立ち食い蕎麦屋《そばや》でうどんを二杯食べた。うどんは粉っぽく、汁は水っぽかった。食べおわった割り箸《ばし》を、二つにばりばりと折って、残した汁の中に浮かべる。街路の枯れ葉は砂埃《すなぼこり》にまみれてぐしゃっと丸まっていた。
机の上に置かれた安っぽい化粧品を前に、恵美は憔悴《しようすい》しきっていた。ぼんやりと頭の働きを失ってしまったように口を半開きにし、杏の顔を見てもまるで表情を変えない。
年配の刑事が一人、鉛筆の先を机にとんとんと打ちつけながら、肘《ひじ》をついて恵美を見ていた。
「申し訳ありませんねえ、家庭教師の方に……」
「別に」
杏はコートのポケットに手を突っ込んだまま答えた。
「親じゃなくてあなたを呼んでくれって懇願されてね」
「そうですか」
「そういうわけなんでねえ、一応あなたの住所を……」
「それはちょっと」
杏はポケットから手を出さないまま棒立ちになって答えた。
「それはちょっとってあなたねえ――彼女の方も住所も電話番号も言わないんですから、せめてどちらか一方は教えて頂かないと……」
眉間《みけん》にしわを寄せ、文句を言い始めた刑事の膨れた分厚い顔をしげしげと眺める。油揚げみたいな顔だ。後ろのドアが開いて、後輩らしき男が彼に何か耳打ちした。
「ああ、ちょっと待ってて下さい、ちょっと電話」
そう言って刑事が部屋を出ていった。
「ここって一階だったっけ?」
杏はぐったりした恵美に急いで聞く。
「え? はい……」
「吐くふりして」
杏は恵美の耳元に囁《ささや》いた。
「え?」
「いいからやれ」
杏は虚《うつ》ろなままの恵美を強くこづいた。ちょうどそのとき、刑事が戻ってくる。恵美が一瞬|躊躇《ためら》うように杏の顔を見上げたあと、反射的に下を向いたまま口を両手で押さえた。懸命に堪《こら》え、しかしたまらずにうっと呻《うめ》き声をもらす。杏は刑事にまくしたてた。
「ちょっとトイレ! トイレどっちですか?」
「え? おいおい……どうしたんだ――」
杏は恵美の鞄《かばん》を乱暴に開けてかき回す。
「あれ……ないなあ、薬……どこに入れたっけ……あ、トイレどっちですか?」
「あ、廊下出て右に曲がったところ。大丈夫か?」
「ええ……ちょっと連れてきます。逃げたりしませんよ、あたしのこれ、置いてきますから」
杏は自分のリュックを唖然《あぜん》としている刑事に押しつけ、恵美の鞄を持つと、恵美を引きずるようにトイレに連れてゆく。廊下をぬけるまで、恵美の脇腹《わきばら》をこづいて脅かし続けた。恵美が杏の顔を覗《のぞ》き込みながら懸命に口を押さえてお腹《なか》を折る。
トイレの窓はやはりここも蝶番式《ちようつがいしき》だった。ぎいっと最大限に開くと、恵美を先にそこに押し出した。痩《や》せこけた恵美はするりとぬけ、杏が下に投げた鞄をうまく受け取る。そのあと杏は蝶番に苦労しながら何とか窓から飛び出した。窓枠にジーンズの裾《すそ》が絡んで、危うく顔から落下するところだった。
「先生……」
スカートの汚れを払い、我に返った恵美が青い顔をして小刻みに震えながら後ろから飛び込んできた杏をおどおどと上目遣いに見ている。
「先生……すみません……巻き込んじゃって……でも、こんなこと、親に知られたくなくて……」
声が微妙にビブラートし、次第に小さくなっていった。恥ずかしそうに下を向いた。
「なんで……やったのか分からないし……あんな……」
「見え見えだな」
「え……?」
「いい感じの演技」
恵美は下を向いて唇を噛《か》んだ。
やがて鞄の上に重ねられた恵美の手の甲に、透明な液体がぽたりとおちる。
それを斜めに眺めて、杏はジーンズのほつれを触っていた。そこを起点にどんどん崩壊していく膝《ひざ》の穴に苛々《いらいら》していた。無意識にポケットの中の財布を揉《も》んだ。お札の豊かな膨らみの感触が、胸を締めつける。地面を蹴飛《けと》ばし、舌の裏側に溜《た》まった唾液《だえき》を思い切り吐き出す。足でそれを擦《こす》るとねばっこい糸を引いていた。恵美の喉《のど》からもれる啜《すす》り泣きの声が次第に消えてきたので、杏は恵美の体に近付いた。そして恵美の肩にそっと触れた。
しばらく恵美を観察したあと、杏はぬっと左手を恵美の前に突き出す。
「え……? あの……」
杏は無言でさらに手を恵美の胸元に突きつけた。
「もしかして……」
「そう。口止め料」
恵美は弾かれたように財布を出し、一万円札を杏に渡す。
「金持ってんじゃん。ったく何やってんだよ」
杏はポケットに一万円札を突っ込んだ。ポケットの中で数枚の千円札が指先に触れたのでつまみ出してみると三枚ばかりある。
「はい、お釣り。七千円でいいよ」
杏は気前よく言って恵美に三枚の千円札を押しつけた。まあ七千円あれば千円のTシャツが一週間分買える。
それから新宿に向かって歩き出した。恵美は杏の様子を窺《うかが》うように、とぼとぼとどこまでもついてきた。
途中一回だけ振り返った杏の目に、恵美の足首の赤い腫《は》れが飛び込んでくる。それが夜更けの急速な冷えこみのせいなのか、それとも別の理由のせいなのか杏は奇妙に気になった。だが、取《と》り敢《あ》えず手元には予想外の収入がある。警察までの交通費を差し引いても六千六百円もの。けど――それだと七日分のTシャツは買えない。交通費の計算を忘れるなんて、自分もまだまだだな、杏は恵美に聞こえないように舌打ちした。
夜、駅に入っていってホームの端の人気のないところでしゃがみこむ。後ろから人の視線を感じてそのまま冷たいコンクリートに横たわると、そばのサラリーマンが二人がかりで駅長室へ運んでくれた。室内は血管が溶けてゆくほど温かい。
「お客さん、お客さん」
駅員が三分ほど自分を揺すり起こそうとしたところで、杏は目を開ける。
「あ、気がついた。大丈夫ですか? どうしたの、貧血?」
「あ、はい……」
「少し休んでくといいよ。家どこ?」
「岐阜……です」
岐阜……言った後でまた後悔した。どうも同じミスばかりしている。だいたい悪いのはすべて局番による分類という制度だ。03の市外局番の隣が06でもいいだろう。そしてその隣が098でも。さらにその隣が090でも。全くNTTの作ったくだらない制度のために、全国の地域別市外局番が分からなくて人々の前でしどろもどろになって恥ずかしい思いをしたり、携帯の電話番号を自宅の電話番号だと言えない不便さに困ってるっていうのに。
「岐阜ー? これから帰るの?」
駅員が驚いて言った。杏は口の端だけに笑いを溜める。
「昨日上京してきたんだけど、お財布落としちゃって、帰りの交通費なくて……どうしようって思ってるうちに目の前が暗くなって、気がついたらここにいたんです」
その場に残っていたサラリーマンたちは顔を見合わせた。
「お金、全然ないの?」
「ええ……」
杏は弱々しく頷《うなず》いた。ただ単に金がない、という事実だけより、むしろ自分の青ざめた顔色とわずかに痙攣《けいれん》する足を見せることが重要なはずであった。
結局、そこにいた駅員たちとサラリーマンたちに千円ずつカンパさせた。岐阜への切符を買ってくれようとするので、杏は慌てて断る。余計なことをしようとするヤツが世の中には多すぎる。
「あの、もう一件東京に用事があって、それから帰ることになるんで、用事済ませてから自分で買います」
現金でなければ意味がない。
「そう、分かった。じゃあ気をつけて帰るんだよ」
「どうも……」
杏はそう言って駅長室から出る。ぱんぱんに膨れた小さな財布から、万札がはみ出ているのが涎《よだれ》の出るほど幸せだった。電話番号も聞かれなかった。
これと同じことは交番でもやった。交番では普通の人も金を借りると聞いたことがあったから、杏は交番に入って行って金を貸してくれ、と堂々と言った。借金は市民の当然の権利だ。もう同じことは繰り返さなかった。とにかく自宅はいつも伊豆。やはり警官たちのポケットマネーが集まった。杏の幸福な色彩のドロップは、溶けだしそうに頬《ほお》の中で膨らんでいる。
「受かっちゃいましたあ……第一志望」
携帯をしつこく鳴らす音に目覚めた杏の耳元に、恵美の元気な声が飛び込んできた。
「あれ……なんだ、もう昼間か……」
外では眩《まぶ》しい太陽の光に、レモンイエローの芯《しん》を持った梅の花が石けんの泡のように咲き始めて、むせるような芳香を春先の風の中に流し込んでいる最中だった。
恵美の盛大な合格祝いが開かれ、杏にも金一封が渡された。それから金色のブレスレット。細い鎖の間にハートの小さな飾りが点々と刻まれている。
あの後ずっと不眠症気味だった恵美は、杏の胃薬を全部買い取った。多額の薬代が飛び込んできたことが、杏の心に虹色《にじいろ》の美しい霧を作ってくれた。
でもその霧が放つ水分で、また頭の中が、あの、青い水で埋まっていくような気がする。いくら懸命に汲《く》み出しても、決して干上がることがないまま。
どっちだって同じだ、自分の信じるものは甘いドロップの味わいだけだ……第二次強制撤去の映像、炊き出しだの市民団体だのテレビの放送車だの、そんなん関係あるかい。杏は無人のダンボールを蹴《け》りつけ、飲みかけのミネラルウォーターを橋の上から下に向かって半円形に撒《ま》き散らす。ふくらはぎに負った傷が膿《う》みかけている。今度もう一度大学の診療所に行って、オキシドールを盗んできてやろうか。
それ以外にも、足には無数のあざがあった。それは全部ガードレールや自転車を蹴りつけて出来たものだ。しかしそうする瞬間痛みに溶けてゆく空腹感と怒りが、心地よかった。空のペットボトルに汲んだ熱いお湯を汚らしい同胞にぶちまけてやりたかった。ダンボールから首を出して通行人と目を合わせても、もう最初のころのように恥ずかしくはない。彼らの薄い皮に包まれた脆弱《ぜいじやく》な肉体など、拾ってきた腐りかけのハンバーガーを投げつければ簡単に溶けてしまいそうだからだ。
だが目の前では、恵美が幸せそうに微笑《ほほえ》んでいる。
「おめでとう。元気で頑張りなよ」
夜遅く、そんな気のない祝福の言葉を吐いて杏はとうとう腰を上げた。パーティーの食事はとっくに済み、二人は恵美の部屋にいて一緒にファミコンをしていたのだ。
「先生、最後だから一緒に写真撮ろう」
恵美が手を伸ばしてカメラを持ち、杏の肩に頭を傾ける。
「これじゃあブレちゃうよ」
「平気平気」
記念撮影を終えると、恵美はしばらくカメラを持ったまま、杏を眺めていた。
「あたし、先生みたいな大人になりたいな」
「ふうん」
鞄《かばん》の紐《ひも》を縛りながら杏は立ち上がる。
「優しくて……頭よくて、生真面目《きまじめ》で、金銭感覚のしっかりした……」
杏は思わず笑ってしまう。確かに自分の金銭感覚の正確さは、恵美は身に沁《し》みて知っているだろう。霞《かす》んだ光の中にゆれる恵美の目の輝きが眩しかった。傷一つ、小さな引っ掛かりの片鱗《へんりん》一つない恵美の肌が、薄い赤色の唇が、セーターの中で規則的に呼吸する細い肩が、触れられるほど近くにあった。杏はそれを分析的に観察しながら不思議そうに首を傾げた。
「優しいかね」
恵美は両手を長いスカートの後ろに隠したまま、照れたように笑う。
「……優しいじゃん」
「そいつはどうも」
何を根拠にそう判断したのか分からないまま礼を言い、杏は肩にリュックを背負った。新しいリュックは春らしい水色で、黒い紐がついている。中に入った携帯電話とフルーツドロップの缶が少し重たかった。恵美の湿った声が追い掛けてくる。
「ありがと、先生……さよなら」
「ばいばい」
杏は振り返らずに手をひらひらさせた。
「さようなら……」
恵美が後ろでもう一度|呟《つぶや》いた。
杏は通帳に手を触れてみた。優しい感触だった。すべすべとした、黄金の宝物……だが、外ではそれよりもずっと優しい春の夜風が、帰り道の杏を淡く包んでいた。
四月――。
新宿中央公園には、明るい木漏れ日が降り注いでいる。妊婦が幸せそうに、ベンチで日光浴をしている杏の前を通り過ぎてゆく。しばらく歩いてどこかで休もうかと回りを見回している。席なんか譲ってやるもんかと杏は舌打ちした。木の芽が青く、天ぷらにしたらおいしそうに見える。木漏れ日に斑《まだら》に染まる自分の服が、少しだけいとおしかった。
貯《た》めたお金で、少しの間、どこか近いところをふらふら歩き回ってみようかと思う。春まだ浅い川原は、淡い光を溶かしこんで、小さな野生の花をたくさん咲かせているに違いない。
ごく自然に思いついたのは、あの田舎町の川の畔《ほとり》であった。春まだ浅い川原で昼寝でもするか――
駅前を歩いているうちに、ふとあの駄菓子屋を思い出す。杏の足はそちらへ向かった。駄菓子屋は去年と殆《ほとん》ど変わらない景観を保って、まだそこにたっていた。杏はそこへ寄る前に、そばのディスカウントストアで釘抜《くぎぬ》きをひとつ買った。
「こんにちは……」
そう言って入ってゆくと、去年と同じ老婆が、一人で店番をしている。
「はいどうも」
そう言ったなりテレビを見ている彼女は気付いている様子がない。
「あの、去年の夏にこちらに来た者なんですが……看板、貰《もら》いに来ました」
「え?」
テレビに熱中していた老婆は、杏を見つめてしばらくぼんやりとしている。
「ああ、あの、看板の人ね」
「覚えてんですか?」
「だってほら、殆どお客が来ないもの」
「貰ってっていいですか?」
「どうぞ」
杏は店の外に出て、あの看板を剥《は》がしにかかった。釘がもう弱っていて、簡単に取れてしまった。あの日のままのオロナミンCとボンカレーの二枚の看板を持って、杏は帰って行った。お礼に、またソース煎餅《せんべい》を買った。
看板は、みっともないので電車の中では裏返しにして持って帰ったが、ずいぶんと骨が折れた。ダンボールの家に飾って三日ほど眺め、何の使い道もないことに気が付いた。
どこかに売り払うしかない。適当な古道具屋に行って聞いてみると、古道具ではないので引き取れない、と言われ、かわりに新宿にあるという愛好家のための専門店を紹介された。杏はちょっと胸を躍らせながら、教えられた場所へ出掛けて行った。
一時間もかかってその店を探し当てるとヒッピーふうの男が出てきて、杏の持ってきた看板を慎重に鑑定した。最後に彼は、これにはかなりの価値があるので、そこそこの値段で引き取ってあげる、と言った。足元を見られなかったので、杏は少し驚いた。
「こういうアンティークの看板にはね、一見同じもんでも、最近作られたステンレスのと、ずっと前に製造中止になったホーロー製のがあってね」
と彼は言った。
「勿論《もちろん》ホーローの方が全然プレミアがあるんだよね。この、持ってきてくれたヤツは、まさにホーローなんですよ。それとね、主役の俳優の脇《わき》に、当時人気のあったアニメのキャラクターが描かれてるのはもっと価値が上がるんだよ。これは脇に、ほら、ちっちゃく描いてあるでしょ。あんた結構すごいもの見付けてきたんだよ」
結局杏は二枚の看板を売って、五万円も貰った。あまりの金額に、杏は言葉も出なかった。それから杏はそれを元手に、埼玉、神奈川、千葉などの近県の田舎を回って、それらの看板を探し回った。どうして都内には「電話の金融・販売」の看板ばかりが幅をきかせているんだろう。ドリンク剤やカレーの方が、「電話の金融・販売」なんかよりずっと需要がありそうなのに。
田舎を回ると、まだかなり、あの川ぞいの町にあったような、そして、杏が昔、田舎で見たような看板が、残ってはいた。でもその中には、古い看板の価値を十分知っていて、高くふっかけてくる腹黒い持ち主もいた。杏は出来るだけ老人を相手に交渉するようにした。目先の利く主婦が相手では、面倒な話になりそうだ。
杏はこの前持って行った看板を、じっくり見ていなかったので、どれがホーロー引きかがはっきり分からなかった。自分の触覚と視覚だけを頼って、ホーロー引きを見付けていった。それにあまりにも熱中しすぎたので、これが自分の初めて見付けた天職だと思い込んだくらいだ。
次に持ち込んだ何点かの看板は、やはり高い値で売れた。しかし、三回目になると、主人は胡散臭《うさんくさ》そうな顔を隠さなくなった。
「ありがたいんだけどねえ……看板ばっかりこんなにたくさん買い取っても仕方ないんだよねえ」
「え? なんで?」
「こういうののマニアの人ってのはさ、もともと自分で探し歩くのが楽しみなんだよね。だから看板だけじゃなくて、もっといろんなアンティーク商品一般を探してきてよ。いい物だったら買い取るから」
「……」
「あとこれ、ホーロー引きじゃないね。あ、こっちも」
どうも鑑定眼も、だんだん鈍りだしたようだ。でも、それは結局単純に、ホーロー看板になぞ、もう関心がなくなっているというだけなのだろう。
杏はそれからまたダンボールの家にこもり、じっとする生活に戻り始めた。またこの中で、以前のように昼寝でもして暮らそう。近所の図書館にでも行って暮らそう。夜になったら酒でも飲んで、そしてときには何かを蹴《け》って。
だが近所の図書館の棚の前で、杏は倦怠《けんたい》感とともに手に取った本を元に戻してしまった。大きな窓いっぱいに広がった光の塊が、蠱惑《こわく》するように流れ込んでくる。手に持った本はその光に吸い取られ、紙の上の文字は空の彼方《かなた》へといつのまにか消え去って行った。その輝きは黄昏《たそがれ》まで休むことなく続いた。杏は紙に息をかけて光の粒子を吹き飛ばそうとする。しかしいったん宿った薄い水色の珊瑚《さんご》のかけらみたいな光は、杏の目蓋《まぶた》の内側を文字の代わりに温め続けた。
夜、図書館からの帰り道、気温の高い繁華街からは揚げ物の匂《にお》いが立ち上っている。杏は無意識にゴミ箱を覗《のぞ》き込む。勤め帰りの中年サラリーマンに怪訝《けげん》そうに見られて、すぐに逃げ出すようにその前から歩き出してしまった。人気のない裏通りの中華料理店の勝手口のゴミ箱を、今度こそ注意して回りを確認してから覗き込む。だが、その中の手付かずで捨てられたパック入りの餃子《ギヨウザ》を見たとたん、うわあ、と心の中で叫んで、杏はそこから逃げてしまった。
前はこんなもん、……本当に食ってたのか――。
帰ってくる途中で、片手の手首に薄黒いコンビニのよれよれになった袋を下げた男が、おでんの空になった容器をごみ箱から取り出して汁だけを啜《すす》っているのを見かけた。その臭いが杏のもとにやってきて、杏は胃液が上がるのを覚えた。彼の指先に垂れた汁の滴が、一粒ずつしみだらけのコンクリートにおちてゆく。やがて大根のかけらを汁の中に見いだした彼は、急いで指を突っ込んでそれを掬《すく》い取ろうとし、誤って路上におとしてしまった。粉々に砕けた柔らかな大根のかけらと、地団駄を踏む男。
杏はそこを離れ、スペイン料理店の裏口へ行ってみた。餃子の特有の匂いがダメになっただけなのかも知れない。しかし、スペイン料理にしても同じことだった。その大蒜《にんにく》とオリーブオイルの濃厚な臭気の中に、化学調味料の匂いを嗅《か》ぎ分けて、杏は観念したようにダンボールの家に戻っていった。
サラ金の社員はドアのガラスに映った杏を素早く見付けてひどく愛想よく扉を開ける。銀行の融資と違って、驚くほど簡単だった。一歩入った瞬間、三人しかいない店員が全員卑屈な笑みを浮かべて杏を見つめるので、杏は自動契約機械を使えばよかった、とちょっと悔やむ。
しかしいったんカウンターの前に座ってしまうと店員は意外とさっぱりしており、複写式の申し込み用紙を杏の前に置いただけであった。杏は黙ってそれに記入する。会社名は、以前勤めていたところを書いた。住所も電話番号も前のところを使った。
「これは立派なところへお勤めで」
店員がお世辞を言う。
会社に電話をしたりはしないだろう。もしも新規契約者が来るたびに会社に電話していたら、誰もサラ金に来なくなってしまう。誰だってこんなところを利用していることを知られたくはないのだから。
予想通り、店員がチェックしたのは、杏が他のサラ金やノンバンク系金融機関のブラックリストに載っていないかということだけだった。
「身分証明書は、お持ちでいらっしゃいますか?」
杏は迷った末、運転免許証を出した。
それから店員は借金の目的を聞く。急に引っ越をしなくてはならなくなった、と答えた。新しい住所は決まっていないのかと聞かれたので、今物件を探しているところで、決まったら連絡します、と言った。手の甲を思い切り擦《こす》りながら、窓の外を見ていた。手から褐色の垢《あか》が浮き出てきて、杏はそれを店員に見つからないように机にばらまいた。
「ただ今審査させて頂きましたが、OKということですので、ご融資させて頂きたいと思います」
いい加減なものだ、と杏は思う。
「おいくらご融資させて頂きましょうか?」
「……ぎりぎりまで」
「五十万でよろしいですか?」
「はい」
それから店員はくどくどと利子や口座引きおとし日などのことを説明しだしたが、杏はまったく聞いていなかった。
これも一回きりだな、と思う。次からはやれないだろう。身分証明書を偽造でもすれば話は別だが。
返済期限をすぎたときに、両親のところへ取り立てが行くかも知れない。どうせ成人した子供の借金など払うはずがないが。アパートを引き払ってから一年。あと六年経てば、家族は家庭裁判所に杏の失踪《しつそう》宣告を請求することが出来る。
路上五十センチのところから通行人たちの足だけを見つめて座っていると、白くゆるいソックスを穿《は》いた女子高生の群れだけが際立っているのだった。舌打ちしながらそれらを眺め続けていたある日のことだった。杏の前で軽いつまずきのようなステップを踏んだ後止まった足に、ふと視線を上げた時、彼女が立っていた。
「先生……」
チェックのミニのプリーツスカートに、Vネックの薄手のセーター。そしてそれとそっくり同じ格好をし、そっくり同じ足元の仲間たち。仲間たちはその場だけ濃くなった雰囲気に、何か事情がありそうだと察して彼女に先に行ってるから、と目配せして歩いていった。
彼女は困ったように杏を見て、もじもじと立っている。少し青ざめていた。
「――久しぶり」
杏は軽く片手を上げて挨拶《あいさつ》する。
「あ、はい……でもあの、先生……これ……」
恵美の居心地悪そうな様子を、小気味いい思いで杏は眺めた。
「どうして……」
「さあね」
杏は鼻を鳴らした。
「あんたが万引きすんのと一緒さ」
「もうしてません……」
「えらいえらい。寸借サギは?」
「そんなこと! したことないです」
「じゃあいいじゃん。立派なもんだよ」
杏は視線をおとすと、彼女の足をじっと眺めた。唇をなめてから、もう一度彼女の顔に視線を戻し、今度はぶっきらぼうに言う。
「もう行きなよ。友達待ってるよ」
普段滅多にしない微笑をいつまでも浮かべていると、頬《ほお》の筋肉が疲れて痛み始めるのだった。
「先生……あたし……」
恵美が小さな声で呟《つぶや》いた。
「今日の夜、先生の携帯に電話してもいいですか?」
「何で?」
「まだ電話番号、持ってるから。先生と、喋《しやべ》りたい」
「喋るって何をさ」
「話がしたいんです」
「……どっちでも」
「じゃあ、絶対かけますから」
杏は下唇を突き出してフッと前髪を吹き上げ、何も言わなかった。
「取《と》り敢《あ》えず行きます。それじゃまた」
そう言うと、彼女は足早に走っていった。少し離れたところに輪になって立っていた少女たちが、なあに恵美、お友達なわけ? とはしゃいだ声で彼女に話し掛ける。うーん、友達っていうかねえ……そんな声がとぎれとぎれに聞こえる。杏はダンボールのシャッターをすっぽりと下ろして、壁に寄り掛かり、もう一度唇をなめ回した。
午後十時になっても、携帯は鳴らなかった。いまどきの女子高生は、十時なんて家にいる時間ではないのかも知れない……杏は目の前に携帯電話を置いて、じっとそれを見下ろしながら考える。膝《ひざ》を抱え、時折煙草を吸い、そしてもう一度携帯に戻る。携帯の放つ光が、杏を変にムカムカさせた。
十時半。電話が故障しているのかも知れないと思う。杏は104に掛けてみる。ちゃんと繋《つな》がって、交換手が出るとすぐに杏は電話を切ってしまった。目の前で電話機の存在が、どんどん膨れ上がってゆく。十一時、そしてとうとう十二時……。確かに恵美のいった通り自分は生真面目《きまじめ》だ。約束を守らない奴《やつ》を許すことができない。勤めていたときも遅刻・無断欠勤は一度もしたことがなかった。携帯を玩《もてあそ》ぶ指の湿り気が機械について、指の形の模様を作る。ついに苛立《いらだ》ちが飽和状態になり、アドレス帳を取り出すと、杏はかつての家庭教師先の電話番号をプッシュしていた。待っている間、杏は自分の恵美への教育の失敗に舌打ちしていた。
「……はい」
不意に電話口から、彼女の声が聞こえ、杏は反射的に携帯電話の電源を切ってしまう。電話を放り出し、背中を丸めてそれをじっと眺める。なぜかこんなに離れたところで、彼女の声を間近に聞けるという電話の仕組みが不思議だった。杏はもう一度携帯を手に取る。
「……はい。もしもし?」
不審げな彼女の声が再び聞こえ、杏はまた電話を切ってしまう。そうした瞬間、胸の痺《しび》れるような感覚があって、三十秒と間をおかず、杏は彼女の番号を押していた。
「もしもし、どなたですか?」
しかし、彼女の不機嫌な声が聞こえてくると、杏はやはり面倒になって電話を切ってしまうのだった。それからその繰り返しに、不思議な幸福を感じて、もう杏は機械的に番号を押しつづけていた。今度こそ喋ろう、でも、何を?
杏は手の中でじっとりする機械に体温をすりつけるように、プッシュし耳に当てる。わけのわからない興奮に神経が沸騰してくる。おう、あたしだよ。
受話器を持ち上げる音がする。今度こそ……。
がちゃりと音がして突然電話が切られる。杏は何が起こったのか分からず、しばらく電話を持ち続けていた。耳元でツーツー、と鳴る音だけが、次第に大きくなっていった。ったく何だよあのガキ……ちょっと会わないうちに無礼んなったんじゃないか? でもその強迫的な繰り返しから解放されて、少しホッとした。急速に興奮が冷めていった。杏は脱力して壁にもたれる。
耳の中に、蝸牛《かたつむり》が眠っている、と思った。耳は貝殻よりもきっと蝸牛に似ている。
蝸牛は脱皮を繰り返して、自分の耳にはヤツらの脱ぎ捨てたカラがいっぱい溜《た》まるのだ。腹を立てて耳を押さえた。蝸牛の歩みが貝殻の中で反響するようだった。
深夜の通路にはいくつかの汚物がおちていて、からすがそれを頬張っている。からすが去るのを待って、鳩が食べにくる。
――酸っぱくないのかな。
さすがにあんなものは食えないよなあ。どうせおいしくないだろう。栄養はありそうだし、タダだけどさあ……。
子供のころ、道端の汚物をときどき踏んでしまったことがあって、こんなものを食べるヤツがいるのだろうかといつも不思議に思っていた。でも鳥たちは平気なのだ。食中毒性の嘔吐《おうと》でなければ、確かに誰が食べても大丈夫だろう。咀嚼《そしやく》の必要さえもない。
でも、当時はプライドがあった。自分は鳥じゃない。
本当に腹が減ったとき、人はいったいどうなるんだろう……と当時は思ったものだった。あのどろりとした栄養素のてんこ盛りを見て。いつか、人は鳥になるのだろうか、それともずっと人間のままでいるのだろうか。
でも、やっぱりいやだった。いつでも、どこでも、どんなときでも、ゲロだけは絶対にいやだった。拾い食いには慣れたけど、それだけは絶対にゆずれない――。
向こうの方を、若者の群れと、杏くらいの新入りのサラリーマンの群れが、まばらに歩いていた。彼らの額がつやつやと汗ばんでいる。優しい酔いが彼らの体内を駆け巡り、彼らの肉体を輝かせている。スーツ、指の間の煙草、なぜか腕に抱えられた大きな花束、そして一緒にいる女の同僚を抱きしめるような仕草、笑い声。それから少年たちのスケートボード、踵《かかと》を引きずるような足音、ガムをくちゃくちゃと噛《か》む音、小脇《こわき》に抱えられたスポーツ新聞。
杏の中にクラブのミラーボールのきらめきと、その中の汗まみれの恵美の陶酔した表情が蘇《よみがえ》ってくる。それから茶色の髪の男の匂《にお》い。携帯を握り締めたまま、杏はいつまでもじっとしていた。
それからさらに何分か経って、杏はようやく目に涙を浮かべることを思いつく。その何粒かはぽろりと頬を伝った。
……まあ、こういうのもたまにはアリだよな。ここんところ塩辛いもんばっか食べてたから、塩分の排出にはちょうどいいかもしんない。ウミガメみたいだな。
壁に強く背中をこすりつけた。ああ、何だかすごく気持ちいい――。
汗ばむ体を懸命に動かして、杏はダンボールの家を打ち壊している。靴の先が軽く薄っぺらなダンボールに容赦なくめりこむ。初夏の日差しが西口に差し込んで、その空気が体にいっぱい満ちていく。しゃがみこんで先程買ってきたチョコアイスを食べようと思うが、弾みのついた足は言うことをきかない。傷ついたダンボールが、足と同じ程度の痛みを感じたように思えるころ、杏はようやく体を動かすのをやめた。
杏が出ていくとき、回りにはやはり取材記者が数人と、カメラを下げた男たちが数人、ダンボールの間を徘徊《はいかい》していた。
新宿をぬけると、静かな住宅街に向かった。杏は脇目も振らずてくてくと歩いた。そうしているうちに、左右の景色が変わってゆくのが心地よかった。一ヵ所に立ち止まっていると、結局退屈していろいろと考えてしまう。
交通量の多い大通りを歩いている途中、自転車屋を見付けた。春の終わりの穏やかな日差しにつやつやと光る自転車が、店先に一列に並べられている。杏はそれを見たとたん、突然疲れを覚えた。そしてその場で衝動的に、モスグリーンの綺麗《きれい》な車体の自転車を一台、買ってしまった。値切って一万円に負けさせて。
荷台に鞄《かばん》を括《くく》りつけ、自転車に乗ってみると、どこまでもいけそうな気になってくる。久しぶりに乗る自転車に、足がもたついた。自転車に乗ったのは、何年ぶりだっけ……。新品の自転車のペダルは軽く、ベルは心地よい音をたてて鳴った。杏が無意味にベルを鳴らすのを見て、買い物帰りの主婦が睨《にら》みつける。杏は負けずに睨み返す。自転車に乗ること自体を楽しみたくて、少しの間、その辺をうろうろした。どこにでも行けるのに、行くところはなかった。途中酒屋に寄って、梅酒を買った。
それから路地をしばらく行った住宅街の奥の小学校の校庭に自転車を止めて、ぼんやりしていた。やがて児童が校庭に溢《あふ》れ出す。昼休みになったようだ。
杏はそこから逃げ出し、川原に出てまたぼんやりと川を眺めた。卵の殻や尖《とが》った棒切れや銀色に光る魚の死骸《しがい》が川面に見えた。なにしろ時間だけはたくさんある。それから、川原に面した小さな公園で、先程買った、ちょっとぬるめの梅酒を飲んだ。
夜になって、子供がいなくなったら、小学校に忍び込もうと思っていた。何でもいいからあの空間に侵入してやる。そのために、杏は近くの金物屋で懐中電灯を買った。それから本屋に入ってゆき、午後中立ち読みに耽《ふけ》った。
本屋を出るころになると、ようやく町の灯《あか》りが日差しより濃くなってきて、杏はほっとする。それからさらに、川べりで土に字を書きながら夜を待った。
午後十時……さすがにそろそろいいだろう。子供のころの探険のような気分で、杏は小学校に入って行く。校舎に入るのが恐くなって、校庭のタイヤの上に座った。白い靄《もや》が木々の間に立ち籠《こ》めて、神秘的にゆらいでいる。
今日からはずっとここで眠ろう、そう決心した。かつて、新宿中央公園で眠ろうとして、虫の大群に悩まされたのを思い出す。でも今は大丈夫だろう、虫が出るまでもう少し間があるだろう、それから先はまた別のところで眠ればいいんだ。今は、今だけは濃厚な緑の中で眠り、最初の生徒が登校してくる前に目を覚《さ》まそう。そして、自転車に乗って、早朝のサイクリングにゆこう。濃い下草の生い茂る川べりのサイクリングコース。涼しい風。犬の散歩やジョギングをする人々――。
杏は校庭の桜並木の下に、自転車を止め、毛虫に注意しながら湿った土に腰を下ろした。木々がさやさやと鳴り、木の葉が優しく杏の頬《ほお》を掠《かす》めて散ってゆく。腕時計のアラームを、朝の六時にセットして、杏は木の幹にもたれた。
杏は懐中電灯をつけずに校庭中を見渡した。
校庭全体が、深い池のように見える。子供のころ、こんな夢を見たことがあった。校庭に出たとたん、そこは一面の広い池で、まちがって足を踏み入れてしまった杏は、対岸まで必死で泳ぐのだ。しかし、その距離は果てしなく、泳ぎ疲れた杏はそのまま手足を休め、水中にどんどんと引き込まれていってしまう。藻の絡みつく緑の水の中で、でも不思議に杏は元気に生きていた。
ふっと恐くなり、立ち上がってその辺を自転車で走り回った。そうしているうちに、裏庭へと迷いこんでしまった。すると、先の方に小さな小屋のようなものがぼやけて見えてきた。杏はそれに向かってぱたぱたとペダルを漕《こ》ぎ出す。しかし近付いてみると、それは小屋ではなかった。
それは、コンクリートで固められた、大きな焼却炉であった。それも子供のころ杏が学校で見たものとそっくり同じ大きさの――。
杏は殆《ほとん》ど無意識的に、そこへ近寄っていく。すぐ傍に自転車を止め、焼却炉の蓋《ふた》を開ける。そうすると、秋の田舎の夕暮れを満たしていた焚火《たきび》の匂いが立ち籠めてきた。東京に来てからこの匂いを忘れられずに、ときどきマッチを擦っては、瞬間飛び散る焚火の匂いを嗅《か》いで遊んでいたのだ。
中を照らしてみると、火の気もゴミも全くなく、きれいに清掃されている。暗い穴の奥深くから、冷ややかな空気が、もくもくと立ち上ってくる。
杏はもう反射的に、その蓋の小さな口から、中へ飛び込んでいた。中は浅く、しゃがんで膝《ひざ》を抱えて上を見上げると、頭上三十センチくらいのところに口が見えている。
どことなく、あの、頭の中の部屋に似ている。でもここには青い水はない。
というより卵の殻の中みたいだよな……杏は呟《つぶや》いて回りを叩《たた》いた。回りの壁は白っぽくて固い。
もうここから一生外へ出られないかも……。
そう思った瞬間、ぞくぞくするような快感が込み上げてくるのを感じた。それは、この中に入っていれば絶対歳を取ることがないのだと、はっきり知っていたからだ。
もしも外へ出てゆけるとしたら、昼間はあの美しいぴかぴかの自転車に乗って、どこへでも行こう。そして、夜だけはここに戻ってくることにしよう。
そんなことを考えてわくわくしていると、いつのまにか眠っていた。遠くに鳥の声を聞いて、はっと目覚めると、腕時計は四時半をさしている。
初夏の空気は冷たく澄んでいるが、もう外は青い透明な光で満ちているだろう。
眠っていた間枕《まくら》にしていた左腕が血の気を失ってちょっとだけ痛かった。鞄からセーターを出そうとして勢いよくチャックを開けた。
指が硬い携帯電話の感触を捉《とら》えたのはそのときだ。
杏は鞄から何となく電話を出して、懐中電灯で照らしてみる。携帯電話、か……こんなもの今さら持っててもなあ、と呟きながら、それをしばらくいじっているうちに、でもやっぱり誰かにかけてやりたくなってきた。
2QQ2、家庭教師、薬のお金、街のお人好しの人間どもからむしり取ったお金、サラ金。お金は、まだ相当残っている。確か二百万を超えているはずだ。この生活のおかげで、一財産築いてしまった。OL時代、あれだけ切り詰めて、ようやく二百万ぎりぎりしか貯《た》まらなかったというのに。
口座引きおとしの電話料金が払えるうちは、ご飯なんか食べないで喋《しやべ》れる限り電話で喋り続けてやる。……けど一体喋ることの出来る誰が、自分にはいるというんだろう。
意外と2QQ2が好きだったのかも知れない……そんな気持ちが込み上げてきて、思わず笑みがこぼれた。
いや、相手はいる、できるだけ遠いところのヤツだ。0899とか、0177とか……これらの市外局番は、一体誰の家につながっているんだろう。杏の中に初めての欲望が溢れてくる。
とうとう適当な番号をプッシュしてみた。地方にかけると高いんだよな……と舌打ちする。さらに携帯は通話料が高い。そのとき初めて2QQ2にかけていた男たちの通話料の苦しみが理解出来たような気がした。それから、自分が本当に常に電話のことで悩んでいるという事実に笑ってしまった。それでもプッシュ音は優しく規則的に、杏の耳を満たした。
着信するまでの長い時間、杏はひりひりするような気分で待った。どこにも接続していないこの小さな機械が、焼却炉の中で、この世界の全ての人間どもを、杏に平等に導く。
体から、不思議な力が沸き上がってくる。それは優しくて温かい果物の汁のような力だった。その雫《しずく》を、焼却炉の開いた蓋から滴りおちるわずかな雫を、杏は口腔《こうこう》をいっぱいに開けて摂取しようとした。そのときさくっと軽い音を立てて蓋のへりに積まれていたらしい大きな柔らかい半透明の袋の塊が頭上におちる。何だよ、チクショー――見上げる間もなくすえた匂《にお》いが顔中にかかる。濡《ぬ》れて腐った枯れ葉、べたべたするティッシュ、みかんの皮、牛乳瓶の蓋に鉛筆の黒鉛の粉末……頭を左右に乱暴に揺すると、わけの分からない紙きれがばらばらと雪のように体の回りに降り積もった。腹を立ててバタンと炉の蓋を閉めると、ただティッシュやみかんの皮や何かと自分だけがそこに静かに共存していた。
そうだよ、ゴミさえあれば、どんなふうにだって復讐《ふくしゆう》出来るんだ。上目遣いにではなく、真っすぐに全部を正視して。暗がりの木漏れ日を浴びながら、通りの向こう側で人々の奏でる自分への哀悼の歌に、にこやかに耳を傾けて。たとえ他人の憎悪の闇《やみ》が、この足の無数の傷を包みこんでも、自分の体くらい輝かせられるさ、手の中の一万円札を、全部きらめく黄金の光に変えてね。
杏は周囲のゴミを自分の体に丁寧に巻きつけ、得意げに微笑した。
――燃やせるもんなら燃やしてみろよ。
蓋の向こうから、鈍い足音がしたような気がして、杏はわずかに蓋を開けて外を覗《のぞ》く。ちろちろと弱々しい光を放つ懐中電灯らしきものがゆっくりと近付いてくる。懐中電灯なんかよりマッチの方がいいんだけどなあ。まあ、それもヤツの気持ちひとつだ。
やっと、コール音が鳴りだした。杏の心臓は、自分でその鼓動を聞き取れる程強く鳴り響いた。そのコール音は、杏に卵色の月の芯《しん》のような新しい世界の吸引口への出発を告げていた。それは静かに、永遠に聞こえた。電波の粒子は冷たい焼却炉内をきらきらしながら駆け巡り、そのうちにどこかへ消えていった。
やがて、コンクリートの分厚い壁の中に反響するようなコール音がぷつんと途切れ、受話器を持ち上げる音がする。とうとう胸が、活魚のようにぶるっと震え、四方に壊れて弾け飛んだ。
それは、杏が生まれて初めて体験する、退屈しない朝だった。
角川文庫『ダンボールハウスガール』平成13年9月25日初版発行