日本武将譚
〈底 本〉文春文庫 昭和六十一年三月二十五日刊
(C) Hideki Kikuchi 2001
〈お断り〉
本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。
また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。
〈ご注意〉
本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。
目 次
タイトルをクリックするとその文章が表示されます。
[#改ページ]
日本武将譚
|平 《たいらの》|将門《まさかど》は|桓武《かんむ》天皇の|後裔《こうえい》平|高望《たかもち》の孫に当たり、父は|陸奥鎮守府《むつちんじゆふ》将軍平良将である。世評というものは、善悪の両端に誇張されがちで、将門の|如《ごと》きも皇位を|窺《きゆ》した逆賊としてその悪が、誇張されて千年の後に及んでいる。
将門の幼時については、正確な記録はないが、早くから京都に出て|太政大臣《だじようだいじん》 |藤原《ふじわらの》 |忠平《ただひら》に仕えたのは事実だ。|然《しか》し常に、京都に滞在したものか、それとも平生は|下総《しもふさ》の国にいて折々京都に出て行ったものか、その辺は明らかでない。
|将門記《しようもんき》で見ると(|抑々《そもそも》将門少年の|比《ころおい》、|名簿《みようぶ》を太政|大殿《おおどの》〔藤原忠平〕に奉り数十年の今に至る)とある。
名簿というのは名札の意で、当時貴人に|見《まみ》え又は|師家《しけ》に入門し、他の者に臣従する場合などに|証《しるし》として捧げたもので、将門も名簿を捧げて藤原忠平の家臣に列し、|以《もつ》て後来の|庇護《ひご》を願ったものと見える。
当時、|公家《くげ》を|自家《じけ》の|庄園《しようえん》の|領家《りようけ》に|戴《いただ》き、自分はその下に|庄司《しようじ》、|庄預《しようよ》又は|下司《げし》などになって、自領の所有権を確保し、出世の|手蔓《てづる》ともしたのである。だから必ずしも京都に永住しなくても家臣に列しておればよいのである。
世間では、将門が|検非違使《けびいし》を希望したが忠平が許さなかったので、不平の余り下総に帰って乱を起こした、という|神皇正統記《じんのうしようとうき》などの説がそのまま行なわれている。後世|足利尊氏《あしかがたかうじ》が|征夷大将軍《せいいたいしようぐん》を希望して許されなかったので、不平ながら鎌倉に下ったが遂に乱を起こしたというのと同工である。だが当時の実録にはそんなことは記されていない。
将門が兵を従えて|下野《しもつけ》|上野《こうずけ》に入ったとき旧主忠平に贈った書にも(|名簿《みようぶ》を|摂政《せつしよう》太政大臣に奉って数十年の今日に至るまで、旧恩を感じて忘れてはいない。然るに摂政の世に|此《こ》の挙に出ざるを得ないことは|歎念《たんねん》の至である。幸にして貴閣がこの苦衷を察し賜わば幸甚、一を以て万を貫す)といっている。決して、忠平を恨んでもいないし、大野心のないことがこれで分かる。
当時、検非違使といえば、それほど重い役柄ではない。今の憲兵の将校か警視くらいのものである。もっとも下総あたりの|田舎《いなか》では、幅が利いたかも知れないが、許されないからといって不平があって大それた乱を起こすほどの役柄ではない。
では、検非違使の|別当《べつとう》あたりを、望んだのではないか、という人もあるが、当時の慣例として田舎出の武士が一躍今の警視総監にも匹敵する検非違使の高官になれるものではない。
後年武士の社会的地位がずっと高まった源平時代になっても、義経は平氏追討の大功を|抽 賞《ちゆうしよう》して、|僅《わず》かに|判官《ほうがん》に任ぜられただけである。それすら世間では九郎判官義経といってその栄誉が評判になったほどだ。
|将門《まさかど》の乱は初めは一族間の私闘だったが次第に|嵩《こう》じて勢の赴くところ遂に|叛乱《はんらん》にまで拡大したのである。彼が|新皇《しんのう》と|僣称《せんしよう》したりするようになったのはずっと最後のことである。
将門の|叔父《おじ》に平|国香《くにか》、|良兼《よしかね》、|良正《よしまさ》などがあったが、都から帰って来た将門は良兼の娘を|娶《めと》った。
ところが|恋仇《こいがたき》であった豪族|前常陸《さきのひたち》|大掾《だいじよう》 |源 《みなもと》|護《まもる》の子三人に恨をかけられ、その上に、亡父良将の|遺托《いたく》を無視して遺産を押収していた叔父の国香、良兼、良正のために誘殺に|遇《あ》わんとしたのである。
源護には娘が多く、国香、良兼、良正の三人共その娘を娶り、護の子、|扶《たすく》、|隆《たかし》、|繁《しげる》等とは義理の兄弟という間柄であった。
これら一連の|閨閥《けいばつ》は婦人問題と遺産問題とに結びついて、総がかりで共同の敵将門一人を|殪《たお》そうとしたのである。
そして将門が三十三歳の|承平《しようへい》五年二月二日、|下野《しもつけ》の|結城《ゆうき》に行こうとした途中を|遮《さえぎ》って急に戦いをしかけたのである。
孤立の将門は進退に窮したが、武勇を|恃《たの》んで|邀《むか》え戦い順風に矢を射て、扶、隆、繁の三人を|仆《たお》し|野本《のつめ》、|大串《おおぐし》、|取木《とりぎ》等の属党の実宅を焼き、更に進撃して|筑波《つくば》、|真壁《まかべ》、|新治《にいはる》の三郡に|亙《わた》る|伴類《はんるい》の邸宅五百余戸を焼き払って最初の戦に大勝し、四隣を威服した。
国香はこの戦に傷を受けて一旦石田|館《やかた》に退いたが間もなく死んだ。だから将門が|叛逆《はんぎやく》を企て伯父の国香を殺したという|誹謗《ひぼう》はまったくの|冤枉《えんおう》ということになる。将門記を見ると国香の子|貞盛《さだもり》もこのことを認めている。そして、
(|賤《いや》しき者は|貴《とうと》きに従い弱き者は強きに|資《よ》る、敬順なるに|如《し》かず)といって将門との和平を希望している。
|古事談《こじだん》には将門が京で藤原忠平に仕えていた時、貞盛も|右《う》|馬允《まのすけ》の役に付いていたが、二人が|式部卿 敦実親王《しきぶきようあつざねしんのう》の門前で行き遇った記事を挙げている。親王への伺候を終わって帰りかかった将門はこれから伺候しようとする貞盛に|逢《あ》った。
ところが貞盛は親王に謁して後(今日は|郎党《ろうどう》を連れていなかったので将門を討てなかったのが残念だ。|彼奴《あいつ》は後日必ず天下に大事を|惹《ひ》き起こす人間である)といったという。人相見でもないのに随分思い切ったことをいったものだ。当時はまだ|郷国《きようこく》での|葛藤《かつとう》も始まっていないし国香も達者でいるのに何で将門を殺す気になったのか。
|外史《がいし》も|大日本史《だいにほんし》もこの記事を引いているが|勿論《もちろん》実録には見えていない。
それはともかく、腹の虫が治まらないのは良兼兄弟である。
寄ってたかっての将門いじめも、あべこべに将門一人のために|脆《もろ》くも|一蹴《いつしゆう》され、義理の兄弟三人と国香まで死に|舅《しゆうと》の源護に対しても面目がないので飽くまでも|復讐《ふくしゆう》しようと思い、貞盛を促して又もや将門に突っかかって行った。
この連合軍に対して将門は僅かに百余騎を率いて出陣したが、奇計を|以《もつ》て良兼の軍を衝いて散々に|斬《き》り崩し、勢に乗じて動揺する良正の|中軍《ちゆうぐん》をも突破して再び勝った。
将門記に|拠《よ》ると、この時将門がいうに(敵ながらも血縁である、|固《もと》よりその親しみは深い。疎隔して今日あるも、今もしこの輩を殺せば物議を起こして|譏《そしり》を遠近に伝えるだろう)と西を開いて良兼を逃げ去らせた、とある。
将門は自ら進んで親族一統を敵にまわし、叔父国香を殺したりしたのではない。身に振りかかる火の粉を払ったまでで、世に伝えられているようにあながち|悍狼戻《こうかんろうれい》の人間ではなかったのである。それに最初は大それた|謀反《むほん》などでなく、京都からは遠く離れた田舎における私闘である。
将門は前後三度も|讒訴《ざんそ》を|蒙《こうむ》っている。その最初のものは源護がやったもので、|喧嘩《けんか》を吹きかけて見たが将門の智略には歯が立たず、一時に三子を失った彼は、どうしてもこの|妄執《もうしゆう》を晴そうと思って、(将門には乱心がある)といって太政官に訴えた。
これを知った将門は、召喚の官符が達する以前、承平六年十月十七日上京して審問を受けたが、罪なきことが判明し、七年四月七日恩詔を蒙り(兵名を|畿内《きだい》に振い面目を京中に施し、悦の|靨《えくぼ》を|春花《しゆんか》に含んで)帰国の途についたのである。
五月十一日、下総|豊田郡《とよだぐん》の自邸に帰着したが|旬月《じゆんげつ》を経ないうちに、平良兼は|宿怨《しゆくえん》を忘れ兼ねて又もや|軍兵《ぐんびよう》を擁して来襲した。
八月六日には|常陸《ひたち》下総の国境|子飼《こがい》の|渡《わたし》(今の|小貝《こがい》ノ渡)を囲み民家を焼き払った。
この時将門は脚を患い思う存分戦うことが出来ず、領内を荒され人馬共に大きな損害を受けた。妻子も避難の途中、遂に敵手に落ちたのである。
将門は、亡父の遺業再興の希望に燃えて都から帰国して見れば、|姻戚《いんせき》|悉 《ことごと》く敵となって攻囲に|寧日《ねいじつ》なく、その上、|義侠心《ぎきようしん》によって助けてやった良兼は今妻子をも|拉《らつ》し去ったのである。当時将門の心事には|寧《むし》ろ同情すべきものがある。その後も良兼は将門の|僮僕春丸《どうぼくはるまる》を買収して、その手引で夜討を仕掛けたりしたが散々に撃退された。
さしも|執拗《しつよう》な彼等も将門の智謀と勇略にはどうにも手が出なかったのである。その後良兼は病床で|剃髪《ていはつ》し|天慶《てんぎよう》三年六月に死んだ。
二度目の讒訴というのは|平 《たいらの》|貞盛《さだもり》の仕業であるが、貞盛は不当の挑戦を鮮やかに払い|除《の》ける|毎《ごと》に威望の加わって行く将門を見て(うかうかしていて反対に討伐でもされては|堪《たま》らない、|上洛《じようらく》して将門を訴え追討の官符を申し請けて機先を制しよう)と思って承平八年二月下旬(五月天慶となる)山道から上洛しようとした。
これを知った将門は百騎の兵を|提《ひつさ》げて貞盛を急追し、二月二十九日信州|小県郡《ちいさがたぐん》 |国分寺《こくぶんじ》の辺で追い付き|遮《さえぎ》り破った。
将門記には(貞盛|千里《せんり》の|粮《かて》を一時に奪われ、旅空の涙を草の目に|灑《そそ》ぐ、疲れたる馬は薄雪を|舐《ねぶ》りて堺を越え、|飢《うえ》たる従は寒風を含んで憂え|上《あが》る。然り|而《しこう》して|生分《せいぶん》天にありて貞盛僅かに|京洛《けいらく》に|届《いた》る)と記している。
かくして貞盛は天慶元年六月中旬、官符を|懐《ふところ》にして京を発したが将門に妨げられて容易に帰郷出来なかったのである。三度目の讒訴は源|経基《つねもと》がやったもので、当時経基と桓武天皇の|裔《えい》|武蔵《むさし》|権守《ごんのかみ》 |興世王《おきよおう》の二人は、足立郡の郡司、武蔵|武芝《たけしば》と争っていたので将門が調停に出た。
将門は先ず部兵を率いて武蔵に赴き武芝を説いて国府に同行して和解の事を告げると、興世王は喜んで二人を迎え共に酒盃を傾けて歓に入った。ところが、まだ和解の成立を知らなかった武芝の後陣の兵は経基の営所を囲んだ。
当時兵事に慣れなかった経基は、てっきり将門と興世王とが通謀して自分を陥れようとしたのだと思い込み、燃えるような怨恨を懐いて|倉皇《そうこう》京都に|上《のぼ》り、将門等に叛逆の企てがあると上奏した。
朝廷の|糺問《きゆうもん》に対して将門は五月二日、常陸、下総、下野、上野、武蔵五カ国の国司の証明書を取ってその|冤《えん》を訴えたので真相が判明し、|却《かえ》って功ありとして恩沢を受けた。
五カ国の国司達が将門の|雪冤《せつえん》のために証明書を提出するなどを見ても、当時将門の威望と声誉の程が|窺《うかが》われる。
将門は三回の|讒奏《ざんそう》を蒙ったが、官職を帯びない彼はとかく受身であった。
ところがここに、将門をして最後の汚名を負わせた藤原|玄明《はるあき》の一件が|惹起《じやつき》したのである。
玄明は常陸の人間で、|官租《かんそ》を上納しないというので国司の藤原|維幾《これいく》が追捕しようとした。玄明は下総に走って将門に泣きついたので将門は玄明の罪を詫びてやったが、維幾は将門と反目している平貞盛の縁者であるだけに、十手風を吹かせて|膠《にべ》もなく|刎《は》ねつけた。
そこで将門は、裏に積怨のある貞盛がいるし、面目上引くに引かれぬ破目に陥り遂に国府を攻めて維幾を捕えた。この頃、武蔵権守興世王は、新任の国司|百済《くだらの》|貞連《さだつら》とソリが合わないので下総に来ていたが、将門に向かって(一国を取るも|誅《ちゆう》、八州を取るも誅、こうなった上は|坂東《ばんどう》八国を掌管して人民を|撫附《ぶふ》せしめて形勢を窺うに如かず)といった。
事態がここに到ったので将門もその気になり、天慶二年十二月十一日、数千の兵を率いて下野に到り、|印鑰《いんやく》を奪い国司を追い、更に上野に入って坂東諸国の|除目《じもく》(官職の新任式)を行なった。時に将門は三十七歳であった。
|戦捷《せんしよう》祝賀の宴席上、一|伎女《ぎじよ》が突然神がかりの状態に陥り、八幡|大菩薩《だいぼさつ》の使と称し(天位を|蔭子《いんし》平将門に授ける)と口走ったので一同|悦《よろこ》び勇み、将門は自ら新皇と称し書を摂政忠平に贈り、事情止むを得ざるに出でた由を述べた。
伎女の神がかりというのは、事態が予想もしなかった方向に展開して来たので|流石《さすが》の将門も前途の不安に襲われ|逡 巡《しゆんじゆん》の色があったので、これを元気づけるために興世王あたりが仕組んだものかも知れない。後世将門のことを「|平新王《へいしんのう》」と|称《とな》える者もあるが実は「平親王」でも「平新王」でもない、「平新皇」が本当だ。それはともかく将門の弟の|将平《まさひら》は(帝王の|業《ぎよう》は智を以て競うべきにあらず、力を以て争うべきにあらず、昔より今に至るまで業を始め基を置いた王者という者は天の与える所である。よく考えねば後世の非難をまぬかれないだろう)と|諌《いさ》めたが、事ここに至って既に意を決した将門は(我は弓矢の道に達している。今の世には打ち勝った者のみが|主《しゆ》である。もし官軍が来り攻めたならば|足柄《あしがら》、|碓氷《うすい》の関所を以て防げばよい)といい放った。もうここまで来れば万事休すである。
だが有り余る智略を擁しながら官職を帯びないばかりに群小どもの策動に対しても、いつも不利の立場に置かれて来た将門にしてみれば、どうせここまで来れば、実力にものをいわせてみたい気持にもなったであろう。
天慶二年十二月十九日には王城の建設を評議し、左右大臣から|参議納言《さんぎなごん》に至る文武百官を任命したといわれているが、将門が|誅《ちゆう》せられたのが翌三年の二月十四日だから|其《そ》の間は|僅々《きんきん》五十四、五日に過ぎない。そんな短日月で王城などの経営が出来るものではない。文武百官の任命なども実行されたとは思えない。
|天慶《てんぎよう》三年正月、将門は兵を常陸に出し、藤原|維幾《これいく》の子|為憲《ためのり》及び平貞盛を探索したが、部下が彼等両人の妻を捕え衣服を|剥《は》いだ。
これを聞いた将門は引致させた妻女に罪はないといって衣服に歌を添えて与えた。
よそにても風のたよりに|吾《われ》ぞ問ふ
枝離れたる花の宿りを
かつて自分の妻が平良兼に拉し去られた時の悲痛から思い|遣《や》ったのであろう。すると貞盛の妻も、
よそにても花の|匂《にほひ》の散り来れば
我身わびしとおもほえぬかな
と和して将門の厚意を謝した。
こうして将門は若き日に平安城裡に|在《あ》って|憬《あこが》れていた貴族達の風雅の道を|偲《しの》び、|客心悠々《きやくしんゆうゆう》戦時の|秋《とき》を思わず、兵馬|倥偬《こうそう》の間に在るを忘れ、諸国の兵士を帰し|麾下《きか》に|留《とどま》るものは千に足りない少数であった。
ところが|此《こ》の|虚《きよ》を藤原|秀郷《ひでさと》等に|衝《つ》かれたのである。
|吾妻鏡《あずまかがみ》や|太平記《たいへいき》には、藤原秀郷が様子を探るために同志になるといって将門を訪問すると彼は狂喜して、|梳《す》きかかっていた髪を|烏帽子《えぼし》の中に押し込んで面会し、食事を共にした時もこぼれた飯を拾って食べたので、秀郷はその|軽忽《けいこつ》な|拠動《きよどう》にすっかり|肚《はら》を見透して去ったと記している。
後世|北条《ほうじよう》 |氏政《うじまさ》も飯の食い方で|親父《おやじ》の|氏康《うじやす》を嘆かせている。この将門の話の実否は|措《お》いて、三度讒奏に遇っても|只管《ひたすら》誠心を|披瀝《ひれき》して|弁疏《べんそ》するより他に|途《みち》を知らないし、兵を動かすに当って旧主の摂政忠平に、謙譲で|木強《ぼつきよう》率直な書を贈る程の将門のことだから、秀郷に政治的な|肚芸《はらげい》をやって見せられるような人間ではなかったらしい。
それはともかく、藤原秀郷は下野国の|押領使《おうりようし》で左大臣|魚名《うおな》の|裔《えい》である。|俵藤太《たわらとうた》と称して|驍勇《ぎようゆう》にして謀略に富んでいたが|延喜《えんぎ》の末に何かの罪で下野に|配流《はいる》され後にその|掾《じよう》ならびに押領使となったのである。
|度々《たびたび》将門を謀って失敗ばかりしていた平貞盛は、この秀郷と力を|戮《あわ》せて兵を率い、下野の|唐沢山《からさわやま》に|屯《たむろ》した。
将門も天慶三年二月一日下野に向かったが、前軍の将藤原|経明《つねあき》等は山に登って秀郷の軍を望むに其の勢四千余。だが百戦百勝に|狎《な》れた彼等は敵を|侮《あなど》り、将門に告げないで秀郷の陣に突入して破られ川口村に退いた。
将門は自ら|剣《つるぎ》を振って|追蹤《ついしよう》する敵を防いだが、ついに支え切れないで更に退いた。
二月十三日には秀郷・貞盛の軍は進撃して今の下総の|堺町《さかいまち》に入り、火を放って将門の営を焼いた。
死を決した将門は、部下三百を率いて|猿島《さしま》の北山に進み、|駿馬《しゆんめ》に|跨《またが》って奮戦し一時は敵軍を突き崩したが|流矢《ながれや》に当たり馬から落ちて殺された。かくしてその智略を一世に振い、逆賊の名を以て京師を|震撼《しんかん》させた将門は遂に亡んだのである。首は四月二十五日都に送られて|梟《きよう》せられた。
※
将門は|仇敵《きゆうてき》の重囲中に在ってよくこれを|慴伏《しようふく》し、治国平静を念としながら却って流言|讒誣《ざんぶ》に害せられ、余勢に引きずられて遂に賊名を犯すに至ったのである。
その滅亡後の秀郷、経基等が|相踵《あいつ》いで武蔵守となったために、いよいよ|雪冤《せつえん》の途を封ぜられてしまった。
世間では将門と|純友《すみとも》とは東西相呼応して事を挙げたように伝えられているが、|殆《ほとん》ど期を同じゅうしてこうした乱が起こったから世人がそう思ったので、神皇正統記には将門と純友とが|肝胆《かんたん》相照す間柄で、かつて在京の日一緒に|比叡山《ひえいざん》に登り王城を|俯瞰《ふかん》して急に誇大妄想狂にかかり、自分は天子となり純友を|関白《かんぱく》にすると|傲語《ごうご》したと記している。
|叡山四明《えいざんしめい》ヶ|岳《たけ》の頂上には将門の腰掛石というのがある。なるほど、あそこから|瞰下《みお》ろすと将門でなくとも気が大きくなる。しかし事実は、この二人の間に何も連絡があったわけではない。
叡山|瞰京《かんきよう》のことは皇室尊崇の念に燃えていた正統記の作者が一意将門を筆誅することばかりに気を取られて史実の考証にまで及ばなかったものを|日本外史《にほんがいし》までがこれを|套用《とうよう》したものである。
当時|醍醐《だいご》天皇から|朱雀《すざく》天皇の|御宇《ぎよう》にかけて、漢文学が非常に流行し、醍醐帝は|三善清行《みよしきよゆき》に|史記《しき》を講じさせ、朱雀帝は藤原|在衡《ありひら》を|侍読《じとう》として史記を読ませられた程だったから、その|中《うち》にある|楚《そ》の|項羽《こうう》や漢の|高祖《こうそ》がまだ事を挙げない頃、|秦《しん》の|始皇《しこう》の行列を|観《み》て項羽は以て代るべしといい、高祖は大丈夫は|応《まさ》に|是《かく》の如くなるべしといった史記かぶれの筆のすさびから出たものではないか。それかあらぬか、正統記を、どうも史記の|匂《におい》がするという人もある。
将門が旧主の摂政藤原忠平に贈った書にも(将門|柏原《かしわばら》帝五代の孫たり、永く|半国《はんごく》を領する|豈《あ》に運に非ずと言わんや)といっているが、これは叛乱を起こして半国を斬り従え独立国を建設しようという意味ではない。
そんな|不遜《ふそん》な気持を|懐《いだ》いているなら、あんな謙譲な文を贈るわけはない。朝命を|俟《ま》って領掌し度いというので、実は後世の|安倍頼時《あべのよりとき》、|貞任《さだとう》、藤原|清衡《きよひら》、|秀衡《ひでひら》、|或《あるい》は大きくいえば|頼朝《よりとも》のやったような事業を夢見たものである。
このいわゆる承平天慶の一乱を見ても当時|如何《いか》に東西諸国の政治が|紊《みだ》れていたかが分かるが、京都貴族の政治的実力の喪失、盗賊の横行、地方的叛乱、民衆の窮乏、都でさえ|鴨河原《かもがわら》には|夥《おびただ》しい餓死した窮民の死骸が捨てられていた程だったが、これらは皆、貴族の中央集権制に対する強力な否定的現象で、庄園という経済組織と中央集権という政治組織の矛盾、|奢侈《しやし》逸楽に|耽《ふけ》る貴族と窮乏する民衆との矛盾、それらは急激に社会的転換を必要ならしめたのである。
この、歴史的必要に応じて興起したものが武士階級で、将門も歴史的に|視《み》れば、武家政治の失敗した先駆者に|他《ほか》ならぬ。
かくて将門が皇統を窺したという冤を|雪《そそ》ぎ得るならば、我が国|開闢《かいびやく》以来、|普天率土《ふてんそつと》未だかつて一人の天位を|覬覦《きゆ》したもののないことが明白になり、千載国史の汚点をも清め得るというものである。
参考文献及び引用書
将門記。乱後数月を出ない天慶三年六月に記されたもので、漢文体で書かれ、保元平治物語等に先行する軍記物最古のもので、将門の事蹟研究の根本資料。
今昔物語。本朝文粋。日本記略。扶桑略記。大鏡。神皇正統記。太平記。大日本史。平将門故蹟考。国宝将門記伝。古事談、等。
武家時代の研究(上巻)大森金五郎、大日本全史(上巻)同、史伝史話 同、等。
雑誌「改造」(第二巻第四号)、中央史壇(第一巻第八号)、史海(第二十六巻)等。
[#改ページ]
日本で弓矢の総本家といえば、先ず|八幡太郎義家《はちまんたろうよしいえ》であろう。武家で天下を取ったのは、源氏だから、その代表的な先祖である義家が、この名誉を|享《う》けるのは、あたり前である。
戦争が強くて、風流の志も深く、しかも人格が高潔なのだから、たとえ源氏の|嫡 流《ちやくりゆう》に生まれなくとも、一流の武将であろう。
しかし立派な|清和源氏《せいわげんじ》の|惣領《そうりよう》に生まれたということは、武人としての義家に、一段と光彩を添えたものといえる。しかも父親の|頼義《よりよし》は、|鎮守府《ちんじゆふ》将軍として、当時では代表的な武人である。従う|家《いえ》の|子郎党《ころうどう》は、関東武者の精鋭である。この間に生まれた義家の武将としてのスタートが、|如何《いか》に恵まれたものであるかは、想像される。
義家は源頼義の長子で、母は|検非違使《けびいし》、|平 《たいらの》|直方《なおかた》の|女《むすめ》である。|後朱雀《ごすざく》天皇の長久二年に生まれた。
幼名は|源太《げんた》で、|産着《うぶぎ》の|鎧《よろい》を、源太産着の鎧といって源家の|重宝《じゆうほう》となった。
八幡太郎という名前は、|男山《おとこやま》八幡の神前で元服をしたからというのが、通説である。もっとも、|黄海《きのみ》の戦で勇戦したとき、|蝦夷《えぞ》が怖れて、八幡太郎と呼んだという。つまり、|日本《やまと》|武 《たけるの》|尊《みこと》と同じように敵がつけた名前だというが、これはこじつけであろう。義家の弟は、|賀茂《かも》の社前で元服したので、賀茂二郎で、|新羅明神《しんらみようじん》の祠前で元服した|義光《よしみつ》が、新羅三郎なら、八幡太郎の名も、同じ行き方でつけられたに相違ない。
幼年時代の義家の逸話については、信ずべきものは何もない。ただ、早くから頼義と奥州の各地に転戦して、その|嘖々《さくさく》たる武名は、先ず戦場において現れているといってよい。実に義家の|事蹟《じせき》の多くは、前九年、後三年、両役の中に|点綴《てんてつ》されている。
|前《ぜん》九年の|役《えき》は、|俘囚長《ふしゆうちよう》、|安倍頼時《あべのよりとき》とその子の|貞任《さだとう》が、|衣川《ころもがわ》以北の|陸奥《むつ》六郡に|蟠居《ばんきよ》して、中央の命令を聴かなくなって起こった。俘囚とは、蝦夷の|皇民《こうみん》となったもので、台湾の|熟蕃《じゆくばん》に似ている。
前九年の役は、古くは「奥州十二年の合戦」といっているが、実際は、休戦の時を入れて、十三年かかっている。それを十二年というのはおかしいので、鎌倉時代あたりの戦記作者が、勝手に九年と書いたのである。
戦争の名前はとにかく、源頼義、義家父子が安倍頼時追討の命を受けて、陸奥守として任地へ下ったのは、|後冷泉《ごれいぜい》の|永承《えいしよう》六年である。
当時頼義は|相模《さがみの》|守《かみ》となって、東国の将士はみなその恩威に服していた程なので、この命令があったのであろう。ところが赴任と同時に、|大赦《たいしや》の令が下った。頼時は大いに喜んで、心を傾けて頼義の機嫌をとったので、討伐も一時|沙汰止《さたや》みになった。
その後、|天喜《てんき》二年、|頼時《よりとき》の子、貞任が官軍を襲ったという嫌疑から、再び戦が起こった。頼義は陸奥守としての任期は既に終わったが、再任し、天喜五年七月には頼時を討ち取っている。しかしその子の貞任は、なおも頑強な抵抗をしたのである。
黄海の戦は、この貞任の捨身な|復讐《ふくしゆう》戦であった。頼義の兵は、千八百余名、貞任の精兵は四千余人といわれている。黄海は今の東|磐井《いわい》郡|黄海《きのみ》村である。
この時は風雪激しく、道路の通行も困難な上に、官軍は糧食に乏しく、人馬共に疲れた。これに反して、|虜軍《りよぐん》は地の利を得て勇気百倍し、猛烈に肉迫して来た。
八幡太郎の名が、軍神のように全軍を|震撼《しんかん》したのは、実にこの時である。義家はこの時二十に満たぬ若武者だ。|驍勇絶倫《ぎようゆうぜつりん》で、騎射に巧なること神の如しとあるが、|強弓《ごうきゆう》を引いて|中《あた》れば必ず人を|斃《たお》す勢である。賊軍も恐れて当たる者なく、「八幡太郎だ、八幡太郎だ」といって、その|弓勢《ゆんぜい》を避けたという。神の|権化《ごんげ》とでもいうことだろう。その|颯爽《さつそう》たる馬上の武者振り、|想《おも》い見るべしだ。
義家は、|箙《えびら》に残った八本の矢で、追い迫る十二人の敵を|殪《たお》したというが、この弓勢は当時においては、一つの驚異であったのだろう。貞任が滅んでから、|清原武則《きよはらのたけのり》がある日、義家にその弓勢を拝見致したいと請うたことがある。義家はそこで、|堅甲《けんこう》三領を木に|吊《つる》し、わざと|弱 弓《じやつきゆう》でこれを射ると、三領を貫いて、立木に突き立った。武則は(これ神明の|変化《へんげ》なりや)といって、舌を巻いたという。
一体に源氏の諸将は弓に巧みである。|鎮西《ちんぜい》八郎|為朝《ためとも》の強弓は余りにも有名だし、|源三位頼政《げんざんみよりまさ》は|鵺《ぬえ》を射て朝恩を|蒙《こうむ》り、頼朝さえ石橋山合戦には、百発百中の射術を|謳《うた》われている。
思うに広々とした東国の野原で、縦横に馬を乗り廻し、鳥獣を射ているうちに、|自《おのずか》ら体得したものであろうが、この伝統的の弓勢があったればこそ、源氏が天下を取ったのである。源平時代は、戦争のやり方からいえば、騎射戦時代である。源氏の|棟梁《とうりよう》としての義家の見事な騎射が、いかに当時の武士の心を、しっかりと|捉《とら》えたか想われる。
この黄海の戦は、官軍にとっては、とにかく苦戦であった。将軍の従兵|悉《ことごと》く敗走して、残るところは、わずかに義家を初め六騎に過ぎない。しかも賊軍は二百余騎でこれを囲み雨の如く矢を射た。自分の馬が斃れると、賊の馬を奪い、主従一団となって、|漸《ようや》く重囲を脱することが出来た。
この時官軍中に、|佐伯経範《さえきつねのり》という老臣がおり、|相模《さがみ》の者であったが、将軍脱し難しと見るや(我れ将軍に仕えること三十年、死に|後《おく》れてなるべきや)といって、郎党三騎と共に、乱軍中に|駈《か》け入って、見事な戦死を遂げている。
ここに又、藤原|茂頼《しげより》という頼義腹心の者があったが、将軍既に戦死すと早|合点《がてん》をし、頭を丸めて屍を探し歩いた。ところが途中で頼義に|出逢《であ》い、泣いて喜び合ったというが、出家をしたのは軽率だが、その忠節の志は感ずべきものであるとて、当時|喧伝《けんでん》された逸話である。
これらの例を見ても、当時の武士等が如何に頼義、義家に献身的な奉公の|実《じつ》を示したかがわかるが、それだけに頼義や義家が、これらの将士の生活等をよくみてやったことが|窺《うかが》われるのである。
八幡太郎義家というと、すぐ頭に|泛《うか》ぶのは、|勿来《なこそ》の|関《せき》における、心にくいばかりの風流な姿である。
吹く風をなこその関とおもへども
道もせにちる山ざくらかな
歌は|千載集《せんざいしゆう》という、勅撰和歌集に入っていて、有名なものである。余計な註釈なんかつけなくとも、この情景のよさは日本人なら誰でもわかると思う。
その|外《ほか》「|衣《ころも》のたて」の歌も有名だ。
これは|古今著聞集《ここんちよもんじゆう》にある話だが、義家が|衣《ころも》の|館《たて》を攻め、貞任が後を見ずに逃げるのを弓に矢をつがえ(引返せ物言わん)と|呼《よば》わった。貞任が振り向くところを、
衣のたてはほころびにけり
と|詠《よ》みかけると、貞任もさるもので、
年を経し糸のみだれのくるしさに
と|上《かみ》の句をつけた。義家はその志に感じて、矢を|外《はず》して帰って来たというのである。
本当の話かどうか分からない。しかし当時既に強いばかりが武士の本領でないという考えがあり、義家を|以《もつ》て完全な武将の代表とする気持が、こうした|床《ゆか》しい挿話を生んだとも、考えられないこともない。
しかし|流石《さすが》に精強な貞任も、自滅の時機は迫りつつあった。頼義や義家には、新たに|出羽《でわ》の俘囚長、|清原光頼《きよはらのみつより》、|武則《たけのり》という有力な後援がある。衣川の館をおとしいれられた貞任は、|厨川《くりやがわ》の|柵《さく》に退いたが、ここも囲まれて、ついに戦死を遂げ、弟の|宗任《むねとう》、|正任《まさとう》は生捕りになった。厨川の館は、今の盛岡市付近の|北上川《きたかみがわ》沿岸にある。
この時はまさに、|康平《こうへい》五年九月で、頼義が、陸奥守に任命されてから十二カ年目であり、ここに|漸《ようや》く奥州の天地に平和が訪れたわけである。
頼義父子が、この十二年の在任中、|飢渇《きかつ》に耐えて、割の悪い戦争を忠実にやって来た苦労は非常なものである。康平六年に、頼義は功を以て|伊予守《いよのかみ》に任ぜられたが、勲功の士十数人の恩賞はまだ伝達されず、この旨を|頻《しき》りに奏請しているが一向に|音沙汰《おとさた》はない。
一方義家も勲功によって、出羽守に任ぜられたが、父は伊予、己れが出羽では行程|渺焉《びようえん》で孝養を致すことは出来ないから|越中守《えつちゆうのかみ》の欠に補せられたいと願っている。しかし本当のところは、出羽にいても、新たに鎮守府将軍として日の出の勢である、清原武則が煙たかったのではないかと思う。
もっとも義家のこの熱心な希望も、裁許されたかどうか、記録は何もない。京都の|公卿《くぎよう》達は、自分達の泰平ばかり|謳歌《おうか》していて、地方の武士のいうことなんか、本当に耳には入ってはいないのだろう。
義家ですら、関白の前駆となって甘んじていなければならない程である。武名|赫々《かつかく》たる源氏の棟梁とはいえ、表立って|禁衛《きんえい》の職にあったわけではない。(位でもやって、|田舎《いなか》者は喜ばせておけ)というのが、中央政府の官史である貴族達の|肚《はら》であり、単純な当時の武家は、そこまで読み切るずるさは無かったわけである。
|嘉保《かほう》二年に|白河法皇《しらかわほうおう》、|御不予《ごふよ》のことあって、|加持祈祷《かじきとう》が行なわれたが、|夜々物《よなよなもの》の|怪《け》が御夢に現れて、|御気色《みけしき》の|只《ただ》ならぬものがあった。
悪魔退散にと、義家は請わるるままに、|一張《ひとはり》の弓を奉献した。ところが|忽《たちま》ちに|御悩気《ごのうけ》は散じつくされ、法皇の|御感斜《ぎよかんななめ》ならず(この弓は|汝《なんじ》が奥州征伐に用いしものにや)と御下問あったところ、義家謹んで(失念致して、記憶申さず)と奉答した。その至純にして|謙抑《けんよく》、功に誇らざること見るべしだ。後世では、源三位のように、弓を射って御悩気を払ったのでは、既に武威が衰えている証拠であるといっている。
前九年の役終わって、義家は捕虜の宗任を許して、従者として連れ歩いたという話がある。背中を向けて、|雁股《かりまた》の矢をうつぼに差させたというのだが、これは義家の|肚《はら》の大きいことをいった伝説だろう。宗任が何度か、義家の寝ているのを|斬《き》りつけようとして、その|自若《じじやく》たる態度にしり込みしたという逸話と|同工《どうこう》である。宗任等は降参しても、京の町へ入ることは許されず、すぐ伊予国に追放されたという|扶桑略記《ふそうりやくき》なんかの記事が本当だと思う。
|後《ご》三年の|役《えき》は、前九年の役が終わってから二十年にして起こっている。|永保《えいほう》三年から|寛治《かんじ》元年まで五カ年というのが、今日の定説だから、何も三年とことわるのは、オカしい。
この時には、頼義は病死していて、参加していない。
全く八幡太郎義家の独り舞台である。
戦争の原因は、|清原《きよはら》一族の内紛である。当主の|真衡《さねひら》の養子の結婚式に、親類の君彦|秀武《ひでたけ》がはるばる出羽の国から、沢山の進物を持って祝いに来たところが、真衡は他の客と碁を打っていて、取り合わないのに腹を立てたのにはじまる。真衡は真衡で、家来のくせに生意気だといって怒るし、秀武は真衡の異母弟|家衡《いえひら》と藤原|清衡《きよひら》を語らって|驕慢《きようまん》な真衡に対して、弓を引いた。
永保三年に、義家が陸奥守となって入国したため、お互いに|牽制《けんせい》されて、一時小康を保ちその|中《うち》に、当の真衡が病気で|頓死《とんし》してしまったのでこの騒動もけりがつきそうであった。
すると今度は、家衡と清衡が仲違いをして家衡は清衡の|邸《やしき》に火をかけ、妻子の者を殺した。|草叢《くさむら》の中に隠れて、|生命《いのち》拾いした清衡は、事の次第を義家に訴え、ここにいよいよ義家が家衡討伐に乗り出すことになったのである。
|応徳《おうとく》三年冬、義家は数千騎の郎党を|随《したが》えて、家衡を出羽国|沼柵《ぬまさく》に攻めた。|凛烈《りんれつ》たる寒風は|粉雪《ふんせつ》を交えて行軍を妨げ、源氏の白旗もこの時ばかりは、生彩を欠いた形である。兵糧も運搬も円滑に行かぬし、飢寒に|逼《せま》って凍死する兵士の数を知らない。
馬肉を|啖《くら》って、飢を|凌《しの》ぎ、義家自ら凍えた兵士を抱いて、温を取らしたというのは、この時の話である。相手は丁度北満の|匪賊《ひぞく》のような、|軽捷《けいしよう》且つ地の利を得た、|虜兵《りよへい》である。義家の苦戦も、思い半ばに過ぎるものがあるが、どうにかこの敗戦を切り抜けて第二段の|羽後《うご》の|金沢柵《かなざわのさく》の戦いにまで頑張った。
|寛治《かんじ》元年九月、義家は自ら数万騎を|提《ひつさ》げて金沢柵を攻めた。敵には新たに武衡が加わっている。義家の弟の|新羅《しんら》三郎|義光《よしみつ》が、京都に|在《あ》ってこの大乱を聞き、応援のために官を捨ててやって来たのは、この時のことだ。義家は涙を流して(|故入道殿《こにゆうどうどの》――頼義――の再生に|遇《お》うたようなり)といって、喜んだというが、後年の頼朝、義経の会見を|髣髴《ほうふつ》させるものがある。
|余譚《よだん》だが、新羅三郎といえば、この時|足柄山《あしがらやま》で|豊原時元《とよはらときもと》の子、|時秋《ときあき》に|笙《しよう》の秘曲を伝えて、|訣別《けつべつ》した話は、人口に|膾炙《かいしや》している。しかしこの頃の研究によると、この時には、時秋はまだ生まれていないということである。真疑の程はとにかく、都会生活のこの風流漢を駆って、陸奥の地まで|奔《はし》らせたのだから同じ源氏であるという意識も強いし、この度の戦争が源氏にとって、容易でないことだけはわかる。
金沢柵は、羽後国仙北郡金沢町にある。|山河《さんが》の|嶮《けん》に|拠《よ》って周囲は約五十丁ばかり、|孔雀《くじやく》のような|格構《かつこう》をしているので、孔雀の柵ともいわれている。
これと西南十五、六町を隔てて丘の間に|西沼《にしぬま》があった。|或《あ》る日義家がここに馬を|停《と》め、地形を|按《あん》じていると、|行雁《こうがん》下らんとして、又|忽《たちま》ち乱れ飛んだ。伏兵ありとみて直ちに捜索したところ、果して三十余名の伏兵を発見したとは、有名な話だ。
これは|兵法《ひようほう》に(兵、|野《の》に伏す時は、雁列を破る)というのを、義家が知っていたからだ。かつて|大江匡房《おおえのまさふさ》に(|好漢《こうかん》惜しむらくは兵法を知らず)といわれて、辞を低くして兵書を学んだためというのだが、兵書を読まなくっても義家程の頭のよい、老練の大将なら、この位のことは知っているはずだ。
金沢柵の攻囲中、義家が色々の策を考えて、士気を鼓舞したことが、伝えられている。|或《あ》る時は、|剛臆《ごうおく》の座を定め、その日の戦に剛と見えたものを剛の座にすえ、臆病だったものを臆の座に坐らせた。すると誰でも臆の座に着き度くないのは人情で、戦争にも自ら励みが出るというわけである。
戦国時代でも、|武田《たけだ》の名将、|板垣信形《いたがきのぶかた》が、同じく上中下の三座を設けて、戦功によって席次を定めたというが、これは全く義家のやり方の|模倣《もほう》だ。
|末割《すえわり》四郎|惟弘《これひろ》という武士は、一度も剛の座に着いたことがなかった。自分でも心から恥じ、或る日の戦に|天晴《あつぱ》れの戦をしようと、十分に飯を|喰《くら》って|先駈《さきがけ》をしたところ|鏑矢《かぶらや》を|頸《くび》に受けて、即死してしまった。するとこの頸の切れ目から、喰った飯が形も変えずにこぼれ出た。付近にいた人々は大いに|嘲笑《あざわら》ったが、義家は深くその男の臆病を悲しんだという。(少々薬が利き過ぎた)と多少は気にしたのであろう。
金沢柵攻囲戦の花形は、何といっても、年少|僅《わず》かに十六歳の|鎌倉権五郎景正《かまくらごんごろうかげまさ》だろう。|生国《しようこく》は相模である。
|武衡《たけひら》の将に、|鳥海《とりうみ》弥三郎といって、|弓勢《ゆんぜい》名誉の男があったが、景正の働き振りを心にくしと見て、|強弓《ごうきゆう》を引きしぼって景正の右眼を射た。景正は、|隻眼《せきがん》を|《みは》って(おのれ、この矢は汝だな)といって、|睨《にら》みつけた。
鳥海は驚いて(我が|鏃《やじり》にあたった者でものを言った例がない。とても凡人の|様《さま》ならず)と|遁走《とんそう》するところを、景正追っかけて、首にしてしまった。
帰陣して、戦友がその矢を抜いてやるといって、顔に土足をかけると、景正が腹を立てたので、|膝《ひざ》で顔を抑えて抜いてやったというが、|強気《ごうき》なものである。
今でも、この|辺《あたり》の小川には、片目の|石斑魚《かじか》が泳いでいるというが、権五郎景正が流れで|傷眼《きずめ》を洗ったためだという。
もっとも明治十四年、明治天皇の東北御巡幸の|砌《みぎり》には、この魚を天覧に供したというから、実際にいることはいるのだろう。
攻囲戦は秋から冬にかけて続けられ、攻める方でも、例の厳寒大雪は苦手である。同時に守る方でも、一種の兵糧攻めに逢っているのだから、その困窮も甚しかった。
或る日、義家は敵の様子を|窺《うかが》っていたが、夜中頃になって人を呼び、
(武衡、家衡等は今夜陥るべきにより、各々は|仮屋《かりや》を|焚《た》きて暖をとるべし)
と命じた。そこで寄せ手は、バラックに火を放って焚火をしていたのであるが、果せるかな、その明け方に金沢柵は|陥《お》ちた。人々義家を神として、その明識のほどに感服したという。
城中に|籠《こも》っていた者は、|或《あるい》は殺され、或は|生虜《いけどり》にされた。武衡も、池中の|叢 《くさむら》の中に隠れていたが、遂に生捕られて義家の面前に引き出された。頭を地につけてひれ伏し、顔も上げ得ずに助命を|乞《こ》うた。
義光はこれを哀れと思い、降参した者を助けるのは、古今の例であるからと、義家に助命を乞うた。義家は|頭《こうべ》を振り(|降人《こうじん》とは戦場を|遁《のが》れて、人手にかからず自ら|咎《とが》を悔い、頭を差しのべて来たる者、宗任が|如《ごと》きをいうのである。武衡は戦場で生虜となり、|片時《へんじ》の命を惜しむ者、これを降人といえようか。君は礼法を心得ぬ。甚だ|拙《つたな》し)といって、武衡の首を斬った。
|姑息《こそく》の情に|拘泥《こうでい》せぬ、|秋霜《しゆうそう》の如き決断力といわねばならない。
家衡の首は、|県《あがた》小次郎|次任《つぐとう》が持って来た。郎党が首を|鉾《ほこ》に刺して|跪 《ひざまず》き(これは県殿の手作りにて候)といった。手作りとはこの地方の方言で、自ら手をかけてしたことをいうそうである。義家は大いに|悦《よろこ》び、|紅《もみ》の|絹《きぬ》を次任に与え、更に|駿馬《しゆんめ》に|鞍《くら》を置いて、授けた。
かくて、頼義、義家二代の苦心が漸く報いられて、奥州平定の業は成ったのである。
後三年の役でも、中央では義家等の勲功に報いることが薄かった。つまり朝廷では、後三年の役を一種の私闘と|見做《みな》し勲賞のことがなかったのである。
これに対して、義家が私財を以て、部下の恩賞を行なったというが、これも別に確かな記録というものはない。ただ後世、日本外史なんかが、私恩を以てこれを「|《うく》せしむ」と書いてあるだけだ。学校の教科書も、多くこの説を受け売りしているのだが、その出典は|曖昧《あいまい》なものである。
しかし事実朝廷が私闘だといって、顧みなかったとしても、義家ほどの男がその部下の勲功を放って置くわけはない。県小次郎が家衡の首を取った時、義家は即座に賞を与えている。こんな場合、義家は決して物惜しみをする男ではないと思う。
部下によくしてやらなくて、|麾下《きか》の者があんなに立派な働きをするわけはない。東国の武士が京都に|背《そむ》いても、源氏にだけは背くなかれと、相伝えて感激したのも、理由のないことではない。
|頼山陽《らいさんよう》が日本外史で(是の時に当たり、義家をして|一度《ひとたび》手に|唾《つばき》して|起《た》たしめば、|函嶺《かんれい》以東朝廷の有に非ず。されば必ずしも頼朝を待たざるなり)と一流の|大見得《おおみえ》を切っているが、八幡太郎義家が東国に残した地盤がなければ、流離|落魄《らくはく》の頼朝なんかに、ああも|易々《やすやす》と天下は取れなかったであろう。
[#改ページ]
|木曾義仲《きそよしなか》も武将としての数奇の運命の影が付きまとっている。この点、牛若の幼時から苦労を積み重ね、奥州|高館《たかだて》で|悲愴《ひそう》な最後を遂げた薄命の武将|義経《よしつね》と相通じるものがある。
義経と義仲は|従兄弟《いとこ》で、その悲劇的な死を遂げた年も、共に三十一歳である。
だが義経は、後世|判官贔屓《ほうがんびいき》という言葉さえ出来るくらい当時から人気があるのに、義仲があまりもてないのは義経が十一歳までは京都で育ち、その後も都風の|豪奢《ごうしや》を誇る奥羽の|雄《ゆう》|藤原 《ふじわらの》|秀衡《ひでひら》の|許《もと》で、当時の文化としての教養を積んだに反し、義仲は三十までは都の風に吹かれたこともない、いわゆる木曾の山猿で、彼から受ける感じが京都|人士《じんし》の|嗜好《しこう》に|適《かな》わなかったので、当時の京都人の悪評は後世にも伝わり|源平盛衰記《げんぺいじようすいき》や、平家物語に散々に、悪く書かれているためでもある。
もっとも義仲の不人気の最大原因は、京都での乱暴|狼藉《ろうぜき》であるが、それも当時の事情から見て、義仲に同情の余地があるのだが、そんなものは一向認めて|貰《もら》えないのである。
ところが義仲は、|親戚《しんせき》故旧にも厚く、|叔父《おじ》の|行家《ゆきいえ》のような人間をさえ保護してやり、頼朝の挑戦をも|体《てい》よく避けているし、性格からいえば、義経のように純情で多感で|真率《しんそつ》である。その直情径行的なところが、随分彼自身に|祟《たた》っている。
義仲は|源 《みなもとの》|為義《ためよし》の子、|帯刀先生 義賢《たてわきせんじようよしかた》の二男だから頼朝義経等とは従兄弟同士である。父義賢は、|甥《おい》の|義平《よしひら》(頼朝の異母兄)のために殺された。義平は|畠山重能《はたけやましげよし》に命じて、その時二歳だった|駒王《こまおう》丸(義仲の|小字《しようじ》)をも殺させようとしたが、重能は|憐《あわ》れに思って|密《ひそ》かに斎藤|別当《べつとう》に託した。すると|実盛《さねもり》は駒王丸を|信濃《しなの》に送り、義仲の|乳母《うば》の夫に託した。|中《ちゆう》三|権《ごんの》|頭《かみ》|兼遠《かねとお》というのはこれである。
兼遠が駒王丸を木曾で養育したから、世に木曾次郎義仲というのである。
兼遠の子樋口二郎兼光、今井四郎兼平等、いずれも豪傑で源氏の|御曹子《おんぞうし》義仲を主将に|戴《いただ》き、|治承《じしよう》四年|以仁王《もちひとおう》の|令旨《りようじ》を奉じて信濃に兵を挙げたのである。
義仲の挙兵が頼朝の後であったか前であったか、又頼朝の挙兵とは直接関係があったか、無かったかは明らかでないが、義仲は頼朝の幕下に参じてその指揮を仰ぐつもりではなかったらしい。ああした客観的情勢に|遇《あ》って、宮の令旨がモメントになって両者|殆《ほとん》ど時を同じゅうして打倒平氏の運動を代表して|起《た》ったものであろう。
一度|蹶起《けつき》した義仲は、頼朝以上の神速さを|以《もつ》て国中の諸城を従え、東方の|上野《こうずけ》をも|徇《したが》え、更に翌|養和《ようわ》元年六月には越後の|城長茂《じようながしげ》と戦ってこれを破りその|国郡《こくぐん》に入った。
九月、|平 《たいらの》|通盛《みちもり》、同|経正《つねまさ》等が来り攻めたが、これを越前に撃破したので、越前越中加賀の諸豪は|風《ふう》を望んで|麾下《きか》に参じ、義仲の武威は北陸に振ったのである。
この頃、|甲斐源氏《かいげんじ》の|宗家《そうけ》たる|武田信義《たけだのぶよし》の子信光は娘を、義仲の|嫡子義高《ちやくしよしたか》に|妻《めあ》わせようとしたが、義仲が侮って、|斥《しりぞ》けたので、内心これを|銜《ふく》んでいた。今、義仲の威望を見て、信光は、彼には自立の志があるといって、頼朝に|讒《ざん》した。
折も折、頼朝に領国を|乞《こ》うて聴かれなかった源|行家《ゆきいえ》(頼朝、義仲の叔父)が義仲に投じたので、頼朝は信光の讒を信じ、|寿永《じゆえい》二年三月、兵を率いて信濃に入り、義仲を討とうとした。
義仲は興奮する将士を抑えて、
(|保元《ほうげん》以来我が|宗族《そうぞく》は互いに|殺戮《さつりく》して世の|嗤《わらい》を|胎《のこ》した。平氏を滅ぼさざるに今また頼朝と戦うのは賢明ではない。|暫《しばら》く彼の|鉾先《ほこさき》を避けよう)とて越後に至り(もし二心がないなら行家か清水|冠者《かんじや》〔嫡子義高〕をよこせ)という頼朝の要求を容れて義高を鎌倉に|遣《つかわ》した。この態度を見ても、義仲が、必ずしも山出しの|猪《いのしし》武者でないことがわかる。頼朝は、義高に、|姫《むすめ》の|大姫《おおひめ》を|許嫁《いいなずけ》したが、後年、義仲が|近江《おうみ》で敗死すると間もなく頼朝の命によって義高も殺された。
それはともかく、血族殺戮の悲運をしみじみと味わって来た義仲は、事実彼がいっているように頼朝との衝突を避けたかったのである。
頼朝と和解した彼は、いよいよ諸方を経略したが、寿永二年四月、|右近衛中 将《うこんえのちゆうじよう》平|維盛《これもり》を主将とする木曾追討の|平軍《へいぐん》は越前の|燧山《ひうちやま》、林、|富樫《とがし》の諸城を陥れた。斎藤別当実盛が錦の|直垂《ひたたれ》を着し白髪を染めて最後を飾ったというのは当時のことである。平軍は勝に乗じて進撃し越中の|磐若野《はんにやの》に|屯《たむろ》した。
この形勢を見た義仲は今井兼平を先発させたが、自らも越後を発し越中に入り、六|動寺《どうじ》に至った。ここに義仲の武名を決定的のものとした|礪波山倶利伽羅峠《となみやまくりからとうげ》の|殲滅《せんめつ》戦が展開されるのである。
寿永二年五月十一日、平家の武将|越中《えつちゆうの》 |前 司《さきのつかさ》 |平 《たいらの》|盛俊《もりとし》は一万五千騎を率いて倶利伽羅峠の頂上から少し越中側に下った猿ノ馬場に陣取った。義仲は宮崎太郎の策を用いて、南黒坂、北黒坂の両路から進んで敵を包囲した。平軍がこの方面の偵察を怠り、これに対する|防禦《ぼうぎよ》をしなかったのが運の尽きである。
|長門本《ながとぼん》平家物語には、この北黒坂の大将こそ|美貌《びぼう》の勇婦|巴《ともえ》だったと書いている。
義仲自らは中黒坂に向かったが(夏山の緑の木の間より朱の玉垣ほの見えて、かたそぎ作りの社あり、あれは何の宮と申すぞ)と尋ね、手書きの|大夫覚明《たいふかくめい》をして戦勝祈祷の願文を捧げしめたというのは、|応神《おうじん》天皇|神功《じんぐう》皇后等を|祀《まつ》った今の県社護国八幡宮のことで、その願文というものも現存している|筈《はず》だ。
義仲はいい加減に敵をあしらいながら日没を待っていたのである。平家物語には、
(|去程《さるほど》に日もくれがたに|成《なり》にければ、今井四郎兼平、|楯《たて》六郎|親忠《ちかただ》、八島四郎、落合五郎を|先《さき》として、一万余騎の|勢《せい》にて平家の陣のうしろ、西の山の上よりさし廻して、|鬨《とき》をどっと作り|懸《かけ》たりければ黒坂口、柳原に控えたる大手二万余騎、同時に鬨を作る。前後四万余騎がおめく声、谷をひびかし峰にひびきて|夥 《おびただ》し。
平家は北は|山巌石《さんがんせき》なり、|夜軍《よいくさ》よもあらじ、夜明てぞあらんとゆだんしけるところに鬨を作り懸たりければ、東西を失ないてあわてさわぐ。
後は山深くして|嶮《けわし》かりつれば|搦手《からめて》へ向かいぬべしもおぼえざりけるものを、いかがせんずる。前は大手なればえすすまず、後へも引返えさず、鳥にもあらねば天へものぼらず、力及ばぬ道なれば、心ならず南谷へ向けてぞ落しける。
さばかりの巌石を|闇《やみ》の夜に我先にと落ちける間、|杭《くい》につらぬかれ岩にうたれても死にけり、前に|落《おつ》るもの|後《うしろ》に|落《おと》す者にふまれ死ぬ。|後《うしろ》に落す者は今落す者にふみころさる。父落せば子も落す、子おとせば父もつづく。|主《しゆ》落せば|郎党《ろうどう》も落重なる。馬には人、人には馬、上が上に落重なりて、くりからが谷一つをば平家の|大勢《たいぜい》にて|馳埋《はせうめ》てけり)
こうして大軍は大敗して、その陣地猿ノ馬場のすぐ下の谷に逃げこんだが、これを|馳込谷《はせこみだに》といっている。谷は、袋の底のようになっていて、一旦逃げこんでも|再《ま》た向こうの|山麓《さんろく》を|攀《よ》じ登らねば退路がない。夜中ではあるし、その上|急 峻《きゆうしゆん》な谷底だから、平軍の|狼狽《ろうばい》の状は平家物語が叙している通りであっただろう。
義仲の|寝覚《ねざめ》の山か月かなし
猿ノ馬場の|芭蕉《ばしよう》の句碑も、悲しいではないか。平家物語にはこの兵数、源軍五万余、平軍十万余としているが多きに過ぎて信じ難い。その当時の文献として、最も信用し得る|関白兼実《かんぱくかねざね》の「|玉海《ぎよつかい》」には四万余騎の平軍中、|甲冑《かつちゆう》を帯する者四五騎で、その他の過半は死傷し生き残った者も大抵|物具《もののぐ》を|棄《す》てて山林中に逃げ込み、大将|越中《えつちゆうの》 |前 司《さきのつかさ》 |盛俊《もりとし》以下の勇士も、|郎徒《ろうと》一人も連れず、|髻 《もとどり》を引きくだして逃げ去ったとある。|仰山《ぎようさん》な書き方だが、当時こうした風聞が伝えられたものと見える。
一方源氏の兵力は|纔《わずか》に五千騎に及ばずと記しているから、平軍もよくよくの敗け戦である。大軍を擁しながら|退嬰《たいえい》主義を取っていて、早く源軍を|衝《つ》こうとはせず、その上に南北両黒坂の偵察を怠ったのが敗因で、遂に木曾|冠者《かんじや》義仲をして朝日将軍の名を成さしめたのである。その敗け振りは、|厳島《いつくしま》合戦の|陶晴賢《すえはるかた》と|一寸《ちよつと》似ている。
ともかく、この倶利伽羅峠は兵略上重要な地点であるから、|承 久《じようきゆう》の|乱《らん》の際にも官軍はここで東軍を|喰《く》い止めようとしたのである。
ここで敗れた平軍は、更に|安宅《あたか》、|篠原《しのはら》等の戦に連敗し、義仲は野を巻く疾風の|如《ごと》き勢でこれを|追蹤《ついしよう》して京都に迫ったので、遂に一門|西海《さいかい》に落ちるの止むなきに至ったのである。だから大局から見てこの敗戦は、平家に取って実に致命的な打撃で、それだけ義仲の武功は輝かしいものである。
倶利伽羅峠の戦で、義仲の|火牛《かぎゆう》の戦法は、あまりにも人口に|膾炙《かいしや》されているが、実録にはない。承久三年の越後越中の|寒原《さむはら》の二火牛戦も、|嘉吉《かきつ》元年の|但馬播磨《たじまはりま》境の大山口の用牛戦も、みんな|斉《せい》の|田単《でんたん》の火牛戦の焼き直しとも見るべきで、ウソと断じてよい。
七月義仲は北陸道から近江に入って|延暦寺《えんりやくじ》を諭し、|行家《ゆきいえ》は大和に入った。摂津源氏源|行綱《ゆきつな》(|鹿《しし》ケ|谷《たに》会議の際清盛に密告した男)は一時平家党であったが裏切って|河内《かわち》に|拠《よ》り、足利|義清《よしきよ》も義仲に属して|丹波《たんば》に入り|何《いず》れも相呼応して、京都に攻め入ろうとする形勢であった。
そこで宗盛は、宗族間の会議を開く暇もなく|急遽《きゆうきよ》天皇法皇を奉じて西海に赴くの策を決したのであるが、実録の書にはその委曲を徴すべきものがない。長門本平家物語には、平家党で|美濃《みの》源氏の佐渡|右衛門尉 重実《うえもんのじようしげざね》の注進によって、京都の形勢が危急に|逼《せま》ったことを知り|遽《にわか》に策を決したとある。
|吉記《きつき》によれば、法皇は前以て|御書《おんしよ》を前|内府宗盛《ないふむねもり》に賜い、火急に及んだならば如何に措置する|所存《しよぞん》かをお尋ねがあったのに対し、その節は直ちに参上し、|主上《しゆじよう》法皇を奉じて西海に赴くべき旨を奉答している。
宗盛は、主上法皇を奉じ三種の神器を具し奉ったならば、たとえ京都が源軍の手に落ちようとも、回復の機会はいくらでもあると考えた。しかし法皇は、兼ねがね平氏の|所為《しよい》を|悪《にく》ませられていたので、|窃《ひそ》かに比叡山|東塔円融坊《とうとうえんゆうぼう》に|御幸《みゆき》され、宗盛の|謀 《はかりごと》の裏をかかせられたので、木曾の大軍はすでに比叡の|彼方《かなた》で|犇《ひしめ》いているのに最後の切札がフイになった平家一門の周章|狼狽《ろうばい》は|想《おも》うべしである。かくては猶予ならじと、二十五日、清盛以来豪華を誇った|六波羅《ろくはら》の邸宅に火を放ち、|安徳《あんとく》天皇及び建礼門院を擁し、三種の神器を奉じて西海に落ち、平家物語に見るような美しい悲劇が展開されるのである。
平家が西海に落ちた後、|高倉《たかくら》天皇の第四の皇子、|後鳥羽《ごとば》天皇が、御即位あり、なお法皇が万機を|総覧《そうらん》し給うていたが、源氏諸将の論功の結果、頼朝を以て第一とし、義仲を第二、行家を第三とせられた。かくて義仲は|従五位下左馬頭《じゆごいげさまのかみ》に任じ、越後守となり、行家は従五位下|備後守《びんごのかみ》となったが、彼等は喜ばなかったので、更に義仲を伊予守、行家を備前守とされた。しかして平氏一族百八十人の没官領五百余箇所のうち、義仲に百四十箇所、行家に九十箇所を賜い、院の昇殿をも許された。
だが、もともと三条ノ宮(以仁王)の御子、|北陸《ほくりく》ノ|宮《みや》の御即位を御期待し奉っていた義仲は、四ノ宮の皇位御継承に対して、かようなことになったのは三条ノ宮のため、痛恨の至りであるとて、甚だ不本意の色を表した。|治承《じしよう》四年九月、以仁王の令旨によって義兵を挙げ、|上《じよう》、|信《しん》、北陸道を|席捲《せつけん》し、三年足らずで世に時めいた平氏一門を駆逐して京都を手中に収めた義仲にして見れば、不遇に|在《おわ》した以仁王の御遺子の皇位御継承を願う気持にもなったであろう。その点なども、義仲の義理堅さが現れていると思う。
鎌倉で頼朝が本拠を固め|後図《こうと》を|為《な》している間に、義仲は信濃、上野、北陸の大兵を率いて|入洛《にゆうらく》して京都の主人公となり、至尊を擁して天下に号令すべき地位を占めてしまった。しかしその地位たるや極めて不安なものであった。猛虎の勢で攻め上った義仲も、京都に入ると処女の如くであった。まったく自由が利かなくなった。
京都は大兵を擁して久しく|留《とどま》るべき所ではない。平氏が都を棄てたのも、頼朝が容易に足を挙げて京都に向かわなかったのも、多くはこの理由による。後世|楠木正成《くすのきまさしげ》も、|主上《しゆじよう》に再度|山門《さんもん》行幸を仰ぎ、|尊氏《たかうじ》の大軍を京都に引き入れて兵糧に窮せしめんとの策戦計画を奉上している。
京都は兵糧を準備して置くには非常に困難な場所である。果せるかな義仲は京都に入るまでは順調であったが、部下の大兵を給養せんとするに当たっては、適当の道なく、|俄然《がぜん》窮境に陥った。
かくて当然糧食物資の不足を感じたが、徴発しようとすれば|院宮《いんぐう》、寺院その他都民一般の反感を買わねばならぬ、といって兵士を食わせずにはいられない。結局部下の|掠奪《りやくだつ》を黙認しなければならない破目に立ち至ったのである。源平盛衰記には、
(|只今《ただいま》、食わんとて|箸《はし》を立てるをも奪い取りければ、口を空しゅうして|命《いのち》いくべきようなし。道を通る者も|衣裳《いしよう》をはがれ、手に持ち肩に担えるものさえ取りければ、安き心なし。|青田《せいでん》を|苅《かり》取って|秣《まぐさ》に飼い、|堂塔卒塔婆《どうとうそとば》などを破り取って薪としけり)
|玉海《ぎよつかい》、平家物語も等しく掠奪|劫盗《ごうとう》の|様《さま》を書き立てている。
何といっても、源氏の正統頼朝ほどの地盤を持っていなかった義仲は、功を急いで上洛したが、そこにはこうした困難が待ちもうけていたのである。
そして皇室の御|眷顧《けんこ》が必ずしも義仲独りに|在《あ》ったのではなく、義仲入京の時、早くも院中の議は頼朝の功を以て第一とし、わざわざ頼朝に使者を遣して平家追討の功を賞し義仲を|牽制《けんせい》された。これを見た義仲は心中|怏々《おうおう》たるものがあった。
なお田舎育ちの義仲には都人士の目を|欹《そばだ》てるような振舞が多くあって、いよいよ人気が悪かった。平家物語にも、
(木曾義仲は色白う、みめはよい男にてありけれど、起居の振舞の無骨さ、物言いたる言葉つきの|片口《かたくち》なる事、限りなし、ことわりかな、二十より三十にあまるまで信濃国の木曾という山里に住み慣れてありければ、なじかはよかるべき)と記している。
又この頃、|猫間中納言光隆卿《ねこまちゆうなごんみつたかきよう》が義仲を訪問したが、義仲は取次の者から聞いて、猫が人に対面するのかといって笑った。そして猫間殿といえないで「猫殿々々」といった。あまりのことに中納言は訪問の用件には一言も触れないで帰って行った。
(参院の時にも、|官加階《かんかかい》したるもの、|直垂《ひたたれ》にて出仕せんことあるびょうもなし)といって|俄《にわか》に|束帯《そくたい》を着けて立ち|出《いで》たが、
(|鎧《よろい》取りて着、矢かき負い、弓推し張り、|甲《かぶと》の緒をしめ、馬に打ち乗りたるには似も似ずあしかりけり。されども車にこがみ乗りぬ。
|牛飼《うしかい》は|八島《やしま》の|大臣《おとど》|殿《どの》〔平宗盛〕の牛飼なり。|牛車《ぎつしや》もそなりけり。逸物なる牛のすえかうたるを、|門《もん》出ずるとして一|《こ》あてたらんに、なじかはよかるべき。牛は飛びて出ずれば木曾は車の中にて仰向きにたおれぬ。|蝶《ちよう》の羽をひろげたるように、左右の|袖《そで》をひろげ、手をあがいて、起きんとしけれども、なじかは起きらるべき)
牛車が院の|御所《ごしよ》に着くと、義仲が|後《うしろ》から降りようとするので、京育ちの|雑色《ぞうしき》が、召される時は後からであるが、降り給う時は前からである、と注意すると、
(|何条《なんじよう》すとおりはすべき)といって、とうとう後から降りたりと記している。
木曾の山間に育った義仲には無理からぬことではあるが、義仲のそうした粗野な挙動は部下の暴行と共にいよいよ人望を失墜させ、都の上下は共に権勢に|奢《おご》っても滅茶はしない平氏よりも更に甚しい野蛮人を迎え入れたと思った。
花の香は遠くから聞くほど|佳《よ》い。義仲が不人気の絶頂にある時、超然として独り関東の|膏腴《こうゆ》を占めている頼朝の毒にも薬にもならぬ外交辞令も京都の|公卿《くぎよう》達には人気があり、中原|定康《さだやす》は院の御使となって鎌倉に|下向《げこう》し頼朝の上洛を促すという有様だった。
義仲は法皇から平氏追討の御催促があったが、そのことを聞いているので容易に腰を上げない。もし頼朝が上洛したならば、途中でこれを|邀《むか》え撃つつもりでいた。そこで頼朝も、奥羽の藤原|秀衡《ひでひら》、常陸の佐竹|義隆《よしたか》などが背後を|窺《うかが》う|虞《おそ》れがあるし、大兵を率いて京都に入っては都の秩序も保ち難いから、弟義経を代官として遣わします、といって、うっかり上洛はしない。
義仲はますます|疑惧《ぎく》の念を|懐《いだ》いたが、いつまでも法皇の御催促を無視して京都に留っているわけにも行かぬので、十一月都に出て、平|重衡《しげひら》、|通盛《みちもり》、|教経《のりつね》等を備中の|水島《みずしま》に攻めたが、武運|拙《つたな》くも大敗を取った。
この際百戦百勝の義仲の名誉にかけても敗戦の恥を|雪《そそ》ぐべきであったが、頼朝の代官|範頼《のりより》、義経が大兵を率いて西上するとの報があったので、同月十五日遂に京都に引き|還《かえ》さねばならなかった。その上、今まで恩を施し、行を共にして来た叔父の行家は、落目になった義仲を裏切った。そして形勢不利の時は、法皇を奉じて北国に赴こうとの義仲の計画を密奏したのである。
彼は義仲の激怒を恐れて平氏追討にかこつけて播磨に下った。東には範頼、義経の来り逼らんとするあり、西には京都回復の機を窺う平氏あり、義仲は、今、又その一勢力たる行家を失っていよいよ窮地に陥ったのである。
義仲は武略に長じ、部下にも|樋口《ひぐち》、今井、|根《ね》ノ|井《い》、|楯《たて》の四天王を始め、忠臣勇将を擁していたが、頼朝における|大江広元《おおえのひろもと》、|三善康信《みよしやすのぶ》、|斎院次官《さいいんじかん》中原|親能《ちかよし》のように中央の情勢に通じ洗練された外交官的手腕を以て彼を補佐する人材に欠けていた。何分にも|信濃万山《しなのまんざん》の野人で、気質は率直だったが、京都に入ってからはサッパリ勝手が分からず、散々であった。
これに反し行家は戦争は下手クソだったが小才の利く器用な男で、|柿《かき》の衣に|籐《とう》の|笈《おい》、|山伏《やまぶし》に身を|窶《やつ》して以仁王の令旨を携え、東国|諸源《しよげん》を|遊説《ゆうぜい》したりするのは彼の|適役《はまりやく》で、京都も法皇の|御覚《おんおぼえ》はめでたく|双六《すごろく》の御相手にさえ|罷《まか》り出た。頼朝の許をしくじった後、|情《じよう》に|脆《もろ》くて人を信じ|易《やす》い義仲に泣きついて、うまく丸めこんだが、その勢が傾くのを見て後足で砂を|蹴《け》るくらいのことは、彼にはわけなくやれたのである。
御難つづきでクサリ切っていた義仲の所に、法皇の|寵人《ちようじん》で|鼓《つづみ》の名手、|鼓判官《つづみはんがん》と名を取った|検非違使《けびいし》平|知康《ともやす》が院の御使となって来て、兵士の暴行を停止するようにと伝えた。虫の居所の悪かった義仲は又もや痛い所に触れられたので|卒然《そつぜん》として、
(鼓判官という名は、誰かに打たれた故か? |撲《は》られた故か?)と憎まれ口を|叩《たた》いて、用件には|応答《こた》えようとしなかった。もっともこの話は平家物語の作者の手に成ったものかも知れないが、事実とすれば|勿論《もちろん》義仲の態度はなっていない。だが腰の抜けた京都貴族などには女のように感情的なのがいる。
知康は、木曾は|謀叛《むほん》の|兆《ちよう》既に現れたり、|疾《と》くとく討たせ給うべし、と奏したので召しによって延暦寺|興福《こうふく》寺の僧兵を始め、いわゆる|辻冠者《つじかんじや》、|乞食《こじき》法師の類までが|法住寺殿《ほうじゆうじでん》に参集した。
やれ、院が義仲を討たせられる。とか、木曾が院の御所を襲い奉るとかの流言が京の上下を引っ|掻《か》きまわした。
法皇は|主典代《しゆてんだい》景宗を御使として、
(謀叛の事、もし事実なら速に勅命に任せ|西国《さいこく》の平氏を討て。もし又頼朝の入洛を防ぐ所存あらば勅命によらず自身赴くがよい。洛中に在りながら|動《やや》もすれば聖聴を驚かし奉るは甚だ不当である)
と仰せられた。しかしこれは今の義仲にとっては進退両難の窮地に追い込まれる無理な命令で、彼はあまりにも情ない仰せだという気持にもなったであろう。右大臣九条|兼実《かねざね》の如きも(王者たる者は、人臣に罪があればその軽重を察し、法によって刑罰が加えられるべきである。先ず今の対立的な態度をやめられたならば義仲も理に伏し、|和顔《わがん》して征伐に赴くであろう。又頼朝の代官入洛も少数なら義仲承諾のことであるが、|巨多《こた》の士卒を引率しておれば、院から入洛停止の旨を命ぜられるべきで、今の沙汰の如くんば、|王化《おうか》なきに似てはなはだ見苦しい)と、非常に公平な意見を|陳《の》べている。
しかしこれは用いられなかった。その中に|主上《しゆじよう》(|後鳥羽《ごとば》帝)も法住寺殿へ行幸され、形勢は極度に緊張して来た。ここに至っては義仲も、坐して滅亡を待つか、|起《た》って反逆に出るか、二者の一を|択《えら》ばねばならぬ羽目になった。後日頼朝さえ(義仲をしてここに至らしめたものは実に、法皇の寵臣検非違使平|知康《ともやす》の罪である)といっている(|東 鑑《あずまかがみ》)。十一月十九日、遂に義仲は|軍兵《ぐんぴよう》を率いて法住寺殿を囲み官軍と戦って百余人を殺し、宮に火を放って焼いたのである。|円慧法《えんけいほう》親王(|後白河《ごしらかわ》帝の御子)は乱軍の中で|歿《ぼつ》し給い、延暦寺|座主《ざす》明雲もまた殺された。法皇は虎口を免れて摂政|基通《もとみち》の四条の|第《だい》に、主上は|母儀《ぼぎ》の七条邸に|渡御《とぎよ》あった。
狂い|獅子《じし》の如き義仲は文武四十余人の官爵を|停《と》め、多数の公卿を|幽閉《ゆうへい》した。今や朝廷はまったく義仲恐怖症に|捉《とら》われ、暫くは彼の思うがままの振舞に任せていた。
彼は藤原基通の摂政を|罷《や》め当時十一歳の|前《さきの》関白藤原|基房《もとふさ》の子|師家《もろいえ》を内大臣摂政とした。義仲は基房の|女《むすめ》の美貌を聞いて妻としていたのである。平氏が摂関家の|外戚《がいせき》となったのを|倣《なら》ったのだ。
源平盛衰記に、義経は十一月十九日の変を尾張の|熱田《あつた》で聞いたと記しているが多分二十二、三日頃義仲暴動の報を得、これを鎌倉に報じてその指揮を待っていたのであろう。だが鎌倉の出兵準備は大事を取ったためか、意外に手間取っている。
それはともかく、義仲も坐視しているわけには行かぬ。十二月十日頼朝追討の|院宣《いんぜん》を申し請い、十五日更に請うて頼朝追討の|宣旨《せんじ》を|秀衡《ひでひら》に申し下した。一方西国にいる平氏とも|和睦《わぼく》しようと思い、種々手段を講じ一尺の鏡を造り八幡の神体を模し、背に|起請文《きしようもん》を|彫《ほ》って贈ったが、平氏は一門を現在の悲運に陥らせた義仲の和議をハネつけたという。
この時に当たり、かの源行家は、播磨から河内に赴き石川城に拠って南方から義仲を|威嚇《いかく》するという有様であった。
かくて多事だった寿永二年は暮れ、翌三年一月十一日義仲は進んで征夷大将軍に任じた。その十七日、行家を討って背面を安全ならしめる必要を感じ、|樋口《ひぐち》次郎|兼光《かねみつ》を河内に向かわせた。平氏にも備えねばならなかったし、義仲が院に|叛《そむ》いたりしたので、去って行く将士も多かったから、都にとどまる義仲の兵力は劣弱であった。
二十日には範頼は|勢多《せた》、義経は宇治川を渡って突風の如く京都に進入して来た。平家物語に見える佐々木|梶原《かじわら》の先陣争いは実録の書には見えぬ。どうも仮作らしい。
義仲は取り|敢《あ》えず法皇を奉じて北国に|遁《のが》れようとしたが、御所の警衛が厳重で果さず、宇治で破れて退却して来た根ノ井、楯の軍と合して東軍の|先鋒《せんぽう》と戦いつつ三条河原に|抵《いた》れば、前方には既に|雲霞《うんか》の如く白旗が揺れ動いていた。義仲はその中に突入して血路を求めたが、|股肱《ここう》と頼む根ノ井、楯は戦死した。とにかく近江まで落ちて来た時、つき従うものは既に|幾許《いくばく》もなかった。|粟津《あわづ》の辺まで来ると、勢多で破れて湖西に退く今井兼平と|逢《あ》ったが、なおも前途を|遮《さえぎ》る範頼の軍と戦って、殆ど全滅に近いまでに討たれた。
血戦に血戦を続けて来た義仲は兼平を顧みて、|最早吾《もはやわ》が力も尽きぬるぞ、日頃は何とも思わざりし(|薄鎧《はくがい》)の、今は何とやらん重くこそ覚ゆれ、といった。
語る者は|悵然《ちようぜん》聴く者は|愁然《しゆうぜん》。既に死を覚悟した義仲は、今井が防ぎ矢をしている間に自害の場所を探しに丘の方に馬を向けた。
|蕭 々《しようしよう》たる早春湖畔の風は敗戦の将の|面《おもて》に寒い。義仲は|忽《たちま》ち馬を深田の中に乗り入れ、|策《う》てど|煽《あお》れど馬は動かぬ。人も疲れ馬も疲れていた。
今井や|如何《いか》に? と、ふと振り返る時、|一矢《いつし》は飛び来って義仲の|額《ひたい》に|中《あた》る。さしもの猛将も今は|堪《たま》りかねそのまま|鞍《くら》に打ち伏した。この矢こそ相模国の住人石田次郎が放ったものである(東鑑)。
はるかにこの光景を見た兼平は、心に決し、殆ど馬を立て直して|蝟集《いしゆう》する敵中に突入した。死を決した|驍 将《ぎようしよう》の|鉾先《ほこさき》に敵兵|怯《お》じて引き退く。その隙に兼平は、大刀の|切先《きつさき》を胸に擬して馬から真逆様に落ちて壮烈な死を遂げた。樋口兼光も、捕えられて斬られ、義仲、兼平、|行親《ゆきちか》の首とともに、二十六日、六条|磧《がわら》に|梟《きよう》せられた。
生まれながらの|野人《やじん》木曾義仲の、|典故《てんこ》と先例とを無視した挙動などは都人士の反感を|蒙《こうむ》ったが、平家物語や源平盛衰記に見るように、皇室に対して|不遜《ふそん》な観念を持っていたのではない。彼は平氏と同様に、皇室の御威光を|仮《か》らなければ天下に事を|倣《な》し得ないことを知っていた。
後白河法皇が|強《し》いて西征せしめようとされた時さえも、あえて仰せに|反《そむ》きはしなかった。だが不幸にも十一月十八日のクーデターに|遇《あ》って止むなく法住寺殿に攻入ったので、後世水戸の史家が義仲を反臣伝中に収めているが、この不臣をあえてせしめた事情も、彼のために悲しむべきものがないではない。
直情径行の彼は時代の先例|故格《こかく》を破壊し、徹頭徹尾東国武士の本領を発揮した。彼の短所も長所も同時にここに在ったのである。信長に一寸似ているが、信長のような政治家らしいところが少しもない。|旧《ふる》き時代を破壊するだけが彼の歴史的な役割だったとすれば、彼はそれを果して|遺憾《いかん》なきものがあった。そしてその後には新興武士階級を指導者とする、荒々しい創造の空気に満ちた鎌倉政府が打ち建てられたのである。
文献及び参考書
吾妻鏡。玉海。源平盛衰記。平家物語、其他。大日本全史(大森金五郎著)。
日本武家時代の研究(同前)。源頼朝(山路愛山著)。鎌倉時代史(三浦周行著)。雑誌「歴史地理」其他。
[#改ページ]
|義経《よしつね》は、昔からいわゆる|判官贔屓《ほうがんびいき》といわれるファンを擁し、源平時代|稗史《はいし》中のスターとして永く大衆の人気を独占して来たが、近頃はまた、これまで|敵役《かたきやく》に廻されていた頼朝の肩を持つのが学者的態度のように流行している。
義経の幼名が|牛若《うしわか》で、|左馬頭義朝《さまのかみよしとも》の第九子であることはあまりにも有名だが、母の|常盤《ときわ》はもと九条院(|近衛《このえ》天皇の皇后)の|雑仕《ぞうし》で、|美貌《びぼう》を見込まれて義朝の|妾《めかけ》となり、|今若《いまわか》、|乙若《おとわか》、|牛若《うしわか》の三子を産んだのである。
牛若が生まれた年に|平治《へいじ》の|乱《らん》が起こり、父の義朝は敗走中に尾張の|野間《のま》で殺された。常盤は三子を抱えて|大和《やまと》の|竜門《りゆうもん》の里に|匿《かく》れていたが、遂に|六波羅《ろくはら》に名乗って出た。すると清盛はその容色を|愛《め》でて妾とし、三子を助命したのである。
世間ではこのことを指して(常盤は|操《みさお》を捨て、操を立てた)などといっているが、当時は平安時代の後で、女性の貞操観念が後世ほどはっきりしていたわけではない。
|曾我《そが》兄弟の母親なども、夫の|河津祐康《かわづすけやす》が殺されると、二子を連れて曾我|祐信《すけのぶ》に再嫁している。常盤なんか、清盛の|寵《ちよう》が衰えると又もや|大蔵卿《おおくらきよう》 |藤原 長茂《ふじわらのながしげ》という貧乏|公卿《くぎよう》に嫁ぎ、ここでも数人の子を産んでいる。
それはともかく、彼女が長茂に嫁いでから今若、乙若は坊主にされ、次いで牛若も|遮那王《しやなおう》と改めて|鞍馬寺《くらまでら》の|東光坊阿闍利《とうこうぼうあじやり》の弟子になった。
常盤は、一旦僧としたからには、子供達が|天晴《あつぱ》れ名僧知識となってくれればよいがと願うより|他《ほか》に念慮はなく、丁度、曾我兄弟の母親が次男五郎を|筥根山《はこねさん》の別当坊に入れたのと同じである。後日、兄と一緒に|敵討《あだうち》をしようなどとは、母親の夢にも|想《おも》っていなかったことであろう。
だが牛若は、十一歳の時に系図を見て、実は自分が源氏であるのを知り、平氏を滅ぼして父義朝の亡霊を慰めようと思い立ったのである。
|承安《しようあん》四年三月、彼は義家以来縁故のある奥羽の雄、藤原|秀衡《ひでひら》を頼るつもりで、|金商人《かねあきんど》の|吉次《きちじ》及び|下総《しもふさ》の人間|深栖頼重《ふかすよりしげ》に連れられて京都を出で、|近江《おうみ》の|鏡 宿《かがみじゆく》で|冠 親《かんむりおや》もなしに元服し、自ら|源九郎《げんくろう》義経と改めた。時に十六歳。
彼は、源家の|御曹子《おんぞうし》として、秀衡から厚遇を受けながら、六、七年を奥州|平泉《ひらいずみ》の|館《やかた》で過ごしているうちに、|以仁王《もちひとおう》の|令旨《りようじ》は東国|諸源《しよげん》に飛び、異母兄頼朝は伊豆に|蹶起《けつき》したし、平氏打倒の機運はいよいよ濃厚となって来た。
義経は、態勢観望を説いて抑留する秀衡に無断で、遂に平泉の館を出た。秀衡も是非なく、勇士佐藤|継信《つぐのぶ》その弟|忠信《ただのぶ》をして、その後を追わしめた。
義経が頼朝と対面したのは富士川の合戦直後の|治承《じしよう》四年十月二十一日、|浮島《うきしま》ヶ|原《はら》の陣中である。兄弟は共に往事を語り合って懐旧の涙を催した。
殊に頼朝は、|後《ご》三年の|役《えき》の時、|新羅《しんら》三郎|義光《よしみつ》が兄義家を応援するために官を捨てて奥州に下り遂に|武衡《たけひら》・|家衡《いえひら》を討滅した佳例を引き合いに出して喜んだ。
この時以来義経は、次兄|範頼《のりより》と共に頼朝の|股肱《ここう》となって平氏追討、源家再興の一路を|邁進《まいしん》したのである。もし彼がいなかったら、源平の対戦はもっと長引き、その勝敗も必ずしも常に源氏に有利とは限らなかったと思われる。
|守覚法親王《しゆかくほうしんのう》(|後白河法皇《ごしらかわほうおう》の第二皇子で|安徳《あんとく》天皇の御|叔父《おじ》)が記された「|左記《さき》」にも(|彼《か》の|源廷尉《げんていじよう》〔義経〕は|直之《ただの》勇士に|非《あらざ》る也。|張 良三略《ちようりようさんりやく》、|陳平《ちんぺい》六|奇《き》、其芸を携え其道を得たる者|歟《か》)とあるが|何処《どこ》でどう学んだか、確かなことは分からないが、とにかく|天稟《てんぴん》の才能に八幡太郎以来の伝家の兵略を継承して、あの息をもつかせぬ目覚しい活躍をやったのである。
|寿永《じゆえい》三年二月七日の一ノ谷の戦には、範頼は|生田《いくた》ノ|森《もり》から攻め、|熊谷直実《くまがいなおざね》等は|西木戸《にしきど》から向かったが、義経は奇中の奇に出て、突如|鵯 越《ひよどりごえ》の|嶮路《けんろ》から敵の背面を|衝《つ》いたので、平軍は|狼狽《ろうばい》混乱を極めて|潰走《かいそう》したのである。
同二月十九日の|屋島《やしま》の戦にも、義経は正面の|小豆《しようど》島方面から攻撃するものと予期されていたのに、またもや背面攻撃の意表に出て、摂津|渡部《わたべ》ノ津(今の大阪)から暴風を冒して船を出し、|阿波勝浦《あわかつうら》付近に上陸し、|牟礼高松《むれたかまつ》(今の|古《こ》高松)の民家に火を放ち屋敷の|内裏《だいり》を襲撃して平軍を敗走させたのである。
義経が騎馬戦に長じた東国武士を率いて、常に陸から意表外の背面攻撃を敢行すると、水軍に自信のある平氏は必ず海上さして|遁走《とんそう》した。
これを最後的に潰滅させるには、是が非でも、東国勢の勝手不案内な瀬戸内海を戦場として、苦手の海戦を決行しなければならなかった。
義経はついに、三月二十四日長門の|壇《だん》ノ|浦《うら》で、巧みに潮流を利用し、ただ一日の戦で、美事に|驕《おご》る平家を海底に葬ったのである。
陸に海に、|往《ゆ》くとして可ならざるなき義経の兵略戦術は、ここにいたってまさに神に通ずるの観がある。
ところが、|赫々《かつかく》たる戦功に輝いて鎌倉に|凱旋《がいせん》する義経を待ち受けたものは、兄頼朝の|勘気《かんき》であった。彼は|抽 賞《ちゆうしよう》恩与の歓喜に酔う代りに、悲涙に沈まねばならなかった。
一体頼朝の勘気は、その|猜疑《さいぎ》の性に加えるに、|大江広元《おおえのひろもと》や|梶原景時《かじわらかげとき》の中傷|讒誣《ざんぶ》によるものとされているが、その直接原因とも見るべきものは色々あって、先ず、義経が頼朝の推挙を待たないで|左衛門 少尉《さえもんのしようじよう》に任官したことがきっかけとなっている。
武家の|棟梁《とうりよう》たる頼朝は、賞罰の権をその手中に収めている必要があったので(平氏追討の行賞は自分が取り計い、後日まとめて奏請する)旨を、朝廷に申し出た。
そののち間もなく頼朝は、木曾義仲征討の賞として|正《しよう》四位|下《げ》に|陞任《しようにん》された。ところが義経はこれを見て、他の誰よりも早く任官推挙を願い出たのが、頼朝の気に|障《さわ》った。
そして一ノ谷合戦が終わると、範頼は|参河守《みかわのかみ》に、源広綱は駿河守に、|平賀《ひらが》義信は武蔵守に推挙されたが、義経だけは何の|沙汰《さた》もなかった。
義仲追討の賞としてなら、義経が推挙に|洩《も》れるというのもあり得るが、一ノ谷の戦功をこめたものなら、行賞が甚だ不穏当だ。頼朝の感情を害するとその結果は|覿面《てきめん》である。
こうして、一ノ谷合戦第一の殊勲者義経は、参河守でも駿河守でもない、ただの源九郎でいなければならなかった。
だが、その年の八月六日(寿永三年)義経は|院宣《いんぜん》を賜って左衛門少尉に任じ、|検非違使《けびいし》に補せられた。彼は、
(自分で所望したわけではないが、度々の勲功黙視し難しとて、朝恩ここにいたったのであるから、固辞するわけにも行かず拝受した。)と、関東に報告した。
これがまた、頼朝の感情を|刺戟《しげき》して(義経を平氏追討にするのは見合わせよう)ということになってしまった。
そこへまた、大江広元からの消息があって(院の昇殿さえ許された義経は、八|葉《よう》の車に|駕《が》し、|衛府《えふ》三人、騎馬の供侍二十人を|扈従《こじゆう》せしめ、庭上で舞踏し、|剣笏《けんしやく》を|撥《かきあ》げて|殿上《てんじよう》へ参ったのを見た)と報告して来た。
頼朝はとうとう、男性のヒステリーを起こしてしまった。|流人《るにん》として育っただけに、どこか性格的に暗いところがあったのだ。
だが義経にして見れば、鞍馬寺を脱け出して行方知れずになった|稚児《ちご》の牛若が、いつの間にか天晴れ源氏数万の大将となって西上し、またたくうちに木曾を滅ぼし平氏を追い落し、想い出多い京の都を舞台として活躍する様子を皆に見せたかった。そして父祖の名誉を|恢復《かいふく》したかった。
彼は、出来るだけ高官が欲しかったし、早く昇殿も許されたかった。それは彼一人のためばかりではなく、源氏の名誉のためにも望んだのである。彼には推挙を渋る兄頼朝の気が知れなかった。
兄の不機嫌はいつ直るか分からない、もし追討が延びると|西海道《さいかいどう》に向かっている範頼の軍も糧食が欠乏して窮地に陥るので、義経は鎌倉の命を|俟《ま》たず、自ら後白河法皇に願い出て平氏追討の|宣旨《せんじ》を|申請《もうしう》けた。
屋島に向かおうとする時に彼は、大蔵卿|泰経《やすつね》に(|所存《しよぞん》あれば|今度《このたび》は一陣において命を棄てんつもり)と|衷 情《ちゆうじよう》を洩らしている。海戦に|馴《な》れない東国武士を率いて、こうした事情の中で平家の根拠地を衝こうとする彼には、悲壮にも既に決死の覚悟があったのだ。そして屋島から壇ノ浦へと、僅か一カ月余りで、さしもの平氏を|西海《さいかい》の|涯《はて》に覆滅させたのである。このところ、頼朝は痛し|痒《かゆ》しの|態《てい》である。
ところが|軍奉行《いくさぶぎよう》梶原景時は、(かの平家討滅は君の御威光と|御家人《ごけにん》多数の|合力《ごうりき》によるものだのに|判官《ほうがん》殿は一身の功だと思い上って|越度《おちど》が多く、将士は皆、薄氷を踏むの思いである。|憖《なまじ》いに君の厳命を受けている|某 《それがし》は、見かねて|諷詞《ふうし》を呈すれば、|却《かえ》ってこの身に刑が及ぼうとする有様、合戦も終わった今日、早く帰参を許されたい)と鎌倉に訴えた。
又、頼朝の世話で|河越頼重《かわごえよりしげ》の|女《むすめ》と婚約があるのに、義経は別に、当時朝敵であり智臣の誉れ高かった|前大納言《さきのだいなごん》、平時忠の女を|娶《めと》ったので、これも頼朝を怒らせ、遂に|田代《たしろ》信綱を|遣《つかわ》して(|苟 《いやしく》も鎌倉に志を寄せる|輩《やから》は、|嚮後《こうご》義経の|下知《げじ》に従うべからず)と触れさせた。
義経は|起請文《きしようもん》まで献じて他意なきを誓ったが、兄の心は冷えるばかりであった。
頼朝が範頼の陣中に送った書状に(|八島《やしま》に|御座《おわ》す|大《おお》やけ〔安徳天皇〕ならびに|二位殿《にいどの》、女房たち、少しもあやまりあしざまなる事なくして向えとり申させたまうべしと|云々《うんぬん》)。一旦誤って朝敵の名を|被《かぶ》せられては立つ瀬がないからというので、繰り返し繰り返し、(大やけ)のことを注意し、その焦慮の様が見られるが、そう註文通りに手加減が出来るものではなく、ただ決死の義経は急襲して天皇と宝剣とを西海の底に失い奉るような結果となったので、もはや頼朝には義経の殊功なんか見えないで、後の越度ばかりが目一杯に押し|拡《ひろ》がっていた。
だが、壇ノ浦の合戦の翌月、頼朝は法皇から与えられている義経の官位を全然知らないような顔をして、別に伊予守に推挙した。朝廷の処地に触れたくなかったのと、賞罰の権が彼の掌中に在ることを明示したかったのだ。そして伊予には別に|地頭《じとう》を置き、|国守《こくしゆ》義経を|知行地《ちぎようち》から遊離させて国務に|与《あずか》らせなかった。
これと同時に(関東の|家人《けにん》で頼朝の推挙を経ずして朝廷から官位を受けた者は、朝廷に|謹仕《きんじ》して|墨俣《すのまた》〔尾張美濃の境〕以東に帰るべからず、もし東帰する者あらば本領を没収して斬罪に処す)と令した。
|元暦《げんりやく》二年五月十五日、義経は|前《さきの》内大臣|平 宗盛《たいらのむねもり》父子を護送して鎌倉に入ろうとすると、|北条 時政《ほうじようときまさ》が|酒匂《さかわ》駅に出張っていて捕虜だけを連れ去り、その身は鎌倉入りを禁じられた。
兄の勘気を知らぬではなかったが、こうまで憎しみを受けていようとは思わなかった義経は、驚きかつ悲しんで|腰越《こしごえ》の万福寺に退いて謹慎し、いわゆる|腰越状《こしごえじよう》を提出して愁訴したのである。
その文は|惻々《そくそく》として人の胸を打つものがあるが、今の頼朝には、先ず冒頭の(勅宣の御使と|為《な》り朝敵を傾け)の句からして気に食わなかった。|譴責《けんせき》中の義経が頼朝の命を俟たずして直接勅許を得て平氏追討使となったのが気に入らないのである。
なお(累代|弓箭《きゆうせん》の芸を|顕《あらわ》し|会稽《かいけい》の耻辱を|雪《そそ》ぐ、よって抽賞さるべき処、思の外虎口の讒言によって莫大の勲功を黙止せらる。義経犯せること無くして|咎《とが》を蒙り、功有りて|誤 《あやまち》無しといえども御勘気に蒙るの間、|空《むな》しく紅涙に沈む。|倩《つらつら》事の意を案ずるに、良薬は口に苦く、忠言耳に|逆《さから》うの先言也。|《ここ》に|因《よ》りて讒者の実否を|糺《ただ》されず鎌倉の|中《うち》に入れられざるの|間《かん》、|素見《そけん》を述ぶる|能《あた》わずして|徒 《いたずら》に数日を送る。|此時《このとき》に当たって永く恩顔を拝し奉らず、骨肉|同胞《どうほう》の|誼《よしみ》既に空しきに似たり。宿運の極まる所か。|将又先世《はたまたせんぜ》の|業因《ごういん》に感ずる所か。悲しいかな。|此条《このじよう》亡父の尊霊|再誕《さいたん》し給わずんば、|誰人《たれびと》か愚意の悲歎を|申披《もうしひら》かん。何の|輩《やから》か哀憐を垂れんや|云々《うんぬん》)と、いっているが、これをも頼朝は(自分が少なからず|恐 悚《きようしよう》している「|大《おお》やけの人事」には一言も触れないで、我が身の莫大な勲功は讒言によって無視され、大功あって咎を蒙っているとばかり述べてしきりに|怨言《えんげん》を放っている)としか取らなかった。
肝胆を吐露し、紅涙を絞る想いで|認《したた》めた愁訴の文も、兄の怒りを増しこそすれ、決して和らげはしなかったのである。
義経が覆い難い憂憤を懐いて空しく京都に|還《かえ》ると、頼朝は彼の所領二十四箇所を|悉 《ことごと》く没収してしまった。
頼朝を恨んでいた叔父の|行家《ゆきいえ》と義経は、その頃から接近した。
鎌倉のスパイとして上京した|梶原景季《かじわらかげすえ》等が、義経を|堀河《ほりかわ》の|館《やかた》に訪ねると病気だといって会わなかったが、一両日にして再度訪問すると、|脚 病《きやくびよう》だといって|灸《きゆう》を数カ所に施し、|憔悴《しようすい》の態で|脇息《きようそく》に|倚《よ》ったまま会った。
気を引くために行家追討の旨伝達すると、義経は行家を|庇《かば》う風が見えた。そこでスパイ達は(一日食わず一夜眠らなくてもその身は|悴《やつ》れる。灸は何カ所でも即座に施せる。怪しい)と報告したので頼朝は(義経、行家の|叛心《はんしん》を疑うべからず)とて、|文治《ぶんじ》元年十月九日(八月十四日改元)|刺客土佐坊《しかくとさぼう》 |昌俊《しようしゆん》をして八十三騎を率いて出発させた。この時、義経の兵力はよほど劣勢だったようである。
義経も十一日及び十三日に院の御所に参向し、頼朝追討の|官符《かんぷ》を申請して|慰撫《いぶ》されて帰ったが、十七日の晩、行家の応援を得て、夜討を|仕懸《しか》けた土佐坊を逆襲敗走せしめた後、三度院に参向して奏請したので、遂に頼朝追討の宣旨が降ったのである。
義経は|疾風迅雷《しつぷうじんらい》得意の|先手《せんて》打ちで、鎌倉に進軍するか、少なくとも|墨俣《すのまた》川あたりまで進出する筈だのに、何故か|逡 巡《しゆんじゆん》していた。
一方|宣下《せんげ》の事を聞いた頼朝は大いに怒り、千葉|常胤《つねたね》、|小山朝政《おやまともまさ》等に兵を付して上洛させ自らもまた兵を率いて出発したが、義経、行家が|西海《さいかい》に落ち行く途中、摂津の|大物浦《だいもつうら》(|尼崎《あまがさき》)で暴風に遭って破船し主従分散したとの報を得たので|黄瀬《きせ》川のあたりから引返した。
院の近臣中には|漸《ようや》く頼朝の威勢を|悪《にく》み、義経と対立させて牽制しようという|肚《はら》から、義経への同情者もかなりあったが、彼が|主上《しゆじよう》、法皇以下を奉じて西下するという風聞があったので、急に人気が落ち、孤立の状態となって、宣旨は手に在るが頼朝追討を実行するわけに行かなかったらしい。
そこで彼は、|朝家《ちようけ》一般に対して事なきを誓い、義経を九州の|地頭《じとう》に、行家を四国の地頭に補せられんことを奏請し、|弁慶《べんけい》以下|股肱《ここう》の者だけを連れて|鎮西《ちんぜい》に落ちようとして、不幸大物浦の難破となったのである。
すると今度は反対に、義経、行家追討の院宣が頼朝に降ったのである。敗れた者が賊というわけだ。
行家は|和泉《いずみ》で捕えられ、義経の臣堀弥太郎、佐藤|兵衛尉《ひようえのじよう》 |忠信《ただのぶ》、|妾 静《しようしずか》なども追々捕えられたが、義経の行方は文治三年三月まで、三年の間は|杳然《ようぜん》として分からなかった。
頼朝は、天王寺、吉野山、|仁和寺《にんなじ》、|叡山《えいざん》など、苟も義経潜伏の|噂《うわさ》が立つ所は|隈《くま》なく捜査したが、何の手がかりもないので、|頻《しき》りに焦慮するばかりであった。
九条|兼実《かねざね》は、息子の|良経《よしつね》が義経と同訓なので、良経を|良行《よしゆき》と改めたが、|三善康信《みよしやすのぶ》が(良行は|訓《くん》が能く行くで、能く隠れるという義だ)といい出し、ついに|良顕《よしあき》とするなどの|滑稽《こつけい》を演じた。頼朝はなお、神社仏閣に命じて|祈祷《きとう》もさせたが、一向|効目《ききめ》がなかった。
水も洩らさぬ探索の網に身辺の危険を感じた義経は、妻子を伴い|山伏《やまぶし》と|童子《どうじ》の姿に身を|窶《やつ》し、伊勢、美濃等を経て奥羽に落ち、重なる縁故の|藤原《ふじわらの》 |秀衡《ひでひら》に|拠《よ》ったのである。
|義経記《ぎけいき》などには、北国街道をとり、|安宅《あたか》の|関《せき》を通過したとあり、弁慶の|勧進帳《かんじんちよう》の挿話となって人口に|膾炙《かいしや》されているのだが、安宅通過はともかくとして、鎌倉を避けて北越のある部分を通ったことは想像出来る。
ところで、義経が|近畿《きんき》にいては廷臣と策応する|虞《おそれ》があるし、西海に落ちたとしても平家の与党が少なくないので危険だが、奥州に落ち付けば一安心である。三年に|亙《わた》って気に病んでいた頼朝も、ほっとした形である。
彼は文治三年には亡母のために|鶴岡《つるがおか》八幡宮に五重の塔を建てかかっていたし、翌四年はその身の|重厄《じゆうやく》に当たっているというわけで、殺生を禁断し義経征伐も控えていた。
だが、実は奥州征伐を恐れていたのではないが、何といっても用兵神の如き義経が、奥州の富強秀衡をバックにしているのでは、正に鬼に金棒だ。|迂闊《うかつ》に手を下せない。
そこで朝廷に奏請して、秀衡父子に命じて義経を|搦《から》め出させようとしたが(こちらにはいない)とか、(機を見て、討って差し出そう)とか、不敵の返答をしていて応じなかった。
秀衡は文治三年十月二十九日、|平泉《ひらいずみ》の|館《やかた》で死去したが、臨終の|枕頭《ちんとう》に息子の|泰衡《やすひら》を呼んで(あくまでも義経|君《ぎみ》を|庇護《ひご》して大将軍と仰ぎ、国務をとれ、場合によっては鎌倉をも討滅せよ)と遺言した。
|清衡《きよひら》以来三代の繁栄を誇り白川ノ関以北の帝王を以て任じた、|陸奥《むつ》|鎮守府《ちんじゆふ》将軍秀衡の面目が|躍如《やくじよ》としている。
一方、叡山の僧が義経に意を通じているという風聞はかねてから鎌倉に達していたが、文治五年正月十三日、|北条《ほうじよう》 |時定《ときさだ》が捕えた叡山|飯室谷《いいむろだに》の|千光坊《せんこうぼう》七郎という僧が、義経が京都に帰るという消息を懐中していたので、在京の鎌倉|御家人共《ごけにんども》は|慄《ふる》え上った。義経は、再び近畿に戻るつもりで、叡山の僧達と連絡をとっていたのである。
次いで二月十二日には、京都の公卿の大陰謀が鎌倉に報道された。
法皇の寵臣、|刑部卿頼経《ぎようぶきようよりつね》は最初から、義経に同意していたので鎌倉のブラックリストに載っていたが、またもや|権大納言陸羽按察使《ごんのだいなごんりくうあんさつし》藤原|朝方《ともかた》父子と共謀して、北面の武士、叡山の|僧侶《そうりよ》を手なずけ、義経と機脈を通じて|蜂起《ほうき》を企てたのである。勿論それは失敗した。
泰衡は父ほどの人物ではなかった。|頻繁《ひんぱん》な義経追捕命令を受けた彼は、ついに父の遺言に|背《そむ》いて変心したのである。
文治五年|閏《うるう》四月三十日、泰衡は討手の兵数百騎を衣川の館に差し向けて、不意に義経を襲撃した。義経は弁慶等の勇戦の|隙《すき》に、二十二歳の妻と四歳の女児を殺し、次いで|自刃《じじん》した。時に三十一歳。
六月十三日義経の首は、|黒漆《くろうるし》の|櫃《ひつ》に|納《い》れ美酒に浸し、泰衡の使者|新田《につた》ノ|冠者高平《かんじやたかひら》の従僕二人に担がれて腰越に着いた。
西海に神出鬼没して驕る平家を|殲滅《せんめつ》した、|驍勇《ぎようゆう》義経の首を迎えて、観衆は(皆|双涙《そうるい》を|拭《ぬぐ》い|両袂《りようへい》を|湿《うるお》す)と|吾妻鏡《あずまかがみ》が記している。
※
系図、家督、|嫡 流《ちやくりゆう》などが無条件でものをいう時代だったので、あれほどの戦略家でありながら、兄の頼朝のように多数の|家人《けにん》を持たなかったし、二十四、五歳の年少気鋭だったので、満々たる自信に任せて、万事を直情径行的にやってのけてのみ、彼の面目を発揮し得たのであるが、知らぬうちに人に|憚《はばか》られるというようなこともあった。政治的能力は兄頼朝に|較《くら》べると、先天的なハンディキャップがあった。それはともかく範頼のように|小心翼々《しようしんよくよく》として、兄の気持ばかり窺っていたのでは、文治元年の九月までかかっても、やっと|備前児島《びぜんこじま》の城と原田|種直《たねなお》を破るくらいのことしか出来ない。
義経は幼時からの不遇にもかかわらず、純情で多感だった。奥羽以来の腹臣佐藤|継信《つぐのぶ》の死を|悲歎《ひたん》するあたり、|人主《じんしゆ》の情はかくもあるかなと、そぞろ人の心を打たずにはおかない。
|大物浦《だいもつうら》の風波、吉野|満山《まんざん》の雪中、|十津川《とつがわ》の|潜匿《せんとく》、|崎嶇間関《きくかんかん》を極め尾花の末にも心をおく奥州路の|落人行《おちうどこう》において、少数の従士に|護《まも》られ|労《いた》わられ、ついに背き去る者のなかったのを見ても、|如何《いか》に彼の|温情《おんじよう》が家来の心腹に|溶《と》けこんでいたかが想像出来る。
後日彼の愛人|静《しずか》が、頼朝の前で舞いながら草木も|靡《なび》く鎌倉将軍の勢威をも恐れず、|鴛情鴦《えんじようおう》を追い|琴心瑟《きんしんしつ》を求めて、義経追慕の心事を歌い、かの|政子《まさこ》にさえ若き日の恋の|愁緒《しゆうちよ》を偲ばせたというに至っては、|史乎将詩乎《しかはたしか》、|有情《うじよう》の驍将義経を反映して余りがある。
英雄の事業もついには亡びるが、この情、この心に至っては、百世の後なお人をして判官の幸福を歎ぜしめるものがある。
頼朝は、それぞれについての事情はあったのであるが、その政治生活において、義経、範頼の二弟をはじめ叔父の行家|父子《おやこ》及び義広、|従兄弟《いとこ》の義仲父子、富士川以来大きな役割を演じた甲斐源氏の諸将三、四人をはじめ、前後百四十人ばかりを殺して、さながら肉親|殺戮《さつりく》図絵を繰りひろげている。
功臣|上総《かずさの》|介広常《すけひろつね》の如きも叛心ありとして、鎌倉の殿中で不意討を食わされたが、嫌疑の因たる上総|一宮《いちのみや》神社に上げた|願文《がんもん》を取り寄せて見ると、頼朝の天下統一を祈願して、三年の間|神田《しんでん》二十町を寄進する、と書いてあった。
頼朝は多くの逸話も語っているように、本来は優美な心情の持主だったかも知れないが、同時に少しの危険にも|脅《おびや》かされ、影を形と見あやまる、心の弱い|猜疑心《さいぎしん》に富んだ、むしろ女性的な欠点を持った人物ではなかったか。その為に、多くの肉親|眷属《けんぞく》を殺しつくした上、彼の妻、|尼将軍政子《あましようぐんまさこ》が北条氏のロボットになって、またもや|頼家《よりいえ》、|実朝《さねとも》、|一幡《いちまん》、|千寿丸《せんじゆまる》などの子や孫をつぎつぎに直接間接殺して行ったのだから、源氏の|胤《たね》がつきるのも無理はない。
義経の|蝦夷《えぞ》入りや満洲入りの伝説は、広く世に伝えられているが、彼の死を|悼《いた》むファン達が作ったもので、何も証拠はない。しかも徳川時代以後に起こったのである。
アイヌ学者の|金田一京助《きんだいちきようすけ》氏の「義経蝦夷伝説考」にも詳細な研究が出ていて、蝦夷入り説を否認しているが、|彼地《かのち》の、ペンケイ、ペンケ、ベンケなど無数の地名も別に弁慶に|因《ちな》んでつけたわけではない。川だとか、岩などに関係した名称だという。満洲入り説も、|金史《きんし》列将伝だとか、国学|忘貝《わすれがい》などという偽書や|出鱈目《でたらめ》を書いた本から出ているのであって、そのことは既に|新井白石《あらいはくせき》もはっきりと論断している。
また、近頃、明治十年頃某が唱えた説が蒸しかえされ、|成吉思汗《じんぎすかん》は義経だ、などといわれたりするが、これも前記の俗書をもとにして|附会《ふかい》したもので、成吉思汗の|砦《とりで》と称するものを土人がクロウの砦だと答えたとか、ラマ教の殿堂に掲げられた武将らしい肖像をタイシヤアの像だといっている、などのことが根拠となっているが、クロウは別に九郎から来たのではなくて、蒙古語の|古児《クルハン》(部落長の意)などの語もあるから、|酋 長《しゆうちよう》の砦というくらいのことではないか。タイシヤアも日本語の大将とは関係なく、|大石《タイシー》(|泰実《タイシ》、|台吉《タイチ》、|太司《タイシ》とも書く)といって爵の名で、|漢名《かんめい》(|大師《たいし》)の輸入語だという。
また、義経と成吉思汗とは、時間的にも重複する部分があって同一人物とすれば、今日は日本におり、明日は満洲にいるという矛盾が生じ、それこそ八|艘《そう》飛びでも持ってこないと|辻褄《つじつま》が合わなくなるのである。
ところが、義経最期の四月三十日から、首が鎌倉に届いた六月十三日までは四十日余も|経《た》っている。六月の盛夏に美酒に浸したくらいでは首は変化する。四十日以上もかかってゆるゆると持って来たのは|贋首《にせくび》をごまかすためだ、という者もあるが、頼朝が亡母のための|塔供養《とうくよう》は、六月九日執行と定まって、既に朝廷から|大導師《だいどうし》も下向し、変更するわけに行かないので、それが済んでから首が着くようにと、頼朝の方から命じたのである。とにかく義経の蝦夷入り説は、|隆盛《たかもり》が|印度《インド》の志士になったというのと同工の|妄説《もうせつ》である。
そしてまた義経たる者が、泰衡の襲撃を脱出しようと思えば出来ぬこともなかったけれど、最後の庇護者に背かれた彼は、前途にはっきりとした見込みがあるわけではなし、この際潔く源九郎時代からの思い出の多い奥羽を死所に|撰《えら》んだ、とする方が、薄命の英雄を|偲《しの》ぶにふさわしいではないか。
参考文献及び引用書
吾妻鏡。玉海。平治物語。源平盛衰記。平家物語、等。
大日本全史(上中)大森金五郎。武家時代の研究(下)同。頼朝会雑誌。歴史科学(三ノ十一)。歴史公論(二ノ七)。文藝春秋オール讀物(四ノ一)。
[#改ページ]
昭和十一年五月二十五日は、|楠木正成《くすのきまさしげ》が|湊川《みなとがわ》で戦死(皇紀一九九六年)をしてから、丁度六百年にあたるので、神戸の湊川神社で記念祭が行なわれた。
もっともこの日は旧暦で、今の暦に直せば七月十二日になり|大楠公《だいなんこう》はこの暑い日の暮れ方近く、湊川でその精忠無比、百|世《せい》の後、なお人心を感動せしむる生涯を、閉じたのである。だから|直木《なおき》の「正成」では盛んにその日の暑熱について書いてある。
本当は、七月十二日に六百年記念祭をやった方が、当時の炎暑と、その苦戦の様子が|偲《しの》ばれてよいと思うのだが、しいて異義一言|挾《はさ》むまでもあるまい。
楠木氏が|橘《たちばな》氏であることは、正成自筆の|法華経奥書《ほけきようおくがき》に「|河内守《かわちのかみ》| 橘 《たちばなの》|朝臣《あそん》正成」とあるから、大体信じてよい。それに|楠《くすのき》か|楠木《くすのき》かの問題があるが、当時の文書には大抵、楠木と書いてあるから、この方が本当なのだろう。|太平記《たいへいき》は|楠《くすのき》と書くが、伝写の際に、一字に縮めてしまったものらしい。
正成の、挙兵前の動静も、よく分かっていない。しかしとにかく楠木氏が河内国、|東条《とうじよう》川流域地方を根拠とする、豪族であったことは確かだ。
|増鏡《ますかがみ》に(心|猛《たけ》くすくよかなるもの)と、挙兵前の正成を評しているが、その精強、その篤実さは、心ある|公卿《くぎよう》の|秘《ひそ》かに認めていたところだろう。
直木の「楠木正成」は|日野俊基《ひのとしもと》が正成の家を訪れるところから、始まっているが、正成と中央政界の関係は、実際この頃から結ばれたものだろう。俊基は|河内《かわち》、|和泉《いずみ》、紀伊地方の志士を募って歩いたものらしく、正成ばかりか、後年この地方から南朝|方《がた》が輩出したのを見ても、俊基の|遊説《ゆうぜい》は相当に効を奏したものらしい。
|後醍醐《ごだいご》天皇の|南柯《なんか》の御夢によって、正成を召し出されたという、太平記の説くところは、|如何《いか》にも伝奇的で面白いが、事実ではないかも知れない。
現在残っている正成の|筆蹟《ひつせき》が、|世尊寺流《せそんじりゆう》であり、その学んだ学問が|宋学《そうがく》であるといって、後醍醐天皇を奉ずる、当時の少壮貴族と、正成は同系統の学問をしたと説く者がある。宋学とは、当時においては最も新しい学問で、従来の|訓詁《くんこ》の風を一掃した|溌剌《はつらつ》たる窮理の思想である。忠義を重んずべきを説く、新興のイデオロギーともいえる。
河内の山の中に育った正成が、如何に好学でも、どれだけ深くこの理想を理解出来たか、また|菩提寺《ぼだいじ》である観心寺の僧が先生では、世尊寺流の字は書けても、宋学がどれほど分かったかと疑問をいだく人もある。
しかし、正成の本領は、学問ではない。幾度か孤城を|嬰守《えいしゆ》して|雲霞《うんか》の|如《ごと》き敵を悩ました、あの不敵な|面魂《つらだましい》である。あくまでも後醍醐天皇の御理想実現に、武将として身命を|賭《と》したあの不抜の信念である。
そして、野戦に、また得意なる山地戦に菊水の旗を|翻《ひるがえ》して奮闘した|所以《ゆえん》のものは、実に|一介《いつかい》の河内の|田舎《いなか》|侍《ざむらい》に対して(勤王に|馳《は》せ参ぜよ)と|畏《おそ》れ多くも御言葉を賜ったことに対する、正成の純粋なる感激の発露ではなかろうか。
(臣一人未だ生きて|在《あ》りと|聞召《きこしめ》され候わば、聖運遂に開かるべしと|思召《おぼしめ》され候え)と奏上する正成の|綽々《しやくしやく》たる自信の程は、その軍略、殊に|要塞《ようさい》戦において、自ら|恃《たの》むところのある彼にして、初めていい得る言葉だ。
楠木氏が|籠《こも》った城は、いわゆる|金剛山千早城《こんごうざんちはやじよう》である。当時の|城廓《じようかく》は、戦国時代の城のように、大規模のものではない。地勢を利用して本城と多くの|外城《とじよう》とを連ねて、|防禦《ぼうぎよ》線を引くのが普通だ。肥後の菊池氏が、|隈府《わいふ》を本城にして、菊池十八|外城《とじよう》を設けたように、正成は赤坂の根拠地を中心にして、一連の要塞を築いている。しかもこの金剛山千早城は、菊池十八外城と共にこの種の城廓としては、代表的によく出来たものだそうだから、さすが八十万、百万と誇称する関東の荒武者が攻めあぐんだのも、|宜《むべ》なりである。
正成が|笠置《かさぎ》なる官軍に相応じて、その挙兵の第一声を挙げたのは、|下赤坂城《しもあかさかじよう》である。|元弘《げんこう》元年九月十七日には笠置から|護良親王《もりながしんのう》をお迎え申して、|六波羅《ろくはら》の精鋭に対して、敢然激戦を交えた。
太平記には、赤坂城とあるが、当時の記録によると、楠木城といっている。金剛山の西に続いて千早の本城から六十六町の地にある。その防備の状態は、太平記によれば、はかばかしく堀も掘らず、|僅《わず》かに|塀一重《へいひとえ》を塗って、その間に|櫓《やぐら》が二、三十突立っている貧弱な城で、|寄手《よせて》の連中も(|此《こ》の城、我等が片手に載せて投ぐとも投げつくべし)と馬鹿にしているくらいだ。しかも、正成の|手勢《てぜい》は僅かに五、六百、この劣勢で、笠置を陥れた新鋭の関東軍をも引き受けて頑強に戦ったのであるから相当のものである。
寄手が、|釣塀《つりべい》に引っかかったり、熱湯を浴びせられて|面喰《めんくら》ったのは、この|籠城《ろうじよう》戦が初めてだ。しかし攻城戦は、九月十七日から、二十日にかけて四日間というもの、間断なく行なわれ、遂に二十一日の夜になって赤坂城は火に包まれた。この時正成、焼死したように見せかけて、折からの風雨に|紛《まぎ》れて、一族|郎党《ろうどう》を率いて、いずこともなく姿を消したのである。
赤坂城退去後の、護良親王、正成の行動は、全然不明である。|天嶮《てんけん》を利用して、|如何《いか》に巧みに隠れおおせたかを、裏書きするものである。要するに千早に隠れ、|金剛輪寺《こんごうりんじ》に潜み、河内、紀伊と勝手知ったる山々の中を潜行したのだろう。
護良親王は|高野《こうや》に入り、もしくは|十津川《とつがわ》から熊野方面に出没し給い、その間離合集散常なかったであろうが、正成とも相互に連絡を保たれ、再起の時機を|窺《うかが》っておられたと思われる。
実に大和、河内、和泉、伊賀、紀伊に連なる多くの山々と、これに源を発する多くの川は、天然の|砦《とりで》だ。関東|北条《ほうじよう》の誇る集団騎兵も、河に|逢《あ》えば既に戦闘力を減じ、山に逢えば全然その用を失った。山地を巧みに出没する楠木党の暗躍に対し、六波羅の騎兵が、如何に手こずっても、どうにもならなかったのは当然であろう。
しかも、沈黙を守ること一年有余にして、果然、勤王倒幕の火の手は、再度、大和に河内に上った。
死んだと思った正成は、突然として現れて当時|下《しも》赤坂城を守っていた、関東方の|湯浅定仏《ゆあさじようぶつ》を攻め|陥《おと》して、|故領《こりよう》を回復し、勢に乗じて、元弘二年五月には、大坂の天王寺に迫った。そこから、京都の六波羅は既に|目睫《もくしよう》の|間《かん》である。
ここで正成は、中々味のある|駈引《かけひ》きをやっている。それは六波羅に攻め込むぞという示威なのだ。六波羅では、大騒ぎで兵を集めたものの一向に楠木軍はやって来ない。|与《くみ》し|易《やす》しと見て取った賊軍は、五千余騎を|以《もつ》て、逆に天王寺付近に進出して来たのを、正成は小勢と見せて誘いをかけ、結局三面包囲で散々な目に|逢《あわ》したのである。
これに憤慨した六波羅方は、|復讐《ふくしゆう》のために関東から上って来た、宇都宮|公綱《きんつな》という猛将軍に追討を命じた。宇都宮は手勢僅かに六、七百騎で、奮然天王寺に向かった。正成はその必死の意気を見て、軽くその|鋭鋒《えいほう》を避けて、天王寺を退き、徐々に包囲の隊形を採った。宇都宮もさる者で、この|小勢《こぜい》ではと思ってか、兵を|纏《まと》めて京に引き揚げ、正成は一兵も損せずして再び天王寺を復したのである。二度までも六波羅勢をやっつけたこの勝利の知らせは、諸国の官軍を奮起せしめること、大なるものがあった。しかも悠々迫らざる正成は、八月三日には|住吉《すみよし》に|詣《もう》で、|乾坤一擲《けんこんいつてき》、金剛山千早城に|拠《よ》って、数万の鎌倉勢を相手に、最後の踏ん張りを見せようというのである。
鎌倉勢の千早攻めは、元弘三年正月に始まった。大手の大将は|阿蘇時治《あそときはる》で、河内|路《じ》から東条に向かい、|名越朝宣《なごえとものぶ》は和泉から紀州路をとって進み、両軍|総《すべ》て五万余騎が一気に押し迫ったのである。
この時、正成は、金剛山上の|転法輪寺《てんぽうりんじ》に四条|隆貞《たかさだ》を|据《す》え、|上《かみ》赤坂に平野|将監《しようげん》を置き、自ら千早城にあり、本城|外城《とじよう》打って|一丸《いちがん》となした、得意の要塞戦に取り掛ったのだ。
敵は名にし負う、天下の大軍である。しかも新手を入替え入替え攻め立てられ、二月中には、上赤坂城を始め、二、三の外城は陥ちている。更に|搦手《からめて》の|大仏高直《おさらぎたかなお》も、奈良から|高間《たかま》に進み、攻め上ったが大石大木を投げつけられて混乱し、一時攻撃は|停《とま》って、|後詰《ごづめ》を待つ有様である。
遂に、四月|半《なかば》になって、千早城総攻撃が敢行された。ぐずぐずしていると、背後から官軍に襲われるからだ。
関東武者の名誉に|賭《か》けての三昼夜に亙る、大突撃だ。六十余州の草の根までも北条の威力に|在《あ》りという、自信を持っての肉弾戦である。陥ちない。千早城はビクともしないのである。この千早防禦は、今日の軍事専門家が見ても、一つの驚異だそうである。まして当時の人が、|如何《いか》に楠木の胆勇と、智勇に驚歎したかは、思い|半《なかば》に過ぎるものがある。
そのうちに|漸《ようや》く大勢は官軍に有利に展開した。後醍醐天皇は|隠岐《おき》を御脱出あり、|名和長年《なわながとし》は|船上山《せんじようさん》に義旗を翻し、九州の一角に在っては、菊池武時が|烽火《ほうか》を挙げる。しかも関東方の|重鎮《じゆうちん》 |足利尊氏《あしかがたかうじ》の転向と、|新田義貞《につたよしさだ》の鎌倉攻めでは、北条氏の運命も決した。正成が関東の主力を千早城に引き寄せ、京都方面を手薄にさせ、官軍の京都回復を容易にしたことに、この千早城の戦略的な意味がある。大局から見て、|建武《けんむの》|中興《ちゆうこう》における功は、千早籠城を以て、|最《さい》とすべきであろう。
元弘三年五月二十三日、後醍醐天皇は船上山を御出発あって、山陰の東を経て、|聖駕《せいが》京都へと向かわせられた。
六月二日、兵庫の|福厳寺《ふくげんじ》を御|発輦《はつれん》、いよいよ懐かしい京都に御還幸になろうとした時、大楠公は|畿内《きない》の兵七千を率いて、陛下の|御輿《みこし》の前に参候して、御喜びを申し上げた。
この時、後醍醐天皇は(|此度《このたび》いよいよ北条を滅ぼし、京都に還幸することになったのは、|偏《ひとえ》に|汝《なんじ》の忠節にある)という有難き|勅諚《ちよくじよう》を賜っている。正成の苦心なり、その働きなりを、天皇はよく御承知であったのである。
正成、感涙に|噎《むせ》んで(|聖文神武《せいぶんしんむ》、陛下の御聖徳によって、私は金剛山の重囲を脱して、ここへお伺いすることが出来たのであります)と言上した。
その至純たる忠誠、その功に誇らざる|謙抑《けんよく》、百世の下、大楠公の敬慕尊崇せられる|所以《ゆえん》である。
中興の業成った一日、諸|公卿《くぎよう》、武将の功臣連が集って、各々その功を述べ、元弘の役では誰が一番手柄があったかと論じあった。黙々としていた正成は、この時(|寂阿《じやくあ》入道|武時《たけとき》こそ、第一と存じ候)といって|己《おのれ》の手柄に対しては、一言も触れなかった。それは、菊池武時が九州|探題《たんだい》北条|英時《ひでとき》を攻めて、討死した忠節を認めているのである。しかし、他の武将達は、正成の如くではなかった。
太平記の著者は(元弘以来、|忝《かたじけな》 くも此の君に頼まれ参らせ、忠をいたし、功を誇るもの幾千万ぞや)と|中興《ちゆうこう》の功臣を論じている。元弘笠置以来、|恭《うやうやし》 くも後醍醐天皇の御信任を得て、忠節を致した者は沢山にいる。忠義の真心を尽くしたものは沢山にいるが、それはみな功に誇るものだというのである。
太平記は南朝方の歴史である。余りに南朝をほめすぎるので、北朝の|今川了俊《いまがわりようしゆん》など、|難《なん》太平記という本まで書いて、これに反対を唱えている。また(太平記は史学に益なし)と称して、その|潤色《じゆんしよく》と、大衆文学的傾向を排斥する近代の学者もある。しかし(功に誇る者、幾千万ぞや)と評して、建武中興の業の|破綻《はたん》の原因を、|喝破《かつぱ》しているところなど、史眼|炯々《けいけい》たるものがあると思う。
建武の中興で、最も勢力を得たのは、|勿論《もちろん》公卿達である。武家もそれぞれ恩賞に|均霑《きんてん》したが、それがどれだけ彼等を満足させたかは疑問である。公卿は公卿で、早速|内裏《だいり》の造営を始めたりして、自らの夢に夢中である。武家は武家で、少しでも多くの所領を得て、その家の子郎党を|劬《いたわ》ってやろうと、懸命である。教養のない武家に、難しい中興の理想など、分かるわけはないのである。これに対して公卿は寛容さを欠き、|北畠親房《きたばたけちかふさ》のような識者まで(武士たる|輩《やから》、いわば数代の朝敵である。|御方《おんかた》に参って家を|潰《つぶ》さぬだけでも、有難がっているべきだ)と、|公家《こうか》本位の偏見を持っているのである。これでは中興政府の政治が、円滑に行なわれる|筈《はず》はない。
正成は論功行賞で、|従《じゆ》五位下に叙せられている。足利尊氏が|従三位《じゆさんみ》に叙せられ、|御諱《おんいみな》の一字まで賜り、弟の|直義《ただよし》さえ従四位下に叙せられたのに比して、元勲たる正成の従五位下は、薄賞であるといわれている。しかし|門地《もんち》家格が重んぜられた当時のことである。足利氏は源氏の|正嫡《せいちやく》で、世々北条氏と縁組をして、|族望《ぞくぼう》強盛である。これに対して、楠木氏は|渺《びよう》たる河内の一豪族に過ぎない。従五位下は必ずしも薄賞とはいえないのである。事実、行賞に不公平があったとしても、正成の気持として、恐らく問題にはならなかったと思う。
正成は|記録所《きろくどころ》の|寄人《よりうど》、雑訴決断所|衆《しゆう》、|武者所《むしやどころ》衆を兼任して、文武の重要な地位に就いている。名和長年なんかも、大いにもてて、その|烏帽子《えぼし》の折りようや、|直垂《ひたたれ》の|衣紋《えもん》を、当時|伯耆《ほうき》様と称して、京都中の大流行となった。
一方ではこうした流行児があるのに、他方には恩賞にも有りつかぬ、不平不満の武士が多くいた。彼等が|王師《おうし》に追随したのは、一に名と利にある。新政府がこれらの|夥《おびただ》しい要求に、一々応じ切れなくなった時、その不平は他にはけ口を求めた。(武家に頼らなければ救われぬ)という考えで、期せずして、源氏を想い、その嫡流に近い尊氏の|風《ふう》を仰ぎ見た。
他方には北条の残党の乱があり、|本領安堵《ほんりようあんど》の|嗷訴《ごうそ》は|輻輳《ふくそう》して、百事|顛倒《てんとう》の有様である。この形勢を看破した尊氏は、いよいよ武家本領安堵の看板を掲げて、|謀叛《むほん》を企てるに至った。新田義貞を追って西上した尊氏は、一度破れて九州に落ちたが、大局の勝利を目指して、鎮西の諸豪を|糾合《きゆうごう》し、|捲土重来《けんどじゆうらい》の勢|凄《すさま》じく、東上して来たのである。
|延元《えんげん》元年五月、新田義貞、弟|脇屋義助《わきやよしすけ》は赤松城の囲みを解いて、兵庫に退き、京都に急使を|馳《は》せて援軍を請うた。功守全く|顛倒《てんとう》の形勢になったのである。
|急遽《きゆうきよ》召された正成は、|徐《おもむろ》にその作戦計画を奏上した。即ち尊氏が九州の|勢《せい》を率いて上洛するからには、定めて|雲霞《うんか》の如き大軍であろう。|小勢《こぜい》を以て大軍に当たるのは無謀である。|宜《よろ》しく義貞を京都に召還して、|畏《おそ》れながら|主上《しゆじよう》には、再び山門に行幸せられ、正成は河内国に下って、畿内の勢を以て、敵の|枢要《すうよう》の地である|淀川《よどがわ》の|河尻《かわじり》を押える。そうして京都に乱入した尊氏の軍を東西から攻めたら、敵は次第に|兵糧《ひようろう》に窮して来るだろうというのである。これに対して、|坊門宰相《ぼうもんさいしよう》清忠は反対を唱え、自分が京都を去りたくないので、強がりをいい、遂に朝議を誤って正成に無理な戦をさせたのである。五月二十四日、迎撃を命ぜられた正成は、義貞の本隊と合流すべく、五百余騎の寡兵で、兵庫に下った。
既に生還は期し難い。十一歳の|正行《まさつら》に、後事を|托《たく》すべく、ここにいわゆる、青葉繁れる桜井の|訣別《けつべつ》となるのである。
別れるなら京都で別れてもよいのだ。あるいはもう少し先に進んで、河内路の分れ目で、別離をしてもよい。しかし正成は桜井で別れた。つまり桜井の地たるや、京都の|咽喉《のど》である。その地勢、その|天嶮《てんけん》、川、山、丘を指して、現地の戦略駈引きを訓戒する正成にしては、これが武人としての、恐らく最後の親心だったろう。同時に、その遺志を伝えるには、最も印象的な土地だからだったと思う。
正成の本隊は、|湊川《みなとがわ》の西に陣した。|会下山《えげやま》から|頓田山《とんだやま》一帯の丘陵がそれだ。少数の兵を、有効に動かすには、どうしても展望がよく利いて、敵軍の動静がはっきりと見える所でなくてはまずい。足利の大軍は、尊氏が海軍で、直義が陸軍で、相互に連絡をとりながら、海軍は素早く和田|岬《みさき》に上陸をした。見ていると、新田の軍は浮き足立って、|潰走《かいそう》中である。直義の先鋒は楠木勢に迫って来る。
正成は弟|正季《まさすえ》に向かって(前後に敵を受けたからには、先ず前の敵を粉砕しよう)といって、七百余騎を二手に分け、会下山を下って直義の本隊に無二無三に突撃して行った。正成兄弟は|七度《ななたび》会って、七度別れた。ぜひとも直義を|獲《え》んとする、必死の奮闘振り思い見るべしだ。尊氏は|遥《はる》かにこの形勢を眺めて、|吉良《きら》、|石堂《いしどう》、|高《こう》等の新手を入れ替えて、湊川の東に出て、楠木軍の後を|遮断《しやだん》してしまった。正成は|腹背《ふくはい》に大軍を受け、三時間ばかりの間に十六|合《ごう》の合戦をやったが味方の討たれるもの続出し、遂に七十三騎となった。精根既に尽きた正成は、これまでと付近の民家に入り、一族七十二人と共に自刃して果てた。この時正成は、正季に向かって(何か最後の願いはないか)と|訊《き》くと(|七生《しちしよう》までも人間に生まれ変わって、朝敵を滅ぼそう)と|健気《けなげ》にも答えるのに、にっこりと|頷《うなず》いた正成は(自分もそう思う)といって、兄弟刺し違えて死んだことが、太平記に見えている。
この合戦は非常な激戦で、朝の八時から夕方の四時まで続いた。前にいったように、暑い盛りである。疲労しつくした楠木一党が、一カ所に集って、自殺するような余裕など無かったのではないかと思う。多分、乱軍の中に各々壮烈な戦死を遂げたであろう。もし太平記のいうところが正しいとしても、七十余人が列座して腹を切るような広い家など、寺の本堂ででもなければあるまい。
それはとにかく、正成のいう|七生報国《しちしようほうこく》の精神は、千古不滅、彼の本領を物語っている。太平記が、正成の最期を筆を極めて賞讃しているのは当然だが、北朝|方《がた》の書いた「|梅松論《ばいしようろん》」にも(誠に賢才武略の勇士と、かようのものを申す可きとて、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりけり)と賞揚している。敵味方を通じて、正成の忠義と武略とが正しく認められていたのだ。
|楠《くすのき》流の軍学といわれるくらい、兵学者としての正成の手並は定評がある。太平記が戦国時代の武将に愛読され、|吉川元春《きつかわもとはる》など陣中でこれを写して愛読したのは、内容が面白いのと、正成の謀略が用兵上の参考となったからである。これが国民道徳の目標となり、人間正成の真価が本当に認められるようになったのは、|義公《ぎこう》の大日本史|編纂《へんさん》以来だ。|建碑《けんぴ》までした|光圀《みつくに》の努力は、この際最も、一般から認められてよいと思う。
[#改ページ]
|太田道灌《おおたどうかん》の名は、江戸築城と|山吹《やまぶき》の古歌の逸話とで有名である。
東京|淀橋《よどばし》区|諏訪《すわ》のあたりや、小石川には山吹の里というのがあって、道灌の|遺蹟《いせき》などといっているが、実はこの逸話には道灌以前に本家がある。
それは|醍醐《だいご》天皇の皇子、|兼明《かねあきら》親王で|後拾遺集《ごしゆういしゆう》雑の部に見えている。
(|小倉《おぐら》の家に住み|侍《はべり》ける頃、雨の|降《ふり》ける日、みの(|蓑《みの》)かる人の侍けれや、山吹の枝ををりとらせて侍けり。心もえでまかり|過《すごし》て、又の日やま吹の心もえざりしよしいひ|を《お》こせて侍ける返事に、いひつかはしける。
なゝへやへ花は咲けども山吹の
みのひとつだになきぞ|あや《かな》しき
[#地付き]|中務 卿 兼明 親王《なかつかさきようかねあきらしんのう》)
これは兼明親王が亀山の|麓《ふもと》(今の京都府亀岡)に|隠遁《いんとん》されていた時のことである。
道灌の山吹の話は|艶道通鑑《えんどうつうかん》という俗書などに見えているが、|少女不言花不語《しようじよいわずはなかたらず》、|英雄心緒《えいゆうしんしよ》|紊 如 糸《みだれていとのごとし》、といった詩も、その辺から出たのである。
道灌の父|資清《すけきよ》は|道真《どうしん》と号し|扇谷 《おうぎがやつ》|上杉《うえすぎ》氏の家老で文武の才が豊かだったが、道灌もその影響を受けて和漢の書を読み、風流の道にも通じていたから、少女に山吹の花を出されたからといってまごつき、恥をかいたので大いに発奮して学問を始めるなどということはあり得ない。
太田氏は|源三位頼政《げんざんみよりまさ》の|後裔《こうえい》である。また、事実かどうか分からぬが、後年の太田|蜀山人《しよくさんじん》が道灌の裔だというから、とにかく歌には縁の多い家筋である。太田氏は初め|丹波《たんば》の|太田荘《おおたのしよう》にいたので、その荘名を取ったもので、後に|相模《さがみの》|国糟谷《くにかすがや》に移って扇谷上杉に仕えたのである。
道灌は|永享《えいきよう》四年にそこで生まれ、初めの名を|資長《すけなが》、|小字《しようじ》を鶴千代麿といったが、元服して|持資《もちすけ》と称し|字《あざな》を源六郎と改めた。|剃髪《ていはつ》して道灌と号し、|備中《びつちゆう》入道と称したのは|長禄《ちようろく》二年で彼が二十七歳の時だ。
九歳で鎌倉の建長寺に修学にやられたが、十一歳の時に父の資清に贈った作文が、|流麗《りゆうれい》壮快で大人も及ばぬほどだったので、帰家の許しが出た。世にいう神童で、後年|賤《しず》ヶ|伏屋《ふせや》の一少女に山吹の花を出されてまごつくような人間ではないのだ。
道灌が十五歳の時である。父の資清が、
(戸障子は|直《ちよく》なれば|起《た》ち、|曲《きよく》なれば倒る)といって諭すと、彼は|屏風《びようぶ》を示して、
(曲なれば起ち、直なれば倒る、我|如何《いかに》せば可ならん)とやった。建長寺で禅問答の修行がしてある。これには父の資清も、二の句がつげなかった。
だが、道灌に|驕傲《きようごう》の風あるを心配した資清は、|或《ある》日(|驕者《おごるもの》 |不久《ひさしからず》)と大書して読ませた。すると道灌は筆を執って(|不驕《おごらざるも》 |亦不久《またひさしからず》)と書き加えた。資清はグッと詰って扇子で道灌の|面《おもて》を|撲《なぐ》った。
奇才縦横に|流露《りゆうろ》する彼は、|陳腐《ちんぷ》な型にはまった教訓なんか|可笑《おか》しくって聞いていられなかったのだろう。
当時、鎌倉の五山には|碩学《せきがく》の僧が集っていたし、|足利《あしかが》学校、金沢文庫などもあって(武蔵野は|苅萱《かるかや》のみと思いしに)どころではない。こうした環境や家庭教育が質のいい道灌を伸ばしたのである。
道灌は二十四歳で家を継いで扇谷上杉家の家老となった。当時、|古河公方《こがくぼう》の足利|成氏《なりうじ》と|両《りよう》上杉の平和は破れていた。|山内《やまのうち》上杉には|長尾景春《ながおかげはる》があり、扇谷上杉には道灌父子があってそれぞれ|主家《しゆか》を|輔佐《ほさ》していたのである。
|康正《こうしよう》二年、道灌は二十五歳で技師として江戸築城の任に当たり、|長禄《ちようろく》元年四月八日落成した。同時に主君の上杉|持朝《もちとも》が|河越《かわごえ》城を築き、父資清の|岩槻《いわつき》城は三月に出来上った。
扇谷上杉はこれらの諸城と、|上野《こうずけ》、|下野《しもつけ》方面の山内上杉の諸城を連ねて、|下総《しもふさ》、|上総《かずさ》、|常陸《ひたち》の方面に勢力を張っている古河公方に対抗したのである。
道灌の築いた江戸城の規模は、|江戸記文《えどきぶん》によると、
|根城《ねじろ》、|中城《なかじろ》、|外曲輪《そとくるわ》の三つから成り、|聳《そび》え立つ石壁は十丈余、堀の周囲は数十町で、その外には大きな溝があって流れを引き入れてある。これには巨木を架し三十六の城門は鉄を|以《もつ》て張り、門を入ると左右に坂があって|婉曲《えんきよく》して城に通じ、その間に三層の楼が二十余あり、石で畳んだ門がある。城中五、六カ所の井戸は|大旱《たいかん》にも|涸《か》れることはない。
と記し、道灌|雄飛録《ゆうひろく》には、
先ず春は東に若みどりたつ|筑波根《つくばね》より|烟霞《えんか》こめたる|国府台《こうのだい》の花の|梢《こずえ》も|朦朧《おぼろ》にて、秋は露けき武蔵野の、千草に|聚《あつま》る虫の声、西に|秩父《ちちぶ》の|山色《さんしよく》を|愛《め》で、北は|牛込市谷《うしごめいちがや》より、高低段々に連なりて|駒《こま》の|駈引《かけひき》自在ならず。
浅草川の流は遠くして海水に入り、南は平地につづき|三田《みた》、|麻布《あざぶ》、品川におよび海潮、時に|盈虚《えいきよ》して、|竹柴《たけしば》の浦人の網子ととのうる呼声も、浜松ケ枝の風に|賑《にぎ》わい、|眸《ひとみ》を |坤《ひつじさる》 に|廻《めぐ》らせば富士の|高嶺《たかね》の白雪をただここもとに置けるが如く、四時の|佳景《かけい》、物として備わらずという事なく、|百穀《ひやつこく》 |豊饒《ほうじよう》に|魚鼈柴薪《ぎよべつさいしん》乏しからず、要害無双なり。
|洛陽五山《らくようござん》の|万里和尚《ばんりおしよう》は持資と親しき学友なりし故、東国下向の節当城に来り其の地の形容を称し、唐の|杜子美《としび》が(|窓 含 西 嶺 千秋 雪《まどにせいれいせんしゆうのゆきをふくみ》、|門泊 東呉万里船《もんにとうごばんりのふねをはくす》)といえる句を吟じて、|扶桑《ふそう》第一の名城なり、日あらずして|繁華《はんか》の大都会となるべしと申せしかば、持資悦喜|斜《なな》めならず、城中に|燕居《えんきよ》の室をつくり、これを静勝軒と号す。又、杜子美が句を摘みてその楼を|含雪《がんせつ》と名づけ亭を|泊船《はくせん》という。
その頃建長寺の|得公《とくこう》長老、静勝軒の銘ならびに詩を|賦《ふ》して持資に贈る。その他五山の碩学おのおの詩あり。
或日持資楼に登り四方を眺望して、
我が|庵《いほ》は松原つゞき海ちかく
富士の|高嶺《たかね》を|軒《のき》ばにぞ見る
しげき野のすゑもひとつのみどりより
空をわけたる富士の白雪
当城の|傍《かたわら》、|平河《ひらかわ》の|辺《ほとり》に一つの|池水《ちすい》ありていかなる|旱魃《かんばつ》にも涸るる事なく、|是《これ》を小川の|清水《しみず》という。
むさし野の小川のしみづ絶えやらで
岸の|根芹《ねぜり》をあらひこそすれ
と記している。
文飾誇張はあるが、地理的環境に照応した江戸城の雄大さが想像出来る。
John Milne(ジヨン ミルン)が研究作成した江戸湾の海岸線進出図に|拠《よ》ると、長禄年間には今の|日比谷《ひびや》公園あたりまで海だった。
赤坂の|溜池《ためいけ》は入江になっていたし、江戸城の東は|飯田町《いいだまち》の辺まで細く入り込んでいて、当時は平川といった今の江戸川を受けて海に出ていた。
そうすると今の神田|小川町《おがわまち》は前文の(小川の清水)と関係がありそうだ。
|千住《せんじゆ》の一部と|本所《ほんじよう》 |深川《ふかがわ》は|勿論《もちろん》海だったのである。だから細長く入り込んだ平川の下流は、長堤めぐり|数多《あまた》の人家を越えて向こうに海が|覗《のぞ》き(|江戸記文《えどきぶん》)、海潮時には盈虚して浦人の網子ととのうる声が浜松風に賑わった(雄飛録)、のである。
だが、いくら大きくても一年くらいで出来上った城だから後の江戸城とは|較《くら》ぶべくもない。それに石に乏しい武蔵平野のことだから、一帯石垣を廻らしたのではなくて土堤で、楼や城門だけが石で築き上げられていたらしい。|落葉集《おちばしゆう》によると、北条氏が江戸城を取った時にも(石垣など築きし所なく皆芝土居にして、土手には竹木茂れり)と見えている。
大体武蔵には|土城《どじよう》といって、石を用いない築城法さえ発達した。|八王子《はちおうじ》辺にはその旧蹟がある。
しかし従来の山地築城に対して、平野に江戸城を築いたことは、日本築城史上の新機軸といわねばならぬ。
道灌の文才は既に知られているところだが、彼は|寛正《かんしよう》五年十二月、上洛して将軍|義政《よしまさ》に謁したが、義政が(|汝《なんじ》武蔵野にいる、何の風月ありや)といったので、
(|坐《いなが》ら|芙蓉峰《ふようほう》を|観《み》る、その壮なること未だ|華洛《からく》に聞かざるところなり)
と答えた。
|細川勝元《ほそかわかつもと》が文通の|序《ついで》に、|韓退之《かんたいし》の短慮不成功の心を問うと、
いそがずばぬれざらましを旅人の
あとより|霽《は》るゝ|野路《のじ》の|村雨《むらさめ》
と答えたのも有名である。
また、|後土御門《ごつちみかど》天皇が武蔵野の|様《さま》を御下問あらせられると、
露おかぬ|方《かた》もありけり夕立の
空よりひろき武蔵野の原
日ごろの眺望を問わせられると(我庵は松原つゞき海近く)の歌を以てお答え申し上げた。
|文明《ぶんめい》年中、再度|上洛《じようらく》した時、|都鳥《みやこどり》のことを御下問あらせられると、
年ふれど我まだ知らぬ都鳥
|隅田川原《すみだがわら》にやどはあれども
と詠じた。天皇は|叡感《えいかん》のあまり、
武蔵野は苅萱のみと思ひしに
かゝる言葉の花や咲くらむ
という|御製《ぎよせい》を賜った。
東国武士の道灌が、京都に行って歌問答をやるのは、よほど自信があったのだ。
彼は、史伝、和歌、記録、|医方《いほう》、兵書等、教千巻の書籍を蔵していた。家集には|慕景集《ぼけいしゆう》、花月百首、江戸|歌合《うたあわせ》、などがあり、|平安紀行《へいあんきこう》の著がある。
道灌は江戸城内に在って、十年|生聚《せいしゆう》十年教訓の日を送っていたが、文明六年頃から、いよいよ活躍を始めたのである。
山内上杉は扇谷上杉に較べると段違いに大きく、家老の長尾|昌賢《まさかた》の|禄《ろく》さえも、扇谷上杉と匹敵するほどだった。その昌賢というのが、扇谷上杉のピカ一たる道灌でさえ|一目《いちもく》置いているほどの人物だったが、寛正四年に死んだ。
ところが文明六年六月、|駿河《するが》の今川家に内紛が起こり、道灌が|鎮撫《ちんぶ》に行っている留守に、昌賢の遺子長尾景春が武州|大里郡《おおさとごおり》の|鉢形城《はちがたじよう》に拠って、主家山内上杉に|叛《そむ》き、当時武州児玉郡の|五十子《いかつこ》で古河公方成氏と対陣中の、上杉|顕定《あきさだ》父子を襲って上州に走らせ、成氏に応じて利根川右岸の地を|席捲《せつけん》したのである。
ここに両上杉は、成氏の他に長尾景春という一|勁敵《けいてき》を向こうにまわすことになり、局面は一変したのである。
長尾氏が、父祖以来|馴養《じゆんよう》した勢力というものは案外強大で、景春に応じて起つ者は中々に多かった。
|豊島《としま》郡には豊島|勘解由《かげゆ》左衛門兄弟が|石神井《しやくじい》、|練馬《ねりま》、|赤塚《あかつか》、|板橋《いたばし》の諸族を|糾合《きゆうごう》し兵力を|戮《あわ》せて|平塚《ひらつか》に拠り、江戸と|河越《かわごえ》の連絡を遮断したのである。往時は今の|参東《さんとう》の|田端《たばた》、|中里《なかざと》、西ヶ原一帯の地区を江戸平塚といい、上中里の平塚神社が|古城址《こじようし》だという。
また、|多摩《たま》郡では|金井掃部介《かないかもんのすけ》が|小沢《おざわ》城に拠り、|相模《さがみ》では|溝呂木《みぞろぎ》、|小磯《こいそ》の諸城がみな反抗した。
しかも長尾景春が新たに築城した鉢形城は、荒川の上流右岸の|断崖《だんがい》と、|嶮峻《けんしゆん》な高地とに囲まれ、山内の上杉|顕定《あきさだ》の根拠たる|臼井《うすい》と、扇谷の上杉|定正《さだまさ》の居城の河越を経て鎌倉に通ずる街道に在って両上杉を中断するに足る地の利を占めていたので、両上杉も手が出なかったのである。
そこで道灌は文明九年四月十三日、江戸城を出て平塚城を襲い、城下に火を放って豊島勘解由左衛門兄弟及び赤塚板橋等の連合軍と|江古田《えこだ》、|田原《たわら》、|池袋《いけぶくろ》で戦って撃滅し、翌十四日、豊島を追って石神井に迫り、十八日に城を|陥《おとしい》れた。
多摩郡の小沢城もこの日に|陥《お》ちた。
一方、相模方面は扇谷の兵を|遣《や》って、溝呂木を抜き小磯を降したのである。
江戸の付近及び相模方面を清掃した道灌は、文明九年五月、両上杉の兵を合して利根川を渡り|五十子《いかつこ》の旧陣を復し、正に景春の本拠鉢形を|衝《つ》こうとした。
五月十四日の|払暁《ふつぎよう》、|用土《ようど》ヶ|原《はら》で衝突したのである。長尾方は上杉の|先鋒《せんぽう》を破って本陣に殺到しようとしたが、道灌が伏せておいた兵が急に起こって長尾方の側面を衝いたので、一旦崩れかかった上杉方の先鋒も敵に向かって反戦逆撃を加え、ついにこれを|潰走《かいそう》させた。自殺しようとした景春は近臣に制せられて退却したが、二万と称せられた兵も、鉢形城に退帰したものは、数千に過ぎなかった。
こうして、諸所に|簇生《そうせい》した長尾の与党は逐次道灌の一手に|芟除《せんじよ》され、今はまたその主力が撃破され、景春の兵勢は|頓《とみ》に衰えたが、文明十年正月、成氏の提唱で一旦|媾和《こうわ》が成立した。ところがその二月、道灌に追われた豊島一族は、|小机《こづくえ》(今の神奈川駅北方)の城主小机|昌安《まさやす》及び|丸子《まるこ》の城主丸子弥三郎の後援を得て、江戸河越から鎌倉に通ずる道を|扼《やく》さんとし、二ノ宮(今の八王子の北方)にいた長尾景春が更にこれを支援した。
そこで道灌は兵を率いて小机に向かったが、景春は道灌の兵が上杉定正の軍を合する前に小机と呼応して、|挟撃《きようげき》しようとした。
道灌の兵は|後陣《ごじん》から強大な軍勢が|追躡《ついじよう》して来るのを見て、|畏怖《いふ》の色を見せたが、道灌は|咄嗟《とつさ》に陣形を整え馬首を翻してこれに当たり、善戦しているうちに定正の軍が到着して、敵の側面を攻めて撃退し、小机城を陥れた。
道灌が、
小机は先づ手習のはじめにて
いろはにほへとちりになる
と歌って士気を鼓舞したのは、この時のことである。
道灌は実に善く謀り善く戦った。相模の大森|伊豆守《いずのかみ》が成氏に心を寄せて扇谷上杉を襲おうとした時など、道灌は兵の|聚《あつま》るのが待ち切れないので、|手許《てもと》にいた|僅《わず》か五十騎を従えて江戸城を出た。部下が|小勢《こぜい》を危ぶむと、
(運用の妙を知らば、兵の多少は論ずるに足らぬ)といって、まだ戦備の整わない敵を急襲して無抵抗で敗走させた。
道灌の部下は常に(|諸葛武侯《しよかつぶこう》の再生なり)といって誇り、彼の智略を絶対に信頼して、あえて軍事を議する者がなかった。両上杉も、一致の行動を取るかぎりは道灌の|智謀《ちぼう》に一任し、彼を指揮者としていたのである。
文明十年七月には、成氏は古河の旧館に兵を収めて帰り、既に長尾景春一派も実力を失って道灌に抗する勇気はなく、|武相《ぶそう》一円は道灌の武威に|慴伏《しようふく》したのである。
こうして関東は|暫《しばら》く平静に帰ったが、道灌が二十年前河越城の閑室で、父|道真《どうしん》に向かって、(今両上杉は|公方家《くぼうけ》と対抗しているが、公方家が衰えたら、両上杉の確執が始まるであろう、婚姻によって未然に避けるべきである)と語った予想が事実となって現れて来た。協力時代には包んでいた|蟠《わだかま》りが、今になって表面化したのである。
当時、鉢形城にいた山内の上杉|顕定《あきさだ》は、かつては自分の|下風《かふう》に立っていた扇谷上杉が、名臣太田道灌を擁して|嶄然《ざんぜん》頭角を|擡《もた》げ、殊に山内の長尾|昌賢《まさかた》の死後は後難つづきで、急に両者地を替える有様となったので、|癪《しやく》に障ってならなかった。
そこで扇谷上杉の配下である|原繁胤《はらしげたね》を|嗾《けしか》けて、下総の臼井城(今の|因幡郡《いんばぐん》)に拠って叛かせたのである。
道灌は|鴻《こう》ノ|台《だい》の高地に塁を築き、|謀《はかりごと》 を以て臼井城中の将卒の家族を捕えて|質《しち》とし、|反間《はんかん》を放って(太田氏に通ずる者は質を助ける賞を与える)といわせたので、城を|脱《のが》れて鴻ノ台の陣に投降する者が続出し、残兵二十余人となったので、原繁胤は城に火を放って自殺した。
文明十年十二月には、千葉|孝胤《たかたね》が臼井城を修築して再びこれに拠ったので、道灌は隅田川に三条の長橋を架して兵を渡し、鴻ノ台に陣してこれを陥れた。
越えて十五年十月、|三河《みかわ》入道と称した武田|信長《のぶなが》を上総の総南城に攻めた。海に乗り出している城の|崖《がけ》には|弩《いしゆみ》が仕掛けてあった。これを避けて海の浅瀬を通ろうとしたが、真っ暗で潮が満ちているのか|干《ひ》いているのか分からない。道灌は(|千鳥《ちどり》が沖で鳴いているから大丈夫だ、潮は干いている、進め)といった。そのわけを訊くと(遠くなり近くなるみの浜千鳥、鳴く|音《ね》に潮の|満干《みちひ》をぞ知る、という古歌がある)といった。
城は陥ちて|両総《りようそう》は完全に扇谷上杉の勢力下に帰したのである。
中央においては|応仁《おうにん》の|乱《らん》後は騒乱もなく、古河公方成氏も将軍義政に和を|乞《こ》い、関東の兵乱も一時鎮静して天下は小康を得た形だったが、両上杉の暗闘は止まなかったのである。
道灌は山内の上杉顕定の心事を警戒し、早晩衝突は免れないものと覚悟して、江戸河越の二城に大修築を加えるなど、常に防備を怠らなかった。
主君定正は山内家を|憚《はばか》って道灌に度々|専使《せんし》を|遣《つか》わして注意したが、扇谷上杉家の指導者を以て任じている彼は|肯《き》かなかった。
高瀬|民部少輔《みんぶのしようゆう》に送った手紙にも、
(老体の大功を以て当家再興度々に候|歟《か》、又今日に至るまで両国(|武《ぶ》、|相《そう》のこと)完全に御かかえ候は道灌の功にあらず候や)
といっているし、
(扇谷上杉に一人の道灌あらば、関東の|覇権《はけん》を収むる難に非ず)と常に揚言していた。
事実道灌の威望は日に加わり、主家も彼の識見の指導下にあったのだが、少し出来の悪い定正は、それを見てあまりいい気がしなかった。
ところが、この君臣間の溝につけこんで、山内の上杉顕定が、反間を放って(道灌は異心を抱いている)というデマをとばしたのである。定正はおろそかにもそれに乗ったのである。
文明十八年七月、江戸河越両城の修築が成ったので、道灌は鎌倉に赴いて主君定正に報告した。
道灌は父|道真《どうしん》や息子の|資康《すけやす》もあるし、智勇恩顧の士が多いので、攻め滅ぼすのは不可能だ。定正は、(今こそ好機)と相州|大住《おおすみ》郡|糟谷《かすがや》の自邸に道灌を招き、|曾我兵庫《そがひようご》をして浴室にいるところを襲わせた。
その時道灌は(当家滅亡)の一語を残して刺殺された。年五十五歳。
一体、寸鉄も帯びない入浴中を襲うなど、よほど相手を恐れたやり方で、|義朝《よしとも》も|幡随院《ばんずいいん》長兵衛もこの手でやられている。しかしそれだけに相手を|斃《たお》すことは、確実だから、東西暗殺史上その例が少なくないのである。
それはともかく、定正は、早速武蔵の鉢形城にいる山内の上杉顕定に道灌|誅戮《ちゆうりく》を報じた。思う|壷《つぼ》の顕定は、これで扇谷恐るるに足らずとして、道灌の変に備えるという名目で、武蔵|比企《ひき》郡|高見原《たかみはら》に兵を出して定正に挑戦し、道灌の子資康が|甲斐《かい》に入って兵を募り、扇谷に反抗したのを|援《たす》けた。
すると道灌の父道真も顕定に投じたし、長尾景春も既に山内上杉に降っていた。馬鹿を見たのは定正である。かくて扇谷上杉の家臣は続々と走って、正に(当家滅亡)の有様となった。
定正は、やっと顕定の|奸計《かんけい》に気づき、古河公方と和して|勢《せい》を立て直そうとしたが、|長享《ちようきよう》二年二月五日、顕定の軍に相模の|実蒔原《さねまきばら》で破られ、十一月五日には高見原で再び破られた。
そのうちに、伊豆から|蹶起《けつき》した北条氏に、両上杉とも|喰《く》われてしまったのである。
|延徳《えんとく》元年に上杉定正が、曾我|裕豊《すけとよ》に与えた書中に、
(|今度之一乱自《このたびのいちらんしんじ》|身上《ようより》|事起 候 間《ことおこりそうろうあいだ》、治乱之沙汰おかしき|様《さま》に|存 方《ぞんずるかた》も|可《これ》|有《ある》|之事山内《べきことやまのうち》|可《に》|成《ふぎ》|不儀《なるべきの》|之企 候 間《くわだてそうろうあいだ》、度々|以《せんし》|専使《をもつて》|加《いけん》|意見《をくわう》云云、|左伝云《さでんにいう》|都城過《とじようひやく》|百雉《ちにすぐ》|国之 害《るはくにのがいなり》 云云。|然者江河両城如何堅固 候《しからばこうかりようじよういかにけんごにそうろう》 とも|山内不儀 候者《やまのうちにふぎそうらわば》 |果而不《はたしてかな》|可《うべ》|叶 候由《からずそうろうよし》 |申候 付《もうしそうろうにつき》、 |不《しよう》|及《いんに》|承引《およばず》|剰 思《あまつさえ》|謀 乱《ぼうらんを》|候 間、 《おもいそうろうあいだ》|忽 誅 伐《たちまちちゆうばつす》、|則 《すなわち》|鉢形 注進了《はちがたにちゆうしんしおわんぬ》 云云)
といっているが、これを見ると定正が山内恐怖症にかかって、血迷っているのがよく分かる。実に醜態である。こんな暗愚な主君を持った道灌は実に気の毒である。道灌の墓は糟谷から一里ばかり離れた秋山の|洞昌院《どうしよういん》に在る。道灌は、楠木正成以来の軍学者として、尊敬されていただけに、徳川時代に太田道灌著という軍事批評の偽書が出ているくらいである。
[#改ページ]
|日本外史《にほんがいし》は、|草莽《そうもう》の|微臣《びしん》にして単身|空拳崛起《くうけんくつき》したのは|早雲《そううん》に始まると書いている。
もっとも、早雲以前にも|里見義実《さとみよしざね》などは、|八犬伝《はつけんでん》にある通り|結城《ゆうき》陥落に際して|僅《わず》かばかりの家来を引き連れて房州に落ち、|彼《か》の地で十代の|功業《こうぎよう》を開いているからこの方が先で、早雲も|畢竟《ひつきよう》その故智を学んだのだという人もある。が、この筆法で行けば|源 頼朝《みなもとのよりとも》が伊豆から崛起して|石橋山《いしばしやま》の敗戦後一旦房州に|遁《のが》れ、ついに鎌倉に幕府を開いたのは、更に里見氏の|先蹤《せんしよう》となるわけである。
しかし、頼朝も義実も祖先が残した有形無形の地盤の上にその大を成したのである。|北条《ほうじよう》早雲に至ってはその|素性《すじよう》さえも確かでない。いわゆる草莽の臣で、それが一朝風雲に際会して崛起し、関八州を従えて五代の|覇業《はぎよう》を開いたのだから、その人物は非凡というべきで、真に天下を|狙《ねら》いかねない戦国時代型の英雄である。
一般に、北条早雲というとすぐに|小田原城《おだわらじよう》を|想《おも》い出す。そして北条早雲が小田原城に居たようにさえ考えられるが、彼は|永正《えいしよう》十六年八月十五日、息を引き取る間際まで伊豆の|韮山《にらやま》城にいたのである。
ここを根拠としての活躍が彼一代の事業なのだ。
北条早雲は初め|伊勢《いせ》新九郎|長氏《ながうじ》または|氏茂《うじしげ》といったが、のち入道して早雲または|宗端《そうたん》と号した。
その素性については|或《あるい》は京都の人間だとか、|備中《びつちゆう》だとか伊勢だとか従来諸説がある。
一説には|室町《むろまち》幕府の勢力家の伊勢家から出ていて、早雲の父は|備中守《びつちゆうのかみ》 |貞藤《さだふじ》であるというが、どうも信じ難い。
京都伊勢氏は当時将軍以上の権勢をもっていた家柄だからその息子だとか、弟というなら、その頃の|公家《くげ》の日記録などにも出ている|筈《はず》だが、少しもそれらしいものは見当たらない。
近来学者の研究によると、早雲はもと伊勢の国の者で、|関《せき》一族である、というのがやや信ずべき説のようである。
|仍《すなわ》ち、|越前勝山《えちぜんかつやま》の|小笠原《おがさわら》元子爵家所蔵の早雲の書状(小笠原左衛門|尉《じよう》宛)というものがあるが、それには、|雖未 申入 候《いまだもうしいれずそうらえども》、 |以次令 啓 候、《つぎのれいをもつてけいしそうろう》 |仍 関右馬允 事名字我等一体《すなわちせきうめのじようことみようじわれらといつたい》 に候、|伊勢国関《いせのくにせき》と|申 所依 在国 関名乗 候《もうすところよりくににありてはせきとなのりそうろう》。
と、早雲自身自分の出処を記している。
もっとも、早雲が京都伊勢氏の出であるとの説も理由のないことではない。というのは、|駿河《するが》の|今川義忠《いまがわよしただ》の側室に北川殿というのがあって、諸書には伊勢備中守貞藤の|女《むすめ》ということになっているが、この北川殿は実は早雲の姉である。
もっとも早雲の姉が、伊豆の関氏の一族くらいで|身許《みもと》があまりよくないので、今川氏が京都の伊勢貞藤に頼んでその娘分にでもして側室にしたのかも知れぬ。そこで弟の早雲も伊勢貞藤の子だと誤伝されるに至ったのだとも想像される。
早雲は姉が今川氏の|愛妾《あいしよう》となった縁故から、今川氏に|寄寓《きぐう》していた。
ところが|文明《ぶんめい》七年、今川氏が|管轄《かんかつ》していた|遠江国《とおとうみのくに》に乱が起こり、義忠は征伐の帰途|塩見《しおみ》坂で|一揆《いつき》に|遇《あ》って討死した。
世継の|氏親《うじちか》は幼く今川家は二派に分かれてお家騒動が持ち上り、中々治まりそうもないので関東|公方家《くぼうけ》から|鎮撫使《ちんぶし》として上杉|憲政《のりまさ》、太田道灌などが派遣された。
この時早雲は、
(自分が極力|家中《かちゆう》の和解に努力して見るから、手荒な処置は|暫《しばら》く見合わせて|貰《もら》い度い)
と請願し、双方を説得して和解させ、その母と共に難を避けていた氏親を迎え立てて早雲が|輔佐《ほさ》した。この氏親こそ早雲の姉が生んだ子である。
早雲は功によって富士郡|下方庄《しもかたしよう》十二|郷《ごう》を与えられ、|興国寺《こうこくじ》城に住むことになった。
時に早雲は四十四歳で、これが今川氏に勢力を得る端緒であり、遂に子孫が関東に|覇《は》を称する基礎を成したのである。
今川氏親を輔佐しながら早雲は興国寺城にいて、二百人ばかりの|郎党《ろうどう》を|扶持《ふち》していたが、|百 姓《ひやくしよう》の|年貢《ねんぐ》を|宥免《ゆうめん》したり、仁政を行なって中々人望があった。
当時、関東公方|足利成氏《あしかがしげうじ》は|執事《しつじ》の両上杉を敵にまわし、|下総《しもふさ》の古河に|拠《よ》って、京都の将軍にも反抗したので、両上杉は京都に願い将軍義政の弟|政知《まさとも》を迎えて関東公方とし伊豆の韮山付近の|堀越《ほりこし》に居を構えさせた。これが|堀越公方《ほりこしくぼう》である。
だが間もなく両上杉が兵を交えて相争うというようなことになって、公方だの|御所《ごしよ》だのといっても空名だけになった。
ところが|延徳《えんとく》三年、またまた公方家にも大騒動が持ち上った。というのは、公方の政知が後妻腹の次男に公方家を継がせ度いので、先妻の子|茶々丸《ちやちやまる》を幽閉したが、茶々丸は隙を|窺《うかが》って監視人を殺し、父の政知と後妻及びその子|潤童子《じゆんどうし》を|弑《しい》し、ついに家を奪った。老臣|外山豊前守《とやまぶぜんのかみ》、秋山|蔵人《くらんど》なども|讒言《ざんげん》によって殺された。
早雲は|湯治《とうじ》に|託《かこつ》けて度々修善寺あたりに行って|密《ひそ》かに形勢を窺っていたが、この公方家の内紛に乗じて伊豆に攻め入ったのである。
それは延徳三年の秋の真夜中のことである。北条早雲の率いる|軍兵《ぐんぴよう》は|鯨波《とき》の声を揚げて堀越御所の|館《やかた》を取り巻き、館に火をかけた。
不意を打たれた堀越方は、|関戸播磨守《せきどはりまのかみ》を初め多数の者が討死した。
茶々丸は|大守《おおもり》山(今の守山あたりであろう)の|願成就院《がんじようじゆいん》に入って自害したのである。
この時、佐藤四郎兵衛という者が|降人《こうじん》となって出たが、早雲は、
(伊豆|中田方郡大見郷《なかだかたごおりおおみごう》は佐藤四郎兵衛|相伝《そうでん》の地であるのに、いち早く来り降ったのは神妙だ)といって、子々孫々|地頭《じとう》職たるべき印判を与えた。
この|懐柔《かいじゆう》策は美事にあたって、伝え聞いた伊豆の武士共は争って降人となって出て|本領安堵《ほんりようあんど》の印判を申し請けた。百姓達にも四公六民を令したので月余を|出《い》でずして伊豆一国は早雲の手に収められたのである。
時に早雲は六十一歳で、一介の|処士《しよし》が国土を|斫《き》り取ったのは先例のないことで、群雄割拠の草分け、門閥打破、実力主義の先駆をなしたのである。
しかもそれは、親を弑した賊子を|誅《ちゆう》した堂々たる義戦といった体裁になっている。だが事実は必ずしもそうではないのである。
当時、|扇 谷《おうぎがやつ》|上杉定正《うえすぎさだまさ》と、|山内《やまのうち》上杉|顕定《あきさだ》とは互いに兵を構えて譲らず、相手を|仆《たお》した上で無力な公方に代って関東を支配しようと思っていた。
そこで扇谷上杉は、前から今川氏とは親しかったので、この際早雲を味方に引き入れて山内上杉に|衝《あた》ろうと計り、早雲を手引きして山内上杉の分国である伊豆に打ち入らせたのである。
|新撰和漢合符《しんせんわかんごうふ》にも「早雲|豆相《ずそう》に入る、定正(扇谷)が引入る」とある。
だから茶々丸が親を殺したりしなくても、早雲は修善寺の湯に浸りながら、早晩伊豆を取ってやろうと思っていたのである。
世間では早雲が賊子を誅して独力で伊豆一国を斫り取ったように伝えられているが、扇谷上杉というような黒幕まで控えているので、堂々たる善戦というのも真相はこうしたもので、|毛利元就《もうりもとなり》の|厳島《いつくしま》の義戦同様、名分を利用したに過ぎない。
それにしても、平素実力を蓄え俊敏に機会を|捉《とら》えて、瞬く間に歴史と伝統とを持った旧権力を仆して伊豆一国を掌握した早雲の腕前は、非凡といえば非凡であろう。
その後も早雲は扇谷上杉の味方として武蔵相模に侵入して山内に属する諸城を攻め|陥《おと》したが、小田原には扇谷上杉の家来大森|氏頼《うじより》がいたから、早雲は小田原を経て自由に、武相方面に進出することが出来たのである。
だが早雲は、関東|制覇《せいは》の基礎工作時代にこそ扇谷上杉とのブロックは大いに必要があったが、雄飛の時期に入っては既に邪魔である。しかも小田原城を手に入れないかぎり関東への進出は不可能である。
こうしているうち、|明応《めいおう》二年十月、扇谷の上杉定正は五十一歳で|歿《ぼつ》し、その養子|朝良《ともよし》は不肖で兵威も衰えた。
小田原城主の大森氏頼は文武に練達し、上杉定正を|輔佐《ほさ》して大功があり、早雲も|頻《しき》りに|慇懃《いんぎん》を通じて、何かにつけての便宜を得ていたが、この氏頼も上杉定正と同年に歿し、その弟の|藤頼《ふじより》が後を継いだ。
ところがこれがまたすこぶる|凡庸《ぼんよう》だったので、早雲にとっては|千載一遇《せんざいいちぐう》の好機が到来したわけである。
藤頼に取り入って油断させ機を窺っていた早雲は、明応三年藤頼に向かって(箱根山中で鹿狩をしたいから)と断って置き、|狩装束《かりしようぞく》に身を固めた軍兵を連れて箱根を越え急に小田原城を襲った。不意を討たれた藤頼は防戦の|術《すべ》もなく城を捨てて|遁《のが》れた。ここに早雲は関東統一のために最も重要な|一石《いつせき》を下したのである。
つづいて彼は、翌明応四年、五年及び|文亀《ぶんき》元年と両三度|甲斐《かい》に侵入して武田氏に威圧を加えている。
小田原城攻略は、いかに乱世とはいいながら、あまりにもやり方が|奸悪《かんあく》である。小田原城を手に入れない以上、北条氏は小国の主で終わる外はなかったのである。
それはともかく、小田原城を取った彼は何故、ここにいないで韮山などにいたかというと、それは伊豆が要害の地であるからだ。伊豆の国は東海道の|咽喉《いんこう》を|扼《やく》し、西は|駿遠《すんえん》の諸国を制し得るし、東は|武相《ぶそう》を制することが出来る。だから鎌倉、室町、江戸の諸時代を通じて重要視されている。頼朝が伊豆を分国としたのも、単に彼がこの地から崛起したという縁故だけではない。
関東を保つには箱根を守らねばならぬ。箱根を守るには伊豆がなければならぬ。伊豆は丁度鎌倉の|外屏《がいびよう》といった位置に当たっている。
足利尊氏も初めから伊豆を大事にしていた。鎌倉京都の往来には必ず三島を通る。もし伊豆が敵手に落ちるならば直ちに交通は断たれる。だから|元弘《げんこう》三年尊氏は彼の|外戚《がいせき》で最も信任している兵庫守上杉|憲房《のりふさ》を伊豆の|名越《なごや》の|地頭《じとう》職に補している。また伊豆の守護職には彼の参謀ともいうべき上杉|重能《しげよし》(憲房の養子)を任じ、その子孫に伝えさせている。
更に徳川家康は、伊豆を直轄とし江川氏を代官として世襲させている。
武田信玄なども駿河を取った後、更に伊豆を取ろうとして|黄瀬《きせ》川を渡ってしばしば伊豆に攻め入り北条の兵と戦っているが、やはり駿河を確実に手に入れるには、どうしても伊豆を手に入れておかないと安全感が得られなかったらしい。
早雲が小田原に移らないで終始この韮山にいたのもこうした理由によるものである。殊に|甥《おい》で|主筋《しゆすじ》に当たる今川氏を保護する必要からいっても韮山にいるのが便利である。
彼は甲斐の武田氏を威圧し、或は三河の松平氏に対抗して今川氏のために|守成《しゆせい》の任をつくしつつ自己|防禦《ぼうぎよ》をもやり、一方では武相に|驥足《きそく》を|展《の》ばして関東統一の宿志達成に|邁進《まいしん》したのである。
|余譚《よだん》だが、後世秀吉が小田原城を攻めた時、韮山城を守っていた|氏規《うじのり》は氏政の弟で北条家随一の名将といわれた人物である。
攻囲軍の主将は|織田信雄《おだのぶお》で、四万四千の寄せ手も|爾《さいじ》たる韮山城に手を焼き、猛将|福島正則《ふくしままさのり》さえも一時退却の憂目を見ている。
しかもこの城は、関八州の城が残らず陥落した後、はじめて開城した。実に壮烈な|籠城《ろうじよう》振りであった。
北条|方《がた》がこの城に名将を付して死守せしめ、一方秀吉は多大の犠牲を払ってまで攻めているのは、韮山城と小田原城とは|唇歯《しんし》の関係に|在《あ》ったからである。
秀吉もこの時の氏規の籠城振りには感心して、領地を与えて北条氏の|祀《し》を存し、徳川もその子孫を諸侯に列した。明治天皇の侍従として名高い北条|氏恭《うじやす》子爵は氏規の|後裔《こうえい》である。
して見ると、北条氏が崛起したのも韮山からであり、北条氏の祀の存続したのもまたこの韮山で、韮山と北条氏とは始めあり終わりありというべき深い縁故があるわけである。
早雲の武名は日に月に武相の間に高まったので、今度は両上杉が協力して彼を警戒するという状態になって来た。
この頃|永正《えいしよう》四年越後の上杉氏の老臣|長尾為景《ながおためかげ》(|謙信《けんしん》の父)が威勢を振い、主筋に当たる上杉|房能《ふさよし》と戦ってこれを殺し、上杉の実権は長尾氏に帰するようになった。
そこで山内上杉の顕定は長尾為景討伐のために越後に進入したが、|敢《あえ》なく敗死を遂げた。
ここに早雲はまたもや機会を|掴《つか》んだ。彼は越後の上杉氏に代った為景を通じて関東の上杉氏を圧し、為景は早雲を利用して越後の上杉氏を抑えようとしたのである。
早雲は|相模《さがみ》の|高麗寺《こうらいじ》及び|住吉《すみよし》の古城を修築して立て|籠《こも》り|遥《はる》かに為景に応じ、山内上杉の家来、上田|蔵人《くらんど》を誘って神奈川の|権現《ごんげん》山に立て籠らせた。これが今の神奈川の台である。
こうして|漸次《ぜんじ》扇谷上杉である|朝良《ともよし》の居城、江戸城を圧しようとした。
朝良は捨てて置いては一大事というので、自ら兵を率いて権現山を攻めたので遂に城は陥った。早雲もチャンスが|潰《つぶ》れかかったのを見て一旦朝良と和して兵を収めたが、その後も機会ある度ごとに上杉に迫り、ついに彼の勢力は江戸付近にまで及ぶに至ったのである。
次いで早雲は武相経営の邪魔になる相模の三浦氏を滅ぼしたが、三浦氏は鎌倉時代からの豪族で代々三浦郡を本拠とし扇谷上杉に属していた。
三浦|義同《よしあつ》は|導寸《どうすん》と号し文武に秀で|大住《おおすみ》郡の岡崎城におり、その子|義意《よしい》は八十五人力といわれる豪傑で同じく|新井《あらい》城にいた。
永正九年八月、早雲は自ら兵を率いて岡崎城を攻めて導寸を三浦郡の|住吉《すみよし》城に走らせ、更にこれを攻めて新井城に退かせた。
新井城は海中に突出していて、東を首とし西を尾として、北に|網代港《あじろみなと》を控え|油壺《あぶらつぼ》の入江に臨み、糧食の続くかぎり攻めるに難く守るに都合のいい堅城である。
早雲は永正十五年までかかってこの新井城を取り三浦氏を滅ぼしている。
江戸城主上杉朝良は、三浦氏が滅んではいよいよ不利になるので自ら兵を率いて相模に入ったが、早雲は鎌倉の|玉縄《たまなわ》城に|邀《むか》え撃ちこれを敗走させた。
三浦合戦の勝利を祝って、早雲は|佩刀《はいとう》に自筆の|添状《そえじよう》をつけて伊豆の三島神社に奉納した。二つとも現存している筈だ。
こうして早雲は上杉氏を追い詰めたが、何といっても関東公方の勢力は隠然たるものがあり、一時これを|担《かつ》がねば仕事が困難だと知って下総の古河にいる関東公方|政氏《まさうじ》を利用して、上杉氏に最後的打撃を加えようとしたのである。
関東公方に取り入った早雲は、上杉氏が公方|家《け》に対して異心を|懐《いだ》いていると|讒《ざん》した。公方政氏は相手にしなかったが、その子|高基《たかもと》は手に乗り、政氏高基の親子は不和となり、ついに兵を交えるに至った。
高基は早雲を|援《たす》けて上杉氏を傾けようとし、関東の諸族も二派に分かれ、この混乱状態は早雲の死後までつづいたが、政氏が隠居し高基が公方家を継いで落着した。結局早雲方の勝利になったわけである。
ところが新公方高基の子|晴氏《はるうじ》がまたもや上杉氏に心を寄せ、親の高基を攻めたが北条|氏康《うじやす》のために|卻《しりぞ》けられ、公方家は晴氏の子|義氏《よしうじ》が継いだ。ところが、この義氏の母は北条|氏綱《うじつな》の娘だから、関東公方というものは、結局北条氏の外孫に帰してしまったわけである。
逐次早雲にその勢力を|蹙《ちぢ》められて行った上杉氏は、氏綱を経て氏康の代には関東から完全に足跡を絶ってしまった。
早雲は上杉定正の手引で|堀越公方《ほりこしくぼう》茶々丸を滅ぼして伊豆を取ったのを手始めに、扇谷に迎合しておいて後には小田原城を|欺《だま》し討ち的に奪い、古河公方に水を向けて上杉氏を遠ざけ、旧勢力を離間分散させてその隙に割り込み、最後に婚姻政策で抑えてしまうなど、いわゆる|梟雄《きようゆう》が持つ|奸悪《かんあく》な半面を暴露している。
しかし、謀略は戦国諸将につき物である。
程度の差違があるのだ。
早雲は駿河の富士郡|下方庄《しもかたしよう》十二|郷《ごう》、二百の農民兵を以て起こったのだから、相当|辛辣《しんらつ》なやり方も必要だったのだ。
しかも、茶々丸を滅ぼした時、早雲は既に六十一歳である。八十八まで生きられると分かっていたわけではないし、あまりのんびり構えてもいられなかったのであろう。
|天正《てんしよう》十年に山崎で光秀を討った秀吉は、十八年には小田原城を攻め落して足かけ九年で天下を平定している。早雲は相模一国を取るに二十五年も費やしている。これを見ると秀吉の運の好さが思われる。
また家康が無理をしないでジリジリ天下を取って行ったのに反し、早雲は関東五カ国を取るのに、無理の押しつづけといってもよい。時代や環境にもよるのである。
外部に対しては無理な|鋒先《ほこさき》も向けねばならなかった早雲は、内部をうまくまとめて士民を悦服せしめている。
氏綱を経て氏康の頃まではいかにも民政に心を傾け、領内の租税も|四公六民《しこうろくみん》で付加税などは一切免除している。
六公四民、或は七公三民などといい、なおその上|棟別銭《むねべつせん》、|段銭《だんせん》、|土倉役《どそうえき》などを付加した他領に較べて、当時としては非常に寛大なものである。
彼が伊豆を|掠略《りやくりやく》した時にも、置き去りにされた病人に一々医療を施した。
一旦|逃《にげ》散じた民衆もこれを伝え聞いて帰参しその|堵《と》に安んじたのである。
伊豆でも小田原でも善政を|布《し》いて士民の心を得ている。殊に小田原の城下などは民衆が移り住み、百工技芸|鬱然《うつぜん》として起こり、特に武具兵器の製造が盛んで、代表的な戦国都市になったのである。
早雲はかつて人をして|六韜三略《りくとうさんりやく》を講じさせたが、(|夫《そ》れ主将の法は務めて英雄の心を|攬《あつ》むるに在り)という|条《くだり》になると、
(もういい、それで分かったから)といった。
士心|収攬《しゆうらん》術は、六韜三略など読まなくても手に入ったものだった。
|朝倉宗滴話記《あさくらそうてきわき》に、
伊勢|早雲《そううん》は針をも倉に積むべき程の| 蓄 仕 候 《たくわえつかまつりそうらい》つる。|然 雖《しかりといえども》武辺者につかうことは玉をも|砕《くだき》つびょう見えたる人にて候由、|宗長《むねなが》常に物語り候。
倹約だが、武事には金を惜しまなかったのだ、といっている。宗長は当時の|連歌師《れんがし》で早雲にも親しく会った人間である。
|早雲寺《そううんじ》殿二十一ヶ条という家訓があるが、学問、礼儀、日常の修養、心がけ等について|訓《おし》えているが、信玄の武田家百日録のように、
四季を通じて毎晩|紙帳《しちよう》を二カ所|吊《つ》って、これを半夜|替《がわ》りに|臥《が》し、どちらに寝ているかを家来は勿論、妻子にも知らせるな。とか、
主人独居のところに家来が入って来たら、身近く寄らないうちに早く目を配れ、もし腰のものを付けたままだったら近寄ったところを|斬《き》り伏せよ。
といったような物騒な項目は一つもない。士心がよく帰伏していたのだ。
早雲は学問好きで、将士にも奨励している。
|今川本《いまがわぼん》の|太平記《たいへいき》に永正二年の|奥書《おくがき》があるが、それによると早雲はいろいろ異本を集めて自ら|校合《きようごう》し、足利学校に送って批評させて是非を決定させ、また|壬生三位《みぶさんみ》の上洛の時に托して朱点と読方を付けて|貰《もら》ったという。
|東鑑《あずまかがみ》の北条本というのは、小田原落城の際、黒田|如水軒《じよすいけん》が、|媾和《こうわ》談判の労を取った謝礼として早雲の|佩刀《はいとう》及び陣具と一緒に贈られたのを徳川|秀忠《ひでただ》に献じたものである。
当時、六韜三略や東鑑太平記などは流行した書物だが、早雲の態度は一寸|素人《しろうと》ばなれがしている。
北条家の諸制度は鎌倉幕府に|倣《なら》っている点が非常に多いが、北条の姓も彼が北条に近い韮山にいたのと、|泰時《やすとき》、|時頼《ときより》などの政治の影響を受けているところから付けたものらしい。
もっとも早雲がみずから北条と名乗ったという事実は、|文書《もんじよ》や記録の中にも見出せない。どれにも伊勢とある。北条の姓は早雲以後に称したものであろう。
それはともかく、伝統も家風もない一介の処士が、一朝風雲に乗じて四隣を|風靡《ふうび》し、国土を経略する場合、先人が|遺《のこ》した治国の要綱に対して燃えるような研究心を感じたのは当然のことである。
早雲は永正十六年八月十五日韮山城で病歿した。遺命によって氏綱が修善寺で火葬し、京都|大徳寺《だいとくじ》派の長老を招いて箱根|湯本《ゆもと》に早雲寺を|建立《こんりゆう》した。
もし北条早雲が出なかったら、関東公方家などは武田信玄あたりが亡ぼしているかも知れない。
そうなると|甲越《こうえつ》は段違いとなり、信玄は川中島あたりで二十年も、|小競合《こぜりあい》の相手などしていない。今川義元も徳川家康も力の相違で|圧《お》し|潰《つぶ》され、信玄のために上洛の|途《みち》を開き、後世秀吉など、
(信玄は、はかの行かぬ戦争をした)
などと|嘯《うそぶ》いていられなかっただろう。
[#改ページ]
|明智光秀《あけちみつひで》は十兵衛といい、|美濃《みの》の|土岐《とき》氏の|支族《しぞく》で、父祖が数代明智|郷《ごう》に住んだので明智を名乗った。
|弘治《こうじ》二年四月、光秀は、父光綱が斎藤|義龍《よしたつ》のために殺された時に|殉《じゆん》じようとしたが、|叔父《おじ》の光安はこれを|諌止《かんし》し|宗家《そうけ》を興すべきを諭し、自分の一子光春を託しておいて明智城で|拒《ふせ》ぎ死んだのである。
以後十年の間、光秀の浪々生活が続くのである。彼は|越後《えちご》の坂井|郡《ごおり》 |高柳郷《たかやぎごう》にたどりつき、塾のようなものを開いて軍学の講義などをしていたが、そのうちに越前の朝倉|義景《よしかげ》に迎えられて、一時そこに足を|停《と》めたが志を得ないで辞し、丹後の|守護《しゆご》長岡|藤孝《ふじたか》のところにも赴いたが、老臣と相容れないのでここをも去ったのである。後年、長岡改め細川|忠興《ただおき》に娘を与えたのは、その|因縁《いんねん》によるのだ。
光秀と信長との関係は、|永禄《えいろく》九年以後のことで、光秀が三十九歳の頃である。加賀の山中温泉に湯治しているところへ信長の使者が来て、岐阜へ迎えたのだといわれる。だから軍学者としては、相当聞こえていたのであろう。
当時彼が与えられた禄高が四千二百貫というから、四、五千石で召抱えられたのだろう。
|本能寺《ほんのうじ》の異変後に光秀が家臣に語った言として、
(岐阜に赴き武勲を励み|只今《ただいま》両国〔|近江《おうみ》、|丹波《たんば》〕を|知行《ちぎよう》せり、|元亀《げんき》二年には丹波の国を治むべき由につき、|彼国《かのくに》へ発向し粉骨を尽くして屈戦して、|終《つい》に丹州を手に入れき、織田家に来て十七年に成りぬれど|強《し》いて信長の|譜代《ふだい》恩顧というには非ず、|尤《もつと》も君恩とは云いながら、又さのみ君恩と|謂《い》うに非ざるべし、只武勇の|鋒先《ほこさき》を|以《もつ》て軍功ある故なり、誠に昼夜|安堵《あんど》に|住《すま》わず今日に至りぬ)
とある。けっきょく、自分の力で取った知行だというのだ。
今川義元を滅ぼしてから、一層天下に望みをかけるようになった信長は、広く智勇の人材を求めたが、光秀もまた|客臣《かくしん》の一人として、織田領の接続地帯討伐に武勇の鋒先を振ったのである。
当時のような封建時代の人的関係は、基本的には君臣主従より|他《ほか》にはないのだから、信長と光秀も当然君臣の間柄と呼ばれるべきだが、彼より九年早い永禄元年に信長の|草履《ぞうり》取りに住みこんで、次第に取りたてられた藤吉郎あたりとはわけが違うのである。
だから(|強《しい》て信長の譜代恩顧というには非ず、尤も君恩とは云いながら、又さのみ君恩と謂うに非ざるべし、只武勇の鋒先を以て軍功ある故なり)というのも、あながち「|弑逆《しいぎやく》行為」を合理化するための言葉ではなくて、当時光秀の気持や、二人の関係の真相にも触れているもののようだ。
光秀は伊勢征伐を|初陣《ういじん》に、数年の間に丹波、|若狭《わかさ》、近江その他京の|咽喉《いんこう》部重要地帯を征討して、信長の上洛途上の障害物を|芟除《せんじよ》した。
いつも他人に向かって最善の努力を要求する信長さえも、光秀の働き振りには満足して(丹波国|日向守 働、《ひうがのかみのはたらき》天下之|面目《めんもく》を施し候)といっている。そして光秀は|天正《てんしよう》二年に|従《じゆ》五位|下《げ》日向守に叙せられ、翌三年には族を|惟任《これとう》と改め、近江の坂本及び丹波を兼領し、織田家の屈指の名将と|謳《うた》われるようになったのである。
秀吉の築城技術は例の一夜城などで世上に有名だが、光秀が織田|信忠《のぶただ》の居城の二条の城を始め、坂本城、|安土《あずち》、亀山両城の設計修築をやって非凡の腕前を振ったことは、あまり知られていない。
光秀の|謀反《むほん》については種々説があるが、老人雑話という本などのように(光秀は亀山の北方、|愛宕《あたご》の山つづきに|城砦《じようさい》を構えて|周山《しゆうざん》と名づけ、自分を周の|武王《ぶおう》に比し信長を|殷《いん》の|紂王《ちゆうおう》になぞらえて謀反の宿志を懐いていた)とか、|或《あるい》はかつて光秀が|流寓《るぐう》して|毛利元就《もうりもとなり》の|許《もと》に行ったところが、元就は光秀の人相を一見して反骨あるを認め、ついに用いなかった、などというのは、結果的に、初めから光秀を悪人に見たてた説で、ひどすぎる。
また一方、|明智軍記《あけちぐんき》には、信長の|上使《じようし》青山与三がやって来て(|出雲《いずも》、|石見《いわみ》を賜う、しかし丹波、近江は召し上げらる)旨をいい捨てて帰った。そこで光秀は、まだ敵国の毛利氏のものである出雲、石見を貰ってそれを切り取るのに苦戦している間に粉骨して手に入れた旧領丹波近江は召し上げられ、沖にも出られず磯にも寄れない状態に置き、やがて佐久間、荒木、林などの諸将のように自分も同じ滅亡の運命に突き落されるに違いないとて、ついに謀反に決したというのだが、|如何《いか》に猛断威決が信長の本領だとはいえ、光秀の既得権を没収して未得権に代えるとは、あまり乱暴すぎる話で、信じがたい。
その他の諸説は光秀が丹波の|波多野《はたの》光治兄弟を|八上《やがみ》城に攻めた時に、母親を人質として|和睦《わぼく》し、兄弟を信長の許に送ると、信長はこれを殺してしまったので、波多野の家来達は怒って光秀の母親を殺した。そこで十年後の本能寺の変は、つまり、母親の|仇討《あだうち》だというのである。
また、|森蘭丸《もりらんまる》が信長に、亡父の旧領近江が欲しいと懇願すると(三年待て)といった。ところが現在近江は光秀の所領なので、もれ聞いた光秀は自分の地位を|危惧《きぐ》して自衛的に先手を打ったのだという説である。
或はまた、光秀が|稲葉一徹《いなばいつてつ》の許を去った|那波和泉守《なはいずみのかみ》、斎藤|内蔵助《くらのすけ》を召し抱えて厚遇したので、連れ戻そうとして一徹は信長に訴えると、信長は立腹して、光秀の|髻《もとどり》を|掴《つか》んで引き据え刀に手をかけた。光秀が悲涙を|呑《の》んで退下すると、居合わせた将士は(光秀の風情尋常ならず)と|囁《ささや》き合ったという。
武田征伐の時にも信長は、|諏訪《すわ》郡の本陣で|一寸《ちよつと》した言葉の端を|捉《とら》えて立腹し、|懸作《かけづく》りの|欄干《らんかん》に光秀の頭を押し付けて|打擲《ちようちやく》した。光秀は(|諸人《しよにん》の中でのこの|辱《はずかし》め、無念千万)とて、思い詰めた|気色《けしき》が面上に|溢《あふ》れていたと。
それから、酒嫌いの光秀が、信長から七杯入りの大盃を強いられて、辞退すると、信長は(酒が呑めぬならこれを呑め)といって|白刃《はくじん》を鼻先に突きつけたので、光秀は夢中で大杯を呑み|乾《ほ》した。
これを見た信長は(さても命は惜しきものよ)と冷笑した、という。
こうした話は、|太閤記《たいこうき》、明智軍記を初め、|常山紀談《じようざんきだん》、|東照軍鑑《とうしようぐんかん》、|祖父物語《そふものがたり》などに出ているが、そのままの事実はともかくも、信長と光秀の交渉を反映したものだと思う。
もっとも、森蘭丸をして光秀を|折檻《せつかん》させたというのは、ありそうもない作り話である。
信長が軍功に対しては決して|賞賜《しようし》を惜しんだりする人間でなかったことは、光秀や秀吉の出世がすばらしく早いのを見てもよく分かるが、|足利《あしかが》末期の乱世を|叱咤《しつた》した豪傑信長は、率直というのか、|直截《ちよくさい》というのか部下をまるで子供扱いにした。
ほめる場合でも、秀吉の言にもあるように「右の|御褒美《ごほうび》の事は申すに及ばず、安土へ伺候致し、上様(信長)へ御目にかかり候えば、御座所へ召し出されて筑前が顔をなでさせられ|侍《さむらい》程の者は筑前にあやかりたく存ずべしと|仰出《おおせいだ》され候|云々《うんぬん》」と。
肩を|叩《たた》くとか腕をとって褒めるということはあるが、顔を|撫《な》でるなんて、勇士も信長にかかってはまるで子供扱いだ。
ところが|一度《ひとたび》怒ると更に始末が悪い。|嘲罵《ちようば》至らざるなく、さすが|元亀天正《げんきてんしよう》の荒武者達も堪えられないほどだった。
草履取りの時から仕えている秀吉あたりだと、人間も大きいし、|怒罵嬉笑《どばきしよう》も(主人の心|易《やす》だて)くらいに思って受け流せるが、教養があり儀礼のわきまえもある光秀には、そうは行かなかった。そして、譜代恩顧でもない彼には、一々意味があるように取れて、心を暗くしたのであろう。
信長も、秀吉だと|洒 々《しやあしやあ》としていて一向|手応《てごた》えがないが、光秀に対しては張合いがあるので(光秀の|体裁《ていさい》屋が)と思うとついアラを探して意地悪もいって見たくなって、しばしば嘲罵の的となるようなことがあったのだろう。
光秀にして見れば、随分骨身も惜しまず働いているのに、その心情を理解されないでつらく当たられるし、恩顧の家来でないというひがみもあって、次第に|怨望《えんぼう》を貯えるようになったものと思われる。
とにかく性格的に二人の関係は、そりが合わないのだ。|相剋《そうこく》しないではいられない極端な志であったのだ。
その点で、光秀の反逆は宿命的なものがある。
|川角《かわずみ》太閤記によると、信長から家康|饗応《きようおう》役を仰せつかった光秀は、奈良の|市人《しじん》や神社仏閣などに命じて珍器を納めさせ、また京や堺から逸品を取り寄せて用意していたが、信長の気に入らなかったために役目を召し上げられ、秀吉の援兵として急に中国出陣を命じられたのである。
家康に対してあまりに|鄭重《ていちよう》にやり過ぎたというのであったらしいが、それでは光秀が怒るのも無理はない。苦心して料理した珍味を器具もろともに、安土の|城濠《じようごう》に投げ込んで|己《おの》が居城坂本に帰った。時に天正十五年五月十七日である。
料理を安土の城濠に投げこんだというのは事実かどうか分からぬが、彼の気持としては、かくもあったであろう。
光秀は包み切れない憂憤を|懐《いだ》きながらも、命に従って出陣の用意をするために居城に向かったのである。|信長公記《しんちようこうき》には、
(五月二十六日、|惟任《これとう》日向守、中国へ出陣のため、坂本を打ち立ち、丹波亀山の居城に至り参着す。次の日に、亀山より愛宕山へ|仏詣《ぶつけい》|一宿《いつしゆく》 |参籠《さんろう》いたす。
惟任日向守|心持御座候哉《こころもちござそうろうや》、神前へ参り、太郎坊の御前に|而《て》、二度三度までくじを取りたる由申候。
二十八日、|西坊《にしのぼう》にて|連歌《れんが》興行
|発《ほつ》 |句《く》 惟任日向守
ときは今あめが|下知《したし》る|五月哉《さつきかな》 |光秀《みつひで》
|水上《みなかみ》まさる庭のまつ山 |西坊《せいぼう》
花落つる流れの末を関とめて |紹巴《しようは》
|加様《かよう》に百韻|仕《つかまつ》り、神前に|籠置《こめお》き、五月二十八日丹波国亀山へ帰城)
とある。
信長は、その翌日の二十九日に安土を出発して京都に入り、本能寺に|宿《しゆく》した(当時の本能寺は今の位置とは|異《ちが》って、六条|油小路《あぶらこうじ》にあった)。このことを坂本出発(二十六日)前後に予知した光秀の脳裡には、既に|叛意《はんい》が|萌《きざ》していたのである。
それは、二十八日の愛宕山連歌興行の時に、光秀がふと(本能寺の|濠《ほり》は深いか浅いか?)と問うたのを以ても想像出来る。
紹巴が(あら|勿体《もつたい》なし)というと、光秀はハッとして口を|噤《つぐ》んだ。
また、会席半ばで、菓子に出た|粽《ちまき》を|包葉《かわ》も|剥《は》がずに食おうとした。|漸《ようや》く燃え上る叛意に我を忘れたのである。「|粽《こうそう》手に在りを併せて|食《くら》う」というところだ。
そして二十八日の晩は西の坊に止宿したが、光秀は|輾転反側《てんてんはんそく》し、しばしば|溜息《ためいき》を|洩《もら》すので(御心地でも|悪《あ》しくおわすか)と|側《そば》に|臥《ふ》していた紹巴が問うと(否否、|佳句《かく》を案ずるなり)と答えた。
自らを顧みれば、光秀も既に五十七歳である。信長のためには働けるだけ働いた。もはやいくら骨を折っても、これ以上の待遇を信長に期待することはむずかしい。自分を遇することが、物質的には薄いというわけではないが、主従らしい温情など少しも感じられないで、むしろ冷たい、水臭い間柄である。
今、光秀の同僚中最も有力な|柴田勝家《しばたかついえ》は、北国で|上杉景勝《うえすぎかげかつ》と|対峙《たいじ》中であるし、秀吉は毛利氏の大軍を控えて|一寸《いつすん》の身動きも出来ぬ破目にある。更に|滝川一益《たきがわかずます》は上州に遠征中だ。しかも、当の信長父子は、側近だけを携え、目と鼻の間の京都に滞在しているのである。
この時もし信長が、少しでも光秀を警戒する気持があったなら、ああした悲劇は起こらなかったのだろうが、光秀に魔がさしたのか、信長に死神が|取憑《とりつ》いたのか、とにかく、信長が軽装で本能寺に宿っているという事実は、ひどく光秀の叛心を誘惑したのである。
しかし光秀の気持は、五月二十六日坂本城を出発してから、二十八日愛宕の参籠を終わって再び亀山に帰った間に決ったのだから、|如何《いか》に信長が|慧眼《けいがん》でも、当人の光秀が決心しないうちに看破するということは不可能だ。
それはともかく、信長公記にも、
(|去程《さるほど》に不慮之題目出来候|而《て》、六月|朔日《ついたち》、夜に|入《いり》丹波国亀山にて惟任日向守光秀、逆心を企て、明智|左馬助《さまのすけ》、明智次右衛門、藤田伝三、斎藤|内蔵助《くらのすけ》、|是等《これら》をして、談合を相究め、信長を討果し、|天下主《てんかのあるじ》と|成可《なるべ》く調議を究む)とあるが、光秀はこの二度とない機会に乗じて日頃の|怨望《えんぼう》を晴らし同時に信長に代って天下主になろうと思ったのである。
頭のいい光秀のことだから、私怨だけならじっと抑え通すか、それでも我慢できねば怨を晴らしておいて自殺でもしたであろうが、あえて弑逆の名を犯したのは、やはり天下に対する望があったからだと思う。
これは戦国武将として、少し有能な人間は、誰でも|胸臆《きようおく》の奥深く抱いていた望であろう。ただ境遇に支配されて、発すると発しないとの相違があるだけだ。
それに、光秀のつもりでは|管領義康《かんりようよしやす》の被官たる織田氏が既に将軍|義昭《よしあき》に代っているのだ。土岐氏の支族たる自分が織田に代って天下を取ったって、当代そう不思議はないわけだ、とも思ったであろう。
もし光秀がそう考えたとしても、優勝劣敗こそ天理で、力こそ正義だ、という信条が通用していた実力主義の当時では、別に怪しむほどのことではないのだ。
征服の過程を経てのみ、統一的封建国家が誕生しようとしていた時代なのだから、最後的には、どこかで「歎かわしい不道徳」が不可避だったのだ。
当時、主君を殺した者には、足利将軍義教を弑した|赤松満祐《あかまつみつすけ》を筆頭に、|松永久秀《まつながひさひで》、|斎藤道三《さいとうどうさん》、|宇喜多直家《うきたなおいえ》以下いくらでもある。秀吉だって、主人の子供なら|斃《たお》している。
秀吉や家康はいいかげんで主家が滅亡するように、チャンスに恵まれたので、主殺しの代りに体裁のいい義戦をやってうまく天下がとれたのである。
(天下順に帰するや山崎の一戦なり、天下逆に帰するや山崎の一戦なり。順というも至順にあらず、逆というも至逆にあらず、順逆ともに似て非なるものなれど、これを明らかにする|鑑《かがみ》なく、これを|察《さと》らする識なく、英雄の一個の心智を以て、四海|万姓《ばんせい》を|弄《もてあそ》ぶこと、そもそも天の意なるや)
|宜《むべ》なるかな太閤記の一文、朗々以て|誦《しよう》すべしだ。
六月朔日、光秀は亀山城で明智左馬助、同|次右衛《じえ》|門尉《もんのじよう》、藤田伝三、斎藤内蔵助、|溝尾勝兵衛尉《みぞおしようべえのじよう》等の幹部連を呼び寄せて意中を打ち明けると、既に光秀の決意が動かし難いので、一言もなく同意したのである。
光秀|麾下《きか》一万五千の軍兵は、勿論こんな大それた計画があるとは知らないで、明けやすい夏の夜に、人馬|粛々《しゆくしゆく》として亀山を発したのである。
朔日の夜に入ってから|老《おい》ノ|坂《さか》に達し、そこで兵糧をつかい軍馬に息を入れさせた。この間に天野源右衛門を前に走らせ、|抜駈《ぬけがけ》して信長に注進する者を警戒させた。
右に行けば山崎天神馬場、摂津街道。左へ下れば京街道である。(我が敵は|正《まさ》に本能寺に在り)光秀は勿論京街道を|択《えら》んだ。この時まで、|軍兵《ぐんぴよう》は中国出陣とばかり思っていたのである。
明方近くに|桂川《かつらがわ》まで来ると、馬の|轡《くつわ》を切り捨てさせ、|歩卒《ほそつ》にも新しい|草鞋《わらじ》を履き代えさせ、火縄に|口火《くちび》をわたさせた。
用意は整った。もはや本能寺に打ち入るばかりである。自分の|主《しゆ》のみを知って、主の上に主あるを思わない一万五千の軍兵共は、|下知《げじ》のままに本能寺の森、|皀莢《さいかち》の|梢《こずえ》、|竹藪《たけやぶ》を、雲のすきに目あてにして|鯨波《とき》をつくって乱入したのである。
豪放|磊落《らいらく》の信長は、何でも自分の思い通りにやってのけるため、知らぬ間に人の恨を買うようなことがあった。殊遇してやった妹|婿《むこ》浅井長政が、よもやと思っているのに|背《そむ》いて九死一生の死地に陥ったことがあったし、今度は本能寺で、遂に取り返しのつかぬことになったのだった。
浪人光秀を、四千石で召し抱え、十七年の間に二十五万石にしてやったのだから、打ったからとて|蹴《け》ったからとて、よもや、|謀叛《むほん》などする気づかいはないと思っていたらしく、|殆《ほとん》ど|赤手《せきしゆ》で本能寺に泊っていたのである。
信長も|小姓《こしよう》達も、はじめは|下郎《げろう》達の当座の|喧嘩《けんか》だろうと思っていると、ただならぬ|喊声《かんせい》銃声がつづいて起こり、蘭丸の注進によって、やっと真相を知ったのである。
蘭丸、|力丸《りきまる》、|坊丸《ぼうまる》の兄弟三人をはじめ、小姓、|仲間《ちゆうげん》、|馬丁《ばてい》に至るまで一死防戦に努めた。この場を逃れた者は|耶蘇《やそ》教の宣教師が献上した黒人|奴隷《どれい》だけであったという。
信長も|弓弦《ゆんづる》が切れると|槍《やり》を取って防いだが、|肘《ひじ》に槍創を|蒙《こうむ》るや殿中の奥深く退き、|納戸《なんど》の口を引き立て、燃え|熾《さか》る|火焔《かえん》の中で自殺した。
無限の征服欲を駆って|海内《かいだい》平定の一路を|驀進《ばくしん》した信長も、(人間五十年|化天《けてん》の|内《うち》をくらぶれば、|夢幻《ゆめまぼろし》の如く也)、平素|愛誦《あいしよう》の|謡《うたい》通りに、五十年の人生を僅か一歳|剰《あま》しただけで、乱世の英雄らしい最期を遂げた。
|妙覚寺《みようかくじ》にいた信長の|嫡男信忠《ちやくなんのぶただ》は、二条城へ入って防戦したが、ここでも部下は百人ばかりで、追々援兵も到着したが、千人を超えなかった。
本能寺の打入りはまだ夜の|中《うち》だったが、ここは白昼でしかも双方顔見知りなので、意地もあり外聞もあるので両車は(切先より火焔をふらし)|悽壮《せいそう》な血戦をつづけた。
だが|衆寡《しゆうか》ついに敵せず、二十六歳の信忠は、脱出勧告を|劫《しりぞ》けて、父に殉じたのである。この方は逃げたら逃げられたかも知れないのだ。
|緻密《ちみつ》な頭を|敏捷《びんしよう》に働かせて信長を打取った光秀は、勢に乗じて近江に打ち入り安土城に蓄蔵された金銀珠玉を押収し、更に長浜、佐和山に攻め入って、江州方面を従えて坂本城に帰った。
勝家、秀吉、一益はめいめい敵と対陣中だから、その間に|京畿《けいき》を経営して根拠を作り、毛利と|款《かん》を通じて秀吉の背後を襲えば、天下の大勢は|自《おのず》から決するものと目算していた。
事実、秀吉が勝家などのように、ぐずぐずしていたら光秀の目算は違わなかったのだが、秀吉はすぐさま毛利と和し神速飛ぶが|如《ごと》くに引き返し、六月十一日の午前八時には既に摂津の|尼《あま》ヶ|崎《さき》に到り、十三日には|山崎《やまざき》の合戦となったのである。
光秀は、味方するにきまっていると思っていた細川|忠興《ただおき》父子が期待出来ず、その上に、一子十次郎を養子にやると約束までしてある|筒井順慶《つついじゆんけい》が、山崎の対岸|八幡《やはた》の|洞《ほら》ヶ|峠《とうげ》まで来ていながら、形勢を観望していて、ついに裏切った。
堺にいた家康も、どちらが勝つとも見透しをつけかね、どうも物騒なので本国へ引き上げた。
事実光秀は、戦略においては秀吉に勝るとも劣らぬ名将だったが、何しろ秀吉は彼の一生を通じても、珍しいほどのファインプレイを演じ、神速|駿敏《しゆんびん》に攻めて来たので、光秀も気おくれの|態《てい》であった。
それに、なまじ学問があり、仁義礼節の道をわきまえている光秀は、やはり順逆を超越することが出来なくて、京の|五山《ござん》に七千両ずつを与えて信長の追善供養を営ませたほどだから、どこか自分の行為に自信が持てなくて、自然鋒先も鈍った形であった。
秀吉の軍に攻め崩された光秀は、近臣三十騎とともに遁れて|勝竜寺《しようりゆうじ》城に入ったが、近江の坂本城に入るつもりで、夜半重囲を脱して桂川を渡り、|深草《ふかくさ》から|小栗栖《おぐるす》にさしかかった時、早くも山崎の敗戦を知って網を張っていた、|落人狩《おちうどがり》の土民の手にかかり、|敢《あえ》ない最期を遂げたのである。
光秀が事を挙げてから、ここに至るまで僅か十三日で世上、十三日|公方《くぼう》とか三日天下の話がある|所以《ゆえん》である。
安土城で山崎の敗軍を聞いた明智|光春《みつはる》(左馬助)は、金銀を|鏤《ちりば》めた楼閣を|一時《いつとき》に焼払い、一千余騎を|引具《ひきぐ》して光秀救援のために大津に|馳《は》せ向かったが、堀秀政のために打ち破られ、小舟に乗って坂本城に至った。
|琵琶歌《びわうた》などで、明智左馬助が|大鹿毛《おおかげ》に|跨《またが》り、|狩野永徳《かのうえいとく》が描いた墨画の竜の陣羽織を比叡|颪《おろし》に翻しながら、湖水を乗り切ったというのはこの時のことである。もっとも真偽のほどは、確かでない。
坂本城に入った光春は十五日、光秀の最期を聞き、その一族を殺し天主に火を放って自殺した。
[#改ページ]
|竹中半兵衛重治《たけなかはんべえしげはる》と、|黒田官兵衛孝高《くろだかんべえよしたか》を、|太閤幕下《たいこうばつか》の|二兵衛《にべえ》という。共に武将というより謀将であり、秀吉にとっては、無二の好参謀である。
このうち、竹中半兵衛の方は、秀吉より二十年も先に早死をしているが、黒田官兵衛は秀吉より七年も遅れて死んでいるから、重治は秀吉の出世時代を、孝高はその全盛時代を|扶翼《ふよく》したことになる。
それだけに、孝高は報いられたところも大きいし、太閤を|繞《めぐ》るブレーン・トラストの中でも、断然幅を利かしていた|所以《ゆえん》である。
口の悪い秀吉が、「あの、ちんば|奴《め》」とか「|瘡頭《かさあたま》め」と陰口を|叩《たた》きながらも、面と向かうと、|如何《いか》にも腹の底まで|見透《みすか》されるようで、いつもくすぐったい顔をしていたというのが、この官兵衛孝高である。
家来がカミソリのように切れるのはよいが、家来からあまり自分の図星を指されるのは、よい気持のものでない。本能寺|兇変《きようへん》の飛報を手にして(君の御運開かせられる時ぞ。よくせさせ給え!)と|膝《ひざ》を叩かれたのでは、いかなる秀吉でも(あんまり本当のことをいうなよ)である。
秀吉が黒田|如水《じよすい》をこの時から煙たがったというのは、少々誇張にしても、秀吉にとって如水は、どうしても、どこか心の許せなかった男であったことは、想像出来るのである。
しかし、秀吉は虫が好く好かないの感情だけで、動くような男ではない。それだけの才幹なり、働きなりを見せられれば、人を褒賞したり、|抜擢《ばつてき》したりする点で、決して|物吝《ものおし》みする男ではない。だから時々は、煙たがられたにしても、如水も一生懸命に秀吉に仕えたし、十余万石の大名にまで出世することが出来たのである。
如水は|天文《てんもん》十五年十一月に姫路に生まれた。幼名は万吉で|後《のち》に官兵衛といった。
父の|職隆《もとたか》は|小寺政職《こでらまさもと》の|麾下《きか》に|在《あ》って、戦功があり、主家の小寺姓を名乗ることを許されていたので、官兵衛も小寺官兵衛といっていた時がある。
如水も十七、八歳頃までは、風流の道を|嗜《たしな》み、一介の文学青年であったという。もっとも一説には、職隆は福岡の目薬売りで、官兵衛孝高は|播磨《はりま》で|伯楽《ばくろう》をやっていたとも伝えられているが、戦国の世のことだから、よく分からない。
どっちにしても、近畿に興った新興|織田《おだ》氏と、中国に雄飛する強豪|毛利《もうり》氏の衝突時代に、如水はその頭角を|擡《もた》げたのである。
山陽、山陰の諸将が相率いて毛利氏に服従している時に、独り「織田頼るべし」と|喝破《かつぱ》して小寺一族の向背を決した如水の明断はさすがである。推されて岐阜に使し、木下秀吉を通じて、信長にわたりをつけたのであるが、この時から如水は秀吉と相識の間となった。
天正五年に、信長はいよいよ中国征伐を決心して、先ず秀吉を播磨に送った。如水はこれを快く姫路の居城に入れて心を傾けて仕えた。
当時、秀吉が如水にやった手紙に、
(……我らにくみ|申物《もうすもの》は、|其方《そのほう》までにくみ|申事《もうすこと》あるべく候。|其《そ》の|心得《こころえ》候て、用心あるべく候。さいは|懇《ねんごろ》に申されず候|間《あいだ》、ついでをもて懇に|可申入《もうしいるべく》候。|此《こ》の|文《ふみ》見えもすまじく候間、さげすみにて御読みあるべく候|云々《うんぬん》)
とある。自分で下手な手紙だがと卑下しているように、如何にも拙文だが|惻々《そくそく》たる秀吉の誠意は書表に|躍如《やくじよ》として、如水父子の心服を|掴《つか》んで離さなかったのである。
天正六年三月には、如水は秀吉の|先鋒《せんぽう》となって、|別所《べつしよ》小三郎|長治《ながはる》を、|三木《みき》城に包囲した。この|役《えき》で、信長は、秀吉の功を賞して、|鞍馬《あんば》一頭を贈って来た。ところが秀吉は、この功官兵衛に在りといってこれを如水に与えた。如水これを受けるや、家来の|母里太兵衛《もりたへえ》の功に帰して、また太兵衛にやってしまった。士心を得るに天才的であった二人のやり方が、期せずして一致しているのは面白い。
この母里太兵衛は後年|福島正則《ふくしままさのり》から名槍「日本号」を、|呑《の》み取った豪傑だ。「日本号」の槍は、いつか高島屋の名刀展覧会に出ていた。
その後、如水は|備前《びぜん》の|宇喜多直家《うきたなおいえ》を戦わずして、織田|方《がた》に|招撫《しようぶ》することに成功し、智謀の将としての印象を、深く秀吉の頭の中に刻み込んでしまった。このとき、如水は三十三歳の壮年である。
一方、肝心の主家である|小寺政職《こでらまさもと》は、まだ毛利恐怖症に|罹《かか》っている。そこへ信長の|驍 将《ぎようしよう》|荒木村重《あらきむらしげ》が、伊豆の|有岡《ありおか》城に|拠《よ》って信長に|叛旗《はんき》を翻したので、政職の腰はいよいよぐらついて来た。驚いた孝高は、政職の説得に赴き、更に荒木村重を翻意せしめるべく、有岡城に乗り込んだ。
ここではさすがの彼も、失敗して、そのまま、城中に抑留され、散々な目にあった。
天正七年六月に有岡城が陥った時、栗山善助(後年黒田騒動で有名な栗山|大膳《だいぜん》の父である)城中に|紛《まぎ》れ込み、一室に幽閉されていた如水の手をとって|扶《たす》け出そうとしたが、如水は歳余の閉居と|瘡《かさ》のために、|片脚《かたあし》をすっかりやられていて、歩くことが出来なかった。
その後|有馬《ありま》の温泉で湯治をしたが、ついに|跛者《びつこ》となり、これから秀吉に(ちんばちんば)とやられたのである。
翌年さしもの三木の堅城も陥落し、如水は功によって|宍粟郡《しそうごおり》二万石に|封《ほう》ぜられ、更に|揖東《いつとう》郡一万石を贈与された。如水父子が|小寺《こでら》の姓を廃して、黒田姓に復したのはこの頃からのことで、孝高自身も|漸《ようや》く雌伏時代を脱して、雄飛時代に入ることになる。
中国|役《えき》の作戦は、主として竹中半兵衛と、黒田官兵衛の二人によって、練り上げられたものであったが、半兵衛が三木城攻めの時、陣中に|歿《ぼつ》してからは、官兵衛一人に、その責任と権力が移って行ったことは、自然である。|颯爽《さつそう》として、参謀黒田官兵衛が迎えた次の外交戦こそ、まさに中国陣の大詰ともいうべき、高松城の水攻めである。
黒田家譜によると、如水先ず命を受けて、|安国寺恵瓊《あんこくじえけい》を招き、|媾和《こうわ》談判の口火を切ったとあるが、これはウソである。すでに高松城は水中に孤立無援の悲境にあり、旬日の後には、信長の援軍も到着しようとしている。こんな有利な状態に在って如水ほどの外交家が媾和を持ちかける筈はない。|矢鱈《やたら》に如水を事件の中心に持ってこようとして、ウソを書くのである。
何しろ相手の恵瓊は、当時でも有数の黒幕的人物である。一筋縄でゆかぬこの坊主と、対等の談判をやり得る者は、攻囲軍では如水を|措《お》いて外に人は無い。
割譲地の交渉はさりながら、如水も秀吉も断然主張したのは、城将|清水宗治《しみずむねはる》の自決である。武士の情けに欠けているようではあるが、ここで頑張って、武威のほどを示しておかなければ、|後々《のちのち》の押えが利かなくなると思ったからだ。
天正十年六月二日、恵瓊親しく|蛙《かえる》ヶ|鼻《はな》なる秀吉の本営に赴いて和議の条件を承諾したことを告げ、四日を以て、宗治|屠腹《とふく》の日と決めた。
ところが翌三日夜半、長谷川|宗仁《そうじん》からの飛脚が、如水のもとに青天の|霹靂《へきれき》の如く本能寺の兇報をもたらした。官兵衛、先ずその使者に酒色を与えて休息させ直ちに秀吉にこの悲報を|披露《ひろう》したのである。
秀吉は、この兇報が|外《ほか》に|洩《も》れるといけないから、飛脚を|斬《き》れといったが、如水は功こそあれ罪のないものをといって、ひそかに助けたという。
もうこの時には、官兵衛の|肚《はら》は決まっていた。信長の代りに秀吉を押し立てて、天下取りの座に据えようというのである。黙々として思案に余っている秀吉の|側《そば》近く、膝を進めて、アジったのは、前に書いた通りだ。
明くれば四日、城将清水長左衛門は、その兄|月清入道《げつせいにゆうどう》と共に、名誉の忠死を遂げた。
五日には、|小早川隆景《こばやかわたかかげ》は人質として弟|元総《もとふさ》等を連れて、秀吉の本陣にやって来る。
信長の死んだことなど、おくびにも出さずテキパキと締めつけるところだけ締めておき、割譲地の方で、あっさりと譲歩をして、媾和の誓書を作って交換した。
その喪を秘して、その変を|掩《おお》い、鬼神もその間を|覗《ねら》う|能《あた》わざる|刹那《せつな》を利用して、ひと段取りをつけたのである。敏速をもって鳴る秀吉と、|今張良《いまちようりよう》の名ある如水の合作だから、その外交振りは水際立っていた。
こうしておいて、官兵衛は秀吉に向かって(今こそ、自分が口癖にいう、片草履片下駄の時だ)といって、|上洛《じようらく》を急がせた。
草履と下駄は、両足で履くのが常道だが、|間髪《かんはつ》の場合には、片足ずつ引っかけても、|駈《か》けつけなければ、機に応じ得ないというのである。
秀吉にしても今更如水の|御《お》談議を聞くまでもない。|神速長駆《しんそくちようく》、十一日には早くも|摂津《せつつ》の|尼《あま》ヶ|崎《さき》に達し、十三日には|山崎《やまざき》の一戦となった。
毛利方では|後《あと》になってそれと知り、地団駄を踏んで|口惜《くや》しがっても、|人質《ひとじち》をとられているので、どうにも手の出しようがない。
しかも奇策縦横の官兵衛は、山崎の合戦でこの人質の持っている|旌旗《せいき》を押し立てたところ、|明智方《あけちがた》では望見して、秀吉には毛利の援軍がついているといって、意気|沮喪《そそう》したという。
秀吉|歎称《たんしよう》して(戦陣に臨む者は、|孝高《よしたか》の用意を以て用意とすべし)と言っているが、|蓋《けだ》し本能寺の変が到ってから十日間こそ、如水の五十九年の生涯の中で、最も花々しいページを占めるものといわなければならない。
如水が大坂の|天満《てんま》の|邸《やしき》にいた頃、|糟谷助左衛門《かすやすけざえもん》、|遊佐新左衛門《ゆさしんざえもん》等が訪れて、軍談に花が咲いた。この時一人が、如水に(|足下《そくか》の勇武は一世に高いのに、|斬将搴旗《ざんしようけんき》の功を聞いたことがないが、事実あるのか、無いのか)と無遠慮に聞いた。如水答えて(人には得手不得手がある。自分は幼少から従軍しているが、|刀槍《とうそう》を振って闘うのは不得手だが、|麾《き》を取って軍を従え、一挙万人の敵に|克《か》つことになると、あまり人には|負《ひけ》をとらぬ自信がある)と答えた。
この如水の指揮能力については、秀吉も面白いことを言っている。
|小田原陣《おだわらじん》の時、一日、秀吉は諸営を|巡閲《じゆんえつ》して、左右に言った。
(|頼朝《よりとも》が富士川に軍したとき、その衆は二十万と称した。以来彼の如き大軍を|統《す》べた者は無かったが、今、|俺《おれ》の率いる軍は頼朝以上だ。この大軍を自由に操縦する者は、|海内《かいだい》に|外《ほか》には無い)
と豪語して、|暫《しばら》くして、気がさした。(いや在る。在るとすればあの|勘解由《かげゆ》くらいだ)
と少し口惜しそうにいったそうである。勘解由というのは、孝高の官名である。
とにかく、中国陣の後、天正十一年の|賤《しず》ヶ|岳《たけ》から十三年の四国|長曾我部《ちようそかべ》征伐、十四年の九州陣と、孝高は目覚しい手柄を|顕《あらわ》して|豊前国《ぶぜんのくに》六郡、十二万石を領するに至り、|中津《なかつ》城にいることになった。ところが、久しからずして天正十七年、如水は突如として、病弱を理由として、引退を申し出た。
秀吉は(まだ四十四歳では、衰老と称する|齢《よわい》ではないが、|帷幄《いあく》に参画するなら、長政の襲封を許そう)といって、長政を|甲斐守《かいのかみ》に任じて、孝高を軍国の第一線から退かして、顧問とした。
この孝高の引退については、普通には如水があまりに切れ者なので、秀吉がこれを敬遠したといわれ、如水もまた、自分ばかりかその子孫にまで|殃《わざわい》の及ぶのを恐れて、先手を打って警戒したということになっている。
秀吉にすれば、幾分か煙たい男であったには違いないが(そう手廻しよく、引っ込まなくてもよいのに)と思ったろう。
九州征伐の論功行賞で、如水の貰い分が少ないための不平だといわれているが、|豊前《ぶぜん》六郡十二万石(十八万石ともいう)は必ずしも少なしとしないと思う。小早川隆景なんか、何しろ三万の大軍を率いた第一軍の主将であってみれば、|筑前《ちくぜん》五十二万石はそんなに過賞ではない。如水は手兵三千を募ってこの|役《えき》に加わって殊勲を|樹《た》てたとはいえ、小早川軍の一監事であれば、十余万石の授賞は|強《あなが》ち薄賞とばかりいえないと思う。
|蒲生氏郷《がもううじさと》が雄才を忌まれて|鴆殺《ちんさつ》され、竹中重治はその智才を|憚《はば》かられて|遁世《とんせい》を志したという伝説と、かなり似ているのではないかと思う。これは、いずれも当人を、高く持ち上げるためのゴシップだ。
当時、天下の大権は|殆《ほとん》ど太閤に帰し、大坂は丁度今日の中央政府のようなものである。しかも内閣の実権は漸く|三成《みつなり》一派に移り、三成と余り仲のよくない如水が、同じ閣僚として快からず、機を見て引退したいと思っていたのだろう。
明哲保身の道でもあったのであろう。
この辺の|煩悶《はんもん》で、人間も一段と練られたのか、その後小田原征伐などにおける如水のやり方は一種風格を帯びて来ている。
(隠居仕事には、こんなことが一番適当だわい)といって、肩絹に|袴《はかま》を着け、全く|無腰《むごし》で小田原城に乗り込み、まんまと|氏政父子《うじまさふし》を説き伏せて、開城を乞わしめてしまった。
|朝鮮役《ちようせんえき》でも如水は、或る時は忠実に、或る時は|傲岸《ごうがん》に、ぬらりくらりとして昔のように決して正体を生地で出さない。
|碧蹄館《へきていかん》の戦後、戦況が一向に発展しないのに、太閤が|焦《じ》れていると、如水は壁一重を隔てて聞こえよがしに(この度の大任に堪えん者は、家康に非ずんば|利家《としいえ》、|然《しか》らざれば|斯《か》く申す拙者以外無からん)と怒鳴って、秀吉の代理となって|渡海《とかい》した。
一日、異郷の旅舎に在って、如水は浅野|弾正《だんじよう》と碁を囲んでいて訪れた石田、増田、大谷の三奉行を別室に待たせていて、忘れていた。三奉行は大いに怒って、秀吉に告げ口をした。秀吉は一笑に付して(黒田と浅野は、よい|碁敵《ごがたき》だから)と問題にしなかったが、ついに如水が秀吉の許可を得ないで帰国するや、三奉行は極力その|懈怠《けたい》を訴え、さすがの如水も、すっかり太閤の怒りを買った。
機を見るに便な如水は、早速|剃髪《ていはつ》して世捨人になり、如水|円清《えんせい》と号した。時に四十八歳で、|如水軒《じよすいけん》の名はこれより起こる。
朝鮮の|役《えき》が終わって、|日根野織部《ひねのおりべの》|正《しよう》 |高吉《たかよし》が如水から借りた軍資銀二百枚を返しに来た。
如水は|鯛《たい》の肉を取ってそれは|蔵《しま》い込み、|あら《ヽヽ》でもてなせと家臣に命じたので、高吉は内心でその|吝嗇《りんしよく》を卑しんだが、金を返そうとすると(自分に|要《い》らない金で、貴殿が奉公の一端に資することを得たのは本望だ)といってついに受け取らなかった。
後に如水は左右を顧みて(織部は|小封《しようほう》を|享《う》けながら、平素の|奢侈《しやし》が、ちと|分《ぶん》に過ぎたから、戒めてやったのだ。さきに取ってある鯛の肉はお前達で食え)といったのは有名な話である。
太閤の死後は、如水も悠々と自適し、茶の湯、|連歌《れんが》と風流|三昧《ざんまい》の日を送っていたが、刻々に推移する時勢の動きには、決して盲目ではなかった。むしろ何事かを、期するもののようである。
如水が、石田三成等の挙兵を聞いたのは、その領国中津に在った時である。勇躍した如水は、ここに|掉尾《とうび》の大活躍を演じたのである。
つまり如水の|方寸《ほうすん》では、一方では家康の勝利を予想して、息子の長政を東軍に従わせ、他方では東西の勝負が容易に決せず、両虎互いに傷つく場合を予想して、四隣を征服して、その実力を養成しようというのであるから相当なものである。
秀吉の無い|今日《こんにち》、すでに如水の大志を押える者も無い。天下晴れて、天下が|狙《ねら》えるのであるから如水にとっては千載一遇の好機会であったのであろう。出兵と決すると、直ちに平素蓄積した金銀を散じて四方の士民を徴集して、|忽《たちま》ち八千有余の軍勢を|糾合《きゆうごう》して、意気既に全九州を呑まんとしている。
しかも如水自ら陣頭に立って|豊後《ぶんご》に攻め入り、旬日を出でずして、大友|義統《よしすみ》を|生擒《いけどり》にし、豊後の七党を|屠《ほふ》って、更に軍を|豊前《ぶぜん》に返して、|将《まさ》に|小倉《こくら》城を陥れようとする時、長政の急使によって、関ヶ原合戦の結果を知ったのである。
あわよくば、九州全土を収めて、中国から近畿に兵を進めるくらいのことは、思っていた如水のことであるから、この迅速な家康の勝利を聞いた時には、随分がっかりしたと思う。後で長政に会ったとき機嫌が悪く(お前には、大ばくちは打てぬなあ)といって|嗟嘆《さたん》した。長政が、関ヶ原でムキになって奮闘したのが、気に入らなかったのだ。だが案外に|諦《あきら》めも早かったせいか、この日から以後の攻略は、出来るだけ家康のために働いて、事後の行賞で|儲《もう》けようといった|肚《はら》が充分にみえる。
海内平定後、家康は長政を|筑前《ちくぜん》五十二万三千石に|封《ほう》じた。|藤堂高虎《とうどうたかとら》は如水の九州|鎮撫《ちんぶ》の功を述べて、重賞を請うたが、家康は(如水の功労は大きいには大きいが、|底意《そこい》の知れぬ働きだ。まあ考えておく。今は言うな)といった。|蛇《じや》の道はへびといおうか、さすがに家康は抜け目がない。
|慶長《けいちよう》六年五月、如水は上京して家康に謁し、関ヶ原の勝利を祝し、長政の|受封《じゆほう》を謝した。家康はその才を惜しみ、隠居領を与えて、政治向きの顧問にしようとしたが、如水は(もう衰老して、再び世に出る志無し)といって辞した。
すでに志を一世に得なかった如水にとって、今更栄爵や優遇など意味をなさない。元来|大博奕《おおばくち》の好きな男だっただけに、負けたとなれば淡々たるものである。
ある時、如水は|関白秀次《かんぱくひでつぐ》の問いに答えて(自分は|中才《ちゆうさい》である。上才ならば自ら天下を取る。何ぞ太閤の下に臣事しよう。また|若《も》し下才ならば、|蓬蒿《ほうこう》の中に埋没しているだろう。ただ中才だからこそ、|纔《わずか》に|封侯《ほうこう》の列に入り得たのである)と述懐している。|悧口《りこう》すぎて自分のことがあまり|瞭《はつき》り見え過ぎるのである。
慶長九年の春、如水は伏見の|藩邸《はんてい》で病み、三月二十日に端座したままで死んだ。遺言して、殉死を禁じたのは、一見識だ。
秀吉の歿後、天下に色気を見せたのは、家康、|三成《みつなり》、|兼続《かねつぐ》を除いては、独りこの|孝高入道《よしたかにゆうどう》 |如水軒《じよすいけん》あるのみである。ただ、彼は不孝にも病弱であり、九州の隅っこでは、中央の情勢にうまく適応出来なかったのがハンディキャップだ。
しかし三成|起《た》つと知るや、一挙にして九州を征定し、旗を|中原《ちゆうげん》に翻して、何等かの発言権を得んとし、しかも失敗しながら、家康に文句をいわせなかった点など、隠居仕事にしては、出来過ぎている。
晩年に、太閤が戯れに(俺が死んだら、誰の天下になるだろうか云え!)と|侍臣《じしん》にいうと、皆五大老の名前をいった。ところが太閤は(|外《ほか》に一人ある。あの|ちんば《ヽヽヽ》だ)といった。侍臣が(黒田はわずか十万石であるのに)というと、太閤|曰《いわ》く、(それはお前達が黒田をよく知らないからだ。我明智を|伐《き》り|亡《ほろ》ぼして以来交戦数十回、難節に臨み、呼息閉息し、思案混迷して|彼是《ひぜ》決せざる時、|計 《はかりごと》を|跛者《びつこ》に問うに、たちどころに裁断して、しかも我が熟慮するところと符号するか、でなければ常に意表に出ている。その上剛豪|能《よ》く人に任じ|宏度《こうど》深遠天下に類なし、我世といえども、彼もし得んと欲せば、難からじ)
如水の意気、画策、行動は、|宛然《えんぜん》太閤の小模型の観がある。境遇が、あべこべであったら、どちらが偉くなったか分からぬ。
[#改ページ]
|伊達《だて》氏は藤原氏の支族である。|文治《ぶんじ》年間には|時長入道《ときながにゆうどう》 |念西《ねんさい》が|常陸《ひたち》の|伊佐《いさ》を領していて、その子|為宗《ためむね》と共に頼朝の奥州征伐に加わって功を|樹《た》てたので、伊達郡を与えられ以後その地に移って、伊達を|以《もつ》て氏とした。
その|後裔《こうえい》伊達|行朝《ゆきとも》は、|北畠《きたばたけ》 |親家《ちかいえ》及び|親房《ちかふさ》に従って|足利《あしかが》氏を討って勤王の功があったが、その孫の|政宗《まさむね》がまた兵を起こして鎌倉|管領《かんりよう》足利|満兼《みつかね》と争った。だから、伊達家には政宗が二人出たわけだ。
『なかなかに|九十九折《つづらおり》なる道たへて雪に隣の近き山里』などの名歌を|詠《よ》んだのは、この政宗だ。
戦国時代になって|晴宗《はるむね》、|輝宗《てるむね》と相継ぎ、その子政宗の時についに奥羽の竜と|謳《うた》われるようになったのだ。
だから、あまり系図のアテにならない戦国時代の武将中では、|素性《すじよう》のいい方である。大名華族のうち、八百年近く続いている名家は、島津、伊達、松浦ぐらいだ。
政宗は幼字を|梵天丸《ぼんてんまる》といった。十一歳で遠祖の名を襲って政宗と改めたが、後に|水尾《みずのお》天皇の|御諱《おんいみな》、政宗を|憚《はばか》って正宗と改めたという。しかし彼の自筆の書状には、両方とも使っている。
政宗は|天正《てんしよう》十三年十月、十九歳の時に思わぬ事件で父|輝宗《てるむね》を失った。というのは、|二本松《にほんまつ》城主畠山|義継《よしつぐ》が力窮して伊達氏に|降《こう》を入れたが、条件があまり過酷で自立出来ないというので、ついに|詭計《きけい》を用いたのだ。
天正十三年十月七日夜、義継は輝宗、政宗に謁し、なお寛裕の処置を感謝し度いといって、伊達|成実《なりざね》に取次を|乞《こ》うた。翌八日、輝宗は、|宮森《みやもり》城で義継を引見したのである。ところが、輝宗が、退出する義継を門まで送って出ようとすると変事が突発した。
義継は地に手を突き、竹垣に沿うて立っている輝宗に向かって、
(この度は色々過分の御馳走、その上|吾等《われら》を殺害なさるる由)と云いざま|起《た》ち上って、左手で輝宗の胸倉を|鷲掴《わしづか》みにしたかと思うと、右手には早や、輝宗の腰のものを抜いていた。無論|諜《しめ》し合わせてあったものと見えて、義継の家臣七、八名は|咄嗟《とつさ》に二人をバックアップして、伊達の家来を寄せつけない。
(騒ぐまい伊達の衆、害は加えぬが|人質《ひとじち》にする)といいながら|豪力《ごうりき》の巨漢義継は、|矮身短躯《わいしんたんく》の輝宗を門のところまで|拉《らつ》して来た。
(門を|閉《た》て、門を閉て!)と叫んでも、出会う者さえなかった。
|小浜《こばま》(政宗の陣所)から来ている者は、持って来た武具を大急ぎで身に着けたが、宮森(輝宗の陣所)の者は大部分は素肌のまま義継の家来の|半沢源内《はんざわげんない》だの|遊佐《ゆさ》孫九郎、|月館某《つきだてぼう》といった|凄《すご》いのに弓や抜刀で取り|籠《こ》められて、拉し去られる君主を(あれよあれよ)というばかりで、救うことも出来なかった。この事件の責任者であり、現場にも居合わせた伊達|成実《なりざね》の所記、|伊達日記《だてにつき》には、
(|呆《あき》れたる|体《てい》にて|取巻申 高田《とりまきもうしたかだ》と|申 所迄《もうすところまで》、十里余参り候)と記しているが、|狼狽《ろうばい》の状|睹《み》るが如くである。
|鷹野《たかの》に出ていた政宗は、変を聞いて高田に駈けつけるとこの有様である。
これまでは、人質を出せと言っていた伊達|方《がた》が、あべこべに、かけ換えのない|父公《ふこう》を質に取られ、両者の地位が逆転しようとしているのだ。しかも相手は非常手段に出ているのだ。敵の城主が自ら乗り込んで来て、|呀《あ》っという間に当方の城主を|攫《さら》って行くなんて、思い切った鮮やかな手だ。二本松城内に|拉致《らち》されてしまっては、万事|休矣《きゆうす》! だ。寸刻も|躊躇《ちゆうちよ》する場合ではない。
政宗は咄嗟に、玉石|倶《とも》に|焚《た》くの決心で発砲を命じた。だが、さすがに家来達は応じかねて、|遠巻《とおまき》にしたまま|暫《しば》し|逡巡《しゆんじゆん》していた。
突如銃声一発。それに続いて|釣瓶《つるべ》打ちの銃声が伊達勢から起こった。鉄砲の煙が|霽《は》れた後には、伊達輝宗と畠山義継及びその部下五十人の|骸《むくろ》が横たわっていた。とにかく、政宗は敵と共に父を殺したわけで、さすがに気が|咎《とが》めたと見え、父輝宗の方から(かまわず撃て!)と命じたということになっているが、しかし不敵の政宗であるから、父を救いがたしと|諦《あきら》めて、発砲させたに違いなかろう。
悲憤の政宗は義継の|屍体《したい》を|索《もと》めて|磔《はりつけ》にした。以後政宗は全く独裁の主将として、畠山、|蘆名《あしな》以下の諸氏を|仆《たお》し、|会津《あいづ》四郡、仙台七郡を攻め取り、|米沢《よねざわ》城から黒川城(会津若松城)に移って奥羽の関門を掌握し、|将《まさ》に南下の勢を示したのである。
政宗は若年ながら武略によって近隣を|風靡《ふうび》して、奥羽の間に雄視したが、彼の本領は征戦よりはむしろ外交方面で発揮されたのである。彼は先ず、旱雲以来の伝統を|恃《たの》んで関八州に君臨している北条氏とのブロックを作り、南下の途上に横たわる佐竹氏を仆そうとした。彼は、北条氏の背後には徳川家康があり、そのまたうしろに秀吉がいることを忘れはしなかった。そして北条氏と|好《よしみ》を通じると同時に、徳川にも|款《かん》を送り、更に、鋭い|隻眼《せきがん》を光らせつつ、旭日昇天の勢に在る秀吉の運勢をも絶えず注視していた。だから、政宗の|音問使《おんもんし》は常に中央に往来しているのである。
秀吉の動静に通ずるには、何よりその周辺に取り入るのが|捷径《しようけい》だ。彼は早速、家康、前田利家、浅野長政、豊臣秀次、|富田一白《とみたいつぱく》、|知信《とものぶ》、木村清久、|施薬院全宗《せやくいんぜんそう》、|斯波義親《しばよしちか》、|和久宗是《わくそうぜ》といった連中と親交を結び、音問の|度毎《たびごと》に必ず付け届けを忘れなかった。天正十五年の末にも、黒毛|黒斑《くろまだら》の|駿馬《しゆんめ》二頭を利家に贈っている。
天正十六年には家康は秀吉の命を奉じて、政宗と|最上《もがみ》義光との和協を|斡旋《あつせん》しているし、富田一白は政宗の上京を促し且つ逸物|鶴取《つるとり》の|鷹《たか》を秀吉に献上せよなどとまでいって、細かい世話を焼いている。施薬院全宗も(既に北条|氏則《うじのり》の上洛あり、貴殿も速やかに上洛あれ)と助言した。
政宗は、人心の弱点に乗ずる高等外交を十分心得ていて、それを遺憾なく実行したので、煮ても焼いても食えない全宗を始め秀吉の周辺の相当うるさい連中がみんな、彼の弁護者か擁護者、さもなくばシンパサイザーになっていた。
しかも腹に|一物《いちもつ》ある政宗は彼等の進言を、おいそれとは聴かなかった。秀吉や家康に対しては最上や佐竹との和睦を|標榜《ひようぼう》しながら、一方では北条に|胡麻《ごま》を|擂《す》って佐竹挟撃を策動し、何かの機会に中央に乗り出すための|途《みち》を清掃しておこうというのである。
どうせ曲折|狡獪《こうかい》な謀計は戦国武将の本領だが、これが|二十歳《はたち》そこそこの一青年の|遣《や》り口だとすると、政宗の度量のほどが知られる。
彼は秀吉にも馬を贈り鷹を贈り、富田一白が再三勧めるので天正十七年六月には、|目赤《めあか》の鶴取鷹に、その鷹が捕った鶴も添えて贈った。秀吉は大いに|悦《よろこ》んで、政宗に|国行《くにゆき》の|太刀《たち》一腰を以て|酬《むく》いた。
だが、政宗が会津の|蘆名《あしな》氏を亡ぼしたことは、痛く秀吉の感情を損ねた。これを予期していた政宗は、利家や|施薬院《せやくいん》全宗等にその始末を報告して、|執《と》り成しを乞い、一方では半分は|弁疏《べんそ》、半分は情況偵察のために|上郡山仲為《かみごおりやまなかため》、遠藤|不入斎《ふにゆうさい》を上京させた。そうしておいて、自分は相変わらず隣境の征略をつづけていたのである。
いくら時世|柄《がら》とはいえ、政宗くらい押しの強い、図太い、人を喰った武将はその時代にも|一寸《ちよつと》類がない。彼は幾度窮地に陥っても参ってしまわない。彼の弁疏は決して謝罪などを意味したものではなかった。いつも積極的な|雪冤《せつえん》だった。彼が豊臣徳川の間に処して、しばしば奇策を弄しながらも、ついに|大封《たいほう》を|完《まつと》うし得たのは、常に死中求活の呼吸を完全に呑みこんでいたからである。
彼の使者、上郡山仲為の弁疏状は、同人が政宗に(関白様御立腹により、|木弥一右《きやいちう》〔木村清久〕、|和久宗是《わくそうぜ》相談せしめ、先ず右之通申上候)と報告しているとおり、木村、和久の二人をはじめ、秀吉周辺の連中が、いろいろ入知恵しているのだから世話はない。
蘆名氏討滅に関しても、前提と結論とを入れ換えて結局正当防衛だといってしまったり、さらに(伊達家は前代から五十四郡の探題だから、|不逞《ふてい》を討滅するのは、職掌ではないか)というようなことまで持ち出して、むしろ|逆寄《さかよ》せ的な雪冤論をやっている。
利家と浅野長政は、天正十七年十一月二十四日付の豊臣北条|手切《てぎれ》の|文書《ぶんしよ》を政宗に交付して、上洛を促した。和久宗是も|斯波義親《しばよしちか》もしきりに気を|揉《も》んだ。だが政宗は形勢を観望して相変わらず豊臣と北条に|両股《りようまた》をかけていたのである。
天正十八年正月七日、政宗は黒川城内で|七種《ななくさ》を祝いながら、
七種を一手に寄せて摘む菜かな
の一句を詠んだ。|仙道《せんどう》七郡、会津四郡はすでに彼の手中に在る。奥羽に地盤を築いておいて、他日天下の|制覇《せいは》を夢見ている青年武将は、まだまだ首を垂れ尾を|棹《ふ》って秀吉の馬前に|趨《はし》るつもりはない。
だが、大望を夢見つつもなお、実際問題としては、秀吉の周辺と緊密な交渉を持続した彼は、五代の夢を見つづけて箱根の|麓《ふもと》あたりで独り思い上っていて、とうとう二百八十万石を棒に振ってしまった北条氏政などとは、人間が違うのである。
秀吉の小田原親征は、天正十八年三月|朔日《ついたち》と確定すると政宗のシンパ達は口を|揃《そろ》えて(急ぎ上洛)を|慫慂《しようよう》した。だが彼は、人を|遣《や》り物を贈り、書信を通じることは少しも怠らず、まったく|痒《かゆ》い所に手の届くほど徹底的にやったが、さてその身は容易に動こうとはしなかった。
彼は秀吉に結び、北条氏とも断たないで双方の|喧嘩《けんか》を見物していて、どちらに転んでも損をしない工夫をしていたのだ。しかも後に、とうとう馬脚を|露《あらわ》しながら、しかも、そのピンチを切り抜けた手腕は、非凡である。
|然《しか》るところ、|上国《じようこく》の警報は|頻々《ひんぴん》として|抵《いた》り、関東諸城は勿論、小田原城の運命さえ|覚束《おぼつか》なくなった。さすがの政宗も二者の一を|択《えら》ばねばならぬ破目になった。
彼は家臣を前にして、
(小田原城を陥落すれば|吾事畢矣《わがことおわれり》、それ以前に秀吉の許に赴かねばならぬ)というと、|伊達成実《だてなりざね》は、
(既に|晩《おそ》い、もし往謁するなら|去冬《きよとう》北条手切文書交付の際だった。今になっては|往《ゆ》くも|封土《ほうど》を|褫《うば》われ、往かざるもまた褫われる。むしろ退いて秀吉を迎え撃つにしくはない)と。
原田|宗時《むねとき》はこれに反対して恭順説を支持したが、独り|片倉景綱《かたくらかげつな》だけは終始黙々として遂に退座した。政宗がその夜ひそかに景綱を訪うて|諮議《しぎ》すると、彼は手にした扇で|蒼蠅《あおばえ》を追うの状を|做《な》し、(天下の兵、集散かくの通り、撃って散ずるとも、|再《ま》た集らん)といった。政宗も悟るところがあった。秀吉の兵は、蠅の如く無尽蔵だから、戦っても無駄だということだ。
かくて政宗は五月四日に会津出発と定めたが、九日に延びた。|上野《こうずけ》からすぐに小田原に出ようとしたが、この辺は北条氏の領土で通路が|塞《ふさが》っているので、|米沢《よねざわ》から越後を過ぎ、信濃を経て甲斐に出で、大|迂回《うかい》をして小田原に達したのは六月五日だった。この|間《かん》、勿論秀吉の左右と書信の往復を怠らなかった。
政宗の小田原行は結果的には、|晩《おそ》いには晩かった。だが、細心の用意を以て天下の形勢を両|天秤《てんびん》にかけながら、|昵《じつ》と観望し、|極所《きめどころ》まで|怺《こら》えていて最後に、自ら振って虎穴に赴いた彼の胆略には誰だって感心する。しかもこの時彼は二十四歳の白面の青年だ。
秀吉は、政宗が勝手に会津を征服したのを怒り、特に日和見的な態度に気を悪くしてすぐには引見を許さないで、箱根山中の|底倉《そこくら》に|蟄居《ちつきよ》を命じた。
政宗も|固《もと》より一死は覚悟の前で、水引で|髻《もとどり》を結び、|甲冑《かつちゆう》を被り|素衣《そい》を着て凶服を|做《な》して小田原に着いた程だから、謹慎中の詰問には潔く答弁した。そして|千利休《せんのりきゆう》を招いて|茶儀《さぎ》を学んでいた。これがまた茶道楽の秀吉の気にいって、
(死生の境に在りつつこの風流、|如何《いか》にも好漢だ)というので、とうとう引見することになったのである。その時の模様は小説化されて、いろいろと取り伝えられているが、伊達日記には、
(小田原御陣所に石垣御普請成され候|半《なかば》に、芝居にて、太閤様、|曲《きよくろく》に|御腰《おんこし》をかけられ、家康、政宗、利家を始め、大名|衆多《あまた》御座候。御礼成され、|御帰《おんかえり》有る可しと|思召《おぼしめし》候処に、政宗と|二声御意候而《ふたこえぎよいそうろうて》、小田原の城の見え候|方《かた》へ|御向《おんむかい》、|御杖《おんつえ》を以て地を|御指《おんさし》、|是《これ》ヘと|御意《ぎよい》、|其間 遠 候《そのあいだとおくそうろう》。|御参《おんまいり》 |候 処《そうろうところ》 に、|脇指御《わきざしおん》さし候を、御忘れ成され、中程にて|御抜《おんぬき》、下に|和久宗是居《わくそうぜい》申され候。|御念比《ごねんごろ》にて候|間《あいだ》、宗是へ投げさせられ、御前へ|御参《おんまいり》 候。一|間計《けんばかり》近くへ|御呼《おんよび》成され、御杖を以て城の様子|何方《いずかた》と|御指候《おんさしそうろう》 |而教 《ておしえ》|御申成《おんもうしな》され候。政宗公も|思召之通 仰上《おぼしめしのとおりおおせあげ》 られ候を、大名衆|何《いず》れも|聞召《きこしめし》、田舎者に候えども、|脇指《わきざし》の投げ|様《よう》、物の|申《もうし》ぶり、|御前《ごぜん》にて落ちぶれぬ|体《てい》、聞き及び候程の者の由|御誉《おんほめ》候由、|宗是《そうぜ》物語を|後《のち》 |承《うけたまわり》 |候《そうろう》)と、ある。
恐らくこれが実況だったと思われる。
ここに、芝居とかあるが、これは現在の言葉で芝生である。むかしの演劇は、芝生で見物したので、芝居という名が起こったのである。
それはともかく、政宗は一回の会見で、秀吉の人物試験にパスしたのだ。この会見の時に、献上の砂金が畳の上にこぼれたのを、政宗が懐紙を出して掃いてしまったので、諸士が(さてもさても|大気《おおき》な伊達だ)というて舌を|捲《ま》き、派手なことを伊達というのはこの時からだ、などというが、事実かどうか分からない。
また、政宗はその場の首尾によっては、秀吉を突き刺そうと思って、短刀を懐中していたなどとも伝えられるが、頑張れるだけ頑張って来た彼である。今となっては、そんな考えは持っていなかっただろうし、秀吉もまた、政宗をそんなケチな男だとは思っていなかっただろう。
秀吉と政宗の会見は、両者にとって成功だったといえる。だが、根が|謀叛気《むほんぎ》の多い政宗の態度は、これからも|波瀾《はらん》曲折したのである。
秀吉が小田原から|凱旋《がいせん》して間もない天正十八年十月奥羽の|葛西《かさい》、大崎の地方の土民が|蜂起《ほうき》した。秀吉は政宗と|蒲生氏郷《がもううじさと》に鎮圧を命じた。氏郷は政宗が没収された会津に|移封《いほう》して来たばかりである。それに政宗は一旦与えられた|南仙道《みなみせんどう》五郡その他を没収されたので、いよいよ不満に思っている矢先である。何かにつけて二人の仲が悪いのは当然である。
改正|参河風土記《みかわふどき》や蒲生氏郷記にあるように、事実政宗がこの|一揆《いつき》をアジったかどうかは分からないが、先年|佐々成政《さつさなりまさ》が肥後で一揆に|遇《あ》い、討伐はしたが(国務不行届)というので切腹の上国を没収された例もあるから(蒲生や木村なども一揆の責任を負わされ、やがてこの土地は結局伊達に|委《まか》せようということになるかも知れぬ)と政宗が思わぬとも限らない。
一揆は平定したが、秀吉は氏郷から(政宗がこの一揆と通謀していた)との情報に接し、両人を京都で対決させることにした。この時も政宗は浅野長政に酒を贈り、家康に鷹を贈り、秀吉の左右と気脈を通じておくことを忘れなかった。だから|幸蔵主《こうぞうす》までがレポーターとなって、秀吉の一喜一憂を手に取る如く政宗に通達した。
天正十九年正月|晦日《みそか》、政宗は米沢城を発して上京の途についた。|会津四家合考《あいづしけごうこう》は、
(陳じ損せば、|二度《ふたたび》奥州へは下されじとて、|磔《はりつけ》の柱を|金箔《きんぱく》にて|濃《こ》めさせ、馬の|正先《まつさき》に持たせて)上京したと記しているが、いかにも政宗らしい、そして秀吉の心を|捉《とら》えそうな、奇想天外な雪冤デモだ。
彼は上洛すると妙覚寺に泊ったが、政宗が猶余せずに上洛したことは、先ず秀吉の心証を良くした。ちゃんと手が廻してあるのだから、上洛の時宜を失するようなヘマはやらない。それに|富田知信《とみたとものぶ》が、
(前年殿下が信長公の嫌疑を被り給うや、直ちに|召命《しようめい》に応じて安土に参上せられたので、公も殿下の誠を|諒《りよう》とせられた。政宗のこともその通りと存ずる)などといって執り成してくれた。
いよいよ対決の時になると、秀吉は氏郷が提出した、政宗が叛徒に与えたという|檄文《げきぶん》を示した。すると政宗は別紙にその檄文を手写して、秀吉の前に差し出して云った。
(御覧の通り、如何にもよく似せてはいるが、かつて|祐筆《ゆうひつ》だった者が偽作したのである。それが証拠に自分が用いる|花押《かおう》は皆、|鶺鴒《せきれい》の形をしていて、軍事に関する文書にはことごとく針で眼玉をつけてあるが、この文書にはそれが無い)と。
秀吉は早速、|平常《ふだん》政宗と往復する諸候から数通の文書を取り寄せて、調べて見ると、果してその通りだった。彼の弁疏は成功したわけである。
だが、政宗でなくとも謀叛を企てるほどの者なら、誰だってこのくらいの用意はしている。秀吉が果してこんな他愛もない弁明に満足したかどうか。
会津四家合考には、秀吉が朝鮮の|役《えき》に|名護屋《なごや》の陣中で、施薬院全宗がしきりに政宗のことを奨誉するのを聞いて、
(|汝《なんじ》は政宗に頼まれているのだろう? 彼は本来陰謀好きの男で、東北一揆の時にも何度か氏郷を討とうとしたが、|隙《すき》が無くて仕損じた始末は自分も熟知しているぞ。しかし、今は外征もあり、彼をして恩に感じ殊功を樹てて前科を償わせようと思い、かつは|西国《さいごく》毛利島津等の手前もあって|寛宥《かんゆう》しているのだ。その曲折も知らずして奨薦するとは何事だ)とて、散々だったと記している。|或《あるい》はこれが、秀吉の心事を|穿《うが》ったものかも知れない。
もしそうだとすると、秀吉は|孔明《こうめい》の|孟獲《もうかく》に於けるが如く、|七擒七従《しちきんしちじゆう》 の|概《がい》があるわけだ。それはともかく、秀吉は政宗に領地も増してやったし、浅野|幸長《ゆきなが》に命じて政宗の|邸《やしき》を|聚落《じゆらく》の|第《だい》に作らせ、宇治の遊覧にも|陪伴《ばいはん》し、或は|従《じゆ》四位|下《げ》に叙し侍従に任じ、しきりに厚遇した。政宗の度胸も相当だが、秀吉の大量はまた一枚|上手《うわて》だ。
小田原の会見の時と東北一揆加担の嫌疑は、政宗にとっては危地だったが、最後に関白秀次連座事件を加えると、たしかに彼の一生を通じての三大|厄《やく》だといえる。
手廻しのいい連中は秀吉の|薨後《こうご》のことを考えて、早くも秀次に取り入っていたが、彼の廃死に遭って今さら首すじが寒いような気がした。
|黄金《おうごん》三百枚を秀次から借用していた細川|忠興《ただおき》は、冷汗を流しながら家康に請うてやっと調達し、これを秀吉に納めて危うく難を免れ、浅野幸長は秀次に同心したとの訴状のために、父長政と共に勘気を|蒙《こうむ》った。
政宗も無論、秀次方へは顔出しをしていた。しかもその縁故は小田原以前からで、秀次に栗毛の名馬を贈ったので、その礼状に添えて上洛勧告の手紙まで受けている間柄だ。しかも秀吉から陰謀好きと睨まれている彼のことだから、当然疑いがかかった。
(政宗上洛の上は切腹、といっているから、早く大坂に|上《のぼ》って、自分の所へ来られよ、良きに計らうから)と、例の全宗がいって|遣《よこ》したので、政宗は早速大坂にやって来た。
彼は秀吉に詰問されると、
(殿下さえ秀次殿には、お眼がね違いをされたのだから、別して|片眼《かため》の吾等が見損なうのは当然だ)と、答えたと伝えられるが、とにかく彼一流の弁疏と、家康、全宗などの執り成しで、危ういところで、一命を|全《まつと》うし、しかも、秀頼の誕生と同時に一子兵五郎を秀頼付きに任官させて、どこまでも両|天秤《てんびん》をかけていたのが幸して、やっと現状を維持することが出来た。
関ヶ原の時には、政宗は家康に属して|先鋒《せんぽう》となり、上杉景勝の軍と戦って白石城を抜いた。彼が仙台城に居住したのはこの時以後である。その後一女を家康の子|忠輝《ただてる》に配して|姻戚《いんせき》関係を結び、慶長十九年大坂冬の陣には秀忠の先鋒として西上し、翌|元和《げんな》三年夏の陣には|道明寺《どうみようじ》裏の戦で、後藤|基次《もとつぐ》を討ち取っている。この時、味方の軍勢を撃って問題となったが、(政宗の陣前に現るるものは、みな敵と|見做《みな》す)と強弁して、無事に済んでいる。
|寛永《かんえい》三年八月|従三位権《じゆさんみごんの》中納言となり、十三年五月病床に就き、その二十六日江戸の邸で歿した。行年七十二歳だった。
晩年、寄合の席で、政宗の|袴《はかま》の|裾《すそ》が、旗本の近藤|登之助《のぼりのすけ》に触れたので、血気の近藤が怒って、持っていた扇子で、政宗の腰を|発止《はつし》と打った。スワ大事というところを、その場は仲裁があって、無事に済んだが、和解の酒宴の時政宗(打てや|犬坊《いぬぼう》打って腹が|癒《い》えるならば)と『|夜討曾我《ようちそが》』を朗らかに謡ったので(さすがは伊達殿――)と、人々感じたという。
政宗が江戸入りの時、|千住《せんじゆ》で|家光《いえみつ》の|鷹狩《たかがり》をするのに会ったが、知らない顔をして通り過ぎた。|駕籠《かご》から降りて|挨拶《あいさつ》するのが、面倒くさかったのであろう。後日家光に会った時、(この間、千住で会ったが)と家光がいうと、(ああ、あの時|田圃《たんぼ》の中に立っておられたのは、将軍家でしたか。あんな所に、お一人でいられるのは、近頃物騒ですなァ)と、あべこべに忠告したところ、家光その言を|嘉《よみ》したという。家光などは子供扱いにしていたのであろう。
[#改ページ]
|加藤清正《かとうきよまさ》は、昔から子供達に、いな大人達にも人気のある武将である。しかし、それは虎退治と|法華《ほつけ》信者であることが|重《おも》なる原因であったらしい。虎という異国の猛獣を退治したことが、いかにも勇ましく思われたのだ。それから、清正のような猛将が、|日蓮《にちれん》の信者であったことは、日蓮宗の信者に頼もしいことに違いなかったのだ。
しかし、虎は今では、どんな動物園にでもいるし、たまたま来るサーカスの虎などは、ダラシがないほどおとなしい。こうなると、虎退治も、あまり生彩があるとは申しがたくなる。すると清正について知られている一番有名なことが、ボヤけて来るので、|直木《なおき》三十五のごとく、清正をやっつける人間まで出て来るのである。
社の講演会で、熊本へ行き、熊本城を見て、いかにも名城だと思い、こうした名城を築いた武将は、相当の人物だと今更感心したので、清正一代の武功を探って見ようと思う。
清正が熊本城を築いたのは、島津に対する押えであった。それが、二百何十年かの後に、立派に物をいったのであるから、西南戦争の官軍の勝利の何分の一かは、清正の手柄であろう。
清正にも系図がある。|御堂《みどう》関白の末の藤原氏であるという。しかしこんなことは分からない。とにかく清正の母が、秀吉の母と|従姉妹《いとこ》である。だから、秀吉と清正は、|またいとこ《ヽヽヽヽヽ》である。秀吉が、|江州《ごうしゆう》長浜九万石を領していたとき、母と共に迎えられ、十五歳で元服し、加藤虎之助と称し、秀吉から百七十石|貰《もら》った。|塚原小才治《つかはらこさいじ》という兵法者につき、兵法を修行していたが、長浜の町中を騒がせた|狼藉《ろうぜき》者を捕えて、二百石の加増を貰った。
|天正《てんしよう》九年|因幡国《いなばのくに》鳥取城の|城攻《しろぜめ》、同じく十年|備中冠《びつちゆうかんむり》城の城攻に各々功あった。
山崎合戦のときが二十一歳である。近藤半助というものを打ち取って、
武勇をば、心懸くもの、手柄者の若者とは汝たるべし。いよいよ武功を尽くすべし。
六月十三日
[#地付き]秀吉判
という、感状と|脇差《わきざし》を貰った。
|賤《しづ》ヶ|岳《たけ》のとき、|大柿《おおかき》より賤ヶ岳まで、二十里の道を引返すとき、清正は拝領の馬も乗替えの馬も、脚を痛めて用をなさない。
|谷兵太夫《たにへいだゆう》、これを見て、
(こんな時に、馬が役に立たないとは、何という不吟味、不用意ぞ!)といったところ、清正答えて(馬続かずば、持ち合せの|膝栗毛《ひざくりげ》で、百里の道も行き候わん。良き馬持つ貴殿に、先々の働き少しも劣り申さじ)といって、六人の家来と一緒にテクテク歩きつづけた。
そして、七本槍の随一として、|戸波隼人《となみはやと》というものを突き伏せた。|絵草紙《えぞうし》などには、|山路将監《やまじしようげん》と組討して、打ち取っているが、あれはウソだ。
そのときの清正、わずかに四百七十石だった。秀吉、
(鳥取の城攻め以来、手柄つづきのものに少々の領知|遣 置事《つかわしおくこと》さぞや無念にありつらん、七人共に三千石加増すべし)といって|賞《ほ》めた。
これで、三千四百七十石のわけだ。七本槍とは、福島|正則《まさのり》、加藤孫六、平野権平、|脇坂甚内《わきさかじんない》、|糟谷助右衛門《かすやすけえもん》、片桐助作、加藤虎之助の七人だ。
|長久手《ながくて》の合戦のときは、秀吉と一緒に長久手へ|駈《か》けつけた組だから、別に手柄なし。
島津征伐の後、その戦争で|尾藤甚《びとうじん》|右衛《え》|門《もん》が失脚し、また|佐々成政《さつさなりまさ》が|肥後《ひご》一国を貰ったが、国中騒動したため死を賜った。それで尾藤の領地の|讃岐《さぬき》と肥後とが|空国《くうこく》になった。
秀吉、清正を召して、
(讃岐を欲するか、肥後で二十五万石がいいか)と|訊《き》いた。清正は秀吉の朝鮮出兵の企てを知っていたので、その先陣を承る準備に肥後がいいといって、肥後半国を貰った。
これが、天正十六年だ。天正十一年の三千四百七十石から五年間に、二十五万石になっている。|太閤《たいこう》との親類関係もあるが、戦国時代でも、出世|頭《がしら》だ。
肥後の残り二十五万石は、|小西行長《こにしゆきなが》に与えられたわけだ。
小西領の|天草《あまくさ》島の|志岐林泉《しきりんせん》、天草伊豆守など小西の命に従わず|反《そむ》いたので、清正加勢してこれを|伐《う》った。天草伊豆守の家来|木山弾正《きやまだんじよう》が、|田舎《いなか》|侍《ざむらい》に惜しいほどの猛将で、最初から清正との一戦を心がけて|懸《かか》って来たのを、清正推参なりといって、槍を|以《もつ》て彼の|高股《たかもも》をかけ倒した。
この時、清正の十文字が折れて|片鎌槍《かたかまやり》となったという説と、いな最初から片鎌であったのが、この時少し曲ったので|躅躑《つつじ》の切株に押し当てて、足でふみ直したのだという両説がある。後の方が正しい。
この天草征伐は、相当の苦戦であったらしい。佐々成政は肥後の|地侍《じざむらい》に暴れられて、滅亡し、清正も手こずっている。後年の天草|一揆《いつき》も、この名残りである。国人|頑冥《がんめい》にして|強勇《ごうゆう》容易に外来人を容れないのだ。
だから、清正が大坂へこの始末を報告に行くと、秀吉、腰の左文字を与えながら、
(肥後国は一揆の地なり、殊に九州には味方なし、固く仕置せよ)
と、激励している。
小田原征伐には、参加していないが、陣中の秀吉から清正に、六通の朱印状が来ているから懇意のほどが知れる。
四月十二日の状に、
関東八州|之物主相籠《のものぬしあいこもり》候間、一城に|而《て》関東一|遍《ぺん》に|被《うちは》|打果《たされ》|候《そうろう》云々。
秀吉らしい豪快な言い廻しではないか。
しかし、これまでは、清正が二十代の青年武将で、いかに剛勇でもそう大役が勤まるわけはない。彼が武名を挙げたのは、後章に説く朝鮮|役《えき》である。
朝鮮役で、先ず最初に有名な話は、清正と小西行長の先陣争いである。それは海路に通じた行長が、こっそりと抜け|駈《が》けをして、清正より五日前の天正二十年四月十二日に、朝鮮の|釜山《ふざん》に上陸したことをいうのである。後で知った清正は激怒し、「はかられり、我れ何ぞその跡を踏まんや」といって、釜山からは別路をとって、京城に向かって進発した。それから二十八日に忠州で二人は出会い、|睨《にら》み合ったまま、更に道を二手に取って、各々京城に向かった。清正は|漢江《かんこう》の下流を渡って進み、行長は|驪州《れいしゆう》から漢江の上流を渡って迫ったのであるが、この競争でも清正は負けて、ヘソを曲げた清正は城外に陣していて、国都に入らなかったというのが、太閤記や山陽の日本外史の説くところである。
これをみると、清正という大将も、|如何《いか》にも器量の小さい、ケチくさい人間のように思えるが、この先陣の争いの話など、どうも大分誇張されているようである。
一体、秀吉はこの|文禄《ぶんろく》の役の|志《し》を起こすに当たって、詳細に海陸諸軍の部署や、行軍の順序を定めているのである。|天正記黒田文書《てんしようきくろだもんじよ》によると、小西、|宗《そう》、松浦、大村、|五島《ごとう》の五将軍が|先鋒《せんぽう》第一であって、清正や|鍋島直茂《なべしまなおしげ》など先鋒第二である。しかもその命令によれば、清正等は朝鮮近島に待機していて、行長の|報《しら》せを待って行動することに定められている。これでは清正が、行長や宗|義智《よしとも》等に遅れて釜山に着いたといって、クサル理由は|毫《ごう》もないのである。更に敵の本拠である京城を前にして、|私怨《しえん》のために入城しないなど、|出鱈目《でたらめ》も甚しい。|西征日記《せいせいにつき》によれば、翌々日の五月五日には(加藤公来って互いに礼謝す)とあるくらいだから、その虚説であることは知られると思う。
ただ、何となく気になるのは、清正と行長が元来ソリが合わないということである。清正は法華で、行長はハイカラな天主教徒である。しかも行長は|堺《さかい》の薬屋上りだから、清正にすれば(何の|商人《あきんど》上りが)といった|肚《はら》がどことなくある。|征韓偉略《せいかんいりやく》によると、すでに忠州で京城攻略の議を闘わした時、地図に|薬路《やくてんろ》という道があった。清正、行長に向かって、(|子此《しこ》の路取らば|如何《いかん》)とやった。つまり薬路という字から、行長の一番痛いところを、冗談に突いたのである。行長は真赤になって怒り、まさに掴み合いになろうとしたのを鍋島直茂の仲裁で、事なきを得たという。
とにかく、この二人の仲が悪いとしても、そのために故意に先陣争いをやったとも思えない。また秀吉にしても、清正を熊本に、行長を|宇土《うど》に|封《ほう》じてその領土を接せしめ、更に|乾坤一擲《けんこんいつてき》の派遣軍に先鋒として連発させるなど、本当に二人の仲の悪いのを知っていたら、こんな処置をとるとも考えられない。また秀吉の威信上、部下の将士に勝手な行動をとらせるなんて、想像もされない。要するに、当時の海軍が不完全で、渡航の諸将が相当にまごつき、連絡が不充分であったために、こんな|臆説《おくせつ》が|大袈裟《おおげさ》に伝わったものであろう。戦国の武将同士のことであるから、功名心にも燃えていたであろう。また清正、行長共に日常、相含むところもあったに違いない。それにしても、太閤記等にいう先陣争いの話など、相当に割引きして聞かなくてはならないと思う。朝鮮役における清正、行長の確執なんか、むしろ、前期よりも後期にあるのではあるまいか、戦線が|膠着《こうちやく》して、遠征軍に|歩《ぶ》が悪くなった時、初めて主戦派の清正と、平和論者の行長の対立が表面に出て来るのだ。
さて、秀吉は島津、北条征伐には、周到水も漏らさぬ計画と準備をしている。しかるに朝鮮、明国に関しては、相当の準備も重ねたであろうが、(処女の如き|大明国《だいみんこく》を|誅伐《ちゆうばつ》すべきは、山の卵を圧するが如し)といった調子で、一流の大見栄ではあるが、認識不足の|譏《そし》りも免れない。京城までは日本軍は、文字通りに無人の|野《や》を|征《ゆ》くように侵入したが、それから先は秀吉の|気焔《きえん》通りには、問屋が卸さなかった。つまり京城から先は、地理も余りはっきりしていなかったのだ。
殊に清正の北部進軍は困難を極めたらしい。行長が|北京《ペキン》街道を進むのに反して、清正は道路の困難な最奥地に向かって、働き栄えのしない律儀な行軍をやっている。|清正記《きよまさき》によると、この百余日の強行軍で、武士は|痩《や》せ果て、着ていた具足が、ダブダブになって大いに困窮したと書いてある。清正自身もこれに|懲《こ》りて、以来なるたけ短くて幅のせまい|甲冑《かつちゆう》を用いるようになったという。
しかも清正の眼中、ただ、戦闘あるのみ。|遁《のが》るる国王|宣祖《せんそ》を追うて、勢、風雨の如く、|摩天嶺《まてんれい》を|踰《こ》えて七月|会寧府《かいねいふ》に到着した。
この|役《えき》で、清正が武名を|馳《は》せた手柄が二つある。朝鮮の二王子を|虜《とりこ》にしたこと、もう一つは再出兵の時、|蔚山籠城《うるさんろうじよう》で頑張ったことである。
もっとも、|晋州《しんしゆう》攻撃における清正の奮戦なども目覚ましく、細川|忠興《ただおき》等が攻めあぐんだ後を引き受けて、|一揉《ひとも》みに攻め|陥《おと》している。有名な|亀甲《きつこう》タンクを沢山に造って押し寄せているところ、機械化兵団の活躍に似ている。この時の一番乗りは、清正の家来の森本儀太夫だが、鉄砲で|向脛《むこうずね》を打たれて墜落した。このすきに黒田の後藤又兵衛が二番乗り、後から駈けつけた清正の臣、飯田覚兵衛、素早く|妙法《みようほう》の旗を上げて、(一番乗り)とやった。又兵衛は大いに腹を立てたというが、清正の軍はそれくらい一所懸命やった。
この一番乗りでは、秀吉から感状を貰っているが、(名誉の|亀《かめ》の|甲《こう》を仕出し、石垣はね崩し、一番乗り|仕 段《つかまつるだん》、|粉骨之至 候 被《ふんこつのいたりにそうろうと》|思 召《おぼしめされ》|候 《そうろう》……)
とある。この戦なんかに(行長が|明《みん》と|媾和《こうわ》を策して名を挙げるなら、俺は実戦で明に|一泡《ひとあわ》吹かしてやる)といった清正の対抗意識が、明らかに|覗《うかが》われるのである。
それより、清正の鼻を高くしたのは、二王子の|生擒《いけどり》である。
清正が会寧府に入ったのは、七月二十三日だが、府吏に|鞠景仁《きくけいじん》なるものがあり、元来が|謫徙《たくし》ゆえ国王を怨み、|密《ひそ》かに謀って、|臨海《りんかい》、|順和《じゆんわ》の二王子を清正に渡した。清正喜んで、城中に入って、親しく王子を|護《まも》って帰館し、厚く|労《いた》わるところがあった。また王子の従臣等が|面被《めんぴ》を冠って門を出るや、清正は兵士を戒めて(その面を視る|勿《なか》れ、その衣に触るる勿れ)といって、これに|飲饌《いんぜん》を与えて送らせた。
更に鞠景仁が重賞を請うや清正はこれを|叱《しつ》して(汝等忍んで此の事を為す。|縦《たと》え死を貸すとも、賞を与えず)と|一蹴《いつしゆう》している。|洵《まこと》に大儀に|晦《くら》からずというべしだ。
この手柄は、結果から見たら、かなりの偶然だ。京城を飛び出したのも、逃げ出した国王の|宣祖《せんそ》を捕える積りだったのだ。五里霧中で捜し廻っているうちに、二王子に偶然ぶっつかったわけである。
その後清正は、その陣所が余りに敵地と接近しているので|聊《いささ》か不安を感じたためか、二王子の身柄を、安全な伊達政宗に|托《たく》している。だから媾和談判で、王子をむざむざ返還するのに、清正が大反対で、行長に喰ってかかったのも想像されるのである。
再出兵と決って、最も勇躍したのは、恐らく清正だろう。軟弱な外交が明に一杯喰わされたと分かった時、最も男を上げたのは硬派の清正だ。慶長二年正月十四日に、清正は再度|鶏林《けいりん》の地を踏み、釜山の日本軍の本拠から、危機に|瀕《ひん》した|蔚山《うるさん》城に移った。そこを襲ったのが、明の大軍で、ここの|防禦《ぼうぎよ》線は|惨澹《さんたん》たるものであっただけに、頑張り通した清正の功績たるや、偉とせねばならない。
|水手《みずて》を断たれ、|兵粮《ひようろう》攻めに|逢《あ》ったので、当面の敵は、明の大軍そのものでなく、兵粮と水の欠乏であった。|大河内秀之《おおこうちひでゆき》の陣中日記に、|脚絆《きやはん》を|穿《は》いていたが、ずり落ちて仕方がない。よく見ると|膊《ふくら》の肉が全くなくて、竹筒みたいな|脛《すね》をしていたとある。また山川長兵衛という荒武者の|兜《かぶと》と|頬当《ほおあて》を取ったら(|寔《まこと》に何に|譬《たと》うべき|様《よう》ともなき|面体《めんてい》、|只《ただ》、絵に画ける餓鬼に異らず)と、将士相顧みて噴笑し、落涙したという。紙を|噛《か》み、壁土を煮て食べ、雨が降るのを待って、争うてこれを飲んだともいう。その|惨鼻《さんび》の状、察すべきである。
しかもこの中に在って清正の判断力は正確で、弁当の出来る毎に、鉄砲を打つ者に、先ず食わせている。
また、|或日《あるひ》の|黎明《れいめい》に、敵は|楯《たて》に火をかけて、全部退却して行った。城中でこれを望み、争って追撃しようとしたところ、清正制して(追うこと勿れ、此の|計《はかりごと》、我を誘うにあり)といって、暫く様子を見ている。果して薄暮に及んで、その辺に隠れていた敵の兵士は、三々五々現れて来て、|旧《もと》のように集結した。清正(大軍の退くに、|殿軍《でんぐん》を置かざる法ありや)と敵の稚策を|嘲笑《あざわら》ったという。
この籠城中、明兵は|大銃《おおづつ》を蔚山城の|外廓《がいかく》に向かって|射《う》った。命中する者があって諸兵騒ごうとするのを、清正固く|制《と》めた。更に一弾来ったが、今度は照準外れて空中に飛び去った。この時、初めて士卒に令して|躁《さわ》がせたところ、明兵は無駄|弾《だま》を盛んに空中に向けて放ったという。
頭のいい清正の武略のほど知るべしだ。
そのうちに、おいおい応援の日本軍もやって来た。遂に明軍は大敗して逃げたのであるが、四万の敵のうち、一万を殺したというのは、少し誇張があるにしても、とにかく日本軍の大勝利であった。
清正は正月二十五日付で秀吉から感状を貰っているが、この蔚山籠城は如何にも朝鮮役を飾るに足る|華《はな》だと思う。同時に清正が大将としての器量を最もよく発揮した一戦でもあった。その猛将としては|鬼上官《おにじようかん》の名を以て、|鶏林八道《けいりんはちどう》に鳴り響いたのでも分かるが、守城の智将としては、この蔚山戦など最も目覚しい好例である。
もっとも、鬼上官、鬼将軍と、|明《みん》や|高麗《こうらい》の将士が言ったかどうかは怪しいもので、鬼は中国の意味では、先祖の霊とか、幽霊のことだ。清正のことを幽霊将軍と呼んだなんて、どうかと思うのである。
秀吉が死んで、清正は帰国したが、これからの清正の行動は、政治的にいっても、ずいぶん難しくなって来た。
先ず奉行と|宿将《しゆくしよう》の確執だ。清正も武断派の一方の旗頭として、相当威勢よく文治派の連中をやっつけている。
関ヶ原の陣の時、清正が石田方に加わらなかったのは、このとばっちりである。同時に、三成に|与《くみ》するのは、全く豊臣の天下を、大嫌いな三成に|熨斗《のし》を付けて進上するようなものだとも考えたのであろう。
ただ清正が家康の愛児の|常陸介《ひたちのすけ》(紀州|頼宣《よりのぶ》)を婿にして、徳川と親類づき合いをしたのを責める者もある。しかし池田新太郎少将の|烈公閑話《れつこうかんわ》にあるように(さりながら、昔の秀吉公の御厚恩は忘れ申さず)である。
徳川家が豊臣家につらく当たらぬ間は、自分もまた徳川と親しむべし。征夷大将軍の|愛子《あいし》を婿とするのは、身にとりて面目である。しかし大坂の秀頼公は太閤の|嫡流《ちやくりゆう》なれば、|正《まさ》しく我等の主君である。
およそ常識的な考え方だけに、その時代にはこうした立場に在ることは、苦衷想うべきであろう。
同時にまた、結局のところ、天下は徳川に帰するであろう。そうなったにしても、豊臣家の|祀《まつり》を絶やさぬようにというのが、後年の清正の|肚《はら》だったと思う。
烈公閑話にも、清正のこの気持を述べた話がある。
或る時、加藤|嘉明《よしあき》が清正に(近来不養生にあらずや)と忠言を試みると、清正は(長生きをして、東西お手切れの|秋《とき》、大坂方の敗るるを見るに忍びず)と答えている。
清正ほどの豪傑の返答としては、ずいぶん弱々しいが、この辺が清正にすれば、一番痛いところではあるまいか。
しかし清正の純忠を|偲《しの》ぶに足りる|佳話《かわ》として、二条城における家康、秀頼の会見がある。この時には、家康は隠居をして、秀志が二代の将軍となっている。一方大坂方では秀頼も、|淀君《よどぎみ》も、天下はなお豊臣のものと信じている。
だから慶長十六年三月十七日に家康が二条城に入って秀頼に面会したいと言い出しても、大坂方には異論がある。淀君なんかも女親だけに、如何なる危難に逢うか分からぬと反対する。
この時、清正は淀君等に会い、家康の感情を害することの不得策であることを説き、(二条城において万一のことあらば、敵幾万あらんとも清正一人にて蹴散らし守護し奉らん)とその鉄石の如き誠心を|披瀝《ひれき》した。
秀頼の一行を、途中まで出迎えたのは家康の二子、|義直《よしなお》と|頼宣《よりのぶ》である。見ると日傘をさしている。清正|見咎《みとが》めて、その日傘を撤せしめたという。その硬骨振り思い見るべしである。
二条城での秀頼、家康の会見は首尾よく済んでいる。家康にすれば秀頼は、可愛い孫娘の婿である。老来ますます|如才《じよさい》のない彼が、如何に優しく秀頼の労をねぎらったか思いやられる。
無事に秀頼の供をし淀川に船を浮べ、帰途につく途中、清正は懐中から短刀を取り出して、(今日は故太閤殿下の御恩を半ば返したり)と述懐したという。
この会見の結果|覿面《てきめん》に、大坂関東の関係は表面的に、円満さを加え、暫く小康を保つことになった。
清正の誠忠が、大きな|楔子《くさび》となって、打たれたためである。徳川方にも、清正の生きているうちには、うかつに大坂には手を出せない、の感を与えたに違いない。
清正は、家康の臣本多|正信《まさのぶ》とは特別に仲がよかった。そこで家康は、それとなく正信を通じて、いろいろのいやがらせをやっている。
西国の大名は大坂へ着くと、すぐ|駿府《すんぷ》なり江戸へやって来るのに、清正だけは何故大坂に|逗留《とうりゆう》して、先ず秀頼の機嫌を取るか、また平和の今日、|参覲《さんきん》するのに、そんなに大兵を率いて来る必要はないではないかといった調子である。
涼しい顔をして、清正が一つ一つ答えて行く様子は想像されるが、正信は更に(当今諸大名のうち、|御許《おんもと》の如き|鬚《ひげ》武者はなく、殿中総出仕御列座の時など見苦しき故、|剃《そ》り落されては|如何《いかが》)とやった。
これに対する清正の返答が、如何にも清正らしい名回答で(拙者もさようには思えども、若きよりこの髭面に頬当てをして、兜の緒を締める時の心持よさがなお忘れ得ぬがため)と言ったそうである。
武将らしい実感に|溢《あふ》れていて、こうした時の清正は|素朴《そぼく》で、剛健で、たまらなくいいと思う。
老人雑話に、清正の人物を評して、(律儀なりし人なり)とある。けだし|穿《うが》った適評である。
朝鮮役の戦争のやり方にしてもそうであったが、「地震加藤」の逸話なんかも、その実直な人柄を現している。
殊に旧例故格を重んじ、歴史を尊重する重厚の美点もあった。身は大諸侯でありながら、織田家の君臣には、常に尊敬の意を表し、池田輝政を崇拝していた。
二条城のことがあって間もなく、慶長十六年六月二十四日、清正は居城、熊本城で卒去した。時候負けとも、|中気《ちゆうき》ともいう。
毒|饅頭《まんじゆう》の話はウソだ。徳川家が、清正を煙たがっているのと、その死にようが突然だったので、こんな|訛伝《かでん》が立ったのであろう。
殉死者の中に、|高麗《こうらい》人の名があるが、その恩択のほども偲ばれるではないか。
[#改ページ]
|徳川家康《とくがわいえやす》は一般大衆にはあまりもてないが、彼に徹底的に反抗した|三成《みつなり》も徳川時代の御用史学の影響で、今でもまだ|奸物《かんぶつ》とされて、あまり人気がない。
|野史《やし》は三成のために|姦臣伝《かんしんでん》を立て、日本外史その他も三成を|筆誅《ひつちゆう》して、桃山時代の|讒構《ざんこう》と毒殺とを彼一人に背負わせ、|佞奸《ねいかん》陰険、|梶原景時《かじわらかげとき》に比肩するものとしている。
三成の不人気は、勝者徳川氏の治世が二百六十年の久しきに及んで、勝てば官軍式の世論を|浸潤《しんじゆん》したのにも|因《よ》るが、太閤秀吉の側近に侍して、文治派を牛耳っていた彼が、武功派の加藤清正等とソリが合わなかったことなども大いに原因を成している。
城を抜き塁を|屠《ほふ》る仕事は痛快で人目につき|易《やす》い。だからいくら文勲のある者でもこれと対立すると、東西古今例外なしに大衆の同情を失うものである。近代でも、東郷|元帥《げんすい》や乃木将軍を向こうにまわしては、伊藤公でも大隈さんでも到底|輿望《よぼう》を|繋《つな》ぎ得ないだろう。それはともかく、罪状の顕然たる者でも法廷で弁護を受ける権利があるのだから、三成ほどの英雄は、もう少し公平に評価されていいと思う。
だが三成を褒めたからといって、相手の家康の声価が決して下るわけではない。何といっても家康は、国宝級の人物だ。
三成は|永禄《えいろく》三年|江州《ごうしゆう》坂田|郡《ごおり》の石田村に生まれ、|小字《しようじ》を佐吉といった。後年彼が父のために|建立《こんりゆう》した山城妙心寺の|寿聖院《じゆせいいん》にある過去帳を見ると、三成の家はやはり武士であって、|武家事記《ぶけじき》や古今武家盛衰記などが伝えるように土民の出ではない。
殊に江州|清滝寺《きよたきでら》の文書や|京極家譜《きようごくかふ》によると、石田氏は当時大津に在城した京極氏の被官をしている。これはほぼ信用出来ると思う。
もっとも、|寿永《じゆえい》の昔に木曾義仲を|粟津《あわづ》原で|射殺《いころ》した石田為久の|後裔《こうえい》だなどというのはあてにならない。
三成が|寺小姓《てらこしよう》をしていて、当時江州長浜の城主だった秀吉が、鷹狩の途次立ち寄って茶を求めると、初めは|大茶碗《おおぢやわん》に六、七分の温茶を進め、次にはやや暖かく半碗、次に熱くして小碗に盛って出したので、秀吉がその才気に感じて|近侍《きんじ》にしたというのは、武将感状記などにも見えていて有名な話だが、|近江輿地志略《おうみよちしりやく》という本にも、伊香郡の部に、|古橋《こはし》村八町|許《ばか》り奥の山中に真言宗の|三珠院《さんじゆいん》というのがあって、三成が幼時手習に通ったと見えているから、初めて秀吉に謁した事情も実際に前記のようなものだったかも知れぬ。
いかにも三成がやりそうなことであり、秀吉が感心しそうなことだから、事実としておいていい。
三成は余人には真似の出来ない才智を発揮して、秀吉の|意嚮《いこう》を機微の間に察し、その挙措が一々秀吉の欲するところに|中《あた》り、ついに彼をして(才器我に異ならざるものは即ち|治部少《じぶしよう》一人あるのみ)と言わしめた。
柴田勝家の滅亡後、秀吉と上杉景勝の同盟は、上杉家のナンバーワン|直江兼続《なおえかねつぐ》と三成の尽力に負うところが多い。
|天正《てんしよう》十三年七月、秀吉が関白になると、三成は|諸大夫《しよたいふ》十二人の中に|撰《えら》ばれ|治部少輔従《じぶしようゆうじゆ》五位|下《げ》に叙せられ、五奉行の一人ともなった。この時三成は二十六歳の青年で翌天正十四年には堺奉行を兼ね、その敏腕を|以《もつ》て内外の貿易を|掌《つかさど》ったのである。
当時堺は本邦最大の商港で、明国に対する貿易港であるばかりではなく、対欧貿易も盛んに行なわれて、ヨーロッパ人が居留して通訳さえいたほどで、今井宗久・|天王寺尾宗《てんのうじすえむね》・|鵙尾宗庵《もずおそうあん》・|銭尾宗納《ぜにおむねおさ》などという富豪が軒をならべ、その富は天下を圧していた。
|連歌《れんが》・|謡曲《ようきよく》・|茶道《さどう》・諸般の工芸この地に発し、|数寄《すき》風雅の道に志す者も多く、|正《まさ》に時代流行の|尖端《せんたん》を行ったのである。
だから秀吉も大坂に築城して政治経済の中心とし、堺を支配して外国貿易を自家の監督下に置き、軍資その他の供給をここに仰いで策源地としたのである。弱冠の三成を堺奉行にするなど、いかに秀吉が彼の吏才を信頼していたかが分かる。
九州征伐の時にも、秀吉は箱根在陣中に、日本|三津《さんしん》の一たる|博多《はかた》が、先年大友|竜造寺《りゆうぞうじ》交戦の|巷《ちまた》となって昔の面影さえないので、三成を|割町《わりまち》奉行として十町四方に街路を|劃《かく》し、離散した市民を招き集めて|市店《してん》を設けさせ、金銭を分与して盛んに商売を営ませたので、博多は復興して|鎮西《ちんぜい》の一大都市となり今日に至ったのである。
天正十九年の朝鮮|役《えき》には、三成は|船奉行《ふなぶぎよう》の筆頭となり、軍船四万、兵数二十万の渡航運輸の任に当たった。秀吉|幕下《ばくか》に材多しといえどもこれほどの大仕事をやってのける者は、三成を除いては|一寸《ちよつと》無い。その後自らも渡海し、|宇喜多《うきた》秀家等と共に|軍《いくさ》奉行として京城にあって各方面の軍務を掌り、戦況を|逐一名護屋《ちくいちなごや》の本営に報告した。
再出兵の時には|京畿《けいき》にあって太閤に侍し、枢機に参し、軍事、財政、警察その他の諸政|与《あずか》り聞かざるところなく、彼の頭脳的な活動は日本全国から遠く朝鮮にまで及んだといってよい。こうして彼は、押しも押されもせぬ大坂中央政府の首脳となったのである。
(|文禄《ぶんろく》の検地)|或《あるい》は(天下の|石直《こくなお》し)といわれる全国的な|封地《ほうち》測量を実行して石高を制し、経済力を統一的に支配し、或は駅伝駅馬を設けるなど、中央集権的支配の強化をやったのも彼の建策であるとかいわれる。
三成は関白|秀次《ひでつぐ》事件ですっかり悪者にされている。
だが、秀次の妻子|寵妾《ちようしよう》三十二人全部を|加茂磧《かもがわら》で|斬殺《ざんさつ》したのは残忍すぎるが、あの処置を三成一人に課するのは酷だ。あれはむしろ、秀吉の意志に出たものである。
淀君は文禄二年八月三日に秀頼を生んだ。秀吉五十七歳の老後の子だから、さすが|曠世《こうせい》の英雄もその愛情は|殆《ほとん》ど盲目的であった。彼は秀頼がまだ二歳にもならないのに関白秀次の|女《むすめ》と婚約を結ばせている。後日関白職を秀頼に譲らせたいからである。
秀吉は、秀頼の成長につれて、関白職を秀次に譲ったことをどんなに後悔したか分からない。むろん、淀君の愁訴にもよるのだが。
ところが秀次は、そんなことは一向お構いなしに|淫虐《いんぎやく》 |乱行《らんぎよう》の限りを尽していた。そして秀吉に嫌われているのを知ると外出にも多数の武士を従えて身辺を警戒させ、|却《かえ》って流言の因を作ったり、果ては|毛利輝元《もうりてるもと》と結ぼうとして誓書を徴したりした。そして秀吉に嫌疑の種を与えた。|高野山《こうやさん》に入って謹慎しても既におそい。遂に、あの過酷な処断となったのである。秀吉も、朝鮮出兵以後は、少し|もうろく《ヽヽヽヽ》していたのである。
そして、秀次を亡くした後の諸将の動揺を|危惧《きぐ》して、家康以下に秀頼への忠誠を誓わせて二度までも血判の誓書を出させている。
これなども、秀吉が少し愚に返った証拠である。
その誓書は木下|元《もと》子爵家に現存しているが、点々たる|花押《かおう》上の血痕は秀頼への愛着と卑賤から身を起こして一代で築き上げた太閤の地位への執着から、人をも疑わず我をも疑わしめぬ豪放|闊達《かつたつ》な日頃の性格はどこへやら、正に暗鬼の|虜《とりこ》となって|悶《もだ》えている晩年の秀吉の姿を|髣髴《ほうふつ》させ、人をして|竦然《しようぜん》たらしめるものがある。
秀次は、秀吉が六十の|老躯《ろうく》を|携《ひつさ》げて名護屋の陣中に|鞅掌《おうしよう》するのも顧みず、|晏如《あんじよ》京坂の地に|留《とどま》って|声色《せいしよく》に|耽《ふけ》り乱行に日を送っていたのだから、秀吉に|疎斥《そせき》されるのは当然だ。もっとも三成は当時奉行の筆頭として、秀吉の命を奉じその耳目となって活動し、秀次の乱行を報告したということはあり得べきだが、しかし秀吉の秀頼に対する愛情は親馬鹿というよりむしろ狂的で|凄惨《せいさん》だったから、秀次は三成の活動を|俟《ま》たなくとも、或は関白物語が伝えているような鬼畜の所行がなくても、秀頼の出生そのものが彼の運命を決したのだといってもよい。従って、彼の滅亡を三成の|讒言《ざんげん》に帰するなどは、それこそ三成に対する|讒誣《ざんぶ》の言だ。
また、|会津《あいづ》九十二万石を領していた|蒲生氏郷《がもううじさと》は文禄四年二月七日に京都で死んだが、続武者物語などには三成と上杉氏の重臣直江兼続とが共謀して氏郷を|鴆殺《ちんさつ》し、後日の計のために蒲生の所領会津を奪ったと記しているが、これも|誣言《ぶげん》である。
越後は上杉氏にとっては祖先墳墓の地である。たとえ加領されても、他を鴆殺してまで会津|転封《てんぽう》を企てる|筈《はず》がない。氏郷の病気を診断した医師、|曲直瀬玄朔《まなせげんさく》の手になる医学天正記を見ても、その死が毒死でないことは明白だ。
更にまた、|小早川秀秋《こばやかわひであき》の減地転封も三成の讒構とされているが、秀秋は|筑前《ちくぜん》五十三万石を|越前《えちぜん》十六万石に移され、家臣は多く流浪して宗家たる毛利氏に頼ろうとした。これを聞いた三成は、毛利輝元に申し出、小早川家の浪人を召し抱えている。事実三成の讒構に遭ったものなら、秀秋の旧臣たる者がどうして三成に仕えよう。これまた|誣妄《ふもう》である。
当時三成は秀吉に|寵任《ちようにん》されて、その勢力は内外を傾けるほどであったが、それだけに、|儕輩《せいはい》の|猜忌《さいき》を買うことも多かった。しかも彼が関ヶ原で敗れたので、徳川時代に出た諸書は|挙《こぞ》って彼の悪声を放ったのだ。
慶長三年八月十八日、秀吉は死んだ。豪胆聡明勇武ともに天下に敵のなかった彼も、一|孩児《がいじ》秀頼のために辞を|卑《ひく》くし、情を傾けて大老奉行に後事を托し、血判の誓紙を二度まで取ったりした心事は、むしろ哀れで、当時の彼の親としての|煩悶《はんもん》が想像出来る。
それはともかく秀吉の|薨去《こうきよ》後関ヶ原の決戦まで、三年間の日本の天下は家康と三成との政治的智略競争の舞台である。しかもそれは秀吉が薨じた翌日に始まっているのだ。
遺命によって、派遣軍の引揚げを終わるまで喪を極秘に付することになっていて、死の|枕頭《ちんとう》に|列《つらな》った五奉行は|緘口《かんこう》の誓紙まで交し、三成は浅野長政と図ってわざわざ家康に|生魚《せいぎよ》を贈った。
翌日になっても喪を知らない家康が、見舞のために乗物で伏見城の大手門まで来ると、家康の|輿《こし》に近寄って声をひそめて秀吉の死を報じた者があった。三成の家来|八十島道与《やそじまみちとも》という男である。一方前田利家にも密報した。三成がそんな誓約を馬鹿正直に守っているような男なら、到底家康の相手になどなれなかったのだ。この際秘密を利用して家康の気持を和らげると同時に、長政と家康の親密な間に|隙《すき》を作ろうとしたのである。
文治派の三成と武功派の清正とはもともと握手の出来ない感情の|縺《もつ》れがあったが、秀吉の薨後はそれが露骨になった。
三成が博多に|下《くだ》って帰還の諸将を迎えた時に(先ず伏見に参って弔辞を述べ、お暇を請うて御帰国あるべし、明後年上京の節は改めて茶会にお招き致し、|永《なが》の御辛労を慰め申し度し)というと清正は、
(常日頃都に在って珍器を蓄えている貴殿方は大いに茶会も催さるるがよい。七年も異国にいて|嚢中《のうちゆう》無一文の我等ごときは、茶も酒も出せぬから|稗粥《ひえがゆ》でも炊いて返礼いたすであろう)と皮肉な|挨拶《あいさつ》をした。まるで|喧嘩《けんか》である。
もっとも清正にしてみれば、|斫《き》り取り勝手次第だとか、|大明《だいみん》で二十カ国拝領というお手形を後生大事に、戦さをつづけたが|蔚山《うるさん》の|籠城《ろうじよう》のように壁まで食って飢を|凌《しの》がねばならぬような苦戦もあって、斫り取り勝手次第という工合にも行かなかった。その上に今、頼みとする秀吉が死んだのでは恩賞だって文治派の連中にいいようにされて、将士の労をねぎらうことすら危ないものだ、と思うと、失望や|忌々《いまいま》しさが先に立って、三成の|小利巧《こりこう》そうな挨拶なんか|癪《しやく》に|障《さわ》って|公《おおやけ》の席を考える余裕もなく、こんな皮肉をいってしまったのであろう。
これを聞くと、三成だってむっとしたに違いない。しかし|木強一徹《ぼつきよういつてつ》の清正に売られた喧嘩をすぐに買うような彼ではなかった。だがもはや両者の間は鉄壁で|距《へだ》てられていたのである。
それに清正は|親戚《しんせき》関係もあって秀吉の第一夫人たる|北 政所《きたのまんどころ》派であり、三成は秀頼|輔佐《ほさ》の任もあって淀君派で、両者の|軋轢《あつれき》はまったく宿命的であったのだ。
こうした形勢を見た家康は、諸将の懐柔に取りかかったのである。
秀吉は家康の誓紙を肌身につけて|冥途《めいど》まで持って行くとさえいったが、家康は遺言も豊臣家の|掟《おきて》も無視してドンドン自分の都合のいいように処理変更して行った。どうせ今度は自分が|起《た》つ番だから、先ず太閤の掟を破って諸大名の|思惑《おもわく》を探り、天下の形勢を打診して見よう、というのである。
彼は(諸大名は|私《ひそか》に|婚姻《こんいん》を通ずべからず)という|法度《はつと》を破って、福島正則、伊達政宗、|蜂須賀《はちすか》家政等の諸家と婚姻の約束をした。これを見た石田三成は黙ってはいない。前田利家に訴えて非を鳴らした。
家康は(婚姻の事は自分に落度があるが、奉行達も政務総覧を|委《ゆだ》ねられている自分に届出もしないで京都の屋敷割なんかやっているではないか、あれは不都合千万だぞ)と逆襲した。正直者の利家は恐れ入って申し訳に坊主になってしまったが、家康は平気なもので坊主にもならねば謝罪もしない、婚姻もとうとう決行してしまった。
隠忍すべき時には|傍目《わきめ》もじれったいくらい自重しているが、やるべき時だと思うと|傍《そば》の者が顔負けがするほど強くなるのが家康だ。
当時は利家と家康の両頭政治で三成も隠然一党派をなして両者の間に介在していたが、利家に頼って家康を|挫《くじ》こうというのが彼の|肚《はら》であった。
そこで彼は考えた。伏見の秀頼を大坂に移らせると、|保傅《ほふ》の任にある利家も当然大坂に行く。すると諸大名は大坂に出仕して、伏見の家康とは自然疎遠になる。
こう決まると、慶長四年四月七日、前田利家が(上様の仰せ置かれた通り、秀頼様を大坂へお供仕る)という簡単な口上で切り出した。三成一派の魂胆を見てとった家康は、掌中の|珠《たま》を奪われてはと、百方|理窟《りくつ》を|竝《なら》べて延期を主張し、果ては本尊の秀頼や淀君までが(せめて四、五月頃まで伏見にいたい)といい出した。
しかし、さすがは利家で、淀君なんか眼中にない。(各々方は早や上様の遺言に|背《そむ》かるるか? 大坂は名城ゆえ|御薨逝《ごこうせい》の後五十日|経《た》たば|御供《おとも》申して、十五歳にならるるまでは大坂を出てはならぬと仰せがあったではござらぬか、是非御供仕る)とキメつけた。
この理詰と威勢とではさすがの家康も|強《し》いて反対するわけにも行かなかった。淀君なんかの反対は、何も理由があったわけではない、せめて|醍醐《だいご》の花でも見てから、大坂に移りたいくらいのことである。
それはともかく、当時利家の態度は中々評判で、前田の家臣が書いた|利家夜話《としいえやわ》にも(殿様の御威光の程を、|上下《じようげ》とも|大慶申事《たいけいもうすこと》に候こと)などと記しているが、利家|掉尾《とうび》の活躍である。
だがそれを断行させたのは勿論三成である。家康が伏見から秀頼の供をして大坂に着いた翌日、三成は家康登城の通路で|頭巾《ずきん》を被ったまま手を|焙《あぶ》っていた。浅野長政が(頭巾を取られたがよい)と注意したが、三成は知らぬ顔をしていた。聞えぬのかと思って再度注意したがやっぱり知らぬ顔をしていた。長政は気が|揉《も》めるやらムッとするやらで、いきなり頭巾を奪って火に投じたが、三成はにやりにやりと笑っているだけであった。
家康に鼻をあかした三成が(家康ごときが何だ)と空うそぶいている有様をよく表した逸話だ。
利家が死んだ直後のことである。清正以下の七将が三成を襲おうとした。理由は|高麗陣《こまじん》の際に三成が諸将の勲功を|擁蔽《ようへい》して、秀吉に伝えなかったというのである。
しかしそれは邪推で、清正等|股肱《ここう》の者の行賞は後廻しというのが秀吉の意中で、三成に罪はない。後に証拠品として持ち出されたが、当時|軍《いくさ》奉行の三成等から日本への勲功注進の控え、秀吉から諸将へ渡した感謝状その他の控えを見ても明白だ。
それはともかく、三成は伏見の家康のところへ走った。彼はまさか家康が自分を殺しはしないと確信していたのだろう。家康は、三成を殺すはまだ早い、絶えず何かを|企《たくら》まずにはおれない彼だから、仕掛けて来るのを待って、打っちゃりを食わせてやろう、と思ったのかも知れない。このところ|狸《たぬき》と|狐《きつね》との|騙《だま》し合いである。
そこで七将に向かって(|治部《じぶ》は|豊家《ほうけ》の重臣である。強いて渡せというなら、この家康は三成の味方をするまでだ)と実に|きれい《ヽヽヽ》な見栄を切っておいて、一方三成には(天下の騒動、|兎角《とかく》貴公の一身に|関《かかわ》っている、|一先《ひとま》ず近江|佐和山《さわやま》城に退居さるるがよい。万事はよきに計らうから)といった。三成もこのくらいのことは覚悟していたから佐和山に|還《かえ》った。
こうしておいて家康は三成の余党を中央政府から一掃した。だが、彼は三成がこのまま佐和山に隠居してしまうなどとは思っていない。現に、大坂の連中を糸を引いて操っているのも十分知っていた。
三成も佐和山城の堀を|浚《さら》い、塁を増し、名のある浪人を招いてしきりに軍拡をやる。あまり|噂《うわさ》が高くなると(佐和山は諸国往来の|衢路《くろ》だから、あまり荒廃に任せて置くと見苦しいから少し手を入れるまでで、決して他意のあるわけではない)と心得た返答をして|尻尾《しつぽ》を出さぬ。
家康が加賀の前田|利長《としなが》が不穏だというので征伐の触れを出し、柴田|左近《さこん》を佐和山に使者に立てて(利長と手切の上は、何かにつけて加勢を頼む)と懇談して三成の気を引いて見ると、彼は一も二もなく快諾して、|国光《くにみつ》の|脇差《わきざし》までやって左近をもてなした。
こんな調子だからさすがの家康も一寸手が出ない。だが彼は投ずべき機会を|覘《うかが》ってむずむずしている三成をよく知っていた。
家康の考えは、こちらから隙を与えてやれば三成はきっと乗り出して来る。その時一挙に天下の形勢を決してしまおう、というのである。
加賀征伐にことよせて、京坂の地を空けようとしたが、利家が折れて出たので果さなかったので今度は会津の上杉景勝|謀叛《むほん》の風評を機に、いよいよ東征を決した。時に慶長五年六月である。
上杉景勝と三成は、かねて黙契するところがあって、東西相応じて家康を謀り、景勝の謀臣直江兼続が謀主だったと一般に信じられているが、近来学者の研究によると少し事実と違う。
景勝は慶長三年正月会津に転封され、四年九月会津に帰着して、引越しの後片づけをやっていた。それを景勝の旧領地の越後を領した堀|秀治《ひではる》と同族の堀|直政《なおまさ》が|銜《ふく》むところがあってデマを飛ばしたのである。
ぐずぐずしていて中央政局の風雲なんかに|捲《ま》きこまれていると、引越し早々の会津の領地なんか|伊達政宗《だてまさむね》あたりに火事泥的にやられる懸念が大ありなので、急いで帰って整理をしたのであろう。
もっとも、直江兼続のような人物もいたことだから、あわよくば黒田|如水《じよすい》のように一仕事やるつもりにならなかったとはいえぬ。
しかし、とにかく謀叛の件は、兼続が胸のすくような弁疏をやってのけている。
だが家康は、いずれにしても京坂の地を空けて三成に隙を作ってやりさえすればよいのだ。正直な奉行達が、本気になって引き止めるのも聞かずに、彼の権勢に|阿諛《あゆ》する事大主義者達を交ぜた五万六千を率いて、八月十八日伏見を出発した。
この時三成も、|倅《せがれ》の|重家《しげいえ》を大谷|吉隆《よしたか》につけて従軍させたいと申し出たが、家康は、それには及ばぬといって|却《しりぞ》けた。この辺も化かし合いで、最後までとぼけ合っていたのだ。
家康は|途々《みちみち》諸城主の|饗応《きようおう》を受けたり、遊猟をやったり、名所見物もして、|遊山《ゆさん》気分で東海道を下った。江戸近くなってからも鎌倉あたりで日をすごし、やっと江戸城に入ると、そこでも二十日間もぐずぐずしていて、三成挙兵の報知を待っていた。景勝征伐なんかどこまでも口実である。だが三成も|強《あなが》ち家康の手に乗ったとはいえない。彼は彼の策から、あの挙に出たのだと思う。
とにかく三成は好機到来とばかりに|蹶起《けつき》して、疾風|迅雷《じんらい》驚くべき俊敏さで事を運び、毛利輝元を盟主として大坂に居らせ、|宇喜田《うきた》、小早川、島津、|長曾我部《ちようそかべ》、|小西《こにし》、|増田《ますだ》、|長束《ながつか》、大谷等四十余人、三十六国の大名を|麾下《きか》に集めた。
残暑の|酷《きび》しい七月十九日の暮方、いわゆる西軍の三成方は大挙大坂から来襲して伏見城を包囲した。
留守居の城将鳥居彦兵衛|元忠《もとただ》は、既に今日あるを覚悟して家康東下の前の晩も主君と名残を惜しみ夜半まで語り|更《ふ》かしたが(多分これが最後の拝顔でござろう)と声をのんで退下すれば、家康も言葉なく両眼を潤ませて彼が後姿を見送った。このところ、君臣の情|自《おのずか》ら相発する名場面である。
元忠は直ちに籠城の用意をし、もし弾丸が尽きる時は、家康の命令通り太閤以来天主閤に貯蔵されている|金塊《きんかい》銀塊を|鋳潰《いつぶ》して寄手の頭上に|金弾銀丸《きんだんぎんがん》の雨を降らせる|心算《つもり》であった。
城は二十九日の晩、西軍が放った|火箭《ひや》のために火を発し、八月朔日ついに落城した。使命を終えた元忠が美事に|屠腹《とふく》したのは午後三時であった。
かつて秀吉が、元忠に叙爵して功を|賞《しよう》そうとすると(|某《それがし》は徳川家|相伝《そうでん》の者なれば、太閤といえども他人の恩を受けて二君に忠を入るるの道を|弁《わきま》えず、|平《ひら》に御|用捨《ようしや》下され度い)といって固辞した。正に|三河《みかわ》武士の典型だ。こんな家来を沢山持っているのだから、家康は信長秀吉にさえ恐れられたのだ。
宇治の|茶師上林竹庵《ちやじかみばやしちくあん》は伏見籠城に|歎願《たんがん》しているし、|神崎竹谷《かんざきちつこく》という元忠の茶道相手は寄手の|真只中《まつただなか》に突入して|生捕《いけど》られている。更に京の町人佐野四郎衛門は、大坂に|梟《さら》されている元忠の首を|窃《ぬす》んで来て、弟がいる京都の|百万遍《ひやくまんべん》の境内に密葬した。今でもそこに元忠の墓がある。彼の誠忠には町人まで感動したのだ。実に義烈百世というべきである。
捕虜になった|竹谷《ちつこく》から、伏見守城の始終を聞いた三成は(新太郎は定めし父が戦死の模様を覚束なく思っているだろう。|其方《そのほう》急ぎ関東に下り、最期の次第を語り聞かせよ)といって|伝馬《てんま》に乗せて関東に送った。新太郎とは元忠の|嫡子《ちやくし》忠政のことである。三成も決して世に伝えられるような|奸佞《かんねい》邪智一点張りの仕事師ではなかったのだ。
後日敗戦の三成が関東に捕えられた時に、家康は元忠の次男|成次《なりつぐ》を召して(三成は汝が父の|讐《かたき》だから)といって身柄を預けると、成次は三成の|縛《ばく》を解き風呂に入れ新衣を給してもてなし、その翌日家康に謁して(父元忠は|家国《かこく》に殉じたのである。三成は天下の公敵だが私の|怨《うらみ》は更にない。よろしく国家の大法に従って処罰され度い)といった。以て好一対の戦国美談だ。こうして伏見城は、いかにも天下|分目《わけめ》の大活劇の序幕にふさわしい美談佳話に飾られて落城したのである。
関ヶ原の合戦は九月十五日の午前八時に始まったが、戦機が熟する頃、小早川秀秋、|吉川《きつかわ》広家などが東軍に内応したので、午後二時頃には、西軍の総崩れとなった。
三成は戦場を逃れて|伊吹山《いぶきやま》に入り、大坂に走って再挙を謀るつもりだったが、山中の|遁走《とんそう》生活中に|下痢《げり》を起こしたりして止むを得ず単身江州に入り旧領地の|伊香《いか》郡|古橋《こはし》村に|辿《たど》りついた。暫く百姓与次郎太夫にかくまわれていたが、ついに捜索中の田中吉政の手に捕えられた。三成を預った本多|正純《まさずみ》が(秀頼公幼少なれば、ただ天下太平の道を講ぜらるべきに、よしなき|軍《いくさ》を起こして|縄目《なわめ》の恥辱を受けらるるとは、治部殿にも似ぬ|所為《しよい》)というと三成は、(|内府殿《ないふどの》は遂には|豊家《ほうけ》の|禍《わざわい》となるべき人と思い、秀家、輝元を始め同心なかりしものをも強いてこの挙に及び、内応に遭って勝つべき軍に負けたのは残念。だがこれも天命)といって歎息すると(人情を計り時勢を知るのが智将の道である。諸将の同心なきをも知らず軽々しく軍を起こし、|終《つい》には敗れて自害もせで|搦《から》められては、重ね重ね公にも似ぬ事)というと、三成は(|頼朝《よりとも》が|土肥《とい》の大杉の空洞にかくれた心は|葉武者《はむしや》には分かるまい。その時|景親《かげちか》に搦められていたら|嘸御辺《さぞごへん》如きにまで笑われたことであろう)といって口を|噤《つぐ》んだ。
しかし、三成は正純の言葉が痛かったにちがいない。頼朝と今の三成では事情が違う。頼朝は二十年も|流謫《るたく》生活をやっていてもなお旗挙が出来るくらいの地盤があったが、三成の場合は文字通り|乾坤一擲《けんこんいつてき》の決戦だ。彼自身も云っているように(豊家のために尽した自分の名は、天地が裂けざる間は語り伝えられるだろう、今となって更に悔も残らぬ)筈だ。
|大津《おおつ》の家康の陣に送られた時も、五奉行の随一、佐和山十九万四千石の大名としての威容を保って対面したほどの彼、(江戸の上様より)といって|小袖《こそで》を与えられると、触れようともしないで、(上様とは故太閤以外にはなき筈、何ぞ内府を上様と云うべき)と詰問したほどの彼だのに、何故敵手に落ちる前に|自刃《じじん》しなかったのか、正純の質問は一理がある。
しかし、彼が最後まで自殺しないところにもある強さを認めずにはいられない。
十月朔日、京中を曳きまわされた時に、三成が湯を求めると警固の者が、|柿《かき》の|甘干《あまぼし》ならあるといった。三成は(|痰《たん》の毒だから|止《よ》そう)といったので、皆が(数刻の後に首を|刎《は》ねられる者が、今更毒断ちは笑止だ)というと、三成は(大義を思うものは死ぬ間際まで命を惜しむものだ)といった。
しかし、秀吉の一行政官三成が、三十六国四十余人の諸大名を動かして、信長秀吉にさえ憚られたほどの家康を向こうにまわし、国史を画する大戦を試みたのだから、|成敗《せいばい》を超越して、大人物とせねばならぬ。しかも文治派の彼が戦った石田勢は、関ヶ原で|島《しま》左近以下奮戦して死に就いている。然らば武将としても相当なものだ。
三成、小西行長、|安国寺恵瓊《あんこくじえけい》らは六条|磧《がわら》で|斬首《ざんしゆ》され、|長束正家《ながつかまさいえ》の首と共に三条大橋に|梟《さら》された。三成の行年四十一歳。
※
関ヶ原の|役《えき》に関する三成の心事については、或は豊臣氏のために謀ったのだといい、或は天下に対する野心に出たものだといい、|揣摩臆説《しまおくせつ》が行なわれるが、もし三成が関ヶ原で勝てば追々天下を|窺《うかが》う気にもなったかも知れないが、とにかく家康の態度を憎んで豊家のために除こうとしたのに相違ない。
いつも、地味なやり口でいて少しの抜目もなくジリジリと押して行く家康を見ると、才智の塊のような三成は|忌々《いまいま》しくて我慢が出来なかったのだ。
家康の拙に似た大功が、鈍に似た大智が、結局自分の智才を凌いで行くのを見ると、豊家のためでなくても黙って居られなかったのだ。三成はそういう性格だったのだろう。三成は清正あたりが喧嘩を売っても自信たっぷりで|鷹揚《おうよう》に構えていて相手にしないが、家康となると何か圧迫や恐怖に似たものを感じ、それが我ながら|癪《しやく》に障るので、何を! と思うと、つい対抗意識が出たりするのだった。
大仏殿建立の時に、三成は家康と一緒に普請場に行ったが、三成が|杖《つえ》を落したのを、家康が拾って渡すと、礼もいわずに受取った。家康登城の通路で、ことさら頭巾も取らずに手を焙ったりするのも不覚の対抗意識だ。これなども、家康に比し、知行も少なく年も若いせいで、必ずしも人物が小であるとはいえないだろう。三成に前田利家の位置があったら、徳川の天下は実現しなかったかも知れない。
[#改ページ]
|頼山陽《らいさんよう》の|川中島《かわなかじま》合戦をうたった詩に、
(|西条山《さいじようざん》 |千曲河《ちくまがわ》。|越公《えつこう》虎の|如《ごと》く|峡公《きようこう》は|蛇《じや》。|汝螫《なんじささ》んと欲す|吾已《われすで》に|瞰《み》んとす。八千騎|夜暗《よやみ》を|衝《つ》く。|暁霧《ぎようむ》晴れ|大旗搴《たいきかか》ぐ。両軍|搏《う》ち山裂けんと欲す。快剣陣を|斫《き》り|腥風《せいふう》生ず。虎|吼《ほ》え蛇逸し|河雪《かせつ》を噴く。|傍《かたわら》毒竜有り其|蹙《つま》ずくを待つ)
正に戦国時代の竜虎の争いである。傍に毒竜有りその蹙ずくを待つといったのは、|北条 氏康《ほうじよううじやす》のことをいったのか、織田信長をいったのだろうか。
とにかく、戦国時代に、誰が強い彼が強いといったとて、この二人に及ぶものはあるまい。織田信長、徳川家康、豊臣秀吉、伊達政宗、こんな連中を、いくら連れ来っても、|謙信《けんしん》や|信玄《しんげん》と一軍と一軍との勝負をさせたら、|敵《かな》いっこなかったであろう。たとい、秀吉が、天下取りの名将で、三万の大軍を率いてかかっても、謙信の一万の軍勢には撃破されたであろう。
戦争にかけては、二人とも天才的でしかも、士卒の訓練が上手で、これを手足の如く使い廻したのであるから、その当時に在って精強無比であったのである。木村|高敦《たかあつ》、甲越両将を評し(三軍の制法|善《よ》く整いて、危な気なかりしは信玄にして、士卒を重んじ、大将を手足の如くに従わせたるは謙信なり)と、いった。
だから、甲軍は重厚沈着|鉄桶《てつとう》の如く、謙信は機敏俊速|隼《はやぶさ》の如きものがあった。
織田信長の如きは、|天正《てんしよう》五年五万の大軍を率いて、加賀に入り、|手取川《てどりがわ》で、背水の陣まで敷いて、謙信の軍を迎えたが、謙信が三万五千の兵を率いて南下して来ると戦わざるに|怖気《おじけ》づき、夜闇に乗じて、退却してしまった。
謙信笑って、
(さすがに信長かな、そのままに在りなば、|蹴散《けち》らして川へ切り込むべきに、|夜中《やちゆう》の退散は|軍慮一投《ぐんりよいつとう》の|巧者《こうしや》なり)と云いながら追討をかけて、千余人|斃《たお》した。当時路上に|落首《らくしゆ》あり、
上杉に|逢《お》うては織田も手取川
はねる謙信逃げるのぶ長
逃げる信長は、逃げ延びるという|洒落《しやれ》であろう。謙信この落首を見て、
(この地|一向宗《いつこうしゆう》の|僧侶《そうりよ》多ければ、その者どもの作ったものであろう。しかし、我いかにはねればとて飛ぶ長には及ばじ)と云ったという。とぶ長も、洒落であろうが、|脆弱《ぜいじやく》なる|上方《かみがた》の軍勢など、謙信の眼中にはなかったことが分かる。
だが、信玄の軍隊も、謙信のそれに劣らぬくらい強く、|元亀《げんき》三年|三方《みかた》ヶ|原《はら》で徳川家康と戦ったときなど、密集部隊のまま、|押太鼓《おしだいこ》を打って攻めかかり、ひとたまりもなく撃破し、家康危地に入ること再三、家臣夏目七郎左衛門の忠死で、やっと虎口を逃れている。
とにかく、ただ戦争をやらせておけば、戦国時代の諸将は、遠く|甲越《こうえつ》両将に及ばなかったであろう。
しかも、この南北の両横綱が、川中島で必死の一戦を試みたのであるから、川中島の合戦が戦国時代第一の激戦となったのは、当然である。
川中島の戦死者は、武田方が四千六百、上杉方が三千四百である。戦場に|馳駆《ちく》したものの四十パーセントが死んでいるのである。関ヶ原の戦など、天下分け目などというが、両軍の死者は合計二千余人で、両軍の兵力十五万とすれば、一パーセント強しか、死んでいないのである。
戦国時代の戦争などは、死にたくない気があれば、少し後の方で|鬨《とき》の声さえ出して、ゴマかしていれば、死ななくっても済んだであろうと思うから、甲越の軍隊が、いかに勇猛果敢の連中であったかは、この戦死者の数でもよく分かると思うのである。
この川中島の合戦を説く前に、謙信と信玄の|為人《ひととなり》を少し書いて置こう。
武田の先祖は、八幡太郎義家の弟、|新羅《しんら》三郎|義光《よしみつ》である。義光、|寛治《かんじ》年間|甲斐守《かいのかみ》となって、甲斐に永住し、その孫|信義韮崎《のぶよしにらさき》町の西南に在って、その地名を名乗って甲斐源氏の統領となる。
だから、武田の家には八幡太郎の御旗、|楯無《たてなし》の|鎧《よろい》、|義弘《よしひろ》の太刀等、源氏の重宝を伝えている。
信玄は、新羅三郎十九代の|後胤《こういん》に当たっている。当時にあって名誉の家柄である。
幼名は、|勝千代《かつちよ》。十六歳で元服、時の将軍|足利義晴《あしかがよしはる》から、名前を与えられて|晴信《はるのぶ》と称す。信玄は入道してからの|法名《ほうみよう》である。十二歳の時、庭の木馬が、|嘶《いなな》いたので、抜打ちに|斬《き》りつけると、翌朝|古狸《こり》が背中を斬られて死んでいたという逸話がある。
|天文《てんもん》五年十一月、父|信虎《のぶとら》が|信濃海之口《しなのうんのくち》城に、猛将|平賀源心《ひらがげんしん》を攻めたとき、信玄も十六歳で|軍《いくさ》に従った。
源心は、七十人|力《りき》もあるという猛将で、三千の部下と|殊死《しゆし》して戦い、城は容易に抜けない。その上、年末に近く降り出した雪は七、八尺も積り、さすがの武田勢も、囲みを解いて退軍するに決した。十二月二十七日の事だ。
|然《しか》るに、|殿軍《でんぐん》を命ぜられた信玄は名将|板垣信形《いたがきのぶかた》など|手勢《てぜい》わずかに三百人を率いて、中途から取って返して、|払暁《ふつぎよう》海之口城の不意を襲った。城将平賀源心は、武田軍の退却を見て|安堵《あんど》し、折柄年末ではあるし、部下の将士に帰休させ、自分は部下とともに、酒盃を傾け、安心して眠りに就いたばかりだった。
心理的に、敵の裏を|掻《か》いた信玄の策は、見事に奏功して、源心|脆《もろ》くも首を授けた。
これが、信玄|初陣《ういじん》の功名であるが、父の信虎は信玄の弟|信繁《のぶしげ》の方を愛していたから、信玄の功を賞さなかったといわれる。
その後二、三年は、|女色《じよしよく》を近づけ、詩歌を愛して、柔弱な行為があったが、板垣信形の決死の|諌言《かんげん》を容れて、立ち直った。
天文十年、父信虎隠居して、|駿河《するが》に赴いたので、信玄は二十一歳にして、家督を相続した。
信玄が、父を|放逐《ほうちく》したといって非難する人もあるが、しかし家臣一般の|輿望《よぼう》が、人望のなかった信虎よりも、子の信玄に傾いたためであろう。
信玄が、年少にして相続したと聞くと、その弱点につけ入って、来襲して来たのが、|深志《ふかし》(現今の松本)の城主|小笠原長時《おがさわらながとき》と、|諏訪《すわ》の領主諏訪|頼重《よりしげ》である。
両家の軍勢一万二千である。信玄、わずかに六千の兵を|以《もつ》て、韮崎に迎えて、これを撃破した。これが韮崎の合戦である。
これから、信玄の信濃経営が始まった。この時代には、攻めなければ攻められるのである。やっつけなければ、やっつけられるのである。積極的に策動して、隣国を征服することが自分の安全を計る唯一の方法であった。
殊に、信玄としては、当時|相模《さがみ》には|北条 氏康《ほうじよううじやす》がおり、駿河には|今川義元《いまがわよしもと》がいる。北条は初代|早雲《そううん》、|氏綱《うじつな》、氏康と名将が三代続いて伊豆相模から武蔵へ発展していて、関八州を|併呑《へいどん》せんとする勢いだ。今川義元も、勢力強大で東海に|覇《は》を称しているし、その上信玄の姉が義元夫人になっているから、親類関係だ。だから、東海方面には出ないから、勢い信濃に向かう外はないのだ。向かわないまでも、相手から向かって来るのだから、どうしても信濃を|狙《ねら》う外はないのだ。
当時の信濃は、信玄にはすこぶる都合よく、諸将が割拠していた。
北信には|村上義清《むらかみよしきよ》が|葛尾《くずお》城にいた。|埴科《はにしな》、|更科《さらしな》、|高井《たかい》、|小県《ちいさがた》、|水内《みのち》五郡と|佐久《さく》郡を保ち、信濃第一の勢力である。これは信濃源氏である。
小笠原氏は、深志城におり、これも源氏である。これが、小笠原長幹氏の先祖である。
|木曾《きそ》氏は木曾|義仲《よしなか》の後裔で、木曾の福島城にいた。
諏訪氏は、やはり信濃源氏で、現在の|上《かみ》諏訪にいた。
平賀氏は、南北佐久郡にいたが、武田に亡ぼされたことは、前に書いた通りだ。
その外、|伊那《いな》には|高遠《たかとお》氏がいた。
信玄は、先ず平賀氏を滅ぼし、諏訪|頼重《よりしげ》を|斃《たお》し、次いで小笠原|長時《ながとき》を攻め、最後に北信の村上義清を|伐《う》った。
天文二十二年八月、大挙して村上氏を襲ったので村上義清はこれを小県郡|上田《うえだ》ヶ|原《はら》に|邀撃《ようげき》し奮闘したが、大敗し、居城葛尾城さえ敵手に落ちたので、信濃の地に身を容るる処なく、遂に走りて越後なる上杉謙信に投じて、援助を求めた。
これ、|蛟竜《こうりゆう》に追われたる兎が、猛虎の懐中に飛び込んだことになるのである。|侠豪《きようごう》謙信いかでか動かざらんやである。
|謙信《けんしん》という名前も、やはり入道した後の法名で、四十一歳の時、初めて謙信と自分で書いている。幼名は、|長尾虎千代《ながおとらちよ》、元服して|景虎《かげとら》と呼び、|永禄《えいろく》四年三月三十二歳の時、関東|管領《かんりよう》上杉|憲政《のりまさ》から管領職をかりに譲られたとき、名前も一字|貰《もら》って|政虎《まさとら》と改めた。だから、同年九月の川中島の戦のときは、上杉政虎である。
同年十二月、将軍足利|義輝《よしてる》の輝を貰って|輝虎《てるとら》と名乗った。
もっとも、信玄が|法体《ほうたい》となって信玄と名乗ったのは、天文二十年で川中島の戦より十年も前である。だから、精確にいえば政虎、信玄の一騎打なのである。
足利|尊氏《たかうじ》が、|室町《むろまち》幕府を京都に開いた時、鎌倉は武家勢力の中心地なので、子の|基氏《もとうじ》をここにおいて、関東管領職として、|従弟《いとこ》の上杉|憲顕《のりあき》を執事とした。
ところが、その後|基氏《もとうじ》の|曾孫満兼《そうそんみつかね》の時に、関東管領が、将軍同格の関東|公方《くぼう》となり、執事の上杉氏が自然昇格して、関東管領となった。
戦国時代に近づくと、|下剋上《げこくじよう》の例外に|洩《も》れず上役の公方の勢力が衰えて管領の上杉氏が勢力を占めた。ところが、その上杉管領家も、一漂泊の武士である|伊勢新九郎長氏《いせしんくろうながうじ》、後の|北条 早雲《ほうじようそううん》に圧迫されて、伊豆相模を取られ、早雲の子氏綱、孫氏康、いずれも当時の名将なので、管領家は手も足も出ず、遂に管領家の最後となった上杉憲政が越後へ来て、謙信に泣きついて(管領職も上杉という名前も譲るから、どうにかしてくれ)と、頼んだのである。
それは管領上杉家と謙信の家と縁故があるからだ。
上杉謙信は、本姓は長尾氏だ。|桓武《かんむ》天皇より出た|平家《へいけ》である。上杉家の祖先である上杉|憲顕《のりあき》が、その子|憲将《のりまさ》を越後守護としたとき、長尾氏の先祖、長尾|弾正《だんじよう》左衛門が執事として、一緒に越後へ赴いて、そこに土着したのだ。だが、戦国時代にはまた例の下剋上で、越後の上杉氏は衰え、長尾氏が栄えていたのだ。しかし、とにかく、上杉氏と長尾氏は、主従の家なのだ。
関東管領、上杉憲政が北条氏に|苛《いじ》められ、どうにも出来なくなって、長尾氏を頼んだのは当然である。
衰えたりといえども、関東管領の上杉氏から泣き付かれ、信濃の村上氏からも頼まれる謙信は、当時すでに|侠気《きようき》を以て、遠近に聞えていたに違いない。
謙信は、七歳の時、父|為景《ためかげ》を|喪《うしな》い、十四歳の時から攻戦に従事し、十六歳十七歳と国内の諸豪と戦い、十九歳兄|晴景《はるかげ》の|嗣《し》をついで、|漸《ようや》く一国を統一した。謙信の幼年時代の越後は諸豪割拠で、謙信の父為景のお葬式の時なども、敵方の者が、|白刃《はくじん》を抜いて葬列に迫る騒ぎであった。
上杉憲政の|請《こい》を|容《い》れた謙信は、|爾来《じらい》しばしば|三国峠《みくにとうげ》もしくは清水峠を越えて、長駆関東に出動し、永禄四年三月には小田原城を攻囲し、|城濠《じようごう》に肉迫した。
この時、謙信|濠《ほり》近く馬より下り、|牀几《しようぎ》に腰かけていると、敵兵城壁の上から、鉄砲三十|挺《ちよう》を|揃《そろ》え、三度まで一斉射撃をしたが、謙信ビクともせず、お茶を三杯まで飲んだという。昔の鉄砲はいかに当たらぬといえ、有効距離二十|米《メートル》ぐらいはあるから、大胆不敵な振舞であるというべしだ。
しかし、謙信の関東経営は、信玄と多くの関係がないから、ここに説かないことにして、川中島合戦を主として書くことにする。
信濃の村上|義清《よしきよ》は、同じく信玄のために、領土を追われた同国の|高梨政頼《たかなしまさより》、井上|清政《きよまさ》などと手を携えて、謙信に投じ(我等多年信玄のために侵略を受け、身を容るる寸土もなし、願くは君の威武によって、旧領に帰還せしめ給え)と哀願した。
謙信これを聞いて、
(信玄故なくして、人の国を奪う、|暴戻《ぼうれい》憎むべし。|公等《こうら》、名族にして、恥を忍んで、我をお頼みあるは、これ我を知るが為ならん。男児意気に感ず、|何《いずくん》ぞ公等のために、力を惜しまんや)と、|慨然《がいぜん》として快諾した。
この時、義清は信玄の戦争の仕方を話した。(十年以来、信玄勝利を取りたる間、今はや末を頼み、物事を大事に致し、弓矢を締めて取り、|率爾《そつじ》の働きするようにて、少しもせず、勝って後は戦前より用心を深くし、十里働く処は三里|或《あるい》は五里働き候)と、いった。
謙信、これを聞いて、
(信玄の兵を用いるに、|後途《こうと》の勝を肝要にするは、国を多く取らんとする|存意《ぞんい》なり、我は、国は欲しからず、後途の勝も構わず、たださしかかりたる正しき一戦を避けぬばかりである)と、いった。
後途の勝とは、|末始終《すえしじゆう》の大勝ということだ。目前の勝利よりも、実利的な大局の勝利ということだ。天下を|狙《ねら》う秀吉や家康は、常に後途の勝を念とした。同じく、天下取りの野心のある信玄が、後途の勝を念とするのは当然である。
だが謙信の弓矢の取り方は、人に頼まれれば、身の危険を冒してでも、無二の一戦を試み、単騎信玄の本陣へ斬り込んで行くというやり方だ。
筋道の立った戦争は、あえて辞さぬというやり方なのだ。弓矢の名分を重んじようというのだ。だから、年二十三の時、朝廷から|従《じゆ》五位|下弾正 《げだんじようの》 |少弼《しようひつ》に叙任されると、朝恩に感激して、(我|坐《い》ながらにして、官爵を受く、|是《これ》恐らくは、人臣の|大義《たいぎ》に非ず。|将《まさ》に|上洛《じようらく》して、天恩を拝謝せん)といって、二度までも京都へ行っているのである。戦国の世の中に、越後から京都まで、敵とも味方とも分からぬ国々を押し通ってはるばる出かけて行くなど、謙信ならでは出来ない放れ|業《わざ》である。
しかし謙信が川中島へ出兵したのは、必ずしも村上義清の頼みを聞いただけではない。
万一信濃が完全に信玄の手中に落ちたならば、越後は常に信濃国からの脅威を受けるわけで関東への出兵など思いも及ばぬことになってしまうのだ。だから、川中島出兵は、|耿々《こうこう》たる義心にもよるとはいえ、自衛心の発動でもあるわけだ。その証拠に、|弘治《こうじ》三年部下の一将たる越後|石船《いわふね》郡の|色部勝長《しきべかつなが》に送った手紙に、
(〔上略〕雪中|御大義《ごたいぎ》たるべしと|雖《いえど》も夜を以て日に継ぎ御着陣待入候。信州味方中、滅亡の上は当国の|備《そなえ》安からず候条、御|稼《かせ》ぎ此時に候|恐 々《きようきよう》謹言
[#地付き]長尾弾正少弼景虎
色部弥三郎殿)
と、ある。
川中島合戦は、天文二十三年を初とし数回ある。最初の天文二十三年の時は、出兵したが、戦争はなかった。だから|琵琶《びわ》の(天文二十三年秋の|半《なかば》の頃かとや)は、ウソである。
翌年七月川中島において、信玄と戦ったが、この時は大戦争とならないうちに、駿河の今川義元の調停で和を講じた。
しかし、こうした一時の講和で、大人しく引っこんでいる信玄ではない。殊に、謙信が関東管領の職務を代行して、武蔵相模に出動して、北条氏を討伐することになると、北条氏と同盟の関係にある信玄は、北条氏に対する義理からも、謙信を|牽制《けんせい》しなければならない。それには信濃方面に出動して越後を|脅《おびや》かすのが上策なのである。
されば、謙信が|永禄《えいろく》三年、四年と二年越し関東に滞在して、関東の諸将を|風靡《ふうび》し、小田原城に迫るや、信玄は|面憎《つらにく》しとばかり、信濃に増兵し、越後を|衝《つ》くの勢を示した。謙信、小田原陣中この報を聞くと、兵を収めて越後に|走《は》せかえり、この度こそは、信玄と手詰の一戦を試みんと決心したのである。これが永禄四年九月十日の血戦の序幕である。
南、|甲武信岳《こぶしだけ》に源を発した|千曲川《ちくまがわ》と西、|南 《みなみ》|駒岳《こまがたけ》から流れ出た|犀川《さいかわ》とが合して、信濃川になるのだが、この二筋が、|善光寺平《ぜんこうじだいら》で作っている三角地を川中島と呼ぶのである。千曲川は、その名の如く曲りくねって、流水緩慢である。犀川は犀の|奔馳《ほんち》する如く、水勢急である。川中島四郡と呼ばれるくらい、この平野は広いのである。
当時犀川以北は、越後の勢力範囲で、千曲川以南は、甲斐の勢力範囲だ。だから両川の間である川中島は、両国の中立地帯でもあれば、兵家のいわゆる争地でもあるのだ。しかも、越後からの三筋の道路も、甲斐から来る三条の道路も、川中島に到って一緒になっている。だから、どちらから出兵するにも屈強の土地である。
信玄は、永禄三年に、講談で有名な山本|勘助《かんすけ》に命じて、千曲川の東岸に|海津《かいづ》城を築かしめた。勘助は、わずか八十日間で築き上げたので、|高坂弾正《こうさかだんじよう》をして守らしめた。海津は現在の|松代《まつしろ》で、千曲川を隔てて川中島に対し川中島で戦争するためには、もって来いの根拠地である。
山本勘助は、小男でびっこで、|眇目《すがめ》で、|二目《ふため》とは見られない男である。北条氏康、今川義元に仕えんとしたが、いずれもあまりの|醜貌《しゆうぼう》なので、用いなかった。信玄の家臣、|甘利虎泰《あまりとらやす》を頼って甲府に来た。信玄これを引見して、
(容貌は醜いが、役に立ちそうだ)とて、登用した。勘助は、上州|箕輪《みのわ》城に食客をしていた|真田幸隆《さなだゆきたか》を信玄に推薦した。信玄は、これも採用した。この真田幸隆こそ、真田|昌幸《まさゆき》の父で、つまり、真田|幸村《ゆきむら》の|祖父《おじい》さんだ。これがまた、|智謀《ちぼう》の名将だ。真田三代記というのは、幸隆、昌幸、幸村の三代をいうべきで、幸隆の代りに、幸村の子の|大助《だいすけ》を加えるのは|可笑《おか》しいのである。
勘助の鬼才と幸隆の善謀とが、信玄の活躍を助けたのはいうまでもない。
この海津城の築城なども、謙信に対する脅威であることは申すまでもない。
関東から越後に|走《は》せ帰った謙信は、士卒に休養を与えること、わずかに二カ月、八月八日居城|春日山《かすがやま》城を出発すると、一万三千の精兵を率いて、川中島に向かった。春日山城から川中島までは十里だ。謙信は、全軍を二手に分かち、一は北国街道を|大田切《おおたぎり》、|小田切《こたぎり》の|嶮《けん》を越えて善光寺に出で、一は間道|倉富峠《くらとみとうげ》を越えて、|飯山《いいやま》に出た。
当時の戦記に、
(今度信州のお働きは先年に超越し、御遺恨益々深かりければ、この一戦に国家の安否をつけるべきなり|云云《うんぬん》)とあるから、謙信の覚悟のほどが知られるのだ。
謙信が、|凡庸《ぼんよう》の大将ならば、|遮二無二《しやにむに》海津城を囲んで、水火になれと攻めたに違いないが、そんな月並なことをする謙信ではない。北国街道の一軍は、善光寺近くの|旭山《あさひやま》城に一部隊を残し、善光寺から犀川を渡り、海津城の前面を悠々と通り、千曲川まで渡り、敵の勢力圏内の奥ふかく|西条山《さいじようさん》(妻女山とも書く)に向かった。飯山に出た謙信の率いる一軍は、これまた海津城を|尻目《しりめ》に、その背後の難路を通って、西条山に向かった。
敵の堅城の前後を、会釈もなく通って、敵地深い西条山を占拠した大胆不敵な振舞には、敵も味方も、あれよあれよと驚いたという。しかし、この西条山は、海津城の|防禦《ぼうぎよ》正面を避け、その側背を脅かしている戦術上絶好の位置で、ここに陣地を取ったことは、地形判断の妙を極めたものらしい。
元来、謙信の眼中には、一海津城などは、ある筈はない。甲府からやって来る信玄が、目的なのだ。海津城などを攻めてその背後から、信玄に攻めかかられるような愚策を取るわけはないのだ。
海津城に取っては、目の上の|瘤《こぶ》のように|面憎《つらにく》い西条山に陣を取って、信玄を誘い、攻めかかって来るのを待って撃破しようという策戦なのだ。
|越後軍記《えちごぐんき》に(信玄西条山へ寄せ来らば、彼が陣形常々の|守《まもり》を失うべし。その時無二の一戦を遂ぐるべし)とある。
信玄の手兵は、わずかに八千だ。しかし、謙信は、手足まといになる大軍よりも、自分の思うままに駆使出来る三千の精兵で満足したらしいのだ。
海津城の名将|高坂昌信《こうさかまさのぶ》は、|狼烟《のろし》を上げて急を甲府に伝え、別に早馬の使を立て、馬を替えつつ詳報した。
信玄、この報に接すると、かねて覚悟の前とて、南信の諸将に軍勢を催促しつつ、十八日に甲府を立ち、二十二日には早くも上田に到着した。信玄がモットーとする|孫子《そんし》の|辞《ことば》の如く(|疾《はや》きこと風の如し)だ。甲府から川中島までは、三十七里だ。
上田で軍議を開いたが、信玄は熟慮の後(謙信が、今度犀川千曲川の両河を渡り、深く海津城の南方に入るは自ら虎穴に入って、|有無《うむ》の一戦を挑むと見えたり、さらば我にも一策あり)と二万余に達した大軍を率い、西条山を尻目にかけて、その西方を通って、川中島の西北|茶臼山《ちやうすやま》に向かい、二十四日これに|拠《よ》った。
謙信が、海津城を尻目にかけて、敵の後方西条山を占領すると、今度はまた信玄が、西条山を尻目にかけて、敵の後方茶臼山に陣取ったわけだ。
両名将の駆引虚々実々というべしだ。
しかし、これで謙信は、海津城と茶臼山とのために、完全に袋の|鼠《ねずみ》となったわけだ。しかし、謙信悠々として少しも騒がず。
甲越両将は茶臼山と西条山とに|在《あ》って、南北に|睨《にら》み合うこと幾日。
普段は越後は北、甲斐は南だが、この時は甲軍は北、越軍は南になって、お互いに敵の退路を|遮断《しやだん》している形だ。
信玄は、昼は多数の紙旗を村々に立て、夜は数十カ所に、|大篝火《おおかがりび》を|焚《た》いて、越軍を威圧した。
さすがに、豪強なる越後の連中も、三倍近い甲軍の優勢を見て、心安からず、|直江山城《なおえやましろ》、|甘糟《あまかす》近江守等が相談して(敵兵わが路を|遮《さえぎ》り、出撃困難なり。|春日山《かすがやま》城に留守居せる兵を招致し、甲軍の背後を衝かしむるに|非《あらざ》れば、我は悲境に陥るべし。糧食もはや、十日を支えるに過ぎず)と、しかも謙信応ぜず。直江更に|曰《いわ》く(信玄もし海津城を以て我を制し、自ら越後に入り春日山を衝かば|如何《いかん》?)と、謙信ニッコリ笑って曰く、
(春日山には一万の兵在り、|怖《おそ》るるに足らず。もし信玄にして越後に入らば、我も甲斐に入って甲府を|屠《ほふ》らんのみ)と、越後の将士伝え聞きて、士気|昇《あが》る。しかも謙信は毎日、小鼓を打ち謡曲『|八島《やしま》』を歌い、悠々閑々としている。
信玄もまた、|此方《こちら》から西条山に攻めかかって、相手の思う|壷《つぼ》に入るようなことはしない。|密《ひそ》かに|斥候《せつこう》を放って、敵軍を伺わせると、小鼓などの音が聞え、悠々と落着いている。しかも、善光寺近くの旭山城には、|越《えつ》の伏兵があるのが分かったので、挟撃さるる危険を避けて、二十九日茶臼山の陣を撤して、西条山の前面を横ぎり、千曲川を渡って海津城に入った。
かくてまた、西条山と海津城とで、相対峙すること十日あまり、九月九日|重陽《ちようよう》の節句とはなった。川中島の天地、戦機を|孕《はら》んで、|風 腥《かぜなまぐさ》しというところだ。
信玄も、士気の漸く|倦《う》まんとするを憂えていたが、宿将|飯富兵部《いいとみひようぶ》、馬場|民部《みんぶ》等曰く(我、敵の兵力に倍するにかかわらず、戦わざれば、謙信を怖れたりとの|譏《そしり》を受くるのみならず、もしこのままに日を延べて、春日山より援軍来らば、我は窮地に陥るべし、速かに戦うに|如《し》かず。かつは、先年来、手詰の御合戦なし。今度は是非御一戦然るべし)と、いった。
信玄、然らばとて、山本勘助、馬場民部等に作戦計画を立てさせた。
山本等の攻撃計画は、次の通りだ。
(二万の御人数のうち、一万二千を以て西条村の奥、森の|平《たいら》を越え、背後より西条山に攻めかかり、明朝|卯《う》の刻に合戦を始める。謙信は、勝っても負けても、必ず千曲川を越えて、川中島に出るであろう。その時、信玄八千の旗本を以て、途中に待ち受け、前後より攻撃すれば、味方の勝疑いなし)というのである。
古人これを|木《きつつき》の戦法という。すなわち木鳥が、|木中《ぼくちゆう》の虫を捕えるとき、穴の口とは反対の側を、コツコツとく、虫が驚いて穴から出るところを、穴の口で待ち受けて、食べるのである。
昭和九年秋、北関東の|野《や》に行なわれた陸軍大演習の時、自分も陪観の栄を得たが、|御野立所《おんのだちしよ》となった|山名《やまな》高地に拠る西軍を、東軍の一支隊が、西南から|迂廻《うかい》して攻撃した。そして、西軍が高地を離れて、高崎方面に出るところを、東軍の主力が徹底的に撃破するというのが、一部の戦略であった。
参謀将校は、これが(木の戦法だ)といって、説明してくれた。星移り、物|換《かわ》り、火縄銃が機関銃になり、槍や|長巻《ながまき》の代りに機械化部隊が戦場を馳駆する時代になっても、戦術の根本法則は変わらないらしいのだ。
東郷大将の日本海における丁字戦法が、日本の海賊が得意とした戦法に似ていると同じだ。
信玄が、この献策を用い、高坂弾正、馬場民部、真田幸隆等に、兵一万二千を授け、迂回して西条山の背後を襲わしめ、謙信があわてて穴から飛び出すところを、自分が川中島で待ち受けて、雑作なく|《つつ》いて喰ってしまおうという。しかも、重陽の節句で、敵が油断しているところを利用しているのだ。
しかし、謙信は、穴の底を叩かれて、ノコノコ|這《は》い出す虫とは|雲泥《うんでい》万里の違いがある。
謙信は、八月十六日以来毎日山上を|逍遥《しようよう》して、古詩を詠じたり、|琵琶《びわ》を弾じたりして、部下が憂慮の進言を、馬の耳に風と聞き流していた。重陽の佳節を祝した後、夕方例の如く山上を漫歩していたが、|遥《はる》かに海津城を望めば、吹煙が平日よりは繁く立ちのぼっている。彼は、|忽《たちま》ち、甲軍の出動を予感した。|折柄《おりから》、|走《は》せ帰った(しのび)の者共も、同じく(二隊に別れて、甲軍動く)との情報をもたらした。謙信ほくそ|笑《え》んで曰く、(見よ、信玄今や動く、思うに、軍を二つに分かって、一隊は我を夜襲し、一隊は我が退路を断たんとするならん。これ|孔明《こうめい》が半進半退の術にして、|繰《く》り|分《わけ》の|伝《でん》という。然らば、我敵に先んじて川中島に出でて決戦せん)と。二十四日の辛抱の後、遂に戦機を|掴《つか》み得たる謙信の胸中の得意思うべしだ。
いかにも、虫は穴から出たのであるが、木鳥の予期したよりも、五、六時間早く飛び出して木鳥がまだまだと思っているところへ、あべこべに飛びかかって行こうというのだ。
しかも、軍機は飽くまで密なるを善しとす、謙信の発した命令は、次の如しだ。
(明日御大将御帰陣候旨|被仰付《おおせつけられ》候条唯今より荷物|相仕《あいし》まうべし。|尤《もつと》も日短かければ夜中お立ちあらんも計りがたし。|若《も》し敵兵途中を遮らば、切り破り善光寺へ出ずるものと心得べし)
と、決戦の意図を|匿《かく》している。敵の|間諜《かんちよう》に覚られるのを怖れているのだ。
かくて、越軍は九日の月の没する頃(十一時頃)静かに行動を起こした。兵には|枚《ばい》をかませ、馬は舌を縛り、全軍|粛々《しゆくしゆく》として西条山を下り、千曲川を渡って、川中島に出た。いわゆる『|鞭声《べんせい》粛々夜河を|過《わた》る』だ。ただ、甘糟近江守だけは、迂回軍に対する押えとして、千曲川を渡ると岸近く|止《とど》まって、敵を警戒している。
一方、西条山は、陣中の|篝火《かがりび》、前夜の如く|焚《た》かれ、紙の|擬旗《にせばた》が、夜空に無数にひるがえって、越軍がなお夜営の夢を結んでいるが如く、カモフラージュされている。
かくて、翌十日の午前二時半頃、越軍は犀川の南方に、海津城に面して陣を取った。
剛勇無双の柿崎和泉守が先陣で、大将謙信は『|毘《び》』という一字を書いた旗と、日の丸の旗を陣頭に立てて、第二陣に控えて決戦の朝を待った。
謙信は平素|毘沙門天《びしやもんてん》を信仰し、春日山城内にも毘沙門堂があり、将士との誓約なども、毘沙門堂でやったというから、旗にも『毘』の字を用いたのである。
その外、上杉家には突撃の時に『竜』を書いた旗を用いる。これを(|懸《かか》り乱竜の旗)という。
ところが、甲軍の迂回軍たる|高坂《こうさか》隊が出発したのが、やはり月が入る頃だというから、謙信が西条山を出たのと同時刻で、しかも西条山への道は間道であるだけに、秋草道を|埋《うず》めて、夜明け前に西条山へ攻めかかる筈の予定が、はるかに遅れた。
一方、信玄が、剛勇|山県昌景《やまがたまさかげ》を|先鋒《せんぽう》として、海津城を出たのが、十日|寅《とら》の|刻《こく》(午前四時)だ。謙信が川中島へ到着してから、一時間半も|経《た》っている。待ち伏せする筈の信玄が、遅れているのでは、甲軍の戦略は、戦わざるに敗れているわけだ。
甲軍は、広瀬の渡で千曲川を渡り、山県昌景、信玄の弟武田|信繁《のぶしげ》、|穴山伊豆《あなやまいず》、|両角豊後《もろずみぶんご》、|内藤修理《ないとうしゆり》などは第一陣に、信玄はやや後方八幡社に陣を取った。
信玄の陣には、武田の家紋なる『|大菱《おおびし》の旗』と、『諏訪大明神の旗』と、それから『不動山の如く、|侵掠《しんりやく》火の如く、|其《その》静かなる林の如く、其|疾《はや》きこと風の如し』という|孫子《そんし》の文句を書いた旗が立っている。
謙信は、草刈りに|扮《ふん》せしめたる間諜を、二、三十人も出してあり、信玄が広瀬を渡ったと聞くと、しずかに前進を起こして、これを奇襲して粉砕せんとす。
信玄の方からも、斥候を出したのであるが、これらの斥候は、越後勢が、間近にあるとは思わないで進んで行ったから、|悉《ことごと》く越軍のために捕われて一人も信玄の|手許《てもと》に帰って来ない。
その上に、前夜に小雨があったので、川中島一帯は、名物の濃霧が立ちこめて、十間先も、ハッキリとは見えない。敵の情勢の分からない信玄は、やって来るにしても八時か九時だろうと考え、まだ気持には余裕があった。ただ、霧の間にほの見ゆる西条山を睨んで、迂回軍の首尾や|如何《いか》にと待っていた。
いずくんぞ知らん、謙信の鉄騎は、数町の前方に、展開していたのである。
|卯《う》の刻となった頃朝霧は次第にはれた。ふと前方を見ると、こはいかに越の大軍が、|潮《うしお》の如く殺到して来ている。正に(暁に見る千兵の|大牙《たいが》を擁するを)だ。
(武田の諸勢も之を見て、大いに|仰天《ぎようてん》し、こは何時の間に、かかる大軍が、この地に来れる。天より降りけむ、地より|湧《わ》きけむ誠に天魔の|所業《しわざ》なりと、さしもに|逸《はや》る武田の猛将猛士も、恐怖の色を|顕《あらわ》し、諸軍浮足立ってぞ見えたりける)
と、高坂昌信の書いたといわれる「甲越軍鑑」にあるが、武田軍の|狼狽《ろうばい》察すべしだ。人数は甲越同数でも、こうなれば、甲軍は最初から精神的に叩きつけられている。
さすがに、戦場往来の信玄は少しも驚かず、浦野民部に敵情を探らせたところ(謙信味方の備を廻って断ち切り、幾度もかくの如く候て、犀川の方へ赴き候)との報告である。信玄聞いて(さすがの浦野とも覚えぬ事を申すものかな。それは|車懸《くるまがか》りとて、幾廻り目に旗本と敵の旗本と打ち合って、一戦する時の軍法なり)といって、備えを鶴翼に立て直した。
だが、甲軍が陣替の終わるか|了《おわ》らぬかに越軍は、|鯨波《とき》をあげて斬りかかって来た。
ここで、武器のことを一寸書いて置くが、この頃の主要武器は|槍《やり》で、槍には比較的短い手槍と|柄《え》が三間もある長槍があった。この外に、上杉家には|長巻《ながまき》と称し、刀身二尺五寸|乃至《ないし》三尺一寸五分あり、それに長い柄を付けた武器があり、これで馬の足などを|薙《な》いだといわれる。鉄砲は渡来して間もなく、弾は七、八十|米《メートル》飛ぶが、有効距離十五米乃至二十米に過ぎなかったらしい。しかし、その|轟然《ごうぜん》たる音響と煙とが、敵を圧倒し味方を鼓舞するに充分であったわけだ。
先ず銃を先頭に置き、弓これにつづき、その次に槍|隊《たい》が突撃に移り、最後に白刃を振って雌雄を決するという段取りだ。
越軍名代の車懸りの陣とは、隊をいくつもの横隊に分かって、これを車の軸と車輪とをつなぐ横木の廻転するが如く、敵陣を襲撃し、先隊先ず戦って退けば、後隊これに続き、更にそのつぎの隊がかかって行く、常に|新手《あらて》を以て敵に当たるという戦法である。
戦の始まったのは、午前六時(卯の刻)だった。越の先頭|柿崎和泉守《かきざきいずみのかみ》は、|大《おお》|蕪菁《かぶら》の|旗差物《はたさしもの》を朝霧の間にひるがえし、二千の精兵|錏《しころ》を傾けて甲斐の第一陣に斬り入った。甲の第一陣たる|典廏《てんきゆう》信繁隊は、槍を取って鬨を合わせて応戦したが、やや不意を|喰《くら》っているだけに、足並み乱れ、早くも浮足立って見える。この手の大将典廏信繁は、|恭倹《きようけん》温厚の大将で、厚く兄信玄に仕えた人だが、武勇は|何人《なんぴと》にも劣らず、この日は|黄金《こがね》作り武田|菱《びし》の前打った|兜《かぶと》を|戴《いただ》き、黒糸に|緋《ひ》を交えて|縅《おど》したる|鎧《よろい》を着、紺地の|母衣《ほろ》に金にて|経文《きようもん》を書いたのを負い、|鹿毛《かげ》の馬に打ち乗って|采配《さいはい》を振っていたが、形勢非なりと知ると、これ全軍の大事だと考え、信玄の本陣へ(信繁一死を以て戦い候えば、援軍を送り賜うに及ばず、その間に勝利の策を廻らせ給え)との使者を遣わし、更に母衣及び|鬟髪《かんぱつ》を愛子|信豊《のぶとよ》に形見として残し置き、自ら三尺の大刀を振るって乱軍中に|馳《か》け入り、越の勇将|宇佐美《うさみ》駿河守と戦って槍に貫かれて討死した。典廏隊危しと見て、甲の山県隊が応援したので、柿崎隊もやや後退した。
同時刻に越の左翼なる|本庄《ほんじよう》越前守、安田|治部少輔《じぶしようゆう》、長尾|遠江守《とうとうみ》などは、甲軍の右翼両角昌清、内藤昌豊と戦ったが、ここも甲軍散々に打ち悩まされ、両角豊後守は、今はこれまでと思い、|桶皮胴《おけがわどう》の大鎧に|火焔頭《かえんがしら》の|兜《かぶと》を着て、|大身《おおみ》の槍を振るって|阿修羅《あしゆら》の如く奮戦した後、松村新左衛門のために討たれた。
ここで、越の諸軍が柿崎隊と対戦している山県隊に懸ったので、猛将山県昌景も打ち|白《しら》まされて後退したので、信玄の旗本の正面が手薄になった。
謙信これを見てわが旗本を鶴翼、即ち横に展開する陣形に立て直して、|八幡原《はちまんばら》の信玄の旗本を目がけて、|槍襖《やりぶすま》を作って突撃した。
その勢三千、信玄の旗本も、これを迎えて相撃った。信玄の|嫡子《ちやくし》太郎|義信《よしのぶ》は、右翼で戦っていたが、父の大事とばかり、来り|援《すく》い、両軍旗本の大接戦となった。
これより先、甲の軍師山本勘助は、自分の献策が失敗した責任を負い、六十三歳の|老躯《ろうく》を|携《ひつさ》げて、越軍本庄、|山吉《やまよし》の二隊と奮戦して討死した。
父の危急にかけつけた太郎義信は、武田菱の|金具竜頭《かなぐりゆうず》の兜を被り、青毛の駿馬に|跨《またが》って奮闘したが、身に数創を|蒙《こうむ》り、身すでに危うく家臣|初鹿野《はじかの》源五郎が、身代り討死する。
越軍の『懸り乱竜の旗』は、千曲川の朝風にひるがえり、武田方の危機は、一髪の|際《きわ》に在った。
だが、主将信玄は、その敗軍の間にも『|不《うごかざる》|動《こと》 |如《やまの》|山《ごとし》』の通りで、黒糸|縅《おどし》の鎧の上に|緋《ひ》の法衣をはおり、諏訪|法性《ほうしよう》の兜を着て悠然と|牀几《しようぎ》に腰かけて|采配《さいはい》を振って(わが迂回軍の到着近きにあり、今しばしの辛抱ぞ)と部下を激励していたが、嫡子義信の隊危うしと見て、旗本の兵を差し向けて|援《たす》けしめたので、本陣はいよいよガラ空きである。
この日謙信は、自ら信玄を討ち取ろうという覚悟であったので、|山吉《やまよし》孫次郎等に信玄の所在を|偵察《ていさつ》するよう命じてあったが、山吉等は敵中深く打ち入って、信玄の本営を発見すると、長槍の上に白旗を挙げて、予定の信号をなした。
謙信は、|紺糸縅《こんいとおどし》の鎧の上に|胴肩衣《どうかたぎぬ》をつけ、頭を|白妙《しろたえ》の|練絹《ねりぎぬ》で|行人包《ぎようにんづつみ》にしていたが、この信号を見て|雀躍《じやくやく》し、二尺四寸五分|順慶長光《じゆんけいながみつ》の陣刀を抜き、|放生月毛《ほうしようつきげ》といえる名馬の手綱をかいくり、馬廻りの剛兵十二騎を従え、義信の隊を蹴破り、信玄の本営目がけて殺到した。その猛撃、正に|摩利支天《まりしてん》の再来かと疑われた。信玄の近侍二十人ばかり、槍襖を作って、これを防がんとしたが、謙信その間を駈け通って、スワという間もなく、信玄に走りかかり、
(|豎子《じゆし》ここにありや)
と、斬りかけた。これは漢文調にいったので、本当は(畜生ここにいたか)とでもいったのであろう。
信玄刀を取る|暇《いとま》なく、
(|推参者下《すいさんものさが》れ!)と叫びながら、|軍配《ぐんばい》|団扇《うちわ》にて受けたが、|急霰《きゆうさん》の如く九度まで斬り下げられて、団扇は|ささら《ヽヽヽ》の如く、肩を二太刀まで斬られた。
この時、必死にかけつけた原|大隅守《おおすみのかみ》 |虎義《とらよし》は、|傍《かたわら》にあった信玄の青貝の長槍を取って、謙信を突いたのがはずれ、槍先は、馬の三|頭《ず》(背筋)の後部を傷つけた。そのため、馬が驚いて逸したので、信玄は危うく虎口を逃れた。
武田方では、最初この法師武者を誰とも知る由がなく、越後の荒川伊豆守ならんと|沙汰《さた》していたが、後で|御大《おんたい》の謙信ということが分かって、舌を振るって驚いたという。
信玄を打ちもらした謙信は(討ち止むべきものを残り多し、もし槍を持ちたならば、やわか逃すまじきを)と嘆息したという。
謙信は、佐野|天徳寺《てんとくじ》から槍を習って名手であったのだ。馬上の太刀討は、|間《ま》が遠いので、心のままに行かなかったのであろう。
戦国の世激戦多しといえども、主将同士の一騎討は、これだけであろう。
信玄は、傷を負いながら、|自若《じじやく》として指揮をつづけ、原大隅守は殊勲の槍を高く揚げて、
(今、西条山より味方の先手衆|馳《か》けつけたり、戦いは味方の勝ぞ……)と、機宜のウソを、叫び廻った。
これで、くずれかかった甲軍は、やっと|呼吸《いき》をついだ。
それから西条山に向かった高坂弾正等の迂回軍は、どうしていたかというに、道路が険悪のために行軍が手間取り、西条山に着いたのが、予定よりも三時間も遅く、午前七時頃である。足軽に偵察させると、|寂《せき》として敵の|隻影《せきえい》もない。しまった! と思っていると、川中島の朝霧の彼方から、|鬨《とき》の声、鉄砲の音が聞こえて来る、諸将は、切歯|扼腕《やくわん》して、川中島を望んで、千曲川を渡ろうとすると、対岸に越の殿軍甘糟近江守がちゃんと控えていて、川辺の|蘆間《あしま》から鉄砲を打ちかける。甲兵悩まされながら、思い思いに川の上流、下流に別れて、ようやく川中島に着いた時は、甲軍が散々やっつけられた後である。
しかし、この新手に側面及び背後から攻撃されて見ると、さすがの謙信も退却の外はなかった。
生色のなかった信玄の旗本も(先手衆が来たぞ、戦いは勝ぞ!)と、叫びながら盛り返してくる。謙信は、諸将に兵を収めて退却することを命じ、自らも柿崎等と共に、迂回軍に当たりつつ犀川方面に退いた。
殊に、越の殿軍甘糟近江守は円陣を作って、追い来る敵を撃ちながら、犀川を渡り、左岸に|大扇《おおおうぎ》の|大纏《おおまとい》を立てて敗兵を収容した。この時の殿軍振りは|頗《すこぶ》る見事であったといわれる。
しかし、犀川は千曲川と違い、急流であったため、越軍の死傷は犀川を渡って退軍の時に多く生じたものだ。
この戦争は、どちらが勝ったかということは、古来から問題である。
死者からいえば、甲斐の方が千人だけ多いし、信玄の弟をはじめ、大将分が四、五人やられ、その上信玄父子まで負傷している。それに反して、越軍の方は、名ある武将は一人も死んでいない。
甲の軍師山本勘助は、敗軍の責任上討死している。
しかし、そうはいうものの、戦場から逃げ出したのは、越軍であって、甲軍はちゃんと戦場を確保している。
どちらにも云い分のある戦争である。豊臣秀吉が、この戦争を評して、(|卯《う》の刻より|辰《たつ》の刻までは上杉の勝、辰の刻より|巳《み》の刻までは武田の勝なり)といったのは、もっとも公平な批判かも知れない。最初の二時間は、上杉、後の二時間は武田の勝だというのである。
とにかく、実際は勝敗未決で、この大合戦後も、川中島は、中立地帯のまま残ったわけである。
しかし、この血戦以後、信玄は謙信の手並に|懲《こ》りたらしく、常に謙信との戦を避けた形がある。
その上、信玄は死期に及んで|勝頼《かつより》に、
(|汝《なんじ》兵を構うるを慎み、国を亡ぼしてはならぬ。我が死後は、天下独り謙信あるのみ、宜しく|援《たすけ》を|乞《こ》うて、国を以て|托《たく》せ。彼一度依托を受けなば、我を侵すことあるまじ)
と遺言しているし、謙信もまた信玄の死を聞いて(我国の弓矢これより衰えん)と嘆じて、使を海津城に遣わして|弔《とむら》わしめた。
二十一年間も戦争しながら、お互いに相手の偉さを認めていたのであろう。
信玄の沈着深慮、謙信の剛勇果断、戦国武将の|双璧《そうへき》である。
しかし、信玄は家康を三方ヶ原で一蹴し、将に尾張に入ろうとして、わずか五十三で死んだし、謙信も上洛の準備をしながら、四十九歳で死んでいる。この二人のいずれかが、もう十年生きていたら、信長、秀吉の仕事も簡単に行かなかっただろうし、歴史はかなり変わっていたに違いないのである。
[#改ページ]
|会津黒川《あいづくろかわ》城(現在の会津若松城)の三の|曲輪《くるわ》にある|片倉小十郎景綱《かたくらこじゆうろうかげつな》 の|邸《やしき》に、|初更《しよこう》近くなって|政宗《まさむね》が急にやって来た。
主君である政宗が、臣下の邸に来ることは珍しいことである。
黒川城そのものが、去年|蘆名《あしな》家から政宗の手に落ちたばかりであるから、城中の普請なども、まだ充分な手が届いていず、まして片倉の屋敷なども、壁は荒塗りのままで、|襖《ふすま》なども間に合わせで、何の風情もなかった。
一度、しめてあった妻戸が|悉《ことごと》く払われ、客迎えの用意があわただしかった。
本丸と三の曲輪の間から政宗は着流しの|白麻《しろあさ》の|単衣《ひとえ》のままで、近侍を五、六人連れたままで、案内があると、四半|刻《とき》も|経《た》たないうちにやって来た。
急いで庭先に打水がされ、|蚊《か》やりが|焚《た》かれ、上段の間に席が設けられた。だが、座敷に入って来た政宗は、
「しとねを、これへ!」と、縁先に席を設けさせると、気がるに坐った。
主人小十郎景綱は、|傍《そば》近くいざり寄ると、
「何か火急の御用で!」と、声をひそめた。
「いや、昼間と同じ用事じゃ。そちが、始終黙っていたのが気になって、一度|床《とこ》に入ったが、また起きて来た……」
片眼だけの、|魁偉《かいい》な顔にも、憂慮の色がただよっている。
時は|天正《てんしよう》十八年の五月四日で、伊達|政宗《まさむね》としては、まさに危機に直面していたのである。
それは小田原へ参陣するか、どうかである。今まで待つまでもなく、今年の初めにでも|上洛《じようらく》していれば、伊達家の存亡など心配することなど少しもなかったのである。
しかし、政宗は、そう簡単には、|尻尾《しつぽ》を振って、秀吉のところへ行きたくなかった。
|奥羽《おうう》を足下に踏みすえている政宗には、野心もあれば意地もあった。秀吉の所へ行けば、蘆名からうばった会津七郡を、召し上げられるのは知れ切っていた。……それもシャクだし、今少し時機を待って、万一秀吉が、小田原攻めに失敗でもしたら、それこそ伊達家が天下……少なくとも関東を|狙《ねら》う絶好の機会だと思った。
だが、二月、三月、と形勢を伺って見ると、秀吉の勢威は加わるばかりで、小田原の落城は、眼前に迫っていた。
もし、小田原が落城したら、天下の大軍は会津に向かって殺到して来る。(まだ降参せぬ政宗め! |不埒《ふらち》な|奴《やつ》じゃ、この同勢ですぐ奥州へ!)そうなれば、政宗にとっては、一大事であった。
だから、小田原へ行くのならば、小田原の落城しない間だった。
今日も、城中で君臣の間に、その会議が開かれた。
同族の伊達|成実《しげざね》が(今となっては、行くも|封《ほう》を奪われ、行かざるも封を奪わる。|如《し》かず、|太閤《たいこう》の大軍をひき受けて、一戦せんには!)といった。しかし主戦論者は、成実だけ、他は一日も早く政宗自身秀吉の|許《もと》へ行って、陳弁した方がよいとの説だった。
そのとき、片倉小十郎だけは一言も発しなかった。小十郎は、政宗が十一、二歳の時からの近侍で、苦楽を共にし、政宗にとっては、柱石の臣であった。
その夜も、政宗から、話を切っても、小十郎はすぐには、何とも答えなかった。
「北条をどう思う! まだ|三月《みつき》や半年では落城せぬと思うが、|末《すえ》始終は?……」
政宗は、片目で小十郎を、見つめながらいった。
「三月もどうでございますか。関東諸侯の|嚮背《きようはい》を見ますと、この上長くはござりますまい。一昨日参りました注進でも|忍城《おしじよう》の外は大抵開城致しましたとな。しかも、北条氏勝を初め、北条より降参の諸将が、各城の城攻めの案内役を致しておりますようで……」
「うむ……」
「九州の島津、四国の|長曾我部《ちようそかべ》などまで、小田原へ参陣致しておる模様で、まことに天下の大兵でござりますな」
「是非におよばぬか。わが|大望《たいもう》も、これぎりか。しかし、わが手を痛めて、攻め取った会津をとられるのは無念じゃが……」政宗は、そういって、じっと片目をつむった。
折から、夏のことで、夜ではあったが、|灯《ともしび》を慕ってか、|幾疋《いくひき》もの|蠅《はえ》が、白木の|縁板《えんいた》の上に、群れ飛んでいた。小十郎は、|団扇《うちわ》で、その蠅を払う真似をして、「殿、これでございますな」と、いった。政宗は、眼をあけたが、
「これとは、何じゃ」と、|訊《き》き返した。
小十郎は、再び蠅を団扇で追い払いながら、
「これで、ございます。団扇と蠅!」と、いった。
政宗は|一寸《ちよつと》苦笑しながら、
「どちらが、団扇じゃ、向こうが、団扇か。|此方《こちら》が団扇か?」
「両方に考えられますな」
「両方とは?」
「両方に|譬《たと》えられます。此方が、団扇と、考えますと、蠅は天下の大兵でございますな」
「うむ、五月の|蒼蠅《そうよう》払えども去らずか!」
「はあ、天下の大兵は、いずくともなく集って来る蠅のように、殺しつくせませぬ」
「うむ」
「秀吉の大軍を引き受けて、一度や二度、手痛い目に合わせても、また、いずくともなく|湧《わ》いて参りましょう」
「うむ」
政宗は、|暫《しばら》く考えてから、
「じゃ、此方を蠅に譬えたら、どうなる?」
「秀吉が団扇とすれば、団扇を振りあげたときは、サッと逃げておりますな」
「うむ、そして団扇が去ったら、蠅のように、うるさく働くのか」
「左様で、殿はまだお若い。振りおろす団扇の勢に刃向かわないでも、また幾度も、よき折がございましょう」
政宗は、苦笑して、
「じゃ|俺《わし》に蠅の方になれというのか。ひどい奴じゃ、はゝゝ、はゝゝ」というと、もう立ち上っていた。
「|夜中《やちゆう》に騒がしてすまん。小十郎のいう通り、蠅になるから、安心して休みやれ! 蠅! 蠅!」
そういうと政宗は、もう既に思いを決したように、足早に歩いて行った。
明後日は黒川城を立つという夜、政宗は一門譜代の重臣達を集めて、|訣別《けつべつ》の|盃《さかずき》を交していた。
彼は、重臣の一人一人に盃を与えたので、かなり酔っていた。
一門の藤五郎|成実《しげざね》は、唯一の主戦論者であったが、しかし政宗が小田原へ行くと決心すると、それに反対しようとはしなかった。ただ、いかにも|口惜《くちお》しそうに、
「殿! 小田原へ参られたら、胆をあくまで太くなされて、天下の諸大名達に|後指《うしろゆび》を指されてはなりませぬぞ」と、いった。
政宗は苦笑しながら、
「心配致すな、いろいろ考えていることもある。たとえ、首を取られても、見苦しい振舞いはせぬつもりじゃ」と、二十四歳の青年とは思われぬほど、静かな口調でいった。
「それで|安堵《あんど》いたしました。敵の懐に飛び込んで、死中に活を計る! そのお心がけが、肝要でござりまするな」
同じく一門の留守|政景《まさかげ》がいった。
「向こうへ行ってよくはするつもりだが、しかし相手がどう出るかも分からぬ。万一、理不尽にわしを殺すときけば、そち達はどうする!」
政宗の片目が、ギラリと光った。
「云うにや及びましょう。この黒川城を|枕《まくら》に、秀吉の軍を引き受け、大暴れに暴れてやりましょう」
三、四人が|膝《ひざ》をのり出しながら異口同音に答えた。
政宗は、そうした重臣達の勇ましい容子を見て、ニッコリ笑いながら、
「|噂《うわさ》にきくほど、秀吉が利口な男ならば、まさかわしを殺しはしないと思っている。わしを生かして、奥州を治めさせる方が、天下が早く手に入るからな。しかし、わしが思うほど向こうが偉くなければ、少し危ないかも知れぬ」
「|御尤《ごもつと》もで」片倉小十郎が答えた。
「島津を助けているのだから、わしも大抵大丈夫であろう。しかし、わしが初めから、大丈夫だというように、高をくくっていると向こうを怒らせることになる! そこがむずかしい。しかし、皆心配するな」
「ははア」重臣達は、深謀大胆のこの青年の君主を信頼していた。
政宗は、そのとき何を思ったか、その上段の座席を降りて、つかつかと藤五郎成実の所へ行くと、
「藤五郎、お前わしの代りに、あすこへ坐っていてくれ!」と、いった。
成実は、驚いて、
「|勿体《もつたい》ない。何をなされます」と、しりごみした。
「いや、しばらく|彼処《あすこ》へ坐っていてくれ。わしは、小田原へ行ってからの申開きの|稽古《けいこ》をしたいのじゃ」
「はゝゝゝあ」
「はゝゝゝ」
家来達は、つい笑った。伊達家の興亡を憂えていた連中も、政宗のこの思付に、みんな急にのびのびした気持になった。
「それには、及びますまい」
留守政景がいった。
「いや、わしは元来、口不調法じゃ。秀吉の前で、|下手《へた》に口ごもりなどすれば、あれ見よ、奥州の|田舎《いなか》|武士《ざむらい》が、といわれるにきまっている。小田原への旅の宿でも、稽古をするつもりだが、みんなの前で、最初にやって見る! 答弁の文句についても、皆の意見をききたい! 藤五郎あれへ坐れ!」
成実は、なお辞退して、
「|御申開《おんもうしひら》きの稽古なら、御座のままでお述べになればよい」
「いや、それでは、情がうつらぬ、わしの気持が緊張せぬ。お前、秀吉の代りになれ!」
重臣達は、政宗が冗談の中に、真面目な決心を知って、涙ぐましい気持になっていた。
「藤五郎殿、御遠慮めさるな!」
小十郎が言葉をかけた。
「|然《しか》らば!」
藤五郎成実は、いざり寄るようにして、上段の間の政宗の|しとね《ヽヽヽ》の上に坐った。
政宗は、それを見ると、ずうっと|下座《しもざ》へ退った。そして、家来を見廻しながら、
「そち達は、徳川、|宇喜多《うきた》、|毛利《もうり》、|織田《おだ》、|蒲生《がもう》、|丹羽《にわ》、長曾我部などの|並《ならび》大臣のつもりでいてくれ!」といった。
家来達は、みんな大名になったつもりで、急にさんざめきの声が一座に|湧《わ》いた。みんな、何か|能狂言《のうきようげん》でもが、始まるかのような興奮を感じていた。
「藤五郎、お前小十郎と相談して、秀吉になったつもりで、わしを詰問して見い!」と、いった。
小十郎が、成実の所へ進んで、成実に耳打ちした。
「伊達殿!」と成実が呼びかけた。
政宗は、笑って、
「伊達殿とはいうまいぞ。日本一の|大気者《たいきもの》といわれる秀吉だから、わしのことを、政宗と呼び捨てるに違いない! 呼び直せ」
「はあ! では、政宗!」
「ははア!」
政宗は|慇懃《いんぎん》に手をつかえた。
「その方に訊くが、会津の蘆名義広は、昨年家臣|金上《かねがみ》 |遠江《とおとうみの》 |守《かみ》を上洛せしめしにより、我より、本領安堵の朱印を下しあるに、|汝 擅《なんじほしいまま》に攻略したるは、|不埒《ふらち》ではないか……」と、成実はいってから、
「これで、|如何《いかが》でございましょうか」と、つけ加えた。
「さらば」と、政宗はすぐ申開きにかかった。
|虎穴《こけつ》に入る決心をしながら、しかもあらゆる準備をして行こうとする主君に、家来達は感激しながら、申開きいかにと|聴耳《ききみみ》を立てていた。
政宗が、いよいよ会津を出発したのは、五月の九日であった。片倉景綱、|白石駿河《しらいするが》、|高野親兼《たかのちかかね》以下、百余人を従えた。会津から|上野《こうずけ》へと出るのが順序であったが、上野武蔵にはなお嚮背不明の|城砦《じようさい》が、いくつも散在しているので、通路の難を避けて、会津より越後に出で、信濃甲斐と|迂回《うかい》したので、小田原へ着到したのは、六月の五日であった。
着到の旨を、|浅野長政《あさのながまさ》を通じて、|披露《ひろう》すると、秀吉から|底倉《そこくら》に|在《あ》って|後命《こうめい》を待てよ、という命令だった。
秀吉は、彼が|妄《みだ》りに会津を攻略したのと、その日和見的な遅参とを責めているのだった。
底倉の宿は、ここでは一番大きい湯宿であった。
前には、深い渓流があり、渓流を隔てて、|明星《みようじよう》ヶ|岳《だけ》が|聳《そび》えていた。山峡の夏は涼しく、小田原陣の物音もここまでは聞こえて来ず、閑寂な別天地ではあったが、しかし政宗主従にとっては美しい|牢獄《ろうごく》だった。
いつ、秀吉から賜死の上使が来るかも分からなかったからだ。
家臣達は、のびのびと湯にも入らず、寄るとさわると、ひそひそと、主君の運命を気づかっていた。
しかし、政宗だけは悠々と湯にひたって、湯から上ると、酒を飲んでいた。しかし、減らしもせず、飲み過ぎもせず、いつもと同じくらいの酒量だった。
「|千利休《せんのりきゆう》が、小田原に来ているという噂じゃが」と、政宗はその日、小田原から見舞いに来た|和久宗是《わくそうぜ》に話しかけた。
和久宗是は、秀吉に仕えている茶人で、政宗とは古くから|音信《いんしん》を通じている男であった。
「左様で……」
「またとない折ゆえ、千利休を招じて茶の手前を学びたいが、ここまで来てくれるだろうか」
「はあ。当時関白殿のお覚え目出度き人でござりまするが、殿から懇ろのお頼みがあれば、参るかと思いますが……」と、宗是は答えた。
「|其方《そなた》からも、口添をして欲しい。|俺《わし》は小十郎でも遣わして頼んで見るから……」
「は……」と、宗是は答えたが、席にいた小十郎景綱は、
「御謹慎の身で、|茶道《さどう》の稽古などいかがと思いますが……」と、口を挟んだ。
「別に差支えはないと思う。|上方《かみがた》の人達は、奥州の大名といえば、|蝦夷《えぞ》か何かの子孫とでも思いおる。政宗にも風流の|嗜《たしな》みがあることを知られるだけでもよいではないか」
「御尤もで……」
宗是は|肯《うなず》いたが、小十郎は、
「ではござりましょうが、まだ関白殿のお心が、山とも海ともわかりませぬ今、さようなお道楽は?」
「いや。相手方の|思惑《おもわく》を此方で心配しても|詮《せん》ないことではないか。此方では出来るだけのことをした。相手が、どうされるかは、相手に|委《まか》しておく外はない。死生の間に在って、茶|三昧《ざんまい》に入るのも、楽しいではないか」
そういって、政宗は|哄笑《こうしよう》した。
政宗は、片倉小十郎を使として、関白の本陣に利休を|訪《と》わしめ、底倉への来臨を求めた。利休は、珍しき政宗の|招聘《しようへい》に心動き、秀吉の前に伺候して、内意を問うた。
「政宗が、お前に来てくれというのか。あれが、茶の稽古をするというのか」
そういって、秀吉は眼をつむって、暫く考えていた。
秀吉は、(利休に来てくれといえば、|俺《おれ》に内意を訊くのは|定《き》まっている。そうすれば、あいつが風流の道に志のあることが、すぐ俺に知れるわけだ。ただ、奥州の|荒《あら》大名だけではないということを俺に知らせようという|あいつ《ヽヽヽ》の|肚《はら》だな)と思った。
「よかろう。行ってやれ。だが、政宗はまだ二十四というが、なかなか味をやる奴じゃのう」
と秀吉は、|傍《そば》にいた黒田|勘解由《かげゆ》を顧みた。秀吉の謀将である勘解由|孝高《よしたか》は、笑って、
「若いに似ず、いろいろな手を心得ておりますな」と、答えた。
「会津を|怯《わる》びれずに差し出せば、本領を安堵させてよいだろうな」
「|御意《ぎよい》の通り」と、孝高は頭を下げた。
底倉へ来てから、五日目の朝、秀吉からの|上使《じようし》として、|施薬院全宗《せやくいんぜんそう》、|前田玄以《まえだげんい》、|宮部善祥《みやべぜんしよう》、|色部是常《しきべこれつね》、浅野長政の五人が、底倉へやって来た。
上使来の注進があったとき、政宗の家来達は、賜死の上使ではないかと、|狼狽《ろうばい》したが、政宗は彼等を|叱咤《しつた》しながら、出迎えの用意をさせた。
上使達が到着すると、政宗は|白小袖《しろこそで》に|袴《はかま》をつけて、玄関に出迎えて、案内した。
自ら、片倉以下の家臣達は、次の間に控えさせ、自分一人上使達の前へ出て、平伏した。
政宗を詰問する役は、前田玄以であった。
「関白の仰せによって、お|訊《たず》ねするが、かねて関白より御朱印を賜ったる蘆名義広を|伐《う》ち、|恣 《ほしいまま》に会津を攻略したのは、|如何《いか》なる趣意であるか」
それは、政宗がその答弁を幾度も稽古している詰問だった。政宗は、心中ほくそ|笑《え》みながら、「わが家臣、|大内定綱《おおうちさだつな》なるもの、累世の恩を捨てて、我に|叛《そむ》きました。しかも、わが使に対し悪口雑言を致しました。されば、政宗無念やる方なく、これを攻めましたところ、蘆名義広、|佐竹義重《さたけよししげ》、|岩城常隆《いわきつねたか》など大内を|援《たす》けましたにより、是非なく合戦となり申した。|一度《ひとたび》、敵となり申した上は、|騎虎《きこ》の|勢《いきおい》、敵の本拠を覆すまでは、安心はなり申さぬので、つい会津まで攻め入り申したので|厶《ござ》る。夢、関白殿下に、慮外あってのことでは、ござり申さぬ」
政宗は、音吐朗々といい放った。
その次に、言葉を出したのは、浅野長政であった。
「去年十一月二十七日、殿下北条とお手切れになった折、その手切文書をその|許《もと》へも送り、早々上洛あるようお勧め申し、今年三月一日、殿下がいよいよ小田原へ御発向になるときも、|御沙汰《ごさた》申したが、なぜ途中まで、出迎えはなさらぬか、今に及んでの参陣は、ちと|緩怠《かんたい》ではござらぬか」
浅野長政は、かねて政宗と懇意の間であったから、上使とはいえ、その言葉には、好意が動いていた。
「はっ。御尤なるお|叱《しか》りではござりますが、何分|最上《もがみ》、佐竹、葛西、|大崎《おおさき》など累年の敵を四辺に控えました上、越後の上杉殿まで、会津領へ働きかけらるるとの噂など|有之《これあり》、政宗の進退思うに委せず、かくは遅参いたし申したのでござる」
この答も、政宗は幾度も、繰り返していた言葉だった。
すると、今度はまた施薬院が、
「殿下には、奥州の最上、|相馬《そうま》、佐竹、蘆名、岩城の諸家は、|悉《ことごと》く伊達の縁類であると聞くに、|何故《なにゆえ》左様に、|干戈《かんか》を交えるかとの御不審であるが……」と訊いた。
「蘆名、佐竹、岩城等のことは、只今申し上げました通り、最上、相馬との間のことは、|後刻《ごこく》書面を以て、お答え致すでござりましょう」
最上や相馬のことは訊かれるとは思っていなかったし、口頭で返事することも容易ではあったが、しかし書面でハッキリ書いた方がいいと思ったので、政宗は、そう答えた。
上使が帰りかけると、政宗は、
「しばらくお待ち下され」
と呼び止めた。そして、片倉小十郎に|目配《めくばせ》した。小十郎は恭しく白木の手箱を二つ運んで来た。
「一つは、|米沢《よねざわ》旧領の絵図でござります。一つは、会津の絵図でござります。どうぞ殿下の御|披見《ひけん》にお入れ下さるよう」
と、いった。
米沢領も会津領も、|命《めい》のままという|恬淡《てんたん》たる覚悟を見せたのであった。
その翌早朝、小田原から施薬院の使者が来て、「殿下がお会いになるというから、早々御本陣へお出であるよう」と伝えて来た。
小十郎を初め、家臣達は、蘇生の思いをして、躍り上って喜んだ。しかし、政宗は、気むずかしそうにだまっていた。
侍臣が、政宗の髪を結おうとすると、政宗は、
「|白水引《しろみずひき》を用いよ」と、いった。
「それは、不吉な!」と侍臣が驚くと、
「だまって居れ」と叱った。
髪を結い|了《お》えると|甲冑《かつちゆう》を着けた上に小袖を|纏《まと》うた。
全くの|死装束《しにしようぞく》である。供支度を整えて出仕した小十郎まで、驚いて、
「これは、ちと|異形《いぎよう》な御風態で……」と|呆《あき》れた。
「手をつくときは、思いきり手をついた方がよい。大丈夫だという肚を見せてはいけない。あくまで、|蠅《はえ》になるのじゃ、蠅に……」
政宗は、微笑しながらいった。
「よいお覚悟で……」
政宗の肚を聴くと、小十郎も会心の|笑《えみ》をもらした。
政宗が、小田原攻囲の本陣、石垣山に着いたときは、秀吉は諸将達に取り囲まれて、芝生の上の|床几《しようぎ》に腰かけていた。
徳川家康、前田利家、蒲生氏郷など、七、八人の武将が、その両側に居流れていた。
政宗は、秀吉を見ると、七、八間離れた所の芝生の上に|跪《ひざま》ずいた。
施薬院が、
「伊達|左京太夫《さきようだゆう》でございます」と、披露した。秀吉は、だまってうなずいた。
「辺境遠路のため、思わざる遅参を致したる段、お許し下さるよう」
政宗は、|中音《ちゆうおん》に朗々といった。
秀吉は、微笑しながら、
「遠路大儀! 遅参の儀は許すぞ! 会津領は取り上げるが、その他はその方、心のままにせよ」
「ありがたき仕合わせ」
政宗は、拝謝すると、秀吉の侍臣に、
「お|広蓋《ひろぶた》を拝借致したい」といった。
広蓋が運ばれて来ると、片倉が差し出したいくつものどんすの袋を、つぎつぎにその広蓋の上に逆様にした。さんさんたる光を放った砂金が、|小豆《あずき》か何かのように、広蓋の上に盛り上った。そのあまりが、幾十粒も、芝生の上にころげ落ちた。政宗は、落ちた砂金を見も返らず、
「|御小姓《おこしよう》衆、|御前《ごぜん》に|披露《ひろう》下され」といって、広蓋を両手で揚げながら小姓の方へ差し出した。
さすがは、奥州の|覇者《はしや》らしい豪快なる献上ぶりであった。
|大気者《たいきもの》の秀吉は、政宗の大気ぶりが、すっかり気に入っていた。
政宗が、辞して立ち上ろうとすると、
「政宗。政宗」と呼んだ。
「は……」
秀吉は持っている|杖《つえ》で、地を|叩《たた》きながら、
「ここへ来い。ここへ来い」
「はっ!」
政宗は、立ち上って、五、六歩歩いたが、|脇差《わきざし》を腰にさしていたのに気がつくと、|咄嗟《とつさ》に|鞘《さや》のまま、|末座《まつざ》に控えていた懇意の和久宗是の方へ、
「おねがい申す」
と、いいながら、地上をころがすように、投げ捨てて、秀吉の傍へ小腰をかがめながら、急ぎ足に近寄った。並居る大名達は、政宗の脇差の投げぶりに感心した。
秀吉は、|甲冑《かつちゆう》の上に、|錦《にしき》の陣羽織を着ていた。軽そうな、|唐冠《とうかんむり》を着けていたが、小さい顔が、その下に輝いていた。
『|猿面冠者《さるめんかんじや》』という|仇名《あだな》を、政宗は思い出した。しかし、すぐそれは悪口だと思った。眼が美しく大きく澄んでいて、その中に限りない威厳と温情とが、|溢《あふ》れていた。政宗は、何か厳格だがしかし物分かりのいい|伯父《おじ》さんにでも、会ったような気がした。
そして、会津を|発《た》って以来、一月以上もの間、自分が殺されはしないかと思って、心配しつづけていたことが、馬鹿々々しくなったほど安心した。
「|利休《りきゆう》に、茶道指南を頼んだというのう」
「はあ」
「少しは出来るか」秀吉は、ニコニコ笑っていた。
「奥州の|鄙《ひな》の手ぶりでは、ござりますが……」
「うむ。それは、頼もしい。明日、茶をふるまおう」
「はあ!」
政宗は和やかな心になって、平伏した。
「どうじゃ、小田原攻めのわしの|采配《さいはい》を見て行かぬか。三十万の大軍の指図が出来るものは、今のところ、日本にわしの外にはあまりあるまい。案内するから見て行け!」
「ははっ!」
秀吉はそういうと、もう立ち上っていた。そして、家康以下の諸将に、
「皆の衆は、あちらで休息してくれ!」というと、後の山の方へどんどん歩き出していた。
刀持ちの小姓を|先登《せんとう》に四、五人の小姓達が、驚いて後を追いかけると、秀吉は、
「その刀は、政宗に持たすがよい。お前達も、来ずともよい」
そういって、後も振り返りもせず、小松の生えた山を上って行った。
そこは、|仮城《かりじよう》の中ではあったが、しかし周囲に|軍兵《ぐんぴよう》は、誰もいなかった。|先刻《さつき》の芝生の所にいる連中は、心配そうに秀吉と政宗との後姿を見送っていた。
小姓が、不安そうに、秀吉の|佩刀《はいとう》を政宗に渡したとき、さすがの政宗も、受け取る手がかすかながら震えた。今日会ったばかりの|俺《おれ》に、こんなに無雑作に、生命の|鍵《かぎ》を預けてもいいのだろうか。俺が、引き抜いて切りかければ、関白も殿下もないではないか。そう思うと、政宗は自分でそんな発作的な行動に、出はしないかと思って、不安になった。
秀吉を、日本一の大気者と聴いていたが、なるほど自分よりも、役者が上だと思った。
奥州で、武将達の間に、|流行《はや》っていたような小細工や、調略でなく、やり方が、ズバぬけているなと思った。
もっとも、自分がこんな所で、秀吉を殺したら、自分はズタズタにやられた上、会津にいる一族|郎党《ろうどう》も、めちゃくちゃにやられるのは分かり切っている。だから、俺が狂人でない限り、そんな乱暴なことをやる気づかいはない。それを、ハッキリ知ってやっているのだろうか、それとも、この俺に刀を持たしているなどということは、てんで考えてもいないほど、天空|海闊《かいかつ》の男だろうか。
武器を持っている政宗の方が|却《かえ》って、気苦労で汗ばんで来た。
秀吉は、仮城の中の一番高見に上ると、初めて政宗の方をふり返った。
「この城は、|平城《ひらじろ》だが、なかなか要害がよい。だが、敵は箱根を頼み過ぎたのだ。それが、大しくじりなのだ。しかし、箱根は、苦もなく通って来たが、城そのものは、なかなか難物じゃ。後に山、前に海があって、寄手の大軍を引き廻すに、ごく不便じゃ。だから、わしはあせらんのじゃ。わしは、|位詰《くらいづ》めの戦争が好きでのう。だんだん位を取って、敵に手も足も出せなくする。この石垣山の仮城も、そのつもりで築いたのじゃ。敵が頑張れば、此方も頑張る。今に関東勢五万人の|干乾《ひぼ》しを作って見せるぞ! はゝゝゝ」
政宗は、自分がまるで、子供扱いにされているようで、|口惜《くや》しかった。
「水軍は、此方の早川口の方が|九鬼《くき》と|毛利《もうり》じゃ、向こう側の|酒匂口《さかわぐち》の方が、秀長、宇喜多、徳川、それから四国の長曾我部の兵も、少しは来ている。|陸《おか》へ上って、酒匂口の方から徳川、|北畠《きたばたけ》……|右府《うふ》殿の御子息の|信雄《のぶお》じゃ、山手は蒲生、|羽柴秀勝《はしばひでかつ》、同じく|秀次《ひでつぐ》、宇喜多じゃ、手前の早川に添うて海の方から|丹羽《にわ》、長谷川、堀、……主人の|秀政《ひでまさ》は、つい|此間《このあいだ》死んだが、わしはがっかりしたぞ」
「なかなかのお人じゃと噂に聞いておりましたが」
「そんなことまで知っていたか、生きていたら、さしずめ|其方《そのほう》から取り上げた会津を彼に与えて、其方と取り組ませるところじゃったが、はゝゝゝ」
「恐れ入ります」政宗は、苦笑した。そして、|釘《くぎ》を刺して来るところは、すかさず刺して来るなと思った。
「そちと、|堀久太郎《ほりきゆうたろう》となら、まさかの時に、いい取組じゃが……」
「御冗談を……奥州に事起こらば政宗お|先手《さきて》になって、|蹴散《けち》らします……」
「いや、其方がその気なら、外に心配はないが……」そういうと、秀吉は山を降りかけながら、
「|明日《あす》は、朝は一しょに|鷹《たか》に行こうか。そして、昼から、茶を……。わしの戦は、これじゃ。のん気な戦じゃろうが」
そういいながら、刀をもたせている政宗の方は、ふり返りもせず、杖をふりながら、さすがに足軽から鍛え上げた丈夫そうな足で、スタコラと歩いて行った。
政宗は、上々の首尾を以て、秀吉との第一の危機を切り抜けた。
しかし、会津を手放し、そこに蒲生氏郷が|封《ほう》ぜられたのを見ると、政宗の心には、不平不満の心が湧いた。
自分が、手を血ぬらして|伐《き》り取った土地を、大なる圧力のために、無償で奪われた不平である。
秀吉に対する不満は、その代官たる氏郷に向かって行った。
氏郷は、信長の|女婿《じよせい》で、剛胆大望の武将である。
会津百万石に封ぜられた時、少しの|欣《よろこ》びの色を見せないので、侍臣が不思議に思って、|訊《たず》ねると、
「たとい、二十万石でも都近くにあれば、一度は天下を志すことも出来るのだが、会津では……」といって、|嗟嘆《さたん》した男である。だから、秀吉も、その大志を煙たがって、東北の会津に敬遠して、|旁々《かたがた》政宗という猛獣の番犬にしたわけであろう。
氏郷と政宗とを|噛《か》み合わしておけば、両方ともうるさくなくてよいだろう。それが、|夷《い》を以て夷を制する秀吉の政策であったのである。
会津から旧地の米沢に移った政宗は、なお炎々たる野心を挟んで、奥州|併呑《へいどん》の志を捨てなかった。
秀吉という大団扇は、遠く去った。氏郷ぐらいの小団扇に怖れて、大人しくしている政宗ではなかった。今こそ、|蒼蠅《そうよう》となって活躍すべき時機だ。政宗及びその臣下達は、そう考えたに違いない。
政宗が、眼をつけたのは、現在の宮城地方に当たる|葛西《かさい》大崎領だった。
葛西領主葛西|晴信《はるのぶ》、大崎領主大崎|義隆《よしたか》は、いずれも|頑冥《がんめい》で、小田原へ伺候しなかったため、その領土を没収されてしまった。その後へ、秀吉は、木村伊勢守|吉清《よしきよ》、|清久《きよひさ》父子を封じた。軍功によって、急に大禄を得た父子は、禄高に相当する|俄《にわか》仕立の家来を連れて、入国した。
にわか仕立であるだけに、|無頼《ぶらい》の徒が多かった。これが、頑固な東北の土人と、うまく折れ合うわけはなかった。
新領主に対する|鬱勃《うつぼつ》たる不満が、葛西七郡大崎五郡に|充《み》ち満ちていた。
政宗は、その形勢を、片眼を以て、じっと|睨《にら》んでいた。
政宗が入れてある|間諜《かんちよう》達は、|胆沢《いざわ》、|気仙《けせん》、|東山《ひがしやま》、|登米《とめ》、|佐沼《さぬま》など各地の情報を逐一にもたらして来る。
「どうじゃ小十郎、そろそろ面白くなって来たぞ」
|一揆《いつき》が、旧大崎領の|岩手山《いわてやま》城へ乱入して木村の家臣|萩田三右衛門尉《はぎたさんうえもんのじよう》を倒したという報告を手にして、政宗は眼を光らした。前には、片倉小十郎と、|藤五郎成実《とうごろうしげざね》とが、かしこまっていた。
「いずれ、|上方《かみがた》から一揆討伐の命令が来るでございましょうが……殿は、どうなされます」
「うむ、表は、その命令を奉じて、兵を出す。だが、裏では手を廻して、一揆共を|煽《あお》り立てるのじゃ」
「なるほど……」闘志満々の成実は、会心の微笑を|洩《も》らした。
「一揆|猖獗《しようけつ》を極むれば、木村|父子《おやこ》はひとたまりもなくやられるだろう。蒲生が援兵を出すだろう。蒲生にも、さんざん手を焼かせるのじゃ、木村、蒲生が失敗した後で、わしが出兵して、手際よう一揆共を鎮定するのじゃ、そして奥州のことは、わしに委せる外はないということを、秀吉に知らせるのじゃ」
「いささか奇道ではござりまするが、御名案で……」
片倉小十郎は、政宗の不敵な|詭謀《きぼう》に、心中舌を巻きながら、賛成した。
「そうなれば、小田原の鬱憤が、少しは晴れますな」成実は子供のように欣んでいた。
間もなく、葛西、大崎領一円に五万人に近い乱民が、|蜂起《ほうき》した。一揆の|頭目《とうもく》達の間に、米沢の伊達政宗からの|檄文《げきぶん》が、配付されていた。
それは、木村伊勢守の|苛政《かせい》を攻撃し、葛西大崎旧主の恩沢に馴れたる人達の蜂起を是認したる後、政宗においては土民の事情を関白殿下に申し上げて、葛西、大崎の両氏が、その旧領を安堵するよう、取り|做《な》してやろうという文意だった。
そして、署名の下には、ちゃんと政宗の用いる|鶺鴒《せきれい》の|花押《かおう》を描いてあった。
|一揆《いつき》達は、その書状を手にすると、百万の味方を得たように、|勢立《きおいだ》ってしまった。諸城は、つぎつぎに陥落して、木村父子は、孤立した佐沼城に取り囲まれて、|朝夕《ちようせき》の命を保っているだけだった。
秀吉の命令は来て、政宗と氏郷とは、各々一揆征伐の兵を出すことになった。
政宗は、一万騎を率い十月二十六日米沢を発し、黒川郡|下草《しもくさ》に来って陣した。氏郷は、六千騎を従えて、会津を発し、十一月十四日に、|宮城《みやぎ》郡松森に陣した。そこから、下草は遠くない。氏郷は政宗を下草に尋ねて、共同の軍議を凝らして、大崎城へ進軍の方略を打ち合わせた。
だが、その、夜であった。氏郷の松森の陣へ伊達の旧臣である|須田伯耆《すだほうき》が、|馳《か》け込んで訴えた。彼は旧主に|怨《うら》みを持っている者だった。
氏郷が引見すると、伯耆はいった。
「御油断があってはなりませぬぞ。今度の一揆は、伊達殿が背後に在って、糸を引いておるとの噂でござりまするぞ。伊達殿は、会津領を奪われたのを遺恨に思われて、今度の一揆と通謀して、蒲生殿に手を焼かせ蒲生殿が罪を得られるよう、計っているのでござりますぞ。一揆の土地へなど、深入りせらるると、一揆と伊達勢との挟み撃ちになるかも分かりませぬぞ」と、いった。
氏郷の心に、疑惑の念が湧いたのは当然である。その上、政宗は病と称して、兵を動かそうとはしないのであった。
二人の間に、深い間隙が生じ、|爾後《じご》は二人別々に行動した。殊に、氏郷は政宗の反覆を怖れ、|名生《なりわ》城を攻め取った後は、上方よりの援兵を待って名生城より一歩も、動こうとはしなかった。
だが、政宗は、自分の策謀が氏郷に看破されたと知ると、|忽《たちま》ち長駆して佐沼城に至り一揆を蹴散らして、囲みを破って、木村父子を、救い出した。
氏郷は、政宗に対する疑惑を秀吉に対して、一々報告した。政宗に、重大なる嫌疑がかかったのも当然である。
かくて、政宗は、第二の危機に直面したのである。
政宗は、氏郷からの訴状によって、秀吉から上洛を命ぜられた。
第二の危機は、第一の危機よりも重大であった。小田原の時は、別に敵対しているわけではなかったし、秀吉としても、まだ奥州に手をつけていなかったのであるから、政宗に対し、深い|恩怨《おんえん》もなかったし、また政宗を殺して奥州の人心を動揺させることは、得策でなかった。
しかし、今度は違っていた。秀吉の朱印を受け、旧領安堵の恩命に接し、臣籍に列しながら、しかも一揆に通謀したというのである。
だが、政宗はわるびれず、上洛を決心した。
彼は、小田原へ行った時よりも、もっと深刻な態度を見せた。陳じ損ぜば、二度と奥州へ下れじと思ったので、|磔 柱《はりつけばしら》を作り、政宗ほどの者が普通の柱に懸るのは、無念だといって、それを|金箔《きんぱく》にて|籠《こ》めさせて、馬の真先に立てさせて、上洛の行列を進めた。
|聚落《じゆらく》の|邸《やしき》の秀吉の前で、政宗は氏郷と対決した。
秀吉は、先ず政宗が一揆に配付したという檄文を、政宗に見せた。
「どうじゃ、これに覚えがあるか」と、いった。
政宗は、この檄文を手にとって、披見すると、
「私が、この通りの|文言《ぶんげん》を書きますゆえ、お比べ下されたし」といって、小姓から、料紙と筆墨とを借りると、政宗は檄文を見ながら、一句|違《たが》わず写して、秀吉の前に差し出した。
両方の|筆蹟《ひつせき》は、見分けのつかぬほど、酷似していた。
「よう似とるが」秀吉は、けげんな顔付をして、政宗の顔を見直した。政宗は、少しも騒がず、
「それは、私の|祐筆《ゆうひつ》を勤めておりました者が、書きました偽書でござりましょう。よく似ておりますが、鶺鴒の花押をとくと御覧下さりませ。私は、数年来軍事についての文書の花押には、鶺鴒に、ハッキリと|眼孔《がんこう》を書き込んでござりますが、その花押には、眼孔がござりませぬ。それが、偽書の証拠でござりまする」
政宗は、堂々と弁じ立てた。
「さようか」と秀吉は、侍臣を顧みて、
「政宗が、わしによこした文書があるだろう、持って参れ」と、命じた。
祐筆が、奥へ入って、政宗から来た書状を数通持ち出して来た。どの書状の花押にも、ちゃんと|鶺鴒《せきれい》に、眼が入っていた。
秀吉は、
「おお。なるほど、念の入ったことをしておるのう」といって、|肯《うなず》いた。そこに、付け入るように、政宗がいった。
「私に、異心がござりましょうならば、なぜ|佐沼《さぬま》城の|後巻《うしろまき》を致しましょうや、いちはやく|馳《か》け付けて木村父子を助け申しましたこと、一に上様への忠節を、存じましたゆえでござりまする」といった。
秀吉は、再度肯いて見せ、
「よし、分かった。旅館に帰って休息せい!」と、いった。
翌日、伏見城の普請場にいる秀吉の所へ、政宗が御機嫌伺いに行くと、秀吉は持っていた杖で、政宗の首の所を叩き、
「早く参ってよかったぞ。もし、遅かったら、ここが危なかったぞ! 早く来た褒美に、一つ邸を作ってやろう。……」といって、微笑した。
その翌年、南部の|九戸政実《くのえまさざね》が|叛《そむ》いたとき、|井伊直政《いいなおまさ》は家康の|先手《さきて》として、五千騎の兵を率いて、奥州へ向かった。
彼は、奥州に滞在中、去年の葛西、大崎領の一揆の内情をよく土民に就いて調査して見た。
調べて見れば調べるほど、政宗が一揆に通謀していた証拠が歴然たるものがあった。
彼は奥州から伏見へ帰ったとき、主人の家康に謁していった。
「|此度《このたび》奥州へ参りましたので、昨年の一揆の跡をよく、見聞して参りましたが、伊達が一揆共を|唆《そその》かしたことは、隠れもないことでござります」
「そうか。そうかも知れん。|彼《あれ》のことだから」と、家康は苦笑していた。
「それだのに、関白殿は、どうしてああも手がるに、お|宥《ゆる》しになったのでしょうか。政宗の|叛心《はんしん》を御存じなかったのでしょうか」といって訊いた。
家康は、|暫《しばら》く考えていたが、
「いや関白にも、そのくらいのことは分かっているんだよ。しかし、政宗がああした嫌疑を受けながら、堂々と上洛して来るのは、大勇ではないか」
「はア……」と直政が肯いた。
「それに平生から、花押にまで心を使っているなど、良将の|器《うつわ》ではないか」
「なるほど」
「それに、檄文を写すとき、普通の人間なら、なるべく似ないように書くべきを、平気で似せて書いているなど、大した器量ではないか」
「御尤もで」
「あれだけの器量人を殺したりするのは、惜しいじゃないか」
「はあ……」直政、(ちゃんと物事の真相を見ぬいている、|家《うち》の|親父《おやじ》も相当なもんだ)と感心しながら聴いていた。
「しかし、政宗に芝居をさせて、それを知らぬ顔で見ている関白の器量は、こりゃ別じゃ。政宗に百倍するといってよいかな」といって、家康は|浩嘆《こうたん》した。
対秀吉の第三の危機は、殺生関白秀次の失脚事件の時であった。
秀次が、謀叛の嫌疑で|高野《こうや》で死を賜うた後、秀次へ出入りの諸将にも、嫌疑がかかった。政宗も、その一人であり、しかも最も深く疑われた一人であった。
政宗の家臣達は、連署して弁明書を秀吉に呈出するような騒ぎであった。
やがて、秀吉から政宗に詰問の使者が来た。政宗は、使者を迎えて、
「いかにも政宗、秀次様へ、懇ろにお出入りしました。しかし、太閤様が、御|後継《あとつぎ》として関白を継がせられましたからには、秀次様の御機嫌を伺うのは、当然ではござりませぬか。太閤様が、お|眼鑑《めがね》違いで、関白になされた方を、この政宗が片眼で見損なうのは当然でござりませぬか」と、いった。
政宗の|返言《へんげん》に、使者は、当惑して、
「そのままでは、お取次ぎが出来ぬ」と、いった。すると、政宗は、片目をカッと見開いて、
「これが、武士としての|受答《うけこたえ》でござる。一言一句も、このままにお伝え下されて、よろしゅうござる」と、頑張った。
使者が帰って、政宗の言葉を伝えると、秀吉は、苦笑して、
「またあいつが、同じ手を使い居る!」といっただけで、何等の|咎《とが》めもなかった。
[#改ページ]
単行本
昭和四十六年十一月書房刊
[#改ページ]
文春ウェブ文庫版
日本武将譚
二〇〇一年八月二十日 第一版
著 者 菊池 寛
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
http://www.bunshunplaza.com
(C) Hideki Kikuchi 2001
bb010806