日本合戦譚
〈底 本〉文春文庫 昭和六十二年二月十日刊
(C) Hideki Kikuchi 2001
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目 次
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日本合戦譚
原因
元亀元年六月二十八日、織田信長が徳川家康の助力を得て、江北姉川に於て越前の朝倉義景、江北の浅井長政の連合軍を撃破した。これが、姉川の合戦である。
この合戦、浅井及び織田にては、野村合戦と云う。朝倉にては三田村合戦と云う。徳川にては姉川合戦と云う。後に徳川が、天下を取ったのだから、結局名前も姉川合戦になったわけだ。
元来、織田家と朝倉家とは仲がわるい。両家とも|斯波《しば》家の家老である。応仁の乱の時、斯波家も両方に分れたとき、朝倉は宗家の義廉に|叛《そむ》いた治部|大輔《たいふ》義敏にくっついた。そして謀計を|廻《めぐ》らして義敏から越前の守護職をゆずらせ、越前の国主になった。織田家は宗家の義廉に仕えて、信長の時まで、とにかく形式だけでも斯波の家臣となっていた。だから、織田から云えば、朝倉は逆臣の家であったわけだし、朝倉の方から云えば、織田は陪臣の家だと|賤《いや》しんだ。
だが、両家の間に美濃の斎藤と云う緩衝地帯がある内は、まだよかった。それが、無くなった今は、早晩衝突すべき運命にあった。
江北三十九万石の領主浅井長政は、その当時まだ二十五歳の若者であったが、兵馬剛壮、|之《これ》を敵にしては、信長が京都を出づるについて不便だった。信長は、妹おいちを娘分として、長政と婚を通じて、親子の間柄になった。
だが、長政は信長と縁者となるについて条件があった。それは、浅井と越前の朝倉とは、代々|昵懇《じつこん》の間柄であるから、今後朝倉とも事端をかまえてくれるなと云うのであった。信長はその条件を諾して、越前にかまわざるべしとの誓紙を、長政に与えた。
永正十一年七月二十八日、信長は長政と佐和山で対面した。佐和山は、当時浅井方の勇将、磯野丹波守の居城であった。信長からの数々の進物に対して、長政は、家重代の石わりと名づけたる備前兼光の太刀を贈った。この浅井家重代の太刀を送ったのは、浅井家滅亡の前兆であると、後に語り伝えられた。
然るに無力でありながら陰謀好きの将軍義昭は、近畿を廻る諸侯を糾合して、信長を排撃せんとした。その主力は、越前の朝倉である。
信長は、朝倉退治のため、元亀元年四月、北陸の雪溶くるを待って、徳川家康と共に敦賀表に進発した。
しかも、前年長政に与えたる誓書あるに|拘《かかわ》らず、長政に対して一言の挨拶もしなかった。信長が長政に挨拶しなかったのは、挨拶しては|却《かえ》って長政の立場が困るだろうとの配慮があったのだろう、と云われて居る。
決して、浅井長政を馬鹿にしたのではなく、信長は長政に対しては、これまでにも、可なり好遇している。
だが、信長の越前発向を聞いて、一番腹を立てたのは、長政の父久政である。元来、久政は長政十六歳のとき、家老達から隠居をすすめられて、長政に家督を譲った位の男|故《ゆえ》、あまり利口でなく、旧弊で頑固であったに違いない。信長の違約を|怒《いか》って、こんな表裏反覆の信長のことだから、越前よりの帰りがけには、きっと此の|小谷《おだに》城へも押し寄せて来るに違いない。そんな危険な信長を頼むよりも、|此方《こちら》から手を切って、朝倉と協力した方がいいと云った。長政の忠臣遠藤喜右衛門、赤尾|美作《みまさか》などは、信長も昔の信長とは違う、今では畿内五州、美濃、尾張、三河、伊勢等十二ケ国の領主である。以前の信長のように、そんな不信な事をやるわけはない。それに当家と朝倉とが合体しても、わずか一国半である。到底信長に敵するわけはない。この際は、磯野丹波守に一、二千の兵を出し、形式的に信長に対する加勢として越前に遣わし、|只管《ひたすら》信長に頼った方が、御家長久の策であると云ったが、久政聴かず、他の家臣達も、久政に同意するもの多く、長政も父の命に|背《そむ》きがたく、遂に信長に反旗を翻して、前後から信長を挟撃することになった。
越前にいた信長は、長政反すると聞いたが、「縁者である上、江北一円をやってあるのだから、不足に思うわけはない筈だ」と、容易に信じなかったが、事実だと知ると、周章して、|這々《ほうほう》の体で、間道を京都に引き上げた。此の時、木下藤吉郎承って|殿《しんが》りを勤めた。金ヶ崎殿軍として太閤出世|譚 《ものがたり》の一頁である。
信長やがて、岐阜に引き上げ、浅井征伐の大軍を起し六月十九日に発向して、浅井の居城小谷に向った。それが姉川合戦の発端である。
戦前記
京都から岐阜に帰って準備を整えた信長は、六月十九日二万有余の大軍を催して、岐阜を立ち、二十一日早くも浅井の本城なる小谷に迫って町家を焼き払った。しかし、浅井が出でて戦わぬので、引き上げて姉川を渡り、その左岸にある横山城を攻めた。そして、横山城の北竜ヶ鼻に陣して、家康の|来《きた》るを待った。六月二十七日、家康約五千余騎を率いて来援した。
(家康に取っても、大事な|軍《いくさ》であった。信長より加勢を乞われて、家康の諸将相談したが、本多平八郎忠勝、家康に向って曰く、「信長公を安心の出来る味方と思っているかも知れぬが、そうとは限らない。折あらば殿を難儀の軍などさせ戦死をもなさるように|工《たく》まぬとも限らない。今度の御出陣|殊《こと》に大事である」と。家康その忠言を|欣《よろこ》び、わざと多くの軍勢を引きつれずに行ったのだ。出先で敗れても、国許が手薄にならぬ為の用意であった)
長政も、越前に使を派して朝倉の援兵を乞うた。然るに、|義景《よしかげ》自ら出張せず、一族孫三郎|景健《かげたけ》に、約一万の兵を与えて来援せしめた。
長政は、朝倉に対する義理から、……好意から信長に|叛《そむ》いているのに、肝心の朝倉義景は、この大事な一戦に自ら出向いて来ないのである。隣の|家《うち》が焼けている|裡《うち》は、まずまずと云う考えなのである。尤も、そうした暗愚の義景を頼りにしたのは、長政の不覚でもあるが……。
長政、朝倉の来援を得て、横山城を救わんとし、二十五日小谷城を出で、その東|大寄《おおよせ》山に陣を張った。翌二十八日には、三十町も進み来り、浅井軍は野村に朝倉勢は三田村に展開した。
かくて、織田徳川軍は姉川を挟んで浅井朝倉軍と南北に対陣した。
今南軍即ち織田徳川方の陣容を見るに、
織田信長(三十七歳)
――二百四十余万石、兵数六万、姉川に来りしものは、その半数――
第一陣 坂井 |政尚《まさひさ》
第二陣 池田 信輝
第三陣 木下 秀吉
第四陣 柴田 勝家
第五陣 森 |可成《よしなり》
第六陣 佐久間信盛
(兵各三千)
本 陣 信 長(兵五千余)
横山城への抑え
丹羽 長秀(兵三千)
氏家 直元(兵千)
安藤 |範俊《のりとし》(兵千)
徳川家康(二十九歳)
――六十余万石、兵数約一万六千、姉川に来りしもの約五千――
第一陣 酒井 忠次(兵千余)
第二陣 小笠原|長忠《ながただ》(兵千余)
第三陣 石川 数正(兵千余)
本 陣 家 康(兵二千余)
外に信長より家康への加勢として
稲葉 通朝(兵千余)
徳川家康の部将中、酒井石川は譜代だが、小笠原与八郎長忠だけは、そうでない。小笠原は、元、今川家の大将で武功の勇将である。家康に従ってはいるが、もし家康が信長へ加勢として|上方《かみがた》にでも遠征したら、その|明巣《あきす》に遠州を|掠取《かすめと》らんと云う|肚《はら》もないではない。家康もその辺ちゃんと心得ているので、国には置かず、一しょに連れて来たわけである。つまり、まだ馴れない猛獣に、くさりをつけて引っぱって来、戦争に使おうと云うのである。それだけの小笠原であるから、武功の士多く、姉川に於ての働きも|亦《また》格別であった。
(『武功雑記』に、「|此度《このたび》権現様小笠原与八郎を先手に|被《おお》せ付けられ|候《そうろう》。与八郎下心に挟む所ありと|雖《いえど》も、辞退に及ばずして、姉川にて先手致し勝利を得申し候。|其《その》時節与八郎家来渡辺金太夫、伊達与兵衛、中山是非介働き殊に|勝《すぐ》れ候て三人共に権現様より御感状下され候。渡辺金太夫は、感状の上に吉光の御腰物下され候事也」とある。この小笠原は、小田原の時亡んだ。恐らく現在の小笠原長幹伯は、その一族だろう)
家康が、到着した時、信長は遠路の来援を謝しながら、明日はどうぞ弱からん方を助けてくれと云った。つまり予備隊になってくれと云うわけだ。家康嫌って、打ち込み(他と入り交っての意ならん)の軍せんこと、弓矢の|瑕瑾《かきん》であるから、小勢ではあるが独立して一手の軍をしたいと主張した。もし望みが|叶《かな》わなければ、本国に引き返さんと云った。信長、左様に仰せられるのなら、朝倉勢を引き受けて貰いたい。尤も北国の大敵に向わせられるには、御勢ばかりでは、あまりに小人数である。信長の勢から、誰か|撰《えら》んでくれと云った。と、家康は、自分は小国で小勢を使い習っているから、大勢は使えないし、心を知らぬ人を下知するのも気苦労だから、自勢だけで沢山だと云った。信長重ねて、朝倉と云う北国の大軍を家康だけに委したとあっては、信長が天下の|嘲《あざけ》りを招くことになるから、義理にでもいいから誰かを使ってくれと、ひたすら勧めたので、然らば是非に及ばず、稲葉伊予守貞通(通朝、良通などとも云う)をかしてくれと云った。織田の勢より、ただ一人、海道一の弓取たる家康に撰み出されたる稲葉伊予守の面目、思うべしである。
稲葉伊予守は、稲葉一徹で美濃三人衆の一人で、斎藤家以来名誉の士だ。茶室で信長に殺されかけたのを、床の間にかかっている韓退之の詩『|雲 横 秦 嶺《くもはしんれいによこたわつて》』を読んで命を助かった文武兼備の豪傑である。
戦い果てて後、信長、稲葉の功を賞し、自分の一字をやって、長通と名乗れと云う。稲葉|悦《よろこ》ばずして信長に向って曰く、「殿は|盲《めくら》大将にして、人の剛臆が分らないのだ。自分は、上方勢の中では、|鑓《やり》取る者とも云われるが、徳川殿の中に加わりては、足手|纏《まと》いの弱兵にて一方の役に立ったとも覚えず、自分の勲功を御賞めになるなど、身びいきと云うもので、三河の人の思わむことも恥し」と。自分の勲功を謙遜し、家康勢を賞め上げるなど、外交手段を心得たなかなかの曲者である。
浅井朝倉の陣容は、次ぎの通りだ。
浅井勢
浅井長政(二十六歳)
――三十九万石、兵数約一万――
第一陣 磯野 |員昌《かずまさ》(兵千五百)
第二陣 浅井 政澄(兵千)
第三陣 |阿閑《あかん》 貞秀(兵千)
第四陣 新庄 直頼(兵千)
本 陣 長 政(兵三千五百)
朝倉勢(朝倉義景)
――八十七万石、兵数二万、姉川に来りしもの一万――
第一陣 朝倉 |景紀《かげのり》(兵三千)
第二陣 前波新八郎(兵三千)
本 陣 朝倉 景健(兵四千)
『真書太閤記』に依ると、浅井朝倉|方《がた》戦前の軍議の模様は、左の通りだ。
七日の夜|深《ふ》けて長政朝倉孫三郎景健に面会なし、合戦の方便を談合ありけるは、越前衆の|陣取《じんどり》し大寄山より信長の本陣龍ケ鼻まで|道程《みちのり》五十町あり。|直《じき》に押しかゝりては人馬ともに力疲れて気衰ふべければ、明暁野村三田村へ陣替ありて一息つぎ、二十八日の|晨朝《しののめ》に信長の本陣へ不意に切掛り、急に|是《これ》を攻めれば敵は思ひよらずして周章すべし、味方は十分の勝利を得べきなりと申しけるに、浅井半助とて武勇|人《ひと》に許されしものながら、先年久政の勘当をうけて小谷を追出され、濃州に立越え稲葉伊予守に所縁あるを以て暫時かくまはれて居たりしかば、信長の|軍立《いくさだて》を|能々《よくよく》見知りてありけるが、|今度《このたび》織田徳川矛盾に及ぶと、浅井を|見続《みつ》がずば|弥《いよいよ》不忠不義の名を|蒙《こうむ》るべしとおもひ、稲葉には暇乞もせず、ひそかに小谷へ帰り、赤尾美作守、中島日向守に就て勘当免許あらんことを願ひしに、久政きかず。殊に稲葉が家にかくまはれしものなれば、いよ疑心なきにあらずとて用ひられざりしかば、両人様々に証拠をとりて|詫言《わびごと》申せしゆゑ、久政も|黙止《もだ》しがたく、然らばとて免許ありて差置かれけるに、|此間《このあいだ》 信長陣替の時|丁野《ちようの》若狭守と共に討つて出で合戦し、織田勢あまた討捕りしかども却て、丁野も半助も久政のにくみを受けながら、遠藤|喜右衛門《きえもん》が能く取りなしけるに|依《よつ》て、久政も|漸《ようや》く思返し、此頃は|傍《そば》近く出勤しけるにより、今日評定の席へも差加へられたり。然るに長政の軍慮を承り、御存じの如く|某《それがし》は三ケ年濃州に|罷在《まかりあ》りて信長の処置を見覚えて候ふが、心のはやきこと|猿猴《えんこう》の梢を伝ふ如き振舞に候へば三田村まで御陣替あらば必ずその手当を|仕《つかまつ》り候ふべし。|若《も》し総掛りに軍し給はゞ味方難渋仕り候はんか、今|暫時《しばらく》敵の様を御覧ありて然るべきかと申しけるに、長政|宣《のたま》ふ様、横山の城の軍急なれば、|其儘《そのまま》に見合せがたし。敵の出で来るを恐れては|勿々《なかなか》軍はなるまじ、その上に|延々《のびのび》とせば、横山|終《つい》に|攻落《せめおと》さるべし。但し此ほかに横山を|援《たす》けん|術《てだて》あるべきや。今に於ては戦を始むるの|外《ほか》思案に及ばずとありけるを聞て、遠藤喜右衛門然るべく覚え候。兎角する内に、横山の城中の者も|後詰《ごづめ》なきを恨み降参して敵へ加はるまじきにもあらず、信長当方へ打入りしより|以来《このかた》、心のまゝに働かせ候ふこと余りに云甲斐なし、早く御陣替然るべし。思召の如く替へおほせて、二十九日敵陣へ無二無三に切入り給はんには、味方の勝利疑ひ有るべからず。|仮令《たとえ》ば敵方にて|此方《このほう》の色を察し出向はゞ、その処にて合戦すべし、何のこはきことが候ふべき。喜右衛門に於ては必定信長を撃捕るか討死仕るか二つの道を出で候ふまじと思定め候、早早御出陣然るべしと申すにより、久政も此程遠藤が申すことを一度も用ひずして|宜敷事《よろしきこと》無りしかば、此度|許《ばか》りは喜右衛門|尉《じよう》が申す旨に同心ありて、然らば朝倉殿には織田と遠州勢と二手の内|何方《いずかた》へ向はせ給ふべきかと申せしにより、孫三郎何れへなり共罷向ひ申すべくとありしかば、長政いや某が当の敵は信長なり、依て某信長に向ひ候ふべし。朝倉殿には遠州勢を防ぎ給はり候ふべしと定めて陣替の仕度をぞ急がれける。遠藤喜右衛門尉は、兼て軍のあらん時敵陣へ紛れ入り、信長を|窺《うかが》ひ撃たんと思ひしかば、朋輩の勇士に|談《かた》らひ合せけるは、面々明日の軍に打込の軍せんと思ふべからず、|偏《ひとえ》に敵陣へ忍び入らんことを心掛くべし。然しながら敵陣へ忍び入り、冥加有て信長を刺し有るとも敵陣を|遁《のが》れ帰らんことは難かるべし。然らば今宵限りの参会なり、又此世の名残りなりと酒宴してけるを、諸士は偏へに老武者が|壮士《わかもの》を励ます為の繰言とのみ思ひて、|何《いずれ》も遠藤殿の仰せらるる迄もなし、我々も明日の軍に討死して、栄名を後世に伝ふべきにて候ふと答へしかば、喜右衛門尉も悦び、左様にてこそ誠の忠臣の道なれ、はや暁も程近し、面々用意にかゝらせ給へとて、思ひに別れけり。
かくの如く遠藤の決死は|頗《すこぶ》る悲壮であるが、彼は、長政が初めて佐和山に於て信長と対面したとき、信長の到底頼むべからざるを察し、急に襲って討たんことを提議し、長政の容るるところとならなかった事がある。また、|今度《このたび》長政が信長と絶縁せんとするや、到底信長に敵しがたきを知って極力|諌止《かんし》せんとした。しかも、いよいよ手切れとなるや、単身敵陣に潜入して、信長を討たんことを決心す。実に、浅井家無二の忠臣と云うべきであろう。
しかし、今度の戦い、浅井家に取って必死の合戦なりと思い決死の覚後をした者、他にもいろいろ、その中にも、最もあわれなるは浅井|雅楽助《うたのすけ》である。雅楽助の弟を|斎宮助《いつきのすけ》と云う。先年世良田合戦、御影寺合戦(永禄三年)終って間もなく、浅井家の家中寄り合い、諸士の手柄話の噂などした。その時、斎宮助、「我等が祖父大和守、又兄なる玄蕃などが働きに及ぶもの家中にはなし」と自慢した。兄雅楽助大いに怒って、かく歴々多き中に、その高言は何事ぞと叱りつけた。兄としては当然の話である。だが、斎宮助、衆人の前にて叱責せらるる事奇怪なりとて、それより兄弟永く不和になっていたが、姉川合戦の前夜、二十七日の夜亥刻(今の十二時)ばかりに、兄の雅楽助、弟斎宮助の陣所に行き、「明日討死をとげる身として何とて不和を残さん。今は遺恨を捨てて、名残の|盃《さかずき》せん。父尊霊を見度くば互いの顔を見るこそよけれ」と、眼と眼を見かわしていたが、やがて酒を乞いて汲み交し、譜代の郎党共も呼び、ともに死別生別の杯を汲み交した。
浅井方の悲壮の決心推して知るべきである。これに比ぶれば、朝倉方は大将自身出馬せず、しかも大将義景の因循姑息の気が、おのずと将士の気持にしみ渡っていただろうから、浅井家の将士ほど真剣ではなかったであろう。
朝倉対徳川戦
姉川は、琵琶湖の東北、近江の北境に在る|金糞《かねくそ》岳に発した|梓《あずさ》川が伊吹山の西に至って西に折れて流るる辺りを姉川と称する。|尚《なお》西流して長浜の北で湖水へ入っている。姉川というのは、|閻魔《えんま》大王の姉の竜王が此の川に住んでいるから姉川と云い初めたという伝説があるが、閻魔大王の姉に竜王があるという話はあまり聞かないから、之れは土俗の伝説に過ぎないであろう。野村、三田村附近では、右岸の高さは六七尺以上で、昇降には不便であったらしい。|只《ただ》当時の水深は、三尺位であったというから、川水をみだして|逐《お》いつ逐われつ戦ったわけである。
六月二十八日午前三時に浅井軍は野村に朝倉勢は三田村に展開した。
払暁を待って横山城を囲んでいる織田軍を攻撃せんと云うのであった。ところが信長が二十七日の夜敵陣にたくかがり火を見て、敵に進撃の気配あるを察し、それならばこちらから、逆撃しようと云うので、姉川の左岸に進出していたから、浅井朝倉軍が展開するのを見るや、先ず織田徳川の軍から、弓銃をもって、挑戦した。これは浅井朝倉勢にとっては可成り意外だったろう。
三田村の朝倉勢に対するものは家康、野村にある浅井軍に対抗するものは信長勢であった。
先ず徳川朝倉の間に戦端が開かれた。家康は、小笠原長忠を先陣とし、右に酒井忠次、原康政、左に本多平八郎忠勝、内藤信重、大久保|忠世《ただよ》、自分自身は旗本を率いて正面に陣した。
本多忠勝、原康政共に年二十三歳であったから、血気の働き盛りなわけであった。
朝倉方は、黒坂備中守、小林|瑞周軒《ずいしゆうけん》、魚住|左衛門尉《さえもんのじよう》を先頭として斬ってかかった。徳川家康としても晴れの戦であったから、全軍殊死して戦い、朝倉勢も、亦よく戦った。朝倉勢左岸に迫らんとすれば、家康勢これを右岸に逐い、徳川勢右岸に迫らんとすれば、朝倉勢これを左岸に逐いすくめた。
其の|中《うち》徳川勢|稍《やや》後退した。朝倉勢、すわいくさに勝ちたるぞとて姉川を渡りて左岸に殺到したところ、徳川勢ひき寄せて、左右より之れを迎え撃った。酒井忠次、原康政等は姉川の上流を渡り、朝倉勢の側面から横槍を入れて無二無三に攻め立てたので、朝倉勢漸く浮き足立った。徳川勢之に乗じて追撃したので、朝倉軍|狼狽《ろうばい》して川を渡って退かんとし、大将孫三郎景健さえ乱軍の中に取り巻かれた。其の時、朝倉家に於て、唯一の豪の者ときこえた真柄十郎左衛門直隆取って返して奮戦した。十郎左衛門は此の度の戦に景健後見として義景から特に頼まれて出陣した男だ。彼は講釈でも有名な男だが、北国無双の大力である。その使っている|太刀《たち》は有名な太郎太刀だ。
越前の千代鶴という鍛冶が作り出した太刀で七尺八寸あったと云われている。講釈では余り幅が広いので、前方を見る邪魔にならぬよう窓をつけてあったと云う。それは、嘘だろうが、重量を減らすため、ところどころ窓があったかも知れぬ。が一説に五尺三寸と云うから、其の方が本当であったろう。だが真柄の領内で、この太刀を|担《かつ》げる百姓はたった一人で、常に家来が四人で|荷《にな》ったというから、七尺八寸という方が本当かも知れない。
之に対して次郎太刀というのもあった。其の方は六尺五寸(一説には四尺三寸)あったと云われている。
直隆、景健の苦戦を見て、太郎太刀を「|薙刀《なぎなた》の如く」ふりかざし、|馬手弓手《めてゆんで》当るを幸いに薙ぎ伏せ斬り伏せ、|竪《たて》ざま横ざま、十文字に|馳通《はせとお》り、向う者の|兜《かぶと》の真向、|鎧《よろい》の袖、微塵になれやと斬って廻れば、|流石《さすが》の徳川勢も、直隆一人に斬り立てられ、直隆の向う所、四五十間四方は小田を返したる如くになった。かくて孫三郎景健の危急を救い漸く右岸に退却した。だが、ふり返ると味方が、尚左岸に苦戦してひきとりかねている者が多いのを見て、さらば、|援《たす》けえさすべしとて引き返す。
此時朝倉方の大将、黒坂備中守、前波新八郎、尚左岸にあり奮戦していた。前述して置いた小笠原与八郎長忠は、他国の戦に|供奉《ぐぶ》せしは、今度が初めての事なので目を驚かせる程の戦せんとて、黒坂備中守に馳合った。二人とも十文字の槍だったが、小笠原の十文字|稍々《やや》長かった為めに、黒坂が十文字にからみとられ、既に危く見えたのを、小笠原槍を捨て、太刀をひきぬいて、備中守の兜を真向に撃ち、黒坂目くるめきながら、|暫《しば》しは鞍にこらえけるを、二の太刀にて馬より下へ斬って落す。黒坂撃たれて、朝倉勢乱れ立ち、全軍危く見えし所に、真柄十郎左衛門及び長男十郎三郎|直基《なおもと》|馳《か》け来って、父は太郎太刀、子は次郎太刀を持って縦横に斬り廻ったので、徳川勢も左右に崩れ立ったので、越前勢漸く虎口を|遁《のが》れて姉川を|渉《わた》りて退く。真柄父子|殿《しんがり》して退かんとする所に、徳川勢の中より|匂坂《さきさか》式部同じく五郎次郎同じく六郎五郎、郎党の山田宗六主従四人真柄に|馳《か》け向う。真柄「大軍の中より只四人にて我に向うことかわゆし」とて取って返す。式部|手鑓《てやり》にて真柄が|草摺《くさずり》のはずれ、一鑓にて突きたれど、真柄物ともせず、大太刀をもって払い斬りに斬りたれば、匂坂が|甲《かぶと》の吹返しを打ち砕き、余る太刀にて鑓を打落す。式部が弟五郎次郎、兄をかばわんとて、立ち向うを、真柄余りに強く打ちければ、五郎が太刀を|元《はばきもと》より斬り落し、右手の|股《もも》をなぎすえた。五郎、太刀の柄ばかり握って、既に危く見えけるを、弟六郎と宗六|透間《すきま》もなく|救《たす》け|来《きた》る。
真柄太刀とり直し、宗六を唐竹割に割りつけたが、其の時六郎鎌鑓にて、真柄を掛け倒す。流石無双の大力の真柄も、六十に近い|老《おい》武者であるし、朝より数度の働きにつかれていた為めだろう。起き上ると、尋常に「今は之れ迄なり。真柄が首を取って武士が誉れにせよ」と云った。
六郎、兄の式部に首を取れと云ったが、式部手を負いて叶い難し、汝取れと云ったので六郎走りかかって首を打落した。『太閤記』では、匂坂兄弟が真柄一人にやられているところに、本多平八郎忠勝馬をおどらせ馳せ来り、一丈余りの鉄の棒をもって、真柄と決戦三十余合、北国一と聞えたる勇士と東国無双と称する壮士とが戦い、真柄が老年の為めに、遂に忠勝に撃たれることになっている。
|併《しか》しこれは、勇士真柄の最期を飾る為めに本多忠勝の為めに撃たれたことにしたのであろう。真柄と忠勝とが、三十余合撃ち合ったとすれば、戦国時代の一騎討として、これに勝るメイン・エヴェントはないわけだが、本当は矢張り、匂坂兄弟に撃たれたのであろう。
子の十郎直基(隆基という本もある)は、父が撃たれたと聞くと、せめて父が討死せしところを見ばやと、馬を返す所を、青木所左衛門出で合い、「音に聞えし真柄殿、|何処《どこ》へ行き給うぞや、引返し勝負あれ」と呼びければ、「引くとは何事ぞ、|悪《にく》い男の言葉|哉《かな》。いでもの見せん」と云うままに、父に劣りし太刀なれど、受けて見よやと、六尺五寸の次郎太刀打ち振り、青木の郎党が立ち塞がるを、左右に斬って落す。所左衛門、鎌鑓を打ちかけ、直基が右手の|肱《ひじ》を斬って落す。直基、今は之れまでと思いけん、尋常に首を授く。
越前勢一万余騎の中、真柄父子の勇戦と、この尋常の最期とは、後迄も長く伝えられたとある。尚『太閤記』によると、直基は討死する前に父のかばねと父が使っていた太刀とを郎党に持たせて、本国へ返したようにかいてある。戦争中、そんな余裕は無いように思われるが、併し昔の戦争は、|呑気《のんき》なところもあるから、そんな事があったかも知れない。
『三州志』によると、加賀の白山神社の真柄の太刀と伝称し|来《きた》るものあり、柄が三尺、刀身が六尺、合せて九尺、厚さ六分、幅一寸六分あり、鎌倉の行光の作である。行光は正宗の父である。ところが越前の|気比《けひ》神社に真柄の太刀の|鞘《さや》だけがある。其の鞘には、小豆が三升入る。此の鞘の寸法と白山神社の鞘の寸法とは、少し違っているという事である。
姉川の沿岸は、水田多く、人馬の足立たず、殊に越前勢は、所の案内を知らざる故、水田沼沢の地に人馬陥り、撃たるる者が多かった。真柄父子を始めとし、前波兄弟、小林瑞周軒、竜門寺、黒坂備中守等大将分多く討死した。之に比べると、案内を知った浅井方の討死は少かった。
こう書いてくると徳川勢は余り苦心をしていないようだ。併し朝倉勢に、裏切り組というのがあり、百人位の壮士を選び、各人四尺五寸、|柄《え》長く造らせたる野太刀を持ち、戦いの最中、森陰から現われて、不意に、家康の旗本へ切りかかった。為に旗本大いに崩れ立ち、清水久三郎等家康の馬前に立ち塞がり、五六人斬り伏せたので、漸く事無きを得た。
之れは後年の話だが、徳川|頼宣《よりのぶ》がある時の話に「加藤喜介正次は、常に刀脇ざしの柄に手をかけ居り候に付き、人々笑ったところ、加藤喜介曰く『姉川合戦の時、朝倉が兵二騎味方の真似して、家康公の|傍《そば》へ近付き抜きうちに斬らんとした。喜介常に刀に手をかけ居る故、直ちに二騎の一人を斬りとめ他の一人は天野三郎兵衛討止めた。此の時家康公も太刀一尺程抜き、その太刀へ血かかる程の事なり。だから平生でも刀の柄に手をかけているのだ』と云ったと云うが、喜介よりも其の朝倉の兵はもっと勇敢だ。敵の中に只二人だけ乗り込み討死す。而も二人の首の中に『一足|無間《むげん》』と云う、誓文を含んでいたと云う。さてさて思い切った、豪の者なり」と、褒めたというが、これで見ても、かなり朝倉方もやった事が分る。
朝倉勢が姉川を越えて、徳川軍に迫った時は、相当激しかったのだろう。
浅井軍の血戦
浅井を向うに廻した織田勢の方は、もっと苦戦であった。浅井方の第一陣、磯野丹波守は勇猛無双の大将だ。其の他之に従う高宮三河守、大野木大和守その他、何れも武勇の士である。元来浅井軍は中々強いのだ。だから木下藤吉郎が、一番陣を望んだが許されなかった。それは、秀吉の軍勢は、多年近江に居て浅井軍と接触している為め、浅井の武威に恐れているだろうという心配だった。従って信長も長政を優待して、味方にしておき度かったのだ。丹波守を先頭に、総勢五千余騎、鉄砲をうちかけて、織田の一番陣、坂井右近の陣に攻めかかる。丹波守自ら鑓をとって先頭に進み、騎馬の|強者《つわもの》真先に立って殺到した。
右近の陣は鉄砲に打ちすくめられ嫡子久蔵(十六歳)を初め百余人撃たれて、敗走した。二番|側《ぞな》え池田勝三郎も丹波守の猛威に|討靡《うちなび》けられて敗走した。
『太閤記』によると第三陣の木下秀吉が奮戦して丹波守を敗る事になっているが、之れは秀吉中心の本だから、いつでも、秀吉が手柄を現すようにかいてある。本当は信長の陣が十三段の備えの内十一段まで崩れたというから、木下秀吉、柴田勝家、森可成の|驍将《ぎようしよう》達も一時は相当やられたらしい。一時は姉川から十町ばかりを退却したというから、信長の旗本も危険に瀕したに違いない。只家康の方が早くも朝倉勢に|勝色《かちいろ》を見せ初めたので家康の援軍として控えている稲葉一徹が、家康の方はもう大丈夫と見て、浅井勢の右翼に横槍を入れたのと、横山城のおさえに残しておいた|氏家《うじいえ》卜全と安藤伊賀とが浅井勢の左翼を攻撃した。こうした横槍によって、織田軍はやっと盛り返して浅井勢を破ったのだ。
戦後、信長、「美濃三人衆の横槍弱かりせば我が旗本粉骨をつくすべかりしが」と云って稲葉、氏家、安藤三人に感状、名馬、太刀等をやったところを見ると、戦いの様子が分ると思う。それに家康の方が先に朝倉に勝ったので、浅井の将士も不安になって、みだれ始めたのだろう。
徳川と織田とは、非常に離れて戦っているようであるが、最後には乱戦になったらしく、酒井忠次の払った|長刀《なぎなた》のほこ先が信長勢の池田勝三郎信輝の股に当った位だ。後年、人呼んで此の傷を左衛門|疵《きず》と云った。池田と酒井とは、前夜信長の前で、家康を先陣にするかしないかで議論をし合った仲なのだ。其の時酒井は、「兎角の評議は明日の鑓先にある」と云って別れて帰った。だから酒井の長刀が池田の股に当ったことは二人とも第一戦に立って奮戦していたわけで、双方とも前夜の言葉に|違《たが》わなかったわけで、「ゆゆしき振舞いかな」と人々感じあったと云う。
浅井勢の中に於て、其の壮烈、朝倉の真柄直隆に比すべきものは、遠藤喜右衛門尉だ。喜右衛門の事は前にも書いてあるが、喜右衛門は、単身信長に近づいて差違えるつもりであった。彼は首を|提《さ》げて血を以って|面《おもて》を|穢《けが》し髪を振り乱し、織田勢に紛れ込み、「御大将は|何処《いずこ》に|在《おわ》しますぞ」と探し廻って、信長のいるすぐ側迄来たところ、竹中半兵衛の長子久作|之《これ》を見とがめ、味方にしては|傍目《わきめ》多く使うとて、名乗りかけて引き組み、遂に遠藤の首をあげた。久作、かねて朋友に|今度《このたび》の戦、我れ必ず遠藤を討取るべしと豪語していた。友人が其の故を問うと、久作曰く、「我れ且て|江《ごう》州に遊んで常に遠藤と親しむ、故によくその容貌を知っている。遠藤戦いある毎に、必ず|魁《さきがけ》 |殿《しんがり》を志す、故に我必ず彼を討ち取るべし」と。果して其の言葉の通りであった。
喜右衛門は、信長と戦端を開く時には、浅井家長久の為めに極力反対したが、いざ戦うとなると、壮烈無比な死に方をしている。浅井家第一の忠臣と云ってもいいだろう。
浅井方の大将安養寺三郎左衛門は、織田と浅井家の同盟を|斡旋《あつせん》した男だ。長政を落さんとして奮戦中馬を鉄砲で射られて落馬したので、遂に|擒《いけど》りにせられて信長の前に引き据えられた。信長は安養寺には好意を持っていたとみえ「安養寺久しく」と云った。安養寺、言葉なく、「日頃のお馴染に|疾《と》く疾く首をはねられ候え」と云ったが、「汝は仔細ある者なれば先ず若者共のとりたる首を見せよ」と云った。つまり、名前の分らない首の鑑定人にされたわけだ。小姓織田|於直《おなお》の持ち来れる首、安養寺見て「これは私の弟甚八郎と申すものに候」と云った。また、小姓織田於菊の持ち来れる首「これは私の弟彦六と申すものにて候」と申す。信長、「さてさて|不憫《ふびん》の次第なり、汝の心底さぞや」と同情した。
竹中久作が取りたる首を見すれば、
「之れは紛れもなく喜右衛門尉にて候。喜右衛門尉一人|諌《いさ》めをも意見をも申して候。其の他には誰一人久政に一言申すもの候わず。浅井の柱石と頼みし者に候」と云った。
其の後信長、安養寺に、此の勢いに乗って小谷に押しよせ一気に攻め落さんと思えど如何と聞いた。安養寺笑って、「浅井がために死を急ぐ|某《それがし》に戦の進退を問わせ給う殿の御意こそ心得ぬが、答えぬのも臆したるに似ているから答えるが、久政に従って小谷に留守している|士《さむらい》が三千余人は居る。長政と共に退却した者も三千余人は候うべし。其の上兵糧、|玉薬《たまぐすり》は、年来貯えて乏しからず、半年や一年は持ちこらえ申すべし」と答えた。
この安養寺の答で、秀吉が小谷城進撃を進言したにも拘わらず、一先ず軍を返した。その後、浅井は尚三年の久しきを保つ事が出来た。或書に、此の時、秀吉の策を用い、直ちに小谷を攻撃したならば、小谷は一日も支える事が出来なかったのに、安養寺が舌頭に於て信長に疑惑の思いを起したのは、忠節比類無しと褒めてある。
信長は、安養寺が重ねて「首をはねよ」と云うをきかず自分に従えよとすすめたが聴かないので、「然らば立ち帰りて、浅井に忠節を尽せよ」とて、小谷へ帰した。|忍人《にんじん》信長としては大出来である。
浅井勢は総敗軍になって小谷城へ引上げたが、磯野丹波守は、木下秀吉、美濃三人衆等に囲まれて散々に戦い、手勢僅か五百騎に討ちなされながら、織田軍の中を|馳《か》け破って、居城、佐和山へ引上げた。稲葉一徹の兵、逐わんとしたが、斎藤|内蔵助《くらのすけ》、「磯野の今日のふるまいは、凡人に非ず、追うとも易く討ち取るべきに非ず」とて逐わしめなかった。
此の戦いは、元亀元年六月二十八日だから、未だ真夏と云ってもよい位だから、勝った信長の軍勢も、暑さで、へとへとに疲れていただろうし、すぐ手数のかかる攻囲戦に従う事は信長にしても考えたのだろう。元亀は三年で天正と改元した。朝倉が亡んだのは、天正元年の八月で、浅井が亡んだのは其の翌月の九月であった。その三年間浅井朝倉が聯合して江北に於ていくらか策動しているが、併し戦前の勢に比べると、もう見るかげもなくなっていた。
此の戦いに於て、男をあげたのは家康で、信長の為めに、粉骨の戦をなして、恩をきせると共に自分の地位を築いたわけである。徳川家に関係のある本には、姉川の勝利は神君の力であるというように書いてあるが、そういうひいき目をさし引いても、家康に取っては、正に出世戦争とも云うべきであろう。
姉川合戦の直後、信長が秀吉の策を用いて、すぐ小谷城を攻め落したならば、長政の妻のお市殿には、未だ長女のお茶々は生れていないだろう。結婚したのが、永禄十一年四月だから、生れていたかどうか、多分まだ腹の中にいたのである。すると落城のドサクサまぎれに、流産したかも知れないし、淀君など云うものは、生れて来なかったかも知れん。
つまり秀吉は、後年溺愛した淀君を抹殺すべく、小谷城攻略を進言したことになる。しかし、淀君が居なかったら、豊臣家の|社稷《しやしよく》はもっとつづいたかも知れない。そんな事を考えると、歴史上の事件にはあらゆる因子のつながりがあるわけだ。
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|陶晴賢《すえはるかた》が主君大内義隆を殺した遠因は、義隆が|相良《さがら》|遠江《とおとうみの》|守《かみ》 |武任《たけとう》を
|寵遇《ちようぐう》したからである。相良は筑前の人間で義隆に仕えたが、才智人に越え、其の信任、大内譜代の老臣陶、杉、内藤等に越えたので、陶は不快に感じて遂に義隆に反して、天文十九年義隆を殺したのだ。
此の事変の時の毛利元就の態度は|頗《すこぶ》る曖昧であった。陶の方からも義隆の方からも元就のところへ援助を求めて来ている。元就は其の子隆元、元春、隆景などを集めて相談したが、其の時家臣の熊谷伊豆守の、「兎に角今度の戦は陶が勝つのに相違ないから、兎に角陶の方へ味方をしておいて、後、時節を|窺《うかが》って陶を滅した方がよい」という意見が通って、陶に味方をしているのである。
|厳島《いつくしま》合戦は、毛利元就が主君の為めに、陶晴賢を|誅《ちゆう》した事になっているが、秀吉の山崎合戦のように大義名分的なものではないのである。兎に角元就は、一度は陶に味方をしてその悪業を|見遁《みのが》しているのである。
|尤《もつと》も元就は、大内義隆の被官ではあるが必ずしも家来ではない。だから晴賢討伐の勅命まで受けているが、それも政略的な意味で、必ずしも主君の|仇《あだ》に報ゆるという素志に、燃えていたわけではないのである。
只晴賢と戦争するについて、主君の為に晴賢の無道を討つという看板を掲げ、名分を正したに過ぎない。尤も勅命を受けたことも、正史にはない。
毛利が陶と不和になった原因は、|寧《むし》ろ他にあるようだ。晴賢が、義隆を殺した以後二三年間は無事に交際していたのだが、元就が攻略した尼子方の備後国江田の|旗返《はたがえし》城を陶が毛利に預けないで、江良丹後守に預けた。これ等が元就が陶に不快を感じた原因である。
そして機を見るに敏なる元就は、陶が石州の吉見正頼を攻めに行った機に乗じて、安芸の桜尾、銀山等の城を落してしまった。
その上、吉見正頼の三本松の城へ加勢を遣した。この加勢の大将は城より出で、陶方に対して高声に言うには、「毛利|右馬頭《うまのかみ》元就、正頼と一味し、当城へも加勢を入れ候。加勢の大将は|某《それがし》なり、元就自身は、芸州神領|表《おもて》へ討出で、桜尾、銀山の古城を|尽《ことごと》く攻落して、やがて山口へ攻入るべきの状、御用心これあるべし」と叫んだ。
陶はさぞ|吃驚《びつくり》しただろう。芸州神領表というのは、その辺一帯厳島の神領であったのである。
兎に角元就は、雄志大略の武将であった。幼年時代厳島に|詣《もう》で、家臣が「君を中国の主になさしめ給え」と祈ったというのを笑って「|何故《なぜ》、日本の主にならせ給えとは祈らぬぞ」と云った程の男だから、主君の仇を討つということなどよりも、陶を滅して、我取って代らんという雄志大略の方が強かったのである。
北条早雲が、横合からとび出して行って、茶々丸を殺して伊豆をとったやり方などよりは、よっぽど、理窟があるが、結局陶晴賢との勢力戦であったのであろう。
元来元就は、戦国時代の屈指の名将である。徳川家康と北条早雲とを一緒につきまぜて、二つに割った様な大将である。寛厚慈悲家康に過ぐるものがある。其の謀略を用いる点に於ては家康よりはずっと|辛辣《しんらつ》である。厳島合戦の時、|恰度《ちようど》五十二歳の分別盛りである。長子隆元三十二歳、次子|吉川《きつかわ》元春二十三歳、三子隆景二十二歳。吉川元春は、|時人《じじん》梅雪と称した。
熊谷伊豆守の娘が醜婦で、誰も結婚する人が無いと聞き、其の父の武勇にめでて、「其の娘の為めにさぞや歎くらん。我婚を求むれば、熊谷、毛利の為めに粉骨の勇を励むらん」と言って結婚した男である。
乃木将軍式スパルタ式の猛将である。三男の隆景は時の人これを楊柳とよんで容姿端麗な武士であった。其の才略抜群で|後《のち》秀吉が天下経営の相談相手となり、秀吉から「日本の蓋でも勤まる」と言われたが、而も武勇抜群で、朝鮮の|役《えき》には|碧蹄館《へきていかん》に於て、十万の|明《みん》軍を相手に、決戦した勇将である。だから元就は「子までよく生みたる果報めでたき大将である」と言われた。
だが此時毛利は芸州吉田を領し、其所領は、芸州半国にも足らず、其の軍勢は三千五、六百の小勢であった。これに対して、陶晴賢は、防、長、豊、筑四州より集めた二万余の大軍である。
だから|平場《ひらば》の戦いでは、毛利は到底、陶の敵ではない。そこで元就が考えたのは、厳島に築城する事だ。
元就は、厳島に築城して、ここが毛利にとって大切な場所であるように見せかけ、ここへ陶の大軍を|誘《おび》き寄せて、狭隘の地に於て、無二の一戦を試みようとしたのである。
元就が厳島へ築城を初めると、元就の隠謀を知らない家臣はみんな反対した。「あんな所へ城を築いて|若《も》しこれが陶に取られると、安芸はその胴腹に|匕首《ひしゆ》を擬せられるようなものである」と。
元就はそういう家臣の反対を押切って、今の要害|鼻《はな》に城を築いた。現在連絡船で厳島へ渡ると、その船着場の後の小高い山がこの城址である。城は弘治元年六月頃に完成した。
すると元就は家来達に対して、「お前達の|諌《いさめ》を聞かないで厳島に城を築いて見たが、よく考えてみると、ひどい失策をしたもんだ。敵に取られる為に城を築いたようなもんだ。あすこを取られては味方の一大事である」と言った。
戦国の世は、日本同士の戦争であるから、スパイは、敵にも味方にも沢山入り混っていたわけだから、元就のこういう後悔はすぐ敵方へ知れるわけである。其上、其の頃一人の座頭が、吉田の城下へ来ていた。『平家』などを語って、いつか元就の城へも出入している。元就は、之を敵の間者と知って、わざと|膝下《ひざもと》へ近づけていた。ある日、元就、老臣共を集め座頭の聞くか聞かないか分らぬ位の所で、わざと小声で軍議を|廻《めぐ》らし、「厳島の城を攻められては味方の難儀であるが、敵方の岩国の城主、弘中三河守は、こちらへ内通しているから、陶の大軍が厳島へ向わぬよう取計らってくれるであろう」と|囁《ささや》いていた。
座頭は鬼の首でもとったように、此事を陶方へ注進したのは勿論である。
弘治元年九月陶晴賢(隆房と云ったが、後晴賢と改む)二万七千余騎を引率し、山口をうち立ち、岩国永興寺に陣し、|戦《いくさ》評定をする。晴賢は飽く迄スパイの言を信じ、厳島へ渡って、宮尾城を|攻滅《せめほろぼ》し、そして毛利の死命を制せんという考である。
岩国の城主弘中三河守|隆兼《たかかね》は、陶方第一の名将である。元就の策略を看破して諌めて、「元就が厳島に城を築いている事を後悔しているのならば、それを口にして言うわけはない。元就の真意は、厳島へ我が大軍をひきつけ、安否の合戦して雌雄を決せんとの|謀《たくらみ》なるべし。厳島渡海を止め、草津、二十日市を攻落し、吉田へ押寄せなば元就を打滅さんこと、時日を廻らすべからず」と言った。
だが頭のいい元就は、弘中三河守の|諫言《かんげん》を封じる為に、座頭を使って、陶に一服盛ってあるのだから叶わない。晴賢は三河守の良策を蹴って、大軍を率いて七百余艘の軍船で厳島へ渡ってしまった。三河守も是非なく、陶から二日遅れて、厳島へ渡った。信長は桶狭間という狭隘の土地で今川義元を短兵急に襲って、首級をあげたが、併しそのやり方はいくらか、やまかんで|僥倖《ぎようこう》だ。それに比べると、元就は、計りに計って敵を死地に誘き寄せている。同じ出世戦争でも、其の内容は、比べものにならないと思う。
厳島の宮尾城は、|遂《つい》此の頃陶に|叛《そむ》いて、元就に降参した|己斐《こひ》豊後守、|新里《にいざと》宮内|少輔《しようゆう》二人を大将にして守らせていた。陶から考えれば、肉をくらっても飽足らない連中である。
而も此の二人に陶を馬鹿にするような手紙を書かしているのである。つまり此の二人を|囮《おとり》に使い、その囮を鳴かしているようなわけである。厳島に渡った陶晴賢は、厳島神社の東方、塔の岡に陣した。柵を結んで陣を堅め、|唐菱《からびし》の旗を翻し、宮尾城を眼下に見下しているわけである。
陶が島に渡ったと聞くと、元就は、要害鼻の対岸、|地御前《じごぜん》の|火立岩《ひたていわ》に陣を進めた。ここは厳島とは目と鼻の地で、海をへだててはいるが、呼ばば答えん程に近い。だが敵は二万数千余、兵船は海岸一帯を警備して、容易に毛利軍の渡海を許さない。而も毛利の兵船は僅か数十艘に過ぎない。だから元就はかねてから、伊予の村上、|来島《くるしま》、|能島《のじま》等の水軍の援助を頼んでおいた。
この連中は|所謂《いわゆる》海賊衆で、当時の海軍である。
元就はこの連中に兵船を借りるとき、たった一日でいいから船を貸してくれと言った。所詮は戦に勝てば船は不用であるからと言った。水軍の連中思い切ったる元就の言分かな、所詮戦は毛利の勝なるべしと言って二百余艘の軍船が毛利方へ|漕《こ》ぎ寄せた。
陶の方からも勿論来援を希望してあったので、この二百艘の船が厳島へ漕ぎ寄するかと見る間に、二十日市(毛利方の水軍の根拠地)の沖へ寄せたので、毛利方は喜び、陶方は失望した。
|宛《あたか》もよし、九月|晦日《みそか》は、|俄《にわ》かに暴風雨が起って、風波が高く、湖のような宮島瀬戸も白浪が立騒いだ。
此の夜は|流石《さすが》の敵も、油断をするだろうから、襲撃の機会到れりというので、元就は長男隆元、吉川元春など精鋭をすぐって、毛利家の兵船に分乗し、島の東北岸|鼓《つづみ》の浦へ廻航した。其の時の軍令の一端は次の如しだ。
一、差物の儀無益にて候。
一、侍は縄しめ|襷《だすき》、足軽は常の縄襷|仕《つかまつ》るべく候事。
一、|惣人数《そうにんず》共に常に|申聞《もうしきけ》候、|白布《しろぎれ》にて鉢捲仕るべく候。
一、朝食、焼飯にて仕り候て、梅干相添|申《もうし》、先づ梅干を先へ|給《きゆうし》候て、後に焼飯給申すべく候
一、山坂にて候条、水入腰に付申候事。
一、一切高声仕り候者これあらば、きつと|成敗《せいばい》仕るべく候。
一、合言葉、|勝つか《ヽヽヽ》とかけるべく候、|勝々《ヽヽ》と答へ申す可く候。
とても縁起のよい合言葉である。勝つかと言えば勝々と答えるわけである。水軍へ対する軍令の一条に、
一、一夜陣の儀に候条、|乗衆《のりしゆう》の |兵糧《ひようろう》つみ申すまじく候事。
とある。この厳島合戦は、元就の一夜陣として有名である。が、一夜の|中《うち》に毛利一家の興廃を賭けたわけであるが、併し元就の心中には勝利に対する信念の|勃々《ぼつぼつ》たるものがあったのではないかと思われる。
元就は鼓の浦へ着く前、今迄船中に伴って来た例の間者の座頭を捕え、「陶への内通大儀なり、汝が蔭にて入道の|頭《こうべ》を見ること一日の中にあり、先へ行きて入道を待て」と云って、海に投じて血祭にした。鼓の浦へ着くと、元就「この浦は鼓の浦、上の山は|博奕尾《ばくちお》か、さては戦には勝ったぞ」と言った。隆元、元春、御意の通りだと言う。つまり鼓も博奕も共に|打つ《ヽヽ》ものであるから、敵を討つということに縁起をかついだものである。博奕尾は、塔の岡から数町の所で、その博奕尾から進めば、塔の岡の背面に進めるわけである。
小早川隆景の当夜の行動には二説ある。隆景は之より先、漁船に身を隠して、宮尾城の急を救う為、宮尾城へ入ったと書いてあるが、これは恐らく俗説で、当夜熊谷信直の部下を従え、厳島神社の大鳥居の方面から敵の兵船の間を乗り入れて、敵が咎めると、「お味方に参った九州の兵だ」と言って易々と上陸し、塔の岡の坂下に陣して、本軍の|鬨《とき》の声のあがるのを待っていた。
即ち毛利の第一軍は、地御前より厳島を迂廻し、東北岸鼓の浦に上陸し、博奕尾の険を越え、塔の岡の陶本陣の背面を攻撃し、第二軍は、宮尾城の城兵と協力し、元就軍の本軍が鬨の声を発するを機とし、正面より陶の本陣を攻撃するもので、小早川隆景これを率いた。
第三軍は、村上、来島等の海軍を以て組織し、厳島の対岸を警備し、場合に|依《よつ》ては、陶の水軍と合戦を試みんとするものだ。
元就が鼓の浦へ上陸しようとする時、雨が|頻《しき》りに降ったので、輸送指揮官の児玉|就忠《なりただ》が、元就に唐傘をさしかけようとしたので、元就は拳を以て之を払除けた。
陶の方は、塔の岡を本陣としたが、諸軍勢は、厳島の神社附近の地に散在し、其の間に何等の統制が無かったらしい。之より先弘中三河守は陶に早く宮尾城を攻略すべき事を進言したけれども、陶用いず、城攻めは、十月|朔日《ついたち》に|定《き》まっていた。その朔日の早暁に、元就が殺到したわけである。
元就は鼓の浦へ着くと、乗っていた兵船を尽く二十日市へ漕ぎ帰らしめた。正に生還を期せぬ背水の陣である。吉川元春は先陣となって、えいえい声を掛けて坂を上るに、其声|自《おのずか》ら鬨の声になって、陶の本陣塔の岡へ殺到した。
陶方も毛利軍の夜襲と知って、諸方より本陣へ馳せ集って防戦に努めたが、俄かに馳せ集った大軍であるから、配備は滅茶苦茶で、兵は多く土地は狭く、駈引自由ならざるところに、元就の諸将、|揉《も》みに揉んで攻めつけたから、陶軍早くも浮足たった。
かねて打合せてあった小早川隆景の軍隊は、本軍の鬨の声を聞くと、これも亦|大喊声《だいかんせい》をあげて前面から攻撃した。大和伊豆、三浦越中、弘中三河守等の勇将は、敵は少し、恐るるに足らず、返せ返せと叫んで奮戦したが、一度浮足たった大軍は、どっと崩れるままに、我先に船に乗らんと海岸を目指して逃出した。晴賢は、自身采配を以て身を揉んで下知したが、一度崩れ立った大軍は、|如何《いかん》ともし難く、|瞬《またた》く中に塔の岡の本陣は、毛利軍に|蹂躙《じゆうりん》されてしまった。
敗兵が船に乗ったので、陶の水軍が、俄かに|狼狽《あわ》て出したところを、毛利の第三軍たる村上、来島等の水軍が攻めかかったので、陶の水軍は|忽《たちま》ち撃破されて、多くの兵船は、防州の矢代島を目指して逃げてしまった。
塔の岡の本陣を攻落された陶軍は、厳島神社の背面を西へ西へと逃走した。勇将弘中三河守は同|中務《なかつかさ》と共に主君晴賢の退却を援護せんが為に、厳島神社の西方、滝小路(現在の滝町)を後に当て、五百騎ばかりにて吉川元春の追撃を迎え撃った。弘中父子必死に防戦したから、流石の吉川勢も斬立てられ、十四、五間ばかり退却した。元春自身槍をとって、奮戦していると、弘中軍の武将|青景《あおかげ》波多野等、滝町の横町、柳小路から吉川勢を横撃した。
此の時吉川勢殆んど危かったのを、熊谷伊豆守信直等|馳合《はせあわ》せて、其の急を救ったので、弘中|衆寡《しゆうか》敵せず、滝小路の民家に火を放って、|弥山道《みせんどう》の|大聖院《たいしよういん》に引あげた。吉川勢は、其の火が厳島神社にうつる事を恐れて、消火に努めている間に、晴賢は勇将三浦等に守られて、|大元浦《おおもとのうら》に落ちのびた。大元浦は、厳島神社から西北二、三町のところである。そこへ吉川勢に代った小早川隆景が精鋭を率いて追撃して来た。
陶が|此処《ここ》にて討死しようとするのを三浦諌め、「一先ず山口ヘ引とり重ねて勢を催され候え。越中|殿《しんがり》して討死つかまつらん」と晴賢を落し、|斯《か》くて、三浦越中守、|羽仁《はに》越中守、同将監、大和伊豆守等骨を砕いて戦った。三浦は、隆景を討たんとし、隆景の郎党、草井、山県、南、井上等又隆景を救わんとして、尽く枕を並べて討死をした。殊に草井は、三浦に突伏せられながら、尚三浦の足にからみついたので、三浦、首を斬って捨てた。
三浦の奮戦察すべきである。
隆景の苦戦を知って、元春の軍、後援の為馳付けた。
三浦は随兵|悉《ことごと》く討死し、只一人になって、山道に休んでいるところへ、二宮|杢之介《もくのすけ》馳付けると、三浦偽って「味方で候ぞ」という。味方での|で《ヽ》の字の発音山口の音なるに依って、二宮敵なるを知って、合じるしを示さんことを迫る。三浦立上って奮戦したが、遠矢に射すくめられ二宮の為に討たれた。
大和伊豆守は、毛利方の香川光景と戦う。香川は大和と知合いの間柄だった。大和は、文武の達者で、和歌の名人であったから、元就かねて|生擒《いけどり》にしまほしきと言っていたのを光景思出し、大和守に其意を伝えて、之を生擒にした。
陶入道は、尚西方に遁れたが、味方の兵船は影だになく、遂に大江浦にて小川伝いに山中に入り、其辺りにて自害したと言われている。
伊加賀民部、山崎|勘解由《かげゆ》等これに殉じた。晴賢の辞世は、
なにを惜しみなにをうらみむもとよりも
此の有様の定まれる身に
この時同じく殉死した|垣並《かきなみ》佐渡守の辞世は、
莫論勝敗跡
(しょうはいのあとをろんずるなかれ)
人我暫時情
(ひとわれざんじのじょう)
一物不生地
(いちぶつふしょうのち)
山寒海水清
(やまさむくかいすいきよし)
家臣は、晴賢の首を紫の袖に包み、谷の奥に隠しておいたが、晴賢の草履取り乙若というのがつかまった為、其|在所《ありか》が分った。
弘中三河守は、大聖院へひき上げたが、大元方面へ退いた味方の軍の形勢を見て、折あらば敵を横撃せんと、機会を|覘《ねら》っていたが、大元竜ヶ馬場方面も|脆《もろ》く敗退した為、大元と大聖院との間の竜ヶ馬場と称する山上へ登り、此処を最後の戦場として父子主従たった三人になる迄吉川軍と決戦して遂に倒れてしまった。
此の人こそ、厳島合戦に於ける悲劇的英雄である。
これで厳島合戦も毛利軍の大勝に帰したわけであるが、晴賢自殺の場所については、厳島の南岸の|青海苔浦《あおのりのうら》(青法ともかく)という説もあるが、晴賢は肥満していて歩行に困難であったと言うから、中央の山脈を越して南岸に出るわけは無いのである。
元就は合戦がすむと、古来此の島には、決して死人を埋葬しないことになっているので、戦死者の死骸は尽く対岸の大野に送らせ、潮水で社殿を洗い、元就は三子を伴って斎戒して、社前に詣で、此の大勝を得たことを奉謝している。
元就は斯くて十月五日に二十日市の桜尾城に於て|凱旋式《がいせんしき》を挙行しているが、彼は敵将晴賢の首級に対してもこれを白布にて|掩《おお》い、首実検の時も、僅かに其白布の右端を取っただけで、敵将をみだりに恥かしめぬだけの雅量を示している。其の後首級は、二十日市の東北にある洞雲寺という禅寺に葬らせた。
厳島合戦は戦国時代の多くの戦争の中で圧倒的な大勝であるが、其間に僥倖の部分は非常に少く、元就の善謀と|麾下《きか》の団結と、武力との当然の成果と云って|宜《よ》い位である。元就は分別盛りであるし、元春、隆景は働き盛りである。晴賢はうまうまとひっかけられて猛撃を喰い、|忽《たちま》ちノックダウンされたのも仕方がなかったと言うべきである。陶軍から言わしたら垣並の辞世にある通り、勝敗の跡を論ずる莫れであったに違いない。
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川中島に於ける上杉謙信、武田信玄の一騎討は、誰もよく知って居るところであるが、其合戦の模様については、知る人は|甚《はなは》だ少い。琵琶歌|等《など》でも「天文二十三年秋の半ばの頃とかや」と歌ってあるが、之は間違いである。
甲越二将が、手切れとなったのは、天文二十二年で、爾来二十六年間の交戦状態に於て、川中島に於ける交戦は数回あったが、其の|主《おも》なるものは、弘治元年七月十九日|犀川《さいがわ》河畔の戦闘と永禄四年九月十日の川中島合戦との二回だけである。他は云うに足りない。此の九月十日の合戦こそ甲越戦記のクライマックスで、謙信が|小豆《あずき》長光の銘刀をふりかぶって、信玄にきりつくること九回にわたったと言われている。
武田信玄も、上杉謙信も、その軍隊の編制に於て、統率に於て、団体戦法に於て、用兵に於て、戦国の群雄をはるかに|凌駕《りようが》して居り、つまり我国に於ける戦術の開祖と云うべきものである。
その二人が、川中島に於て、竜虎の大激戦をやったのであるから、戦国時代に於ける大小幾多の合戦中での精華と云ってもよいのである。
武田の家は、源義家の弟|新羅《しんら》三郎義光の後で、第十六代信虎の子が信玄である。幼名勝千代、天文五年十六歳で将軍足利義晴より|諱字《いみな》を賜り、晴信と称した。この年父信虎信州佐久の|海《うん》ノ口城の平賀源心を攻めたが抜けず、|囲《かこい》を解いて帰るとき、信玄わずか三百騎にて取って返し、ホッと一息ついている敵の油断に乗じて城を陥れ、城将源心を討った。しかも父信虎少しも之を賞さなかったと云う。その頃から、父子の間不和で、後天文十年父信虎を、姉婿なる今川義元の駿河に退隠せしめて、甲斐一国の領主となる。時に年二十一歳。
若い時は、文学青年で詩文ばかり作っていたので、板垣信形に諌められた位である。だから、武将中最も教養あり、その詩に、
簷外風光分外新
(えんがいのふうこうぶんがいあらたなり)
捲簾山色悩吟身
(すだれをまけばさんしょくぎんしんをなやます)
孱願亦有娥眉趣
(せんがんまたがびのおもむきあり)
一笑靄然如美人
(いっしょうあいぜんびじんのごとし)
歌に、
さみだれに庭のやり水瀬を深み
|浅茅《あさじ》がすゑは波よするなり
立ち並ぶかひこそなけれ|桜花《さくらばな》
松に|千歳《ちとせ》の色はならはで
詩の巧拙は自分には分らないが、歌は武将としては上乗の部であろう。
又|経書《けいしよ》兵書に通じ、『孫子』を愛読して、その軍旗に『孫子』軍争編の妙語「疾如風 徐如林 侵略如火 不動如山」(はやきことかぜのごとく しずかなることはやしのごとし しんりゃくすることひのごとく うごかざることやまのごとし)を二行に書かせて、川中島戦役後は、大将旗として|牙営《がえい》に翻していた。その外、諏訪明神を信仰し、「諏訪|南宮《なんぐう》上下大明神」と一行に大書した旗も用いていた。
上杉謙信は、元、長尾氏で平氏である。元来相州長尾の荘に居たので、長尾氏と称した。先祖が、関東から上杉氏に随従して越後に来り、その重臣となり、上杉氏衰うるに及んで勢力を得、謙信の父|為景《ためかげ》に及んで国内を圧した。為景死し、兄晴景継いだが、病弱で国内の群雄すら圧服することが出来ないので、弟謙信わずかに十四歳にして戦陣に出で、十九歳にして長尾家を相続し、春日山城に|拠《よ》り国内を鎮定し、威名を振った。
しかし、謙信が上杉氏と称したのは、越後の上杉氏の嗣となったのではなくして、関東管領山ノ内上杉家を継いだのである。即ち三十二歳の時、山ノ内|憲政《のりまさ》から頼まれて、関東管領職を譲られ、上杉氏と称したのである。
その責任上、永禄三年兵を関東平野に進め、関東の諸大名を威服し、永禄四年に北条|氏康《うじやす》を小田原城に囲んで、その城濠|蓮池《はすいけ》のほとりで、馬から降り、城兵が鉄砲で|狙《ねら》い打つにも拘らず、悠々閑々として|牀几《しようぎ》に腰かけ、お茶を三杯まで飲んだ。
謙信も亦、信玄に劣らぬ文武兼備の大将で、文芸の趣味ふかく、詩にはおなじみの、
霜満軍営秋気清
(しもはぐんえいにみちてしゅうききよし)
数行過雁月三更
(すうこうのかがんつきさんこう)
越山併得能州景
(えつざんあわせえたりのうしゅうのけい)
遮莫家郷憶遠征
(さもあらばあれかきょうえんせいをおもう)
の詩があり、歌には、
ものゝふのよろひの袖を片しきし
枕にちかき|初雁《はつかり》の声
などある。現代の政治家や実業家の歌などよりは、はるかにうまい。
また兵学に精通し、敬神家で、槍は一代に冠絶し、|春日《かすが》の名槍を自在に繰り、剣をよくして、備前|長船《おさふね》小豆長光二尺四寸五分の大刀を打ち振うのであるから、真に好個の武将である。
信玄が重厚精強であれば、謙信は尖鋭果断のかんしゃく持である。
太田|資正《かずまさ》謙信を評して、「謙信公のお人となりを見申すに十にして八つは大賢人、その二つは大悪人ならん。怒りに乗じて為したまうこと、多くは|僻事《ひがごと》なり。これその|悪《あ》しき所なり。勇猛にして無欲清浄にして器量大、廉直にして隠すところなく、明敏にして能く察し、慈恵にして|下《しも》を育す、好みて|忠諌《ちゆうかん》を容るる等、その善き所なり」と云った。
謙信は、川中島の一騎討などから考えるとどんな偉丈夫かと思われるが、「輝虎、|体《たい》短小にして|左脛《ひだりすね》に|気腫《きしゆ》あり、|攣筋《れんきん》なり」と云うから、小男で少しびっこと云うわけであるから、その烈々たる気魄が、短躯に溢れて、人を威圧した有様が想像される。
永禄四年川中島合戦には、謙信は上杉憲政から、一字を貰って、政虎と云っていたのである。その翌年将軍義輝から、一字貰って、輝虎と改めたのである。入道して、謙信と云ったのは、もっと前である。
謙信|曾《か》つて曰く、「信玄は常に後途の勝を考え七里進むところは五里進み六分の勝をこよなき勝として七八分にはせざるよし。されど我は後途の勝を考えず、ただ弓矢の正しきによって戦うばかりぞ」と云っている。これに依って、この二将の弓矢の取り方が分ると思う。
元来、信濃には五人の豪族が割拠していた。次ぎの通りだ。
(1)平賀源心(佐久郡。平賀城)
(2)諏訪頼茂(諏訪郡。上原城)
(3)小笠原長時(筑摩、|安曇《あずみ》郡、|深志《ふかし》城〈松本〉)
(4)木曾義康(木曾谷、福島城〈福島〉)
(5)村上義清(|小県《ちいさがた》、|埴科《はにしな》、更科、|水内《みちの》、高井諸郡、|葛尾《くずお》城)
信玄は、天文九年から、天文十七年にかけて、これらの諸豪を順次に攻めて、これを滅し、その|中《うち》最も強大なる村上義清を駆逐して、遂に謙信にその窮状を訴えしむるに至った。
川中島合戦は、村上義清を救うための義戦と云われている。しかし北信にまで武田の手が延びた以上、越後何ぞ安からんである。信濃から春日山城までは、わずか十数里である。常に武田の脅威を受けていては、謙信上洛の志も関東経営の雄志も、伸すに由ないのである。今北信の諸豪が泣きついて来たのこそ、又とない機会である。義戦を|説《とな》えて、武田を|庸懲《ようちよう》すべき時が到来したのである。
されば、川中島出陣に際して、越後岩船の|色部《しきぶ》勝長に送った書状にも、
「(前略)雪中御大儀たるべしと雖も、夜を以って日に継ぎ、御着陣|待入《まちいり》候。信州味方中滅亡の上は、当国の|備《そなえ》安からず候条」
と云っている。義戦であると共に、自衛戦でもあった。
信玄も亦、上洛の志がある。それには、後顧の憂を断つために、謙信に大打撃を与うることが、肝要である。されば、北条氏康、今川義元と婚を通じ、南方の憂を絶ち、|専《もつぱ》ら北方経営に当らんとした。
そして、謙信が長駆小田原を囲んだとき、信玄は信濃に入って、策動したのである。
謙信は、永禄四年春小田原攻囲中、信玄動くと聴き、今度こそは信玄と有無の一戦すべしとして、越後に馳せ帰ったのである。二年越の関東滞陣で兵馬が疲れているにも拘らず、直ちに|陣触《じんぶれ》に及び、姉婿長尾|政景《まさかげ》に一万の兵を托して、春日山城を守らしめ、自分は一万三千の兵を率いて、一は北国街道から大田切、小田切の嶮を越えて善光寺に出で、一は間道倉富峠から飯山に出た。
「|今度《このたび》信州の御働きは先年に超越し、御遺恨益々深かりければこの一戦に国家の安否をつけるべきなり云々」とあるから、謙信が覚悟のほども察すべきである。
時正に秋も|半《なかば》、軍旅の好期である。飯山に出でた謙信は、善光寺にも|止《とどま》らず、大胆不敵にも敵の堅城たる海津城の後方をグルリと廻り、海津城の西方十八町にある妻女山(西条山ともかく)に向った。北国街道の一軍は、善光寺近くの旭山城に一部隊を残し、善光寺から川中島を南進し、海津城の前面を悠々通って妻女山に到着した。
甲の名将|高坂《こうさか》弾正昌信の守る堅城の前後を会釈もなく通って、敵地深く侵入して妻女山に占拠したわけである。正に大胆不敵の振舞で敵も味方も驚いた。しかし妻女山たる、巧みに海津城の防禦正面を避け、その側背を脅かしている好位置で、戦術上地形判断の妙を極めたものであるらしい。凡将ならば千曲川の左岸に陣取って、海津城にかかって行ったに違いないのである。
『越後軍紀』に「信玄西条山へ寄せて来て攻むるときは、彼が陣形常々の|守《まもり》を失ふべし、その時無二の一戦を遂げて勝負すべし」とある。
八月十六日妻女山に着いた謙信は、日頃尊信する|毘沙門天《びしやもんてん》の毘の一字を書いた旗と竜の一字をかいた旗とを秋風に翻して、海津の高坂昌信を威圧したわけである。竜字の旗は突撃に用いられ「みだれ懸りの竜の旗」と云われた。
海津城の高坂昌信は、|狼烟《のろし》に依って急を甲府に伝え、別に騎馬の使を立てて、馬を替えつつ急報した。自らは、城濠を深くして、死守の決心をなした。
|予《かね》て、かくあるべしと待ちかねていた信玄は、その報をきくと南信の諸将に軍勢を催促しつつ、十八日に甲府を立ち、二十二日には上田に到着している。その兵を用うる正に「疾きこと風の如し」である。
そして、上田に於て、軍議をこらして、川中島に兵を進めるや、これまた謙信に劣らざる大胆さで、謙信の陣所たる妻女山の西方を素通りして、その西北方の茶臼山に陣した。
謙信が、海津城を尻目にかけ、わざと敵中深く入ると、信玄はまたそれを尻目にかけて、敵の退路を断ってしまったわけである。
実に痛快極まる両将の応酬ぶりである。
かくて、謙信は、自ら好んで|嚢《ふくろ》の鼠となったようなものである。信玄大いに喜び、斥候を放って、妻女山の陣営を窺わせると、|小鼓《こつづみ》を打って謡曲『八島』を謡っている。信玄案に相違して、諸方に斥候を放つと、旭山城に謙信の伏兵あるを知り、茶臼山の陣を撤して海津城に入った。自分の方が、妻女山と旭山城との敵軍に挟撃される事を心配したのかも知れない。
かくて、信玄は海津城に謙信は妻女山に相対峙すること十余日に及んで、いつか九月九日|重陽《ちようよう》の節句になった。
謙信は悠々として、帰国する容子はない。と云って海津城から、直接攻勢に出づることは不利である。
節句の祝を終って、信玄諸将と軍議を開いた。
宿将|飯富《おぶ》兵部等、「先年以来未だ一度も手詰の御合戦なし。|此度《このたび》是非とも、御一戦しかるべし」と云う。信玄、攻撃に転ずるに決し、山本勘助、馬場民部に命じて、攻撃計画を立てさせた。
山本等の作戦計画は、次ぎの通りである。
「二万の御人数の|裡《うち》、一万二千を以て、西条村の奥森の|平《たいら》を越え|倉科《くらしな》村へかかって、妻女山に攻めかかり、明朝卯の刻に合戦を始める。謙信は勝っても負けても必ず川を越えて、川中島に出でるであろう。その時信玄旗本八千を以って途中に待ち受け、前後より攻撃すれば、味方の勝利疑いなし」
と云うのである。
信玄、高坂弾正、飯富兵部、馬場民部、真田幸隆等に一万二千を率いしめて、妻女山の背面を襲わしめ、謙信が巣から飛び出す処を打とうと云うのである。古人、之を「|啄木鳥《きつつき》の戦法」と云った。即ち啄木鳥が、木中の虫を捕えるとき、穴と反対の側をコツコツと啄き、虫をおどろかして穴から出たところを喰べようと云うのである。その上、重陽の節句を利用して、敵の油断に乗じたのである。
しかし、啄木鳥に穴の底を叩かれて、ノコノコ這い出すような謙信ではなかった。
八月十六日以来、謙信は只々山上を|逍遙《しようよう》して古詩を咏じ琵琶を弾じ自ら小鼓をうって近習に謡わせるなど余裕|綽々《しやくしやく》であった。直江大和守等これを不安に思い、「敵は川中島に陣取り、我が糧道を絶ちたるため、我が軍の糧食は今後|将《まさ》に十日にして尽きん。|速《すみやか》に春日山の留守隊に来援を命じ甲軍の背後を|衝《つ》かしめられては|如何《いかん》」と進言したが、謙信は「十日の糧食があれば充分だ」と云って聴かず、大和守は「もし晴信海津の城兵を以て我を牽制し彼自ら越後に入らば策の施すべきなし」といえば、謙信笑って「春日山は厳重にしてあるから不安はない。晴信もし越後に入らば我|亦《また》甲府をつかんのみ」と言ってすましていた。九月九日謙信は重陽の佳節を祝した後、夕方例の如く古詩を誦しつつ高地を漫歩しつつ遙に海津城をのぞめば炊煙異常に立ちのぼっている。謙信は忽ち甲軍の出動を予感した。「しのびの兵」(|透波《スツパ》間諜)のもち|来《きた》る情報も入ったので、甲軍が隊を二分し、一は妻女山の背後に廻り、一は川中島に|邀撃《ようげき》の計画であることが分ったので、我先ず先んじて出で奇襲を試みようと決心した。謙信の得意思うべしである。このことを期しての二十四日の辛抱であったのだ。穴中の虫は、啄木鳥の叩くを待たず自ら躍り出でて信玄を襲わんと云うのである。この時の越軍の軍隊区分は次の如くで、やがて行動を開始した。時に午後六時である。
先鋒 柿崎和泉守
中軍(旗本)色部修理進
竹俣三河守
村上 義清
島津 規久
右備 |新発田《しばた》尾張守
山吉孫次郎
加地彦次郎
左備 本庄越前守
安田治部少輔
長尾遠江守
後備 中条越前守
古志駿河守
後押 甘粕近江守
小荷駄(|輜重《しちよう》)直江大和守
さて一般士卒には、
一、明十日御帰陣の旨|仰出《おおせいだ》さる。尤も日短き故|夜更《よふ》けに御立あるやも知れず
二、静粛に行進して途中敵兵之を|遮《さえぎ》らば切りやぶって善光寺へ向うと心得べし
と伝えられた。
九日の月の西山に没するや(十一時頃か)、上杉軍は静に行動を起した。兵は物言わず馬は舌を縛して|嘶《いなな》くを得ざらしめた。全軍粛々妻女山をくだり其状長蛇の山を出づるが如くして|狗《いぬ》ヶ瀬をわたった。時正に深更夜色沈々只鳴るものは鎧の草摺のかすかな音のみである。只、甘粕近江守は妻女山の北赤坂山に止り、後押として敵を警戒しつつ、十二ヶ瀬を渡って小森附近に止った。一方妻女山には陣中の|篝火《かがりび》は平常通りにやかれつづけ、紙の擬旗が夜空に、無数にひるがえっていた。
かくて十日の午前二時半頃越軍は犀川の南方に東面して陣取り、剛勇無比の柿崎和泉守を先陣に大将謙信は毘字旗と日の丸の旗を陣頭に押し立てて第二陣に控えて、決戦の|朝《あした》を待った。ただ小荷駄の直江大和守は北国街道を北進して犀川を|小市《こいち》の|渡《わたし》にて渡り善光寺へと退却せしめた。甘粕隊は遠く南方小森に於て妻女山から来るべき敵に備えた。時に川中島は前夜細雨があったためか、一寸先もわからぬ濃霧である。
『川中島五度合戦記』に「越後陣所ヨリ草刈ドモ二三十人未明ヨリ出デカケマハリ云々」とあるは、天文二十三年のこととして出ているが、それは間違いであるから、おそらくこの時のことであろう。越後の軍より草刈の農夫に化けた斥候が、川中島を右に左にはい廻ったのであろう。謙信は斥候を放って敵の旗本軍の行動をさぐらせ、甲軍が広瀬を渡ったことを知り、奇襲して敵を粉砕し、旗本を押し包んで、信玄を討ち取ろうと、水沢の方向にむかって静かに前進をおこした。戦わずして謙信は十二分の勝利である。
妻女山に向った甲軍は、地理に明かな、高坂弾正が先導で、月の西山に没する頃には海津を発し倉科の山越しに妻女山へむかった。しかしこれは山間の|小径《しようけい》で秋草が道をおおっているので行軍に難渋した。しかも、一万二千の大軍であるから夜明け前に妻女山に到着する筈であったのが、はるかに遅れた。
一方信玄の旗本は、剛勇の山県昌景が先鋒となり、十日|寅《とら》の刻(午前四時)に海津城を出で、広瀬に於て千曲川を渡り、山県は神明附近に西面して陣し、左水沢には武田信繁その左には穴山伊豆が陣取り、又右には|両角《もろずみ》豊後内藤修理が田中附近に陣した。信玄は八幡社の東方附近に、他の諸隊はこの左右前後に陣す。この位置は今|三太刀《みたち》七太刀と称せられていると云う。信玄の傍には諏訪神号旗と孫子の旗がひるがえっている。時に濃霧(川中島の名物)が深く立ちこめて一寸先もみえない。甲軍は越軍が川中島に来るのは|辰《たつ》の刻(午前八時)とかんがえ、厳然たる隊形は整えずにいたらしい。ただ信玄は腰をかけたまま妻女山をにらんで何等かの変化を期待している。何ぞ知らんや上杉軍は半里の前方に展開しているのであった。
既に卯の刻(午前六時)となったし、濃霧は次第にはれてきた。|不図《ふと》前方をみればこは如何に、越の大軍が|潮《うしお》の如く我に向って前進中である。正に「暁に見る千兵の大牙を擁するを」だ。
「武田の諸勢も之を見て大に仰天し、こは何時の間に|斯《かか》る大軍が此の地に来れる。天よりは降りけん地よりは|湧《わ》き出でけん、誠に天魔の所行なりとさしもに|雄《はや》る武田の勇将猛士も恐怖の色を|顕《あらわ》し諸軍浮足立つてぞ見えたりける」
[#地付き](『甲陽軍記』)
謙信は、一万三千の内旭山城に五千を残したから、精兵八千で、人数は同じであるが、不意に出られた武田勢は、最初から精神的な一撃を受けたのである。
さすがに百戦練磨の信玄は少しもおどろかず、浦野民部に敵情をさぐらせたところ、「謙信味方の備を廻って立ちきり幾度もかくの如く候て犀川の方へ赴き候」との報告、信玄公|聞召《きこしめ》し、「さすがの浦野とも覚えぬことを申すものかな、それは|車懸《くるまがかり》とて幾廻り目に旗本と敵の旗本と打合って一戦する時の軍法なり」とあって備を立直したと云う。
(だが車懸とは如何するのか|一寸《ちよつと》疑問で、大軍を立ちきり立ちきり廻すというのは、実際困難である。だが、軍記作者のヨタでもないらしく、実際川中島に於ける謙信の陣立は水車の如く、旗本を軸としてまわって陣し、全軍が敵軍に当った。しかし精しいことは分らない)
越軍は先鋒柿崎和泉守が|大蕪菁《おおかぶら》の旗を先頭に一隊千五百人が猛進をはじめ、午前七時半頃水沢の西端に陣取っていた武田左馬助|典厩《てんきゆう》信繁の隊(七百)に向って突撃してきた。典厩隊は大に狼狽したが、槍をとって鬨をあげて応戦した甲軍は、まだ陣の立て直しもすまぬ時であったが、おちついた信玄の命令にしたがって勇躍敵にあたった。信玄は陣形を十二段に構え、迂廻軍の到着迄持ちこたえる策をとり、|百足《むかで》の指物差した使番衆を諸隊に走らせて、諸隊その位置をなるべく保つようにと、厳命した。
柿崎隊と典厩隊との白兵戦は川中島の静寂を破り、突き合う槍の響き、切り結ぶ太刀の音凄じく、剣槍の|閃《ひらめ》きが|悽愴《せいそう》を極めた。柿崎隊は新手を入れかえ入れかえ無二無三につき進み切り立てたため、さしもの典厩隊も苦戦となり隊伍次第に乱れるにいたった。この日、典厩信繁は、|黄金《こがね》作りの武田|菱《びし》の|前立《まえだて》打ったる兜をいただき、黒糸に緋を打ちまぜて|縅《おど》した鎧を着、紺地の|母衣《ほろ》に金にて経文を書いたのを負い、|鹿毛《かげ》の馬に|跨《またが》り采配を振って激励したが、形勢非となったので憤然として母衣を脱して家来にわたし、わが子信豊に与えて|遺物《かたみ》となし、兜の|忍《しのび》の緒をきって三尺の大刀をうちふり、群がり来る越兵をきりすて薙たおし、鬼神の如く戦ったが、刀折れ力つきて討死した。とにかく、信玄の弟が戦死する騒ぎであるからその苦戦察すべしである。
ここに山県隊の一部が典厩隊を援けたため、柿崎隊も後退のやむなきにいたった。又前方で新発田隊と穴山隊の混戦があったが、穴山隊も死力をつくして激戦した。この時越の本庄、安田、長尾隊は甲の両角、内藤隊と甲軍の右翼で接戦し、甲軍の死傷漸く多く、隊長両角豊後守虎定は今はこれまでと桶皮胴の大鎧に|火焔頭《かえんがしら》の兜勇ましく逞しき|葦毛《あしげ》に跨り、大身の槍をうちふって阿修羅の如く越兵をなぎたおしたが、槍折れ力つきて討死した。
ここに於て両角、内藤隊が後退し、柿崎隊と山吉隊は協力して甲の猛将山県隊を打ち退けたので、信玄の旗本の正面が間隙を生じた。謙信はこれをみてとり、その旗本を|鶴翼《かくよく》の陣、即ち横にひろがる隊形に展開して、八幡原の信玄の旗本めがけて槍刀を揮って突撃した。その勢三千、信玄の旗本も、猛然之をむかえて邀撃し、右の方望月隊及び信玄の嫡子太郎義信の隊も、|左備《ひだりそなえ》の原|隼人《はやと》、武田逍遙軒も来援して両軍旗本の大接戦となった。
これより先山本勘助晴幸は、今度の作戦の失敗の責任を思い、六十三歳の老齢を以て坊主頭へ白布で鉢巻きをなし、黒糸縅しの鎧を着、|糟毛《かすげ》の駿馬にうちまたがり三尺の太刀をうちふり、手勢二百をつれて岡附近の最も危険な所に出で、越軍の中に突入し、身に八十六ケ所の重傷をうけて部下と共に討死した。
この頃両軍の後備は全部前線に出て一人の戦わざる者もなく、両軍二万の|甲冑《かつちゆう》武者が八幡原にみちみちて切り結び突きあった。壮観である。信玄の嫡子、太郎義信は時に二十四歳、武田菱の金具|竜頭《りゆうず》の兜を冠り、紫|裾濃《すそご》の鎧を着、青毛の駿馬に跨って旗本をたすけて、奮戦したことは有名である。その際|初鹿野《はじかの》源五郎忠次は主君義信を|掩護《えんご》して馬前に討死した。越軍の竜字の旗は、いよいよ朝風の中に進出して来る。
甲軍の旗色次第に悪く、信玄牀几の辺りに居た直属の部下も各自信玄を離れて戦うにいたり、牀几近くには二三近習のものが止ったにすぎない。しかし動ぜざること山の如き信玄は牀几に腰をおろして、冷静な指揮をつづけていた。
信玄は黒糸縅しの鎧の上に緋の法衣をはおり、|明珍《みようちん》信家の名作諏訪|法性《ほつしよう》の兜をかむり、後刻の勝利を期待して味方の諸勢をはげましていた。時に年四十一歳。
この日、越の主将上杉輝虎(本当はまだ政虎)は紺糸縅の鎧に、|萌黄緞子《もえぎどんす》の胴|肩衣《かたぎぬ》をつけ、金の星兜の上を|立烏帽子白妙《たてえぼししろたえ》の練絹を以て|行人包《ぎようにんづつみ》になし、二尺四寸五分順慶長光の太刀を抜き放ち、|放生《ほうしよう》月毛と名づくる名馬に跨り、摩利支天の再来を思わせる恰好をしていた。
今や、信玄の周辺人なく好機逸すべからずとみてとった謙信は馬廻りの剛兵十二騎をしたがえて義信の隊を突破し信玄めがけて殺到して来た。|禅定《ぜんじよう》のいたすところか、その徹底した猛撃は正に鬼神の如くである。これをみた信玄の近侍の者二十人は|槍襖《やりぶすま》を作って突撃隊を阻止したが、その間を|馳《か》け通って、スワと云う間もなく信玄に近寄った謙信は、長光の太刀をふりかぶって、信玄めがけて打ちおろした(謙信時に三十二歳)。琵琶の文句通り、信玄は刀をとる暇もない。手にもった軍配|団扇《うちわ》で発止と受けとめたが、つづく二の太刀は信玄の腕を|傷《きずつ》け、石火の如き三の太刀はその肩を傷けた。この時あわてて馳けつけた原大隅守虎義は|傍《かたわら》にあった信玄の青貝の長槍をとって、相手の騎馬武者を突いたがはずれ、その槍は馬の|三頭《さんず》(背すじの後部)をしたたか突いたので、馬はおどろいてかけ出したので、信玄は虎口を逃れた。例の『五戦記』では、この騎馬武者を誰とも知らず越後の荒川伊豆守なるべしと取沙汰したが、それを「政虎聞キ候テ|可討留《うちとどむべき》物ヲ残リ多シト皆ニ|申《もうし》候|由《よし》」とある。戦国の世激戦多しと雖も未だ主将が武器をとって一騎討したという例は、多くはないようである。信玄は、その後も神色自若、孫子の旗と法性の旗をかざして牀几を動かず何事もなかりしが如く軍配をふって指揮したと云うが、あまりそうでもなかっただろう(後団扇を検したところ八個所の|痕《あと》があったというからよほど何回かうちおろしているわけである)。原大隅守は殊勲の槍を高くあげて、「今妻女山より味方の先手衆駈けつけたぞ、戦いは味方の勝ちぞ」と叫びまわった。信玄の落着き振りと、この機宜の処置とは|将《まさ》に崩れかかった味方に百倍の勇気を与えた。この時の有様を『甲陽軍鑑』に、
「敵味方三千七百の人数入り乱れて突いつ突かれつ伐つ伐たれつ互に具足の|綿噛《わたが》みを取り合ひ組んで転ぶもあり首をとつて立ちあがれば其首は、我主なりと名乗つて|鑓《やり》つけるを見ては又其者を斬り伏せ後には十八九歳の草履取りまで手と手を取合差違へ候」とある。両旗本の激戦の様を記しているのである。他の諸隊も皆この通りであっただろう。とにかく甲越二軍の精兵が必死に戦ったのであるから、猛烈を極めただろう。後年大阪陣の時抜群の働で感状を貰った上杉家臣杉原|親憲《ちかのり》が「此度の戦いなぞは謙信公時代の戦いに比べては児戯のようだ」といったことがある。
一方妻女山に向った甲軍は午前七時頃妻女山に達し足軽を出して敵に当らしめたが山上|寂《せき》として声なく、敵の隻影もみえない。あやしげな紙の擬旗がすすきの間にゆれているばかりである。そのうち朝霧のはれた川中島の彼方から|吶声《ときのこえ》、鉄砲の音がきこえるので切歯して、十将が川中島を望んで|馳《か》け降りた。かくて、最も近い徒渉場たる十二ヶ瀬を渡ろうと急ぐや、越の殿軍甘粕近江守は川辺の葦間から一斉に鉄砲の雨をあびせたので、甲州兵悩まされながら、川の上下、思い思いに雨の宮の|渡《わたし》猫ヶ瀬等から川を渡り北進した。猫ヶ瀬を渡った小山田隊は最も早く川中島に達し、越軍の最右翼新発田隊に向って猛烈に突撃した。この新手に敵し難く新発田隊は退却をはじめ、狗ヶ瀬を渡った甲軍も、謙信の旗本の背後にむかって猛進した。今や迂廻軍が敵の背後で|喊声《かんせい》をあげているのを聞いた信玄の旗本軍も、士気|頓《とみ》にふるい、各将は「先手衆が来たぞ戦は勝ぞ」と連呼しつつ旗をふり鞍をたたいて前進した。形勢一変、今や越軍は総退却のやむなきに至った。そこで主将謙信は広瀬の方面に敵を圧迫していた諸将に速に兵をおさめて犀川方面に退却するよう命じ、|親《みずか》らも柿崎等と共に背後の妻女山を迂廻して来た甲軍に当りつつ退いた。太郎義信も軍をととのえて謙信の旗本を追撃した。謙信は諸隊の退却をみとどけて最後に退いたが、甲軍の追撃猛烈のため犀川に退却するのが困難になったので、東方に血路を開き|三牧畠《みまきばたけ》の瀬を渡って退いたといわれる。越軍の大部分は陣馬ヶ原で返撃し、丹波島の犀川を渡って善光寺方面へ総退却した。この犀川をわたるに当って甲軍の新手の追撃をうけて或は討死し或は溺れる者が続出した。犀川は水量が相当に多いのである。
越の殿軍甘粕近江守景持は部下を集めて最後に退却をおこした。甲軍はこれを越の旗本とみたそうである。しかして田牧の北方附近にいたるや高坂弾正の急追をうけこれに応戦した。高坂は妻女山より自分の持城たる海津城を気づかってこれに向い、それより八幡原に出たので、時すでに敵を犀川方面に追討している時だったので、甘粕隊をみてよき敵にがすなとばかりどっと突撃した。甘粕隊は時々逆襲しつつ犀川を渡り、悠々左岸の市村に陣取り|大扇《たいせん》の|大纏《おおまとい》を岸上に高く掲げて敗兵を収容した。この甘粕隊の殿軍ぶりはながく川中島合戦を語るものの感嘆する所である。
これで、川中島合戦は終ったわけである。
大戦ではあったけれども、政治的には何の効果もなかった。このため、上杉、武田両家とも別にどうなったわけでなく、川中島は元のままであった。
損傷を比べて見ると、
上杉方
死者三千四百
武田方
死者四千五百
これで見ると、武田方の方がひどくやられている。その上弟信繁は討死し、信玄自身、子の義信も負傷している。上杉方は、名ある者は、一人も死んでいない。また作戦的には、武田方は巧みに裏をかかれている。
しかし、戦国時代では戦争の勝敗は「芝居を踏みたるを勝とす」としてある。芝居と云うのは、多分戦場と云うことであろう。つまり戦場に居残った方が勝である。そう考えると、武田方が勝ったことになる。
豊臣秀吉が、川中島の合戦を批評して、「卯の刻より辰の刻までは、上杉の勝なり、辰の刻より|巳《み》の刻までは武田方の勝なり」と云っているが、これは一番正当な批評かも知れない。その後、永禄七年の戦に、甲越両軍多年の勝負を|角力《すもう》に決せんとし、甲軍より大兵の安間彦六、越軍より小兵の長谷川与五左衛門を出して組み打ちさせ、与五左衛門勝って、川中島四郡越後に属したとあるが、之は嘘らしい。
川中島合戦の時、信玄は四十一歳、謙信は三十二歳である。秀吉に云わせると「ハカの行かない戦争を」やったに過ぎないかも知れないが、信玄は深謀にして精強、謙信は尖鋭にして果断、実にいい取組みで、拳闘で云えば、体重の相違もなく、両方とも鍛練された武器を持っていたわけであるからこの川中島の合戦も引分けになったのは、当然かも知れないのである。
附 記
(一) 上杉謙信が、入道して謙信と称したのは二十歳頃からである。
(二) 太田資正は|道灌《どうかん》の孫で三楽と号した。智謀あり、秀吉、家康に向って嗟嘆して曰く、「今|茲《ここ》に二つの不思議あり、君知れりや」と。家康曰く「一つは三楽ならん、二つは分らず」と。秀吉曰く、「我匹夫より起りて、天下に主たると、三楽が智ありて一国をも保つ能わざるとこれ二つの不思議なり」と。また秀吉三楽に向って曰く、「御身は智仁勇の三徳ある、良将なり、されど小身なり、我一徳もなし、しかし天下を取るが得手なり」と。大小の戦い七十九度、一番槍二十三度、智は天下に鳴っている名将だったが、出世運の悪かった男である。
(三) 謙信が幾太刀も斬りつけながら信玄を打ち洩したのはダラシがないようだが、馬上の太刀打で間遠でどうにもならなかったらしい。後で「あのとき槍を持っていたならば、決して打ち|洩《もら》すまじきに」と云って謙信が嘆息している。槍を持っていなかったため流星光底長蛇を逸したのである。――作者――
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信長の崛起
天文十八年三月のこと、相遠参三ケ国の大名であった今川氏を始めとし四方の豪族に対抗して、尾張の国に織田氏あることを知らしめた信秀が年四十二をもって死んだ。信秀死する三年前に|古渡《こわたり》城で元服して幼名吉法師を改めた三郎信長は、|直《ただち》に父の跡を継いで上総介と号した。
信秀の法事が|那古野《なこの》は万松寺に営まれた時の事である。重臣始めきらびやかに居並んで居る処に、信長先ず焼香の為に仏前に進んだ。
今からは織田家の大将である信長が亡父の前に立った姿を見て一堂の者は驚いた。長柄の太刀脇差を|三五縄《しめなわ》でぐるぐる巻にし、|茶筌《ちやせん》にゆった髪は、乱れたままである上に|袴《はかま》もはかないと云う有様である。そして抹香を|一攫《ひとつか》みに攫んで投げ入れると一拝して帰って仕舞った。信長の弟勘十郎信行の折目正しい|肩衣《かたぎぬ》袴で|慇懃《いんぎん》に礼拝したのとひき比べて人々は、なる程信長公は聞きしに勝る大馬鹿者だと嘲り合った。心ある重臣達は織田家の将来を想って沈んだ気持になって居たが、其中に筑紫からこの寺に客僧となって来て居る坊さんが、信長公こそは名国主となる人だと云ったと伝えられて居る。この坊さんなかなか人を見る目があったと云う事になるわけだが、なにしろ幼年時代からこの年頃にかけての信長の行状はたしかに普通には馬鹿に見られても文句の云い様がない程であった。尾張の|治黙《じもく》寺に手習にやられたが、勿論手習なんぞ仕様ともしない。川から|鮒《ふな》を獲って来て|蕗《ふき》の葉で|膾《なます》を造る位は罪の無い方で、朋輩の弁当を略奪して平げたりした。町を通りながら、栗、柿、瓜をかじり、餅をほおばった。人が嘲けろうが指さそうがお構いなしである。
十六七までは別に遊びはしなかったが、ただ、朝夕馬を|馳《か》けさせたり、鷹野を催したり、春から秋にかけて川に飛び込んだりして日を暮して居た。しかし朋友を集めて竹槍をもって戦わしめたりする時に、褒美を先には少く後から多く与へた事や、当時から槍は三間柄が有利であるとの見解を持って居た事や、更に其頃次第に戦陣の間に威力を発揮して来た鉄砲の稽古に熱心であった事などを見ると、筑紫の坊さんの眼識を肯定出来そうである。
この様に何処かに争われない処を見せながらも、その日常は以前と異なる事がなかった。
平手|中務《なかつかさ》政秀は信長のお守役であるが、前々から主信長の行状を気に病んで居た。色々と|諌《いさ》めては見るものの一向に|験目《ききめ》がない。その|中《うち》にある時、政秀の長男に五郎右衛門というのがあって、好い馬を持って居たのを、馬好きの信長見て所望した処、あっさりと断られてしまった。親爺も頑固なら息子も強情だと、信長の機嫌が甚だよくない。政秀之を見て今日までの輔育が失敗して居るのに、更にまた息子の|縮尻《しくじり》がある。此上は死を以って諌めるほかに道はないと決意して、天文二十二年|閏《うるう》正月十三日、六十幾歳かの皺腹|割《さ》いて果てた。
その遺書には、
心を正しくしなければ諸人誠をもって仕えない、ただ才智|許《ばか》りでなく度量を広く持たれます様に、
無慾にして|依古贔屓《えこひいき》があってはならない、能才を見出さなければならない、
武のみでは立ちがたいものである、文を修められますように、
礼節を軽んぜられませぬように、
等々の箇条があった。
信長涙を流して悔いたけれども及ばない。せめてと云うので西春日井郡|小木《おぎ》の里に政秀寺という菩提寺を建て寺領二百石を附した。(後に清須に移し今は名古屋に在る)
信長鷹野で小鳥を得ると、政秀この鳥を食えよと空になげ、小川の|畔《ほとり》に在っては政秀この水を飲めよと叫び涙を流した。
政秀の|諌死《かんし》によって信長大いに行状を改めたが同時に、その|天稟《てんぴん》の武威を振い出した。
十六歳の時から|桶狭間《おけはざま》合戦の二十七歳までは席の安まる間もなく戦塵をあびて、自らの地盤を確保するに余念がなかった。
元来織田氏の一族は尾張一帯に拡がって居て各々割拠して居たのだが、信長清須の主家織田氏を|凌《しの》ぐ勢であったので、城主織田彦五郎は、|斯波《しば》義元を奉じて、同族松葉城主織田伊賀守、深田城主織田左衛門|尉《じよう》等と通じて一挙に信長を滅そうとした。信長、守山に在る叔父孫三郎信光と共に、機先を制して天文二十一年八月十六日、那古野に出で三方より清須城を攻めた。翌年になって|終《つい》に清須を落して自ら|遷《うつ》り住し、信光をして那古野に、その弟信次を守山に居らしめた。処がこの守山(清須から三里)に居る信次が弘治元年の夏家臣と共に川に釣に出かけた時に、一人の騎士が礼もしないで通り過ぎたのを、怒って射殺した事がある。殺してみた騎士が信長の弟の秀孝であったので、信次は仰天してそのまま逃走して仕舞った。秀孝の兄の信行は之を聞いて末森から馳せて守山に来り城下を焼き払い、信長また清須から馬を馳せつける騒ぎであった。
さてまたこの信行であるが、末森城に於て重臣林通勝、柴田勝家等に|鞠育《きくいく》されて居たが、老臣共は信長の粗暴を嫌って信行に織田の跡を継せようと企てた。しかし信長との|戦《いくさ》では直に破れたので一旦許を乞うた。信長も許したが|猶《なお》も勝家等の諌を聴かずして|叛《そむ》こうとしたので、ついに信長、|謀《はかりごと》をもって之を暗殺した。弘治二年十一月のことである。
更に異母兄に当る織田信広や、岩倉城主織田信安等の叛乱があったが、みな信長に平定せられた。
以上は皆同族の叛乱であるが、この外に東隣今川氏の部将との交渉がある。愛知郡鳴海の城主で山口左馬助と云うのが織田信秀の将として今川氏に備えて居た。信秀が死んで信長の代になると、信長頼むに足らぬと考えたかどうか叛いて今川氏について仕舞った。そして愛知郡の笠寺と中村に城を築き、自分は中村に、今川の将戸部豊政を笠寺に、自分の子の九郎二郎を鳴海に居らせた。信長棄てて置かれないので天文二十一年自ら来って攻めたけれども却って破られたので、勢を得たのは左馬助である。大高、|沓掛《くつかけ》等をも占領した。信長は今度は笠寺を攻めて見たが豊政|驍勇《ぎようゆう》にして落城しそうもない。そこで信長は考えた末、森|可成《よしなり》を商人に化けさせて駿河に潜入させ、義元に豊政のことを|讒言《ざんげん》させた。義元正直に受取って豊政を呼び返して殺し、次いで左馬助をも疑って、之も呼び寄せて殺してしまった。
旧主に叛いた左馬助としてみれば因果応報であるが、信長も相当に反間を用いている。尤も乱世の英雄で反間を用いない大将なんて無いのであるから、特別の不思議はない筈であるが。
とにかく、この様な苦闘を経て、漸く勢を四方に張ろうとして来た信長と、駿遠参三ケ国を擁して、西上の機を窺って居た今川義元とが、衝突するに至るのは、それこそ歴史上の必然であったわけだ。
今川義元の西進
群雄割拠の戦国時代は一寸見には、|徒《いたず》らに混乱した暗黒時代の様に見られるけれども、この混乱の中に、|自《おのずか》ら統一に向おうとする機運が動いて居るのを見逃してはなるまい。英雄豪傑が東西に戦って天下の主たろうと云う望を各自が抱いて居るのは、彼等の単なる英雄主義の然らしめたことではなくて、現実に、政治上からも経済上からも、統一の機運に乗じようと考えた処からである。此時代になって、兵農の分離は全く明かになり、地方的な商業も興り、足利時代に盛になった堺を始めとして、東の小田原、西の大阪、山口等次第に都会の形成をも来して来たのであるが、此|秋《とき》に当って、小さく地方に、自分丈の持前を守って居ようなど考えて居る者達は、より大なろうとして居る強者の為にもみつぶされて仕舞うことになる。志ある者は必ず上洛して、天子の下に、政治経済の権を握って富強を致そうと望むのが当然である。こうして西上の志あった者に、武田信玄があり上杉謙信があった。今川義元も亦、三大国を擁して西上の志なかるべからんやである。
義元、先ず後顧の憂を絶つ為に、自らの娘を武田晴信の子義信に嫁せしめた。北条氏とも和した。さて、いよいよ西上の段取であるが、三河の西辺の諸豪族、特に尾張の信長を破らなければ、京に至る事は出来ない。そこで、義元は当時駿河の国府に居らせた松平竹千代に、その先鋒を命じた。竹千代即ち、後年の徳川家康である。竹千代不遇であって、始めは、渥美郡|牟呂《むろ》村千石の地しか与えられず、家臣を充分に養う事にさえ苦しんだ。鳥居伊賀守忠吉は自らの財を多く松平家の為に費したとさえ伝えられている。後年三河武士と称された家臣達は何事をも忍んで機の至るを待って居た。義元の命のままに、西上の前車を承って多くの功績を示したが、義元西上の志が粉砕された事によって、竹千代(弘治二年末義元の義弟、関口|親長《ちかなが》の|女《むすめ》をめとる、後元康と称し更に家康と改む)の運命が開れようとは当人も想いつかなかったであろう。
松平元康が、どんなに優秀な前軍を勤めたかを簡単に示すならば、弘治三年四月には刈屋を攻め、七月|大府《おおふ》に向い、翌永禄元年二月には、義元に叛き信長に通じた寺部城主鈴木|重教《しげのり》を攻め、同じく四月には|兵糧《ひようろう》を大高城に入れた。
勿論、此頃には信長の方でも準備おさおさ怠りなく手配して居るのであって、かの大高城の如きも充分に監視して、兵糧の入ることを厳重に警戒した。|若《も》し今川方から大高に兵糧を入れる気配があったら、大高に間近い鷲津、丸根の二城は|法螺貝《ほらがい》を吹き立てよ、その貝を聞いたら寺部等の諸砦は速かに大高表に馳せつけよ、丹下、中島二城の兵は、丸根、鷲津の|後詰《ごづめ》をせよと命じて手ぐすねひいて待ち構えて居た。
四月十七日夜に入ると共に支度をして居た、松平次郎三郎元康は、十八の若武者ながら、大任を果すべく出発しようとした。酒井与四郎|正親《まさちか》、同小五郎忠次、石川与七郎数正等が「信長ならば必ずや城への手配を計画して居る筈である。とても兵糧入れなどは思いもよらぬ」と諌めたけれども、胸に秘策ある元康だから聴く筈がない。一丈八尺の地に黒の|葵《あおい》の紋三つ附けた白旗七本を押し立てて四千余騎、粛々として進発した。家康は兵八百を率い、小荷駄千二百駄を守って大高城二十余町の処に控えて居た。前軍は鷲津、丸根、大高を側に見て、寺部の城に向い不意に之を攻めた。丁度|丑満《うしみつ》時という時刻なので、信長勢は大いに驚いて防いだが、松平勢は既に一ノ木戸を押し破って入り、火を放ったと思うとさっと引上げた。引上げたと思うと更に梅ヶ坪城に向い二の丸三の丸まで打ち入って同じ様に火の手を挙げる。厳重に大高城を監視して居た、丸根、鷲津の番兵達は、はるかに|雄叫《おたけ》びの声がすると思っているうちに、寺部、梅ヶ坪の城に|暗《やみ》をつらぬいて火が挙がるのを見て、驚き且ついぶかった。大高城に最も近い丸根、鷲津を差置いて、寺部なぞの末城を先きに攻める法はないと独合点して居たからである。怪しんで見たものの味方の危急である。取る物も取り合えず、城をほとんど空にして馳せ向った。我計略図に当れりと、暗のうちに|北叟笑《ほくそえ》んだのは元康である。このすきに|易々《いい》として兵糧を大高城に入れてしまった。
この大高城兵糧入れこそ、家康の出世絵巻中の第一景である。大高城兵糧入れに成功した元康は、五月更に大府に向い八月には|衣《ころも》城を下した。翌三年三月には刈屋を攻め、七月、東広瀬、寺部の二城を落し、十二月に村木の砦を占領して翌年正月にこれを壊している。
もうこうなると正面衝突よりないわけである。
永禄三年五月|朔日《ついたち》今川義元、いよいよ全軍出発の命を下した。前軍は十日に既に発したが、一日おいた十二日、義元子|氏真《うじざね》を留守として自ら府中(今の静岡)を立った。総勢二万五千、四万と号している。
義元出発に際して幾つかの凶兆があった事が伝えられて居る。
元来義元は兄氏輝が家督を継いで居るので自分は禅僧となって富士善徳寺に住んで居った。氏輝に子が無かったので二十歳の義元を|還俗《げんぞく》させて家督を譲った。今川治部|大輔《だいふ》義元である。処が此時横槍を入れたのが義元の次兄で、花倉の寺主|良真《りようしん》である。良真の積りでは兄である自分が家を継ぐべきなのに、自分丈が氏輝、義元と母を異にして居る為に|除者《のけもの》にされたのだと、とうとう義元と戦ったが敗れて花倉寺で自殺したという事があった。
その花倉寺良真が義元出発の夜に現れ出でた。義元、枕もとの銘刀|松倉郷《まつくらごう》を抜いて切り払った。幽霊だから切り払われても大した事はないのであろうが良真は飛び退いて曰く、「汝の運命尽きたのを告げに来たのだ」と。出陣間際に縁起でもないことをわざわざ報告に来たわけである。義元も敗けて居ずに「汝は我が|怨敵《おんてき》である、どうして我に吉凶を告げよう」、人間でなくても|虚言《うそ》をつくかも知れないとやり込めた。良真は「なる程、汝は我が怨敵だ、しかし今川の家が亡びるのが悲しくて告げに来たのだ」と云いもあえず消えてなくなった。
其他に、駿州の鎮守総社大明神に神使として目されていた白狐が居たのが、義元出発の日、胸がさけて死んで居たとも伝える。
どれも妖語妄誕だから真偽のほどはわからない。義元この戦に勝ったならば、このような話は伝らずにおめでたい話が伝っただろう。
閑話休題、十五日には前軍|池鯉鮒《ちりう》に、十七日、鳴海に来って村々に火を放った。
義元は十六日に岡崎に着いて、左の様に配軍せしめた。
岡崎城守備 |庵原《いおはら》元景等千余人
緒川、刈屋監視 堀越義久千余人
十八日には今村を経て沓掛に来り陣し、ここで全軍の部署を定めた。
丸根砦攻撃 松平 元康 二千五百人
鷲津砦攻撃 朝比奈|泰能《やすよし》 二千人
援 軍 三浦備後守 三千人
清須方面前進 |葛山《くずやま》 信貞 五千人
本 軍 今川 義元 五千人
鳴海城守備 岡部 三信 七八百人
沓掛城守備 浅井 政敏 千五百人
更に大高城の|鵜殿《うどの》長照をして丸根鷲津攻撃の応援をさせる。この鵜殿は先に信長の兵が来り攻めて兵糧に乏しかった時に、城内の|草根《そうこん》木菓を採って、戦なき日は之れを用い、戦の日には、ほんとうの米を与えたと云う勇士である。
この今川勢の、攻進に対して、織田勢も、準備を全くととのえてあった。すなわち、
鷲津砦 織田 信平 四五百人
丸根砦 佐久間|盛重《もりしげ》 同右
丹下砦 水野 忠光 同右
善照寺砦 佐久間|信辰《のぶたつ》 同右
中島砦 梶川 一秀 同右
これらの砦は丹下の砦で四十間四方に対して、あとはみな僅に十四五間四方のものに過ぎない。兵も今川勢に比べると比べものにならない位に小勢ではあるが、各部将以下死を決して少しも恐るる色がなかった。
丸根砦の佐久間大学盛重は徒らに士を殺すを惜んで、五人の|旗頭《はたがしら》、服部|玄蕃允《げんばのすけ》、渡辺大蔵、太田左近、早川大膳、菊川隠岐守に退いて後軍に合する様にすすめたけれども、誰一人聴かなかった。
永禄三年五月十八日の夜は殺気を山野に満したまま|更《ふ》けて行った。むし暑い夜であった。
両軍の接戦、桶狭間役
むし暑い十八日の夜が明けて、十九日の早朝、元康の部将松平|光則《みつのり》、同|正親《まさちか》、同政忠等が率いる兵が先ず丸根の砦に迫った。かねて覚悟の佐久間盛重以下の守兵は、猛烈に防ぎ戦った。正親、政忠|殪《たお》れ、光則まで傷ついたと云うから、その反撃のほどが察せられる。大将達がそんな風になったので士卒等は、|忽《たちま》ちにためらって退き出した。隙を与えず盛重等、門を十文字に開いて突出して来た。元康之を望み見て、これは決死の兵だから接戦してはかなわない、遠巻にして弓銃を放てと命じたので、盛重等は忽ちにして矢玉の真ただ中にさらされて、その士卒と共に倒れた。元康の士|筧《かけひ》正則等が之に乗じて進み、門を閉ざす|暇《いとま》を与えずに渡り合い、松平義忠の士、左右田正綱一番乗りをし、ついに火を放って焼くことが出来た。元康はそこで、松平家次に旗頭の首七つを、本陣の義元の下に致さしめて、|捷《かち》を報告させた。義元、我既に勝ったと喜び賞して、鵜殿長照に代って大高城に入り人馬を休息させる様に命じ、長照には笠寺の前軍に合する様命じた。これが両軍接戦のきっかけであるが清須に在る信長は悠々たるものであった。
前夜信長は重臣を集めたが一向に戦事を議する様子もなく語るのは世俗の事であった。気が気でなくなった林通勝は、進み出て云った。「既に丸根の佐久間から敵状を告げて来たが、義元の大軍にはとても刃向い難い。幸に清須城は天下の名城であるからここに立籠られるがよかろう」と。
信長はあっさり答えた。「昔から|籠城《ろうじよう》して運の開けたためしはない。明日は未明に鳴海表に出動して、我死ぬか彼殺すかの決戦をするのみだ」と。之を聞いた森三左衛門可成、柴田権六勝家などは喜び勇んで馬前に討死|仕《つかまつ》ろうと|応《こた》えた。深更になった時分信長広間に出で、|さい《ヽヽ》と云う女房に何時かと尋ねた。夜半過ぎましたと答えると馬に鞍を置き、湯漬を出せと命じた。女房かしこまって昆布勝栗を添えて出すと悠々と食し終った。腹ごしらえも充分である。食事がすむと牀几に腰をかけて小鼓を取り寄せ、東向きになって幸若舞『敦盛』をうたい出した。この『敦盛』は信長の常に好んで謡った処である。「……此世は常の|栖《すみか》に非ず、草葉に置く白露、水に宿る月より猶怪し、|金谷《かなや》に花を詠じし栄華は|先立《さきだつ》て、無常の風に誘はるゝ、南楼の月を|弄 《もてあそ》ぶ|輩《やから》も月に先立て有為の雲に隠れり。人間五十年|化転《げてん》の内を|較《くら》ぶれば夢幻の如く也、|一度《ひとたび》生を|稟《う》け滅せぬ物のあるべきか……」
朗々として迫らない信長のうた声が、林のように静まりかえった陣営にひびき渡る。部下の将士達も大将の決死のほどを胸にしみ渡らせたことであろう。本庄正宗の大刀を腰にすると忽ち栗毛の馬に乗った。城内から出た時は小姓の|岩室《いわむろ》長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛守、賀藤弥三郎の五騎に過ぎない。そのまま大手口に差しかかると、黒々と一団が控えている。見ると森、柴田を将とした三百余騎である。「両人とも早いぞ早いぞ」と声をかけて置いて、ひた走りに|馳《か》けて熱田の|宮前《みやまえ》に着いた時は、その数千八百となって居た。熱田の町口には加藤|図書助順盛《ずしよのすけよりもり》が迎えに出て来て居て、出陣式法の菓子をそなえた。信長は喜んで宮に参り|願文《がんもん》を奉じ神酒を飲んだ。願文は武井入道|夕菴《せきあん》に命じて作らしめたと伝うるもので、
「現今の世相混沌たるを憂えて自ら天下を平定しようと考えて居ます処、義元横暴にして来り侵して居ます。敵味方の衆寡はあだかも|蟷螂《とうろう》の|車轍《しやてつ》に当る如く、|蚊子《ぶんし》の鉄牛を|咬《か》むが如きものがあります。願わくば天下の為に神助あらんことを」と云った意味のものであるが、果してこの様な願文を出したかどうか多少怪しい処はあるが、この戦をもって天下平定の第一歩であると考えて居た事は疑あるまいと思われる。
信長、この時、|賽銭《さいせん》を神前に投げながら、「表が出ればわが勝なり」と云った。神官に調べさせると、みんな表が出たので将士が勇躍した。これは、|銭《ぜに》の裏と裏とを、|糊《のり》でくっつけて置いたものでみんな表が出るわけである。
既にこの頃は夜は全く明け放れて、今日の暑さを思わせるような太陽が、山の|端《は》を可なり高く昇っている。信長顧みれば決死の将士千八百粛々として附いて来ているが、今川勢は、何しろ十倍を越す大軍である。少しでも味方を多勢に見せなければならないと云うので、加藤順盛に命じて町家から、|菖蒲幟《しようぶのぼり》、|木綿切《もめんぎれ》等を集めさせ、熱田の者に竹棹をつけて一本ずつ持たせ、高い処に指物の様に立たせて、擬兵をつくった。
『桶狭間合戦記』に、
「熱田出馬の時信長乗馬の鞍の前輪と|後輪《しずわ》とへ両手を掛け、横ざまに乗りて後輪によりかゝり鼻謡を謡ふ」
とある。大方、例の『敦盛』と同じように好んで居た「死のうは|一定《いちじよう》しのび草には何をしよぞ、一定かたりのこすよの……」
と云う小唄でも口ずさんで居たのであろう。決戦間近かに控えてのこの余裕ぶりは何と云っても天才的な武将である。こんな恰好で神宮を出でたつと道路の|傍《わき》に、年の頃二十|計《ばか》りの若者が羽織を着、膝を付けて、信長に声を掛けられるのを待って居る様子である。信長見ると面体|勝《すぐ》れて居るので、何者だと問うと、桑原甚内と云い、嘗つて義元が度々遊びに来た寺の小僧をした事があって、義元をよく見知って居るから、願えることなら今度の戦に義元と引組んで首をとりたいと答えた。信長、刀を与えて供に加えた。毛利新助、服部小平太の両人が之を聞いて、この若者につきそって居て義元に出会おうと考えた。
今の時間で丁度八時頃、神宮の南、|上知我麻祠《かみちがまのやしろ》の前で、はるか南方に当って一条の煙が、折柄の|旭《あさひ》の光に、濃い紫色に輝きながら立ち上るのが見られた。丸根の砦の焼け落ちつつある煙だったのである。人馬を急がせて|古鳴海《こなるみ》の手前の街道まで来ると、戦塵にまみれた飛脚の兵に出会った。丸根落ちて佐久間大学、飯尾近江守只今討死と告げるのを信長聞いて、「大学われより一時先に死んだのだ」と云って近習の士に銀の数珠を持って来させ、肩に|筋違《すじか》いにかけ前後を顧みて叫んだ。「今は各自の命を呉れよ」と云うが早いか栗毛に鞭くれて|馳《はし》り出した。従士達も吾劣らじと後を追うて、上野街道忽ち馬塵がうず巻いた。
丸根が落ちた後の鷲津も同様に悪戦苦闘である。今川勢は丸根に対した如く、火を放って攻めたので、信平を始め防戦の甲斐なく討死して残兵|悉《ことごと》く清須を指して落ちざるを得ない状態になった。時に午前十時頃。
鳴海の方面へ|屯《たむろ》して居た佐々政次、千秋|季忠《すえただ》、前田利家、岩室|重休《しげよし》等は信長が丹下から善照寺に進むのを見て三百余人を率いて鳴海方面の今川勢にかけ合ったが衆寡敵せずして、政次、重休、季忠以下五十余名が戦死した。季忠は此時二十七歳であったが、信長あわれんでその子孫を熱田の大宮司になしたと云う。前田利家はこの戦以前に信長の怒りにふれている事があったので、その償いをするのは此時と計り、|直《ただち》に敵の首を一つ得て|見参《けんざん》に容れたが信長は許さない。そこで、その首を沼に投げ棄てて、更に一首をひっさげて来たが猶許されなかった。|後《のち》森部の戦に一番乗りして、始めて許されたと云う。
笠寺の湯浅甚助|直宗《なおむね》と云う拾四歳の若武者は軍の声を聞いて、じっとして居れずに信長の乗かえの馬を暫時失敬して馳せ来り敵の一士を倒して首を得たので、大喜びして信長に見せた処が、みだりに部署を離れたとて叱責された。
丹羽五郎左衛門の士、安井新左衛門家元は鳴海の戦に十七騎を射落して居る。
この様に信長の将士は善戦して居るのだが、何分にも今川勢は大勢であるから正攻の戦では大局既に信長に不利である。
政次、重休、季忠三士の首が今川の本営に送られた事を善照寺に在って聞いた信長が切歯して直にその本軍をもって今川軍に向わんとしたのも無理はない。林通勝、池田信輝、柴田勝家等が、はやる馬の口を押えて「敵|衆《おお》く味方少くあまつさえ路狭くて一時に多勢を押し出す事が出来ないのに、どうして正面からの戦が出来よう」と諌めたが、いささか出陣前の余裕を失った信長は聴かずして中島に渡ろうとした。此時若し信長が中島に渡って正面の戦をしたならば、恐らくは右大臣信長の名を天下に知らしめずに終ったことであろう。丁度、その時、|梁田《やなだ》政綱が放った斥候が、沓掛方面から帰って、「義元は今から大高に移ろうとして桶狭間に向った」旨を報じた。間もなく更に一人が義元の|田楽《でんがく》狭間に屯した事を告げ来った。政綱、信長に|奨《すす》めるには義元今までの勝利に心|驕《おご》って恐らくは油断して居ることだろうから、この機を逃さず間道から不意を突けば義元の首を得るであろうと。今まで駄々をこねて居た信長は流石名将だけに、直に政綱の言に従って善照寺には若干兵を止め|旗旌《きせい》を多くして擬兵たらしめ、自らは間道より田楽狭間に向って進んだ。此日は朝から暑かったが昼頃になって雷鳴と共に豪雨が|沛然《はいぜん》と降り下り、風は山々の木をゆるがせた。為に軍馬の音を今川勢に知られる事もないので熱田の神助とばかり喜び勇んで|山路《やまじ》を分け進んだ。
外史氏山陽が後に詠んだのに、
将士銜枚馬結舌
(しょうしはばいをふくみうまはしたをむすぶ)
桶狭如桶雷擘裂
(おけはざまおけのごとくらいはくれつす)
驕竜喪元敗鱗飛
(きょうりゅうもとをうしないはいりんとぶ)
撲面腥風雨耶血
(めんをうつせいふうあめかちか)
一戦始開撥乱機
(いっせんはじめてひらくはつらんのき)
万古海道戦氛滅
(ばんこかいどうせんふんめつし)
唯見血痕紅紋纈
(ただみるけっこんくれないにぶんけつするを)
笠寺の山路ゆすりしゆふたちの
あめの下にもかゝりけるかな
これは幕末の井上文雄の歌である。
信長等が予想して居た通りに義元、|頻々《ひんぴん》たる勝報に心喜んで附近の祠官、僧侶がお祝の|酒肴《さかな》を取そろえて来たのに気をよくして酒宴をもよおして居た。
此時の義元の軍装は、赤地の錦の|直垂《ひたたれ》、胸白の具足、八竜打った五枚冑を戴き、松倉郷、|大左文字《だいさもんじ》の太刀脇差を帯びて居た。この大左文字はすぐに信長に分捕られた上にその銘に、表には永禄三年五月十九日義元|討捕刻 彼所持刀《うちとるかれのしよじのとうにこくす》、裏には織田尾張守信長と刻込まれて仕舞った。義元の酒宴|酣《たけなわ》である頃信長の兵は田楽狭間を真下に見る太子ヶ根の丘に在った。田楽狭間は桶狭間へ通ずる一本道の他は両側共に山で囲まれて居る。こうなると義元は袋のなかの鼠である。丘上で信長馬から下りて斬り込むかと議すると森可成馬のまま馳せ下るがよろしいと答えたが、丁度昼頃になって風雨がやや静ったのを見計って、一度にどっと斬り込んだ。義元の本営では、まさか信長がこの様な不意に出ようとは想って居ないので、味方同志の争が起った位に最初は考えて居たが、騒は益々大きくなる計りである。義元兵を制しようと|帷幕《いばく》を掲げた処を例の桑原甚内が見付けてかかったが近習の士の為にさえぎられて斬られた。甚内に附きまとって来た服部小平太がこの中にまぎれ込んだのを、義元味方と間違えて馬を引けと命じたので、さてこそ大将と槍で脇腹を突いた。義元流石に屈せずに槍の青貝の柄を斬り折ると共に小平太の膝を割ったので小平太はのめって仕舞った。同じく義元の首をねらった毛利新助が名乗って出るや義元に組付いて首をとろうとあせった。頭を押え様と|焦《あせ》った新助は左手の人差指を義元の口に押し込んだのを|咬《か》み切られながら、とうとう首を挙げた。不意を討たれた上に大将が討死しては衆も寡もない。今川勢は全く浮足たって仕舞った。
今川の部将、松井宗信、井伊直盛等が本営の前方十町計りの処に屯して居たが、急を聞いて馳せ戦ったが悉く討死して果てた。
一説には、本営破れた時、庵原左近、同庄次郎が馳せ来り、事急であるから義元に大高に移られる様にと云って十二三騎で行くのを襲われたとも伝えられる。
一挙に勝を収めた信長は、敢て今川勢を遠く追わずに、直に兵を|間米《まごみ》山に集め義元の首を馬の左脇にさげて、日暮には清須に引上げた。まさに、神速なる行動である。熱田の宮では拝謝して馬を献じ|社《やしろ》を修繕することを誓った。
凱旋の翌日、|獲《え》た首を検したのに二千五百余あった。|下方《しもかた》九郎左衛門が|生擒《いけどり》にした|権阿弥《ごんあみ》をして首を名指さしめた。
清須から、二十町南須賀、熱田へゆく街道に義元塚を築き大卒塔婆を建て、千部経を読ませたと云う。
義元の野心煙と散じた一方、信長は地方の豪族からして一躍天下に名を知られた。
義元が逸した天下取りのチャンスは、はからずも信長の手に転がり込んで来たのである。
結末並に余説
この戦に於て、敗軍に属しながら、|反《かえ》って不思議に運を開いたのが松平元康、後の徳川家康である。元康は五月十九日の朝、丸根を|陥《おと》した後大高に居ったが、晩景になって義元の敗報が達した。諸士退軍をすすめたが、元康|若《も》し義元生きて居たら合わす顔がないとて聞かない。処に伯父水野信元が浅井道忠を使として敗報をもたらしたので、元康は部下をしてその真実であることを確めた後、十九日の午後十一時すぎ月の出を待って道忠を案内として三河に退陣したが、土寇に苦められながらやっと岡崎に着いた。着いて見ると岡崎城の今川勢は騒いで城を明け退いていたので、元康すて城ならば入らうと云ってここに居った。後永禄五年五月、水野信元のとりなしで信長と清須城に会して連合を約し、幼少から隠忍した甲斐あって次第に勢を伸す基礎を得た。元康、義元への義を想って子の氏真に|弔《とむらい》合戦をすすめたけれども応ずる気色もなかった。義元は、信長の為に一敗地にまみれたとは云え三大国を領するに至った|丈《だけ》にどこか統領の才ある武将であったが、子の氏真に至っては全く暗愚であると云ってよい。義元が文事を愛した話の一つに、ある戦に一士を斥候に出した処が、間もなくその士が首を一つ獲て帰った。義元は賞せずして反って斥候の役を怠ったとして軍法をもって処置しようとした。
その士うなだれたまま家隆の歌、
|苅萱《かるかや》に身にしむ色はなけれども
見て捨て難き露の下折
とつぶやいたのを聞いて、忽ち顔の色を|和《やわら》げたと云うことである。地方の大豪族である処から京の|公卿《くげ》衆が来往することが|屡々《しばしば》であったらしく、義元の風体も|自《おのず》から|雅《みやびや》かに、髪は総髪に、歯は|鉄漿《かね》で染めると云う有様であった。その一方には今度の戦で沓掛で落馬した話も忘れられてはならない。しかし、とも角文武両道に心掛けたのは義元であるが、氏真と来ては父の悪い方丈しか継いで居なかった。
義元死後も朝比奈兵衛大夫の|外《ほか》立派な家老も四五人は居るのであるが、氏真、少しも崇敬せずして、三浦右衛門義元と云う|柔弱《にゆうじやく》の士のみを用いて、|踊《おどり》酒宴に明け暮れした。自分が昔書いた小説に『三浦右衛門の死』と云うのがあるが、あんな少年ではなかったらしい。自分の気に入った者には、自らの|妾《めかけ》を与え、|裙紅《つまべに》さして人の娘の美しいのに歌を附けたりまるで武士の家に生れたことなぞは忘却の体である。かの三浦の如きは、桶狭間の勇士|故《こ》の井伊直盛の所領を望んだり、更に甚しくは義元の愛妾だった菊鶴と云う女を秘かに妻にしたりしながら国政に当ると云うのだから、心ある士が次第に離れて今川家衰亡の源を作りつつあったわけである。
天文二十二年に義元が氏真を戒めた手紙がある。
「御辺の行跡何とも|無分別《むふんべつに》 候、行末何になるべき覚悟に|哉《や》……弓馬は男の|業也《わざなり》器用も不器用も|不入 候可《いらずそうろうべく》稽古事也、国を|治《おさ》む文武二道なくては更に|叶《かなう》べからず候、……其上君子|重《おもから》ずんば|則《すなわち》威あらず義元事は不慮の為進退軽々しき心持候。さあるからに親類以下散々に智慮外の体|見及候得共《みおよびそうらえども》 我一代は兎角の義に及ばず候と|思《おもい》、上下の分も無き程に候へ共覚悟前ならば苦しからず候、氏真まで|此《かく》の|如《ごとく》にては無国主と|可成《なるべく》候、|能々《よくよく》此分別|之《これ》あるべし……」
義元が自らの欠点をさらけ出して氏真を戒めて居る心持は察するに余りある。
義元が文にかって居た将とすれば、信長は|寧《むし》ろ真の武将であった。戦国争乱の時には文治派より武断派の方が勝を制するのは無理のない話である。信長、|印形《いんぎよう》を造らせた事があるが自らのには「天下布武」、信孝のには「|戈剣《かけん》平天下」、信雄のには「威|加 海 内《かいだいにくわわる》」とした。もって信長の意の一端を伺うに足りる。
しかし武断一点張りでなかった事は、暗殺しようとした稲葉一徹が、かの『|雪 擁 藍関《ゆきはらんかんをようし》』の詩をよく解したと云う一点で許した如き、義元が一首の和歌の故に部下を許した、好一対の逸話をもっても知られる。
幼少より粗暴であったと云う非難があるが、勿論性格的な処もあるにしろ、|自《おのずか》らそこに細心な用意が蔵されて居たのを知らなければならぬ。
又一方からは、足利末期の形式化された生活に対する革命的な精神の発露と見られる点もあるのである。
細心であったことは人を用うる処にも現れている。信長の成功と義元の失敗とはその一半を能材の挙否に帰してもよかろう。
近い例でこの桶狭間の役に梁田出羽守には、善き一言よく大利を得しめたと云って沓掛村三千貫の地を与えたが、義元の首を獲た毛利新助はその賞梁田に及ばなかった。賞与の末に於てさえ人の軽重を見るを誤らなかった。
『|読史《とくし》余論』の著者新井白石が、そのなかで信長成功の理由を色々挙げたうちに、
応仁の乱後の人戦闘を好みて民力日々に疲れ、国財日々乏しかりしに備後守信秀|沃饒《よくじよう》の地に|拠《よ》つて富強の術を行ひ耕戦を事とし兵財共に豊なりしに、信長其業をつぎ、英雄の士を得て百戦の功をたつ。其国四通の地にして、|京師《けいし》に近く且つ足利殿数十代の余光をかりて起られしかば威光天下に及ぶ。
と云って居るが、当を得た評論であろう。
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西郷隆盛が兵を率いて鹿児島を発したときの軍容は次の通りである。
第一大隊長 篠原 |国幹《くにもと》
第二大隊長 村田 新八
第三大隊長 永山弥市郎
第四大隊長 桐野 利秋
第五大隊長 池上 四郎
第六大隊長 別府 晋介
大隊長は|凡《すべ》て、名にし負う猛将ぞろいである。殊に桐野利秋は中村半次郎と称して維新当時にも活躍した男である。各大隊は兵数ほぼ二千名位ずつであるから総軍一万二千である。各大隊には砲兵が加って居たが、その有する処は、四斤砲二十八門、十二斤砲二門、臼砲三十門であった。その|外《ほか》後に薩、隅、日の三国で新に徴集したもの、及、熊本、延岡、佐土原、竹田等の士族で来り投じたものが合せて一万人あった。この兵力に加うるに当時|赫々《かくかく》たる西郷の威望があるのだから、天下の耳目を驚かせたのは当然である。
薩軍が鹿児島を発した日から南国には珍らしい大雪となって、連日紛々として絶えず、肥後との国境たる大口の山路に来る頃は、積雪腰に及ぶ程であった。しかし薩軍を悩したものは風雪だけであって、十八日から二十日に至る間、無人の境を行く如くして肥後に入った。西郷東上すとの声を聞いて、佐土原、延岡、|飫肥《おび》、高鍋、福島の士族達は、各々数百名の党を為して之に応じて、熊本に来て合した。熊本の城下に於てさえ、向背の議論が生ずる有様で、ついに池辺吉十郎等千余人、薩軍に馳せ参ずることになった。
私学校の変に次いで、西郷|起《た》つとの報が東京に達すると、政府皆色を失った。大久保利通は、|悒鬱《ゆううつ》の余り、終夜|睡《ねむ》る事が出来なかったと云う。そして自ら西下して、西郷に説こうとしたが、周囲の者に止められた。岩倉具視も心配の極、勝安房をして行って説諭させんとした。これは江戸城明け渡しの因縁に依って、それを逆に行こうと云うわけであったが、勝が「全権を余に委任する上は、西郷の意を容れなければいけない。それでよろしいか」と云うに及んで、岩倉は黙し、ついにその事も行われなかった。
此年一月末明治天皇は|畝傍《うねび》御参拝の為軍艦に召されて神戸に|御着《おんちやく》、京都にあらせられた。陸軍中将山県有朋は、陛下に|供奉《ぐぶ》して西下して居たが、西南の急変を知るや、直ちに奏して東京大阪広島の各鎮台兵に出動を命じた。而して自ら戦略を決定したが、この山県の戦略が官軍勝利の遠因を為したと云ってよい。山県は薩軍の戦略を想定して、
一、汽船にて直ちに東京或は大阪に入るか
二、長崎及熊本を襲い、九州を鎮圧し後|中原《ちゆうげん》に出るか
三、鹿児島に割拠し、全国の動揺を|窺《うかが》った後、時機を見て中央に出るか
この三つより他に無いと見た。之に対して官軍の方略は、敵がその|何《いず》れの策に出づるを顧みず、海陸より鹿児島を攻むるにありとした。更に地方の騒乱を防ぐ為に、各鎮台をして連絡厳戒せしむる事にした。以上が山県の策戦であるが、山県の想定に対して、薩軍はその第二想定の如く堂々の正攻法に|拠《よ》ったのであった。
薩軍、軍を|登《のぼ》する前に隆盛の弟西郷小兵衛が策戦を論じた。曰く「軍を三道に分って、一は熊本を囲み、一は豊前豊後に出でて沿海を制し、一は軍艦に乗じて長崎を襲う」と、云うのだ。処が桐野利秋が反対して、
「堂々たる行軍をしてこそ、天下|風《ふう》を望むであろう。奇兵なぞを用いなくとも、百姓兵共、何事かあらん」と云ったのでそのままになった。小兵衛出でて「薩摩|隼人《はやと》をして快く一死を遂げしめるのは利秋である。また薩摩隼人をして一世を誤まらしむるものも利秋である」と嘆じたと云うが、これは確に、後に至って|何人《なんぴと》も想い当った事に違いない。
東京政府の狼狽は非常であった。三条|実美《さねとみ》、伊藤博文等は平和論を主張して居たし、朝廷にても、有栖川宮|熾仁《たるひと》親王を勅使として遣わされようと云う議さえあった。然るに熊本からの報によれば、二十日か二十一日をもって開戦となろうとの事であるので、勅使の議はとり止めとなり、十九日には、征討の|詔 《みことのり》を下され、熾仁親王を征討総督に任ぜられた。山県参軍は二十五日に博多に着き、征討総督も川村参軍を従わせられて翌日に御着、本営を|勝立寺《しようりゆうじ》に置き給うた。官軍がこの地に本営を置いた事は、策戦の上でどれ程有利な結果を来したか知れないのである。海陸運輸の便があり、|嘗《か》つて、北条氏、足利氏等の九州征略の際にも、博多はその根拠地となった程である。薩軍にして、|若《も》し早く此地を占めて居たならば、戦局は、多少異った方面に発展したに相違ない。
此役に於ける官軍の編成は、旅団が単位であるが、一個旅団は二個連隊、四個大隊であり、之に砲工兵各々一小隊が加って、総員三千余人だった。最初野津少将の第一旅団、三好少将の第二旅団、総兵四千ばかりに、熊本鎮台、歩兵第十四連隊の凡そ二千余が加って居た。勿論これで薩軍に対抗は出来ないから、間もなく、
第三旅団 三浦少将
第四旅団 曾我少将
別働第一旅団、同第二旅団、大山少将
別働第三旅団 山田少将
等の編成が行われ、諸軍合せて、歩兵は五十五大隊、砲兵六大隊、工兵一大隊、騎兵及|輜重《しちよう》兵若干、それにこの戦に特別の働があった警視庁巡査の九隊、総員|凡《およ》そ五万人である。
兵器は、薩軍の多くが口装式の旧式銃であるのに対して、底装式、スナイドル銃と云うのを持って居た。兵力兵器に於て差があり、官賊の名分また|如何《いかん》ともしがたいのだから、薩軍の不利は最初から明白であったが、しかし当時は西郷の威名と薩摩隼人の|驍名《ぎようめい》に|戦《おのの》いていたのであるから、朝野の人心|恟 々《きようきよう》たるものであったであろう。
熊本城に於ては、司令長官谷干城少将以下兵二千、人夫千七百、決死して城を守る事になり、あらゆる準備を怠らなかった。これから有名な熊本籠城が始まるのである。二月十九日、大山県令から西郷の書を城中に致した。その文に曰く、
拙者儀今般政府へ尋問の|廉有之《かどこれあり》、明後十七日県下|登程《とうてい》、陸軍少将桐野利秋、篠原国幹及び旧兵隊の者随行致候間、其台下通行の節は、兵隊整列指揮を|可被受《うけらるべく》、此段|及 照会《しようかいにおよび》 候也。
明治十年二月十五日
[#地付き]陸軍大将 西郷 隆盛
熊本鎮台司令長官
陸軍に於ける上官として命令しようと云うのであるから、子供だましのようなものである。
城内の樺山|資紀《すけのり》中佐は直ちに断然として|斥《しりぞ》けた。二十日には別府晋介の大隊が川尻に到着して、其夜、鎮台の|巡邏兵《じゆんらへい》四五十人と衝突した。これが両軍開戦の最初である。
二月十四日、乃木少佐は、小倉第十四連隊の一部隊を率いて、午前六時に折柄の風雪を冒して出発した。黒崎で|昼食《ちゆうじき》したが、ここからは靴を|草鞋《わらじ》に代えて強行軍を続け、真暗になった午後六時に熊本に達する事が出来た。この強行軍の一部隊の如きは、疲労の為に車馬を雇わざるを得ない程であった。乃木は更に福岡の大隊を指揮する為に、熊本を去ったが、熊本から、直ちに入城すべしと云う急電を受けるや、すぐ引返した。二十二日午前六時|南関《みなみのせき》を立って十一時高瀬で昼食したが、此時、少佐は軍医と計って、酢を暖めて足を痛めて居るものを洗わしめ、食後に酒を与えて意気を鼓舞した。午後一時|茲《ここ》を立って植木に向ったが、|木葉《このは》駅に至る頃賊軍既に植木に入って居ると云う報を受けたので、十数騎を前駆させ斥候せしむるに、敵は既に大窪に退いたと云う。ここに於て、駅の西南に散兵を布いて形勢を窺う事にしたが、僅かに一個中隊の兵力であった。
日は既に暮れて、寒月が高く冴えて居る。白雪に埋った山野には、低く|靄《もや》がかかって居て、遠く犬の声が聞える。淋しさと寒さとの中に斥候の報告を待って居る散兵線はにわかに附近の林中からの銃火を浴びた。乃木は我の寡兵を悟らせまいとして尽く地物に隠れさせ、発砲を禁じ、銃剣をつけさせ、満を持した。午後七時薩軍は、ふり積む白雪の上を、黒々となって|吶喊《とつかん》して来た。乃木軍始めて発砲し応戦したが、薩軍の勢は次第に増し、乃木隊|頗《すこぶ》る苦戦である。将校も負傷者の銃をとって射撃し、激戦午後九時にまで及んだが、薩軍は次第に官軍を包囲する状態にまでなり、全滅の危機に臨んだので、退却を決意し、河原林少尉をして、軍旗を捲いて負わせ、兵十余人を付けて|衛《まも》らしめ、火を挙げるのを合図に、全軍囲を衝いて千本桜に退却集合することを命じた。|櫟木《くぬぎ》、山口の両軍曹に命じて火を挙げさせようとしたが、折あしく此夜は、微風も起たない穏かな夜なので、容易に火が挙らない。やっと火の付いたのが、九時四十分頃であった。命令一下各自血路を開いて退却千本桜に集合出来たので、乃木少佐が隊列を検閲すると、肝心の河原林少尉の姿が見えない。最後の激戦の時、刀を揮って挺身する姿を見たから、或は敵手に陥ったのではないかとの事に、乃木少佐は驚いた。軍旗を失わば何の面目があろう、我は引き返して軍旗を奪還するから、志ある者は我に従えとて、奮然として行こうとするのを、村松曹長、櫟木軍曹等が泣いて諌止した。これが、乃木将軍の西南役に於ける軍旗を奪われた始末である。
二十三日にも第十四連隊は木葉附近に陣をとり、朝から優勢な薩軍と、銃火を交えた。中央部隊の大隊長、吉松少佐は乃木に向って援兵を乞うた。応援させる兵は無いが、自分がその戦線を代ろうかと乃木が云ったのに対して、吉松少佐は笑ってその必要の無いことを答えたが、間もなく吉松の率いる兵の突撃する声が聞えた。吉松少佐はついに重傷を負って|斃《たお》れた。
この応酬など戦国時代の古武士の風格が|偲《しの》ばれる。日が暮れても薩軍の砲撃の少しも衰えない為、乃木はまた退却を決心した。命を下そうとして居る際に、薩軍は大挙して押し寄せた。日暮れである上に雨と硝烟の間敵味方もさだかでないままに相乱れて戦った。乃木の馬が疲れたので、吉松の馬に乗り換えたが、忽ち弾丸が馬に|中《あた》って、馬は狂奔して敵中に入ろうとした。幸い、馬が中途で斃れたので、地上に投げ出された。そこを、薩兵つけ入ろうとしたのを、大橋伍長が身を以って防ぎ、|摺沢《すりざわ》少尉も返し合せて、身には数弾を受けながら乃木を救った。全隊辛うじて木葉川を渉って、川床で始めて隊伍を整える事が出来た。乃木は、さんざんの苦戦であったのである。
二十六日早朝、乃木はまた先陣として高瀬に向ったが、再三の敗北を残念に想い、兵を励まして奮闘した。薩軍は高地に拠って居るので味方は甚だ苦戦したが、ついに正面の断崖を|攀《よ》じ、安楽寺山を越え更に木葉に至った。その上に前車は既に|田原坂《たばるざか》を占領したとの報がある。勇躍した乃木は後軍の直に続かんことを伝えたが、意外にも三好少将の退却の命に接した。乃木は此地一度失うならば、再び得難い旨を進言した。けれども許されない。止むなく退却したのであったが、もし、此の時田原坂を占領していたならば、田原坂の難戦は起らずに済んだかも知れない。
薩軍もまた、桐野は山鹿方面から、篠原は田原方面から、羽田は|木留《きどめ》方面から、各々高瀬を攻略しようとした。二十七日には、この薩軍は第一旅団の兵が、高瀬川、|迫間《せこま》川の流域に要撃して激戦を交えたが、三好少将も|右臂《みぎひじ》は弾丸で傷き、官軍|将《まさ》に敗れんとした。野津少将の軍が来り援けた為、形勢は逆転して、高瀬川の南で、薩将西郷小兵衛を|殪《たお》すに至った。
官軍二十七日の戦いに勝ったので、野津三好両少将は、斥候をして迫間川を渉って偵察せしめたが敵影を見ない。いよいよ追撃を決して本軍(近衛一大隊、第十四連隊の一大隊、山砲臼砲各二門)は木葉を通って植木へ、別軍(近衛三中隊鎮台兵三中隊、山砲二、臼砲一)は高瀬から伊倉、|吉次越《きちじごえ》を越して熊本を目指すこととなった。官軍の追撃急であり、若しこの一戦に破れれば、熊本包囲の事も水泡に帰するので薩軍は余事のうち二千余をもって衝背軍に当り、八百余をして熊本城を攻め、其余の兵力は悉くこの守線に動員した。田原坂は特に私学校の精鋭をして守らしめた。薩将また各自に守る処を決し、桐野は山鹿方面を、篠原は田原方面を、村田及熊本隊は木留方面に陣した。野出、太田尾、三ノ嶽、耳取の天険は遙かに田原、山鹿に連絡して、長蛇の横わる如き堅陣は、容易に破り難く見えた。戦備を|了《おわ》った官軍は、月が変って三月三日、行動を起した。野津少将は高瀬の第一、第二両旅団をして予定の行軍を起さしめた。本軍が安楽寺村に達すると、稲佐村附近の丘陵に拠った薩軍は猛烈に砲撃した。薩軍は|屡々《しばしば》間道から奇兵を出して襲撃したので、官軍は損傷を受けることが多かったが、官軍もさるもの、間道の迂回線に多くの兵を割いて四方から攻撃したので、この塁も陥り、ついに木葉を占領し、更に|境木《さかいぎ》を攻略するに至った。この様な山間の戦闘では、間道から敵の側面背面を、急襲するのが有利である。別軍も伊倉を経て吉次越にさしかかると、待ち構えた薩軍は、峠の麓の立岩に在って砲火を開いた。官軍勇を奮って躍進するが、なかなか頑強であって、之を抜く事が出来なかった。その筈である、丁度此処には、薩の勇将、篠原、村田が、頑張って居たのだから。
この日、両将は木留の本営に居たのであったが、急を聞いて部下三四百を率い、馳せ来って、吉次越の絶頂の|凹《へこ》んだ処に木と草とで忽ち速成のバンガローを造って、悠々と尻を落ちつけて、指揮したと云う。最初、篠原が乗り込んで来た時は、官軍の追及急なので、薩兵少しく浮足になって居るのを、篠原大刀を揮って之を叱した。次いで単身、ゆるやかな足取りで来たのが村田である。薩軍やや元気を恢復したものの、|猶《なお》危惧の念が去らないので、村田の姿を見ると、「退却で御座いますか」と問うた者がある。村田嘲笑って曰く、「ひとつ官軍の奴共を、この狭隘の地に引入れて、|鏖《みなごろし》にして見せるかな」と。容易に抜く事が出来なかったのも尤である。別府晋介また、別路から、|小天《こてん》街道に赴いて海岸線を守ったが、此日、朝の十時から昼の三時に至る間激戦少しも止まず、官薩の死傷相匹敵したと云う。
それにしても、官軍は境木まで前進することを得て居る。田原坂はもう、この境木の目の前に在る。田原坂の血戦の幕が、切って落されたのは間も無くである。
当時東京日日の新聞社長であった福地源一郎氏が、従軍記者として、田原坂戦闘の模様を通信して居るのがある。その中に田原坂の要害を報じて、
「……坂は急上りの長坂にて、半腹の屈曲をなし、坂の両側は皆谷にて谷の内の両側は切り崖、樹木茂る。この険の突角の所を撰びて、賊は砲塁を二重にも三重にも構へ、土俵が間に合はぬとて、百姓共が囲み置く粟麦などを俵のまゝ用ひたる程なり」
大体その険要の地であることが察せられるであろうと思う。
三月四日に、第一回の田原坂攻撃が始まる。前夜、先ず、|山鹿《やまが》南関の間の要衝に兵を派して厳戒せしめた。これは薩軍が迂回して背後を衝くのを|慮 《おもんばか》ったからである。而して後、第二旅団の全部と、第一旅団の一部を本軍として、正面から攻撃することになり、第一旅団の残部は|二俣《ふたまた》を目指すことになった。本軍の先鋒青木大尉は、率先して進み、第一塁を陥れて勇躍更に坂を上るが、薩軍の弾丸は雨の様に降りそそぎ、午後の三時になっても占領する事が出来ないので退却した。坂の麓で督戦して居た野津少将は、再度の突撃を決意して、将士と共に決死の酒を|酌《く》んで鼓舞した。折しも、時ならぬ雷雨が襲って、鬱然たる山峡は益々暗い。天の時なりと考えた少将は、進軍|喇叭《らつぱ》を吹かしめ、突進させた。しかし敵弾雨よりも|繁《しげ》くして、|徒《いたず》らに多くの死傷を出すに終った。此時の戦に、谷村計介も戦死したのである。計介は始め、第十三連隊長心得、川村操六少佐の旗下で、熊本籠城の一人であった。殊死して守城するに決心した谷少将は、何とかして守城の方略を官軍の本営に伝えたいと思った。そこで川村少佐に相談した処、少佐は計介の|為人《ひととなり》を知って居たから、この重大任務遂行の使者として、之を少将に推薦した。計介は任務重大であって、その任でないと固辞したが、一度引受けるや、死をもって遂げる事を誓った。顔から手足まで、|煤《すす》を塗って人相を変え、夜陰に乗じて城を抜け出し、南関へ行こうとして、忽ちにして捕えられた。しかし必死の計介は、監視の薩兵が居眠りして居る隙に、爪で縄を断ち切って逃れた。この辺一帯、薩軍の眼が光って居るので、風の声にも心許さず、やっと吉次山中まで潜り込んだ処を、再び捕えられた。異様の風体で、山中を|徘徊《はいかい》して居たものだから、てっきり官軍の間諜と目星を指されて、追究|拷問《ごうもん》至らざるは無しである。計介苦痛を忍びながら、|佯《いつわ》って臆病な百姓の風を装ったので、幸い間諜の疑いは晴らされたが、その代り人夫として酷使される事になった。西南の役始終を通じて、官薩両軍ともに、戦闘員の外に、非常に多くの人夫を使役した。ただでは計介も許されなかったわけである。しかし此処でも、うまく敵の目を|掠《かす》めて、漸く官軍の戦線に到達すると、今度は官軍の歩哨に縛られて仕舞った。勇んで縛られて、野津少将の前に引出される時は、ものも云い得ずして、汚れた頬に涙が伝るのを如何ともし難かったと云う。
官軍の第一次の正攻が敗れた如く、二俣に向った軍も|亦《また》敗れた。本軍の奮戦と共に、吉次越攻撃の別軍二個大隊半は、野津大佐(道貫と云う、野津鎮雄少将の弟)に率いられて、立岩の塁を攻めた。薩軍は、砲を山頂に設け、銃隊を山腹の深林中に隠して、射撃する。絶頂で篠原と共に指揮して居た薩将村田は、「両翼を張って挟み撃ちしてやろう」と云って軍を二分し、一は半高山の絶頂から、一は三ノ嶽の中腹から、左右の翼を張らしめた。官軍は見事に術中に陥入って算を乱して斃れる。時機はよしと、午後一時頃薩軍は突出して殺到した。|掩護物《えんごぶつ》の作業をして居た官軍の工兵は、その不意に驚いた為、周章は全軍に及んだので、ついに退却の止むなきに至った。原倉、伊倉に一大隊を置き、あとは悉く高瀬まで退いたのが午後六時である。此日猛烈な戦闘で昼食をとる暇がなかった。指揮官野津大佐は、敵弾を、一つは革帯に、二つは軍刀に受けた程である。薩軍の勝ではあったが、篠原が此戦に死んだ事は、薩軍の士気に関するもので大打撃であった。此日、篠原国幹は、外套の上に銀かざりの太刀を|佩《お》び、自ら刀を揮って指揮したのだが、官軍の江田少佐がその顔を知って居って、狙撃させて斃したのであった。その江田少佐自身も数弾を浴びて戦死して居る。
越えて六日には、早朝から、田原坂、二俣を攻撃したが、一進一退、容易にこれを抜く事が出来ない。高瀬に在る野津大佐は、四十数名の選抜隊をして夜六時、二俣口の船底山の塁を、間道から襲撃させた。これは成功して隊長本多中尉は、敵塁に火を放って占領を報じて、更に背後の塁を衝かんとしたが、薩軍の抜刀して襲来すること三回に及んで、果すことが出来なかった。薩軍では抜刀隊を組織して居る事がわかったので、官軍も之に応じて、別働狙撃隊を新に編成した。
七日、官軍の援兵大いに来って、歩兵は三十二個中隊に及んだので、新手をもって次ぎ次ぎ攻めたてた。しかし一塁を抜いたと思うとすぐ奪還される始末なので、こちらにも、|塹壕《ざんごう》、胸壁が必要であるとて、工兵が弾雨の間を作業した。薩軍の塁に近いのは僅かに二十六米、遠いのでも百米を下らない距離で、作業の困難は一通りでない。射撃の手を少し休めると、忽ち抜刀の一隊が押し寄せた。此夜、折角得た船底の塁もまた奪い去られた。終日の発砲で、銃身が皆熱したので、中には小便をかけて冷したりして用いたが、それでも破裂するものがあった。
八日から十一日まで、戦闘は相変らず激しいが、戦況は依然たるままであった。何時までも、このままでは熊本城は危い。官軍は連日の戦闘で、部署が錯雑して陣形が乱れて居るので、改めて陣容を建なおした。三浦少将の第三旅団は山鹿口を、大山巖少将の第二旅団と別働隊、野津少将の第一旅団は田原口を夫々攻撃することになり、参軍山県中将も本営を高瀬に進めた。十四日の午前六時、号砲三発山に木魂すると共に、官軍の先鋒は二俣口望んで、喊声を挙げる。歩兵に左右を衛られた中央部隊は、暁暗に白く大刀をひらめかして居る。これが、警視庁から派遣されて居た巡査をもって編成した抜刀隊で、この抜刀隊の肉弾戦が、田原坂攻略に大きな役割を果したのであった。不意の吶喊に薩軍の|周章《あわて》るのを、白刃と銃剣で迫り、一百の抜刀隊は諸隊を越えて敵塁に躍り入り、忽ちにして三塁を陥し入れた。薩軍は支えずして、逃れたが、しかし彼我百五十米位で止り、樹木や岩石に拠って猛射するので、官軍の斃れるものが二百余に及んだ。塁や塹壕に躍り入る際に、木材を鋭く削って居るのに落ちて傷つく者も多かった。が、敵塁を占領したのもしばらくで、忽ち薩の抜刀隊五十名余りが、わめき叫んで逆襲して来た為に、官軍敗れ退いて、かの三塁も奪還された。
官軍の抜刀隊又之に屈せず逆襲したので、夜明けの山中に、頻々として白兵戦が展開された。官軍の抜刀隊奮戦して、薩兵数十人を斬って走らせたので、再び塁を占領出来た。
薩軍は猶も之を取りもどそうと、大挙して押し寄せた。
官軍の抜刀隊は死骸を楯にして敵弾を防ぎ、歩兵の|来《きた》るを待ったが、忽ちに三十余名が斃されたので、恨を呑んで引上げた。三度まで占領したが、最後にまた薩軍の手に帰したわけである。官軍にとって結局は失敗であったにしろ、今日まで十数日の間、兵火を浴せて猶陥ちなかったここを、この日の一撃でとにかく一度は占領する事の出来たのは、大成功であった。
二俣の東南寄りに、|横平《よこひら》山という高地がある。この高地は三ノ嶽の脈に当って吉次、半高の諸山に連り、その支脈は更に田原坂、白木に及んで居る。
十五日の早朝、両旅団の砲兵は、二俣、田原に近く進んで、砲撃を開始した。
此日は深い霧で、砲煙は霧に溶け込んで、砲声のみが、無気味に響いて居る。官軍が砲撃して居る頃、黙々として、横平山の間道を攀じりつつある三百|許《ばか》りの人数があった。横平山頂の官軍の守塁に近付いた午前四時、不意に抜刀して斬り込んだ。追い落された官軍は、中腹を防ぐけれども、高い処から狙い射ちに撃たれるのだからかなわない。若し、ここを奪われるなら、二俣口の守線も打撃を受け、田原坂攻撃の策戦に、重大な影響を与えるので、応援の兵と共に、必死に戦った。
薩軍は山腹に下って、林に隠れて射撃をする。官軍は銃に装剣して抜刀隊と共に進み、午後二時になって、やっと山腹の二塁を奪還した。
然し、絶頂の一塁は猶敵手にある上に、薩軍は兵力を増加した様子である。薩軍の兵火少しく衰うと見ると進み、激しいと見ると伏す。|匍匐《はらば》って進むのであるが、木や草が稀なので地物として利用するものが無い。胸壁を築きたくも、砂が無いので、近衛の工兵が、山麓から、土砂を採って袋に入れ弾雨の中を背負って運送し、自壁を急造した。
此時は、両軍の距離が十米で、陸軍の旧制服や、海兵服や|莫大小《メリヤス》の股引等の服装をした薩兵が、手にとる如く見えた。
午後になって抜刀隊の巡査五十名を間道から進ませ、歩兵また、装剣して待機し、喇叭を合図に、全軍一斉に挺進して数十人を斬り、砲塁全部を恢復し得た。
午後四時であるから丁度十二時間の戦闘である。抜刀隊中、死する者十二人、傷者三十六人と云うから、ほとんど全滅したわけである。
三月二十日、官軍いよいよ最後の総攻撃を決したが、連日の激戦にも拘らず、おしまいは案外容易に占領する事が出来た。天険田原坂も此日をもって完全に陥ったのである。
この日、昨夜からの豪雨が、暁になっても止まない。朝の五時には食事を終った官軍は、二俣口から渓谷を渉り、田原坂の横に潜行して、各自部署に就いた。待つ事少時、三発の号砲を聞くや、躍進して迫り、右翼第一線の塁を抜いた。二俣口から放つ砲弾も、盛んに後塁に落下して居る。
夜は既に明け放れて山霧全く|霽《は》れ、雨足も亦|疎《まば》らになった。官軍は|死屍《しかばね》を踏んで田原坂に進み、更に一隊は、敵塁の背後に出でようとした。薩の哨兵が、本塁に之を報ずると、防守の望み、既になしと覚ったか、塁を棄てて退却した。
始め、官軍は、一部隊をして、田原坂正面に屯せしめて正攻に出づるが如くに見せて、薩軍を欺いたのが成功したのである。既に本塁を我手に入れたのだが、田原口の部隊は、まだ之を知らずに、盛んに坂上を射撃する。喇叭で報じてもわからない。一少尉が塁上に上り、旗を振って叫んだので、漸く知ったと云う。
丁度十時頃になって居たが、全軍直ちに追撃して、植木の営を衝いた。
薩軍は、田原の険を|恃《たの》んで、植木の営の警備を怠って居たので、輜重を収める暇もない。町に入り込んだ官軍は、民家に放火した。
薩軍は総退却して|向坂《さきさか》に入って、尾撃して来た官軍と対峙した。
山鹿方面の薩軍は、田原敗ると聞いて、即日、|鳥栖《とす》地方に退き、官軍の本営は、七本に移り進んだ。向坂対陣中、薩将、貴島清、中島健彦等が熊本隊を率いて官軍を急撃した事もあるが、大勢は既に決したのである。
百戦無効半歳間
(ひゃくせんこうなしはんさいのかん)
首邱幸得返家山
(しゅきゅうさいわいにかざんにかえるをえたり)
笑儂向死如仙客
(わらってわれしにむかうせんかくのごとし)
尽日洞中棋響閑
(じんじつどうちゅうききょうかんたり)
岩崎谷の洞壁に書き終って、筆を投じた隆盛が腹を切るまで、人吉、豊後口、宮崎、延岡、可愛嶽と激烈な転戦はあったが、田原坂の激戦は、西南戦争の最初にして、しかも最後の勝敗を決したものと云ってよいのである。
この戦に於て|所謂《いわゆる》百姓兵の為すある事があり、徴兵制度の根本が確立したのである。
自分は、昭和五年に鹿児島へ行ったが、西郷隆盛以下薩軍の諸将の墓地が、壮大であるのに引きかえ、西南戦争当時の官軍の戦死者を埋葬した官軍墓地と云うのが、|荒寥《こうりよう》としていたのは、西南戦争当時の薩摩の人心の情勢が今もなおほのかに残っている気がして、興味を感じた。
[#改ページ]
元亀三年十二月二十二日、|三方《みかた》ヶ原の戦に於て、信玄は浜松の徳川家康を大敗させ、殆ど家康を獲んとした。夏目次郎左衛門等の忠死なくんば、家康危かった。
信玄が、三方ヶ原へ兵を出したのは、一家康を攻めんとするのではなく、三河より尾張に入り岐阜を攻めて信長を退治し、京都に入らんとする大志があったからだ。
だから、三方ヶ原の大勝後その附近の|刑部《おさかべ》にて新年を迎え、正月十一日刑部を発して、三河に入り野田城を囲んだ。が、城陥ると共に、病を獲て、兵を収めて信州に入り、病を養ったが遂に立たず老将山県|昌景《まさかげ》を呼んで、「明日旗を瀬田に立てよ」と云いながら瞑目した。
信玄死後|暫《しばら》く喪を秘したが、いくら戦国時代でも、長く秘密が保たれるものではない。
信玄に威服していた連中は、後嗣の勝頼頼むに足らずとして、家康に|《かん》を通ずるものが多い。その最たるものは、|作手《つくりて》城主奥平貞昌父子だった。
奥平家は、その地方の豪族だが、初め今川に属し、後徳川に附き、更に信玄に服し、今度勝頼に|背《そむ》いて、徳川に帰順したわけである。大国と大国との間に挟まる小大名、豪族などは一家の保身術として、|彼方《あちら》につき此方に付く外なかった。うまく、游泳してよい主人についた方が、家を全うして子孫の繁栄を得たわけである。
勝頼は、自分の分国の諸将が動揺するのを見、憤激して、天正二年正月美濃に入って明智城を攻略し、同じく五年には遠江に来って、高天神城を開城せしめた。家康は、わずか十里の浜松にありながら後詰せず、信長は今切の|渡《わたし》まで来たが、落城と聞いて引き返した。
勝頼の意気軒昂たるものがあったであろう。徳川織田何するものぞと思わせたに違いない。それが、翌年|長篠《ながしの》に於て、無謀の戦いをする自負心となったのであろう。
翌天正三年二月、家康は新附の奥平貞昌をして、長篠城の城主たらしめた。
長篠城は、甲信から参遠へ働きかける関門である。武田徳川二氏に依って、|屡々《しばしば》争奪されたる|所以《ゆえん》である。城は、豊川の上流なる大野川滝川の合流点に枕している。両川とも崖壁急で、塁壁の代りを成している。東は大野川が城濠の代りをなし、西南は滝川が代りを成している。
天正三年五月勝頼一万五千の大軍を以て、長篠を囲んだ。城兵わずかに五百、殊死して防いだ。
鳥井|強《すね》|右衛《え》|門《もん》|勝商《かつあき》が、家康の援軍を求めるため、単身城を脱し、家康に|見《まみ》えて援兵を乞い、直ちに引き返して、再び城に入らんとし、武田方に|囚《とら》われ、勝頼を|詐《あざむ》いて城壁に近より、「信長は岡崎まで御出馬あるぞ、城之介殿は|八幡《はちまん》まで、家康信長は野田へ移らせ給いてあり、城堅固に持ちたまえ、三日の|裡《うち》運を開かせ給うべし」と叫んで、|磔《はりつけ》にせられたのは、有名な話であるから略する。
五月十八日、信長家康両旗の援軍三万八千、長篠の西方|設楽《しだら》の高原に、山野に充ちて到来した。
しかし、此の時の武田の軍容は、信玄死後と|雖《いえど》も、落ちていたのではない。信玄が死んでいる事さえ半信半疑で、戦前稲葉一徹が家康に向い、万一信玄が生きていて、不意に打って出たら、どうするかと云い出して、信長に叱られた位である。
とにかく、武田の武名は、迷信的に恐がられていたのである。信長の出発に際して之を危んだ|旗下《きか》の諸将多く、家康も必勝を期せず、子信康を岡崎に還らしめんとした位である。
織田徳川の軍勢、設楽の高原に着くや、信長(此時四十二歳)自らは柴田勝家を従えて、設楽村極楽寺山に本陣を据えた。嫡男信忠(年十九)は河尻秀隆を従えて、矢部村勅養寺附近の天神山に、次男北畠信雄は稲葉一徹属して御堂山に、夫々陣を|布《し》いた。更に川上村茶臼山には、佐久間|右衛門 尉《うえもんのじよう》信盛、池田庄三郎信輝、滝川左近将監一益、丹羽長秀なんぞの勇将が控え、以上四陣地の東方には、蒲生忠三郎|氏郷《うじさと》、森庄蔵|長可《ながよし》、木下藤吉郎秀吉、明智十兵衛光秀等が陣した。都合総勢三万である。浅井朝倉を退治した信長は、此一戦大事と見てオールスター・キャストで来ているのである。
家康(年三十四)は竹広村弾正山に、三郎信康(年十七)は草部村松尾大明神鎮座の山に布陣した。これが本営であって、左翼の先陣は大久保|忠世《ただよ》兄弟、本多忠勝、原康政承り、右翼の軍には石川数正、酒井忠次、松平忠次、菅沼定利、大須賀康高、本多忠次、酒井|正親《まさちか》等あり、総勢八千である。信長|予《かね》てから武田の戦法を察し、対抗の戦略を立てた。元来信玄の兵法は、密集の突撃部隊を用いて無二無三に突進し、敵陣乱ると見るや、騎馬の軍隊が馳せ入ると云う手段であって、常にこの戦法の下に勝を収めて来たのである。信長は、この武田勢との正面衝突を避けた上に、新鋭の武器鉄砲を以て狙撃しようとした。これ信長の新戦術である。北は丸山、大宮辺から南は豊川の流れ近い竹広あたりまで二十余町の間、二重三重に|乾堀《からぼり》を掘り土手を築き、且つ三四十間置きに出口のある木柵を張り|廻《めぐ》らしめた。この土手と柵とに拠って武田勢の進出を|阻《はば》み、鉄砲で打ちひしごうと云うのであるが、岐阜出陣の時、既に此の事あるを予期して、兵士に各々柵抜を持たしめたと云う。鉄砲は当時五千余を持ち来ったと云うが、この新鋭の武器に対して、信長がかかる関心を持っていたのに対して、勝頼は父信玄の旧法を維持する事をのみ知って、余り注意を払って居なかった事は、鉄砲入手の便が、信長勝頼の両地に於て著しい相違があったとは云え、武田家の重大な手落であった。弓矢とっての旧戦法が、新しい銃器の前には、如何に無力であるかを、長篠の役は示して居るのである。
織田徳川の戦陣が整うのを見て、十九日、勝頼も|軍《いくさ》評定をした。自ら曰く、「総軍をして滝川を渡り清井田原に本陣を移し、浅木、宮脇、柳田、竹広の線に於て決戦せん」と。信玄以来の宿将、馬場美濃守信房、内藤修理昌豊、山県三郎兵衛|昌景《まさかげ》等は、これを不可であるとした。彼等は、既に|中原《ちゆうげん》に覇を|称《とな》えて居た信長と、海道第一の家康の連合軍が、敗れ難い陣容と準備とをもって来ったのを見抜いて居た。
内藤等は退軍をすすめ、|若《も》し敵軍跡を追わば、信州の内に引入れて後戦うがよいとした。勝頼は聴かない。そこで馬場等は、では長篠城を攻め抜いた後に退けば、武田の名にも傷つくまい。今城に鉄砲五百あるとして、味方の攻撃の際、最初五百の手負が生ずるであろう。二度目の時はそれ以下ですむ。かくして千を出でない犠牲で、武田の家名を傷つけないで退く事が出来るが、あまりに武田の武力を自負している勝頼は跡部|大炊助勝資《おおいのすけかつすけ》の言を聴いて許さない。非戦論者達は、では長篠城を抜いて勝頼を入れ、一門の武将は後陣となり、我等三名は川を越えて対陣し、持久の策を採らば、我軍の兵糧に心配ないのに対して、敵軍は事を欠いて自ら退陣するであろう、と云った。跡部等は、何で信長ほどの者が引返そうや、先方から攻め来る時は如何、と反対するので、馬場等はその時は止むを得ない、一戦するまでである、と答えた。跡部等は嘲けって、その期に及んで戦うも、今戦うも同じである、とやり返した。勝頼、今は戦うまでである、御旗、|無楯《たてなし》に誓って戦法を変えじ、と云ったので、軍議は決定して仕舞った。旗とは義光以来相伝の白旗、無楯とは同じく源家重代の|鎧《よろい》八領のうちの一つ、共に武田家の重宝であって、一度、これに誓う時は、何事も変ずる事が出来ない|掟《おきて》であったのである。かくて信玄以来の智勇の武将等の|諌言《かんげん》も、ついに用いられず、勝頼の自負と、跡部等の不明は、戦略を誤り、兵数兵器の相違の上に、更に戦略を誤ったのである。勝頼は決して暗愚の将では無かったのだが、その機略威名が父信玄に遠く及ばない上に、良将を率い用いる力と眼識が無く、かく老将を抑えて自分を出そうとする我執がある。旗下の諸将との間が、うまく行かなかった事は彼の為に惜しむべきであった。跡部等が強硬に一戦を主張した裏には、信長の|用間《ようかん》に陥り、佐久間信盛が戦い半ばにして裏切ることを盲信して居たからだとも伝えるが、この事は単なる伝説であろう。また跡部と共に勝頼の寵を専らにした長坂釣閑が、馬場、内藤等と争って事を誤たしむるに至ったとも云うが、長坂は此の時他の方面に出動していたから、後世史家の悪口である。長坂、跡部共に、新主勝頼の寵を誇って専断多かった事は事実らしいが、必ずしも武田家を想わざる小人輩とは為し難い。長坂は、勝頼と天目山に最期を共にして居るのである。跡部もとにかく天目山迄は同行しているのである。その時に残った侍衆は四五十人だったと云うから、跡部も相当忠義な家来であると云ってよい。ただ彼等の智略が、馬場、内藤、山県等に及ばなかった事、既に前年、争論の結果、相反目して居た。この戦の前年即ち天正二年の末、山県の|宿《しゆく》で馬場、内藤及び高坂昌隆の四人が小山田佐兵衛信茂、原|隼人佐《はやとのすけ》を加えて、明年度の軍事を評議した事があった。其処へ|兼々《かねがね》勝頼の側姦の士と白眼視された長坂、跡部の両人がやって来た。短気な内藤は、「此席は機密な軍議の場である。信玄公|卒《しゆつ》するの時、武田家の軍機は我等四人内密に行うべきを遺言された。この大事の席に何事だ」と怒鳴ると、長坂は「腰頼一両年中に、織田徳川と決戦する覚悟である旨を受けて、軍議の処に来た」と答えた。内藤大いに怒って、「この|野狐奴《のぎつねめ》が、主君を|唆《そその》かして、無謀の戦を催し、武田家を亡ぼそうと云うのか。柄にない軍事を論ずる暇があらば、三嶽の鐘でも|敲《たた》け」と|罵《ののし》った。長坂も|怒《いか》り、刀に手をかけた処、内藤は、畜生を斬る刀は持たぬとて|鞘《さや》ぐるみで打とうとしたのを、人々押止めたと云う事がある。こんな遺恨から、今度の軍評定の席でも、両々相争ったわけだが、非戦論者ついに敗れたので、馬場等は、大道寺山の泉を、馬柄杓で汲みかわし、決死を|盟《ちか》った。非戦論者はそれでも|諦《あきら》められずに、二十一日の決戦当日の朝、同じ非戦論の山県昌景を代表として、勝頼に説かせたが、勝頼は「いくつになっても命は惜しいと見えるな」と皮肉を云って取合わない。奮然として退いた昌景は、同志の面々が集まって居る席に来て「説法既に無用、皆討死討死」と云い棄てて、縁側から馬に打乗り、|甲《かぶと》の緒をしめるを遅しと戦場に馳せ向ったと云う。
勇将猛士が非戦論である戦争が、うまく行くわけはない。みんな討死の覚悟を以て、無謀の軍と知りながら戦ったのである。
勝頼戦いを決するや、長篠城監視を小山田昌行、高坂昌澄等二千の兵をもって為さしめ、|鳶《とび》ヶ巣の塁以下五つの砦には兵一千を置いた。そして次の如き布陣を行った。織田徳川勢に対して正々堂々の攻撃を為すつもりである。即ち、浅木附近大宮|表《おもて》へは馬場美濃守信房先鋒として、部将穴山陸奥守梅雪(勝頼の妹聟)以下、真田源太左衛門信綱、土屋右衛門昌次、一条右衛門|大夫信就《たいふのぶなり》等、中央、|下裾《しもすそ》附近柳田表へは、内藤修理昌豊を先鋒となし、部将武田逍遙軒|信廉《のぶかど》(信玄の弟)、原隼人佐、安中昌繁等。又竹広表へは、先鋒山県三郎兵衛昌景承り部将武田左馬助信豊(信玄弟の子)、小山田|右兵衛《うひようえ》信茂、跡部大炊助勝資等。勝頼自らは、前衛望月右近、後衛武田信友、同信光等と共に清井田原の西方に陣した。各部隊共兵三千、総軍一万五千である。各部隊の長は皆勝頼の一門であるが、揃って|孰《いず》れも勝れた大将でもなく、この戦い敗れた後は命全うして信州へ逃げ帰った。それに引代え、軍の先鋒は信玄の秘蔵の大将であり、其他の将士も皆音に聞えた猛士であるが、この戦に殆んど|総《すべ》て討死して仕舞った。智勇の良将を失った勝頼は爪牙を無くした虎の如く再び立ち得なかったのも当然である。
戦機いよいよ熟した二十日の夜である。織田の陣中に於て、最後の軍評定が開かれた。陣中の座興にと、信長、家康の士酒井左衛門尉忠次に|夷舞《えびすまい》を所望し、諸将|箙《えびら》を敲いて|囃《はや》した。充分の自信があったのであろう。落付き払った軍議の席である。いよいよ評定に入るや、かの好漢忠次真先に、鳶ヶ巣以下の諸塁を夜襲し、併せて武田勢の退路を断たんことを提議した。信長、迂愚の策を、上席に先んじて口に出したと、怒って退出したが、|密《ひそ》かに忠次を呼び入れて、「汝の策略は最も妙、それ故に他に洩れるのを慮って偽り怒ったのだ」と云って秘蔵の|瓢箪板《ひようたんいた》の忍び|轡《ぐつわ》を与えた。忠次勇躍して、本多豊後守広孝、松平|主殿助伊忠《とのものすけこれただ》、奥平監物貞勝等と共に兵三千、菅沼新八郎を教導として進発した。松山越の観音堂の前で各々下馬して、|甲冑《かつちゆう》を荷って嶮所をよじたが、宵闇ではあるし行悩んだ。忠次、そこで案内者を先に行かしめ、木の根に縄を結び付け、これにとり付いて一人|宛《ずつ》登って行かせた。菅沼山に勢揃するに一人の落伍者もなく着いた。つまりロック・クライミングをやったわけである。甲冑を着けると、鳶ヶ巣目がけて一勢に突撃した。本当は、旗本の士天野西次郎、一番槍であったが、戸田半平|重之《しげゆき》と云う士、此戦い夜明に及ぶかと考え、銀の|晒首《さらしくび》の指物して乗り込んだのが、折柄のおそい月の光と、塁の焼ける火の光とで目覚しく見えた為に一番槍とされた。夜討の事だから誰も指物はなかったのであるが、半平だけ指物を持っていたので得をしたのである。塁の焼ける火が長篠の城壁に光を投げたが、夜襲成功と見て、城将貞昌は、大手門を一文字に開いて之を迎えた。奥平美作守|貞能《さだよし》一番乗であったが、陣中に貞勝、貞能、貞昌、父子無事の対面は涙ながらであったと伝える。武田の本軍、鳶ヶ巣以下の落城を知ったが、敵軍を前にして今更騎虎の勢い、退軍は出来ない。天正三年五月二十一日の暁時(丁度五時頃)武田の全軍は行動を開始した。初夏の朝風に軍馬は|嘶《いなな》き、旗印ははためいて、戦機は充満した。此時、織田徳川方では丹羽勘助|氏次《うじつぐ》等を監軍とし、前田又左衛門利家等が司令する三千の鉄砲組が、急造の柵に拠って、武田勢の堅甲を射抜くべく待ち構えて居たのである。丸山、大宮を守る佐久間右衛門尉が五千騎に向って、浅木辺より進軍する武田勢三千、その真先に、白覆輪の鞍置いた月毛の馬を躍らし、卯の花|縅《おどし》の鎧に錆色の星冑|鍬形《くわがた》打ったのを着け、白旗の指物なびかせた|老《おい》武者がある。武田の驍将馬場美濃守信房である。手勢七百を二手に分けると見ると、さっと一手を率いて真一文字に突入って、忽ち丸山を占領して仕舞った。そして新手を丸山の前に備えた。神速の行動に、もろくも一の柵を破られたので、明智十兵衛光秀、不破河内守等が馳せ来って応援したが、既にこの時は、二の柵まで押入られた。しかし信房の兵も鉄砲の弾に中って忽ちにして二百余人となったが、信房少しも驚かず、二の柵を取払った。真田源太左衛門信綱、同弟|兵部丞《ひようぶのじよう》、土屋右衛門尉等が、信房に退軍をすすめに来た時には、僅か八十人に討ちなされて居た。信房は真田兄弟が防戦する間に退いた。明智の部下六七人が、真田兄弟の働き心にくしと見て迫るのを、兵部丞にっこり笑って、「滋野の末葉|海野《うんの》小太郎幸氏が後裔真田一徳斎が二男兵部丞昌輝討ち取って功名にせよ」と名乗るや三騎を左右に斬って棄てた。自分も弾に中って死んだのだが、兄源太左衛門も青江貞次三尺三寸の陣刀をふりかぶりふりかぶり、同じ所で討死した。土屋右衛門尉も、池田紀伊守、蒲生忠三郎の備えを横合から突崩した。側の一条右衛門大夫信就に向って云うには、「|某《それがし》は先月信玄公御法事の時殉死を遂げんとした処高坂昌澄に|諌《いさ》められて本意なく今日まで存命した。今日この場所こそは命の棄て処である」と。進んで三の柵際まで来て、自ら柵を引抜き出した。大音声で名乗りを挙げるが、織田勢その威に恐れて誰も出合わない。雨の様な弾丸は、右衛門尉の|冑《かぶと》に五つ当った。年三十一で討死である。
此手の大将馬場信房は、一旦退いたものの直ちに引返して、手勢わずか八十をもって三の柵際に来り、前田利家、野々村三十郎等の鉄砲組の備えを追散らして居た。勇将の|下《もと》弱卒なしである。が、敵は近寄らずに、鉄砲で打ちすくめようとするのである。一条右衛門大夫来って退軍をすすめた。もう此時分には、信房の右翼軍ばかりでなく、中央の内藤修理の軍も、左翼の山県三郎兵衛の軍も、敵陣深く攻め入りながらも、いずれも鉄砲の威力の前、総崩れになろうとして居たのである。一条の勧めに対して信房は、「勝頼公の退軍に|殿《しんがり》して討死仕ろう」と答えた。|猿橋《えんきよう》辺から|出沢《すざわ》にかけて防戦したが、勝頼落延びたりと見届けると、岡の上に馬を乗り上げ、「六孫王|経基《つねもと》の嫡孫摂津守頼光より四代の孫源三位頼政の後裔馬場美濃守信房」と名乗った。|塙《ばん》九郎左衛門直政の士川井三十郎突伏せて首を挙げたが、信房は敢て争わなかった。年六十二。自らの諌言を取り上げなかった主勝頼の為に、ついに老骨を戦場に|晒《さら》したわけである。十八の初陣から今まで身に一つの傷を負わないと云う珍しい勇将であるが、或時若き士達に語って曰く、
一、敵方より味方勇しく見ゆる日は先を争い働くべし。味方臆せる日は|独《ひとり》進んで決死の戦いをすべし。
二、場数ある味方の士に親しみ手本とす。
三、敵の冑の吹返し|俯《うつむ》き、指物動かずば剛敵、吹返し仰むき、指物動くは、弱敵なり。
四、槍の穂先上りたるは弱敵、下りたるは剛。
五、敵勢盛んなる時は支え、衰うを見て一拍子に突掛るべし。
と教えたと云う。
中央の内藤修理の軍の働きも華々しいものであったが、結局は馬場信房の軍と同じ運命に陥らざるを得なかった。滝川左近将監四千余をもって佐久間の右手柳田に備えて居るのを、修理千五百を率いて押し寄せ、忽ちに一の柵を踏み破った。佐久間、滝川両軍の浮足を見て居た家康は、使をやって柵内に入り防禦すべく命じた。剛情|我儘《わがまま》の佐久間は怒って、「戦わずして崩れるのを、武田家では|見崩《みくずれ》と称して大いに笑うものだ」と力み返った。家康これはいかんと云うので、自ら馬を飛して信長に事の次第を語った。信長直ちに使をやって|誡《いまし》めようとしたが時既に遅く、両軍敗退の最中であった。修理は原隼人佐、安中左近、武田逍遙軒と共に、一の柵を馬蹄に蹴散らしたが、信長勢は二の柵に入り込んで、鉄砲ばかりを撃って居る。修理大音あげて、「上方勢は鉄砲なくしては合戦が出来ないのか、柵を離れて武田の槍先受ける勇気がないのか、汚いぞ」と|呼《よばわ》った。汚いとあっては、武士の不面目とばかり、滝川一益、羽柴秀吉、柵外に出たのはよかったが、苦もなく打破られて仕舞った。|畔《あぜ》を渡り泥田を渉って三の柵に逃げ込んだ。一益の金の三団子をつけた馬印を、危く奪われると云う騒ぎである。しかし修理、隼人佐、左近等も下馬して奮戦して居るうちに弾丸の為に倒れた。修理の首は、徳川の士朝日奈弥太郎が、采配と共に奪いとった。信長の策戦功を奏して、馬場、内藤の部隊が悉く将棋倒しに会って居るのを見た。だが、いかなる勇将猛士も鉄砲には|敵《かな》わないのだ。「鉄砲など卑怯だぞ!」と理窟を云って見ても、相手が鉄砲を止めないのだから仕方がない。武田軍の左翼山県三郎兵衛昌景は千五百騎を率いて、一旦豊川を渡り、柵をしてない南方から攻め入ろうとしたが、水深く岸も嶮しいので、渡ることが出来ない。徳川の士、大久保七郎右衛門、同弟次右衛門、六千の兵をもって、竹広の柵の前一町計りの処に陣取って居るのを幸として、昌景一気に徳川勢の真中に突入ったので、敵味方の陣が反対になった。物凄い中央突破である。昌景即ち人数を二手に分け、大久保勢の柵内に逃げ帰るを防いだ。山県の士広瀬郷左衛門、白の幌張の指物をさし、小菅五郎兵衛赤のを指して、揚羽の蝶の指物した大久保七郎右衛門、金の|釣鏡《つりかがみ》の指物の弟次右衛門と竹広表の柵の内外を馳せ合せて相戦う様は、華々しい光景であった。小菅は痛手を|蒙《こうむ》って退いたが、広瀬は猶敵勢のなかを|馳《か》け廻って、武者七騎を突伏せ、十三騎に手を負わしたと云うから大したものである。山県勢、大久保勢と押しつ押されつの激戦をくり返して居るうちに、弾丸で死するもの、六百に及んだ。昌景屈せず、柵を破れと下知して戦ったが、忽ちに|復《また》二百余りは倒れ、|疵《きず》つくものも三百を越えた。しかし手負の者も、三ケ所以上負わなければ退かせない。昌景自身冑の|吹返《ふきかえし》は打砕かれ、胸板、|弦走《つるばしり》の辺を初めとして総て|弾疵《たまきず》十七ケ所に達したと伝えるから、その奮戦の程が察せられる。昌景の士志村又右衛門、昌景の馬の口を押えて、退軍して士気を新にすることを奨めた。そこで馬を返そうとすると、既に敵の重囲の中であるから、朱の|前立《まえだて》を見て、音に聞えた山県ぞ、打洩すなと許り押し寄せて来る。広瀬郷左衛門、志村又右衛門等これを押え戦う暇に、昌景退こうとして、ふと柵に眼を放つと、この乱軍の中に悠々と破られた柵を修理して居る男がある。「柵の|杭《くい》はかく打つもの、結び様はこの様にするもの」と云い|乍《なが》ら立ち働いて居るのを見て、昌景、「|彼奴《かやつ》は尋常の士ではない、打ち取れ」と馬上に突っ立つ処に、弾丸、鞍の前輪から後に射通した。采配を口に|銜《くわ》え、両手で鞍の輪を押えて居たが、堪らず下に落ちた。徳川の兵|馳《はし》り寄って首を奪い、柵内に逃げもどろうとするのを志村追かけ突伏せてとり返す事を得た。昌景初め飯富源四郎と称したが、信玄その武功を賞して、武田家に由緒ある山県の名を与えたのであった。常々武将の心得を語るのに、「二度三度の首尾に心|驕《おご》る様ではならない。刀ですら錆びる。まして油断の心は大敵である。心驕ることなく、家臣の忠言を容れるのが第一である」として居たが、彼の座右の銘が勝頼に解し得なかったのは是非もない次第であった。昌景が討死の前、眼をつけた武士は、羽柴秀吉であったと伝えられる。武田左馬助、小山田兵衛尉、跡部大炊助等も別の一手をもって、弾正台の家康を目指すけれど大勢は既に決した。望月甚八郎、山県討死の処に乗入れて敗残の兵を引上げしめようとしたが、弾丸一度に九つも中り、脚と内冑を撃たれて果てた。ここに至って甲斐の武将勇卒概ね弾丸の犠牲となり終って、武田勢総敗軍の終局となる。敵浮足立ったりと見ると、織田徳川の両軍は柵外に出でて追撃戦に移った。信長の使が徳川の陣に来って、先陣せよと下知を伝えた処、大久保兄弟に属している内藤四郎右衛門|信成《のぶなり》、金の軍配|団扇《うちわ》に七曜の指物さしたのが、「我主君は他人の下知を受けるものではない。内藤承って返答したりと申されよ」と云った。意気|昂《あが》って鼻いきが荒いのである。徳川の|脇備《わきぞなえ》、本多平八郎、原小平太、直ちに勝頼の本陣に突懸った。勝頼騒がず真先に|馳《か》け合せようとするのを、土屋惣蔵馬の|轡《くつわ》を押え、小山田十郎兵衛以下旗本の士四百騎が、悉く討死して防ぐ間を、落延びさせた。力と頼む各部隊の驍将等が悉く討死して指揮を仰ぐに由ない上に、総大将の退陣と聞いては、さしもの武田勢も乱軍である。勝頼の後備武田信友、同信光や、穴山梅雪の如きは勝頼より先に逃げ延びた程である。滝川を渡り、西や北を目指して落ちて行った。前田利家、敗走軍を追って川の|辺《ほとり》に来ると、鍬形打った甲の緒を締め、最上胴の鎧著けた武者一騎、大長毛の馬を流に乗入れて、静々と引退くのを見た。落付き払った武者振只者に非ずと、利家|諸鐙《もろあぶみ》を合せて追掛けると、彼の武者また馬の|頭《こうべ》を返した。|透間《すきま》もなく切り合い火花を散して戦っているうち、利家|高股《たかもも》を切られて馬から下へ落された。退軍の今、首一つ二つ獲った処でと思ってか、彼の武者見下したまま、再び退こうとする処に利家の家老村井又兵衛長頼、馬を飛してやって来た。主の傷つき倒れたのを介抱しようとすると、利家「敵を逃すな」と下知した。又兵衛命のままに立向うと、大変な剛の者と見えて、忽ち又兵衛の甲の鉢を半分ほども斬り割った。それで主利家と同じ様に馬から仰向けに落されたのだが、落ち際に相手の|草摺《くさずり》に取付いて、諸共に川の中に引摺り込んだ。相手が上にのし掛ったのを、又兵衛素早く腰刀を抜いて、二刀まで刺して|刎返《はねかえ》したので、|流石《さすが》の剛の者も参って仕舞った。武田の弓隊長|弓削《ゆげ》某と云う者だと伝える。織田徳川勢の追撃急な上に、勝頼主従の退却も、しかも滝川に橋が沢山ないのであるから|頗《すこぶ》る危かった。余り|周章《あわ》てて居るので、相伝の旗を棄てたままにした。本多忠勝の士原田矢之助これを分捕った。堀金平勝忠、武田勢を追いながら、「旗を棄てて逃げるとは、それで甲州武士か」と嘲笑をあびせると、武田の旗奉行振り返って、「いやその旗は|旧《ふる》くなったものだから棄てたので、かけ代え此処に在り」と云って新しい大文字の旗を掲げると逃げ出した。堀「尤も千万な申分である。馬場、山県、内藤等の老将も旧物であるから棄殺ししたか」と云った。敗戦となると惨めなもので、どう云われても仕方がない。勝頼、猿橋の方を指して退いて居たが、従って居るのは|初鹿野《はじかの》伝右衛門三十二歳、土屋右衛門尉弟惣蔵二十歳であった。惣蔵、容姿端麗にしてしかも剛気であったので、勝頼の寵愛深かった。惣蔵、兄右衛門尉の身を気づかって、馬を返すこと二度に及んだが、その度に勝頼も轡を返した程であった。勝頼の後三四町の処を、武田左馬助信豊三四十騎をもって殿軍して居た。勝頼ふり返って、信豊の様子を眺めて居たが、伝右衛門を顧みて曰く、「我、信玄の時御先を|馳《か》けたるによって、当家重大の|紺地泥《こんじでい》の|母衣《ほろ》に四郎勝頼と記したのを指した。当主となった後は左馬助に譲ったが、今見ると指して居ない。若し敵の手に渡る様なことがあれば勝頼末代までの恥である。身命を棄つるともこれを棄てては引く事は出来ない」そこで伝右衛門、左馬助の許に馳せて聞くと、「戦い余りに激しかったので串は捨て、母衣は家老の青木尾張守に持たせて置いた」と答えて尾張の首に巻き附けたのを解いて渡した。勝頼上帯に挿んで|後《のち》進もうとすると馬が疲労し尽して動かない。笠井肥後守この体を見て馳せ|来《きた》るや、馬から飛び下り、「この馬に召さるべし」と云う。勝頼「汝馬から離れれば必ず討死することになるぞ」と云うと、恩義の故に命は軽い、忰をどうぞ御引立下さいと|応《こた》え、勝頼の馬の手綱を採って押戴き、踏止まって討死した。此時にはもう追手の勢間近に迫って居たので忽ち徳川の兵十二三騎後を慕って寄せて来た。伝右衛門、惣蔵、渡合って各々一騎を切落し、惣蔵更に一騎と引組んで落ち、首を獲る処に折よく小山田|掃部《かもん》、弟弥介来かかって、辛うじて退かしめた。弥介は、伝右衛門奮戦の際、持って居た勝頼の諏訪|法性《ほつしよう》の甲を田に落したのを拾い上げた。勝頼、惣蔵を扇で|煽《あお》いで|労《ねぎ》らい、伝右衛門の軽傷を負ったのに自ら薬をつけてやった。黒瀬から小松ヶ瀬を渉り、菅沼|刑部《ぎようぶ》貞吉の|武節《ぶせつ》の城に入り、梅酢で渇を医やしたと云う。勝頼の将士死するもの一万、織田徳川の死傷又六千を下らなかったと伝わる。とにかく信長の方では三重にも柵を構え、それに依って武田の猛将勇士が突撃するのを|阻《はば》み、武田方のマゴマゴしている所を鉄砲で打ち|萎《すく》めようと云うのである。鉄条網をこしらえていて、それにひっかかるのを待って機関銃で掃射しようと云う現代の戦術その|儘《まま》である。こう云う戦術にかかっては、いかに馬場信房でも山県昌景でも、生身である以上、忽ちやられるわけである。而も彼等が戦いを欲して進んだのでなく、勝頼からの主命で止むなく突進して死んだのであるから気の毒である。勝頼が天目山で死んだのは天正十年だが、武田はこの一戦で敗亡の形を現したのである。桶狭間では必死奇兵を弄して義元を倒した信長は、ここでは味方の多勢を頼んで万全の戦術を考えているのである。喰えない大将である。勝頼などが、到底及ばないのも仕方がないと云うべきである。天下が統一されたのは鉄砲が伝来された為であると史家は云うが、鉄砲の威力が極度に発揮されたのは長篠合戦が最初である。
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清洲会議之事
天正十年六月十八日、尾州|清洲《きよす》の植原次郎右衛門が大広間に於て、織田家の宿将相集り、主家の跡目に就いて、大評定を開いた。これが有名な清洲会議である。
この年の六月二日、京都本能寺に在った右大臣信長は、家臣|惟任《これとう》日向守光秀の反逆に依って倒れ、その長子|三位《さんみ》中将信忠も亦、二条の城に於て、父と運命を共にした。当時、織田の長臣柴田|修理亮《しゆりのすけ》勝家は、上杉景勝を討つべく、佐々|内蔵《くらの》|助《すけ》成政、前田又左衛門利家、佐久間|玄蕃允《げんばのすけ》盛政、及び養子伊賀守勝豊以下を率いて、越中魚津に在陣中であった。本能寺の変が報ぜられたのは、同月四日の夜に入ってからであるが、陣中の周章は|一方《ひとかた》でなく、戦半ばにして、勝家は越前に、盛政は富山に引き退いた。又滝川左近|将監《しようげん》一益も、武蔵野に於て、北条左京大夫|氏政《うじまさ》と合戦中であったが、|忽《たちま》ち媾和して、尾州長島の居城に帰った。更に森勝蔵長勝は、上杉家と争って居たのだが、信濃川中島へ退き松本を経て、美濃に退いて居た。さて最後に、羽柴筑前守秀吉であるが、当時、中国の毛利大膳大夫輝元を攻めて、高松城水攻をやっていたが、京都の凶報が秀吉の陣に達したのは、六月三日|子《ね》の刻であるが、五日の朝まで、信長生害の事を秘して、|終《つい》に毛利との媾和に成功した。和成るや飛ぶが如くに馳せ上って、光秀の虚を山崎|宝寺《たからでら》天王山に衝き、光秀をして三日天下のあわれを喫せしめた。この山崎合戦が、まさに、秀吉の天下取りの戦争であった。そして信長の遺した事業に対し、偉大なる発言権を握ったわけだ。勝家以下の諸将が、変に応じて上洛を期したけれども、秀吉の神速なる行動には及ぶべくもなかった。だが、信長の遺児功臣多数が存する以上、すぐ秀吉が天下を取るわけには行かない。遺児の中|何人《なんぴと》をして、信長の跡に据えるかと云うことが大問題であった。さて信長信忠の血を|享《う》けて居る者には、次男信雄、三男信孝及び、信忠の子三法師丸がある。この三人のうちから誰を立てて、主家の跡目とするかが、清洲会議の題目であった。植原|館《やかた》の大広間、信雄信孝等の正面近く、|角柱《かくばしら》にもたれて居るのは勝家である。勝家の甥三人も柱の近くに坐した。秀吉は縁に近く、池田武蔵入道|勝入《しようにゆう》、惟住五郎|左衛門 尉《さえもんのじよう》長秀等以下夫々の座に着いた。広間の庭は、織田家の侍八百人余り、勝家の供侍三百余と共に、物々しい警固だった。一座の長老勝家、先ず口を開いて、織田家の御世嗣には御利発の三七信孝殿を取立参らせるに|如《し》くはない、と云った。勢威第一の勝家の言であるから、異見を抱いて居る部将があっても、容易に口に出し難い。満座粛として静まり返って居るなかに、おもむろに、異見を述べたのは秀吉である。「柴田殿の|仰《おおせ》御尤のようではあるが、信孝殿御利発とは申せ、天下をお嗣参らせる事は|如何《いかが》であろう。信長公の嫡孫三法師殿の|在《おわしま》すからには、この君を立て参らせるのが、最も正当であると存ずるが、如何であろう」と。言辞鄭重ではあったが、勝家と対立せざるを得ない。静り返っていた一座は、次第にさざめき来ったのであった。勝家の推した信孝は、三男と云うことになっては居るが、実は次男なのだ。信雄信孝とは永禄元年の同月に生れ、信孝の方が二十日余りも早かったのだが、信雄が信忠と母を同じくしたのに引かえ、信孝は異腹であったので、人々信雄を尊んで、早速に信長に報告し、次男と云うことになって仕舞った。信長に対する報告が早かったので、信雄が次男になったのである。信雄は凡庸の資であるが、信孝は、相当の人物である。長ずるに及んで、|秘《ひそ》かに不遇をかこって居たのも無理はない。勝家を頼ったのも、尤であるし、勝家またこれを推して、自らの威望を加えんと考えたのも当然であろう。しかるに秀吉の反対は、一座を動揺せしめたが、秀吉の云い分にも、正当な理由がある。『太閤記』などには、信忠─秀吉、勝家─信孝の間には、往年男色的関係があったなどとあるが、それが嘘にしても、常からそういう組合せで仲がよかったのだろう。勝家を支持するもの、秀吉を是とする者、各々主張して譲らず、果しなく見えた。勝家の苦り切るのは当然である。秀吉この有様を見て、中座して別室に退き、香を薫じ、茶をたてて心静かに、形勢を観望した。しかし間もなく、勝家に次ぐ名望家、丹羽長秀の言葉が紛糾の一座を決定に導いた。長秀曰く、子を立てるとしたら此場合、信雄信孝両公の|孰《いず》れを推すかは|頗《すこぶ》る問題となるから、それより秀吉の言の如く、嫡孫の三法師殿を立てるのが一番大義名分に|応《かな》って居るように思われる。其上、今度主君の|仇《あだ》を討った功労者は、秀吉である、只今の場合、先ず聴くべきは先君の|敵《かたき》を打った功労の者の言ではあるまいか、と。――戦国の習い、百の弁舌より一つの武功である。議すでに決し、柴田、丹羽、池田、羽柴の四将は、各々役人を京に置き、天下の事を処断する事となった。この清洲会議の席上で、勝家が、秀吉を刺さんことを勧めたと云う話や、秀吉発言の際、勝家声を荒らげて、己れの意に逆うことを責め、幼君を立てて天下を窺う所存かと|罵《ののし》り、更に信雄等が奥へ引退いた後、衆を|憚《はばか》らず枕を持ち来らしめ、寝ながら万事を相談し、酒宴になるや秀吉は|上方《かみがた》の者で|華奢《きやしや》風流なれど、我は北国の野人であると皮肉って、梅漬を実ながら十四五喰い、大どんぶり酒をあおり、|大鼾《おおいびき》して|臥《ふ》した等々の話があるが、これ等は恐らく伝説であろう。しかし勝家の|忿懣《ふんまん》は自然と見えて居たので、秀吉は努めて|慇懃《いんぎん》の態度を失わずして、勝家の怒を爆発させない様にした。信長の領地分配の際にも、秀吉は敢て争わなかったのである。そればかりではない。勝家が秀吉の所領江州長浜を、自らの上洛の便宜の故を以て強請した時も、秀吉は唯々として従って居る。ただ勝家の甥の佐久間盛政に譲る事を断って、勝家の養子柴田伊賀守に渡すことを条件としたに過ぎない。しかしこの事は、秀吉の深湛遠慮の存する処であるのを、勝家は悟らなかった。危機を|孕《はら》んだままに、勝家秀吉の外交戦は、秀吉の勝利に終ったが、収まらぬのは勝家の気持である。直後秀吉暗殺の謀計が|回《めぐ》らされたのを、丹羽長秀知って、|密《ひそ》かに秀吉に告げて逃れしめた。勝家の要撃を悟って、秀吉津島から長松を経て、長浜に逃れて居る。自分でこんな非常時的態度に出て居るので、勝家の方でも亦、秀吉の襲撃を恐れて、越前への帰途、|垂井《たるい》に留り|躊躇《ちゆうちよ》する事数日に及んだ。だが、秀吉はそんな小細工は嫌いなので、それと聞くや、信長の第四子で秀吉の義子となって居る秀勝を質として、勝家の下に送った。勝家|漸《ようや》く安心して木の本を過ぎて後、秀勝をやっと帰らしめた。此時からもう二人の間は、お互に警戒し合っている。こんな状態で済む筈はなく、ついに|賤《しず》ヶ|岳《だけ》の実力的正面衝突となった。
勝家は越前に帰り着くと、|直《ただ》ちに養子伊賀守勝豊に山路将監、木下半右衛門等を添えて長浜城を受取らしめた。勝家は、秀吉或は拒んで、戦のきっかけになるかも知れない位に考えたであろうが、秀吉は湯浅甚助に命じて、所々修繕の上あっさりと引渡した。秀吉にして見れば一小城何するものぞの腹である。争うものは天下であると思っていたのだ。既に秀吉は自ら京に留り、山崎宝寺に築城して居住し、宮廷に近づき畿内の諸大名と|昵懇《じつこん》になり、政治に力を注いだから、天下の衆望は|自《おのずか》ら一身に集って来た。柴田を初めとした諸将の代官なぞ、京都に来ているが、有名無実である。更に十月には独力信長の法事を、紫野大徳寺に行った。柴田等にも参列を勧めたが、やって来るわけもない。芝居でやる大徳寺焼香の場面など、嘘である。寺内に一宇を建て総見院と呼んだ。信長を後世総見院殿と称するは此時からである。
|中原《ちゆうげん》に在って勢威隆々たる秀吉を望み見て、心中甚だ穏かでないのは勝家である。|嘗《か》つて諸将の上席であった自分も、この有様だと、ついには一田舎諸侯に過ぎなくなるであろう、――秀吉の|擡頭《たいとう》に不満なる者は次第に勝家を中心に集ることになる。滝川一益もその反対派の一人であるが、この男が勝家の短慮を|鎮《しず》めて献策した。即ち、寒冷の候に近い今、戦争をやるのは不利である。越前は北国であるから、十一月初旬から翌年の三月頃までは雪が深い。故に軍馬の往来に難儀である時候を避けて、雪どけの水流るる頃、大軍を南下せしむべし、と云うのである。勝家喜び同心して、家臣小島若狭守、中村|文荷斎《ぶんかさい》をして、前田利家、金森|長近《ながちか》、不破彦三を招き寄せた。勝家の云うよう、「|某《それがし》とかく秀吉と不和である為に、世上では、今にも合戦が始るかの様に騒いで穏かでない。今後は秀吉と和し、相共に天下の無事を計りたい考であるから、よろしく御取なしを乞う」と。前田等|尤《もつとも》千万なる志であるとして、途中長浜の伊賀守勝豊をも同道し、宝寺に至って、秀吉に対面した。使者の趣を聞き終った秀吉は、「御家の重臣柴田殿をどうして疎略に考えよう。|爾後《じご》互に水魚の如くして、若君を守立て天下の政務を|執《と》りたいものである」と答えた。使者達は大いに喜んで、誓紙を乞うた。処が秀吉は、「それこそ、こちらから願い度き物であるが、某一人に限らず、丹羽、池田、森、佐々等にも廻状を|遣《や》り、来春一同参列の上、取替したがよいであろう。殊に我々両人だけで、誓紙を取替したとあっては、他への聞えも|如何《いかが》であろう」と云って拒絶して仕舞った。尤な言分なので、使者達も、それ以上の問答も出来ず、帰った。勝家委細の報告を受けて、来春には猿面を獄門に|曝《さら》すぞと喜んでいたが、こうして秀吉に油断をさせていると思っていた勝家は、逆に秀吉に|謀《はか》られて居たのである。秀吉は使者を送り還すや、家臣を顧みて笑って曰く、「勝家の計略、明鏡に物のうつる如くにわかって居る。この様な事もあろうかと思って、彼が足を清洲にて|括《くく》って置いたのだ」と。即ち湯浅甚助を呼出して、汝は長浜に行き、伊賀守勝豊並にその与力共を弁舌もて味方に引入れよ。長浜引渡の時、彼等と親しくして居た汝のことだから仔細もあるまい、と命じた。甚助心得て長浜に来り、勝豊の家老徳永石見守、与力山路将監、木下半右衛門等を口説いた。今度秀吉方につくならば、各々方も大名に取立て、勝豊はゆくゆく、北国の総大将になるであろうなど、|朝夕《ちようせき》説くので、家老達の心も次第に動いて勝豊にまで励めることになった。|流石《さすが》に始めは勝豊も父に弓引く事を恐れて承知しなかったが、ついには賛成した。元来勝豊自身、勝家の養子ではあるが、勝家には実子|権六《ごんろく》がある上に、病身であって華々しい働もないので|疎《うと》んぜられて居たのだから、勝家に|慊《あきた》らない気持はあったのである。ある年の年賀の席で、勝家の乾した盃を勝豊に先じて、寵臣佐久間盛政が執ろうとしたのを、勝豊盛政の袖を引いて、遠慮せしめたことなどさえある。此他種々の怨が、甚助の弁と相まって、勝豊に父を裏切らせるもととなったのである。勝豊の裏切りを見越して、長浜を体よく勝家にゆずって置いたわけである。かくて秀吉の戦闘準備は、勝家の知らぬ間に、著々と進められて居たのである。
秀吉、濃、勢、江、出馬之事
清洲会議の結果、三法師丸を織田家の相続とし、信雄、信孝が後見と|定《きま》って居たのであるが、秀吉は、安土城の修復を|俟《ま》って、三法師丸を迎え入れようとした。然るに岐阜の信孝は、三法師丸を秀吉の手に委ねようとしない。秀吉をして三法師丸を擁せしめるのは、結局は信孝自身の存在を稀薄なものとさせるからである。秀吉ついに、丹羽長秀、筒井順慶、長岡(後の細川)|忠興《ただおき》等三万の兵を率いて、濃州へ打って出でた。先ず、大垣の城主|氏家《うじいえ》内膳正を囲んだが、一戦を交えずして|降《くだ》ったので、秀吉の大軍大垣の城に入った。伝え聞いた附近の小城は風を望んで降ったので、岐阜城は忽ちにして取巻かれて仕舞った。信孝の方でも、|逸早《いちはや》く救援を勝家に乞うたけれども、|生憎《あいにく》の雪である。勝家、猿面冠者に出し抜かれたと地駄太踏むが及ばない。そこへ今度は佐久間盛政の注進で、長浜の勝豊|謀叛《むほん》すとの報であるが、勝家、盛政が勝豊と不和なのを知っているので、|讒言《ざんげん》だろうと思って取合わない。しかし、勝豊の元の城下、丸岡から、勝豊の家臣の妻子が長浜に引移る為に騒々しいとの注進を受けては勝家も疑うわけにはゆかない。驚き怒るけれども、機先は既に制せられて居る形である。岐阜の信孝も、勝家の救なくては、如何ともし難いので、長秀を通じて秀吉と和を講じた。秀吉即ち信孝の生母|阪《ばん》氏並に三法師丸を受け取って、和を容れ、山崎に帰陣した。三法師丸は安土城に入れ、清洲の信雄を移り来らしめて後見となした。天正十年十二月の事で、物情|恟 々《きようきよう》たる中に年も暮れて行った。
明くれば天正十一年正月、秀吉、かの滝川一益を伊勢に討つべく、大軍を発した。秀吉としては天下の形勢日々に険悪で、のんびりと京の初春に酔い得ないのであろう。丹羽長秀、柴田勝豊をして勝家に備えしめて後顧の憂を絶ち、弟羽柴秀長、稲葉一徹等を第一軍(二万五千)として、近江甲賀郡|土岐多羅越《ときたらごえ》より、甥三好秀次、中村|一氏《かずうじ》等を第二軍(二万)として|大君畑《おぼじ》越より、秀吉自らは第三軍(三万)を率いて安楽越よりして、伊勢に侵入した。この安楽越の時、滝川方で山道を切り崩して置いたので軍馬を通すのに難儀した。ある処では馬の爪半分ほどしか掛らない位であった。そこで馬の口を取るものが一人、尾を取るものが一人して通ったが、馬はみな落ちてしまった。ある者が馬の口だけをとり、あとを見ずハイハイと云って引いた処が一匹も落ちなかったと云う。馬は馬なりに信用すればいいものと見える。一益は長島に在って|予《あらかじ》め兵を諸所に分ち、塁を堅くして守って居た。秀吉自ら、亀山城に佐治新助を攻めたが、新助よく戦った後ついに屈して長島に退いた。秀吉更に進んで、諸城を陥れんとして居る処に、勝家出馬の飛報を受け取ったのである。伊勢の諸城を厳重に監視せしめて置いて、秀吉は直ちに長浜に馳せ来った。秀吉、勝家決戦の機は遂に到来したのである。
勝家は信孝の急報に接しながら、雪の為に兵を動かす事も出来ずに居たが、雪の溶けるのを待ち切れず、江州椿坂までの山間の雪を人夫をして除かせた。しかし|折角《せつかく》取除く一方から、又降り埋もれてその甲斐もなかった。何時までも、それだからと云って、待つわけにもゆかないので、三月七日、先鋒の大将として、佐久間|玄蕃允《げんばのすけ》盛政、従う者は、弟保田安政、佐久間勝政、前田又左衛門尉利家、同子孫四郎利長等を始めとして、徳山五兵衛、金森五郎八長近、佐久間三左右衛門勝重、原彦治郎、不破彦三、総勢八千五百、雪の山路に悩みながら進み、江北木の本辺に着陣した。勝家も直に、軍二万を率いて、内中尾山に着いた。北軍の尖兵は長浜辺まで潜行して、処々に放火した。本陣は内中尾山に置いて、勝家|此処《ここ》に指揮を執り、別所山には前田利家父子、|橡谷《とちだに》山には、徳山、金森、|林谷《はやしだに》山には不破、中谷山には原、而して佐久間兄弟は|行市《ぎよういち》山に、夫々布陣したのである。勝家の軍がこの処まで来て見た時には、既に余吾の|湖《うみ》を中心として、秀吉の防備線が張られた後なのである。勝家この線を打破らなければ、南下の志は達せられないわけである。さて勝家南下の報に、長浜まで馳せ上った秀吉は、翌日には総軍三万五千余騎、十三段に分って、堂々|余吾庄《よごのしよう》に打向った。先陣羽柴秀政。二陣柴田伊賀守の勢。三陣木村|小隼人《こはやと》、木下将監。四陣前野荘右衛門尉、一柳市助直盛。五陣生駒甚助政勝、|小寺《おでら》官兵衛|孝隆《よしたか》、木下勘解由左衛門尉、大塩金右衛門、山内一豊。六陣三好孫七郎秀次、中村孫兵治。七陣羽柴美濃守。八陣筒井順慶、伊藤|掃部《かもんの》|助《すけ》。九陣蜂須賀小六家政、赤松次郎|則房《のりふさ》。十陣|神子田《みこだ》半左衛門尉|正治《まさはる》、赤松弥三郎。十一陣長岡越中守忠興、高山右近。十二陣羽柴次丸秀勝、仙石権兵衛尉。十三陣中川|瀬兵衛尉《せへえのじよう》清秀。最後が秀吉旗本である。先陣既に行市山の佐久間盛政の陣所近くに押し寄せ、双方から数百の足軽が出て矢合せしたが、其日はそれ位で空しく暮れて行った。翌十二日の未明、秀吉、福島市松、中山左伝二人を連れて足軽の風態で、盛政の陣所行市山を|窺《うかが》い、その有様を墨絵にして持ち帰った。弟小市郎秀長、甥の三好孫七郎秀次などに向って「昨日の盛政の戦の仕様に不審を抱いて今日敵陣を窺って来たが、流石老功の勝家、此処で合戦の月日を延し、其間に美濃伊勢両国に於て、信孝、一益等をして勢揃なさしめ、秀吉を挟討ちの計略と見えた。彼をして容易に南下して信孝、一益等の軍と合せざらしめん為には、此処の要害最も厳重にしなければならぬ」と云った。秀吉はかの浅井長政との合戦以来、江州には長く住んで居て、地理にも下情にも通じて居るので、忽ちにして要害堅固な砦が出来た。盛政は秀吉の各所要害を一層に整備するのを見て、勝家に一日も早くこの難所を打ち通らなければ、ついには味方手詰りになると報じたが、時既におそしである。賤ヶ岳には桑山|修理亮《しゆりのすけ》(兵一千)、東野山には堀久太郎秀政(兵五千)、大岩山には中川瀬兵衛清秀(兵一千)、|神明《しんめい》山には大鐘藤八(兵五百)、|堂木《どうぎ》山には山路将監(兵五百)、北国街道には小川土佐守(兵一千)、而して木の本を本陣として羽柴秀長一万五千を以って固めた。其上に、丹羽五郎左衛門尉長秀を|海津《かいづ》口の押となし、長岡(後の細川)与一郎忠興を水軍として越前の海岸を襲わしめると云う周到なる策戦ぶりである。さて充分の配備を為し終った秀吉は、木の本から大垣までの|宿 々《しゆくしゆく》に、駿馬を夫々置いておいて、自らは信孝包囲軍の指揮の為に、賤ヶ岳を去った。成算|自《おのずか》ら胸に在るものと見えて、強敵勝家を前にして、そのまま他の戦場に馳せ向ったわけである。つまり誘いの隙を見せたわけである。岐阜の信孝は、先に秀吉と媾和しながら、秀吉が伊勢に向ったと聞くと、忽ち約を変じて謀叛したので、秀吉の軍勢は再び岐阜を囲むことになったのである。勝家の陣へは、苦しくなった信孝からの救援の便が、次から次とやって来る。勝家大いに|焦《あせ》るけれども、容易には此処を通り難い。そこで盛政と相談して、もと、柴田伊賀守の与力であった山路将監が、一方の固めの将である、幸い、彼をして秀吉に裏切らしめ、秀吉の陣を乱そうと云うことになった。日頃将監と親しかった宇野忠三郎と云う者に、密命を云含ませた。忠三郎即ち夜半に将監が陣所に忍んで、面会を求めた。将監、今は敵味方のことであり、且つ陣中なればと云って会おうとしない。忠三郎、大小を棄て、是非にと願うので、将監これを引見した。忠三郎が|齎《もたら》した勝家の内意を知ると、将監は、主人勝豊も秀吉の味方となり、某も一方の固めを任された程である、今裏切ることは武士として情ない、と答えて諾しようとしない。忠三郎は更に説いて、勝豊を主人と云われたが、貴殿は勝家から勝豊の与力として添えられた者で、|寧《むし》ろ主従の関係は勝家との間に在る、誰か不義であると云わん、且つは帰参の恩賞には、勝豊の所領丸岡の城付十二万石を給わる筈なのである、と勧めるので、将監とうとう慾に目が|眩《くら》んで裏切を承知した。たしかに十二万石を呉れると云う誓紙まで要求して居る位である。一度柴田方を裏切って、秀吉につき、今度は秀吉を裏切って柴田についた。現代の政治家のある者のように節操がない。これでは妻子が秀吉のために|磔《はりつけ》にされたのも仕方がないだろう。
佐久間盛政は投降した山路将監を呼んで、攻撃の方法を尋ねた。将監の答えるに、「|何《いず》れの要害も堅固であるから、容易には落ちまい。ただ、中川瀬兵衛守る処の大岩山は、急|拵《ごしら》えで、壁など乾き切らない程である。此処を不意に襲うならば、破れない事はあるまい」と。盛政喜んで勝家の許に至り、襲撃せんことを乞うた。秀吉の智略を知り抜いて居る勝家は、敵地深く突入する盛政の策を喜ばない。盛政は腹を立てて、今一挙にして襲わなければ何時になって勝つ時があろうと、云うので、勝家止むなく許した。しかし、くり返しくり返し勝に乗ずることなく、勝たば早急に引取るようにと戒めた。勝気満々たる盛政のことだから、勝家の許しが出たら、もう嬉しくて、忠言など耳にも入らない。大岩山襲撃の策が決ると、四月十九日夜盛政を始めとして、弟勝政、徳山五兵衛尉、不破彦三、山路将監、宿屋七左衛門、|拝郷《はいごう》五左衛門以下八千騎、隊伍粛々として、余呉の湖に沿うて進んだ。堂木山神明山塩津方面を監視の為に、前田父子二千を以って当り、東野山方面の監視には勝家自ら七千騎を率いて出陣した。東の空も白み、里々の鳥の声も聞える頃、盛政の軍は、余呉湖畔を進軍して居た。桑山修理亮の足軽共が、馬の足を冷そうと、湖の磯に出て居るのを見付けた盛政は、馬上から、討取って軍神の血祭にせよと命じたので、忽ち数名が斬られた。僅かの者が、賤ヶ岳へ逃げ帰り知らせたので、修理亮が物見を出して報告を受けた時は、もう大岩山では戦闘が始ろうとしている。修理亮使をもって、大岩山は破れ易い砦だから早速に賤ヶ岳の方に退いたら如何と告げしめると、瀬兵衛は、云われる如くに心許ない砦ではある、しかし、この先の岩崎山には高山右近も居る事だし、某一人引退くわけにゆかない、と答えて退こうとしない。|兎角《とかく》するうちに盛政の軍は|鬨《とき》の声を挙げて押し寄せた。瀬兵衛もとより武功の士だから、僅か三尺|計《ばか》りの土手を楯に取って、不破彦三等先手の軍勢が躍り込まんとするのを防ぎ戦い、遂いに撃退した。盛政大いに怒って自ら陣頭に立ち、息をもつかずに攻め立てたので、塁兵遂に崩れた。瀬兵衛も手勢五百を密集させ、真一文字に寄手に突入って縦横に切って廻るので、寄手は勢に気を奪われた形である。盛政、徳山五兵衛尉を呼んで、長篠合戦の時、鳶巣山の附城を焼立てた故智に習うべしと命じた。徳山即ち|神部《かんべ》兵大夫に一千騎を添えて、敵の背後の方へ向わせた。瀬兵衛の兵も、盛政の新手の勢の為に残り少なくなって居る処に、|退《の》き口である麓の小屋小屋に火の手が挙った。今は|是《これ》までと瀬兵衛敵中に馳せ入り斬り死しようとするのを、中川九郎次郎|鎧《よろい》の袖に|取縋《とりすが》り、名もない者の手にかからんことは口惜しい次第|故《ゆえ》本丸へ退き自害されよと説いた。瀬兵衛、今日の戦、存分の働を為したから、例え雑兵の手に死のうとも悔いないと答えたが、ついに九郎次郎の言に従って、九郎次郎、穂三尺の槍を揮い、更に竹の節と云う三尺六寸の太刀で斬死して防ぐ間に自殺した。岩崎山の高山右近は、大岩山陥ると聞くや、一戦もせずに城を出て、木の本へ引退いた。大岩、岩崎を手に入れた盛政は得意満面である。早速勝家に勝報を致す。勝家はそれだけで上首尾である。急ぎ帰陣すべしと命じるが、今の場合聞く様な盛政ではない。盛政「|匠作《しようさく》(勝家の別名、つまり修理亮の別名である)それほど老ぼれたとは知らなかった。軍の事は、盛政に委せて明日は都へ進まれる支度をした方がいい」と豪語して、勝家の再三の使者の言葉を受けつけないのである。勝家嘆息して、「さても不了簡なる盛政かな、これは勝家に腹切らせんとの結構なるべし、何とて、敵を筑前と思いけん、今日の敵は盛政なり」と云った。
賤ヶ岳七本槍之事
桑山修理亮の飛脚が、大垣の秀吉の許に着いたのは、四月二十日の正午頃であった。秀吉使いに向い、盛政は直ぐに引き取りたるかと訊いた。いや、そのまま占領した場所に陣していると聴くと、踏々と芝ふみ鳴らし、|腰刀《ようとう》を抜いて|額《ひたい》に当てて「軍には勝ちたるぞ、思いの外早かった」と五六度呼ばわったと云う。思う壷に入ったわけである。氏家内膳正、堀尾茂助を岐阜の押えとして残し、自らは一柳直末、加藤光泰二騎を従えるや、二時頃には馳せ出でた。四時から五時の間にかけて一万五千の兵も大垣を発したのである。秀吉は馬を|馳《か》けづめに馳けらせるので、途中で度々、乗り倒したが、前もって宿々に馬を置いてあるから、忽ち乗り換え乗り換え|諸鐙《もろあぶみ》を合せて馳せた。更に途中に在る者共に命ずるには、一手は道筋の里々にて|松明《たいまつ》を出さしめ、後続する軍の便宜を与うべし、更に一手は長浜の町家に至り米一升、大豆一升宛を出さしめ、米は|粥《かゆ》に煮て兵糧となし、大豆は|秣《まぐさ》として直ちに木の本の本陣に持ち|来《きた》るべしとした。用意の周到にして迅速なるは驚くべきものがある。夜九時頃には既に木の本に着いて居たのである。
さて一方、盛政は大野路山に旗本を置いて、清水谷庭戸浜に陣を張って賤ヶ岳を囲んで居ったが、桑山修理亮の言を信じて、|夕陽《せきよう》没するに及んで、開城を迫った。然るに修理亮等は|最早《もはや》救援の軍も近いであろうと云うので、忽ち鉄砲をもって挑戦した。盛政怒って攻め立て|矢叫《やたけ》びの声は余呉の湖に反響した。丁度此時、丹羽長秀、高島郡大溝の城を出でて、小船で賤ヶ岳の戦況を見に来合せたが、賤ヶ岳の辺で矢叫び鉄砲の音が烈しいのを聞いて、さては敵兵|早急《さつきゆう》に攻むると見えた、急ぎ船を|汀《なぎさ》に付けよと命じた。供の者はこんな小勢で戦うべくもないと云った処、長秀、戦うべき場所を去るは武将ではないと叱った。更に一人に、漕ぎ返って、海津表七千騎の内三分の一を|此方《こちら》へ廻せと命じた。この火急の場合、五里の湖上を漕ぎ返っての注進で、間に合いましょうやと尋ねると、いや別段急ぐわけでもない。只今長秀、賤ヶ岳へ援軍すると云えば、敵軍は定めし大兵を率いて来たものと察して猶予の心が出るであろう。其間に馳せ着けばよいのだ、と云棄てて|直《ただち》に賤ヶ岳に上った。賎ヶ岳では折柄悪戦の最中であるから、長秀来援すと聞いては、くじけた勇気も振い起らざるを得ない。盛政の方では長秀|来《きた》ると聞いて、気力をそがれて、賤ヶ岳を持て余し気味である。此時刻には、秀吉の大軍も木の本辺に充ち満ちて居たのである。先発隊は|田上《たがみ》山を上りつつあったのであるが、そのうち誰云うとなく、盛政の陣中で、秀吉来れりと云って|俄《にわ》かに動揺し出した。拝郷五左衛門尉、盛政にこの由を報ずると、「|慌《あわ》てたる言葉を出す人かな、秀吉飛鳥にもせよ十数里を今頃馳せ着け得るものにや」と相手にしない。処が弟勝政、不破彦三の陣所からの使は、美濃街道筋は松明|夥《おびただ》しく続いて見え、木の本辺は秀吉勢で充満すと見えたりと報じたので、流石強情我儘の盛政も仰天しないわけにはゆかなかった。此状勢を保って居られる筈はないから、早々陣を引払って、次第に退軍しようと試みた。先に長秀の応援でいい加減気を腐らして居た盛政の軍は、今また秀吉の追撃があるとなると、もう浮足立つ計りである。十一時過ぎ、おそい月が湖面に青白い光をそそぐ頃、盛政の軍は総退却を開始した。二十一日の午前二時には秀吉の軍田上山を降り、黒田村を経て観音坂を上り、先鋒二千の追撃は次第に急である。拝郷五左衛門尉取って返し、身命を惜まず防ぎ戦うが、味方は崩れ立ち始めて居る。盛政は荒々しい声で、拝郷等は何故に敵を防がぬかと叱ったので、五左衛門尉|嘲笑《あざわら》って、御覧候え、我々が身辺、半町ほどは敵一人も近付け申さず。ただ敵勢鋭きが為に味方振わないのである。此上は面々討死をして見せ申そうと計りに、青木勘七、原勘兵衛等と共々に、追い手の中に馳せ入った。青木勘七は血気の若武者で、真先に進んで忽ち五人まで突落したとある。この青木は後に越前に在って青木紀伊守|一矩《かずのり》に仕えたが、ある時同じ家中の荻野河内の|館《やかた》で、寄合いがあった際、人々に勧められて、余呉湖畔戦の想い出話をした事がある。「金の脇立物、|朱漆《しゆうるし》の具足の士と槍を合せたが、その武者振見事であった」と語った処が、その武者が主人の河内であることが判り、互に奇遇を嘆じたと云う話がある。中学の教科書などに出ている話である。それはとにかく、盛政の軍は、拝郷、青木等の働きで何とか退軍を続けて居た。暁暗の四時過ぎ、秀吉は猿ヶ馬場に床几を置かせ、腰打かけて指揮を執って居た。さて、安井左近大夫、原彦次郎等もようよう引退いて、盛政と一手になったので、盛政少し力を得て、清水谷の峠へ退いて備を立直そうとしたが、秀吉の軍は矢鉄砲を打って追かけるので、備を直す暇もなく崩れた。彦次郎左近大夫二人は、一町毎に鉄砲の者十人、射手五六人|宛《ずつ》伏せて、二人代る代るに|殿《しんがり》して退こうとするが、秀吉先手の兵が忽ちに慕い寄るので、鉄砲を放つ|暇《いとま》もない。止むなく、|飯之浦《いいのうら》に踏み止まろうとした。加藤虎之助、桜井左吉進み出て、盛政の|陣立《じんだて》直らぬうちに破らん事を秀吉に乞うた。秀吉笑って許さず、馬印を盛政勢の背後の山に立置く様に命じて置いて、菓子を喰い茶を飲んで悠々たるものである。柴田勝政は三千余騎で、賤ヶ岳の峰つづき堀切辺りで殿戦して居たが、兄盛政から再三の退軍を命ぜられたので、引取る処を秀吉軍の弓銃に会い、乱軍となって八方に散った。落ちて行くうちに不意に秀吉の千成瓢箪が行手に朝日を受けて輝き立って居るので、周章狼狽した。秀吉この有様を見て居たが、すわ時分は今ぞ、者共かかれと下知し、自ら貝を吹立てた。夜も全く明けた七時頃、秀吉は総攻撃を命じたのである。旗本の勢も一度に槍を取って突かかったが、真先に石川兵助、拝郷五左衛門と渡合ったけれども、五左衛門が勝った。兵助の首を取ろうとする処へ、盛政の使来って相談すべき事があるから|直《すぐ》に来れと命を伝えた。五左衛門聞入れず、引くべき場所を引取らぬ不覚人の盛政、今更何の相談ぞ、既に北国の運命尽きる日ぞと云って返し戦う。|糟屋《かすや》助右衛門、好敵と見て五左衛門と引組んだ。助右衛門、ついに上になり首を掻こうとするのを、五左衛門すかさず下から小刀で二刀まで突上げたが、鎧堅くて通らず討たれて仕舞った。佐久間勝政も庭戸浜で戦って居たのを、加藤虎之助同孫六真一文字に突かかり難なく追崩した。浅井吉兵衛、山路将監も今は防ぐ力もなく下余吾方に落行く処を、渡辺勘兵衛、浅井喜八郎大音挙げて、見知ったるぞ両人、返し戦えと挑戦したが、二人共山の崖を踏外して谷底へ転げ落ちた。麓を通る大塩金右衛門の士|八月一日《 ほ ず み 》五左衛門に討ち取られたと云うが、一説には加藤虎之助と引組み、崖から二三十間も上になり、下になりして転げ落ちた末、ついに将監首を|獲《と》られたとも伝える。直木三十五氏が、加藤清正は山路将監を討った以外、あまり武功がないとけなしていたが、山路将監を射ったと云う事も伝説に近いのである。宿屋七左衛門尉は鳥打坂の南で、桜井左吉と戦って、左吉に痛手を負わせた処を、糟屋助右衛門来った為に、両人の為に討止められた。佐久間勝政も、飯之浦で福島市松、片桐助作、平野権平、脇坂甚内等の勇士が槍先を並べてかかるのを、兵四人までを切落して戦ったが、遂に斬死した。盛政も、奮戦したが、総軍今は乱軍のまま思い思いに退却である。盛政例によって大音声を挙げ、味方の諸士臆病神が付いたのか、と罵ると、原彦次郎曰く「仰せの如く味方の兵が逃げるのは、大将に臆病神取付いて引返して備うる手段を採らない故である。退軍に勝利のあるわけがない」と云い放った。盛政一言もなしである。前田利家父子は二千騎をもって備えて居たが、敗軍と見るや、華々しい働きもなく早速に府中に引取った。利家の出陣は、別段、勝家の家臣であるからでもなく、ただ境を接するの故をもってであり、且つ秀吉とは寧ろ仲が善かった位であるから、体のいい中立を持したわけである。此合戦に先んじて、秀吉利家の間にある種の協定さえあったと思われるのである。丹羽長秀、これを見て時分はよしと|諸砦《しよさい》に突出を命じた。北国勢全く|潰《つい》えて、北へ西へと落ちて行った。小原新七等七八騎で、盛政等を落延びさせんと、小高き処で、追い来る秀吉勢を突落して防いで居るのを、伊木半七真先に進んで、ついに小原等を退けた。
此時の合戦に、両加藤、糟屋、福島、片桐、平野、脇坂七人の働きは抜群であったので、秀吉賞して各々に感状を授け、数百石|宛《ずつ》の知行であったのを、同列に三千石に昇らしめた。これが有名な賤ヶ岳七本槍である。石川兵助、伊木半七、桜井左吉三人の働きも、七木槍に劣らなかったので、三振の太刀と称して、重賞あったと伝わって居る。
さて北軍の総大将勝家は、|今市《いまいち》の北狐塚に陣して居たのであるが、盛政の敗軍伝わるや、陣中動揺して、何時の間にか密かに落ちゆく軍勢多く、僅か二千足らずになった。勝家嘆じて、盛政、血気に|逸《はや》って我指揮に|随《したが》わず、この結果となったのは口惜しいが、今は後悔しても甲斐なきこと、華かな一戦を遂げたる後、切腹しよう、と覚悟した。|毛受《めんじゆ》庄助進み出て「今の世に名将と称せられる君が、この山間に討死あるは末代までの恥である。よろしく北の庄に入って、心静かに腹を召し給え」と勧め、自らは勝家の馬印をもって止り防がんことを乞うた。勝家、庄助の忠諌を容れ、金の御幣の馬印を授けて、馬を北の庄へと向けた。庄助、兄茂左衛門と共に三百騎、大谷村の塚谷まで引退いて寄せ来る敵と奮戦して、筒井の家来、島左近に討たれた。
勝家、其間に北の庄指して落ちたのであるが、前田利家の府中城下にさしかかった時は、従う者僅かに八騎、歩卒三四十人に過ぎない。利家招じ入れると勝家、年来の|誼《よしみ》を感謝して落涙に及んだ。勝家、利家に「貴殿は秀吉と|予《かね》て|懇《ねんごろ》であるから、今後は秀吉に従い、幼君守立ての為に力を致される様に」と云った。利家は、朝来、食もとらない勝家の為、湯漬を出し、酒を勧めて慰めた。夕暮になって、乗換の新馬を乞い、城下を立ち去ったが、嘗つての|瓶破《かめわり》柴田、鬼柴田の後姿は、|悄然《しようぜん》たるものがあったであろう。
四月二十三日、越前北の庄の城は、既に秀吉の勢にひしひしと囲まれて居た。勝家は城|諸共《もろとも》消え果てる覚悟をして居るので、城内を広間より書院に至るまで飾り、最期の酒宴を開いて居た。勝家の妻はお市の方と云って、信長の妹である。始め、|小谷《おだに》の城主浅井長政に嫁し、二男三女を挙げたが、後、織田対朝倉浅井の争いとなり、姉川に一敗した長政が、小谷城の露と消えた時、|諭《さと》されて、兄信長の手に引取られた事がある。清洲会議頃まで岐阜に在って、三女と共に寂しく暮して居たが、信孝勝家と結ばんが為、美人の誉高い伯母お市の方を、勝家に再嫁せしめたのである。勝家の許に来って一年経たず、再び落城の憂目を見る事になった。勝家、その三女と共に秀吉の許に行く様に勧めるが、今更生長える望がどうしてあろう、一緒に相果てん事こそ本望であると涙を流して聞き容れない。宵からの酒宴が深更に及んだが、折柄、|時鳥《ほととぎす》の鳴くのをお市の方聞いて、
さらぬだに打寝る程も夏の夜の
夢路をさそふ|郭公《ほととぎす》かな
と詠ずれば、勝家もまた、
夏の夜の夢路はかなき跡の名を
雲井にあげよ山郭公
二十四日の|暁方《あけがた》、火を城に放つと共に勝家始め男女三十九人、一堂に自害して、煙の中に亡び果てた。勝家年五十四である。お市の方は、生涯の|中《うち》二度落城の悲惨事に会った不幸な戦国女性である。秀吉もかねて、お市の方に執心を持っていたので、秀吉と勝家との争いにはこうした恋の恨みも少しはあったのであろう、という説もある。お市の方の三女は、無事秀吉の手に届けられたが、後に、長女は秀吉の北の方淀君となり、次は京極宰相高次の室に、末のは将軍秀忠の夫人となった。戦国の世の女性の運命も亦不思議なものである。
盛政は勝家の子権六と共に捕われ、北の庄落城前、縄付きの姿で、城外から勝家に対面させられている。権六は佐和山に、盛政(年三十)は六条河原に、各々斬られた。信孝(年二十六)も木曾川畔に自決して居る。清洲会議の外交戦に勝った秀吉は|茲《ここ》に全く実力の上で、天下を取ったわけである。
後 記
この合戦記を作るに際して、
『余吾庄合戦覚書』及び『別本余吾庄合戦覚書』上下を主たる参考本とし、諸本によっては人名の多少異るものがあるが今は|総《すべ》てこの覚書に従った。
他に参考としたものは次の如し。
柴田退治記
これは合戦の当年天正十一年十一月大村|由巳《よしみ》の著したもので最も真実に近いが故に、これによって訂正した処がある。
賤岳合戦記
太閤記
|川角《かわずみ》太閤記
|豊鑑《ふかん》
豊臣記
蒲生氏郷記
佐久間軍記
|清正記《せいしようき》
脇坂家伝記
並に
近世日本国民史
豊臣時代史
日本戦史
|柳瀬役《やなせのえき》
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鶏林八道蹂躙之事
対馬の|宗義智《そうよしとも》が、いやがる朝鮮の使者を無理に|勧説《かんぜい》して連れて来たのは、天正十八年七月である。|折柄《おりから》秀吉は関東奥羽へ東征中で、|聚楽《じゆらく》の第に会見したのは十一月七日である。この使が帰国しての報告の中に、秀吉の容貌|矮陋《わいろう》面色|黒《れいこく》、眼光人を射るとある。朝鮮人が見ても、猿らしく見えたのである。又曰く、「宴後秀吉小児を抱いて出で我国の奏楽を聴く。小児衣上に遣尿す。秀吉笑って一|女倭《じよわ》を呼びて小児を託し、其場に衣を|更《か》う。傍に人無きが如くである」この小児と云うのは東征中に淀君が生んだ鶴松の事である。まだほんの赤坊であるが、可愛い息子に外国の音楽を聴かせてやろうとの親心であったであろう。傍若無人はこうした応待の席ばかりでない。朝鮮への国書の中には、「一超直ちに明国へ入り、吾朝の風俗を四百余州に|易《か》え、帝都の政化を億万|斯年《しねん》に施すは方寸の中に在り」と書いて居る。朝鮮は宜しく先導の役目を尽すべしと云うのであった。
朝鮮の王朝では驚いて為す所を知らず、兎も角と云うので、明の政府へ日本|来冦《らいこう》の報知を為したのである。秀吉朝鮮よりの返答を待つが来ない。
天正十九年八月二十三日、ついに天下に|唐入《からいり》即ち明国出兵を発表した。
兵器船舶の整備を急がせると共に、黒田長政、小西行長、加藤清正をして、肥前松浦郡|名護屋《なごや》に築城せしめ、更に松浦|鎮信《ちんしん》をして壱岐|風本《かざもと》(今勝本)に築かしめた。
松浦郡は|嘗《か》つての神功皇后征韓の遺跡であり、湾内も水深く艦隊を碇泊せしめるに便利であったのである。秀吉は、信長在世中、中国征伐の大将を命ぜられたとき、私は中国などはいらない。日本が一統されたら、朝鮮大明を征服して、そこを頂きましょうと云っていた。
それは、大言壮語してしかも信長の|猜疑《さいぎ》を避ける秀吉らしい物云いであったのであるが、そんな事を云っている内に、だんだん自分でもその気になったのか、それとも青年時代からそんな大志があったのか、どちらか分らない。
明けて文禄元年正月、太閤秀吉は海陸の諸隊に命じて出発の期日並びに順序を定めた。一番は小西摂津守行長、松浦法印鎮信以下一万三千、二番加藤|主計頭《かずえのかみ》清正以下二万二千、三番黒田甲斐守長政以下一万一千、更に四番から二十番まで総軍合せて二十八万である。尤も実際に朝鮮に上陸して戦闘に参加したのは十五万内外の人数であった。秀吉が本営名護屋に着いた四月の末頃には、既に行長清正相次いで釜山に敵前上陸し、進んで敵城を占領して居る。行長と清正とが一番乗りを争って、清正が勝ったと云う話は伝説である。三番隊以下の後続部隊も日を隔てて次々に上陸した。先鋒の三軍各々路を三つに分ち、京城を目指して進んだが、処々に合戦あるものの、まるで無人の境を行く如しと云ってよい位の勢いであった。
これに対する朝鮮軍の行動であるが、日本軍出動の報が入ると、|申《しんりつ》、|李鎰《りいつ》の二人をして辺防の事を|司《つかさど》らしめた。申は京畿、黄海の二道、李鎰は忠清全羅の二道を各々巡視したが、ただ武器を点検する位に止った。申の如きは眼中に日本軍なく、暴慢で到る処で|徒《いたず》らに人を斬って威を示す有様なので、地方官は大いに怖れてその待遇は大臣以上であったと云う。李鎰は尚州の附近に駐屯して居たが、小西行長の先鋒は既に尚州に迫りつつあった。朝鮮軍の斥候はこの事を大将李鎰に報告したが信用しない。|反《かえ》って人心を乱す者であるとして斬って仕舞った。その|中《うち》に陣の前の林中に怪しい人影が動く。人々どうも日本軍の尖兵ではないかと疑ったが、うっかり云って斬られてもつまらないと誰も口にしない。その内、李鎰自身も怪しく思って騎馬武者を斥候に出すと、|忽《たちま》ちに銃声響き、その男は馬から落ちると、首を|獲《と》られてしまった。まさしく日本軍である。令して矢を放つが届かない。忽ちにして全軍敗走した。李鎰自身、馬を棄て、衣服を脱ぎ、髪を乱し、裸体で走り、開慶に至って筆紙を求め、使をして敗戦を報じた。朝鮮側の記録に書いてあるのだから嘘ではなかろう。これが四月の二十四日の事であるが、二十七日には忠州に於て申が敗れた。申は最初の大言に似ず、日本軍連勝の報に恐れをなして、忠州を出動して南下し、鳥嶺の嶮を|踰《こ》える時に行方不明になった。大将が居なくては陣中|騒擾《そうじよう》するのは当然である。処が斥候の報ずる如くに翌日になっても日本軍が現れないので、安心して|何処《どこ》からか出て来た。そして先の斥候は偽りを報じたとして之を斬った。虫のいい話である。間もなく現れた日本勢と闘ったが忽ちにして敗れ、申は南漢江に投じて溺死して果てた。この戦場は弾琴台と云って、稲田多く、馬を|馳《はし》らせるのに不便な処であった。この戦場より南一里の処に|姑母山《こぼざん》と称する古城がある。山峡重なって中に川が流れ、一夫守って万夫を防ぐに足る要害である。日本軍は必ずや此処に朝鮮軍が|拠《よ》って居るだろうと斥候を放ったのに、只一人も守って居ないのに驚いた程である。|呆《あき》れながら越えて見ると、稲田の中に陣を|布《し》いて居た。後に明将|李如松《りじよしよう》が日本軍を追撃して此処を過ぎた時、申の無策を嘆じたと云う。折角頼みに思った二将が手もなく敗れた報が京城に達したから、上を下への大混乱である。朝廷諸臣を集めて評議を行ったが、或者が建議するに、敵軍の|恃《たの》む処は利剣長槍である。厚い鉄を以って満身の|甲《かぶと》を造り、勇士を募って之に|被《かぶ》らせ、敵中に突入させれば、敵は刺す隙を見出せずして勝を得る事必せりと云う。試みに造ってみたが重くて、誰も動く事が出来なかった。更に一人は漢江の辺に多くの高い棚を築き、上から伏射すれば敵は上る事が出来ないであろうと進言した。少し気のきいたのが、然らば鉄砲の|丸《たま》も上る事は出来ないのであるかと、反問したのでそのままになった。結局王子|臨海《りんかい》君をして|咸鏡《かんきよう》道に、順和君を江原道に遣して勤王の軍を募らしめ、王李昭、世子|光海《こうかい》君以下王妃|宮嬪《きゆうひん》数十人、李山海、柳成竜等百余人に|護《まも》られて、遠く|蒙塵《もうじん》する事になった。四月二十九日の午前二時、士民の哀号の声の中を西大門を出たのである。
行長、清正の二軍は、忠州に相会した後再び路を分って進み、五月二日の夕方に清正は南大門から、行長は東大門から京城に入城した。京城附近の漢江に清正行き着いた時、河幅三四町に及ぶが、橋が無いので渡れない。対岸を望むと船が多く|繋《つな》いであるが、敵の伏勢が居ないとも限らない。清正|暫《しばら》く眺めて居たが、『|鴎《かもめ》が浮んで居る処を見ると敵軍既に逃げたと覚える、誰か泳いで彼の船を漕ぎ|来《きた》る者ぞ』と云った。従士曾根孫六進んで水に入り、一隻を漕ぎ還ったので、次々に船を|拉《らつ》し来って全軍を渡す事が出来た。清正は更に開城を経た後大陸を横断して西海岸に出で、|海汀倉《かいていそう》に大勝し長駆|豆満江《とまんこう》辺の会寧に至った。此処で先の臨海君順和君の二王子を|虜《とりこ》にした。まだそれで満足しなかったと見えて|兀良哈《おらんかい》征伐をやって居る。兀良哈は今の間島地方に住んで居る種族で、朝鮮人その勇猛を恐れて、野人或は北胡と称して居たものである。清正はかくして朝鮮国境まで突破したわけだが、北進中の海岸で、ある日東海はるかに富士山を認め、馬より降り甲を脱いで拝したと云うが、まさか富士山ではあるまい。この情景は昔の絵草紙などに書いてある。しかし懸軍数百里望郷の情は、武将の心を|傷《いた》ましむるものがあったであろう。清正の話では虎狩りが有名であるが、十文字槍の片穂を喰い取られたなぞは伝説である。清正ばかりでなく島津義弘や黒田長政なども虎狩りをやって居る。中には槍や刀でついに仕止めた話もあるが、清正が十文字槍で虎と一騎討ちをやった記録はない。自ら鉄砲で射止めた事はあるらしい。
さて一方行長も七月半に大同江を渡って平壌を占領した。かくて、この年の暮頃の京城を中心とした日本軍の配置はほぼ次の如くである。既ち京城には、総大将宇喜多秀家を始め三奉行の増田長盛、石田三成、大谷吉継以下約二万の勢、平壌には、先鋒小西行長、宗義智、松浦鎮信以下一万八千の勢、|牛峰《ぐうぼう》には、立花宗茂、高橋|統増《のぶます》、筑紫|広門《ひろかど》等四千の勢。開城には、小早川|隆景《たかかげ》、|吉川《きつかわ》広家、毛利元康以下二万の勢。其他占領した各処には、部将それぞれ守備を厳重にして居たのである。
於平壌行長敗退之事
日本軍襲撃の報を、朝鮮の政府が明第十三代の皇帝|神宗《しんそう》に|逸早《いちはや》くも告げた事は前に述べたが如くである。明では最初この急報を信じて居なかったが、追々と琉球や福建|辺《あたり》からも諜報が飛んで来る。ついに朝鮮王は義州にまで落ちて来た。救援を求める使は、|踵《きびす》を接して北京に至る有様である。あんまり朝鮮王の逃足が早いので、一明使は朝鮮王が、日本軍の先鋒を承って居るのではないかと疑ったが、王の顔色|憔悴《しようすい》して居るのを見て疑を晴した程である。明朝|茲《ここ》に於て、|遼陽《りようよう》の一部将|祖承訓《そしようくん》に兵三千を率いしめて義州に南下し、朝鮮の部将|史儒《しじゆ》以下の二千の兵と合して、七月十六日平壌を攻撃させた。平壌を守る小西行長、宗義智、松浦鎮信、黒田長政等之を迎えて撃破した。長政の部下後藤又兵衛基次が、金の二本菖浦の指物を朝風に翻えし、大身の槍を馬上に揮ったのはこの時である。
さて朝鮮の武将史儒はこの役に死し、祖承訓は残兵を連れて遼陽に還ったが、明の朝廷へは、我軍大いに力戦して居た際に、朝鮮兵の一部隊が敵へ投降した為に戦利あらず退いた、とごまかして報告した。朝廷では、群臣をして評議せしめた。或者曰く、南方の水軍を集めて日本の虚を|衝《つ》くべし。他は曰く、兵を朝鮮との国境に出して敵をして一歩も入らしむる|勿《なか》れと。他は曰く講和するに|如《し》かじと。議論は色々であるが|何《いず》れとも決定しない。しかし朝鮮は必争の地であり、自衛上放棄する事は出来ない。今|能《よ》く朝鮮を回復する者があったら、銀一万両を賞し伯爵を授けようと懸賞募集を行った。悪くない賞与ではあるが、誰も自信がないと見えて応ずる者が無い。そこで今度は意見書を広く募った。その中で予選に当ったのが、|程鵬起《ていほうき》が海軍をして日本を襲う策と、|沈惟敬《ちんいけい》が|遊説《ゆうぜい》をもって退かしめる計とである。前者は行われなかったが、海軍をもって日本を衝く説は良策であったに相違ない。当時朝鮮海峡に於ても日本の水軍は|屡々《しばしば》朝鮮の水師に敗れ、なかなかの苦戦をして居る。今|若《も》し優秀強大な艦隊が朝鮮海峡に制海権を握るならば、遠征の日本軍は後方との連絡を絶たれ、大敗したかも知れない。バルチック艦隊を日本海に撃滅して置かなかったなら、満洲に於ける日露の戦局はどうなったかわからないと同様である。朝鮮、明にとって惜しい事には、この海軍出動説はついに実現しなかった。一方の沈惟敬の説は直ちに採用されて、惟敬は遊撃将に任命された。この男はもと無頼漢であったが流れ流れて北京に来て居ったが、交友の中に嘗つて倭寇の為に|擒《とりこ》にされ、久しく日本に住んで居た者があった。その友人から|予々《かねがね》日本の事情を聴いて居た惟敬は、身を立つる好機至れりとして、遊説の役を買って出たのである。八月末、平壌の城北|乾福山《かんぷくざん》の麓に小西行長と会見した。何故行長が明の使と会見したかと云うと、行長は既に日本軍遠征をこれ以上に進める事も好まなかったからである。いい潮時さえあらば講和をなしたいと考えて居たからである。明使沈惟敬が来たのは、行長にとって歓迎する処であっただろう。そこで行長は明からの正式の講和使を遣わさんことを求め、五十日をもって期限とした。沈惟敬之を承諾して、|標《しるし》を城北の山に|樹《た》てて日朝両軍をして互に之を越える事を禁じて去った。休戦状態である。沈惟敬は北京に還って、行長等媾和の意ある事を報じた。処が明政府は既に李如松を提督に任命して、朝鮮救援の軍を遼東に集中しつつあったので、今更惟敬の説を|採《と》り上げ様としない。聴かない|許《ばか》りでなく李如松は怒って之を斬ろうとさえしたが、参謀が惟敬をして行長を偽り油断させる策を説いたので命|丈《だけ》は助かった。期日の五十日を過ぎても明使が来ないので、行長等怪んで居る処へ、計略を含められた惟敬が来って、媾和使の来る近きに在りと告げた。行長等は|紿《あざむ》かれるとは知らないから大いに喜んで待って居たが、其時は李如松四万三千の人馬が、鴨緑江を圧して、義州に集中しつつあったのである。全軍を三つに分ち、|左脇《ひだりわき》、中脇、右脇と呼んだ。左脇は大将|楊元《ようげん》以下李如梅、査大受等。中脇は大将|李如柏《りじよはく》以下。右脇は大将|張世爵《ちようせいしやく》、祖承訓以下。兵数各々一万一千を超え、ほとんど全軍騎兵である。
文禄二年(明暦で云えば万暦二十一年)の正月元日、この三脇の大軍は安州城南に布陣した。当時朝鮮の非常時内閣の大臣として、苦心|惨憺《さんたん》の奔走をして居た|柳成竜《りゆうせいりゆう》が来て、陣中に会見した。成竜平壌の地図を開き地形を指示したが、如松は倭奴|恃《たの》む処はただ鳥銃である。我れ大砲を用うれば何程の事かあらんと云って、胸中自ら成算あるものの如くである。悠々として扇面に次の詩を書いて成竜に示した。
提兵星夜到江干
(へいをひっさげせいやこうかんにいたる)
為説三韓国未安
(いうならくさんかんくにいまだやすからずと)
明主日懸旌節報
(みんしゅひにかくしょうせつのほう)
微臣夜釋酒杯歓
(びしんよるすつしゅはいのかん)
春来殺気心猶壮
(しゅんらいさっきこころなおさかんなり)
此去妖氛骨已寒
(ここにようふんをさるほねすでにさむし)
談笑敢言非勝算
(だんしょうあえていうしょうさんなしと)
夢中常憶跨征鞍
(むちゅうつねにおもうせいあんにまたがるを)
如松、更に進み、先ず先鋒の将をして、行長陣に告げて曰く、「沈惟敬|復《また》来る。宜しく之を迎うべし」と。行長等喜んで其士武内吉兵衛、義智の士大浦孫六等二十余人をやった。明軍は迎えて酒宴を張ったが、半ばにして伏兵起り吉兵衛を擒にし従兵を斬った。孫六|他《ほか》二人は血路を開いて|漸《ようや》く平壌に逃げ帰った。茲に至って行長等明の為に欺かれた事を知ったが既におそかった。
正月五日には、平壌の城北|牡丹台《ぼたんだい》、七星門方面は右脇大将張世爵以下の一万三千が、城西普通門方面は左脇大将楊元以下一万一千が、城南|含毬門《がんきゆうもん》方面は中脇大将李如柏、朝鮮の武将李鎰以下一万八千が、来襲した。東は大同江だから完全な包囲攻撃である。平壌に籠る日本軍は、一万一千、夜襲を屡々試みたが成功するに至らなかった。七日午前八時如松は総攻撃を命令した。明軍の大将軍砲、|仏郎機《フランク》砲、|霹靂《へきれき》砲、子母砲、|火箭《ひや》等、城門を射撃する爆発の音は絶間もなく、焔烟は城内に満ちる有様であった。日本軍は壁に拠って|突喊《とつかん》して来る明軍に鳥銃をあびせる。明軍死する者多いが、さすがに屈せず|屍《しかばね》を踏んで城壁を|攀《よ》じる。日本軍刀槍を揮って防戦に努めるけれども、衆寡敵せず内城に退いた。李如松楊元等は普通門より、李如柏は合毬門より、張世爵は七星門より外城に進入した。此時牡丹台を行長の士小西|末郷《すえさと》、鎮信の士松浦源次郎の同勢固めて居たが、源次郎は逃れ難くなったので、切腹して果てた。此夜、行長は諸将と会して進退を議したが、既に兵糧庫も焼れて居るし、|鳳山《ほうざん》からの援軍も来ない上は、一度京城へ退いて再挙するに如くはなしと決して、|潜《ひそか》に城を出で大同江の氷を渡って京城へと落ち延びた。寒気厳しい最中の退却であるから惨憺たる有様であった。鳳山の大友|吉統《よしむね》は、平壌囲まると聞くや仰天して、行長より一足お先に京城へ逃げ込んだ。太閤秀吉聞いて、日本の武威を汚すものとして、吉統の領国をとり上げた。
平壌に於ける敗戦までは、まだまだ積極的な態度であったが、これ以後の日本軍は処々の戦勝あるとは云え、大局に於て退軍の兆が現れるようになった。だが、その間に在って、|碧蹄館《へきていかん》の血戦は、|退《ひ》き口の一戦として、明軍をして顔色なからしめたのである。
碧蹄館血戦之事
平壌敗れたりとの報が、京城に達したので、宇喜多秀家は三奉行と相談して、安国寺|恵瓊《えけい》を開城へ遣して、小早川隆景に、京城へ退くよう|勧説《かんぜい》した。隆景曰く、「諸城を築いて連珠の如くに守って居るのは、今日の様な事があるが為である。此地は険要であるから、|某《それがし》快く一戦して明軍と雌雄を決する所存である。渡海以来の某は日夜戦陣に屍を|暴《さら》すをもって本意として来た。生きて日本へ帰る事など|曾《かつ》て思った事もない。老骨一つ、よし此処に討死しても日本の恥にもなるまい」と頑張って退く事を|肯《がえん》じない。三奉行の一人大谷|刑部少輔《ぎようぶしようゆう》吉継、京城より馳せつけて隆景に説いた。「貴殿の御武勇の程は皆々存じては居るが、今度は主力を京城に集結して決戦しようと考えて居るのである。且つはこの開城京城間の|臨津江《りんしんこう》が春来と共に氷が解ける事でもあらば、貴殿の進退は困難となろう」と説得して、ついに開城を中心として四方の諸城の軍勢も、次々に退却して京城に集った。集った諸軍勢も|悉《ことごと》く城内に入ったが、小早川隆景、及び立花宗茂等の諸軍だけは城内に入らず、西大門外に陣を布き、迎恩門を先陣として警戒怠りない。城中の諸将は隆景に、軍勢を城内に収めるがよかろうと忠告すると、隆景は嘲笑って答えた。明の大軍南下するからには必ずこの城を包囲せずには置かないのである。今若し我軍悉く城中に引籠って|了《しま》ったならば、兵糧の道を|如何《いか》にして守るつもりであるか。各々方平壌の二の舞を踏みたいわけではあるまいと。――こう云われると誰も答え様がなかった。隆景の武略、諸将を圧していたのである。さて隆景等が退いた開城には、既に李如松等代って入り、京城攻略の策戦を|廻《めぐら》した。|銭世《せんせいてい》は自重説を称え、奇兵を出して混乱に乗ずることを主張する。査大受は、勝に乗じて一挙に抜くべしと論ずる。先ず敵情如何と、査大受一軍をもって偵察に出かけた処が、|坡《は》州を過ぎた附近で、日本軍の斥候隊と遭遇した。僅かな人数なので忽ち日本の斥候隊は大受の騎兵団の馬蹄に散らされ六十数名の戦死者を出した。喜び勇んだ大受は勝報を李如松に告げた。時に、日本軍の精鋭は平壌で殆ど尽きて、京城に在るは弱兵恐るるに足りない者許りであるとの諜報も来て居るので、如松は|直《ただち》に若干兵を開城に置き、李寧、祖承訓を先鋒として、自ら二万を率いて出動した。大谷吉継が予見したように、臨津江の氷は半ば融けかかって居たので、柳成竜工夫して|葛《かずら》をもって橋をかけたので、大軍間もなく坡州に入った。
京城の日本軍では、いよいよ明軍来が|確《たしか》になったので、誰を先手の将とするか詮議|区々《まちまち》である。隆景進み出て云う様、この大役は立花左近将監宗茂こそ適役である。嘗つて某の父元就四万騎をもって大友修理大夫|義鎮《よししず》の三万騎を九州|多々良浜《たたらがはま》に七度まで打破った時に、この宗茂の父伯耆守、僅か二三千騎をもって働き、ついに大友の勝利に導いた事がある。その武将の子である宗茂及びその一党、皆覚えあるものと思う、宗茂が三千は余人の一万に当るであろうと推挙するので、諸将尤もとして宗茂を先陣と定めた。若輩の宗茂は、歴々満座の中に面目をほどこして我陣屋へ帰ると、|宗徒《むねと》の面々を呼び集めて、十死一生の働きすべく覚悟を定めた。第一陣はこの宗茂、並びに弟高橋直正以下三千である。第二陣は、隆景旗下八千の兵、第三隊は小早川|秀包《ひでかね》、毛利元康、筑紫広門等五千、第四陣は吉川広家が四千の兵。総勢二万の大将は隆景である。秀家始め三奉行、黒田長政等も、各々順序を以って陣構えした。
先陣宗茂の部将小野和泉は、我に一将を|副《そ》えて前軍と為せ、敵の斥候隊を打破ろう。斥候が逃げれば後続の大軍動揺するであろう。そこをつけ入るべしと勧めたから、宗茂は和泉に立花三左衛門を副えて|前備《まえぞなえ》とした。池辺竜右衛門進出で、我日本の戦闘は小人数の打合が多い。しかし明軍の戦の懸引は部隊部隊を以てして居る。これに対抗するには散兵戦では駄目である。と云うので、中備を十時伝右衛門、後備は宗茂と|定《きま》った。準備は全く整った。その宵黒田長政例の水牛の角の甲を被って宗茂の陣に来り、一方を承ろうと云った。宗茂の軍、長政の勇姿を見て奮い立ったと云う。宗茂長政二人とも、二十五歳で、正に武将の花と云ってよかった。
正月二十六日の午前二時、宗茂の軍は、十時但馬、森下備中の二士に銃卒各数十人を率いさせて斥候に出した。この時坡州の李如松も亦出登して京城へ進軍しつつあった。明軍の方でも既に斥候を放つばかりでなく、遠近の山野に伏勢を布いたりした。十時森下の一隊は伏勢を察して、此処かしこ距離を置いて鉄砲を放ち、大勢であるが如くに見せかけた後、突入したから伏勢は追い出されて散々である。宗茂この報を受けるや直ちに進登を命じた。この朝寒風が強い。宗茂|粥《かゆ》を作って衆と共に喫し、酒を大釜に|温《あたた》めて飲みもって士気を鼓舞したと云う。前備小野和泉が出登しようとして居る処へ|馳《か》け込んだのは中備の将十時伝右衛門である。伝右衛門和泉に向って前備を譲らんことを乞うた。和泉は驚き怒り、軍法をもって許さない。伝右衛門は和泉の鎧の袖にすがって、今日の戦は日本|高麗《こま》分目の軍と思う。某は真先懸けて討死しよう。殊死して突入するならば敵陣乱れるに相違あるまい。其時に各々は攻め入って功を収められよ。先駆けを乞うのは八幡大菩薩私の軍功を|樹《た》てる為ではない。こう云って涙を流した。和泉感動して、ついに前軍と中軍と入れ代った。霧が深く展望がきかないままに、明の先鋒査大受は二千の騎兵を率いて|恵陰嶺《けいいんれい》を過ぎて南下したが、十時が五百の部隊、果然夜の明けた七時頃に遭遇した。|弥勒院《みろくいん》の野には忽ち人馬の馳せかう音、豆を|煎《い》る銃声、剣戟の響が天地をゆるがした。天野源右衛門三十騎計りで馳せ向うが、明軍は密集部隊であるから馬を入れる隙が無い。引返さんかとして居ると十時伝右衛門内田忠兵衛と名乗って馬を駆け寄せ、槍をもって突崩し五六騎を切って落したとある。名乗った処で相手にはわからないであろうが、やっぱり習慣で名乗ったらしい。兎に角伝右衛門は必死だから、その|風《ふう》を見て勢いを得た部下は続いて突入った。明軍は四倍の大勢だから伝右衛門の部隊は忽ちに真中に取囲まれて仕舞った。伝右衛門は総勢を一所に集めて、「敵を間近に引寄せて置いて急に後方に血路を開き、中備の隊まで引取るべし。然る時は敵勢追って来るであろう。我部隊中備と合したならば直ちに取って返し一文字に突破すべし。かくすれば此敵安く追い払う事が出来るぞ」と下知して戦ったが、ついに手負|数多《あまた》で討死した。自分が声明した通りであった。部隊の死傷百余人である。中備小野和泉入替って戦うたが易く破れる気色もない。|反《かえ》ってまた危く見えた処に宗茂二千の兵一度に|鬨《とき》を挙げて押し寄せた。さしもの明軍も少しく退いたので、宗茂八百を後に固め、あとの軍勢は追撃に移らせたが、此時には既に明軍の後属部隊も到着したから戦は簡単には行かない。池部竜右衛門以下手負死人二百余に及んで居る。折から隆景の先手の兵が来たので宗茂は、一先ず部隊を引まとめて小丸山に息をつぎ、隆景旗下粟屋四郎兵衛|景雄《かげお》、井上五郎兵衛景貞の六千の新手に正面の明軍を譲った。明軍の進撃の有様を書いたものに、
「敵の人数色黒み備|閑《しず》かにして勢い|殊之外《ことのほか》見事也。間近になると拍子を揃え太鼓を鳴らし大筒を|打立《うちたて》黒烟を立てて押寄す」
とある。相当なものである。また、
「馬の大きさはけしからず候。男もけしからず大きく候。上方衆(日本軍のこと)もけしからず|怪《お》じ入り候也」とある。だから、日本軍も勢い死戦する外はないのである。隆景の先鋒粟屋井上の両人は、両軍を一つに合して当ろうかと相談した。隆景の士、佐世勘兵衛正勝はその儀然るべからずと|諌《いさ》めたから、四郎兵衛は左に、五郎兵衛は右に備を立てて対陣し、大筒小筒を打合ったが、四郎兵衛の手の内|三吉《みよし》太郎左衛門元高の旗持が弾に中って倒れた。其他の旗持之を見て騒いだから、明軍望み見て鬨を挙げて攻め押せた。三千の日本軍浮足立ったのを、四郎兵衛馬を左方の高みへ乗上げて下知を下す。粟屋|掃部《かもん》、益田七内、村上八郎左衛門、石原太郎左衛門、鳥越五郎兵衛、河内太郎左衛門等三十四人の勇士、各々槍を取って踏みこたえた。この苦戦の様を見た井上五郎兵衛は高地を下りて援軍しようとすると、佐世勘兵衛また馬の口を控えて云うには、「暫く待ち給え。粟屋勢崩れるであろう」と止める。案の定四郎兵衛の軍は崩れて退き、明軍は|湧《わ》く如くに馳せ上って来る。勘兵衛見て、時分はよし|蒐《あつま》り給えと云う。即ち井上勢は明軍坂を上ろうとする処へ上からどっと駈け下ったから明軍は忽ちに追い散らされ、粟屋勢も取って返した。時に十時頃である。隆景本陣を|望客《ぼうかくけん》の上に置き馬上戦陣の展開を眺めて居たが、機正に熟すとして、全軍に進撃の命令を下した。小早川秀包、毛利元康、筑紫広門等五千の軍を右廻して明軍の左側面を衝かしめ、小丸山に待機中の立花宗茂三千の軍を左廻りして右側面を襲わしめた。隆景自身、井上粟屋勢の後に続いた。追撃して高陽附近に至る頃明将楊元新手を率いて来り|援《すく》った。李如松も之に力を得、部将李如柏、李如梅、李寧等も|孰《いず》れも自身剣を執って戦った。しかしこの戦場は水田が多く且つ狭隘である為に、騎兵の多い明軍は自由に馬足をのばす事が出来ず、又密集体形を展開するのにも苦しんだ。日本軍は三方から攻撃を続けるので明軍次第に敗色を現した。如松は始め、恵陰嶺を越え来る時にも、落馬して額を傷つけたが、この乱軍の最中にまた馬から落ちた。井上五郎兵衛望み見て忽ち馬を馳せて|将《まさ》に槍を如松に付けようとした。明将李有昇馬を寄せて之を遮り、やっと他の馬に乗せて退かせる事を得たが、有昇自らは弾丸に中って戦死した。李如梅の如きは、金甲の|倭《やまと》を手ずから射殺すと云うから、日本軍の一隊長と渡合って之を倒しているわけである。この様に明軍も奮戦したけれどもやがて寒雨到り行動は益々敏活を欠くのに対して、日本軍は左右の高地から十字火を浴せたのでついに支うべくもなくなった。激戦の高潮に達したのは正午頃であるが、間もなく明軍の総退却となり、日本軍は之を恵陰嶺まで追撃した。だが長追は無用と云うので立花の先鋒小野和泉馬を|横《よこた》えて日本軍を制し、隆景亦休戦を命令した。京城に凱歌を挙げて帰ったのはその日の暮方で明国朝鮮連合軍の首を斬ること六千余級であると云う。碧蹄館の戦即ちこれである。
さて大敗を喫した李如松は開城に退いて明朝へ上奏文を送ったが、その中に曰く、
「賊兵の都に在る者二十余万衆寡敵せず、且臣|病《やまい》甚し、他人を以て其任に代えんことを請う」と。今でもそうだが、工合が悪くなったから、病気辞職をしようと云うわけだ。
朝鮮の忠臣柳成竜は之を見て、二十万なぞとは嘘だと云うと、「汝が国人がそう告げたのだから、事実は|乃公《おれ》の知った事じゃない」と云った。時に兵糧欠乏を告げる者があったが如松は成竜の責任であるとして、之を廷下に|跪《ひざまず》かしめ、軍法を以って処分しようと怒った。いやしくも一国の廟臣に対して侮辱もまた甚しいわけである。成竜は大事の前の小事と忍んで陳謝したが、国事のついに茲にまで至った事を思うと、覚えず流涕せざるを得なかったと云う。
|愈々《いよいよ》加藤清正咸鏡道より将に平壌を襲わんとして居るとの流言を聞くや、如松はこれをよい口実として、成竜の切願をも|斥《しりぞ》けて開城から平壌へと退いて再び南下しようとはしなかった。
碧蹄戦後に晉州城攻略の戦いがある。朝鮮役の前役即ち文禄の役中に於ては、この二つが最も大きい戦争であった。碧蹄の敗後は、明の意気全く衰えて、間もなく媾和の事がもち上ったのである。日本軍も長い間の戦闘で可なり弱っても居るので、秀吉は一先ず大部隊を帰国せしめた。媾和の交渉は色々曲折があるが、明使、「|爾《なんじ》を|封《ほう》じて日本国王と為す」の国書を|齎《もたら》した為、秀吉を怒らしむることになり、媾和も全く破れて再度の朝鮮出兵が起る。これが慶長の役で、加藤清正の|蔚山《うるさん》籠城なぞはこの時の事である。
碧蹄館の戦いの主動者は、小早川隆景と立花宗茂の二人であることはまえの通りであるが、此の時京城の日本軍は糧食尽き、三奉行を初め諸将退却の止むを得ざるを知りながら、口先では強がりを云っていたのである。軍議区々であったが、隆景は病と称して評議の席に出でず、いよいよ糧尽くる頃を見計いて、軍議の席に出て、「日本勢此都にて餓死しても後来日本のお為にはならず、退却こそ然るべし」と云ったので、諸将皆隆景説に一致した。その時隆景又曰く、「と云って、仔細なく此都を引き取るべしと思わるるは不覚なり。明人大勢にて押し寄するを知りて、|徒《いたずら》に退く時は逃げたるに当るべし。是非茲は一ト合戦致し退かでは叶わぬ所なり。と云って全軍にて戦わば、大勢退き難からん。明日の合戦は拙者致すべく、その間に人数を|繰引《くりひか》せられよ、随分一ト合戦致すべし」と云って、|殿《しんが》り戦を引き受けて大勝したのが、碧蹄館の戦である。此の時の隆景の勇姿は|摩利支天《まりしてん》の如くであったと云われている。
隆景に賛成したのが宗茂で、相共に奮戦したのである。加藤清正、安辺に在り、日本軍京城の大勝を聞いて、先陣は必ず立花ならんと云ったが、果してそうであった。
この戦いの容子から考えて、日本軍の不統一が分るわけで、京城在城の諸軍隆景と宗茂だけよく日本のために万丈の気を吐いたわけである。
ある日、秀吉が諸大老と朝鮮の事を議しているとき、黒田如水壁越しに、秀吉の耳に入るように放言して曰く、「去年大軍を朝鮮に遣わされしとき、家康か利家か、でなくば|軍《いくさ》の道を知りたる拙者を遣わさるれば、軍法定まりて滞りあるまじく、朝鮮人安堵して日本に帰順し、明を征伐せんこと安かるべし。然るを加藤小西|若《ごと》き大将なれば血気の勇のみにて、|仕置《しおき》一様ならず、朝鮮の人民日本の|下知《げち》法度を信ぜずして、山林へ逃げかくれ、安堵の思なく、朝鮮の三道荒野となって五穀なし。兵糧を日本より運送するようにては如何で明に入ることを得ん」と。秀吉壁越しに聞き、尤もだと思ったと云うが、まことに朝鮮出兵失敗の根幹を指摘している。
後 記
この物語を作るに際して参照した書物は次の如くである。
天野源右衛門覚書
別名『立花朝鮮記』と云われて居る様に、立花宗茂の戦功を、その部下の源右衛門が書いたものである。
吉野甚五衛門覚書
|懲録《ちようひろく》
朝鮮の忠臣柳成竜が、八道を|蹂躙《じゆうりん》された経過を述べて将来の|誡《いましめ》としたもの。
征韓偉略
水戸彰考館総裁川口|長孺《ちようじゆ》の著で、秀吉の譜、宗氏家記、毛利家記、黒田記略、清正記等各部将の家記を始め、朝鮮の懲録、明の明史までも参照して簡単ではあるが信頼すべきもの。
堀本朝鮮征伐記
其他
日本戦史朝鮮役
近世日本国民史朝鮮役等
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切支丹宗徒蜂起之事
肥後の国宇土の半島は、その南方天草の諸島と共に、内海八代湾を形造って居る。この宇土半島の西端と天草|上島《かみじま》の北端との間に、大矢野島、|千束《せんぞく》島などの島が有って、|不知火《しらぬい》有明の海を隔てて、西島原半島に相対して居るのである。
天正十五年、豊臣秀吉が薩摩の島津義久を征した時、九州全土に勢威盛んであった島津も、東西の両道を南下する豊臣勢には敵すべくもなく、|忽《たちま》ち|崩潰《ほうかい》した程であるから、沿道の小名|郷士《ごうし》の輩は|風《ふう》を望んで秀吉の軍門に投じたのであった。
秀吉は此一円を、始め小西行長に属せしめたが、郷士土民はよく豊臣の制令に服従した。
徳川の天下となった後も、これらの郷士の子孫達は、豊臣の恩顧を想って敢て徳川幕府に仕うる事なく、山間漁村に隠れて出でようとはしなかったのである。
行長の遺臣益田甚兵衛|好次《よしつぐ》はそれら隠棲の浪士の一人である。始め肥後宇土郡|江辺《えべ》村に晴耕雨読の生活を送ること三十余年であったが、寛永十四年即ち天草島原の切利支丹一揆の乱が起った年の夏、大矢野島に渡り越野浦に移り住んで居た。元来行長は切利支丹宗の帰依者であったから、その家臣も多くこの|教《おしえ》を奉じて居たのであって、益田好次も早くより之を信じて居た。天正十八年末、徳川幕府は全国に亙って切利支丹、|法度《はつと》たるべき禁令を|布《し》いた。これより宗門の徒の迫害を受けること甚だしく、幾多の殉教哀史をとどめて居ること世人の知るが如くである。
九州の地は早くから西洋人との交渉があったから、キリスト教も先ず、この地に伝わった。伝来の年が西暦一五四九年、島原の乱が同じく一六三七年であるから此間九十年近い歳月がある。この長い年月に亙っての、宣教師を始めとした熱烈な伝道は、国禁を忍んで秘かに帰依する幾多の信徒をつくった。当時海外折衝の要地であった長崎港を間近に控えた島原天草の地には勿論、|苫屋《とまや》苫屋の朝夕に、|密《ひそ》かな祈りがなされ、ひそかに十字が切られた。
大矢野島の益田好次に男子があった。名は四郎、五歳にして書を善くし、天性の英資は人々を驚嘆させた。幼にして熊本の一藩士の小姓となったが、十二三の頃辞して長崎に出て明人に雇われた。ある時一明人、四郎の風貌を|観《み》て此子は市井に埋まる者でない。必ず天下の大事を為すであろう、と語ったと云う。父好次の下に帰ったのが寛永十四年、年|漸《ようや》く十六であったが、英敏の資に加うるに容資典雅にして挙動処女の如くであった。当時は、美少年尊重の世であったから、忽ち衆人讃仰の|的《まと》となった。この弱冠の一美少年こそは、切利支丹一揆の|総帥《そうすい》となった天草四郎時貞である。
当時島原一円の領主であった松倉|重次《しげつぐ》は惰弱の暗君で、|徒《いたず》らに重税を|縦 《ほしいまま》にした。宗教上の圧迫も残虐で宗徒を|温泉《うんぜん》(雲仙嶽)の火口へ投げ込んだりした。領主の暴政に、人心離反して次第に動揺し、流言|蜚語《ひご》また盛んに飛んだ。――病身がちであった将軍家光は既に|薨《こう》じているが、未だ喪を発しないのだとか、この冬には両肥の国に兵革疫病が起って、ただ天主を信ずる者|丈《だけ》が身を全うし得るであろうとか、紛々たる流言である。四郎時貞が父と共に住居して居る大矢野島に並んだ千束島に、大矢野松右衛門、千束善右衛門、大江源右衛門、森宗意、山善左衛門と云う五人の宗門長老の者達が居た。これ等はこの島に隠れる事二十六年、熱心な伝道者であったが、|嘗《か》つては益田好次同様豊臣の恩顧を受けた者である。
この年の夏彼等は人心の動揺に乗じて、「慶長の頃天草|上津浦《かみつうら》の一|伴天連《ばてれん》が、国禁によって国外へ追放された時の遺言に、今より後二十六年、天帝天をして東西の雲を焦さしめ、地をして不時の花を咲かしめるであろう。国郡騒動して人民困窮するけれども、天帝は二八の天章をこの地に下し、宗門の威を以って救うであろうとあるが、今年は正にその時に当る」と流言を放った。丁度この夏は|干魃《かんばつ》で烈日雲を照し、島原では深江村を始め時ならぬ桜が開いたりしたから、人民は容易にこれらの流言を信ずるに至った。そこで松右衛門は好次と|謀《はか》って、四郎をもって天帝|降《くだ》す処の天章と為し、大矢野島宮津に道場を開き法を説いた。来り会する老若男女は、威風|傍《かたわら》を払い、|諄 々《じゆんじゆん》として説法する美少年の風姿に、まずその眼を|瞠《みは》ったに相違ない。その上彼等が尊敬し来った長老達が、四郎を礼拝する有様を見ては、驚異の念は次第に絶大の尊崇に変った。更に四郎が不思議の神通力を現すと云う噂は、門徒の信心を強め、新たに宗門に投ずる者を次第に増さしめた。四郎天を仰いで念ずると鳩が飛んで来て四郎の掌上に卵を産み、卵の中から天主の画像と聖書を出したとか、一人の狂女が来ったのに四郎|肯《うなず》くと忽ちに正気に還ったとか、またある時には、道場に来て四郎を|罵《ののし》る者があったが、其場に|唖《おし》となり|躄《いざり》となった、などと云う。こうして宗教的熱情は高まり物情次第に騒然となって来た。
「領主板倉氏の宗徒への圧迫と課役の苛酷さとは、平時も堪えがたし。今年の凶作をもって、如何にして之に堪えてゆかれよう。今は非常手段に訴えるより途はなかろう」この様な論議が各村庄屋の寄合の席で持ち出される。大矢野島と島原との間に湯島と云う小島があるが、宗徒等は此処に秘密のアジトを置き、天草島原の両地方の人々が来り会して、策謀を|凝《こら》した。後世談合島と称される|所以《ゆえん》である。
島原の南有馬村庄屋治右衛門の弟に角蔵なる者があり、北有馬村の百姓三吉と共に、熱烈な信者であった。彼等の父は嘗つて藩の宗門改めに会って斬られた者達であるが、角蔵、三吉は各々の父の|髑髏《どくろ》と天主像を秘かに拝して居たのを、此頃に至って公然と衆人に示して、|勧説《かんぜい》するに至った。立ち所に帰する者七百人に及んだが、領内の不穏を察して居た有馬藩では、之が逮捕に、松田兵右衛門以下二十五人をして、船に乗じて赴かしめた。両名の妻子共々に捕えた時に、三吉は角蔵に向って「自分が身を以って教に殉ずるのは、|固《もと》から願う処だ。しかし五歳の男児と三歳の女児の未だ教の何たるかを知らない者まで連座するのを見ると涙がこぼれる」と云うと、角蔵は、「何と云う事を云われる。我等両人世々教に殉ずる事になったわけで、生前の|栄《はえ》、死後の寵何の之に加えるものがあろう」と答え笑って縛に就いた。たまたま三吉の家で礼拝して居た男女が七十余人あったが、角蔵、三吉両家の者を始め、主謀者と|認《みな》された者等|総《すべ》て十六人が、藩船に乗せられて折柄暮れようとする海へ去るのを見送って、「自分等も早晩刑を受ける事であろう。今はただ相共に天国に|見《まみ》えん事を待つのみである」と呼ばわりながら、見送った。これは十月二十二日の事であるが、その翌二十三日、有江村の郷士佐志木作右衛門の|邸《やしき》に信徒が集って居るのを耳にした代官林兵右衛門は単身乗り込んで、天主の画像を奪い破り、|竈《かまど》に投じた。忍従の信徒達もこれを見ては起たざるを得なかったのであろう。座に在った四十五人は等しく|耒耜《らいし》を採って、兵右衛門を打ち殺して仕舞った。ここに於て佐志木作右衛門は、千束島の山善左衛門等と|図《はか》ったが、結局|坐《い》ながら藩兵に攻められるより兵を挙ぐるに|如《し》かずとなった。
「天主の教を奉じての|事故《ことゆえ》日本全土を敵とするも|懼《おそ》るるに当らない。|況《いわ》んや九州の辺土をや。事成らばよし、成らずば一族天に昇るまでの事だ」聞く者皆唯々として従ったので、挙兵の|檄文《げきぶん》は忽ちに加津佐、串山、小浜、|千々岩《ちぢわ》を始め、北は有江、堂崎、布津、深江、中木場の諸村に飛んだ。加津佐村の代官山内小右衛門、安井三郎右衛門両名は、信徒三十数名に襲われ、鳥銃の為に|斃《たお》された。千々岩、小浜、串山三村の代官高橋武右衛門は、夜半放火されて驚いて出る処を討たれた。其他諸々在々の諸役人も同じく襲撃されたのである。
時に島原の領主松倉重次は、江戸出府中の事であるから、留守の島原城は大騒ぎである。老臣岡本新兵衛は、士卒をして船で沿岸を偵察せしめるが、ほとんど、津々浦々が一揆である。うかつに上陸した者は、|悉《ことごと》く襲われる始末である。殊に一揆は代官所を襲って得た処の鳥銃槍刀の武器を多く手に収めて居る。其上に元来が島原の人民は鳥銃製造の妙を得て居て、操作の名手も、少なくない。|三会《みえ》村の百姓金作は針を遠くに懸けて置いて、百発百中と云う程で、人呼んで懸針金作と称した位である。
銃の名手丈でなく|大斧《おおおの》を揮う老農があるかと思えば、剣法覚えの浪士が居る。こうした油断のならない一揆の群が何処にひそんで居るかわからないのだから、軍陣に慣れて居る藩士達も徒らに奔命に疲れるばかりでなく、諸処に討死をする。一揆の方では三会村の藩の米倉を奪取しようとさえした。
隣国の熊本藩、佐賀藩では急を聞いて援軍各々数千を国境にまで出したが、国境以外は幕命がなければ兵を進めることは法度である。豊後府内に居る幕府の目付が救援を許さないので、次第に騒動が大きくなるのを眺めているだけだった。
島原城から繰出した討手の軍勢も散々に反撃を受けて、早々に退き籠城しなければならなかった。宗徒勢は城下の民家社寺を焼き払って陣を布いた。此頃になると宗徒勢も大軍をなす程であるから、誰か総大将を立てようとの論議が出て来た。さらば稀代の俊英天草四郎時貞こそ然るべしと云うので、大矢野宮津の道場に急使をたてた。四郎は直ちに諾して、「我を大将と仰ぐからには、如何なる下知にも|随《したが》うべし。陣立を整う故に早々各地の人数を知らしむべし」と命令した。道場の周囲には既に七百の武装民が集って居た。間もなく四郎は警固の者四五十人と共に、島原の大江村に渡った。首謀者達は此処で相談した結果、先ず長崎附近へ人数一万二千余を二つに分けて遣わし、|日見《ひみ》峠、|茂木《もぎ》峠に布陣して長崎を見下し、使をやって若し宗門に降らざる時は、一度に押し降って襲撃放火し、その後、勢いに乗じて島原城を乗取るべしと定めた。要地長崎を窺う軍略は一時の暴徒の考え得る処ではない。|将《まさ》に、出動しようとして居る処へ天草の上津浦から使が来た。曰く、「寺沢家の支城富岡では、宗徒鎮圧の為に三宅藤兵衛を大将として、上津浦の近く島子志柿辺まで軍勢を指し向けたから至急に加勢を乞う」と。
そこで、長崎進撃を差置いて、四郎千五百を率いて天草に渡り、上津浦の人数と合して三道より進んだ。島子の一戦に寺沢勢を敗走せしめ、|本戸《もとど》まで追撃して、ついに大将藤兵衛を、乱軍の中に自刃せしめた。何しろ、島中の人民はほとんど総てが信徒なので、征討軍が放つ密偵は悉く偽りの報告を|齎《もたら》すから、まるで裏をかかれ通しである。
十一月十九日、寄手の軍は富岡城を攻めた。総軍一万二千分って五軍となす。加津佐の三郎兵衛、|口野津《くちのつ》の作兵衛、有馬の治右衛門、千々岩の作左衛門以下千五百人、|有家《ありや》の監物、布津の大右衛門、深江の勘右衛門以下千二百人、大矢野の甚兵衛、大矢野の三左衛門以下二千五百人、|本渡《もとわたり》の但馬、楠浦の弥兵衛以下二千人、上津浦の一郎兵衛、下津浦の治右衛門、島子の弥次兵衛以下三千七百人、部将皆郷士豪農の|類《たぐい》である。総大将四郎時貞は相津玄察、下津浦の次兵衛と共に二百の|麾下《きか》を従えて中軍に在った。陣中悉く白旗を掲げ十字架を画いた。「山野悉く白旗に満ち、人民皆十字架を首に懸けるであろう」と云ったバテレンの予言は、此処に実現したわけである。城は二の丸まで押し破られたが、城兵も殊死して防ぎ、寄手の部将加津佐の三郎兵衛を斃したりした。既に城も危くなった頃、四郎時貞は不意に囲を解き、軍船海を圧して、島原に帰って行った。江戸幕府急を知って、征討の軍|来《きた》る事近しとの報を受けたからであった。
板倉重昌憤死之事
江戸幕府へ九州動乱の急を、大阪城代が報じたのは寛永十四年十一月十日の事である。大老酒井忠勝、老中松平信綱、阿部忠秋、土井利勝等の重臣、将軍家光の御前で評定して、会津侯保科|正之《まさゆき》を征討使たらしめんと議した。家光は東国の辺防を|寛《ゆる》うすべからずと云って許さず、よって板倉内膳正|重昌《しげまさ》を正使とし、目付|石谷《いしたに》十蔵貞清を副使と定めた。両使は直ちに家臣を率いて出府した。上使の命に従うこととなった熊本の細川光利、久留米侯世子有馬|忠郷《たださと》、柳川侯世子立花忠茂、佐賀侯弟鍋島元茂等も相次いで江戸を立ったのであった。
さて天草から島原へ軍を返した四郎時貞は、島原富岡の両城を攻めて抜けない中に、既に幕軍が近づいたので、此上は何処か要害を定めて持久を謀るより外は無い、と断じた。口津村の甚右衛門は、嘗つて有馬氏の治政時代に在った古城の原を無二の割拠地として勧め、衆みな之に同じたから、いよいよ古城を修復して立籠る事になった。口津村の松倉藩の倉庫に有った米五千石、鳥銃二千、弓百は悉く原城に奪い去られた。上使が有江村に着陣した十二月八日には、原城は準備整って居たのである。
城の総大将は勿論天草四郎時貞であるが、その下に軍奉行として、元有馬家中の|蘆塚《あしづか》忠兵衛年五十六歳、松島半之丞年四十、松倉家中医師|有家久意《ありやひさとも》年六十二、相津玄察年三十二、布津の太右衛門年六十五、参謀本部を構成し、益田好次、赤星主膳、有江|休意《よしとも》、相津宗印以下十数名の浪士、評定衆となり、目付には森宗意、|蜷川《にながわ》左京、其他、弓奉行、鉄砲奉行、使番等数十名の浪正之を承った。加津佐、堂崎、三会、有馬、串山、布津、有家、深江、安徳、木場、千々岩、上津浦、大矢野、口野津、小浜等十数ケ村の庄屋三十数名が物頭役として十軍に分った総勢二万七千、老若婦女を合せると三万を越す人数を指揮した。
上意をもって集る官軍は、鍋島元茂の一万、松倉重次の二千五百、立花忠茂の五千、細川光利の一万三千、有馬忠郷の八千を始めとして諸将各々兵を出し、城中の兵数に数倍する大軍である。上使重昌は、鍋島勢を大江口|浜手《はまて》より北へ、松倉勢は北岡口浜の手辺に、有馬勢はその中間に、立花勢は松倉勢の後方近く夫々に布陣した。十二月十九日寄手|鬨《とき》の声を揚げると城中からも同じく声を合せて、少しも|周章《あわて》た気色も見えない。重昌、貞清、諸将を集めて明日城攻めすべく評議したが、有馬忠郷と立花忠茂は共に先鋒を争うのを重昌|諭《さと》して忠茂を先鋒と定めた。二十日の|黎明《れいめい》、忠茂五千の兵をもって三の丸を攻撃した。家臣立花大蔵長槍を揮って城を|攀《よ》じて、一番槍と叫びもあえず、弾丸三つまでも|甲《かぶと》を貫いた。忠茂怒って自ら陣頭に立って戦うが、城中では|予《かね》てよりの用意充分で、弓鉄砲の上に大石を投げ落すので、寄手の討たれる者忽ち算を乱した。重昌之を見て、松倉重次に応援を命ずると、卑怯の重次は、勝てば功は忠茂に帰し、敗るれば罪我に帰すとして兵を出そうとしない。重昌は忠茂の孤軍奮闘するを危んで、退軍を命ずるが、土民軍に軽くあしらわれた怒りは収らず、なかなか服しようとはせず、軍使三度到って漸く帰陣した。大江口の松山に白旗多く見えるのを目懸けた鍋島勢も、白旗は単なる擬兵であって、勝気に乗じて城へ懸ろうとすると、横矢に射すくめられて、手もなく退いて仕舞った。
籠城軍が堅守の戦法は、なかなか侮り難い上に、寄手の軍勢は戦意が薄い為に、戦局は、一向はかばかしくない。|温泉颪《うんぜんおろし》の寒風に徒らに|顫《ふる》え乍ら、寛永十四年は暮れて行った。其頃幕府は局面の展開を促す為、新に老中松平伊豆守信綱を上使に命じ既に江戸を発せしめたとの|報《しらせ》がなされた。この|報《ほう》を受け取った板倉重昌は心秘かに期する処あって、寛永十五年元旦をもって、総攻撃をなすべく全軍に命じた。元旦|寅《とら》の下刻の刻限と定めて、総勢一度に鬨を挙げて攻め上げた。三の丸を打ち破る事は出来たが、城中の戦略は十二月の時と同じく、弾丸弓矢大石の類は雨の如くである。卯の上刻頃には、先鋒有馬勢が崩れたのを切っかけに、鍋島勢、松倉勢、みな追い落された。立花勢は友軍の苦戦をよそに進軍しないから、貞清之を促すと、「諸軍の攻撃によって城は今に陥るであろうが、敵敗走の際に我軍之を追わんが為である。且つ|旧臘《きゆうろう》我軍攻撃に際しては諸軍救援を為さなかったから、今日は見物させて戴く事にする」と云う挨拶である。一旦退いた松倉勢も再び攻めようとはしないので、重昌馬を飛ばして、「今度の大事、松倉が平常の仕置き悪しきが故である。天下に恥じて殊死すべき処を、何たる態である」と、詰問したけれども動く|気色《けしき》もない。板倉重昌、石谷貞清両人の胸中の苦悩は察するに余りある。重昌意を決して単身駆け抜けようとするのを石倉貞清止め諌めると、重昌、我等両人率先して進み、諸軍を奮起させるより|途《みち》はないと嘆いた。進軍して諸軍を顧みるが誰も応じようとしない。従うはただ家臣だけである。重昌その日の|出立《いでたち》は、|紺縅 鎧《こんおどしのよろい》に、金の采配を腰に帯び、白き絹に半月の指物さし、|当麻《とうま》と名づける家重代の長槍を|把《と》って居た。城中の兵、眺め見て大将と認め、斬って出る者が多い。小林久兵衛前駆奮撃して重昌を|護《まも》るが、丸石落ち来って指物の旗を裂き|竿《さお》を折った。屈せず|猶《なお》進んだ重昌は、両手を塀に懸けて躍り込まんとした時、一丸その胸を貫いた。赤川源兵衛、小川又左衛門等左右を防いで居た家臣も同じく討死である。久兵衛重昌の死体を負って帰ろうとしたが、これも丸に当って斃れて果てた。伊藤半之丞、武田七郎左衛門等数名の士が決死の力戦の後、|竹束《たけたば》に重昌を乗せて営に帰るを得た。重昌年五十一であった。
石谷貞清も|浅黄《あさぎ》に金の五の字を|画《えが》いた指物見せて、二の丸近くに押しよせた。しかし崖は数丈の高さであり堀も亦至って深い。城兵また多く来襲して、貞清自らも肩を槍で衝かれた。家臣湯浅覚太夫がその城兵を突伏せたので、危く重囲を脱し得たが、従士は次々に斃れるばかりである。その処を赤い|瓢箪《ひようたん》の上に小熊を附けた馬印を押し立て、兵五百に先頭して、|馳《か》け抜ける若武者がある。重昌の子|主水佐重矩《もんどのすけしげのり》である。父の弔合戦、父が討死の処に死のうとの血相|凄《すさ》まじい有様を貞清見て、貝を吹いて退軍を命じ、大死を|誡《いまし》めて、切歯するのを無理に伴い帰った。全線に亙り戦いも午刻には終ったが、寄手は四千余の死傷を出した上に大将を討たせた様な始末である。之に引かえ城中の死傷は僅に百に満たなかったのであった。
始め幕命を受けて直ちに板倉重昌江戸を出発した時、柳生但馬守宗矩、折柄有馬玄蕃頭邸で能楽を見物して居たが、この由を耳にするや、席を|外《はず》して出で、馬に乗って重昌の後を追った。品川を駆け抜け川崎まで走りかけたが、ついに追い着く事が出来なかった。日も暮れて仕舞ったので、止むなく引返した宗矩は、登営して将軍に謁し、至急上使を変えんことを乞うた。|台命《たいめい》を論議する言であるというので、家光の不興は甚しい。一言も下さずに奥へ立った後を、夜半に及ぶまで宗矩は端然と黙坐したまま退かない。我を折った家光は、ついに宗矩の言を聴いて見るとこうである。
「|凡《およ》そ宗門の徒は深く教を信じ、身命を軽じても|改《か》えない事武士の節義に於けると異ならない位である。織田信長の兵威をもってして、如何に本願寺の宗徒、或は伊勢長島、三河の一向一揆に手を焼いたかを見てもわかる次第だ。内膳正重昌、若い頃、大阪陣に大任を果したから、百姓一揆何程の事あろうと思召されようが、それは大違いである。且亦、重昌人物たりと|雖《いえど》も三河深沢に僅か一万五千石の小名に過ぎない。恐らくは、細川の五十四万石、有馬の二十一万石、立花の十一万石等々の九州の雄藩は、容易に重昌の下命に従わないであろう。その為に軍陣はかばかしからず、更に新に権威ある者を遣すことにでもなった暁、重昌何の面目あって帰ろうや。あたら惜しき武士一人殺したり」情理整然とした|諌言《かんげん》に、|流石《さすが》の家光も後悔したけれども及ばなかった。悲しい事には、宗矩の言一々的中したのであった。重昌出陣に際して書残したものに、次の如く|誌《しる》されてあった。
去年の|今日《こんにち》は江城に|烏帽子《えぼし》の緒をしめ、|今年《こんねん》の今日は島原に甲の緒をしむる。誠に移り変れる世のならひ早々打立候。
あら玉の年の始に散る花の
名のみ残らばさきがけと知れ
重昌の志や悲壮である。名所司代板倉重宗の弟で、兄に劣らぬ器量があり、兄は重厚、弟は俊敏であったが、つまらない貧乏くじを引き当てたのである。
松平信綱謀戦之事
松平伊豆守信綱(此時四十二)が、改めて征討の正使として、嫡男甲斐守輝綱(此時十八)以下従士千三百を率いて西下したのは、寛永十四年|極月《ごくげつ》二十八日であった。副使は美濃大垣の城主戸田左門|氏鉄《うじてつ》(此時年六十一)。明けて十五年の正月四日、有馬表に着陣したのであるが、直ちに軍令を発し陣法を厳重にした。老中の指揮であるから従軍の諸大名も、今度は板倉重昌の場合の様に、馬鹿にするわけにはゆかない。
十日、信綱は海上から鉄砲で城を撃たせたが、船が少ない上に城は高く思う様にならない。そこで大船を求めしめた処が、丁度平戸沖に|阿蘭陀《オランダ》船が碇泊しているのを知った。直ちに廻送せしめ、城へ|石火矢《いしびや》を放たせた。阿蘭陀は当時新教でカソリック教とは新旧の違いこそあれ同じ宗教の為に闘って居る城へ、大砲を撃ち込むのは心苦しかったであろうが、何しろ当時の日本政府の命令だから止むを得ない。「智慧伊豆ともあろうものが、外国船の力を借りて城を攻めるとは、国の恥を知らないものか」手厳しい批評を城中で為して居る者が居る。が、宗徒はスペインなどからの援兵をひそかに期待していたかも知れぬから、外船からの攻撃は兵気を阻喪させたに違いない。
信綱は持久の策を執る決心をして居たから、兵糧米を充分に取寄せて諸軍に分った。二月初旬には、九州の諸大名も新手をもって来り会したから、信綱は令して諸軍の陣所を定めた。即ち北岡浜上り西南へ二百二十六間を熊本藩、次の十九間を柳川藩、次九間島原藩、次に十九間久留米藩、次百九十三間佐賀藩、次四十間唐津藩、次三百間は松平忠之兄弟、長蛇の陣はひしひしと原城をとり囲んだのである。信綱、氏鉄並に、板倉重矩等は中軍を形造り|軍《いくさ》目付馬場利重を熊本勢へ、同牧野|成純《なりずみ》を柳川、久留米、島倉の営へ、原|職充《よりみつ》を佐賀の陣へ、林勝正を福岡唐津の軍へ、夫々遣わして、本営との連絡を厳重にした。更に信綱は各陣に指図して、高い井楼を築かしめた。井楼の上から城を俯して矢丸を射込もう策戦である。
信綱は更に城中の大将四郎の甥小平をして、小左衛門の手紙を持って城内に入らしめた。その手紙の趣と云うのは、
一、寄手の軍勢は数十万余にて候……(中略)江戸様よりの御詫に、切利支丹の百姓|原《ばら》に侍衆そこなはせ候こと、いらざる儀と思召され候間、柵の所に丈夫に仰付けられほし殺しになされ候やうにと仰聞かされ候。
一、(前略)城より落つるもの三四人御座候処に、命を御助けなされ、其上金銀を下され、|剰《あまつさ》へその在所の内にて当年は作り取に|仕《つかまつ》り(後略)
一、天下様仰出でられ候は(中略)、切利支丹の儀は、当歳子によらず御果しなされ候に相定め申し候。いま発起に附きて(中略)無理に切利支丹に勧められ|罷《まか》り成り候は、聞召し届けられ、御助けなさる可く候事、上意の由に御座候(中略)勿論切利支丹宗の儀|相背《あいそむ》き難く存じ候者は、籠舎仕り相果て候とも、その段は銘々次第と存じ候。(後略)
一、城中大将四郎と申す儀、隠れなく候。その年来を聞召し候へば、十五六にて諸人を勧め、|斯様《かよう》の儀を取立て申す儀にては|無之《これなく》候と思召し候条、四郎が名を借り取立て申すもの|有之《これあり》と思召し候。左様の事に候はゞ、大将四郎にて御座候とも、罷り出でたる者これ在るに於ては、御赦免罷り成る可きの由に御座候事。
一、我等ども|此《かく》の如きの身上に罷り成り、右の通り申し遣し候事、相果て候を迷惑に存じ申入る様に思召され御心中御恥しく存じ候。ゆめ左様にては御座なく候。(中略)城中より出で申し度しと申す者ども御出し候はゞ、御断りを申し城中へ参り、一処に相果て申す可く候。(後略)
言々誠意の溢れるのを見る事が出来る。この手紙と同時に、四郎の母と姉からも、城中の甚兵衛、四郎宛に、同趣旨の手紙を送って居る。四郎の母は法名をマルタと称し、四郎旗挙げに際して、熊本藩の手に捕われたのだが、母の為に臆するなく存分に働けと四郎へ云い送った程の女丈夫である。
しかし事ここに至っては肉身の情に打ち勝ち難かったものと見える。
この二つの手紙の返事は即日城内より齎された。それには「各々御存知の如く他宗の者を無理に切利支丹にして居る事は無い。満城の衆みな身命を天主に捧げる覚悟までである」
と書かれてあった。
事実城を抜けた者は三万人中前後数名に過ぎず、信仰の力は、天下の勢を前にして懼れなかったのである。
この後信綱自ら四郎へ、降伏すべき手紙を送ったが、四郎の返書には、松倉氏の暴政を綿々として訴え、信仰の変え難きを告げ、
「みな極楽安養すべきこと、何ぞ疑ひこれあるべく候|哉《や》、片時も今生の暇、|希《こいねが》ふばかりに候」と結んで居る。
智慧伊豆の謀略をもってしても、今は決戦する丈の道しか残されて居なかった。
十日頃、城中に於て度々太鼓が鳴り響いて舞踊をして歌を歌う者がある。寄手耳を傾けて聴いてみると次の様な文句である。
かゝれ、かゝれ、|寄衆《よせしゆう》もつこてかゝれ、寄衆鉄砲の玉のあらん限りは、
とんとと鳴るは、寄衆の大筒、ならすとみしらしよ、こちの小筒で、
有りがたの|利生《りしよう》や、伴天連様の御影で、寄衆の頭を、すんと切利支丹。
十一日、寄手は、地下より角道を掘って|城際《しろぎわ》に到ろうと試みると、城の方でも地下道を掘って来る始末である。日暮れた頃、城中三の丸辺から火が挙がるのを寄手見て失火であろうと推測したが、|豈《あに》計らんや生木生草を焼いて、寄手の地下道をくすべて居たのであった。
其後、この地下道へ、糞尿を流し込んで、寄手をして|辟易《へきえき》せしめたりした。|楠《くすのき》流の防戦ぶりには信綱以下大いに困却したに相違ない。信綱は止むなく城中を探ろうと、西下途次、近江甲賀から連れて来た忍びの者達に、探らしめたが、城内の者は皆切利支丹の文句を口にするので、一向心得のない忍びの者達は、城中にまぎれ住む事が出来ない。これも亦失敗であった。
さて籠城軍も、寄手の持久の策に困惑して来た。四郎時貞、五奉行等と議して、
「我が弾丸兵糧も残少なくなって来た。我軍の力|猶《なお》壮んなる今、敵営を襲って、武器糧米を奪うに如くはない。細川の陣は塁壁堅固の上に銃兵多いから、之を討てば味方に死傷が多かろう。有馬、立花の陣は地形狭くして馳駆するに利なく、結局特に鍋島、寺沢、黒田の三陣を襲わん。出づる時には刀槍の兵を前にし、退く時は銃隊を後にし、かけ言葉はマルと相呼ばん」と定めた。
二十一日の夜、|朧《おぼろ》月夜に暗い二の丸の|櫓《やぐら》に、四郎出で立って、静かに下知を下した。
黒田の陣へは、蘆塚忠兵衛、大江の源右衛門、布津の大右衛門、深江の勘右衛門以下千四百、寺沢の営へは、相津玄察、大矢野三左衛門、有馬の治右衛門始め六百人、池田清左衛門、千々岩の五郎左衛門、加津佐の三平以下一千人は鍋島の営へ、夫々粛々と進み近づくや、一斉に鬨を挙げ火を竹束につけたのを投げ込んだ。
用心はして居ても不意の夜襲であるから、黒田藩の家老黒田監物は討たれて形勢非であったが、黒田隆政自ら槍を揮って宗徒三人を突伏せ更に、刀を執って進み、「隆政これに在り」と叫んで衆を励まして漸く追い払った。
監物の子作左衛門、|松炬《たいまつ》を照して父の|屍《かばね》を見て居たが、自らも従士五六十を率いて突入して果てたと云う。
寺沢の陣でも騒動したが、三宅藤右衛門、白柄の|薙刀《なぎなた》を揮って三人を斬り、|創《きず》を被るも戦うのを見て諸士亦奮戦して斥けた。藤右衛門は、本戸の役に自刃した藤兵衛の子であるから仇討ちをしたわけになる。宗徒勢を討つこと三百人余であった。
信綱、氏鉄、夜討ちの現場を視察して、城兵の死骸の腹を|割《さ》かしめて検した処が、海草の類を見出した。これによって、城内の兵糧少ないのを知ったのである。
聖旗原城頭落之事
城中の糧食尽きたのを知った信綱は、諸将を会して攻撃の方略を議した。其頃、上使の一人として出陣した水野日向守|勝成《かつしげ》は、「我若き時、九州に流浪して原城の名城なるを知る。神祖家康公が高天神城を攻めた時の如く、兵糧攻めに如くはない」
と云いも終らず、戸田氏鉄は、
「然らば糧尽くるを待とう」
と云った。勝成大声に、
「既に今日まで百日余の遠巻きをした。糧尽きたのは明かだ、今はただ攻めんのみ」
と怒号した。
氏鉄は又、
「さらば城に近い細川鍋島の勢をして攻め、他は鬨を合しめよう」と云うと、勝成嘲笑って、「我十六歳にして三州|小豆《あずき》|坂《ざか》に|初陣《ういじん》して以来五十余戦、未だ鬨の声ばかりで鶏軍した覚えがない。諸軍力を|協《あわ》せずして|如何《いかん》ぞ勝とうや。老人の長居は無用、伜美作守勝俊も大阪陣大和口にて、後藤又兵衛出張の時名を挙げた者だ。御相談の役には立つ筈」と云い棄てて起って仕舞った。
ここに於て、軍議は二十五日総攻撃と|定《きま》ったのである。当時城内の武備の有様を見るに石火矢八十挺、二三十目玉から五十目玉までの大筒百挺、十匁玉より二十目玉までの|矢風筒《やかぜづつ》三百挺、六匁玉筒千挺、弓百張、長柄五百本、槍三百本、具足二百領、其他とあるから、相当なものである。
さて期日の二十五日も、その翌日も雨なので、攻撃を延期して居る中、二十七日の昼頃、突然鍋島の一隊が命を待たずして攻撃に移った旨を、本営に告げる者があった。信綱楼に昇って望むと告ぐるが如くである。「火を挙ぐるを見て起き、鐘を聴いて飯し、|鼓《つづみ》を聴いて進み、貝を聴いて戦え」と云う軍令も今は無駄になった。信綱即ち、直ちに全軍に進撃を命じた。
先駆けを試みた鍋島勢を目付して居るのは原職充であるが、総攻撃令近づくや先登したくて|堪《たま》らず、鍋島勝茂に向って、「公等は皆陣を布いて柵を設けて居る。我等は軍目付の故をもって寸尺の地もないが、愚息|職信《よりのぶ》始め従士をして柵を結ぶ事を学ばしめたいから」と云って割込んで仕舞った。職信年十七の若武者で秘かに従士七八人と共に、城の柵を越えて入った。見覚えのある上に赤の布に白い餅の指物が、城を乗り越えて行くのを見て、流石の職充も驚いた。直ちに白に赤い丸二つの指物がその後を追う事になる。
一番驚いたのは鍋島勢である。信綱の命を伝うべき軍目付親子が敵城へ乗入れたのだから、今はとかくの場合ではないと、軍勢一同に動いて、鍋島勝茂の|上白《うえしろ》下黒筋違いの旗も、さっと前へ進んだ。鍋島勢が信綱の命に反して先駆したのではなくて、軍目付自ら軍律に反した始末なのである。
この職充は平常士を好んで、嘗つて加藤清正、福島正則等、国を除かれ家を断たれた時、その浪士数十人を引取った程である。この時の戦いにこの浪士達が日頃の恩顧を報じて功を立てて居る。
水野勝成は、鍋島先登の事を聞くや、五千の軍を整えて、子勝俊の来るのを待った。
勝俊白馬に乗り、金の旗掲げて来ると、五千の兵勇躍して進んだ。
勝俊は馬上に|叱咤《しつた》して、
「鍋島勢を排して進め」と命じた。
城外の地勢険阻な処に来ると、馬を棄てて子の伊織十四歳になるのを伴って進んだ。激戦なので、掲げる金の旗印が悉く折れ破れた。旗奉行神谷|杢之丞《もくのじよう》、漸く金の旗を繕って、近藤兄弟をして、崖を登って掲げしめた。
城外に在った勝成は、
「大阪の役に児子の功を|樹《た》てた事があったが、今日児孫の先登を見る」と云って涙を流して喜んだ。
細川越中守忠利は、地白、上に紺の九曜の紋ある旗を掲げ、|猩々 緋《しようじようひ》の二本しないの馬印を立て、黒白段々の馬印従えた肥後守光利と共に、三の丸前門を攻撃した。
先鋒の部将長岡式部、城中に烟が起るのを見て、直ちに前門に進撃した。
奥野伝右衛門なる士が刀を揮って門を破り開いた。前兵悉く城内へ行ったが、城の部将大塚四郎兵衛、相津左兵衛三千五百の人数で門を守って居るのと衝突した。西門を、有江掃部五百で守って居たのが、式部を見て、槍を並べて突出した。武部の軍奮戦して斥け、逃げるのを追った。
黒田忠之、同長興、同隆政は、大江門を目指して進んだが、忠之は余り急いだので甲を着けて居る暇がない。老臣黒田|睡《すいおう》追い付いて諌めたので、鎧は着けたが、猶|冑《かぶと》を冠らない。
冑を冠ると左右が見えない|等《など》と理屈を云い乍ら進むと、城の部将本渡の但馬五千を以て逆襲し、その勢いは猛烈である。
為に黒田勢三百余忽ち討たれて少しく|郤《しりぞ》くのを、忠之怒って、中白|上下《うえした》に紺、下に組みの紋ある旗を進め励ます。睡は然るに自若として牀に坐して動こうとしない。
忠之、「如水公の時屡々武功あったと云うが|老耄《おいぼ》れたのか」と罵って之を斬ろうとする処に弟隆政現れて漸く止めた。睡暫く四方を観望して居たが、忽ち|大喝《たいかつ》して軍を進めついに大江門を抜いた。
もう此頃には、三の丸池尻門辺に、上白下黒白黒の|釘貫《くぎぬき》の旗や、白い|鳥毛《とりげ》二つ、団子の馬印が立てられて、有馬|豊氏《とようじ》、同忠郷の占拠を示し、三の丸田尻門辺には立花忠茂の上白下黒、黒の処に紋ある旗や、松倉重次の黒に中朱筋一つの旗が眺められた。
二の丸辺に、熊毛二段の団子、下に金の団子の馬印が動くのは、寺沢忠高が乗り込んで居るからであり、その後に、赤い旗が進むのは、小笠原忠政、同長次が進みつつあるからである。
信綱の子輝綱は、従士十数名と共に、馬印も掲げず秘かに城へ向うを、地白紋登りはしごの総帥旗の下に、地白紋赤き丸三つの旗掲げた戸田氏鉄と共に、本営に指揮して居る信綱に見付かった。信綱軍令に反すとなして、酒井三十郎を|遣《や》って止めるが聴かない。|岩上《いわかみ》角之助行って、鎧の袖を掴んで放さないので、輝綱は怒って斬ろうとした。角之助は、敵手に斃れんより公の手に死なんと云って猶も放さない。遂いに止められた。
信綱は徒らに兵を損ずるを憂えて、諸軍に令して、各々占拠の地に陣を取り、夜明けを待つことを命じた。
陣中の盛んな|篝火《かがりび》は、|寂然《せきぜん》たる本丸を、闇の中に浮き出させて居た。
二十八日卯の頃、総軍十二万五千余は、|均《ひと》しく内城に迫った。城中の宗徒も今日が最後と覚悟したから、|矢丸《やだま》を惜しまず、木石を落し、器具に火をつけて投げ、必死に防ぐ。攻囲軍たじろぐと見ると門を開いて突出したが、反撃に支え切れず再び城に逃げ込んだ。
寄手はそこで石火矢を放ったから、城内は火煙に包まれて、老弱の叫声は惨憺たるものである。
板倉重矩|緋縅《ひおどし》の鎧に十文字の槍をさげ、石谷十蔵と共に城内に乗り込んで、
「父重昌の|讐《かたき》を報ぜん為に来た。四郎時貞出でて戦え」と大呼した。
|会々《たまたま》宗徒の部将有江|休意《よしとも》、黒髪赤顔眼光人を射る六尺の長身を|躍《おどら》して至った。重矩の従士左右から之に槍を付けようとするのを、重矩斥けて立ち向った。重矩の槍が休意の額を刺し、血が流れて眼に入ったので、休意は刀を抜いて斬りかかって来た。重矩抜き合すや、休意の右肩を斬り下げてついに斃した。
後に間もなく、信綱知って之を賞し、水野勝成は自ら|佩《お》ぶる宇多国房の刀を取って与えたと云う。
細川の先鋒長岡佐渡等の一隊は、四方に四郎時貞を求め探した。その士陣|佐左衛門《すけざえもん》は、火煙をくぐって石塁中に入って見ると、一少年の創を受けて臥床するのを発見した。一女子|傍《そば》に在って嘆き悲んで居る。佐左衛門躍り込んで少年の首を斬って出ようとすると、女が袖を放さない。三宅半右衛門が来て、その女をも斬った。
忠利、少年の首は時貞のであろうと信綱の見参に入れた。時貞の母を呼んで見せると、正しく時貞の首であった。
かくて籠城以来、本丸に翻って居た|聖餐《せいさん》の聖旗も地に落ちて、さしもの乱も終りを告げたのであった。
これより先、寄手の放った弾丸が、原城中の軍議の席に落ちて、四郎を傷けたことがある。城兵は、四郎を天帝の化身のように考え、矢石当らず|剣戟《けんげき》も傷くる|能《あた》わずと思っていたのに、四郎が傷いたので、彼等の幻影が破れ、意気|頓《とみ》に沮喪したと云われる。
幕軍は、城中に在ったものは老幼悉く斬って、その首を|梟《さら》した。
天草の乱平ぎ、切利支丹の教えは、根絶されたと思われた。
しかし、こぼれた種は、地中にひそんで来ん春を待っていた。
明治初年信教の自由許され、カソリック教の宣教師が来朝し、長崎大浦の地に堂宇を建てて、朝夕の|祈祷《きとう》をしていると、どこからともなく集って来た百姓が、宣教師の背後に来て、しずかに十字を切った。
その数が日に|殖《ふ》えて、日本に於けるカソリック教復活の先駆を成したのである。
後 記
この物語を作るに際し参考としたものは次の如し。
島原天草日記
松平輝綱の陣中日記
島原一揆松倉記
天草士賊城中話
城中の山田佐右衛門の口述書で、一名『山田佐右衛門覚書』とも云う。
立花宗茂島原戦之覚書
肥前国有馬古老物語
原城紀事
徳川実記
其他
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明智光秀は、信長の将校中、第一のインテリだった。学問もあり、武道も心得ている。戦術も上手だし、築城術にも通じている。そして、武将としての品位と体面とを保つ事を心がけている。
それだけに、|勿体《もつたい》ぶったもっともらしい顔をして居り、偽善家らしくも見えたのであろう。リアリストで、率直を愛する信長は光秀がすまし過ぎているので、「おい! すますない!」と云って時々は肩の一つもつつきたくなるような男であったのであろう。
神経質で陰気で、条理も心得て居り、信長のやり方を腹の中では、充分批判しながら、しかしすまして、勿体ぶった顔をしている光秀は、信長には何となく、気になる、虫の好かない所があったのだろう。
と、云ってガッチリしているのだから、役には立つし、軍役や雑役に使ってソツがないので、だんだん重用しながらも、信長としては、ときどきそのアラを探して、やっつけて見たくなるような男であったに違いない。
信長は、人を褒賞したり|抜擢《ばつてき》したりする点で、決して|物吝《ものお》しみする男ではないが、しかしそのあまりに率直な自信のある行動が自分の知らぬ|裡《うち》に、人の恨みを買うように出来ている。浅井長政など、可なり優遇して娘婿にしたのにも拘わらず、朝倉征伐に行ったときその背後で|背《そむ》かれた。例の金ヶ崎の退陣で、さんざんな目に会った。
「浅井が不足を感ずるわけはないが」
と云って、信長は浅井の反逆の報を容易に信じなかった。しかし、自分が恨まれないつもりで、恨まれている所に、信長の性格的欠陥があったのであろう。
荒木村重なども、やはりそうである。村重と始めて会った時、壮士なら之を喰らえと云って、剣尖に餅か何かをさして、之をさしつけた。村重平然として、口ずから喰ったと云うが、後で考えればひどい事をする奴だと思ったに違いない。村重なども、相当重用しながら背かれている。松永久秀などもそうである。
光秀反逆の原因は、丹波の波多野兄弟を、光秀が、命は請け合ったと云って降服帰順させたのを、信長が殺してしまった事。家康が安土に来るとき、光秀に饗応の役をさせた所、あまりに鄭重に過ぎたので信長が怒って途中で止めさせた事。森蘭丸が信長に近江にある亡父の旧領がほしいと哀願したところ、三年待てと云った。ところがその旧領は、現在光秀の所領なので、三年の裡には、自分の位置が危いことを知って、反逆の意を堅めたと云う説。
その他いろいろあるが、三年待て云々の話は多分嘘だろう。此の頃の信長|麾下《きか》の武将など、信長勢力の発展と共に、その所領は常にいろいろ変更されているのだから、近江で呉れたものを中国辺で呉れるものと思えば、心配することはないのである。とかく蘭丸と光秀とをいろいろからませている話は、若年にして本能寺で死んだ蘭丸の短生涯を小説化するため、大抵は仕組まれたもので、信長が蘭丸に光秀を折檻させたなども多分嘘である。戦国時代の武将が主君自らの心安立ての|打擲《ちようちやく》なら、或は辛抱するかも知れないが、小姓などを使って殴られて、寸時も辛抱するわけはないと思う。そんな事があれば、その場で抵抗するか、或は切腹したに違いない。
しかし、光秀が信長に|反《そむ》いたのは、平生の鬱憤を晴すと同時に、あわよくば天下を取ろうとする大志が、あったに違いない。秀吉が、信長の横死を機会に信長の子孫を立てずに自分で天下を取ったのを、光秀はもっと積極的に、自分の私憤を晴すと同時に、天下を志したに違いない。「三日天下」など云う言葉が残っている以上、当時天下の人心は、光秀のそうした大志を知っていたに違いない。|京師《けいし》の地子銭を免除したり相当政治的なことをやった以上、信長を殺せば後は野となれ山となれ的な棄鉢でやった事ではない。
例の|愛宕《あたご》山の連歌で、
ときは今|天《あま》が下知る|五月《さつき》かな
と云う発句を見ても、天下を狙う大志が躍動しているわけである。|老獪《ろうかい》なる|紹巴《しようは》は、その時気が付いていたと見え、光秀の敗軍と知るや愛宕山に|馳《か》けつけて、|知る《ヽヽ》と云う字を消して、その上に再び知ると、かいて置いた。そして、秀吉に訊問せられた時、「天が下成る」であったのを自分に反感を持つものが、|知る《ヽヽ》に訂正したのであると云った。知るとあるのを消して再び知るとかいた所に紹巴の頭のよさがある。
とにかく光秀の|肚《はら》は、反逆五分、大志五分であったのであろう。天下を取ることも、必ずしも空想ではなかった。勝家は北国に、秀吉は中国に、滝川は関東にめいめい敵を控えているのだし、秀吉なども光秀の眼からは、現在我々の考えているような英雄に見えるわけはなく、自分と同輩もしくは以下に見えたであろう。それに、毛利と云う大敵を前に控えて、簡単に攻め上って来るとは思えなかったのだろう。実際柴田などは、グズグズしてなかなかやって来なかった。
秀吉や柴田が、グズグズしている裡に、畿内を経営して、根拠を築き、毛利と|誼《よしみ》を通じて秀吉を挟撃して、之を倒せば天下の勢い我に帰すべしと、光秀は思ったに相違なく、そう思ったことをあまり無理だと云えないところもある。その証拠に、堺にいた家康など泡を喰って本国へ逃げ帰っている。これは、光秀の成功が可能に見えた証拠である。
その上、光秀は女婿の細川|忠興《ただおき》と親友の筒井順慶など、きっと味方してくれると思ったに違いない。光秀は、順慶の世話は随分焼いていたのだから、そう思うのも当然であった。
また主殺しなどと徳川時代の思想からは大逆と見られているが、戦国時代に主君を殺したものは松永久秀、斎藤道三、宇喜多直家以下沢山いるし、親兄第も、邪魔になると殺しかねない時代であるから、それが名分上の非常な損になるとは思わなかったかも知れない。
とにかく光秀は、私憤を晴すと共に、天下を計ったに違いなく、私憤だけなら、光秀ほどの利口な武将が、どうにか理窟をつけて、辛抱出来ない筈はないのである。
光秀の本能寺襲撃は、物の見事に成功した。信忠まで、二条城で父に殉じた。太田錦城と云う漢学者は|慷慨《こうがい》の士だが、信忠がこんなときに逃げないのは無智の耻を耻じているので犬死だと云っている。義経が、屋島で弱弓を耻じたのも、無智の耻で、武将たるものはそんな事を耻ずるに当らないと云う議論である。
秀吉は、中国に在って、信長の死を聞いて相当あわてた。その第一報は、黒田如水の所へ京都の長谷川|宗仁《そうじん》と云うものから飛脚が来たのである。秀吉は、外に洩れるといけないからその飛脚を殺せと云った。如水は、手柄こそあれ殺すべきものにあらずと云って、秀吉に内緒でかくまったと云うが、寛仁な秀吉が、そんな事を云い出すのだから、可なりあわてていたに違いない。
むろん、毛利には兇報を秘密にして、和を講じた。和成った後、兇報を知らして、かくの次第だが追撃をするかどうかと訊いた。毛利の方でも、|一寸《ちよつと》迷ったが例の小早川|隆景《たかかげ》、秀吉の大量を知って、此上戦うの不利を説いたので、秀吉後顧の憂いなくして京師に|走《は》せ上ることが出来た。その上毛利の旗さしものを借りて、毛利の援兵があるように見せかけることにした。当時秀吉の居城は、姫路である。秀吉麾下の者にとっては、故郷である。だが秀吉は姫路を通るとき、家へ立ち寄るものあらば斬るべしと厳命した。秀吉の軍兵が光秀の予期よりも早く淀川を圧して攻め上って来たのも故あるかなである。本能寺の兇変が、天正十年六月二日で、山崎合戦は同じく十三日である。秀吉の用軍の神速知るべしである。
備中の陣に、兇報が来たとき、黒田如水は秀吉に悔みを云うかわりに、するすると|傍《そば》へ寄って、その膝を叩き、
「御運の開けさせ給う時節到来せり、よくせさせ給え!」
と云った。秀吉が、心の底で思っていることを、あまり露骨に云ったので秀吉は、生涯如水を信頼しながらも、一味|憚《はばか》るところがあったと云われている。
秀吉だって、信長の死はわが開運のチャンスと思ったに違いない。光秀は、私憤を利用して、無理にそう云うチャンスを作ろうとし、秀吉は、偶然そう云うチャンスが到来したので、信長の死をチャンスだと考える点では、同じであっただろう。
だから、『太閤記』の作者は、
「天下順に帰するや山崎の一戦なり。天下逆に帰するや山崎の一戦なり。順と云ふも至順にあらず、逆と云ふも至逆にあらず、順逆ともに似て非なるものなれども、これを明らかにする|鑑《かがみ》なく、これを|察《さと》らする|識《さとし》なく、英雄一個の心智を以て、四海万姓を|弄《もてあそ》ぶ事、そも天の意なるや」となかなかしゃれた事を云っている。
秀吉の軍勢は、二万六千余で、先陣はわが戦国時代のクリスチャン・ゼネラル高山右近であった。第二陣は中川瀬兵衛、第三陣は池田|勝入斎《しようにゆうさい》だ。
勝入斎は、信長とは|乳《ち》兄弟なので、その弔合戦に先陣を望んだが、高槻の城主高山右近は、「わが居城は最も京に近い。京近き合戦に、わが|鴉《からす》の旗見えねば、高山いかにせしかと云われん」とて、先陣を望んで止まないので、到頭その居城の順序に依って、高槻の高山、茨木の中川、|花隈《はなくま》の池田の順になった。
光秀の方は、光秀麾下の雄将斎藤|内蔵助《くらのすけ》が中央軍の先頭で明智十郎左衛門、柴田源左衛門等之につき、四千人。|左備《ひだりぞなえ》は津田与三郎、志水嘉兵衛など三千五百人。右備は伊勢与三郎、藤田伝五郎等二千人である。中央軍の第二陣は、松田太郎左衛門で、その後に光秀旗本五千余騎を従えて、進んだ。
此の中で、左備の津田与三郎は、尼ヶ崎の城主で信長の甥である七郎兵衛信澄の家老だった。
この信澄は、信長の弟信行の子で、信行は信長に殺されたのだから、信澄に取って信長は伯父ではあるが父の|仇《あだ》である。その上、信澄の妻は、光秀の娘である。だから、織田の一族ではあるが、本能寺の兇変を聞いて躍り上って|悦《よろこ》び、光秀の為に中国から攻め上る秀吉を防ぐつもりでいたが、あまりに早まりすぎて、大阪にいた丹羽五郎左衛門のために殺されてしまった。
織田の一族である信澄が健在で光秀の方に加っていたら、名分の上からも、いくらかごまかしがつくし、殊に此の信澄は|軽捷《けいしよう》無類の武術があまりうまくなり過ぎて、武術の師匠を冷遇したので、その連中が丹羽方へ内通したと云われるだけに、生きていたら山崎合戦に於ても、さぞかし目ざましい働きをしたに違いない。一国の城主で、織田の一族であるから、光秀に取っては無二の味方になったに違いないのである。信澄が倒れた後でさえ、家老の津田が軍勢を率いて加勢に来ているほどである。
『太閤記』などによると、戦場と時刻を秀吉が光秀に通知したなどあり、芝居の『太閤記』十段目の「互の勝負は云々」など、これから出ているであらうが、そんな馬鹿なことはない。
が、光秀が山崎の隘路を|扼《やく》して秀吉の大軍を|阻《はば》まんとしたのは戦略上、当然の処置であり、秀古の方も亦山崎に於ての遭遇戦を予期していたのであろう。
山崎で戦うとすれば、大切な要地は天王山である。光秀が之を取れば、随時に秀吉の左翼から、|拳下《こぶしさが》りに弓鉄砲を打ち放して切ってかかることが出来るし、秀吉が之を取れば逆に光秀軍の右翼を脅威することが出来るのである。|所謂《いわゆる》兵家の争地である。
だから、光秀は十三日の早暁中央軍第二陣の大将松田太郎左衛門に二千人の兵を附して、その占領を命じた。
秀吉も同じく、十三日の早暁堀尾茂助を先ずやり、それでも心もとなく思って、更に堀久太郎をやっている。人数は堀尾、堀二人で四千人である。光秀の方は、|丑《うし》の中刻で、秀吉の方は丑の上刻であったと云う。丑の上刻と云えば二時半で、中刻は三時だから、三十分違いである。
が、光秀の方が早かったと云う説もある。正確な時計がないのだから、三十分位はどちらが早かったか分るものでない。然し、出立の時刻よりも、天王山に到る道程の関係や、登り道の関係も考えねばならぬ。とにかく、秀吉軍の方が、先きへ天王山の頂上を占領して、後から来る松田政近の軍勢を、追い落した。山崎合戦の勝敗の岐路は、天王山への登山競争にあったわけである。光秀もその戦略眼に於ては、一歩も秀吉に譲らなかったのであるが、天王山の地理などには、光秀の方が、その所領の関係上暗かったかも知れないのである。
光秀は、十三日午前中、全軍を円明寺|川畔《かはん》に展開した。秀吉軍が、展開するのは、ずうっと遅れた。なぜ、光秀が展開を終った隊勢で、まだ隊勢の整わざる前の秀吉軍を打たなかったか、それが一つの敗因であると戦術家は批評している。
戦争開始前、高山右近の家来の甘利八郎太夫と云う男が、牀几に依って戦機の熟するのを待っている右近の前に出て、
「私は、只今どちらにしていいか分らない事があるから、御判断を願いたい。お殿様は、私を無能の人間として、禄など少しも下さっていない。その私が、ここで手柄を現すと、殿様の不明を現わすことになって不忠になる。と云って、臆病な振舞をすると、父祖の名を汚して不孝になる。いずれに致しましょうか」と、三度までくり返して訊いた。皮肉な奴が居たものである。右近心中に怒り、斬り捨てんと思ったが、大事の前の小事であり、かつは年々のクリスチャンであるし、だまっていると、「不忠の名を取るとも、累代の武名を汚すわけには行かぬ」と云って、明智勢に切り入って、一番槍、一番首、二番首の功名を一人でさらってしまった。
戦いは、午後に入って始まった。高山右近は、明智の中央軍斎藤内蔵助に向ったが、相手は明智方第一の剛将なので高山勢さんざんに打ちまかされ、やっと三七信孝、丹羽長秀の応援に依って|漸《ようや》く盛り返すことが出来た。
第二陣の中川瀬兵衛清秀は、光秀軍の右翼伊勢与三郎等の軍に向った。中川は、元荒木村重の被官で、以前此の山崎附近の|糠塚《ぬかつか》で、和田伊賀守と云う剛将を単身で打ち取った剛の者で、勝手知ったる戦場ではあるし、目ざましい奮戦をつづけて、早くも勝機を作ったのである。光秀は、之より先天王山が、気になったので、並河|掃部《かもん》、溝尾勝兵衛の二人を応援にやったが、既に松田の軍破れ松田は討死して、天王山は全く秀吉の手中に落ちてしまっていた。
秀吉、生駒|親正《ちかまさ》、木村|隼人《はやと》を天王山方面に増援して、横槍についてかからせた。こうなると、光秀の軍は絶えず右翼を脅威せらるることになり、中央軍の奮戦に拘わらず、敗色既に|掩《おお》いがたきものがあった。
それと同時に、左翼は淀川を頼みにして、配備が手薄であったところ、秀吉の第三軍たる池田勝入斎が川沿いの|歩立《かちだち》の小路を発見し、潜行して、光秀軍の左翼たる津田与三郎等の陣に切ってかかった。
光秀が、天王山に関心しながら、淀川の方を気にしなかった事も亦、一つの敗因でなかったかと云われている。
中央軍の斎藤利三父子を初め、左右両翼とも、明智方の将士は、よく奮戦した。関ヶ原当時の西軍などとは比べものにならない。光秀がいかに人士を得ていたかを知るに充分である。
しかし、天王山が秀吉軍に帰し、そのほうから横撃されては、万事すでに去ったと云うべく、それと同時に|洞《ほら》ヶ峠にいた筒井順慶の大軍が裏切りして淀川を渡り、光秀の背後に襲いかかって来た。
順慶は光秀の世話になって居り、無二の親友である。だから順慶自身は、光秀の勧誘に、心うごいたが、家老杉倉右近、島左近の二人が主人を|諌《いさ》めて出陣せしめず、ただ人数だけを山崎の対岸なる八幡の洞ヶ峠に出した。
そこで、戦争を見物していて、勝った方へ味方しようと云うのである。今から考えれば、秀吉が勝つのだから、秀吉の方ヘハッキリ附いていた方が、『洞ヶ峠』など云う醜名を後世にまで残さないでよかったのであろうが、順慶の立場は可なり困難な立場であったし、秀吉光秀の勝敗も、後世の我々が考えるように簡単に見通しのつくものではなかったに違いない。
後になって、たった四万石の石田三成に二万石で召し抱えられたほどの豪傑、島左近にだって分らなかったのである。
とにかく、後世からはその首鼠両端の態度を嘲笑されているが、しかし当時は明智の無二の親友でありながら、家を全うすることが出来たのは、松倉、島両家老の処置宜しきを得たためであると云われていた。
筒井までが、裏切ったのでは、万事休してしまった。筒井の二心を見ぬいて、明智方でも斎藤大八郎、柴田源左衛門等が備えていたが、こうなっては一たまりもなかった。
先陣の斎藤内蔵前は旗本に合するを得ず、戦場を落ちたが明智方の勇士多く討死した。
光秀は、一旦勝竜寺城に入り、夜の十二時頃に桂川を渡り深草から|小栗栖《おぐるす》にかかって、土民の手にかかった。物騒千万な世の中で、|落人《おちうど》となったが最後、誰に殺されても文句がないのであるし、また所在|匪賊《ひぞく》のような連中がいて、戦争があるとすぐ落人狩をやり出すのである。本能寺の変を聴いて堺から伊賀を通って、三河へ帰った家康だって土民のために危かったし、現に家康と同行していた甲斐の旧臣穴山梅雪は土民のためにやられている。
山崎の合戦の時、近隣の連中が陣見舞に酒肴をもたせて光秀の陣に来た。その中に京都の|饅頭屋《まんじゆうや》塩瀬三左衛門と云うものも伺候したが、光秀が献上の|粽《ちまき》を、笹をとらずに喰ったのでびっくりし、これでは、戦争は敗だと思ったと云う。「|粽《こうそう》手に在り」云々の詩がある所以だ。塩瀬と云う菓子屋は、その頃からあったものであるらしい。だが砂糖はやっと当時伝来したものだから、現在のようなおいしい饅頭があったかどうか疑問である。その頃、砂糖入りの菓子を南蛮菓子と云った。今の洋菓子と云うのと同じである。
光秀は、神経質な武将だけに、小胆であろうから、そんな事があったのかも知れない。死ぬ時辞世がある。
順逆無二門
(じゅんぎゃくにもんなく)
五十五年夢
(ごじゅうごねんのゆめ)
大道徹心源
(たいどうしんげんにてっす)
覚来帰一心
(さめきたればいっしんにきす)
多分後世の仮作であろうが、光秀も死ぬまで順逆を気にしていただろう。戦争が済んだ時、三七信孝は中川瀬兵衛に近寄って、その戦功をねぎらったが、秀吉は|輿《こし》に乗っていながら、「瀬兵衛骨折骨折」と云ったので中川は「あいつ、はや天下を取った気でいやがる」とつぶやいたと云う。
とにかく、光秀としては宿怨を晴らし、たった十一日間にしろ京師に号令したのだから、石田三成に比べると、そう口惜しくはなかったに違いない。
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戦前の形勢
再度の長州征伐に失敗して、徳川幕府の無勢力が、完全に暴露された。この時既に長州は薩摩と連合して討幕の計画を廻らしていた。
温健派の山内容堂は、幕府の命運既に尽きたるを察して、幕府をしてその終りを全うせしむる意味で、大政奉還の止むなき|所以《ゆえん》を説いた建白書を、慶喜に呈した。当時在京中の慶喜悟る所あり、十月十三日在京の諸大名群臣を二条城に集めて諮問したる上、翌十四日朝廷へ奏問に及んだのである。
いずくんぞ知らん、その日は薩長二藩に対し、討幕の密勅が、下された日である。
即ち薩長や岩倉|具視《ともみ》の肚では武力を以て圧倒しようとする所に、幕府の方から、頭を下げて来たのである。
王政維新の実を挙げ、朝廷の実力を発揮するためには、幕府に一撃を与えて、実力的に圧倒することが必要だと思っていたから、幕府からの大政奉還は、痛し|痒《かゆ》しであったのである。
だから、それに対して、朝廷には二つ議論があった。その一つは、公武合体派で、慶喜の大政奉還の許を嘉賞して、新政府組織についても、慶喜に旧将軍にふさわしい一役を与えようと云うのである。他の一派は、岩倉を中心とする排幕派で、既に討幕の密勅も下っている所へ、大政奉還を申し出でたので、勝手が違ったが、たとえ武力で圧倒できなくなったにしろ、他の手段で、幕府の勢力を|蹂躙《じゆうりん》しようと云うのである。
所が、排幕派の議論が勝利を占めて十二月九日、王政復古の号令が発せられ、アンチ徳川の連中は|悉《ことごと》く復活し、公武合体派は参朝を禁ぜられてしまった。
その夜、小御所に於ける王政第一回の御前会議は、歴史的にも最も意義のある会合で、山内容堂、松平春嶽が大に慶喜のために説いたが、岩倉、大久保のために、容れられず、両派の論争激越を極め、一時休憩となったが、その時薩藩の岩下佐次衛門は、退席していた西郷隆盛に計ったところ、隆盛泰然として「口先では、果しがない。唯一|匕首《ひしゆ》あるのみだ」と云った。岩下、之を岩倉に告げたので、具視大いに決する所あり、土越二藩|尚《なお》前説を固執するならば、いかなる不測の変あらんも測られざるに至ったので、浅野|茂勲《しげのり》その間に周旋して遂に容堂、春嶽をして譲歩せしめた。
岩倉説勝を占めて、その翌日慶喜に対し、将軍職辞退の聴許があり、更に退官納地を奉請するように、|諭《さと》されることになった。
此の結果に対して、幕府の上下会桑二藩が、承服する筈はない。
慶喜が、大政奉還を奏請したる以上、その善後策の朝議には、慶喜を初め会桑二藩も当然参加せしめらるべきものと、期待していたに拘わらず、会桑二藩は禁門の警衛を解かれて|了《しま》うし、慶喜は朝議に参加せしめられないばかりか、新政府に何等の座席をも与えられないのであるから、彼等の憤懣察すべきものである。
此時は、芸兵入京し、長兵も|亦《また》入京していたので、幕府及びその一統が、憤慨して手を出せば、やっつけてやろうと云う肚が排幕派にあったのである。
その時、二条城には幕府|麾下《きか》の遊撃隊を初め、例の新選組、見廻り組、津大垣の兵など集っていたが、朝廷の処置に憤激止まず、また流言ありて、今にも薩長の兵が二条城を来襲して来ると云うので、城壁に銃眼を|穿《うが》ち始めると云うさわぎである。
慶喜は、このまま滞京していてはいかなる事変が突発するかも知れないと思ったらしく、激昂する麾下を慰撫しながら、閣老参政及び会桑二藩士を率いて、大阪へ下ったのである。
此の下阪に対し朝廷側では大阪の要地を占め、軍艦を以て海路を断ち薩長を苦しめるためだろうと疑うものもあり、一大決戦の避くべからざるを力説するものがあり、大阪城中に於ては、会桑二藩の激昂なお止まず、幕府に対する苛酷の処置は岩倉卿を初め、薩長二藩が至上の御幼少なるに乗じて私意を逞しゅうするものであるから、兵力に依って、君側の|奸《かん》を除く外ないと切言する。
形勢|暗澹《あんたん》たるを憂いた尾、越、土の三侯は、慶喜が大阪にいては、いよいよ朝幕の間が疎隔するばかりであるから、再度おだやかに上京したらどうかと、|勧説《かんぜい》したが、幕府側の識者は、今おだやかに上京するなど、最も不利である。上京するなら君側の奸を除く意味で、兵力を率いて、上京するに|如《し》かずと云う。その賛成者がだんだん多くなって行く。
その時、江戸では、薩摩系の浪士が、乱暴を働いて、西丸に放火したらしい嫌疑さえあり、遂に三田の薩邸焼払いとなった。之等の飛報が大阪城に達すると、激昂していた人心が更に油をかけられるわけで、温健なる慶喜も、遂に討薩の表を作って、上洛することに決した。
慶応四年の正月三日である。むろん、之より先、伏見、鳥羽、淀には幕兵を配置していた訳なので、先ずそれらに進軍を命じた。
維新の原動力たりし連中には、武力的に幕府をやっつけない以上、長く禍根を残す憂ありと、信じていたわけであるから、わざわざ幕府を怒らせるように、仕向けた点もあったわけである。江戸に於ける浪士の暴動など、西郷隆盛の密命に依って、|益満《ますみつ》休之助などが、策動したことになっているが、しかしこうした事は、文書など残っているわけでないから、いつまでも歴史上の謎として、残るであろう。
慶喜の上洛は、尾越両侯から上洛を勧められたからと云うのは、表面の口実で、内実は討薩の表を奉って、京都から薩長の勢力を駆逐するつもりであったのであろう。
全軍三万と称したが、ほんとうは一万三四千人であったであろう。
幕軍の中心は、|仏蘭西《フランス》伝習隊で、訓練もよく銃器も精鋭であった。それに、会津、桑名、松山、高松、浜田等の藩兵が加わっていた。
京軍の方は、毛利|内匠《たくみ》、山田市之丞、交野十郎の率いた八百の長軍、伊知地正治、野津七左衛門の率いた薩軍が主力で、それに尾張、越前、芸州等、勤王諸藩の兵が加わって一万足らずであったであろう。
幕軍は、伏見鳥羽の両道より進んだ。まだ、ハッキリ交戦状態でないのだから、威圧的に関門を突破して京都へ入るつもりであったのかも知れない。
鳥羽街道は、大目付滝川播磨守が先鋒となり京町奉行の組与力同心を引き連れていた。人数も、わずかに数人で、|籠手臑当《こてすねあて》して、手槍を持ち、小銃を持っているものは、わずかに数人で、大砲は一門もなかった。
鳥羽街道は、むかしの羅生門に通ずる道で、京都へ入る所に、東寺がある。東寺の十町ばかり手前の石橋の所まで来た時、東寺に駐屯していた薩兵が鳥羽街道を下って来るのとぶっつかった。
両方とも殺気立っているが、まだ戦争ではない。幕軍の方で、「徳川殿上洛せらるるにつき、我々は先駆である」
と云ったが、藩兵は「我々の方は、未だその御沙汰なければ通しがたし」と云う。再三、押し問答の上、薩兵の方では、「然らば、御所へ伺う間|暫《しばら》く待たれよ」と云う事になったので、滝川播磨守は、土地の豪家村岡某の家に入り休息していると、薩長の兵はいつの間にか村岡の家を包囲し、石橋の上には大砲二門を引きすえ、今にも発砲しそうな擬勢を示したので、播磨守は形勢の険悪なるを察して、引き退いた。
午後四時を過ぎる頃、桑名、高松、松山の藩兵が、鳥羽街道を圧して上って来た。今度は、薩兵と中島、東池の辺で出会った。
桑名藩より、徳川殿|今度《このたび》勅命により召寄せらるるにより、先手の者上京する由を告げたが、薩兵聴かず、問答を重ぬる裡、薩州より|俄《にわか》に大砲を打ち出したが、最初の一発に桑名の兵、十数人打ち重って倒された。これが鳥羽伏見の戦の最初の砲火である。両軍銃火を交えて戦ったが、幕軍は行軍のままの隊形だったし、小銃が少いものだから、薩長のために、打ちすくめられて、死傷|頗《すこぶ》る多かった。
幕軍が下鳥羽まで退却して、夜の十時近く夜食を喰っているところを、京軍更に夜襲して、一大激戦となったが、幕軍再び敗れて退いた。だが、京軍の方でも、市木、大山、後藤等の諸将が倒れた。
伏見口の方には、最初から新選組が幕軍の前衛として、駐屯していた。
慶喜が二条城を去った後、永井|玄蕃頭《げんばのかみ》が、之を預り大場一心斎麾下の水戸兵二百人と、新選組百五十人が守備に任じていたが、大場は元来勤王思想があるので薩長と気脈を通じている容子があるので、近藤勇は憤慨して、十七日に二条を去って伏見に来て、其地の奉行所衛兵と合同して、警備の任に就いた。
所が、以前に近藤勇の為めに、倒された転向勤王派たる、伊東|甲子太郎《きねたろう》の残党なる鈴木三樹三郎、篠原|泰之進《やすのしん》、加納|就雄《なりお》などが、薩摩の伏見屋敷に庇護されていた。
十二月十八日、近藤が上京した帰途、伏見街道藤森に於て突如物陰から狙撃され、その右肩に重傷を負った。むろん、伊東の残党の計画であるが、そのために近藤は鳥羽伏見戦争には参加することが出来なかったので、土方|歳三《としぞう》が指揮をしていた。
新選組も、この頃は、剣ばかりではどうにもならないのを悟ったと見え、幕軍の間宮鉄太郎の隊より大砲二門を借りて来ていた。
伏見の方は、戦前から両軍が対峙していたわけで、鳥羽口の砲声が、開戦の合図になった。
土方歳三は、伏見京橋口に陣を布いていたが、鳥羽の砲声を聴くと、浜通りを東へ、京町を北へ進撃して戦った。所が伏見の東方桃山は、彦根藩が守って居り、幕軍では、自分達の味方だと思っていた所、薩藩は開戦となると、朝命を以て彦根勢を退去せしめ、その後に自軍の大砲を運び上げ、伏見の町を眼下に見おろして、打ちまくった。新選組は、伏見の奉行所の門前に戦っていたが、味方なりと思っていた背後より撃たれたので、一たまりもなく敗れて、勇の養子周平外十七人|斃《たお》された。
此夜、十二時近くなって、戦線に到着した窪田備前守麾下のフランス伝習隊は、幕軍の精鋭で、目覚ましき奮闘をなし、薩藩を破り長州勢を破り、墨染まで北進したが、薩兵の|伏《ふせ》に陥り、備前守が討死したため、遂に退却した。
此の夜は終夜|烈《はげ》しい半市街戦が行われ、両軍とも死傷が多かったが、結局幕軍不利で淀まで退却した。
翌四日、土方は昨夜の敗戦に激怒して、千本松に陣立をなした。茲は、右は淀川で、左は水沢の地で頗る要害の隘路で京軍を支えんとしたが、薩長の兵は小銃隊を以て、進撃して手もなく、新選組を打ち破った。そして、大衆文芸でおなじみの山崎|蒸《すすむ》を初め三十人ばかり討死した。剣では、どうにも仕方がなかったのであろう。
数年来新選組は、京洛の地に於て、薩長の志士と|睨《にら》み合っていたが、その清算が今度の戦争で行われたわけである。
その後、江戸に来ていた近藤勇に、|依田《よだ》学海が「伏見の戦争はどうだった?」と訊いたところ、彼は|傍《そば》の土方歳三を顧みて「此の男に訊いてくれ」と云った。土方が、「これからの戦争は、刀や槍では役に立たぬ。鉄砲には|敵《かな》わない」と、苦笑しながら答えたのは、有名な話である。
翌四日にも、幕軍は敗勢を返さんとして戦ったが、此日仁和寺宮|嘉彰《よしあき》親王が、金甲馬に|跨《またが》り、前駆に錦旗を飜して、陣頭に進まれたので、絶えて久しき錦の御旗を仰いだわけで、官賊の別が判然としたので、薩長の軍は意気軒昂となり、幕軍は意気沮喪して、いよいよ敗勢の著しいものがあった。
五日には、淀城附近で会津の槍隊が奮戦して、敵の隊長石川|厚狭介《あつさのすけ》などを斃したが、淀城の城主稲葉家は、例の春日の局の血縁で、幕府には恩顧深き家柄であるに拘らず、朝廷に帰順の意を表して、幕軍が淀城に拠るを許さず、また幕府のために山崎を守備していた津の藤堂家の藩兵は、天使を受けて帰順の意を表し、ひそかに薩長の兵をわが陣中に忍ばせて置いて、六日橋本に陣している幕軍を側面より砲撃せしめた。幕軍の狼狽察すべしである。
このあたりから、幕軍全く|潰走《かいそう》して、大阪へ逃げるものあり、紀州に落ちるものあり、桑名藩士等は大和から本国へ直接逃げて行った。
慶喜は、六日夜大阪に退き、同夜近臣数人と天保山沖で軍艦開陽艦に乗ろうとしたが、暗夜のため見つからず、先ず米国砲艦イロユイスに身を寄せ、翌七日開陽艦に移乗し、八日の夜抜錨して江戸に向った。
鳥羽伏見戦の第一夜の印象を『|莠草《しゆうそう》年録』の著者は、次ぎのように語っている。
一昨三日、薄暮より伏見の辺に当り、失火、暫くして砲声頻々響き、家屋上に上り見候処四五ケ所より出|火焔《ほのお》立上り、遂に伏見一円火中となると見ゆ、|忽《たちま》ちに又右淀城と覚しき|辺《あたり》より、砲声|轟々《ごうごう》烈しく相成り候間、然らば阪兵入侵薩土と合戦の事と推察し、長谷川氏に至り候処三沢も参り|居《おり》、種々評議、私は平子と相携へて、大仏に走り、耳塚に上り見候処砲声漸く近く相成り候間、阪兵入京と相成らば、御所にも伺上|出可申《いでもうすべし》 と|罷帰《まかりかえ》り、門北お御所の|方《かた》に当り一道の火気を発し、甚だ騒々|敷《しく》候間、|是《これ》阪兵への内応と申居り候間、忽に鎮定、その内に伏見の砲声も追々遠く相成り、京軍勝利の様子に相成り候まゝ終夜砲声|鈍《にぶ》る事|無之《これなく》、朝四時迄にわづかに相止み申候。
京都の一市民の戦争当夜の感じが、よく出ていると思う。
鳥羽伏見の戦いは、戦いと云うのでなく、一つの大競り合いである。通せ通さぬの問答からの喧嘩のようなものである。
小笠原壱岐守などが、もっと武将らしい計略があったならば、華々しき戦争が出来たのではないかと思う。
しかし、当時勤王思想が|澎湃《ほうはい》として起って居り、幕府縁故の諸藩とも|嚮背《こうはい》に迷って居り、幕軍自身が、新選組や会津などを除いた外は、決然たる戦意がなかったのであろう。
とにかく、幕府はすぐ瓦解して|了《しま》い、明治政府は成立|間際《まぎわ》の事なので、この戦争についても、戦記の正確なものが乏しいのは、遺憾である。
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夏之陣起因
今年の四月初旬、僕は大阪に二三日いたが、最近昔の通りに出来たと云う大阪城の天守閣に上って見た。
天守閣は、外部から見ると五層であるが、内部は七重か八重になっている。五階までエレヴェーターで行き、後は階段を昇るのであるが、自分は心臓が弱いため、高所にあると云う感じ|丈《だけ》で胸苦しくなり、最高層の窓からわずかに、足下に|煤烟《ばいえん》の下に横たわる大阪市を|瞥見《べつけん》したに過ぎぬが、その視野の宏大なるは、さすがに太閤の築きたるに恥じないと思った。
大阪城の天守五重説は、徳川時代の天守が五重であったから起った説で、小早川|隆景《たかかげ》と|吉川《きつかわ》元長が、秀吉の案内で天守に上った時の感想には、「大天守は八重にて候、|不《げん》|及《ごに》|言語《およばず》候」とある。だが、実見者の大阪落城絵図では、外見五重になっているから、外見五重で内部は八重になっていたのであろう。
城は、摂津の国|東成《ひがしなり》郡に属し、東に大和、西に摂津、南に和泉、北に山城を控えて、|畿甸《きでん》の中央にあり、大和川の長流東より来り、淀の大江|亦《また》北より来って相合して、|天満《てんま》川の会流となりて、城北を廻りて、西南は瀬戸内海に臨んで、まことに天下の形勝である。
石山本願寺時代、信長の雄略を以てしても本願寺門徒を攻め倒すことが出来ず、十一箇年の星霜を費して、やっと媾和している。
しかし、秀吉がその愛児秀頼に、この難攻不落の名城を|遺《のこ》したことは、|却《かえ》って亡滅の因を遺したようなものである。有史以前の生物であるマンモスとかライノソーラスとかいろいろ難しい名の巨獣類は、みんな武器たる爪や甲羅のために、|亡《ほろ》んでいる。それは爪や甲羅が大きくなりすぎて、運動が敏活を欠くためである。
秀頼も、秀頼を取り巻く連中も、天下の権勢が徳川に帰した後も、大阪城に拠れば、|何《ど》うにかなるだろうと思ったろうし、家康も本多正信も秀頼は恐くはないが、大阪城にいる以上、どうにか始末をつけねばと思ったろうし、結局大阪城は秀頼亡滅の因を成したと云ってよかろう。
家康にしたところが、絶対に秀頼を亡そうと思っていたかどうかは疑問である。絶対に亡そうと思っていたら関ヶ原以後、十四年、自分が七十三になるまで時期を待ってはいなかっただろうと思う。それまで、豊臣恩顧の大名の死ぬのを待っていたなど云うが、しかし家康だって神様じゃないし、自分が七十三迄生き延びる事に確信はなかっただろうと思う。
もし、豊家に人が在って、自発的に和州郡山へでも移り、ひたすら豊家の|社稷《しやしよく》を保つことに腐心したら、今でも豊臣伯爵など云うものが残っていて、少し話が分った人だったら、大阪市の市長位には担ぎ上げられたかも知れない。
しかし、秀頼の周囲は、仲々強気で、秀頼が成長したら、政権が秀頼に帰って来るように夢想していたのであるから、結局亡びる外仕方がなかったのだろう。
大阪冬の陣の原因である鐘銘問題など、甚だしく無理難題である。家康が、余命|幾何《いくばく》もなきを知り、自分の生前に処置しようと考え始めたことがハッキリ分る。
秀吉が、生前大阪城を攻め亡すには、どうしたらよいかと戯れに侍臣に語ったところが、誰も答うる者がなかったので、自分で「一旦扱いをして、|濠《ほり》を|潰《つぶ》せば落ちる」と云ったと云う。多分後人の作為説であろうが、家康の大阪城に対する対策も同じであって、大阪冬の陣に、和議を提議したのは徳川の方からである。一度、戦争をして、和議の条件として濠を潰させ、その後でいよいよ滅してやろうと云うプラン通りに、大阪方が乗って、行動するのであるから、一たまりもなく亡びるのは当然である。せめて、冬の陣のままで|四月《よつき》か半年も頑張ったならば、当時は戦国の|余燼《よじん》がやっと収まったばかりであるから、関ヶ原の浪人も多く、天下にどんな異変が生じたか分らないと思う。
大阪冬の陣の媾和には、初め家康から、一、浪人赦免、二、秀頼|転封《てんぽう》の二条件を提議し、大阪方からは、一、淀君質として東下、二、諸浪人に俸禄を給するために、増封の二条件を回答した。媾和進行中に|塙《ばん》団右衛門が蜂須賀隊を夜襲するなどの事があって、大いに気勢を挙げ、大阪方可なり強気であったが、家康天守閣、千畳敷などを砲撃して、秀頼母子を|威嚇《いかく》し、結局の媾和条件は、次ぎの通りであった。
一、城中新古将士の罪を問わざるべし。
二、本丸を除き二、三の丸の濠を|埋《うず》むべし。
三、淀君質となるを得ざるを以て、有楽|治長質子《はるながしちご》を出すべし。
この媾和条約違反から、夏の陣が起るのであるが、惣堀だけを潰す約束であったのに、二の丸三の丸の堀まで潰したので、大阪方が憤慨したと云う説、いや初めから二の丸三の丸を潰すことを大阪方も認めていたと云う説もあって、決しがたい。濠の問題以外に、家康は大阪方の浪人を扶持するに対して「|悉被《ことごとく》|相払《あいはらわれ》」と要求したばかりか、古参の衆まで|逐《お》わしめんとしたと云う。
然し、夏の陣の開戦の直接原因は、秀頼の転封問題である。冬の陣の媾和の時に、転封問題はあったのであるが、それは増封の伴った転封であったのであろう。大阪方で転封と云うことがなければ、大事の城の濠を潰させるわけはない。内約的に栄転的転封を約したのであろう。
三月中旬に、大阪より青木一重、淀君の妹の常高院などが駿府に下り、家康に増封を請願しているのでも分る。大阪方では、集った諸浪人の扶持のために、ぜひとも増封が欲しかったのである。
つまり、大阪陣と云うのは、ある点からは、関ヶ原で失業した諸浪人の就職戦争であるから、媾和になった場合には、浪人の扶持問題が起るのは、当然なわけである。
此の増封を拒絶されて、四月五日に秀頼は、開戦を決している。
四月二十四日に、家康が大阪に遣した最後通牒は、次ぎの通りだ。
一、秀頼の|封邑《ほうゆう》中、去年の兵乱に摂津の百姓離散せるは疑うべからざるも、河内は然らず。
(之は変だが、つまり秀頼よりの増封の要求の理由を|反駁《はんばく》したのである)
二、媾和以後浪士は、速かに解放すべきに、却て多数の浪士を招集せしは何故ぞや。
三、城中戦備を整うるを以て、人心の動揺甚し、暫く大和郡山に移封あるべし。
増封乃至は増封的転封を拒絶し、転封だけさせようと云うのであるから、大阪方が怒ってしまったのである。そうすると家康は「止むを得ざる仕合せ」と云って兵を出している。
家康の肚では、濠を潰すための媾和であったから、濠が無くなれば、開戦はいつだって、いいのである。濠を潰させる好餌として、有力な人の口から、増封を匂わせたに違いないのである。でなければ、大阪方が何の代償もなしに、大事な濠を潰すわけはないのである。
「大阪の城堀埋り、本丸|許《ばか》りにて浅間と成り、|見苦敷《みぐるしき》体にて御座候との沙汰にて御座候」
と、正月二十日附で、|金地院《こんちいん》崇伝は細川忠興に消息している。つまり、現在ある大阪城と同じになったわけである。
家康は、冬の陣以後すぐ戦争準備にかかり、冬の陣の経験から、大砲を作らしている。『国友鍛冶記録』に「権現様|為《ごじ》|御上意《よういにより》、元和元年卯之正月、|急 駿府被為召《きゆうにすんぷにめされられ》、同十一日に百五十目玉之|御筒《おんつつ》十挺、百二十匁玉之御筒十挺、百目玉の御筒三挺、昼夜急ぎ|張立指上可《はりたてさしあげもう》|申之旨《すべきのむね》、上意……夏の御陣へ早速指上、御用に相立申候」とある。
また家康は駿府には帰らず、途中でウロウロして、二月七日に遠州中泉で次ぎのような非常時会議をやっている。
「二月七日辰刻、将軍家|渡《なかい》|御中泉《ずみにとぎよ》 |先献《まずおぜん》|御膳《をけんじ》|暫 有《しばらくおく》|於《のまに》|奥之間《おいておおご》|大御所御対面《しよもごたいめんあり》本多佐渡守|同 上野介 召《おなじくこうずけのすけをご》|御前 《ぜんにめされ》|御密談 移《ごみつだんにときを》|刻《うつす》」
四月初旬には、多くの諸侯に、出征準備の内命を発している。
四月四日には、家康、子義直の婚儀に列する為と云う口実で駿府を出発、十八日、二条城に入っている。
塙直之戦死
大阪方でも、戦備に忙しく、新規浪人を募集し、秀頼自ら巡視した。「|茜《あかね》の|吹貫《ふきぬき》二十本、金の切先の旗十本、千本|鑓《やり》、瓢箪の御馬印、太閤様御旗本の行列の如く……」と、『大阪御陣覚書』に出ている。
だが、大阪方としては、城濠を失っているのであるから、城を捨てて東軍を迎え撃ち、あわよくば西将軍の首級を狙う外、勝算はないわけである。
西軍の作戦として、東は大和口の東軍と河内口の東車とが河内の|砂《すな》に相会する所を迎え撃ち、南は熊野の土寇と相結んで、和歌山の浅野を挟撃し、又別に古田織部正の家老木村|宗喜《むねよし》に|嘱《しよく》し、家康秀忠の出馬した後京都に火を放とうと云うにあった。
先ず大野治長の兵二千、四月二十六日藤堂高虎の砂に|来《きた》るを待ち要撃せんとしたが、高虎到らざるため、|暗《やみ》峠を越えて郡山に火を放ち、筒井定昌を走らせ、法隆寺村、|竜田《たつた》村に火を放ち、国府越より河内に引き去った。これが夏の陣の第一出動である。
四月二十八日大野治房同じく道犬等、浅野|長晟《ながあきら》の兵を迎え撃たんとして、住吉、堺を焼き、兵火を利用して南下し、先鋒の|塙《ばん》団右衛門|直之《なおゆき》は、|樫井《かしい》に於て、浅野の先鋒亀田大隅と戦って敗死した。
団右衛門も|名代《なだい》の豪傑であるが、大隅も幽霊から力を授ったと云う大豪の士で、その後江戸城普請の時、大隅受持の石垣がいく度も崩れるので、秀忠から文句を云われたとき「自分が|鵄《とび》の尾の槍を以て陣したときは、一度も崩れたことがないが、石垣は無心のもの故是非に及ばない」と豪語した男である。
塙の首級は、暑気の折から損ずるだろうと云うので、家康に披露しなかった。所がその夜、井伊|掃部《かもんの》|頭《かみ》の陣中にいた女が、|痞《つかえ》おこり|譫言《うわごと》を口走る。「我も一手の大将なり。然るにわが首の何とて、実検に合わざるぞ。かくては、此度の勝利思いも依らず。我|祟《たたり》をなし、禍いを成さん」と。家康之を聞き「団右衛門は|健気《けなげ》なるものなり、首は見苦しくとも実検せん」とて、法通り実検した。すると、女の痞は忽ち怠った。家康笑って、団右衛門ゆかりの者なるべしとて、調べると果して、団右衛門が不びんをかけた古千屋と云うものであった。
これに依って、戦国女性の|気魄《きはく》も分るが陣中に女を伴っていたことも分る。
片山道明寺附近の戦
道明寺は河内志紀郡にあって、大阪城の東南|凡《およ》そ五里、奈良より堺に通ずる街道と、紀州より山城に通ずる街道との交叉の要地である。
四月|晦日《みそか》、大野治房等は樫井の敗戦から還り、大阪で軍議をした。後藤基次先ず国分の狭隘を扼し大和路より来る東軍を要撃することを提議した。前隊は基次、|薄田兼相《すすきだかねすけ》、兵数凡そ六千四百。後隊は真田幸村、毛利勝永兵一万二千。五月|朔日《ついたち》、前隊は出でて|平野《ひらの》に舎営した。
五日夜、幸村と勝永天王寺より平野に来り基次に云う、「今夜鶏明道明寺に会し、|黎明《れいめい》以前に国分の山を越え、前後隊を合し、東軍を嶮隘に|邀《むか》え、三人討死するか両将軍の首をとるかを決せん」と。軒昂として訣別の杯をかわした。
幸村は、大名の次男だし、基次は|士《さむらい》大将に過ぎない。それでいて、意気東軍を呑んでいるのであるから、その気魄その勇気、今でも人気があるのは、当然である。
六日黎明、基次、東軍大和口の先鋒水野|勝成《かつなり》、本田忠政、伊達政宗等と片山道明寺附近で遭遇して激戦の末戦死した。之より前家康、本田正信の親族、相国寺僧|揚西堂《ようせいどう》をつかわし基次に帰降を勧めた事がある。その時、基次「大阪方の運開け関東危しとならば、また考えようがある。只今のように大阪方非運の場合、左様の事は思いも及ばない。さるにても、自分は、|唐《から》まで聞えた秀吉公の御子息から、此上なく頼まれている上に、今また将軍家から、そんな話があるなど、日本一の武士と云うのは自分の事だろう」と豪語した。しかしその事件から基次、関東に内通せりとの|訛伝《かでん》ありし為既に死は決していたらしい。その心情の|颯爽《さつそう》たる実に日本一の武士と云ってもよい。彼の力戦振りは、「御手がら、げんぺい以来|有間敷《あるまじく》と申すとりざたにて御座候。日本のおぼへためしなきやうに存候」と『芥田文書』にある。彼の奮戦は日本中の評判になった事が分る。
基次自ら先頭に立ち兵を収めんとしたが、銃丸に胸板を貫かれ、従兵|金方《かねかた》某之を肩にせんとするも体躯肥肝、基次また去るを欲せず命じて|頸《くび》を|刎《は》ねしめ之を田に|埋《うず》めた。同日、薄田兼相亦戦死した。これは、岩見重太郎の後身と云われているが、どうか分らん。濃霧により約束の期に遅れた真田勢は遂に基次兼相の死を救うことが出来ず、伊達隊と会戦した。幸村槍を|駢《なら》べて迎え、六文銭の|旌旗《しようき》、|甲冑《かつちゆう》、その他赤色を用いし甲州以来の真田の赤隊、山の如く敢て退かず。午後二時頃城内より退去令の伝騎来って後退した。幸村自ら殿軍となり名退却をなす。「しづとしつはらひ|仕 《つかまつり》関東勢百万も候へ、男は一人もなく候よし雑言|申《もうし》、大阪へ引取申候」と『北川覚書』に出ている。
幸村は総大将だけに、基次ほど死を|焦《あせ》らないところ名将の器である。「男は一人もなし」と雑言しても、関東勢返す言葉はなかったろう。
八尾若江の戦
五月六日、片山道明寺附近の会戦と同日、|八尾《やお》若江方面にも激戦があった。
八尾若江両村は道明寺の北二里余。
高野街道、奈良街道の要地にして、地勢卑湿、水田沼地多く|畷道《なわてみち》四通する所だ。
大阪方の主将は木村重成、長曾我部|盛親《もりちか》の二人。|是《これ》に向うは河内国の先鋒藤堂高虎兵五千、井伊直孝三千二百。
盛親麾下三百を長瀬川堤上に伏せ、敵の十間に迫るや|槍撃《そうげき》す。藤堂勢中藤堂|高刑《たかのり》、藤堂氏勝等の重臣戦死した。大阪方の奮戦知るべしである。
木村重成も同日午前五時若江に達し、藤堂隊を迎えその右翼を撃破した。然るに井伊直孝優勢なる銃隊を以て、敵を玉串川の左岸に圧迫し、木村の軍は裏崩れをし重成戦死す。
「安藤謹んで曰く、今日|蘆原《あしはら》を下人二三人|召連通《めしつれとおり》候処、蘆原より敵か味方かと|問《とい》、乗掛見れば、|士《さむらい》一人床机に掛り、下人四五人|並《ならび》居たり。|某《それがし》答て、我は|掃部《かもんの》|頭《かみ》士某、生年十七歳敵ならば尋常に勝負せよと申。|彼《かの》士存ずる旨あれば名は名乗らじ、我は秀頼の為に命を進ずる間、首取って高名にせよと、首を延べて相待ける。
某、|重《かさね》て、士の道に|無《しよ》|勝負《うぶなく》して首|取無《とるほう》|法《なく》槍を合せ運を天に任せん、と申ければ、げに誤りたりと槍|押取《おつとり》、床机の上に|居直《いなおり》もせず、二三槍を|合《あわせ》、槍を|捨《すて》、士の道は是迄也。左らば討て|迚《とて》待ける故|無《ぜ》|是非《ひなく》首をとる。兼て申付たるか、下人は槍を合するや|否《いなや》、方々へ逃げ失せぬ」と、『古老物語』にあるが、戦い敗れた後の重成の|従容《しようよう》たる戦死の様が窺われる。
重成の首は|月代《さかやき》が延びていたが異香薫り、家康これ雑兵の首にまぎれぬ為の|嗜《たしなみ》、惜む可きの士なりと浩歎した。
岡山天王寺口の戦
五月七日、幸村は最後の戦場を天王寺附近と定め、城中諸将全部出でて東軍を誘致して決戦し、一隊をして正面の戦|酣《たけなわ》なる時迂回して背後を衝かしめんとした。
幸村茶臼山に陣し、毛利勝永は天王寺南門に備え、大野治長の先鋒銃隊東に在り、左方岡山口は大野治房を配し、迂回すべき遊軍は明石|全登《なりとよ》が精兵三百を率いた。又秀頼自ら桜門に出馬した。
東軍は昨日奮戦した藤堂井伊を|労《いた》わり退かしめ、岡山口の先陣を前田利常、天王寺口のそれを本多|忠朝《ただとも》に定む。然るに|悍勇《かんゆう》なる松平忠直は、自ら先登を企てた。前日、家康に叱られて、カッとなっているのである。「公(忠直)は湯漬飯を命じ近侍|真子《まこ》平馬に膳を持たせ、立ながら数椀喫せられ、食終て公舒々と諸軍に向い、最早皆々満腹すれば討死しても餓鬼道へは|堕《お》ちず、死出の山を越して直ちに閻魔の庁に入るべし」と。この辺の|いきさつ《ヽヽヽヽ》は僕の『忠直卿行状記』の発端である。
東西両軍必死に戦い、東軍では先鋒本多忠朝及び小笠原秀政|忠脩《ただなか》親子戦死す。幸村は越前兵に突入した。此の日諸隊躍進|何《いず》れも先駆の功名にはやり後方の配備甚だ手薄だった。「御所様之御陣へ真田|左衛門佐《さえもんのすけ》かゝり候て、御陣衆を追ちらし討捕り申候。御陣衆三里ほどづゝにげ候衆も皆々いきのこられ候。三度目に真田もうち死にて候。真田日本一の兵いにしへよりの物語にも|無之由《これなきよし》惣別これのみ申事に候」と『薩藩奮記』にあるが、講談で家康が、真田に追かけられる話も、全然嘘ではない。|流石《さすが》直参の三河武士も三里逃げた。真田一党の壮烈な最後は「日本にはためし少なき勇士なり。ふしぎなる弓取なり。真田|備居《そなえお》る侍を一人も残さず討死させる也。合戦終りて後に、真田下知を守りたる者、天下に是なし。一所に討死させるなり」と云われている。
此の一戦は「|此方《こちら》よりひたもの無理に戦を掛候処、|及《いつせん》|一戦《におよび》戦数刻|相支《あいささえ》候て、半分は味方、半分は大阪方勝にて候ひつれ共、此方の御人数、|数多有《あまたこれ》|之《ある》に付き御勝に成る」と『細川家記』にあるから、大阪方も必死の戦いをしたことが分る。
「大阪衆手柄之儀中々|不《もうす》|及《におよ》|申《ばず》候。今度之御勝に|罷成《まかりなり》候へども大御所様御運つよきにて、御勝に罷成候」と『薩藩奮記』に出ている。
|斯《か》くて、大阪方は明石全登、|御宿《おんしゆく》正友、仙石|宗也《むねなり》の諸部将相次いで戦死し、城内では内通者本丸に火をかけ、城内狼狽を極め、遂に松平忠直第一に城に入り斬獲二万余に上る。
「路には御馬印|捨《すて》候を伊藤武蔵と云ふ広島浪人跡より来り捨たる御馬印を取揚て、唐迄聞えたる御馬印を捨置、|落行《おちゆく》段大阪数万の軍勢に勇士一人も無し、伊藤武蔵、御馬印を揚帰るとて御馬印を指上げ城に入る」と『大阪御陣覚書』にあるが、落城の悲惨さが分る。
大野治長は千姫を脱出せしめて、秀頼母子の助命を請うたが、その効なく、東軍は秀頼の籠る山里|曲輪《くるわ》を目がけて砲撃したから、翌五月八日、遂に秀頼淀君と共に自刃し、治長、|速水《はやみ》守久、毛利勝永、大蔵卿等之に殉じた。|因《ちなみ》に、『土御門泰重卿記』に依れば京の御所では|公卿《くげ》衆が清涼殿の屋根から大阪城の火の手を見物して居たと云う。
冬の陣はともかく、夏の陣は最初から、到底勝てない|戦《いくさ》であったが、淀君や秀頼の|矜持《プライド》が強いのと幸村、盛親、基次、直之などが、いずれも剛直の士で、徳川の世に生きて、かがまっているよりも、一死を|潔《いさ》ぎよくしようと思っている連中ばかりなので、到頭不利な戦争をやりとげたものであろう。その上諸浪人なども、戦国時代生き残りだけに気がつよく、みんな元気がよかったのであろう。それに比べると、徳川方の連中は、金持喧嘩せずの方で、家康への義理戦で、打算戦であるだけに、大阪方の勇名ばかりが残ることになったのだろう。
長曾我部盛親だけが大名格で、後は前に書いたように陪臣級である。それにしては、よく戦ったものである。大阪陣の文献は、みんな徳川時代に出来たものであるにも拘わらず、大阪方の戦死者は、|賞《ほ》めちぎられているのは、幸村、盛親、基次、重成など、典型的な武人として、当時の人心を感動せしめた為であろう。幸村、基次、重成などの名前が、今でも児童走卒にも伝っているのは、後世の批判が公正な事を示していて、うれしい事である。こう云う名前は、映画や大衆小説の|俄《にわか》作りの英雄豪傑とは又別に、百世に伝えたいものである。
大阪城の勇士の事を思うと、人は一代名は末代と言う格言を素直に肯定出来る。
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真田対徳川
真田幸村の名前は、色々説あり、兄の信幸は「我弟実名は武田信玄の舎弟|典《てんきゆう》と同じ名にて|字《あざな》も同じ」と云っているから|信繁《のぶしげ》と云ったことは、|確《たしか》である。
『真田家古老物語』の著者桃井友直は「按ずるに初は、信繁と称し、中頃幸重、後に|信賀《のぶよし》と称せられしものなり」と云っている。
大阪陣前後には、幸村と云ったのだと思うが、『常山紀談』の著者などは、|信仍《のぶより》と書いている。これで見ると、徳川時代には信仍で通ったのかも知れない。しかし、とにかく幸村と云う名前が、徳川時代の大衆文学者に採用されたため、この名前が圧倒的に有名になったのだろう。
むかし、姓名判断などは、なかったのであるが、幸村ほど智才|秀《すぐ》れしものは時に際し事に触れて、いろいろ名前を替えたのだろう。
真田は、信濃の名族|海野《うんの》小太郎の|末胤《まついん》で、相当な名族で、祖父の幸隆の時武田に仕えたが、この幸隆が反間を用いるに妙を得た智将である。真田三代記と云うが、この幸隆と幸村の子の大助を加えて、四代記にしてもいい位である。
一体真田幸村が、豊臣家恩顧の武士と云うべきでもないのに、何故秀頼のために華々しき戦死を遂げたかと云うのに、恐らく父の昌幸以来、徳川家といろいろ意地が重っているのである。
上州の沼田は、利根川の上流が、片品川と相会する所にあり、右に利根川左に片品川を控えた要害無双の地であるが、関東管領家が亡びた後、真田が自力を以て、切り取った土地である。
武田亡びた後、真田は仮に徳川に従っていたが、家康が北条と媾和する時、北条側の要求に依って、沼田を北条側へ渡すことになり、家康は真田に沼田を北条へ渡してくれ、その代りお前には上田をやると云った。
所が、昌幸は、上田は信玄以来真田の居所であり、何にも徳川から貰う筋合はない。その上、沼田はわが|鋒《ほこ》を以て、取った土地である。故なく人に与えんこと|叶《かな》わずと云って、家康の要求を断り、ひそかに秀吉に使を出して、属すべき由云い送った。天正十三年の事である。
家康怒って、大久保忠世、鳥居元忠、井伊直政等に攻めさせた。
それを、昌幸が相当な軍略を以て、撃退している。小牧山の直後、秀吉家康の関係が、むつかしかった時だから、秀吉が、上杉|景勝《かげかつ》に命じて、昌幸を後援させる筈であったとも云う。
この|競合《せりあい》が、真田が徳川を相手にした初である。と同時に真田が秀吉の恩顧になる初である。
その後、家康が秀吉と|和睦《わぼく》したので、昌幸も地勢上、家康と和睦した。
家康は、昌幸の武勇侮りがたしと思って、真田の嫡子信幸を、本多忠勝の婿にしようとした。そして、使を出すと、昌幸は「左様の使にて|有間敷《あるまじき》也。使の聞き誤りならん。急ぎ帰って此旨申されよ」と云って、受けつけなかった。
徳川の家臣の娘などと結婚させてたまるかと云う昌幸の気概想うべしである。
そこで、家康が秀吉に相談すると、
「真田|尤《もつとも》也、|中務《なかつかさ》が娘を養い置きたる間、わが婿にとあらば承引致すべし」と、云ったとある。
家康即ち本多忠勝の娘を養女とし、信幸に嫁せしめた。結局、信幸は女房の縁に引かれて、後年父や弟と別れて、家康に|随《したが》ったわけである。
所が、天正十六年になって、秀吉が北条|氏政《うじまさ》を上洛せしめようとの交渉が始まった時、北条家で持ち出した条件が、また沼田の割譲である。先年徳川殿と和平の時、貰う筈であったが、真田がわがままを云って貰えなかった。今度は、ぜひ沼田を貰いたい、そうすれば上洛すると云った。此の時の北条の使が板部岡江雪斎と云う男だ。
北条としては、沼田がそんなに欲しくはなかったのだろうが、そう云う難題を出して、北条家の面目を立てさせてから上洛しようと云うのであろう。
秀吉即ち、上州に於ける真田領地の|中《うち》沼田を入れて、三分の二を北条に譲ることにさせ、残りの三分の一を|名《な》|胡桃《ぐるみ》城と共に真田領とした。そして、沼田に対する換地は、徳川から真田に与えさせることにした。
江雪斎も、それを諒承して帰った。所が、沼田の城代となった|猪俣範直《いのまたのりなお》と云う武士が、我無しゃらで、条約も何にも眼中になく、真田領の名胡桃まで、攻め取ってしまったのである。昌幸が、それを太閤に訴えた。太閤は、北条家の条約違反を怒って、遂に小田原征討を決心したのである。
昌幸から云えば、自分の面目を立ててくれるために、北条征伐と云う大軍を、秀吉が起してくれたわけで、可なり嬉しかったに違いないだろうと思う。関ヶ原の時に昌幸が一も二もなく大阪に味方したのは、此の時の感激を思い起したのであろう。
これは余談だが、小田原落城後、秀吉は、その時の使節たる板部岡江雪斎を捕え、|手枷《てかせ》足枷をして、面前にひき出し、「汝の違言に依って、北条家は|亡《ほろ》んだではないか。主家を亡して快きか」と、|罵《のの》しった。所が、この江雪斎も、大北条の使者になるだけあって、少しも|怯《わる》びれず、「北条家に於て、更に違背の気持はなかったが、辺土の武士時務を知らず、名胡桃を取りしは、北条家の運の尽くる所で、是非に及ばざる所である。しかし、天下の大軍を引き受け、|半歳《はんさい》を支えしは、北条家の面目である」と、豪語した。
秀吉その答を壮とし「汝は京都に送り|磔《はりつけ》にしようと思っていたが」と云って許してやった。その時丁度奥州からやって来ていた政宗を饗応するとき江雪斎も陪席しているから、その堂々たる返答がよっぽど秀吉の気に叶ったのであろう。
とにかく、最初徳川家と戦ったとき、秀吉の後援を得ている。わが領地の名胡桃を北条氏が取ったと云う事から、秀吉が北条征伐を起してくれたのだから、昌幸は秀吉の意気に感じていたに違いない。
その後、昌幸は秀吉に忠誠を表するため、幸村を人質に差し出している。だから、幸村は秀吉の身辺に在りて、相当好遇されたに違いない。
関ヶ原役の真田
関ヶ原の時、真田父子三人家康に従って、会津へ向う途中、石田三成からの使者が来た。昌幸、信幸、幸村の兄弟に告げて、相談した。
昌幸は、勿論大阪方に味方せんと云った。兄の信幸、内府は雄略百万の人に越えたる人なれば、|討滅《うちほろぼ》さるべき人に非ず、徳川方に味方するに|如《し》かずと云う。
|茲《ここ》で、物の本に依ると、信幸、幸村の二人が激論した。佐々木味津三君の大衆小説に、その激論の情景から始まっているのがあったと記憶する。
信幸、我本多に親しければ石田に|与《くみ》しがたしと云うと、幸村、女房の縁に引かれ父に弓引くようやあると云う。
信幸、石田に与せば必ず敗けるべし、その時党与の人々必ず|戮《りく》を受けん。我々父と弟との危きを助けて家の滅びざらんことを計るべしと。幸村曰く、西軍敗れなば父も我も戦場の土とならん。何ぞ兄上の助けを借らん。天正十三年以来豊家の恩顧深し、石田に味方するこそ当然である。家も人も滅ぶべく死すべき時到らば、|潔《いさぎよ》く振舞うこそよけれ、何条汚く生き延びることを計らんやと。信幸怒って|将《まさ》に幸村を斬らんとした。幸村は、首を|刎《は》ねることは許されよ、幸村の命は豊家のために失い申さん、志なればと云った。昌幸仲裁して、兄弟の争い各々その理あり、石田が今度のこと、必ずしも秀頼の為の忠にあらずと、信幸は思えるならん。我は、幸村と思う所等しければ、幸村と共に引き返すべし。信幸は、心任せにせよと云って別れたと云う。
この会談の場所は、佐野天妙であるとも云い、|犬伏《いぬぶし》と云う所だと云う説もある。此の兄弟の激論は、恐らく後人の想像であろうと思う。信幸も幸村も、既に三十を越して居り、深謀遠慮の良将であるから、そんな激論をするわけはない。まして、父と同意見の弟に斬りかけようとするわけはない。必ず、しんみりとした深刻な相談であったに違いない。
後年の我々が知っているように、石田方がはっきり敗れるとは分っていないのだから、父子兄弟の説が対立したのであろう。そして、本多忠勝の|女婿《じよせい》である信幸は、いつの間にか徳川に親しんでいたのは、人間自然の事である。
そして、昌幸の肚の中では、真田が東西両軍に別れていればいずれか真田の血脈は残ると云う気持もあっただろう。敗けた場合には、お互に救い合おうと云うような事も、暗々裡には黙契があったかも知れない。父子兄弟とも、頭がいいのであるから、大事な場合に、激論などする筈はない。後世の人々が、その後の幸村の行動などから、そんな情景を考え出したのであろう。
真田が東西両軍に別れたのは、真田家を滅ぼさないためには、上策であった。相場で云えば売買両方の|玉《ぎよく》を出して置く両建と云ったようなものである。しかし、両建と云うのは、大勝する|所以《ゆえん》ではない。真田父子三人家康に味方すれば、恐らく真田は、五十万石の大名にはなれただろう。信幸一人では、やっと、十何万石の大名として残った。
しかし、関ヶ原で跡方もなく亡んだ諸侯に比ぶれば、いくらかましかも知れない。
信幸、家康の許へ行くと、家康喜んで、安房守が片手を折りつる心地するよ、|軍《いくさ》に勝ちたくば信州をやる|証《しるし》ぞと云って刀の|下緒《さげお》のはしを切って呉れた。
昌幸と幸村は、信州へ引き返す途中沼田へ立ち寄ろうとした。沼田城は、信幸の居城で、信幸の妻たる例の本多忠勝の娘が、留守を守っていたが、昌幸が入城せんとすると曰く、既に父子|仇《あだ》となりて引き分れ候上は、たとい父にておわし候とも城に入れんこと思いも寄らずと云って、門を閉ざし女房共に武装させて、|厩《うまや》にいた|葦毛《あしげ》の馬を、玄関につながした。昌幸感心して、日本一と世に云える本多中務の娘なりけるよ。弓取の妻は、かくてこそあるべけれと云って、寄らずに上田へ帰った。本多平八郎忠勝は、徳川家随一の剛将である。小牧山の|役《えき》、たった五百騎で、秀吉が数万の大軍を牽制して、秀吉を感嘆させた男である。|蜻蛉《とんぼ》切り長槍を取って武功随一の男である。ある時、忠勝子息の忠朝と、居城桑名城の|濠《ほり》に船を浮べ、子息忠朝に、|櫂《かい》であの葦をないで見よと云った。忠朝も、|強力《ごうりき》無双の若者であるが、櫂を取って葦を払うと、葦が折れた。忠勝見て、当世の若者は手ぬるし、我にかせと、自身櫂を持って横に払うと、葦が切れたと云う。そんな事が可能かどうか分らぬが、とにかく秀吉に忠信の|冑《かぶと》を受け継ぐものは、忠勝の外にないと云われたり、関東の本多忠勝、関西の立花宗茂と比べられたりした典型的の武人である。
昌幸が、上田城を守って、東山道を上る秀忠の大軍を停滞させて、到頭関ヶ原に間に合わせなかった話は、歴史的にも有名である。
関ヶ原役に西軍が勝って論功行賞が行われたならば、昌幸は殊勲第一であったであろう。石田三成が約束したように、信州に旧主武田の故地なる甲州を添え、それに沼田のある上州を加えて、三ケ国位は貰えたであろう。
真田安房守昌幸は戦国時代に於ても、恐らく第一級の人物であろう。黒田如水、大谷吉隆、小早川隆景などと同じく、政治家的素質のある武将で、位置と境遇とに依って、家康、元就、政宗位の仕事は出来たかも知れない男の一人である。その上武威|赫々《かくかく》たる信玄の遺臣として、その時代に畏敬されていたのであろう。大阪陣の時、幸村の奮戦振を聞いた家康が、「父安房守に劣るまじく」と云って賞めているのから考えても、昌幸の人物が窺われる。所領は少かったが、家康などは可なりうるさがっていたに違いない。
秀忠軍が、上田を囲んだとき、寄手の使番一人、向う側の味方の陣まで、使を命ぜられたが、城を廻れば遠廻りになるので、大手の城門に至り、城を通して呉れと云う。昌幸聞いて易き事なりとて通らせる。その男帰途、又|搦手《からめて》に来り、通らせてくれと云う。昌幸又易き事なりと、城中を通し、所々を案内して見せた。時人、通る奴も通る奴だが、通す奴も通す奴だと云って感嘆したと云う。
此時の|城攻《しろぜめ》に、後年の小野次郎左衛門事|神子上《みこがみ》典膳が、一の太刀の手柄を表している。剣の名人必ずしも、戦場では役に立たないと云う説を成す人がいるが、必ずしもそうではない。寄手力攻めになしがたきを知り、抑えの兵を置きて、東山道を上ったが、関ヶ原の間に合わなかった。
関ヶ原戦後、昌幸父子既に危かったのを、信幸信州を以て父弟の命に換えんことを乞う。だが昌幸に邪魔された秀忠の怒りは、容易に|釈《と》けなかったが、信幸父を|誅《ちゆう》せらるる前に、かく申す伊豆守に切腹仰せつけられ候えと頑張りて、遂に父弟の命を救った。時人、義朝には大いに異なる豆州|哉《かな》と、感嘆した。
大阪入城
関ヶ原の戦後、昌幸父子は、高野山の|麓《ふもと》九度|禿《かむろ》の|宿《しゆく》に引退す。この時、発明した内職が、真田紐であると云うが……昌幸六十七歳にて死す。昌幸死に臨み、わが死後三年にして必ず、東西手切れとならん、我生きてあらば、相当の自信があるがと云って嗟嘆した。
幸村、ぜひその策を教えて置いてくれと云った。昌幸曰く策を教えて置くのは易いが、汝は我ほどの声望がないから、策があっても行われないだろうと云った。幸村是非にと云うたので、昌幸曰く「東西手切れとならば、軍勢を率いて先ず|美野《みの》青野ヶ原で敵を迎えるのだ。しかし、それは東軍と決戦するのではなく、かるくあしらって、瀬田へ引き取るのだ。そこでも、四五日を支えることが出来るだろう。かくすれば真田安房守こそ東軍を支えたと云う噂が天下に伝り、太閤恩顧の大名で、大阪方へ附くものが出来るだろう。しかし、この策は、自分が生きていたれば、出来るので、汝は武略我に劣らずと云えども、声望が足りないからこの策が行われないだろう」と云った。後年幸村大阪に入城し、冬の陣の時、城を出で、東軍を迎撃すべきことを主張したが、遂に容れられなかった。昌幸の見通した通りであると云うのである。
大阪陣の起る前、秀頼よりの招状が幸村の所へ来た。徳川家の禄を|食《は》みたくない以上、大阪に依って、事を成そうとするのは、幸村として止むを得ないところである。秀頼への忠節と云うだけではなく、親譲りの意地でもあれば、武人としての夢も、多少はあったであろう。
真田大阪入城のデマが盛んに飛ぶので、紀州の領主浅野|長晟《ながあきら》は九度山附近の百姓に命じてひそかに警戒せしめていた。
所が、幸村、父昌幸の法事を営むとの触込みて、附近の名主大庄屋と云った連中を招待して、下戸上戸の区別なく酒を|強《し》い、酔いつぶしてしまい、その間に一家一門|予《かね》て用意したる支度甲斐甲斐しく百姓どもの乗り来れる馬に、いろいろの荷物をつけ、百人ばかりの同勢にて、槍、なぎ刀の|鞘《さや》をはずし、鉄砲には火縄をつけ、紀伊川を渡り、大阪をさして出発した。附近の百姓ども、あれよあれよと騒いだが、村々在々の顔役共は真田邸で酔いつぶれているので、どうすることも出来なかった。浅野長晟之を聴いて、真田ほどの者を百姓どもに監視させたのは、此方の誤りであったと後悔した。
その辺、いかにも軍師らしくていいと思う。
大阪へ着くと、幸村は、只一人大野修理治長の所へ行った。その頃、|薙髪《ていはつ》していたので、伝心|月叟《げつそう》と名乗り、大峰の山伏であるが、|祈祷《きとう》の巻物差しあげたいと云う。|折柄《おりから》修理不在で、番所の脇で待たされていたが、折柄十人|許《ばか》りで、刀脇差の目利きごっこをしていたが、一人の武士、幸村にも刀拝見と云う。幸村山伏の犬おどしにて、お目にかけるものにてはなしと云って、差し出す。若き武士抜きて見れば、|刃《やいば》の匂、|金《かね》の光云うべくもあらず。脇差も亦然り。とてもの事にと、|中子《なかご》を見ると、刀は正宗、脇差は貞宗であった。唯者ならずと若武士ども騒いでいる所へ、治長帰って来て、真田であることが分ったと云う。
その後、幸村|彼《か》の若武士達に会い、刀のお目利きは上りたるやと云って戯れたと云う。
真田丸
東西手切れとなるや幸村は城を出で、東軍を迎え撃つことを力説し、後藤又兵衛も亦真田説を援けたが、大野渡辺等の容るる所とならず、遂に籠城説が勝った。前回にも書いてある通り、大阪城其物を頼み切っているわけである。
籠城の準備として、大阪城へ大軍の迫る道は、南より外ないので、此方面に|砦《とりで》を築く事になった。玉造口を隔てて、一つの笹山あり、砦を築くには屈竟の所なので、構築にかかったが、その工事に従事している人夫達が、いつとはなしに、此出丸を堅固に守らん人は、真田の外なしと云い合いて、いつの間にか、真田丸と云う名が、附いてしまった。
城中詮議の結果、守将たることを命ぜられた。しかし幸村は、譜代の部下七十余人しかないので辞退したが、後藤が、「人夫ども迄が、真田丸と云っている以上、御引受けないは本意ない事ではないか」と云ったので、「然らば、とてもの事に縄張りも自分にやらせてくれ」と云って引き受けた。
真田即ち昌幸伝授の秘法に依り、出丸を築いた。真田が出丸の|曲尺《かねざし》とて兵家の秘法になれりと『慶元記参考』にある。
真田は冬の陣中自分に附けられた三千人を率いて此の危険な|小砦《しようさい》を守り、数万の大軍を四方に受け、恐るる色がなかった。
家康の勧誘
真田丸の砦は、冬の陣中、遂に破られなかった。媾和になってから家康は、幸村を勧誘せんとし、幸村の叔父隠岐守|信尹《のぶただ》を使として「信州にて三万石をやるから」と言って、味方になることを、勧めさせた。
幸村は、出丸の外に、叔父信尹を迎えて、絶えて久しい対面をしたが、徳川家に附く事だけはきっぱり断った。
信尹はやむなく引返して、家康にその由を伝えると、家康は「では信濃一国を|宛行《あておこな》わん間|如何《いか》にと重ねて尋ねて参れ」と言った。信尹、再び幸村に対面してかく言うと、「信濃一国は申すに及ばず、天下に天下を添えて賜るとも、秀頼公に|背《そむ》きて不義は|仕《つかまつ》らじ。重ねてかかる使をせられなば存ずる旨あり」と、断乎として言って、追返した。
『常山紀談』の著者などは、この場合、幸村がかくも豊臣家のために義理を立通そうとしたのは、必ずしも、道にかなえり、とは言うべからずと言っている。
「豊臣家は真田数世の君に非ず、若し、君に|不背《そむかず》の義を論ぜば、武田家亡びて後世をすてゝ山中にかくれずばいかにかあるべき」
など評している。
が、幸村としてみれば、豊臣家には父昌幸以来の恩義があると共に、徳川家に対しては、前に書いておいた如く、矢張り父昌幸以来のいろいろの意地が重なっているのである。でないとした所が、今になって武士たるものが、心を動かすべき筈はないのである。
豊臣家譜代の連中が、関東方に附いて城攻に加っているのに、譜代の臣でもない幸村が、|断乎《だんこ》大阪方に殉じているなど会心の事ではないか。なお、これは余談だが、大阪方についた譜代の臣の中で片桐且元など殊にいけない。
坪内逍遥博士の『桐一葉』など見ると、且元という人物は極めて深謀遠慮の士で、秀吉亡き後の東西の感情融和に、反間苦肉の策をめぐらしていたように書いてあるが、嘘である。
『駿府記』など見ると、且元、秀頼の勘気に触れて、大阪城退出後、京都二条の家康の陣屋にまかり出で、御前で、藤堂高虎と大阪|攻口《せめぐち》を絵図をもって、謀議したりしている。
また、冬の陣の当初、大阪方が堺に押し寄せた時、且元、手兵を派して、堺を助け、大御所への忠節を見せた、など『本光国師日記』に見えている。
且元のこうした|忌《いまわ》しい行動は、当時の心ある大阪の民衆に極度の反感を起さしめた。|何某《なにがし》といえる侠客の徒輩が、遂に立って且元を襲い、その兵百人ばかりを殺害したという話がある。
且元、後にこれを家康に訴え、その侠客を制裁してくれと頼んだが、家康は笑って応じなかった。
当時の且元が、大阪びいきの連中に、いかように思われていたかが分るわけである。『桐一葉』に依って且元が忠臣らしく、伝えられるなど、甚だ心外だが、今に歌右衛門でも死ねば、誰も|演《や》るものがないからいいようなものの。
東西和睦
和平が成立した時、真田は、後藤又兵衛とともに、関東よりの停戦交渉は、全くの謀略なることを力説し、秀頼公の御許容あるべからずと言ったのだが、例によって、大野、渡辺等の容るる所とならなかったわけである。
幸村は、|偶々《たまたま》越前少将忠直卿の臣原|隼人貞胤《はやとさだたね》と、互に武田家にありし時代の旧友であったので、一日、彼を招じて、もてなした。
酒盃|数献《すうこん》の後、幸村小鼓を取出し、自らこれを打って、一子大助に|曲舞《くせまい》数番舞わせて興を尽した。
この時、幸村申すことに「この度の御和睦も一旦のことなり。|終《つい》には|弓箭《きゆうせん》に|罷成《まかりな》るべくと存ずれば、幸村父子は一両年の内には討死とこそ思い定めたれ」と言って、床の間を指し「あれに見ゆる鹿の|抱角《かかえづの》打ったる冑は真田家に伝えたる物とて、父安房守譲り与えて候、重ねての|軍《いくさ》には必ず着して打死仕らん。見置きてたまわり候え」と云った。
それから、庭に出て、|白河原毛《しろかわらげ》なる馬の逞しきに、六文銭を金もて|摺《す》りたる鞍を置かせ、ゆらりと打跨り、五六度乗まわして、原に見せ、「此の次ぎは、城|壊《こわ》れたれば、|平場《ひらば》の|戦《いくさ》なるべし。われ天王寺表へ乗出し、この馬の息続かん程は、戦って討死せんと思うにつけ、|一入《ひとしお》秘蔵のものに候」と言って、馬より下り、それから更らに酒宴を続け、夜半に至って、この旧友たちは、名残を惜しみつつ分れた。
果して、翌年、幸村は、この冑を被りこの馬に乗って、討死した。
また、この和睦の成った時、幸村の築いた真田丸も壊されることになった。
この破壊工事の奉行に、本多|正純《まさずみ》がやって来て、おのれの手で取壊そうとしたので、幸村大いに怒り抗議を申込んだ。
が、正純も中々引退らぬ。
両者が互いにいがみあっている由がやがて家康の耳に入った。すると、家康は「幸村が申条|理《ことわり》也、正純心得違也」と、早速判決を下して、幸村に、自分の手で勝手に取壊すことを許した。
この辺り、家康大に寛仁の度を示して、|飽迄《あくまで》幸村の心を関東に|惹《ひ》かんものと試みたのかも知れない。が幸村は、全く無頓着に、自分の人夫を使って、地形までも跡方もなく削り取り、昌幸伝授の秘法の跡をとどめなかった。
天王寺口の戦
|元和《げんな》元年になると東西の和睦は既に破れ関東の大軍、はや伏見まで着すと聞えた。
五月五日、この日、道明寺玉手表には、既に戦始り、幸村の陣取った太子へも、その|鬨《とき》の声、筒音など響かせた。
朝、幸村の物見の者、馳帰って、旗三四十本、|人衆《にんず》二三万許り、国府越より此方へ|踰来《こえきた》り候と告げた。これ伊達政宗の軍兵であった。が、幸村静に、障子に|倚《よ》りかかったまま、左あらんとのみ言った。
午後、物見の者、また帰って来て、今朝のと旗の色変りたるもの、人衆二万ほど竜田越に押下り候、と告げた。これ松平忠輝が軍兵であった。幸村|虚睡《そらねむ》りしていたが、目を開き「よしよし、いか程にも踰えさせよ。一所に集めて討取らんには大いに快し」とうそぶいた。
軍に対して、既に成算のちゃんと立っている軍師らしい落着ぶりである。
さて、|夕炊《ゆうげ》も終って後、幸村|徐《おもむ》ろに「この陣所は戦いに便なし、いざ敵近く寄らん」と言って、一万五千余の兵を粛々と押出した。その夜は道明寺表に陣取った。
明れば六日、早旦、野村|辺《あたり》に至ると、既に渡辺内蔵助|糺《ただす》が水野|勝成《かつなり》と戦端を開いていた。
相当の力戦で、糺は既に身に深手を負っていた。幸村の軍|来《きた》ると分ると、糺は使を遣わして「只今の迫合に|創《きず》を蒙りて|復《また》戦うこと成り難し。然る故、貴殿の|蒐引《かけひき》に妨げならんと存じ人衆を脇に引取候。かくして横を討たんずる勢いを見せて控え候。これ貴殿の一助たるべきか」と言って来た。
幸村、喜んで「御働きの程、目を|愕《おどろ》かしたり。敵はこれよりわれ等が受取ったり」と言って、軍を進めた。
水野勝成の軍は伊達政宗、松平忠輝等の連合軍であった。幸村|愈《いよいよ》現われると聞き、政宗の兵、一度に掛り来る。
ここで、野村という所の地形を言っておくと、前後が岡になっていて、その中間十町ばかりが低地であり、左右|田畴《でんちゆう》に連っている。
幸村の兵が、今しも、この岡を半ばまで押上げたと思うと、政宗の騎馬鉄砲八百挺が、一度に打立てた。
この騎馬鉄砲は、政宗御自慢のものである。
仙台といえば、聞えた名馬の産地。その駿足に、伊達家の士の二男三男の壮力の者を乗せ、馬上射撃を一斉に試みさせる。打立てられて敵の備の乱れた所を、煙の下より直ちに乗込んで、馬蹄に蹴散らすという、いかにも、東国の兵らしい荒々しき戦法である。
この猛撃にさすがの幸村の兵も弾丸に傷き、死する者も相当あった。
然し、幸村は「|爰《ここ》を辛抱せよ。片足も引かば全く滅ぶべし」と、先鋒に馳来って下知した。一同、その辺りの松原を楯として、|平伏《ひれふ》したまま、退く者はなかった。
始め、幸村は暑熱に兵の弱るのを恐れて、冑も附けさせず、鎗も持たせなかった。かくて、敵軍十町ばかりになるに及んで、使番を以て、「冑を着よ」と命じた。更に、二町ばかりになるに及んで、使番をして「鎗を取れ」と命じた。
これが、兵の心の上に非常な効果を招いた。敵前間近く冑の|忍《しのび》の緒を締め、鎗をしごいて立った兵等の勇気は百倍した。
さしもの伊達の騎馬鉄砲に耐えて、新附仮合の徒である幸村の兵に一歩も退く者のなかったのはそのためであろう。
幸村は、漸く、敵の砲声もたえ、烟も薄らいで来た時、頃合はよし、いざかかれと大音声に下知した。声の下より、皆起って突かかり、|瞬《またた》く間に、政宗の|先手《さきて》を七八町ほど退かしめた。政宗の先手には、かの片倉小十郎、石母田大膳等が加っていたが、「敵は小勢ぞ、引くるみて討ち平げん」など豪語していたに拘らず、幸村の疾風の兵に他愛なく崩されてしまったのである。
これが、世に真田道明寺の軍と言われたものである。
新鋭の兵器を持って、東国独特の猛襲を試みた伊達勢も、さすがに、真田が軍略には、歯が立たなかったわけである。
幸村は、それから士卒をまとめて、毛利勝永の陣に来た。
そして、勝永の手を取って、涙を流して言った。「今日は、後藤又兵衛と貴殿とともに存分、東軍に切込まんと約せしに時刻おそくなり、後藤を討死させし故、|謀《はかりごと》 空しくなり申候。これも秀頼公御運の尽きぬるところか」と。
この六日の朝は、霧深くして、夜の|明《あけ》も分らなかったので幸村の出陣が遅れたのである。|若《も》し、そんな支障がなかったら、関東軍は、幸村等に、どれ程深く切り込まれていたか分らない。
勝永も涙を面に|泛《うか》べ「さり|乍《なが》ら、今日の御働き、大軍に打勝れた武勇の有様、|古《いにしえ》の名将にもまさりたり」と称揚した。
幸村の一子大助、今年十六歳であったが、組討して|取《とつ》たる首を鞍の四方手に附け、相当の手傷を負っていたが、流るる血を拭いもせずに、そこへ馳せて来た。
勝永これを見て、更に「あわれ父が子なり」と|称《たた》えたという。
こうして、五月六日の戦は、真田父子の|水際《みずぎわ》立った奮戦に終始した。
真田の棄旗
五月七日の払暁、越前少将忠直の家臣、吉田|修理亮《しゆりのすけ》光重は|能《よ》く河内の地に通じたるを以て、先陣として二千余騎を率い大和川へ差かかった。
その後から、越前勢の大軍が粛々と進んだ。
が、まだ暗かったので、越前勢は河の深浅に迷い、|畔《ほとり》に|佇《たたず》むもの多かった。大将修理亮は「河幅こそ広けれ、いと浅し」と言って、自ら先に飛込んで渡った。
幸村は、|夙《つと》にこの事あるを予期して、河底に鉄鎖を沈め置き、多数が河の半ばまで渡るを待って、これを一斉に捲き上げたので、先陣の三百余騎、見る見る鎖に捲き倒されて、河中に倒れた。
折柄、|五月雨《さみだれ》の水勢|烈《はげ》しきに、容赦なく押流された。
|茲《ここ》に最も哀れをとどめたのは、大将吉田修理亮である。彼は、真先に飛込んで、間もなく馬の足を鎖に捲きたおされ、ドウと許り、|真倒《まつさかさ》まに河中に落ちた。が、大兵肥満の上に鎧を着ていたので、どうにもならず、翌日の暮方、天満橋の辺に、水死体となって上った。
また、同じ刻限、天王寺表の|嚮導《きようどう》、石川伊豆守、宮本丹後守等三百余人が平野の南門に着した。見ると、そこの陣屋の門が、ぴったり閉めてあって入りようがない。廻って東門を|覗《うかが》ったが、同様である。内には、六文銭の旗三四|旒《りゆう》、朝風に|吹靡《ふきなび》いて整々としていた。
「さては、此処がかの真田が固めの場所か。迂闊に手を出す可らず」その上、越前勢も、大和川の失敗で、中々到着するけしきもないので石川等は、東の|河岸《かし》に控えて様子を覗っていた。
夜がほのぼのと明け始めた。そこで東の門を覗ってみると、内は森閑として、人の気配もなかった。何のことだ、と言い合いつつ、東の門を開いて味方を通そうとしている所へ、越前勢の先手がやっとのことで押し寄せて来た。
大和川に流された吉田修理亮に代って、本多飛守、松平壱岐守等以下の二千余騎である。
が、石川宮木等は、これを真田勢の来襲と思い違い、凄まじい同志討がここに始まった。
石川宮木等が|葵《あおい》の紋に気付いた時は、既に手の下しようのない烈しい戦いになっていた。ようやくのことで、彼等が、冑を取り、大地にひざまずいたので、越前勢も|鎮《しず》まった。
しかし、こんな不始末が大御所に知れてはどんなことになるかも知れない、とあって、彼等は、その場を繕うために、雑兵の首十三ほどを切取り、そこにあった真田の旗を証拠として附けて、家康に差出した。
家康いたく喜ばれ「真田ほどの者が旗を棄てたるはよくよくのことよ」と御褒めになり、その旗を家宝にせよとて、|傍《かたわら》の尾張義直卿に進ぜられた。
義直卿は、おし頂いてその旗をよく見たが、顔色変り「これは家宝にはなりませぬ」と言う。
家康もまた、よく見れば、旗の隅に細字で、小さく「棄旗」と書いてあった。「実に武略の人よ」と家康は、讃嘆したとあるが、これは|些《いささ》かテレ隠しであったろう。
寄手の軍が、こんな失敗を重ねてぐずぐずしている間に、幸村は軍を勝曼院の前から|石之華《いしのはな》表の西迄三隊に備え、旗馬印を|竜粧《りゆうしよう》に押立てていた。
殺気天を衝き、黒雲の巻上るが如し、という概があった。
|陽《ひ》も上るに及んで、愈々合戦の開かれんとする時、幸村は一子大助を呼んで、「汝は城に還りて、君が|御生害《ごしようがい》を見届け後果つべし」と言った。が、大助は「そのことは譜代の近習にまかせて置けばよいではないか」と、仲々聴かなかった。そして、「あく迄父の最期を見届けたい」と言うのをなだめ|賺《すか》して、やっと城中に帰らせた。
幸村は、大助の|背姿《うしろすがた》を見、「昨日|誉田《ほんだ》にて痛手を負いしが、よわる|体《てい》も見えず、あの分なら最後に人にも笑われじ、心安し」と言って、涙したという。
時人、この別れを桜井駅に比している。幸村は、なぜ、大助を城に返して、秀頼の最後を見届けさせたか。その心の底には、もし秀頼が助命されるような事があらば、大助をも一度は世に出したいと云う親心が、うごいていたと思う。前に書いた原隼人との会合の時にも「伜に、一度も人らしい事をさせないで殺すのが残念だ」と述懐している。こう云う親心が、うごいている点こそ、却って幸村の人格のゆかしさを|偲《しの》ばしめると思う。
幸村の最期
幸村の最期の戦いは、越前勢の大軍を真向に受けて開始された。
幸村は、|屡々《しばしば》越前勢をなやましつつ、天王寺と一心寺との間の|竜《たつ》の丸に備えて士卒に、兵糧を使わせた。
幸村はここで一先ず息を抜いて、その暇に、明石|掃部《かもんの》|助全登《すけなりとよ》をして今宮表より阿部野へ廻らせて、大御所の本陣を|後《うしろ》より衝かせんとしたが、この計画は、松平武蔵守の軍勢にはばまれて着々と運ばなかった。
そこで、幸村は毛利勝永と議して、愈々秀頼公の御出馬を乞うことに決した。秀頼公が|御旗《おんはた》御馬印を、玉造口まで押出させ、寄手の勢力を割いて明石が軍を目的地に進ましめることを計った。真田の穴山小助、毛利の古林一平次等が、その緊急の使者に城中へ走った。
この使者の往来しつつある猶予を見つけたのが、越前方の監使原飛守である。飛守は「今こそ攻めるべし、遅るれば必ず後より追撃されん」と忠直卿に言上した。
忠直卿早速、舎弟伊予守忠昌、出羽守直次をして左右両軍を連ねさせ、二万余騎を以て押し寄せたが、幸村は今暫く待って戦わんと、|待味方《まちみかた》の備をもって、これに当っていた。
すると、意外にも、本多忠政、松平忠明等、渡辺大谷などの備を遮二無二切崩して真田が陣へ駆け込んで来た。また水野勝成等も、昨日の敗を報いんものと、勝曼院の西の方から六百人許り、鬨を揚げて攻寄せて来た。幸村は、遂に三方から敵を受けたのである。
「最早これまでなり」と意を決して、冑の忍の結を|増花形《ますはながた》に結び――これは討死の時の結びようである――馬の上にて鎧の上帯を締め、秀頼公より賜った|緋縮緬《ひぢりめん》の陣羽織をさっと着流して、金の采配をおっ取って敵に向ったと言う。
三方の寄手合せて三万五千人、真田勢僅かに二千余人、しかも、寄手の戦績はかばかしく上らないので、家康は気を|揉《も》んで、稲富喜三郎、|田付《たづけ》兵庫等をして鉄砲の者を召連れて、越前勢の傍より真田勢を|釣瓶打《つるべうち》にすべしと命じた位である。
真田勢の死闘の程思うべしである。
幸村は、三つの深手を負ったところへ、この鉄砲組の弾が左の|首摺《くびずり》の間に|中《あた》ったので、既に落馬せんとして、鞍の前輪に取付き差うつむくところを、忠直卿の家士西尾|仁右衛門《にえもん》が鎗で突いたので、幸村はドウと馬から落ちた。
西尾は、その首を取ったが、誰とも知らずに居たが、後にその冑が、|嘗《かつ》て原隼人に話したところのものであり、口を開いてみると、前歯が二本|闕《か》けていたので、正しく幸村が首級と分ったわけである。
西尾は才覚なき士で、その時太刀を取って帰らなかったので、太刀は、後に越前家の斎藤勘四郎が、これを得て帰った。
幸村の首級と太刀とは、後に兄の伊豆守信幸に賜ったので、信幸は二男内記をして首級は高野山天徳院に葬らしめ、太刀は、自ら取って、真田家の家宝としたと言う。
この役に、関西方に附いた真田家の一族は、|尽《ことごと》く戦死した。甥幸綱、|幸堯《ゆきたか》等は幸村と同じ戦場で|斃《たお》れた。
一子大助は、城中において、秀頼公の最期間近く自刃して果て、父の言葉に従った。
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天下大乱の兆
応仁の大乱は応仁元年より、文明九年まで続いた十一年間の事変である。戦争としては、何等目を驚かすものがあるわけでない。勇壮な場面や、華々しい情景には乏しい。活躍する人物にも英雄豪傑はいない。それが十一年もだらだらと続いた、緩慢な戦乱である。
併しだらだらでも十一年続いたから、その影響は大きい。京都に起った此の争乱がやがて、地方に波及拡大し、日本国中が一つの軟体動物の|蠕動《ぜんどう》運動の様に、動揺したのである。此の後に|来《きた》るものが|所謂《いわゆる》戦国時代だ。即ち実力主義が最も露骨に発揮された、活気横溢せる時代である。武士にとっては滅多に願ってもかなえられない得意の時代が来たのだ。心行くまで彼等に腕を振わせる大舞台が開展したのだ。その意味で序幕の応仁の乱も、意義があると云うべきである。
応仁の乱の責任者として、古来最も指弾されて居るのは、将軍義政で、|秕政《ひせい》と|驕奢《きようしや》が、その起因をなしたと云われる。
義満の金閣寺に真似て、銀閣を東山に建てたが、費用が足りなくて銀が|箔《は》れなかったなど、有名な話である。大体彼は建築道楽で、|寛正《かんしよう》の大飢饉に際し、|死屍《しし》京の賀茂川を埋むる程なのに、新邸の造営に余念がない。
彼の豪奢の絶頂は、寛正六年三月の花頂山の花見宴であろう。咲き誇る桜の下で当時流行の連歌会を催し、義政自ら発句を作って、
「咲き満ちて、花より外に色もなし」と詠じた。一代の享楽児の面目躍如たるものがある。併し義政は単に一介の風流人ではなく、相当頭のよい男であった。天下大乱の兆、|漸《ようや》くきざし、山名細川両氏の|軋轢《あつれき》甚しく、両氏は互いに義政を利用しようとして居る。ところが彼は巧みに両氏の間を泳いで不即不離の態度をとって居る。だから両軍から別に|憎怨《ぞうおん》せられず、戦乱に超越して風流を楽んで居られたのである。政治的陰謀の激しい|下剋上《げこくじよう》の当時に於て、暗殺されなかっただけでも相当なものだ。尤もそれだけに政治家としては、有っても無くてもよい存在であったのかも知れぬ。
事実、将軍としての彼は、無能であったらしく、治蹟の見る可きものなく、|寵嬖《ちようへい》政治に堕して居る。併し何と云われても、信頼する事の出来ない重臣に取捲かれて居るより、愛妾寵臣の側に居た方が快適であるし、|亦《また》安全であるに違いない。|殷鑒《いんかん》遠からず、現に嘉吉元年将軍|義教《よしのり》は、重臣赤松|満祐《みつすけ》に|弑《しい》されて居るのである。
亦飢饉時の普請にしても、当時後花園天皇の|御諷諫《ごふうかん》に会うや、|直《ただ》ちに中止して居る。これなどは、彼の育ちのよいお坊っちゃんらしさが、よく現れて居て、そんなにむきになって批難するにはあたらないと思う。
所詮彼は一箇の文化人である。近世に於ける趣味生活のよき紹介者であり、学芸の優れた保護者である。義満以来の足利氏の芸術的素質を、最もよく相続して居る。天下既に乱れ身辺に内戚の|憂《うれい》多い彼が、|纔《わずか》に逃避した境地がその風流である。特に晩年の放縦と驕奢には、政治家として落第であった彼の、ニヒリズムが|暗澹《あんたん》たる影を投げて居る。
故に表面的な驕奢と秕政の故に、義政を以て応仁の乱の責任者であると断ずるは、あたらない。彼は|寧《むし》ろ|生《うま》る可き時を誤った人間である。借金棒引きを迫って、一揆の頻発した時代だ。天下既に大変革を待って居たのである。
徳政は元来仁政に発する一種の社会政策である。即ち貝を吹き鐘を|敲《たた》いて、徳政の令一度発せられるや、貸借はその瞬間に消滅するのであった。
増大する窮民はその一揆の口実に徳政を|称《とな》え、亦奢侈の結果負債に窮した幕吏も、此の点に於て相応じたのである。義政の時代には、十三度も徳政令を出して居る。
「九月二十一日、|就中《なかんずく》土一揆|乱《きよう》|入 京 中《ちゆうにらんにゆうす》。|而 《しかして》土蔵其他家々に|令乱入《らんにゆうして》、|雑物《ぞうもつ》取る。|剰放《あまつさ》|火 三 千 余町《えさんぜんよちようにほうかして》|焼失」《しようしつす》(『大乗院寺社雑事記』)
加るに鎮圧に赴いた将士の部下が、却って一揆に参加して諸処に強奪を働いたと云う。
その乱脈思う可きである。
亦当時は|博奕《ばくち》が非常に盛んであった。
武士など自分の甲冑、刀剣を質に置いてやった。勢い戦場には丸腰で、只|鯨波《とき》の声の数だけに加わるような始末である。それも昂じて他人の財産を賭けて、争うに至ったと云う。つまり負けたらば、|何処《どこ》其処の寺には|宝物《ほうもつ》が沢山あるから、それを奪って|遣《つかわ》すべしと云ったやり方である。
こんな全く無政府的な世相に口火を切って、応仁の乱を捲き起したのが、実に細川山名二氏の勢力争いである。
元来室町幕府にあっては、|斯波《しば》、畠山、細川の三家を三職と云い、相互に管領に任じて、幕府の中心勢力となって来た。此の|中《うち》、斯波氏先ず衰え、次で畠山氏も|凋落《ちようらく》した。独り残るは細川氏であり、文安二年には細川勝元が管領になって居る。
一方山名氏は、新興勢力であって、持豊に至って鬱然として細川氏の一大敵国をなして来たのである。持豊は即ち|薙髪《ちはつ》して宗全と云う。性、剛腹|頑陋《がんろう》、面長く顔赤き故を以て、世人これを赤入道と呼んだ。
『塵塚物語』と云う古い本に、応仁の乱の頃、山名宗全が或る大臣家に参伺し、乱世の民の苦しみに就て、互に物語ったとある。其の時其の大臣が、色々昔の乱離の世の例を引き出して「さまざま賢く申されけるに、宗全は臆したる色もなく」一応は尤もなれど、例を引くのが気に喰わぬと云った。「例といふ文字をば、向後、時といふ文字にかえて御心得あるべし」と、直言している。
|此《これ》は相当皮肉な、同時に痛快な言葉でもあって、彼が転変極まりなき時代を明確に、且つ無作法に認識して居る事を示して居る。
宗全は更に、自分如き匹夫が、|貴方《あなた》の所へ来て、|斯《こ》うして話しをすると云うことは、例のないことであるが、今日ではそれが出来るではないか。「それが時なるべし」(即ち時勢だ)と言い放って居るのである。
故に共同の敵なる畠山持国を|却《しりぞ》けるや、|厭《あ》く迄現実的なる宗全は、昨日の味方であり掩護者であった勝元に敢然対立した。尤も性格的に見ても、此の赤入道は、伝統の家に育って挙措慎重なる勝元と相容れるわけがない。
動因は赤松氏再興問題であって、将軍義政が赤松|教祐《のりすけ》に、その家を嗣がしめ播磨国を賜った。勿論此の裏面には勝元が躍って居るのである。山名宗全、但馬に在って|是《これ》を聞き、
「我軍功の|封国《ほうこく》何ぞ賊徒の族をして獲せしめんや」
と|嚇怒《かくど》して播磨を衝き、次いで義政の許しを得ないで|入洛《じゆらく》した。当時此の駄々ッ児を相手に出来るのは細川勝元だけであった。
戦乱の勃発
唯ならぬ雲行きを見て、朝廷は、文正二年三月五日に、兵乱を避ける為め改元をした。応仁とは、
「|仁之感《じんのものに》|物《かんじ》、|物之応《もののじんに》|仁、 《おうずるは》|若《かげの》|影 随《かたちにした》|形、 《がうがごとく》|猶《なお》|声 致《こえのひびき》| 響」 《をいたすがごとし》 と云う句から菅原|継長《つぐなが》が|勧進《かんじん》せる所である。
而も戦乱は、その年即ち応仁元年正月十八日に始まって居るのである。
慎重な勝元は、初めは反逆者の名を恐れて敢て兵火の中に投じなかった。ところが、積極的な宗全は、自ら幕府に説いて勝元の領国を押収せんとした。かく挑発されて勝元も、其の分国の兵を募り、党を集めたのである。
細川方の総兵力は十六万人を算し、斯波、畠山、京極、赤松の諸氏が加った。即ち東軍である。一方西軍たる山名方は一色、土岐、六角の諸勢を入れて総数|凡《およ》そ九万人と云われる。尤も此の数字は全国的に見た上の概算であって、初期の戦乱は専ら京都を中心とした市街戦である。
一種の私闘の如きものであるが、彼等にもその兵を動かす以上は、名分が必要であったらしい。周到な勝元は早くも幕府に参候し、義政に請うて宗全追討の|綸旨《りんし》を得て居る。時に西軍が|内裏《だいり》を襲い、天子を奉戴して幕府を討伐すると云う噂が立った。勝元は是を聞くや直ちに兵を率いて禁中に入り、主上を奉迎して幕府に行幸を願った。倉卒の際とて、儀仗を整える暇もなく、車駕幕府に入らんとした。所が近士の侍の間にもめ事があって、夜に至るまで幕府の門が開かなかったと云う。こんなやり方は如何にも勝元らしく、|爾来《じらい》東軍は|行在所《あんざいしよ》守護の任に当って、官軍と呼ばれ、西軍は止むを得ず賊軍となった。
宗全は斯うした深謀には欠けて居たが、実際の戦争となると勝元より遙かに上手だ。
先ず陣の|布《し》き方を見ると、東軍は幕府を中心にして、|正実坊《しようじつぼう》、実相院、相国寺、及び北小路町の細川勝元邸を連ねて居る。西軍は五辻通、大宮東、山名宗全邸を中心に、|勘解由《かげゆ》小路にまで延びて居る。即ち、東軍は只京都の北部一角に陣するに反し、西軍は南東の二方面を|扼《やく》して居る訳だ。
|恰《あだか》も西軍にとって、一つの吉報が|齎《もたら》された。
即ち、周防の大内政弘、及び河野通春の援軍が到着したことであった。既に持久戦に入って来た戦線は、漸く活況を帯びて来たのである。
応仁元年九月一日、西軍五万余人は大挙して三宝院を襲い、是に火を放って、京極勢の固めて居る浄花院に殺到して行った。
西軍の勢力は、日々に加わり、東軍は多くの陣地を蚕食されて、残すは只相国寺と、勝元邸だけとなった。兵火に焼かれた京都は、多く焼野原と化して、西軍の進撃には視界が開けて居て好都合である。昂然たる西軍は此の機に乗じて相国寺を奪い、東軍の羽翼を絶たんとした。
先ず彼等は一悪僧を語らって、火を相国寺に放たしめた。さしもの|大伽藍《だいがらん》も焼けて、|煙烟《えんえん》高く昇るのを望見するや、西軍は一挙に進撃した。此の決戦は未明から|黄昏《たそがれ》まで続いたけれど勝敗決せず、疲れ果てて両軍相共に退いた。此の日の死骸は|白雲《しらくも》村から東今出川迄横わり、大内及び土岐氏の討ち取った首級は、車八輛に積んでも尚余り有ったと云う。
丁度将軍義政の花の御所は、相国寺の隣りに在った。此の日余烟|濛々《もうもう》として襲い、夫人|上臈《じようろう》達は恐れまどって居るのに、義政は自若として酒宴を続けて居たと云う。こうなれば、義政も図々しい愉快な男ではないか。
戦後小雨あって、相国寺の焼跡の煙は収った。
此の戦闘以後は、さして大きな衝突もなく、両軍互いに持久戦策をとり、大いに防禦工事を営んで居る。宗全は高さ七丈余もある高楼を設けて、東軍を眼下に見下して得意になって居た。一方東軍では、和泉の工匠を雇入れて砲に類するものを作らせ、盛んに石木を発射せしめて敵陣を|攪乱《かくらん》させたと云う。
亦面白いのは彼等将士の風流である。即ち|紅絹《べにきぬ》素練を|割《さ》いて小旗を作り、各々歌や詩を書いて戦場に臨んだと記録にある。
その上、兵士達には、何のための戦争だが、ハッキリ分らないのだから、凡そ戦には熱がなかったらしい。『塵塚物語』に「およそ武勇人の戦場にのぞみて、高名はいとやすき事なり。されど、敵ながら見知らぬ人なり。又主人の為にこそ|仇《あだ》ならめ、郎従|下部《しもべ》ごときに至て、いまだ一ことのいさかひもせざる人なれば、あたりへさまよひ来たる敵も、わが心おくれて打ちがたき物也とかく義ばかりこそおもからめ、その|外《ほか》は皆ふだんの心のみおこりて、おほくは打ちはづす事敵も味方もひとし」
誰も戦意がなく、ただお義理に戦争しているのだから、同じ京都で十一年間も、顔を突き合わしていても勝負が、定まらないのだ。
京都の荒廃
「なれや知る、都は野辺の|夕《ゆう》|雲雀《ひばり》、あがるを見ては落つる涙は」有名な古歌である。
京都の荒廃は珍しいことでなく、平安朝の末期など殊に甚しかったように思う。併し応仁の大乱に依って、京都は全く焼土と化して居る。実際に京都に戦争があったのは初期の三四年であったが、此の僅かの間の市街戦で、洛中洛外の|公卿《くげ》門跡が|悉《ことごと》く焼き払われて居るのである。『応仁記』等に依って見ると、如何に被害が甚大であったかを詳細に列挙して、「計らざりき、万歳期せし花の都、今何ぞ狐狼の臥床とならんとは」と結んで居る。
思うにこれは単に市街戦の結果とばかりは、断ぜられないのである。敵の本拠は仕方がないとしても、然らざる所に放火して財宝を|掠《かす》め歩いたのは、全く武士以下の歩卒の所業であった。即ち足軽の|跋扈《ばつこ》である。
『長興記』をして、「本朝五百年来此の才学なし」とまで評さしめた当時の|碩学《せきがく》一条|兼良《かねよし》は『|樵談《しようだん》治要』の中で浩歎して述べて居る。
「昔より天下の乱るゝことは|侍《はべ》れど、足軽といふ事は旧記にもしるさゞる名目なり。此たびはじめて出来たる足軽は、超悪したる悪党なり。|其故《それゆえ》に洛中洛外の諸社、諸寺、五山|十刹《じつさつ》、公家、門跡の滅亡はかれらが所行なり。ひとへに昼強盗といふべし。かゝるためしは先代未聞のことなり」
そして更に、これは今の武士が武芸を怠った為に、足軽が数が多く腕っ節が強いのを頼み、|狼藉《ろうぜき》を働くのであって、「|左《さ》もこそ下剋上の世ならめ」と憤慨して居る。
此の『樵談治要』は応仁の乱後、彼が将軍|義尚《よしひさ》に治国の要道を説いたものから成って居るのであるから、先ず当時に於ける悲惨な知識階級の代表的な意見であろう。彼自身、家は焼かれ貴重な典籍の多くを失って居るのである。
とに角職業的な武士が駄目になって、数の多い活溌な足軽なんかが、戦術的にも重要な軍事要素となったことは、次に来る戦国時代を非常に興味あるものとして居る。
併し一定の社会秩序に生活の基礎を置く貴族階級にしてみれば、これ程心外な現象もないし、実際下剋上と云う言葉の意味も、現在我々が想像する以上に、深刻なものだったらしい。
兼良は奈良の大乗院に避難して居る。元来奈良の東大寺、興福寺等の大寺では、自ら僧兵を置いて自衛手段を講じて居たので、流寓の公卿を養う事が出来た。併し後には、余りに其の寄寓が多いので費用がかさみ、盛んに、その寺領である諸国の荘園に、用米の催促をして居るのである。諸荘では大いに不満の声を上げたが、此度は是非にも徴集に応ずべきことなりと強制されて居る。
其他公卿は、地方の豪族に身を寄せたり、自ら領地に帰って農民に伍して生計を立てたりして、京都に留る者は殆んど無かった。
其の頃ある公卿に謁せんとした所、夏装束にて恥しければと言う。苦しからずとて、強いて謁するに、夏装束と思いの外、蚊帳を身に纏うて居たと云う話がある。又袋を携えて関白料であると称し、洛中に米を乞うて歩いた公卿も有ったと云う。
こんな世相であるから、皇室の式微も甚しかった。昼は禁廷左近の|橘《たちばな》の下に茶を売る者あり、夜は三条の橋より|内侍所《ないしどころ》の燈火を望み得たとは、有名な話である。
畏れ多い限りではあるが『慶長軍記抄』に依れば「万乗の天子も些少の銭貨にかへて|宸筆《しんぴつ》を売らせ給ひ、銀紙に百人一首、伊勢物語など望みのまゝをしるせる札をつけて、|御簾《みす》に結びつけ、日を経て後|詣《もう》づれば宸筆を添へて差し出さる」とある。
戦乱の末期
此の戦乱の後期で注目す可きは賊軍の悪名を受けた西軍が南朝の|後裔《こうえい》を戴いたことである。日尊と称する方で、紀伊に兵を挙げられた。『大乗院寺社雑事記』文明三年の条に、
「此一両年日尊と号して|十方成《じつぽうにほ》|奉書 《うしよをなし》|種々計略人《しゆじゆけいりやくの》 |在 《ひとこれ》|之《あり》。|御醍醐院《ごだいごいん》之御末也云々」とあるが、朝敵として幕軍の為めに討たれて居るのである。其の後、日尊に取立てられた小倉の御子で、御齢十七歳なる方が、大和に挙兵されて居る。其の兵七十騎を従えて、錦|直垂《ひたたれ》を着用すとある。宗全雀躍して是を迎えて奉仕したと云うが、詳しい御事蹟は記録にないが、大衆文学の主人公としては、面白い存在ではないか。大衆作家も、もっと時代を|遡《さかのぼ》れば、いくらでも題材はあるわけである。
とに角斯かる伝奇的な若武者が、既に遠い南朝の夢を懐いて、吉野の附近に|徘徊《はいかい》して居たと云うことだけで、如何にも深い感興を覚えるのである。
文明四年にはそろそろ平和論が称えられて来た。
対峙すること既に六ケ年、在京の諸将が戦いに倦んだことは想像出来るのである。加るに彼等の関心は、単に京都だけの戦闘だけではなかった。其の留守にして居る領国の騒乱鎮圧の為、兵を率いて帰国する者もあった。
元来応仁の大乱は、純粋なる利益問題でなくて、権力争奪問題の余波である。諸将が東西に分れた所以のものは、射利の目的と云うよりは寧ろ武士の義である。故に必死の死闘を試みる相手でなく、不倶戴天の仇敵でもない。和議を結んで各領国に帰ってその|封土《ほうど》を守り、権力平均を保てば足りるのである。
これには、勝元も宗全も異議は無かった。独り|悦《よろこ》ばぬのは赤松政則であって、それは休戦になればその拡張した領土を山名氏に還さねばならないからである。政則は勝元とは姻戚の間であり、東軍に在っては其の枢軸である。勝元は彼を排してまで和するの勇気もなく、此の話は中絶した。
此の後、勝元は|髻《もとどり》を切ろうと云い出し、宗全は切腹をすると言って居る。思うに共に戦意無きを示して、政則を牽制せんと計ったのでもあろう。同時に彼等は此の大乱の道徳的責任を感じて居るらしいのである。多くの神社仏閣を焼き、|宸襟《しんきん》を悩まし奉る事多く、此の乱の波及する所は全く予想外である。つまり、二人ともこんな積りでなかったとばかりに空恐しくなったのであろう。殊に勝元など、宗全と異って、少しでも文化的な教養があるのだから、此の乱の赴く所随分眼を|掩《おお》い度い様な気分に襲われたんではないかと思う。宗全にしてもそうだが、共に中世的な無常感が相当骨身にこたえたに違いない。只勝元は薙髪すると云い、宗全は切腹すると云う所に、二人の性格なり、ものの感じ方なんかがはっきり現れて居て面白いと思う。
流石剛頑な山名宗全も、文明五年には|齢《よわい》七十である。身体も弱ったのであろう。既に軍務を見るのを好まず、其の子政豊に、一切をまかせて居たのである。此の年の正月、宗全の病歿が伝えられて居る。
「|去《さる》二十一日夜山名入道宗全|入滅 畢《にゆうめつしおわる》。其夜同一族大内新助降参方御陣に参候」(『寺社雑事記』)
此の宗全の死も、降服も訛伝であった。併し此の年の三月十九日には、鞍馬|毘沙門《びしやもん》の化身と世人に畏怖せられて居た宗全も、本当に陣中に急逝したのである。
宗全の死に|後《おく》れること約二ケ月、細川勝元も五月二十二日に病歿した。時に四十四歳である。即ち東西の両星一時に|隕墜《いんつい》したわけである。而も二人の歿した日は共に、風雨烈しい夜であったと伝う。
戦乱はかくて終熄したと云うわけでない。東軍には尚細川政国、西軍には大内政弘、畠山|義就《よりのり》等闘志満々たる猛将が控えて居る。併し両軍の将士に戦意が揚がらなくなったことは確かだ。
以後小ぜり合いが断続したが、大勢は東軍に有利である。先ず山名政豊は将軍に降り、次いで|富樫《とがし》政親等諸将相率いて、東軍に降るに至った。|蓋《けだ》し将軍義政が東軍に在って、西軍諸将の守護職を|剥奪《はくだつ》して脅したからである。
天文九年十一月、大内政弘や畠山義就は各々その領国に退却して居る。公卿及び東軍の諸将皆幕府に伺候して、西軍の解散を祝したと云う。
斯くて表面的には和平成り、此の年を以て応仁の乱は終ったことになって居る。
併し政弘と云い、義就と云い、一旦その領国を固めて捲土重来上洛の期を|謀《はか》って居るのである。亦京都に於ける東西両軍は解散したが、帰国して後の両軍の将士は互いに|睨《にら》み合って居る。
つまり文明九年を期して、中央の政争が地方に波及|伝播《でんぱ》し地方の大争乱を捲き起したのである。
戦国時代は此の遠心的な足利幕府の解体過程の中に生れて来たのである。
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建武中興の崩壊
中島商相が、足利尊氏のために、災禍を獲た。尊氏の如く朝敵となったものは、古来外にも沢山ある。朝敵とならないまでも、徳川家康以下の将軍などは、それに近いものである。殊に温厚そうに見える二代将軍秀忠の如き、朝廷に対して、悪逆を極めている。
だが、尊氏|丈《だけ》が、どうして百世の下、なお憎まれ者になっているか。それは、純忠無比な楠公父子を向うに廻したからである。尤も、中島商相を弾劾した菊池中将(九州の菊池神社を中心として、菊池同族会なるものあり、中将はその会長である。自分もその会員である)の先祖たる菊池氏も亦、五百年間勤王|一途《いちず》の忠勤をつくした家柄で、山陽をして「翠楠必ずしも黄花に勝らず」と云わしめたが、活躍の舞台が、近畿でないから、楠公父子の|赫々《かくかく》たる事蹟には及ばない。今、四条|畷《なわて》の戦いを説くには、どうしても建武中興が、如何にして崩壊したかを説かねばならない。
元弘三年六月五日、後醍醐天皇は王政復古の偉業成って、めでたく京都に還幸された。楠正成、名和|長年《ながとし》以下の|凱旋《がいせん》諸将を従えられ、『増鏡』に依ると、其の行列は二条富小路の|内裏《だいり》から、東寺の門まで|絡繹《らくえき》として続いたとある。|供奉《ぐぶ》の武将達も、或は河内に、或は|伯耆《ほうき》に、北条氏討滅の為にあらゆる苦悩を味った訳であるから、此の日の主上及び諸将の面上に漂う昂然たる喜色は、想像出来るであろう。
かくて建武中興の眼目なる天皇親政の理想は、実現されたのである。だがそれと同時に、早くも此の新政府の要人連の間に、逆境時代には見られなかった内部的対立が|兆《きざ》していた。つまり武家と|公卿《くげ》が各々、自分こそ此の大業の事実上の功労者であると、銘々勝手に考え出して来た為である。
武家にすれば、実力の伴わぬ公卿達の如何にもとり澄した態度が気に食わなかったに違いない。恐らくは、「俺たちに泣きついて来た当時を忘れたのか」と言い度いところであろう。それに一緒に仕事をしてみても、何だか調子が会わない。その平和になって、文事ばかりになると、河原の落書にまで「きつけぬ冠上のきぬ、持もならわぬ笏もちに、大裏交りは珍らしや」と愚弄されるのも|癪《しやく》に触る。その上、素朴な一般武士の頭には、延喜|天暦《てんりやく》の昔に還らんとする、難しい王政復古の思想など、本当に理解される訳はないのである。
唯自分達の実力を信ずる彼等は、北条氏を滅ぼしたのは、俺達の力だと確く信じ、莫大なる恩賞を期待して居るのである。
一方公卿の方にも、此等の粗野ではあるが単純な武家に対して、寛容さを欠いて居たし、之をうまく操縦する方略にも欠けていた。頼朝以来武家に奪われていた政権が、久し振りで自分達の掌中に転がり込んだのであるから、有頂天になるのは無理もないが、余りにも公卿第一の夢の実現に急であった。窮迫した財政の内から、荘厳なる大内裏の造営を企てたりした。其他地方官として赴任した彼等の豪奢な生活は、大いに地方武士の反感を買った。一時の成功にすぐ調子に乗るのは、苦労に慣れない貴族の通性であろう。彼等はしばしば厳然たる存在である武家を無視しようとした。
北畠親房は『神皇正統記』に於て、武家の恩賞を論じて「天の功を盗みて、おのが功と思へり」と言って居る。歴史家として鋭い史眼を持って居た親房程の人物でも、公家本位の偏見から脱する事が出来なかったのである。
これでは武家も収らない。
『太平記』の記者は、
「|日来《ひごろ》武に誇り、|本所《ほんじよ》を|無《なみ》する権門高家の武士共いつしか諸庭奉公人と|成《なり》、或は軽軒香車の後に走り、或は青侍挌勤の前に|跪《ひざまず》く。世の盛衰、時の転変、歎ずるに叶はぬ習とは知りながら、今の如くにして|公家《こうけ》一統の天下ならば、諸国の地頭御家人は皆奴婢|雑人《ぞうにん》の如くにてあるべし」と、その当時武士の実状を述べて居る。
其の上、多くの武士には恩賞上の不満があった。彼等の忠勤は元来、恩賞目当てである。亦朝廷でも、それを予約して味方に引き入れたのが多いのである。云わば約束手形が沢山出されていたのである。
後醍醐天皇が伯耆船上山に御還幸の時、名和長重は「古より今に至るまで、人々の望む所は名と利の二也」と放言して、官軍に加ったことが『太平記』に見える。其の真疑はとにかく、先ず普通の地方武士など大体こんな調子であろう。伝うる所によれば、諸国から恩賞を請うて入洛し、|万里小路《までのこうじ》坊門の恩賞局に殺到する武士の数は、引きも切らなかったと言う。だから充分なる恩賞に|均霑《きんてん》し得ない場合、彼等の間に、不平不満の声の起きるのは当然である。
或日、|塩谷《えんや》判官高貞が良馬竜馬を禁裡に献上したことがあった。天皇は之を御覧じて、異朝は知らず我が国に、かかる俊馬の在るを聞かぬ、其の吉凶|如何《いかに》と尋ねられた。側近の者皆|宝祚《ほうそ》長久の|嘉瑞《かずい》なりと奉答したが、只万里小路藤房は、政道正しからざるに依り、房星の精、化して竜馬となり人心を動揺せしめるのだと云って、時弊を痛論した。即ち元弘の乱に官軍に加った武士は、元来勲功の賞に|与《あずか》らん為のみであるから、乱後には忽ち幾千万の人々が恩賞を競望して居る。然るに|公家《くげ》一味の者の外は、空しく恩賞の不公正を恨み、本国に帰って行く。かかる際にも|不《かかわら》|拘《ず》、大内裏の造営は企劃され、諸国の地頭に二十分の一の得分をその費用として割当てて居る。其上、朝令暮改、|綸旨《りんし》は|掌 《たなごころ》を飜す有様である。今若し武家の|棟梁《とうりよう》たる可き者が現れたら、恨を含み、政道を|猜《そね》むの士は招かざるに応ずるであろう。夫れ天馬は大逆不慮の際、急を遠国に報ずる為め|聊《いささ》か用うるに足る丈である。だから竜馬は決して平和の象徴ではない、と云うのだ。
それが、『太平記』の有名な竜馬|諌奏《かんそう》の一挿話である。元来太平記は文飾多く、史書として其の価値を疑われ、古来多くの学者から排撃されて居る。併し藤房をして中興政治の禍根を指摘させて居る所など、『太平記』著者の史眼は|烱々《けいけい》として、其の論旨は|肯綮《こうけい》に当って居ると思う。
思うに尊氏はその所謂棟梁である。門閥に於ては源氏の正統であり、北条氏でさえ之と婚姻を結ぶのを名誉と考えた程の名家である。何時頃から此の不平武士の棟梁としての自分を意識したか知らないが、六波羅滅亡後、一時京都が混乱に陥った時、早速奉行所を置いて時局を収拾した芸当など、実に鮮かなものである。一見極めて矛盾した様な性格らしく、それだけに政治家としては、|陰翳《いんえい》が多い訳だ。
だから誇張されれば、いくらでも悪人になり得る。直木三十五は「尊氏は成功した西郷隆盛である」と評して居るが、人物としては相当なものである。中島商相位に賞められてもいいのであるが、前にも云った如く、人間として純粋無比な楠公父子を相手にしなければならなかった所に、彼の最大の不幸があると思う。恐らく勝利の悲哀を此の男程痛切に味った者は、国史には|尠《すくな》いのではなかろうか。
正成と正行
楠氏は元来橘氏の出である。勿論其の由緒に就ては詳しいことは何も分らない。当時、河内の東条川に拠った一小豪族に過ぎないのだ。
恐らく挙兵前の大楠公は、地方によく有る好学の精神家であり、戦術家であったろうと思う。
足利、新田の如く源家嫡流の名家でもないし、菊池、名和の如く北条氏に対して百年の|怨讐《おんしゆう》を含んでいたわけでもない。亦皇室から特別の御恩を戴いたこともないだろう。然るに|渺《びよう》たる河内の一郷士正成が敢然立って義旗を翻すに至った動機には、実に純粋なものがあるのだ。学者の研究に依ると、正成は宋学の|造詣《ぞうけい》が相当深かった様だ。宋学の根本思想の一つは忠孝説である。つまり学問的に正成は忠義の何物たるかを熟知して居たのだから迷わないのだ。最初から、功利的忠義ではないのだ。尚、宋学は当時後醍醐天皇初め南朝公家の間に盛に行われて居たから、正成は天皇と同系統の学問をして居たことになる。|南柯《なんか》の夢で正成を笠置に召し出したのが奉公の最初であるとする、『太平記』の説はさて|措《お》き、早くからこの君臣の間に、ある関係があったことは想像出来る。正中の変前に、日野俊基が山伏姿で湯治と称し、大和、河内に赴いたことは、『増鏡』や『太平記』に立派に|記《しる》してあるが、恐らくこんな時、楠氏と朝廷とが結ばれたのかも知れない。或はもっと早く、学問上の関係から、天皇と正成は相共鳴する所があったのではあるまいか。
とにかく正成は出発点からして、他の多くの諸将と違って居る。つまり学問上の信念を純粋に実践に依って生かして居るからだ。『太平記』の記者などは、所きらわず正成を褒め倒して居るが、これなども戦記作者を通じて、当時一般の|輿望《よぼう》が現われているのである。
或日、武将達が集って、建武中興で一番手柄のあった者は誰だろうと議論があった。各々我田引水の手柄話に熱を上げて居ると、正成は「それは菊池(武時)だろう」と言った。滅多に人をほめたことのない新田義貞も、此の一言には非常に感動したと云う(『惟澄文書』)。その謙抑知るべしだ。
戦後の論功行賞にしてもそうだが、尊氏や義貞に比して、正成は寧ろ軽賞である。それでも黙々として忠勤を励む其の誠実さは、勘定高い当時の武士気質の中にあって、|燦然《さんぜん》として光っている。
最近公刊されたものであるが『密宝楠公遺訓書』と云う本がある。正成が|正行《まさつら》に遺言として与えたものであると云う。その中に、
「予討死する時は天下は必ず尊氏の世となるべし。然りと云へども、汝、必らず義を失ふことなかれ。夫れ諸法は因縁を離れず。君となり臣となること、全く私にあらず。生死禍福は、人情の私曲なるに|随《したが》はず。天命歴然として|遁《のが》るゝ処なし」とある。少し仏法臭を帯びては居るが、秋霜烈日の如き遺言である。名高い桜井の訣別の際の教訓にしてもそうだが、兎に角|斯《こ》うした一種の忠君的スパルタ教育で、小楠公は鍛えられたのだ。幼少時代の正行を記すものは、『太平記』唯一つである。|湊川《みなとがわ》で戦死した父の首級を見て、自殺せんとして母に|諌《いさ》められ、其の後は日常の遊戯にまで、朝敵を討ち、尊氏を追う真似ばかりして居たと云う。
思うに彼を取巻く|総《すべ》ての雰囲気が、此の少年を、亡父の義挙を継ぐべき情熱へと駆り立てて行ったのであろう。
『吉野拾遺』に、正行が淫乱な|師直《もろなお》の手から弁内侍を救ったと云う有名な話がある。
「正行なかりせばいと口惜しからましに、よくこそ計ひつれ」と後村上帝が賞讃し、内侍を正行に賜らんとした。すると正行は、
「とても世に、ながらふべくもあらぬ身の、仮の契をいかで結ばん」
と奏して辞したと云う。
多分に禁欲的な、同時に自己の必然的運命を早くから甘受して居る聡明な青年武将の面影が躍如としている。
正行の活動
延元四年の秋、後醍醐天皇は吉野の南山|行宮《あんぐう》に崩御せられた。北畠親房は常陸関城にあって此の悲報を聞き、「八月の十日あまり六日にや、秋露に侵されさせ給ひて|崩《かく》れましましぬと聞えし。|寝《ぬ》るが中なる夢の世、今に始めぬ習ひとは知りながら、かず目の前なる心地して、|老《おい》の涙もかきあへねば筆の跡さへ滞りぬ」と『神皇正統記』の中で|慟哭《どうこく》して居る。
正成|夙《つと》に戦死し、続いて北畠|顕家《あきいえ》は和泉に、新田義貞は北陸に陣歿し、今や南朝は落漠として悲風吹き|荒《すさ》び、ひたすら、新人物の登場を待って居た。
そこへ現れたのが、楠正行である。彼は近畿に残存する楠党を糾合し、亡父の遺訓に基いてその活動を開始したのである。
元来楠党は山地戦に巧みである。正成が千早城や金剛山に奇勝を博し得たのは、一に彼等の敏捷な山地の戦闘力に依ったのである。従って正成の歿後も、河内、摂津、和泉地方の楠党は山地にかくれ頑強に足利氏に抵抗して居たのである。だからそうした分散的な諸勢力を一括した正行は、今や北朝にとっては一大敵国をなして居るわけだ。
正平二年七月、畿内の官軍は本営を河内東条に移し、菊水の旗の本に近畿の味方を招集し始めた。即ち北畠親房、四条|隆資《たかすけ》等の共同作戦計画が出来たので、本営を此の地に据えて、吉野の軍と相策応したのである。実に正成の本拠であった河内東条と、行宮のある吉野は、官軍の二大作戦根拠地であった。時の|京畿《けいき》官軍の中心は言うまでもなく、正行の率いる楠党であった。
八月十日、正行は和泉の和田氏等の軍を以て紀伊に入り、隅田城を急襲して居る。これは東条と吉野との連絡を確実にする為であって、大楠公の赤坂再挙の戦略と全然同一のものである。果然これを機会として京畿の官軍は一時に蜂起し、紀伊熊野諸豪多く官軍に応じ、和泉摂津にも之に響応する者が少くなかった。此の報を得た賊軍側は大いに|駭《おどろ》き、細川|顕氏《あきうじ》に軍を率いしめ、八月十九日に大阪天王寺を出発せしめて居るが、彼は泉州に於ける優勢な楠勢にはとても敵せぬと、京都に報告して居る。小康を得て居た当時の京都の人心は為に|恟々《きようきよう》として畏怖動揺したとみえる。洞院|公賢《きみかた》は其の日記に此の仔細を記して居るが、京都の諸寺一時に祈祷の声満つると云う有様であった。
然るに楠軍は一旦兵を河内に還して居る。そして九月九日に八尾城を攻撃し、十七日には河内の藤井寺附近に於て、大いに顕氏の軍を破り、正行は初陣の武名を挙げたのである。
『細々要記』に「京都より細川陸奥守以下数十人河内発向藤井寺に陣す。其夜正行等不意に寄せ来り合戦。京勢敗北死人数を知らず」とあるから、今や正行怖る可しと痛感したようだ。
次いで十一月二十六日、正行は和田助氏を先陣として住吉天王寺附近の敵を|邀撃《ようげき》した。此の戦勝は圧倒的であり、したたかにやられた賊軍はすっかり、狼狽したらしい。彼等の記録に、「|今夕《こんせき》討死、|疵《きず》を蒙る輩数を知らず。|以《もつて》の外のことなり。之を為すこと如何」と放心の状である。
此の|戦《いくさ》は霜月のことであるから、橋から落ちて流れる敵兵五百余人の姿は、惨憺たるものがあった。正行は是を|憫《あわれ》んで彼等を救い上げ、小袖を与えて身を温め、薬を塗って|創《きず》を治療せしめたと『太平記』にある。「されば敵ながら其情を感ずる人は、今日より後心を通はせん事を思ひ、其の恩を報ぜんとする人は、|軈《やが》て彼の手に属して、後四条畷手の戦に討死をぞしける」いくらか美化して書いたのであろうが、小楠公を飾る絶好の美談であろう。
周章した足利直義は、遂に十二月、|高師直《こうのもろなお》、師泰兄弟を総大将として中国、東海、東山諸道の大軍を率いて発向せしめ、最後の決戦を企てた。
元来正行は常に寡兵を以て、敵の不意を襲って大勝利を得て居る。尤もそれより外に方法はないのだ。四条畷の戦では、敵は比較にならぬ程の大軍であり、其の精兵は日一日と増加して居る。佐野佐衛門氏綱の軍忠状に依ると、合戦の日の五日の日にまで、敵には続々馳せ参ずる兵があったと云う。此の敵に対し堂々の陣を張る事が不得策であるのは、明瞭であるから、正行は敢て東条に退いて自重せず、速戦速決で得意の奇襲に出でたと解す可きだろう。時|恰《あだか》も鎮西に於ける官軍の活動も活溌であった。正行にすれば、此の際東西相呼応する大共同作戦も胸中に描いて居たらしい。併し何としても敵は十数ケ国の兵を集めて優勢である。味方は、河内和泉などの寡兵である。南朝恢復の重任を以て任じて居たものの、正行も、到底勝つべき戦とは思っていなかったであろう。
正行の戦死
今や楠党は主力を東条に集結し、別軍は河内の|暗《くらがり》峠を固めて、敵を待った。此の間、彼が作戦奏上の為め、吉野に参廷したあたりは、正に『太平記』中の圧巻であって、筆者は同情的な美しい筆を自由に振って、悲愴を極めた光景を叙述している。
即ち、参廷して父の湊川に於ける戦死を述べ、今こそ亡父の遺志を遂行する心からの歓喜に言及し、師直兄弟の首に自らの首を賭けて必勝を誓って居る。「|今生《こんじよう》にて今一度竜顔を拝し奉らんために参内仕りて候ふと申しもあへず、涙を鎧の袖にかけて、義心其の気色に顕れければ、伝奏|未《いまだ》奏せざる先にまづ|直衣《ひたたれ》の袖をぞぬらされける。主上則ち南殿の|御簾《みす》を高く捲せて玉顔殊に|麗《うるわ》しく、諸卒を照臨ありて正行を近く召して、以前両度の戦に勝つことを得て、敵軍に気を屈せしむ。叡慮先づ憤を慰する条、累代の武功返すも神妙なり、大敵今勢を尽して向ふなれば、今度の合戦天下の安否たるべし、……朕汝を以て|股肱《ここう》とす。慎で命を全ふすべしと仰せ出されければ、正行頭を地につけて、兎角の勅答に及ばず」
場所は古来伝称の吉野山である。君臣の義相発して情景|相具《あいそなわ》った歴史の名場面ではないか。かくて共に討死を誓った一行は後醍醐天皇の御廟に詣で、如意輪堂の壁に各姓名を書き連ね、その奥に有名な「かへらじと」の歌を書きつけたとある。だが、これはうそである。普通に常識の有る者が、御陵の傍のお堂に、勝手な落書をして行くなんて、考えられないのである。まして、正行の如き純粋な忠臣に於てをやだ。楠公万能の義公であるから仕方がないとしても、『大日本史』までもが『太平記』の真似をして「同盟の姓氏を如意輪堂の壁に題し、歌を其の後に書して曰く」とやって居るのは、どうかと思うのである。恐らく、名前は寺の過去帳に書いて行ったのであろう。それが今、如意輪堂に行くと、堂々と此の歌を書きつけた扉が残って居る。書きつけた壁でも残って居るのならまだしも、扉になって居るのは二重の間違いである。
然し、少し嘘がある方が、歴史は美しい。児島|高徳《たかのり》の桜の落書と云い、『太平記』にも大衆文芸の要素があるのだ。
四条畷の戦は正月五日に起って居る。此の日の戦闘を『太平記』なんかで考えてみると、先ず師直は本営を野崎附近に敷き、その周囲には騎兵二万、射手五百人を以て固めて居る。
その第二隊は生駒山の南嶺に|屯《たむろ》し、大和にある官軍に備えて居る。師泰の遊軍二万は和泉堺を占領し、楠軍出動の要地である東条を、側面から衝かんとして集結中である。要するに賊軍の配備は消極的で、東条を包囲して徐々に半円径を縮めんとするものらしい。
一方官軍は三軍を編成し、正行は弟の正時と共に第一軍を率い、次郎|正儀《まさのり》は東条に留守軍となって居た。吉野朝廷からは北畠親房が老躯を|提《ひつさ》げ、和泉に出馬し、堺にある師泰に対抗して居た。亦四条隆資は、河内等の野伏の混成隊を以て、生駒山方面の敵を牽制して居る。『太平記』は正行の奮闘は詳説するくせに、此等の諸軍の動静を閑却して居るが、師泰なんか四条畷戦後、北畠軍に大いに進軍を|防遏《ぼうあつ》されて居るのである。
正行直属の兵は凡そ一千人位で、当時大和川附近の沼沢地に陣して居た師直の本営を掩撃す可く突撃隊を組織した。
五日早旦、恐らく午前六時頃だろう。正行は自ら突進隊五百騎を提げて、一直線に北に強行突破を企てて居る。敵の前哨は全く|蹂躙《じゆうりん》されて、約半里も北に圧迫されて居る。此の時四条隆資軍に牽制されて居た生駒山方面の敵は、この有様を俯瞰して、四条軍を捨ててどっと山を下り、楠軍の後続部隊に躍りかかった。つまり思わぬ新手の出現で、楠軍の突進隊は後方から切断された訳だ。
此の時正行の手兵僅かに三百。なおも果敢な肉迫戦を続けて行く中、流石の師直の本陣もさっと左右に|靡《なび》いた。踴躍して飛び込むと、早くも師直は本営を捨て、北方、北条村に退かんとして居る。恰も此の辺は沼沢地であり、走るに不便だ。追うこと暫くして、其の間半町、|将《まさ》に賊将を獲んとした時、賊将|上山《かみやま》六郎左衛門、|佯《いつわ》って師直の身代りになって討死した。
その為に大分暇をとった。それでも執拗に追撃の手をゆるめなかったが、突然敵方に強弓の一壮漢が現れた。九州の住人、|須々木《すずき》四郎と名乗って雨の如く射かけたから堪らない。
楠次郎は眉間をやられ、正行も左右の膝口三ケ所、左の眼尻を深く射抜れた。
午後四時頃であろう。野崎の|原頭《げんとう》、四条畷には群像の如き三十余騎の姿が、敵軍に遠く囲まれながら茫然として立ちすくんで居る。長蛇を逸した気落ちが、激戦三十余合で疲労し切った身体から、総ての気力を奪い去って居る。
飯盛|颪《おろし》に吹き流される雲が、枯草が、|蕭条《しようじよう》として彼等の網膜に写し出され、捉える事の出来ない絶望感が全身的に|灼《や》きついて来たのであろう。
正行は、「|嗟《ああ》、我事終れり」と嘆じて、弟正時と相刺し違えて死んだ。相従う十三余士、皆|屠腹《とふく》して殉じた。
正行戦死の報が京都に達すると、北朝では歓呼万歳を唱えて喜んだと云う。可なり嬉しかったんだろう。それだけに此の悲報は南朝にとっては大打撃であった。為に後村上天皇は難を|賀名生《あのう》に避けられ、吉野の行宮は師直の放火によって炎上し、南朝の頽勢は既に如何ともし難い。
恐らく正史に於ける正行の活動は数年に過ぎない。亦正成にしても、大体そんなとこである。それで今日までその純忠を|謳《うた》われるのであるから、人間としてもまずこれ程立派な父子は、日本史中古今稀である。その正成父子に対する崇拝が反尊氏思想となり、日本一の不忠者のように云われ、六百年の後まで、中島商相にまで|祟《たた》るのである。然し、当時正成の策戦を妨害して、正成に湊川で無理な軍をさせ、事を誤った公卿の子孫である、貴族院の子爵議員などが、今更尊氏の攻撃をするのはおかしい。
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関東の北条
天正十五年七月、九州遠征から帰って来た秀吉にとって、日本国中その勢いの及ばないのは唯関東の北条氏あるだけだ。尤も奥羽地方にも其の経略の手は延びないけれど、北条氏の向背が一度決すれば、他は問題ではない。箱根山を千成|瓢箪《びようたん》の馬印が越せば、|総《すべ》て解決されるのである。
|聚楽第《じゆらくだい》行幸で、天下の群雄を|膝下《しつか》に|叩頭《こうとう》させて気をよくして居た時でも、秀吉の頭を去らなかったのは此の関東経営であろう。だから、此のお目出度が終ると直ぐ、天正十六年五月に北条氏に向って入朝を促して居る。
一体関東に於ける北条氏の地位は、伊勢新九郎(早雲)以来、氏綱、氏康、氏政と連綿たる|大《おお》|老舗《しにせ》の格だ。これを除けば、東日本に於て目ぼしいものは米沢城に在る独眼竜、伊達政宗位だけだ。北条氏は、箱根の天嶮で、上方方面からの勢力をぴったりと抑えているのと、早雲以来民政に力を注いだ結果、此の身代を築き上げたのである。
併し|流石《さすが》の名家も、氏政の代になって|漸《ようや》く衰退の色が見える。家来に偉いのが出ないのにも依るが氏政自身無能である。お坊っちゃんで、大勢を洞察する頭のないお山の大将だからである。
或る時、若年の氏政が、戦場に在った。|恰《あだか》も四月末だったので、百姓が麦を刈り取って馬に積み、前を通った。すると氏政は側近の者に、あれで直ぐ麦飯を作って持って来いと命じた。ところが、此の時は武田信玄と両旗であったと見え、同席している信玄が、流石に氏政は大身である、百姓の事は知らないのも無理はないが、麦は乾かしたり|搗《つ》いたりしなければ、飯には|炊《た》けないと云って説明した。
信玄のことだから、恐らく腹の中では|嘲《わら》って居たことであろう。
氏政の頭は、こんな調子である。それだけに名君の誉ある父の氏康の心痛は思いやられる。氏康は川越の夜戦に十倍の敵を破り勇名を|轟《とどろ》かした名将で、向う|創《きず》のことを氏康創と云われた位の男である。
一日、父子で食事をしたところ、氏政が一杯の飯に二度汁をかけて食った。氏康これを見て落涙し北条家も自分一代で終ると言った。食事は毎日のことだから、貴賤に限らずその心得がなくてはならない。初めから足りない様な汁のかけ方をするような不心得では、軍勢の見積りなど出来るか。それでは戦国の世に国を保つことは思いも寄らぬと言って長歎したと云う。昔の食事は、汁椀などはなく、大きな鉢に盛った汁を各自の飯椀にかけるのだった。先日、京都の普茶料理を喰べながら、この逸話を思い出した。普茶料理に昔のおもかげがある。食事の仕方で、人物批判をされたのは、|平親王《へいしんのう》と氏政の二人である。
子を見ること、父に|如《し》かず氏康の予言は適中して、凡庸無策の氏政は遂に大勢を誤ったのである。即ち秀吉の実力を見そこなったのである。秀吉に上洛を迫られた時、忙しくて京都まで行って居られぬと断った。尤も氏政にしてみれば徳川家康がその親戚であるから、まさかの時は何とかして呉れる位には楽観して居たのだろう。
|若《も》し此の時素直に上洛して、秀吉の機嫌をとっておけば、二百八十万石を棒に振らなくても済んだのである。秀吉にとって北条氏は全滅させなければならぬ程の宿怨があるわけでないからだ。
もう天下を八分まで握っていた秀吉は一度顔を|潰《つぶ》されたとなると、決して容赦はしない。家康に調停を乞い、一族の北条氏規を上洛させて弁解に努めたけれど、時機は既に遅い。沼田事件に於ける北条氏の不信を鳴らして、天正十七年十一月二十四日には痛烈な手切文書を発して居るのである。沼田事件と云うのは、氏政上洛の条件として上州沼田を真田から|割《さ》いてくれ、と云った。秀吉が真田に|諭《さと》して、沼田を譲らしめた。だが、真田|視秀《よしひで》の墳墓のある|名《な》|胡桃《くるみ》だけは除外した。しかるに、北条氏の将が名胡桃まで略取してしまった。これが、開戦の直接原因である。
「然る処、氏直天道の正理に|背《そむ》き、帝都に対して奸謀を企つ。|何《いずくん》ぞ天罰を蒙らざらんや。古諺に曰く、巧詐は拙誠に如かずと。所詮普天の下勅命に逆ふ|輩《ともがら》は、早く|誅伐《ちゆうばつ》を加へざるべからず云々」
実に秀吉一流の大見得である。勅命を奉じて天下を席捲せんとする其の面目が躍如として居る。
この氏直は氏政の子であって此の時の責任者だ。氏直を入れて、|後《のち》北条は五代になるのだ。
此の手切文書を受けとった氏政は、是を地に|擲《なげう》って弟の氏照に向い、一片の文書で天下の北条を|恫喝《どうかつ》するとは片腹痛い、兵力で来るなら平の維盛の二の舞で、秀吉など水鳥の羽音を聞いただけで|潰走《かいそう》するだろうと豪語したと云う。上方勢は、柔弱だと云う肚が、どっかにあったのであろう。
武田信玄でも上杉謙信でも、早くから北条氏には随分手を焼いて居る。つまり箱根と云う天然の要害に妨げられたからである。謙信など長駆して来て、小田原を囲んだが、懸軍百里の遠征では、糧続かず人和せず、どうにも出来なかった。ただ城濠の傍近く馬から下り、城兵に鉄砲の一斉射撃を受けながら、悠々としてお茶を三杯飲んだと云うような豪快な逸話を残している丈だ。
併し秀吉は、信玄や謙信の様に単なる地方の豪傑ではない。既に天下の秀吉だ。箱根の麓あたりで独り思い上って居る北条は、こんなところで取返しのつかない大誤算を犯したと云うべきだ。
秀吉の出陣
天正十八年二月七日、先鋒として蒲生|氏郷《うじさと》が伊勢松坂城を出発した。続いて徳川家康、織田信雄は東海道から、上杉景勝、前田利家は東山道から|潮《うしお》の様に小田原指して押しよせた。「先陣既に黄瀬川、沼津に|著《つき》ぬれば、後陣の人は、美濃、尾張にみちみちたる」とあるくらいだから、正に天下の大軍である。その上、水軍の諸将、即ち長曾我部元親、加藤|嘉明《よしあき》、九鬼嘉隆等も各々その精鋭をすぐって、遠州今切港や清水港に投錨して居るのだから、小田原城は丁度三面包囲を受ける形勢にある。
三月|朔日《ついたち》、いよいよ秀吉の本隊も京都を出発した。随分大げさな出立をしたものとみえ、『多聞院日記』に「東国御陣立とて、万方震動なり」とある。
作り髭を付け、|唐冠 《からかんむり》の|甲《かぶと》を著け、|金札緋縅《きんざねひおどし》の鎧に朱塗の|重籐《しげとう》の弓を握り、威儀堂々と馬に乗って洛中を打ち立った。それに続く近習や|伽衆《とぎしゆう》、馬廻など、皆善美を尽した甲冑を着て伊達を競ったから、見物の庶民は三条河原から大津辺迄桟敷を掛けて見送ったと云う。
こんな一種の稚気にも、如何にも秀吉らしい豪快さがあって、鎖国時代以後のいじけた将軍の行列なんかには到底見られぬ図であろう。
その上途中に|展《ひら》ける東海道の風光が、生れて始めて見るだけにひどく心を|愉《たの》しませたらしい。清見寺から三保の松原を眺めて、
|諸人《もろひと》の立帰りつゝ見るとてや、
関に向へる三保の松原
と詠んだ。其の他沢山に歌を作って居るが、其の先鋒諸隊に対する、厳重な訓令は怠らなかった。殊に家康の領内を行進するのであるから、こんな点抜け目のある男ではない。|斯《か》くて二十七日には、家康や信雄に迎えられて沼津城に入って居る。
一方北条方では、此の間どうして居たか。
天正十八年正月二十日に、氏政、氏直父子は一門宿将を小田原に招集して、評議をやって居る。初めは三島から黄瀬川附近まで進撃し、遠征の敵軍を|邀撃《ようげき》する策戦に衆議一決しようとした。此の時松田|憲秀《のりひで》独り不可なりと反対し、箱根の天嶮に|恃《たの》み、小田原及関東の諸城を固めて持久戦をする事を主張した。此は元来北条氏の伝統的作戦であって、遂に軍議は籠城説に決定した。
そこで直ちに箱根方面の防備は固められた。先ず要鎮の一である|韮山《にらやま》城は、氏政の弟、氏則が守り、山中城には城将松田康長の外に、朝倉|景澄《かげずみ》等の腹心の諸将を派遣して居る。朝倉景澄、この時秘かに心友に向い、山中城は昨年以来相当に修繕はしてあるが、秀吉の大軍にはとても長く敵することは出来ぬ、今我等宿将を此処に差し向けるのは、|爪牙《そうが》の臣を敵の餌食にする積りだろうと云って歎じたと云う。重臣ですらこれである。一般の士気は察すべきだ。
三月二十八日、秀吉は沼津を発して三島を過ぎ、長久保城に入って家康と軍議を凝らして居る。小田原攻撃の前哨戦は、先ず誰が見ても此の山中、韮山二城の奪取でなければならない。
山中城に対する襲撃は、三月二十九日の早朝に始まって居る。寄手は秀次を先鋒にして堀尾吉晴等の猛将が息をもつがせずに急襲した。秀吉は此の時、遙か後の山上に立ち、あれを見よ、あれを見よとばかりに指さし、|臀《しり》を|引捲《ひきまく》り小躍りしたと云うから、相当に目覚しい攻撃振りだと思われる。もっとも臀をまくるのは秀吉の癖である。一挙にして|揉《も》みつぶしてしまった、秀吉の得意思うべきである。此の日、下野黒羽城主大関高増に手紙をやり、
「今日箱根峠に打ち登り候。小田原表行き、|急度《きつと》申付く可候、|是又《これまた》早速相果す可く候」
と軒昂の意気を示して居る。今、十国峠あたりから見ると、山中は湯河原なんかと丁度反対側の小集落だ。併しとに角、箱根山塊の一端だから「今日箱根峠に打ち登り候」と子供の様に喜んで居るのだ。又それだけに、箱根山脈が如何に当時の武将の間に、戦術上の要害として深刻に考えられて居たかが分ると思う。
一方韮山城攻囲の主将は織田信雄である。併し城主の北条|氏規《うじのり》は、北条家随一の名将として知られて居る程の人物だから、四万四千の寄手も相当に苦戦である。流石の福島正則みたいな向う見ずの大将も、一時、退却したくらいだ。実際に氏規の韮山城の好防は、小田原役の花と|謳《うた》われたものである。
韮山城が容易に陥ちないと|定《きま》ると、秀吉は一部の兵を以て持久攻囲の策をとり、袋の鼠にして置いて、全軍を以て愈々小田原攻撃の本舞台に乗り出した。
小田原包囲
四月五日、秀吉は本営を箱根から、湯本早雲寺に移した。山の中とはことかわり、|溌溂《はつらつ》たる陽春の気は野に丘に満ち、快い微風は戦士等の|窶《やつ》れた頬を撫でて居る。ともすれば|懶《ものう》い|駘蕩《たいとう》たる春霞の中にあって、十万七千の包囲軍はひしひしと|犇《ひしめ》き合って小田原城に迫って居る。
|酒匂《さかわ》川を渡って城東には徳川家康の兵三万人、城北荻窪村には羽柴秀次、秀勝の二万人、城西水之尾附近には宇喜多秀家の八千人、城南湯本口には池田輝政、堀秀政等の大軍が石垣山から早川村に陣を|布《し》いて居る。その上、相模湾には水軍の諸将が警備の任につき、今や小田原城は完全な四面包囲を受けて居る。此の時北条方にとって憎む可き裏切者が出た。即ち宿老松田憲秀であって、密使を早雲寺の秀吉に発し、小田原城の西南、笠懸山に本営を進むべきことを説いて居る。そこで秀吉が実地検分してみると、小田原城を真下に見下して、本陣としては実に絶好の地だ。よいと思ったら何事にも機敏な秀吉のことだから、直ちに陣営の塀や|櫓《やぐら》を白紙で張り立て、前面の杉林を切払って模擬城を築いた。一夜明けて小田原城から見ると、石垣を築き、白壁をつけた堂々たる敵営が|聳《そび》えて居るのだから、随分面喰っただろうと思う。
「凡人の|態《さま》ならず、秀吉は天魔の化身にや」
と驚いて居る時、秀吉は既に此処に移転して、「|啼《なき》たつよ北条山の|郭公《ほととぎす》」と|口吟《くちずさ》んで、涼しい顔をして居た。
此れが有名な石垣山の一夜城であって、湯本行のバスの中なんかで、女車掌が必ず声を張り上げて一くさりやる物語りである。
此の話の真偽はとにかく、戦略上の要点を見付けるのに天才的な秀吉と、|錚々《そうそう》たる土木家である増田長盛や、|長束《ながつか》正家なんかが共同でやった仕事だから、姑息な小田原城の将士の度肝を抜くことなんか、|易々《いい》たるものだったと思う。
七日、秀吉は総攻撃を命じて居る。全軍一斉に銃射を開始し、|喊声《かんせい》を|響《とどろ》かし、|旗幟《きし》を振って進撃の気勢を示した。水軍も亦船列を整えて|鉦《かね》、太鼓を鳴らして陸上に迫らんとした。城中からは応戦の声が挙ったけれど、此の日は何の勝負もなかった。
秀吉は此の日、北西二方面の攻撃力の不足を看破し、韮山攻囲軍の過半を割いて救援させて居る。斯くして戦線の兵は次第に増大し、海陸の兵数は実に十四万八千人に上った。併し流石に天下の名城だけに、小田原城の宏大さは一寸近寄り難い。
「此城堅固に構へて、広大なること西は富士と|小嶺《こみね》山つゞきたり。この山の間には堀をほり、東西へ五十町、南北へ七十町、廻りは五里四方。井楼、矢倉、隙間もなく立置き、持口々々に大将家々の旗をなびかし、馬印、色々様々にあつて、風に翻り|粧《よそお》ひ、芳野立田の花紅葉にやたとへん。陣屋は|塗籠《ぬりこ》め、小路を割り、人数繁きこと、稲麻|竹葦《ちくい》の如し」
と『北条五代記』にある。如何にも五代の積威を擁して八州の精鋭を集めただけあって、上方勢が攻めあぐんだのも無理はない。
九日には長曾我部元親、加藤嘉明等の水軍は大砲を発射して威嚇に努めて居るが、城内は泰然としてビクともして居ないのである。
そろそろ此の辺から、戦いは持久戦になって来た。秀吉も攻めあぐんだ。小田原評定なんて云う言葉の起った所以である。一寸緊張が|緩《ゆる》むと、面白いもので、家康、信雄が北条方へ内通して居ると云う謡言が、陣中にたった。尤も火のない所に煙は立たないもので、小牧山合戦以来未だ釈然たらざる織田信雄なんかが策動して、家康を焚き付けたことは想像出来るのである。だから先に秀吉が駿府城に迎えられた時、率直な秀吉は馬から下るやずかずかと進み、信雄、家康逆心ありと聞く、立上がれ、一太刀参ろうと、冗談半分に、一本、釘を打って居るのである。此の場は家康の気転で収ったが斯うした空気が常に二人の間に流れて居たことはわかる。
亦此の陣で、関白が僅か十四五騎ばかりで居たことがある。井伊直政は今こそ秀吉を討ち取る好機だと、家康に耳語したところ、「自分を頼み切って居るのに、籠の鳥を殺すような|酷《むご》いことは出来ない。天下をとるのは運命であって、|畢竟《ひつきよう》人力の及ぶ所でない」と、たしなめたと云う。
強い者に対した時だけ、信義を振り廻すのが一番であると確信して居る家康の処世術のこれが要訣である。つまり、家康は無理はしたくなかったのである。
とにかく秀吉は、斯んな流言を有害と|見做《みな》して、早速取消運動にかかって居る。自ら巡視と称して刀を従者に預けたまま、小姓四五人を連れて大声をあげて家康の陣に行き、徹宵して酒を飲んで快談した。|覿面《てきめん》に此の効果はあがって謡言は終熄したが、要するに今後の問題は、持久戦に漸く倦んだ士気を如何に作興するかにある。
此の時小早川隆景進言して言うのに、父の毛利元就が往年尼子義久と対陣した際、小歌、踊り、能、|噺《はやし》をやって長陣を張り、敵を退屈させて勝つことが出来たと言った。秀吉も此の言を嘉納し、ここに小田原は戦塵の中にあって歓楽場に変ったのである。
東西南北に|小路《こうじ》を割り、広大な書院や数寄屋を建て、庭には草花などを植え、町人は小屋をかけて諸国の名物等を持って来て市をなして居る。京や田舎の遊女も小屋がけをして色めきあったと云うが、恐らく事実は此れ以上に賑ったことと思われる。
その上秀吉は諸将に、その女房達を招き寄せることを勧め、自分でも愛妾の淀君を呼び寄せて居る。淀君が東下の途中、足柄の関で抑留した為、関守はその領地を没収された様な悲喜劇もあった。或時は数寄屋に名器を備え、家康、信雄等を招待して茶の湯会をやって居る。やがて酔が廻り、美妓が舞うにつれ一座は、一段と浮かれ、「とんとろ、とろゝなるかまも、とろゝなる釜も、湯がたぎる、たぎる、たぎるやたぎる」と、謡ったところ、釜の蓋もわきかえり、拍子を合せるようであったと云う。
此の情景を描いた|甫菴《ほあん》は最後に、「群疑を静め、諸勢を慰め、浮やかにし給ひし才には中々信長公も及ぶまじきか」と批評して居るが、適評である。
一方小田原方でも負けないで、持久の計を立てて居る。
「昼は碁、将棋、双六を打つて遊ぶ所もあり。酒宴遊舞をなすものあり。炉を構へて朋友と数奇に気味を慰もあり。詩歌を吟じ、連歌をなし、音しづかなる所もあり。笛|鼓《つづみ》をうちならし乱舞に興ずる陣所もあり。|然《しかれ》ば一生涯を送るとも、かつて退屈の気あるべからず」と『北条五代記』にあるから、此又相当なものである。見たところ此れ位呑気な戦争は、戦国時代を通じて外にあるまい。こうなった以上根気較べの他はない。
小田原城の陥落
戦争のやり方も相手に依りけりだ。いかに籠城が北条の|十八番《おはこ》でも、のびのびと屈托のない秀吉に対しては一向利き目がない。それどころか|夫子《ふうし》自身、此のお家伝来の芸に退屈し始めて来た。
そこで広沢重信は、城中の士気を振作すべく、精鋭をすぐって、信雄と氏郷の陣を夜襲した。蒲生氏郷自ら長槍を揮って戦い、胸板の下に三四ケ所|鎗疵《やりきず》を受け、十文字の鎗の柄も五ケ所迄斬込まれ、有名な|鯰尾《なまずお》の兜にも矢二筋を射立てられ乍ら、尚も悪鬼の如く城門に迫って行ったとあるから、兎に角強いものである。小田原陣直後奥州の辺土へ転封され、百万石の知行にあきたらず、たとえ二十万石でも都近くにあらばと、涙を呑んで|中原《ちゆうげん》の志を捨てた位の意気は、|髣髴《ほうふつ》として|覗《うかがわ》れるのである。
此の頃になると、関東方面に散在して居る諸城は、相次いで陥落し、小田原城は愈々孤立無援の状態にある。
六月二十二日には、関東の強鎮八王寺城が上杉景勝、前田利家の急襲に逢って|潰《つい》えて居る。石田三成の水攻めにあいながらも、よく堅守して居る|忍《おし》城の成田氏長の様な勇将もあったが、小田原城の士気は全く沮喪して仕舞った。
此の年の|五月雨《さみだれ》は例年より遙かに長かったらしい。霧を伴い、亦屡々豪雨の降ったことは当時の戦記の到る所に散見して見える。
十重二十重に囲まれ、その上連日の|霖雨《りんう》であるから、いくら遊び事をして居たって、城内の諸士が相当に腐ったのは想像出来る。
気持ちが滅入って来ると、疑心暗鬼を生じて来る。前には松田憲秀の様なスパイ事件もあるし、機敏な秀吉は此の形勢を見て、盛んに調略、策動をやった。斯くて「小田原城中群疑蜂起し、不和の|岐《ちまた》となつて、兄は弟を疑ひ、弟は兄を隔て出けるに因て、父子兄弟の間も|睦《むつま》じからず、|況《いわん》や其余をや」の乱脈振りとなった。こうなっては戦争も駄目だ。
六月二十六日、本普請にかかって居た石垣山の陣城が落成した。その結構の壮偉なるは大阪、聚楽に劣り難しと、原康政は肥後の加藤清正に手紙で報告して居るが、多少のミソはあるにしても、其の偉観想い見る可しだ。
秀吉は同夜の十時に、全軍に令して一斉射撃で城中を威嚇して居た。
遂に七月五日に、氏直は愈々窮して弟氏房を伴って城を出て、家康を介して降服を申し出でた。そこで秀吉は家康と処分法を議し、氏直の死を許し、氏政、氏照等を斬った。
思うに氏直の独断的降服は軽率であった。尤も家康なんかの|斡旋《あつせん》を頼りにして居たのだろうが、家康は其の実見捨ての神だ。北条家の肩をもって余計な口をきき、秀吉の嫌疑を受けるのを極度に戒心して居たからである。
恐らく一番貧乏|籤《くじ》を引いたのは氏政だろう。首は氏照と一緒に、京都一条の|戻橋《もどりばし》で|梟《さら》されて居るのである。
併し此の戦争で一番儲けたのは家康だ。関八州の新領土がそっくり手に入ったからである。尤も東海の旧領と交換だった。
これより先の一日、秀吉は家康と石垣山から小田原城を俯瞰した。
「家康公の御手を執て、あれ見給へ、北条家の滅亡程有るべからず。気味のよき事にてこそあれ。左あれば、関八州は貴客に|進《まい》らすべし」(関八州古戦録)と言って、敵城の方に向い一緒に立小便をした。
これは有名な「関東の連小便」の由来だと云うが、どうだか。
これで見ても、秀吉には早くから家康に関八州を与える意図は有ったらしい。
尤も徳川方の御用歴史家なんか此の移封を以て一種の左遷と見做し、神君を敬遠したるものとして秀吉に毒づいて居る。|安祥《あんしよう》以来の三河を離れることは相当につらかったであろう。
併しそれにしたところで、後で考えてみて、駿府あたりに開府するより、広闊な江戸に清新な気を以て幕府を開いた方が、家康にとってどれ位幸福だったか知れやしないと思う。
余譚
しかし、この時秀吉が、北条氏を滅してしまったことは、高等政策として、どうだったかと思う。せめて氏直氏規の二人に、七八十万石をやって、関東に北条家を立てさせた方が家康を|掣肘《せいちゆう》する役に立ったのではあるまいかと思う。尤も秀吉の腹では、北条家を残して置けば、姻戚関係のある家康の無二の味方とでもなると思ったのだろうか。九州の島津に寛大でありながら、北条氏に少し苛酷である。尤も、島津は北条ほど、秀吉に面倒をかけていないが、しかし、北条家が関東の大藩として残っていた方が、徳川の勢力が、あんなにも延びなかったのではないかと思われる。秀吉死後など、北条家はどんな行動をしただろうかなどと考えて見ると、なかなか興味が深い。
氏政、氏照は殺されたが、籠城の士は凡て、生命を助けられた。ただ忌諱に触れていた連中は、捕えられた。
裏切をした松田憲秀は、二男の左馬介が氏直に、この事を訴えたので、捕えられて、城中に押し籠められていたが、このとき長男の新六郎と共に黒田如水の所へ預けられていた。秀吉、左馬介を憎んで殺せと、如水に命じた。如水承ると云って、左馬介を殺さずして、長男の新六郎を殺してしまった。秀吉怒って、何とて新六郎を殺せしや、左馬介は父子を訴えし憎き奴なれば殺せと云ったのだと怒ると、如水曰く「新六は父と共に譜第の主人に|背《そむ》きしものなれば武道に背き、忠孝ともになきものなり。左馬介は、父には背けども、主人には忠なり。左馬介と新六郎と取り違えたりとも損とは申されじ」と、云った。秀吉「ちんば|奴《め》が、空とぼけやがって!」と、苦笑してそのままになった。
また、北条家の使節として、秀吉の所へやって来た事のある板部岡江雪斎も捕えられて、手かせ足かせを入れられて、秀吉の前に引き出された。
秀吉怒って、「汝先年の約束に背き、主家を滅し快きか」と面罵した。すると、江雪斎自若として、「辺土の将、時勢を知らず名胡桃を取りしは、これ北条家の武運尽くる所なりしかれども、天下の勢を引き受け、数ケ月を支えしは、当家の面目之に過ぎず」と、云い放った。秀吉「汝は、京に上せ|磔《はりつけ》にかけんと思いしが、わが面前に壮語して主家を恥しめざるは、|愛《う》い奴かな」と云って命を助けて、お側衆にしてくれた。爾後、板部を取ってただ岡江雪斎と云った。秀吉の寛大歎ずべしだ。柴田勝家の甥なる佐久間安次とその弟は、勝家滅後大和に在って、秀吉に抗していたが、そこも落されて、小田原に籠り、小田原落城後、武州金沢の称名寺にかくれていたが、秀吉之を呼び出し、「勝家の甥として、我に手向うは殊勝なり。然れども今や天下我に帰したれば、汝達の立てこもる場所もなかるべければ、今よりは我に仕えよ」と氏郷の与力として、三千石と二千石を与えた。
秀吉が、後世まで人気のあるのは、こう云う所にあるのだろう。
この陣中、奥州の政宗が初て御機嫌伺いに来たとき、大軍の手配を見せてやるとて、政宗に自分の|佩刀《はいとう》を持たせて、後に従えさせてただ二人で小高き所に上り、いろいろ説明をきかせたのは、有名な話しである。政宗を「うごく虫らども」とも思わざる容子である、と書いてあるが、秀吉得意の腹の芸である。政宗も田舎役者ではあるが相当なもので、その後も|謀反《むほん》の嫌疑をかけられたとき、いつも秀吉との腹芸を、相当にやっている。秀次事件のときなど、政宗が秀次と仲がよすぎたと云うので訊問されたときなど、
「太閤がお目利の|違《たが》われたる関白殿を、政宗が片眼で見損うのは当然である」と、|喝破《かつぱ》して、危機を逃れている。だから秀吉だって、政宗を虫けらとは、最初から思っていないだろう。
とにかく、小田原陣は、烈しい戦争はなかったにしろ、今に「小田原評定」など云う言葉が残るのだから、秀吉にとっても相当苦心の長陣であり、日本中の関心の的であったのであろう。
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文春ウェブ文庫版
日本合戦譚
二〇〇一年十一月二十日 第一版
著 者 菊池 寛
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