魔界都市〈新宿〉
[#地から2字上げ]菊地秀行
プロローグ
時[#「時」に傍点]が近づいていた。
一九九×年九月十三日。新宿。
駅ビルの正面入り口に設けられた派出所で、書類を書き終えたばかりの若い警官がデスクから立ちあがり、大きくのびをした。強化ヘルメットと分厚いグラスファイバー製防弾チョッキをまとった全身に|安《あん》|堵《ど》感がみなぎっている。
――やれやれ、今日も一日、生きのびたか。
警官の眼が、机上のデジタル電子時計にそそがれた。午前二時五九分ちょうど。
闇に包まれた駅前商店街はとうに店を閉め、往来の人影や電気タクシーの数もまばらになっている。この時刻でも|賑《にぎ》やかなのは|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》|町《ちょう》方面だけだ。
といって、油断は禁物である。警察関係の場所はつねに狙われている。過激派の学生ゲリラや、単に刺激が欲しいだけの不良少年どもが、闇流れのレーザー・ガンや手製の|衝撃爆弾《インパクト・ボム》片手に、いつ|殴《なぐ》り込みをかけてくるか知れたものではない。
警官は、書類に記入した数字を脳裏に浮かべた。
――|恐喝《かつあげ》三四件、傷害二九件、|強盗《た た き》二三件、窃盗八〇件、それに、殺人一七件……やれやれ、ここ三、四年で、なんとも物騒な世の中になっちまったもんだな。まあ、この街[#「この街」に傍点]にしちゃ、平和な一日だったが……
外気が吸いたくなって外へ出た。ひんやりする夜気が、まもない秋の訪れを告げ、めずらしく澄み切った夜空に星がきらめいていた。
ふと、わけもなく、奇妙な考えが浮かんだ。
――今頃の時刻を、昔からなんといったっけ? たしか……
派出所のデスクの上で、見る者もなく、時計の数字に変化が生じた。
午前三時。
警官はだしぬけに、異様な浮遊感を感じた。眼の前に黒々とそびえる「スタジオ・アルタ」が、「住友銀行」が、ぐんぐん夜空へむかってのびていく。
ちがう! おれが地面に|呑《の》みこまれているんだ!
そう気づいた|刹《せつ》|那《な》、先ほどの疑問も解消した。
そうか、「|逢《おう》|魔《ま》が時」だ。
この世で最も呪われた時間。人間と魔性のものが|邂《かい》|逅《こう》する時間。
……轟音は揺れの後からやってきた。
地上八階、地下二階建ての駅ビルマイ・シティ≠ェ大きくかしぐ。猛烈な縦揺れの衝撃を吸収できなくなった支柱と鉄骨がへし折れ、鳴り響く警報を、つづけざまに起こったパイプが千切れる音がかき消した。|磐石《ばんじゃく》を誇るコンクリートの床は、色とりどりの商品を収めたショーケースもろとも、下へ下へとなだれ落ちていった。
なんの前触れもない、|未《み》|曽《ぞ》|有《う》の大地震であった。
まだ新宿通りをうろついていた若者たちは、危険を察知する|暇《いとま》もなかった。足もとが揺れたと思ったときには、トランポリン競技の選手みたいに数メートルも跳ね上げられ、わけもわからぬ間に大地へ叩きつけられていた。通りは苦鳴で満ちた。
なおも荒馬のように|跳《は》ね狂う大地の上を転げまわりながら、頭上をあおいだ若者たちは「高野」が、「三越」が、「伊勢丹」が、プレイタウンの象徴が、天地のどよめきとともに崩れ落ちてゆくのを目撃した。耐震構造は無益だった。鋭利な|縁《ふち》をもった窓ガラスの破片が彼らの身体めがけて雨あられと降りそそぎ、数千トンに及ぶコンクリートの|塊《かたまり》がとどめを刺した。
それでも、深夜の商店街だけに、駅周辺の人的被害はまだ少なかった。
不眠の街・歌舞伎町のディスコや深夜喫茶にはお客たちが詰めかけていたし、市谷の自衛隊|駐屯《ちゅうとん》地では、おびただしい数の隊員たちが、猛訓練のあとの快い眠りを貪っていた。高田馬場、早稲田の学生街、閑静な住宅地――落合、矢来町……
ほとんどの人々は、我が身にふりかかった運命に気づくまえに大地へ吸い込まれ、或いは超重量落下物の下敷きとなった。
地震は正確に三秒で終わった。
前震も余震もない、文字通りのひと揺れで新宿区は崩壊したのである。
しかし、完全に息絶えるには、それから長い時間が必要だった。
営業中の飲食店やスナックの|厨房《ちゅうぼう》の火が、ちぎれた管から洩れる天然ガスに引火し、血とうめき声のからみ合う路上を、破壊されたガソリン・スタンドから噴出する油が流れた。行く手には、火花をほとばしらせる高圧線や、くすぶりはじめた家や店があった。
毒々しい火の華が次々と咲きみだれた。
炎と、二酸化炭素をたっぷり含んだ黒煙が、かろうじて生き残った人々を押しつつみ、絶叫はいつまでもつづいた。
マグニチュード八・五以上。都市部直下型地震。震源地・新宿駅地下五千メートル――気象庁地震課のファイルには、こう記されている。――「推定」のスタンプを押されて。
東京最大の区「新宿」を、わずか三秒で壊滅させながら、この大地震は隣接する渋谷、港、千代田等の各区にはなんら損害を与えず、皇居に設置された気象庁地震計の針は、その夜、ぴくりとも動かなかったのである。
そして、この異様な事実は、後年「|魔震《デビル・クエイク》」と呼ばれ、全世界の地震学者たちの頭を悩ませることになる「新宿大地震」の、数知れない怪奇な現象のひとつにすぎないのだった。
PART1
二〇三〇年、九月九日午後五時五分。
「きゃっ、なによーっ」
「いやン、またあーっ」
暮れなずむ校門の外へ出た途端、セーラー服姿の女生徒がふたり、かん高い悲鳴をあげた。背後から音もなく駆け寄ってきた黒いつむじ風が彼女たちのあいだを通り抜けざま、天高くスカートをめくりあげ、|不《ふ》|埒《らち》なことに、お尻にまでタッチしていったのである。
「待てえーっ」
「痴漢ーっ」
地団駄踏む声も知らぬげに、つむじ風は|鞄《かばん》片手に、夕闇せまる坂道を目白の街へ駆け降りていった。
その後ろ姿に、女生徒の周囲から歓声と拍手がまきおこった。
「いいぞ!」
「男の中の男」
「見いちゃった、見いちゃった、ゆっこ[#「ゆっこ」に傍点]のパンティはしーろ[#「しーろ」に傍点]です」
居あわせた男生徒たちのものだ。
そっちの方をじろりとにらみつけてから、もう一度、つむじ風の消え去った方角を見やったふたりの被害者の顔には、なんと、ほんのりと赤味がさし、まるで片想いの相手を見送るような、切なげな表情が浮かんでいるではないか。
彼女たちはこの時、胸の|裡《うち》で同時に同じつぶやきを洩らしていた。
「|十六夜《い ざ よ い》くんの馬鹿。そういってくれれば、ふたりっきりでゆっくり見せてあげるのに……」
二十分後、つむじ風は学生服姿のまま、目白駅近くの路地裏の屋台で、大盛りチャーシューメンをぱくついていた。両脇に、これまた学生服姿がふたり。つむじ風は長髪だが、こちらは坊主頭だ。大柄な方がトーキョー市立|南《みな》|風《かぜ》高校剣道部主将、白鳥剣二、やや小柄で|敏捷《びんしょう》そうなのが少林寺拳法部主将の加山友康である。白鳥のかたわらには布袋に収まった|竹刀《し な い》がたてかけられ、加山の両手には、大きく拳だこが盛りあがっている。ふたりは先に来て待っていたのだ。もうひとり、哲学者みたいなしかめっ面の老人がいるが、これは屋台のおっさんである。路地は濃い闇に包まれ、原子街灯と屋台の照明だけが明るい。月もでていた。
「で、なんだい、用は?」
スープの最後の一滴まで飲み干し、どんぶりを台に戻してから、つむじ風がきいた。闇に吐く息が熱く白い。
南風高三年普通科、|十六夜《い ざ よ い》|京也《きょうや》である。身体つきはふたりの中間といったところだが、顔の造作まで武骨なふたりにくらべて、目鼻だちの整ったなかなかのハンサムだ。これで眼鏡でもかけ、教科書を手にすれば、学校一の優等生ができあがるだろう。それでいて冷たい感じがしないのは、茫洋とした底知れない人の良さみたいな雰囲気を漂わせているからだった。さっきのスカートまくりをみても、ただの秀才でないのはわかる。
「いや、用ってほどじゃないんだけどさ、来月から各部とも対校試合で忙しくなるじゃんか。当然、おたくは引っぱりだこだ。そんとき、うちと加山ンとこを優先して欲しいんだ。なにせ、前回の秋葉原ロボット工業高みたいな、汚い手を使うとこがあるから」
でかい図体のわりに気弱そうな声をだす白鳥に、京也はにやりと笑ってうなずいた。
「まさか、ほんとにロボットを出場させるたあ思わなかったな。近ごろのやつ[#「やつ」に傍点]は、まるっきり人間そっくりの外見してるから始末が悪い。表彰台でガッツ・ポーズとるのまでいるそうじゃないか」
「そうなんだよ。生身の選手がいくら訓練したって、コンピューターで制御されてるロボットのスピードとパワーに|敵《かな》うはずがない。それに、シリコン皮膚の材質や|偽態技術《メイク・アップ》も進歩して、汗は流すわ、血は出すわ、だろ。X線かけても人間そっくりに映るし、磁気検査用の|抵抗回路《ディ・サーキット》も完備してるんだ」
白鳥の後を加山が受けて、
「武道も地に|墜《お》ちたもんさ。だから、ぜひともおまえの力が借りたい。日本の高校武道界広しといえど、生身でロボットをぶっ倒せるのは、南風高の十六夜京也あるのみだ。メカに侵食されかかっている武道の尊厳を守れるのは、君しかいない! チャーシューメン、もう一杯いくか? 今日は白鳥の|奢《おご》りだってよ」
「よし、いこう。おっさん、大盛り追加」
京也は豪快な声で注文し、ふたりの両肩を叩いて、大船に乗った気でいろと笑った。おだてに乗りやすい性格らしい。抗議しようとした白鳥を加山が歯をむき出して制した。
今までのやりとりでわかるように、実はこの京也、正式な運動部員ではない。|籍《せき》もおかず、レギュラーが欠場した場合とか、強力な相手がいるときだけ臨時で出てくる、いわゆる|助っ人《ピンチ・ヒッター》&蝿である。普段は練習もせずに、いざ鎌倉のときだけ出てくるわけだから、よほどの実力がなければ務まらない役だ。それを京也は三年間、楽々とこなしてきたのだった。勉強も運動も二流どまりだった南風高が、三年前の地球連邦主催・青少年武道大会国内予選でなみいる強豪を連破、デンマークの本大会にもあっさり優勝して世界中の武道関係者の目ン玉をひんむかせて以来、今年まで破竹の三|連《れん》|覇《ぱ》をなし遂げてこられたのは、ひとえに彼のおかげだったといっていい。だから、大きな試合が近づくと、武道関係のクラブはみな彼の予約を取ろうと暗躍する。今回は白鳥と加山が一番乗りしたわけだ。もっとも、ご本人も剣道と少林寺拳法が性に合っているらしく、黙っていてもちゃんと試合場には顔を出してくれるのだが。
それにしても、ロボットを倒すとは一体どういう意味なのか?
今夜の勘定はどっちがもつか、身ぶりと表情で暗闘中のふたりを尻目に、京也は湯気をたてる新しいチャーシューメンにトライしていたが、不意に|箸《はし》をもつ手をとめた。
次の瞬間。
「わっ」
「あれっ」
白鳥と加山の悲鳴に凄まじい破壊音がかぶさって、路地の空気をゆるがした。
京也がふたりを左右に突きとばし、自分は鮮やかにとんぼを切って斜め後ろへ跳びのいた瞬間、背後に忍び寄っていた黒い影が屋台を急襲したのである。
壮絶としかいいようのない手刀の一撃であった。命中したのはテーブル台の縁なのに、衝撃で屋台はほとんど真っぷたつになり、湯と|麺《めん》を路上に巻き散らした。ラーメン鉢の砕ける音が重なる。おっさんは、あんぐり口を開けたままその場にへたりこんでしまった。腰が抜けたのである。
「なにしやがる!」
素早くはね起きざま、竹刀の布袋をはねとばして白鳥が怒鳴った。一分の隙もない青眼の構えをとる。
「気をつけろ、十六夜。こいつら、おまえを狙ったぞ」
加山は両足を肩幅、レの字に開き、拳を握った両手を、練習中の中段構えより、やや胸前に引いていた。実戦用のスタイルである。路地に目を走らせ、別の敵がいないのを確かめる。人間離れしたパワーを眼のあたりにしながら、炎のような闘志を燃えたたせていた。どちらも高校武道界では屈指の使い手である。
敵はふたりいた。
グレーのソフトを眼深にかぶり、同色のトレンチコートをまとった巨漢だ。身長二メートル、体重は優に百キロを越えているだろう。どことなく仮面じみた金属的な無表情さが不気味だった。東洋人とも西洋人とも区別がつかない。
殺気をはらんだ夜風が路上を吹き抜けた。
「やめとけ」
間のびした声で京也が横|槍《やり》をいれた。敵が手刀をふりおろした位置からみて、自分がターゲットなのは加山にいわれるまでもなく明らかなくせに、緊張した風もなく棒立ちになっている。
「冗談じゃない。いきなり殴りかかられてこのまま引っこめるか。おたくこそ逃げろ――!」
さっきまでの弱々しい口調はどこへやら、闘志満々でふりむいた白鳥は、京也が箸と丼をもっているのをみて愕然となった。いま、危機一髪の瞬間にみせた早業も人間離れしていたのに、彼は丼を手にしたまま、スープ一滴こぼさずそれをやってのけたのである。
「さっすが――」
白鳥の声に感嘆の響きがこもった。
京也は二杯目を片づけ、丼を地面においた。
「こいつら、人間じゃねえ。サイボーグだ。したがって、相手にできるのはおれしかない」
いつ見破ったのか、のんびりした声が、足元の麺やチャーシューに気づいた途端一変した。
「もう一杯食おうと思ってたのに、|勿《もっ》|体《たい》ねえことしやぁがって……こん畜生めらあ――」
怒ってもどこかずれている。
敵は動かない。
白鳥と加山が一気に間合いを詰めた。
「阿呆、よせ!」
必殺の気合とともに、稲妻がふたすじ、巨漢たちへ走った。白鳥の突きは喉もとへ、加山の回し蹴りはもうひとりの側頭部に。相手がなにものだろうと、理不尽な喧嘩を売られて引き下がるふたりではない。
敵はよけなかった。
鉄壁にぶち当たったような手ごたえにはっとするふたりの手首を、巨漢の片手がとらえた。跳び下がる余裕も与えぬ早さだ。全身から力が抜け、白鳥と加山はその場に|昏《こん》|倒《とう》した。
巨漢たちは音もなく京也めがけて前進を開始した。
――|掌《てのひら》に|麻痺銃《パラライザー》か。|機動《コマンド》サイボーグだな。
京也は真顔になった。
機動サイボーグは、軍のみが所有している超兵器だ。麻痺銃のほかに次元レーダー、荷電粒子ビーム砲、戦術核ミサイル、|電子防御機能《E ・ C ・ M》を備え、重戦車や戦闘機を含む機動部隊とも互角に渡りあえる。こんな路地裏で使ったら自分も無事ではすまない兵器ばかりだが、鋼鉄の一千倍の硬度をもち、しかも生体としての新陳代謝機能も備えているシリコン骨格と人工筋肉は、五千馬力の原子モーターで稼働。世界連邦の大金庫すら打ち破れるはずだ。生身の人間にはちょっぴり辛い|喧《けん》|嘩《か》相手にちがいない。
「きくのが遅れたけど、一体なんの真似だ。いくら不景気だからって、軍隊まで高校生相手にたかりすンのか? 警察と戦争になるぞ」
サイボーグがそろってダッシュした。
重戦車の装甲も貫くパンチと飛び蹴りが青年へとぶ。
京也も前へダイブした。
三つの影が交差し、うちふたつが鈍い音をたてて地上に転がった。ぴくりともしない。
立っているのは京也だ。右手に白鳥のおとした竹刀が握られている。前方に跳びざま、これを取って身をひねり、空中の敵の胸部を突くと同時に、左の正拳突きをもうひとりの横三枚に叩きこんだのである。
しかし、いくらなんでもそれだけで、バズーカ砲の直撃にも耐える機動サイボーグが地に伏すとは……
「でてこいよ、黒幕。部下の不始末の責任は上官がとるもんだぜ」
呼吸ひとつ乱さず、京也は路地の入り口に声をかけた。
逆光に、黒い影がみっつ浮かびでた。
|恰《かっ》|幅《ぷく》豊かな中年男と、護衛らしい屈強な青年がふたり、驚愕の表情で近づいてくる。生身の日本人だ。
「信じられん。ライ老師からきいてはいたが、これほどのものとは……」
微動だにしないサイボーグを見おろしながら、男はつぶやいた。知性的な顔立ちをしている。敵意はなさそうだった。
「|機動《コマンド》サイボーグは、宇宙や深海の作業要員とはちがって、全身これ電子機器のかたまりだ。人間が一瞬たりとも、素手でそれらの機能を停止できるとは思わなかったよ。彼らは死んだ≠フかね?」
「安心しな。一時間もすりゃ元に戻るさ。もっとも、全身チューンナップしなきゃならないだろうがな。それより、おれの友だちと、あのおっさんの屋台はどうしてくれる?」
のんびりした声だが、京也の眼は鋭く光っていた。
男はうなずいた。
「友だちの方は五分もしないうちに眼を覚ます。屋台は弁償させてもらうよ。すまないことをした。精神的ショックに対する慰謝料も十分支払うつもりだ。ただし、三人とも、今の出来事に関する記憶は|失《な》くしてもらうがね」
こういって入り口の方をさす。別の護衛たちが数人、通行人や屋台の客が入ってこないよう見張っていた。中年男はかなりの大物らしい。
「車が待っている。来てくれるね」
「おかしなおっさんに付いてっちゃいかんと、親父の遺言なんだけどな」
男の顔に、してやったりという表情が浮かんだ。
「そのお父さんに関することだ。そうか、自己紹介がまだだったね」
男は懐から黒革の身分証明書を取り出し、開いてみせた。地球を炎の羽根で支える|不死鳥《フェニックス》をかたどった黄金のバッジが、月光に閃いた。
「私は|山《やま》|科《しな》|大《だい》。地球連邦政府情報局の日本支部長をしている。よろしく頼む」
「たとえ、連邦政府首席だろうと、事情を説明してくれなきゃ、どこへもいかねえぜ」
反抗する京也に、山科局長はあっさりうなずいた。
「その連邦首席が正体不明の怪物に襲われ、|危《き》|篤《とく》状態なのだ。あと三日のうちに妖術師を探し出して術を解いて欲しいのだよ、君の『念法』で」
その夜、|麻《あざ》|布《ぶ》|地区《セクター》にある超近代的な連邦情報局日本支部の一室で、京也は山科局長から事情を説明された。父が死んでから厄介になっている叔父夫婦の家には、部活で遅くなるからと連絡を入れておいた。|甥《おい》の売れっこぶりを承知しているふたりは、むしろ喜んでくれた。
事の起こりは、地球連邦首席・|羅《ら》|摩《ま》こづみ氏暗殺未遂事件だった。
羅摩こづみ。三歳の子供でもその名は知っている。あらゆる地球的環境から切り離された別天地月≠ナ生まれ、インドの大賢人、アグニ・ライ師から「聖人誕生す」と明言された人物。以来二〇歳まで一度も地球を訪れることなく、三八万キロの宇宙空間をへだてて、ライ老師のテレパシーによる聖人教育≠受け、同年、満場一致で「地球連邦評議会月植民地代表」に選出された|逸《いつ》|材《ざい》である。
五年まえ、三五歳の若さで連邦政府首席の座につくや、半年のうちに、|永《えい》|劫《ごう》の宿敵$Vアラブ同盟とイスラエル2との和平調印を成し遂げ、環大西洋連合およびユーラシア文化機構とのあいだにABC兵器全面禁止条約を締結させたのは記憶に新しい。特に後者は、核戦争必至といわれた両陣営の首脳陣をニューヨーク連邦政庁に招き、わずか数分の会談ただ一度の結果成立させたものであり、後に奇蹟の五分間≠ニさえ呼ばれた。
二〇一〇年以降、全世界が黒い呪いの手につかみとられたかのように、経済不況、局地戦争、犯罪発生率が増加する中にあって、羅摩首席の慈愛に満ち、なおかつ厳しさを失わない言動とその成果は、着々と世界を変えていった。就任後五年、人々は首席の背後に未来への道を、道の彼方にかがやく光を感じはじめていた。
そんな首席に魔の手が迫ったのは、ニューヨーク時間で九月八日、つまり、先日の午後一時のことである。十四時間の時差がある日本なら九日の午前三時。そう、逢魔が時だ。事件の一部始終は、現場――連邦政庁五階の首席執務室――に設置されたモニターが録画しており、山科局長は早速、再生してみせてくれた。
その日、徹夜の急務を一段落させた首席は、|護衛《ガ ー ド》兼用のロボット|秘書《セクレタリ》に、数日まえからたまっている手紙と届いたばかりの電報を読みあげさせていた。
あらゆる通信文は、事前に秘書の電子チェックを受ける。激務に追われる首席が世界中から集まる手紙類すべてに眼を通すのは不可能だ。ロボット秘書の電子頭脳が急を要すると判断したものだけがその場で手もとに届けられる。
チェックの理由はもうひとつある。何の変哲もない便箋や封筒、さらに、タイプ文字そのものが、爆発物や毒ガス等の暗殺兵器ということもあり得るからだ。国際麻薬シンジケートをはじめとする犯罪企業や、兵器の売買で巨万の利益をあげる死の商人たちにとって、首席は呪うべき宿敵なのだった。
長い手紙は後まわしにして、首席はまず電報から読みあげるよう頼んだ。四通目にそれ[#「それ」に傍点]が登場した。
二千種の言語を記憶バンクに収納している秘書は、古代サンスクリット語だと告げた。四千年ほど前の古代インドに成立した高級文章語である。電送したのは通信衛星「ウッドペッカー」だが、差出人は不明だった。後でわかったことだが、衛星の受信テープに記録されているはずの発信地の欄も空白だった。
文字の配列から、祭祀呪文の一種と考えられると秘書はいった。音声化はできるが、解読は不能です。
首席は読むように指示した。
人間の発声器官では発音不可能としか思えない電文を、ロボット秘書がよどみなく読みあげた途端、そいつ[#「そいつ」に傍点]は出現した。
首席の影から、もうひとつ、|異形《いぎょう》の|黒《くろ》|影《かげ》が分離したのだ。どこからみても厚味のない影そのものでありながら、くねくねと床を|蠢《うごめ》く姿はまぎれもない生物だった。頭も手足もついていない。二メートル近い、胴らしき|楕《だ》円形の部分の一端が先細って、|爬《は》虫類の尻尾を連想させた。身体といえばそれだけだが、全身から発する妖気のせいで部屋の温度は急激に下がっていった。
危険を察知したロボット秘書は、隣室の護衛たちに警報を発し、電磁波攻撃を浴びせた。影はびくともせずに床から起き上がった。身をくねらせながら首席に近づいていく。動くたびに、平べったい身体が細まり、線状になり、すっと消えてはまた現れる。まさしく二次元生物だ。輪郭の縁から粘液らしいものがしたたりおちる。らしいというのは、それも平面の影だからだ。吐き気を|催《もよお》す悪臭が部屋に満ちた。
ロボット秘書の両肩からレーザー砲が|閃《ひらめ》いた。まばゆい|光《こう》|芒《ぼう》は暗黒の胴に吸収されてしまう。駆けこんできた護衛たちの大型粒子銃のビームも、厚味のない影を貫くことすらできなかった。
秘書がとびかかろうとした瞬間、影が猛スピードで反転し、武骨な金属のボディに蛇のように巻きついた。首席や護衛たちが声をあげる間もなく破壊音がとどろき、ロボットの骨格は幾重にもへし折られ、ジャンクと化して床に転がった。
影は首席めがけて跳躍した。首席のデスクは|電磁障壁《ス ク リ ー ン》に覆われていたが、なんなく通過し、首席の腰に張りついた。尾のつけ根から針金のように細っこい腕が一本しゅっとのび、首席の喉をつかんだ。
護衛のひとりが駆け寄ってもぎ放そうとしたが、影をつかめるはずがなかった。
首席の顔がみるみる紫色に変わっていく。|苦《く》|悶《もん》しつつ、首席は机上のペーパーナイフとおぼしい小刀を握って、影の腕に切りつけた。
影がのけぞった。か細い腕は手首のあたりから切断されていた。血か粘液の影[#「影」に傍点]をまき散らしながら、二、三度消えたり現れたりし、唐突に消滅してしまう。
喉をおさえたまま、首席が障壁をはずした。殺到した護衛たちは|呆《ぼう》|然《ぜん》となった。切り離された影の手首――正確には手首の影――は首席の喉に生々しく残り、蛇の舌みたいな三本の指で黒々と絞めつけていたのである。
首席はただちに医療センターの特別病棟に移され、専用の医師団が治療にあたったが、手の施しようがなかった。傷痕といえば、喉に残った奇怪な手首の「影」だけで、X線透視、超音波CT、サーモグラフィ等の診断法を駆使しても、千分の一ミリといえど皮膚に食いこんだ形跡が見当たらないのである。それなのに、世界最高の医師と治療装置の前で、首席は刻々と衰弱し、激しい呼吸困難に陥っていった。
事件勃発後一時間。誰の眼にも、容態の絶望的なことが明らかになったとき、救いの手がのびた。首席の師――大賢人アグニ・ライ老師が|忽《こつ》|然《ぜん》と病室に姿を現したのである。
インドの聖地から二〇年の長きにわたって首席を「教育」した、|齢《よわい》一三〇歳といわれるこの白髪、ターバン姿の老人は、また比類ない|超《エ》|能《ス》|力《パ》|者《ー》であり、首席が地球で活動をはじめてからは、つねに身辺に付き添い、護衛役を兼ねていた。現代では、|念《P》|力《K》一般の研究と解明がかなり進んでおり、前にもいった犯罪組織等の他にも、世相の混乱に乗じて世界的な流行となった悪魔崇拝教団をはじめとする狂信的なグループが、「|呪《じゅ》|殺《さつ》」や意識の遠隔操作などの超心理学的手段で首席を暗殺する恐れも大きかったからだ。
不幸なことに、事件前夜から老師は、アムネマチン山頂で定期的に行われる星間交霊会に出席するためインドまで|遠隔移動《テ レ ポ ー ト》していた。病院に忽然と現れたのは、その超感覚で、首席の身に変事が起こったと察知したからである。
|窒《ちっ》|息《そく》寸前の首席と喉の手痕を見て、老師はこの襲撃が黒魔術によるものだと告げた。そして、魔力封じの秘法を施しながら首をひねった。
「インドへ|発《た》つ前、首席の周囲には、どんなに強力な呪いや精神的攻撃をもはねかえす念の壁を張りめぐらせておいたのだが……なぜ、この妖魔はそれを突破できたのか?」
やがて、青ざめた副首席から事情をきき、事件の録画を眼にした老師はきびしい表情でうなずき、首席を襲ったのは魔界の妖魔ニドムだと告げた。
「ロボット秘書が読みあげた古代文字の電文こそ、わしの念を破り、妖魔ニドムを呼び出す呪文だったのじゃ。通信衛星からの電送という面倒な手続きをとったのは、それが、呪いをかける相手にきかせなければ効果がない呪文だからじゃ。わしの護身の聖剣をのこしてきてよかった。しかし、首席が電報はすべて秘書に読ませることは調べればわかる。問題は、なぜ、わしの不在の日にタイミングよくそれが届いたかじゃ。偶然にしてはできすぎておる。妖魔を呼び出したものは、わしの行動を読んでおったに相違ない……」
しばらく黙想してから、老師は別室に副首席と連邦政府首脳を集め、全員の顔色が蒼白となる事実を告げた。
「この世界に、|未《み》|曽《ぞ》|有《う》の危機が迫っておる。いま首席に死なれては、ようやく、歴史はじまって以来のかがやかしい未来へ向かいはじめた世界が、ふたたび戦乱と疑心暗鬼の過去へ舞い戻ること必定じゃ。
このまま放置しておけば、呪いは必ず首席を滅ぼす。わしの力をもってしても、それを食い止めることは不可能じゃ。あと五日――九月十二日の午後一時までに、術を施した魔道士を倒すか、術を解かせるかしなければ、首席は確実に一命を落とすじゃろう」
いならぶ首脳陣は騒然となった。彼らも首席と行動をともにして、この老人の不思議な力は知りすぎるほどよく知っている。黒魔術うんぬんはもちろん、首席の死後に関しての言葉も全面的に認めざるをえない。
恐慌状態に陥りかかった彼らに、老師はおだやかな、しかし有無をいわさぬ口調でこう命じた。
「地球連邦政府、および連邦加盟国情報機関の総力をあげて、レヴィー・ラーなるエジプト人魔道士の所在を突きとめるのじゃ。突きとめても決して手出しをしてはならぬ。この世界のいかなる物理兵器も通じぬ魔物どもを護衛役に使っておろう。わしが出向ければよいが、つききりで魔力封じの念を加えておかねば、首席は十分ともたずに絶命する。そして、いま一度いうが、わしの力が及ぶのも十二日の午後一時までしかない。さ、急いで下され」
襲撃事件の録画を見せられていた首脳陣に対して、老師の言葉は絶大な説得力をもっていた。全員が|慌《あわ》ただしくとび出してゆく。最後に残った副首席を呼びとめ、老師はそっと耳打ちした。
「実はもうひとり、探し出して欲しい人物がおる。反首席派のものたちに知られぬよう今は伏せたが、わし以外にただひとり、首席を救える技を身につけた男じゃ」
「それが、おれってわけ?」
ソファにそっくり返って、グラスの底に残ったオレンジ・ジュースをストローでちゅうちゅうやりながら京也がきいた。山科局長の話と首席襲撃の録画が終わったばかりなのに、てんで無関心な声である。
「正確にいえば、君の父上、弦一郎氏だ。父上は二〇数年まえ、ライ老師のもとでヨーガの|奥《おう》|義《ぎ》を学んでおられたのだよ」
「へえ、そりゃ初耳だ。あの|堅《かた》|物《ぶつ》なら、さぞいいとこまでいっただろうな――だけど、残念でした。親父は四年前に風邪でぽっくりいっちまったぜ」
局長はうなずいた。
「だからこそ、息子の君にきてもらったのだ。我々の調査によると、父上は生後一カ月の君を連れて、十八年前、北海道の大雪山にこもった。母上とは離縁なされたそうだね。よほどの決意がおありになったのだろう。それはともかく、大雪山は日本十三大霊場のひとつだ。念を|磨《みが》くには、もってこいの場所柄だという。父上はそこで、幼い君に念法を仕込まれた。赤ん坊のときから修行せねばならない技――私には想像もつかんが、さぞかし凄まじいものなのだろうね」
局長はデスクのファクシミリから、ついさっき電送されてきた用紙を破り取った。
「修理部からの報告だ。君にひねられたサイボーグふたりは意識を回復したものの、全電子回路に異常をきたして調整局送りになった。外傷はまったく無し、神経系になんらかのダメージを与えられたらしいが、原因は不明。――修理部の連中、半狂乱になっとるだろうな。老師の指令で君の腕を試させたのだが、酷な真似をしたものだ」
京也は不可思議な笑みを浮かべた。
「そんなこたどうでもいい。こんなとこまで引っ張ってきて、おれにどうしろってんだ?」
山科局長は京也の前のソファに腰をおろし、彼の顔をじっと見つめながら、苦しげな声で、
「さっきもいったように、魔道士をとらえて我々のところへ連行して欲しいのだ。彼の居場所も、大体のところはつかんでいる。後は君次第だ。老師のいわれた十二日の午後一時、日本時間なら十三日の午前三時まで、あと三日しかない。世界のために、念法を役立ててはくれないか?」
「冗談言うな」京也はそっぽをむいた。
「おれはただの高校三年生だぜ、もう就職先も決まってるんだ。ラーメン食ってるときにいきなり喧嘩を売られて、よし、合格だ、世界平和のためにいっちょう頼むよ――これで、OKできると思うかい? なんのために警察だの軍隊があるんだ。いい年した大人が、未成年をあてにするな、阿呆」
局長はため息をついた。
「そういわれると赤面するしかない。実は、魔道士の居場所をつきとめた時点で、本部では老師にエスパー捜査官の出動を進言したのだ。止められているのは承知の上でな。すると老師はもの凄いことをしてみせた。戦闘用エスパーと機動サイボーグを三名ずつ首席の病室に呼び、連邦首脳立ち会いのもとで、好きなように攻撃してこいと命じたのだ。付き添いの連邦軍総司令も許可した」
「どうなった?」京也が面白そうな声できいた。
「どうにも。エスパーの|念《P》|力《K》も、サイボーグの粒子砲も、あらゆる武器が使用不能だった。逆に、老師が指をさすだけで全員が人事不省に陥り、バタバタ倒れておしまいさ。老師はその後で、敵はこれ以上の力を身につけているといった。魔界の力は、この世界の法則には従わない。いかなる物理的攻撃も無意味だとね」
「なるほど、それで念法か」
「よく知らんが、人間の思念は修行によって、単なる物理的エネルギーから霊的なエネルギーにまで昇華し、『奇蹟』を可能にするという。念法とは、それを武道に応用したものだそうだね。いかなる妖術、あるいはその力が呼び出した妖鬼をも打ち破れる――これは老師の言葉だが。……どうだろう、もちろんお礼はする。こうしている間にも期限は迫っているのだ。この通りだ、力を貸してはくれないか?」
深々と頭を下げる局長に京也は苦笑した。演技ではない。切羽つまった者の、心の底からの頼みだ。
しかし、京也は「断るよ」といった。「どう考えても、おれにゃあ荷が重すぎる。世界への責任なんざ、もっとえらい人がとるべきだぜ。それに、おれが魔道士をつかまえられるとは限らねえ。返り討ちにあったらどうする? 責任とって生き返らせてくれるのか?」
「……」
「ごめんよ、あんたを困らせる気はねえけど、こうでもいわなきゃわかっちゃもらえねえだろう。悪く思わないでくれよな。第一、おれは|不肖《ふしょう》の息子でね。念法なんざそっちのけで不純異性交遊にふけってたもんで、ろくに修行もしてねえんだ。親父の遺言を知ってるかい? 自由に生きろ≠セぜ。おれに愛想がつきてたんだ」
「わしはそうは思わんな」
背後で低いが落ちついた声がした。
「うわっ!」
山科局長よりも京也の方が血相を変えたのは、いまのいままで、自分たちふたり以外の気配を感じていなかったからだ。声の主は、突然この部屋に出現したとしか思えなかった。
ふり向くと、全身白ずくめの小柄な老人が立っていた。横にふくらんだ|壺《つぼ》みたいなターバンとハイカラーの白服にはさまれた顔だけが黒い。極端に日焼けしている上に|皺《しわ》だらけだ。それと、胸元まで垂れたこれまた純白の|鬚《ひげ》からみて、恐ろしいくらい年を経ているのもわかる。それなのに、両眼は赤ん坊のように澄みわたり、全身からは京也もたじろぐ精気を発散していた。
「ラ、ライ老師!」
山科局長がえらい勢いでソファからはね上がり、駆け寄った。
「い、いつこちらへ? お知らせ下されば、お迎えに参上しましたものを……さ、こちらへ、こちらへどうぞ」
貫録たっぷりの局長が自分の胸くらいの身長しかない老人に最敬礼せんばかりに恐縮している。京也は吹き出しそうになるのをこらえて忠告した。
「ほっとけほっとけ。立ってようが坐ってようが、その爺さんにゃ同じことだぜ。十分間と首席のそばを離れられないはずだろ」
京也の右手が動いた。ストローが宙をとび、老師の顔を突き抜けて背後の壁に命中した。局長が目をむいた。
「|二重存在《ドッペルゲンガー》さ。本体の方は、この瞬間もニューヨークの病院にいるよ」
|二重存在《ドッペルゲンガー》とは、いわゆる分身のことだ。時間と空間を超越して、好きな場所、好きな時間にもうひとりの自分を出現させる。ヨーガでも、奥義を体得した高僧以外には不可能な技だ。
老師は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「よく見破った。さすが十六夜弦一郎の息子だの。よほどの修練を積んだとみえる」
「よしてくれ。さっきもいったろ。おれは……」
「わかっておる」老師の分身は向かいあったソファに腰をおろしながら、うなずいて京也を制した。「まだ未熟な念法者だとな。しかし、わしには別のこともわかる。おまえの素質がな。十六夜京也恐るべし――子は父を|凌《しの》いでおるぞ。わしのもとで修行をさせたいくらいじゃ。弦一郎にもそれがわかったからこそ、赤子の時分から、念の修練を積ませたのじゃ」
京也は顔をしかめた。
「よしてくれ。おだてたって駄目さ。親父がどんなに優秀だったかは知らねえが、息子まで同じだと思うなよ」
ソファから立ちあがって手をふった。
「帰らしてもらうぜ。うまいジュースだった」
「待ちたまえ」
「はい」
老師のひと言で京也はあっさりとソファに戻った。といって、威圧感など少しもない。不思議な力に、やさしく身体の向きを変えられた感じだ。
「弦一郎は、念法を|編《あ》み出した理由を、あまりよく説明しなかったようだの」
「全然」
京也は大げさに首を横にふった。ふと、大雪山での苛烈な修行の記憶が甦った。精神統一のための滝に打たれての|禊《みそ》ぎ。大宇宙の霊的エネルギーと同体化すべく、霜降る夜に組んだ坐禅、そして、血を吐き、のたうちながら学んだ剣と拳の技……。だが、なんのために、父はこれを編み出したのか、なぜ、これほどまでして身につけねばならないのか、もの心ついてから芽生えた疑問に、父は決して答えてはくれなかった。のちに京也が反抗した原因のひとつはここにあった。
「魔道士レヴィー・ラー、今回の事件の張本人は、おまえの父とともに、わしのもとで修行に励んでおった弟子なのじゃ」
老師の静かな声が、京也を現実に引き戻した。引き戻しついでに仰天させた。
「なにーっ!?」
「なんですと!?」
初耳だったらしく、山科局長も呆然となった。
「今から三七年前になるかの。ほぼ時を同じくして、ふたりの若者が、ヨーガの奥義を極めたいと、チベット山中で|庵《いおり》をむすんでいたわしのもとを訪れたのは。そういえば、年も同じ二五歳。日本とエジプト、国籍こそちがえ、ともに、精神の深みを極めたいと念じる者の、燃えるような眼と恐るべき素質をもっておった。これならば、とわしも|請《こ》われるままに弟子入りを許可した。思った通り、ふたりの進歩には驚くべきものがあった。わしが若い時分、十年がかりで学んだことをたった三年で体得し、さらに高次の精神的向上を求め飛翔していった。順調に進めば、必ずや、宇宙精神との霊的一体化を成し遂げておったろう。それこそが、ヨーガのめざす窮極の境地なのじゃ。
しかし、それから二年後、ふたりはそろって山を降りることになる……」
老師の声に苦渋の色がまじった。事件の背後に潜む意外な過去に、京也も局長も身動きひとつせず耳を傾けている。
「レヴィー・ラーが魔界の法悦を知ってしまったからじゃ。この世界と境を接するもうひとつの知られざる世界、憎悪と呪いが歓喜となり、絶望と恐怖が理想とされるそこには、|忌《いま》わしいものどもが、この世界の高徳の士を堕落させ、魔界の同胞に加えんものと、つねに|虎《こ》|視《し》|眈《たん》|眈《たん》としておる。有能な修行者が彼らの毒牙にかかって|墜《お》ちてゆくさまを、わしはどれほど眼にしてきたことか。だが、その誘惑をふりきり、己自身の意志でさらなる高みをめざすのも、また、欠くべからざる修行の一過程なのじゃ。かつて|釈《しゃ》|迦《か》|牟《む》|尼《に》が|菩《ぼ》|提《だい》|樹《じゅ》の根もとで妖魔の誘いを受け、イエス・キリストが|荒《あら》|野《の》で悪魔に試されたように。
ラーは破れた。身を刻みながら刻々と精神のよろこびに達するより、魔界の快楽にひたる方を選んだのじゃ。ある日、彼は|忽《こつ》|然《ぜん》とわしのもとを去った。魔界の使徒として、この世に一日たりとも平和と安息の日々がこぬよう、これまで身につけた秘術を利用するためにな。わしはラーを俗界へ戻すべきではなかったかもしれん。当時のわしには、彼がそこまで堕していようとは思いいたらなかった。しばらく後、古今未曽有の魔道士として活動中との|噂《うわさ》をきいたとき、わしは|心《しん》|底《そこ》悔いた。そしてこの事件。すべての責めはひとえにわしが負うべきじゃ。ラーを倒すのもわしの仕事じゃろう。しかし、わしは動けぬ身じゃ。ゆえに、ラーと比肩しうる力と技を持つただひとりの男十六夜弦一郎が、すべてを伝えたはずの息子に頼むのじゃ」
その息子は緊張感をまったく欠いた顔で肩をすくめた。父の過去にも、もうあまり関心がないらしい。たとえOKしてくれても、この調子で果たして任務を|完《かん》|遂《すい》できるものか、山科局長は胸の中で嘆息した。
「悪党のこたぁわかったよ。親父が山を降りたのはどうしてだい?」
老師は遠い眼をした。
「ラーが姿を消して二日後、弦一郎は下山を申し出た。自分にはラーの野望と行動がわかるような気がする、それを阻止できるのは、自分しかない、と。ひょっとしたら、今日という日がくるのを知っていたのかもしれん。少なくとも、息子のおまえがラーと対決することをな。そうでなければ、新たな修行を積んで、彼自身が戦っていたじゃろう。弦一郎には、わしにもラーにもない、|未来を見通す力《プ レ コ グ ニ シ ョ ン》が備わっておった。精神交感の席で、わしにもさだかには見えぬ未来の事象を告げられ、ラーともども感心した覚えが一度ならずある」
「勝手なこというな!」京也があきれて叫んだ。「人が知らねえと思って、勝手なよた話でっちあげやがって。推測で人生を変えられてたまるか。親父がおれに修行の理由を話さなかったのは、じゃあ、どういう|理《わ》|由《け》だ? 素直に教えてくれてりゃ、おれだってあそこまで反抗はしなかったぜ。なんか理由があったにしろ、死ぬ間際の遺言までが自由に生きろ≠チてのはおかしくねえか」
京也は腕を組んでそっぽをむいた。
「やだね、納得できねえ。いかねえったらいかねえよ。わっ、きれいな|姐《ねえ》ちゃん!」
素っ頓狂な声に、局長は目を丸くして背後へ目をやった。別室へつづくドアが閉まるところで、その脇に、ひとりの少女がひっそりと立っていた。
透き通るような美少女だ。つやのある黒髪が腰のあたりまで流れ、肌の透明感を一層ひきたてている。ひと目で既製品とわかる淡いブルーのツー・ピースまでが、少女にまとわれただけで、あえかな光を放っているようだった。一同に対して伏し目がちに黙礼すると、優雅な足どりで近づき、老師の隣に腰をおろした。
「首席の令嬢――さやかさんじゃ。紹介はあとでゆっくりするとしよう。すべておききなされたかな?」
老師は慈愛に満ちた声で少女にきいた。少女――|羅《ら》|摩《ま》さやかはそっとうなずいた。十七歳。ニューヨーク・ハイスクールの二年生である。父が倒れ、唯一救助の手をさしのべられる人物が日本にいるものの、頼みをきいてくれるかどうかわからないと知り、矢も|楯《たて》もたまらずやってきたのだ。事情はすべてニューヨークの老師からきかされていた。別室にとどまっていたのは、京也との交渉が難航した場合、彼女を苦しませてはならないと考えた山科局長の指示であった。いや、局長は客室に案内しておいたのだが、さやかはこっそり抜けだし、別室に入ってドアの|隙《すき》|間《ま》からすべてをきいてしまったのだ。父を|想《おも》う一心からであった。
「あなたがただひとつの希望なのです」
さやかのひたむきな声にも、京也はあっけにとられた表情を崩さない。けれども、さやかを見る眼つきが決していやらしくないのは、それをさせないだけの気品が彼女にあるからだ。この武道の天才児はかなりのプレイボーイで、母校はもちろん、十指に余る他校の女生徒と付きあいがあるが、どれほどの美人を前にしても、こんな表情は見せたことがない。
「父をお救い下さい。遠い病院のベッドで、生きようとして必死に戦っております。今のわたくしには、父しかおりません」
さやかの母は、彼女を産んですぐ亡くなっていた。それだけに、父への愛は限りなく深かったといえる。
京也は涼やかなものが胸の内を吹きぬけていくのを感じた。いま、彼の助力を求めているのは、世界平和を説くいかめしい老人ではなく、ひたすら父を想う娘であった。
ふと、なごやかな気分になっている自分に気づき、わざと意地悪く、
「いいとも。ただし条件つきだ。耳を貸しな」
言われた通りにしたさやかの顔が、みるみる真っ赤になった。
「あっ」と局長がとめに入るより早く、
ぴしゃん!
景気のいい音がした。
「いってえー」
京也は頬をおさえ、大げさに顔をしかめた。
さやかははっとして、平手打ちを食わせた右手をみつめた。
「ご、ごめんなさい。わたくし、とんでもないことを」
「いいってことよ。美人に張られて頬っぺたも喜んでる」
京也は陽気にウィンクしてみせた。腹はたたなかった。さやかの声に、父を救える男を殴ってしまったという功利的な響きがないのもうれしかった。
「では、助けていただけますか?」
「いや、それとこれとは――」
「やっぱり怒っていらっしゃるのですね?」
少女が心底悲しそうな表情になったので、京也はあわてた。
「ちがうよ。要するにおれは――」
「ただひとつの希望じゃ」
さやかと同じ言葉を、|遙《はる》かに|凛《りん》とした声で老師がくりかえした。
「さやかさんの父上にとっても、世界にとってもな。これはまだ誰にも伝えていないことじゃが、わしの見るところ、ラーの目的は、単なる一時的な世界の混乱ではない。もっと根源的な荒廃――平たくいえば世界の精神的破滅じゃ」
「それは……一体?」
局長が眉をひそめた。
「首席の喉に残された妖鬼――魔界から呼び出された暗殺鬼ニドムの手痕から、読念術でラーの念とその意図するところを逆に探ってみたのじゃが、どうやら奴め、地の底から、なにものともしれぬ忌わしい存在を呼び出そうとしておるらしい」
京也の目が光った。
「それは……|悪魔《サ タ ン》でしょうか?」
山科局長の声は震えていた。
「そこまではわからぬ。しかし、ひとたびそれが出現すれば、この世に、恐怖と絶望、憎悪と呪いが支配する暗黒の世界がくる。人々は互いに憎み、殺し合い、奪いあい、愛も希望も喜びも忘れて、急速に朽ち果てていくじゃろう。つまり、世界はもうひとつの魔界と化す」
少しのあいだ、沈黙が部屋を覆った。すぐに京也がなにげない調子で、
「なるほど、そいつを呼び出す儀式のいけ……」
といいかけて口をつぐんだ。さやかが消え入りそうな声で後をつづけた。
「いけにえが父なのですね」
少女をみる老師の眼に悲痛な色が浮かんだ。
「そうじゃ。あれほど徳の高い人物ならば、それ[#「それ」に傍点]に捧げる無上の貢物となる。出現は、首席が息絶えた瞬間じゃろう。ラーのかつての試みが|失敗《しくじ》ったのは、|供《く》|物《もつ》を欠いたせいじゃ」
「なんだ、そりゃ? その野郎は前にも似たような|真《ま》|似《ね》したことがあるのか?」
「ある。そして、今もその現場におる」
「どこだい? いつの話だ?」
老師は静かにいった。
「一九九九年、所はこの日本」
京也は記憶の糸をたぐった。そして今度こそ本当に、ソファから跳びあがった。
「あ、あんたら、うまいこといって、あんなところ[#「あんなところ」に傍点]へおれをいかせる気だったのか? |詐《さ》|欺《ぎ》|師《し》、ペテン師、非人間!」
「無理強いはできん。が……どうじゃ?」
「ふん」
京也はまたそっぽを向いた。
「やなこった。――だけどよ……だけど、そうすると、あの地震[#「あの地震」に傍点]も、そいつがでてくるのに失敗したせいなのかよ?」
老師はうなずいた。
「地底のものの力と、呼び出そうとしたラーの妖力とが一体化せず、ふたつの妖エネルギーが方向を転じた結果、地上に、あのような被害を及ぼすことになったのじゃ。その証拠に、あらゆる物理常識に反した災害じゃろうが」
京也は沈黙した。山科局長もさやかも蒼白な顔で声もない。あの地震とは?
「わしはもう戻らねばならん」と老師の分身は告げた。「首席に念を施しながらおまえたちと話すのは少々疲れるでな。だが、これだけはきいておいてもらいたい。十六夜京也、おまえの肩にかかっているのは、世界の平和のみではない。世界の未来とその精神なのじゃ。曲げて引き受けてはもらえぬか……?」
老師の姿は色|褪《あ》せていった。完全に消えさる寸前、空間から低いがしっかりした声がきこえた。
「勇者とは、人の苦しみを見捨てておけぬもののことじゃ。わしの弟子は真の勇者じゃった。わしは、その息子を信じる」
そして、すがりつくような視線をそそぐ紳士と美少女のまえで、十六夜京也はやはりそっぽを向きつづけていた。
PART2
闇は重かった。周囲に|膨《ぼう》|大《だい》な質量の存在を感じさせる暗黒の真っただ中で、不意に沈黙が破れた。
「火鬼、おるか?」
人間らしい感情を根こそぎふるい落とした無機質な声。
虚空に火が|点《とも》った。
ライターの炎程度の大きさだったのが、ぐんぐん上下左右に膨れあがり、四肢を備えた炎の人型となった。それなのに、闇の濃さは少しの変化もみせない。周囲を照らし出さない炎――魔界の火だ。
「来たか」とさっきの声がいった。「土鬼と水鬼もじきにくる。力は衰えていまいな。敵が近づいているぞ」
炎が揺れた。顔にあたる部分が|歪《ゆが》んだのは嘲笑の印であった。魔界の火を自在に操る妖鬼――火鬼である。
炎の右手が声の主めがけて、ぐうっとのびた。声のしたあたりで、それはなにかにぶつかり反転した。と、見る間に、太い炎はほうずきがはじけるように、無数の細い火線にわかれ、ふたたび四方から、初回の攻撃をさえぎったものに襲いかかった。
「やめい!」
声の一喝とともに、火線は逆進してもとの一本の炎に戻り、さらに腕の形にかえった。
同時に|灯《あか》りがついた。声の主が超小型原子灯をオンにしたのだ。天地をコンクリートに覆われた奇怪な空間が、青白い核の炎の中に浮かびあがった。古ぼけた机と椅子を中心に、おびただしい数の試験管やビーカーをならべた実験台、すり切れた皮表紙の魔道書を収めた巨大な本棚、ずっと彼方には、不似合いとしか思えぬ数々の電子装置や自動手術機とおぼしいマシンが鎮座している。部屋とも見えるが、その広大さといい、天井の高さといい、地下の広場と呼ぶ方が適切だ。
声の主、魔道士レヴィー・ラーと、その護衛役たる魔界の三妖鬼が|棲《す》む秘密アジトの一室である。試験管やビーカーにたまった毒々しい色の液体から吐き気を催す臭気が立ちのぼり、住人たちの|醸《かも》しだす妖気、冷気とまじって、並の人間では一分と我慢できそうにないおぞましい大気を醸成している。一種の治外法権区域――人間界の小魔界だ。
「おまえの妖力の威力はわかっておる」
黒頭巾に黒マント姿で机にかけた魔道士が叱咤した。三七年前、二五歳でライ老師のもとを訪れたというから、今年六二歳。頭巾の中のやせこけた顔はそれより十歳は|老《ふ》けて見えるが、|憑《つ》かれたような不気味な光を|湛《たた》える眼と、全身から発散するまがまがしい妖気が、むしろ脂ぎった印象を与えている。
掌を火鬼にかざした。焼け|爛《ただ》れて青白い煙があがっている。炎の腕をそこで受け止めたのだ。制止しなければ、火線の集中攻撃を浴びて、背後の本体は骨の|髄《ずい》まで焼き尽くされていただろう。この世に呼び出した、いわば主人とはいえ、妖鬼の扱いは慎重を要する。だが、魔道士の顔には苦痛の色など|微《み》|塵《じん》もなかった。
「わかっておるが、今度の敵は手強い。強い。わしの予知夢は青黒い色に染まっておったぞ。おまえたちの血でなければよいがな」
「その敵の名は?」
別の声がした。
「水鬼か?」
「土鬼もおりまする」
声は、魔道士の手もとに置かれた小さな銀製のグラスからした。底に、数滴のワインしか残っていないはずなのに――。
「姿を見せい」
「はっ」
グラスから音もなく、人間の上半身が立ちあがった。魔道士とおなじ色の頭巾と中世風の僧衣をまとっている。全身が――といっても腰から下はグラスの中だが――ぐっしょりと濡れそぼった、水をつかさどる妖鬼――水鬼だ。頭巾の中の眼鼻だちもわからない顔の奥で、血のように赤いふたつの眼だけが、生々しく光っている。
どこからともなく、部屋に霧状のものがただよいはじめた。火鬼の炎と水鬼の冷気が衝突したためである。
「うっ!?」
いつものことだとわかってはいても、意外な水鬼の出現ぶりに、|椅《い》|子《す》ごと身をそらせていた魔道士が、驚きの声をあげて足元を凝視した。
タイル張りの床から、人間の顔と両腕らしきものが浮きでている。らしきものというのは、顔には目も鼻もなく、手には五本の指がお義理みたいにくっついているものの、その表面は遙か下方の赤茶けた地面と同じ色、同じ粗さをもっているせいだ。コンクリートであろうと、石の床だろうと、どこかで大地に触れているものならば、自由にならぬものはない妖鬼――土鬼であった。
人間界の敵は、霧と妖気のただ中に集合した。
「そいつの名は?」
土鬼がたずねた。口はない。声は口にあたる部分からした。
「わからぬ。名も風体も。だが、およその見当はつく。わしが魔界に魅入られて聖なる修行を捨てたあと、ともに学んでいた男がこれも山を降り、念法とかいう技を完成したと、風の便りにきいた。あの気性からして、必ずや、わしを倒すためだ。もっとも、それきりわしを追ってくる様子もないので放っておいたが。確か名は十六夜弦一郎」
怒りと殺気に満ちた三種類の妖気が渦まいた。
「では、そやつが?」
「わからん。あれから三〇年を経た。奴も老いているはずだ。ひょっとしたら、息子か弟子か? とにかく夢で見る限り恐るべき技を身につけた奴。おまえたちの妖力でも勝てるかどうか」
ぐおっと音をたてて、火鬼の全身が数倍に膨張した。怒りの表現だ。熱気が空間をふるわせ、水鬼の上半身から激しい蒸気がたちのぼった。土鬼だけが、声もなく笑ったようだ。
「おまかせいただきたい。いかなる力をもつ敵といえど、この世の法則に従って生き、朽ちる存在であるかぎり、われわれには指一本触れることもできますまい。相対して十グゥト――一秒もかからぬうちに、最後の原子まで消滅させてごらんにいれる」
自信満々たる火鬼の言葉に、魔道士も満足気にうなずいた。彼もまた、この怪異な護衛たちの力に、絶大な信頼をおいていたのである。
「頼んだぞ。そやつと相まみえる日も近かろう。おまえたちの実力はそのときゆっくり見せてもらうとして、|今《こ》|宵《よい》、定例の儀式に捧げる|生《いけ》|贄《にえ》はどうした? 用意はできておるのか? 少なくとも汚れなき乙女ふたりが必要だぞ」
「承知」と水鬼が答えた。「ひとりはすでに先月見つけ出し、『手紙』を送ってございます。もはやわれらの思いのまま。もうひとりは、実はいま探し求めておったところで。時間までにはきっと血の祭壇にお連れ申しあげます」
「よかろう。いくがよい」
声を合図に、妖鬼たちの気配は消滅した。しばらくのあいだ、原子灯が、薄笑いを浮かべた魔道士の顔を青白く浮かびあがらせていたが、やがてそれも消え、暗黒が招かれた。
家へ帰ると十一時をまわっていた。早寝早起きがモットーの叔父夫婦はもう床に着き、キッチンに宅配のインスタント食料パックが用意してあった。近所の家も似たようなものだろう。若者の夜遊びは年々長くなる傾向にある。トーキョー市の二四時間ロボット・バス営業システムは、その原因のひとつだと、PTAから総攻撃を食らっている。
三日間は保温と防腐処置がゆきとどいているパックを平らげると、京也は二階へあがり、はめこみ式の収納ユニットから布袋にくるんだ木刀を取り出した。
父のただひとつの形見で『|阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》』という。
幼い彼の眼前で、父は霊山の|樫《かし》の木を削ったこの木刀を手に、念法の技を示したのだった。
袋をほどき、部屋の中央に立って正眼に構える。握った柄と掌が溶け合い、暖かく力強いものが流れこんできた。『阿修羅』にこめられた父――弦一郎の念だ。天才児といわれる京也からみても、父は総毛だつほどの名剣士だった。晩年にはそれまでの無理がたたったのか、三本に二本は京也に負けを喫するようになったが、京也は決してそれを、自分の腕があがったせいだとも、父の実力が落ちたためとも思っていなかった。古来、一心をこめて打った名刀には、刀|鍛《か》|冶《じ》の念が宿るという。名剣士たる父の念も阿修羅に残ったのだ。
――相手が相手だ。不本意だけど、未熟な息子としちゃお父上の力を借りなきゃなるまいな。
京也は行く気であった。
何でそうなったのか自分でもわからない。ライ老師や山科局長の説得に心を打たれたわけではない。現に、老師が消え去ってからは、山科局長ともさやかとも口をきかずにでてきた。第一、卒業後の進路だってほぼ決まっているのだ。フォボスの地球連邦基地で、体育関係の幹部要員奨学生を募集していたのに応募し、合格している。魔道士の|呪《のろ》いも火星の衛星までは追いかけてこないだろう。
なのに、なぜ?
あのとき、老師たちには問いかけたものの、京也には父の気持ちが実はよくわかっていた。修行の目的は老師の説明通りだろう。ただ、それを打ち明けなかった理由も見当がつく。
――おれに重荷をしょわせたくなかったんだろう。
息子が妖鬼たちと戦う未来を読んでいたにしろ、いずれわかることだからと口をつぐんでいるような性分の父でないことは、自分がいちばん良く知っている。
そして父も、いちど打ち明ければ、いくら逆らっても結局は対決の場へおもむく決意をするだろう京也の性質を見抜いていたにちがいない。そこまで息子の未来を決定するには忍びなかったのだ。
それでは、なぜ、倒れる最後の日まで修行の手をゆるめなかったのか。風邪気味だった父は、厳寒の山中で拳法の乱取りの最中に倒れ、数時間後、『阿修羅』とひと言の遺言を残して死んだ。
――おれを信じてたのか、運命だからじゃなく、自分の意志で行ってくれると。
しかし、京也を行く気にさせたのは、そのことでもなかった。
ある顔が脳裏をよぎった。
長い髪の、透き透るような少女。
あふれそうになる涙を必死でこらえていた。年は十七歳くらいか。
――あの|娘《こ》のためか?
よくわからないが、今までの理由の中ではいちばん妥当そうだった。よし、これでいこう、と思った。これ以上頭をひねってもはじまらない。
いつの間にか全細胞に力がみなぎっていた。阿修羅にこめられた父の念と京也自身の念とが合体して、とてつもない精神エネルギーを生み出しているのだ。朝夕、百本ずつの素振りを欠かさないのは、この感覚を味わいたいためである。身体全体が核融合発電所になったみたいだ。
――うまくコントロールできるかな。
京也は収納ユニットの奥から別の品を取り出した。
全長三〇センチほどの木彫りの人形である。弓を手にした黒人の呪術師をかたどったもので、黒いはずの地肌は塗料があちこちで|剥《は》げおち、かなり古い品なのはわかるが、さして値打ちものとも思えない。弓につがえるらしい小さな矢が胸にささっているのが奇妙といえば奇妙だ。
京也は人形を部屋の中央の床に置いて矢を引き抜いた。それを人形の空いている方の手にもたせ、素早く後退して、もう一度、青眼の構えを取った。
数秒が経過した。
人形がにやりと笑った。
同時に部屋に異変が生じた。
壁にはめこまれたコンピューター・ユニットのディスプレイ・ボードから猛烈な勢いで水が噴き出し、向かいの壁に命中して火を噴いた。鼓膜をつんざく大音響が空気を振動させ、部屋全体が揺れ動いた。移動デスクの上の電磁ペンや磁気ノート、ガールフレンドから贈られた小物類、いや、デスクとベッドまでが空中に乱舞した。
|騒霊現象《ポルターガイスト》だ!
絶え間ない轟音と物体が躍り狂う中で、京也は身じろぎひとつせず、眼を半眼にしていた。人形が真っ赤な口を開けて笑っている。けたたましい笑い声がはっきりときこえた。
アフリカの原始部族に伝わる、悪霊召喚の人形であった。|呪術《じゅじゅつ》師に頼んで術をかけてもらい、恨み重なる相手の家の|何処《いずこ》かへ忍ばせておく。すると、空中の邪悪な浮遊霊が引き寄せられ、様ざまな怪現象を起こすのだ。|騒霊現象《ポルターガイスト》はそのひとつにすぎない。怪異が終わってもその家には腐臭と|瘴気《しょうき》がたちこめ、二度と住むには適さなくなる。悪霊の活動を中止させるには、より強い術で呪いを封じるか、悪霊そのものを消滅させるしかない。どちらも至難の技だ。この場に霊能者がいたら、部屋中をとびまわる、勝ち誇った悪霊の群れを見ることができたろう。
人形が弓に矢をつがえるのを見たとき、京也は阿修羅を頭上にふりかぶった。気ちがいダンスの踊り手たちが、申しあわせたように部屋の隅まで後退した。ベッドカバーの真ん中に巨大な口があき、牙をむきだした。
矢がはなたれた。空中で1メートル近い長さに変わり、京也の胸元へ吸いこまれた。ベッドとその仲間たちも彼めがけて突進した。
「えやあっ!」
|裂《れっ》|帛《ばく》の気合。なにかが空中で|炸《さく》|裂《れつ》したように、一瞬、空気が震え、銀色の光が人形の胸へと走った。
次の瞬間、京也は阿修羅を振りおろした姿勢のまま、秋の夜の静寂な部屋に立っていた。
すべて、人形が笑い出す以前の状態である。ちがうのは、人形が倒れていることくらいだ。矢も胸に刺さったままだが、こちらはおかしなことに、何かにはじきとばされたみたいに、中ほどからややひん曲がっていた。
無言で人形を取りあげ、ユニットへ戻す。念のため廊下ものぞいてみたが、叔父夫婦が今の騒ぎに気づいた様子はない。部屋の外へは、物音ひとつ|洩《も》れなかったのだ。
「うまくいったな」
京也はつぶやいて、阿修羅をベッドへ立てかけ、旅仕度をはじめた。
彼は悪霊を呼んで、念のコントロール具合を試してみたのだった。人形はそのために、ずっと昔から愛用している品である。
父と自分の念が合体した状態で無分別に念法を使うと、恐ろしい結果を招きかねない。生身の人間相手に軽くパンチをふるっただけで、頭骸骨を砕き、小指の突きで内臓全部をぼろぼろにする怖れもあるのだ。京也自身大分まえに、信号無視で突っこんできた暴走トラックを、阿修羅の横なぐり一閃で川へ叩きおとした経験がある。引き上げたトラックは、故障個所も見当たらないのに、二度と使いものにならなかった。念そのものの浄化をともなわず、単なる念力のような物理的パワーのみを振るうとき、思念は凶器に等しくなる。
京也は自分がその段階を越えたという自信がなかった。だからこそ、悪霊たちに自分を襲わせ、危機一髪のところで最少限の念放射を行い、悪霊たちを「消滅」させず「退散」で済ますことができるかどうか試してみたのだった。
「うまくいった」――それはコントロール可能の意味であった。
身仕度は数分で整った。極力動きやすいよう、伸縮ジーンズとトレーナーに着替え、荷物はビニールのナップザックに詰めたわずかな衣類と歯ブラシ、タオル等の日用品だけ。こづかいを貯めた五千クレジットの現金は、帰宅の途中で、夜間銀行からおろしてきたものだ。これからいくところには、万能カード・システムなんて便利な仕掛けはない。
少林寺拳法の隠し武器ともいうべき鉄丸や|ひょう[#「ひょう」は「金」へんに「票」DFパブリ外字 #F762]《ひょう》が欲しいところだが、手もとにないのであきらめた。なんとかなるさ。
叔父夫婦には、三日ばかり旅にでてくると置き手紙を書いた。学校をさぼっての小旅行は毎度のことだから、心配しないだろう。ただし、本当にそれで帰ってこられるかどうか、自信はまるでなかった。
夜明けを待たず、京也は寝静まった家を出た。腕の核時計は午前〇時を示している。九月十日。残された期間は三日と三時間しかない。情報局へ戻れば、暗示学習器で一分とかからず新宿の知識を得られるとわかっていたが、無視することにした。都合のいい時だけ助けを求めるわけにはいくまい。
ロボット・バス停留所へと夜道を急ぎながら、京也は左手の阿修羅にこう話しかけていた。
――親父、いくことに決めたぜ。遺言通り、自由にな。頼りない息子で悪いが、ちょこっと力を貸してくれよ。
それから軽く肩をすくめた。
――だが、なんで一介の高校生があんなとこへいかなきゃならねえんだ。「魔界都市」なんつうとこに……
PART3
一面の|廃《はい》|墟《きょ》であった。非情な秋の月光の下に、黒々と、おびただしい|瓦《が》|礫《れき》の山がつづいている。闇のどこかで犬らしい獣の遠|吠《ぼ》えがきこえ、明かりも見えるところから察して、住人はいるらしい。それどころか、必死に|瞳《ひとみ》をこらせば、果てしない瓦礫の連なりとしか思えない広大な土地のあちこちに、原形をとどめたビルやユニット住宅らしい建物も見分けられる。あるものは、天空高く星々をめざしてそびえ、あるものは、瓦礫の山と区別がつかないくらいに低く、地を|這《は》っている。
さらに眼を|凝《こ》らしてぐるりを見渡せば、遙か彼方に無数の光点が、巨大な刑務所を見張る監視灯のように廃墟を取り囲んでいるのに気がつくだろう。刑務所と監視灯――この形容もあながちまちがいとはいえない。光点は廃墟の周囲を囲む|摩天楼《スカイスクレーパー》の窓やネオンサインであり、この廃墟は、北はかつての大宮、川越、南に三浦半島全域、そして、東に成田、西は都下八王子までを含む世界最大の|複合都市《メガロポリス》「トーキョー」の一角に、忌わしい姿をさらしているのだった。
通称「魔界都市」。
その不吉な名前の示すように、一面、異様な鬼気がたちこめ、空気ばかりか、満天の星々と月の光までが、どことなく|澱《よど》んでいるみたいだ。寒い。肌寒いというだけではなく、それにひたったものの心の奥底まで|凍《い》てつかせ、不安と恐怖を抱かせずにはおかない奇怪な寒さだった。
「魔界都市」とはなにか?
かつて、その名を「新宿」といった。
トーキョー|市《シティ》がまだ東京都と呼ばれていた当時、淀橋、四谷、牛込の三区を併合して生まれた、都内最大の一区である。広さは一八・〇四平方キロ。一九九×年の住民数は四五万人に達していた。
新宿駅を中心に、七つの高層ビル街、歌舞伎町、花園町を含む副都心は、都有数の繁華街であり、二四時間、若ものたちの流れが絶えなかった。そう、一九九×年九月十三日の秋の夜までは。
その日、新宿区全体を、正確には新宿区のみを、マグニチュード八・五以上と思われる直下型地震が襲ったのである。不幸なことに、地震は深夜、午前三時ちょうどに前震抜きの奇襲攻撃をかけてきた。
八〇年代の後期から、伊豆方面での発生が予想されていた東海大地震に備えて、新規に建築されるビルはすべて耐震構造を義務づけられていたが、堅牢な鉄骨とコンクリートで覆われた巨大ビルディングも、建て売りの木造住宅も、この秋の地震のまえには、極度に|脆《もろ》かった。街路の通行人、我が家で安らかな眠りを貪っていた人々、深夜営業のディスコで踊り狂っていた若者……。コンクリートの塊は容赦も差別もなしで彼らに|雪崩《なだれ》かかり、圧死させた。
通常の地震は、家屋の倒壊よりも、その後に発生する火災による死者の方が断然多いものだが、この地震に限って、死者の八割がただ一度の揺れのせいで命を落としている。余震もなかった。当時の気象庁が命名した「新宿大地震」を、誰いうとなく「|魔震《デビル・クエイク》」と呼ぶようになったのはこのためである。「魔震」とは、新宿大地震の性格をぴたりといいあらわした言葉である。あらゆる意味で、従来の直下型地震とは異なるのだ。
まず、新宿区以外には、まるっきり被害を及ぼしていないこと。例えば、市ヶ谷駅から飯田橋駅へと走る中央線を境にして、東は千代田区、西は新宿区だが、地震発生当日、寝つかれずに線路をぶらついていた飯田橋駅の当直員は、お堀の向こう側にそびえる市谷の町々が、轟音とともに崩壊していくのを目撃しながら、こちら側では空気さえ震えず、夢かと[#「夢かと」に傍点]頬をつねった――こう体験を語っている。このせいで、新宿崩壊の通報が消防署や警察に送られても一笑に付され、救助活動が大幅に遅れたのだ。明らかに「魔震」は新宿区にだけ発生した。というより、新宿区だけを狙ったのである。
次に、被災地の新宿区内でも、建物の倒壊ぶりがぞっとするほど無秩序で薄気味悪い。伊勢丹、三越、小田急、京王の駅前デパート群がそろって倒壊したのに、京王プラザホテル、住友三角ビル等の「新宿摩天楼街」は、窓ガラスが落下し、壁面にひびが入った程度で済むという滅茶苦茶ぶり。一方、高層ビルの眼と鼻の先に広がる中央公園は、東海地震の避難場所に指定されていたにもかかわらず、樹木は根こそぎへし折れ、土地は隆起し、まるで地底の魔神が地上へ出ようと荒れ狂ったような惨状を呈していた。
他にもある。歌舞伎町、ゴールデン街、花園町といった大歓楽街は、木造家屋全壊、ビルのみがかろうじて外見をとどめる無惨な姿と化したのに、新宿区役所、コマ劇場、厚生年金会館の三つは外装が剥げ落ちた程度で難を逃れていた。地震はなまず[#「なまず」に傍点]が起こすというが、これは気の狂ったなまずがはねまわったとしか思えない、でたらめそのものの破壊状況であった。
しかしながら、ただこれだけなら、「魔震」はともかく「魔界都市」などという不吉で陰惨な名前をつけられずに済んだろう。新宿の街が――前からその兆候はあったが――妖気に包まれた真の姿を現すのは、復旧作業が開始されてからのことである。
遺体の収容もほぼ完了し、瓦礫の撤去にかかった二週間後のある日、それまでは堅牢この上なかった作業場の地面が突如崩れ、十数台のロボット・ブルドーザーやガントリークレーンが巨大な穴に呑みこまれるという異常事態が発生した。これを皮切りに、新宿の廃墟には同種の怪現象が続々と起こった。
市谷の陸上自衛隊|駐屯地《ちゅうとんち》では、米軍から貸与された旧式$車M1エイブラムス五台が地割れにはさまれ、回収に大わらわであった。いきなり、警備員のひとりがM91|突撃銃《アサルト・ライフル》を乱射、自分も射殺されるまで十二名の同僚を殺傷し、回収作業にあたっていたウルトラ・パワー・クレーンの余備燃料缶も射ち抜いて広場を火炎地獄に変えた。乱射の原因はいまもって不明だ。
|罹《り》|災《さい》後の暴動や貴金属類の盗難防止のために駆り出された一般警官二〇名が、花園神社の境内に設置した宿舎の中で、全員無惨に|噛《か》みちぎられた死体となって発見されたこともある。彼らの全身は血と水でぐっしょりと濡れていた。事実、うち何人かは噛み殺される前に|溺《でき》|死《し》していたことが判明した。
その他、未発見の死体が、白昼の|靖《やす》|国《くに》通りを内臓を引きずりながら歩いている姿を目撃されたり、不気味な鳴き声がきこえるという某ビルの廃墟へ調査に出掛けた自衛隊員がそのまま帰ってこなかったりと、超自然的な怪事は限りなく続いた。
原因究明のため科学者たちが動員されたが、自然法則に反する現象が起こっているのを確認した以外、さしたる成果もなく解散した。もっとも、帰宅する学者たちを乗せたエア・バスは、新宿区を出る直前に消滅してしまい、彼らはついに妻子のもとへ帰ることはなかったのだが。
さる高僧を招いての壮麗な|慰《い》|霊《れい》祭の席上、読経をつづける高僧の顔に一陣の風があたるや、みるみる全身が溶け崩れ、肉泥のただ中で白骨が経文を唱える姿を眼のあたりにした総理は、ついに半年後、新宿復旧計画の続行を断念した。
「魔界都市」の名は、このとき生まれたのである。
その頃から、新宿にみなぎる妖気に誘われてか、新しい住人たちが「魔界」を訪れはじめた。逃亡中の犯罪者――|詐《さ》|欺《ぎ》、|窃《せっ》|盗《とう》の常習犯はもちろん、強盗、殺人犯など。あまりの凶暴さに、まっとうな仲間たちから追放された暴力団、やくざ、チンピラ・グループ。彼らは、昔なじみの|短刀《やっぱ》、チェーンから、大型熱線砲までを駆使して殺し合い、中には徒党を組んで街のあちこちに勢力をのばすものたちも出た。
時がたつにつれて、「住民たち」の顔触れはますます多彩になっていった。
二〇一〇年代末に本格化した連邦政府の宇宙開発の進展に伴い、地球から数多くの宇宙開発サイボーグが太陽系諸惑星へと送りこまれた。多くのものが傷つき、異星環境になじめず地球へ舞い戻ったが、折からの経済不況で就職もままならず、これまた新宿への道をたどった。荒みきった心に、魔界の妖気が乗じたのかもしれない。
エスパーたちも厄介な住人であった。
九〇年代に入って、ESP関係の研究が進み、潜在能力開発装置や|検査機《テ ス タ ー》が出現すると、普通人の中にかなりの数のエスパーや潜在エスパーたちが含まれていることが判明し、世界的規模での能力テストやランク分けが行われた。
その結果、上級エスパーたちは連邦政府へ登録されることになったのだが、あくまでも自由意志に基づくものであったため、登録を拒む、いわゆる「非合法エスパー」も多数出現した。彼らは、闇のルートで政府管理の能力開発装置を仕入れ、極限まで高めた超能力を、積極的に犯罪に利用しはじめた。新宿は、そんな彼らにとって、法の手も及ばぬこの上なく重宝な|魔《ま》|窟《くつ》を提供したのである。
むろん、警察機構も全力を挙げて、新宿の治安維持につとめたのだが、大規模な|掃《そう》|討《とう》戦に取りかかったり、以前なみの警察組織の復活に着手したりすると、決まって悪夢のような事故が発生するため活動は鈍りがちで、今では外部地区との境界線上に数カ所の派出所を設け、少数の一般警官と|機動警官《コマンド・ポリス》を常駐させるにとどまっている。
「魔界都市」は、もはや彼らの手には負えない超犯罪地区と化していた。コンクリートのビルひとつを数秒で|砂《さ》|塵《じん》に変えてしまう超音波砲装備のサイボーグや、念じただけで相手の脳を破壊するエスパーくずれ、連邦軍秘蔵の|多機能戦闘服《マルチ・ファンクショナル・ファイティング・スーツ》に身を包んだやくざたちに、十連発とはいえ9ミリ自動拳銃と電撃警棒しか持たない警官がどう対処しようというのか?
こうして新宿は、惨事の爪痕をまざまざと残したまま、周囲の文明地域や時の流れから切り離され、二〇三〇年の|現《い》|在《ま》、一大メガロポリスの中枢部に、怪奇と戦慄の犯罪都市として、どす黒く存在しているのであった。
青白い月光が匂うばかりにみなぎる廃墟の道を、小柄な影がひとつ、旧国電四谷駅の方向から四谷三丁目へと向かっていた。闇の中でさえもほのかにかがやいてみえるような美少女――さやかである。
思いつめた表情を、時おり不安の影がかすめていく。
たったひとつの希望だった京也に出動を断られ、思い悩んだあげく、情報局をとび出してきたのだ。
なんの目的で?
もちろん、魔道士と対決し、やっつけるためだ。そのくせ、さやかの武器は、右手の人さし指にはめたレーザー・リングだけだった。アンチ首席派に狙われる怖れがあるからと、護身用にもたされた品で、一見、金の台にはめ込んだ小粒のルビーだが、内蔵された超小型核炉とエネルギー変換装置の働きによって、焦点温度一億度Cのレーザー・ビームを発射することができる。さやかは殺人可能な兵器を身につけるのを嫌い、|麻痺銃《パラライザー》の機能を加えてもらって、普段はそちらの方にセットしてあった。
しかし、いくらなんでもこれだけで、ライ老師がこの世界に勝てる人間はただひとりと断言した魔道士を倒すのは至難の業である。――できっこない。それがわかっていながら、さやかはやらずにはいられないのだった。父のために、世界の未来のために。
情報局の一室で京也と会ったときは、父の生命を救うことしか頭になかった。その後で老師の話をきき、魔道士の真の目的を知って、彼女ははっきり世界への責任を感じた。首席の娘だからかどうか、その辺は自分でもわからない。若い頃、地球の難民キャンプで救助活動に打ち込んでいる時、物資を略奪しようとやってきた無法者どもを眉ひとつ動かさずに射殺してのけたという母の血が駆り立てるのかもしれない。
もっとも、覚悟はけなげだが、当の相手を探し出す方法も考えず、時刻も意識せずにとび出してきたのは、お嬢さん育ちの度が過ぎている。早計というよりあわてんぼうだ。服装からして、前とおんなじツー・ピースにハイヒール姿だから、コンクリートの破片や石ころがごろごろしている道では、よろけたり、つんのめったりで、危なっかしくて見ていられない。
それでも転倒せずに、なんとか四谷三丁目の交差点にたどり着けたのは、幸運もあるが、運動神経と勘が抜群にいいからだろう。ハイスクールでは、合気道部のキャプテンを務めているほどだ。交差点の真ん中で、さやかは足をとめた。
「真っすぐいけば、新宿のもと繁華街、右が|曙橋《あけぼのばし》を渡って自衛隊駐屯地へでる道、左手は信濃町駅と慶応病院……悪い人たちが集まりそうなのは、やっぱり、真っすぐの方かしら?」
出がけにざっと暗示学習器にかかってきたせいか、新宿の地理はなんとかわかる。
「いいわ、このまま進んでみましょう」
こうつぶやいて一、二歩踏み出した足が、不意にとまった。
周囲になにものかの気配があった。複数だ。左右の闇にそっと眼を走らせる。
真紅色の小さな光点――眼だ。それも二対や三対ではない。肉食獣の発する、凶暴さをあらわにした低いうなり声。
――肉食|蛭《ひる》や大|鼠《ねずみ》じゃないわ。すると、双頭犬……困りましたわ、どうしましょう?
どれも「魔界都市」特有の凶悪生物である。魔震で壊滅した民間の遺伝子操作研究所のサンプルと、妖気が合体して生まれたと噂されている。動くものを見れば襲いかかる凶暴無比の生き物ばかりだが、中でも双頭犬は体長二メートル、その名の通りふたつ首の大型犬で、北米の|灰色熊《グリズリー》とも互角に渡り合うという。敵からすれば、二頭を相手に戦うのとあまり変わらないのだから厄介な話だ。
新宿区の周囲に深さ数百メートル、幅二十メートルに及ぶ地割れを生じさせ、これらの怪獣が外部へ出るのを封じたことが、魔震のただひとつの善行といえばいえる。じゃあ交通はとなると、巨大な|橋《ゲート》が四ツ谷駅と早稲田鶴巻町、西新宿四丁目の三カ所に設けられ、二四時間出入りは自由だが、ついでに大型粒子砲数基を備えた電子監視塔まで建てられてしまった。やはり、野獣の逃亡を恐れてのことだ。
じりじりと円陣がせばまってきた。獲物を引き裂く歓喜と飽食の期待にふるえているのか、うなり声さえ途絶えた。生々しい獣の匂いがさやかの鼻孔をついた。
右|方《かた》から一頭が巨体を跳躍させた。やはり双頭犬だ!
ガチガチッとふた組の|牙《きば》が|噛《か》み合う音。
さやかの|喉《のど》はそこになかった。おっとりタイプの外見からは想像もつかない素早さで身を沈め、着地した獣に神経麻痺線を照射する。巨体が崩れた。
二頭目が地を蹴る寸前、さやかは一気に走った。
斜め前方に、記憶通り、旧地下鉄丸ノ内線の入り口が開いていた。屋根は崩れているが、シャッターは降りていない。道路で集中攻撃を受けるより、内側にとび込んで、外からくるやつを迎え討った方が安全だと思ったのだ。両脇からアタックしてきた二頭が麻痺線を浴びて|昏《こん》|倒《とう》し、道をふさいだ。
さやかは|若《わか》|鮎《あゆ》のようにはねた。巨体をとび越し、頭から入り口へ突っ込む。階段の途中で一回転し、見事に着地をきめた。風圧でスカートがめくれ、形のいい足が|腿《もも》のつけ根までむき出しになった。あわててスカートを押さえる。
これが裏目にでた。
凄まじい|咆哮《ハウリング》をあげて、双頭犬が階段を駆け降りてきた。ふたつの頭部はがっと口を開き、牙のあいだから炎のような舌を吐いている。
狙いをつけたが遅かった。巨獣の体当たりを受けて、さやかは石の床に転倒した。後頭部を打ちつけ、急激に意識が遠のいていく。眼の前に、びっしり牙をならべた巨大なふたつの口が迫っていた。その背後に別の|獣《けもの》の頭があった。
――お父さま!
絶望の脳裏に、父の姿と、なぜかあの青年の顔が浮かんだ。
生臭い息が喉に熱くかかり、さやかは意識を失った。
不意に身体が楽になった。肉の焼ける匂いとともに、遠くで野獣のものらしい悲鳴が連続している。
「しっかりしなよ、え、|姐《ねえ》ちゃん」
誰かが頬を|叩《たた》いていた。
さやかは眼を開いた。三人の男たちが身を|屈《かが》めてのぞきこんでいる。うちふたりはチンピラ風の革ジャンスタイルだが生身の人間、残るひとりは、毛髪一本ないメタリックな頭部からみてサイボーグ、それも大重力の惑星開発用タイプに特有の異常に広い肩幅をもっていた。宇宙サイボーグというやつだ。
小柄な革ジャンが助け起こしてくれた。
脇の方に眼をやると、四頭の双頭犬が折り重なって倒れていた。全身が焼けただれ、一頭はまだ火を噴いている。異臭が狭い切符売り場に立ちこめ、さやかは胸が悪くなった。
まだ少しぼやけている頭を軽く叩き、どことなくうさんくさい命の恩人たちに「ありがとうございます」と心から礼をいった。
「いいってことよ。こいつの試し射ちさ。闇の|品《ブツ》だけど、結構役にたつぜ」
小男が右手の|熱線銃《ヒート・ガン》を誇示しながらいった。仲間たちにくらべて人の良さそうな顔をしている。もっとも、うちひとりの表情は|眉《まゆ》|毛《げ》も鼻もないせいでよくわからない。服装や闇でつくられた武器を所有しているところからみて、この三人組は、新宿に星の数ほどいるチンピラ・グループのひとつだろう。
「残りのやつらもいっちまったぜ」
階段の上をのぞきこんでいた大男が報告した。小柄な相棒より大分凶悪な人相で、やはり右手に熱線銃をにぎっている。
「いま外に出たりすると危ねえ。どんな事情で夜中にうろついてるのかはしらねえが、こっちで少し休んできな」
小男にやさしくいわれ、さやかは三人の後について丸ノ内線のホームに入った。地下鉄も魔震に大打撃を受けたと記憶していたが、この駅にはほとんど損傷の痕が見当たらない。この気まぐれぶりが魔震たる|所以《ゆえん》だ。四谷寄りの隅に携帯用原子コンロが置かれ、|酒《さか》|瓶《びん》と圧縮食料のパックがいくつも転がっていた。コンロの炎で構内はかなり明るい。三人組はここで夜明かしの途中だったらしい。
「食うかい?」
小男がウエハース大のパックをさし出した。シチューの絵と小さなフォークがついている。
たったいま、死ぬほどの目にあったばかりなのに、さやかは急に空腹を覚えた。
「いただきます」
ぺこりと頭を下げて受け取る。端のリングを引くと、シュッと音をたてて空気が流れ込み、超低温高圧で圧縮した合成肉と|肉汁《グレヴィ》が膨張をはじめる。添付された加熱剤の作用で、もうホカホカだ。箱が広がって皿の形になった。
小男以外のふたりは、黙々と食べるさやかを、いかがわしい眼付きで眺めていた。何もきこうとしない。
じき食事を終え、ポケットから財布を取り出しかけて、さやかははっと気づいた。
――いけない。カードを現金に変えてなかったわ。
すまなそうに、
「あの……銀行の夜間金庫、ご存知ないでしょうか?」
三人組は眼を白黒させていたが、すぐに小男がにっこりして、
「なんだい、飯代か? いいってことよ」
「いいや、払ってもらおう」
いきなり大男が口をはさんだ。
「この街じゃ、熱線銃のエネルギー代も馬鹿にゃならねえんだ。いまの食事代と、しめて五万クレジットだ」
小男がとがめるように「おい、こんな|娘《こ》に無茶いうなよ。あんなもの合計したって五〇にもなりゃしねえぞ」
大男は抗議を無視した。
「どうなんだ、払うのか? 払えねえなら、働いて返してもらうぜ」
さやかはきょとんとしていた。生命の恩人が突然、無理難題をふっかけてきたのが不思議なのだ。|苛《か》|酷《こく》な月世界植民地で、みな|救《たす》け合いながら生きてきたさやかには、悪党というものがよくわかっていなかった。父の後を追って地球へきてから、まだ半年足らずでは無理もない。大男とサイボーグが、自分をバーやショー・クラブに売りつけて利ざやを稼ぐつもりだなどとは想像もできなかった。
「働くのは構わないのですが、今日は困ります。ご住所をお教え下されば、後日、必ず返しにうかがいますわ」
「おめえ、おれたちをおちょくってんのか?」
大男が一歩前へ出た。
「おい、よせったら。子供に手を出すな」
止めに入った小男の身体がふわりと宙に浮いた。後ろにいたサイボーグが|襟《えり》|首《くび》をつかんで持ち上げたのだ。
「引ッコンデロ」
腕のひと振りで、小男は線路に投げとばされ、頭を打って失神してしまった。
「なにをなさるのです。乱暴な!?」
線路に降りようとしたさやかの腕を大男がつかんだ。
「えいっ」
「ぎゃっ」
最初のはさやかが発した鋭い気合。次のやつは、手首に激痛を感じた途端、宙を舞ってホームに叩きつけられた大男の悲鳴であった。合気道の関節技である。
「コノ|野《ヤ》|郎《ロウ》」
サイボーグがつかみかかってきた。
「わたくし、男性ではございません」
超合金の腕をかいくぐりざま、さやかは神経麻痺線を発射した。
「あうっ!」
苦痛の声をあげて倒れたのはさやかの方だった。至近距離から放たれた麻痺線は、サイボーグの胸ではね返り、逆に彼女に命中したのである。
「馬鹿者メ、オレノ骨格ト皮膚ハ、一千Gノ重力ニモ耐エラレルノダ。ソンナオモチャ、効クモノカ」
サイボーグは軽々とさやかを担ぎ上げた。一度はね返って麻痺線の効果が薄れたせいか、さやかにはまだ意識があった。抵抗しようとしたが、身体の方は完全に|痺《しび》れている。
――一難去ってまた一難ですわ。ほんとにもう、どうしましょ。
さやかの嘆きも知らぬげに、大男が近づいてきた。腰をさすっている。
「畜生、この小娘、世話やかせやがって……だがよ、とびっきりの上玉だ、高く売れるぜ。こりゃ一年は遊んで暮らせる、朝いちで歌舞伎町へ運んでよ……」
「そうはいかん」陰々たる声が大男の言葉をさえぎった。「おまえたちに明日はない」
大男とサイボーグは、ぎょっとしてあたりを見まわしたが、薄暗い構内には、線路でのびている小男以外、誰の姿もなかった。大男はベルトから熱線銃を抜いた。
「でてきやがれ。どこにいる!」
なにかがその両足をつかんだ。
下を向いた大男は、全身の血が凍るのを感じた。赤茶けた二本の手がコンクリートの床からはえている! 突き破って出てきたのではない。手首は何のつぎ目もなく床に溶けこんでいた。
「わわっ、は、離せえっ!」
必死に後じさりした男の眼の前で、もっと奇怪な出来事が起こった。彼の足首をつかんだまま、その動きに合わせて、床の中から[#「中から」に傍点]ずるずるっと人間の上半身が引きずり出されたのである。そいつは全身を現すや、ようやく大男の足首を離し、なんと、地面に寝そべった姿勢のまま、足首を支点に、頭からぬーっと起き上がった。
西洋の修道僧が身にまとうような黒い|頭《ず》|巾《きん》と僧衣を着て、顔ははっきり見えない。しかし、頭巾の奥に|爛《らん》|々《らん》とかがやく|血《ち》|色《いろ》の眼が、瞬時に大男から生気を奪い去った。
土鬼である。
棒立ちの大男を押しのけて、宇宙サイボーグが熱線銃片手に前へ出た。さやかは床に横たえてある。
自分の身体に対する自信が彼の命取りになった。
六〇万度に達する真紅のシャワーが土鬼を包んだ。余波を浴びた周囲の壁がみるみる白熱し、崩壊していく。
「無駄だ」
土鬼が低く笑った。頭巾もマントも煙ひとすじたてない。魔界の妖鬼に物理的エネルギーは無力なのだ。
恐怖がサイボーグの判断を誤らせた。退くかわりにダッシュし、土鬼の|顎《あご》めがけて、|渾《こん》|身《しん》の力を込めた右フックを放つ。命中した|刹《せつ》|那《な》、土鬼の身体は無数の|塵《ちり》と化して四散した。それは渦巻き、茶の奔流となってサイボーグの全身に吹きつけた。
まばたきする間もなく、宇宙サイボーグは直立した泥人形と化した。
「妖力『泥地獄』」
それがサイボーグのきいた最後の言葉だった。
想像を絶する圧力が超合金の骨格をへし折り、生命維持機構を押しつぶした。千Gの重力にも耐えるはずの宇宙サイボーグは、厚さ数センチの泥の皮膜の中で、プレスにかけられた廃車みたいにスクラップにされてしまったのである。
そばにいた大男の眼には、泥人形が半分ほどの大きさに縮んだように見えた。
同時に人形は白熱した。
土鬼の妖力――「泥地獄」
土の膜と化した体内で、数億トンの圧力に達する地殻変動を引き起こして敵を圧殺し、五千万度の超高熱を放ってガス塊に変える魔界の技。サイボーグはその原子のひとつまで、土鬼の身体に吸収されてしまった。
人形はふたたび分解し、土鬼の姿に戻った。もっとも、これが土鬼本来の姿形かどうかははなはだ疑わしい。
大男は|戦《せん》|慄《りつ》のきわみにいた。こいつは本物の化け物だ。女みたいな金切り声を巻き散らしながら改札口へと走り出す。
途中に小さな水|溜《たま》りがあった。大男がさやかに投げとばされたとき、酒瓶が倒れて中身が洩れたのだ。
靴がそこに触れた。その下に床は存在しなかった。
「ひえーっ!」
コンクリート[#「コンクリート」に傍点]色の|飛《し》|沫《ぶき》をあげて、大男は腰まで酒溜り[#「酒溜り」に傍点]に没した。見るまに胸が、顔が沈んでいく。石の床がそこだけ底知れぬ海と変じたようであった。
身動きひとつできないながら、さやかはすべてを目撃した。
――こんな恐ろしい術を使うなんて、この人たちが妖鬼なのですね。なんとか逃げ出さなくては。
とはいうものの、はね返った分だけ力は弱まっているが、麻痺線の効果は少なくともあと三〇分持続するだろう。
人間ひとりを呑みこんだ酒溜りの中から、凍てつく北の海を思わせる声がさやかの耳に届いた。
「妖力『海魔』――久しぶりに使ったぞ。しかし、まずい人間だな。肉も固い……」
水鬼である。
「わしも食いたかった。さっきの奴は|脳《のう》|味《み》|噌《そ》以外すべて機械よ。しかも味が悪い――さぞ頭も悪かったろう。腕の一本くらいは残しておけ」
と腹だたしげに土鬼がごねた。
「おぬしは、地中の虫でも食っておればよい。しかし、この娘、美形だな」
「ああ。ひと晩じゅう探しまわった|甲《か》|斐《い》があったぞ。わしが地下での話し声をききつけたおかげだ。儀式が済んだら、用済みの心臓と脳はわしがもらう」
「よかろう。わしは肝臓と眼玉でよい。さ、魔道士どののもとへ連れていこうではないか。ところで、このおかしな指輪はどうする?」
「ほっておけ。この世界の者どもにはともかく、わしたちには通用せん」
「それもそうだ」
土鬼がさやかを肩にかついだ。マントを通して、湿った大地のような冷気が伝わってくる。
――わたくしを、どうする気かしら? 儀式だの生贄だのといっていたけれど……それなら魔道士に会えるかもしれない。でも、この状態では……。それに、こんなに恐ろしい魔物たちがそばにいては、わたくしひとりではとても手の打ちようがない。
絶望がさやかの心を満たした。よりによって、はじめて新宿へ出掛けたその日に、妖鬼の捕虜になってしまうとは。
また水鬼の声がきこえた。この場を立ち去りかけているのか、やや遠い。
「先刻ラーどのがいった恐ろしい敵≠ヘまだ来ぬのかな?」
さやかは|愕《がく》|然《ぜん》となった。この怪物たちが恐ろしい≠ニ口走ったのだ。その敵≠ニは、もしや……
「わからん。だが、どんな奴だろうと、わしらの妖力の前には、いまの人間どもと変わりはせん」
土鬼の答えは自信に満ちていた。
「それもそうだ。フフフフフ」
二匹の妖鬼の笑いをききながら、しかし、さやかの胸には、あふれんばかりの希望が|湧《わ》きはじめていた。
あの方[#「あの方」に傍点]が来てくれる! きっとそうだ。わたくしがどうなろうと、父と人類の未来にはまだ望みがある!
さやかをかついだ土鬼の姿が改札口を抜け、出口の階段を昇りだした頃、静まり返ったホームに、線路からひとつの影があらわれた。あの小男である。妖鬼が登場した時分から意識は取り戻していたのだが、本能的にこりゃやばいと判断し、死んだふりを決めこんでいたのだ。
「畜生、化け物どもめ。サブと市を殺した上に、あんな可愛らしい娘まで誘拐しやがって。そうそう勝手にゃさせねえぞ。待ってな、姐ちゃん。必ず助け出してやる」
小男は足音を忍ばせて土鬼の後を追った。
幻妖極まりない手段でふたつの生命が奪われた地下鉄丸ノ内線・四谷三丁目駅の構内に、今度こそ本当に死の沈黙が訪れた。
PART4
京也は早稲田にいた。目白台の自宅から、いちばん近い鶴巻町の「橋」を渡って「魔界都市」へ入ったのだ。時刻は午前二時。この一時間ほど前にさやかが妖鬼たちに連れ去られたのだが、無論、京也は知らない。
彼は憤慨していた。
「なんつうこった。どこのホテルも店を閉めてやがる。夜になったら化け物が娘をさらいにくるとでもいうのか。もっともおれはその化け物の相手をしにきたんだが」
どこかピントのはずれた怒り方だが、あながち的はずれでないことは後でわかる。
「魔界都市」といっても、新宿の住人すべてが犯罪者ややくざもののわけではない。魔震のときに九死に一生を得て、もとの土地に住んでいる人たちもいれば、死亡した人の親類縁者が移り住んでくる場合もある。そういう人たちは、自然に、物騒な連中が幅をきかせているところを避けて集まるから、そこには「魔界都市」の数少ない安全圏が形成される。もと早稲田大学の周辺は、その「安全地帯」のひとつだった。
新宿区でも特に危険な場所は、やはり旧繁華街――駅周辺、歌舞伎町、花園町|界《かい》|隈《わい》で、この辺の事情はいまでも滅多に外部へ伝わらない。せいぜい、重火器で武装した|機動警官《コマンド・ポリス》が、月に一度巡回する程度だからだ。新聞記者やTVレポーターも何人か潜入したが、全員行方不明になったという噂である。したがって、こと新宿に関してはいかなる情報メディアも、憶測記事を流すか、早稲田や落合のような「安全地帯」をルポするしかないわけだ。
反論はあるだろう。テレビはどうした、最新のビデオ・カメラは|黒子《ほ く ろ》がわりに|糊《のり》でくっつけて持ち運べるはずだと。それに対する答えは、一種痛快な響きさえ感じさせる――「新宿」に対して映像は無力なのだ。過去数十回にわたって、スパイ・カメラが繁華街へ入ったが、視聴者のスクリーンには、ざらついた灰色の画面が果てしなく映し出されるばかりだった。新宿――いや、「魔界都市」を取り巻く妖気は、電波の侵入も流出も許さないのである。
全世界をつなぐコンピューター・ネットワークをベースに、通信衛星、光通信等の情報メディアが、各家庭のコンピューターに、それこそ知りたくない情報までも際限なく送りこむ二一世紀の情報社会――その最先端をゆくメガロポリス・トーキョーに、こんな秘境じみた空白地点があるのは、考えてみれば逆に痛快な皮肉ともいえるだろう。
京也が深夜あてもなく家をとび出したのは、新宿に関するこの情報量の不足を一刻も早く埋めるためであった。朝になってからでは遅すぎる。深夜営業のスナックにでも入って、住人の口から直接マル秘情報を仕入れるのだ。ひょっとしたら、魔道士と化け物護衛たちの隠れ家もわかるかもしれない。
そして、いま、現実が決して甘くはないことを、彼は骨身に徹して思い知らされているのだった。
京也が|阿《あ》|呆《ほう》みたいに突っ立っているのは、倒壊したもと[#「もと」に傍点]大隈講堂を右手にのぞむ学生街の廃墟の一角だが、ユニット住宅が軒をならべる中に、商店やスナック、時たまやってくる「観光客」相手の安ホテルもちらほら点在する。ところが、そのどれも扉を固く閉ざし、京也がいくらノックしてもわめいても、断固侵入を拒否しているのである。寝静まっているのではない。ドアの隙間から灯りが洩れているし、耳を澄ませば奥の方で電子音楽の高鳴りもきこえる。それなのに、「二四時間営業」と看板に|謳《うた》ったスナックもホテルも、夜の魔物の侵入を恐れる中世ヨーロッパの家々のように、闇のさなかで息を殺しているのだった。
「さっきのスナックで六軒め。もう三〇分も歩きづめだ。未成年者を何だと思ってやがる。わざと傷をこしらえて、強盗に襲われた、お前ンとこが入れてくれなかったせいだぞとねじこんでやるか。今度、入店拒否しやがったら構わねえ、扉ぶっこわして入るぞ」
と、かなり精神状態がやばくなってきたその時、ぐるると喉を鳴らしながら闇をすかしていた京也の眼は、五〇メートルほど先に設置された街灯の下に、おぼろげな光を認めた。どうやらスナックの電気看板らしい。
「おっ、あれこそ男の店だ」
女の経営者という事態もありうるが、ともかく喜び勇んで駆けつけたのは、これまたユニット住宅を改造した深夜スナックだった。看板を読んでびっくり「宮本武蔵」。
江戸時代の剣豪だ、くらいは京也も知っているが、それを店の名前にするとは――
「なかなか、奇抜な性格のマスターらしいな。話が合いそうだ」
つぶやいて中へ入った。
店内は薄暗かった。天井から垂れ下がったレーザー・ケーブルの束が唯一の照明で、しかも、極端に光量を落としているせいだ。浪曲でも流れているかと思ったが、BGMどころか葬送行進曲もきこえてこない。看板倒れの陰気なムードである。正面奥にスツールが四つついた小さな半月形のカウンターが置かれ、それを取り巻く形で、安物のテーブルや|椅《い》|子《す》が十卓近く配置されている。外見よりかなり広いつくりだ。左右の壁にかけられた日本刀や槍だけが、かろうじて店名の面目を保っている。
陰気の製造元はすぐにわかった。左奥のテーブルに、男たちが四人、ひとりの少女を囲んで何やら話し合っているのだ。少女の肩が震えるたびに低い|嗚《お》|咽《えつ》がもれるのだから、陽気な|団《だん》|欒《らん》のわけがない。少女は十七、八。男たちのうち三人は彼女と同年齢くらいで、残りは三〇前後のひげ面の大男だった。エプロンをつけてるところから察して、どうやらマスターらしい。大雪山の暗夜の特訓で鍛え抜かれた京也の眼は、おぼろな光の中でこれだけのことを|看《み》て取った。
どう切り出したらいいものかと考えていると、少女の隣にすわった青年が何気なくこちらを向き、京也に気づいた。|憔悴《しょうすい》しきった顔が百面相みたいに変化した。恐怖から怒りへ、怒りから|憎《ぞう》|悪《お》へと。
「みんな、来やがったぞ!」
叫び声を合図に、男たちは一斉に立ちあがった。少女が悲鳴をあげて青年にすがりついた。
「野郎! いつの間に!?」
マスターが壁ぎわに駆け寄り、日本刀をはずして引き抜いた。ギラリと光る。本身だ。青年たちも上着やズボンのポケットから武器を取り出して身構えた。
少女にすがりつかれた青年は旧式の火薬式自動拳銃|H&C・P9《ヘッケラー・アンド・コック》九ミリ口径八連発を手にしている。ふたりをかばうように前方に立ちふさがった青年のうち、長髪の方が警官の電撃警棒、最後のひとりは手術用の超音波メスだ。誰が相手にせよ、実戦じゃまるきり役に立ちそうもないガラクタどもだが、全員の身体から発する殺気と思いつめた表情が、その無能ぶりを補っていた。
京也はあっさり両手をあげた。
「降参するよ。コーヒーおくれ」
一同のあいだに動揺が走った。
「おかしいぞ。人間[#「人間」に傍点]か?」
「だまされるな!」とマスターが右八双の構えを取ったまま注意した。若い頃、相当修練を積んだらしいが、いかんせん、全身が小刻みに震えている。よく見ると、みな、そうだ。これから来るお客は、よほど恐ろしい奴らしい。
京也は急にいたずらっ気を起こした。
「ばれたか。おれは歌舞伎町に棲む四百歳の|大狸《おおだぬき》なのだ。その娘、もらっていくぞ」
いくらなんでも、このくらいの冗談は通じるだろうと思ったのが間違いだった。少女がまた悲鳴をあげ、マスターがなにやらわめきながら突進してきた。
「きえーっ!」
うなりをたてて左肩口へ降りおろされる剣を、京也は軽く右へ跳んでかわし、マスターの|鳩尾《みぞおち》へ左の前|蹴《げ》りを放った。|十分《じゅうぶん》以上の手加減はしてある。ぐえっとうめいて前屈みになるところを素早く背中にまわって抱きとめ、刀を奪い取って、楯に使おうと身をひねる。しかし、その必要はなかった。
拳銃を手にした青年が仲間を制していった。
「少林寺拳法の『転身蹴り』か。ぼくもかじったことがある。化け物が知ってるわけはないよ」
青年は拳銃をしまって謝罪した。
「すまなかった。みな、気が立ってるものでね。こっちへ来て一杯やってくれ。ムーン・ワインがあるよ」
京也も笑顔をみせた。
「わかってもらえりゃいいさ。残念ながらアルコールはからきしだ。ディモス・ビールはねえか?」
名前はビールだが、実は同名の火星の衛星で造られる清涼飲料のことである。ディモスでしか採掘できない鉱物が独特の味わいをつけ、五年くらい前から地球でもコカコーラに負けない売れ行きを示している。京也の好物だ。
「あるよ。放してくれたら出してやるぜ」
マスターがいった。
「こりゃ、失礼」
京也は抱えていた手を放した。
「こっちへ来な――君はいい。ゆうこちゃんについててやれ」
いわれて、青年は少女の待つテーブルへ戻り、京也はマスターにくっついてカウンターにすわった。
「ほらよ」緑色の液体を満たしたグラスが眼の前に置かれた。しゅうしゅう音をたてて表面から気泡が立ちのぼっている。一気に呑みこんだ。ぴりっとした刺激が喉から胃に|泌《し》み渡っていく。
「うーっ、いける」
「そうかい。まあ、こっちの誤解で危ない目に遭わせたんだから勘定はいらない。そのかわり、飲んだらすぐ出ていきな。もうじきここは|修《しゅ》|羅《ら》|場《ば》になる」
「さっき、あいつがいってたな。化け物相手に戦争する気かい」
京也の眼は、いつのまにか不敵な光を放っていた。早速、妖鬼と対決できそうな雰囲気に遭遇したからだ。
「まあな。君は見たところ外部の人間らしいけど、|新宿《こ こ》じゃしょっ中おかしなことが起こるんだ。知らん方がいいことがさ。さ、お別れだ、達者でな。前の通りを真っすぐいけばじき早稲田通りにぶつかる。そこを右へ折れて二〇分も歩きゃ高田馬場だ。安いホテルもあいてるよ」
「冷たいな。おれは臆病もンでね、日が暮れると足がすくんじまう。いま追い出されたら一歩も歩けねえ」
「どうやってここまで来たんだい?」
「眼ェつぶってさ。だけど、明るいとこなら滅法強いぜ。さっきわかっただろ?」
マスターは肩をすくめて、少女の方へ|顎《あご》をしゃくった。
「あの|娘《こ》を狙ってるのは武道でどうこうできる相手じゃないんだ」
「あんな時代遅れのピストルやお医者さんごっこの道具で、なんとかできる相手かよ?」
京也の反論に、マスターは気分を害した風だったが、すぐ笑顔になって、
「不思議だな、君を見てたら……なんとかできるのかい?」
京也は大きくうなずいた。
「まかせとけ。おれ、実はイエス・キリストなんだ」
マスターはため息をついた。軽薄な|兄《アン》ちゃんくらいに思ったのだろう。声をひそめて、
「わかった、わかった。事情を教えてやるよ。きいたらお家へ帰りたくなるだろうからな」
「うん、帰る」
もちろん、そんな気はない。
マスターはカウンターにひじをついて話し出した。
「あの連中は、この先のスーパー・マーケットで働いてる仲間なんだ。気のいい奴ばっかりさ。特に真ん中の女の子は……」
「美人でグラマーだな。バストはBカップだぜ、きっと。なんて名前だい?」
「佐野ゆうこ――なんだ、その助平ったらしい眼付きは? まあ、いい。見ての通り、グラマーで美人だ。それと、ここだけの話だが、バストはCカップだ」
「くくく……それで?」
「うむ、そんなわけで、君みたいなやつが欲しいものもないのにマーケットに押しかける。このあいだ顔を出してみたら、近所のおかみさんより若い男の方が多かった。気持ち悪いったらねえ」
「なるほど」
「でも、ゆうこちゃんは誰にもなびかない。れっきとした恋人がいるんでな。さっき、君を見つけたススムって子さ」
「あいつか。|羨《うらや》ましいこったな」
「ふたりは結婚して店を持つんだ。仲間たちも大賛成。みんな、ゆうこちゃんに気があるくせに、あの娘のためならって、一切ちょっかいは出さなかった」
「なんでえ、それでも男かよ? 義理堅いこった」
マスターが険悪な顔つきになったので、京也は|咳《せき》ばらいして口をつぐんだ。
「若いのが、みな君みたいな性格だと思うなよ。――そんなとき、ちょうどひと月前に、おかしな手紙がゆうこちゃんのもとへ届いたんだ。動物の皮らしい|便《びん》|箋《せん》にひと月たったら迎えにいく。逃げても無駄だ。この手紙のことを人に喋ってはならん=\―こう書いてあった。差出人の名前はなし、だ」
「なるほど、今日がそのひと月めか。だけど、よくそれで、相手が化け物だってわかったな」
マスターはシャツの右袖をまくり上げ、上腕の内側をさした。そして、奇怪なことをいった。
「読み終わった途端、手紙はあの娘のここへぴたっと張りついちまったのさ。どうしてもはがれない。医者に見せたら、どうやら羊の皮でできてるらしいが、皮膚と同化しちまってるんで、手の肉ごと切り離さなきゃならんという。で、そのままさ」
マスターは声を一段おとした。
「おれは、大地震以来ここで店を開いてるがね、あれ以後新宿じゃ、月に最低ふたりは若い娘が行方不明になってるぜ。それもパターンが決まってて、ある日、若くてきれいだと評判な娘のもとへ、ゆうこちゃんのと全く同じ文面の手紙が届く。それからきっかり一カ月後、どんなに厳重な護衛がついてても、その娘は必ず行方不明になっちまうんだそうだ」
「そうだ?」
「ほんとのところは誰も知らんのさ。関係者がこぞって口をつぐんじまうんでな。|噂《うわさ》だと、五年ほどまえ、四谷にあるギャング組織のボスの娘が狙われて、百人近い子分がありったけの武器をかき集め、指定の日に娘のそばで待機していた。で、どうなったと思う?」
「ひとり残らず消えちまったのかい?」
マスターがうなずいたので京也はびっくりした。よくよく冗談の通じない店だ。
「跡形もなく、な」とマスターはうめくようにいった。「それからも似たような事態が何度かあって、とうとう、どんなことをしても、狙われた娘は守れないとわかったんだ。どこかへ逃がしたり、隠したりする親もいたが、新宿から出ようとすると、おかしな具合に失敗するし、|何《ど》|処《こ》に身を隠しても、当日になると必ず消えちまうらしい。こりゃもう、化け物の仕業としかいえんだろ?」
「もっともだ。そいつらを目撃したものはいないのかよ?」
「いるさ。でも、それを口にすると、事故だのなんだのロクな目にあわないらしくって、みな口を閉ざしてるんだ。おれの耳にした話だと、指定日の午前三時――逢魔が時に、骨と皮ばかりにやせた黒馬が、葬式馬車を引いて娘を連れにくるそうだ。|御《ぎょ》|者《しゃ》は――」
「死に神か?」京也がニヤニヤしながら口をはさんだ。「羊皮紙に、午前三時の葬式馬車――アナクロもいいとこだぜ。よっぽど|頭《おつむ》のいかれた奴がたてた噂だな」
マスターはふくれ面をした。
「噂だからしゃあねえわな。それに御者は、|大《おお》|鎌《がま》こそ抱えてないが死に神そっくりの黒ずくめ野郎だとさ。いまでは、その馬の足音をきいただけで不幸に見舞われるからと、狙われた娘の近所一帯が、その時刻になると戸を閉め、家ん中に閉じこもってしまう。冷たいもんだよ」
「いちばん賢明な方法さ。あんたなぜそうしない? これ以上あの娘に肩入れすると、一緒に行方不明だぜ」
京也の皮肉に、マスターは真顔になった。
「ゆうこちゃんは、手紙を見た瞬間、自分の運命に気づいた。おれが今の話をきかせたことがあるからな。それから|一昨日《お と と い》まで、あの娘は黙ってた。誰にも打ち明けず、ひとりで耐えてたんだ。両親は魔震で亡くなったし、ススムに話せば死んでも戦うというに決まってる。そんな無駄なことをさせたくなかった。ススムが気づいたのは、偶然あのメンバーと一緒に、右手の手紙を眼にしちゃったからさ。事情をきかされても、おれにゃ関係ないと逃げるような薄情者はひとりもいなかったぜ。おれのところへ相談にきたときも、マスターまで巻きこんですまないと、ゆうこちゃんは泣きっぱなしだった。なあ、自分の身を案じてるんじゃないんだよ。ああいう娘がひとりでもいる限り、この街にはまだ希望がある。てめえの勝手でそれを摘み取ろうなんて野郎を放っとくわけにはいかん。勝ち目のない|喧《けん》|嘩《か》でも、な」
マスターはこれだけいうと、仏頂面で京也に耳打ちした。
「実はおれ、あの娘にほの字なんだ」
「あんた、いい人だな」
京也は静かにいった。
ストゥールから降りると、マスターが手をさし出した。
「あばよ。短い縁だったが、たまにゃこの店とおれのヒゲを思い出してくれ」
「やだね」
京也は握手を拒否した。立てかけておいた阿修羅を片手に、四人組のテーブルへ向かう。
「おい!」
「いいから、いいから。心意気だけじゃ、この姐ちゃん助けられねえぜ。まかしとけよ、おっさん」
わざとでかい声張り上げたもんだから、テーブルの四人がびっくりしてこちらを見た。ススムが怒気を含んだ声で、
「なんのつもりだ。面白半分なら帰ってくれ」
京也は澄ました顔で彼の前に立った。
「まあまあ」と肩を叩き「熱血漢はえてして|融《ゆう》|通《づう》のきかないのが欠点だ。女の子はそこにジーン、とくる。キミ、ずい分泣かせた|口《くち》だろ。いや、わかるわかる。隠すな」
ゆうこちゃんが|哀《かな》しそうな眼でススムを見た。
「ススムさん……ほんと?」
「ばばばかな。冗談だよ。き、君、ぼくになんの恨みがある?」
京也は別のテーブルから椅子を運んできて、ゆうこの隣に陣取り、ほっそりした右手を取った。ススムには眼もくれない。
「手紙」は、右|肘《ひじ》に近いふっくらした部分を取り巻くような形で肉に溶け込んでいた。大きさは縦十センチ、横十五センチほどだろうか。こげ茶色の表面に赤黒い文字で、さっきマスターがいった通りの文句が刻まれている。
「羊皮紙に羊の血文字か、中世以来の道具だてだな。魔界ってとこは進歩がないのかね」
つぶやいて京也は「手紙」の上に自分の右手を乗せた。軽く眼を閉じ、ひとなでする。
「ああっ!?」ゆうこの驚愕の叫びが、沈んだ空気をゆるがせた。「手紙が消えたわ! しみ[#「しみ」に傍点]ひとつない!」
「これで君は自由の身だ。おめでとう」
呆然と自分を見つめる八つの瞳に、京也はいかにも得意そうに|微《ほほ》|笑《え》みかけた。
「……一体、どうやって? 君は何者だ?」
マスターがつぶやいた。
「さっきいったろ。おれはエクソシストなんだ」
「イエス・キリストときいたが」
「……まあ、いい。人助けのテクニックは企業秘密だ。おれが誰かなんてのもきくな。説明するのが面倒くさい。だけど、これだけはいっとく。やつらはこの手紙を目標にしてやってくるんだ。ラジオ・ビーコンみたいなもんさ。それを消しちまったから、ゆうこちゃんはもう安全だ。かわりにおれが誘拐される」
全員が目をむいた。
京也の計画はこうだった。ゆうこの服を借り、彼女に化けて妖鬼のアジトへ乗り込む。どんな強敵が待っているか知れないが、少女をさらうなんて、どうせろくでもない儀式の生贄にするつもりだろうから、必ず魔道士は姿を見せるはずだ。なんとかして彼を捕らえ、腕の一、二本へし折ってもニドムの手痕を消滅させる。ただし、敵地のどまんなかへ侵入して、彼自身生きて帰れるかどうか、そこまではわからない。とにかく首席の生命だけは救えるわけだ。そのあと世界がどうなるかは、一高校生の知ったことではない。
「さて、ゆうこちゃん、すまんけど、君のブラウスとこのトレーナーと換えてくれねえかな。身体つきがちと違うから、できるだけ女っぽい服装でカバーしたいんだ。なに、サイズが合わなくてもひっかけとくだけでいい。あとは口紅とお|白《しろ》|粉《い》をごてごて塗っときゃ、相手は地獄の化け物だ、男か女かわかりゃしねえよ。……待てよ、やっぱり無理か……そうだ、ブラウスの上にひっかけるコートかなんかあるかい?」
「奥の部屋に……。でも、『手紙』がなくなってしまった以上、送り主はもう来ないんじゃありませんか?」
「それじゃ困る。だから『手紙』はここにある」
京也がまくりあげた右腕を見て、みな、もう一度仰天した。
忌わしい皮の便箋は、その|上膊《じょうはく》部にぴたりと張りついていたのである。
声もなく見つめるゆうこを、核時計に目をやりながら京也はせかした。
「もう、二時五〇分だ。お迎えがくるぜ。早くコートを貸してくれ。なんでえ、その眼つきは? おれがこわいのかい?」
ゆうこの首が激しく左右にふられた。
「いいえ、いいえ。でも、あなたは誰なの、どこから来たの? どうして、あたしたちを助けてくれるんですか?」
「無責任な|爺《じじ》いどもに仕事を押しつけられたのさ」
「?」
「ほんとは、Cカップの美人に弱いんだ」
京也はニタリと笑った。ニコリではない。こういう笑い方をすると、実にいやらしい笑顔になる。ススムが警戒の表情をつくった。
京也はかまわず、ゆうこの顔の前に右の|頬《ほお》を突き出した。
「はい、お礼」
ゆうこはさすがにススムをふり向いたが、彼がアタフタしているのを見ると、意を決したように京也の首に両腕を巻きつけ、頬に口づけした。
京也の脳裏を、このとき、ひとつの顔がかすめて過ぎた。腰まで垂れた長い髪、涙を浮かべながら、決して流すことをしなかったひたむきな黒い瞳。
あの娘……なんていったっけ……
胸がかすかに痛んだ。
京也はそっとゆうこを押し放した。
「ありがとう、帰ってきたら、もうひとつ――」
声はそこで切れ、右手が|閃《ひらめ》いた。
パサッと音がして、阿修羅の|柄《つか》に薄いゴムの袋みたいな品がひっかかった。誰かが反対側の隅から投げつけたそれを、京也はかたわらに立てかけてあった阿修羅を取りざま、受けとめたのである。
しかし、反対側のテーブル――というよりこの店には、彼ら以外誰もいなかったはずなのに。
十二の瞳が一斉に薄暗い片隅に注がれた。テーブルの前に、黒い人影がひとつ、ぼんやりと浮かんでいる。
阿修羅の布袋が床へ落ちた。京也が本気で戦闘体勢を取ったのである。妖気は感じられないから魔道士の手先ではあるまい。だが、彼に気配さえ悟らせず店へ入りこんでいたとなると、ただのお客ではなさそうだ。
影がゆっくりとこっちを向いた。前髪を垂らした青白い顔の青年である。薄闇のせいでひどく頬がこけて見えるが、まだ二〇前後だろう。足首まで覆う黒ケープとトックリのセーターにスラックス、すべて黒一色で統一したその姿は、どことなく品のある顔つきと相まって、上品な悪魔を思わせた。
「誰だね、あんた……いつ入ってきたの?」
妖鬼だと思っているらしく、マスターの声は震えていた。返事はすぐにやって来た。
「ドクター・メフィスト……通りかかったらドアが開いていたので入れてもらった。すまないが話は全部きいた」
京也を除く五人が、あっと叫んだ。京也が『手紙』を消してみせたときより激しい驚きぶりだ。少しは知られた名前らしい。
「どこのどなた様だよ、マスター、この|気《き》|障《ざ》なドラキュラ野郎は? どうみたって日本人のくせに横文字の名前使いやがる」
青年から視線をはなさず京也が尋ねた。
「歌舞伎町にその名も高い凶悪サイボーグ集団『フリークス』を、たったひとりで壊滅させたお兄さんよ。おれはよく知らんが、やばい世界におそろしく顔がきくそうだ」
マスターの声には|畏《い》|怖《ふ》の念すらこもっていた。
「ふうん、若いのに大物なんだな。邪魔する気がねえんなら、黙ってすわっててくれ。こっちは取り込み中だ」
袋を投げ返そうとする。メフィストがとめた。
「持っていきたまえ、お近づきの印だ」
「趣味が悪いな。米屋の羊かんの方が受けるぜ」
「高分子ゴムに特殊処理を施した変装用の『もどきマスク』だ。顔につけて、化けたい人間の顔を見つめれば、五秒で同じ顔をもてる。詳しいことは知らんが、君の話から察して、いくら手紙の持ち主が変わったとはいえ、男女の区別もつかない相手とは思えん」
京也は少しのあいだメフィストを見つめ、それから核時計に眼を走らせた。逢魔が時まであと五分。
「なぜ、こんなものくれるんだ? |貰《もら》ったら返さねえぞ」
黒い影は声もなく笑った。
「レディの苦しむのを見ていられん|性《た》|質《ち》でね。君の目的がなにかはわからんが、敵の|巣《そう》|窟《くつ》へ乗り込む気らしい。だが、ここで正体がばれたらそれもおしまいだ。そちらのお嬢さんもまた狙われる。かぶればいいのだ。あとはマスクがやってくれる」
どこまで信じていいのかわからなかったが、京也は決断した。
「甘えさせてもらうぜ」
あっさりいってふりむき、頭からスッポリかぶって、ゆうこを凝視する。眼以外は鼻も口もついていないのに、マスクは生き物みたいに顔に密着し、みるみるゆうこのそれ[#「それ」に傍点]に変わった。
「髪の毛まで伸びたぞ……」とススムがつぶやいた。
三〇秒足らずで、顔だけはふたりめのゆうこが誕生したのである。
「また会おう」
ドアの方で低い|挨《あい》|拶《さつ》がきこえた。
みながはっとしてふり向いたとき、束の間開けてまた閉じられたドアから九月の風が流れ込み、黒衣の青年の姿はもうどこにもなかった。
「変わった野郎だ。もう一度会ってみたい気もするが……」
つぶやく京也の耳に、遠く、ひづめの音が忍び入ってきた。
ゆうこがブラウスの|襟《えり》をかきあわせた。外の冷気よりなお凍てついた鬼気が店内に満ちていく。
「おいでなすったな。待ってろ、いま出てってやるぞ」
顔こそ美少女だが、その不敵な声は、戦いにのぞもうとする若き戦士のそれであった。
カッ カッ カッ カッ
規則正しく大地を蹴る|蹄《ひずめ》の音とわだちのきしみが店の前でとまった。
八個の眼がドアを直視していた。ゆうことススムは奥の部屋に避難している。
どんな化け物が入ってくるのか?
ドアは開かれなかったが、それ[#「それ」に傍点]はやってきた。京也の右上腕から、直接、頭の中へ。
ドアを開けて出てこい。おまえは我らの闇なる儀式の貢物に選ばれた。もはや逃れる|術《すべ》はない。
声とは違う。思考だ。ただし、この世のものではない。頭の中に忍び入ってきただけで、京也はそれが、あらゆる意志と感情を|脆弱化《ぜいじゃくか》し、抑えつけようとしているのを感じた。
いかに意志強固な人間であろうとも、この魔界の指令の前には、ただ服従するだけの操り人形になるしかあるまい――それほど|戦《せん》|慄《りつ》的で、麻薬のような効果をもつ思考であった。念の壁でしっかり食いとめたものの、京也は舌を巻いた。
――手紙が精神攻略用の回路になってるのか、うまい手だ。人間が大した|理《わ》|由《け》もなく自殺したり、突然気が狂って通り魔殺人を犯すのは、知らず知らずのうちに、こいつらの手紙を貰ってるせいかもしれねえな。
呼びかけはさらに強さを増した。ぐずぐずしていると怪しまれる。京也は布袋の阿修羅を胸に抱き、内股で歩き出した。ナップ・ザックは奥の部屋に残し、ポケットの中身は財布だけだ。身軽になるためだが、ゆうこのハーフコートときたらきついことはなはだしい。
「待ってくれ」
ススムの声がした。
ふりかえった京也に、
「行くのか。ぼくたちは、君の名前も知らないのに」
「やーね」京也は女言葉で答えた。「あたし、ゆうこよ」
「ありがとう」ちょっぴり複雑な表情で、しかし、心からの感謝をこめてススムはいった。
「帰ってきてくれよな、きっと」
「あったりまえでしょ、おほほほほ」
「またな」
マスターの涙声を背に、「顔だけゆうこ」の京也は外に出た。
妖気と風の舞う街路に、噂通り、黒い馬車が待っていた。葬式馬車ではない。屋根のないオープン型対座二頭だて――一九世紀にヨーロッパで愛用されたバルーシュという|型《タイプ》だが、無論、京也にはそんなことわからない。わかるのは、一段高い御者台の人影から吹きつけてくる妖風だ。僧服と頭巾で人間らしく見せかけているが、まちがいない、魔界の妖鬼だ。夜目にも青白い手に握られた手綱は前方に長々とのび、二頭のやせこけた馬の鼻づらにまとわりついていた。やはり魔界の|化《け》|身《しん》なのか、身動きひとつ、|呼《い》|吸《き》ひとつせずに立ちどまっている。
京也はわざとよろよろ、動きを操られている風な足取りで馬車に近寄った。
「佐野ゆうこか?」
こちらも向かずに御者がたずねた。低く、冷たく、人間性を欠いた声。
うなずく。
音もなく馬車の扉があき、小さな|階段《ステップ》が足元に降りた。
「まて」
乗りこもうとした京也を御者が制した。いつのまにかこちらを向いている。
「大人しくやってきたのは殊勝な心がけだが、なにを抱えている? 前とは身体つきもちがうようだが」
――ははーん、最初にゆうこちゃんに眼をつけた奴だな、と京也は思った。こんなこともあろうかと、対策は考えてある。真にせまった涙声で、
「父の形見の刀です。どんな眼に|遭《あ》うのか知りませんが、せめてひと太刀なりと」
こういってから、うらめしげな顔がよく見えるような角度で御者を見上げた。ゆうこの顔をよく見せるためだ。
相手はそれでも、黒頭巾の奥から燃えるような眼で、京也の顔と全身を見くらべていたが、やはり、|瓜《うり》ふたつの変装は見抜けなかったらしい。
「小|賢《ざか》しい真似を。我らにこの世界の武器など通用するものか」
と|嘲《あざ》笑って前に向き直った。阿修羅を捨てろともいわない。京也が乗り込むや、黒馬車は風ひとつ[#「風ひとつ」に傍点]巻かずに走り出した。
どこをどう走ったのか、夜目のきく京也にもさっぱりわからぬ廃墟と瓦礫の山を抜け、約二〇分後、馬車は闇の中にひときわ大きくそびえたつビルの前にとまった。壁面に「BIG・BOX」の文字と、胸のあたりまで崩れ落ちた、走る男の巨大な絵が見えた。
「ホールへ入ったら、地下へ続く階段がある。それを降りろ」
「はいはい。なにさ、えらそうに」
京也が降りると、御者は馬車を操って走り去った。
「阿呆か。ここでおれが逃げ出したらどうする気だ?」
疑問はすぐ解消した。右手の手紙が再度、精神をコントロールしはじめ、扉もなくなった暗い入り口へ進めと促したのである。
だだっ広いホールには、壁や天井から剥がれ落ちた破片の山が積み重なっているばかりで、生き物の気配は感じられなかったが、京也はすぐさま、この場所が魔道士の隠れ家――少なくともそのひとつだと理解した。
妖気の量がちがうのだ。
闇に閉ざされたホールは、実に、おびただしい苦悶と|呪《じゅ》|詛《そ》の声に満ちていた。血の海でのたうつ|怨霊《おんりょう》の呪いとでもいえばあたるだろうか。
霊感ゼロの人間なら、わけもなく背筋がぞっとするか、貧血を起こして倒れるかする程度だろうが、京也には、暗黒の空間を埋め尽くした|亡《もう》|者《じゃ》の声がはっきりとききとれるのだった。
そのすべてが、先を争うように、際限もなく、御者のいった地下への入り口から噴きのぼってくる。
――ここで殺された娘や、助けにきてやられた恋人たちの声だろう。魔力で封じ込められているんだな。待ってろ、いま自由の身にしてやるぜ。
未知の力に支配されたおびえた少女の演技をくずさず、京也は階段を降りた。下はじめついた廊下で、「手紙」の導くままに進むと、少しして広い部屋にでた。
濃密な血の匂いが鼻をついた。
もとは食堂だったらしく、入り口の向かい側の壁には、料理の受け渡し口らしいカウンターがずらりとならび、部屋の中央に黒塗りの祭壇が安置されている。そのかたわらに置かれた長い三本の|燭台《しょくだい》には黒いろうそくが|点《とも》り、部屋全体をぼんやりと照らし出していた。
京也に向かって右手の壁から、|手《て》|枷《かせ》、足枷のついた太い鎖が何本も垂れ下がり、この部屋が祭祀室と同時に拷問部屋も兼ねていることを物語っていた。左側の壁には一面に|漆《しっ》|喰《くい》を塗った痕がある。床は万遍なく赤黒いしみで覆われていた。血だ。
苦悶の声は、ここでは絶叫に近かった。
「手紙」が右手の壁際へ進めと促した。
――手枷、足枷で|拘《こう》|束《そく》する気だな。それにゃ人手がいる。魔道士の野郎が出てくるかどうかはわからねえが、ここで女の子をどうこうする以上はいずれにしろ顔をみせるだろう。そのときが勝負だ。
京也は黙って壁際へ行き、壁を背にして立った。
次の瞬間、思惑は見事にはずれた。
手枷、足枷が蛇のように襲いかかり、足首を床に固定するや、両手を凄まじい勢いで頭上まで引っ張りあげたのである。
「きゃっ、痛いっ」
不意打ちにもめげず、黄色い悲鳴をあげたのはさすがだが、目ざす敵の姿も見ないうちに、四肢の自由は完全に奪われてしまった。大チョンボである。阿修羅も床に転がった。
手足をふりまわしても、鎖はびくともしなかった。妖力がかかっているのだ。
――やばいな、こりゃ。
唇を噛んだとき、ろうそくの炎が大きくゆらぎ、冷えびえとした黒い風の後を追って、長剣を手にした黒衣の男が、のっそりと部屋に入ってきた。
長身|痩《そう》|躯《く》。ひと目でアラブ系と知れる彫りの深い顔だちだが、何よりも京也の眼をひいたのは、ろうそくの炎より遙かに赤々と、毒々しい紅を|湛《たた》えてかがやく両眼であった。それには瞳がなかった!
魔界へ魂を売り渡したもののみが持つ、人間性への|訣《けつ》|別《べつ》の|証《あかし》――「|地獄眼《ヘルズ・アイ》」。
魔道士レヴィー・ラー。
ついに、というべきか、なんと、というべきか。新宿へ入りこんで三時間とたたないうちに、十六夜京也は求める相手と出食わしてしまったのである。しかし、この状態をラッキーと呼んでいいものか?
その証拠に、魔道士は、壁に張りつけとなった京也にむかい、戦慄そのものの言葉を吐いたのである。
「待っていたぞ、十六夜」
京也は|愕《がく》|然《ぜん》となった。いまのひと言で、この男が魔道士なのははっきりした。それはいいとして、馬車の妖鬼ですら見破れなかった変装を、こいつは、いつ、どうやって看破したのか?
魔道士はうす笑いを浮かべてつづけた。
「だが、女に化けてくるとは思わなかったぞ。その顔はどうした。見事なものだが、おまえの術か?」
京也はとぼけてみることにした。
「一体、なんのことですか? ここはどこ? わたしをどうする気? 家へ帰して下さい」
いい終えて、我ながらくさい[#「くさい」に傍点]芝居だと思った。
案の定、魔道士は笑いを崩さず、
「愚かな真似はよせ。おまえが馬車で着いたときから、わしには正体がわかっておった。人間界に出てからまだ日の浅い妖鬼どもは騙せても、わしの眼はあざむけん。おまえの身のこなし、女のふりはしていても、一分の隙もない。その眼くばり、足の運び、ヒマラヤでわしに剣の技を披露したときと、寸分変わらぬではないか」
――こりゃ、いかん、と京也は思った。心もち誤解はあるがすっかりばれ[#「ばれ」に傍点]てる。だけど、こうもあっさり正体を見破られちゃあ、|面子《メンツ》がたたねえ。もすこし、おちょくったれ。
彼は演技を続行した。
「いや、いや。ヒマラヤで雪男の|餌《えさ》にされるなんて、いや。お家へ帰して。あ、ヘンなことしないで。お母さーん」
泣きわめきながら身をよじったものだから、無理にはめていたコートのボタンがはじけてばらばらと床に落ちた。
魔道士の顔に疑念が湧いた。
「はて。わしと学んだ男は、これほど往生ぎわの悪い奴ではなかったが……。そういえば、身体つきもやや小柄だの。かといって弟子の動きがあれほど似るはずもないし。そうか、おまえ、十六夜弦一郎の息子だな」
とうとう見破られて、京也はなおもこう答えた。
「あたり。あたし、京子」
魔道士は哄笑した。それから冷酷そのものの顔つきに戻り、近づいてきた。
「ワル|餓《が》|鬼《き》め。顔ぐらいみておいてやろう」
冷たい指がひとなでするや、マスクはボロボロに崩れて床にたまった。
「さっぱりしたぜ」
京也はにこやかに笑いかけた。
「親父よりハンサムだろう、え?」
「ふーむ」と魔道士は感心したようにいった。「さすがは十六夜弦一郎の|伜《せがれ》。いい度胸をしておる。だが、これからどんな運命が待ち受けておるかを知れば、口をつくのは命|乞《ご》いの言葉だけになるぞ」
「おーこわ。ほんじゃ、泣き出す前に頼みをきいてくれねえか?」
「よかろう。いってみろ」
「首席の喉についた、ニドムとかいう化け物の手型――あれ、とってやってくれよ」
魔道士は冷笑した。
「馬鹿ものが。うん、というと思ったか?」
「いいや。話し合いが駄目なら、実力行使しかねえからさ」
「できると思うか、そのざまで。どのような力を親父から授かっているかは知らんが、その鎖には、エネルギーに換算すれば、火薬十メガトン分の念力がかけてあるのだぞ」
「やってみなきゃわからねえ」
ひょうきんな口調とは別人のような生き生きとした眼差しにとらえられて、魔道士は思わずたじろいだ。この小僧、負け惜しみをいっているのではない!
「じゃあ、もうひとつ」と京也は、むしろ、うきうきした調子でいった。「あんたが呼び出そうとしてるやつ[#「やつ」に傍点]の正体さ、ライ爺さんにもわからねえそうだけど、呼び出すのに失敗しただけで、新宿をこんなにしちまったんだ。さぞかし名のある化け物なんだろ? 地獄の王、サタンかい?」
魔道士の表情がさっとこわばったのをみて、京也は、してやったりと思った。しかし、魔道士は笑い出したのだ。
「くくくくく……そうか、サタンか。おまえたちはそう思っておったのか? 地獄の魔王が大地を突き破って出現し、ふた昔まえの怪獣テレビのように、世界を破壊してまわるとな?」
けたたましい|哄笑《こうしょう》を放ちつつ、魔道士レヴィー・ラーは声をふりしぼった。
「ちがう! ちがうぞ! わしが魔界の暗黒から招きよせんとしているのは、そんな|手《て》|垢《あか》のついた、子供騙しの存在ではない」
「へえ、じゃ、なんだよ?」
今度こそ、ややこわばった京也の問いに、なんとも身の毛のよだつ答えが返ってきた。
「人間たちは、すでに一度、それ[#「それ」に傍点]を知っておる!」
「なにい!」
「いまの人間たち――いや、強いていえば、この世界を|創《つく》りあげたものは、それ[#「それ」に傍点]なのだ」
まさに「衝撃の告白」。京也の顔は紙の色になった。
「てめえ、それは神さまだなんていうんじゃなかろうな」
「安心せい。神と魔界は、|永《えい》|劫《ごう》に相入れぬ敵同士よ」
――なら、一体なんだ? 京也の思考はめまぐるしく回転した。
この世界に絶望と恐怖をもたらし、窮極的には魔界それ自体に変えてしまうという底知れぬ邪悪な存在。それが、すでに一度、人々の前に姿を現していたとは。
――いや、それじゃつじつまが合わねえ。なら、なぜ、いまこの世界は無事なんだ?
頭のどこかで、何かがきらめいた。おぼろげな記憶の断片――この世に悪をまき散らすものの正体。まさか、あいつ[#「あいつ」に傍点]が、あれ[#「あれ」に傍点]が……
「なにかに気づいたようだな、小僧」
暗然たる京也の顔をじっと観察していた魔道士がいった。
「だが、おまえはここで死なねばならん。答えは後で教えてやろう。おまえの魂をわしが|頂戴《ちょうだい》してからな」
「金は払ってもらうぜ」
「ははは、気分転換の早いやつだ。気にいったぞ。十六夜の伜でなければ、わしの配下として生きのびさせ、魔道の技を仕込んでやるものを」
「実はぼく、養子なのです」いきなり、京也は、面接試験中の大学生みたいな声を張りあげた。
「なんでも言うことをききますから、この枷を解いて自由の身にして下さい、ボス」
魔道士は輪郭だけの眼を憎悪と殺意に爛々とかがやかせていった。
「胆っ玉が太いのか、頭のネジがゆるんどるのか――親父がいまのおまえを見たらさぞかし嘆くだろうて。だが、十六夜弦一郎の息子が、どうあろうと変節漢になれるはずはない。気の毒だが……」
魔道士の右手が長剣の柄にかかった。
「わっ、ちょっと待って。もうひとつ。これでおしまい。ボスの護衛をしてる化け物は何匹いるんです。子分にしてくれないんなら、そいつらとも敵同士ってことになる。やっつけなきゃならない。後学のために教えて下さいよお」
「貴様、まだ生きてここを出る気でおるな。ふふ、ようし、教えてやろう。三匹だ。それぞれ、火鬼、水鬼、土鬼という。いまは、もうひとつのアジトで、別の娘を魔界へ|捧《ささ》げる準備をしておるわい。星の動きの関係で、アジトはふたつあるのだ」
「それはどこです? それと、三匹はどんな妖力を使うので?」
質問しながら、京也はほぞを噛んでいた。もうひとり、罪もない娘が生贄に捧げられているとは! そういえば、「宮本武蔵」のマスターは、月にふたりの娘が行方不明になるといっていたではないか。そして、京也は知らなかった。それがさやかだとは。
最後の質問にはついに答えず、魔道士は、|鞘《さや》に入ったままの長剣を、|漆《しっ》|喰《くい》の痕も生々しい壁の方へ横なぐりにふった。
「さあ、でてくるがよい、|亡者ども《ア ン デ ッ ズ》」
そっちの方がよほど亡者っぽい不気味なかけ声が終わるか終わらないかのうちに、表面にさっと一条の|亀《き》|裂《れつ》が走るや、分厚い漆喰が砕けて床に散る鈍い連続音がこだました。
その背後にぽっかりあいた巨大な穴の中身を見て、京也の顔が派手に引きつる。
死体だ。それも、ただの死体ではない。一体や二体でもない。数もわからぬおびただしい|腐《ふ》|爛《らん》死体が投げこまれているのだ。直立しているもの、膝を抱えているもの、|仰臥《ぎょうが》した死体に、異様な格好で寄りかかっているもの……。
そのすべてが、腐り果てた衣服を身につけ、全身に|蛆《うじ》をわかせている。眼球は糸をひいて|眼《がん》|窩《か》から流れ出し、肩や腹の肉が溶け落ちて、白い肩甲骨や|肋骨《あ ば ら》が露出している。死後数週間を経ているのは明らかであった。それなのに、ついてまわるはずの猛烈な腐敗臭はまるでなく、それどころか、胸部はかすかに上下しているのだ! これは|生ける死者《リビング・デッド》であった。
「少しは驚いたか?」
沈黙した京也を、あまりにも無惨な光景に度胆を抜かれたと判断して、魔道士は得意げにささやいた。
「今日までにこの部屋を訪れた娘と、愚かしくも救い出しにきた親兄弟や恋人どもの成れの果てよ。やつらは、その祭壇の上でわしの手術[#「手術」に傍点]を受けた。わしが魔界との契りを継続するための聖なる儀式をな。思い出すたびに血が湧き立つわ。魂もろとも、そのあたたかさをも魔界に捧げたわしの血がな。手術が半分も済まぬうち、やつらは一人残らず殺してくれと哀願しおった。なんでもきくから楽にしてくれとな。そこで、わしはこういうのだ。魂を渡せ。そうすれば、心の臓へ慈悲のひと突きをくれてやる。やつらは承諾し、わしのさし出す羊皮紙に、台上に流れ落ちるおのが血で署名する。わしは約束を守ってやる」
過去におかした大|殺《さつ》|戮《りく》の|恍《こう》|惚《こつ》と歓喜に醜く|歪《ゆが》み、口の端から|唾《つば》さえとばしている魔道士の顔を、京也は憂いともとれる表情で見つめていた。魔道士の外道の言葉はなおも途切れずつづく。
「こわいか、おそろしくて声も出ぬか? そうだろう。しかし、まだ終わりではないぞ。やつらは確かに死んだ。死んでも安らかには眠れぬのだ。魂はわしのものだからな。契約書が保管されている限り、やつらの肉体も滅びることはできん。塵ともなれず、生ある姿にもとどまれず、あの通り、半腐れの状態で壁に塗りこめられたまま、身動きひとつできぬ窮屈な暗黒の中で、地獄の苦痛に|苛《さいな》まれなければならんのだ」
「なぜ、そんな真似をする? 魂を集めたなら、さっさと魔界へ送ればいいじゃねえか」
異様に静かな声で京也が聞いた。
「ほ。口がきけるようになったのか。よろしい。教えてやろう。もだえ苦しむやつらの魂の叫びこそ、わしにとってこの上ない天上の音楽だからだ。苦しい、死なせてくれ――やつらのこの哀願をきくたびに、わしの全身は喜びにわななき、もっと泣き叫べと答えを返すのじゃ。それにな、それほどの苦痛を与えられると、やつらはすべてわしの命令に服従するようになる。ほれ、こんな風に!」
魔道士の右手が招くように動いた。
死者たちの群れが壁の前[#「前」に傍点]に立っていた。
ぽとぽとと床で音がする。うなだれた|瞼《まぶた》からこぼれ落ちる蛆虫であった。
「おまえの『手術』はこいつらにまかせよう。わしの年期の入った方法より少々荒っぽいぞ。我慢しきれなくなったら、こう叫ぶがよい。魂と交換に早く死なせてくれと。こいつらがやったようにな。かかれ!」
魔道士の|叱《しっ》|咤《た》で死者の群れは前進を開始した。
「許さん……」
京也がつぶやいた。これまで沈黙していたのは、哀しみと怒りのあまり口がきけなかったからだ。死者に対する|哀《かな》しみ、悪に対する憎悪は、彼の念を灼熱のエネルギーと変え、その力を極限にまで高めつつあった。
「何の罪もない人たちを、これから未来を切り開こうとしている人たちをなぶり殺しにしたうえ、死んでまでも地獄の苦痛を味わわせようというのか。いや、人を殺させようというのか? 許さんぞ、魔道士レヴィー・ラー。おれの名は十六夜京也――いまはじめて、貴様の敵にまわる」
|凛《りん》然たる声であった。のんびり屋の眼が|悽《せい》|愴《そう》な光を放って「|地獄眼《ヘルズ・アイ》」を射た。魔道士は思わず顔を覆い、たじろいだ。すぐに怒りの表情を取り戻し、
「しゃらくさい。手足の自由を奪われて何ができる。小僧、そこから抜けられるか?」
京也はニコリと笑った。
「できる」
「なに!?」
「みろ! 十六夜念法!」
言葉と同時に、長い金属音がこだました。手枷と足枷がそろって床に落ちたのである。しかもどうはずれたものか、鉄の枷はがっちりと噛み合わさったまま。奇怪な妖力を神秘な念法が破ったのだ!
はっきりと恐怖と|狼《ろう》|狽《ばい》の相を浮かべ、魔道士は狂気のように号令した。
「かかれ! この小僧を八つ裂きにしろ!」
魂なき死者の青白い手が、どっと四方から京也の喉元めがけて殺到した刹那、びゅっと、空気をなぐ音がした。
「おおっ――」
魔道士が目をむいた。京也におそいかかった死者たちのうち、最前列の数人の身体がみるみるうちに崩れ、骨や腐肉の|堆《たい》|積《せき》と化した。次の瞬間、それは塵となって消えた。
身をかがめざま、床の阿修羅を拾いあげてなぎ払った京也の一撃に、死者たちの肉体は魂もろとも魔道士の呪いから解放されて、眠りについたのである。
続けて数回、阿修羅が|唸《うな》ったとき、部屋にはひとりの死者も残っていなかった。京也は阿修羅を青眼に構えて、むしろ静かに魔道士に近づいた。
「ひっ捕まえて、ライ老師に引き渡すつもりだったが……まあ、どっちでもいいぜ。かかってきたけりゃきな。ただし、おれは今怒ってる。だから命の保証はしねえ」
「ほざくな。それはわしの|台詞《せ り ふ》だ」
魔道士はゆっくりと長剣を抜いた。保持した手をぐっと前につき出し、反対の手を後方にまわしてバランスをとる。フェンシングそっくりの構えだ。
「おっ、こいつは凄え」
思わず京也はうめいた。剣|尖《さき》から、これまでとは質量ともに|桁《けた》ちがいの妖気が吹きつけてくる。
身体がぐんぐん冷却していくのがわかる。魔道士の姿がしだいに暗く遠くなっていく。
「さすが……たったひとりで世界を狂わそうってだけのことはあるぜ」
彼方から|嘲笑《ちょうしょう》ともとれる魔道士の声がひびいてきた。
「デモンの剣だ。七千年の昔、古代エジプトの鍛冶が魔神に捧げ、これまで数万人の首を|刎《は》ね、その血を吸ってきた魔剣よ。先刻の死体どもの息の根をとめたのもこれだ。殺されたものの怨念と、わしの妖力がこもっておるぞ。きさまの木刀ごときに破れると思うか」
だが、そういいながら、魔道士の顔も手も汗でびっしょりと濡れている。阿修羅の剣尖からほとばしる念が、彼の全身をしびれさせ、魔剣の妖力さえ封じ込めようとしているのだ。どのような大敵からも味わった覚えのない恐怖にとらえられ、魔道士は胸の内でつぶやいた。
――さすが、十六夜弦一郎の伜。ひとりでわしらに歯向かおうとするだけのことはある……。
木と|鋼《はがね》――ふたふりの剣から放たれる念の力は、まさに互角であった。相手の力に内心舌を巻きながら、ふたつの影は動かない。
と、
「えやあっ」
このままでは|埒《らち》があかないとみて、京也は一気に間合いを詰めた。続けざまに瞬速の突きを放つ。魔道士はからくも魔剣でよけた。鋼鉄と木の|刃《やいば》が噛み合い、そこから白い光と漆黒の闇とが生まれた。阿修羅とデモンの剣にこめられた念同士の戦いが、物理的な形をとって表れているのだ。光が闇をかき消し、闇は光を呑みこもうとする。
踏みこんできた京也へ、飛び下がりざま、魔道士が横なぐりに魔剣をふるった。鈍い音をたてて阿修羅がこれを受け、正邪ふたりの剣士は、渾身の力をこめて相手の刀を支えつつ、にらみ合った。京也の父と同い年だから六〇歳を越えているはずなのに、魔道士の力は異常に強い。それでも、じりじりと京也が押してゆく。魔道士も若いころからヨーガで鍛えてはいるが、やはり若さには及ばない。
「小僧、見ろ」
魔道士の瞳なき双眼が真紅の|光《こう》|芒《ぼう》をはなった。見たものすべての意志を|剥《はく》|奪《だつ》してしまう、「地獄眼吸魂」の妖力である。意志ばかりか生気まで奪われ、短時間だが廃人同様になってしまう。
しかし、京也はびくともしなかった。阿修羅の柄から全身にみなぎるあたたかい念が、京也自身のそれと合体して、彼を闇を貫く光の申し子と変えていた。太陽の光芒を放つ瞳に見返されて、地獄眼の魔光が急速に|褪《あ》せていく。
――いくぜ、父さん。
渾身の力と勝利への確信を込めて、ぐいと魔道士を押し放す。
「う、うわっ」
バランスを崩してよろめくところへ、必殺の一撃。逃れようのない速さと角度で肩へ。それなのに――
「しまった!」
京也は愕然と頭上をふりあおいだ。
阿修羅が切り裂いたのは黒いマントばかりで、魔道士の身体は、地上三メートルほどの高みにふわりと浮き上がり、そこで静止したのである。ヨガの秘術中の秘術「|空中浮遊《レヴィティション》」。連邦最高の科学者たちが解決の糸口さえつかんでいない反重力飛行法を、この魔人は自分のものにしていたのだ。
歯がみする京也を見おろして、魔道士は高らかに笑った。ただし、声がややひきつっている。京也はそれほど凄まじい剣をふるったのであった。はねとばされた瞬間敗北を悟って即座に逃走に移ったことが魔道士の命を救ったのだ。
「今日は|厄《やく》|日《び》のようだ。小僧よ、日をあらためて会おうぞ。それとも、ここまでこられるか?」
やせこけた黒シャツ黒ズボンの身体がすーっと入り口の方へ移動していく。ドアはすぐ目の前にあった。
「えい、くそ。逃げるな」
地上で地団駄を踏む京也の声がきこえた。
――恐るべき使い手だが、やはりまだ子供だな。
最後に優越の一べつを投げかけようと、魔道士がふり返ったそのとき、
「いえーっ!」
京也は大地を蹴った。京也が身につけたもうひとつの拳の道、少林寺拳法。四肢を護身の武器と化すこの武道にはもちろん飛び蹴りがある。通常、助走なしで一・五メートルも跳躍できれば上等とされているが、京也には二メートルを跳ぶ力があった。それに助走を加えて宙へとんだとき、彼は魔道士の頭上に達した。くやしまぎれの叫びは、魔道士の動きを止めるための頭脳作戦だ。
「殺されたみんなの|怨《うら》みだ。受けてみろ!」
ガッと骨の砕ける音。
「うわーっ!」
今度こそよけようもなく、上段からふり落とされた阿修羅の刀身を肩に受け、魔道士は三メートルの高みから、どっとコンクリートの床へ撃墜されていた。
ほとんど同時に京也も猫のように地上へ降り立つ。足音ひとつたてない。
魔道士は床で立つこともできずうめいていた。落ちたとき額を割ったらしく、どす黒い血が床を染めている。それでも魔剣をはなさないのは執念というべきか。
――いかん。血止めして、山科局長のところへ連行しなくちゃ。
空中で勝負あったと感じたときから憎しみと殺意は消えている。京也は足早に魔道士のもとへ近づいていった。
ごおっという音がした。
開け放たれたドアから、京也めがけてこげ茶色の突風が吹きつけてきた。とっさに京也は横へ飛び、風の攻撃を避けた。風にこもった妖気を感じて、磨き抜かれた反射神経が働いたのだ。即座に体勢をたてなおし、阿修羅を構える。
――妖鬼か、ついに出やがったな。
こげ茶とみえたのは、無数の塵であった。攻撃に失敗したと知るや、突風は大きく反転し、魔道士と京也の中間地点に人の形を吹きつけた。
「貴様が魔道士どのの言っていた敵か?」
と聞いたのは土鬼である。
「らしいぜ。おれは十六夜京也。貴様が護衛役の化けものだな。火か水か地面のどれだ? さっさと地獄へ舞い戻った方が身のためだぜ。大人しく帰れば念仏を唱えて|成仏《じょうぶつ》させてやるよ」
「しゃらくさい。わしらの世界へくるのはお前の方だ」
声が|凄《すご》|味《み》をおびた。
魔道士がよろよろと起きあがった。
「よくきたぞ、土鬼。こやつが生贄の女に化けておったのだ」
「左様で……。ここで殺した死者どもの魂の契約書が突然火を噴いたので駆けつけたのですが、間に合ってようございました。この場はわたしにまかせてお行きなされ」
よろめき、よろめき、暗い廊下へと消えていく魔道士の姿を見ながら、京也は動くことができなかった。
前方の妖鬼から一瞬たりとも眼を離せば致命的な攻撃を食うと悟ったからである。勝負は瞬間に決まるとの予感があった。
土鬼の全身がぽっとかすんだ。
茶色の塵が真正面から京也に吹きつけた。妖力「泥地獄」。塵と化した土鬼に全身を包まれたが最期、地球|規模《スケール》の大地殻変動が待っている。今度はよけることもできない距離であった。
突風が身体へとどく何十分の一秒かの間に、京也は無意識に阿修羅をふりあげ一気に打ちおろした。何もない空間へ。
押し寄せる茶色の旋風は阿修羅が描いた線のところでふたつに分かれ、ふりおろした姿勢のまま動かぬ京也の両脇をうなりをあげて通り過ぎた。背後で合流するや、ふたたび人型を描き出す。いや、今度は人間の形ではない。この世のものとも思われぬ、おぞましい妖魔の本体を!
第二波の攻撃に備えて京也は反転した。
「ぐわわーっ!」
断末魔の叫びが室内にこだました。
形容しがたい土鬼の姿は、その蛆をわかせた|熟柿《じゅくし》みたいな頭部から縦にずばっと裂け、またたくまに消滅してしまった。阿修羅の一撃は、その描いた線上に強力無比な念の刃を発生させ、そこを通過した敵の身体を再生不可能なまでに両断していたのである。
だが、京也もがっくりと床に|膝《ひざ》をついていた。
――やっと一匹。多分、土鬼ってやつだろう、ふう、さすがにきついぜ。
強敵を相手にするほど、念法には極度の精神集中が必要となる。さしたる苦もなくはずした手枷、足枷にさえ、魔道士は十メガトンの火薬量に匹敵する魔力をこめたといったではないか。それを破るのに、どれほどの精神集中と念エネルギーを必要としたことか。
荒い息を吐きながら、京也は無言で闇に閉ざされた入り口の彼方に目をやった。魔道士の気配はもうどこにもない。
――逃げられたか。もうひとりの娘さんが気になるけど、これじゃ、さがしようがねえ。
不安の色がその顔を染めた。偶然手に入れた絶好のチャンスを生かしきれず、魔道士を逃してしまったのだ。今度は敵も油断はしまい。京也の力を知った上でさまざまな戦法を駆使して襲ってくるだろう。あと三日のうちに、はたして、残された魔道士の隠れ家を探し出し、二匹の妖鬼を倒して、首席にかけられた呪いを解くことができるのかどうか。
入り口の彼方の闇が淡く色づきはじめた。「魔界都市」にも夜明けが訪れたらしい。
京也は阿修羅にすがるようにして廊下へ出た。
PART5
魔道士は寝台に寝かされていた。広大な地下広場を思わせる例の本拠地の一室である。
「いよいよ、あれを使うときがきた」
沈黙したまま自分を見下ろしている水鬼と火鬼に、魔道士は右手をのばして、奥の闇に|据《す》えつけられている装置を示した。
「わしは、まもなく死ぬ。後のてはずはわかっているな」
二匹の妖鬼は声もなくうなずいた。自分たちを呼び出した主人が死にかかっているというのに、その姿にはまるで感情というものがない。
魔道士は憔悴しきっていた。骨と皮ばかりだった顔がもっと|髑髏《ど く ろ》そっくりになり、光を失った地獄眼のふちを黒ずんだ膜が覆っている。死相が浮きでていた。
左肩と頭部にいかにもその場しのぎに包帯がまかれているが、彼の生命の灯を消しつつあるのは、京也の剣で受けた傷それ自体ではなかった。魔界に魂を捧げ、その見返りとして得た邪悪なエネルギーは、いつしか彼の生命力そのものと化していたのである。京也の一撃は、正確にいうと、一撃にこめられた京也と父・弦一郎の念は、その黒い生命力を粉砕してしまったのだ。医学的にみれば、肩甲骨と|鎖《さ》|骨《こつ》が砕けただけだが、魔道士にとって、それは、もっと深い生命の根源ともいうべき部分を修復不可能なまでに破壊された致命傷なのであった。
からくもアジトへたどり着いた彼は、自らの死を悟り、妖鬼ふたりを|枕辺《まくらべ》へ呼び集めた。しかし、呼吸はとぎれがちとはいえ、|瀕《ひん》|死《し》のはずの顔には敗北の色など|微《み》|塵《じん》もみられない。
魔道士は上半身を起こした。
「死ぬまえに、せめてもうひとりの娘ぐらいは魔界へ捧げねばなるまい。ここへ連れてこい」
火鬼が奥の通路へと姿を消し、さやかを連れて戻った。
双頭犬に襲われ、チンピラ・サイボーグと一戦交え、最後は妖鬼たちに|拉《ら》|致《ち》されるという、ふつうの少女ならどれひとつとっても卒倒ものの体験を積んできたのに、その天真爛漫な美しさは少しもおとろえていない。きっと正面から魔道士を見据えた眼も|気《き》|魄《はく》満々であった。
かえって魔道士の方がその気品あふれる|美《び》|貌《ぼう》に驚いた。土鬼と水鬼がさやかをここへ連れさらってきたとき、彼は高田馬場のアジトにいて、今が初対面であった。
「ほほう、美形じゃな。およそこの町にはふさわしくないような気品がただよっておるが……」
「あなたが魔道士レヴィー・ラーですね」
さやかは静かにいった。
「もう逃げも隠れもできません。この悪魔たちを魔界へ帰し、お父さまにかけた呪いをおときなさい」
魔道士の顔がきっと引き締まった。
「お父さま……? 娘、名は何という?」
「さやかと申します」
「おお――やはり、羅摩首席の娘御か? 浮世離れした台詞もそれで合点がいくぞ。父と似て、俗世の汚れを知らぬ聖女のように育てられたときいた」
「お世辞をいっても駄目です。今すぐ呪いをおときなさい」
「くくく、そう恐い顔をせんでも、わしはもうじき死ぬ」
「え?」
「知っておろう――十六夜京也とかいう若造を。おまえたちが見込んだ通りの使い手よ。もっとも半分は父親の力もあるがな。とにかく見事このわしに致命傷を与えおった」
戦慄すべき敵たちの真っただ中で、憎悪と呪いに満ちた視線を浴びながら、さやかの両眼にみるみる熱い涙が盛りあがってきた。
「やはりあの方はきてくださった。これで、お父さまも世界も救われる……」
「そうはいかん!」
血も凍るような魔道士の一喝に、さやかは思わず身を震わせた。そのひと声で、眼前の魔人が死の|淵《ふち》にありながら、なおも勝利を確信していると悟ったのである。陰々たる声がつづいた。
「わしは死ぬが、また戻ってくる。しかし、だ。ふたたび歩けるようになるには時間がかかるだろう。そのあいだに、あの若造にこのアジトを見つけ出されては、ちと厄介だ」
それから、不意に口調をかえ、さやかの全身をなめまわすように見つめながら、
「おまえ、あの小僧を好いておるな? 隠さずとも、いまの態度でわかる。だが、それがあいつの命取りになるぞ。なぜ、ひとりで新宿へなどやってきた。あいつにまかせておけばよかったものを」
恐怖の予感にとらわれて身をひるがえそうとしたさやかの腕を、二匹の妖鬼が左右からおさえた。
「離して下さい。これ以上罪を重ねてはいけません」
と叫んでもがいてみても、もちろん自由にはしてくれない。
「そう暴れることはあるまい。好きな男に会わせてやろうというのだ」
「京也さんの居場所を知っているのですか?」
「いや。だが、お前に案内してもらう」
「わたくしは存じません。この街へきたのも、わたくしの一存なのです」
「おまえは知らずともよい。だが、影は知っておる」
「え?」
「影とは、単なる二次元の分身ではないのだ。おまえの意識せぬ思いも、影は承知しておる。|愛《いと》しい男を|抹《まっ》|殺《さつ》する手伝いですまぬが、使わせてもらうぞ」
「おやめ下さい。はなして!」
ドッと鈍い音がした。魔道士が寝台にたてかけてあったデモンの剣をつかみざま、さやかの影に投げつけたのである。影の喉もとからコンクリの床に半ばまで突きささった呪いの剣は、|嘲《あざ》|笑《わら》うように小刻みにゆれた。すると、ただそれだけのことなのに、さやかは、まるでその部分を本当に刺し貫かれたような激痛を感じ、妖鬼の腕の中で失神してしまった。
魔道士が顎をしゃくった。妖魔たちがうなずき、さやかもろとも一歩さがる。じっと、さやかの足もとをみつめていた魔道士の唇が苦痛とも|愉《ゆ》|悦《えつ》ともつかぬ、|凄《せい》|惨《さん》な笑いにひきゆがんだ。
「やってのけたぞ……妖力『影さらい』」
なんと、さやかの足元から数センチはなれた床の上に、まぎれもないその影が、魔剣に縫いつけられた形のまま残っているではないか。
「では、この娘は生贄の壇に?」
火鬼がきいたが、魔道士は首を振った。
「いいや。まだ、大切な役目を果たしてもらわねばならん。その若造を倒すのは、おまえたち二匹の力をもってしても難しい」
「お言葉ながら……」
「まあ、きけ。その力の半分は、奴が愛用している木刀に込められた奴の父の念による。つまり、その刀を奪い取ってしまえば、小僧自身の念はまだまだ未熟だ。おまえたちふたりの術で十分打ち滅ぼすこともできよう。で、その策じゃが……」
さやかを支えている二人の妖鬼に、魔道士は息も絶えだえの声で何やら策を与えた。それが済むと、水鬼にさやかを連れていけと命じ、自分は再び寝台に横たわった。
火鬼がゆっくりと、それを奥の方へ押しはじめた。薄闇の世界に、台についた車のきしむ音だけがうつろに響く。それと、限りない恨みと憎悪とが粘りついた断末魔のつぶやきが。
「見ておれ、十六夜の|小伜《こせがれ》……わしは、すぐ戻ってくるぞ……」
それきり、声も、切迫した呼吸音も消滅した。魔道士はこと切れたのである。
勝負あり。この瞬間、アメリカの羅摩首席の喉から、呪いの手型は跡形もなく消え失せたはずだ。世界魔界化計画は|頓《とん》|挫《ざ》したはずだ。
それなのに、火鬼は動揺した風もなく、黙々と寝台を運ぶ。
前方の闇の中に、奇怪な彫刻を施した黒い祭壇と、周囲を取りまく電子装置の群れが浮かび上がってきた。
寝台を壇の横にすえると、火鬼は、どこからともなく一枚の金属カードを取り出し、かたわらの|医療《メディカル》コンピューターにインプットした。パネルが点滅し、機械が生気をおびる。四方に装備された音声装置から、無機質な合成音が規則正しいリズムで流れ出した。魔界の呪文である。妖鬼らしくもない、死者を葬う儀式か?
いや、魔道士の死体から、じくじくと淡い光がにじみはじめ、呪文に追いたてられるみたいにすーっと死体の上に立ち上がった。
魔道士の霊魂だ。しかも、人間の形をしている。戻ってくる≠ニの意味はこれか? しかし、魂では戻ってきて≠烽ヌうしようもあるまい。
人型の光は、寝台の脇に立つ火鬼の方を見てニヤリと笑った。眼も鼻も口もないのに、笑ったとしか思えない「表情」をつくった。それから、ひょいと祭壇にとび移り、また横になった。
同時に呪文がやんだ。火鬼が後退する。コンピューターの指令をうけて、端末機にあたる電子装置が数台、祭壇の周囲へ集まってきた。一台は、超音波メスやレーザー縫合器を備えた手術装置だが、残りの数台は、巨大な部品収納ユニットや無数の組み立てアームからみて、明らかに超小型のロボット組み立て機構だ。しかも、各々の装置には、その本体から、超音波メス、組み立てアームのネジに到るまで、すきまなく魔界の呪文が刻みこまれている。これから行われるのは、まちがいなく、魔力と電子工学が一体となった、ありうべからざる手術であった。
だが、何のために?
そして、遺体と霊魂――そのふたつの顔にともに浮かんだ自信に満ちた笑いの意味は?
「ほら、|兄《あん》ちゃん、朝飯だぜ」
無愛想なドラ声とともに、ノックもせずにホテルの親父が入ってきた。両手にプラスチックの|盆《トレイ》をささげ持ち、脇の下にはうすっぺらな折りたたみ地図をはさんでいる。朝飯といっても、盆にのっているのは犬も吐き出すという|宇宙軍食《スペース・レーション》だ。どうせ横流し品だろう。
「なんでえ、こんな豚の|餌《えさ》。一泊百クレジットもとりゃがって、客に食わせる代物かよ」
ろくすっぽスプリングもきいてないぼろベッドの上で|盆《トレイ》を受けとりながら、京也は毒づいた。昨夜、魔道士との対決のあとで、やっとこのホテルが一軒だけあいているのをみつけてころがりこみ、少しまえに眼をさましたばかりだ。若いだけに疲労感はすっかり消えていた。
「いやなら食わなくてもいいんだぜ。よこしな。別の客にまわす。ただし、飯代はもらうぜ」
「わかったよ、この守銭奴親父」
親父の腕からすばやくトレイをひったくる。ま、食事をもってきただけでもましだろう。なんたって、ここは新宿なのだ。
「そうそう、黙って食やいいんだ。大体おめえ、こんないい部屋に入れてもらって、なに文句をたれる筋合いがある。餓鬼の分際で明け方にとびこんできて、昼近くまでぐーすか寝てやがってよ。もう十一時だぜ。泊めてもらえただけでもありがたいと思え」
「わかったよ。ところで、ありゃ何だい?」
味もそっけもない、ウエファースそっくりの合成食を飲みこみながら、京也は窓の外へ顎をしゃくった。
窓から二メートルほどの空間に、別の空間が浮かんでいた。夕焼け色をした幅五メートルくらいの楕円形で、奥行きがあり、そっちへ行くに従って赤の色が強くなる。縁全体がぶるぶるとわなないている様は、巨大な飢えた口を連想させた。
「わからねえんだな、これが」親父も|禿《はげ》頭を横にふった。「魔震以来、そこにあるんだ。学者の話じゃ、魔震のエネルギーが空間をねじ曲げた結果、発生した異次元空間ちゅうけどな。こっちから物を放ると何もかも呑みこんじまうんで、みながまぐち≠チて呼んでるが、放っときゃ何もせん。気にするこたねえよ」
「気にするよ」京也はいやな眼付きで、|茜《あかね》色の唇をにらみつけながらいった。「寝てる間にガブリとやられなくてよかったぜ。まあ、いい。おっさん、頼んどいた品物持ってきてくれたかよ?」
「ほらよ」親父は新宿区の地図帳をベッドに放り投げた。「針と糸は盆に乗ってる。全部で二〇〇クレジットだ」
「勘定と一緒にチェック・アウトのとき払うよ。いいだろ?」
と京也は、針に巻きついた強化糸をほどきながらきいた。今朝眼を覚まして着替えようとしたら、トレーナーの袖口がスッパリ切れているのを発見したのだ。昨夜、魔道士の魔剣を受けたときのものだろう。幸い腕には別状なかった。
「あいよ」親父は愛想よくうなずいてから、急にこずるい表情になった。「だがよ、その地図は魔震まえのもンだ。大体んとこは同じだが、ビルが崩れて道をふさいだり、細かい違いが大分ある。それによ、地図だけじゃ街の様子まではわかるめえ。いまちょうど他に客もいねえし、身体もあいてるから説明してやろうか? 時間三〇クレジットで」
「ガリガリ亡者め。足元見やがって。おれの飯を別の客にまわすんじゃなかったのか」
カッとして立ち上がりかけ、京也はなんとか気を取りなおした。敵のアジトを探すのにもはや一刻の|猶《ゆう》|予《よ》もならない。いちいち通りすがりの連中に道をきいている|暇《ひま》はないし、物騒な場所へまぎれ込んでトラぶりでもしたら、それこそ自滅だ。金には変えられない。
京也の表情からそれを読み取って、親父は|卑《いや》しい笑い声をたてた。
「へっへっへっ。毎度ありがとさん。どれ、どの辺から知りたい?」
部屋の隅に立てかけてあった粗末なスチール製の椅子をひっぱり出し、親父は京也と向き合ってすわった。二〇畳分はあるだだっ広い部屋の、ただひとつの家具である。
「まず、このホテルの位置は?」
親父は大きく広げた地図の一点を指さした。
「なにィ? 早稲田大学理工学部う!? ここはもと学校かよ。そういや、やけに広いばかりで何もねえ部屋だと思ったぜ。入り口はふたつもついてるくせに、洗面台もシャワーもねえ。まさか、教室とはな」
京也は肩をすくめた。
「で、次だ。いちばん物騒なところはどこだい?」
単刀直入に「化け物のいそうなところは?」ときいてしまいたいが、逆にいろいろときかれては面倒だ。
「そら、おめえ、歌舞伎町よ」こういって、親父はおかしなニヤニヤ笑いを浮かべてためらった。
「――いや、多分、ここだろう」
指は「新宿副都心」と記された一角をさしていた。この場所は京也も知っている。新宿駅西口から数十メートル、京王プラザホテルを筆頭に、新宿三井ビル、新宿住友ビルなど、四〇階以上、一〇〇メートルを越す高層ビルが林立し、背後には新宿中央公園を擁する広大な土地だ。面積約〇・七九平方キロ。ビル街は魔震でも倒壊せず、それがかえって、大地震の恐ろしさを浮き彫りにしているときいた。
「なぜ、ここが? 化け物でもでるのかよ?」
とかまを[#「かま」に傍点]かけてみたが、親父はあっさり首を振った。
「わからねえ。要するに、ここへ入って帰ってきた奴がいねえんだ。五年まえ、腕に自信のあるエスパーやくざが二〇人、用心棒のアンドロイドを連れて、針ねずみみてえに武装して探検に出掛けてから今日まで、この街の連中は誰も入りこんでねえはずだよ。まわりに|柵《さく》をはりめぐらして近寄れないようにしてあるが、|他《よ》|所《そ》からきた馬鹿がたまに見物にいっちゃあ、行方不明になるって話だ」
「死んだのかな?――それとも」
京也は人さし指で首をかっ切る真似をした。
「さあてな。霧の深い晩になると、あの土地から、何十人ものうらめしそうな泣き声がきこえたり、ぼろをまとった白い影が集団でさまよってるのを見たって奴がいたりするがね。そうそう、時たま、オートバイの爆音がきこえるとよ」
「オートバイ? でかい音を出す機種なんざ、十年も前にお払い箱になったはずだぜ」
「それについちゃ、おれもよく知らねえ。ただの噂よ」
京也は首をひねった。いかにも、魔道士や化け物が隠れるのにもってこいの場所だが、オートバイってのが気になる。まあ、行ってみりゃわかるさ。
「で、歌舞伎町のあたりは?」
「ひと言でいや、|無法地帯《アウトロー・ゾーン》よ。宇宙サイボーグ崩れだの、非合法エスパーだの、やくざだの、とびきり凶悪な奴らが集まってる。あの辺は廃墟の山で、隠れる場所にゃ事欠かねえし、連中相手の店や金融機関まで顔を出してる。金さえありゃ、悪党には住み心地のいいとこだろう」
「金がなくなったら?」
「まわりの奴から失敬するか、『安全地帯』へ出張する」
親父の指は、赤く|縁《ふち》どられた新宿区の境界線上をなぞった。
「落合一帯から西早稲田、山吹町……このあたりは比較的まともな連中が群れを成してるからな。奴らのいい獲物よ。奴らだって食わにゃならんし、サイボーグやアンドロイドなら、原子炉のエネルギーも補給せにゃ生きていけねえ、火星の|寄生体《ボディ・スナッチャー》に取っ|憑《つ》かれた奴なんざ、それにも栄養を与えてやる必要があるんだ。もっとも近ごろは『安全地帯』の連中も武装強化で対抗してるから、昔ほど楽には稼げなくなってるらしいがな。
まとまった金が欲しくなりゃ、またぞろ『外部』へ御旅行よ。なにせ、|機動警察《コマンド・ポリス》の装甲戦車を片手でポイしたり、トーキョー|市銀行《シティ・バンク》の大金庫を|分子浸透《モレ・インター》で通過しちまったり、絵の中の人物そのものに化けて美術館に入りこんだりするくらいの芸当は、朝飯前の連中ばかりだ。暴れだすとまるで局地戦だぜ。外部じゃ、連中相手に戦術核バズーカの使用も考えてるってホントかい?」
京也はわからない合図に肩をすくめた。ここも大いに見込みありだ。そんな連中のごろごろしている街なんて願い下げだが、でもいかねばなるまい。
「四谷一帯――左門町、須賀町、大京町なんかはどうだい?」
「市谷の自衛隊駐屯地近くに、民間の遺伝子研究所のビルがあってな。コンピューターを何台も使って、かなり大がかりな組み換え実験をやってたらしいんだ。地震でビルはぺしゃんこ。そのあと、どうなったかは知らねえが、三カ月ばかりして、首がふたつある|巨《おお》|犬《いぬ》だの、全長二〇〇メートルもある大蛇だのが、その辺からワンサカでてきたのをみると、|記憶装置《メ モ リ ー》内の遺伝子データと、末端実験装置のサンプルがでたらめに組み合わさって、とんでもねえ怪物を大量に産み出しちまったらしい。小型車が何台も蛇に飲みこまれたりしたんで、今じゃほぼ無人地帯さ。怪物どもは、駐屯地のあとや、フジテレビの廃墟、それと新宿御苑に棲んでるって噂だ」
「化け物屋敷だな、新宿ってとこは」
京也は頭をかいた。見通しは大分暗そうだ。副都心も歌舞伎町も、いや、どこもかしこも怪しく思える。一体、どこから手をつけたらいいのだろう?
「とりあえず、歌舞伎町の方へいってみるか。どういきゃいい?」
親父は、またもや地図の一点をさしてニヤついた。
「この地図通りにいけば、二〇分で新大久保のマーケット街にでる。そこでタクシーが拾えるよ。だけど気をつけな。歌舞伎町ほどじゃねえが、あそこもやばい野郎の集積場みてえなところだ。ふたつのチンピラ・グループがマーケットの支配権を狙ってて、いつ全面戦争をやらかすかわかったもんじゃねえ」
「さあ、ルナ・コロニー産の地球光培養キノコ。万病に効くよ。早いもン勝ちだぜ」
「オーストラリア直輸入の自然牛肉。ほんものの肉だぜ。ほら、血がでてるだろ。働きもンの父ちゃんに精をつけてやんな」
「連邦食料局の横流し品、高分子ミネラル・ドリンク千ケース。三割引きで奉仕中」
威勢のいい掛け声が入り乱れる――もと国電・新大久保駅前の大マーケット街。
新宿には他に、いくつもの自給自足のマーケット街が存在し、特に区のほぼ中央にあたる若松町と、北西部・中落合のマーケット街は、規模も大きく品数も豊富でにぎわっているが、とてもここには及ばない。
魔震で崩壊した建築物の瓦礫の山をどうやってか取り除き、もとの駅の敷地にあたる広場を中心に、半径三〇〇メートルの土地を毒々しい色のユニット店舗がびっしりと埋め尽くしている。放射状の細道を、一般客にまじっていかにも犯罪者然とした崩れた感じの男女や、サイボーグ、エスパーらが押し合いへし合いしながら流れていくさまは、壮観のひと言につきる。一日にさばかれる商品の量は千トンとも二千トンともいわれ、現在の新宿区民=魔界都市の住人一万五千の約半数は、この市場のおかげで生きていられるといっていい。
広い通りを横に入ると、
「連邦宇宙軍払い下げ熱線銃ダーディックスM7。エネルギー・マガジン五個付き、二千クレジット」
「機動警察の大型掃討ロボットも一発でおシャカ。金属腐食砲13型。一万クレジット」
と、かなり物騒な品を、表通りに負けない大声で売りまくっている。
他にもあるわあるわ。錆ついたレーザー砲、猛烈な気圧変化を起こし、生物ばかりか鉄板まで切り裂く気圧ガン鎌いたち=B親指の先ほどの大きさで、直径五百メートル四方の物体は、すべて天空高く吸い上げてしまう大竜巻を発生させる|気象爆弾《ウェザー・ボム》トルネード=B
「外部」の治安担当官が見たら泡を吹きそうな兵器が、所狭しと、さほど広くない店舗の台上に|勢《せい》|揃《ぞろ》いだ。
店ばかりではない。ちょっと眼つきが悪くて金のありそうな客が通りかかるや、横合いからさっと黒い影がすり寄ってささやく。
「掘り出しもんの変身薬|J&H《ジキルアンドハイド》≠りますぜ。純度九九パーセント。虫も殺せねえ腰抜けでも、人の五人や十人平気で|殺《ばら》せます。薬が効いてるあいだは、マグナム・ライフルの弾丸も通りません」
こうなると麻薬の取引同然だが、法律的にそれと同じ分野に属する兵器――|暗殺兵器《ヒ ッ タ ー》も、駅からやや明治通り寄りの、もと金竜寺あたりの一角に堂々と陳列されている。
狙った相手の耳から侵入し、プログラムされた暗示を高周波の形で脳内へ送り、発作的に自殺へ走らせる通称|おしゃべりな蚊《スピーキング・モスキート》=\―これは、暗示の深さ次第で、実に奇怪な殺人が可能となる。路上を歩いている人物に、ここは地上数十階のビルの屋上だと思いこませ、飛び降りろと命じる。犠牲者はその場でジャンプし、数十センチの高さから着地した瞬間、即死する。外傷はゼロ。しかし、検査の結果、脳や内臓および全骨格は、まさしく遙か上空から落下したかのように、ぐしゃぐしゃになっているのが発見されるのだ。
他にもある。人間の身体の細胞構造を変化させ、数時間だけ虎や狼や鷲の特性をもたらす様々な変身薬。数十センチ四方に塗るだけで、部屋や家屋に「食欲」を起こさせ、住人を食わせてしまう、無機物用食欲増進ペンキ=Bすれちがいざまひと突きすると、数時間後にはじめて効果が発生する時間差攻撃ナイフ=c…。
いわくありげな客と店員が、なにやらヒソヒソと交渉するあいだにも、通りではひっきりなしにののしり合いと罵声の連続だ。あっちで「泥棒!」の声があがったかと思うと、こっちではピカリとレーザーガンの|閃《せん》|光《こう》がきらめき、なにかをわしづかみにして逃げ出したサイボーグが火に包まれてのけぞる。間髪いれず、二台の死体運搬器が出現、まだ煙をあげている死体をフレキシブル・ハンドでからめ取るや、専用の「火葬場」へと運び去っていく。束の間途切れた人の流れは、数秒後、何事もなかったような無関心さで以前と変わらぬ方向へと流れはじめる。――確かに、魔界都市を象徴する街のひとつにはちがいない。
羅摩さやかは、そんな通りの一本を、もと駅の方角から明治通りへむかっていた。ちょうど京也が眼を覚ましたころだ。
近くに妖鬼の姿がないことから判断すると、逃げ出してきたのだろうか?
ちがう。
美しい顔は人形みたいに無表情だし、歩き方もどことなくぎごちない。もし、彼女の足元に眼をやるものがいたとすれば、眼よりも自分の頭を疑ったろう。スラリとした影がくっきりと地に墜ちている。ところが、その影は本体から切り離され、数十センチ先の地面をひとり[#「ひとり」に傍点]で歩行しているのだ!
さやかが転びかけると、影も同じ動作をするが、すぐに踏みとどまって先を急ぐ。すると、さやか本人もおかしな具合に体勢をたてなおし、透明な糸に引かれるかのようにぎくしゃくと歩きだすのだった。影が本体を操っている。これを妖力「影まねき」という。
「ちょっと待ちなよ」
明治通りまであと二〇メートルという地点で、さやかの前に突然、数個の人影が立ちふさがった。
うちひとつは横幅がずば抜けて大きい。銀色の宇宙戦闘服に身を包んでいるが、どこもかしこもはち切れそうだ。しかも、女だ。このマーケット街の支配を狙っているチンピラ勢力のひとつ「ヒポポタマス・グループ」の女|親《ボ》|分《ス》、|九重《ここのえ》よしこである。頬紅だかペンキだか、とにかく趣味の悪い染料をベタベタ塗りたくったアンパンそっくりの顔に、細い眼とへの字型の口が、さも意地悪そうに収まっている。性質は凶暴陰険、喧嘩と|拷《ごう》|問《もん》が飯より好きという噂があるから、この女の眼の届く範囲には幼児も近寄らない。魔界都市の悪党を代表するような女である。
さやかに絡んだのは、女の本能で、容姿性格とも全く正反対のタイプと察したからだ。やくざのよくやるいやがらせである。
「ねえちゃん、あんた『|外《そ》|部《と》』の人間だね。こんなところで何してるんだい、スパイかい? 正直に答えないと痛い目に遭うよ」
小山のような体格に支えられた脅し文句は迫力十分だが、さやかはうつろな表情で突っ立ったままだ。妖力「影さらい」で影と分離させられて以来、彼女の自我は一種の|催《さい》|眠《みん》状態に置かれているのである。今のさやかは、影を操るものの命令にのみ従う美しいマリオネットにすぎない。
よしこの眼が凶悪な光をおびた。無視された、と思ったのだ。
「ははん。あたしみたいな不細工な女には口もきけないっていうんだね。ちょっとばっかり顔の造作がいいからってお高くとまりやがって。おお、ちょっくら顔貸しな」
さやかはたちまち、通りをはずれた廃墟のあとへ連れ込まれた。商品を積んでおく場所らしく、かなり広々としたコンクリートの土台のあちこちに、コンテナや段ボールが山を成している。十メートルほど向こうの床から、水道管と蛇口だけがぽつんと突き出ていた。昔は倉庫の一室だったらしい。
「この|野《や》|郎《ろ》」
さやかと向かい合った途端、よしこが殴りかかった。九五キロの体重に加えて十分に腰の入ったパンチは、何人もの顎を砕いた実績がある。
しなやかな身体が音もなく移動し、巨体は勢いあまってバランスを崩し、大地につんのめった。|河《か》|馬《ば》と|女《め》|鹿《じか》ではスピードがちがう。
「いててて」
狂気に近い憤激の表情を浮かべて、よしこは起きあがった。子分の前でしろうとになめられてはしめしがつかなくなる。やくざもチンピラも、恥をかくことを極度に怖れるものだ。半狂乱でわめいた。
「そ、その|女《スケ》に、この街の礼儀を教えてやんな」
「へい、姐御」
「この|女《あま》ァ!」
女親分の号令一下、チンピラたちは四方からさやかに殺到した。
その姿が不意に沈んだ。
「ぎゃっ!」
全員が一斉に短い悲鳴を発し、灰色の床に呑みこまれてしまう。水みたいな飛沫がとんで、よしこの頬にかかった。それは、コンクリート色をしていた。
どこからともなく、耳を覆いたくなるような悲鳴がきこえてきた。それにまじって、ボリボリ、バリバリと肉や骨をかみ砕く音が。
よしこの眼は、奥の水道管に注がれた。悲鳴も音もそこからきこえた。そればかりか、誰も|栓《せん》をまわさないのに、蛇口から激しく水がほとばしりはじめ、その色はみるみるうちに、ピンクから赤、ついには鮮血そのものに変わったではないか!
「ひええーっ。ば、ばけものーっ!」
今までの太い声とは正反対の金切り声でひとつわめくや、よしこは巨体に似合わぬスピードでマーケットの雑踏に消えた。
ひとり取り残されたさやかに蛇口が命じた。
「邪魔ものどもめ……だが、ちょうどいい腹ごしらえになったぞ。さあ、影とともにゆけ。本当の敵のもとへとな」
十数分後、さやかは「早稲田ホテル」と描かれたネオン看板の前に立っていた。
「ここか……」
足元の地面が一カ所、霞がかかったみたいにゆらめき、妖鬼の声が湧いた。
「いくがよい。|手《て》|筈《はず》はわかっているな?」
影に導かれるまま、さやかはホテル――もと早大理工学部の校舎――へ入った。のこった校舎はそこだけで、あとはコンクリートと鉄骨の山が、広大な敷地のあちこちに残っているばかりだ。一階はロビー。左手の急ごしらえらしいカウンターの|内《な》|側《か》で、ホテルの親父が椅子にふんぞりかえって、高いびきをかいている。
影は二階へ進み、廊下の隅でとまった。京也の部屋の前である。さやかの足元でまた声がした。
「これ[#「これ」に傍点]はもらっておくぞ。いずれまた、何かの役に立つだろう」
床から青白い腕がのび、影の一端にかかる。みるまに、影は一枚の紙みたいにくるくると手の中に巻きこまれ、床へと吸い込まれてしまった。
それを見届けてから、さやかはドアをノックした。
「|開《あ》いてるよ」
京也の声にも表情ひとつ変えずドアを押す。
京也はベッドに腰かけて靴をはき終えたところだった。
意外な訪問者にびっくりして立ち上がる。
「君はたしか――さやかさん。一体何しにきたんだ? なぜ、こんなところにいる? それより、どうして、ここがわかった?」
「あなたに会いたくて……お手伝いしようと……」
さやかのうつろな瞳は京也を見ていない。ベッドの脇の阿修羅を見ている。
「……疲れました。休ませて下さい」
「あ……ああ、こっちへ来なよ」
京也の返事もきかずベッドへ歩み寄ると、さやかはいきなり、両手に阿修羅を抱きかかえた。全身を灼熱の刃が貫いた。
「きゃあっ!」
阿修羅にこめられた京也の父の念が、妖力の|虜《とりこ》になったさやかを痛打したのである。
床に倒れる寸前、しかし、さやかは渾身の力をふるって、阿修羅を手近の窓めがけて投げつけた。派手な音をたててガラスが割れ、木刀は不気味に蠢く異次元の唇に呑み込まれた。
「なにをする!」
駆け寄ろうとして京也は立ちすくんだ。部屋全体が異様な鬼気に包まれはじめている。敵はすでに来ていた。
さやかを利用して阿修羅を奪い、しかるのち、京也を倒す――これが魔道士ののこした策であった。さやかの失神までは計算に入っていなかったろうが、窓から放り出した木刀が、偶然とはいえ異次元空間に吸収されたのは、うれしい計算ちがいといえる。
――さやかさんは、|罠《わな》か!?
京也は湧き上がる焦燥感を抑えつけながら、周囲の気配を探った。
――だけど、どうしてここが?
あれこれ考えている|暇《いとま》はなかった。部屋にはもう鬼気が充満している。京也はさやかに駆け寄り、抱きおこした。強くゆさぶると、すぐ眼を開いた。阿修羅の衝撃で「影さらい」の催眠状態から解放されたものか、瞳はもとの澄んだかがやきを取り戻していた。
「……あっ、京也さん。わたくし、どうしてここに?……」
「こっちがききたいよ。えれえことしてくれた」
さやかの顔がさっと曇った。影が奪われるまえの記憶を甦らせたのだ。
「わたくし、魔道士の術にかかって……一体なにを?」
「なんでもねえよ。安心しな」
京也は笑顔でウィンクした。この|娘《こ》を責めても何にもならない。
「……!?」
だしぬけに京也の右手が動いた。ほとんど無意識のうちに、自分とさやかの周囲の床を、人さし指でぐうっと円形になぞったのだ。
「なにを?……」
さやかがあっけにとられた顔できいた。
「わからねえ。突然、足の下がむずがゆくなったんだ。これで、円内には妖力も通じねえ」
京也の眼が凄絶な光をおびた。
「見な。どうやら正解だったらしい」
京也の視線を追って、さやかはあっと叫んだ。
ベッドが――シーツもマットレスも半透明だ! |水母《く ら げ》みたいに! シーツの表面は海面そっくりに波立ち、ベッド全体がぶよぶよと歪み、溶け崩れている。
そればかりではない。壁ぎわの椅子はとうに原形を失くして、波打つ床に溶け込み、窓ガラスとカーテンは本来の色を失ってどんよりと濁り、コンクリートの壁と融合しはじめていた。
部屋全体が溶けていく!
夢中でしがみつくさやかの手首から、京也はたくみに電子時計をはずした。
「床も壁も駄目か……ここはどうだ?」
思いっきり頭上へ投げ上げる。ぼちゃんと音がして、腕時計は天井にめりこんだ。飛沫が床へ向けて上がり[#「床へ向けて上がり」に傍点]、天井へ落ちた[#「天井へ落ちた」に傍点]。波紋が広がってゆく。
「上も手がまわってるか。分子構造ばかりか、重力場まで変化させやがった。どえらい化け物だぜ」
いまや、ふたりの乗っている円形の部分を除いて、四方はすべて海と化した。ベッドは半ば床に溶け込み、眼を凝らせば、青黒い床の深み[#「深み」に傍点]を、すーっと横切る細い影さえみえた。
「魚ですわ……」
さやかがくぐもった声でいう。
「魔界の魚さ。どんな代物がとびだしてくるかわからんぜ」
京也の言葉に、部屋の向こう側から、低い笑い声が応じた。
「くくく……その通りだ。わしのペットを今見せてくれる」
声が終わらぬうちに、京也たちの前方二メートルほどの「海面」がぐうーっと盛り上がった。
波頭が内側からはじけとび、巨大な魚影が銀鱗を閃かせて空中へ躍りでた。血走った単眼、三角形をした紫色の口にびっしり植わった槍の穂そっくりの牙。間一髪で床に伏せたふたりの頭上を、全長五メートルは下らない魚雷みたいな姿が通過し、背後の壁に着水[#「着水」に傍点]した。床と平行[#「平行」に傍点]に大きな水柱が上がり、ふたりの足元の床も、荒海を漂う小舟のように激しく揺れ動いた。
「畜生、これじゃいまの魚の腹に収まる前に、船酔いでまいっちまう」
京也が切羽詰まった声で、珍妙な文句をつけた。ぷっと吹き出す音に眼をやると、さやかがしがみついた姿勢のままくすくす笑っている。この少女も顔に似ず神経はワイヤーなみらしい。
京也は口もとがほころびるのを感じた。
「どうした、小僧」と妖鬼の声がいった。「土鬼を倒し、魔道士どのを殺した、それが貴様の実力か?」
「なにィ、魔道士を殺したあ!?」
足元が揺れるのも忘れて、京也は立ち上がっていた。
「じゃあ、首席はもう治ったのか?」
「そうはいかん」
声は嘲笑した。
「魔道士どのは、殺されはしたが滅びはせん[#「殺されはしたが滅びはせん」に傍点]。術は解けぬぞ。あの方の魂まで消滅させぬ限りはな」
「なにを抜かすか、このホラ吹きめ。そんなくやしまぎれの嘘八百に乗ってたまるか。さっさと地獄へ帰りゃがれ」
「嘘かどうか、我らの隠れ家へゆけばすぐにもわかる。もっとも、この場から逃れられるはずもないがな。見たか、妖力『海魔』。わしの手にかかるか、妖魚の腹に収まるか、覚悟を決めい」
「決めた。どっちもご免だね」
「なに」
京也は一気にまくしたてた。
「てめえこそ、自分の姿が見えねえのをいいことに、でかい口叩きゃがって。なにが覚悟を決めいだ。この|卑怯《ひきょう》ものの腰抜け妖鬼。魔界がきいてあきれらあ。おれと正面切って戦うだけの度胸があったら、さっさとその薄汚ねえ面を出してみせやがれ。それともなにか、魔道士の叔父ちゃんにかばってもらわなくちゃ、何ひとつ自分でできねえのか?」
長い悪態の後に、長い沈黙があった。ようやく響いてきた声はどす黒い怒りに燃えていた。
「抜かしたな。八つ裂きにする前に、いまの言葉、必ず後悔させてくれる」
声が終わると同時に、部屋の隅の海面[#「海面」に傍点]から、見覚えのある頭巾の頭部がぬっと現れた。つづいて僧衣に包まれた全身が……
「わしの名は水鬼。望み通り現れてやったが、さて、どうする?」
「どうしよう?」
京也が肩をすくめた。また、さやかが吹き出す。
水鬼が怒号した。
「ふざけおって。わしが手を下すまでもない。妖魚の|餌《え》|食《じき》となれ!」
左手の壁から黒い影がとびかかってきた。わっと身を伏せるふたり。水滴を巻き散らして、三〇センチと離れていない床に落下した妖魚の背びれは、床から右の壁へと移り、天井に達するや、悠々と大きな円を描きはじめた。
真上から狙われたら万事窮すだ。巨大な口に収まるか、魔の海に飛びこむ他はない。四谷三丁目の駅や新大久保の廃墟で、チンピラたちが|蒙《こうむ》ったのと同じ運命が待ち受けている。
だが、京也はさやかの腰を抱いて、すっくと立ち上がった。
「そろそろ片をつけるか。挑発に乗って姿も現してくれたことだしな」
「負け惜しみはよせ。木刀はなし、動きもとれん。いまの貴様にどんな打つ手がある?」
「試してみな」
答えの代わりに、頭上から妖魚がはね下がった[#「はね下がった」に傍点]。ガッと開いた口が迫る。
「なめるな、化け物!」
京也の声は空中でした。さやかを抱いたまま、自慢の脚力に物をいわせて一気に跳躍したのである。どんな攻撃も不可能なはずの空中で、彼はふたつの猛攻をかけた。
なだれ落ちる妖魚とすれちがいざま、その背骨へ全体重を乗せた後ろ蹴りを放ち、海上の水鬼目がけて口をとがらせる。銀色の光が長い尾を引いて、頭巾の奥に吸いこまれた。
「ぎゃあーっ」
|苦《く》|悶《もん》の絶叫をあげて、水鬼は片眼をおさえ、のけぞった。
「どうだ、念法針」
妖鬼の片眼をつぶしたものは、ホテルの親父から買い取った五センチほどの縫い針であった。ふくみ針は、父から学んだ技だ。
ふたりは、鮮やかにもとの床へ降り立った。背骨を砕かれた妖魚は空中で消滅している。阿修羅を失ったとはいえ、京也自身の念も、妖鬼の手下を倒すには十分なパワーを擁していたのだ。
「おのれ、おのれーっ」
水鬼は海面でのたうちまわっていた。怨みの妖力か、どこからともなく凄まじい突風が巻きおこり、京也とさやかの乗った床は、暴風に|翻《ほん》|弄《ろう》される木の葉のように揺れに揺れた。海と化した床から壁へ、そしてついに天井へ達して、頭の上に床を見たとき、さすがの京也も背筋が冷たくなるのを覚えた。
陽光うららかな秋の昼下がり、この部屋ばかりは、|怒《ど》|濤《とう》逆まく暗黒の魔海だった。
「あっ、変身!」
さやかが天井から床の水鬼を指さして叫んだ。
「あれが奴の真の姿だ」
もはや水鬼は人の姿をとどめてはいなかった。頭巾も僧衣もどこかへ脱げおち、太さ二〇センチはありそうな、ぬめぬめと光る白い触手ばかりが床からはえてのたうちまわっている。数は数十本か。いや、次から次へと湧き上がっては増えてくるところをみると、じき数百本のオーダーに達するだろう。触手の林の奥に、呪いと憎悪に狂った真紅の単眼が、はったと京也をにらみつけていた。
「逃さぬぞ、小僧。この家もろとも魔海の|藻《も》|屑《くず》となれ」
「勝手に決めるな、阿呆」
京也はもう一度、さやかの腰に腕を巻いた。ふたりの丸い小舟[#「小舟」に傍点]は、浮島のように位置を変え、いつの間にか窓の近くまできていた。「あれが、ただひとつの希望だ」
床やら天井やらのしぶきを浴びてびしょぬれの京也が顎をしゃくった。そっちを見たさやかの顔がぱっと明るくなった。
巨浪にさえぎられて気がつかなかったのだが、垂直に切り立った壁の海に、一カ所破れ目があき、黄金の光がさし込んでいる。さやかが阿修羅を投げ捨てたとき砕けた窓ガラスの痕だ。
「いくら強がっても化け物は重傷だ。その証拠に、おれたちを手もとへ引き寄せることもできねえ。今ならおれの念だけでも脱出できる。一緒にジャンプしてくれよな」
「はいっ」
丸い床[#「床」に傍点]が、破れ目の前まできたとき、ふたりはそれ[#「それ」に傍点]を蹴り、眼前にそびえる海へ頭から突っこんだ。
冷たい、と感じたのは一瞬のこと。次の瞬間には、黄金の陽射しを浴びて宙に舞い、くるりと回転するや、大した衝撃もなしで、固い大地に降り立っていた。少林寺拳法と合気道――体術の心得がある若いふたりだからこそできた芸当だ。京也は素早くさやかを抱き起こして、
「あの傷だ。すぐには追ってこねえだろうが、もう一匹の仲間が近くにいると厄介だ。早めに姿をくらまそうぜ」
こういってホテルの方をふりむき、「わあ、すげえ」とうめいた。
「まあ、ほんとに」
この場合、感心したような言い方が適当かどうかはわからないが、とにかく、壮絶な眺めであることは確かだろう。
ホテル全体が、半透明の|水母《く ら げ》みたいに|歪《ゆが》みぶよぶよと溶け崩れていく。片眼をつぶされ、その張本人にまんまと逃げられた水鬼の、恨みの妖力の成せる技だ。他に泊まり客がないのが、せめてもの慰めといえる。
入り口から親父が這い出してきた。禿頭から湯気をたてている。腰が抜けたらしい。
「気の毒に。わずかなホテル代なんざ取りたててる場合じゃねえだろうな」
と京也がつぶやいた。
「は?」
「なんでもない。いこう」
そういうと、さやかの腕を取り、京也は足早にホテルの門を出ていった。
PART6
意識的に入り組んだ道を選んで十五分も歩くと、ひと気のない、ビルの廃墟へ出た。ふたりは崩れ落ちた石壁をはさんで服を脱ぎ、陽なたに広げて乾かした。あの部屋ではさすがに緊張していたらしくあまり気にならなかったが、かなりの濡れ鼠ぶりだ。
服が乾くあいだ、ふたりは、これまでの事情をこと細かに語り合った。
さやかの話の中で、特別、京也の関心をひいたのは、魔道士が断末魔に洩らしたという奇怪なひと言であった。
「死んでも戻ってくる? そういや、さっきの化け物もそんな事抜かしてやがったが。……さすがは魔道士、化けてでてくる気か?」
「では、父の呪いはまだ解けないのでしょうか?」
壁から首だけだして、さやかが心配そうにきいた。上半身裸の京也はびっくりしたが、この少女には、その方面の教育がまったく欠如しているのに気づき、放っておくことに決めた。
「ああ、残念ながら。どうやら、奴の魂まで消滅させなきゃ術が解けねえってのは、本当らしいぜ。その証拠に、みてみな、君の影――ねえだろ」
壁の向こうで、さやかが悲鳴をあげた。
「ホテルを出てから気がついたんだが、魔道士の妖術で『影さらい』ってやつだ。君は自分の影に導かれておれのところへやってきたんだよ。だけど、なぜ、おれの居場所が影にわかったんだ?」
「……」
このとき、壁越しにひょいと|覗《のぞ》いてみれば、肌寒くさえ感じられる秋風に吹かれながら、さやかの頬が上気しているのが見てとれたろう。魔道士は、彼女が京也を恋していると告げたのだ。
「……わかりません。それより、わたくしはなぜ、あなたの部屋へうかがったのでしょう?」
「さてね」京也はとぼけた。事実をいったら自殺しかねない。「ともかく、その術を君にかけたのは魔道士だ。それが解けてない以上、親父さんの方も変化なしと思った方がいい」
壁のこちらと向こうで、白い秋の光を浴びながら、ふたりは沈黙した。京也は阿修羅を欠いたこれからの戦いのことを思い、さやかは病床の父親を案じて。
「こうしててもしょうがねえ」しばらく後、まだ湿っぽいトレーナーに手を通しながら京也がいった。「とりあえず、君を送り返す算段をしなくちゃな」
「は?」
さやかが、わけがわからないといった表情で壁から身をのり出した。白い肩と、ブラジャーに隠れた胸のふくらみが露わになり、京也はあわててそっぽを向いた。いつもなら、もっと見せろといいかねないのに、この少女相手じゃ勝手がちがうらしい。
「は、じゃねえよ。こんな物騒な街に、女がひとりでいられるわけねえだろ」
無愛想な声にも、どこか思いやりみたいなものがある。
「ひとりではありません。十六夜さんがご一緒です」
「冗談コロッケ。おれにゃ、まだ仕事があるんだ。君の親父さんの生命を助け、このけたくそ悪い世界が、もっと柄悪くなるのを防ぐって厄介な仕事がな。それも期限つきだ。今日を入れて、あと三日しかねえ。な、いい|娘《こ》だ。お兄ちゃんは忙しいんだよ」
「ですから、お手伝いします」
さやかはあくまでも真面目な顔を崩さない。
京也は、こいつ阿呆か、と思った。父親は現代の聖者≠セそうだが、娘の方も相当浮世離れしている。もっともそうでなきゃ、女ひとりの身で真夜中にノコノコ、こんな街へ入ってくるはずがない。
「あのな、ハッキリいって足手まといなんだよ。おれはいま、自分の身を守るだけで精一杯なんだ。さっきだって、せいぜい妖鬼の手下をやっつけるのが関の山で、さっさと退散したろ。いまでも、恐怖のあまり、頭は割れそう、手足はガタガタ、心臓は爆発寸前ってていたらくなのさ」
それは本当だ。妖魚を倒した後ろ蹴りと、水鬼の片目をつぶした縫い針に、念のすべてを集中したおかげで、京也は実のところ疲労|困《こん》|憊《ぱい》していたのである。このままぶっ倒れて、二、三時間休養を取りたい気分だった。
「でも、あなたは、見事に妖鬼を仕止めかかったではありませんか」
さやかが励ますようにいった。
「仕止めかかったんじゃねえ。こっちが仕止められかかったの」
「どちらにせよ、|深《ふか》|傷《で》を負わせたことには変わりありません。どんな物理的な攻撃も及ばないとライ老師のおっしゃっていた妖鬼を、針一本で。……あれがもっと強力な武器だったら、きっと倒していられたはずです。あなたはご立派でした。それに、何より、あんなに嫌がっていたのに、黙って新宿へきて下すった。あなたを信じた老師の眼に狂いはなかったのですわ」
「ヘン、わかるものか」
京也はふてくされたようにいって、地面にひっくり返った。そのくせ、口の端が微妙にひきつっているところをみると、ほめられて満更でもないらしい。
「とにかくだな――」
「ご一緒いたします」
「わからねえ|女《やつ》だな。迷惑だといってるだろうが」
「それはあなたがわたくしに構おうとなさるからです。わたくしなど空気だと思って、自由に行動なすって下さい。わたくし、お邪魔にならないよう陰からフォローいたします。これでも合気道三段ですし、このレーザー・リングもありますから、妖鬼ならともかく、生身の悪い人相手なら十分自分の身は守れます」
「あのねえ……」
「それにわたくしを連れ戻すにしても、その分、時間のロスになりますし、第一、わたくし抵抗いたしますわ」
「て、抵抗」
京也は眼をむいた。
「はい。ですからお願いです、ご一緒させて下さい。父のことを思うとわたくし、ひとり安全な場所で過ごしてはいられないのです」
さやかの眼に光るものがあった。
変わらぬ日本の伝統。男は美人の涙に弱い。
京也はため息をついた。
「わかったよ。好きにしな」
「わあ、うれしい」
途端に、一七歳の柔らかい肢体が背後から首っ玉にかじりついた。熱い乳房の弾力を背中に感じ、京也は血相かえて、巻きついた腕をもぎはなした。
「馬鹿! 状況を考えろ」
と怒鳴る。さやかは、ブラジャーとパンティ姿であった。見かけよりずっと肉付きがいい。
「きゃっ、やだ!」
珍しく、普通の女の子なみの|台詞《せ り ふ》を放って、さやかは真っ赤な顔で、もう一度、壁の後ろへ走り去った。
「い、い、いいか」と京也はどもりながらわめいた。「いいか、一緒にくるのは勝手だが、女だからって甘えは許さねえ。ひとことでも|愚《ぐ》|痴《ち》や泣き言をもらしたら、その場でお払い箱だ。もうひとつ、君を探しにきた情報局の連中と出喰わしたら、否応なしに連れ帰ってもらうぞ、わかったな」
さやかはにっこりとうなずいて、
「はい。でも、山科さん宛てに、探さないで下さいと音声コードを残してまいりました。万が一わたくしのことが新宿で話題になり、身にもしものことがあったら、山科さんと情報局が動いたせいだと吹き込んでありますから、何もしませんわ、きっと」
「それだけか?」
京也は疑り深そうな眼つきでさやかの方を見た。
「は?」
「吹きこんだのは、それだけかよ?」
「いえ、あの」さやかは口ごもった。「その……そんなことになったら、山科さんは左遷、情報局の予算も削られると」
京也はしばらく、あいた口がふさがらなかった。それから、しげしげと、あどけない天使のような顔を見つめ、憮然としてつぶやいた。
「こいつ、おれよりしたたかだぞ」
闇の中に|呪《じゅ》|詛《そ》と苦痛のうめきが満ちていた。魔道士のアジトである。冷たい床の上では、水鬼が片目をおさえてのたうちまわっている。指のあいだから、細い縫針の端がのぞいていた。京也の念を凝集した「念法針」は、妖魔の片目をつぶしたばかりか、その眼球に突き刺さったままどうしても抜けないのであった。
「小僧を倒すどころか、妖魚を倒され、手傷を負わされ、あまつさえ人質まで奪いかえされて、おめおめ逃げ帰ってきた愚かもの。いましばらく苦しむがよい」
闇の彼方から冷厳たる声が響いた。魔道士の声だ。だが、以前とは異なり、もがき苦しんでいた水鬼がぎょっとして周囲を見まわしたほどの凄惨な鬼気がこもっていた。
「お許し下さい、魔道士どの。つぐないはきっといたします。……苦しい……眼ばかりか身体まで焼きつくされそうだ……おのれ、十六夜京也……この怨み、忘れぬ、忘れぬぞ」
「そうだ。忘れてはならん。やつがこのアジトを探り出す前に、おまえたちの手で抹殺するのだ。できるか、それが? 誓えるか、水鬼?」
「ち、誓います。この水鬼の魔界での生命にかえて。で、ですから、針を、この針をなんとかして下され」
一瞬の沈黙。それから嘲笑うように、
「よかろう。手術台へ来い」
水鬼はよろよろと闇の奥へすすんだ。
手術は続行中であった。あの、奇怪な呪文を刻みこんだ手術装置が、点滅をくりかえすコンピューター・ディスプレイの光をあびて、音もなくプログラムを遂行している。
手術の成果は台上に横たわっていた。青白く輝く人型をした霊魂の内部に特殊合金製らしい骨格がはめこまれ、さまざまな電子機器とおぼしき品が、無数の電線や神経|細胞連接《シ ナ プ ス》、半透明のチューブ等で、その周囲に固定されている。
ときたま、霊魂の光が薄れると、コンピューターの音声部から、低い声で呪文らしい言葉が発せられ、霊魂は光を――息をふき返す。
これは、輸血装置も、強心剤も、生命維持に不可欠な装置をすべて取りのぞき、コンピューターに記憶させたプログラムと、奇怪な呪文によってのみ行われる魔界の手術であった。
「来い」
自信に満ちた声に誘われて、水鬼は手術台の片隅に寄った。
黒々とした骨格が透けてみえる――というより、青白い霊魂をまとわりつかせた黒い腕が台上からニュッとのび、鋼の指で水鬼の目の針をつまんだ。何の抵抗もなく針は抜きとられていた。
水鬼は怖れにも似た苦鳴をもらしながら後じさった。彼ら妖鬼が魔道士の命令に従ってきたのは、魔道士の妖力が彼らを凌いでいるからではなく、この世に呼びだされたものは呼びだしたものに服従しなくてはならないという、|古《いにしえ》のルールがあるからにすぎない。しかし、いま、眼の前に横たわっている死せる魔道士は、そのもつ妖力においても、ついに自分たちを|凌駕《りょうが》したことを水鬼は悟った。
チンと、床の上にねじ曲がった針が投げ捨てられた。
「火鬼はおるか?」
「ここに」
火球が闇に浮かんだ。
「水鬼を伴い、小僧と小娘を捜せ。倒さずともよい。わしの手術が完了するまで、ここへ近寄らせてはならぬ」
それは、手術さえ済めばいつ来襲しようとも構わんという意味であった。
「承知いたしました。いまいちど、娘の影を使いまする」
常に感情をあらわさない火鬼の声に、怒りの響きがあった。京也を倒さなくてもいいということは、おまえたちには倒せない、と断言されたも同様だったからだ。
「しかし、水鬼は無用です。ここで護衛の役を務めさせなさいませ」
痛烈な|侮《ぶ》|蔑《べつ》に、水鬼が歯がみする音がきこえた。
「ならん。父の念がこもった木刀を処分したとはいえ、あの小僧自身も怖るべき念法者。こうしているあいだにも、念の力を磨いているかもしれん。羅摩首席を抹殺し、あれ[#「あれ」に傍点]がこの世に現れるまで、今日をいれてあと三日。わしの手術もそれくらいかかろう。そのあいだ、断じて奴をここへ入れてはならん。二匹そろって防ぐのだ。もちろん、倒せるものならそれにこしたことはないがな」
最後の言葉は笑いをふくんでいた。
火球がごおっと膨張して漆黒の闇を熱した。
「いくぞ、水鬼。娘の影を忘れるなよ」
「ええい、わかっておる」
二種類の妖気が立ち去ったあと、暗黒のさなかに、死んだはずの男の、自信に満ちたつぶやきがきこえた。
「魔界の力がみなぎってくる。この分では、あの木刀を奪う必要などなかったかも知れんな」
京也とさやかは、マーケットの中心にある広場にいた。
最初は、ホテルの親父にいわれた通り、マーケット街のタクシー乗り場へ行ったのだが、タクシーはおろか、店という店がシャッターをおろし、通りにはひとっこひとり見当たらないときている。先刻、さやかが催眠状態でやってきたときには、人の波でごった返していたのに、よほど突発的な大事件でも起こったらしい。
新宿の住人なら、こりゃおかしいと身を遠ざけるところだが、ふたりとも急いでいるうえ、さやかは前のことを一切覚えていなかった。
「今日はマーケットも休みらしいや」
「そうですね」さやかは京也からあずかった新宿の地図をめくりながら言った。
「マーケットを抜けて、新大久保駅の方へ行ってみませんか? 駅前ならタクシーも集まってるかもしれません」
こうして、二人は、かつての新大久保駅前――商店街の瓦礫の山を取り除いてつくった直径五〇メートルほどの円形の広場――にやってきたのだった。
広場の外縁は人で埋まっていた。
「なにごとでしょうか? 野外ダンスパーティーだといいですわね」
さやかはハイスクール生活を思い出してのんきなことをいう。
「それどころじゃなさそうだ。みな殺気だってるぜ。店がしまってる原因はここにありそうだな。ちょっと待ってろよ」
いうなり京也はさやかを残して人混みにまぎれこんだ。「どうもどうも」を連発してトラブルを避けながら前へ出てみると、広場の両端に、やくざ風のグループがふたつにらみあっていた。人数はどちらも十人前後、旧式のレーザー・ライフルや、ショット・ガンを抱えたチンピラたちが、相手を挑発しようと、口汚くののしり合っている。
中に五人ずつ、妙に口数の少ない中年の男たちがいて、全身からチンピラたちなど及びもつかない殺気を漂わせているのが、京也の目をひいた。
「これからひと騒動ありそうだね。果たし合いってムードじゃねえか」
京也はさりげなく、隣にいるミュータントらしい三つ目の男にきいてみた。
「そうともよ。おや、おめえ、新顔だな」
「よくわかったねえ」
「おれは一度でもマーケットに出入りしたやつの顔はみんな覚えてるんだ。この眼でな」
男は額を指さした。他のふたつにくらべてぱっちりとした瞳がウィンクした。視覚暗記能力に秀でているらしい。
「あんまりうろつかねえ方がいいぜ。外の人間とみりゃ、|喧《ご》|嘩《ろ》まきたがる奴がうろうろしてるからな」
人相は悪いが親切な男だった。ズボンの尻ポケットに新聞らしきものをはさんでいる。新宿のイベントやマーケット情報をのせた日刊新聞だ。数ページしかないが、殺し屋の売りこみ広告まで掲載されている。どこの新聞社が出しているのかは不明だ。
「面白そうじゃねえか。どうなってんのか教えてくれよ。あそこにいる連中、ありゃ暴力団だろ?」
男はこっくりうなずいた。
「右側の、でぶちん女の一団が『ヒポポタマス・グループ』、左側のやせこけた、首の長い男の方が『カマキリ|一家《メンバーズ》』だ。どっちも長いこと、このマーケットの支配権を狙って対立してたんだが、急に今日、決着をつけることになったのさ」
「また、ずい分急な話だな」
「ああ。なんでも昼ごろ、『ヒポポタマス・グループ』のよしこ――あのでぶ女さ――が悪い癖で、自分より若くて美人の娘にちょっかいをだしたらしいんだ。ところが、その娘がおっそろしい超能力の持ち主で、眼の前で子分が四、五人、あっという間に地面に呑みこまれちまった。ちょうど『カマキリ一家』が|超《エ》|能《ス》|力《パ》|者《ー》を集めてるって噂がとんでたからたまんねえや。その娘は『カマキリ一家』の|尖《せん》|兵《ぺい》に違いねえってんで『ヒポポタマス』の方もエスパーをかき集め、今日これから片をつけようと決闘状を叩きつけたのさ」
「まあ、こわい」
いつのまにか背後にきていたさやかが心底怯えた声で言った。
「人間を地面に呑みこませてしまうなんて、恐ろしい女のひとがいるものですね、まるであの妖鬼みたいですわ」
「まったくだ」
京也も大きくうなずいた。無知は力なりである。
「しかし、|超《エ》|能《ス》|力《パ》|者《ー》の喧嘩というのは面白そうだな。少しのぞいていこう。なに、まだ時間はあるさ」
「はい。あっ、はじまります」
ふたつの集団から、まず最初のひとりが広場の中央に進みでた。
「ヒポポタマス・グループ」のエスパーは小太りの中年男、「カマキリ一家」の方は骨と皮ばかりにやせた、これまた中年ののっぽ[#「のっぽ」に傍点]である。よく見ると、残りのエスパーも年齢こそちがうが、体つきは仲間同士みなそっくりだ。
「エスパーってのは、でぶ[#「でぶ」に傍点]とやせ[#「やせ」に傍点]しかいないのか?」
京也がぽつりともらしたのをさやかが受けた。
「いえ、きっと親玉の趣味だと思います。ああいう悪い人たちは誰も信じられませんから、せめて自分に似た身体つきの人を仲間にするのですわ」
「なるほど」
無茶苦茶な意見だが、さやかが真面目な顔でいうと、妙に説得力がある。
ざわついていた人混みが不意に静まりかえった。
太ったエスパーが両手を胸の前で交差させ、のっぽの方も印を結んだのである。超能力戦の開始だ。
のっぽの両眼が白熱し、まばゆい閃光がふたすじ、でぶの胸を貫いた。光はあわてて地面に這いつくばった群衆の頭上を越え、遠くの店に命中した。中年男の胸もマーケットも白炎を噴き上げた。のっぽの両眼から放射されたのは、三〇万度にも達する超高熱線だったのだ。
だが、衣服を炎に包まれながら、中年男の脂ぎった顔はにやりと笑った。右手がのっぽめがけてのび、手首につけた装置から真紅の光条が走ってのっぽの額に吸いこまれた。
「げっ」
みるみる両眼から光が失われ、のっぽは額にあいた小穴から煙をたちのぼらせながら地に伏した。勝負あり。群衆がどっとわいた。
「どうなったんでしょう? あの背の高い人の熱線の方が早かったのに」
さやかが泣きそうな声できいた。自分はどんな目にあっても平然たるものだが、他人の殺し合いをみるのは我慢がならないらしい。
「早かったが効き目がなかった。見な」
京也は火のついた服を両手で叩き消している中年男を指さした。服の胸の部分は焼けおち、皮膚がのぞいているが、火傷の痕ひとつとどめていない。
「あいつの超能力は防御用なんだ。多分、全身の細胞を無制限に再生させることができるのさ。ヒドラみたいな原生動物は、ふたつにちぎってもそれぞれが別のヒドラになるだろ。あれと同じ現象がやつの細胞でも起こってるんだ。首を切っても、心臓に穴をあけても、細胞が残ってる限り別の首がはえてくるし、穴はふさがっちまう。あとは手にまいたレーザー・ガンでドカンと一発さ。攻撃能力しかねえエスパーは一巻の終わりだな」
京也の説明にうなずきながら、さやかは食い入るように広場を見つめていた。
別のふたりが対峙している。やはり、でぶとのっぽ。どちらも二〇代の青年だ。
ふたりの間に、目に見えぬ殺気が交差したと思った刹那、でぶの身体は内側から音もなく爆発して四散した。ほとんど同時に、のっぽのひょろ長い姿も、頭頂から股間まで、真っぷたつに裂けた。のっぽの|念力《サイコキネシス》でばらばらにされたでぶが、これまた念力でのっぽを両断したのである。こちらを向いた切断面は、内臓組織こそはっきり見せているがその表面はガラスのように滑らかで、血一滴にじんでいない。
あまりにも残酷なエスパー同士の死闘に、魔界都市の荒くれ者たちも声すらあげず立ちすくんだとき、
「やめて下さい!」
さやかは我を忘れて対決の場へ駆け出していた。さしもの京也が止める暇もない素早さであった。群衆もエスパーも場ちがいな飛び入りに呆然としている。
「理由はよく知りませんが、こんなむごたらしい戦いはもうやめて下さい」
さやかの声は怒りと哀しみに満ちていた。死と戦う父を思うときでさえ流さなかった涙が頬を伝い、陽光にきらめいた。三つの生命が眼の前で失われたのに、誰もそれを止めようとしない。彼女にとっては耐えられない光景だった。広場の真ん中に立ち、さやかは|可《か》|憐《れん》な声をふりしぼった。
「どんな理由があっても、殺し合いなどしては駄目。もうやめて下さい。ご両親からもらった生命を大切だとは思わないのですか」
ふたつのチンピラ・グループを交互にみながら、それから群衆へ目を転じて、
「あなた方もどうして止めようとなさらないのです。人間なら、誰の生命でもなくしたら哀しいと思うはずです。こんな残酷な殺人をみて楽しいのですか?」
「あったりめえよお。おめ、つまらねえのんか」
どこかでからかうような声があがり、どっと笑いが巻きおこった。
「姉ちゃん、ひっこめ。それとも、余興にストリップでもやってみせっか」
笑い声はさらに大きくなった。
ずいっと、ヒポポタマス・グループから、ひときわ膨張した影がすすみでた。細い眼が残忍な歓びにぎらぎらかがやいている。九重よしこだ。
「どこかでみた顔だと思ったら、おまえ、さっきの娘だね。おい、みんな、こいつはカマキリんとこのエスパーだよ」
群衆がざわめき、カマキリのボスがあわてて怒鳴り返した。
「おかしないいがかりはよせ。こんな娘みたこともねえぜ」
「ふん、しらばっくれるんじゃないよ。まあいい。あんたとの話はあとでつけるとして、とりあえず、この女の化けの皮をはいでやるよ」
よしこは残ったエスパーのひとりに目くばせした。
ぴしっ! と空気が鳴って、さやかのブラウスが下着もろともふたつに裂けて宙に舞った。さやかはきゃっと叫んでうずくまってしまった。
無責任な口笛と拍手。
「来ないでください!」
とび出そうとした京也を、さやかの声がとめた。無責任な口笛や歓声までが、いっときやんだほどの、決然たる声であった。
さやかはすっくと立ち上がった。無防備な上半身は、豊かな胸のあたりをおさえた両手も肩も小刻みにふるえ、白い肌は真っ赤に染まっている。十七歳の娘である。恥ずかしくないわけがない。
声にならぬどよめきが空気をゆさぶった。
胸の前をカバーしていた手がおろされたのである。
|玲《れい》|瓏《ろう》と澄みきった肌を|羞恥《しゅうち》に染め、さやかはほっそりした身体には不つりあいな豊かなふくらみを静かに人目にさらした。
野次も笑い声も起こらなかった。
いたいけな少女にとって、この行為がどれほどの勇気を必要とするものか。それをあえて敢行したさやかの勇気と決意が、荒くれものたちの胸を打ったのである。
「これで、戦いをやめて下さいますか?」
消え入るような声であった。さやかを支えているのは、エスパーたちの生命を守りたい、ただそれだけの思いであった。本当は、恥ずかしさのあまり今にも卒倒しそうなのだ。
――立派だぞ、お嬢ちゃん。
京也は胸の中でつぶやいた。この少女のためにも、やって来て良かったと思った。
さやかは、ひたむきな表情をくずさずに呼びかけた。
「まだ気がすまなければ――下のものもとります。お願いです。それで争いだけはやめて下さい」
群衆も、ふたつのグループも、全員が静まりかえっていた。
形勢あやうしと踏んだよしこが、エスパーたちに向かって金切り声でわめいた。
「なにをしてるんだい。さっさと丸裸にしておしまい、死ぬほど恥をかかしてやるんだ!」
エスパーは動かなかった。
「ちっくしょう、どいつもこいつも、こんな餓鬼にたぶらかされやがって」
「もう、馬鹿なことはおやめ下さい。自分の欲望や利益のために、他人の生命をかけて戦わせるなんて、人間として恥ずかしくないのですか」
澄み切った瞳にみすえられ、よしこは返事に窮した。小柄なさやかの全身からみなぎる気品。荒くれ女は位負けしていた。
やぶれかぶれで叫んだ。
「シムラ、|殺《や》っておしまい!」
あばた面の貧相な子分がレーザーガンをさやかに向けた。
京也がダッシュするより早く、人垣のあちこちから数条の閃光がほとばしり、チンピラの肩と武器が炎に包まれた。
「よさねえか、チンピラ。その娘に指一本でもふれてみやがれ」
だれともしれぬ鋭い声が言った。すぐさま別の声が、
「その姐ちゃんがいなかったら、脳天をふっとばしてたとこだぜ」
「気にいったぜ姐ちゃん」
また別の、荒っぽいがあたたかい声。
「おめえらも生命は大切にしなよ」今度の声はもちろんエスパーたちにむかってだ。
「そうとも、まっ昼間から、これ以上殺し合い見せられちゃかなわねえ。こんな街だって、おめえら生きるためにやってきたんだろ」
さやかを支える群衆の叫びは、ついにふたつの集団にも向けられた。
「帰りゃがれ、|糞《くそ》|餓《が》|鬼《き》ども。このマーケットは、おれたちみんなで経営していかあ」
どうやらマーケットの店主らしい。
「あたしたちの生活の場を、誰にも支配なんかさせないよ」女性の声もまじった。「『魔界都市』には『魔界都市』の|掟《おきて》があらあね」
つづいて、そうだ、そうだの大合唱が起こり、すぐ、「帰れ、帰れ」に変わった。
チンピラたちはその力強さに押されて、あたりをにらみつけて凄むのが精一杯である。もちろん怯えるものなどない。広場に集まった連中は、彼らなどくらべものにならない、年期をつんだ荒仕事のプロばかりなのだ。そんな男女の心を、さわっただけで折れそうな可憐な少女の言葉が動かすなどだれが想像しただろう。
「おりゃ手を引くよ――ヒポポタマスの」
カマキリ組のボスが苦笑いしながら言った。
「いくらマーケットをものにしても、お客を敵にまわしちゃ商売あがったりだからな」
「あ、あたしはやだよ」
よしこはなおもしつっこくわめいた。頭や根性ばかりか、往生ぎわまで悪い。ガスタンクそっくりのボディが怒りにふるえていた。
「こん畜生!」
さやかに飛びかかった巨体は、優雅な円運動に巻きこまれて宙に浮き、ばかでかいお尻から砂けむりをあげて地面に激突していた。昼の光景をそのまま再現したさやかの合気道である。
歓声と拍手の嵐。
そのときだった。
身をよじって爆笑していた京也の全身がびん! と緊張した。全神経を四方へ走らせる。どよめく人々のあいだを縫って、憎悪と殺意に狂った妖気が広場全体を覆いつつあった。妖鬼が接近している。
――今度のは強い。一匹じゃねえな、少なくとも二匹……
そこまでははっきりわかるのだが、妖気の出どころとなると、いくら念を凝らしても濃霧の中を手探りしているようで、さっぱり要領を得ない。
――まだ、疲れが抜け切ってねえな。戦いが長びいちゃ不利だ。出がけにカウンター食らわして一目散といくか。しかし相手が複数だしな……
とにかく、さやかをなんとか連れ戻さなくてはならない。上半身はだかで広場の真ん中に突っ立っていては、自殺行為である。敵は利用価値のなくなったさやかもろとも、京也を抹殺する気にちがいない。
前へ出ようとしたとき、妖気が動いた。さやかから数メートル離れた空間へ凄まじい速度で集中して行く。
――しまった。もう見つかったか!?
音もなく、毒々しい紅色の炎がひとつ陽光の下に出現した。
群衆が、今度は驚きの叫びをあげた。恐怖の声でなかったのがいかにも「魔界都市」の住人らしい。怪現象には慣れっこなのだ。その証拠にふつうなら、どっと後じさりするところを、逆にぐうっと輪がせばまった。
さやかもふり向き、立ちすくんだ。それでも京也の方を見なかったのは立派だ。
「娘――」
炎の中から、人間らしい感情をすべてはぎとった声がした。声というより単語を羅列しただけの音声だ。
「おまえの影がわれらの手にある限り、どこへ行こうと無駄だ。土鬼を倒した若造もろとも火炎地獄へ送ってくれる。奴はどこにおる」
「もう別れました。魔道士を探しにいくとおっしゃって。いまは、わたくしひとりきりです」
炎は冷たく笑った。
「そうか。まあどちらでもよい、おまえの影は奴をも見つける――」
それから周囲へ呼びかけるように、
「若造、出てこぬか。こなければ、いま、この娘の息の根をとめてくれる。火鬼の妖力で死ぬのはちと苦しいぞ」
「なにを抜かしやがる、この化け物」
群衆の中から、屈強な男がひとり走り出て、さやかをかばって立った。右手にレーザー銃を握っている。
「この娘さんに指一本ふれてみろ。ただじゃおかねえぞ」
「頼もしい|騎士《ナ イ ト》だな。六〇〇年まえ、イギリスとかいうところで片づけた馬鹿も、そんな台詞を吐きおった。きさまが土鬼の相手か?」
「ちがいます。この方は――」
さやかが逆に男の前に出ようとした瞬間、レーザー銃が閃光を発した。中心部を光の線に貫かれながら、炎はゆらめきもしなかった。
恐怖よりもあっけにとられ、思わずぽかんとあいた男の口へ、炎塊から飛び出した|拳《こぶし》大の炎が吸いこまれた。
「うぎゃあーっ」
男は胸をかきむしって倒れ、地面をのたうちまわった。口から耳から鼻孔から|紅《ぐ》|蓮《れん》の炎が噴き出し、男を火を吐く奇怪な龍のようにみせた。そのくせ、身体の表面には焼けこげひとつつかない。妖鬼の呪いの火は、男の内臓だけを焼けただらせたのだ。
「やめて!」
さやかの叫びに、ついに京也は人混みをかきわけてとび出した。右手には隣の男のポケットから失敬した新聞をつかんでいる。いつの間に丸めたのか、それは剣の形をしていた。
「こんの野郎ーっ、くたばっちめえーっ」
わざと|野《や》|卑《ひ》ないい方をしたのは、自分の正体を気づかせないためである。京也でないと思えば、まず、たかをくくった安易な攻撃がくる。それをなんとかかわして、二度目のアタックの前に致命傷を与えるつもりだった。
そうは問屋がおろさなかった。
「火鬼、そいつだ!」
どこからともなく、怨念のかたまりみたいな声がして、京也の足元の地面が水面と化した。
一瞬まえ、声がきこえた刹那、京也は跳躍していた。火鬼の炎がごおっとのびた。空中で紙の剣が閃いた。炎は切断され、千々に砕けて消えた。着地寸前、京也は剣に念をこめ、地面に投げつけた。水鬼の妖力を封じるためである。降り立つと同時に、垂直に突きささった剣を抜いて、二撃めの炎を両断し、さやかに駆け寄ろうとした。
足がぴたりととまった。
「しまった!」
低いうめきがもれた。
両足がくるぶしまで大地にめり込んでいる。さやかの足が。
「来ないで下さい」
さやかが声をふりしぼった。
「いいや、来い」
勝ち誇った水鬼の声が広場にこだました。
「ふたりそろって、水地獄に落としてくれる。その先は、わしの腹の中だ」
「そのオモチャを捨てい。さもなくば、娘が先に死ぬことになるぞ、もがきながら水地獄に落ちてゆく様を見たいのか?」と火鬼。
京也は動かなかった。動けないのである。自分ひとりなら、二匹の妖鬼相手でもなんとかなるが、さやかが押さえられていては手の打ちようがなかった。さやかのところまで約三メートル。たった三メートルでも、水鬼が妖力をふるうには十分すぎる距離だ。怖れていた最悪の事態に直面してしまったのである。
「京也さん、逃げて!」
さやかが叫んだ。
「あなたはこの世界のただひとつの希望です。わたくしより、世界中の人のことを考えて下さい」
「けなげなことだな」火鬼が嘲笑した。「さあ、どうする若造。わしたちの目的はお前だ。おまえさえ抵抗せぬと約束すれば、水鬼を説得して娘だけは助けてやってもよい」
どんなに凄惨な死闘の最中でも、どこかのんびりムードが漂っていた京也の顔が、はじめて苦悩に歪んだ。火鬼の言葉などむろん嘘っ八だ。だからといって死の恐怖に震え、すすり泣きながら、自分より他人の生命を救えと言える少女を放ってはおけなかった。
紙の剣が徐々にさがっていった。
突然、さやかがうっとうめいて、急速に首をあお向けた。その寸前、少女は舌を噛もうとしたのである。予期せぬ力が、間一髪でそれを防いだのだ。
「おおっ!」
京也と二匹の妖鬼がそろって驚きの声をあげた。
さやかの身体が地面からとび出し、もの凄いスピードで宙を横切って、足からふわりと京也のかたわらに降り立ったのである。
倒れかかる少女の身体を片手でがっしりと支えながら、京也は見た。広場の一角にしっかりと手をつなぎながら直立した七人の男たちを。
生き残りのエスパーたちだ。敵も味方も一丸となって念力をふるいさやかを救ったのだ。
「早くいけ!」
ひとりが叫んだ。
「なにがあっても、その娘さんだけは助けるんだぞ」
「みなさん、どうして、こんな……?」
さやかの問いに、別の声が答えた。
「おれたちみたいな出来そこないのために、あんな真似してくれたのはあんたひとりだ。忘れないぜ」
「化け物はおれたちの|念力《サイコキネシス》で動けなくしてある。早く逃げろ!」
「しかし、こいつらは、あんた方の手に負える相手じゃねえよ」
京也が呼びかけた。
京也の念とエスパーたちの念力とは本質的に同じものである。ただ、念の練磨のしかた、磨き上げ方がちがうのだ。エスパーたちの念は、いくら強力でも結局は物体を移動させたりする物理的なパワーどまりだが、ヨーガの業や坐禅による自己コントロールを身につけた京也の念は、この現実世界の物理法則を超えて異世界の妖鬼さえも打つ、いわば超越パワーを有する。それは、エスパーたちの念力パワーとは根本的に異なった聖≠ネる力といっていいだろう。悪霊を追い払う高徳な僧の祈りを数万倍パワー・アップしたものだと思えばよい。
逆にいえば、エスパーたちの物理的念力では、魔界の存在を消滅させることはできないのである。
さやかを水鬼の妖力から救い出せたのは、エスパーたちの中に、微力ながら京也と似た念の鍛練をしたものがいたせいであろう。
「わかっているとも」
また、別のエスパーが叫んだ。
「だが、君らが逃げる間、こいつらを食いとめるくらいの力はあるぞ。そのお嬢さんは世界のためにといった。おれたちにも、最後くらいはそんな立派な仕事の手伝いをさせてくれ」
「さよなら、お嬢さん。あんたみたいな|娘《こ》がいたら、おれもこんな暮らしはしてなかったろうぜ、いきな!」
「逃げろ」
さやかの眼に涙があふれた。
京也も心を決めた。
――名前をきいてる暇もないが、あんたたちの顔は決して忘れないぜ。
胸の中でつぶやき、エスパーたちに一礼するや、さやかの手を取って脱兎のごとく走り出す。
「お、おのれ、逃さんぞ」
「えーい、邪魔するな、虫ケラども」
毒々しい邪念が後方で渦まいたが、エスパーたちの|念障壁《サイコ・バリヤー》にさえぎられているらしく、追撃の気配はない。人混みを突っ切るとき、誰かがさやかの肩に、女もののブラウスをひっかけてくれた。
「ありがとう、みなさん」
さやかはふりかえり、ふりかえり、広場を走り出た。
もときた道と、明治通りとの交差点に、ボロボロの電気タクシーが一台パークしていた。ふたりは大急ぎでそれに乗り込んだ。
「どこまでだい? 面倒ごとにゃ巻きこまれたくねえな」
年配の運転手が、耐熱防弾ガラスの向こうから、いぶかしげにたずねた。
無理もない。京也は、焼け焦げだらけの丸めた新聞紙を握りしめ、さやかときたら、ブラウスを着る暇もなかったものだから、片手で胸前をおさえるのが精一杯。まろやかな肩と腹が露わになり、下着をつけていないのが一目瞭然だ。いくら「魔界都市」の運ちゃんでもびっくりするだろう。
「新宿――歌舞伎町。大急ぎだ」
京也がフロント・シートの背を叩きながら告げた。
「あんな物騒なとこ、中までは入れねえぜ」
「近くで降りるよ。とにかく急いでくれ」
「銭はあるんだろうな」
「新車を買ってやろうか」
「――あいよ」
外見とは異なり、意外にスムーズに車が走り出したとき、京也は凄い勢いでリア・ウインドーをふり返った。
妖気が追いすがってくる。エスパーたちが倒されたのだ。
「急げ、おっさん」
ひと気のない旧明治通りを、車は音もなく疾走した。
リア・ウインドーから眼を離さぬ京也の緊張した横顔をみて、さやかが喉にものが詰まったような声でいった。
「もしや……あの方たちが……」
「みんな間一髪のところで逃げた、いつか会えるさ。――そう思いな」
「はい」
またあふれそうになる涙を、さやかは必死でこらえた。
「あんちゃん、駆けおちか? それとも誘拐かね?」
運ちゃんが鼻唄まじりにきいた。
「後の方だ。手間かけやがって、五人も殺さなきゃならなかった」
運ちゃんは爆笑した。
「そりゃ、いいや。近頃は|覇《は》|気《き》のある若いのが少なくなったからな。なあ、身代金を戴くつもりなら手伝うぜ。自慢じゃねえが、おれくらい新宿に明るい男はいねえ。機動警察のパトカーが相手だって巻いてみせるぜ。二割でどうだい?」
京也もさやかも返事どころではなかった。
背後に遠ざかる交差点の真ん中に、火球が現れたのだ。ぐんぐん距離を縮めてくる。それに合わせて、背後の道路と廃墟が、火にあぶられた|蝋《ろう》|細《ざい》|工《く》のように、溶け崩れていく。火と水が追ってくるのだ。
「一割五分でもいいぜ」
運ちゃんが呑気な口調でいった。バックミラーなど見ない主義らしい。
京也は眼を閉じていた。ぼろぼろの新聞紙に念をこめている最中だ。
「よし」
念集中で青ざめた顔のまま、うなずき、ウィンドーを開けた。
「よっしゃ、決まった」運ちゃんが両手でハンドルを叩いた。勘違いしたらしい。「それだけの美人だ。うんとこさふっかけろよ、相棒」
二匹の妖鬼は、五メートル足らずの距離へ迫った。
「くらえ、念法弾」
投げつけられた紙の剣を、火球からのびた炎の舌がなめた。火に包まれると同時に、剣は車と妖鬼たちとの中間地点で無色無音の爆発を引き起こし、京也の念を四方へ巻き散らした。
「ぐおおーっ」
|呻《うめ》いて火球は四散した。廃墟の溶解もとまる。水鬼もダメージを受けたのだ。
それを確かめて、京也はがっくりとシートにもたれかかった。広場での小競り合いと、今の念法弾で、精神エネルギーをほぼ使い果たしたのである。阿修羅のない分だけ、念の|消耗《しょうもう》も激しい。
「これで、当分、追っちゃこられまい」
「やっつけたのですか?」
さやかが不安そうに、窓から眼を離さずにきいた。
「いや。広場の戦いでかなりへばってるからな。目下の念じゃ、せいぜい足止めを食わせる力しかないよ。やつら、いずれまた追ってくるだろう」
「何をガタガタいってるんだい?」運ちゃんが口をはさんだ。危うく命拾いしたことにも気がついていない。誘拐の片棒をかつぐと申し出た割には呑気な男だ。「その姉ちゃん、どこへ隠す? 御苑のそばにいい倉庫があいてるぜ。時々、でっかい肉食ミミズが入ってくるがよ」
運ちゃんの言葉も知らぬげに、さやかは京也の頭をそっと自分の膝にもたせかけた。あわてて離れようとしたところを、怖い顔で「めっ」と叱られ、若き念法の達人は、苦笑いして眼を閉じた。
身体ばかりか、精神の方も疲労感でいっぱいだった。
――これが限界かよ。まだ化け物は二匹残ってるし、魔道士の呪いも解けちゃいねえのに。情けねえ話だが、このままじゃ、敵のアジトを探り出すまえにKOされちまう。
柄にもなく弱気な京也の心を知ってか知らずか、さやかはこう考えていた。
――あれほど嫌がっていたこの方が、今はこんなになるまで骨身を削って戦ってくれている。さっきのエスパーの人たちも。わたくしなんかほんとに足手まとい。でも、せめて、傷ついた方を膝に乗せてあげるくらいはできる。
ふと、さやかは、京也の重味を両膝に感じたまま、このタクシーに乗って、地の果てまでもゆきたいと思った。
数分後。タクシーはノン・ストップで、明治通りと靖国通りとの交差点に近づいていた。両側の廃墟は相変わらずだが、人通りがいやに増えている。極彩色の気狂いじみた服に身をかためた眼つきの悪いあんちゃん[#「あんちゃん」に傍点]ばかりで、あまり見てくれはよろしくない。
「この辺は、どういう方たちが住んでいらっしゃるのでしょうか?」
さやかが運ちゃんにたずねた。
「歌舞伎町を根城にしてるチンピラや不良どもの巣さ。夜は喧嘩と殺しの舞台だ。歌舞伎町ほどじゃないがな。安心しろって。あんたは、安全保証つきのところへ監禁してやるよ」
まだ身代金をふんだくる気だ。
「はい、ありがとうございます」
さやかは頭を下げた。こっちの神経もよくわからない。
そのとき、突然、びしゃっ! という音と運ちゃんの悲鳴が重なりあって車内に反響した。あんちゃん[#「あんちゃん」に傍点]のひとりが道路へとびだし、ビニール袋とその中身の赤い液体を、フロント・グラスにぶちまけたのだ。
じゅーっと、分厚いガラスが溶けていく。オレンジ・ジュースじゃなかったらしい。
「この糞餓鬼!」
運ちゃんは大きくハンドルを切るや、身をひるがえした犯人を追って歩道へ突っこんだ。ギンギラギンの通行人が、悲鳴をあげて逃げまどう。はねとばされる寸前、犯人は横へとんで難を逃れたものの、食堂らしい店の前に山積みになっていたゴミバケツの真ん中にとびこみ、残飯だらけになった。
「ケッケッケッ。ざまみやがれ」
風通しのよくなった車内で、運ちゃんは意気揚々と笑った。「あんなチンピラども、まとめてがまぐち≠ノぶちこんで、『危険地帯』に放り出しちまえばせいせいするのによ」
憎まれ口が終わらないうちに、それまで身動きひとつしなかった京也が、バネ仕掛けの人形みたいに、びん! とはね起きた。
「がまぐち≠チていうのは、早稲田ホテルの外に浮かんでた異次元空間だろ」
ちがうなどといおうもんなら、殺されかねまじき剣幕に、運ちゃんは青くなった。京也はつづけて、
「あそこに呑みこまれたものは、『危険地帯』に吐き出されるのか?」
「そ、そういう噂だよ。おれは現場を見たわけじゃねえんだ」
「ふん。帰ってきた奴がいねえそうだからな」
こういってから、京也は少しのあいだ沈黙し、とんでもない要求を述べた。
「おっさん、歌舞伎町は後まわしだ。『危険地帯』へ直行してくれ。おれはそこで降りる」
運ちゃんはハンドルを切りそこねるところだった。さやかも眼を見張った。
「馬鹿いうな。いくらなんでも、こんな可愛らしい娘を閉じこめとく場所じゃねえよ。断っとくが、身代金をせしめたら、おれはちゃあんと親元へ送り返すつもりだぜ」
「悪いが、誘拐は中止だ。宝探しに変えるよ」
「ちょっと待て」
運ちゃんはあわてた。
「だけど安心しな。悪いようにはしねえよ」と、京也はさやかを指さし、「このお嬢ちゃんを、新宿の外まで送って、警察へ引き渡してくれ。連邦政府からたんまり謝礼がでるはずだ」
「へえ」運ちゃんは感心したようにいった。「外じゃ、誘拐した娘を返すと礼金をくれるのか。ここより暮らしやすそうだな」
当のさやかは、子供みたいにいやいやをした。
「勝手に決めないで下さい。わたくし、お断りいたします」
「ぐだぐだ言い争ってる|暇《ひま》はねえ。『新宿』の外へ出りゃ、化け物も追ってこねえさ。君の影は必ずおれが取り返してやる。お茶でも飲みながら待ってな」
「そんなことおっしゃっても……いや、いやです。第一、どうして危ないところへ行かれるのですか? 宝って何ですの?」
それをいったら、悩むだけだ。京也は一喝した。
「まだ、わからねえのか。広場でのざまあなんだ。足手まといもいいとこだったぜ。エスパーのおっさんたちがいてくれなきゃ、ふたりともあそこでお陀仏だったんだぞ!」
さやかはうつむいて沈黙した。
――済まねえな。
京也は胸の中でわびた。
――君のためにあのエスパーたちが力を貸してくれたのはよくわかってるんだ。だが、これから先は危険が多すぎる。女の出る幕じゃねえよ。危ない目にあうのは男の役さ。
「わかりました……」
さやかはききとれないくらいの声でいった。
タクシーは靖国通りをひた走り、やがて青梅街道に入ると、果てしなく続く鉄条網の前でとまった。ひと一人通れるくらいの穴があいている。高さ五メートルにも及ぶその鉄条網の向こう側が、かつての新宿副都心――「危険地帯」であった。摩天楼の群れは、いまの新宿の荒廃など知らぬげに、往時の姿をとどめて天に挑んでいる。
京也は車を降りた。
わざとさやかには眼もくれず、運ちゃんに念を押した。
「頼んだぜ。逃げられないように、ドアは運転席からロックしといてくれ。それと、誘拐しなおそうなんて思うなよ」
「安心しな」運ちゃんは意外に人の好さそうな笑顔を浮かべて保証した。「自慢じゃねえが、おれはひとりじゃ何もできねえんだ」
それから手をさし出した。
「なんかよくわからんが、おめえ、生命がけの仕事をしようとしてるんだな。つまらん野郎の見送りで悪いが、幸運を祈るぜ。娘さんのことはまかしとけ」
京也は無言で男の手を握った。無骨な、あたたかい掌だった。
窓ガラスに顔を押しつけて見送るさやかを乗せて、タクシーは走り去った。
京也は宙天に眼を向けた。
夕暮れどきである。
天空を|紅《くれない》に染める夕日を背景に、巨大な高層ビルの影がいくつも、若き戦士を迎える墓標のごとくそびえ立っていた。
新宿の外に残してきた生活が脳裏を横切った。陽気な加山と白鳥の笑顔。黄金の希望に満ちていた学生生活。荒っぽいがやさしかった叔父夫婦――
えらいとこまできちまったな、おい。
こうつぶやいて肩をすくめ、十六夜京也は|瓢然《ひょうぜん》と鉄条網の方へ歩き出した。
PART7
ニューヨーク。午前二時。夜間照明灯だけがまぶしい地球連邦ビル付属病院の中庭に、赤ランプを点滅させながら、一台の|緊急車《アンビュランス・カー》が走りこんできた。京也が「危険地帯」へ足を踏み入れたのと同時刻である。
事故現場から、負傷者ないし遺体を車内の再生処理ユニットに封入し、大脳だけは生かしたまま再生医療センターへ送るのが緊急車の役目だ。連邦ビル付属病院には、最新の設備を誇る再生センターが備わっていた。
しかし、車は、センターの入り口までいかずに停車した。再生処理ユニットを収めているコンテナ部の天井が左右に開き、鈍くひかる四連装のミサイル|発射器《ランチャー》がせり出してきた。
患者を収めたユニットを引き取ろうと駆けつけた医師や看護婦の眼の前で、ミサイルは一斉に発射され、外部からは見えない位置にある特殊病棟の一角に吸い込まれた。
羅摩こづみ首席の病室であった。
天地を揺るがす轟音とともに、病棟全体が吹きとび、火炎地獄が現出した。
サイボーグ警備員やエスパー・ガードが到着するまえに、問題の緊急車は逃亡し、後日、無法街サウス・ブロンクスの片隅で発見されたが、無論、犯人たちの姿はなかった。首席の政策に反対する某国のコマンド・グループが、偽装事故をでっちあげて緊急車を呼び寄せ、巧みに乗っ取り、テロ活動を遂行したらしかった。
連絡をきいて、連邦政府首脳は戦慄した。ただちに救助活動が開始されたが、誰もが、遺体発掘作業の方がふさわしい呼び名だと思った。
だが――
数百トンにも及ぶ建物の|残《ざん》|骸《がい》にはばまれながら作業に励んでいたレスキュー隊と関係者たちは、奇蹟を体験することになった。
「見つけたぞ、遺体だ。いや、い、生きてる!」
「こっちもだ。ひい、ふう、みい……五人。信じられん。あの爆発で、傷ひとつないぞ!」
驚愕の叫びが中庭を埋めた。
とりわけ、巨大なコンクリート塊の下から、|結《けっ》|跏《か》|趺《ふ》|坐《ざ》の姿勢を崩さぬライ老師と、ベッドに横たわった首席が無傷で発見されたとき、人々は言葉を失った。ヨーガの超感覚でミサイル攻撃を予知し、その炸裂寸前、病院中に張りめぐらせた老師の念が奇蹟を生んだのである。
電子キャリアーに移され、別の病室へ急ぐ首席に付き添いながら、老師はつぶやいた。
「わしも苦労しておるぞ、京也よ。あと二日――世界の運命はおまえの双肩にかかっておる。頼んだぞ」
それから、いくぶん気弱な調子で、こうつけ加えた。
「もっとも、老骨にいまの花火は効いた。はて、わしの方がもちこたえられるかな?」
鈍い排気音が、|澱《よど》んだ空気の微粒子を震わせた。
新宿住友ビルを出て、ひと気のない舗装路を進んでいた京也は足をとめ、四方に念を放った。
――ホテルの親父がいってた謎の爆音だな。こんな場所でオートバイを転がしてやがるんだ、まともな人間じゃあるまい。武器のひとつも欲しいところだな。
周囲を見まわしたが、釘一本おちていない。
京也が立っているのは、住友ビルと三井ビルの間を抜けてもとの甲州街道へと通じている俗称十号街路だ。三〇メートルほど前方左手に京王プラザホテルの偉容がそびえ、京也のすぐまえ五メートルぐらいのところに、下の道路へ下りる階段口があった。道路は新宿駅西口と中央公園を結ぶ直通路である。
出てきたばかりの住友ビルまで約十メートル。そこまでいけば、「魔震」で|剥《は》げ落ちた壁面の一部や、窓ガラスの破片が散乱している。気休めだが、手頃な武器にはなるだろう。やや落ちこんでいたので、そこまで気がまわらなかったのだ。危険地帯を一望してがまぐち≠フ出口を探そうとビルの屋上まで昇ったものの、みごと失敗におわったせいである。中央公園内は霧に包まれて何も見えなかったが、その他のところには異次元空間の影もなかった。
京也は足早にビルへと戻りはじめた。
排気音は、かなり接近している。
――おかしな音だな。上下左右、どっからでもきこえてきやがる。こりゃいよいよ、生身の相手じゃねえな。
念は凝らしているのに、一向に居場所がつかめない。
「うわっ」
京也は叫んで片膝を道路についた。精神の深奥まで凍りつかせるような冷気が、前触れもなく押し寄せてきたのだ。疲労のせいもあるが、|桁《けた》はずれに強烈なエネルギーを秘めた怨念である。
――よほどの怨みを残して死んだ人間らしいな。いま相手にしちゃ不利だ。ビルに隠れてやりすごそう。
そう思った途端、爆音と怨念の放射地点が一カ所にしぼられた。頭上! ふりあおいだ京也は、住友ビルの対面、地上五二階、二二四メートルの新宿三井ビルのてっぺんに、|七五〇CC《ナ ナ ハ ン》とおぼしきオートバイにうちまたがったライダーの影を認めた。「危険地帯」へ入って二時間とたっていないのに、もう戦闘開始だ。
――|最《は》|初《な》から観察してやがったのか。厄介な野郎だぜ。どうやってそこへ昇ったのか知らねえが、どうやって降りる気だ。悪いがおれは失敬するぜ。
京也は方向を変えて、階段口の方へダッシュした。下の道路へ降りて敵の眼をあざむく作戦ではない。一刻も早く|尻《しっ》|尾《ぽ》をまいた方が無難と本能的に悟ったからである。不吉が形をとったような相手だった。
あと一メートルというところで、天からライダーが降ってきた。
ドン! と爆発そっくりの衝突音をたてて京也と階段口の中間に静止する。五二階からとび降りたはずなのに、バウンドひとつしない。寸秒の余裕も与えず、黒光りするマシンがまがまがしい殺意を秘めて排気音をしぼり出した。
|黒革《ブラック・レザー》のつなぎに身を固めたライダーの顔は、首まで覆うレーサー用ヘルメットの陰で見えないが、全身から投射される怨念は、さしもの京也を立ちすくませた。
京也は片手をあげて制した。
「ちょっと待て。あんた、とてつもない恨みを抱いて死んだ人らしいが、無差別攻撃はよくねえよ。――といっても、この念の強さじゃ、説得したってきく耳持たねえだろうな。で、どうする?」
ぐおっ! と|七五〇CC《ナ ナ ハ ン》が突っ込んできた。京也は横にとんでかわす。敵に反転の時間を与えず、ワン・モア・ジャンプして柵を越え、下の歩道へとび降りた。ぐきりと両膝に鋭い痛みが走ったが|躊躇《ちゅうちょ》せず、左手の三井ビルへ駆けこもうと立ち上がる。
「!」
衝撃的な光景が眼前に展開していた。足が自然にとまった。前方の道路に、歩道に、無数の白骨が散乱している。例外なく滅茶苦茶に引きつぶされて、衣服もちぎれ、人体の原形をとどめていない。何も知らずにここへ迷いこんだ不運な人々だろう。子供のものらしい小柄な骨もあった。
怒りに全身がふるえた。
――怨念の化け物め。人の心ってやつは、一体どうなってるんだ。
束の間、大雪山中での修行の記憶が甦った。|血《ち》|反《へ》|吐《ど》を吐き、父をののしりながらも、日々確実に、より高い精神の場へと近づいてゆく実感があった。そんな自分の背後に、人間の心の奥底に澱む、どす黒い怨みの塊が迫っている。
――おれとやつ。どっちが人間なんだ?
とっさに京也は右へ、道路へと跳んだ。横手を黒い稲妻がかすめてすぎた。
鮮やかな受け身をとって立ち上がったとき、ふんばった両足に激痛が走った。さっき、十号街路からとび降りた際に痛めたのだ。思わず両膝をついてしまう。いつもなら百メートルでもこたえないのに、念の回復は遅々として進まない。
七五〇CCはスピードをおとさず反転した。道路脇の保護壁を吹っとばし、真正面から突っ込んでくる。
体勢を立てなおす余裕はなかった。京也は背を丸め、両手を顔の前で交差し、ありったけの念をこめた。邪悪なタイヤがのしかかってきた瞬間、渾身の力で上へはねとばす。
「おおっ!?」
驚愕の叫びが通りを走った。京也のものだ。殺人ライダーは、頭上を越えて半回転し、頭から道路に叩きつけられるはずであった。しかし、ライダーとオートバイはもう半回転した。正常な姿勢で落下する寸前、右足が路面を蹴り、ビルから落ちてきたときと同じく、不気味に静かな着地をやってのけた。
それでもさすがに京也の技に驚いたものか、すぐさま攻撃はかけてこない。ふたりと一台は、二メートル足らずの距離をおいて相対した。
京也は生まれてはじめて生命の危険を感じた。
――恐ろしい野郎だ。もう倒せるだけの念はこめられねえ。一か八か、最後の手段をとるしかねえな。だけど、あれ[#「あれ」に傍点]をやっちまうと、あとあとまずいんだよな……
最後の手段とは、潜在意識内に留めてある「余備念」を放出することだった。しかし、それにはコントロールが効かない。ただ一度、まとめて放出するしかないのだ。そして、これまで使ってしまうと、|翌《あくる》一日は念法が使用不能になる。文字通り、最後の手段なのであった。
なんか、得物はねえかな?
京也の視線がチラリと横の方へ動いた。すかさずマシンが突進してきた。京也は跳躍し、ライダーの顔面へ全体重を乗せた足刀を放った。視線をずらしたのは誘いだ。だが、足刀は空を切った。ライダーの身体は京也の頭上に舞っていた。絶妙のタイミングで、疾駆するマシンに戻る。
同時に、京也は苦痛のうめきをあげてあお向けに路上へ引き倒された。ライダーが跳躍しざま、隠しもったチェーンをその喉に巻きつけたのである。|凄《すさ》まじい勢いで、コンクリートの舗装路を引きずられていく。
トレーナーの背中が裂け、肉が|灼《や》けた。
苦痛をこらえ、チェーンに手をかけて引きちぎろうとするがびくともしない。念法を使わないかぎり無理な相談だ。いまの京也は、普通の人間なみの攻撃力しかもちあわせていない。ライダーは手近の保護壁へ突進した。京也をそこへ叩きつける気だ。
――余備念!
京也の思考をきらめく光の矢が中断させた。チェーンがふたつに切れ、京也は地面に転がった。背中の激痛を押さえて、光のとんできた方向へ顔をあげる。
階段の下にさやかが立っていた。右手を突き出している。レーザー・リングのパワーを最強に上げ、チェーンを蒸発させたのだ。ライダーを狙わなかったのがこの娘らしい。とにかく水際だった腕前だ。
ライダーは、京也に眼もくれず、新しい敵へとマシンを駆った。
さやかはレーザーのボタンを押すこともできなかった。突進してくるライダーの怨念に射すくめられていた。|殺《さつ》|戮《りく》の歓びに酔った黒い怪物が迫る。
だが、さやかにのしかかる寸前、ライダーは大きくのけぞった。同時に、オートバイそのものも猛だけしさを失ったかのように急激に左へカーブを切り、数メートル走ってぶざまに横転した。
「京也さん!」
我に返って走り出そうとしたさやかは、京也が無事に立ち上がるのを見るや、オートバイから投げ出されたライダーに駆け寄った。
黒つなぎの背中に、一本の骨が深々と突き刺さっている。さやかが危ないと見た京也が、そばに落ちていた犠牲者の|肋《ろっ》|骨《こつ》に余備念をこめて投げつけたのである。
はじめて、ヘルメットの陰からライダーの声が洩れた。
「地面に落ちたときがおれの最後だ……だが、おれは死ねん。奴らが眠らせてはくれんのだ……また、きっと、帰ってくるぞ……」
それが、どこともしれぬアジトできいた魔道士の言葉と同じものだと知り、さやかはぞっとした。それでも彼女は道路にしゃがみこみ、ライダーのヘルメットを膝に乗せた。
京也が近づいてきた。
「京也さん、この方は――」
「亡者だよ。もうずっと前に死んでるんだ」
さやかはうなずいた。さっき、怨念を浴びたせいで正体はわかっていた。
「どうやってタクシーを脱け出した?」
京也は低い声できいた。怒りはこもっていない。さやかのおかげで命拾いしたこともあるが、なによりも疲労で怒るどころじゃないのだ。声が低いのはかすれているからだ。
「どうしても、わたくしひとり逃げる気になれなくて、レーザーでドアのロックを焼き切ったのです」
京也は肩をすくめた。
「あの運ちゃんには気の毒したな。ま、仕様がねえ。いこうや」
「まだです。この人を放ってはおけません」
「おい、お人好しも相手によりけりだぜ。あそこにごろごろしてる骨をみろよ。ここへ入りこんだ連中は、みなこいつにひき殺されちまったんだ。化け物には化け物なりの苦しい死に方があるぜ。天罰だ」
京也の眼には、幼い子供の白骨死体がまだ|灼《や》きついていた。
「あなたなら、放っていかれますか?」
さやかは静かな瞳で京也を見つめた。
何かいおうとして、京也は苦笑いを浮かべた。
「わかったよ。好きにしろ」
こういって、少し離れた歩道の敷石に腰をおろす。
さやかは微笑し、それからライダーのヘルメットに手を触れた。
頭頂部から下のへりまで、赤黒いしみがこびりついている。
「無駄だ」とライダーがうめいた。「このヘルメットには、おれがひき殺し踏みにじった奴らの血がこびりついている。奴らの呪いが解けない限り、それははずれん……苦しい……奴らが怒っている……なぜ殺さない、もっとひき倒せ、踏みにじれ……と」
「あなたも不幸な方なのですね」
さやかはやさしくいった。
「他人を怨んで、その生命を奪い、今度はその人たちに呪われて……」
ライダーの声に人間の感情がこもった。
「……不思議だ。あんたの声をきいてると、奴らが近寄ってこない……そばにいてくれ。おれをひとりにしないでくれ……」
「ここにいますわ。話して下さい。苦しいことや哀しいことを」
ライダーは話しだした。
「魔震」の当日、十八歳の彼はようやく念願のカワサキを手に入れたのだった。食べるものも食べず、重労働に耐えて貯えた金であった。
そして運命の夜、十号街道を疾走中に魔震のゆさぶりをくらって下の道路へ落下、全身打撲で息絶えたのである。オートバイを愛し、幸福の絶頂にあった彼にとって、それは、単なる運命とはあきらめきれぬ無念の死であった。
やがて妖気が新宿を包み、高属ビル群が古代の|環状列石《ストーン・サークル》のように霊的な作用を促進する役割を果たすと、副都心一帯には、現世に未練を残す地縛霊や怨霊たちが集まり、訪れる人間たちにたたりはじめた。中でも特に心残りの強かった彼は、妖気の作用をもろに受けて、実体を有する怨念と化し、迷いこんだ人々を次々と愛車で殺害していった。そのあげく、今度は虐殺した人々の呪いに取り|憑《つ》かれ、新たな犠牲者を求めて、未来永劫、呪わしい血の疾走を続けるべく運命づけられてしまったのである。彼もまた、救われぬ不幸な魂だったのだ。
「可哀そうに……」
さやかの涙がぽとりとヘルメットにおちた。
「……!」
さやかの顔に喜びの色が湧いた。血塗られた不動のヘルメットがかすかにゆるんだのだ。
京也が信じられんといった面もちで立ちあがった。
「や、奴らが消えた。いなくなったぞ」
ライダーの声には無限の歓喜がこもっていた。
すり切れた革手袋をはめた手が、そっとさやかの腕をつかんだ。
「ありがとう、ありがとう……おれはこれで本当に死ねる。やっとこの呪われた場所から脱け出せるんだ……あんたも早くいけ」
「その前にひとつ、きかせてくれ」
近づいていた京也が声をかけた。
「この危険地帯のどこかに、がまぐち≠チて異次元空間の出口があるはずだ。知らねえか?」
ライダーは右手で、中央公園の方をさした。
「……森の奥に図書館がある。その近くだ。だが、気をつけろ……あの森は……おれ以上に強力な|怨霊《おんりょう》や怪物の巣だ……ぞ……」
「ありがとう」京也は心の底から礼をいった。「恩に着るぜ」
ライダーの身体から不意に力が抜けた。
「ありがとう……あんた……名前をきかせてくれないか……」
「さやかと申します」
「風みたいな……いい名前だ。……おれの名は……」
声は途中でやんだ。手がパタリと地面に落ちて、ライダーはやっと、安らぎを得たのである。
死者を膝にいつまでも動かぬさやかを、京也は|畏《い》|敬《けい》の念さえもって見守っていた。
――マーケット街のエスパーたち、この怨霊ライダー。この|娘《こ》にかかると、どいつもこいつも善人になっちまう。さすが聖者≠フ娘といおうか、とんでもねえ玉だぜ。ひょっとしたら、「魔界都市」まで変えちまうかもしれん。
少しして、さやかはライダーをその場に横たえ、静かに立ちあがった。
「ヘルメットを取ってやったらどうだい?」
「呪いはもう解けたようです。この方も今の姿で眠りたいと思います」
「そうだな」
京也はオートバイに眼をやった。いつのまにか|赤《あか》|錆《さび》に覆われている。愛車も主人の後を追ったのだ。
「あっちに空き地がある。彼とその辺の遺骨を埋めてから、ビルに入ってひと寝入りしようや。夜は危ねえ。すべては明日だ」
京也にいわれて、さやかも気がついた。あたりは青いたそがれにつつまれ、暮れなずむ空に秋の星々がともっている。いつの間にか、六時を過ぎていた。
埋葬を終えると、さやかは訴えるように京也を見て、「もう、帰れなんておっしゃらないで下さい、お願いです」と言った。
「ああ、生命の恩人を粗末にゃ扱えねえからな。それに、いくらいっても無駄のようだし」
「うれしいっ!」
「ぐわお」
またも首っ玉に抱きつかれて、京也は悲鳴をあげた。首筋にはチェーンの傷痕がくっきり残っているし、背中ときたら、路面でこすった筋肉が灼けただれているのだ。
「ご、ごめんなさい。――ひどい傷。すぐ手当てしなくては」
「いいさ。今夜のねぐらに薬ぐらいあるだろう。三〇年近く昔のだがな。さて、どこに泊まるか」
意識的に京也が避けた方向へさやかは眼をやって、はずんだ声をあげた。
「あそこは、ホテルではありませんこと?」
京王プラザホテルである。暗示学習器の効果はまだ消えていなかった。
「あ、ああ」京也はどぎまぎした。
「あそこに泊まりましょう。わたくし、子守歌が得意なのです」
「……誰にきかせるんだ?」
「あなたに」
京也は目をむいた。
「お、同じ部屋に泊まる気か?」
クラスメートのお尻に|触《さわ》るくらい朝飯前の男にしては、意外なあわてぶりである。
「はい」とさやかはにっこりうなずき、「いけませんか? 別々では、万が一のときお互いのことが気になって、動きが束縛されると思いますが」
「そら、そうだけど」
「わたくしのことなら気にしないで下さい。寝つきはいい方ですから。京也さんがいびきをかいたり歯ぎしりをしても平気です」
「そんなこと、誰がするか」
吐き捨てるようにいわれ、さやかはべそをかいた表情になった。
いきなり京也は身をよじって笑い出した。魔海と化したホテルのただ中にあってさえ自分の冗談に吹き出していた娘が、とるに足らぬひと声でぐすんと落ちこんでいる。そのイメージの落差がたまらなく愉快だった。
なにがなんだかわからないまま、さやかも微笑した。
「君にゃ敵わねえ。さ、VIPルームへいくとするか! ただし、ツイン・ベッドだぜ」
闇のおちた街路をホテルへと急ぎながら、しかし、京也の胸には重苦しい暗雲が低く低く垂れこめていた。
怨霊と怪物の待つ森。それなのに、明日一杯念法は封じられ、なによりも、首席の生命を救うために残された期間は、あと二日しかないのだ。
その夜、空腹は食堂にあった缶詰で満たしたものの、京也は五間つづきの豪華なスペシャルルームのベッドの上で、まんじりともできなかった。
翌朝、ホテルから中央公園までわずか数十メートルの距離を踏破するあいだに、ふたりは『危険地帯』の『危険』たる|所以《ゆ え ん》を存分に味わう羽目となった。
地階から公園への直通路に出て、十一号街路の下をくぐり抜けようとすると、やにわに猛烈な寒気に襲われ、必死に脱け出したものの、凍死寸前までいった。陽のあたらぬ影の部分に、怨霊たちがたむろしているらしい。
さらに一〇メートルほど進むと、地面が|陥《かん》|没《ぼつ》してすりばち型の穴へ落ち、底で大顎をガチガチいわせているアリクイそっくりの怪物に食われかけた。これは単なる生物らしく、さやかのレーザーを浴びるとさっさと地中へ退散して事無きを得た。こんな怪物がごろごろしているのも、市谷の辺にあったという遺伝子研究所が破壊されたせいだろう。
「ようございましたね!」
穴から|這《は》い出し、さやかは|安《あん》|堵《ど》の言葉をもらしたが、京也は仏頂面である。少女におんぶしてるのが面白くないのだ。彼の武器といえば、ホテルから拝借した一メートルほどの木の棒だけ。それも、掃除用のモップの先をへし折った代物だから、さえないことおびただしい。念法の使えない今日いちにちは、戦闘能力においてさやかの足元にも及ばないのである。レーザー・リングを取りあげれば事は簡単だが、それはプライドが許さない。
穴を這いのぼるのに時間を食い、中央公園前の十二号道路に出たのは、午前九時ちょうどだった。ホテル出発が七時。たかだか数十メートルの距離に二時間かけたことになる。
それでも後は何事もなく、ふたりは霧けぶる中央公園へと足を踏み入れた。
道路から公園の敷地内へ一歩入ったとたん、不思議な充足感がふたりをつつみ込んだ。あたたかいものが、皮膚の全表面から浸透し、不安や恐怖を一掃していく。
さやかがぺたんと青い芝生の上に膝をついた。緊張の反動がきたらしい。
「ここが恐ろしい場所なのでしょうか? こんなにも美しく、気の安まる場所が?」
「まったくだ」
京也もぼんやりと同意した。
見渡せば、一面に緑の若葉と樹木、そこから発するかぐわしい香り、生気にあふれた匂い。こずえを縫って陽光はさんさんとさしこみ、耳を澄ませば、美しい音楽さえきこえてくるではないか。
しかし京也は、京也の一部[#「一部」に傍点]は、完全にこの世界へひたり切るのをなぜかこらえていた。それは、二歳のときから骨身に|泌《し》みこんだ武道家としての勘であった。
どこかがおかしい。どこかが……。
――きのう、住友ビルの屋上から見たときも、公園の中は霧につつまれてた。それに……秋に青葉……?
頭の中にたちこめてくるあたたかいもの[#「もの」に傍点]を必死に抑えつけながら、京也が眉をひそめたとき、
「あっ、人ですわ」
さやかが森の一角を指さした。数名の男女が樹々のあいだから現れ、こちらへやってくる。服装はまちまちだが、みな一様に明るい微笑を浮かべていた。
「ようこそ、『安息の森』へ。歓迎しますよ」
眼の前まできて、中年の男が声をかけた。
「『安息の森』? 『危険地帯』でしょう、ここは?」
京也がきいたが、男は首をふり、ごらんなさい、という風に両手を広げた。
「この通りですよ。そんなに物騒なところに見えますか? 外部の連中は柵をこしらえてこの辺一帯を隔離してるが、少なくとも、この森にだけは危険など存在しません。第一、『危険地帯』の外が、はたして『安全地帯』でしょうか?」
そういや、そうである。
温厚そうな老婦人が、さやかの手をとって立ち上がらせた。
「さ、いらっしゃい。もう少し先に、私たちの国があります」
「国――ですの?」
「この森へ迷いこんだものたちが、外の野蛮な世界と|訣《けつ》|別《べつ》して築いた理想郷です。あなた方もじき仲間になれますよ」
「じき? 仲間になるのに時間がかかるのかい?」
すっかり幸福なムードに酔い|痴《し》れているさやかの横顔をうかがいながら、京也がたずねた。
婦人は慈愛にみちた笑顔をつくって、
「ええ。あなた方はもう少し時間がかかります。それまでゆっくり、私たちの国にお慣れなさい」
一行は森の奥へと歩きだした。
おい茂る樹々の間を抜け、数分も歩くと広場に出た。
「まあ、きれい」
さやかが感嘆の声を発した。京也でさえ思わず眼を見張ったくらいだ。
古代の哲学者や賢人たちが夢に描いた理想郷――シャングリ・ラとは、ここのことではあるまいか。
澄み切った水を|紺《こん》|碧《ぺき》の天空高く噴きあげる大噴水を中心に、光と緑あふれる大地の上を、おびただしい数の人々が往き来している。芝生に横たわり、ささやきを交わしている若いカップル。たわわに果実を実らせた樹々のかたわらで語り合う中年の夫婦。噴水の周囲ではしゃぎまわる子供たち。金色のそよ風がその髪をなで、甘いしらべは一層甘く切なく、京也とさやかの耳をくすぐった。
すべてが燃えたつ生のさなかに存在し、光り輝いていた。
「いかが?」と老婦人がさやかにきいた。「もう、ここから出たくないでしょう?」
「はい」
さやかの表情は、|魅《み》せられきったもののそれであった。父のことも世界の未来も脳裏から消え去っていた。京也さえ同じだった。
「さ、いきましょう」
男が京也の背中を押した。
ふたりを救ったのは、まさにこの行為だったのである。
ホテルに備えつけの薬で応急処置はしてあったものの、完治にはほど遠い傷口から激痛がほとばしって脳髄を|灼《や》いた。
その瞬間、理想郷の光景が一変した。
噴水はひび割れ|苔《こけ》むして、腐臭を放つにごり水の中に腐乱死体がいくつも浮いている。緑の芝生もかぐわしい森も、すべて灰色のしなびた草と、異様にねじくれた、葉っぱ一枚ついていないやせ木の連なりと化していた。足元におちている果実に眼をとめて京也は息をのんだ。|髑《どく》|髏《ろ》だ!
住人たち≠ヘ動かない。だが、全員が、青白いやせこけた顔に血みどろの眼球を押しこんだ死霊の正体をさらけだし、じいっとこちらを見つめているではないか!
光などなかった。鼻孔を通って|臓《ぞう》|腑《ふ》まで腐らせそうな死臭と、どんより濁った妖しい白霧が、この世界の支配者であった。典雅な音楽も、なにかしら呼吸音を思わす奇怪な断続音に変わっている。
『安息の国』は、生者を招き寄せる死霊の巣窟だったのだ。
男が、京也の表情を見て、にっこりした。
「おや、気がつきましたね」
京也は物もいわず、右手の棒を男の脳天に振りおろした。
ぼこっ! と頭骸が陥没した。男は青白い死霊の顔で、なおにっこりと笑いかけた。
「無駄ですよ。もうこの森からは出られません。なに、じき仲間になれますって」
棒が横面に命中し、男は笑いながら倒れた。
京也は老婦人を突きとばし、さやかの手をとった。
「逃げるんだ。ここは死人どもの国だ」
なんと、さやかはその手を振り払った。
「いやです。わたくしはここで少し休んでいくのです」
説得しても無駄だ。背後で動く気配にふり返ると、いままで黙ってみていた死霊たちが、ぞろぞろとこちらへ向かってくるところだった。
「ごめんよ!」
京也の親指がさやかの|脾《ひ》|腹《ばら》に食いこむ。身を屈めて、倒れる身体をひっかつぐや、京也は一目散に森の奥へと駆け出した。
霧とやせ木の間から、青白い男女が現れ、つかみかかってくる。この森へ迷い込み、京也たち同様、死霊の虜になって餓死した|亡者《アン・デッド》たちだ。
棒をふるって片っ端から叩きふせたが、破邪の念がこもっていないから、頭を割られようが、喉をつぶされようが、衝撃でひっくり返るだけで、すぐさま平然と起き上がってくる。
――ええい、きりがねえ。
京也は撃退するのをあきらめ、記憶しておいた地図を思い浮かべながら、しゃにむに図書館へと走った。
見えた!
半ば倒壊した灰色の建築物の残骸。図書館にちがいない。
不意に右手の霧の中から現れた女の死霊を足刀で吹っとばし、京也は一気に図書館の敷地に駆けこんだ。
「!?」
追われているという思いが念頭から|拭《ぬぐ》い去られた。
がまぐち≠アそ見えないが、この上空、いや、この辺一帯は、早稲田ホテルのものだけでなく、世界中の異次元空間と連結しているのだろう。敷地の中央には、時間と空間の秩序を無視した過去の消失物≠ェ、山のように積み重なっていた。
古代マヤの象形文字が刻まれた無数の木箱と、その破れ目から|溢《あふ》れる金銀宝石類、インディアンのテント、数機のアヴェンジャー雷撃機、そこここに散らばった人骨。むろん、京也には品物の内容や由来まではわからない。ただひとつ、他を圧して黒々と地面から突き出ている船の船首と巨大な砲身は――。
「こ、こりゃ、昔の戦艦だ。だけど、一体――どこの船が……」錆だらけの艦首に船名が刻まれていた。
「なんだあ……う、ね、び――『畝傍』!」
思わず京也は叫んでいた。
いまから一二〇年以上も前の明治十九年、フランスから日本へ向けての航海中に原因不明の失踪をとげた、日本海軍の最新巡洋艦である。怪奇現象を扱った本で読んだ覚えがある。しかし、異次元空間に呑み込まれたのはともかく、それが新宿の地面の下から顔をのぞかせていようとは。
――まてよ、消えた人間もいたぞ。テネシー州で五人の目撃者の眼前から消失したデヴィッド・ラング、|塀《へい》からとび降りた途端にいなくなったジミー少年――まさか、この人骨は……
京也は頭をふった。知りたいことは山ほどあるが、いまは阿修羅を見つけるのが先決だ。しかし、この膨大な消失物≠フどこを探したらいいのだろう?
背後におびただしい気配がひしめいていた。
ふりむいて、京也は息をのんだ。
十メートルほど離れたところに何百という死者の群れが突っ立ち、恨むような、訴えるような眼つきでこちらを凝視している。
「な、なんだ、お前ら。あ、あっちいけ!」
と手をふったが、行くわけがない。
京也は悲鳴をあげたくなった。何もしないでひたすら見つめている死霊の群れが、これほど不気味な存在だとは……。
「いらっしゃい」
なす|術《すべ》もない京也に、男のひとりが手招きした。
「戻ってらっしゃい」
顔半分を失った少女が誘った。
おいで。いらっしゃい。仲間に入れ。
|耳《じ》|朶《だ》をくすぐる誘いの声に惑わされなかったのは、さやかをかついだ肩から背中にかけて走る痛みのせいだ。普通の人間には、やさしい母の声にもきこえるだろう。
「やかましい!」
京也は夢中でわめいた。
「どんなに荒れすさんでいようと、ここは生きた人間の世界だ。おれも、この娘も、その世界に責任がある。てめえたちにゃ、てめえたちにふさわしいところが待ってるぜ。さっさとそこへ|失《う》せちまいな」
「困ったな。ききわけのない子だ」
「やむを得ない。みんなで連れていこう」
死霊の群れはうなずき合い、中庭に侵入してきた。
京也は消失物≠フ陰に隠れようとしたが、さやかを背負っているせいでたちまち追いつかれ、『畝傍』の船体に押しつけられた。棒をふるい、蹴りを放っても効き目はゼロだった。
「畜生! 化けてでてやるぞ!」
ふり上げた棒が船体にあたった。カーン。振動音がこだました。それは、大気に拡散されながらも、船体の隅々までほんのわずかなふるえをもたらした。そそり立つ砲身の先までも。
阿修羅は砲身のへりに横たわっていた。
振動ともいえぬささやかなふるえに、微妙なバランスが崩れ、阿修羅は落下した。下では京也とさやかが棒も奪われ、死霊たちにかつぎ上げられたところだった。阿修羅は奇蹟のように、京也の手の中に落ちた。
「よォ、久しぶり」
京也は静かにつぶやいた。手のひらから全細胞へ熱い念が泌みわたっていく。そればかりか、自分自身の念まで回復したようだ。
下方へ阿修羅をふると、数人の死霊が塵となって消滅した。残りはおぞましい悲鳴をあげて左右に散る。京也は身をひねり、音もなく地上に降りたった。さやかをかついだ群れに駆け寄り、ひとなぎする。少女は彼の手に戻った。
死霊たちも京也の「復活」を知った。
遠まきにしたまま近寄ってこない。
京也はさやかを肩に乗せると、胸前で阿修羅を垂直に立て、前進しはじめた。眼は半眼に閉じている。全身から念を放出しながら進む念法「|白光歩《びゃっこうほ》」である。その名の通り、死霊たちには、彼の姿がまばゆい白光に包まれて見えた。
森の奥へ直行すれば、公園のはずれに出る。記憶によればそこが「危険地帯」の境界だ。しかし、京也の足は「安息の国」をめざしていた。
何人かの死霊がつかみかかってきたが、光の壁に触れただけで両手は崩れ、身体も消滅した。
森を埋めつくした死霊のただ中を、ひとりの青年が決然と進んでいく。父と息子、わずかふたりの白い念が、何百もの怨念を圧していた。
――待ってろよ、みんな。いま、楽にさせてやるぜ。
京也は胸の中でつぶやいた。
阿修羅が戻り、念も回復したいま、死霊たちのエネルギー源とでもいうべきもの、彼らを地上に縛りつけている張本人の所在を見極めたのである。
広場へ出た。
例の呼吸じみた音が周囲を揺るがしている。
噴水へと進んだ。
遠巻きにした死霊が悲鳴をあげた。
よせ、やめろ。あの若造に呪いあれ。
京也はさやかを肩にしたまま、軽々と噴水のへりに跳び上がった。水面をのぞきこむ。
あった! この世の怨念のすべてを総動員してそこへねじこんだかのような、直径一メートル近い巨大な眼球が。
水底には噴水の底が確かに見える。眼だけが水中を漂っているようだ。それなのに京也の五感は、その眼の主の途方もなく巨大な実体をひしひしと感じていた。
「魔震」の妖気によって生まれた地霊か、死者の霊を操る能力を持った怪生物であろう。この中央公園――いや、副都心全域に渡る大地の下に潜み、呪われた「危険地帯」を管理していたのだ。あの音楽[#「音楽」に傍点]は、こいつの呼吸音だったのである。
血走った血管を浮き上がらせた眼球は、じろりと京也を見上げた。ただの眼なのにそれは、何しにきた≠ニとがめているように思えた。
京也は怖れる風もなく眼球を見返し、阿修羅を逆手に持ちかえるや大きくふりあげた。
眼球は明らかに動揺した。
やめろ
死霊たちが絶叫した。
やめろ やめろ やめろ
一撃を加えようとした瞬間、言いようもない異質の思念が京也の頭に響き渡った。
私を傷つけたら、おまえたちの知りたいこともわからなくなるぞ
何のこった、化け物野郎°椁轤ヘ念じ返した。
おまえたちは、この街区を今のように変えた張本人の隠れ家を探しているのだろう
なんで知ってるんだ?
私は、「危険地帯」の支配者だ。一歩でも足を踏み入れたもののすべて――遺伝子の構造から、前世の記憶にいたるまで一目瞭然なのだよ、十六夜京也くん
思考は落ちつきを取り戻していた。
君が、その剣をふりおろさぬと約束してくれれば、彼らの居場所を教えてあげてもよい
「知ってるのか!?」
思わず京也は声に出していった。
そのお嬢さんの眼を覚ましたまえ。証拠をみせてあげる。死霊たちは押さえておく――もっとも、今の君が相手では、指一本触れられんだろうがね。私の催眠波ももう解けているよ
ここは乗ってみる手だった。阿修羅は取り戻したが、魔道士のアジトは皆目見当もつかない状態なのだ。
京也はさやかを噴水のへりにすわらせ、活を入れた。
息を吹き返し、きょとんと周囲を見まわした途端、さやかは、きゃっといって京也の膝にすがりついた。死霊に取り囲まれているのだ。もう一度失神しなかっただけでも立派である。
ふたりの頭に思考が忍び入った。
この男に見覚えがないかね、お嬢さん?
ふたりの前で死霊の群れはさっと左右にわかれ、小柄なひとりがその場にとり残された。
さやかの眼がいぶかしげに細まり、やがて大きく見開かれた。
「あの地下鉄で、わたしをかばってくれた方!」
そうだ。君をどこぞやへ売りとばそうとした、けしからんチンピラどものひとりだよ
思考は嘲笑した。
「こいつが、魔道士のアジトを知ってるというのか?」
京也がいぶかしげにたずねた。
不意に死霊が口をひらいた。
「……おれは……そのお嬢さんを連れさらった……化け物どもの後を追い……奴らの隠れ家で発見され……食い殺された」
ただよう霧がつぶやくような、陰々滅々たる声であった。
この男は、息絶える寸前「危険地帯」へ逃げこみ、私の誘いにのってこの国の住人になった
地底からの思念が説明した。
君たちが黙って出ていくと約束してくれれば、知りたいことをしゃべらせるが?
京也は少し考えてからきいた。
「おれたちがいなくなったらどうする? また、こんな国をつくるのか?」
答えは笑いをおびていた。
当然ではないかね。彼らの魂がこの地をさ迷っていたとき、私は真の死を願うか、生あるものを呪って永遠に地上へ留まりたいかたずねてみたのだ。全員残りたいといいおった。生きた人間どもを仲間に引きずりこんで、自分たちと同じ、他人を呪う心を吹きこんでやりたいとな。私は力を貸したまでだ。すべては、君たち人間の希望なのだよ、この「危険地帯」も「安息の国」もな
「そうかい」と京也は低い声でつぶやいた。
「なら、交渉は決裂だ」
思考は驚愕した。
気でも狂ったのか? 君たちに残された時間は、あと――
「おれたちの知りたいものは、おれたちの力で探す。この世界は生きとし生けるものたちの国だ。貴様や亡者どもの好きにはさせん」
やめろ
思考と死霊たちが制止するより早く、京也は阿修羅を水中の巨眼に突き通した。
空間が引きつった――そんな感じがした。地中ばかりか、空中にもそいつ[#「そいつ」に傍点]の神経網が縦横に走っており、それが激痛にねじれ、筋肉のように空間を収縮させたとしか思えなかった。すべては暗黒に閉ざされ、電光がきらめいた。突如巻き起こった風が、闇の中にこだますそれ[#「それ」に傍点]の苦鳴と死霊たちの絶叫をかき消し、仁王立ちの京也を吹き倒さんと|咆《ほう》|哮《こう》した。
それも一瞬のことだった。
すべてが静寂に返ったとき、新宿中央公園の霧は晴れ、さしめぐむ秋の陽光が、荒れ果てた、しかし、真の姿を取り戻した森を安らかに照らしだしていた。死霊の群れは影も形もない。
京也は、茫然と立ちつくしているさやかの隣に降りた。
「みな、いってしまいました」
少女は感動したような声でいった。
「やばかったかな。敵のアジトをきいてからにすりゃよかった」
京也は頭をかいた。
「いいえ」とさやかは京也の顔を見つめながら首をふった。「気が短くていらっしゃるのね」
この青年の、理不尽なものに対する計算を度外視した怒りと勇気が、この上なく好もしいものに思えた。
京也は眼をそらし、阿修羅をひと振りした。どうにも勝手がちがう。
「探しものも見つかったし、行こうや。この森は『危険地帯』のはずれだ。奥から出られる。致命傷を与えたかどうかは自信がねえが、当分は安全だろう」
歩き出してすぐ、さやかは立ちどまり、斜め前方の太い枯れ木を指さした。
「どうした?」
「あそこに、あの方[#「あの方」に傍点]がいました」
「あの方? ――さっきの死霊かよ?」
「はい。木の幹を指さしているようでしたけど」
みなまできかず、京也はその木に駆け寄った。鋭い視線を幹に走らせる。
怨霊たちが爪で刻みこんだ思いのたけであろう。幹の固い表面は、無数の言葉で埋め尽くされていた。「生きたい」「呪ってやる」「仲間をふやすんだ」……
「どうして、ここを指さしたのでしょう?」
さやかの質問にも答えず、京也はひざまずいて一心不乱に点検を続けていたが、だしぬけに「あったぞ!」と叫んで、地面をひっぱたいた。
「やってくれたぜ、見な!」
「は?」
「見ろ。たったひとつ、地名がある」
京也の肩ごしにさやかも見た。
おびただしい呪いの言葉の中に、ただ一個――新宿駅≠ニ。
ふたりはしばらくのあいだ、それぞれの思いをこめて、その決定的な|道標《みちしるべ》を見つめていた。
「いく[#「いく」に傍点]まえに教えてくれたのですね」
やがて、さやかがしみじみとした声でいった。
「ああ。あの人だけは、最後まで君の味方だったわけだ」
京也の声にも、安堵の響きがあった。
やっと敵の隠れ家がわかったのだ。あとは、妖鬼たちに気づかれぬよう偵察し、侵入口を探り、満を持して戦いを挑めばいい。時間はまだ二日――明後日の午前三時まである。
敵には、生死不明の――多分、生きているだろう――魔道士と、二匹の妖鬼が健在だ。魔道士はともかく、妖鬼どもときたら、二匹一緒では阿修羅をもった京也もどうなるかわからぬ強敵だが、片方は負傷しているし、なにより、こちらがアジトを|嗅《か》ぎつけたことを知らずにいるのが致命的だ。時間をかけて策を練れば、必ず勝利はつかめる。
そこで、魔道士だが、死んではいないにしても、「BIG・BOX」での手応えからみて、かなりの重傷を負ったことはまちがいない。さやかには「死ぬ」と口走ったらしいが、これは確証がないし、死んで霊魂だけが残っているにしても、そうなったらなおのこと、生きてるときのような魔力はふるえまい。妖鬼さえ片づければ、まず問題にならないとみていい――京也はそう思った。とんでもない間違いだとも知らずに。
陽はかなり高く昇っていた。
「何時かな?」京也は核時計をみた。表示は午後二時。「もう、こんな時間か。まだ昼ぐらいと思ってたのに。――それじゃ、外から新宿駅の偵察といくか」
「はい」
「君はどこかで待ってろ」
「いえ」
「おい」
「あの……約束が」
「……」
ふたりは森の奥へ入り、鉄条網を阿修羅で切り払って外へ出た。
PART8
新宿「歌舞伎町」――かつて、わずか五〇〇メートル四方の土地に、八〇〇軒以上の飲食店やゲームセンター、ディスコ等がひしめきあっていた東京最大の歓楽街。明け方から、昼、夕刻、そして夜を迎えてなお、若者たちの流れが絶えることのなかった二四時の不夜城。今でもそれは変わらないが、これはまたなんと忌わしい不夜城であろうか。
新宿駅中央口からまっすぐ坂道を下り、靖国通りを渡れば、眼の前に歌舞伎町への入り口――全長二〇メートル余の中央通りが控えている。
そうだ。通りはある。
しかし、ビルはない。かつて、中央通りの両側にけばけばしくそびえ、ここを訪れるものをわけもなく感動させていた歌舞伎町への「門前街」は、瓦礫の|堆《たい》|積《せき》と変わり果てている。「カジノ・スターダスト」の、本場ラスベガスばりのネオン・サインも、牛丼屋の兄ちゃんの威勢のいい「並一丁」の声も、若者たちが飽かず眺めていた「新宿銃砲店」のショーウィンドーに飾られた散弾銃も、すべてビルとともに消えた。
だが、中央通りの突き当たりにコマ劇場は健在だ。壁はひび割れ、数カ所に大穴が開いて骨組みが露出しているが、気まぐれな「魔震」は、この芸能の殿堂には、なぜか牙をむかずにおいた。
コマの前を左に折れ、すぐ右へ曲がると、眠ることを知らないといわれた噴水広場にでる。周囲を飾る映画館――「ミラノ座」「オデオン座」「新宿アカデミー」、ポルノで名高い「新宿地球座」――の開映を待つ人々が群がり、酔いつぶれた若者たちが放歌し、それが体育系の学生の眼にとまって、この軟派もンがと乱闘になり、あるときは新人歌手の即席キャンペーン会場に早変わりもした自由の空間。
その映画街も、ゲームセンターからキャバレーまでなんでもかんでも押しこめられているみたいだった「ジョイパックビル」も、今は人々の記憶の中にしか存在しない。
かわって林立しているのは、組み立て三〇分が|謳《うた》い文句の奇怪なユニット建築群だ。お椀を積み重ねたような、全階踊り場の「ディスコビル」。わずかな風にもゆれしなり、客たちにスリルを満喫させるが、日に何人かは転落死する、窓ガラスのない「ヤナギビル」。「ミラノ座」の敷地を埋めたドーム状の建物は、殺傷力を弱めた武器での戦いに開放されたビル「|戦場《バトルフィールド》」だ。そのどれもが、ホノグラフィ映像を利用したどぎつい看板とネオンで飾りたてられているから、十秒も凝視していると頭がいたくなってくる。
無論、こんなビルは違法というより、異常建築だ。しかし、一歩歌舞伎町へ足を踏み入れたものは、決してそうは思わない。そう思わせないだけの妖気と、刺激の魅力がこの町にはあった。
往き交う人々を見るがいい。
住人なのか行きずりなのかは見当もつかないが、髪の毛を腰まで垂らした男が噴水広場をうろついている。と、その髪の毛がざわーっと持ちあがり、何本かはぽたぽた地に墜ちていく。髪ではない。頭から生えた数千匹の虫なのだ。それはくねくねと地面を横切り、酒瓶片手に眠りこけている浮浪者風の男に近づくと、その鼻孔から耳の穴から、するすると体内に侵入した。数秒後、浮浪者の顔色はみるみる青ざめ、うつろな眼つきで立ち上がる。「魔界都市」特有の吸血虫「マインド・マスター」に身体中の血を吸われ、脳まで支配されて、その命ずるままに次の犠牲者を求めて歩く「|眠り男《チェザーレ》」の誕生だ。
誰が通報したものか、そこへ黒服黒ズボンに身をかためたやくざ風の男たちが駆けつけ、手にした火炎放射器で、浮浪者を炎の人形に変える。
こんなもの、ありふれた出来事だ。
みんな、おかしい。どこか異常だ。
顔の右半分をサイボーグ化した少年、熊と狼と大蛇をひとつにまとめたような「人工獣」にまたがった少女。常時、変身薬を飲み歩いているらしく、薬物患者特有の、死魚みたいに濁った眼をしたゴリラ人間。闇流れの戦闘服に身を固め、旧式の|無薬莢《ケースレス》マシンガン片手にのし歩くチンピラ。
こんな連中が、あるいはひとり、あるいは数人のグループをつくって歩道や路地を練り歩いているのだ。ほとんどが外の世界で食いつめ、追われた犯罪者である。
一見まともな顔、まともな服装の連中もいるが、冷酷無比な眼付きと、脇の下や腰のふくらみからひとめで、熱線銃を持ち歩く殺し屋たちと知れる。
通りという通りには、即席のユニット・ディスコから噴き出す狂ったようなサウンドがあふれ、あっちで、海底サイボーグと変身熊男がとっ組み合いの真っ最中かと思えば、こっちでは、肩で風切って歩いていたチンピラ・グループのひとりが、物蔭に隠れていた別のグループに素早く路地裏へ引きずりこまれ、数十本ある手足の先にメスやら針やらをくっつけた拷問マシンの餌食にされている。
悲鳴がきこえる。十七、八の娘が、シャツとズボンをまとわりつかせた大蛇に、ぐるぐる巻きにされているところだ。ボーイフレンドらしい少年が、右手に装着したハンド・ロケットで蛇男の頭部を吹っとばす。ほっと胸をなでおろしたふたりに、頭上の廃墟と化したビルの窓から、畳三畳分はある巨大な|蛭《ひる》が落下し、全身を覆いかくす。通りを歩くものは眼もくれない。何が潜んでいるかわからないビルの真下を歩く奴が悪いのだ。五分後、飽食した蛭がヌルヌルとどこかへ消えた後には、ひからびた二体のミイラしか残っていない。
新大久保のマーケット街から京也たちを乗せた運ちゃんが、この町には乗り入れられないと語ったのも道理である。正常な神経の持ち主なら、五メートルもいかないうちに足がすくむか、物蔭に引きずりこまれるかのどちらかしかあるまい。新宿を「魔界都市」と呼ばせる根源がここにあった。
京也とさやかは中央通りをやってきた。
新宿駅を偵察してみたが、駅ビルおよび付近のビル街は完全に倒壊し、駅への入り口はすべてふさがっていた。しかし、魔道士たちが出入りする以上、どこかに秘密の通路が走っているにちがいない。そこで、駅の通路に詳しい人物を探しにきたのである。
「ききしにまさるところだな」
あたりを見まわしながら京也がいっても、さやかは答えない。口を半開きにしたまま痴呆状態に陥っている。周囲の光景の凄まじさに、あっけにとられてしまったのだ。
――連れてくるんじゃなかったかな。
京也は苦笑した。駅の偵察を済ませたところで、いったん外部へ送り届けようとしたのだが、どうしてもウンといわない。無理に引き立てようとすると、哀しそうな眼つきでじっと見上げて「……約束が」という。これで京也はガクッとなってしまうのだ。
――しゃあねえ。無理矢理連れ戻したって、また帰ってくるのは眼に見えてるからな。「危険地帯」みたいにうまく再会できればいいが、万が一、妖鬼どもにつかまったら完全にアウトだ。時間も残り少ねえことだしな。いざとなったら、安全なところで眠っててもらうさ。
こう思って同行を許したのだが、このざまでは先が思いやられる。
ふたりは、奇妙奇天烈としかいいようのない人の流れに乗って、コマ劇場の前に着いた。
「どこで人を探したらいいのでしょうか?」
ようやく我に返ったさやかがきいた。
「さてね。またどっかのホテルへ入って、マネージャーにでもきいてみようや。千クレジットも払やあベラベラしゃべるだろう。その前にちょっとこの辺ぶらついてみるか。なに、まだ明日いっぱいあるんだ。あわてるこたあねえ」
いい終わってから、京也はあわてて口を押さえた。さやかの両眼にみるみる涙が盛りあがってきたからだ。
「……わかった。泣くなよ。冗談だってば。すぐホテルを探しましょう、ねっ」
「はいっ!」
さやかはたちまち破顔した。
京也は胸の奥で感嘆のためいきをついた。次々と仮面を取りかえるようにちがった一面を現す美少女。十八の青年にはまるで理解しがたい存在だ。
たったいま泣きべそをかいたくせに、もう無邪気な笑いにかがやいているその顔を、京也はふと、きれいだなと思った。
そこへ敵が襲ってきた。
円筒形の磁力推進ブースターを背中につけた若者が三人、ふたりの頭上五メートルほどのところを通過していった。
「しまった!」
ひとりが叫んでジーンズのポケットをおさえた。少し遅れて、京也たちから三メートルくらいはなれた道路に何か固いものがぶつかる音がした。
「済まねえな、ねえちゃん。財布おとしちまった。放り投げてくれや」
空中に停止したまま、若者が頭をかきかき声をかける。ブースター内蔵の磁気バランサーと地磁気の影響を受けて、彼の真下の空間はかげろうのように歪んでいた。
自分で取りゃあいい、と京也は思った。
そうは思わないのがさやかだ。
さっと京也の脇を離れて、財布の方へ走り出した。
びゅっ! 空中から黒い|鞭《むち》みたいなものが投げ落とされ、さやかの上半身に巻きついた。
「しまった!」
駆け寄ったが一瞬遅く、さやかは空中へはね上げられ、財布をおとしたチンピラに抱きすくめられていた。鞭には衝撃電波が流れているらしく、がくりと首を垂れている。一瞬の|隙《すき》をついた鮮やかな手口だった。
「ケケケ。このねえちゃんはいただいていくぜ」
三人のチンピラは一斉に笑い声をたてた。
「その娘[#「娘」に傍点]をどうする気だ。降りてこい。汚ねえ真似しやがって、おれが話をつけてやる」
わめいたものの、地上五メートルはいかんともしがたい距離であった。
「そうはいかねえ」とさやかを抱きかかえたチンピラがいった。「おめえと話をつけるのは、おれたちじゃねえ。別にいる。だがよ、この娘の相手は、おれたちの姐御――ヒポポタマス・グループのよしこさんだ」
とっさに、京也は誰のことか判断がつかなかった。すぐ記憶が戻った。
「そうか、新大久保のでぶ女!」
「気がついたようだな。おめえとこの|女《あま》のふたりして、姐御にえらい赤っ恥かかせてくれたそうじゃねえか。昨日からものすごい剣幕で誰も近寄れねえ。新宿中の地面を掘り返しても、おめえらを探し出すまで帰ってくるなとのご命令さ」
京也は舌打ちした。えらいところで予想もしなかった敵がでてきたものだ。やはり、さやかは帰しておくべきだった――そう思ったが、もう後の祭りである。
「その娘をどうする? 身代金でも要求するつもりか?」
チンピラは嘲笑した。
「姐御がじきじきに可愛がってやるんだとさ。自分よりきれいな女は、母親でも気に食わねえ|女《ひと》だ。可哀そうに、相当いたぶられるぜ。最後は麻酔無しの整形手術で、眼をくり抜かれ、鼻を削られ……」
「やめろ!」京也はわめいた。「薄汚ねえ野郎どもだ。あのでぶを出せ。体重が半分になるまでぶっ叩いてやる」
「そうはいかねえ。おめえにゃ用はねえんだ。やっとお[#「やっとお」に傍点]を使うそうだが、似合いの相手を用意してあるぜ。話はそいつとつけるんだな。運良く勝てたらうちの事務所へ電話しな。あばよ」
すーっともときた方角――旧映画街の方――へ飛び去る三人を追おうとして、京也の足は地面に吸いついた。
前方十メートル――地図による記憶ではもとパチンコ店だった瓦礫の堆積の前に、黒い影がひとつ立っていた。
ゆっくりと、自信にみちた足取りでこちらへ近づいてくる。妖鬼や死霊たちと対峙したときとは根本的に異なる鬼気がどっと吹きよせてきた。
殺気だ! それも武道家の!
影は京也の二メートルほど手前で立ち止まった。
奇怪だらけの歌舞伎町でも、その格好はきわだって異常――いや、むしろ徹底しすぎて正常でさえある。
男は武士姿だった。それも、深夜の立体時代劇で見かける武者修行スタイルとでもいうのか、|月《さか》|代《やき》をのばし、|蝙《こう》|蝠《もり》|羽《ば》|織《おり》にわらじ履き、腰に大小をおとしざししている。その顔には、ひときわめだつ特徴があった。
――そうか、こいつは!
次の瞬間、京也はその正体を見破った。偽人アンドロイドだ! 正確には人格転移アンドロイド。これまたTVで製造工程から完成テストまでみた覚えがある。古文書や様々な資料から抽出したある人物のデータを複合コンピューターにインプットし、そこから割り出された人格と精神、肉体条件を、|完《かん》|璧《ぺき》に再現した超高性能アンドロイドである。いわばロボット工学による死者の復活といっていい。
本来の用途は、リアリズム一辺倒の巨大映画産業が俳優≠ニして製作したものだが、意志のない凄腕の英雄ばかりだから、各地の暴力団に横流しされて抗争の道具に使われ、――ワイアット・アープと猿飛佐助、ヘラクレスと西郷四郎が戦うなんて無茶苦茶な事態がほんとに起こったのだ――現在、製造は中止されている。その一台をヒポポタマス・グループは所有していたのだ。
しかし京也は眼前の武士≠、単なる超LSIと人工骨格から成るエレクトロニクスの|偽者《まがいもの》とは思わなかった。なによりも、これまでどんな形でまみえた強敵からも感じたことのない生身≠フ殺気だ。その証拠に、殺人や強盗が目の前で行われても平然と行きすぎる歌舞伎町の住人どもが、その場に立ちすくみ、息をひそめて成り行きを見守っているではないか。彼らも機械に出せるはずのない殺気≠感じたのだ。
武士≠ヘ刀を抜いて八双に構えた。
京也の胸に、このとき、不思議な思いが湧き上がってきた。偽人アンドロイドに再現された人格が過去のどんな天才剣士のものであろうと、人間技の再現にとどまる限り、京也の念法には及ばない。にもかかわらず京也は、この兵法者と念法抜きで、身につけた技だけで戦いたくなったのだ。それは生涯にふたりといない好敵手と相まみえた若き武道家としての、抑えようのない血のうずきであった。
さやかのことも、世界の運命も、いま脳裡には浮かんでいない。我知らず、京也は阿修羅を青眼に構えていた。
茫漠たる|空《くう》の心で、
「十六夜京也――一手ご教授にあずかります」
と言った。
「お名前を」
「柳生十兵衛|三《みつ》|厳《よし》」
武士≠ヘ|隻《せき》|眼《がん》であった。
こんな奇想天外な戦いの図は、歌舞伎町はじまって以来だろう。
荒涼たるビルの廃墟と狂人かと見まごうスタイルの人々がとり囲むなか、コンクリートの路上で、ふたりの剣士が相対している。ひとりはまぎれもない壮年の武士=Aもう片方はジーンズにトレーナー姿の青年。どちらも全身から周囲のものが顔をそむけたくなるような|凄《せい》|愴《そう》な鬼気を放っていた。
世界のあらゆる動きが静止した。
緊張が極限へと|昂《たか》まっていくのを、見守るものすべてが感じた。
それが破れた刹那、「きえーっ」柳生十兵衛――を擬したアンドロイド――の豪剣が頭上から京也を襲った。二メートルの距離をなんの予備動作もみせずに跳躍してきたのだ。
「わっ!」
悲鳴に近い叫びをあげて、京也はかろうじて受けた。阿修羅に込められた父の念も封じてある。今の阿修羅は単なる木刀にすぎなかった。
ガッ! と両肩がはずれんばかりの衝撃。これも模造であろう十兵衛の愛刀池上典太は、阿修羅の半ばまで食いこみ、間髪いれず横なぎに胴を狙ってきた。
かろうじてそれもかわし、京也は大きく後方へ跳びすさった。
――受けるだけで精一杯だ。おれの手におえる相手じゃねえ。
と思ったが、剣豪の太刀を二度も受けられたのは剣の天才児ならではだ。
十兵衛が迫った。
京也の後ろにはコマ劇場の瓦礫の山があった。もう退がれない。京也は死を意識した。
酷薄な勝利の笑みを口元に浮かべて十兵衛が神速の突きを出した。
それは空を切った。京也が消えたのである。
剣光と交差して青い稲妻が走った。
バキッ! 骨の砕ける音。
群衆がどよめいた。
勝ったはずの柳生十兵衛が右肩をおさえてその場に膝をつき、くし刺しになるはずの京也は地面から起き上がった。
十兵衛の突きがくると直感した刹那、京也は大きく両足を開いて前方へ回転しつつ、左の踵蹴りで十兵衛の右鎖骨をへし折ったのである。
剣では打つ手がないと悟った瞬間、本能的に少林寺拳法の足技が爆発したのだ。それも十兵衛の攻撃が突きだと見極めてから数十分の一秒のあいだに。十兵衛が横なぎに、あるいは垂直に剣をふるっていたら、京也の身体は縦か横か、とにかく真っぷたつに切断されていただろう。しかしアンドロイドの十兵衛は本物の十兵衛の人格と技術をそのまま転移されていただけに、今まで剣で戦っていた相手が、生死を決める一瞬に、まるで剣とは無関係の蹴り技を放ってくるなどとは想像もつかなかった。
本物の十兵衛の活躍していた時代には、明から拳法の始祖|陳《ちん》|元《げん》|贇《ぴん》が渡来、拳の技を広く伝えていたから、それを見たことぐらいはあったかも知れないが、蹴り足が上から下へ降ってくる[#「降ってくる」に傍点]などという高等技術を眼のあたりにするのは今がはじめてであった。拳法を知らぬものと、血を吐きながら身につけたものとの差が勝負を決めたのだ。
――やったぜ。大金星だ!
いつもなら念を入れて足腰立たなくなるまで叩きのめすか、とびのいて相手の出方を待つかするのだが、緊張感が失せた途端、京也はさやかのことを思い出し、十兵衛をその場において駆け出そうとした。彼の脇を。
「とおーっ」
地の底から響くような野太い気合に、しまった! と心のどこかが叫んでいた。右脇腹に凄まじい灼熱感が突っ走る。十兵衛が膝をついた姿勢のまま、鎖骨をへし折られた方の腕で、大刀の切っ先を食いこませたのだ。
偽人アンドロイドの肉体は、電子装置をのぞき、状況によって強度変更自在な合成骨格や人工筋肉で構成されている。人格転移した人物になりきって「演技」するには、ふつうのアンドロイドのような金属と強化プラスチックの塊では困る。かといって、それ以外の場合になにかの事故で簡単に壊れては元も子もないからだ。だからこそ、柳生十兵衛になりきっているいま、念をこめていない蹴りで骨折させることもできたわけだが、まさかそんな重傷の身で、しかも、折られた方の腕で攻撃してくるとは、今度は京也が想像もつかなかった。本物の十兵衛がそれほど偉大な剣士だったということか。
「しまった。……う……うう……」
鮮血ほとばしる脇腹を押さえて歩道にうずくまる京也を冷たい電子眼で見据えながら、隻眼のアンドロイドは、血に染まった大刀を手に悠然と起き上がった。
眼の前が急速に闇に閉ざされていく。念を振りしぼる気力も奪うほどの強烈な突きであった。
――おれはまだ死ねない。ここで死んだら、あの娘にあわす顔がねえ。
それが最後の思考だった。
意識のない右手にしっかりと木刀を握りしめて動かなくなった青年のもとへ、アンドロイドの柳生十兵衛は、必殺の|気《き》|魄《はく》を全身からみなぎらせ、落ちついた足取りで近づいていった。
「信じられんな」
低い声が、驚きをかくさずいった。
「あの|深《ふか》|傷《で》と出血多量で、まだ息があるとは……。鍛え抜いた身体なのはわかるが、やはり精神エネルギーの力が桁はずれに大きいようだ……」
「気がつきますかしら?」心配そうなもうひとつの声。
「できるだけの処置はした。じきに眼を覚ますだろう。しかし、そうなっても二週間は絶対安静だよ……」
「はい」
ふたりは適度に照明をおとした無菌灯の下の手術台を見おろしていた。
トーキョー市の超一流病院を思わせる、最新式の電子メカを備えた手術室であった。魔道士のアジトほどではないがかなりの広さがある。
メディカル・コンピューターと連結された透明の生体反応スキャナーフードがスッポリと手術台を覆い、白衣をつけた患者の容態を記号化して刻々とディスプレイに表示している。
たったいま、手術が終了したばかりなのだ。
「ふむ」と最初の声がつぶやいた。
「なにか」
「麻酔の効果がぐんぐん切れていく。脳波も精神活動時の波形を描き出した。恐れいったな、まるでスーパーマンだ。いま、目を覚ます。みてなさい……三……二……一……」
京也は眼を開いた。
のぞき込んでいる顔にすぐ焦点が合う。
「さやかさん――無事だったのか? 一体どうして……」
京也にすがりつきたくなるのを必死にこらえて、さやかは背後の長身の人物をふりかえった。
「こちらの方に助けていただいたのです。悪い人たちの棲み家で拷問にかけられる寸前に入ってこられて、魔法使いみたいにあの人たちを追い払って……」
「約束通り、またお目にかかったな」
黒ずくめの青白い顔が、微笑に似た表情を浮かべていた。
「……ドクター・メフィスト!? この野郎、どうしてこんなところにいるんだ?」
早稲田のスナック「宮本武蔵」で会った印象があまりよくなかったのと、やはりまだ麻酔がきいていてさやかの言葉がよく呑みこめなかったせいとで、てっきりこいつが彼女を|攫《さら》った張本人だと京也は早合点した。憤然と起き上がる。フードは自動的に開いた。
「まだ起きては駄目!」さやかはびっくりして京也にすがりついた。
「誤解です。この方が私を救って下さったのです。そればかりか、あなたの傷の手当てまでして下さいました」
京也の顔から怒りが消えていった。やっと正常な思考が戻って来たらしい。
「そういえば、おれは、あのアンドロイドの柳生十兵衛に斬られて……。貴様、いや、もとい、あんたが助けてくれたのか? ここはあんたの病院か?……あんた医者だったのか?」それから急に思い出したらしく、「そうだ、あの柳生十兵衛はどうした?」
「片づけた」と、メフィストは静かに言った。「ここは私の棲み家だ。そして、私のことはどうでもいい。動けるか?」
「ああ」
と答えて、京也はさやかの様子がおかしいのに気づいた。不安と焦燥感を必死にこらえている感じだ。
「なにかあったのか? まてよ、おれが眠ってるあいだに、もう期限がきちまったんじゃねえだろうな?」
「ちがいます」とさやかは夢中で首をふった。「まだ次の日にもなっていません。ですが、今は十三日の午前〇時なのです!」
最後の声をしぼり出すように言うと、さやかの両眼からどっと涙があふれた。まだ寝ぼけているのか京也は「はん?」と肩をすくめ、それから|俄《が》|然《ぜん》、目の玉をむき出した。
「なんだあ!? おれたちが『危険地帯』へ入ったのは、たしか十日だぜ。一泊しただけで出てきたんだから今日は十一日のはずだ。なんでえ、やっぱりあと一日余裕があるじゃねえか、ふたりして病人をからかうな」
「ところが今日は十三日――期限の最終日なのだよ」
メフィストが冷然と言いわたした。
「こちらのお嬢さんに事情を聞いてすべてわかった。『危険地帯』を出た時点で日にちを確認すべきだったな。あそこは魔震のせいで時間の流れに異常をきたしているのだ。通常より倍近く早く流れる。君たちは一日のつもりで二日を過ごしたのだ」
「へええ」と京也はあきれた。
「そういや、腕時計見た時、時間があわねえと思ったが……おもしれえ、まるで浦島太郎じゃねえか、へえ」と感心しかけて、事の重大さに気づき、血相変えて手術台から床へ飛びおりた。
「いてて」と脇腹をおさえてうずくまる。さやかが素早く支えて、
「動いてはいけません。生きていられるのが不思議なくらいの|深《ふか》|傷《で》なのです」
「構やしねえよ。なあに、あと三時間もちゃいいんだ。おい、青っちろいの、ちゃんと手術したんだろうな? 三時間くらいはもつな?」
「どこへ行く気だね?」
「事情は聞いたんだろ、奴らのアジトに決まってら」
「君の傷口はふさいだが、出血多量で身体がまいっている。十メートルもいかんうちに動けなくなるぞ。それに、奴らも最終期限を今夜と知って待ち受けてるはずだ。死にに行くようなものだ」
京也は手を叩いた。
「そうだ、それで人を探してたんだ。おまえ、新宿駅へこっそり忍びこめる通路を知らねえか?」
「知っている」
あまりにもあっさりした言い方だったので、京也はあぶなくズッコケるところだった。
「どこにある? 教えてくれ」
喧嘩腰に近い口調だった。メフィストは皮肉な表情で、
「なぜ、死に急ぐ? そもそもこの世界に、君の生命を賭けてまで救う価値があると思うかね? 人類の歴史上で、全く戦争のない平和な期間はわずか四三七年しかないという。私たちは、争いと殺し合いが好きなのだよ。十六夜君、今夜地底から呼び出されたものが、この世を恐怖と絶望の世界に変えるなら、それこそ、人間にとってふさわしい世界だとは思わないか?」
京也は答えず、脱衣ケースのところへ行き、もとの服に着替えはじめた。手術のあいだに洗浄殺菌処理を施されている。ケースの脇には阿修羅がたてかけてあった。
「かも知れんな」着替えながら、京也はぼそりと言った。
「だが、おれは、どうせ駄目だからほっとけって考えは好きじゃねえ。この街へやって来てからいろんな連中に会ったが、悪い奴ばかりじゃなかったしな。それに、いったんやりはじめた仕事を中途でやめるつもりもねえ。おれがやる、と決めた仕事だ」
「世界のためか。ヒロイズムとアナクロニズムの塊みたいな男だな」
「そんな御大層な理由じゃねえよ」
京也はちらりと、泣きださんばかりの表情で自分をみつめている少女に目をやった。
「安心して待ってな。おかしなことを考えんなよ」
さやかは胸をつかれた。
――京也さんは知ってらっしゃる。
彼女は自分でいくつもりだった。世界破滅の期限は刻々と迫っている。ただひとりそれを救える勇者は深傷を負って、今眠りから覚めたばかりだ。世界のために、父のために決戦場へ|赴《おもむ》いてくれとは口が裂けても言えない。初対面のとき、あれほど嫌がっていた彼が、ひとり魔界の連中と戦い、自分を救い、負傷した――それだけでもさやかは感謝と申しわけのない気持ちで一杯であった。
だから、わたくしが行く。世界連邦を|統《す》べる聖人≠フ娘として、父よりもまず世界の運命を案じなければならない責任感と、父を思う心が与えた勇気。――このふたつを頼りに、彼女は京也のかわりに自分が|最後の決戦《ア ル マ ゲ ド ン》に赴く決意を固めていた。京也はそれを読み、釘をさしたのだ。
「おれはいく。秘密の通路はどこだ?」
「教えないといったら?」
「痛いめをみるぜ」
「ほう、どんな?」
相変わらず無表情無防備でメフィストはきいた。
「こうさ」
京也の右下段蹴りがメフィストの両足を稲妻の早さでなぎ払った。
だが――京也は目を見張った。
メフィストが身動きひとつせずに蹴りをかわしたのだ。いや、正確にいえば、京也の蹴りの描く線から、ほんの数ミリだけ後退してのけたのだ。
どんな強烈な蹴りでも、目標から一ミリ離れていれば、子供のはずれキックとかわらない。相手の技のスピードやパワーを正確に見極めることを、武道で「見切り」というが、達人でも、戦いながら見切れる距離は数センチが限度だとされている。メフィストはそれをミリ単位でやってのけたのだ。脇腹の傷がスピードを奪っていたのは事実だが、京也の蹴りは柳生十兵衛でさえかわせなかったのだ。
戦慄が京也の背中をなでた。
下段構えに移る。顔つきが変わっていた。
「やめておけ」
メフィストがさえぎった。声には相変わらず何の感情もこもっていない。
「それほど行きたければ行くがいい。馬鹿を止める薬は調合していないのでね。この手術室を出たら、目の前にエレベーターがある。それに乗って地上へ出たまえ。さらばだ」
「おい」
「そうか、まだ麻酔がさめ切ってないな。どうせこうなるだろうと、傷の手当てをするとき、君の頭の中へ道順を記憶≠ウせておいた。精神を集中したまえ」
「?」京也は半信半疑で新宿駅への秘密の通路を知りたいと念じた。麻酔が切れたのか、それはすんなり浮かびあがってきた。
「わかった。それじゃ」
今度はメフィストが拍子抜けするほどあっけなくうなずき、阿修羅を手にドアの方へと行きかけて、ふり向いた。
「そうだ。ふたつ[#「ふたつ」に傍点]頼みがある。助けたついでに聞いてくれ。そのお嬢さんを、午前三時まで預かっといてくれねえか。その前におれが帰ればよし、帰れなかったら、外まで送ってやってくれ。もっとも、そんときはこの街がどうなってるかわからねえがな。もうひとつ。はじめて会ったときくれたマスクの予備はねえか、でぶ女の仲間が血眼でおれたちを探してるはずなんだ」
「蹴とばした後に、頼みごとか。勝手な男だな」
さすがのメフィストも苦笑した。
「お嬢さんの件は引き受けた。でぶの方は話がつけてある」
「話がついてる?」京也は眉を寄せた。「どうやって? ああいう連中に顔がきくとはきいてたがな。あの女の知り合い――そうか、おまえ……彼氏だったのか!?」
「よしてくれ」メフィストは、はじめて露骨に顔をしかめた。「このお嬢さんが、あいつ[#「あいつ」に傍点]の子分にさらわれた現場に私もいたのだ。で、剣術家きどりのアンドロイドを片づけて君をここへ運んでから、あいつらの事務所へ行って、お嬢さんを引きとってきたのさ」
「そうなのです」と、さやかが感に|堪《た》えたように、「いきなり入ってきて、『この娘さんは私の知り合いだ』と言ってくださったのです。それだけで、悪い人たち、みな真っ青になって……」
京也は信じられんという風に首をふった。
「メフィストフェレスってのは、たしか、悪魔のひとりだったな。おまえ、まさか、本物じゃなかろうな?」
メフィストは無表情に、
「とにかく、連中は今後一切、君たちふたりには手を出さないと約束した。それでよかろう」
「ああ。だけど、おまえ一体なにものだ?」
「お医者さまです」とさやかがまた横からいった。「この上の待合室は、病気や怪我をした人たちでいっぱい。この方は、毎日、ロボットの看護婦さんたちと、徹夜で診察なさっているのですわ」
「へえ」と京也が、感心したような、まだ疑っているような声できいた。「ほんとに医者かよ?」
「似たようなものだ。ただし、私が診るのは一般市民だけだ。クズどもが殺し合うのは勝手だが、巻き添えを食う連中がでると厄介だからな」
「へえ、|気《き》|障《ざ》なくせに、案外善人なんだな」
「はっきりいう奴だな」
「まあな。安心したよ。じゃおれは行く」
京也はにこりと笑いかけた。ふたりにだ。さやかはもちろんだが。メフィストにも妙な親しみを感じはじめていた。さっきの下段蹴りをあまり鮮やかにかわされたせいかもしれない。なんのかんの言いながら、自分の行動を見越して駅への道を記憶≠ウせておいてくれたからかもしれない。どちらにしても、京也の彼に対する気持ちは友情に近かった。
「京也さん」
さやかが涙声で呼びかけた。
最後まで一緒に行きたかった。だが、なぜか、この戦いだけは行ってはならないと思った。
ふたりは束のま顔をみつめ合った。
それだけだ。
京也は向きを変え、後をも見ずにドアの外へ出た。
ドアが閉まった。
黒衣の青年と美少女は冷たい金属の扉を見つめて立ちつくしていた。ひとりはあくまで無表情に、もうひとりは万感の思いを胸に秘めて、いつまでも。
「首席の脈膊数が低下しはじめました」
メディコンのディスプレイパネルを食い入るように見つめていた医師のひとりが叫んだ。
「血圧も急速に下がりつつあります」
沈痛な面もちでモニター室に集合していた連邦政府高官と医師団の目が、一せいに一番大きなモニター画面へ注がれた。
首席の病室の全景が映し出されている。
メディコンに囲まれて窓ぎわのベッドに横たわった首席の顔に、明らかに苦痛の色がみえた。前から血の気を失っていた皮膚が半透明に変わり、その分だけ、喉元の忌わしい手の痕が生々しさを増している。
「みろ……」首席の喉元のアップを別のモニターで見ていた高官の一人が、恐怖に感きわまった声でつぶやいた。「手の痕が動いている」
確かに、黒い墨でも塗りつけたように鮮明な手痕の表面がじわじわと波立ち、三本指を、さらに首席の喉のまわりへと広げているではないか。
「老師はどうなされた」
一同の眼は、病室の中央の床に腰をおろした白髪の老人にすえられた。
あの影の襲撃以来首席のそばを離れず、断食と祈りの業を捧げていたライ老師は、結跏趺坐の姿勢で両手を丹田の前に組み合わせて、じっと|瞑《めい》|黙《もく》していた。苦悩も焦燥も、そして|憔悴《しょうすい》の色もなく、顔色だけが、やや青ざめている。
「大丈夫なのか――首席は?」副首席がきいた。
「わかりません」と医師の一人が言った。「とにかく、私たちには手の施しようがないのですから。正直言って、首席が今日まで生きのびてこられたのは、ひとえに老師のお力によるものです。あの方の念パワーにくらべれば、私たちのESP治療は、まだやっと一歩を踏み出した程度のものです。あの方にすべてまかすしかないでしょう。ですが――」
「ですが――なんだね?」
「私自身、軽いESP能力があるのでわかるのですが、老師の念が、毎日、少しずつパワーを失ってきているような……」
最後の言葉は力なく消えた。
一同は青ざめた顔に死の沈黙を刻みつけたまま、モニターの前で立ちすくんだ。
首席の急激な衰弱は老師にもわかっていた。それを食いとめるための老師自身の念パワーは、限界に近づきつつあった。前日のミサイル攻撃を防いだために弱っていたせいもある。
――まだか、京也。あと二時間と半。敵はもう、呼び出しの魔儀を行っておるぞ。
水のような静かな心で、遙か彼方の青年に呼びかけながら、老師は世界が、いや地球それ自体が、不気味な気配に包まれつつあるのを感じていた。
目を閉じ、無言の祈りの業に念を集中していても、老師の心には、現界と魔界との境界が見えて[#「見えて」に傍点]いた。その境界が、ぐんぐん現界に向かって後退し、向こう側の闇の領土が拡大しつつある。
そして闇のさらに奥、冷気と血と憎悪が冷たく|沸《ふっ》|騰《とう》しわきかえる空間から、おびただしい異形のものが、歓喜にわななきながらじわじわとこちら側へ侵攻しつつあった。
これは、老師と、彼に等しい精神の高みにのぼったものだけが知る現界と魔界の死闘であった。
着実に現界は敗北しかけている。
新宿駅構内地下一階。駅ビルマイシティ≠フ八階から一階までは見事につぶれているが、この広大な空間は、天井に数条の亀裂こそ走っているものの、当時の原形を保っていた。
整然とならんだ切符販売機の群れ、シャッターをおろしたままの売店、駅員の姿のない改札口。国鉄、国電、京王、小田急各線のターミナル駅として、かつて、一日数十万人の乗降客が押し合いへし合いした構内は、「魔震」以後、被害状況の調査にやってきた政府の役人の他は足を踏み入れる者もなく、いつか新宿の住人にすら忘れ去られて、ひたすら永劫の闇と静寂の中に眠っているはずであった。
それが、そうではなかった。
構内には、「魔震」以来数十年ぶりに、熱い意志がみなぎっていた。
東口改札口から西口へと抜ける地下通路の中央に、材質もわからぬ奇怪な祭壇が築かれ、その前にうずくまった黒い人影から、低いが力強い呪文がもれてくる。黒マント姿の魔道士レヴィー・ラーであった。
あの不気味な「手術」はついに成功したのである。しかし霊魂だけの存在となった彼が、実体のマントを着ていられるのはなぜだろう。ともかく彼はそこにいて、かたわらの床には、あの呪いの魔剣が置かれている。新宿駅のこここそ、魔道士の真の隠れ家――世界魔界化作戦の総本部であった。
祭壇の背後、西口寄りの通路に点々と炎のゆらめきが見えた。十三本の黒いろうそくが円形にならべられ、直径三メートルほどの輪を形づくっている。炎がなびいているのは風があるからだろう。しかし、そのなびき方は、構内を吹きすぎる自然の風によるものではなかった。ろうそくに囲まれた円の中心、冷たくかたい床から、吹くはずのない風が舞い上がり、闇の中を駆けまわっているのだ。十三の炎をゆるがすたびに、風は吐き気を催す悪臭を放った。
この円形の大地こそ、現界を魔界の領土とする異形のものの出現地点であった。
「くるぞ――間もなく――今宵こそ確実に」
魔道士の声がした。
圧倒的な力と歓喜に支えられた、それでいてどこか人間らしさを欠いた声である。ちがう。以前の魔道士とはどこかちがう……。
「だが、邪魔が入ってはならぬ。火鬼――迎え討つ準備は整っておるな」
魔道士の背後の空間に火球が浮かびあがり、僧服の火鬼に変じた。
「ご安心を。誰が来てもすぐそれとわかるよう、あらゆる通路に闇≠はなってございます。心おきなく祈りを続けられますよう」
以前よりずっと|丁《てい》|寧《ねい》な言い方である。また、自然にそれをさせるだけの迫力と妖気が、魔道士には宿っていた。
「水鬼はどうした?」
「あの小僧と娘を探しに行くと、娘の影を持って出かけてゆきました。気の短い奴で。しかし、いまのあやつは復讐の鬼。見つけたときのことを考えると、私ですら寒けがいたします。ま、あのふたりが生きておるとすればですが」
「ふたりは『危険地帯』へ入ったと申したな?」
「は。新大久保で取り逃がしてからすぐ、『影まねき』で追いましたところ、間違いなく。あの守り刀なくしてあそこへ入っては、いかに強烈な念の持ち主といえど、万にひとつも生きて戻れる可能性はありますまい」
「ふむ、確かにな。しかし、気になる。なぜ、わざわざあそこへ入りこんだのか……」
魔道士は思案するように言葉を切った。異次元空間の出口がそこにあるとは、彼も気づいていなかったのだ。
「胸騒ぎがまだ拭いきれぬ。警戒をおこたるでないぞ。――ゆけ」
「ははっ」
火鬼は炎の塊となって消滅した。
「くくく、胸騒ぎか……。わしとしたことが何を怖れる。あの親子が束になってかかろうと、今のわしに指一本触れられるものか」
自信に満ちたふくみ笑いが、心なしか風威を増した妖風に乗って構内を巡った。
「あと二時間足らず。それですべては終わる……この世は第二の魔界と化すのだ」
魔道士は顔を上げた。
なんという不気味な顔だろう。頭巾の中にはよどんだ白霧そっくりの霊魂が渦巻き、その奥に顔≠ェあった。
青白い電子眼とむき出しになった義歯、電子脳を収めた黒光りする人工頭蓋、肉も皮もそげ落ちた幽鬼のようなサイボーグの顔が。
午前二時三〇分。
京也は地下道を奥へとたどっていた。かつての新宿サブナードである。
メフィストの病院=\―倒壊をまぬがれた新宿区役所の建物だった――を出てから記憶≠フ指示に従い、唯一無傷で残っていた靖国通りの入り口を探しあてたのだ。記憶≠ノよれば、駅へ通じる他の通路や入り口はすべて「魔震」によって倒壊させられたという。サブナードはその奥で駅への通路と連絡しているのだ。
一〇〇以上の店舗数を誇り、煙や熱に反応する防火シャッターや自家発電設備を備えたこの大地下街も、「魔震」の前にはなす術もなく、京也の周囲は無惨な様相を呈していた。
天井のコンクリートははがれて鉄骨がむき出しになり、床はひび割れている。火災も発生したのだろう、内も外も黒焦げになった店舗も何軒かあった。
照明はない。夜目のきく京也だからこそ、昼間と変わらぬ足取りで進める|漆《しっ》|黒《こく》の闇であった。
いくつめかの曲がり角のところで記憶≠ェここだとささやいた。左折してまっすぐ行けば、つきあたりに駅への通路につながる階段とエスカレーターがある。
だが。
風の様に疾走した京也の前にそびえていたのは、ガラスみたいに半透明の壁であった。高さは三メートル近くある。
「ははん。水鬼の野郎の妖力だな。エスカレーターも階段も水に変えて、コンクリートへ吸収しちまったんだ。とんでもねえ化け物だな」
地下街へ入りこんだ浮浪者かなにかを駅へ近づけまいとするのが目的だろう。てっぺんまで登れば、そこがもう駅への通路だが、これでは誰も登る気にはなるまい。駅自体にそれほど苦労してまで行きつくほどの魅力がないから、みな登る前にくたびれもうけと断念してしまうのがおちだ。急に疲労感が両肩にのしかかり、脇腹が痛みはじめた。
京也は核時計を見た。二時二七分。残り時間はあと三〇分足らずだ。ここで時間をつぶしている暇はない。
「しゃあねえ、気ばってやれ」
つぶやきと同時に、床を蹴った。
「うっ」
脇腹に灼熱感が走った。それでも体勢は崩さず壁のてっぺんに着地する。
地下街より、かなり幅広い通路が眼の前を左右にのびていた。
右≠ニ記憶が告げた。
京也は走り出した。
腰の傷から内出血しているのがわかる。
「こん畜生、とまれ!」
と念をこめた。なんとかとまった。もうひとつ、ぴたりと止まったものがある。足だ。
前方十メートル。暗黒の空間に妖気が凝集し、ぽっと炎が燃え上がった。しかし、炎自体の外側には、まるっきり光が届かない。
「生きていたのか、若造。よくここまできた。ほめてやるぞ」
炎が火鬼の姿に変わりながら言った。
「なんでえ、せっかく驚かしてやろうと思ってたのに。愛想のねえ野郎だ」
素早く阿修羅を青眼に構えながら、京也は毒づいた。
「駅周辺の通路にはすべて魔界の闇≠ェはりめぐらしてある。一歩でもそこへ入れば、わしには侵入者の正体までわかるのだ」
「レーダーか。化けもののくせに、しゃれたもンつかいやがる」
毒づく声は相変わらず元気だが、京也の状態は落ちこむところまで落ちこんでいた。脇腹から猛烈な激痛が間欠的に全身を襲い、冷や汗がふき出てくる。しかし、今は前方の敵に全神経を集中しなければならなかった。痛みを消すのに余分な念をさく余裕はない。
「へらず口を叩けるのも今のうちだ。魔界の炎に骨の髄まで焼かれるがいい」
「その前に答えろ。てめえの親玉はどこにいる?」
「この先の階段を左へのぼったところにおられる。駅の構内だ。もっとも、そこまで行きつけはすまいがな」
そして、両者は沈黙した。緊張だけが闇の回廊に膨れあがっていく。かつてここを往き来した人々の数は数千万にのぼるだろう。その中で誰ひとり、こんな超近代的な通路のど真ん中で、いつの日か、妖鬼と青年剣士の死闘が展開するなどとは考えもしなかったに違いない。
戦いは明らかに京也に不利だった。脇腹の痛みがある。なによりも最終期限まであと三〇分もないという焦りがある。そして火鬼の術がわからない。新大久保の広場で飛んでくる火を防ぎはしたが、あれは敵が油断していたせいで、とてもあの程度の実力どまりじゃないのはよくわかっている。攻撃をしかけたくても、うかつに手が出せない。痛みとは別の冷や汗が頬を伝わった。
一方、火鬼も戦慄の虜になっていた。阿修羅の剣尖からほとばしる澄みきった念が全身をがんじがらめにしている。この青年は、魔界にすら存在しない強力な敵であった。
――な、なんというやつだ。魔道士さまが怖れていただけのことはある……
ふたりは沈黙したが、通路にはごくかすかな音が生きていた。天井の排水管がゆるみでもしたらしく、数秒間隔でしずくが床にたれているのだ。かなり前からのものらしく、京也と火鬼のあいだには、直径五〇センチほどの水たまりができていた。
阿修羅がすっとさがった。
剣尖が水たまりの真ん中に触れた。
それを合図に火鬼の全身が炎の柱と化した。
肉体も|精神《こ こ ろ》も焼き尽くす冷たい炎が、五本の指となって真正面から吹きつけてきた。
|裂《れっ》|帛《ぱく》の気合がそれをはね返した。
「念法『|昇《のぼ》り龍』!」
阿修羅がはねあがった。
見よ。数ミリの深さもない水たまりの水が、壮大な水の柱と化して一気に京也の前方にそびえ立ったではないか! 炎は凄まじい水蒸気をあげてことごとくそれにさえぎられた。
火鬼がニンマリと笑った。
さえぎられた炎は、次の瞬間、それぞれが数条の細い線に変化し、ほうせんかのように水の壁をさけて、四方から背後の京也に襲いかかったのである。
「おおっ!?」
恐怖と驚きの叫びは、しかし火鬼の口から放たれた。
そびえ立つ水の柱は、阿修羅の切っ先から京也の頭上へとなだれ落ちるや、生きもののように、その全身に巻きついたのである。
まさに天|翔《か》け、地に|降《くだ》る龍。
再び、猛烈な白煙をあげて、火線はすべて消滅した。
「こ……こんな……」
敗北感に打ちのめされ、炎に転じて逃れようとした火鬼の耳にもう一度、ふきあがる水蒸気の彼方から、
「念法『|怒《ど》|濤《とう》』!」
火鬼は見た。
両眼を閉じ無念無想で降りおろした青年の剣先から、煮えたぎる水が奔流となって突進してくる様を。京也と父の破邪の念がこめられた水であった。
「うぎゃーっ」
断末魔の叫びが人気のない回廊をゆるがし、途絶えた。京也は、決闘まえと寸分ちがわぬ静寂の廊下に阿修羅をひっさげて立っていた。ただひとつ、水たまりが跡形もなく消えているのがちがっているといえばいえる。
「やったぜ、親父。あとひとりと一匹だ」
全精神力をふりしぼった死闘の疲れと、脇腹の痛みとで倒れかかるのを必死にこらえ、走り出す。走りながら時計をみた。残り時間、あと二五分。
左手に階段があった。二段ずつはねあがり、駅の構内に出た。改札口の奥に点々と炎がともっている。――あそこか。
京也は改札口の柵を飛び越し、走り寄った。
祭壇の前に黒い姿がうずくまっている。|嘔《おう》|吐《と》しそうな悪臭を含んだ風が顔にあたった。
――いかん。この風は、あいつ[#「あいつ」に傍点]がでてくる兆候だ。
影の背後で京也は足を止め、すべての念を阿修羅に集中させた。動かぬ影に声をかける。
「また会ったな。これが最後だ。首席にかけた術を解け。解かなけりゃ……」
答えは凄絶な邪念と、豪剣の一撃だった。
脳の奥に火花が散った。衝撃に全身が|麻《ま》|痺《ひ》し、受けた阿修羅が手からすっぽ抜けて、派手な音をたてて床に転がった。阿修羅と魔剣が噛み合って生じた光と闇の抗争は、またたくまに闇の勝利に終わっている。
「――こ、こいつは違う! 前の魔道士じゃねえ」
絶望に近い恐怖にとらわれながら、それでもとんぼを切って宙を飛び、京也は阿修羅を取り戻した。
「くくく……解かなければ、どうする?」
魔道士がゆっくりと立ち上がった。今の猛撃が、うずくまった姿勢から無造作に後方へ剣をふっただけだと知り、京也は心底ふるえ上がった。
「どうする? わしを斬るか? だがわしは殺せんぞ。一度死んだ人間は二度とは死なん。見ろ」
魔道士の黒衣がおちた。
京也の口があんぐりと開いた。
これが、生き物だろうか?
ひと言で言えば、生皮はがれたサイボーグだろう。黒光りする特殊合金の骨格に複雑な代謝調整機構を備えただけの身体が、闇を圧してそびえ立っている。胸部の人工心臓やその他の器官を、腰部の核融合原子炉と連結する循環パイプと電気コードが|脊《せき》|髄《ずい》にからまって走り、京也は、高校の理科室にある等身大の人体解剖模型が動き出したような錯覚にとらわれた。
魔道士はサイボーグとして甦ったのだろうか?
違う。幻妖な全身にまとわりついて青白い|燐《りん》|光《こう》を放つ霧状の物質を眼にしたとき、京也は変身の正体を|看《かん》|破《ぱ》した。
「貴様――死んでから、霊魂をサイボーグ化しやがったな」
黒い哄笑が構内にとどろいた。
「さすが十六夜の息子――よう見破ったな」
魔道士は、いや、|霊魂《スピリット》サイボーグ――スピリットボーグとでもいうべきか――は、義歯のむき出した口を、グロテスクな笑いに|歪《ゆが》めながら、魔剣を右手に京也めがけて前進を開始した。その遙かにパワーアップした妖気にうたれ、京也はなす術もなく後じさった。
戦いは、もうひとつの場所でも繰り広げられていた。
京也が立ち去ってすぐ、手術室にいるメフィストとさやかのもとへ、さやかの影に導かれて水鬼がやってきたのである。
今夜限りでこの世界は魔界になるとたかをくくったものか、僧服こそ着ているが内側は本来の姿に戻り、|袖《そで》口から裾から、何本もの白い触手があふれ、くねくねと|蠢《うごめ》いている。
これが、地を這う少女の影を道案内に、一階の入り口から堂々と入ってきたものだから、待合室は大混乱。患者は全員逃げ出してしまった。
「意気地のない奴らだ。だが、どこへ逃げても無駄よ。午前三時がすぎれば、夫は妻と、父母は我が子と殺し合うようになる。しかし、あの小僧と娘だけは、そうなる前にわしの手で八つ裂きにしなければ気がすまん」
水鬼は影の行方を憎悪に燃える眼で追いながら言った。
「『危険地帯』で死んだと思ったが、念のために『影まねき』で娘の所在を探ってみてよかったぞ。――そうか、地下におるのか。待っておれ。いま行くぞ」
さやかとメフィストも、モニターで異変を知った。水鬼は階段をおりはじめている。
「どうやら、君のお客らしいな。水鬼とかいう奴か」
さやかはこくりとして、
「よかった」
「なにが?」
「あいつがここにいれば、京也さんの敵は一匹ですみますもの――よかった」
「私はちっともよくない」
メフィストはやや不満そうに右手を振った。
地下をゆく水鬼の身体を壁に仕込んだ粒子ビーム砲が貫いた。水鬼が悠然と壁に触手をのばす。壁面は半透明化し、泡立ち、水面と変わった。荷電粒子の放射がストップしたのを見届けて、水鬼は再び前進を開始した。続けざまに、レーザー砲、超音波シャワー、化学弾が襲ったが、すべて瞬時に息の根を止められた。
「……物理攻撃は効果なしか……この世界の法則には従わない生物らしいな。しかし、この区役所を改造するには一億クレジット以上かかったのだ。えらい損害だな」
「後でお支払いします……あの、請求書を出して下されば……」
さやかがすまなそうに言った。
「実にしっかりした|娘《ひと》だな」メフィストの顔がひきつった。吹き出すのをこらえている。
「はい」
「それはあとで書くとして、とりあえず、現状を打破する手段を講じる必要があるな」
「賛成です」
「奴は、君の影に道案内させている。影は本来、君に所属するものだから君の後を追う。とすれば、どこへ逃げても無駄だ。戦うしかない」
「ですが、妖魔を倒せるのは京也さんだけです」
「恋人万能主義は女性の陥りやすい欠点のひとつだ。世の中、そう捨てたものじゃない」
「え!?」さやかは赤くなった。「わたし、京也さんの恋人ではありません」
「いいから来たまえ」
メフィストは手術室を出ると、さやかを伴い、エレベーターで地下二階へ降りた。すぐ前の部屋のドアをあける。
かなり広いスペースに、床といわず壁といわず、複雑なマシンや工作機械が並んでいる。簡単なコンピューターや、翻訳器、モニター・スクリーンぐらいはさやかにもわかるが、あとの機械はどんな働きをするのか、チンプンカンプンだった。部屋全体は青いたそがれに包まれたように沈黙し、それは、この黒ずくめの青年に、なによりふさわしい世界のように思われた。
彼の個人研究室だろう。
メフィストは、奥のばかでかい工作機械の前に近寄り、銀色の銃らしいものを取りあげた。
「昨日、完成したばかりの品だ。|念波銃《サイキック・ウェイブ・ガン》とでもいうのかな」
さやかは駆けよってしげしげとみつめた。
「妖鬼を倒す武器ですの?」
「つくった方は、そのつもりだ。あいつらの存在を知ってから二年がかりでこしらえた切り札さ。持ち主の念を回路が増幅して、敵を倒す――」
さやかのがっかりしたような表情に気づいて、メフィストは、ふっと笑った。
「これだけでは、その辺の国が養成した超能力部隊の念力コマンダーと変わらないが、こいつには二重のチャクラ・フィルターがついている。霊的エネルギー吸収チャクラと放出チャクラがね――チャクラって聞いたことあるかね?」
「はい」さやかはうなずいた。
地球でライ老師からヨーガの講義を受けたとき説明してもらった言葉のひとつだ。
人体の七カ所――頭頂、|眉《み》|間《けん》、咽喉、心臓、へそ、|脾《ひ》|臓《ぞう》、腰部に分散している、一種のエネルギー吸収口である。下位のふたつが物理的エネルギー、中位のみっつが感情的エネルギー、残った眉間のチャクラが霊的エネルギーを吸収し、頭頂部のチャクラから逆に放出する。
ただし、最後のふたつを活動させるのはよほど精神的な高みに達した高徳の人物でなければ望めない技だ。頭頂部のチャクラは王冠のチャクラともいい、古来から聖人のシンボルとされている。仏像の頭頂が突き出ているのは、この王冠のチャクラを表現したものだ。そこから放出される聖者のエネルギーは、偉大な奇跡を生むといい伝えられている。
そのふたつのチャクラが、よくわからないが、メフィストの銃にフィルターとしてセットされているという。とすれば、それを通過する念は浄化され、強烈な霊的エネルギーと化して妖魔を討つこともできるだろう。京也の念法のように。
メフィストが何か言おうとしたとき、低いうなりが部屋を満たし、青い光が点滅した。自動的にモニターが部屋の外の様子をうつし――出さなかった。警報も光の点滅も止まった。一瞬闇が部屋を支配し、すぐに撤退した。
半ば透き通ったドアとその周囲の壁が、廊下の光を通して淡い光彩を放ち、その光の中心に、黒い僧服の水鬼が幻のように立っていた。全身からみなぎる妖気と憎悪がさやかをその場に釘づけにした。
「探したぞ、若造と小娘。今こそ片眼の礼をしてくれる」
「違います。この方は――」
さやかはメフィストをかばうように彼の前に立ちふさがった。
「違う? どちらでもよい。どうせ、あと少しでこの世界はわれわれの|跳梁《ちょうりょう》するところとなるのだ。貴様らはその前にわれらの神の生贄にしてくれる。ありがたく思え」
水鬼は嘲笑した。
「ほうれ、もう後がないぞ」
その言葉の通り、おびただしい機械も、固い床も、ふたりの立っているわずかな部分だけを残して、ぶよぶよに歪み、ねじれ、溶け合いつつあった。コンピューターが床にめりこみ、デスクが工作機と融合し、壁の彼方に魔界の魚の影がみえた。怨み重なるさやかをじわじわと追いつめ、骨のずいまで恐怖を味わわせようという残忍なやり方である。
「これはすごい。貴重な体験だ」
メフィストがつぶやいて念波銃を構えた。
「これまでの攻撃で無駄なこととわかったと思うが」
水鬼が小馬鹿にしたように言った。
「試作品で申し訳ないが、味はどうかな?」
青白い閃光がほとばしり、水鬼の身体を目もくらむ光彩でふちどった。
「ぐおおおーっ」
|凄《すさ》まじい苦鳴をあげて、妖怪は床にうずくまった。
光はゆらめき、すっと消えた。
「いかんな。まだ研究が足りん」
メフィストは平然とつぶやき、武器をさやかに手渡した。
「でも――」
そのとき、さやかは胸に灼熱の痛みが走るのを覚えた。鋭利な刃物で引き裂かれるような。白いブラウスの上に、赤いしみが広がっていく。
「一度ならず二度までも。――よくもよくも……」
言葉そのものが血に狂ったかのような口調でうめきつつ、水鬼は起き上がった。念波銃のエネルギーは不十分だったのだ。右側の触手を高くかかげる。そこに四肢の自由を奪われ、とり押さえられているのはさやかの影であった。なんと、胸のあたりから鮮血がしたたっている。水鬼が倒れながら触手の先端で切り裂いたのだ。
「本体が傷つけば影も傷つく。影が死ねば本体も死ぬ。みたか、妖力『影がえし』。若造、そこで娘の首がもがれ、手足がちぎられるのをよくみておけ!」
触手がひらめき、影の左肩をえぐった。さやかが同じ場所をおさえ、悲鳴をあげた。
「大事な人を思いたまえ」
倒れかかるさやかを支えながらメフィストが励ました。
「チャクラ・フィルターを通す念は、純粋でひたむきなものであればあるほど霊的エネルギーとして浄化される。残念ながら、私のようなへそ曲がりでは役不足だ。だが、君ならやれる。思うのだ、大事な人を――なくしたら君が死ぬほど|哀《かな》しくなる人を――愛する人を」
さやかは苦痛をこらえて念波銃を構えなおした。
また触手が動いた。右手首から鮮血がほとばしり、念波銃が床におちた。「死ね」水鬼が触手をふりあげ、影の喉元へ叩きつけようとした。いきなり大地がゆれた。水鬼が大きくよろめいた。
「今だ」
メフィストが素早く銃を拾いあげさやかに握らせた。
病床に伏した父の顔が浮かんだ。
そして――
何がおこったのか、水鬼には最後までわからなかったに違いない。
念波銃のノズルから噴き出た真紅[#「真紅」に傍点]の奔流は怒濤と化して妖鬼の全身を押しつつみ、異界の忌わしい自然法則に守られた細胞を最後のひとつまで焼き尽くした。
悲鳴ひとつあげず、水鬼は消滅した。
地震もやんでいる。
メフィストが右手をふって天井の予備灯をつけた。さやかは精魂つき果てて黒い腕の中に倒れこんだ。まさに血みどろの死闘に勝利したのである。
メフィストは片手をそっと手近な装置に置いた。固さを取り戻している。水鬼の死とともに妖力の呪いも失せたのだ。しかし、溶け合わさった壁や装置はそのままの状態で元に戻ってしまい、部屋は奇怪な抽象絵画の世界と化していた。
メフィストはさやかを、足が床にめりこんだ長椅子に横たえた。
「おみごとだ」とこの男にしては珍しくやさしい声で言う。
「あの地震――」さやかはさっきの猛烈なゆれを思い出し、恐怖にふるえていた。「この世界の自然法則には従わぬはずの妖鬼まで倒れかけました。もしや、もしや――第二の『魔震』では? 地底のもの[#「もの」に傍点]が出現したのでは――」
メフィストは肩に埋めこんだ生体時計で時を感じた。
「いや、逢魔が時まであと三分ある」
ふたりは何かに祈るように虚空へ目を走らせた。
「魔界都市」新宿のどこかで、この世界の運命をになって地獄の敵と永遠の死闘を展開している若き戦士の顔を思い浮かべながら。
世界の運命が決するまで――あと三分。
「今のわしが、どれほどの力を持っているか、おまえにも想像はつくまいな」
三メートルほどの距離をおいて立ち止まり、魔道士は言った。声は出るが音声器官は見当たらない。霊魂がサイボーグの口をかりてしゃべっているのだ。
「人間の霊魂には、元来、凄まじい精神エネルギーが備わっているものだ。しかし、惜しいことに、肉体という殻に邪魔されて、それが持つ力の百分の一も発揮できはせん。その証拠に、死後、魂となって肉体から脱け出した途端、怨み重なる相手をとり殺した事実、別の人間にのり移って転生した事実などは数え切れんほどある」
これは本当だ。米ヴァージニア大学の超心理学研究室チームは、世界各地の生まれかわり――転生例数千件を二〇年以上かけて調査。転生と確認できるケースが無数にある、と発表した。これも魔道士の言うように霊魂のもつ不可思議な力のひとつなのだろうか。自信に満ちた声はなおも続く。
「――霊魂と化したわしの念は、おまえに倒されたときの数十倍の強さを持っておるぞ。さらに、サイボーグ化したことで核融合炉のエネルギーも吸収した。その念を持って、新しい身体を動かしておるのだ。小僧、観念して死ぬがよい。それとも、わしの仲間になるか?」
「ふざけるな。この死にぞこないの半端もの」
景気よくわめいたものの、京也の声にはどこか力がなかった。
それに引きかえ、魔道士の声は構内にろうろうとひびく。
「魔界に身を捧げ、他の人間どもが、絶望と恐怖と憎悪に身を焦がすのを見物するのも心地よいものだぞ。わしは、ヒマラヤを降りるまえ、お前の父も誘った。宇宙精神などという、一生かけても到達できぬものに狂っておって、すげなく断られたがな」
「狂ってるのは貴様だ! 親父は貴様を倒すために、あと一歩のところで修行を断念したんだ。今、おれがその帳尻を合わしてやる」
「愚かな。小僧、よく聞くがいい。人間とは、根源的に魔界の方がふさわしい生物なのだ。はじめて対決したとき、わしが言ったことを思い出せ。今夜出現するものは、かつて一度、この世に姿を現したことがあると――」
「やかましい!」
絶叫とともに京也は跳躍した。大上段にふりかぶった阿修羅に、すべての念をこめて、魔道士の頭上へ打ちおろす。
魔道士は平然と素手をかざして受けた。阿修羅から全身へ突っ走る衝撃。京也ははね飛ばされて宙に舞った。かろうじて体勢を整え、足から着地する。びりっ! と脇腹の裂ける感覚があった。
が、倒れかかったのはそのせいではない。一撃にこめた念が、触れた部分から根こそぎ魔道士の霊魂に吸収されてしまったのだ。これでは攻撃のたびに、こちらが力を失い相手が強大になるばかりではないか。
「惜しいな。父親以上の才能と力を持ちあわせておるのに、そこまで死に急ぐか! ならば、あっさり|引《いん》|導《どう》を渡してやろう。説得は死んでからでもできる」
なんとも不気味な台詞を発して、魔道士は斬りかかってきた。京也は恥も外聞もなく床にころがり、とびのき、とんぼを切ってかわしたものの、精神力、体力、ともに消耗が激しく、動きにもいつもの切れ味がない。ついに足をすべらせ、転倒した。眼前にぐいと魔剣が突き出された。
「勝負あったな、小僧。霊魂となって、この世界の断末魔を見届けろ。そのあとで魔界へ送ってやる」
こう言いつつ魔道士は剣を思いきり引いた。次の瞬間、切っ先が京也の心臓をえぐるのだろう。
確実な死が迫りつつあった。京也は唇をかんだ。
そのとき、ぐらりと大地がわなないた。
ごおっと唸りをたてて、ろうそくの円陣の中心から烈風が湧きあがり、思わずふりかえった魔道士と京也の眼の前で、コンクリートの床にぴしっと亀裂が走った。水鬼の攻撃からさやかとメフィストの生命を救った、あの地震であった。
「しまった、もうきたか!」
さけんだのは魔道士だ。
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、大音響を立てて分厚いコンクリートをはねのけ、灰色の巨大な腕が出現した。
――こいつが地の底のなにか[#「なにか」に傍点]か!?
京也ははね起きるのも忘れ、呆然として眼前の怪異をみつめていた。
腕はこぶしをにぎっていた。
ゆっくりとそれが開いた。
分厚い掌の中に、さびを吹いた鉄の箱がのっている。
一瞬に悟った。
地底のなにか[#「なにか」に傍点]とは、巨大な手の持ち主ではない! あの箱の中身なのだ! 箱をあけてそれを外へ出してはならない。
魔道士がふり向いた。
突き出した魔剣をころがりながら避けて、京也は腕のところへ駆けよった。手首のまわりは優に二メートル、掌の広さは六畳間ほどもあろうか。
「ええいっ」
手首へ切りつけたが、びくともしない。京也の念も、父の念も力を失いかけているのだ。
背後で魔道士が哄笑した。
「無駄な真似はよせ。きっかりあと三十秒で羅摩首席は死ぬ。そうなれば、どんなことをしても箱は自然に開く。おまえにできるのは、それまでにわしを倒すことだけだ」
魔剣が足をなぎはらったとき、京也は掌の上へ跳躍していた。明らかに生物の皮らしいが、まるで鉄のように固い。箱の護衛役をつとめる地霊かなにかだろう。
「二十五秒」
魔道士が宙を飛んで箱と京也の間に立ちふさがった。
続けざまに魔剣がうなった。必死に阿修羅で受けたが、そのたびにはね飛ばされ、体勢を崩す。刃がかみあって生じる光と闇の戦いも、またたくまに闇が光を呑みこんで決着をつけてしまう。
「あと五秒」
京也は横なぐりに阿修羅を叩きつけた。魔道士は苦笑しながら左手で受け、阿修羅ごと京也を突きとばした。
もの凄い力だ。京也は|抗《あらが》う暇もなく、掌から床へ落下した。
痛みをこらえ、必死で見上げた目に、掌のふちに立ちはだかる魔道士と背後の箱がみえた。箱のふたは、黒い切れ目となってわずかに開いていた。内側で何かが蠢いている。
「あと三秒。この世界と共に死ね――二秒」
魔剣を大上段にふりかぶって、魔道士は頭上から飛びおりた。
「一秒!」
この時、京也は既に死を覚悟し、忘我の状態にあった。魔剣が頭頂に達するまで数十分の一秒間。変化は、そのさらに数百分、数千分の一秒の間に生じた。全身に力がみなぎったのだ。疲弊し切った念が、全細胞が、炎の雄叫びをあげて、戦い続行を告げた。京也は力の根源を知った。それは大宇宙の大いなる正義――初源のときから、ともに生まれた暗黒の力と戦い、傷つき、弱りながらも、つねに勝利してきた善なるものの白い力だった。
一瞬、阿修羅が白い光芒に包まれた。
無我の境地で、ふりおろされた魔剣をかいくぐりざま放った片手なぐりの一刀!
魔道士の霊魂と|鋼《はがね》の|脊《せき》|椎《つい》は腰の上部できれいに両断された。目もくらむ光をまきちらしながら地に墜ちる寸前、霊魂は跡片もなく消滅した。激突音を浴びながら、京也ははじかれたように起き上がり、箱の方をみた。|蓋《ふた》は閉じつつあった。間に合ったのである。
このとき、京也は知らなかったことだが、ニューヨークの連邦病院の一室では、運命のときの正確に一秒前、ライ老師が不意にこと切れていた。
モニターを凝視していた高官たちにもそれはわからなかった。刻限が過ぎた途端、病室へ殺到した彼らは、喉の手痕も消え、安らかな寝息をたてている首席をみて歓声をあげた。誰も結跏趺坐の姿勢をくずさずにいる、小さな、息絶えた老人の方は見ようともしなかった。誰が知ろう、まさに運命の一瞬前、彼がその全生命を燃焼しつつ、広大な宇宙の力を数千キロの彼方にいる青年剣士に注ぎこんだことを。自らの行為の結果を信じていた証拠に、老人のやせこけた頬には満足げな微笑が浮かんでいた。
エピローグ
三人は、四ツ谷駅のそば、「魔界都市」と外部との境界にわたされた幅広い橋の上に立っていた。境界は幅二十メートル、深さ三百メートルにも達する黒々とした地割れの痕である。
京也はメフィストの病院で改めて脇腹の手当てを受けたあと、磁力カーで送ってもらったのだ。
「じゃあな」京也が手をさし出した。メフィストは動かない。
「柄にもない真似をするな」
「それもそうだな」
京也はにやりと笑って引っ込めた。
「おまえの面も、この町も二度と見たくねえ」
メフィストの頬を皮肉な笑みがかすめた。
「だといいが。この町がある限り、そして人間がいる限り、あれ[#「あれ」に傍点]はまた現れるだろう」
京也は思わずぎょっとした。
――こいつ、知ってやがるのか?
箱のふたはついに開かず、現れたとき同様、巨大な掌ににぎられて地底へと消えていったのだ。
しかし、京也にはその正体がわかっていた。あの魔道士の背後で、わずかに開いたすき間から漂ってきたおぞましいものの気配。「恐怖」「絶望」「怨恨」「憎悪」……人間が心の奥底に秘めている邪悪なもののすべて。
魔道士は言った。かつて一度、人間はそれ[#「それ」に傍点]を開けたことがあると。
あれは、パンドラの箱だったのだ。
遠い過去の伝説の霧の彼方、高慢な人間を怒った神々は、パンドラというおろかな女をつくり、「悪」の詰まった箱を開けるようにしむけた。そのときから人間は、未来永劫、他人をねたみ、呪い、殺すことを学んだ……。
――おれたちは、とうの昔に邪悪な存在だったのか――
京也は、朝日の下に眠るよどんだ街並みを見やりながら思った。
――しょせん、魔界の住人どもと五十歩百歩。いや、いっそのこと、魔界の方が向いているのかもしれねえ。
その暗い横顔を、ひたむきに凝視する澄んだ瞳があった。
さやか。
その足元には、魔道士が滅びた瞬間戻ってきた影がくっきりとおちている。
ふと、京也は、この少女と一緒に巡り合った「魔界都市」の住人のことを思い出した。ふたりを守って死んでいったエスパーたち。「危険地帯」へ向かう彼に、しっかりやれと握手をしてくれたタクシーの運ちゃん。さやかの涙に感謝しつつ眠りについた殺人ライダー。そして、ドクター・メフィスト――冷笑的で、皮肉な、そのくせ傷ついた人々の治療に専念するミステリー・マン。
魔道士を倒した大いなる善の力は、まぎれもなく彼等の内にもあった。
――ひょっとしたら、どうしようもない悪たれにも善人になれる余地が残されているのかもしれねえな。まあ、いいさ。こういう連中がひとりでもいる限り、この世の中はまだ捨てたもんじゃねえ。それを破壊しにくる奴が現れたら、おれはまた戻ってくる。
「それでは失敬するよ。お客が待っているのでね」
メフィストが身をひるがえした。
「待てよ」
京也はもう一度手をさし出した。
どういう風のふきまわしか、メフィストは固く握り返して、無表情に車の方へと消えた。
新宿通りを小さくなっていく磁力カーをしばらく見送ってから、ふたりは橋をわたりはじめた。行く手には、三日前と同じ学生生活が待っている。
「メフィストに聞いたよ。水鬼をやっつけたんだってな――こわい|女《ひと》だ」
京也は前を向いたままからかうようにいった。
「まあ――そんな、いやですわ」さやかは真っ赤になった。
「照れるこたあねえ」
京也は笑ったが、さやかの胸の内までは読めなかった。あのときさやかが思い浮かべた愛する人の顔は、父と――京也のものだったのだ。
京也の顔に微笑が浮かんだ。
「なにか楽しいことを思い出しまして?」
さやかがはずんだ声で聞いた。
「いや、別に」
ぶっきら棒に言ってから、京也は頭をかいた。
あの伝説[#「あの伝説」に傍点]のラスト――パンドラの箱から最後にこの世界へ出てきたものの名を思い出したのだ。
それが「希望」だったことを。
[#地から1字上げ](完)
あとがき
この作品のメイン・アイディアは、学生時代に、ヒロイック・ファンタジーというものをはじめて知ったとき閃いたものです。その場で、なにか私なりの作品を書いてみたいと思ったものの、数万年前のおどろおどろしい過去、ないし、異次元の世界となると、私の乏しい空想力では、とてもリアルに描き出すことはできません。ですが、魔法と怪物が幅をきかす異世界を、孤剣のみたずさえて生き抜いてゆく主人公――この設定は実に魅力的でした。これをそっくり、現代に生かすことができないものか。
その結果が、この本であります。地震である地域が破滅に瀕するという設定の物語には、「関東」を丸ごと壊滅させてしまった、永井豪氏の最高傑作(私はそう信じています)「バイオレンス・ジャック」がありますし、荒廃しきった犯罪都市とくれば、|J《ジョン》・カーペンター監督の「ニューヨーク1997」という映画がつくられています。
私はそれにホラーという名の薬味をたっぷりふりかけてみました。同好の士は堪能してくださると思います。
いま、私の机の上には、さまざまな素材が山をなしています。
吸血鬼ドラキュラ、フランケンシュタインの怪物、狼男、魔女、二重人格の殺人鬼、動く手足、想念の生みだした怪物、人を食う肖像画、未来都市、宇宙船(C57Dといきたいですな)、恐竜、地底王国、カウボーイ、|無法者《アウトロー》、名保安官、早射ちの流れ者(「シェーン」て人、いましたね)、忍者、武芸者、ゾンビ(ホントはゾンビーじゃないかしらん)……
無数の書き手によってとっくの昔に使い古されたはずの彼らは、しかし、私にむかって首をふるのです。
「おれたちは滅びない。生かすも殺すも、おまえ次第だ」
と。
私は物語を書くことで、彼らを復活させる魔道士の役をつとめたいと思います。
読者のみなさんがそれを喜んでくれたら、これに勝る|幸《しあ》|福《わせ》はありません。
最後になりましたが、ズボラな性格と進まぬペンに耐えて、辛抱強く完成を待ってくださった編集部の方々に、お詫びと感謝の言葉を心から。
[#ここから4字下げ]
82年7月24日。「魔人ドラキュラ」を観ながら
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]菊地秀行
底本:「ソノラマ文庫〈216〉 魔界都市〈新宿〉」、朝日ソノラマ
1982年9月30日 初版発行
1989年3月20日 41版発行
このテキストは、
(一般小説) [菊池秀行] 魔界都市<新宿>.zip h1GiEhjqFX 59,053,816 2ad8993e0a8323e960244deeae58db0c
を元に、手入力とOCRの2種類のテキストを作成し、両者を比較校正したものです。
画像版の放流者に感謝します。
また同梱の地図画像は、画像版の同ページを回転したものです。
************** 気になった部分 **************
全体に意図的な漢字の使い方なのか誤植なのかわからない部分がかなりあります。
高層ビルと高属ビル、なら誤植と判断もつきますが、悽愴と凄愴など判断つきません。
なので、気になったところすべてを書きだしているわけではありません。
93/569/1299/1683行
巻き散らした。
撒き散らした。まき散らした。の誤植と思われるが、数回使われているので意図的なのかも。
161行
祭祀呪文
祭祀の「祀」は底本では「ネ」に「巳」。簡略化された文字になってますが、フォントの違いのようなので、注記せずにここに書いておきます。
222行
貫録たっぷりの局長が
貫禄。Web辞書を検索し、広辞苑、新明解漢和辞典、新潮国語辞典をみても、「貫録」はなし。すべて「貫禄」。でもなぜかATOK16で貫録と変換できる。ぐぐってみても「貫録」と使っている記述はかなりある。
240行
滝に打たれての|禊《みそ》ぎ。
禊ぎの「禊」は底本では「ネ」に「契」。
249行
|虎《こ》|視《し》|眈《たん》|眈《たん》
「虎視眈々」と通常なら表記するのでしょうが。位置からいってページをまたいでいたために「々」にしておらず、その後手が加わったために同じ行に入ることになったのか。
383行
長い髪の、透き透るような少女
やっぱり「透き通る」とか「透きとおる」のがいいと思う。
400行
空中で1メートル近い長さに変わり
一メートル
409行
頭骸骨を砕き
「頭蓋骨」だと思うのですが、どういうもんでしょう。意味があって使っているのか単なる間違いなのか。よくわからないとこ多いです。
1176/1888/1997行
底本では錆の「青」の「月」は「円」になってます。DFパブリW5Dだとちゃんと「円」になります。
1752行
十六夜京也は|瓢然《ひょうぜん》と鉄条網の方へ歩き出した。
飄然。「瓢」は「瓢箪」
1861行
高属ビル群が古代の|環状列石《ストーン・サークル》のように
高層ビル
********************************************