講談社電子文庫
妖戦地帯3 淫闘篇
[#地から2字上げ]菊地秀行
目 次
第一章 みちのく|怪《かい》|道《どう》
第二章 |呪術《じゅじゅつ》一族
第三章 影の下僕たち
第四章 死生|淫《いん》|行《こう》
第五章 |峨《が》|々《が》|山《さん》|妖《よう》|異《い》|煙《えん》
第六章 内なる旅
第七章 敵と味方の魔影
第八章 |紅《ぐ》|蓮《れん》|咆《ほう》|哮《こう》
第九章 破滅への|跳躍《テレポート》
あとがき
第一章 みちのく|怪《かい》|道《どう》
1
仙台で|暮《くれ》|海《み》線に乗り換え、三〇分ほど行くと、指定の駅に着いた。
そこまでの車窓を埋めた風景からして、四本|柱《ばしら》の上に屋根が乗っただけの|田舎《いなか》の駅を想像していたら、その通りだったので、|萩生《はぎゅう》|真《しん》|介《すけ》は少しうんざりした。
|呆《あ》きれたことに改札の駅員もおらず、改札口にかけられたブリキの|函《はこ》に切符だけを落として、待合室へ入った。
背もたれの|革《かわ》が破れた|長椅子《ベ ン チ》がひとつと旧式の石炭ストーブが一台。それきりだ。
誰もいない。
萩生の背に|悪《お》|寒《かん》が走ったのは、九月中旬の、秋よりもその先の冬を告げる空気のせいではなく、北国の|陰《いん》|鬱《うつ》さを、小さな窓から|洩《も》れるそれなりに白い光に封じ込めたような、この駅舎のせいかもしれなかった。
|亜《あ》|衣《い》は来ていない。
外へ出る気にもなれず、萩生は長椅子に腰を下ろした。
渋い|上《うわ》|衣《ぎ》に地味な柄のネクタイをつけ、ワイシャツは人格の正統性を主張するかのように白い。|塾《じゅく》の講師と名乗っても、おかしな眼つきはされない服装だ。
列車は午後三時一七分――予定通り着いた。
亜衣の性格からして、出迎えが遅れるのも数分だろう。
萩生は上衣のポケットから読みかけの文庫本を取り出し、ページを割った。
その途端、べージュ色の表面が、雨雲でも垂れ込めたようにくすんだ。
萩生はふり向いた。
鋭い眼差しと素早い動きであった。前に何度か同じ経験をし、それがあまり良い結果をもたらさなかった、とでもいうような。
椅子の背の向うで、|楕《だ》|円《えん》を横たえたような顔が見下ろしている。
重力の|圧《あっ》|搾《さく》に肌が耐え切れなかったらしく、その結果は|皺《しわ》となって顔中を埋めていた。
もう雪が降っているのかと萩生は考え、単なる白髪の|堆《たい》|積《せき》だと知って、軽い自己嫌悪を感じた。
本に落ちた影の主は、その印象にふさわしい声を持っていた。
「|何処《ど こ》へ行きなさるの?」
|痰《たん》と血でいっぱいのつぶれた|喉《のど》から|洩《も》れるような声であった。
萩生は答えなかった。
好奇心を遠慮ぶかさで覆うことを知らない田舎の老婆にしても、唐突な質問ではあった。
「何処へ行きなさるの?」
老婆はもう一度|訊《き》いた。萩生は黒い喪服と思っていたが、よく見ると灰色の和服であった。白髪のせいで色が際立って見えたのだ。
「友だちのところだ」
萩生は、文庫本から顔を上げて言った。
「何という友だちさんかの?」
「すまんが、お婆さん」
「|竜垣《りゅうがき》、ではないかの?」
萩生はあきらめた。
「僕の顔に書いてありますか?」
「お行き」
「は?」
思わず萩生は|呆《ほう》けた声を出した。こういう状況では、おやめ、というのが普通ではないか。
「早くお行き。間に合ううちに」
老婆の声に、せかす調子はない。孫に買物を言いつける祖母の口調である。
萩生は老婆の顔から眼を離し、文庫本をポケットにしまった。
立ち上がり、ふり向いた。
「萩生さん――」
|双《そう》|眸《ぼう》は、ドアを開けて|覗《のぞ》いた娘の顔を|捉《とら》え、老婆の方を向くのが数秒遅れたのはやむを得まい。
萩生はふり向いた。
いない。
老婆のいた空間には白い光がみちていた。もう何年もそこには誰もいないようであった。
「萩生さん」
|青《せい》|磁《じ》亜衣の少し不満そうな声が、彼を現実に戻した。
「よお」
萩生は片手を上げた。
「どうかして?」
亜衣は敏感に、萩生の異常を察したらしかった。
「いや、婆さんに会った」
「お婆さん?」
「何でもない」
萩生はようやく、自分でも納得できる普通の笑みを見せた。話しても仕方のないことだった。
「ご免なさい。私の方からお呼び立てしたのに、遅れてしまって」
亜衣の声もいつもの調子に戻っている。
いつも、とは、二年前までのことだ。
その年の十月まで、亜衣は萩生の同僚として働いていた。
スチュワーデス志望だったという英語の発音は、やや小柄だが肉付きのいい|肢《し》|体《たい》と、|瞳《ひとみ》の大きさが目立つ童顔と|相《あい》|俟《ま》って、塾の男生徒に圧倒的人気を誇っていた。
「いや。女房がよろしく言ってくれとさ」
萩生の妻・|芳《よし》|恵《え》も同じ塾の事務員をしていた。
亜衣は微笑した。
二年前と同じ微笑だった。
同じ印象を、しかし、萩生は持たなかった。
化粧が濃すぎる。
厚いファンデーションも|頬《ほお》のやつれを隠してはいない。
亜衣の性格を考えれば、二年間の生活の|垢《あか》としては、信じ難い量と言うべきであった。
亜衣自身がそれを証明した。
「変わらないわね、萩生さん」
精一杯の|羨《せん》|望《ぼう》をこめた声であった。
君も、と言うことはできなかった。
「大事な話って何だい?」
こんな場所で訊くのは不適当だと思いながらも、萩生は口にした。
老婆の件が胸に暗い|澱《おり》をつくっている。
幻覚ではない自信があった。
とすれば――亡霊か。
そんなものに首を突っこむのは、二度とごめんだった。
箱根での死闘から半年が過ぎている。|淫《いん》|女《じょ》の|虜《とりこ》となって性の|拷《ごう》|問《もん》を受け、芳恵も犯された。芳恵自身は忘却しているが、萩生には傷となって残っている。精神――というより魂に刻まれた傷だ。
すべてを支配する|脅《おび》えと言っていい。
亜衣の返事によっては、この場で引き返すつもりだった。
「それは――車の中でお話ししたいの」
亜衣は確かに変わっていた。
すがるような声など、出すはずのない女だった。無礼で|猥《わい》|雑《ざつ》な野次をとばす生徒への平手打ちの回数は、塾の講師中最多記録を保持している。
帰るのは簡単だ、と萩生は思った。
亜衣はそれを読み取った。
「こっちよ」
|弾《はず》む声に、萩生は軽くため息をついて、身を|翻《ひるがえ》す影を追った。
確かに帰るのは簡単だ。帰る気になれば[#「帰る気になれば」に傍点]。
2
駅から車で一〇分ほどとばすと、小さいが、それなりの形を整えた町に入った。
亜衣の家は、裏通りにある小さなマンションであった。
結局、萩生は来てしまったのである。
車――RX7の中で亜衣は何も言わなかったし、萩生も訊こうとはしなかった。
前の駐車場へ車を置き、亜衣は一階のドアのひとつへ萩生を導いた。
先に入った。
萩生も後につづく。
|三和土《た た き》に足を踏み入れた途端、彼は硬直した。
全身が総毛立つ。
今見れば、すべての毛穴の隆起が確認できたろう。
――まさか。
と萩生は、胸の|裡《うち》に広がる|昏《くら》く冷たいものを意識しながら思った。
MITでの探索行以来、第六感ともいうべき神経――いわゆる勘――が異常に活性化し、|人《じん》|外《がい》の「気」に対して恐るべき敏感さを発揮しつづけている。その「成果」であった。
平穏を望む萩生の意志とは別に、「勘」は日ごと|研《と》ぎ澄まされ、感度を増してゆくようであった。
いま、一瞬のうちに、彼を凍りつかせた妖気の発現点が、キッチン左手の部屋だと気づく程に。
「萩生さん……」
とキッチンに上がって、スリッパを用意しかけた亜衣が、思いつめたように言った。
「――何か感じるの?」
感じるどころではなかった。
これが萩生ひとりだったら、後をも見ずに一〇メートルも先の道路を|遁《とん》|走《そう》しているだろう。
キッチンのみならず、亜衣の生活空間すべてに異世界の|瘴気《しょうき》がみなぎっているのだ。
並みの人間には、ちょっと暗い[#「暗い」に傍点]な、ぐらいにしか感じられないだろうが、萩生の超感覚には、澄んだ水が、突如、ドブ泥に変じたくらいの落差がある。
現に、彼は必死に|嘔《おう》|吐《と》感をこらえていた。
幸い、数秒で去った。
これまでの異常な体験は、異世界感覚の研磨とともに、耐性も与えていた。
「奥に誰かいる?」
つとめて平静に言ったつもりだが、亜衣の表情はこわばった。
それでも、余計な質問はせず、うなずいた。
「|真《しん》|吾《ご》さんが。私の夫です」
いつでも逃げられる、と萩生はもう一度自分に言いきかせた。
「お邪魔する」
こう言って、キッチンへ上がった。
「主人に会っていただける?」
亜衣の声は前より切迫していた。
これが望みだったのであろう。否も応も許さぬひたむきさに、萩生は負担を感じる余裕もなくうなずいた。
障子の奥が六畳の和室だった。
布団が敷かれ、若い男の顔だけがのぞいていた。
萩生は|唾《つば》を呑みこんだ。
彼には見えたのである。
その男から、布団から立ち昇る――いや、噴き上げる瘴気が。
つくりたての噴水のようであった。
天井も畳も壁も|襖《ふすま》も、瘴気のほとばしりを浴びて腐っていた。
|勿《もち》|論《ろん》、この世界の概念でいう「腐敗」ではない。材木や紙、|藁《わら》の持つ根源的な「生命」が腐っているのである。色、形状、硬度、どれをとっても異常はなく、その代わり、長いあいだこの部屋の中にいると、|喘《ぜん》|息《そく》を|患《わずら》ったり、強度のノイローゼに陥る――そういうことである。
それを回避するには、早目にそういう場所を出た方がいいのだが、腐敗の|大《おお》|元《もと》が病人と来ては、手の打ちようがない。悪循環の極みといえた。
かと言って、竜垣真吾が|業病《ごうびょう》に|苛《さいな》まれる重患のように見えたわけではない。
顔色こそやや青いが、スポーツマン・タイプの野性的な顔にはやつれがなく、下駄みたいに頑丈そうな骨格からは、わずかな肉も|削《そ》げていないようだ。首も太い。これで、柳の葉のようにすっきりとのびている|鼻梁《びりょう》がひしゃげ、七三に分けた髪が角刈りにでもなっていたら、若いボクサーと考えるところだ。
だが――萩生にはひと目でわかった。
単調な寝息をたてる穏やかな顔へ、
「あなた――見えたわよ」
枕元に正座し、亜衣が声をかけた。
「あなた」
二度目に呼ばれ、竜垣真吾は眼を開いた。亜衣は眼をそらした。真吾の眼はゆっくりと妻の顔から、障子の前に立つ萩生真介へ移った。
二メートルほどの距離があった。
萩生は悲鳴をこらえた。
亜衣が眼をそらせたのも道理だった。
真吾の眼は人間のそれではなかった。
そのような眼を持つよりも、人はためらいなく死を選ぶであろう。
地獄を描きたいものは、死者|累《るい》|々《るい》たる中近東の戦場よりも、肉片と鮮血のとび散るパリの無差別テロ現場よりも、彼の眼を見ればよい。
「見てしまったのか」
と萩生真介はつぶやいた。
「……萩生……さん……」
|粘《ねば》ついた声が呼んだ。このたくましい若者がもらすとは|到《とう》|底《てい》考えられない響きである。声まで腐っていた。
萩生は亜衣の横に膝をついた。
「はじめまして」
と頭を下げる。
「違うな……ぼくは、はじめてじゃない」
真吾は弱々しく首をふった。それくらいの元気は残っているようだ。肉体だけではなく、精神も頑健なのだろう。人外のものに対して、萩生なみの耐性を有しているのかもしれない。
「何度も……会いました……子供の頃から……。あなたは、覚えていませんか? ……」
「残念ながら」
わけもわからず、萩生は応じた。
いい加減なことを言っているとも思えなかった。
どう見ても、竜垣真吾は二四、五歳を下らない。子供のとき――といっても何歳ごろかわからないが、例えば二〇年前だとしたら、萩生は一八歳だ。五歳の眼に映った彼を、今の真吾が見分けられるとも思えない。常識では、だ。
ローカル線の駅に着いた瞬間から、萩生は常識の通用しない世界にいた。
「やっと会えた……こいつの……亜衣の、職場写真を見たときは、久しぶりで血が騒ぎましたよ……よく見て下さい。本当に、ぼくに見覚えは……ありませんか? ……」
萩生は曖昧に首をふった。
彼は別のことを考えていた。
あの老婆が口にした名前――竜垣とは、真吾の家の名か。
「ない。――君は、いつ、私と会ったね?」
「最初のときは覚えていません……」
真吾は眼を伏せた。
「古い記憶は四歳のときのです。あなたは――今のままのあなたでした……少しも違いません」
「何処で会った?」
「夢の中です」
萩生は笑ってもいいと思ったが、そうはいかなかった。
「それからも、ずっと?」
「ええ。断続的にですが。……四、五日前にも見ました」
「何処かで会った覚えはない、というんです」
亜衣が口をはさんだ。
「一週間まえ、塾の職員旅行の写真を見せたら、急に引きつけを起こして。――なんとか治まったとたんに、萩生さんを指さして、この人だ、おれが探してたのはこの人だ、すぐに呼んでくれ、と。――それで」
手紙は塾に来た。
大事な相談がある、とだけしたためられていたのは、正直に打ち明ければ、気味悪がられるだけ、と亜衣が判断したのだろう。
電話や手紙で確認もせず、萩生は五日間の準備期間を置いて東北の旅へと向かった。
そこに、待つものはいた。
それも、二〇年以上前から。
「で――何の用ですか?」
こう尋ねたとき、チャイムが鳴った。
亜衣の表情がこわばるのを、萩生は見逃がさなかった。
「どなた?」
「待ってて」
小さく言って、亜衣は立ち上がった。
尋常ならざる事態を平静に見せようと努めているのは、一目|瞭然《りょうぜん》だった。
萩生は真吾を見た。
「多分……ぼくの実家の連中でしょう……。起こしてくれませんか」
真吾の家のことも彼自身のことも、萩生には全くの未知であった。
亜衣の口からも、東北のサラリーマンとしか聞いていない。
「いいから、寝ていなさい」
萩生はキッチンとの境の障子に近づいた。
耳を澄ます。
亜衣の話だけで|済《す》めば、余計な口出しをする必要はなかった。深入りしなくてもいい。
そうはいかないようだった。
「何なさるんです!?」
かん高い亜衣の声に、靴音が重なった。
ため息をついて、萩生は障子を開けた。
大体、予想通りの光景と登場人物が|揃《そろ》っていた。
背広姿の屈強な男たちは三人いた。
ひと目で職業が知れる粗暴な顔つきである。
「何だ、おめえは?」
いちばん近くにいた青背広が低い声を出した。
「真吾さんはそこか?」
ともうひとり――四〇年配のサングラス姿が、萩生の背後に|顎《あご》をしゃくった。答えも待たず、
「おい。――お連れしろ」
「待って。――あの人は病人です」
駆け寄ろうとする亜衣を、三人目――|焦《こげ》|茶《ちゃ》の上衣をまとったチンピラが|羽《は》|交《が》い締めにした。
「|大人《おとな》しくしてなよ、奥さん」
と首筋に唇を押しつける。亜衣が悲鳴を上げた。
「やめろ」
と萩生が静かに言った。怒りのせいで、声は落ち着いて聞こえる。
「なんだ、この野郎?」
青背広が腰を落として|恫《どう》|喝《かつ》した。
萩生はどう見ても中年の一般市民だ。やくざにとって、最も|御《ぎょ》し|易《やす》い人間のひとりだった。
「余計な口をはさむな、あんた。|怪《け》|我《が》をするぞ」
とサングラス姿が言った。場慣れしているらしく、後の二人よりは丁寧な口調だ。
「事情はわからんが、出て行け。警察を呼ぶぞ」
「ほう」
とサングラスは感心したように言った。軽い足取りで萩生の前に立つ。足も手も、十分に好きなところへ届く距離だ。
自分より頭ひとつ高い萩生の戦闘能力を、サングラスは評価などしていなかった。見くびっているわけではない。
|素人《しろうと》のパンチでも、当たればそれなりのダメージがある。つづけて食えばいつかKOされる。
だが、彼らは|喧《けん》|嘩《か》のプロであった。急所を知っている。どんな大男でも軽いパンチひとつで戦闘不能に陥る場所を、いくらも心得ている。つづけて殴れば苦痛に発狂する個所もある。
素人にやられる前に、そこさえ決めればいいのだ。眼の前の飛び入りは、空手か拳法でもやっているかもしれないが、それでも|分《ぶ》は自分にある。
なまじ実力がある連中は、手加減をするからだ。
こちらは容赦しない。たとえ|餓《が》|鬼《き》でも、|逆《さから》いやがったら金玉をつぶし、耳をちぎってくれる。――これができるからこそ、やくざでいられるのだ。
サングラスは、口元に笑みを浮かべた。
悪意の断片もない、親愛の情をこめた笑いだった。
萩生の頬の緊張が一瞬、ゆるむ。
同時にサングラスは右手を|一《いっ》|閃《せん》させた。
何の前触れもない、絶妙なボディ・ブロー。
3
亜衣はのけぞった。
チンピラが首筋を舌で|舐《な》めたのである。
「嫌あ!」
叫んだ瞬間、げっという苦鳴が前方でした。
唇が離れた。
「この野郎!」
肩ひじいからせて突進するチンピラの姿よりも、その前方の光景を見て、亜衣は嫌悪感も忘れた。
立ちつくす萩生の足元で、二人のやくざは腹を押さえて|呻《うめ》いていた。
昔と変わらぬ、何処か疲れたような同僚が、鬼神にでも変わったようであった。
チンピラが大きく右手をふって殴りかかった。
「うおっ!!」
奇妙な声をあげて、そいつはつんのめりかけ、かろうじて踏み止まるや、後方をふり向いた。
喉が異音を発した。
萩生の足先が|鳩尾《みぞおち》にめり込んでいた。
チンピラは腹を押さえて床にへたりこんだ。
必死に空気を求めて|喘《あえ》ぐ。
「ご主人の実家の連中か?」
萩生に訊かれ、亜衣は口ごもった。
「ええ」
と言うのがやっとだった。
「なら、あまりしごくのもよくないか。警察|沙《ざ》|汰《た》はまずいな?」
「そう、ね」
「しかし、また、来るぞ」
「わかってます。今までにも何度か。でも、こんなに強くでたのははじめて」
「この餓鬼……」
とサングラスがようやく声を出した。
「このままじゃ、済まねえぞ、おお……」
萩生は素早くそいつに近づき、思いきり頬を|蹴《け》った。
血が飛んだ。唇が切れたのである。
サングラスの顔が勢いよく反対側へ向き、限界まで曲がってから床へ落ちた。
「やめて、萩生さん」
「失せろ」
萩生の声は怒りに震えていた。
「忘れんなよ」
「また来るぜ」
口々に言い残して、それでも呻きながら、やくざたちは立ち去った。
最初の一発を手加減しなかった効果である。
「|凄《すご》いわ、萩生さん……空手か何かやってるの?」
やっと落ち着いたのか、亜衣が興奮気味に訊いた。
「いや。――少しムキになりすぎたか。――ご主人のところについててやりたまえ」
うなずいて、亜衣は奥の部屋へ消え、じきに戻ってきた。
「眠ってるわ。当分起きそうにない」
「いつから、ああなったね?」
「ひと月くらい前から。だから、彼のところを出たの」
「やくざが実家では環境が悪い? ――それだけじゃあるまい」
「ただのやくざじゃないのよ」
亜衣の言葉に萩生は|眉《まゆ》を寄せた。
「あのひとの実家――『竜垣組』っていうんだけど、もともとは拝み屋だったの。今はもう危ない商売一本槍だけど、代々、|祈《き》|祷《とう》の実力は相当のものだったらしいわ。内緒で頼みにくる人がまだいるくらいだもの」
萩生は青ざめた。
やくざはともかく、拝み屋を開業する以上、竜垣家には一種の霊的能力が備わっているとみて差し支えあるまい。
霊視、除霊をもっぱらとする彼らの能力が、そのまま、より科学的な「幻視」――異世界を視認し接触する能力へと拡大する場合も多い。
ひょっとして――また、あれか?
また、あいつか?
「ご主人も、やるのか?」
「だと思うわ。これは私の考えだけれど、かなり強い能力の持ち主よ。お|義父《と う》さんも舌を巻いていたわ」
「見たことがあるのかい?」
訊くまいと思いつつ、萩生は口にした。そのたびに、深い昏い穴に一歩一歩踏み込んでいくようだ。
「お茶を|淹《い》れるわ。話は、それからゆっくりと」
「念のため、警察にパトロールしてもらった方がいいかもしれないよ。おかしな奴がうろついているといえば、来てくれるだろう」
「そうします」
一〇分以内に二つの用を済ませ、亜衣は戻ってきた。
両手の銀色のトレイに、コーヒー・ポットとカップが乗っている。
|殺《さつ》|伐《ばつ》たる空気の室内に、ようやく人間世界の香りが満ちた。
カップに口をつける萩生を、亜衣は今までと異なる眼つきで見つめた。
「ひとつ気になることがあるのだけれど」
萩生は眼だけ動かして質問を促した。
「さっき、最後の男をやっつけたとき、萩生さん、いきなり、前から後ろへ移動したように見えたの」
「君はご主人の家へよく出入りしていたのか?」
「ええ。結婚するまではしょっ中。二人で暮らし出してからもよく遊びに行っていたわ。気に入られた方だと思う。いったんそうなったら、ああいう人たちって、徹底的に仲間扱いするの」
「それにしちゃ、今日のはやりすぎだ」
「親愛の情とは呼べないわね」
亜衣は苦笑した。
とっくの昔に落ち着きは取り戻している。もともと気丈な女なのだ。
この部屋にいて正常な意識を保っていられるのも、何より精神の|剛《ごう》|毅《き》さによる。
亜衣は口元で湯気をたてているカップを机に置いた。声は水のようにスムーズに伝わる。
「あの人の病気――まともなものじゃないの」
萩生はうなずいた。
「あんまり様子がおかしいので、実家へ連絡したら、その日のうちに引き取りに来たわ。私もうすうす勘づいてはいたから、病院じゃなく実家へ連れていくと言ったときは驚かなかったけど、ついて来ないでくれと言われたのには困りました」
「治療の邪魔、というわけか」
「そうでしょうね」
「しかし、結果は思わしくなかった」
亜衣の眼を嫌悪に似た光がかすめた。
ある日の光景を|想《おも》い出したのである。
押し問答の末、ようやく、真吾の父、|善《ぜん》|三《ぞう》の許可を得て、亜衣は夫の寝室へ通された。
覚悟はしていったのだが、亜衣は|茫《ぼう》|然《ぜん》となった。
別の意味で、である。
真吾は安らかに眠っていた。
やつれてもいない。
何故、|執《しつ》|拗《よう》に自分の眼から隠すのか、亜衣には理解できなかった。
安心したかね? と、善三が訊いた。
真吾は何の心配も不安もなく眠っている。もう少し治療の必要はあるが、あなたのもとへ届けられるのもすぐだろう。今日のところは大人しく帰りなさい。
「そうしたのかい?」
萩生がそっと訊いた。
「最初はね」
「気が変わった?」
「私、見たのよ」
「何をだい?」
萩生はいちばん訊きたくないことを尋ねた。
「向う側」
言ってすぐ、亜衣はコーヒーを喉の奥へ流しこんだ。
萩生は黙っていた。
「夫の部屋を一歩でた途端、起こったの。後できいたところによると、一〇分近く廊下で硬直していたらしいの」
「置き去り?」
「まわりの人たちも同じ眼に|遇《あ》ったのよ。みんなの金縛りを解いたのは、お|義父《と う》さんだったわ」
「さて――」
と萩生は何の気なしに尋ねた、というような口調で言った。
「そこで、何を見た?」
第二章 |呪術《じゅじゅつ》一族
1
亜衣が答えかけたとき、チャイムが鳴った。
「萩生さん――」
「御礼参りなら早いな」
萩生はつぶやいて椅子から立ち上がった。顔に強い意志が現われている。この男にしては珍らしく、とことんやる気なのだ。
「危いわ。刃物かピストルを持っているかもしれません」
「少し待ってみるか」
萩生は立ち止まり、相手の出方をうかがった。恐れているわけではない。敏感な人間は電話のベルを聴いただけで、かけてきた相手の精神状態を読み取るというが、チャイムの音は、萩生の勘によれば至極冷静であった。
また鳴った。短かい。軽くひと押しだ。
萩生はドアに近づき、ミラーからのぞいた。
見えない。離れているらしい。
「御用は?」
ドア越しに|訊《き》いた。
「亜衣さん――いるかい?」
落ち着いた声が訊いた。ある種の|凄《すご》みを含んでいる。社会規範に従って生活している人間には、どんなに努力しても出せない凄みだった。
「お|義父《と う》さんだわ」
亜衣が立ち上がった。
萩生の脇に来て、
「亜衣です」
と言う。
「|詫《わ》びに来た」
「え?」
亜衣が萩生を見た。
「うちの奴らが押し入ったそうだな。あれは――」
「待って下さい。今、開けます」
亜衣がロックを解くのを、萩生は止めなかった。
ドアの開き方は遠慮がちと言ってよかった。
竜垣善三は巨漢であった。
中型のレスラーくらいは優にある。身長一メートル九〇、体重は一三〇キロを下るまい。ちょっと歩いただけで、チャコール・グレーの上下が張り裂けそうだ。
確かに、拝み屋よりはやくざの親分の方が、己れを生かす道といえた。
意外と小さなやさしい眼で亜衣に会釈し、|三和土《た た き》の脇に寄って、背後の出入口に、
「おい」
と促す。
三人の男たちが勢いよく入ってきた。
突きとばされたのである。
彼らの後ろにも、数名の男たちが立っていた。
三人は先刻、暴れ込んできた奴らだ。
サングラスの男が唇の周りを|腫《は》れ上がらせているのは当然として、後の二人の顔も倍近く|膨《ふく》れている。
亜衣と萩生を上目使いにうかがう表情には脅えしかなかった。
「こいつら、二日まえ、|三《み》|累《かさ》|根《ね》の|外《げ》|道《どう》に寝返った野郎どもで」
と背後のひとりが言った。
「ちょっぴりヤキを入れてやりましたが、本番はこれからで。見苦しくねえ顔のうちに連れてまいりました」
「知らんこととは言え、私の落度だ。この通り」
善三は頭を下げた。
「そんな――もう、済んだことですから」
「私たちには済んじゃいない。こいつら、一生、まともな職業にゃつけん身体になる。それで勘弁してくれ。――目ざわりだ。連れてけ」
運命には逆らえないとあきらめているのか、三人の男が抵抗もなく連れ去られると、善三は改めて亜衣を見つめ、破顔した。
やくざの大物とはこういうものか――誰でも笑顔を返したくなるような笑みである。
「上がってもいいかね?」
「あ、――ごめんなさい、どうぞ」
あわてて亜衣がのく。
「あいつは奥かい?」
上がってすぐ、善三が訊いた。
「ええ。お会いになりますか?」
善三は首をふった。
「やめとこう。あんたがついててくれれば安心だ。今日は別の話さ」
亜衣に示され、善三はゆったりとソファに腰を下ろした。
スプリングがきしむ。床も|唸《うな》ったようだ。
小さな眼が、今度は奇妙な光を|湛《たた》えて萩生真介を射た。
「うちの若いのが、裏切り者どもの動きを察してすぐ駆けつけたんだが、少し遅れた。この先の路上で捕まえたんだよ。痛めつけたら、あんたにやられたって白状した。どんな凄いお人かと思ったら――|怖《おそ》れいったね。ぞっとしましたぜ」
萩生は曖昧に笑った。
この男の凄味と底知れない迫力は疑う余地もない。
そのくせ、ひと目で、悪い人間ではないと知れるのだった。
ただ、相手が彼をどう見ているのかがわからない。
「自己紹介がまだでしたな。――ご存知かもしれんが、竜垣善三です」
「萩生と申します」
亜衣が新らしいカップにコーヒーをつぎ、善三は手にとった。
萩生から眼を離さず、
「この人かい?」
と訊いた。
亜衣に、である。
「ええ」
萩生の方を見ずに、亜衣はうなずいた。
「真吾が夢に見ていた人か」
善三は、ミットのような手に|顎《あご》を乗せた。
萩生の首筋を白いものが貫いた。
色がわかる|戦《せん》|慄《りつ》。
自分が直立していると意識しながら、彼は奈落へ落ちていくのを知った。
あそこだった。
|混《こん》|沌《とん》たる薄明の国。
あいつしかいない世界。
落下する周囲を灰色の影が覆った。
萩生は足の下に感知した。
|遥《はる》か下方だ。いや、上に落ちているのかもしれない。重力はもはや意味をなさなかった。
そいつの気配だけが近づいてくる。
当然だ。ここは、そいつしかいないのだから。
MITの実験。
同僚は発狂し――
来た。
あの感じだ。
果てしない世界の果てにまで伸ばされた触手。
唯一絶対の君臨王。
やめろ!
おまえを憎んでいるぞ、奴は。
萩生は必死で両足を動かした。
元の世界へ戻れぬまでも、靴底から|這《は》い上がってくる気配だけでも吹きちぎりたい。
消えろ!
消えてくれ!
“声”がやって来た。
“待っていたぞ”
足首にからみついた。萩生は悲鳴を上げた。
全細胞の絶叫だった。
犯される処女の恐怖に近い。
肉体のみか魂まで汚される恐怖。
そいつは|腿《もも》まで来た。
|狙《ねら》っている。
何をだ? まさか、おれの――
ずるり、と|肛《こう》|門《もん》へ入った。
腹が裂かれる。
移動だ。移動しろ。
余裕はなかった。
精神統一も出きぬまま、萩生はそいつを吐いた。
眼の前で、青黒い触手が抽象画を描いている。彼の口から出て。
嫌だ!
自分の声を遠くに聞いた|刹《せつ》|那《な》、萩生は立っている自分を意識した。
コーヒーの香りは、ブルーマウンテンか、モカだろう。
四つの眼が自分を凝視していた。
「さすが――大したものだ」
竜垣善三が汗をぬぐいながら言った。
|嘘《うそ》いつわりのない感嘆であった。やくざには違いないが、あまりに素直すぎる。
「きついかと思ったが、これほどあっさり出てくるとは。――まさしく、あの[#「あの」に傍点]能力だな。これで鬼に金棒」
「何のことです?」
崩れかかる|膝《ひざ》を夢中で押さえながら、萩生はようよう訊いた。訊かなくてもわかっていることだった。
「いま、君の意識に、わが竜垣家に伝わる『夢魔の光景』を見せた。妖気も再現した。普通人なら廃人と化している」
善三の声に別のものが加わった。
他人を|峻別《しゅんべつ》するがごとき響きである。
やくざの親分は姿を消し、|秀《すぐ》れた霊能者がそこにいた。
どうすべきかと萩生は思った。
これが最後のチャンスかもしれなかった。背を向けて出ていけばいい。少くとも、しばらくは、あいつから逃げられる。
東京には妻と平和な職場が待っている。
「伝わる、とおっしゃいましたね」
|何処《ど こ》かで自分をののしりながら、萩生は言った。
「竜垣の家では、代々、あいつを目撃なすっているのですか?」
2
女は|疼《うず》いていた。
性欲が異常に|昂《こう》|進《しん》している。突っこんで欲しかった。
いや、違う。
もう、突っこまれている。
あそこ[#「あそこ」に傍点]には、あれ[#「あれ」に傍点]が詰まっているのだ。だからこそ疼きが激しい。
女の|餓《う》えは、それが動いてくれないためであった。
|弄《いら》うように脈打ちながら、快楽の|摩《ま》|擦《さつ》を行ってくれないのは、自分を|嘲笑《ちょうしょう》しているのか。
|生《なま》|殺《ごろ》しといえた。
性器はうるみ切っている。分泌もしている。秘所を覆う濃いブルーのパンティには、とうに染みが浮き、いまにも|繊《せん》|維《い》の|隙《すき》|間《ま》から、粘液の|飛沫《しずく》が糸を引きそうだ。
「どうしました? 顔の色がよくないですよ」
運転手が声をかけた。
好色な響きがある。
女の状態は誰が見ても明らかだった。うまく持っていけば、やれるかもしれない。そんな期待がゆれている。
女はそれでもよかった。
車は仙台の青葉通りを走っている。
目的地に着く前に、人気のない路地へ乗り入れ、運転手と交わってみたい。
じらされ、|火《ほ》|照《て》った肉体に、荒々しい男根のひと突きで水をくれて欲しい。
「何でもないわ」
と女はかすれ声で言った。
「ですが――」
運転手は食い下がった。
いい|肉体《からだ》をした女である。サングラスをかけた顔つきは平凡だし、年も四〇前後だろうが、そんな年頃の、夫にかまわれない女がどんなに|貪《どん》|欲《よく》か、運転手は知り尽していた。
ベージュのツー・ピースの胸と|尻《しり》が大きい。
思いきり握りしめ、悲鳴をあげるくらいにいたぶってやりたい肉であった。
「まっすぐにやって」
女は声に力をこめた。
運転手は舌打ちしてあきらめた。
タクシーは「仙台東明ホテル」の玄関へ横付けになった。
女はロビーを抜け、真っすぐエレベーターで四階へ上がった。
廊下の|半《なか》ほどにあるドアのチャイムを鳴らすと、じき、内側から開いた。
「ま」
思わず声が出た。
男は全裸だった。
男根が|屹《きつ》|立《りつ》している。
何を求めているかは一目|瞭然《りょうぜん》だった。
女は男を眺めた。
六〇近い醜悪な顔が笑っている。|侮《ぶ》|蔑《べつ》の笑いだった。
おまえはおれの女だ、と言っている。
ドアの前で突き出されても何も言えない女だ。それ、|跪《ひざまず》いて|舐《な》めろ。舐めるに決まっている。
男が下がった。
女は中へ入った。
男が手を離すと、ドアは自然に閉まった。
二人きりになった。何をしてもわからない。
「ほれ」
と男が根元を|掴《つか》んで振った。
女は|喉《のど》を押さえた。息は鼻からも出ている。荒い。眼は揺れしなる肉棒に吸いついていた。
女は跪いた。
部屋へも入っていない。
通路である。ただの通り路だ。人間のやる[#「やる」に傍点]べき場所は男のすぐ背後にある。
男が頭を押さえて近づけてきた。
すぐには入れなかった。
薄笑いを浮かべながら、上気した女の顔中にこすりつける。
女が|呻《うめ》き声をあげて舌を出した。少しでもしゃぶろうとする努力を尻目に、男は巧みに女の充足を避け、|眼《ま》|蓋《ぶた》をこすり、鼻孔に押しつけた。
「意地悪はやめて。お願い――舐めさせて」
女はためらいもなく|卑《ひ》|猥《わい》な言葉を口にした。会うたびに強制され、慣れっこになっている。
「いいとも。おまえが見せてくれたらな」
男が口元の|涎《よだれ》を|拭《ふ》いた。
「ここで?」
「ここでだ」
「ベッドにして。お願い」
「あんなもん、つまらん。ここで、服を着たままするからいいんだ。おまえみたいな、澄ました女にはお似合いさ」
「許して」
男は突きとばした。憎悪がこもっていた。
薄暗い通路に女は横たわった。
異常なだけに、欲情をそそる光景だった。
女は起き上がろうとしなかった。
眼がうるんでいる。その気になっていた。
白い手がスカートをめくり上げた。
ブルーの布切れが露出した。普通の主婦なら、一生つけないで過ごしそうな|淫《いん》|猥《わい》なパンティである。この日のために用意したビキニ・タイプの|紐《ひも》は、尻の割れ目に食いこんでいた。
「濡れとるな」
と男は眼を光らせながら言った。|虚《うつ》ろな声である。視線は女の秘所を深々とえぐっていた。
「その上からせい。次は布の間から指を入れるんじゃ」
「あなたが、あなたがして」
「いいや。おまえがするんだ。わしを眼の|仇《かたき》にしておる亭主の女房がな」
女の指が動いた。|爪《つめ》には青いマニキュアが塗られている。
パンティの上から、女はゆっくりとこすりはじめた。
性器の形が現われた。分泌された愛液に|肉《にく》|襞《ひだ》が|濡《ぬ》れ、布に|貼《は》りつくのである。
女の指はその縁をなぞり、中心へめりこんだ。
声が上がった。短い。あ、あ、あ、あ、と|間《かん》|歇《けつ》的に繰り返す小さな間に、欲望の被膜が何層もたわめられていく。
ホテルのドアを入ってすぐ、寝室も見ずに、通路の上で自慰にふけっている。
男が見ているのに、だ。
それが|昂《たか》ぶらせた。
もっと見てちょうだい。もっと眼で汚して。私はこんな女よ。どこででも自分の中に指を差し込んで見せる女なのよ。せめて、それにふさわしい汚し方をして。
「いいぞ、いいぞ――この牝犬」
男が舌舐めずりをして、男根を握った。
「おまえの亭主こそいい面の皮だ。てめえの女房が、股おっ広げて、指突っこんでるなんぞ、知りゃあしねえだろうからな。いつか、思い知らせてくれる。もうじき、な」
男の手は|淫《みだ》らな動きを見せていた。
喜劇的とも見えかねない二人の自慰を、異様な興奮が不気味なものにしていた。
女の指は布の隙間から、じかに肉に触れていた。
奥へ――ずぶりと。そして、こってりとかき廻す。
「あぁふ、あぁふ……」
もう女は男を見てはいなかった。独りだけの|愉《たの》しみを|貪《むさぼ》りつづけていく。ここがどこでもよかった。自分がどんな|恰《かっ》|好《こう》でもかまわなかった。
女は腰を上げ、もっと男に見やすいようにした。
ぬう、と布が持ち上がった。
女の指のせいではない。もっと太いものが内側から[#「内側から」に傍点]突出したのである。
女が身をよじった。
それ[#「それ」に傍点]は、ためらうように布の下で小さな動きを見せ、すぐに横から出てきた。
女の汁で濡れ光ってはいるが、全体は青黒く、球面状の先端が|蛸《たこ》や|烏賊《い か》の触手と一線を画していた。
呼応するかのように、男も達していた。
握りしめられた肉棒の表面に薄い亀裂が走るや、それは箱の|蓋《ふた》みたいに左右へ裂け、生々しい液体の代わりに、女体から這い出たと同じものが、空中へ|跳《は》ねたのである。
霧がかかった。
青黒い霧であった。
男女の体内から脱け出た触手が吐いた汁であった。
男も女もその色に染まった。
触手は二人の全身に絡みついた。
男から出たものは女に。女のものは男に。
それが|蠢《うごめ》くたびに性感を刺激されるのか、二人は声もなく床の上で身をねじった。
どちらも眼を|剥《む》き、舌を吐いていた。
それにしても、どれほどの長さが男女の|内部《な か》に巣食っているのか、女の喉を巻き、男の胸に絡んだものの長さは、すでに十数メートルに達していると思われた。
男が立ち上がった。
女も立った。
自力で立ったのではない。無理矢理|吊《つ》り上げられたマリオネットのような、不自然な動きであった。
二人は抱き合った。
女の口から別の触手が出た。
男の肛門も新らしい一本を吐いた。
全身が青黒く染まった。
二人は“声”を聞いた。
“奴が来た。殺せ。あいつがいる限り、わしの計画は成就せん”
「はい」
と男――|三《み》|累《かさ》|根《ね》|源《げん》|次《じ》は言った。
「承知しました」
と女――|知《ち》|也《や》|子《こ》は答えた。
3
玄関を一歩入ったとき、萩生真介は鬼気を感じた。
あの感じだった。
MITの一夜、P・J・ボーモント教授とともに移動した世界で目撃した存在。――そいつの雰囲気だった。
あいつのせいで、ボーモント教授は自殺し、おれは精神失調状態でMITをやめ、しがない塾の講師に身を|堕《おと》したのだ。
だが――戦慄とともに、困惑をも彼は感じていた。
薄い。
鬼気が薄いのだ。
猛烈な毒が劇薬程度まで希薄化している。
萩生は前方の人物に眼を|据《す》えた。
|三和土《た た き》から上がった竜垣善三が微笑している。
「感じるかね?」
「ええ」
「だが、薄いだろ?」
「確かに――さすが、やくざの親分ですね」
萩生は微笑を返した。
「冗談が出るたあ大したもんだ。ちょっと力がある程度の霊能者は、|裸足《はだし》で逃げ出すがね」
「逃げますか?」
「ああ。上がって、飯を食い、一杯飲んでから風呂につかってる最中に、とうとう我慢しきれなくなって、フルチンのまま飛び出しちまった奴もいるよ。――あんたは平気だな。ちっとも我慢してねえ」
「気も狂いそうですよ」
竜垣は肩をゆすって笑った。
「入んな。我が家の救い主」
気がつくと、三和土の端に並んだ組員たちが深々と低頭している。
萩生は素早く、靴から片足を抜いた。
家は純和風だった。
「落着く前に、家ん中を案内しよう。他の家じゃまず見られないものが山ほどあるぜ。もっとも、その辺の奴らじゃ、ひと眼見た途端に腰抜かすだろうが」
「買いかぶりですよ」
「んなこたあねえさ」
竜垣の後について、萩生も邸内に入った。
「あなたがいいというので、二人とも置いてきましたが、大丈夫でしょうか?」
萩生の心配は真吾と亜衣のことだった。
あれからすぐ、竜垣に家へ来いと誘われたのである。
「大丈夫だ。組の|者《もん》もつけておいたし、貼り紙[#「貼り紙」に傍点]もしてある。二、三日は|保《も》つだろう」
竜垣は、えらく|大《おお》|雑《ざっ》|把《ぱ》な返事をした。この男なりに勝算はあるのだろう。萩生はそれ以上、言わなかった。
二人は長い廊下を歩いていた。
左右には|襖《ふすま》がつづいている。
「青井、知也子はどうした?」
竜垣が、何気なく、後ろの子分たちに訊いた。五人いる。
「へえ、親父さんが出てすぐ、外出なさいました」
腹心らしい|縞《しま》背広が答えた。竜垣が戻ると、真っ先に出迎えに来た男である。
「京城デパートで掘り出しものの宝石があるそうで。一応、親父さんが出てらっしゃるからと、声はおかけしたんですが。前から欲しがってた石だと」
それきり何も言わず、竜垣は足を運び、|牡《ぼ》|丹《たん》の花を散らした襖の前で止まった。
開けて入った。
平凡な八畳の和室だった。
萩生が入ると、竜垣は襖を閉めた。子分たちも足を踏み入れようとはしない。禁制の間なのだろう。
竜垣の片手が背広の胸に触れた。
何処かで歯車のきしむような音がした。
萩生の眼がちらりと竜垣を見た。
周囲の景色は、ゆっくりと上へ流れていった。
二人を乗せたまま、八畳間は下降しつつあった。
「大仕掛けですね」
「そう思うかい? ――前は階段をつくってあったんだが、つぶされちまってな。思いきってエレベーターにしてみたんだ。何があるのかは、子分どもも知らねえ。完全防音だし、襖はああ見えても、一センチの超硬鋼板が入って、鍵も三重にかかるんだ」
「つぶされたって、あいつにですか?」
「まあ――な」
竜垣の喉が動いた。|余《よ》|程《ほど》の恐怖を味わったのだろう。眼が|坐《すわ》っていた。
そのとき――エレベーターは止まった。
眼の前に鉄のドアがある。
竜垣の手がうごいて、それは重々しく開いた。
「ほう」
と萩生の口から感嘆の声が洩れた。
|凄《すさ》まじい光景が眼の前に広がっていた。
恐ろしく巨大な――天井まで七、八メートル、奥行き二〇メートルはありそうな空間が、コンクリートの地肌も鉄骨も|剥《む》き出して、破壊されているのだった。
どのような力がここで荒れ狂ったのか、よほど詳細に調べなければ結論は出せまい。
高性能爆薬を使えば可能だろうが、何処にも焼け焦げひとつない。
地震とも違うようだ。
萩生は鉄骨が赤く|錆《さび》を吹いているのに気がついた。
「いつ頃の出来事です?」
と訊く。
「五〇年前――わしが七つのときだ」
竜垣は感慨深げに破壊の|痕《あと》を見廻した。
萩生の倍くらいありそうな太い指が、壁の一隅を指す。
木片が散らばっていた。ある形が砕けた残骸である。
「|神《かみ》|棚《だな》ですね」
と萩生はつぶやいた。
木片の近くに、|蝋《ろう》|燭《そく》や神札が散らばっているのが眼についた。
「ここは、代々わが家の|祈《き》|祷《とう》場だった」
と竜垣善三は哀調と誇りの|滲《にじ》む声で言った。|巨《きょ》|躯《く》に似つかわしくない口調が、萩生に親近感を抱かせた。
「それが、五〇年前のあの晩以来、このざまだ。当時のままの姿で保管してあるのは、奴の恐ろしさを忘れないためだ。我々の敵は、かくも|手《て》|強《ごわ》く、我々の任務はかくも重大だと。――萩生さん」
「はい?」
鉄骨の縁を|撫《な》でていた手を離し、萩生はやくざの親分を見つめた。
「あいつがこの世界に現われたらどうなるか、あんたも、おれたち以上にご存知だな? 奴はまだ、向う側にいる。だからこそ、被害はこれで済んでるんだ。実体そのものがこちらへ出て来たら――」
萩生はうなずいた。|逡巡《しゅんじゅん》はなかった。塾教師として平穏な日々を送りながらも、常に抱いていた|危《き》|惧《ぐ》であり、事実であった。
あの世界に、奴はひとり[#「ひとり」に傍点]で君臨しているのだ。
こちら側へ来たら、世界はその瞬間に[#「その瞬間に」に傍点]奴のものとなってしまう。
「ここも――奴ですね」
と萩生は竜垣の眼を見ながら訊いた。
「その通りだ」
竜垣は眼を|逸《そ》らした。萩生の眼光を怖れたのではなく、彼の手が触れている鉄骨を見たのである。
数十トンに達するコンクリ塊に埋もれたその端は、日本刀に切断された|枝《し》|片《へん》のごとく|滑《なめ》らかな切り口を見せていた。
「刀でもない。――もちろん、レーザー・ビームや超音波でもないぞ。――奴だ」
竜垣の声は|鋼《はがね》のように重く沈んだ。
「見たのですか?」
「ああ。忘れはせん、何度も何度も何百度となく見た。夢のさなかでな」
萩生は、つい一時間ほど前、亜衣のマンションで交わした会話を|憶《おも》い出した。
竜垣家は夢に|憑《つ》かれていた。そのはじまりは、四代前の先祖、竜垣|源《げん》|三《ざぶ》|郎《ろう》に|遡《さかのぼ》る。
竜垣家の能力は、あり得ざるものを視界に収める、いわゆる幻視であった。
竜垣源三郎が、|蘭《らん》|学《がく》を学んだ医者であったことは、一族にとって幸運にちがいない。
彼は、この力を単なる神意とはせぬだけの論理と分析力を備えていた。
昼は往診に|赴《おもむ》く路上で、夜は食卓で寝所で、何の前触れもなく襲いくる奇怪な夢を、彼は克明|精《せい》|緻《ち》に書き残し、わが子|源《げん》|一《いち》|郎《ろう》も同じ魔にうなされていると知るや、その記録を竜垣一族の義務とした。
竜垣家が、それ[#「それ」に傍点]について、ある程度の知識を持ち、それなりの迎撃態勢をとれたのも、この創始者のおかげであった。
竜垣家の歴史を通し、それ[#「それ」に傍点]は、何千何万回となく、夢の中[#「夢の中」に傍点]で彼らを襲った。
うねくる肉の|鞭《むち》が。
源三郎の息子源一郎は、そのために衰弱死したが、次男の|源《げん》|太《た》|郎《ろう》は、|剛《ごう》|毅《き》の|性質《た ち》で、よく耐えぬき、次代に子を成した。
このとき、彼が、怖るべき悪夢との戦いこそ一族の使命だと得心していたことは、|遺《のこ》された日記に明らかである。
だからこそ、竜垣一族は、この土地を離れなかった。
そいつが何故か、一定の場所にのみ現われるはず[#「一定の場所にのみ現われるはず」に傍点]だと、彼らは知っていたのである。
「夢が現実になったのは、父の代だ」
と竜垣は亜衣のマンションで言った。
夢にすぎなかった肉の鞭が、屋敷の地下祈祷所に現われたとき、一族はその危機が彼らのみではなく、世界に関わるものだと理解した。
戦いがはじまった。
|妖《よう》|物《ぶつ》に対する攻撃能力は、多少の差はあれ一族全員に備わっていた。今流に言えば|PK《サイコキネシス》の一種であろうが、夢の中でさえ、強烈に念じることによって、敵を退けることは可能だったのである。
だが、敵も力をつけた。
地下の一点から|湧《わ》き出しては、数秒うねくって消えるだけの触手が、その凄まじい破壊力を示したとき、竜垣善三はあどけない幼児であった。
「奴の破壊が何故、急に発生したか……」
天井に走る亀裂を眺めつつ、萩生は確認するように言った。
「言うまでもない。こちらを侵す準備が整ったからだ。つまり――」
竜垣は、神棚近くの壁に近づき、灰色の壁へ握り|拳《こぶし》を叩きつけた。
「ここだ。とうとう、ここが開くのだ。おれたちは、ついに力及ばなかった。わかるだろう。――地獄への門が開くのだ、古い地獄から新しい地獄へ」
「聞きたくない言葉ですね」
竜垣はうなずいた。
「あんたの話では、奴を呼び出すのは、ある種の力を持った人間に限るということだな。この壁はどう説明する」
「考えられるのは二つ」
と萩生はその、何の変哲もないコンクリートの壁面を|撫《な》でながら言った。
「空間そのものが|脆弱化《ぜいじゃくか》しているか、奴がそうしたか、です。|殊《こと》によったら、このような通路は、世界の各地に存在しているのかもしれません」
「奴が開けたのかね?」
「そこまでは。ですが、そのすべてが奴の世界とつながっているわけではありません。マンションでお話しした通り、世界というものは、すべて折り重なって存在しています。必ずしも、ほころびのつなぐものが奴の世界とは限りません」
「すると、ここひとつ、か?」
「恐らく」
竜垣は鼻のつけ根に指を押しあててひねった。
「ただ一ヵ所の通り路。しかし、我々はそれをつぶすことも|塞《ふさ》ぐこともできん」
萩生はうなずいた。認めたくはなかったが、そうせざるをえない。
伊豆にある|矢《や》|切《ぎり》家の別荘でも、黒部一派の箱根の屋敷でも、奴は招かれて[#「招かれて」に傍点]現われた。
それが、今では自らの意志で出現しようとする。
奴なりの方法で通路を見つけたのであろう。事によったら、萩生とボーモント教授が|赴《おもむ》く遥か以前から、奴の眼は、こちらの世界に向いていたのかもしれない。
ふと、萩生の眼に、ある若者の姿が浮かんだ。
異世界の妖物を父に持つその男は、青白い影のような|美《び》|貌《ぼう》の口元を皮肉に|歪《ゆが》め、萩生真介の胸から去っていった。
何の理由もなく、萩生は彼に――|矢《や》|切《ぎり》|鞭《べん》|馬《ま》に会いたいと思った。
「あんたのことを、真吾が夢に見たのは、わしに言わせれば一種の啓示にちがいない。たとえは悪いが、死刑囚が開け放たれた監獄のドアと人っ子ひとりいない廊下の夢を見るようなものだ。亜衣さんとあいつが夫婦になったのも、わしは運命というような気がする」
やくざの親分にして大いなる霊能者は、そこで言葉をきった。
萩生を見つめる瞳に力が満ちてきた。
「運命さえ我々の味方なら、まだ望みはあるはずだ。あんたをひと目見たときから、わしは勝てるかも知れないと思った。いや、絶対に勝てる。勝たなければならん」
言い聞かせるように決意を述べる竜垣へ、萩生は何も言わなかった。
人間界での|修《しゅ》|羅《ら》|場《ば》なら、彼など足元にも及ばぬ|生命《いのち》知らずよりも、萩生真介は敵の恐ろしさを知っていた。その体験が、安易な協調と同意を許さないのだった。
「このままにしてはおけません」
と彼は言った。
「封じ込めの|呪《じゅ》|法《ほう》はここで行わなければ。他のどんな場所よりも、妖気の出現場所は祈祷に適当です」
「わしもそう思う」
「なら、どうして?」
「ふむ――真吾の奴が、別のところの方がいいと言い張ってな」
萩生は眉をよせた。
「わしは、裏通りの稼業が忙しいし、正直言って、力はあいつの方が強い。だから、好きなようにさせたのだ」
「ほう――で、真吾くんの祈りの場は何処です?」
「見たいかね?」
「ここまで来れば」
「後で案内させよう。今夜は泊って行かれるな?」
萩生は首をふった。
「このまま失礼します」
「何故かね?」
竜垣の|双《そう》|眸《ぼう》に|剣《けん》|呑《のん》な光が|点《とも》った。やくざの表情が形を整える。
「正直に言って――」
萩生は少し気力を奮い立たせた。
「ぼくは二度、奴と闘いました。そのたびになんとか逃げのびては来ましたが、多分、今度はそんな運も通じまいという予感があります。できれば、あくまでも無関係でいたいのです」
「世界の命運がかかっているのだぞ」
「そのために、あいつともう一度対面するのなら、世界など|糞《くそ》|食《く》らえという心境ですが」
一瞬、竜垣の全身が怒りに|膨《ふく》れ上がったように見えた。
しかし、次の瞬間、巨人は|慈《じ》|父《ふ》のごとき表情でうなずいたのである。
「わしも、あいつの力はわかっておる。|到《とう》|底《てい》、無理には勧められんが――」
「ご理解を感謝します」
萩生は一礼しかけた。
頭は途中で止まった。
全身が総毛立っていた。体毛が針と化して服を貫くかと思った。
その石壁の向うから、|異形《いぎょう》の気が|妖《よう》|々《よう》と吹きつけつつあった。
第三章 影の下僕たち
1
来るな
萩生の声は|喉《のど》の奥で止まった。
来るな
来るな
彼は眼を閉じた。
こじ開けられていく。誰によってでもない。萩生自身の奇怪な精神の動きだった。
怖いもの見たさとは、これを言うのかもしれない。
見るな。
しかし、彼は眼を開けた。
竜垣はいなかった。
彼が示した石壁の、その彼方に無限の質量を感じさせる表面から、青黒い肉の|鞭《むち》はこの世をはじめて眼にする蛇のごとくうねくりつつ、萩生真介めがけて近づいてくるのだった。
恐怖が塾教師の身体をすくませた。
同時に――怒りが。
また、来たか――また、も。
しゅるしゅると|闇《やみ》を切りつつ、そいつが首筋へ飛来した|刹《せつ》|那《な》、萩生の身は消失した。
同時に、二メートルほど離れた|瓦《が》|礫《れき》の上に現われる。
消失と出現との間には、千分の一秒のずれもない。
萩生真介の超能力――|瞬間移動《テレポート》であった。
(やるか)
|凄《せい》|絶《ぜつ》なものを声に秘めて吐く。
応ずるがごとく、鞭が走った。
鉄骨を切断し、コンクリートを砕いた一撃が空気を|灼《や》いて走った。
それ自体に眼があるような正確さで伸びた鞭は、萩生の身体を貫く寸前、大きくしなった。
驚いたのである。
部屋を埋め尽し、無数の萩生が出現したのである。
移動時間ゼロ。
ひとりの萩生がありとあらゆる場所へ出現するのは、物理法則に支えられていた。
ひゅっ、と肉の鞭が空間を|薙《な》いだ。
「無駄だ」
おびただしい萩生が同時に言い放った。
「これは、おれの影にあらず、すべておれ自身だ。すべてを同時に殺すしかおれを殺す|術《すべ》はない」
それは、異次元の肉鞭にとっても不可能なことであった。
青黒い紐は、くねくねとうねくりつつ後退した。
「そうはいかん。少し、痛い目を見てもらわんことにはな。こちら側への侵略、そうたやすくはないぞ」
言うなり、ひとりの手が、肉鞭を|掴《つか》んだ。
そこから先端まで三〇センチほどの部分が音もなく消滅したのである。
鋭い打撃音が部屋の隅で湧いた。
消滅した部分が苦痛にのたうっているのである。
そこへ移動したのも怪異だが、なおも消失と出現を繰り返して、部屋中を駆け巡るのはさらに妖異だ。
すう、と肉鞭が下がった。
萩生の手が伸びる。
それが再び触れる寸前、鞭は空中で消えた。
萩生はいぶかしげな表情で、掴み|損《そこな》った右手を見つめた。
いつの間にか独りに戻っている。
|移送《テレポート》した肉鞭の先端部も消滅していた。
「見事」
竜垣善三が言った。もとの位置で。
萩生は苦笑した。
「ぼくに幻視させましたね。マンションと同じく。二度も引っかかるとは――」
「恐るべき能力というべきだろうな」
竜垣は今までと全く違う眼で、若き塾教師を眺めた。
「なるほど、真吾が夢に見るわけだ。ますます、君を手離したくはなくなってきたよ。だが、それだけは不可能だろうな」
萩生は返事をしなかった。
「こんな力があるのに、どうして、汽車を使ったのだね?」
「汽車賃を払いたかったので」
竜垣は微笑した。
「いまの君は、あいつに対して、凄まじい戦闘意欲を見せたが――それでも、気は変わらんか?」
「残念ですが。戦うよりは眼と耳をふさいでいたいですな」
「やむを得んところか。――では、上へ上がるとしよう」
二人はエレベーターへ戻った。
食事でもという誘いを辞して、萩生は竜垣の家を出た。
後をも見ずに歩きつづけ、聞いておいたバス停に着いた。
真吾と亜衣に別れを告げようかとも思ったが、着くとすぐ、バスがやってきた。
一時間もすれば無縁の|輩《やから》になる。
送ろうという竜垣の申し出まで蹴った自分に、萩生はいやな|依《い》|怙《こ》|地《じ》さを感じた。
逃げることになる。竜垣一家と亜衣と――世界の苦境を前にしてだ。竜垣は何も言わなかったが、|卑怯《ひきょう》ものと指さされても仕方のない行為だった。
それでも、奴と戦うのは御免だ。
バスには萩生の他に、もうひとり――老婆らしい乗客しかいなかった。
運転席のすぐ後ろの席から、白髪頭だけが見えている。
萩生は中ほどの席に腰を下ろした。
テレポートを使えば、バスの運転手がギヤ・チェンジを終える頃には、東京の家でコートを脱いでいられる。
これも依怙地さか。
バスは発車した。
「駅までどれくらいかかります?」
やって来たときの時間を考えればすぐにわかる質問を、萩生はした。
ひとりの考えに閉じこもりたくなかった。
「三〇分だね」
運転手は答えた。
老婆は動かない。
「お客さん、仙台へ行くんかね?」
と運転手が訊いた。
「ええ」
「旅の人なら、早えとこ、町出た方がいいよ。ちょっと物騒だからね」
「ほう」
「やくざが二つあってね。喧嘩しとるの。今夜もひともめありそうだよ」
「…………」
「わしら、片っ方を応援しとるんだよ。古い|馴《な》|染《じ》みで悪いこともせんしね。昔の|任侠道《にんきょうどう》をようく守っとる。もうひとつは、今流の暴力団さ。そっちの動きが、今日はうるせえ」
萩生は質問したことを後悔しはじめた。
――|三《み》|累《かさ》|根《ね》組が動いてるか。竜垣一派も馬鹿じゃあるまい。動きは|掴《つか》んでるさ。
幸い、運転手もそれ以上口はきかず、バスは、夜間通行独特のけだるい雰囲気に包まれつつ疾走した。
もう街は出ている。
「ちと、寂しいだろう」
また運転手が声をかけた。
「駅までは野中の一本道だからよ。客も、あんたひとりときた」
萩生は文庫本から眼を上げた。
老婆の方を見る。
白髪頭が、かすかな震動に揺れている。
運転手の勘違いだろう。
萩生は文庫本に戻った。
「こんな話すると、脅かしてるみたいだが、わしゃ、この|年齢《と し》までに三、四回、おかしなもンを乗せたことがあるんだよ」
運転手の話を萩生は無視した。慣れているのか、運転手は口調も変えず話しつづけた。
「みんな婆さんだった。白髪頭のな。決まって、畑ん中のバス停にしょんぼり突っ立ってるんだ。バス停めてドアを開ける。すると、いねえのさ。こっちは、夢でも見たのかと思って、走り出す。そうすると、いつの間にか、運転席のすぐ後ろに腰を下ろしてるんだ」
萩生は老婆を見た。
いる。後ろの席に。運転席の。
萩生は文庫本を見た。
「わしゃ気のせいだと思ってうっちゃっとくわな。ところが、次は何処そこだとマイクで流すとな、婆さん、うつむいたまま『宗方町へやって下さい』――冗談だろう。方向が全く逆だ。で、婆さん、線が違うよ、これは駅行きさ、と言うと、『宗方町へやって下さい』また、それだ。あんな、火葬場しかないところへ、こんな夜遅く何しに、と思ったが、黙ってると――」
運転手は言葉を切った。ただひとりの[#「ただひとりの」に傍点]客を驚かすつもりはなかったろう。
萩生は前方を見た。
老婆は消えていた。
「――いきなり、耳もとで、婆さんがもの|凄《すご》い表情で――」
萩生の横から、ぬっと顔が出た。
老婆の顔が。
「――『どうして、火葬場へ行かないんだい!?』」
「どうして帰るの!?」
その形相の|凄《すさ》まじさ。
萩生はのけぞった。
反射的に文庫本で老婆の顔を打った。
すっぽ抜けた。
バスが|停《と》まった。
萩生は周りを見廻した。
誰もいない。
たったひとりの乗客を除いて――
「お待ちどおさま、駅です」
運転手がのんびりと言った。
ため息をついて、萩生は立ち上がった。
構内で切符を買う。
一〇分ほどで仙台行きが来た。
萩生は乗り込んだ。すぐに動き出した。
時間通りにつけば、九時半の上野行き新幹線に乗れる。
最先端の車輛の中ほどに腰をおろした。他に客は――いない。萩生は|安《あん》|堵《ど》した。
迷いがない、とは言えなかった。
老婆の顔がある。
はじめてこの駅へ降りたったとき、早く竜垣の家へおいきと勧めた老婆だった。
予想通り、この世界の物理法則に属する人間ではなさそうだ。
――竜垣さんに訊いてみるべきだったか。電車の中にまで来られちゃ|敵《かな》わんな。テレポートを使ってもついてくるだろうか。
面白い実験になりそうだが、願い下げにしたかった。
文庫本を広げる気にもならず、ぼんやり窓の外を見ているうちに、次の駅についた。
ホームに、あまり会いたくない男たちがいた。
背広に皮ジャン、五分刈りにサングラス。都合四人。
萩生は背もたれによりかかって眼を閉じた。
電車が止まった。
――――
車輛をつなぐ扉が開いた。
荒っぽい皮靴の音が近づいてくる。
かたわらで気配が動いた。
「いたぜ」
声が降ってきた。
萩生は身動きもしなかった。
「駅じゃ間に合わなかったが、とばした|甲《か》|斐《い》があったぜ」
と五分刈りの男が言った。
車で追いかけてきたのだろう。
「立ちなよ、兄さん。ちょっと話があるんだ」
萩生は軽い|鼾《いびき》をたてはじめた。
「おちょくってやがるぜ」
皮ジャンが面白そうに言った。声には期待がこもっている。
いきなり萩生の両肩を掴んだ。
「来るんだよお」
声は急に弱まって消えた。
「何処へ行った?」
背広姿が|喚《わめ》いて周囲を見廻した。
「そんな――確かにこの手で……」
皮ジャンが|呻《うめ》いたとき、
「いたぞ」
背広姿が、入ってきたドアの方を向いて叫んだ。
ドア横の席に、萩生は前と同じ|恰《かっ》|好《こう》で眼を閉じていた。
「野郎」
突発した超常現象の理由もわからず、男たちは右手を服の内側へ差し込んだ。
2
両眼に殺気を光らせ、大股で歩み寄る。踏みしめるような足取りであった。
「三累根組か?」
萩生が訊いた。
「そうともよ」
声と一緒に|匕首《あいくち》が出た。
背もたれに食いこんで止まった。
「黙って帰れ」
|愕《がく》|然《ぜん》とふり向くやくざどもの前の席で、萩生は無言で文庫本をしまった。
「ぼくは尻尾を巻くところだ。お互い、無傷で引き揚げたらどうだ?」
男たちは薄気味悪そうに顔を見合わせた。匕首を握りしめた指は、興奮よりも恐怖でこわばっている。
「い、行け!」
背広が皮ジャンを押した。
「お、おう」
皮ジャンは踏み留まり、左手を匕首の|柄《つか》に重ねた。刃は上向き。殺意を露呈している。
「来るなら来い。ぼくは今日、虫の居どころが悪い。いくらでも相手になる」
萩生は席を立った。
皮ジャンは|気《け》|圧《お》されたように下がり、匕首を腰だめにした。
「行けえ!」
背後の背広姿が無責任に叫んだ。
皮ジャンは突っ込んだ。
ひょい、と萩生が窓際へ移動し、右手で匕首の刃をつかんだ。――そう見えた。
次の瞬間、皮ジャンは消失した。
「な」
「ななななな……」
奇しくも同じ言葉を発した背広姿と五分刈りは、背後から響く苦鳴に|呆《ぼう》|然《ぜん》とふり向いた。
皮ジャンがいた。
二人が眼をむくまで、二秒間ほどを要したのは、その風体の凄まじいギャップ故であった。
皮ジャンは丸まっていた。団子といってもいい。両脚は苦痛に|歪《ゆが》む首をはさみ、二本の腕がそれを押さえつけていた。こんな姿勢をとっても離れないのは、両手の関節が肩から反対方向へねじれ、脚を締めることが自然の動きになっているからだった。
「ああなりたいか?」
萩生は静かに言った。
|静《せい》|謐《ひつ》が威圧につながることを十分に承知した声である。
二人組は首をふった。
萩生は席を離れた。
ゆっくりと男たちに近づく。
脅す立場は快いものだった。
男たちは匕首をふりかざした。精一杯突き出し、必死で|威《い》|嚇《かく》する。
「来るな、来るなよ、馬鹿野郎、来るなよお」
「いいや、行くさ」
萩生は歓喜を見据えながら言った。
一歩進んだ。
男たちの耐性が|弾《はじ》けとんだ。
悲鳴を上げつつ、仕切りのドアへ突っ走る。
ドアが開いた。
ホームで待ちかまえていた男たちの人数は四人だった。
ジーンズ姿の男が足りないことは、萩生も気づいていた。
見張り役だろうと思っていたが、そうでもなさそうなのは、すぐにわかった。
|妖《あや》しい気が吹きつけてくる。
何もなびかせぬ|妖《よう》|風《ふう》といってもいい。
この気配は――? 萩生には信じられなかった。
奴[#「奴」に傍点]だ!! 一体、何処から出て来た!?
「忍田――|危《やば》い、逃げるんだ!」
と五分刈りがそいつに告げた。
「野郎、おかしな術を使いやがる。高男がやられちまったぜ」
背広姿も退却を勧めた。
ジーンズは二人を見ようともしなかった。見ず知らずの子供に話しかけられた気むずかしい老人のように、彼は一歩進んだ。
足取りにおかしなところはない。
右手が上衣の合わせ目へ伸びた。
「案外、進歩のない奴だな」
と萩生真介は苦笑した。敵も萩生の手の内は読んでいるはずだ。
それなのに、武器を使おうとしている。
ジーンズはボタンをはずした。
そこに胴体はなかった。
萩生の眼は暗黒の夜に灯を見たかのごとく、そこへ吸いついた。
服の下には虚無のみがあった。
あの空間が。
萩生とボーモント教授をMITから追った奴ひとりの国が!
恐怖が萩生の全身を金縛りにした。潜在意識の判断による移動機能すら停止した。
空気が|唸《うな》った。
男の口が肉の鞭を吐いたのである。
文字通り、鞭打つ響きをあげて、それは萩生真介の喉に巻きついていた。
気管は|塞《ふさ》がれた。
顔面が充血し、頭蓋骨が内側から|膨《ふく》れ上がっていく感覚。
――どうやって、奴め――人間の中に?
熱く混濁していく意識の中で、疑惑が声になって揺れた。
この世界に忍び出る空間を、竜垣家が塞いでいる限り、人間に取り|憑《つ》くことはできないはずであった。
――別の通路を開いたのか?
苦痛が疑念を圧殺した。
萩生の全身から力が抜けた。
それに伴って、身体はゆっくりと上昇していった。
一本の肉の鞭に支えられて。
暗黒がすべてを包んだ。
萩生は敗北を知った。
「お客さん――終点ですよ、お客さん」
怒りを含んだ声が肩をゆすっていた。
萩生は眼を開けた。
眼を開くと、中年の男が|覗《のぞ》き込んでいた。反射的に萩生は喉に手を当てた。
息を吸った。
呼吸に異常はない。
理解し得る何かを捜す前に、何気なく窓の外を見た眼が、彼を|驚愕《きょうがく》させた。
だだっ広いホームの天井から下がる表示板の文字は――
「うえの」
「しっかりして下さいよ」
と車掌らしい男が言ったとき、萩生はもう事態に気づいていた。
|暮《くれ》|海《み》線の|陰《いん》|鬱《うつ》な車内とは比較にもならないスマートな明るさ。クッションの効いた|座席《シート》、そして、車掌の制服――新幹線の中だ。
萩生は腕時計を見た。
午後一一時四〇分。仙台発の最終に間に合ったらしい。
「どうしたんです、あんた――顔色が悪いよ」
|怪《け》|訝《げん》そうな車掌の顔から眼をそらし、萩生は立ち上がった。
降りる前、トイレ脇の鏡で喉元を調べる。傷痕はゼロ。あれだけの力で締められながら、痛みは少しもない。
あいつ[#「あいつ」に傍点]が気を変えて、喉の傷を手当し、新幹線へ乗せてくれたのか。
切符は胸ポケットに収まっていた。ハサミが入っている。
ある男の顔が胸に浮かんだ。
萩生は頭をふってホームへ降りた。
3
「……ねえ……どうしたの? ……」
かたわらで、芳恵が|囁《ささや》いた。
「何がだ?」
不機嫌な声だ、と萩生は思った。
あらゆる危険な現実から逃避し、おれは家庭へ潜り込もうとしている。眼と耳をしっかりと押さえてだ。
白いレースのカーテンは、闇だけを通している。
|仄《ほの》|白《じろ》い夜明けまでにはまだ、一、二時間を必要とするだろう。
「ねえ、どうしたの」
芳恵の声に熱いものがこもった。
右手は夫の|股《こ》|間《かん》を、大胆に掴んで[#「掴んで」に傍点]いた。
「何でもない。急性のインポだろう。疲れてるのさ」
「嘘」
ねっとりした声を残して、芳恵は下の方へずれる。
クイーン・ベッドだから、動くのに不自由はない。
熱い膜に包まれるのを、萩生は意識した。まだ幼さを留めた顔立ちの割りに、芳恵は大胆な行為を|忌《いと》わない。セックスの前は、必ず口を使うし、好んで|淫《みだ》らな叫びも上げる。
あいつらのせいだろう、と萩生は胸が|灼《や》けるのを感じた。
黒部家の男たちに、芳恵は箱根でさんざん犯されている。
|淫《いん》|猥《わい》さがましたのは、その後だった。
犯されたことによる精神的な負い目を、夫への奉仕でカバーしようとしているのだ。一種の代償行為といっていい。
二五歳の豊満な肢体は、交わった男たちの男根が与える快楽を、肉に刻みこんでいる。
口にこそしないが、萩生には、芳恵の|悶《もだ》える様が異様な鮮明さで甦ることがあった。
男達はすべて影である。
ただ、男根だけが生々しく突き出されている。
芳恵は|跪《ひざまず》き、その一本一本を丁寧に|舐《な》めていく。
顔は|恍《こう》|惚《こつ》と赤い。汚される歓びに打ち震えているのだ。
両手は影の背後で尻を撫でている。
舐める音ばかりが高い。
何人かは、芳恵の舌に耐え切れずに放つ。こってりとした精の汁を、芳恵はよけようとせず、進んで顔や胸に受けた。
|凌辱《りょうじょく》は尻からだった。
獣のポーズを取った尻を、影たちは目一杯持ち上げ、突き入れた。
どいつも|貪《どん》|欲《よく》に|貪《むさぼ》ろうとしていた。
尻と腰がぶつかるたびに、芳恵は叫び声を上げ、深く入れるよう求めた。
乳房の間にはさんでいこうとする影もいた。
はさむのは芳恵だった。
男の|猛《たけ》り切ったものを肉塊で押さえ、前後運動に合わせてこすりながら|昂《たか》ぶらせていった。
時々、先端を舐めた。
放たれた精液は勢いよく飛んで、|顎《あご》から|喉《のど》を汚す。
「大きくなってきたわ」
芳恵が喉につかえるような声で言った。
その原因が自分の肉体を駆使する夫の妄想にあるとはわからない。
熱い息が敏感な部分をくすぐり、萩生はこちらを向いた妻の尻を掴んだ。
「痛い……」
といってすぐ、含み直した。
吸い上げられた。
刺激が芳恵を大胆にしている。もともと多情な女なのだ。|口《こう》|腔《こう》性交自体に酔いしれることがその|証《あか》しだった。
自分でもわからぬ怒りに駆り立てられ、萩生は荒々しく芳恵を抱き寄せた。
どうしようもなく豊かな肉の間に顔を押しつける。
驚きの反応が伝わってきたが、芳恵は男根を離そうとしなかった。
萩生は妻の性器を、これまでにない貪欲さで貪りはじめた。
芳恵も応じた。
萩生の顔に尻をこすりつけ、前後左右にゆする。凄まじい淫らさだった。
「お願い、あなた、お尻の穴も、お尻の穴も」
燃えていた。
箱根での救出以来、夫がこれほど激しく求めて来たことはない。
やむを得ない事情とは言え、他人に抱かれた|肉体《からだ》を許せないのだろうと芳恵は思っていた。
激しく吸った。
根元まで|咥《くわ》え、きつく吸い、締めて離した。
夫の舌が肛門へ入ってきた。
「あなた……あなた……」
思わず叫んでいた。
形容し難い愉悦が肉体を|芯《しん》からわななかせた。
萩生は舐めてなどいなかった。
硬直していた。
彼は芳恵の肛門を見ていた。
その中へ差し込まれたものを。
青黒い肉の鞭を。
それは、彼の口から這い出ていた。
何故、奴[#「奴」に傍点]が自分を生かして帰したのか、ようやく呑みこめた。
「凄い、あなた凄いわ」
芳恵の|喘《あえ》ぎがきこえた。
「もう、駄目。あたし、もう、駄目」
芳恵は白い上半身を大きくのけぞらせて呻いた。
ずるり、と鞭が沈んだ。
くねくねと、禁断の場所から、人妻の官能をほじくり出そうとする。それを許しているのは、他ならぬ夫だった。
萩生はそいつを片手で握りしめた。
消えた。
芳恵がああ、と叫んで萩生の腰に倒れた。
絶望が萩生を捕えていた。
暮海線の車内で対決したジーンズと等しく、奴の手下にされた。
いまはまだまともだが、その精神まで乗っ取られたらどうなるのか?
「やめろ!」
絶叫して、彼は起きあがった。
夢だろうと思った。もう眼が|醒《さ》めるはずだ。外はもう明るく、明日からは何の心配もなく塾へ――
何も起こらなかった。
部屋は薄闇に閉され、芳恵が|茫《ぼう》|然《ぜん》とこちらを見つめていた。
「あなた……」
「何でもないんだ」
萩生は|唾《つば》を呑みこみながら言った。
喉にも腹にも異常はない。
だが、奴の通路が、自分の体内につくられたことは、動かせない事実だった。
電話機の奥で呼び出しの信号音が尾をひいていた。
長かった。
早く出てくれ、と萩生は胸の内で念じた。
切れた。
「はい」
低い声が応じた。
二度と聴きたくないはずの口調に、萩生は死ぬほどの懐かしさを感じた。
「萩生だ」
「承知しております」
例のごとき|慇《いん》|懃《ぎん》な口調の底に、果てしない虚無と|傲《ごう》|慢《まん》。
|矢《や》|切《ぎり》|鞭《べん》|馬《ま》への直通ナンバーを萩生は回したのだ。
「どうなさいました、大層、焦っていらっしゃるようですが?」
「至急会いたいのだが。相談に乗って欲しいことがある」
「ほう」
わざとらしい驚きの声にも腹は立たなかった。
「何なら、これからすぐ、そちらへ行く。構わんか?」
「テレポートで?」
今度は本当の驚きが伝わってきた。
「やむを得ん。緊急事態なんだ」
「午前九時――よく、僕の起床時間までまっていただけましたね。感謝します」
「なら、すぐに――いいな?」
「残念ながら、今日の起床時間は七時でした」
「……?」
「朝食と荷物の整理にそれだけかかりましてね。これから、社のジェットで、アフリカへ参ります」
「アフリカ?」
「エイズの特効薬になるかもしれないバクテリアが、リカオンから採取されましてね。もう二年以上前から、調査隊は派遣してあったのです」
「なら、そのキャンプをおしえてくれ。そちらへ廻る」
「申し訳ありませんが、気を散らせたくありませんので」
鞭馬の声は笑いを含んでいた。
一瞬、こいつ、おれのトラブルを知っているのではないか、と萩生は思った。
「きいてくれ、鞭馬――奴のことなんだ」
「存じております」
「知っている?」
「それでなくて、先生が僕のところへ連絡されるわけがありません。親父[#「親父」に傍点]が、また何かしでかしましたか?」
「おれの身体の中へ、通路をこしらえた……」
「それは――」
さすがに絶句した。
「何ともお|詫《わ》びのしようが……ですけど、今は何ともできません。帰国までお待ち下さい」
「いつ帰ってくる?」
萩生はすがるような声を出した。
「一週間後――|但《ただ》し、予定です。それより遅くなることはあっても、早まることはありますまい」
「今すぐ手を打たねばならん――それはわかるだろう?」
「重々」
「なら……」
「申し訳ありませんが、僕は会社経営の面白さを知りました。今は世界の命運より、自分の経営手腕を試す方が先決です」
萩生は何も言えなかった。
一週間――あまりにも遠い未来だった。
「僕はお役に立てないようですが――先生、姉なら残ります」
「|祐《ゆ》|美《み》さんか……」
懐かしい名前だった。
「目下、軽井沢の別荘で母と静養中ですが、よく、先生の|噂《うわさ》話をしておりますよ。よろしかったら、顔を出してやって下さい」
萩生はため息をついた。
考えてみれば、鞭馬が彼のために骨を折る必要など毛頭ないのだった。
「ひとつ、ご忠告を」
「何だね?」
「挑戦されたのであれば、受けて立つことです。それしか、自らを救う道はありません。自分のために戦いなさい。それに――」
「それに――?」
「自らを救うことは世界を救うことにもなります。特に相手が親父[#「親父」に傍点]の場合には」
鞭馬の言葉の意味が、萩生の胸に定着する前に、三矢財閥の|御《おん》|曹《ぞう》|司《し》は、恩師との会話にピリオドを打った。
「それでは、これで。アフリカの方が先生の戦いより楽とは限りません」
第四章 死生|淫《いん》|行《こう》
1
「ねえ、あなた……」
|知《ち》|也《や》|子《こ》に背後から呼ばれ、竜垣善三はふり向いた。
家の居間である。
善三は夜明けまで起きているつもりでいた。|三《み》|累《かさ》|根《ね》組の動きが怪しいという情報が入っている。
子分たちも臨戦態勢を取っているはずだ。真吾と亜衣のマンションにも五人をやってある。とりあえずは安心だろう。
今回の抗争で、竜垣にはひとつ不審があった。
三累根組の攻撃が、多少のずれはあるにせよ、奴[#「奴」に傍点]の侵攻と重なっているような気がしてならないのだ。
意図的なものを認めるとすれば、三累根組は、奴[#「奴」に傍点]と手を組んだ可能性もある。
まさか、と竜垣は一笑に附した。
あいつ[#「あいつ」に傍点]が人間とグルになるなんて……
なるなんて……
なる……
深海から浮き上がる|水泡《みなわ》のように、一点の不安が揺らぎながら食道を通過した。
「あなた」
白い手が背後から首を巻いた。
奇声を放って竜垣は身を引いた。
「――どうしたのよ、あなた!?」
|脅《おび》えと怒りのこもった妻の顔を、竜垣は見つめた。
動揺が|安《あん》|堵《ど》に変わるまで、大分かかった。
「考え事をしていたものでな。少し驚いた」
「いやだわ、乱暴ね……」
知也子はウールのガウンの胸を合わせ、|恨《うら》めしげに言った。
一メートル七〇を越す大柄でたっぷりと肉もついているため、見事なラインがはっきりと表われている。四三歳だが、週に二度ウェイト・トレーニングと水泳に励む成果だ。
「おいで」
竜垣は両手を差し出して言った。
「いやよ」
知也子は後じさった。口元の笑いが、これから何をしたいか物語っている。
「来いというのに」
竜垣も立ち上がった。
「いやよ。ご自分の都合であたくしを驚かせたりして。許さない」
「許さんだと」
竜垣は怒りがみなぎるのを感じた。また、知也子の手に乗ったか。股間が熱い。男根がぐんぐん|勃《ぼっ》|起《き》してくる。どうすれば夫が自分に満足を与えてくれるか、知也子は心得ていた。
竜垣の伸ばした手の先から、知也子は身を|翻《ひるがえ》した。
竜垣はガウンを|掴《つか》んだ。
あっさりと手に残った。
知也子の姿が、竜垣の息を呑ませた。
黒い下着が肉に食いこんでいる。
シャンデリアの光が布に妖しい|艶《つや》を与えていた。|皮《レザー》の下着だ。
ブラジャーの先はくり抜かれ、黒ずんだ乳首が見えていた。硬く隆起している。
やや太目の腰を巻いているのはガーター・ベルトだった。竜垣の趣味だ。妻にパンストをはかせるのを、彼は好まなかった。
ガーターに包まれた|腿《もも》が竜垣を興奮に導きはじめた。
知也子は、性に対しての|羞恥《しゅうち》などかけらもなかった。満足を得るためなら、どんな|淫《みだ》らな行為も|忌《いと》わない。庭先で四つん這いになり、尻を突き出すこともある。
知也子は妖しく笑った。
九州のある名家の令嬢とはとても思えぬ、|淫《いん》|靡《び》な笑いだった。
居間じゅうを逃げ廻り、暖炉の前で夫婦は重なった。
どちらも|呻《うめ》き声をあげて唇を重ねた。舌を入れたのもどちらが先かわからない。
竜垣は|唾《だ》|液《えき》を注ぎこんだ。
知也子が|喉《のど》を鳴らして飲む。
二〇年以上、|愛《あい》|撫《ぶ》してきた妻の肉体に、竜垣は常に新鮮なものを感じて|猛《たけ》り狂うのだった。
「あなた……あなた……下よ……」
乳房の上で|蠢《うごめ》く頭を知也子は押した。
竜垣は妻の白い股間へ入った。
皮のパンティをはいていると思ったが、まともな品ではなかった。
肝心の部分が裂け、性器が口を開けている。濡れていた。竜垣は息を吹いた。
|肉《にく》|襞《ひだ》が震え、知也子は呻いた。
「あなた、早く、早く――キスして」
竜垣は望みを|叶《かな》えた。
突き出した舌を妻の柔肉が熱く包んだ。
|腿《もも》が竜垣の頭を左右から締めつけた。
「いかが? ねえ、あなた、いかが?」
「いいぞ、凄くいい」
竜垣の口元も知也子の愛液に濡れた。
忘我として、彼は妻の性器を|貪《むさぼ》りはじめた。知也子も自分から積極的に押しつけてきた。絶叫に近い声をふり絞りながら、乳首をひねる。
「親父さん!」
聞き覚えのある声が警告だと知った|刹《せつ》|那《な》、竜垣は身をよじった。
頭は妻の太腿にはさみ取られていた。
後頭部で|轟《ごう》|音《おん》が|炸《さく》|裂《れつ》した。
知也子が腿を開いた。
竜垣の眼の前で、背広姿の男がよろめいた。
「|来《く》|留《る》|沢《さわ》!?」
男の右手から|匕首《あいくち》がソファに落ちた。
「親父さん、下がって下さい」
ドアのそばで叫んだのは、|縞《しま》背広の青井である。
両手に握られたコルト・パイソン三五七マグナムは、うっすらと青煙を吐いている。
「青井――どういうこった!?」
「今日、組へ戻って来てから、どうも様子がおかしいんで、監視してたんです。そしたら、野郎――よりによって……」
来留沢の眼が反転した。
全身の筋肉から力が抜け、彼はどっと床へ崩れ落ちていた。
腰骨の少し上に、小さな射入孔が口を開けている。
三五七マグナムを射ち出すパイソンが貫通しなかったのは、青井が弱裂弾を使っているためだ。市内の射ち合いで、一般人を傷つけぬ用心である。
「あなた――」
知也子が抱きついてきた。
竜垣は無言である。
来留沢に|盃《さかずき》をやって一五年になる。派手好きだが、信頼のおける男だった。三日前にも外出に同行させて話をした。おかしなところなど皆無だった。何が起こったのか?
「ふざけやがって――この裏切り|者《もん》が」
「よさねえか!」
蹴りとばそうと足を引いた青井を制し、
「明日――警察に連絡しろ。組の外で、誰かに射たれたことにするんだ。今日の一件は口にするんじゃねえ」
一瞬、不満そうな顔をしたが、青井はすぐ、
「へい」
とお辞儀をした。
「おれは寝る。死体は片づけろ」
「へい」
竜垣は居間を出て行った。
銃声を聞きつけたのか、足音が廊下をやってくる。
何人かに命じて来留沢の死体を運ばせ、自分も出ようとしたとき、青井はなまめかしい声に名を呼ばれた。
知也子だった。
ガウンを着ている。
竜垣に抱きついたときの下着姿が|脳《のう》|裡《り》をかすめた。
「何か?」
「ドア、お閉めよ」
「ですが、おれもいかなきゃ」
「すぐに済むことよ」
知也子はガウンの紐に手をかけた。
解いた。
布の裂け目に、さっきの下着が黒々と浮かんでいた。
「|姐《あね》さん――そんな……」
言いながら、青井の眼は、その白い肌のすべてから離れなくなった。
知也子が良家の出だということは知っている。
品ある顔立ちとちぐはぐの官能的な肢体は、高価な|衣裳《いしょう》の上からでも容易に想像できた。夜の営みが激しいという|噂《うわさ》もきいている。
竜垣への忠誠とは別に、一度……と誰もが思ったことだろう。
「おいで、こっちへ」
と知也子がガウンの中味をさらしながら後退した。
ブラの真ん中で乳首が揺れている。
裂けたパンティから陰毛が見える。
青井は頭をふろうとしたが、うまくいかなかった。
裸身を組み敷く自分の姿が頭をかすめた。
青井は組長の妻を追った。
知也子はもう逃げなかった。
青井は震える手で腰を抱いた。
たっぷりとした肉の重みが伝わってくる。
|昂《たか》ぶっていた。
今、弟分を殺したばかりだ。その部屋で、|掟《おきて》破りを敢行しようとしている。ばれたら、生命はない。
「可愛いこと。あたくし、前からお前が好きだったのよ」
どうすればこれほど|卑《ひ》|猥《わい》になれるのかと思うような|濃《のう》|艶《えん》な表情が笑い、濡れた唇を舌がぺろりと|舐《な》めると、青井の唇に吸いつけた。
濡れたものが絡み合う音が長いことつづいた。
唇と唇の間から、せわしく出入りする舌がはっきりと見えた。
青井の身体が突如、|痙《けい》|攣《れん》した。
喉の詰まったような音をたてて、彼は身をよじろうとしたが、知也子の手がその背を抱いていた。
数秒――
青井の全身が|弛《し》|緩《かん》した。
「さっきはしくじったよ」
と知也子は口の中から青黒い鞭を、子分の口に差し込みながら言った。
2
苦しげな声が、亜衣の胸を刺した。
|跳《は》ね起きた。
隣りの布団で、真吾が身をよじっていた。
また、|発《ほっ》|作《さ》が起こったのだ。
毎夜、少くとも二回は苦痛に身を|苛《さいな》まれて呻く。
悪夢を見ているのだ。現実には存在しない夢が、現実の苦痛を与えているのだった。
いつもなら、それでも五分で収まる。
今日は特別のようだった。
獣のような叫びをあげて、真吾は布団の端を掴んだ。
一気に裂いた。
「真吾さん!」
亜衣は叫んで抱きついた。
押しのけられた。
軽々と吹っとぶ。二メートルを飛んで一度も地に触れなかった。
障子を揺がせて亜衣は激突した。
真吾は狂いまわっている。
両手が畳にめりこむのを亜衣は見た。
めりめりと引き裂く。異常事態だった。夫の頭の中では、彼女に想像もつかぬ魔界の光景が展開しているのだ。
眼を|醒《さ》ましてからの真吾は何も覚えていない。
彼の記憶に残るのは、平凡な夢と萩生真介の姿だけだ。
障子の向うで足音が湧いた。
義父がよこした組員たちだろう。
「どうしました!?」
「早く止めて――真吾さんが!」
障子を開けて数人が飛びこんできた。
「坊っちゃん――おい、押さえろ!」
兄貴分らしいのが命じ、二人が走った。
ようやく、パジャマ姿の自分に気がつき、亜衣はガウンに手をのばした。
人影が跳ねた。
猛烈な勢いで壁と床の間に激突する。組員たちだった。
真吾は立ち上がっていた。
口の周りが白い。泡を噴いているのだった。畳をえぐった指先は|爪《つめ》が|剥《は》がれ、赤いものを|滴《したた》らせている。
「坊っちゃん――申し訳ない!」
兄貴分が突進した。
頭から真吾の腹に突っこむ。
真吾が悲鳴を上げた。
まだ眠っている。立ちながら悪夢を見ているのだ。
逃がれるように両手をふり廻した。
兄貴分の横面に当った。
頑丈そうな骨格が奇妙な形に変形するのを亜衣は見た。
兄貴分も壁に激突した。先にへたりこんでいる奴の上に折り重なる。
真吾が頭を押さえて布団の上に倒れた。
絶叫しながらのたうち廻る。
亜衣にはどうすることもできなかった。
そのとき、居間の方で悲鳴と怒号が巻き起こった。障子が開いているせいで、亜衣にも聞こえた。
足音が入り乱れ、幾つかが駆け寄ってくる。亜衣はふり向いた。
開け放った障子から人影が二つとびこんできた。
見たことのない男たちだ。
両手に拳銃を握っている。
「いやがったぞ!」
「やれ!」
銃口が真吾の方を向いた。
このとき、真吾は上体を|反《そ》らせていた。偶然にも枕を掴んでいる。
声とともに放った。
単なる枕が、凄まじい力を発揮したのである。
左側の丸顔の男の胸に激突したとき、骨の砕ける音を亜衣は聞いた。
頭から亜衣の布団にぶっ倒れる。
|轟《ごう》|音《おん》に部屋が揺れた。
真吾の上体が半回転してあお向けに転がる。
「くたばりやがれ!」
男の両手がつづけざまに跳ね上がった。
紫色の炎がごおごおと噴き出す。
大型の回転式拳銃――SW・M65/三五七マグナムだ。
真吾の肩や腿に黒い穴が開く。
銃炎と同じ色が噴き上がった。
過熱した三五七マグナム弾を至近距離で食らったため、パジャマが燃え上がったのだ。
「やめてえ!」
亜衣は男に飛びかかった。
拳銃の銃身を掴んでもぎ取ろうとする。
|灼熱《しゃくねつ》感が腕中を突っ走った。火薬量の多いマグナム弾を連続発射した銃身は熱い。
男が突きとばした。
亜衣は跳ね飛び、壁に頭を打ちつけた。
眼がくらんだ。
気がつくと、尻を抱えられていた。
性器から熱いものが立ち昇ってきた。
ふり向いた鼻先に、SWの銃身が突きつけられた。
「死にてえか!?」
亜衣は凍りついた。
「亭主はくたばったぜ。その前でやってやる」
男は|涎《よだれ》を垂らしながら、腰を入れた。
「あ……」
声が出た。異様な状況に、|肉体《からだ》が感応しはじめている。
「ほら、見なよ」
男が亜衣の髪を掴んで、首をねじ曲げた。
真吾は布団の上に倒れていた。
血まみれだった。
青い煙が霧のように身体を包んでいた。
「どうでえ、感じるだろ? ――亭主のそばで|犯《や》られてんだぜ。まだ生きてらあ。おめえが医者を呼びゃ助かるかもしれねえ。ほれ、早く電話しなよ」
男は拳銃の先で床の間を指さした。
電話機はそこにある。
「離して。お願い」
哀願する亜衣の口に、男はM65の銃身を突っこんだ。
「ほら、舐めろよ、舐めるんだ。亭主ぶち殺した|銃《ガン》をよ」
男は亜衣の口を見つめていた。
舌が動いている。
興奮が突き上げてきた。
男根は根本まで人妻の性器に突き刺さっている。
男は腰を前後させはじめた。
亜衣は銃身から口をはずそうとした。
髪を握られている。
男が呻いた。
犯されてしまう。
「嫌あ」
夢中で尻をずらした。
男根がはずれた。
その先端から白いものが飛んで、亜衣の尻に|弾《はじ》けた。
亜衣は髪をふりほどいて、電話機に走った。
いきなり、脇腹を|蹴《け》られた。
横倒しになって転がった。息ができなかった。
別の男が立っていた。黒い上衣とジーンズ。
右手にやはり拳銃を握っている。
「どうした、しっかりしろよ」
と最初の男に言う。
「この|女《あま》ぁ」
男は男根を|剥《む》き出しのまま亜衣に近づいた。
亜衣は突きとばされた。
下肢を剥き出しにして転がる。
起き上がろうとしたところを肩を蹴られ、ひっくり返った。
男は素早く、股間に身をかがめた。
悲鳴をあげて、秘部を覆おうとする手を荒々しく払いのける。
一気に銃身を前進させた。
「ひい!」
M65の四インチ銃身は、ずっぶりと人妻の性器に這いこんでいた。
信じ難い痛みに亜衣は泣き叫んだ。
銃身にはごつい|照星《フロント・サイト》がついている。角型のエッジはたやすく柔肉を引き切った。
「おめえのせいだぞ、この|女《あま》ぁ」
男は声高にののしった。
「おれの液をたっぷりぶちこんでやろうと思ったが、へまさせやがって。代わりに、こいつをぶちこんでやるよ。え、ほうれ、こんな風によ」
男の手は激しく動いた。
亜衣は悲鳴をあげた。激痛が頭へ走り抜けた。
こいつらは人間ではなかった。眼の前に置き時計が転がっていた。針が九時五〇分を指していると、何故か意識した。
「よがってやがる」
と黒い上衣が、くぐもった声で言った。
「早いとこ、ぶちこめよ。おら、見てみてえんだ。あそこに|弾丸《た ま》食らって女が死ぬとこをよ」
3
風呂の湯加減を見ているとき、芳恵は夫に、何時だと訊かれた。
「時計そっちにあるでしょ。自分で見てよ」
「これから、仙台まで行けるかな?」
「よしてよ、何時だと思ってるの?」
「午後一〇時ちょうどだ」
「夜行でいく?」
「そうしよう」
夫の答えに、妙な生真面目さを感じて、芳恵は少し不安になった。
四つの眼が血まみれの部分に粘りついていた。
鉄の棒が突っこまれている。
眼には淫らな狂気があった。
「早くしろよ」
と黒上衣がせかした。
「うるせえ。待ってろ。いま、すぐだ」
男は撃鉄を起こした。
|輪胴《シリンダー》が回転した。
亜衣は死を悟った。
性器に弾丸を打ち込まれる。――そんな死を迎える覚えはなかった。あたしが、何をしたと言うの。助けて、誰か。
チャイムが鳴った。
男がふり向いた。
「構やしねえ。あっちにも二人いる」
と黒上衣が言った。
「早く、早く射て」
「よし」
男は|引金《トリガー》を引いた。
亜衣は絶叫した。
それは切れ目なくつづいた。
「やべえ――六発射っちまってた」
舌打ちした途端、男の姿は消えた。
黒上衣は、眼の前に突如出現したコートの男を|茫《ぼう》|然《ぜん》と見つめた。
「萩生さん!」
亜衣の性器から、濡れた音をたてて、支えるもののなくなったSWが抜けた。
黒上衣は右手のブローニングM一九一〇を持ち上げ、引金を引いた。
銃声が粉々にでもしたかのように、コートの男は消滅した。
床柱に黒い穴が生まれる。
「こっちだ」
声は背後からした。
ふりむいた|刹《せつ》|那《な》、腹に膝が|叩《たた》きこまれて、黒上衣は身体を折った。
胃の中味を吐き出す途中で、|頸《けい》|骨《こつ》に手刀がめりこんだ。
つづけざまに三発を叩き込み、萩生真介は障子の方をふり向いた。
チャイムを鳴らしながら、異様な気配を察知して、寝室まで移動したのである。
二人の男が顔を出した。
事態に気づき、拳銃を向ける。
その頭上へ移動し、二人とも“移送”するのに、時間は一万分の一秒もかからなかった。
「萩生さん……」
苦痛をこらえつつ、亜衣は叫んだ。ガウンで身体の前は隠してある。
萩生は答えず、居間の方へ行った。
五人の男たちが横たわっていた。
全身が総毛立ち、凄まじい形相で前方を見つめている。この世以外のものと、にらめっこでもしたような感じだった。ショック死である。
恐らく、奴が現われたのだろう。チャイムを押す途中で萩生の感じた異常とは、その気配だったのだ。
すぐに立ち去ったらしい。
その点だけは、亜衣たちも幸運と言えるだろう。
――おれが残っていたら……
|慚《ざん》|愧《き》の念が湧いた。
重い足取りで、萩生は寝室に戻った。
亜衣は真吾の死体にとりすがっていた。
|嗚《お》|咽《えつ》が萩生の足元まで漂ってきた。
萩生が近づいても、亜衣は顔も上げずに泣きつづけた。
萩生の眼が光った。
「生きてるぞ!」
思わず叫んで、血まみれの身体の上にかがみこむ。
亜衣が|愕《がく》|然《ぜん》と身を起こした。
「――でも、六発も……」
萩生は素早く、真吾の傷を調べた。
左肩に一発、左胸に一発、脇腹に一発、右腿に二発、左腿に一発――どれも急所をはずれている。胸の一発以外は、すべて肉を削っただけで、三五七マグナムのインパクトを真吾の肉体にぶちまけていなかった。胸の傷も肺を傷つけずあっさりと貫通してしまい、ひしゃげた弾頭が体内にエネルギーを放出した様子はない。
「出血さえ止めれば何とかなる。――医者を呼びたまえ」
こう指示して、真吾の上にかがみこんだとき、眼の隅に置き時計が見えた。
一〇分ほど遅れている。
萩生は傷口のひとつに手を乗せた。
血だけを血管内へテレポートする実験は成功しているが、血管と血管の融合は試したことがない。
病院へ送るのは簡単だが、これから手当てしても、まず間に合うまい。
数分で、傷口という傷口を|塞《ふさ》ぐ必要があった。しかも、破損部を削除した上で。
「やってみるか」
来るそうそうの試練だった。
萩生は記憶してある人体解剖図の一頁を想起しながら、奇妙なテレポートを開始した。
病室から出てくると、竜垣は黙って、萩生の手を握った。
「亜衣さんに聞いたよ。よくやってくれた。よく戻って来てくれた」
「いいんですよ」
骨のきしむ痛みを顔に出すまいとしながら、萩生はうなずいた。
「だが、あんたのテレポートって奴、実に大したもんだ。医者も|度《ど》|胆《ぎも》を抜かれてたってよ、――おっと」
萩生が唇に人さし指をあてるのを見て、竜垣は肩をすくめた。
「切れた血管を全部結びつけたばかりか、内出血もきれいに除去してある。あんただったら、心臓を射たれてもその場で|治《なお》せるんじゃないのかね?」
「あの子は六発も射ち込まれて、全部急所をはずれていました」
竜垣の後ろから、知也子が顔をのぞかせた。
「わざとはずした、とも思えませんが――」
「僕にもよくはわかりませんが、人間の精神と肉体というのは、時々、信じ難い働きをします。多分、真吾くんは、自分でも無意識のうちに、たかだか三メートルの距離で、秒速三四〇メートル以上の弾丸をよけてしまったのでしょう。――亜衣さんはどうしました?」
「傷はともかく、精神状態が……」
知也子が哀しげに言い、竜垣は唇を|噛《か》んだ。
「あの|娘《こ》は、実家へ帰ってもらった方がいい」
宙の一点に眼を据えて言った。
「今度の喧嘩は、|素人《しろうと》さんにはきつすぎる。そうでしょうが、萩生さん?」
萩生にも、彼の言う意味はわかった。
急に、皮肉っぽい気分に捉われ、塾教師はこう言い返した。
「そうです。並みの人間[#「並みの人間」に傍点]には、ね」
竜垣がにやりとした。
「警察には知らせたのですか?」
「いや、この病院には、わしの息がかかっとります」
竜垣は低い声で言った。看護婦がひとり、廊下を通っていく。その姿が消えてから、
「うちの組員は事故死――あいつら[#「あいつら」に傍点]は、こっちで処分しました」
その方法を、萩生は考えないことにした。
「さっき、事情をお話しした通り、真吾くんの部屋の鍵を開け、組の人たちを殺したのは奴[#「奴」に傍点]です」
言ってから、萩生はちらりと知也子の方を見たが、竜垣はうなずいた。
「これにはすべて話してあります。隠し立ては必要ありません」
知也子の|会釈《えしゃく》に、萩生は場所柄もわきまえず、ぞくりとした。恐ろしい色っぽさであった。
「奴は、何らかの事情――恐らく、自分の存在をまだ衆人の環視下に置きたくはないのでしょう――で、あなた方の抹殺に、人間の手を借りました。まだ、全面的には、奴の力が及んではいないようですが、三累根組とやらが完全に奴の支配下に入ったとすると、失礼ながら、戦況は極めて不利としか言えません。もし――」
萩生は言葉を切った。
それまで、じっと彼の話に耳を傾けていた竜垣の|朴《ぼく》|訥《とつ》とさえいえる表情が、凄まじい変化を見せたのである。萩生は目を|逸《そ》らした。
「わかっております」
|凄《せい》|惨《さん》な決意を秘めた声だけを、萩生真介はきいた。
人を殺すとき、こんな口調になるのだろう。すでに、竜垣の配下は動いている。
竜垣が襲われたことも、萩生は先刻、病院で会った際にきいていた。
敵も焦っている。
だが、何故だ?
おれが来たからか?
「ここには子分を張りこませますが――萩生さん、奴は何処にでも[#「何処にでも」に傍点]出られるとお考えですか?」
それは、竜垣にとって最も知りたい事柄であったろう。
「いや」
と萩生は、胸の奥で何か|蠢《うごめ》くような幻覚に捉われつつ、首をふった。
「まだ、そこまでは。ただ――そこから移動する方法は掴んだかもしれません」
「どういうこってす?」
訊きかけて、竜垣は眼光を廊下の奥へと放った。
黒背広が二人、足早にやってくる。
「どうしたい?」
竜垣が訊いた。
「三累根の野郎――逃げました」
「ほう」
竜垣は感心したように言った。
「敵もさるものか。――追いまくれ。逃がすんじゃねえぞ。おれもすぐ戻る」
萩生の方を向き、
「話は後ほどゆっくりと。――ここには子分をつけます。萩生さんは家で休んで下さい。二度は襲ってこねえでしょう」
ちょっと考え、萩生は首をふった。
「いや、今夜ひと晩、ここについています。それと、竜垣さん、できるだけ早いうちに、信用できる方たちと――本当は、あなたひとりの方がいいのですが――真吾くんたちを別の場所へ移すべきです。ひょっとしたら、あなたが襲われたように、組の内部にもまだ、奴のスパイがいるかもしれません」
「おっしゃる通りだ」
と竜垣は重々しく|首《しゅ》|肯《こう》した。
「明日にでも移しましょう。萩生さんにも一緒に移っていただければ」
「僕は――行けません」
「――?」
「それと、この件に関して、僕には一切相談なさらずにいて下さい。明日移すことも取りやめていただきたい」
「なんでまた?」
竜垣が困惑の表情をつくった。グローブみたいな手の平をヴェストにこすりつける。
「戻っては来ましたが、実はまだ、決心がつきかねているのです。深入りしたくないというのが正直なところでして」
前と同じく、いったん、竜垣はきつい顔になり、すぐに破顔した。
「わかってますって。こいつあ、わしの早とちりだ。今夜、ひと晩ついてていただけるだけでも、感謝しなくちゃならねえ。ひとつ、よろしくお願いしますぜ」
一礼して立ち去る四人を見送り、萩生はソファに腰を下ろした。病院中に竜垣組の子分たちが潜んでいるのは間違いない。だが、そのうちのひとりでも「通路」であるとすれば、護衛など無意味だ。
――まして、おれさえも……
絶望と疲労が萩生を捉えていた。
今の彼の正体を知れば、竜垣はこの場で殺害を決意するだろう。
萩生自身、ここにいてはならないと知っている。彼が|留《とど》まる理由はただひとつ――亜衣と真吾を、二度と悲惨な目に|遇《あ》わせぬためであった。
|怖《おじ》|気《け》づいて去った。そのために、二人は肉体とこころに、|癒《いや》し切れない|深《ふか》|傷《で》を負ったといえる。
――責任はおれにある。
この想いがなければ、二人のマンションへ竜垣たちが駆けつけた時点で「移動」していたにちがいない。
――出てくるな。いま出たら、おれは自分もろともきさま[#「きさま」に傍点]を消してくれる。
それは、命令というより祈りだった。
第五章 |峨《が》|々《が》|山《さん》|妖《よう》|異《い》|煙《えん》
1
空気の中に、|硫《い》|黄《おう》のような匂いがこもっていた。
ような、というのは、硫黄そのものではない。温泉地の駅へ一歩降りただけで感じるあの匂い――郷愁を|喚《よ》び起こすような香りは|破片《かけら》もなく、何処か人をいらだたせる臭気が濃厚に満ちている。
長いあいだ呼吸していると、|喉《のど》や鼻孔が|糜《び》|爛《らん》してくるようだ。
薄茶の巨岩が|雑《ざっ》|駁《ぱく》に折り重なっている荒涼たる風景にふさわしい空気であった。
「|修《しゅ》|羅《ら》|山《さん》」の|頂《いただ》きに立って、萩生真介はようやくひと息ついた。
北国の秋風も忘れてコートを脱ぎたくなるほど、三〇分の坂道行は汗を|滲《にじ》ませている。
山という|険《けわ》しさも高さもなく、むしろ丘に近い。岩山と言えば言えるだろう。
|暮《くれ》|海《み》線の駅から車で四〇分ほど南へ走ると、その|麓《ふもと》へ出る。
「おかしなところだ」
と、萩生真介は周囲の光景を見ながらつぶやいた。
「ここなら、“山の神”にも出会えるかもしれんが……」
遠くで風が鳴った。
前方にそびえるもの[#「もの」に傍点]へ、萩生は足を運びはじめた。
奇妙な|台詞《せりふ》にふさわしい品が大地から|屹《きつ》|立《りつ》している。
天を突くばかりに長大な角石であった。
高さは三メートルを越す。
あるものはかしぎ、地上に伏しているものも多い。
全部で七本を数えた。
萩生はすべての位置を歩き、ほぼ完全な同心円上に設けられていることを確認した。
角石――というより石柱――の構成する円の中心部には、円盤状の平石が表面を|覗《のぞ》かせ、黒く汚れた部分は、火を燃やした|痕《あと》かと思われた。
|呪術《じゅじゅつ》的色彩の濃い風景が、この岩山を通りすぎた歴史の何処かに刻まれていることは、間違いがないようだ。
やや盛り上がった平石の中心部で、萩生は周囲の気配を感じようとした。
晩秋の|静《せい》|謐《ひつ》そのものだ。
過去に何があったにせよ、|現在《い ま》、この奇怪な|巨石建造物《ストーン・ヘンジ》の間を吹き抜けるものは、清涼な北国の風にすぎなかった。
はじめて、亜衣たちのマンションを訪れた晩、竜垣善三からきかされた物語が|甦《よみがえ》った。
いま、彼が踏みしめている平石の上で、竜垣家の初代が、その家系に綿々と流れる幻視能力を与えられたのである。
詳しいことは、善三にもわからない。
|記《しる》されたものが一片もないからだ。
彼の記憶に残っているのは、祖先の夢中に“山の神”が現われ、このストーン・ヘンジの建造を指令。忠実に従った祖先の前に出現すると、“この世にあらざる世”の姿を|垣《かい》|間《ま》見れる能力を授けた、という伝えだけである。
今朝、亜衣と真吾の無事を見届けて病院を去った萩生は、真っ先に、この地を訪れた。
竜垣家が奴[#「奴」に傍点]と敵対する運命が定められた山上に、新たな希望が見出せないものかと思ったのだ。
このまま死闘をつづければ、萩生や竜垣一派の敗北は眼に見えている。
根本的な力が違いすぎるのだ。
それなら、何故、自分が真吾の幼い頃の夢から今まで連綿として出現しつづけるのか。
理由はわからないまま、そこに|一《いち》|抹《まつ》の希望のようなものを萩生は本能的に感じた。
町はずれのモーテルに宿をとり、ひと寝入りしてからの昼下がり、幻視の発生地を訪れたのはこのためであった。
“山の神”とは何者か?
そこに起死回生の急所があると、萩生は直感した。
だが――
現実に眼の前に広がる場所は、単なる岩々の|廃《はい》|墟《きょ》にすぎなかった。
――無駄足か、仕方ないな。
そう思って、坂道の方を振り向いたとき、萩生は岩の陰に、人の頭のような影が動くのを見つけた。
走った。
テレポートは使わない。
出来る限り通常の肉体を駆使するのが萩生のやり方だった。
岩陰へ入った。
風と白い光だけが残っていた。
追ってみるか。
そのとき、坂道の方から、かすかなエンジン音が伝わってきた。
シルバー・グレーのスポーツ・カーが山頂へ乗り入れたのは、三分後であった。
ポルシェ944ターボ。2500tエンジン搭載、一六二KW、時速二四五キロを誇る逸品だ。
角柱から一〇メートルほど離れた場所に停車するとすぐ、運転席から女が降り立った。
大胆なミニのツー・ピースにシルバー・フォックスの毛皮をひっかけている。大ぶりなサングラスの下でも、正体はすぐにわかった。
知也子である。
何故か、萩生は岩陰から出なかった。
ここへ来ることは誰にも知らせていない。偶然の遭遇だろう。しかし、こんな時間と状況で、トラブルの渦中にあるやくざの妻が、何の目的で岩山を訪れたのか。
周囲を見廻し、知也子はためらいもなく、石柱群の方向へやって来た。
サングラスを取る。
|妖《よう》|艶《えん》な素顔が覗いた。濃い化粧をしていた。ルージュの赤が生々しい。
萩生は顔の筋肉がゆるむのを感じた。
知也子は誰かを待つという感じもなく、石柱の間を巡りはじめた。
ひょっとして、自分と同じ目的ではないかと、萩生は想像した。
別のエンジン音が坂道を上がってきたのはそのときであった。
知也子のポルシェとは較べものにならない荒っぽい運転ぶりで乗り込んできたのは、黒のスカイラインだった。
四つのドアが開き、乗員たちが次々に降りた。
ひと目でやくざと知れる男たちであった。
知也子が立ちすくむ。
2
サングラスをかけた。こわばった表情は隠せない。それでも、やくざの組長の妻らしく、威厳ある足取りで、ポルシェの方へ向かう。
男たちは動かなかった。
|下《げ》|卑《び》た笑いを浮かべて人妻を見つめている。知也子は視線に犯されていた。
車へ戻るには、男たちの間を通らねばならない。
|怖《おそ》れ気もなく進んだ。
ポルシェに|辿《たど》りついた。
運転席のドアの前に、黒っぽいジャンパーを着た男が立っていた。
「おどき」
知也子がきつい声で命じた。
男は動かない。
知也子は構わずドアに手を伸ばした。
その手を男が|掴《つか》んだ。
知也子は反転した。
男の頬が鳴った。
「おお、痛え」
言うなり、男は知也子を抱きすくめた。
どっと、仲間たちが押し寄せた。
豊満な草食獣に群がる肉食の獣を思わせた。
その場へ、土の上へ、知也子は押し倒された。
抵抗する声に、男たちの笑い声が混った。
不意に、片足が上がった。持ち上げられたのである。
|剥《む》き出しの白い足であった。
知也子の声が急にくぐもった。
口を吸われている。
男たちは知也子を裸に剥くのに執心した。
スーツが脱がされた。
ブラジャーは黒だった。
奇声が上がった。
すぐにずり下ろされた。
たっぷりした乳房を眺める前に、二人の男が吸いついた。
舌を入れられている女の唇から、|呻《うめ》き声が洩れる。
別の苦鳴がそれをかき消した。
知也子の片足を押さえつけていた男の後頭部に、|拳《こぶし》大の石が叩きつけられたのだ。
血を噴いた。
男たちは起き上がった。
三メートルほど離れた石柱のかたわらに、萩生が立っていた。
「|三《み》|累《かさ》|根《ね》組か?」
と彼は|訊《き》いた。
「この野郎!」
ひとりが突進した。
萩生は右手をふった。
顔面に石が当った。
余程、面の皮が厚いのか、そいつは、ぐっ[#「ぐっ」に傍点]、と呻いたきりで突っこんだ。
不幸の極みというべきであった。
萩生は身をかわして、そいつの腰に手を当て、加速度を利用しつつ、石柱へ叩きつけた。
異様な|驚愕《きょうがく》が全員を包んだ。
誰もがぶつかってつぶれると思った男の頭は、石柱にめりこんだ。
必死で石柱を押し離そうとする右手を|捉《とら》え、萩生はその手も石壁へ突っこんだ。
石は水と化していた。
残る男たちは声もない。
どこから見ても平凡な一市民としか思えぬ男が、人外の魔技を示したのだ。
戦意も欲情も喪失した顔は蒼白であった。
萩生は犠牲者の腰に手をあてて力をこめた。軽く引き抜き、そのまま後方へ振りとばした。
左右へとびはねた男たちのど真ん中へ、そいつはあお向けに倒れた。
悲鳴が上がった。
凶暴極まりないやくざどもが洩したのだ。
男の顔と手は原形をとどめていなかった。
石柱の中に、奇怪な整形美容医が潜んでいたかのごとく、両眼は上下に一〇センチもずれ、鼻はつけ根の血まみれの肉もあらわに、先端を顔の中にめりこませていた。その顔も、倍近く引きのばされている……
「こいつ――手が|逆《さか》さまだぞ!?」
「手の平が上についてやがる!」
誰かが叫んだ悲鳴を合図に、男たちはスカイラインへと走った。
我れ先にととび込み、変形した仲間を見捨てて走り出す。
「待ってくれ」
とそいつは立ち上がって後を追いはじめた。
萩生が駆け寄り、その肩に手を触れるや、音もなく消滅する。
遠ざかる砂煙を見送り、萩生は知也子に向き直った。
身仕度を整えて、ポルシェのそばに立っている。
|罠《わな》かな、と萩生は思った。
ここまで乗ってきたタクシーが|尾《つ》けられていたのかもしれない。
「ありがとうございました」
と知也子が頭を下げた。
頬がやや赤い。犯される寸前を見られたのだ。無理もない。
「でも、まさか、萩生さんがこんなところにいらっしゃるとは思いませんでした」
「僕も同感です」
「私……亜衣さんと真吾のことを考えて……ひょっとしたら、この場所へ行けば、霊的な救いがあるんじゃないかと」
「それも同感ですね」
と萩生はようやく笑いかけた。
知也子の|真《しん》|摯《し》さは疑うべくもなかった。
疑念が薄らぐと同時に、男たちの間から突き出て、空中を蹴っていた白い太腿の記憶が戻ってきた。
知也子の顔から眼を離し、石柱群を見つめる。
「何か、この土地についてご存知のことはありませんか?」
知也子は首をふった。
「私は何も。――夫にきかされたことしか知りません」
「そうですか……」
「萩生さん……」
熱い声に呼ばれ、萩生は思わず胸が鳴った。
「私たちの家は、一体、どうなるのでしょうか?」
唐突な質問に、萩生は答えることができなかった。よく考えても同じだったろう。
「|昨夜《ゆうべ》は夫が|狙《ねら》われ、真吾は重傷を負いました。亜衣さんもあんな目に……私には、家族が|呪《のろ》われているとしか思えません。あの、蛇のようなものに……」
「ご覧になりましたか」
「夫といるときに一度だけ。地下の部屋でしたわ……見ただけで吐き気がしました」
「お気の毒ですが、僕には戦いがつづくとしか言えません。ですが――きっと、ご主人と僕たちは勝つでしょう」
「……本当に?」
萩生は自分を見上げる濡れた瞳を見た。
「本当です」
力強く言いすぎたのかもしれない。
「嬉しい!」
知也子がすがりついてきた。
甘い香水の匂いが鼻を刺し、萩生は軽い眼まいを感じた。
半分ほど不承不承知也子を引き離そうとしたが、女は動かなかった。
「このままにしておいて。お願い……」
溶けるような声は、萩生の耳より股間を直撃した。
欲情が力を抜いた。
知也子の顔がゆっくりと上がってきた。
眼は閉じられていた。
何かを決意したような表情に、淫らさは隠し切れなかった。
「奥さん……」
萩生の声は自分のものではないようにかすれていた。
「いいの……」
知也子の手が萩生の|顎《あご》をおさえ、唇が重なった。
熱く濡れた果肉の感触に|促《うなが》され、萩生は唇をねじるように押しつけた。
舌は知也子の方から入れてきた。
露骨で大胆な動きだった。
地底から鈍い唸りが響いてきたのは、丁度そのときだった。
二人は石柱群の方を見た。
倒れていた石柱がそびえ立っていく。
――!?
次々と――七本。
|揃《そろ》った。
地響きが一点に集中した。
あの平石に――
その中心部の空間がねじれ、|蠢《うごめ》き、ある形を整えていくのを、二人は|呆《ぼう》|然《ぜん》と見つめた。
明らかに、それは、人間の形をしていた。
3
「あれは……何でしょう? ……」
知也子が萩生にすがりついたまま|訊《き》いた。
人影のことか、それを生んだ現象を指しているのかはわからない。
萩生には答えられなかった。
この山には、やはり何かがあった。
身体が熱い。
恐怖に|充《み》ちた期待が血管を巡っているのだった。
人影の鮮明度はさらに増した。
不意にそれがぼやけた。
萩生より、知也子が低く叫んだ。
人影は|歪《ゆが》み、水に溶けるインクのごとく空間に融溶した。
同時に、石柱がスローモーションの動きで前方へのめった。
鈍い振動が二人の足底へ伝わってきた。
七回。
静寂が訪れても、二人はその場を動かなかった。
妖異に|止《とど》めを刺したのは、知也子の言葉だった。
「あの石柱……もとの位置に倒れてるわ……」
「ここにいて下さい」
知也子を残して、萩生は石柱群へ舞い戻った。
石の構成するサークル外周へ片足を踏み入れると、軽いめまいが襲った。
萩生には|馴《な》|染《じ》みの性質のものであった。
空間|歪曲《わいきょく》である。
すると、ここに、奴の世界と通じる|道《ルート》があったのか。そこを通って|竜垣《りゅうがき》家の祖先の前に現われた“山の神”とは、すると、奴か、奴の|変《へん》|貌《ぼう》した姿だろうか。
背後に気配を感じても萩生はふり向かなかった。
「怖い……」
知也子の声が耳たぶを打ち、熱く重い感触が背に乗った。
「こんなもの……一体、誰が?」
萩生は首をふった。
「壊してしまった方が、よろしいんじゃありません?」
知也子は|促《うなが》すように言った。
「かもしれませんね」
萩生はそっと、人妻の身体から身を離した。
知也子の両眼がそのとき、異様な光を放ったが、萩生は気がつかない。
「萩生さんがオーケイして下されば、うちの若いものに始末させますけれど」
知也子の声の中に、ある|執《しつ》|拗《よう》さを感じ取って萩生はふり向いた。
「よほど、ここがお嫌いのようですね」
「すべての始まりは、この山からと聞きましたの。私が|嫁《とつ》いでからも、竜垣の家にはおかしなこと、不気味な出来事がいっぱい。落ち着いて考えると、すべてはこの山のせいではないか、と思えてなりませんの」
「ご主人は反対なさるでしょう」
知也子は眼を|伏《ふ》せた。
「竜垣の家にとっては、“聖なる土地”ですから。でも――私には、一族に血の|呪《のろ》いを刻み込んだ|忌《いま》わしい場所としか思えません。今日も、決心を固めるためにやって来たのです」
言ってから、知也子は頬を染めた。
|三《み》|累《かさ》|根《ね》組の連中に犯されかけたときのことを|憶《おも》い出したのだろう。
それを萩生に見られた。先刻の熱く大胆な行為も|羞恥《しゅうち》の結果だったのかもしれない、と萩生は納得した。
自分が|既《すで》にある存在の監視下に置かれ、そいつが知也子と三累根組に連絡を取って仕組んだ芝居だとは、理解の外にある。
「萩生さんのお力なら……」
すがるような口調が|耳《じ》|朶《だ》を打った。
「よくは存じませんが――萩生さんならば、この場で石柱を処分することもできるのではありませんか?」
萩生は答えなかった。
また一歩、踏み込んでみた。今度は何事も起きない。
サークルの中心に入った。
風だけが鳴っている。
これ以上いても、大した発見はなさそうだった。
「戻りましょう」
と萩生は言った。
知也子のポルシェへと足を運びながら、ふと、胸の|何処《ど こ》かに引っかかっていたものが|脳《のう》|裡《り》へ浮上した。
知也子と出会う前に見た人影である。
気のせいかとも思ったが、何となく――いまの奇怪な影と相似していたような……。
|車《ポルシエ》は知也子が運転した。
かなりの速度で山を降り、街へと入った。
街のはずれ――街道沿いに何軒ものモーテルが立っている。
その一軒の前で、知也子は車を止めた。
「奥さん」
萩生は強い口調で言った。
知也子は頬を赤く染めていた。
「何もおっしゃらないで。――萩生さんには、とんでもないところを……重荷にさせないで下さい」
「誰にも言いませんよ」
「私の気が|済《す》まないのです。――お願い」
知也子の手が萩生の|腿《もも》にかかった。
「お断わり……」
します、と言いかけたとき、萩生の腹の中で何かが|蠢《うごめ》いた。
|喉《のど》まで激痛が走った。
腹が生き物に変じたようであった。
――奴か……!?
萩生は蠢くものをテレポートで消滅させた。
息をつく暇もなく、また、動いた。
無駄なのだ。体内に“通路”が設けられた以上、そいつは際限なく現われる。今まで何の行動も起こさずにいたことが不思議なくらいなのだ。
激痛に身体を折りながら、疑惑が萩生を|捉《とら》えた。
この女と一緒にいるときに、急に――ひょっとしたら……?
「どうなさったの!?」
知也子が横から|覗《のぞ》きこんだ。
驚きの色がある。萩生の疑惑が動揺した。
「……急に、さしこみが……」
やっと、それだけ言えた。
「いけませんわ。じゃあ、少し、休んでいきましょう」
いや、と言おうとして、新たな痛みに、萩生は眼がくらんだ。
「行きますわね」
知也子はモーテルの駐車場に車を乗り入れた。
萩生に手を貸して降り、上の客室へと通じるドアを開ける。
ツイン・ルームである。
萩生はベッドへ横たえられた。テレポートを使うこともできない痛さだった。万がいち、使用可能だったとしても、停止し得るかどうかがわからない。無限数のジャンプを繰り返せば、理論的には宇宙の果てへの移動も可能だ。いまは、|田舎《いなか》町の毒々しいモーテルのベッドで我慢しなければならなかった。
「すぐに薬を頼みます」
と知也子は|粘《ねば》ついた声で言った。
「でも、その前に……」
萩生のそばに来ると、女は上体を|屈《かが》めて唇を押しつけた。
ねっとりと、|淫《みだ》らな感触であった。
知也子はすぐに身を離し、電話でフロントへ薬を注文した。
五分ほどして来た。
係が出て行くと、知也子は服を脱ぎはじめた。
黒い下着姿になる。
こんな状況でなければ、萩生も眼を|剥《む》きたくなるほどの豊かな|肢《し》|体《たい》であった。
乳も尻も申し分なく大きい。
「もう、出てはいけませんのよ。私のこんな姿を見ては」
知也子は冷蔵庫から出しておいたコーラをグラスに注ぎ、薬と一緒に口へ含んだ。
さっきの口づけより、数等|手《て》|馴《な》れた動作で、知也子は萩生の唇を奪った。
萩生は薬と清涼飲料を喉へ流しこんだ。
ついでに、女の舌も。
知也子は巧みに萩生の舌を|絡《から》め取り、音をたてて吸った。
右手を|股《こ》|間《かん》へ走らせ、スラックスの上から|揉《も》む。
「やっぱり、痛いと駄目?」
声は口から、荒い息は鼻から出た。
「でも、あたしはいいわ。苦しんでる男とするのも最高。ほら、カーテンも開けっ放し」
ちらり、と青空の方を眺めて、知也子は萩生の股間へ顔を|反《そ》らせていった。
「よしたまえ」
身をよじろうとして、萩生は硬直した。
ジッパーがはずされた。
知也子は手でそれ[#「それ」に傍点]を引き出した。
第六章 内なる旅
1
|竜垣《りゅうがき》真吾はなお重態だった。急所をはずれているとはいえ、六発の三五七マグナム弾を受けているのである。出血多量で死んでもいいところだ。
現に、絶対安静を要求され、手術の後も点滴を受けている。かたわらには|亜《あ》|衣《い》が、ドアの外には三人の組員が付きっきりである。面会は謝絶。同じ病棟の患者はすべて|他所《よ そ》へ移され、医者と看護婦も身体検査を受ける。
竜垣善三の実力であった。
善三は萩生の提案を入れて、息子夫婦を他所へ移したかった。あの|化《ばけ》|物《もの》の息のかかった|三《み》|累《かさ》|根《ね》組の殺し屋どもが、ここを|嗅《か》ぎつけ襲ってくるのは眼に見えている。生身の人間どもならともかく、あいつ[#「あいつ」に傍点]までは防げない。
院長に相談してみたが、動かすどころか、本来なら指一本触れられぬ状況と言われ、あきらめた。手術のせいで体力が激減し、今日一日が山だと言う。やむを得なかった。そこへ、三累根の隠れ家を仙台市内で見つけたとの連絡が入り、善三は昼前に病院をとび出した。
午後二時過ぎ。窓の外は秋の青空と冷気が広がっているが、スチームの入った病院内は、待合室で居眠りをする者が出るほどだ。
廊下を曲がってやって来た看護婦の姿を見て、ドア前の組員が緊張した。
さり気なく、右手を背広のボタンあたりへずらす。
三人とも|腋《わき》の下のショルダー・ホルスターには大口径のリボルバーを収めてあった。
検温と容態を確かめにくるいつもの看護婦である。
三十四、五の平凡な顔つきだ。
「済んませんが、身体検査をさせてもらいます」
組員のひとりが頭を下げた。
「どうぞ」
院長に事情は説明されているらしく、女は平気で男たちの接触を許した。
すぐにオーケイが出た。
中へ入った。
|呻《うめ》き声が聞こえた。
看護婦は|眉《まゆ》を寄せた。ベッドのかたわらで亜衣が夢中で、真吾さん、と呼んでいる。点滴のアームが激しく揺れていた。
「どうしました?」
近づいて|訊《き》いた。
「わかりません。ほんのちょっと前から、苦しみ出して」
「来るな」
と真吾が叫んだ。低いが、耳にしたものが震え上がりそうな声である。
痛み止めが|効《き》いているのか、真吾の眼は閉じられていた。何かを避けるみたいに身をよじろうとする。
「いつも、こうなんです」
亜衣は真吾の、被弾していない肩を押さえつけて言った。
「夢の中で、おかしなものに襲われるらしくて」
「大変ね」
亜衣は背後で看護婦の声を聞いた。
「でも、夢を見ているのではないわ」
思わずふり向こうとした亜衣の眼の隅で、真吾がかっと眼を見開いた。
|瞳《ひとみ》の中に、恐怖と看護婦の姿。
「誰か!」
叫ぶと同時に、亜衣は見た。
看護婦の口が開くや、灰色の蛇のようなものが、|発条《ば ね》のごとく|弾《はじ》け出る様を。
ドアが開いた。
外の見張りが拳銃を手に跳び込んでくる。
「若奥さん――離れて!」
三丁の銃口が看護婦を向いた。
びゅっ、と空気が呻いた。
看護婦は真吾と亜衣を見つめたまま、口のもの[#「もの」に傍点]だけがしなったのだ。
ワイヤ・ロープの一撃に等しかった。
三人の顔は唇から下だけ残して飛んだ。どの口も歯を|剥《む》き出していた。
生けるロープは、スプリングのように輪をつくって男たちの手首を巻いた。空気を|灼《や》くスピードだ。
拳銃を握った生命のない手首が、ぎゅっと細まるのを亜衣は見た。
裂けるとも砕けるともつかない音がした。
亜衣に判別できたのは、拳銃が床に当たる金属音であった。
看護婦が、ケケ、と笑った。
真吾はこいつの来るのがわかったのだ。
絶望が亜衣を包んだ。
こいつと同じ化物以外、人外の魔物を撃退し得るものはいない……
「来るな……」
真吾の声にも力が失せている。
亜衣は全身から力が抜けるのを感じた。
あらゆる意志を暗黒に包んで倒れる寸前、ドアの向うに人影を見たような気がした。
「間違いねえだろうな?」
竜垣善三の声に、運転席の子分は、五分刈りの頭を上下に振った。
生け垣に囲まれた二階家が近づき、通りすぎた。
「確かです。あそこは野郎の|妾《めかけ》の家で。今朝、来るのが見えました」
「車だと言ったな?」
「へえ」
「奴は確かにいたか?」
「信用して下さい」
「だとすると、危ねえな」
「へ?」
と目を細める子分へ、善三のかたわらの幹部が、
「考えてもみろ。こんなとこ逃げたって、いの一番に探し当てられるのは馬鹿でもわかるぜ。承知で入ったんだ。外にゃ見張りもいねえ。――親父さん、まず、あたしらが行きますぜ」
「いや」
善三は即座に首をふった。
「おめえの意見が正しけりゃ、おれ以外は無駄死にになる。外で待て。一〇分して、おれが出てこなかったら、ズラかるんだ。後の指示は、青井にまかせろ」
善三の懐ろ刀は、組の事務所と善三の家の防御に廻っている。
車は、二階家から三つめの角を右へ廻って止まった。
善三が降りた。
キング・サイズの皮ジャンがはち切れそうだ。素手の|喧《けん》|嘩《か》なら、プロレスラーも|敵《かな》いそうにない。
両手をスラックスのポケットに突っこんで、二階家の前まで行く。
この男の特技なのか、|巨《きょ》|躯《く》ゆえの圧迫感がまるでない。足元をノラ猫が|悠《ゆう》|然《ぜん》とすぎた。
「ごめんなさいよ」
と門を開け、すぐに玄関へ入った。ガラス戸に鍵はかかっていない。
家の中は|森《しん》|閑《かん》としていた。
空気も冷え切っている。何日も前から暖房を|点《つ》けていない証拠だ。
点ける必要がないのかもしれない。
ガラス戸を閉め、善三は|三和土《た た き》で武器を抜いた。
右手にスチール・ルガー・セキュリティ・シックスが光る。左手の平で音を押さえつつ、|撃鉄《トリガー》を|上げた《コ ッ ク》。六発の三五七マグナム弾は、三累根の全身を蜂の巣にするはずだった。
真吾には奇蹟が起こったが、三累根にはそうはいかない。
善三は何気なく手の甲を見た。
|粟《あわ》|立《だ》っている。
|脅《おび》えているのではない。空気中の妖気に、肉体が反応しているのである。
――やっぱり、あいつめ……
そうは思っても、もう引き返せなかった。
出掛けにもう一枚、ハムエッグを食ってくればよかった、と善三は後悔した。
土足で廊下に乗り、妖気の発現点をめざして歩き出す。
二階のようであった。
善三の眼には、階段を伝う妖気の精そのものが見えた。
左手で皮ジャンの内側に隠した|数《じゅ》|珠《ず》を探る。代々、竜垣家が愛用してきたものだ。効力があるかどうかは不明だが、今の彼にはそれしかなかった。
数珠を銃身に巻きつけたとき、水晶とスチールの接触面に青い火花が散った。
二階への階段を上がる。
小刻みな硬い音が右手から響いた。巻いた数珠が震えているのである。
「武者震いか」
と善三は微笑した。|好《こう》|々《こう》|爺《や》そのものの笑顔である。
ドアが眼の前に来た。
善三は息を止めた。
妖気が噴きつけてくる。火事の現場に居合わせたようなものだ。放っておけば、この家は“死ぬ”だろう。
左手でドア・ノブを|掴《つか》む。
心臓を稲妻が直撃した。一瞬、|鼓《こ》|動《どう》が止まる。
構わず、善三はドアを押した。
二〇畳はありそうな洋寝室である。
奥のダブル・べッドに二つの影が起き上がり、こちらを見つめていた。
裸の男と女だ。
三累根の顔はわかる。|痩《や》せぎすの女が情婦だろう。
ケケ、と三累根が笑った。人間の声ではない。
女を抱き寄せ、口を吸った。
離れた。三累根の舌は青黒いようであった。
それは、二つの口をつないだまま、真ん中から自重で|垂《た》れ下がった。
善三は室内へ入った。
ドアは開け放しておく。逃亡の用心だ。
ルガーを向けた。
三累根の頭にポイントした途端、数珠が|弾《はじ》けとんだ!
その|刹《せつ》|那《な》――
善三の身体は下方へ沈んだ。固いはずの床が軟泥のように崩れたのである。
いや、床ではなかった。
それは、触手の沼であった。
腰まで漬かった彼の全身を青黒いロープが巻きつき締めつけた。
善三は息を止めた。
黙って、三累根たちをにらむ。
|異形《いぎょう》の笑いが室内を流れた。
善三は距離とタイミングを測っていたといえる。
右手に巻きついたロープの|呪《じゅ》|縛《ばく》に、わずかな|隙《すき》|間《ま》ができた。
|渾《こん》|身《しん》の力をこめて右手を上げる。
ロープを波のように巻きつけて、ルガーの銃身が上がった。
紫の炎が|投《と》|網《あみ》のように広がる。
三累根の|喉《のど》に黒点が開いた。
衝撃で背後の壁へ激突する。
善三にとって幸運だったのは、巻きついた触手が、ルガーの|跳《は》ね上がりを押さえつけてくれたことだろう。
三累根の身体が前方へバウンドする途中で、二発目が額に当った。
後方の壁に|脳漿《のうしょう》が赤い泥みたいにかぶさる。
女が白眼を|剥《む》いて倒れた。
三累根を支配したものの妖力で生を得ていた女だ。現実ではとうに死んでいる。女の死が、三累根死亡の|証《あか》しとなった。
ロープがわなないた。
真吾――礼はしたぜ。
善三はにい、と笑った。
2
知也子は萩生のものを含んだ。痛みのせいか硬度も張りもない。
どうでもよいことだった。目的はセックスではない。彼の生命を奪うことだ。それなのに、こんな行為に|血《ち》|道《みち》を上げているのは、知也子自身が淫乱だからである。
力無き男のものを、彼女は赤黒い女の舌で、丹念に|舐《な》め上げ、頬をすぼめて締めた。
苦しんでいる男のものを、思うさま|嬲《なぶ》っている。それだけで、腰は熱とうるみを帯びた。
萩生への効果は知らず、十分に|涎《よだれ》で濡らし、知也子は立ち上がった。
「駄目のようね。いいわ、楽にしてあげる」
異様な眼をしてつぶやいた声も、萩生には届かない。
痛みのせいで、彼は失神しかかっていた。|快《かい》|癒《ゆ》するためなら、自分の腹の中にでも入って|治《なお》したい。心底そう思った。
知也子はその上に乗った。
唇を、のたうつ萩生のそれに押しつける。
後はあれ[#「あれ」に傍点]を――
不意に、萩生の身体から|痙《けい》|攣《れん》が消えた。
驚く暇もなく、片手が胸にあてられ、知也子は軽く跳ねのけられていた。
「萩生――さん!?」
喉まで出かかっていた触手を、あわてて|腹《ふく》|腔《こう》へ戻して驚く。
|驚愕《きょうがく》は萩生も同じだった。
襲いかかってきたのと等しく、何の前触れもなしに激痛は退いてしまったのだ。
訳もわからず、彼はとりあえず、自制心だけを取り戻した。
「どうしたんですの!?」
|恥辱《ちじょく》と怒りに頬を染めながら言う知也子へ、
「わかりません。急によくなりました」
と首をふり、彼は立ち上がった。
「もう、ここにいる理由はありません。お送りします。ここでは何もありません[#「何もありません」に傍点]でした」
「あたりまえよ」
知也子は憤然と衣服に手をのばした。
「先にお帰りになったら。私は、萩生さんの具合を気づかってお|伴《とも》しただけ。あまり、へんな風に取られては迷惑だわ」
じろり、と彼女を見たきり、萩生はドアの方へ向かった。
ドア前でふり返り、
「先に失礼します。いずれ、お目にかかりましょう」
知也子は返事をしなかった。
その耳に、
――しくじったな
毒気に満ちた声が尋ねた。
――自分のみの|愉《たの》しみにふけって、任務を忘れおって……
「そんな……ただ、ちょっと……」
知也子は立ちすくみ、後じさった。これほど無意味な行為はない。毒念の主は、彼女の体中に|潜《ひそ》んでいるのだった。
喉からせり上がってきた。
必死で閉じた口の中で、そいつは激しくのたうち、たまらず知也子は口を開いてしまった。
大きく息を吸いこもうとした喉へ、びしっ! と音をたてて青黒いロープが巻きつき、信じ難い力で締め上げた。
いま、知也子自身が吐いたロープだった。
みるみる赤黒く染まっていく顔と思考の中で、知也子は最後の通告を聞いた。
――忘れるな、おまえはとうに死んでおる。次の失敗は、永遠の消滅だ
テレポートの連続で瞬時にホテルの部屋へと戻り、萩生真介は、バッグの中から卓上電算機とメモ用紙を取り出し、猛烈な勢いで、ある計算に取り組みはじめた。
信じ難い速度で指とボールペンが動き、電子文字が点滅する。メモ用紙はたちまち黒々と埋め尽され、|屑《くず》|籠《かご》へ捨てられた。他人目には、しくじった結果の|投《とう》|擲《てき》と見られるメモが、実は正確な数値の連続であった。
五〇枚のメモ用紙を二〇分で使い切り、萩生はホテルの|便《びん》|箋《せん》を埋めはじめた。一〇分と|保《も》たなかった。
トイレット・ペーパーを、とも考えたが、取りに行くロスが生じる。
ペン先は机の表面に走った。みるみる数字だらけになる。
三〇分経過。
萩生は壁をメモ代わりにしていた。
やがて――ボールペンが止まった。
最後の数字の端から、黒い一線を壁に引きつつ下りる。
床上にへたりこんだ萩生の顔は、|憔悴《しょうすい》し切っていた。
ボールペンを握り、|虚《うつ》ろな眼で壁の表面を見つめたきり動かず、
少しして、
「――可能だ」
と彼はつぶやいた。怖れをこめて――
「おれは――おれの中へ入れる。だが……そうしたら、何が起きるか……」
最後の疑問の答えを|噛《か》みしめでもするかのように、萩生は沈黙に落ちた。立ち上がったのは数分のちであった。
軽く頭をふってベッドへ倒れ込む。
「こうしていても仕方がない。――やってみるか」
自分に言いきかせるように目を開き、彼は起き上がった。
何かを振り切ったものの軽い足取りで窓へ寄り、カーテンを閉める。
ドアのロックも確かめた。
萩生の顔は決意の|漆《しっ》|喰《くい》で塗りつぶされていた。
それが内からの否定の圧で|剥《はく》|離《り》しないうちに、やらねばならなかった。
完全な隔離を|了《お》え、ベッドの方を見る。
受話器が目についた途端、顔からこわばりが消え、彼は苦笑した。
ベッドの上でするはずだったことを、電話を見た|刹《せつ》|那《な》、別の用件にすり替えたこころの動きを恥じたのである。
その動きに応じると決めたことにも。
受話器を取り、萩生はダイヤルを廻した。
竜垣一家の事務所である。
男の声が応じた。
ただならぬものを萩生は感じた。
名を名乗る。
「少しお待ち下さい」
男が|丁《てい》|寧《ねい》に告げて、十数秒――別の声が、
「青井です」
と言った。
「萩生です。真吾くんたちの状況をお聞きしたい」
受話器を手にしたまま、萩生は凍りついた。
病院の真吾が、新たな|刺《し》|客《かく》に襲われた、と青井は告げたのである。
「で――容態は?」
かけなければよかった、と|臍《ほぞ》を|噛《か》みつつ訊いた。またも救えなかったという、自責の念に|苛《さいな》まれることになる。
「看護婦に化けてきやがってね、三人死にました。ですが、坊っちゃんと若奥さまは全く無事です。理由はわかりませんが、若奥さまの話だと、気絶する前、誰かが部屋に入ってきた、と。多分、見られちゃまずいってんで、逃げ出したんじゃねえんですか」
即座に、違う、と萩生は胸の中で叫んだ。
そこまで侵入した以上、目撃者など|歯《し》|牙《が》にもかけまい。邪魔になれば殺すはずだ。それが、標的に|止《とど》めも射ちこまず引き上げたのは――殺せぬ邪魔が入ったのか?
ある若者の顔が、萩生の|脳《のう》|裡《り》をかすめた。ひょっとして――奴[#「奴」に傍点]が?
「実は、親父さんも手傷を負いまして――」
青井の声は、再び萩生を凍りつかせた。
「何だって!?」
「とにかく、電話じゃ何です。一度、御足労願えませんか。何でしたら、車をやりますが」
「いや、結構……で、竜垣さんの具合は?」
「それが――何ともおかしな様子でして」
青井は口ごもった。
何によって負わされた重傷か、萩生にもこれでわかった。
「わかりました。出来るだけ早く、うかがいます……」
萩生は電話を切った。
受話器を置くまでに、決心は固まっていた。
やるしかない。
彼は大きく息を吸いこむと、ベッドの上に上がった。
3
萩生と、MIT――マサチューセッツ工科大学教授P・J・ボーモントの二人が開発したテレポート――重合次元移動には、当初からひとつの命題が存在していた。
すなわち、自らの内部へテレポートは可能か、ということである。
己れの肉体もひとつの空間と考えるならば、理論上、そこへ移動するのは、何が起きるかわからず、過度の危険を伴うにせよ、決して不可能ではない。
現に、ボーモント教授は、あの段階まで実験を重ねていたようで、あの[#「あの」に傍点]運命のテレポートへ出掛ける少し前、戻って来次第、自己内への移動を行うと、自信たっぷりにほのめかしていたのである。
結局、戻っては来たものの、教授は自殺し、萩生も廃人同様の身でMITを離れ、自己内移動は|顧《かえり》みられることもなく時だけがすぎた。
それをいま、萩生は行おうとしている。
体内に蠢くこいつを除去するには、体内に生じているはずの“通路”を破壊するしかない。
萩生自身を救い、真吾と亜衣を救うための唯一の道であった。
ベッドに足を投げ出して坐わり、萩生は上体を前屈させた。
身体は意外と柔らかい。
二度三度と繰り返し、両手を胸にあてる。
落ちつかせているのだ。
副作用があるとすれば、肉体状況に関わる場合が大きいだろう。
ゆっくりと、萩生は数を数えはじめた。
「一〇……九……八……七……」
緊張の横顔を汗が|滑《すべ》り落ちた。
「三……二……一……」
萩生の上体が弧を描くように、腹筋へ落ちる。
上体は萩生の|内部《な か》へ吸い込まれるみたいに消えた。
同時に、肩も胴も腰も足も、みるみる吸収され、つづいて、腹自体が自分の中に呑みこまれた。
尾を|咥《くわ》えた蛇は我が身を呑みこんで消滅するというが、その体現とさえ言える怪異な現象であった。
果たして――
竜垣家は|未《み》|曽《ぞ》|有《う》の混乱に巻き込まれていた。病院に入った真吾と亜衣が襲われ、生命に別状はなかったが、一家の|要《かなめ》たる善三の身に怪事がふりかかった。
宿敵三累根が潜んでいるという|妾宅《しょうたく》へ単身押しかけ、三〇分たってからも戻ってこないので、子分たちが言いつけにそむいて踏み込んだところ、ベッドには三累根の死体が転がり、善三は畳の上で泡を噴いていた。
早速、病院へ連れ込んだが、意識不明の|昏《こん》|睡《すい》が|蜿《えん》|々《えん》とつづき、医者にも原因は不明という。
そうこうしているうちに、銃声を聴いた家から連絡が入り、警察が押しかけ、家宅捜索という事態になった。もともと、竜垣家は悪どい真似をしないから、警察の受けはいい。青井があくまでもつっぱね、型通りの捜査で終わった。
知也子が戻ってきたのはその頃である。組員たちの非難の視線も気にせず、奥の間へ入ると、青井を|喚《よ》んだ。
「親分の貝合はどうだい?」
低い声で訊く。
自分をねめつける色っぽい表情に、大幹部は|生《なま》|唾《つば》を呑みこんで、事情を説明した。
「医者にも昏睡の理由はわからねえそうで。自然に眼が|醒《さ》めるのを待つ以外に手は……」
「そうかい」
知也子はにやりと笑った。
青井は腹の中のものがゆらぐのを感じた。
|昨夜《ゆうべ》、知也子と唇を重ねたとき、腹の中へ何かが入った。そいつはすぐに抜けたものの、別のやつが入ってきた。しかも、外からではなく、腹の内側から[#「内側から」に傍点]。
それ以来、自分はこの女の言いなり――|操《あやつ》り人形となったような気がする。
知也子の色っぽい顔を見、|喘《あえ》ぐような声をきいただけで、やくざの脳には白い霧がかかり、自意識や克己心が根こそぎ消滅してしまうのだ。
「じゃ、早速、お見舞いにいかなくちゃならないね、用意をおし」
「へい」
一礼して顔を上げた青井は、眼の前に知也子の欲情しきった顔を見た。
「…………」
理性も何もかも消しとんで、その唇へ吸いついたのは、蠢きはじめていた腹のもの[#「もの」に傍点]のせいだったかもしれない。
「ドアに鍵は?」
青井の舌を許しながら、知也子は熱い声で訊いた。
「いえ、まだです」
知也子は唇を離した。喉へのキスを受けつつ、唇を|尖《とが》らせる。
空気を裂いて青黒い|鞭《むち》が走った。
ノブの真ん中についたノッチを押して、床の上に落ちる。
くねりつつ、青井の身体に巻きついた。
意志あるもののように、微妙な動きを示すと、青井の服は下着まで床にわだかまった。
たくましい筋肉質の身体の上を、鞭は|愛《あい》|撫《ぶ》するように|這《は》い廻り、|堪《たま》らず青井は獣のような呻き声をもらした。
鞭はそそり立つ男根を掴んでいた。
どんな女の手技や口腔性交も及ばぬ快楽が青井を|戦《せん》|慄《りつ》させた。
知也子は口から鞭を吐いたまま、服を脱いでいった。
黒いブラとパンティに包まれた肢体は、全裸よりも刺激的であった。
腹の奥のものが気管をせり上がってくるのを、青井は感じた。
口から出たそいつも青黒い鞭であった。
ぬるぬるとわななきながら、それは知也子の喉を巻き、|脇《わき》の下から二つの乳房を這った。
ブラジャーにもぐりこんだとき、知也子は身を震わせた。
応じるように、知也子のもの[#「もの」に傍点]も、青井の男根に絡みついた。
床に倒れた二人の身体は、蠢くロープに、いや、蛇に全身を|緊《きん》|縛《ばく》されたかのような、妖しい光景であった。
鞭が乳房を離れ、ビキニのパンティに忍び込むと、知也子は激しく腰をふり、両手で乳首をつまんだ。ブラはもう、はずれている。
それ[#「それ」に傍点]は、鎌首をもたげ、|弄《いら》うように知也子の性器をこすった。
「ああ……駄目……早く……早く、ちょうだい……」
知也子は哀願した。思いきり乳首をつねる。
青井は女のパンティをずらした。
「ああ、いや……見ちゃあ駄目」
と押しのけかかる手を、床にねじ伏せて性器に眼を注ぐ。
「濡れてますぜ、|姐《あね》さん」
声はくぐもっていた。
「本当の|年齢《と し》とはどう見ても思えねえ。小娘みてえにつやつやしてやがる。こいつあ、舐め|甲《が》|斐《い》がありそうだぜ」
「駄目よ、舐めては駄目。……子分の分際で。――親分に言いつけてやるから……」
「言ってみな」
青井の蛇は貫いた。
知也子のよがり声と、熱く濡れた|肉《にく》|襞《ひだ》の感触が伝わってきた。彼は女の|膣《ちつ》の中にいるのだった。
猛烈な早さで出し入れを行うと、知也子は片手で顔を覆って叫んだ。
「もっと激しく――もっと強くこすって。喉も、喉も締めて」
「いいともよ」
青井は望みを|叶《かな》えてやった。どうすればいいのか、よくはわからないが、いつの間にかコツは呑みこんでいた。
青黒いロープに絞首された知也子は、みるみるチアノーゼ症状を起こした。
眼が反転して白眼を|剥《む》き、舌を突き出す。
断末魔の猛烈な筋肉の締めに、青井はのけぞった。
うおお、と|喚《わめ》きながら放つ。
|窒《ちっ》|息《そく》死した知也子の腹に、白い汁がとび散る。
青井はそれを女の肌にこすりつけた。
荒い息をつきながら、立ち上がって衣服を身につける。
自分の行為を考える余裕は、支配された脳にはなかった。
「気が済んで?」
ふり向くと、知也子が立っていた。
肌はすでに血色を取り戻し、豊かな乳と尻には黒い下着がこびりついて、何とも|妖《よう》|艶《えん》な姿だ。青井の男根は再び脈動しはじめた。
白い手がそれを握った。
腹の中のものは、どちらも元の場所へ戻っている。
「出かけるわ。――充分な用意をおし」
「へえ」
うなずいて、青井は自分のものをしごく白い手を眺めた。
知也子は膝をついた。
男根が|顎《あご》を打ち、唇と鼻をこすって|屹《きつ》|立《りつ》した。
それを捉えて含む。
青井は自分から腰を動かしはじめた。
知也子は歯をたてた。|脳《のう》|髄《ずい》の|芯《しん》を|灼《や》く愉悦が伝わってきた。
親分の妻の口にたっぷりと精液を放出する瞬間、青井は、こんな気分が味わえるなら、親でも殺してやろうと思った。
第七章 敵と味方の魔影
1
萩生は戻ってきたことを知った。
頭と背中に冷たいシーツの感触がある。|歓《よろこ》びも満足感もなかった。
口には出せないほどの奇怪な疲労が細胞の隅々にまで行き渡っていた。
疲労、という言葉すら、便宜上である。
とにかく、指一本動かせないのだ。世界のすべてが非現実に見え、それでいて、その感触や匂いといった物理的なものは、何らさしさわりなく感知することができる。
生ける死者、という状態が最も正確かもしれない。
体内テレポートの失敗も、疲労の一因であったろう。
自らの|腹《ふく》|腔《こう》中に、まぎれもない奴の触手[#「奴の触手」に傍点]と、その出入口を確認しながら、彼は近づくことができなかったのである。
出入口は空間自体に付着していた。――おかしな言い方だが、空間に開いた穴というよりは、こちらの方が|的《まと》を射ているのだった。
出入口を消滅させるには、それのへばりついた空間を消却しなくてはならない。萩生のテレポート能力をもってしても、不可能な|業《わざ》であった。
方法はただひとつ――空間自体を、一種の形を備えた物的存在とするしかない。
二次元の世界を、我々は、厚味を――すなわち高さを持たぬ完全な平面世界と見なすことができる。三次元的存在が彼らの世界と接触すれば、それは、二次元的接触部分――すなわち、靴底とか、ついた肘[#「肘」に傍点]の先とかによって、認識される。
逆に、四次元の――すなわち、縦、横、高さ、という立体を構成する三要素以外の、もうひとつの「方角」を有する世界の生物から見れば、三次元のあらゆる存在は、その「方角」に何も存在しない――いわば屋根のない大金庫にも等しいと言える。
二次元生物にとって、この上なく完全|堅《けん》|固《ご》な平面で|覆《おお》われた銀行も、「高さ」という「方角」から|覗《のぞ》く我々にはガラ|空《あ》きもいいところで、彼らの札束を千分の一ミリでも「持ち上げ」れば、二次元の頭取や預金者には、|摩《ま》|訶《か》不思議な消失としか思えまい。
「出入口」を消滅させるのに、空間そのものの抹消しか手が打てぬならば、それ[#「それ」に傍点]を消すことのできる「方角」から攻撃しなくてはならないのだ。
現在の萩生には遠い夢の技能であった。
何とか時刻を知りたいと、萩生は左手を上げようとした。
何とか動く。自然と眼球もそちらの方へ移動する。
鈍い驚きは、眼の隅に|捉《とら》えた人影の形でやって来た。
ベッドの脇に置かれた椅子の上に、白衣の女が腰を下ろしているのだった。
途方もない水圧の中を進む潜水夫の速度で、女の名がやってきた。
――|知《ち》|也《や》|子《こ》さん……だが……どうして……こんな格好で……
先刻、すげなく別れてきた|妖《よう》|艶《えん》な人妻は、ひと目でそれと知れる白衣――看護婦の|服装《いでたち》で、|俯《うつむ》いていた。
驚きが束の間、疲労感を押しのけ、萩生は何とか上体を起こした。
鉛の板みたいな舌を、必死で動かす。
「……知也子……さん……どうして……ここ……が……?」
女は答えない。
|何処《ど こ》か異常を感じさせる|蒼《そう》|白《はく》の表情で俯いたきりだ。
薄物のような恐怖が、萩生の体内に|沁《し》み渡ってきた。
「奥さん……」
知也子の|喉《のど》が鳴った。
――と見る間に、その顔は不意に溶けたのである。|特撮映画《S F X》の変形シーンのようであった。
|蝋《ろう》みたいに溶けた知也子の顔の下から、別の女の表情が覗いた。
萩生は知らぬことだが、ほんの少し――三〇分ばかり前、真吾と亜衣の病室を襲った看護婦の顔であった。
その口がだらしなく開くと、猛烈な|唸《うな》りをあげて、青黒い|鞭《むち》が跳ねた。
声にもならない悲鳴をあげて、萩生真介は身を|捻《ひね》った。
そいつは|凄《すさ》まじい勢いで、彼の右足首に巻きつき、軽々と持ち上げるや、壁めがけて|叩《たた》きつけた。
萩生の姿は空中で消えた。
同時に、ドアのそばに現われ、もろくも|膝《ひざ》をつく。
テレポートにも影響を及ぼす疲労だった。
ロープはまた襲いかかってくる。
それが、びしっ! と身体に巻きついたとき、萩生は悲鳴をあげた。
長くあげなくてはいけないかと思ったが、すぐに|熄《や》んだ。
全く唐突に、触手は後退していた。
別れの|挨《あい》|拶《さつ》のように派手に揺れつつ、女の口へ吸いこまれていく。
女はどっと倒れた。
骨も|侵《おか》す疲労感に身動きもできず、萩生はその変化を見つめた。
数十秒を経過し、ようやく彼がそちらへ這い[#「這い」に傍点]出したとき、女の身体は、白衣の内側に広がる青黒い|塵《ちり》と化していた。
異常事を解明する手がかりも|掴《つか》めぬまま、|虚《うつ》ろな視線を注ぐ萩生の視界に、白衣の胸にピンで止められた一枚の紙片が映じた。
表面にはワープロで刻んだ文字が残されていた。
浮気の相手に気をつけろ
その意味するところを萩生が理解するまで、脳細胞の反応速度が|緩《ゆる》んだ頭でも、数秒で事足りた。
浮気の相手とは、知也子のことだ。
この女が何者かはわからないが、十中八九、真吾と亜衣の入院している病院の看護婦だろう。
彼女が|憑《つ》かれ、そして、まず[#「まず」に傍点]、知也子の顔をしていたということは、知也子も彼女と同じ存在――奴の下僕だと明示しているのだ。
この怪事を|企《たくら》んだものの正体は知らず、萩生はよろめきつつ電話機に駆け寄った。
竜垣の事務所を廻す。
すぐに出た。
名を告げ、知也子が戻ったかどうか尋ねる。
「一〇分くらい前に出掛けました」
と、電話番は答えた。
「青井の兄――青井さんと一緒です。病院へ見舞いに行くとおっしゃって」
受話器を握ったまま、萩生は立ちすくんだ。
「何処の病院です?」
「波島町の――医院で。うちから車で一五分ぐらいかかりますが」
「そこに、地図はあるか?」
「へえ」
「用意しておいてくれ。――すぐに行く」
「へえ」
電話を切り、萩生は眼を閉じた。
テレポートは可能だろうか。
いま、しくじったばかりだ。
だが、それしか、眼前の危機を打開する方法はなかった。知也子たちの目的が、真吾と亜衣、それに竜垣善三の暗殺にあることは明らかだ。
何故かは不明だが、奴は執念に近い情熱でもって、竜垣一族を|斃《たお》そうとしていた。
自分たちの正体を知っている唯一の人間たちだから、というのは、|正《せい》|鵠《こく》を射ているようで、実は理由になっていない。
正体を知ったからといって、竜垣たちは無力に等しいのだ。
東北の片隅に住む拝み屋兼やくざの一団が、異世界の妖物が人間に侵入しつつあると訴えたところで、誰が信用するだろう。
その証拠となるべき地下の石壁は何も語らないし、憑かれた人間たちも、奴にとっては、いま、萩生の前で|朽《く》ちた看護婦のごとく、時と場所とを問わずに消失し得る存在にすぎない。
撃退する力が竜垣たちに無い以上、戦いの帰結は眼に見えていた。
じきに、奴[#「奴」に傍点]は田舎町の一隅の空間に|留《とど》まらず、世界のどこにでも穴を開ける方法を見つけ出すだろう。
竜垣善三も萩生も、黙ってそれを見ていることしかできない存在なのだ。小うるさい|蠅《はえ》を追い払ってすませる度量もないのか、と考え、萩生はあまりに人間的な思考方法に苦笑した。
――ともかく、行かなくては――
自らの腹部に留まるものが、どのような妨害を仕かけてくるのかとわななきながら、萩生はテレポートした。
2
重合空間を移動する時間は、いわば別次元の空間に属するため、萩生の世界では無限にゼロに近い。
萩生の移動可能範囲は五メートルに限られるものの、出現と同時に再度テレポートを挙行すれば、その移動距離は、実質上ゼロ時間内で無限に等しくなる。
問題は体力であった。
竜垣家へ到達するまで、彼は二度力尽き、地上へ出現した。
一度目は郊外の路上で、目撃者もいなかったが、二度目の出現地点は町なかの交差点となり、五、六人いた通行人の|度《ど》|胆《ぎも》を抜いた。
幸運なことに、竜垣家は眼と鼻の先にあり、目撃者たちも、あんまり信じ難い超常現象を目の錯覚と判断したのか追ってはこずに、萩生はとにかく、竜垣家へ到着した。
さっきの電話番から地図と病院の位置を教えられ、お茶を一杯、の声を背に家を出て、彼は|凄《せい》|絶《ぜつ》な気分で跳んだ。
はじめて味わう地獄の移動だった。
悪体調でのテレポートがもたらす不快感は、これまで何度も体験済みだが、これは比較にならぬ|凄《すさ》まじさであった。
移動中、萩生は|嘔《おう》|吐《と》し、内臓をねじ切られる痛みに絶叫した。声も吐いたものも、すべて超空間に消えた。
何度も冷たい奈落に落ちかけ、重合空間のはざまを漂う幽霊と化すことを怖れて、全精神力をふりしぼっても、闇は彼の全身を包んだ。
――いかん、と思った|刹《せつ》|那《な》、どっ、と激しい衝撃が加わり、固い床の上へ転がっていた。
「ごめんなさい!」
眼の前で立ちすくんだのは、白衣の――女医らしかった。
冷たい廊下と天井の照明――左右のドアには、無味乾燥なナンバー・プレート。
つん、と独特の匂いが鼻をつく。
病院だった。
成功――と喜ぶ間もなく、左右をせわしい足音がただならぬ気配をふり|撒《ま》きつつ駆け抜けていった。
医者と看護婦だ。――みな、血相を変えている。
萩生は腕時計を見た。知也子と青井が病院に到着する予定時刻を六、七分すぎている。
その作業を終えるには、十分な時間だった。
「ね、大丈夫?」
と中年の女医は彼に手を差し出して訊いた。
「あなた、急に出て来たんですもの――」
ここで口ごもり、妙な眼付きで萩生を見つめたが、急に真顔に返って、
「こちらへ来てはいけません。立ち入り禁止です」
「何があったんです?」
萩生はざわめきの響いてくる方向へ眼をやりながら訊いた。
「わかりません。とにかく、戻って下さい。付き添いの方ですか?」
「いや、患者です」
言い捨てて、そちらへ向かいかけ、萩生は足を止めた。
確かにとんでもない騒動が起こっているらしいそちら側から、二人の看護夫[#「夫」に傍点]の手に支えられて、息も絶え絶えにやってくる組員のひとりを目撃したからだ。
顔見知りではないし、目立ってはならんという竜垣の配慮で、渋い|真《ま》っ|当《とう》な背広を着てはいるが、やくざの顔つきは隠せない。
「竜垣さんとこの人か? ――萩生といいます」
近づいて声をかけた。
看護夫は足を止め、やくざはこちらを向いた。
信じ難い恐怖の色に、萩生は、やっぱり、と納得した。
男はしかし、すぐ、理性の光を眼に浮かべて――
「萩生さん――そうか。大変なことになったぜ」
「どうした?」
と萩生は、ぶっ倒れそうな気分をこらえて訊いた。
二人の看護夫が何か言いかけたが、やくざは、うるせえと|一《いっ》|喝《かつ》して両手をふり放した。
看護夫は立ち去った。
「おらあ、坊っちゃん夫婦の部屋をガードしてたんだ。親父さんの部屋は隣りだった。そこへ急に、おかしな奴が――」
「知也子さんか?」
|戦《せん》|慄《りつ》に胸を食われつつ、萩生は一応、さん[#「さん」に傍点]を付けて訊いた。
男は一瞬、とまどいの表情を浮かべて――
「違う――畜生、いきなり吹っとばしやがって。――気がついたら、寺本と柳田ものびてた。そうしたら、いつの間にか、部屋が消えてて……」
「…………」
「……本当なんだ。おれが見たときゃあ、少しずつ消えてくところだった。ガラスの|函《はこ》みたいに透き通って――ドアも、壁もだ。中に、坊っちゃん夫婦がいるのが見えた。親父さんの部屋も同じ状態だったが、親父さんの姿は見えなかった。そうして、ふっと消えちまったんだよ……。後には、でっかい穴だけが|開《あ》いて……。おい、どうした!?」
伸ばして来た男の腕を押し戻し、萩生は立ち上がった。|膝《ひざ》が笑っている。
「何でもない。で――その男は、どんな奴だった?」
やくざは首を横にふった。
「男じゃねえ。女だ。白いスーツを着た、えらい|別《べっ》|嬪《ぴん》さんよ」
「まさか……じゃあ、奥さんは? ……」
「来なかったぜ。奥さんにも何かあったのかい?」
「いや。何でもない。――青井さんの次に組で顔が|利《き》くのは誰だ?」
「|篠《しの》|原《はら》の兄貴だよ」
「その人に、知也子さんは敵の|罠《わな》に落ちたと伝えろ。見つけたら――いや、あんたたちがどうこうできる相手じゃない。放っておけ。ただし、絶対に二人きりになるんじゃない。おかしなことをしでかしそうだと見たら、すぐに逃げるんだ」
「おい――|本当《ほんと》かよ?」
「伝えたぞ」
|驚愕《きょうがく》に|金《かな》|縛《しば》りになった男を残して、萩生は騒ぎの現場へと歩き出した。
見ても何にもならないとは思うが、放ってはおけなかった。
テレポートは――やってみるまで、だ。
病室の位置は電話番にきいてある。直線距離で一〇メートルもない。何とかなるだろう。
人目につかないところでテレポートしようと、彼は廊下を見廻した。
不意に止まった。
三メートルばかり離れたところに、知也子が立っていた。
何かに|脅《おび》えた、死人みたいな表情で萩生を見つめ、急に左の廊下へ飛びこんだ。
一瞬、罠か、と|躊躇《ちゅうちょ》し、萩生は後を迫った。
曲がった途端、驚く。
知也子は眼の前に立っていた。
「奥さん……」
呼びかけたときはもう、肉感的な背中を見せて走り出している。
露骨な挑発だった。彼女ではない何かが、萩生を招いているのだ。
多分、奴[#「奴」に傍点]が――
萩生は乗ることにした。恐怖とは別の感情が、足の動きを支配していた。
知也子は何度か廊下を巡り、「特別病棟」と書かれた別の棟へ入った。
要するに、金に糸目はつけない、という患者用だ。
萩生の眼の前で、白いドアが女を|呑《の》みこんだ。
躊躇なく、萩生はドアを押し開けた。
|桁《けた》はずれに豪華な病室であった。
スペースは通常個室の三倍近く、ベッドも布団もかがやいているようだ。ひと目で純金に|金《きん》|襴《らん》と知れる。患者の途方もない富をうかがわすに足りた。
|静《せい》|謐《ひつ》が萩生を包んだ。
厚い黒|天鵞絨《ビロード》のカーテンを下ろした室内は、何処から|洩《も》れるとも知れぬ青い薄明に塗りこめられていた。
そして、べッドの上に、彼がいた。
いつの間に着ているものを|剥《は》ぎ取られたのか、全裸でシーツの上に|這《は》う知也子の背後に|忽《こつ》|然《ぜん》と浮かんだ人影は、萩生真介にゆっくりと右手を上げた。
「アフリカは東北に移ったらしいな」
|辛《しん》|辣《らつ》な萩生の言葉に、これも全裸の|矢《や》|切《ぎり》|鞭《べん》|馬《ま》は、照れたように笑った。
3
「大活躍でしたね」
|揶《や》|揄《ゆ》するような声に|一《いっ》|矢《し》を報いてやろうと思った途端、激しい目まいに襲われ、萩生はその場に崩れた。
何かが柔らかく腰と背を受け止め、|束《つか》の間、彼は失神した。
気がつくのに、三〇秒とかからなかった。
眼よりも耳に、悩ましい声が忍び入ってきた。
知也子はベッドの上で、鞭馬に|尻《しり》から責められている最中だった。
たっぷりした|腿《もも》と尻が、|貪《どん》|欲《よく》に男のものを受け入れている。
青黒い触手を。
矢切鞭馬は、現界と異界の血を引く男であった。
「|成《なる》|程《ほど》な。これですべて、|辻《つじ》|褄《つま》が合う。君が動いていたのか」
素晴らしく坐わり心地のよい椅子――鞭馬愛用のオート・チェアに腰を下ろしたまま、萩生はある種の感動と喜びを声に出すまいと努めた。
「私が電話をかけたときにはもう、活動は開始していたのか?」
「先生の電話は、この部屋にかかりました」
|呻《うめ》きつづける知也子の声に混って、鞭馬は静かに言った。
「はっきりとはわかりませんが、先生がはじめてこちらに来られた頃と、時期を同じくしていると思います。僕も親父の動向に勘づきました」
「竜垣親子の消滅も君の|仕《し》|業《わざ》か?」
「左様で。――あの部屋ごと安全な場所へ送ってありますから、ご安心下さい。親父の動きはこの部屋で|逐《ちく》|一《いち》掴んでおりました。この女の正体も」
鞭馬はぴくりとも動かないのに、知也子はのけぞり、獣のような呻きを発した。尻だけが、それとは別に重々しく、それだけに貪欲な動きを見せている。
「いま、この女の中で、僕と親父が戦っています。気の毒に、味わっているのは、この世ならぬ快感と痛み――あと五分と|保《も》ちますまい」
萩生は顔をしかめ、
「その女に相棒がいたと思うが」
「始末しました」
鞭馬はあっさりと言った。
「と言っても、親父を退散させただけですがね。今ではただの青い|塵《ちり》です」
「私のところへも看護婦が来て、同じ目に|遇《あ》った。みんな、君の仕業だな。すべてお見通しというわけか」
「そう恐ろしい眼で見ないで下さいませんか」
鞭馬は苦笑し、知也子がシーツをかきむしった。
「敬愛する恩師の身の安全を願うのは、生徒の務めでしょう。さすがに我が社の技術陣は優秀です。まだ先生の足元にも及びませんが、なんとか、テレポートの|真《ま》|似《ね》だけは出来るよう、部品を組み立て終わりましたよ」
「ほう」
それであの看護婦をホテルの部屋へ入れ、竜垣親子の病室も消すことができたのだろう。彼らや萩生の動きを探ることなど、三矢財閥と、実の父の力をもってすれば、他愛もない児戯なのかもしれない。
「最初に病室を襲ったのは、あの看護婦だな。|救《たす》けたのは君か?」
「いいえ」
鞭馬は首をふった。美しい、悪魔的な残忍さを|湛《たた》えた横顔に、萩生すら|陶《とう》|然《ぜん》としかけた。
「すると――」
萩生の眼が光った。
「さっきの組員は、病室を消したのは白いスーツの美人だと言った。一体――?」
「それよりも先生――」
鞭馬は、やや切迫した口調で、
「お腹の中に、とんでもないものを抱えていらっしゃるようですね」
萩生はうなずいた。
「私もやられたよ。君の力で何とかなるか?」
「残念ながら、今のところは」
「エイズの特効薬は見つかったのかね?」
「はい」
萩生は苦笑した。覚悟を決めねばならないようである。
「なぜ奴が私を生かしておくのかはわからんが、いざとなったら、君の手で始末してくれ」
お義理にでも、そんな、と辞退するかと思ったが、鞭馬はぬけぬけと――
「承知いたしました」
「ところで、奴は人間に取っ憑いてこの世に出現する方法を考えついたのか?」
「はい。馬鹿ではないようです。水漏れする部分が最も|脆弱《ぜいじゃく》な個所であるように、その近辺の空間に“通路”を|穿《うが》ち、近くの人間たちを吸収していったものと思われます。父にとって、人間の身体は最も確保しやすい出入口なのでしょう」
「やれやれ」
「僕の勘が確かなら、父の計画は、かなりの程度まで成功を収めています。世界中の空間から不意に、親父の手足が現われるのも、遠いことではありますまい」
鞭馬は舌|舐《な》めずりしていた。
「お母さまと姉上は元気か?」
|辛《しん》|辣《らつ》な問いであった。鞭馬の表情が、一瞬、人間のそれに立ち|還《かえ》ったのを見て、萩生は幾分、胸がすっとした。
「おかげさまで。今でも先生には感謝しております」
萩生の胸を、快活な、それでいて花の憂いを帯びた横顔がよぎった。
|祐《ゆ》|美《み》。
「母と姉と先生――僕がこの世界に執着する原因はこの三つしかありません」
鞭馬の顔と声を、二つの世界が交差した。
「これさえなければ、僕の血は、むしろ、親父に加勢するように命じるでしょう。先生――先生の生命こそ、世界の運命の鍵を握っているのですよ」
萩生は精一杯、苦笑を浮かべて、
「長生きはしたくないものだな」
と言った。
「だが、勝負はとうについているよ。もうご存知だろうが、私は最後の手段とさえ言える体内テレポートにも失敗した。これ以上、奴[#「奴」に傍点]を押さえる力はない」
「そう、お思いですか?」
見る見る凄まじい笑いが鞭馬の顔を変えた。
「思わせぶりはよせ」
萩生は身を乗り出していた。
「いえ、先生らしからぬことをおっしゃると思ったものですから」
鞭馬は笑いを崩さずに言った。
「失礼ながら、一プラス一を二とする常識的発想では、先生のテレポート理論は完成しなかったと思います。一見、無関係にばらまかれている諸条件の中から、いかに共通項を見出し、新たな理論の完成を見るか。――創造者の資質はこれに尽きます。今回、先生は幾分、目配りが行き届かれないようだ」
「かもしれないな。――早いとこ種明しをしてもらおう」
「結構ですとも。しかし、それをすれば、僕は完全に親父を敵に廻すことになる。あまりに損というものです」
「何が望みだ?」
「亜衣という娘――先生のご同僚でしたね?」
「おい」
鞭馬の|双《そう》|眸《ぼう》は、片方の世界の色を帯びた。
「あの娘――僕の気に入りました」
「馬鹿なことを言うな。――彼女は――」
結婚しているぞ、と言いかけて、萩生はあきらめた。常識が通じる相手ではなかった。
「全く平凡な、健康と性格の良さだけが取り|柄《え》の娘ですが、そこが気に入りました。ぞっこんと言えばよろしいか。今回の事件が無事落着した折りには、先生のお力で、なんとか僕の望みを|叶《かな》えていただきたい」
萩生は絶句した。
|際《きわ》だった問題ではない。どこでも、いつでも起こりそうなトラブルである。解消する方法はいくらもある。
だが、今回に限っては――
悪魔の恋、という単語が萩生の胸をよぎった。
「私には何とも言えん。無理矢理捕えて君の前へ連れ出すわけにもいかんだろう。こういうことは当人同士の問題だ」
「もちろんそうです。ですが、それを承知で、彼女を僕のものにするとお約束いただきたい。そうすれば、僕はこの世界の側へつかなければならない。少しは、唯一の身近かな存在である先生に、同じ苦悩を味わっていただきたいのです」
萩生が反撃できなかったのは、冷然たる鞭馬の声に、血を吐く悲痛さを感じ取っていたせいかもしれない。
彼は沈黙した。
ようよう言った。
「私には何も約束できんよ。いくら君からでも、嘘つきと呼ばれたくはないんだ」
「残念ですね」
「全くだ」
「僕ひとりでも、彼女を自由にするのはたやすい。そうしたら、先生はやはり敵に廻りますか? 教え子の幸せを守るより、この世界の規範に従って?」
萩生はうなずいた。
「やむを得ない。知り合ったのが間違いだったと思うことにしよう」
「人間、仲々、川は越せないものですね。――お引き取り下さい」
「あの三人は何処にいる?」
「ふむ」
鞭馬は悪魔の笑みを見せた。
萩生は立ち上がった。二つの若い眼に、強さでは鞭馬に負けぬ光があった。
約二メートルの距離を置いて、二人は|対《たい》|峙《じ》した。
「困ったものですね」
矢切鞭馬は静かな声で言った。
「僕は恩師とやり合う気はありません。先生には口では言い表わせぬ好意を受けました」
これも本気であった。
数秒前は、その恩師に、地獄の苦悩を分かち合わせたいと言い、今は心底、感謝の意を表わす。矢切鞭馬とは、そも何者なのか。
「亜衣――竜垣さんのことは、好きなようにするがいい。だが、おまえがどんな手を使おうと、あの二人の生活を破壊しようとすれば、私は敵に廻る」
宣戦布告ともとれる萩生の口調と言葉に、矢切鞭馬は不可思議な笑いをもって報いた。
「僕は先生と戦えない。しかし、この女なら」
彼が言いおえると同時に、後背位の姿勢をとっていた知也子が立ち上がった。
その|股《こ》|間《かん》からは、なおも青黒い鞭を垂らしながら、ゆっくりと萩生に歩み寄る。
「親父は去りました。今、この女は僕のものです」
知也子の虚ろな顔は、その妖艶|淫《いん》|靡《び》なときを知っているだけに、萩生を戦慄させた。
女体が地を蹴った。
その口が空中で開いた。
|唸《うな》りをたてて青い鞭が襲う。
鉄鎖のごとく萩生の全身に巻きついた鞭は次の瞬間、まさしく鎖の輪が砕けるように分断されていた。
「見事」
つぶやいて、ふり向こうとした鞭馬の喉もとへ、たくましい手が置かれた。
「やめておけ、私は君を宇宙の果てまで送れる」
萩生は背後から言った。
「承知」
と鞭馬は悪びれる風もなくうなずいた。
それから知也子を見て、
「この役立たずが」
とののしる。
次の瞬間、知也子の裸身は青い砂と化して床上にわだかまった。あっけない終幕であった。
「一ラウンド終了」
と鞭馬は宣言した。
「お望みの賞品を」
「あの三人の居場所を教えてもらおう」
「いいですとも」
鞭馬があっさりと首肯したとき、電話のベルが鳴った。
「取ってもよろしい?」
と訊かれ、萩生は受話器を掴んで鞭馬に手渡した。
「私だ」
幾分しゃれのめした声で、鞭馬は応じた。
数秒たった。
「なにィ!?」
萩生のはじめて耳にする驚愕の叫びを彼は放った。
「触手が世界中に!?」
第八章 |紅《ぐ》|蓮《れん》|咆《ほう》|哮《こう》
1
それからの五分間で、奇怪な師弟は、今回の事件が一挙に終結へ向かっているのを知った。
ベニスでは、運河の水中から現われた触手が名物のゴンドラを巻き取り、数十|艘《そう》が暗い水に沈んだ。
ニューヨークでは、エンパイア・ステート・ビルの最上階を突き破って出現。そのまま、路上へ垂れると、四二番街の路上を突っ走る乗用車の群れを捕獲し、天空高く|拉《ら》|致《ち》し去った。
モスクワ――赤の広場上空五〇メートルから降り落ちる触手は、クレムリンに巻きつき、一瞬のうちに握りつぶしてしまった。
パリ――根こそぎ持ち上げられたエッフェル塔は、モンマルトルの丘に投げ捨てられ、奇跡的に直立して、新しい土台を得た。
高度一万二〇〇〇メートル――太平洋上空を飛行中のジャンボ機は、|遥《はる》か下方から伸びてきた触手とぶつかり、空中分解した。
――このすべてを、萩生は病院の空間に浮き出た三次元立像スクリーンによって見た。 三矢電機の新製品である。
「奴め、いよいよ動き出したか……」
萩生のつぶやく声が、薄明の世界に流れる。
「これ以上待てん。行くぞ|鞭《べん》|馬《ま》――」
「お好きなように」
と鞭馬は冷ややかに笑った。
身構えもしない。
萩生は彼の背中に廻りこみ、後頭部を足刀で吹きとばした。
「残念でした」
顔のない口がニヤリ笑うと、|顎《あご》をしゃくった。
電撃が全身に感じられる寸前、萩生はテレポートして、鞭馬の椅子の背後についた。
左手をのばす。
椅子は高速で前進し、背もたれから銀色の|桿《かん》を吐いた。先端にこれも銀色の球体が揺れている。
不可視のレーザーは、萩生の背後にそびえる壁を薄紙のように貫いた。
「そこまで」
|忽《こつ》|然《ぜん》と椅子の真上に現われた塾教師に、鞭馬は|慌《あわ》ただしく声をかけた。
萩生は再び消え、教え子の眼前に立った。
「あの椅子は改造に半年をかけました。それが先生にかかれば指一本で月まで送られてしまう。足を|盗《と》られては|敵《かな》いません」
「話す気になったかな?」
「お連れしましょう」
「素直な生徒は教師の受けがいい」
「僕は問題児でして」
ぬけぬけと言う鞭馬に、萩生はあきれたような表情を隠すことができなかった。
椅子の攻撃は――おかしな言い方になるが――本気だった。|渾《こん》|身《しん》のテレポートがなければ、レーザーと電撃の犠牲となって二度死んでいただろう。
明らかに、鞭馬には、彼の死闘の様を|愉《たの》しんでいた節がある。得体の知れぬ、底知れぬ人妖だ。
「それで?」
と萩生は、教え子に対する|戦《せん》|慄《りつ》を顔に出さぬよう努力しながら|訊《き》いた。
「先生――この町近辺の地理は頭に入っておられますか?」
「いや」
「では、三矢重工特製の移動装置でお送りします」
こう言うと、鞭馬は右手を上げた。
|肘《ひじ》|掛《か》け椅子が寄ってきた。
モーター音ひとつ響かせない。
磁気誘導か、と萩生は思った。
鞭馬が器用にべッドから降りて椅子にかけた。
「どうなさいました?」
鞭馬に問われ、萩生はようやく|知《ち》|也《や》|子《こ》の|遺《い》|骸《がい》から眼を離した。
妖魔と化した女の末路――萩生の未来の姿がそこにあった。
「何でもない。連れて行ってもらおう」
「そこへお立ち下さい」
鞭馬の指さした窓際の一点へ立つと、さした当人も隣りへ並んだ。
「このテレポートの原理は先生のものと異なり、素粒子の分解と構成によって成りたちます。|馴《な》れない方法で、多少気分は悪くなるかもしれませんが、ご了承下さい」
鞭馬の指は椅子の肘に装着されたボタンを押した。
|何処《ど こ》からともなく、地底から響くような重々しい音が鳴り渡るや、四囲の光景が|歪《ゆが》んだ。溶けた|蝋《ろう》細工を思わせる変化に、萩生は気分が悪くなった。
歪みはたちまち進み、二人の周囲すべてが形容し難い色に溶解した。――と思った|刹《せつ》|那《な》、再び、重い音が鼓膜を突き、溶け崩れた色と形は、猛スピードで見馴れた物質へ|変形《へんぎょう》していった。
軽いめまいを感じてよろめく萩生の耳に、
「萩生さん!?」
聞き覚えのある|驚愕《きょうがく》の声が突進してきた。
数メートル先に亜衣が立っていた。
傷ひとつない無事な姿を喜ぶよりも、その向うに置かれた病院のベッドに横たわる真吾の姿に胸を|撫《な》で下ろすよりも、萩生の眼は驚異の色を|湛《たた》えて四方を見廻した。
床も天井も壁も、石で|覆《おお》われた部屋であった。
石の汚れや亀裂からして、数百年も前に建造されたのは明らかだ。空気もどことなく|黴《かび》|臭《くさ》い。
窓ひとつない部屋を照らす光は、床に置かれたガラス状の円筒から発していた。
三矢電機の新製品だろう。
「真吾くんはどうだ?」
萩生は|嬉《うれ》し涙を|滲《にじ》ませている亜衣に訊いた。
「無事です。薬も病院の設備も、みんなこの人が用意してくれて」
真吾のベッドの周りに、最新型の生命維持ユニットが並んでいることに、萩生はもう気づいている。亜衣は病院のものだといったが、とんでもない。東京の大病院にもない超近代的メカだ。看護婦ひとり、医者ひとり必要とせず、手術からアフター・ケアまでやってのけられる。
萩生はゆっくりと鞭馬をふり向いた。
「礼を言うよ、三矢財閥の|御《おん》|曹《ぞう》|子《し》」
「恐縮です」
悪びれもせず、鞭馬は目礼し、
「傷の心配は無用。父上は隣室におります」
と言った。
「ここはどこだ?」
「僕のアジトとでも言いましょうか。先生は一度、この上を踏まれました。靴音を拝聴しましたが」
平然たる返事に、萩生は少し眉を寄せていたが、すぐ、
「――|修《しゅ》|羅《ら》|山《さん》の下か!?」
「おっしゃる通り」
鞭馬は淡々と周囲を見廻した。
「数百年前、私はここで、ある素質を持った人物に啓示を授けました。|汝《なんじ》、その幻を|視《み》る力もて、邪悪なるものを見張り封じこめよ、と。さらに、我が寝所として、この下に穴を|穿《うが》ち、石をもて周囲を埋め、この存在を何人にも語ってはならぬ、と。――何かの役に立つかもしれないと思ったのですが、先見の明があったようですね」
邪悪とも涼やかともつかぬ笑顔を、萩生は|茫《ぼう》|然《ぜん》と見つめて、身動きもできなかった。
まさか。――まさか、竜垣一族の祖先に山頂で幻視の力を与え、異次元の魔との戦いを命じたのが、この異端の弟子であったとは――
それが決して不可能ではなく、いや、この若者ならば軽々とやってのけてしまうだろうと思いつつ、
「馬鹿な」
と萩生真介はつぶやいた。
「ご安心下さい」
と鞭馬が救いの手をのばした。
「別にテレポート実験の副作用として|時間旅行《タイム・トラベル》まで可能にしたわけではありません。ただ、肉体はともかく精神だけは、ある程度の過去まで跳ばせるようになりましたが」
「|精神旅行《サイコ・トラベル》か。君は私の行動を探り、一家の事情を知ると、早速過去へ跳んで、竜垣源三郎に出会ったわけか……つくづく、恐ろしい教え子を持った」
「あちらへ」
鞭馬の手がベッドの方を示し、萩生はようやく急務を|憶《おも》い出した。
近づいて調べると、真吾は衰弱こそしているものの、血圧、体温、脳波、ともに正常で、着実に回復へ向かいつつあった。
「大丈夫そうだね」
と亜衣に笑いかけ、鞭馬の方を向く。
「さっきの意味ありげな|台詞《せりふ》の謎を解いてもらおうか」
「蒸し返すようですが、こちらの奥さんの件は?」
「いい加減にしろ」
萩生がののしったとき――
石壁のどこかの奥から、鈍い音が響いてきた。
鞭馬の顔が中天を仰いだ。
「隣りからだ。すると――」
竜垣善三の和服姿が萩生の胸をかすめた。
「竜垣さんはどうした!?」
その問いが終わらぬうちに、今度はまぎれもない衝撃が部屋じゅうを包んだ。
いやな音をたてて壁に亀裂が走り、萩生は床に転倒した。――と見えた瞬間、真吾のベッドの脇で、揺れ動く彼を支える。
横倒しになり、天井をふり仰いで、亜衣は悲鳴をあげた。
古い石の一部が|剥《はく》|離《り》し、ふわりと宙に浮いた。
下には真吾と萩生がいる。
長さ三メートル、幅一メートル強の岩塊が二人の頭上へ落ちかかるのを、亜衣は|為《な》す|術《すべ》もなく見つめた。
支えようとでもするかのように、萩生の右手が上がった。
絶望が腹腔を満たす亜衣の眼前で、岩塊は忽然と消滅した。
不意に、世界は硬直した。
「|怪《け》|我《が》は?」
と萩生は亜衣に訊いた。
「ありません。真吾さんは?」
「無事だよ。――鞭馬、何事だ?」
「僕としたことが抜かりました」
彼は石壁をにらみつけながら低い声で言った。
「先生の動きをフォローするのが精一杯で、拝み屋の主人にまでは気が廻らなかった。どうやら、親父の手に落ちていたようですね」
理由もなく、萩生はこの若者が、すべてを承知していたのではないかと思った。
「何処にいる?」
「この石壁に出入口があるのですが、破壊されました。どうやら生き埋めですね」
「テレポートはどうした?」
「いま試してみましたが、故障中です。幸い、生命維持ユニットだけは無事ですね」
「そいつはよかった」
萩生はつぶやいて、鞭馬の指さす壁の一角へ近づいた。
身体はまだだるい、と言うより、疲労の極致だ。テレポートを使ったばかりである。
無言で右手を当てた。
石壁が一瞬、|蜃《しん》|気《き》|楼《ろう》のごとくゆらぎ、萩生はその場へ崩れた。
「先生――」
「萩生さん!?」
まともじゃない若者とまともな人妻が走り寄り、女の方が萩生を抱き起こした。
額と手首に手を当て――
「ひどい熱――脈も早い。一二〇以上あるわ」
「手当てをしなくてはなりませんね」
二人の会話を萩生は中断させた。
「大丈夫だ。……少し休めば|治《なお》る」
「そうもいきません」
「何だと?」
「強がりは先生らしくありません。その身体ですぐにテレポート可能かどうか、よくご存知のはずだ」
「じゃあ、どうする!?」
萩生は|激《げき》|昂《こう》した。途端にめまいに襲われ、床に手をついてしまう。
「もしも、あの男が外から地上への出入口を|塞《ふさ》いでしまったら、待つのは窒息死の運命です。いかに広いとは言え、成人男女が四人。酸素のストックはありません。|保《も》って三〇分」
「それまでには治るさ」
「だとよろしいが」
「君のレーザーで何とかならないか?」
|業《ごう》|腹《はら》と思いつつ、萩生は訊いてみた。
「石の厚さは三メートルに達します。とても」
「嬉しそうだな」
「ご冗談を」
「私たちは三〇分後に窒息するとして、君はもっと保つのか?」
哀しげな色が、何故か、鞭馬の面貌に淡い風紋をつけた。
「――これ以上、ここにとどまっちゃいられないんだ」
萩生は苦しげに言った。
「奴は世界中に出現しつつある。全文明が崩壊するぞ。生物はことごとく奴の――|餌《えさ》だ……。かと言って……打つ手は……ない」
いきなり、萩生は呻いた。
腹の中で、奴[#「奴」に傍点]が動いたのだ。
「離れろ!」
と叫んだ。
「奴は、おれの中にもいる。鞭馬、君ならできる。おれを殺して、奴を追い返せ」
蒼白の顔を上げた彼の前に、別の人影が立っていた。
あの老婆だった。
亜衣が息を呑む。
老婆が自分を手招くのを萩生は見た。
|皺《しわ》だらけの針金みたいな指が、べッドをさした。
「亜衣さん――知ってるか、この|女性《ひ と》を?」
「いいえ。はじめて見ます」
今回、老婆は無言だった。
真っすぐ、鞭馬の方へ歩き出す。
鞭馬は動かなかった。
老婆はスピードを|緩《ゆる》めず、彼と衝突した。
それきり、出てこない。
「消えました」
と、事も無げに言う鞭馬を見ようともせず、萩生はベッド上の真吾に眼を向けていた。
老婆は|瀕《ひん》|死《し》の怪我人を指さした。何故か?
小さな|田舎《いなか》駅で竜垣家を訪ねるよう勧め、帰ろうとした彼のバスに現われて責めた。少くとも、竜垣家に敵対するものではない。
それが、真吾を指さした意味は?
わからない。
「失礼ですが、問題は彼女が指さした相手にはない[#「相手にはない」に傍点]と思います」
鞭馬の声が萩生を驚かせた。
「どういうことだ?」
何となくわかるような気もしたが、意識として固まりはしなかった。
「ここには、僕も奥さんもいました。なのに、彼女は先生を選んだ[#「先生を選んだ」に傍点]。先生でなくてはならない理由を探すべきです」
その通りだった。理由とは、考えるまでもない。テレポートだ。真吾の身に、超常能力をさらにパワー・アップさせる力でも備わっているのだろうか。
それはともかく、真吾が奇蹟を実現させたのは確かだった。三メートルの至近距離から、六発のマグナム弾を浴びて、すべて急所をはずしたのである。
萩生は、真吾の霊能的資質が働いて、無意識のうちに全弾をはずしたと軽く考えていたのだが、そこには、彼のテレポート能力にも関与する、より深い秘密が隠されているのかもしれない。
秒速三四〇メートル以上――マッハで飛来する弾丸をはずすとは、どういうことか。
方角を変えることだ。――真吾自身が移動することによって、相対的に弾丸の方角をずらすのである。
萩生の眼が壮絶な光を帯びた。
方角!? ――ひょっとしたら!?
期待が疲労し切った筋肉をカバーし、彼は立ち上がって、べッドのかたわらへ行った。
十数歩の移動で、考えは確信に変わっていた。
「聞こえるか?」
と真吾の耳に唇を寄せて訊く。
「君なら聞こえるはずだ。聞こえなくても理解はできるだろう。これから話すのは、私の考えた個人的仮説にすぎないが、十中八九、間違ってはいないはずだ。いいか――」
萩生は唇を|舐《な》めた。
「奴[#「奴」に傍点]がこの世界へやって来るには、通路が必要だった。その原理は不明だが、単なる空間より、人体内へ出現する方がたやすかったらしい。奴を阻止する唯一の方法は、その通路を破壊するしかない。私のテレポート能力をもってしても、空間そのものを消し去ることは物理的に不可能だった。だが、君の力を借りればできるらしい。どうすればいいのか見当もつかんが。……もし、君に私の声が聞こえたら、理解できたら――答えてくれ。どうすればいいんだ?」
返事はなかった。真吾は眉ひと筋動かさない。元来は|瀕《ひん》|死《し》の重傷なのだ。
萩生はため息をついた。
息は浅かった。
「酸素が切れかかっていますね」
と矢切鞭馬が面白くもなさそうに言った。
2
事態は切迫していた。
石造りの密閉空間に閉じ込められ、酸素は呼吸困難にまで減少し、脱出の手段もない。
萩生の体力回復だけが頼みの綱だが、こちらも悪化こそすれ、プラスの方向へ向かう様子はなかった。
「無駄かもしれませんが、レーザーでも放ってみますか」
鞭馬が石壁の方を向いた。
「萩生さん……」
亜衣が呼んだ。両眼がうるんでいる。
やさしく見つめてやるにも、気力が必要だった。萩生は何とかうまくやってのけた。
「私……何が何だか、まだよくわからないの」
亜衣の呼吸は荒い。
「……わけがわからないうちに、こんな風になっちゃって。でも……ひとつだけ、はっきりしているわ。ごめんなさい。あなたをこんなことに巻き込んでしまって……」
「それは、多分、逆だな」
と萩生はやさしく言った。
「この中で、馬鹿げたトラブルに関係ないのは君ひとりだ。何処かの誰かさんが、おかしな真似をしなければ、平穏無事な一生を過せたかもしれない」
鞭馬が小さな|咳《せき》|払《ばら》いをした。彼の前方にある石壁の表面は、素焼きの壺みたいに小さな穴が開いていた。
「今さらこんなこと言っても仕方がないけれど――怖いのよ……竜垣の家へ来てから、怖いことばっかり。自分でもよく|保《も》ったと思うわ。私……何度も東京へ帰りたいって……今度のことが片づいたら、本当に戻るつもりだったの」
「…………」
「でも、あの|夫《ひと》を見てたら気が変わった。放っておくわけにはいかないものね。やっと、本気で、腰を|据《す》えてやってく気になったの。……そうしたら、もうお終い。|可笑《お か》しいったら、ありゃしない……」
「まだ、何とかなるさ」
「気休めはやめて」
「そうでもなさそうですよ」
鞭馬の声が二人をふり向かせた。
「耳を澄ませてごらんなさい。――石を|除《ど》ける音がしている」
「あの|女性《ひ と》だわ!」
亜衣が歓喜の声をふりしぼった。
萩生にもわかっていた。
病院でやくざが|洩《も》らした女――白いスーツの美女だ。
いきなり、鞭馬が出入口と言った石壁の一部が後退した。
大きな弧を描いて奥の右側へ消え、動いた石壁と同じ形の空洞がぽっかりと口を開けた。
その真ん中に、|巨《おお》きな人影が立っている。
「――お|義父《と う》さま!?」
「竜垣さん!!」
男女の声を正面から受けつつ、竜垣善三はにっと笑った。
違う、と萩生は確信した。この男は善三さんではない。――ああ、とうとう、あなたまで…… 善三が近づいてきた。脅かそうとでもいうのか、ことさらゆっくりとした足取りである。
口から胸にかけて、青黒い鞭が|蠢《うごめ》いていた。
「見込み違いですね」
言うなり、鞭馬の肘掛けにくっついた青いレンズが光った。直径二センチのレーザー・ビームは、五〇〇メートル先にいる戦車の装甲も射ち抜いてしまう。
ぼっ、と善三の胸に光の球が吹き、青煙が立ち昇った。
善三の足取りは止まらない。
「鞭馬、危い!」
と萩生が叫んだ。
椅子に乗ったまま身動きできない鞭馬を押しつつんだ|体《たい》|躯《く》は、急に|痙《けい》|攣《れん》した。
誰かが背後から|掴《つか》みかかり、急速に引いたのだ。
レスラーのような肩にかかる手は、女性の|繊《せん》|手《しゅ》だった。
一三〇キロ近い善三の身体が軽々と持ち上がり、唸りをたてて前方へ跳んだ。青い煙の糸を引いている。
何とも言えない音をたてて、善三は背後の石壁へ頭から激突した。
「|祐《ゆ》|美《み》さん!?」
凄まじい怪力をふるった白い女の顔に、限りなく懐しいものを認めて、萩生は|茫《ぼう》|然《ぜん》と叫んだ。
矢切祐美の涼しげな表情を見るなり、鞭馬をふり返って、
「貴様――姉さんに何をした!?」
鞭馬の口元に悪鬼の笑いが浮かんだ。
「別に。ご覧の通りです。ただ、自由意志という奴を少々失敬してありますが。でないと、私の|尖《せん》|兵《ぺい》としての役に立ちません」
はじめて、萩生はこの教え子に殺意を抱いた。
「ほら――まだ決着はついていません」
萩生はふり向いた。
善三はこちらへ歩いてきた。
頭頂は陥没し、顔全体が|歪《ゆが》んでいる。右眼の眼球は半分ほど|眼《がん》|窩《か》から跳び出ていた。
善三が走った。巨体とは裏腹の猛スピードで宙を跳び、ベッドの真吾に迫る。
その背に白い影が躍った。
祐美の手刀が善三の|頸《けい》|骨《こつ》に吸いこまれるのを萩生は見た。
破砕音は硬い。善三の首は大きく斜めにかしいだ。
巨体が空中で半転した。背中から落下する。祐美を押しつぶす気だ。
白い影は、優雅とさえ言える動きで離れ、善三はひとりで石床に激突した。
すぐ立ち上がった。
祐美は萩生のかたわらに着地した。
跳ぼうと身構えるのを、萩生は手を引いて止めた。
祐美がふり向いた。
生気のないガラスのような瞳に、萩生の姿が映っている。
表情が動いた。
亜衣の悲鳴が空気を断ち切った。
善三はベッドまで一メートルに迫っていた。
萩生は前へ出た。
疲労など忘却しきっていた。真吾だけが救いなのだ。
ちらりと祐美の方を見て、彼はテレポートした。
真吾の|内部《な か》へ。
理由はわからない。|咄《とっ》|嗟《さ》の判断である。
そして、次の瞬間――彼にはわかったのだ。
真吾の内側から、善三の体内へ移動するのは極めて簡単だった。
内臓と覚しき、訳もわからない形状の器官の中に、それが見えた。
何もない空間から漏出した触手。奴の手だ。
問題はそれではなかった。そいつが出てきた何もない空間へ、萩生はそっと手を伸ばした。
一塊の塵と化して床へ広がった善三の姿を、鞭馬と亜衣は茫然と見下していた。
「やっとわかったよ」
二人の背後で、萩生が低い声で言った。
「真吾くんの内部へ移動したのも彼に招かれたんだな。教えたくても、口もきけないからだ。だが、ようやくわかった。私のテレポート能力に、真吾くんのバック・アップが加われば、ある方角[#「ある方角」に傍点]から奴の通路を閉じ得る。真吾くんは先天的に、その方角[#「方角」に傍点]を体内に有していたんだ」
亜衣はきょとんとし、鞭馬は、やっと気がついたのか、とでも言う風にうなずいた。
「真吾くんはもう狙われなくて済む。私はすでに彼|直《じき》|伝《でん》の『方角移動法』を心得ているよ。世界の危機にも応用できるだろう。だがその前に――」
「ご自分の|内部《な か》へ。――内なる旅ですか」
「そういうこと」
「無駄ですね」
あっさり言われて、萩生は|激《げき》|昂《こう》した。
「何が無駄だ?」
「あなたの体内に、触手はもうありません」
萩生は腹に手をあてた。何も感じられない。
「――先生を悩ませたかもしれませんが、夜汽車以来ここまで、先生の腹の中には僕の分身がいたのです」
萩生は声もない。
「あの看護婦をホテルへ運んだのも僕です」
「バラしたのもか?」
「はい。ですが、僕は父のような野蛮人と違ってまともな人間です。何もかも、先生に体内テレポートの一件を気づいていただくためにしたことです」
「どうしてもっと早く、直接に言わなかった?」
怒りを押し殺して訊いたが、本当に怒っているのかどうか、自信はなかった。
「お許し下さい。ひねくれ者でして」
それで終わりだった。萩生は疲れを感じた。
「だが、病院で君は知也子さんと関係していた。触手は一本きりだろう」
「あのときは、先生の腹から出しておきました。お気がつかれませんでしたか?」
「…………」
「幸い、僕の“通路”は、僕自分の力で|塞《ふさ》げます。この上、先生にご迷惑はおかけいたしません」
「ありがとう」
萩生は|憮《ぶ》|然《ぜん》と言った。
「それでは、出かけましょうか。世界とやらを救いに」
「君も手伝う気か?」
「今のところは、ね」
萩生は残る連中の方を眺めた。
「姉はじき元の人間に戻します。先生に生命があったら、会いに来てやって下さい。いま、わが社の係員を呼びました。みな、無事に保護されます」
萩生は苦笑した。
最後まで鞭馬と一緒だった。
「あの婆さんも君か?」
「一種の幻像ですが、仲々のものでしょう」
「亜衣さんとのことはどうする?」
「それも、生きて帰れたらの話で」
「ますます君がわからなくなった」
「では――」
鞭馬が、出入口の方を指さした。肩をすくめて歩き出しながら、萩生は自分がどちら側の人間か、よくわからなくなっていた。
3
石段を昇って外へ出た。
修羅山の頂きである。風が吹きつけてきた。|凄《せい》|愴《そう》な感じが萩生にはした。
「そう緊張なさらず」
と矢切鞭馬が声をかけた。実の父と戦うのも、この若者にはレクリエーション程度の事なのかもしれない。声は笑っていた。
これからどうする? ――と訊きかけ、萩生はかすかなエンジン音を頭上に聞いた。
ふり仰ぐと、暮れなずむ|蒼穹《そうきゅう》の彼方から、細長い黒点が三個、ヘリコプターの形をとって舞い降りつつあった。
「三矢グループの医療ヘリです。東京の大病院なみの設備が整っておりますよ。あのお二人については、どうぞご安心下さい」
「心配などしていないさ」
萩生は心の底から言った。
「恐れ入ります。――では」
「ところで、何処へ行く?」
「ひとつしかありますまい。そこで戦うことが竜垣一族への供養にもなります」
萩生はうなずいた。
テレポートの用意を整える。
鞭馬が不意に離れた。
坂の方へ車椅子ごと進む。どのような仕掛けか、凸凹の大地を走っても、微細な上下動も見せない。
困惑したまま、萩生も後を追った。
迫いつかぬうちに、鞭馬の方がふり向き、
「どうなさいました?」
と訊く。本気で不思議がっている。
「いや。――」
萩生は口ごもった。テレポートするつもりだったのだ。
「今度ばかりは、生きて還れるかどうか、僕にも自信はありません」
鞭馬は真剣な口調で言った。何処にでもいる、ごくありふれた高校生のような顔つきが、萩生の胸に沁みた。
この若者にも、こんな顔ができるのだ。
「では、どうするね?」
「親父と生命のやり取りをするのにふさわしい町とはいえませんが、何処かで一杯やっていきませんか。こんな気分のときは、あまり合理的に物事を片づけるのはよくありません」
それがテレポートを使わない理由なのだろう。案外、ムード派なのかもしれない。
「いいだろう」
萩生はじろりと教え子を眺めた。
「ただし、君はまだ高校生だ。アルコールと喫煙は厳禁する」
今回、萩生が鞭馬に|一《いっ》|矢《し》を報いたのは、これがはじめてであった。
あっけにとられたような表情をつくり、この奇怪な教え子は|瞬《まばた》きを繰り返した。
「しかし――それは……」
口ごもった。驚くべきことであった。
「君は私の教え子だ。教師はその全責任を負わねばならん。ソフト・ドリンクにしたまえ、いいな」
「しかし――あの……僕は……」
「コーヒーやコーラが毒になるわけでもあるまい。断っておくが、素行不良やアル中の相手をする気はない」
鞭馬の表情が崩れた。笑ったのである。さっきと同じ、高校生の顔で。
「わかりました。先生に|匙《さじ》を投げられては困ります。ですが――」
「ですが?」
「この状態で喫茶店というのもナウくはないのではありませんか。僕はこれでも、現代っ子のつもりですが」
萩生は少し考えるふりをした。
「これは本で読んだのですが、高校生ともなれば、みんな、親や教師に隠れて酒を飲むと。大人も黙認の形だと書いてありました」
鞭馬の口調に萩生はそっぽを向いた。吹き出しかけたのである。人間、意外なところに弱点があったものだ。
「それは小説の中の出来事にすぎない」
教師はにべもなく言った。
「つまりはフィクションだ。今の世の中では、どんな親も未成年には一滴のアルコールも許さん。見つかれば厳罰だ」
鞭馬の肩が落ち、彼は椅子の背にもたれかかった。
「そう――でしたか。僕としたことが、早とちりで。――失礼いたしました」
「しかし、まあ」
萩生は咳払いで笑いをごまかし、いかめしい声で言った。
「どこにでも例外はある。一杯ぐらいはよかろう」
鞭馬は身を乗り出した。
「まことに結構なことを。さすが名教師で」
「死ぬまで、君からお世辞を言われるとは思わなかったよ」
「とんでもない。心から尊敬申し上げております」
鞭馬の微笑に、萩生は肩をすくめて応じた。このやりとりを、あと何回つづけることができるだろう。
どちらからともなく、二人は歩きだした。
ヘリの音が耳触わりなほど鼓膜を打つ。
坂道を降りて、少し歩き、国道のバス停へ出た。
幸いバスはすぐにやって来た。
女車掌が鞭馬を見て困った表情をつくった。
「ご安心下さい」
どこをどう操ったのか不明だが、椅子が斜めにかしぐや、鞭馬は音もなく車内に乗りこんでいた。
茫然と立ちすくむ女車掌を、かがやくばかりの微笑が貫く。
人外の血が混った若者の|笑《え》みは天使に似ている。邪悪な天使だが、女にはそれが見抜けない。
車掌は陶然と笑み崩れた。
ハンド・レールに掴まって身を支えながら、我知らず唇を舐める。
鞭馬に他意がなくても、その微笑みは女のセックスを熱く溶かし、一匹の牝獣と変えてしまう力がある。放っておけば自慰にも走りかねない。
幸い、鞭馬はすぐに背を向けた。おかげで車掌は萩生に目もくれない。
陶然とした眼で鞭馬の方をチラチラ眺め、街へ着くまで、運転手と他の客から何度も苦情が出た。
二人が降りるときは、一緒に下車しかねまじき雰囲気であった。
ちっぽけな飲食店が並んだ繁華街の入口で、二人は周囲を見廻した。
「何処にします、お別れパーティは?」
「その辺でよかろう」
萩生は小さな大衆食堂を|顎《あご》でしゃくった。鞭馬に異議はなく、二人は古くさいガラス戸を開けて店内に入った。
一五坪ほどの店内には、他に二人の客しかいない。
カウンターの向うから、
「いらっしゃい」
スカーフで髪を束ねた中年女が声をかけ、鞭馬を見て立ちすくんだ。
「またか」
と萩生は嘆息した。
「これじゃ、何処へも出られんな。女たちが輪になっているところを探せば、すぐに見つかってしまう。一度、本場のアカデミー賞の会場へ連れていきたいものだな。ユニバーサル、パラマウント、二〇世紀フォックス――たちまちスカウト合戦の場と化してしまうだろう」
「何になさいます?」
鞭馬が訊いた。かたわらに、相撲とりみたいな体格の親父が立ちはだかっている。
ただでさえ|猛《たけ》|々《だけ》しい顔を鬼そっくりに歪め、二人をにらんでいた。
女房をたらしこまれたと思っているのだろう。当らずとも遠からずだ。
萩生は苦笑して、
「味噌ラーメンとギョーザを貰おう」
「僕も同じく。それと――ビール」
親父は、ひと言も発さず立ち去った。
「色男は辛いな」
と萩生はからかった。
「アカデミー賞へ連れて行く前に、亭主たちに千回も暗殺されてしまいそうだ」
「悩みの種でして」
鞭馬は抜け抜けと言った。これから二人のすることを考えれば、どう逆立ちしても出来る会話ではなかった。
萩生の神経も、この若者といると特別な電流が走るらしい。
親父がビールとグラスを運んできた。
どちらも派手な音をたてて置いた。ひびが入っても不思議ではない勢いだった。
「|時間《と き》が解決してくれる問題でもなさそうだな」
と萩生はビール瓶に右手をのばした。
「いけません」
鞭馬がそれを引ったくる。
次の瞬間、茶色の瓶は消え、萩生の左手の中に現われた。
「この程度の争いなら、私も自信があるよ」
今度は鞭馬が苦笑してのけた。
萩生はビールをつぎ、鞭馬がつぎ返した。
「君とこんな場所で一杯やるとは思わなかったよ」
「世の中は驚きの連続ですよ」
鞭馬は一気にグラスを干した。
萩生もひと口やると、
「何も訊かないのですか?」
と訊いてきた。
「何をだね?」
質問の意味が萩生にはわかりかねた。
「ビールの味はどんなだったとか」
「薬でも入れたのか!?」
思わず、グラスへ眼をやる家庭教師へ、鞭馬はやわらかく微笑して、瓶を取り上げた。
ひと口分注ぎ足しながら、
「先生といる間だけ、僕は人間らしい気分になれました」
生真面目な口調に萩生は驚いた。
この若者なりの感謝と別れの挨拶なのだろう。
黙って聞いた。
「先生にはご迷惑をかけっ放しでしたが、お許し下さい。しかも、最後までお付き合い願うことになりました。姉に叱られてしまいます」
「|祐《ゆ》|美《み》さんか」
懐かしいもののように、萩生はその名を口にした。
遠い名前だった。
「姉と会うと必ず先生の話題が出ました。いつも、お目にかかりたいと申しておりましたが――」
鞭馬の声を萩生は途中で|遮《さえぎ》った。
奇妙な教え子の眼を見て言った。
「もう一度訊くが――何のために戦う?」
「さて」
「姉さんのためか?」
鞭馬は無言だった。
「お母さまか?」
「わかりません」
違う、ではなかった。
本当にわからないのだろう。姉を戦う機械と変えながら、誰よりも愛している弟だ。
異世界の父の血を受け継ぎながら、こちら側の姉のために戦う。二つの世界を生きる男にも、苦悩で眠れぬ夜があるのかもしれなかった。
「おまち」
親父の声と、鉢の置かれる音が重なった。
湯気の立つスープの中に親指が入っている。鞭馬の鉢であった。
さっさと背を見せた巨体が、カウンターへ辿り着く|半《なか》ばで停まった。
絶叫を上げて、親父はのけぞった。
両手で白衣の胸をかき開く。白煙が立ちのぼった。
シャツの裾をめくり上げた途端、黄色と茶の混った液体が、勢いよく足元へこぼれた。
煮えたぎるスープと|麺《めん》であった。
うおおっと踊り狂う親父を尻目に、鞭馬が空っぽのラーメン鉢を見下ろし、苦笑した。
「先生――お気がねなく。それほどの世間知らずではありません。あの程度の侮辱には耐えられます」
「君は私の教え子だ」
鞭馬は何も言わなかった。
「腹ごなしとはいかないようだが、まあ、よかろう。――行くかね?」
「はい」
二人は立ち上がった。
勘定は萩生が払った。
店主の女房は、恐怖と欲情のこもった眼で鞭馬を見つめていた。
第九章 破滅への|跳躍《テレポート》
1
外へ出て歩いた。
どちらの頬もかすかに赤い。酔いの廻った身体に、北の風がここちよかった。
一分ほどで、萩生は異常に気づいた。
通りのあちこちに黒い塊りが倒れている。
人間だった。
酔っ払いではない。原因は明らかだった。
妖気が吹きつけてくる。
|溜《たま》っているのではない。道の向うから吹きつけてくるのだ。
その先に、竜垣の家があった。
すぐ近くに倒れている一人へ、萩生は駆け寄った。
脈をとり、|瞳《どう》|孔《こう》を調べる。
極度の衰弱状態としかわからない。
竜垣の家で、何かが起こりつつあるのだ。
萩生の視界を闇が覆った。
妖気は着々と侵略を果たしつつある。
左手首に冷たいものがあてられ、意識は急速に復帰した。
ふり向くと鞭馬の肘かけに、白いチューブ状のものが吸いこまれていくところだった。
「三矢製薬で開発した妖気対抗剤です。完全とは言えませんが、衰弱死は免れるでしょう」
そう言う鞭馬の顔にも汗の粒が浮かんでいる。
「どうなさいます? もう、うちの救護班には連絡しましたが、テレポートで病院へ送られますか?」
「いや」
萩生は首をふった。いつになく力強いふり方であった。
「真っすぐ、地下の|祈《き》|祷《とう》場へテレポートしよう。奴の妖気はますます強まっている。一秒も惜しい」
「ビールを飲んでる場合ではありませんでしたね」
「あれは楽しかったよ」
「恐れ入ります」
「行くぞ」
「幸運を」
萩生は鞭馬の椅子に手をあてたままテレポートした。
妖気は重合空間にも充ちていた。
凄まじい戦慄と吐き気が襲う。
それでも、やり遂げた。
地下室へ着くと同時に、どっと妖気が吹きつけてきた。
萩生は必死に悲鳴をこらえた。
視界を|蠢《うごめ》く蛇が埋めていた。
奴だ。――思う暇もなく、ねっとりした感触が四方から襲った。
「鞭馬!?」
「ご心配なく。自分の身は自分で守ります」
冷やかな声を触手が遮った。
ここは鞭馬を信じるしかない。というより、構ってはいられなかった。
喉と腰に奴の手を感じたとき、萩生はテレポートした。
気がつくと、エレベーターの中にいた。
醜態に、萩生は愕然となった。
奴の内側へ忍び込むつもりが、どうして?
問う必要はなかった。答えはわかっていた。怖かったのだ。
体内テレポートはやれる。だが、あいつの中へ入るのは別だ。
全身の毛が音をたてて直立するのを萩生は感じた。
あの晩――MIT(マサチューセッツ工科大学)の実験室に、荒涼たる別の世界が出現したとき味わった気分である。
奴はそこにいた。
たったひとりで。
その世界のはじまりからあり、終末にも離れぬ邪王。
世界を触手で埋めつくした存在。
その妖気を味わっただけで、同行のボーモント教授はやがて死亡し、萩生自身も廃人寸前までいった。
恐怖が一気に頂点へ達した。
発狂だ。
萩生の中で、何かが|弾《はじ》けとんだ。
落ち着きが戻る。
鞭馬に与えられた麻薬のせいだろう。
やれるかもしれない。
音もなく、触手が萩生の身体に触れた。
その寸前、|蠢《うごめ》く一切が消滅する。
おびただしい萩生が空中に出現し、触手に触れて廻ったのだ。
それでもなお、壁の一点から悪夢はせり出し、ことごとく無限の空間へ葬られた。
突然、萩生は独りになったのを知った。
無機質の壁が灰色の気配をまとわりつかせてくる。
「鞭馬」
声は萩生の周囲にのみ反響した。
奇怪な教え子は消失していた。
逃げたのか? 何処とも知れぬ魔界で、実の父と異形の戦いを繰り広げているのだろうか?
萩生は出現地点の壁に歩み寄った。
通路はその奥にある。
テレポートで追うのは簡単だ。
だが――逃げたのならば、追撃の必要はないのではないか。
安逸へ向かおうとする意識を、萩生は強引にねじ曲げた。
超能力を有してはいても、精神は並みの人間にすぎない。これまでの戦いで、萩生は身に沁みていた。
本来、あのような形[#「形」に傍点]と気配[#「気配」に傍点]の存在とやり合うこと自体が無理なのだ。
人間にはあらゆる面で限界がある。その種が根源的にもつ「|器《うつわ》」というべきかもしれない。
あらゆる現象は、その限界を「地球」と定めている。
人間はなお、海の謎を知らず、大気圏内をすら、事故無しで移動することはできない。ジャンボ機は墜落し、スペース・シャトルは消えた。
恐怖もまた。
この世ならぬものを見て正常を維持できるよう、人間の精神はつくられていないのだ。
萩生はそれを克服しなければならなかった。
手で額を|拭《ぬぐ》った。
びっしりと汗がこびりついていた。液体の被膜に覆われているようだった。心臓の鼓動も浅い。へたり込み、自己崩壊を起こしてもおかしくない心境であった。
壁にもたれ、萩生は呼吸を整えた。
右手で股間をまさぐる。
性器は縮み、こわばっていた。
力を入れて|揉《も》んだ。
丸二分、揉みつづけた。
こわばりは取れなかった。
ため息をついて、萩生はあきらめた。
なぜ、こんな風になったのかと思った。
テレポートのせいだ。あのような実験に首を突っ込みさえしなければ、教授も死なず、自分も栄光の路を歩いていたに違いない。
馬鹿なことを――凄まじい自嘲が湧いた。
萩生は眼を押さえた。
あの光景が蘇ってきたのだ。
限りなく広がる虚無の空間。そのすべてにみなぎるあいつ[#「あいつ」に傍点]の妖気。
ああ。
片手で萩生は肩を抱いた。身体は震えていた。乾いた音がした。壁に触れた部分がコンクリートの上で躍っているのだろう。
萩生は上衣のポケットに手を入れ、皺くちゃになったハイライトとライターを取り出した。
百円ライターは、みっともないからやめてくれと、何度も芳恵がクレームをつけていたものだ。
それでも萩生が使っているのを見て、芳恵は純金のダンヒルを買ってきたが、それは机の引出しに放り込んで、萩生は相変わらずプラスチックの安物に固執している。
一本を取り出し、|咥《くわ》えて火をつけた。
いがらっぽい煙を肺に吸いこんだ途端、萩生は似たような光景を憶い出した。
紫色の顔を恐怖に震わせながら、萩生が与え、火をつけた煙草の煙を吸いこむ老教授の姿。
あそこから生還し、病院へ担ぎ込まれる廊下の上で、ボーモント教授はこう言ったのだった。
「わしは……後悔はせん……これから自分がどうなるかわかっておるが……決して後悔などせんぞ……これは、これは、人間の領域を……広げる貴重な……試み……」
煙草が唇から離れた。青い糸を引きつつ床へ落ちる。
教授はつづけた。
「……戦うのだ……」
青い、生気のすべてを根こそぎ奪われた瞳が、萩生の顔を射た。
「……戦え、萩生……|人間《ひ と》は、限界を越えねばならん。……現在の種の限界を脱するには……立ち|塞《ふさ》がる恐怖も……人間が耐えられるものでなければ……ならん……我々は……それをした……戦うのだ……恐れてはなら……ん……私も、これからの運命を……」
そして、教授は顔を伏せ、二度と口をきかなかった。
最後に何を言いかけたのか。――その謎が長いこと萩生の胸を占めていた。
萩生は煙を吐いた。
やっとわかった。
ボーモント教授は戦おうとしていたのだ。死を選ぶ運命を知りながら、最後まで戦い抜くと、断言しかけたのだ。
だから、次の日から果敢に教壇へ立った。
教授は死んだ。
だが、それがどうしたというのだ。
教授とおれのしたことは、人類がやらねばならぬ実験だったのだ。
そこに奴が立ち塞がった。
当然だ。
奴は人間が|斃《たお》さねばならぬものだったのだから。
奴が現われたのではない。人間が、おれたちが招いたのだ。昇るべき山、渡るべき海のように。
萩生は納得した。
越える。おれは断固として、奴の恐怖を越えてみせる。それが、おれの仕事だ。誰か[#「誰か」に傍点]に、何か大きなものに与えられた任務なのだ。
ボーモント教授は死んだ。
おれはその代わりに戦わねば――いや、乗り越えねばならん。
では、鞭馬は?
萩生は首をふった。
彼の役目がわかるような気もしたが、その考えが固まりかけると、おぼろげな影のように薄れ、拡散してしまうのだった。
萩生は肩を見つめた。
静かに壁についている。
恐怖は消えていた。
――いくぞ、鞭馬。待っていろ。
萩生は壁を離れた。
2
壁から何かが放たれたのは、次の|刹《せつ》|那《な》であった。
凄まじい物理的衝撃が全身を跳ねとばし、萩生は地下室を吹っとび、後方の|瓦《が》|礫《れき》に背中から激突した。
かろうじて頭の打撃だけは避けたが、全身が|痺《しび》れた。
それよりも――
萩生は地べたに|尻《しり》|餅《もち》をついた。
形容し難い恐怖が無気力を呼んでいる。――「意欲」が根こそぎ喪失してしまったのだ。
予想もしなかった思念の衝撃だった。
異次元の憎悪が凝集し、物理的硬度さえ伴って直撃したのである。
次に食らったら、ショック死してしまう。
敵はこちらの弱味を十分に心得ていた。
壁の向うに気配が動いた。
何かが飛来する。
それが壁を抜け、眼前へ出現した刹那、萩生は左手を上げた。
ずぶり、と粘塊にもぐりこむ感触。
総毛立つ。
次の瞬間、消えた。
壁の上で何かが砕け、萩生は激しくむせた。破壊された悪念が、毒のように空気を腐らせたのだ。
肺が焼け、息が燃えた。
一瞬、窒息状態が萩生を襲った。
次の瞬間、新鮮な空気が肺に流れ込んでくる。
成功だった。
悪念の毒ごと、地下室の空気をテレポートしてしまったのだ。
萩生は立ち上がった。
骨がきしむ。腹の中から固いものがせり上がり、喉仏を押した。
我慢せず、萩生は吐き出した。足元の床にどす黒い塊りが飛び散った。血塊であった。肺をやられたらしい。
その分、頭がすっきりした。
――やるか。
覚悟が決まった。
さほどの悲愴感もなく、萩生はテレポートした。
奴の出入口へと。
奇怪な空間に萩生はいた。
異和感は湧かなかった。
気分は不思議なくらい|静《せい》|謐《ひつ》であった。一度、死にかかったからかもしれない。
周囲には虚無があった。
何ひとつ――自分を含めて何ひとつ存在しないことがはっきりとわかる。そのくせ、何処か近いところで、巨大なものが脈動していると、神経が告げてくるのだった。
奴だ。
萩生はすべての意識を|研《と》ぎ澄ませ、その位置を探ろうと努力した。
存在しながら存在せず。
遠くにありながら極めて近い。
いた!
空気がのたうっていた。
|熾《し》|烈《れつ》な戦闘の故であった。
萩生には理解もできぬ者同士の戦い――鞭馬と父だ。
萩生はその方向へ移動した。
見えた。視覚にではなく、思考の内側に。
恐ろしく鮮明な世界図であった。
実に、萩生は一瞬のうちに、その空間の構造を理解していたのである。
奴がいた。
言いようのない広がりと形状を持つ世界の中心に。
激しい苦痛の波が伝わり、萩生は空間内で身をすくめた。
手や足に鋭い痛みがある。
肌の上をねっとりした感覚が這った。
服は切れず、内側の肉だけが切断されているのだ。別の存在の苦痛で断ち切られると、こういう風になるのかもしれない。
世界は触手で埋もれていた。
生けるロープの渦だ。
そのどこかにもうひとつ、|清《せい》|冽《れつ》ともいうべき気配が移動しつつあった。
「鞭馬!」
萩生は思わず叫んだ。
応答はない。わずかに、こちらへ向けた意識の波が萩生の脳を叩いた。
懐旧をあたためている場合ではないだろう。
「今行くぞ、そこにいろ」
念じて、萩生は移動した。
心臓が凍りつく。
奴の憎悪の放射だった。
だが、先刻の毒は薄い。鞭馬との死闘に集中しているのだろう。何とかかわせる。
萩生は移動した。
奴に本体はなかった。
触手のみが世界の中央に存在し、のたうつロープのつけ根に、器官らしい組織は見当らない。
右も左も上も下も触手だった。
萩生の意識は、しかし、何処かで消滅している分を知覚していた。
パリを、ベニスを襲っているのだろう。
そのうちのいくらかは、竜垣の地下室につづいているはずであった。
触手が押し寄せた。
うねくる|怒《ど》|濤《とう》である。
世界の襲撃であった。
萩生はにっと笑った。
両手両足を思いきり広げる。
触手が全身を押しつつんだ。
ことごとく消えた。
また、来た。
それも消滅した。
襲来。
消滅。
襲来。
消滅。
果てしないその繰り返し。
ある響きを萩生は耳にした。
苦鳴であった。
――貴様……ヨクモ……
言葉と化した怨念を萩生は理解した。
歓喜が胸をついた。
やったのだ。
自分に襲いかかってきた触手を、彼はことごとく、奴の体内へ送り返してのけた。
無論、正確な位置決定は難かしい。
萩生は世界の中心へ、ひたすら攻撃をつづけたのだ。
――やりましたね、お見事。
皮肉っぽい声が耳元でした。
ふり向いた。
誰もいない。
蠢く触手。それだけだ。
「鞭馬――何処にいる?」
声に出して訊いた。
――何処にも。
返事は短かく、低い。萩生は胸を突かれた。
「負傷したのか?」
――お気がねなく。何とかなりますから。
弱味を認めるような弟子ではない。
「下がれ」
萩生は命じた。自分でも思いがけないほど切迫した声であった。
――心配して下さるので?
「教え子だからな」
――恐れ入ります。
「いま、君に死なれては困る」
哀しみのようなものを感じながら萩生は言った。
「この世界へ入りこんだ途端、私には世界のすべてが見透せた。君のおかげだろう。いなくなれば盲目だ」
――では、早目に片をおつけ下さい。
この男には珍らしく、怒りがこぼれている。負傷はかなりひどいらしい。
また、触手が来た。
萩生は手を触れた。
消えなかった。
一瞬のうちに、彼は巻き取られていた。
おぞましい感覚に発狂しそうになる。
病的な蛇嫌いが数千匹の大蛇の巣に落ちた感覚だ。
3
萩生は悲鳴をあげようとした。声は出なかった。おぞましすぎるとそうなるのだった。
発狂するのがわかった。
理性が急速に喪われ、混沌が腹腔を満たす。
萩生は笑いだした。
呆れるほどの大声で笑う自分をおぞましいと思いながら、笑いは止まらなかった。
その全身に、青黒い蛇が絡みつき、這い、絞めつける。
萩生の声はさらに大きくなった。
斬られるように消えた。
触手がわなないた。
せっかく捉えた獲物が、突如、消滅したのに気づいたのである。
萩生は首筋に冷たいものが押しあてられるのを感じた。
高圧ピストンを使って、体内へ薬液を送る注射器を手に、鞭馬は苦笑した。
「厄介な先生だ。あれほど気をつけろ、と言ったのに。この薬は安くない」
|月《げっ》|賦《ぷ》にしてくれ、という言葉を、萩生は呑み込んだ。まだ、気が狂っているのかもしれない。
「テ……テレポート……が、通じなかった……」
口を突いたのは、この言葉であった。
「困りましたね」
鞭馬は困った風もなく言った。
「向うも対抗策は考えているようだ。さすが、僕の親父です」
「このままじゃ、体内へテレポートできんぞ」
「そのようです」
「どういう理屈だ?」
「空間閉鎖でしょうね。親父の身体を別種の空間でコーティングしているのです。これは、先生が移動する際の多重層空間とは構成素粒子が似て非なるものです」
「どうすればいい?」
「コーティングを|剥《は》がす」
「それをどうやるか、だ」
四方から触手が襲いかかってくる気配を感じて、萩生は身を固くした。
「ご安心下さい。私たちの空間を同じ方法でコーティングしてあります」
萩生はふり返ろうとしたが、身体が動かなかった。
鞭馬の顔を見ることもできない。
「それなら、破り方もわかるわけだな。――何とかしろ」
珍らしく沈黙があった。
「どうした?」
萩生はいらだっていた。
「少々、手間がかかります。使用材料も高価になりますが」
「ツケにしておいてくれ」
「承知いたしました」
鞭馬の離れる気配があった。
周囲で蠢く触手を萩生は見た。触れているのに、接触感はない。
安堵が冷汗となって流れた。
コーティングの力だろう。鞭馬なら、それを剥がすこともできるはずだ。
周囲の触手が、突如、動揺した。そろってわななきつつ、中央部へ逆進する。
異常発生だ。
鞭馬がやってのけたのだ。
萩生の頭に、それを証明する苦痛に|充《み》ちた思念が届いた。
――鞭馬……貴様、ヨクモ、父ヲコンナ目ニ会ワセタナ……
今だ。
萩生は全精神力を集中して、テレポートした。
奴の出かかっている空間へ。
竜垣真吾が生まれつき有していたある方角――それだけが、異次元の出入口を消滅させうるのだ。
その方角への移動を、萩生はすでに身につけていた。
移動地点は触手の群れの中心だった。
天も地も、のたうつ青黒い鞭に埋め尽されていた。いや、天地が蛇であった。
再び狂いかかる精神を|叱《しっ》|咤《た》しつつ、萩生は出入口を求めて移動した。
それは、何処とも特定できない|場所《ポイント》にあった。
形も大きさも定かではない。だが、萩生には、奴が出て行きかけているのが、はっきりとわかるのだった。
「いよいよ、詰めだな」
萩生は声に出して呼びかけた。
――貴様……帰レ
思念は苦しげであった。
その途端、萩生の胸を不可思議な感情が横切った。
情愛の念に近いものだと知って、彼は眼を|剥《む》いた。
「そうはいかん。おれの世界を守るためだ。おまえは、何処か別の国へ行くがいい」
――……戻レ。ワシノ国へ近ヅクナ
|憐《れん》|憫《びん》の情が萩生の胸に湧いた。
もし、彼らが侵入しさえしなければ、奴は世界の王として、ただひとり、孤独な君臨をつづけるはずであった。
これからの運命は、萩生たちを見て生じた好奇心の結果だったろう。
おまえも私も同じだな、と萩生は|憮《ぶ》|然《ぜん》たる思いに捉われた。
どちらも、新しい世界をのぞき、その種の可能性を広げようとする知的好奇心によって動いたのである。
私は、おまえこそ人間の可能性を飛躍的に増大させるための、克服すべき障害だと思っていた。奴は何者かに障害役を押しつけられて、我々の前へ立ち|塞《ふさ》がったのだ。
ところが、ひょっとすると、新たな進化のチャンスは奴にも与えられていたかもしれないのだ。
その場合は、我々が奴のための障害になる。
そうなのだ。
奴もまた、高次の存在たるべく飛翔したのではないか。
こちら側にもたらす破滅こそ、奴にとって新たな次元への移行条件だったのではないか。
「悪かったのは、こちらかもしれんな」
萩生はそっとつぶやいた。
「どうだ、今からでも遅くはない。おまえを探して退治しようという豪傑はいまい。世界の所有はひとつに留めておけ」
通じるかどうかも知れぬ呼びかけであった。
応答は――あった。
――失セロ。コノ世界カラ。イツカ必ズ、ワシハオマエタチノトコロヘ行ク
交渉の余地もない憎悪の思念であった。
全身に|粟《あわ》を生じさせつつ、萩生は断念した。
移動した。
出入口の方へ。
そして――真吾の|委《ゆだ》ねた方向へ、彼はそいつと出入口をテレポートしたのである。
異世界にあった奴の身体は忽然と消滅した。
空間だけが残ったのを萩生は感じた。
あっけない終わり方と言えた。
竜垣真吾がすべての鍵を握っていた。
人類の運命を支えるという認識が、過去の彼に時間を越えて、現在の萩生の姿を目撃させたにちがいない。
何にせよ、戦いは終わった。
格別の感慨も湧かなかった。激しい疲労が、細胞に染み込んでいく。
戻ろうとして、萩生は、ある顔を憶い出した。
もうひとり――世界を救った異世界の妖人を。
いま、はっきりと、萩生には彼の役目を認識することができた。
萩生たちの世界を救う助っ人――ではない。
橋渡し役だ。二つの世界の。
萩生にも異次元の父にもできぬことを、この若者は平然とやってのけたではないか。
二つの世界の行き来――萩生の力だ。
あの奇怪な発明品の数々――父の力だ。
二つの世界の可能性を供に備える存在として、彼はいた。
事によったら、高みへ昇るべきは、鞭馬だったのかもしれないのだ。
「――鞭馬、どこだ?」
萩生は絶叫した。
応えはない。
あらゆる気配の消滅した世界に萩生はいた。
鞭馬
鞭馬
鞭馬
あどけない笑みが頭の片隅に浮かんでいた。妖鬼の微笑が。
家族を失った哀しみが萩生真介の胸を充たした。
敵の空間コーティングを解くべく出動したとき、彼の力は限界に達していたのではないか。
ひょっとすると、おれは、人類の巨大な可能性の芽を|摘《つ》んでしまったのかもしれない。
それは、後悔というより恐怖だった。
「鞭馬」
もう一度、萩生は呼びかけた。
失われた教え子を求めて、彼は虚無のただ中を、いつまでもさまよいつづけるのだった。
あとがき
この「淫闘篇」をもって、「妖戦地帯」シリーズは完結いたしました。長い間のご愛読を感謝します。
打ち明け話をしますと、私は一作でこのシリーズを終わらせるつもりでした。
瞬間移動――テレポートという主人公の能力の活かし方が、よく|掴《つか》めないのです。
あれは本来、攻撃能力ではなく、逃げる手段だからです。
そのために、主人公の萩生も生身の人間に近くなりました。
私の主人公の中で、相手を見てビビるのはこの塾教師だけです。もっとも、こんな生物が相手じゃビビらない方がおかしいという意見もあるでしょうが、超常能力の持ち主とはいえ、主人公がこう臆病では話にならない。
で、盛り上げ役のサブ・キャラクターとして、矢切|鞭《べん》|馬《ま》が登場しました(以前、何かの雑誌で彼のことを『むちま』とルビがふってあったが、勘弁して欲しいよな。ぽってりしたでぶ[#「でぶ」に傍点]を想像してしまうじゃないか)。男の甲斐性から言えば、萩生より千倍くらい上の若者で、私はこっちの方がよっぽど気に入りました。
正直に言うと、この若者の魅力に引かれて何とか三冊、|保《も》ったようなものです。
で、異次元の妖鬼ですが、これは、色々指摘されているように、H・P・ラヴクラフトの作品「ダンウィッチの怪」(これを何のつもりかダニッチ、ダニッチと言い出した奴がいてさ、アメリカのSF大会出て、ダニッチと言っても、まるで通じない。挙句はダン・ウィッチと、わざわざ区切られて発音を教えられ、えらい恥かいた。誰のせいだ、くそ)からイメージを借りました。さすがに照れ臭いと思ったのか、二作目以降は、「ロープ」より「触手」と記述する方が多くなっています。
この小説に出てくる怪物は、鞭馬同様、異次元の妖怪と人間の女との間に生まれた双子の化物の片割れなのですが、ラストでチラリとその姿を見せます。
具体的に言うと、ひどく太いロープが何千本も|絡《から》みついた身体の上に、巨大な人間の顔が乗っているという、もの凄いが何処か滑稽な奴で、さすがにラヴクラフトは、これを真っ正面から描写せず、登場人物のひとりに語らせ、かえって凄味を盛り上げるのに成功しています。
私は必ずしもラヴクラフトのよき読者ではありませんが、「ダンウィッチの怪」は、彼の作品中最も好きな一本のため、「妖戦地帯」三部作は、私の「ダンウィッチの怪」へ捧げたオマージュと解していただいて結構です。
例えば、第一作で、伊豆にある矢切家の別荘を訪れる主人公が途中で見る荒涼たる風景は、ダンウィッチ村の周辺はこんなものだろうと、勝手に想像して書いたものですし、鞭馬が車椅子に乗っているのも、双子のもう片方、ウィルバー・ウェイトリー君を、現代の都会で無理なく移動させるには、これに限る、と考えたからです。
ウィルバー君というのは、兄貴分の方で、弟よりも人間の血が濃いため、三メートル近い身長ながら、しょっ中、|他所《よ そ》の村や町に出かけて|顰蹙《ひんしゅく》を買っている人物です。彼はやがて、異次元の悪鬼をこちら側へ招喚させる呪文を記したかの名高い魔道書「ネクロノミコン」を盗み出そうとして、番犬に食い殺され、服の下の醜悪な姿を人前にさらします。こういうタイプは、相手を油断させるためにも、車椅子でウロチョロするのが最適といえるでしょう。
一年一冊の割りで三冊(この三冊目は本来、去年の十二月に出るはずでした)ものしてきましたが、これでおしまいとなると、いささか感傷めいたものがないでもありません。書き足りなかったこと、書きたくても力が足らず、筆が進まなかったところ等々、いくらでもあります。ですが、不満を全て呑みこんだ上で、私は「妖戦地帯」が気に入っています。どうも気に入らなかった萩生真介にも、愛着が湧いておりますし、異世界の妖魔にさえ、エールを送りたい気分です。
いつか、また、彼らと会うことがあるでしょうか。
[#地から2字上げ]一九八八年一月十一日……
なに、ページが足りない?
仕様がねえな、もう。
では――
THE ATOGAKI HAS RISEN FROM THE ATOGAKI
帰ってきた「あとがき」
昔、「スリラー(THRILLER)」という番組があった。六〇年から六二年にかけて、米NBCから放映された六〇分の恐怖シリーズである。全六七本。
目下、資料が散逸していて(といっても、家の中でだけだが。引っ越しの後遺症である)確かめられないが、確か10チャンネルで放映していたと思う。
「フランケンシュタイン」一作でホラー映画のキングにのし上がったボリス・カーロフがホスト役を担当。一作ごとに趣向の違った恐怖物語は、まだ小学生だった私を大いに喜ばせてくれたものだ。テレビで怪奇恐怖映画なんて、夢みたいな時代だった。
ただし、このシリーズ、「スリラー」というタイトル通り、すべてが超自然の恐怖を扱ったホラーだったわけではない。
古城の相続者が、ある晩、妖怪らしき連中に襲われ、井戸へ突き落とされて、命からがら這い上がったら、そいつらが遺産を狙うギャングと判明した――なんて話もかなり多くあった。御大ボリス・カーロフ直々の出演によるポー原作「早過ぎた埋葬」の変型版――仮死状態の夫を生き埋めにした|姦《かん》|婦《ぷ》と間男(古いね、私も。今なら不倫妻とジゴロか)を、死者の顔からとったデス・マスクをつけて脅かす――も、その中の一篇である。
しかし、なんてったって、私が胸をときめかせたのは、タネ明かしのないスリラー――ホラー映画であった。
今観返したら、案外つまらないと思うかもしれないが、記憶によれば、キラ星のごとき傑作が並んでいる。
人里離れた灯台だか古城だかにある呪いのかかった鏡のエピソード「|人を食う鏡《ハングリー・グラス》」(主演は『スター・トレック』のカーク船長ことウィリアム・シャトナー)、ゾンビを発明した化学者の物語「THE INCREDIBLE DR. MARKESAN」(邦題不詳)等、再見してもかなり怖そうだ。
そんな中で、心底私が震え上がったというか、うん、凄い、と唸ったのが、「シェーン」の名子役ブランドン・デ・ワイルド主演、TV「世にも不思議な物語」のホスト役ジョン・ニューランド監督の一本「|鳩は地獄から来る《ピジョンズ・フロム・ヘル》」であった。ホラー好きなら、ここからもうひとりの人物の名を挙げられるだろう。原作ロバート・E・ハワードである。
これを観たのは、実家の食堂が休みだったか、閉店したか――とにかく、座敷の真ん中に置かれたテレビを、私は人気のない店のこれも真ん中で、ぽかんと観ていたのである。
ハワードの原作は新人物往来社刊「暗黒の祭祀」に収められているが、TVの方は六〇分枠に合わせてうまく脚色してある。
ブランドン・デ・ワイルド扮する若者が、旅の途中、兄と古びた屋敷へ泊るが、そこには何故か鳩が群っている。その晩、二階から響く声に誘われるように兄は消え、つづいて巻き起こった絶叫に駆けつけた弟の見たものは――暗闇からゆっくりと近づいてくる影。それが次第に人間の形をとり、兄の顔となる。だが、その頭部はぱっくりとはぜ割れ、血まみれの手に鋭い|斧《おの》が握られているではないか!
何故、私はびっくり仰天したのか?
死人が生者を襲うという事実も凄かったが、助け合うべき兄弟同士が加害者と被害者に分かれたせいであろう。気心の通じた近親者が、突如、悪鬼に変わる――ホラーの|醍《だい》|醐《ご》|味《み》である。
弟は必死で屋敷を飛び出す。その後を兄が斧を持ったまま、階段を降りていく。追っかけていくのである。これも怖かった。執念の勝利だ。
やがて、弟は保安官に助けられるが、事情を話しても信用されないどころか、兄殺しの容疑者にされてしまう。二人は屋敷へ。
この辺で、母親がいつのまにか私のそばに来ていた。この|女性《ひ と》も滅多にホラーは見ないが決して嫌いじゃない。私に多少なりとも文筆の才があるとすれば、この女性のおかげである。
兄の死体は一階の広間にあった。
斧を握ったまま、うつ伏せに倒れている。保安官が死体を調べ、斧を掴んだ手を持ち上げ、何気なく離す。
次の瞬間、私の心臓は縮み上がった。後で母親は父親をつかまえてこのシーンのことをきかせていた。
床へ落ちるべきはずの手は、勢いよく戻り、再び斧の柄を握りしめたのである!
一見、単純なシーンだが、この事件の裏に超自然の怪が潜んでいると一発でわかる。こういうのがホラーの醍醐味なんだがなあ。
さすがの石頭の保安官も怪しみ出し、当然、邸内を調査しようと言い出す。ところが、二階のある部屋のドアを開けると、懐中電灯がすうっと消えてしまうのだ。そこから出ると元通り輝く。ぞー。
こうして、二人は、この屋敷の由来を知っている黒人の老農夫のもとを訪れる。それによると、屋敷には三人(だったと思う)の姉妹がいたが、召使いの女への扱いが残忍を極めた。怒り狂った彼女は、その老黒人のもとへ来て、自らを不死者とし、死人をも自由に操る術を学んだのだ。ここまで打ち明け、老黒人は、突然、毒蛇に噛まれて死ぬ。呪いである。
後はクライマックス。
若者と保安官は屋敷で一夜を明かそうと決心。ところが、夜、若者が起きてみると、保安官の姿はない。
私はてっきり、やられた、と思ったね。
あわてた若者が壁に頭を打ちつけ、意識|朦《もう》|朧《ろう》としているところへ、あの奇妙な音。
術にかかった若者は、兄と同じく、ゆっくりと二階へ昇る。行手には長く|昏《くら》い廊下の闇。
そして、その奥から、ゆっくりと別の人影が……
斧を手にしたザンバラ髪の老婆――これが召使いの成れの果てだったのだ!
もう、ギエーである。
若者の頭へ斧が打ち下ろされんとする寸前、BANGと一発。物陰に隠れていた保安官の拳銃が火を吹いた。
老婆は例の部屋へ逃げる。踏みこんだ保安官と若者が見たものは、老婆の死体と、頭を叩き割られた三姉妹の|髑《どく》|髏《ろ》だった……
いやー、怖かった怖かった怖かった。
あんまり怖すぎて、あちこちで喋べったものだから、友人のひとりが堪りかね、アメリカからダビングしたテープを持って来てくれた。
というわけで、今でもあるよ[#「あるよ」に傍点]、と、私はこれが自慢したかったのですよ、ハハハ。
ところが、ある上映会にこれを貸し出したところ、後で、
「退屈のあまり眠ってた奴もいた」
とあんまりな話をきかされ、あまつさえ、同時上映のH・G・ルイス「|血しぶきの魔術師《ウィザード・オブ・ゴア》」を、
「あれは評判よかったですよ」
と、こうなっては、おれは時代の子じゃねえや、と居直るしかない。
先行していたロッド・サーリングの「トワイライト・ゾーン」やJ・ニューランドの「世にも不思議な物語」「ヒッチコック劇場」等のエキスを吸収合併してホラーとスリラー――つまり怪奇映画と犯罪映画の並立を目ざした「スリラー」ではあったが、やはり|折衷《せっちゅう》案はうまくいかず、アメリカでも二シーズンで打ち切りとなった。
それでも、ホストの生ける(当時)伝説ボリス・カーロフを観られただけでも、視聴者は幸運だったというべきだろう。
脚本に「サイコ」の原作者ロバート・ブロックを迎えて自作の「切り裂きジャックはあなたの友」を脚色させたり、同作の監督を俳優(だと思う)のレイ・ミランドが担当していたり、これも女優のアイダ・ルピノ(往年の美人女優。「画家とモデル」「ジュニア・ボナー」「巨大生物の島」等に出演。五〇年から監督を手がける)が「TRIO FOR TERROR」というオムニバスを演出したり(この第一シーズン三七本中の二五作目をもって登場したルピノは、以後もひっきりなしに演出を担当し、第一シーズンはもう一本、六一年から六二年にかけての第二シーズン三〇本中では、なんと六本の監督をつとめている。なんじゃ、こりゃ?)意欲的なシリーズであった。出演者もレスリー・ニールセン(「禁断の惑星」「クリープ・ショー」=妻と恋人を海辺で溺死させ、それを逐一モニターで見てた性格の悪いおっさん)、メリー・アスター(ハンフリー・ボガート主演「マルタの鷹」のブリジッド・オショーネシー。ジューン・アリスン、エリザベス・テイラー主演の「若草物語」のお母さん)、ロバート・ボーン(「ナポレオン・ソロ」「ブリット」)、ジョー・ヴァン・フリート(「エデンの東」でジェームス・ディーンの母親を演った)、ジョージ・ケネディ(「大空港」角川映画「人間の証明」の刑事役)ら、中堅、ベテランが多いし、演出にはアーサー・ヒラー(「ある愛の詩」「ラ・マンチャの男」)の名前も見える。
これほどのスケールを持ったホラー・シリーズは、七四年の「事件記者コルチャック」までつくられていない。
[#地から2字上げ]一九八八年一月十一日
[#地から2字上げ]「鳩は地獄から来る」を観ながら
[#地から2字上げ]菊 地 秀 行
本作品は「小説現代臨時増刊・超伝奇&バイオレンス特集号」(一九八七年一一月&一二月発行)に掲載されたものに大幅加筆し、タイトルを改め、講談社ノベルスとして一九八八年二月に小社より刊行され、一九九一年二月、講談社文庫に収録されました。
|妖《よう》|戦《せん》|地《ち》|帯《たい》3 |淫《いん》|闘《とう》|篇《へん》
講談社電子文庫版PC
|菊《きく》|地《ち》|秀《ひで》|行《ゆき》 著
(C) Hideyuki Kikuchi 1988
二〇〇二年七月一二日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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