講談社電子文庫
妖戦地帯2 淫囚篇
[#地から2字上げ]菊地秀行
目 次
第一章 死者からの招待状
第二章 黒部家の人々
第三章 淫靡妖計
第四章 虜囚
第五章 来訪者
あとがき
お読みいただく前に〈妖戦地帯1あらすじ〉
三流の塾「栄光塾」のしがない教師・|萩生《はぎゅう》|真《しん》|介《すけ》のもとへ、三矢財閥総帥・|矢《や》|切《ぎり》|耕《こう》|太《た》|郎《ろう》の妻|昌《まさ》|枝《え》が訪れ、一人息子|鞭《べん》|馬《ま》の個人教師になってくれと依頼した。鞭馬は高校三年生で、超天才であり、彼みずから真介を指名したという。興味を持った真介は伊豆の矢切家別荘へおもむくが、現われた鞭馬は、五億円もする車椅子に坐っていた。そして真介の正体を見ぬいていた――。
真介は東大を首席で卒業し、アメリカのMITに留学。ボーモント教授とともに超常現象研究科を設立、そして、重合空間内の同時存在、つまり瞬間移動(テレポーテーション)を可能にした。やがて悲劇の日がやってきた。真介とボーモント教授は連れだって異世界に移動し、命からがら「この世界」に戻ったが、ボーモント教授は自殺し、真介はMITを去った。
真介が「向うの世界」で見たものは、じっと息をひそめる「肉のロープ」だった。声にならぬ声を持つ、意志ある巨大なロープだった。
そして鞭馬こそ、「向うの世界」にただ一人住む「奴」と昌枝の間に生まれた、こちらと「向う」とを|繋《つな》ぐ個体であったのだ。昌枝は日本で有数の呪術師・秋家の生まれで、三矢財閥を救うため「冥府渡り」の法で、異世界に住む「奴」を招喚した。
「奴」はそのまま別荘に住みつき、エネルギー中和器で世界征服を目指し、さらに重合空間移動装置で異世界との融合を企てた。しかし空間移動が完遂できず、専門家である真介を、鞭馬を使って呼び寄せた――。
ロープの「奴」が鞭馬の姉|祐《ゆ》|美《み》の身体をも蹂躙するに及んで、さすがの鞭馬も「実父」に対して怒りを爆発させ、真介に協力し、「奴」を異世界に封じ込めることに成功する。
数日後、昌枝と祐美の母娘はヨーロッパへ旅立ち、真介は恋人の|芳《よし》|恵《え》と肩を寄せるが、雑踏の中に、死闘以後行方不明だった鞭馬を見かける――。
第一章 死者からの招待状
1
車が『三矢ビュー・パーク』の敷地内へ入ると、山中に高級住宅地が出現した。
駅から一五分近く昇ってきた山道は、舗装も完璧、街灯も整備されていたが、山腹の木々は、秋の色を溜めて紅く、青く、窓から吹きこむ風にも自然の土の香りが生々しく混って、いま、眼前に広がる光景など予想しようもない。
|滑《なめ》らかな平地を走るアスファルトの道、たっぷりととった敷地を|覆《おお》う緑の芝と|瀟洒《しょうしゃ》な建物。これで空気に熱がこもり、ビーチ・パラソルを抱えた水着の美女でも現われたら、|湘南《しょうなん》の別荘地で通用するだろう。水道管、電気等のケーブルは地中を通してあるため、不粋な電柱は一本も見えない。
「海抜一〇〇〇メートルの別荘地か。金持ちというのは、訳のわからんことをする」
|後部座席《バック・シート》の上で、|萩生《はぎゅう》|真《しん》|介《すけ》は|憮《ぶ》|然《ぜん》とつぶやいた。
どっしりした黒塗りのベンツは、|絞《しぼ》れるだけ絞ったエンジン音を車内にこもらせながら、整然たる街並みを抜け、森の中へ入った。
家の姿は消えた。
巨木の間を舗装路だけが|蜿《えん》|蜒《えん》とつづいている。
買い手がつかない、というのではなく、ここだけは特別な土地らしい。
この持ち主を、萩生はよく知っていた。
|緩《ゆる》やかなカーブを曲がった。
その家がすべて視界に収まるまで、数秒を要した。
デパートほどの大きさがありそうだ。
白い世界に異を唱える灰色の巨大な遺跡のように、それは圧倒的な質量で周囲を|睥《へい》|睨《げい》していた。
三階建ての西洋館――ひと言で言えばそうなる。
ただし、すべてが石造りだ。
|花《か》|崗《こう》|岩《がん》であろう。
他のすべてが死滅しても、これだけは、|永《えい》|劫《ごう》に遺跡として残りそうな迫力があった。
「今までの土地は、すべて敷地かな?」
思わず尋ね、萩生は胸の中で舌打ちした。眼の前の運転手が、駅頭で彼の名前を訊いて以来、ひと言も口をきかないのを|憶《おも》い出したのである。
車を玄関の前に停めると、運転手はようやくふり向いた。細いサングラスの向うの眼が、どんな表情を浮かべているかはわからない。
「この車には爆弾が仕掛けてございます。私がドアを閉めてからきっかり三〇秒後に爆発いたしますが、そちらのドアは開きません。主人の言いつけでは、これが最上の歓迎法だそうで。私にはよくわかりませんが、ご了承下さいませ」
「おい――ちょっと!」
伸ばした指をあっさりとかわして、運転手は外へ出た。
次の瞬間、ドアが閉まった。
萩生は青ざめた。
夢中でドア・ノブを引く。
運転手の言葉は正しかった。窓も開かない。
「開けろ!」
思いきり窓ガラスを叩いた手に、|鈍《にぶ》い痛みが伝わった。
きっかり三〇秒後、車は爆発した。
ただし、正確な意味での爆発ではなかった。
腹に響くような音響を放ちつつ、一気に収縮したのである。
一二〇〇キロの鉄とゴムの|塊《かたま》りが五〇センチ四方の立方体に固まるまで、二秒とかからなかった。
見えない巨人の手が握りつぶしたようであった。
「つぶすなら、プレゼントしてくれりゃいいのに」
かたわらでこういう声を聞いたとき、運転手は無表情にもと[#「もと」に傍点]車へ近づくところだった。
ふり向いたごつい顔には、さすがに驚きの色が濃い。
石段の中途で萩生真介はため息をついた。
「もう、テストは終わりかい?」
とうんざり顔で言う。
運転手は困惑したようだった。
車がつぶれる瞬間まで、窓ガラスの向うにいる萩生を確認していたのだ。
どんな手を使おうと脱出は不可能なはずであった。
「これ以上やると怒るぜ。さ、大人しく案内してくれよ。いくら旅費はそっち持ちだと言っても、愛想がなさすぎる」
萩生の言葉に、運転手の決意は固まったようであった。
一メートル七〇はない小柄な体躯を、|凄《すさ》まじい気迫が包んだ。
「おーい、|矢《や》|切《ぎり》くん」
萩生は玄関のドアの方を向いて叫んだ。
「一発やらかしていいのか? 遠慮はしないぞ」
言いざま、横へ跳んだその顔前を、びゅっと黒い影が走った。
凄まじいスピードのフックだった。
プロのチャンピオン・クラスは優にある。手が動くのを見てから反応したのでは到底間に合うまい。
萩生の動きは幸運の|賜《たま》|物《もの》といえた。
それもすぐ尽きた。
右足が石段を踏みはずしたのだ。
崩れた身体へ、運転手は滑らかに近づき、絶妙の左アッパーを放った。
「危ない、危ない」
|空《くう》を切った手を止める前に、声は背後からきこえた。
萩生は石段のてっぺんに立っていた。
「ボクシングじゃ君に勝てんが、君も僕を倒せない。次は攻撃するよ」
運転手の唇から口笛のような音が|洩《も》れた。短く息を吐いたのである。
クラウチング・スタイルをとったまま、軽く石段を上がる。
滑らかな足取りに動揺の気配はない。
すっ、と萩生の右手が上がった。
気にもとめず、運転手が|華《か》|麗《れい》なフット・ワークを|閃《ひらめ》かせようとしたとき――
「御苦労だった。下がれ」
若いが|威《い》|厳《げん》に充ちた声が止めた。
途端に、運転手は構えをとき、軽く一礼して背を向けた。
舗装路を裏手へ歩み去る影を確かめ、
「帰らせてもらうぞ。これがもと[#「もと」に傍点]教師に対する態度か?」
萩生は玄関の方も見ずに言った。
かすかなモーター音が近づき、背後に停止した。
「無礼はお|詫《わ》びしますよ、先生」
声は|愉《たの》しげであった。
萩生は|苦《にが》い顔を崩さずふり向いた。
矢切|鞭《べん》|馬《ま》の表情は、少しも変わっていないようであった。
「会いたかった、と言っても信じてもらえないでしょうね」
「信じるさ。だが、こっちは会いたくなかった」
萩生のぶっきら棒な|台詞《せりふ》に、細い眼の中に浮かんだ感情――|懐《なつか》しさだったかもしれない――を消去し、三矢財閥の|御《おん》|曹《ぞう》|子《し》は車椅子の上で微笑した。
だが、これがただの御曹子ではないことを、萩生だけは知っている。
「わざわざ手紙をくれたのはありがたいが、このもてなしは感心できんな。何の用か、ここで言え」
「そう、へそを曲げないで」
鞭馬の冷笑は変わらなかった。
「僕の性癖はご存知でしょう。人並みのお持てなしをするくらいなら、最初からお呼び立てしませんよ。用件は――姉と、奥さんのことです」
「|芳《よし》|恵《え》の?」
萩生の顔に|怒《ど》|気《き》がのぼった。
「――貴様……よく、おれの前に出て来たな」
右手がまた上がった。
「実力行使は、話を聞いてからになさい」
鞭馬は白い手をふった。午後の光が砕ける。
「それに、姉からの伝言もあります。彼女の気持はわかっているはずです。僕の見たところ、今でも変わっていません」
萩生の瞳の怒りが動揺し、こわばった全身から力が抜けた。
「お疲れさまでした」
と矢切鞭馬は、不思議と心のこもった声で言った。
「では、こちらへ。お茶の用意ができております」
2
萩生真介が、鞭馬からの手紙を受け取ったのは二日前――九月のカレンダー・ページをめくった日のことである。
不安と興奮に、不思議な懐しさが入り混った気分で、真介は机上の白封筒を持ち上げた。宛名も差し出し人名も毛筆である。|惚《ほ》れ|惚《ぼ》れするような筆遣いであった。書道の大家でもこうはいかない。
確かに鞭馬だと、萩生は確信した。
「凄いわ」
と言ったきり、後ろから|覗《のぞ》き込んだ芳恵も絶句した。
「駄目だと言われても、中を読みたくなっちゃう」
「駄目だ」
「でも、差し出し人は、矢切さん。――あのときの教え子でしょ。確か、三矢財閥の御曹子。――あなた、頑張ってみてよ」
「何を頑張るんだ!?」
萩生は声を荒らげた。おれと奴の間に何があったのかは話してないが、だからと言って天下太平すぎる。これだから、女という奴は……
「だって、わざわざ向うから手紙くれたんでしょ。付き合っておいて損は――打算的な言い方だけど――損はないわ」
損はないが、生命は危ない、と萩生は胸の|裡《うち》でつぶやきながら、八畳の書斎を見廻した。
芳恵が気を入れるのも無理はないかもしれない。
この、曲がりなりにも4LDKの建売り住宅を購入できたのは、あの[#「あの」に傍点]後で振り込まれた報酬のおかげだ。口止め料が入っているにせよ、家一軒、即金で自分のものにし、それなりの結婚式をあげて、かなりの額の貯金が残ったとなれば、事情を知らぬ妻の眼に、矢切の名が黄金色にかがやくのもやむを得まい。
おかげで、芳恵が仕事をやめ、萩生が|相《あい》も変わらぬ平の塾教師でも、何とかやっていける気持の余裕が持てる。
とはいうものの――
萩生は手に乗せた封筒を扱いかねていた。
|不《ふ》|穏《おん》な情勢に気づいたか――
「ね、変な気起こさないでよ」
と芳恵が機嫌をとるように言った。
「あなたと矢切家との間に何があったかは知らないけれど、とにかく、読むだけ読んでみたら? ほんの挨拶状かもしれないわ」
このとき、そうかもしれない、と思った理由を、萩生は今でもわからない。
内容は意外と簡単だった。
「重大な用件あり。もう一度、教えを|乞《こ》いたし。当方、前と同様、行動不能のため、来訪を|請《こ》う」
そして、二日後の列車の切符と、東京からの道順、目的地の資料が同封されていた。
住所は長野市郊外の山腹にある三矢コンツェルンの別荘地『三矢ビュー・パーク』。のべ面積二五万坪、最新のエレクトロニクスを取り入れた超近代的な別荘地という触れ込みだ。
「ね、何だった?」
と|訊《き》く芳恵に、
「招待状だ。長野で療養していたのが、やっと良くなったので、おれに会いたいと言っている」
こう言って、さっさと|便《びん》|箋《せん》を仕舞い込んでしまった。
無論、嘘だ。読ませれば、芳恵は心配するだろう。
一体何事と尋ね、過去の事件を追究しはじめる。
それよりも、行くな、と言うだろう。
こう予想した上で、嘘をついたということは、萩生自身が、|訪《い》く決意をしたということでもあった。
実家の法事ということで、一週間の休みを|貰《もら》い、萩生は二日後、指定された列車に乗り込んだ。
塾長は一年でもいいと言わんばかりの笑顔で許可した。
やはりあの事件の後、良い教師を世話してくれた礼にと、|大《たい》|枚《まい》の寄附金が三矢グループから送られたのである。
そして、いま、萩生はリゾート・ホテルのロビーとも見まがう広大豪華な応接室で、かつての怖るべき教え子と向かい合った。
「今も、塾の教師をなさっておいでだそうですね?」
鞭馬は|悪戯《いたずら》っぽい笑いを崩さずに訊いた。
「おれの家は財閥じゃない。もっとも、おかげで少しは顔が|利《き》くようになった。それは礼を言う」
「どういたしまして。あれは父の独断です」
「|祐《ゆ》――お姉さんはどうしておられる?」
口調からきついものが抜けるのを感じながら、萩生は訊いた。
空気には淡くラベンダーの香りが|漂《ただよ》い、鞭馬の背後にある岩山を模した飾りからは、水が涼しげに流れ落ち、床に|穿《うが》たれた何条もの水路を通って隣室へと消えていく。
「すぐ、お目にかけますよ」
と鞭馬はあっさり言った。
嘲笑にも似た|貌《かお》に腹を立てるより、萩生の胸は熱く懐しいもので充たされた。
「おられるのか?」
「ええ、まあ」
「だが――あれから半年だぞ。早すぎる帰国じゃないかね?」
「本人の意志ならば、です」
「違うのか?」
鞭馬の物言いに、萩生は緊張した。
いよいよ、来たか。だが、|祐《ゆ》|美《み》さんが|絡《から》んでいるとは。
それは、萩生にとって、決定的な弱みであった。
それ以上の思い入れを拒否するかのように、萩生は話題を変えた。
「姉さんの伝言とは何だ?」
若いメイドが運んできたアイス・コーヒーのグラスを口につけたまま[#「つけたまま」に傍点]、鞭馬は答えた。|喉仏《のどぼとけ》が|嚥《えん》|下《か》の証明に動いている。それなのに声が出た。
笑い声――だったろう。
「救けてくれ――ですね」
と鞭馬は静かにグラスを干した。
「召し上がらないのですか?」
「おれのグラスを誰かが飲んで、一〇分ぐらいしてから頂戴する。それが普通の人間だったらだ」
鞭馬が干したグラスの|端《はし》から唇の両端が見えていた。
それがきゅうと吊り上がった。
萩生には笑いと映ったが、よくわからない。
「嬉しいことを言ってくれる。それくらい用心深くないと、今度の仕事は|務《つと》まりません」
「誰のする仕事かな?」
萩生は鞭馬の眼を見つめながら強い口調で言った。
「救けてくれ、ですよ」
と鞭馬はグラスを置いて言った。
手が唇を隠し、離れたとき、三矢財閥の奇妙な御曹子は、|至《し》|極《ごく》真面目な顔を保っていた。
「あなたには、最も有効な手段だと思いますが、どうでしょう」
「半年でおれも成長したよ」
と萩生は手元のグラスを見つめながら言った。顔を上げ、鞭馬を見つめて――
「どんな形でも君の関わる出来事に関与する気はない。我ながらがっかりするような答えだが、平凡な塾の教師で通させてもらおう。ここへ来たことも後悔している。何故来たのかなどと訊くな」
「何故、来たんです?」
鞭馬の手の下で、グラスの底とテーブルが当たる、かすかな音がした。
「無視することもできたし、断わることもできた。東京を|発《た》つ必要などなかったんですよ。断わりに来た[#「来た」に傍点]と言っても、来た[#「来た」に傍点]ことに変わりはありません。すなわち、話を聞くためです」
「それは認めているよ。だから、用件を言いたまえ」
鞭馬はうなずいた。
人差し指が親指の腹の上でたわみ、小さな円をつくった。すぐ前にグラスがあった。人差し指がしなってその|縁《ふち》を叩くと、グラスの透明さが|弾《はじ》けとぶような音がした。
同時に照明がふっと消えた。
「動かずに」
と鞭馬の声は|漆《しっ》|黒《こく》の|彼方《かなた》できこえた。
「あなたに、どんな包囲も無駄だということはわかっています。まず、お見せしたいものがあるのです。ほら」
鞭馬の身体が闇の中に浮かんだ。
どこからも照明は|洩《も》れてこない。
照らし出す光に方向性がないのである。
鞭馬の身体自体が発光しているとしか思えなかった。
「この闇は、僕たち二人にのみ同調させてあります。他の連中には存在しない。ここで五感が働くのは、先生と僕だけです」
二人にしか存在しない闇ならば、他の誰が眼を|剥《む》いても、映るものはないであろう。
鞭馬は左手でシャツのボタンをはずした。
布が二つに分かれ、上半身の素肌が眼の前にさらされたとき、萩生の喉から驚きの叫びが洩れた。
それは、鞭馬の身体に走る傷よりも、彼がなお生きていることに対して向けられた驚声であったろう。
鞭馬の左胸部――乳のやや上あたりには、握りこぶし大の空洞が|穿《うが》たれていたのである。
空洞――確かに穴だ。だが、例えば銃弾や|槍《やり》といった武器が貫通したのではない証拠に、大きくはじけた肉の縁には、|削《けず》りとったような|溝《みぞ》が何条か走っているではないか。
そして、空洞の内側――消失した心臓の周囲の肉からは、砕けた胸骨の一部や、血管や神経が、不気味な切断面を見せて、揺れている。
「えぐり取られたか」
と萩生は湧き出した苦い|唾《つば》を飲み込んで言った。
「その溝が指か爪の|痕《あと》だとすれば三本指。しかも、人間のものだ。空手遣いかな?」
言ってから、馬鹿な質問をしたものだと思った。
空手遣いどころか、神域に達した拳法の名人と言えど、この十代の若者に、指一本触れることができるとは思えない。
矢切鞭馬の血は、断じてそのような|屈辱《くつじょく》を受けつけはしないだろう。
「おっしゃる通りです」
と鞭馬は左手を胸にあてて言った。
心臓はない。
萩生は、悪い冗談にかかっているような気がした。
「ただし、この世の空手ではありません。えぐり取られた心臓がそう告げています。いま、お見せしましょう」
「断わる」
「そうおっしゃらず」
鞭馬が嘲笑すると同時に、萩生の眼が大きく見開かれた。
鞭馬の右隣りに、中年と|覚《おぼ》しき男がひとり出現したのである。
「先生、柔道をおやりでしたね? ――どうです、この男の見立ては?」
萩生は答えなかった。
男の姿に興味を奪われたからではない。
そこにいるのは鞭馬の意志ではあり得ぬ|険《けん》|呑《のん》な気配を、男は全身から|噴《ふ》き上げていた。
いかにもそれ[#「それ」に傍点]らしい感じの男だった。
五分刈りの頭髪の下で鞭馬を見つめる眼はあらゆる感情が消えていた。次の瞬間、そこに|点《とも》る色彩が男の行動を決定するのだった。
殺意のみが。
顔は碁盤のように四角く頑丈そうである。ダーク・グレーの背広とやや色の明るいスラックスを身につけ、白いワイシャツに赤点を散らしたネクタイの黒が鮮やかだ。|洒《しゃ》|落《れ》ものと言えるだろう。
男がいつの間にか鞭馬の背後に廻っていることに、萩生はやっと気づいた。
それほど男の動きには、動きを意識させぬ滑らかさがあった。萩生は男に全神経を集中していたのである。
鞭馬は動かない。瞳に映っているのは萩生のみである。
碁盤のような男の顔に凶相がひらめくのと、萩生が気づくのと、どちらが早かったか。
男が身を|屈《かが》めた。
両足を大きく左右に広げて立ったのである。
空手の|四《し》|股《こ》|立《だ》ちに似ているが、腰から上は床とほぼ平行な位置まで曲げられていた。
どんな武道にもない立ち方である。
いや、いかなる武道も、人間の身体と自然法則にのっとっている以上、これは武道にあらず、武道とすれば、人外の流派と技をもつものであった。
――そんな理解が萩生の|脳《のう》|裡《り》に|閃《ひらめ》いたのも一瞬で、次の現象は、男が身を|屈《かが》めて数瞬後に発生した。
鞭馬の身体が五メートルも離れた地点に出現するや、彼がもといた位置[#「もといた位置」に傍点]で萩生[#「萩生」に傍点]が跳びのいたのである。
だが、彼もまた鞭馬の占めていたそこ[#「そこ」に傍点]からは、二メートル近く離れていたはずだ。
その理由はともかく、跳びのいたわけはすぐわかった。
碁盤のような男が、右手を突き出していたのである。
五指は曲げられていた。
何かを握りしめるように。
顔や身体つきに合わず、これだけは、繊細といえる指であった。
筆を持たせれば、北斎の線をも|凌《しの》ぎ、ベラスケスも|嫉《しっ》|妬《と》のあまり墓から起き上がる傑作を仕上げるのではないか。
この指なら、異次元の血を循環させる心臓をも、えぐり抜くことができるかもしれない。
男が息を吐いた。
異常に長く鋭い吐息だった。
吐きながら、顔の向きを変えた。
萩生の方へ。
途方もない鬼気の放射を萩生は感じた。
全身に|悪《お》|寒《かん》が走る。
生身の技で対抗し得る相手ではなかった。
すう、と男が近づいてきた。
その移動のすべてを萩生は眼にしていた。さほどの速さではない。十分に対応できる。萩生は右手を上げた。
その横へ、男は滑り込んできた。
速度は変わらない。
前進から横への方向転換も萩生は確認していた。
それに対応できるよう右手を動かしたはずであった。
それなのに、右手が触れぬうちに、男の手は彼の胸元へ吸い込まれていた。
五メートル後方の空間が萩生を生み落とした。かすかな音が小刻みに鳴っている。
全身から汗が噴き出ている。唇が震えていた。歯も打ち合っている。
小刻みな音の正体はそれであった。
萩生は思いきり息を吐いた。
呼吸を整え、新たな攻撃を待つ。
眼前で男はふっと消えた。
「いかがです、先生の見立ては?」
左手で鞭馬の面白そうな声がした。
「あれは、立体ホログラフィか?」
萩生はやっと訊いた。
「似たようなものです。ただし、あの男のもつ動き、雰囲気といったものは、すべて正確に再現してあります。生きている映像と言ったら、ケレンが勝ちすぎますかね?」
「三矢財閥には、三矢電機もあったな。――あのくらいはやれるだろう」
「いかがです? 奴の実力?」
鞭馬の問いに|真《しん》|摯《し》さがこもった。
「|凄《すご》い気迫だった。人間技のレベルじゃないな」
「あの気は、殺気を|止揚《アウフヘーベン》したものです。つまり、それほど激烈な訓練を積んだことになる。体系ができているにしろ、なまじの素質で身につけられる技ではありますまい」
「体系?」
萩生は眉をひそめて、鞭馬の方を向いた。
「あんな構えの技に、体系があるというのか?」
「体系があるから構えができるのです」
鞭馬は事も無げに言った。
「ですが、恐らく世にあるすべての武道とは根本的に異る法則で組立てられた技です。それは、あの構えと“|滑《かっ》|空《くう》|足《そく》”を見ただけでお判りになるでしょう」
“滑空足”というのか、あれは。
「どういう技だ?」
「細かいことはいずれ。今はただ、異世界からの侵入は過去幾度もあり、そのたびに多大な惨劇を引き起こされたこちら側で、彼ら[#「彼ら」に傍点]を|斃《たお》すべく、多数の武器が研究されたとだけ言っておきましょう。そのうち幾つかは今でも残存しております。同時に、素手でもまた、彼らの願望を達せられることが判明し、その論理体系と技の完成が急がれました。これにも何種類かの流派がありましたが、残るのはいまの『指壊破』のみです」
「どんな字だ?」
「指で壊して破る」
「|成《なる》|程《ほど》――指か。だが、たとえ、闇武道の命脈を|辿《たど》っても、そんな流派はないぞ。おれも、昔、武道に|凝《こ》って調べたことがある」
「先生の調査が|杜《ず》|撰《さん》だったのではありません」
と鞭馬は自動車椅子で近づきながら言った。
「異世界の存在相手の技は、すでに五千年以上も前に忘却されておりました。今のが生き残れたのは、それを強烈に|擁《よう》|護《ご》するある一族に採用されたからです」
萩生はうなずき――首をふった。
「それ以上は言うな。聞きたくない」
「先生は、僕を助けました。あの男が、単なる分子の結合像と知りながら」
「あの像の殺気が本物だったからだ」
「助けたことには変わりありません。じき、彼らにもわかるでしょう」
鞭馬の声は浮き浮きとしていた。これで邪悪さの|翳《かげ》さえ|払拭《ふっしょく》できれば、笑い返すこともできるだろう。
「構わん。おれは一切、君との関係を絶つ」
「そうもいきませんよ」
鞭馬の|声《こわ》|音《ね》が|昏《くら》いものだけになった。
「おれの逃亡を阻止するメカでも造れたか?」
「残念ながら。――|瞬間移動《テレポート》は、あらゆる自然法則を無視して機能します。体調十分のあなたを防ぐ物理的手立ては今のところなし。でなければ、お招きなどいたしません」
|正《せい》|鵠《こく》を射る答えだった。
「では、失敬する」
と萩生は強い声で言った。
「困ったな。その前に――僕の胸を見てごらんなさい」
鞭馬の指は、心臓を貫く不気味な穴をさしていた。
「そんな趣味はない」
「いいから」
|躊躇《ちゅうちょ》する萩生の眼の前に、鞭馬が接近した。
「面白い人がいますよ。あなたを止められる人たちが」
萩生の眼は、そのグロテスクな空洞に吸いついた。
「――祐美さん!?」
声は|愕《がく》|然《ぜん》と放たれた。
赤黒い|洞《うろ》の奥に見えるのは、まぎれもない矢切祐美であった。
ひとりではなかった。
しかも、全裸だ。
その上に、いや、前後左右に、男たちの裸体が|蠢《うごめ》いている。
鍛え抜いたと覚しい胸筋やごつい手足の下で、祐美の肢体はか細い人形のようであった。
三人の男が祐美に群がっていた。
ひとりは頭の方に膝をついて、愛らしい唇に男根を含ませ、二人目は両の乳と腋の下、腹部を舌で|蹂躪《じゅうりん》し、もうひとりの唇は、か黒く波立つ秘所を|貪《むさぼ》り食っている。
祐美の両脚は、男の肩に乗せられていた。
男たちの顔は見えない。
首から上が消滅しているのだ。
「放っておく気ですか、あんな姉を? あなたに救いを求めているかもしれないのですよ」
「やめろ……」
萩生は、腹の底に湧き出すものを感じながら、|呻《うめ》いた。
「そうはいきません。これで駄目なら、もうひとり――」
穴の向うの光景が変わった。
祐美の身体の向うに、もうひとりの女体が見えた。
これも組み敷かれている。
顔は男の陰になって見えないが、浅黒い手の這いまわる|太《ふと》|腿《もも》から下ははっきりしていた。
手の動きに合わせるように、粘っこい動きを示している。
汗まみれの腿のつけ根に、小さな|痣《あざ》が浮いていた。
「……芳恵……」
萩生が低く、低くつぶやいた。
3
顔のない男がその痣に唇を近づけ、吸いついた。
白い腿の肉が震えた。
女の顔のあたりに膝をついていた男が立ち上がり、女の顔も一緒に持ち上がった。
桜色に上気した芳恵がそこにいた。
もうひとりが乳房に吸いついていた。
食物のようにむしゃぶりついていた。
口いっぱいに乳の肉を頬ばっている。
下半身の男が腿の間に頭を入れ、芳恵は白い喉をのけぞらせた。
|喘《あえ》ぎ声が聞こえてきそうだった。
頭のところにいた男が上から唇を吸った。
芳恵はすすんで舌を入れた。
わざと萩生に見せつけているような感じもした。
二枚の舌はよく絡み合った。力の限りこねくり合っている。荒い息遣いが聞こえてきそうだった。
男が芳恵の|口《こう》|腔《こう》へ唾液を流し込んだ。芳恵は喉を鳴らして受けた。
熱く悩ましい光景へ、一瞬、萩生の姿がダブり、彼だけが闇の一角に残留したとき――
「無茶をする……」
あきれ返ったような矢切鞭馬の声が聞こえた。
「いくらホログラフィといっても、結像率は準物質並みですよ。そんなところへ突っこんだら原子爆発を起こしてしまう。後で、先生の核融合テストをおこないます」
「貴様に突っこんでもいいんだ」
萩生は呻くように言った。
「家内は|何処《ど こ》にいる?」
「東京に」
と鞭馬はあっさり答えた。
「と言っても、お宅ではありません。かと言って、いま、ご覧になったような目に遭っているわけでもありません。あれは先刻同様、こちらで合成した幻像です。ただし――」
萩生の燃えるような|双《そう》|眸《ぼう》を、鞭馬は平然と見返した。
「先生の協力がいただけないと、今のような事態が生じないとは限りません。現に姉は、それに近い状態に陥っています」
「祐美さんが!?」
萩生の殺気が動揺した。
「やはり、まだ未練がありますか。僕にはよくわからない感情だが――こちらへどうぞ」
萩生は自分が光の中に立っているのに気がついた。
テーブルをはさんだ向うに車椅子の、鞭馬が腰をおろし、背後をささやかな滝が流れ落ちている。
この若者といれば、すべてが夢と言われても驚くことはないはずであった。
こちらを向いたまま、鞭馬の身体は横へ流れた。
車椅子には別の車輪がついているのかもしれない。
萩生も歩き出した。
闇の中の光景は、|幻影《イリュージョン》とわかった今も、精神を|蝕《むしば》みつづけている。|脅《おび》えは去っていない。
応接間を抜け、広い廊下へ出た。
部屋と|見《み》|紛《まが》うばかりの幅と高さが萩生を圧倒した。
岩石本来の荒々しい表面が左右と天井を覆い、その|空《くう》|隙《げき》に巧みに配置された光洞が、|眩《まばゆ》い陽光を通路に充たしている。
そのひとつを萩生が見上げると、鞭馬は数メートル先で、こちらを向いたまま微笑した。
「わかりますか。それは吹き抜けではありません。人工光です。あらゆる点で自然光と変わりませんが」
「岩か……」
萩生は胸中の雑念も忘れて周囲を圧する|膨《ぼう》|大《だい》な質量を感じた。
この若者と岩との関係は、一種の妄念――愛に近い。
彼の父[#「彼の父」に傍点]の世界を考えると、それも当然かもしれない。
あの何もない灰色の空間に生を|全《まっと》うしようとしていた異物は、この世界での|棲《すみ》|家《か》に、|峨《が》|々《が》たる大岩石の地底を選んだ。
「文明の接点は石かもしれませんね」
鞭馬が音もなく椅子を走らせながら言う。
「“花崗岩は生きている石だ”と言ったのはゲーテだったでしょうか。洞察力の有無は時代に関係ないようです。いつの世も見抜くものと愚か者がいるだけですね」
萩生は歩きながら、右手を宙にかざした。
「いかがです?」
鞭馬が面白そうに訊く。
「活性のある石の近くでは、強力な磁場の発生が感知されるそうだが、ここには少くとも何ひとつないようだ。これは花崗岩だろう?」
鞭馬はうなずいた。
それは、彼もまた、“石の力″を理解しているということであった。
花崗岩には石英が含まれる。
“半インチの石英結晶の各面に一〇〇〇ポンドの圧力が加えられれば、二万五〇〇〇ボルトの電圧が生じる”とされる石英が、である。
さらに、地球自体が石英(水晶)型の格子で構成されているとの説を採り、不可思議なパワーを誇るピラミッドの傾斜角が、水晶結晶の|突《とっ》|先《さき》の角度と最も近いという知識をそれに重ねた場合、石と大地には、ひとつの明白な関係が設定される。
すなわち、巨石は大地の|雛《ひな》|形《がた》であり、何らかの手段によって、大地の持つ膨大神秘なエネルギーを抽出することができるのではないか。
その岩が、鞭馬を守っている。
超大な質量は|三《さん》|半《はん》|規《き》|管《かん》にも影響を与えるのか、いつの間にか上下左右の感覚は喪失し、萩生は軽い|眩暈《めまい》と吐き気とを覚えた。
通路自体も微妙な傾斜と|歪曲《わいきょく》を示し、いま右に傾いていたかと思うと、左に転じ、確かに視界は上昇をつづけているのに、感覚は地下へと降りてゆき、そのうち、明らかにはじめて通る場所なのに、何度も通過したという|既視現象《デジャ・ヴュ》まで生じはじめた。
「大丈夫ですか、先生?」
と鞭馬が幾分、心配そうに訊いたところをみると、萩生は相当青ざめていたようだ。
「何分、この家は僕向きにつくってありますので。――これでも微妙なところでは妥協してあるのです。工事中に何度か“物体消失”が起こりましてね。ですが、大丈夫――もうじきですよ」
その言葉に嘘はなく、ものの三〇秒とたたぬうちに、萩生は岩壁に打ち込まれたような鉄門の前に立った。
左右を見廻す。
岩塊は自然形態そのものの利用から、滑らかな表面を見せて|屹《きつ》|立《りつ》している。
ガラスのごとき|光《こう》|沢《たく》であった。
一瞬のうちに凄まじい熱が加えられたのであろう。
岩全体にとは考えられない。超高熱が岩面の|凸《でこ》|凹《ぼこ》を切りおとしたのである。
レーザーでも不可能な芸当を何がやってのけたのか、しかし、萩生には格別の驚きもなかった。
矢切鞭馬――この世と向う側の血を引く男。
「こちらです」
鞭馬の声とともに鉄扉は左右に分かれ、萩生はその内側に足を踏み入れた。
そこは何かの実験室らしかった。
左右はかろうじて彼方の岩盤が見通せるが、前方と天井に到っては青い光の|靄《もや》に覆われ、両側の圧力でたわんだ空気が上空と前方へ逃げるのが、萩生にははっきりと感じられた。
あちこちに一見|無《む》|雑《ぞう》|作《さ》に、しかし、よく見ると異次元の配置に従って置かれているらしい装置類は、萩生も記憶しているものと、想像もつかぬ形と材質を|備《そな》えたものとがあった。
じっと見つめていると、メカの位置ばかりか、形まで変わってくるのである。
萩生はそのたびに眼をそらし、固く閉じねばならなかった。
「姉はここです」
何度めかに訪れた暗黒の後で、鞭馬の声がした。
萩生は目を見開き、確か一〇メートルは離れた機械装置の前に立っている自分に気がついた。
祐美はそこにいた。
鞭馬の腰かけているのとよく似た、ひと廻り大型の長椅子に横たわっている。
ブルーのガウンの上の顔は血色にも異常はなく、額に数本の黒髪がまとわりついていた。
ただ――
死魚の眼をしていた。
この娘の眼に|溢《あふ》れているべき生気――夢や希望、喜び、哀しみ――それがすべてない。
瞳には鞭馬と萩生が映っている。
それが果たして脳へ通じているかどうか。
萩生は鞭馬を見つめた。
無残な眼の色であった。自分の未来に気づいてるのかもしれなかった。
萩生は祐美の顔を正面から覗いた。
変化はない。
少し観察してから鞭馬に向かって、
「催眠術か?」
と訊いた。
鞭馬はうなずいた。
それが必ずしも、自分が知っている|類《たぐい》のものでないことは、萩生にもわかった。
これが鞭馬流のブラック・ジョークでないとすれば、彼の力をもってしても解けないのだ。
「ひとつ訊いておくが、おれをからかっているんじゃあるまいな」
「残念ながら」
鞭馬の声は苦かった。
「君でも出来んことがあるのか?」
残酷な|歓《よろこ》びを感じながら萩生は訊いてみた。さぞかし嫌な|表情《か お》をしているだろうと思った。
「姉さんは何をされた?」
「お訊きになりたいですか?」
「どうせ、聞かせるつもりだろうが?」
「お訊きになりたいですか?」
鞭馬はゆっくりと繰り返した。
萩生は口をつぐんだ。
その間に、自分の未来を決めねばならなかった。
実は決まっている未来だった。
萩生は軽い敗北を感じた。
「聞かせてもらおう。――ただし、家内には手をだすな」
「言うまでもありません」
「それを信じるほどおれは馬鹿じゃないが――」
「――信じるしかない」
鞭馬が笑顔とともに受けた。
異次元の父親の顔であった。
4
芳恵は眼を|開《あ》けた。
空腹を感じた。
並みではない、凄まじいまでの空腹であった。
それから徐々に、記憶が戻ってきた。
昼近くに真介を送り出してから、買物に出かけ、スーパーをぶらついていると、急に|眩暈《めまい》がして……
それにしても、お腹が……
現状に対する恐怖よりも空腹が勝った。
冷蔵庫でもないかと、芳恵は周囲を見廻した。
ようやく、正常な感覚が戻った。
豪華な寝室であった。
ひと目でホテルとわかった。
巨大なダブル・ベッドの上に放り出されている。
真っ白いシーツの上にブルーの毛布がかけられている。弾力も申し分なかった。
素早く、芳恵は下半身の異変を察知しようと努めた。
幸い異常はない。
衣類はポロシャツにジーンズ。
ジーンズを脱ぎ、手でパンティに触れた。
犯された形跡はない。
|安《あん》|堵《ど》が湧いた。
空腹をこらえながら、部屋を見廻した。
天井には|煌《こう》|々《こう》たるシャンデリア。床の|絨毯《じゅうたん》の弾力も素晴しい。
すぐ脇の|文机《ふづくえ》と椅子も、一泊二万円のツイン用ではない。
精妙な彫刻つきのオーク材である。
机上には青銅のインク壺と文鎮、ペンのセット。何も書かなくても、作家気分が味わえそうな品だ。
一体、誰が、何の目的で――つい先刻まで存在していた世界との環境のギャップが、恐怖を|醸成《じょうせい》しつつあった。
窓は――ない。
時計もなかった。腕時計ははずされている。
かといって、部屋に充ちる光は、人工のそれでもなさそうだ。
壁の一角にドアがあった。
金の|把《とっ》|手《て》がついているところを見れば、廊下への出入口ではあるまい。
開けて――冷蔵庫を探した。
|歓《かん》|喜《き》が芳恵の鼻と口の中に満ちた。
|涎《よだれ》の形をとっていた。
寝室に負けず劣らず豪華な居間の真ん中にワゴンが置かれ、その上の皿から、形容し難い芳香が部屋を|席《せっ》|捲《けん》していた。
芳恵は|舌《した》|舐《な》めずりをした。
料理は見たこともない品が揃っていた。
二〇分近くをかけて平らげたとき、芳恵は満足のげっぷを洩らすところだった。
状況を考える余裕もできていた。
少くとも、自分にすぐ危害を加えようという気はなさそうだ。
暴行が目的でないのも、ベッドに横たえながら無事だったことでわかる。
結論はすぐに出た。
異常は異常と結びつく。これ以外におかしなことと言えば、夫の|出立《しゅったつ》しかなかった。
三矢財閥の御曹子からの依頼を受けて――三矢財閥――このホテルの豪華さ。
無理なく一致する。
だが、何のためにこんな事を?
それもすぐ納得がいった。
夫は行きたがらなかった。
その理由を押しつぶし、言うことをきかせるための人質に違いない。
最も妥当な結論だと、芳恵は自信をもった。
途端に脅えが消えた。
周囲の豪華さが精神を|慰《い》|撫《ぶ》しつづけている。
急速に眠気が襲ってきた。
おかしい、と思う意識も|蕩《とろ》けていく。
食事の中に何か入っていたものか。
芳恵はすぐ眠りにおちた。
目醒めは早かったであろう。
少くとも、彼女の体内時計はそう告げていた。
ざっと一時間。
今度は居間のソファの上だった。
ワゴンはない。
|妖《あや》しい感覚が芳恵を捉えた。
打ち震えるような欲情が、股間から噴き上げたのである。
ガソリンの粘り気をもっていた。
あの食事に――と考える余裕もなかった。
ああ、と芳恵は呻いた。
手が股間へ伸びる。
あわただしく、ジーンズを下ろした。
豊かな腰とヒップが|剥《む》き出しになった。今年、二十四歳になる。
|脂肪《あぶら》の乗り切った年齢であった。
バストは八七、ヒップは九〇ある。芳恵はひそかに誇っていた。頭の何処かに、女の魅力は肉体という考えが|潜《ひそ》んでいるのだった。
塾でもよく好色な講師や生徒たちに尻や胸を撫でられた。
腹が立つと同時に嬉しくもあった。
感度にも自信がある。
夫との営みで、芳恵は必ず二度、絶頂期を迎えた。
セックスは毎日したいくらいだった。
その肉体に淫火が燃えている。
パンティは濡れそぼっている。
自制も罪悪感もなかった。
パンティの内側へ芳恵は指をねじこんだ。
「はあふ」
崩れかかったものが息を吸うような音がした。
指は動きはじめていた。
熱い泥沼に触れている気がした。
花弁を|隈《くま》なくこすり、小さな粒をつまむ。
「おおおおお」
自ら|呻《うめ》いてのけぞった。
他人が見ているかもしれない――ふと思った。
三矢財閥には三矢電機というところがある。隠しカメラを備えつけるくらい簡単にやるだろう。
以前から自分の|拉《ら》|致《ち》を計画していたとすれば、どんな装置が仕掛けてあろうと不思議はない。
それで見られているかもしれない。
二十四歳の人妻が、自慰にふけっているところを。
羞恥と怒りが、|却《かえ》って欲情をあおりたてた。
指の動きが激しくなる。
じゃぶじゃぶという音がパンティの内側からきこえた。
刺激はより強い刺激をもたらしただけだった。
指だけではどうしようもなかった。
男が欲しかった。
固くたくましい男根で貫いて欲しかった。あれで粒の上をこすられたら、失神どころか失禁しかねない。
一度そこまで狂ってみたい。
そう思うほど、芳恵は|淫《みだ》らになっていた。
より深く指を埋め、芳恵は|海老《え び》のように身をそり返らせた。
すぐ脇で声がした。
「お愉しみですか?」
芳恵はかっと眼を見開いて、ソファの両脇に立つ男たちを見た。三人いた。
必死でジーンズを引き上げながら、芳恵は眼を|凝《こ》らした。
たくましい男たちであった。
ひと眼でわかった。
全裸である。
股間のものは|雄《お》|々《お》しく天を仰いでいた。
驚きや羞恥より期待が芳恵を貫いた。
男根がそそり立っている。
大きく笠の張った、力に溢れた男根であった。
そこから与えられる満足に狂う自分の姿が脳裡を|過《よぎ》った。
夫の顔を思い出そうとしたが、すぐに思考は屹立するものに集中させられた。
生唾を飲んだ。
「あなたたち……」
と言った。
「あなたを満足させるために来ました」
とひとりが言った。
声の出所を見上げ、芳恵はようやくこの三人が黒いマスクで顔を覆っていることに気がついた。眼も口も開いていない。どうやって呼吸するのかと思われた。
マスクは光沢からしてビロードである。
「あなたがここにいらっしゃる間、|無聊《ぶりょう》を慰めるのが私たちの務めです。お休みになっているうちに、あなたの欲望傾向をテストさせていただきましたが、第一にセックス、次に食欲の充足とでました」
「そんな――」
と芳恵は異議をはさみかけたが、男は構わず、
「食事を終えられ、あなたの性欲がピークに達したとき、私たちは三人で伺います。全員を相手になさるも、ひとりだけにするもご自由です。何をしなくとも結構。私たちは|仰《おっ》しゃられたように致します」
「顔を――どうして顔を隠しているのよ?」
「性的な感情はこの方が高まります。思い切った以上、その極限まで追求するのがお望みと思いますが」
「嫌よ。あたしは嫌。夫がいるのよ」
「だからこそ、決心が必要です。ですが、それ程、重荷になるものではありません」
芳恵は沈黙した。
男の言葉に心根を見|透《す》かされたということもあるが、下半身を占領した欲望が、耐え難い強さで全身を浸しはじめたためである。
欲望自体に熱い|牙《きば》が生え、肉を食い切っていくようだ。
ぶちんという音がきこえた。
男たちが三方からにじり寄った。
「嫌」
芳恵はソファに顔を伏せた。
「さあ、奥さん」
と男は言った。男たちかもしれなかった。
「私たちはおもてなしをせねばなりません。これがあなたご自身の深奥の望みである以上、|叶《かな》えぬわけには参りませんのです。恐れることはありません。あなたがあなたご自身を|見《み》|据《す》えても、何ら精神的|痛《つう》|痒《よう》は感じぬ処置も取れるのです」
芳恵の喉が鳴った。
申し分のない条件だった。
自分が生活に何を求めているか、芳恵は思い知った。
「明りを――明りを消して」
かすれ声であった。
眼前のソファは闇色に染まった。
気配が近づいてきた。
頬を柔らかいものがつついた。
身内の震える快楽とともに、芳恵はその正体を知った。
三本あった。一本が頬を、もう一本が腰を最後のものが尻の割れ目を撫でていた。
芳恵の息が熱い。
これが彼女の願いであった。
芳恵は顔をねじむけて、頬をこする肉の棒を吸った。
先端を少し吸い込み、舌で濃厚に舐めた。
呻きが伝わってきた。
それだけで、芳恵は|昂《たか》ぶった。
上体を起こし、左手で支えると、|四《よ》つん|這《ば》いの姿勢で男根を握りしめた。
この姿勢でなければ駄目であった。
犬のように四つん這いで、複数の男根に|嬲《なぶ》られ、嬲ってみたかった。
とことん、肉の奥に溜まる毒にまみれてみたかった。
芳恵は手をそえた。
夢中で、丁寧に顔を上下させはじめた。
夫にしかしたことのないテクニックを駆使した。
男が前へ来てしゃがみこんだ。
これで他のも奉仕しやすくなった。
口を使いながら右手をのばした。
熱く息づくものが手の平に乗った。
握った。大胆な握り方だった。
強くしごきはじめた。
男の反応が正直に伝わってきた。それが|堪《たま》らなかった。
「脱がせます」
と尻を|弄《もてあそ》んでいた男が宣言した。
「脱がして」
芳恵はせがんだ。本気だった。
言ってすぐ、男根へ口を戻した。
それはたっぷりと涎に濡れ、自然の姿以上に硬直していた。
手の中のものも熱い。
ジーンズのベルトがはずされた。ジッパーも下ろされる。丁寧な手の動きだった。
見ず知らずの男に奉仕し、奉仕されている快感が芳恵を満足させた。
ずり下ろされた。
ぷっくりと白い尻が出た。
パンティが守っている。
大きな尻だった。じっと見ているとかぶりつきたくなる。
そうするための肉の塊りだった。
「パンティの上からよ、上からして。じかにはいけない」
絞り出すように言った。
「はい」
男の忠誠に、嘘はなさそうだった。
すぐ、薄い布を通して、熱いしめりとぬるみ切った動きが伝わってきた。
パンティの上から舐めている。
芳恵は舐められている。
一度やられてみたいと思っていた行為だった。
濡れた布は、くっきりと守るべき肉の形を浮かび上がらせた。
細長い|亀《き》|裂《れつ》が見えた。
男はそこへ舌を割り込ませた。
舌と肉の間にびしょ濡れの膜がある。
犯されるようで犯されない。
この微妙な感覚が何ともいえなかった。
芳恵は自分から尻を男の顔へ押しつけた。
男が鼻をこすりつけてきた。
肉球をこすり、すぐその割れ目に入った。
「いいわよ、舌なら」
と芳恵は許した。
男は布の外から内へと侵入してきた。
何度もしくじった|挙《あげ》|句《く》、舌先で、肉に食い込む布の端をもち上げ、蛇のように忍び入ったのである。
守りが破られた。守りはあるのに、|蹂躪《じゅうりん》されていく。
破戒の味であった。
貫かれる予感が芳恵に我を忘れさせた。
尻をふりながら芳恵は口と手に力を込めた。
少しして、喉の奥に、|馴《な》|染《じ》みの感触と香りがとんだ。
手の甲にもそれは跳ね返った。
第二章 黒部家の人々
1
湯本の駅につくと、外へは出ず、萩生は「箱根登山鉄道」の登山電車に乗り換えた。
丁度、止まっている。
二輛連結の電車は、どことなく懐かしい響きを伴うスイッチ・バック方式を三度繰り返し、終点の「|強《ごう》|羅《ら》」まで向かうのだ。
乗客は――五分の入りとでも言うのだろうか、シートにも空席が目立つ。服装から判断するに、大半は地元の住人らしい。観光客と覚しき、スーツケースやバック・パック姿は萩生の乗った後部車輛にも数人しかいなかった。
九月はじめ。
夏の盛りとも紅葉とも遠いほんのわずかな期間が箱根の「休息時」だ。
萩生は、いわばひとつの土地――空間的な“エア・ポケット”に入ろうとしているのだった。
乗ってすぐ、電車は走りはじめた。
午後一時。
車内にみなぎる光は力を失っていない。
萩生は三つ目の「宮ノ下」温泉場まで行くつもりだった。
そこの「不二屋ホテル」のロビーで、麻田という男と待ち合わせていたのである。
鞭馬の息のかかった、いわば配下である。三矢財閥傘下にあるどこかの会社が、表沙汰になってはまずい仕事に|雇《やと》った人物のひとりで、もと警官だという。
萩生の身体が暗く染まった。
隣りの空席に、地元の中学生らしいセーラー服姿の少女が腰をおろしたのである。
萩生を染めたのはその影であった。
自分の後から乗り込んできたのは覚えている。
手にした|鞄《かばん》から、文庫本を取り出して読みはじめた。
萩生は軽く眼を閉じ、電車の揺れを眠りに導いている。
少女のつぶやきが切れ切れに聞こえてきた。本は詩集らしかった。
[#ここから2字下げ]
シモオヌ 外套を着よ
二人して 霧の中を行こう
雲に乗った人のように
[#ここで字下げ終わり]
電車は信号所でスイッチ・バックし、萩生の車輛は後方に転じた。
少女の声はつづいている。
[#ここから2字下げ]
我ら たちまち 寒さの闇に陥らん
夢の間なりし
強き光の夏よ さらば
[#ここで字下げ終わり]
我、既にきいて――とつづく詩句がわずかに狂った。
萩生真介さんですね。
|物《もの》|憂《う》げな口調で少女は訊いたのである。
「そうだ」
と萩生は答えた。驚きもしない。これくらいのことはやる相手と、鞭馬からは予備知識を得ていた。
「黒部家の人か?」
「はい。――|巫女《み こ》の|千《ち》|明《あき》と申します」
一種の精神遠隔操作か、|憑依《ひょうい》現象だろうか。いずれにせよ、少女の肉体が、ここには存在しない別の女に操られていることは間違いなさそうだった。
「現当主のお嬢さま。――まだ、お|独《ひと》りでしたね」
「よくご存知ですのね。さすが、矢切家の総領が見込んだお方」
どちらも顔を合わすこともなく、唇だけが洩らしつづけるつぶやきであった。
萩生はシートの端で、少女の隣り二人分は空席のままだから、誰にも気づかれないが、満員だったりすると正気を疑われかねない。
もっとも、千明という巫女も、それは見通しで話しかけたのであろう。
「いつから|尾《つ》けていた?」
「あの別荘を出てからずっと。彼が我々のことをわかっている程度には、私たちも矢切家の動きを承知しています」
「で、どうする?」
「どうするとお思い?」
少女の口調は変わらない。眼は頁を追ったままだ。本人は詩句を口ずさんでいるのだろう。
「次の駅で降りるよ」
「私もご一緒するわ」
「もう、はじまってるというわけか」
「そういうことね。でも、あなたが選べる道は、降りる以外にも二つあるわ」
「ほほう」
「死ぬか、私たちのメンバーに加わるか――考えることもないでしょう。私たちのことなら、矢切家の息子から聞いていらっしゃるはず。会社説明は不要ですわね」
「仲間に入れていただけるとは光栄だな。|推《すい》|薦《せん》入学の保証人は誰だい?」
「二人います。矢切鞭馬と――|私《わたくし》」
「おれは、君のことを知らないよ」
「私も。|肝《かん》|腎《じん》なことは。つまり、何故、矢切鞭馬があなたを呼び、私たちに敵対させたのかは。それが、採用理由になるとは皮肉な|巡《めぐ》り合わせですわね」
萩生は胸の中でひと息ついた。
敵はまだ彼の能力に気づいていないらしい。少くとも脱出だけは何とかなりそうだ。
「で、おれはどうすればいい? 例えば、君たち一家に|宗旨《しゅうし》替えをするとして」
「何も。今まで通り、矢切家の指示をお守り下さい。その中から、あなたの選択が表われます」
「やっぱり、入社試験はあり、か」
「おふざけがお好きなようね」
少女は淡々と言った。
「そんな考え方がどこまで通用するか、じきにわかりますわ。そのとき、もう一度考えなさることね」
[#ここから2字下げ]
影ふたつ行きすぎぬ
[#ここで字下げ終わり]
と少女が言った。
巫女は抜けたらしい。
「宮ノ下」
と車掌の声が告げた。
降りる寸前の戸口で萩生はふり向いた。
二度と会うこともない少女は、じっと詩集に眼を向けつづけていた。
いま、自らが加わった異次元の妖戦など少しも知らぬげに。
萩生は無言で電車を降りた。
「宮ノ下」駅から「不二屋ホテル」までは、徒歩一〇分もかからない。
明治の初期に創立されて以来、数多くの事件と風雪をくぐり抜けて、おびただしい名士、著名人を迎えたホテルは、白い光の中にひっそりと立っていた。
玄関脇の大理石の階段を昇り、派手さを極力抑えた重厚なロビーの片隅に、萩生はあの別荘で見せられた写真の男を認めた。小柄な相撲とりくらいはありそうな巨体が、新聞を読んでいる。
革張りの|椅子《ソフア》には、あと三、四名、中年の男女がちらばっているが、敵ではなさそうだった。
かと言って、電車の少女の例もある。
無関係の人間が、いつナイフ逆手に襲いかかるかもしれないのだ。油断だけは禁物である。
萩生は何気ない風を装いながら、雑誌受けから「週刊朝日」を抜きとり、麻田と隣り合わせのソファに腰をおろした。
正直、意外な気がした。
敵の情報網の正確さからみて、麻田との出合いも勘づかれているとみていい。極端な話、すれちがう人々のすべてが黒部千明の可能性もあるわけだ。
麻田も尾けられているだろう。
放っておくのが一番かとも思ったが、どちらにしても連絡はとらぬわけにはいかない。
黒部家の|祭《さい》|祀《し》場所を知っているのは、彼だけだからだ。
黒部家に関する鞭馬の言が確かなら、麻田はとうの昔に殺されてもおかしくはない。荒仕事のベテランといえど、相手は人界の存在ではないからだ。
宮ノ下の駅を出てすぐ、公衆電話からホテルのフロントへ電話を入れて麻田の人相風体を話し、いるか[#「いるか」に傍点]と尋ねた。
仕事の打ち合わせで会うのだが、初対面のため、その名前を失念したという苦しい言い訳である。会社名はと問われると困るので、どちらのそれも告げなかったが、空っとぼけた口調が効いたのか、フロントはすぐ、それらしい方がいらっしゃいます、と告げた。
無事だったらしい。
それでも、彼ひとりという保証はない。周りにおかしな奴がいないかとも訊けず、萩生は礼を言って電話を切った。
受話器を置くと同時に、出向くことに決めた。
麻田がいる以上――彼が|憑《つ》かれているかいないかは別として――見捨てる訳にはいかない。消される怖れは十分にあるからだ。今まで生かしておいた理由はわからないが、そんな立場にある人間を見殺しにするほど、萩生はプロ[#「プロ」に傍点]ではなかった。
それに、接触さえすれば、救出する自信は百パーセント以上ある。
どうやら、敵の姿はない。
マークされているのは、萩生だけらしかった。
「週刊朝日」を広げながら、小声で、
「萩生です」
と言った。
馬鹿馬鹿しいという思いが募った。
盗聴器でも仕掛けられていれば一発でバレてしまう。まるで、三流映画のスパイそのものではないか。
「尾けられたな」
子供が聞いたら引きつけを起こしそうな声が言った。
そばに重ねられた碁盤が震えてもおかしくない。
警察時代は相当の|強《こわ》もてだったろう。
「おたくも?」
萩生は反発を隠さずに訊いた。
「ああ。|仙《せん》|石《ごく》|原《ばら》のホテルを出てからずっとだ。芦ノ湖まで降りて、まいたつもりだが、自信はないな」
「弱気ですね」
「どうも、ひと|筋《すじ》|縄《なわ》でいく相手じゃなさそうだ。正直に言うが、運の尽きという感じがするな」
この男も何か感じているのかもしれない。
萩生の胸に同情が湧いた。
「貯金は幾らある?」
と訊いた。
「何だ?」
麻田の声に困惑が混った。
「貯金だよ。おたくの生命がかかってる。助けてやろうというんだ」
その声に含まれた迫力と|真《しん》|摯《し》さに|気《け》|圧《お》されてか、
「二千万だ。あとは土地が――」
「かつかつ[#「かつかつ」に傍点]だな。手術代が足りずに手足が不自由になっても、生命あっての|物《もの》|種《だね》だと思うといい」
「何のこったよ?」
「黒部家の招喚地点は何処だ?」
「――ようやくわかったよ。仙石原の奥にある別荘の裏手だ。行けばすぐわかる。でかい洞窟があってな、その廻りに|護《ご》|摩《ま》|壇《だん》だの何だのが設けられてるんだ。|昨夜《ゆうべ》、やっと動き出した。半年も奴らを見張ってた|甲《か》|斐《い》があったぜ」
半年――ひょっとしたら、伊豆の別荘で、三つ|巴《どもえ》の妖戦が繰り広げられていたときも、鞭馬はもうひとつの戦いに|腐《ふ》|心《しん》していたのではないか。
「それじゃ、おれは消える。遠くへ行くつもりだが、箱根からは出られまいよ。もう会うこともなかろうが達者でな」
「東京駅へ行けば何とかなるか?」
「ん?」
「東京駅からなら、いまの住いへ戻らずに逃げられるか?」
「そりゃあ。――必要なものはいつも身につけてるがよ」
「達者でな」
立ち上がろうとした麻田の手首に萩生の手が伸びた。
奇妙な現象が生じた。
巨漢の身体が消滅すると同時に[#「同時に」に傍点]、五メートルほど離れたフロントの台とフロント係に重なって出現し[#「出現し」に傍点]、現われた瞬間[#「現われた瞬間」に傍点]、再び消滅してしまったのである。
彼は確かに五メートルの距離を越えて別の場所に現われ[#「現われ」に傍点]、しかし、一瞬たりとも出現せず[#「出現せず」に傍点]消滅した。
その証拠に、フロント係は悲鳴もあげず、夢でも見たような眼つきで、腹のあたりを|撫《な》でさすっている。
週刊誌から眼を離さず、萩生は微笑した。
この瞬間、東京駅の|八《や》|重《え》|洲《す》口改札で、首をひねっている麻田の姿を想像したのである。
全ての怪現象を可能としたのが、安っぽい背広を着たしがない塾の教師だと、一体、誰が信じられたろう。
そのとき、フロントで電話のベルが鳴り、係があわてて手に取るとすぐ、
「――お客さまで、萩生さま、いらっしゃいますか?」
と呼んだ。
2
「僕ですが」
萩生は立ち上がり、フロントまで行って、受話器を|掴《つか》んだ。
「驚いたよ。あれがテレポートか」
低い声が|鼓《こ》|膜《まく》から|腹《ふく》|腔《こう》へ|染《し》み通ってきた。千明の場合とは異なり、萩生には容易に声の主が想像できた。
中年の限界――五十代終わりの|壮《そう》|漢《かん》だ。数え切れない部下を使いこなす力を有している。武器は「恐怖」だろう。身長は一八〇センチ以上、九〇センチ近い。体重は七〇キロ。骨太の筋肉質で、武道の心得がある。さぞや女にもてることだろう。
例の男[#「例の男」に傍点]ではない。
立体ホログラフィが再生した凶漢の持つ暗黒のイメージが声には欠けていた。
天才的な大犯罪者と|走《そう》|狗《く》の殺し屋の差だ。
もっとも、その[#「その」に傍点]殺し屋も、とんでもない相手だが。
「理論上は可能だが、現実に存在するのを見たのは、今がはじめてだ。ただ、一度に長距離は無理のようだな」
昼なのに夕暮れの静けさと重さのたちこめるロビーで、萩生は|諦《てい》|念《ねん》に|精神《こころ》を馴染ませようと努力した。
やはり見張られていた。
何処で送って[#「送って」に傍点]も同じだと、いま[#「いま」に傍点]やってのけたのだが、敵に奥の手をさらけ出したことになる。
しかも、電話の声に、得意な調子は|破片《かけら》もなかった。萩生の力をあくまでも冷徹に観察している。|錆《さ》びた鉄の印象を萩生は抱いた。
無限大の質量を誇る大地の下に眠っている鉄だ。
その圧力をはね返すには、自らが|極《きわ》めた瞬間移動を不敗と信じるしかない。
何と答えようかと萩生は考えた。
「千明という巫女に会った」
自分でも嫌になるくらい味気ない|台詞《せりふ》だった。声にも凄味がない。
数学の講師が暴力のプロを演じられるものではなかった。
「ほう、それは。――で、どうするね?」
「お邪魔するさ。いずれ、そちらへ」
「あのスパイは我々の居場所を言い残したのか?」
「はて」
電話の向うの声は、咳をするように笑った。
「仲々やるな。塾の教師には|勿《もっ》|体《たい》ない。一度、仕事抜きで会いたいものだ」
「巫女さんにもそう言われたよ」
「では、招待しよう。今夜、どうだね? どうせ、我々のところへくるなら、あれこれ探し廻るより、ポイントを絞った方がいい。包み隠さず案内することを誓おう。今のところ、君のテレポートを妨げる手段はないし、身の危険を感じたら、すぐに逃げればよかろう」
「素直に行くと思うか?」
ようやく声に力がみなぎるのを萩生は感じた。
「いいや。いずれにしろ、君は鞭馬から私たちのことは聞いておるだろう。彼の調査につけ加えることは何もない。君としては、私の意向や都合など無視して行動するのが本筋だ。そこをあえて招待しようという、私たちの気持も|汲《く》んでくれんかね」
弱気だな、と萩生は思わなかった。
内容はそうだが、|脆弱《ぜいじゃく》な感情のゆらぎのない口調である。事実を告げているにすぎないのだ。
「やめとこう」
と萩生は言った。
「おれは、それほど自信家じゃあない。あんた方一家のこともきいているよ。黒部忠之さん」
「これは失礼。私としたことが、自己紹介も忘れるとは。――君の技に|見《み》|惚《ほ》れたか」
「それじゃ。――また、電話をくれ。その前にお邪魔することになるが」
「君なら、いつでも歓迎しよう。どんな形で入ってきたにせよ」
萩生は電話を切った。
フロント係が、妙な表情で見つめていた。
外へ出ようとして、何処へ行くも同じだと思い直した。
このホテルも、今の時期は静かそうだ。
「急で悪いが、部屋は|空《あ》いてますか?」
と訊いた。
ございます、と係は、ホテルマンの顔と声を取り戻して言った。
萩生が通されたのは、ベランダに面した旧館のツイン・ルームだった。
昔の建物だけに古いが頑丈で、天井が驚くほど高い。この分では、二階は優に普通の建物の三階分に達するだろう。
ひとりなのに、この部屋を選んだのは、鞭馬から渡された資金が|潤沢《じゅんたく》だったのと、芳恵が一度泊ってみたいと繰り返し言っていたからだ。
鞭馬は安全だと保証したものの、半分はこの世のものではない血を引く男のことだ、どこまで信じられるかわかったものではない。
部屋にはクーラーがないため扇風機をつけ、萩生はひと眠りしようとベッドに横になった。その前に、大ぶりなボストン・バッグから、旅行用のミニ時計くらいの金属塊を取り出し、サイド・テーブルに置く。
裏側のスイッチを押すと、内蔵されている原子力電池がメカに生命を与えた。
低い|唸《うな》りを萩生は耳にすることができた。
もうひとつ。――やはり裏側に付着している小指の先くらいの金属片をはずして、耳に詰めた。泥水のように疲れが襲ってきた。
鞭馬の別荘からホテルまで二日がかりの旅であった。
昨日は東京へ戻り、芳恵の行方不明を確認した。
怒りが湧いたが、どうにもならなかったし、それを打ち消すような不安も胸に居すわりつづけていた。
祐美の異常さである。
魂を奪われたかのようなあの表情は、確かに催眠術のものだが、鞭馬の異次元の力をもってして破れぬ技が、この世に存在するか否か。
こうして話は本題に入ったのである。
母の|昌《まさ》|枝《え》とヨーロッパ旅行に旅立った祐美は、ひと月前の朝、帰国した昌枝と別れ、ひとりでパリのホテルに滞在中、この状態で発見されたのであった。
「うかつでした。黒部家の動きはマークしていたのですが、姉のヨーロッパ行きを|狙《ねら》うとは思いませんでした。僕の眼が行き届けばよかったのですが、仕事の後始末に忙殺されておりましてね」
それは、萩生と実父[#「実父」に傍点]との伊豆での死闘のことだろうか。
彼の父がどうなったのか、萩生は大いに興味をそそられたが、鞭馬の方から解説してくれた。
「黒部とは何者だ?」
「僕の父をこの世へ招待したがっている一族です」
「|厄《やっ》|介《かい》な酔狂者がまだいたか」
それなら、祐美をこんな状態に陥らせることも、あるいは……。
「祐美さんは、どうすれば元に戻る?」
「――施術者が術を解くか、彼を|斃《たお》すしかありません。生命を奪う――」
「このままいくと、祐美さんはどうなる?」
「何も。それこそ、このままです」
鞭馬の声に苦渋の響きを聞いたような気がして、萩生は彼の表情を|窺《うかが》ったが、端整な唇は、いつもの冷笑を刻みつけて固まっていた。
「すでに調査の結論は出ています。細胞の新陳代謝は|永《えい》|劫《ごう》に現状を維持し、つまり、外傷を与えぬ限り、現在の若さを保ったまま、|精神《こころ》のない人間として生きつづけていくでしょう。生きもせず死にもしない人形として」
「どうして、こんな目に遇った?」
「これまでは、父の招喚に成功したのは母と僕だけでした。どちらが欠けても、奴らは目的を遂げられなかった。何とかして、僕たちのノウ・ハウを盗むしか、野望を遂げる手立てがなかった」
「それが攻撃に出た訳か。――招喚の秘密を掴んだな」
鞭馬はうなずいた。
「自信たっぷりというわけです。|遺《い》|憾《かん》ながら僕たちもそれは認めざるを得ません。単に戦闘能力を考えれば、僕より上かもしれない」
「奴らはどうやって、招喚法を手に入れた?」
「千明という巫女がいます。これが生まれつき、僕以上に向う側を感じる力を持った娘でして。早目につぶしておけばよかったものを、早いところ東欧へ渡り、持ち前の素質に|磨《みが》きをかけたらしいのです」
「それほどの呪術者か?」
「|天《てん》|稟《ぴん》を言うなら、世界でひとりだけ。しかも、同程度の能力者はここ数百年、出てはこないでしょう」
萩生はため息を洩らしそうになった。
「ですが、やはり、彼女の力だけでは、父を招くのは不可能だ。そして、奴らはあることを行ったのです――僕は不覚をとりました」
うかつなことに、萩生は言葉の意味するところが掴めなかった。
「奴らの目的は何だ? 何のために、あいつ[#「あいつ」に傍点]を|喚《よ》びだす?」
「父をあいつなどと呼んで欲しくありませんね」
「答えろ」
急激に喉元へ押し寄せる怒りをこらえて萩生は低く言った。
鞭馬の冷笑は崩れなかった。|瞬《まばた》きせぬ瞳で萩生を見据えたまま、
「何も」
と言った。
怒り出すタイミングを萩生が掴めずにいるうちに、
「あらゆる行為に目的が存在するとはかぎらない――この程度の認識は、こちら側でも常識のはずですが」
「それはそうだが……そんなものを喚び出して、ただ、それだけが……その後がどうなるか、奴ら、何も考えていないのか」
「神を招く巫女は、本来、喚び出すことのみが仕事です」
鞭馬は萩生の|驚愕《きょうがく》を|愉《たの》しむような眼付きで言った。
「後は、神の御心のままに」
「その神が狂った神ならどうする? 向う[#「向う」に傍点]側だけでは満足せず、こちら側もその|御《み》|手《て》に包もうとする狂神だったとしたら?」
鞭馬は答えなかった。
萩生にも、無駄な質問とわかっていた。少し沈黙をためてから、ようよう言った。
「おまえの父は、今でも心変わりはしていないのか?」
「残念ですが。――多分、神というのは、案外、世間知らずなのかもしれませんね。自分の世界より居心地のよい国があることに、ようやく気がついたのでしょう。先生と母の力で[#「先生と母の力で」に傍点]」
萩生は喉元に刃を突きつけられたような気がした。
そうなのだ。奴にそれを気づかせたのは[#「気づかせたのは」に傍点]、彼自身だったのだ。
あのとき、もうひとりの科学者と、MITの実験室から、別の、霧に覆われた空間へ……そこに奴がいた。
漂ってきた縄状の触手。
あの、たそがれの世界の存在者が奴ひとりだったとは。
そして、奴は知った。
別の生物を。
その生物の世界を。
責任の所在を問われれば、萩生は沈黙するしかあるまい。世界の|糾弾《きゅうだん》の矢は、真っ先にこの全身を射抜くだろう。
3
「で、おれにどうしろというんだ?」
「ようやく、核心をつきましたね。簡単です。僕の心臓を取り返していただきたい」
「おまえ、な……」
「あれがなくても、僕は生きられます。しかし、行動には支障をきたさざるを得ない。今は本当に車椅子から立てぬ身の上です。――ご心配なさらず。僕が生きている限り、あの心臓も生きています。決して腐敗したりはしていませんから、その点、ご安心を」
「何がご安心だ」
さすがに萩生は血相を変えたが、声にはどこか、|諦《あきら》めと安堵に似た色がある。
彼の能力を以てすれば、何かを失敬するのはさして難事でもない。ただ、それが、鞭馬の生ける心臓とは……
頭の片隅で電光が紫の火花を発した。
「まさか……あいつを|喚《よ》び出すのに、おまえの心臓を……」
「その通りです」
鞭馬はうなずいた。どこか弾んでいる風だ。萩生のあわてぶりが|堪《たま》らないのかもしれなかった。
「どうやって使うのかは黒部家の秘密でわかりませんが、まず、間違いありません。だからこそ、奴らはそれ以上のものも要求してこないし、僕は生き延びているのです」
「心臓が破壊されたら、おまえは死ぬのか?」
「そうなりますね。そっちの方が先生は嬉しいかもしれません」
「全くだ」
萩生は正直に言った。
鞭馬は苦笑した。萩生は|一《いっ》|矢《し》を報いたのだ。
「これは負け惜しみでも何でもありませんが、この状態でも、僕は黒部一族にひけは取らぬつもりです。奴らも、そこそこのことでは、僕の心臓を破壊するという手段には出られない。しかし、僕が動くには、姉がネックになる」
「……おまえへの|恫《どう》|喝《かつ》か。祐美さんの姿は……」
「そういうことです」
「術をかけたのは、その千明という巫女か?」
「多分。しかし、黒部家の父親も、それなりの技を使います。それも突きとめていただきたい」
「断わっておくが――」
「先生にそれ以上は望みません。人を殺させるなどもっての|外《ほか》です」
鞭馬の微笑を、このときほど萩生は憎悪したことがない。
そして、彼は引き受けたのだった。
耳の奥で、蜂の羽音みたいな金属音が鳴っていた。
眠っていたらしい。
萩生は眼を開きかけ、途中でやめた。
耳孔内の音は、サイド・テーブル上の卓上レーダーが受信部へ送る侵入者警報であった。
音の方角から、侵入者の位置までがわかる。
三矢電機が開発した家庭防犯|装置《システム》のひとつだ。
外には夕闇が黒い羽根を広げている。
部屋も準じていたが、旧館の右横に立つ|別《べつ》|棟《むね》の窓や廊下から洩れる光で、物を見るには不自由しない。
方角は右横。
敵はドアから入りこもうとしていた。
どうやって錠をはずしたのかわからないが、萩生の動向を|逐《ちく》|一《いち》見張っていたのは確かである。
壁に人影が映じた。
地味なスーツにネクタイを締めた、一見サラリーマン風の男が、二人。
黒い革手袋をはめている。
窓からの光が右手のものをわずかにきらめかせた。
刃渡り二〇センチにも達するナイフである。
萩生は思い切り身を|捻《ひね》った。
回転する眼の隅を、垂直におちる光の筋がかすめた。
|瞬間移動《テレポート》は使いたくなかった。
この男たちが、黒部の送った|刺《し》|客《かく》とは、いまいち信じられない。
萩生を仲間に引き入れたいという彼の願いは、まことに|真《しん》|摯《し》なものであった。
黒部の放った暗殺隊でないとすれば、瞬間移動を知っているとは限らない。見せるだけ損だ。
ベッドを|貫《つらぬ》いたひとりが、ナイフを抜くのに苦闘している間に、もうひとりが迫ってきた。
ナイフは|逆《さか》|手《て》に握っていない。
少くとも即席の殺し屋ではなさそうだった。逆手に握ったナイフは、攻撃のたびふり上げなくてはならない。このわずかなタイム・ラグが相手の逆襲を許す。
無表情な顔が、萩生の背に緊張を|促《うなが》した。
周囲を見廻し、武器になりそうなものを探す。
|文机《ふづくえ》だ。
男から眼を離さずに跳び、椅子の背を握って前方へ突き出す。
男が立ち止まった。
もうひとりの若い方もナイフを引っこ抜いて向かってくる。
二人分になる前に個別撃破する手だった。
萩生は男の顔めがけて椅子を突っかけた。
素早く後退する。
敵は二人分になりたがっている。
余裕を与えてはならない。
ナイフの届く距離ではないと見て取り、萩生は思いきり椅子をふり上げた。
男はさらに後方へ下がる。
ぶん、と唸りをたてて椅子がとんだ。
若い男の方へ。
男の方を見たまま放ったから堪らない。
若いのは手でカバーする暇もなかった。
椅子の足のひとつをもろに|眉《み》|間《けん》に受けてのけぞる。
ひえっという声がした。
萩生は男へ向き直った。
少しはたじろいだかと思ったが、足早に向かってくるところだ。
仲間のKOにも無関心――プロの|鑑《かがみ》といえた。
凄まじい殺気がのしかかってくる。
萩生の比ではなかった。
殺しを決意したものと、なんとか取り押さえようとするものでは根源的な気迫が異る。
人を呼ぼうか、と萩生は思った。
男が一気に詰めた。
萩生が下がる。
その速度より男の接近スピードが早かった。
――まずい!
背筋を冷気が突っ走った|刹《せつ》|那《な》、胸元を銀光が流れた。
次の瞬間、萩生は男の後方に立っていた。
舌打ちをしざま、立ちすくむ男の首筋へ右の手刀をぶち込む。急所は柔道場で学習済みだ。
浅い。――映画のようにはいかなかった。
それでも、男は膝をついた。
もう一発、と右手を引いた途端、男の上体が旋回した。
再び|閃《せん》|光《こう》。
萩生は重合空間へ入った。
身体への危険が迫ったと、潜在意識が認定した途端、萩生の意志とは無関係に、身体は|瞬間移動《テレポート》に入る。物理的時間は、この重合空間を|辿《たど》って通常空間の別の位置へ移動するのに要する分だけだが、これはあくまでも萩生に個的なものであって、世界的三次元的な所要時間はゼロに限りなく近いのだ。
従って、無意識の移動でも、移動中に出現場所を選択するくらいのことはできる。
萩生は男の頭上一メートルの位置に出現した。両足を思いきり曲げて。
現われるのと同時に、両足の|踵《きびす》を男の頭頂へ叩きつけた。
十分な手応え。
ぐっと喉を鳴らして男はのけぞった。
男の頭を足場に床へ降り立ち、萩生はぶっ倒れた男に近づくや、右手のナイフを蹴りとばした。
自分を殺す気だったのかと思うと、激しいものが胸中に湧いた。
まだ指が把握の形をとっている右手を思いきり踏みつける。
骨の砕ける音が連続し、男が悲鳴を上げた。
やりすぎた。
萩生はもう後悔していた。根っからの暴力人間ではないのだ。
沈み込む気分を押さえて、男の|胸《むな》|倉《ぐら》を掴む。
「誰の指図だ? 黒部か? 千明か?」
早く終わりにしたかった。
人間相手の生命のやりとりは、|所《しょ》|詮《せん》、塾教師には向いていない。
男は右手を押さえて|呻《うめ》いた。
「野郎、よくも指を……」
「誰の手先だ、言え!」
相手の指をへし折ってしまった後悔が、萩生の|焦燥《しょうそう》を高めていた。
力を込めて思いきりゆすった。
|脂肪《あぶら》|汗《あせ》をしたたらせながら、男はせせら笑った。
萩生が暴力人間ではないと見抜いたのだ。
「知りたきゃ、申し込み書にサインして提出しな。慎重に協議の上、結果は後日郵送してやるよ」
萩生の腹の中に冷たい塊りが湧いた。
「そうか」
自分でも不気味なほど低い声でつぶやく。
男の身体が消えた。
出現と消失を繰り返しながら部屋中を駆け巡る。
!
!
!
声は音もなく[#「音もなく」に傍点]きこえた。
響きはなく、それでいて、「声」と認識できるのだ。
萩生は垂らした左手をやや持ち上げた。
その下へ男が現われた。
攻撃兵器としてのテレポートの効果を、十分に体験していると言えた。
両腕が関節からねじくれ、|左肘《ひだりひじ》は腰に溶け込んでいる。
どう見ても先刻と左右の眼が逆だ。
鼻孔から泡を噴き出しているのを見ると、食道が直接鼻と結合したようであった。
その他、内臓にも変化が生じているかもしれないが、萩生にはそこまでわからない。
「これでも申し込み書がいるか?」
ひどく残忍な気分で新しい後悔を押さえつけながら訊いた。
――男の唇が動いた。神経は通っているらしい。
「……てめ……何……しやが……った……」
「見ての通りだ。おまえたちにおれを襲えと命じたのは誰だ?」
「……おれ……の|身《から》……|体《だ》を……どうしやが……った? ち……く生……畜生……」
「答えたら治してやる」
萩生は嘘をついた。
「……千明さん……だ……おめえ……を|殺《ばら》……せ……と……」
「やっぱりな。――さっさと出て行け」
萩生は男から目をそらし、のびっ放しの若いのへ近づいた。
椅子の足を叩きつけられた|眉《み》|間《けん》には、赤黒い小円が生まれていた。
|窪《くぼ》んでいる。内出血を起こしているかもしれない。
萩生は念のため、そいつの手からもナイフを蹴りとばし、脇腹に|爪《つま》|先《さき》を食い込ませた。
すぐに呻いて起き上がる。
その眼の前にナイフを突きつけ、相棒を指さして、出て行け、と命じた。
変わり果てた姿に、若いのは仰天したようだが、やはりプロのはしくれなのか、相棒に肩を貸すと萩生から眼を離さずに、ドアから出ていった。
窓の外を見ると、中庭へ出て歩み去っていく。
闇にまぎれれば、人目にもつくまい。
萩生はため息をついてべッドへ横になった。部屋の乱れを直す気にもなれない。
口の中に苦い唾が湧き、そのくせ口腔は深酒の後みたいに乾き切っている。
少くとも、ひとつだけ有利な点を掴んだ、と今の戦いを納得させようとする。
敵の指揮系統はひとつにまとまっていないらしい。
黒部と千明の意向は|背《はい》|反《はん》し合い、それを調節しようとする試みも行われていないのだ。
この辺から崩せるかもしれないと、萩生はぼんやり考えた。
腕時計を見ると、七時を少し廻ったところである。
とりあえず腹ごしらえをしなくてはなるまい。
食欲はなかったが、体力が決め手だから、無理に食堂へ行くことにした。
メイン・ダイニングはフロントの裏手にあたる棟で、鎌倉彫の彫刻が高い天井を埋めている。
黒服のマネージャーが窓際の席へ案内してくれた。
数組がテーブルを埋めただけの食堂は、豪華だが、何処かもの寂しい雰囲気に包まれていた。
黒人らしい泊り客がひとりいて、彼だけはダーク・スーツにネクタイで決めていた。
ステーキ・ディナーを頼んだ。
すぐに来た。
柔らかい上肉だが、どうしても食欲が起きない。それでも水と一緒に無理矢理飲みこんだ。
半分ほど平らげたとき、ドアの方でざわめきが巻き起った。
ふと眼をやり、萩生は動かなくなった。
白地にグレーの藤の花を散らした和服姿がガラス戸のすぐ前で、食堂内を見廻している。
窓の外の闇を背景に、そこだけ天井の照明も光を失ったようであった。
代わって、女がかがやいているのだった。
左右を見廻す|白《はく》|蝋《ろう》の顔が萩生を認めて停止した。
萩生は眼を伏せた。
それほどの美女であった。
男なら誰でも和服の中味と、乱れた|裾《すそ》からのぞく白い|脛《はぎ》を連想しないではいられない。
ぽかんと突っ立っていたマネージャーが何か言いかけるのを尻目に、女は豊かな腰を左右にゆらせつつ、意外に素早い足取りで萩生の方へ歩み寄ってきた。
左の脇に立った。
かぐわしい芳香が萩生の鼻をくすぐった。香水というより、女の体臭のようであった。
「萩生真介さんですね」
予想通りの質問がふって来た。
「ええ」
「わたくし、黒部千明です」
かっと両眼が開くのを意識しながら、萩生はみっともない[#「みっともない」に傍点]と思った。
「かけてもよろしい?」
「どうぞ……」
「お初に――ではないわね。登山鉄道の中でお目にかかったわ」
「“シモオヌ 外套を着よ”」
萩生は静かに言った。
いつの間にか驚きは去っていた。
「あんな姿でお目にかかりたくなかったけれど――これが本当のわたくしよ」
「光栄ですね――で、御用件は?」
「賞讃と、お招きに参上いたしましたのよ。明日、私とドライブなどいかが?」
萩生は苦笑した。
「おれ――僕は、あなたの派遣した友だちに殺されかかりました」
「ですから、お賞めに参上したと申し上げたはずよ。あの二人は、私の手先の中でもトップ・クラスのやり手なのに、よくもまあ、あんな目に|遇《あ》わせられたこと。あなた、本当に塾の先生?」
「身分証明書をお見せしましょうか?」
「冗談よ。それより、明日の件、いかが?」
「|懐柔策《かいじゅうさく》ですか?」
「そんな――矢切家から派遣された方に、どんな申し出をしたらいいかは、心得ているつもりよ」
「では、何の目的で?」
「わたくし、あなたが気に入ったの。好きになりそう。これでは不十分?」
「残念ですが」
「そう」
怒った風もなく、千明は両手を萩生の方へ差し出した。
ナイフとフォークを掴み、肉を切りはじめる。
「大した自信ね。敵の女に眼の前でナイフをもたせて平気とは。もっとも、あんな技を使われては、地球上のどんな兵器も、あなたを傷つけられるはずがないわ。ねえ、安心してドライブ、お付き合い下さいな」
訳のわからない申し出だった。
甘い誘惑の裏に鋭い牙を萩生は感じていた。
それでも、男とは危険なことをしたがるものだ。
そして、萩生には瞬間移動があった。
「いいでしょう。明日なら」
「嬉しいこと」
千明は|艶《えん》|然《ぜん》と|微《ほほ》|笑《え》み、フォークに刺した肉片を赤い唇へ運んだ。
白い歯が肉をちぎり、飲み込んだ。
「では、私、これで」
萩生のナプキンで口を拭いながら、千明は立ち上がった。
追うことはできなかった。
歩み去る藤の花を、萩生は見まいとした。かわりに、ウエイターやウエイトレスの眼が全身に注がれていた。
ここにいても仕様がなかったが、残った料理をすべて平らげてから、萩生は外へ出た。
部屋へ戻り、鍵穴にキイをさしこむ。
眼が細まった。
鍵ははずれている。
敵が第二波の刺客を送り込んできたものか。
やれるか、と萩生は自分に問いかけた。
やれると答えた。
不思議と変な気持だった。
殺し合いでも十分生き残る能力は実証できたし、一度したから|馴《な》れてもいた。敵を|斃《たお》す快感に馴れはじめた自分に萩生は気づいていた。
ドアを押して入る。
記憶にある匂いが鼻をやさしくついた。
千明の体臭だった。
「お帰りなさい。電気はつけないで」
窓からさし込む常夜灯の光の中で、香りの主は萩生のベッドの上から、そっと上半身を起こした。
萩生は喉が鳴るのを耳にして、舌打ちしたくなった。
|精神瞬間移動《テ レ ポ ー ト》を行うためには、一種の精神集中が不可欠だ。一朝一夕で身につくものではなく、MIT時代、萩生は朝となく昼となく座禅を組んだ。
仏教の奥義のもたらす統一感が、テレポートを制御する上で最も有効と、勘が知らせたのである。
それをつづけるうちに、萩生は単なる座禅のもたらすものとは、別の域に没入していった。
いわば超能力のもたらす統一感である。
凄まじいまでに瞬間的な意識の集中と閃きと解放。――その他に、強烈な|克《こっ》|己《き》心が加わった。
性欲に対する欲求や衝動が、以前よりたやすく押さえられるようになったのは、そのためであろうか。
ミニからはみ出た女学生の太腿だけで昂ぶっていた彼が、ヌーディストのキャンプへ入っても、平気な面で戻ってくるようになったのである。
それが、あっさり破れた。
千明の裸身はそれほど魅力的であった。
絶妙のバランスを誇っているのである。
乳房は大きすぎず小さくもなく、ふっくらと妖しく突き出しているし、腰のくびれと下半身の豊かさは、機械的な均衡を越えて欲情さえそそる。
「いらっしゃい。――それとも、こちらが好み?」
千明は後ろを向いた。下半身だけ。
真介との位置関係を心得ているのか、太腿からヒップにかけてのラインは、もっとも広々とその視界を埋めた。
肉そのものであった。
「私はただの裸の女よ。それでも怖いの?」
「裸でも魔女は魔女だ」
真介は乾いた声で言った。
「試してみたら? あなたの言う通りか、ただの女か?」
「目的を訊こう」
「別に。闘う前に、裸のお互いを知っておいた方がいいと思ったのよ。洒落にもならないけれど、弱点ぐらい見つかるかもしれないわ」
萩生の頭の中で、本能とも言うべきものが危険だと告げていた。
だが、そのシグナルすら細々と、無視し得るほどに、千明の肉体の魅力は萩生の脳を溶かし、防衛本能を野獣の情欲でくるみ込んでいた。
「いかが、このヒップ――みんな|賞《ほ》めてくれるのよ」
千明は|愛《いと》しげに眼を細めた。
白い指が尻の肉に食いこむのを萩生は見た。千明は男の前で、自分の尻をいじりはじめた。
つややかどころか、ぬるぬると光る|爬虫類《はちゅうるい》のごとき肌の下に、青い血管が縦横に走っている。肉はこねられ、揉まれ、元の形を取り戻しては、十分な弾力を示して揺れた。
萩生は服のボタンに手をかけた。
ズボンを脱いだところで、千明が上体を起こした。
「いらっしゃい。最後の一枚ぐらい、女に脱がさせるものよ」
萩生はベッドに近づいた。
千明が武器を隠している様子はない。よしんば、そうだったとしても、それを知覚した超感覚は、萩生の意識しないうちに、安全圏へ移動させてしまう。
千明は塾教師の引き締まった尻を抱いた。
恍惚たる顔は演技ではなかった。
トランクスがずり下げられるのを萩生は感じる。
男のものは天を仰いでいた。
一本ずつ指を絡めるように、心をこめて千明は握った。
すぐには口へ入れず、閉じた唇で先端をねちっこく刺激する。
洩らす吐息が|途《と》|轍《てつ》もなくエロチックだ。
歯にも当てた。
歯茎でもこすった。
敵のものに対するとは思えぬ丁重な扱いに、萩生は必死で反応をこらえた。
「お強いこと。我慢強い男が私は好きよ。いざというとき、本当に燃えてくれるから。ああ、この先から、心臓の鼓動が伝わってくるようだわ。強い強い心臓の音が」
言葉のひとつひとつが熱い針と化して、男根を刺し、萩生は腰を突き出した。
ためらわず、千明の口はそれを深々と含んだ。
萩生の口がため息を洩らす。
千明は音をたてて口腔性交を開始した。
「いいでしょ、もう?」
と|虚《うつ》ろな眼で離れたとき、萩生の男根は下腹に密着していた。
萩生は|巫女《み こ》の上に重なった。
「肩に乗せてよ」
持ち上がった女の両脚を肩に、萩生は膝立ちで貫いた。
千明は|坩《る》|堝《つぼ》のように熱く潤んでいた。
粘膜が肉棒を包み、生きもののように吸い込んで、萩生は上体をのけぞらせた。
濃厚な夜がはじまろうとしていた。
これが何をもたらすか、萩生の胸を漠たる不安が包んだが、男根から伝わる快感が、それを桃色の霧で覆い隠してしまった。
第三章 淫靡妖計
1
室内には澄んだ音が漂っていた。
弾き出されたものである。
その証拠につながっていない。ひとつひとつが水泡のように独立して鳴っているのである。
ピアノの音であった。
音にも色があるとすれば、これは何と形容すべきだろうか。
黒。――これしかない。
底知れぬ|深《しん》|淵《えん》で、落ち来るものを待ち受ける闇の色。
次々に繰り出されるそれが構成するのは、絶望の曲であった。
聴くものすべてが耳を|塞《ふさ》ぎたくなる調べ。
その証拠に、青い光のゆらめく広大な部屋には、奏者ひとりしかいない。
彼が死を選ばぬ理由があるだろうか。
ただひとつ。
暗闇の色は不可思議なかがやきを帯びているのだった。
怒り、哀しみ、憎悪、|歓《よろこ》び――それらのすべてがかがやきに|融《と》け込み、それは唯一、人間の営みを絶望の中に表現していた。
部屋は茫々と青い光の中に沈み、ピアノの調べは高く低く、幻のように流れた。
それが、不意に途絶えた。
連れ合いの喪失を、光は哀しんでいるようであった。
白く長い指が鍵盤を離れる。名残り惜しげに。
そして、矢切鞭馬の声が――
「よく来たな」
いつの間にか、背後に集っていた影たちが顔を見合わせた。
全員、一メートル八〇センチを越す長身だが、身にまとった色とりどりの背広は、その内側の絞り抜いた肉体の|輪《りん》|郭《かく》を|明瞭《めいりょう》に浮かび上がらせている。
鍛え抜き、鍛え抜き、肉体どころか精神までも刃と化せしめたような男たちであった。
四人いた。
不吉な数と言えた。
接近を気づかれても、ひとりとして驚いた様子がない。
顔形や容貌は全員異るのに、どこか共通したものを連想させる顔つきであった。
激烈な訓練が共通の表情を与えたのだ。
殺人者の。
足音もたてず、男たちは散った。
ピアノの音に誘われて訪れたのは、一階の応接室である。
二日前、萩生が訪れたところとは別だ。
ピアノのかたわらに人工の滝と岩山がつくられ、たぎり落ちる水が部屋を横断して、細い流れを形成しているのは同じだ。
男たちの眼中には、ひとつの目的しかないようであった。
身を低くし、流れるような足取りで接近してくる。
革靴は磨き抜かれた床の上で音をたてなかった。
「よく、ここまで来た」
と鞭馬が顔だけをねじ向けて男たちを見た。
「だが、来た以上は帰れん。おまえたちが来たのではなく、僕が来させたのだ」
穏やかな口調は、それが負け惜しみでないと告げていたが、男たちの動きを封じるには穏やかすぎたようだ。
右端の男が軽く膝を曲げた。
跳躍の合図だった。
鍵盤に叩きつけられた鞭馬の指が、それを否定した。
凄まじい響きが男の姿勢を崩し、床に|膠着《こうちゃく》させた。
「僕を狙いに来たのを見ると、萩生先生も気づかれたか」
鞭馬はゆっくりと身体を回した。
四人の姿を次々に視界へ収めていく。
「その構えからすると、親玉は萩生先生につき、弟子をよこしたか。だが、おまえたちでは役不足だ。心臓のない男相手でも」
そうだろうか。
鞭馬の腰から下は、毛布に包まれたまま、オート・チェアーの上にある。
いかに万能の椅子とは言え、この奇怪な刺客たちに抗し得るか。
四対一で。
どのような結末を迎えようと、それは異世界のものにちがいない。
「ほう」
短い叫びを残してさっきの右端が跳躍した。
|飛《ひ》|燕《えん》の速度で鞭馬へと弧を伸ばす。
折りたたまれた両足が半月を描いた。
上体を思いきり後方に|反《そ》らせ、足の描く線は刃そのものとなった。
ぼん! と音をたてて、スタインウェイのグランド・ピアノが二つに裂けた。
鞭馬は椅子ごと右へ移動していた。
男の足の速度を考えれば、凄まじいスピードといえた。
どんなエンジンにもできる芸当ではない。
二人目が走った。
跳ばずに前蹴りを放つ。
押しつぶされた空気がたわみ、剛体と化した。
空を切った。
鞭馬は男の右横に廻っていた。
男は二撃目を送らなかった。
真っすぐに伸びた鞭馬の右手が、手首まで男の脇腹にもぐり込んでいた。
鞭馬が手を抜くと同時に、男は前方へ突っ伏した。
傷口から黒血が溢れ出した。
「せっかくきれいな床を」
と鞭馬は血まみれの右手首を肘掛けの外へはみ出させたまま不服そうに言った。
「だが……くく……丸っきりの人間というのは、簡単に死ぬものだな」
その言葉の意味をどうとったか、残る三人の顔に、はじめて怒気が浮かんだ。
これも信じ難いスピードで交差する。
前にひとり左右に二人。
逃げようのない布陣だ。
前の男の背後には、水路がやわらかな音をたてている。
その男が走った。
ねじるようにして飛んだ。
地上から一メートルと離れていない。
超低空の飛び蹴りであった。
鞭馬は左へ動いた。
頭上から左の男が襲った。
間一髪でそれもかわし、鞭馬は、固く厚いものが砕ける音をきいた。
男の足は足首まで大理石の床にめり込んでいた。
だが、男はついに立つことは出来なかった。
上衣の胸が炎を噴いたのは次の瞬間だった。
四つの氷のような眼が、肘掛けの前面に突出した、真紅の光点を刻みこんだ。
レーザー砲であった。
三矢電機か関連会社で製造中の鉱業用レーザーを改良したものであろうか。
「|素《す》|手《で》でお相手したいのだが、この身体ではハンディが欲しい」
鞭馬は嬉しそうに言った。
心からなる喜びの相であった。
闘いに血が沸き立つのではない。
人間離れした技を使うこの男たちに、彼は全身で親愛の情を示しているのであった。
「前言撤回だな」
と彼は低くつぶやいた。
眼は前方に注がれていた。
脇腹を突き破られた男が起き上がりつつあった。凄まじいタフネスぶりだ。
その肩に炎が上がった。
呻いて膝をつく。
その膝にも無色透明のレーザー・ビームが火の穴を|穿《うが》った。
「立て」
と鞭馬は言った。
何をしようというのか。
「まだ死ぬな、死なないはずだ」
男の喉と眉間から炎が上がった。
「死なないでくれ。君は人間以外のものだ」
右からひとりが襲った。
|貫《ぬき》|手《て》が唸りをたてて鞭馬の腹へとぶ。
嫌な音がした。
手首までめり込んでいた。
「死ぬな」
鞭馬の叫びとともに、全身に炎を|点《とも》した男の心臓が点灯に加わり、ついに男は崩れた。
「やはり――人間か……」
鞭馬の言葉は血塗られていた。
かすかに咳こみ、次の瞬間、彼は血泡を噴いた。
貫手で腹を突き破られていることにようやく気づいたように、彼は腹部を見つめ、前に立つ男を見た。
|止《とど》めとふり上げた鮮血の右手を男が硬直させたのは、彼の眼の中に何を見たのだろう。
それでも、彼は突いた。
鞭馬の腹を。
確かに吸いこまれた。
手ごたえはなかった。
鞭馬はわずかに後方へ下がり、男の貫手はその分高度を上げて、彼の心臓を貫いていた。
えぐり取られた心臓の占める空隙を。
あまりの異常さに愕然と立ちすくむ男の|頸《くび》に鞭馬の腕が巻きついた。輪が急速に|狭《せば》まり、頸骨の折れる音が高々と響いた。
この間、最後のひとりは何をしていたのか。
彼は鞭馬の背後から頭頂へ肘を叩きこむつもりだった。右腕を上げ、おろそうとした一|刹《せつ》|那《な》、その頸に音をたてて巻きついたものがある。
青黒い|鞭《むち》――言うまでもない。異次元の父から受け継いだ鞭馬の男根だ。
みるみる|土《つち》|気《け》|色《いろ》に変わる男に、この若者にもこんな人間的な表情が浮かべられるのかと思うような哀しい顔を送り、
「やはり、死ぬのか」
と鞭馬は噛みしめるように言った。
二つの身体が床で音をたて、静寂が戻る。
ほんの少しの間、肉の焼ける臭いが漂っていたが、すぐかぐわしい芳香に追放されてしまった。
|骸《むくろ》と化した四つの身体を、鞭馬は汚らわしげに足で水路に蹴落とし、流れ去る姿も見ずにピアノへ戻った。
何事もなかったような、憂いに満ちた表情を、白い指が引きたてていた。
鍵盤にそれが躍り、二つに裂けた機械が、以前と変わらぬ美しい音の|水泡《みなわ》を|弾《はじ》き出したとしても、奏者がこの青年ならば何の不思議があろう。
もの哀しげなブラームスの響きに、四つの殺人と萩生の運命をもこめて、矢切鞭馬は誰ひとり訪れぬ広大な部屋で、黙然とキイを叩きつづけるのであった。
2
ここも空間であった。
ただ、形だけが異常だ。
直径五メートルほどの、ほぼ真円で、奥行きは、わからない。
四方を|覆《おお》う石の壁がどこまでもつづいているのだ。
洞窟であった。
行き止まりの石壁の手前に、|護《ご》|摩《ま》|壇《だん》らしきものが置かれ、その上に、ガラスケースがうやうやしく安置されている。
光量は豊富だった。
天井と壁にコードが|蔦《つた》のごとく走り、その端は、|眩《まば》ゆい光を放つ照明灯に連結されていた。
かすかに香の匂いも漂っている。
護摩壇の前に、ひとりの男が正座し、眼を閉じていた。
僧侶の着るような黒い|袈《け》|裟《さ》を身にまとってはいるものの、その下は、白い半袖のワイシャツに黒のニット・タイである。
男の異常さは、それよりも下半身が|際《きわ》|立《だ》てていた。
筋肉が根を張ったようなたくましい下肢はむき出しであった。
固い石の地面に、彼は素肌で正座しているのだ。
壇上のガラス容器とその股間とを、奇妙なものがつないでいた。
半透明の、細いビニール管である。
一方は容器の下から内側へ――これはいいが、何ともう一方の端は、男の男根の先にねじ込まれている。
顔は――鬼に似ている。
ただの鬼ではない。
こういう言い方が許されるとするならば、インテリの鬼、である。
理知的、と言えばいいか。
凄まじい|形相《ぎょうそう》が、眼を閉じているだけで、成程、|瞑《めい》|想《そう》にふけっていると思えるのであった。
いつからそうしているのか。
不意に冷え冷えとした空間に言葉が生まれた。
「来たか」
と男がつぶやいたのである。唇の間から白い歯がのぞいたものの、幸い牙ではなかった。
男の背後にあたる通路の奥から、白い和服の影が妖々と歩み寄ってきたのは、数分後のことである。
「お待たせいたしました」
こう言って深々と腰を折ったのは、|度《ど》|胆《ぎも》を抜くような|妖《よう》|艶《えん》な美女――黒部千明にちがいない。
それに応じる男の言葉が、また奇妙なものであった。
「おまえ――奴と寝たな?」
|不《ぶ》|躾《しつ》けなこの質問に、千明は何と答えたか。
「はい」
とうなずいた。
「どうだった?」
「ようございました」
「二人やられたそうだな」
「志村と大沢のことでしょうか」
「勝手なことをする」
「たまには、ようございましょう」
千明は|艶《えん》|然《ぜん》と微笑んだ。
男を|揶《や》|揄《ゆ》しているようにも見える。この女なら、どんな男に対しても、そうする資格があるだろう。
「来い」
と男が言った。
千明はその左横に立った。
男は両手をのばして、その腰を掴んだ。
白い和服を張りつめさせた重い腰であった。
千明は男の膝の上に身を横たえた。
それだけで、男なら射精しそうな色っぽさである。
男は片手で、千明の胸をかき開いた。
見事な乳房が現われた。
どこまでも完璧な女だった。
「キス・マークがあるぞ」
「大層強く吸われましたから。私のお乳は誰でも強く吸います」
千明の声は途絶えた。
黒部が同じ場所を強く吸ったのである。
父と娘だった。
乳房には素晴しい張りがあった。
「色々と女を抱いたが、やはり、おまえが一番だ」
と黒部は呻いた。
すぐに耐えかねたように千明の唇を吸った。どちらも眼を閉じていた。興奮しきっている。
同時に舌を入れた。
千明が先に吸った。
わざと息づかいを荒くし、吸う音を大きくたてる。
その音が長いことつづいた。
何度も何度も舌を絡み合わせ、唇をねじる。それ自体が性交の本番のような貪欲さであった。
やっと離した。
唾液が光る糸を引いた。
「悪いお父さま」
と千明が|弄《いら》うように言った。
「六つの私を女にした上、今日までこの身体を、ほぼ、好きなように|貪《むさぼ》って……」
「おまえが他にない女だからだ」
と黒部は呻いて、白い喉に唇をつけた。
千明がのけぞった。
黒部は丹念に舌を使っていった。娘の喉に唾液を塗りつけたいという欲望に捉われているようであった。
千明は巧みに、|舐《な》め易いように喉を動かした。こちらも呻くように、
「また、舐める気ね、お父さま……実の娘の身体をお尻の穴まで舐め廻すつもりね。汚ない液でべとべとにするのね」
「そうとも、そうだとも。おまえの身体はいずれ、わしが食べ尽してやる。わしの涎を塗りつけて、味をよくしてやる。ほれ、唾が皮膚の下へ|沁《し》みこんでいくぞ」
千明の左の乳首に、黒部は大量の唾液を吐いた。
白い泡をたてて、粘液がとろとろと|鴇[#特殊文字「鴇」は底本では「年」+「鳥」Unicode=#9247]色《ときいろ》の突起を伝わり、|喘《あえ》ぐ肉球に|滴《したた》りおちていく。
黒部は右の乳にも行い、さらに乳房の谷間にも唾の沼をつくった。
汚らわしい臭いが白い女体から立ち昇る。
「これだけでは嫌、これだけでは嫌」
千明は|淫《みだ》らに上体をねじった。
「白いものを頂戴。濃いものを頂戴。お父さまのあそこからとび出るものを頂戴」
「どんなものだ、それは?」
「意地悪。知ってるくせに」
「わからんな? わしの、ここから出るものか?」
黒部は千明の横へ降り、ビニール管をはずして、男根を出した。
青筋が立っている。
「そうよ。そうよ。そこからいっぱい出るものよ。くさい臭いのするものよ。いつも、お父さまがわたしの顔にひっかけるものよ」
「何だ、それは?」
「言わせる気? そこまで娘に言わせるおつもり?」
「そうとも。そうとも。はっきりと口にしろ」
「精液よ、精液よ」
「まだ、やらん。わかっておるだろう」
「やっぱり――やっぱり舐めるおつもりね」
答えず、黒部は薄桃色の帯に手をかけた。
天井めがけてそれは優雅に舞い、千明は全裸の肢体を父の眼の前にさらした。
白い|足袋《た び》だけはつけている。
堪らないセクシーさであった。
黒部は塗りつけにかかった。
|腋《わき》の|下《した》と腿のつけ根は特に念入りに|浄《きよ》めた。
性器が残っている。
「あいつは、ここを可愛がってくれたか?」
と右の内腿を吸いながら訊く。
「ええ、ええ。それは丁寧に。丹念に」
「許さん」
黒部は繁みに顔を埋めた。
桃色に艶びかる美しい性器であった。
千明は|身《み》|悶《もだ》えした。
横にいる父の腰を抱き寄せ、男根を|鷲《わし》|掴《づか》みにする。
荒々しく引き寄せた動作は、飢餓者のようであった。
一気にずう[#「ずう」に傍点]と音をたてて吸った。
根本まで。
黒部は顔を上げて呻いた。
「いかが、いかが、お父さま?」
「凄いぞ、千明。もう、いきそうだ」
「駄目よ、こんなところで。混ぜて塗って、お父さま、混ぜて塗って」
「よいとも、よいとも」
黒部は千明の顔の上に乗った。
唾液を分泌しながら、娘の口を味わう。
溜った液を、白い美貌に吐きかけた。
何度も吐いた。
千明の顔はぬるぬると光った。
それでも吸いつづける。
「あの男――萩生にも、こうしたか?」
問うても答えはない。
「したか? したな。だが、わしは、おまえの中へは入らん。出すのは、常にここだ」
言ってすぐ、黒部はのけぞった。
達している。
千明は口を離した。
恍惚と眼を閉じて待つ。
黒部は思い切り放った。
粘塊は鼻の頭で散った。
娘の。
黒部は下へずらした。
喉に当った。
凄まじく大量の粘液であった。
もっと出た。
乳の間だった。
最後の一滴まで、黒部はそこへ絞り出した。
興奮もさめぬうちに、顔に手をあてた。
荒々しく塗りたくりはじめる。
唾と精液を混ぜて。
白い|斑《まだ》らが千明の顔中を覆った。
生々しい臭いがした。
黒部は喉も乳房も塗りたくった。
顔から降りて、荒い息をつく。
満足そのものの吐息だった。
娘の全身を思うさま舐め廻し、上半身を汚し尽した。
精液と唾で。
変質者そのものであった。
応えた娘もだ。
それはいま、冷たい岩肌の上に、長々と上気した女体を伸ばし、顔を拭おうともせずに天井を見つめていた。
3
かたわらに立って、ジッパーを上げる父に、
「明日――彼とドライブに出ますわ」
と言った。
「|止《とど》めを刺すか?」
「仕方がないわ。お父さまが最後まで抱いて下さらないのですもの」
妖艶たる笑みを浮かべる娘から、黒部は何故か眼をそらし、
「やめておけ。男なら他に幾らもおる」
「|兵頭《ひょうどう》の鍛えた男たちが、どんなに|脆《もろ》いかご存知でしょう」
「ならば我慢しろ」
「こればかりはできませんわ」
「おまえ――何か|企《たくら》んでおるな?」
黒部はじっと娘の顔を見つめた。
精液は乾き、白いナメクジのように、千明の顔を|這《は》っていた。
「ほほ――でしたら、どうなさいますの?」
答えず、黒部は祭壇の方へ向かった。あの壺を下ろし、重々しい手つきで|蓋《ふた》をのける。
「奴の目的は、絶対にこれ[#「これ」に傍点]の|奪《だっ》|還《かん》にある。千明――おまえが何を考えているか知れんが、萩生を殺してはならん。仲間に加えるのだ」
千明は微笑した。
何とも妖艶な、そして意味ありげな微笑だった。
その意味を知ってか知らずか、或いは、どう理解したか、黒部は壺に手を入れると、何とも凄まじい笑みを浮かべ、中味を掴み出したのである。
それだけで、世界は夢魔の図柄と化した。
黒部の鷹のような指の間に握られ、妖しく鼓動を繰り返しているものは、凄まじい力でもぎ取られた痕跡をまざまざと留める心臓であった。
「奴の|超能力《テレポート》をもってすれば、この場所へ忍び込むのはたやすいこと。おまえの力をもってしても、防ぐのは容易ではあるまい。だが、ひとたび寝たとなれば、事情は根本から異る。奴は、我が軍門に下った」
「素直に喜んではいらっしゃらないようね」
千明はゆっくりと身を起こした。
「でも、いま、お叱りは受けたわ。この身体に、萩生の愛したこの身体にね。それに、たとえあの男のテレポートがどれほどのものであろうと。――黒部千明の術、見くびってはなりませんわ」
「そうは言っておらん。――だが、おまえには、それよりもやらねばならんことがあろう」
それが何かは言うまでもあるまい。
千明はそっと両手を前方へ突き出した。
その上へ、黒部が不気味なものを乗せる。
白い手の平に鼓動が伝わってきた。
「素晴しい男の心臓」
と千明は感に堪えたように言った。
「私は、この|男《ひと》とこそ、寝てみたい」
そして、妖艶な白い巫女は、そっと両手を口元へ近づけるや、妖しく脈打つ肉の塊りに、精液のこびりついた唇で、そっと触れたのであった。
何処かで闇が鳴いた。
「ほう、兵頭が呼んでおる。何か起こったな」
「いらっしゃいますの?」
「うむ」
「では、わたくしも。――そうそう、この壺と中味をお貸し願えませんこと?」
「よかろう」
「感謝いたしますわ」
千明はにっと笑った。
小さな口はそれなりの小さなカーブを描いたとしか思えぬのに、妙に鋭く、吊り上がっているように見えた。
「あの声の呼んでいるのはお前だけだな?」
「お|出《い》でになります?」
「おまえのやり方は見たくはない」
「では、わたくしひとりで」
数分後、千明は広い庭の真ん中に立っていた。
何坪あるのか想像もつかぬ広さは、周囲の木立ちの深さより、その|梢《こずえ》をゆする風の音の遠さでそれと感じられる。
すでに秋の冷気を忍ばせた夜風であった。
千明の少し前方に照明灯が立ち、その下に数十個の人影が円陣をつくっていた。
どれも黒ずくめの――やくざ風の黒い上下に黒シャツというのではなく、タイツのような服で全身を包んだ男たちである。頭髪まで押し込めたヘッド・キャップはスケート選手を思わせるが、その下半身は二倍も太くたくましく、その眼光の|凄《せい》|惨《さん》さは比較しようもない。
その中に三人、一見して異る立場とわかる男たちがいた。
うち二人は円陣の真ん中に正座している位置によってそれと知れるもので、あとの一人は、この男だけが背広姿だが、相違の識別はそれによるのではなく、全身を|巡《めぐ》る妖気の|醸《かも》し出すものであった。
他の男たちも、それぞれに凄まじくも静かな気は留めている。
一度爆発したら、と考えただけで、それを読みとれるほどの腕のあるものなら、避けて通るような気だ。
それが、背広姿の前では、あっさりと|萎《な》えしぼんでしまうのであった。
いかつい顔に五分刈りの頭、中肉中背の、何処といって見映えのしない体躯――これが、矢切鞭馬の心臓を奪い去った男だと、誰が信じられたろう。
兵頭平四郎――闇武道『指壊破』の遣い手であった。
千明の姿を見て、鋭い眼が光った。
「時間ですので引き連れました」
虎が口をきいたらこんな声を出すと思われるような、獣じみた響きである。
千明はうなずいた。
「頼りない二人だこと。こんな軟弱な男たちをつくるのが、闇武道の目的なのですか?」
「恐れ入ります」
兵頭は一礼した。
本気でそう思っているのかどうかはわからない。
千明は正座した二人を見つめた。
ひとりは|眉《み》|間《けん》に青黒い円形の|痣《あざ》が生々しい若者で、いまひとりは、両手が奇怪な形にねじくれた中年の男である。左肘は腰と密着――いや融け合っているようだ。
言うまでもなく、昼間、「不二屋ホテル」で萩生を襲撃した二人組だ。
「本来ならば、ひそかに処分するところを、千明さまの御命令で引き出しましたが、いかがいたします?」
「私が逃がせといえば、逃がしますのか?」
「|御心《みこころ》のままに」
「だから私はおまえが好き」
居ならぶ男たちの前で、声をひそめるでもなく、千明は|臆《おく》|面《めん》もない言葉を口にした。
兵頭の方も、無反応極まる。
「私は人の死ぬところが見たい」
これもはっきりと千明は言った。
「何度見てもあれに|勝《すぐ》る感激はない。腹の中が煮えたぎりそう。今回、この男たちに萩生真介の襲撃を命じたのは、半分はそれがある」
すると、この美しい巫女は、失敗と、それに伴う死の粛清を期待して、半ば無理と知りつつ、二人の男を萩生にさし向けたのか?
「いつものように」
と告げて、千明は後方へ下がった。
円陣が広がる。
「立て」
と兵頭が命じた。
すでに覚悟は決めていたのだろう。
二人は顔を見合わせるでもなく立ち上がった。
さすがに表情は固い、というより、|昏《くら》い。死の|翳《かげり》がすでに張りついている。
「おれはこの手では戦えん」
と中年男が言った。
「何か|得《え》|物《もの》をくれ」
「その手でどうするつもりだ?」
兵頭が訊いた。|嘲《あざ》|笑《わら》う調子はない。
「何とかしてみよう。あなたに仕込まれた技がこんな身体でも体現できるかどうか、あなたが自分の眼で確かめるがいい」
兵頭が|顎《あご》をしゃくった。
誰に、とも見えなかった。
円陣のどこからか白い光が照明光を反射してとび、中年男の足下へ突き刺さった。
長さ一メートルほどの|樫《かし》の六角棒であった。
熟練者が遣えば凄絶な威力を発揮するが、素人ではふり廻すのも難儀だろう。
「ありがたい――忘れません」
これは感謝の言葉だろうか。
ねじれた右手と、腰から突き出た左手で横に倒して振り、軽く後方へ跳んだ。
若者は動かない。
通常の空手の構えをとって、兵頭を見据えている。
一分の|隙《すき》もない鮮やかな構えに、兵頭の口から、
「惜しい」
のひと言が|洩《も》れた。
「安心せい。おまえたちの|菩《ぼ》|提《だい》は、おれと千明さまが萩生の首で|弔《とむら》ってやる」
「それをきいて安心いたしました」
と若者が言った。
真実の声であった。
殺されることに恐怖や怒りを覚えぬ男たちなのか、これは。
これから繰り広げられるのは、粛清にあらず、生死をかけた稽古なのであった。
4
兵頭が前へ出た。
両手は脇へ垂らしたままの自然体である。
すっと上がった。
実戦空手の構え――若者と変わらない。
「技をお使い下さい、兵頭さん」
と中年男が言った。
「『指壊破』を」
「使って欲しければ、使わせてみることだ」
言いながら、兵頭は走った。
若者へ。
若者の身体が沈みつつ|旋《せん》|回《かい》した。
片足を軸に、残る足で兵頭の両足を|薙《な》ぎ払ったのである。
空を切った。
兵頭は空中にいた。
両肩は|蟹《かに》のように不自然に左右へ上がり、腰は前方へ突き出している。
ぶん! と空気が鳴った。
黒い直線がこめかみに吸いこまれる。
兵頭の右手が上がり、手の平で|弾《はじ》いた。
六角棒は投ぜられたときと等しいコースをとって、|投《とう》|擲《てき》|者《しゃ》を襲った。
ねじれた右手が音をたててそれを受ける。
兵頭は着地した。
若者と中年の間――どちらにも直線距離で三メートルずつある。
すう、とその身体が|滑《すべ》った。
足は動かしていない。
若者の横に迫った。
若者が後方へ動いた。
これも滑るように!
「滑空足」を使うのは、兵頭だけではなかったのだ。
兵頭の左手が追った。
白く美しい指は|鉤《かぎ》の形に曲がっている。
若者は下がりつつ、両手の平を前方へ突き出した。
左手を前に、右手をそれに重ねる。
白い指が触れた。
めり込んだ。
それが右手の甲まで貫いたとき、若者の顔にむしろ歓喜と呼ぶべき色が流れた。
兵頭の手は若者の二つの甲を抜いて、深々と心臓にめりこんだ。
闇の中で異様な音が湧いた。
胸から抜かれ、若者の手をくぐった[#「くぐった」に傍点]右手に、赤黒い塊りのようなものを、男たちは見た。
若者の心臓だった。
血塊を口から噴き上げ、若者は青い芝生の上に倒れた。
同時に兵頭は反転した。
中年男が待っていた。
「お見事――次は私の番ですな」
答えず、兵頭は走った。
いや、滑った。足を動かさず。
その前方で芝が乱れとんだ。
空気の流れが円を形造っている。
|歪《ゆが》んだ円であった。
中年男の六角棒が走ったのだ。
兵頭は突っこんだ。
その頭上へ|唸《うな》りをたてて棒が襲う。
兵頭は身をねじった。
すぐにとびすさる。
はずれた棒が、今度は下方から襲ったのだ。細い竹でもふり廻すような軽快さであった。当たれば骨が|砕《くだ》けるくらいでは済まない。
兵頭の身体は棒の描く弧に合わせて退いた。
不意に棒が伸びた。
あり得ない動きであった。
端は、腰に融けた左手が掴んでいる。
怪異な手が怪異な動きを可能としたのである。
兵頭の眉間に棒が吸いこまれた。
空気が割れた。
棒は停止していた。
それが限界だったのであろう。
兵頭の額を貫くべき先端部は消失していた。
もはや独自の動きを|喪《うしな》った六角棒に沿って兵頭は前進した。
腰は前方へ屈曲し、右手を前へ伸ばしたまま。
誰もが中年男の胸にめり込む指を目撃した。
中年男が地べたへ倒れたとき、兵頭はすでに千明のかたわらに滑走していた。
これが滑空足であり、これが指壊破であった。
血みどろの死を前にした興奮のためか、うるんだような眼の前に、血にまみれた二つの心臓と別のものがさし出された。
千明の手が伸び、それを指先ではさんだ。
「これは?」
「おまけで」
指壊破のちぎりとった六角棒の先端を、千明は汚らわしげに捨てた。
「あの二人は、まだ生きておりますね?」
「は」
照明光が千明の笑みを|妖《あや》しくかがやかせた。本来なら翳をつけたというべきだが、この女はそれが光っているように見えるのだ。
壺を兵頭にあずけ、千明は若者の身体ににじり寄った。
若者は――生きていた。
心臓をえぐりとられ、なおかつ細い、短い呼吸を繰り返しているのだ。
もし、医学の心得のあるものが、この傷口を|仔《し》|細《さい》に観察したら、血管と血管がつながり、血管と肉とが融け合っているのに気づいたことだろう。
そして、それが、あり得ぬ生命を死者に与える源だとわかっても、何故それが起こり得るのかは|永《えい》|劫《ごう》に掴めぬまま、彼に出来る唯一のこと――傷口の縫合にとりかかることだろう。
千明は手で口元を拭った。
|涎《よだれ》を拭いたのである。
その手を上げて、中年男の身体を指さした。
居ならぶ影が音もなく動き、それは、若者の身体の横に届けられた。
千明は両手を二人のスラックスへのばし、ジッパーをはずした。
パンツをずらし、内側のものを掴み出す。
「よく死んでくれた」
感極まったような声に合わせて、手はそれをしごきはじめた。
と、見よ――それは白く妖しい指の中で、次第に|硬《かた》く熱く、息づいてきたではないか。
千明は|屍体愛好症《ネクロフイリア》か。
いや、この二人は死んではいない。心臓をえぐり取られてはいるが、死んではいない。
この巫女をネクロフィリアとするのは誤まりだ。
だが、断末魔寸前の男根を|屹《きつ》|立《りつ》させ、それに交互に口づけを与えはじめた背徳の行為を何と呼ぶべきか。
見つめている。
居ならぶ数十個の眼がそれを見つめている。
闇の静寂に、吸う音、舐める音が長々とつづいた。
やがて、
「ああ、行く行く。じきに行く。おまえたちのものをおくれ。最後の生命の|滴《しずく》を私におくれ」
濡れた唇で呻くと、そそり立つ二本の男根を片手で|愛《いと》おしげに握りしめ、千明はともに、悩ましい唇の内へと収めた。
噴出寸前のものを恥じらいもなく舐め廻す舌を誰が見たか。
その上へ、唇へ、白いものが勢いよくとび散った。
千明の|喉仏《のどぼとけ》が動く。
たっぷりと飲み干した唇を拭いつつ、上半身を起こす。
両手がすっと上がった。
指を真っすぐ伸ばした貫手の構え。
一気に下ろした手は、二人の男の胸部の空洞へ吸いこまれた。
二人の全身は|痙《けい》|攣《れん》する。
千明はのけぞった。
手から伝わる断末魔に|喘《あえ》いでいる。
忘我の域にあった。
限りなく妖しく、美しい表情であった。
一〇秒もそのままでいてから、千明はやっと両手を抜いた。
手首まで|朱《あけ》に染まっている。
優雅な動作で、立ち尽す兵頭の方を向き、
「始末なさい」
と命じた。歩き出す。
「いかがでした、彼らの最後の気は?」
兵頭が面白くもなさそうに訊いた。
「大沢は、自分が一番目をかけていた若手です」
「おいしかったわ」
と千明は答えた。
「それは、よい|供《く》|養《よう》になります。で、彼らの失敗は償わせていただけるのでしょうな」
「殺すなという父上のご命令よ」
「我々は千明さま次第で」
「私は明日次第」
「…………」
「あの若い男の身体、やはり駄目だったわね」
「は?」
「探ってみたのよ。これが使えるか」
千明は兵頭の手から壺を受け取り、そっと頬ずりした。
「でも、凶とでたわ。あの身体にもこれは強すぎる」
「それに合うものがいるのでしょうか?」
「いるかもしれない。いなければ、私たちの試みは決して|成就《じょうじゅ》できないでしょう」
「それは困ります」
「全く」
「兵頭!」
千明が呼んだ。今までとは異る響きがこもっている。
「は」
「知りたくない? 私が何故、あれ[#「あれ」に傍点]を呼び出したがるのか?」
「は」
「は、ばかりではわかりません」
「自分も同様で」
「父上は、ただ、黒部家の執念の|証《あか》しとして|招喚《しょうかん》を企てているだけです。それでは詰まりません。時代は変わりました」
「…………」
「私が何を考えているか、おまえがおまえでなくなったときに話してあげましょう。明日の件、よろしく頼みましたよ」
二人の前に、白い|瀟洒《しょうしゃ》な建物が立ちはだかっていた。
兵頭の礼は、その建物に対しているように見えた。
5
|喘《あえ》ぐ口が、熟い男の口に塞がれた。
二つの口腔の内側で、舌が絡み合い、|生《なま》|臭《ぐさ》い息が混り合った。
男が唾液を流し込んできた。
芳恵はためらわずに飲んだ。
粘っこい、酸味を帯びた唾であった。
男が唇をねじるように動かし、重ね合わせた。
芳恵は手を伸ばした。
男は腰を浮かしている。
どちらも、お互いの行為を熟知していた。どうすれば男が歓ぶか、芳恵はこれまでのベッド・テクニックから十分に割り出していた。
手の中に、熱く、硬い、そして柔らかい棒が入ってきた。
握った。自分でも強いと思える力でしごいた。
男の息が急速に荒くなった。芳恵は、男が一番よろこぶしごき方を心得ていた。
唇をねじる唇が、勢いを増した。
「凄いわ、凄い」
夢中で叫ぶ小声も、飢えたように貪る唇に吸いとられた。
芳恵は片手で男の頭を抱いた。
|愛《いと》しかった。
真介と同じ|愛《いと》しさを芳恵は感じた。男たちとのセックスに嫌悪感はなかった。
自分が淫乱だと意識もせずに済んだ。
今身を|疼《うず》かせる法悦の故ではなく、男たちの持つ優しさ故であった。
それは、芳恵の持つ人妻としての禁忌を拭い去り、性の|豊潤《ほうじゅん》とそれを味わうことをよしとするよう伝えた。快楽を与え、受け入れる。その果てに愛しさがこみ上げると。
芳恵は、男たちを真介と変わらぬ想いで抱きしめることができた。
この熱狂が醒めても、自分は行為を悔いることはあるまいと思った。
誰がこんな男たちを養成したのだろうか。
誰がこんな男たちを派遣してくれたのか。
男が唇を離した。
芳恵は自分から後ろを向いた。
男は後背位が好みだった。
ここへ|拉《ら》|致《ち》されてから、ほとんどこの体位で行っていることを憶い出し、芳恵は、少女のような気持で頬を赤らめた。
芳恵の尻を、男たちは飽かずに|賞《ほ》め|讃《たた》えた。
素晴しい曲線だ、とある男は言って、手と舌で|隈《くま》なく撫で、舐め廻した。
無言でそれをする男もいた。
ある男は、十数ヵ所を強く吸い、キス・マークを残した。
そのたびに芳恵は高く掲げた。征服するのでも、されるのでもなかった。彼らと自分がともに掘り返す官能だけが全てだった。
男は入ってきた。
迎え入れる部分は、熱く濡れていた。
動かぬうちに快楽が噴き上げた。
素晴しい身体になりつつあると思った。どんな男の人でも歓ばせてあげられる。夫ならなおさらだ。
男が動き出すと、快楽は芳恵をたやすく頂天へ押し上げた。
芳恵は声を上げた。
ここなら、押し殺す必要はなかった。快楽には素直に反応することこそ善なのだと、男たちとのセックスを通して、学び抜いていた。
自分の声に芳恵は|昂《たか》ぶった。
男の動きが激しさを増した。
突く。突く。突いてくる。
芳恵は声をふりしぼった。尻もこねくった。膣内の男根が喉から飛び出すのではないかと脅えた。
達していく。
極めつきの昂揚感が芳恵の意識を奪い、暗黒の天空へと飛翔させた。――
突然、それは途切れた。
翼を失った天使の失望と恐怖に胸を破りつつ、芳恵は現実へ回帰した。
男根の抜け落ちる感触。
どっと尻がマットを揺がせた。
夢中で眼を開いた。
ベッドを降りた男の裸の背中だけが見えた。
男の正面にはドアがあるはずであった。
その向うで、激しく相打つ気配が|跳《は》ねている。
芳恵は極めて暴力的な異変の発生を悟った。
真介が救けに来たのだろうか。
「動かずに!」
と男が|叱《しっ》|咤《た》した途端、ドアが火を噴いた。
取手の部分だ、と見定める暇もないうちに、それは大きく開いて、二つの人影を吐き出した。黒ずくめの男たちであった。頭から|爪《つま》|先《さき》までを黒い服で包み、両眼はグロテスクなゴーグルで覆っている。
一瞬立ち止まり、滑らかに前進してきた。
こちらの男は動かない。
侵入者の黒服の表面に、赤いはね[#「はね」に傍点]が跳んでいるのを芳恵は見て取った。
次に起こった動きは、ほとんど同時と見えた。
侵入者が跳躍し、全裸の男が前方へ旋回したのである。
或いは――
全裸の男が前方へ回転し、侵入者たちが跳躍したのである。
どちらが攻撃し、どちらが応じたか、その結論は、次の結果を見ても出なかった。
地を蹴った男たちは、信じ難い速度で落下し、全裸の男の|眉《み》|間《けん》へ右足を叩きこんだ。
その顔面を|薙《な》ぐように下方から閃いたのは、|剥《む》き出しの足であった。
鈍い音と苦鳴が入り混って聞こえた。
前方回転の遠心力を利用して空中の敵を|捕《ほ》|捉《そく》した足は、左側の男の顔面を叩きつぶすと同時に、右方の黒い手でブロックされていた。
空中で停止した足の上で、黒い影が動いた。
骨の砕ける音。
ブロックした手で裸の足首を掴むや、侵入者は空中で身をひねりざま、つけ根からへし折ったのである。
だが――
なおも足に留まる影を目がけて、裸の左足が閃いた。
小気味よい音がして、影は受け身もとれず床上へ落下した。
それが起き上がるより早く、全裸の男は攻撃に移った。
自らも跳躍しつつ、影の上へ落下したのである。
片足分だけ遅れた。
身をひねりざま、影は右の拳を突き出していた。
男の股間にそれは吸い込まれた。
異様な音を芳恵は聴いた。
今まで自分と合体していた男は、ぴくりとも動かず床に伏している。それを押しのけるようにして、黒影が立ち上がった。
芳恵は毛布を掴んで、身体の前を覆った。
それしか出来なかった。
「六人押しかけて、五人やられた」
と影は、つぶやくような声で言った。
肉食獣に追いつめられた獲物の敏感さで、芳恵はそれに込められた無限の憎悪を感じ取っていた。味方ではなかった。
「こちらが|斃《たお》したのは三人。これでは帳尻が合わん。おまえの|肉体《からだ》で支払ってもらおう」
「あなたは――あなたは……」
ようやく口を開いたとき、毛布に力が加わり、一気に剥ぎ取られた。
短い悲鳴を洩らして、芳恵は背を向けた。
両手で乳房を覆い、シーツにうつ伏せる。
無駄とわかっていた。
これから行われるのは獣の凌辱であった。
「ほらよ」
声と一緒に肩を冷たい手が掴み、あお向けにされた。
やさしさなど微塵もなかった。
そのくせ、身内の痺れるような刺激が芳恵を衝撃したのである。
手は乳房を押さえていた。
黒い手がそれを掴み、あっさりと広げた。
影が乳房を見ている。
すぐに舐めも吸いもせず、じっくりと眺めている。かたわらに、二人の男が息絶えているにもかかわらず、だ。
「いいおっぱいだ」
と影は嘲けるように言った。押し殺した声の間に情欲の炎が|仄《ほの》|見《み》えている。
「すぐには犯さんぞ」
とそいつはつづけた。
「たっぷり、お前の身体を眺めてやる。性器の奥まで俺の眼で汚してやる。お前を連れ帰って、仲間にお前の身体を洗いざらいしゃべってやる。性器の形がどうだったか、膣の中がどうなっていたか、じっくりきかせてやる。もちろん、指で開いて見てやる。男を見かけたら、気が狂うほどの目に遇わせてくれる」
影は下方へ移動した。
芳恵は両脚を広げられた。その間に影が入ってきた。
「見えるぞ。よく、見えるぞ」
「やめて――お願い、やめて……」
哀願する声の中に昂ぶりを感じて、芳恵は動揺した。
これも性の法悦を貪る行為には違いない。
「やめて」
声は粘ついた。
「人の女房の割には、いい色をしてやがる。生娘なみのピンクときた。どれ」
黒い顔が押しつけられるのを芳恵は感じた。
熱い息がかかった。
マスクを通して呼吸ができるらしい。
自分がどんなスタイルを強制されているか考えただけで、羞恥に身悶えした。
「ほう、うるんできたぞ」
と影が知らせた。
「肉の間から汁が滲んできた。ほう、お前、見られて興奮してやがるな」
「…………」
「毎晩、こうやって股を開いて亭主に見せてやがるのか? 他の男にもだろう? お前のような女は、やる前に必ず開いて見せるんだ、え、そうだろうが?」
影は答えを強要していた。
芳恵は口をつぐんだ。
性器に凄まじい痛みが走った。
ぎゃっと叫んだ。
男が二本の指を根本まで突き入れたのである。
「この|女《あま》」
吐き捨ててねじった。肉がちぎれる痛みが芳恵の理性を打ち砕いた。
「どうだ、誰にでも、股を開くんだろうが?」
えぐられる、と芳恵は脅えた。自然に声は出た。
「そうよ――見せるのよ。誰にでも見せるのよ」
「それから、指を入れて、いじくらせるんだな、そうだな?」
「そうよ、そうよ。あなたと同じにさせるのよ」
「こうするのか?」
影が女の中で最も敏感な突起を探った。指で。
「そうよ、ああ、そうするのよ。もっと、もっと強く」
いつの間にか、芳恵は自分の言葉に酔っていた。被虐の快感だった。影を歓ばせる言葉は、マゾの悦楽を引き出そうとしていた。
「こうか、こうか?」
影は|憑《つ》かれたように繰り返した。指は執拗な動きを見せていた。
芳恵は両脚を閉じ、腿の間に影の首をはさんだ。
これから何をされるのか、考えただけで、腰が動きはじめた。
6
秋晴れというのはこの日のためにあるような晴天が、箱根一帯を覆っていた。
緑の木々は秋を忘れたように|瑞《みず》|々《みず》しくかがやき、風は萩生真介のジャケットの|裾《すそ》をひらめかせた。
萩生は、ホテルの玄関前に立っていた。
千明を待っているのである。
そのくせ、全身から漂う倦怠感は、彼女を敵の中心人物と知っているが故の警戒心が原因ではなかった。
そう言えば、両眼は深々と|眼《がん》|窩《か》へ落ち込み、頬の肉もそげ落ちたようだ。
昨日の活劇が原因と思えば思えるが、何処か病的な疲労がこの超人に牙を打ちこんでいるようであった。
ホテルの前庭から玄関へつづく二本の道――その左手から、軽やかなエンジン音とともに、|真《しん》|紅《く》のスポーツ・カーが跳ね上がってきた。
滑らかなカーブの目立つ古典的なボディに|精《せい》|悍《かん》なイメージを|湛《たた》えて――
ジャガーである。
萩生がとっさに後ろへ跳んだからよかったものの、でなければ間違いなく|撥《は》ねとばしていた位置で急ブレーキをかけ、
「ご機嫌いかが?」
千明はウインクしてみせた。
黒い麻のワンピースからこぼれる白い腕と豊かな胸の|膨《ふく》らみが、萩生の眼に|灼《や》きついた。
「今ならまだ逃げられるわよ。――どうなさる?」
「訊きたいことがある。乗るさ」
「ありがとう」
開かれたドアの内側――助手席へ萩生が乗りこむや、英国産のクラシック・カーは、|砂《さ》|塵《じん》を巻き上げて走り出した。
「何処へ行くんだね?」
「まず仙石原。それから芦ノ湖はいかが?」
「何のためだ?」
「親愛の情を増すためよ。ご不満?」
「|昨夜《ゆうべ》、十分に交歓したはずだ」
「私は不満。あなたも、でしょ?」
「訊きたいことがある」
萩生は千明の顔をじっと見つめた。
「何かしら?」
「今朝起きてみると衰弱がひどい。朝食へ行くのも|億《おっ》|劫《くう》だった。その原因が知りたい」
「わかっているくせに」
千明は何故か恥かしそうに笑った。
深夜、二人の瀕死の男の男根を握って立たせ、射精させた妖女とは思えぬあどけなさである。
「やはり、君か。どんな術をかけた?」
「術?」
「聞きかじりだが、中国古代の房中術に、男の精を吸いとる技があるという。それか?」
「近いわね。|昨夜《ゆうべ》はテレポートは出来なかったでしょ?」
「…………」
「それが|狙《ねら》い。それ以外に、あなたの侵入を防ぐ|術《すべ》は残念ながら何にもないわ。あと二回も私と寝れば、あなたは確実に死ぬ」
萩生はため息をついた。
「ということは、寝させる自信があるというわけか? そんなことをしなくとも、今、昨夜の二人に襲わせたらどうだ?」
「二人とも死んだわ。代わりはいくらもいるけど、あなたは私が殺す」
「お気に入りらしいな」
「とても、ね」
それきり二人とも黙りこみ、一〇分ほどしてから、車はようやく茫々と左右に広がる草原地帯に着いた。
ススキの名所・仙石原である。
今は緑草のはびこる夏野原にすぎない。
風が草をゆらしている。
「面白いものを見せてあげましょうか?」
と千明が意味ありげに訊いた。
返事も待たずブレーキを踏む。
車は派手な悲鳴をあげて停止した。
「これよ」
真正面の方へ歩きながら、千明は右手で軽くボンネットを叩いた。
すでに開いている。
それに手をかけ、千明は押し上げた。
何故、車内にガソリンの香りがたちこめていないのか、萩生にもようやく理解できた。
車に、正しい意味での伝統的なエンジンはなかった。
エンジン部にあたる位置で、正確に、エンジンのぶれ[#「ぶれ」に傍点]を再現しているのは、陽灼けした男の身体であった。
その肛門と口と脇腹に埋めこまれた鉛色のパイプは、確かにエグゾースト・パイプだ。
すると、この男の体内でガソリンに替わる何らかのエネルギー燃焼が行われ、パイプを伝わって、車輪その他のメカにパワーを与えているのだろうか。
男は床に額をこすりつけるような恰好をしていたが、生の尽きていることは、明らかだった。
萩生はその肩に触れてみた。
固い。
|石《せっ》|膏《こう》で塗り固められている感触だ。
何らかの、異形の処理が行われたのだろう。
「昨夜の若い方だな――何故、わざわざ見せた?」
「黒部一族の実力を知ってもらうためよ。少くとも、これで矢切家にひけをとらぬのがわかったはずだわ」
「――それがどうした?」
「父の要求を伝えます――私たちに力を貸すか?」
「断わる」
「何故?」
「女房が人質にとられている」
「それはこちらでも手を打てるわ。他にあるの?」
「はてな」
「あの娘――祐美のこと?」
千明の光る眼が萩生をたじろがせた。
「やっぱり、ね。確かに、あなた好みの娘だわ」
「余計なお世話だ」
萩生の声に怒気がこもった。
「愛する女が原因では、寝返りもうちにくいわね。父には交渉決裂と伝えましょう。私には願ったり叶ったりだけれど」
いつの間にか、千明は拳銃を隠しもっていたらしい。車のダッシュボードといったところか。
萩生の胸を狙っているのは、小型リボルバーの銃口であった。
その撃鉄部は、上段の数ミリを残して、張り出したボディの中に埋没していた。
撃鉄が服にひっかかるのと、引き起こす際、指がすべって暴発するのを防ぐため開発されたリボルバー――|SW《スミス・アンド・ウェッスン》「ボディガード」三八口径・五連発である。
「よしてくれ」
萩生は両手を上げながら言った。
「スーパーマンとはいかないが、少くとも|弾丸《た ま》よりも早く、君の後ろに廻れるよ。このまま失礼してもいいし、直接、お宅へお邪魔してもいい。それとも、鞭馬の心臓がどこにあるか、君自身に訊くか」
この男には珍らしく脅したが、千明は動ずる気配も見せなかった。
いきなり引金を引いた。
銃口が炎を噴き出した|刹《せつ》|那《な》、萩生の言葉通り、千明の右手から拳銃はもぎとられていた。
背後から伸びた萩生の手によって。
だが――
千明が後ろに下がりざま、右肘を大きくふると、彼はあっけなくそれを胸板に受け、道路に|尻《しり》|餅《もち》をついてしまったのだ。
その顔面へ千明の爪先がとんだ。
がっと音がして、萩生はのけぞった。
かろうじて直撃はさけたが、顎をやられた。二撃目がとんでくるのを左手でカバーし、足首をとらえてはねとばす。
数歩後退しただけで、千明は倒れなかった。
「いかが、まだ効いてるでしょ? 私のテクニック」
艶然と笑いながら、
「それに、触わったときわかったはずよ、今の私がどんなにいい女か」
萩生は息を吐いた。
熱い息であった。
それが答えだった。
何ということか、この女の足首に触れた途端、萩生は全身に欲情の電流が突っ走るのを覚えたのだ。
すぐ手を離したにもかかわらず、それはたちまち細胞の核まで|侵蝕《しんしょく》し、|淫《みだ》らな炎であぶり、萩生を一匹の獣に変えようとしていた。
「貴様――これは、どういう技だ?」
「男の汁よ」
どこか|霞《かす》んだような眼つきで|苦《く》|悶《もん》する萩生を見据え、千明は艶然と笑った。
「その車のエンジンと、もうひとりの男の汁を私は飲んだ。それが切れるまで、私に触れた男はみな、色情狂に変わるのよ。どう、抱かずにいられて?」
その通りだった。
萩生は火の出るような想いで、眼の前の邪悪な巫女を抱きたいと思った。
この女の中に精を放出しない限り、おれは満足できない。
萩生の手が伸びた。
待っていたように、千明が前進する。
理性の|破片《かけら》が手を引かせた。
「ほら、どうしたの? 欲しくない、私が?」
千明の手が背にかかった。
すっと腰までおろし、両肩からワンピースをはずす。
ブラとパンティに包まれた雪のような裸身が現われた。
生地の色は濃いブルー。それでいて、乳首も陰毛もはっきりと透けて見える|猥《わい》|褻《せつ》極まりない下着だ。
パンティの脇からは、縮れ毛がはみ出している。
重そうな乳の肉は、小さなブラの支えを逃れて左右へ身をのり出していた。
思いきり|贅《ぜい》|肉《にく》をおとした腰から広がるヒップの豊かさに、萩生の喉が鳴った。
いくら車の通りが少く、人通りはゼロといえ、ここは道路の上である。
見わたす限り青草のなびく草原を背景に、男を招く下着姿の美女――萩生ならずとも進んで暴行魔になりたくなる|煽情《せんじょう》的な光景であった。
「いらっしゃい、こっちへ。草の中で獣のように絡み合うのよ」
|珠《たま》を転がすような声で言うと、千明は自分から背を向け、草原と道路の間にある柵をくぐった。
精液を飲み、それが全身に行き渡ると、触れた男のことごとくを色情の獣に変える。――この奇怪な術に絶大な自信を有するものか、萩生がついてくるかどうか見ようともしない。
引きしまった上半身の下で、肉の塊りがダイナミックに左右に揺れつつ緑の中に消えていく。
その後を萩生がのろのろと|尾《つ》いていったのは、やむを得ないとはいえ、無惨な敗北の証明であった。
悠然と歩いているように見えながら、千明自身待ち切れなくなったのか、丈の高い草の間に、地面が|剥《む》き出しになった|空《くう》|隙《げき》を見つけるや、素早く腹這いになった。
乳房を地面に押しつぶし、尻を高く上げる。
獣の体位だ。
ゆすりはじめる。
二つに割れた白桃のような危険な|膨《ふく》らみを、青い小さな布が覆っている。
湿っているようだ。
ゆすっている。
風に匂いがこもりはじめた。
淫臭であった。
早く、という声を萩生は聞いた。
布の膨らみが放つ声であった。
その向うに濡れた壺の口がある。
肉棒をあてがい、押し入れる部分だ。
そこが呼んでいる。
早く。
萩生ははっきりと聞いた。
千明の声であった。
|潤《うる》み切っている。
彼女の飲んだ精液は、彼女自身も色情狂の|牝《めす》と変えたようであった。
萩生は近づいた。
スラックスのそこは、彼が男であることを示して屹立していた。
それでも彼の意志は、理性は、この淫欲地獄に果敢な抵抗を示している。
淫らな表情を横切る苦悩の翳がその証拠だ。
尻がくねった。
秘部を覆う布に、千明は指をあてた。
じっくりとこすり出す。
青い染みが性器の形を浮かび上がらせてくるのを、萩生はぼんやりと見つめた。
指は肉の裂け目に埋没した。パンティの上からだ。じかにやるよりずっと淫らな光景であった。
風に喘ぎがこもった。
千明のものである。
「早く――ちょうだい」
尻がまたくねった。
萩生の右手が、ジッパーにかかる。
7
室内を静かな音楽が流れていた。
シューベルトでも、ショパンでもシューマンでもない。
音楽家としては、ワン・ランク落ちるというものもいるだろう。
甘い淡々たる調べは、ブラームスであった。
感傷的な響きは、部屋とその住人によく似合っていた。
白い。
白い部屋であった。
|華《きゃ》|奢《しゃ》と名を変えそうな優美な家具。
椅子も机も繊細のひと言に尽きる形状を有していた。
指を触れれば砕けて、自らの影の中に消え入ってしまいそうである。
すべてが白い。
白い光が部屋を埋めているのだった。
祐美は長椅子の上に横たわっていた。
細っこい身体を白いガウンが包んでいる。ガウンに首だけをすげたようにも見える。
それほどゆったりとしたガウンだった。
実際の色は別なのかもしれないが、眼に映るのは白だ。
祐美の眼は前方に|据《す》えられていた。
瞳に光景が映じてはいるが、何も見ていないのは、空虚な顔つきから明らかだ。身体のどこにも意志が感じられない。
永遠に固着した像のようであった。
室内の空気が動いた。
脅えたように四方へ飛び去り、壁や天井に当って渦巻いた。
空気さえ脅えさせた侵入者は、音もなく祐美の前に現われた。
鞭馬である。
下肢を覆った毛布も、車椅子もいつものことだ。
姉を見つめる表情に、あえかな哀しみの色を漂わせて、鞭馬は白いガウンのかたわらに停止した。椅子に内蔵されたエンジンは、まるっきり稼動音をたてない。
自分の方を向こうともしない横顔を、鞭馬はじっと見つめた。
その顔に哀しみに似た色が漂っているのは光のせいだろうか。
だとすれば、この異世界の血を引く青年は、平凡な情感に身をひたしていることになる。
姉を思いやる弟という情感に。
動かぬ二人は、秀麗な旋律に耳を傾ける深窓の若者たちと見えた。
「僕と姉さん――向うとこちらの未来には何が待っているかな? |修《しゅ》|羅《ら》の姿はどちらも同じか?」
無論、答えはない。
「姉さん、聞こえるかい? 声もない、思いもない。はじめて、僕にふさわしい女になれたね」
それはどういう意味か。
鞭馬の眼が|爛《らん》|々《らん》とかがやきはじめたのは、こちら側の欲情の色か。
「萩生先生も姉さんも――僕はあなたたちが羨ましい」
膝掛けの一部が蛇が|鎌《かま》|首《くび》をもたげるように持ち上がった。
毛布の端までそれは走り、空気の中にのぞいたのは、まぎれもない、ロープを思わすあの器官の先であった。
鞭馬の父の証し――これある限り、矢切家の御曹子は、こちら側の人間でもなく、向う側に受け入れられもしないのだ。
「姉さん……」
白い身体に巻きついたそれ[#「それ」に傍点]から何を感じるのか、妖しい赤光に眼をうるませつつ、鞭馬は低く呻き、奇妙ないましめ[#「いましめ」に傍点]は表面の|産《うぶ》|毛《げ》を稲穂のごとく震わせた。
青黒い蛇は祐美の白い貌を這い、喉を巻き、ガウンの内側の肢体をとろとろと|嬲《なぶ》った。
そして、どこを汚されたのか、白い仮面の表情を崩さず、祐美は大きく震えた。
不気味とも|淫《いん》|猥《わい》とも言える|時間《と き》がたち、鞭馬の眼から、異世界の光が急速に薄れていった。
彼は椅子を寄せ、姉の貌に、そっと両手を伸ばした。
どこにでもある平凡な人間の手を。
「僕たちは何処へ行く?」
誰も耳にしたことのない痛切な響きをこめてささやくと、彼は祐美の頬を撫でた。
つつましく、恥かしげに。
それは、白い光に溶けることを望む、不幸な恋人たちのようであった。
そのとき――
鞭馬は顔を上げた。
頭上には何もない。
白い光ばかりがたぎっている。その中に何を見つけたのか。
「|性懲《しょうこ》りもない」
と彼はつぶやいた。
「前の奴らは入れてやった[#「入れてやった」に傍点]が、今度はそうはいかん。家に近づく前に片づけるとしよう。――お|寝《やす》み、姉さん」
鞭馬は身を翻した。
光は断たれ、彼は薄明の廊下へ出た。
数歩進んだ途端――
鈍い衝撃者が頭上から近づいてきた。
歩みは止まらず、鞭馬の眼が信じ難い光を帯びてきた。
怒りだ。それも異次元の。
彼を相手にすることは、魔物と渡り合うことであった。
セスナ機は急速に目標から離れつつあった。
投下成功の満足感をパイロットと爆撃手は、笑顔で表明していた。
「降りたら一杯やるか?」
とパイロットが爆撃手に訊いた。
と言っても、どちらも背広姿だ。
「ああ。だがよ、あんなもの落として、一体どうなるんだ?」
「わからん。千明さんの命令は常に説明抜きだ。噂じゃ、あの|女《ひと》の思念がつめてあるというが」
「何でもいいさ」
と爆撃手は舌舐めずりして言った。
「早いとこ帰ろうぜ、それから――」
不意に、彼はパイロットが死んでいることに気がついた。
深く椅子にかけた肩を軽く押す。
首だけがこくりと前へのめった。
そのつけ根が、リボンで締められた菓子袋の蓋みたいにくびれ込んでいた。
爆撃手は血走った眼を四方へ撒いた。
無駄と知るや、パイロットを押しのけて操縦席に坐わり、操縦桿をつかんだ。
右手を無線機に伸ばす。
スイッチを押した。操縦は駄目だが、無線は使える。素人のにわかパイロットが管制塔からの指示に従い無事に着陸した事件を、彼は心得ていた。
無線は破壊されていた。
いつ、どうやってかは不明のまま、高度七〇〇メートルを飛ぶセスナ機という名の密室へ、正体不明の殺人鬼が忍び入り、速度の変わる死を与えて去ったことは、もはや明らかであった。
男は死人の眼で行手の青空と雲海を見つめた。
水平飛行くらいなら|保《も》つ。
燃料の|保《も》つ間は。
爆撃手は燃料計に眼をやった。
壊されていた。
いつ落ちるのかもしれず、しかし確実に訪れる死の足音と笑いを|虚《うつ》ろな眼でききながら、爆撃手の瞳は徐々に狂気の色に|隈《くま》どられつつあった。
第四章 虜囚
1
ノックの音に、黒部忠之はふり向いた。
重々しい叩き方は、兵頭のものだ。
|森《しん》|閑《かん》たる森に囲まれた別荘の一室である。
何度か建て替えたが、この土地だけは、五〇〇年の昔から黒部家のものだ。
異世界との有効接点が、日本では青森の一角とこの箱根山中と知れたのは、黒部家八代目当主・|頼《より》|明《あき》のときだが、時すでに遅く、明治×年には、青森に宿敵ともいうべき鞭馬の母・昌枝の実家――秋家の手が伸び、この土地をめぐっても血で血を洗う闘争が展開された結果、超太古よりつづくある秘密結社が仲介に入り、なんとか黒部家の手に落ちた。
秋家の十代目当主には男児が生まれず、|却《かえ》って凄絶な霊能力をもつ女児――昌枝が誕生し、それが三矢財閥へ|嫁《とつ》いだとき、黒部家は戦慄した。
予感は適中した。
現当主・黒部忠之の霊感が、昌枝の超常能力による異体招喚を読みとったのである。
やがて、昌枝は一人の子を産んだ。
不断の看視と調査の結果、この若者――矢切鞭馬が、異体と昌枝との間に|誕生《で き》た異次元の血をひいていることが明らかになり、忠之は抹殺を決意した。
異世界のものを招く栄誉は、ただ一家――黒部家のみの権利でなければならなかったからである。
だが、そのうちに、事情は突発的な変化を見せた。
異世界の存在が、矢切家へ介入した第三者の手によって、もとの世界へ封じ込められたのである。
その張本人こそ、萩生真介――進学塾の一教師であった。
その超常能力が瞬間移動――テレポーテーションの一種だということは、調査の結果判明したが、忠之はまず、これに|魅《ひ》かれた。
その能力を考えた場合、あらゆる背徳的行為が可能とされるためである。
早速、萩生に交渉の手を伸ばそうとした忠之に待ったをかけたのは、しかし、実子――千明であった。
九州の某神社の娘との間に生まれた彼女は、忠之ばかりか、|連《れん》|綿《めん》とつづく黒部家の者たちが悲願ともした超常能力を、幼い頃から発揮しつつあったが、同時に、黒部家の巫女として炎のごとき誇りに燃える一方で、何か、忠之たちには理解し難い――悪くいえば今風の、新人類に近いタイプの人間であった。
どのような能力の持ち主か知りませんが、こんな馬の骨の力を借りるには及びません、と千明は火を噴くような眼と口調とで忠之に哀願した。
異世界よりの招喚は必ずや、この千明――黒部家のものの手で。
悲願を達成し得る恐らく唯一の娘にそう言われ、忠之は萩生の獲得を断念した。
それが、対矢切家との戦いを開始したいまとなって、萩生自ら首を突っこんでくるとは――。
欲しい、と忠之は考えた。
だからこそ、千明にも殺すなと命じたのだ。しかし、あの炎のような娘が、父の命とは言え、それを守るとは|一《いち》|概《がい》には信じ難い。
二人の部下を萩生暗殺に向かわせ、失敗するや処分したことはわかっている。
その罰はいずれ与えねばなるまいが、自分の眼の届く範囲外での千明の行動には、どこか不気味なものを感じずにはいられないのだった。
ノックがまた呼んだ。
忠之はドアを開いた。
碁盤のような顔が待っていた。
「参りました」
「入れ」
招じ入れて、壁際のソファを勧めたが、兵頭は立ったままだ。
忠之も気にせず、
「千明はどうした?」
と訊いた。
「車でゆかれました。お言いつけ通り、私も加瀬と風早をやりましたが」
忠之はうなずいた。
どうやら、父親の凄味で、すべてを知っていると見える。千明の忠実な召使とも言うべき兵頭にも、|因《いん》|果《が》は含めてあるようだ。
「二人には、萩生暗殺を阻止せよと命じてあるだろうな?」
「は」
「おまえの部下たちでは、百名かかろうが彼は倒せん。だからこそ、最初の二人は止めだてしなかったが、あいつ――わが娘ながら恐ろしい力の持ち主。どのような手を使うかわからん」
「…………」
「とにかく、今後とも、千明からは眼を離すな」
「は」
「ところで、矢切の別荘を襲った四人――返り討ちか?」
「は」
屈託ない問いに屈託のない答えであった。
「心臓をえぐり取られても、奴は、それだけの力を持っておる」
兵頭は沈黙した。
「奴の心臓を抜いた後にも、蘇生処置を|施《ほどこ》しておいたか?」
「いえ。即死のはずでございます」
重い声に憎悪のきしみが鳴った。誰に向けられた憎悪かはわからない。
「二つの血を引く男か――」
と黒部はつぶやいた。
一見、霊能力などにはおよそ縁のなさそうな、大企業の部長という感じの温顔である。
その意味で、萩生の電話見立ては当っているといえた。
忠之は立ち上がった。
「来ているな?」
「は。今朝、早く」
二人は外へ出た。
昼だというのに、闇がおりているような木の廊下であった。
左右に次々とドアが現われ、背後へ流れ去った。
そのどれも、つくられた当初から、開けられたことがないのではと思われた。
上がったのか下りたのか、真っすぐ進んだのかもわからず、二人の前に|忽《こつ》|然《ぜん》と、黒木のドアが立ち|塞《ふさ》がる。
兵頭が手にした鍵で開くと、二人は滑るように入りこんだ。
|昏《くら》い部屋である。
窓はない。
八畳ほどの奇妙な部屋であった。
そこに女がいた。
グレーのツー・ピースに豊かな肢体を包んでいる。
やや太り|肉《じし》だが、それだけに男を刺激する官能が漂っている。
芳恵であった。
いつ、どのようにして、東京から連れて来られたのか。
鞭馬に|拉《ら》|致《ち》され、さらに兵頭の手下にもさらわれた運命の変転は、不安な表情と、二人を見つめる|慄《おのの》きとなって|露《ろ》|呈《てい》されていた。
「間違いないな」
忠之の問いに兵頭は、
「この女の護衛のため、こちら側の手のものが五人殺されました」
「よかろう――出ていけ」
一礼して兵頭は去った。
木のドアが閉じるのを聞きながら、忠之は芳恵――萩生の妻に近づいた。
妙な足取りである。
何となく柔らかいものの上を歩くように頼りない。
先刻この部屋を奇妙と言ったのは、まさにそれで、床も四方の壁も、材料は木でも石でもなく、どう見ても、何やらスポンジを思わせる軟物質から出来ているのであった。
色は肌色だ。
忠之の接近に合わせて芳恵は後じさった。
スカートの裾から白い膝小僧がこぼれている。太めで短い足である。
平均的な人妻の足であった。
忠之はそれを見つめていた。
「よく来た、女」
と言った。
「どこへ逃げても、おまえの隠れる場所はない。亭主の救いを求めても無駄だ。おまえには、私の役に立つか、いずれ殺されるかの道しか残されていない。ここへ来るまでにそれはわかっておろう。――脱ぐがいい」
「あなたは……あなたは……」
芳恵はツー・ピースの|襟《えり》|元《もと》を押さえながら、それだけを繰り返した。
「脱ぐのだ。おまえの手で、その裸身をわしの眼の前にさらせ。股の奥まで見せるのだ。尻の穴でわしのものを受ける。口で奉仕せい。それだけが、おまえの助かる道だ」
忠之の言葉が真実を語っているのだと、芳恵は理解した。
世界は彼女とは無縁のところで動いていた。動かしているのは、より強い力だけだった。
芳恵は立ち上がった。
無言でスーツを脱いだ。
ブラジャーとパンティだけになってためらった。
「それも脱げ」
忠之はくぐもった声で言った。
太り気味の人妻の裸体が、極めて新鮮な刺激を男根に送りこんでいた。
芳恵は従った。
パンティを脱ぐときにためらっただけであった。
「そのまま立っていろ」
命じて忠之は、芳恵の前に|跪《ひざまず》いた。
すでに和服は脱いである。
芳恵の股間に顔を埋めた。
芳恵は身悶えした。
こってりと性器を|嬲《なぶ》られはじめている。
妖しい波が股間から湧き上がり、身体の隅々に波動を広げていく。
熱い。
芳恵は呻いた。
自分から脚を開いた。
舐めやすいようにだった。
随分と|経《た》ってから、忠之は顔を離した。鼻から下は濡れ光っている。
上気した芳恵に、
「倒れるんじゃないぞ」
と命じた。
それから腿に吸いついた。
立たせたまま、舐めはじめた。
芳恵は、ああ、と言った。
忠之は全身を舐めた。
尻の割れ目も肛門も、掃除するようにきれいに舐めた。
それから、床に押し倒した。
芳恵は眼を見開いた。
忠之に与えられたのとは別の快感が、背中から、いや、床との接触面から伝わってくる。
床面それ自体は動きもしないのに、何か、巧みな愛撫を受けているような。
忠之がのしかかった。
芳恵は待っていたように両脚を開いた。
夫以外の男を迎えるにしては、極めてスムーズな動きだった。
浮気とはこんなに簡単なものかと思った。
忠之は入って来た。
膣の充足感に芳恵は満足の呻きを発した。
動き出した。
申し分のないこすり具合だった。
引くとき、ひっかかる。
亀頭部の笠がよほど張っているのだろう。掴んで確かめたかった。
「どっちがいい?」
と忠之が訊いた。
芳恵は黙っていた。
「どっちがいい、亭主とわしと?」
「あなたよ」
芳恵は言った。
正直な答えだった。
「可愛い口で亭主を裏切るか、この淫乱女房」
忠之は芳恵の口を覆った。
その頭を芳恵はかき抱いた。
二人とも、ねじ切るように唇を重ねた。
これも生きる手段だと芳恵は思おうとした。男の舌が入ってきた。
生臭く、ぬるぬるしていた。
2
萩生真介は草の中で身悶えした。
地べたにあお向けになっている。
下半身は剥き出しだった。
スラックスとブリーフは、膝のあたりまで下げられている。
千明が吸っていた。
吸っては戻し、吸っては戻し、規則正しく頬をすぼめている。
顔を上げた。
赤く染まっていた。
男根との間に涎が光る糸を引いている。
「お出し」
と言った。
精液のことである。
言いながら、舐めた。
|愛《いと》おしげに、ねっちりと舌を絡める。
萩生はまた呻いた。
瞬間移動が使えるとは言え、彼は生身の人間である。
千明の妖術に対する耐性は、並みの人間と大差ない。
まるっきり無抵抗であった。
一度、千明の尻を抱いた。
その瞬間、理性はギブ・アップした。
貫いて動いた。
三度の射精で死に到るとわかっていても、欲望は充足を要求した。
寸前で、千明は尻をはずした。
「面白いことを考えたわ」
と妖艶に笑い、
「普通の男たちの精液の味はわかったけれど、超能力者のははじめてよ。あたしの身体がどうなるか、試してみるわ」
そして、|咥《くわ》えた。
激しいフェラチオに移った。
まだ、萩生はもちこたえている。
「早く――呑ませて」
そう言って千明は含んだ。
歯をたてた。
萩生の限界を越えた刺激だった。
白いものが勢いよく、千明の喉にかかった。
千明は|嚥《えん》|下《か》した。
唇を拭いながら、にやりと笑った。
萩生は荒い息をついている。
「これで二度――」
と千明はつぶやいた。
|諭《さと》すような口調で、
「あと一度こっきりでおまえは死ぬ。私としたくなくても、身体がそれを許すまい。ほほほ、テレポートだと? 黒部千明にかかればこのざまよ」
そして、彼女は身を起こすや、自慢の白い尻を、なお立ちはだかったままの萩生の男根の上へ、ゆっくりとおろしかけたのである。
そのとき――。
草むらを踏み分ける音がして、急に二つの影が顔を出した。
「加瀬、風早――!?」
「いけません、千明さま」
と前髪を垂らした風早という男が言った。
「その男と交わっては。――父上がお止めです」
「ほう――後をつけていたのね? ――兵頭は知っているの?」
「さ、戻りましょう。お話しはあちらで」
こう言ったのは、やや太り気味の加瀬の方である。
「おまえたち、何か間違っていやしない?」
千明はゆっくりと身を起こした。
その眼光に、男二人がたじろいだのである。
風が急に冷たくなったようだ。
「面白い。腕ずくで、連れていってごらんなさい」
千明はもつれる髪をなでつけた。
パンティはつけていない。
陰毛と性器は剥き出しだ。
それなのに、ブラだけは乳に食いこんでいる。
それも乳房の片方は先まで露出し、茶色の|乳暈《にゅううん》がブラの端から半ばはみ出ているという、凄まじい色っぽさだ。
二人の男が息を呑む。
「丁度いいわ。どう変わったか、おまえたちで試してあげる」
不敵な眼つきでねめつけながら言う千明に、加瀬と風早が顔を見合わせた。
青草が一斉に四方へ傾いた。
風だった。
しかし、どの方角から。
千明が前進した。
その鬼気に押されて二人が下がる。
白い手が男たちの二の腕を掴んだ。
その股間が突如、盛り上がった。
泣くような声が上がった。
二人のスラックスに、みるみる内側から染みが広がっていく。
「千、千明さま……」
「も、も、もう……」
もがきながら、千明の手をふりほどくこともできず、二人は恍惚と膝をついた。
「お許し下さい。……このままでは、|空《から》になるまで……」
加瀬が呻いた。
これが、萩生の精を千明が飲んだ結果だった。
今までは触れても相手を欲情させるに留まった妖術が、触れた瞬間、射精を促すのだ。
それも、ただ一度ではない。
加瀬も風早も、ズボンの染みは広がるばかりだ。
加瀬の叫びのごとく、千明の手が身体を離れぬ間、二人の精液はとめどなく製造され、間髪置かず放出されるのだった。
「ほう、さすがは超常能力者の精、これほどのものとは思わなかった。あと一度交われば死ぬとは惜しい。ならば最初から、口で受けていたものを」
ようやく二人を解放し、千明は萩生の方を向いた。
「惜しいわ。お父さまの言う意味とは違って、惜しい男。あと一度で終わりなど詰らない。物足りない。おいで、生かしておいてあげよう、その能力に免じて。それに、おまえこそ、私の眼に|適《かな》う男かもしれない」
ぬるぬると艶光る女体に|哄笑《こうしょう》と生あたたかい淫風とがまとわり、淫獄につながれた萩生の顔に叩きつけられた。
3
萩生は、黒部家の別荘へ連れ込まれ、地下の牢へ入れられた。
瞬間移動を誇る超人にとって、これほどの屈辱はあるまい。
だが、それすらも頭に浮かばぬほど、彼は欲情に身を|焦《こ》がし、かつ、疲労しきっていた。
妖女・黒部千明は、彼の生命エネルギーを根こそぎ吸いとってしまったかのようであった。
古風な座敷牢ともいうべきところに横たわっていると、じき、兵頭と千明とを伴い、和服姿の貫禄たっぷりな中年男が現われた。
黒部忠之である。
|蔑《さげす》むような眼で萩生を見つめ、
「超能力者も、それ以外はただの人間ということか。買いかぶりすぎていたようだね。しかし、千明よ、よく生かして連れてきたものだ」
「私の生来の願い、この男なら叶えてくれるかもしれませんので」
黒部の眼が凄まじい光を帯びた。
「この男が――招喚に役立つというのか?」
何とも|淫《いん》|蕩《とう》な瞳が、実の父の顔を見つめ、
「かもしれません。求めても手に入れられなかったあの身体[#「あの身体」に傍点]が――ついに」
このとき、兵頭の碁盤みたいな顔が大きく|歪《ゆが》んだが、二人はそれに気づかぬ風で、
「お父さま、私は洞にこもりますが、せめて、この男――愛しい妻に会わせてやったらいかがです?」
「ふむ」
と黒部の表情が残忍な笑みに|彩《いろど》られた。人間の顔に浮かぶとは、信じたくないような笑いだ。
「よかろう。連れてこい。だが、逃げはすまいな?」
「この男に逃げられたなら、すべての試みは|潰《つい》えましょう。けれど、誓って申し上げますが、今はただの男ですわ。私の術がいかに完璧か、それを試す機会にもなりましょう」
黒部は何か兵頭に告げ、兵頭は歩み去った。
黒部は手にした鍵束で昔ながらの黒く巨大な錠前をはずし、木のくぐり戸を開いて、萩生に、
「出ろ」
と命じる。
「断わる」
萩生はようよう言った。
「では、せっかくの対面をしたくないのだな。その方が、おまえの精神のためかもしれんが」
「何のことだ?」
萩生の眼が細まった。
二人の会話は彼の耳まで届いていない。
「知りたければ出ろ。テレポートを使っても構わんぞ」
萩生は両足を使って出た。
黒部、千明の後をついて上階へ行き、昏い廊下を通って、木のドアの前に着いた。
後ろには、兵頭が控えている。
瞬間移動をしたらどうなるか、自信がなかった。
悪くすると重合空間にはさみ込まれたまま、|永《えい》|劫《ごう》に出られなくなってしまう。
千明がドアを開けた。
妙にぶよぶよした印象の壁と床であった。
その真ん中に――
「芳恵――」
萩生は絶望の声をあげた。
全裸の妻は顔を上げ、そむけた。
悲鳴を放ちつつ、壁にへばりつく。
隠せぬ尻だけが震えていた。
「いや、いやあ、来ないで。あっちへ行って」
萩生の全身が怒りに震えた。
その手を千明の手が掴んだ途端、彼は膝をついた。
スラックスの内側で、激しい|迸《ほとばし》りが生じている。
止まった。
また、促された。
放出した。
また。
もう出ない。
|涸《か》れ切っている。
それでも射精感はあった。
凄まじい|責《せめ》|苦《く》だった。
「私に手を握られていれば、あなたは死ぬまで射精しつづけるわ。それがいやなら、黙っていることね。何をすればいいかは、いずれ教えましょう。それもごくごく近い時期に」
「女房は……どうする……?」
「それもいま、見せてやろう」
黒部は背後を向いた。
どこで連絡をつけたものか、二人の男が立っていた。
仙石原で萩生殺害を中断させたあの二人である。
どちらも理性の|破片《かけら》もない、獣性剥き出しの表情で喘いでいる。
萩生同様、千明の淫術の|虜《とりこ》となった男たちだ。
「放っておけば、いずれもとに戻るけれど、その間は女欲しさに欲情する獣よ。おいしい餌をあてがえば、死ぬまで貪りつづけるわ。あなたの奥さんの役割りは、これ以外にないのよ」
黒部がうなずいた。
それまでは、激烈な鍛練による|克《こっ》|己《き》|心《しん》で自制していたものが、二人はまさしく獣の唸りを上げつつ、芳恵にとびかかった。
やめろ、と絶叫しても声にはならなかった。
ボリュームたっぷりの女体が壁から引き剥がされ、二匹の凶暴な肉食動物に襲われる獲物のように組み敷かれるのを、萩生は茫然と見つめた。
男たちは押さえつけるなり、性器を貪った。キスも愛撫もない。
歯を剥き、舌を出した猛烈な口淫であった。
芳恵の下半身が逃がれようとして暴れ、太腿が跳ね上がった。
加瀬の腕がそれに巻きつき、固定した。
芳恵は股間に群る二人の背に爪をたてた。
黒光りする肌に白っぽい筋が走り、すぐ赤い色が盛り上がった。
二人は気にしなかった。
芳恵の性器を貪りつづけていた。
芳恵は両手をふるった。
何度も爪をたてた。
二人の背は血みどろになった。
それでも貪っている。
芳恵の表情に、恍惚としたものが浮き上がってきた。
両手の抵抗がやんだ。
すすり泣きが洩れた。
二人の舌は性器の|柔《やわ》|襞《ひだ》を貫き、肛門をえぐりはじめていた。
風早は内腿の肉を強く吸い、キス・マークを残すのに余念がなかった。
風早の手が芳恵の左手首をつかみ、股間に導いた。
芳恵は握ってしごきはじめた。
加瀬も手を伸ばした。
芳恵の手をとり、風早の背にこすりつけた。
血の|縞《しま》がついた。
この手を加瀬は芳恵の顔にこすりつけた。
汗まみれの美貌は朱色に染まった。
芳恵は悲痛な呻きを放ったが、加瀬は許さなかった。
人妻の肉体に自身の手で男の鮮血をなすりつけつづけた。
喉も乳房も血に染まった。
その上を芳恵の手が動き、血の帯はさらにこすられ、人妻の胸に、奇怪な紋様を描いていった。
自分の指を芳恵は無理に|咥《くわ》えさせられた。
それを舐めた。
唇も舌も口腔も血に染まった。
まさに|餌《え》|食《じき》だった。
加瀬が顔の上に乗った。
男根が入れられた。
芳恵は吸いはじめた。
夫の見ている前で。
加瀬は腰を動かしていた。
喉の奥まで突き、人妻をむせさせた。
すぐに上体を反らせた。
そむけようとした芳恵の頭を固定し、口の中に放出している。
芳恵は呑み干した。
解放はまだだった。
性器も風早に貫かれていた。
潤み切った女の肉口は、男のものをねっとりと吸いこんだ。
加瀬が立ち上がり、芳恵の髪の毛をつかんで上体を起き上がらせた。
刺されるたびに喘ぐ女の顔を風早に見せる。
その口は精汁で濡れていた。
白濁の液が血に混り、妙に美しい滴となって喉元をしたたっている。
芳恵は興奮しきっていた。
加瀬は再びその手を取り、精液と血を胸から顔に引きのばした。
芳恵は恍惚とわななき、同時に、風早も射精した。
「そのくらいにしておけ」
と黒部が兵頭に命じた。
「放っておけば、女の肉も|咥《くら》いかねん――やめさせろ」
兵頭がうなずいて前へ出た。
二人は、再び芳恵の|凌辱《りょうじょく》にとりかかっていた。
その首筋を細くて長い指が押さえた。
苦鳴を発して二人は引き上げられた。
兵頭の肘が妙な形に曲がった。
気持のいい音がした。
二人の首は九〇度左右を向いて、顔を見合わせていた。
「こうでもしなくては、私にも牙を剥きます」
と兵頭は言った。
「いい思いをしたからよかろう」
こう言って、黒部は萩生に向き直った。
「君の妻は、わしらの気が向いたときに、抱かれるのだ。もう君のものではない。わしらの共有物だ。わしも抱いたが、いい|肉体《からだ》をしていた。これまで君ひとりのものにしておいたのが|勿《もっ》|体《たい》ない」
萩生はその声だけをきいていた。
胸のどこかがひどく熱かったが、それも全身を覆い尽す欲情の波の前に呑みこまれた。
「連れていけ、千明。効き目が解ける前に、やさしく触れてやるのを忘れるなよ」
4
闇が山々の輪郭を吸収した。
夜ともなれば、昼の|蹂躙《じゅうりん》など忘れたかのように、濡れた冷気が自然にすり寄ってくる。
秋の深まりを待つばかりの箱根であった。
その一角を占める広大な敷地と屋敷。
その裏口が、月光の下に、小さな影をひとつ吐き出した。
白い顔だけが動いている、と見えるのは、全身を|漆《しっ》|黒《こく》のワンピースで覆っているからだが、いかに月が明るいとはいえ、照明灯ひとつない裏庭の一角を小走りにも似たスピードで歩くのは、只事ではなく、只者でもない。
黒部千明であった。
眼がかがやいていた。
|比《ひ》|喩《ゆ》ではない。
闇のさなかで光って見えるのだ。
さながら豹の眼のように。
この巫女にはふさわしいかもしれない。
三分ほど闇と同化して進むと、前方に岩壁が立ちはだかった。
山肌であろう。
月光が表面を水死体の肌のように青々と光らせている。
その一ヵ所に|眼《がん》|窩《か》が開いていた。
直径三メートルほどの洞窟の入口である。
それこそが、黒部家代々の当主がつめた、招喚の祭祀場であった。
足早に進もうとする千明の肩を、このとき、黒い手が掴んだ。
掛け値なしにこの巫女が驚いてふり返ったのは、背後の者が近づく気配すら悟らせなかったためだ。
「千明さま」
とそいつは呼んだ。
兵頭であった。
「何の真似?」
千明の声は月の光より冷たい。
「御約束、たがえませんよう」
兵頭の声にも感情がこもっていた。一枚剥がれれば、極めて危険なものが飛び出しかねない。
「何かしら、それは?」
「あの男――鞭馬の心臓をいただけるのは、自分だと思っておりました」
「約束などした覚えはないわ」
「わかっております。ですが、あの萩生とか申す奴が現われるまで、千明さまの思惑は自分にあったはず。あの男と比べても、自分は資格を奪われる|腑《ふ》|抜《ぬ》けとは思えません」
「その通りよ。それでよいでしょう」
「では、鞭馬の心臓を」
「私の願いの強さは、おまえも承知しているわね」
強い口調に、兵頭はうなずいた。
「多分、今の私の力をもってしても、それを可能にするチャンスは一度きり。しくじれば二度と巡ってはこない。それだけでおまえにもわかるはず。おまえか、萩生か。――おまえなら、どちらを選ぶ?」
兵頭は沈黙した。
「わかったら、お戻り。私には、まだせねばならぬことがある」
「ご一緒に」
「いけません」
「そう言わず」
最後の声が、どちらのものでもないと知った刹那、千明は左をふり向き、兵頭は上体を|屈《かが》めた。
地面と平行に、一匹の巨大な|蜘蛛《く も》のように。
二対の炎の眼が見つめる一点は、|鬱《うっ》|蒼《そう》たる木立ちの生んだ闇の一角だった。
月光もそこまでは届かず、永劫に動かぬ闇があるばかりだ。
兵頭が後退した。
千明もまた。
その暗黒の一点から、二人の魔人にも|勝《すぐ》る妖気が噴きつけてきたのである。
「なんなら、僕が代わってやろうか。持ち主ならばぴったり合うぞ」
そして、二人の前で、月光を銀粉のごとくはね散らした若者は、矢切鞭馬に他ならなかった。
「貴様……どうして?」
と呻きつつ、兵頭の最後の口調が|驚愕《きょうがく》から自信に変わったのは、鞭馬の下半身がなお毛布に包まれて、車椅子に乗っているのを見たせいか。
だが、こんな恰好で、どのように、彼はここへ入りこんだのか?
「どうやって、ガードを破ったの?」
千明が感嘆したように訊いた。
この若者の正体については、十分知り抜いているのであろう。
同じ目的とそれを可能にする能力をもつもの同士の親近感のせいかもしれない。
「黒部千明か」
と鞭馬が訊いた。
心臓を奪われたものの|脆弱《ぜいじゃく》さなど破片もない。
いや、たとえ車椅子に乗っても、そんな人間が動けるかどうかは言うまでもあるまい。
秋の月光に妖々と照らし出された庭の一角は魔界であり、そこに|集《つど》う三つの影は、魔人以外のものではあり得なかった。
黒部千明。
兵頭平四郎。
矢切鞭馬。
この三名が戦いの|火《ひ》|蓋《ぶた》を切ったとき、そこに繰り広げられるものは、いかなる夢魔の|戦《いくさ》であることか。
すなわち、妖戦。
「萩生先生はどうした?」
鞭馬が静かに訊いた。
「捕えてある。女房ともども屋敷の何処かに。探し出してみるか?」
と言ったのは千明だ。
「それもよかろう。だが、その前に、返してもらうものがある」
すっと兵頭が右へ動いた。
鞭馬の脇へ廻りこんだのである。
構えは、かつてその心臓をえぐり抜いた『指壊破』。
|満《まん》|腔《こう》の自信は、その薄笑いからも|窺《うかが》える。
対して、鞭馬――心臓なき魔人の法は?
「何処にある?」
怖るべきボディ・ガードの方を見向きもせずに鞭馬は尋ねた。
「あの洞窟に」
千明の白い指が空洞をさした。
「でも、入って戻れるかしら? いいえ、その前に――入れるかしら?」
「そのつもりで来たが、やはりそうか。では、この前の御礼も兼ねて、挨拶をしよう」
鬼気迫る声音は、この若者にふさわしかった。
一瞬、三人をつなぐ細い糸が弾けとんだ。
月光が|翳《かげ》った。
兵頭は跳躍していた。
鞭馬の頭上に。
|繊《せん》|指《し》がとぶか、足が|閃《ひらめ》くか。
だが、鞭馬が動かぬのは何故か?
|鈍《にぶ》い音がはじめて、彼の注意を敵の方に向けた。
鮮血を|迸《ほとばし》らせるべき鞭馬の頭部をわずかにはずれて流れた身体は、千明をかばうように、その前に着地した。
そして、鞭馬の右前へ、これも守るかのように舞い降りた黒い影は――
萩生を石の邸宅へと導いた、あの運転手であった。
鞭馬はひとりではなかったのだ。
「これでマン・ツー・マンだ」
鞭馬は何の興奮も混じらぬ声で言った。
左手で運転手を指さし、
「彼にも、僕流の技を仕込んである。『指壊破』には不足かもしれんが、一手御教授願おうか」
兵頭の碁盤顔に緊張が走った。
明らかに不利であった。
いま、繁みの中から彼を襲った蹴り技はかわしたが、その鋭さ強さから見て、いかに『指壊破』をもってしても、たやすく勝てる相手とは思えない。
並みの相手なら千明にまかせて放っておけるが、眼前の敵は、彼自身に心臓を奪われてなお生きつづける異世界の魔人だ。
ちらりと千明を見た。
その一瞬――
運転手の体が回転した。
凄まじい突風が兵頭の身体をのみ後方へ吹きとばした。
とばされながら、彼は眼を開いていた。
その視界を、黒い闇が覆う。
運転手だ。
風に乗ってとんでくる。――兵頭よりも速く!
唸りが耳を占めた。
兵頭が両肘を眼前に立てたのは、もって生まれた勘によるものであった。
骨の髄まで|痺《しび》れるような猛打の|炸《さく》|裂《れつ》。
彼は地上へ落ちた。
左手を大地について立つ。
崩れた。
麻痺している。
これが彼を救った。
よろめいた頭上を、これも唸りをたてて蹴り足が通過したのである。
風に乗り、風を操る運転手が、なおも空中で放った一撃であった。
かろうじて一回転して立ちながら、兵頭は千明の方に眼をとばした。
二つの影は消えていた。
どんな運命が主人の娘を捉えるにせよ、戦い易くなったことだけは確かだった。
彼は再び『指壊破』の構えをとって、迫りくる敵を迎えた。
5
戦いがはじまると同時に、千明は身を|翻《ひるがえ》した。
これには鞭馬も予想を裏切られたが、猛スピードで追撃に移る。
三矢コンツェルンのひとつ、三矢電機の全能力を投入した車椅子は、鞭馬自身の改良を加えられ、移動装置としては究極的な性能を有している。
旋回する車輪はエンジン音をたてなかった。
内蔵された動力機関をエンジンと呼ぶべきだろうか。
それは火も放たず、排気ガスも出さなかった。
あらゆる燃焼方式とは無縁な存在だった。
椅子は、一種の磁気で動くのであった。
地磁気。
大地が秘めた偉大なるエネルギー。
その微小な流れをセンサーがキャッチし、増幅器へと送る。
それを運動エネルギーと変える無熱変換装置こそ、鞭馬の異世界の知識が可能としたものであった。
地球から直接エネルギーを得る――これほど|豊潤《ほうじゅん》な動力源に満ちた“車”も世にあるまい。
グラース関節材があらゆるショックを無限小に変え、|座席《シート》は姿勢の変化をとらえて、常に直角になるよう位置を調節する。
加えて、車体は三六〇度あらゆる方角へコンマ数秒で方向を転じ、磁気重心|安定装置《スタビライザー》が横転を許さない。
石を踏み、地面の隆起を乗り越えながら、鞭馬には、何の衝撃もなかった。
千明は、穴に消えた。
きっかり二秒遅れて、鞭馬も後を追う。
淡い異感が皮膚の上を走った。
|罠《わな》か。
だが、|躊躇《ちゅうちょ》はそれへの深入りを意味する。
鞭馬は構わず走った。
穴の中も闇である。
月の光がない分、重く昏い。
鞭馬の眼が|燐《りん》|光《こう》を発した。
異世界の父親の遺産のひとつだろうか、鞭馬の双眼には、岩の肌やそれを這うコードなどが、青いスペクトルとなって見えるのだ。
その|遥《はる》か遠くに、炎がゆれていた。
千明であろう。
鞭馬は前進した。
一〇〇メートルほど走って止まった。
今度は明確な異常感覚が彼を捉えていた。
体内の血液がその方向を失い、四方へ流れようとしているのだ。
あらゆる方向感覚を狂わせるのが迷路だが、これは方向をある種の力でねじ曲げ、融合させた超迷路と言えた。
罠の正体を鞭馬は見た。
帰り道も、もはやもとの道ではあるまい。
「さて、どうしたものか。先生さえいてくれたらな――」
鞭馬は珍らしく人懐っこい仕草で首を|捻《ひね》った。
第五章 来訪者
1
洞窟の行き止まり、――護摩壇の内側で、千明は、背後から駆けつける靴音をきいた。
「どうなさいまして、お父さま?」
ふり向かずに訊いた。
「異常な気配を感じて眼が醒めた――千明、誰か邸内へ入ったな。それも恐ろしい奴が」
黒部忠之の息はかすれている。
全力疾走の結果だ。
「言わずともお判りでしょう?」
「矢切鞭馬――やつしかおらん」
「ええ。――今夜は肩ならしのつもりでしたが、あいつが来た以上、一刻の|猶《ゆう》|予《よ》もなりません。招喚の法を行います。父上、萩生真介をお連れ下さい」
「それはよいが……」
ためらう気配に、千明はようやくふり向いた。|咎《とが》めるような|眼《まな》|差《ざ》しを笑顔で隠し、
「何か?」
「――二、三日まえ、おまえの部屋で、あるものを見つけた。ソ連の超科学研究所からの秘密文書だ。おまえ、クレムリンと手を結んだのか?」
「よして」
「奴らにとっては、異次元の秘密をもらうのも、おまえを裸にするのも同じ次元の話にすぎん。一体、何をするつもりだ?」
「お父さまこそ」
と千明は言い返した。
「黒部家代々の悲願と言いながら、異世界のものを|喚《よ》び出してどうするのかも、まるで目算は立たず、ただ、|闇《やみ》|雲《くも》に、喚びだす行為にのみ没頭して人生を棒にふる――私はご免。苦労した分は、楽しみに変えなくては。これまでの先祖がすべて失敗と徒労に終わったのも、ふと考えると、自分は何をしていたのか――ここに行きついたせいよ。彼ら[#「彼ら」に傍点]はみな、喚び出した後に何が残るか気がついたのだわ」
「目的などはいらん。それが我らの|掟《おきて》だ。我々は喚び出せばいい。後は、招かれたもの自身が決めることだ」
「愚かなこと。どうして、それを利用しないの? こちらで目的を与えてやるのよ。破壊以外の従順や明るさを」
「よさんか。彼ら[#「彼ら」に傍点]を一方の国専用にでもしたら、何が起きると思う? 他の誰も、喚び出されたものを私利私欲に用いてはならん。――そうか、ようやく新人類というのが、身内から出てきたな」
とは言うものの、招かれたものが死と破滅を望むなら、それも認めるのが黒部のやり方だから、これはピントのずれた意見だ。
「そう……では、邪魔をするおつもりね」
「今の目的のままでは、な」
「変えられないわ、父さん。別のものを変えます」
「それは――」
と言いかけてふり向きかけたのは、危機を悟ったのだろうか。
黒部は、左胸に吸い込まれる美しい右手を見た。
胸の中でそれが握られた。
視界は赤く染まった。
「兵頭……」
と喘いだが声にならなかった。
「父親を変えますわ」
と笑う千明の声がきこえた。
兵頭の右手が勢いよく引き抜かれると同時に、黒部は倒れ伏した。
「見事」
「恐れ入ります」
兵頭は頭を垂れた。
「おまえの相手はどうした?」
「片づけました」
「では、萩生を連れておいで」
一瞬の停滞もなく、兵頭は身を翻していた。
ひと気のなくなった洞窟のただ中で、千明はかすかに笑った。
徐々に徐々にその笑みが大きく広がっていった。
頬の肉がわななき、眼の端が上がり、やがて途方もなく奇怪な笑顔が誕生した。
これが千明の|精神《こころ》にいるものだった。
萩生は、回復しつつあるのを知った。
地下の座敷牢である。
基本的には並みの人間の体力と相違はないが、芽生えた瞬間移動力は、それを行使するにふさわしいタフネスを、萩生に与えているらしかった。
スラックスとブリーフの前面は、放出した精液でごわごわに張っている。
今も|間《かん》|歇《けつ》的に欲望の波が襲ってくる。
しかし、波と波との間隔は確実に遠くなり、波頭の強さも大幅に減じつつあった。
テレポート機能回復まで、あとひと息と萩生は踏んだ。
具体的には、三〇分。
それ以前にもやってできないことはないが、重合空間から出られなくなる|怖《おそ》れがある。
時間も位置も存在しない、いわば虚無の空間に封じ込められたまま、永劫を送るのだ。
萩生は待つことにした。
欲情の潮が退くと同時に、憎悪と怒りが湧いた。
犯されていた芳恵の肢体が|瞼《まぶた》の裏にある。
フェラチオに励み、精液を呑む芳恵がいる。すべてを破壊しなくては済まない怒りの衝動であった。
いっそのこと、おれが喚び出して[#「おれが喚び出して」に傍点]やろうか。
そうまで思った。
何にしろ、あと三〇分だった。
牢の外には、兵頭の手下らしい男が二人立っている。拳銃ぐらいは持っているだろうが、テレポートさえ使えれば怖い相手ではない。
その間に、千明にでも来られたら、すべては終わりだった。
一〇分が経過した。
さらに五分。
そのとき、階段を下りてくる足音。
万事休す――と思いきや、兵頭であった。
二人の手下を下がらせ、格子の向うから、
「気分はどうだ?」
と訊いた。
萩生は答えない。
元気と気づかれてはチャンスは失われる。
兵頭の質問にも、深い意味はないようであった。
「鞭馬が来たぞ」
と言った。
愕然と振り向きそうになるのを、萩生は夢中で押さえた。
鞭馬が、あの身体で!?
異次元の血をひいているとはいいながら、それは無茶苦茶――の蛮行に等しい。
一体、何のために?
芳恵が奪われたのに気づいてか。
それとも――
萩生の身を案じてか。
まさか。
「だが、奴は、『黒部家の迷路』に落ちた。造った奴ですら、入ったきり出てこられないという|物《ぶっ》|騒《そう》なものだ。二度と現われはすまい。おまえも観念するがいい」
言うだけ言うと、敵は扉を開けて、萩生に近づいた。
萩生はなすがままにした。
あと一五分。
そして、テレポートは一瞬で勝負を決する。
肩に担がれるようにして外へ出た。
裏庭へ入る。
不意に投げ出された。
受身もとれずに地べたへ転がる。
「死んでもらう」
兵頭は指を押し合わせてから、鉤状の形に曲げた。
「何のつもりだ? ……」
萩生はぼんやりと訊いた。
「おれかおまえが選ばれる。おまえには事故に|遇《あ》ってもらおう」
「選ばれる? ……何のことだ? ……」
「達者でな」
腕が迫ってきた。
萩生は身をねじってよけた。
兵頭の指は大地を貫き、手首までめり込ませた。
「ほう、かなりの回復ぶりだな」
身構える萩生に、兵頭は笑いかけた。
「だが、本調子ではなさそうだ。ここで逃げられたと千明に言ってもいいが、そうもいくまい」
絶望が萩生を包んだ。
闇のただ中で、身体は満足に動かず、テレポートまで、あと一〇分を残していた。
下がらず、萩生は頭から、兵頭の胸元めがけて突進した。
軽くかわされ、首筋に手刀を食った。
起きねば、と思った。
思いながら膝をつく。
|脳《のう》|震《しん》|盪《とう》を起こしている。
立ったところへ、脇腹を膝蹴りが襲った。
ぐふ、と呻いて横へとばされる。
|肋《ろっ》|骨《こつ》の二、三本は砕けただろう。
手の打ちようがなかった。
|脂汗《あぶらあせ》にまみれてうめく男のかたわらで、兵頭が右手を上げた。
その頭部を一陣の風が吹きなびいた。
兵頭はふり向いた。
三メートルほど離れた繁みの中に黒ずくめの男が立っていた。
あの運転手だった。
だが、確かに兵頭は始末した、と。
嘘ではない。
男の胸を見ればわかる。
左半身は|夜《よ》|目《め》にも黒く染まっている。
心臓部は空洞と化していた。
「ここにも、化物がいやがったか」
と兵頭がつぶやいた。
彼は先刻の死闘で確かに、運転手の心臓をえぐりとっているのである。
「やはり、鞭馬が鍛えた男――見事だ」
言いざま、兵頭の身がぐっと前へのめった。
風を巻いて運転手に迫る。
真っ向から風が叩きつけられた。
「滑空足」が一瞬止まる。
運転手がダッシュした。
ひょい、と兵頭が消えた。
この場合、彼のとった技を何と呼ぶべきか。
兵頭は空中――運転手の頭頂にあたる部分にいた。
人間の身体において、最も攻撃を受け易く、それと気づかない部分がそこであった。
首だけ向くのは不可能だ。
全身をふり向いても、まさか、上とは思えまい。
最後の確認は、頭上へ顔を向けねばならない。
要はいかに、気づかれず、邪魔されずにここをつくか、であった。
黒部家に異界の魔が出現した記録は何度かある。
すべて撃退した。
黒部家が護衛役として育ててきた集団の力によるものである。
彼らは、魔の全身をあらゆる角度から計算し、共通項ともいうべき弱点を発見したのである。
すなわち、一方向から加えられる攻撃のみは、異世界の魔をもってしても防ぎ得ぬ、と。
戦闘の最中、そこへの瞬時の移動をかち得ることが、彼らの拳法の基礎となった。
「滑空足」による目まぐるしい移動で視界の外側へ入り、次の瞬間、頭頂部に跳躍する。
この位置から一撃必殺を狙うには、手か足を振り子のごとく敵の心臓へ叩きつけねばならない。
こうして『指壊破』が生まれた。
時には、心臓よりも頭蓋骨を。
兵頭の手は、真下へ突き下ろされた。
指は皮膚と骨とを折り、運転手の脳をも貫いた。
兵頭が空中でにやりと笑う。
その顔が苦痛に歪んだ。
運転手が脳をやられながら、両手を掲げて、兵頭の胸をはさんだのだ。
骨の砕ける音をききながら、兵頭は右手に|渾《こん》|身《しん》の力をこめた。
脳味噌を握りつぶす。
運転手の身体が|痙《けい》|攣《れん》し、膝をついた。
地響きをたてて倒れる。
兵頭は反転した。
眼の前に萩生が立っていた。
不安が兵頭の自信に細い亀裂を生じさせていった。
2
岩盤一帯から漂う|異形《いぎょう》の気配が、ますます強くなった。
色彩と蒸気のごとき形状すら備えていると鞭馬には見えた。
原因はわかっている。
異世界との通路接触によるものだ。
喚び出しにかかっている。
あの巫女が。
鞭馬はもとの位置を動いていなかった。
進んでも戻っても迷路にはまり込むばかりだ。賢明な判断と言えた。
だが、このままではどうにもならない。
椅子に内蔵されたレーザーやミニ・ミサイルで岩盤の一部を吹きとばしても焼け石に水だ。
別のことなら、できる。
鞭馬はそれをすることにしていた。
両手で九字を切り、鎗印とも、蓮華三昧耶印ともつかぬ、あるいはどちらともとれる形に指を組み合わせるや、前方の岩壁へ眼を据え、低い声で異界の呪文を唱えはじめたのである。
ああ、それは、千明の術に対する矢切鞭馬の妖鬼招喚法ではないか。
四方の岩盤はいま、青く、妖しく息づきはじめた。
「これは!?」
護摩壇の呪法図内に正座し、黒いワンピース姿のまま、前方の壁に向かってひたすら呪文を唱えていた千明は、このとき、眼を剥いて立ち上がった。三角炉から立ち昇る炎が、美貌に|火《ほ》|影《かげ》のゆらめきをつけている。
「妨害しているのね、鞭馬」
歯がきりきりと鳴った。
「だが、そうはいかん。私はいつもの私とちがう。超人の精液を呑んだ女。加えて、おまえの心臓は、ふふ、ここにある」
それは、千明の両膝の間で、力強く脈打っていた。
そして、それを右手に抱えるや、千明は壇を離れ、足早に通路の奥へと姿を消していった。
壇のそばに倒れた血まみれの父には|一《いち》|瞥《べつ》もくれずに。
兵頭の自信は揺ぎなかったが、前方の敵には理解し難いものが備わっていた。
「萩生真介だな。おれの名は――」
「もう分ってるよ」
と萩生は手をふった。
「鞭馬の心臓――よく持っていったものだ」
「なら、話が早い。黙って一緒に来い。それともテレポートとやらで逃げるか?」
萩生の身体がふっとゆらいだ。
「それも面白そうだ」
兵頭の後ろから声がした。
声の大きさ強さから、発源地点を割り出したか、兵頭は猛スピードで横へ走った。
いない。
反転した腰へ一撃が襲った。
ふり向きかけた姿勢のまま横転する。
移動。
その背へパンチの一撃。
呻いて前屈みに倒れた。
信じられなかった。
自分が――異界のものすら|斃《たお》し得る技を学んだ自分に、相手の顔も見えないとは。
「どうした。ボディ・ガード、ひょっとしたらあの女に腑抜けにされたか。どちらが選ばれるか、今の様子を見せてやりたいものだな」
「見せていただくわ」
不意に女の声が二人の行動を停止させた。
「千明さま」
「分が悪いようね、兵頭」
「何のこれしき」
兵頭はふり向いた。三メートルほど向うに萩生が立っている。
二人を結び、そこから等しい角度をもってのばした線の交差点に、千明がいた。
「断わっておくが、もう二度と同じ手は食わん」
と萩生は言った。
それは千明の決定的な敗北を意味していた。
テレポートを駆使する彼がその気になればいかに千明といえど手を触れることは不可能だ。
「さ、鞭馬と、彼の心臓のあるところへ案内してもらおうか」
「図に乗るな、若造。勝負はまだついておらん」
凄まじい声を兵頭が吐いた。
「ほう」
と言ったのは、萩生ではなく、千明だった。
「それほど選ばれたいの、兵頭? いいわ、心ゆくまで、おやりなさい」
「やめさせろ」
と萩生が言った。
「異界の生物は倒せても、テレポートには通用せん。触れ得ぬものを、どうやって斃す?」
それに応じたのは、兵頭の「滑空足」であった。
萩生めがけて猛スピードで走る。
萩生の眼がそれを捉えきれなくなった瞬間、兵頭は跳躍した。
彼の頭上へ。
萩生の姿が忽然と消失したとき、動揺の色が浮かばなかったことを見れば、兵頭は最初から運命を悟っていたのだろうか。
跳躍した彼の頭上に萩生が出現し、その頭頂へ猛烈な蹴りを叩きこんだのは次の瞬間だった。
呻き声ひとつ上げず、鮮やかに着地した萩生の足下へ、彼は|不《ぶ》|様《ざま》な敗北者の姿をさらしつつ、大の字に横たわった。
萩生の輪郭がぼやけ、一メートルほど離れた地点に新らしい像が誕生した。
ほんの一瞬、二重像になった姿は、テレビの|電波攪乱《ゴ ー ス ト》を思わせた。
いつの間にか、彼のかたわらへ寄り添おうとしていた千明が口元をほころばせた。
「お見事ね」
「勝負は最初からついていた。テレポートがある限り負ける相手じゃないが、テレポートがなければ、おれなど足下にも及ばん」
「それでも超人は超人よ」
「鞭馬は何処にいる?」
萩生の声に鬼気がこもった。
「こっちよ」
別段、脅える風もなく、千明は先に立って洞窟の方へ進んだ。
背後でようやく、低い呻きが洩れた。
魔風が吹き抜けてくるがごとき黒穴へ二人は足を踏み入れた。
少し歩くとすぐ、萩生が四方を見廻し、
「空間が歪んでる。重力場の変動もきつそうだ。もともとの地質がそうなんだろうが、よくこんな穴をつくったものだな。耐性を備えたものでなければ、二度と戻ってはこれまい」
「さすが、超人ね」
と千明がふり向いて白い歯を見せた。
これだけで背筋がぞくぞくしそうな艶やかな笑みである。
全財産はたいても、この女と寝たいという男は世の中にあふれ返っていそうだ。
「祖父が掘ったものだそうよ。私たちは歩き方を知っているけれど、戻ってこないものも随分といるわ。当の祖父も、掘り抜いた人夫たちも」
一〇分も歩いたろうか。道は上がりもせず|下《くだ》りもしなかったのに、萩生は妙な疲れを覚えた。
重力場はやはり変動中なのだろう。
前方から分厚く、途方もない質量がのしかかってくる。
道行きは終わりに近づいたようであった。
半分に断ち切った球体のような光が見えた。
曲がり角からさしているのだろう。
護摩を|焚《た》く匂いが強い。
鞭馬はどこにいるのか気になったが、これから|赴《おもむ》く場所への好奇心が勝った。
護摩壇と三方を塞ぐ石の壁が萩生を迎えた。
ふと、石に縁があるな、と思った。
壇のかたわらに黒部が倒れている。
この娘ならやりかねまい。
「探しものはここよ」
千明の声がした。
岩壁よりも冷たそうな声であった。
白木の|柄《つか》をつけた短刀を握り、その先端を脈打つ心臓に押しつける美女を萩生は見た。
「貫いてもよくって? これはまだ鼓動しているけれど、止まれば持ち主も死ぬわ。私が見たところ、あなたは|人道主義者《ヒューマニスト》ね」
「おれはそれの引き取りを依頼された。女房を人質にな。それがこの屋敷にいる限り、鞭馬がどうなろうと関係はなさそうだ。好きにするがいい」
「そう?」
光の刃が近づいた。
次の瞬間、それは萩生の手に移っていた。
だが、呻き声を上げたのは、萩生の方であった。
テレポートして肉塊を奪おうとした一瞬、千明の手は心臓を放し、あわてて伸ばした萩生の手首をとらえたのだ。
「ほほ――同じ手にかかったわね」
跳びのきながら、すでに茫洋と情欲の霧にかすむ萩生の顔へ、千明は嘲笑を送った。
「今こそ、この心臓の使い方を教えてあげましょう。黒部説の招喚法では、どうしても異世界の『好み』に合わないの。そこで私が考えたのが、月並みだけど、生け|贄《にえ》よ。何度か試し、これならという確信をもてたわ。それでも、今度は生け贄自体のパワーが足りない。力の|源《みなもと》が、今の人間ではどうしても『美味』と言えないの」
それが心臓を奪う意味か。
「私自身の力も足りなかったけれど、それは、あなたの精を吸うことでなんとかなりそうよ。御礼を言います。となると、あとは、この心臓を入れる器――『生け贄』は、一人前の姿でなければならないのよ。ところが、今度はこの心臓のパワーに耐えられる肉体がないときたわ。『生け贄』は文字通り、生きていなくてはならぬのに」
「それで……おれを、生かしておいたのか……」
射精寸前でこらえながら、萩生はつぶやいた。
「その通りよ。あと一度、私と交わればあなたは死ぬ。それよりも、その超能力者としての力を、この心臓のために使って欲しいの。心臓をえぐるのは、兵頭の専門だったけど、私にもなんとかできるわ」
落とした心臓を拾い、千明は短刀片手にゆっくりと萩生に近づいてきた。
ふと足を止め、
「そうそう。その前に、この心臓を不相応な肉体に入れるとどうなるか、見せてあげましょう」
千明は足下の父の死体をあお向けにすると、その上にかがみ込んだ。
神秘な美貌に浮かぶ恍惚たる表情は、エクスタシーのそれに最も近いだろう。
萩生の存在も忘れたかのように、千明は父の胸に開いた血まみれの空洞に、わななく肉塊を押し込んだのである。
もし、萩生がそれを覗いたら、引きちぎられた血管や筋肉が、死者のそれに巻きつき、つながり、あまつさえ、真紅の血液を流し込む光景を見ただろう。
だが、彼はそれを見ることができなかった。
恐らく、心臓から流れ出した血液が、体内を一巡するに要する時間を経た刹那、黒部忠之の身体はみるみる土気色に変わり、艶を失うや、その皮膚は粘土のようにめくれ上がったのである。
正確には、分解というより、崩壊がふさわしかったであろう。
分子の結合力よりも重力が勝ったものか、乾き切った粘土のように皮膚と肉が崩れるや、骨格が露出した。
骨も土気色であった。
中味は言うまでもない。
鞭馬の心臓だけが力強い鼓動をつづけ、それに耐え切れなかった骨格は、岩のような煙を上げて内側へひしゃげた。
後には、|脆《もろ》い粘土で形を整えた臓器の模型だけが残り、やがてそれも窪み、ひび割れ、一〇秒足らずのうちに、灰色の|埃《ほこり》の|堆《たい》|積《せき》と化した。
実の父を埃と変えて、黒部千明は今度こそゆっくりと萩生の方へ歩み寄ってきた。
萩生に逃がれる|術《すべ》はなかった。
この体調でのテレポートは、重合空間への永劫幽閉を意味する。
呻きながら移動しようとする身体を猛烈な欲望が捉えた。
この女を抱きたい。
背後を岩壁が塞いだ。
「さあ」
千明が短刀をふりかぶった。
3
「待て……お待ち下さい……」
幽冥境から流れてくるような声が千明の手を止めた。
洞窟の入口に兵頭が立っていた。
顔が妙に赤い。胸もとまでマスクをかぶっているように見えた。
真ん中より少し上側に、二つの光るものが照明灯の光を反映していた。
眼であった。
しばたたいている。
赤いものが顔にかかるのが邪魔なのだ。
それは血であった。
頭頂から溢れ出る血潮がマスクのように見せているのだった。
「萩生――勝負はついておらんぞ。おれはまだ死なん」
「お下がり」
と千明が妙に落ち着いた声で言った。
すべては終わったという意味がこめられているのだろう。
「いや」
と兵頭は首をふった。
どう見ても出血多量だ。放置しておけば死ぬ。本人も承知でやって来たのだろう。
凄まじい男だった。
「たとえ約束はなくとも、その心臓にふさわしい栄光は私のもの……他の男になど渡さん」
しかし、この男は、心臓を与えられた後の意味を知っているのだろうか。
『生け贄』の意味を。
「お下がり」
と千明がまた命じた。
兵頭は滑り寄った。
『滑空足』。
だが、いつものスピードはすでにない。
千明が右手を振り上げ、下ろした。
女が放ったとは思えぬスピードで飛来した短刀は、兵頭の喉元に深々と突き刺さった。
兵頭が何か言おうとした。
ぴゅう、と口から細い糸が噴き上がった。
血であった。
「成程――これが返事か。黒部家に長年忠誠を尽してきたものへの報酬がこれか。よかろう。だが、その心臓、何があっても、他の男になど渡さん」
明らかに声帯は破壊されたと覚しいのに、はっきりこれだけを言うと、兵頭は左手を短刀の柄にそえ、引き抜いた。
傷口から血が帯となって噴出し、地面に落ちて四方へはね[#「はね」に傍点]をとばした。
そして、その短刀を右手に近づけるや、兵頭は深々と右手首に切り込み、|半《なか》ばまで切り落としたのである。
さすがに茫然と見つめる千明と萩生の眼の前で、とどめとばかり、彼は右手首に顔を寄せた。
肉の裂ける音がした。
手首を喰い落とそうとしているのだと気づいたとき、千明の全身がこわばった。
骨のきしみと砕ける音。
|滴《したた》る鮮血を浴びつつ、白くたおやかな手首は地面へ転がった。
「見るがいい。兵頭の『指壊破』、まだ、健在だ!」
声は、それを拾い上げ、投げつけるまでの間にした。
風を切ってとぶ血まみれの手首が、空中で指を鉤状に曲げるのを、萩生は見た。
どうしようもなかった。
|霞《かす》む視界を、突如、黒い影が埋めた。
その左の背がどっと膨れ上がり、それを突き破って白い指先がのぞいた。
不思議と血に濡れてはいなかった。
それがいったん体中に沈み、なんとも吐き気を催す音が湧き上がった。
間一髪で萩生の前に立ちはだかった千明は、自分の胸から心臓を掴み出し、地面へ落ちた『指壊破』に夢見るような眼差しを向けていた。
意外な展開に茫然としたのは、兵頭であったろう。
半ば光を失った眼が、たちまち絶望に彩られるや、彼は最後の力を振りしぼって左手の短刀をふりかぶった。
萩生に避けられる道理がない。
だが――
ふり下ろされようとした短刀は空中で急に停止した。
一本の青黒い紐みたいなものが、その手首を押さえつけていたのである。
|焦《あせ》ったが、ふりほどくべき右手はなかった。
すべてが裏目に出た絶望が、最後の生命の灯も奪い、兵頭は白眼を|剥《む》いて地面に|頽《くずお》れた。
倒れたときにはもう、こと切れていた。
萩生には、事の成り行きと原因をかろうじて見ることができた。
兵頭の手首を押さえた紐は、腸のようなのたくりを繰り返しつつ、彼の足下へやってきた。
|安《あん》|堵《ど》と親愛の情をこめて、萩生はそれを見下ろした。
「鞭馬か」
とつぶやく。
言うまでもなく、鞭馬の体内に生えた生殖器官――異次元の父の贈り物である。
これだけは、黒部家の空間迷路を抜けて這いずる方向感覚を備えていたとみえる。
「それが……矢切鞭馬なのね」
地を這うような呻きがやってきた。
胸から下を朱に染めた千明の顔はもはや死人のそれだ。
必死で地面に指をたて、にじり寄ってくる姿に、萩生は妄念の|権《ごん》|化《げ》を見るような気がした。
震えながら伸ばした手の先で、青黒い器官はすっと後退した。
「大丈夫よ……触わりはしないから。もう、何をしても無駄。……でも、お願い、ひとつだけきいてちょうだい」
「何だ?」
萩生はやっと口を開いた。
「何故……おれを助けた? ……」
「大事な身体を……|奪《と》られてたまるもん……ですか……兵頭は、あなたを殺す気だったわ……」
この巫女の考えが、萩生にはどうしても理解できなかった。
「何をきいて欲しい?」
「……あの壇の前へ私を連れて行って――大丈夫。素肌に手を触れない限り、淫心は生じない」
萩生は願いを叶えた。
壇の前に|設《しつら》えられた畳一畳ほどの席に横たえられると、千明は胸をえぐり取られても離さなかった鞭馬の心臓に、そっと頬ずりした。
「愛しいお方……もう一度……ひと目だけでも会ってみたかった……この、素晴しい心臓の持ち主に……」
これは愛の告白だろうか。
だが、まだ情欲の|呪《じゅ》|縛《ばく》から脱け出せずにふらつく萩生が止める暇もないまま、千明は、その心臓を自分の胸の傷口に押しこんだのである。
あの奇怪な結合と体内一巡の期間を経て、
「力が……力がみなぎってくる……今度こそ……」
千明は|爛《らん》とかがやく|双《そう》|眸《ぼう》を護摩壇に向けた。
父の身体すら崩壊させたエネルギー器官を、この女は悠々と受け入れたのである。
凄惨な妄念を彼女は自らの身体で叶えたのだ。
白い手が護摩をつかみ、三角の炉へ投じた。他にも何か混ぜてあったのか、猛烈な勢いで炎が噴き上がる。
「七魄安鎮……倶化成仙……内有霊液……妖邪永劫……」
奇怪な呪文が千明の唇から洩れると同時に、萩生は空間に力が満ちるのを感じた。
髪が突風になびいた。
それは萩生の前方から吹きつけてきた。
何もない岩盤の中央から。
だが、炉から立ち昇る炎は微動だにせず、煙は妖々と一筋、天井へ立ち昇っていく。
「あやのたくうしや……ば……かうのたびちらつび……じば……」
千明の呪文は狂熱にふるえ、全身は|茫《ぼう》とかすんだ。
萩生だけが、彼女を襲う超震動を理解した。
岩盤の奥で気配が|蠢《うごめ》いた。
確かに――!
岩盤の色も質感も岩そのものであった。
でありながら、その表面にぬうと盛り上がった膨らみは、岩にひびさえ生じさせず、穏やかな水面に顔を出した魚のごとく、ぬるりと、細長いものを吐いたのである。
それは、鞭馬の生殖器官と等しい、青黒い一条のロープであった。
それはうなりをたてて揺れしなり、岩盤から現われては消え、消えては現われ、凄まじい臭気と風をこの呪術場へ|撒《ま》き散らしたのである。
その中に、妖々と霧が立ちこめて来たのを知ったとき、全身をうずかす情欲すら忘れて萩生真介は戦慄した。
あの世界――行けども行けども霧に覆われた|黄昏の世界《トワイライト・ゾーン》に、ただひとり|棲《せい》|息《そく》していた妖鬼。
伊豆の矢切家別荘で死闘を展開したあの悪鬼が、再び生還しつつある。
「いかん!」
と彼は叫んだ。
叫びは風に砕かれた。
唸りとぶロープの先端が千明に触れた。
すでに生物としての統一力は失われていたものか、その瞬間に、美しき巫女の身体は無数の灰と化し、風を灰色と変えるや、次の瞬間、再生した。
美貌が腐り、白骨と化し、骨すらも溶け崩れて|塵《ちり》と化す。
塵は骨となり、骨には肉と神経が満ちて、千明は再生する。
その果てしない繰り返し。
廃滅と誕生。
恐怖が萩生を狂わせた。
|闇《やみ》|雲《くも》にテレポートへ移る。
重合空間が彼を包んだ。
夢中で通常空間を捜した。
五メートル先の。
すべては霧に包まれていた。
霧?
あの霧だった。
奴は、ここまで入りこんできたのだ。
いや、ふり返った萩生の前へ歩み寄る美しい人影は――
千明だった。
その身体は秒瞬ごとに、崩壊と再生を繰り返している。
近づいてくる。
萩生は夢中で移動した。
出口はなかった。
通常空間への転入には、萩生自身のパワーが不足しているのだ。
千明の顔が眼の前にあった。
吐息は墓所の香りがした。
顔が近づいてきた。
美しい巫女の顔が。
溶け|爛《ただ》れた死人の顔が。
萩生は絶叫した。
その声に呼応するかのように、彼は彼方へ引かれ、次の瞬間、暗黒のただ中に立っていた。
もう一度テレポート、と思った肩を、誰かが柔らかく叩いた。
「先生――お久しぶりです」
鞭馬の声だった。
全身に力をこめて、萩生は膝をつくまいと試みた。成功したようだ。
「やっと来てくれましたね。なんとか引っぱってみたけど、僕だけじゃ、ここからは出られない。先生――お願いしますよ」
「何をしてる? こんなところで?」
「ひどいことを言う。救助にうかがったのです」
「それなら、最初から君がくればいい」
安堵に|怨《うら》みをこめて萩生は言った。
「僕ひとりでは事態に対処できません。先生の能力が是非とも必要でした。兵頭を片づけて下すったように」
「始末したのは君だ」
「致命傷を与えたのは先生です」
問答は中断した方がよさそうだった。
どうしておれを重合空間から救け出せたと訊きたかったが、萩生はやめておいた。
心の|絆《きずな》ですとでも言われたらこと[#「こと」に傍点]だ。
「ところで、どうする?」
「予定通りです。僕の心臓を取り戻し、奴を送り返す――親父をね」
「出て来た方がいいんじゃないのか?」
鞭馬は答えず、
「先生――あの呪術場へ戻って下さい」
闇の中で言った。
「冗談はよせ」
「ひとりでとは言いません。僕もご一緒します」
「何をする気だ?」
「あの女から僕の心臓を取り戻すのです。そうすれば、彼女は『生け贄』の資格を失う」
父も帰る、か。
萩生は決心した。
「おれの仕事は終わっていないな――行くぞ」
「はい」
萩生は移動した。
鞭馬のサポートか、移動距離の延びていることはすぐにわかった。
その分、鞭馬の呼吸が荒い。
心臓がないのだと知り、萩生はぞっとした。
通常空間へ戻った。
風が二人をのけぞらせた。
呪術場だった。
護摩壇には炎が赤々と燃え、煙は乱れもせず立ちのぼっていく。
巫女の席の前に千明が立っていた。
全裸に|剥《む》かれたその女体の上を、青黒いロープが粘っこく這っている。
肛門から口へ抜け、淫らな縛りのごとく女体を|苛《さいな》むその動きより、二人の眼は、豊満な左乳のすぐ上に|骸《むくろ》のごとく裂けた傷口と、その内側で妖しく蠢く赤黒い肉塊に集中した。鞭馬が走った。
上空からうなりをたてて、奇怪なロープが飛来する。
別のロープがこれを弾いた。
鞭馬の男根だ。
萩生は千明の方へ駆け寄った。
鞭馬なしでテレポートは使えない。
千明がにやりと笑った。
溶け崩れた顔で。
右眼から眼球が糸を引いて胸まで垂れ、その胸も灰色に腐敗して、表面からは蛆虫と腐汁がこぼれ落ちていた。
いかに千明が妖術を極め、鞭馬の心臓をかき抱く女であったにせよ、この状態で生きられるはずもない。
ロープだ。
異次元から甦りつつある鞭馬の父が、千明の死を許さぬのだ。
濃爛した唇がかっと開いた。
噴き出した肉のロープが萩生の首を締めた|刹《せつ》|那《な》、もう一本の鞭がロープを緊縛した。
萩生は投げ出された。
肩と腰をしたたか大地に打ちつけ、悲鳴をもらしつつ膝立ちで逃げようとつとめる。
「心臓を|奪《と》るのです!」
脳髄の中に、鞭馬の声が響いた。
その悲痛な響きが、束の間、萩生を恐怖から解放した。
萩生は立ち上がった。
幾つもの顔がそれぞれの感慨を与えて脳裡を去った。
芳恵がいた。昌枝がいた。祐美がいた。
そして――鞭馬が。
彼を除く三人の誰もが持ち、そして、彼には遠く及ばぬ感情を、萩生は驚愕の念をこめて理解した。
哀しみを。
彼は萩生の生徒だったのだ。
意志が恐怖を制した。
眼の前に立つ千明を見ても、萩生は恐れなかった。
両肩から凄まじい情欲が爆発するのを萩生は感じた。
千明が手を触れたのだ。
萩生は絶叫した。
しながら両手を伸ばした。
千明の胸の裂け目へ。
掴んだ。
一気にむしり取ると同時に、これまでにはない深い満足と興奮をもって、萩生は射精した。
炎が吹きなびいた。
煙は風が消した。
千明の身体は塵と化し、すぐ見えなくなった。
風は逆方向へ吹いていた。
岩盤の|内側《な か》へ!
ゆれしなるロープも吸い込まれていく。
「よくやって下さいましたね、先生」
右手から心臓がそっと持っていかれるのを感じながら、萩生は、鞭馬とともに芳恵を救い出すとき、スラックスを汚しっぱなしなのを見られるのではないかと脅えた。
「行くぞ」
と素っ気なく告げたのもそのせいであった。
鞭馬はただ笑っている。
見たくもないのに、萩生の眼はそれを見てしまった。
何もかも透視されているような気がした。
「どうなさいます?」
と鞭馬が訊いた。
「ん?」
「大物が片づいたとは言え、この屋敷には、兵頭の手下がまだ残っています。一歩間違うと、奥さんは危ない」
「何もかも、君のせいだ」
と萩生はやっと鞭馬を指弾する機会を掴んだ。
「おれがここにいるのも、女房が誘拐されたのも」
「ですから、罪|滅《ほろぼ》しを致します。何なりと申しつけて下さい」
鞭馬は平然と言った。
萩生は「抗議」という文字を記憶から消した。
何にせよ、半分は向う側の人間なのだ。協力し合えるだけで満足すべきかもしれない。
「何もせんでいい」
と冷淡に宣告する。
「おれがテレポートして救い出す。君は何処かで待ってろ。どうやってここへ来た?」
「三矢重工特製のVTOL(垂直離着陸機)で。アメリカ軍へ納入を働きかけている最新型です。ここからきっかり西南へ五〇〇メートルほど離れた場所に待たせてありますから、お早く」
「よく、気づかれなかったな」
「スパイ専用機でして。――特殊な|消音装置《マ フ ラ ー》を搭載しておりますので、一〇〇メートルも離れれば、風の音ほどにも聞こえません。ちなみに、三人乗りですから、ご安心を」
「パイロットはいないのか?」
「ふつつかながら、僕が」
萩生は鞭馬を見つめ、ため息が出るのを押さえようと努力した。
「到れり尽せりで痛み入る」
「どういたしまして。生徒として当然のことです」
萩生は微笑した。
限りなくおちょくられることは快楽と化しつつあった。いい傾向かどうかはわからない。異界のものと、精神的振幅を近づけつつあるのは確かだろう。
「ひとつ提案があるのですが」
「何だ?」
「いまの状態で、先生にテレポートは無理でしょう。私が家の中の連中を始末しますので、その間に奥さまを救出して下さい」
そんなことはない、とは言えなかった。
鞭馬と超空間で共に戦った際、萩生の現状は見抜かれていたにちがいない。
「では――どうするんだ?」
「少し、お待ちを。とりあえず、ここを出ましょう」
鞭馬は悠々と前進しはじめた。
萩生は疲れたように、
「断わっておくが、おれがここへ入ってこれたのは、千明の案内があったからだ。洞窟内の重力場は狂乱状態に歪んでいる。黒部家の方向感覚なくしては、永久に堂々巡りだぞ」
「先生らしくもない」
と鞭馬は車椅子のスピードを落とさず言った。
「僕がどうやって先生を閉じ込められた場所へお招きしたか、まだわかりませんか?」
萩生の返事を待たず、毛布の裾からは、青黒い鞭がうねくり出しはじめている。
「これは、どんな異常空間をも貫き通します。僕から離れずについてきて下さい」
「わかった」
こう言うしかなかった。
洞窟へ一歩踏み出すと同時に、萩生の五感は、奇怪な位置感覚を訴えはじめた。
右手は左手に、左手は遥か後方に、右脚は頭上で大地を踏みしめ、左足ときては、口の中にあった。
その中で、鞭馬の姿だけが、確たる実在を前方に占めている。彼だけは、出口を知っているのである。
異和感のもたらす吐き気を、萩生はこらえて進んだ。
夜風が頬を打ったのは、不意の出来事だった。
闇の中で打ち鳴る木々の轟きさえ、今は甘美な交響であった。
ふり向く視界の奥に黒々と、岩壁の|洞《ほら》|穴《あな》がゆれていた。
「辛ければ、休みますが、どうします?」
鞭馬がこちらを向かずに訊いた。
怒りが萩生の身体から疲労を追い払った。
「君の計画とやらをつづけてもらおうか」
強い口調で言った。
「はい」
と鞭馬が答えたとき、彼はすでに計画の実行にとりかかっていた。
崎山という男は、モニター室から、便意を催して廊下へ出たところだった。
家の周囲に張り巡らせた警報装置は、侵入者のないことを示している。
それが過ちだったにせよ、邸内には二十人以上の仲間がいるし、どれもが一騎当千の|強《つわ》|者《もの》ときている。矢切鞭馬がどのような異形人といえど、三人で相手をすれば、たやすく|斃《たお》し得る。――崎山は自信があった。
それが動揺したのは、足元から忍び寄った青黒い鞭が、その太い喉にぎりりと巻きついた刹那であった。
それに手をかける|暇《いとま》もなく、崎山は絞め殺されていた。
息絶えた男の身体が音もなく床へ倒れると、鞭は首を離れ、左のズボンの裾から内側へ潜り込んだ。
ノックの音に緊張を破られ、安岡という男は舌打ちして仲間の輪を離れ、ドアに近づいた。
人垣の真ん中で熱戦を繰り広げる二人は、仲間内でも屈指の棋士であった。
細い隙間から、別室にいるはずの別の仲間の顔を認めて、彼はドアを開けた。
「なんでえ、おめえも観戦希望か。モニターの方はいいのかよ?」
仲間はうなずいて、入ってきた。
残り七人のうち二人が不審げな顔でこっちを向いたが、すぐに熱戦へ戻ってしまう。
仲間は、彼らの数でも数えるように、ひとりひとりの姿に眼をやっていたが、急に口を開いた。
「おい――崎山」
と呼びかけ、声は途中で止まり、奇妙な形に絡んだ肉の鞭に、一気に頸骨をへし折られて、安岡は即死した。
それが、崎山の口腔から洩れ出ていることに、彼が気づいたかどうか。
膝を折りかけた身体は空中で踏みとどまり、青黒い影は一本の矢と化して、何も知らぬ凶漢たちへと走った。
四人が喉をつぶされて即死するのに一秒とかからなかった。
異変に気づいてふり向いた六人目と七人目も、間髪入れず仲間の後を追った。
鞭の目ざす八人目は、立川という壮漢だった。
兵頭の育てた男たちの中でも最強の実力者だ。
唸りとぶ鞭の姿も音も知らずにとびのいたのは、格闘技者としての勘だが、壁面へ着地と同時に、床と平行に滑りはじめた「滑空足」は、実力のもたらすものだ。
その胴に、肉の鞭が巻きつく。
くい、と締まった。
つぶれたのは空気のみで、立川は窓のそばまで跳ねていた。
敵の正体と力を看破したか、反抗の素ぶりも見せず、窓へ体当りする。
吹きつける風に|気《け》|押《お》されたかのように、死の鞭は砕けた窓枠の手前で停止した。
両足が大地を実感するや、立川は逃亡に移った。
二階に残る十三名の仲間に危険を伝える気など天からない。
全身の毛が立ち上がり、皮膚を突き破って汗が噴き出ている。
その足が急に止まった。
月光を満身に浴びて、前方五メートルほどの位置に、二つの人影が立っていた。
いや、うちひとつは中腰――車椅子らしきものに乗っている。
「矢切鞭馬か」
思わず、声が出た。
「そういうことです」
と車椅子の影が言った。まだ、幼さを残した声が、立川に不敵な自信を植えつけた。
「今の[#「今の」に傍点]は貴様の|仕《し》|業《わざ》か。丁度いい。ここで仲間の仇を討ってくれる。もうひとりも一緒にな」
「その前に教えて下さい」
と鞭馬が笑いを含んで言った。
「あなた方が|拉《ら》|致《ち》した女性は何処にいます?」
「ああ――あの女のことか。おれに尻の穴まで覗かれた上で、二階の牢にいる。今ごろは、看視役の二人に代わるがわる犯されている最中だろうよ。いい|肉体《からだ》と声をしてやがった」
「よしなさい」
と鞭馬が鋭く制した。
隣りの影の動きを押さえたのである。
そっちを立川は見て、
「あれは、おまえの女房だったんだな。とっ捕まえて、おまえの眼の前で犯してやる」
立川は、「滑空足」に移った。
人間の動きでは有り得ぬ高速のジグザグ走行で鞭馬に接迫する。
誰の眼をも眩惑し、攻撃方向の予測を狂わせる立川独特の動きだ。
――|殺《や》れる。
|手《て》|応《ごた》えを感じると同時に、立川は地を蹴った。
その足を|錐《きり》が刺し通した。
ぐわっと呻きつつ落下する。
ズボンは青い炎を噴いていた。
鞭馬の椅子が放ったレーザー・ビームだと彼には理解することもできなかった。
跳ね起きかけた無傷の片足を、再び数十億度の熱の矢が貫き、立川はのたうった。
「お気の毒に」
死の昏い予感の中で、彼は矢切鞭馬の哀しげなつぶやきをきくことができた。
「血の涙を流しながら身につけた技も、たかが車椅子ひとつに及びませんか。恩師の奥さんを侮辱した罪です。ゆっくりと、別の世界にお|発《た》ちなさい」
声が終わると同時に、立川の両肩が、喉が、腹が、地獄の激痛に発狂した。
「よせ!」
と萩生が止めた瞬間、留めの一撃が、立川の額に微細な穴を開け、脳髄を|灼《や》き抜いた。
「貴様――何故、殺した!?」
「無茶を言っては困ります。彼は先生の奥さんを侮辱したのですよ。礼を言っていただいてしかるべきでしょう。じっくりと殺してさし上げたのですから」
「やっぱり化物だ、貴様は」
「その点については、とやかく議論しないつもりです。それより――」
と彼は光の洩れる二階の窓のひとつを見上げ、
「残った奴らはいま片づけている最中です。ここでお待ちになりますか?」
「女房はおれが救け出す。貴様はもう、一切手を出すな」
言い捨てて、萩生は走り出した。
建物のつくった闇へ吸い込まれるその後ろ姿へ、
「困ったものだ。こちら側の資質――愚かではあるが、ちょっぴり羨ましい」
ため息まじりに矢切鞭馬の青白い顔が微笑した。
芳恵は二人掛りで犯されていた。
口の中には粘液の匂いがこびりついていた。数分まえ、かわるがわるの口腔性交の果てに吐き出された男たちのものだ。
飲むように命じられ、従った。
それに気をよくして、男たちは愛撫に移った。
ひとりは芳恵の顔から喉にかけてキスをして廻り、もうひとりは乳房を吸っている。
時々、男根で顔中をなでた。
放出したばかりのそれは、とうに硬度を取り戻していた。
芳恵の舌戯と最中の表情に昂ぶっているのだった。
芳恵はもうあきらめていた。
男たちは来るたびに挑んできた。
顔も胸も尻も、キス・マークと精液で汚し尽されていた。
そのたびに肉体は反応し、今も男の唇に燃えている。
三つの身体は汗を噴いていた。
急に男たちが離れた。
ドアが勢いよく開いて、黒い影が突進してきた。
夫の顔であった。
立ち上がろうとした片方の顔面へ黒い稲妻が叩きこまれ、そいつは肉のひしゃげる音に悲鳴を混ぜつつ転倒した。
もうひとりの動きには時間的余裕のもたらす破壊力がこめられていた。
向き直った萩生の胸元を白い光芒が|薙《な》いだのを見て、芳恵はあっと叫んだ。
男の右手であった。
刃物は握っていない。
それなのに、萩生の胸はジャケットもシャツも柳の葉のごとき切り口を示し、白っぽいその表面に、ぐうと血塊がもり上がった。
恐るべき手刀の持ち主であった。
いや、蹴りも。
唸りとぶ廻し蹴りを、萩生は左手でブロックした。
ごきりと肘がはずれた。
狂騒が芳恵の全身を震わせた。そのすべてを言葉に変えて、
「あなた!」
絶叫に乗りつつ、男の足が二度目の弧を描いた。
それは苦悶する萩生のこめかみを貫き、何の手応えもなく、円を完結させた。
「!?」
愕然とする男の全身が空中にかき消え、ストロボ照明のごとく、部屋中をかけ巡り出したのは次の瞬間だった。
消滅と出現を数十回も繰り返して芳恵の足元へ降りたとき、その四肢は異様な形状を帯びていた。
「奴を――責められんな」
全裸の身を隠すことも忘れて立ちすくむ芳恵の背後で、萩生が左肘を押さえながら言った。
「あなた……」
ようやく乳を押さえて|跪《うずく》まる芳恵に近づき、萩生はやさしくその髪を撫でた。
不可能なはずのテレポートは、瞬間に迎えるべき死を遠ざけ、それを実現させたものが芳恵の痛切な叫びであったことを、彼は知っていたのである。
「よく頑張ったな。――さ、出よう」
「ええ」
萩生にすがりつき、肩越しにドアへ向けられた芳恵の眼が大きく見開かれた。
気配を察してふり向く萩生は、そこにたたずむ敵どもの顔を見た。
テレポートは――不可能だ。
茫然と立ち尽す二人へ、先頭のひとりが、たどたどしく――
「奥さんの……服を……お持ちしました……」
さし出された両手に乗った千明のものらしいワンピースの上へ、男の口は、青黒い鞭を吐き出した。
4
風が吹いていた。
普通の山から吹く普通の風だった。
風には光と石の匂いがこもっていた。
「ひどくやられたらしいな」
と萩生は半壊した石の屋敷を見ながらつぶやいた。
「全くです。無茶な攻撃をしかけてくる。まさか、千明の思念を固形化して落とすとは思いませんでした」
車椅子の上で鞭馬は|相《あい》|槌《づち》を打った。
箱根での死闘を|了《お》えて三日後。
あの別荘地である。
芳恵はすでに車の中で待っている。
萩生はもう一度、陽光の中に沈む石の御殿を|眩《まぶ》しげに眺めた。
彼が仙石原で千明の妖術に惑わされているとき、鞭馬もまた、黒部一派の襲撃を受けたのだ。
石の家そのものに|縦《たて》の亀裂が入った以上、攻撃は人知を越えた壮絶なものだったろうが、付近の家々では何ひとつ異変に気づかなかったらしく、萩生たちがここへ戻ってきたときも、テニスやサイクリングに興じる人々の姿が眩しかった。
「では、これで」
萩生は一礼した。
それから、遠い目を屋敷の窓に向けた。
どの窓を見ればいいのかわからなかったらしい。鞭馬が薄笑いを浮かべて――
「姉なら、今日明日中に回復します。いつか御礼に参上するでしょう」
「君はどうする気だ、これから?」
「わかりません。僕自身にもよくは……」
「二度と会いたくないもんだ」
萩生は手をさし出した。
鞭馬は固く握りしめた。
萩生は車に乗った。
「駅へ」
「はい」
バックミラーの中で運転手がうなずいた。あの運転手だった。他人の空似か双子だろうと萩生は思おうとした。
芳恵が少しやつれた頬を肩にもたせてきた。
萩生はそっとその髪をなでた。
車が動き出した。
リア・ウインドを萩生はふり返った。
鞭馬が手をふっている。
その背後、屋敷の窓のひとつに、長い髪の人影を見たような気がして萩生は満足した。
あとがき
我が家に、アメリカ帰りの友人が持ち帰ってくれたビデオ・テープが溜まりましたので、その話をしたいと思います。
実は、あとがきの内容がまるで思いつかず(思いついたことはついたのですが、少々ヤバい内容なので)、どの辺で「妖戦地帯2」と結びつくのか想像もできないのですが、とにかく始めてみましょう。
日本のビデオ・ファンにとって、アメリカというのは極楽みたいな国で、週末には必ずSF・ホラーの番組を夜通し流す、ハロウィンになると、丸一日流す、何かの都合が生じると三日間もぶっつづけで流すという具合。
日本じゃ、「タワーリング・インフェルノ」だの、「十三日の金曜日」だの、もう何回となく見せられたフィルムを、恥かしげもなく乱発してくれ、私など、どんな場面もカット割りも記憶してしまい、何と、放映のたびに、
「あそこがカットされた、あそこが生き返った」
とつぶやく超マニアに成長しましたが、これもアメリカとなると、どうやら、五年もビデオ・チェックすれば、映画史上の名作・佳作はおろか、駄作、悪作、素人のつくったプライベート・フィルムに毛の生えたような怪作まで、それこそ、ありとあらゆる作品がコレクトできるらしいのです。
私が苦労して集めたジェイムズ・クルーズ主演の「ジキル博士とハイド氏」や、日本で一度公開され、あっと言う間に忘れ去られた幻の名画「死霊の足跡」等をやるときいては黙っていられませんし、五〇年代怪物映画を代表する「原子怪獣現わる」、「イーマ竜の襲撃」、「死の大カマキリ」など、誰でも持っているとなれば、アメ公はすべて私の敵と言いたくもなるのですが、最近は、私より数倍冷静な人たちが、怒るより協調をと、より実りある方法を採りはじめています。
こちらで放映されたSF・ホラーを送るから、そっちも別の作品を郵送しろというトレードなら、随分前からやってるベテランがいますけれども、今日びは、そんなこと手ぬるいとばかり、暇な外国人ないし、在留邦人と話をつけ、自費でビデオを購入し、月額ナンボかの報酬を約束して、ありとあらゆるSF・ホラーを録画、即日、日本へ郵送させるというやり方です。
これならば、日本未公開の映画ばかりか、リアル・タイムで放映中のTV作品まで、じゃかすか棚に並びます。
これにある程度年季を積めば、その辺の、現物などロクに見もしないでSF・ホラーを語っちゃミスを繰り返すという映画評論家達より、よっぽど地力のあるマニアが育つでしょう。いつか、私も踏襲してみたいやり方です。
で、テープの話ですが、まず珍作は、日本とスペイン合作の「HUMAN BEAST」という奴。のっけからタイトルに製作HORI|某《なにがし》というテロップが出たので、眼を丸くしたところ、出るわ出るわ、「ウルトラ・セブン」の森次晃二に永島映子、永島敏行、スペイン側からは、ただひとりのマニア向きスター、ポール・ネイシーという具合。彼らが一種の宝を巡って暗躍する話で、のっけから、箱根か日光での派手な撃ち合いがでてきます。
日本公開の記憶がないので、どうしてなのかと見ていたら、まるで詰らない。テンポはスローモーで、演出はど素人。日本人が金を出し、日本のスターが出て、日本ロケした映画にも、未公開作はあるのだと、納得できました。
つづいて、メキシコ製ホラー。題して「SANTO, BLUE DEMON CONTRA DR. FRANKENSTEIN」と、これも「SANTO, BLUE DEMON VS. DRACULA」。
なんとも魅力的なタイトルですが、要するに、サントとブルー・デモンというメキシコ・プロレス界のヒーローたちが、フランケンシュタイン博士とそのモンスター、甦ったドラキュラ伯爵と闘う、荒唐無稽、某ベストセラー作家・ドリーム・ピロー氏が泣いて喜ぶ大珍作。
ところが、これが安っぽいは安っぽいなりに、ちゃんとつくってあるのですね。プロレス・シーンなど、全員本物のレスラーだからいくらでも馴染みの技がでてくるし、怪物の扱い方もきちんと大人向け。決してきわ物に終わっていない。
そもそも、メキシコとスペインは“コレクターの墓場”といわれるほど、C級D級のSF・ホラーを乱発するところで、私も、この主役二人が、F博士やドラキュラどころか、プラス狼男、ミイラ、半魚人らとまとめて[#「まとめて」に傍点]やり合うフィルムを見た覚えがあります。
それくらい、この二人の主演するシリーズは人気があるわけで、とりわけ、ちゃんとおどろおどろしいセットを組んだムード一杯の画面には、エールを送りたくなりました。せめて、もう少し、テープ録画の状態がよかったら、誰にでもダビングしてさし上げるのですが……
マニア向けのものばかり取り上げましたので、ラストは、この三作など|足《あし》|下《もと》にも及ばぬ堂々たる大作。
「CURSE OF THE DEMON (悪魔の呪い)」――これです。
主演はダナ・アンドリュース。しかも、わざわざ英国|版《バージョン》と断わり書きがある完全ノーカット版。私、これの八ミリ短縮版を持っていて、一度観たいと思っていたのですが、期待は裏切られませんでした。
実に正統的な黒魔術映画で、悪魔が堂々と画面に登場する。しかも、その現われ方が、道路の奥から、霧に包まれて、スローモーションで駆けつけてくるという見事さ。しかも、主演のアンドリュースのうろつく場所が、過日、訪ねた覚えのある英国ソールスベリー平原の真っ只中にそびえるストーン・ヘンジ。――これだけで、私はまいってしまいます。
いい。怪奇映画は英国が一番。アメリカ人はドコカ陽気ダ。
ええ、これで「あとがき」は終わりですが、本書とどんな関係があるんだい、と立腹の方々もいらっしゃるでしょうから、作者の腕の冴えを説明しておきます。
伏線は最初から張ってあったのです。
つまり、日スペ合作(なんか、イヤラシイ表現だなあ)「HUMAN BEAST」の舞台は箱根か日光であり、この「妖戦地帯2」のメイン・ステージもまた、箱根という……どうです、惚れ惚れするような離れ技ではありませんか。
イテ、こら、石を投げるな、外谷順子。ドンブリで芋の煮つけ食うんじゃねえ。おまえ主演の小説、そろそろ書きはじめて……ギャッ。
…………
一九八六年十月二日 未明
「悪魔の呪い」(未)を観ながら
[#地から2字上げ]菊 地 秀 行
この作品は、一九八六年十一月、本社より講談社ノベルスとして刊行され、一九九〇年三月講談社文庫に収録されました。
|妖《よう》|戦《せん》|地《ち》|帯《たい》2 |淫囚篇《いんしゅうへん》
講談社電子文庫版PC
|菊《きく》|地《ち》 |秀《ひで》|行《ゆき》 著
(C) Hideyuki Kikuchi 1986
二〇〇二年六月一四日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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1511行
白い泡をたてて、粘液がとろとろと|鴇[#特殊文字「鴇」は底本では「年」+「鳥」Unicode=#9247]色《ときいろ》の突起を伝わり、|喘《あえ》ぐ肉球に|滴《したた》りおちていく。
「鴇色」は広辞苑にもあったので代替文字として使いました。Unicode完全対応の
ビューアと、きれいなUnicodeフォントが欲しいもんです。