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妖戦地帯1 淫鬼篇
[#地から2字上げ]菊地秀行
目 次
第一章 昏い別荘
第二章 闇の儀式
第三章 影が来たりて
第四章 異形戦
第五章 妖獣企業
第六章 世界妖転
第七章 虚無へ
あとがき
第一章 昏い別荘
1
午後八時になって、最後の数学の授業が終わり、講師控室へ戻った|萩生《はぎゅう》|真《しん》|介《すけ》を、面会人との知らせが待ち受けていた。
「生徒の親かい?」
としかめっ面で、知らせにきた女子事務員の|諸《もろ》|澄《ずみ》|芳《よし》|恵《え》に訊いたのは、これまで何回となく、クレームをつけられた経験があるためだが、うんざりした表情の割には、どこかにそれを面白がっているような、太平楽な翳がある。
芳恵は首をふった。
「いえ。はじめての方よ。大企業の重役の奥さん風ね。萩生さんにお目にかかりたいってもう一時間も前から待ってらっしゃるわ」
芳恵は二つ、間違いを犯した。
来客は、重役の奥さん風ではなく、奥さんそのものだった。そして、重役ではなく、社長夫人だったのである。
「|矢《や》|切《ぎり》|昌《まさ》|枝《え》と申します」
豪華な和服と、応接室へ入ってきた彼に対する挨拶の仕方だけで、相当な家の婦人と察しはついたが、その背後に広がる生活の実相だけは、名字を聞くまでわからなかった。
くたびれたブルーの背広の裾をひっぱりながら、
「失礼ですが――三矢グループの方で?」
萩生の質問に女――昌枝はうなずいた。閉じた|眼《ま》|蓋《ぶた》に、|睫毛《まつげ》が青い翳をゆらしている。四十前半らしい年齢は、つつましげな物腰にも一種の風格となって現われていた。
「夫は三矢精機の社長をしております」
三矢精機――鉄鋼、造船、銀行、不動産と、あらゆる産業分野に膨大な勢力をもつ一大コンツェルン、三矢グループの統括会社だ。現社長の|矢《や》|切《ぎり》|耕《こう》|太《た》|郎《ろう》は、歴代の総帥中最高の|辣《らつ》|腕《わん》家として名高い。
九州の分校へ出張中の塾長がきいたら、乗っているジェット機にとんぼ返りを命じかねない価値ある来訪者であった。
だが――
安物のソファにひっそりと腰をおろした大企業総帥の妻は、夕顔のような美貌に、どこか昏い翳を宿した、心細げな、か弱い女性に見えた。
訪問先を考えれば、悩みの原因はひとつしかなかった。しかし、それでは、何故ここへ来たかがわからない。すでに萩生にはある予感があった。
「失礼ですが、ご用件は?」
礼儀として訊いてみた。
答えは、最悪の結果を招来した。
息子の個人教師になって欲しいというのだった。
|矢《や》|切《ぎり》|鞭《べん》|馬《ま》。都内某私立高校三年生。
「残念ですが、私は――」
と萩生はその場で辞退した。苦笑をつくって、
「失礼ながら、なぜ私に白羽の矢を立てられたのかまるで判りかねます。恥をさらすようですが、指導能力に関して少々疑問がありますし、それに、この塾では講師のアルバイトが禁止されております。ご子息の専従になるためには、ここをやめねばなりません」
「報酬は十分納得いただけるものを用意しております」
と昌枝は静かに萩生の顔を見つめた。
美貌は仮面で覆われ、眼にある光が宿った。決意とも執念とも言うべきそれが、自らの欠陥を訴える塾教師に好奇心を抱かせた。
一年や二年のお付き合いとは考えないでいただきたいのです。私は、進学相談に参ったのではありません。入試に関してなら、息子は中学の頃から、即日受験しても東大合格間違いなしと保証されておりました。あなた様さえよろしければ、|大仰《おおぎょう》な言いようですが、生涯、息子の足元を照らす光となっていただきたい。それがご不満とあれば、このひと月で結構です。息子の学業に力を貸しては下さいませんか。もちろん、その後は当塾へ戻られるようとり計らいますし、お望みとあれば、夫の関連企業の相応なポストもお約束するつもりです」
「これは――」
と萩生は人さし指でこめかみを叩いた。
「家庭教師ではなく人生の師をお求めのようですね。いや、ますます自信がなくなりました。私の任ではありません。そもそも、何故、私ごときにそのような大役をと考えられたのか、見当もつかないありさまです」
この場合、誰がそばにいても、萩生と同じように考えたであろう。
彼の務め先――ここ、江東区亀戸三丁目の「栄光塾」の名前など地元の人間ですら知らない方が多い。
三矢コンツェルン総帥の独り息子、その家庭教師――およそ、世の教職にあるものの、ひとつの理想形ともいえる。だが、この場合の選択権は言うまでもなく、選ぶ側にある。必要とあれば、いかなる高名な大学の学長、学者をも指名し、雇用することが三矢一族には可能だ。それが、亀戸にあるろくすっぽ名も知られていない二流の塾の教師――それも、当人自ら、指導力に難があると認める人物を選ぶとは。
「誠に申し訳ありませんが、かくの如き事情で、このお話はお受けしかねます。いい夢を見せていただいて、お礼を申し上げねばなりません」
一礼した萩生の顔を、昌枝の次の言葉が硬直させた。
「MITを辞任なさるときも、そうおっしゃって?」
少しして、
「やはり、調査済みでしたか?」
と萩生が苦笑を浮かべたのは、最初から、訪問の意図を勘づいていたのだろう。この話し合いは、狸と狐の|化《ば》かし合いだったらしい。
「でしたらなおのこと、私には関心を持たれぬ筈ですが」
答える代わりに、昌枝はかたわらの鰐皮のハンドバッグから、折りたたんだレポート用紙をとり出し、眼の前で広げた。
「ご無礼とは思いましたが、できる限り調べさせていただきました。MITでの件は、かなり調査も難航したようですが、それでも大よそのことは判明いたしました」
昌枝は咳払いをひとつして、萩生を見つめた。三矢コンツェルン総帥の夫人の|眼《まな》|差《ざ》しであった。しかし、目の前の塾教師は、アメリカ最高の名門とされるMIT――マサチューセッツ州立工科大の卒業生なのだ。
「東大を首席で卒業後、二二歳でMITへ無試験入学。四年の在学中に、P・J・ボーモント教授と超常現象研究科の設立に尽力。卒業後、講師となるも半年で退職――このとき研究科も……」
「昔の話はやめていただきたい。今の私は単なる塾教師にすぎません」
「存じております。教師としての資質にお欠けになる点も。ここに、就職以来の勤務評定も用意してございます。ですが――」
昌枝の顔にひたむきな表情が戻った。
「ですが、こうお考えいただけないでしょうか。私にはよくわかりませんが、すべての生徒を|満《まん》|遍《べん》なく指導できることが、教師としてのあらゆる才能ではないと思います。むしろ、その隔たりがあまりにも極端すぎて、生徒に、ではなく、生徒がついていけない教師の方もいらっしゃるのではないでしょうか。自分の伝えるべき内容を|咀嚼《そしゃく》し理解し得る、ふさわしい生徒をもたないがために、あたら優れた才能と指導力を棒にふる先生方も多いのではありませんか。その先生もまた、優れているといい得るのでは。いま、わたくしたちが必要としているのは、そういう方なのです。天才を導ける天才です」
「そのお言葉を光栄に思える方は、他にいるでしょう」
萩生は軽いため息をついて立ち上がった。
「やはり、良い夢でした。失礼します」
同僚の誘いも断わり、萩生は駅近くの赤ちょうちんでしこたま痛飲した。
「今日は荒れてんね、萩生先生」
と馴染みの親父が眼を丸くして言った。
「いつもなら、酔うも酔わぬも自由自在[#「酔うも酔わぬも自由自在」に傍点]なのに、コントロールが|効《き》かねえようだ。人生、楽しいことばっかりじゃねえですぜ」
「まったくだ」と萩生は何杯目かの焼酎のグラスをカウンターに置きながら言った。「楽しくねえときは、とことん追い討ちをかけてきやがる。楽しいときは短いのにな」
そうだ、そうだと親父が|相《あい》|槌《づち》をうちかけたとき、けたたましいエンジン音が屋台の左右に湧き上がった。
同時に、まばゆい光が二人を限りなく白く染めた。
屋台を取り囲んだバイクが|一《いっ》|斉《せい》にサーチライトを照射したのである。
「な、なにをしやがる、この餓鬼ども!」
禿頭から湯気をたてる親父の怒声にあわせ、ばらばらと数個の人影が白光を遮断した。全員ヘルメットに皮のつなぎを着用している。
「あんたに用はねえ――伜を出しな。シゲオをよ」
若いが、それだけに残虐そうな声が流れてきた。人影の中でも、きわだって大きな影が放ったものだ。いまにも爆発しそうな|癇《かん》を無理矢理押さえている響きが、親父の顔に不安を結ばせた。
駅前といっても、少し離れた路地の片隅である。通行人はいるのだが、見て見ぬふりで立ち去っていく。
シゲオとは、親父の息子の名前だった。
「伜はもうおめえらの団は|脱《ぬ》けたはずだ。どうせ、家にゃもう行ったんだろうが。あそこにいなけりゃ、どこにいるか、おれにもわからねえ。とっとと|帰《けえ》りやがれ」
それなりの迫力にみちた恫喝を、若者たちは含み笑いで受け止めた。
「どこへ隠したか知らねえが、素直に吐いちまいなよ、おっさん」
と別の声が言った。
「あいつはよ、通過儀式を受けちゃいねえんだ。おれたちに可愛がってもらってねえのさ。いいんだぜ、黙ってても。だけど、断わっとくがな、おめえが身替りになって済む話じゃねえんだ。ま、あいつぁ血が熱いからよ、親父の腕の二本も折りゃあ、かあっとなって殴り込みくらいかけてくるかもしれねえやな」
若者たちの目的は、そこ[#「そこ」に傍点]にあるらしかった。
団を断わりなく脱けた仲間の|私刑《リンチ》にかこつけて、暴力沙汰を起こしたいのである。誰か弱いものを|足《あし》|蹴《げ》にし、踏みにじり、体内の獣の衝動を満足させたいだけなのだ。
「おい」
と巨漢がうなずき、数人が前へ進み出た。ライトの光条が、その手に握られた凶器を黒々と浮き上がらせる。
バットと木刀だ。
「やめろ!」
叫ぶ親父の悲鳴に|却《かえ》ってそそられたか、バットを構えたひとりが、うおおと唸るや、屋台のカウンター――萩生が腰をおろした眼の前の台に、それをふりおろした。
台の悲鳴がきこえたようであった。
それは無惨な割れ目を示して傾斜し、衝撃で跳ねたグラスが萩生の顔面を襲った。
わっ! と叫んで顔を覆った。――バットをふった男の方が!
彼の顔に中味をひっかけ、コンクリートの上で砕けたのは、奇妙なことに萩生めがけて躍ったグラスであった。
二人の距離は一メートル以上。無論、グラスのとんだ方角は違う。一体、何が起こったのか。
訳もわからぬまま、萩生が何かしかけたとばかりに、ヘルメット姿の眼に赤い光が|点《とも》った。
顔をなでるやバットをふり上げ、渾身の力を込めてふりおろす。
誰もが風を切る音と、|西《すい》|瓜《か》みたいに脳天を粉砕される塾教師の姿を想像して、チンピラは、何年ぐらいの刑を食うかと思った。
紙風船が破裂したような音は、全員の予想を裏切っていた。
このとき生じた現象を、目撃者全員の証言によって再構成すれば、次のようなものであったろう。
木刀が萩生の脳天へ届く寸前、加害者も凶器も消え失せた。萩生の左手が男の胸か腹へ触れたという意見もあるが、これはよくわからない。
はっきりしているのは、男がバットを握ったまま、三メートルほど離れた車の列へ突っこんだことだ。
どのような力が加えられたものか、それを受けとめたマシンは搭乗者ごと宙をとび、後方の一台に激突、地響きをたてて地面へ転がったのである。
奇怪なことに、誰ひとり、男が屋台のそばから激突位置へ達するまでの姿を見なかった。にもかかわらず、網膜ではなく頭の中で、ほんの一瞬、宙をとぶ人影を確認したのである。
それは全身が霧の中にあるがごとくにかすみ、手の位置からは足が、股間からは首が生え、そのどれもがあり得ぬ方向にねじくれているという奇怪なイメージであった。
だが、当然のことながら、暴走族たちの理性はこの現象を拒否した。理解し得ぬ現実は勘違いとするのが彼らの思考形態であった。
仲間は、背広姿のサラリーマン野郎に突きとばされた。彼ら全員がなめられた。おとしまえはつけなくてはならなかった。
絶叫があがった。
突きとばされた男と、車ごと彼にはねとばされた仲間が同時に洩らしたものであった。
掛け値なしの恐怖の叫びであった。
突きとばされた男は両膝を、その下に重なった仲間は、首を押さえていた。
骨でも折ったのかと思った。
若者たちが、真相に気づくのは、彼らを連れて命からがら病院へ駆け込んでからであった。
最初の男の両膝から下は、極端な内股と化していた。靴と靴下を脱がせてみれば、それぞれの親指がいちばん外側――小指の位置についていることに気づいたであろう。
どのような物理的怪異が彼を襲ったものか、膝から下の足は、血一滴流さず、左右が入れ替っていたのである。
だが、より不気味なのは、二人めの犠牲者に生じた現象であった。怪異は接触によって伝染するとしか思えないのだが、彼の首は、これまた微々たる肉のねじれ、血管、頸骨の歪みも示さず、正面位置から正確に九〇度、右を向いて固定されていたのである。
だが、これに気づいたのは後のことで、若者たちの怒りは、一斉に、屋台の親父からとるに足らない客に向けられた。
「野郎!」
と叫びざま木刀片手につっかかろうとする尖兵たちへ、
「よしな」
と巨漢の制止がとんだ。
憤怒の吐け口を奪われ、リーダーにさえ殴りかからんばかりの凶暴な表情で彼らはふり向いた。
「ここじゃゆっくり話もできねえ。おい、兄さんに付き合ってもらえ」
とリーダーは妙に静かな声で命じた。男たちの顔に脅えが湧いた。これまでの経験から、それは殺し[#「殺し」に傍点]そのものを意味したからである。
「いってもいいがね」
すぐに応じた萩生の声も、これまた人を食ったものであった。
「今日は虫の居どころが悪い。後悔しないうちに帰った方が無難だよ。でっかい坊や」
おそろしい沈黙がおちた。巨漢の顔が柔和な表情[#「柔和な表情」に傍点]を浮かべたのをみて、子分たちは凍りついた。この客が放ったものは自分の置かれた立場さえわかっていないあからさまな嘲笑であり、挑発であった。
「ほう。怖くて立ってもいられなくなりそうだぜ」
と巨漢はやさしい声で言った。
「でけえ口を叩いた以上、覚悟はできているんだろうな――来な」
「萩生――さん」
息子の一件で彼らの正体は身に|沁《し》みているのか、悠然と立ち上がった塾教師へ向かって、親父が震え声をかけた。
「心配しなさんな」
萩生は笑いかけた。どことなく疲れたような表情の陰に、はじめてみる残忍なものを認めて、親父は息を呑んだ。
「これから起こる一件も、伜さんのことも、すぐに片をつけてやるよ。チャラにしてくれと、こいつらから言い出すだろうさ」
2
萩生が導かれたのは、屋台の位置から二〇〇メートルほど離れたマンションの工事現場だった。
三〇〇坪の広さがあり、はずれの方へいけば、管理事務所からもわからない。
暴走族の一人が塀をのりこえて、柵の錠をはずし、全員を通した。
萩生の周囲を取り囲んだ若者たちの眼は、すでに殺意に燃えている。殺すまで考えてはいないが、手足を残らずへし折るくらい、良心の|呵責《かしゃく》も感じず行う手合いだ。何人かは対立する暴走族グループの少年たちを、植物人間に変えたこともある。全員、バイクにまたがっていた。
彼らの輪の中心に立つ萩生は、どことなく頼りない、孤独な人形のように見えた。
月明りと、あちこちに設けられている夜間照明のおかげで、闇の中にも鉄骨の山や、砂利の堆積がはっきりとうかがえる。
「いい月だな。よく見ておけよ、あんた。見おさめになる――」
巨漢が言葉を呑みこんだのは、萩生が自分の言葉を聞いてなどいないことに気づいたからだった。
その通り。彼は月を見ていた。疲れた表情に、どこか懐かしそうな面影が浮いていた。
「――ああ……」
ようやく巨漢の脅し文句に気づいたらしく、ふり向いて言った。
「そうだったな。早く来い。すぐ片はつくぞ、でくの棒」
巨漢の眼が火を噴いた。思い切りエンジンをふかす。爆弾の炸裂するような叫びを上げて、|七五〇CC《ナ ナ ハ ン》が萩生へと走った。
ぶつかる寸前、萩生は横へとんだ。
凄まじいブレーキ音を発して七五〇CCは鼻先を回転させた。小石をはねとばしながら四五度近くまで車体を倒し、一秒とかからずエグゾースト・ノズルが|吠《ほ》える。
三〇〇キロ近いメカを、巨漢は自在に操れるようだった。
予想外の事態に、次の逃亡への備えを欠いた萩生を車輪が襲った。逃げられる位置ではなかった。
巨漢は萩生を仕止める気はなかった。まず軽くはねとばして四肢の自由を奪い、それから手と足を一本ずつ踏みつぶし、仕上げはロープを足首に巻いて、工事現場中を引きずりまわすつもりだった。どこまでやれば死ぬかは、これまでの経験から大よその見当はつく。
胸の中の赤い口が牙を|剥《む》いた。
萩生の姿が幽鬼のごとくライトの光輪に浮き上がった。
戦慄が凶暴極まりない胸を衝撃した。
こいつ笑ってやがる!?
次の瞬間、萩生の姿は消えた。
時速六〇キロで急制動をかけ、さしたる衝撃もなく停止できたのは、さすが巨漢の実力だ。
しかし、バイクの右斜め前方二メートルほどの位置に、腕組みして立つ萩生の笑顔を見たとき、はじめて、真の恐怖が背筋を貫いた。
確かに彼は消滅し、また現われたのである。
驚きのあまり、巨漢は次の攻撃も忘れた。
その眼前に萩生真介は立った。
「今後一切、あの親父さんと息子には手を出すな、屑」
この男のどこから出るのかと思われる凄愴な声が頭を占め、巨漢はバイクの胴体へとのびる萩生の右手を見た。
一時間後――
萩生真介は新小岩三丁目にある小さなマンションの階段をかったるそうに上がっていた。
年がら年中疲れているような顔は、今、とりわけ暗い色が濃い。
スチール・ドアの前で、彼は周囲を見廻し、それから[#「それから」に傍点]、気を変えたみたいに[#「気を変えたみたいに」に傍点]右手をスーツのポケットに入れて鍵束をとり出した。
六畳のキッチンへ入り、ライトをつけた。ため息をついてテーブルの上へショルダー・バッグを放り出す。
それがまだ宙にあるうちに、萩生の眼は細まった。
鈍い音の下で、分厚い茶の包みが揺れた。
無言で手にとる。
縦四〇センチに横三〇センチ、厚さ一〇センチほどの紙袋だった。
表面に「萩生真介様」とマジックで大書され、裏面に差し出し人の名があった。
|矢《や》|切《ぎり》|鞭《べん》|馬《ま》、と。
あの婦人の息子だ。
両手で重さを測り、萩生は、
「論文を見てくれというんじゃあるまいな」
とつぶやいた。どうやって部屋へ入ったのか。
糊とセロテープで封印された口を破る。
「やれやれ」
と言った。
ビニール袋に梱包された分厚い紙束は、端正な字で埋め尽された原稿用紙だったのである。
翌日の午前十時すぎ。充血した眼をこすりこすり、塾への辞表を書きはじめた萩生真介の顔は、しかし、内奥から噴き出る興奮に赤く染まっていた。
「よく、無理なお願いをお聞き届けていただけました。感謝の言葉もございません」
矢切昌枝は深々と頭を下げた。
麻布の広大な土地を占める矢切邸の応接間である。
一〇メートルほど先の、ルノアールの本物を飾ったすぐ脇の窓から、匂い立つような樹木の連なりが見える。庭の立木だ。三〇〇〇坪の敷地のうち、家屋の占める率は三三パーセント。のこり二〇〇〇坪は日本中から集められた珍樹珍木で埋め尽されている。家人でも時折り、道に迷うものがでるという噂は、あながちデマでもなさそうであった。
昼すぎに先刻の依頼を承知したいと申し入れたところ、昌枝はすぐにも会いたいと、迎えの車をよこしたのであった。
「こちらこそ、半日とたたないうちに前言を撤回して赤面のいたりです。ですが、ご子息のお便りには、はなはだ私の好奇心を引く内容がしたためられておりました」
そう言って、萩生は、樫のテーブルをはさんで坐った昌枝の顔を見つめた。
すでに矢切財閥の令夫人に立ち帰ったのだろう。高貴だが冷たい無表情に、何ら感情の色も浮かべず、昌枝は小さくうなずいたきりであった。
「あれは、息子の指示で届けさせたものでございます。あなたさまに断わられるのは見越しておったようで、私が首尾を告げると、すぐお届けするよう|家《か》|人《じん》に命じました。つけ加えさせていただきますと、あなたさまを家庭教師にと推したのもあの子でございます」
「まさしく、結構なもの[#「結構なもの」に傍点]でした」
萩生はその[#「その」に傍点]内容を思い出したように眼を細めて言った。
「ご依頼はお引き受けします。ただし、ひとつだけ、私の条件を付けさせていただきたい」
わずかに動いた表情を押さえつけ、昌枝はうなずいた。
「何なりと」
「ご子息の勉学に関する私の指導方針には、一切口を出さないでいただきたい。これだけです」
「何かと思えば」
昌枝は白い手を口にあてて笑った。わずかにそらせた喉の白さが異様に|艶《つや》っぽい。冷たい、|白《はく》|蝋《ろう》みたいな美貌のくせに、どこかで|淫《みだ》らなものを感じさせる女だった。
「――何かと思えば、ほほ。萩生先生は、ご自分の実力をまだ正当に認識しておられませんのね。あの子の選んだ方の教育方針やその内容を、私たちごときが理解できるものですか。文句のつけようがありません」
「これは――|怖《おそ》れ入ります」
苦笑して頭を|掻《か》く萩生を見つめる昌枝の眼に、このとき、あからさまな情欲の色が浮かんだが、すぐに消えた。
「では、いつから通っていただけますので」
「部屋をひとつ用意していただきたい」
萩生の要求に、今度こそ昌枝は驚きの表情をつくった。
「それほどご熱心だとは――わたくし、また、週に二回も来ていただければ上々と……まずは、息子に会っていただいてから……」
「ご子息がどんな方であろうと、私は毎日教えます。土日も休みません。できれば、食事の時間も|削《けず》りたいくらいです」
「…………」
昌枝の沈黙は、萩生の口元をかすめた皮肉っぽい翳を認めたせいかもしれない。
どこか疲労と退廃の翳りを忍ばせた塾教師の背後には、何やら別の顔が潜んでいるようであった。
「今は土曜の午後三時――鞭馬君はどちらに?」
「それが――当人もこれほど早く、先生にご承諾いただけるとは思っていなかったのでしょう。毎週末は、伊豆の別荘で過すことにしておりまして、今朝早く、出掛けました。学校もあるので、明日の深夜には戻りますが」
「それは残念」
つぶやいて、萩生はさっさと立ち上がった。もはや、昌枝にも矢切家にも、一切の興味を喪失したようである。
「では、日曜の夕刻から参上いたします。部屋の件はよろしく。それでは――」
一礼する萩生の額に、
「あら、もうお帰りですの?」
明るい、花みたいに弾む声がかかった。
扉のそばに立つ娘は、声にふさわしい外見を備えていた。年の頃は二十一、二。小柄だが均整のとれたプロポーションの持ち主だ。白いジャケットの胸は意外に豊かだし、ミニ・スカートからのぞく脚はすっきりと、マネキンなみのラインを誇っている。
「ご免なさい。急にお邪魔して」
これも一礼して近づいてきた娘を、昌枝は苦笑混りに、
「娘の|祐《ゆ》|美《み》です。鞭馬の姉になりますの」
と紹介した。
「こちら、鞭馬の言ってた萩生さん? ――ほんとに切れそうな方」
嫌味や皮肉のない口調はこの娘の性格らしかった。萩生も微笑して、
「よろしく。出掛けに髯を剃ってきてよかった」
祐美は身を|反《そ》らせて笑った。昌枝のたしなめるような眼付きに気づき、すぐに肩をすくめたが、
「そのうち暇ができたら、私の勉強も見て下さいね」
と言って身を|翻《ひるがえ》した。部屋の光の中に、花の香りが残ったのは、つつましげな香水のせいばかりではなかったかもしれない。
少しの間、好もしげに祐美の後ろ姿を見送り、萩生が改めて一礼したとき、入れ違いに、和服姿の老婆が入ってきて、お電話ですと告げた。
「どなたから? きよさん」
「――鞭馬さまからで」
「ま、つないで下さい」
あわてた風にいい、昌枝は萩生に一礼をするのも忘れて、大理石の暖炉の上に置かれた白い電話器をつかんだ。
「はい、あたくし。鞭馬さん? ――どうして? え?」
ぎょっとしたように見開いた眼は、萩生の顔を捉えて、
「見えられてるけど――どうしてわかったの?」
萩生が一、二歩そちらの方へ近づいたとき、昌枝は困惑したように何か言いかけ、受話器を台へ置いた。
「鞭馬君ですか?」
「はい。何故ですか、先生が来ているね、と。どうしてわかったものですか――」
「何と言ってました?」
「忙がしいので失礼するが、先生によろしくと。日曜日に会えるのを楽しみにしているそうです」
まだ見ぬ高校生には、萩生の行動までが読み取れるのだろうか。
「そうだ――ひとつお願いがあります」
萩生が思い出したように言った。
「はい?」
「鞭馬君の勉強部屋を見せて欲しいのです。これからの指導の参考になるかもしれません。物を学ぶには、一秒でも早い方がよろしい」
「ですが……」
昌枝はためらった。
「あの子から、勉強部屋には誰も入れるなと――癇の強い子で、言いつけに背くと、私どももほとほと手を焼きます。わからないように気をつけて入っても、必ず後でトラブルがおきますので」
「では――もっと堂々と参りましょう。口はばったい言い方ですが、責任は師たる私がとります」
相変らず疲れたような表情であった。それなのに昌枝はどきりと彼を見上げた。言葉に含まれた響くような力強さを感じたからだった。
萩生は二階の一室へ通された。
一〇畳ほどの洋室であった。
応接セットと机がある。
どれも超高級品だが、萩生は眼もくれなかった。小さなブックエンドにはさまった机上の参考書を見たとき、眼つきが鋭くなったが、平凡な高校生用の品だと知って、すぐ別のものに移った。
隣室へのドアである。
ノブを掴んで廻したが、動かない。
鞭馬とのトラブルを怖れたものか、昌枝は部屋の外にいる。ここの鍵まではもっていまい。
十数分後、萩生は部屋を出て[#「部屋を出て」に傍点]、昌枝のところへ戻った。
「どうでした?」
不安と無視の交錯する表情を声が裏切っていた。|隠《いん》|蔽《ぺい》しようのない好奇心が表に出ている。
「ますます興味が湧いてきました。教え甲斐がありそうです」
「ありがとうございます」
昌枝は頭を下げた。
「何分、変わったところのある息子です。先生のお力で、導いてやって下さいませ」
また、電話が鳴った。
鞭馬さまからですと、今度は皺深い|老《ろう》|爺《や》が告げ、昌枝は受話器をとった。
表情がさっと変わった。
「なんですって? ――それで、病院はどこなのです? ええ、ええ」
最後に[#「最後に」に傍点]容態はと訊き、昌枝は受話器を置いた。その手が震えている。容態はかなり深刻らしい。
突っ立っている萩生に、
「先生、別荘から連絡がありまして、鞭馬が事故に|遭《あ》ったらしいのです。入院はしなくて済むらしいのですが、わたくし、すぐに|発《た》ちますわ」
「容態は――悪いのですか?」
「いえ、大したことはありません[#「大したことはありません」に傍点]。ただ、精神的なショックが大きかったらしくて――申し訳ありませんが、先生、おめにかかるのは、少し後になりそうです」
「そんなことないわ」
いきなり背後で祐美の声がした。
「先生も別荘へいらっしゃればいいのよ。わたしがお連れするわ」
「なにを言うの」
扉の方から近づいてくる娘へ、昌枝は敵意さえこもった視線を投げた。
「あの子は人一倍神経質なのよ。わたくしが|従《つ》いていてやらなければ……」
「だって、お父さまが六時にブタペストから戻られるのでしょう。お母さまが出迎えないと機嫌が悪いのよ。とばっちり食いたくないわ」
「でも――」
言いながら、チラリチラリと萩生の方を見るのは、行って欲しいためだろうか、それとも逆なのか。
結局、昌枝が折れた。
「先生、どうなさるの?」
祐美が、萩生に対する好奇心むき出しの声で言った。
「差し支えなければ、お伺いしたい。教師と認めていただいた以上、生徒の顔も知らずに日々を|過《すご》すのは気がひけますのでね」
「決まったわね」
祐美は|反《そ》るようにして笑った。|巨《おお》きな花が笑っているような感じの娘だった。
3
海岸道路を右へ入ってしばらく坂道を昇ると、周囲の光景は妙に荒涼の観を呈してきた。
道路だけはアスファルトの舗装路が帯みたいにつづいているものの、左右からは緑の色が一斉に消滅し、ところどころに点在するひょろ長い松ばかりをのぞいて、木はほとんど見当らない。
土でさえ、これまで見てきた山肌とは異なり、赤とも黄ともつかぬ腐敗色のような色を帯び、手をついただけでずぶりと手首までめり込みそうな軟泥状に見えるのだ。
なにやらこの一帯に汚怪な物質が沈んでいて、立ち昇る|瘴気《しょうき》が生命あるものすべてを遠ざけ、空気そのものまで腐らせているような、そんな病的な雰囲気に満ちた土地であった。
「どう、不気味でしょ、先生?」
シボレー・コルベットのハンドルを軽やかに操りながら訊く矢切祐美の美貌に、萩生は|曖《あい》|昧《まい》な笑顔を見せただけで答えなかった。
「ここは、うちの別荘ができるまでは、まったく普通の土地だったんですのよ。それが、ある時期を境に、木は枯れる、野菜は腐る、土質は変化する――まるで生物の生存に適さない荒野になってしまったの。今もって原因は謎ですわ。一種の毒素のせいらしいんですけど、日本最高の化学者の先生方にも、その成分は今もって不明です。萩生先生にならお判りになりません? MIT史上、最高の俊英になら?」
「残念ですが、化学は専門外でして」
「あら、ごめんなさい。勘違いでしたかしら? ――ご専門の中にはこれも入っていたんじゃなくって? ――錬金術」
「私のやめ方が唐突だったせいで、世界中に根も葉もない噂がとんでいるらしい」
流れる頭髪をおさえながら萩生は苦笑した。
「私は超常現象の研究に励むきわめて平凡な一学生にすぎませんでした」
「IQ二〇〇に近い平凡な、ね」
萩生はまたも答えず、流れ去る風景を見つめていたが、ふと、眉を寄せた。
|石《いし》|塊《くれ》の積み重なった泥色の向うに、白い幾何学的な構成物が光ったのである。
「あれは――?」
「この土地の分析を行う化学研究所ですわ。もちろん、父の|胆《きも》|入《い》りで成立したものです。着々と成果は上がっているといいますが、本当のところは父と――」
「お父さまと――?」
「――父しか知りません。それより、ほら、あれが別荘ですわ」
祐美が指さす方向に、これだけは緑に包まれた宏荘な屋敷が見えてきた。
突然、その外見がぐいと右に傾いた。
いや、車が左へゆらいだのである。
猛烈な衝撃が地底から|噴《ふ》き上げてきた。
「地震だわ――大きい!」
車を停めながら祐美が叫んだ。
「静かに!」
妙に冷静に萩生が命じた。祐美に向けて放ったそれが地震の神にでもとどいたものか、大地の震えは開始と同じく唐突にやんだ。
「こんな凄いのははじめて」
祐美が唇を尖らせてため息をついた。かなり心臓は丈夫らしく、もうギヤに手をかけている。
「よくあるんですか?」
萩生の問いに祐美はうなずいた。
「一日に二回以上は――それも、この近辺だけに」
「というと?」
「伊豆の地震計にはまるで反応がないんです」
「…………」
「ですから、この辺の人たちは、魔震と呼んでますわ。わたしも、いいネーミングだと思います」
「そうですか」
すぐにエンジンが唸り、二分とたたないうちに、車は常に日陰に沈んでいるような和風邸宅の庭へと入りこんだ。
地震が気になって出てきたものか、玄関には十名近い男女が整列していた。
白髪の人品卑しからぬタキシード姿は、どうみても執事だろう。同じ服装の若い男が二人、お手伝いらしい和服姿の女性が三人、あとの三人は白衣姿の料理人である。
建物の大きさからすると、まあまあの人数だが、別荘という性格を考えれば、大所帯だ。四季を通じて来客がひきもきらないのかもしれない。
白髪の老執事がとんできてドアを開けた。
満面に|湛《たた》えた笑みは、車の外に出た萩生を見ても|溶《と》けなかった。
老人は島田と名乗った。やはり執事長である。
「東京の奥さまからお電話をちょうだいしております。田舎のことで何かとご不自由をおかけしますが、私どもで誠心誠意尽しますれば、何とぞ心ゆくまでおくつろぎ下さい」
誰が聴いても心底から、ととれる声の裏に、萩生は皮肉な響きを感じとっていた。
彼が家庭教師だということも、老人は知っているに違いない。
邸内に入ると、萩生はすぐ二階の客間に通された。
東京を発って約三時間半――午後四時の客室には蒼色が広がりはじめていた。
十分ほど待つと、祐美ではなく、女中がやってきた。反応の鈍そうな|虚《うつ》ろな表情と動作は、他の使用人と共通するものだった。
鞭馬が部屋で会いたいという。萩生は立ち上がった。
良質の木と|漆《しっ》|喰《くい》をふんだんに使った豪華な廊下を歩きながら、萩生はじっと眼を前方に|据《す》えていた。
突き当りのドアの前で女中は一礼し、のろのろと立ち去った。
ノックするとすぐに、どうぞ[#「どうぞ」に傍点]と返事があった。
部屋の内部は|蒼《そう》|茫《ぼう》と染まり、たそがれを友とする|主人《あるじ》は、全身を黒い色に塗りつぶされて応接セットの一方に腰をおろしていた。
一〇畳ほどの豪華な居間である。奥のドアの向うに、萩生を必要とする空間があるのだろう。
「無礼な奴と思わないで下さい」と影が言った。
「見ての通りの身体でして、自由がききません」
ようやく萩生は、声の主の腰から下が、分厚い毛布で|覆《おお》われていることに気がついた。これが怪我だろうか。それにしては口元の冷笑とそぐわない。
「萩生先生、よろしく。新らしい生徒の矢切鞭馬です」
どこか嘲笑するような声とともにさし出された手を、萩生は無言で握った。
「これは失礼。先生をお待ちする間、眠ってしまいまして」
言い終わらないうちに、室内に光がみちた。
「便利な仕掛けだね」
萩生は生徒の腰かけた椅子――車椅子を見つめた。
エンジニアなら一も二もなく眼をかがやかせそうな|代《しろ》|物《もの》であった。
とびきり|豪《ごう》|奢《しゃ》な皮張りの肘掛け椅子に車輪をつけただけに見えるが、車輪自体は肘掛け部にすっぽり収まってしまい、わずかに床と密着した先端がのぞくばかりだ。それが乗用車のタイヤなみに分厚い。|強靭《きょうじん》なショック・アブソーバーと併用すれば、大抵の衝撃は乗り手に届く前に吸収できるだろう。
左右の肘にはパワー・スイッチやデジタル・メーターを組み込んだコントロール・パネルが鈍く光り、電灯の一件をみても、車以外の操作をも兼ねているようであった。形は左右とも等しく、どちら側でもコントロール可能らしい。
「珍らしいですか? 会社の工場に特注させた車です。五億以上かかっていますよ」
「桁が大きすぎてうれしいよ。理解できん金額だ」
鞭馬は苦笑して椅子をすすめた。
年以上に大人びた印象の青年であった。
皮膚の艶は若々しいのに、妙に青白く、|眉《び》|目《もく》が異常に濃い。口元に貼りついた冷笑が、全体の知的な感じを|一《いっ》|層《そう》強めていた。そのくせ、どこか獣を思わせる野性みたいなものが強くある。モス・グリーンのポロシャツの胸元からは|剛《ごわ》い毛がのぞいていた。左右の肘に、ついたばかりのひっかき傷みたいな痕が二、三ある。
「お母さんは動揺しておられたが、怪我とはそれのことか?」
「ああ、これですか?」
鞭馬は薄く笑った。
「地下室へ降りる途中、椅子がすべったのですよ。連絡などしなくてもよかったのですが、馬鹿な召使いがおりましてね」
「結構だ。授業は今すぐはじめる」と萩生は言った。
「その前に軽い雑談で気をほぐすことにしよう。なぜ、私を家庭教師になど選んだのかね? 他に役に立つ連中はいくらでもいそうなものなのに」
「先生以外の人に、あの論文を書いた男を教えられますか?」
鞭馬の回答は一瞬の内だった。
萩生は昨夜、机の上に置いてあった分厚い紙袋の中味を思い出した。
「確かに、と言っても自慢にはなるまいね。いつから神秘学をやってる?」
「かれこれ一〇年になります」
小学校三年のときだ。
「自分の理論的欠陥が一〇年間の学習で修正されると知ったら、シェッケもあれほど長生きはしたくなくなったろうな」
鞭馬は薄く笑った。
マイベクリネス・シェッケは一五世紀ハンガリーの哲学者である。一〇四歳まで長寿を保ったという以上に、現在までさまざまな試みがなされ、そのすべてが七彩の虹と化した夢の動力――永久機関の理論的完成者として名高い。一四〇九年、学術誌「深窓論議」第七号に発表した論文「力の協定における二基の力量比較」は、一五一八年、スイスの医師ハルヴィーンの三〇年がかりの研究によって論理的欠陥を指摘されるまで、錬金術師たちの精神的支柱でありつづけた。
欠陥に関する修正は、ハルヴィーンの指摘後数日を経ずして開始されたが、今日に到るまで完成はみていない。
六〇〇年間の試行錯誤を一〇年で――
シェッケならずとも、泣きたくなるだろう。
「君以外、ご家族の方に、神秘学関係者がおいでになるのかね?」
鞭馬は首をふった。
「全然。僕は鬼っ子らしいです」
皮肉とも、自負ともつかぬ口調に、萩生は笑いかけた。
「ですが、実利一点張りの大企業の跡取りが神秘学に|凝《こ》るのも、欧米では珍らしくないはずです。ロックフェラー、モルガン、ロスチャイルド――ユダヤ系の大財閥は才覚より魔術によって今日の財を成したのではありませんか」
萩生はうなずいた。
鞭馬の指摘通り、彼らユダヤ系財閥が、古代占星術や、未来透視法などの神秘学を運用の|基《もと》に据えていることは、周知の事実である。
唯物の象徴ともいえる金銭が、精神論の極みたる魔術によって動かされていると知ったとき、人は|戦《せん》|慄《りつ》を禁じ得ないだろう。
その意味で、日本最大のビッグ・コンツェルンのひとり息子が神秘学の申し子と変わるのも、驚くには当たらないかもしれない。
「なぜ私という男の存在を知った?」
萩生は一番訊きたかったことを口にのせた。
鞭馬の右手が隣室へとつづくドアを指さした。
「あちらが図書室です。集められるだけの神秘学関係書物はすべて|網《もう》|羅《ら》しました。その中に、萩生真介の『方向性と運命論的存在の競合』が載っていたのです。口はばったいようですが、あれはケプラーよりも、カリオストロよりも、真実に肉迫した論文でした。博士号をとってもおかしくなかったと思います。――で、失礼ながら、先生の身の上を調べさせてもらったのです」
「その調査は信じない方がいい。正確ならば、私と君がここで向かい合っているはずがない」
鞭馬は光る眼で萩生を見つめた。皮肉な色がないこともない。
「身をもち崩した|挙《あげ》|句《く》に敗残の道を|辿《たど》る男がいたというだけで、MITが彼のつくった学科を放棄するでしょうか。彼の試験答案から、在学記録までを灰にするものでしょうか。彼と研究をともにした老教授を放逐するでしょうか?」
「ボーモント教授か、P・J……」
萩生の哲学者みたいな面貌に、きわめて人間的な苦悩を示す|翳《かげ》が刻まれた。
超常現象研究学科を彼とともに造りあげた|磧《せき》|学《がく》は、萩生の退職と同時に教授の座を追われ、二年後にニュージャージーのアパートの一室でピストル自殺を遂げたのであった。
「超常現象――|念力《サイコキネシス》、|精神感応《テレパシー》、人体発火、|自動書記《オートマチック・ライティング》等の研究は必ずしもタブー視された分野ではありません。J・B・ライン教授の例もありますし、MITの保守的頑迷ぶりも研究活動の内容までは及ばないはずです、あるラインを越えない限り」
照明光のただ中で、鞭馬の眼が異様な光を放っていた。
生徒による教師の尋問が珍らしいご時勢ではないが、これほど不気味で緊迫した例は他にあるまい。
鞭馬の唇がゆっくりと動いた。それが、|紡《つむ》ぎ出す言葉そのものより、萩生の苦悩を楽しむかのような唇の動きが印象的だった。
「何があったんです?」
と彼は言った。訊いたのではなかった。
知っているぞ、という口調だった。
萩生は教え子の眼を見つめていた。
四個の瞳だけが見えない線を結ぶ小空間が、急速に密度を増したようであった。
空間自体が内圧で膨張し、際限なくふくれ上がっていく。
ソファがへっこんだ。
ぎしりとテーブルがたわむ。分厚いオーク材のテーブルであった。
「何を見たんです?」
苦しげな声を鞭馬は|絞《しぼ》り出した。
決着は次の返事がつけた。
「見たとも――東京の君の書斎を」
途端に、ソファの窪みがぽん! と元に戻った。
奇怪な圧力は|跡《あと》|形《かた》もない。
「鍵をかけ、その鍵は僕しか持っていないとすると――」
鞭馬は嬉しそうに言った。
「どうやら、僕の眼に狂いはなかったようだ――よろしくお願いします、先生」
「よかろう」
と萩生はうなずいた。
「では、授業をはじめる。――ここでするか、書斎がいいかね?」
鞭馬の瞳だけが、ちらりと書斎の方を眺め、すぐ萩生に戻った。
書斎へ行きたいくせに[#「書斎へ行きたいくせに」に傍点]。
とそれは言っていた。
ぞくり、とするものを萩生は感じた。
骨の髄を鉤爪の先でこするような奇態な感覚であった。
ひとつひとつの仕草に、どこか|常識《セオリー》を逸脱したものがあった。
「では――書斎だ」
あっさり言って、萩生は歩き出した。
その前で、音もなくドアが開いた。
ここの開閉も、車椅子のコントロール・パネルが担当するらしい。
中へ入った二人を、書物の山が迎えた。
壁を埋めつくす黒檀の棚は言うまでもなく、床の上にも積み重ねた本の摩天楼が構築されている。
かすかな音がきこえるところをみると、エア・コンが作動しているらしいが、古書の匂いを消すには到底追いつかない。
部屋自体が数百年前の面影を留めているようであった。
古書の魔術かもしれない。
床から生えた手近の山のてっぺんを、萩生はつかみ上げた。
ラテン語の古書である。
「アシェール・メルヴァ著『錯乱』……」
と萩生はつぶやいた。
その無表情からは、文字そのものを読みとったのか、記憶にある本なのかわからない。
確かにMIT――マサチューセッツ州立工科大学では、異端の学問かもしれなかった。
五〇畳は優に越す部屋を埋め尽した本はすべて、新刊、古書を含めた魔道書の類なのであった。
「凄まじいものだな」
萩生は素直に感嘆した。
「五万冊はある。幾らかかった?」
「七万冊ですよ」
と鞭馬は訂正した。
「これでも、まだ足りない。人間の異端への憧れとはかくも強いものですかね。――のべ一二億円かかりました。純粋に本代だけで」
萩生は軽く肩をすくめ、本棚の一角に眼を向けた。
異彩を放つ品が沈坐していた。
超近代的なメカである。コンピューターにも、プリンターにも似ている。
「三矢精機の電子翻訳機か」
「ええ。ワード・チェンジャーM7なんてナウい名前がついていますが、単なる移し換え屋にしては、仲々いい性能をもってます」
「ふむ」
萩生は本の塔の間を縫って、シリコンと合成樹脂の塊りに近づいた。
キイ・ボードに人さし指をのばす。
キイには触れなかった。
ボードの表面に軽く指を滑らせ、すぐ戻ってきた。
「メカに興味はないんですか? MITには電子物理学の特待生資格で入ったと思いますが」
「あるさ。だが、今はない。何に使っているんだ?」
おかしな質問に、鞭馬はとまどったようだ。
「……その……」
「いいさ。だが、古代ギリシャ、ラテン語くらいはメカなしでもこなせるようにしておかないと、君の目標には到達できないぞ――もっとも、何が目標かは、わたしにはわからないが」
「知識です」
と鞭馬は言った。声に熱がこもった。どこか聞くものを不安にさせる異質な熱情だった。
「知識の体系はすでに極められ、そこから派生する分派に、新らしい驚きはありません。僕は古書の匂いを嗅ぎつつ、この書斎から、真に新らしい知の創造を求めたいのです」
「知識と知性はちがう」
萩生は何故か硬い声で言った。
「知性が知識を操るうちはいいが、逆は[#「逆は」に傍点]危険をもたらす。――気をつけることだ」
「MITの教訓ですか?」
「では、授業に移ろう」
萩生は電子翻訳機のかたわらに並ぶ、これも本に征服された丸テーブルと椅子を示した。
第二章 闇の儀式
1
軽くドアがノックされた。
叩き方から訪問者の想像はつく。
打ちつけた拳を一瞬止めるようにするのは――男。それも骨の痛みに耐え得る頑丈なタイプだ。召使いの中に、ひとり|巨《おお》きいのがいたが、彼だろう。
「どうぞ」
テーブルに向かった姿勢のままで萩生は応じた。
予想は大幅にはずれた。
背後で空気が動くと同時に甘い香りが鼻孔を刺激した。
「お邪魔ですか?」
祐美の声であった。
萩生は|黒《こく》|檀《たん》のテーブルからふり向き、立ち上がった。
八畳ほどの豪華だが殺風景な寝室に、光点が生じたようであった。
「もう二時だ。女性が男の部屋へくる時間じゃありません」
「勉強なさるような時間でもないわ」
祐美はためらう風もなく、戸口から近づいてきた。
ベッドの脇にあるソファに腰をおろし、
「どうでした?」
と訊いた。
面白そうな表情とは裏腹に、どこかしら切迫したものを萩生は感じた。
「彼のことですか?」
「ええ」
髪の毛をかきながら、萩生はテーブルの前に置かれた肘掛け椅子へ戻った。
ベッドといい、応接セットといい、ぴたりと空間に収まっている。自分のために、わざわざ建て増ししたのではないかと萩生は思っていた。
「隠しごとをしてもはじまらないし、彼自身がいちばんよく知っているだろうから申し上げるが、驚嘆すべき才能です。おかげで、こんな時間まで、明日の講義の下準備をしなければならない」
祐美は笑ってみせた。
仲の良い弟をほめられた姉の、屈托のない笑顔である。
「よかった」
「ちっとも、よくはありません。私は午前零時に休みます」
「いえ――ちがいます」
と祐美は右手をふって訂正した。
「鞭馬にも、ようやく“教えてくれる人”ができたかと思って。――お判りでしょ?」
萩生はうなずいた。
自分が選ばれた|理由《わ け》はよくわかったものの、教えつづける自信はなくなっていた。
鞭馬の知識はそれほど凄まじかったのである。
――神秘数学は教師級、不定物理はコンラッド・リーベン始祖クラス、無発生エネルギー理論はコスメダス兄妹並みだ。ちょっとした怪物だ。
「子供のときから、変わった子でしたのよ」
祐美が言った。明るい口調に無理があった。人を楽しくするような「変わり」ぶりではなかったらしい。
「人一倍頭がよくって。今だって、わたしなんかとても|敵《かな》わない。学校へ来なくてもやっていけるって、どの先生も言ってました。だからいつも、難かしい本ばかり読んで」
「何を読んでも、彼の優秀さには変わりがないでしょう」
祐美は黙った。萩生の眼が自分を見つめていた。冷たいというのではないが、痛みみたいなものを感じさせる瞳だった。
どこか、鞭馬に似たものがある、と祐美は思った。
「彼、車椅子に乗っていましたが、あれは昔から……」
「ええ。昔といっても、二年前からですけれど、やはり、この別荘の地下室で階段を|墜《お》ちたとか」
「とか?」
「事故のとき、家のものはそばにいなかったのです。鞭馬がそう言っておりました。それと執事たちも」
そして、今度もまた、この別荘で事故だった。
家族がおらず、鞭馬にもさほど傷ついた様子がない。
萩生は両手の指を卓上で組んだ。
「失礼ですが、彼とは幾つちがいです?」
「四歳」
「ずっと一緒に過して来られましたか?」
祐美の沈黙は短いが、ためらいを含んでいた。返事はきっぱりしていた。無理に歯切れをよくするとこうなる。
「ええ。――ですが、何故?」
「誰が鞭馬君のいちばん近くにいたか、知りたかったのです。あなたでしょう」
「それは……」
「違う、のですか?」
「違います」
祐美は首をふった。萩生を見つめる眼は落ち着いていた。ただし、訓練によるものだ。
「では、誰です?」
「やはり、母だと思います。鞭馬は身体が弱く、ほとんど部屋にこもり切りでした。一五年以上――いえ、今でも、母の|精神《こころ》の半分以上は鞭馬のことで占められているはずです」
肝心の答えより、別のひと言が萩生にある疑問を抱かせた。
「彼は子供の頃から、ここへ入りびたっているとききましたが」
「それは……」
祐美は動揺した。ひっかかりはしなかったが、結果は萩生の予想通りだった。彼はすぐに言った。
「最初は地下室で怪我、次も場所こそちがえ、この別荘で。二度目がかすり傷だったのがせめてもですな」
「本当に……」
「ここ[#「ここ」に傍点]はいつ建てられたのです。かなり古いもののようにも見えるし、二、三年前といっても通用しそうだ」
祐美は眼を細め白い指を折った。
「古い――方でしょうか。一四年前です。家自体は一八年前からあったのですが、そのとき、全面的に建て直されました」
萩生が組んでいた指を放し、人さし指で机を強く押した。好奇の色が表情に動きはじめていた。好もしい、そのくせ、どこか危険な色であった。
「前の家に不都合でも?」
「いえ。私にはよくわかりませんが、後でその話をしたとき、父は狭すぎたからだと申しておりました。私にはそうは思えませんでしたが、まだ子供でしたから、小さな家も|無《む》|闇《やみ》と大きく見えたのかもしれません」
「そうですね」
萩生はうなずいた。
「この家はどこか変わってる。設計は外国の技術者じゃありませんか?」
祐美は首をかしげた。
「どこが変ですの?」
「それは――」
言いかけたとき、カチリとドアの鍵が鳴った。
素早く立ち上がり、萩生はノブに手をかけて廻した。ロックされている。
「オートロックの故障か。こんなこと、しょっ中起きるのですか?」
二、三度試してから訊く萩生に、祐美はうなずいた。
「しょっ中ではありませんが、これまでも何度か。コントロール・パネルの接触不良だそうです」
萩生はデスクの上の電話器を指さした。
ひと部屋一台が主人の生活信条らしかった。
「執事の部屋を呼んでみて下さい」
祐美は従い、すぐに耳から受話器をはなした。不安が表情を染めている。
「出ません――おかしいわ。呼んではいるのに」
いぶかしげな美貌から急に表情が消えた。
そのままの姿勢で硬直したような祐美へ近づくより早く、萩生の耳はかすかな気体の放出音を捉えていた。
闇が視界を覆う。
次の瞬間[#「次の瞬間」に傍点]、萩生は廊下にいた[#「萩生は廊下にいた」に傍点]。
額に手を当て、精神でも集中するみたいに眼を閉じていたが、すぐに開いて軽く息を吐く。
「おかしなガスを使うな。だが、順序を誤ったぞ」
これもおかしなことをつぶやき、ひと気のない廊下を鞭馬の部屋の方へ歩き出した。
淡いひかりの下を動く気配はない。
彼の言うガス[#「ガス」に傍点]は室内を席捲したのだろうか。
鞭馬の部屋のドアから光は洩れていなかった。
ドアの方へ進みかけて、萩生の足が停まった。
窓ガラスを占める闇の一角に、炎のゆらめきを見たのである。来訪時の記憶によれば、濃い森の中だ。
萩生は窓枠に手をかけた。
錠が降りている。レバーに手をかけても動かない。これも自動式らしかった。設計者はさぞ骨を折ったことだろう。
萩生は眼を細めた。
炎は形からみて|松明《たいまつ》の集合らしかった。
大きさから距離が割り出せる。玄関から西南へ直線を引いて、約三〇〇メートル。森のほぼ真ん中だ。
萩生の目に薄い笑いが浮かんだ。
素早く身を|翻《ひるがえ》して階下へ向かう。
玄関のドアには錠が下りていた。
どの窓も、どの扉も。
錠とガス――封鎖は完璧だった。
わずかに眼を細め、萩生は外へ出た[#「萩生は外へ出た」に傍点]。
東京よりは数倍涼やかな夜風が頬をなでてすぎる。
萩生は顔をしかめた。
風に匂いがこもっている。香りとはいえぬ、やや濃密な――邪悪な匂いだった。
人影がないのを確かめ、萩生は森へ移った。
五秒とかからず[#「五秒とかからず」に傍点]、目的地についた。
眼の前に|瘤《こぶ》だらけの幹がそびえていた。すぐ向う側で炎が燃えている。
声がきこえた。
奇妙な唱和だった。人間には表現不可能な音を無理に絞り出しているようであった。
QとZの連続音で示されるような、そのくせ、明らかに意味があると感じられる音の連なりは、数多くの人間の口から放たれていた。
萩生はそっと幹の陰から顔をのぞかせた。
そこだけ樹木を切り開いたような広場が口を開けていた。
広さは直径十二、三メートルほどか。
中央がやや窪んだすり鉢状を呈し、そこに奇妙なものが闇を圧していた。
炎の照り返しを受けて青白くかがやく石柱の群れであった。風雨の暴虐にざらつき、ひび割れた表面は、その切り出された年月の果てしない速さを十分連想させたが、都合四本のそれが縦横に組み合わされた構成は、どれも等しく四、五メートルはある石の巨大さと相まって、妙に現代的な、そのくせ超次元の建築的意図を感じさせずにはおかなかった。
造り出したのは人間、表現しようとしたものは別世界の何かだった。
それを囲むメンバーが萩生の眼に強い光を|点《とも》した。
島田がいた。
召使いも女中もいる。木の棒に油をふりかけたらしい松明の炎が仮面のような顔でゆらめき、非人間的な容貌をつくり出していた。
全員がパジャマ姿なのは、この集まりが極めて唐突なことを示しているのだろうか。
全員の喉仏が激しく震えているのに萩生は注目した。あの奇妙な声音は、人間の肉体にかなりな負担を|強《し》い、しかも完全な表現は不可能にちがいない。
昼間の彼らの声がややかすれ気味だったのは、さほど遠からぬ過去に、同じ集まりが催されたためだろう。
奇怪な石造建築物を囲み、大別荘の従業員たちは何を意図しているのか。
伊豆の一角で行われる深夜の饗宴は、そう考えれば背筋が凍るほど不気味な、危険な儀式であった。
萩生の眼が大きく見開かれた。
建造物の|内側《な か》で、何かが|蠢《うごめ》いている。
松明の|悪戯《いたずら》ではなかった。
何かしら極めて異妖な、見てはならないものが、じわじわと夜気を押しのけている。
悪臭が鼻孔を刺激し、萩生は思わず手で口を覆った。
遅かった。
一度発すると、くしゃみは連続的に出た。
くるりとふり向いた男女の顔は、無表情なだけに、想像を絶する不気味さであった。
全身の毛穴が開くのを萩生は感じた。
やってくる。
身を低くして萩生は走った。
声が背を叩いた。
あの連続音だった。人声でないのが|却《かえ》って救いだった。
足音と、呼びかわす声はみるみる接近してきた。
萩生は全力疾走に移っていた。体力的に差はあり得ない。
それなのに、追撃者の|速度《スピード》は、彼を|遥《はる》かに|凌《しの》いでいるのだった。
左右に松明が走っていた。
前方で幾つかが接近し、行く手を|塞《ふさ》いだ。
萩生は足を停めた。
足音が背を叩いた。逃げる|術《すべ》はない。
猛追の音が不意に乱れた。
自らが手にした松明の光だけが闇を払う森のただ中で、彼ら[#「彼ら」に傍点]は茫然と立ちすくんでいるように見えた。
確実に迫いつめた包囲の輪の中心から、萩生真介の姿は|忽《こつ》|然《ぜん》と消え失せていた。
2
|呼吸《い き》を停めたまま部屋へ戻る[#「部屋へ戻る」に傍点]と、萩生は心もち鼻孔へ空気を吸いこんだ。
異常はない。
|効《き》き目も早いかわり、分解もスピーディーなガスであった。成分は萩生にもわからない。どこかの国の秘密機関が使いそうだが、萩生には別の見解があった。
祐美は先刻と寸分変らぬ姿勢で立っている。自分が戻る前に彼女への効力がゼロにならなかったことに、萩生は感謝した。
部屋のドアにはまだ錠が降りている[#「まだ錠が降りている」に傍点]。
ほどなく、階下でざわめきのようなものが湧き、幾つかの足音が階段を上がってきた。
ノブが動いた。
来るか。
萩生は椅子に腰をおろした。
それだけだった。わずかな沈黙の後にもう一度ノブが廻され、それだけでドアの外の気配は散っていった。
萩生はにやりと笑った。
ノブの回転の間に生じた沈黙に、彼らの困惑が示されていた。
森の中の出来事から、萩生が怪しいと見当をつけたのかもしれない。
顔は見られていないはずだが、消去法でいけば、彼らの概念に当てはまるのは、新参者の彼しかいまい。
だが、玄関にも窓にも、電子錠が下りている。
窓ガラス一枚、ドアひとつ破らず閉鎖空間を抜け出るなど、彼らの常識に照らし合わせても、有り得ない現象なのだろう。今ごろは階下で、脱け出た痕跡はなしと話し合っている頃だ。
かすかな音をたててドアの錠がはずれた。
儀式は一応の|終焉《しゅうえん》を迎えたのであった。
萩生は祐美の額に右手をさしのべた。指先が触れる寸前、大きな瞳が開いた。
「――どこへ行ったのかしら?」
「さて?」
と萩生は|応《こた》えた。ガスは記憶の空白を残さず、祐美の意識を完全につないでいた。まだ執事を呼んでいるつもりなのだ。
誰がつくり出したにせよ、恐るべき技術の持ち主であった。
「あ、出たわ!」
祐美が握ったままの受話器を耳にあてて言った。
「あ、鹿間さん、夜分、ご免なさい。ドアに鍵がかかったらしくて。――ええ。そう。――わかったわ。もう一度試してみます」
祐美の声が終わる前に、萩生はドアのかたわらへ移動していた。
ノブを廻し、頭を|掻《か》く。
「私の廻し方が悪かったのかな。異常ありませんね」
めっと怒ったような表情をし、間違いだったと伝えて、祐美は受話器を置いた。
それからすぐ立ち上がり、口元をおさえた。あくびをしている。
「よく考えると、極めて危険な状況ですのね。明日、その辺をご案内しますわ。泳ぎに参りません?」
「いいですね」
萩生もうなずいた。
「ただし、昼すぎに願います。彼の授業のカリキュラムが組んでありますので」
「承知しましたわ、先生」
|悪戯《いたずら》っぽい口調でいい、背を向けた祐美へ、萩生はふと思いついて訊いた。
「お母さまは、明日、何時ごろ見えるのです?」
「さっき電話がありました」
と祐美はふり返って言った。
「昼前には着くそうです。お昼は一緒にと言っておりましたわ」
そこを曲がれば別荘の影が見えるという道の途中で、昌枝は車を|停《と》めた。
ハンドルを握る手がわなないている。
嫌悪と恐怖のためだ。
そう思った。思いたかった。
腰が熱いなどあり得ない。
熱かった。
濡れてなどいない。
パンティに|沁《し》み出しはじめていた。
ベージュのツーピースに|滲《にじ》まないか気になった。
ある光景が脳裡を占めた。
|喘《あえ》ぐ女体とその|呻《うめ》き声だった。
女は自分だった。
四三歳の女盛りの肉体が妖しく|蠢《うごめ》き、達しかけている。
昌枝はよく、性交時の自分を想像する。肉体には自信があった。肌の艶も張りも、四三歳で、二〇代の娘とひけをとらない。性遍歴も積んでいる。やや太さを増した腰も、豊かすぎる尻も乳房も、男をその気にさせるには十分すぎる年増女の|色《いろ》|香《か》に煙っていた。
昌枝は尻を抱えられていた。貫かれている。貫きながら、背後のやつ[#「やつ」に傍点]が動いている。秘所の奥に潜り込んだ肉棒が柔肉をこすり、そのたびに昌枝はくぐもった声を押し殺した。
背後にいる奴――誰だろう。
あの|夫《ひと》よ。|夫《おっと》よ。
秀麗な中年紳士の顔が浮かんだ。|口《くち》|髯《ひげ》の似合う珍らしい日本人。八ヵ国語を話し、真珠のような歯に食わえられたシガリロは国際人の|証《あか》しだ。セックス・アピールに満ちている。
あなたよ。私のお尻を責めているのはあなたよ。
昌枝は夢中で叫んだ。
汗まみれの自分の尻と背後のやつ。
背後の――夫。
その顔が、身体が急激に崩れていった。
駄目よ、駄目。|夫《あなた》よ、|夫《あなた》に戻って。私のお尻を抱いているのは|夫《あなた》よ。
ピンクの皮と肉が剥げ崩れ、その下から別の顔がのぞいた。
お尻は|夫《あなた》のものよ。
昌枝は絶叫した。
自分の声で我に返った。
ハンドルを握ったままの手がひどく痛かった。
しばらく動かずに待った。
指が動き出すまで三分はオーヴァーしていたろう。
ようやく意志の力で曲がってくれた。
一本ずつはがし、自由になった手で片方の指も解放した。
軽く|揉《も》みほぐし、ハンドルを握らせ、ギヤをバックに入れて、アクセルを踏んだ。
七メートルほど前方の森の中にかなり大きな茂みが潜んでいた。そこへバックで入れ、昌枝は車を降りた。
用意してある木の枝で車体上部を覆うと、車は見事にカモフラージュされた。
手をはたき、昌枝は森の奥へ進んだ。
気がつくと足取りは早まっている。あわてて、遅くした。激しい嫌悪が湧いた。自分は息子の病状を案じて駆けつけたのではないか。
昌枝が立ち停まったのは闇の中だった。それしかわからない。はじめて探す目標ではなかった。いつも通り、方角もわからず、ただ、行き方だけ[#「行き方だけ」に傍点]を心得ていた。
眼をつぶって二〇〇〇数えるまで歩けばいい。
ざわり[#「ざわり」に傍点]と木の枝が鳴いた。
樹木が震えているのだ。見えない。月は出ていなかった。
音のした方へ、昌枝は一歩進んだ。
木の幹が二本行手をふさいでいた。太さはふた抱えほどある。|隙《すき》|間《ま》の大きさは蟻がかろうじて歩める程度。迂回すれば、すぐ別の道に出る。
ざわり[#「ざわり」に傍点]と樹が鳴った。
昌枝の眼前で、二本の幹が左右にのいたのだ。昌枝の進行方向にそびえる他の木もそれにならった。
森が動いている。ひとりの熟れた人妻のために。
驚きこそしないが、昌枝の眼には感嘆の色がある。いつものことだった。
昌枝は歩きはじめた。慣れた歩き方であった。
一〇分ほどで、奇怪な建造物の前に出た。
巨大な石の角柱を組み合わせた入口のようなものである。
昌枝は背後をふりかえった。
樹々が移動し、重なり合って、石造建築物を人の目から覆い隠しているのだ。これでは本格的な伐採作業がはじまるまで、建造物は人の眼を|欺《あざむ》きつづけるであろう。それを見ても昌枝には何ら感動の気配がない。
無言で建造物の前に立った。
直立する石と石との間に|鉄《てっ》|扉《ぴ》がはまっていた。
昌枝が押すと、それは何の抵抗も示さず、彼女の腕をつけ根までめり込ませた。
ためらいもせず、昌枝は門をくぐり暗黒に呑み込まれた。
闇にも密度があった。押しのければ一部がちぎれ、穴でもあきそうである。昌枝は黙って進んだ。
前方に小さな光が見えた。懐中電灯らしい。
昌枝は足を早めた。
あと二、三十メートルというところで、電灯の光がふっと横に流れ、断ち切られるみたいに消えた。
昌枝は従った。
曲がった途端、そこだけが薄明るく見えるのは、天井から吊り下げられた二〇ワットの裸電球のせいである。
天井と床、左右の壁――すべてが石だ。すり減った石だ。広さはわからない。不快な匂いが鼻を刺激した。
薬品ならばこの世のものではなく、花ならば地獄に咲くものだろう。
昌枝の眼は、おぼろに見える四角い石に向けられた。
それと、その脇に積まれた布団の山に。
これから起こることを考え、昌枝は胸を押さえた。息が荒い。恐怖のためか期待のせいか、昌枝にはよくわからなかった。
柔らかいものが石床を叩くような音がした。
昌枝の身体が震えた。
音は近づいてきた。前から、後ろから、左右から。
昌枝は眼を閉じた。
「よく……来……た……」
と闇のひと隅が言った。
人間の音声を無理に発しているかのような声であった。単語そのものは人間界に属するが、発声器官が別種なのである。
「どう……して……いた……?」
声がもう一度訊いた。
「……わたしは……わたしは……」
意味もない返事を昌枝は震えながら繰り返した。
「久し……ぶ……りだ……来い……」
ぬるり、と足首に冷たい、柔軟なものが巻きついた。寒天に似ていると、昌枝は昔から思っていた。その実、触れた部分から、こらえようのない刺激が全身を駆け巡ったのである。
それは声となって唇を押し開いた。
あの[#「あの」に傍点]声であった。
一度放つと止めようがなかった。昌枝はそんな身体の持ち主だった。声を引き出すように、巻きついたものは、肉づきのいい脚を|這《は》い上がり、奥へと|辿《たど》っていった。
近づけば近づくほど性感は高まる。
昌枝の細胞が燃えていた。
足首からくるぶしを、膝を、|腿《もも》をぬらぬらと這い上がる感覚。男の舌など一〇〇〇枚集めても及ぶまい。
触れた部分から熱いものが|小《さざ》|波《なみ》のように八方へ打ち寄せ、|無《む》|垢《く》の肉体を許さない。
「あ……わたし……わたし……」
下半身の感覚が熱の中に失せ、昌枝はその場にへたりこんだ。
|蠢《うごめ》くものは、秘所を|覆《おお》うパンティの上をこすっていた。とっくに濡れている。布に|沁《し》み出した汁がこすられるたびに滲み出、|腿《もも》を伝わっていく。とめどがなかった。
蠢くものは、昌枝の機能が最も|昂《たか》ぶる強さと動き方をもっていた。
|嬲《なぶ》りだった。
「ああ……やって」
と昌枝は|呻《うめ》いた。
やめて、でもない。許して、でもなかった。
やって、だった。
それしか考えられなかった。
人妻の|矜持《きょうじ》など欲しくもなかった。やりたいだけの|牝《めす》に変わっていた。
「早く、ちょうだい……やって……突っこんで……」
「大……きくし……ろ……」
声が命じた。
「ふく……らませて……おまえ……の……手で入……れる……のだ……」
「入れたら、あれ[#「あれ」に傍点]をして……お願い……あれをして……」
「よか……ろう……」
昌枝は返事が終わらぬうちに行動を起こした。
右手でスカートをめくった。
生々しい腿がむき出しになる。食いこんだ三角の布切れが途方もなくエロチックだった。
脚に絡みつき、秘部にあてがわれているのは、|縄《ロープ》のような織り目をもつ白い蛇であった。
蛇のようなものであった。
それは闇から突き出ていた。
昌枝は左手でそれを掴んだ。柔軟でいながら、|鋼線《ワイヤー》のような硬さがあった。思いきり握った。
手の中に生ぬるいものが大量に|滲《し》み出し、指の間からしたたりおちた。
異臭が鼻をつく。それだけで昌枝の胸は白熱し、溶け崩れていった。
青黒い汁にまみれたそれを、昌枝は進んで含んだ。口のまわりが汚れた。構わず喉の奥まで入れ、頬をきつくすぼめた。
数度繰り返すと、それはゆっくりと太さを増し、昌枝は口を大きく開けねばならなかった。すぼめたまま口腔内を往復させ、軽く歯を立てる。フェラチオには自信があった。何度も夫をいかせたことがある。
「おお――ゥ」
と闇が|呻《しん》|吟《ぎん》した。
「どう? 気持いい?」
と昌枝は尋ねた。
「い……いい……ぞ」
自分以外の誰が聞いても本気かどうかわからない声に、昌枝はそいつ[#「そいつ」に傍点]も感じているのを知った。
口元に笑いさえ浮かべて、昌枝はパンティの脇からそれを突っ込んだ。
最後まで面倒をみる必要はなかった。そいつは昌枝の手を脱け出し、濃い茂みを押し分けて下降し、待ったなしで濡れそぼった秘所の口へ突入した。
ずるう、と潜りこむ快感に昌枝は声もなくのけぞった。喉元まで押し上げた叫びを必死でこらえる。口にすれば発狂しそうだった。一度そうなった[#「一度そうなった」に傍点]。すぐ治してもらった[#「すぐ治してもらった」に傍点]が、それ以来、よがり声だけは間一髪で押さえるようにしていた。
|内側《な か》のものは自在に責めていた。
「もう、もう駄目。もう、いいでしょ」
と昌枝は|喘《あえ》いだ。
「いいでしょ。舐めたわ、大きくしてあげたわ、あなたのちんぽ――早くして。あれをしてちょうだい。してくれないと、引きちぎってしまうから」
音もなく、昌枝の内側に数千匹の虫が溢れた。
そればかりか、脚全体にそいつらの|悪《お》|寒《かん》とうねくる感触が走ったかと思うと、まさに声を上げる暇もなく、全身が覆い尽されたのである。
昌枝の身体をくまなく覆い尽したのは、ぬらぬらした白い虫状のものであった。驚くべきことに、それはたった一本の蛇――昌枝の脚に巻きついたもの[#「もの」に傍点]から派生していた。
その白っぽい表面に、無数の小さな突起が生じ、それが内側から裂けると、新たな白虫が這い出て、女体にへばりつく。それ自体に吸着力がないものか、細っこい|絨毛《じゅうもう》みたいな体表面から例の青黒い粘液を放出し、その中を糸を引き引き這いずっていく様は、まともな神経の持ち主なら嘔吐せずにはいられない汚怪な眺めであった。
しかも、その分泌液自体に女体へ浸透し、うずかせる妖異な成分が含まれているものか、昌枝の身体はみるみるピンクに染まり、その感じやすい四三歳の肉の表面を這いずる|忌《いま》わしい虫どもの動きと相まって、彼女を一匹の色獣と変えてしまったのである。
昌枝の股間を貫いたものの動きを見るまでもなく、それは男根に等しいものであった。
見よ、昌枝の口にも耳孔にも鼻にも、分化したそれらは容赦なく入りこみ、思うさま汚し尽している。
そればかりか、うねくるたびに青黒い液を放出し、女のもつ穴という穴をいやらしい味と臭いで汚し抜くのだった。
「味……どう……だ?」
無限の濃さをもつ闇の彼方から、一本の、実は数万本の|管《くだ》でつながれた何者かが訊いた。声に情欲が含まれているところは、昌枝を感じさせるばかりではなく、自らも満足しているらしい。
問いと同時に、ふっと声帯が自由になるのを昌枝は感じた。それでも喉は犯されつづけている。
「いいわ……前より、おいしい」と答えた。
「味が……とっても……濃いわ。夫の精液……より……粘つく。……もっと飲ませて……口から……溢れさせ……て……」
「……よい……とも……」
まとわりついたものが、一斉にわなないた。
昌枝は|服《スーツ》を脱いだ。ブラとパンティは手をかける前に虫たちがはずした。
下の肉はとうの昔に征服されている。
熟れ切った肉の袋の上にも、下腹にも、尻の割れ目にも、肛門にも、虫たちは蠢いていた。
一匹が乳首に巻きつき、くびれた部分をこするように動いた。別の一匹が|鎌《かま》|首《くび》をもたげ、とがった乳首に近づくと、そいつは先端から二つに割れ、裂けた部分は膜のように広がって乳首全体をつつんだ。
それがすぼまり、しめつけると、昌枝は身をよじりもがいた。
意志ではない、身体の反応だった。
乳首を吸われている。
どこまで達するのか理解できなかった。
また[#「また」に傍点]狂うのかと思った。
「来……い」
猛烈な勢いで引き寄せられたときも、昌枝は忘我の極みにあった。
青黒い液をとばしつつ虫たちは離れた。
汚液に染められた肩の肉を白い蛇が捉えた。待ち構えていたように。ぬらり、と。
|易《やす》|々《やす》と、昌枝は担ぎ上げられた。
「早く……あなた[#「あなた」に傍点]早く……」
自由になった口で叫んだ。
そのたびに、唾と青黒い液がとんだ。
全裸の女体が敷石の上に横たえられるとすぐに、何とも巨大な黒影がのしかかってきた。
大蛇がとぐろを巻いたような形だった。
3
朝になっても、使用人たちの様子に異常は見られなかった。
演技ではない。
前夜の怪異を連想させる雰囲気は皆無といえた。
記憶を失っているのだろう。それが自発的なものか、他者の強制によるかが問題だった。
朝食が済むと三〇分ほど間を置き、萩生は授業にとりかかった。
昨日の出会いで鞭馬の大よその学力はわかっていたものの、もう一度、だめ押しのつもりで簡単な質疑応答を行った結果、驚くべき事実が判明した。
この若者の知識、理解力は、ほとんど全ての分野で、並みの大学生ばかりか、教師的立場の人間のレベルを上廻っていた。
物理学、数学、言語学、歴史は言うに及ばず、動植物を含むあらゆる生物、天文、考古学に関する学識の豊かさは、実施調査に赴いた天才学者の観察に裏づけられたもののようであった。少くとも、萩生の知識内にある事柄で、彼のそれと抵触する部分に間違いはひとつもなく、これ以上突っこんではやぶ蛇になると、萩生自ら話題を変えることもしばしばであった。
何より萩生を驚かせたのは、彼独得の美学に関する理解で、天才にありがちな数学的美への賞讃を、鞭馬は冷笑した。
「この世界の可能性を奪う最大の要因は、宇宙の大原理すべてを支える物理法則と数学を、人間の理解内で完全と見なしてしまうことです。一足す一が二と教えられた子供たちは、広大無辺な世界の|閃《ひら》めきすら見ることもなく、あくまでこの世界の俊英に留まることでしょう」
「その通りだ。だが、その回答が三になる世界を知ることは、今の人間に、必ずしも幸運を招くとは限らない」
萩生の答えに、鞭馬はのけぞって笑った。
「何を言い出すかと思えば、先生――あまりがっかりさせないで下さいよ。この世の幸運とはどんなものか、それをつきつめて行ったら、真の知識人は発狂してしまうでしょう。戦いをいけないと言いながら、人は何故、それをやめないんです? 何故、戦争を繰り返し、数多くの人命を失い、嘆き悲しみながらも、一〇年もたてば新たな惨劇を繰り返すのですか? 自分の肉親を殺害されれば悲しいと知りながら、他人にもそうすれば地獄の苦しみを味わわせるとわかっていながら、どうして、戦場で人を殺すのです。世界がそれを支えているからですよ。人間は幸運が嫌いなのです。彼ら[#「彼ら」に傍点]の構成原子を支える一足す一イコール二の絶対法則が、実は狂っているからですよ」
「時間は均質ではないそうだが」
と萩生は低い声で言った。
「物理法則もまたそれに従うのかもしれん。君は、その新らしい法則を学びたいのかね?」
「どうでしょう?」
鞭馬はにやりと笑った。
「それは今のところ内緒にしておきましょう。先生との友情を壊したくないのでね。それより、授業に入りませんか?」
手にしていたクーベックの量子占星法のページを閉じ、萩生はじっと教え子の顔を見つめた。
「正直にいおう。私が君に教えられることは何もない。人並みな見栄さえなければ、私が月謝を払って教えを乞いたいくらいだ」
「それは困ります」
「君の望みは何なのだね、矢切君?」
萩生の眼が光ると、若い口元から老人のような冷笑が消えた。
右手が肘掛の上で動き、|自動椅子《オート・チエア》は音もなくテーブルをはなれて、いちばん奥の本棚に近づいた。
「ごらんなさい」
と彼は白い指を上げて、何千年前のものとも知れぬ、すり切れ、汚れた背表紙の大群を示した。
「聖アウグストゥスの『闇の注釈』、カルヴィンの『正しからぬ数学』、トマス・アクイナスの『われらの後につづくもの』、プラトンの『第二アトランチス』、まだある。ウィルヘルム・ライヒ『あなどりし者たちの失楽』、ジグムント・フロイト『バーナビイ氏の記録』。スノッブどもが喜びそうなのはこっちだな。――マルクス/エンゲルス『霊廟論』、デカルト『陰陽保証訳議』、ボーダン『バビロン伽藍伝』、ヤンセニムズ『黒い雨蛙の死』……|信奉者《シ ン パ》どもは、どんな顔をすると思います?」
萩生の返事を待たず、鞭馬の手は動いた。偉人たちの|遺《のこ》した暗黒界の書物は激しい音をたてて床に散らばった。
「暗黒を知る知性をもちながら、俗世の光明と名誉に身を売った愚者の|徒《あだ》|花《ばな》――ペンごときで記したものが、何の役に立つ」
火を吹くような声音で言い放ち、鞭馬は萩生の方を向き直った。
顔形はそのまま、中身が変わったようであった。
肌寒さを萩生は感じた。室温と空気の流れに異常が生じている。
原因はひとつ――鞭馬だ。きれいに分けた髪は逆立っていた。
「必要なものは、|黴《かび》臭い魔道書でも、虫に食われた魔方陣でもない。確固たる現実だ。望むなら、いま、それを見せてやろう」
双眸が血光さえ放って萩生に突き刺さった。
時すら凝結したような一瞬、鞭馬の手が上がり、停止した。
冷笑が萩生の視界を埋めた。
束の間の狂気など冗談だとでもいう風に、鞭馬は穏やかに一礼した。
「知識より、先生に教わりたいことはまだあります。ところが、僕自身、それが何なのか、具体的にわからない。明らかになるまで、ご休憩なさって下さい。姉も先生が気に入っているようですし」
「ありがたいことだな。私は世界一しあわせな教師だろう」
「皮肉はおよしなさい。時間の無駄と品性の下劣さを示すだけのものです。世界が生み出した害毒のひとつですよ」
「もっともだ」
萩生は肩をすくめて言った。
「授業が終わったのに申し訳ないが、時間があれば二、三質問に答えてくれないかね?」
「結構です」
「この家へ着く寸前、地震が起こった。よくあるのかね?」
「ええ。ここのところ多いですね。週に二回は必ず。海辺の村の連中は、大津波の前兆ではないかと脅えています」
「いつから多くなった」
「ひと月くらい前からでしょうか」
「二年前からではないかね?」
鞭馬が首をかしげた。
「さて、どうですか?」
「二年前、君はこの別荘の地下で足を滑らせ、不幸なことになった。今回も場所こそ違え、階段での事故だった。その椅子は役に立たなかったのか?」
「見かけ倒しのボンクラ椅子でして」
鞭馬は平手で椅子の肘を叩いた。
「坐わり心地がよさそうだ。一度、乗ってみたいものだな」
「いいですよ。ただし、僕がどかなくちゃなりません。抱いていってくれますか?」
妙に人間くさいユーモアだった。
「姉さんがよかろう」
と萩生はいなした。
「姉はいやがります。昔から、僕に触わるのも嫌悪していました」
萩生の脳裡を、|昨夜《ゆうべ》の祐美の横顔が過ぎた。姉は過去を懐しいと想い、弟は嫌悪のひと言で飾った。どちらも正しいのだろう。
「それより、僕は先生の特技が知りたいのです。MITを途中でやめられたのも、それが原因とききました。空間転移の研究はどのくらい進められたのです?」
何気ない本題への入り方だった。
萩生は無表情を崩さなかった。教師と生徒の、これは静かな闘いと言えた。
「これでも、民間の調査機関を雇ってかなり詳しく調べさせてみたのです。当初、MITの中枢部も超常現象研究科に好意的な姿勢をとっていました。例えば一九七×年、設立当時の援助金は二万ドルです。各科平均援助額が二七八〇ドルという時点で、これは破格にすぎる。翌年が三万ドル、次の年が四万五千ドル、先生が卒業後、講師として教鞭をとられた年は、何と一〇万ドル――よく、他の科の主催者から狙われなかったものですね。――それが、先生が退職された翌年は一〇〇〇ドルにまで下げられている。明らかに学校当局のいやがらせでしょう。つまり、彼らは、先生の研究、しいては超常現象研究科の存在を危険なものとみなした。単なる役立たずなら、平均的な援助を与えたでしょうからね。ましてMITは他大学以上に、学生の自治と当局の不干渉を看板にしている場所です。石もて追われるには、理解しがたい理由があるはずと思います」
「…………」
「空間転移――すなわち多重空間の移動ないし合体は、今なお単なる物理現象の一環とみなされてきました。その枠内に留まるならば先生の研究も中世の魔術扱いされずともすんだはずです」
氷塊のような瞳に、先刻の狂気とも異る熱いものが噴き上げた。
「先生、空間の向うには何があった[#「何があった」に傍点]のです?」
昨日につづく二度目の質問だった。
過去が稲妻の|閃《ひらめ》く早さで|甦《よみがえ》り、萩生の記憶を奪った。
あの、辞職願いを出す前の晩に目撃したもの。
空間の交差を示す歪んだ霧状の像の中で、じっとこちらを見つめていたものたち。
ロープのごときものが一斉にのびてきたときの恐怖。
転移空間における移動速度は、通常空間のほぼ五分の一となる。初心者のボーモント教授はそのさらに三分の一。必死で移動する背に「気配」だけがあたった。
そして、彼らは戻った。
持ち帰らずともいい土産を|携《たずさ》えて。
ボーモント教授の自殺はそのせいだったろうか。
あのとき――
ブザーの音が萩生の気をそちらへ向けた。
テーブル上の電話がけたたましく叫び、取り上げようと近づいたとき、音は鞭馬の椅子に移動していた。
肘の外側に組み込まれていたスマートな電話器を取り上げ、うむうむとうなずき、数秒後に受話器を戻して鞭馬は言った。
「母が着きました。また、おあずけですね」
「やむを得ん。短いつきあいだったな」
驚きの表情が鞭馬をかすめた。
「どういうことです?」
「私は今日、ここを|発《た》つ」
「待って下さい。僕があなたのことを調査したのは、母からおききになっているはずです」
「それは関係ない。――だが、やはり、来るべきではなかったな。生徒は天才、状況がつまらんことを|憶《おも》い出させるとなれば、能無し教師としては、早々に|尻《しっ》|尾《ぽ》をまく方がよさそうだ」
「待って下さい。先生には居てもらわなければ困る」
「ひとつ、いいことを教えよう」
ドアの方へ向かいながら、萩生は静かに言った。
「私は今でも夜半に悲鳴をあげてとび起きる。――塾の教師が似合っていたようだ」
萩生の手がドアのノブに伸びた。
カチリという音がした。
ノブは動かなかった。
萩生は肘掛けにもたせかけた鞭馬の右手をみた。指がパネルの一部に当たっている。椅子がコントロールできるのは、自らの動きだけではないのだ。
「窓もかね?」
返事の代わりに、ドアと同じ金属音。
カチリ、と。
「籠の鳥か? ――私と遊んでいる間に、お母さまがやって来るぞ」
「この椅子は特注でして」
と鞭馬はやや嘲笑気味に言った。何かが光条を引き、ドアに突き刺さった。それは一本の針であった。かすかに震える銀線を見、それから萩生は張本人に眼を向けた。針から数センチと離れていないところに、彼の腰があった。
「今のは高圧ガスの力で射ち出す鉄針にすぎません。その気になれば、もっとヤバい仕掛けがいくつもあります」
「試してみたらどうだ? 私は無抵抗に準じる」
もう一度、何かが空気を灼き、針は萩生の|頸《くび》すれすれの部分で震えていた。萩生は動こうともしなかった。
その眼がひかりはじめたのは、鞭馬の身体から放たれる途方もない殺気のせいであった。
途方もない? ――いや、再び部屋の空気は|凍《い》てつきはじめたのである。
この凄まじさより、異質さを萩生は感じとったのだ。
「先生――」
と鞭馬は、どこか苦しそうな声で言った。この場に及んで、深い悩みを|憶《おも》い出したかのように。
「早く身をかわして下さい」
言うなり、右手が動いた。
数条のかがやきが、萩生の額と喉を貫き、ドアの表面に音をたてた。
「気が済んだかな?」
端の一本から数ミリの位置で、萩生はため息をついた。針を見て言った。
「最後にひとつ言わせてもらおう。――君は何者だ[#「君は何者だ」に傍点]?」
鞭馬は答えなかった。氷の眼が萩生を見据えていた。
それもじきに下方へ下がり、萩生は部屋に|木《こ》|魂《だま》す金属音を聞いた。手の中でノブが回転した。
萩生は音もなく廊下へ出た。針は追ってこなかった。鞭馬の方を見たい気もしたが、わずかな意志がそれを妨げた。
第三章 影が来たりて
1
部屋でスーツケースに荷物を積めていると、祐美がやってきた。
「母さん、びっくりしてました。なんとか、思いとどまってもらえないかと……」
昼食の席で帰京すると告げたときの、昌枝の動揺を萩生は憶い出した。
「それであなたが特使ですか? 決心を鈍らせないでいただきたい」
「萩生さんは、鞭馬が選んだ方ですもの」
祐美もすがるように言った。
「あの子、とっても怖いところがある子。自分でも、それを知りながら、どうしていいかわからず悩んでいるのです。わたしにも父にも母にも、どうしてやることもできませんでした。どこか、違いすぎるんです。あの子は私たちの知らないことを知ってしまい、それをもて余している風です。それを片づけ[#「片づけ」に傍点]ない限り、打ち明ける相手がいない限り、あの子の悩みは終わらないでしょう。萩生さんだから申し上げますが、あの子は、十八年間、少くとも私の前では家族以外の人の名を口にしたことがないのです」
萩生は黙ってスーツケースの蓋を閉め、窓の外に眼をやった。早く出て行きたかったが、ドアの方には祐美がいるのだった。眼には涙がたまっているかもしれない。
「事情は説明したはずです。私には家庭教師として、矢切君に教えることは何もありません。それがない以上、寄食者になります」
言いながら、萩生は本当のことだろうかと思った。あの実験。迫ってくる忌わしい|紐《ロープ》状のもの……
「あの子は自分の実力を知っている子です。それがあえて萩生さんを指名したのには、自分より|秀《すぐ》れた方だという認識があるからだと思います。萩生さんは、すべての面で、あの子にぶつかって下さいましたの? あの子はあの子なりの悩みがあるのです」
「そうかもしれませんね」
萩生は言った。疲れた声であった。奇妙な教え子も悪夢に脅えているのかもしれなかった。あの召使いたちの儀式……。逃げるなら今のうちだ。
「あなたはこの別荘に残るのですか?」
と訊いた。
「鞭馬が東京へ戻ると言い出すまではおります」
萩生はうなずいた。祐美ではなく、自分自身に。
「戻られるときは私がお送りしますよ」
と彼は言った。
近づいてくる祐美の気配にも、彼は夏空を見上げたまま動こうとしなかった。熱い肉が背にもたれかかり、花のような声が、
「残ってくださるのね……よかった……」
と流れたとき、ようやく「この馬鹿野郎が」と低く低くつぶやいた。
すぐに祐美は離れた。
「あの、もしも今日、お時間があるんでしたら、泳ぎに参りません? 車で七、八分も走れば、人の少い海岸があります」
祐美の言葉通り、海辺には人影が少なかった。少し沖に出ると潮の流れが急になるせいだという。
猫の額ほどの砂浜と海中を合わせて三〇人に満つまい。
道路から浜への降り口に車を止め、祐美はバス・ローブを脱いだ。
萩生が驚くほど大胆な細いビキニの下で、豊かな肢体が陽光をはね返した。
「先に行ってますね」
笑顔とゆれる乳から眼をそらし、萩生はうなずいた。
祐美はこちらを向いて手をふりつつ、砂浜を駆けていく。周りの連中の視線がバストやヒップに集中するのを、萩生は苦笑して眼で追った。
やがて立ち上がり、砂浜へ降りた。泳ぐつもりはないから、ポロシャツと綿パン姿だ。靴だけは別荘のビーチ・サンダルに変えている。
祐美は波打ち際で水を浴びていた。
萩生が泳がないと断わってあるためか、一度手をふったきりで水へ入った。
白い牙を|剥《む》く波を、萩生は立ったまま見つめていた。
祐美は鮮やかなポーズで波を切っていく。
「あれ、あんたの連れかい?」
いつの間にかそばへやってきた若者が訊いた。
「ああ」
「大したもんだ。|河童《かっぱ》なみだな」
「人魚より早いかもしれん」
若者はおかしな表情で萩生を見つめた。とまどった笑いを頬にこびりつかせる。冗談を言っていると思ったのだ。
月輪鮮やかなアラフラ海の真ん中で、甘い歌声を響かせる半裸の美女と萩生は対面していた。腰から下が鱗と魚の尾で覆われていたのは言うまでもない。捕獲し、MITの地下にある貯水タンクに棲家を与えた。
三ヵ月であらゆるデータが揃った。巡航速度は海面で約四〇ノット(七四キロ)、海中で五二ノット(九六・三キロ)――上半身が人型でありながら可能なこのスピードは、下半身の鱗がもたらすものである。一見、単なる魚類の鱗と同一にみえるそれは、実は極薄の三層皮膜からなり、海水はすべて膜間で流体変化を起こし、猛烈な勢いで彼方へ噴出される。人魚とは、実は最も生物工学的なメカニズムを備えた海中ロケットに等しいのだ。
祐美は三〇メートルほど沖へ出ていた。
萩生をふり返って手をふり、泳ぎ戻ってくる。
そのとき――
かすかな震動が足の底から伝わってきた。
動揺が海水浴客たちの間を走る。
「地震だ」
「津波がくるぞ!」
波打ち際へ走るものと道路の方へ退避するものが交差し、どっと、凄まじい揺れが襲った。
人々が次々に倒れ伏していく。
萩生も膝をついた。
鈍い音が背後で湧いた。道路のアスファルトが蛇みたいにうねり、海水浴客たちの車をはねとばした。崖に亀裂が走った。あっけなく岩盤が崩れ、車を押しつぶしていく。
萩生は祐美に眼をやった。
陸地の惨状に気づいたのか、ピッチをあげている。津波の恐怖も無論あるだろう。他の連中を引き離し、みるみるトップに立つ。
その身体が不意に沈んだ。
萩生の眼が光った。
黒い頭が浮かび、すぐまた見えなくなった。足がつった[#「つった」に傍点]のとも違う。まるで、何かに引き込まれるような……
同時に、萩生の姿はかき消えた。
驚きより、安堵が祐美を包んだ。
唐突に萩生の手に抱きすくめられていた。
「どうした?」
服を着たまま彼は訊いた。
「何かが――足を!?」
叫んで水を呑んだ。
萩生は息を吸いこみ、水中へ潜った。午後の陽光がさしこむ白い水中に、何か怪しげな影が蠢いていた。全身のふしくれだった、紐の塊のようなものであった。
その身体のどこからか流れた触手のような一本が祐美の足首を巻いていた。
萩生はそれを掴んだ。
ぐにゃりとしているくせに|鋼線《ワイヤー》の強さを備えていた。
身の毛もよだつ|悪《お》|寒《かん》が手の平から走った。
祐美の身体が|痙《けい》|攣《れん》した。
次の瞬間、二つの身体は陽光を浴びていた[#「二つの身体は陽光を浴びていた」に傍点]。
海岸へ戻るまで数瞬を要した。
砂浜へ祐美を横たえると、四方から海水浴客が集まってきた。地震はおさまったらしい。
「大丈夫かね?」
「あんた、服脱いだ方がいいよ」
「人工呼吸をしてやろう」
申し出に、萩生は首をふった。水びたしになりながら、シャツを脱ごうともしない。祐美が自力で上体を起こすのを見て、男たちも提案を引っこめた。そのうちの何人かが、祐美の身体に触れたかっただけなのは明らかであった。
「どう……した……の、一体……?」
祐美が|虚《うつ》ろな声で訊いた。
「君こそ、どうした? 溺れかかったのかね?」
萩生が前を見たまま訊き返した。二人が移動[#「移動」に傍点]したのは、萩生が彼女のもとへ駆けつけて[#「駆けつけて」に傍点]数瞬後のことである。奇怪な縄に足首を絡めとられてはいたが、まだ水も呑んでおらず、意識も正常だった。それがいまは、記憶すら定かならぬ状態らしく、よほどあわてたのか、豊かな胸を激しく起伏させて|喘《あえ》いでいる。
おかしなことに、祐美の頬は、いや、全身が上気していた。どうみても情欲によるものだと知って、集まった何人かが生唾を呑みこんだ。|清《せい》|楚《そ》な美女が、突如、妖艶な牝に変わったかのようであった。
「わからない……足を掴まれた途端、急に何もかも遠くなって……」
「海の中か……」
と萩生はつぶやいた。
「|昨夜《ゆうべ》の儀式の形態はわからんが……水という概念を理解している奴とみえる」
そのまま、荒い息を吐く祐美を介抱するでもなく、彼は打ち寄せる波の方を見つめていたが、ようやく肩の力を抜いた。
「歩けるかね?」
「ええ」
立ち上がり、車の方へと斜面を昇っていく二人を誰も停めなかった。
ようやく、海水浴客たちにも、彼らの眼に映じた怪異な現象を|反《はん》|芻《すう》するゆとりが生まれたのである。
溺れかけた恋人を男が救った。それだけの話である。だが、彼らには、恋人を抱きかかえた男が、映画の特殊撮影でもみるかのように、海上で消滅しては姿を現わし、数瞬のうちに三〇メートルの距離を渡り切ったとしか思えないのであった。
地震とおかしなカップルに、泳ぐのも薄気味悪くなったか、やがて彼らも荷物をまとめ、三々五々と散っていったが、このとき、波打ち際に立ってみれば、溺れかけた恋人を救った男が、ろくすっぽ介抱もせず、海の方を見つめていた理由に気づき、総毛立ったろう。
新たな犠牲者を求める海魔の指の一本か、蛇を思わせる白い紐がうねうねと砕ける波の下を這い、無念げに先端をくねらせると、深く暗い波頭の奥へ身を引いていったのである。
2
屋敷へ戻るとすぐ、萩生は鞭馬の書斎へ入った。先生ならということで、電子|鍵《キイ》を与えられていたのである。
ここで彼が集中的に読んだものは、古来より伝わる悪魔招喚法を著述した|黴《かび》臭い書物と最新の空間場理論の論文であった。
そのほとんどは過去に読破したものであり、ページをめくる手もおざなりだったが、空間形成理論を扱ったものとなると、俄然、眼に光が|点《とも》った。
夕闇が迫る頃になっても萩生は下へ降りず、心配してのぞきに行こうと言いだした昌枝を鞭馬がとめた。
「でも……おまえ……」
「大丈夫。あの先生は僕の授業より、自分の研究に熱心なのさ」
皮肉な笑みの表現するものの中には、妙に人間じみた期待が含まれていた。
夕食の席にも萩生は現われなかった。
今度は祐美が青ざめた。
「ねえ、鞭馬、見てきたら?」
「まだまだ」
彼が首をふり、話はそれで打ち切られた。
萩生が最後の一冊を閉じたのは、窓から弦月を鮮やかにのぞむ夜半をすぎてからであった。
「やはり、これだけでは重合は不可能だ」
彼は月光に眼を注ぎながら本の表紙を指先で叩いた。白い光が、深夜禁断の実験にふける孤独な科学者のように、その顔を冷たく見せていた。
「あいつ[#「あいつ」に傍点]は間違いなく同じもの[#「同じもの」に傍点]だった。空間の均質性を考えると、こちらへ招く手段も同じでなければならん。おれは術を使ったが、ここの一家はどうやった?」
椅子に深々と腰をおろし、萩生はあらゆる可能性を検討した。
それは、世界と世界とを重ね合わせる可能性だった。
工学的知性のメッカ・MITでの研究成果が、あらゆる機械的人工的可能性を排除した「術」によるものだったのは皮肉という他ない。
それ[#「それ」に傍点]を成就させるための根本原理が一種の執念である以上、MITの|PP《サイキック・パワー》検出器で、強度のみならず成分まで分析は可能だったものの、異質な空間を|恣《し》|意《い》的に重ね合わせるためのパワー変質には、計測不可能な古来の品々が必要であった。
魔方円、三角陣、その三つの頂点に|滴《したた》らせる三羽の鳩の血潮、重合を知らせる死人の眼球――これらは、いまだ科学が明らかに出来ぬ「役割」をもった品である。
純粋に科学的であるべき空間重合の実験にこのような“伝説”を使わねばならないことが、萩生とボーモント教授の悲劇といえた。
多層空間理論における二世界の重合とは、|多元宇宙《パラレル・ワールド》そのものと重なる。
世界の数は無限であり、そのすべてが同時に重なり合って存在するのである。空間固有の性質が異るため、互いに感知することはできないが、一種のパワーによって視覚的認識ばかりか、物理的接触も可能となる。
ある人々がその方法を知っていた。
萩生の研究によれば“共空性”とでも形容すべきものが特殊な人々には備わっている。多層空間の感知が可能な能力をもつ人々が、悪魔や妖怪を伝えたのかもしれない。
萩生とボーモント教授がすべての用意を|了《お》えたのは、一〇年前の五月二×日である。
MIT留学以前から、萩生は自分の能力に気づいていた。
子供時分の彼は、時折り、現実のものと重なって、幻のように、あるいは鮮明に、|異形《いぎょう》のものを見ることができた。|癲《てん》|癇《かん》の発作を起こしやすい神経質な子供と見られたのも、彼の観察に気づいたそいつら[#「そいつら」に傍点]が、夕食の席で、勉強中の部屋で、前触れもなく襲ってくるためであった。
それでも正気を保っていられたのは、幻視能力にそれに対する一種の耐性が付与されていたからであろう。
青年期に入り、異形幻影は鮮明度、目撃回数を徐々に減じていったが、萩生の追求熱は青白い炎を噴き上げて燃えた。未知の恐怖に脅えるより、その正体を探るこころを彼は備えていたのである。
神秘学の書籍は言うに及ばず、暇をみてはあらゆる超常現象の現場に足を運び、異界との接触を試みた。
萩生の視点は、異形の世界とそこに棲むものを、純物理的な存在と見なすことに集約された。霊的な存在とは一線を画する別世界の――その世界なりの血肉を備えた――生物にすぎないとすれば、接触は同次元の手段で可能となる。
宗教大学への進学を一転、国立の工学部へ変えたのもこの理解ゆえであった。
幻視とともに有するもうひとつの資質、神秘学と先端工学への驚くべき才能は、その情熱と相まって、MIT留学への道を|拓《ひら》いた。電子工学の|碩《せき》|学《がく》にして神秘学研究の|泰《たい》|斗《と》ボーモント教授の協力を得、大学当局に、およそ不釣り合いなサークルの誕生を認めさせたのも、その熱意と実力に負う。
事実、二人の実験と研究はMITにとっても特筆すべき様々な成果をあげた。悲運の天才ニコラ・テスラの世界システムを、空間連接という形で可能にする理論的基礎の確立、理論のみに終わったハーカッシュの超電導の具体的成功etc――MIT首脳部を狂喜させたこれらの内でも、最も注目を浴びたのが、瞬間空間移動――すなわちテレポーテーションの実現であった。
自らの意志に従い、実質上の移動時間を要さずあらゆる場所へ出現可能なテレポートへのアプローチは、一九四〇年代から有力な大学・研究機関で行われていたが、萩生とボーモント教授のそれは、従来考えられてきた移動物質の原子分解とその移動、再構成という形ではなく、重合した異空間内における同時存在を可能にすることによって、一九七×年初頭ついに実現された。
あらゆる宇宙が重なり合って存在している以上、人間はその属する空間の固有性――この上なく|強靭《きょうじん》な檻を突破することにより、別空間へと転位する。この時点で物理的時間も新空間に適応されるため、当初の空間において、被験者の消失から再度の出現までに要する時間は、文字通りゼロとなる。被験者は、他空間での時間経過のみを感じながら移動し、本来属する空間へ戻ることによって、文字通りの|瞬間移動《テレポート》がなされるわけである。
無論、移動地点の選択は難かしい。チベットのラマ僧が一瞬のうちにインドへとばされたり、エスキモー村が丸々消失したりという有名な超常現象は、この制御が不可能な|故《ゆえ》の事故である。古くはテネシー州の農夫デヴィッド・ラングの消失、今日では、昭和三〇年代における走行中のトヨペット・クラウン消失と枚挙にいとまがない。
萩生とボーモント教授は、禅やヨガの精神鍛練法を大幅にとり入れ、辛苦の果てに、ついに、出発地点へのみ帰還し得る能力を身につけた。
そして、問題の晩、最後の実験にとりかかったのである。
今なお、MITの極秘書類保管室に眠る萩生の同僚、アーネフト・スキナーの手記によれば……
「私は|時間記録《タイムレコーダー》係を務めていたので、よく覚えている。二人は午後九時一一分三〇秒きっかりに、超常現象研究室の南の壁へ歩き出し、同時一一分四九秒にこちらを向いた。
一一分五二秒。二人の姿が薄れ、二重露光のごとくだぶって見えたのである。思うに、彼らの言い分を正しいとすれば、出発と帰還は同時であり、その二重像は、当然生ずべき姿勢の変化によるものであったろう。
成功とも不成功ともわからず、私が近づく前に、二人はその場に倒れた。実験の疲労によるものと思いこんだ私を迎えたのは、凄まじい恐怖にひきつったボーモント教授の形相と、半ば失神状態で息をついているハギュウの姿であった。
今日にいたるも、二人に何が生じたのか私にはわからない。ただ、これだけは言える。私が近づいたときのボーモント教授の脅えよう、あれは芝居ではあり得ない。
私の顔に何を見たのか、教授は人間の喉から出せるとは思えぬ金切り声をあげ、立つこともできぬ疲労|困《こん》|憊《ぱい》した身体でもってなお、必死に後じさったのである。後日、コンクリートの床にはそのときの爪跡が発見された。
萩生の方は、常日頃の評判通り、より豪胆な性質を示し、自力で起き上がったばかりか、脅え切った教授をなだめ、肩を貸して椅子へと連れ戻る余裕があったが、その彼でさえ、顔面は蒼白となり、全身が震えて、私と口をきくまで三時間の|時《とき》と半リットルのウイスキーを必要とした。
実験が成功したのか否か、あるいはどのような成果を収めたのかはひと言も語らず、その話をもち出すと二人とも身の毛のよだつような表情を浮かべるため、これ以後もついに、断片なりと訊き出すことはできなかった。
ただ、萩生のみが、部屋を出る際、ひと言、
『警告せねば』
と洩らしたのが非常に印象的であった。
誰に、何を告げるのか?
後日、萩生が講師の職を辞し、超常現象研究科が廃止されたところをみると、彼の相手は大学当局であったかもしれない。萩生と親しい同僚のひとりによると、彼は最後まで何かに脅え、その不屈の精神力をもってしても、発狂を押さえるのが精一杯で、恐怖そのものはついに克服できなかったという。
彼と教授の遺した実験記録やノートはすべて破棄された。
殊によると、私のこの手記も人目に触れることはなく、抹消されるかもしれない。
萩生と教授の実験は成功したのではなかろうか。
彼らはそこで何かを見た。
昔は知りたくて眠れずに過す晩もあったが、今は、すべて不明のまま落ち着きつつあるこころに、私は安らぎを感じている。
ボーモント教授はついに、あの晩以前の彼に戻れなかった。教壇に立ってはいるし、前と変らぬ笑顔も見せるが、彼は笑いながら死んでいる。胸の|裡《うち》は地獄の炎に|苛《さいな》まれているのだ。近い将来、我々は疑いなく彼の|訃《ふ》|報《ほう》をきき、哀しみよりも、天へ召された喜びに胸をなでおろすだろう。
けだし未知なる領域も、触れてはならぬものと、そうでないものとにわかれるのであり、彼らの勇気と才能とが向かっていった場所は、不幸にも前者であったのだ。
一九世紀の迷信的科学者のような言葉でこの手記を閉じるのは、はなはだ遺憾であるが、真の探究者を待ちうける結末とは、永遠にこのようなものであるかもしれない。
[#地から2字上げ]一九七×年七月一四日
[#地から2字上げ]工学部
[#地から2字上げ]助教授 アーネフト・スキナー」
月光のさし込む書庫で、萩生が額に|拳《こぶし》をあてて考えこんだとき、背後のドアが音もなく開いた。
人影が入ってくる。足音を忍ばせていた。萩生は背を向けたまま動かない。神経はすべて、頭脳の活性に廻っているのであろう。
影の右手が上がった。
ハンマーを握っている。木の|柄《え》の端で、平たい瘤状の鉄塊が月光をはね返した。
距離は三メートル。萩生がふり向いた。
その瞳が驚愕に見開かれるより早く、影の右手が動いた。
ぶん! と空気が鳴る。
次の刹那、影の喉は激しく圧迫されていた。
それが萩生の腕だと知ったのは、網膜の残像が完全に消滅してからであった。
「確か――鹿間くんだったな?」
腕の中でもがく口髯の執事に、萩生は呼びかけた。
「私はこれでも合気道と柔道の心得がある。締めおとすのは簡単だが、大人しく事情をきかせてもらいたいものだ」
鹿間の力がすっと抜けた。
萩生に油断が生まれた。
わずかに喉への圧迫がゆるんだとき、鹿間は|脱《だっ》|兎《と》のごとくドアへ走った。
一気に廊下を疾走し、非常階段へ出る。
裏庭へ向かった。地面の影もせわしなく走った。
森の中へ入る。
ほどなく、前方にあの奇怪な石の構造物が見えてきた。
ひょい、とすぐ前の松の幹から、萩生が姿を現わした。
男が硬直する。
あり得ない現象であった。あまりの奇怪さに、鹿間がふり向いたほどである。
「驚くのは私の方だよ。このくらいのこと、おまえたちのご主人には朝飯前だろう。本当のご主人にはな」
「……貴様、何者だ? ……」
鹿間がうわずった声で訊いた。
「しがない家庭教師さ」
萩生は|昏《くら》い声で言った。
「この石が奴の棲家への門か。遺しておくとは、また不用心なことだ」
「そうでもないさ」
鹿間の背後から声が上がった。
いつの間にか二つの人影が立っているのに、萩生は気がつかなかった。
別の執事――別荘へ到着したとき、椎名と名乗った男だった――と小田みゆきという若い女中が肩をならべていた。椎名は猟銃を構えている。
「彼の役目は、ここへおまえを連れてくることだ。ひっかかったな」
椎名の声に、みゆきが嘲笑した。
「ほんとうに、たやすく。でも、御用心――おかしな力を持っているわ」
「どんな力だろうと、猟銃に勝てるかな?」
椎名は問いかけるように言った。
「さ、まっすぐ歩け。門をくぐるんだ」
「ほう、これはありがたい。ご主人にお目通りが|叶《かな》うとはな」
「…………」
「ところでひとつ訊きたいのだが。おまえたちは人間か? それとも人間の皮をかぶっているだけのものか?」
二人が顔を見合わせ、にっと笑った。
「歩け」
と椎名が銃身をふった。
3
猛スピードで非常口へ走る鹿間を、萩生のもとへ訪れた昌枝が目撃していた。
只ならぬ気配に、鞭馬へ知らせようとかたわらのインターフォンへのばした手を、ぐいと横合いから掴んだものがある。
「いけませんな、奥さま。あれしきのことでおあわてになっては」
「お前は――島田!?」
「左様。今は、あの方[#「あの方」に傍点]の代理をもって任じております。――いらっしゃい、こちらへ」
「離して」
老人とは思えぬ恐ろしい力で、昌枝は客室のひとつへ連れ込まれた。
ベッドへ押し倒され、そむける暇もなく唇を吸われた。
「――何をするの?」
「代理と申し上げたはずです。奥さまを喜ばせる役もまた」
昌枝には信じられなかった。彼女が嫁ぐ以前から矢切家に仕えていた老執事である。皺ばかりが深くなってゆく顔に、人間らしい慈味と深味を昌枝は感じていた。
それが、いつの間に――
それも、あいつ[#「あいつ」に傍点]の……
茫然と力を抜く女主人の胸元を、血管の浮き出た手がかき開いた。
老人は人妻の重い乳を引きずり出した。
すぐに唇をつけた。
ぞっとするような快感が昌枝をとらえた。男の――人間の与えるものではなかった。
「おまえ……まさか……」
乳首を唾液で濡らしたまま、島田は唇を歪めて笑った。すぐに音をたてて吸った。昌枝はのけぞった。
乳房は老人の口いっぱいに頬ばられていた。その中で舌が|蠢《うごめ》いていた。
最初の抵抗は、和服の裾を割っていた。
肉と|脂肪《あぶら》のたっぷりついた太腿がむき出しになっている。
|足袋《た び》をはいているだけに、生唾をのむほどエロチックな眺めだった。
無骨な手が内腿に這った。昌枝は必死ではさみ込んだ。手は微妙に動いた。あっけなく昌枝は開いた。
「それでいいんですよ、奥さま」
驚くべきことに、乳房を頬ばりながら、島田は明瞭な声で言った。
いや、頬ばったその口自体が、人間の限界を越えて、さらに大きく、さらに深く、人妻の乳を呑みこみはじめたではないか。
「わたしは一度、奥さまとこうなりたいと思っていました。そのためには、私が変わる必要があった。今みたいに。ああ、食べたい。吸ったり舐めたりするだけではもったいない。この肉を、白くて柔らかいこの肉を、思いきり食べてみたい」
唇と乳の肉の間から、白い液が流れはじめた。|涎《よだれ》だった。
「やめて……食べないで」
昌枝の声は|虚《うつ》ろだった。恐怖が欲情を|昂《こう》|進《しん》させている。
それにしても、食べないで、とはどういう意味だろうか。
片方の乳房をつけ根まで呑みこんだ老人の口は、耳まで裂けていた。手は妖艶な腿の肉を|弄《もてあそ》び、それが動くたびに、昌枝はすすり泣きを洩らした。
島田は反対側の乳房に移った。
今度も乳首を吸い、じっくりと呑みこんだ。昌枝は忘我の域にあった。自分の身体に溺れさせておけば、食われなくても済むはずであった。
相手が六〇すぎの老人であることも彼女を昂ぶらせた。
父の年齢に近い。
そんな年寄りに与えるための肉体ではなかった。
これは夫のものだ。唇も舌も喉も乳も性器も、結婚した夫のものだ。
乳を吸っていいのも夫、尻から責めていいのも夫、性器を舐めていいのも夫だけだった。
それがいま、下男に犯されている。
島田が乳房をはなし、顔の上に乗った。
「おい」
とせっついた。
ズボンの前が猛々しく盛り上がっている。
「嫌よ。せめて、自分ではずして」
「おい」
やむを得なかった。
昌枝は右手でジッパーを引きおろし、中へ手を入れた。熱い手ごたえがあった。握って引き出した。
普通の男根であった。
夫のものよりひと廻り大きく太い。
自分から呑みこんだ。
吸っただけで、島田は|呻《うめ》いた。
老人とは思えぬ硬さと熱をそれはもっていた。
昌枝は手を添え、舌も使った。
思い切って島田の下腹までもち上げ、腹と男根を一緒に舐めた。
これは効いた。
島田は昌枝の髪を押さえた。
昌枝は逃がれようとした。口もはなす。
「おっと」
島田が叫んで、含みなおさせた。
口で果てたがっている。
どうしようもなかった。
性器を汚されるのとどちらがいいだろうかと昌枝は考えたが、島田の指が微妙な深奥をいじりだすと、激しく頭を上下にふった。
自分の家の客室で、召使いの老人に口を犯されている。
想像しただけで濡れていた。
島田は最後で踏んばった。
こらえている。
昌枝は軽く歯をあててこすった。
ああ、と女のように低く呻いて島田は屈服した。
すでに滲んでいたとろ味[#「とろ味」に傍点]が、濃厚な香りを伴って思いきり口腔に広がった。
すぐに果てるだろうと思ったが、いつまでも放出は止まらなかった。
昌枝は飲みこんだ。
喉を鳴らして飲んだ。
白い汚液にまみれた唇から、島田はようやく男根を抜いた。
押しのけるようにして、昌枝は起き上がった。手の甲で唇を拭うのを見ながら、
「よかったですよ、奥さま。しゃぶっているときのお顔が素敵だ」
島田は感想をのべた。
「出ていって」
と昌枝はうつむいたまま言った。
「もう気が済んだでしょう。早く行きなさい。おまえには暇を出します」
怒りに震える肩を、冷たい手が押さえた。
「いいんですか、奥さま、わたくしをやめさせて? あなたの御主人に、どう申し開く気です? なんなら、こう伝えてもいいのですよ。あなたより、お嬢さまの方が味がよろしい、と」
恐怖の相を湛えて昌枝はふり向いた。
「やめて、それだけは!」
白い肩の肉に、島田は唇を押しつけた。
「でしたら、ね、もう一度」
「やめて。いま、済んだばかりじゃないの」
「わたしはね。――奥さまはいかがです」
「何を――」
言うの、と言いかけ、昌枝は動揺した。執拗に肩から首すじを貪る老人の唇に、腰が熱くうずきはじめるのを感じたからである。
さっきは口でいかせた。
自分はまだいっていない。
もう一度、抱かれたかった。
豊かな乳房は、二本の手で下からもち上げられた。
「触ってごらんなさい」
島田は昌枝の手を後方へ導いた。
昌枝は眼を|剥《む》いた。
放出したばかりのそれは、熱く猛っていた。
「わたくしはね、何回もいけるのですよ。そういう風に変わってしまったのです。何回でも――ひと晩中でも、奥さまを泣かせてあげられるのですよ」
「おまえ……おまえ……」
我知らず、昌枝は手を動かしていじりはじめていた。
「これが、奥さまの中へ入るのです。前がいいですか、後ろがいいですか?」
「嫌よ、嫌よ」
「さ、おっしゃい。前か後ろか?」
乳房をもみしだいていた残りの手が裾をめくり、背後から忍んできた。
異様な快感が昌枝を貫いた。
「感じますか。いや、ご主人[#「ご主人」に傍点]は肛門の具合がいい女だとおっしゃっていたが、まさにその通り。わかった。ここにしましょう」
「やめて」
夢中で昌枝は前へのめって逃げた。
背後から島田がのしかかってきた。
ベッドから降りたところを抱きすくめられ、上半身のみ、うつ伏せにシーツへ押しつけられた。
尻に空気があたった。
和服を着たまま尻を剥き出すなど、はじめての経験だった。
「いい尻だ。いい穴だ」
歓喜に満ちた声でつぶやき、老人は行為に移った。
いつもとは違う穴に、昌枝は侵入された。
島田の言う通り、昌枝が最も感じるのは肛門であった。夫とは別のもの[#「もの」に傍点]に開発された部位だ。
「誰も来ませんよ、奥さま。いや、声を出せばお嬢さまがくる。そうだ、見せてやりましょう。お母さまが、白いお尻を召使いに与えているところを」
「やめて、やめて、お願い」
昌枝は声をふりしぼった。
「何でもするわ。それだけはやめて」
「何でもとは何です? はっきりおっしゃいな」
「肛門性交よ、アナル・セックスよ」
「それだけ?」
「フェラチオもあるわ」
「それだけではいやですね。私の尻の穴も舐めてもらいましょう」
「舐めるわ、舐めます。舐めてさし上げます」
「よろしい。ほれ」
島田は昌枝の髪をつかんで後ろを向かせた。
眼の前に老人の尻があった。紫斑が浮き、皮膚もたるんでいる。
昌枝は顔を押しつけた。
決心がいった。
それだけはいやだった。
「ほれ」
島田が尻をふって催促した。
昌枝は眼を閉じ、肛門へ舌を入れた。
島田は身を反らせた。
一度やってしまうと際限がなくなった。
昌枝は丹念に舐めた。
島田が足を開くと、身体の位置を変え、肛門から男根の方へ向かって舌を這わせていった。
陰毛と袋が顔にあたった。
それも舐め上げ、口に含んで吸った。
人妻のテクニックだった。
いつも夫にしている。それを召使いに与えているのだった。
老人の股間をくぐるようにして、昌枝は改めて男根を頬ばった。言葉通り、勃起していた。
何度でもいける、と昌枝は思った。
同じフェラチオでも今度は違う。さっきはベッドの上で半ば強引に、今度はひざまずき、奴隷のように行っているのだった。ほんの少し歯をたてれば屈辱からは逃げられる。それをしない以上、服従とみられても仕方なかった。
マゾの愉悦が昌枝をとらえていた。
「今度は顔に出してやろう」
と老人は言った。
「いいわ。早く出して。あたしの顔へ。あなたの汁で汚してちょうだい」
哀願しながらも、昌枝は舌を動かしていた。
|膨《ふく》れ上がった先端のみを口に含み、強く吸っては放した。
数回で島田は昌枝の口から男根を抜いた。
昌枝は眼を閉じた。顔は期待にかがやいていた。
液はとびちった。
昌枝はそれを手ずから顔へなすりつけた。
「もう、いいかい?」
と老人が訊いた。
「まだよ、まだ」
濡れた顔で呻いた。
「わたしは満足していないわ。下のお口も同じようにしてちょうだい」
「して欲しいのか?」
「欲しいわ、とっても」
「いやだと言ったら?」
「ひどいわ。お尻の穴まで舐めてあげたじゃない。それと――」
「それと――何だね?」
「…………」
「言いなさい。何だね?」
「ちんぽよ。ちんぽも舐めたわ」
「その通りだ。おまえは、わしのちんぽを舐めて尻の穴も吸った。もうわしの女だ」
「そうよ」
「では、入れてやろう。前からか後ろからか?」
「後ろに決まっているわ」
「よかろう。ベッドに這え」
昌枝は最初の姿勢に戻った。
秘所はすでに熟しきっていた。
島田が|屈《かが》みこむ気配があった。
昌枝は二本の指で秘所の扉を広げた。
島田が顔を押しつけてきた。
赤い肉に舌があたった。
ゆっくりとえぐり出す。
昌枝はよがり声をあげた。シーツで隠さず、わざと押し殺して放つ。島田にきかせるためであった。そうすれば興奮するとわかっていた。
島田は冷静に人妻の快楽をほじくり出していった。
「もう駄目――早く」
昌枝は尻をふりたくってせがんだ。濡れに濡れている。
島田が立ち上がって尻を押さえた。
一気に突き入れた。
昌枝の上体がそり返った。
口を汚され、性器と肛門を舐められ、ようやく|辿《たど》り着いた終着駅であった。ベッドに押し倒されてから今まで、男を二度いかせ、しかもその間のタイム・ラグがない。
フェラチオだけでも感じているのに、それが持続し、いま、高みへと突っ走っていた。
信じ難い興奮だった。
こころでも感じている。肉体の問題ではなかった。
出し入れする濡れた音が快く耳に響いた。
「いい尻だ、本当にいい尻だ。吸い込まれる、締まりもいい」
島田は感動していた。
「あなたもよ、あなたも凄いわ」
昌枝も本気で口走った。
この尻は誰のものでもない。欲しがる男、すべてに与えてやろうと思った。
しかし、あいつ[#「あいつ」に傍点]は、男だろうか?
第四章 異形戦
1
眼を|凝《こ》らすと、岩の組み合わさった闇色の空間には、下方への道が開いていた。
石段というのではない。なだらかな傾斜である。
その|縁《へり》に立っただけで、下方の広大な広がりが感知できた。
長いこと閉されていた洞窟か墓地のような異臭が鼻をつく。
「降りろ」
背後の椎名に命じられ、萩生は傾斜路を下っていった。
驚くべきことに、坂道は石を組み合わせたものではなく、単一の巨岩を|削《けず》り出したものであった。今日でもたやすく可能な技術ではない。
それよりも、誰がいつ、このような加工した巨石を伊豆の地下に運びこんだものか。
一五メートルほどの道を下り終えたところで周囲を見廻し、萩生は感嘆の声をもらした。
地底には巨岩の|城塞《じょうさい》が築かれていたのである。
どこから洩れるとも知れぬ不潔ったらしい照明をあびる床も壁も天井も、すべて石造りだ。それも巨石を組み合わせたというのではない。信じ|難《がた》いことに、切れ目はどこにも見当らないのである。
岩なのだ。一個の岩なのだ。想像を絶する超技術が途方もない大きさの巨岩をくり抜き、このような空間を|穿《うが》ってしまったのである。
どうしても自然石と思えぬ|滑《なめ》らかな床に立ちながら、萩生は前後左右から押し寄せる|厖《ぼう》|大《だい》な質量を感じた。
ここだけではない。
奥にも果てしなく石の城塞はつづく。
しかし、一体誰が、どのような方法で……? 想到しただけで、|人間《ひ と》は発狂するだろう。
「空間で包んで抜いたか……」
萩生はつぶやいた。
彼とボーモント教授だけがその方法を知っていた。
いかに巨大な質量の物質といえど、元来所属せぬ空間で覆い、融合させ、必要な容積分の空間を切り抜けば、いともたやすく加工は可能となる。この奇怪な建築家もその方法をとったのであろうが、無論、現代の技術で成し得る技ではなかった。いま、彼のいる立方形の空間だけで、縦横五〇メートル以上、高さは一五メートルを越す。これだけの容積をもつ石塊は、何千、何万トンの重さに達するか。それを含めた城塞を構成する本来の巨岩の大きさは?
「真ん中へ行け。じき、ご主人がみえる」
椎名が銃口をふって命じた。
萩生は黙って従った。ライフルに恐怖するというより、周囲の分析に忙しく、反抗するのも面倒といった風情である。強烈な知的好奇心が、生命のやりとりの場で彼の顔を子供みたいにかがやかせていた。
それに気づいたか、椎名も女中のみゆきもいぶかしげな顔を見合わせている。
ごそり、と闇が動いた。
萩生の全身を冷気が貫いた。
二人組と萩生を結ぶ線をのばした石壁の辺りから、灰色の霧のようなものが滲み出している。床からか壁からかはわからず、それは質量を備えた影のように、ゆらめきつつ床上にわだかまり、牛糞みたいな形にもり上がるや、呻きとも何ともつかぬ奇怪な音を発した。
ぬるぬると、床の上を一本の|縄《ロープ》みたいなものが這ってきた。
昼間、海中で祐美の足首を捕縛したものであった。
鮮烈な恐怖が萩生の脳を灼いた。
やはり――やはり、あいつか!?
彼にしかきこえぬどよめきとともに、破壊的な「意志」が打ち寄せてきたとき、萩生は必死でこころを閉ざした。
あの日以来、あらゆる手段を駆使して身につけた精神強化法の成果は、精神層の表皮で、押し寄せる波を食いとめた。彼が廃人の道を歩まずにすんだのは、苛烈な訓練を克服し得た若さ故であった。ボーモント教授はついに、元に戻れなかったのである。
動揺の気配が伝わってきた。それすら異形のものであった。
「おまえ……どこかで……会った……」
声は萩生の頭の中でした。
「どこかで……」
立ちすくむ萩生の足首をぐい、と何かが掴んだ。
「……この感じ……|憶《おも》い出したぞ……おまえ……二人で……来たやつ……だな……」
全身が|総《そう》|毛《け》|立《だ》つのを萩生は感じた。肛門が喉まで持ち上がる感覚。発狂しないのが不思議だ。舌を握って引きちぎりたくなる。こころの|障壁《バリヤー》を彼は限界まで強化した。いつまで防ぎ得るか、自信は全くなかった。
「おまえ……あのとき……逃げた……今日は逃が……さ……ん……ほう……いい味……だ……ここをさわ……れば……わか……る。邪魔者は……食べさ……せて……もらお……う……」
足首から得も言えぬ恐怖が這いのぼり、精神障壁に真っ向からぶち当たった。
こころの壁がきしみ、表面にさあっと心理的亀裂が走ったとき、萩生の姿は消えた。
怪奇な肉の輪がびちゃっと音をたてて閉じる。
萩生は椎名の背後にいた。
両手を組合わせた一撃を首すじに叩きこみ、素早く銃を奪う。
肉縄が走った。
それは一本の槍と化した。
ズボッ! という音がした。硬い音も混っていた。肉ばかりか骨まで砕けたような音であった。
一見柔軟そうな縄は、椎名の胸のど真ん中を背中まで突き通し、赤い|血《けつ》|肉《にく》と骨片を|撒《ま》き散らしながら背後の萩生も貫いたのである。
その残像を。
轟音が響いた。
萩生を仕損じたと知ったか、大きく反転した縄の先端を、ホーランド・マグナムの銃弾がはじきとばす。
驚くべきは、火線が空中――地上四メートルの位置から|迸《ほとばし》ったことであった。
鮮血と青黒い血潮が雨のように床を打ち、縄は風を巻いてのたうつ。
僚友の苦鳴に応じるがごとく、新たに数条の縄が闇の奥から走った。
空中の萩生を捕えようと。
だが――
みゆきがかっと眼を|剥《む》いた。
萩生は空中にいた。
地上にもいた。
みゆきの前に、その横に、背後に。
広大な空間に、数百人の彼が一度に出現したのである。
超高速度カメラをもってしても、謎は解けなかったであろう。
MIT当局が何よりも実現を望んだ超現象――|瞬間移動《テレポート》。
萩生はこれを身につけていたのである。
彼自身が潜在的に有していた資質が、空間を操る作業中に|甦《よみがえ》ったものか、事実上タイム・ラグなしで彼は空間を移動することができるのだ。
一瞬のうちに姿を現わし、消滅する。残像効果の失せる前にこれを繰り返せば、ほとんど同時に、無数の萩生真介が出現する。
人間の、いや、超次元の生物の眼をもってしても、本体を極めるのは至難の技だろう。
びゅびゅっ! と縄がうなり、数名の萩生が消滅した。
しかし、次の瞬間にはそれに数倍する彼が同時に空間を埋めるのだ。
数百、数千――萩生の能力には限界がないようであった。
それが一斉にライフルを構えた。
「あぶない!」
みゆきが絶叫し、手近の萩生に掴みかかって、手ごたえなく地に伏した。
二度目の轟音がオレンジの被膜を突き破ってとび出し、壁際にわだかまる闇の堆積を貫いた。
闇がふるえた。
おぞましい気配がごおっと空間にみちた。
おびただしい萩生が忽然と消滅した。
低い苦鳴が傾斜路の途中から洩れた。
そこに萩生がいた。
一撃を叩きこまれた妖物の怒りの気配が精神ばかりか移動機能までも直撃したものか、身を二つに折り、低く呻いた顔は蒼白であった。
立ち上がる余裕があったのは、襲いかかるべき恐怖の触手の主が、|躊躇《ちゅうちょ》したせいだろう。
ライフルの一撃は、それなりの効果をあげたのだ。
わずかに遅れて数条の縄が空間を縫ったとき、萩生の姿は音もなく消失した。
一瞬、坂の頂点に現われ、再び消えた。
草いきれと月光の中に彼は崩折れた。
全身が震えている。肌の下を悪寒が駆け巡っているのだ。爪をたててかきむしり、血と一緒に流し出したい衝動を必死でこらえた。
あの晩、はじめて空間移動を行った二人を迎えたのも、この雰囲気であった。
不幸なことに、二人の移動は、空間特性の類似にその目的地を決定された。それは以前から予想していたことである。二人は別の、彼らの世界とわずかに異るだけの無数の宇宙のひとつへ招き寄せられるのだと思っていた。
そこでは、萩生は一大コングロマリットの会長かも知れず、あるいは、こちら側の自分と、ネクタイの好みが少しちがうだけの、全く同じ人生を歩んでいる学徒かもしれなかった。
二人の眼前に広がったものは、|薄明の世界《トワイライト・ワールド》であった。
人間世界を含む全宇宙の空間特性は、これに似ていたのである。
すると生物も……
愕然となりつつ移動する二人の眼の前に、何やら紐のようなものが漂ってきた。
その奥に潜むものを認めるより早く、そいつの雰囲気が押し寄せてきたのは、不幸中の幸いといえるだろう。
それははじめ、単なる好奇心であった。二人にもそれがわかった。わからない方が幸せであった。それに触れただけで背筋を冷たいものが刺した。次の瞬間、好奇心は歓びに変わった。
何と形容したらよかろうか。食いものを見つけた飢餓獣の歓び、犠牲者を見つけた殺人鬼の歓喜――おぞましくも、人間に理解できる異形の心理が、炎のように吹きつけてきたのだ。
あっという間に、ボーモント教授は人格崩壊を起こし、自らの頭部を拳銃で射ち抜く日まで、地獄の苦悩から脱け出せなかった。
萩生だけがかろうじて耐えた。
そいつが血と破壊のみを好む存在と彼は知った。
その日から、醒めやらぬ恐怖の夜が開始されたのである。
「奴――誰に|喚《よ》び出された?」
歯を打ち鳴らしながら、萩生はつぶやいた。
その青白い顔が、それこそ白蝋のごとく変わった。
前方の草が音もなく左右に押し分けられていく。
こちらへ向かってくる。
蛇が|這《は》っているように。
萩生は立ち上がった。
あの肉の縄であった。
移動しなかったのは、縄の触れた部分に生じる怪異な現象を目撃したせいであった。
草が地面がすうっと青黒い色に染まり、それが恐るべきスピードで四方へ広がっていくのだ。水に|溶《と》かした絵具のように。その数層倍のスピードで。肉縄があの汚液を分泌していると、萩生の眼に見えたかどうか。
青黒い魔圏に汚染された草は色を変え、茎も葉も腐敗し崩れおちた。土さえ張りを失って軟泥状に溶け、猛烈な腐敗臭を放った。
松の幹が根っ子の方からすうと青黒く染まり、枝がおち、幹さえぐずぐずになって地に墜ちたとき、萩生の喉から、押し殺した悲鳴が洩れた。
だが――まだ早かったのである。
魔の液が生み出した魔圏は死そのものではなかった。
軟泥状の死土が|滴《しずく》となってはね上がった。
はね上げられた。
青黒く変じて土中から鎌首をもたげたものは、異次元の植物でもあったろうか。
魔液は汚怪な生命を|育《はぐ》くむ肥料だったのか。
萩生がふり向いたとき、汚染はその四方から足元へと迫りつつあり、林の一角は、この世にあり得ない色彩を帯びた蛇状の植物に覆われていた。
萩生は移動しようとした。
身体は動かなかった。
精神への衝撃がやはり機能を狂わせている。
加えて、汚染への恐怖があった。
このまま広がったらどうなるか。
敵は萩生の後を追ってくるだろう。汚染を広げながら。
空気が青く染まった。
もたげた鎌首をコブラのように膨らませ、そいつらが霧みたいなものを吹いたのである。
萩生の全身がその中にかき消えた。
縄が撒いたのと同じ汁であった。
恐怖が半ば強引に移動を行わせた。
建造物の五メートルほど右手に顔を覆った萩生が現われた。
霧はそこまで広がっていた。
彼は再び消えた。
絶望が胸を包んでいた。
五メートル。
それが|移動《テレポート》の限界なのであった。
手足に激痛が走った。
霧を浴びている。
万物を腐敗させる霧を。
心臓を氷の手で掴まれたまま、彼は狂気へと精神を集中させた。
石の傾斜路をみゆきが戻ってきた。
あの石の広間である。
床へ降りかけて、その足が停まった。
床は見えなかった。
巨大なゴカイか回虫のような触手がぬるぬると床を埋め尽していた。そのどれもが青黒く濡れ光り、時折り、青黒い液を噴き上げた。
これが一本きりだとは、誰が信じられただろう。
みゆきは喉を鳴らした。
彼女の主人が求めている[#「求めている」に傍点]証拠だった。
それが何を意味するのか、戦慄とともに、熱い粘液が腰で動いた。
「こ……い……」
と声が言った。
「いや……その前……に……奴は……どう……し……た?」
「消えました」
みゆきは唾を呑みこんで言った。手がブラウスの胸を下から|揉《も》み上げていた。重そうな乳であった。欲情にうるんだ眼が、蠢くゴカイの間から垣間見える椎名の死体を見つめていた。
「でも、あの汁を浴びました。どこへ|跳《と》んでも、逃げられません」
「その……通り……だ……」
声は認め、すぐに、
「……だが……あいつ……ただの……人……間では……な……い……気にな……る……さが……せ……」
「はい」
女中はうなずいた。少しおいて声が言った。
「べ……ん……ま……は……どうして……いる……?」
「地下の工作室で」
と女中は答えた。
「何をやっていらっしゃるのかは存じません」
「監……視を……おこた……るな……まだ……信……じ……がたい……や……つ。あいつ[#「あいつ」に傍点]……をよん……だ……の……も……やつ……だと……いう……」
「誰にきかれたのです?」
みゆきの眼に嫉妬の光が湧いた。
「奥さまですね?」
「そう……だ……くや……しい……か? ……」
「あんな女……わたしの|肉体《からだ》の方がずっといいのに」
「……で……は……見せて……み……ろ」
「ええ」
待ちかねたように、女中はブラウスを脱いだ。
豊かな胸をしていた。
背中に手を廻し、白いブラジャーもはずした。
乳房は垂れ下がらなかった。肉の張りは若さの証しだった。
「どう、このお乳――奥さま[#「奥さま」に傍点]なんかに負けやしない」
下から持ち上げるようにして振った。
どこか|清《せい》|楚《そ》さをのこす顔立ちだけに、アンバランスな色気が強烈だった。女中はスカートを脱ぎ、パンティもはずした。
「こ……い」
声が命じた。欲情がこもっている風なのは、こちらの世界の精神状態に適応してきたのか、もともと心理系統が似通っているのか。
女中は艶然と傾斜路を下りた。
ぬるぬると絡み合う縄の沼に足首までつかる。
ぴゅっと四方から汁がとんだ。
万物を溶かす腐液は、放出するものの意志で女体への刺激剤と化すものか、それがぬめぬめと光る乳房に、腰に、腿に、とびちった途端、女中は獣のうめきをあげてのけぞった。
青黒く汚された両手で自ら全身に塗りたくる。生々しく光る乳に不気味な色の縞がこびりつき、こすった指の痕がのこった。
ああ、ああと呻きながら、みゆきは乳首と秘所をいじりはじめた。
「奥さまより、奥さまよりわたしの方がいい、わたしの方がいい」
もだえる身体ににょろにょろと肉のロープが巻きついた。
分泌物に髪の毛までまみれたみゆきは、巨大な回虫に犯されているように見えた。
ずぼっと首まで沈んだ。
蠢く回虫の海の中で、どのような行為が行われているのか、みゆきはすでに常軌を失っていた。胸も腰も腋の下も秘部も、こすられ、いじられ、貫かれているのだろう。
ひい、とみゆきは泣いた。
快楽の極みであった。
自分でも声をあげた[#「あげた」に傍点]とはわからないだろう。
汚され抜いて歓んでいる。
「……べんま……と……した[#「した」に傍点]……か……?」
声が訊いた。
女中の顔に汁がとんだ。みゆきは口を開けて受けた。汁が集中した。たっぷりとたまったそれを、みゆきは喉を鳴らしてのんだ。余った分は口の脇から洩れた。
「して……ない……わ……」
忘我の絶頂にあっても、|主人《あるじ》の事だけには理性が働くのか、汚され抜いた口でみゆきは答えた。
「では……し……ろ……」
声は命じた。
「するわ。だから、あなたもして。もっと|虐《いじ》めてちょうだい。強く、激しく」
蛇ののたうつ青黒い海をつきやぶって、女の脚が現われた。つづいて腰。
陰毛が下腹に粘りつき、汁がへその方へと尾を引いて流れた。
足首には生きたロープが巻きついていた。
腹にも、乳にも、喉首にも。
しめつけた肉縄の間から乳房がはみ出し、股間をずるりずるりとこするたびに女は呻いた。
そのまま、奇怪な緊縛を施された女体は、軟弱そうなロープに支えられたまま、ぐうっと宙へ持ち上げられたのである。
両脚が限界まで開かれ、みゆきは悲鳴をあげた。愉悦の混る叫びだった。
秘部は口を開けていた。|剥《む》き出しであった。液体がどろどろとおちた。白いものも混っていた。
喉が締めつけられた。
みゆきは舌を吐き出した。
高くさし上げられた。
五メートルはもち上げられたろう。
インドのロープ・マジックを見るような怪異な眺めであった。
ぼきり、と肩の骨が折れた。
呻きはよがり声であった。
ロープが締まり、肋骨がつづけざまに砕けた。
どぼっとみゆきの口から液体がとんだ。赤いものが混っていた。折れた肋骨が肺を刺したのである。
しかし、なぜ、激痛のさなかにあって、その眼は恍惚たる光を失わないのか。
悩ましい唇から洩れる声は、アクメの絶叫なのか。
苦痛を快楽に変える力を、生けるロープと液体は備えているのだろうか。
「もっと、もっと折って。いつものように折って。苦しめて」
みゆきは叫んだ。喉を締められ、骨を砕かれながら。
声が突然停まった。
こきん、と美しい音がした。
頸骨がへし折られたのである。
後頭部が肩甲骨の間にくっついていた。
女の口が動いた。
ぱあく、ぱあくと。して[#「して」に傍点]、して[#「して」に傍点]、と。
眼からは涙が溢れていた。
苦痛の涙だった。
「これ……からだ……」
と声は言った。
2
島田の愛撫から逃がれたのは、二時間を経過してからであった。
全身から唾液の匂いが立ちのぼり、肉が腐るような気がした。
くまなく舐めまわされ、いじりまくられた。言葉通り、島田のセックスには切れ目がなかった。
間断なく責められ、昌枝は何度も失神した。顔にも性器にも汚汁を受けた。その匂いも濃厚だった。
島田が出ていってからしばらくは立ち上がれなかった。
尻をふりすぎて腰が痛かった。
客室を出て、同じ階の浴室でシャワーを浴びた。全身にキスマークが赤く残っていた。乳と喉と太腿は特に凄かった。やめてと哀願するたびにつけられた。しまいには、誘うために拒否するようになった。
丹念に身体を清め、昌枝は部屋を出た。
鞭馬の書庫へ入った。
偉人たちが遺した暗黒書物のコーナーへ行き、書棚の一角に触れた。
音もなく書棚が回転し、地下へ通じるらせん状のスロープがのぞいた。
足音を忍ばせて進む。
広い部屋へ出た。
コンクリート製で、天井に丸いライトがひとつはめこんである。
まばゆい光が満ちていた。
大きさからすると考えられない豊穣な純粋光を、ライトは放っていた。
五〇坪ほどの部屋の真ん中に、奇妙な形の装置が並んでいた。
石と鉄とを組み合わせたものである。
極めて非現実的な性能と効果を感じさせるものが、それにはあった。
機械のもつ気[#「気」に傍点]とでも呼べるだろうか。
土台は石、可動部分は鉄。それだけだ。近代的なものを感じさせる部品は何ひとつついていない。
鉄にしても、石の側面から突き出し、直角に折れ曲がって上端に食いこむピストン状の環のみであった。
「母さんかい?」
部屋の隅で声がした。
超近代的な電子装置のかたわらに車椅子が停車し、鞭馬がこちらを見つめていた。
「黙って入ってきちゃ困るな。この次は先生を入れようと思っていたのに」
「どうして、あの|男《ひと》を呼んだの?」
昌枝は和服の胸元をおさえながら訊いた。
「さっき、鹿間があの男の部屋からとび出していったわ。何かしたの?」
「僕がかい?」
鞭馬は薄く笑った。
「地下室から落ちて怪我をしたというのは嘘なのね? あの|男《ひと》を呼ぶためね?」
「…………」
鞭馬の笑いは苦く変わった。
「鹿間に襲わせるくらいなら、何故、ここへ招いたの?」
「その話はよそう。母さん、ここへおいで」
「嫌よ。――こんなところで、こんなものをつくって――一体、何をしようというの?」
「おいでってば」
「祐美の様子がおかしいのよ。萩生さんと海から戻って。足がつったといってたけど、あの|娘《こ》、これまで一度だってそんなことなかった。あなたが何かしたの?」
怒気さえ含む母の声を、鞭馬は平然と受けとめた。動揺は消え、持ち前の人間離れした冷血さが血管を流れているようだった。
「ちがうね。――やったとしたら、父さん[#「父さん」に傍点]さ」
昌枝は蒼白となった。
「おいでよ、母さん」
とまた、鞭馬は呼んだ。
「来ないなら、僕の方からいく」
毛布がはねのけられた。
音もなく、彼は車椅子から立ち上がっていた。
下半身はブルーのスラックス姿であった。
「じき、これは完成する。そうしたら、すべてが変わるんだ。世界は新らしい世界になるんだよ」
「鞭馬……」
後じさりしかけた昌枝の手首を、青白い手が掴んだ。
あっという間に昌枝は抱きすくめられていた。
口を吸われた。強い吸い方だった。
昌枝は夢中で顔を離した。口と口とが離れる、ぽん! という音がした。
求められるのははじめてではなかったが、まだ慣れない。まして息子であった。この少し前に、島田からも老人のテクニックでよがり狂わされている。
「お願い、今はやめて」
「どうしてだい、母さん。親子だからって、遠慮する時代じゃないよ」
和服の尻に手があてられた。
|揉《も》まれている。つねられている。
昌枝は顔をそむけた。
強く肩を押された。ひざまずく恰好になった。
鞭馬はズボンの前を勃起させていた。
満足させなければおさまるまい、と思った。
息子とやる[#「やる」に傍点]――それも嫌々。
|堕《お》ちるところまで堕ちたと思った。そう納得することで性欲が湧いた。
「早く――母さん」
鞭馬がせかした。幾度きいても判別し難い声である。昂ぶっているのかどうか。
昌枝の眼は潤んでいた。
ベルトをはずし、スラックスをずらした。
鞭馬の下肢が現われた。パンツははいていない。
そそり立つものを見ただけで、昌枝は喉を鳴らした。
息子のものよ、と思おうとした。
わたしの息子のものよ。こんなことをして、二人で地獄へ|堕《お》ちるから。
眼の前のものが動いた。促している。
昌枝はそっと含んだ。
手もそえてしごきはじめる。片手は息子の尻にあてがわれていた。
ロープで縛ったようなくびれのついた尻に。
夢中で舐める舌先に、男根の硬い鱗が当たった。
全身を震わせて萩生真介は覚醒した。
汗まみれだった。全身が濡れている。
椅子にかけているようであった。
思考は散漫を極め、状況を理解しようという気も起こらない。どこもかしこも熱を帯び、けだるかった。
ようやく、移動の後だとわかった。
あれで仲々体力を消耗する。一〇〇〇回も連続で行えば、一〇〇メートル全力疾走くらいの疲労が貯まる。
今回は|桁《けた》がはずれていた。フル・マラソンに匹敵する疲れが|蝕《むしば》んでいるようだ。地下広場での連続移動でも、これほどのエネルギー消耗はあり得ない。
萩生の身体には溶解や腐敗の痕跡もなかった。
二の腕の肘寄りの一部がやや青みを帯びているが、あの腐敗液を満身に浴びたにしては、負傷の内にも入るまい。
|虚《うつ》ろな視線を宙にさまよわせているうちに、後方でざわめきと靴音が入り混った。
一瞬、驚いたような沈黙があり、すぐに、女の声が、
「あら。――萩生先生!?」
と言った。それを合図に、
「おや、珍らしい。引き抜かれたんじゃないのか?」
「古巣が恋しくなったのかよ?」
|揶《や》|揄《ゆ》ともやっかみともつかない声が周囲に満ちた。
徐々に、そして急速に記憶が戻ってきた。
頭をひとつふり、萩生は粗末な折りたたみ椅子から立ち上がった。
足元も|覚《おぼ》つかないが、何とか倒れずに済んだ。
ゆっくりと、それと気づかれないよう気力を込めて背後をふり向き、もと[#「もと」に傍点]同僚たちに一礼する。
「失礼。――部屋を間違えてね」
ここは亀戸三丁目、「栄光塾」の講師控え室だった。
彼の異常に気づいてか、声はすぐにやみ、講師と事務員たちは不安そうな視線を交わし合った。
萩生が進むと、素早く脇へのいた。
萩生はドアのノブに手をかけて廻した。
手ごたえはない。
掴んでいなかった。
「萩生さん――どうしたの?」
横から女子事務員の顔がのぞいた。
|諸《もろ》|澄《ずみ》芳恵だった。矢切昌枝の来訪を告げた女子事務員である。
「汗びっしょりよ。医務室で休んで」
休む、という言葉が萩生の首を横に振らせた。
「駄目よ――一緒に来て」
肩を抱くようにして、芳恵はドアを開けた。
廊下を歩く途中で、萩生は立ちどまった。
「玄関はこっちだね」
「いけないわ。休んでいって」
「そうはいかない。急用があるんだ」
|切《せっ》|羽《ぱ》詰まった声に、芳恵は少し考え、萩生の顔を見つめて言った。
「いいわ。じゃあ、わたしがついていってあげます」
「よしてくれ」
苦笑を浮かべる余裕はあったが、押しのけようとした身体は逆によろめいた。
「ほら、ごらんなさい。無理しちゃ駄目。急ぐなら、タクシーで行きましょ」
廊下で煙草を|喫《す》ったり、掲示板をみている学生たちの視線を浴びながら、二人は塾の前でタクシーに乗った。
「何時だい?」
乗り込み、アパートの住所を告げてすぐ、萩生はシートにもたれて訊いた。
「夜の九時――七分すぎ。夜間授業のはじまる時刻よ。このタクシーも学生待ち」
駅から遠い学生たちの中には、グループでタクシーを拾う連中がおり、いい稼ぎになるのだった。
「一体どうして、あんなところに?」
「訊かないでくれ。実は、五分前まで伊豆にいたんだ」
「冗談はよして」
それきり二人とも黙り、タクシーはじき新小岩のマンションに着いた。
鍵を借り、芳恵がドアを開けた。すぐ戸口のライトをつける。
「へえ、割ときれいにしてるのね」
「ありがとう。ここで――」
「何よ、冷たいのね。入れて」
戸口に立つ萩生を押しのけるように、芳恵は入ってきた。
クーラーが|唸《うな》り出すのを、萩生は居間の安っぽいソファの上できいていた。
パジャマに着換えると、すぐ脇のテーブルでは水割りのグラスが汗をかいている。芳恵が用意したものだ。
芳恵が自分に好意をもっていることに萩生は驚いていた。
「栄光塾」には二年務めた。芳恵はもっと古い。高校を出てすぐ就職したときいている。広島の出身で、年は二三歳。
ぽっちゃりした頭のきれそうな娘で、講師たちにもファンが多かった。授業の合間にお茶へ誘う学生もいるという。
それくらいしか知らない。芳恵の方はもっと少いだろう。
|忌《いま》わしい想い出に直結する過去を萩生は極力隠し通してきた。
精神崩壊を防ぐために様々な鍛練法を試みたものの、効果は最小限度に留まり、塾での授業にも身は入らなかった。矢切昌枝の指摘通り、彼自身のレベルが高すぎたことも、これに輪をかけた。
「栄光塾」の服務規定は厳しい。受けもった科目の平均点が各学期ごとに向上しない場合は減俸処分を受ける。二年目で萩生はそれにひっかかろうとしていた。
|他《よそ》|眼《め》には、どうしようもない無能講師に映ったろう。かんばしからぬ噂も耳に入ってきた。事務員たちの視線も冷笑を含んでいた。芳恵もそのひとりだとしか、萩生は考えていなかった。
女の心とはどうもよくわからない。
「ベッドの仕度ができたわ」
寝室のドアを開けて、芳恵が戻ってきた。
「あら、まだ、シャワー浴びてないの?」
「残念ながら、立つこともできない」
「連れてってあげるわ、はい」
両手で萩生の右手をとり、芳恵は引っぱった。
「よしてくれ。――疲れた」
萩生が手を引くと、芳恵もあっと叫んで、倒れかかってきた。
五〇キロ以上の体重を受け、萩生はぐえ、と呻いた。
「ごめんなさい」
あわてて立ち上がりかけ、その顔が萩生の上で不意にとまった。
真顔だった。
眼に決意の色があった。
つつましいオーデコロンの香りが近づき、萩生の口に柔らかい唇が触れた。
自分の唇が乾いていることに、萩生はようやく気がついた。
すぐに離れた。離れたが遠ざからなかった。熱を帯びた瞳が見つめていた。
何故哀しそうなのだろうと萩生はぼんやり考えた。
3
祐美の眼に似ている。
芳恵はもう一度唇を寄せてきた。今度はねじ切るように動かした。
入ってきた熱い舌を萩生は受け入れた。
また遠ざかった。
「やっぱり、駄目ね」
うつむいたまま、芳恵は明るく言った。
「済まないが、今はそんな気分になれないんだ」
「好きな女がいるんでしょ?」
「いや」
萩生は上体を起こし、テーブルのグラスをとって含んだ。
味はよくわからない。
精神衝撃は味覚まで|麻《ま》|痺《ひ》させていた。回復には、それなりの時間を要するだろう。
考えなければならないことは他にもあった。
彼の移動能力で伊豆から東京まで一足飛びは不可能だ。塾へ到達したのは、心理的要因が無意識に働きかけるというこれまでの体験からしてうなずけるが、飛距離だけはどうにもならなかった。
どんな力が働いたのか、好奇心が湧いた。
それよりも萩生の胸を重く、落ち着かなくさせるのは、矢切一家の運命であった。
彼らのうちの誰かが、萩生と同様の手段を用いて、同じ妖物を招き寄せたのは、ほぼ間違いない。
祐美以外の家族は奴の存在を知っているとみていい。何の目的で招喚したものか。
もうひとつ、疑問があった。
|鞭《べん》|馬《ま》が自分を家庭教師に指名した目的と伊豆へ呼んだ理由である。
奴に命じられ、罠にかけようと|企《たくら》んだのかと思ったが、地下広場での遭遇は奴も予想外だったと知れた。
鞭馬は、自分がMITを追われた理由も心得ている。それを承知の上で招いたのは、罠でないとすれば、やはり単なる偶然だろうか。
あの実験の結果、目撃したことは、大学の上層部の数名に告げたものの、厳重な|緘《かん》|口《こう》|令《れい》が一般への|膾《かい》|炙《しゃ》を食いとめたはずである。鞭馬が知らずにいることも十分考えられるのだ。
それとも。
ある考えが頭に浮かび、萩生はそれを打ち消した。また浮かんだ。
鞭馬は知らせたかったのではなかろうか。
奴の存在を。
「わたし、帰ります」
芳恵の声が遠くでした。
萩生は我に返った。
芳恵は玄関へ向かうところだった。
「待ってくれ」
言ってもふり向かなかった。
肩を掴んだとき、芳恵は茫然とふり向いた。二人の距離は四メートル以上離れているはずであった。
「来てくれたまえ」
「いやよ」
「駄々をこねないでくれ。考え事をしていたんだ」
「誰のことを?」
「どうして人のことだと思う?」
「わかりません。でも、ついてきたお礼に親切にしてくれなくてもいいの」
「頼みがあるんだ」
急速な疲労の拡散を萩生は感じた。芳恵の表情が動いた。
「復職の件?」
「そう、つんけんしないで。頼む、一緒にいてくれ」
「いやです」
「では、ひとりで倒れていよう」
「卑怯もの」
「この際、何と言われても我慢するよ」
手をとった萩生の腕を、芳恵はふり払おうとした。萩生はあっけなく倒れた。床に後頭部がぶつかり、鈍い音をたてた。
「大丈夫!? ごめんなさい」
芳恵はあわててしゃがみこんだ。
萩生は抱き寄せた。
芳恵は逆らわなかった。
頭の中に火花を点滅させたまま、萩生は芳恵の口を吸った。
熱い肉が力を抜き、どっしりともたれかかってきた。
「駄目よ、……こんなところじゃ……」
芳恵は|悪戯《いたずら》っ子をそしるような口調で言った。
「いいさ」
萩生は身体を反転させ、芳恵を組み敷こうとした。
力が入らなかった。女に押されただけでひっくり返る状態だったのだ。
「ほら、ごらんなさい」
芳恵はからかうように笑った。
「待ってて。いま、上になってあげる――その前に、シャワーを浴びさせてね」
起き上がり、芳恵は萩生に手をかして立たせた。
ベッドで横になっていると、十分ほどしてドライヤーの音がやみ、石ケンの香りと白い光に包まれているような身体がベッドの縁に腰をおろした。
「もう、上になれる?」
と芳恵は萩生の隣りへ横になりながら言った。
「試してみないとな」
「汗くさい布団ね。焼け焦げだらけ」
萩生の口に塞がれ、芳恵は沈黙した。
芳恵の全身はひどく熱かった。乳首を吸っただけで|喘《あえ》いだ。敏感すぎるようだ。白い女の肉に溺れているうちに、萩生は胸のつかえが失われていくように感じた。
女体の感触と喘ぎは生の象徴であった。
熱い腿が腰にからみつき、ともすれば暗く翳るこころを甘美の一瞬へつなぎとめようとしていた。
未知の恐怖を埋めてゆく存在のあることを、萩生は驚きとともに知った。
「……上になってあげる」
汗にまみれた顔で芳恵はささやいた。
「いいんだ」
萩生は自分の声に自信がみちるのを感じながら言った。
芳恵の指が胸を|掻《か》いていた。
「くすぐったいよ」
「じゃ、笑って」
「君のおかげで助かった。礼を言わなくちゃならない」
「何のこと? ――そんなにして[#「して」に傍点]なかったんですか?」
あっけらかんとした口調に萩生は苦笑を浮かべた。
「失礼だけど、幾つだね?」
と訊いた。
「二三よ。年のわりに大胆だなんて言わないで」
「何て言えばいい?」
「好きだ、って」
「好きだ」
「嘘つき」
腕をこづかれ、萩生は呻いた。青い|沁《し》みの残る部分だった。
「矢切さんて――三矢グループの中心人物ですよね。きれいなお嬢さんがいるわ。何か、週刊誌のグラビアで見かけた」
「…………」
「男でも玉の|輿《こし》って言うの?」
「知らんね」
「怒っちゃ、や[#「や」に傍点]。でも、あのグループ、凄い新製品出したのよ」
話題を変えようとしてあくまでも三矢グループから離れないのは若い証拠だが、萩生の眼は光を帯びた。
「新製品?」
「ええ。わたし、メカって好きで、新製品情報なんかよく見るんだけど、さすがに驚いたわ。確か――」
眉を寄せて少し考え、言った。
「元素変換装置と、ニュートリノ加速器――水を黄金にも変えられるし、加速器の方は、うまく使えば、時間旅行もできるんですって」
「|時間旅行《タイム・トラベル》? ――可能だと言ってたのか!?」
「ええ――やだ、そんな怖い顔しないで。まだ、実験段階だけど、近い将来、実用化は間違いないそうよ」
「となると……伊豆行きは少し伸ばした方がよさそうだ」
萩生は天井の一点に眼を据えたまま言った。
「どこへ行くの?」
芳恵が訊いた。
抱きよせようとした萩生の腕をすり抜け、芳恵は大きく眼を開いて彼を見つめた。ひたむきな色が萩生の胸を昏く閉ざした。
「どこへ行くんですか?」
「気になるかい?」
「なるわ」
と芳恵は言った。
「萩生さん、いつも苦しんでるように見えるんですもの。|気《き》|障《ざ》な言い方だけど、自分と闘ってるみたいに。それを片づけに行くのね? そうなんですか?」
「…………」
沈黙したまま、萩生はこの言葉をどこかで聞いたような気がした。
あれは――祐美が鞭馬を評した一節だ。
それ[#「それ」に傍点]を片づけに……
鞭馬が招き、萩生が行く。
「そう……わたしは行く……」
「帰ってきてね。帰ってきて下さいね」
芳恵は真顔で言った。
その頬を、萩生はそっとなでた。
窓の外を風が|蹂躙《じゅうりん》していった。
暗い夜である。月は出ていなかった。
この夜が二度と明けぬのではないかと、祐美はよく思うことがあった。娘時代の感傷のひとつにすぎないかと思っていたが、二二歳の今でも、おぼろげな恐怖の|澱《おり》は、ひっそりと胸の奥に息づいているのだった。
茫漠たる不安が徐々に、確実に形を整えていくのを、叫びたい想いで祐美は耐えていた。
四歳のとき、家の内部で破乱が起きた。父と母の暗い顔とあわただしく出入りする社員たちの姿は今も脳裡に鮮やかであった。
後年、三矢グループ創立以来の危機に見舞われ、父が自殺を考えていたことを知ったが、祐美の不安は、それ以後、三矢財閥が隆盛の|一《いっ》|途《と》を辿りはじめてから形を整えていったのである。
鞭馬が生まれた。
ひどい難産だったらしい。病院ではとりあげず、伊豆の別荘で産んだ。それにも|忌《いま》わしい噂が付きまとっていた。とりあげた産婆がのちに発狂し、|入《じゅ》|水《すい》自殺したというのである。
鞭馬が四歳のとき、別荘は全面的に改築された。大きなビルに匹敵する大工事だったという。設計者は外国の専門家というがよくわからない。
子供ごころにも奇妙な別荘と映った。
両親は――特に母はよく出かけていったが祐美は|滅《めっ》|多《た》に同行を許されなかった。そのくせ、四歳の鞭馬はほとんど毎月のように伊豆へ|赴《おもむ》き、父母が東京へ戻っても、執事や乳母たちのもとでひと月、ふた月と|逗留《とうりゅう》してくるのが常であった。
鞭馬。
弟のことを思うたび、祐美の脳は混迷度を増し、胸は不思議なうずきに満ちるのだ。
彼を前にして、「弟」という血縁の|絆《きずな》が何になろう。
「男」と「女」という関係さえも、二人には無縁のように思える。
では、「人」と「人」か。
それとも異る。
弟の前に出、あの底知れぬ深さの黒い瞳と冷笑を刻んだ唇を向けられると、祐美は人間以外の「存在」と向かい合っているような気持にさせられるのだった。
「魔魅」と言えばあたっているだろうか。
思春期の祐美が鞭馬を遠ざけたのは、少女特有の潔癖性の他にそのためもあった。
祐美が万事において明るくふるまったのは、また、父母のためもあった。
幼い頃の二人は、|睦《むつ》まじい夫婦だった。
それが変わったのは、やはり経営危機を|契機《きっかけ》としてである。眼が合うとどちらともなく顔をそむける父母を、祐美は哀しい想いで見つめていた。
矢切グループが再び上昇気流に乗っても、二人は変らなかった。
何があったのか。真相を探るには不気味なものがつきまとうようで、祐美は|隔《かく》|靴《か》|掻《そう》|痒《よう》の思いを抱きつつ自分の家族を見守っていた。
そこへ萩生が来た。
あの家庭教師の疲れたような孤独な顔を想い浮かべるときだけ、祐美の胸に安らかなものが流れる。鞭馬が呼んだというだけで、祐美の胸は期待に|膨《ふく》らんだ。
小、中、高と担任を|痛《つう》|罵《ば》し、侮蔑を浴びせ、父の|尽力《じんりょく》がなかったら、まず、転校を繰り返さねばならぬ境涯だったであろう。別荘の地下室で倒れ、下半身不随に陥ってからも、派遣される家庭教師たちはすべて、憤然と去っていった。
祐美がわずかながらもそんな弟に共感めいたものを残していたのは、それなりに苦悩する彼を知っているからだった。
世界が寝静まった頃、寒風吹きすさぶベランダで何かに耐えているように|虚《こ》|空《くう》の一点を見裾えている鞭馬を何度目撃したことか。
空気銃で射ち殺した母描にすがって泣く子描のそばで、身を震わせる彼も泣いていたのだろうか。
鞭馬は二人いるのではなかろうか。
自分でも抑しかねる魔的なものに脅え、怒り、苦悩する弟が、またも伊豆の別荘にこもり出したとき、祐美は逆に遠ざかっていった。萩生との訪問は数ヵ月ぶりのものであった。
そして、異妖の影に気づいた。
海中で足首に巻きついたものの与えた衝撃は、祐美を欲情させたのである。
それも、この世界ではおよそ考えられぬ、人間離れした異次元の快楽をもって。
萩生に救われ、家に帰ってからも、祐美は秘所をさまよおうとする指を押さえるのに、ありったけの意志と理性をふりしぼらねばならなかった。
まだ、その余韻がある。
全身が気だるく熱い。
誰かに乳房を揉んでもらいたかった。性器と肛門に指を入れて欲しかった。乳首を思い切り噛んで欲しかった。
祐美は処女ではなかった。学生時代、数名の男を知っている。性交の経験は十分にあった。よがり狂ったこともある。
海の中のものが与えた刺激は、それとは根本的にちがった。全細胞がよがって泣くのである。触れられただけで達しかけるのである。
もう一度され[#「され」に傍点]たらどうなることかと祐美は脅えた。母にも鞭馬にも相談できぬ、淫猥な秘密であった。
萩生だけが信頼できた。
その彼もどこへ行ったのか、さっき部屋を訪れたら留守だった。鞭馬にきいても知らないと言う。
忍び寄る何かを祐美は感じた。
我が身を抱きしめ、|間《かん》|歇《けつ》的に襲ってくる欲情と恐怖の波に祐美は耐えようとした。
第五章 妖獣企業
1
三矢グループ総帥・矢切耕太郎は、その日、鞭馬の家庭教師と名乗る男の訪問を受けた。家に問い合わせると、確かに昌枝が招いたが、|一昨日《おととい》、祐美とともに伊豆の別荘へ向かったものだという。
とにかく会うことにした。
彼の前に立ったのは、青白い顔に|憑《つ》かれたような瞳をもった三〇年配の男であった。
どこか鞭馬に似ていると思い、矢切は我知らず、不快なものを感じた。
「萩生君か。息子がお世話になる」
挨拶の声も硬かった。
「で、今日は?」
「私は|昨夜《ゆうべ》、伊豆の別荘で奇妙なものを見ました」
と萩生は切り出した。
矢切の眉が上がった。鷲のような顔に、無数の感情のゆらめきが凝集した。
驚愕、不安、戦慄、怒り、そして疑念と――死。
「何かと思えば、おかしなことを。君は本当に萩生真介君か。そうだというのなら、妻は人を見る眼がないということになるな」
「単刀直入に申し上げただけです。あまり時間がありません。私は臆病ものですが、伊豆の別荘へ戻らねばならんのです。ご自宅へ伺うつもりでしたが、調べものもあり、会社の方へ参上いたしました」
「時間がない――とは?」
萩生は無言でポケットから新聞の切り抜きを取り出し、|樫《かし》の木のデスクに置いた。
矢切は無表情に眼をやり、
「これが――どうかしたのかね?」
「その新製品は、誰が[#「誰が」に傍点]開発なさいました?」
「おかしなことを言う。誰とも言えん。|強《し》いて言えば、うちの製品開発課になるのかな」
萩生はうなずいた。
「奥さまは、確か、青森の秋家の御出身でしたね」
唐突に言った言葉が矢切に与えた衝撃は大きかった。彼は愕然と皮張りの椅子から立ち上がったのである。
もちろん、その背後に、これまでに放った萩生の質問のショックがあることは疑いない。
「秋家は今でこそ平凡な地主で通っていますが、古来、日本でも有数な呪術師――というより、|巫女《み こ》の家系でした。日本の正反対、九州に生まれた御船千鶴子も、四国の長尾郁子も、血脈をたどれば、細い糸ながら、秋家の末端に辿り着くはずです」
淡々と言い放つ萩生の言葉に、矢切は沈黙した。
御船千鶴子、長尾郁子――ともに、明治の一時期に忽然と現われた超能力者である。
特に御船千鶴子は、当時の東京帝国大学心理学助教授・福来友吉博士にその才能を認められ、明治四三年九月、東大教授一四名立ち会いのもと麹町の大橋新太郎邸にて行われた「透視実験会」において、見事にその能力を実証してみせながら、マスコミのいわれなき非難と中傷に絶望し、毒をあおいで果てた。
「秋家には代々、|冥《めい》|府《ふ》渡りの法なる妙術が伝えられていたと、『神一方』にあります」
萩生は静かに、しかし力をこめて言った。
「『冥府とは冥界にあらず、重なり合うこの世なり[#「重なり合うこの世なり」に傍点]。妙術をもって渡るべし』……ある事情で、私も渡ることができるのですよ」
萩生はふり向いた。矢切の指がインターフォンのスイッチを入れたことに気づいていたのだろう。
制服姿のガードマンが三人、大またで歩み寄ってくる。
「この男を連れ出せ」
矢切の命令がとんだ。
警備員のひとりが近づいて萩生の腕をとろうとした。
その身体が不意に消滅した。
残りの二人が将棋倒しに倒れた。いきなり眼の前に出現したそいつ[#「そいつ」に傍点]が、猛烈な勢いでぶつかってきたためである。
「前にも言ったように時間がないのです」
茫然と立ちすくむ矢切に、萩生真介は訴えるように言った。
「私の推測が正しければ、この宇宙にとてつもない惨事が襲いかかろうとしています。その犠牲になるのはまず、伊豆にいる御家族だ」
「馬鹿を……馬鹿を言うな」
矢切の声は震えていた。
「何のために奴を喚び出したのか想像はつきます。企業利益の確保を責めてもはじまらない――。ですがとてつもない代償を支払わねばなりませんよ」
言いながら、萩生はふり向いた。
ガードマンたちが近づいてくるところだった。
警棒を握った指が震えている。怒りのためであった。
振り上げた警棒が左頬を殴打にくると見て、萩生は彼の背後へ移動した。
重層空間内の移動感覚は時間的にゼロ。
そのくせ、移動感だけはある。無抵抗の水中を動いている、とでもいえばよかろうか。
消滅と出現は同時であった。
右手の平でガードマンの腰のあたりを軽くつく。
どの辺に触れればどんなダメージが生じるか|知《ち》|悉《しつ》してはいても、|一《いち》|抹《まつ》の不安が漂うのは仕方がない。
ガードマンは消え失せた。
空中に現われ、消えた。出現、消滅。――最後の出現は一〇メートルも離れた壁の手前であり、鈍い音とともに、脳天から壁に激突した。
通り路にあたる応接セットは|小《こ》|揺《ゆる》ぎもしていない。
左右から残る二人が襲った。
凄まじい勢いで弧を描く樫の棒は、奇妙にぼやけた萩生の身体を何の抵抗も示さず通り抜けた。
次の瞬間、たくましい制服姿は消滅と出現を繰り返しつつ、それぞれ背後の壁を揺がせていた。
泡を吹いて|痙《けい》|攣《れん》する身体を、萩生は冷たい眼で見廻した。
「彼らに何をした?」
矢切耕太郎は茫然とつぶやいた。
「腰が半分もねじれているぞ。手足の関節もひん曲がってる――ひどいことをするものだ」
「|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》です」
萩生は静かに言った。
「あの警棒を食ったら一生廃人だったでしょう。出がけに治療しますが、それまでは痛い目をみるのも薬になる。頭を砕かれたものに仕事だからという言いわけが通るとお思いですか?」
「見たところ、テレポートだな」
矢切は疲れたような声で言った。
「触れられただけで、内臓や筋肉が別の場所へくっついて[#「場所へくっついて」に傍点]しまうのか――君は、何者だ?」
「あなたの知り合い[#「知り合い」に傍点]と似たようなものです」
萩生は淡々と、
「ですが、私にはこの世界をどうこうしようという気はない。何故、あんな化物を招いたのです?」
矢切の肩ががっくりとおち、彼は深々と椅子の背にもたれこんだ。苦い声が|湧《わ》くまで数秒を要した。
「何のことだ? ――と言っても通用はしまいな。鞭馬が選んだ家庭教師だけのことはある。世の中には恐ろしい人間がいるものだ。どこまで御存知だね?」
「ひとつ残らず。――あるいは何も。推測ならいくらでもたてられますが、あなたの語る真実には及びません。ですが、企業がらみで奴に協力しているとは……」
「そう思われても、無理はないが……」
矢切は卓上の木箱を|開《あ》け、太い葉巻を取り出すと端を噛み切り、黄金の卓上ライターを引き寄せた。芳香が殺伐たる空気をわずかに救った。
「昌枝があの話を切り出すまで、私は死を覚悟しておったのだよ。一九年前のあの日、株主への説得も不調に終わり、二日後の株主総会で、三矢コンツェルンは根こそぎあるライバルの手におちる運命だった……伊豆の別荘で青酸カリの錠剤を前に夫婦で顔を見合わせていたとき、昌枝が不意に言ったのだ。奴を[#「奴を」に傍点]招喚しようと。あのときの顔は、今でも忘れられん……」
わたくしが別世界のもの[#「もの」に傍点]を呼び出してみます、と昌枝は提案した。
三矢コンツェルンと五万人の社員のためには、悪魔の力を借りるしかありません。安心なすって下さい。我が家に伝わる異物招喚の法『冥府渡り』――必ず伝説のメフィストフェレスを呼び出してみせますわ。
半信半疑のまま、|藁《わら》をも掴む思いで矢切は妻の言葉に従った。
夜半、悪魔招喚に必要とされる小道具など一切持たず、くれぐれも自分が戻るまで近づいて来るなと言い残し、庭の一角に昌枝が消えると、ほどなく、月輪あざやかな空はみるみる暗雲に閉され、石廊崎の方からびょうびょうと冷風が吹き渡りはじめた。
居間の窓から見守る矢切の視界を稲妻の|閃《ひらめ》きが埋めるまで二秒とかからなかった。
変事は秒間隔で起こった。
稲妻が白熱の|錐《きり》と化して昌枝の消えた繁みに集中し、樹々を|薙《な》ぎ倒した。猛り狂う風に別荘の窓ガラスは、その厚さ、位置、大きさを問わずに砕け、昌枝を救おうと庭へとび出した召使いたちは全員、邸内へ吹き戻された。
付近の村では犬という犬が吠え狂い、鎖を引きちぎって逃亡し、ついに戻ってはこなかったといわれる。
突風から五秒と経たず、大地が鳴動した。
家の一軒もつぶれずに済んだのが不思議なほど強烈な震動に、表へとび出した人々は、通りを埋め尽して逃げる獣の大群と出食わした。鼠、犬、描はもちろん、蛇が、兎が、|鼬《いたち》が、安全な山野の隠れ家を捨て逃げまどっているのだった。
何百匹もが海中へ落ち、そこに凄惨な闘争の嵐が巻き起こった。海中にもまた、恐怖のあまり方向感覚も狂ったか、銀鱗をはね上げ、もつれ合う仲間の肌に歯をたてる魚たちが押し寄せていたのである。
天変地異はきっかり三〇秒でやんだ。
「私は外へ出ようとしなかった。昌枝より、その施した術が成功したかしないかが大切だったのだ。ほどなく昌枝は戻ってきた。そして、安心なさいと言った。すべては叶えられた、と。そう告げたときの、上気した淫らな顔は今も忘れられん。喚び出したものが何を要求したか、奴に会ったなら君にもわかるだろう。奴は要求しつづけておる。そして、私は、それと知りながら、すべてを黙視しておらねばならんのだ」
言い終わると、矢切は肘掛けの外へ垂らしていた手を口元にあてがった。葉巻がないのに気づき、大儀そうに身を屈めて拾った。|絨毯《じゅうたん》に黒い焼け焦げがついた。
萩生の眼には痛ましげな光があった。異世界の妖物に妻を犯され企業を救った男も不幸なのかもしれなかった。
「奴に、一企業を救う力があるとは思えませんが」
と彼は言った。
「それほど深くは調査が行き届かなかったとみえるな」
ようやく矢切の顔に淡い微笑が浮かんだ。
「翌日、奴がよこしたのは、一種の永久機関だった。わかるだろう。外部からのエネルギー注入なしで、それ自体が永久に無からエネルギーを生み出しつづける夢のメカニズムだ。私は株主たちを集め、それを見せてまわった。勝負は明らかだった。これさえあれば、一個人が地上のエネルギー形態を変えることさえ可能なのだ。半重力、時間旅行さえ成しとげるかもしれん。世界中の企業、軍部から引き合いがあるだろう。三矢コンツェルンなどもはや問題ではなかった。これさえ手にすれば、乞食だろうと、一夜のうちに国家さえ買える。要は、私がそれを持っているということだった。こうして、今、この椅子にかけていられるわけだ」
「すると、奴は帰らなかったのですね」
「味をしめたのだよ、昌枝で――私の妻の身体で!」
言うなり、矢切はテーブルに突っ伏した。すぐに上げた顔は死人のように黒ずんでいた。眼を閉じれば、死人で通るだろう。声もそれにふさわしかった。
「現場を目撃したわけではないよ。しかし、私にはわかるのだ。妻の浮気がな。もっと相手を選ぶべきだとは思わんか。奴は今でも、あの家の地下におる。そして、昌枝を|貪《むさぼ》りつづけておるのだ」
「失礼ですが――」
萩生は口ごもった。
「まさか、奥さんが目的でこちらにいるのではありますまい。――鞭馬君は、|貴男《あなた》のお子さんなのですか?」
「わからん。――昌枝はそうだと言っておるがな。あの性質と知能からすれば、やはり父は別におるだろう」
「…………」
「鞭馬――私と名字が同じというだけでもおぞましい。今度の社の新製品も、すべて奴が開発したものだ」
萩生は手をあげて額の汗をふいた。冷汗であった。
「鞭馬君ならやるでしょう。彼の知識はこの世界のものではない。三矢精機は何をしようとしているのですか?」
「私にも不明だ。鞭馬と――奴は直接、ここにも電話をかけてくるが、そのとき、製作部にサジェスチョンを送ることを忘れない。次の電話は、あのメカのキャンペーンだろう」
「よくも考えつくものだ。大企業と結託するとはね。しかし、何の目的で? 常識的な答えは、地上征服でしょうか」
「わからない」
矢切は首をふった。
「ミダス王の奇跡の手とH・G・ウェルズの驚異の旅――わかりませんね。鞭馬君に命じてこれをつくらせ、どうしようというのか。敵のカードが読めなければ、手の打ちようがない」
最大の謎を前にして、沈黙が部屋におちた。
「製品の発表を中止するわけにはいかないのですか?」
萩生は矢切を見つめた。
「私には何とも出来ん。そういう約束なのだ。奴は昌枝の口を借りて伝えた。奴の命に従う限り、三矢コンツェルンは隆盛の一途をたどるだろうと。そむけば、すべての崩壊が待つのみだ。一九年前、私は妻と魂を売った。まだ元はとっておらん。あの製品は、今日明日中に生産ラインへ乗る予定だ」
語尾に力がこもっていた。萩生を見つめる顔に逡巡や苦悩はなかった。企業家の顔だった。萩生はきびすを返した。
「何処へ行く?」
「伊豆へ」
「邪魔をするのかね?」
「私はご子息に雇われた教師です。彼の意見に従うべきでしょう」
背中にあたる視線にある決意がこもるのを感じながら、萩生はもうふり向かなかった。
2
鞭馬はみゆきと一緒に森へ入っていった。ほどなく、石造建築物のかたわらを通りかかった。
|昨夜《ゆうべ》、その地下で萩生が死闘を展開した石の門は、構造物とは縁もゆかりもない石の堆積と化していた。無雑作に大地に転がった表面をひびと苔が覆っている。そこに刻まれた数百年の歳月を疑うものはいまい。
|一《いち》|瞥《べつ》も与えず、鞭馬は林を抜けた。
草原に出た。
青空に呼応するかのように潮騒が鳴った。
草原は二〇メートルほど前方で切れ、水平線が地球の輪郭をなぞっている。
ここは崖の上であった。
みゆきをそこに残し、鞭馬の椅子は音もなく進んだ。
みゆきがあっと叫んだほどの崖っぷちで停止する。
「危いわ」
すぐに駆け寄り、みゆきは責めるように言った。|昨夜《ゆうべ》、紐の群れの中で悶えていた女である。白いブラウスとピンクのスカートという平凡な服装が、|却《かえ》って妖艶さを強めている。
「気になるか? 親父に危い真似をしないよう、見張れと言われたのか?」
「どうかしら」
「みゆき――いつから、親父の仲間になった?」
「…………」
鞭馬の手が横に上がり、女中の乳房を鷲掴みにした。
「あ……」
かすかに喘いだ白い|貌《かお》へ、鞭馬は妖気ただよう笑いを見せた。
「|肉体《からだ》は人間、こころは化物――この屋敷へ務めなければ、平凡な一生を終えたものを。みゆき――おまえばかりではない、鹿間も島田も、僕を怨んでいるだろうな」
乳に食いこむ手を、みゆきはそっとはずした。
「ここから突き落としてもいいのだぞ」
鞭馬は眼下で岩を|食《は》む白い波頭を見下ろして言った。高さは二〇メートルを越す。
「いくら僕でも、ここから落ちてはどうにもならない。親父は悲しむだろうな――どっちの親父かはわからないが」
「どうして跳び降りないの? あなたがいなくなれば、あの方[#「あの方」に傍点]は奥さまに別の子を生ませるでしょう。同じことよ」
「それも|業《ごう》|腹《はら》だしな。それに、ようやく完成させたあの品[#「あの品」に傍点]と、未完の品々――弟[#「弟」に傍点]にくれてやるのは惜しい」
「自分の子にはどう?」
無機質な声に、鞭馬の表情が動いた。
みゆきがくう[#「くう」に傍点]、と叫んでのけぞった。
鞭馬の腕はスカートの内側へ入りこんでいた。
何をどうされているのか、スカートが波打つたびに、みゆきは化鳥のような声をふりしぼって身悶えた。そのくせ、鞭馬の手を離そうとしないのは、与えられている悦楽がこの世のものではないからか。
鞭馬は――海を見ている。
どこか憂愁の翳が漂う顔は、澄んだ蒼空より夕映えに染まった海の方が似合うかもしれない。
「このまま飛んでいけたらなあ」
と彼はつぶやいた。年頃の高校生なら誰でも口にしそうな平凡な言葉を、平凡な口調で。
みゆきがのけぞった。
身体は汗を噴いていた。
どこか寂しげな眼で空と海を眺めながら、美女をよがり狂わせる青年。何と形容すべきだろう。
「鞭馬――」
押し殺したような声に、鞭馬はふり向いた。あわてた様子もない。
「――姉さん、来てたのかい?」
と言った。
林の出口で祐美は顔をそむけていた。
上品な柄のワンピース姿だった。ノースリーブの腕は、透き通るように白い。顔にだけ紅がのぼっている。鞭馬とみゆきを見かけて|尾《つ》けてきたか、散歩中に偶然出会ったのだろう。
みゆきにも鞭馬の声がきこえたのか、薄笑いを浮かべて祐美の方をふり返ったが、すぐに新らしい技巧でも試されたか、くえっと泣いて、今度は|海老《え び》のように前のめりに身体を折った。
「何をしているの、鞭馬!?」
さすがに怒気を含んだ声を弾き出した祐美に、この不気味な弟はにやりと笑い、
「見ればわかるだろ? ――おいでよ、姉さん。――処女じゃないんだろ」
みゆきは前のめりに草むらへ倒れた。
倒れながら、右手を芯へさしこんでいた。尻を高く掲げていじりはじめた。
ひきつるような声に、祐美は耳を押さえた。
「照れるなって――見られてる方が照れ臭いんだぜ」
車椅子を優雅に動かして鞭馬は接近してきた。草を噛むエンジン音に祐美が眼を上げたときにはもう、眼の前で端整なマスクが見上げていた。
「人間は嘘つきでいけないよ。やりたいのに黙ってるなんて。僕の親父[#「親父」に傍点]は正直だぜ。今度は姉さんとしてみたい[#「してみたい」に傍点]ってさ」
「鞭馬!」
祐美が叫んだのは、冷たい|爬虫類《はちゅうるい》みたいな感触の手が、手首を握りしめたからだった。
背筋を貫く異様な感触に、祐美は半ば愕然と眼を見張った。
昨日、海中で足首を掴んだものと同じだ!
「あ、あなたは――」
「僕も正直なんだよ、姉さん」
笑いの形に|歪《ゆが》んだ唇が、ささやくように言った。
「前から好きだったんだ。してみようよ、ね、姉さん」
訳もわからず、喉から|膨《ふく》れ上がる恐怖と忌わしさに狩りたてられるように、祐美は走り出した。
ふり放したはずの鞭馬の手の感触が残っていた。どこまでもついてきた。鞭馬の手が長々とのびているのではないかと思われた。
突如、風景が変わった。
青黒い色彩に染め上げられた、木も草も腐敗しきったような一角であった。
不気味と感じる前に、地から噴き上げる|瘴気《しょうき》と熱に、祐美の理性ははかなく消え失せていた。
どっと倒れ伏す身体めがけて、地面から伸び上がった怪異な植物が、コブラみたいにその先端を膨らませつつ近づいてきた。
その鎌首が、ぽっと音をたてて火を吹いたのは次の|刹《せつ》|那《な》であった。
不可視の|力《パワー》を浴びて首をおとされ、へなへなとしなびる植物の間を、車椅子の鞭馬が悠然とやってきた。
彼と知って[#「知って」に傍点]か、震えるばかりで攻撃してこぬ生き残りへ、
「できそこないどもが」
侮蔑をこめて吐き捨てると、肘掛けに組み込まれたシャベル状のマジック・ハンドを器用に操り、倒れた祐美を膝の上へ乗せた。
すぐに汚染地帯を脱け出し、林を抜けて家へ戻ると、何事かと近づいてくる召使いたちに目もくれず、祐美の寝室へ入った。
ドアを閉め、ベッドに近づくと、姉の身体をそっと横たえた。
それだけだった。
森の出口で見せた邪悪な相は跡形もなく、青空と大海原を一望していたあのもの哀しげな表情で美しい姉を見つめ、彼はすぐ部屋を出ていった。
部屋の外に昌枝が立っていた。
色っぽい顔が恐怖にひきつっていた。魂への恐怖だった。
「おまえ……姉さんをどうしたの? ………」
「何も」
鞭馬は静かに答えた。
「僕は何も。だけど、父さん[#「父さん」に傍点]はわからない」
昌枝は総毛立った。
「お願い、あの娘だけは……」
「どうして、姉さんだけ、特別扱いするの?」
鞭馬は|嘲《あざ》けるように言った。
「僕たちはみんな、家族[#「家族」に傍点]なんだよ。でしょ?」
「そうよ、家族よ」
「恋人同士でもあるよね。でしょ?」
「…………」
「ね?」
「そう……よ」
「じゃあ、いらっしゃい」
鞭馬はやさしく昌枝の手をとった。
「鞭馬」
「いいから」
廊下を渡り、二人は鞭馬の部屋へ入った。
書庫へ行き、例の本棚を開けて、地下の部屋へ|潜《もぐ》った。
下の様子をひとめ見て、昌枝は青ざめた。
縄が|蠢《うごめ》いていた。
壁の片隅にうずくまった影の|堆《たい》|積《せき》からのたくり出て、床面に安置されたメカを、壁の表面をぬらぬらと動き廻っている。
怒っているように。
飢えているように。
肉に。
女体に。
床に降り立ち、のびてきた|縄《ロープ》を鞭馬は器用にかわした。
奇怪な音を影が発した。
「……そう、ぼやくなよ、父さん……」
例の鋼石混合のメカに近づき、鞭馬はなだめるように言った。
「あの家庭教師、どこへいったにしろ、あれだけ汁を浴びたんだ。無事じゃ済まないさ。それに、じきこいつ[#「こいつ」に傍点]が完成する。向うの父さん[#「向うの父さん」に傍点]に与えた製品も生産ラインにのるし、後はやり[#「やり」に傍点]放題、食い[#「食い」に傍点]放題だろ」
すでに足首から腰まで縄に巻きつかれ、身悶えしている母へチラリと眼をやり、鞭馬は手をふった。
「駄目だよ、父さん。姉さんは僕がもらう。父さんは母さんで我慢するのがいちばんさ。それが倫理[#「倫理」に傍点]ってものだよ」
縄がうねって頬をうちにくるのを、鞭馬は軽くかわした。
「わからん父さんだね。――母さんで我慢できなければ、みゆき[#「みゆき」に傍点]でも、村の娘でも抱けばいいじゃないか。そうそう、セックスは行きずりの相手とするのがいちばん後くされがないぜ」
昌枝の喘ぎが流れてきた。
縄にからまれてわななく白い腿が見えた。
青黒い汁が何条もの線をひいてその上を流れた。
「やめろ――!」
鋭い制止は、通路へ走る縄の端を見たためか。
「どうしても姉さんに手を出すつもりなら、この機械、始末するぜ。あれ[#「あれ」に傍点]は、僕の恋人さ」
「……わかった……我が子ながら……恐ろ……しい……奴……あの女……は……あき……らめ……よ……う……」
言うまでもなく、声は鞭馬の頭の中に響いた。
「それで、いいのさ。邪魔者は消えたし、後は新製品の誕生を待つばかりだ。女を抱くのは後でいくらもできるだろ」
「……それも……そう……だ」
「もうひとつ――みゆきに僕を見張らせるのはよせ。いい女だが、タイプじゃない」
「……おまえ……は……まだ……信用……でき……ん。あい……つを……呼んだ……」
「それはもう説明しただろう。このメカには根本的な手直しが必要だ。それは僕ひとりでもなんとかなるとして、新しいメカを支障なく動かすにはこちら側[#「こちら側」に傍点]の空間理論の専門家が要る。もっとも、彼が父さんと一度渡り合った仲とは思わなかったけれど」
「……あの……男……ほんとうに……死んだ……のか?」
「さあてね。――それなりの準備はしていた方がいいかもしれない。生きていれば、まず、森の門を狙うだろ。人をやっておいたらどうだい?」
「そう……しよう……」
「では、もう、あっちで乳くり合ってくれないか――僕はしばらく、これにかかりっきりになる」
蠢く縄が、皿から捨てられるスパゲティのように一斉に――悶え狂う昌枝の裸体もろとも、奥の闇へ消え失せると、鞭馬は機械にかがみ込んだ。
いつの間にか、先刻の憂いにみちた表情など夢だといわんばかりの悪魔的な翳に、彼は顔をまかせていた。
3
石の門に注意しろと鞭馬が言ったのは、当っていたが、やや遅かった。
彼が失神した祐美を抱いて森を出てから五分とたたぬうちに、あの石の門のかたわらに萩生真介が忽然と現われたのである。
東京の三矢精機のビルを出たのが午前十時ちょうど、今が三時だからまっすぐ|移動《テレポート》してきたのでないのはわかる。
タイム・ラグの理由は、ポロシャツの背にしょった青いリュックサックだろう。
出現するや、彼は疲労|困《こん》|憊《ぱい》したように額の汗を拭き、どっと地べたへ腰をおろした。周囲に人影のないのは移動を繰り返して確かめてある。
「ふう、群馬の工事現場から伊豆か。ハード・ワークだな」
こう言ってにやりと笑ったのは、ここまでやってくる道中を思い出したからである。
五メートルが限界とはいえ、地上に出現する時間が無限にゼロに近い以上、数百キロの移動を繰り返しても、それに要する時間はほぼゼロに等しい。
群馬の工事現場からここへ辿り着くまで、彼はドライブ・インで昼食を|摂《と》り、川の上を渡り、高速道路を通過してきた。伊豆まで一直線の|道《みち》|程《のり》であった。地図は一度見たきりだ。記憶できなくても、身体が――というより、移動用の超感覚がそれを感じとり、ほとんど無意識のうちに、そのくせはっきりと意識させながら移動を敢行する。移動中に不測の事態が生じても急停止や方向転換が可能なのはこのおかげであった。
ほんの一瞬ではあるが、人々の眼に触れた。無論、誰も萩生の顔も形もわかりはしない。一刹那の幻のようなものだ。それでも、そば屋の出前もちは、眼前に現われた彼に仰天しておかもちごと自転車からおっこちたし、湯舟からでしなに彼と対面した人妻は大股開きでひっくり返った。
萩生はそれを憶い出して微笑したのである。
石の門――その残骸を見たとき、笑顔はすっと消えた。
「つぶしたか。だが――中味もそうかな」
こう言って、彼は苔むした石柱に近づいた。
面倒だとばかり、スニーカーの先で軽く蹴る。
柱は次々に消え、地響きをたてて数メートル向うの地面に落ちた。
萩生は窪みの真ん中に立ち、これも軽く右足を上げて踏んだ。
音もなく、直径三〇センチ、深さ五〇センチほどの円筒形の穴が穿たれたのである。
えぐり抜かれた土は、石柱の上に出現し、粉々になって散った。
萩生はもう一度、穴の底に足を入れた。
再び土は消え、新らしい穴の深さは五メートルに達した。
それも土であった。
「やっぱり念を入れたか。別の入口を探さなくてはならないな」
あきらめたように言い、彼はきびすを返した。
愕然となった。
四方の万物は青黒く染まっていた。
眼の前にあの蛇を思わせる植物が並んでいた。
身体と世界を青黒い霧が包んだ。
萩生の姿が毒煙に包まれたのを見届け、みゆきは木の陰から出た。
そのなまめかしい口の奥へ、ずるりと縄みたいなものが引っこんでいった。
唇の脇から青黒い筋が垂れ下がり、みゆきは素早く舐めとった。
崖っぷちでの祐美と鞭馬のやりとりの後、ひとり自慰にふけっていた彼女が、帰りぎわ、地下調査に励む萩生を見かけたのである。
「他愛もない」
吐き捨てるように言って歩き出したとき、
「そうでもないさ」
低い声が背後でささやいた。
愕然とふり返ると、また、その後ろで、
「さ、ご主人さまのところへ案内してもらおう」
今度は脅すように言う。
空気ひと筋動かないのに、明らかに敵がいる。
みゆきは、地下広場での萩生の能力を見ていた。あの奇怪な分身は彼女にも理解しがたい技であった。
そうはわかっていても、いざ自分自身に駆使されてみると、これは戦慄せざるを得ない。
「行け」
声の方向を確かめ、その反対側へ、みゆきは大きく首を回転させた。
びゅっと空間を|薙《な》いだのは、あの[#「あの」に傍点]縄であった。
それは彼女の口から洩れ出ていた。
「おっ」
と驚きの声がした方向へ、距離もわからず、不気味な汁がとんだ。
みゆきは一気に走った。
走りながら、長い舌[#「舌」に傍点]を左右へ振った。
触れた木は腐り、妖煙を噴き上げて溶けた。
その舌に軽い衝撃を感じたのは、次の瞬間であった。
舌が消滅したのに気づくまで数秒かかった。
それを吹きとばした指は、そのままみゆきの白い喉を押さえた。
「奴の|棲《すみ》|家《か》へ行く前に訊きたいことができた。あの屋敷の使用人は全員、おまえの同類か、答えろ」
強烈な力が喉仏をつぶしにかかり、みゆきはようよう、
「全部が全部ではないわ。私の他には――ふふ、そうでない連中の名を挙げた方が早いわね」
「それは――」
「そうせっつかないで。わたしには舌がないんですからね」
その割りには一語一語はっきりと言い、みゆきは唾をのみこんだ。
「ね、わたしにも教えて下さらない。あの毒煙をどうやって防いだのか」
「質問に答えろ」
「はいはい」
うなずいたみゆきの額に、小さな穴が開いた。
頭ひとつ高い萩生の喉もとに、ばっと青黒い液と肉片がとびちった。
つづけざまにくぐもった銃声がとどろき、地面や木の幹が破片を|撒《ま》き散らした。
数秒で危険な音は中断し、別荘の方角から数個の人影が現われた。
いずれも黒背広の屈強な男たちである。
やくざほどの険はないが、顔つきは精悍だ。殺人も辞さぬほどに。
「消えたぞ!」
「社長の言ってた力ってなこれか!?」
声が入り乱れ、別の声が、
「なあに、いくらぱっぱっ消えちまおうと、前の女の頭はぶち抜いたんだ。野郎もやられたに決まってら。その辺に死体が転がってるぜ」
「よし、探せ。油断するなよ」
|消音器《マフラー》付きの小口径ボルト・アクションライフルを手に、男たちは猟犬のように散開した。
祐美は眼を醒ました。
ぞくり、と身体が震えた。震えで手首から噴き上がってくる。鞭馬に掴まれた怪[#「怪」に傍点]感の余韻であった。
恐怖が這いのぼってくる。
自分を見た鞭馬の眼つき。あれは人間のものではなかった。
あっと叫んで右手をスカートの下腹部へあてたのも、女の反応としては正常だったといえる。
異常はないようであった。安堵の息が洩れた。
それがすぐ脅えの表情に変わった。庭の一角を埋め尽した怪植物の恐怖を憶い出したからである。順序からいけば、まず頭に浮かぶのはこちらだろうが、それだけ、鞭馬の|呪《じゅ》|縛《ばく》は強かったともいえる。
部屋へ運んだのは、彼だろうか。
逃げようとは思わなかった。鞭馬は弟だ。母も、召使いや女中たちもいる。
一体、この別荘の中で何が起こりつつあるのか、それが知りたかった。
ここへ来てから母の様子がおかしい。
萩生もいつの間にか消えた。ここにいると明言した男が、である。
鞭馬に訊くと、伊豆の文学碑を調べにいくといって出たきり、夜、下田の方へ泊るからと連絡があったという。
そのときは納得したものの、今となっては信じ難い。
もしや、鞭馬が、と思い、いや、萩生を招いたのは彼だと思い直して疑いを解こうとしたものの、疑念は黒い蜘蛛の巣みたいに小さな胸にへばりついていた。
そこへ、昼近く、東京の父から連絡があった。
企業爆破犯から脅迫が入り、伊豆にいる家族を狙うと宣言した。ガードマンを派遣したから、すぐ東京へ戻れという。
七〇年代の爆破闘争華やかな折りにも、三矢グループは二、三度テロを仕かけられ、死傷者を出したことがある。脅迫もしょっ中だった。
母も帰ろうと言い出した。鞭馬は残ると言った。一度言い出したらきかない弟である。
そうは思ってもどこかおかしい。
そもそも、怪我をしたというのに、手に|痣《あざ》をつけたくらいで平然としているのが妙なのだ。島田に訊いても、勘違いだったというばかりで一向に釈然としない。
探ってみようという気が湧いた。
まず、鞭馬だった。
荷物だけを整理し、それとなく気にかけていると、午後も遅くになって、みゆきと連れ立って外へ出た。
あわてて|尾《つ》けた。
すると崖っぷちでの狂態がはじまった。
鞭馬の異常性を納得したのはこのときである。
そして、あの怪植物だった。
訳がわからない。
わからないまま、祐美は探ってみようと決心した。
どこかに安易な気持があった。
弟とみゆきと怪植物――彼女の現実を決定的に踏みにじる存在ではあり得ない。怪植物にしても、鞭馬が庭で育てたと思えば納得がいく。
なんとかなるだろう、と思った。
さしあたっては、やはり鞭馬を見張ることだ。
階下へ降りると、女中のひとりが大丈夫ですか、と近づいてきた。
誰が運び込んだかときくと、鞭馬だと言う。それきり出ていった様子はないとのことであった。
すると書斎だろう。
母を探したがいなかった。
鞭馬と一緒らしい。
弟の部屋へ出向く途中で昌枝と出食わした。
桜色に上気した肌が祐美に淫らなものを感じさせた。昌枝は眼をそらした。
「母さん……鞭馬は?」
「書斎にいるわ」
「どうするの? もう東京から迎えがくる頃よ」
「どうしても……いかないっていうの。置いていくしかないわ。――それより、祐美さん、大丈夫?」
祐美はうなずいた。
「軽い日射病よ。鞭馬がいてくれて助かったわ。――ね、母さん、わたしが説得してみるわ」
祐美は眼を丸くした。昌枝の形相がみるみる引きつったのである。
「やめて!」
真っ向から叩きつけるように叫んだ。
「――母さん……」
唐突に、昌枝を襲った衝撃は消えたようであった。顔に疲労が溜まり、昌枝は眼をふせた。
「ごめんなさい、あわてちゃって。なんだか疲れてるの。もうお父さまには電話したけれど、母さんは残るわ。祐美さんだけ帰ってちょうだい」
「でも……」
「お願い。鞭馬の勉強も二、三日で終わるというし、すぐ後を迫いかけるから。ガードマンの人にも残ってもらえるよう話をするわ」
少し考え、祐美は了承した。
「でも、萩生先生は?」
母の顔に脅えに似たものが走るのを、祐美は見逃がさなかった。
「そうね……どうなさったのか、ご連絡がないの……連絡がついたらすぐ、東京へ戻っていただくわ」
納得する他なかった。母に押されるようにして、祐美は部屋へ戻って荷物をとり、階下へ降りた。
迎えは三〇分ほどして到着した。
黒背広の屈強な男たちである。やくざとは異るが、どうしても好きになれない暴力的な雰囲気を湛えていた。
母と執事たちに見送られ、祐美は出発した。みゆきと鞭馬の姿が見えないのが気がかりだったが、もう彼女自身の意志ではどうにもならないところまできていた。
運転席と助手席、それと左脇に男たちがついた。
どの男もプロレスラー相手でも互角に渡り合えそうな体格と|面《つら》|構《がま》えを持っていた。
ガードマンと知ってはいても、本能的な脅えが祐美を落着かなくさせた。
東京まで三時間。
景色だけを見て過すには、あまりに長い|時間《と き》であった。
敷地を出て、海岸道路に入った。
右方で海がざわめいている。
海中で足首に巻きついたものを考え、祐美は総毛立った。
「ね、なるべく海から離れて」
つい口から出た。
運転手は無言でハンドルを操作した。
一時間ほど走ると、心残りが消えた。
どうにもならない距離である。
東京でのことを祐美は考えようとした。
予約しておいた秋のスーツを取りにいかねばならないし、歌舞伎の招待券もたまっているだろう。祐美のひいきは団十郎だった。
運転手の身体が震えた。
動揺の気配が伝わってくる。
「どうした?」
左隣りの男が身を乗り出して訊いた。
「ハンドルが効かない――停めるぞ!」
停まるかわりに、車は路上で大きく弧を描いた。
「どうした!? 動くじゃねえか」
助手席の男がいぶかしげに言った。
「ちがう。おれが動かしてるんじゃねえ。勝手にハンドルの奴が!」
「なにィ――停めろ!」
「駄目だ。ブレーキも効かねえ!」
「リモコンでもつけられたか!」
祐美の脇の男がドアを開けた。
奇怪なコントロールもここまでは及んでいないらしい。
「お嬢さん、大丈夫だとは思いますが、万がいちのときは一緒にとび出してもらいます。覚悟なさって下さい」
太い男の声にも不安がほの見えていた。
祐美は生唾をのみこんだ。
「なんだ、こいつぁ?」
リア・ウインドをのぞきこんだ男が低く呻いた。
祐美もふり向き――今度こそ全身の血が音をたてて引いていった。
Uターンしかけた車の後尾から、一本の白い綱みたいなものが伸びている。
記憶が祐美に恐怖の電撃を与えた。
車がもと来た方向へ走り出し、綱が車体前部から|蜿《えん》|蜒《えん》と道路の果てへ連らなっているのを見て、運転手と隣りの男が顔を見合わせた。
祐美にはわかっていた。
ついてきたのだ。別荘を出たときから。他の車にふみつけられても、びくともせず。
その執念。
異形の色に染まって……
脈絡もなく、鞭馬の顔と声が|甦《よみがえ》った。
僕の[#「僕の」に傍点]親父は正直だぜ。
今度は姉さんとしてみたい[#「姉さんとしてみたい」に傍点]って。
親って誰よ?
して[#「して」に傍点]みたいって、何を?
「助けて」
隣りの男の腕に祐美はすがりついた。引きしまった肉の感触が伝わってきた。たくましい腕だった。
「ご安心なさい」
男は力強くいい、ハンドルは直ったか、と訊いた。
「まだだ――畜生め、手の打ちようがねえ」
「一〇〇は出てる。このままじゃ、飛び降りもできんな」
と助手席の男が言った。
「腹を据えるこった。|殺《や》る気なら、|最初《は な》から海の中へどんぶりこ、さ」
祐美は眼を閉じた。
一時間ほどして、前方に見覚えのある風景が見えてきた。
やはり、と祐美は思った。
別荘の敷地へ入る前に、車の方向が変わった。
横手の林の中へ突っこんでいく。
フロント・グラスの前で木の枝が弾じかれるように左右に分かれた。
「スピードがおちたぞ――降りるか?」
「いや――じき、目的地だ」
祐美のすがった男の予想は適中した。
青草の汁をタイヤに滲ませ、車は急停車した。
間髪入れず、前の二人が降りた。出ようとする祐美を、隣りの男が押さえた。
「誰もいねえぞ――なんだ、この薄気味悪い縄は!?」
「ボンネットを開けてみろ」
二つの声が入り乱れ、運転手がドアから手を突っこんでボンネットの開閉レバーを引いた。
次の瞬間――
ボンネットは空中に跳ね上がった。
びゅるる――という形容しか、祐美の頭には浮かばなかった。
あの縄が、獲物を狙う蛇のように噴き上がり、二人のガードマンの首を絡めとったのである。
恐らく、車体下部を|溶《と》かし、機関部を制覇し、ハンドルの自由も奪っていたのであろう。
「ここにいなさい!」
逃げても無駄と悟ったのか、こう叫んで男はとび出し、ドアを閉めた。
その眼の前で、紫色になって苦しみもがく二人の全身に、ぴゅっと青黒い汁が吹きかかった。
悲鳴は上がらなかった。
やはり、腐敗ないし腐蝕と呼んだ方が正しかったであろう。
皮膚と肉は青黒く染まってとろけ、すぐにのぞいた骨格も浸蝕されて、服もろともタール状の粘塊と化して地面に広がった。黒煙が上がった。腐敗液の触れた草が同じ現象を起こしたのである。
祐美は眼を|剥《む》いたきり動かない。
男の行動は、意志の力より、磨き抜かれた反射神経に頼ったものであったろう。
鎌首が、くい、とこちらを向いた刹那、巨体は手近の木の幹へとんだ。
その陰へ廻りこんだとき、右手には拳銃が光っていた。
|SW《スミス・アンド・ウェッスン》・M30チーフ・スペシャル。自分の動きを追って近づいてくる肉縄が、十分に接近してから男は引き金を絞った。
縄の先端がほおずき[#「ほおずき」に傍点]みたいに裂けて四散する。
見事な腕だった。隠し持つのに便利な二・五インチ短銃身は、狙撃にはおよそ向いていない。
くうっと地面へ下がった縄は、すぐ地を舐めるように這いはじめた。
もう一発射って、男はいちばん近い木の幹めがけて走った。
その足に縄が巻きついた。
瞬時に、男の顔は下から[#「下から」に傍点]青黒く変わった。
祐美は動かなかった。
肉が骨を締めつけていた。神経はどこかへ|去《い》ってしまったようであった。腐敗する自分のイメージが浮かんだ。祐美は美貌に自信をもっていた。耐えられない恐怖だった。
「いやあ!」
絶叫した。閉じている窓のハンドルを必死で廻し、かかっているロック・スイッチを夢中で押した。
つう、と窓ガラスの下側から細長いものが這い上がってきた。
先端の裂けた縄であった。
祐美はドアの|把《とっ》|手《て》をつかみ内側へ引いた。引き開けられぬためであった。手が|無《む》|闇《やみ》にふるえた。硬い連続音が耳ざわりだった。歯の鳴る音であった。
「来ないで」
と祐美は叫んだ。哀願であった。
「来ないで、放っておいて」
願いは聞き届けられなかった。
窓ガラスに汚汁が蝶のように広がり、ガラスは溶け崩れた。
祐美は反対側へ走った。
入ってくるかと思ったが、縄は消えていた。
天井でしゅうという音がした。
目の前を青黒い線が流れおち、シートに|滴《しずく》をとばした。シートも煙を上げた。
祐美はドアの|把《とっ》|手《て》に手をかけた。
びくともしない。
ロックがかかっているのに気づかないのだった。
「鍵が……かかって……おる……」
頭の中で誰かが言った。
そうか!
祐美は急いでスイッチを引き上げた。
車内には形容し難い|悪臭《おしゅう》が充ちようとしていた。|椅子《シート》も床も天井も有機質なみの匂いを発して溶けていく。
鼻孔から刺激と嘔吐が突き上げ、祐美はめまいを覚えた。
途端にドアが開き、新鮮な熱い空気の中へ、祐美はとび出ていた。肺にせっつかれ、夢中で空気を吸いこむ。
別のものも。
がぼっと柔らかいものを吸いこんだ。
吐き出そうとした瞬間、それは蛇のように祐美の喉の奥まで侵入していた。
口の中に、気が狂いそうな不潔な味が広がった。
垂れ下がったものを、祐美は夢中で掴み、引っぱろうとした。
「無駄……だ」
さっきの声が言った。
「わし……は……女の中……から……は……出ん……。苦し……いか? ……いや……気持……よ……かろう……が」
声が終わらぬうちに、祐美は恍惚としていた。そいつ[#「そいつ」に傍点]の力だろうか。汚怪なものと知りつつ頬ばり、顔は苦痛と汚辱に歪みながら、スカートの奥から熱いうずきがこみ上げてくるのだった。青黒い波が這いのぼるイメージを祐美は感じた。
不思議と呼吸はできた。
「どう……だ……気持……よかろ……う……ほれ……脚を……上げる……の……じゃ……」
スカートからむき出しになった右脚を祐美は大胆に上げた。
にょろりと、口からこぼれる縄がその下をくぐり、太腿に巻きついた。
粘っこい感触に祐美の身体は痙攣した。
男の舌の味は知っている。
数千倍に達する快感と不潔さの混合だった。
いつの間にか、祐美の顔は恍惚に歪んでいた。
口腔に汁状のものがひっかけられた。
喉仏が動いた。飲みこんだのである。放出はとまらなかった。口腔に汚液があふれ、口いっぱいに溢れ出た。
着換えてきた白いブラウスもスカートも青黒く染まった。
夕暮れの森の中で、奇怪な肉の縄に口を犯され、そいつの洩らした汁を喉を鳴らして呑んでいる。
握りしめた縄を、祐美はゆっくりとこすりはじめた。
秘部が熱く濡れている。パンティに滲んでいる。
腿に巻きついたものがずれ、股間に触れた。
呻くかわりに、祐美は思いきり頬をすぼめた。
「そう……だ……おま……え……の母も……そうし……た……|母子《おやこ》……で……やり方が……似て……お……る……ほうびに……こう……して……くれ……る」
ぬめりとこすられた。
パンティの上から。
太い棒のような快感が突き上げ、祐美はのけぞった。声のかわりに口腔内の液が空中にとんだ。
草の上へ横倒しになった祐美の身体に、今度こそ、縄が幾重にも巻きついた。
青いたそがれの下で、祐美の姿は、淫美な縛りの犠牲者になったような、いや、灰色の蛇に犯されている美女のような、生々しくも異妖な禁断図であった。
休みなくそれは汚れなき口の中に汚液を吐きつけ、秘所をこすり、太腿を腹を乳をぬめる。
ああ、ああと、低い声を洩らし洩らし、祐美はのたうち、腿をこすりあわせてより深い刺激を求めた。
理性など消しとんでいた。不潔感だけが留まり、それが|却《かえ》って祐美の誇りを踏みにじり、どこまでも堕ちる倒錯的な快楽をほじくり出すのだった。
縄の執拗な動きに、祐美は達しかけていた。
「どう……だ……いきたか……ろう……?」
夢中でうなずいた。
人の知らないいき方[#「いき方」に傍点]ができそうであった。それしか考えられなかった。性欲しかなかった。
ごぼりと縄が口を解放した。
汚液を吐き出しながら、祐美の胸は期待に膨らんだ。
縄の移動する気配に祐美は震えた。
「……脱……げ……」
祐美はパンティを脱いだ。
潤み切った秘所は受け入れるためにあった。
そこだけが肉の色を保っていた。
裂けた先端がなぶるようになでた。
それだけで祐美はわなないた。
ツン、とつつかれた。喘いだ。内側のものが滲むのを感じた。つづけて三度、|嬲《なぶ》られた。祐美は転げ廻った。入れて、と叫んだ。やってと哀願した。
三矢財閥のひとり娘の狂態であった。
「よかろ……う」
声と一緒に、それは、濡れて震える肉の門から、祐美の体内へ入ってきた。
第六章 世界妖転
1
みゆきを連れたまま、萩生真介は五キロほど離れた砂浜へ移動していた。
波の打ち寄せる岩の蔭である。
額を射ち抜かれながら、みゆきはまだ息があった。体組織も人間と変えられているらしい。
「まいったわ。頭が痛い」
声だけが遠くから響くようだった。
「変な気分ね。死ぬって気がしないの。ご主人に変えられてから、精神まで狂ってしまったみたいよ」
「奴は、何を企んでる?」
「――わからない」
あっさりとみゆきは答えた。声が急に小さくなった。
「わたしは、ご主人の召使いにされただけよ。この感じ――わからないでしょうね」
「ああ。――奴はどこに隠れてる?」
「地下よ。でも、地下室があるわけじゃないわ。あの門を調べたら、わかったでしょ?」
萩生はうなずいた。
「鞭馬は何をしているんだ?」
「言ったでしょう――ご主人が召使いにいちいち、家の内情を打ち明けると思って? 訊いて……」
すうっと声が遠くなった。後頭部から噴き出る粘液が枯れ果てたのに萩生は気づいていた。
みゆきはうっすらと眼をあけた。
「鞭馬さんの書斎の下にも地下室があるわよ」
萩生はみゆきを見つめた。
「ありがとう」
と言った。
「どういたしまして。運んでくれたお礼よ」
そして、みゆきは死んだ。
数秒後、萩生の手の中には、青黒色の粘液しか残っていなかった。
萩生は岩蔭から出て、海水で手を洗った。
それから、蒼茫と暮れゆく空を見上げ、
「せめて一日ぐらい、家庭教師としての実力を見せなくてはな」
とつぶやいた。
萩生真介が現われたとき、鞭馬は書斎の窓から外を見つめていた。
「授業をはじめようか?」
かけられた声にふり向いた口は、|O《オー》の字を作っていた。
「やっぱりね。あんな植物攻撃くらいでまいるとは思えなかった」
「まだ、給料を貰っていないのでな。奴は何処にいる?」
「親父[#「親父」に傍点]ですか? ――風来坊でね。僕も会いたいときに会えるわけじゃないのです」
「今はお休みかね?」
「さて。――訊いてみましょうか?」
「奴の狙いは何だ?」
「決まっていますよ――世界征服です」
鞭馬は悪戯っぽく笑った。
「征服してどうする、女あさりか? 姉さんはどこにいる?」
「帰りましたよ、東京へ。急によびつけられて」
「不幸中の幸いだ。では、そう急ぐ必要もなくなったな」
萩生は鞭馬の両手を見つめていた。それは、肘掛けにかかっていた。
「僕のこと、東京の[#「東京の」に傍点]親父にきいたそうですね? 仕事熱心な方だ。熱心すぎますけれど」
「ひとつ、訊きたいことがある」
言われて、鞭馬は苦笑した。
「困りましたね。僕が授業料をもらわなきゃならない」
「奴は、私が最初の移動で会ったのと同じものだ。いくら偶然とはいえ考えられない確率だ」
「なるほど」
鞭馬は自分が答えを得たかのように何度もうなずいた。
「これほど簡単な答えも思いつかないとは、やはり、この世界の意識による思考形態は根強いものとみえますね。――あの空間に棲[#「棲」に傍点]んでいるのは、親父ひとり[#「親父ひとり」に傍点]だけだったんですよ」
今度は萩生が苦笑する番だった。
「孤独のつれづれに考え出したのが、異世界侵略か。大層な道楽だな」
鞭馬の眼が光った。
「弁解じみてきこえるかもしれませんがね、先生。先生が親父に会ったのははじめてでも、親父がこちらの人間と出食わしたのは、あれが初回じゃないのです」
強い口調は萩生をたじろがせるだけのものを含んでいた。
「パラケルスス、ソロモン大王、ファウスト……クロウリー、フォーチュン……古来何千名の魔道士が親父と対面してきたとお思いです? 彼らはそのたびに、女を捧げ、富や邪悪な知識を求めてきた。親父を招いたのは、彼らなのですよ」
萩生は沈黙した。巫女たる昌枝の例を見るまでもなく、それを物理現象としてとらえ得ぬ時代の重合空間移動は、一方的な「悪魔の招き寄せ」と見なされ、魔術師、妖術師たちは、呪法という形で招喚を行っていた。
「おまけに、先生はご存知でしょうが、空間移動は、最も空間の性質が類似したものから順に行われます。この世界は親父の世界とほとんど等しいのですよ。となれば、そこに住む生き物の心もまた、ということになりはしませんか?」
この若者が何を言いたいのか、萩生にもわかりかけてきた。
多分、その通りなのだろう。|人間《ひ と》はそれにふさわしい異世界の友を選んだのだ。
「ですが、今さら心理を問題にしても始まらない」
と鞭馬はどこかもの寂しげに言った。
「こういう形でしか理解し合えないのは、どちらにとっても不幸なことでしょうが――いらっしゃい。お見せするものがある。僕が先生に教えを乞いたい、恐らくただひとつのものが」
そして彼はあの[#「あの」に傍点]本棚の一角へ進み、右手をあげかけたが、急に何か思いついたようにふり向いて微笑した。
「よかったら一度、移動を体験させてくれませんか? 親父にも先生にもできるのに、僕には不可能なのです。なにしろ、出来が悪くてね」
「場所はどこだ?」
「この真下――三〇メートルというところでしょうか」
「そこも君がつくったのか?」
「設計だけですが」
萩生は無言で鞭馬の腕をとった。
二人は石づくりの部屋にいた。
「快感ですね。はじめて、親父の世界をみました」
答えず、萩生は部屋のあちこちに並ぶ奇態なメカ類を凝視していた。
「私に教えを乞いたいというのはこれか?」
「ええ。僕ひとりでは、どうしても、先生の空間理論を十全には理解しかねるのです。この装置を動かすには、魔法や妖術ならぬ、純物理的な力が必要なのですよ」
「それだけでは不可能だ」
萩生の声には好奇心が含まれていた。その形を見ただけで、彼にはこれが重合空間移動装置と知ったのである。
「重合空間移動には、昔ながらの道具立てが欠かせない。理由はわからんが――」
「それは、僕の方で解きました。数値化と機械化も完了しています。必要なのは、純粋に物理学的な理論です」
「残念だが、授業にさく時間はなさそうだ」
こう言って萩生はリュックをおろし、中の品物をとりだした。黄色い円筒はダイナマイトだった。群馬のダム工事現場から拝借したものである。
導火線の束を手にとり、マイトにねじこんでいく。
「すべてを破壊する気ですか、先生?」
鞭馬が静かに訊いた。
萩生は無言で作業をつづけた。
「ここにあるのは、二つの世界の知識の結晶です」
と鞭馬は言った。
「僕と親父だけに理解させ、それでいいのですか、先生? 世界には知らせなくても、せめて、ご自分の目でその機構をお調べになっては?」
萩生の動きがとまった。
「破壊は完成のあとでした方が、歓びもひとしおですよ」
萩生はふり向いた。手にしたマイトを軽く振った。
それはあっという間に消滅し、床のリュックが急に膨れた。
鞭馬が微笑した。
「では――お力添えを願えますね、先生?」
「よかろう」
萩生はうなずいた。
軽く咳払いし、椅子にかけた鞭馬の方を向いて言った。
「だが、授業料は前金で貰おう。――この装置が可能にするのは、単なる移動にすぎん。奴[#「奴」に傍点]がこちらにいても、ただひとりで世界征服は|虚《むな》しい夢だぞ」
「先生は、歴史の移動をご存知ありませんか?」
鞭馬は真顔で言った。
「…………」
「ひとつの宇宙に定められた通常の歴史の流れを変えるにはどうすればいいか――神秘学では、自明の理ではありませんか」
「いかなる角度から検討しても、その宇宙にはあり得ぬ超自然的な因子を具体化させることだ……」
萩生はぼんやり言った。
「この世界では決して生み出せ得ない事物を広く行き渡らせること……」
「世界とは空間と時間の融合体です」
鞭馬はささやくように言った。
無能な生徒に正解のヒントを与え、霧に閉された頭脳に光がかがやきはじめるのを見守る教師のように。
「……元素化合装置とニュートリノ加速器――そうか、この世界にはあり得ぬ品を大量に汎布し、こちらの歴史をそちら側へ歪め、最後に移動装置で歴史そのものを移動させ、融合する――この世界を奴のものにすり換えるつもりか――?」
「出来のいい生徒ですね」
と鞭馬は破顔した。
「大丈夫、スムーズにいきますよ。空間そのものの性質はほぼ等しいのだし、この移動器はかなりの大出力を誇っている。おききになりませんでしたか、――永久機関? あれが組み込んであるのです」
萩生は無言で、手もとの機械の表面に手を触れた。
石と鉄の加工物――その奥に、宇宙そのものを変質させるパワーが潜んでいようとは、想像もできなかった。
「怖くなりましたか、先生?」
矢切鞭馬の声は、非人間的な響きを帯びていた。
「はじめは僕も怖かった。今でも幾分、その気はある。先生――僕は何者なのです? どちら側の人間ですか?」
萩生は沈黙を守った。
「――いいんです。出来の悪い生徒の愚痴と思って下さい。で、どうなさいます? 脅えずに、授業をはじめられますか?」
これは挑戦だった。
萩生は室内を見廻し、その視線はやがて鞭馬の顔でとまった。
「よかろう」
と彼は言った。
椅子の上で、鞭馬が姿勢を正した。
足の位置を移し、萩生は腰の後ろで手を組んだ。流れでる言葉には自信と懐しさがこもっていた。
「……重合空間の理解において、従来の均質的時間概念は根本的に改変されねばならない……」
授業のはじまりだった。
2
一本の電話が昌枝を奈落の底へ突き落とした。
耕太郎――夫[#「夫」に傍点]からのものだった。
開口一番、祐美が戻らんと告げられた。昌枝は蒼白となった。
事故でしょうか、と訊くと、答えは否だった。今日起こった交通事故はすべて調査済みだという。祐美の車は、跡形もなく消えてしまったのだ。
「警察へ――?」
茫然とつぶやく昌枝の耳に、
「いや、やめておけ」
と命じる耕太郎の苦い声が響いた。
「な、なぜです――」
「おまえ、前から言っていたな――奴が自分に飽きてきたようだと」
昌枝は全身の血が逆流するような気がした。
「あなた……まさか……」
「他に考えられるか――あれほど好色な生き物だぞ。祐美に眼をつけても不思議じゃない」
「…………」
耕太郎の荒涼とした声を、昌枝はどこかで聴いたような気がした。
あの晩だ。一九年まえ、あのひと[#「あのひと」に傍点]を|喚《よ》び出した夜……
出現したものが、一本の肉の縄にすぎないと知り、絶望のあまりその場へへたり込んだ昌枝の身体に、それは蛇のように巻きついた。
凄まじい肉欲をかきたてる感触であった。昌枝はその場に崩折れた。
どのような感覚を備えているのか、服の裾から内側へ忍び入った縄は、|妖《あや》しく白い女体を這い、縛り、妖々と秘所へもぐりこんできた。
それが相手の要求する|供《く》|物《もつ》だと、すぐにわかった。
「願い……は……叶え……て……やろ……う……」
とそいつ[#「そいつ」に傍点]は頭の中で言った。
夫がやってきたのは、そのときである。
愕然と立ちすくむ彼へ向かって声なき声が、
「女か……それ……とも……願いを……とる……か?」
と訊いた。
あなた、助けて、と昌枝は叫んだ。呻き声だが確かにきこえるように言った。
耕太郎は動かなかった。
声のせいだろうか。いや、昌枝には、夫の眼が、胸も裾も乱して喘ぐ自分の身体に釘づけになっているような気がした。
「どっちを……選ぶ?」
声の問いに、しばらく、昌枝を見つめていた耕太郎は、
「……会社を……」
と言った。
「よか……ろ……う……では……そこ……で……見てお……れ……」
よして下さい、と昌枝は絶叫した。せめて、別のところで。
お願い、あなた、見ないで下さい。
哀願の途中で恐怖が昌枝を絶句させた。
耕太郎の眼が|淫《いん》|猥《わい》な光を帯びていた。
ベッドでも見せたことのない、|精神《こころ》の奥に秘めた光だった。
彼は愉しんでいるのだった。
夫の眼の前で、昌枝はよがり狂った。
最後まで、耕太郎は眼を離さなかった。
ひどいわ、とすべてが終わり、寝室へ戻ってから昌枝は言った。あなたがどうしても、というから|喚《よ》んだのよ。
「おかげで、奴は会社を救うと約束してくれた」
耕太郎は、あの眼光を妻に浴びせながら言った。
「ところで、いい気持だったか――あいつ、慣れていたな、女に」
なにを言うの!?
荒々しく、昌枝は押し倒された。ベッドではなく、床の上へ。
「あいつのときと同じように燃えろ」
と夫は命じ、太腿を抱え上げた。
ガウンの紐で昌枝は縛り上げられた。
乳にも腹にも下腹部にも紐は食いこみ、くびれをつくった。
「よさそうだったぞ、おまえ、よさそうだったぞ」
と夫は上ずった声で言い、キャビネットから、ワインの瓶を掴んで戻った。
朱の液が全身にとびちるのを、昌枝は虚ろな眼で眺めていた。
身体の芯で熱いものが広がりはじめていた。
縄の愛撫とはまたちがった、もっと身近で陰湿な種類の熱気だった。
女体を汚した果実酒を、耕太郎は両手でこすりつけた。
ああ、と昌枝は喘いだ。
「その調子だ。あいつのときみたいによがれ」
光る液を舐めとりながら耕太郎はささやいた。
「化物にやられてよかったと言ってみろ」
あなた、やめて、あなた。
「おまえはあいつの女だ。あいつの方がいいと言え」
腹這いにされるのを昌枝は感じた。
夫はすぐ入ってきた。
尻を抱えられていた。
男根と一緒にワインも入ってきた。
貫きながら、夫は紐をつかんで引いた。肉に食い込む痛みに、昌枝は呻いた。すぐに恍惚となっている自分に気がついた。
こういう行為の似合う女なのかと思った。
これから、夫は毎夜挑んでくるだろう。
夫婦のどちらにとっても凄まじい刺激になるはずであった。
夫が思いきり突き入れた。
それ以来、昌枝の夜の生活は変わった。
喚び出したものは伊豆の地下に潜み、三矢グループの繁栄をもたらす超技術や奇怪なアドバイスを送りつづけた。
そのかわりに――昌枝は和服の上から胸をおさえた。快楽の波が四方へ広がっていく。
わたしは週に一度、伊豆で求められた。あの石の床の上で、大胆に和服の裾を押し開いて。
あのひと[#「あのひと」に傍点]は貪欲だった。
昌枝の手は胸もとから内側へ忍び入っていた。たっぷりした重い肉を掴んで|揉《も》みはじめる。それでも、彼[#「彼」に傍点]の感触には及ばなかった。
ちがうのよ、こうではないの。人の指ではどうしようもないのよ、ああ。
昌枝の肉体を供物に、耕太郎指揮下の三矢グループは年々大発展を成し遂げた。その基盤がたったひとり[#「ひとり」に傍点]の異世界人に支えられたものだと、昌枝と耕太郎だけが知っていた。
奴を絶対に離すな、と耕太郎はベッドで悶えぬく昌枝を責めながら言った。どのような体位でした[#「した」に傍点]のか問い詰めるのは、彼の最も好みとするやり方であった。昌枝もすべてありのまま話した。性器をこする縄の感覚、乳首をねじる輪、肛門にもぐった先っちょの動き方……
耕太郎は数多くのゴム製品を用意した。すべて、あの縄を模したものであった。そのために、わざわざ研究所をひとつつくったと後で知り、昌枝は青ざめた。
しかし、耕太郎の執着も空しく、開発された品はすべて、肉縄の足元にも及ばなかった。
三矢化学の総力を結集させた人造ゴムも、三矢電機の極微動モーターも、招喚したものと等しい快楽を昌枝に与えることはできなかったのである。
求められてここへ来るのか、すすんで訪れるのか、昌枝にも判然とし難くなっていた。
数ヵ月前、石の部屋で昌枝を悶え狂わせたあと、もう、飽きた、と彼[#「彼」に傍点]は言った。
別の女をよこせ、と。
昌枝の選んだのが、みゆきだった。
よくわからないが、みゆきも彼[#「彼」に傍点]の女になったのは間違いない。
ひと安心だった。
ところが、鞭馬の様子がおかしくなった。
言うまでもなく、彼[#「彼」に傍点]の子である。
妊娠を告げられたときは、絶望的な気分に陥ったが、出産が近づくにつれ、正常な形をしていることがわかって胸をなでおろした。
だが、昌枝が実[#「実」に傍点]の子に戦慄するのは、それ以後のことである。
生まれて間もなく、昌枝は鞭馬が|眼《ま》ばたきをしないことに気がついた。見ているのだ、観察しているのだ。世界を――彼女を!
間もなく、昌枝は母乳をやめ、ミルクに切り換えた。
七ヵ月の鞭馬の吸い方に邪悪なものが感じられたからである。
そればかりか、この頃から鞭馬と二人きりの部屋にいると、いやらしい視線を感じるようになった。
胸や尻に露骨に食いこむ視線を追うと、必ず鞭馬がいた。一歳に満たぬ彼が、ベビー・ベッドの上から、抱き上げた腕の中から、じっと母親を見つめているのだった。
粘い、淫らな眼で。
鞭馬……と昌枝は喘いだ。
はじめて彼が求めてきたときの感覚もまた、生々しいものであった。
一四歳とは信じ難い力にねじ伏せられ、激しく抵抗したとき、彼のパジャマのズボンがずれた。
下肢には、うっすらと、縄目のようなくびれが生じていた。
「母さんのせいだよ」
と鞭馬は薄笑いを浮かべて言った。
「どうして、僕なんか生んだの?」
そのひと言で昌枝の抵抗がやんだ。息子の下半身のことは忘れ、彼女は、ひきしまった上半身と燃えるようなキスの激しさだけを憶えておこうと思った。
鞭馬は今でも求めにくる。
おぞましさはなかった。人なみの感覚では、とても彼ら二人との情事はつづけられなかったであろう。与えられる人間離れした愉悦と、奇怪な酩酊が、隅々まで不倫の罪悪感を削除してしまうのだった。
夫[#「夫」に傍点]と息子[#「息子」に傍点]――どちらも自分の肉体を知っている。
そのどちらかが、祐美に手を伸ばしたのだ。
あの人[#「あの人」に傍点]だろうか、とまず思った。それから、鞭馬にちがいない、と考えた。先刻、地下室で犯されたときの、二人のやりとりを憶い出したのである。
どちらにしても、祐美が無事ですむはずはない。
それだけは阻止せねばならなかった。
それが、人間の母親としての最後の務めだった。
昌枝は部屋を出てキッチンへ入った。
女中とコックが夕食の仕度に励んでいる。彼らが人間なのかどうか、昌枝には区別がつかなかった。
二人の眼を盗み、素早く包丁を一本、帯の内側へ隠した。
鞭馬は部屋にいるだろう。
階段の方へ向かって歩いた。
ひょい、と廊下の端に人影が動いた。
細い線がこれも階段の方へ向かっていく。
「祐美さん!」
叫んで走った。
執事たちが顔を出した。
「どうなさいました、お嬢さま!?」
祐美が東京へ戻ったのはみな知っているから、これは当然の質問だ。
「祐美さん!」
再度の呼びかけに、祐美は足をとめ、階段の|半《なか》ほどから昌枝たちをふり返った。
ぞっとするような虚ろな眼であった。
服は青黒く汚れていた。
気も遠くなりそうなショックの中で、昌枝はなんとか倒れまいとした。
「大丈夫、母さん?」
祐美の声は|眼《まな》|差《ざ》しよりも虚ろだった。
「祐美さん……あなた……」
「何でもないわ。事故に遇ってね。ひとりで帰ってきたの。車はガードマンの人たちが直してる。そうそう、父さんが心配してるといけないから連絡をしておいてよ」
音もなく階段を昇る祐美を、昌枝はあわてて追った。
押すようにして、祐美の部屋へ入った。ベッドの上にすわらせ、
「祐美さん、正直におっしゃい。何があったの?」
「何にも」
祐美の表情は動かない。ようやく昌枝は、それが哀しみや怒りによるのではなく、官能が刻みこんだものだということに気がついた。
この|娘《こ》も――この娘も、わたしと同じに……
「よかったわよ、母さん」
祐美が昌枝の顔を見つめた。
「とっても、よかった。母さん、いつもいつも実家へ帰るっていっては|別荘《こ こ》へ来て、あんなことしてたのね」
「なんてことを――この娘は!」
娘の両肩を掴んで昌枝はゆすぶった。激しく揺れながら、祐美の顔にはなんとも淫蕩な表情が浮かび上がっていった。
「母さん……鞭馬ともしたんですってね」
昌枝の手がとまった。
「みんなきいたわ。……いい気持だったでしょ。息子とやるなんてね……ねえ、どっちがよかった? あのひと[#「あのひと」に傍点]と、鞭馬と」
白いものが脳内で|炸《さく》|裂《れつ》し、昌枝は右手をふった。
祐美の頬が鳴った。もう一度ふった。また、鳴った。
口が裂けて赤いものが滲んだ。
「どうしてよ!?」
不意に祐美の顔が歪んだ。
「どうして、あんな奴を喚んだのよ!? この世界へ――わたしも鞭馬も、一体、どうすればいいのよ!?」
眼から光るものが溢れ、祐美はベッドに突っ伏した。
全身がふるえている。
「祐美さん……」
「出てって、出てって!」
叫びには峻烈な拒否がこめられていた。
自分が母親ではないことを昌枝は悟った。母に戻るための道はひとつしかなかった。
三時間を経過し、萩生はようやく疲労を感じた。
「ここまでだ。君の頭なら十分理解できるだろう」
鞭馬は満足そうにうなずいた。
「素晴しい講義でした――お世辞は抜きで」
「上へ行かんでいいのか?」
「どのみち、母しかおりません」
萩生は部屋を横切り、壁際のメカに近づいてしげしげと眺めた。
「私には理解することもできん。別世界の理論とは恐ろしいものだな」
萩生の疲れたような表情を、鞭馬は冷笑で迎えた。
「理論が秀れていても、現実化が伴わなければ無と同じです。親父が僕を生ませたのもそのためですよ」
「向う側の理論のこちら側の実現か。――過去の魔道士たちも、今の企業家も変わらんな――これは何の装置だね」
石の台に鉄のスイッチをとりつけたような品である。
「エネルギー中和器です」
萩生は眼をこらしたが、スイッチがあると知れるばかりで、機構面は理解を絶していた。
「あらゆるエネルギーを平衡状態に戻してしまいます。核爆発ですら閃光だけに留めますよ。これ一台あれば、気狂いが原子炉を爆走させても未然に食いとめられます。原子力発電所は喉から手が出るでしょうね」
「軍隊もだ――彼らの存在価値がゼロになる。商品化はできんな」
「いま、東京の親父が政治家を通して各国首脳と話をすすめています。使わずとも引きとってはくれますよ。大枚でね」
「歴史を狂わす発明で世界を満たし、とどめは、この移動装置か?」
鞭馬はうなずいた。
萩生には、その日のことが容易に想像できた。
光みちる世界に突如、|混《こん》|沌《とん》が押しよせ、すべてを包み込む。
一本、たった一本の紐が漂ってきて女たちを犯す。人類はあらゆる手段を使って阻止しようとするが、噴き出す腐液の前にはすべて無駄だ。
男たちが根絶やしにされるまで、時間はかかるだろう。
しかし、奴はただ待てばいい。少くとも孤独ではなくなる。五〇億人のうち半数を殺しまくるのに何千年かかるだろう。
その間に産まれた子供たちを殺し、大人たちを片づけて、妖しい女体を自分の前へならべ、快楽にふけるのだ。
それが目的なのか――何という人間的な、……
「もうひとつ、訊いていいかね?」
別のメカを眺めながら、萩生は口を切った。
「結構ですとも」
「君は何故、私を呼んだ?」
「前にもお答えしませんでしたか?」
「あいつ[#「あいつ」に傍点]から、私のことをきいていたのではないのかね?」
「さて」
「――楽しい授業だったが、ここをこのまま残しておくわけにはいくまい。お母さんが奴[#「奴」に傍点]を呼び出した場所というのは何処だ?」
「この上ですね」
鞭馬の部屋だった。すぐ考えつかなかったことに、萩生は苦笑して、ダイナマイトを拾いあげた。
「何をする気です?」
「授業の中味を思い出せ。本来の空間に存在せぬものは、その出現地点で所属空間とつながっているのだ。つまり、そこさえ破壊すれば、奴は自らの世界へ戻る。こちら側から招くならともかく、向う側からやってくる|術《すべ》は今のところなさそうだ。おまけに一〇〇万人の魔道士が一〇〇万回ずつ試みても悪魔が出てくるとは限らん」
「あなたも破壊しか考えぬ人ですか……」
鞭馬ががっかりしたように言った。
「二つの世界の産んだ品は、必ずしも呪わしいものとばかりは限りませんよ」
「そこにあるだけならな」
萩生は導火線をねじこんだダイナマイトの束を手にとり、軽く指で触れていった。
数本ずつが消え、異世界の装置や傾斜路の上に現われた。
萩生はポケットからライターをとり出した。触れない品は移動がきかない。
「あとは炎を移動させるだけで済むが。――奴は何処にいる?」
「その前に、片づけなくてはならない相手がいますよ」
「召使いたちか?」
「僕です」
萩生の背後の石壁が炎を噴き上げた。
眼に見えぬ火線は確実に萩生の身体を貫いたはずであった。
ほとんど同時に、鞭馬は椅子を石壁へ後退させた。
誰か後ろにいれば、椅子の重量と速度で押しつぶされていたであろう。
「残念だな」
声は頭上でした。
鞭馬は前進した。
間髪入れず反転し、肘掛けのレーザーを射ちまくる。
四方の石壁に炎の溝が|穿《うが》たれた。
背後で声。
「三矢重工では、自衛隊の武器もつくっていたかな」
再び反転しようとしたとき、奇妙な浮遊感が彼を包んだ。
次の瞬間、鞭馬の身体は地上三メートルの高みから石の壁へ落下していた。
激痛が全身を貫き、彼は息を吐いた。
「すまんな。用事が済むまでそこにいてくれ」
背後で萩生の声がきこえた。
どのような速度の持ち主であろうと、いったん背後に廻られたら、二度と萩生を見ることは不可能であろう。
彼は無限にゼロに近い速度で消滅し、また現われるのだから。
胸の痛みを感じながら、萩生は鞭馬を抱き上げ、奥の壁にもたせかけた。
車椅子を反対側の壁につけ、ライターの石に親指をのせたところで、ふと影になっている石壁の方を見た。
何が気になったのか、石壁の方へ近づいた。
右手を押しつける。
石壁には直径二〇センチ、厚さ三〇センチほどの穴があき、奥の闇がのぞいた。
自らの身体のみならず、触れたもの五メートル以内へ移動可能な萩生真介のテレポート能力である。
ただし、一度で移動可能な質量と大きさは、これまで、小型乗用車一台が最高だ。
「ここか」
念のため、こちら側[#「こちら側」に傍点]へ移動した石壁が床へおちる音をききながら、萩生はつぶやいた。
レーザーでも使ったようにきれいに穿たれた穴の向うに、粘っこく蠢く縄状のものがみえた。
心臓の鼓動が頭を打つ。
はじめて遭遇したときの恐怖感を彼はまだ克服しきっていなかった。
全身が総毛立ち、逆流する血が血管にあたるのがわかる。
必死に動悸を押さえこもうとした。血流を正常に戻すことは簡単だが、体組織がそれを命じない限り、弊害が付随する。
凄まじい衝撃が心臓を直撃した。
穿った小穴から、あの恐怖の念が、どっと顔面を直撃したのである。
思わず下がったその首筋へ、びゅっ! と音をたててあの縄が巻きついた。
次の瞬間、輪のみを残して、萩生の身体は五メートル後方へとんでいた。通常の彼なら巻きついた輪の方を消す。そんな反射神経も不可能にさせる恐怖なのであった。
「……やはり……来た……か……待って……いた……ぞ……」
ぴゅうと汚液がとんだ。
移動能力さえも失ったか、萩生はとびのいてよけた。
石壁が黒煙を噴き上げ、床が|爛《ただ》れる。いつまでもかわし得る状態ではなかった。
床から立ち上がった彼へ青黒い噴水が集中した。
萩生は移動した。
消えなかった。
不完全な移動はこのような様を呈するのか、彼の像は幾百幾干にも重なり、七彩の尾を引いて矢のように流れた。虹の色は、こちら側へ出現した重合空間でもあろうか。
毒液の照射は彼の身体を突き抜け、萩生の像は石壁の一角へ吸いこまれた。
キン! と空気が唸った。
奇妙な声が石壁で上がったかと思うと、そこに奇怪な光景が現出したのである。
一本の手首が壁から生えていた。
それだけではない。
灰色の石壁の内側で、何やら人影らしいものが蠢いているではないか。
萩生真介の影が。
「……よ……く……やった……おまえ……を……誤解し……ていた……よう……だ……」
声はエネルギー中和装置のかたわらに立つ[#「立つ」に傍点]鞭馬に向けられたものであった。
装置の内側からかすかなモーター音がきこえる。
移動エネルギーを中和された萩生真介は、この世に手首だけを残して、高密度の石壁に封じこめられてしまったのである。鞭馬が歩けることを彼は知らなかった。
無論、通常の移動なら、中和エネルギー圈の拡散スピードなど到底及ばない。変則移動ならではの悲劇であり、致命的なミスであった。
「やめときなよ、父さん[#「父さん」に傍点]」
鞭馬の声に、萩生の手をめがけてもち上がった縄が停止し、あきらめたように地におちた。
「もう永久にそこから出られっこない。外からおかしな真似をして、原子爆発でも起こしたらことだ」
「それも……そう……だ……」
声は納得した風であった。
「例の……装……置は……どう……な……っ……た? ……」
「悲劇の主人公のおかげで、不明の個所も解明できた。空間のつなぎを二、三変えるだけでいい」
石壁の上で弱々しく蠢く手首をみながら鞭馬は言い切った。
「あと二、三週間もすれば、もうひとりの親父が、あの新製品を世界中の学術機関と軍隊へ売りまくる。そこへこいつで『移動』を行えば、歴史の変換と空間重合の相乗作用で、こちらとそちらは合体する。父さんはもう孤独じゃないさ」
「おまえ……不……満そ……うだ……な……」
「そう見えるかい? 一応、半分はこっちの血が混ってるんでね」
「……だから……みゆ……き……といった……か……あの……女を……見張……りに……つけた……裏切る……の……ではな……いか……と思った……も……ので……な……」
鞭馬は妖しく笑った。
「裏切りもの? ――とんでもない。僕は、どちらの味方でもあるのさ。とにかく、その男は、放っておくことだ。装置を逆転作動させない限り、脱出は不可能だよ」
そして、鞭馬は車椅子に腰をおろし、書斎への通路へ向かっていった。
3
書庫へ出、居間の方へ椅子を進めたとき、本棚の陰から黒いものがとびだし、横から鞭馬に体当りをくわせた。
凄まじい激痛に、鞭馬は低い声で呻いた。
「母さん――ひどい挨拶だね」
「死んでちょうだい、鞭馬。おまえもあのひと[#「あのひと」に傍点]も。後で母さんもいくから」
すがるように言った途端、昌枝の眼から涙が|溢《あふ》れた。
鞭馬がその胸を押した。
ほんのひと押しで、昌枝は突きとばされ、どっと床に転がっていた。
腋の下、一〇センチほどに深々と刺さった包丁を、鞭馬はどこか哀しげな表情で見つめた。
ぐい、と引き抜いたのを見て、昌枝がびくん、と震えた。
「血は赤いんだがな」
鞭馬はつぶやき、すっくと立ち上がった。近づいてくる息子を前に、昌枝は床についた手で後じさりをはじめた。
「やめて……鞭馬……やめて……」
ふり向いて立ち上がろうとした足首を、ぐいと鞭馬の手が掴んだ。
もう一方も握り、一気に両脚を開く。裾は大きく乱れ、白い下肢は剥き出しとなった。
実の母と息子の光景であった。
昌枝は顔をそむけた。
「なぜ嫌がるの、母さん? いい眺めじゃないか。いつもより、よっぽど色っぽいよ」
「やめて、放してちょうだい」
「虫がよすぎないか、それは。僕は刺されたんだよ、実の母親に」
「許して」
「いいとも。許してあげるよ。もっとよく、奥の方を見てからね」
強烈な力で引かれ、昌枝の太腿は鞭馬の両脇に抱えられていた。
片手を離し、鞭馬はスラックスのジッパーをはずした。
奇怪な男根が突き出された。
貫かれる衝撃に、昌枝はのけぞった。
「どうして……僕を刺したの、母さん?」
鞭馬が動きはじめた。
昌枝も|呻《うめ》いた。呻きながら言った。
「祐美よ……」
鞭馬の動きがとまった。母を犯す息子に姉の名がどんな意味をもつものか、冷笑にかたまりきった顔に、みるみる驚愕と憤怒の色が広がったのである。
「姉さんを――姉さんが、どうした!?」
「あの人[#「あの人」に傍点]が――あの人[#「あの人」に傍点]が、祐美に乱暴したのよ。帰るのを追いかけ、引き戻して……」
鞭馬の両眼が赤光を帯びた。
鈍い音をたてて、昌枝の下肢は床の上へおちていた。
鞭馬の歯がぎりりと鳴った。
その音が声になったようであった。
「姉さんは……どこだ?」
「上よ――部屋にひとりで」
車椅子へ走り寄る鞭馬を見ながら、昌枝は上気した顔を床に伏せた。
波の音が誘うように湧き上がってくる。
眼の下では黒い波が砕け散っているはずだ。何も見えない。
月だけが照明だった。
昼間、鞭馬とみゆきを見かけた崖っぷちに、祐美は立っていた。
月のせいだけではなく表情が青い。
幽鬼のようであった。
服だけは白いワンピースに着換えていた。外出を家人たちに怪しまれぬためである。
死ぬつもりでいた。
奇怪なレイプは祐美の精神を根底から破壊し去っていた。
発狂しなかったのは、皮肉なことに、与えられた快感のせいであった。
口を汚し抜いた縄の蠢き、性器をこする感触――あの良さが、絶望と自己破壊の衝動から祐美を救ったのである。恐らくは、母と同様に。
それも許せなかった。
肉体が狂わされてしまう。性欲の他に興味のない女になってしまう怖れと屈辱が祐美の身を|灼《や》いた。
暗い海原を見つめる顔に、複雑な表情が交錯するのはそのためであった。
それが消え、ふっと、清純な美貌からは想像もつかぬ|淫《いん》|靡《び》な表情が現れた。
肉体は覚えているのだ。
夢魔の快楽を、法悦を。
そして、何よりも、母と鞭馬の謎を知った衝撃。
鞭馬が異世界の――自分を襲った化物の実子とは!
驚愕と絶望が肉欲に勝り、祐美は崖の上へ出た。
うっすらと微笑したのは、現代っ子のはずの自分が、身投げという古典的な方法を選んだ自嘲だろうか。
風に押されるように、一歩進みかけたとき、ぐいとその足に巻きついたものがある。
脳天まで痺れる感覚に、祐美は恐怖も忘れてのけぞった。
「死な……せんぞ……」
頭の中で誰かが言った。
鞭馬の父が。
「……おまえ……は……もう……わしの……おん……なだ……死な……せはせん………永久……に……な……」
どっと祐美は草の上に引き倒されていた。片足が大きく持ち上げられた。
「やめて!」
と叫んでもがいたが、押さえられた足は微動だにしない。
かわりに、全身がわなないた。
見られているのがわかった。
眼などない。気配もゼロで、それでもわかるのだ。
また犯される。
口と股間を貫かれ、どぶ泥のような色と味の汁で汚される。
味を思い出しただけで吐き気がこみ上げた。
それが子宮をうずかせた。
祐美はパンティをはいていた。
自殺死体が上がったときの用心であった。
足首を巻いたものが伸び、白い布の内側へ入った。
パンティがはぎとられるのを、祐美は恍惚と見つめた。
どうして異次元の化物が、自分の性器を求めるのだろうかと思った。
暗闇の中で蠢くものが草を這う気配。
秘部の先にそれが当った。
あうんと喉が上がった。
滲み出ている。とめどなく流れはじめている。
早く、と祐美は思った。
来ない。じらしている。祐美は手をのばしてそれを掴んだ。自分であてがい――深く……
眼の前で土が火花を噴いた。
手の中のものが痙攣し、すぐ動かなくなった。
理性が祐美を打ちのめした。
まわりを見た。
立ちのぼる黒煙を夜風が吹き乱し、森の出入口で、車椅子の影が月光を浴びていた。
「鞭馬!」
「……姉さんに手を出すなと言ったはずだよ、父さん」
吠えるように鞭馬が言った。
「……もう遅……い……おまえ……が……手を出……しても……この……女……はわし……のも……のだ……女の……身体……が……知って……おる……」
「そうはいかない。身体で縛るなんて、古い手だ。こっちではね」
こう言って祐美を見る鞭馬の眼に、哀しげなものが宿っているのを、彼女が気づいたかどうか。
「ここは|退《ひ》いてもらおう。僕も抱いてみたい」
「……親子で……同じ女を……か……それも……おも……しろ……い……」
足首の呪縛がほどけるのを祐美は感じた。
それは音もなく去っていった。
「危かったね、姉さん」
この青年には珍らしい機械的な声で言うと、鞭馬は車椅子を動かした。
その顔面へ、びしっと音をたてて硬いものが当り、膝の毛布へおちた。
角ばった小石であった。
つう、と額から赤い線がおちた。
祐美は立ち上がっていた。
「この……化物……」
一語一語、食い切るように祐美は言った。
鞭馬は動かない。
何かが硬直させたようであった。
「さ、戻ろう、姉さん」
と彼はむしろやさしい声で言った。
びゅっ、とまた石がとんだ。
今度ははずれて闇に吸いこまれた。
「近寄らないで、化物、化物、化物」
不意に祐美は両手で顔を覆った。すすり泣きが洩れる。
「あたしを――あたしを、こんなにして」
鞭馬は無言で近づいていった。
祐美は泣き崩れた。
鞭馬の動きが停まった。
二人の間に、三個の人影が割って入ったのである。二つが祐美に駆け寄り、もうひとり――小柄だが貫禄のある影が鞭馬の方を向いた。
鞭馬の眼だけが、背広姿の男たちが握った|消音器《マフラー》付きライフルを認めた。
「誰だ?」
呻くような声で訊く。
「社長から派遣されてきました。みなさんをおかしな奴から護衛するようにと」
「無用だ。どけ」
「そうはいきません。お嬢さんは我々が保護します。前の仲間がどこへ行ったのか、うかがわなくてはなりませんしね――坊ちゃんはお戻り下さい」
「嫌よ、わたしは、どこへも行きたくない!」
祐美の叫びに鞭馬の額で青筋が動いた。
もうひとつ――毛布が。
「どけと言ったぞ。姉さんをはなせ」
「おい、坊ちゃんをお連れしろ」
祐美の脇にいた影のひとつが立ち上がり、鞭馬に近寄った。
「さ、大人しく――」
言いかけて、そいつの腹は火を噴いた。異臭をあげて倒れる同僚の姿に、鞭馬の前の男が、鮮やかな手さばきでライフルを構えた。日本の狩猟用ではない。暗殺用ライフルだ。六倍のスコープ付きなのをみると、萩生の能力を考え、姿を見せず狙撃して倒せと矢切に命じられたのであろう。
昼の一件以来、家の周囲に潜んでいたのが、レーザーの火花を見て駆けつけたのである。
「何をする!? この餓鬼!」
怒号は途中でやんだ。
暴力沙汰専用の頭脳では理解しがたい光景を彼は見たのである。
鞭馬の腰に巻いた毛布が股間の一点を中心に、ぐうっと盛り上がりはじめたのだ。
どう見ても、それは類いまれな男根が隆々とそそり立ったとしか思えぬユーモラスな光景だった。
だが、もっと上に、ずうっと――身体の下にまいた毛布まで引き出して、高く高く……
だしぬけに男めがけて放られた毛布に、間髪入れず二つの穴が開いた。
男と祐美のそばのひとりがほとんど同時に放った一弾であった。
押し殺した音はたちまち空中へ拡散し、目にもとまらぬボルトの操作ではじき出された|空薬莢《からやっきょう》が月光にきらめいた。
驚嘆すべきスピードであった。もと自衛官でもあろうか。
だが、二発目を射つ余裕はなかった。
数メートル離れた二人の喉へ、このとき、ほとんど同時に、縄のようなものが巻きついたのである。
それは銃弾と逆方向から毛布を貫いていた。
祐美が眼を見張った。
肉縄は、鞭馬の股間から生えていた。
みるみる紫色へと変わる男たちの顔を見ようともせず、
「馬鹿どもが」
吐き捨てるように鞭馬はつぶやいた。
死体と化した身体が地に伏すと、奇怪な生殖器官は音もなく三つの屍へ青黒い汚液を噴きかけた。
一塊のタール状となるまで五秒とかからなかった。
祐美は茫然と近づいてくる弟を見つめた。
「さ、行こう、姉さん」
と鞭馬は言った。
「じき、何もかも終わるよ」
第七章 虚無へ
1
地下室へ入った昌枝の眼を恐怖に見開かせたのは、壁から生えた人間の手首だった。
|剥《はく》|製《せい》かとも思ったが、明らかにそれは動いていた。
そればかりか、そいつの生え出た石壁の奥に、何やら蠢めくものの姿が滲んでいるではないか。
昌枝の眼が光った。
これは萩生ではないか。
あり得ない光景にも昌枝の理性は崩れなかった。|遥《はる》かに凄まじいものを何回となく目撃している。
かといって、どうすればいいのか見当もつかない。
昌枝は石壁に近寄り、周囲を見廻した。
あちこちに置かれた黄色い円筒は、明らかにダイナマイトだった。
やはり萩生が来たのだ。
どうすればいいのか。
すぐに答えが|閃《ひらめ》いた。
昌枝は大急ぎで上へ上がり、鞭馬の机からメモと万年筆をとって戻った。
万年筆を握らせてやると、腕は緊張した。
すぐにメモを握らせ、こちらの意図を知らせる。
メモは昌枝が支え、万年筆に押しあてた。
数秒間筆が動き、すぐにとまった。
状況を考えると驚くべき達筆であった。
きれいに読めたのである。
「壁際の四角い石を破壊」
これだけだった。
「わかったわ」
昌枝はうなずいて、エネルギー中和装置に近づいた。
ハンマーやら何やらをとりに行っている暇はない。ダイナマイト一本くらいなら、大した爆発ではないが、この石を分断するには十分だろう。
昌枝はすぐに決断した。
ダイナマイトの一本を手にとり、そこでマッチもライターもないことに気づいた。
マイトを片手に出入口へ向かう。
鞭馬の書斎から、二階の応接間へ行った。
卓上ライターをとって部屋を出かけたとき、すっと眼の前に人影が立った。
「島田!」
「どこへいかれます、奥さま。ライターなど持って?」
「お|退《ど》き」
「いいえ」
退くかわりに、島田は昌枝を応接間の中へ押し戻した。
「何をするの?」
「どうも奥さまの行状には、不可解なものが見受けられます。放っておくと、御主人さまのお怒りを買いそうでして……」
「主人は私よ」
「いいや」
島田はいきなり、昌枝を抱きしめた。
「ご無沙汰でございましたね。奥さまの|肉体《からだ》を頂戴してからというもの、夢にまで見て困ります。処分する前に、もう一度抱かせていただきましょうか」
「処分?」
「さようで。奥さまはご主人さまにとって、どうやら危険な存在とお見受けいたしました」
「私を殺したら、あの人[#「あの人」に傍点]が怒るわよ」
「いえ、もう祐美さまがいらっしゃいますので」
島田はいつの間にか昌枝を背後から抱きすくめていた。強引に首をねじ向かせて口を吸った。いずれは殺す女だった。凄まじい勢いで舌を突っこんできた。
手が胸もとを割り、乳房を引きずり出す。
昌枝は逆らわなかった。たっぷり揉ませてから、
「お願い、大事なところにキスして」
島田は乳房を吸うのも忘れた。
身を屈め、昌枝の裾をかき開いた。
濃い繁みが現われた。
腿の肉が白いだけに異様に目立つ。
島田は女主人の右脚を肩に乗せた。
持ち上げると、赤い果肉がはぜ割れてみえた。思いきり口をつけて吸った。素晴しい感触だった。新しい主人に身体を変えられてから、セックスに敏感になったようだ。
昌枝のものが濡れていないのに気がついたとき、後頭部に猛烈な打撃を受け、彼は悶絶した。
青黒い血と肉片をとびちらせて崩れる召使いの肩から足をのけ、身づくろいを整えると、昌枝は血に染まったライターをテーブル・クロスで拭いた。
拭いてから、そんなことをしても何にもならないことに気づき、苦笑する。
もうすべては終わりだった。
矢切耕太郎の妻としての身も、鞭馬と祐美の母親としての自分も。
彼[#「彼」に傍点]を喚び出したとき、すべては決まっていたのかもしれなかった。
昌枝は応接間を出た。
鞭馬の部屋へ戻り、地下広場へ急いだ。
機械に近寄り、帯にはさんだダイナマイトをとり出した。
ライターを近づけたとき、その手をぐい、と掴んだものがある。
ふり向いて、昌枝は|魂《たま》|消《ぎ》る悲鳴をあげた。
「奥さま……」
青白い顔で島田はにっと笑った。
ライターをふり上げる暇もなく、昌枝は床にねじ伏せられていた。
「まだ、存分にたのしませていただいておりませんよ」
と老執事は言って、口を押しつけてきた。
そむけた顔をねじ曲げられ、口を吸われた。
舌を求められた。
島田は歯で噛みつき、昌枝の舌を引きずり出した。
濃厚なキスに昌枝の顔は赤く染まった。|応《こた》えはじめている。
両腕をねじ伏せていた島田の手が、このとき白い喉にかかった。
昌枝の全身が痙攣した。両脚が激しく宙に舞い、剥き出しになった太腿が妖しく床を打った。
みるみる紫に染まっていく女主人の顔から唇をはなし、島田は舌なめずりをした。
「死にぎわにやると締まりがいいそうですな。ひとつ、お頼み申します」
腰と腰が重なり、島田は女主人のものがこれまでになく強く深く自分を受け入れるのを感じた。
「いいぞ――もう少し。……くたばれ」
両手に力をこめた。
昌枝の力が抜け、口から舌が吐き出された。
呻いて、島田は女主人の奥に射精した。
腕の力をゆるめ、上体を離した。
昌枝の太腿が躍った。
だしぬけに腹を押され、島田は人形のように床へ転がされた。
激しく咳込みながら、昌枝は立ち上がった。ダイナマイトに点火する余裕はなかった。
出入口へ走った。
横合いから島田がタックルした。
昌枝は押され、壁にぶつかった。
島田がとびかかってきた。
両腕を喉に巻く。今度は死んだ真似もきくまい。
眼の前が真紅に染まり、昌枝は苦しまぎれに身体をずらせた。
何かが顔に触れた。
頭の奥できしむような音が響いた。
もう駄目だと思った。
次の瞬間、島田の身体は消えていた。
咳込む昌枝の眼に、五メートルほど離れて空中へ現われ、後頭部からどっと石床へ落下する島田の姿が映った。
手足を奇妙な形にねじ曲げ、二、三度呻いたきり、彼はもう動かなかった。
昌枝の喉元に、見覚えのある手が突き出ていた。
どうやって自分と島田を判別したか、どんな力を使って彼を消したのかはわからないが、救ってくれたのは、この奇怪な手しかあり得ない。
昌枝は黙って握りしめた。
呼吸を整え、床のダイナマイトとライターへ走り寄る。
その顔が再度、恐怖に彩られた。
今度は絶望が同伴していた。
石壁の影から、馴染み深い肉縄がぬるぬると彼女めがけて這いずってくるのだった。
海岸道路を突っ走る乗用車やダンプの運転手は、自分たちに負けぬ速度で東京方面へ疾走する奇妙な二人連れを見て眼を丸くした。
|二〇歳《は た ち》前後の美女を膝に乗せた若い男――それはいいのだが、彼らを運ぶものは、どうみても、車椅子なのであった。
言うまでもなく、妖物に襲われて精神失調を起こした祐美と、それを運ぶ矢切鞭馬である。
驚くべきことだが、鞭馬は姉を安全圏へ運ぼうとしているのであった。
それがどこなのか、鞭馬にもわからない。父[#「父」に傍点]の追跡がどこまで可能なのか。静岡で停まるか、東京まで来るか。
あるいは――
地球の果てまでも。
あり得ることであった。
奇妙な感慨が胸に湧いた。
自分は何者だろうと思った。
こちら側の人間には受け入れられず、今、実の父[#「実の父」に傍点]からも逃げている。
父は追ってくるだろう。
遭遇すれば戦うしかない。
何のために?
萩生真介の顔が浮かんだ。
何のために彼を|喚《よ》んだのか。
負傷したと嘘をついてまで。
よくわからなかった。心をもて余す癖がついていた。
父[#「父」に傍点]の存在を知らせるためか。
彼に父と自分のしていることを中止させるためではなかったか。
わからない。
今の彼が考えるべきことは、姉を救う一事であった。
肉欲を感じないといえば嘘になる。
それよりも、姉が哀れであった。
幼いときから自分を見守ってきた、たったひとりの肉親である。
そのためか、と考え、彼は自分自身に冷笑を向けた。
こちら[#「こちら」に傍点]側の甘さが身についたのか。
自分はこちら[#「こちら」に傍点]側の人間なのだろうか。
よくわからなかった。
何台かトラックを追い抜き、彼は後方を向いた。
「来たか……」
とつぶやく。
うまく脱出したつもりでも、そうはいかなかった。
「さすが親父だ」
誇らしい気も湧いた。
厄介な性格だと思った。
鞭馬は姉の顔を見つめた。
|精神《こころ》の傷は深いが、いつか回復する。時は最良の妙薬だ。
ただし、これ以上、犯されなければ。
前方に小さな漁村が見えた。
一度通ったことがある。とうに廃村となっていた。
ここでやり合うしかなさそうだった。
鞭馬は車椅子のスピードをおとした。
道路を離れ、細い脇道を降りた。
くずれかかった家と家の間を通り抜け、小さな小屋へ入った。漁具を入れる倉庫だったらしい。ぼろぼろの網や浮輪が無雑作に打ち捨てられていた。
網の中へ祐美を寝かせ、鞭馬は外へ出た。
外はすぐ白砂の浜だ。
波打ち際まで一〇メートルもない。鞭馬は渚に背をむけた。
おとりは無駄だった。
父の目的は祐美である。どちらの位置も勘づかれてはいるが、鞭馬を|斃《たお》さぬ限り、父も祐美を自由にはできまい。
間もなく、道路の方から“気配”が伝わってきた。
脇道をそれ――唐突に消えた。
声だけが響いた。
「……やは……り……裏切っ……た……な……許さ……ん……ぞ……鞭馬……」
緊張のさ中、鞭馬はにやりと笑った。
冷笑に変化はない。
「父さんこそ――僕の|女《ひと》に手を出したね。許さない」
と彼は言った。
沈黙は闇の形をとった。
鞭馬はコントロール・パネルにかけた指の力を抜いた。
2
左前方の砂浜が突如、黒煙を噴いた。
凄まじい勢いで接近してくる。
不可視のレーザー・ビームが挑んだ。
白光が砂浜をガラスと変え、砂煙はとまった。
鞭馬の眼がもの凄い光を発した。
砂浜が青黒く染まっているのに気づいたのである。
黒砂を蹴立てて奇怪な植物が鎌首をもたげた。
それが黒煙を吹き出す前に、レーザー・ビームが無限長の|刃《やいば》となって細い幹を|薙《な》ぐ。
地面に回転|軸《パイプ》を打ち込み、鞭馬は車を回転させた。
海中から躍り上がった肉縄が、見事に中段から断ち切られて火を吹いた。
先端が空中で汚液を放った。
鞭馬は椅子からとんだ。
椅子の背や|席《シート》の数個所に穴が開き、黒煙を放ちつつ溶けていく。
鞭馬は立ち上がり、次の攻撃に備えた。
父[#「父」に傍点]がじきじき来るか、縄の代理をよこすか。
背後でおびただしい気配が動き、彼はふり向いた。
海面が泡立っていた。
鞭馬の眼だけが、海が汚液にまみれているのを見てとった。
強烈な化学反応だった。
打ち寄せる波の音がいっときやんだ。
突如、波は波を[#「波は波を」に傍点]蹴立てて空中へ舞い上がった。
鞭馬は横へとんだ。
頭上からおびただしい水滴が一ヵ所へ集中した。
触れた土はたちまち妖煙を放ちはじめた。
どのようにして水を活性化し毒水とし得るのか。
海水は次々と天空へ躍った。
とびのく暇はなかった。
鞭馬の股間から灰色の光がほとばしった。
それはたぎりおちる氷塊と空中でぶつかり、水の毒を奪った。
砂を吹きとばして落下した水は、ただの海水と変じていた。
鞭馬の股間から洩れた紐は緩やかな弧を描いて地に落ちた。
次の攻撃に備え、勢力圏の拡張をはかる。
水を貫くようにして縄の先が出現した。猛スピードで砂浜へ向かう。接触と同時に砂煙を上げて走った。
スピードは落ちなかった。
朽ちた石垣を切断し、土塀を断ち、家屋を真っぷたつにして直進、一気に左方向へ転じた。
ケーキを切りとるナイフのようであった。
鞭馬の紐が唸ったとき、それは地中へ没し、砂塵のみが行動継続中を告げて走った。
ふたたび方向を変え、海の中へ。
水蒸気が上がった。
ずるりと地面が滑るのを鞭馬は感じた。
海中へと。
みるみる広がっていく黒い切れ目は、肉縄が刻んだ線であった。
まさしく、鞭馬の立つ砂浜は、本体から切りとられたケーキの一部のように、大地から分断されたのである。
祐美のいる小屋もその内側にあった。
鞭馬は走り出した。
左右からどっと黒い海水が押し寄せた。
見る間に腰まで漬かる。
空気が唸った。
海中で何かが足を掴んだ。
一気に鞭馬は黒い水の中へ引きずりこまれていた。
つづけざまに水を飲んだ。腹腔が煮えたぎった。のたうつ耳に、父の声がきこえた。
「愚か……も……の……女など……気にし……おっ……て……やはり……おま……え……はこの世界……の……生……物……だ」
すっと気が遠くなった。
無意識に紐が動いた。
足首を掴むものを絡めとり、もぎ放そうと努める。
急に呪縛が解け、鞭馬は夢中で水を蹴った。
切断部は、すでに半ばまで海中に没していた。漁具小屋の入口にも黒い線がかかっている。
腹の灼け|爛《ただ》れる激痛に喘ぎながら、鞭馬は小屋へと泳ぎ、途中から水を蹴散らして駆け寄った。
扉を押し開ける。
祐美は腰まで水にひたって、虚ろな視線を周囲へ投げかけていた。
鞭馬を見ても動こうとしない。
「姉さん――」
安堵が鞭馬を無防備にした。
視界が突如、色を失い、猛烈な歪みが全身に加わる。
父が最後の手段に出たことを鞭馬は悟った。
重合空間へ封入されたのだ。
切り裂くような痛みが全身に走った。
同時にあらゆる空間に存在する自分から、特定の空間のみを切り離したら、それは全身を分断されるに等しい。
絶対の決め手だった。
鞭馬は悲鳴をあげた。
途端に激痛が消え、彼は水の中にいた。
動揺が伝わってきた。
父の気配が猛烈なスピードで遠ざかっていく。
「……鞭馬――」
と祐美が呼んだ。
鞭馬は近づいて抱き上げた。
「どうしたの……一体……?」
「黙って」
ゆっくりと傾斜してゆく小屋から、鞭馬は祐美を小脇に、水中へ泳ぎ出た。
何の妨害にもあわず岸へ上がり、廃屋のひとつに祐美を横たえた。
「もう、ここにいても大丈夫だ。すぐ戻ってくるよ」
「いや――どこへいくの?」
「親父に急用ができてね」
鞭馬と妖物との死闘が展開する少し前、地下室では、昌枝が忍び寄る肉縄を前に硬直していた。
それが消滅したのは、彼女が悲鳴をあげようと息を吸いこんだ刹那であった。
訳もわからず、よろよろとへたりこみかけ、必死にこらえると、昌枝は床のダイナマイトとライターを手にとり、導火線に火を移した。
このとき、遥か海岸道路の一角で、鞭馬が「来たな」とつぶやいたのだが、むろん、昌枝にはわからない。
壁の手に指示された機械の下の窪みにマイトを突っこみ、自分は出入口の壁の陰に隠れた。両手で耳を覆う。
密閉空間での爆発は凄まじい衝撃波で四方の壁をうち、反転して物蔭の昌枝を痛打した。
ごおごおと唸りをあげて、出入口から書庫へと抜けていく。
かなりの衝撃によろめきかかる昌枝の肩を、がっしりした手が支えた。
「萩生先生――!」
昌枝の眼に涙が溢れた。
「大丈夫ですよ、もう」
と謎の家庭教師はやさしく言った。
「後はおまかせなさい。あなたはすぐ、必要なものだけもってこの家を離れるのです。じき、私が爆破しなければならない」
「ご存知なのですね、みんな」
「鞭馬君のおかげでね。――私がご一家や世の中の役に立ったとすれば、半分は彼の力ですよ」
昌枝の顔がかがやいた。
「そういえば、あの子は――? そうだわ、先生、祐美が」
東京へ帰ったのではないかという萩生に、昌枝は事情を話した。
「すると――祐美さんを探さねば。――私につかまりなさい」
二人は移動を繰り返し、家中を見て廻った。
いない。
祐美も鞭馬も。
召使いたちが信用できないので、萩生は昌枝が荷物をまとめるまで付き添い、安全な漁村のホテルまで送り届けると、すぐに家の周囲を調査しはじめた。
崖っぷちの粘液を見つけるまで五秒とかからなかった。
あの肉縄のせいだと思っても、まさか鞭馬が犯人だとはわからない。
萩生は地下へとんだ。
いよいよ、という思いが湧いた。
ダイナマイトは、まだもとの位置に置かれていた。
ひびの入ったエネルギー中和装置の表面を、萩生はやさしくなでた。人類の夢のひとつは、彼の指令で消えた。
残りのすべてにも後を追わせることに、萩生は猛烈な罪悪感を感じた。
その前に――奴の出現地点を始末しなければならない。萩生は息を整え、例の石壁の向う側へ移動した。
いないのはわかっていた。
気配が絶えている。
彼を脅やかすあの[#「あの」に傍点]雰囲気がない以上、奴は外[#「外」に傍点]へ向かったのだ。
多分、祐美と鞭馬を追って。
鞭馬の行動が、萩生にはわかるような気がした。
二つの血のせめぎ合いが彼の不可解な行動パターンを形成しているのだ。
世界を|混《こん》|沌《とん》に叩きこまんとする邪悪な意志と、それを守ろうとする人間の意識とが。
萩生を招いたのも後者が勝ったためだし、危機一髪の瞬間、伊豆から東京へ、長距離移動のパワーを与えてくれたのも彼だろう。未完成の空間移動装置とはいえ、それくらいの芸当ならたやすく出来たはずだ。
萩生は素早く周囲を見渡した。
林の地下で見た石の部屋と酷似した室内であった。
こちら側で奴が自在に動くエネルギーを貯えるためには、出現地点を確保する他に、宇宙線や放射線の影響を|蒙《こうむ》らずにすむ高密度の空間が必要なのかもしれなかった。
右隅の一点に見覚えのある建造物がそびえ立っていた。
材質と大きさは異るが、形は林の奥の石柱建造物と瓜二つだ。
高さ八メートルほどの石柱二本と、その上段に横に渡したほぼ同じ長さの平石の重さは、合わせて優に八千トンを越しているだろう。
どこからともなく洩れる青い光の中にそびえるその質量も圧倒的だが、萩生の眼を引いたのは、平石の頂上でゆらめく淡い炎の波みたいなものであった。
妖物が出現してから五年後、この家は建て直されている。鞭馬の意志に従って。
当時の出現場所も変わっているだろう。
かつての庭は、あの位置にあったのではないか。
萩生の胸が激しく鳴動しはじめた。
ダイナマイトを握り、彼は二度の移動を行い、平石の上に立った。念のため、端っこである。
それは確かに空間の歪みであった。
|灰白色《かいはくしょく》の渦が周囲の空間を吸収しながら、奥の微細な一点へ流れこんでいく。
渦の色は接触した二空間のずれ[#「ずれ」に傍点]の具現かと思われた。
間違いない。その、肉眼でかろうじて確認できるほどのほころびから、孤独な世界の邪悪な住人が、ある夜招かれたのであった。
|精《せい》|緻《ち》な観察を得ようと萩生は二、三歩歩み寄った。
強烈なショックが全身に叩きつけられた。かろうじてそれを移動させたものの、続けざまに襲う衝撃の強さは想像を絶していた。
一〇〇分の一秒ともたず、萩生は下方へ移動した。
二度目の移動がしくじった。
三メートルの高みから、彼は石床に激突し、右の|肩《けん》|甲《こう》|骨《こつ》が鈍い音をたてた。
防御装置が設けられていたのだろう。
萩生の移動能力をもってしてもその負荷に耐え切れぬ厖大なエネルギー照射であった。
核爆弾のエネルギーも食い止めてしまうのではなかろうか。
接近は不可能に近い。
萩生は蒼白な顔で立ち上がった。
まさに|王手《チェック・メイト》をかける寸前、強大な|護衛《ナイト》が登場したのである。
そして、伊豆の廃村で鞭馬と凄絶な死闘を繰り広げていた妖物が、前触れもなく立ち去ったのは、萩生がはねとばされた刹那であった。
すでに、ダイナマイトを用いて施設ごと出現場所を破壊する試みを、萩生は放棄していた。
数千万トンの土砂や破壊エネルギーをもってしても、あの防御機構は敢然と任務を遂行するであろう。
方法はひとつ。
あの空間の渦へダイナマイトを送り込むことだ。
テレポートしかあるまい。
だが、防御機構の作動範囲は重合空間にも及んでいる。移動中、あのショックを受けたら、かわす|術《すべ》がない。
萩生の力をもってしても|如《いか》|何《ん》ともしがたい状況であった。
全身が冷えきっていた。肩甲骨が折れたのは間違いあるまい。
独学で盲腸の移動削除くらいなら身につけたが、骨折の融合までは日暮れて道遠しだ。
ダイナマイトを捨て、萩生は屹立する石柱に近寄った。
頭を振り、痛感を移動しようとしたが、これも仲々うまくいかない。
あきらめて、左手を石柱へのばした。
触れると同時に、高さ三メートルあたりまでの部分が忽然と消滅し、五メートルほど後方の床へ地響きをたてて落ちた。
失望の吐息が洩れた。
下方を消失した石柱は、どのような空間的均衡を保っているのか、依然として宙に留まっていたのである。
反重力ではあり得ないが、やはり重力場が微妙なバランスにひと役買っているのは間違いあるまい。
「こっちの足をはずしても無駄か……」
つぶやいて左手をのばしかけ、萩生は痛みも忘れた。
どこからともなく、あの雰囲気が妖々と空間を満たしていく。
「あ……と……ひと……息……だった……な……」
声は邪悪な自信に溢れていた。石壁の隅にピラミッドを思わす影があった。
石の床上を一本の肉縄が這ってきた。
萩生の姿は忽然と消えた。
すぐに現われた。
二メートルと離れていない。
激痛と防御エネルギーを受けとめたショックが、能力の発揮を妨げているのだった。
足とはいわず全身に肉縄が巻きついた。
次の瞬間、消滅する。
溶解したような切り口をみせて少し離れた床の上ではねまわりはじめた。
おびただしい肉の輪が空中で弾けた。|独楽《こ ま》廻しの紐のように幾重にも重なって唸る。
萩生は移動した。
輪は汚液を|撒《ま》き散らした。
世界は青黒い霧で満たされた。
部屋の隅に現われた萩生へ汁がとび、体表に触れるや否や消えていく。
再度の移動に移ろうとした一瞬、萩生の周囲はすべて色を失った。
敵の操る重合空間へ封じ込められたのだ。
鞭馬のときと等しく。
全身が寸断される苦痛に|苛《さいな》まれながら、萩生は空間内移動を試みた。
敵の空間内に自らの移動空間を引きこみ、その中に閉じこもる。
カプセルに包まれたカプセルといえるだろう。
防御空間が淡い色を帯びはじめた。
敵は二種空間の融合と引き剥がしを企てている。
手の打ちようがなかった。
空間の封鎖を|解《と》けば八つ裂きにされ、それを維持するパワーも今の萩生には湧いてこない。
空間に細かい「|皺《しわ》」が寄りはじめた。
やがて一本に集中し、崩壊は一瞬だ。
苦悩が萩生真介の顔を染めた。
呪縛が|緩《ゆる》んだ。
苦痛の気配を放射しながら、萩生のシールド崩壊をはかっていた空間が消滅する。
自らの閉鎖空間も解除し、萩生は|渾《こん》|身《しん》の力をふりしぼって石壁の彼方へ移動した。
出現と同時に、どっと汗が噴き出す。
膝頭が痴呆状態に陥り、萩生はつんのめった。身をひねろうとしたがうまくいかず、右肩から床へ。
苦痛はやってこなかった。
眼の前に石の床があった。
身体はおかしな格好で停止していた。誰かが、ポロシャツの|裾《すそ》をひっぱっている。
ふり向くと、裾は壁にめりこんでいた。
ほんのわずか、距離が足りなかったのだ。
再度の移動を敢行する気にはなれず、思いきり前進して引きちぎり、萩生は前に|穿《うが》った穴へはりついた。
縄対紐の対決といえばよかろうか。
疲れ果てた萩生の眼にも、唸り、絡み合う二本[#「二本」に傍点]のロープがはっきりと見えた。
目まぐるしく入れ替る線の彼方に、人影が立っていた。
鞭馬である。
萩生は素早く、床上の卓上ライターをとり上げた。
立ちのぼる炎に指を触れかけ、そのまま床へ置く。
空間移動装置は、原理的に萩生の理論を踏襲したものである以上、操作も萩生たちの試作品と似通っているはずだ。
萩生の胸に光明が点った。
作動スイッチ、出力調整装置、空間選択ジェネレーター……位置と形は若干違うが操作方法はほぼ同一だ。
出力は――。無限大。これには永久機関が組みこまれているのだ!
この装置のつくり出す空間なら、あの防御機構のエネルギーを一瞬でも排除し得るだろう。
一兆分の一秒でもいい。
移動時間はゼロなのだ。
萩生はダイナマイトを掴んだ。
導火線に点火し、口に食わえたまま、コントロールに着手する。
出力メーターの青い線が上昇を開始した。永久機関の生み出すエネルギーをフィールド・ジェネレーターが受け、空間|選択《セレクター》機構のストックへ送り込む。
萩生は三次元スクリーンで目標を出現地点へしぼった。
同時にライターの炎を、あちこちにセット済みのダイナマイトへ移す。
空間固定座標が|+《プラス》・|−《マイナス》・|〇《ゼロ》を示したとき、萩生は移動した。
怒号する防御機構のエネルギーを感じつつ、出現地点へ達し、あの渦の中へマイトを叩き込む。
逆進。
空中へ躍り出た刹那、重合空間は破壊された。
落下しつつ、移動に移ろうとした眼の隅を、全身縄に|絡《から》めとられた鞭馬がかすめた。
眼の前に彼の背中があった。
絡みついた縄ごと移動する。
ワン・ジャンプは移動させた石柱のかたわらであった。
空間の奥の闇に、わだかまる影が見えた。
萩生の左手の先から、石柱が忽然と消えた。
ぐふう、という呻きが漂ってきた。石柱が命中したのである。
次の瞬間――
石柱上部から形容しがたい――しかし、疑いない炸裂音が響いてきた。
同時に――
凄まじい突風が床全体から湧き上がり、上方の一点へと吸いこまれていった。
あの渦の彼方へと。
のたうつ縄が、つづいて、何とも言い難い巨大な山みたいな影が舞い上がっていくのを確認し、萩生は移動した。
地上の林の中へ。
二人は揃って崩折れた。草の匂いがした。
「おかしなものをつけてるな」
萩生が鞭馬の股の方を見ながら言った。
「出来が悪いもので」
鞭馬は苦笑した。
こいつは、これからどうするのだろうか、と萩生は思った。
すぐにわかった。
地の底から鈍い物音が伝わってきたのである。
鞭馬は愕然と立ち上がった。
「馬鹿な――ダイナマイトを、あの機械に!?」
「もう、あきらめろ。人間にはまだ早すぎる品だ」
「この世界とあちら側を結ぶ架け橋です」
鞭馬は立ち上がった。
「無茶はよせ!」
叫んだ拍子に肩の痛みで萩生は気が遠くなりかけた。
「追わないで下さい。まだ間に合うかもしれない。下に設計図があるんです」
「よさんか。教師のいうことがきけないのか!?」
鞭馬はふりむいた。
「ありがとう。でも――僕はどっち側の人間です?」
「こっちだ」
「ありがとう」
と鞭馬はもう一度言って駆け出した。
「ま……」
猛烈な痛みが全身を覆い、移動もできずに萩生は失神した。
数日後、萩生は銀座の喫茶店で芳恵を待っていた。午後六時。陽はまだ高いが、仕事を|了《お》えた人々で、ガラス越しに見える数寄屋橋交差点は埋めつくされていた。
五分ほど遅れてやって来た。
「ごめんね、遅れて。――で、どうだった?」
「別に。母娘揃って元気に飛び立っていったよ。当分、日本には帰らないそうだ」
「いいなあ」
とウェイトレスにアイス・コーヒーを注文してから、芳恵は心底|羨《うらや》ましそうに言った。
「傷心を|癒《いや》すためにヨーロッパ一周だなんて。恋人は財閥の御曹子に限るわね」
「お気の毒さまだったな」
「でも、今度の仕事は災難だったわよね。せっかくいった別荘が地盤沈下で倒れかけ、教え子が重傷だなんて。でも、あなたよく肩の骨折っただけで助かったわ」
「スーパーマンだからね」
芳恵に笑いかけ、萩生は成田国際空港のロビーで別れたときの祐美の姿を思い浮かべた。
結局、何も変わりはしなかったのである。
伊豆の別荘は地盤沈下のため改修工事が行われることになり、召使いたちは解雇されたり、そのまま居残るものも出た。
主人が向う側へ消えてしまった以上、危険なことはあるまい。
鞭馬は行方不明だった。噂では地盤沈下の折り、地下室にいて重傷を負い、病院へ収容されたというが、萩生は祐美から真実を知らされていた。
地下室へも移動してみたが、すべては落盤の下に埋まり、装置も鞭馬も見つけ出すことはできなかった。
「あの子――どこかに生きているような気がします」
と別れしな、萩生の手を握りながら祐美は言った。
「いつか、先生、授業はじめましょうって、ひょっこり顔を出すかもしれない。そうしたら――お願いします。もう一度……」
「約束しますよ」
と萩生はうなずき、二人は別れた。
「ねえ、三矢精機のあの凄い新製品――発売中止になったんですってね。――どうして?」
「知らん。設計ミスでもあったんだろう」
にべもない返事に芳恵は頬をふくらませた。
「ね、今度はもう少し熱入れて授業してよ。わたしたち二人のお給料足しても、生活費はカツカツなんですからね」
女というのはどこまでも現実しか見ようとしない――萩生は少しうんざりしながら思った。無理もないかもしれない。自分でさえ、数日前の一件が今では夢のように思えるのだから。
新婚生活のプランをあれこれ話す芳恵の声に、適当にうなずきながら、萩生は窓ガラス越しに、数寄屋橋の交差点を渡る人の群れを見つめていた。
そのうちの、背の高い背広姿がひょいとこちらを向いて手をあげた。
「鞭馬!」
小さく叫んで、萩生は椅子から立ち上がりかけた。
「どうしたの!?」
芳恵の声にも答えず、とび出そうとした足は、しかし、急にとまった。
雑踏の人はあまりに多く、背広姿の青年はすでに夕暮れの人の波に飲まれて視界から消え失せていた。
今のは、再会であったろうか。
気のせいだったかもしれない。
「どうしたんだってば?」
不安げな芳恵の声に、萩生は首をふった。
「何でもないよ。何でもないんだ」
「変なの」
つぶやいた芳恵は、恋人の塾教師が、本物のスーパーマンであることを本気で悔んでいるとは、とうとうわからず|終《じま》いだった。
あとがき
血のように赤い夕陽を背景に、くっきりと浮かび上がった不気味な西洋館の翳。その下は波頭牙剥く切りたった断崖であり、屋敷には夜ごと、怪しげな影が出没する。
それに恐怖しながら謎の糾明に乗り出すたくましい主人公と美貌のヒロイン。何かを知りながら脅え、あるいは冷笑を浮かべる家族や召使いたち――西欧怪奇小説の伝統的な道具立てを使ったスーパー・アクションはいかがでしたでしょうか。
テレポート能力を持った主人公対魔物という図式は私にもはじめてのもので、それなりに苦労いたしました。
またこれは、私の中にある一種映画的なロマンを小説化したものといえましょう。昔から、私は一枚の映画スチール、幻想絵画から、自分だけのストーリイを組み立てるのが好きでした。
崖上の洋館と背景の夕陽が、いつ、どこで見た一枚かは定かではありません。
単なる美しい風景画が、私の中ではこんな物語に化ける。――つくづくあきれる方もいるかもしれませんが、秀れた絵の喚起するイメージとは、私にとって、すべて幻想怪奇なのであります。
作品に登場するような風景をご存知の方がいらしたらご一報下さい。
是非とも駆けつけて、新たなイメージづくりに励みたいと思います。
一九八五年九月一日
「地下室に棲む魔物」
を観ながら
[#地から2字上げ]菊地秀行
本作品は一九八五年一〇月、小社より講談社ノベルスとして刊行され、一九八八年八月、講談社文庫に収録されました。
|妖《よう》|戦《せん》|地《ち》|帯《たい》1 |淫《いん》|鬼《き》|篇《へん》
講談社電子文庫版PC
|菊《きく》|地《ち》 |秀《ひで》|行《ゆき》 著
(C) Hideyuki Kikuchi 1985
二〇〇二年五月一〇日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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