D―昏い夜想曲 〜吸血鬼ハンター別巻
菊地秀行
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目次
D―昏い夜想曲(ノクターン)
D―想秋譜
D―戦鬼伝
あとがき
※本書は左記の初出作品に加筆・修正を加えたものです。
D―昏い夜想曲/「獅子王」'91年10月、11月号
D―想秋譜/「獅子王」'91年12月、'92年1月号
D―戦鬼伝/'92年2月号
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D―昏い夜想曲(ノクターン)
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第一章 黒い森の|邂逅《かいこう》
1
西の空で雷鳴が轟いてから五分と経たないうちに、四方の葉を鋭く打ち鳴らして白い筋が落ちてきた。
夕暮れどきの空模様から察しがついていたので、あわてはしなかったが、ライは舌打ちで運命に反抗を示した。
夕立だろうが、黙っているわけにはいかない。
狭い道の左右が、黒い靄みたいな森林だったのは、むしろ幸いといえた。
飛び込む前に耳を澄ませたが、雷鳴は絶えていた。落雷の心配はない。
トンネルのようにさしかわした枝々の下へ入ると、嘘みたいに雨粒の直撃は消えた。この地方でも名だたる深く広い森だときいている。
蒼い空が墨色に変わるまで五分とかかるまい。
森を抜けるには優に一時間以上を要し、アニスの村まではさらに一時間歩かなくてはならない。
「ここで野宿だな」
ライは決断した。
安全な森ではない。
森の妖霊は、緑色の吐息で旅人を眠らせ、その心臓を失敬する機会を窺っているし、人狼、金目獣、樹上人も何処かでライを観察中にちがいない。その辺の幹に軽く眼をやっただけで、彼らの牙と爪の残した痕はいくらでも見つかるだろう。
だが、決めた以上、ライの行動は速かった。背の雑嚢から寝袋と空圧銃を取り出し、両眼に“フクロウの眼”を貼りつけたのである。
ほぼ眼球を覆う二枚の薄膜は、赤外線フィルターの役を果たし、漆黒の闇でも周囲の認識を可能にする。火を焚くのは|生命《いのち》取りになりかねない場合の、旅人の必需品だ。
寝袋へ入る前に干し肉を口にするつもりだったが、ふっと瞼が落ちかかった。
ここ四、五日、三時間の睡眠で先を急いだつけ[#「つけ」に傍点]が回ってきたらしい。
銃の空気圧と弾丸を確かめ、寝袋へ潜りこむと同時に、睡魔が襲ってきた。それでも、寝袋にくくりつけた警戒装置のスイッチをONにすることだけは忘れなかったが。
眼を閉じると同時に、ブザーが鳴った。
ライはとっさに、首に巻いた時計を引き寄せて見た。眠りに落ちてから六時間以上経っている。
草が鳴っていた。音には動きがあった。ライの周囲を森の奥へと移動していく。
背筋も凍る思いで見つめた。
何かが草の中を移動していくのだ。幾筋もの動きの線は優美ですらあった。
戦慄が急にうすれた。それに対する驚きすら、やわらかに溶けた。
かすかな歌声が空気をゆらしていた。やわらかい美声。――しかし、男の喉から洩れたものだ。
――この歌は!?
そう思ったとき、ライは寝袋から脱け出ている。
空圧銃だけを掴んで歩き出す足取りに、とまどいはなかった。
この歌は――
この曲は――
この調べは――
それだけが、脳裡に渦を巻いていた。
肩に赤い蜘蛛がとまった。足首をぬるついたものが巻いた。気にもならなかった。
父の顔が浮かんだ。
病み衰えた顔が、ベッドから手をさしのべた。
何か言ってくれるのかと思った。口数の少ない、説教ひとつしたことのない父でも、ひとつくらいは、ひとり息子に遺したい事柄があるだろう。
ライはすぐに勘違いを悟った。
父の瞳には自分が映っている。だが、見ているものは、自分ではなかった。
ひからびた唇が震え、空洞のような口腔が開いて、それを洩らしたとき、ライは父の臨終も忘れた。
その後の寂しい葬儀も、立派な靴職人だったと賞め讃える村長の演説もろくに覚えていない。
耳の中には、あの歌[#「あの歌」に傍点]とあのひと言が鳴っていた。
――アニスの村
そして、父は眼と口を閉じた。
それだけだ。
葬儀を済ませた翌日、ライは旅に出た。
アニスの村へ
ひとりの老人がこの世に遺した最後の歌と言葉が固く結びついていることを、十七歳の精神は疑わなかった。
頭上の雨音を聴きながら歩いた。
奇妙に時間の感覚だけは確かだった。歩きはじめて五分と少し。歌声はとうに絶えている。それなのに、身体は自然に――確信を持って動いた。
左手奥で馬のいななきが聴こえた。
足も止めず、ライは顔だけを向けた。夜目は利く方だ。
馬と馬上の騎手は、闇よりも濃い色をまとっているように思われた。
顔は見えない。ロングコートかケープらしいものを羽織っている。
普通なら、人恋しさから、すぐにも声をかけたろう。今は、気にもとめなかった。
顔を前方へ戻し、ライはまた歩き出した。背後の人馬も無言だった。五、六歩行ってから、少し気になってふり向いた。何故かはわからない。
影は闇に呑まれていた。声をかければ、何の応答もなく吸いこまれていきそうな気がした。
幻だったのか――ふと、思った。
炎を認めたのは、さらに十歩を重ねたときだった。
一〇メートルほど先にゆれるオレンジ色のフレアの周囲で、人影が蠢いている。三つだ。
本能的に、ライはかたわらの巨木の陰に身を隠した。ひどく|凶々《まがまが》しいものが吹きつけたのである。
ひとりは炎の前に腰を下ろし、残り二人が少し離れたところに立って、辺りを見回している。顔はやや下向き――地面を窺っているようだ。
座っている男の顔はよくわからないが、二人はどちらも髭面であった。
片方は何かの制服じみたカーキ色の上下、相棒は首から上以外は装甲のような金属製のプロテクターをつけている。腰の長剣は共通していた。
装甲服が身を屈めるや、眼にも止まらぬ速さで草むらから何かをすくい上げた。
右手に握られた黒い筋がうねくっているのを見て、ライはぞっとした。
「おれも一匹」
と装甲服が言った。
「おれはもう三匹だ」
カーキ色が左手を突き出した。拳の下から垂れた同じ生き物が、くねくねと身をよじっている。草の中を|疾《はし》っていたのは、あれ[#「あれ」に傍点]だろう。大きさと色からして、モリヘビにちがいない。
「いい晩飯ができたぜ」
装甲服が顔の前にそいつを掲げ、いきなり宙へ放った。
右手がかすんだ。
落ちてくる姿は一匹だったが、炎の先に触れたと見るや、モリヘビは三つに分かれてかがやきの中に消えた。
「こいつも」
制服が無造作に数匹を同じ目に遭わせて、座りこんでいる男をふり向いた。炎が青い煙を噴き昇らせた。
「たいしたもんだぜ。おめえの歌を聴くと、イシクイムシからヤマヘビまで、のこのこやって来やがる。おかげで食いものには不自由しねえや」
「全くおかしな歌だよな」
と、もうひとりが言った。ぐい、と火の中に右手を突っこみ、
「おお、いい具合に焼けてやがる。あち。――おれたちがいくら真似しようとしても、一小節も歌えねえ。おかしなもんさ。おれも、本物[#「本物」に傍点]を聴きたかったぜ」
ライは心臓が止まるかと思った。
本物とは、父が聴いた[#「聴いた」に傍点]歌なのではないか。
それは何処で、誰が[#「誰が」に傍点]歌ったものか?
この男たちのひとりは父と同じようにそれを聴いたのか。そして、何処へ行こうとしているのか?
ライは最後のひとりに視線を据えた。
心臓は再び打ちはじめた。頭蓋の|内側《なか》で、その音が鳴り響くほどに。
炎が美しさを整えているようであった。
年齢はライとさほど変わらない。顔色は照り返しのせいでよくわからないが、頭髪は黄金だ。閉じた眼、鼻梁、唇――美しいという以外の評価を下したら、その場で恥ずかしさのあまり、心臓が停止してしまいそうな美貌の主であった。
他の二人とあまりにも似合わない。何かの間違いだと、ライは腹を立てた。
そのとき、美少年がこちらを向いた。
「君――いらっしゃい」
愕然と硬直したライへ、
「そうだよ、出てきな」
「一緒にかじろうや」
すでに気がついていたらしい二人の荒くれも、凄まじい笑顔で誘った。
2
当然のことながら、ライは躊躇した。この三人はどこか危険だった。
「おめえがはじめてじゃねえよ、この歌に|魅《ひ》きつけられたのは」
と制服姿が言った。
「爺さん婆さんから赤ん坊まで、のこのこやって来るんだ。奇妙な歌だぜ。ここへ来て、一杯やろうじゃねえか。いい酒があるぜ」
ライは覚悟を決めた。いつまでも隠れていられる場合でもなかった。
空圧銃を下に向けて出ると、髭面どものにやにや笑いはさらに深くなった。
「こりゃいい男だな。|牝鬼《めすおに》に狙われそうだぜ」
「男は旅をしなくっちゃな。さ、こっちへ来い。取って食おうたあ言わねえよ」
「その前に――聞かせてもらえませんか」
とライは言った。考えていた以上に、しっかりした声が出た。
「何だい?」
と美少年が眼を閉じたまま訊いた。
「あなた方は、何処まで行くんですか?」
「あてなんざねえよ」
と制服姿が肩をすくめて身を屈めた。素早く火の中に手を入れ、モリヘビを掴み出す。煙を上げる肉を口元に近づけ、手前で止めた。
自分を見つめる二人の眼差しが、奇妙に変化したのをライは感じた。
「こいつは、うまそう[#「うまそう」に傍点]だ」
制服姿は手にした肉塊を足元へ放り出した。その手がひょい、と上がると、
「来な」
手招いた。その両眼が不気味な|赤光《しゃっこう》を放つのをライは見た。
――逃げろ!
頭の中で自分の声が叫んでいた。
――ここにいては危険だ。早く逃げろ!
だが、足は地に吸いついていた。手も動かない。血管に鉛を注入されたかのように。
「来な」
と制服姿が、もう一度手招いた。
少年の背後で何かが動いた。
それは頭上を越え、ぬう、と眼前に垂れ下がった。
ライが見たものは、炎を反射させてぬらぬらと青緑にかがやく、ひと抱えもある胴であった。
まさか――まさか、身を隠していたあの[#「あの」に傍点]木の幹だとは。
「来な」
制服姿の口が、このとき、妖々と横へ広がっていった。
耳まで裂けるという。だが、この男の場合は真後ろへ、ぼんのくぼの数ミリを残して裂けたのである。
樹木と見紛う巨大なモリヘビは、口から赤い舌をちろちろと吐いている。制服姿など、それこそひと呑みであろう。ライを金縛りに落としたのは、こいつだったのだ。
ひゅう、と舌が一メートルものびて制服の顔に当たった。
奇怪な現象はそのとき生じた。
男の口から上――正確には上唇から上が、ぱかんと後ろへ倒れたのだ。蝶番の役目を果たしているのは、わずか数ミリの後頭部であった。
不気味な大顎の歯列の奥には、舌も咽喉部もなかった。首の太さにぽっかりと空洞が開いているきりだった。モリヘビの頭は、そこへ呑みこまれたのである。
制服姿の喉よりも、ヘビの頭部は三倍も幅がある。それが苦もなくもぐりこんだ。当然、頸部は思いきり膨れた。裂けても不思議ではなかった。男の腹が樽みたいにせり出すのをライは茫然と見つめた。
幻か妖術か現実か――どう考えていいかわからぬうちに、ヘビはぐんぐん男の奇怪な口に呑みこまれていき、ついにはすぼまった尻尾のみが外に残り、それもたちまち消えた。
同時に、後ろへ下がっていた顔が跳ね戻って、蓋みたいに上顎に被さる。
耳の下あたりで、骨の噛み合う音がした。
そして、この途方もない男は、太鼓腹をひとつ叩くや、音高く、げっぷを洩らしたのである。
それだけでも総毛立つほど不気味なのに、このとき、腹部は明らかに波打ったではないか。
「よくも入るな、おまえの腹は」
装甲服が、ほとんど感心したように言った。制服姿は愛しげに腹を撫で、
「なに、これくらいの大物なら、いずれ役に立つ」
「他の奴と喧嘩にならねえのか?」
「安心しろ。ちゃんと部屋ごとに仕切ってある」
男の笑い声を、ライは悪夢の中のことのように聴いた。
それがとぎれる前に、
「さっき、おかしな質問をしたね?」
と金髪の少年が言った。声も口調も、ライと同年齢のものだ。それなのに、ひどく大人びた冷たいものが塗られていた。
「君はまず、僕たちの素姓や名前よりも、行く先を尋ねた。何故だい?」
「別に――」
ライは少年の美貌から眼を離して言った。長いこと見つめていると、頭の中が白く溶けて、我を忘れてしまいそうだ。
「ただ、気になっただけだよ」
「何がだ? 僕らの行く先か? ――それとも、あの歌がか?」
少年がゆっくりと立ち上がった。
それが何を意味するのか、二人の――遥かに凶暴そうな男たちが、白ちゃけた顔で後ろへ退がったではないか。
「一度耳にしたら、もう忘れられない歌だよ、これは。魅入られたものは、必ず、その歌い手に会いたくなる。僕は母の胎内で聴いたという。――君はいつ、どこで?」
歌のことなんか知らない、と言いかけ、ライは腹の中に、前方の美少年に対する猛烈な反抗心が湧き上がるのを意識した。
「おれは二つのときに、この耳で聴いた。アニスの村で」
沈黙があった。
どんな変化よりも恐ろしい沈黙であった。
「そうか、やっぱり、な。また聴きでは、いくら魅入られても、歌い手を探しになど行く気にはならない。どうやら、君とはここで別れた方がいいようだ」
ようやく、ライは、この少年がなおも両眼を閉ざしたままなのに気がついた。
「――おれも、そう思ってたところさ。じゃあね」
何気ない風に挨拶して背を向けた。
首筋から腰までひどく寒かった。左胸に冷気が集中した。痛い。足はスムーズに動いた。痛みはますますひどくなる。最後の瞬間が――来る。
そのときだった。
右手の方で、馬のいななきが聞こえた。
痛みと冷気が唐突に消滅した。
ライはふり向かなかった。一刻も早く、ここから遠ざかりたかった。雨音は絶えていた。
安全と思える位置まで辿り着いたとき、助けてくれたのはあの騎手だろうかという想いが強くした。
3
アニスは、峨々たる連山と黒い森に四方を囲まれた東部辺境区の村である。
農地の面積は、かろうじて千人の村人を養うだけの収穫を上げ、西端を村と並んで走るガーナウ河の水流を利用した材木運搬の収入を加えれば、付近では屈指の豊かな村落といえた。
この地域は、|気象制御装置《ウエザー・コントローラー》の影響をほとんど蒙らず、四季は四種類の素朴な装いに身を包んだ女神の姿で現れる。
夏は、青空の下を埋める、黒ずんだ緑のベール。
秋は、愁いを含んだ風にゆれるすもも[#「すもも」に傍点]や林檎のコート。
冬は、学校の尖塔も隠す白い雪のガウン。
そして、今は春。
なごり雪がぬくみをおびた清流に流れ、草花が眼を開き、子供たちの足音がぬかるんだ道をゆく季節だった。
村を訪れる者たちも多くなる。
商人、占い師、旅芸人、賭博師、詐欺師、用心棒、流れ者、犯罪者……。
それでも、去年の春までは平和だった。今年はもう、そうはいくまい。
その日一日、村には旅の訪問者が多かった。何人かは素通りし、何人かはそれぞれの目的を抱いて、宿泊することになった。
平和な村は黙って彼らを容れた。
容れない方がよかったのに。
村には二軒の|旅籠《はたご》が開いていた。雑魚寝の商人宿と個室付きホテルである。
ライはホテルを選んだ。野宿で来たため財布には余裕があったし、あの三人が何となく商人宿へ泊まるような気がしたためである。アニスの村の名を口にしたことを、彼は少し悔やんでいた。
立派とはいえないが、清潔な部屋であった。
邪霊体や小妖物に対する護符や高圧線も、さりげなく完備している。
これからどうしようと、荷物をほどきながら思案しているところへ、ノックの音が勢いよく走り、返事も待たずにドアが開いた。
「あら、ごめんなさい」
部屋が明るくなったように思われたのは、悪びれたところもない声と、娘の雰囲気のせいだった。ライをここへ案内した仏頂面の親父の家族だろう。のびのびした様子は、単なる使用人とは見えない。
「私、アムネ。このホテルのものです。忘れ物を届けに来ましたの。ほんとは、私と同い歳くらいのお客さんだっていうんで、のぞきに来たんですけどね。入っていい?」
これも返事をする前に、とことことやって来た。青いシャツの上に、野暮ったい営業用のつなぎ[#「つなぎ」に傍点]をつけているが、牝鹿のようなちょっと小生意気な溌刺さが、衣類への同化を激しく拒んでいた。
「何だい?」
ライは少し困惑していた。もとの村で女の子と無縁だったわけではない。むしろ、しなやかな身体と繊細な印象が、たくましく粗野なばかりの男の子たちとは違うと騒がれたものだ。それでも、こんな積極的なタイプはいなかった。
「これよ。夜になってから外へ出るとき、つけて」
胸もとで白い手が開いた。ゴム製らしい小さな物体を二つ、ライは手にとって見つめた。
「耳栓か?」
「そうよ。鼻に入れないでね。――どうしたの?」
「――何でもない。何故、こんなものが必要なんだ?」
「よくわからないわ。習慣よ。私たちも夜出歩くときはつけるの」
「ふうん」
ゴム製品をしげしげと眺めながら、ライは、あの歌についてアムネに尋ねてみようかと思った。
単なる旅人が、立ち寄った村の歴史や伝承について尋ねることは、ある意味でタブーとされている。かつて「貴族」やその眷族の直轄地であったような場合はもちろん、日ごと夜ごと彼らの脅威に狂わされていた村々は、そんな過去の表出を狂的に忌むからだ。
「ふふふ」
とアムネは、意味ありげに笑った。
「何だよ?」
「実は秘密でも何でもないのよ。その栓はね、『貴族』の名残なの。昔むかし、西の山の中腹に、大きな|館《やかた》があったとさ」
「………」
「館には何百人もの『貴族』が住んでいたのだけれど、中にひとり、『都』の大劇場にも喚ばれたほどの歌い手がいて、その声を聴くと、鳥や獣ばかりか風や雨までが館に引き寄せられたというわ。人間がそうなったらどんなことになるか、わかるでしょ?」
夜ごと、月光の下を流れる華麗な歌声と、険しい山道をひたむきに館へと向かう若者たちの眼差しを、ライは連想した。その眼は脅えながら歓喜に燃えていただろう。歓喜に燃えながら、哀しげであったろう。
遠くでアムネの声が聴こえた。
「その人たちは、みな、喉に歯形をつけ、青白い顔で戻って来た。そして、夜になるとベッドから起き上がり、妻や子の喉に牙を――なんてね、大嘘よ」
「嘘?」
「そうよ。みんな、村の人や旅人を怖がらせるためのつくり話。彼らは何もしなかった。最近の研究ではそうなってるわ」
「研究?」
ライは眼を白黒させて言った。
「何もしなかった? 『貴族』の犠牲者がかい?」
「いえ、少しはしたわよ。なんてたって『貴族』にやられたんだから。でも、いま、私がついた嘘みたいじゃなかったらしいわ。研究によると、彼らは歌うだけだった」
ここでも歌だった。
「歌……」
「そう。夜になると隔離所から脱け出し、ポケットに手を突っこんで、村の通りをうろつきはじめるのよ。こうやって、前屈みで、ある歌を口ずさみながらね」
「それは、どんな歌だい?」
「わかんない。随分前――二百年も昔の話だから。『貴族』たちは、その頃、急にいなくなっちまったのよ。実は何処かに隠れてるだの、舞い戻っただのという噂は、今も絶えないけれど」
「その歌を書き遺した人とかいないの?」
「そんなこと誰がするもんですか。『貴族』の呪いをいちいち文字にするようなものよ。そうね、少し前、あいつらが戻って来たって噂が立ったとき、館へ入り込んだ旅の作曲家が採譜したってきいたけど、どうせ、ガセネタでしょ」
商売が商売だけに危ない言葉を使う。ライは気にもしなかった。
「その――戻って来たって、どれくらい前の話?」
「そうね。二十年近くになるかな」
旅の作曲家以外に、父もその歌を聴いたのだろうか。
「その歌を暗唱できる人は?」
「ひとりも。昔はこの辺一帯――何処にいても聴こえたそうだけど、ちゃんと耳にした人たちは、男も女も館へ行っちゃうわけだから、無事な村人は、帰って来た彼らの歌を聴くしかないわけよね。ところが、どうしても真似ができないんですって。曲そのものは単調で美しいんだけれど、出だしのところをハミングすることもできないんだってよ。歌えるのは、直接、館で聴いた人たちだけ。採譜と同じで、しちゃいけないってこともあったんでしょうけどね」
息つぎもしない結果か、アムネはここで何度も息を吸いこんだ。
「いいのかい、そんなに話しちゃって?」
ライは苦笑しながら訊いた。
「もちろんよ。学校へ行ったって、誰も研究の成果を訊いてくれないんだから」
「研究? ――すると、今の説は君の[#「君の」に傍点]か?」
「そうよ。これでも学校じゃ『歴史研究会』に入ってるの。あなたも興味ありそうね? ね、何しに来たの?」
「歌を聴きにさ」
「嘘ぉ」
とは言ったが、満更でもなさそうだ。自分の説を楽しんでくれたと思ったのだろう。
「何でもいいわ。ねえ、お昼すぎだし、食事に出るんでしょ。その後、村を案内してあげる」
「そりゃ助かるけど、いいよ。ホテルだって忙しいんだろ?」
「大丈夫よ。今のところ、お客さんはあんたひとりだし、下の酒場が混むのは陽が落ちてからよ。ね、どこ、行ってみたい?
困ったことになったと、ライは内心悔やんだ。まさか、『貴族』の歌を聴きに来たとも、歌い手に会いに来たとも言えない。
相手が『貴族』と知って、その想いは|萎《な》えるどころか、ますます熱い執念の炎を噴き上げはじめていた。
「そうだなあ。――館は遠いの」
わざと興味なさそうに訊いてみた。
返事は即座にあった。
「大丈夫。馬車で三十分よ。お昼食べてからでも、悠々と往復できるわ。うちには空いてる馬車があるの。早いとこ、食堂へ行ってらっしゃい。うちを出て、通りを右へ――」
――曲がってから二分ほどで、食堂の看板が見つかった。すぐ上に大きな字で、雑貨に酒とある。
雑貨屋が食堂と飲み屋を兼ねているのは、小さな町や村の特徴だ。
あいつらが来ているかと思ったが、客はライひとりだった。
シチューとパンで食事を済ませ、ライは通りを西へ歩き出した。村外れの柵が、アムネとの待ち合わせ場所である。
通りのあちこちには、まだ雪が残っていた。
近道だと指示された裏通りへ入り、ライは立ち止まった。
おびただしい黄金のきらめきが浮動している。微風にすら乗って舞うコガネユキクサの種子であった。東部辺境区では珍しいものではない。耐寒耐熱に優れた種は、貧弱な土壌や苛酷な天候にも耐えて、日射しのぬくんできた春のある日、小ぶりな黄金の花を咲かせ、人々の眼を楽しませるのだった。
その光を満身に浴びて、それを吸い取りでもするかのように、昨夜の雨がまだ乾き切っていないぬかるみの大地に、黒衣の影が忽然と立っていた。
鍔広の|旅人帽《トラベラーズ・ハット》とロングコート、背にした優美な長剣――後ろ姿である。
少し離れた道端に、サイボーグ馬が横倒しになっている。
ライは動けなくなった。昨夜の三人組以上に、危険なものが黒い影にはあった。
ふと、森の中で自分を救ってくれた騎馬の主は、この男ではなかろうかと思った。
すっ、と鼻先を春の風が撫でた。
のどかな合図が死闘の開始を告げたのか、黒衣の影が跳躍した。
闇を凝結したその影が、光の粒をとばすとは。
右手の倉庫の屋根は高さ三メートル。その頂で銀光が閃いた。
どぼっ、という音に重なって、短い苦鳴が上がった。紅いものが斜めに地面へ叩きつけられたのを、ライは見た。
「また、会うぞ!」
天空のどこかで、聞き覚えのある声が苦しげに叫んだ。
ライは通りの真ん中に走り出た。呪縛は解けていた。
ふり仰ぐ眼前に、黒い影が音もなく降ってきた。
少年はまた、茫然としなくてはならなかった。人間の顔がこんなに美しいものだとは。
――自分はまだ、森の中にいて、夢でも見つづけているのではなかろうか。
「無事だったようだな」
それが死闘を繰り広げたばかりの男の言葉かと疑いもせず、ライはうなずいた。
「|昨夜《ゆうべ》はありがとうございました」
と頭を下げてから、
「あの――今のは、昨夜の……?」
「根に持っていたようだ。気をつけた方がいい」
「はい。――あの、僕はライって言います」
「Dと呼んでくれ」
黒衣の周囲に黄金の光点が舞った。
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第二章 廃城の白い歌
1
そのとき、通りの向こうから轍のきしみとエンジン音が近づいてきた。
「お待ちどうさまあ」
二人に横付けした御者台の上で、アムネは眼を剥いた。頬どころか全身が薔薇色に染まったようであった。
「……この人、誰よ?」
腑抜けとしか言いようのない声で訊いた。
「Dさんだ。昨夜、僕を助けてくれた人だよ」
「へえ」
「何処へ行く?」
Dはぶっきら棒に訊いた。
「この先の『貴族』の館だよ。他に見るものもないから」
ライの口調は親しげなものに変わっていた。
「では、おれも乗せて行ってもらおう」
「え?」
ライは眉をひそめた。急に不安が芽生えたのである。とっさに理由を探したが、意識は手応えのない闇に触れるばかりだった。
「どうぞ」
アムネがぼんやりと隣の席を示した。一も二もなく賛成どころか、夢うつつだ。十七歳の娘に、Dの美貌はある種の麻薬だろう。
「君の席だ」
肩を叩かれた。
「でも――」
無言で押され、隣に座ると、アムネがいーっと歯を剥いた。正直な娘だった。
Dは荷台に乗り、不格好な三連筒ピストンがシュウシュウ上下運動を開始するや、馬車はのどかな速度でぬかるみの泥を蹴散らしはじめた。
前を見ていたアムネが、
「きゃあ」
と悲鳴を上げて、地面を指さした。
「あれ[#「あれ」に傍点]――手よ」
黒土と混じって鮮明でないが、確かに血潮の広がりの上に転がっているものは、ライだけは見間違えようもない、装甲服の、肘から断たれた右腕であった。
村を出てしばらく街道を辿った後、馬車は上り坂にかかった。
「あいつら――何者だろうか?」
最初からひと言も口をきかぬDへ、ライは話しかけた。彼もそれまで黙っていたのは、Dの雰囲気に呑まれたこともあるが、単なる旅人を装っている以上、あの歌と関係のある話題は避ける必要があったためである。
「流れの“戦闘士”だ。みな、たいした腕前だ」
静かな返事へ、
「もう、戦ったのかい?」
昨夜の凄まじい光景がライの脳裡をかすめた。金髪の美少年はともかく、ひとりは手刀の一閃でヘビをぶつ切りにし、ひとりは大蛇を呑みこんだ。その上、さっきの戦いでは、姿まで消すことができるらしい。
ライの知っている戦闘士を遥かに上回る超常能力であった。
それを苦もなく撃退した男が、いま、一緒にいる。ライはひどく嬉しくなった。
「ねえ、あいつらって何よ?」
ハンドルを握っているアムネが口をはさんだ。好奇心の塊みたいな娘である。
「僕を襲った三人組だよ。“戦闘士”だってさ」
「そいつら、村にいるわよ」
アムネは、ライの驚きの表情にも気づかずに言った。
「商人宿の方に泊まってるわ。掲示板に『腕を貸す』ってメモが貼ってあったの。この頃、村の近くに野盗が出てるようだから、村長が雇うかもしれない。腕が確かなら、だけど」
それから、妙に気恥ずかしげに、
「あの――あなたは何ですの?」
「ハンターだ」
とDは短く言った。
「ハンターって――ひょっとして、吸血鬼ハンター? 凄っごい!」
アムネがふり向いた。十七、八ともなれば、ハンターたちの真の姿も心得ているはずだが、この少女は別らしい。数少ない吸血鬼ハンターが、他の連中とは違う畏敬の念とともに仰ぎ見られているのも確かだった。
「なら、あんな三人組、簡単にやっつけてしまうわね。あの館に貴族が舞い戻ったとしても平気だわ」
「舞い戻った?」
「噂だよ。二十年近く前に――」
ライはアムネから聴いた話をそのまま伝えた。Dは無言で耳を傾けていたが、ふと、前方へ眼をやった。
ライも後を追い、あっと声を洩らした。
小路が溶ける緑の海の彼方に、|城《シャトー》とも見紛う宏壮な|館《デン》が鎮座している。
「はじめて見るの、あなた?」
アムネがからかうように言っても、気にならなかった。
最も近い貴族の城は、ライの村からは一〇〇キロ以上遠方であった。忌わしい話は寝物語に聴かされたが、本物の貴族を見たことはない。
それどころか――あの歌があった。
「村に、貴族の犠牲者は残っていないのか?」
Dが訊いた。
「まさか。みな、処分されてしまったわ。どこだってそうでしょ」
「そうでもないさ。奴らの仲間になり切っていないときは、不憫に思った家族が、いつまでも地下室にかくまっていた例もあるよ」
「やだ。そんなことして後始末はどうするのよ? ある程度まで貴族化した犠牲者は、年をとらないのよ。家族が死に絶えたりしたら、そいつ[#「そいつ」に傍点]だけ、いつまでも地下室に残って生きつづける? 食事はどうするのかしら。永久に飢えに苛まれながら?」
「言いたい放題言う女だな」
ライは湧き上がってきた怒りを声に乗せた。
「貴族を悪く言うならいい。だけどな、犠牲者は僕らと同じ人間だぜ。言い方があるだろう」
「何よ、急に格好をつけて。貴族に一度でも血を吸われたら、あいつらの仲間に決まっているじゃないの。甘ちゃんね、あなた」
ライは呆れ返った。これが、学校で何とかクラブに励んでいる娘の言葉だろうか。あまりにも、温かみがなさすぎる。
「君は勉強しすぎだよ」
「ああ、そうですか」
それきり黙って、三人はエンジン音だけを聴いた。
正門が迫ってきた。
「止めたまえ」
Dが言った。
「どうして? 中庭に入らないの?」
「馬の鳴き声がした。先客がいるらしい」
ライとアムネは顔を見合わせた。
「あいつらかな?」
馬車は止まった。Dがまず降りた。
「ここにいたまえ」
「でも」
「奴らは君を狙っている」
「やだ、あなた、狙われてるの?」
「うるさい」
二人が言い合っているうちに、Dはコートを翻して門へと走った。
錆びついた鉄扉を押して、中庭へ入る。
かつて、白いドレスと黒マントの男女が行き来し、夜の|雅《みやび》を誇っていた庭園は、いま、昼の陽ざしの下に、荒涼たる年月をさらしていた。
白い館のあちこちが破損しているのは、貴族が立ち去ってから侵入した村人の仕業だろう。
Dは玄関ホールへ入った。大扉は倒壊している。
「ようこそ」
頭上から若々しい声が降ってきた。
静かに見上げると、正面前方――二階へと通じる二筋の階段が合流する踊り場に、黄金の光がゆれていた。金髪だ。
その下で冷たく瑞々しい顔が、秀麗な笑みを浮かべていた。
「昨夜は失礼を。あなたがここへいらしたところを見ると、カートは負傷しましたな」
死んだとは言わない。判断は正確である。
「早いな」
とDは言った。
「空を飛びましてね。――申し遅れました。僕はプライスと申します」
「Dだ」
美少年の表情の変化は見ものだった。恐怖と後悔と――だが、彼はにっと笑った。
「|吸血鬼《バンパイア》ハンター“D”。その美貌を拝見したときに気づくべきでしたね。お目にかかれて光栄です」
「おれも、おまえの噂をきいた」
Dは淡々と言った。
「ほう、どんな?」
「金のためなら、女子供の殺しでも請け負うそうだな。――立派なものだ」
プライスは返答に窮した。常識的には痛罵だが、Dの口から出ると、言葉通り、賞めている風にもとれる。
「――ところで、何のためにここへ?」
「そっちはどうしてだ?」
「隠しだてしても、あなたには聴かれている。――あの歌のルーツを探るための旅です」
「母親の胎内で聴いたか。なぜ、急にやって来る気になった?」
「それは――」
プライスは口ごもった。彼自身、考えたこともなかったのかもしれない。
「まず、こちらの質問に答えて下さい。現役最高の吸血鬼ハンターが、すでに貴族が去って久しい廃屋を訪ねた|理由《わけ》は?」
上と下――二つの美しい影の間に、名状しがたい鬼気がみなぎった。
「ひとつ、お断りしておきます」
とプライスは言った。
「僕たちはもう、雇い主を見つけました。この村での動きは、かなり大物の後ろ楯を得ていると思って下さい」
「その大物が、おれを斃すのか?」
Dは静かに言った。
「二十年前、立ち去った貴族がここへ戻った。何人かがその歌を聴き、いま、その子供たちが時を同じくして戻って来た。その理由は?」
深い|黒瞳《こくどう》がプライスを見つめた。青い眼が迎え討つ。荒廃だけが充ちるホールに、突如、美しい二体の彫像が出現したかのようであった。
2
「その理由は?」
深々たる静寂の奥に、Dの声が響いた。
プライスの頬につう、と汗が筋を引いた。
「答えろ」
止めのようにDが命じたとき、背後の戸口から、低い唸り声が地を這った。
「ビジマ!?」
プライスが喜色を浮かべて下がった。Dの呪縛を切り離すみたいに、片手で両眼を拭う。
「おめえも、吸血鬼ハンター“D”だけは苦手と見えるな。だらしのねえ」
戸口でこう言ったのが、体長三メートル、三つ首の四足獣だとしたら、驚愕を越して噴飯ものだろうが、頭の先から尻尾まで全身を黒い光沢の鋼で覆われた装甲獣の背後には、あの制服姿が立っていた。
「動くとひと咬みだぜ、Dさんよ。ついでにこの二人の頸も折れる」
ぐいと引き寄せた両腕の輪の中で、ライとアムネの顔が声もなく歪んだ。
「名うての吸血鬼ハンターと互角にやるなら、これくらいの仕掛けはしなくちゃあな。さ、プライスの質問に答えな、D」
制服姿――ビジマは黄色い歯を剥いた。
「断っとくが、この獣は南の『貴族』が遺してった飼い犬だ。身体を覆っているのは小型原爆の直撃にも耐えられる合金装甲。おまけに、見な」
Dの左右を灼熱の色彩が走った。犬が吐いたのだ。鉄をも溶かす炎は二〇メートルも離れた床上に激突し、毒々しいカラーの絨毯を広げた。
「火を斬れるかい、D? さ、自分とこの二人の生命が惜しけりゃ、素直になるこった」
「答える口が」
Dの顔に|炎《フレア》が明滅した。
「――二つになったな」
プライスよりも、ビジマの顔色が変わった。二つとは、プライスと自分のことと知ったのだ。
「|殺《や》れ!」
と叫んだのは、切り札を握る男としては軽率にすぎたかもしれない。
ぐいとそらせた三つ首が、伸びると同時に噴き出した炎の中を、吸血鬼ハンターは疾った。
「!?」
ビジマは二つの頸を折るのも忘れた。
Dに集中する炎の筋が、ことごとく二つに裂けて彼を通すではないか。
顔面に立てた刀身の神技と見抜いた刹那、凶漢は両腕に力をこめた。
腕は動かなかった。愕然と見下ろし、彼の眼は肘を貫く白木の棒を見た。
「うわわああ」
未練がましいともみっともないともつかぬ悲鳴を上げても、Dの白刃が躊躇する道理がない。
硬質な音とともに三つの首を断ち、黒血を噴き出す胴の前で、しかし、Dは立ち止まった。
首を喪った胴さえもが聴き惚れているようであった。
あの歌に。
全員の顔が――Dの顔さえも、一瞬、ホールの奥の小ドアを向いた。
プライスが身を躍らせたのを見て、ライも走り出した。その前に、ビジマは二人を離し、中庭へ跳び出している。
Dの片手がライを止めた。
ちら、とビジマが消えた方を眺め、次の瞬間、ドアへと走った。
あと数歩というところで、閉じた。鍵のかかる音。
足を止めずにDは肩から扉に激突した。ドアはきしんだが、開かない。貴族の館のドアも貴族用なのだ。
三度目に錠がはじけた。
奥は廊下がつづいていた。
五メートルほど向こうに、プライスが立ち尽くしていた。
Dの方を向いた。疲れているようだった。
「聴きましたか?」
「聴いた」
とDは答えた。
「美しい曲です。声はともかく」
歌い手は若い男にちがいない。
「貴族だとお思いですか? ――いや、そんなはずはない。貴族はあんな声を出しはしない。では、誰が?」
プライスがしゃべりつづける間、Dは四方の気配を窺っていたが、すぐに背を向けた。
ドアの前に、ライとアムネが立っていた。
「行ってしまったのかい?」
ライの問いに、かすかにうなずいた。
「あの歌を歌う人は、みんな、いなくなってしまう。親父もそうだった」
「行こう」
とDは言った。
三つの影がホールへと消えていくのを、プライスは黙然と見送った。この世界にただひとり生き残った生物のように、物哀しげであった。
3
何か訊きたそうだが、意外にも口にしないアムネと別れて、ライはホテルの部屋に閉じこもった。
頭の奥にあの歌声が鳴っていた。
父とプライスが聴いたのは、さっきの歌い手なのだろうか。
ちがう、と思った。理由はわからない。Dに尋ねても、返事はなかった。
夕暮れ時まで悶々として過ごし、ライはとうとう隣室のDのもとを訪れた。村へ戻ってから、彼もこのホテルに投宿したのである。
黒衣の姿は、コートも取らず、窓際の椅子に腰を下ろしていた。
村は蒼茫と暮れつつあった。
奇妙な非現実感が少年を包んだ。
あの歌を歌ったのは、このハンターではないかと思ったのである。
この人なら、切なげな|夜想曲《ノクターン》を口ずさむだけで、月の光も妖精も、ひたむきな想いの虜にすることができるだろう。
「どうした?」
Dが訊いた。
「別に。――少し、話したくて」
「かけたまえ」
と言ってから、Dは、
「何故、ここへ来た?」
と訊いた。関心を持たれている喜びが、ライを正直にした。父のことを話し終え、
「歌った人と会えたらと思ったんだ。できたら、その人の口から歌も聴きたいと。それだけでいいんだ。それが済んだら帰るよ」
と言った。
「でも、どんな貴族だったんだろう。歌声だけで、人を誘い出すなんて。血を吸われた人たちが、家族を襲いもせず、夜中にさまよいながら、歌を歌うだけなんて。そんな貴族、きいたことがあるかい?」
「いや」
Dは窓の外を見たまま言った。闇に閉ざされた世界のあちこちに、灯りが点りはじめていた。
「貴族にもいろいろある。貴族ではない貴族もいるかもしれん」
「まさか」
そのとき、ノックの音がした。
ライは身構えた。
あの三人かと思ったのである。
予想は外れた。訪問者は村長の召使いであった。辺境地区に名高い吸血鬼ハンター“D”の訪れを知って、是非とも仕事を頼みたいとの言上であった。すぐ来て欲しいと言う。Dは承諾した。
そちらの若い方も、と召使いがつけ加えた。|夜想曲《ノクターン》の一件でお話があるとか。どうして僕のことを、と訊いても返事はなく、ライは応じる腹を決めた。
東寄りの邸宅まで、ライはさし迎えの馬車、Dは新しく買い入れたサイボーグ馬で出向いた。
裕福な村の|長《おさ》にふさわしい贅を尽くした居間に、村長と三人の男たちが待っていた。
プライス、両肘に包帯を巻いたビジマ、片腕のカート。――ライは緊張したが、Dは平然と案内された席へ着いた。窓には厚いカーテンが下りている。
「ようこそ、吸血鬼ハンター“D”。私が村長のコビエです」
銀髪の老婦人は厳しい笑顔を見せた。
「こちらの三人は、目下、私が雇っておりますの。好ましからぬ噂を耳にしましてね」
「それは?」
コビエ村長の背後に立つ三人組など、存在もしないかのように無視して、Dが訊いた。
「また、貴族が舞い戻ってくる、と」
「また[#「また」に傍点]と言ったか」
「はい。二十年近く前にも一度、やって来たのです。そのときは耳栓と戸閉まりが習慣になっていたので、犠牲者は出さなくてすみました。今度もそうありたいと思います。あなたには、この三人と手を組んで、貴族を壊滅していただきたいのです」
ぎょっとして三人組を盗み見、カートから凄まじい怨念のこもった視線を浴びせられて、ライは眼をそらした。
「もちろん、報酬は望み通りにお支払いしますし、あなたにはリーダーになっていただきますわ」
今度こそ、ライは戦慄をこめて三人を凝視したが、ビジマとカートがそっぽを向いただけで、プライスの美貌は皮肉っぽい笑みを刻んだきり、ひと言も発しなかった。この条件のために、余程の収入を保証されたのだろう。
だが、Dが応じるはずもなかった。
「よかろう」
とDは言った。
「ただし、この件の一切はおれにまかせてもらう。あなたも口をはさむな」
「承知していますわ」
村長は首肯した。女だてらに一村を治める力量は伊達ではないらしい。
「で、僕たちは何をしたらよろしいのかな、ボス?」
プライスが苦笑混じりに訊いた。
Dは窓辺に近づき、カーテンをずらして闇の奥に眼をやった。館の方角である。
「これから、館へ出かける。ビジマ――おまえはこの子とホテルへ戻れ」
「お言葉を返すようだが、僕はあそこをシラミ潰しにしました。誰も見つからなかった」
「眼が見えないらしいな」
Dは窓から眼を離さずに言った。
何を感じたのか、プライスが歩き出そうとしたとき、彼はカーテンを引いた。
あっ、と叫んだのは村長であった。
ライが感じたのは、戦慄と不思議な安堵だった。
長い旅は無駄にはならなかったようだ。
村々の灯が凝縮して散らばる彼方――闇を圧してそびえる黒い山影の一点に、小さなかがやきはつつましく、しかし、悪鬼の帰参を高々と告げて、きらめいていた。
Dの後について、プライスとカートが出て行った後、ライは村長の家に泊まることになった。ホテルよりここの方が安心だし、夜道を戻るのは感心しないと言われたのである。
ビジマもそうしなと勧め、自分はさっさと引っこんでしまった。
「あの三人に聞いたわ。ひとりで旅をして来たそうね。元気な男の子だこと」
「はあ」
「どうして、こんな村へ? プライスと同じく、あの歌に|魅《ひ》かれたの?」
「そうです」
それから問われるままに、ライは父と歌のことを話した。
召使いに閉めさせたカーテンの方を冷ややかに見つめ、
「あれは、魔性の歌よ」
と村長は独り言のように言った。
「貴族が村人を招き寄せるためにつくった歌。喚ばれたものは、二度と帰って来ない。誰も口にしてはならない呪われた歌よ。だからこそ、美しい」
「でも――あれに喚ばれた人は、みんな帰って来たと」
村長は微笑した。この|女性《ひと》も笑うのか、とライは少し驚いた。
「ホテルの娘に吹きこまれたのね。貴族の犠牲者は、みな彼らの|下僕《しもべ》にされるのよ。例外をご存じ?」
「いえ」
「みな、行ってしまった。私の子も」
稲妻がライの背を貫いた。六十前後と思しい婦人の子供とすれば、その失踪は――二十年前の帰還は、伝説ではなかったのだ。
「私は、あの子を放って家事に没頭していた。怒ったあの子が、貴族の館に行くと脅しても、知らないふりをしていたわ。それ以来、ひとり暮らし」
何処かで時計が鳴った。
村長は、銀髪をかき上げて立ち上がった。
「夕食をご一緒しましょう。済んだら、もうお寝みなさいな」
門前で下馬しても、灯りは消えなかった。
館の右翼の端――一階だ。
「僕たちに気づかぬはずもなし。甘く見られたものですね」
プライスが皮肉っぽく言った。
貴族の館を訪れても、夜泊まる旅人はあり得ない。どちらにしても、度胸はいい住人に違いなかった。
「庭へ回れ。おれはドアから入る」
「承知しました」
むっつりと黙りこんだカートを連れて、プライスが走り去るのを見届け、Dは館へ足を踏み入れた。
飄然とホールを抜け、奥の廊下へ。そこも折れて右翼の館へ。
足取りは常と変わらず、両手も垂れたままだ。
やがて、足は止まった。
眼の前に精緻な彫刻を刻んだドアがそびえていた。
黒い手が押すと、抵抗も示さず開いた。
灯影のゆらめきの中に、Dは立った。
天蓋つきの寝台と、出窓の|文机《ふづくえ》、瀟洒な黒檀のキャビネット、窓辺でゆれる白いレースのカーテン。すべては白く埃にまみれてはいるが、まぎれもない、ここは女の部屋だ。
小卓に置かれた銀の燭台――光のもとにDは近づいた。放置しておいたものを利用したのだろう。三本の青い蝋燭は半ばまで溶けている。
空気の中に、住人の気配が残っていた。あるかなきかの冷気――貴族の息づかいだろうか。
Dは寝台に近づいた。
二歩歩き、その身体が急にかすんだ。
美しい響きもろとも、天井へ突き刺さったのは、鋼の矢であった。
Dはひと跳びで戸口へと走った。
廊下には誰もいない。
戸口の真向かいの壁から、三本の白木の針が生えていた。
長剣一閃、飛び道具を撥ね返すと同時に、Dが放ったものだ。本数は欠けていない。敵の実力も瞠目すべきだった。
「やりおるの」
と嗄れた声が言った。針を握ったDの左手のあたりから。
三本まとめて引き抜いたとき、Dはふり向いた。
歌い手は、夜を待っていたのかもしれない。
|夜想曲《ノクターン》という言葉を、何人が知っているだろう。
夜を恋する歌を。
夜の恋人を待ちわびる歌を。
コートの裾がひらめいた。風が渡っていったのだった。廊下から、あの部屋へと。
Dは無言で進んだ。
部屋には光が満ちていた。月の光は、物理法則さえ無視して、三方から窓辺の一点をさしていた。
そこに、歌い手がいた。
ライが眼覚めたのは、辺境に生きるものの勘といってもよかった。
眼は開くと同時に、一点に吸いついた。
ドアノブだ。
動いている。ゆっくりと旋回している。鍵はかけたはずなのに。
蝶番のきしみをライは聞いた。
忍び入った影が床を渡り、ベッドのかたわらに辿り着くまで、彼は身動きひとつできなかった。
聴き入っていたのだ。あの歌に。
それは、ゆっくりとライの上に身を屈めはじめた影の口から洩れていた。
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第三章 月白き晩の調べ
1
月光は女を通り抜けて床を白く染めていた。それでも、光の粒の幾つかはしなやかな身体の上できらめき、長い髪の流れやドレスの皺の重なりを、幽冥のもののように見せていた。
「いつ戻った?」
Dは静かに訊いた。
――何処[#「何処」に傍点]へも行きはせなんだ
声はDの頭の中で鳴った。
――わたしはいつもここにいた。おまえたちが気づかなかったのは、歌わなかったからだ
「その歌――誰に習った?」
――忘れた
返事はすぐにあった
――いつ、誰からなど問うても無駄だ。わたしは歌うことしか知らぬ
「では、こう訊く。――歌う時期は誰が決めた? また、選択の基準と|理由《わけ》は?」
女はひっそりとDの方を向いた。
空気は動きもしなかった。女も部屋も幻なのかもしれなかった。
Dも、また。
――何をしに来た、美しい男よ? わたしの歌も、おまえの前には騒音と変わり、わたしは歌うことを忘れてしまいそうだ
「それは、歌ってはならぬ歌だ」
いつの間にか、Dは女のすぐかたわらにいた。
「ある男が手飼いの楽士につくらせ、ある女に歌わせた歌。男の意図したものとは別の結果を生んだ。それゆえに、この世に残してはならん」
女の光る眼がDの姿を映していた。夢のような身体を通して、背後の窓と月光さえ見えていた。
――あなたは……?
女の思考が動揺した。
――そのお顔、その妖気……あの御方と……まさか……
予備動作もなしで、Dは一刀を抜き、女の胴を薙いだ。
銀光は身体の内部で天の河みたいに尾を引き、みるみる拡散した。
二撃目をDは送らなかった。試しの剣であった。
女は存在したが実在ではなかった。形を|具《そな》えた幻を斬るには、Dといえど特別の剣技を必要とするだろう。
女の輪郭が急速にうすれた。
見る者が眼を醒ましかけた夢のように。
――わたしはいつもここにいる。好きなときにおいでなされ
Dの背で鍔鳴りの音がした。
数秒遅れて、別の音が室内に入ってきた。プライスとカートである。
「歌い手はどこです?」
ゆるやかに室内を見回して、プライスが訊いた。美少年も耳にしたのであろう。
「そこにいる」
Dは窓辺の一点を見つめた。
「何も見えねえぜ」
カートが毒づいた。
「けっ、逃がしやがったな。辺境一の吸血鬼ハンターが聞いて呆れらあ。おれがいりゃあ、逃がしたりしなかったのによお」
悪態は片腕の怨みである。
「少し、期待外れでしたね」
プライスが皮肉な口調で言った。その足下へ、鈍い音をたてて鋼の矢が転がった。
「……?」
「どちらのものだ?」
「これは……何事です?」
「さっき、おれを狙った矢だ」
プライスの視線を受けて、カートが眼を伏せた。
「よせと言ったはずだぞ」
「何でえ、こんな矢は何処にでもあるぜ」
カートの声はふらついている。
「庭で別れたのですが、あなたを狙いに行くとは思いませんでした。お詫びします」
プライスはDに黙礼した。
「二度とさせません。お許し願いたい」
「冗談じゃねえ。そんな野郎に頭なんざ下げる必要があるか。機会があれば、必ずぶっ殺してやる」
息まく戦闘服へ、
「機会は二度とない」
冷ややかな声が言った。
月光さえも凍りついたかと思われた。
「き……」
カートの左手が胸へと上がった。
服に折り込まれた矢がせり出し、黒い光となってDへと集中した。
一条の白光が、そのことごとくを弾きとばそうとは。
次の攻撃を求めて動きかけた左手を、白刃が斜めに断った。
左肩から右腿にかけて、滑らかにカートの上体がずれはじめたとき、Dの一刀はすでに鞘に戻っている。
「埋めてやるか?」
訊かれて、プライスは金縛りから解放されたように身じろぎした。
「あなたは――人を許すということを知らないのですか?」
抱腹ものの台詞が、今は凄絶なリアリティをもって響いた。同胞の殺戮を前に、彼は指一本動かせなかったのだ。
「女の歌を聴いたな?」
Dは窓の方を向いて言った。
到底、庭まで届きそうにない、つつましげな声であった。
「庭で聴こえた以上、村にも届いているだろう。――戻るぞ」
黒い優美な影がドアを抜けても、プライスは呪縛が完全に解けるまで、まだしばらく、佇んでいなくてはならなかった。
強く揺すられ、ライは反射的に上体を起こした。網膜に映ったものを、Dと村長だと認識するまで、数秒を要した。
「なんだい?」
答える代わりに、黒い手が伸びて顎をつかみ、顔を左右にねじ曲げた。不思議と荒っぽさは感じなかった。
「傷はありませんわね」
村長がほっとしたように言った。
「どうしたの?」
きょとんとした眼の前で、まだ、夢の中だとささやきかけるような美貌が、
「あの歌を聴いたか?」
ライは眼を細め、記憶を辿った。
「いや。――寝てたから、わからない」
自分でも本当かどうか確認できない返事だった。それを隠すために、
「今、何時だよ?」
不機嫌に訊いた。
「真夜中だ。ゆっくり休みたまえ」
こう言って、Dは居間へ戻った。
プライスとビジマが待っていた。剣呑そのものの雰囲気でもおかしくはないが、空気は極めて尋常であった。
「やるねえ、あのカートを一撃とはな」
ビジマは、むしろ、はしゃいでいるようだった。
「これで村長さんからの取り分が多くなる。感謝するぜ」
「彼は歌を聴いていません」
とプライスが、刺すような眼で仲間を見ながら言った。
「貴族が歌うと選択性が出るのです」
コビエ村長は白髪をかき上げた。
「二百年前の伝説でも、歌に魅かれたのは二〇歳前後の若者たちばかりでした。二十年前も――」
「餓鬼の血ばかりを欲しがる貴族か――珍しいな」
とビジマ。村長がライの寝室の方へ眼をやって、
「しかし、あの子は聴いていません。他にも異変があれば、とっくに連絡が入っているはずです」
「忘れているのかも知れない」
三対の視線がDに集中した。驚きの色が、うっとりと溶けかかる。毎度のことだ。
真っ先に自分を取り戻したのは、やはり、プライスであった。
「あの子が? ――しかし、貴族の館へも行かず、口づけの痕も留めていないのなら、何の問題もありますまい」
村長もうなずいた。
「現に僕の身に何ら異常は生じていない。少なくとも、昨夜の歌に貴族の魔力はこもっていなかったと思いますが」
Dの瞳がプライスを吸い込んだ。
「選ばれたのは、ひとりきりかも知れん」
「選ばれた?」
村長とプライスは顔を見合わせた。片方の視線が、ひどく切実な光を湛えて、黒い若者を貫いた。
「僕にも伺いたいことがあります」
Dは無言であった。
「あなたは、何のために、この村へ? 今の今まで偶然だと思っていましたが、何をご存知です?」
「歌い手は館にいる」
と、Dは言った。
「すべてを知っているのは、奴だけだ。――休むとしよう」
2
「なに、ぼんやりしてるのよ?」
不意に声をかけられ、ライは横を向いた。アムネである。髪を思いきり後ろで束ね、細いスラックスをはいている。黄色いブラウスの意外に豊かなふくらみが、少年を少しあわてさせた。
「あんたが帰って来ないから、様子を見に来たのよ。使っても使わなくても、部屋代はちゃんと貰いますからね」
「わかってるよ」
ライはかたわらの木の幹にもたれて、五、六メートル先の光る帯に眼をやった。
二〇キロほど北の山中を源とする流れは、この地上でひどく険しく雄壮な景観をつくり出す。
幾重にも重なった磐石に飛び散る|飛沫《しぶき》は純白の花を咲かせ、陽光に恵まれるあいだ、おびただしい虹を生む。ただの虹ではない証拠に、水面から迸る銀色の川魚がそこを突き抜けるとき、小さな口は七色の切れ端を糸のように引き、虹は確実に削りとられていく。
耳打つ轟きは地鳴りを思わせた。
村長の家と村の中心とをつなぐ道の途中である。川べりには旅人たちの姿も多かった。
「元気ないわね。――どうしたの?」
「何でもないさ」
「何でもないことないわ。昨日とイメージが全然ちがうじゃない。あんた、そんなに|根暗《ねくら》?」
「客になんてこと言うんだよ」
「はいはい」
アムネは少し離れたところに止めてある電動馬車を指さした。
「じゃ、お客さまにサービスさせていただきますわ。『アニス村歴史研究会』が作製した地図にもとづいて、村に残る貴族の遺跡へご案内いたします」
「やだよ」
ライは尻ごみした。
「何よ、それ。昨日は喜んで出かけたじゃないの。ははあん、ひと騒ぎあったんで、腰が引けちゃったのね?」
「そうだ」
「この臆病者」
「おれはただの旅行者だよ。貴族になんか興味ないんだ」
「嘘おっしゃい。昨日の興味の持ち方、只事じゃなかったわよ。あたしの知らないうちに村長さんの家にいるし、あんたには結構、秘密が多そうね」
「誤解だよ」
「いいからいらっしゃい。みんな、ロハで案内してあげるんだから。見ておいて損はないわ。それに、特別サービスもあるの」
「何だい、それ?」
興味なさそうに訊いた。正直、ライは不安だった。
Dに訊かれたときは異常なしと答えたが、昨夜のことは何も想い出せないのだ。ベッドに潜り込むところで、ぷっつりと記憶が途切れている。眠りに落ちる寸前まで鮮明なライにしては珍しいことだった。
加えて、何となく誰かに尾行されているような気分が抜けない。眼を醒ますと、Dと二人の戦闘士、村長までが外出中で、今夜からこの家に泊まれとの村長の指示を召使いが伝えた。
アムネと|出会《でくわ》したのは、そのために荷物を取りに行く途中だったのである。
四人のうち誰かが尾けているのだろうか。多分、ビジマだが、それにしては、ライに悟られるなどお粗末すぎる。
「馬車に乗ったら教えてあげる。誰かに聞かれたらまずいもの」
姿なき尾行を撒くには、いい手かも知れない。
「わかった。付き合うよ」
ライは渋々言った。
「その代わり、宿賃はなしだ」
「それとこれとは別よ」
「なら、やめた」
「わかったわよ。がっちりしてるわね」
釈然としないアムネだが、それは当然だ。
二人を乗せた馬車は、南へ二キロほど走って止まった。
街道から大分離れた野原の一角である。見渡すかぎりの草地は、緑の炎が燃え上がっているとも見えるのに、点々と散らばる黒い塊が、白い肌の|黒子《ほくろ》みたいに水を差す。
明らかに、巨大建造物の残骸であった。
「ここは、貴族の研究所か工場があった場所よ。ところが、最近、別の施設だという意見が有力になってきたの」
「何の施設だい?」
「音楽堂よ」
「へえ」
ライは空を仰いだ。青空に白い雲が仔猫のように遊んでいる。
「その説を唱えているのは誰だい?」
「あたしよ」
「おい」
「誰が唱えたって、真実ならいいのよ」
強く言われ、ライもその通りだと思った。
「こっちへいらっしゃい」
誘われるままに馬車を降り、ライは草地を、ひときわ巨大な廃墟へと進んだ。
「ここよ」
少女らしい興奮と感慨とをこめて佇むアムネの前方に、しかし、ライが認めたものは、正体不明の瓦礫の堆積にすぎなかった。
「どこが音楽堂なんだよ」
「これだけ見てちゃわからないわ。あたしの学説のもとになってるのは、こっちよ」
巨大な石の亡骸の背後に回るまで、たっぷり五分はかかった。
「しかし、こんなでかくて頑丈なものが、どうして壊れたんだろ? 一万年だって保ちそうだけどな」
「いい質問ね。――壊れたんじゃなくて、壊されたのよ」
「村のみんなにかい? 貴族の城は荒廃させることはできるが、破壊は不可能だって聞いたぜ」
「できるものもあれば、できないものもあるわ。これは、できない方。でも、貴族にならやれる」
「わざと[#「わざと」に傍点]かい?」
「そうとしか考えられないわ」
二人は廃墟の中心から一〇メートルほど離れた、石柱の前に立っていた。
「どうしてだよ?」
軽いめまいを感じながら、ライは尋ねた。
「わからないわ。何かのタブーなのか、用がなくなったのか。でも、この徹底的な壊され方は、余程のことがあったのよ」
「音楽堂にかよ? 君の学説も怪しくなってきたな」
「ふん、だ。これ見てからおっしゃい」
アムネはふくれっ面で石柱に近づいた。身を屈め、根元の一カ所に手を触れると、そこを中心に、石柱は滑らかに旋回した。屹立していた位置に直径三メートルもの虚空が開いた。
「ぽかんとしてないで、口閉じなさいよ」
アムネは勝ち誇ったように言った。
「調べてる最中、偶然にスイッチ見つけたのよ。下りる?」
「何があるんだい?」
「わかんないわ。下りたことないんだもの」
「見つけたっきりかよ?」
「あたしは歴史研究家よ。冒険家じゃないわ」
「肝心なところは、男まかせか。やれやれ」
「うるさいわね。早く入ってよ」
「おれも冒険家じゃないぜ」
「男でしょ。中に何があるか、見たくないの? 貴族の遺品でも見つけたら、高く売れるわよ」
ライは額に手をあてて汗を拭いた。陽ざしが強すぎる。穴の中は涼しそうだ。
「行ってみよう」
「やった」
穴の縁から、白っぽい石の階段が地下へと下りている。
五段も下りると、ひんやりした空気がライを捉えた。同時に、一斉に光が湧き上がった。壁に灯が点ったのだ。
「まだ動いてるぜ。ここのメカ」
「貴族よ、貴族」
少しして、床に着いた。廊下が走っている。天井はかなり高い。
「どっちへ行ったらいいのかしら?」
不安げに四方を見回すアムネへ、
「こっちだ」
ライは一方の端を指さし、歩き出した。何故そっちを選んだのかは、自分でもわからない。
廊下は一直線に黒い鋼のドアへつづいていた。
前に立つと左右へ開いた。
内側の暗黒は、階段と同じ仕掛けで追い払われた。
一歩踏みこみ、二人は立ちすくんだ。
石を丸くえぐり抜いたような灰色の空間の中には、おびただしい数の人間たちが、幽鬼のごとく横たわっていたのである。
みな、汚れ放題、破れ放題だが、平凡な村人の格好をしている。白蝋のような顔は、光のせいではなかった。
「こいつら……何だい?」
ライは両膝を踏んばった。
「わかんない。貴族に血を吸われた人たちかも」
「いや、口づけの痕がないよ」
そう言って、ライはふり向いた。アムネが息を呑んだのだ。少女の口には拳が当たっていた。
「見て。あの人たちの服装――ひどく古めかしいわ。こっちは、あたしたちと同じ。……ひょっとしたら……貴族たちが姿を消す前の犠牲者と……二十年前、戻って来たときに血を吸われた人たち……」
「吸われてないって」
怒鳴りかけ、ライは凍りついた。顔は自然とアムネの方を向いた。アムネもこちらを見ていた。
「歌で招かれた人たちよ」
と、彼女は抑揚のない声で言った。
3
「殺されたんじゃないのか?」
ライの問いにアムネは首をふった。
「生きていたのね。でも、誰がこんなところへ匿ったのかしら」
「二百年前はともかくとして、二十年前の犠牲者の家族はどうしたんだ?」
「わからない。あのときは、数がひどく少なかった。ほら、ひとり――ふたり――三人しかいないでしょう。それにしても、二百年前の人たちと一緒だなんて。――ね、戻って問い質してみよ」
そのとき、ライはある匂いを嗅いだ。
「おい、どこか傷つけてないか?」
アムネは眉を寄せた。それが戦慄の表情をつくるまで、一秒とかからなかった。
弾かれるように身を屈めて、右のくるぶしを見つめた。
「血が出てる。さっき、石段でぶつけたんだけど……」
ライは室内の人々を凝視している。
身じろぎしはじめたのを。
両眼が開いたのを。
からくり人形みたいにぎこちなく、ゆっくりと立ち上がったのを。
「痛くないわ。ちょっと当たっただけよ」
「前を見るな」
とライは言った。
穴の中の人々は、もう立ち上がっている。こっちを見ている。
二人は|後退《あとずさ》りしはじめた。アムネは顔を伏せている。後ろを向いて一目散に逃げ出したい。
相手も走り出すだろう。
戸口を抜けた。来ないでくれと念じたが、人々は平気で廊下へ出てきた。
アムネが悲鳴を上げた。つんのめった身体を支えようとして、ライもバランスを崩した。
「しっかり!」
抱き起こして立った。青白い顔が眼の前にあった。
アムネの身体が腕の中で痙攣した。
夜の人々は、すい、と二人の方へ進んだ。
地上へ出るや、二人は草の中へ倒れこんだ。世界は陽光と生の香りに満ちている。
「助かったのね……」
アムネが、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「ああ」
ライは荒い息をついた。
「でも、どうやって? あたし、囲まれたときに気ぃ失っちゃってたからわからない。あんた、そんなに強いの?」
「わからない。ただ、あいつら、歌いはじめたんだ」
「歌? あんな場所で、あんなときに? それじゃ、喜劇だわ」
言ってる当人の顔は、まだ青ざめている。
「本当なんだ」
ライは眼を閉じた。すぐに甦った。不思議と嫌悪のわかない光景だった。
ぼろを着て垢じみた人々の口から澄んだ夜の歌声が流れ出すなどと、誰が想像しただろう。彼らを押しのけたとき、ライの胸には後悔の念がきざした。それくらい、哀しく寂しげな歌であった。あの穴蔵の中で、二百年と二十年――彼らはあれ[#「あれ」に傍点]だけを口ずさんで過ごしたのだろうか。
「歌で招かれた人々は、戻ってきても血を求めずに、ただ夜の村をさまよい、あの歌を歌うだけだった。――あの伝説は、きっと正しかったんだよ」
「まさか……そんな犠牲者、聞いたこともないわ」
二人は顔を見合わせた。その背後から、がさつな声が楽しげに言った。
「面白えものを見てきたらしいな。おれたちにも教えてくれよ」
草の海にくるぶしまで埋めて立ち尽くしているのは、美しい若者と制服姿の戦闘士であった。
瞬時にライは悟った。後を尾けていたのはやはり、この二人だったのだ。
「歌を歌ったと言ったね」
プライスが近づいてきた。
「その地下にいる連中か。始末しなくてはならないね」
冷酷そのものの口調はともかくとして、プライスの発言は正当であった。貴族の口づけを受けたものは、ことごとく隔離・抹殺するのが辺境の掟だ。現に、アムネは小さくうなずいたほどである。
なぜ、立ち上がり、こう叫んだのか、ライにはわからない。
「駄目だ。殺しちゃいけない!」
ビジマが、ほお、と眼を剥いた。プライスは無表情――ただ、眼の光だけが変わった。危険な色に。
「君も歌を聴いたな」
と美しい戦闘士は言った。ライの横で、アムネが、えっ!? と叫んだ。
「僕たちと同じ聴き方をしたものは多いはずだ。それなのに、二人だけが同じ時期、申し合わせたようにこの村へやって来た。何故だね?」
「あんたの事情は知らないよ」
ライはアムネを庇いながら言った。プライスの全身から立ち昇るものが、痛いほどはっきりと感じられた。
「おれは、親父の歌った歌を、もう一度聴いてみたかった。だから、ここへ来たんだ。それだけだよ」
「その理由はわからないでもない。だが、僕と同じ行動をとっただけで、君は邪魔者になる、そんな気がする」
「………」
「どきたまえ。僕たちは雇い主の依頼を遂行する。貴族とその眷族は、ひとり残らず抹殺しなければならないのだ」
「いけない、やめろ」
プライスの表情の変化は見ものだった。困惑とも納得ともつかない翳が交差し、ついに決着を見ないまま、
「なぜ、彼らを庇うね? 若気のいたりのヒューマニズムでもなさそうだが」
それから、急に何かを気づいたように声を落として、
「|昨夜《ゆうべ》、本当に何もなかったのか?」
ライは答えない。答えられなかった。
「何でもいいさ。早いとこ、地下の連中を片づけちまおうぜ」
ビジマが制服の裾をめくり、四角い塊を取り出した。銀色の細管がめりこんでいる。信管――プラスチック爆弾だ。ピンクがかった色から見て、焼夷弾だろう。五万度の超高熱を浴びれば、貴族はともかく、その|下僕《しもべ》たちは堪るまい。
ビジマの太い指が信管を捻り、彼は右手をアンダースローの要領で引いた。
「やめろ!」
走り出そうとした少年の鼻先を、びゅっ、と白光が薙いだ。
たじろぐ頭上を爆薬が放物線を引いた。
もうひとつの線が空中で交差した。
信管のみを破壊し、草むらに突き刺さったのは白木の杭であった。
「D!?」
叫んだのはライとアムネであり、無限の怨みをこめてつぶやいたのは、プライスであった。
ライへの一刀は、少年の首を斬断していたはずなのだ。彼の足元にも、その踏み込みを狂わせた細長い杭が生えていた。
二組の位置からともに五メートル――魔神の顔でも象ったものか、眼と牙とを剥いた巨大な像を背景に、漆黒の吸血鬼ハンターは立っていた。
「どうして、ここへ?」
杭に邪魔された右足を後ろへ引きながら、プライスが訊いた。
彼らは村長の家を出て、すぐにこの廃墟へやって来たのである。夜までは自由行動というのがDの指示だった。廃墟の件は、村に着いてすぐ、飲み屋で仕入れた知識だ。
「彼を尾けた」
Dの答えは短い。
「わかりました。ここは引きましょう」
プライスは長剣を鞘へ収めた。
「ですが、あなたが貴族予備軍を助けたという事実は、村長に報告しなくてはなりません」
「その必要はない」
風がDの声を運んだ。刃のような風であった。
はっと見つめるプライスへ、
「彼を斬るつもりでいたな」
ライのことである。
次の瞬間、プライスも腹を決めた。否定して通じる相手ではなかった。
「手を出すな!」
ビジマを制して前へ出たのは立派だが、Dを相手に素手とは狂気の沙汰だ。
ライの背を冷たいものが走った。あまりに無防備な姿が、かえって不気味なものを感じさせたのである。
Dが風を巻いて走った。鞘走る銀光。その眼前に朱色の閃光がひらめいた。
一刀をふり下ろした姿勢のまま、Dは二撃目を放たず硬直した。
斃したのではない。プライスは二メートルほど跳びすさっている。
その顔の中に、二つの赤光が燃えていた。両眼だ。
「いかがです、僕の邪眼?」
プライスはまばたきしながら言った。
彼の瞳から発する赤色の魔光を見たものは、瞬時に盲目状態に陥り、いかなる手段を尽くしても元へ戻らない。加えて、発狂せんばかりの痛みが脳髄を貫くのだ。その効果はいかなる猛獣妖魔にも差異はない。
黒衣の若者が剣を手に、しかも立っていること自体が、プライスには奇蹟か悪夢としか思えなかった。
「今がチャンスだ。殺っちまおうぜ。ついでに、下の化物もよ」
促すビジマの手を、凄まじい力で押さえ、
「退くんだ」
蒼白の美貌が言った。
「なにィ?」
「これを見ろ」
震える手が胸もとを差し、ビジマが息を呑んだ。
プライスの胸は喉元から下腹部まで、真一文字に切り裂かれていた。
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第四章 選び歌
1
「なに、大した野郎だがそこまでさ。まかしとけ」
プライスの肩をひとつ叩いて、ビジマは一歩前へ出た。
その腹部が奇怪な蠕動を示しているのに、Dが気づいたかどうか。
「おれにゃ綽名があってよ。恥ずかしながら“食いだめのビジマ”ってんだ。生まれた村がひでえ寒村でよ。妖虫でも怪蛇でも、食えるものは何でも食って、しかも長持ちさせるよう頑張ってたら、こうなっちまったのさ。ま、じっくり拝んでくれ――と言っても、へっへ、あんたにゃあ見えまいがな」
制服が縦に裂けた。ボタンはついたままだから、腹部に力を入れたらそうなるように、テープか糊づけしてあったにちがいない。
だが、裂けたのは服だけではなかった。裂け目の奥が赤黒いように、ビジマは腹まで裂けていた。
そこから、草をゆらして不気味なものがこぼれ落ちたのである。
猛毒の縞蛇・ガンジャ、高く尾を掲げた毒|蠍《さそり》、白い霞に包まれた霧状生物――どれも一匹ではない。単発でも吐き気を催す妖物たちは次々に地に落ち、草を踏み倒して、一斉にDとライたちへ殺到したのである。
Dならば何とかなる。だが、ライとアムネは、五秒とたたず死の淵を覗くにちがいない。
声もなく、アムネは失神した。
そのときだった。
地の底から湧き上がる歌声は、白昼に静夜をふり撒いたかと思われた。
ライの眼は、動揺する怪物よりも、地下への出入口に吸いついた。
その眼の前を、草をふるわせ、妖物どもが流れていく。穴へ押し寄せ、極彩色の流れとなって階段を下りる様は、魔曲に憑かれた死の行進であった。
「こ、こん畜生!」
ビジマは逆上した。あらゆる判断を捨てて山刀を抜き、Dめがけて突進したのは、生涯最大の過ちであった。
見えぬはずのDの太刀が、白銀の光芒を引いた。
胴のあたりに熱いものを感じながら、ビジマは惰性で突っ走り、頭から穴の中へ落ちた。
ライはDに駆け寄った。プライスはビジマがDに刃向かったときに背中を見せている。
「凄えや。一太刀であいつを。――眼が見えるんだね!」
言ってから、あわてて口をつぐんだ。
Dの両眼は固く閉じられたままであった。
それなのに、一刀を背に収めるや、黒い影は飄然と歩きはじめたではないか。
「穴はこっちか?」
と向いた方角にも間違いはない。
ライは胴震いするほどの憧れを喉まで詰めて、このハンターを見つめた。
と――
「閉まる!」
叫んだときには遅く、巨大な石柱は開いたときとは逆方向に旋回するや、さしものDが一歩も踏み出せないうちに、大地の穴を永遠に塞いでしまった。
村長の家へ戻ったのは、森も河もうす青に暮れなずむ頃だった。
盲目のDが、別の遺跡を見ると言い出したのである。案内しろなどという男ではないが、ライもアムネも同行することにした。
驚くべきことに、彼にはライたち以上に、万物が「見える」らしかった。
近道だからと森を横切ったとき、Dはすぐ幌を張れと命じた。
訳もわからぬまま従うと、一分と待たず、コガネドクバチの大群が襲いかかってきた。こいつらは獲物の死を見届けるまで離れず、何度も波状攻撃を繰り返す。脱出方法は全滅させるか、姿を消すか、刺されても刺されても耐えぬくしかない。
Dはもうひとつの方法をとった。
唸り飛ぶ蜂どもの真ん中へ、幌越しの一刀を突き刺したのである。
引き戻した剣先には、黄金の女王蜂が串刺しになっていた。リーダーを失った蜂どもは、たちまち四散した。
幌越しだから、標的は見えない。頼りは、他の蜂と異なる女王の羽音だけだ。数千匹の羽音の中から正確にそれを聴き分ける耳を、Dは持っているらしかった。
村の近くには、十を越える遺跡があった。貴族たちの別荘、機械人間用闘技場、川の流れを自在に変更するためのダム等――荒廃し、青草の床と化した太古の瓦礫の中に、孤影蕭然と佇むとき、黒衣の若者は、まこと美しい幻のように見えた。
幻はいつか消える。二人がそこに見たものは、清冽な優雅と孤独が人の形を取ったがゆえに、永劫に霧消を許されぬ幻影であった。
もはや青い森と化した大庭園の石垣に佇むDに近づき、ライはそっと訊いてみた。
「ひょっとして――あなたはダンピール?」
「わかるか?」
と、Dは言った。ライはうなずいた。
「貴族の遺跡が、あんまり似合いすぎるもの、怖いくらいだ。おれ、はじめて、貴族のものがこの世界にもっと残っていたらといいと思ったよ」
「失くしたものは戻ってこない。ひとつの世界の落日に、明ける|朝《あした》はあるまい。それは、別の世界のものだ」
「貴族と、おれたちのこと?」
「貴族たちの話を聞いたことがあるか?」
「“おしゃべり婆さん”に、子供の頃からずっと」
「覚えているか、それを?」
「うん。ひとつ残らず」
「怖い話ばかりか?」
「大抵は。でも、いい話もあったよ。貴族の遺した機械で不治の病が治った人の話とか、月や星と話をしていたとか」
「それを覚えておいてやれ」
「貴族が――喜ぶかなあ?」
「いや、彼らにはどうでもいいことだろう。それを望みもしまい。誰にも知られず朽ち果てることが彼らの願いなのかもしれん」
「じゃあ、無駄じゃないか」
「貴族にとってはな」
Dは遠い眼差しを城壁の彼方へ向けた。
ふと、ライは、この美しいハンターがその方角へ去って行くのではないかと思った。
「思い返すということ、覚えているということは、そうするものたちにとってのみ意味がある。知ってることでも、学ぶことでもなく、|古《いにしえ》のものをただ覚えていること。それが『礼』というものかも知れん」
「『礼』」
ライはその言葉の意味をDの言葉の中から見つけ出そうとしたが、うまくいかなかった。
彼は別の質問をした。
「どうして、おれの後を尾けたの?」
Dは何も言わなかった。
何か近寄りがたいものを感じて、アムネのところへ戻り、ライはひどく驚いた。
「歴史研究会」の会長の勝ち気な娘の眼には、涙が光っていた。
「どうしたんだよ、みっともない。いい男見て感激なんかすると、田舎者だと思われるぞ」
「馬鹿」
とだけ言って、少女はしゃくり上げた。
「あんた、|哀《かな》しくないの? あの人を見て、何も感じないの? あの人は古い古いものを背負っているの。もう失くなってしまったものなのよ。それがあるから、あの人は決して……」
「決して、何だよ」
「わからない。いい言葉が見つからないの。だけど、あんただってわかるはずよ。何も感じないのなら、あんたって、本当のボンクラよ」
波うつ少女の背を、ライはそっと撫でた。
「ごめんね。ボンクラだなんて言って」
「いいんだ。慣れてるよ」
「あの人は行ってしまうのよ」
「みんなそうだよ」
「子供のくせに、聞いた風なことを言わないでよ」
「でも、本当さ。おれたちだって、何処へ行くかわかりゃしないんだ。貴族も――人間も」
アムネのしゃくり上げがひときわ激しくなったとき、Dが戻ってきた。
「泣かしたのか?」
「ちがうよ」
「君は色男になりそうだな」
「あんたに言われたくないよ」
「行くか」
「ええ!」
と勢いよくうなずいたのは、眼を泣き腫らしたアムネだった。
2
家の中に村長の姿は見えなかった。召使いに訊いても、出かけた様子はないという。
「おれは館へ出かける」
とDは言った。
「君たちは途中まで一緒に来て、それから宿へ戻れ」
「これからじゃ、宿へ着くまでに日が暮れちまう」
ライが異議を唱えた。
「おれはここに残るよ。戸締まりをちゃんとしとけば大丈夫さ。耳栓もあるし。歌で引きつけられるなら、昨夜そうなってると思う。心配だったら、早く帰って来ておくれよ」
「承知した」
Dはアムネに眼をやり、ライを見てから言った。
「しっかり守ってやれ、色男」
少年がぐうの音も出ないうちに、Dは立ち去った。
すぐ闇が下りた。
村長は戻らない。
召使いに案内され、二人はそれぞれの寝室へ入った。
ライがベッドへ入ってすぐ、ノックの音がした。
ドアのところへ行き、誰だと訊くと、あたしよ、と答えた。
「何だい?」
「開けてよ。ひとりじゃ気味悪くて眠れないの」
アムネはパジャマ姿であった。二十年前、歌声に誘われたという村長の子供の話をライは憶い出した。
「女の子だったのか」
「当たり前でしょ。何見てたのよ」
「君のことじゃないよ」
アムネは、じっと睨むような眼つきで少年を見ていたが、急に、抱いて、と言うなり身をもたせかけてきた。
「何だよ」
「怖いのよ、馬鹿」
押しのけようとしてもしがみついてくる、その熱意と熱い肢体に、ライにもある想いが芽生えた。ふと、言った。
「おれも、じき、いなくなるぜ」
「なにをDさん気取ってんのよ。うちの宿、人手不足で困ってるわ」
ライに巻いた腕に、アムネは力をこめた。
無情にもそれをもぎ離して、ライは立ち上がった。
ドアを凝視する視線の険しさが、アムネの怒りを恐怖に変えた。
「どうしたの?」
「誰か来る」
「え?」
「下からだ。いま、階段を上がってくる。――何人もいるぞ」
「何も聴こえないわよ。どうして、あんたにわかるの」
その指摘に愕然とする余裕は、ライにはなかった。一階の足音は、今や階段を上がり、アムネの耳にもはっきりと、ドアの前に集合しつつあった。
「やだ。誰よ? この家、こんなに人がいたの?」
窓から下りる、とライが考えたとき、鍵の外れる音がして、ドアがゆっくりと開いた。
淡い光の中に滑り入ってきた人影に、二人は見覚えがあった。その背後に佇む幽鬼のような影たちにも。
「起きていた……のね」
「あなたは……」
アムネが歯を鳴らした。
「村長……」
とライも言った。
Dは中庭で馬を降りた。夜の廃園には瑞々しい光が満ちていた。月光であった。
あの窓を見た。
はかなげにゆれる灯火に、人影がにじんでいた。
Dは館に入った。
古びた廊下を歩く姿は、ひどく夜の館に合っていた。他の誰よりも、この若者には滅びが似合っているのだった。
部屋のドアは開いていた。
窓辺に腰を下ろしていた美しい姿が、Dを迎えた。
「遅かったですね」
プライスは揶揄するように言った。
「何をしている?」
「待っているのですよ、歌い手を。僕にも夜の美しさはわかる」
若い戦闘士は、Dの両眼が閉じられているのを確かめ、呆れたような表情になった。
「そして、夜の末裔になるか」
「それは? ――やはり、何かをご存知ですね。あなたへの質問、もう一度、繰り返します」
何故、ここへ来たのか、Dよ。
「だが、それを選ぶのは歌声の主ではない」
Dは錆びた声でつづけた。
「では、誰でしょう?」
「夜の意志――あの歌と歌い手とをつくった[#「つくった」に傍点]ものだ」
「それは――?」
問いかけて、プライスは音もなく窓辺を離れた。
両眼は赤光を放っている。
窓辺は歌い手の指定席であった。
透き通ったドレスの女を、彼は陶然と眺めた。ドレスの襞の間で光の粒がきらめいた。
「僕はあなたの歌を聴いた」
とプライスは虚ろな声で言った。
「そして、ここへ来た。招かれたことが、やっとわかりました」
――必要なのはひとりだけ
頭の中で声が鳴った。女の声。どんな女なのか、決して判別できない美しいだけの声。
「それは、僕のことです」
――もうひとり、いる。彼もまた、ここへ来るであろう
「選択は誰がするのです?」
――夜の意志だ
プライスはDを見た。幻の歌い手と同じ返事を伝えた男は、闇色の彫像と化して凝固していた。
「あなたは? ――何者です?」
答えはすぐにあった。
「|吸血鬼《バンパイア》ハンターだ」
次の言葉は幻に向けられていた。
「おまえはひとり[#「ひとり」に傍点]ではあるまい」
――わたしが?
頭の中の声は沈黙し、動揺を示すかのように、窓辺の人影は身じろぎした。
――そうかも知れぬ。だが、わたしがひとりではないと誰にわかる? わたしにも定かではないものを
「もうひとりは、いつ現れる?」
――じきだ
返事を聞いたプライスの眼が、凄まじい光を放ってDを射抜いた。
「そのとき、あなたは邪魔だ」
挑戦であった。
「いま、消えていただこう。だが、ここでは無粋にすぎる。――庭で」
白い月の下で二人は向かい合った。大理石の通路の上である。
木立が夜の詩を歌っている。風だった。
この場合、どちらが不利か。
Dは盲目である。プライスは無傷だ。だがそれ故に、戦闘士の邪眼はDに通じず、また、盲目がDの剣技を阻害するとも思えない。
「参ります」
言うなり、プライスは右へ走った。山刀は抜かず、手にしたリモコンの表面に指を走らせる。
Dの足下の大理石がめくれ上がった。炎に押し上げられ、空中で呑みこまれる。炎は五つ上がった。
これでDを斃したとは思えなかった。
朽ちかけた噴水の陰で、プライスは周囲を窺った。
庭全体に張り巡らせた蜘蛛の糸よりも細いワイヤーに、ある程度の質量が触れれば、死の攻撃が加えられるはずであった。
五基仕掛けた弓射台が、右手奥へと鉄の矢を放った。
世にも美しい音を立てて、そのすべてが打ち落とされたと知ったとき、プライスは四方へ煙幕を張って息を殺した。気配を石と化すのは、秀れた戦闘士の基本技であった。
ぼっと眼前に黒影が凝固した。バック転へ移る肩口を冷気が引き切った。
血刀を右手にDは突進した。
歌声がそれを止めた。黒血の溢れる肩口を押さえた戦闘士の歌が。
貴族の|夜想曲《ノクターン》に聴き入らぬものはない。
寸瞬、呪縛されたDの胸を、幅広い刃が貫いた。
よろめくハンターを尻目に、プライスは館へと走った。庭へ入りこんできたサイボーグ馬の足音に気づいたのである。
もうひとつ――
Dとすれちがった瞬間、
「ほう、やるなあ」
嗄れ声は彼の左手のあたりからしたが、気にとめる余裕はなく、戦闘士は前方の騎影に向かった。
3
ライは馬車から降りた。村長の家から持ち出した六頭立てである。持ち主も、アムネや地下室の住人ともども地面に立った。
プライスが駆け寄ってきた。
ライを睨めつけ、
「おまえと僕――こいつらはどちらを選ぶ?」
「私たちが選ぶのではないわ」
と言ったのは、村長であった。
「すべてを仕組んだ方は、一万年以上前から計画に着手していたの。私も昨日、やっとわかりました。この|娘《こ》に聞いて」
村長の隣で、黒髪の娘が夜の微笑を浮かべていた。
二十年前、招かれた娘。
「村長は、戻ってきた娘さんを地下室に匿っていたのよ。あの家の地下は、音楽堂の地下とつながっているの。娘さんと歌に誘われた人たちがつなげたの」
アムネは訴えるように言った。言わずにはいられぬ真相であった。
「そうして、この人たちは生きつづけた。血を吸うこともなく、歌だけを歌いながら、永劫に――」
「私が戻されたのは、選ばれたものを告げることと、今夜の準備を整えるためよ」
と娘が冷ややかに言った。自分を見るその眼差しで、プライスは敗北を知った。
「もう、決まったのか?」
空しい問いであった。
「ええ。あなたではないわ」
「彼はどうなる?」
顎をしゃくってライを示した。
「秀れた歌い手になるでしょう。かつて、この館の地下で、あの御方が成し遂げようとした実験の成果よ。血も吸わず、永劫に生きつづけるわ。まだ、完全になり切ってはいないけれど」
「それは、貴族ではあるまい」
「貴族はもう滅んだわ。今は人間の時代。でも、これからもずっとそうとは限らないの」
「何故――彼が選ばれた?」
「あの歌を直接耳にしなくても、ここへやってくること。そのための歌なのだから。後の理由は言っても無駄」
「もしも――」
プライスの声はひどく沈んだ。肩口からはまだ、鮮血がこぼれている。
「彼が死んだときは?」
娘はちらりとライを横目で見た。
「――そうしたら、あなたかもしれない」
その刹那、ライは両眼を押さえた。
死の魔光を放ったまま、プライスはその胸もとへ飛んだ。
短刀を抜いて刺す。一挙動であった。アムネが悲鳴をあげた。
激痛にライはよろめいた。
ライの胸に短刀を残したまま、プライスは微笑した。
「Dもそうやって死んだ。おまえは後を追い、僕は残る。永劫に」
身体と声は一緒に痙攣した。ゆっくりと視線を下ろし、プライスは胸から生えた白刃を眺めた。
「……D……」
つぶやいてライが起き上がったとき、美しい戦闘士の口から鮮血がこぼれた。
刃は引き抜かれた。
首だけ曲げて、黒衣の美貌を睨みつけ、戻してライを見つめたプライスは、
「おまえたち[#「おまえたち」に傍点]……」
と呻いた。
「二人とも……眼が開いて……心臓を……そうか……やはり……僕の歌ではなかったの……か……」
最後の息は、地上に倒れてから洩れた。
プライスのときとは比べものにならない鬼気が、夜の人々から溢れた。
「人の血を吸わぬなら、貴族とはいえん」
Dは娘を凝視した。
「好きなだけ、夜の歌を歌いつづけるがいい。その子らと村長と――三人を残して好きなところへ行け」
「待ったのよ。長い長いあいだ」
娘は遠い声で言った。
「私には二十年。でも、あの御方は……」
「行かせてくれよ、D」
とライが言った。
「今では、おれも何もかもわかる。この屋敷の、あなたも知らない実験室で、最後の資格を得るんだ。邪魔しないでくれ」
「君はまだ、治療可能だ」
Dの言葉に、悲痛な叫びが和した。
「そう。行っちゃ駄目。そいつらの仲間になんかならないで!」
娘に両手を捕らえられながら、アムネは身もだえした。
「いいんだよ。僕は見てみたい。あの歌を歌った女性と同じ世界を」
それからふり向いて、
「すまないが、アムネ、一緒に来てくれ」
と言った。Dへの牽制――邪魔をしたら殺せ、という意味か。
一同は館へ入った。
廊下から、あの部屋へ。
――終わったようね
一同の頭に澄み切った声が響いた。
「終わったわ」
と村長の娘が言った。
窓辺の女はかすみ、月光に溶けた。
娘がよろめいた。何かが彼女の内部へ吸いこまれたのを、ライもアムネも感じた。
ひとりとふたり――貴族の科学なら、造作もない作業だったろう。
「では、最後の任務にかかって」
娘は一同に命じた。
「Dさん――やめさせて!」
アムネは夢中で叫んだ。
「およしなさい、D」
と娘が制止した。
「あなたはさっき、私たちを殺そうとしなかった。あなたの言う通り、私たちは血を吸いはしない。そして、彼はもっともっと秀れた存在になるのよ」
「そういうことらしいよ」
ライは微笑した。
「アムネたちをよろしく。――さよなら」
「嫌あ」
身もだえするアムネの片腕がすっぽ抜けた。
ある匂いが室内に広がった。アムネの腕に赤いものが滲んでいた。力まかせに自由を勝ち取ったかわりに、爪でやられたのだ。
「D」
娘の口が開いた。二本の乱杭歯を剥いて。音楽堂の地下の再現であった。
プライスの血はこらえたが、やはり。
あらゆる影がアムネめがけて殺倒したとき、その胸を白木の杭と白刃が貫いた。
娘が倒れ、見る間に塵と化した。館を包む歴史の埃のように、それは月光にきらめいた。
ライだけが残った。
「まだ牙は出ないけど、その先はわからない」
と言った。
「刺してもらった方がいいかもしれないよ」
「やめて!」
アムネが二人の間に入った。
「この人がこれからどうなるか、私と村長さんで見守っていくわ。貴族と同じになったら――そのときは……」
アムネはしゃくり上げた。
「まだ、最後の仕上げはすんでいないと言ったわね」
娘の力から解放されたらしい村長が、頭をふりながら言った。
「だったら、まだ普通の人間に戻る見込みはあるでしょう。でも――」
と言葉を切って、
「私にもよくわからないの。娘とも貴族と人間について何度となく話し合ったけれど。――どちらがいいのかしら? どうします、D?」
返事は沈黙であった。
四つの影は、ふり落ちる月光を浴びて、決して得られない答えを待つ賢者たちのように立ち尽くしていた。
数分後、Dは中庭を抜けて城の外に出た。馬にまたがり、歩き出す前に館の方を向いた。
灯の点る窓に人影が揺れていた。
二つだったか、三つだったか。
すぐに前を向き、Dは馬の腹を蹴った。黒い騎馬が闇に呑みこまれてしばらく経ったとき、何処からともなく、静かな歌声が夜を渡りはじめた。
女の声か男の声か。
|夜想曲《ノクターン》であった。
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D―想秋譜
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第一章 秋の村
1
とりわけ、ある季節の映える村がある。
「シャーリイズ・ドア」の場合は秋であった。ランダウ|平原《プレイリー》のほぼ中央部に位置する人口二千足らずの村は、緑に黒ずんでいた世界が夕焼け色に染まりはじめる頃、不思議な活況を呈しだす。
無口だった村人は、村を通り抜けるだけの旅人に宿の世話までし、家にこもることの多かった子供たちも、安らいだ気配を湛える空気の中で思うさま走り回る。秋の許可でも受けたかのように。
そして、門の前に縁台を持ち出した人々は、赤煉瓦の上で枯れ葉を踏む音に耳を傾けながら、休日は日がな一日、労働日となれば、夕暮れどきから深夜まで安ワインを酌み交わしつつ、長話に興じるのだった。
「あそこは秋に気に入られているのさ」
と、一〇キロほど離れた隣村の人々は言った。そこの秋も十分に美しいが、何かが足りないことを、村人たちも知っていた。
「秋の村、秋の人々」
と、かつて「シャーリイズ・ドア」に滞在した無名詩人は|謳《うた》った。
「それならば、秋の旅人がいるだろう。しかし、私はその任ではない」
と。
詩人の歌は不完全というべきであろう。
秋の村と人々に、|何故《なにゆえ》、旅人が必要なのか、ここから推測するわけにはいかない。
ことによったら、名も知れぬ詩人は、予言者になった方が成功したかもしれない。
彼が何事もなく村を去って数年後、村人たちは、ようやく、旅人を欠かせぬ理由を知ることになったのだ。
すなわち――この秋に。
わずかな緑の残る森へとつづく一本道の途中で、ライルはブレーキを踏んだ。近所迷惑な臭いを撒き散らしつつ、|硫黄車《いおうカー》は停まった。
隣席のセシルと顔を見合わせ、左脇を通過寸前の騎馬を眺めた。
二人がやってきた五〇〇メートルほど後方で、道は二股に分かれるのだが、どいつの悪戯か、村への標識は失われていた。
午後の光はまだ、初秋の野に満ちている。誤った道を進んでも、夕暮れまでには引き返して村へ辿り着けるだろうが、この二人にはそれを気の毒だと思う親切心があった。
白いサイボーグ馬の前足が、車のノーズに並んだとき、
「おい」
と声をかけ、ライルは沈黙した。かたわらで、セシルが溶けていくのがわかった。つまり、恍惚と。
それなのに、馬と騎手は黙然と車のかたわらを通りすぎた。
「おい、あんた――ちょっと」
ライルが声をかけたのは、人馬が一〇メートルも離れてからである。無礼なあしらいにも、親切心は失われていない。
馬は止まった。白い毛並みがどこかくすんで見えるのが、やってきた距離を表している。
声を張り上げるのをやめ、
「しゃあねえな」
とライルは車をバックさせ、騎手と並んだ。
鍔広の|旅人帽《トラベラーズ・ハット》と|長外套《ロング・コート》の下で、透き通るような顔が二人を見下ろした。
セシルがまた溶けはじめる。急がなくてはならない。
「あのよ、この先の分かれ道に標識がついてねえんだ。左へ行きゃ、シャーリイズ・ドア、右だと沼沢地。迷うと面倒だぜ。沼沢地は貴族の館があったって言われているし、昼なお暗い土地だからな」
言ってから、ライルは眼をしばたたいた。そうでもしないと、自分までおかしくなりそうだ。あんまりきれいな顔を見てると、天罰が下る。
「礼を言う」
と黒衣の騎手が軽く左手を上げた。
ぞくりとするほど男臭い――錆を含んだ声。その落差に、ライルは背筋の凍る思いがした。官能に近い感情であった。
「ついでにもうひとつ教えてもらいたい」
「ほいよ、何でもどうぞ」
「“赤い籠のヘルガ”の家を知っているか?」
ライルはセシルを見た。まだ、うっとりしているので肘でこづくと、十八歳の娘はやっと我に返り、
「知っています」
と言った。
「へえ、あんた、ヘルガ婆さんの知り合いかい。――まさか、ご亭主の幽的じゃねえだろうな」
うまい冗談のつもりだったが、返事はない。
「いま彼の言った右の道を辿っていくと、森へ入ります」
とセシルがつづけた。
「右を見ていって下さい。最初に見えた家がお婆さんのところですわ。よく見ていかないと、見落とす恐れがあります」
騎手は左手を帽子の鍔に当てた。その旅人の最大の礼だとセシルには理解できた。
「じゃあ、気をつけてな」
こういうタイプとは早いところ縁を切りたいライルが、クラッチを解放した。旅人の馬も歩き出す。
甘酸っぱい衝動が、走り去る少女をふり向かせた。
「ねえ、私はセシル。こっちはライルよ。あなたの名前を教えて下さい」
黒い旅人はこちらを向いた。
聞こえるはずのない距離で、声の断片をセシルは聞いた。風だった。
「D」
と、秋の旅人は口にしたのだった。
トレード・マークの赤い籐の籠に、たっぷりとスモモを摘んで、ヘルガ婆さんは家へ戻ってきた。
紅に染まった西空を、木立の影が切り抜いている。
玄関脇の馬止めにつないである白馬を見ても、婆さんは驚かなかった。不意の来客などより遥かに凄い出来事が、百年近い日々の中には百以上あったし、この客は決して予期せぬ訪問者ではなかったからである。
馬の首筋に手を当てて、人工毛の感触を愉しみながら、
「ご主人は何処だね?」
と話しかけた。
硬い音が裏手からした。
「薪小屋かい?」
踏み石に籠を置き、角を回ったところで、黒い影と|出会《でくわ》した。
両手に下げた木片の束を見て、
「依頼主の留守に薪を割るハンターてのも珍しいやね。――Dさん、だよね?」
若者はうなずいた。空気が動く。その空気さえ美しく感じられた。
恐ろしいものでも見るように、婆さんは眼をそらし、奥の粗末な小屋を眺めた。
「百年分もありそうだね。いつから割ってたのさ?」
「三時間前に着いた」
とDは言った。
「その間、|内部《なか》へも入らず薪割りかい。えらそうなハンターなら帰っちまうか、家へ押し入ってる。あんた、よっぽど育ちがいいんだね。ま、顔見りゃわかるけどさ。――とにかく歓迎するよ」
ヘルガ婆さんの依頼は、やや常識外れといえた。
「じき、本格的な秋に入る。そしたら、この村に貴族が暴れ出すよ」
Dへの依頼はその処理であった。通常、被害者が個人ではない、あるいは貴族の災いがひとつの共同体へ及びそうな場合は、その代表が依頼人となる。
犠牲者でもなく、そうなる可能性もなさそうな老婆が、村のために高額な吸血鬼ハンターを雇うなど、本来、あり得ないことであった。
まして、秋ゆえに貴族が出現するとなると――
「根拠があるのか?」
とDは訊いた。
「ないね。――強いて言えば、これさ」
老婆は木のテーブルの上に、赤い籠の中味をあけた。
黒く|饐《す》えた果実の堆積から、数個がDの手元に転がっていった。
「あんたに連絡をとった日――一週間前から腐れが目立ってね。今じゃ全滅だよ。百年も生きてると、ただの自然異変とは思えないのさ。確信を掴んでから、とも思ったけれど、それじゃ、犠牲者が出るまで待たなくちゃならない」
「何のために、おれを呼んだ?」
「あたしも老い先短いんでね。ひとつ、ここで、いいことをしておきたかったのさ。できたら、あたしのことは内緒で仕事をしておくれ」
「何もないかもしれんぞ」
「なら、それに越したことはないよ。安心おし、料金は規定通りお支払いするからね。それに、こうつくづく顔を眺めてると、あんたに会えただけでも良かったって気になるね。どうしてか、わかるかい?」
老婆の遠い眼差しに、無言の美の結晶がゆらめいていた。
湯気の立つカップを口元へ運び、ひと口飲んでから、
「あんたはあたしの亭主に似てるんだよ。もちろん、顔じゃなく雰囲気がさ」
と言った。
老婆の話によれば、八十年前ほど前、近くの村で行われた貴族狩りに参加した夫は、それきり戻らず、死体も発見されない代わりに、便り一本、風の噂ひとつないという。
出かけたのは夏だから、秋になれば戻ってくると信じて、婆さんは待ちつづけた。幸い、八十年経っても、秋という季節は失くならなかった。
「秋か」
「秋さ。この村では、何もかも秋にはじまるんだ。冬の食料を集めるのも秋、春にまく種を集めるのも秋。夏の清水を貯えておくのも秋。人が死ぬのも、生まれるのも秋――ハンサムな旅人がやってくるのも、ね」
「貴族の館があると言ったな」
「五百年くらい前からね。百年前に、何もかも捨てて姿をくらましたっていうけど、あたしが生まれたときには、もういなかったときかされたよ」
「消えた理由は?」
「わからない。えらく残忍な貴族で、ロボットの召使いをたくさん使っていたとさ。何かを研究してたらしいよ」
「何の形跡もない。沼の水をかい出してみるか」
「もう、見てきたのかい!?」
老婆は目を剥いた。
「三時間の間に、沼沢地へ出かけ、小屋一杯の薪を割ったって? ――あんた、やっぱりひと味ちがうねえ」
「村は近いのか?」
「真っすぐ馬を駆って三十分。ここは、村外れもいいところの土地だよ」
できたら、沼沢地の調査だけでも急いどくれ、とヘルガは言った。
「まさか、百年間も眠りつづけってことはないだろうけど、万が一ってこともある。それに、この村には、気になる風習がひとつあるんだ」
「それは」
「|生贄《いけにえ》を差し出すんだよ、とびっきりの娘をひとり。そして、他のものは勘弁してもらうんだ」
2
夜気は心地よかった。
娘は林檎の実を採りに出たのだった。東の外れに、娘しか知らない一角があり、扇みたいに枝を広げた木になる果実は、まだ紅く熟さないうちから、噛みしめた歯の間と口の中いっぱいに、清涼な甘味を充満させるのだった。
娘のそばには若者がいた。中等学校を出てから、二人はいつも一緒で、村人たちは、数年後にささやかな宴を催し、ずっと一緒になるのだと思っていた。
目的の木の下で、二人は身体を合わせた。若者の手に情熱的な力が加わる前に娘は身を引き、その年齢に特有な悪戯っ気と意地の悪さを動作にこめて、木の幹の背後に回った。
夜気にこもる果実の匂い――秋の匂いが娘を昂揚させた。今夜は特別な晩になるかもしれない。
頭上にゆれている林檎の実を娘はむしり取った。
口紅も塗っていないのに赤い唇が緑の実を含み、白い歯ががりりと噛んだ。
ほんの少しの間を置いて、娘は口にしたものを吐き出した。
足元にちらばった破片と、手にした果実の内側は黒々と腐敗していた。
もうひとつ手に取り、娘は指に力をこめた。黒い汁の果肉が割れた。
恐怖に駆られて、娘は若者の名を呼んだ。何度か呼んだが、来なかった。
恐怖がコルセットを締めつけた。娘は幹を回った。
若者は別れた位置に立っていた。一ミリも動いていないように見えたが、スタイルは少し違っていた。
両手が身体の前で、ほぼ半円を描いている。手と身体の間に娘が入れば、熱い抱擁のシーンが成立しただろう。
だが――相手は違っていた。
若者の名を呼んで娘が触れると、彼女のことを忘れていたらしい不実な恋人は、音もなく横倒しになった。
なぜ、娘の眼は喉に引きつけられたのだろうか。
たくましい筋肉のうねりを示す喉笛は、|柘榴《ざくろ》みたいにはぜ割れていた。
致命傷だとの判断は娘にもたやすかった。
抱き起こすこともせず、娘は身を翻した。
抱かれた。
腰を抱く手の凄まじい圧力を感じる前に、首筋は裂けていた。
苦痛に伸ばした手が、大枝の林檎を掴んだ。握りしめる指の間で砕けたそれ[#「それ」に傍点]は、やはり、黒いままだった。
「出たよ」
と翌日の昼近く、村から戻ってきたヘルガ婆さんは、Dのいる納屋にきて言った。
「大工のガルの娘とサラヤ家のひとり息子が殺られた。東の林檎畑に倒れているのを、畑の持ち主が今朝見つけた。ハーモン|医師《せんせい》の話じゃ、深夜の二時から五時にかけてらしいよ」
「家では探さなかったのか?」
「寝室を脱け出したのに気がつかなかったのさ。それに、秋の夜は誰かと何処かで語らうのが当たり前なんだ」
秋――静かな恋を語る季節。
「喉の傷の型は取ったか?」
「ああ」
婆さんが籠の中から取り出した形状記憶粘土を手に取り、Dはそれをじっと見つめた。
「これじゃあ、血を吸われてなかったら、貴族の仕業だとわからないよね。下品な貴族がいたもんだ。――貴族の|下僕《しもべ》か何かかね?」
「貴族だ」
Dは静かに断言した。
「だが――少しおかしくはあるな」
「何だい?」
「この傷はどこか奇妙だ。噛んだものの生命が感じられない」
「へ?」
と婆さんは眼を丸くして、
「貴族に生命があるのかい?」
「いわば負の生命だが」
Dの指は、患部を探す医師の指のように、粘土の上を撫でていた。
「とすると――ロボットか何かが噛んだのかい?」
「とも違う。おれもはじめて感じる[#「感じる」に傍点]『気』だ」
「やだよ。あたしゃ、貴族のつもりでいたんだからね。ちょっと――逃げ出さないでおくれよ」
「報酬だけのことはやる」
婆さんは口をふがふがさせて、
「てっきり、貴族だと思ってたのに、とんでもないのが出て来ちまったようだねえ」
「二人の死体は何処だ?」
「今頃は安置所――一時間もすりゃ火葬場だね。日暮れ前に灰にしちまうんだ」
言い終えて、婆さんはぞっとしたように後ろへ下がった。Dが立ち上がったのである。
「そこの薪……あたしのために割ったんじゃないね」
と姿さんは指さした。
「あんなにきれいに割れてる。……本当は切ったんだろ。貴族と戦う予行演習に」
戸口から吹き込む風が、影のような長髪をふるわせていた。
自分の考え違いを婆さんは悟った。二人の犠牲者が出たから、はじまりだと思った。そうではなかった。いま、この美しい若者が立ち上がったとき、すべてがはじまったのだ。
貴族対人間――それは、戦いの図式の中でしか交われぬ死と生のあり方なのであった。
3
死体安置所の前で、Dは馬を下りた。
大概は治安官事務所か病院に隣接している。「シャーリイズ・ドア」は前者だった。
事務所に居合わせた治安官は、最初、胡散臭そうに応接し、Dの名前をきくと急速に好意的になった。
「あんたがDか。――本物に会えるとは思わなかったよ。正直言って困ってたとこだ。さあ、好きなだけ見てくれ。もっとも先客が二人いるけどな。いま来たばかりだから、すぐには帰るまい」
いったん事務所を出て、Dは石造りの安置所のドアをくぐった。治安官の助手らしい老人が、彼の顔を見て眼を丸くした。
奥の鉄扉を開けると、殺風景な空間が迎えた。明かり取り用の窓が三方の壁につき、後は、正面の木台に横たえられた死体だけだ。
その前で、二つの顔がDの方を向いた。
「おお!!」
と懐かしげに言ったのはライルだけで、セシルの方は即座に頬を紅く染めたきりである。
「おかしなところで会うなあ。只者じゃねえとは思ってたけど、あんた、ひょっとして――吸血鬼ハンター……か?」
「Dと呼んでくれ」
ライルは一瞬、ぽかんとし、すぐに、ひええ、とのけぞった。元の位置に戻ったとき、両眼には憧れの色が燃えていた。
セシルの肘をこづいて、
「おいおい、Dだってよ。辺境一の吸血鬼ハンターが来てくれたんだぜ。これで、おまえも安泰だ」
すがるようなセシルの視線を受けつつ、Dは死体に近づいた。
ゴムのカバーは腰までずらされていた。
血の気を失った若い男女の肉体は人形のように見えた。死後硬直はとっくにはじまっている。喉元から下腹部まで一直線に走った縫合痕さえも、どこか非現実感を漂わせていた。
死者の無惨な傷口にDが指を当てるのを、生命ある二人は見つめた。
すぐに離れたDへ、何をしたんだい? と訊いても返事はなく、黒衣の姿は二人のことなど忘れ果てたように、鉄扉へと向かった。
「待ってくれ」
ライルはあわてて呼びかけた。
「なあ、ちょっと聞いてくれよ。こう知り合ったのも何かの縁だ。力を貸してくれ」
「お願いします」
とセシルも頭を下げた。
Dは立ち止まり、二人の方を向いた。
「村では、これが貴族の仕業となれば、生贄を出すときいた。――君か?」
言われたセシルの隣で、ライルが眼を剥いた。
「どうして、わかるんだよ?」
「さっき、安泰だと言ったな」
「――そうとも。あんたさえいてくれりゃあ、セシルも生贄にならなくても済むぜ。この村の奴ら、汚ねえじゃねえか。何もかも娘ひとりにおっかぶせて、後はダンマリを決めこもうってんだ。けっ、それで貴族がおとなしくどこかへ行くなんて、誰にわかるんだよ」
「いつ選ばれた?」
Dは訊いた。
「ついさっき――一時間くらい前です」
家に村長以下の有力者がやって来て伝えたという。今夜から、セシルは貴族の最も出現可能性の高い場所で、夜を過ごさねばならない。
「あの沼沢地か?」
「そうとも。――おれも付き添う」
「生贄ひとりが、放逐されるのではないのか?」
「二代前の村長がいい人でな。たったひとりだけ、護衛を認めてくれたんだ。セシルは孤児でさ。おれしか相手がいねえ」
むしろ誇らしげな表情の若者を、Dは静かに見つめた。
「これが貴族の仕業かどうかはわからんぞ」
「違うのかい?」
二人は顔を見合わせた。
「喉笛を裂いて血を吸う妖物が西の国にいると聞いた。村長にそう話してみたらどうだ?」
「駄目だ。あいつも他の連中も、のっけから貴族の仕業と決めつけてる。誰が何を言っても、聞きっこねえさ」
「一緒に村を出たら?」
二人は驚いたように顔を見合わせた。考えたこともなかったのだ。苛酷な環境での共同体的連帯は、そこからの離脱を考える余裕など与えない。
希望の色が二つの顔を染め、急速に消えた。
「駄目だ」
「できません」
セシルはDを見つめて言った。
哀しい眼の色であったが、すがろうとする卑しさはなかった。小さな自制が恐怖を見事に抑えていた。
「育ててくれた|義父《ちち》と|義母《はは》は、ここで生きなくてはなりません。私が役目を果たさずに逃げたら、村の怒りが二人に向かいます」
「要するに、この犯人をとっ捕まえるか、始末すりゃいいんだ」
ライルは手を打ち合わせた。
「なあ、頼む。力を貸してくれ。あんまり金はないけど、できるだけの礼はする」
「おれの雇い主は他にいる」
Dは鉄扉に向かった。
恋人たちの眼の前で、扉は閉ざされた。その寸前、二人はDの腰のあたりから幻聴とは思えない|嗄《しゃがれ》れ声を聞いた。
「融通のきかん男だな」
分かれ道を、Dは左へ折れた。目的地はかつての貴族の館の所在地――現在の沼沢地であった。
安置所へ出向いたのは、現実の死体から貴族の痕跡を探り出すためだ。指先は失敗を探り当てた。形状記憶粘土から得た奇怪な情報が、正確に繰り返されたのである。
となれば、後は敵の出現を待つしかない。どんな状況でも、昼ならば先手は取れる。かくて、白い馬と漆黒の騎手は坂道を下って、瘴気と薄闇の徘徊する土地へと辿り着いたのであった。
沼沢地は約十平方キロの土地に、大小二十近い沼地が点在する湿地帯である。
地熱によらず、水に含まれるバクテリアのせいで、水温は二十度を下らず、毒素を成分とする瘴気は、近づく生物をことごとく死亡させるばかりか、耐性を有する怪生物を生み、それらの捕獲を|生業《なりわい》とする村人以外、昼といえども近づく者はない。
昼に一度辿った周回路を外れ、Dは沼沢地のほぼ中央にある小沼のほとりに下りた。
沼と沼との間には、細い道や太古のものらしい鉄の橋もかけられているが、多くは奇怪な色と形状の木立に覆われている。
左手の奥から激しい気配が伝わってきた。Dだからこそ感じられる闇の気であった。
「こん畜生」
ののしる声に、聞き覚えがあった。
「あいつじゃな。尾けてきたらしい。――見捨てる気か?」
嗄れ声に答えずDは馬へと戻り、疾走を開始した。
五分も走ると、水辺で争うライルの姿が見えた。飛沫がとんでいる。青黒いのは苔のせいだろう。
ライルの相手は蛸に似た生物であった。十本近い吸盤つきの触手を若者の四肢に巻きつけ、水中へ引きずり込もうとしている。
ライルの武器は鋼の銛である。何とか球状の頭部を突き刺そうとするのだが、めまぐるしく動く触手に邪魔され、持っていかれないようにするのが精一杯だ。
Dが馬を止めたとき、ライルもこちらを見た。
死闘のただ中でも、蹄の響きを聞きつける余裕はあったらしい。
「来るな!」
と叫んだ。
「こんな水蛸――おれひとりでたくさんだ。そこで見ていてくれ」
「剛毅の男じゃな」
とDの左手あたりで感じ入ったような声がした。
Dは水際へと下りた。
「来るなってばよ!」
「形勢は不利だ」
とDは抑揚のない声で指摘した。
「冗談じゃねえ。勝ち名乗りは近いぜ――わっ!」
水飛沫とともに宙を蹴った足に、触手が巻きついていた。頭部のやや下で、二つの眼がまばたきもせず、獲物を睨めつけている。
「畜生。こら、助けるな!」
「君が溺れると、セシルはひとりで残されるぞ」
「助けてくれ」
水へ下りず、Dの右手が一閃した。触手は分断された。銛に巻きついていた一本であった。蛸の頭部が震えた。
キュウと鳴く音が、明らかな苦鳴に変わったとき、両眼の間から鋼の槍が生えていた。
痙攣を繰り返しつつ水没してゆく蛸の頭から銛を抜き取って、ライルはしばらくの間、ひっくり返った位置で荒い息をついていた。水中で死にかけたものは、すぐ陸へと戻りたがる。心臓も鋼鉄製らしい。
ふと見上げると、Dは馬にまたがったところだ。
「ちょちょちょ――ちょい待ち。おい、助けに来たんじゃないのかよ?」
答えず、Dは馬の腹を蹴った。
同時に、左手が動いた。
常人の眼には、突然、拳の中に二本の矢が現れたとしか見えなかったであろう。
石をも貫く速度で飛来した矢を、Dは軽々と素手で掴み取ったのである。
「おれは、それ[#「それ」に傍点]を知らせに来たんだよ。町の連中が、あんたの後を尾けて――」
Dはすでにそちら[#「そちら」に傍点]を向いている。
沼をはさんで、ちょうど反対側――やや小高い丘陵部ともいうべき土手の上に、十騎ほどの騎馬が勢揃いしていた。
左右の端で弓を構えた男たちは、すでに第二の矢をつがえている。
「動くな。今度は外さんぞ!」
中央の大男が叫んだ。|鎧型《よろいタイプ》の胸当てや|手甲《てっこう》から見て、村の腕自慢というところだろう。自身は両脇に連射弓を下げている。
「あれが、村の護衛団のリーダーだ。バズラって名だ。もとは流れ者の傭兵で、腕は立つ。弓の腕は今みたいなもんじゃないぜ」
ライルが疲れた声で言った。後の連中は――バズラの左隣の老人を除いて、護衛団のメンバーだろう。
Dが動かないと見るや、一行は鉄蹄をどよめかせて走り出し、一分とかからず黒い騎士を取り囲んだ。
「どうして、ここにいるとわかった?」
Dは緊張した風もなく訊いた。
「治安官から、おまえの話を聞いてな。まず、ヘルガの婆さんのところへ行ったのよ。あの婆さん、前から貴族が出る出るって騒いでた。ちょっと痛めつけたら、雇い主だと吐いたぜ。ここへ来たのは、まあ、当たりをつけてだな」
「婆さんはちゃんと手当てをした。安心しろ」
老人がとりなすように言った。
「わしは村長のマートクだ。倅を助けてもらった礼を言う。出来損ないだが、わしには可愛いひとり息子だ」
「つうわけだよ」
と水の中で、ライルが肩をすくめた。
「けど、おれはこいつらの仲間じゃねえ。それは誓うよ。信じてくれ」
「青臭い真似ばっかりしおって。今度逆らったら、勘当だと言っておいたはずだぞ」
「おれは、おふくろが死んだときから、親子の縁を切ってるよ」
「いい加減にしたらどうだい、坊っちゃん」
とバズラが声をかけた。悪意をたっぷりと煮こんだ口調に、ライルはけっと吐き捨てた。
「ヘルガ婆さんにはもう了承をとってある。すぐに村から出ろ」
村長がDに言った。
「おれは聞いていない」
Dの返事に、緊張が空気を灼いた。
「強がりはよしなよ、ハンター」
とバズラが鞍から身を乗り出した。
「おめえがどんなに凄腕かは聞いてるが、実力はまず話半分。刀に手もかけねえで十対一――抜いても刃の届く距離じゃねえぜ」
少なくとも、弓と剣との差を考えるだけの頭はあるようであった。Dに向けられた十挺の弓を確認して、
「村のことはわしらで決める。他所者の手は要らんのだ」
村長は上衣の内側に手を入れ、小さな袋を取り出して、Dの足元にほうった。
「ヘルガの依頼料の倍入っておる。拾って失せろ」
「おい、やめろ」
と、ライルが脅えきった声で言った。
「相手は――吸血鬼ハンター“D”だぞ」
その声が終わらぬうちに、絶叫が天を衝いた。
Dの前と後ろを固めていた二人が、肩を押さえてのけぞったのである。そこから生えた鋼の矢は、先刻、彼らがDめがけて放ったものだ。――ライルが戦慄とともにこう悟った刹那、網膜を白光が走った。
あり得ぬ距離を走破した光であった。
鋼の弓と矢は、二つになって跳んだ。のみならず、それを掴んでいた男たちの手の指もきれいに断たれて宙に舞った。
「――!?」
鼻先に突きつけられた刀身を、村長は茫然と見つめた。
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第二章 夜の下で
1
「……何をしているバズラ?」
声は嗄れているが、村長には、事態がよく呑み込めていなかった。彼の頭には、一瞬のうちに|切尖《きっさき》が出現したとしか理解できないのだ。Dを狙っているはずの護衛団員が、なぜ弓を射ないのか、さっぱりわからない。
バズラは動かなかった。返事をしようと思ったが、声も出せない。首の半ばから、生温かいものが大量に滴っていく。両脇の連射弓を持ち上げる|暇《いとま》もないまま、いや、そうしようと意識もしないうちに、部下たちは弓と指とを落とされ、自分は喉をかっさばかれていた。それよりも何よりも、前方の美貌の若者から迸る鬼気はどうだ。次元の違う相手だと、ようやく彼は理解した。
「……わしを、どうする気だ?」
村長が訊いた。
「二度とちょっかいを出すな」
「ほう――誰へだ?」
その鼻の付け根へ、切尖が触れた。――と見る間に、やや鷲鼻気味の鼻の先は、きれいに切り飛ばされていた。
絶叫とともに村長はのけぞり、頭から地べたへ転がった。自らほうった金袋の上へ。
「わ、わかった。二度とやらん!」
必死で鼻へあてた手の指の間から、みるみる鮮血が滲んでいく。
馬上で呻く男たちを尻目に、Dはもと来た方角へ歩き出した。この間、一頭の馬も興奮しなかったのが不思議である。
憎悪よりも何よりも、恐怖に彩られた眼で見送る村長とバズラの耳に、
「だから言ったろ、あの人は、吸血鬼ハンター“D”だって」
嘲るようなライルの声が躍った。
散々なていたらくで村長一同が引き揚げると、ライルはDの走り去った方角へと馬を飛ばした。
硫黄|車《カー》は村へ置いてある。村長たちの後を尾け、婆さんの家から彼しか知らない道を通って沼沢地へ先回りできたのも、あの車でドライブ三昧の日々を送っていたおかげだ。
小さな沼のほとりで、Dは見つかった。
身を屈めて、岸辺に密生している幅広い水草の葉を拾い集めている。
何をするのか?
やがて彼は数枚を小脇に水辺へ近づくと、一枚を水面へほうった。そして、平然とその上へ一歩踏み出したのである。
直径三〇センチ。小動物くらいは支えられる水草であるが、人間ひとりは到底不可能だ。
それなのに、わずかにゆれたきりで葉は沈みもせず、一枚、もう一枚と前方へ投げては、体重のない幻のように、Dは丸い葉を――水の上を渡っていく。
十枚で沼のほぼ中央に達した。
足下の水面へ眼を凝らし、数秒――黒い影は水飛沫と波紋を残して水中へと身を投じた。
小径から水辺へ駆け下り、反射的にライルは秒数を数えはじめていた。
十秒……二十秒……
貴族の館がこの土地に存在したという証拠はないが、ライルの少年時代まで、言い伝えを正当とする古老たちは、霧の晩、沼沢地帯の中央で催される影法師たちの大宴会を見たり、忽然と水が澄み、水中の大邸宅が一望できたとの不可思議を語りつづけてきた。
Dはそれを見たのではなかろうか。
二分……三分……五分……
絶望がライルの胸を染めた。Dがダンピールだということを彼は知っていた。貴族の血を受け継ぐものは、流れ水の中でその体力を半減させる。あの水蛸の仲間が大挙して襲ってきたら……
ふっ、と葉が消えた。岸に近い順から水中に没していく。
九分……
最後の一枚が消えて……
十分。
水面に黒い影が浮いた。Dと識別する暇も与えず、抜き手を切って岸へと泳ぎ出す。
三〇メートルほどの距離を五秒とかからなかった。
ライルを見ても無表情に、顔を拭ったきり、
「水ん中に何かあったのか?」
と尋ねたのは、村長の不肖の息子の方であった。
「いまに日が暮れる」
とDは答えた。
ちっとも答えになっていないが、ライルには十分であった。娘は、今夜からたったひとり、村外れの生贄の小屋につながれてしまうのだ。
「あんたはどうするんだ?」
白馬へと歩み寄るDへ、ライルは訊いた。
「セシルを見張ってりゃあ、貴族が出てくるかもしれねえ。そいつを斃せばあんたの仕事も終わりだろうが。な、一緒に行ってくれよ」
無言でDは走り出した。ふり向きもしない蒼々たる後ろ姿へ、
「この人でなし。恩知らず。あんたに危険を知らせてやったんだぞお!」
空しい怒りの叫びが、長いこと尾を引いていた。
ライルを待つつもりだったが、やはり間に合わなかったようだ。護衛団の連中が家へ“迎え”に来たとき、覚悟はできていると思った足が、ひどく震えた。
|義父《ちち》は何も言わず、|義母《はは》だけが出がけに、達者でね、と涙を浮かべた。
馬車に乗せられ、北の外れの小屋へ連行される間、セシルを耐えさせたのは、生贄の報酬として向こう十年間、二人が村からの補助だけで暮らしていけることだった。
テーブルと椅子、ベッドだけの小屋にセシルが入るのを見届け、男たちは鍵をかけて去った。せめて貴族の侵入を、との心遣いではない。セシルの逃亡を防ぐためである。
男たちの足音が去るとすぐ、セシルは夜気の中に血の香りを嗅いだ。生贄の存在を知らせるべく、男たちが撒いていったものだ。
時が経つにつれ、セシルの精神は恐慌状態に陥った。十八の娘が自若として死を迎えられるはずがない。彼女が椅子をふり上げて扉を破ろうともせず、テーブルを倒しもしなかったのは、それらが重すぎたのと、養ってくれた二人のことを考えたからにすぎない。かわりに、娘は床にうずくまり、拳でベッドを打ちながらすすり泣いた。
どれくらいの時間が経ったかわからない。
セシルはふと顔を上げた。ひどく冷たかった。涙の痕が冷えている。
耳の奥は凍てついていた。
扉の向こうで硬い音がしたのである。鍵をいじるような。
心臓が急速にすぼまるのを、セシルは意識した。
それが限界に達したとき、止めの音が心臓を握りしめた。
蝶番のきしみだ。
扉がゆっくりと開いていく。
2
娘は反射的に扉と反対側の壁に移動した。声を上げたかったが、喉はひきつっていた。
貴族など見たことはない。古老の話に出てくる姿と所業は凄まじいものがあったが、聞き終わればそれっきりだった。――そう思っていた。
いま、身体の芯から、彼女自身が想像もしなかった暗闇の奥から、そいつ[#「そいつ」に傍点]がやってくる。長い長い階段を登って、こころの表層へ。
そいつは、扉の前に立っていた。
自分と同じ年頃の、遥かに美しい娘であることも、救いにはならなかった。
透き通るような肌をした顔の真ん中に、二つの赤い光点が|点《とも》っていた。
さらさらと床が鳴った。青いドレスの裾が床を這う衣ずれの音。
女の背後のドアから秋の夜風が吹き込む。今夜もどこかの森では、村の男女が恋を語っているだろう。
娘は目を閉じた。何も起こらない。我慢できずに開いた。
女は眼の前にいた。
かっと開いた口の中に白い乱杭歯を認めたとき、娘は同時に、戸口から吹き込む一片の落葉を見た。
女が動きを止めたのを、セシルは奈落へ落ちる意識の触角で感じた。
「待て、この野郎――じゃねえか」
戸口で、ライルは銛を握り直した。
「女の分際で何しやがる。さっさと呪われた歴史へ戻れ」
「男か」
と女はセシルの身体を離して、自分に言いきかせるように言った。
「女の血は甘いが薄い。男のそれは不味いが濃厚だ。私はそちらが好み。まず、おまえから頂戴するとしよう」
ぐるりと向き直った美貌の凄まじさ。宝石をちりばめた絢爛たる髪留めからこぼれた黒い筋が顔にかかり、ぎゅうと吊り上がった真紅の唇の端からのぞく乱杭歯の鋭さよ。
これが貴族か。
血も凍る恐怖の中で、ライルは銛を引いた。
「おれが目当てなら来な。こんな狭いとこじゃなく、外で相手をしてやるぜ」
「この娘から離れさせたいか。――そうはいかん」
女の嘲りが押しでもしたかのように、ライルの背後で扉は閉ざされた。
「あ、畜生」
「私は狭いところが好きじゃ。おまえたちの悲鳴が響き、断末魔の影が壁に映るところがな。この方が、ゆっくりと愉しめる。じっくりと血が吸える。おまえはこの娘に不様な最期を見せるがよい」
「やかましい!」
怒号が恐怖を破って放たれた。
石壁さえ貫く銛は、狙い違わず女の左胸を貫通し、まさしく背後の石壁に突き刺さった。
女はにっと笑った。傷口に血の一滴も滲んでこなかった。のみならず、青いドレスの破れ目も、ちぎれた繊維がひとりでに絡み合い、修復された。
「もう遊びは終わりか? 私たちを前にすれば、おまえたちごときの抵抗は、この程度のものよ。よくも、我らに代わってこの世を支配しようなどと考えたものじゃ」
「自然の|理《ことわり》だぜ、骨董品女」
全身に冷たい汗をこびりつかせながら、ライルは言い返した。
「おまえたちの時代は終わったんだ。いま、それを思い知らせてやる!」
女が近づいてきた。自信に満ちた足取りであった。
下がりつつ、ライルは最後の武器を取り出した。屋内で使うには危険な品だが、他に手はなかった。どのみち、ライルはセシルを救って死ぬつもりだった。救えなくても――一緒に死ねばいい。
突き出された黒い瓶を、女は嘲りを湛えて眺めた。
その眼前に、白煙が噴き上がったのである。
瓶の中味は強烈な酸であった。無防備な眼球が焼けた。白煙は溶ける肌の証であった。
声もなく顔を押さえた女の横をすり抜け、ライルはセシルに駆け寄って抱き上げた。
喉は無傷であった。
「ざまあみやがれ」
セシルを抱き上げ、もう一度、女の横をすり抜けた肩を、万力が捉えた。
肉と骨がくぼんでいく。声も出なかった。
片手でライルの肩を掴み、残る手で顔を覆い、女は静かに立っていた。
「もう許さん。おまえの血など不要。まず、両足をもぎ取り、苦しみ騒ぐ眼の前で、この娘も同じ目に遭わせてくれる」
「離せ……畜生」
ライルの叫びは弧を描いた。
奥の壁へ激突しながらも、セシルを庇って床へ落ちた若者へ、女は跳躍しつつ掴みかかろうとした。
その背後から胸にかけて白い光が貫き、青いドレスの身体は、かろうじてバランスを維持しつつ床へ降りた。
女はまず、胸を見た。血の花が咲いている。
戸口に立つ黒ずくめの人物の顔を見て、女は、こうでなくてはならない、と思った。
「おまえは……何者じゃ?」
苦鳴に似た声にも、蕩けるような賛美がこもっていた。
「おまえは何者だ[#「おまえは何者だ」に傍点]?」
同じ問いをDは繰り返した。
「|昨夜《ゆうべ》、東の村はずれで二人が喉を裂かれた。あれは、おまえの仕業か?」
「だとしたら、どうする?」
白い光が十文字を描いた。
蹴り上げたテーブルが四つに分断されたとき、女は背後の壁へ後退している。
壁面につけた両手のひらから、蜘蛛の巣みたいな亀裂が走るや、身体はすっぽりと闇へと抜け、間一髪遅れて、Dの左手から白木の杭がその後を追った。
反応はない。
黒い風と化して、Dは穴を抜けた。
森の片隅で銃声が轟いた。
身を低くしたDの頭上を灼熱の弾丸が通過し、遠い木の幹を吹き飛ばした。
女の気配が木立の静寂に同化するのを、Dは感じた。
身をひねりながら、白木の針を射撃地点へとばした。
男の悲鳴が上がり、銃火が空中に躍った。
五メートルほど離れた木陰に、中年の農夫らしい男が、右手首を押さえてへたりこんでいた。二連ライフルは足下に落ちている。針の直撃を受けたショックで取り落としたに違いない。
「こ……この化物。セシルに手え出すなあ!」
これで正体が知れた。
声を聞いて駆けつけたライルが、腰を押さえつつ、
「これは、セシルの|義父《おやじ》さんだ」
と止めを刺した。
セシルを見送ってから、義父は長いこと呻吟し、ついにライフルに弾丸を込めると、愛娘の救出に向かったのであった。セシルが何を思って静かに運命を受け入れたか、夫婦は誰よりもよく知っていたのである。
Dに活を入れられ、眼を醒ましたセシルは、義父と抱き合って泣いた。
「なあ、これからどうしたらいい?」
もらい泣きで腫れあがった眼を拭きながら、ライルはDに訊いた。
「今夜は助かったが、村の奴らは明日また血を撒くぞ。ここにゃ置いとけねえ。かといって、家へ戻っても、すぐに捕まっちまうしよ」
「ここへ残せ」
「何だと!?」
と血相を変えたのは、義父である。
二度と生贄なんかに差し出すつもりはない。三人で他所の土地へ行くとまくしたてるのを、セシルが制して、
「他所へ行っても、私のことが知れたら、受け入れてなんかもらえません。それに、|義父《とう》さんも|義母《かあ》さんも、これから新しい生活がはじめられる年齢じゃありませんわ」
村の規範を破って逃亡しても、似顔絵と名は近隣の村々すべてに連絡され、ほとんどの場合、立ち入りを拒否されるのが掟だ。新しい人生を得るために、逃亡者はさらに遠い辺境へと足を運ばねばならない。
「ここへ残し、夜だけ守る。昼の間に貴族を斃せばよかろう」
Dの意見に、ライルは両手を叩いた。
「名案だ。それでいこう」
「しっかりやれ」
とDは言った。
「何だあ? ――また、助けてくれねえ気か?」
「貴族は別の犠牲者を狙う恐れもある。そうなれば、この|女性《ひと》を助けた|義父《ちち》上や君の身も危ない」
「そう言や、そうだ」
ライルは青くなった。生贄さえ捧げれば貴族の害が収まると信じているかどうかはともかく、セシルが無事なせいで他の犠牲者が出れば、村長たちは黙ってはいまい。セシルばかりか、彼女を救ったライルたちも責任を問われるだろう。治安官が止めても、|私刑《リンチ》は免れまい。
「いくら吸血鬼ハンター“D”だって、村中を見張るわけにはいかねえやな。こりゃ、是が非でも陽のあるうちに、あの貴族女を見つけ出して、杭を打ちこまなきゃならねえ」
ライルは壁から銛を引き抜き、不安な表情になった。
「こいつで心臓をぶち抜いても、あの女は平気だった。いくら貴族だって、少しおかしかねえか」
「貴族にも色々いる」
Dの答えは、ライルを愕然とさせた。
「人間による殺戮を恐れて、肉体を機械化させたもの。分子構造を自由に変化させて霧や虹に変わるもの。文字通りの鋼の筋肉を得るものも。だが、いまの女はどれとも異なるようだ」
「あんたも知らねえ敵か。こりゃ、絶望的だわ」
ライルがおどけて腕を組んだところへ、
「いまの貴族が、他の人を襲うということはありませんの?」
セシルが不安気に訊いた。
「おれの針に貫かれた傷は、治療にまず二日。他人を狙う余裕はあるまい。今夜は安全だ」
言い置いて、Dは外に出た。
ライルが追ってきた。口をへの字に曲げて、
「もうあんたにゃ頼まねえ。セシルはおれひとりで守って見せらあ」
「それは結構」
鞍にまたがったDの腰のあたりで声がしたような気がして、ライルは束の間、茫然となった。
「顔に似合わねえ親父声を出すなあ。だけど、よく覚えといてくれよ。おれとあんたのやり方が同じだって場合もあるんだ。そんとき、邪魔しただの何だのと吐かすな。おれはおれのやり方でセシルを守ろうとしてるんだからな」
Dは無言で馬を走らせはじめた。
その背中へ、
「ありがとよ。セシルを救けてくれたこと、忘れねえぜ。――あんた、顔は鉄仮面だが、いい奴だな」
ライルは片手をふり回しながら叫んだ。それから、
「好かねえ親父だが、村長だ。ひとつ会談といくか」
とため息混じりに言った。
3
「どこへ行く?」
手綱が訊いた。左手で握ったあたりである。
答えがないので、
「沼か。おまえの眼なら、夜の水中でも昼と同じじゃろうが。昨日見つけたもの[#「昨日見つけたもの」に傍点]の中に、貴族の手がかりでもあったかの?」
Dは答えない。秀麗な|貌《かお》は、ただ、前方の闇だけを見つめている。その髪を風が撫で、コートの裾を翻す。
「あの女――やはり、昨夜の犯人だったようじゃな」
左手がつづけた。
「となると、ただの貴族ではなさそうじゃ。また、厄介な奴が出たかの。その秘密――沼へ潜ればわかるか? 貴族の『研究』とやらに、関係がありそうじゃが」
それから少し口をつぐんで、声は、
「風が冷たい。林檎とスモモの匂いがするわ。――秋じゃのお」
と言った。
「|浪漫的《ロマンチック》な貴族なら。眼を醒ましそうな季節じゃ。こんな事件が起こるのも、頃合いかの――おっ!?」
驚きの声が上がる前に、Dは手綱を引き絞っていた。
道は森を出て、草原を走っている。
前方に盛り上がった土手へと延びるその頂に、白い人影が飄然と立っていた。
折しも、月は頭上にあった。
この季節にふさわしい年齢が十七、八歳であるならば、白いドレスの娘はその年齢であろう。この季節にふさわしい色がくすんだ緑ならば、娘の髪はその色であった。この季節にふさわしいものが落葉ならば、それは娘の足元に舞っていた。
「貴族か」
左手の問いは、確信であった。
秋の夜にひかれて現れた貴族は、ひとりではなかったのか。次の瞬間、Dは一気にサイボーグ馬を突進させた。
大の男でも跳びのきたくなるような爆走を、娘は微動だにせず迎えた。
髪と同じ色の瞳にはDが映り、もの想いにふけるような表情は、彼と秋への賛辞を紡いで――
馬上からDは右手を旋回させた。
鞘走る光は、沼での包囲を断ったごとく、あり得ぬ長さの弧を描いた。
Dの刀身が手応えを伝えぬとは。
|白刃《しらは》の巻き起こした風に押されて遠ざかる白霧を、Dは見た。
数十メートルを音もなく流れ、それは左方の木立の根元にわだかまって、娘の形をとった。
身を翻す背に、Dは右手を上げた。刀身は口に咥えている。黄ばんだ色が視界を横切った。針は娘の背をわずかに外れて、かたわらの幹を貫いた。
「いろいろ出るのお」
声に揶揄する調子はない。
黒い騎士と白馬を月光が包み、秋の夜はさらに更けようとしていた。
Dは左手へ眼を向けた。黄ばんだ葉を指が握っていた。力をこめて開くと、枯葉の破片は風に乗って飛んだ。
「木の葉が邪魔をしたか」
と手のひらに生じた口がつぶやいた。
「いま、眼醒めたくなるのも道理――秋を味方につけた貴族か。これはちと厄介じゃな」
答えは無論ない。
天上の美に彩られた黒い戦闘士も、秋のもの想いに囚われたようであった。
その晩は、この村はじまって以来の多くの出来事が生じた。
吸血鬼ハンターが、野原の一角で白い娘と対峙した時刻、小さな家の中では、うたた寝中のヘルガ婆さんが不意に眼を醒まし、いま見た夢を反芻しようとしたが、うまくいかなかった。
同じ頃、隣村での所用を終えて帰宅した夫婦は、眠っているはずの娘が居間の椅子にかけているのを見つけ、肩をゆすったら、突然、彼女が死んでいるのに気がついた。
その少し後、村長のマートクは、深夜に押しかけてきた息子と召使いとの口論で、ベッドから現実へ引き戻された。
「勘当した以上、おまえは倅ではないぞ。明日にしろ」
「法律上は親子だよ。急用だ」
叩きつけるように言ってから、ライルは鼻の先に包帯を巻いた父親に爆笑を放った。
「はじめて、親愛の情を感じたぜ」
「用件を言え」
「護衛団の連中に、こう命令して欲しいんだ。昼は貴族の巣を探し、夜は村中の家という家を巡回して、青い服の女貴族を見つけたら連絡をよこせとな」
村長は愕然と息子を見つめた。
「貴族と会ったのか……すると、やっぱりセシルのもとへ。まさか――まさか、貴族の邪魔をしたのではあるまいな」
凄まじい怒気に辟易しながらも、ライルは退かなかった。
「邪魔ねえ。とにかく、セシルは初夜を無事に切り抜けたぜ。おれの言ったこと、わかったかい? あんたはおれからおふくろを奪った。それくらいの罪滅ぼしをしてもいいだろう」
「あいつが死んだのは、野盗どものせいだ。伜の分際で、今の今までさんざん逆らいおって。被害者面をするな」
「野盗に馬車を襲われても、旦那が自分だけ先に馬を切り離して逃げなきゃ、おふくろは助かってただろうよ。これ以上、人を死なせるのはよしな」
「……セシルが無事。そして、この提案――おまえひとりの考えじゃああるまい。あのハンターが一枚噛んでいるな。このままでは、済まさんぞ」
「おかしな復讐を考えるより、貴族を片づけるのが先だろ。セシルはおれが守る。あんた方は、貴族を見つけてくれりゃあいいんだ。後はあの色男が始末してくれるさ。あんたも実力は見ただろ」
村長は沈黙した。ライルの言葉は的を射抜いていた。鼻先を失ったとき、村長の胸に兆した感情は、戦慄と怒りと――この若者ならば、という祈りにも近い希望であったのだ。
「な、それだけでいいんだ。貴族と戦う必要はねえ。あいつを探し出す人手が必要なんだ」
父親の様子に可能性を見出し、ライルがさらにたたみかけたとき、
「人手はいるさ――Dを|殺《ばら》すのにな」
ドアを押し開けて入ってきたバズラの両手には、白蝋の顔に死を宿した娘が抱えられていた。
「これは――!?」
椅子から立ち上がる村長に、
「坊っちゃんは余計なことをしてくれたようですぜ。シャケロの娘です。両親がさっき隣村から帰ったら、このざまだ」
「まさか……」
茫然とするライルへ、凄まじい二組の視線が熱湯のように注がれた。
「探すのはハンターの方らしいな。おまえもただでは済まんぞ、ライル。――奴は何処にいる?」
村長は、|古《いにし》えの習慣に一片の疑問も抱かぬ、頑迷な老人に戻っていた。
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第三章 ハンター狩り
1
夜明け前に戻ってきたDの姿を見て、ある夢を見てから眠れずにいたヘルガ婆さんは、あれま? と洩らした。
闇の中でさえ、鋼のようにかがやいて見えそうなハンターの全身は重く濡れ、床にはとめどなく水滴が落ちている。
「また泳いで来たのかい? あんたも大変だねえ」
しみじみと言って、昼間、バズラ一派に痛めつけられた手首の包帯を撫でるのへ、
「その傷は重いか?」
とDは訊いた。
「そりゃ、あんた。鞭で叩かれてね、肉が裂けちまった」
「見せてもらいたい」
「え?」
と婆さんは、うす気味悪そうに、
「お、おかしな趣味があるねえ。人の傷を――沼の中で何か見つけたのかい?」
「確かめたいことがある」
「わかったよ。あんたのやることに間違いはないさ」
年にも似合わぬ滑らかな手つきで、包帯に螺旋を描かせはじめた。
「ほれ」
突き出された上腕部の皮膚は、一〇センチ近くが生々しくはじけ、肉が露出していた。オレンジ色なのは薬のせいだろう。昼、Dが帰宅するときに、婆さんは自分で手当てを済ませていた。
「見せてもらった」
とDは静かに言った。
「一体、何を見つけてきたんだい? あの沼の底には、やっぱり、貴族の遺跡でも?」
「あった」
老婆は眼を剥くと、不意に気づいたように、
「わかったのかい? 奴がそこで何を研究していたか?」
「世界だ」
「はん?」
「貴族には子供がいたか?」
「そう言えば――確か、ひとりいたとか……言い伝えだけど……娘だと思ったよ」
「どんな娘だ?」
矢継ぎ早の質問に、婆さんは眼を白黒させた。
「話だけだけどね。――えらい別嬪だとか。ただ、親父に負けず劣らず残忍な娘で、毎晩、村へ出ては、小さな男の子だけを選んで吸い殺したそうだよ。風体は……うす緑の髪に、いつも白いドレスを着てたって」
婆さんは探るようにDを見つめたが、そのままでいると我を忘れてしまいそうな美貌は、眉根ひとすじ動かさず、
「他に子は?」
「いやあ。聞いたことないね。――そうだ」
婆さんが手を叩いた。
「娘のことはそれ以上知らないけど、いつも影みたいに付き添ってる侍女がいたそうだよ。これがまた、主人|父娘《おやこ》以上に――」
「年の頃は十八、九。青いドレスに黒い髪」
「その通り……出てきたのは、そいつかい?」
「生贄を狙ったのはな」
「へえ。おかしなのが現れたね。結構、厄介な奴だよ。早いとこ、|塒《ねぐら》を探して心臓に杭を打ち込まないと、まだまだ犠牲者が出るよ」
「おれの杭は心臓を貫いた」
沈黙が下りた。恐ろしい沈黙であった。
「あんたの杭が……胸に刺さって……それで逃げたって?」
「そうなるな」
「まさか……滅ぼせないってこと……ないよね?」
「仕事は果たす」
婆さんは長い息を吐いて、身体を弛緩させた。
「それだけを聞くために、あたしゃ生きてたような気がするよ。――よろしく頼むよ、D」
のろのろと立ち上がり、婆さんは窓の方を見た。カーテンは下りていない。
水のような光が、東の空を染めていた。
「やっぱり、秋の朝の色はちがうね。もう少し、この村においでよ、D。そうしたら、森中の木の葉が、赤く燃え上がるんだ。そして黄ばみはじめたら、この村は世界でいちばん美しいところになる」
「そこまで仕事は延ばせまい」
Dは言った。老婆は黒い騎士を見つめた。秀麗な横顔は窓の方を向いていた。
木々の燃える秋を、この若者は決して見ることがあるまいと、ヘルガ婆さんは思い知った。それまで彼はこの村にいまい。さもなければ、村人が見るのは貴族ではなく、吸血鬼ハンター“D”の|屍《しかばね》にちがいない。
婆さんの脳裡に、唐突にある光景が浮かんだ。
Dの後ろ姿であった。
金色の落葉が繚乱と舞い落ちるその中を、黒衣の若者は飄然と去っていくのだった。
そのために、彼はやって来たのだろう。
淡い哀しみが老婆の胸を満たした。八十年の歳月を彼女は想起した。喜びと怒りと苦しみ、そして哀しみの繰り返しが、枯れた枝みたいに変えてしまったこころ。――そこに再び滲み出したものは、かつて感じたことのない痛切な想いであった。
これ以上、何を悲しめというのかね。|人間《ひと》は、哀しいことだけを幾つになっても繰り返しながら生きていくのかね。――婆さんのかたわらで、秋の夜は明けようとしていた。
「……いい手があるよ」
と婆さんはDに言った。
「昔、村へ来た魔道士が教えてくれた術だよ。吸血鬼の塒を探し出すことができるんだ。ちょっと、この|年齢《とし》になるとしんどいから、使いたくなかったんだけど、ひとつ、やってみるさ」
決意のせいか、こわばった肩に、身の毛もよだつほど美しい手がそっと触れた。
「依頼人が死んでは、おれが呼ばれた甲斐がない」
「いいんだよ、あたしにも責任があるんだ。もっと早く――林檎の異常に気づいてすぐ、あんたに連絡を取ればよかった」
「止めはしないぞ」
「わかってるって。いいんだよ、あたしが勝手にやるんだから。――せめて、もう少し、眠気が醒めてからにするわ」
Dは無言でドアの方へ向かった。超人的な体力を有するダンピールとはいえ、眠りは欠かせない。特に、昼の眠りは。
すぐに起きるつもりが、三時間も過ぎていた。
一杯、熱いお茶を飲んでから、ヘルガ婆さんは準備に取りかかり、さらに一時間後、床に魔法陣を描き終えたとき、空気を断ち切る疾風の音を聴いた。
それが幾つも、納屋へ向かっていると知り、駆け出そうとした背後から、男の手が鼻と口とを押さえた。
バズラとその部下は、裏口の鍵を外し、足音もたてずに忍び入ったのである。
ふがふがともがく婆さんは、納屋から立ち昇る煙と炎を目撃して血の気を失った。
庭には、火矢をつがえた|弓師《ボウマン》たちの円陣が小さな小屋を取り囲んでいる。
「声を出すんじゃねえよ、婆さん」
とバズラは凄みをきかせた。喉に巻いた包帯の下には人工声帯が埋めてある。貴族の文明が遺した利益のひとつだ。
「夜明けはダンピールにとって、いちばん代謝機能の鈍るときだ。おまけに、火攻めとくりゃ、最悪の攻撃法さ。いくら、世に名高きハンター“D”とはいえ、脱け出せっこねえ。脱け出してもみろ。一秒に三本の矢を放つ|弓師《ボウマン》二十人の餌食よ。悪く思うなよ、婆さん。あいつが|昨夜《ゆうべ》、セシルを救ったおかげで、早速、別の犠牲者が出た。報いを受けさせねえとな。このことは、村長もご存じだ」
婆さんの力が脱けたのを見て、バズラは手下に解放するよう命じた。
「何てことをするの……」
力なく椅子にへたり込み、婆さんは死を間際に控えた病人のような声で呻いた。
「あのハンターが、最後の希望だったのに。……あの若いののおかげで、これから何百人、何千人の生命が救われるかも知れないんだよ」
「安心しな。この村なら、おれたちが守ってやらあ。おれたちみんなで、村中の小石までひっぺがえして貴族を狩りたててくれる。年寄りはつまらん心配はせずに、薬草でも煎じていな」
「生贄はどうする気だい?」
「セシルなら、もとの場所へ置いておくさ。今度は|義父《おやじ》と|義母《おふくろ》を取っ捕まえた。もう、悪あがきはできやしねえ。村長の極道息子も牢屋へぶち込んでやったしな」
「まだ、わからないのかい? おまえたちごときに滅ぼせる貴族じゃあないんだよ」
「何をぬかしやがる」
副頭目格が、いきなり平手打ちを見舞おうとしたとき、外から、驚きとも恐怖ともつかないざわめきが上がった。
「出たか!」
叫んで窓辺に走り寄るバズラの手にも、強弓がゆれている。
炎塊と化して風を呼ぶ納屋の前に、Dは忽然と立っていた。
「お逃げ、D」
と婆さんが叫んだ。
「こいつら、あんたを殺して、セシルを同じ場所で生贄に捧げる気だよ」
「何をしてる。射て!」
副頭目の叱咤に、|弓師《ボウマン》たちの肩はふるえ、全身は石のように堅く緊張した。それなのに、Dへと向かう矢はひとすじとてない。
黒衣のあちこちから炎を噴き上げながら、静かに立ち尽くす姿――その美しさ、その凄まじさに、全員が異様な感動を覚え、凍りついてしまったのだ。
「ええい、何を――」
怒りの絶叫を、びゅっと貫いて走ったものがある。鋼の矢は真一文字にDの胸へと飛び、そして――貫いた。身動きも許さずに。
放ったバズラが、あまりのあっけなさに、
「おっ!?」
と叫んだほどである。一〇〇キロを超す衝撃をこらえて数秒――背中から|鏃《やじり》を露出させたDは、どうと前のめりに倒れた。
「まさか……」
茫然と窓辺に近づき、ヘルガ婆さんは愕然となった。
「この匂いは――あんた、矢に|大蒜《にんにく》のエキスを塗りつけて飛ばしたね?」
「ばれたか。何せ相手は吸血鬼ハンター“D”だぜ。それくらいの準備はしておかなくっちゃあな。それと、この弓――『都』で仕入れたんだが――光線式照準装置がついている。一度狙いをつければ、後は矢の方が刺さるまで追いつづけるのさ」
これこそ、バズラの奥の手であった。庭に向けて、
「どうだ?」
「死んでます」
と恐る恐るDに近づいた男が言った。
「死体は――そうだな、重しをつけて沼に捨てろ。どうも、ただの処分の仕方じゃあ落ち着かねえ」
Dを斃した興奮からか、バズラの声は昂っている。老婆と床の上の円陣に眼を移して、鼻先で笑い、
「へ、何を企てたのか知らねえが、こんな時代遅れの術で、世の中何とかできると思ったら、大間違いだぜ。おっと、動くんじゃねえ。このままおとなしくしてりゃあ、せめて、この家からは追ン出さねえでやるよ。村八分は免れないとこだがな」
一同が出て行くと、老婆はしばらく放心状態に陥っていたが、やがて、のろのろと身を起こし、魔法陣の真ん中に立って、こうつぶやいた。
「つづけてみるよ、D。あの世で見ていたら、貴族の塒に化けて出ておやり」
2
Dの処分に当たったのは、二人の男であった。バズラたちと別れて沼へ行く間、彼らは何度か気味悪そうな表情を見交わした。
鳥の声ひとつしない荒涼たる道なのに、誰かに見られているような気がしてならないのである。それも、すぐそばで。
沼のほとりに出ると、Dの身体を荷物運搬用のキャンバス地の袋で包み、石ころを詰めて水中へ投じた。
沼の真ん中まで出て――などとは考えもしなかった。
正解であった。
二つの蹄の音が一目散に駆け去った後で、波紋も消えた水中から、黒い棒状のものが勢いよく噴き上がり、再び水の中に没した。
Dの心臓を貫いた鋼の矢であった。
そして、ひと呼吸の間も置かず、狭いとは決して言えぬ沼の水面に、奇怪な現象が生じはじめたのである。
Dの死体を投じたあたりの水面が漏斗状にすぼまり、澱んだ沼の水が滔々とそこへ流れ込みだしたのだ。
まるで、沼ほどもある巨大な魚が、思いきり水を吸い込んでいるような、それは悪夢にも似た光景であった。
「畜生、ここから出しやがれ!」
思いきり鉄格子をつかんでゆすったが、ドア一枚隔てたオフィスにいる治安官の返事はない。
代わりに、隣の房から、
「もういいんだ。これ以上、おれたちが動くと、セシルが酷な目に遭わされる」
恋人の義父の意見に、ライルは唇を噛んで力を抜いた。
深夜、父親である村長の家から治安官事務所の留置場へ入れられて以来、何十度となく繰り返された抵抗と自制であった。
彼が拘置されてすぐ、セシルの義父が来た。義母とセシル本人はどうなったか知らされず、二人を残して治安官が去った後は、誰もやって来ない。
「なあ、|義父《とう》さん。セシルはどうなると思う?」
黙ってはいられない気分で尋ねると、
「おれの方がききてえよ」
昨夜、セシルを救いに駆けつけた勇者とは思えぬ弱々しい声の応答も、何度繰り返しただろうか。
「えい、畜生」
どうせ自分たちも苛酷な処罰に遇う。半ば|自棄《やけ》で鉄格子を蹴とばした。
合図のように境のドアが開き、数個の人影が入ってきた。
「この、糞ったれ村長」
思いきりのばした手と指の向こうで、ライルの父親は不快げに唇を歪めた。後は治安官と二人の護衛である。
「おまえたちの処罰が、村営会議で決まった」
村長の宣言に、さすがのライルも束の間、息を殺した。辺境の村の罰は、苛酷な環境に応じて重い。最も軽くて鞭打ち百回だ。半分も打たれると肉が裂け、最後は骨まで見える。その後に、塩をすりこむという世にもやさしい手当てが待っている。最高刑は言うまでもなく絞首台。その下が追放だ。
「ふたりとも鞭打ち百。おまえの女房は咎めなし。――ありがたく思え」
「てめえ、セシルに何をした?」
ご慈悲だと喜ぶかわりに、ライルは激怒した。
あまりにも軽微な|科《とが》には、何らかの見返りが要求される。セシルがらみなことは、一目瞭然だった。
息子の眼の前で、村長は冷ややかに告げた。
「怒るより、セシルに礼を言うがいい。昨夜の失態は許し難いが、二度とおまえらの企てには乗らん旨を誓ったぞ。運命に従うということだ。もう、昨夜と同じ場所で、夜を待っておる」
「おれを甘く見るなよ、ヘボ村長。必ず、この腐れ牢から脱け出して、セシルを救い出してみせる。こんな、うす汚ねえ村にもう未練はねえ。てめえらが気がついたとき、おれもセシルも旅の空よ」
「好きなだけほざけ。どちらにせよ、おまえたちの仕置きは明日だ。貴族は捧げものに満足するだろう」
「てめえ。村長のくせに、村のものを犠牲にしなきゃあ村を救えねえのか!?」
村長はセシルの義父を一瞥し、
「おまえの女房は家に戻っておる。おかしな真似はせんよう見張りをつけた上でな」
こう言うと、息子の悪罵に耳も貸さず出て行った。
「あきらめな」
と、少しは人のいい治安官がドアのそばで言った。
「バズラが、Dも斃したと言ってた。もう、セシルはどうしようもねえよ」
「Dが――殺られた?」
ライルには信じられなかった。沼のほとりでバズラ一行を苦もなく凍りつかせた剣技の冴えは、なおも眼に鮮やかだ。
「ああ、死骸は沼に沈めたらしいぜ。いくらダンピールつっても、溺れたら甦りゃしねえさ」
今度こそ、ライルは床にへたりこんだ。
それを絶望のあまりの喪神と見て、
「元気出せ。その分、セシルはおまえたちを救ってくれたんだ。感謝しねえと罰が当たるぞ」
治安官が出て行っても、ライルは立ち上がらなかった。
隣から、セシルの義父のため息が聞こえた。
「大丈夫だよ、親父さん。――Dは、あの女の傷は治るのに二日かかると言った。今日一日はセシルも安全さ」
「けど、村長さん|家《ち》で聞かなかったのか? シャケロんとこの娘は、おれたちがあの女を追っ払った後で殺られたんだ」
「何かの間違いだよ」
「そうだとしても、どうしようもねえだろ?」
苛立ちと怒りと哀しみの混じり合った声に、ライルは返事をしなかった。
辺境において、昼の意味は、都市部の人々の考えを遥かに凌駕する。
人々が真に生きることを許されるのは、そこだけなのだ。
畑を耕し、果実を集め、牛を飼い、魚を釣る。――この戦いに、あとふたつの戦いが加わる。
妖獣を追い払い、霧状生物を狩り、杭打ち機で地中から侵入しようとする妖物を食い止める戦いが。
そして、最後のひとつは――ある地域では行われなくなって久しく、ある地域では厳然たる要求の下に今なお欠かせない行為。「シャーリイズ・ドア」では、そのどちらでもなかった。
長いことその必要はなくなり、それなのに一種の習慣として、営々と継続されてきた夜への準備――白木の杭を削り、鏃を尖らせ、長剣の刃を磨く。軒先には|大蒜《にんにく》を吊るし、その汁を子供の衣類に染み込ませなくてはならない。
いま、それを忘れずにいたことを、杭と大蒜の貯えを、人々は天に感謝した。
しかし、最もそれを必要とするものに与えられることはなく、また、与えようと努力しなければならないものは成す術もなく、昼は刻々と過ぎていった。
3
沼のほとりで、ヘルガ婆さんは馬車を降り、水際へ近づいた。顔に翳が濃い。秋の日は遠い山の端にかかろうとしていた。
おろおろと水面を見渡す瞳に、おぼろな、そして、まぎれもない驚愕の色が波紋のように広がった。
「こ、こりゃ……一体?」
と呻いた背中に、
「やっぱり、来やがったか」
嘲けるような声がかかった。
ふり向いた婆さんの眼には、しかし、何も映らない。声の判別だけはついた。
「バズラだね。こんなところで何をしてるんだい?」
「知れたこと。吸血鬼ハンターを助けに来るような馬鹿がいるんじゃねえかと思ってな。もっとも、おれも、いま着いたとこだ。他はすべて片づいたが、あの色男だけは、おれにも今ひとつ自信がねえ。そこで戻って来たのよ」
「この沼の水――あんたの仕業じゃないのかい?」
指さす婆さんへ、姿なき声は、意外にも驚きを隠さず、
「そんな芸当はできねえよ。どうやら、虫の知らせに従って正解だったようだな」
「それじゃ、一体、誰が……」
「言いたかねえが、沼に沈めた野郎かな」
声の判断は冷静であった。自己過信のかけらもない。婆さんはぞっとした。
「さっき、訊こうと思ったんだが」
声は話題を変えた。
「婆さんよ、あのときの魔法陣――おれにも覚えがあるぜ」
「えっ?」
「この村へ来る前、西の町で、ある魔道士の興行を見たのよ。確か、貴族の居場所を探る法だったな」
蒼白となる婆さんの顔へ、
「図星だな。それを聞くのは、Dではなくおれだ。さ、答えろ」
いきなり婆さんは駆け出そうとした。意図ある行動ではない。恐怖のあまり、闇雲の反射運動だ。二歩といかないうちに、両足首をぐいと掴んだものがある。
「ひい!?」
勢い余ってつんのめった婆さんの足首を握りしめているのは、何と地中から生えた二本の腕であった。
五指が離れると、真上に突き出された腕はゆっくりと上昇を開始し、地球のかけらをふり落としながら、それをつけた人間――バズラの全身を導き出したのである。
「お、おまえ……は?」
驚愕の老婆へ、護衛団のリーダーは、全身に残る黒土を払い落としながら、にんまりと微笑んでみせた。
「心臓がイカれたら勘弁しろ。これがおれの特技だよ。相手が敵だと、いまの手に剣か槍が握られる」
戦い慣れた戦闘士ならば、誰でも周囲や、上空にも注意を払うだろう。しかし、自分が踏みしめて立つ土の中から――足の下から真一文字に、電光の速度で加えられる攻撃を、はたして防ぎ得るかどうか。
「どうした、腰でも打ったのかい?」
残忍そうに笑って、バズラは背中に背負った連射弓を構えた。
「いま、憶い出したのさ」
と、婆さんは、じりじりと、上体を起こした姿勢で後退しながら言った。
「十二、三年前、ここより東の地域が襲われて、金貸しが十何人も惨殺された事件があった。いくら調べても、犯人の逃走方法がわからず、みな、股間や下腹に傷を負っていたという。――あんただね?」
「よく憶い出したな――と言いてえが、憶い出させてやったのよ。これで、おめえを始末する理由ができたぜ。もっとも、村長にゃ別の理由を伝えるがな。気の毒に。黙って余生を送ってりゃいいものを、こんなちんけ[#「ちんけ」に傍点]な村に義理立てしようなんぞと考えるから、寿命前に死ななきゃならねえ。ま、せいぜい、あと一、二年だったとあきらめな」
弓の引き金にかけた指に力がこもった。
地中に潜む怪人――その男が、まさか、自ら足をすくわれようとは!?
強烈な力にかっさらわれ、うおっと叫んで前傾しながらも、上体だけをねじって足下を見たのは、さすがの体術であった。
弓は射てなかった。
彼に出来たのは、眼を見開いて、硬直した身体を地面へ叩きつけることだけであった。
その足首から指を離し、沼の方へ後じさっていくものは、どう見ても、世にも美しい人間の左手首であった。
ののしり声にならず、太い吐息とともにバズラは矢を放った。
鋼の矢は空砲をエネルギー源とする。レーザー・ビームに導かれる飛翔速度は、手首まで〇・一秒。びしっと手の甲から平まで地面に縫いつけた――かに見えたが、寸前、手首は人間のものとも思えぬ速さで身をひねり、方向転換不能で地面へ突き刺さった矢の向こう――池の中へと身を躍らせたのである。
その刹那、
「はい、残念」
嗄れたおちゃらけた声を確かに聞いて、バズラは二の矢も放てなかったが、次に遭遇した驚きは、戦慄さえ伴っていた。
「ん?」
いま飛び込んだ岸の縁から、またも、その手首が出現したのを彼は認めたのだ。
同じ手首? ――いや、動きが違う。矢を避けたせせこましいとさえいえる迅速さの代わりに、いま、黒土に指をめり込ませ、じりじりと這い上がってくる動きには、見たものを釘付けにする優美さがあった。
まさか。
バズラは想起した。沼の水位が半分以上も下がり、その中央に、まぎれもない廃墟の尖塔や城壁らしきものがのぞいていることを。
Dを放り込んだ結果か、これが。
闇の魔のように黒い旅人帽がせり上がってきたとき、バズラは第二矢を放った。
頭部を貫くはずのそれは、空中で黒い手に掴み止められていた。
第三矢が飛んだ。弓に仕掛けられた矢は六本あった。そのことごとくが、美しい火花とともに弾き飛ばされるとは。
視界が闇に閉ざされた。
急速に落ちる秋の日にも似て、宙に舞ったDの、化鳥のごときコートの広がりであった。
そのどこかから白光が迸った。
血煙が上がった。
伝わる手応えの異常を、Dは感じていたかも知れない。
バズラの全身は、虹色の液体で覆われていた。少し混じった朱は、Dの一刀が断ち割った頭部の噴いたものだが、後の色彩は彼の汗腺が分泌した奇怪な液体であった。それはDの必殺の一撃を滑らせ、致命傷を免れさせたばかりか、もと傭兵の立つ足下の土をも溶かし、その身体を瞬時に大地深くへ埋没させてしまったのである。
それ以上の攻撃は加えず、Dはヘルガに近づいた。
「やっぱり……やっぱり、あたしの見込んだ通りの男……生きていたんだね?」
感動か怖れか、舌の根ももつれる老婆へ、
「腰を痛めたか?」
とDは訊いた。
「違うよ。抜けたんだよ」
Dは身を屈め、老婆の腰に左手を当てた。
途端に婆さんは身を起こし、
「あら、治ったよ。氷をくっつけたみたいだ。その左手には、秘密の薬でも塗ってあるのかね」
「なんの」
と返事があった。
老婆は眉をひそめて、
「若いのに、じじくさい声を出すねえ」
D――無言。
「どうやって生き返ったか訊いても、教えちゃくれないだろうね? ま、いいさ。それより、じきに日が暮れるよ。セシルが危ない」
馬車の方へ戻りながら、老婆はその日起こった出来事を物語った。
「――てなわけさ。あたしゃ、術のせいでひっくり返っちまって、気がついたら半日経ってた。せめて、あんたなら生き延びてるかも知れないと、やって来てよかったよ」
二人は馬車に乗った。
「家であんたの馬に乗ってお行き」
「貴族の居場所を探る術は、成功したのか?」
走り出してすぐ、Dが訊いた。
「いいや」
と婆さんは馬に鞭をあてた。
その話はそれきりで、婆さんの家に戻るとすぐ、Dはサイボーグ馬にまたがった。
「気をつけて。何とか助けてやっておくれ」
手をふる婆さんの声は、すぐに遠ざかった。
玲瓏たる美貌を秋風が打つ。冴え渡る月光の下であった。Dは道を進まなかった。セシルの居場所はわかっている。馬は森を切り、岩だらけの丘を疾走した。
「ヘルガの身体に異常はなかったか?」
と尋ねたのは、二つめの丘を下ったときである。
「別に」
嗄れた声は、手綱を握る左手のあたりから聞こえた。
「わしにも異常は感じられなかった。あれは普通の人間じゃな」
「沼の底で見たものはどうだ?」
「わからん」
声は鉄蹄の響きに砕けた。間髪入れず、
「どうした?」
と訊いた。
Dは左方を見ていた。
横へ十歩と離れぬところを、白いドレスが並走しているのだった。
風になびくうす緑の髪は、秋の香りを運び、その肌は月光の色に似て――
馬上の人影が右へ傾いた。
同時に馬が跳んだ。着地するや、思いきり旋回する。蹄が土をえぐった。
疾走をやめぬ娘の足下から、月の光が迸ったようであった。
たおやかな肢体を垂直に断つ――娘は空中にいた。
その頭上に――いつ鐙を蹴ったのか、Dよ。
風が鳴った。
十分な手応えを感じて下ろし切った刃の上空で、娘は白い歯を見せた。
大地で体勢を立て直したDの眼は、左手の森の彼方へ吸い込まれていく白い影を認めた。
すぐに会えるわ
声がやって来た。風に乗っている。秋の風であった。
すぐに会えるわ 美しい|男《ひと》
すぐに
Dは刀身を収めた。
「よく仕損じる日じゃの」
左腰あたりで声がした。
「風のせいじゃな」
声の主は、娘へふり下ろした刃の勢いを削いだ風の強さを心得ているようであった。
「あの娘――どこから来た?」
Dは、少し離れたところに停止中の馬の方へ向かった。
「昨日も今日も、こうまで近くに現れるとなると、わしらの動きに通じているのかも知れんな」
声は重く応じた。
「となれば、身近にいるか。――あの婆さんの家はどうじゃ? 本人も知らぬうちに、貴族の隠れ家になっているとしたら?」
「貴族が人間の家に住むと思うか?」
「いいや」
声はあっさり告げて、
「それよりも、わしは別の方面に興味があるぞ」
Dは無言で馬にまたがった。
「あの女、何故、二度もわざわざ、わしらの前に顔を見せたか、じゃ」
馬は再び秋の夜を切り裂きはじめた。長い夜のはじまりであった。
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第四章 秋の歌
1
ほうほうの体で護衛団の詰め所へ逃げ戻り、バズラはドアを叩いた。
欠かさず持ち歩いているサバイバル・キットの薬と包帯で手当てはしたものの、傷口はいっかなふさがらず、頬を伝わる血潮の感触が生々しい。
街道まで地下を潜り、後は走ってきたせいで、心臓はすり切れた袋が破れる寸前の状態であった。
――必ず、お返しするぞ、D。
貧血気味でふらふらとドアにもたれかかりながらも、彼は復讐を誓っていた。
それよりも、ドアが開かない。
「何をしてやがる?」
明かりのもれる窓の方に回ってのぞき込み、彼は、げっ、と叫んだ。四、五人が血まみれで床の上に倒れているではないか。
顔をそむけ、ふた呼吸ほどして、もう一度のぞいてみた。
「――なんでえ」
疲れと恐怖と怒りで、幻覚でも見たらしい。部下たちはみな、椅子にかけて武器の手入れに余念がない。
ドアを開けて入ると、妙にひんやりとした空気が立ちこめている。
気のせいか、緊張のためか、みな、いつもより青白い。
「どうしました?」
全員が傷を見咎めた。
「ちょっとな。――Dは生きてるぞ」
弓をテーブルに置いて言った。
「知っていますよ」
ひとりの返事に眼を剥くまで、少しかかった。
「知ってる? ――何だ、そりゃ?」
「教えてもらったんですよ」
と別のひとりが言った。こいつら、どうしておれを取り囲みやがるんだ?
「誰にだ?」
くそ、弓のそばに、ショークがいやがる。
「あの人に」
みなの眼が背後を見ていた。それに合わせてバズラの瞳は、白いドレスの娘を刻みつけた。
「お、おめえは?」
娘の顔は眼の前にあった。息は冷たく、秋の夜の香りがした。
「また[#「また」に傍点]、会ったわね」
と初対面の娘はささやいた。
「大変だ」
セシルの義父の叫びにただならぬものを感じて、治安官は留置場へ駆け込んだ。
鉄格子の|内側《なか》で、ライルが胸を押さえていた。
「どうした?」
「ナイフを隠してたんだ。それで鍵をこじ開けようとしてたら、急に。間違えて刺しちまったんだろう。村長が怒るぜ」
最後の言葉が、何よりも治安官から冷静さを奪った。
「馬鹿が!」
大あわてで扉を開いた刹那、ヒイヒイ言ってた身体が思いきり跳ねて、治安官の鳩尾へ爪先をめりこませた。
「じゃあ、行くぜ」
「頼んだぞ。必ず助けて、二人して他所の土地へ行け」
「安心しなよ。二人とも迎えに来るから」
力強く格子越しに義父の肩を叩き、ライルは留置場を出た。治安官を代わりにぶち込んで施錠したのは言うまでもない。
オフィスへ入ると、連射弓と矢を五十本ほど背負い、外へ出た。
「待ってろよ、セシル。必ず助けてやるからな」
若者の胸には、決意と希望が激しく燃えていた。
昨夜と同じ場所へは、治安官の馬で二十分かかった。
血の匂いがした。撒かれたものと知りつつライルは青ざめた。
「セシル――無事か!?」
夢中で扉を叩いた。
「ライル――あなた、どうして?」
か細い驚きの声が扉越しにやって来た。
「お願いよ。放っておいてちょうだい。これ以上、村のやり方に逆らったら、あなたも|義父《とう》さんたちも殺されてしまう」
「だったら死んでやるさ」
ライルは大刃のナイフで錠前をこじ開けようとしながら叫んだ。
「誰かを助けるために誰かを犠牲にする。こんなやり方で生き残ったら、おれは一生、前を向いて歩けねえ。貴族が出るたびにこんなことをしてたら、どうなると思う。奴らを滅ぼせないまでも、おまえのような運命は許せねえ」
「日が暮れたわ。じきに貴族が来る。早く逃げて」
「安心しな。Dが言ったろう。二日は大丈夫だって。|義父《おやじ》さんたちも連れて、十分逃げられるさ」
「駄目よ。|義父《とう》さんも|義母《かあ》さんも、ここを離れられないわ」
「安心しろ。おれが暮らしやすくするよ」
錠前が外れた。
押し開けた扉の向こうに、顔をくしゃくしゃにしたセシルが立っていた。
ライルが近づくと、恋人は一歩下がった。
「あたし、あたし……どうしたらいいの?」
「とりあえず、ここを出る」
微笑したライルの胸に、今度こそ離れないとでもいうような勢いで、熱い身体が躍り込んできた。
しゃくりあげるその背を、ライルはやさしくさすって、
「さ、行こう」
とふり向いた。とりあえず、セシルを村の外へ脱出させ、自分はここへ戻って明日にでもあの女貴族と戦う。その後のことを、彼はあまり気にしていなかった。セシルを犠牲にはできないが、村に対して何の責任も取らないで逃げ出すことは、村人としての倫理が許さなかった。代償が必要だろう。
少し遅すぎたようだ。
セシルの肩を抱く手に力が入りすぎた。気づいて顔を上げた娘が、ひい、と低く叫んだ。
その声が消えぬ距離に、青いドレスの女が立っていた。
胸に咲いた赤黒い花は、Dの針がもたらしたものだろう。
2
「もう来やがったか!?」
セシルを押し離し、ライルは背の弓を構えた。安全|桿《レバー》を弾くと、空砲の|雷管《プライヤー》を叩くべく撃針が上がる。
「よい香りがする」
と女が舌舐めずりをした。
その顔面へ黒い光が突き刺さった。第一矢は、しかし、女の手に掴み取られていた。
二矢目も弾かれた。
女の動きが止まった。ライルの三本目は手の甲を貫いていた。茫然とそれを見つめる顔面と左胸に今度こそ、うなりをたてて飛来した鋼の矢は、矢羽根のもとまで深々と喰い込んだ。
女が避けられなかったのは、Dの傷をおして現れたせいだろうか。反対側の手を眉間を貫いた矢に伸ばし、握りしめると同時に、女は仰向けに草むらに転倒した。
「やったぜ! 暗雲は晴れた!」
心境をそのまま口にし、ライルは小躍りした。
「まさか……あたし……助かったの……?」
放心状態でつぶやくセシルを馬へ押し上げ、
「もう、誰に遠慮することもありゃしねえ。村へ戻ろう」
「ええ!」
秋風さえも歓喜に|温《ぬく》むようであった。一頭の馬と一組の男女は、意気揚々と村への道を辿った。
月の光の下に、ぼんやりと家並みが浮かびはじめたとき、
「誰か来るわ!」
馬上のセシルが指さす方向へ、ライルはすでに眼をやっていた。
「大丈夫だ。もう怖がることなんざありゃしねえ。かえって賞めてもらえるさ」
自信と喜びのあまり、ライルは牢の中で、セシルの義父が指摘したことを忘れた。すなわち、貴族はもうひとりいるのではないか、ということを。
近づいて来る人馬の影は停止した。
「おれだ。ライルだ。――貴族は片づけたぞ」
誇らかな声に、
「そりゃあ、よかった。一緒に来なよ」
と応じたのは、バズラとその一党であった。
生贄の小屋の前で、Dは女貴族の死体を発見し、馬を下りた。
止めを刺した矢には目もくれず、針の傷痕を調べていると、
「――完治しておらんのに、出て来たか。よほど飢えていたとみえるな」
嗄れ声の後半は、茶化した口調である。自分でも信じていないのだ。
「伝説の侍女だ」
とDは短く言った。
それが、無理を承知でセシルのもとへやって来た。主人に命じられたとしか考えようがない。
小屋へ入り、誰もいないのを確かめて、Dは死骸のそばへ戻った。
コートの下から小剣を抜き、女の乳房の間に当てる。
そこが女の秘部ででもあったのか、肉へ切り込んだ刃が燦然たる光芒を放った。いや、それは女の体内からこぼれる光条であった。
その美貌をさらに妖しくかがやかせつつ、Dは女の胸から腰にかけて縦に割っていった。
内圧で肉ははぜ、そこから血の代わりに、まばゆい光の帯が秋の夜空へ投げかけられた。
女は何者であったのか。
その内部にDが見たものは、血液と思しい真紅の液体を湛えた数本のガラス条管と、心臓に酷似した一塊のメカニズムであった。
その向こうに――ああ、それが光の源であった。
小さな太陽と、それを囲む暗黒に象眼された幾千億の星々よ。
光がかがやきを増した。
幻のように、Dは五メートルも彼方へ跳びのいている。
その眼前で、絢爛たる光彩が死体を呑み込んだ。
外側の世界との接触がもたらした結果であったろうか。内宇宙の消滅は、誰の予想をも裏切って静謐であった。
世界は限りなく青く白くかがやいた。
ひとつの影が消えてゆくその奥に、新しい人影が浮かび上がっていた。
「すでに、二度会った」
と、秋の髪をした娘は言った。
「次を最後にしよう。私はあの沼のほとりにおる。夜明け前に来るがよい。若い二人――預かっておるぞ」
光がDの網膜を灼き、急速にうすれていったとき、秋の|主人《あるじ》の姿もなかった。
ライルの逃亡の知らせを治安官から受け、村長は丸十分間、彼をののしってから、ひとり居間へ戻った。
治安官には、バズラへ連絡してともに捜し出せと告げて帰したが、どちらにせよ、夜が明けなければ動くのは不可能だ。
「馬鹿な奴めが。セシルを連れて逃げても、別の娘が差し出されるのだぞ」
肘掛け椅子に深々とかけ、村長は苦くつぶやいた。だが、声の中に隠しきれない安堵がこめられていた。
「こうなったら、どこまでも逃げろ。辺境を出て、誰も知らないところで、一緒に生きるがいい」
「そう思うか?」
鉄のような声が、うす闇に閉ざされた窓辺から聞こえた。居間の光は、小さなスタンドひとつであった。
「お、おまえは? 生きていたのか?」
「貴族は死んだ」
Dは短く言った。
「ほ、本当か!?」
「ライルの手柄だ。報いてやるといい」
「それが本当なら、無論だ。村のためにこの上ない働きだからな。――何処にいる? それに、証拠はあるのか?」
「夜が明けたら、戻るだろう。セシルと両親のことも忘れるな」
「わかっているとも」
村長は心底、了承した。
「ヘルガにも詫びねばならん。村の責任者としての仕事は、わきまえているつもりだ」
窓外の闇に、人影の闇が重なった。
吸血鬼ハンターが立ち去ったことを知り、村長は、今度こそゆっくりと椅子の上に手足をのばした。
今こそ、とっておきのワインを開ける時刻だった。
それが、少し早すぎることに、村長は無論気がつかなかった。
3
夜には香りが充ちていた。
眠りにつく寸前の草と木の葉、果実の匂い――そして、月光の。
瘴気もその仲間に数えられるのだろう。
半分に減った沼の水から噴き上がるそれは、かえって濃密に大気を埋め、月の光さえ歪ませてみせた。
沼のほとりにそびえる、ひときわねじくれた巨木の根元に、数個の人影が集合していた。
会話はない。みな、口をつぐんでいるのだ。しかし、人が集まっただけで生じる猥雑な気配みたいなものも、この影たちには無縁であった。
心臓は動くが呼吸はしていない。血管は体内を巡るが流れる血は冷たい。
「畜生――下ろせ!」
人間らしい声は、人間にはあまりふさわしいとも思えぬ場所――木の幹の半ばから落ちてきた。
突き出た枝の一本から吊るされているのは、セシルとライル――声の主はもちろん男の方だ。
「てめえら、貴族の家来に成り下がりやがって。恥を知れ!」
と叫んでも、すでに死して甦った男たちが気にするはずもなく、バズラだけが、ちら、と二人を見上げて、地の底から湧き出るような声で、
「本当は、おまえなどに用はない。セシルがおまえに手を出したら舌を噛むというので、連れて来ただけだ。じきに始末してやるから、あわてるな」
「それなら聞かせろ。おれたちをこんなところへ連れて来て、どうする気だ?」
それは、ここへ連行されるまで訊きつづけ、回答を与えられぬ問いであった。
「もうよかろう。――Dを斃すためよ」
「なにィ? あいつ、死んだんじゃねえのか?」
「殺した」
バズラは不気味な声で言った。
「だが、生き返ったらしい。やはり、吸血鬼ハンター“D”。並の相手ではないな」
「よくわからねえが、なら、勝負はついたぜ。おめえらみたいなインスタント貴族に、あいつが殺られるわけがねえ。あきらめて、墓の下へ隠れな。夜が明けたら、おれが暴いて、安らかにあの世へ送ってやるよ」
「おれたちだけなら|危《やば》いかもしれんが、あの方がいる」
バズラの言葉が、ライルを動揺させた。
「あの方? ――おめえらの血を吸った貴族なら、おれが始末したぜ」
声もない笑いが、ライルを空中で身震いさせた。
「つまらねえことを自慢する野郎だ。ひとつ、罰を与えてやるか。Dが来たら、どうせ始末するんだしな」
バズラは背中の矢筒から数本の矢を抜き出し、仲間のも合わせて二十本近いそれを、ライルとセシルの真下の地面に、鏃を上に埋めた。
それから連射弓を上向きに構えると、ライルが制止する|暇《いとま》も与えず、セシルめがけて放った。
矢はセシルを吊るしてあるロープの半ばを切り裂き、娘は悲鳴を上げた。
「まあ、十分ってとこか。愛しい恋人が鏃の上に落ちるまでにDが駆けつけ、おれたちを始末する――それしか、セシルを救う道はねえぜ」
「汚ねえ真似をするな。おれも射て!」
「そんなことしたら、面白くねえよ」
はじめて、バズラは笑い声を立てた。
「ライル」
と呼びかけるセシルへ向かって、
「しゃべるな。縄に力が加わるぞ!」
と若者は叫んだ。
「じっとしてろ。動くんじゃねえ。きっと、何とかなる」
「いいのよ、もう」
とセシルは静かに言った。
「あの小屋での死に方よりも、ずっといいわ。あなたがそばにいてくれる。ね、私が落ちても悲しまないで」
もう、ライルは叱咤しなかった。セシルの言葉が諦観の表現だったとしても、誰が責められるだろう。死すべき運命を二度も繰り返すことは、一気に止めを刺されるより、遥かに辛いにちがいない。
彼は目下できるだけのことをした。こう言ったのである。
「安心しな。おれもすぐに行くさ。こいつらと、どうやらもうひとりいるらしい貴族を片づけてからな」
「うるわしい話だな」
と下方でバズラが嘲笑した。
「それが成就する前に、Dが来ることを祈るぜ。おれたちゃ、そのために選ばれたんだからな」
そのとき、沼へと下る坂道の上で、フクロウの鳴き声がした。残しておいた看視の合図である。
「来たぞ。――持ち場につけ!」
もと傭兵らしい指令に、影たちはごついマスクで鼻と口を覆い、闇に溶けた。
坂の頂で騎馬の影が月光を撥ね返した。
ためらいもせず小走りに下りてくる。
警告を発しようとして、ライルは思いとどまった。何も言わずにバズラは消えたが、いつセシルの身体を鋼の矢が貫かないとも限らない。
Dが坂道を下りきったとき、四方から黒い塊が集中した。Dを狙ったものではなかった。彼の周囲に落ちた塊は、あっけなく砕けて、凄まじい臭気を夜気に混交させた。
大蒜のエキスであった。尋常ならば、貴族の下僕と化したバズラたちものたうちまわらなければならない。それを防ぐためのマスクであったろう。
一気にDは走った。
その身体が馬もろとも前方へ跳ねとばされたのである。
地中から突き出た短槍の穂が、馬の腹を刺し貫いたのだ。
空中でDの左手が閃いた。
悪臭の素を投じた位置を、彼は見抜いていたのかも知れない。
白木の針に何処かを貫かれた男たちが木陰から現れ、おのおのの武器をきらめかせてDへと突進した。
左手で鼻口を覆いつつ、Dは迎え討った。
右手のみの一刀――しかし、それが閃くたびに、うなり飛ぶ鉄槍は軽々と弾き飛ばされ、長剣は握った手首ごと地に落ちた。
十名近い男たちが心臓を貫かれ、斬首されるまで、それこそ十秒とかからなかった。
「凄え――凄えや、凄え」
ライルは絶叫した。叫ばずにはいられない月光の下の神技であった。
ちら、とDがそちらを見上げたとき、地中から飛来した一矢が、セシルの縄を断ち切った。
声を引いて娘は落ちていった。
立ち尽くすDの足下から銀光が逆しまに迸った。
それを鳩尾に受けながら、Dは大地へ一刀を突き立て、左手を上げた。
落下したセシルを受け止めたとき、刀身の下から、耳を覆うばかりの呻き声が上がり、黒土を蹴散らすように、バズラの上体が直立した。
Dの刀身は、その頸を後部から貫き、心臓へ抜けていた。わななく手がマスクを外し、
「ば……化物め……刺されても、刺し返すとは……」
Dの一刀を首に付けたまま、バズラは小走りに後退した。
恐るべきは吸血鬼の生命力である。追いすがるべきDはその場に片膝をついている。漂う大蒜の猛臭に、貴族の血が反応したのである。
連射弓が上がった。
空中にはライルがいた。
バズラの影が不意によろめいたのは、次の刹那であった。
空砲の放った矢は大地を貫き、首のない身体は前のめりに崩れた。
その背後で、家庭用の長剣をふり下ろした姿勢を固着させ、荒い息をついているのは、ヘルガ婆さんであった。
「これで一件落着だな」
セシルを寝かしつけ、居間へ戻ってきたライルの言葉に、婆さんだけがうなずいた。
「そのようだ。あんたも、よく頑張ったね」
讃嘆のまなざしに、ライルは頭を掻いた。
「それじゃあ、約束の金貨だよ」
テーブルの下から粗末な布袋を出して、婆さんはDにすすめ、
「あんたもじき、いなくなる。あたしゃ、淋しくなるねえ」
「そりゃ、まずいよ」
とライルがあわてて口をはさんだ。
「一件落着と言ったのは、バズラと最初の女貴族のことだ。もうひとり、大物がいるぜ」
「安心おし。もう、出て来やしないよ」
「どうして、わかるんだい?」
「勘だよ。それで、あたしはDを呼んだんだ。信じな」
それまで、凝固した冬の夜のように、戸口の壁にもたれかかっていたDが、
「おれは明日、ここを去る」
ぽつりと言った。
「しかしよ、おい――!?」
本気で焦るライルを尻目に、
「なら、あたしも連れて行ってもらおうかねえ」
婆さんは浮き浮きと言った。
「どうせ、先のない生命だ。ここでひとり老い朽ちるより、あんたと旅して色んなものを見て死ぬのもいいだろう。あ、放っといておくれ。勝手についてくから。あたしがおっ|死《ち》んでも、面倒なんか見なくてもいいよ」
「婆さんは死ぬが、おまえは死なん」
Dの言葉の意味が、ライルにはよくわからなかった。
「何だって?」
婆さんが眉をひそめた。
「貴族の居場所を占ったと言ったな。――何処と出た?」
「それは――」
婆さんは口ごもり、Dを見つめた。すぐに諦めたようだ。眼を伏せて言った。
「――この家の中」
「おれは廃墟へ潜った」
とDは姿勢も崩さずに言った。
「そう?」
ライルが愕然と立ち上がった。ヘルガ婆さんの声は、はじめて聞く若い女のものであった。奇怪なのは、放った婆さん自身も驚きの眼を見開いたことである。
「い、いまのは――一体?」
「見たのね。私の“住まい”を。でも、すべて溶かしたはずだわ。――残骸から見破ったの?」
これがともに婆さんの口から出た言葉である。
Dは答えず、
「なぜ、今頃出て来た?」
と訊いた。
「あの青いドレスの侍女も?」
「父は私のために“住まい”を造った。いいえ、“世界”と言ってもいい。あの中にいる限り、私は光に満ちた世界で永劫に生きられた。血液合成装置も完璧だったしね。百年前、父は貴族の運命を見越して、私が人知れず生きられるように、あれを造ったの。でも、やはり、血は争えなかった。百年以上我慢して、とうとう私は、人間の血が吸いたくて湛らなくなった」
夜の声で淡々と語りながら、婆さんは蒼白であった。はじめて知る事実なのだ。それを、彼女自身がしゃべっている。
「馬鹿な……馬鹿なことを。なら、どうしてDを呼んだ?」
困惑と恐怖の入り混じるライルの方をふり向いて、
「あたしゃ――何も。ただ、不安になって」
と婆さんは抗弁し、
「おまえ[#「おまえ」に傍点]を招いたものは、私ではない。この“世界”じゃ」
と婆さんは冷ややかに胸を叩いた。
「父は世界をあまりにも精緻に巧妙に造りすぎた。私のための“世界”が、いつの間にか人間どもの“世界”に組み込まれ、独自の意志をもって“生き”はじめた。否、こころさえ具えて。侍女を――ラーナを象った“世界”が動き出したのも、そのせいじゃ。あれは、最後までその|原型《モデル》の心情に忠実であった」
「D――あたしは……」
「わかるか、D? 私を滅ぼすには、この老いた“世界”も斬らねばならんぞ。それ以外に、私をおまえの刃にさらす法はない。この中で、私はいつまでも生きつづけよう。――Dよ」
真っ向から光が落ちた。
「おまえに会わなければよかったのかも知れぬ」
つぶやくように言う婆さんの額から鼻すじを通って、白い線が走った。
「おまえをひと目見たときから、私はおまえと生きたくなった。あの下郎どもに命じておまえを斃し、死の寸前に血を吸い、私の|下僕《しもべ》と変えて――いや、下僕になどする気もなかったのじゃ。せめて、一度、秋の野を共に歩いてみたかった。私の一番好きな季節だったから」
光の帯が粗末な居間をかがやく世界に変えた。
「D――あたしは、あんたと――」
「D――私はおまえと――」
二つの声が重なり、次の瞬間、ヘルガ婆さんの身体は縦に裂けた。
その中に、Dは見た。
紅葉に燃える秋の森の上に陽光は燦然とかがやき、かぐわしい風は、林檎とスモモの香りを乗せて――
光がすべてを包んだ。
その中に、白いドレスの娘が立っていた。髪はうす緑であった。
最後の声は、娘のものか、老婆のものか。
「――一緒に行きたい」
そして、縦に裂けた娘もまた、限りなく白い光に溶けていった。
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D―戦鬼伝
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第一章 行きずりの戦士
1
城郭は蒼空に挑んでいた。
峨々たる岩山をくり抜き、おびただしい液体コンクリートを流しこんだという工法にも驚かされるが、脅え気味の学者たちの眼を限界まで見開かせるのは、城の地下数十階に据えつけられた大原子炉が、今なお作動をつづけていることであった。
「ですが、エネルギーは何処へ供給されているのでしょうか?」
と、調査隊のひとりは、|大蒜《にんにく》の花を握り締めながら言った。
山ひとつを城に変えた大構造物の照明は言うに及ばず、ドアの開閉にも、エネルギーの一片だに供給されていないのである。城の全貌を明らかにするには、十年以上の歳月が必要であろう。
「この城の貴族が撤収したのはいつ頃だ?」
と別の科学者が訊いた。
「二千年前です」
「原子炉はそれ以後、一度も停止していないのか?」
「|記録装置《メモリー》によれば、そうです」
「それなら、供給するエネルギー・ラインの末端も調べがつくだろう」
「いえ、その|部分《ライン》のみ、削除されています」
「すると――故意にか?」
「十中八九そうです」
「その原子炉の発電量は?」
「時間五千万メガワットです」
科学者たちは沈黙した。二千年前――いや、恐らくはそれ以前から、得体の知れぬもの[#「もの」に傍点]へ注ぎ込まれてきたエネルギーの膨大さを思ったのである。
次に、戦慄がオーロラのごとく降りてきた。
そのものは何なのか?
二千年もの間、莫大なエネルギーの供給をつづけ、しかも、その正体を抹消しなければならぬ存在とは?
ある回答が提出されたのは、二日後であった。
城の展望台に出て、夏の涼風を楽しんでいた科学者の前に、城の別棟に設けられた図書館にこもり、貴族の文献解読に精を出していた言語学者がふらりと現れたのである。
言語学者は展望台の縁へ近づき、下を覗き込んだ。
そこには何もなかった。一片の凹凸さえない愛想のなさで、切り立った絶壁は一気に一〇〇〇メートルも下っていた。
たそがれと霧に閉ざされた遠い峰々の影を瞳にとどめ、言語学者は、やっと落ち着いた気分になれた。
「大変な場所に大変なものをこしらえたものですな」
と科学者は声をかけた。
「これでは、山城と言うよりも、堅牢無比な城塞と言うべきです」
「その通り」
と、若い言語学者はぶっきら棒に認めた。
「おっしゃる通り、これは大層な代物です。ざっと七千年前から存在していました」
「ほう」
科学者は感心したように言ったものの、たかが七千年という感情は隠しきれなかった。
「七千年前から姿を消すまでの五千年の間、城は戦いつづけているのですよ」
「何ですと?」
「もう、おわかりでしょう、この城の施設について。ここは――ハリネズミのように武装しています」
科学者は胸をつかれた。
伝説的な兵器の数々が眼の当たりにさらされたことで、この城は『都』の政府によって封鎖されるだろう。
中性子ミサイル、原子砲、レーザーといった基本兵器はもちろん、これは残された構造から判断するしかないが、次元渦動砲、気象撹乱装置、エネルギー・ライン等々の広域破壊兵器を備えていたのは、ほぼ間違いない。通常の貴族の城には考えられぬ重装備であった。
「これは、この地方に残された伝承ならびに、城の大図書館に収められた数少ない資料から解読したものですが、かつて、ここを中心に半径二〇〇〇キロメートルに及ぶ地帯は、『ハルマゲドン・ゾーン』と呼ばれる古戦場でした。それも、極めて個人的な」
「個人的な?」
科学者は思わず下方へ眼をやった。
申し合わせていたかのように、霧は裂け、惨たる大地の光景を開幕したのである。
一点の緑もない赤茶けた土の連なりは、見るものの|精神《こころ》をも荒涼とさせるだろう。そこが放射性物質をたっぷりと散布した原子戦争の跡だと勘づいてはいても、言語学者の指摘は衝撃的な事実に違いなかった。
「この城塞の主には、数千年来の宿敵とも言うべき家系があったのです。その名前も紋章も現段階では判明しませんが、存在だけは間違いありません。彼らは、他の貴族の支援を受けることもなく、五千年間を戦いつづけ、ある日、忽然と消えました。多くの貴族がそうであるように、それきり、消息は絶えましたが、この城は残り、原子炉は今も何者かにエネルギーを供給しています」
「その何者かとは――?」
「わかりません。我々が発見した兵器でないことは確かです」
「もうひとつの家系はどうなったね? この城が残っている以上、ここの主人は戦いに勝ったのか?」
「どちらも見当もつきません」
言語学者は煙草に火をつけ、科学者は羨望の眼差しになった。『都』での配給量は極端に乏しい。
「一本いかがです?」
相手の優越感をやむなし、と思いながら、科学者はどうも[#「どうも」に傍点]と黄色い紙巻きを受け取り、ついでに火も借りた。
思い切り肺に吸い込むと、至福のひとときが訪れた。緊張の弛緩が、かえって突拍子もないアイデアを浮かばせた。
「決着[#「決着」に傍点]はついたのかね?」
言ってから、背筋が冷たくなるのを感じた。決して聞きたくない返事も解答のひとつなのだ。
相手には、それを斟酌する余裕がなかった。
「それもわかりません。ついたとすれば、この城の健在ぶりからして、敵が敗れたのでしょうが、文献にも記録にもそれが記されてない以上、断言できません」
「すると」
「ええ。決着がつかなかったという場合も十分にありえます」
科学者は口をつぐんだ。ある考えがひどく鮮明に脳裡に浮かんでいた。それを支えるのは、今なお地下深くで不死の活動をつづける貴族の大原子炉と、この山城を取り巻く荒涼たる大地だった。
彼は言語学者の顔を見、ある期待の色を認めると、それに乗るまいと決心した。
貴族とその文明については、鋼鉄の不文律が存する。すなわち、
知らない方がよいことばかりだ。
言語学者もそれに気づいた。彼と科学者との決定的な相違は、その若さだった。
胸中のアイデアの吐露を自制するのに、はち切れそうな若い自己過信の熱は強烈すぎた。
「多分――」
と彼はできるだけ慎重そうにはじめた。
科学者が覚悟を決めて一服吸い込んだそのとき――
足底から奇妙な感覚が湧き上がってきた。
言語学者の若い眼が科学者を貫いた。科学者は両眼を閉じていた。不意に、言語学者は今がたそがれどきであることに気がついた。
展望台は西を向いていた。
朱色に染め上げられた遠い山の端が、驚きを伴って彼の胸を打った。
この城が息づいていた歴史の一点で、すべては同じ色に染まっていたような気がした。
科学者の乾いた唇が、長々と紫煙を吐き出したとき、今度こそ、まぎれもない地鳴りと破壊音が足の下からやってきた。
それから――哄笑が。
2
左手から|槍風《そうふう》が突っ込んできた。あまりの速度に、空気さえたわめてそこに突き刺さり、停止しそうな一閃を、黒い影はさしたる動きも見せずにやりすごし、穂先のすぐ下を左手で掴んだ。
「うおっ!?」
悲鳴と一緒に槍手がつんのめってくるのを、真っ向から無造作に切り下ろすと、漆黒の影は残る敵を見渡した。
風がある。
吹かれた頬が倍にもふくれ上がりそうな冬の風であった。
男たちには、それが彼を守っているように見えた。
冬の夜が結晶し、生まれたきらめきをもう一度押しつぶして結んだ冬の正体。その|顔貌《かおかたち》の何という美しさ、翻るコートの恍惚たる優雅さ。――おれたちは死ぬ。こんなにも美しい男の財布を狙おうと、斬りかかった罰だ。
「ええい、どきやがれ!」
ひとり、際だって背の低い男が、凍てついた土を踏みしめて前へ出た。
出たと思うや、その背中から音をたてて黒い翼が広がったのである。生命の通った品ではない。針金と木を組み合わせた骨格に、獣皮を張った工芸品だ。
美しい殺戮者の前でそれが羽搏くや、男はかれ自身が化鳥のごとく空中に舞った。恐らくは、小型だが高出力のモーターを使い、男自身の骨格や筋肉もひどく軽量なのであろう。
空中から叫びが落ちてきた。
「おれも行く。一斉にかかれ!」
そして、羽根を持つ男は、一気に五〇メートルもの高みへ舞い上がった。攻撃に必要な慣性を得るための距離である。
仲間たちも白刃をきらめかせて殺戮者へ殺到した。
空を行く影が途中でスピードを落としたのを、彼らは知らなかった。
影たちがひとつに溶けた刹那、わずかに遅れて上空へ飛来した鳥人の胸もとから、さあっとうす茶色の雨が降った。
二度、絶叫が噴き上がった。一度目はそれがかかった[#「それがかかった」に傍点]瞬間、いま一度は浴びた身体が猛烈な勢いで溶けはじめたときであった。
散布されたものは、強烈な溶解液であったろう。
鳥人が一〇メートルも滑空した地点でふり向いたとき、地上の影たちは、どれも人間の形をとっていなかった。
さらに一〇メートルほどやりすごして方向を転じたとき、彼はあっと叫んだ。
肉も骨も溶解したはずの影たちのひとつが、すっくと立ち上がったのである。
自分を見上げた天与の美貌――ここからでも見間違えようはない。あの男だ! 白煙を噴いているコート――あれ[#「あれ」に傍点]がおれの死液を防いだのか。
憎悪に眼をかがやかせて鳥人は上昇した。一度目は生を拾っても、地上の虫けらが天翔けるものの殺意とスピードを免れるはずもない。
「逃がさねえ」
天空から襲う羽搏きの前には、地上の美影身は美しい無力そのもののように見えた。
その殺戮を確実にすべく、鳥人は敵の頭上三メートルまで接近するつもりだった。
まさか、死液をふり撒くその寸前に、黒衣の影が同じ高みへ舞い上がってこようとは。
銀光が頭頂に触れたと感じた刹那、男は仲間たちの第二の悲鳴が死液のせいではなく、敵の剣技によるものであることを知った。
そのまま滑空した身体の前に、そのとき不意に立ち塞がった小山のような影がある。
ぶつかる、と見えた寸前、鳥人は二つに裂けた。
血の霧を巨人に叩きつけて、その両脇を抜ける。白くかすんだ冬の中を斜めに切り裂き地上へ激突するや、どちらも[#「どちらも」に傍点]二度と動かなかった。
死闘に闖入した巨体を知ってか知らずか、美しい影は黙然とそれ[#「それ」に傍点]に背を向けて歩み去ろうとする。
「ちょいと待ちなよお」
間延びした声は、三メートルの高みから降ってきた。そこに、分厚い唇と子供の胴ほどもある顔があった。
黒いコートの影は平然とふり向いた。
「ひええ」
と、そいつはまん丸い眼をさらに丸くして、口笛を吹いた。
「こらまあ、なんていい男だろ。――おめえ、何てんだよ?」
「D」
と影は言った。
「へえ、寂しそうないい名前だなあ。おれはよ――」
と考え、太い木の幹くらいある首をひねって、
「――そういや、|無《ね》え」
と笑った。天地がゆれるようであった。
巨人そのものが珍しい世界ではない。「辺境」の西には貴族の生んだ身長一〇メートルを越す|一角獣《サイクロプス》の村もある。
だが、この名なしの大男は、極めて平凡な姿形を保ち、首から下はカーテンらしい|天鵞絨《びろうど》の紫色の布をまとって、肩に担いだ棒の端には、大の男五人も入れるくらいの布包みを下げている。――巨人の旅人というのは稀だ。
いつまでたっても笑いが絶えないので、Dは身を翻した。
「待てよ、こら」
巨人はあわてて追った。どん、と地面がゆれる。
Dを追いつつ、彼が出てきた盛り土を指さし、
「おれはあの陰でぐっすり眠ってたんだ。それをおめえらが起こしたばかりか、一張羅もこのざまよ。|血腥《ちなまぐさ》くて仕方がねえ。おめえ、責任をとりな」
「どうやってだ?」
Dはふり返りもせずに訊いた。
「ひとりふたりぶっ殺せば気も済むんだが、みんな、おめえが片づけちまった。すると残りはよ」
巨人は技というものを知らぬようであった。包みも取らず、鍬でも打つ要領で、Dの頭上から棒をふるった。太さ五〇センチ、長さ五メートル。両端はそのささくれ具合からして、得物で切ったのではなく力まかせにへし折られた丸木と呼んだ方がいい。
まさに、大地をゆるがす大音響と衝撃が四方へ亀裂を走らせ、――そのひび割れの先を黒い影は飄々と歩いていく。
「あれ、畜生」
巨人は狼狽した。棒を引っこ抜き、大あわてでDを追う。ゆれ動く大地の上を、黒い影は微動だもせずに進んでいく。
「こなくそ」
今度も頭上から、と見せて、木の皮がついたままの丸太は軽々と方向を変えて横から襲った。
Dはその流れに合わせて動いた。
丸太の起こす風に乗って弧を描き、それが乱れたと思うや、巨人の胸もとに跳躍していた。
「わっ!?」
叫ぶ間もなく、首筋に鞘ごとの一撃をびしりと浴びて、巨人は転倒した。
Dの着地した地面には、まだ地響きの余韻が残っていた。
「おめえ――強えなあ」
顔をしかめたまま、巨人は感嘆した。
「とても敵わねえや。いや、まいったまいった」
そして、草の葉を跳ねつつ起き上がったのである。Dの一撃をもろに食いながら。
「なあ、おめえ、どっちへ行く?」
と尋ねられたDは、もう二〇メートルも先で、草を食むサイボーグ馬にまたがっている。
黒い指がすぐ隣に延びる小道の一方をさした。
「ああ、そりゃあいい。おれも北へ行くんだ。今ごろはきっと、一面氷の花に埋もれてるぜ」
巨人はこれで、なかなかの詩人らしかった。
「なあ、一緒に行こうじゃねえか。旅は道づれって言うしよ、おれは自分より強え男が大好きなんだ。盗っ人に襲われても安全だからな」
正直でもある。
Dは無言で馬を進めた。自分に殺意を抱いたものを、この若者は何故、処理しなかったのか。
「なあ、待てよ。待てったら」
巨人は道まで追いかけ、あきらめたらしく仁王立ちになって叫んだ。
「もう会えねえかも知れねえから、名を名乗っとくぜ、色男。いま、考えたんだ。おれはよ、ダイナスってんだ。忘れねえでくれよ。ダイナスだぜえ。放浪の男ダイナスさあ」
声は長い尾を引いた。それが消えた頃にはもう、黒衣の騎士の姿は凍てついた道の奥に消えていた。
冬の色濃い、とある午後。これが、Dとダイナスとの出会いだった。
3
雨に代わって雪になってから、もう大分たつ。
鉛色の空から|繽紛《ひんぷん》と降り注ぐ白い小さな夢は、その日、久しぶりの陽光にまばゆい微笑みを見せた。
Dが訪れた「シュラト」の村も白い世界に所属していた。
村で一軒の旅館に部屋をとったのは、長期滞在のためではない。昼日なかを旅してきた疲れが出たのである。ダンピールにとって、体内バイオリズムの最盛期は日没から夜明けまでがそれに当たる。旅は夜が通例だが、「辺境」での夜行が悪鬼妖魔との遭遇の連続とは人も知るところだ。
五年前の例では、西北辺境を旅した調査隊が、日没から二時間の間に、|食人鬼《グール》五頭、骨髄吸引魔二匹、肉食有機体、招霊|女《め》各一体と遭遇、隊員の半数を失っている。
夜通し戦うよりは、Dならずとも昼の道行きを選ぶだろう。
ブラインドを下ろし、人工の闇をつくるとDはすぐ眠りに落ちた。
四時間ほどで眼醒め、外へ出た。陽は落ちている。
「辺境」の夜気には、自然が満ちている。大地の噴き上げる活力、樹木の放つ清浄な気、野を行く動物たちの生命力――それは呪われた片親を持つ者たちにとって、かけがえのない|生命《いのち》の源であった。
白い通りをDはひっそりと歩いた。音は雪に吸い取られているようであった。
夕飼どきだというのに、通りには人影も少なかった。雪はある種の危険な生き物たちにとって、絶好の隠れ蓑となる。通行人が手にした棒で突くと、十度に一度の割で、小さな痙攣が雪を震わせた。
Dは|酒場《タバーン》へ入った。レストランを兼ねた店内は、肉とアルコールと煙草の匂いが渦を巻いていた。田舎じみた店内に点るきらびやかな光は、店の女たちであった。
誰かがDに気づいた。
嬌声が一斉に絶えるや、形容しがたい視線が集中する。
カウンターの端についても、ざわめきは復活しなかった。
さすがに、八の字髭のバーテンがぽかんと開いた口を閉め、頭をふって何かを追い払うと、のっそりDの前に立った。
「何か?」
と訊いた。
声には羽根が生えているようであった。
「ワインを」
「いちばんいいのを奢ります」
とバーテンはようよう言った。
「一杯飲んだら出てって下さい。あんたがいると、調子が狂っちまう」
錫のカップと朱色の液体がやってきた。
Dが唇をつけると、喘ぎにも似た声が店内をゆすった。
「いい加減にしねえか!?」
バーテンが叫んだ。|主人《あるじ》らしい。それで、魔法が解けた。
女たちは手近の|狒々《ひひ》親父どもの禿頭に頬ずりし、若者たちの手を握り直した。
ドアが開いたのは、この時だった。
今度の反応はDの場合といささか異なっていた。
脅えと困惑――陶酔が欠けた視線の中を、籐の籠を下げた娘は、悲しげに顔を伏せてカウンターまで歩いた。
「いつものやつかい?」
バーテンがやさしく訊いた。
「ええ」
うなずき方もつつましげであった。浴びせられる視線とはどうしても噛み合わない。ショートカットした赤毛も、粗末なブラウスと羽毛のコート、長いスカートも、平凡な田舎娘のものだ。
「どうした、ライア?」
若者のひとりが、侮蔑に濡れた声をかけた。酔っている。
「今晩はお伴はなしかよ? え、お嬢さま?」
「よせよ」
とそばのひとりが肘を引いたが、別の仲間が、
「お強いご家来はどうした、え?」
「おれたちは怖くねえぜ」
都合三人――どれも村の暴れん坊という顔と身体つきである。
「よさねえか」
バーテンが娘に緑色の瓶を渡しながら注意した。
「ライアに絡んでどうなる。この|娘《こ》があいつらを呼んだわけじゃあるまい」
「わかるもんかよ」
と三人組のひとりが酒瓶を突き出して叫んだ。
「全く縁もゆかりもねえ男が三人も、ある日訪ねてきて居すわる。村のもんがそこの娘の尻をちょっとさわったら、両手の骨を付け根から折られた。借金を返してもらいに行って文句をつけたら、下顎をむしり取られた上、舌も引っこ抜かれた。――これが、見ず知らずの人間のやることかよ? まるで、お姫さまを守る用心棒か忠実な家来だぜ」
「しかし、話を聞きゃあ、コルダもアジナスも悪かった。あんまりひどいことをしたり、言ったりするんで、ライアは逃げまわったそうじゃないか。それを追いかけて止めを刺そうとすりゃあ、その家の世話になってるもんなら、何とかしたくもなるだろう?」
「だからって、同じ村のもんをあんな目に遭わせていいのかよ?」
「けっ、アル中の親父を健気に看病してるってんで、どいつもこいつも甘っちょろい眼で見やがって。この|娘《あま》、そんな結構な玉じゃねえぞお。男が三人だぜ、三人」
「|小父《おじ》さん、ありがとう」
消え入るような声で言うと、娘は身を翻した。
気まずい空気が店内に流れ、その矛先が誰に向いたものかを知って、
「けっ。河岸変えようぜ」
と三人の若者は立ち上がった。テーブルの上に金貨を投げ置き、わざと荒々しい足音をたてて出て行く。
「仕様がねえ野郎どもだな。村の鼻つまみでよ」
こぼした主人の手もとに、銀貨が一枚置かれた。
その意味に気づいたとき、黒衣の姿は飄然と戸口を出ていくところだった。
Dは左へ――もとの進行方向へ向かった。顔がほのかに白い。雪びかりであった。
どのような美貌でも、どこか人間的な生活を連想させる部分があるものだが、この若者から感じられるのは、美しさのみだ。
どんなに仔細に観察しても、彼が他人と話し、食事をし、眠るなど、別次元の行為としか思えまい。歩む姿すら、酒場の名残など片鱗もとどめぬ美の移動であった。
一、二分で曲がり角に出た。奥に倉庫が黒々とそびえている。どの村にもある公用の農器具や食料を仕舞う場所だ。
真っすぐ行こうとする耳に、二種類もの声がもつれあって聞こえた。
「離して下さい。――いや!」
「いいから、来なよ」
「ケチケチするんじゃねえ。あいつらにやらしてんだろ?」
黒い歩みは止まらなかった。
五歩ほど行って止まった。
声に凄絶な変化が生じたのだ。
「て、てめえら!?」
「いつ――!?」
その後に生まれた声は、D以外のものの耳には達しなかったであろう。
骨の砕ける音と、内臓の破裂音。
細い悲鳴が尾を引いて消える前に、Dはまた歩きはじめていた。
この世界の出来事とは無縁な影であった。
五メートルほど行ったとき、
「誰か――誰か、来て」
こらえ切れなくなったような娘の声であった。
どこにでもいそうな農家の娘は、いたたまれずに店を出て行ったのだ。
風に巻かれたように、Dは反転した。
角を曲がるとすぐ、倉庫の戸口でもつれる数個の影が見えた。
片方は娘より頭ひとつ大きい。酒場の若者ではなかった。
Dが二メートルの距離まで近づいたとき、そいつはこちらを向いた。ただそこにあるというだけの眼鼻立ちの顔に驚きの色が走り、娘にその手をふり払う隙を与えた。
「助けてあげて」
とDの胸にすがりながら、丸い顔が叫んだ。
「あの人たち、中でひどい目に遭ってるんです。止めて!」
Dは娘を見もしなかった。その視界の中で、
「何者だ?」
と錆びた声が訊いた。
野良着姿の男は、しかし、真っ当な農夫にはありえぬ鬼気を漂わせていた。
答えずDが進み――男は音もなく後退した。
「貴様……」
うめき声であった。
不意に身体が沈んだ。座り込んだのではない。足首から腰まで――。いや、頭までが積雪の中にもぐり込んだのだ。いいや、いかに深いとはいえ、雪は五〇センチも積もっていない。溶けたとしか思えぬ異様さであった。
Dの視線は倉庫の戸口に吸いついた。板戸一枚が開いている。中には闇がつまっていた。
ぞっとするような物音がDを取り囲んだ。
すでに彼は気づいていたかも知れない。倉庫の中味は隅に追いやられた農具やトラクターばかりではなかった。
暗黒の中に積み重ねられた木函は、すべて鉄棒をはめた檻であった。
その奥で毛むくじゃらの足や木の根みたいな触手の付け根に、赤い血玉のような眼が光り、呪詛とも憎悪の声とも知れぬうめきが洩れてくる。
『都』へ送られる妖虫妖獣たちであった。
用途は様々だ。伝染病を媒介する毒虫たちを餌とするスピードグモ、簡単な手術で一家の安全を守る|護衛《ガードマン》に変わるヒトニトカゲ――田舎では殺戮の対象としかならない生物たちであった。
もちろん、今はまだ危険極まりない。
檻の山がそびえる手前のやや広い地面に、三つの人影が伏していた。あの若者たちである。
低いうめきから、生命に別状はないようだ。手足がひん曲がっているのは、やむを得ないかもしれない。
ちらりと一瞥を与えただけでこれだけのことを見抜き、Dは顔をやや上方に傾けた。
「気をつけろ」
と、外できいた声が言った。
「このおれが、そいつの近づくのに気がつかなかった。しかも、そばにいるだけで身がすくむ。別の世界の住人だ」
「あいつ[#「あいつ」に傍点]か?」
もうひとつの声が応じた。上からとも下からともきこえる奇怪な声であった。声だけで居場所を掴もうとすれば、たちまち困惑に襲われ、自らの立つところも不明になりそうだ。
「いいや」
三つ目の声は、最も荘重であった。
「別人だ。だが――この男、ひょっとすると奴よりも……」
「まさか」
「世の中には恐ろしい奴がいる。そう知ってはいても、本物を見るとは、な」
三番目の声は、感動さえしているようであった。
「名乗るぞ。――おれはジュラン」
と言った。これは外にいた男の声だ。
「よかろう。――サベイだ」
「承知した。――クラムという」
友好のためではない。どれにもこもっている響きは敵愾のそれだ。それでいて、微塵の気配も洩らさない。
はじめて動揺が湧いた。
Dが踵を返したのである。これほど不敵な――礼を失した行動があるだろうか。
三人の若者の無事を確かめれば用は済んだ。後は村人を呼べばいい。――それは、Dにのみ通じる理屈だ。
それを正すべく、真上から黒い影が降った。
「よせ!」
と言うサベイの声は、早かったか遅すぎたか。
雪明かりのみの闇を白光が切り裂き、Dの左右に黒いものが地響きをたてて落ちた。
「やるぞ」
とうめいた声はクラムと名乗った分だ。だが、それは、Dの右横――二メートルほどのところに落ちた腰から上の部分の声であった。腰から下は――Dの左側に転がっていた。
「次はおれだ」
もう気配を隠さず、天井からサベイの声が落ちてきた。
「わっ――よせ!」
と叫んだのは、クラムの上半身である。
「とっとと逃げろ!」
サベイの叱咤と同時に、倉庫全体を破壊音が埋めた。檻という檻が一斉に砕けたのだ。
釘を抜き、高圧線を弾きとばしたのは、外からのパワーではなかった。内側の妖物どもが猛り狂ったのだ。
「さあ――行きな、わが友よ!」
サベイの命令一下、立ち尽くす美しい影めがけて、異形のものたちは殺到した。彼らに詳しいものがいたら、通常では考えられないその速さと敏捷さに驚愕したであろう。
そして、それに勝る速さにも。
肉と骨を断つ音は、ほとんどひとつづきに聴こえた。
自らの肩幅を直径とする円内でDは動いた。刃の一閃は数匹の妖物に致命傷を与え、それが四度きらめいて襲撃は絶えた。
「ほっほっほ」
と笑ったのは、この場に居合わせた誰でもない[#「誰でもない」に傍点]。
いや、笑い声自体にすら気づかぬほど、天井からこぼれる気配は緊張しきっていた。
「何という……」
「化物め……」
こうつぶやいたのも、数呼吸置いた後である。
冷気に血臭が立ち昇りはじめた倉庫を、黒衣の影は音もなく出て行こうとする。
戸口をまたいだとき、
「待ってくれ――せめて名を」
とジュランの声が言った。
「D」
短く答えて外へ出ると、
「やるのう、あいつら」
と、左の腰のあたりで嗄れた声がした。さっきの笑い声である。
「最初の奴め、うまい具合におまえに斬らせおった。本来なら、あそこからが本番じゃな。二番目は『|妖《あや》かし使い』――まだまだ、その実力はあんなものではない。まずは小手調べ。そして、三人目がいちばん怖い」
Dはすぐ前に佇む娘を見ていた。
「三人とも無事だ。――人を呼びたまえ」
そう言って、通りすぎるのへ、
「待って下さい。あの三人はどうしました?」
悲痛な声が訊いた。
「君の家のものか?」
「ちがいます。半月前、いきなり、家へ来たんです。それで――」
Dは黙って歩きつづけた。
「お願い。あの人たちに出て行ってもらって。このままでは、私も父さんも村にいられなくなってしまうんです」
角を左へ折れた若者へ、声はもう届かなかった。
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第二章 娘に|集《つど》うもの
1
Dの部屋をモノクルの紳士が訪れたのは、東向きのブラインドの隙間が、青い光をこぼしはじめた頃であった。
ドア越しに、
「何の用だ?」
と訊かれ、男はその声にぞくりとしながら、
「ブルワーというものだ。少し前、酒場で君の話を聞いてな。治安官はもう帰っただろう。開けたまえ」
尊大に命じた。
返事はない。
咳払いをひとつし、ブルワーは作戦を変更した。
分厚い唇を割ったのは、猫なで声であった。
「いや、失敬失敬。実は小生、人材スカウトでしてな。あなたが助けたという娘――ライアでしたか。あの娘はすでに六千ダラスで『都』での就職が決まっておる。あの娘の父親と交わした契約書もあるのです。ところが、一週間前に戻ってみれば、おかしな作男が三人もいて、どうしても娘を渡そうとせん。それどころか、若いもんが五人も手足をへし折られる始末でしてな。ライアもライアで、父親は捨てられないと首を縦にふりよらん。万策尽きたところで、あなたのことを耳にし、祈る気持ちで駆けつけた次第ですわ。いかが? 大枚の礼はしますぞ。何とかライアをわしのところへ連れて来て下さらんか――ミスターD?」
最後のひと言は、とっておきの切り札その一であった。村のものは誰も彼の名を知らない。
返事はなかった。スカウトマンは、不平面をし、気障な蝶ネクタイをちょいと結び直して言った。
「いや小生、あなたを昔、遠目にながら拝見したことがあるのです。そのとき、名も身分も知りました。辺境にその名も高き美貌の|吸血鬼《バンパイア》ハンター“D”。いや、あらためて面談の機会を得られて光栄です。何とぞ、お開け願いたい」
ドアは返事をしなかった。
ブルワーは切り札その二に移った。声をひそめ、ドアに口を寄せて、
「小生がいかに軽はずみとは申せ、地上最強のハンターに、俗事への関わりを求めはいたしません。ミスターD、あの娘――ライアには、実は貴族の翳が絡んでおるのですぞ」
一分後、ブルワーは粗末なテーブルをはさんで、Dと相対していた。
当然の反応として、彼は口をぽかんと開け、それが礼儀だとでもいう風に、すぐには閉めなかった。
「貴族と言ったな?」
問われて、
「はい」
やっと顎が落ちた。じろっとこちらを見つめる怖いほど美しい視線に、
「嘘も隠しもいたさん。いや、これほど美しい御仁とは。近くで見ると、男でも甘くとろけてしまいそうですな。あの娘を欲しいという『都』のお役人は、実は貴族の研究家でもありまして、何でも、古代の文献を調べてみたところ、彼女には間違いなく貴族の血が流れておる。そこで、小生に、是非とも内密に連れて来て欲しいとの依頼があったわけでしてな」
「役人の名は何という?」
長ったらしい名を、ブルワーは滑らかに答えた。
「文献は何処にあった?」
「小生も見ましたぞ。ご存知ないですかな、『都』の立ち入り禁止区域で、つい三年ほど前、大規模な古代都市の遺構が発見されましたのを? 劇場、ホール、その他に混じり、ひときわ異彩を放っておったのが大図書館、名前は確かアレキサンドレイアとか。文献はその地下倉庫から見つけ出されたものですわ。あちこち虫が食って、小生などから見れば、とても読めたもんじゃないが、そこは専門家。見事、解読に成功いたしましてな。その中に、辺境に散らばった貴族の家系図みたいなものがありました」
「あの娘――貴族か?」
「その方の話では、純粋な貴族ではないかも知れないと。つまり『隠されっ子』のひとりではとおっしゃっておられたが、私にはその辺は――」
「役人からの報酬にしか興味はない、か」
「は?」
ブルワーが眉をひそめたのは、その声がDのものとは似ても似つかない嗄れ声だったためだが、それよりも、テーブルの向こうに隠れた彼の腰あたりからきこえたせいでもあった。
「『隠されっ子』だという証拠は?」
今度はまぎれもないDである。
「それは、『都』のお役人しか知りませんな。小生もこのような事態は予想もしておらんかったので、そのような品は持ち合わせがありません。何なら、若いものを『都』へやって、その文献を取り寄せてもよろしいが、持ち主が手離すかどうか」
「あの三人についてはどうだ?」
「はあ、それが、あなた……」
とスカウトは、意味ありげに声をひそめて、
「『都』を出る前に、依頼主からきいたところによりますと、貴族の血を引いた『隠されっ子』には、時として、不思議なガード役がつくことがあるそうですな。あるときは獣の形をとったり、あるときは偶然の幸運という形で貴族の血を引く者を守ったりする。私の考えでは、彼らもその一形態ではないか、と」
「ふむ。筋は通るな」
またも嗄れ声だったので、ブルワーはぎょっとした。
「辺境で人買いをはじめて何年になる?」
Dが訊いた。
「何とおっしゃる? 小生はこれでも、れっきとした職業斡旋業者で――」
彼は口をつぐみ、天井へぎょろ目を向けると、
「三十年ですな」
と言った。
「三十年その土地で生きれば、生還する『隠されっ子』の数がいかに少ないかわかるはずだ。――あの娘がそうだという証拠はあるか?」
「それはもう――これを」
彼は上着のポケットから電子レコーダーを取り出し、スイッチを入れた。
ブルワー自身と治安官、医師、村の有力者たちとの会談を録音したものである。人買いの問いに、全員が、ライアの幼年期における丸一年の喪失を言明していた。
機械が証言を終えると、ブルワーは、あの三人からライアを取り戻して欲しい、と正式に依頼し、こう付け加えた。
「半月前に突然、三人が現れた。ひょっとすると、あいつらの親玉――真正の貴族もやってくるかも知れませんな。あなたには、そいつも始末していただきたいのですわ」
2
翌日、農場を訪れた世にも不釣り合いなコンビを見て、ライアは眼を丸くした。
「あの三人はどうした?」
とDは訊いた。
「あたしが治安官のところへ行って戻ると、もう。――今日は姿を見せません」
ライアの声は弾んでいた。黒い瞳が情熱さえこめてかがやいているのは、得体の知れないものが去ったためばかりではなかった。
「そいつぁ、よかった。じゃあ、親父さんとの契約通り、一緒に来てもらおうか」
いまにも腕を取りかねない人買いに、
「わかっています。でも、あと少し待って下さい」
とライアは懇願した。
「父のことも考えなくてはなりませんし、知り合いへの挨拶もあります。せめて、あと一週間」
「仕様がない。ま、よかろう」
ブルワーはあっさり折れた。もちろん、本意ではない。貴族が現れるまで少なくとも一週間待つと、これもDと約束していたのだ。そんなに待たなくても、出なけりゃそれにこしたことはない、さっさと『都』へ行きたいもんだと主張しても、なら断る、と言う。いい男のくせに足下を見やがって、と毒づくのは胸の中だけにして、ブルワーは条件を呑んだ。
この若いのがいれば、おかしな三人組対策も万全だ。一週間我慢して、後はうまいこと貴族をちらつかせつつ、『都』までのお守り役について来させればいい、と彼はひそかに舌を出した。『隠されっ子』と貴族の話など、全くの創作であった。録音メカの声は、その辺の住民に金貨十枚で依頼したものだ。
唯一の懸念は、この美しい吸血鬼ハンターが、どこか並の同業者とは違うところだが、それがはっきりしない以上、あれこれ悩んでもはじまらない。
「それじゃ、一週間、泊めてもらうぞ。ホテル代も馬鹿にならん」
「わかりました」
とライアが応じたとき、隣室のドアが勢いよく開いて、アルコールの匂いが全員の鼻を打った。
赤ら顔の中年男は、ライアの父であった。
「とっとと出て行け」
と父親は舌のもつれるのも構わず叫んだ。
「ライアがここにいちゃあ、いつまた、おかしな野郎どもが押しかけてこねえとも限らねえ。いい迷惑だ。あいつらのおかげで、わしゃあ、この村一の鼻つまみもンよ。あんたがこの|娘《こ》を引き取ってくれるときいたときにゃ、心底ほっとしたものを、なんで、いつまでもごろごろしとるんだね?」
「そら、親父さん、実は――向こうへ行って話そう」
Dにきかせた作り話を納得させるためにブルワーが消えた後、ライアは哀しげに吸血鬼ハンターを見つめた。
「どうした?」
とDが訊いた。この若者が他人に関心を持つのは珍しい――どころか、驚天動地の出来事に近い。
「いえ――あなたがひとりで来てくれたらよかったと思って――」
「彼は雇い主だ」
「わかっています。私を『都』へ連れて行くんですね」
それから、不意に期待のようなものをこめて、
「あなたも一緒に?」
「わからん」
ライアの表情に束の間兆した色が、ふっと消えた。立ち上がると、
「ごめんなさい。お茶もいれないで」
とキッチンへ消え、すぐに戻って来た手には、湯気を噴くポットと茶器が抱えられていた。
カップにポットの中味を注ぎ、
「どうぞ」
眼を伏せて勧めた。
Dはカップを手に取り、
「葉を入れてもらえるか?」
え? と呆気にとられた顔が、カップをのぞいて、見る見る赤く染まった。
「やだ、私――ごめんなさい」
茶の葉入れの蓋を開け、Dのカップを引き寄せると、すぐに下を向いたまま、
「どうぞ」
とあらためて彼の前へ置いた。
黒い葉が縁まで埋めたカップを、Dは無表情に見下ろし、無言で口元に上げた。
「やだ!?――また!?」
呆然とした顔がくしゃくしゃっと歪むや、ライアは両手で顔を覆い、玄関のドアから外へ飛び出した。泣き声が後を追った。
ベランダの隅まで走り、ライアは声を上げて泣いた。何故だかよくわからなかった。ベランダの縁まで積もった雪に涙がこぼれて、小さく深い穴を掘った。
五分ほどそうしてから、家に戻った。
Dはもとの位置にいて、カップを口から離したところだった。茶の葉はテーブルの上にのけられていた。
「おいしいお茶だ」
とDは言った。
「嘘」
「お世辞を言ってもはじまらない」
「本当に?」
ライアは眼を落としたまま訊いた。Dがうなずいた。声はなかったが、ライアにはよくわかった。
「よかった」
と自然にDを見た。
「ごめんなさい、へんなところを見せてしまって」
「『都』へ行くのが辛いかね?」
それは、ライアの行動とは無縁の問いだったが、かえって娘の気持ちを軽くした。
「それはいいんです」
と椅子にかけて言った。抑揚を含まない声である。
「私――どうでもいいの。このまま、ここで暮らしてもいいし、『都』で働いたっていい。父さんは私を売ったけど、それだって構やしないんです。父さんはそのお金でやっていくだろうし、私もその方が気が楽なの。『都』へ行ってしまえば、どんなに父さんを心配したって仕様がないもの。ね、私――いくつに見えます?」
だしぬけに、ライアはDを見上げた。この娘のどこに、と思うようなひたむきな表情であった。
「十七よ。そう見えて? みんな、|二十歳《はたち》すぎだって言うわ。本当の年齢を言うと、誰でも驚くの。そんなことあってもいい? 私って、そんなにお婆さん? もう嫌なの。年を訊かれて、あんな顔をされるのは。毎日毎日、井戸から水を汲んで、畑に鍬を入れ、妖物用の電気網を張って火傷をするのは、もう嫌。――父さんがあの人に売ってくれて、ほっとしたわ。『都』なら、どんなところへ行っても、こんなことはないでしょう」
恐らく、誰にも話したことがないであろう心情の激白を、Dは静かにきいていたが、
「父さんは悲しがるかも知れんぞ」
と言った。
ライアの全身から力が抜けた。ひとときの激情は去っていた。
娘は眼を伏せ、抑揚のない声で言った。
「そうね。でも、すぐに忘れるわ。母さんが死んだときもそうだったもの」
「それから酒浸りか?」
「十年以上」
「飲まずにはいられなかったのかも知れない。何があっても立ち直れる人間ばかりとは限るまい」
「でも――」
「君が『都』へ行った方がいいと考えたのは、君だけか」
ライアはゆっくりと隣室のドアを向いた。こわばった表情であった。
それから、小さく首をふり、
「嘘よ」
と刻み込むように言った。
3
三日経った。
雪は休みなく降りつづけ、世界の色を白と黒とに変えた。
ブルワーの配下らしい男たちが夜明けから日没まで訪れ、農作業を分担したおかげで、ライアは刺繍をはじめることができた。
雪の降り積む音を聴きながら、ふと、気がつくと、視界の中にいつもDがいた。黒い秀麗な影は例外なく雪景色を見つめているのだった。
冬の厳しさの中に、この若者はいつか消えていってしまうのではないか、とライアは痛切に思った。
その晩、異変が生じた。
配下の若者が血まみれになって戻り、農場の北で三人組に襲われたと告げた。傷は本物であった。
Dが出動した後で、ライアは馬車に乗せられた。
「何処へ行くんです?」
「『都』へさ」
ブルワーの答えは彼女を驚かせた。
「でも――Dさんがいなくては!?」
「いなくていいんだ。もう、あの三人は戻りはせん。Dは空気を追って行ったのさ。小生が残って話をつける。おまえはこいつらと先に行くがよろしい。さいなら」
「待って」
と言う暇もなく、馬車は雪煙を上げて疾走していった。
白い世界が流れすぎ、農場を抜けて森の間の道へ入った。風と白雪がライアの顔を叩き、不意に遠ざかった。馬車が止まったのだ。
御者台の若者が悲鳴を上げた。ライアのそばの二人がそちらを向いて、うお、と叫んだ。
二頭の馬の首は、付け根から消滅していたのである。
骨を砕く音もなく持ち去られたのだと気づいた若者たちの間を、一瞬、黒い影がかすめた。
首を失った胴は生前の姿勢を保っていたが、黒血を噴き上げつつ横倒しになった。
馬車の右脇の雪上で、食い切った三つの生首をふりすてる黒い獣をライアは見た。
「あれが、おれの本領ですよ」
反対側から、声と一緒に乗り込んできたのはサベイであった。
「あの人買い野郎、Dと一緒のせいで近づけなかったが、幸い、向こうから動いてくれた。貴女はまだ理解できないようだが、そろそろ奴[#「奴」に傍点]が近づいている。早目に準備を整えに行きましょう」
「何のこと? ――あなた方は一体、誰なんです?」
「じきにわかりますよ」
サベイは愉しげに白い歯を見せて、死体を投げ下ろし、御者台に座った。そのかたわらに、ひょい、と黒い筋肉の塊が乗った。舌舐めずりする黒獣から、ライアは眼をそらした。
馬が二頭とも横倒しになっているにもかかわらず、サベイは片手で手綱を握るや、反対側の手を振った。赤っぽい粉末が霧のように馬たちにふりかかった。
ふらふらと立ち上がる首なしの胴体を、ライアは悪夢だと思った。
「こいつは、おれの力じゃねえし、馬を走らせるぐらいしかできねえが、今のところの役には立つ。行きますよ」
手綱がふられた。
妖気漂う馬たちは、怪奇な第二の疾駆に移った。
「おっ!?」
とサベイが眼を剥いた。白い景色は動かない。どころか、車輪が回っていないではないか。
景色が動いた。垂直に。凄まじい勢いで持ち上がった車体から、サベイと獣は音もなく地に下りた。
「貴様は――!?」
「おめえらだな」
声は彼らの頭上から降ってきた。なおも虚しく空を蹴る馬ごと、車体を持ち上げた巨大な人影の頭部から。
「やっと会えたな。へっへっへ、ついさっきこの村へ辿り着いてよ、一杯もひっかけねえで来た甲斐があったぜ。おめえらがやり合ってるとき、そっとその森から出て下へもぐり込んでたってわけさ。少しは驚いたかい」
すると、この巨人――ダイナスの気配は、あの黒い獣にも気づかれなかったのか。
その驚きのせいか、一瞬、我を忘れたように突っ立っていたサベイも、満面を朱に染めて、
「殺れ!」
と命じた。
地上から黒い稲妻が走り、空中で止まった。
またたく間に三人と二頭を葬り去った超スピードの猛獣の首ねっこを、巨大な手がやすやすと押さえつけていたのである。
「小憎らしい面だな、この犬コロは」
声に硬い音が重なり、全身を痙攣させて動かなくなった獣を、ダイナスはゴミでも捨てるように、軽く肩越しに後ろへ放った。
ゆるやかな放物線を描く屍体が、二、三〇メートルもある木立を越えて見えなくなったのは、信じられない怪力であった。
「さあて、いよいよ本番だな。リラックスして来な。おれはこれでいいぜ」
そう言うと、巨人は獣殺しの片手を、またも馬車の底にあてがったのである。
憤怒の形相も一瞬、サベイはにんまりと唇を歪めた。同時に、明らかに彼を中心に、さあと静寂が広がった。
「獣の国へようこそ」
と彼は言った。
ダイナスの背後から、ふたつの巨大な影が跳びかかったのは次の瞬間だった。
「うおっとっとっと」
前へのめり、かろうじて踏みとどまった巨人へ、二メートルを越す灰色熊たちは容赦なく牙と爪をふるった。
首筋と胸から青い火花が飛んだ。
「しゃあねえなあ」
いけしゃあしゃあとつぶやき、
「ほらよ」
ダイナスは馬もろとも車体をサベイに向かって放った。
衝撃で木立から雪がふり落ち、馬車から放り出されたライアは、大地に激しく頭を打って失神した。
跳びすさったサベイへ、
「よく見てな」
と声をかけ、ダイナスは二頭の巨熊の胴へ両手を巻いた。どちらも一トンはある。
どう見ても、軽く、だった。
理想的なプロポーションまで一気に引き締まった胴体は、思いきりよく骨折音を撒き散らした。
血を吐く獣の頭を、凄まじい勢いで叩き合わせて止めを刺すや、巨人はふわりと宙に浮いた。
身を翻す暇もなく、着地と同時にふり下ろされた大岩のごとき拳を頭に受けて、サベイは即死した。雪とダイナスの顔に鮮血が跳び散った。
「これでひとりは片づいた。残るは本人か。いやにあっけねえな」
こう言ってからダイナスは、馬車のやって来た方角をふり向いて付け加えた。
「雪景色に色男か。――もうゲージュツだぜ」
左右に純白の森を従え、背後の闇よりもなお昏く立つコート姿の若者は、まぎれもなく天の彫り抜いた彫像のように見えた。
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第三章 戦記抄
1
「さっきから、そこにいたな?」
ダイナスの問いかけに、Dは無言で前進した。
急いで駆けつけたのではない。巨人の指摘通り、最初から馬車を追尾していたのだ。ブルワーの計略は、とうに読まれていたのである。
「おーっと、待ってくれ」
巨人は両手を前へ――正確には下へ――突き出して言った。
「おれは、おめえとやり合う気はねえ。大事の前に、余計な体力は使いたくねえんだ。この女も無事に返すよ」
「話しぶりは、その|娘《こ》が目的だったぞ」
「よしてくれ。自分が誰だかわかってねえ相手を殺したってしゃあねえやな」
「わかってない?」
「ああ。ぴーっと背骨に感じるもンがねえんだ。いま戦ったら、罪もねえ娘をバラバラにしちまう。おめえ、そんな仕打ちに耐えられるかい?」
「いや」
「おっ」
とダイナスは、大胆に白い歯を剥いて笑った。
「よしてくれ。そんな笑顔見せられちゃ、照れるじゃねえか。この女殺し。さ、早いとこ連れて帰って看病してやんな。――ありゃ!?」
放り出されたライアの位置に目をやり、彼は目を丸くした。
雪の上に楕円の窪みだけを残して、娘の身体は忽然と消滅していたのである。
Dにさえ気づかれず。
「おれじゃねえよ」
とダイナスはあわてて手を振った。
「かと言って、おめえでもねえやな。あいつの仲間か。――いや、なら気がつく。すると――」
「自分で[#「自分で」に傍点]何処へ行ったか、心当たりはあるか?」
「そうだな」
と巨人は顎に手を当てて考え込み、
「あの女の城だな」
Dは森の方へ向かって口笛を吹いた。走り出てきたサイボーグ馬にまたがり、
「案内しろ」
「おれはどうやって行く?」
「馬車がある」
「人使いの荒い野郎だな。――わかったよ。あの娘、中途半端な状態じゃあ、凍え死んでしまうかも知れねえ。寝醒めがよくねえよな。ちょいと待ってくれ」
程なく、森の奥から例の棒と布包みの布だけを持って出て来たダイナスは、さっさと馬車を起こし、なおも使命を果たそうと地を蹴る首無し馬に鞭を当てた。
並走しながら、Dは、
「事情を聞きたい」
と言った。
「ああ、いいとも――と言いてえが、おれにもよくわからねえ。とにかく、おれとあの女は、代々の宿敵らしいんだ。どうやら、貴族同士の戦争の代理にとこしらえられたんだな。ただ、おれはすぐ、あいつの居どころがわかったが、あいつはまだ眼が醒めてねえらしい。子分どもの方が早かったわけだ」
「戦いをやめたらどうだ?」
「そうもいかねえよ。というより、そうは考えられねえようにつくられてるんだ。あいつ[#「あいつ」に傍点]も、気がつくとそうなるぜ」
「気がつかなかったら?」
「そうさなあ。できるんなら、そうしてやれ。それが一番だ。おれも、敵として認められねえ相手とはやり合わんようになっている。あの娘も、その方がいいだろう」
「変わった戦士だな」
「戦うばかりが戦士じゃねえ。フェア・プレーってやつよ」
ダイナスは声を上げて笑った。道の樹々から驚いた雪が舞い落ちる。
「きれいだなあ」
と巨大な戦士は眼を細めた。
「こんなにきれいな世界なのに、おれは戦わなくっちゃならねえ。どっかおかしいよなあ。どうして、貴族の野郎は、おれみてえなもンをこしらえたんだろう。戦うだけなんて悲劇だぜ。おれはもっと世の中の役に立ちてえよ」
二人は平原に出た。
いつの間にか雪はやみ、銀色の月がかがやいている。
その光の下を、雪原は鏡のようにきらめきつつ、どこまでもつづいていた。
急に、景色が変わった。
青い光が二人を染め、雪のない平原が草木一本生えぬ荒涼たる姿をさらした。
「こっちだ」
|磊々《らいらい》たる奇岩の連なる一角へ、ダイナスは馬車を乗り入れた。
さらに一キロも進んだろうか。明らかに廃墟と思しい広大な建造物の連なりが、視界の奥から迫ってきた。
その城壁、丸屋根、石柱、土台――そして、村ひとつを丸々収められるほど巨大な核炉と電子|障壁《バリヤー》発生装置は、都市ほどもある廃墟を今も生あるもののごとく見せていた。
ダイナスは迷いもせずに、ひときわ堂々とそびえる建物に侵入し、その中央の土台のみ残る室内に伏したライアを発見した。
Dが先に馬から降りて脈をとった。
「どうでえ?」
「大丈夫だ」
とだけDは言い、巨人も安堵した。妙にツーカーの二人であった。女の足で彼らより早くここに辿り着いた奇蹟を、どちらも口にしない。
Dが抱き上げる前に、娘はうすく眼を開けた。
「私――どうしたの?」
「眠りたまえ」
脅えたような眼が周囲を見回し、
「ここ――シニストロ城の廃墟ね。どうしてこんなところに?」
「何も覚えがねえのかい?」
とダイナスが尋ね、ライアは、きゃあとDにしがみついた。
それでも、真に迫った恐怖感のないのは、暴れるダイナスの姿を見てはいないからだ。馬車の車体をはさんで、二人は上と下であった。
「この人は――誰?」
沈黙が落ちた。ライアが訝しく思う寸前、
「新しい使用人さ。あんたのとこで人手がいるってきいてな、それでやって来たんだよ」
ライアはDを見上げた。
「そうらしい」
と吸血鬼ハンターも言った。
翌日から、ライアの家はメンバー・チェンジで操業を開始した。
ダイナスの活躍は、まさしく八面六臂だった。体内のエネルギー許容量が人間とは違うのだ。
傾いていた母屋の屋根は水平に戻り、空に近かった薪小屋と貯水タンクには、向こう三年は保つだけの量が貯えられた。
「力仕事はおれにまかせて、のんびりやんなよ」
と巨人はライアを見下ろして破顔した。
誰もが笑み返さざるを得ない笑い顔に、娘の強張った表情も、じきにやわらいだ。
「あの人――本当に、下働きの|男《ひと》?」
「そうだ」
としか、Dも答えようがなかった。
「でも――どうして、家へなんか? お給料も払えないのに」
「向こう一年は、食べるだけでいいそうだ」
「でも、それじゃあ、あんまり……」
「好きにさせておきたまえ。この節、変わり者が多い」
「家は助かるけど、私、どうしたらいいの? ブルワーさんだって、いつまでも私をここへ置いてはくれないわ」
「彼のことは気にするな」
Dは静かに言った。
「納得ずみだ」
あの晩、三人で家へ戻ると、唖然とする人買いの前に、ダイナスはライアを誘拐した男たちの生首をずらりと並べたのである。
椅子ごとひっくり返ったブルワーへ、
「おかしな真似をしたな。彼の用が済むまで、ライアは農場へ残せ」
Dの宣言を、人買いは夢中で肯定した。
一週間は平穏に過ぎ、農場の修理を終えたダイナスのパワーは、土地の拡張に向かった。
農場の西側は、灌木ばかりの荒地であった。両手に小さな鍬を下げた巨人は、早朝から開墾にかかり、深夜には滋味豊かな耕地をつくり上げたのである。アル中の父親も、これには眼を見張った。
「ひとつ、面白えものを見せてやるよ」
と言ったのは、ライアが雪道の不便を洩らしたときである。
一同をベランダに集め、彼は一〇メートルほど離れた庭の真ん中に立った。積雪は五〇センチもある。
ライアの頬を夏の風が打った。庭先に太陽が落下でもしたかのように、大地は水蒸気を噴き上げ、軒からは|氷柱《つらら》が落ちた。Dが防がなかったら、ライアとブルワー――こいつもまだいた――は串刺しにされていただろう。
やがて、意気揚々とダイナスが熱い霧の中から現れたとき、庭いっぱいに雪の層をえぐった大地は、黒々とその表面をのぞかせていた。ダイナスが体熱を自在に調節し、全身から放散できることは、この一事で明らかになった。
Dはその合間にブルワーを連れて近くの町へ行き、『都』宛ての至急便を出させた。
無論、図書館からライアのような境遇に関する資料を取り寄せるためである。
貴族とライアの関係がまるっきり出鱈目なのは、最初からわかっていた。
生首を並べたとき、そう伝えると、
「どうしてわかったんだね?」
と人買いはモノクルの奥の眼をぎょろつかせた。もとより、Dは答えない。
「最初から知っていたか……それなら、なぜ娘のところへ来た? 貴族が牙を剥かぬ限り、吸血鬼ハンター“D”は無関心を通すはずだ。それなのに出向いたのは、そうか、あの娘に気があったのかね?」
「図書館はあったのか?」
とDは訊いた。
「ああ、あれは本当だよ」
「後で嘘と言っても遅いぞ」
背中に冷水を走らせながらも、ブルワーは、
「本当だ。ところで、小生はここにいても差しつかえなかろうね?」
「人買いに用はない」
「君は時折、ひどくじじむさい[#「じじむさい」に傍点]声を出すな。小生はすでに六千ダラスという大金を投資してあるのだ。しかるべき時がくれば、あの娘を『都』へ連れ帰る権利がある。ま、ああいう不手際が生じた以上、すぐとは言わんがね」
さすがに、ライアの家に留まることはできなかったが、以来、毎日のように顔を見せては、庭先でにこにこし、室内では持参したお茶やケーキの相伴にあずかっていく。奇妙なことに、父親はともかくライア自身も、この人身売買屋がとりたてて嫌悪の対象にはならないらしかった。
「変な野郎だな、おめえは?」
訝しげなダイナスへ、
「人徳で」
と人買いは答えた。
北の空は、春の到来が伝説ででもあるかのように重くよどみ、雪は人々のこころを凍てつかせようと白く白く降りつづけた。
ある日、白い雪にまみれながら、新しい井戸を掘る巨体へ近づき、ライアは傘をさしかけて訊いた。
「あなた、本当に家へ来てくれたんですか?」
「そうともよ」
巨人の返事に淀みはない。
「信じられないわ」
ライアはひどく痛切な眼差しを巨人に送った。
「村には、もっといい職が幾つもあります。冬の間は、あなたみたいな人ならどこだって欲しがる。それなのに、どうして家なんかへ?」
「一目惚れさ」
「えっ!?」
「いや、あんたにじゃねえよ。――あの若いのにさ」
「――Dさんに?」
ライアは口元へ手を当て、やだ、と叫んだ。
「なんだ、そりゃ。男が男に惚れて悪いって決まりがあるかよ。何つっても、あの美貌だ。多分、『都』一の美女だって、遠く及ばねえぜ」
ライアの眼に別の光が点った。
「『都』へ行ったことがあるんですか?」
「いや。ねえ」
「でも、いま」
「多分、つったろ」
「どんなところなのかしら?」
ライアは傘にたまった雪をふり落として訊いた。
「貴族の本拠地だ。人間の住むところじゃねえさ」
「そんなにひどいところ?」
「ああ、おめえ、貴族なんてロクなもンじゃねえよ。他人の意思を無視して、おかしな化物ばっかりこさえるしな。化物の身になってみろってんだ、糞ったれども」
それから、巨人は頭を掻き、
「わかっちまったかな?」
と苦笑した。
「……あなた……貴族につくられた人なの……」
ライアの声が震えたのは仕方があるまい。
「それが……どうして、ここに?」
「貴族につくられても、食わなきゃ生きてけねえやな」
ダイナスは鍬をふり下ろした。どういうタイミングか、一メートル四方もの土がきれいにえぐり取られる。彼はもう、三メートルの深さにいた。頭のてっぺんが地面と同じ高さだ。穴の直径は五メートルを越える。井戸というより池に近い。
降りそそぐ雪の沈黙に、ライアは身を委ねた。美しい若者がそばにいてくれたらと思ったが、黒衣の姿は農場の見廻りに出かけているはずだった。
これは、彼女自身で解決しなければならない問題であった。
傘を握った手が小刻みに震えた。
ライアは思いきって言った。
「私……あの日……不思議な夢を見たわ。……あなたとはじめて会った日よ……何処かの地下へ降りて、不思議な機械にかかるの……そうすると、何もかもわかった。私は……本当の私じゃないって。……もうひとりの私は、怖い怖い女で……誰かと戦うために生きてるのよ」
もうひと打ち、鍬を食い込ませて、ダイナスは訊いた。
「誰かって――誰だい?」
「……知りたい?」
「ああ」
いつの間にか、降りかかる雪の量に変化が生じているのを、巨人は感じ取っていたかもしれない。
広げたままの傘を、ライアは逆手に握っていた。
対妖物用の先端は、鋭く研ぎすまされている。巨人の後頭部は眼の下にあった。
不意に傘を投げ出し、ライアは家の方へ走り出した。
あどけない表情を幾つもの翳がかすめた。玄関へとび込むと、居間に父がいた。
ある匂いがしないことに気がついたのは、その分厚い胸に抱きついてからだった。
「どうした、おい?」
「怖いのよ、父さん――私、怖い。ね、私――父さんの娘よね? ここで生まれたんでしょ? 母さんもいたのよね?」
「そうとも。――何を言い出すんだ?」
「いいの。それならいいの。ね、しっかり抱いてて」
訳もわからず、娘の身体をやさしく受け止めながら、父親は随分と昔に戻ったような気がした。
少しして、Dとダイナスが揃ってやって来た。
「大丈夫かい?」
とダイナスは心配そうに訊いた。
「心配なさそうだ」
Dの視線は、長椅子の上で安らかな寝息をたてるライアへ落ちていた。かたわらに腰を下ろした父親の強い視線が、無防備な身体を守っていた。
「おや?」
とダイナスが鼻をひくつかせた。
「あんた、アルコールを断ったのかい?」
「ああ。――おまえさんの働きぶりを見ていたら、何だか、自分が情けなくなってよ。やり直す気になったのさ。それにゃあ、まず、禁酒禁煙だな」
「いい心がけだ。もっと怠けたくなるかと思ったがよ。明日から頑張れや」
「いいや、今日からするよ。井戸の掘り方を教えてやろう」
ダイナスは腹を抱えて笑い、少しして、
「こいつぁ、まいった。よろしく頼んますぜ、親父さん」
「まかしとき。――さて、いくか」
とドアの方へ向かい、父親はDへ、
「すまねえが、ついててやってくれ。わしよりは、あんたの方が安心するだろう」
Dは黙ってドアの脇へのいた。
珍しく太陽が顔をのぞかせたある日、注文した本の到着を知らされたDは、村の郵便局を訪れ、ある人物と出会った。
「セルナ・ニコルと申します。あなたのお求めになった本の著者でして」
と若い言語学者は、最新の研究成果をまとめた本を手に微笑した。
そして、二人が農場へ戻ると、ダイナスとライアは何処へともなく、その姿を消していたのである。
2
父親はDと一緒に村へ出たまま、耕運機を物色中であった。
Dは表に出て馬にまたがった。セルナも貸し馬に乗って、
「ひょっとして、彼らはもう――何処へ行くんです?」
「心当たりがある。待っていろ」
「こう見えても、馬には自信があります」
返事もせずにDは走り出した。一〇〇メートルも追い切れずに言語学者はあきらめた。どう見てもその辺の市場にごろごろしているDのサイボーグ馬は、彼の馬の倍近い速度で疾走したのである。
「なんてこった。だから『辺境』は怖い」
すごすごと農場へ戻り、彼は待つことに決めた。
廃墟まで二キロという地点で、Dは前方からやってくる巨影を認めた。
ダイナスは、両手で胸前にライアと丸太ん棒とを捧げ持っていた。その鎧姿が何が起こったのかを如実に告げている。
どちらも、額から顎まで鮮血を滴らせている。
「死んじゃいねえよ」
とダイナスは自分から言った。
「いいとこで、もとに戻っちまった。そのショックで失神してんのさ。やっぱ、まだ完全じゃねえんだ」
「乗せよう」
手をさし出すDに、巨人は首を横にふった。
「おれが連れてくよ。おれの宿敵なんだぜ。それが礼儀ってもんだろ。傷にゃあ、秘伝の薬を塗っといた」
「あとの二人はどうした?」
「そういや、出て来なかったな。近くをうろついてたのは確かだが」
それはDにもわかっていたことだ。農場の周囲には、絶えず彼らの気配が感じられた。襲ってこないのは、ライアが眼醒めていないのと、やはり、ダイナスの実力に恐れをなしたものだろう。ライアが失神しても助けに出なかったのは、ダイナスが戦士としての彼女だけを狙うとわかっているからか。
数キロの道を巨人は歩き通した。
「可哀そうによお、こんないい娘が、どうしておれと戦わなきゃならねえんだ」
「いつ変身した?」
「薪割ってるときだな」
ダイナスは薪小屋、ライアは一〇〇メートル以上離れた鳥小屋にいたが、すぐにとび出した。
「やっと会えたわね」
ライアは言った。
「うれしかったぜ。ようやく、本当のおれの相手に巡り会えたんだよ、D。ライアも歓喜しているのがわかった。そう言ったもの」
「うれしいわ」
とライアは告げたのだった。
「これが本当の私よ。やさしい農家の娘は夢だと思ってちょうだい。長いあいだ、あなたを待っていたのよ。――いらっしゃい」
そして、二人は廃墟で刃を交えたのだった。
それがどんな死闘であったか、Dは尋ねず、ダイナスも話さなかった。
ライアが意識を取り戻したのは、農場のベッドに横たえてすぐだった。
怯えた眼は、誰もが知っている平凡な娘のものだった。
すがるような視線をDに据え、
「どうしたのかしら、私?」
血の気のない唇が言った。
「何でもねえよ」
と応じたのはダイナスである。
「本当に? ――私、夢でも見たのかな? その中で、誰かと戦っていたような。……怖い。そのときの気持ちを覚えているのよ。私――戦えるのを、相手を殺すのを、とても喜んで」
わななく額に、Dの左手が触れた。
「眠りたまえ」
娘はうなずき、ひとつ大きく息を吸い込んで――すぐに規則正しい寝息をたてはじめた。
「えらく早えな」
感心するダイナスへ、
「外へ出ていよう」
とDは促した。二人は寝室から直接ベランダへ出た。
「親父はどうしてる?」
「まだ、村から戻ってきていない」
Dは家の奥へ顎をしゃくり、
「おれは、ある学者の話をききにいく。おまえも来るか?」
「おれたちのことかい?」
「ああ」
「やめとくよ。今さら戦いの理由なんざ知ったってはじまらねえ。あの娘のことだけ気にしてやんな」
「気にしたい男がもうひとり来てたな」
「ん?」
農場の入口から入ってくる自動馬車と、その横の騎馬に眼を止め、ダイナスは、
「あん畜生」
と苦笑した。馬車には『辺境警備隊』のマークが刻印されていた。蟻のように白雪へこぼれた隊員たちに、
「あいつらです。小生の邪魔をする連中は」
と喚いたのは、言うまでもなくブルワーだ。
隊員の中から、リーダーらしい中年の男が前へ出た。全員、ガス式のライフル銃を手にしているが、銃口は地面へ垂らしたままだ。
「はじめまして。わしは辺境警備隊北第八分隊隊長のケビンという。実は、二日前、このブルワー氏から訴えがあってな。君らが彼の権利を侵害しているというのだ。何でも――」
「人買いが娘を買い取るのを邪魔してるってんだろ?」
「無礼もの!」
ブルワーが眼をぎょろつかせて叫んだ。右手の紙切れを示し、
「隊長さん、さっきも見せたが、これが契約書です。小生には、そこの娘を『都』へ連れていく権利がある。すぐに彼らを追い払っていただきたい」
「――ということだ。一応、契約書は本物だ。娘を引き渡してくれんかな?」
「そうはいかねえよ。こっちはこっちで、ちと用ありでな」
隊長は表情を曇らせ、
「では、やむを得ん。強制執行に移る。娘さんを連れて来たまえ」
「いいとも、行ってきな」
ダイナスはうやうやしく脇へのき、玄関を示した。
Dは無言で家の中へ戻った。
「なんじゃ、見んのか?」
と左手が不服そうに言った。
「無茶はしまい」
「くそ、見ものなのに。いや、つまらん男だな、おまえは」
庭の方から、怒号と殴り合いの音が響いてきた。長くはつづくまい。
Dは居間に入った。セルナは窓際に立っていた。
「やってますよ」
と言語学者は拳を握りしめて言った。興奮している。まだ若い。
「凄い。五人いっぺんに吹っとばした。これで警備隊は全滅だな。やあ、あのおっさんも捕まった」
屈託のない笑みを洩らして、彼はDの前に腰を下ろした。
「失礼とは思いましたが、留守のあいだに家の中を見学させてもらいました。それと、今、寝室で娘さんを」
「どうだった?」
「彼女がそうだ[#「そうだ」に傍点]という証拠はありません。ですが――」
「変貌したそうだ」
「なら、間違いはありますまい」
セルナはこめかみを揉んだ。
「あの男はどうだ?」
「サイズとしては合います」
三年前のある山城の遺跡発掘時の悲劇を、セルナは憶い出した。地下の大広間に並んでいた人造人間戦士たち。彼らを見下ろす大岩壁の一角が突如崩壊し、作業中の科学者たち十名を押しつぶしたのだ。彼が山腹のベランダで同僚と一服つけていたときだった。
岩壁に穿たれた空洞と残された哄笑は、そこに潜んでいたものの正体は明らかにしなかったが、謎のエネルギー吸収先だけは判明した。その窪みに外の巨人が収まれば、この上なく完璧な復元ができそうだ。
「やはりな」
とDは言い、
「あの娘を今のままにしておく手だてを探している」
とつけ加えた。
「それは勿体ない。――と言ったら、怒られそうですね」
「知っているのか?」
「ええ」
セルナはあっさり首肯した。
巨人と娘の関係については、郵便局から農場へ来るまでの間に情報の交換があった。Dの単刀直入な用件の切り出しは、そのためである。
「古文献を半年前に、移動大陸の遺跡で発見しました。そこに、別の例が記されています」
「あの娘はダイナスとちがって普通の娘だ。この村の土地で、平凡な両親から生まれた。証拠は山ほどある」
「ですから、彼女の場合はその誕生以前から、両親のどちらか、ないし双方の家系に、一種の遺伝子操作が行われていたと思われます。戦士としての意思、体力、知識、超能力――すべては幾世代にもわたって血の中に潜み、ダイナスの眼醒めに呼応して甦るのです。恐らく、間違いはありますまい」
「廃墟へ行ったのは何故だ?」
「貴族たちの力をもってしても、数千年を血の中で生きつづける戦士の自由な顕在化は至難の業だったのだと思います。どこか近くの廃墟に、それを補うための、いわば再生施設ともいうべき場所があるはずです」
「このままにしておくのは可能かな?」
「施設が残っていれば。――近くに廃墟があるとおっしゃいましたが」
「行けるかな?」
「馬には――」
と言いかけ、セルナは肩をすくめてやめた。さっきの惨敗ぶりを憶い出したのである。
そこへ勢いよくドアが開いて、
「助けてくれ」
血まみれのブルワーが飛び込んできた。必死でDの背後に隠れようとするが、この黒い若者はいつの間にか彼と向き合ってしまう。
戸口が翳った。
「野郎、出て来い」
「わっ!?」
とブルワーは床に伏せた。セルナも後じさる。
「外のは片づけたぜ。安心しな、眠ってるだけよ。ひとりだけ残して馬車を走らせるぜ」
「ライアを何とかできるかもしれん」
Dの声に、巨人は眼を丸くした。
「やった! この人がしてくれるのか?」
ぬう、と迫られて、言語学者は壁際に追いつめられた。
「そら、ありがとう。恩に着るぜ。善人、天の使い」
「いや、その」
三倍くらいある顔が三〇センチの距離で、
「あの娘はこれまで、あんまりいい目を見てねえんだ。ひとつ、よろしく頼むぜ」
「君はそれでいいのか? 相手がいなくなるんだぞ」
「しゃあねえよ。あきらめるさ。――この野郎」
逃げ出そうとしたブルワーは、見事に突き出た手に捕らえられた。
「どうしたもんかな、Dよ、この人買い? 首と胴とに二つにしちまった方が、世のためだぜ」
「ごろつきではなく、警備隊を呼んできただけましだろう」
「そうとも」
地上三メートルに吊るされたモノクルが、手足をジタバタさせながら叫んだ。
「小生はこれでも法律を遵守しとるんだぞ。離せ、離さんか!?」
「ま、勘弁してやるか。ただし、二度と顔出ししねえようにとっちめてくれる。おい、D――そっちの話はまかせたぜ。ややこしいのは苦手だ」
悲鳴と罵声ともども巨人が出ていくと、Dはまだすくんでいる言語学者へ、
「行くか?」
と声をかけた。ライアを救う施設へ、であろう。
「もちろんです」
防寒コートに手をのばし、セルナは硬直した。
全身を縦に冷たいものが走りぬけた。
Dの顔を見た。
哀しんでいるのではないかと思った。同じ方を見るのが怖かった。
奥の部屋との境のドアが開いて、ライアが立っていた。
寝巻姿であった。手には長い箒を握っているが、掃除に来たのではなかった。
「また、眼醒めたか?」
とDが静かに言った。
「お世話になっているわね」
ライアは微笑した。声も顔かたちも変わらず、しかし、そこにいるのはDの知らぬ鬼気を放つ娘であった。
「お願いがあります。――邪魔をしないで。これが私たちの仕事なのよ。あなたの力は、眠っているときの私に貸してあげて」
そっと眼を伏せ、ライアは戸口に向かった。
ベランダから見下ろす雪の大地の上に、丸太片手の巨人がこちらを向いていた。少し離れた雪山から突き出た男の足が二本、必死でもがいている。
「しゃあねえよな」
とダイナスが言った。ライアはうなずいたきりだった。
瞬間、ライアが跳んだ。
空中で箒をふりかぶる姿を、背の陽光が包んだ。
ライナスが丸太を頭上にかざし得たのは、戦士の本能と言っていい。
打ち下ろす箒の柄はぶん! と冬を裂き、凄まじい轟きとともに、丸太をしならせたのである。
「うああ」
後方へ跳んだダイナスの声には、苦痛の響きがあった。両手が痺れたのだ。
その眼前へ迫るライアの速度。
つづけざまにふるわれる箒を、かろうじて受けつつ、見よ、巨人は片膝をついたではないか。そんな一撃なのだ。ライア――シニストロの女戦士よ。
木と木が打ち合い、ついに、巨人の手から丸太が離れた。
しめたとばかり箒をふりかぶるライアの腰を、巨大な手がぐいと引き寄せた。
ベランダにいるDの眼には、灼熱の白光の中で、二人が溶け合ったように見えた。
ごおっと叩きつけてきた熱風は、水を含んでいた。
「中にいろ!」
後ろ手にドアを閉め、Dは灼熱の核を凝視した。
噴き上がる水蒸気は猛烈な速度で移動していた。その中心では、Dすら予測のつかぬ死闘が展開されているにちがいない。
白煙は柵を砕いて森に突入した。
Dはベランダを駆け下りた。背後で、セルナの呼び声がきこえた。
視界が紅い。
水蒸気の移動跡に炎が上がっているのだった。
Dは馬に乗って森へと走った。
水蒸気のかたわらへ走り込み、
「シニストロの城へ行け!」
その頬を熱気が打った。
水蒸気は二つに分かれた。片方は全裸の娘となって森の奥へ、片方は鎧武者と化して道へと跳ぶ。
どちらもDの方を一瞥した。
ライアは哀しげに。ダイナスは薄く笑って。
面影は冬の風に乗って消えた。
Dは手綱を引きしぼって道へ戻った。
背後から蹄の音がやってきた。
「こりゃ、凄い。ブルワーは救い出しましたけど、早いとこ消火しなきゃ、この辺一帯が火の海だ」
Dはセルナの方を向いて、
「村へ連絡を頼む」
「いいです。けど、あなたは?」
「後で、シニストロの城で会おう。この先を真っすぐだ」
「わかりました」
Dは馬首を巡らせた。冬空にコートが絵のように翻った。
行く先は道ではなかった。馬を駆ったのは森の中であった。
その手綱さばきにどのような手練が隠されているのか、何の変哲もないサイボーグ馬は比類なき名馬と化したのである。
通過するものの思惑など無視して突き出た枝や木の根は、ただの一度も馬とDに触れなかった。
馬の足は土だけを蹴り、一瞬の停滞も見せなかったのである。
木立の間に、白い平原が見えたとき、Dは手綱を右へ引きしぼった。木の大枝から落ちた雪が、かたわらで白煙を吹き上げた。
その表面へ、白木の針が空気を灼いて走った。
「やるなあ」
声はあらゆる方角から聴こえた。
「覚えてるか、クラムだ。あんたのこった、座標の最短距離を選ぶと思って、網を張ってたのよ。今度は、倉庫のときみたいなわけにはいかないぜ」
Dの身体が鞍から垂直に舞い上がった。白銀の世界に咲く暗黒の花か。その足下で、雪煙を浴びた馬は、あっけなく膝をついている。
その首の半ばまで食い込んでいる白刃を、Dが見たかどうか。
せり出した大枝の上へ着地寸前、Dは横なぐりに一刀をふるった。
枝にたまった雪の中から突き出された刃は、自ら方向を転じ、それを握った右腕を肩の付け根まで露出させつつ枝の上で動かなくなった。一度しかふるわなかった剣の傷は、手首から肩まで、凄まじい力を示して肉をはぜ割っている。
「手だけとは恐れいる」
Dの左手が皮肉っぽい口調で言った。
「最初の奴――二つになるだけが芸ではなかったぞ。気をつけろ」
声は降下していった。
着地と同時に、三条の光がDを貫いた。――そう見えた。
刃を握った左手と両脚は、ことごとく縦に裂かれて地に落ちていた。
反転はせず、Dは左手をアンダースローで後方へふった。
クラムは首と胴だけでDを襲うつもりだったのか。地上一メートルほどの位置で白木の針を受けたトルソは、自分が跳び出してきた幹に縫いつけられていた。針は喉を貫いていた。
見ようともせず、Dは森の出口へ歩き出し、不意に右手を独楽のごとく回した。
虹色の軌跡に侵入した塊は、二つに弾きとばされて地に落ちた。
首も四肢も失った胴は、どこか寂しげであった。
「やるな。これがおれの本体だったんだが」
首のあった部分から、ひょいとクラムの顔のミニチュアが現れた。両手と両足がそれにつづいた。小ぶりの手は、ナイフを握っていた。
その頭頂から股間まで、ぷっと朱色の線が浮くや、今度こそクラムは二つに裂けて雪上に転がった。
「ずっと見張っておったらしいの。おまえ、気づいていたか?」
左手の問いは、疾走するDの周囲を吹く白い風にまぎれた。雪だった。
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第四章 白き戦場へ
1
音もなく降りそそぐ冬の印を、時折、渦巻く風が水泡のように吹き乱した。
そびえる城郭も柱もすべては白く染まり、風が吹くたびに、その輪郭をひどく曖昧にした。その彼方は、天と地の定めもつかぬ白銀の世界だった。
忽然と現れた二つの人影もたちまち白の流れに呑みこまれ、それでも、墨絵のような色だけをかろうじて保った。
「寒くねえか?」
と巨人が訊いた。ライアは全裸であった。
「あなたのせいね」
「そうなるな」
「ここは私の国よ。自分に有利だと思わないでちょうだい」
「わかってらあ」
と言って、巨人はちらと背後に眼をやった。
「あの人が気になるのね?」
「おめえはならねえか?」
「会いたいわ、もう一度」
「不愛想だが、いい野郎だ」
「哀しい|男《ひと》だけど」
「全く――けけ、おれたちに同情されてちゃ世話がねえな。あいつに比べりゃ、ましな運命だぜ。少なくとも、決着はつかあな」
「その通りよ。――いらっしゃい」
「しかしよ、何故、戦うんだ? おれたちゃ縁もゆかりもねえんだぜ」
「仕方のない質問ね。わかっているはずよ」
ライアの声は風にまぎれた。
「まあ、な」
巨人はうなずいて、片手の丸太をふった。
「どっちの主人もいなくなっちまったのに、おれたちはまだ戦う。――おかしな話だぜ」
「憎んでいるわ、私はあなたを」
「憎んでなんかいねえよ。敵意を持ってるだけだ。それも、おれたちの感情じゃねえ」
「やわく[#「やわく」に傍点]なったらしいわね。それでは私に勝てないわよ」
「勝ったらどうなる?」
風が鳴った。そこにまぎれる言葉はなかった。ただ、戦士だけがいた。
ライアが身を沈めた。素手である。箒は失われていた。
突然、巨人の足下がかがやいた。逆しまに電撃が走った。空へと挑む数条の光は巨大な円筒となって、荒涼たる白い世界に紫の色をつけた。その円筒の中に巨人がいた。
光が唐突に消滅しても、その名残はしばらくの間、廃墟を白雪のただ中に際立たせていた。
「やるねえ」
と巨人は煙を噴き上げる全身を、両手ではたきながら言った。
「確かにおめえの国だな。だが、おれにもそれなりの仕掛けはあるぜ」
彼は右手を口元へ持っていった。
厚めの唇が光る玉を吐いた。
それを掴んで空中に放ると、冬は小さな太陽を迎えた。
灼熱の身体が自ら高熱を発したかのようであった。その全身を包んだものは、本物の太陽と等しい炎のコロナだった。温度は瞬間的に一億度に達した。大地さえ、構成分子を灼かれて虚無と化した。
その中から全裸の肢体が巨人の胸もとへと跳ねた。
とっさにブロックした腕ごと、一〇メートルも吹っとぶ。大地を転がる身体に、雪片が帯のように巻きついた。帯には赤い色がついていた。
すぐに起き上がった巨人は、右の胸を押さえて鮮血を吐いた。
「とんでもねえ女だな、おめえは。この鎧がなけりゃ、イチコロだったぜ」
「ここの|障壁《バリヤー》がまだ生きていなければ、私も灰になっているわ」
ライアは冷ややかに言った。
「面白え。――いよいよ、本番だな」
巨人が丸太を構えた。
ライアの身体がふわりと前方へ傾いたとき、それは宙をとび、しなやかな肢体を後方へ跳ねとばした。
「ありゃ!?」
ダイナスは呻いて眉をひそめた。
ライアの変貌に気がついたのである。
「またか!?」
と叫んで彼は駆け寄った。ライアのすぐ横で足がもつれた。
「効くねえ、あの蹴り」
娘の上に倒れても、彼は両腕で身体を支え、直撃を防いでから横に転がった。
数秒――
打ち伏した影たちのかたわらに、黒い影が滲んだ。
能面のごとく無表情な男は、
「どちらも凄まじいな」
と、かつてジュランと名乗った声を吐いた。
「こいつといい、Dといい、あまりに凄すぎて、おれたちも容易には手を出せなかったが、どうやら出番が回ってきたようだ。一万年に及ぶ戦い、いま終止符をうってくれる。しかし――長かったわ」
疲れを全身に漂わせながら、野良着姿の男は巨人のかたわらにひざまずくと、両手を前方に突き出し、何かをなぞるように動かしはじめた。
と、ものの数秒も経過しないうちに、確かに何もない空間に、青い形が朦朧と浮かび上がったのである。
一心不乱に手を動かすジュランの表情は、苦行僧のようだ。さもあろう、みるみるうちに、彼の前に整った半透明の形は、すぐそばに伏した巨人――ダイナスそのものであった。
彼は立ち上がった。それにつれて両手も――もうひとりのダイナスも上がった。そして、降りそそぐ雪を透かし見る巨体は、本物の巨人の上にすっぽりと重なったのである。
そこでジュランは息を切り、尻餅をついた。顔面は蒼白であった。五つほど呼吸を繰り返し、彼は凄絶な次の作業に移った。両手は側頭部にあてがわれていた。
雪が舞い踊った。
二重露光のごとくだぶっていたダイナスの身体が、その頭部から妖々と色を失っていった。偽装体ばかりか、下の本体までも。
いくらダイナスといえど、頭を消されてなお、戦士の活動が可能とは思えない。いや、このジュランの妖力ならば、彼の全身を消滅させることも可能なのではなかろうか。
だが、恐るべき妖術師は、眼前の勝利を掴む前に、ふり返らねばならなかった。
白の中に滲んだ影は、荒れ狂う雪にもその美しさを損なってはいなかった。
「D――やはり来たか?」
遠くつぶやいて、ジュランは立ち上がった。
「してみると、クラムも斃されたな。おれが仇を討たねばなるまい」
「おまえたちの戦いに加わるつもりはない」
Dは静かに言った。
「もう遅い。仲間を斃した以上、おまえも関係者だ」
ジュランの声は疲れているようだった。Dの存在に心気が乱れたとき、ダイナスの頭部がもとの姿に戻ったことを彼は知っていた。
両手が上がった。
よせ、とはDも言わぬ。
小刻みにふられた両手の先から、美しい幻影が青くDへと飛んだ。
それを二つに裂いた黒影が、ジュランの前方に着地した刹那、妖術師の身体も斜めに斬り下げられていた。
血風を突き破って、Dは二人の戦士に駆け寄った。
左手をライアの額に当てると、娘はうっすらと眼を開いた。平凡な農家の娘の眼であった。
「どうしたの、D? 私――一体……」
「事故に遭った」
とDは言った。
「ダイナスが守ってくれたよ」
「ほんと――に? よかった。私、あの人と……戦ってる夢を……また……」
娘の瞼が落ちた。
脈が確かなのを確認し、Dはその身体を抱き起こすと、片膝立ちのまま、左手を巨人の額にのせた。
ひょう、と風が鳴った。ダイナスが空気を吸い込んだのだ。
じろりと眼を開けてDを見、
「こりゃ、どうも」
と世間慣れした挨拶を送った。黒い腕の中のライアを眺め、
「また、か?」
と訊く。
「ああ」
「元へ戻すなり、戦うなり、早いとこどっちか一方に決めてくれ。せっかくこっちが燃えた、いざってときに、これじゃ、堪ったもんじゃねえ」
「もっともじゃ」
「爺さん声を出すなよ」
さして苦しげでもなくダイナスは起き上がった。さすが、時間五千万メガワットを二千年間だ。
「何処へ行くんだ?」
歩むDの前方は、いま、ダイナスの生んだ人工太陽のせいで、燃え爛れたすりばち状の大地である。
「最初、ライアを見つけたのはここだ。この下に、戦士を甦らせる施設があるだろう」
「どうやってわかる?」
「勘だ」
ダイナスは微笑した。両手を叩いて、
「よっしゃ。おれにまかせろ。ひと掘りしてやるよ」
「よかろう」
Dがうなずくと同時に、巨人の身体は濛々とかすんだ。
全身が分子レベルで震動を開始したのである。
ガラス状に溶けた地面がみるみる粉砕され、霧と化して空中に舞った。
馬に乗った二つの影が到着したとき、廃墟の地下は、一平方キロに及ぶ巨大な大伽藍を白雪の蹂躙にまかせていた。
「これは――まだ、こんなものが生き残っていたのか?」
すりばち自体も文字通りすり切れたのか、地上に開いた魔獣の口のごとき穴の縁から下方を覗き込み、セルナは驚嘆した。
「いやあ、凄い。さすがは貴族の超文明ですな、先生」
こう言って肩を叩いた隣のモノクル男の名は、言うまでもあるまい。逆さで雪に突っ込まれても懲りなかったらしい。
二〇メートルほど下の一角に、大小二つの人影を認め、二人は馬の背に積んであるロープをつないで降りることにした。
無慈悲に旋回するロープにすがりすがり、ようやく降り切ると、
「よく来たな」
とダイナスが破顔した。
「てめえは何だ?」
と凄まれ、
「契約書がある」
と例の紙切れを取り出したブルワーも、なかなか見事なものだ。
「てめえは足で来い」
セルナを肩に担ぎ、ダイナスは速足で、彼方に待つDのもとへと進んだ。
奇妙なメカニズムの中心に彼と――ライアはいた。
二〇メートルの高さの天井まで達しそうな巨大な円筒から、爪先ほどの塊まで、しかし、そのどれもが複雑に関係しあっているメカニズムだとわかるのだ。
Dよりもさらに空間の中央――金属とも有機物ともつかぬ手術台らしきものの上に、ライアは横たわっていた。台それ自体も、重要な役割を持ったメカの一部であることは、その内部で自然発光する青い光でも明らかであった。
「どうだ?」
Dの問いに、セルナは首肯した。
こここそが、まぎれもない超戦士再生の間であった。
「操作の手段がわかるか?」
四囲を眺め、首を傾げるまで数十秒を要した。
「大雑把には。しかし、それが正しいかどうかは。何しろ、貴族の機械です」
「とにかく、やってみよう。指示したまえ」
Dは、言語学者のメカ的苦悩などおかまいなしに言った。
セルナはメカの点検に移った。幸い、移動大陸の遺跡で発見した施設とさしたる差はなく、特に、全メカニズムの稼動をひと目で了解できるチェック・センサーが同じなのには、ほっとした。
何もかも白い像に変わろうとする頃、セルナは、OK、と言った。
「大した施設だ。何ひとつ異常がありません。今すぐにでも、一万年後でも、あらゆるメカが変わりなく動くでしょう」
「何でもいいから、とっととはじめろ」
ダイナスが、ライアの雪を吐息で吹きとばしながら言った。
「わかりました。原理としてはこうです。ライアさんの遺伝子中に眠る戦士のDNAを抹消する。これは、はじめて彼女がここへやって来た際の覚醒と全く逆の過程を機械にとらせることで完成します」
セルナは二メートルほど右手のコンピュータと思しきメカに近づいた。
「戦士としてのライアさんの記憶を甦らせたデータは、この中にインプットされています。ただちに、消却の指示を行います」
「そいつは大変結構。――頼んだぜ」
「待ちたまえ」
と歯をガタガタいわせながら、ブルワーが口をはさんだ。
「まさか、しくじって生命に関わるようなことはあるまいな。断っておくが、戦士だろうがなかろうが、六千ダラスに変わりはないぞ」
「凍死してから文句を垂れなよ」
巨人が凄まじい眼光をセルナに浴びせた。
「はじめろ」
セルナはうなずいた。
コンピュータの突起に手をのばし――触れるまで一瞬の間があった。
このとき、彼の脳裡を異様な考えが占めたのである。
――いいのか、あの娘をただの人間に戻していいのか。
暗い声が訊いた。それは、野心に満ちた言語学者の声であった。
――二度と邂逅はできない資料[#「資料」に傍点]だぞ。貴族の生んだ戦士。あの城で生きつづけた超エネルギー体に匹敵する存在だ。このまま眠らせていいのか?
セルナはスイッチを入れた。
世界に変化はなかった。音も光も生じず、ただ、ライアの両眼だけが、その刹那、かっと見開かれたのである。
「違うぞ!」
ダイナスが叫んだ。
白光とともに、セルナの右腕が肩のつけ根から切りとばされたのは、次の瞬間だった。
「D――もう、手は出すな」
ダイナスが明るく言った。
「ここしばらく、楽しかったぜ。もう二度とはねえだろうな」
「その通りよ」
手術台から静かに身を起こしたライアの全身を、横なぐりの風雪が白く染めた。
「私も忘れない。――さようなら、D」
手術台から降りた娘を、巨人は低く身構えて迎えた。
「よせ、こら――おまえら、本気で戦うつもりか!?」
ブルワーの頭上へ二つの影が尾を引いて上昇した。
「――!?」
ときょろきょろする眼前を黒衣の主が走り抜け、
「彼を見てやれ」
声はブルワーの降りてきたロープのところでした。
そちらを向いた人買いの眼に映ったものは、飛燕の速度でロープを伝う黒影ばかりで、ひとつ頭をふり、彼は血まみれで呻く言語学者のもとへと駆け寄った。
何もかも白く閉ざされた大地の上で、Dは天空を仰いだ。
彼の眼にも見えぬ鉛色の雲の何処かで、凄惨な死闘が繰り広げられているはずであった。
黒瞳の中心に、白いかがやきが宿った。それは虹の数に色を増し、瞳全体を、そして、天の一角を占めた。
「終わったの」
地に落ちた長い影の左手が、疲れたように言った。
新たな風の怒号が地上を叩きつけた。雪はやんでいた。少し遅れて、白煙が世界を――Dを包んだ。
果てしない白雪の舞は、突如、熱湯の豪雨に変わったのであった。
遥か彼方の荒野へ、二つの黒点が落下したことを、Dのみが認めた。
低く口笛を吹いて、Dはサイボーグ馬を呼んだ。
かろうじて人の形が知れる焼け爛れた物体を、熱い雨は容赦なく叩いた。
Dは馬を下り、ライアに近づいた。
気配に気づいたか、娘はうっすらと両眼を開いた。戦士の眼ではなかった。
「今度は……覚えてる」
とライアは細く息を吐いた。
「あんなこと……したくなかった……D……私は一体……何だったの?」
「農家の娘だ」
「本当に?」
娘は微笑んだようだった。
「もっと……一緒にいたかった。……あなたたちと……ずっと……」
ライアの全身から力が抜けた。
「逝っちまったかい?」
と、かたわらに横たわる巨人から低いつぶやきが洩れた。
「ああ」
「おれもじき逝くが……いい気分だぜ。思いきり戦えてよ。……何つってた?」
聞こえていなかったらしい。
「待っているそうだ」
とDは言った。
「そうかい。――おれもあっち[#「あっち」に傍点]じゃ、畑仕事をやれるかな。いいや、やっぱり、切ったはっただろうな。あいつめ、今度は鎧をつけて待ってやがるぜ、きっと」
血まみれの唇がDを見て微笑んだ。
「達者でな。三人でまた会おう」
小さな痙攣が走り、巨体は大地に同化した。
白いものが、また舞いはじめている。
Dは廃墟を見た。
一万年を生きた憎しみの夢は、すべて白く溶けていた。
数時間後、血止めした言語学者を肩に、地上へ脱出した人買いが再び見たものは、二つの白い盛り土と、片方の表面に突き立てられた焼けた丸木のみであった。
道路へ戻り、彼はその奥へと眼をやった。
吹き荒れる白魔の奥に、ほんの一瞬、黒いコートの影が滲んで見えたような気もしたが――すべては果てしない純白の舞に呑み込まれていった。
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あとがき
お待たせしました。本当に久しぶりの“D”をお送りいたします。
中編集ですが、どれも面白さは長編に負けません。どうしても、という“長編アディクト”は、年末の書き下ろしまでお待ち下さい。少々、時間的な問題はありますが。
思えば長いことDから遠ざかっていたようです。
こういう場合、作家の考え方や人生観にも変化が生じ、久々のDが前とは別人のようだ――というようなことも多々あるのですが、この作家は、その辺で何とか道場や作文何とかやらを平気で開講するような女流よりはましな精神構造の持ち主ですので、そういう事態は免れたようです。
この中には、いつものD――読者のみなさんが作者よりよくご存知の、そして、ついに理解できないDがいます。
ごゆっくりお楽しみ下さい。
長くはありませんが、作者の口上はこれだけでいいと思います。
平成四年一月某日「エイリアン2(長尺版)」を観ながら
菊地秀行