D―白魔山〔下〕 〜吸血鬼ハンター17
菊地秀行
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目次
第一章 囚われ人
第二章 異星の刺客
第三章 内なる死、外なる生
第四章 愛憎の城
第五章 炎と血風
第六章 そびえる敵
第七章 塵のごとくに
あとがき
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第一章 囚われ人
1
Dは足から落ちた。正確には自ら空中で半回転してのけたのである。着地と同時に別の位置に飛翔すべき身体は、しかし、片膝をついた。ギルゼンの肋骨剣は、その内臓まで貫通していたのである。
背後の床を染みのような影が漂ってきた。実体もない、正しく二次元の存在だ。
「よせ!」
制止の声は、巨大なる台座の頂きから降ってきた。
「その男に手出しはならん。下がれ!」
影は停止した。そのまま未練がましく動かない。
ギルゼンの声はさらに大きく、威圧と恫喝をこめて、
「お下がりなさい――母上」
ようやく影は後じさった。猛烈なスピードでもと来た方角へ走り去る。
「もはや隠しても仕方がない。Dよ、あれがこのギルゼンの実の母だ」
Dは立ち上がった。ふり向きもせずに、軽く膝を曲げる。跳躍の用意だ。この若者の闘志は、なお失われていない。
「私はもうこの部屋にはおらん」
降ってきた声の位置が、台座の遙か上空からとDは聞き取った。
背後で重々しい気配が開く。扉だ。
「ここを出れば、ジャンヌがおる。おまえの侍女にするがいい。まがいもの[#「まがいもの」に傍点]だが、旨い血をしておるぞ」
声の方角へ白い光が飛んだ。白木の針である。それきり何の反応もなく、ギルゼンの声も途絶えてすぐ、Dは扉の方へと歩き出した。肋骨の傷はもう癒えたらしい。いつもの足取りであった。
抜けるとすぐ、背後で扉は閉じた。その気配の名残を背中に感じながら、Dは前方に立つ娘を見た。Dと別れた場所から一歩も動いていないように見えた。
「よくご無事で」
とジャンヌが敬虔な朗唱のごとくつぶやいた。
「ギルゼンは何処にいる?」
Dの問いはひとつしかない。
「それは――存じません」
吹きつける鬼気に凍りつき、喘ぐように娘は答えた。
Dの身体がゆらぎ、彼は両足に不必要な力をこめて身体を支えた。
「毒が廻っておるな」
ジャンヌは愕然と鬼気の呪縛から逃れた。この美しい若者の何処から、このような無惨な嗄れ声が流れ出るのだろう。
「これは、わしも知らぬ太古の毒じゃ。おい、娘、わし――いや、おれを介護しろ」
「そう言いつかっております」
ジャンヌは恭《うやうや》しくうなずいた。
Dのかたわらへ廻り、その腕を取ろうと手をのばす。
「触れるな――行け」
若者は、その凄惨な姿にふさわしい、美しい声で命じた。
「おかしなとこへ閉じこめやがって。出せ、出せ、出しやがれ」
と喚き散らしても、鉄格子の向うに広がる通路や他の牢獄からは何の反応もない。
気持ちばかりの光の中に浮かび上がったそれらの何処にも、人の姿はない。石の廊下も鉄格子も太古よりの静寂を湛えて沈黙していた。
これが出来上がったばかりの建物だとは、誰も想像のしようもあるまい。
すでにトータルで三十分以上喚き暴れ、格子をゆすり、ついにクレイは諦めた。そもそも抗議をし、向うも威圧してくるべき看守もいないのである。
「ノレンに腕押しか」
遠い海の彼方の島国を放浪中に覚えたことわざ[#「ことわざ」に傍点]が、口を衝いた。
「危《やべ》えな」
気迫が萎えている。どうやってここへ運ばれたか、見当もつかないためだ。雪の中でビバーク中に、大男と少年と女医が忽然と消えた。呆気に取られているところを肩を叩かれた――ここまでは覚えている。
気がつくとここにいた。
衣裳はもとのままだが、登山装備は消えていた。勿論、ナイフもだ。成す術もなく拉致されてしまった。その事実が、札つきの無法者の気力を根こそぎ奪っていた。気力はいつか戻ってくる。でなければ生きられないからだ。だが、相応の時間を必要とするだろう。いまのところは落ちこみのどん底だ。
「クレイさん?」
石の床に胡座《あぐら》をかいたとき、左方から聞き覚えのある声がした。
「坊主――無事だったか!?」
ルリエは、隣の牢獄に収監されているらしい。
「さっきから喚いてたのが、聞こえなかったのか?」
「いま、眼を醒ましたんです。夢の中で犬が吠えていましたが、クレイさんでしたか」
「うるせえ、莫迦《ばか》野郎。それより、どうやってここへ来た?」
「クレイさんが外へ出てから、ダストさんが来ました。外から声をかけてきたんです。で、戸を開いたら、急にめまいがして――気がつくと、いま、ここに」
「肩は叩かれたか?」
「いえ。クレイさんは?」
「ギルゼンとかいったな。おかしな真似しやがって。上等だ。後でお返ししてやらあ。他の二人はどうした?」
「別の場所にいるわ」
いきなり生じた声。それなのに、地の底をすうっと流れ寄ってきたような気が、クレイにはした。
格子に顔を押しつけて、声の方――廊下の右方を見た。
幽鬼のような白い影がやって来た。
「リリアさん!?」
先に声を出したのはルリエだった。
クレイは怒りのあまり遅れた。
「てめえ、この……」
最後は声にならなかった。歯ぎしりの音が代わりだった。
美貌の女ハンターは、足音ひとつ立てず、ひっそりとクレイの前に立った。
「………」
クレイは沈黙に落ちた。怒りのせいではない。彼には珍しく、他人への同情と絶望に精神《こころ》を蝕まれたためであった。
リリアの顔は青ざめ、唇ばかりが紅い孤島のように漂って、ああ、その間から二本の牙の先がのぞいているではないか。
「……おまえ……貴族に血を……?」
呆然とつぶやくお尋ね者の前で、女ハンターはにんまりと唇を歪めた。白い牙が歯茎まで剥き出しになる。
リリアは首に右手を当てた。白いスカーフを巻いている。
「まだ、なり切ってない!」
ルリエが歓喜の叫びを上げた。
リリアは村とテントでスカーフを巻いていなかった。宗旨替えの理由はひとつ――下の傷を見られたくないのだ。貴族の吸血の歯型を。無意識に傷に触れる――なりかけ[#「なりかけ」に傍点]の犠牲者特有の行為であった。
「大丈夫です。あなたを咬んだ奴を滅ぼせば元に戻ります。それまで頑張って下さい!」
リリアは片手で口もとを押さえた。少年の方を向いた。眼は、冷酷さの中に奇妙に穏やかな光を同居させていた。
「ありがとう、坊や。でも、もういいの。あたしは満足しているのよ」
「そんなこと言っちゃ駄目です。貴族の血の誘惑に勝たなくちゃ。我慢して――戦って!」
「優しい子ね、君は」
リリアは微笑した。人間の笑いだった。
その顔がはっと上向いた。表情が変わった。笑いも消して、
「とうとう捕まったわね。悪あがきよ」
「捕まったって、誰がだ?」
クレイが格子をゆすった。
「女医《せんせい》とダストは、とうにおれたちと同じ運命だろう。すると――Dか!?」
「捕まった――あの男《ひと》が……」
これほど絶望的なルリエの声を、クレイは聞いたことがなかった。
「諦めなさい。あの男にかかったら、天上の神でさえ子供扱いよ。一万年前に処分しておくべきだったわね」
「あの男って誰だ? ギルゼンか? そいつはおれたちをどうするつもりだ?」
「気になる?」
「当たり前だろ」
「貴族が求めるのは、常に熱い血よ」
ルリエが息を引いた。
「それをくれてやったのが、おめえか。なら、おめえの分だけにしてもらいてえもんだな」
歩いた――とも見えないのに、リリアはクレイの格子の前にいた。
顔が近づいてきた。二人はにらみ合った。クレイは満面朱に染め、リリアはうす笑いを浮かべて。二つの顔をつなぐのは、火のように熱い憎悪の気であった。
「あなたは自分の世界しか知らないのよ。ちっぽけな憐れな人間――あたしと同じになってみるがいいわ。貴族という存在が、どれほど凄いかわかるでしょう」
「んなもの、知りたくもねえな」
クレイは歯を剥いてののしった。
「おれたちにとって、貴族てなあ、人間の生血を吸って、その人間まで仲間にしちまう化物だ。お天道さまをまともに見ることもできず、いつも闇の中をこそこそとうろつくことしかできねえ。いいか、死んだ者は二度と戻ってきちゃならねえ。それが世界の掟だよ」
「どうして戻ってきてはいけないの?」
リリアが訊いた。クレイは眼を丸くしてみせた。
「てめえは阿呆か。死人が次々に生き返ってきてみろ。こんな気味の悪いことがあるか。この世界は人間のもんだ」
「死んだ家族が帰ってきたら、嬉しくない?」
「ああ、嬉しいね。だが、いきなり牙を剥いて、喉首にかぶりつくならご免だね。もう一遍、あの世へ送ってやらあ」
「わからない男ね」
リリアの眼が赤光《しゃっこう》を放った。
「もうひとつの世界、もうひとつの生き方の可能性と歓びを知ろうともしないで、一人前の口をきくのはおよし。いいこと、あんたはあたしの手で殺してやる。この歓びを教えてなどやるものか」
しゃあと息を吐いてリリアは歯を剥いた。いや、牙を。
さすがのクレイも、思わず身を引いた。
そのとき、何かに気づいたように、リリアは格子から離れると、廊下の反対側へと視線をとばし、二人などいなかったように身を翻して走り去った。
「なんでえ、あいつは――裏切り者が」
吐き捨ててから、クレイは額の汗を拭っているのに気づき、舌打ちして手を下ろした。
「クレイさん」
ルリエが呼んだ。その声に含まれた脅えに気づいて、クレイは格子の端に寄った。
「誰か、来ます」
「わかってる――衣ずれの音だな」
「わかりません」
ルリエの位置からも見えないのだ。
「おれにはわかる。しかも、この気配は得体が知れねえ。多分、女だが、どえらい大物だぞ。坊主、部屋の隅に行って身体を丸めろ。そいつの方を見るんじゃねえ」
「嫌です。僕も、ちゃんと見極めなくちゃ……」
震え声だった。大した餓鬼だなと、クレイは思った。
二人の耳に、いまや、はっきりと床を刷《は》く布地の音が届いてきた。
音は二つの牢獄の中間で止まった。
心臓が膠《にかわ》で固められたような緊張の中で、二人は女[#「女」に傍点]を見た。
2
Dに用意された部屋は、王宮の一室のごとき豪華さを誇っていた。天井、壁、床――漆喰や石などは使われていない。すべて大理石と黄金と宝石からできている。
「公爵さまのお使いになる毒に、解毒剤はありません。あなたの体力だけが頼りです。でも、凄いわ。横にもならないで」
Dは長椅子にかけただけで、ジャンヌが差し出す冷水に浸したタオルを額に当てようともしない。
「身体中が灼けるようで、そのくせ凍りつくほど冷たい。筋肉も骨も一刻の休みもなく激痛が襲っているはずです。どんな強靱な体力の持ち主でも、即死か二日と保ちませんでした」
この可憐な娘も、数多くの死を見てきたのだろう。
「おれのことは気にするな。治ればギルゼンを斃《たお》しにいく。戻って、そう伝えろ。治らなければ、それまでだ」
「私はあなたのお世話を命じられました。それはできません」
「あ奴め、おまえの他にも山ほど見張りをつけておる」
別人のような嗄れ声の出所を、ジャンヌは青い瞳で追った。どうやら左手の方らしい。
「ほれ、あの絵も彫刻もすべて生きておる。おい、何とか言うてみい」
凄む嗄れ声を、鉄のような別の声が、
「ヴィジェジュの『大食らいの肖像』、彫刻の方はサントベルグの『地底に封じられたユアリデシー』――値段はつけられんな」
ジャンヌは愕然とDを見つめた。
「よくご存じね。どちらも、公爵さまのためにこの城の中で絵を描きつづけた御用画家でした。その名前を知る者は、ごくわずかな人々に限られます」
ジャンヌは眼を閉じ、少し置いてから、抑揚のない声で過去の名を告げはじめた。
「公爵さま、奥方さま、私、侍従長、それから――」
「神祖じゃな」
うなずいてから、ジャンヌは、はっとしたように、
「なぜ、その名を? あなたは一体……?」
「聞いとらんのか? おまえ、顔は可愛いがモグリじゃの」
ジャンヌは困惑を塗りつけた顔でDの左手を見つめた。Dは拳をつくって、
「気にするな」
と言った。何を気にしなければいいのかわからないが、ジャンヌはうなずいた。
「おれは少し眠る」
とDは言った。ジャンヌの眼が危険な光を帯びた。
「ついています」
と言った。
「袖口の短刀――使いたければ使え」
と嗄れ声が言った。ジャンヌは全身の血が凍ったかと思った。表面はともかく、身体の中は灼熱と極寒――二つの地獄を抱えこんでいる若者は、彼女の心底《しんてい》まで見抜いていたのだった。
「どうして……それを?」
ジャンヌの問いは脅えを含んでいた。眼前の美しい若者がただの刺客でないのは、ひと目見た刹那にわかっている。だが、これほどの男とは。
「おまえは最初から殺気を漂わせていた」
とDは低く言った。
「ためらいがあれば隠せるが、真の殺意は何処かから滲み出る」
Dはすでに眼を閉じていた。
ジャンヌが走った。
女とは信じられぬ速度で二メートルほど進み、跳躍した。空中で百八十度身をひねったのは、Dの反撃を避けるつもりだろう。懐剣《かいけん》は投じず、花のように舞いつつふり下ろす。
Dの左手が垂直に上がった。
その手の平にかっ[#「かっ」に傍点]と開いた小さな口に、ジャンヌが驚愕の眼を剥くより早く、光のように細い切尖《きっさき》は、小さな歯に食い止められていた。
左手が振り子のように右へふられると、ジャンヌも弧を描いて肩から床へ落ちた。
跳躍の技から見て、足からの着地も可能なはずが、この結末は驚きと絶望のせいであった。
反対側の腕で身を支え、起こした鼻先へ、かっと突き刺さったものがある。Dの左手が吐いた懐剣であった。
「おまえの想いのために、まだ死んでやるわけにはいかん。おれがギルゼンを始末したら相手になろう」
ジャンヌは懐剣を掴んだ。
絶望に全身を蝕まれながら、闘志はなお燃えている。
「あなたに公爵さまは討たせません。この生命に替えても……」
「まがいもの[#「まがいもの」に傍点]の生命でもか?」
嗄れたひとことが、娘の動きを止めた。
「……どうして……それを?」
「ギルゼンしかいまい」
嗄れ声が重ねた。
致命的な傷を負ったように、ジャンヌは上体を倒した。肩が震えている。
「殺人も治療もそれでは無理だ」
とDは言った。
「行け」
「いいえ」
聞き取れないほどの声が応じた。左右にふられる金髪は、水中の藻のようにゆれた。
Dに武器を向けて永らえた奇蹟を、娘はわかっていない。
「早く休んで。必ず殺してやる」
自分自身に言い聞かせるように噛みしめる言葉を、Dはもう聞いていなかった。
死を賭した情念の渦がすべてを圧する広大な室内に、二人の人間がいた。
ひとりは渦の中心で懊悩《おうのう》し、ひとりは冷やかな無縁を固持していた。
薄明りに青く染められた石の通路を、甲冑姿の娘が歩いてきた。翻る紫のマントが、その歩みに秘められた決意の凄まじさを表し、そのくせ、足音ひとつ立てなかった。
彼女は蜿蜒《えんえん》と並ぶ牢獄のひとつの前で立ち止まり、かっと眼を剥いた。
牢獄は空であった。左隣に幽閉された少年の姿もない。
「誰が?」
呻くように放って、娘は鉄格子の潜り戸を調べた。鍵はかかったままだ。尋常なやり方で開けて閉じたものか。
「開けた鍵を、わざわざまたかけたか?」
娘は頭上を見上げた。監視カメラが何処かにある。
「再生しろ」
と命じた。
通路の真ん中に縦横三メートルほどの光の壁が生じた。
頭上から見下ろした獄舎の内部である。
「この二つの牢だけを映せ。侵入者の部分だけだ」
声と同時に光は消えた。
「映っていない?」
娘は立ちすくんだ。カメラを操作するコンピュータに異常はない。あればマザー・コンピュータが即座に新しいカメラを作動させる。
侵入者はマザー・コンピュータに、自らの行為部分だけのデータ消去を命じたのだ。
「それを聞いたのか。そんなことができるのは……」
娘の美貌を、凄まじい憎悪が歪ませた。憎しみが人間を変える――その実例がいまのジャンヌであった。
数時間前、世にも美しい若者が入り、そして出て行った大扉の前で、ジャンヌは立ち止まった。
「公爵さま、ジャンヌでございます」
二呼吸ほど置いて、
「何の用だ?」
扉が放ったかと思われる巨大で重い声が降ってきた。
「おまえにはDの接待を命じておいたはずだ」
「G※(III.png)特級監獄から、子供と男が逃亡いたしました」
「それがどうした? そんなことで私を煩わしにきたのか? あんな人間どもにとって、この城そのものが地獄よ。愚か者どもが。牢獄にいて血を吸われるのを待つ方が、遙かに幸せだったと思い知るだろう。通報にも及ばぬ」
「逃がしたのは、城の者でございます」
「――何?」
驚いてはいるのだろうが、声はなお気だるげだ。世界とのあらゆる連帯を切り離されたものは、こうなるかも知れない。
「――誰だ?」
「特級監獄の鍵も外さず囚人を脱出させ、マザー・コンピュータに、監視カメラに映った自らの姿を消去せよと命じられるお方でございます」
ギルゼンの声は沈黙した。
ジャンヌがお方[#「お方」に傍点]と告げたことで、察しはついたはずだ。
「わかった。戻れ」
「どうなさるおつもりですか?」
その刹那、胸当てが大きく斜めに裂け、青白い電磁波に包まれた身体は五メートルも飛んで床に激突した。さらに五メートルも床上を滑って止まった。
起き上がろうともがく頭上から鮮血の塊が叩きつけられた。
「その血は取れん。おまえが死ぬまでな。つまらぬ一事で莫迦げた取り乱しぶりを披露した罰だ」
ジャンヌが血にまみれた顔を上げた。倒れた角度のせいで、左半顔ばかりが朱に染まっている。
「お赦しください」
と一礼したのは、立ち上がってからだ。
「次は同じ側の乳房を切り取る」
声は煩わしそうに告げた。
「さらに歯をすべて抜き、五百歳の老婆に変えてやろう。それでもおまえより随分と若いがな。二度とおまえのごたごた[#「ごたごた」に傍点]を私の許へ持ちこむな」
ジャンヌが去ってすぐ、
「バジスでございます」
扉の前で声がした。実体なき存在の声が。
「ジャンヌを見張れ」
と重々しい声が命じた。
「承知いたしました」
扉の向う側の存在――その命令は鉄なのか、味方を見張るのは何故と問い質そうともしない。
「一万年ぶりに甦ったというのに、それを歓ぶ前に、一万年前のごたごたをまた弄《もてあそ》びはじめよった。Dの世話を命じておるが、不穏な動きがあれば――始末せい」
「承知いたしました。まこと女は厄介で」
「そのとおりだ」
「卒爾《そつじ》ながら、よろしゅうございますか?」
質問の是非である。
「よかろう」
「ジャンヌよりも何よりも、まず処分せねばならぬ男がおります」
「わかっておる」
「あの男は、一万年以前に戦ってきたいかなる敵よりも強うございますぞ」
「おまえも、このギルゼンが一敗地にまみれるかと言いたいのか?」
「いえ、ただ、あの男――根本的に違います。人間とも我らとも。それが何かはわかりませんが、放置しておけば、恐るべき敵となるのは必定。一刻も早く始末なさいませ」
空中に稲妻が走り、耳を覆いたくなるような苦鳴が噴いた。
「このギルゼンに指図は無用。おまえたちは、私がしろと言ったことをせい。するなと命じたことはするな」
「承知いたしました」
まざまざと苦痛を留めるバジスの声であった。
3
ヴェラとダストは、これも隣り同士の牢獄に収容されていた。
どちらも原因もやり方もわからぬまま意識を失い、気がつくとここ[#「ここ」に傍点]にいた。
クレイのような悪あがきはしないものの、状況が絶望的なのは変わりがない。
成す術もないまま、眼を醒ましてから二時間以上が過ぎた。
ここがギルゼンの城だろうとは想像がついたものの、それさえはっきりしないのだから、会話のしようもない。
「ごめんなさいね」
とヴェラが詫びた。
「――何がだ?」
「あなたには、最後まで迷惑のかけっ放しだわ。娘さんから、とうとう、あなたまで」
「いまの状況を言ってるなら、あんたの護衛をするのがおれの仕事だ。娘は関係ない。それと、これは最後じゃない。勝手に決めるな、あんた医者だろ」
二人の会話は勿論、格子越しに行われた。
ダストの指摘は正しかった。
「そうね――ごめんなさい」
ヴェラが詫びると、
「気安く謝るな。そういうのは癖になる。ヘタを打っても、謝れば済むと思うようになるぞ、ドクター。自分の娘を殺された父親にそれをしてみろ、あんたが殺される」
「………」
ダストがはっとしたように、
「口が滑った。済まない」
「いいのよ」
ヴェラは苦笑した。
「すぐに謝らないで」
ダストは咳払いをひとつして、
「それより、逃げる手を考えなきゃならんな」
と周囲を見廻した。基本的には、ルリエとクレイが閉じこめられていた獄舎と同じだ――といっても、二人にはわからない。
「みんなはどうなったかしら? あの子――ルリエは?」
「わからん。とにかくここを出なくては探すのもままならん」
「でも、駄目よ。閉じこめた奴が来るまで待つしかないわ」
ダストは沈黙した。正論に従うしかない。
「でも、この牢の内も外も、ひどく古い。とても一万年後に再建されたとは思えないわ」
「アナクロは貴族の趣味だ」
「それにしても、少しやり過ぎだと思わない?」
「何がだ?」
「貴族の科学力だって、いきなり最高だったわけじゃないでしょう。少しずつ進歩して現在のレベルに達したはずだわ。それなのに、いくら一万年前の最凶貴族だからといって、いきなりこんなことができるの? それまで地の底で眠りっ放しだったのよ」
「ふむ。そういえばそうだな」
ダストは素直に首を傾げた。虚心坦懐《きょしんたんかい》がモットーらしいが、こういう状態で物事を論理的に受け入れるのは、なかなかの度量を必要とする。
「村の古文書保管庫に、古代のギルゼンの行状を記した司祭の日記があったわ。巡回商人から買い取った古代言語翻訳器にかけてみても、こんな技術を駆使した形跡はないのよ。もっとも翻訳器がセコハンだったせいもあるけど」
「すると、あれか――」
ダストは眉をひそめ、少しの沈黙の後に言った。
「ギルゼンが一万年の眠りについている間、配下の者どもが超技術を身につけた、と。いや、それもおかしい。残党が暴れ廻ったって話も聞かん。奴らも主人と眠りについてたわけだな」
「そうね」
ヴェラはまた格子に顔を押しつけて、獄舎を見廻した。
「この静けさ、この佇まい。一万年前のものとしか思えないわ。どうやって再現したものか――貴族とは別次元の技術《テク》を使ったのよ」
「何だい、それは?」
「日誌にあったわ。ギルゼンの蛮行がぴたりと熄《や》んだ日の半年前、空から――」
まず、ダストが顔の向きを左方に変えた。足音が近づいてきたのである。かなりの早足で力強い。
ヴェラがそちらを向くより早く、二人の眼前で、紫のマントに包まれた肢体が立ち止まった。
「私はジャンヌ。“聖なる従護衛騎士団”のひとりよ」
甲冑の女は朗々と名乗った。その左半顔は赤く塗られていた。
「医者はおまえね。手当てをなさい」
見据えられて、ヴェラは恐怖よりも疑惑のベールに包まれた。
誰を? いや、それよりも、不老不死を誇る貴族の館に医者がいないのは常識としても、手当てが必要な相手とは、では人間なのか?
「誰を治せというの?」
思わず口を衝いた。
「余計な質問はよせ。言われたことをすればよい。――開けろ」
声と同時に、指一本動かさないのに潜り戸の錠は外れた。
「ついて来い」
ジャンヌは潜り戸を抜けた。
ダストが椅子をゆすって、
「おれも出せ」
と叫んだ。
ジャンヌは無視して、もと来た方へ歩き出す。後につづきながら、
「治療の道具も薬もないわよ」
ヴェラは女貴族に告げた。
「安心しろ。おまえの携帯してきた品は、すべて保管してある」
ジャンヌはヴェラの方を見もせずに答えた。傲慢この上ない物言いである。
「なら、それで治したら?」
「人間の薬は使い方がわからない」
「それはそれは」
ヴェラは妙な自信を抱いた。
「で、患者は人間なの? それとも――」
「私だ」
「え?」
ようやく、ヴェラはこの女貴族が、現われたときから身体の前もマントで覆っていたことに気がついた。だが、声にも歩き方にも苦しそうな様子はないし、顔色はもともと青白い。
突然、足下の床が動いて、ヴェラは驚きの声を上げた。何とかバランスを保った。
幅二メートルほどの床が、かなりの速度で前方へ進んでいく。貴族の城に残っている自走路の一種だろうが、一万年も前に実現していたとは。
先刻、ダストと交わした会話の内容が胸を横切った。
「一万年も前にしては大した仕掛けね。あなたのご主人って天才的な科学者だったのかしら?」
「残念ながら、公爵さまは学者ではない」
「へえ。じゃあ?」
「余計なことを聞くなと言ったはずだぞ。手当てに舌は必要ない」
凄まじい脅し文句に、ヴェラは口をつぐまざるを得なかった。
それから数分――何度も角を廻り、傾斜を上がって、石の道は止まった。
眼の前に鉄扉《てっぴ》が並んでいる。
ジャンヌが前進すると、扉は音もなく開いた。
同時に、彼女は崩れ落ちた。
反射的にヴェラは駆け寄って、
「患部は?」
と訊いた。
「――その前に、立てる?」
ジャンヌは片手を床に当て、身を起こそうとしたが、たちまちつぶれてしまった。動かせないとヴェラは判断した。
「横になって。患部はどこ?」
何とか仰向けにした。ここへ辿り着くまでの毅然とした姿はやせ我慢の結果だったのだ。
「厄介ね、貴族って。マントを開けるわよ」
患部はその下に違いない。
左胸前を開いた刹那、ヴェラは息を呑んだ。
分厚い胸部装甲が、斜めにざっくりと裂け、鮮血が半身を染めている。
「D?」
とつぶやいた。
「あんな若造に」
ジャンヌが低く笑った。貴族にとっては平凡な青白い顔が、ヴェラには死相に見えた。
「公爵さまの罰よ。あの御方に斬られると、お怒りが解けるまで傷口は塞がらない」
「無茶苦茶なことを。貴族は不老不死――なら、永久に苦しむだけじゃないの」
ジャンヌが妙な表情をつくった。
「気になるのか? 人間は貴族の苦しみを歓迎すると思ったが」
「患者でなければね。私は医者よ」
ヴェラは胸部装甲を外そうとしたが、留め金もわからない。
「ここでは何もできないわ。薬は部屋の内部《なか》?」
「そうだ」
「この装甲――外せる?」
ジャンヌは小さくうなずいて、左手を装甲にかけた。ひどくゆっくりとした動きが傷の深さを物語っていた。
「待っていて」
ヴェラは立ち上がり、扉の方へ向かった。
重い足音と後で声らしきものが上がった。
「――!?」
愕然とそちらを向いたのは床上のジャンヌのみで、ヴェラは硬直している。その五メートルも背後、廊下の向かい側に、黒い影が立っていた。右手に握った長槍は、ワイヤーをよじり合わせたような拳の反対側へ、さらに二メートルも伸びていた。
「おまえ……は? いつ……出て……来た?」
ジャンヌがこう呻いた相手は、二メートル近い長身を、銀灰色のワイヤー群で覆っていた。
全体のイメージは人間と変わらないが、唯一、腕が四本ある。
背中に弩《いしゆみ》のような品、右腰に長剣、左の腰にホルスターに差した拳銃としか思えぬ武器を、銃把《グリップ》を前に装着していた。頭から首まですっぽりとドーム状のマスクを被っている。
人間離れした凶々《まがまが》しさは、このマスクのせいかも知れなかった。凹凸がまるでない。視覚、聴覚といった五感は、このマスクが機能を担当するらしかった。
「下がれ……」
ジャンヌが呻いた。
影は動かない。
得体の知れぬ戦士は、貴族の館で貴族の命に従わぬ別世界の存在であった。
槍がジャンヌを向いた。
ジャンヌが身をよじった。右手が腰の剣へ進んでいく。万里の道を行く亀のごとき動きであった。
影はその手を動かすこともなく、長槍の一閃でジャンヌを貫ける。新たな死は確実に生じるとしか思えなかった。
美しい顔の中で黒い星が瞬いた。瞳だ。
起き上がった身体はためらいもなく、かたわらの一刀を掴んでドアへと向かった。
「治ったのか!?」
嗄れ声が驚嘆した。
マスクが笑った。表情など見えもしないのに、ジャンヌにはそれ[#「それ」に傍点]がわかった。
死の槍が伸びる。
それが止まった。
影はふり向いた。女二人がやって来たのと反対側の通路の奥であった。
「相手はあたしよ」
青白い顔の中で、それだけは異様に紅い唇から獣の牙を露わにして、いまや貴族の同胞と化した女剣士リリアは、背の長剣に右手をかけたところだった。
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第二章 異星の刺客
1
ルリエは正直、途方に暮れていた。
あまりに巨大すぎて、何処にヴェラとダストがいるのか見当もつかないのだ。
人っ子ひとりいない広大なホールがルリエの前に広がっていた。
小さな飛行場くらいは優にある。八方すべて石づくり――というより驚くべきことに、壁にも天井にも床にも継ぎ目がない。岩をくり抜いたものなのだ。
戻ろうかと思ったが、入ってきた扉はあっという間に閉じて、ぴくりとも動かない。ここは一方通行――外へ出ることを許さぬ部屋なのだ。
後戻りという考えを、ルリエは頭をふって追い払った。
その姿を消すまで、父は息子に、
「後ろを見るな」
と言い続けていた。
「遠廻りするのはいい。だが、後ろを見るな。見れば後戻りしたくなる。それでは先へ進めんぞ。大事なものは常に先にある」
少年は、クレイともどもいったん外へと出たのである。
牢の扉を開いて二人を逃がしたのは、床に映る影であった。いや、影のようなもの[#「もの」に傍点]というべきか。実体はなかったのだから断言はできない。黒い塊の一部が二本、手のように伸びて格子を突き抜け、二人の足首を掴んだ。
次の瞬間、二人は城の外にいた。
ご丁寧にも、足下には二人が背負ってきたリュックが置いてあった。吹雪は熄《や》み、闇色の空には星が瞬いていた。
逃げれば逃げられそうだ。
ところが二人ともそうはしなかったのである。
「おれは戻る」
一〇〇メートルほど離れたところにそびえる城壁をにらみつけながら、クレイは噛みしめるようにつぶやいた。右手はナイフを握っていた。身につけていた品か、荷物に忍ばせてあった新品かはわからない。
「坊主、おまえは逃げろ。追手がかからねえように、おれがひと騒ぎ起こしてやる」
クレイの言葉に、ルリエはかぶりをふった。
「僕も戻ります」
「なんでだよ?」
「クレイさん、ヴェラさんとダストさんを助けに行ってくれますか?」
真正面から澄んだ瞳に見つめられて、お尋ね者は困惑した。
「そら、おめえ――あれだ、わかるだろ?」
「行ってくれませんね?」
「いや、そうは言ってねえ。しかしだ――」
「だから、僕、戻ります」
「おい、おれたちは人助けにきたんじゃねえんだぞ。あれがあいつらの運命だ。こういう場合は、まず自分のことを考えるべきじゃねえのか?」
「クレイさんは、どうして城へ戻るんです?」
「それは――子供にゃわからねえ理由《わけ》があるんだ、莫迦野郎」
「あの城へ、もう一度戻ろうというんですから、クレイさんにとってとても大切なことだと思います。それを果たしてください。僕はやっぱり、二人を置いては行けません」
「おめえ、餓鬼のうちからそんな責任感過剰でどうするんだ? 押しつぶされちまうぞ。それによ、おまえひとりがあの城へ戻って何かできると思うのか?」
「何もしないよりまし[#「まし」に傍点]です」
クレイは少年をにらみつけた。すぐに、
「わかった、勝手にしろ。忍びこむまでは付き合ってやらあ。だがな、おまえを助けてくれたあの影に出会ったら、ちゃんと礼を言うんだぞ、いいな?」
「勿論です」
こうして二人は城へ戻ったのである。一番近くの城壁に、錆びた鉄扉が嵌めこまれていた。
「仕様がねえな」
クレイがナイフを抜いた。
「舐めんなよ、ヘボ貴族」
右手が閃いた。少年が見たものは流れ星のような白い線であった。
鉄扉の錠の部分は四角に切り抜かれていた。
入ってすぐ二人は別れた。
「おれは上の方へ行く。一緒に来るか?」
とクレイが誘っても、少年は首を横にふった。当てがあるわけではないが、あの牢獄は地下としか思えなかった。
階段を下り、動く廊下に乗って、ルリエは下へ下へと降りつづけた。
そして、いま見渡す限り石の壁と廊下がつづく無人の広間にいる。
立ち止まっていても仕方がない。ルリエは広場の中央へと歩きはじめた。
小さな身体に四方から巨石の重圧がのしかかり、ルリエは何度か深呼吸をしなければならなかった。
ほぼ中央に辿り着いたとき、前方の床面に、長方形の穴が生じたのをルリエは見た。縦横五メートル、三メートルほどの部分が突如、陥没した――そうとしか思えなかった。
いつでも逃げられるように身構えながらも、眼は穴に吸いついた。
行けども行けども階段は尽きず、エスカレーター、エレベーターの類も見つからずで、ついにクレイは階段のほぼ真ん中に胡座をかいてしまった。
とめどなく汗が滴る――その感じが不快と意識する余裕もなく、肺はひたすら空気を貪っている。
頭上から誰かが降りてきた。
クレイは汗で痛む眼を拭って、闇に溶けている階段の方を見た。
のっぺらぼうの四本腕が降りてくるところだった。マスクも衣裳もワイヤーをよじり合わせたような身体も銀灰色で、マントばかりが紅い。右手に彫刻入りのバトンをぶら下げているのが、クレイの眼を惹いた。武器だ。反射的に両足に力が漲り、上体から抜けた。
二十段ばかり上で、紅マントは立ち止まった。
右手のバトンが、上下へシュッと伸びた。長槍だ。クレイの全身を緊張が貫き、闘志と化して燃え上がる。
息が上がっているのを意識しつつ、全身を発条《ばね》と化して右横へ飛んだ。
「来やがれ」
と叫んだ。
Dは扉の前に立った。最初からここを目指していたように、ここへ辿り着くまで一歩のためらいもなかった。
「わしにもわからん。この奥に何がある?」
左手の声に、ドアの開閉音が重なった。
Dは内部《なか》に入った。
広大な広間であった。わずかな凹凸以外は見渡す限り石の平原が広がっている。
凹凸は広間のほぼ中央に集中していた。
三個の人影であった。小柄なひとりをはさんで長身と巨躯が対峙しているのだった。
うち二人が記憶にあった。
小柄な影――ルリエと、手前にそびえる黄金のマントは。
「ギルゼンめ、こんなところで何を?」
嗄れ声がつぶやいた刹那、それまでフィルムの一カットのごとく停止していた影が、一斉に動いた。
ルリエをはさんで向う――のっぺらぼうの仮面をつけた緑色のマントが右手を横にふる。ワイヤーをねじりこんだような拳に握ったバトンが五メートルにも伸びてギルゼンの首を薙《な》いだ。
火花が散った。
ギルゼンが左手――黄金の錫《しゃく》で受けたのだ。どちらも肉眼では判別不能の速度であった。Dの眼だけが見抜いた。
敵の光芒《こうぼう》が退き、再び――今度は上方から幹竹割《からたけわ》りに落ちる。ギルゼンが躱し、体勢を入れ替えた。その寸前に下方から長槍が切り上げた。
攻防は一方的に見えた。
二人の動きは小さく、真紅の火花がせわしなく薄闇にきらめく。ギルゼンは受けのみで時間を重ねていった。
「敵もやるのお。おまえを斃《たお》したギルゼンめが防戦一方じゃぞ」
おまえを斃したの部分に力を入れた嗄れ声であった。それが、おお!? と放った。
ギルゼンが足を入れ替え、一瞬動きを止める。見逃さず放った長槍横薙ぎの一閃――ギルゼンの身体が斜めに倒れつつ躱し、その胴からうなりをたてて迸った奇怪な肋骨剣は、敵の腹部をこれも斜めに貫通してのけた。
声にならない叫びを上げつつ、敵は長槍をふるって白い凶器を切り離し、大きく後方へ跳んだ。
「流れが変わったの」
嗄れ声は前方へ走った。
ギルゼンも敵を追い、ルリエがその場に残る。飛燕《ひえん》のごとく走り寄って小さな身体を抱き上げるや、Dは死闘の場からまた離れた。
2
「来たか、D」
ギルゼンがこちらを向かずに声をかけた。
「やはり、DNAが異星の気に反応したらしいな。そうとも、こいつらは銀河の彼方からやって来た侵略者よ。地球創成以来、数え切れぬ異星人が訪れたとは知らぬはずもあるまい。中で最も凶悪無惨な意図を抱いて訪れたのが、こいつらだ」
敵が長槍をふりかぶり、ギルゼンめがけて投げた。難なく錫杖《しゃくじょう》で打ち落とすや、彼は黒い宝石を象嵌した先端を向けた。放たれた光も黒く塗られていた。それは敵の胸部で跳ね返り、Dの足下の床を溶かして灼熱の水蒸気を噴き上げた。怪力線である。
「この光は三層分――三〇メートルの石を射ち抜く」
とギルゼンが言った。
「光学兵器が通じぬ敵ということだ」
「その兵器をいつ身につけたのかの?」
と嗄れた声が訊いた。
「一万年前、貴族の身体能力はともかく、科学力が人間を遙かに凌いでいたと聞いたことはない。現在の技術は一万年の進歩の結果じゃ。おまえはその間眠りにつき、しかし、現在以上の科学力を身につけておる。それは、異星人《エイリアン》の技術か?」
「しかり[#「しかり」に傍点]だ」
ギルゼンは身を屈めた。敵の背負った弩《いしゆみ》状の武器がその肩の上にせり上がったのだ。
鋭くガスの漏れるような音に、鉄と鋼が相打つ響きが重なった。
「おお!?」
驚愕の声は左手が放ったものである。左胸を押さえたDの拳から、黒い矢が生えていた。ギルゼンめがけて放たれたそれをギルゼン自身が錫で弾き返し、背後のDを襲ったのだ。
黄金のマントが躍った。敵の頭上に広がったそれは、黄金の雲のように見えた。
敵の右手が銃のような武器にかかる。
真紅の光条が薄闇とかがやく雲とを貫いた。
炎を上げて床に落ちる――それがマントのみだと知ってふり向く敵の全身を、湾曲した肋骨剣が弓なりに背後から貫いた。
恐らくは次に起こる光景を連想しつつ、敵は逃れようとした。身体は縫い止められていた。
頭上からふり下ろされた錫杖は、オレンジ色の脳漿《のうしょう》の四散と頭部の陥没とを同時にやってのけた。
「手間をかけよって」
足下に横たわる巨体を見下ろし、その死を確かめてから、ギルゼンはDの方へ眼をやった。その胸もとで激しい音が鳴った。Dが放った敵の矢[#「敵の矢」に傍点]を、ギルゼンはこれも胸もとで掴み止めたのである。
「Dという名の男が、卑怯な真似をする」
「そっちが先じゃ」
と嗄れ声が言い返した。ギルゼンの弾き返した矢がDを襲ったのは、偶然ではなかったのだ。
「確かに、この城が備える技術は、こ奴らから伝えられたもの[#「もの」に傍点]だ。一万年前、地上へやって来たこ奴らの存在を探り当て迎え撃ったのは、人間ではなく我々だった。こ奴らの科学兵器は、我々を凌駕していたが、いかなる兵器も不死者を斃《たお》すことはできん。我々は奴らの宇宙船を破壊し、数百名を殲滅《せんめつ》、十名足らずを捕虜にした。“神祖”が即刻処分を命じたのは、恐らく奴らの技術を自分以外の者が身につけるのを嫌ってのことだろう。私が地の底深く埋められたのは、反神祖の戦いの先鋒に立ったこともあるが、これ[#「これ」に傍点]に背いたからよ」
ギルゼンの指の間で、金属の矢はゴム細工のようにひん曲がった。双眸が過去の記憶を追い風に、赤く燃えた。
「そうとも、“神祖”は私を暗く冷たい地の底に埋めた。異星の技術を身につけるにふさわしい精神を、我々はまだ備えておらんとな。何たるきれい事だ。あの時点で、奴らの科学力を活用しておれば、貴族は核戦争など待たずして世界の支配者となっていたはずだ。一万年の間に何が起きたかは、この城を記憶分解した際地上に残しておいた記憶巣《そう》で読み取った。“神祖”は愚か者よ。私のやり方を採用すれば、人間どもに力を残したままの支配を続け、現在のような衰退を招かずに済んだものを。Dよ、奴の望んだ未来を知っておるか?」
向けられた恐るべき錫杖の前で、Dは微動だにしなかった。
「少しな」
と言った。
「ならば話しやすい。実を言えば、私も“神祖”と同じやり方を採用した。ただし、奴とは異なり異星人どもを使ってな」
Dの腰にすがりついていたルリエが、はっとDを見上げた。
「奴らもこの城に封じて記憶分解とやらにかけておいたか。だが、詰めが甘かったとみえる」
Dの声であった。ギルゼンは錫杖を下ろして苦く笑った。
「そのとおりよ。奴らの技を完璧に応用したつもりが、睡眠法に弱点があった。奴らは逃げ出し、出口を求めて城内をうろついておる」
「何人だ?」
「四名だ――残り三名。手強いぞ。どうだ、Dよ、手を貸さぬか?」
「おれとは無関係だ」
「――無関係?」
ルリエの身体が五メートルも飛び、石床に尻餅をついた。Dの腕のひとふりであった。
「おれは柩の中身を生け捕りに――それができなければ処分しろとの依頼を受けた。ギルゼンよ、おまえは自ら滅びの道を辿れるか?」
「ごめんだな」
その右手が上がるや、顔前で凄まじい火花が散った。彼方の石壁が衝撃にゆれる。錫杖でDの抜き打ちの一刀を受けたのだ。
「死に急ぐか、Dよ」
三メートルも後方へ跳躍しつつ、ギルゼンは錫の黒石《こくせき》をDへと向けた。三〇メートルの石をも穿つ怪力線は放射されなかった。
迫るDの眼前で、ギルゼンの側部から鎌状肋骨がせり出してきた。先ほど敵に叩き斬られた分もつながったとしか見えなかった。
甘酸っぱい臭いがルリエの鼻を刺した。
ペンは刃《やいば》かインクは血か。異星の血臭が漂いはじめた広間で、新たな戦いが、新たな生と死の物語を紡ごうとしていた。
だが、その決着は早かった。
Dとギルゼン――ともにある方向へ顔を回転させたのだ。ルリエのやって来た方へ。
「あの声は――殺《や》られたな」
ふわりとギルゼンが飛んだ。
それを追ってDの一刀が撥ねる。
両断したのは黄金のマントばかりで、ギルゼンの姿はもう戸口に達していた。
「先に行く。戻っておれ。しかし、Dよ、いま私がここではなく、おまえの背に立っていたら、どうなっておったかな」
いつの間にか開いた扉は、ギルゼンを呑みこんで閉じた。
「彼奴《きゃつ》め、瞬間移動《テレポート》を身につけておるぞ。貴族中の科学者が何とか実現しようとして果たせなんだ超技術じゃが、異星人は可能にしていたとみえる。確かに、どうなっておったかな」
嫌みったらしい声にDは沈黙を守っていたが、はっとルリエの方へ眼をやった。
小さな姿は突如開いた竪穴へ吸いこまれていくところだった。
Dの右手から黒い懐剣が風を切って飛び、閉じんとする床と床の間に半ば食いこんで止まった。
影のように歩み寄って、Dは懐剣の柄《つか》を左手で掴むや、寸瞬の間を置いて不可能な方向へ押した。
右方の奥で重いものが動いた。
隠し扉の向うに大人が二人並んで通れるほどの戸口が口を開いている。
「そうそう望みどおりにはいかんらしいな。Dよ、あの子供を探すか? それとも――」
「ギルゼン探しが先だ」
低く、断ち切るように告げて、Dは戸口の方へ歩き出した。
胸に開いた穴からは、向う側が見えた。
「痛まないの?」
ヴェラの問いに、
「少しね」
と答えたのは、女ハンター=リリアだ。
「本物だったら平気の平左なんでしょうけど、中途半端はそうはいかないわ」
リリアは奥のドアを見て、
「あたしより、彼女の方はどう?」
と訊いた。ここは、彼女――ジャンヌの部屋である。二人がいるのは武骨な椅子とテーブルだけが無造作に置かれた居間で、部屋の主は、手当てを済ませて寝室のベッドに横たわっている。
「傷自体はどうってことないけど、痛みは退《ひ》かないわ。ギルゼン公爵の呪いが解けない限り、手に負えない」
「じゃ、あの影なき男が慰めてるわけね。あれは、ジャンヌのこれ[#「これ」に傍点]よ」
親指を立てたリリアの傷口へ、裸の背中から殺菌パッドを貼りながら、
「動かないで。あたしたちの知ったことじゃないでしょ」
ヴェラはたしなめた。たしなめながら、その親指の主のおかげで一同の生命が救われたと認めざるを得ない。
あの恐るべき瞬間――リリアの心臓をのっぺらぼうの銃が貫き、よろめく彼女を尻目に、腰の長刀を抜き放ってこちらをねめつけた。
ヴェラは死の翼が触れるのを意識した。
その敵が一〇メートルも廊下を吹っとび、石柱に激突したのである。ヴェラは眼を凝らしたが、彼女たち二人の他には人影も見えなかった。
3
「部屋へ入れ」
空中で男の声が叱咤した。
「急げ。ここは作り変える」
と見る間に、天井から通路分の幅がある石壁が下りて、のっぺらぼうから三人の女を遮断した。指示どおりにしてから三十分以上経ったが、何も起こっていない。のっぺらぼうは去ったらしい。
豊かな胸にブラをつけ、さらに愛用の簡易甲冑を着て、リリアは肩を廻した。骨が鳴った。
「もう大丈夫よ。ドクター、いい経験ができたわね」
「そうね」
これは認めざるを得ない。貴族は勿論、貴族もどき[#「もどき」に傍点]――血を吸われた犠牲者を治療したのもはじめてだ。心臓をわずかに外れていたとはいえ、熱線兵器らしいもので一直線にぶち抜かれ、平然と呼吸していられるのも驚嘆ものだが、その傷口が服を着せたときには、半分以下に塞がっているのも信じられなかった。
貴族もどき[#「もどき」に傍点]がこれでは、貴族の再生能力ともなると想像もつかない。木の楔《くさび》という原始的な代物で滅ぼすことができるなんて、そっちが悪夢のようだ。
「放っといても治るけど、ドクター、とにかく礼を言うわ」
微笑するリリアは、以前と少しも変わらないどころか、ずっと陽気になったように見える。貴族に噛まれたなんて嘘――と思わせないのは、先刻、のっぺらぼうに向けた鬼気の凄まじさと、首に巻かれた白いスカーフだ。
「あなたはどうなるの?」
女ハンターを見ているうちに浮かんだ疑問を、ヴェラは口にした。貴族の〈犠牲者〉の家族が、友人が、恋人が、数限りなく放った問いであった。
リリアは薄く笑った。
「いまさらの質問ね。わかってるくせに」
「貴族になってしまっていいの?」
ヴェラはなお食いついていた。
「仕方がないでしょう。そうね、ドクター、これからの医療のために、貴族の犠牲者のすべてを教えてあげる。私の最後の人間らしさだと思ってね。まず、肉体的なものだけど――妙な感じよ。気だるいような、そのくせ、絶好調みたいな……中途半端に動いている大出力モーターっていえばわかるかな?」
「何となくね」
リリアの笑いは深くなった。朱唇の端から乱杭歯が不気味にのぞく。
ヴェラの背に冷たいものが走った。
「よかったわ」
リリアは平然とうなずき、
「次に精神的な影響だけど、まず、血を吸ってくれた相手に、敬意と畏怖が生じるわよ。御主人さまに対する召使いの感じだわ」
ヴェラは内心、ああと嘆息した。
「それは、あなたの意志? 貴族の意識に強制されているんじゃなくって?」
「完全に私のよ。ね、そんな顔しないで。私少しも哀しくないの。前よりずっと力が漲ってる感じでぞくぞくするわ」
「ああ、リリア――あなた、そうやって人間を襲うのよ」
「よして!」
リリアの絶叫も、ヴェラには無意味な音の波にすぎなかった。
自ら貴族の召使いと歓喜をこめて宣言する女――自分はそんな生きものを治療してしまったのだ。できるなら、いまここで――
「ドクター、おかしなこと考えてないでしょうね」
「え?」
図星を衝かれたと思った。
「ドクター」
リリアの眼は赤く燃えていた。明白な鬼気を隠さずに、彼女はヴェラの手を取った。氷のように冷たいせいで、痛みよりしびれる感覚が強かった。
「やめて。私は何も」
「犠牲者の犠牲者も同じことよ」
リリアの息が女医の喉に触れた。
「やめ――て」
人間にとって最大の恐怖が女医を硬直させた。
貴族になる――人間の生き血を求めて夜な夜なさまよう悪鬼に成り下がってしまう。悪夢ではなかった。五センチと離れていないところにある現実だ。
「ドクター」
首すじに固いものが触れた。くうとめりこんでくる。二カ所だ。
「やめて!」
ヴェラの全身が震えた。
耳もとで小さな悲鳴が上がり――遠ざかる。
「どうした?」
男の声がした。姿なき男の声が。
「わからない――見て」
リリアの声だ。
「これは――」
男の声が緊張した。
「右手が弾けてる。誰にやられた? ――いや、わかった」
――何がわかったの?
ヴェラの震えは止まりそうになかった。その震えが尋常ならざる速度で女ハンターに手傷を負わせたと、彼女は気づいていなかった。
「落ち着け」
と男の声が言った。
「意外と物騒な女だな。おまえにはまだして欲しい作業がある。おれたちは何もせん」
震えが収まるのをヴェラは感じた。
眼を開けた。
リリアが壁にもたれてこちらを眺めていた。左手が掴んだ右手は、確かに手首から先が消滅していた。血は流れていない。切断部は黒く焦げていた。ヴェラを見て、やるわね、と微笑した。大した傷ではないのだ。
「あたしは――何をしたの?」
「いずれ教えてやろう。とりあえず、治療を続行してもらおう」
ヴェラは首をふった。ひどく疲れていた。
「あの女性《ひと》なら、もう」
「別口だ。おれと一緒に来い」
「でも、見えないわ」
「聞こえるだろうが」
ヴェラは結局、従う羽目になった。
声に導かれるままジャンヌの私室を出て、廊下を進んだ。あののっぺらぼうと出くわす恐怖には並々ならぬものがあったが、幸い遭遇せずに済んだ。
あいつは何者かと訊いても、答えはなかった。
「ここだ」
石の扉の前に出た。
待つほどもなく扉は開いた。消毒薬の匂いが鼻を衝く。
曇天の下のような色彩の室内へ一歩踏み入れ、ヴェラはあっと叫んで立ちすくんだ。
ルリエは穴の底で四方を見廻した。落下感からすると一〇〇〇メートル以上は落ちたようだが、後はわからない。途中で面倒臭くなってしまったのだ。
落下しながら考えていたことは、この城はどんな科学技術を備えているのだろうか、であった。たとえば、自分が落ちていくこの竪穴は、間違いなく移動方法のひとつだろう。あまりに原始的だ。そのくせ、瞬く間に山が城そのものに変貌してしまった現象などは、別世界の技術によらない限り不可能だ。途方もないギャップ――その空隙を埋める解決が、どうしても見つからない。
急にスピードが落ちたな、と思った瞬間、靴底へ軽い衝撃が来て、それからゆっくりと身体が持ち上げられていった。何か柔らかい物体にめりこみ、その反撥力で上昇していくのだと、気がついた。
「何て原始的なんだ」
思わず口を衝いた。羽毛の上に落とすのと同じ理屈だ。竪穴の下半分――一〇〇〇メートルもある羽毛の量を想像し、ルリエは噴き出しそうになった。子供心にも度胸は備わっている。
上昇が止まると、眼の前に鉄扉が嵌まっていた。
押すと簡単に開いた。
前と同じ石の廊下が続いている。
進むしか手はない。
父と――ヴェラとリリア、ダストのことが気になった。
ヴェラ女医《せんせい》は優しかった。リリアさんだって口は悪いが、悪人じゃあない。ダストさんは、何処か父さんに似ている。誰も放っとけない。
やるべきことに背を向けるな。
それこそ父から学んだ、ただひとつの信念だ。
「あれ?」
もう少しで息が切れる、というところで足は止まった。
滑らかな廊下と天井と壁とに異変が生じていた。
息を呑むほど無惨な亀裂があちこちに走り、石の内側を露わにしつつ、何もかも前方へと傾いていく。かなりな急勾配だ。
「地震かな」
違うというのは、すぐにわかった。
向う側も定かならぬ円錐形の大陥没の底に、ビニールとも金属ともつかない巨大なドーム型テントが見えてきたのである。
「何だよ、これ?」
恐怖が心臓を止めようとハグしてきた。それでも手も足も止まらない。石のでっぱりや裂け目が、手をかけ足を乗せるのに便利なのである。
五〇〇メートルも下りただろうか。テントのサイズがようやくわかってきた。
小さなピラミッドくらいある。高さ五〇メートル、幅は一〇〇メートルを越すだろう。材質は金属のようだ。
底に着いた。ルリエは周囲の気配や物音に気を配りつつ、テントの前まで来た。
出入口などない。
金属の幌の裾に手をかけ、めくってみた。何の抵抗もなく持ち上がった。まばゆい光が、少年の膝から下を照らした。
身を屈めてくぐった。ためらいはなかった。
全身を光が包んだ。鉄骨に支えられたおびただしいライトが、眼前一〇メートルほどの石床に斜めにめりこんだ物体を皓々《こうこう》と照らし出していた。
全体のシルエットは、横に引き伸ばした土星に似ている。ただし楕円形の船体を囲む輪《リング》は環ではなく、一枚の円盤《ディスク》だ。船体も円盤も激突部分から歪み、ひしゃげ、軽く押しただけでアコーディオンのような泣き声をたてそうだ。
円盤の上部のひしゃげがぱっくりと口を開けていることを、ルリエはひと目で見て取った。
地上二〇メートルほどの円盤と地面を、簡易エレベーターらしき品がつないでいる。
近づくと油の臭いが鼻を衝いた。旧式のガソリン・モーターを使っているらしい。少なくとも、この物体がここへ落ちてきた当時は、貴族の文明とはこの程度のものだったのだ。
油まみれのモーターのそばで、作動レバーを見つけ、引いてみた。唸りはじめた。一万年前と同じ性能を維持している。城の復元力を考えれば、モーターひとつなどお易い御用だろう。
鉄枠の底部に設置されたボックスに乗りこみ、ルリエは壁面に設けられたボタンを押した。
耳障りな響きをたてて上昇しはじめる。
かなりのスピードで着いた。
そこからひしゃげた頭部の破壊孔まで、鉄板が敷かれていた。
その手間暇を想像するよりも、ルリエは上昇中に見た円盤部分の厚さに眼を剥いた。まるで箔《はく》だ。一ミリもあるまい。何かにぶつかったら、と考える前に、蝋燭の火を近づけただけで、鉛みたいに溶けてしまいそうだ。そのくせ、圧倒的な強度が靴底から伝わってくる。
破損部は大人が二人並んで通れるほどのサイズがあった。
ルリエは足を止め、呼吸を整えた。未知への恐怖と、まぎれもない興奮が胸を熱くしていた。
破損部の内側には十分な光が満ちていた。乗員たちの視覚組織は人間と大差がないらしい。
上の大広間で遭遇した敵の姿形からして、物体の内部も人間の住居と大差はないと思っていたが、ほぼその通りであった。
通路も壁面も材質が円盤と同じというだけで、違和感がない。ただし、傾斜がきつく、ルリエは上へ昇るのは、すぐにあきらめた。手すりがないので、滑らないよう両足を突っぱらせながら、通路に沿って下方――物体の先頭部へと下りていく。
異変は数メートルで生じた。
身体が床へ押しつけられる感覚――現実だと理解した瞬間、謎が解けた。
人工重力が発生したのだ、ルリエは立ち上がった。身体は斜めに、床に垂直に立った。
一万年の歳月を経て、この物体はなおも生きている!
訪れた乗員のために、物体を支配するコンピュータは快適な環境を整えはじめたのだ。
地面にめりこんだあたりで、さすがに凄まじい破壊の痕跡が、壁面の亀裂とひしゃげぶりになって現われてきた。
これ以上は進めそうにない。
廊下の右側の壁にエレベーターらしいドアが見えた。その右にスイッチがついている。上側を押したが反応はなかった。下。こちらは紅く点った。
また未知への扉が開いた。
少年の身体は震えた。瞳はかがやいていた。
内側にスイッチはなかった。
ガラスともプラスチックともつかない材質の壁と天井であった。あちこち触っても反応がない。
ふと思いついて、
「下の階」
と言った。
天井がかがやき、ドアが閉じた。
「言葉がわかるんだ」
声に出して驚く間もなく、ドアが開いた。ミスったかなと思ったが、外の様子が違う。移動感など少しもないまま到着したらしい。
奇妙なことに、下の方が前部の破損が少ないようであった。
エレベーターを中心に十文字の通路が走り、その両側にドアがついている。
一番近いドアの前に立って、
「開けろ」
と命じた。
開いた。
そっと覗きこんで、ルリエはあっと叫んだ。足底から熱いものが噴き上がり、身体が激しく震えた。
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第三章 内なる死、外なる生
1
室内には武器らしい品が勢揃いしていた。
長銃らしい武器、短銃、火薬筒そっくりの円筒、青銅や鉄でできているとしか思えない長槍や剣のそばに、水晶を組み合わせたような使い途不明の品がずらりと並んでいる。
どれも数十単位でラックにかけられ、艶光りしている。いますぐにでも使用可能だろう。
ルリエの眼を引いたのは、小型の短銃だった。剣や槍は辺境の常道だが、数少ない火薬銃や光線銃は子供たちの憧れの的だ。
周囲に気を配りながら、奥のラックに近づき、手をかける――
背後でドアが開いた。
愕然としながらも、ルリエの身体は活動を開始した。ラックとラックの間に隙間がある。何とか身を隠せることは、入ったときから見抜いてあった。何処に死が口を開けているかもわからない辺境に生きる子供たちの知恵だ。
潜りこんで息を殺す。眼は前だけを見つめた。余計なものを見たがると、相手に気分を読まれる――生命《いのち》取りだ。
重い足音が入ってきた。
後から、もうひとつ――これはかなり軽い。普通の人間だ。
ルリエの身体を灼くような好奇心が貫いた。それは恐怖を伴っていた。
一体、誰が? あいつ[#「あいつ」に傍点]と一緒に?
答えは向うからやって来た。
「ここは……武器庫か?」
いまにも途切れそうな弱々しい息遣いは――
「クレイさん!?」
血も凍る思いで口を押さえた。
はたして、足音のあたりで凶々《まがまが》しい気配が湧いた。
そして、すぐ――
足音が真っすぐに近づいてきた。
ルリエは黙って運命を待ってはいなかった。
隙間の奥へと小走りに進んだ。足音が生じる。心臓が爆発しそうだ。
隙間の反対側が見えてきた。当てはないが、ここにいるよりはましだ。
夢中で抜けた。
眼の前に黒い壁がそびえた。
あののっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]が右手に長剣、左手に短銃らしい武器を抜いたところだった。
「ルリエか? 坊主だな?」
背後でクレイの声が聞こえた。それが少しも安堵を呼ばないのはなぜだろう。来ないでくれと考えてしまうのは?
銃に似た武器が顔に狙いをつけた。銃口には緑色のガラスが嵌めこまれていた。ギルゼンに斃《たお》された別の敵が使用しなかった武器のひとつ――それが発光したときがルリエの最期だった。
ひょい、と銃口が横を向いた。
ガラスと同じ色の光が迸り、五、六メートル先の床に、円形の染みをつくった。染みはかがやいていた。その光が消えると、床は染みの形に射ち抜かれていた。
ぐいと銃口がまた向けられ、ルリエは硬直した。
だが、それは敵の腰に戻ってベルトに装着された。
ルリエには敵の魂胆がわかっていた。脅しつけているのだ。獲物を追いつめ、脅えさせ、ついに成す術もなく抵抗を放棄したとき、邪悪な満足とともに刃をふり下ろすのだろう。
敵が後退した。ルリエがすくみ上がったと見なしているのだ。
背を向けて長銃のラックへ近づき、一挺を外して肩付けした。人間そっくりの動きなのが不気味だった。
「よせ」
声と同時に、銃口とルリエの間に割って入った影が、銃身を掴んで上へねじ向けた。
「クレイさん!?」
「逃げろ」
記憶にあるよりずっと青白い顔だが、こちらへ向いたのは確かにルリエのよく知っているお尋ね者だった。
敵が右側の二本目の手で、腰から剣を抜いた。
「行け!」
ルリエは夢中で戸口へと走った。
ドアを潜るとき、ふり向いた。
のっぺらぼうがクレイの胸に刃を突き刺したところだった。
「クレイさん!?」
眼を閉じて戸口を廻るように抜けた。それからのことはよく覚えていない。
がつん、と鼻が鳴った。
血が噴き出るのを意識しながら仰向けに倒れた。場所は城内の廊下だった。
眼を開けた。
もうひとり、のっぺらぼうが立っていた。おかしくはない。ここは彼らの「家」なのだ。
そいつはためらいもなく、ルリエの顔に向けて腰の剣を突き下ろした。
戻れ、と唱えてから、ギルゼンは手にした招喚卍具をテーブルに置いた。
大きく息を吸いこむ。極度の精神集中の結果だった。
背後で気配が動いた。
ギルゼンはふり向き、足下を見た。彼の研究施設へ、ガード・センサーにもかからず入りこめる存在は、ひとりしかいない。
「母上――何用です?」
影が答えた。年老いた、しかし、鋭利な女の声で。
「あの男、何処へ行きました?」
「Dのことですかな?」
「左様――おお、何という呼び方を。おまえはいつも自信過剰です」
「あの男を軽んじてなどおらぬ」
とギルゼンは大テーブルを占める装置や器具の中から、一本の試験管を選んで、眼の前に掲げた。赤黒い液体が詰まっている。貴族もそれだけは分けへだてしないという――血だ。
「だからこそ、急ピッチで私の悲願を成し遂げんものと努力しておるところだ。この血清がすべてを解決してくれるだろう。私と――“神祖”めの夢を」
影は沈黙した。最初から声を失っていたような重い沈黙であった。
次の言葉は、ギルゼンがかたわらのロッカーを開けて、一本の注射器を取り出したときに放たれた。
「またも、同じ愚を犯すつもりですか、公爵? 私はそれを止めに来ました。もうおよしなさい。“御神祖”が成功を見たのはただ一例。後のすべてが徒労に終わりました。いかにあなたといえど……」
「“神祖”は、人間にこだわりすぎたのだ」
ギルゼンは、血清を満たした注射器を眼の前に持ち上げて見つめた。注射器ではなく、前方にそびえる黒いカーテンを。
「ただ一例の成功にしても、偶然の産物にすぎぬ。だからこそ、彼奴《きゃつ》も次は成し遂げられなかった。彼奴の理想は人間では無理なのだ。だから、私は主張した。可能性は外に求めるべきだと。何たる幸い――向うからやって来たではないか。このように!」
ギルゼンは狂気のようにかたわらに垂れた吊り紐を掴んで引いた。
前方にそびえていた黒いカーテンの壁が左右に開いた。
そこはガラス張りの部屋であった。
天井から奇怪な影がぶら下がっていた。
ワイヤーで吊された四本腕の生物の身体は、青緑としか呼びようのない色で塗られていたが、それも正解には遠かった。体形は人間とほぼ等しいものの、筋肉はワイヤーのようによじれ、関節の位置や形も尋常とはいえなかった。これは曲がる角度によるものだろう。
顔は馬面といってもいいほど長く、真ん中あたりで窪んでいた。異様に大きくほぼ真円の眼に対して、鼻と十文字に裂けた口らしい器官は赤子のもののように小さく、口腔からのぞく歯は獣のように鋭い割に、むしろ可愛らしいといえるものであった。
「誰の手も借りず、私が捕獲した外宇宙よりの侵入者。いまだにその根拠地はわかっていないが、私は彼ら自身に途方もない価値を認めた。侵略者よりも、この星の未来を切り拓く貢献者としての価値を」
ギルゼンは手にした錫でガラスを激しく叩いた。
「それは血だ。我ら貴族は一万年前に忽然として誕生した新興の種ではない。その遙か以前、地球創成の頃に始祖を置く、人間の歴史など及びもつかぬ古《いにしえ》の一族だ。それ故にか、或いは別の要因によってかは知らぬが、一万年前の時点で、種としての生命力はすでに衰えつつあった。これに気づき、憂慮したものは、私と奴しかいない。すなわち“神祖”だ。しかし、私と奴の貴族としての可能性の拡大は、別の方向を取った。奴は人間と貴族との融合を試み、私は異星人との血の結合を望んだ。すべてはこ奴らが来訪したときにはじまったのだ。そして、一時は成功を見た。私が作り出した異星人の血を体内に巡らせた貴族たちは、通常の仲間たちが想像もつかぬ能力を発揮してのけたのだ」
「それがために、“御神祖”はおまえを許さなかった」
影の女は言った。苦い想い出を語る声であった。
「おまえが造り出した新しい貴族はすべて処分され、おまえもこの城も永劫に破滅の淵に投げこまれるところだった」
「その前に、私は異星人から入手しておいた超技術でもって城を“記憶時間”の内部《なか》に封じ、“神祖”は私を地底深くに眠らせる埋葬刑に変えた」
彼は足下の影を見下ろした。
「何もかも、あなたのお口添えがあったからだ。母上、“神祖”はあなたの願いを容れた。それは何故だ?」
「おお」
と影は身悶えするようにわなないた。
「訊かないでおくれ、訊かずにいておくれ。私はおまえを助けようとしただけ。“御神祖”には感謝しています」
「もう済んだことだ。私もそう思っていた。しかし、奴は来た。Dという名の可能性をもって。奴は私を根源から揺すぶっている。ふふ。滅びねばならぬぞ、Dよ。この私がなおも貴族の未来について探求の手をゆるめずにいる限り」
「――私は怖い。ギルゼン。私の息子よ、私は恐ろしい。あの美しい若者をひと目見た瞬間、気を失うかと思いました。ああ、“御神祖”が現われたのかと。だとすれば、ギルゼンよ、あの若者はおまえに破滅をもたらしに来たのです。何もかも打ち捨て、私と、人間も貴族もいない土地へ――星の奥へと参りましょう」
哀切といってもいい声であった。真剣に彼の身を案じる母に、息子はこう応じた。
「下がれ」
絶望の声は上がらなかった。代わりに、
「この階に爆薬を仕掛けました。ギルゼン、あと十秒足らずで、呪われた実験室は消え去ります」
影の凄まじい言葉に、ギルゼンは邪悪な笑みを口もとに結んだ。それだけだ。
「私の母たる者が、何という愚かな真似を。一万年の時は、知恵のかけらも与えなかったとみえる」
ギルゼンは手にした注射器を自らの首に――頸動脈に突き立てた。
真紅の中身を体内に注入し終えた刹那、天地が鳴動した。
ギルゼンが、にやりと笑う。
その笑いを固着させたまま、実験室の床と天井が崩れ、彼と影はその混沌に呑みこまれていった。
2
破壊は城内に牙と爪を立てつつ駆け巡り、奇妙な構造に従って、あり得ない場所を襲った。
実験室の二階下では塵ひとつ吹き上がらなかったのに、地下の牢獄は直撃を蒙ったのである。
気がつくと、ダストは牢の外にいた。眼の前の壁が裂けて闇黒《あんこく》が隙間を埋めている。頬に冷たい粒が続けざまに当たった。雪片だ。吹雪いている。
右肩がひどく痛んだ。
牢獄の方をふり向いたが、瓦礫の山しか見えなかった。そこに牢獄があったかどうかも疑わしい。
肩に手を当てた。明らかに折れている。ガードとしては致命傷だった。
立ち上がり、裂け目の方へ向かった。
抜けると同時に横転した。左足の膝が内側から灼けるようだ。何かの破片が入っている。
雪で冷やすつもりだった。
足を雪に入れ、左手で肩にかける。
逃げるつもりはなかった。ヴェラとルリエが城内にいる限り、ガードの仕事は終わっていないのだ。
何度目かの雪を肩に乗せたとき、雪を踏む音が鼓膜に届いた。
山人《さんじん》たちから彼らを救った存在のことが閃いた。敵か味方かはまだ判然としないし、足音は山人のものかも知れなかった。
武器はない。
ダストは足下の石の塊を拾い上げた。
吹雪はかなり強い。
前方に灰色の形が滲んだ。距離はわからない。二〇メートルかそれ以上はあるだろう。
ふと睡魔が襲った。痛みを鈍くした雪が、意識を薄めにかかったのだ。
眠れば死ぬ。
いかん。気を取り直そうと努めた。
すうと落ちていく。
右腕に力を入れた。
肩をえぐる激痛が意識を回復させた。
眼を開いて影を追う。
眼の前に立っていた。
髪も髭も伸び放題の顔に古いゴーグルをかけ、獣皮とヤッケをつないだようなボロボロの衣裳をまとっている。
手にした弓と腰の矢筒がダストを緊張させた。
「あんた……ルリエの親父さんか?」
と訊いた。
黒い雪灼けの顔の中で、虚ろな眼がダストを映している。
突然、それが紅く燃えた。
Dは足を止めた。
広間を出てから一時間以上、彼は城内をさまよっていたのである。左手の方向感覚も昏迷に陥っていた。
「この城の構造は〈迷宮〉に似ておる。貴族の〈迷宮〉くらいなら何とでもなるが、ここは異世界の物理法則が応用されているぞ。あののっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]どもの運んできた技術だろう。話からして奴め、“神祖”と張り合って、もうひとりのおまえを造り出すつもりだぞ。おまえを凌ぐギルゼンの戦闘能力も、UFOの故郷のものとすれば、納得がいくじゃろう」
「ギルゼンの居室は何処へ移った?」
「それがのお、記憶した設計図がころころ変わりよる。いまは――やや不明だ。設計図から消えておる」
「歩いてばかりもいられんぞ」
「わかっておる。しかし、何処へ向かえばよいものか」
不意に足下の床が動きはじめた。ヴェラが乗った自走路である。
Dはそのまま進んだ。当てがない以上、降りる必要もない。
五分ほど揺られたが、誰とも会わなかった。
「でか過ぎる」
嗄れ声の感想は正鵠《せいこく》を射ていた。
何処で小競り合いが起こっても、Dたちの場所まで波及してこないのだ。
さらに十分ほど乗っているうちに、Dは三度乗り換えた。
嗄れ声も無言だ。
目的地への道でも見つけたようなDの選択であった。
動く路は時に降下し、時に上がり、やがて、前方に巨大な扉が見えてきた。
考えられる場所すべてに彫刻を施すのが古代貴族の特徴だが、縦横一〇メートルと五メートルも越すこの扉は、一切の装飾と無縁だった。
青黒い表面の光沢の前で、Dは走路を下りた。扉の両脇で鉄の燭台に炎が燃えている。
「ここか?」
と嗄れ声が訊いた。彼にも新しい目的地がわかっていたらしい。
「わざわざおまえを引きつけるとは、何たる妖気鬼気の渦じゃ。漏れてくるのはほんのわずかなのに、ほれ、もう鳥肌が立っておるぞ。――聞こえるか?」
Dはうなずいた。その眼が赤光を放った。いや、見よ、その震える唇の脇から覗くのは――吸血鬼の牙だ。
「聞こえるな、内側《なか》の奴らのどよめきが」
と左手が言った。
「奴らもおまえを感じておる。おまえの気配を。脅えておる、勇んでおる、そして、歓びに満ちておる。おまえを食らい尽せるとな。やめておけ。相手が悪いとは言わんが、時間の無駄じゃ。それに、おまえの精神に異常が生じる怖れがある。おお、その眼、その牙――その血は何だ? 興奮のあまり唇を食い破ったか。いかに冷静でいても、貴族の血を引く限り、闘争の快楽は抑え切れぬ。――さ、行くぞ」
Dの右手が背の柄《つか》にかかった。
「よせ、やめい!」
左手が横へのびた。
同時に、狂気のごとき叫びを上げて、Dの一刀は鋼の大扉に切りこんでいた。
煙が上がった。
一刀をふり下ろした姿勢のまま、Dは動かなくなった。
刀身は見事に鋼に食いこみ、左手は燭台にかかっていた。じりじりと炎が手を焼いている。
ふっと息を吐いて、Dは力を抜いた。
立ち上がるにつれて刀身は抜け、左手も戻った。彼は焼け爛れた指を握りしめた。
炎に手を突き入れたのは彼の意志である。肉を焼く熱気が彼を正気に戻した。刀身はあくまで浅く大扉を裂いたに留まったのである。
「無茶をしよる」
左手が嗄れ声を放った。指はもう復元している。
「まさに間一髪。鋼の扉に、浅傷《あさで》とはいえ、ここまで切りこむとは。やはり、おまえは、あいつの……」
「――何だ?」
Dよ、何故、こんな血も凍る問い方をする?
左手は沈黙した。
Dは走路の奥へ眼をやった。
反対方向への走路も並行して流れている。その奥から数個の人影が現われたのである。
どれも膝をつき、槍のようなものにもたれ、負傷者の雰囲気だ。いや、現実に男たちは血にまみれ、息も絶え絶えであった。
Dと戦った聖なる従護衛騎士団の兵士たちである。
だが、いまどき、Dと戦い終えての彷徨《ほうこう》でもあるまい。第一、Dに刃を向けて負傷した者はいない[#「負傷した者はいない」に傍点]。
不意に兵士たちがふり向いた。
恐怖の声を洩らしつつ武器を構える。
走る路の上を、長身の影が大股にやって来た。
四本腕ののっぺらぼうである。
右手に銃のような武器を、左手に剣を下げている。長槍と弩《いしゆみ》は戦いの最中に失ったらしかった。
兵士のひとりが立ち上がり、手の剣を投げつけた。敵の左手が走ると、それは世にも美しい響きをたてて跳ねとばされ、投げつけた兵士の心臓を貫いた。
残る兵士たちは逃亡を選ばなかった。
武器を手に立ち上がり、一斉に敵へと突進した。その寸前、最後尾のひとりがDの方を向いた。眼が合った。一瞬のことだった。兵士は仲間たちの後を追った。
のっぺらぼうの剣が火花を散らし、銃に似た武器が、続けざまに緑の光を飛ばした。
それを胸に受けた兵士たちは同じ色のかがやきを放ち、輪郭までその中に溶けると、ふっと消えた。
最後のひとりが残った。
兵士は金切り声を上げて突進した。訓練なら誰とでも互角以上に戦い得る力量は、その動きと構えからでもわかった。
軽々と右の銃で弾き返すと、敵は左の長剣を一閃させた。
Dの足下に重いものが落ちた。切断されたばかりの兵士の首だった。
それは悲しげにDを見つめていた。
死にたくなんかなかった。一万年ぶりに生き返ったのに。
兵士は女だった。
Dは眼を上げた。
四本腕の敵は、Dの前に差しかかったところだった。
Dを見た。
仁王立ちの巨体が走路を下りた。
そこで止まった。
Dも動かない。
銃が上がった。
銃口が、かすかに緑のかがやきを放ち――消えた。
Dの胸で青い光がゆれていた。
銃を腰に戻し、敵は長剣を抜いた。
そのとき――
「邪魔しないで」
Dは眼だけをそちらへ向けた。
声は兵士と敵のやって来た方からした。
新しい影が滑ってきた。
長剣を八双にかざして敵をねめつけているのは、女ハンター=リリアだった。
「そいつの相手はあたしよ」
敵もその声を聞いた。
ふり向きざま火器を向ける。
緑の光条は、リリアの長靴の下を通って奥の闇に消えた。
舞い降りつつ、敵の頭上へリリアは一刀をふり下ろした。ヴェラの超高速震動によって失った右手はもう復元している。
敵は火器で防いだ。刀身はそれを両断し、そこで止まった。
男の二本目の右手がリリアの手首を掴み止めていた。
「お放し!」
空中で身をもがく肢体へ、敵は左手の剣を突き出した。
それが物理的に不可能な角度で反転し、一閃のきらめきが白木の針を両断していた。
リリアを掴んだまま、敵はDを向いた。
眼も鼻も口もない顔から、凄まじい敵意が吹きつけてきた。
針を飛ばした右手をいま長刀の柄にかけ、Dははじめて一歩前進した。
3
「女を盾にするか。その辺は全宇宙共通かの」
嗄れ声が軽蔑しきった口調で言い放った。
「こん畜生。放せ、放せってば」
罵《ののし》るリリアへ、
「動くな」
Dの氷声が走るや、おとなしくなった。
「盾にしたのはいいが、腕が一本使えんぞ」
その声に相手が動揺するまで、Dは待たなかった。そもそも通じているかどうか。
敵は突いてきた。
外側へ旋回しつつ躱したDの首へ、あり得ない方へ曲がった肘が刃を送る。旋回を継続しつつ、抜き切らぬ刀身でDは受けた。奇蹟と呼ぶべきか、神技というべきか。
なおも旋回する身体から斜めに白光が走った。
異世界の肉の断つ音とともに、奇怪な剣を握った腕は肘から切りとばされていた。
敵は全身を震わせつつ後退した。
Dが追わなかったのは、次に起きる光景を予想していたせいかも知れない。
リリアの身体が発条と化して跳ね上がるや、猛烈な蹴りが敵の顎先に爆発した。
敵はのけぞり、リリアは反転して地面に降り立つ。
Dが走った。
反射的に残る三本の腕を上げて庇ったとき、敵にはリリアのときと同じ勝算があったかも知れない。
Dの手首か肘を捉え――しかし、腕はすべて切り離された。
こればかりはいかなる生物も隠しようがない死への恐怖を撒き散らしながら硬直する敵を、Dは一瞬見つめた。
敵は女を盾に使ったのだ。
次の瞬間、真っ向から切り下ろされたDの一刀。
のっぺらぼうの頭部は股間まで両断されていた。
扇のように開いて倒れる身体を見ようともせず、Dはリリアを向いた。
同情も安堵もない。そっちを向いたらたまたまいた[#「いた」に傍点]というに過ぎない――いままでは。
Dの眼はリリアの首に巻いたスカーフに注がれた。
「あいつは、あたしが追ってたのよ」
とリリアはDをにらみつけ、すぐに失敗に気づいた。みるみる表情が恍惚ととろけていく。Dにガンつけをしてはならないのだ。
「よよ余計なまま真似しないでよ」
声もこの様《ざま》だ。
Dは底冷えのするような声で言った。
「血を吸われたな」
恐ろしい時間《とき》が流れた。
「……だったらどうする? 斬る?」
挑戦的ともいえるリリアの声であった。受けて立つつもりなのだ。
「おまえを斬れとの依頼は受けていない。おれの邪魔にならない限りな」
黒い背がリリアの前に広がり、遠ざかった。やって来た方の走路に乗ったのだ。
「ちょっと待って。何処へ行くつもりなの?」
リリアも剣を拾うや乗った。
途端にDから吹きつける殺気――ぎょっと跳びのき、
「ギルゼン公爵のところ? 探すの一年がかりよ。ねえ、あたし知ってるわ」
「本当かの?」
嗄れ声である。
「嘘かも知れない――どうする?」
「案内しろ」
リリアは空いた方の手の指を鳴らした。
「気に入った。このまま南西第2001ゲートへ。そこから地下へ潜るわ」
リリアの声は大きく震えた。
否、世界が。
天井と床に亀裂が走る。
走路が停止した。
警報が激しく鳴りはじめた。
どれほど巨大なエネルギーの放出が行われたのか、波のようにグラインドする床の上で、二人は平然と四方を見渡した。この辺は大したものだ。
「下ね」
とリリアが眼を閉じて言った。エネルギー波の発生点を走査していたらしい。
言うまでもない、ギルゼンの母――影女の仕掛けた爆薬の効果だ。
「急ぎましょう。UFOに何かあったのかも知れない」
「UFO?」
嗄れ声が訊いた。
「やはり、あいつらの母船があったか。よく――」
知っておるなと言いかけて、嗄れ声は納得した風に黙った。貴族に血を吸われた者は、同時に貴族の記憶や現在眼にしている光景すら同時体験し得る。リリアはいま、ギルゼンの記憶を共有しているのだ。
「何が起きた?」
Dの冷たい声。
リリアは眼を閉じ、首をふった。
「そこまではわからない。でも、かなりの大事件よ」
リリアは先に立って走り出した。
「何故ギルゼンの居場所を教える?」
「何故? 仕留めて賞金をせしめるためよ」
「ほう」
と嗄れ声が感嘆した。
「最初はあいつ[#「あいつ」に傍点]べったりだったのが、いつの間にか、元のあたしになってたの。貴族の犠牲者はみな、自分の血を吸った相手を“あのお方”って呼ぶけど、あたしはあの男だったわ」
「これは久しぶりに見た。〈半覚醒者〉か」
貴族の犠牲者はまず例外なく、貴族の配下的行動を取る。精神的に支配されてしまうのだ。ところがその確率は九九・九九九――と無限につづき、永遠に一〇〇とはならない。あらゆる法則に付随する現象――例外が存在するのである。
貴族の下僕となりながら、明確に以前の自我を保持していられる犠牲者たち。彼らはあくまでも貴族の疑似一族でありながら、確たる敵意を有するという意味で、完全に眠らぬ者――〈半覚醒者〉と呼ばれる。Dはいま、その希有な例外を眼にしているのであった。
「ギルゼンにとっては、獅子身中の虫というわけか。しかし、彼奴、それほど不用心な奴とも思えぬが」
「気にもしていないのよ、あたしのことなんか」
リリアはやや自嘲的に言った。
「あいつが気にしているのは唯一、あんたのことだけよ、D。いまのあたしには、その理由もよくわかるわ」
「ほお、何じゃな?」
「やめとくわ。首を刎ねられたら、あたしだって生きていられない。D、あんたって、多分、自分が想像してるより、ずっと大変な存在よ」
「それはそれは。ふむ」
自慢たらたらの嗄れ声であった。
広大な城内を急ぐ間に、リリアはギルゼンとその目的に関して包み隠さず話した。
Dの青白い美貌は水中を漂う死者のように変わらず、嗄れ声ばかりが唸った。
「やはりな。とんでもないことを考える奴じゃ。これは少々厄介だぞ。もしも、ギルゼンの試みが成功していたら、それがある程度という限定付きでも、途方もない怪物が出来上がっているに違いない。奴め、それを自分の身体で試しておるか?」
「それは、不明だわ。読み取れないの」
「ということは、やはりギルゼンめ、自分をモルモットにしおったか。はて、厄介な」
それから、リリアに聞き取れないように小声で、
「この女、ギルゼンに血を吸われた以上、その力をも受け継いでおるはず。いつ変心するかわからん。用心しろ」
Dは答えない。だが、そのときが来たら、この若者の氷の精神《こころ》は一刀の下にリリアを斬り伏せるに違いない。
やがて、惨たる破壊の痕跡が二人の眼前に広がりはじめた。
「ここは何処だ?」
嗄れ声の問いに、リリアは、
「実験室。バイオもケミカルも混ぜこぜよ」
「しかし、なんでこんな破滅のときを迎えたんじゃな? バイオとケミカルがこれほど凄い爆発を起こすとは思わんが」
「高性能爆薬が仕掛けられたのね。ギルゼンにも気づかれずにそんなことができるのは、ひとりしかいないわ」
「誰だ?」
リリアはぞくりと身を震わせた。Dの声であった。
「ギルゼンの母よ。事情はよくわからないけれど、いまは影になっているわ」
「影え〜〜?」
「どっちかに[#「どっちかに」に傍点]統一してくれない、その声」
「わかった」
と嗄れ声が重々しくのたまい、リリアは絶望の表情で天を仰いだ。
「影というのは何じゃ?」
「ギルゼンの母は、何か途方もないことをしでかして、息子の手で二次元の生き物に変えられてしまったのよ」
「ふむ。大した母子《おやこ》関係じゃな。しかし、その途方もないこととは何じゃ?」
「“神祖”との関係だ」
「何じゃと!?」
「――!?」
そのひとことで二人[#「二人」に傍点]を愕然とさせたDは、無言で顔を右へ向けた。
「そうだな、レディ・カー?」
瓦礫の何処かから、陰々たる、しかし、左手さえほおと呻いた気品溢れる女の声が、
「そのとおりです」
と答えた。
リリアは愕然と眼を凝らしたが、何も見えなかった。
「やはり来ましたね、D。私のことは“御神祖”から聞かれたのでしょうか?」
「そうだ」
声は沈黙した。
リリアの険しい表情に、ふと人間らしさが甦った。そんな沈黙であった。それから、眼を剥いてDを見つめた。
Dがギルゼンと知り合いらしいのはよし[#「よし」に傍点]としよう。貴族の血を引く者に、年月は意味をなさないからだ。
だが、ギルゼンの母と“神祖”との関係を知悉《ちしつ》しているとなれば話は別だ。
この若者は、まさか“神祖”の……
「破壊工作を施したのはおまえだな」
「そうです」
「ギルゼンは滅びたか?」
「そうお思いですか?」
「いいや」
答えたのはDではなかった。
そちらへ眼を向けた一同[#「一同」に傍点]の前で、数千トンに及ぶ瓦礫の山が一気にめくれ上がった。
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第四章 愛憎の城
1
圧倒的な重量を跳ねとばしたものは、四本足の、しかし、昆虫を思わせるメカであった。
全身が黄金色に染められているのは、操縦席にいるギルゼンの趣味らしい。
二メートル五〇センチほどの高みから一同[#「一同」に傍点]を見下ろし、
「実験室の下は、歩行兵器の倉庫でな。どうする、D? 語り合う前だが、座興に相手をしてみるか?」
嘲罵《ちょうば》を兼ねた挑発であった。また、そうでなくても挑まれて退く若者ではない。
Dは何も言わずに前へ出た。その冷たく鬼気迫る姿に、女ハンターも孤女影《こじょえい》も凍りついて見送った。
特殊合金で作られた昆虫型兵器と思しい。Dの秘剣をもってしてもよく戦い得るとは思えない。
「別にこれといった用途のある兵器ではない。エイリアンどもの知識と技術を使って組み立てたお遊びよ」
操縦ポッドから聞こえるギルゼンの声にも、必殺の覇気は伝わってこない。
貴族史上最凶といわれる貴族は、常に倦怠の気を色濃く漂わせているのだった。
ガシャンと前足が出た。
Dは動かない。
右手は柄にかかったままだ。敵が次の動きを示した瞬間に、それは必殺の動きを示すのだろう。
物理的に圧倒する自信に支えられてか、ギルゼンは無造作にマシンを前進させた。
人間よりもよほど滑らかに前進したその前足へ、声もなく銀光が迸った。光の筋《ライン》は妖刀の反りを思わせた。
リリアが驚きの声を上げた。
鋼の足はその関節部でみごとに切断されていた。
大きく傾いて膝をつく前に、切断部からは茶色の粘液が噴出し、床を叩いた。
Dは刀身を下げたまま、動こうともしない。
「ガラクタめが」
フードが開くや黄金の人形《ひとがた》が飛び出し、床上でギルゼンの姿を取った。
「死ぬがいい」
いちばん近い足を蹴ると、巨体は地響きを上げて横転した。
「何よ、これ?」
リリアは呆れ返った。何処がエイリアンの技術なのか。
「未熟な試作品かの」
嗄れ声の指摘に、ギルゼンは反応した。
「応用の技術がな。一万年前のポンコツだ。だが、私は少し違うぞ」
錫《しゃく》がDをさした。
「そうか、おまえには光学兵器が通じなんだ。では、これで相手をしよう」
彼は錫をひとふりした。反対側の端が二メートル近く伸び、そこから五〇センチもある槍の穂が出現した。
リリアが前へ出た。
「D、あたしにまかせて」
「いいじゃろう」
嗄れ声と同時に右肩を掴まれ、リリアの意識は、一瞬、闇に閉ざされた。
崩れ落ちる身体を素早く抱き上げてから、無造作に横の床へ放り出し、Dは跳躍した。
ふりかぶった刀身がうなりをたててギルゼンの頭部に襲いかかる。
槍の穂で受けた。
異様な音が、Dの左手の平に、大きく見開いた眼を生じさせた。
ギルゼンはよろめいた。槍の穂は半ばで折れ、それが守るべき貴族の頭部から鳩尾《みぞおち》まで鮮血が奔騰《ほんとう》した。
魔鳥のごとく着地し、Dはギルゼンに肉迫した。
頭を割っても、とどめは刺すのか? それとも――
がっと音をたててDの身体は後方へ躍った。
リリアがあっと叫んだ。意識を取り戻した瞬間、ギルゼンの錫がDの胸を突くのを目撃したのである。
右手一本で刀身を青眼に構えたDの口の端から、赤い糸が滴りはじめた。
ギルゼンの一撃は彼の肋骨を折り、それが肺に刺さったのだ。
ギルゼンは頭部の裂け目に片手を当て、ずいと下まで引いた。手を離すと斬線は消滅していた。
「生命科学に関しては、奴らに一日の長があった」
とギルゼンは言った。
「我らと違う限られた生命の持ち主どもであった。そのために、科学による不老不死をめざし、ある程度のレベルまでは辿り着いておったのだ。私にもそれは応用できた。かくてこのとおり――Dよ、おまえの一撃も私には通じぬぞ」
じり、と前へ出たギルゼンの巨躯に、空気がひしゃげた。
「危《やば》いぞ、これは」
嗄れ声がDの左腰に絡みついた。
「逃げい――と言っても無駄か。だが、逃げい!」
左手の絶叫にも、無論Dは動かない。かえってリリアが一刀を抜いた。
「あたしにまかせて」
その眼が赤光を放った。吸血鬼の光を。
「D、あたしはこいつに血を吸われた女よ。こいつの力も受け継いでいるわ。エイリアンの力も」
返事も聞かず出ようとするその胸もとへ銀蛇《ぎんだ》がのびた。
「邪魔をするな」
とDは言った。すれば斬る――リリアはそう読んだ。
胸もとの切尖《きっさき》から大きく後ろへ跳んで、長剣を構えた。
「いいわよ、商売敵。利害関係をはっきりさせてあげようか?」
「仲間割れか」
とギルゼンが笑った。
「では、わしは待つとしよう。どちらが勝っても、邪魔者が減るには違いない。だがな」
この男の両眼も血の色を帯びた。
「女よ、わしはおまえを見ていたときに決めた。新たなわしの護衛だとな。いま、その力をすべて出し切らせてくれる。Dを斃してみろ。ただし、わしの意志の下に」
同時にリリアの顔からあらゆる表情が消えた。
能面の虚脱さを保ちつつ、女ハンターの剣はすさまじい鬼気に彩られた。ギルゼンの妖気とエイリアンの精気との混交。それがいま、Dの敵に廻る。
「また、厄介な」
呆れ果てた嗄れ声を何処《いずこ》に聞くか。Dは一刀をギルゼンに戻した。その斜め後ろで、リリアが長剣をふり上げたのも知らぬのか。
音もなく必殺の間合いに入ったリリアの一太刀より早く、その顔に苦悩の色が走った。
見えない手から刀身と自分を引き戻そうとするかのように、リリアは必死で刀身を押し戻し、後じさろうと努めた。
「D……わかるわね……」
胸の内で鋳造された鉄の言葉が、わななく唇からこぼれた。
「……これは……あたしじゃないわ。……ギルゼンの血が動かしている……の……お願い……D……私を殺して……いますぐに」
血の呪縛から解かれたのは、リリアの強靱な意志によるものであったろう。だが、その顔はたちまち虚無を選んだ。
長靴が床を踏みしめ、後足がそれを押す。一歩……また一歩。
Dはそちらを向こうともしない。ギルゼンに気を集中しているのか、リリアを信じているのか。いや、どうなろうと取るに足らぬ存在と見なしているに違いない。
だが、その瞬間、彼は咳きこみ、足下の床に鮮血が散った。
リリアが肉迫する。その眼は、ギルゼンの眼であった。
その刹那、リリアは凄まじい下半身の力を発揮して制動をかけ、右斜め上方を見上げた。このとき、ギルゼンが見たのと同じ方角であった。
警報が鳴っている。
「映せ」
とギルゼンは命じた。
その視線と天井がぶつかる地点に、楕円の空間が生じ、蒼穹《そうきゅう》と白い峰々が浮かんだ。外の景色である。
その彼方から、ヘリらしい四つの機影が接近しつつあった。
「ほう、これは珍しい。ヘリコプターと昔は言った。形は変わっても一万年後も使われていたか。よほど便利なのか、それとも進歩とやらがないものか」
「危い品を積んでおるな」
嗄れ声が言った。
「核ミサイル」
ぽつんとリリアがつぶやいたのは、ギルゼンの血の影響によるものか。
「何処の愚か者か、このギルゼンを怖れることしか知らぬ人間の代表どもが、わしの復活を知って派遣したのであろう。Dよ、一時休戦だ」
「いいや」
愕然とふり返ったギルゼンの眼前で白光が閃いた。
またもや頭部を両断されつつ、
「“神祖”の怪物よ」
とギルゼンは言い放った。その口から血泡が噴き出すや、それが床上に滴る寸前、彼は忽然と消滅した。瞬間移動《テレポート》である。
リリアが眼を見開き、激しく身体を震わせた。ギルゼンの呪縛が解けたのだ。
それまでの記憶はあるらしく、
「――D!?」
とそちらをふり向いたときには、黒衣の若者はすでに一刀を鞘に収めていた。
「あいつは――」
「ミサイルを何とかしに行ったんじゃろう」
と嗄れ声が応じた。
「いかに貴族の城だとて、核ミサイルの直撃を受けては無事では済まん。戦術核だろうと一発で消滅させられてしまうぞ。お、近づいてきおった。あのサイズだと、安全圏内発射地点まであと五〇〇……四〇〇……三〇〇……おお、ジャスト!」
常人の眼でようやく細部まで見通せるようになったヘリの底部から、一斉に黒い物体が離脱した。
白煙の航跡を引きつつ、空中スクリーンの中心へ突進してくる。
リリアが拳を握りしめた。
スクリーンが白く光った。それはギルゼンの城のみか、白魔と呼ばれる山を包んだ百万度の白熱光であった。
2
リリアが眼をこすった。
「生きてるわね」
二人の影――正確には三つの影は、黒々と床に落ちている。
「ミサイルは命中したわよね。不発でもなかった。なのに無事ってどういうこと? エイリアンの障壁《バリアー》でも張ったの?」
「いや」
と嗄れ声が応じた。
「城の表面はやられた。命中した刹那、蒸発しておるな」
「なら、あたしたちは――ここ[#「ここ」に傍点]はどうして? 特別な材料でできてる?」
「いいや、ギルゼンと同じじゃ。石も再生能力を有しておるらしい」
「――石も?」
「それがエイリアンの技術とやらだろうて。でなければ、遙か彼方の星々の奥から、大宇宙へ飛び出せるはずもない。船も乗組員も時の流れに朽ちぬものだけが、宇宙に挑めるのだ。――おっ!?」
空中スクリーンに浮かぶヘリ部隊の下から、またも白い煙のすじを引いてミサイルが接近してきた。
「また核ミサイル?」
「いや、あれは通常ミサイルだ。莫迦者どもが、核ミサイルを一蹴した相手に通常兵器が通じると思うか?」
「あいつら、何処の者《もん》よ?」
リリアもせせら笑った。
「世間知らずの兵隊さん――『都』の連中ね、きっと。さっさと逃げればいいものを。泣き見るだけじゃ済まない――」
最後まで続ける必要はなかった。
ミサイルの衝撃も炎も映らず、代わりに城から射ち出されたと思しい黒い槍がヘリを貫いたのだ。
二個の火球が膨れ上がり、残りふたつはだらしなく落ちていったが、途中で火を噴いた。
「外からの攻撃には鉄か」
嗄れ声の指摘にリリアもうなずいた。
ただひとり――Dのみが、
「ギルゼンは何処にいる?」
彼はまだ仕事を終えていないのだ。
リリアがかすかに笑った。
「こっちよ」
廃墟の向うに顎をしゃくって歩き出しかかり、足下へ眼をやって、
「あれ、影は?」
レディ・カーと呼んだギルゼンの母が、核攻撃を撃退したとき、気配もなく去ったのをDは知っている。
実の息子に地を這う運命を与えられた女にも、まだやるべきことがあるに違いない。
Dは無言で、リリアの示した方角へと歩き出した。
ギルゼンは満足していた。少なくとも外敵の攻撃は完璧に退けたし、Dにも勝機を掴んだ。問題はあの母親だが、これはいずれ処分すれば済む。彼女が死んでいないのは察しがついていた。実母であろうと、逆らうものは生かしておかん。
彼は空中へ向かって、
「ジャンヌ」
と呼びかけた。
女戦士の姿が浮かび上がった。Dが見たのと同じ立体映像である。
「ここに」
「バジスもおるか?」
「はい」
「他には?」
「グホロ、バヤンジャ、トフスクは部下たちとともに無事です。後は――斃されました」
さして沈痛ともいえぬ声であった。
「Dにか?」
「いえ、異星の者どもに。次々に負傷者が送られてくるため、目下、治療中です」
「捨ておけ。役立たずめが」
「………」
「聞こえたか?」
「――彼らは一万年を経て甦った者たちです。そして、その日に手傷を負いました。塵と化した者たちも二百人を越えます」
「それがどうした? 百人消えたら、千人を甦らせてやればよい。私に従った者は十万を越すぞ」
「………」
「いま一度命ずる。手一本、足一本といえど失った者どもは、治療せずに始末せい」
「……承知いたしました」
空中に浮いたギルゼンの姿が消えてから、ジャンヌは、
「聞いたか?」
と口にした。ギルゼンの眼には入らぬ奥から返事はあった。
「確かに」
「あれがギルゼン様のやり方と知ってはいても、私には納得できぬ」
「かといって、背くわけにもいくまいよ。我らは公に忠誠を誓った下僕だ」
声の主はバジスであった。彼には影すらない。
「どうかしたのか、ジャンヌ? 一度たりとも公のやり方に逆らったことのないおまえが?」
女戦士はうつむいた。
「私は――もと人間だった」
血を絞るような声で言った。
「………」
「ギルゼン様に血を吸われ、人間であった頃の職業《なりわい》――女戦闘士の腕を買われて、ここまで抜擢された。バジス、私は新しい生命を賭してギルゼン様に尽したつもりだ」
正しく血を吐くような叫びであった。
「――どうした?」
ジャンヌは弱々しく首をふった。
「何でもない。私は忠実な部下だ」
「そのとおりだ」
背後から、威嚇するような声が二人を包んだ。
右腕を肩から吊った壮漢である。四角い顔の中に、これも四角い眼が不敵な光を放っている。
「これはバヤンジャ卿――おや、トフスク将軍も」
恭しく頭は下げたが、ジャンヌの口調に含まれた棘は、二人の甲冑武者の服従心に対する皮肉だろう。
「我らの生命は、その血肉の一片までギルゼン公に捧げること、それが武門の誉れではないか」
こう言ったのは、顔面まで装甲で覆った男――トフスク将軍であろう。ぐい、と鋼でできたような指でジャンヌを示し、
「おまえたち二人[#「二人」に傍点]、挙動の端々に公に対する反抗心と揶揄《やゆ》とが見て取れる。そのうち痛い目に遇わぬよう心せい」
バジスの声が降ってきた。
「ですが、公のご意志に従えば、バヤンジャ卿、あなた様も始末されねばなりませんぞ」
四角い顔を憎々しげに歪めて、右腕を負傷した男は天井を見上げたが、もとより声の主を見ることはできなかった。
「しかし、あの人間の女、よくやっておりますぞ」
とジャンヌが奥へと眼をやった。
VIP用のサロンに近いらしい部屋の天井付近に、ギルゼンのと等しい楕円のスクリーンが浮いた。
凄惨としかいえない光景が展開していた。
血まみれの兵士たちが並び、伏し、横たわり、医師たちの手当てを受けている。
その医師というのがヴェラだ。驚くべきは他の医師たちで、なんと、軽傷程度の兵士なのである。仲間の傷口を消毒し、包帯を巻き傷口を縫い合わせる手先が覚束ないのは、にわか医師だから当然だが、自らの作業に熱中しながらも、即製の弟子たちに眼を配り、注意し、叱咤するヴェラの姿は、ひとりの女医として感動に値するものであった。
ジャンヌと二人の将軍も、しばらく見惚れていたが、じき、ジャンヌが、
「簡単な治療装置と薬品が用意してあって運がよかった」
と口にしたときは、将軍たちも反射的にうなずいてしまった。
この城には、重傷患者に対する治療メカや薬品が極端に少ない――というよりない。何故かは、先刻のギルゼンの言葉を聞けば明らかだ。兵士たちは完全な消耗品なのである。いや、そもそも負傷してもいずれは治癒するか、塵と化して滅びるかなのだ。
いまある品さえも、残っているのは奇蹟なのであった。
「この女、余計な真似を」
トフスク将軍が、乾いた声で言った。
「公の命令も下りたことだ。わしが行って処分してくれよう」
トフスク将軍が戸口へと歩き出した。
追う者はいなかった。
廊下を何度か廻り、自走路の前へ出たとき、トフスク将軍は足を止めた。
「何の用だ、バジス?」
石天井が声を発した。
「伺いたいことがひとつございます」
「何だ?」
「どうしても負傷者を手にかけるおつもりで?」
「公の命令だ。本来ならおまえらがやるべきところを、辛かろうと代わってやるのだ。ありがたく思え」
「彼らはDや異星人どもと果敢に戦い、負傷した勇者でございますぞ」
「雑兵《ぞうひょう》はそれが仕事だ」
「死ぬために一万年を経て甦ったのではございません」
「くどい」
トフスク将軍の右肩で、円筒型の装着台が回転し、片端が天井を向いた。
ぼっ!
低いが鋭い音が空気音とともに、鉄の矢が声を[#「声を」に傍点]貫いて天井に突き刺さった。
「姿形もない下郎の分際で、このトフスクに意見するつもりか? わしの怒りがわかったら、失せい。いまの罰は後で下す」
後をも見ずに歩き出すその頭上で、ふたたび、
「ご再考を促しても無駄なようでございますな」
「バジス」
将軍の右手が腰の銃にかかった。
それを声の方に向けると見せて神速の反転、真紅の光条が反対方向――床上を射ち抜いた。
灼熱の蒸気が噴き上がる中を、確かに呻き声が流れた。おお、姿なき戦士も物理攻撃に負傷するものか!?
「わしには見えるぞ。異星人どもの技術を応用し、わし用に開発したこの装甲の眼でならば。もとはといえば、おまえの精神攻撃も、異星の技術の産物よ。異星の武器で死にたいか?」
「ご免蒙《こうむ》ります」
精悍な声とともに、トフスク将軍の身体は宙に舞った。
廊下を一〇メートルも横切り、石段に激突する。段に巻きつくように背中が反った。
ずり落ちる寸前、天井へと吹き飛び、今度は抱きつくように叩きつけられた。生身の生物ならスルメになるところだ。
昆虫を思わせるマスクが、
「わしを殺す気か?」
と重い口調で訊いた。
「やむを得ません。ご理解をいただけぬならば」
「左様か。では、ここから下ろすつもりもないな」
「ございません」
「では自分で下りるとしよう」
「おお!?」
バジスの驚きの声を、真紅の光が貫いた。
自ら落下しつつ、トフスク将軍の武器が放ったビームだ。
今度こそ天井の一角で炎とともに、激しい苦鳴が上がった。
音もなく着地し、将軍はのけぞるように笑った。
「この武器には、わしの思念がこもっておる。おまえの精神攻撃と同じ類のものよ。技術の応用とはかようにすべきものだぞ、バジス。さて、いまさら逃がしたとて仕方あるまい。わしに抱いた殺意は、死をもって償え」
天井に非ず、右方の石柱の一本――その根元を狙ったビーム・ガンの銃口は、しかし、このとき、大きく左へ弧を描いた。
廊下の奥から自走路に乗って近づいてくる長身の姿は、まぎれもなく異星人。
閃く二条の光《ビーム》は一本に見えた。
「おっ!?」
将軍は手もとを見つめ、異星人も同じ動きを示した。どちらの手にも熔けた金属片が煙を噴いているばかりだ。
とっさに放った殺人光は、奇蹟のように互いの発射装置のみを蒸発させてしまったのだ。
「うぬは」
「………」
二人の肩で、弩がうなりをたてて互いを照準《ポイント》する。
高圧ガスに導かれて飛翔した鉄矢は、両者の左胸を貫き――と見えて、跳ね返った。
「さすがは原型《モデル》だ、やりおる。決着はこれか」
将軍の右手が腰の剣にかかるや、鞘鳴りの音をたてて一刀が抜かれた。
敵は左手に下げた長槍を構える。
地響きを上げて、トフスク将軍は突進した。
3
長槍と長剣――どう見ても剣が不利だ。武器の長さが違う。槍の制空圏に入った刹那、剣の動きは封じられ、槍方の身体にも届くまい。
それをどう受け容れたのか、トフスク将軍の足は止まらず、真正面から長槍にぶつかった。
胸もとへ光のごとく伸びる長槍を躱さず、将軍は手の剣を投げつけた。
硬い音がふたつ重なった。
長槍は将軍の胸もとで滑り、長剣は敵の喉もとで跳ね返った。
両手を長槍にかけ、将軍は右へふった。
もぎ取るつもりだったが、当てが外れた。敵もついてきたのである。構わずふった。敵の巨体が石柱に激突し、粉砕する。
敵は床に落ちた。
「わしのはおまえの鎧を研究し尽した上で、強化処置を施したものよ。さすがに、力比べでは原型も及ばなんだ。役立たずどもの前に、おまえを始末してくれる。公の憂いもひとつは除かれよう」
将軍は右手の長槍をふりかぶった。
「おまえの装甲を貫くことはできんが、叩きつぶすことはできそうだ。行く先は、我らとは別のあの世か」
槍は放たれた。
敵の顔面を貫く寸前、それは二つに切断されて敵の足下に落ちた。
愕然と周囲を見廻すトフスク将軍の頭上から舞い降りてきた人影は、天井に貼りついていたものか。
成す術もないまま、将軍の右腕は肘から切れた。
噴き出す鮮血を、彼は信じられないもののように見つめ、前方に着地した人影をにらみつけた。
頭から爪先まで黒光りする衣裳で包まれた男であった。右手に奇妙な形の刃物が光っている。
「ご主人のセンサーにも引っかからない〈隠形《おんぎょう》服〉だ。ついでにおれの“死人ナイフ”も威力と切れ味を増したようだぜ」
「貴様……人間か?」
「……いいや。人間の頃の名前はクレイってんだ。おかしな初お目見得になったが、よろしくな」
「人間の頃? すると、貴様は……こいつに?」
「ああ」
クレイと名乗った黒ずくめの声は、不思議な寂寥を帯びていた。
「吸われたよ。こいつらがみな、ギルゼンとやらに吸血されたこと、あんたも知ってんだろ。なら、こいつらもギルゼンの言いなりになるはずが、血を吸われても、自分の意志を保てる連中の数は人間よりずっと多いらしい。おれのご主人もそのひとりさ」
将軍はまだ信じられなかった。クレイの言葉より自らの負傷がである。痛みより凄まじい屈辱感が身を灼いていた。たかが、ナイフごときに、おれの腕が。
屈辱を埋めるには相手を斃すしかない――歴戦の自負が判断を誤らせた。
肩の弩を使わず、相手をひねり殺すべく素手で突進する。
いまだ及ばぬ距離で、クレイの刃が一閃した。
刃の材質によるものか、クレイの技倆のせいか。将軍の身体は、素早くよけたクレイのかたわらを通過した。首のない胴と四肢のみが。
おびただしい血が床にぶち撒けられたのは、将軍の身体が自走路に叩きつけられてからだ。
ゆっくりと奥の闇へと運ばれていく巨体を、黒ずくめのクレイはしばらく見送っていたが、やがて、なおも横たわったままの異星人へ向き直って、
「だらしのねえご主人さまだな。何ならずっと寝こんでろ。ギルゼン公爵とやらは、おれが始末してやるぜ」
嘲罵の声を理解するまで回復したものか、巨体は盛り上がる海面のように立ち上がった。
「さて、行くか――ギルゼン探しによ」
先にクレイが、異星の巨人がその後に続いた。
二人の姿が見えなくなると、反対側の奥から、女の声がやや焦りを含んで、しかし、冷やかに、
「バジスが気になって来てみれば、厄介な敵がまたひとり。すぐにはわたしも手が出せなかった。けれど、あれはあれで役に立つかも知れない。――バジス、無事?」
ヴェラは叫び出したい気分になっていた。
薬が足りないのだ。
不老不死を誇る貴族には、本来不要な品である。城に備わっていたのは、恐らく人間の従者用だろうが、それだけに、品不足は覆いようがない。
次々に増える負傷者も、刃物によって手足を切り落とされた者、首が半ば切り離された者、喉もとから鳩尾までを切り下ろされて内臓をはみ出させた者――人間ならば即死に近い連中ばかりで、ヴェラの精神が保ったのが不思議である。
何とか失神もせずに治療に当たれたのは、このような状況でも生きられる貴族の生命力に対する興味と、医師としての使命感であった。
貴族のみならずその血を吸われた犠牲者たちも、程度の差はあれ、人間には不可能な再生能力を示す。奇妙な言い方だが、この程度の傷なら数秒のうちに塞がり、癒着してしまうのだ。それが今回は人間なみの無惨な傷痕を見せている。
助手にした兵士に尋ねてみても、
「斬り方が違うのだろう」
との返事が圧倒的で、ヴェラはそれ以上の追求を諦めた。
相手はDと異星人らしいとまではわかったから、それで納得するしかなかった。彼らならやるだろう。
三時間ほどで薬は尽きた。
苦鳴はなおも室内に満ち、血臭の渦が凄惨な交響曲を展開する。
「もう手の打ちようがないわ。あなた方、他に薬のある場所を知らないの?」
汗と血にまみれて尋ねる女に、にわか助手たちは顔を見合わせ、
「我々には何も。ただ地下に、まだ開けたことのない荷物があると聞いている」
「そこへ行って取ってこれる?」
不安そうな顔が横にふられた。城内には彼らを敗北させた異星人がうろついているのだ。
「わかったわ。私が行ってきます」
ヴェラは立ち上がった。眼に決意が燃えている。
「どうして、そこまでする?」
介護士役の女兵士が、驚きの表情を隠さずに訊いた。
もうひとりも、納得いかないという表情で、
「おまえは人間で、おれたちは貴族だぞ」
「あなたたちは患者で、私は医者よ」
きっぱりと言い放ったヴェラを、兵士たちは、不思議と静かな眼で見つめた。
「あんたはここにいてくれ。おれが行ってくる」
ひとりが壁に立てかけたレーザー長銃を掴んだ。
「おれも行こう」
「あたしもよ。たまにはいいカッコがしたいわ」
今度はヴェラが貴族たちを見つめる番だった。決して備わっていないと、「都」の学者たちが断言していた資質――自己犠牲を、彼女は眼のあたりにしているのだ。
「莫迦な貴族ね」
ヴェラは小さな、しかし万感をこめた自分の声を聞いた。
血まみれの兵たちは、うすく笑った。それは自嘲に似ていた。それだけを土産に、彼らは死の道を辿るつもりなのだった。
「じゃ、な」
「後を頼む」
「すぐに戻るわ」
兵たちは背を見せて、戸口を出て行った。隣室には負傷者たちが集まっている。目下、治療は休憩中だ。
閉じた鉄扉によりかかり、ヴェラは長いため息をついた。
これ以上の負傷者たちを受け入れる気にもならなかった。
スチールの椅子にかけると、急激に睡魔が襲ってきた。
鉄扉のきしむ音で眼が醒めた。
兵士たちが戻ってきたのだと思った。
鉄扉は半ば開いていた。
かがやく影が入ってきた。
誰なのか、すぐにわかった。
「ギルゼン公爵」
「人間めが気安く呼ぶな」
右半身を鉄扉の内側に封じたまま、黄金のケープをまとった大貴族は白い牙を見せた。
ヴェラは次の言葉を探そうとしたが、うまくいかなかった。
「一万年ぶりに眼醒めてみると、臣下どもの精神《こころ》も大分変わっておった。邪魔者は始末せいという指示も受けつけん。機械や別の者にまかせるのは簡単だが、ここはわしの怖ろしさを骨身に染みさせるべきだと思うてな、手ずから乗り出したというわけだ」
にやりと笑うその表情の不気味さよりも、吹きつける圧倒的な妖気よりも、その言葉の奥に潜むものを本能的に察して、ヴェラは戦慄した。
「邪魔者って?」
そして、ギルゼンがここにいるという事実は?
「まずは、ここへ来る前に出会った不忠者どもの成れの果てよ」
ギルゼンは全身をさらした。
その右手に何かぶら下がっている。
ヴェラは息を呑んだ。全身の血が音をたてて引いていく。
「ほれ」
ギルゼンが手にしたものを放った。
ヴェラの足下に重い響きをたてて落ちたものは三つあった。
さっき出て行った勇者たちの首は、青白いうつろな表情のまま、ぱあくぱあくと口を動かしつづけていた。
「変節者《もの》どもが」
ギルゼンの錫がふられた。それは長槍のように伸びて、三つの生首を粉砕した。首は塵と化して床に広がった。
「あなた……自分の部下を……」
ヴェラは恐怖に戦慄しながら言った。声は震えていた。
「部下? とうの昔に役立たずの厄介者よ。そこの負傷者どもと等しく、な」
ちら、と隣室を向いた血色《ちいろ》の眼に、ヴェラは血も凍る気がした。
「あ……あなた……まさか」
ギルゼンが戸口から離れた。ヴェラは椅子から立ち上がった。少し動かずにいて、それから、ゆっくりと二歩進んだ。
肺に息を吸いこみ、吐くと同時に走った。
ギルゼンの脇をすり抜け、戸口をくぐった。
室内には誰もいなかった。
足が石ではないものを踏んだ。
何だかわかっていた。
一〇〇メートル四方もある石床は灰色の塵に覆われていた。
その感想を口にするまで、少しかかった。
「……あなた……ここにいた人たちを……みんな……」
「新しい部下はじきに甦る。城には万人の兵がおるのだ」
「生命はみんなひとつしか持っていないわ。人間も貴族もね」
「面白いことを言う。だが、差はあるぞ。人間はたかだか百年も保たず、貴族の生命は永遠よ」
「それは、呪われた生命だわ」
ギルゼンは不意に喉を上げて哄笑した。
「生命――生命――呪われた生命。ははは、生命に呪われたも何もあるものか。この地上で呼吸をし、物を食い、永らえていれば、それが生命よ。おっと、我らの場合は血を吸い取る、だがな」
「なら、どうして貴族たちは滅びつつあるの?」
ヴェラは切りこんだ。
ギルゼンの表情が一瞬、苦悩の色を広げた。
彼は錫を虚空に突き上げた。
「眠りにつかされる前、わしには、それがわかっていた。わしと、あいつ[#「あいつ」に傍点]にはな。だからこそ、それを防ぐ術を探し求めたのだ。あいつは人間の中に、わしは外宇宙に。どちらが正しいか、結果はじきにわかる。このわしが、Dとやらを斃したときにな」
ゆっくりと自分を見下ろしはじめた赤い瞳に、ヴェラは痙攣した。
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第五章 炎と血風
1
「おまえはどちらを正しいと感じる?」
とギルゼンは訊いた。
「わしか、あいつか[#「あいつか」に傍点]? 限りない宇宙の持つ可能性か? 地を這う虫けらどもに等しい奴ら[#「奴ら」に傍点]が抱える明日か? ――まあ、いい。訊いてどうなるものでもない。わしの喉湿《のどしめ》しになってもらおうか」
ぐい、と真正面から向かい合ったギルゼンの迫力の凄まじさ。ヴェラは何もかも崩れていくような気がした。
無造作に前へ出たギルゼンの左手が伸びてきた。
「やめて……来ないで」
ヴェラの周囲ですべてが幻と化していく。恐怖に串刺しにされた自分と、ギルゼンだけが実体であった。
「来ないで……駄目。やっぱり……貴族なんて……悪魔よ」
「いいや、救世主だ」
後じさるヴェラの背中が石の壁に当たった。退路はもうなかった。
ギルゼンの手がその肩にかかった。
「おっ!?」
ギルゼンは驚きの声とともに手を引いた。
女医の身体はぼうと霞むや、大貴族の指先に灼熱の痛覚を与えたのである。
ジャンヌの私室で、リリアに貴族の口づけを受けようとする寸前、ヴェラが見せた肉体と精神の変容――あれがまた生じたのだ。
ギルゼンは愉しげに、人の形を失っていく女医を眺めつつ、
「面白い。前に一度だけ見た覚えがあるが、この変容の後には、精神にも極端な異形化が進行する。この女、どう化ける?」
ギルゼンにも、それは大いに興味のあるところだったろうが、彼はそれを確かめることができなかった。
何に気づいたのか、風を巻いて身を翻すや、暗黒の大貴族は、いま無慈悲な大殺戮を敢行したばかりの部屋へ通じる戸口へと歩き出した。
廊下の左右に二つの影が立っていた。
異星の鎧武者とクレイである。
「やはり、来たか。おまえにはわしの居場所がわかる。わしの血が混じっているからな」
ギルゼンの眼は妖光を放って二人を射た。
「異星人は、人間のようにはいかん。だが、所詮は下僕よ。下克上《げこくじょう》とやらを試してみるか?」
「まず、おれだ」
クレイが前へ出た。右手の武器は異星の刃か。
彼は異星人を指して、
「ご主人の力がおれを変えた。おまえと互角に戦えるようにな。“死人ナイフ”――相手をしてもらおう」
「愚かな虫ケラが」
あまりにも典型的な罵声とともに、ギルゼンの錫が伸びた。
ビームはクレイの胸を捉え、砂地に染みる水のように吸収された。
「ふむ」
とギルゼンは鼻を鳴らした。
「光学兵器吸収塗料を塗りつけたか。確かにそいつの技術の産物だ」
その拳の中で錫は大きく伸びた。
鮮やかに一回転するや、はっしとクレイの頭部に打ちこまれる。
速いだけに見える――しかし、岩をも砕く一撃であった。
それが空を切る下を、クレイの身体は急流を行く鮎のごとく遠ざかった。
唸りを上げて錫が戻る。
ギルゼンに焦りはない。敵は遠ざかったのだ。
その首が半ばまで裂けた。
鮮血が噴水を思わせて噴き上がった。
傷口を塞ごうともせず、ギルゼンは頭上をふり仰いだ。自らの血が雨のように降り注ぐ。彼は大きく口を開けてそれを浴びた。
いや、見よ、恍惚たるその表情を。その舌鼓ぶりを。呑んでいる。自らの血の噴水《シャワー》を彼は呑み干しているのだ。
何とも不気味な光景に、クレイも異星人も立ちすくんだが、それも一瞬、クレイの右手がその場で閃いた。
ギルゼンの首は反対側から半分に裂けた。
「ははははは」
それは何処から生じる大笑であったか。自らの手で髪の毛を掴み、ぐいと持ち上げた首は、わずかな筋肉と血管を引きちぎりながら、もぎ取られた。
「“死人ナイフ”とやら、見事だ」
と生血滴る首が讃えた。
「切れ味も異星のものか。だが、わしを斃せねば無意味だ。首を切ればいいという錆びついた古《いにしえ》の伝説に囚われている限り」
ギルゼンは首を胴に戻した。
その顔面に黒い稲妻が叩きこまれ、脳漿も頭蓋も四散させた。
突き出した長槍を引き戻し、異星人はなおもギルゼンから眼を離さなかった。
原形を失った骨と肉の塊が、膨れ上がっていく。肉が肉を生み、血管がねじくれつつ繋がって、赤い血を通過させる。
ちい、と放ってクレイが眼を閉じた。新たな“死人ナイフ”のための精神統一――異星の技術を得て、或いはギルゼンの復活を封じられたかも知れない。だが、それは果たせなかった。
背後で、こんな声が聞こえたのだ。
「離せ、莫迦野郎」
愕然とふり返ったクレイの眼に、これも二つの影が映った。
彼の“主人”と同じ姿に抱き上げられ、四肢をばたつかせて自由を求めるルリエを!
城の地下深くでエイリアンの母船を目撃し、そこへ戻った異星人とクレイに追われた挙句、もうひとりの異星人に捕えられた――その彼が、何故、わざわざこんなところに!?
言うまでもない。この異星人はギルゼンに血を吸われ、仲間とは違ってその支配下に入ったのだ。
呆然と立ち尽すクレイの腹部を、そのとき、黒い錫が貫いた。
断末魔の苦鳴を放ちつつ、その身体が持ち上がっていく。
「おおおおお」
クレイの呻きは薄闇を痙攣させ、ギルゼンの笑いは石壁を叩いた。
片腕一本の膂力《りょりょく》のみで、ギルゼンは刺客の身体を石床に叩きつけた。
それは異星人の足下であったが、この間、彼はクレイを助けようともせず棒立ちになっていたのである。言うまでもない、ルリエを捕えたのが自分の仲間だった驚きと緊張のせいだ。手の内を知り尽した者同士の戦いとは、こうなるものなのだ。
「そ奴はもはや助からぬ。小僧、何か言ってやりたいことがあるか?」
「あるよ、あるとも――放せ!」
「よかろう、好きにさせてやれ。それと、もうひとり」
凄まじい眼つきで敵側の異星人を見やり、
「いま、始末をつけてくれる。少し待て」
と言った。
間髪容れず、異星の敵は後じさり、次の瞬間、奥へと消えた。
ルリエはクレイに駆け寄った。かたわらにひざまずいたとき、涙が飛び散った。
「小父さん。死んじゃ駄目だよ。絶対に」
クレイは微笑した。はっきりした声で、
「心臓がつぶれた。じきに止まる。そしたら、あばよだ」
「駄目だよ、ヴェラさんを探そう。何とかしてくれるよ。弱音を吐かないで」
「わかった、わかった」
クレイは笑顔になった。ルリエは出来のいい甥に見えたかも知れない。
「そうしよう。ただし、万が一ってこともあるからな。おまえに渡しとくものがある。生きてDと会えたら……こう伝えてくれ」
クレイは右手をシャツの内側へ入れ、ごそごそやってから、長方形の板を二枚取り出した。
「おれの情婦《おんな》の名前が書いてある……二枚てのがいいだろ。これを山のてっぺんに埋めてやってくれ」
「てっぺんに?」
「ああ……こいつらの家は、昔、そこにあったらしい……おれと会う前から二人とも胸をやられていて、一年もしねえうちに死んじまった。そのとき、聞いたのさ。いまじゃ田舎村の娼婦だが、ただの猟師の娘だったこともある。その頃が一番しあわせだったとさ」
「――それで」
ルリエの眼から、また涙が溢れた。
「よかったら埋めてくれ……と言われてな。何とかなると思ったんだが、お笑いさ。他人から見りゃあ莫迦らしい頼みだが……何とかできるもんならしてやってくれ。おれはやっぱりもう、駄目らしい」
「小父さん――駄目だよ、しっかり」
少年は、自分を捕えてきた異星人の腰にすがりついて叫んだ。いつの間にかギルゼンは消えている。
「助けてやってよ。小父さん、死んじゃうよ。あんたなら助けられるだろ。外宇宙のやり方で何とかしておくれよ」
声が浮いた。すくい上げたルリエを小脇に抱え、ギルゼンの意志の支配下にある異星人は廊下の奥へと歩き出した。
「畜生、放せ、放せえ」
怒りと哀しみがないまぜになった声も連れて行かれる。
「やめろ」
とクレイも呻いた。
「その子を……置いていけ。ギルゼンめ……何に使う気[#「何に使う気」に傍点]だ?」
異星人の動きが止まったのは、この台詞の故ではなかった。
前方から、ぴらぴらと白い膜のようなものが流れこんできたのだ。
ルリエを放り出し、異星人は腰のビーム・ガンを抜いて引金を引いた。
光《ビーム》はそれに触れた。皮膜すべてを貫通し炎に変えた。
2
異星人の狙いは正確だったが、それを免れた一枚が、彼の左腕をかすめた。
布は忽然と一枚の刃と化したのである。装甲は糸のように切り裂かれ、鮮血――緑の血が噴出した。
彼は後じさった。美しい飛翔物の正体に気づいたのだ。その全身から恐怖の気が立ち昇るや、異星人は身を翻して反対側の奥へと走り去った。
ルリエはクレイのもとへ駆け戻り、廊下の奥を見た。
炎はまだ燃えている。
またも現われた皮膜は、その色を映して赤くかがやいた。
「何だ、あいつらは?」
とルリエはつぶやいた。
「ギルゼンが……異星のDNA交配技術を手本に……作り出した怪物のひとつだ」
クレイの声は苦しげに嗄れていた。
「……おれの身に混じっている奴のDNAが教えた。ギルゼンが目的を果たす途中で派生した副産物だ……護衛か何かに使うつもりだったのが……凶暴すぎて役に立たず……まとめて地下の一室に放りこまれたんだ……一万年……いいや、最初の一匹が入れられてから一年も経ってねえ。不死身の怪物どもだ。何匹が死んで何匹が生き残ったか……」
「何匹くらいいるんです?」
「……ざっと……五千……生き残ってるのは、外からエネルギーを摂取しなくても済む奴らだろう……まず、十匹前後……」
「あの膜みたいなのも?」
「そうだ……逃げろ」
「どうして、出て来たんだろ?」
「わかるか。……行け」
「小父さん、立てる?」
「おれのことなんか……気にするな。それより……例の板……あれは墓標だ……くれぐれも頼んだぜ」
ルリエはお尋ね者の顔を見つめた。ひたむきであった。彼は彼なりに二人の女を愛していたのだろう。
ルリエは立ち上がり、クレイの片腕を掴んで引いた。
「無駄だ……動けねえ……逃げろ」
薄膜がクレイの足下に迫った。
「行け!」
掴んだ腕を猛烈な力でふられ、ルリエはのけぞった。
何とかコケずに立ち直り、クレイの方を見た。
漂ってきた膜が不意に硬さを備えて、クレイの胸前を流れ過ぎたところだった。
クレイの首は胴の後ろに落ちていた。
声もなくルリエはその場に立ちすくんだ。
その足下に一枚の白い布が漂ってきた。
その端が少年の首めがけて浮き上がる。
「わっ!?」
のけぞった身体と死の膜を、びゅっと白光がつないだ。
白木の針に床へ縫いつけられた膜は、生物しか示さぬ痙攣を走らせ、すぐ静かになった。
「――D!?」
廊下の奥から走り寄る黒衣の右手には一刀が握られ、それを追う女戦士の手にも白刃がきらめいている。
ぴらぴらとルリエに近づいてきた皮膜を、あっという間に切り落とし、Dは無言で少年を抱き上げた。
「待って」
少年はクレイの死体を見下ろした。普通なら眼を覆いたくなる光景だが、辺境では物心ついたときから見慣れている。
クレイの首は、
――笑ってる
と思った。倒れた胴は右手を自分の方へ伸ばしている。
涙が溢れた。Dの針が膜状生物を貫く寸前、ルリエを突きとばしたのは、その腕だったのだ。
――絶対、これ立てるよ
ポケットに入れた小さな墓標を握りしめた。
「切りがないわよ」
リリアが叫んだ。
足下に切り裂かれた膜が積み重なっている。
いま、廊下の果てから飛んでくる奴らは、その十倍もいそうだ。
「何者よ、こいつら?」
リリアの問いに少年が応じた。
「あれは、ギルゼンが閉じこめた怪物です」
「わかった。話は後で聞くわ。D――退却よ」
声をかけたら、黒衣の若者はすでに五メートルも先行している。
「何よ、エゴイスト」
追いかけようとしたら、Dの足が止まった。
前方から、黒い身体に形容しがたい色彩の斑点を散らした物体が現われたのである。
全体の形は角のない甲虫を連想させるが、手足はなく、移動は底部に備わった無限軌道《キャタピラ》によるらしかった。驚くべきは、それがメカニズムではなく、明らかに体組織たることであった。
感覚センサーを備えているのか、眼は見えないのに頭部――らしきもの――がゆっくりと左右にふられ、Dの方を向いた。
リリアがふり向いて、
「駄目よ、山ほど来るわ」
こちらの廊下の端は、膜状生物で覆い尽されていた。どちらからも死が近づいてくる。
恐怖がルリエの心臓を固く握りしめた。夢中でDの肩にしがみつく。
鉄の手触りが伝わってきた。
安堵と信頼が少年の胸を熱くした。
貴族と戦い、常に勝利してきた男がそこにいた。
Dが前へ出た。
右手の一刀――それだけで、彼はあらゆる危機を切り抜けてきたのだ。ルリエはもう怖れなかった。
そのとき――
左方で石のこすれる音がした。
開いた石扉の奥から女の顔が覗き、
「早く。こっちへ!」
「ヴェラさん!?」
ルリエの声を引きつつ、Dとリリアは戸口へと足を向けた。
塵が敷き詰められた部屋であった。
扉の左右に小さな窓がついている、
リリアが顔を押しつけた。
手足のない甲虫はまだDたちに固執しているようであった。
眼のない眼で壁の扉を凝視し、不意にダッシュした。それまでの動きからは信じられぬスピードであった。
「――!?」
思わずリリアが後じさり、ドアが激しく揺れた。嫌な音をたてて壁に亀裂が走る。
「馬力だね」
リリアが微笑した。
「また来るよ」
甲虫が後退した。
そこへ白い膜が襲った。
次々に鋭利な魔刃《まじん》と化して甲虫の頭部や胴体に白い傷をつけていく。
甲虫が呻いた。頭を廻して膜を追い払おうとする。
傷は数と深さを増していった。ついに何度目かの攻撃を受けた同じ部分が、灰色としかいいようのない「血」を吐いたとき、甲虫の全身が灼熱した。
またもリリアが顔を離した窓から、凄まじい熱気が室内に広がった。
「隣の部屋へ」
とヴェラが叫んだ。
Dがルリエとヴェラを押しこみ、ドアを閉めた。リリアに入れと薦めないのはハンターだからだろう。
「凄いわよ」
リリアは興奮しきっていた。
押し寄せてくる膜はことごとく炎に包まれ、床へ落ちる前に灰と化した。
甲虫の全身はなおも灼熱し、焼け爛れた壁も天井も崩落を開始する。
Dたちも隣室に移った。
ヴェラとルリエはすでにぐったりと床に横たわっている。部屋に充満した熱気のしわざだ。
「このままじゃ、二人ともアウトよ。ま、どうでもいいけど」
リリアがすげなく言い放った。もとから冷酷非情なところのある女だったが、ギルゼンに血を吸われてからは、その心情がいっそう強化されたようだ。
壁がまた崩れた。熱地獄まで五〇センチもない。
「どうするつもりよ、D?」
リリアが揶揄するように訊いたとき、Dが前へ出た。
その眼が爛《らん》とかがやいているのを、リリアは見た。
「あんた――まさか!?」
驚きは数瞬女ハンターのあらゆる動きを封じた。
立ちすくむリリアをDが抱き寄せた。突き放そうと黒衣の胸に手を当て、そこでリリアの動きは停止した。その精神活動も。
その頸動脈に牙を食いこませたDの形相よ。彼は吸血鬼になることを望んだのだ。
一秒――二秒――Dが顔を離すと同時に、リリアはぐったりとその場に崩れ落ちた。
手の甲で唇を拭うDの、何と不気味で官能的なことか。
彼は訊いた。
「足りるか?」
「何とかの」
嗄れ声が答えた。Dの左手の平には、小さな顔が浮き上がっている。
壁がまた崩れた。猛獣のごとく熱気が襲いかかってくる。
ルリエが朦朧と、
「熱いよ」
とつぶやいた。
呼応するがごとく、Dの左手が上がった。
そこから突き出された小さな唇――それが噴いた。
鮮血を。
血の筋は渦巻き、幾重にも巡り、熱気に触れて真紅の蒸気と化した。
石をも焼き崩す高熱に、それは紅い水の壁となって挑んだのだ。まぎれもなくリリアの血だ。だが、もとよりわずかな吸血が、城の一層を灼き尽しかねぬ熱波に敵うはずもない。
それを――血の変成か、噴き出す魔力か、蒸気と化した血は休みなく供給され、部屋も世界も熱さえも血潮の渦に幻惑されて、ついに熱は途絶えたのであった。
何ともいえぬ異臭が立ちこめる部屋で、Dは壁際の女医と少年をふり返りもせず、
「無事か?」
と訊いた。
意外に早く、
「大丈夫よ」
疲弊しきったヴェラの返事があった。
「この子も無事よ」
横たわるルリエの瞳孔を調べ、脈を取ってから女医は保証した。
Dはすでに廊下に出ていた。
左右の部屋はことごとく焼け崩れている。
甲虫と生ける薄膜の姿はなかった。
戦いは甲虫の勝利に終わったのか?
否、床上には何やら白っぽいすじが十数条、糸の残滓のように長々と続いている。甲虫の出血の痕だろう。あの膜状生物は、凄まじい切れ味を見せたのだ。
「相討ちかの」
左手の問いに、応える者はない。
「わしの考えだが、地下の倉庫に収容されていた妖気の主どもの一匹じゃ。恐らく、研究室を破壊した爆薬の衝撃を選択的に受けて、檻が破られたのじゃ。すると、残りも逃げたことになる。うええ、ギルゼンの家来どもと異星人――プラス化物か。この城はいま、とんでもない地獄と化しつつあるぞ。あいつら、早いとこ逃がしちまえ。おまえの正体も知ったことだしな」
ここで左手は絶叫を放った。
Dが拳を握りしめたのである。それはいつもよりずっと強烈かつ冷酷であった。
3
Dはまず、ヴェラとルリエに隠れているよう指示した。
ここで予期せぬ事態が生じたのである。
ヴェラが――勇敢な女医師が、怖いと泣き叫んだのだ。
「嫌よ、こんな子と置いていかれるなんて嫌。化物が来たらどうするの? あなた責任取れる?」
「わお」
と左手が呻いた。
「こう出たか。外的圧力による肉体と精神の変化――なんてこった」
「ドクター、どうしちゃったんだよ?」
堪りかねたルリエが訊いても、
「うるさい。黙ってなさい。私の生命がかかってるのよ」
平手打ちをかます真似さえしたものだ。
「どうするつもり?」
呆れ果てたリリアが、Dに耳打ちした。Dに血を吸われた影響は、まだ出ていないらしい。ギルゼンの場合と同じだ。
「あのまま放っておいたら、泣き喚いて墓穴を掘りかねないわよ。あの子だって危ない。かといって、連れてきゃ足手まといになるのはわかり切ってる」
リリアは舌舐めずりをした。
暗く低く情熱的な声で、
「殺っちまったら?」
Dはその顔を見つめ、
「飢えたか」
と言った。問いではない。単なる指摘だ。だが、リリアは表情を変えた。
「誰が――こんな女の血を」
嫌悪の情も露わに吐き捨ててから、すぐに何ともいえぬ眼で若者の顔を見つめた。熱っぽい眼であった。
「変ね、ギルゼンに吸われても平気だったのに、あなたを見てると、腰のあたりがムズムズするわ。ねえD、こんな風にしたのはあなたよ。責任を取る気ない?」
聞きようによっては、とんでもなく意味深な言葉だが、当然、返事はない。そんなことを気にしている場合ではないのだ。
少し置いて、Dは、
「おまえも残れ」
と命じた。
リリアは眼を剥いた。
「あたしが――何で?」
「何処かに隠れて、おれが戻ってくるのを待つんだ」
「そんなのより、始末しちゃった方が早いって。大体、こいつらを連れて帰るなんて契約結んでないわ」
ここでリリアは、自分を見つめるDの眼に気づいた。
「よしてよ、気味が悪い。わかったわよ。この二人、面倒を見るわ。だから早く戻ってよ。それと――あたし抜きでギルゼンを探し出せるの?」
「何とかなるわい」
嗄れ声が憎々しげに応じた。
リリアは無視してDに近づくと、その腕を掴んで、小さく、しかし、激しくゆすった。
「帰ってきてよ、絶対に」
それが自分の身を案じる言葉ではないことに、Dが気づいたかどうか。
「この階の何処かに隠れてるわ。戻ってきたら声をかけて」
「敵は三種類いる。気をつけろ」
とDは言った。
ギルゼンとその一党、異星人、そして、跋扈《ばっこ》する怪物ども――これで三種類。いかにリリアが貴族のキスを受けているとはいえ、易々と勝てる相手ではあり得なかった。
廊下へ出ると、左手が、
「さて、何処へ行くか?」
と訊いた。
「エネルギー中枢だ」
にべもないDの声に、
「おお! それはいい手じゃ。城自体をぶち壊すと脅せば、奴も出てこざるを得まい。核炉の位置ならわかるでな。だが、恐らくそこに辿り着くまで、化物がうようよだ。おまえを斃すだけの能力《ちから》を持った奴がいないとも限らんぞ」
皮肉な物言いが終わらぬうちに、
「何処だ?」
「……あっちじゃ」
Dは歩き出した。
この狂った世界の恐怖がいかなる形をとって待ち構えていようと、この美しい若者の歩みは止まらないのであった。
石の自走路が急な傾斜を下っていく。後をリリアに託してから一時間が過ぎていた。
嗄れ声が、ひい、と呻いた。
「ようやくここまで来たか。しかし、あの地獄の番卒どもを、よく斬り伏せられたものよ。今日はしみじみ、おまえを化物と思ったぞ」
つくづくといった感じの声にも、Dは答えない。その凄惨な姿が沈黙を支えていた。
稲妻のごとき速度で襲いかかる逆トゲ付きの尻尾に右の肩は裂かれ、半身は血にまみれている。左頬の浅い傷は、肩同様、すっかり肉が盛り上がっているが、もとは頬骨が見えるほどの深さであった。これは百匹単位で飛来する肉玉状の食肉生物にやられたものだ。
左の手首など二度切り離され、ようやく癒着しつつある。ここにいたるまで斃した妖物は五十匹以上にのぼるだろう。
それなのに、この若者は美しい。闇と血に染まって、青白い肌はなおもかがやきを増し、凄絶な美貌は、地獄美といってもいい美しさで世界を狂わせそうだ。
そして、彼の顔を見たものは必ずこう感じる。殺されてもいい、と。思うのではない。思考はたちまちとろけ、しばらく戻らない。
――どんな敵でも恍惚となる。そのとき斃されれば、みなうっとり[#「うっとり」に傍点]と死ぬだろう。
Dは石の路を下りた。
眼の前に石の扉がそびえている。
これまでに見たどんな扉よりも巨大な、圧倒的な迫力に満ちた石細工であった。
ひどく静かだった。
「見張りは厳重だぞ」
嗄れ声が警告を発した。
Dはもう歩き出している。何が待っていようとも、この若者には無縁なことなのだ。
「ロックを解くのが鍵じゃぞ」
嗄れ声は内容に比べて落ち着いていた。慣れっこなのだろう。
Dが石扉の表面に左手を押しつけた。
同時に、扉は後方に開きはじめた。
「わお、開いていたか!?」
左手が声を上げ、Dはそれを下ろして、下がりゆく扉と、幅を増してくる長方形とを見つめた。
「こりゃ、罠だぞ。わしらがここへ来るのを見越して、ギルゼンが仕掛けおったのだ。――おい、行くつもりか!?」
これは愚問というべきだ。
十分に通り抜けられる広さまで待たず、Dは身をひねるようにして扉を抜けた。
「ほお」
左手がこう洩らしたのは、すぐ後ろの広場に武装した兵が勢揃いしているのを見たからだ。
長槍、剣、大弓、火薬銃、火炎放射器とレーザー・ガンまで手にした兵士たちの数は、百を越す。エネルギー中枢を守護する衛兵であった。
「やはりな」
ため息混じりに洩らした嗄れ声に、不敵な笑いと自信のようなものが滲んでいるのは何故か。
居並ぶ兵士たちの両眼はすでに狂気に赤く染まり、無色透明な、しかし、それを凌ぐ迫力の鬼気が全身から立ち昇っている。
先頭はレーザー・ガンを構えた兵士の列十名。
「狙え」
列の右端に立つリーダーらしき兵士が命じた。
間髪容れず――
「射て」
いかにDといえど、一万度の熱線で心臓を射ち抜かれて無事で済むとは思えない。だが――
死の光は放たれなかった。
動揺に崩れる兵士の列へ、黒い風が突入した。銀光の閃きは凄絶な血潮を噴き上げ、青い光が生と死の混沌を映した。
レーザー・ガンを捨てて逃げようとした者は背を割られ、銃で防ごうとした者は銃ごと両断された。吸血鬼ハンター“D”――彼に牙を剥くことは、死の扉を叩くことでもあった。
「近づくな。遠巻きにして矢を射ろ」
叫んだリーダーの顔も縦に割れた。
弓兵たちは波が引くように後退した。
それが止まるより早く、黒い風が吹きつけ、血風とともに切り崩して崩壊させた。
Dの刀身は浅傷《あさで》を与えなかった。苦しませるのは罪だと死神がささやいたがごとく、それは抵抗し逃げまどう兵士たちを即死への血祭りに参加させていった。
長槍が四方から突き出された。串刺しにされたハンターにとどめをさすべく、長剣の一団は円陣を組んで待機した。
槍が突いたのは残像だと知る前に、槍兵たちは空中から舞い降りてきた黒い美の殺意を受けた。
百人が半分に減り尽したとき、ついに恐怖のあまり逃亡する者が現われた。数名は白木の針で心臓を貫かれ、数名が奥の出入口に辿り着いた。
がつんと顔面を押さえ、その場へへたりこんだところへ、新たな針が襲った。
見えない壁の存在は、兵士たちに絶望と反抗の覚悟を与えた。狂気の相で逆襲に移った彼らは、しかし、たちまち斬り伏せられ、みるみる塵と化した。
息ひとつ乱さず、Dが刀身を下ろしたとき、野太い笑い声が頭上から降ってきた。
Dはふり仰いだ。奥へと続く通路の天蓋の上に、ギルゼンが立っていた。
「血も涙もないというのは、おまえのことだな。私と話し合う前に、百人を息も乱さず片づけたか。まあよい。戦うのが仕事の奴らだ。敗れれば死ぬとわかっているであろう。では――次だ」
「次?」
と嗄れ声が眉を寄せた。
四方の空間が、ぐっと狭まるのをDは感じた。
「電子障壁《バリヤー》を縮めてきたか」
嗄れ声は、何故か笑いを含んでいた。
「正しくは重力場《G―フィールド》だ」
とギルゼンが言った。
「それを“ディラックの海”に埋没するまで縮小してみせよう。質量マイナス無限大、体積マイナス無限小の空間に、不老不死のまがいものはどう反応するか」
吸血鬼は心臓を杭で打ち抜かれ、首を切り取られぬ限り、生き続けられるという。数多くの例がそれを実証している。〈都〉の学者だけはなお、吸血鬼の滅びについて考える。他にやり方はないのか、と。
溺死、火傷、銃創、轢死、窒息、衝突死、失血死etc、etc――辺境の村々に残る記録や言い伝え、体験談を綿密に検討し、約三万例を集めた上でジャンルごとに整理した労作「貴族の死」の中で、著者のデレク・セシューは、こう記している。
『唯一、伝承にさえ残っていない「死」が、「圧搾死」である。あの優雅さと変わらぬ若さが売りものの貴族を、四角い部屋に閉じこめ、四方から圧縮し、ついには肉と骨とが溶け合うまでに縮めたら、貴族はなお復活を遂げるのか。私は堪らぬ興奮と好奇心をもってそれを見たいと思う』
いまや、電子の壁はDの全身を押し縮め、骨のたてる嫌な音が、聞く者とてない閉鎖空間に響き渡った。
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第六章 そびえる敵
1
リリアが女医と少年を連れて閉じこもったのは、同じ階にある空き部屋であった。鉄扉を閉じれば、気づかれる怖れはない。
「ここでDを待つわよ。何があっても我慢なさい。大声出しちゃ駄目」
残る二人はうなずいたものの、ヴェラは脅えきっているし、ルリエの眼には明らかな反骨の光が点っていた。この少年は、運命に流されるままでいることができないのだ。
しかし、彼は何も言わず、部屋の片隅へ行って横になった。勝手な行動が仲間たちを危険にさらすということも、十分に理解していたのだ。
一時間が経ち、二時間が過ぎた。
何度か、衛兵らしい者たちの足音や、得体の知れぬ気配と声とが扉の向うを通り過ぎたが、この部屋の住人に気づいた風はなかった。
「何か凄いことになってるわね」
とリリアは面白そうに言った。
「いま、怪物と衛兵たちがぶつかったみたいよ。あっという間にやられちゃったみたいだけど。衛兵の方が。とんでもない城になってしまったわね。この調子じゃ、ここにいつまでいられるかもわからないわ。まあ、普通なら衛兵にしらみつぶしにされたでしょうけど、怪物どものおかげで時間稼ぎはできるわね」
「でも、もし、Dさんが来なかったらどうするんです?」
ルリエが訊いた。
「あたしたちで何とかする他ないわね」
あっさりとした返事に笑顔がついていた。ルリエは俄然、信用できないという表情になって、
「あたしたちって仰いましたけど、前に、ひとりで逃げましたよね?」
と念を押すように言った。
「はいはい」
リリアは苦笑するしかなかった。
「でも、安心なさい。私は目下、あの黒ずくめのお兄さんにメロメロなのよ」
「は?」
ぽかんと口を開けた少年へ、これは本当の微笑を送って、
「とにかく、待ちましょう」
「いつまでここにいるの?」
思いもかけなかった声が、部屋の隅から上がった。リリアが、やれやれという顔になって、
「だから、とりあえずDが戻ってくるまでよ」
「戻らなかったら?」
「子供と同じこと訊かないで。あたしたちで何とかするしかないでしょ」
「あなた、前にひとりで――」
「ええい、もう!」
リリアは両手をふり上げてから、ふり下ろした。
「いつまで根に持ってるのよ。ご覧なさい!」
いきなり白いスカーフを掴んで引き下ろした。
頸動脈にはまぎれもない歯型が残っていた。
「四つ……」
と、ルリエが呻くようにつぶやいた。恐怖が勇敢な少年の表情を白く染めた。
赤いマニキュアを塗った指が青白い喉をさした。
「上のふたつがギルゼン」
指が下がった。
「下のこれが、あなたたちが全面的に信頼してるお兄さんのキス・マーク。あたしは本来なら、二人の貴族の支配を受けるべき〈犠牲者〉なの」
リリアの唇がめくれた。笑ったのである。歯並みが見えた。
「ひい」
と壁にすがりついたのは、ヴェラだった。ルリエは眼を逸らした。
「貴族の牙と同じ。でも、安心なさいな。あたしは彼らの支配を受けずに済んでる特殊な〈犠牲者〉なのよ。でなきゃ、とっくにDと戦ってるか、あんた方に襲いかかっているわ」
「………」
「とはいうものの、少し喉が渇いてきたわね」
二人が凍りついたのを見て、またにやり[#「にやり」に傍点]と、
「冗談よ。でも、あたしの言うことを聞かないと――」
いきなり、ヴェラが立ち上がった。その脅え方があまりに凄まじかったものだから、リリアも油断していたといえる。
伸ばした手の先をすり抜けて、ヴェラは鉄扉へと走った。
「この莫迦医者」
リリアが肩に手をかけ、引き戻す。平手打ちをかまして床に叩きつけた。
扉の方を向いた。
五センチほど開いていた。
リリアの手足は動かなくなった。
閉めなくては。前へ行かなくては。前へ。おお、手が動く。足も前へ出た。指先が扉に触れた。
扉は動きはじめた。
こちら側へ。
ゆっくりと太さを増してくる隙間の向うに緑色の人影が見えた。
閉めても無駄とリリアは判断した。
「奥へ――下がって」
後ろの二人に声をかけ、自分も大きく後退して長剣を抜いた。
侵入者はその間に室内へ入りこんでいる。
髪の毛もマントも服も、いや、顔も手もすべて緑色の男であった。ご丁寧なことに、眼球すら同じだ。
「衛兵――ではなさそうね」
リリアは男をにらみつけながら、長剣の握り具合を確かめた。
「――名前は? あたしはリリア。ハンターよ」
「ゾルタンだ。決闘師をしておる」
「それは――こんな田舎にも来るのね」
リリアの言及の意味は、田舎で成り立つ職業ではないということだ。
戦闘士ではない。決闘師は、いわば代役である。否応なしに決闘の場へ赴かざるを得ない依頼人に代わって闘うのが仕事だ。依頼人の性別、年齢は問わないから、学生同士の決闘にも顔を出すことになり、その結果から人殺しとそしられる場合も多いが、罪には問われない。
ただし、武器の種類も依頼人に従わざるを得ないため、ナイフ、剣、火器――特異な例としては、妖物同士の決闘も引き受ける。得手不得手があっては務まらないのが決闘師なのだ。
決闘師の需要は必然的に人口によって決まるため、〈都〉や〈地方市〉が圧倒的に多い。
まさか、こんな辺境の、貴族の城の中に。
「ギルゼンの下僕かしら?」
「誰のことだ?」
緑色の眼が、ぼんやりとリリアを映している。
「おれは、二日前、〈都〉の酒場にいた。さして強い酒を頼んだわけでもないのに、急に眠くなって気がついたら、ここでベッドに寝かされていた。ここは何処だ? 出口を知っておるか? ――いや、いい。なぜか眼を醒ましたときから、人を斬りたくて仕方がない。相手をしてもらおう」
この男も、二日前――一万年の過去にエイリアンの力を移植され、眠り続けたものか。
「いいですとも!」
リリアの肢体が躍った。相手は腰の剣を抜いていない、卑怯だ、と思うのはハンターを知らぬ人間だ。決闘にはルールがあるが、金目当てのハンターにそんなものはない。相手は名誉のために戦う人間ではなく、血に飢えた貴族や妖物なのだ。
ゾルタンの首すじへ斜めに走った刀身は、しかし、音もなく受け止められていた。
ゾルタンの左拳に握りしめられて。
引こうとしたが、びくりとも動かない。
――!?
間一髪、胴を薙ぐ刃を躱して三メートルも飛びずさったはずが、胸部装甲の鳩尾《みぞおち》部分は裂け、鮮血が滲んでいる。
「やるわね」
不敵に笑ったリリアの手に、もはや剣はない。
「死ね」
ゾルタンは無造作に突いた。
低い苦鳴を放って、リリアは前へのめった。刀身は右胸を貫き、切尖は背まで抜けていた。
ずい、とリリアの身体が前進した。刀身をたぐるようにしてゾルタンの眼の前に辿り着くや、右手が首を薙いだ。手の甲から三〇センチも伸びた刃は、上腕装甲部に仕込んであったに違いない。
決闘師の首は思い切りよく後ろにぶら下がった。
「リリア……さん」
呆然とつぶやくルリエへ、わずかに顔を向けて女ハンターはウィンクを送った。貴族の口づけを受けた女は、貴族の不死性をも受け継いでいたのだった。
刺さった刃を掴んで引き抜こうとしたとき、ゾルタンに動きが生じた。
右手がえぐりこむように長剣を突き出し、リリアは痙攣した。
首を失ったゾルタンの背中から、ゆっくりと首が持ち上がってくる。
この決闘師もまた、ギルゼンによるエイリアンと貴族の可能性を探るサンプルのひとつだったのだ。
首と胴は数百本と思しい緑の腱を思わせる器官でつながっていた。
「ろくに血も出んし、出れば緑色をしている」
ゾルタンは傷口に指で触れ、その指先を見つめた。
「どうやら、眠っている間に植物に改造されたらしいな。何のつもりだ?」
「あたしのピクルスになりなさいって、つもり[#「つもり」に傍点]よ」
リリアは右手をふり下ろした。貫いていた刃は砕け、彼女はその場に片膝をついた。
その肩へ血まみれの刀身が食いこんだ。
リリアの苦鳴はヴェラの絶叫に掻き消された。
ゾルタンが足の位置を移し、もう一度、長剣をふりかぶった。その角度、その立ち位置――狙いは首だ。
にやりと笑った緑の眼が、その刹那、右脇腹へ吸いこまれる人影を見た。
鈍い衝撃による苦痛は少なかったが、それ故にルリエは無事で済んだといえる。ゾルタンは剣を左手に持ち替えるや、右手で少年を払いのけた。
さらに右手を戻して打ち下ろす――その腹が横に裂けた。
よろめくゾルタンの眼前に、女ハンターが立ち上がった。
ルリエが三メートルも跳ね飛ばされる間に、闘いは攻守ところを変えたのだ。
だが、二撃目を送る代わりに、リリアは右の手首を口もとに持っていった。
回復は数秒――新たな凶念に燃えて一刀をふりかざすゾルタンの顔が、そのとき紅く染まった。
「あたしの血よ」
と噛み破った手首を下ろして、リリアがささやいた。その唇はゾルタンに噴きかけたばかりの自らの血に濡れ光り、白い牙を妖しくのぞかせている。
この状況であり得べからざる変化が決闘師を捉えた。
その眼から殺意を消して、彼は満面に滴る血を舐めはじめたのだ。
「二日間――一万年も眠った後なら、さぞや喉が渇いたでしょうね、お野菜の剣士さん」
リリアが荒い息をつきながら嘲笑した。
「あたしの血を見たときの、あんたの眼つきでわかったわ。ゆっくりお飲みなさい。また元に戻るまで」
ふり下ろされたのは、リリアの刃であった。それは緑の決闘師を頭部から股間まで縦に裂いた。
どっと倒れた身体を、その切断部から伸びはじめた糸状の植物繊維がつないでいく。
「心臓も二つになったはずよ。手の打ちようがないわ」
リリアは少年とヴェラに向かって、
「逃げるわよ。早く立って」
「何処へ行くつもり?」
とヴェラが悲鳴に近い声を上げた。
「わからない。でも、もうここにはいられないの。そいつといつまでも戦っていたいの?」
「外へ出してしまえばいいわ。あたしは何処へも行きたくない」
前と一八〇度異なる意見を撒き散らす女医を、リリアは冷厳極まりない眼つきで見つめていたが、不意に前へ出た。
「やめて。殺しちゃ駄目だ」
と庇うルリエを押しのけ、
「安心なさいな」
いきなり、女医の顎へ鋭いキックを打ちこんで失神させるや、肩に担いで立ち上がった。
途端に、うっと呻いてよろめく。貴族の再生能力を与えられたとはいえ、受けたばかりの傷の痛みは、なおも生々しいのだ。
「大丈夫ですか?」
「何とかね。少しキツいけど」
「ぼくも、持ちます」
その申し出は、リリアを爆笑させた。
「あんた、そう見えてなかなかのユーモリストだわ。それに、こいつの横っ腹に叩きこんだパンチ――効いたわよ。自己流?」
ルリエは赤くなって、それでもうなずいた。
「結構、意地悪されるもんで、前に家へ来た戦闘士から習ったんです」
「いいパンチだったわよ」
「………」
リリアは信じられないことをした。左手で少年の頭を撫でたのだ。その手が触れる寸前、ルリエは反射的に後じさり、たちまち済まなさそうな表情になった。
「ごめんなさい」
リリアは拳を握って殴る真似をした。
「正直だこと。これで貸し借りはなしよ」
「ええ!」
「じゃ、行くわ。こいつ!」
すでに組織はつながり、どちらからともなく合体を求めて近づいていく二つの身体の右半分を、部屋の隅まで蹴とばして、女ハンターは戸口へと向かった。
廊下に誰もいないのを確かめ、歩き出す。当てはない。完全なさまよい人だ。
リリアの後を尾いて、二〇メートルばかり進んだとき、ルリエは凄まじい力が胴を圧搾するのを感じた。
――上だ!?
と閃いた刹那、その身体は凄まじい勢いで上昇し、天井の奥に吸いこまれた。
2
ルリエを巻き上げたものは、ある生物の触手であった。
それはルリエのいた階から五層も上の舞踏会場に潜み、数百本の触手を城内に這わして獲物との接触を企てていたのである。
それも、あの〈檻〉から逃亡した一匹であった。触手の大半は城兵たちに発見され、切断されて機能を失ったが、残りは城兵や他の妖物を絡め取り、二キロもの彼方に蠢《うごめ》く本体へと獲物を運搬中であった。
触手は二キロの距離を五秒で飛翔した。
あまりの高速飛行にルリエは失神し、気がついたとき、彼は足の下――五、六メートルの地点に、広い舞踏場の床の半分も占めて蠢く、黄土色の塊と触手を見た。
その全身が十文字に裂けると、真っ赤な口腔がのぞいた。
引きずりこまれる!
頭上で羽搏きが鳴った。
ルリエのかたわらを羽根を持つ煉瓦色の物体が二個、急降下していった。
上昇に転じる寸前、床上の怪物に黄濁した液体を放った。鼻をつく刺激臭からして尿だろう。それは十文字の口腔に吸いこまれた。
巨獣は身をよじりもがいた。一斉に波打つ触手は、押し寄せる巨大な波のように見えた。それがほぐれ、乱れ打ち、絡み合って奇怪な模様を形作っていく。
その一本が飛行生物の一体を盲打ちに打った。そいつはわななく口腔に吸いこまれて消えた。
不意にルリエは解放されたのを感じた。頭からが問題だった。柔らかいものの上に落ちた。悲鳴が口を衝いた。怪物の上だった。
四方では触手の壁が蠢いていた。隙間もない。そのとき、壁は一斉にある方向へ持ち上がった。
飛行体が戻ってきたのだ。死の尿が放たれる。
触手の間に何とか抜けられるくらいの間隙《かんげき》が見えた。
正面から飛行体が舞い降りてきた。その下で白煙が上がった。あれを浴びたら骨まで溶ける。
走った。水の入った皮袋を踏む感触が足裏から伝わる。
飛びこんだ。
触手が顔や手に触れる。蛇の数千倍の悪寒が全身を駆け巡った。
足が凍りつく。
「駄目だ!」
叫んで走った。声を放って悪寒を忘れようとする。
抜けた!
蠢く軟泥《なんでい》の向うにホールの床と、小さく扉が見えた。
あそこへ。脱出孔だ。希望が湧いた。ルリエは走り出した。
固い床を踏み、扉まで辿り着く。――やった!?
ルリエは――
眼を剥いた。
Dを押しつぶし、原子にまですりつぶすほどの重力バリヤーが、忽然と消滅したのである。
ギルゼンは監視台から身を乗り出して、こちらを見上げるDを凝視した。
「ほう、このバリヤーは異星人どもの知識から得たものだ。よくぞ……」
「古いのお、古すぎる」
Dの腰のあたりで、いまバリヤーから離れた左手が嗟嘆《さたん》した。
「あやつは一万年前の技術のままだが、こちらはその分進化しておる。ギルゼンめ、意外とタルい敵かも知れんぞ」
Dは素早く身を屈め、足下の長槍を掴んだ。周囲は兵の死体で埋まっている。
「受けてみるか、ギルゼン?」
腰さえ入れず踏み出さず、彼は直立のまま右手のみで投擲《とうてき》した。
易々と片手で掴み、ギルゼンはほおと洩らした。掴んだ部分の手の平は血にまみれていた。皮が裂けたのだ。
「初対面のときより腕が上がっておるな」
ギルゼンは愉しげに言った。
「では、話し合いの後に立ち合いといくか。驚くな。そういう約束だぞ」
「おまえの世迷い言だ」
Dは静かに言った。
「おれがそこへ行くか、おまえが来るか」
「慌てるな。その前に、これを見ろ」
ギルゼンは台の内側へ左手を入れると、何かを掴み出した。何か――それは細いロープで縛り上げられたルリエ少年であった。
「もう捕まったのか?」
嗄れ声が呆れたように言った。
「少し前、城のいまは使ってはいない舞踏場で捕えた。“千本足”に食われかけて逃げおおせるとは大した強運の持ち主だぞ。その生命を、Dよ、ここで散らせるか?」
「前にも言った。おれは無関係だとな」
「冷血ぶるのはやめろ。おまえの血は冷たいが、冷えきってはおらん。その証拠に――見ろ」
ギルゼンは右手の錫を少年の右肩に当てた。軽く押した、としか見えないのに、ルリエの肩はつけ根から弾け飛んだ。
人間とは思えぬ叫びを上げて、少年は失神した。
「何をする!?」
叫んだのは嗄れ声だ。
「やめい。すぐやめい。貴様、それでも“貴族”と名乗る者のひとりか?」
ギルゼンは哄笑《こうしょう》を放った。喉仏まで見えそうな高笑いは、次に繰り広げられた地獄のような光景のさなかにも鳴り響いていた。
錫杖をふるって、ギルゼンは少年の四肢を打ち砕き、もぎ取り、とどめは横ふたつに両断して、地上へと放り投げたのである。
恐るべき行為のたびに絶叫し、すでに半死状態にあったルリエは、石畳に叩きつけられた瞬間、低い声をひとつ放って動かなくなった。
「どうした、Dよ? まさか絶望したのではあるまいな? おまえには、まだしてもらわねばならぬことがある。このギルゼンの願いを成就するためにな。――来るがいい。奥で待つ」
黄金のマントが風に翻って消えると、Dは歩き出した。無惨な死体に眼もくれない。
そのかたわらを通過するとき、嗄れ声が、
「やや?」
と眼を丸くした[#「眼を丸くした」に傍点]。散らばった死体も血潮も、まがいもの[#「まがいもの」に傍点]と気づいたのである。
「わしとしたことが、あまりにも真に迫っていたので、つい騙されたわい。しかし、有機アンドロイドとはいえ、よく出来ておるな。ふうん、ふうん」
「往生際が悪いぞ」
ひとこと言って、Dは拳を握りしめた。小さな悲鳴が上がった。
3
通路の奥で黄金のマントがはためいた。
「来たか、D。私を斃したいのはやまやまだろうが、ここは少し待つがいい。“神祖”が見たものを見てから、どうするか決めい」
すでに鬼気を噴き上げていたDの全身から力が抜けた。
二人は並んで歩き出した。
ゆるやかな傾斜を五〇メートルほど下ると、巨大な鉄扉が前方に立ち塞がった。その前に新たな兵士たちが並んでいる。
「武器も人数も、おまえの場合と同じだ。私の戦いぶりをよく見ておけ」
ギルゼンは歯を剥いた。
「不老不死を誇る貴族も、心臓を貫かれれば滅びる。“神祖”も他の貴族もそれは変わらん――おまえもだ」
「………」
「だが、これでは真の不死とはいえん。私はまず、これの是正からはじめた。見るがいい」
歩みを止めず、ギルゼンはうなずいた。
鉄の弦《つる》が一斉に空を切る音は、十本の矢と化してギルゼンの喉と心臓に集中した。重さと衝撃に半ばちぎれかかった首が、Dの方を見てにやりと牙を剥いた。
両手で喉と胸に生えた矢を掴み、ギルゼンは一気に引き抜いた。
「かくて、真の不死は遂げられたり。――次は何だ?」
笑いが深くなった。それは弓兵たちに向けられていた。
射撃姿勢を崩さず凍りついた部下たちの真ん中に、巨体が飛びこんだ。
錫杖が閃き、マントが魔鳥の翼のごとく舞った。
十名の弓兵は、まさしく五秒足らずで地に伏した。どれにも首がなかった。
「殺す必要があるかのお」
嗄れ声が嘆息した。それが耳に入ったかどうか。
「私の命令に従ったとはいえ、私の生命を狙った奴ら、放ってはおけまいて」
ギルゼンの返事は笑いを含んでいた。Dは無言。兵はまだいるのだ。
「何をしておる? わしを斃せ。さもなくば死あるのみと、先刻伝えたはずだぞ」
兵たちの顔は死の色に染まった。それでも動かぬのは、ギルゼンを首領と仰いでいるからではなく、巨体から噴出する凶気のためだ。
「ええい、軟弱者めらが!」
叫んでギルゼンは突進した。
錫杖の一閃で、数人の長銃兵が首をもがれて倒れた。ようやく、我に返った兵たちが、剣や火器を構えて逆襲に転じる。
ギルゼンの全身を真紅のビームと銀色の刀身が貫いた。心臓は長槍に貫通され、兵士の長剣は首を半ば断った。
闘争は一分足らずで完了した。兵たちにとっては生死を賭けた死闘であったが、ギルゼンにはどうか。
みるみる腐乱し、塵と化していく兵士たちを睥睨《へいげい》する領主は、矢ぶすま槍ぶすまと化し、レーザーの照射を浴びた装甲と衣類はなおも炎と煙とを吐いている。左手の指は親指を残して落ち、右眼には鉄の矢が深々と突き刺さったままだ。
「確か――ベンケエの立ち往生」
嗄れ声がつぶやいた。
だが、このベンケエとやらは確実に呼吸をしている。首の斬創は、うっすらと赤いすじだけだ。レーザーで焼かれた部分の肉も盛り上がり――聞くがいい、石床から生じる硬い響きは、肉に押し出された槍と矢が抜け落ちる音だ。
彼は右眼の矢に手をかけて抜いた。血の溜った洞《うろ》と化した眼窩から、無傷の眼球がせり出している。
それが黒衣の若者を映した。
「どうだ、D。私に勝てるか?」
そして、にやりと笑った。身体の何処も傷痕ひとつない。不死身ぶりではDを凌ぐ魔人だ。
「ここで襲ってもいいが、まず別のものを見てもらおう。いわば、私の〈成果〉をな。幸い、炉の近くに棲家がある」
ギルゼンは鉄扉に近づき、押した。
何の抵抗もなく重々しく開いた内側へ入った。Dも続く。
空気が熱い。
「はて、〈炉〉といってもこれは異常だ。まさか暴走中なのでは――いや、待てよ」
訝しむ嗄れ声へ、ギルゼンの声が、
「じきにわかる。それより、気をつけろ」
内部は闇に包まれていた。最重要施設とは到底思えない不用心ぶりである。
Dはすでに、闇に漲る凶気に気づいていた。
十数個――うちひとつが右から突進してきた。闇を見通せば襤褸《ぼろ》をまとった剣士だが、その殺気は!?
「ギルゼン!」
叫びとともに切りかかった敵を、城主はたやすく躱してDを指した。
「私の最良の仲間だ」
敵がDをにらんだ。血走り濁った狂気の眼差し。髪も髭も伸び狂い、垢まみれの顔の中で、唇だけが美しく紅い。
「貴様が仲間か?」
地の底から湧き出るような声に、Dは答えない。唇から洩れる牙が貴族の証明だ。また、人間だからといって牙を剥く相手を容赦する若者とも違う。
敵が地を蹴り、交差した刹那、その胴は二つに分かれていた。
血と臓腑が石床にぶちまけられ、Dの一刀が反転してその心臓を狙う。
「待て」
闇の奥から声がかかった。Dの刀身が停止したのは、その声にあまりにも切実な響きを感じたからであった。
声の主が凶気のひとり――やはり頭から襤褸をまとった人物だと、Dは見抜いている。眼だけを残してその顔は別の布で覆われていた。
「我らが狙ったのは、あんたじゃない。そこの男、ギルゼンだ。刃を向けたのは悪いが、とどめは刺さんでおいてくれ」
「その声はベンガス大衛兵長か。よく生きておったな」
ギルゼンは笑った。あからさまな嘲笑であった。
「ギレスピもハコロもバイチュンもおりまする。公よ、あなたの残酷な遊びの犠牲になった者たちはみな、憎悪と怨念を糧に生き延びておりますぞ」
陰火が燃えるような怨みの声であった。
「それは重畳《ちょうじょう》。果てしなき生を愉しむのは貴族の特権よ。私が与えた身体は、なかなか住み心地がよかろうが」
空気が震えた。闇に打ち捨てられた者たちの怒りが、哀しみが、憎しみが、波のように暗黒を渡っていった。
「ふへえ、何とも」
左手が洩らした声を、Dは何と聞くか。
闇に潜む影たちが、すべてかつては貴族と呼ばれた者であることは、その衣裳と顔立ちからわかっていた。
不老不死――だが、このような姿になった者たちに、それは何たる残酷な運命であることか。
五体満足なものなどひとりもいない。ある者の蝋のような肌はねっとりと床に滴り落ち、ある者の手足は爬虫類のような鱗で覆われている。下半身が失われ、石床を爪で掻き掻き近づいてくる者がいる。
ひゅう、とDのかたわらで風を切ったのは鞭か――いや、長い長い女の舌だ。
がちがちと足下で鳴るのは歯噛みの音か。その音の主は、一〇メートルも彼方に横たわる男の口から這ったもうひとつの口だ。
「よく来てくれた……よく連れて来てくれた」
老人と思しい声が言った。
「わしは……ギルゼン公の執事長だった。血の一滴までも捧げ尽したつもりが……報いはこの仕打ちだ。この穴蔵へ封じられてから、待ったぞ、待ちましたぞ、公よ、あなたの訪れを……いま、我らの怨みの証しをお受けください」
臓腑を絞り上げるような血の怨みをこめた訴えを、ギルゼンはどう聞いたか。
彼は笑った。暗黒の中で、のけぞって哄笑した。
「偉大さの意味もわからぬ愚か者ども。その身体を捧げたのは、貴族の輝ける未来にであるぞ。また、そのような身体になった代償に、並の貴族には決して得られぬ力を与えてやったはずだ。私が憎い? 怨む? 感謝せい、感謝せい」
ひょお、と嗄れ声が呻いた。
凄まじい殺気が空気の成分を変えてしまったのだ。殺気? 否、それは怒気であった。
怨みに怨んで生き抜いたその果てに、怨まず感謝せよと言われた者たちの心情は、ギルゼンに苦笑を浮かばせた。
「――恩知らずども。どうしても、私に牙を剥きたいとみえる。その願い叶えてやろう。この美しい客人に、おまえたちの力を存分に見せつけるがいい。Dよ、手を出すな」
「なりませぬぞ」
執事長が叫んだ。
「これは我らの怨みを晴らす場でございます。かまえて手出しはご無用に」
Dはひとこと言った。
「勝てんぞ」
「わかっております」
と執事長は答えた。晴れ晴れとした声であった。
「もとよりそれは、みなが承知のこと。一矢も報いられずとも、ギルゼン公に刃向かった――それだけで、我らは笑って滅びへの道を辿れまする。怨みはなお尽きませんが、この思いをお汲みとりくだされ」
「承知した」
「感謝いたします――覚悟なされ、公よ」
「おお、来るがよい。愚か者ども。自ら選んだ運命を自ら呪え」
次の瞬間、繰り広げられた光景をDはすべて見た。
ギルゼンの喉に食らいついた牙だらけの口が、あっけなく引きちぎられるのを。ギルゼンの首に巻きついた女の舌が、その根元から引き抜かれるのを。躍りかかった執事長の心臓が、錫杖のひと突きで貫通されるのを。
一矢も報いられずとも、と執事長は言った。それが現実であった。残る者たちも次々と斃され、正しく一矢を報いる暇もなく、闇の住人たちは滅び去ったのである。
ギルゼンは胸を叩いて哄笑した。
「見たか、D。奴らの最期ではなく、奴らの技を? あれが、エイリアンどもの技術をもとに、私が授けたものだ。わかるか、Dよ? あれこそが私の狙った貴族の可能性だった。人間どもとの血の結託に同じものを求めた“神祖”より、遙かに現実的と思わぬか?」
「彼らに訊いてみるがいい」
「訊いて? 何を言う。私は宣言するぞ。自らの運命を誇りに思えとな。おまえたちは貴族の明日にその身を捧げたのだ」
「気が済んだか?」
Dの声はギルゼンの長広舌を封じた。
彼は驚きをこめてDの顔を見つめ、それから、
「そうか。やはり、そういう男であったか。“神祖”を見ればわかる。私の望みはまだひとつ残っておる。Dよ、おまえの血が欲しい」
ギルゼンは片手を伸ばした。手は震えていた。
「私は自らを完璧な存在と位置づけた。だが、正直、もうひとつの可能性も捨て難いのだ。“神祖”の描いた夢もな。別の進化樹同士が結合すれば、新たな樹が生まれる。同じく、二つの可能性の混交は、第三の――新たな可能性を生むかも知れぬ。そのためには、おまえの血が必要だ」
「そのために戻ったか」
Dは冷やかに言った。
「おまえの望み叶えてやろう。だが、おれの血はおまえの手で抜くがいい」
その背が鞘鳴りの音をたてた。
その殺気に応じるかのごとく、ギルゼンも錫杖を構えた。
「私はこの身に、異星の血を導入した」
ギルゼンは空いている方の手で胸を叩いた。
「おまえは人間の血を負わされた。どちらが宇宙にふさわしい可能性か――Dよ、決着をつけるぞ。そして、おまえの身体から流れる血で、私はあらたなる可能性を探る」
ギルゼンの宣言は、闇を圧して鳴り響いた。
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第七章 塵のごとくに
1
「もう疲れた。怖い。お願い、何処かに隠れましょう」
何十回となく聞いたヴェラの哀訴をリリアは無視した。脅すのにも飽きた。なだめすかすのは性に合っていない。
「じき目的地よ、少し待ちなさい」
と伝えてから、もう一時間になる。ヴェラが愚痴るのも無理はないといえばいえた。
何度か城兵や怪物どもと遭遇した。
城兵はすべて斃し、怪物はやり過ごしてここまで来た。どれほど歩き、階段を上り、自走路を乗り換えたかわからない。ルリエが行方不明になってから震えっ放しの女医を道連れに、よくここまで来られたものだ。
「さ、着いたわよ、理想の地へ」
ヴェラの腕を取って、前方の扉へ顎をしゃくる。
「何処よ、ここ?」
「ギルゼンの寝室よ」
ヴェラはよろめいた。立ち直れず、膝を崩して倒れこもうとする。恐怖とショックのあまり、失神したのである。素早く抱きかかえてヴェラを激しくゆすった。
何とか開いた眼の前で、
「今度、眼をつぶったら、噛みつくわよ」
と牙を剥く。本物だ。ヴェラは凍りついたが、眼は廻さなかった。
代わりに、ガチガチと歯を鳴らしながら、
「ギルゼンがいたら、どうするの? ただじゃ済まないわよ」
これがあの勇敢な女医なのか。眼には涙が溢れていた。
「何処だってただじゃ済まないわよ」
とリリアは返して、
「それに、ここはギルゼンの主寝室じゃないわ。他に五つある寝所のひとつ。まず主人はいないし、王様の部屋にこそ泥が隠れるのが一番安全よ」
「だって……」
「いいから、おいで! 情けないったら、もう!」
いつもの自分なら、とっくに置き捨ててきただろうと思う。それができないのは、あの美しい若者の指示があるからだ。自分はギルゼンにも血を吸われているにもかかわらず、彼の影響はほとんど受けていない。Dも同じはずだ。それなのに、事あるごとに網膜はあの美貌を結び、耳には錆びを含んだ声が甦る。夢中で追い払うと、かえって鮮明に、はっきりと戻ってくる。
身も心もあの妖しい美貌の虜になったような気が、リリアはした。
腰のベルトにくくりつけた電子センサーで、監視装置をチェックする。主人がいなくても、防御体制は取られているはずだ。
監視装置は未稼働とセンサーが告げた。
おかしい、と思わないでもなかったが、リリア自身も疲れ切っていた。
ヴェラを待たせ、思い切って扉を押す。
あっさりと開いた。
リリアが眼を剥くほど豪壮な寝室であった。無論、鏡も窓もない。ベッドは、黄金の柩だ。
「おかしいわね」
口を衝いた。ヴェラが硬直する。
「何が……何がよ?」
「わからない。何か感じるの。間違いだったかも知れないわ。出ましょう」
「え?」
恐怖に歪む女医の向う――戸口の前に影を見た。
「やれやれ」
心底からのリリアのつぶやきであった。
奇怪な装甲に身を包んだその姿――異星の敵だ。
ヴェラを突きとばすと同時に、リリアは長剣を抜いた。剣は風のように走って、飛来した鉄矢を弾きとばした。
もう一本――勘で躱した。右へ飛びながら、左腕を伸ばす。肘から手首にかけて装着したガス投矢器が、鉄の矢を異星人の鳩尾に放った。異星人の矢ほど重くはないが、超音速《マッハ》のスピードが補ってくれる。
異星人の長剣が閃き、一本は打ち落とされたが、もう一本は命中した。
がくりと片膝をつけた巨体へ、空中へ躍ったリリアの刀身が襲いかかる。
受けたが遅く、貴族の血を引いたリリアの膂力《りょりょく》――受けた刀身ごと異星人の頭部へ食いこんだ。
異星人が吠えた。
「ぐわっ!?」
リリアが耳を押さえてのけぞる。
異星人の絶叫は超音波と化して、リリアの鼓膜を痛撃したのである。
必死でふらつく足を踏みしめた瞬間、横殴りの一閃が襲った。
鋭い痛みに歯噛みしつつ、めまいを覚えたまま夢中で後ろへ跳ぶ。
腰がぶつかった。柩だ! 上体が大きく反って柩の蓋に乗る。視界を巨体が占めた。躍りかかってくる。ふりかぶった長剣を躱す余裕はなかった。
もう一度、めまいがリリアを暗黒に引きずりこんだ。
死ぬ思いでこらえ、眼を開けた。異星人の二度目の絶叫の理由がのしかかってきた。
柩の上で抱き合った形から、夢中で押しのける。抵抗もなく転がった。その背から長槍が生えている。
痙攣している身体が急速に静まっていく。一万年を経て、異星での死が異星の客を迎えにきたのだった。
リリアは死神の方を見た。戸口にもうひとつの影が立っていた。死者と等しい姿の巨人が。
その正体が閃いたのは、彼女の血を流れるギルゼンのDNAのせいか。
「あなたはどっち? 素《す》のままのエイリアン? それとも、ギルゼンの下僕?」
裂けた鳩尾から滴る血を感じながら訊いた。血臭が鼻を突く。
「ギルゼン様の寝所を侵す慮外者《りょがいもの》」
とのっぺらぼうは言った。これでわかった。
「これ、あんたの仲間じゃないの?」
と剣の先で床上の敵を指す。
新しい敵は少し首を傾げ、
「――仲間? ギルゼン様の敵だ」
「もろ影響受けてるわね。ねえ、ギルゼン様は何処?」
異星人の全身から異形の殺気が膨れ上がった。背中の弩《いしゆみ》が肩へと這い上がる。
「ちょっと待って。あたしもお仲間よ」
「仲間?」
と問い返したが、殺気は減じていない。
「そうよ――見て」
リリアはスカーフを下げた。
現われた歯型を異星人は認めたかどうか。
「ここへ、何しに来た?」
「こいつを見かけたのよ」
リリアは死体を見下ろした。
「後を尾けたらここへ来たの。ギルゼン様の寝室だと気づいたんでしょうね。でも、あなたが来てくれてよかったわ」
ジー、とモーター音らしき音が鳴って、異星人の弩が位置を変えた。リリアの心臓へ。
「ちょっと――何よ?」
「そっちの歯型はギルゼン様のものではない」
「あら、詳しいこと」
血も凍る思いだった。弩の速度からして、逃げる隙はない。
ふっと世界が翳った。異星人の叫びの影響がまだ残っていたのだ。
よろめいて柩にもたれた。左手が固いものに触れた。
心臓を射ち抜かれても反撃できるだろうか。自信はなかった。
矢は射ちこまれなかった。
――?
動揺が敵を捉えていた。
次の瞬間、それに気づかせたのは女ハンターの勘であった。
「どうしたの?」
と弄《いら》うように声をかけた。
「早く射ちなさいよ。万にひとつだけど、大事なギルゼン様の柩に当たってもよけりゃ」
「………」
異星人の肩で、弩はその動揺を示して揺れた。
「黙ってても、あたしはどかないわよ。力ずくでどけてみる?」
異星人の右手が腰の長剣にかかった。すぐに左の火器に替わった。
それも外して、巨体は前へ出た。素手でリリアを排除するつもりなのだ。
真正面から大股で進んでくる。床が震えた。
その巨躯が視界を埋めた瞬間、
「いらっしゃい!」
リリアは左手に掴んだものを引き抜くや、前方へ突き出した。
止まろうとしたが、巨体の慣性はそれを許さなかった。
仲間を貫いた長槍は、持ち主の鳩尾を貫いた。体重とスピードが加わり、背中まで抜けた。
魔の絶叫を放ってのけぞる。すでに耳を押さえていたリリアは、女医のもとに駆け寄った。
ぐったりと溶けている。超音波の仕業だ。敵はまだ呻いている。リリアは蹴りをとばした。
気がついたが、また失神してしまう。
「えーい、もう!」
左手を放し、ヴェラの腕をひっ掴んで立たせた。それでもふらつく。肩に担いだ。傷が悲鳴を上げた。
戸口へと走った。敵は必死で槍を抜こうとしている。
致命傷とは思っていなかった。いずれ抜いて追いかけてくる。
リリアは戸口を抜けた。
廊下を闇雲に走った。
頭上から羽搏きが追ってきた。
伏せるより早く、右肩と左に担いだヴェラの身体から衝撃が伝わった。女医が悲鳴を上げた。
身体が持ち上がったとき、リリアは抵抗しなかった。かえって好都合と思ったのである。
頭上の飛翔生物は、自分たちの巣へ獲物を運び去るに違いない。それが、異星人との戦闘よりましとは言えないが、難儀とも思えなかった。それに楽だった。
天井すれすれを飛びつつ、突如、世界が開けた。
全身を光と雪片が包む。凄まじい解放感が全身を駆け巡った。
ここは――外だ!
城の頂きへ躍り出てしまったのだ。
吹きつける雪の彼方に、青い峰々と、その下方に広がる大地が見て取れた。
不意に降下がはじまった。
広い屋上部が迫ってくる。その一角に鉄骨や木材を組んで作った丸い“巣”が見えた。
小さな――といっても人間の子供くらいはある鳥とも獣ともつかぬ雛たちが、こちらを見上げている。
「ご苦労さま」
リリアは右手の剣を逆手に持ち替えるや、一気に後方へ突き上げた。
勘の突きだが、手応えはあった。
明らかに鳥の絶叫を放って、そいつ[#「そいつ」に傍点]は手[#「手」に傍点]を離した。
落下は三メートル。何とかなると踏んだ高さであった。
腹に響く衝撃をこらえつつ体勢を立て直して疾走に移った。
そのかたわらに焦茶色の影が巨翼を広げつつ滑空していった。もろ“巣”にぶつかった。不気味な雛どもが逃げまどう。
「ごめんね」
ささやいて、リリアは反対側の隅へと走った。辿り着くと肩のヴェラを下ろして、思いきり空気を吸う。雪片が飛びこんできた。
「いい気持ち」
正直に洩らした。その足下で、
「どうなったのよ? ここは何処?」
ヴェラの泣き声が聞こえた。
「屋上よ。大丈夫、何とか助かったわ」
「でも、雪よ――凍えてしまう」
「あんた医者でしょ。なぜ、そう死ぬことばかり考えるのよ? 生命に向かって進め!」
リリアは右手を広げていた。そこに溜まった雪をまとめて握りしめ、小さな塊を口に放りこんだ。
冷気が広がり、頭まで痺れた。
「生きてる証拠」
そうつぶやかせる原因は、五、六メートル前方にかすむ灰色の形にあった。昇降口である。ひと休みしてから下りればいい。もっとも、あまり休んでいると雪だるまの運命だが。
もうひとつ、雪玉を食べようと思った。
握りしめて口に運んだ。
手が止まった。唇に当たった雪玉の冷気も感じられなかった。
昇降口の形が変わっている。
何かが前に立っているのだ。
巨大な翼を広げた何かが。
急に翼が右横に放り出された。長い嘴と胴もついていた。
「何てこと」
リリアのつぶやきは、いま鳥を放り出したそいつ[#「そいつ」に傍点]もまた、同じ生物の爪にかかってここへ運ばれた――そのことを理解したと告げていた。
長槍はすでに抜き取られていた。傷の回復に大した時間は必要なかったに違いない。仁王立ちからこちらへ向けて歩み出した足取りは、殺戮への意欲と自信に満ちた確かなものであった。
ギルゼン直属の、あの異星人だった。
2
「どうしようかしら」
リリアはつぶやいてから笑った。絶望の果てには笑いしかないのかも知れない。
「来たのね……追いかけて来たのね……」
ヴェラの声も気にならなかった。
「もう駄目……もう駄目よ……殺されてしまうんだわ……」
「ええ、そうよ。諦めなさいね」
嫌がらせではない。自然に出た応答であった。
これが状況の変転をもたらした。
ヴェラがいきなり立ち上がるや、城壁によじ昇ったのである。古風な銃眼がそれを助けた。それに手をかけ、足をかけ、リリアがふり向いたときにはもう、女医は片足を外に出していた。
「莫迦!?」
自らも銃眼に足をかけ、伸ばした手は女医の足首を掴んだ。別の部分を掴もうと爪先立ちになった途端、城壁から腰まで乗り出す形になった。
その背後で、異星人が長剣をふりかぶった。
絶叫が上がった。
風を切る音が、城壁に食いこんだ。
恐るべき刃を躱せたと喜ぶべきか、バランスを崩したと戦慄すべきか。女医と女ハンターは、白魔が舞い狂う下界へと、真っ逆さまに落下していった。
衝撃は意外と少なかったが、深かった。
二人が落ちたのは雪の中であった。
手足を動かし、夢中で這い上がった。
すぐに出られた。城を見上げると、屋上は二〇メートルもある。城の裏側に降り積もった雪がなければ即死だったろう。
「信じられないわ。どっちの血のおかげ?」
ぶつぶつとつぶやいたとき、すぐ後ろで、ヴェラがあっと叫んだ。
「城から――」
「えっ!?」
城の方を向き直ったリリアの眼は、数メートル前方に、どっと舞い上がった雪の渦だけを目撃した。
「………」
その渦が弾け散った。
新たに噴出した雪塊の下から立ち上がった影の正体は、言うまでもない。
「何てしつこい奴」
長剣片手にリリアは立ち上がった。
右から来た。それを受けた。衝撃で身体がふらついた。引いた刃は横から胴を薙ぐ。それも受けたが、足場が定まらなかった。五メートルも飛ばされて雪にめりこんだ。
「ヴェラ!?」
敵は女医に迫っていた。
リリアは右の腰にくくりつけていた鞘からナイフを抜いて投げた。女医のかたわらに落ちた。気がつきもしなかった。
敵が長剣をふり上げる。
声もなく震える女の身体が、ぼおと霞んだ。雪のせいではない。再び、あの高速震動が生じたのだ。
「――?」
一瞬とまどった敵の眼下で、女医は原形に復した。
その眼が光った。脅えるしかない女の眼ではなかった。左手が横の雪に伸びた。
死の気分とともに突き出した敵の刃の下を絶妙のタイミングでかいくぐり、ヴェラはリリアのナイフを敵の下腹部へ突き刺した。
敵は前のめりになった。並の人間の力なら装甲が跳ね返しただろう。だが、心身に変化を生じさせる高速震動は、女医の細腕に超人的な力を与えていた。
転がって敵から離れるヴェラへ、リリアが駆け寄った。深い雪が足を取る。ようやくその前に立って庇ったとき、眼の前の雪にナイフがめりこんだ。
敵はもう回復していた。雪を蹴立てて肉迫する。
「やる気ある?」
リリアが訊いた。
「もちろんよ」
ヴェラが答えた。
「なら、結構!」
二人は左右に飛んだ。
その間へふり下ろされた長剣は、雪に三メートルも切りこんだ。
右へ廻った。狙いはリリアだ。まず先に片づけるべき相手という判断は間違っていない。
何処からともなく黒い矢が飛んできた。
それは狙い違わず、異星人の胸を背中から貫いた。
敵にとって不意討ちも常々警戒の対象であったろうが、二人の女は強敵でありすぎた。気を抜けない――そこを背後の敵は衝いたのだ。
驚いたのは、リリアたちも同じだった。城の中ならともかく、ここは外だ。そこに――!?
はっと気づいた。
城へ辿り着く前、山人《さんじん》たちを斃した矢の主は? あれはルリエの父親ではなかったのか!?
硬い音が鳴った。二本目、三本目の矢を敵が打ち落としたのだ。
吹雪のせいで距離も掴めない彼方に、それでもリリアの眼はおぼろな人影を捉えた。
ひと声呻いて、巨人がそちらへ突進する。腿まで埋める雪からひと足ずつ引き抜いて迫る姿は、その怒りと殺気にもかかわらず、ユーモラスであった。
一二、三メートルも進んだとき、その足下から人影が跳ね上がり、右手の長槍を巨人の股間から垂直に突き上げた。
これも深々と刺し貫いたのは、槍の力か、遣い手の膂力《りょりょく》のせいか。
正しく急所だ。
巨人はわなないた。緑の血潮が滝のように、槍の遣い手に降りかかる。
それを見て、
「ダスト!?」
と女医が叫んだ。
何処でどうしていたのか、坊主頭のボディガードは、手作りらしい槍から手を離して雪中から出ようとした。雪が崩れた。
動きが止まったその胸を、今度こそふり下ろした敵の刃が深々と刺し貫いたのである。ダストはのけぞった。
もうひと突き、と刀身が上がる。
銃声が轟いた。
敵の顔面の右半分が持っていかれる。その足下へ、ヴェラが身を投げた。
よろめきよろめき、敵は刀身をふり廻した。
ヴェラがのけぞった。背中に降りかかる雪が赤く染まった。
巨人はその声めがけて前進した。
頭上に真紅の花が舞った。
跳躍から降下に移るその瞬間が、リリアの狙っていたとどめ[#「とどめ」に傍点]だった。
渾身の力をこめた刃が打ち下ろす一撃――敵の頭部は胸まで裂けた。体重を乗せた。一気に股間まで。
青い血にまみれた身体を雪中から起こしたとき、縦に両断された敵の身体は、ゆっくりと左右に広がり、白雪に打ち倒れた。ぴくりともしない。異星の魔人は、ついに滅び去ったのである。
リリアが駆け寄ったとき、ダストもヴェラも虫の息であった。
リリアはため息を必死でこらえた。こんなにあっさりと――いままで戦ってきたのは何のためなのか。
「無様なところを……見せてしまったわね」
不意にヴェラが、意外と確かな声でささやいた。
「別に――あれが当然よ」
とリリアは優しく言った。自分でも信じられない言葉であった。あの若者の血の影響か。それとも――
「ダストは……どう?」
村のガードは苦しげな声で、
「まだ、生きてるよ、ヴェラ――礼を言う。庇ってくれたな」
「ほんの……お詫びのしるしよ。あたしは……三年前……あなたの娘さんを……見殺しにしてしまった」
「しゃべっちゃ駄目」
リリアは前方から近づいてくる影法師に眼をやりながら言った。
「いいの……話させて……三年前……村の小学校の子供たちがこの山へ登った……あたしも医者としてついていったのよ……」
そこを山虎《さんこ》が襲った。教師とボディガードたちが応戦したが、七つの女の子が犠牲になった。
「その子は……あたしの横で殺された……あたしは身動きもできなかったの……怖くて……ダストの娘よ」
リリアは眼を伏せた。
「もういい……。あんたはおれを庇って……」
ダストは優しく言った。それしか死者へ贈るものはないとでもいう風に。
ヴェラは首をふった。その眼から涙が落ちた。
「……リリア……あなたが見た臆病者が……本当のあたしよ……でも、あたし……やっぱり死にたくなかった……いまだって……」
「あんたは最後まで、勇敢なドクターだったわよ」
リリアは女医の手を握ってふった。冷たい手には生命の鼓動も感じられなかった。
「……生きたい……」
ヴェラがぽつんと言った。
「……もっと……生きて……村の子供たちの病気を……治してやりたい……私は医者よ……」
声が急速に細くなった。全身から力が抜けた。
「ヴェラ……」
とつぶやいたのは、ダストだった。彼はリリアを見つめた。
「言ってなかったが……おれとヴェラは……夫婦だったんだ……娘があんな風になって……別れちまったが……」
リリアは何も言えなかった。三年前の悲劇は、ここまで尾を引いて、いま終わろうとしていた。
ダストが眼を閉じた。その右手を取って、リリアは自分が掴んでいるヴェラの手を握らせた。
「さよなら」
と言った。他に言うべき言葉はなかった。
それは別の者が口にした。リリアのかたわらで、
「……早すぎるぞ」
3
刃を噛み合わせた刹那、膂力ではギルゼンが勝ると感じた。スピードはD。ギルゼンは受けたDごと押し切ろうと刃に乗り、それを突っ外したDが神速の一刀を送る。
ギルゼンが呻いた。切り裂かれたマントの下の衣裳まで裂けて鮮血が溢れた。
その恥辱を押し隠すように、ギルゼンの刃が走る。相討つ響きとともに火花が上がり、黄金と黒衣が風のごとく位置を変えるたびに、殺気もまた移動した。
「うおおおお」
下腹が弾けるような叫びとともにギルゼンが打ちこみ、Dが受ける。その身体へギルゼンが肩からぶつかった。並の人間なら易々と弾き返したであろうが、吸血鬼の怪力――Dは後方へ吹っとび、石壁に激突した。そのまま身を沈めて横薙ぎの一刀。余勢をかって前へ出たギルゼンの右足膝を破壊してのけた。
「ぐおお!?」
獣のごとき悲鳴を聞きながら、Dは同時に背後で滑る石の摩擦音を耳にした。
ギルゼンがにんまりと笑った。
「開閉装置にぶつかったか。見るがいいぞ、Dよ。わが核炉の内部を」
ふり向かず、Dは左手を後方へ伸ばして手の平を広げた。
背後は白熱した泥の河であった。何処から何処へ――灼熱の泥濘《ぬかるみ》としか言いようのない粘塊が、右から左へと流れていく。
「核融合炉ではないぞ」
とギルゼンは言った。
「もとは軽水炉による原子力発電であったが、異星の者を拷問にかけてエネルギーの秘密を聞いた。Dよ、これが銀河航法《ギャラクシー・ドライブ》の精髄《もと》だ」
泡立ち、弾け、うねくりうねくり流れ過ぎる白熱の泥――その何処が遙かな大銀河へと続いているのか、Dにもわかるかどうか。
だが、ほんのひと呼吸で左手を戻した若者の表情には、美しくも恐ろしい妖気と虚無だけがあった。
「その中へ落ちれば、おまえも銀河の果てへと放逐される。どうだ、D、おとなしく私の目的達成に力を貸せ」
Dの身体が躍った。
真っ向から打ち下ろされる刀身を躱しつつこちらも切りこんで位置を変え、ギルゼンは空いた手で左の頬を撫でた。
深々とえぐられた肉からこぼれる血を拭い取り、指を咥えて舐めた。
「さすが、“神祖”のこしらえた唯一の成功作。私でさえ、おまえを眼にしたときは、彼奴《きゃつ》のやり方が正しいかと頭を過ったわ」
その両眼が凄まじい光を放ちはじめた。血光だ。
「おお」
と嗄れ声が脅えた。ギルゼンの内部から別の、想像もしなかった未知の気が溢れはじめたではないか。
「だが、いまは悔いておる。全身に漲る異星の力がそうさせるのだ。見るがいい、Dよ、おまえがつけた傷を」
言われるまでもない。ギルゼンの鳩尾と膝と、いま、つけたばかりの頬傷が跡形もなく消失したのを、Dは眼のあたりにしている。貴族の驚異的な再生力を考慮しても、あり得ない回復ぶりであった。
「おお、おお、漲ってくるぞ。宇宙の彼方で育まれた別世界のエネルギーが。Dよ、それを感じて死ね」
自らの身体を廻しつつ叩きつけた刀身は、しかし、以前のギルゼンのものではなかった。受けの形のまま、Dは大きく後方へ飛んだ。
刃は触れぬ。なのに黒衣は一文字に裂けた。のみならず、血が飛んだ。
着地しざまに嗄れ声がくぐもった声で、
「同じところを切りおったな」
言い終わらぬうちに殺到するギルゼンの連撃――Dは受けずに躱し、灼熱の泥濘の縁まで追い詰められた。
「ほおれ!」
上段から落ちてくる刀身が、突如下段に変わってすくい上げるように迸る。
Dの右膝が血を噴いた。彼の反射神経も戦いの勘すらも追尾できぬ一撃であった。
よろめく背中を熱が打った。
「もう後がないぞ」
ギルゼンが哄笑した。その眼はすでにDを敵と見なしてはいない。手負いの獣を前にした猟師の眼だ。殺意と自信と狂暴と――刀身が八双に上がった。
と、その一刀が信じられない速さで左手に移ると、ギルゼンの足下――おぼろな影を垂直に突き通していたのである。
すると、影が叫んだ。身の毛もよだつ苦鳴であった。
「ギ、ギルゼン」
「まだうろちょろしておりましたな、母上」
Dから眼を離さず、ギルゼンは苦々しげに言った。どこか人間離れがはじまった顔に、愛憎が混交した、人間しか浮かべられぬ表情が広がった。
「あなたの子息は、貴族の存在そのものすら根本的に変えてしまう新しい貴族になりました。古いものはすべて処分の運命を辿らせます。母上、あなたもまた」
もう影の声は聞こえなかった。ギルゼンは横へのけた。小さな影が足下に残った。それは、二、三度震えて、動かなくなった。
「母親も殺めた」
ギルゼンは誇らしげに言った。
「私の足を捉えて、辺境の彼方へ放逐しようと計った裏切り者よ。D、実の母をなどと、思ってもいないことを口にするな」
刀身はふたたび八双。迎えるDは青眼。
「首を貰うぞ、D。そこからこぼれる血が、新しい貴族の歴史を作ると知れ」
突進する姿は巨大なエネルギーの塊であった。
Dも退《ひ》かずに走った。
交差する姿に斬断音が重なった。
ふり返ったとき、Dの左腕は肘から消えていた。
だが、ギルゼンは大きく崩れた。
「――D……」
呻いた口から溢れた血は青かった。
そして、首が落ちた。
流れる白い泥の中に。
後を追う胴の飛沫が収まってから、Dはようやく全身の力を抜いて、泥濘を見つめた。
「銀河航法のエネルギーと言ったの」
嗄れ声がつぶやいた。
「ギルゼンの首と胴め、宇宙の果てへと送られたか」
Dはふり向いた。
「礼は言わんぞ」
低く言った。その前には誰もいなかった。
「なぜ、おれに思念攻撃を仕掛けなかった?」
無から声が生じた。
「最初から狙いは公爵だった」
姿なき声の主――名前はバジスだろう。
最後の交差の瞬間、ギルゼンの動きが不自然に凍結した一瞬に、Dの刀身が閃いたのである。
「公爵のやり方は、おまえも見ただろう。あれが理由だ」
「おれもついでに[#「ついでに」に傍点]と思わなかったのか?」
「隙がなかった。それに――」
「それに?」
「おれは“御神祖”に拝謁したことがある。おまえによく――」
声は途切れた。Dの眼が血光を放ったのだ。
「おお、その眼……にらまれただけで、身体のない身体が引き裂かれそうだ。――そうだ、もしや……もしや、あなたは……あなた様は……」
Dは刀身を戻し、身を屈めて足下の左腕を拾った。
切り口を重ねた。
「おや?」
嗄れ声が上がり、左手の平に小さな顔が浮かんだ。眉とも皺ともつかぬものを寄せている。
肘は癒着しなかった。
「どういうわけじゃ?」
「ギルゼンの技だ」
Dは淡々と答えた。この若者の正体を知らなければ、みな、冗談か手品だと思うだろう。
「いずれ付く。ただし、一日か一週間か一月かかるか」
「やばいのお。その間におまえが――」
左手は口をつぐんだ。姿なき存在を思い出したのである。
「とにかく、ギルゼンは斃した。おまえの仕事は済んだわけじゃ。行こう」
「その前に」
Dは左手をケープの内側に入れた。
「ジャンヌとやらが子供を預かっていると聞いた。何処にいる?」
「一緒に来い」
と姿なき声が告げた。
ギルゼンの言葉どおり、ルリエは城の一室にジャンヌといた。
そこは医務室であった。数多くの負傷兵を相手にジャンヌが応急処置を続け、ルリエは見よう見真似でそれを手伝っていたのである。
「この子、私より医者向きよ」
とジャンヌが誇らしげに少年の頭を撫でた。
「何なら、この城に留まって、治療に専念してもらいたいくらい。どう?」
笑いかけられて、ルリエは後じさった。牙つきでは怖い。
「冗談よ。行きなさい」
とDの方へ押してから、
「この城をどうする気?」
と訊いた。
「依頼は果たした」
とDは静かに言った。
「ここで生きるも何処かへ行くも、好きにするがいい。だが、おまえたちを斃せと言われたら、おれはまた戻ってくるぞ」
「また眠りについた方がよさそうね」
ジャンヌの声に、
「全くだ」
とバジスが応じた。
「百万年ばかり眠れば、世界はまた変わっているだろう。貴族の世が戻っているかも知れん」
「誰も覚えておらんかもな」
ジャンヌの視線がDの懐に刺さった。
それに応じるように下手な口笛が鳴った。
「そうね」
とジャンヌは疲れたような声で言った。
「誰も覚えていない。――誰もいないかも知れないわ」
Dは無言で背を向けた。少年もついていく。
二度とふり返らずに、二人は廊下へ出た。
そこでルリエはあることを憶い出してDに告げた。
4
雪はなお荒れ狂い、城の屋上を白い山に変えていた。
その山の頂きに、小さな身体が雪を踏みしめつつよじ登って、二枚の薄い板を立てた。
ささやかな墓標の前で手を組み、素朴な短い祈りを捧げると、ルリエは雪山を下りてDのもとへ戻った。吹雪の下で世界はかがやきを取り戻しつつあった。夜明けが近い。
「これでクレイさんとの約束を果たせました」
「おれは山を下りる。おまえの父親を探している余裕はないが、いずれ誰かがまたやって来るだろう」
甦った貴族を放置してはおけない。人間はもはや非力ではないのだ。
この城の未来の廃滅を、Dは見ていたのかも知れない。
ルリエはうなずいた。
「わかってます。ひとりでまた来ます。それにここへ来たことで、何をしたらいいのかわかったような気がします」
Dは静かに赤い頬をした少年を見つめた。
「いつか下の村を訪れたとき、立派なドクターに会えるかも知れんな」
ルリエは少しベソをかいた。
「でも、僕、出来が悪いから」
奇蹟に近いことが起きたと、多分、少年にはわからなかったろう。Dが右手を伸ばして、少年の頭を撫でたのだ。
「出来は知らんが、勇気はある」
と彼は言った。低く冷たく、しかし、優しく。
「誰よりも」
ルリエは微笑した。小さな顔は誇りに満ちていた。絶対に忘れません、と小さな顔は告げていた。それを浮かばせたのが自分だということを。彼はDの笑顔を見たのだった。
Dが昇降口の方を向いた。
「行くか?」
「ええ」
二人は歩き出した。
五、六歩進んだとき、ドアが開いて人影が躍り出た。
ジャンヌだった。半身は新たな鮮血にまみれている。二人を見て叫んだ。
「公爵が」
ルリエが凍りついた。
「バジスはやられた――逃げて」
開け放たれたドアから青白い光が流れて女戦士の背から心臓を貫き、Dの足下に突き刺さった。
それは槍というより、長い氷柱《つらら》のように見えた。
昇降口が吹っとんだ。爆発ではない。内圧で弾けとんだのである。
飛来する破片をケープのひとふりで払いのけ、Dは屋上に躍り上がった黄金の巨躯を見つめた。
地響きを上げて着地する。
右手に氷柱、左手に長剣を握った姿は、まさしくギルゼン公爵だ。
だが、何と変わり果てた様か。
人間らしさをとどめていた顔の造作はすべてねじくれ、右眼から額にかけては巨大な空洞が開いている。左端が大きく吊りあがった唇と口腔に残るわずか数本の歯は、滑稽さよりも凄惨な狂気を感じさせた。
ひん曲がった手をDへと伸ばし、同じ形の足で前進する身体の腰部は大きく前屈し、人間よりも蜘蛛を思わせた。銀河航法はギルゼンを何処へ導き、なにゆえ帰還させたのか。
「戻ったか、ギルゼン」
ルリエを雪山へと突きとばし、Dは一刀を抜いた。
だが、Dよ。いまのおまえには、復元を促す左腕が欠けている。いま致命傷を負って倒れ、腕を何処かへ運び去られれば――神よ、美しきハンターを御許へ召されるのか。
ギルゼンが氷柱槍《つららやり》を伸ばした。氷のように見えて空中の浮遊分子を結合し、変成させた鉄より硬い長槍であった。
Dが弾いた。
刀身が砕けた。
ギルゼンには剣もあった。
斜めに切りこんできた刃を、Dは右の拳で受け止めた。人差し指と中指ではさみ止めたものか。単なる貴族ではなく、宇宙魔人と化したギルゼンだと知れば、まさに神技であった。だが、見よ、刀身は指の股を裂いて手首近くまで食いこんでいるではないか。
ギルゼンが氷柱槍を引いた。それを受ける左手はDになかった。
これも銀河に放り出されたものにかけられた呪いか、耳にした者が発狂しそうな雄叫びを上げつつ、ギルゼンは槍で突こうとした。
何かが起こった。
それは銀河の記憶に潜む宇宙的恐怖さえ一蹴する何か――奇蹟でさえあった。
Dの眼から迸る血光――それがギルゼンの眼と脳を灼いた。
雪山に埋もれたまま、ルリエはかつてギルゼンだったものがのけぞり、後じさるのを見た。何か途方もなく巨大な力に脅えたかのように。
Dが跳びのき、右手を鋭くふった。そこから飛び出し、ギルゼンの胸を貫いたのは、Dの右手を割ったギルゼンの剣であった。
その柄を握って必死に抜こうとする巨体の胸もとへDが跳躍した。
すっとギルゼンが消えた。瞬間移動を使ったのだ。そしてDの背後へ。
だが、Dはいなかった。彼もまた消失したのだ。愕然と立ち尽すギルゼン――その胸もとへDが出現した。
血まみれの手が胸から生えた柄を捉えて渾身の力で押す。刀身は背まで抜けた。
ギルゼンの身体が紫煙に包まれた。その中を塊のようなものが、ぼろぼろと崩れていく。肌だ。肉だ。ギルゼン公爵の崩壊がはじまったのだ。
「――溶けていく!?」
ルリエが眼を見張ったのも道理。断末魔の巨躯から、おびただしい吹き流しのように舞い狂う紫煙は、それに触れた城壁を、床を、みるみる泥濘と化していく。
「D――お城が溶けたら、雪が溶けたら、村が洪水に襲われるよ!」
少年の悲痛な叫びに、
「D――Dよ」
まぎれもないギルゼンの声であった。
「Dよ。私は滅びる。どうやって、私を斃した? おまえの眼の光――あれが、あれが“神祖”が与えた力か? Dよ、私はついに“神祖”に勝てなかったのか? ――言ってくれ、違うと言ってくれえええええ」
声が細まり、巨人は倒れた。黄金のケープを紫煙が包み、溶解していく。何もかも。
Dはルリエに駆け寄り、その身体を小脇に抱えるや、城壁へと走った。
「眼をつぶれ――行くぞ」
二人は跳んだ。
かつて、リリアとヴェラが舞い降りた深い雪の褥《しとね》に、Dは軽やかに舞い降りた。膝まで沈むはずが、足首にも届かない。Dの体術だ。
「D――村が!?」
ルリエの声を何と聞いたか、彼は身じろぎもしない。
頂きから紫煙に包まれた城は、みるみる悪夢のごとき高速度で、その姿を消していく。
その崩壊が、Dたちの立つ雪斜面に触れた――その刹那、まばゆい光が世界を染めた。
Dすら旅人帽のひさしを下げ、ルリエはしばらく盲目状態に陥った。
ようやく世界が網膜にその姿を刻みはじめたとき、
「お城がない!?」
ギルゼンの城は、跡形もなく消去していた。
「雪崩《なだれ》も洪水もない」
とDが言った。
そのとおりだ。城に接触していた雪面は、わずかに先端が崩れたきりで、原形を留めている。城の消失は夢から醒めるがごとく、一片のエネルギーも要さず行われたのだった。
呆然と立ち上がったルリエは、そのとき、Dが後ろを向いているのに気がついた。
いったん胸の中に落ち着いた安堵が、背中に人の気配を感じさせた。
まさか――
「――父さん!?」
なおも雪は降りつづいているが、風はなかった。
白い紗のベールの奥に四つの人影が立っていた。
そのうちのひとつが前へ出て、明確な形と色彩を備えた。
リリアであった。
少年は彼女を見つめ、それから残る三つの影に視線を注いだ。
期待と好奇と恐怖が渦巻く視線を。
「父さん、いるの?」
「さあ」
とリリアはうすく笑った。
「名前も聞いてないけど、顔が似ているかしらね。いえ、気のせいかも知れない。D、後ろの二人はヴェラとダストよ」
「………」
「この子が父親と思っている男は、私と同じ性質だったらしいわ。ギルゼンに血を吸われながら、彼の下僕にもならず、城の周囲をさまよっていたの。人間のいるところへ行けば、どんな扱いを受けるかわかっているし、何より、自分の行動に自信が持てなかったってわけよ。いつ、どうやってここへ来たのかは覚えていないって。子供がいたかどうかも忘れているわ」
ルリエがDを見上げた。
「さよなら、D」
と言った。
その肩をDの手が掴んだ。
「大丈夫よ、D」
雪の中の影が言った。
「女医《せんせい》……」
とルリエが名前を呼んだ。
「その子の安全は私とダストが保証するわ。私たちはここにいるルリエの――」
少年が息を呑んだ。
「父さんと一緒に山へ登った男に血を吸われたの。でも、大丈夫、〈犠牲者〉どまりよ。そして、私もダストもこの男の支配は受けていないわ」
「信じられんな」
「信じてちょうだい。そうだわ、D。三日間、あなたも一緒に私たちと暮らして。その後で、私たちは山奥へ去ります。おかしいと思ったらそのときに、いえ、いつでも殺してくださいな」
「三日間で何をする?」
「この子に私の技術を授けるのよ」
ヴェラの声が希望にゆれた。
「私はもう村へは戻れない。ダストと山の中で暮らすわ。ギルゼンの滅びたのはわかったけれど、私たちは人間には戻れないの。彼がエイリアンの血を取り入れてたからでしょう。でも、村へ次の医者が来るまでは、多分何年もかかる。その間、この子が医者になるのよ。D、私の血を吸ったのは、ここにいる彼だけど、彼の血を吸ったのはギルゼンよ。そして、ギルゼンの血に含まれた異星人の医学知識が、私の医者としての血を通して、私の内部に流れこんできたの。三日間で、人間の知らない医療技術を習得し得る技術ともどもね」
雪がDと少年の頬を打った。風が吹きはじめた。
「ほんの三日間よ、D。そして彼はいつか〈都〉へ行く。そのとき、人間は新しい医学を学びはじめるの。この子の手から――素晴らしいことじゃなくて?」
「まかしてくれよ、D」
ダストらしい人影がうなずいた。
Dの反応は早かった。
「どうする?」
とルリエに訊いたのである。
少年の決断も早かった。
「行く」
力強くうなずいた。恐怖を知り、なおも希望と自分とを信じる辺境の子のように。
「おれも付き合おう」
二人は並んで歩き出した。
ルリエがふり向き、立ち尽すリリアに片手を上げた。
「さよなら、お姐ちゃん」
苦笑まじりに手をふり返し、リリアは吹きつける雪の中に消えていく長身の影だけを見送った。
「これで終わりじゃないわよね」
右手を白いスカーフに当てて、
「あたしにキスをしたのが誰か、覚えておいてちょうだいな。いつかまた、辺境の何処かで会うわ。そのとき、あたしが貴族の仲間になっていたら、あなたの手で滅ぼして」
女ハンターの声は雪に溶けた。
人影すべてが白に呑まれ、やがて、ただひとつ残った影もまた、きびすを返して、降りつづく雪の中に身を埋めていった。
『D―白魔山〔下〕』完
[#改ページ]
あとがき
「D」はいつも難産なのですが、今回もご多分に洩れず凄かった。
脱稿が、この「あとがき」のX日前で、ゲラを見たのがその翌日、担当のI氏がそれをチェックし、印刷所へ入れたのがその翌朝と――よく、わからねーな、これ。
ま、とにかく、やっと「あとがき」にこぎつけたというわけです。
ふと気がついたらすべて夢で、まだタイトルしか書いてない――こんな風にならなきゃいいんですが。
今回もDは頑張っております。ギルゼン公が強いもので、負けてはいられない。しかも、城内には想像もしていなかった怪物がうろつきうろつき、出会ったものはペロリと平らげちまおうと画策している。かと思えば、おかしな鎧着て、自分以外は片っ端から皆殺しという物騒な奴までいる。
この中でDは女性ふたり、子供ひとり、男ふたりを守りながら戦わなくちゃならない。別に彼が守る必要なんかないんですが、そこはヒーロー。やるべき普遍的義務というやつが控えております。
私の悪い癖に、登場した人物はいつまでも生かしておくというのがある。前巻で二、三人始末しておきゃよかったんですが、なかなか踏ん切りがつかなくてね。で、苦労しました。みなの引き際に。うまくいったかどうかは、ご一読のうえ、判断してください。
遅くなりましたが、初作「吸血鬼ハンター“D”」の英語版(ケビン・レーヒ訳)が前々月の十九日、アメリカで発売になりました。二度に亘るアニメ化の力もあり、売れ行きは好調らしいです。AMAZONででもチェックしてみてください。しかし、アメリカのペーパーバックの中に置くと、やっぱり天野さんの表紙はダントツで光ります。目立つんじゃなくて光る。確かめてみてください。
それでは――
二〇〇五年七月某日
「エイリアンvs.プレデター」を観ながら
菊地秀行