D―白魔山〔上〕 〜吸血鬼ハンター17
菊地秀行
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目次
第一章 白い山の麓で
第二章 道連れの面々
第三章 新しい生命
第四章 呪われた捜索
第五章 襲撃者
第六章 魔城造営記
第七章 ギルゼン公爵
あとがき
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第一章 白い山の麓で
1
視界はすべて白く閉ざされていた。
しかも、この高度ではあり得ないはずの乱気流が荒れ狂い、すでに三十分も機体は悲鳴を上げつづけている。
「やべえな、こりゃ高度を下げなきゃ保たねえぞ」
パイロットは、とうにフィルターのところまで吸い切った安ものの煙草を床に押しつけると、操縦桿を握り直した。
いきなり、背後のドアが開いた。パイロットは舌打ちした。いちばん厄介なときに、いちばん役に立たねえ野郎が来やがった。もっとも、あと乗ってるのは、棺桶に入ってる奴きりだが。
ドアのところから一歩踏みこんだ途端、機体が大きく右へ傾いた。戸口にしがみつく厄介者の悲鳴よりも、つなぎ目から上がるきしみ[#「きしみ」に傍点]の方が、パイロットには気になった。
「しばらく、しがみついてろ。急降下するぞ」
と、パイロットは後ろを向かずに叫んだ。操縦桿を急速に前へ倒していく。
「どどどうなるんだ、一体?」
厄介者は激しく歯を鳴らした。
「さあ、わからねえな」
と、パイロットは操縦桿を必死で調整しながら答えた。半分は脅しだが、半分は本気だった。乱気流を脱け出すのが遅すぎたと、機体の悲鳴が伝えている。
「まあ、半分よくて山ん中へ不時着、悪くすりゃ空中分解だ。なんせ、こんな時期に飛べるような機体じゃねえんでな」
「そのために大枚を払ったぞ。文句を言うのは筋違いだろ。君も承知で飛んだはずだ」
「ヘイヘイ。仰せのとおりだよ、学者《せんせい》。けどな、飛行体乗りは縁起を担ぐんだ。運んでるあの棺桶――落っこちたら、中身を怨みな」
「あれだけは助けるぞ」
痩せぎすの厄介者――考古学者ギースンは眦《まなじり》を決して叫んだ。パイロットが一瞬、感動しかけたほどの決意がこもっていた。
「あの中身は、世界中の貴族研究家が生命や、魂と引き換えにしても眼にしたいと望んでいたものだ。たとえ、この身がばらばらになったとしても、あれだけは無事、都へ送り届けなくてはならん」
「なら、なんで街道を使わなかったんだよ?」
言い返してから、窓外の白い風景に意識を集中し、パイロットはすぐに考古学者の方へ首をねじ曲げた。なんとも不気味な気配を感じたのである。
機体の何処か――いつも気にしているつなぎ目のあたり――が、激しく鳴った。
五十代半ばと思しい白髪白髯《はくぜん》の学者の顔は、死相としか言えなかった。
「なぜ……」
声は幽鬼のものであった。
「……なぜ……訊いた?」
「へ?」
眼を丸くするパイロットの前で、鶴みたいに痩せた顔が斜めにねじ曲がった。
「……なぜ……そんなことを……訊いた? ああ、考えずにいたのに……答えずにはいられなくなって……しまった……しゃべっては……ならないのだ」
パイロットの声に、短い信号音が重なった。レーダーの警告だ。
後悔しつつ、眼を前方へ戻した。白い世界の彼方に、さらに白い塊が近づきつつあった。山だ。この位置からすると、シーラ山か。なんてこった。不時着なんかしねえぞ。あの山の中で生き残るくらいなら、いま心臓を抉っちまった方がましだ。
エンジンへの燃料噴出を最大に上げ、レーダー・スクリーンへ意識を集中する。
高度九千――いかん、下がり過ぎだ。そろそろ上昇しないと。
出てけ、と叫びかけた耳に、
「……最初は……『亡霊街道』を輸送する……つもりだったんだ……だが……時間がなかった……いや、違う……誰かが……空を行け……と命じたんだ」
操縦桿が動かない。半ば機械のせい、半分は――パイロットの手が凍りついたのだ。あまりにも不気味な学者の口調に。
「誰がだ?」
遠くで硬い音が鳴った。
降下速度がぐんぐん増していくと身体が教えた。制動《ブレーキ》をかけなくては。
「フラップ降下。油圧制御。機首を起こせ」
自身の声に重なって、また硬い音――
「鎖が……外れた」
背後で考古学者の嗄れ声が震えていた。
「――だったら、どうしたってんだ? こら、しっかり掴まってろ。浮くぞ」
ぐん、と前方から凄まじい空気圧がのしかかってきた。飛行体が急降下から水平飛行に移りつつあるのだ。
「そんなはずはない……鎖が外れるなんて」
考古学者がつぶれたような声を出した。急激なGの変化が身体を痛めつけているのだ。それなのに、声は別の恐怖に埋め尽くされていた。
パイロットの視界の中で、燃料計のゲージが閃いた。
「げっ、ゼロぉ。洩れてるのか。さっきまで異常なしだったぞ! 危《やば》い――おい、不時着するぞ。戻ってシートベルトをかけろ!」
「嫌だ!」
と考古学者は叫んだ。
「鎖が切れた。あいつ[#「あいつ」に傍点]が眼を醒ましたんだ! ああ、あんな遺跡を見つけるんじゃなかった。絶対に戻らんぞ!」
「阿呆――なら、しっかり掴まれ。身体を固定するんだ。突っこむぞ!」
叫んでから、パイロットは全身が凍りつくのを感じた。
返事がない。
ふり向いた。
考古学者の背が戸口を脱けるところだった。
「何処へ行く!?」
顔を前へ戻して叫んだ。
「戻る」
「――おい!?」
その耳に、かすかに聞こえた。
「え? なに? 呼ばれてる? おい、しっかり――」
最後の「しろ」は口にする余裕がなかった。
視界は白に塗りつぶされた。
山肌だ! と思った刹那、凄まじい衝撃がパイロットの全身を打撃してのけた。
「――というわけだ。シーラ山の山中に不時着したパイロットからの無線連絡は、四日前――不時着時に一度あったきりで絶えた。恐らくもう死んでいるだろう」
見事な八の字髭の男は、引き出しを開けると、白い布袋を取り出した。
「三万ダラスある。半分は我がムングスの村から、半分はこちらからの出資だ」
黒瞳が向きを変えて、八の字髭の隣に腰を下ろしたスーツにボウタイの老人を映した。
老人の表情は、みるみる――といっても、黒瞳の主と会ってから、ほとんどイカれていたが――恍惚と溶けた。
「都」に本部を置く、「貴族研究財団・辺境遺跡発掘調査部部長/フェデリコ・マーキス」と、三十分ほど前、前方の黒ずくめの若者に渡した名刺にある。
「貧乏財団には大層な出費だが、あの飛行体に積んであった品には代えられん。そのかわり、なんとしても無事に下ろしてもらいたい」
「品とやらの内容を聞こう」
と黒瞳の主――黒いロング・コート姿の若者がようやく口を開いた。最初に名を名乗ってから、ふたこと目の言葉だ。
「それは、聞かんでもらいたい。特級極秘事項なのだ。誰にも話すことはできん」
黒いコート姿が、すう[#「すう」に傍点]と立ち上がった。出て行くつもりだ。それなのに、こちらへ迫ってくる風に見えるとは――これが貴族の血というものなのか。そして、二人の男たちが、それを無意識に、妖しく期待しているのも、また。
「待ってくれ」
声をかけたのは、マーキスであった。
「頼む。聞かんで行ってくれまいか」
風もないのに、コートの裾が翻った。
「わかった――話す!」
それでも黒衣は遠ざかる。
声が追った。
「飛行体の積荷は――」
別の声が、それを撃墜した。
「そこまでになさいな」
戸口に立つ娘を、黒衣の若者がどう認識したかはわからない。他の二人には、金糸銀糸の絢爛たるポンチョをまとった十代の娘に見えた。膝上三〇センチメートルはある金色のブーツを履き、ご丁寧にナイフが差してある。
ゆるやかなカーブを描く長剣は、黒い若者と等しく背中を飾っていた。
清楚とすらいえる美貌に嵌めこまれた青い眼が、娘の素姓を告げていた。その深さ鋭さ虚無の濃さ――ハンター以外のなにものでもあるまい。
低いが、明らかに女の声がダメ押しした。
「はじめまして、あたしリリア。ハンターよ」
長靴の足音も高く、黒衣の若者のかたわらを通って、デスクの前へ行き、
「村長さんと考古学の先生ね。四の五のうるさい男より、私を雇った方が面倒は少なくてよ」
村長は苦々しい表情で、
「なんのハンターかは知らんが、今回の件に関してはすべて、そちらに一任した。これから正式な交渉に移るところだ。引き取りたまえ」
「あら残念」
と言ったものの、晴れやかな表情は少しも変えず、かえって、青い瞳に烈々たる闘志を漲《みなぎ》らせて、
「ねえ、村長さん――私とこちらの差は何? 性別? 美貌? 名前? 実績? 名声?」
「――実力だ」
答えたのは村長にあらず、マーキスであった。
「でしょ?」
娘――リリアの顔に無邪気とさえいえる笑いが広がった。村長と考古学者の顔から血の気が引く。理由はわからない。
「なら、それ[#「それ」に傍点]を比べてみてからにしたら? それで駄目なら潔くあきらめるわ。どう、あなた?」
薔薇色の唇が、あら、と洩らした。
黒衣の姿は戸口を脱けるところだった。
「ねえ、ちょっと――行かれちゃ困るわ。あなたに勝たないと、あたし雇ってもらえない。待ってよ」
娘の右手が肩の長剣にのびるのを、村長と学者は見た。
村役場のガス燈《ライト》の光を、青いすじが断った。
苦鳴が噴き上がった。
2
村長たちは頭上をふり仰いだ。そして二人の足下へ、悲鳴に一呼吸遅れて凄まじい響きとともに、黄土色の巨大な虫が落下したのである。
数条のくびれを持つ、全体としては芋虫に似た形ながら、剛毛に覆われた六本の足のうち頭部に近い二本は、人間の手と等しい形状を取っており、あまつさえ八〇センチほどの剣らしきものを掴んでいるのだった。
全長二メートルを越す腹部のほぼ中央部から二本の凶器が生えていた。
白木の針はDだ。埋没部を入れれば二〇センチほどの投げ矢が娘――リリアの武器ならば、彼女はDと同じ速度でそれを放ったことになる。そして、なによりも、V字の先端を数センチ離して突き刺さった凶器を延長すれば、切尖は体内の一点――恐らく心臓で接触するだろう。
精確さもまたDと同じ。
村長と学者は悲鳴を上げた。間髪容れず二人の手が上がるや、天井から次々と奇怪な虫たちが落下し、断末魔の動きを示しはじめたからだ。
声もない村長に代わって、白髯の老学者が、
「これは確か、〈西部辺境区〉の――」
「そう。“剣戟虫《けんげきむし》”よ」
とリリアが応じた。
「近頃の気象異常と頻繁な地殻変動のせいで、生物分布に異常が起こってるのよね。こいつもそのひとつでしょ。天井裏に巣くうことが多いから、お気をつけあそばせ」
愉しげに解説をつづけるその眼前に、新たな虫が二匹舞い降りた。
降り方が違う。無傷だ。最後部の脚で仁王立ちし、両手の剣が二人のハンターを向いた。
〈剣戟虫〉――その名のとおり、本物の剣を操る虫だ。自然界の産物では無論ない。〈西部辺境区〉の貴族たちが面白半分に作り出し、人間の奴隷と戦わせた実験室生まれの怪物である。
貴族文明の崩壊後、ほとんどが駆逐されたものの、一割に満たぬ数が〈辺境〉へと流れ出し、いまでは数十万匹が棲息するといわれる。
戦い専門の貴族がその脳内にインプットした剣の実力は――
上段から叩きつけられた一刀にがっきと噛み合わせ、リリアが、へえという表情をつくった。その腹部を片方の剣が薙ぐ。
後方へ飛んだリリアの上衣は、一〇センチばかり切り裂かれていた。
「やるわね」
声が沈んだ。斜め右から切りかかってきた虫の身体もまた、大きく前のめりになった。一瞬遅れて首の下のくびれに一刀を突き刺された虫の下半身は、きれいに切り離されていた。
ひくつく虫から背後のDへと、素早く眼を移し、リリアは、
「あーら」
呆気に取られたように唇を尖らせた。Dは刀身を収めるところだった。足下に縦横十文字に分断された虫が転がっていた。
「あたしより早いなんて、やるわね、色男」
リリアは手の長剣でDの肩を突いた。
「悪いけど、もう一回抜いてよ。白黒つける相手は虫じゃないわ」
「いまので[#「いまので」に傍点]意見が変わったかも知れん。交渉してみろ」
Dは背を向けて、扉の方へ歩き出した。
「ちょっと――」
ここで、リリアは口をつぐんだ。
Dが去り、扉が閉じてから、
「よかった。悪いのに喧嘩を売っちゃったかなと、後悔したばかり」
誰に言うともなく言った。
「あいつ、もとの位置から一歩も動かず虫を斬ったのよ」
「ねえ、ちょっとお」
追いかけてきた女の声に、Dの左腰のあたりで嗄れ声が、
「あの女だぞ。どうする?」
「放っておけ」
「しかし、声には情熱と執念がこもっておる。向うが放っておくまい。トイレの中までついてくるぞ」
はたして、サイボーグ馬のつなぎ木のところで、リリアは追いついていた。
「待ってって言ったでしょ。聞こえなかったの?――相棒」
「相棒?」
この返事は、リリアの眼を訝しげに見開かせた。彼女は二つの声を聞いたのであった。
馬上のDと、手綱を握った左手のあたりから――嗄れ声を。
「そうよ、あの後すぐ、村長があたしも雇ったのよ。“剣戟虫”をぶった斬ったからでしょうけど、当然のことよ」
「残念ながら、おれは雇われてはおらん」
手綱が首を打ち、サイボーグ馬は歩き出した。
自分の馬が止めてある場所と、去りゆく若者とを交互に見ながら、
「ね、一緒にやろうよ、一緒に。村長、あんたを引き留めてこいってよ。それがあたしの初仕事」
「取り分が減るぞ」
嗄れ声である。
「大丈夫、ひとり三万ダラスをびた一文欠かさずでOKしたわ。ただし、あたしひとりじゃ可能性が減るからって、二万ダラス。だから、あんたに他所《よそ》へ行かれちゃ困るのよ」
リリアはサイボーグ馬の横に並んで歩きながら、言葉を尽くそうと試みた。
「ところで、飛行体の積荷はなんだ?」
嗄れ声が訊いた。
「え? まだ聞いてないわよ。あなたのところに来るのが精一杯」
「もういい。おれは行く」
これは美しい氷のようなDの声。すでに見捨てたという虚無を横顔にとどめて、彼は村長宅の敷地を出ようとしていた。
「積荷はなにって訊いた男が、もういいってどういうことよ? ちょっとおかしいんじゃないの。人を莫迦にするのもいい加減にしなさいよ」
無言でDは行く。氷を砕いて混ぜたような空気は蒼く煙り、彼方の白銀の峰々も同じ色に染められようとしていた。ここは山脈《やまなみ》に囲まれた村なのだ。
門をくぐったところで、リリアは諦めた。
「ちょっと、あたしは諦めないからね。サタナスの地獄の門まで追っていくわ」
村への道を下りながら、
「やっと静かになったが、また来るぞ」
と嗄れ声が言った。
「わしはああいうタイプ、嫌いではないぞ。なんだか、こういう身の上になる前――随分と昔に、しょっちゅう追っかけていたような気がするわい」
「昔か」
Dが蒼天をふり仰いだ。
月が出ている。
月光がその顔を白くかがやかせたように見えたが、それはDの顔自体が発光しているのだった。美しさゆえに。
「そう、昔のことじゃ」
と嗄れ声は応じた。
「だが、昔とはいつだ? わしたちはどれほどの時間《とき》を生きておる? そして、あいつ[#「あいつ」に傍点]は? いや、わしたちもあいつも、生きているといえるのか? 生とは死とは? 答えられるのは、あいつひとりだろう。なあ、Dよ。わしらは、あいつからそれを知るために追いかけておるのではないか?」
「疲れたか?」
とDは白銀の峰々に眼を向けて訊いた。
「なら、いまここで離れさせてやろう。好きなところへ行くがいい」
「よせよせ、そんな真似、おまえにもわしにもできはせん」
「試したことはない。どうだ?」
「やめておこう。いまは、な」
蒼みを増した田舎道を行く美しい影ひとつ――そして、二人の会話は絶えた。
やがて、サイボーグ馬は村の盛り場へ入った。
「この村は確か、サルサ酒《ワイン》の産地だったはずだ。おい、一杯飲《や》っていこう」
嗄れ声に、
「我慢しろ」
「いいや、できん。サルサ酒を飲ませろ。百リットルでも飲み干してくれる。誰の挑戦でも受けるぞ」
嗄れ声は、怒号と化した。村外れまで届きそうな大声で、
「おれに飲み勝った奴には一万ダラスを出そう。負けても金は取らん。その代わり、相手は妻帯者か十七歳以上の娘持ちに限る」
Dが手綱を叩きつけようとする寸前、右側の酒場のドアが開くや、保温コートをまとった人影が奔流のごとく躍り出て、サイボーグ馬の行手を塞いだ。
「おれが挑戦するぞ」
「おれもだ」
「いいや、おれが一番だ」
どいつもこいつも、すでに一杯きこしめしたと、赤ら顔に書いてある農民たちである。十代らしいのも、禿頭で腰も曲がった百を越えると思しい老人もいる。
「さ、兄さん、酒場へ入れ。大歓迎だぜ」
「わかった。喜んで挑戦を受けよう」
と、これは嗄れ声である。
「渋い声してるな――よっしゃ、いい度胸だ。この村の墓地には、飲み殺された連中のための区画があるんだぜ」
リリアがサイボーグ馬を駆って酒場の前へ到着したのは、それから二十分後だった。
「なによ、これ?」
スィング・ドアの前に村人たちが折り重なって小さな山を作っている。
眉を寄せるリリアの前に、またひとり、のこのことドアを開けて現われ、山の頂上に化けた。
「何事よ」
異常事態としか思えなかった。
素早く馬を下り、いまひっくり返ったばかりの男に近づいたとき、酒場の内部《なか》から笑い声がやってきた。嗄れている。
「あいつだわ」
リリアは爪先の向きを変え、スィング・ドアを押した。
酒場の前で嗅いではいたが、凄まじいアルコール臭が鼻を衝いた。子供ならこれだけで急性アルコール中毒になりかねない。
三十人も入れば一杯の酒場である。
小さなカウンターの前に、その倍は群がっているように見えた。
他にも床上に点々とひっくり返った農夫を、長靴《ブーツ》の先で踏んづけ、
「なによ、こいつ」
と脇腹を蹴とばし直して、リリアはカウンターに群がる村人の襟首を掴んで四人ばかり放り出してから前へ出た。
「さ、色男、いよいよ、おれさまの出番だぞ」
と真ん中のスツールにかけた大男が右手のウィスキー・グラスを上げた。
その左隣りで、
「勿体ぶって、この田舎もンが」
挑発的な嗄れ声の主はDであった。
「たかが辺境のど[#「ど」に傍点]田舎一の飲み助クラスで、このおれ[#「おれ」に傍点]に飲み勝てると思ったか、身の程知らずめが」
左手が床上の男たちを示した。無理に動かしたようなぎごちなさである。
大男は簡単に逆上した。
「吐かしやがったな。おい、ボブ、こんなグラスじゃ手間がかかって仕様がねえ。ビール・ジョッキを持ってこい」
歓声が上がった。おらが村の英雄がまたでっけえことをやらかすぞ、というところだろう。
グラスが並んだ。サルサ酒――アブサンの十倍は強いといわれるアルコールの精が、目一杯注がれた。
二人はジョッキを持ち上げた。同時に飲み干すのがルールだ。
「では――乾杯《プロージット》」
ジョッキが傾き、みるみる中身を失っていった。大男の喉仏がせわしなく上下する。
「ぷはあ」
派手な音をたててジョッキを下ろした途端、声が上がった。歓声というよりは驚きの声であった。
Dもまた、飲み干したジョッキを置いたのだ。
「この色男が――」
大男はもう舌がもつれていた。
「おい、も一杯だ、ボブ」
「残念だが、バスカ、品切れだ」
「なにィ?」
「考えてみろ。二十分で大樽五つを空けちまったんだ。おれは明日からの営業より、ぶっ倒れた連中のことが心配だよ」
「わかった」
大男は勢いよくスツールから下りた。ひょいと両手を上げてボクシングの型を取り、
「これで決着《かた》をつけようぜ、色男。男はやっぱり、酒より腕っぷしだ」
3
「よかろう」
嗄れ声が余裕たっぷりに応じた。それから、ひっく[#「ひっく」に傍点]ときた。
「おめえ酔ったのか。青ビョータンみてえな、不景気な面しやがって。アルコールの神様が無駄だ。腹への一発で地面へ戻させてやるぜ。それにしても、おめえ、顔と声が全く違うな」
「もっともじゃ」
「お、しゃべった」
大男は眼を丸くして、両腕のシャツをめくり上げた。いかにも自己流といった拳闘の構えを取る。
「なんじゃ、そのへっぽこ拳闘スタイルは? おまえ、つくづく田舎もンだな――ぐえっ!?」
Dは左拳を握りしめ、つぶれたように悪態は止まったが、大男の怒りは収まらなかった。
右手を引くや、
「この野郎!」
空気を抉る勢いで弧を描いた。
「うおっ!?」
驚愕の叫びは、Dの耳のあたりに命中したはずの拳が空を切ったからだ。一回転しかけ、しかし、半ばでぴたりと止めて元に戻る。これはこれで見事なものだ。全身が発条《ばね》らしい。そして、もうひとつ、
「うおっ!?」
こちらは、構え直した眼の前に忽然とDが立っていたせいだ。
限りなく深い黒瞳が大男の赤ら顔を映している。その深さを、男は怖れたのかも知れない。
小連打《ジャブ》から誘いのフック、ボディへの一発――得意のコンビネーションも忘れて殴りかかった。
それでも男に隙は見つからない。
相手が普通の人間ならば。
ぴしりと鋭い音が弾けた。男の拳は空中で止まっていた。Dの左手に包まれて。
驚きの声が室内に満ちた。それが大男を逆上させた。
訳のわからない叫びを上げて、左を閃かせる。
それが届く前に、大男の身体は宙に舞った。
おおおお、と叫ぶ客たちの頭上を軽々と越えて、反対側の奥へとつづくドアの手前に落ちた。店が揺れた。
「やるう」
とリリアが眼をかがやかせた。
「頭からドカン、か。もう――」
愉しげな声は、すぐに止まった。
「駄目じゃないらしいわね」
丸太みたいな首を揉みつつ、大男は片手で上体を起こした。首の骨が折れてもおかしくない、Dの投げ技だ。タフが服を着ているような男であった。
頭をひとつふっただけで、ひょいと片手で身を浮かせる。田舎者の構えは、しかし、微動だにせず決まった。
「油断しちまったぜ。色男だからって侮れねえな。さ、本番だ」
酔いも消え失せたか、清廉といってもいい顔に、ずわり[#「ずわり」に傍点]と殺気が蠢いた。
「あら本気ね」
リリアの口もとに不敵な笑いがかすめた。楽しくなったのだ。
タタンと床が鳴った。大男がステップを踏みはじめたのである。信じ難い軽やかなフットワークは、村人たちの驚愕の眼が、はじめて見ると告げていた。それまでは見せる必要がなかったのだ。
「行くぜ」
声だけを残して、大男は右へ滑った。
リリアが眼を剥いた。
死闘再開。しかも、今度は本物だ。収まらない――血を見なければ。
そのとき――
奥へとつづくドアの方から、
「そのくらいにしなさい、バスカ。急患よ」
渋い女の声がしたのである。
みながふり向き、大男――バスカが、しまったという風に顔をしかめた。
戸口に立っていたのは、長い白衣姿の中年女性であった。白髪の下の顔は意外に若く、理性に溢れている。十年前なら、どんな男もふり向かせずにはおかなかったろう。
「ショーヴさんのとこの伜《せがれ》が腹痛よ。症状からして腹膜炎。車を用意なさい」
どう聞いても、雇い人に対する主人の口調だ。
バスカはふり向いて、
「おい、先生。断っとくが、おれはあんたの召使いじゃねえんだ。人前でその言い方はないだろう」
「そっちこそ、その台詞は五千ダラスを返してからおっしゃい。博打のせいで奥さんも子供も逃げ出した上、やくざに借りた金も返せず追いかけまわされてた男が、いま何故無事でいられるの?」
冷たい一撃は見事な切れ味を見せた。
バスカは、全身を震わせて沈黙した。人型の活火山に等しい。溶岩は怒りにたぎっているだろう。
「いつか爆発するわね」
とリリアが肩をすくめたとき、
「早くなさい」
と命じて、先生と呼ばれた女が歩き出した。前方の村人たちが道を開ける。バスカは舌打ちひとつ、憤然と出ていった。
女医の眼の前で黒い背が遠ざかった。スィング・ドアの方へ歩き出したDへ、
「ちょっと待って」
女医は声をかけた。それでも止まらぬとわかると、大股に後を追って、
「話を聞いてくれない? 私はヴェラ。この村の医者です」
と声をかけた。
「あなたのその美貌――ひょっとして、Dという名の男《ひと》じゃなくて?」
Dはドアを押した。その肩を皺の多い手が掴んだ。
「もしそうなら、聞いて。私、“神祖”から、ある仕事を依頼されたことがあるの」
Dがふり向いた。足を止めるのとどちらが先かわからぬ動きであった。
ヴェラは凍りついていた。スピードに驚いたこともあるが、真の理由は別にあると、恍惚とした顔が告げている。Dは眼の前にいた。
「それは?」
黒ずくめの美貌が訊いた。それだけで、どんな口の固い人間でも洗いざらいしゃべってしまいそうだ。そして、それを責める者はいまい。それほどに美しい若者であった。
「それは……」
ヴェラは痴呆状態のように繰り返した。
そのとき、
「しゃべるな」
と聞こえた。
Dが横へ移動し、一瞬遅れてスィング・ドアが開かれた。
村役場の一室で、Dと会った片割れ――マーキス部長であった。
「――あなた……」
ヴェラが、とまどいを全身に示して、細長い老人の顔を眺めた。
「それをしゃべっちゃならん。なんとか彼を思いとどまらせようと追ってきたのだが、いい奥の手を見つけた。Dよ、ドクターの話が聞きたければ、山行きを了承してもらいたい」
この場合、途方に暮れたのは、ヴェラ女医であった。
「いくら、君がハンサムでも、ヴェラには通じんよ。三年ぶりの再会だが、わしの娘であることは変わらん」
自慢げに言って、老人はふと、顔の何処かに不安の染みを生じさせた。瞬く間に顔中に広がる。部長は娘から眼を離し、Dを見つめた。あわててそむけようとして――遅かった。
父と娘は瞬時のうちに、美の虜と化したのである。
「それは?」
Dがまた訊いた。
「それは……」
とヴェラが追った。
なにかが風を切った。
それはDのこめかみを貫き、反対側のこめかみから抜けて、スィング・ドアを打ち抜いたように見えた。
「しゃべっちゃ駄目よ」
左手で投げ矢を放った姿勢を崩さず、右手を背中の刀に廻したのは、リリアであった。
「彼に山へ行ってもらわないと、あたしが困るのよ。連れてくのを条件に、雇ってもらえたんだからね。この際、あなた方と手を結ぶわ」
「そういうことだ」
とマーキス部長が頭をふった。夢から醒める儀式のように。世にも美しい悪夢から。
「どうだね、D。こんなところで立ち話も何だ。奥の個室で話さんか? リリアとヴェラ、おまえたちも来い」
「悪いけど、急患なの」
とヴェラ。
「放っておけ。こちらが優先だ。おまえもいつまでも未亡人の田舎医者でもあるまい。わしと一緒に『都』へ戻れ」
「それもいい手ね」
女医は肩をすくめた。声をひそめて、
「あたしもこんな田舎や小汚い農家の連中なんか診るのは、もうたくさん。連れてって。――でも、いまはまずいのよ」
ちらと、スィング・ドアの方へ眼をやって、
「バスカが戻ってきたわ。後でね、父さん」
こう言って、こちらも頭をふりふり出て行った。
老部長はDから眼をそらしたまま、
「さて、D――どうするね?」
と訊いた。
幾分か勝ち誇ったこの行為が、どんな未来をもたらすか、彼には想像もついていないのであった。
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第二章 道連れの面々
1
「積荷の中身を教えてもらおう」
とDは言った。
「またか。もう言えんな。娘の秘密だけで我慢せい」
その眼前に光るものが横たわった。傲慢な口は閉じた。老人が積み上げてきた学者としての実績も、それなりのよい部分もある人間性も、「都」での地位も、すべて青い刃《やいば》の前に霧消し去った。
それなりの修羅場を踏んでいなかったわけではない。遺跡の発掘につきまとう地主や村とのトラブルで、雇われたゴロツキどもと、はったりひとつで言い争ったこともあれば、実際に火薬拳銃片手に射ち合ったこともある。
それなりに腹も据わったつもりでいた。
いま、すべては貴族の栄光のごとく崩壊した。視界を塞いだ一刀は、老人の戦った次元でふるわれる凶器ではなかった。彼との同盟を宣言したリリアでさえ、身じろぎひとつできないのである。
「答えろ」
とDは言った。
答えられない、とマーキス部長は思った。恐怖のあまり喉がひりついてしまった。それが、
「柩だ」
と出た。Dの声を聞いた途端。
「柩?」
Dが前へ出た。刀身は眼に触れていないにもかかわらず、部長も動いた。
奇妙な二人連れは、店を横切り、外の板張りの歩道へ出た。酒場の角まで歩き、左へと折れた。
曲がる寸前、
「来るな」
氷のひとことに、ようやく後を尾けてきたリリアが歩みを止めた。
「ケチケチしないでよ、D」
声もどこか媚びている風だ。
「実は私も飛行体の積荷には興味津々なのよ。あんたは呼ばれたんでしょうけど、私は飛行体と積荷の噂を聞いて、この村へ来たの。あの山へ登るルートはここしかないからね」
「噂とはなんだ?」
「仲間に入れてくれたら教えてあげる」
「雇われたのなら、いずれわかるじゃろう」
いきなりDの声が嗄れたので、リリアは眼を剥いた。その眼がDの左手へ移ったのが、普通と違うところだ。
「あんた――左手でしゃべってるの?」
「はっはっは、バレたか」
「わざとその声出してるの? 第三者に聞いてもらった方がいいわよ。品は悪いし、発音は田舎者だし、最低よ」
「同感だ」
とD。
「なにィ」
この嗄れ声もDなものだから、リリアはまたまた眼を剥いて、
「あの村長とそのなんとか部長は、飛行体へ辿り着けば、積荷はすぐわかるっていうのよ。そんなの当たり前じゃない。だから、いま聞きたいの」
「雇い主を裏切ることになるぞ」
「大丈夫よ。そいつ、半分失神中よ。私がいたことも覚えてないし――」
いきなり戦闘ベストの右胸を開いてみせた。
「ほお」
と嗄れ声が感嘆したほど豊かな乳房が月光に艶光《つやびか》った。
「覚えてたって、これでごまかしてみせるわ」
「誰の柩だ?」
とDが訊いた。リリアがそこにいることすら忘れ果てた風である。
「ギルゼン公爵だ」
部長の返事に、ひっ、と息を引いた者がある。
リリアの眼がDの左手に吸いついた。そこから、ギルゼン公爵と、呻くような声がきしんだのである。
「危険だ、今回はよせ?――なに言ってんのよ、あんた。やってることと言ってることが、天と地じゃない」
今度は返事がない。リリアの出番など最初《はな》から存在しなかったかのごとく、Dは勿論、マーキス部長も話しつづけた。
「この村から三〇〇キロ北にある最古代の遺跡から発掘された柩だ。それも、貴族の称号や名前、銘文ひとつない石で出来ていた。それだけでも珍しいのに、これは、柩に対する防御処置の常識をことごとく裏切っていたのだ」
ここで思い出すのも呪わしいとばかりに三度、身を震わせたが、Dの刀身が沈黙を許さない。部長は話しつづけた。
「柩には貴族が施すあらゆる防御法の形跡が見られなかった。それどころか、なんと太い鎖で五重に巻かれていたのだ。まるで、出てくるのを防ぐかのように。それはいい。同じ例は発見されていないが、鎖を巻いた者が人間だとすれば、行為の理由は理解できる。だが、柩の表面に刃物のようなもので、こう記されてあったのだ。
“悪鬼ギルゼン公爵。ブリューベック大公とその勇気ある仲間の手によって、真にふさわしい墓所へ、ふさわしいやり方で埋葬さる”
貴族を封じたのは貴族だったのだ。これも例はある。貴族同士の仲がいいとは限らないからだ。だが、貴族ならばこれだけは守る鉄の掟を、この柩と埋めた者たちは破ってのけたのだ。いかに憎悪にまみれた生まれながらの宿敵ともいうべき相手にせよ、貴族は必ずや貴族をそれにふさわしい墓所に葬る。だが、我らの見つけたギルゼン公爵の墓は――」
「ただの石で作られた粗末な墓地だった。しかも、壮大な遺跡の片隅、地下三〇〇〇メートルの深みにあった」
嗄れ声は、このとき、Dの声そのもののように聞こえた。
「知っていたのか!?」
部長は愕然とDを凝視した。数秒の間を置いて、嗄れ声が、
「地の底深く設けられた、貴族のものとはいえぬ粗末な石の墓所。いや、柩に刻まれた死文字の伝えるがごとく、それこそ柩の中の者にふさわしいのかも知れん。同じ貴族にここまで無惨に扱われた貴族。その理由は、いまこそ理解できる。Dよ、おまえの身を伝わった震えでな。悪鬼ギルゼン――柩の中の者は、あらゆる貴族に恐怖されたのか」
Dが刀身を引いた――と部長には見えた。
まばたきして、彼は驚愕した。
刀身など最初からなかったのだ。それはすでに酒場を出たとき、鞘に収まっていたのだ。刀身を眼の前に実感しつづけたのは、D自身から感じられる異形《いぎょう》の殺気のせいであった。
その影響からなおも醒めやらぬ老部長の耳に、
「依頼を受けよう」
という冬の静夜のごとき声と、やめろ!? と罵る嗄れ声とが聞こえたのである。
どちらを選ぶか混乱した老部長の脳は、
「これで決まったわね、部長さん」
というリリアの声で、正気に返った。
「そのとおり。頼んだぞ、D。君の仕事は柩を確認し、地上へ無事下ろすことだ」
「内部《なか》の者が眼醒めていたら?」
「生け捕ってくれたまえ」
「請け合えんな、ギルゼン公爵に関しては」
娘ヴェラの一件を持ち出せば効果がある――わかってはいても、口にできなかった。老人はうなずいた。
「わかった。その場合の処置は君にまかせる。ただし、地上へ下ろすために最善の手は尽くして欲しい」
「それもできん」
「何故だ!?」
「ギルゼンを下ろした結果がどうなるか、下ろしてみればわかる。だが、それは許されん。貴族に呪われた、ただひとりの貴族は、人知れず滅びねばならん」
これがDの言葉だろうか。Dよ、ひょっとして怖れているのか、ギルゼンという男を。
老部長の前で、コートの裾がはためいた。
「揃えて欲しい品がある。付き合ってもらおう」
三人は歩き出した。
行手には、あまり彼にふさわしからぬ場所――雑貨屋が待っていた。
支払いは部長にまかせてDはホテルへ入って部屋を取った。
リリアは憤然と部長を追いかけて去った。Dが依頼を受けた以上、君はやはり不要と宣言されたのである。いま頃は村役場の一室で強硬かつエロチックな談判を繰り広げているだろう。
「雪山か。おまえには最悪の環境だぞ。しかも、相手はあのギルゼン公爵だ。この仕事は降りろ」
部屋へ入るなり、口から泡をとばしかねぬ勢いの左手へ、
「そうもいくまい」
とDは応じた。いつもの静謐の中に力が込められていた。それは、決意とでもいうべきものであった。
「おれの血に刻まれた仕事だ。逃げも隠れもできん」
「それは刻んだ奴の勝手だ。おまえが責任を取ることもあるまいて」
「おれの他に誰が取る?」
左手は沈黙した。
「おれが〈北部辺境区〉へ向かうその日に、依頼がきた。雪山で不時着した飛行体の生存者と荷物を救出して欲しい。生存者がなければ荷物だけでも持ち帰ってくれ。――確かにダンピールは寒さに強い。それを置いても、おれの受けるべき依頼ではなかった」
「魔がさしたということかの」
「その荷物がギルゼンの柩だった――奴[#「奴」に傍点]の意思が、おれたちを動かしているとみてもよかろう」
「それにしては平然としておるな。他人の思惑どおりに動くなど、おまえの最も忌むべき行為だが」
「ギルゼンが復活すれば、世界はどうなる?」
Dは左手を広げた。手の平の表面が波立ち、人の顔が現われた。老人とも若いともつかぬ皺だらけで、しかし、精気に溢れた眼差しのそれは、にやりと苦笑してみせた。
「破滅じゃの」
と言った。
「奴[#「奴」に傍点]もそれを知り抜いていた。同時に未来をも。だからこそ、おれに託したのだ」
「“時を超える殺し”か。映動《ムービング》のタイトルにもならんな」
左手が呆れた顔をつくったとき、ドアが叩かれた。
「あの女ハンター、もう戻ってきたかの?」
Dはドアに向かって、
「誰だ?」
と訊いた。低い声だが、外にいる者にははっきり聞こえたはずだ。
「クレイという。旅の者だ。頼みがあって来た」
「開いている」
Dの返事と同時に、長身痩躯の人影が、風のように入ってきた。
旅人《トラベラー》コートも防寒ズボンもあちこち擦り切れているが、上に乗っている顔は精悍そのものだ。――不敵プラス面魂《つらだましい》といっていい。左の頬のうすい傷痕が、Dを映す瞳の鋭さをさらに引き立てていた。
「Dさんだね。おれはクレイ――」
「クレイ・ヤンセン――別名“死人ナイフ”のクレイ」
嗄れ声の出所を、精悍な顔が一瞬、ぎょっとしたように見つめた。
2
「こいつは正直、驚いた」
クレイと名乗った男は、素直に口にした。
「Dの部屋の前までは誰でも行けるが、ドアノブに手をかける前にすごすご戻るか、運ばれるかだと聞いたよ――死体になってな」
「ノックもせず、剣やら火薬銃やら片手に乗りこんできよったからじゃ」
と嗄れ声。
「すると、おれは礼儀正しくて自分を救ったわけかい」
クレイは凄みのある笑顔になった。
「用件を聞こう」
Dが口を開いた。クレイはまた、ぎょっとしたようにDを見つめた。白黒する眼が、なんとか折り合いをつけたらしく落ち着いて、
「いろいろと噂は聞いてるが、腹話術を使うとは知らなかった」
「ほお、お尋ね者の情報網など、やはり、たかが知れた――ぎゃ」
握りしめた拳を軽くふって、Dは椅子を示した。かけろとは言わず、クレイも動かなかった。唇を舌で湿してから、ようやく、
「おれもシーラ山へ連れていってもらいたい」
と切り出した。
「できんな」
Dの答えは短かった。取りつく島もないとは、これだ。
「そうじゃ」
と嗄れ声が、苦しそうに[#「苦しそうに」に傍点]口をはさんだ。
「おれら[#「おれら」に傍点]は、村から依頼を受けた正規の救援隊じゃ。加わりたければ、村の許可を貰ってこい」
「そいつはできない相談だ」
クレイは肩をすくめた。
「じゃろうな。殺人罪で特別指名手配を受けている身としては。〈都〉の執政官と、民間の罪もない家族三人――“死人ナイフ”のクレイも堕ちたものじゃ」
嗄れ声の悪態など無視して、クレイは興味津々たる表情で、
「あんた、スポークスマンでも雇ってるのか?」
とDに訊いた。左手の憑依に気づいたものだろう。
「しかも、悪辣な性格だ。おれが始末してやろうか」
クレイの右手首から先がこねるように動くと、手品のように細身の両刃ナイフが握られていた。空中から出現したとしか思えない。
“死人ナイフ”とは、これか。
「安心しろ、痛みもないし血も出ない。下劣な憑きものが死に絶えてから戻せば、元どおりくっついて、前と同じに動く。ただし、切り離してから三日間限定だ」
Dが左手を見た。
「そうだな」
と言った。
「やめい」
と嗄れ声が喚いた。
「主人《あるじ》がいいなら――では」
クレイの手の中で、ナイフが回転した。
わあわあと喚く左手が背中へ廻った。Dが隠したのか左手自身の技かはわからない。
「逃げる者は殺《や》れんな」
クレイは苦笑してナイフを収めかけた。冗談のつもりだったのだ。
「腕はやろう」
Dが言った。
クレイの眼が光った。この瞬間、二人は常人ではなくなった。
「いいのかい? 冗談じゃ済まないぜ」
「見せてもらおう“死人ナイフ”」
Dの無表情の美しさ、恐ろしさ。
「こいつは驚いた。他人には一切関心を示さない男と聞いていたが」
クレイの表情の精悍さ、物騒さ。
「例外は、人外の技だけだそうだな。嬉しいぜ、D」
戦う男とはこういうものか。見せたら連れていけとも言わず、その姿勢を立て直そうともせずに、しなやかな身体はDへと躍った。
弧を描く光の軌跡は、しかし、Dの首すじから数センチで空を切った。
しくじった。
否。光の軌跡の端は、ナイフの先尖に糸のごとく付着している。この一瞬、クレイの表情はDと等しい虚無を宿していた。
声なき気合――ナイフの先端が震え、そして、空中に消えずに留まる光の糸は、投じられたかのごとくDの右肩へと走った。
ばっと血が噴いた。
「ここまでにしとくぜ」
宣言したのは攻撃者――クレイの方であった。勝ち誇る響きはない。彼も右の肩を押さえていた。指の間からしたたるものは、血だ。
凶器はDの左手に握られていた。刃渡り三〇センチほどの小刀――否、短剣と呼ぶべきか。だが、二人の距離四メートルを考慮すれば、それによる攻撃は不可能だ。刃に血糊も付けていない。
犠牲者だけが知っていた。
「おれの技を見抜いたか。だが、おれには見えなかった。これがDという男か」
「いまのが、すべてではあるまい」
とDが短剣をベルトの背に戻しながら言った。
「見たぞ、“死人ナイフ”――だが、約束どおり」
「わかったよ。軽く脅して、と思ったんだが、相手が悪すぎた。だけどな、D、おれは諦めないぜ」
ナイフが回転した。それは消え、また現われた。
ドアの方を向くクレイの顔には、興味津々たる笑みが浮かんでいた。
「お客だぜ」
同時に、ドアがノックの音をたてた。
「子供じゃな」
と嗄れ声が言った。ノックは小さく遠慮がちであった。
Dはクレイを見た。
「わかったよ。じゃ、な」
ナイフ使いはドアに近づき、ノブを掴んで開いた。
「入んな」
ドアの向うに立つ少年は、七、八歳と思われた。あちこち擦り切れた防寒ジャケットが似つかわしくないほど、品がある。
「入んな」
クレイがもう一度声をかけると、少年は、ためらいもせず足を踏み入れた。
「よく来たな。おれがDだ」
クレイを見上げる少年の顔に、期待と不安と――喜びの色が広がった。
「――てのは嘘っぱちでな。おれは彼のポン友よ。意味はわかるな?」
「わかります。親友ですね」
少年はうなずいた。利発そうな顔立ちと声である。
「そうだ」
重々しくうなずき、クレイは身をひとつ震わせると、大きな咳払いをして、
「Dさんてのは気難しくてな。なかなか頼みを聞いちゃあくれない。おれが仲介してやろう。シーラ山へ登りたいんだな?」
「はい」
少年はクレイとDを交互に見つめ、うなずいた。
「どういう事情だい?」
「はい」
少年が三度目にうなずくのを、凄まじい鬼気が中断させた。それは、いま、クレイに身震いと咳払いをさせたのと、同じものであった。
「その男は、おれとは無関係だ。また、誰も連れてはいかん。登りたければ勝手に登りたまえ」
「僕ひとりじゃ無理です」
Dの鬼気の呪縛を、少年は難なく打ち砕いた。武器はひたむきさであった。
「僕の父さん、去年の冬、シーラ山に登って行方不明になってしまったんです。冬の間は捜索隊も出せず、春になってから行ってくれましたが、その半分は父さんみたいに行方不明になり、父さんも見つかりませんでした。それ以来、山へ登る人もいません。今日、村役場に勤めてる叔父さんが、あなたのことを聞いて教えてくれたんです。邪魔になんかなりません。何でもやります。父さんを捜すのだって、僕がひとりで。だから、登るときだけ一緒に連れて――」
「ここの生まれか?」
Dが訊いた。氷がしゃべるような口調だが、鬼気はない。
「うん。あ、僕、ルリエっていいます」
「Dだ」
「おれはクレイ」
Dにじろりと見られて、お尋ね者はそっぽを向いた。
「わかった。じゃ、またな、D」
片手を上げて部屋を出た。
「あの」
少年――ルリエが口を開こうとするのを制止し、Dはふた呼吸ほど待ってからドアに近づいた。普通の歩き方なのに足音はしない。
ノブを掴んで引いた。
ドアに片耳を押しつける格好で、クレイが立っていた。
無言で見つめるDに、バツが悪そうに笑いかけ、
「じゃな」
今度は確かに歩み去っていった。
その姿が階段を下りても、Dはしばらくの間、眼を離さずにいた。
ようやくドアを閉め、ルリエに向かって、
「土地の者なら白魔山については知っているな?」
と訊いた。
「はい」
「なら、山の怖さは知っているはずだ。ただの冬山に登るようなわけにはいかんぞ」
小さな身体が急にひと廻り縮んだように見えた。
「おれも噂でしか知らん。だが、あそこの山頂には、呪われた貴族の歴史の中でも、三指に入る凶悪無残な貴族の城があった。いつか貴族は滅び、城も朽ちたが、その死霊はいまも山中をさまよい、挑むものたちの生き血を吸い尽くすという」
「………」
「山に登る者たちを狙うのは、そればかりではない。貴族の手になる妖物、怪魔たちの他にも、様々な怪現象、そして、怪物たちさえ食料にするという山人《やまびと》たちが棲息しているとの話だ。父親を探すというが、子供ひとりで果たせるとは思えんな」
小さな顔が俯いた。
「一緒に登れば、おれが何とかしてくれると思ったか? 山を甘く見るな」
少年の心臓に錐を刺しこむような非情な物言いであった。
少年は長いこと足下を見つめていた。それから顔を上げて、小さく、ごめんなさいと言った。
次は、背中を向ける前に、
「失礼します」
だった。
鍵が開き、開いたドアが閉じてから、
「潔い餓鬼だの」
と嗄れ声が感心したように言った。
「泣きも入れんと、さばさばした顔で出ていった。あれで済めばいいが」
声にはDの様子を窺う調子があった。
「あの子にできる選択はひとつしかない」
とDが応じた。珍しいことだ。奇跡的といってもいい。
「諦めることか? わしの知っている美しい餓鬼は、絶対に諦めんのを身上にしていた。呆れながらも感心したものよ。いまの餓鬼とよく似た眼をしておったが」
「明日の朝、出かける」
Dは嗄れ声を断ち切るように言った。
窓から山が見える。
何処から見ても平凡な雪山であった。
3
早朝の出発は、ドアをノックする手で妨げられた。
「何じゃい」
無愛想この上ない嗄れ声に、ドアの向うの人物は沈黙し、ようやく、
「ボーイです。実は下に、剣呑なお客さまが――その、こちらのお客さまのルーム・ナンバーを教えろ、と」
「おお、よく知らせてくれた。チップが効いたの。わかった。こちらから出向こう」
「はあ」
「何人おる?」
「十人です」
「朝飯前の運動じゃの」
「はあ」
「どんな風体じゃ?」
「流れ者の戦闘士か賞金稼ぎか――ただの悪党」
「そんなところじゃろう。これから出向く。首を洗って待っておれと伝えろ」
「わかりました」
密告者が去ると、
「何者かの?」
と嗄れ声が訊いた。
「いま、おまえの聞いたどれかが、おれの噂を聞きつけた」
とD。夜の声と変わらない。そもそも、この若者はいつ眠るのだろうか。
「同行希望――ではないな。おまえの代役志願じゃろう」
声は陰気に愉しげに笑った。
それが途中で消え、おや? とつぶやいた。聞き耳をたてる[#「聞き耳をたてる」に傍点]気配が伝わってきた。
「下で暴れとるぞ。誰がいちばんいい目を見るかで仲間割れか。見物と行こう」
返事はない。Dはベッドに横たわったきりだ。
左手がわなないた。
「ああ、赤の他人の喧嘩じゃぞ。こんな愉しい見ものがあるか。うう、見たい。聞きたい。こじれればこじれるほど面白い。人死にが出れば最高じゃ。早く、早く行こうではないか」
Dが眼を開いた。
「おっ」
「十人と言ったな」
「おお。いや、待てよ。そう言えば……飛び入りが……二人、おるな。また、新手の賞金稼ぎじゃろう」
ここで少し沈黙し、分厚い木のドアや床で遮られた階下の音に聞き入ったものか。
「おや、感謝しておるな。礼を言っとるのは……どうやら、ホテルの支配人かなにかだ。どういたしましてと答えとるのは……女だぞ。昨夜《ゆうべ》の女医じゃ。さ、見届けに行こう」
それでもDは動かない。よくよく他人のことには無関心が徹底している若者であった。
上体が起きた。
「おっ」
「晴れている。登りどきだ」
天与の美貌は、窓外のシーラ山を見つめていた。
大きなバックパックを肩に引っかけた姿で、Dがロビーへと下りる大階段の上に現われたのは、十分後であった。
辺境の常で、トラブルの後始末は早い。営業に差し支えるからだ。負傷者、死者の姿はひとりもなく、清掃係らしい老人が、床の上の血をモップで拭き取る作業に励んでいた。
大絨毯が撤去されているところからみて、かなり派手に血が流れたらしい。
玄関脇のソファにかけていた男女が立ち上がり、Dを見上げた。
村の女医――ヴェラと二メートル近い禿頭の大男である。バスカではなかった。男の足下には、Dの三倍もありそうなリュックと熊皮の防寒服が置かれていた。防寒服は、ヴェラのかけているソファの上にもたたんで置いてある。
ヴェラは黒い防寒服の上下を身につけ、大男もウールのシャツと耐寒ズボンをはいていた。シャツはユキネズミの毛をつないだものだ。この辺りでは最高の防寒具といわれる。
「おはよう」
とヴェラが言った。
Dは軽くうなずいたきりだ。傲岸なのではない。無愛想とも違う。こういう若者なのだ。
ヴェラは微笑して、
「紹介するわ、こっちは村の警備係のダストよ。村長から依頼を受けた私の護衛役。私たちも同行します」
Dの腰のあたりで左手が、ほお、と唸った。
「理由は?」
とDが訊いた。
「そこから下りてきてくれない。見下ろされるのは気分が良くないわ」
Dは黙って階段を下りた。
次の問いは、前の繰り返しではなかった。
「十人組はどうした?」
「ダストが片づけてくれたわ」
この男ならやりそうだと、誰もが納得するだろう。巨体の中味を抜けば、Dがひとり、丸ごと忍びこめそうだ。分厚いシャツの上からも、大胸筋、上腕筋などの形がわかる。ところどころに血痕がついているところから見て、それなりに凄まじい戦いだったに違いないが、落ち着いたものだ。
何の応答もせず、Dは戸口へと進んだ。登山への同行を要求されたことなど、忘却の彼方にありそうだ。
「飛行体に何人乗っていたか不明だし、負傷者がいたら――わかるでしょ。村長の命令よ。これが証明書」
防寒服の内側から取り出した白い紙へ、Dはちらと眼を走らせ、
「いいだろう」
と告げた。
興味などかけら[#「かけら」に傍点]もない声であった。“神祖”云々など訊きもしない。
「ただし、面倒を見ている余裕はない。お守り役は彼に一任する。後は――おれの指示に従ってもらおう」
「了解」
女医はうなずき、巨漢の方へ眼をやった。巨大な禿頭が、ゆっくりと下がって上がった。
「名コンビらしいの。呼吸《いき》が合っておる」
ささやきのような声を、耳ざとく聞き止めたらしいヴェラと巨漢が眉を寄せたものの、結局わからず終いになった。
嗄れ声が、
「昨夜、酒場で暴れた男はどうなったかの?」
と訊いた。
「入院中よ。あなたに投げられたとき、首の骨が折れたらしいわ」
「ふえ」
平然と起き上がってきたのは、痛みを隠していたのだろう。大した根性の主であった。
「出掛けるぞ」
Dはふり向きもせず、ドアを押した。
「ちょっと」
あわてた風な女医の声が、背後から追ってきた。
登山口は村の西にある。
傾斜路の入口は、分厚いコンクリートの板と鉄条網で封鎖されていた。
扉のかたわらに中年の男がひとり待っていた。
「Dさんかね?」
尋ねる声も浮いている。Dの美貌のせいだ。
「そうだ」
「村長から言われて待っとった。いま、こっちを開ける」
扉の右隣りに、スチール製の潜り戸がついている。点検用だろう。
ごつい錠前に鍵を差しこんで開けると、男は脇にのいた。
「いつからいる[#「いる」に傍点]?」
とDが訊いた。
男はうっとりと、
「夜明けからだ」
「おれの他には?」
「誰も。来るわきゃねえ」
「他に登山口はあるか?」
男はたくましい肩をすくめ、
「その気になりゃ、どっからでも登れるよ。ただし、五〇メートルも上がらんうちに、遭難間違いねえ。ここ以外は、地面から一〇〇メートルまで垂直の岩場だ。しかも、上に行くほどそり返っている。――おや?」
男は駆けつけてきた女医と大男を認めて、眉をひそめた。
「あの二人も登るんか。ま、しっかりやんなよ」
彼がDの方を向き直ったとき、黒衣の若者はすでに戸口を抜けていた。
早足にやってくる二人の足の下でつぶれる雪の音を聞きながら、男は頭上の空を見上げた。
光は翳っていた。
雲が出ている。いや、眼の前を斜めに走る白い粒を認め、男は身震いした。
「あの若いのがここを抜けた途端、冬に二日もねえ晴天が店仕舞いか。おまけに雪ときた。こいつは吹雪くぜ。よりによってこんなときにシーラ山へ登るたあ。あいつ、何者だ?」
「追ってくるようじゃな」
嗄れ声がこう洩らしたのは、海抜二〇〇〇メートルと記された標識の前であった。
ここまでをDは一時間足らずで踏破していた。
シーラ山は海抜三六五七メートル。ムングスの村からは山頂まで二五〇〇メートル弱である。
「あと一五〇〇――〈南辺境区〉の巨峰狂峰と比べれば、子供の遊びじゃが……向うには貴族の城はないでな。ここから先は、ルートはあるが道はない。雪の中の化物もしっかりと触角を伸ばしておるじゃろう。飛行体に辿り着いたとしても、負傷者がいたら下ろさねばならん。それに、ギルゼン公爵がはたして柩に収まったままかどうか」
陰々たる声の間に、Dは無言で山頂を見つめていた。すでに全身は白く彩られている。
吹雪とはいえないが、雪混じりの風がそう呼ばれるのに、あと五分もかかるまい。
Dは肩のバックパックを下ろし、口を開けると、赤い紙袋を取り出した。
冬山登山用の保温パックである。それをコートの内側に入れたとき、Dは右方――尾根へと続く雪径を見上げた。
径の両側には白い岩が並んでいる。右方のひとつの上に、白い肌に黒点を散らした生物が、明らかな跳躍の姿勢を取っていた。
Dは、そのかすかな唸り声を聞きつけたものか。或いは気配を。
Dの右手から白い光が冷気を灼いて走った。
それはユキヒョウの白い肌を貫き、数メートル離れたところにある岩塊に命中した。
「ほう、消えたか。黒点を捜せ」
長剣の柄《つか》に手をかけたまま、Dは石像と化した。
両眼は糸のように閉じられていた。その視線の先――爪先から一〇メートルばかり前方の白い雪の上に、点々と黒い斑《ふ》が浮き上がるや、ゆっくりと滑らかに、Dの方へと向かってきた。
それが足下へ達した刹那、Dの右手が走った。
ぎゃっと肉食獣独特の悲鳴が上がり、Dの背後の雪上に鮮血が散った。
一滴の血もついていない刀身を鞘へ収めつつ、Dは背後を向いた。
ふり向きもせず放った勘のみの一刀に斃《たお》された相手は、白雪の上にゆっくりとその姿を現わしていった。
半ばクラゲのように透き通った胴体は、きれいに――としか言いようがない――両断され、ひとつの黒点も付着していない。黒い斑点はDの爪先に散ったまま動かない。それ[#「それ」に傍点]に獲物の注意を向け、その隙に背後から襲いかかる。白雪に溶けこむ野獣ならではのやり口だが、Dの超人的な勘には勝てなかったとみえる。
「ところで」
と嗄れ声が言った。
「あのユキヒョウ、そもそもわしらを狙ってはおらんかったな。となると――」
獣の目標は、Dの右方だったのである。奇岩が並んでいる。
Dは無言で雪径を登り出した。
「おい、放っておく気か? この呼吸音は、人間だぞ」
ユキヒョウと遭遇したときから、Dもそれに気づいていたはずだ。その相手を放って、この若者は行こうとする。
「くくく、おまえらしいと言えば言えるが、あとで後悔せんだろうな」
「後ろから医者が来る」
Dは右手をのばした。かたわらの奇岩は、ユキヒョウへ放った白木の針が刺さった岩であった。
四本の針はほぼ一センチ以内に集中していた。
ひとまとめにそれを掴んで抜くと、Dは一本を投げた。ユキヒョウが狙っていた地点の岩であった。
かっ、と音がして、針は二つになった。
さらに、ちんと鍔鳴りの音がするや、岩陰から、ぼろぼろの防寒マントの塊を抱いた絢爛たる人影が立ち上がったのである。
「いきなりご挨拶ね」
背中の長剣から離した手をぼろマントに添えて抱え、こちらへ微笑みかけたのは、女ハンター、リリアに間違いない。登山口の番人は夜明け前から誰も来ないと伝えた。リリアはその前に門を越えたに違いない。
次の言葉が出る前に、
「じき、村の医者が来る。その子を診せてやれ」
とDは言った。
女戦士は、あら? という表情をつくった。
「子供ってわかったの? すり傷があるけど、血の臭いでわかったのかしら。確かあなたは、ダン――」
リリアは口をつぐんだ。Dはすでに背を向けていた。あわてて呼びかけた。
「ねえ、仕事熱心なのもいいけれど、女に子供を預けっ放しにして行くつもり? ――ん?」
リリアは右の耳をマントの塊の方へ向け、
「しかも、知り合いじゃないの」
と言った。
「Dさん、Dさんって呼んでるわよ」
Dの足は止まらない。距離はもう一〇メートル以上離れている。
「諦めなさいね、坊や。あんな冷たい男だとは思わなかったわ。ま、プロとしては当然だけどね」
リリアは眉をひそめて、防寒マントにくるまった小さな身体を地面に下ろした。
「あいつは、あんたの目印に針を投げたんだけど、あたしが切っちゃった。ここに置いとけばわかるわよね。ほら、あそこに二人見えるわ。あいつらがここへ来るまで、あと七、八分。おかしな奴に襲われたら、運がなかったと諦めてちょうだい。あたしもプロなのよ」
そして、〈西部辺境区〉独特の厄除けの九字を切ると、ふり向きもせずDの後を追った。
風と雪が勢いを増しはじめた。
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第三章 新しい生命
1
昼前から本格的な吹雪が襲ってきた。舞い狂う白魔はDの視界さえ奪い、
「こらいかん。一メートル先も見えんじゃろ」
と嗄れ声が呻いた。気だるげな響きを風の音《ね》が拭い取る。
「わしもたるく[#「たるく」に傍点]なってきた。何処かで寝場所を捜さんと危《やば》いぞ」
「保温パックを貼ったぞ」
「あれしきが何の役に立つ。死命を制するのは外気温じゃ」
それはすでに零下二十度を越えているだろう。Dの姿は白魔の一族に溶け、積雪は膝に届いている。並の人間ならビバークしない限り、五分と待たず凍死の運命だ。
不老不死の貴族の血を引いているとはいえ、物理的な歩行は、時速一〇メートルにも届くまい。これ以上の前進は不可能ではなく、無意味であった。
Dは周囲を見廻した。
山腹の方へ向けて左手を掲げる。すぐに、
「山肌に沿って五〇メートルばかり歩け。洞窟がある」
と眠そうな声が応じた。
じき着いた。
長径六メートル、短径二メートルばかりの楕円の下半分を雪に埋めたような洞窟であった。
かなり深く、五メートルも入れば吹雪も吹きこんでこない。そのうち風の向きも変わるだろう。とりあえず、白魔が関心を失うまで待つのが、最良の手段だった。
Dは奥へと進んだ。かなり深い。生物が潜んでいる形跡はないが、確かめておかねば危険だ。襲われてからでは遅い。
一〇メートルほどで岩盤が行手を阻んだ。
左手の平を押しつけるとすぐ、
「大丈夫。本物だ」
と嗄れ声が返ってきた。
戻ろうとふり向いたところで、動きが止まった。
前方へと影がのびている。常人の半分の濃さは、人間と貴族の血を引くダンピールのものだが、影を地上に映す光の濃さはゼロのはずだ。
Dはすでに戦闘態勢《モード》に入っていた。自然に垂らした右手は、長剣の柄が何処にあれ最短で迸《ほとばし》るだろう。
そのくせ殺気も緊張もない二秒間が過ぎた。
Dはふり向いた。
岩盤のあった場所が、さらに奥へと洞《ほら》をつないで、五、六メートル前方に炎が燃えている。焚火だ。無惨な折れ口を見せた木の枝が、表面に樹脂を浮かせている。
誰もいない。洞窟自体がその奥でふさがっているのだ。
「どうやら、心理攻撃にかかったらしいの」
嗄れ声の言葉をどう取ったか、Dは無表情に小さな炎へと近づいた。何者かの心理攻撃だというのは、嗄れ声を待つまでもなくわかっている。疑問はひとつ――どうやってかかったかだ。
雪山の洞窟に潜むのは、Dの超人的感覚と勘さえ凌駕する存在だった。これが「白魔山」のいわれ[#「いわれ」に傍点]か。
左手を炎の上にかざした。
熱い。
ゆっくりと下ろしていく。
嗄れ声は上がらないが、熱は骨まで達した。
本物の炎としか思えない。しかし、左手の反応もないのだ。
Dが左手を戻す――その刹那、四方の光景が歪んだ。
巨獣の咆哮が雪と風を蹴散らし、Dの視界を白い巨体で埋めた。
どうと倒れた身体が吹き上げた雪煙の中に、鮮やかな朱が混じり、なおも痙攣する白い巨体を血の雨のように染めた。
Dは軽く頭をふった。わずかに残る幻覚獣の幻の残滓をふり払ったのである。
開いたままの巨大な口は、上顎と下顎の間が三メートルもある。それぞれ二本ずつの巨大な臼歯が生え、これが一メートル近い。全体の形は河馬の口に似ていた。そのくせ、頭部と胴はあわせて長さ二メートルほどだ。
下顎の奥に数本の枯枝が乗っているのをDは見た。
これを媒体に、ビバークに入った人間へ焚火の幻影を見せたのであろう。そして、自らの口の中へと誘いこむ。雪山で人間が最初に求める幻を見せる――精神感応《テレパシー》の能力も少しは備えていったのかも知れない。
雪片と風が横殴りに叩きつけてきた。洞窟も幻影だったのだ。
「危なかったな」
右斜め前の雪原から、すっくと立ち上がったのは、防寒コートに身を包んだ人物だ。声が名を教えた。
「クレイだよ。覚えてるか?」
右手に掲げてみせたナイフは鮮血に濡れている。分厚い手袋も操作の邪魔にはならないらしい。ゴーグルを外し、マフラーをずらすと、確かにお尋ね者の顔である。
「行き倒れか?」
とDは訊いた。
雪の下から忽然と現われた状況に興味を覚えたらしい。
「人聞きの悪いことを言うなよ。あんたが駄目だと言うから、ひとりでここまで上がってきたのさ。立派なもんだろ。このコートは保温器が付いててな、しかも、フードを被りゃ、寝袋としても使えるんだ。この程度の寒さなら二十四時間寝っ放しでもOKさ。〈東部辺境区〉で通販してる最新型だぜ。そうか、こっちにゃ入ってねえよな」
もこもこしたコートの胸を叩いてから、
「しかし、幻覚獣の術にかかったのはともかくとして、よくこんな吹雪の中を、防寒コートもゴーグルもマフラーも無しで歩けるな。貴族の血が流れてる奴は違うぜ」
「殺したのは、おまえか」
雪の狂い舞う雪原には、二人しかいるはずもない。奇妙な問いに、しかし、クレイは苦笑を浮かべた。
「そうだ。だが、ひとりじゃねえ。――あいつらさ」
顎で示したのは、Dの背後の、雪に閉ざされた雪径だ。
Dがふり返る前に、大中小――見事に区別がつく三つの人影が滲んだ。
正確には四つ。防寒コートに包まれた小さな塊は、大男――ダストの背に負われている。
「危なかったわね、D」
マスクを下ろした女医ヴェラは、まだ火薬銃を掴んでいた。
望遠スコープは、サイズからして疑似映像《ヴァーチャル》スコープも兼ねているに違いない。標的さえ中心に捉えれば、吹きつける雪も霧も消失したクリアーな映像を結ぶ――これなら一メートル先も見えない雪や霧の中でも、正確な狙撃が可能だ。
幻覚獣の頭部の傷が貫通銃創であることに、Dは気づいていたかどうか。
「貸しよ、D」
と女医のかたわらで、しなやかな長身の影の主――リリアが恩着せがましく言った。
「いいのよ、気にしないで」
ヴェラは微笑してみせた。
「女医なのに殺生しちゃったわね」
「気にしないで、先生。そこの自分勝手な色男が自分で蒔いた種よ。カッコつけてひとり先に行くのもいいけど、幻覚獣の口ん中にのこのこ入っていっちゃあ世話はないわ。基礎がなってないんじゃないの、D?」
ゴーグルの下のリリアの眼には、露骨な棘があった。
2
シャワーを浴びる音に口笛が混じって聞こえた。
「“貴族の月”よ。十年も前に『都』で流行った曲」
壁にもたれかけたDにこう伝えながら、女医の眼は、限りない慈愛を、ベッドに横たわる小さな顔へ注いでいた。
ルリエの顔は赤く腫れ、荒い息は火のように熱い。
「こんな小さな身体で、雪の中をよくあそこまで登ってこれたわ。出発したのは夜明け前よ。よほどの理由《わけ》があるのね」
ルリエはまだ、父のことを女医に伝えていないらしい。リリアに救われる前に、疲労と貧しい装備のせいで、高熱を発していたに違いない。
「この様子では肺炎を起こしているわ。薬はあるけれど、ここまで重態では効きそうにないわ。あとは体力勝負よ」
「これは貴族の携帯用退避壕だ」
Dは抑揚のない声で言った。ヴェラの頬が赤らむ。この若者の声は、それほどに美しいのだ。
「薬も備わっていたはずだぞ」
遠くでリリアの声が応じた。
「この壕は、旅の行商人から買った品よ。薬も武器も別売りだったわ。そこまで予算はなくてね」
ヴェラは眼を落とした。年の割に多い皺が、また増えそうな表情であった。
貴族の品――日常の生活用品から、武器、呪術用具にいたるまで――を売買する専門の行商人たちは、辺境で様々な歓迎を受ける。貧しい村の場合、商人たちを殺しても、その品を強奪しようとするところもあれば、裕福な村なら言い値で引き取ってくれる。
商人たちも手を替え品を替え、利益を得ようと努めるのが習いだ。例えば、この避難壕にしても、付属の薬品や武器をサービスでつける商人もいるということだ。
「それにしても、なぜひとりきりでこんなところまで。誰も止めてやらなかったのなら仕方ないけれど、後押しした奴がいるのなら、私、一生そいつを許さないわ」
「保つか」
とDが訊いた。
「だから、この子の体力次第よ。貴族の栄養剤が一本あれば五分で完治するのに、ここでは見守ることしかできない」
ヴェラは、貫くような視線をDに当てた。
「ねえ、あなた、貴族の血を引いているんでしょう? 何か打つ手はない? 体力強化剤のひとかけらでもいいんだけど」
「無駄よ、先生」
二十坪はある壕の奥で、冷やかなリリアの声が吐き捨てた。
「辺境の村でお医者をやってるだけでもえらいのに、貴族に関しちゃどうしてそんなに甘いのかしらね。インテリの悪いとこよ。貴族の血はね、青いのよ。そして、触れたものすべてが凍りつくくらい冷たい」
「よくご存じのようね」
ふり向いたヴェラの前に、戦闘用のボディスーツをまとった長身の身体が、白い湯気をたてていた。
戦闘士の第一装備ともいえる、素肌を守るボディスーツは、ほとんどが火の鱗や鉄人の皮膚を接着したものだが、この娘の品は、光沢からしてもう少し安価な軽合金製らしい“鍛冶屋づくり”と呼ばれる品である。それでも、大口径の火薬長銃弾くらいなら、同じ個所へ命中しない限り弾き返せるし、岩蛇や小鬼どもの牙程度なら、いくら噛まれても平気だ。この上に戦闘用の第二、第三装備をまとえば、赤ん坊でも戦闘士が務まるという。
だが、この娘に関して見れば、身を守る品は、それよりもその下に隠された神の産物であった。
胸部カバーからはみ出した乳房のふくらみ、その下の部分の豊かさを強調するように、思い切りくびれた腰、そして、大胆に切りこんだスカート部分から溢《こぼ》れる脚。そのどれもが桜色に染まって、白い湯気をまとわりつかせ、おまけに何ともいえぬ香り《フレグランス》を濃厚に鼻孔に送りこんでくる。
いま不意に襲いかかった敵がいたとしても、男である限り闘志を失い、返り討ちに遇う運命だろう。
その濃艶な色香を容赦なく四方へふり撒きながら、リリアの眼は憎悪にかがやいていた。狂光といっていい。
「あたしの両親と兄と弟は、貴族に血を吸われた上、首を斬られたわ。血を吸っても自分たちの仲間には入れないってことでしょう。兄は九つ、弟は六つだった。これが貴族の血の正体よ。こいつにはそれが流れている。人間のために何かしろったって無理よ。高熱でうなされている子供を置き去りにした男だと忘れないで」
「すぐ私が来るってわかってたんでしょ」
吹きつける憎しみの気に辟易したものか、ヴェラはこうとりなした。
「どうかしら。ねえ、D、このドクターとあたしがいなければ、子供を手当てした? しっこないわよね」
憎悪の眼差しがふっと消えた。
Dが立ち上がったのだ。
「肺炎を治す薬はないが、欲しい品はある。貰えるか?」
「おや、私の乏しい装備がお役に立つかしら?」
「保温パックだ。雑貨屋にはひとつしかなかった。入荷は明日だそうだ」
「それはそれは――寒がり屋さんとは知らなかった。十もあればいい?」
「ひとつで結構」
「奥ゆかしいこと」
床上のバックパックから取り出した赤い品を受け取ると、Dは意外な行動を取った。
コートの左袖をめくり上げたのである。同じパックが手首を包んでいた。
ヴェラと――リリアまでが、何をしてるのよ、この色男という顔つきになった。
巻いてあるパックを剥がして、かたわらの備え付けのダスト・シュートに捨て、新しいパックの裏紙を剥がして、Dはそれを左手首に巻いた。
女二人の疑惑の眼差しを浴びつつ、拳を握っては開く。
リリアが耐えかねたように、
「何のおまじない?」
「寒がりでな」
言うなり、Dは大きく手首を反らせ、存分にスナップを利かせて手の平を壁へ叩きつけた。
低い呻きが上がった。二人の女の眼が驚愕に見開かれたが、声の行方を追った眼は、ルリエの上に落ちた。
Dは洗面所へ向かった。浴室の横だ。流れ水を代々忌み嫌う貴族の装備に浴室が付属しているのは、人間の女――吸血鬼化する以前の――用である。ある時代の貴族たちは、人間の美女たちをペットのように連れ歩いていた。一種のステイタス・シンボルである。
赤外線温水器の間に左手の平を上向きに通す。
蛇口から水が流れてきた。いや、それは灼熱の湯であった。
手の平で透明なしずくが湯気を伴って弾けるのを、Dは無言で凝視した。
十秒、二十秒――水音だけが蜿蜒《えんえん》と続き、その時の流れにD自身も溶けこんだように見えた。
三分を過ぎたとき、熱湯を浴びつづけてきた手の平――わずかに桜色に変わっただけだが――に波のようなものが生じると、小さな洞が開いた。
湯はそこに流れこんだ。
さらに十秒ほど過ぎて、突然、ぷはあと、生きものが水を吐く音がして、湯は逆に噴き上がった。
そして、間延びした嗄れ声が、
「何を……する?」
「貴族は犠牲者の睡眠中を狙う」
「むむ」
「眼が醒めたか?」
「まだ……じゃ……寒い……寒すぎる……」
ここで、大きな欠伸がひとつ。どうやら、左手の人面疽は寒さに弱いらしい。
そう考えれば、猛烈な吹雪の中を登りつづけたDが、幻覚獣の罠にはまったのも納得がいく。
「ひと仕事できた。もう少し酔い醒ましを飲め」
またも、お湯が散った。
「やめろ、やめんか。もうギンギンじゃ」
小さな絶叫が噴き上がったのは、待つほどもない数秒間が過ぎてからであった。
「信じられないわ」
ヴェラは感嘆の声と眼差しを隠そうとしなかった。
ほんの数分前に、彼女は、Dの左手を胸に当てられた少年の体温がみるみる降下し、呼吸は正常、発汗もなくなるのを眼《ま》のあたりにしたのだった。
貴族の妖術、魔力が幅を利かせた時代にあってなお、厳格な医学者はそれらを認めようとはしない。しかし、いま彼女が目撃したものは、物理的には決して在り得ぬ現象、すなわち、奇蹟と呼ぶべきものであった。
「ダンピールって、あんなことができるの?」
呆然たる女医の問いに、Dは無言を通した。見ればわかるということだろう。
すでにリリアとダストは眠りについている。退避壕の居間にいるのは二人きりだ。
「この年齢になっても、私には貴族がわからないわ」
とヴェラは、疲れたようにソファにもたれかかった。黒檀を磨いた肘掛けを平手で叩いて、
「どう見ても本物でしょ、このソファもテーブルも、あなたも」
長いこと口紅《ルージュ》も塗っていないらしい干からびた唇の間から、細い吐息が洩れた。
「この退避壕だって、他に十室もあるのよ。それが、スイッチひとつで、折りたたみ傘より小さく薄くなってしまう。貴族の所業を憎むよりは、正直言って、先に感動してしまうわ――あ、煙草いい?」
上衣の胸ポケットから、くしゃくしゃの紙箱を取り出し、一本抜いて戻す。煙草の先を肘掛けでこすると、ぽおと火が点った。
「ヘビー・スモーカーかの」
ヴェラは激しくむせた。声は嗄れていた。
何度も胸を叩き、呼吸を整えてから、
「上手な腹話術ね。でも、趣味がよくないわ」
Dは左拳を握りしめた。低い声が途切れた。
「私は〈西部辺境区〉の大学で、医学と物理学を学んだ。だから、貴族たちの遺していた学術的レベルも、その文明の実質もある程度わかるつもりよ。世界を導くものは生きる者の意志だけど、それを支えるのは科学。人間はこの先、何十万年たっても、貴族のレベルまでは達しられないでしょう。そんな貴族たちも落日を迎えつつある。文明とか科学とか、そんなにはかないものなのかしら? いいえ、不死の生命をもってしても、世界が終末を迎えるのを止めることができない。では、生命の意味は何処にあるの?」
「どう思う?」
Dは静かに訊いた。深い黒瞳に、ヴェラの姿が映っていた。
女医は少しためらい、深く一服を吸いこむと、ゆっくりと吐き出した。煙はキノコのようにふくらみ、やがて消えた。
ヴェラはDを見つめて言った。
「生命の意味は――死ぬことよ」
「………」
「限りがあると言い換えてもいいわ。こうして、人は生きる意味を見出そうとするの。たとえ見つからなくても、ね」
「限りあるものは、いずれ滅びる」
とDは言った。
その美貌に、幽《かす》かな寂寥がゆれていた。
「その意味で、人間も貴族も変わりはない」
「いいえ、決定的な違いがあるわ。人間は生命を創り出せるのよ。貴族がいくら不老不死を誇っても、これは真似できないわ。彼らが可能なのは、人間の血を吸って仲間に入れること。でも、彼らは――」
「それも新しい生命だ」
ヴェラは沈黙した。何度か同じような状況に遭遇したことがある。その経験が、間髪容《い》れず、最良の対処法を選ばせた。
3
「言ってることが、よくわからないわ」
このひとことの間に、女医の脳は数千回に及ぶ問いかけと回答をこなしていた。
どういうこと? 新しい生命とは? 新しいの意味は? 生命の意味は?
答えは、大脳生理学も明らかにしていない脳の暗黒域からやって来た。
「D――あなた、貴族の仲間に加わることも、生命だというの?」
「新しい生命かも知れん」
「ごまかさないで」
ヴェラは右の拳を肘掛けに叩きつけた。鈍い痛みが肩まで走り抜けたが、気にもならなかった。全身が熱い。それが怒りのせいだと意識もしていなかった。
「どうすれば、そんなことを考えつけるのよ? 血を吸われて、貴族の仲間に加わった連中――そして、彼らもおぞましいことに血に飢え、血を求める。これが悪鬼でなくて、なに?」
「おまえたち[#「おまえたち」に傍点]も食事をするはずだ。貴族は血を吸う――何処が違う?」
「違いますとも。彼らは人間の血を吸うのよ。吸われた者は一度死ぬ。そして、奴らの仲間に加わる。安らかな眠りは永劫に訪れないわ」
「死してなお甦る。これを新しい生命とは呼べんのか?」
「生命じゃないわ。貴族の犠牲者は生きてもいないし、死んでもいない。永劫に“生ける死者”と呼ばれるのよ」
「では、貴族はどうだ?」
あくまでも、冬の静夜のごときDの問いであった。
「彼らは――」
ヴェラの言葉は次がなかった。
「彼らもまた死して甦ったものなのかどうか、おまえは知っているか? こう考えてみたことはないか? 最初から死んでいるならば、そして動き、考え、文明さえ構成し得るなら、彼らこそ新しい生命体ではないのか?」
女医は激しくかぶりをふった。考えがまとまらなかった。Dの言葉は、彼女自身考えたことがないとはいえぬ見解を示していた。だが、いま、それはなにを犠牲にしても打ち砕かねばならぬ邪説であった。
「貴族は光の下を歩けないわ」
「例外はある」
「貴族は昼間、柩の中で眠る」
「人間《ひと》も夜、ベッドで眠る」
「血を吸うわ」
「人間は肉を食らう。しかし、奪った生命を復活させることは不可能だ」
「そんな生命、呪われているわ! 貴族と同じだなんて!」
「貴族を理解せず、その存在を否定するのは、少なくとも科学を口にする者が採るところではあるまい」
「貴族のことなんか、誰よりもわかってる」
ヴェラの声は急に低くなった。
「私の母は貴族の館に雇われていたのよ。給料は出るし、血も吸わないという約束だった。その館の主人は約束を守ったわ。でも、お客のひとりが母を見初めて――逃げようとした母は、喉を裂かれて死んだわ。私は貴族を許さないわ」
「ほやあ」
と嗄れ声が呆れた。
怜悧《れいり》といってもよい女医の眼に、憎悪の色が暗い渦を巻いていた。
貴族が人間を雇い、一定期間の労働の後、無事に家へ返すのは、「都」以外の〈辺境区〉では稀な例である。
いわゆる西暦(BC、ADの意味はいまだに不明である)五〇〇〇年から七五〇〇年にかけて正式な契約書を交わした上で――吸血行為は行わぬ旨の明記あり――貴族の許に雇われた人間の数は、〈辺境区〉全体で七千六百二十八名に及ぶ。おぞましいと人間側で破棄した契約書もかなりの数に上るとされ、必ずしも正確な数字ではないが、このうち九割五分が円満に契約を履行し得ていることは、従来の――そして、現在に至る――〈貴族否定学派〉にとって、大いなる敗北ともいうべき事実であった。
貴族とは、人間を餌としか見ない肉食獣だという伝統的な説は、この時期、大きくゆらいだのである。
だが、貴族の吸血行為と残忍さは、DNA内に存するやむを得ざる宿命だと主張する、いわゆる〈貴族肯定学派〉も、この約二千三百年後、新たに発掘された事実にあって、大打撃を受ける。
同じ時期に交わされた別の契約書と貴族の日記は、正当な契約履行の約三倍にあたる呪うべき不履行が存在したことを、世界に知らしめた。
これ以降、〈貴族否定学派〉の優位は覆えらず、現在《いま》に至っている。人間にとって、貴族はほぼ一万年にわたり、頭上に君臨する主《あるじ》かつ悪鬼のごとき存在なのである。
「同じだな」
Dの声が低く流れた。それはいつものように冷たく、限りなく暗かった。
「科学とは、現象のみを確認して満足するものではあるまい。その奥に潜む別の事実――真実を実証する精神だ。それは想像力によって支えられるといってもいい。考えたことはないか、ドクター、貴族と人間が同じ立場で生き得る可能性を?」
「え?」
これと、呆気にとられたような表情が、ヴェラの反応であった。
「え? ――え?」
女医は激しく頭をふって、
「ちょっと待って。そんなこと考えたことも――」
「嘘をつくな」
女医は凍りついた。肺腑を抉り、血を噴く暇も与えず凍りつかせるDの声であった。
「嘘じゃない。違う。どうして、嘘だと思うの?」
「出逢ってからの、おまえのこ奴[#「こ奴」に傍点]を見る眼でわかる」
女医は眼を白黒させるしかなかった。Dの声は別人のごとき嗄れ声に変わっていた。
「大概の人間は、恍惚と我を忘れる。だが、その底に隠しようのない脅えがあるのだ。人間の骨に刻みこまれた種の記憶――おまえにもそれはどうにもできん。その上で、おまえのこ奴[#「こ奴」に傍点]を見る眼は違っていた。それは理解者の眼じゃった。単なる上っ面だけの〈肯定派〉やらとは根本的に異なる、貴族の本性を理解しようと苦闘し、ついに真実の断片を勝ち取った者の眼よ。それは、おまえを襲った悲劇をもってしても揺らぎようがない。E=mc2は、いかなる悪意の下でも厳然とかがやき続ける真理じゃ。おまえはそれを知っておる」
ヴェラは呆然となった。次の言葉を紡ぎ出すのに、たっぷり十秒を要した。
「嘘よ……それこそ嘘……私は生涯、貴族を憎んで……」
その身体が急に震えはじめた。
小刻みに、さらに細かく、身体はぼうと霞んだのである。それはすでに人体の行う震動の限界を超えていた。
「これはこれは――」
嗄れ声が呆れ返ったようにつぶやいた。
「分子震動による肉体と精神の変形――わしも見るのははじめてじゃ」
平凡な田舎の女医の身に何が生じつつあるのか。
だが、徐々に震えは収まっていった。輪郭がぶれだし、ひとつになり、震え自体が収まると、ヴェラはぐったりとソファの背にもたれかかった。
「何じゃ、勿体をつけよって」
嗄れ声が異議を申し立てたが、Dはヴェラを持ち上げ、ソファに横たえた。
「放っておけ。期待外れのこけ威し女め」
なおも罵る声へ、
「肉体と精神が分離した場合、どちらも前と同じでいられるのか?」
とDは訊いた。
「いンや。全く別人のようになると言われておるな。ただし、わしもこの眼で見てはおらん」
「どうなる?」
「そうじゃな。極めて平凡な女の精神が、希代の大嘘つきに化ける、とか」
「………」
「獅子身中の虫というが、これは大事じゃぞ。ひとりは女ながらも戦闘士、いまひとりは女医。どちらも、意識の表層では吸血鬼を憎悪しているときた。片方だけでも、いざというときは厄介なのに、手でも組まれたりしたら、危険この上ない。いまのうちに始末したらどうだ? ――ぎぇ」
拳を握りしめたDのもとへ、気配を感じたらしいリリアとダストが駆けつけた。
長剣と棍棒を手にしている。クレイは――眠っているらしい。
「どうかしたのか?」
ソファの上で半失神状態のヴェラを見下ろして、ダストが訊いた。
「なにも。よく眠っておるじゃろ」
「なあんだ。起きて損した」
とリリアが大欠伸をひとつし、ダストが殺気を解いてから、
「聞こえるか?」
とDが訊いた。
「なにがよ?」
リリアが耳を澄ませたが、二度ほど眼をしばたたいてから、
「なにも――外になにかいるの?」
「なにも見えないぞ」
窓から外を覗いたダストが首をふった。
「気のせいじゃ」
嗄れ声に、リリアが肩をすくめた。
「人騒がせね。人の血を吸うんなら、もっと静かにやんなさいよ」
「先生は――どうした?」
ダストがソファのかたわらで訊いた。
「軽い貧血じゃな。すぐ治る」
「違うわね。この顔色、貧血なんかじゃないわ」
リリアが横槍を入れた。鋭い視線をヴェラの首すじに当て、
「頚動脈は無事だけど、念のため裸にして調べた方がいいわよ。なにせ、ダンピール相手だし」
「あんたがやった[#「やった」に傍点]のか?」
ダストが眼を光らせた。
「そうなるな」
今度はDの声である。
「先生が眼を醒ましたら事情を聞く。場合によっちゃ、ただではおかん」
ごつい手が棍棒を握り直したとき、
「なにも、なかったわよ」
ソファの上で、ヴェラが上体を起こした。
「先生、無事かい?」
ダストが、ちらとそちらを見て、すぐDに視線を戻した。
「軽い貧血よ。寒さに弱くてね。リリア、あなたももう少し言葉を慎みなさい」
「あらあら、急にこいつ[#「こいつ」に傍点]の味方? ま、いい男だからねえ」
「なんですって?」
女医の怒りの表情に、女戦士も肩をすくめた。
「はい、ごめんね。言い過ぎたわ。でも、ガードマン、先生の全身チェックをした方がいいわよ」
腰をくねらせながら、女ハンターは部屋へ戻っていった。
「あなたも戻って、ダスト」
「しかし」
「大丈夫よ、この男性《ひと》は人間にあまり興味がなさそう。特に女には」
ヴェラには笑うゆとりがあった。
「まさか、本当に血を吸われたなんて、疑ってるんじゃないでしょうね?」
大男はDにひときわ強い視線を浴びせ、もう一度ヴェラの方を見て、すぐに立ち去った。
「冷たい護衛じゃのお。曲がりなりにも吸血鬼騒ぎで、その犯人と犠牲者を放置していくか」
呆れたような嗄れ声に、ヴェラは苦笑を浮かべた。
「いいのよ、気にしないで。それより私――どうなったのかしら?」
「何も。貧血を起こしただけだ。今夜はもう休め。おれはここで寝る」
「やはり、その声の方が素敵ね」
ヴェラは頭を掻いた。
「おまけに、子供についててくれるつもりね。でも、休むのはあなた。これでも医者の端くれよ」
「好きにしろ」
ここで寝ると言った言葉が嘘のように、Dはドアへと向かった。
廊下へ出た。通路というほど狭くはない。壁の開閉スイッチに触れると、窓が開いた――というより生じた。
陽光を厭う貴族も夜景は眺める。ただし、窓の存在は昼を受け入れることになる。その折衷案がこれだ。
白魔が荒れ狂う世界を一瞥し、
「おるな」
と嗄れ声が言った。
「明日から厄介な旅になりそうじゃ」
返事は無論、ない。
どのような旅も、この美しい若者の歩みと意志を妨げることはできぬ――沈黙はそう告げているようだった。
窓が閉じた。
Dが見つめているあいだ凍りついていた幾つもの気配が、雪の中でようやく蠢きはじめたが、たちまち、荒れ狂う白魔の舞に吸いこまれた。
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第四章 呪われた捜索
1
吉兆がつづいたといえるかも知れない。
白魔の奥から陽光と晴天が広がりはじめたのは、夜明けを少し過ぎた頃であった。
同じ頃、ルリエも眼を醒ました。血色も戻り、意識もはっきりしている。体調もよさそうな笑顔を見せた。
「辛くない?」
とヴェラが訊くと、ええ、と力強くうなずいた。
少し考え、ヴェラがダストを呼び、
「この小父さんと山を下りなさい」
と言っても、
「いやです」
と唇を結んでかぶりをふった。
「でも、正直言うと、みんなの足手まといなのよ」
「わかってます。だから、最初からひとりで登ってきました」
「ひとりはいいけれど、君になにかあったら、私たちは助けに行かなくちゃならないわ。もう、ひとりじゃないのよ」
「先に行ってください。それなら、僕のことなんかわからない。前を向いて進めば済みます」
「そんなことできるわけないでしょう」
ヴェラはため息をついた。ここが我慢のしどころだった。それに、少年の様子には、こちらの怒りを鎮めてしまうひたむきさがあった。
「君を見つけたとき、父さんが遭難したのを捜しにきたと言ったわね?」
「はい」
「本当にそれだけ?」
「はい――どうしてです?」
ルリエの眼はいったん伏せられ、いまは女医を見つめている。
「この山で家族が行方不明になった人は、村にもいるわ。自分の子供を見失った親もいる。でも、こんな時期に捜そうとはしない」
「はい」
「それなのに、白魔の荒れ狂う時期に登ろうとする――待ちなさい――確かに私たちが一緒よ。でも、君はひとりでも父さんを捜すと言う。本気だと思うわ。だから、気になるのよ。ね、お父さんは、ただ行方不明になっただけ?」
「――そうです」
ヴェラは少年の眼を見た。少年はすぐにそらした。その意味を女医はすぐ理解したが、内容まではわかりかねた。これ以上追及すれば、少年は意固地になるばかりだ。
「仕方がないわね」
ヴェラはため息をついた。
「いまなら安全な下山も可能よ」
彼女はドアの方へ向かって歩き出した。ルリエの後ろを通る。
か細い首すじに女医の右手と、袖口から滑り出した麻痺銃《パラライザー》が押し当てられた。
少年が前のめりになるのを素早く支えて、ダストに横たえさせる。
「早く下ろしてちょうだい」
と、昨日、打ち合わせ済みの結論を告げる。巨漢はうなずいた。うなずいたものの躊躇した。
「おれは先生の護衛なんですぜ」
「その子が何かしでかしたら、私も危ない目に遇うわ。村へ帰してくれるのが最高の護衛よ」
「………」
「お願い。あの人たちがまだ眠っているうちに、ここを出て」
「――わかりました」
「それから、あなたはもう帰ってきては駄目。いいわね」
「………」
「お願い。娘さんと同じ目に遇わせたくないの。奥さんは、私を呪い抜いて死んだわ」
「………」
「この上、あなたに何かあったら、私、死ぬまで苦しむことになるの。あなたを護衛役に選んだ村の連中を、私は一生怨みます」
女医の血を吐くような告白にも、岩のような顔は微動だにしなかった。それが示すのは、憎悪さえ越えた冷やかな無常だった。
女医と護衛――この二人の間に何があるのか?
「戻ります」
ダストは、ぽつりと口にした。
自分の言うことを理解したのでも、同意したのでもないことは、ヴェラにもわかっていた。この男にとって、ヴェラは護る対象以外の何ものでもないのだ。そのためには、少年を連れて帰った方がいい。そう判断したにすぎない。
「ですが、おれがいなくなったら……」
「大丈夫。自分の身体くらい守れるわ。それに、いざとなったら、あの三人だって放ってはおかないでしょう」
ダストは沈黙した。それはヴェラの言葉の信憑性をはなはだしく疑っている証拠であった。
二人のハンターとお尋ね者――いざというとき、他人のことなど考えるような連中とは到底思えない。
だが、昏々と眠りつづけるルリエを背に、村の護衛役が貴族の退避壕を出ていったのは、それから十分後のことであった。
さらに五分もしないうちに、リリアが起きてきて、
「あら、あの坊主はどうしたの?」
言い終わらぬうちに、爛と眼を光らせて、
「まさか、村へ帰したんじゃないでしょうね?」
「ここからなら戻れるわ。それに、あの子はいずれ足手まといになる」
「あんたの方がなりそうよ、ドクター」
とリリアは毒づいた。
「ここが安全圏だとでも思って? 私なんか、ひと晩中、外をうろつく連中の気配を感じてたわ。あなた、死出の旅に出したのと同じよ」
「……まさか」
ヴェラは体内に轟く規則的な爆発音を聞いた。それは彼女の心臓の音であった。
「いつ出てったの?」
「五分くらい前よ」
「なら、まだ間に合うかも知れないわ。すぐに追いかけるわよ。あんたはここにいなさい。――D? D」
戸口の方へ喚びつつ、女ハンターは獲物にとびかかるような勢いで居間を出ていった。
十秒としないうちに戻ってきて、
「いないわ」
運命でも噛みしめるみたいな声で呻いた。
「あいつ、一体、何を?」
ここで白々しい表情に変わり、
「ま、子供のひとりや二人いなくなっても、厄介払いみたいなもんだけどさ」
そう言いながら、
「寝醒めが悪くなりそうだわ。ちょっと追いかけてみるわね。あのでっかいのが、通話機か何か持ってるとうれしいけどね」
「残念ながら」
リリアは舌打ちして、手にした長剣の柄を叩いた。そこへ、
「おう、どうした?」
眼をしょぼつかせたクレイが顔を出した。
「いい男はいいところへ来るわね」
リリアが舌舐めずりしそうな顔で言った。
「え?」
五〇〇メートルも行かないうちに、クレイがぶつくさ言いはじめた。こんな寒いところを当てもなくさまよい歩くのは嫌だ、というのである。
「おれは疲れた。退避壕が好きだ」
「あれはあたしのよ。今夜からビバークしたいのなら、戻んなさい」
「この糞女《くそあま》。足下見やがって」
歯を剥くのを無視して、雪の上を足下から彼方まで見やり、
「ちゃんと足跡は残ってるのよ。目印があるだけマシでしょ。男だったら、うだうだ言わずについといで!」
「くっそお」
と言いながらも、クレイは妙な顔をした。
「おい、Dの野郎はどうした? そういや、退避壕の中にはいなかったのに、何処にも足跡がねえと来てやがる。野郎、夜半に逃げ出したかな?」
「いいえ」
「やけに自信があるじゃねえかよ」
「あそこよ」
リリアが顎をしゃくった先へ、クレイの視線が注がれた。
ちょうど、傾斜のはじまったところから、二個の人影がこちらへ向かってくる。
「なんでえ、二人いるぜ」
と言ってから、クレイはたちまち緊張を覚え、同時にあることを理解した。
傾斜路の開始地点からこちらへ向かってくる人影は、ゆっくりとDとダストの姿を整えていった。ルリエはダストの肩だ。
そのダストのごつい顔がはっきりしてきたとき、
「あのでかいの、あんなに顔が赤かったか?」
「危《やば》いわね」
リリアは雪に足を取られつつ駆け出していった。
ダストの顔のみならず上半身は、鮮血で赤く染まっていたのである。
「この子、無事?」
ダストはうなずいた。裂けた額の上に、肌色のプラスターが貼ってある。殺菌消毒用の医療品である。ヴェラが持たせたものであろう。
「何も知らないで――可愛くない小僧ね」
ダストの背中で、まだ麻酔の醒めていないルリエ少年は安らかな寝息をたてていた。
すぐに、ダストの顔へ眼をやり、
「大した傷じゃないわね。誰にやられたの?」
「ユキムシだ」
雪中に巣くう体長一メートルほどの昆虫である。全身白色のため、容易に見分けがつかない。武器は爪と牙。氷中の小昆虫を捕食するためそれなりに鋭いが、動きは鈍いため重装備した人間なら一対五まで互角に渡り合える。
「何匹いたの?」
「ざっと六十匹」
「それで、これだけの傷で済んだの?」
ダストはかたわらの美影身に顎をしゃくった。
「三十二匹片づけ、三十三匹目にやられた。そのとき、来てくれたんだ」
顔も声も無愛想この上ないが、眼に感謝の光があった。その相手はきらめく雪原よりも美しく沈黙を守っていた。
「多少動きが鈍いとはいえ、爪の速さは人間の十倍だ。それをかすりもさせずに、五匹ずつまとめて六太刀《たち》で片づけてちまうとは、な。どっちが化物かわかりゃしない。はじめて、ダンピールの実力を見たよ」
下山は諦めた。Dが送ってくれるはずもない。
並んで歩き出すと、リリアはすぐDに訊いた。
「ねえ、ダンピールさん、訊いてもいいかしら?」
「なんなりと」
その嗄れ声に、眉をひそめながら、
「外でなにをしていたの? まさか、二人が出てったのに気づいて、追いかけたっていうんじゃないでしょうね?」
「そうじゃ」
「………」
「実は割合、人情家でな。性根が甘く――いいや、ウツクシクできておる、けっけっけ」
笑い声は、ぐえという苦鳴で終わった。
左手を握りしめたまま、Dは、
「周辺調査だ」
と言った。
「やっぱりね。あんたみたいな男が、他人のことなんか気にするわけないわよね。なんてったって、貴族の血を引いてる貴公子さまだもの」
その眼前で白光が閃いた。
きん、と鳴った。火花の音であった。
Dの刀身をリリアの小太刀が鼻先で止めていた。すぐに離れた。事もなげに鞘へ収め、無言で歩き出すDへ、
「脅しのつもり? お気の毒さま、あたしもプロよ。でも、大したものね。さすがに長刀を抜く暇はなかったわ」
リリアの声が追いかけた。
「お返しはいつかするわよ、この件が済んでから」
「やめておけ」
「え?」
怒りの声とともにふり向くリリアの眼の前で、ダストも歩き出そうとしていた。
「ちょっと、いまの台詞、どういう意味よ?」
足を止めずに重い声が、
「あの男――よく、おまえを生かしておいたものだ。やはり女扱いをしたな。確かに人情家だ。ただし、恐るべき人情家というべきだが」
「取り消しなさいな。あたしは、あいつの剣を受け止めたわ」
リリアは我慢ならなかった。ハンターのプライドがかかっている。
「受けられるように切ったからだ」
「受けられるように?――いえ、切った?」
ダストは左手を下ろし、鼻の頭を人さし指でこすった。
「手当てをしろ。美人が台無しだ」
「ちょっと――」
歩み去る子供を負った背へ呼びかけ、女ハンターは異常に気がついた。
むず痒いそこへ、そっと人さし指を押しつけ、眼の前へ持ってきて、
「――まさか」
低く呻いた。はじめて聞く、自らの絶望と恐怖と驚きの声であった。
指先は真っ赤に濡れている。
Dの刀身が断ち割った傷から洩れる、リリアの血糊であった。
2
一同が出発したのは、一時間後であった。
退避壕に常備してある人間用の非常食を摂れば、壕をたたむのは三十秒で足りた。
スイッチひとつで折りたたまれ、薄い電子プレイヤーほどにまとまった壕を見て、クレイが口笛を吹いた。
「おかしなものをこさえやがる。貴族も雪山登山てのをやるのか。そこに山があるからだ、とかよ。冬季はスキーを楽しんだろうよ」
クレイは腹を抱えて笑った。
「どう思う、D? 想像してみろよ。黒マントに牙を生やした色男とイブニング・ドレスの女どもがナイト・スキーだとよ。笑え、頼むから笑ってくれ」
無論、Dは返事もせず、先に立って歩き出した。
「なあ、おい」
ついて行こうとするリリアの肩に手をかけた途端に、女の身体はふわあと、空気に押されでもしたみたいに前方を歩いていた。
クレイはにやりと笑った。この辺はさすがというべきだろう。
「昔、半分沈みかけた島国へ行ったことがある。そこの奇現象のひとつに『逃げ水』というのがあってな、触れようとすると、遠のいちまうのさ。おまえは『逃げ女』だ」
「なら、触ってごらん」
挑発的に身をくねらせるリリアへ、
「もう少しおれ好みの女になったらな」
とやり返し、
「あれか――Dって生きてるのか?」
「え?」
リリアは、こいつ気は確かかという風な眼つきになった。それから、底意地悪い表情になって、
「半分だけね」
と答えた。
「それでか」
「なにが?」
クレイは雪の上に顎をしゃくった。
「きれいなもんだ。足跡ひとつねえ」
返事はない。
後ろの女医と護衛と足手まといの少年が、ようやく滑らかな雪の上を見つめ、なんとも不気味な顔つきでDの方に眼をやったとき――
晴天の陽光《ひかり》よ、隠蔽同盟を望んだのか。或いは、果てしなき白銀の大地よ、永劫に彼を呪って排斥せんとするか――黒衣の姿は、もはや何処にも見えなかった。
「おおい」
そう呼んだのは男の声だ。
Dは足を止め、ふり向こうとした。
途中でやめた。
「どうしたの?」
嗄れ声が左手のあたりから訊いた。
「ふり向けば首が飛ぶ」
「何?」
「おれは“コース”を歩いている」
「“コース”!? いかん、それがあったか。何とか横へ出い」
「無駄だ。この“ルート”へ足を踏み入れたら、何処までも歩くことになる。なんとか出口を捜すまではな」
「むう。気がつかなんだ。いつの間に……」
「役立たずが」
氷雪より冷たいDの声であった。
「糞ぉ。この冷気で勘が鈍っておるのじゃ。どうする?」
「行くしかあるまい」
「おまえの剣よりも向うが速いか?」
「いい勝負だろう。だが、首を落とされても、おれは甦らねばならん。おまえにできるか?」
嗄れ声はつまった。苦渋の呻きが、うーむと出た。
「正直、少々瞼が重くなってきよった。おまえひとりで切り抜けてくれると助かる」
「役立たずが」
Dの口調は冷たく、しかし、責める調子はなかった。左手と嗄れ声がなくても、この若者は独りで往くのだろう。
だが、道は尾根にさしかかっている。そこまでが、死の道なのか。
「――どうする?」
嗄れ声は、一層、嗄れている。
Dは返事もせずに歩いた。白雪も恥じらうような美貌はいつもと変わらず、歩みに変化はない。
あと三メートルで尾根にかかる。
二メートル。
一メートル。
あと――
背後で風が鳴った。
音はDの首へと走った。
光が迎え討った。
空中に鮮血が舞い、雪を染めた。それはDの血であった。
彼は左手を右の首すじに当てていた。血は手首から溢《こぼ》れ、そこから先は宙に舞いつつ、二メートルばかり前方に赤い斑《ふ》を撒いた。
光はDの手に戻った。まばゆい刀身が。
雪の上から、いててと悲鳴に近い声が上がった。切断された左手首が洩らしたと知れば、後方の連中は度胆を抜かれたに違いない。
Dは素早く移動して、雪から出ている手首の切断個所に腕の切り口を押しつけた。持ち上げた。五指は尋常に動いた。
そのまま首の傷に当てた。左手で庇ったものの、見えざる敵の刃は、Dの首にも損傷を与えていたのである。噴きつづけていた血潮は、しかし、ぴたりと噴出をやめた。
左手が離れた。そこには薄赤いすじが一本残っているきりだった。
「やったの」
嗄れ声は左手から出た。
「正体も姿も見えんまま消滅したわ。これだから山だの海だののそばには近づきたくないわい。それにしても、速さでおまえと互角とは、とんでもない山の魔物じゃ。それをあっけらかんと片づけるとは……」
声がすっと引いた。意味は明らかだった。
次の調子は変わっていた。怒りを剥き出したのである。
「いくら、首をとばされるのを防ぐためとはいえ、このわしをカバーに使うとは、とんでもない男じゃ。おかげで、いってって――じゃぞ。おい、何処へ行く?」
Dは、やって来た方向へと雪を踏みはじめていた。
「滅びていない」
「え?」
「急所は断ったが、致命傷になるにはまだ少しかかる。問題はその少し[#「少し」に傍点]だ」
「おい、まさか。あいつら[#「あいつら」に傍点]が来るぞ」
Dはまさしくその方角へ足を進めていた。
五分と行かないうちに、雪原の向うに五つの人影が見えてきた。少年も歩いているらしい。
「気配が読めるか?」
とD。
「読めん」
素直な返事に、Dは足を速めた。
「おっ」
嗄れ声は驚きとも感嘆とも取れた。
何処から見てものんびりと歩いていたクレイとリリアが、同時に左右へ跳んでのけたのだ。
次の瞬間、二人の手にはナイフと長刀が握られていた。抜いたところを見たものはいまい。コマ落としのような動きであった。見えざるものの苦鳴と苦痛が空気を伝わってきた。
「やりよった」
Dの腰のあたりで、左手が呻いた。
「眼にも見えず、気配も感じられない奴を、おまえ以外にさばける遣い手がおるとはな。しかも、二人もだ」
「おーい、見たか、色男」
クレイが口の脇に手を当てて叫んだ。一同が走り寄ってくる。先頭は少年だった。
「いまのやつ、あんたなら見えただろ[#「いまのやつ、あんたなら見えただろ」に傍点]? おれのナイフで一発さ」
「ほおほお、大したもんじゃ」
と左手がまぜっ返した。
「異議がありそうな女神さまが、お出ましじゃぞ」
ただひとり鷹揚に歩いてきたリリアが、ようやく仲間に加わって、クレイをにらみつけた。
「自分ひとりの手柄にしたんじゃないでしょうね」
「おめえこそ、妙な言いがかりをつけるんじゃねえよ。おれのナイフのおかげだろうが。なあ坊主、いまの奴はおまえを狙ったんだぜ。それを、このクレイ兄ちゃんが助けてつかわしたんだ。有難く思えよ」
「この子にわかるわけないでしょ。嘘を嘘で塗りつぶすなんて汚い男ね。サイテー」
「おかしなこと言うじゃねえか。おめえのお飾りで、この坊主を救ったとでも言いたいのかよ?」
「少なくとも、あんたのオモチャよりは速かったわね」
「面白え」
クレイはにやりと笑って、ルリエの頭から手を離した。
「最初《はな》から虫が好かなかったんだ。女の分てのを思い知らせてやるぜ」
「あーら、楽しいお申し出だこと。あたしも、実力《ちから》も脳味噌もない男は、自分を知った方がいいと思うのよね」
女ハンターとお尋ね者――ある意味決して理解し得ない二人を、最もふさわしい雰囲気――殺気が取り囲んだ。
立ちすくんだルリエを背後から女医が抱きしめた。
氷原を冷気を孕んだ風が渡っていく。それよりも冷たい殺意に、世にも美しいハンターの影すらも凍りついたように見えた。
3
「おい」
嗄れ声が小さく訊いた。
「放っておいていいのか? ま、おまえが、こいつらを気にして戻ったのではないのは先刻ご承知じゃ。手傷を負わせた化物を始末にきたのじゃろうが。それにしても危《やば》いぞ。なぜ止めん?」
Dは――沈黙。その後で、呆れ返ったような嗄れ声が、
「おまえ、まさか、二人の技を見るために? どっちかが死ぬぞ。いや、悪くすれば両方とも」
天与の美貌は、眉ひとすじ動かさず、対峙した男女を見つめている。あまりに美しく、あまりに冷酷に。
Dよ、そうなのか?
だが、真相は風を切る音が永遠の謎とした。
ひとつではなかった。
頭上から押し寄せるおびただしい斬気の響き。
光が躍った。
火花が弾け、金属音が氷原を渡っていく。
六人の周囲に突き立ったものは、すべて鉄製の矢であった。
数は五十本を下るまい。
「どいつだ?」
とクレイが右斜め前方を眺めた。
「山人《やまびと》さまね」
リリアも同じ方角を向いている。
「退避壕を作れ」
Dが指示した。
「嫌よ、勿体ない。あれ、高いのよ」
そっぽを向くリリアへ、
「子供がいるのよ」
とヴェラが叫んだ。
同時に銃声が轟き、女ハンターの頬を熱い痛みがかすめた。Dを除いた全員が伏せる。
「もう!」
リリアはベルトにくくりつけた折りたたみ壕に手をかけた。仕方がない。
Dの右手が上がった。
リリアとクレイが眺めた方角で、Dにしか聞こえぬ悲鳴が続けざまに弾けた。彼は白木の針を放ったのだ。
一〇〇メートルばかり離れた雪の上に、赤い点が幾つも広がっていった。
「やるねえ」
クレイがふり返って眼をかがやかせた。そんな彼も、一〇〇メートルを飛んだ武器が細くて軽い木の針だと知れば、腰を抜かすかも知れない。
新たな銃声が、ふたたびその頭を伏せさせた。
「畜生ども。火薬長銃を持ってやがる」
「見えないわね」
「この辺りの山人の特徴よ。カメレオン効果服を着てるの」
ヴェラが謎を解いた。
カメレオン効果服とは、自らの体色を周囲の色に同化させて不可視とするある種の生物たちの能力を、服に応用したものだ。
黒い服が闇に溶けるように、この服を身につけたものは忽然と視界から消滅する。しかも、立体感さえも失い、視認は事実上不可能だ。
果てしない白色の広がりの中の敵は、ユキヒョウ以上に自在に獲物に近づき、凶器をふるうだろう。まして、ある程度の距離を置けば、勝負の帰趨は百パーセント明らかといえた。
「おい、伏せろ!」
とダストが声をかけた。
「放っとけ」
とクレイ。
「ダンピールよ」
とリリア。この辺は気が合うらしい。三人の人間性が表われたやりとりであった。
Dが身を屈めたとき、銃声が頭上を過ぎた。三つだ。
「都合六人」
と嗄れ声がささやいた。
「偵察隊ね」
とリリア。
「ここはあたしにまかせて」
「やめとけ。小便ちびるぜ」
凄まじい憎悪の炎を湛えた視線が、クレイを貫いた。
「じきに後悔させてあげるわよ」
「悪《わり》いが、後悔したのは、この世に生まれてきたことだけでな」
「いい加減にしろ」
ダストが低く叱咤したとき、リリアが立ち上がった。
「あっ!?」
と叫んだのは、そのリリア自身だ。
彼女の一歩先を黒衣の影が走り、その右手が背中に廻るや、彼の全身のみならず、リリアの視界まで白く染まったのだ。
Dの刀身がひと薙ぎで巻き起こした雪煙であった。
灼熱の弾丸に通過を許しながら、雪は嵐のごとく銃声へと迫った。
射手は高をくくっていたに違いない。銃声だけで自分たちの位置を発見できるはずがないと。
すでにDの針は四人を斃している。そして、銃声はその後も鳴り響いた。
雪原の一角に白い渦が巻き上がった。
それは突如、真紅に変わり、声もなく二つの赤い人形《ひとがた》が雪面にのたうった。
「ほお」
嗄れ声は、Dのかたわらで長剣をひとふりしたリリアに向けられたものである。
雪の上に鮮血がとび散った。
「あんたひとりに、いいカッコさせないわよ」
嗄れ声のほお[#「ほお」に傍点]は、その笑顔に向けられたものかも知れない。やっと実力を示す機会を得た――そんな素直な笑顔であった。この娘も美貌の戦士なのだ。
「どう? 認めなさいよ、あんたにヒケを取らない腕だって」
「阿呆」
憤然とリリアはふり向いた。クレイの皮肉っぽい笑顔が迎えた。
「どういう意味よ」
クレイは無言で顎をしゃくった。その先で、Dが血まみれの男の死体から、白いコートを脱がしていた。
「な。カメレオン・コートが使えるよう、彼は相手の首を突いた。ところが、おめえは粋がって、首のつけ根から肺までずばりだ。役に立つコートが丸々ぱあよ。こういうのを女の浅知恵ってんだ」
「言ったわね、この小悪党」
リリアの全身から憎悪の気が渦を巻いて噴き上がった。
クレイの右手にもナイフが光っている。
だが、相容れない戦士同士の決着は、またも重々しい男の声で中断を余儀なくされた。
「やめろ。偵察隊が戻ってこないとなれば、すぐに山人どもがやって来る。仲間割れしている場合か――見ろ」
ぎょっとしたように、ダストの視線を追う四つの眼が、呆気に取られ――ついで怒気に彩られた。
カメレオン・コートと火薬銃、及び無傷の装備一式を肩に、Dは尾根へと歩きはじめていた。
「なんてマイペースな野郎だ」
クレイの声は怒りを通り越して白かった。
「行くぞ」
ダストが女医とルリエに声をかけて重々しい一歩を踏み出した。
「しゃあねえ。次だ」
と吐き捨てて、クレイも後を追う。
「畜生」
とつづけて、進みかけるリリアに、ダストとヴェラがふり向き、
「もうひとり分の装備がある」
「あの――壕が」
と言った。
リリアは足を止め、恐る恐るとでもいう風に左側へ顔を廻しはじめた。
雪原に黒々とドーム状の退避壕がそびえていた。
Dとヴェラの声に応じて設営した品である。たたむのはすぐだ。
憮然たる表情でリリアは一同の後を眼で追い、ふり向きもせず歩み去る影たちをしばらく見つめてから、諦めたように、倒れた山賊の死体の上に身を屈めた。
「あの尾根を越えたら、ギルゼンの城があったといわれているあたりじゃ。すべてが危険地域と思うべきだの。いいや、地獄とな。後ろの連中、戻れるなら戻った方が――いいや、もう遅いか」
「遅い」
雪上を一歩一歩確実に踏みしめながら、しかし、軽やかに、足跡ひとつ残さず進んでいたDの返事であった。
もとより、他人の生き死にに関心のかけらもない若者ではあるが、この返事は冷淡を通り越して冷酷でさえあった。
後から追いかけてくる連中とは五〇〇メートルも離れ、Dの足は、これも五〇〇メートルほどの尾根の半ばにさしかかっていた。
その足が不意に止まった。
右足を踏み出したときであった。
足はすでに雪を踏んでいる。
「地雷を踏んだかの」
と左手が、気だるげに言った。
「それ以上踏んでも崩れる。戻しても渡らざるを得ん。後ろには続くものたちがおる。さて、どうする?」
やや意地悪げな問いも無駄であった。
次の瞬間、黒衣の姿は魔鳥のごとく宙に躍り、二〇メートルも向うに着地するや、ふたたび跳躍一閃。黒々と雪上に留まったのは、五〇メートルも彼方であった。
「なんたることを。あいつら置き去りか」
憮然たる嗄れ声に応じるがごとく、尾根は崩れた。
Dの足が踏んだ二カ所がもとから陥没していたのであろう。二カ所の崩落部分の深さは、一〇〇メートルにも及んでいた。
「あいつら、これで追ってはこれんぞ。山人が来たら、どうするつもりだ? おまえ、知らん顔で――」
嗄れ声は途切れ、それからどこかしみじみとした口調で、
「おまえなら、そうするじゃろうな。しかし、無駄かも知れんな」
最後の言葉の意味はわからない。
Dは残った尾根を辿りはじめている。
前方にそびえる山は、静かにDを待ち構えているように見えた。
後の一行が無惨な姿をさらした尾根に辿り着いたのは、それから三十分後だった。
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第五章 襲撃者
1
Dの前方には、垂直に近い岩と雪の壁が屹立していた。
ここからは、四肢を武器に登る他はない。
「ま、何とかなるかの」
左手が眠そうにつぶやいた。
「飛行体が不時着したという岩場まで、ざっと三〇〇メートル。指をかける凹凸には不自由せん。問題はあそこだが」
二〇〇メートルあたりか、岩壁が一〇メートルばかり前方に迫《せ》り出している。
「おまえなら問題にはなるまい。本当の敵は」
ここで欠伸をひとつして、
「これじゃ」
左手の平に白いものが止まり、すぐに消えた。
雪片であった。
Dは右方――北西の方角をふり返った。
闇が空を覆いつつあった。奇怪なガスのごとく広がりつつあるのは暗雲であった。
「あの分では、あと十分もしないうちに、この山は大吹雪――というよりも、雪の暴風にさらされる。わしも危ない。健闘を祈るぞ。早いとこ、眠りから醒めさせてくれい」
「これからは冬の前に耐寒訓練が要るな」
沈黙が落ちた。
それから、荘厳とさえいえる驚きに満ちた声が、
「いまのは……ひょっとして……冗談か?」
Dは無言で肩のバックパックを下ろし、鉄製のハーケンを一本取り出した。
口に咥えて、岩壁に近づく。
すでに、登山個所は決めてあったらしい。
だが、Dの姿を見よ。直立する岩壁を登るには、大量のロープとハーケンとハンマーが必要だ。Dが岩壁征服の友に選んだのは、たった一本のハーケンであった。身体を支えて落下を防ぐロープも、ハーケンを打ち込むハンマーさえなく、いや、ハーケンとてもただ一本。はたして使う気があるのかもわからない。
その証拠に、彼はハーケンを口に咥えたまま、岩壁に両手をかけた。
見る者がいたら、ああやはり、と嘆息するだろう。
両手を岩壁にかけるや、何の力みや予備動作もなく、彼は滑らかによじ登りはじめたではないか。
滑らか? ――否、そこを棲み処にして数千年を生きてきた爬虫のごとく、彼は垂直の岩を登りはじめたのである。
一〇〇メートルで、迫り出した岩の下に辿り着いた。
スピードを少しも落とさず岩の底部に移動する。
指はわずかな突出部を掴み、窪みにかかる。すべては電光の速さで行われた。
迫り出し部分に貼りつき、さらに伸ばした右手が新たな出っ張りに触れる。
ずるりと岩が外れた。
上体が弓なりに反っていく。
Dの動きは神技に近かった。
左手で咥えたハーケンを掴むや、岩壁に叩きつけたのだ。
三〇センチの鉄は、握られた部分を残して岩肌に食いこんだ。
黒い蓑虫のように、Dは片腕一本で宙にぶら下がり、次の瞬間、全身を発条と変えて岩肌に貼りついた。ふたたび動きはじめるのに二秒とかからない。
新たな一〇〇メートルを登り切ったとき、その背を雪まじりの風が、待っていたとばかりに叩きつけた。
「……何とか……なったの」
左手が眠たげな声を出した。寝言としか聞こえない。風と雪がそれを吹き散らした。
Dが立っているのは、かなり広い岩棚であった。
いま、全身を浸すべき感慨は、この美しい若者の何処にも感じられない。
呼吸《いき》ひとつ乱さず、感情のゆらぎひとすじ瞳に浮かさず、Dは前方――二〇メートルほどの距離に横たわる物体を見つめていた。
片翼は吹きとび、機体もひしゃげ、原形すら留めぬ無残な飛行体を。
彼はついに辿り着いたのだ。
そちらへ向けて、不時着の痕跡も生々しい岩盤の大地を歩き出したとき、Dの耳にかすかな音がやってきた。
銃声であった。
ほんの一瞬、彼は足を止め、わずかに岩棚の端へと顔を向けかけたが、すぐに元へ戻して歩を進めはじめた。
崩れた尾根の前で立ち往生してから一時間とたたないうちに、山人どもの攻撃は開始された。
こちらを少数と見て、猛烈な火線を浴びせ――てはこなかった。雪原とは異なる。雪崩を怖れているのだ。
代わりに矢が降ってくる。
リリアとクレイは、さすがに自分たちに命中しそうな分だけはことごとく弾きとばしてのけたが、ヴェラとルリエは、ダストが守らねばならない。
こちらは手槍と斧で防いでいるうちに、一本が肩を貫いた。
そちらを見て、舌打ちするリリアへ、
「退避壕を作って」
とヴェラが呼びかけた。
「この斜面じゃ無理よ。設置面積が足りない。落っこちちゃうわよ」
「奇襲をかけるか」
クレイの提案を、リリアが一笑に付した。
「相手が見えるの、あなた?」
そのとおりだった。
何処にいるのか、いくら眼を凝らしても、見渡す限り白一色の大地には動くものの影すらない。カメレオン・コートの効果だった。
「あたしたちはダンピールと違うのよ。首を斬られたら、それでおしまい。あたしは、失礼するわ」
「なにやらかす気だ、てめえは?」
「自分の仕事に最善を尽くすことに決めたの。お付き合いはここまでにさせてもらうわ」
「なにィ?」
「達者でね」
またも飛来した矢を長剣で打ち落とすや、リリアは不意に尾根へと走り出した。
ルリエが悲鳴を上げた。
崩落した尾根へと身を躍らせた女ハンターは、自殺と見えたろう。
空中に黒い球体が広がった。退避壕である。リリアの姿はその中に呑みこまれている。確かにこの場所で作れば滑落は免れないし、他の連中を収容する時間もなかっただろうから、この恐るべき独善的な方法もやむを得ないとはいえる。
だが、数百メートルの谷間へ落下して、貴族の文明の粋だとて無事でいられるのか? ――リリアはその一点に賭けたのだ。
斜面の底から雪片が噴き上がってきた。
「糞ったれ女《あま》が」
ののしったクレイの鼻先の地面に矢が突き刺さった。
「具合はどうだ?」
とヴェラたちに声をかける。
「大丈夫だ」
とダスト。
「大丈夫じゃないわ、右手が使えない」
ヴェラが反論した。
「この子を連れて逃げて」
「何処へだよ?」
次に来た沈黙を、クレイは何とかやり過ごした。周囲はすでに矢ぶすまである。
「降伏したらどうだ?」
クレイの提案に、ダストが首をふった。
「食われたいのか?」
「何ィ?」
「山人どもがこんな雪山で、何を食って生きていると思う? 登山者や逃亡者の肉だ。それがなければ、くじ引きで生贄を選んでいると聞いた」
「……そこまで腹ペコなら、他の土地へ移ればいいじゃねえか」
「その辺の事情はわからんのだ。彼らはこの山に居住していた貴族の関係者だとも言われている」
「ふうん。麓の方で奴らが捕まったことはないのかよ?」
「ない。死体なら見つかったがな。歯の痕がついた骨が五、六体分」
「うへえ」
そのとき、ふっと世界が翳った。白いものが点々と吹きつけ、クレイが呻いた。
「なんてこった。吹雪だぜ」
「安心しろ。もう寒さに脅える必要はない」
ダストの声に何を感じたか、クレイがにらみつけた。
だが、彼にもわかっていたはずだ。リリアは逃げ出し、ダストが傷ついたいま、次の一斉攻撃を食らったら、もう防ぎ切れないと。
いかに“死人ナイフ”をふるっても、姿なき人食いどもの攻撃は確実な死を招くだろう。
精悍なお尋ね者の顔を絶望が彩った。
「ねえ、医師《せんせい》、死ぬときって苦しいの?」
覆いかぶさったヴェラの身体の下で、ルリエ少年の声は震えていた。
「大丈夫よ」
と女医は優しく言った。
「すぐに終わるわ」
沈黙が白い世界を包んだ。
次に殺気が凝集した瞬間、死が放たれ、落ちてくる。
「畜生め」
クレイが呻いた。なおも失われぬ闘志も空しく果てるのか。
闇が濃さを増した。
悲鳴が上がった。
同時に火薬銃の轟きが上空へ噴き上げた。
「――なんだ、あれは!?」
クレイが獣のような敏捷さで身をひねった。
前方の雪原――山人たちが潜む一角で何かが生じていた。そこにのみ異様に闇が深いのをクレイは見た。
また悲鳴が上がった。
ヴェラもダストさえも表情を変えたほどの狂気からできている。
「助けてくれ」
人語の叫びであった。
「近づくな――来るな――やめろお」
ぷつりと切れ、一度だけ銃声が雪原を渡った。
そして――静寂。
「おい、何事だ?」
とクレイが低く訊いた。なんだかよくわからないが、山人はまたたく間に壊滅した――それは確実だ。
だが、それを喜ぶよりも声を潜めねばならない。その理由も――わからない。
「来るぞ」
とダストが言った。
「なにがよ?」
とヴェラが訊いた。その脇で、ルリエも眼を凝らしている。
「闇だ。見ろ」
クレイにもわかっていたようだ。
一同の周囲は薄闇が囲んでいた。それよりもなお濃密な暗黒が、山人たちのいた方角からゆっくりと近づいてくる。その中に潜むものが山人を一掃してのけたのだ。凶悪無比な人食いどもを一瞬のうちに。
少なくとも、友好の挨拶のためではあるまい。
「先生」
とダストがくぐもった声をかけた。
「この子をまかせたぞ」
それが守れという意味ではないと気づいたのか、少年の顔は紙の色になった。
2
「なんだかわかるか?」
クレイの声は、いつになく緊張していた。
「考えたくはないが――」
答えになってはいないダストの返事に、ヴェラがまさかと絞り出した。
まさか。
まさか。
だが、陽光を翳らせ、闇をもって人間《ひと》を殺戮する存在とは。
まさか。
「先生、飛び降りろ」
とクレイが叫んだ。
「え?」
「想像どおりの相手だったら、死んだ方がましだ。それに谷底にはリリアがいる。卑怯者だが、あんたたちくらいなら助けてくれるかも知れねえ」
「そうしろ」
とダストも勧めた。
「なら、あなたたちも」
「谷底でつぶれるなんざ真っ平だ」
とクレイが前方へ眼を注いだまま応じた。
「それに、戦いもしないで尻尾を巻くのは自殺と同じだ。おれの性にゃ合わねえ。連れてくなら、そっちのボディガードにしな」
「おれが殺られてから飛び降りろ」
ダストの眼も前方を見つめている。この大男が優れた護衛なのは疑いようもなかった。
「できないわ。ダスト――わたしは……」
「仕様がない[#「仕様がない」に傍点]。おれの娘の場合は、それ[#「それ」に傍点]では済まんが――とにかく、いまはおれが守り役だ」
「あと五メートル。早く行け!」
ダストが立ち上がった。
「次はまかせるぞ」
「まかしときなって」
クレイが胸を叩いた。とはいうものの、いまひとつ信用できないところがある男だ。生死を分かつ瞬間を迎えたら、どう転ぶかわからない。
ごお[#「ごお」に傍点]と天が唸った。
闇がダストを包む。
「やめて!」
とヴェラが絶叫を放った。それに、
「行くな!」
の声が重なる。ヴェラではない。そのかたわらから走り出した小さな影――ルリエだ。
「小父さん」
ここまで来る間に、無骨な大男と少年の精神《こころ》にどのような交流があったのか、その声が物語っていた。
小柄な身体を闇が呑みこんだ。いや、少年自身が突入したのだ。
世界が暗黒に閉ざされた刹那、ルリエは立ちすくんだ。
冷気のためでも、黒一色に染め上げられた視界を怖れたためでもない。闇の放射する気配が骨がらみに全身を縛りつけたのだ。
そして、何よりも――
誰かいる!
少し離れたところに、ダストの気配があった。
それとは別に、闇の中に誰かがいる!
ヨク来タ
ルリエの耳には、こう聞こえた。
声なのか、風の音なのかもはっきりとはしない。ただ、気配の主が放ったのは確かだった。
男か女か風か――わからない。
それなのに、声か音の主が歓喜に包まれているのが、鮮烈に感じられた。
ヨク来タ
また聞こえた。
待ッテイタ。生命ニ溢レタ若イ血ヲ。我ガ子ヨ、オマエノ血ハ、黄金ノ杯ニモッテ、飲ミ干シテヤロウ
「……誰だ?」
ルリエはやっと口にした。
「おまえは……誰だ? 我が子って――僕は、おまえなんか知らないぞ」
我ガ子ハ百万モオル
と気配は言った。
オマエハ、イマカラソノ中ニ加ワル。光栄トセヨ
「やめろ」
ダストの叫びが上がったが、それは百万キロも離れているようだった。
「僕は父さんを捜しにきたんだ。おまえなんか――来るな」
突如、気配は少年の前に立った。
声も出ない。思考も消し飛んだ。
圧倒的な質量を誇る岩壁が立ちはだかった気分だった。
相手の正体に対する関心も生じない。存在自体が違いすぎるのだ。
来イ
それはどういう意味か。
ルリエの身体の一部が、急に止まった[#「止まった」に傍点]。
同時に――
気配が揺らいだ。
数億年の歳月が形成した星の一部に、かすかな異常が発生したのだった。
それは外部からもたらされた。
少年は、今度こそはっきりと聞いた。
「面白い」
と気配がつぶやいた。声には明らかに驚きと――感動の響きがあった。
オマエモ見テオケ
両肩に重いものが置かれるのをルリエは感じた。それは手であったろうか。
紙のように身体が廻された。
ルリエは見た。
距離はわからない。しかし、彼はそこ[#「そこ」に傍点]にいた。
片手に火薬銃を下げてこちらを見つめる黒衣の姿は、静かとしか言いようがなかった。
だが、旅人帽の下の顔の、なんと美しいことか。全身から噴き上げる鬼気がそう見せるのだ。
吹雪は熄《や》んだ。怖れをなして。風も止まった。酔いしれて。
D。
「余の敵と認めよう」
少年の耳もとでその声は宣言した。
「このギルゼン公爵の、世に隠れもなき敵と」
次の瞬間、ルリエは吹きつける雪と風の中に立つ自分を発見した。
幾つかの声が名前を呼んでいる。
安堵も興奮もなかった。風が頬に当たり、雪片が溶けていく。不思議と冷気も感じられなかった。
「大丈夫か?」
ダストの声だ。ごつい手が肩を掴んでゆすっている。頭と身体が揺れた。
「大丈夫だよ」
と答えた。
「大丈夫、ルリエ?」
こちらはヴェラ女医《せんせい》だ。眼の前に顔が来た。じっとこちらを見つめている。心配そうな表情が変わった。
「おかしいわ」
手が伸びてきて、瞼をめくり上げた。
痛みはなかった。涙も流れない。右手を取った。
「瞳孔が開いてる。脈も打っていない」
ダストが、え? と眼を光らせた。
ヴェラは少年の顔の前に鼻を突き出し、三秒ほど待って頭をふった。
ルリエを見つめる表情には、凄まじい孤独と寂寥が宿っていた。
ぽつりと――
「この子、死んでるわ」
「まさか」
クレイも駆け寄ってきた。ダストが女医と同じ調査を行い、
「信じられんが、本当だ。この子は――」
当人を前にして、さすがに死体とは言えなかった。
「だが、しゃべれるのか?」
「はい」
とルリエはうなずいた。
「身体も動くらしい。感覚はどうだ?」
「寒くありません」
女医が頬をつねった。
「痛む?」
「いえ」
「全くなし」
ヴェラはため息をついた。
「私がこんなことを口にしちゃいけないんでしょうけど、一体、どうしちゃったのよ?」
「坊主、何か覚えていないか?」
すでに、ルリエにはその問いへの準備ができていた。
「あいつ[#「あいつ」に傍点]が前に来たら――急に止まってしまったん[#「止まってしまったん」に傍点]です」
「あいつ?」
ダストが眉を寄せた。同じ闇に包まれながら、彼には何も見えなかったらしい。
ルリエは眼を閉じた。記憶を辿っているのではない。押し寄せる恐怖の波を防ぐためであった。
「岩山のように巨大で、氷の壁みたいに冷たい……」
ぶつぶつと言った。声も身体も震えていた。
ややあって、
「貴族ね」
ぽつりとヴェラがつぶやいた。それは強烈無比の断定であった。
「この山に住んでたって、あれか?」
クレイが髪の毛を掻き上げた。
「辺境がいまみたいに分割統治されるまで、まとめて支配してたって奴だろ? 貴族も顔をそむける冷酷な鬼だったそうじゃねえか。確か……」
「“神祖”に楯突いて追放された上、追撃を受けて地底深く封じられた」
ヴェラが後をついだ。
「……何も聞いていないけど、この山に不時着した飛行体って……ひょっとして……」
みな動かなくなった。恐るべき記憶の吐露に死者と化したのだ。
それを中断させたのは、少年の声であった。
「でも、あの人がいます」
希望にみちた響きは、吹きつける雪すら忘れさせた。
「あいつより、ずっと大きくて、ずっと強くて、ずっと冷たい――なのに、ずっとずっと温かい」
「誰のこった?」
顔全体をひん曲げるクレイへ、
「とぼけるなよ」
とダストが肘を掴んだ。
「――まあな」
「その人が助けてくれたのね?」
ヴェラが優しく訊いた。
「そうです」
少年はうなずいた。
「なら、その人がもう一度助けてくれるかも知れない。あなたを人間に戻す方法――知っているに違いないわ」
少年も知っていた。希望はある、どんな世界にも。彼は闇の中でそれに気づいたのだ。
吹きつける雪も風も容赦はない。その中で、四人の男女を不思議な感動が包んでいた。それは温みに似ていた。
「ところで、ビバークでもしようや」
と現実に一番近いクレイが提案した。
「そうね。凍えてしまうわ。尾根を越える算段もしなくては」
「この子を見ていろ」
ダストが置いてある荷物に近づいたとき、
「待ちな」
とクレイが声をかけた。
この上、なにか? とヴェラが責めるような眼で彼を見た。
「気配が――そうか、忘れてた。なんてこった」
細い眼は、薄闇の彼方に広がる雪原を向いていた。
みなが眼を凝らしている。
一〇〇メートルばかり向うで、確かに動く形があった。
「山人だ」
口にしてから、クレイはぐえ、と呻いた。ダストが肘で脇腹をついたのだ。
「いちいち念を押すな。わかってる」
そうなのだ。
誰でもわかっている。この世界に生きている限り。
永遠不変の真理を、束の間、彼らは忘れ果てていたのだった。
貴族に血を吸われたものは、貴族と同じ存在と変わる。
――吸血鬼に。
やってくる。
少なくとも人間の悪鬼だった連中が、夜の悪魔と化して。
「そんな莫迦な。陽は翳っているけど、まだ白昼よ」
ヴェラの正しい意見は、いま隠蔽すら忘れて立ち上がった白い影たちが、理不尽に否定してのけた。
3
「来やがった」
クレイはにやついた。
「うれしそうだな」
とダスト。
「おうともよ。あいつら、偽ものとはいえ貴族と同じになっちまったものだから、飛び道具もカメレオン・コートも使わねえ。せいぜい、不死身ぶりを誇示するために素手でやってくるぜ。おれ様の思う壷よ。あんたは女子供の世話をしてな」
「大きく出たな」
「おお、まかしときな」
クレイの右手に細い光が生じた。Dすら見たいと言った“死人ナイフ”――その真価がいま発揮されるのか。
「どうして、昼ひなか――陽光の下を歩けるの?」
ヴェラの問いにも、
「待ってな。ひとり捕まえて訊いてやるよ」
陽気に答えて、クレイは前へ出た。白ずくめの山人たちは、波を押しのけるような足取りで向かってくる。
陽灼けした、そのくせ青白い無表情は、まさしく幽鬼。そして、そこだけ異様に紅い唇からのぞく白い乱杭歯は、まさしく貴族――吸血鬼であった。
貴族はともかく疑似貴族は、永劫にむことのない飢えに苦悩するという。
いまや温かい生き血の流れる四人の犠牲者を認めた彼らは、唇の端からだらしなく涎を垂らし、歯をがちがちと鳴らしながら、両手を伸ばして身をよじりつつクレイの方へ走り出した。
「クレイさん」
とルリエが声をかけた。クレイの得意や思うべし。
「安心しな。心配するこたあねえぜ」
「いえ、あまり人を殺さないでください」
「莫迦野郎。相手は貴族の部下《てか》だぞ。しかも、おれたちも仲間にするつもりだ。殺らなきゃ、殺られるんだ」
「でも――人間です」
「もと人間だ、莫迦野郎」
「人を気楽に莫迦呼ばわりするのは、よくないと思います」
叫び出したくなるのを、クレイは必死に抑えた。こんな餓鬼を守るために、おれはナイフをふるおうというのか。
びゅっ、と風が頬をかすめた。
敵の矢だ。
「野郎」
身を低く構えて、彼は地を蹴ろうとした。
その前方で、白い男たちが次々にのけぞったのである。
距離は七、八メートルといったところか。ふしくれだった指は無限の呪いをこめて空を掻き、空しく開閉する口は鮮血を吐いた。
倒れた身体の下の白雪が、みるみる真紅に染まっていく。周囲を見廻す奴がいるのは、襲撃者の位置が不明な証拠だ。そして、片端から倒れていく。
その心臓から生えた矢羽根を、四人は呆然と見つめた。
弓を使う味方が近くにいるのだ。それも、すさまじい遣い手が! 十名近い敵を、それこそ十秒もかけずに殲滅《せんめつ》し、しかも、一撃で心臓を貫いている。平凡な――どころか、まともな人間とは到底思えなかった。吹雪はなおも荒れ狂っているのだ。
山人たちが倒れはじめた瞬間、伏せろと叫んで、クレイも地に伏している。どんな敵だろうと怖じけづくような神経の主ではないが、射手の技倆は認めざるを得ない。
「何処にいる?」
こう喚いたものの、誰に尋ねたのか、クレイ自身にも判然としなかった。
「父さん!?」
ルリエが叫んだ。それまで沈黙していたのは、この瞬間のためだとでもいう風に、爆発させた感情を抑えもせずに立ち上がり、少年は四方を見廻した。
「父さん、父さんなの!?」
飛びついて押し倒すように伏せさせ、これも四方を窺いながら、
「父さんだと?」
ダストが細い眼を丸くした。
「本当なの、ルリエ?」
とヴェラもにじり寄りながら声をかけた。
「父さんのこと詳しくは聞いていないけど――猟師なの?」
「そうです。きっとそうです。父さんが助けにきてくれたんだ」
狂気にかられたように起き上がろうとする少年を、しかし、ダストは片手で押さえつけてのけた。
「落ち着け。おまえの父さんは、いまみたいな腕前を持ってるのか?」
「持ってる」
「落ち着け」
ダストは腕に力をこめた。
ルリエの全身は固定され、押さえつけられた部分から突っ走る激痛が、頭を冷静にした。
「あれは人間業じゃない。おまえの父さんは化物か?」
「違う」
ルリエが否定するまで、数秒を要した。
「なら、人間以外のもの[#「もの」に傍点]が俺たちを助けたことになる。理由がわかるか?」
ダストは首だけ動かして、女医とお尋ね者を見つめた。
二人はかぶりをふった。ダストは少年に言った。
「おれにもわからん。従って、助けたとは限らない」
「じゃあ?」
少年の不安げな声に、ダストは優しく薄い肩を叩いて応じた。
「餌をひとり占めにしたいのかも知れん」
「同感だ」
クレイが勢いよく右手を上げ、ヴェラが、こいつは、という眼でにらみつけた。
「即断するには早いわ。何かの理由があって、私たちの前には出てこられないのかも知れない」
けっけっけとクレイは嘲笑した。
「照れくさがり屋の味方か。そんな奴がいたら、とうに噂になってらあ。第一、こんな山ん中で、どうやって暮らしていけるってんだよ?」
「山人はなんとかやってるわよ」
「あいつらは、もう人間じゃねえ。ユキウサギだのユキヒョウばかりならともかく、モウソウジュやケダモノ茸《ダケ》まで食い尽くしちまって、半ば化物よ。人の肉を食うんだぜ、人の肉を」
「おやめなさい!」
我慢し切れなくなった女医に一喝され、さすがのお尋ね者も口をつぐんだ。
「去《い》ったか」
少年には動くなと告げ、ダストが立ち上がった。クレイはまだ伏せたまま、
「危ねえよ、どうして、いなくなったとわかる?」
「白服さえ皆殺しにされたんだぞ。おれたちの位置など最初からわかってる。その気になれば、おれたちみんな、とっくにあの世行きさ」
「それもそうね」
とヴェラが認めて、近くにいたクレイの肘をこづいた。
「何しやがる?」
「さっさと立ちなさいよ。女子供を守るのが男でしょ」
「おれはな、お尋ね者なんだよ」
クレイは歯を剥いて凄んだ。
「本業は用心棒だが、バイトで殺し屋もやってる。誇りも高き前科三十犯だ。食らいこみゃ、ざっと十二回は死刑になる勘定だ。女子供の味方になってちゃ、やってけねえ渡世の人間なんだよ」
「あなたの渡世なんか、この山の何処にもないわ。男と女と子供がいるだけよ。男なら、弱い者を放っておけないはずでしょう」
「てめえで弱い弱い言うな。おめえみてえな、都合のいいときだけ高飛車になったり、か弱き乙女になったりするのが、おれはいちばん嫌いなんだ」
「それが女ってものよ。うだうだ言わないで」
「――とにかく、もう大丈夫だ。テントの用意をしろ」
ダストの声が、言い争いに終止符を打った。
みなの顔に激しく雪が吹きつけた。
生ける死者を撃退した後に、別の死が翼を広げてやってきたのだった。
退避壕は役に立たなかった。
落下途中でスイッチを入れたのだが、横殴りの猛烈な風が襲って、リリアから開きかけた壕を奪い取ったのである。
おまけに、分厚い雪床に足から着地したのはいいが、下の岩場で右足をくじいてしまい、当分立てそうにない。谷底とはいえ、雪も風も上と区別なく吹きつけてくる。
リリアは慌てなかった。
防寒コートは無事だし、手放したとはいえ退避壕さえ捜し出せれば、薬も食料も十分にある。簡単な手術さえできるのだ。
「足が治るまで耐寒訓練ね」
頭上を見上げた。
すでに闇色の空が彼女に許すのは、白雪の確認だけだ。
不意にぞっとした。
恐怖ではないが、恐怖を招くに十分な物理現象であった。
冷たい。
コートの左胸についたコントロール・ボックスへ眼を走らせる。
温度は「0」とあった。原因は不明だが、落下したショックで異常を来したのだろう。
リリアはまた上空を見上げて舌打ちした。
「のんびり、シャワーを浴びてみせるわよ」
後は退避壕に頼るしかない。
背の長刀を下ろして身を支え、かろうじて左足だけで立ち上がった。
一歩進むだけで右足に激痛が走る。足首と膝の骨が折れたらしい。リリアは、しかし、にやりと笑った。
「いい眼醒ましよ」
この雪では、じきに体温を奪われ、眠気に襲われてしまう。そのとき、痛みは最良の覚醒役を果たすに違いない。
見込みは大幅に狂った。
いくら捜しても、退避壕は発見できなかったのである。雪まみれの空しい探索行は一時間に及び、ついにリリアは雪の中にへたりこんだ。
「まあだだよ」
これでは、他の連中を見捨ててきた甲斐がない。
右足を動かしても、鈍い痛みが伝わってくるばかりで、動かすのも億劫だ。
ふっと意識が遠ざかった。
リリアは素早く杖替わりの一刀を持ち上げ、刀身を鞘から抜いて身体の右側に置いた。柄を右の逆手で握る。それから、左腕を露出し、二の腕の腹に歯を立てた。
生暖かいものが口中に広がっていくと感じたのは、十数秒の後である。口腔は凍りついていたのだ。
すぐに冷えきった自らの血を、リリアは一気に呑み干した。
休みなく湧き出てくる血は熱かった。
一心に呑みつづける足下で、何かが動いた。
瞳だけ動かして見た。
折りたたんだままの退避壕であった。
喜ぶ前に、リリアは別の意味で凍りついた。
退避壕の向うに誰かがいた。
百戦錬磨の女ハンターをさえ、その気配だけで身じろぎひとつ封じてしまう何者かが。
「美味いものであろう。とりわけ、自分の血は」
低く重い声が雪と風を弾きとばして聞こえた。
――ええ、とっても。
胸中で応じつつ、リリアは右手に望みを託した。
身体の右に置いた一刀は、逆手で放った。
確かにそれは相手の胴を薙ぎ払ったはずであった。
動きは、相手の腰のあたりで止まった。
むしろ柔らかな停止であった。にもかかわらず、岩壁に食いこみでもしたように、ぴくりとも動かない。岩壁は無限の質量を誇っているようであった。
「指が少し切れた」
と声は言った。
その意味を理解するまで、少しかかった。
「わたしの剣を――指で止めた……?」
「大した腕だ。子供騙しにしても、な」
声はつづいた。あざける調子もないのが不気味だった。
それから、
「決めたぞ」
何を? と問う間も与えず、リリアの視界を黒い影が埋めた。
[#改ページ]
第六章 魔城造営記
1
「何とか終わったらしいぞ。いまはテントを張っておる。男が二人もいれば大丈夫じゃろう。ひとりは手傷を負うとるがな」
嗄れ声に吹雪が叩きつけた。
尾根の方へ突き出した左手を下ろし、Dは向きを変えて、足下の石棺を見下ろした。天井も胴体も無残に裂けた飛行体の内部である。
鎖は床上に蛇のごとくのたくり、一トンもありそうな分厚い蓋は、だらしなく本体からずれて床に転がっていた。
「しかし、まあ、ギルゼン公爵は途方もない貴族だの。一万年以上、この柩と岩と土の中に幽閉されていながら、憎悪と怨嗟のかけらも遺っておらん。それを抱く暇もないほど忙しかったのじゃろうて。くく、癒しの時間――リラクゼーション・タイムだったりしてな」
柩に閉じこもって世間から身を隠す貴族の存在は、壁画や古文書に数多くの例が記されている。
汝、塵より生まれ塵に還る《ダスト・ザウ・アートダスト・リターネスト》
この言葉を恋い慕うがごとく、多くの貴族が月光と夜会に別れを告げて、我と我が身を地中へと封じた。理由は不明だが、憂き世に疲れたとの書きつけが、二カ所から発見されている。“癒しの時間”とは、ここから生じている。
そんな世捨て人たちのほとんどが、地上に戻って来ず、暗く冷たい土の中で永遠の生命に終止符を打ったことは、後の発掘時に明らかになった。
柩の底に残っているのは、絢爛たる衣裳と装身具と一塊の塵――そして血にまみれたトネリコの杭だったのである。
彼らは柩の中で何を考え、何を感じたものか。
無論、ギルゼン公爵は自らの意志で地に戻ったのではない。その無念、その憎しみは想像に余りある。
それが皆無だと、嗄れ声は言う。
「憎しみの純粋化だ」
Dが静かに言った。
「思念のレベルが限界を突破すれば、それは、微塵も気配を感じさせぬ虚無と化す。だが、その虚無からは、あらゆる感情の夾雑物が失われる」
「純粋な憎しみに身を焦がした者を、おまえは知っておるか?」
「………」
「それはまさしく身を灼き尽くすであろう。ギルゼンは人間《ひと》の形を保っておるか否か。否、奴に血を吸われた山人どもは、昼ひなかから甦ってきよった。Dよ、ギルゼンがそんな力を持っていたとは記録に残っておらぬ。奴は柩の中で憎悪に狂い、その能力にまで変化を生じさせたのじゃ。このまま放置すれば、彼奴《きゃつ》の生んだ吸血鬼どもが、陽光の下で墓から起き上がり、人間の生き血を求めて進軍するだろう。太陽が防ぎ得ぬ暗黒の魔性どもを、誰が食い止め得る?」
声はいったん熄《や》んだ。興奮を鎮めたのである。
すぐに、
「おまえはならぬぞ。おまえはまだギルゼンに及ばぬ。唯一の救いは、おまえの能力《ちから》もまた、日々進歩しておることじゃが、それとても、一万年前のあ奴と同等。いまの奴には到底及ぶまい。戦ってはならぬぞ」
「おれの仕事は、生存者の救出と、運搬品の確保――その内容物の処理だ」
「だから、いまはよせ、と言うておる。機会は必ずある。それまで待て」
「この山には奴の城があった。飛行体はそこへ不時着した。偶然ではあるまい。巨大な意志がギルゼンの復活を策している。奴が城へ入れば、この世界は破滅するぞ」
「……永劫に明けぬ夜の国、か。しかし……」
「出るぞ」
声より早く、Dは動いている。
機体を出た刹那、吹雪がその長身を取り囲んだが、内部も穴だらけだったから、さして変化はない。
「何処へ行く?」
「奴の城を捜す。そこにいるはずだ」
「他の連中は? そうか、来ぬほうが、あいつらのためじゃの。そこまで考えて置き去りにしたか――ギルゼンが来るとは思わなかったがな」
後のことは彼らの運次第だとでもいう風に、Dは尾根の方角を見ようともせず、前方へ歩き出した。岩棚が蜿蜒とつづく山腹の奥へ。
「乗組員どもは運がなかったのお」
と嗄れ声が言った。湿った口調ではない。運は運――あっけらかんとしたものだ。
「多少の血痕はあったが、あれなら生命は永らえたはずだ。柩を出たギルゼンに連れ去られたに違いない。機体は修理すれば、まだ飛べる。飛行体ほどの運もなかったとはの」
飛行体から五〇メートルばかり山腹を廻りこんだところで、Dの足は止まった。
岩棚はそこで切れていたのである。
かがやく、というもおろかな美貌が垂直に近い岩壁を見上げた。
並みの人間どころか、プロの登山家《クライマー》でもぞっとしない山肌も、この若者にはさしたる障害とは思えないのだろう。
見上げたのは、最短の登攀ルートを確認するためだったのか、五秒と待たず、Dは片手を岩壁の凹部にかけた。
一匹の世にも美しい爬虫のごとく岩壁を滑り上がっていく[#「滑り上がっていく」に傍点]姿には、吹きつのる雪も風も、その美しさを讃える交響の調べのようであった。
「来ましたぞ、先刻の奴が」
干からびた声が言った。老人のものと区別はつかないが、薄闇の中に浮かんだ顔と姿は老婆のそれだ。
色とりどりの布切れをつなぎ合わせたものを、何十枚と重ね着したような姿は、辺境の村々でよく見かける放浪《ジプシー》女のようだ。
だが、放浪女は、こんな眼をしていない。こんな鼻を持っていない。こんな口もついていない。
ない。
発条のようにちぢれた髪に埋もれた顔は、その真ん中に血色の眼球を嵌めこんだ眼をひとつ具えているきりであった。
「どう見る?」
別の声が訊いた。
老婆のかたわらに闇がそびえていた。黒ずくめの人間という意味ではない。
四角い部屋を真ん中で二つに区切り、片方に照明と老婆、片方に暗黒だけを詰めるとこうなる。
老婆のいる場所は、白に支配されていた。
あちこちに滑らかな光沢が窺われ、案外狭い空間かと思うと、老婆の背後は果てしなく――それこそ地の果てまで、という感じで広がっており、そのうち、狭さの証拠と思われる光沢物でさえ、その位置と距離とを変えて、老婆を包む空間が無限のように見えてくるのだった。
ここは何処か。
闇の中に潜むものは誰か。
「――恐るべき相手でございますぞ」
と老婆は答えた。灰色の顔は、さらに血の気を失っていた。
「いまはまだ、公爵さまの方が強うございますが、明日はどうなっておることか、この婆にも見当がつきかねます」
「それは、わし以上の存在になるということだ」
「………」
「暗く冷たい土の中に封じこめられる前に、聞いたことがある。奴には成功例が生まれた[#「奴には成功例が生まれた」に傍点]とな。それが彼奴としか考えられん。あいつの放った一弾――取るに足りぬ鉛の塊が、骨まで砕く衝撃を与えおった」
声は熄《や》んだ。次に響いてきたとき、それは意外な感情――痛切さを含んでいた。
「やはり、また死んでもらわねばならぬな、スーニャ」
「よろしゅうございますとも」
老婆は嬉々としてうなずいた。その眼には涙が光っていた。
「一万年前、あなたさまとともに滅びた生命を、誰よりも早うに甦らせていただいた。それだけで婆は満足でございますとも。もう一度滅び去るくらい、なにほどのことがありましょう」
「済まぬ」
「なにを、私ごときにお詫びなさいますな。それは、あなたさまの手で滅び去る、生きとし生きるものすべてにお伝えなされ。それこそ、星ひとつの永劫の呪いが、あなたさまを讃えるべく、冥府より降り注ぐことでございましょう」
声は高く低く――優しさと狂熱の交錯を奏でた。
それが果てた後の虚しさを、老婆は待たなかった。
絢爛たるゴミの堆積のごとき衣裳の間から、枯木のような手が現われた。拳は細身の懐剣を握っていた。
さらに現われたもう片方の手を添えて、老婆はその心臓に懐剣を柄《つか》まで突き通したのである。
次の瞬間、身体は数千億の血しぶきとなって爆発した。
血の霧が渦巻いた。
そのとき、闇の奥から、一本の腕が現われたのである。長い手袋をつけた腕は、その黒い袖まで血にまみれていたが、一本の石の鍵としか見えない品を掴んでいた。
それはなにもない空間に伸び、たちまち朱色の紗に覆われた。
「お城を復活させるための、血の洗礼」
それは老婆の声であった。
それに応じるかのように、遠くとも近くともつかぬ場所で、がちりと硬いものの噛み合う音が鳴った。
2
夕暮れにはまだ少し間があった。昼間からアルコールを欠かせないムングスの村人たちは、昨晩、村を訪れた不可思議な連中のことを肴に、村でひとつきりの民営のバーとホテル内のバーとで一杯飲っていたが、不意に表で絶叫が上がった。
それこそ店内の全員が妖物に追われる勢いで通りに飛び出すと、その真ん中に立って、ある方角を指さしていた娘が、
「お城が……お城の窓に明かりが……」
と気が触れたみたいにつぶやいたのである。
圧倒的な恐怖を湛えて震える指先を追って、村人たちは――
「なによ、この響きは?」
半ば出来上がったテントの前で、ヴェラは耳を澄ませた。
足の底から湧き上がってくるような響き――地鳴りだ。
「雪崩が起きるぞ。Dも飛行体も危ねえ」
クレイの叫びを待つまでもなく、みなの眼は尾根の彼方にそびえる峰に注がれている。
「なんだ、あれ!?」
ルリエが呆然とつぶやいた。
「山が変わってくよ」
Dの全身を猛烈な震動が貫いた。骨から肉が剥離しそうな凄まじさの中でも、Dの動きは止まらなかった。
岩盤が剥がれ、Dの肩や帽子を打ちつつ落下していく。
掴んだ凹部が剥離したのも一度や二度ではなかった。そのたびに、足が落下を止めた。
五〇メートルも滑り落ちてから停止したとき、
「生命冥加《いのちみょうが》な奴め」
さすがに左手が洩らした。
「一〇〇〇メートルの高さから地べたに叩きつけられて、おまえがどうなるか見てみたいものだ」
やがて、Dは山頂に到着した。平凡な岩の端が天に挑んでいる。それだけだ。
「何じゃ、城どころかテントの跡もないの」
ぶつくさ口にするのを、Dが手の平を下へ向けた。
「おお!?」
小さく驚愕の叫びが上がった。
Dの眼にしてきたものは跡形もなく消えていた。
岩棚のあった部分は、さらに大きく前方へ迫り出し、それは巨大な熔岩の坩堝と化して煮えたぎりつつ、四方へ広がっていくのだった。
「岩が岩を生む、か」
嗄れ声のつぶやきは、熔岩の内部から迫り出した物体を見て止まった。
泥濘《ぬかるみ》状の壁が鉄骨が、みるみるそれなりの形を整え、組み合わさり、大小の部屋《スペース》を仕切っていく。そのどれもが赤い溶けた岩――いや、鉄で満たされていた。
そして、灼熱のしずくをしたたらせながら、溶鉄を通すパイプも、坩堝の内側から必要な量の鉄をすくい上げ、べつの運搬装置へとあける巨大な柄杓《ひしゃく》も、これも溶けた鉄から生み出された冷却ファンの風を受けて、みるみる冷え切り、その姿を明確にしていく。
「これは凄いプログラムじゃな。材料を溶かし、加工する段階から棲み家をこしらえるつもりらしいぞ」
その声が終わらぬうちに、Dの前方にそびえる岩が裂けた。
衝撃をコートの裾で避け、しかし、一〇メートルも吹きとばされながら、Dは見た。
火を噴く鉄骨がそびえ立つや、コードが絡まり、チューブが組み合わさって、恒星間通信用のパラボラ・アンテナと化したのだ。
「これらを動かすのは、反《アンチ》エネルギーじゃろう。反陽子炉をどうやってこしらえる? 制御用ICも、材料の切り出しと加工からはじめるか――なんつう手間じゃ」
のんびりとさえ聞こえる嗄れ声は空中で放たれたものだ。
支えるものもなく、Dは真っ逆さまに下方へ――なおも建設中の煮えたぎる溶鉄の世界へと落下していくのだった。
「さて、どうする?」
「溶けても戻れるか?」
「うーむ。試してみる価値があるかも知れんな。過去にひとり、火山の火口に落ちた貴族がいたが、おまえはそいつとは違うしな」
「その貴族はどうなった?」
「元に戻りはしなかったのお」
Dの顔を熱気がはたいた。
数万度の渦巻く熱鉄の沼まで、あと五秒とかかるまい。
――三秒。
――二秒。
――一秒。
「見たか、いまのお!?」
村の監視塔で、遠視レンズを覗いていた男が叫んだ。
隣の村人が、
「何をだ?」
と訊く間も与えず、
「一五〇〇メートルあたりに岩棚があるべ。あそこが城に化けてる。そこへ人間がひとり落ちてきただ。そして、ぶつかる寸前、羽根が生えた」
「阿呆か、おめえは」
隣の男が小莫迦にしたように吐き捨てたが、遠視レンズの男はなおもそちらへ身を乗り出して、片手で額の汗を拭った。冷汗であった。
「まるで、真っ黒な、でっけえ蝙蝠《こうもり》に化けたみてえだっただ。おらあ、子供の頃、祖母《ばあ》さんに何遍も聞かされただ。本物の貴族は蝙蝠に化けるってよ。今のは本物の貴族だあ」
音もなく着地した場所は、仕切り壁の上であった。
長靴の底が青い煙を立てはじめる。壁はまだ燃えているのだった。
灼熱の塊としか思えなかった数百台の巨大クレーンのひとつが、灼けた鉄板を運んできた。
音もなく跳躍して、Dはその上に立った。
その頭上に黒い影がのしかかるや、吹雪は熄《や》んだ。天井が完成したのである。それは、明らかにDが見下ろしたときよりも巨大な空間を覆っていた。
すでに数百階分の廊下も八方へと巡りはじめている。
鉄骨がその最も近い階に接近したとき、Dは飛び移った。
ぎりぎり――五〇メートル近い距離であった。
手摺りもついている。左手をのばした。
届かない。
右手が閃いた。
抜き打ちで放たれた刀身は、がっきと手摺りに食いこんだ。Dなら右手に力をこめるだけで越えられる。
刀身と手摺りの噛み合わせ部分が紅く染まった。
「ビーム砲じゃ!?」
声より早く大きく傾くや、世にも美しい凶鳥《まがどり》のごとく、黒衣の姿はまたも下方へ――今度は底知れぬ深い奈落へと落下していった。
そして、またも翻るコートの裾。石のごとく速く――そして、雪にも似て音も重さも感じさせぬ着地。
Dのコートは、胸部から白煙と炎を噴いていた。落下途中にレーザーの照射を浴びたのだ。
真紅の光がDの前後左右を流れた。壁もパイプも蒸発し、イオンと無に変わっていく。
Dがいるのは、石壁から迫り出した通路だった。貴族は超近代的な施設よりも古典的な材料と建築を好んだ。
「急げ。奥まで入れば――」
嗄れ声を聞く前に、Dは疾走を開始している。
五〇メートルを二秒足らずで駆け抜け、黒い出入口に突っこんだ。
腰や背に燃えている炎を、身体をふって消しつぶす。凄まじいレーザーの集中照射であった。燃え上がった炎は、走る勢いで吹き消し、これらはその名残りだ。
「十四カ所射たれておる。人間どころか大物貴族でも四、五日は絶対安静じゃ。細胞が丸ごと灼き抜かれてしまうからな。よくも走るなどできるものだ」
その声をどう聞いているのか、Dの足はさらに石の道を突っ走り、七つ目の曲り角で止まった。
ここまでの通路と異なり、その先は石の壁も波打っている。
「この先は未完成だ」
とDは言った。
「この城の構造を類推記憶しろ」
一瞬の間を置いた。
「なんと人使いの荒い男じゃ。あれをやったら、二、三日、わしの脳が灼けるぞ」
「頭を冷やすなら、いつでもできる」
またも、ひとときの沈黙。そして、
「うおおおお。おまえは冗談を言ったのか。おお、これでわしはいつ死んでも悔いはないぞおお」
左手をひと握りして、嫌がらせの声をつぶし、Dは波のようにゆれる廊下へと曲がった。
類推記憶とは、不十分なデータを元に正確な結論を出し、それを記憶に留めることを意味する。
脳の一部を酷使するため、不正確な結論を出せば、即、廃人と化す。
城そのものが完成してしまえば、それに関するデータは、制御コンピュータから得るしかないが、その周囲を取り巻く防御機構は完成しているに違いない。
最も手っとり早いデータ取得法は、いまだ未完成の部分から、いわば血管を通さぬ血液を採取するがごとく、読み取ることであった。撃退の武器も備えぬ未完のうちに。
波打つ通路の手前で身を屈め、Dは左手を床へのばした。
そのまま、五秒――十秒。
「……よし」
左手から力ない言葉が洩れた。
Dは立ち上がった。
「頭が灼ける……もういかん……」
呻く左手へ、
「ギルゼンの居室はわかるか?」
相手の都合など微塵も気にしていない冷やかな声であった。
「……何とか……な」
「それと、中央制御室だ。まずはそっちへ行く」
Dはふり向いた。
曲り角からおびただしい人影が駆け寄ってくる。
「とうとう城の警備員も甦りおったか」
左手が憮然とつぶやいた。
先頭の、ごつい甲胄に身を固めた何人かが、長い火器を構えた。
紫色の光がのびた。粒子ビームだった。
ビームは真っすぐにのびたが、構える敵の狙いは正確とはいえなかった。
火矢の間をDは黒いつむじ風のごとく走った。
白刃が閃く。そして、兜をつけていた首が宙に舞う。ひどく喜劇的な眺めであった。
3
先頭の四名を斃《たお》された男たちは、ざわめきつつ後退した。Dの耳に届いたのは、異形の言葉だった。
「ほお、珍しい。“古代水晶宮”語だぞ。まさしく“神祖”と肩を並べる貴族」
嗄れ声の意味するところはこうだ。
古代の貴族社会では、実質的な頂点に立つ統帥者“神祖”と、次位の“神老”たちが、世界の北の果てにあるとされる闇と氷と静寂の都『水晶宮』に遊んで、世界を統《す》べる方策を練ったとされる。
そこでは、人間はもとより、「水晶宮」の住人にのみ通じる特殊な言葉で会話がなされた。これが「水晶宮」語であり、あるときは繁栄と賞賛を与える神の言葉として尊ばれ、あるときは、衰退と死とを命じる魔王の言語として忌まれた。また、「水晶宮」に集った選ばれし者たちの身辺を固める配下たちも、簡略なそれ[#「それ」に傍点]を口にしたという。
「皆殺しはよせ。ひとりだけ生かして、ギルゼンの居所を――」
嗄れ声を聞きながら、Dはもとの廊下へ出た。
三方から槍が襲った。
突き出した男たちの口もとには、会心の笑みが浮かんでいた。
Dの身体は神速の動きを見せた。
胸と腹とを狙った二本の間に瞬時に身を入れてやり過ごし、左手で握り止めた三本目に沿って身を滑らせながら、右手を肩へ廻した。
斜めに斬り下ろす形になるはずが、刀身は真横に半円を描いて男たちの胴を薙いだ。
男たちの上半身は、それぞれの力の方向《ベクトル》に合わせてずれ、臓腑と鮮血を撒き散らしながら床に転がった。
左手の槍を離さず、Dは前方へ投じた。廊下の奥に並んだ男たちが三人串刺しになった。
背後から斬りかかってきた。
次の瞬間、そいつは頭から胸まで割られてのけぞり、二人目、三人目が凶刃《きょうじん》をふるった。Dはその場を動かず、刃はその身体に食いこんだように見えた。
だが、次の瞬間、血風とともにのけぞったのは男たちの方で、Dはすでに廊下を最初に向かった方向へと疾走中であった。
意味不明の言葉と足音が入り乱れ、さらに四人ばかりが必殺の刀身に斃《たお》れた。
包んで斬れとの指示が出ていたに違いない。広い廊下である。十人近い連中が左右からDを取り囲んだ。
だが、囲もうとも囲まずとも、彼らの刀身はDに届かず、Dの刃は容赦なくしくじりもなく、彼らの運命を死に変えた。
そこは、重要エリアらしかった。
いくつものゲートをDは風のように通過してのけた。
レーザーはその全身を貫いたが、Dが倒れる前に、その刀身と白木の針の犠牲となって停止した。
ゲートの開閉のためのプロセスを、Dは踏もうとしなかった。ゲートは専用のキイで開く。代わりにDは鍵穴に左手を押しつけた。どれも二秒とかけずに開いた。
「あとひとつ」
と嗄れ声が感嘆の声を上げた。
七つ目のゲートが開いた。
Dの足が止まった。
五〇メートルばかり前方に八つ目のゲートがそびえ、その前にざっと三十名を越す影が立っていた。
レーザー・ライフルと火薬銃を構えた男たちが、安全装置を外した。その背後の天井からも、得体の知れぬ武器がDの心臓に照準を合わせていた。
「動くな」
古代水晶宮語のアクセントを留めた声が、一同を凍結させた。
その発源点で男たちは左右に分かれ、緑青のケープ姿を前方へ進ませた。
「防御陣が中途半端とはいえ、よくここまで来た」
Dに負けぬ長身の、青白い男であった。痩せぎすの身体からは、しかし、見る者が顔をそむけたくなるような鬼気が立ち昇っていた。声が異様に高い。
「ギルゼンは何処にいる?」
とDは訊いた。他に訊くこともなかったろう。
「主人は外だ。館の造営を愉しんでおられる」
そういえば、天井の何処かで鉄を打つ音が鳴り響き、熔接の火花が散っている。ひどく古風な建築法だが、その成果の凄まじさは、直径数十メートルのパイプが一秒足らずで溶け合い、次々につながれていく様でわかる。Dのみが暗黒を通して見た光景だ。
「おれは、ギルゼン公の聖なる従護衛騎士団のひとり、バレンだ。通さぬぞ。――おまえたちは手を出してはならん」
男たちがそろって一礼した刹那、Dは宙に躍った。
刀身はバレンの頭上に。着地と同時にふり下ろせば、金縛りにあったかのごとく立ちすくむ敵は、水のように抵抗も示さず裂けるはずであった。
鋭い痙攣がDを捉えた。
着地した身体は、これ以外にはない美しいフォルムを保っていたが、刃《やいば》は空を切った。
数メートル離れた位置で、バレンは細く笑った。もともと女のような声だが、笑い声も同じだった。
「避けられはせんが、躱《かわ》したか。急所に二発放つのははじめてだが、三発目はないぞ」
だが、それきりバレンも凍りついた。
きっかり二秒後、彼は大きく息を吐き、突如吹き出した額の汗を拭った。
「何たる鬼気だ……主人以外にこのような……これは甦った甲斐がある」
斬り下ろした姿勢から、Dの刀身が上がった。
切尖がバレンの視線と同軸上で停止する。そのかがやきに、バレンの眼は吸いついた。或いは、その彼方でこちらを凝視するDの美貌に。
絶叫とともに、彼はのけぞった。
右眼を押さえた指の間から、白い針が生えていた。
Dの左腕の投擲《とうてき》。そこから一跳躍でバレンの頭頂へ――
刀身は落ちた。
朱に染まってのけぞる騎士の前で、新たな一撃の姿勢を取りつつ、Dはふり向いた。
「相手になるな」
と嗄れ声が忠告した。
「ギルゼンは外だ。捜しに行け」
Dは答えず、ゲートに近づいた。
左手を門に押し当てる。今度は五秒近くかけて開いた。
ゲートが開くと同時に、先に入ってきたゲートのあたりで、奇怪な気配が生じた。
Dの左手から白木の針が飛んだ。
真紅の長衣を頭から被った小柄な姿は、次の瞬間、暗黒に隠れて見えなくなった。
突如、闇が生じたのである。
Dの刀身が閃いた。
音もなく足下に散らばったのは、二つになった白木の針であった。
闇の奥に潜むものが投げ返したのか。それは、Dの針を受け止めてのけたのか。
背後でゲートが開いた。
Dは背中からそれをくぐった。
狭い空間が彼を呑みこみ、ゲートが閉じた。
エレベーターであった。
左手を内側の壁に押しつけると、すぐ降下がはじまった。
「急げ。途中で止められると危《やば》いぞ」
手の下から嗄れ声が告げた。
「地下三千階――どえらい仕掛けじゃな」
ドアの上にある緑色のラインがぐんぐん縮んでいく。数字らしいものも点滅中だ。
「地下千階。――千百六――千百五十八」
足底から押し上げる感覚が、ぴたりと停止した。
「いかんな。これでは、動きが取れんぞ。宙吊りじゃ」
嗄れ声が愚痴ったときにはもう、Dは行動を開始していた。
コートの内側に左手を入れた。出てきた手の平には、黒い球体が載っていた。
「山人の手投げ弾か!? よくレーザーが命中しなかったものじゃ。人間、セコイ奴の勝ちじゃの」
Dの身体が躍り、舞い降りた。
天井の真ん中に手投げ弾が止まっていた。細長い木の針[#「木の針」に傍点]が斜めに天井を貫き、ついでに手投げ弾も貫通していた。
内蔵ヒューズの燃えるかすかな音を、嗄れ声は聞き取ったらしい。
「もっ、もう点火――セコイ上に、せっかちめが!?」
絶望に近い声を、ひと呼吸遅れて天井の雷火と雷鳴とがかき消した。
貴族好みの時代遅れ《アナクロ》なメカ――ケーブルを天井板ごと吹きとばされたエレベーターは、Dを乗せたまま一気に二千階分を、文字どおり石のごとく落下していった。
[#改ページ]
第七章 ギルゼン公爵
1
雪崩にこそ巻きこまれなかったが、夕暮れとともに勢いを増した吹雪が、一同を苦しめはじめた。
雪洞は掘ったし、寝袋兼用のコートを羽織れば暖は取れる。ダストの傷もヴェラの薬で化膿にはいたらない。
となれば、残る問題は闇と城の恐怖だった。
シーラ山だった雪山が、突如、巨城に変貌した。尾根は崩れ落ち、四人は完全に置き去りにされた。
吸血鬼と化して甦ったあの山人たちが、何かの拍子にまた生き返り、牙を剥いて襲いかかるのではないか。
何よりも、彼らを甦らせたものは、何処で何を企んでいるのか。いっそ、城へ戻ってくれたならともかく、貴族の血走った眼と永劫の飢えに狂う唇は、いまも我々を見つめているのではないか。
テントは二つ設営されていた。
片方にヴェラとダストが入り、もうひとつにクレイとルリエが収まった。もともと二人用である。
本来はヴェラとルリエに男二人なのだが、何がうろついているかわからない以上、男が付くということになったのである。
「ねえ」
缶詰と乾パンの食事が終わると、それまでひとこともしゃべらなかったルリエが、窓の外を見ながらこう話しかけてきた。
「あのお姉さん、大丈夫でしょうか?」
リリアのことである。寝転がっていたクレイは呆れた。
「おめえ、あんな情《つれ》ない女を気にしてるのか。さんざか邪慳にされた上、放り出されたんだぜ。死ぬまで怨むのが筋ってもんだ」
「―――」
少年が沈黙したのは、お尋ね者の返事に同意したのではなく、言葉にこもる憎しみに気がついたからである。それでも、
「でも、ひょっとしたら、あの城へ……」
思い切れずにいた。
クレイはけけけと笑った。
「なら、なおさら結構。今ごろは城の主に身体中の血を吸われてるさ」
それでは、と少年は話題を変えた。
「隣のお二人も心配なんです」
クレイは、ほおという顔を少年に向けた。
「どうしてそう思う? あの二人は医者と護衛だぜ」
「気になるんです。医師《せんせい》はダストさんに、何か悪いことをしたと思ってるみたいだし、ダストさんは医師に冷たいし」
「おめえ、世話焼きの爺いになりそうだな。おれもそう思う」
少年はクレイの方をふり返り、
「どうしてでしょうか?」
と訊いた。女医とダストのことである。
「わからねえ。何かあるんだろ」
クレイは天井を見上げて、
「辺境、都――何処へ行っても人間がいる限り、想像もできねえトラブルがつきもんよ。まして、そこに貴族が加わったら、もうめちゃくちゃだ。危《やべ》えことに、貴族にも憎しみだの、哀しみだの、愛だの恋だのという感情が備わってるらしい」
「どっちも、悲しそうです」
「そうかい、そうは見えねえ[#「見えねえ」に傍点]がな」
「胸の中にあるんだと思います」
「おめえ、ほんとに、長屋の大家だな。さぞかし頼りにされるだろうよ」
「クレイさんは、どうして山に?」
汚れのない瞳に見つめられ、お尋ね者は慌てた。
「いきなり、おれにふる[#「ふる」に傍点]な」
「ごめんなさい。でも――」
「わかってる。どう見たって山登りって面じゃねえ。ナイフ使った恐喝が関の山だわな」
「そんなこと――」
ルリエはむきになった。夢中で否定の首ふりを行う。クレイは苦笑した。
「まあいいさ。この際、はっきりさせとこう。おまえくらいの年齢《とし》になりゃ、辺境じゃ大人だ。隣で寝てる男の身の上くらい、いつも訊いとくようにしな。おれはな、クレイ・ヤンセン。ナイフ使いのお尋ね者さ。はじめて人を殺したのは、七つのときだ」
ルリエは呆然と、告白好きの男を見つめた。
「お袋に手え出しかけてたアパートの大家でな。我ながら鮮やかなナイフ捌きだったぜ。その年齢にゃ、もういっぱしの不良だったからよ」
「ナイフ出さないでください」
少年の怯えた眼が、袖口から飛び出したナイフに注がれているのを見て、
「そう怖がるなよ」
クレイは笑いかけた。
「ナイフなんざ、ただの道具だ。鍬や鋤と同じさ」
「違うと思います。そういうナイフは、人を刺す以外に使いようがありません。持ってる人は――」
ここで、あわわ[#「あわわ」に傍点]と口を押さえた。
「こら、はっきり言わねえか」
「あわわわわ」
「とぼけた餓鬼だな」
何度目かの苦笑の挙句、クレイはしげしげとナイフをひねくり廻して、
「確かに、こんなもン何本も持ってる奴ぁロクなもンにならねえ。そう気がついたときにゃ遅かった。そうだな、十五、六人は殺ってた。十八の頃か」
「甘い感慨にひたってませんか?」
「うるせえ」
「で、どうしてシーラ山へ?」
少年は、はっと口をつぐんだ。
クレイの横顔をかすめた翳に気がついたのである。
それは大人になりきっていない彼にも理解できる、身体には決してつかぬ傷であった。
それだけで、この殺人者には山へ登るだけの正当な理由があるような気がした。
「おれのこたぁ、もういい。それより、おめえは――確か、父親捜しだったな」
「そうです。父さんは今でもこの山の何処かに生きています。山人たちをやっつけたのは、きっと父さんです」
「そりゃあよかったな。けどな、親父さんが生きてるなら、山人退治の前に山を下りるはずだろうが。それが人間ってもんだぜ。それとも何か、山を下りたくねえ理由でもあるのか? おめえのお袋さんがとんでもねえ強欲女だとか」
「やめてください!」
クレイは肩をすくめて、うへ、と言った。
「悪いことを言っちまったな。勘弁しろや」
涙を浮かべて身体を震わせているのを見て、手にしたナイフをひょいと少年に向けた。
「詫びの印に一回だけ、おめえが危なくなったら、おれが助けてやるよ。たとえ死んでもな。それでチャラだ、な?」
ルリエは目頭を拭いながら、
「いいんです。気にしないでください。あれこれ言われるのは慣れてます」
と言って、寝袋へ入った。
「もう寝ます。お休みなさい」
風の音がクレイの耳に激しく鳴った。
数分後、テントへやってきたクレイを迎えて、ヴェラとダストは眼を丸くした。
「何事よ?」
「女の声が聞きたくなってな。おい、おっさん、餓鬼を見てろや」
ダストおっさん[#「おっさん」に傍点]が、じろりとにらみつけた。一瞬、プロの殺し屋が色を失ったほどの凄絶な眼差しであった。それはすぐ、ヴェラに向いた。
「大丈夫よ、行ってあげて」
ダストが出ていくと、クレイはすぐ、
「あの餓鬼のこったが、家族について何か知ってるかい?」
と訊いた。ヴェラは驚愕の表情を作った。
「どういう風の吹き廻し? あの子のことが気になるなんて」
「別に気になるわけじゃねえ。あんな餓鬼、おれとは無関係だからな。ただな、おれの経験からすると、あんな餓鬼が、およそ想像もできねえことをやらかすと、金目のことが絡んでることが多いんだ。ただの親父恋しさで、あんな年端もいかねえ餓鬼が冬山に登るわけがねえ。おれが知りたいのは、そこのとこなんだ」
「そんなことだろうと思ったわ――と言いたいところだけれど」
内心を見透かすような女医の視線から、クレイは眼を逸らした。
「あなた、本当にお金のことで、あの子の家庭の事情を知りたいの?」
「他に何がある?」
「――わかったわ。あの子には知らないふりをしておいたけど、あの子の父親は貴族の城を調べに行ったのよ」
「学者だったのか?」
ヴェラは疲れたように首をふった。
「絵画や宝石、貴族だけがこしらえ、人間にも操れる機械や武器――貴族たちが海水から黄金を作れるって聞いたことなくて?」
「――あれか、かっぱらいか?」
ヴェラは眉をひそめて、しっ、と言った。防寒着の胸ポケットから、しわくちゃの煙草を取り出し、自分用に一本抜いてから、クレイに差し出す。
「『都』のアルサロにいるようだぜ」
「こんな年取ったホステスがいて?」
服の袖で万能マッチに点火し、自分とクレイの煙草に点ける。
ひとくち煙を吐いて、
「ひでえ味だな。干したカビでも巻いたんじゃねえのか」
「我慢なさい。辺境じゃ、こんなものよ」
辺境での生活が楽なものでないことは、すでに事実の域を越えて伝説と化している。いわく、『都』からの輸送がなければ三日で飢える。いわく、万年飢餓状態で、親が子供を殺して食らい尽くしてしまう。いわく、食うものがなくなると、自分たちの血を呑む。そのために貴族に血を吸われなくても半ば吸血鬼と化している。etc、etc……。
事実はほとんどの地域が自給自足を可能にしているし、都でしか手に入らないはずの品も、『闇商人』たちが頻繁に運んできては、法外な価格で売りさばいていく。土地によっては、『都』の通販会社と契約を結び、『闇商人』たちを締め出したところもある。
それでも、嗜好品に関しては、やはり、質量ともに不足しているのが現状だ。
「ま、おれも『辺境』へ来て半年で音を上げたよ。こんなスカンピンどもが集まってるところじゃ、殺しの依頼もありゃしねえ。貴族の宝を狙うこそ泥が出るのも、無理はねえか」
「あの子の父親が貴族の遺品を集めて『闇商人』に売りさばいているという噂は、前からあったのよ。あの子もそれは知ってたと思う。私が校医をしていたとき、それが原因で大喧嘩をやらかし、運びこまれてきたからね」
「ほお、気の毒に」
ヴェラも煙を吐いて、
「違う。相手がよ」
「え?」
「上級生が三人。みな、あの子より頭ひとつ大きくて、喧嘩慣れしてた生徒だったわ」
「おい」
とクレイは、もうひとつのテントの方を指さし、
「すると、あいつ、猫かぶってやがるのか?」
「喧嘩のときはね。他じゃ何処でもああよ。猫は猫でも借りてきた猫のよう。でも……」
「何だい?」
「当人は喧嘩のことを何ひとつ覚えていなかったのよ。父親のことで絡まれたまではわかってるんだけど、そこからの記憶がまるっきりないの。やられた三人組も大した怪我じゃなかったから、あまりしつこくは訊かなかったけど、あれは本当ね」
「ただの興奮性の記憶喪失じゃねえのか。おれも随分見てきたぜ」
「いえ――勘だけど……」
「となると、あいつは記憶を失った喧嘩の天才か。わからねえ」
派手に煙を吹き上げるクレイに、
「それはともかく、直に聞いたわけではないけれど、父親を捜しにきたのは、遺跡泥棒の汚名をすすぐためでしょう。やり方もわからないし、まず無理だと思うけど」
「同感だ。ありがとよ」
クレイは立ち上がった。
風のせいか、苦労してドアを開け、雪片を押しのけるように外へ出た。
五分ほどして、ドアが叩かれた。封印テープを外した後に、雪と風と一緒に現われたのは、ダストではなかった。
「どうしたの、クレイ?」
訝しげな女医へ、何とも不思議そうな表情で、
「いねえんだ」
「え?」
「テントはある。内部《なか》も、いまのいままで二人がいたままだ。ココアとコーヒーがカップごと残ってて、まだ温かい。たったいままで、二人ともそこにいたんだ。しかし……」
クレイの表情はこわばっていたが、恐怖は浮かんでいない。抑えているにしても見事なものだった。プロの殺し屋だけのことはある。
「攫われた?」
「多分な。だが、あの餓鬼はともかく、あんたの用心棒が抵抗のひとつもしなかったとは思えねえ。移動性の次元渦動にやられたか。それとも、あいつが何もできなかったほどの敵がやってきた……」
「あの城から?」
ヴェラの声は怯えを隠していない。
「……だとしたら……ギルゼン公爵が……」
「いまさら怖がるなよ。山が城に変わったときに、逃げないと決めたろうが」
「わかってるわ」
ヴェラは胸に手を当て、大きく息を吐いた。
「大丈夫よ。でも、二人はどうするの?」
「とりあえず、近所だけ捜してみて、見つからなきゃ諦める。あんたはここから動くな。武器はあるな?」
ヴェラはコートの右ポケットに手を触れた。連発式の鋲打ち銃が収まっている。長銃もある。少しも気を落ち着かせてはくれなかった。
「じゃな」
クレイはまた闇に消えた。
ヴェラはドアにテープを貼ってから、テントの真ん中まで行って腰を下ろした。不安が心臓をついばんでいる。
右手で顔をこすったとき、ドアが叩かれた。
「おれだ」
聞き覚えのあるクレイの声であった。
「開けてくれ。照明筒があったら貸してほしい」
「待ってて」
ヴェラは走り寄って、テープを剥がした。その瞬間、戦慄的な思考が脳裡に閃いた。声はクレイだ。だが、それを出す当人は――真物《ほんもの》か?
雪まみれの男が入ってきた。
フードから雪を払い落として、クレイは顔を上げた。
「女医《せんせい》――」
息を呑んだ。
誰もいない。
今、テープを剥がした女医の姿は、何処にも見えなかった。
「まさか……女医まで……いまここで……」
棒立ちになったお尋ね者を、底無しの孤独が捉えたが――すぐに解消された。
誰かが肩を叩いたのだ。
2
Dは足を止めた。
「ここじゃ」
と嗄れた声が告げた。低いが鉄の自信を含んだ声である。
三メートルばかり離れた石の壁面に、鉄板が嵌めこまれていた。
縦横一〇メートルと三メートル。表には無数の鋲が打ちこまれ、その左右には、壁から迫り出した鉄篭に入れられた松明が燃えている。
「どこまでも古風《アナクロ》な奴じゃの」
と嗄れ声が言った。
中央制御室である。
Dは前へ出て、鉄扉に左手を当てた。
きしみながら開いた。内側にあるものを考えれば、呆気ないほどだ。
「こりゃあいい――罠だぞ」
言うまでもない。だからといって後退する若者でもなかった。
開き切るのを待って、Dは内部へ一歩踏みこんだ。
「ここまで、邪魔が入らなかったわけじゃ。エレベーターから無事に脱出したからといって、注意が肝心じゃぞ」
二千階分を落下した鉄の函の中から、彼は平然と脱け出してきたらしい。
Dは無言で進んだ。
白い部屋であった。
白い金属と色彩で埋め尽くされた平原のただ中に、Dはいた。
前方の距離も不明な彼方に、半球型のドームが伏せていた。
「反エネルギー炉じゃ。貴族の科学をもってしても、いまだ完璧な安定は得られておらん。おかしなちょっかいを出すと、その場で暴走するぞ。“神祖”が、ギルゼンを封印したのは、エネルギー炉を管理するためという説もあるほどだ。――おっ!?」
冷気がDの全身を押し包んだ。白い光さえ凍りつき、凍結した空気がDの周辺に氷片と化して舞い散った。
「いかん……零下……二七二度じゃ。眠気が……ふああ」
左手が欠伸を洩らした。
「……気を……つけろ……奴め、わしらのことを……知って……おる」
「ゆっくり休め」
静かに放って、Dは歩き出した。
天から声が降ってきた。
「ほお、お守り役なしでも歩けるのか、若いの?」
Dは眼を凝らしたが、絶対零度に近い世界には、氷結した空気の他は何ひとつ認められなかった。
「見えやせんよ、なんせ形がないんでな」
と声が言った。
「おれもおかしいが、おまえもそんな人の形に縛られてる存在じゃあなさそうだ。ここへやってきただけでもわかる」
「邪魔をするか?」
静かなDの問い。
「そりゃ一応、な。そのためにおれたち“聖なる従護衛騎士団”は甦った。おれの名はバジスだ」
「D」
とまどっているような気配が伝わってきた。
「……D? Dか? 何処かで聞いたような名前だが……えーい、復活は一万年ぶりだ。いずれ憶い出すだろう。おまえを片づけてからな」
Dは空中に舞った。
びゅっと空中をひと薙ぎするや、Dは鮮やかに着地してのけた。
「ほお、それがおれの位置か?」
天井の声は感心したように言った。
「なんせ、手足の実感がないので、自分でも何処にいるのかははっきりせん。声で判断したのだろうが、いや、ありがたい。しかし、いくらおまえが腕利きでも、形のないものは斬れまいよ」
声は薄く笑った。
「となると、おれの方も攻撃不可能と思えるだろうが、どっこい、形はないが精神《こころ》はあるらしい。それが手足の代わりをしてくれる。こんな風にな」
鋭い痛みがDの右肩を裂いた。
鮮血が噴き上がる中で、Dは一刀を逆手に持ち替えた。
「おっ!?」
バジスの声が愕然とする間も与えず、Dは一刀を投擲した。
エネルギー炉までの距離は知らず、しかし、一〇〇メートルほどのところで、それは分解した。
「おおっ!?」
バジスの声が眼を剥いた[#「眼を剥いた」に傍点]。その念力で弾きとばしていたはずの一刀は、なおも炉へと走ったのだ。鍔もとから折れた刀身のみが。
さしものバジスの念力も遅れたか、刃はそこから二〇〇メートルも離れた炉の壁面に吸いこまれた。
青白い光が虚空を駆け巡った。
「しまった。壁が破られたか」
バジスの声は青ざめて[#「青ざめて」に傍点]叫んだ。
「おれの念力が、おまえの一刀には通じなかった。貴様、何者だ?」
答えはない。
Dはふり向いた。彼が通過してきた方角から、いくつもの影が走り寄ってきた。
虫の声そっくりの響きが付いている。イオンエンジンだ。
Dを取り囲んだのは、車輪のないバイク状の乗り物であった。
オレンジ色の甲冑姿が、伏せるようにまたがっている。
車体の先端から突き出した赤い銃口は、レーザー砲に違いない。
いかにDといえど、左手が眠りにつき、一刀も失った状態ではなす術もあるまい。
「ジャンヌか?」
バジスの声が訊いた。
「名を呼ぶな」
新しい声の主は、花道を名優のようにやってきた。
水晶が人の形を取ったような華麗な姿は、しなやかな、それでも男たちと似た甲冑姿を紫のマントで包んでいた。
腰の剣も男たちのそれに比べて華奢だ。足取りも蓮歩《れんぽ》というしかない。だが、全身から吹き出す凶気は、並んだ男たちが自然に横へ退いて彼女を通したほどの凄まじさであった。彼女?――女だ。
男なら人間も貴族も問わず腑抜けになりそうな美貌が、真正面からDを見つめた。
「………」
両眼をまばたき、美女――ジャンヌは顔をそむけた。
きっと天井をふり仰ぐ顔と身体を、舞い狂う電磁波が青く染めた。
「二度と私の名を呼ぶな。エネルギー炉も守れぬ愚か者めが」
可憐な声に含まれた何たる怒りか。バジスの声は沈黙した。
ジャンヌと呼ばれた娘は、それから、やっとDをふり向き、
「よくぞここまで。ギルゼン公から、丁重に扱えとのご指示を受けております。このジャンヌがご案内いたします」
恭しく片膝をつくと、右手をふくよかな甲冑の胸部に当てて一礼した。息が白い。少なくとも熱い血は流れているようだ。
Dを取り囲む磁力バイクのレーザー砲が、一斉に銃口のかがやきを失う。
いきなり一台が火を吹いた。電磁波の直撃を食らったのだ。
乗員がとび降りる。
「お客人の前で――腑抜けめが!」
ジャンヌの叱咤よりも、右へのばした手が早い。
何処に秘匿されていたのか、氷片と化した空気を灼いて走った触手のごとき鞭の一撃――びしゃっと耳を覆いたくなるような響きを弾いて、男の首は宙に舞った。
いつ握ったのかわからぬまま、鞭は美女の手に戻り――消えている。
舞台俳優のごとく、華麗な扇の骨に似せて開いた五指を優雅に折り曲げて、ジャンヌは立ち上がった。
「おい、ジャンヌ」
天井から姿なき騎士の声が、慌てて呼びかけた。
「ギルゼン様は戻られたのか?」
「ご酔狂を切り上げられたわ。炉が破られてはお戻りになるしかない」
だからDはまず、エネルギー炉を狙ったのか。ギルゼンを同じ土俵に乗せるために。
冷然と答えたジャンヌはDに微笑した。
それを崩さず、
「炉の損傷に対する罰は、いずれ下されるわ。覚悟しておくことね」
聞く者が心底、凍りつくような声であった。それは言葉が変わっても、少しの変化も見せなかった。
「では、参りましょう、D様。ギルゼン公がお待ちかねでございます」
紫のマントが翻った。雪片が舞った。
通路を歩き出した女騎士の後を、Dは静かに追いはじめた。
同じ頃、ムングス村の村長は、極めて物騒な訪問者に、苦虫を噛みつぶしたような顔を向けていた。
二〇〇キロほど北にある「『都』正規軍北部辺境空挺部隊」から派遣されたという男たちは、三機の戦闘飛行体を町外れに着陸させたのである。
「半年前に打ち上げられた試験用偵察気球が、三時間前にシーラ山の変容を捉えた」
と彼らは告げ、
「あれがギルゼン公爵の城だということはわかっている。我々はそれを破壊するためにやってきた」
「んな無茶な」
村長と、彼の使いに叩き起こされたマーキス部長は、猛然たる抗議を行なった。
あの城の近くに不時着した飛行隊の積荷と、乗員の安否を確かめるために、今、腕利きのハンターと村人が数名登っている。彼らが生還するまで、攻撃などとんでもない。
男たちは怒りも笑いもしなかった。機械のように無表情のまま、機械のように血も涙も感じられぬ声で、
「ギルゼン公爵が甦ったのだぞ。無事に戻ると思うか?」
村長と考古学者は沈黙した。
「君たちは、しかし、何の責任も持つ必要はない。我々は許可を求めにきたのではない。伝えにきたのだ。明日、夜明けとともに攻撃を開始する。これは辺境と『都』を含むこの世界すべてを救うための、聖なる破壊である」
「しかし、言葉を返すようだが、あれはギルゼンの城だぞ。たった三機で……」
「戦いは数ではない。兵器の質だ。我々の戦闘体には、一発で山脈ひとつを消滅させ得る新兵器が搭載されている。すまんが村長、今夜中に村の者たちを、村から五〇キロ避難させてもらいたい」
新たな運命の回転は、二人の老人の口をあんぐり開けさせたきり、村の責任者たちに連絡を取るべく召使いたちを呼びつけるまで、五分も無駄に費やさせてしまった。
3
Dは巨大な扉の前に通された。
城は完成したのか、限りなく近づいたものか、建設の音はもはや届かず、そびえる大理石の円柱も、それを飾る貴金属の彫刻も、華美なくせに落ち着きを備えていた。
ジャンヌの足音は床に吸い取られ、静寂には太古の歴史さえ感じられた。
ここへ来るまで、走る廊下に乗り、超音速エレベーターで運ばれたが、ひとりの人間にも会わなかった。時折、あえかな影が廊下の隅や列柱の陰に滲んで見えたが、視線を向けると何もいないのだった。
壮麗な扉には、不気味な竜や奇怪な花々が刻印されていた。それらはみな、凶々《まがまが》しさを伝える代わりに、ひどく孤独に見えた。
「私はここまでです」
ジャンヌは足を止め、脇に退いた。
礼も言わず一礼もなく、Dは扉へ向かった。
「なぜ、ここへ入られます?」
ジャンヌが声をかけた。
「我ら“聖なる従護衛騎士団”も、この扉の先には足を踏み入れることは叶いませぬ。それを、主人を狩るべきあなたが通されるとは――」
「主人に聞け」
それだけだった。
ジャンヌの美しさにも、何処か寂寥を帯びた問いにも、この若者は塵ほどの関心も持たぬ。そうやって彼は生きてきた。死ぬときもこうだろう。
数メートル手前で、扉はゆっくりと開きはじめた。鈍く重い響きは、そのための動力が原子力ではなく、巨大な梃子によるものと思われた。
広大な部屋であった。広間といってもいい。だが、あまりの広さに、使用を命じられた人間は、何に使っていいものか想像もつくまい。人を集めてゲームを――それには双方一万人ずつの人間と三階建ての御殿くらいもある道具が必要だ。
そもそも果てが見えない。天井から仄暗い光が降ってくるばかりだ。その天井も見上げれば闇に閉ざされている。
Dの眼に入ったのは、五〇メートルばかり前方にそびえる巨大なピラミッドだった。
まばゆい。黄金のかがやきが網膜を灼こうとしている。
ピラミッドは黄金でできていた。そして、ピラミッドではなかった。
幅広い階段が正面の傾斜につき、一〇メートルほどの頂点には、これも黄金の椅子に、まばゆい黄金のマントと男の顔が乗っていた。
貴族とは思えぬ頑丈そうなつくり[#「つくり」に傍点]の顔であった。
無精髭のせいかも知れぬ。それさえ剃れば、顔全体の印象は品がある[#「品がある」に傍点]で統一できるかも知れない。
「Dか?」
広大な平原に響き渡る荘重な声――だが、それは静かな、疲れたような印象から逃れることはできなかった。
「ギルゼン公爵か?」
「そうだ。よく来たな」
「まず訊こう。おまえ以外の飛行体の乗員はどうした?」
玉座の男は少し沈黙して、
「それが、おまえがここへやって来た理由か? いかにも教えてやろう。そいつらは、そこにおる」
突如、Dの左右に凶々しい気配が生じた。
何処にいたのか、二人の男が立っていた。両手を掴みかかるように胸前で構え、毒々しい赤い唇から、白い乱杭歯を剥き出しにしながら。
「おれは、パイロットのデルレイ」
「考古学者のギースンだ」
「おれはDだ」
と美貌の主は応じた。
「あなた方を捜しにきた。だが、もう連れては帰れんな」
「何故?」
玉座の主が訊いた。
Dは答えない。わかりすぎる質問だったからだ。
玉座の男が、皮肉っぽい笑みを見せた。
「質問の意味がわかっておらんな」
パン、と鳴った。
青白い細い手を打ち合わせたのである。
Dの右側から、パイロットが風を巻いて襲った。
その凶暴な顔も跳躍の速さもDの顔面を狙った鉤爪の凄まじさも、吸血鬼のものであった。そう認めた誰が信じられようか。貴族の血を受けたものが、一撃で葬り去られるとは。
空中から垂直に落ちた場所は、Dの足下であった。
その背――心臓のあたりから尖った切尖が突き出ている。Dは長剣を帯びてはいない。長い木の針であった。
即死したパイロットの顔が、みるみる常人に戻ったのは当然として、
「何をするんだ、この人殺し」
左方の考古学者が絶叫したのである。
「おれもパイロットも人間[#「人間」に傍点]だぞ。貴様、おれたちを助けにきたんじゃないのかあ!?」
すでにDは、その男が言葉どおりなのを見抜いていた。
「君が殺したのは人間だ」
と玉座の男が言った。
「すると、君のしたことは立派な殺人だ。救出しにきた男を殺害する気分はどうだね?」
Dは訊いた。
「人間と貴族――どちらに変えることもできるのか、ギルゼンよ?」
「お説のとおり」
絢爛たるマントの上で、青白い顔が笑った。
「では、もうひとりをどう扱うか、見せてもらおうか」
凄まじい選択がDに決定を迫っていた。
貴族と人間を瞬時に転換できるなら、それを殺した瞬間の状況で、Dはハンターとも非情の殺人者ともなる。
「人殺し人殺し。村へ戻ったら、みなに言いつけてやる。やっぱりダンピールなんか――」
声がぴたりと熄《や》んだ。またも手を叩く音。
考古学者の形相が変わった。Dめがけて跳躍した姿は、醜い吸血鬼のものであった。
Dよ、どう出る?
絶叫が迸った。
考古学者はパイロットの上に折り重なって落ちた。痙攣しながら起こした上体――その胸から白木の針が生えていた。
Dの一撃はまたも正確。
倒れる寸前、片手がDへとのびた。
すすり泣くように、
「人ごろ……し……」
そして、パイロットと溶け合うように動かなくなった。
低い含み笑いは、その少し前からDの耳に届いていた。
「つまらぬ質問だったらしいね」
玉座の上の男は、自らを嘲笑した。
「あくまでも、襲いかかった貴族のまがいもの[#「まがいもの」に傍点]を処理しただけ、か。恐ろしい男がいたものだ。君のような男に会えて嬉しいよ、D。このギルゼンが君の期待を裏切らない男ならいいが」
「積荷はおまえか?」
とDは訊いた。
「そうなるな」
「では――処分する」
Dだ。これがDという若者だ。
ギルゼンは眼を見張り、それから急に笑い出した。
「そう来るか。いや、ますます気に入ったぞ。Dよ、少し時間を貰えまいか?」
その眉間に、空気抵抗も無しで飛びきたったひとすじの凶器――白木の針は後頭部まで貫通してのけた。
一瞬、凄まじい苦痛と怒気が青白い面貌をかすめたが、Dの眼にすら止まらぬうちに、それは疲れた笑いに化けた。
三度《みたび》両手を打ち鳴らすと、Dの必殺の針は押し戻されるように抜け落ち、玉座から階段の半ばまで転がって止まった。
「おまえの技でも私は斃《たお》せん。しばらく、この城で技を磨いたらどうだ?」
それに、と付け加えた。
「わたしは、“神祖”について詳しいぞ」
Dは跳躍した。
ギルゼンが手を打つ。この空間の何処かに仕掛けられた光学兵器がDの全身を貫くはずであった。Dの胸もとで、ペンダントが青くかがやいた。何も起こらない。
眼前に舞い降りた黒い美丈夫を、ギルゼンは半ば驚愕、半ば感嘆をこめて見つめた。
「無駄とわかっても戦うか」
Dの右腕がその首を掴んだ。
意外に細い頚部は、一気に握りつぶされていた。
痙攣するギルゼンを見つめるDの眼は、非情に澄んでいた。
その耳に聞こえた。
「――Dさん」
ふり向きもせぬその後ろ姿へ、
「みんないます。捕まっちゃったんです」
扉のすぐ前に立つ小さな影は、ルリエのものであった。
「――というわけだ」
喉をつぶされたギルゼンが、小さく咳きこみながら言った。
「おお、そんな顔で見るな。この私でさえ、妙な気分になってくる。ほら、顔が赤いだろう。――いや、読みは当たったな。氷のメカニズムを溶かす熱は存在したようだ。月並みな台詞だが、Dよ、あの子がどうなっても知らんぞ」
「おれには無関係だ」
ギルゼンは、にんまりと笑った。掛け値なしの邪悪な笑顔だった。
「そう口にすること自体が、私の策に落ちた証拠よ。ほれ」
彼は右手の指を鳴らした。
ルリエの身体を闇が包んだ。
絶叫が迸った。
「無関係な子供の悲鳴だ。気にはなるまいな?」
ギルゼンは、声と同時に血泡を吹いた。
彼はゆっくりと上体を引いていった。Dの指は首を離れ、その後を追おうとはしなかった。
「では、客人として歓迎することにしよう」
ギルゼンはつぶれた喉に手を当ててから、
「しかし、その前にこの地を統べる者として、けじめはつけておかねばならん。薄汚いハンターへの制裁をな」
突如、彼の両脇の下から、湾曲した刃が出現した。
刃? ――いや、それはまぎれもない肋骨であった。
左の一本がDの腰を貫くと同時に、右の骨は機械仕掛けみたいに向きを変えて、上からDの心臓を貫いた。
杭のようなその先端を背まで露出させながら、Dは声ひとつ上げずにのけぞり、よろめいた。身体は反射的に後退を求めたが、胴も串刺しにされていた。
「これで卑しきものへの制裁は終わった。後は心ゆくまで語り尽くそう。Dよ、城の夜はまだ長いぞ」
奇怪な肋骨剣は引き抜かれた。
ようやくDは後じさり、大きく身体を泳がせると、玉座の頂きから真っ逆さまに落ちていった。
[#改ページ]
あとがき
「D―白魔山」は、本当は分厚い一冊になるはずでしたが、上下巻でお送りいたします。その間の事情は色々ありますが、色々と省くことにします。
なぜDは冬山に挑むのか? 執筆時が冬だったからです。凍りつく世界でDを戦わせてみたい。なら、スケートとかスキーをテーマにしてもよかったのですが、やはり登山になりました。理由はご想像願います。
私は冬の山に登るなど、考えただけでも死んでしまいそうな人間なので、雪山の描写はすべて想像です。おかしな部分が出て来ても苦情は受け付けません。私は平地に積もる雪しか知りません。山というものがどんな形をしているのかはわかりますが、登るとどうなっているのかも知りません。悪しからずです。
しかし、そんな世界でも、Dが戦うにはふさわしい場所が創造できたと思っています。冷気も峻峰も、この若者には仕事を果たすための舞台に過ぎません。
私のように好きも嫌いも得意も苦手もない。依頼された仕事を果たすためなら、地獄へでも行くでしょう。そして、必ず生還することでしょう。
スキーもスケートも冬の魚釣りも私にはおぞましいものでしかありませんが、Dはこなす。この若者が敢行するウィンター・スポーツがどんなものか、読者のみなさんに想像できるでしょうか。
次巻で試してみるのもいいかも知れません。
ちなみに、今回の相手は少々手強い。正直、これまでとは比べものにならないほどの強敵です。
Dが彼にどう挑むか。
何もかも「D―白魔山」に詰まっています。
さあ、ご覧にいれましょう。
平成十七年二月某日
「呪怨」を観ながら
菊地秀行