D―魔戦抄 〜吸血鬼ハンター15
菊地秀行
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目次
第一章 リラとラスト
第二章 狙われた村
第三章 黒死団
第四章 手をつなぐ死ら
第五章 残地諜者
第六章 殺人鬼の手
第七章 単なる前哨戦
第八章 潜む影
第九章 夜と昼の戦(いくさ)
あとがき
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第一章 リラとラスト
Dはその二人を二度見かけた。
最初は冬。
〈北部辺境区〉の街道であった。
雪が舞っていた。
先を急がねばならぬ旅人たちが、呪いの眼差しでふり仰いでも、すでに十日も熄《や》まぬ雪であった。
宿場は足止めを食らった人々で膨れ上がり、「都」から管理をまかされた担当区の村々は、除雪車や土木用妖物等を駆り出し、かろうじて、サイボーグ馬の通行のみを可能にした。
人々を封じた雪は、それなりの愉しみも与えた。
宿の窓に点る灯《あかり》と、歌声である。
旅廻りの楽士でも加わっているらしく、ギターの伴奏をともなった男女の合唱がこぼれ出る宿の前を、三騎の若者と馬とが通りかかった。
二騎は南から北へ。
一騎は北から南へ。
二騎の方は、白い世界に火のような紅《くれない》のケープをまとった女と、灰色の防寒コートを着た若者であった。
ただ一騎の騎手は冬の死を思わせる漆黒のコートと旅人帽《トラベラーズ・ハット》を身につけた、これも若者であった。
だが――その美貌。
この星の誕生以来、連綿と降り続けてきた白雪を人のサイズに圧搾すれば、石炭から生まれる金剛石《ダイヤ》のごとく、この若者の顔になるのではないか。
Dである。
急ぎ旅の者も馬首を向けずにはいられないような、ぬくもりと明るさを備えた窓を、忌むべきものとでもいう風に、一瞥も与えず彼らは通り過ぎた。
どちらもお互いを見ようともしない。
雪に導かれてでもいるように、三騎は白い世界に呑みこまれた。
冬の街道に残るのは、雪の積む静寂と、宿の窓明りと、歌声ばかり。
それに背を向けて去った三人が何処へ行ったのか――誰も知らない。
二度目は秋。
〈東部辺境区〉の町の酒場であった。
Dはそこで依頼人と会う予定だった。
酒場は昼、レストランを兼ねる。Dの他に客はいなかった。Dの前には湯気の立つコーヒー・カップが置かれていた。最後まで手がつけられずに終わるカップだった。
夜はダンサーに変わるウェイトレスたちは、ほとんど半病人のような表情でカウンターにもたれている。Dの美貌のしわざであった。
店の外で、黄ばんだ落葉がかすかな音をたてている。風だった。
そこへひと組の男女が入ってきた。
真紅のケープの肩に乗った一枚の枯葉が、ひどく鮮明であった。
二人はカウンターでウィスキーを注文した。
Dを見ようともしない。一年前と同じように。
バーテンの出したグラスへ手をのばしたとき、新たに三人の男たちの長靴《ブーツ》が床をきしませた。
「見つけたぜ、化物」
と口髭を生やした中央の男が喚いた。
「くたばりやがれ」
すでに腰の鋲打ち銃《リベット・ガン》を握っていた右手が二人の方を向く。
灰色の風が真紅の炎をあおり立てた。
口髭の男の頭は二つに割られ、残る二人の肩には黒い鉄の矢が突き立っていた。
女が長剣をケープの内側《なか》へ戻し、若者が鉄の半弓を仕舞う。いつ取り出し、いつ使ったのかもわからぬ武器であった。少なくとも、女の長剣が男の頭を割るには不可能な距離があった。
それぞれの姿で呻く二人と、床上でぴくりとも動かぬ口髭を冷やかに見やって、女が若者の方を見た。
「優しいこと」
皮肉な口調であった。
「治安官が来たら、見たとおりのことを話してちょうだい」
カウンターのウェイトレスとバーテンに伝え、女は男を促して店を出て行った。
若者の、どこかやり切れなさそうな表情が、空気の中にいつまでも残った。
身じろぎもせず、無表情なままのDへ、カウンターの向うからバーテンが恐る恐る、
「お知り合いですか?」
と声をかけてきた。
三度目は[#「三度目は」に傍点]――夏。
〈西部辺境区〉の西の外れにある〈ジェネヴェの村〉であった。
「済まんが、事情が変わってね」
白髪痩身の村長は、謝罪の言葉とともに、小さな袋をテーブルに置いた。昼近い村長室である。
「黒死団はやって来ないらしい。全額とはいかんが、約束した報酬の三分の二だ。これで我慢してくれたまえ。他のハンターにも同じ条件で了解してもらっている」
「私は三分の一で十分だと思いますがね」
と村長の後ろに控えた肉玉のような巨漢が、そっぽを向いて言った。先刻、副村長のオダマと名乗った男である。頭には一本の毛も生えていない。
「いくらこちらが依頼したとはいえ、所詮は野良犬並みのハンターじゃあないですか。約束の意味などわかっているはずもない。それより、黒死団の連中の仲間に加わらないよう、村を出る前に処分してしまった方が――」
「オダマ。口を慎め!」
村長が怒鳴った。
分厚い唇を歪めて、副村長は口をつぐんだ。
「申し訳ございません」
と、オダマの右隣に立つ娘が詫びた。
腰まで届く金髪は、ゆるやかに波打っている。
豊かな光に満ちた青い瞳、すらりと通った鼻梁――普通なら、どんな男も眼を剥きそうな美女だが、今日は相手が悪い。瞳は熱く濡れ、詫びる声も切なげだ。
「副村長は多分に発言に問題があります。お詫びいたします」
村長の秘書――シェリルである。口もとがよく似ている。実の娘だ。
「金は要らん」
とDは静かに言った。淡々たる口調なのに、三人の男女は凍りついた。
「その代わり、別のものを貰おう」
「な……」
呻いたオダマの顔前を白光が一閃した。
ちん、と鍔鳴《つばな》りの音がDの背で鳴ったが、何がどうなったのか、網膜に留めた者はない。
村長とシェリルが見たのは、戸口へ向かって遠ざかる黒い背中であった。
その自然に下げた左手のあたりで、おほん、と咳払いに似た音がした。それが合図か、
「うおおおおお」
驚きと苦痛の叫びが二人をふり向かせた。
オダマは両手で鼻を押さえていた。芋虫のような指の間から、鮮血が溢れていく。
「鼻が――鼻が……」
二人はでぶの眼が狂気のごとく追う足下へ眼をやった。
醜い団子鼻がぽつんと落ちていた。その上に点々と血の粒がしたたった。
「こんなところで……なんてことを」
暗然とつぶやき、シェリルは戸口に眼をやったが、開いた気配も閉じた風もないドアの前には誰もいなかった。
Dは真っすぐ宿に戻った。途中で出逢う村人の全員が、とろけたような顔つきで棒立ちになる。
この村は二本の主要街道の交差地点にあたるため、かなり大きな商人宿が設けられていた。
Dはその一室を取った。珍しい事態である。交渉が決裂した時点で、いつもの彼なら、真っすぐ村を出ている。
部屋に入って鍵をかけると、Dは床の中央に立ち、左手を上げてぐるりへ手の平を向けた。ひと廻り済むと、嗄れた声が、
「電子、悪霊、怨念その他の仕掛けはなしじゃな」
と保証した。それから、
「早く横になれ。いまのうちに治しておかんと、当分生き埋めだぞ」
室内の走査《センシング》が終わった時点で、Dはすでにベッドへ向かっている。
荷物の入ったバッグは床に置いたまま、サドルバッグだけを肩からかけていた。
ベッドのかたわらに辿り着いた瞬間、足取りが乱れた。
大きくよろめき、仰向けに倒れた。スプリングがきしむ。
黒衣に包まれた身体に、明らかな異変が生じていた。
青白い肌が落葉のように黄ばみ、呼吸もせわしない。この克己《こっき》の鬼のような美青年が、耐えることができないのだ。
乾き切った皮膚の表面には、びっしりと汗が層を成している。
「しまった」
と左手が呻いた。
「カーテンが開けっ放しだ。それに、ベッドの位置も移さんといかん。こいつはもう指一本動かせまい。係を呼ぶぞ」
返事はない。指一本動かしたようにも見えない。しかし、左手は、よしと言った。
ゆっくりと上がっていって、枕もとの通話管を掴んだ。
「三〇六号室だ。いちばん腹のすわった係をよこしてくれ。男でも女でも構わん」
管を戻してから、
「しかし、役場を出た途端に陽光症とはな。せめて土をすくってこれて良かったわい」
〈陽光症〉とは、貴族の血を引くダンピールか犠牲者のみに発生する突発的症状で、陽光にさらされている場合に限って、全身が硬直し、金縛りから失神状態に陥る。
体温は死者並みに低下し、呼吸も一分に数回まで落ちる。回復のためには、日陰で首のみ残して土に埋もれ、休息を取るしかないが、そのための時間は一定していない。Dの場合は平均二日だが、一度だけ半月に亘ったものもある。前触れもなく突然発症するため、いかに頑健なダンピールといえど、これに襲われると成す術もなく倒れ、獲物たる貴族の犠牲になってしまうことも多いという、恐るべき〈病〉である。
しかし、いかなるダンピールも、発症した刹那に失神するのが普通というのに、左手の台詞によれば、役場を出てすぐに発症した身を、二〇〇メートルも離れたホテルまで馬ごと運ぶとは、まして、チェックインを済ませる間、フロントにもボーイたちにも気づかせず、部屋まで自力で辿り着いたとは、やはり、Dというしかない。
五分ほどでノックの音がした。
「入れ」
と左手が命じた。
「失礼いたします」
と足を踏み入れた係は、十二、三と思しい少年であった。
「なんじゃ、餓鬼か」
とつぶやき、左手は、
「少々具合が悪い。指示どおりにしろ」
と命じた。
少年は眼を白黒させた。フロントで耳にしたDの声とはまるで別人の上、どう耳を澄ませても、左の手の平から聞こえるとしか思えなかったからだ。
しかし、客は客である。
「どういたしましょうか?」
丁寧に訝しげに訊いた。
「このサドルバッグの中味をおれの全身にふりかけろ」
「中味は何でしょう?」
「土だ」
少年は、はっとした表情をつくった。この客は何者なのだろうと疑うのとも、部屋を汚されると怯えるのとも異なる表情であった。
「承知いたしました」
一礼してDの左側に廻った。サドルバッグを取り上げ、二つに分かれたバッグの中味を、落ち着いてDの首から下にふりかけていった。
五分とかからず、作業は終わった。
ベッドの上で、Dの身体は爪先まで土に埋もれていた。
その手際のよさに、
「おまえ、慣れておるな」
と嗄れ声が感心したように言った。
「ひょっとして、同じような病人を世話したことがあるのか?」
「いえ、はじめてです」
と少年は胸を張って答えた。
「でも――慣れてます。〈陽光症〉の治療は、ホテルの訓練に入ってますから」
「入っておる? 〈陽光症〉の治療がか!? 何ちゅうホテルだ」
眼を剥くような左手の叫びに、少年はますます、面妖《めんよう》な、という表情になって驚くべき事柄を打ち明けた。
何とそのホテルでは、ダンピールの生理に根差したサービスが徹底されているというのである。
ダンピールの素性や仕事を知らぬ者は辺境にいないが、実物を眼にする機会など、ほとんどの連中が死ぬまでない。
百年に一度、訪れるかどうかも不明な特異な客のためのサービスなど、どんなホテルでも考えはしないだろう。
「罠か?」
左手は物騒なことまで考えてしまった。
だが、少年は言葉どおり、徹底して訓練の賜物としか思えぬてきぱきとした動きでカーテンを下ろし、窓からの陽ざしの届かぬ位置へベッドを移動させてしまった。
「ほお」
と左手は唸った。少年の行為は、彼の指示によるものではなかったからだ。
「それでは、これで」
一礼して出て行こうとする少年を、
「待て待て、チップをやるぞ」
と声がかかったが、
「規則でいただけません」
と辞退した。
「なんたる珍妙なホテルだ。どの客もそうなのか?」
「いえ。ダンピールのお客さまに限ります」
「普通の人間より、ダンピールを優先するか。おい、何を企んでいる?」
「何も。失礼いたします」
閉じたドアへ手の平を向け、左手は、
「不気味な宿だ。早急に出て行く手だの」
と洩らした。
「さて、荒療治に取りかかるか」
声と同時に、手の平に小さな口が開いた。
その奥で低く、ごお、と鳴って青白い火花がのぞいた。
「水差しもよし。風はわしの息で代用しよう」
地水火風すべて揃った。
ダンピールたるDの生命の素ともいうべき四大元素《エレメント》――そのすべてを左手一本で駆使し、田舎のホテルの一室で、いま、幻妖なる魔法治療が開始されようとしていた。
エアコンも汗ばむような熱気に満たされた室内に、またノックの音が鳴った。
「戻ってきたのか?」
嗄れ声は怪訝そうであった。少年が退去してから五分とたっていない。
「誰だ?」
若々しい声が応じた。
「治安官のラストだ。ダンピールが宿泊していると聞いた。話がある」
「断ってくれる」
と嗄れ声が意気込んだとき、
「入れろ」
と低い声が言った。どこか苦しげだが、鉄のような響きは少しもたわんでいない。
Dは両眼を開いていた。汗みずくの顔は同じだが、肌にはややもとの色が戻っている。
「いいのか? いま手を出されたら危ないぞ。副村長の紐つきかも知れん」
鼻を落としたことは、ひとことも言わない。
「だとしたら、いずれ来ることだ。ホテルと同じく治安官も変わり者かも知れん」
「ふむ――面白い、か。――入れ」
Dに匹敵する長身の若者であった。
夏だというのに、コート姿だ。シャツの胸に輝く黄金のバッジは、Dの顔が映るほど磨かれていた。腰の戦闘ベルトは、無論、火薬拳銃を収めたホルスター付きである。紫のバンダナを粋に巻いている。
短く切った金髪の下の男らしい顔は微笑を浮かべていた。
嗄れ声が、おお、と放った。
「三度目だな」
とDが低く言った。治安官――ラストの笑みはさらに濃くなった。
「男でも気絶するほど美しい黒衣のハンターと聞いた。ひょっとしてと思ったら、やはり、あんたか」
冬の街道で、ともに窓明りに眼もくれずすれ違った相手の顔を、Dも治安官も記憶していたらしかった。
「似合わないだろ?」
ラストは胸のバッジを指さして照れ臭そうに笑った。
「予想が外れた」
Dは無表情である。本人は気の利いた台詞のつもりかどうかはわからない。
ラストは白い歯を見せた。
「気にしてくれてたわけじゃないだろうな。いかん、あんまり男前なんで、おれまで妙な気分になってくる」
ここで相手の状態に気がつき、
「悪い。――具合はどうだ?」
Dは答えず、
「ボーイにこの療法を教えたのは、君か?」
と訊き返した。
「そうだ」
「助かった」
ようやくDが応じた。
「そりゃ、よかった。ゆっくり休んでくれ」
「他に用はないのか?」
村役場での出来事を知っている者がいたら、凍りつきそうな問いである。
ラストは苦笑で応えた。
「副村長の鼻を落としたそうだな。あんたがホテルへ入る少し前に、奴の子分の助役から訴状が出されたが、ここへ着く前に、同じ奴がまた撤回に来た。村長に説得されたんだろう。あの爺さん、まだ背骨に鉄が通ってる。オダマはいますぐにでも席を襲いたいんだろうが、まだ三十年は無理だな。――というわけで、あんたをどうこうしようとする者は、目下ひとりもいない。ゆっくり養生してくれ」
「長いのか?」
とD。ラストは眼を細めて、その意味を吟味し、
「この村にかい? ざっと半年になる。まだ、板についてないだろ?」
「まったくだ」
嗄れ声が納得した。ラストは素早く疑惑の眼を飛ばし、それからDを見つめた。
病んだ美貌が訊いた。
「あの娘も一緒か?」
落葉を散らしながら、不可思議な刀法を駆使した秋の酒場の女――真紅のケープ姿をDは想起したかどうか。
Dの瞳に映る若々しい顔が、一瞬、歪んだ。それはうなずいた。
「おれはリラと離れられないんだ。この村もじきに出て行く」
言い終えたとき、ふっ切れたのか、清々しい表情が戻っていた。
「会えてうれしかった。また、な」
背を向けて戸口まで行き、そこでふり向いた。
「村でのトラブルは厳禁だ。おれがいなくなってからにしてくれ」
二本指を立てて顔の横でふり、ラストは出て行った。
ドアが閉じてすぐ、
「まるで、別人だの」
嗄れ声が揶揄するように言った。
「旅に向いていないのは、最初からわかっておった。たった半年であの落ち着きぶりだ。あれは地に足のついた暮らしが向いておる。旅に出ると言っておったが、この村で暮らすのが望みと見た。となれば、ここにいても仕事は手に入らんの」
「彼は何故、旅をする?」
Dがぽつりと言った。気になるのか、あの若者が?
「さて」
「女がいたな」
「さよう。あれは様にならん治安官とは違うぞ。眼の配り、身体の動き、そして、あの刀法――正真正銘の戦闘士だ。それが、何年も共に旅しておる。故郷を追われた恋人同士か? いいや。おまえも気づいただろう。あの娘がラストを見る眼は、殺気と緊張からできていた」
自分は、その女から離れられないと、ラストは言った。運命の女《ファム・ファタル》は、彼をどんな旅路の果てへ導こうとするのか。
「もっとも、奴らが向かっておる以上、いずれ人手は必要になる。それを待つか?」
「明日は発てるか?」
とDは訊いた。
「十中八九は。だが、完全とはいかん。完治するまでここにいよう。おまえの状態が知られたら、辺境中のハンターや戦闘士どもが、名を上げようと狙い出す」
「それもよかろう」
「おい。勘違いするな。おまえの身を案じているのではないぞ。おまえに斃《たお》される奴らのことを言っておる。辺境中のハンターと戦闘士がいなくなれば、残存する貴族が、また勢力を盛り返す怖れがある。『都』が専門の兵士を派遣するのは、例によって一年も後か。その間、村々の連中は、いつ親兄弟や子供たちが白い牙を剥くかと怯えながら生き抜かなくてはならん。現実に数万の単位で犠牲者が出るじゃろうて」
左手の説明は、決して故ないことではなかった。判断はすべて正しかった。病み衰えたDが、辺境に数百人はいるといわれる同業者たちを、ことごとく葬り去ることがその前提となっていた。そして、左手はそのことを少しも疑ってはいないのであった。
「とにかく、わしはここでの養生を勧める」
高らかに宣言し、間を置いて、
「ん?」
と出た。
「ドアじゃ」
こう言われてからDがそちらを見たのは、大分よくなったように見える〈陽光症〉が、なおも甚大な病苦をDに与えつづけている証拠といってよかった。彼の耳は、いま、かすかに開いてゆくドアのきしみを聞けず、その皮膚と勘は、ドアの気配を感じ取れなかったのだ。
右手が、ベッドの左側に立てかけてある長剣を掴んだとき、それ[#「それ」に傍点]は投げ入れられた。
直径一〇センチほどの黒い球体であった。
それは形の持つ軽快さなど微塵も示さず、のろのろと二回転分こちらへ転がって止まった。
同時に、世界は黒い羽搏きで埋まった。
「蝙蝠《こうもり》だ」
と嗄れ声が叫んだ。
「ダンピールを襲うに吸血蝙蝠をもってする――恐らくは凶化生物兵器だぞ。用心せい」
これだけの間に、部屋は数百の羽搏きと黒い影で覆われた。
だが、耳を澄ませてみるがいい。
ある一点で魔性の羽搏きは忽然と消滅し、新たな影がそれを埋めては、また掻き消されていく。
ベッドの上であった。
Dの右手には一刀が握られていた。それが躍るたびに、押し寄せる影たちは二つに断たれ、ベッドと床を埋めていくのだった。
だが、一匹が切尖《きっさき》をすり抜けてDの右肩に張りついた――そんな“偶然”を許したのも、〈陽光症〉の残滓のせいだろう。
左手がむしり取った蝙蝠の小さな牙から、ふたすじの血の糸が流れた。
――――
通話管からの依頼を受けて駆けつけたボーイたちが、蝙蝠の死骸を片づけているのと入れ替わりに、Dはロビーに下りた。
回復した肌は、〈陽光症〉以上に乾き、そのくせ激しく汗をかいている。
チェック・アウトを告げられたフロント係が、思わず息を呑んだほどの憔悴ぶりであった。蝙蝠の牙は、人間なら即死する猛毒を分泌したのである。
Dがホテルを出たのは、無論、これ以上の刺客を避けるためである。蝙蝠の遣い手に関して、従業員は全員、知らぬ存ぜぬを通した。嘘でないことはひと目でわかった。Dにも左手にもその存在を気づかせずにドアへと近づいた刺客は、それ自身も蝙蝠のように飛び去ったとしか思えなかった。
玄関を出たところで白い陽ざしが迎えた。土も草も陽ざしの熱を蓄える余裕はなく、蒸せ返るような匂いが鼻を衝いた。草よりも土の方が強烈であった。
人気のない通りを、改造麦を積んだ荷馬車が、車輪をきしませつつ通り過ぎた。
ホテルといっても辺境の村の地所である。
砂利の舗装もしていない黒土剥き出しの通りには、馬や牛の蹄《ひづめ》や轍《わだち》の跡が残り、その向かいに軒を連ねる雑貨屋や酒場もお粗末な板張りだ。
それでも、見てくれだけは大きく、一人前にネオンまで点いているのは、その地理的な重要性によるものだろう。
村外れの交易所だけは、時期ともなれば、近隣の数十カ村から旅人目当ての商人連中が集まって市が立ち、夏の間は煮えくり返る騒ぎになる。
Dはホテルの横に設けられた馬小屋に入り、サイボーグ馬に鞍を置いた。
戸口からのびた影が、Dと馬の影に溶けこんだ。
「お出掛け?」
と鈴を鳴らすような女の声が訊いた。鉄でできた鈴の。
真紅のケープも、ゆるやかに波打つ黒髪も、Dは見ようとしなかった。
「いつも、束の間ね」
とリラは言った。
鞍の具合を確かめ、Dは鐙《あぶみ》に片足をかけた。
「手伝ってくれない?」
リラの次の言葉を、Dは馬上で聞いた。女の左胸のふくらみの脇に、黄金のバッジが止まっていた。ラストのとやや形が違うのは、治安官補の資格だ。
「何をだ?」
「知ってるはずよ。あなたはそのためにここへ来た。ホテルでひと騒ぎあったらしいわね。誰があなたを狙ったか、それも知ってるはずね」
Dは手綱を絞った。リラは馬の首を撫でた。
「村長のところへは、出鱈目《でたらめ》の情報が流れたの。流した奴には黒死団の息がかかっていた。奴らはじきやって来る。そのときのために、信用できる仲間が欲しいの。ラストは自分と血気盛んな連中だけで戦うつもりらしいけれど、村人というのがどんなに物凄い寝返り屋か、あなたも承知しているでしょう」
Dは謎のようなことを口にした。
「治安官はいずれ出て行くと言っていた。早い方がよかろう」
リラの表情が変わった。
「どういう意味?」
サイボーグ馬が歩きはじめた。
赤いコートがその前に立った。Dは馬を進めた。
「何故、邪魔をする?」
リラの眼が細くなった。いきなり嗄れ声である。しかし、どう見てもDしかいない。
「あなたが必要だからよ。村の人間は信用できないわ」
「旅の戦闘士を雇えばいいじゃ――であろう。ホテルにも文無し用の宿泊地にも多勢いたぞ」
真紅の女は、奇妙な眼つきでDの腰のあたりを見つめ、
「――言い換えるわ。人間なんて信用できないの。まともな人間[#「まともな人間」に傍点]なんか」
「同感じゃな」
同意の声はひとつではなかった。
サイボーグ馬が止まった。
背後を向こうともせず、
「何の御用、村長さん?」
とリラは不愛想に訊いた。ある意味、D以上に愛想のない声だ。
「あれから色々考えてみたんだが」
白髪の老人は、左隣に立つストライプ・ジャケットの娘の方へ顎をしゃくって、
「娘の勧めもあって、君を治安官補として採用することに決めたよ。受けてもらえるだろうね?」
極めて一方的な言辞である。いまのDの体調を考えれば、鼻どころか首を落とされても文句の言えぬところだが、Dはふたたび馬を進めただけだった。
「父の無礼は承知しています」
娘――シェリルが前へ出て話しかけた。真摯な眼差しと表情がDを貫いた。
「村長として少々人格に破綻をきたしているのは認めます。ですが、今回の決定は間違っておりません。力をお貸し下さい。勿論、相応しい報酬は用意いたします」
「いかん」
嗄れた返事に、シェリルは眼を丸くした。
「駄目ですか?」
「違うわ」
リラがケープを翻してサイボーグ馬の方へ歩き出したとき、Dの身体はゆっくりと左に傾き、一度も止まらず地面に落下した。
全員が駆け寄り、うちひとりが途中で足を止め、戸口の方を向いた。
闇が馬小屋を支配した。
分厚い木扉が左右からスライドして激突したのである。
信じられない身のこなしと速度で跳躍したリラの鼻先で、それは小屋を揺るがす響きを広げた。
ぶつかる寸前、身をひねって停止し、リラは扉をにらみつけた。
叩きも蹴りもしない。無駄な行為に体力は割かない。プロのやり方だ。
「どうしたね?」
と村長が訊いた。扉は閉じたが、窓が幾つもあり、視界は十分明るい。
「外に敵がいるわ――そっちはどう?」
Dの額に手を当てていたシェリルがリラをふり返り、
「ひどい熱。すぐ医師《せんせい》のところへ運ばなくちゃ」
と言った。
村の医療センターに勤める巡回医師である。この村には常駐の医師がおらず、旅鴉《たびがらす》ともいうべき医師を一定期間雇うことで代償とする。巡回医師にも個人的なものと辺境区医師会のような何らかの小組織に属するもの、「都」の派遣する医師があり、ひとつの村に短くて半日、長ければ半年留まって治療に専念する。現在《いま》の医師が村へ来るのは三度目。今回はすでに三カ月目に入っていた。
「一体誰が?」
と、シェリルはつけ加えた。
「だから敵よ。あたしかあなたたち親子か、その超色男に怨みを持つ人間」
リラは天井を向いた。
正面の壁に大きな窓が開いている。
窓へと跳躍したとき、その姿は逆しまに流れる紅い星のように見えた。
だが、五メートルも頭上の窓に軽々と飛びついた瞬間、彼女の身体は電波の乱れた画像のごとく歪んだ。
低い苦鳴とともに、リラは跳ねとばされた。
空中で一回転して鮮やかに足から着地する。
「リラ!?」
シェリルの叫びに応えるかのように、女戦闘士は立ち上がり、また[#「また」に傍点]歪んだ。両眼は引きのばされ、口は点のようにすぼみ、縮んだ両手の指は身長ほどもある。
「来ないで」
と言った。声は何重にも響いた。こちらも歪んでいるのだ。
「空間歪曲機を持っているわ。みな、真ん中へ来て。何かに触れては駄目」
「でも、この人が」
「軟弱者は放っておいて。自分が大切よ。早く!」
「シェリル、行くぞ」
村長に肩を抱かれて、娘が立ち上がったとき、周囲の光景に変化が生じた。
三方の壁と天井が乱れた[#「乱れた」に傍点]のだ。奥につながれた馬たちが、異常を察していななきはじめた。
不意に止まった。
そちらをふり返り、シェリルが悲鳴を上げた。
馬たちも歪んでいた。隔離用の仕切り板も乱れた映像のごとく波打っている。
馬はもはや馬ではなかった。鼻面は曲がり、足は飴のように溶け、胴は蛇のごとくのびて――奇怪な生物がそこにいた。
「溶け合ってる! 馬と壁が!?」
「何とかならんのか、補佐役《デュピテイ》?」
村長が地団駄を踏んだ。
「方法はあります」
リラが答えた。歪んでいる。
「どんな手だ?」
「私が体当たりしてみます。何とかなるかも知れません」
シェリルが血相を変えて、やめてと叫んだ。
「そんなことをしたら、あなたは消滅してしまうわ」
「それも仕事のうちよ」
リラが身を震わせた。歪みは忽然と消滅した。歪曲機の効果も完全ではないらしい。Dを指さし、
「何とかなりそうね。あたしがいなくなったら、何を置いても彼に代わりを頼みなさい。絶対に出て行かせては駄目」
「………」
「じゃ、行くわ」
リラが上体を曲げて疾走の姿勢を取る。その顔を風が叩いた。
「何よ、これ!?」
シェリルの絶叫が、変わりつつある小屋を揺るがした。
見よ。
天井が、壁が、その中央から漏斗状になり、すぼまり、一線となって、地上からわずかに離れた一点に吸いこまれていく。
肘から先だけ持ち上がったDの左手の平に。
その表面に開いた小さな口が、空間を吸いこんでいるなどと、誰が信じられたろう。
天が唸った。地が揺らいだ。凄まじい風に、みな髪の毛を押さえた。大げさではない。ちぎれてしまう。
凄まじい風の音がすべてを消し、次の瞬間、光が世界と化した。
三人は夏の陽ざしの下に白々と立っていた。馬小屋の天井も床も馬も消滅し、見慣れた通りの上に、四個の人影が並んでいた。
三人が四十年配の壮漢で、残るひとりは若い。まだ十七、八といったところだろう。大判のハードカバー・サイズのメカを、テープで首から下げている。
動揺の表情も露わに若者は後退した。
「何してる?」
と、ひとりが若者へ喚いた。
「信じられない。歪曲空間が消滅した」
「お気の毒さま」
リラが前へ出た。真紅の衣裳――それは彼女を包む殺気そのものであった。
「くたばれ!」
男のひとりが、腰の長剣を抜くなり、斬りかかってきた。
血で血を洗う職業についている鋭い切尖を、リラは抜き打ちで受けた。
美しい音をたてて、男の手から剣が飛んだ。測ったように、リラへと突進する二人目の頭部へと食いこむ。鼻下まで割れた。
血煙を上げて倒れる二人目の男のかたわらで、三人目が右手をふりかぶった。
風を切って飛んだ短槍は、リラの心臓を貫いた。
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第二章 狙われた村
リラが悲鳴を上げた。恐ろしい瞬間だった。
衝撃で女戦士の身体は一回転した。
その胸もとから、びゅっと何かが噴出して、三人目の男の喉もとを貫いてぼんのくぼから抜けた。
男の放った短槍をリラは間一髪で受け止め、投げ返したのである。悲鳴は相手を油断させるためだ。反転した身体が、突然、幻のように歪んだ。
声もなく前のめりになる。身体を支えようと地についた刀身も、ぐにゃりとねじ曲がった。
「くたばれ」
刀を打ち落とされたひとり目が、メカを操作する若者の前方から駆け寄ってきた。ふりかぶった一刀は二人目のものだ。
ふり下ろせばそのまま両断――という距離で、男はしかし急制動をかけた。
かっと両眼を見開いた顔は、もはや死相であった。
「あ……あんたは……まさか……」
酸素を求める魚のようにぱあくぱあくと開く口が、運命を悟った言葉を生み落とした。
村長とシェリルがふり返った。
「――D」
と男が呻いた。
黒衣の若者は、ずいと前へ出た。足取りは力に満ちている。だが、その両眼は血走り、汗が顎先から地面にしたたり落ちている。敵は恐怖による死相だが、こちらは病による死相だ。
「ゴロー、殺《や》れ」
男の絶叫は、これも凍りついた若者に向けられたものだ。彼は走って、その背後に隠れた。
若者の右手が、呪縛から解かれたように、キイボードへのびる。
その頭上に死の鳥が黒い翼を広げた。
恐怖の眼をふり向け、しかし、その死の美しさに、若者は恍惚となった。
頭頂から顎先まで斬り割られても、その顔は憧れにも似た表情を浮かべつづけていた。
血煙を上げつつ倒れた身体は二つあった。背後の男もDの刃《やいば》にかかったのである。地に伏した身体に血の雨が吹きつけた。
白い光の下に転がる男たちには眼もくれず、Dは若者の死体に近づき、切尖で動力キイをオフにした。
細い苦鳴を長く引きつつ、リラは元の姿に戻った。
よろめきつつ剣にすがって立ち上がり、周囲を見廻した。
「病人に助けられたようね」
とDを見て言った。
その眼に侮蔑の光が宿ったのは、馬小屋のあった[#「あった」に傍点]場所に立ちすくむ村長父娘に視線を合わせたときであった。
いかに辺境の村とはいえ、眼前に繰り広げられた死闘は、白昼の悪夢と思えたに違いない。
「文句を言うつもりはないけれど」
リラは若者とひとり目の男の死体を見下ろした。
「ひとり残しておいた方が、動機をはっきりさせられたんじゃなくて?」
「最初、おまえの前にいたのは彼だ」
Dは朱色の若者に眼を向けた。
「だが、おまえは斬らなかった。そして、殺されかけた」
「………」
「年齢と行為の間には何の関係もない。火龍の子供は卵の殻を破った瞬間、親に火を吹きつけるぞ。辺境の子供なら三歳で誰の心臓でも刺せるはずだ」
リラは一瞬、こみ上げるものをこらえてうなずいた。
「そのとおりよ。あたしのミスだったわ」
それから、村長へ、
「見覚えは?」
「いや、村の者ではないな」
「流れ者よ。ホテルを当たってみるわ」
道の奥から、エンジン音が近づいてきた。三本のドラム缶そっくりのタイヤに骨組みだけの操縦席をつけたスケルトン・ビークルである。
どんな荒れ地やぬかるみでもOKな上に、時速一〇〇キロを絞り出す。巡回商人からでも買い入れたのか、後部座席を取り外して、四角いミサイル発射器《ランチャー》が装備されていた。丸い発射孔からロケット弾の黄色い弾頭がのぞいている。操縦席の真下にある防弾タンクから銀色の大蛇みたいに後方へのびたエグゾースト・パイプの太さも、通常の倍はある。燃料はガソリンではなく、辺境全域で大量生産されるカビの一種である。
消滅した小屋の前でビークルを止め、治安官は跳び下りた。
立ち尽くすメンバーと小屋の残骸を見渡し、
「何事です?」
村長もいるので、丁寧な口調である。リラが手短に事情を説明した。
そこへホテルの支配人とボーイたちも駆けつけ、男たちは客ではなく、西の宿泊地にテントを張って寝泊りしている連中だと告げた。
「流れ者の殺し屋だろう。誰に雇われ、誰を狙ったか」
支配人とボーイたちに、死体をホテルの納屋へ運べと命じ、治安官は首を傾げた。
「とにかく、みな事務所へ来て下さい」
こう告げたとき、彼の眼の隅で、黒づくめの影がゆっくりと美しく崩れ落ちていった。
Dが意識を取り戻したのは、翌日の昼下がり――治安官の事務所だった。
「ホテルの蝙蝠事件も聞いた」
と治安官は複雑な表情で、眼醒めたDを見つめた。ただし、半眼である。焦点を合わせてはまずい。
「あの馬小屋の一件も、君を狙った可能性がある。事情聴取ができるようになるまで、ここにいてもらおう。幸い、宿泊施設は整っている」
「事情なら、いまでも話せる」
「いいや、無理だな。医師の話では、十日間は安静にして、話してもならんそうだ」
「薮医者だ」
「とんでもない。こんな田舎の村には勿体ない名医さ。我々は全面的な信を置いている。大事に養生してくれ」
「おい」
「悪いが武器は預かっている。君は重要参考人だ」
「参考人は容疑者ではないぞ。武装解除の必要はあるまい」
さすがにDも異議を唱えた。
「この村には特別法規がある。最近、できたばかりだがな」
「いつの話だ?」
「今日の昼。村議会で可決された」
「君が提案者か?」
「おれと――村長だ」
「武器を返してもらおう。おれは、いますぐ出て行く」
きしむベッドから下りようとしたDを暗黒が包んだ。
〈陽光症〉と変異《ミュータント》蝙蝠の毒素の合併後遺症である。
何とか横になったDへ、ラストは難しい顔で、
「言わんこっちゃない。とにかく休みたまえ。尋問はその後だ」
言い残し、ドアに鍵をかけて出て行った。
牢屋ではない小ぎれいな一室だが、それなりの連中用に使用するらしく、窓には鉄棒が入っている。
「厄介なことになったの」
嗄れ声が言った。内容とは違い、浮き浮きした調子がある。
「あいつら、おまえをどうしても助手にする魂胆だ。その気になれば、薬も使いかねん。大した治安官だ」
「いつ動ける?」
「業腹《ごうはら》だが、医者の見立ては正しい。十日はいかんな」
「三日にしろ」
「ふむ。無理ばかり言いよる。五日じゃな。これ以下では、後遺症と長い付き合いになるぞ」
「………」
「ここは我慢の手だ。そんな病気持ちになるよりは、あいつらを相手にした方がマシではないか」
「かも知れんな」
「よし、では後は交渉次第だ。わしにまかせろ。一年分の旅の費用くらいは稼いでやる。おまえは口を出すな」
「まかせよう」
「うむ。――おい、治安官、用がある。やって来い」
嗄れ声のボリュームだけが爆弾並みになって喚いた。
窓の外で、女の悲鳴が上がった。通りに面しているらしい。少し間を置いて、勢いよくドアが開いた。
「おや?」
真紅のケープ姿は床上の影まで紅く染まっているように見えた。
「治安官は見廻りに行ったわ。何の用?」
「神出鬼没の治安官事務所だな」
Dが低くつぶやいた。
「おまえたちの申し出を受けることに決めた」
と嗄れ声が居丈高《いたけだか》に言った。
「まず、こちらの条件を伝える」
「どこから声を出してるの?」
とリラが冷やかに訊いた。
「な、何を言うか。勿論、この喉からじゃ」
左手がDの口を指さす。
リラの眼差しは疑惑そのものになった。
「何か不自然な動きね」
「な、何だと」
「給料は?」
とDが訊いた。リラは棒立ちになった。眼をしばたたいて、
「――そうね、あたしと同じ。月に八十ダラス」
嗄れ声が、ふあっはっはと笑った。
「ぶぁっかめい。一日で百万、二百万の賞金首を獲ってくる男だぞ。そんな目腐れ金で仕事ができるか」
「普通は治安官でも五十ダラスよ。破格の報酬だわ」
「ふむ、いいじゃろう」
Dの眉が少し寄った。
リラはつづけた。
「でも、八十ダラスは基準給よ。村のトラブルを一件片づけるごとに十ダラス、お尋ね者を逮捕したら二十ダラス入るわ」
「去年のトラブルは?」
これはDである。
「記録によると三件だけ。酔っ払っての喧嘩と、浮気が原因の夫婦喧嘩、後は野犬退治」
「君たちの就任後は?」
「尻をナイフで刺されたパン屋を保護したわ」
「何事だ?」
「夜中に酔っ払って、他人の家へ入っちまったのよ。運の悪いことに、その家の主人も酒場で飲み明かしていたの。パン屋は電気も点けずに、他所《よそ》の奥さんの寝室へ入ったわ」
「ふむふむ」
次の光景を想像して、嗄れ声が笑いをこらえた。
「さらに運の悪いことに、それから二十分ほどして亭主が帰ってきたわ」
「そいつの職業は何だね?」
「刃物の研ぎ師よ」
「それは、運命だの」
「いい加減に腹話術はやめて」
リラはぴしりと言った。
「ほう、わかるか?」
「当たり前よ。もう少し趣味のいい声にしたら」
「おれもそう思う」
Dが認めた。
「では、八十ダラスでいいわね?」
「仕方がない」
「その代わり、十日後に働きはじめても、今月分はちゃんと出せるようにします」
「よかろう」
こういう台詞は、この若者におよそ似合わない。死神に礼を言われた気分だろう。もっとも、こんなに美しい死神なら、と思う連中も多いに違いない。
「話は決まった」
いきなり、ドアが開いてラストが入ってきた。嗄れ声が、はん? と驚いた。
「おかげで大助かりだ。尋問には手心を加えるよ」
いけしゃあしゃあと破顔する治安官に、嗄れ声が、
「おまえ、巡回になど行かなかったな」
と罵った。
「仕方がないんだ。交渉はおれなんかより、リラの方が上手くやってくれる。あんただって、おれと話すより楽しかっただろ?」
Dは無表情に、
「バンダナをほどけ」
と言った。
「は?」
「ほどけ」
「いいとも」
治安官は陽焼けした首すじを叩いた。
「貴族の牙痕でも見えるかい?」
Dはつづけて、
「断っておくが、おれはあと十日は動けないそうだ。その間、役には立たんぞ」
「大丈夫だ。最新情報によれば、黒死団が来るのは少なくともひと月後だ。そのとき、働いてもらうさ。Dという名の男がついててくれれば、このくらいの村、三つまとめて守ってみせるよ」
「侮るな」
Dの言葉に、リラがうなずいた。
「そのとおりよ、ラスト――いえ、治安官。奴らに襲われた村を見たでしょ」
世界が氷結したかのような沈黙が落ちた。
ラストの手がゆっくりと上がって、柿色の布地で覆われた首すじにかかった。
「ラスト」
リラが声をかけた。少なくとも相棒にかけるとは思えぬ冷厳な響きがあった。
「見てきたとも」
ラストは喉もとの手を髪の毛に移して掻きむしった。
「家の中にも外にも横たわる死体。男も女も老人も子供も喉を裂かれていた。刃物で襲われたものもあれば、食いちぎられた死体もあった。どちらも手を下したのは、人間だ。いいや、あいつらだ。貴族の犠牲者ども――疑似吸血鬼たちだ」
声に激情がこもった。眼には凄まじい光が満ちていた。どちらも狂気の証だった。温厚な治安官は何処にもいなかった。
「自制して、ラスト」
リラが呼びかけた。
ラストはうなずいて、額の汗を拭った。無益な行為だった。汗は激しくしたたり落ちた。何度も拭った。その間に狂気の翳は徐々に遠のいていった。
「おかしなところを見せて済まない」
「お疲れだの」
と嗄れ声が皮肉っぽく言ったが、それを気にするどころではなく、ラストは荒い息を何度もついてから、
「馬小屋を消滅させた連中の身元が割れた」
と言った。
「ほお。田舎の治安官にしては早いのお」
他所者《よそもの》の起こした事件は、近隣の町村や、場合によっては「都」まで身元を問い合わせねばならず、最低、一週間は処理に要するのが普通だ。
治安官は四人全員の名を上げ、流れ者の殺し屋だと言った。
疑似吸血鬼集団《グループ》とは無関係である。狙いはDに非ず、村長だろう。
「あの人は遣り手でね。おれを雇ったのも、村の酒場で暴れ出した流れ者を十人ばかり叩きのめしたと聞いたからなんだ。ここへ来る途中、街道が妙にひん曲がっていたのに気がつかなかったか?」
Dはうなずいた。
「本来の街道はずっと真っすぐ続いていた。あの人が村長になるまではな。この村は街道から外れた寂れた場所だった。無理矢理ひん曲げて村の前を通しただけじゃなく、勝手に〈ジェネヴェ街道〉と命名した上、〈アラスミアン街道〉と交差させたのも、あの人だ。強引に要所をこしらえちまったわけさ。おかげで村は繁盛したが、それに伴って暴力沙汰も増えはじめた。村長にしてみれば、味方も多いが敵もって状態になった。普通は少しは困るもんだが、あの人は平然としている。次期村長も確実らしい。後釜を狙ってる副村長としちゃ、面白くないわけだ。これまでも、あの手この手で横槍を入れてきたらしいが、所詮は役者が違う。みな、あきらめたかと思ったが、そうじゃなかったらしいな」
ラストは苦笑を浮かべた。それが最後の言葉の意味を明らかにした。
「身元は判明したものの、誰が彼らを雇ったかまではわからん。ひとりくらい生かしておいて欲しかったが、やむを得ないな。相手が悪かった」
彼は髪の毛を掻き廻した。
「個人的な意見を言わせてもらうと――あんたはもう、補佐だからいいが――反村長派より、あんたを狙った蝙蝠遣いの方が厄介事だよ。蝙蝠だぞ――貴族の象徴だ」
「心当たりはないの、D?」
リラは生真面目な表情で訊いた。
「可能性からいえば、おれがここにいては困る奴だ」
「疑似吸血鬼の尖兵?」
「そうなるな」
「もう入りこんでいたか」
ラストが右の拳を左手に叩きつけた。
「そろそろかとは思っていたが。外から来ている連中を、もう一度洗い直さなきゃならないな」
「チェックはしたのか?」
「三日前に」
とリラが答えた。
「ふむ」
「洗い出せなければ、何にもならない。もう一度、照合し直そう」
決意の色を眼に湛えた治安官へ、
「流れ者はどうする?」
とDが訊いた。
「それだ。彼らの身元照会は不可能だが」
「とりあえず、ひとりを焙《あぶ》り出せればいい」
とD。
「それはそうだが……」
「銃はあるか?」
「ああ」
ラストが右の腰に手を当てた。飛び道具は辺境の地では貴重品である。治安官でも所持している者は少ない。
「窓ガラスを射て」
「何のためにだ? 備品だぞ」
「おれの給料から引け」
「わかったわ」
リラが窓辺に近づき、小剣を抜くや、柄《つか》でガラスを叩き割った。
「まだ、わからない?」
「いや」
治安官は首をふった。
「あんた、また狙われるつもりか?」
「特別待遇はするな。普通に食事を運び、普通に尋問しろ。おれはここを出ない。補佐になったということをそれとなく流せ」
「わかった。役に立つ補佐だ。助かるよ」
屈託のない笑顔をDは静かに見つめた。
「では、すぐにかかろう。行くぞ、リラ」
「ちょっと待って」
女戦士は、Dの方を向いた。
「とりあえず[#「とりあえず」に傍点]ひとり、って言ったわね。どういう意味?」
「わかっているはずだ」
「あと何人か、潜りこんでる?」
「奴らのやり方はいつもそうだ。必要とあれば、一年も前から村へ入れ、信頼を獲得してから、本隊の侵入の手引きをする」
「随分とその手で村がやられたわね」
二人は顔を見合わせて、出て行った。
「よくできたペアだの」
と嗄れ声が話しかけてきた。
「どう見る?」
「こらえることはできるようだ」
Dは窓の方を見た。
「だが、空気は、じき血生臭くなってくる。そのときだな」
「それもあって、おまえを雇ったか。責任重大だの」
「ああ。好条件だからな」
嗄れ声は、けけけと笑った。
「そう言うな、どうも、ああいうタイプには弱くてな」
「いいカップルとは思えんな」
「ん?」
訝しげな嗄れ声に答えはない。
Dの瞳には夏の蒼空が映っている。血の色に見えていたかも知れない。
「具合はどう?」
耕運機のようにのんびりと進むビークルの横で、サイボーグ馬にまたがったリラが声をかけた。
事務所を出て五分も経っていない畦道の上である。左右は金麦の穂が波打っている。蒼穹《そうきゅう》には白い雲が行き、森は息苦しいほどの緑に息づいていた。夏木立ちであった。
「心配はいらない」
とラストは答えた。
「だといいけれど」
「大丈夫――じゃない方がいいか?」
ラストは、わずかに顔を真紅の女戦士に向けた。
リラは前方を見つめたまま、
「そうね。そうすれば私の仕事も終わるわ」
ラストの眼がある心情を描いた。寂寥《せきりょう》であった。
「長かった、な」
「そうね」
「だが、これで終わりかも知れない。何となくそんな気がするよ」
「四年前、ランゲルの村でもそう言ったわ」
ラストは苦笑した。頭を掻いた。
「そうだったか。――今度は決まりそうだ」
「………」
「できれば、リラにやられたいものだ。約束どおり」
「その時が来たら――約束どおり」
すでに眼は前方に移していたが、ラストには、リラがうなずいているのがわかっていた。
常に冷やかなその表情が、自分と等しい寂寥を刷《は》いていることも。
だが、こみ上げてきた感情を、ラストはいつものように呑みこんだ。
彼には治安官としての仕事が待っていた。少なくとも、夜までに、村の外壁を見廻らなければならない。
村の中心部に張り巡らされた一辺二キロに及ぶ防壁は、ほとんどが人工の創造物だが、北壁は自然の産物――厚さ三メートル、高さ一〇メートルの岩壁が担当していた。
古代の地殻変動で隆起した岩の一部だろうが、埋もれている部分を含めれば、数億トンを越すに違いない。
他のどこの村に比べても強固といわれる外壁のうちでも、この部分は難攻不落と誰もが胸を張る。
この北壁に限って、見廻りはなしに済ませてもよかった。二人がやって来たのは、念には念をという、治安官としては至極当然な職業意識に基づいたものである。
岩壁は二キロにわたって草原や森、田圃の中を走る。ある場所では一枚岩のごとく、ある場所では皺だらけの紙のごとく何重にも折り畳まれて、大自然の力を見る者に明らかにするのだった。
岩壁の西の端は、深い森に包まれていた。
丹念な見廻りも終わりに近づき、
「異常なし」
とラストが断言し、
「とりあえず」
とリラがつけ加えたときにはもう、陽は西に落ちていた。
青く染まる空気の中で、
「そろそろ、壁の守り役も決めといた方がいいわね」
とリラが提案した。
「じき、流れ者の傭兵もやって来るわ。お金さえ払えば仕事には忠実な連中よ。黒死団が六十人なら、ざっと二十人もいればいい。後は村の連中で何とかなる。自分の生命と財産のためなら、ぎりぎりまで戦うわ」
「負けが決まったら、おれもおまえも後ろからブスリかも知れないぜ」
「死に方は選んでいられないわ」
「そのとおりだ」
苦笑気味の笑いが、ラストの口もとに浮かんだ。
その瞬間、何処からともなく、二人の間に黒い球体が降ってきた。
それが地上に触れて数百匹の黒い蝙蝠に変わったときにはもう、二人は十数メートル先を疾走していた。
「Dと同じ奴だな」
ラストが呻いた。
「こっちが狙われるとはね」
リラが苦く笑った。
その頭上に羽搏きが迫った。
リラの右手が閃いた。鞘走る音もたてずに抜かれた長剣の切尖が弧を描くと、十数匹の蝙蝠が両断されて地に落ちた。
「うっ」
ラストが鋭く呻いた。
一匹がその首すじに牙を立てたのである。バンダナの上だ。毒が血管に入れば、Dと同じ運命が待っている。
「ラスト、我慢して」
リラの叱咤が飛んだ。ラストが蝙蝠をむしり取って投げ捨てた。牙は肌に届いていなかった。
「いいや、しない」
治安官の返事は、低く寂《さ》びていた。翼を持つ闇が、うじゃうじゃと蠢き羽搏く頭上を見上げて、
「それに、二人とも逃げのびるにはこれしかない。リラ――また止めてくれ[#「止めてくれ」に傍点]」
その首すじと背へ、数十匹の空飛ぶ獣が舞い降りていった。
ラストが身をひねって、頭上を見上げた。
闇さえ黒く塗りつぶす魔鳥の群れは忽然と消滅した。弾けるように飛び去ったのである。
夜空には月がかがやきを増していた。
「ラスト!?」
「来るな」
ビークルが唸った。エグゾースト・パイプが轟きを放出する。
サイボーグ馬の横腹を蹴るリラをみるみる引き離し、治安官は森の奥へと消えた。
一気に加速したリラの耳に、絶叫が届いた。
声もなくリラは走った。月光がその美貌を死仮面のごとくきらめかせた。
木立ちの間に停車中のビークルが見えた。
まだ止まり切れぬサイボーグ馬から、鮮やかというしかない身のこなしでリラは飛び下りた。
素早く周囲を見廻す。
鼻はすでに血臭を嗅いでいた。
突き止める前に、右方の木々の間から、
「こっちだ」
ビークルの前を迂回して、リラは声の方へと向かった。
女戦士の眼は、漆黒の闇も真昼のように見透かした。
半弓を手にして立つラストの足下に、黒い影が倒れ伏していた。
「あなた――どうやって[#「どうやって」に傍点]?」
「心配するな」
とラストが抑えた。顔は闇に閉ざされていた。
「おれじゃない。見ろ」
リラは死体のかたわらに屈みこんだ。
凄まじい死体だった。先刻とは比べものにならぬ血臭が鼻から胃を直撃する。屈強な男でも嘔吐は間違いない。
「ずたずたね。首も落とされてるわ」
「全くだ」
ラストはくぐもった声で応じた。
「調べてみるわ。あなたは離れて」
「ああ」
一〇メートルばかり離れたところにそびえる太い幹の陰に入って、ラストは背をもたせかけた。
顔が溶けるとでもいう風に、両手で顔を覆った。激しくぶれた。全身に走る痙攣のせいである。それは狂気にも近い渇きと飢えの表現であった。歯が鳴った。拳を突き入れて耐えた。
ようやく収まりかけたとき、
「ラスト」
リラの声がかたわらでした。足音ひとつたてない接近だが、慣れているのか、ラストは気にもせず、
「どうだった?」
と訊いた。まだ喘いでいる。
「凶器は剣《つるぎ》じゃないわ」
「何だ?」
「肉切り包丁よ。それも厚手の重いやつ。使い方によっては剣より効果があるわ」
「手がかりは?」
「なしね。姿を見なかった?」
「逃げる音もしなかった」
「Dを襲ったのは奴ね」
被害者のことである。
「確かかい?」
「胸の中に、蝙蝠の餌――乾燥血餅《けっぺい》を山ほど持っていたわ」
「それを殺したとなると、考えにくいが仲間割れか。でなけりゃ、おれたちから逃げる必要もあるまい」
ラストの声にはひそかな畏怖がある。
突然変異種の吸血蝙蝠を自在に操る怪人を、瞬時に斃した手練に感じ入ったのである。
こんな時間、こんな森の奥で偶然出くわしたとも思えない。蝙蝠遣いの死は、まさに唐突――仲間による不意討ちだったのだ。
残るは仲間割れの原因だが、それはこれから調べるしかあるまい。
「死体の主は――」
「村外れに何人かでキャンプしている旅人のひとりよ。殺人者もいまならまだ逃げずにいるかも知れない。私は先に戻るわ」
「いや、おれが行く」
「でも……」
「慣れなくちゃならないんだ、リラ。この村で暮らしていくためにも」
「………」
「それに、おれは治安官だ」
ほんの数秒――しかし、二人にとっては永劫のような時間《とき》が流れた。
「わかったわ」
と告げて、リラはやって来た方へ歩き出した。
死体の周辺を、一層詳しく調査しはじめた彼女を残して、ラストのビークルが走り去ったのは十分以上たってからである。
事務所の前まで来て、ラストはブレーキをかけた。重いタイヤが土を蹴立てて止まりかけ――走り出す。
「病人に負担をかけちゃいかんな」
揺れ動く胸中を何とか抑えて、ラストは微笑した。それは、Dを頼ろうとした自分の弱さに対する憫笑《びんしょう》であった。
西の外れには百坪ほどの空地が三つあり、宿代を節約する旅人たちの宿泊地に解放されている。
いちばんこちら側に近い土地に、小さな焚火が燃えていた。
肉を焼く匂いが漂ってきた。ここまで来る途中に見た食堂と酒場の喧噪をラストは憶い出した。村はじき、町に昇格するかも知れない。
焚火を囲む影は七つあった。コーヒーやらワインやら栄養ドリンクやらを飲みまくっている。
馬を道に面した柵につなぎ、ラストは右手を上衣の内側に差し入れたまま、焚火に近づいた。
「ここにいたひとりを逮捕した」
こちらへ向き直った顔を見廻し、ラストは硬い声で言った。
「彼には仲間がいる。誰だね?」
向き直った顔は、すべて元に戻っている。流れ者が治安官の言うことを気にしていては、辺境で生き抜くのは不可能だ。
返事はない。誰かが酒瓶か何かを口から離して、大きく息をした。
「やむを得ん。みな、事務所へ来てくれ。嘘発見装置がある」
今度は応答があった。
「若造が何かほざいているぞ」
「ミルクでも欲しがってるのかな」
「小父《おじ》ちゃんのおっぱいでよけりゃあ、吸いな」
どっと笑いが起こった。
ひとりが笑いながら酒瓶を咥えた。
「うおっ!?」
と叫んで放り出す。笑いは驚愕の叫びに変わった。
瓶には真横から一文字に鉄の矢が突き通っていた。
「い、いつ!?」
地べたに手をついて後じさる中年の男へ、
「来てもらおう」
ラストは強い口調で宣言した。
男たちがいっせいに立ち上がった。
素直に従うわけがない。どの手も腰や背の武器にかかっていた。
「この餓鬼」
長剣を掴むや地を蹴った男の横で、別の大男が半弓を引き絞る。
ひゅんと風が唸り、長剣の男は右肩を押さえて吹っとんだ。
同時に、硬い音が空中で鳴った。
半弓の男が眼を剥いた。彼は治安官へ矢を放ったのだ。それが消えた。否――弾き飛ばされたのだ。ラストの放った矢で。
「動くな」
半弓を手にした鋭い一喝は、今度こそ十分な効果をあげた。
「蝙蝠を遣う男がいたはずだ。名前は確かバロア。仲間は誰だ?」
男たちは顔を見合わせた。
髭面の肥満体が、胡散臭そうにラストを見つめて、
「そら勘違いだよ、治安官。あいつは最初からひとりだったんだ」
と言った。
「嘘をつくな」
「野郎が何かしでかしたのかい?」
「おれを襲って殺された」
別の赤いシャツの男が、喉もとをぼりぼり掻きながら、
「殺されたって、あんたが殺《や》ったんじゃないのか?」
すがめでラストを眺めた。
「仲間割れだ。それで捜しにきた」
赤シャツは口を尖らせ、
「仲間割れつったってよ、あいつは、おれたちの誰とも口をきかなかったぜ」
「そうともよ」
と別の男が空地の奥を指さし、
「あのテントから、ろくすっぽ出てきやしなかったんだからな。あの中に仲間がいるってんなら別だがよ」
嘘はついていないとラストは判断した。
負傷した奴は医療センターへ連れて行けと仲間に指示し、半弓の男には即刻村を出ろと命じてから、彼はバロアのテントを調べた。最低限の生活必需品の他は何も出てこなかった。この村で誰と接触したにせよ、彼らは巧みにその兆しさえ消滅させていたのだった。
「お帰りなさい」
妻のエレナが前掛けで手を拭きながら入ってきた。水仕事の途中だったらしい。
彼は手にしたものを素早く皮のバッグに入れ、
「アニュスは寝たのか?」
と訊いた。
「もう、とっくに」
「そうさな。いま、何時だ?」
エレナは眉をひそめて、
「さあ、九時頃じゃないの」
「腹が減ったよ。弁当は食ったが、足りやしねえ」
エレナはにっこりと笑顔を突き出した。
「わかんない、ビリー?」
彼は気がつき、鼻をひくつかせた。
「パイか?」
「大当たり。山葡萄《やまぶどう》のパイよ。三日くらい何も食べなくても大丈夫」
ビリーは妻を抱きしめてキスの雨を降らせた。
「ちょっと、ちょっと――ちょっと」
最後のひとことの口調が変わった。
ビリーの心臓は停止した。
「どうした?」
何気なさを装ったつもりだが、声は上ずっていたかも知れない。
エレナは鼻先を夫の襟もとに押しつけた。
「なんだか、血の匂いがしない?」
「そうかい。猟場を通ってきたからな。オオグチワニを解体《ばら》してた。その匂いだろ」
意外と落ち着いた声が出た。このとき、ビリーはそう[#「そう」に傍点]信じていた。
「そーか」
エレナは素直に顔を離し、ついでに身体も離した。
「じき焼けるから、ね」
おお、とうなずいて、しなやかな肢体がドアを閉めるのを確かめてから、ビリーはバッグの蓋を開いて、放りこんだ品を取り出した。
血を落としておくべきだったと思った。以前、獲物を仕留めた森にまた行ってみたら、予想外の収穫があったものの、余計な奴まで現われ、逃げるのが精一杯だった。次からはちゃんと処理しないとな。
彼は血まみれの黒い鋼《はがね》を恍惚と見つめた。刃渡り三〇センチに達する肉切り包丁だった。
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第三章 黒死団
辺境の常として無法者集団《アウトロー・グループ》の存在は、平穏な日常を望む村と村人たちにとって朱色まみれの恐怖《スカーレット・ホラー》といえた。
集団にも性格はある。盗み、強奪はするが、決して殺人は犯さぬ者たちもあれば、女以外は容赦なく惨殺するグループも多い。女たちは人買いに売られて遠隔の地へ連れ去られ、ほとんどが娼家に売られてしまうのだ。
生命という観点からすれば、この手の一派はまし[#「まし」に傍点]な方である。辺境を股にかける無法者たちは、その七割までが、残虐非道――村ごと皆殺しが仕事と心得る悪鬼どもであった。
辺境保安機構は、それなりの人数を警備隊、討伐隊として辺境の要所に配置しているのだが、何分、辺境の広さに対して圧倒的に数が少なく、連日、無惨な悪鬼どもは目の粗いザルから洩れる水のごとく、警備隊を嘲弄しつつ、自在に横行しているのであった。
ここに、疑似吸血鬼の率いる一団がある。
二歳の子供さえ、最も怖ろしいものを挙げろといわれれば、彼らと答えるほど、その暴れぶりは暗黒非情、その無惨な掃討ぶりは類を絶していた。
疑似吸血鬼とは、説明するまでもなく、吸血鬼に血を吸われ、真正の悪魔になり切る前に、貴族の滅亡、或いは貴族の気まぐれ――どちらかの方法で、いわば生殺しの置き去りにされた犠牲者の総称である。
大概は、所属する村や団体内で処理[#「処理」に傍点]されるが、例外的にそれを逃れた者の中に、さらに少数、疑似吸血鬼の宿命的な性状――発狂や陽光忌避を免れ得た輩が存在する。
真正の貴族に劣るとはいえ、五人力の怪力と、それなりの不死身性、血のみ摂取すれば飲まず食わずで長らえ、しかも、昼の光を浴びつつ人間と変わらぬ行動を取れる生物は、貴族を除けばダンピールさえ凌駕《りょうが》する魔人といえた。
その残忍――無抵抗の村人を、老若男女を問わず小屋に押し込め、火をかける。両親の前で子供のみを選択的に殺す。連れてきた魔獣に食わせる。或いは、血を吸われたくなければと、親兄弟を戦わせる――まぎれもない貴族の血のなせる業《わざ》であった。
その非情――ごくたまに、悪運尽きて警備隊と衝突し、致命的なダメージを受けるや、部下をその場に残して逃亡した例が、これまでに百件以上報告されている。
その気前よさ――疑似吸血鬼の目的は金品ではなく、甘美なる血ですらない。まさしく残忍非情な大殺戮にあるのであり、金品の強奪は、引き連れた手下のためのもので、しかも、首魁《しゅかい》たる彼には土と同じ値打ちしかないため、すべては手下たちに下賜《かし》されてしまう。前例のごとく非情な行為が膾炙《かいしゃ》しても徒党を組むのに困らぬのは、この経済上の旨みがあるからだ。
彼らは「黒死団」と自らを呼んでいた。構成人員は六十名。全員が一騎当千の、女子供を手にかけることも厭わぬ獣たちであった。
肉切り包丁による殺人の翌日、彼らはジェネヴェの村から南五〇キロの荒野まで接近していた。
荒野――荒涼たる野にふさわしい、黒土ばかりが蜿蜒《えんえん》と広がる土地であった。
ここを吹く風は、他より冷え切っているに違いない。
ここに生える草は、陽光に忌まれるに違いない。
ここに生きる人々は、神に見捨てられた者に違いない。
「お頭――家が」
先頭の馬にまたがった斥候役《せっこうやく》のひとりが、黒い広がりの彼方の一点を指さした。
二〇キロ先の小石まで見分け、夜目も利く男であった。
近くの幹部たちは、手持ちのレトロ双眼鏡を眼に当てたが、家の存在を告げられた男は、わずかに眼を細めたきりであった。
「確かに」
と彼はうなずき、幹部たちは肩をすくめた。慣れっこになっているはずが、いちいちこんな反応を示してしまうのは、お頭の素性にある。実に気前もよく、統率力もある。だからこそ、彼らのごとき救いようのない破落戸《ごろつき》どもが、かろうじてついていくのだが、それだけではこうはいかない。力だけを頼りに生きている彼らを束ねるのは、より強い力しかないのだ。
お頭はそれを持っていた。
何故なら――
かつては人間だった。
かつては親兄弟がいた。
かつては妻と子を養っていた。
かつては隣人に好かれていた。
かつては固いパンとチーズと鹿肉のステーキが好物だった。
かつては早朝に起き、夕暮れどきに眠った。
かつては朝の光の中で神への祈りを捧げ、晩鐘《ばんしょう》に明日も生きると誓った。
かつては希望と夢を抱いていた。
しかし、現在《いま》は――
彼は疑似吸血鬼であった。
鉄板装甲を貼りつけた黒馬にまたがり、装甲は百個に及ぶ人間の髑髏《どくろ》で飾られていた。
のび放題の髪は右半顔を覆い、常に表にさらされている左眼は、陽光のせいか、休みなく血走っていた。
愛した女の唇に重ねたこともある唇は、その記憶も忘れ果て、毒々しい朱色を維持するために、千人以上の血を塗りたくってきた――人間の。
彼の武器は背中で交差させた二本の長刀であり、南部辺境区の高名な刀鍛冶《かたなかじ》に打たせたものであった。
高密度デュラム鋼の芯を通した真鉄の刀身は、彼の手にかかると貴族を二つに断ち、再生を許さなかった。
そして、そして、そして――
彼は血だけを求めていた。
懐かしい想い出、優しくしたことされたことのすべては忘却の彼方に追いやりながら、飢えと殺意だけは日に日にふくれ上がっていた。
実のところ、彼が求めているのは、血よりも殺戮であった。肉体の飢えよりも、闇の奥で妖しく燃える陰火のごとき精神《こころ》の飢えを満たすこと。問題は、彼がそれを意識しないように努めていることだった。
意図しなければ、苦しむことなく何人でも殺せるのだ。
「どうします、お頭?」
と斥候に訊かれたとき、
「いつも通りだ」
と彼は答えた。自ら乗りこむという宣言だ。
「ですが、たかが一軒家ですぜ。おれたちが片づけてきますよ」
斥候の言葉に裏がないのはよくわかっていた。
「いいだろう」
彼はにやりと笑って、忠実な手下を凍りつかせた。
「こんな荒野の中の一軒家。人間の住むべきではない土地に住む者たち。――行くがいい」
ほどなく、三騎ばかりが黒土を蹴って疾走に移った。
その姿が遠くなってから、残る部下たちにここで待てと告げ、彼はひとり、三騎の後を追った。
五十数名分の緊張がとけるのを、彼は背に感じた。
丸木造りの小屋まで二〇〇メートルほどのところで、銃声が聞こえた。それが連続し、かすかな悲鳴まで聞き取ったとき、彼は馬の腹を蹴りながら、他人の運命を予測し得た者の非情な笑いを浮かべていた。
近づくにつれて、声はさらに鮮明になっていった。
――貴様は何者だ?
――やめろ、近づくな。こっちのボスはもっと強えぞ
――助けてくれ、助けて
そして、銃声、テーブルの倒れる音。
馬上で彼は小さく喘いだ。期待のあまり心臓の鼓動が体内に轟き渡っている。久しぶりに愉しめそうであった。
小屋の前に到着したとき、ドアが開いて、血まみれの男がひとり現われた。
斥候役であった。
右手で首すじを押さえている。指の間からこぼれる朱色が彼の眼と精神の奥闇を灼いた。
斥候が彼に気づいた。助けを求めに――否、斥候は身を翻した。逃げようとしているのか、自分のボスから。
「セト」
彼は静かに呼んだ。斥候の動きが、きしむように停止した。
「何処へ行く? ――来い」
「へ……へい」
斥候はふり向いた。指の間から、血はなおも溢れ続けている。半身は血の風呂に浸かっていたように見えた。
「ギャスとムラダシは殺られたか?」
「へい」
どうしてわかるんだ、と斥候の眼が訊いている。どうして、そう落ち着いていられるんだ?
「相手は――おれと同じだったか?」
「……へい」
「何人いる?」
「二人……夫婦です」
「どちらも同じか?」
「……へい」
「ご苦労。ゆっくり休め」
「へ?」
斥候は、ぼんやりと眼の前に突きつけられた品を見つめた。
黒い小さな穴――二センチもない。
そこから放たれた炸裂焼夷弾は斥候の喉から体内へ飛びこみ、脊椎に当たって四散し、弾頭内のブレジン燃焼剤を一気に点火させた。六千度の炎がふくれ上がる。炎の膨張率は斥候の身体の強度に勝り、一瞬のうちに風船のように爆発させた。
炎は馬をも襲い、装甲に貼りついた。馬は後じさろうとしたが、彼は許さなかった。
「我慢せい。おれも耐える」
彼はブーツを這い上がる炎を見つめた。
耐熱耐水耐寒コーティングを施した人工皮革がじりじりと焼け焦げ、六千度の熱が肉まで届く。
「真正の貴族はこれにも耐えるのか? それとも、熱さに狂い死にして後、また甦るのか――究極のマゾヒストどもめ」
彼は馬から下りた。待ってました、と馬が走り出す。脚についた炎を消すためだ。
左手で、もう一挺――二三ミリ自動装填式火薬銃をベルトから抜いて、戸口へと進む。炎は小屋の壁にも広がりはじめていた。
内部へ足を踏み入れた途端、凄まじい臭いが彼を迎えた。
鼻孔から体内を駆け巡るあまりの濃厚さに、彼は立ち止まり、めまいすら感じた。
吐き気がするほど甘美な。
清楚なほど忌まわしい。
「血臭だ」
と彼は宣言した。
その胸――右半分を、五〇ミリ散弾二発が持っていった。
近距離と銃線《ファイア・ライン》のズレとのせいで、彼は倒れなかった。衝撃は貫通したのである。
「は?」
ようやく、事態の孕《はら》む危険性が、甘美な陶酔から彼を眼醒めさせた。
左手で忘失した胸部を探る。
「失くなった」
つぶやいて、前を見た。
二連散弾銃を構えた男は、どう見ても実直な農夫でしかなかった。
痛みが体内を咆哮しつつ駆け巡っている。それから逃れるために、彼は立ち直った。
農夫の着た緑のシャツは黒く濡れていた。
「それは、おれの手下の血だな」
彼は声を絞り出した。痛みのせいで震えているのが口惜しかった。
農夫は無言で散弾銃の銃身を折り、大口径薬莢を引き抜いた。白い硝煙の糸がまとわりついてくる。
「人間に扱える代物とは違うな」
彼は力なく指さした。農夫はシャツの胸ポケットから新たに二発の五〇ミリ散弾を取り出して装填した。戻った銃身が、かちりと接合音をたてる。
「何者だ?」
と農夫は訊いた。
「おまえと同じだ」
農夫は歯ぎしりの音をたてた。右方の窓辺に立つ同い歳ほどの女へ視線を与え、すぐに戻して、
「こんな土地なら、貴族のまがいものでも、二人きりで静かに生きられると思った。事実、十年間そうやってきたんだ。それを貴様は……」
銃声が炸裂した。
パンパンパンパンパンパンパンパンパン。
二挺拳銃の乱射が、人間には到底耐えられない心地よい反動を彼の手に伝え、農夫の顔の上半分を吹き飛ばす。手首が砕けそうだ。骨がきしむ。快感だ。快感だ。奥の壁が弾け飛び、壁に飾られた絵皿が砕け散る。窓ガラスもなくなり、農夫の妻の胸と腹部に巨大な穴が開いた。
「死の歌を聞け。これがそのメロディだ。心地よい心地よい。聞きながら死ねるか。死んでくれ」
突然、沈黙が生じた。
拳銃の遊底《スライド》は、後座したままだ。弾倉を換える気にはならなかった。持っていかれた胸は、まだ半分しか埋まっていない。
壁に叩きつけられた農夫と妻が起き上がろうとしている。どちらの傷口もふさがりかけていた。傷の程度が違うのだ。疑似吸血鬼が本来持つ肉体的資質にもよる。
「やっぱり、死ねないのだな、おまえたちも」
彼の声には哀しみが詰まっていた。
「死ねないのだな。死ねないのだな。どうだ、それが哀しくはないか? どうだ?」
「哀しみなど、とうの昔に捨てたわ」
と農夫の妻が言った。
「ここで静かに暮らしていたのに。生涯そうしていられると思ったのに。何もかも、滅茶滅茶よ。じきに、おまえの仲間がやって来るのでしょう。皆殺しにしてやる。その前に、おまえに責任を取らせてあげるわ」
「ルナ!」
農夫が叫んだ。
「やめろ。こいつはいま、おれが殺る。血の臭いを嗅ぐな。耐えろ。外へ行け!」
「駄目だったのよ、最初からこうなる運命だったのよ。あなたがここに住もうと言ったときから、わたしはそう思っていたわ。だから――だから、もう我慢なんか」
妻の口は、長いこと待ち焦がれていたもののように開いた。唇も口腔《こうこう》も血の色を帯びていた。だから、牙の白が眼に鮮やかだった。
妻は走り寄り、跳躍した。牝狼を思わせた。
彼の喉にかぶりついたとき、二人はともにわなないた。
「ルナ!」
夫の声など無意味だった。そこに込められた哀しみも怒りも絶望も意味をなさなかった。絶望しても、妻は死ねないのだった。
彼女は喉を鳴らして彼の血を飲みつづけた。表情は至福だった。これが永劫に続けと望んでいるようだった。
不意にのけぞった。彼の首と妻の唇とをふたすじの朱の糸がつないだ。
妻の背から抜けた黒い鋼の切尖を農夫は認めた。何故か驚きはなかった。農夫が感じているのは不思議な平穏だった。
「あがあがあがあ」
妻は胸に刺しこまれた刃を掴んだ。身体はなおも生を求めていた。掴んで引くと、指はぱらぱらと落ちた。
内蔵した発条《バネ》が切れた人形のように、妻の身体は大きく二つ痙攣して動かなくなった。
彼はその鳩尾《みぞおち》に足を当てて押しながら、長剣を引き抜いた。
妻は農夫の足下まで飛んで落ちた。すでに腐敗しはじめている。
「礼を言わねばならんな」
農夫は別れの合図に片手をふってから、
「おれも殺してくれるか?」
「喜んで」
彼は左手で首すじを押さえた。拳銃は床に放ってある。
「おれは死を願っていた。ここにいる間、ずうっとだ。朝に晩に、死にゆく自分の姿を想起しなかったことはない。それでいて、自分で生命を断つ勇気はなかった」
「おれもだ」
彼は心底から同意した。
「誰か、この家に立ち寄った旅人にとも思ったが、みな役者が不足だった。逆に、おれたちの金を狙ってきた客を殺してしまったほどさ。教えてくれ、死は何処で手に入る?」
散弾銃がどよめいた。
弾丸は開いた戸口から荒野へと旅立ち、農夫は頭上をふり仰いだ。
彼がそこにいた。一瞬、宙に止まっているかのように見えたが、音もなく舞い降りた。
農夫の身体から鮮血が噴き上げた。それは雨に打たれた天井のような音をたてて、彼の身体に真紅のXを描いた。
いつ抜いたのか、両手の二刀をもって、彼は農夫の身体を袈裟懸《けさが》け十文字に断ってのけたのである。
農夫が倒れると、しばらくの間、彼の眼の前には血の霧ばかりが渦巻いた。半ば夢を見ていたのかも知れない。
「死んだ」
と彼は妙に納得した。長いこと忘れていたものが戻ってきたような気分だった。
「おれもこうなれるのか? そうなのか。だが、一体、誰が同じ目に遇わせてくれる? そういう奴がいれば、おれは死を怖れつつ戦うだろう。そんな奴といつ逢える?」
二刀を背に戻すと、彼は室内を見廻した。
金目のものがなければ、食料を奪う。それは手下たちの仕事だった。床の上には、二名の手下の死体もあった。
戸口へ向かいかけた足を、彼はふと、止めた。ひとつ気になることがあった。
重い足でキッチンへと向かった。
ひどく大きな冷蔵庫が眼についた。
錠がかかっている。
「金庫か――そうではあるまい」
錠を掴んで、彼は扉から引きちぎった。錠は人間用である。
鉄の扉を開いた。
白い冷気が顔を殴った。
内部はひと目で見渡せた。
そこに並ぶもの[#「もの」に傍点]を見て、少し間を置いてから、彼はうなずいた。
笑い出したのは、それからすぐのことである。
狂気の発作のごとく彼は笑いこけた。涙さえ流した。
「なにが、耐えろだ。なにが我慢しろだ。死にたいが死ねぬ? いいや、おまえたちは、最初から死ぬ気などなかったのだ」
扉を叩きつけるように閉め、家中を震撼させてから、彼は居間へ戻った。
抜き出す刃の手応えは、この上なく甘美だった。
農夫と妻の死体へ叩きつけたときも同じだった。それは果てしなくつづいた。
その間、彼は叫ぶのを熄《や》めなかった。
「おれはどうなんだ? おれもおまえたちと同じなのか? おれも本当はいまのままでいたいのか? 死にたくなんかないのか? どうなんだ?」
すでに腐り果てた二つの身体を、彼は飽くことなく寸断しつづけた。聞く者も見る者もいない地獄の中で、彼は真の自分を見出していた。
陽が落ちる前に、偵察に出ていた男が戻ってきた。
村人ではなく、村に滞在していた流れ者を雇ったのである。一日五十ダラスで二十名が受けた。無法者集団がやって来るという噂を聞きつけた、売りこみ目的の者が大半であった。辺境の村なら何処ででも行われていることだが、もう来ていたのかと、村長もラストも驚いた。村長など、黒死団は当分来ないと思いこんでいたのである。辺境を渡り歩く戦いのプロたちの情報は、何処の誰より正確だ。
勿論、生命懸けになるが、自分から売りこみにくるような連中は、それなりのプロであり、途中逃亡者は少ない。油断がならないのは、今回のように、こちらから選ばねばならない連中であった。
当然、報酬は前払いになる。それを持ってトンズラこくのは、辺境の歴史が多く語るところだ。だから村人も決して彼らを信用せず、最後まで看視の眼をゆるめない。
少なくとも、偵察隊の男の報告に嘘はなかった。
「南へ五〇キロか。三日以内に着くな」
ラストはすぐに迎撃体制を整えにかかった。
村の防護壁を点検、強化し、武器庫に眠っていた火器を、前もって決めておいた戦闘位置に据えつける。火器は、村ができてから五十年の間に武器商人を通して「都」から買い入れた品である。最新型の思考火筒飛弾《インテリジェント・ミサイル》があるかと思えば、火縄式の火砲もかなりの数を占めている。
村人たちの訓練も日課以上は必要なかった。
辺境での日々は、戦いの日々といってもいい。子供たちはよちよち歩きの頃から剣と槍を習い、十歳で火器の扱いに習熟しなければならない。
プロでないとはいえ、辺境の男女は生まれながらの戦士なのである。
臨時雇いの流れ者――いわゆる傭兵たちも、その辺の事情は心得ているから、村人たちを見下すことはないが、中に、「都」から流れてきたばかりのアマチュアがいて、火器の訓練中の村人をへっぴり腰と嘲った。
指導していたリラが聞き咎め、
「では、腕くらべ」
と言った。うす笑いを浮かべていた。
勝負は圧倒的であった。
「都」の流れ者は、最新式の自動装填式ライフルで二〇〇メートル先の鉄の等身大標的に当てるのがやっとだったのに対し、嘲られた村人は、旧式の桿操式《ボルト・アクション》ライフルを使用して、その倍――四〇〇メートルを楽々とクリアしてしまったのである。
逆上した流れ者は剣の一騎討ちを挑んだ。
村人は使い慣れた棒を選んだ。
一瞬の決着であった。
ふり下ろされた剣の制空圏外へと跳びずさった村人は、三〇センチほど長い棒を一閃させた。それは流れ者の鼻面にめりこみ、その場へ失神させた。
こんな村人たちが、リラには子供扱いされた。
女だという意識があるから手抜きでかかると、平気でぶちのめされる。といって本気で打ちかかっても、すべて空を切り、へとへとになったところへとどめの一撃が来る。この美女が戦いのプロだと身に沁みる瞬間であった。
五十人もへたばらせて、息ひとつ乱してないリラへ、ひとりの少年が歩み寄った。リラは時々、剣と格闘術の訓練を行う。そのたびに見た顔だった。
「何か用、ピート?」
と訊いても、もじもじしている。
「――何?」
リラの声にいらだちを感じたか、あわててポケットから小さな紙包みを取り出し、リラの手に押しつけた。
リラが口を開く前に、
「誕生日を知らなくて――あなたの」
上ずった声である。はじめて渡す異性への贈り物なのであろう。少年――ピートは十六歳であった。
リラはじっと、頬を赤く染めている少年を見つめ、
「返さないわよ」
と言った。
「やった!? じゃ」
そして、少年は走り去った。
遠くの木陰ではやしたてる声がしたのは、少し後であった。
Dも現われた。
人間でいえば息も絶え絶えの状態が、かえって青ざめた美貌に凄惨な凄みを与え、屈強傲岸《ごうがん》な傭兵たちでさえ、その場にすくませた。
後に、とりわけ荒くれとして知られているギルという男が、
「あのまま、敵に殺されたって構やしねえと思ったぜ」
と語っている。
指導者としてのDは、ある意味で不向きの究極といえた。彼の姿を遠望しただけで、男も女も老人も子供も、とろけてしまうのである。近づけば、年頃の娘どころか大年増までが、虚ろな眼差しで失神する。なら、声だけでどうかというと、これも、寂びてて素敵、堪んないわで、ばったり。ついにリラが、
「お願いだから、引っこんでてちょうだい」
と哀願する羽目になった。
Dが無言で踵《きびす》を返しかけると、だしぬけに左手が動いた。
「何するの!?」
ヒップを押さえたリラが平手打ちをかまし――かけてやめた。Dの顔を見てはならないのだ。
「おかしな趣味があるのね」
周りの連中の様子を窺い、
「今度したら、殺すわよ」
凄んだが、迫力はない。
「済まん、済まん」
Dは嗄れ声で詫びた。
「おまえはわしのタイプでなあ――ぐえ」
「済まん」
今度こそ自分の声で詫び、Dは左の拳をぐいと握りしめて歩み去る。
しかし、少しすると必ず、何処からともなく皮肉っぽい嗄れ声が、
「どいつもこいつも、ぶったるんどる証拠じゃ」
と罵るのだった。
その晩、ラストとリラが治安官のオフィスを去り、Dが部屋へ戻ると、オフィスのドアを叩く音がした。
「誰だ?」
「ギルだ。ジョッシュとパラオもいる」
女子供が聞いたら、引きつけを起こしそうな蛮声である。
「用件は?」
「いや、一杯飲《や》ろうじゃねえかと」
「怪しいもンじゃぞ」
と嗄れ声がささやいた。
「追い返せ。何を企んでいるかわからん。所詮は金で雇われた流れ者どもじゃ」
「おれも同じだ」
Dがドアを開けたのは、声への反発からなのかどうかはわからない。
三人の壁みたいにでかい男たちは、確かにウィスキーの瓶を手にしていた。
Dは自分の部屋へ通した。
二百キロ以上はありそうなギルが、
「オフィスじゃ駄目なのか?」
と訊いた。
「職場だ」
「わかった」
あっさりしたものだ。
右眼に黒い眼帯をかけたパラオが室内を見廻して、
「椅子が足りねえなあ」
ソファも肘掛け椅子もあるのだが、尋常なサイズの人間用で、二人掛けのソファなどギルひとりで占領してしまう。肘掛け椅子にかけられるのは、Dのみだ。
「ここでよかろう」
Dは床の上に胡座《あぐら》をかいた。
「ほお」
馬鹿でかい無反動対戦車ライフルを背中に吊るしたジョッシュが、こりゃ驚いたという表情で、後につづいた。
「話がわかるぜ、この補佐官どの」
「まず、一杯」
ギルが戦闘ベストの胸に吊るしていたグラスを外してDの前に置き、琥珀色《こはくいろ》の液体を注いだ。
眼を剥くような悪臭が室内に満ちる。アルコールの匂いとは到底いえなかった。
「ワイルド・コブラの頭入りウィスキーだ。いけるだろ?」
口調は友好的だが、眼が笑っていない。まずは酒――アナクロもいいところの品定めだ。Dは無言で手に取り、一気に流しこんだ。
「お……」
いちばん良心的らしいジョッシュが、止めようと手をのばしかけたが、間に合わない。
ワイルド・コブラの頭を入れたウィスキーは、五トン以上の大型妖獣――装甲蛇や震動波サイの麻酔薬として利用される。酒どころか薬品、薬品どころか劇薬に近く、生まれたときからアルコール漬けの中毒野郎でも、はじめて飲ると、ひと舐めでひっくり返る。三人組だとて二、三分かけて飲み干すのがやっとだ。
パラオの顔も、こいつ、何も知らねえんじゃねーのと言っていた。
Dは黙って空のグラスを離した。
三人が予想した反応など皆無である。顔色ひとつ変わっていない。呼吸も乱れていない。
顔を見合わせ、ジョッシュが代表して、
「どうだい?」
と訊いた。不安そうである。
「甘いな」
ギルが何げなし風に銃把《じゅうは》に手をかけていた大型回転式火薬拳銃を握りしめ、後の二人はベルトに差したナイフに手をかけた。ジョッシュはただの大刃ナイフだが、パラオのは牛の首でも落とせる蛮刀だ。
時折、このウィスキーで悪夢を見る奴がいる。何やら想像を絶するもの[#「もの」に傍点]に追いかけられているらしく、やめろ、助けてと叫びながら、刀をふり廻し、拳銃を射ちまくる。完全な発狂状態だ。その前兆かと思ったのである。
Dは手にしたグラスを正面のギルに突きつけた。
「飲るか?」
不精髭だらけの四十を過ぎた赤ら顔が、にんまりと、
「あたぼうよ」
瓶を掴んでグラスの縁まで注ぎ、
「おい」
不安げなジョッシュの声を合図に、ぐい、と干した。
途端に、地面にどつかれたかのごとく、身体が三〇センチも浮いた。狂える筋肉の仕業である。どん、と鳴った。ギルの心臓が打ったのだ。巨体は空中で上半身前のめりをやった。次のどん[#「どん」に傍点]で下りた。もひとつ、どん。顔は真っ赤だ。アルコールのせいで血の巡りが、という話ではない。出血であった。血穴という血穴から血が噴き出しているのだ。
「おい」
「ギル」
ついに二人が肩に手をかけたとき、
「うるせえ」
と血まみれの傭兵が返した。
「無事か?」
「TOKYO TOKKYO KYOKAKYOKUと言ってみろ」
口々に喚く仲間へ、
「黙らねえと」
いきなり、両腋の下のプラスチック製ショルダー・ホルスターから、自動装填式火薬銃を引き抜いて威嚇した。
沈黙した仲間から眼を離し、
「どうだい?」
と訊いた。
「引き分けだ」
とD。
「よっしゃあ。これで話ができるぜ」
ギルはグラスを手にしたまま、
「実はよ、昼間、治安官殿に申しこんで一蹴されちまったんだが――」
こちらから、黒死団へ討って出ようじゃないかと、ギルは言った。
「迎え討つ準備は大かた整った。なら、奴らが到着するまで暇をつぶす時間が勿体ねえ。迎撃じゃなくて、出陣するんだよ。どうだい?」
「向うはたかだか六十人だ。疑似貴族はいるが、並みの連中なら、おれたち三人にあんたが加わりゃ、半分は始末できる。時間はかけられねえ。寝てるところへ突っこんで片づけられるだけ片づけ、離脱する。一撃必殺の特攻さ。奴ら、まさか五〇キロも手前で迎え討たれるなんて思っちゃいねえ。絶対成功するぜ」
三対の視線がDに突き刺さった。
村のためを考えているのではない。戦いに勝つ――三人の頭にあるのはそれだけだ。その一点において、彼らは正味のプロであった。
「いつ、やる?」
Dの応答に、三人は叫び声を上げた。美しきダンピールは、この計画に不可欠な存在だったのだ。
「今日、これからだ」
とギルが舌舐めずりをした。
「おれたちのサイボーグ馬なら、五〇キロくらい二時間で往復できる。嫌がらせに一時間とみて、三時間後には、またここで一杯飲れるぜ。おれたちの用意はできてる。支度が済んだら、北の門まで来てくれ」
サイボーグ馬の蹄の音が近づいてきた。
北の門の前である。
馬のかたわらに立っていた三つの大きな人影がそちらを向いて、
「来たか」
「ああ、Dだ」
「夜目が利くと便利だな」
低く抑えているが、普通にしゃべれば絶対に喧嘩口調と間違われる。今夜の彼らは門の警備担当であった。あと三十分で交替の時間だ。南の裏門ではなく、こそこそと出ていくのに正門を選んだのはこのせいであった。
蹄が止まった。
闇の中に、もうひとつの月のようにかがやく美貌が現われた。
「よし、行くぞ」
ギルが鞍に手をかけた。
「待て」
それはDの声ではなく、門の脇に植えられた蘭樹蘭《らんじゅらん》の木陰から放たれたものであった。
新たに二つの影が三人の前に立った。
「――D、てめえは!?」
「済まないが、彼はおれの補佐でな」
とラスト治安官は頭を掻いた。ギルたちの計画を打ち明けられ、徒歩で先廻りしていたのだ。
「この裏切り者《もン》があ」
と喚くジョッシュへ、
「静かになさい」
リラである。Dは馬上で我関せず――身じろぎもせず、無表情。愚者たちの諍《いさか》いを冷やかに見下ろす美しき天上の運命神――そんな趣きがあった。
「馬鹿な真似はよせ」
とラストは言った。
「いまは、ひとりの戦力でも貴族の宝石並みに貴重だ。三人分も殺《と》られては敵わない。“出陣”は禁じる」
「てめえ、そこまで」
ギルの満面が朱色にふくれ上がった。
「補佐でな」
DがDの声で言った。
三人揃って呻いた。呪いを言葉にしないとこうなりそうな響きであった。
「二度と勝手な真似はしないと誓え。でないと給料なしで解雇する」
ラストは淡々と言い渡した。
「おい、おれたちは――」
とギルが抗議したが受けられず、
「誓うのか、誓わないのか?」
勝負はすぐついた。
「わかったよ」
ギルが肩をすくめた。給料なしこそ、傭兵たちが最も怖れる事態であった。治安官の命に背けばいつでも支払いを中止できると、契約書には明記されている。
「罰金の規定はなかったぜ」
「よかったな」
とラスト。
ギルはリラの方へウィンクをひとつ送り、
「じゃ、な、スイート・ハート」
片手を上げて馬に乗った。三人揃ったところで、村の方へ歩き出す。
「待った」
ラストが声をかけた。馬を止めて、パラオが上体をねじり、何だい、という顔をした。
「何処へ行く?」
と治安官。
「何処って――村だろうが。後でそのハンター野郎をギタギタにしてやる」
「ギタギタにするなら、向うだ」
ラストは門を示した。
「何ィ?」
「これから、治安官として、ある作戦を提案する。すなわち、南方五〇キロの地点に夜営中の『黒死団』を急襲し、物的人的に何らかの損害を与えること」
ギルとジョッシュが愕然とふり返った。パラオなどぽかんとしている。
「我々のサイボーグ馬ならば、往復二時間もかからん。作戦遂行時間も入れて三時間あれば帰村し、ワイルド・コブラ・ウィスキーを一杯飲れるだろう」
「おい、それは、おれの――」
ギルが牙を剥いた。腹に据えかねたらしい。
「ああ、Dに聞いたよ。こんなにもよく似たアイディアがあるのかと驚いた」
澄ました治安官であった。
「ちょっと待て――そいつは、おれのアイディアだぞ」
「この際、それは問題じゃあるまい」
「じゃあ、何が問題だ?」
ギルは喚いた。必死に自制しながら、指をぼきぼき言わせはじめる。本能的な示威行為であった。二メートル・二百キロ超級がやると効く。
「実行可能かどうかだ」
ラストは平然と返した。
「おれは可能だと思う」
「当たりめえだ。このギル・マンダレイ様のアイディアだぞ」
「瓜ふたつで驚いたよ――そこでだ、試してみようじゃないか」
ジョッシュとパラオが表情を変えた。
ラストはにやりと笑って、
「おれのアイディアの証明になる。見届けられないのが残念だがな」
唇を突き出して、なおもファイトを剥き出しのギルを除いて、二人は友好的雰囲気になった。
「すると、やる気か?」
とジョッシュ。
「Dと君たちでな。この上ない人選だ」
「おめーが考えたつうんじゃねーだろうな」
赤ん坊の腕ほどもある指を、ラストの鼻先に突きつけて、ギルが喚いた。
「誰が考えてもこうなる。今夜中に戻ってこい。命令だ」
「てめえ」
リラが間に入らなければ、ギルは飛びかかっていただろう。歯を剥くだけでこらえたところを見ると、
「案外、フェミニストじゃな」
嗄れ声が、揶揄するように言った。
「おかしな声を出すな! この裏切り者が。おい、治安官、ちょっかいを出しには行く。だけどな、リーダーは絶対――」
「おれだ」
勿論、Dが言った。
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第四章 手をつなぐ死ら
一キロばかり手前で、四人は馬を下りた。「黒死団」には、夜目と遠耳の利く斥候がいると聞いている。この辺が限界だというのは、歴戦の経験がもたらした判断であった。下馬を命じたのはDだが、文句をつける者はない。
闇の奥に光がゆらめいている。夜営の炎であろう。
「敵も斥候を出してるぜ」
パラオが四方を見廻しながら言った。半顔にかかる髪をのけた顔の中で、緑色の光が妖しく点っている。電子眼であった。
「おまえのおめめ[#「おめめ」に傍点]が頼りだ。よろしく頼むぜ」
とギルが肩を叩いた。巨人同士だからびく[#「びく」に傍点]ともしないが、Dの体格なら吹っとびそうである。
「建物が見えるな。農家か」
パラオの指摘に、
「地図にゃなかったぜ」
とジョッシュが首をかしげた。
「行くぞ」
Dの声を合図に馬を引いて歩き出す。
五〇〇メートルほど進んだとき、右方を見張りらしい騎馬が複数通りすぎたが、こちらには気づかず、四人は、焚火の炎と周囲の略奪者たちの姿が見分けられる距離まで到達した。
「敵の兵器を探らにゃならねーな」
ギルが電子双眼鏡を眼から離して、パラオを見た。
「まかしとき」
パラオは背負ったリュックを下ろし、何やらおかしな塊とリモコンを取り出した。
リモコンのスイッチを入れると、それはみるみる翼長一メートルほどの飛行体に化けた。普段は折り畳んで持ち歩くらしい。
「旅の武器商人から買った偵察機だ」
鉄芯みたいな胴に、レンズを嵌めこんだ半球体――カメラらしい――を取りつけながら、パラオは愉しげに言った。
「よし、これで、こいつ[#「こいつ」に傍点]の見たものが、おれの眼に入ってくる。どいてな」
片手でリモコンのレバーを動かすと、飛行体は音もなく滑走し、闇に消えた。
「どうだい?」
ギルが不安そうに訊く。
「高度五〇〇で、ズームする――よし」
パラオはうなずいた。カメラの眼が彼の眼に下界の光景を告げはじめたらしい。
「大した装備だな。三連装火筒火矢《ミサイル》一基、貴族戦争で使われた旧式の五十トン・思考《コンピュータ》戦車一台、十連装五〇ミリ・レーザー砲《キャノン》一基。重式火薬機関銃三挺、軽機が十挺、自動ライフル多数――」
ギルが歓喜の表情になって、
「これじゃ、どんなに守りを固めた村だって堪らねえぜ。予定どおり、でっけえのから始末する手だな、隊長さんよ」
「手筈どおりだ」
Dは前方の炎と人影に眼をやったまま、
「見張りは?」
と訊いた。
「東西南北にひとりずつ。接近者探知用のレーダーもついている。有効範囲は五〇メートルってとこか。さすがに、ミサイルと戦車、レーザー砲には五人ずつ寝ずの番らしいのがついてるな」
「すると、気づかれずにというのは危ねえな」
ギルが首をかしげた。
「いい手はねえか、隊長さん?」
「おれが、こいつをぶちこみゃ、一発で大騒ぎになるぜ。その隙にってのはどうだい?」
ジョッシュが背中の対戦車砲の砲身を叩いたが、ギルは無視して、咎めるようにDを見つめた。Dの力量を試している――というより嫌がらせであった。
「陽動作戦を採用する」
Dは静かに言った。月もない暗夜の底の、詩を口ずさむ鉄の声。
左手がのびた。その先にパラオの顔があった。
電子眼の光が隠れた。Dの手の平が覆ったのである。
ジョッシュの手がナイフにかかる。
すぐに手を下ろして、
「さっきの農家の庭に仮設の弾薬庫がある。それをつぶす」
とDは言った。
ギルが疑い深そうに、
「どうしてわかる? おい、パラオ」
電子眼の偵察屋は、しかし、うなずいた。
「色男の言うとおりだ。どうやって、おれの眼の中味《データ》を読んだ?」
「時計を合わせろ」
とDは告げた。
「これからきっかり四分後に、弾薬庫は始末する。爆発が生じたら、まずミサイル、戦車、レーザーの順で片づける。戦車とレーザーはまかせる。ミサイルはおれだ」
「まさか、運び出そうてんじゃねえだろうな」
ギルが面白そうに訊いた。
「下手に爆破でもしたら、あいつらは勿論、こっちもバラバラだぜ。どうするつもりだい?」
Dがふり向いて、荒くれ者を見つめた。
眼が合った。
闇夜なのに、かがやくばかりの黒瞳《こくどう》であった。
ふっと吸いこまれているのをギルは感じた。
抵抗する間もなく、闇の底へと落ちていく。
何かが見えた。かがやく闇の底に敷きつめられたもの――
それを理解した刹那、彼は絶叫を放った。
夢だった。
彼は二人の仲間に見守られて震えていた。黒い手がその口をふさいでいた。闇は静寂を保っていた。
「見たか?」
Dが訊いた。
その声は遥かな天の高みから落ちてきた。
ギルは見上げずにいた。彼に問うた者[#「者」に傍点]は、永劫に理解できぬもの[#「もの」に傍点]であった。
それは彼の眼前に、黒く黒く、高く高く、天を圧してそびえ立っていた。
「………」
と彼は言った。
黒い手が口を去った。
「……何も」
とギルは繰り返した。
「……おれは……何も……」
Dは何事もなかったように、
「四分半で片づけろ。五分後にここで会おう」
こう言って身を翻した黒影の、左手首から先が失われていることに、他の三人は気づかないままだ。
家の中には血の臭いが満ちていた。それは天井の梁に、壁の丸太に、床の板の髄まで染みつき、腐らせ、たとえこの家を崩壊させても、辺り一面に粘っこく立ちこめて、生きとし生きるものたちを寄せつけない――そんな臭気であった。
夕刻まで、そんなことはなかった。古い住人たちは、巧みにそれを消臭していたのである。何よりも彼らの自制の“気”が、臭いのおぞましさを抑えた。
現在《いま》は――
床は血色のビニールでできていた。百CC入りの医療用血液――それが敷きつめられている。
だが、臭いの主はそれではなかった。
百を数えるビニール袋の血臭は、すべて、彼の体内に吸い取られ、肉と骨と内臓のすべてにこびりついていた。
だから――
彼が眼を開くと、それはざわめきはじめ、ベッドから起き上がるや、激しく渦を巻いた。
「来る」
と彼は、泥のように重く汚れた身体の奥から、そのひとことを絞り出した。
「来る。――来るぞ」
両手に二刀が光った。
「おお、来い、来てくれ。おれを殺せる者よ。ジーグ、バイヨン、クロノス――用意はいいか? 死の歌を歌う準備はできたか? 生命乞いの言葉をあつらえろ。今度の敵は手強いぞ」
自分でも理解し得ない昏《くら》い欲望に駆り立てられる猛獣のごとく、彼は絶叫した。
黒い光が壁へと走った。丸木に刺さったそれは、太い木とつなぎ目の充填材を破壊し、ぶち抜いて飛んだ。
二〇メートルも向うの地面すれすれに飛んで突き刺さった瞬間、その下で、低い苦鳴が上がり、黒い蜘蛛みたいな形が這いつくばった。
ビニールと強化プラスチックに守られた弾薬庫は、五本の足が苦しげにもがくその奥にあった。
ミサイルは鉄製の台車に腰を据えていた。
五人の男たちが微動だにせず、その周囲を取り囲んでいる。
近づくのは簡単だった。Dの足はあらゆる音をたてず、全身は闇に同化していた。星もない夜ならば、眼の前に立っても人は気づくまい。
篝火《かがりび》を避けて台の後部を守る男のもとへ滑り寄る。その足が不意に乱れた。急なめまいに襲われたのである。蝙蝠の毒はまだ消えていなかった。片膝をつき、のめった上体を支えた手は、手首から先がない。
見張りはその音を聞き逃さなかった。
「誰だ!?」
思い切りでかい声を放って、腰の懐中電灯を向ける。
光の輪に照らし出されても、Dはすぐ反応できなかった。今回の毒はひどく性質《たち》の悪い効果を挙げていた。
男の声に応じて、見張りたちが駆けつけてきた。みな火薬銃や長剣を抜いている。全身を包む凶念が、視線となってDへと走った。
そこで呆気なく消失してしまった。
凶悪無慈悲な顔が、ひどく間のびしただらしのない、恍惚たるそれに変わる。
Dの顔を見てしまったのだ。
敵と味方の間に築かれた奇妙な友好関係は、きっかり一秒続いた。
Dが破った。
男たちの眼には、美しい侵入者が黒い翼を広げて飛び立ったように見えたかも知れない。
その爪は、彼らも知らぬ凶刃《きょうじん》であった。
戦車の周囲は、特別、篝火の数が多かった。内蔵されたコンピュータが、索敵、攻撃、操縦をコントロールし、村々の防御壁を突き崩して破壊する。抵抗する者は一五〇ミリ砲が粉砕、四挺の機関銃がミンチに変える。敵の攻撃は、九〇ミリ高分子装甲がすべて跳ね返す――辺境では無敵というべき存在であった。
「遅いな、どうする?」
一〇メートルばかり離れた闇の底で、虫のように這いずってきたジョッシュが、パラオに訊いた。
「しゃあねえ。時間がなくなる。やるか」
素早く起き上がったパラオの両手には、小型の自動火薬銃が握られていた。先端にソーセージ状の消音器《マフラー》がついている。
「掩護《えんご》よろしく」
声だけ残して走った。
篝火の下へ出た。二人の見張りが気づいてライフルを向ける。
パン、とかすかに鳴った。幽界の響きのようであった。眉間を射ち抜かれた見張りが吹っ飛ぶ。パラオは素早く、戦車の後ろへ廻った。
残る三人が飛び出してきた。
「ありゃ」
うち二人は防弾ヘルメットとマスク、装甲服姿だ。上空からの偵察では服の種類までわからない。
「ありゃりゃりゃりゃ」
パンパンパンパンパン。
金色の空薬莢《からやっきょう》が乱れ飛び、ひとりは十発も食らって倒れた。装甲服のひとりも喉を射ち抜かれたが、最後のひとりが弾丸を跳ね返しながら、ライフルを向けた。
拳銃とは比べものにならない轟きが夜気を打ち破った。この瞬間、奇襲は崩壊したのである。
夜営地は一斉に眼醒めた。
「ちい――射たれたら死ねよお」
と罵るパラオの鳩尾を、ライフルの巨弾が直撃した。射入孔は大人の頭ほどもあった。それが、泥を流して固まったように消えた。
胸に二発当たった。それも同じ結果が出た。
「実は射ち合い専門――再生能力あり」
愕然とする見張りの喉を狙って十発を叩きこみ、二発が命中した。弓なりにそって倒れる向うから、
「敵襲だぞ」
「戦車の方だ」
「逃がすな」
声と足音が押し寄せてきた。
ちっと舌打ちして向きを変え、乱射を送る。二、三発で遊底《スライド》が後座する。
「ありゃあ、弾丸《たま》切れ。プロ失格」
棒立ちになった胸のあたりを、ごお、と衝撃波がかすめた。
二〇メートルほど向うに迫っていた影たちの真ん中で、炎が爆発した。
「掩護完了」
ずっと遠くでジョッシュの声。
「遅いんだよ」
吐き捨てて戦車に走り寄り、腰に貼りつけた時限信管付きの圧縮爆材を無限軌道《キャタピラ》に押し当てる。
何処かで、じーという音がした。
「え?」
戦車の砲塔が回転した。
「まさか、どかん[#「どかん」に傍点]は無理だよな」
砲身はパラオの頭上を越えて廻った。
ふーと安堵のため息が洩れる。
「え?」
眼の前に、砲身の脇から下行した七・七ミリ機銃の小さな銃口が。
轟きと炎が、ギルをふり向かせた。
「ありゃジョッシュの対戦車ライフルだな。阿呆が」
どうやら、戦いを覚悟する必要があった。爆発の方角から、荒くれどもは、すぐにレーザーも危ないと駆けつけてくるだろう。
「遅かったな」
ギルは身を屈めて走った。爆材を取りつけたレーザー砲の周りには、見張りどもの死体が散らばっている。駆けつけた奴は驚く暇もあるまい。いや、気がつく暇も。爆破まで二分。
うっ、と洩らして、ギルは立ち止まった。巨体に緊張と焦りが満ちる。
人影が立っていた。
Dかと思った。身長も身体つきもよく似ている。違う。あの若者は影さえ美しい。こいつ[#「こいつ」に傍点]は――
判断する暇も惜しかった。
ギルは「視線」に力をこめた。
生まれたときから発揮してきたこれを浴びて、家族や教師や友人が死んだ。意識的に見つめただけで、虫は落ち、人間の心臓は破裂し、花は腐り果てた。魚は溺れて浮いた。気に入らない級友が倒れ、警官が即死し、気がつくといまの稼業だった。「力」の性状と扱い方が身についたのは、さらに数年後――二百人近い生命を奪ってからである。
敵は心臓のあたりを押さえて前のめりになった。いつもの反応に、ギルは満足した。素早く身を翻して行こうとした。苦しげな声が引き止めた。
「胸に打ちこむのは、杭と決まっているがよ」
男は山のようにがっしり[#「がっしり」に傍点]と立っていた。背中に交差させた長剣は、いま抜き取られたところだった。
じゃりんと、男はそれを打ち合わせた。
駆け寄ってくる。
ギルは、死に物狂いで眼を凝らした。
そのとき、弾薬庫が爆発した。
ジョッシュの対戦車砲の一撃も、これに比べれば花火にすぎなかった。
衝撃波と破片で二十人が即死し、残る全員も負傷した。炎は夜営地を呑みこもうと荒れ狂い、合わせて三十人以上が骨まで焼き尽くされた。
炎と爆発音はジェネヴェの村からも観察できた。
「やったらしいわね」
看視塔の上で、リラがかたわらの治安官にささやいた。
「予想以上に凄いな。ひょっとしたら、あの四人……」
不安そうなラストへ、
「三人はともかく、Dは戻るでしょう」
「だといいが」
「迎えでも出す?」
「いや、万が一、敵の斥候にでもぶつかるといけない。ひとりでもプロが欲しいところなんだ」
「正解よ」
リラはその美貌には似つかわしくない、その冷たさにふさわしい声で言った。
「あなたと私の責任は、この村の中にあるわ。忍びこんでいるかも知れない黒死団の手先は? そのひとりを殺した犯人は? 同一人物かも知れない。違うかも知れない。わかっているのはひとつきり――どちらにしても村を滅ぼす毒薬よ。あなたにとっても、私にとっても」
「戸籍はみな調べた。この十年、外から村へ入ってきた連中は四人きりしかいない。コドー・グレアムとセルゲイ・ロスキンパン、ステジバン・トーエック、ミリアム・サライ」
「ひとりを除いて、みなまともそうね」
「そうだ。ロスキンパン爺さんを除いては、な」
ラストの浮かべた苦笑は、その名の持ち主に対する好意を表わしていた。
後ろの窓の外から、おーい、治安官と呼ぶ声が聞こえた。
「噂をすれば影ね。爺さんよ」
ラストは頭を掻き掻き、窓の際に寄って下の通りを見下ろした。
昇降口のところに麦わら帽とよれよれの上着をまとった皺だらけの顔が、こちらを見上げていた。ラストを認めると、右手の酒瓶を持ち上げて、
「おーい、夜半までご苦労だな。差し入れだぞ。いま、持ってってやらあ」
「いや、結構、取りに行くよ」
酔っ払いに邪魔されては敵わない。ロスキンパン爺さんは、ちらと不平面したが、すぐにあきらめたらしく、
「わーった。じゃ、ここへ置いとく。アルゴ市の酒商人から買った極上のシャンパンだ。ひと口飲《や》ったら、もうこんな村の酒は飲めなくなるぞ。――げっぷ」
「わかった、わかった、すぐに行くよ」
ご苦労さま、と皮肉っぽいリラの声を背に、ラストは狭い五階分の階段を下りた。
爺さんはもういなかった。立っていた場所に酒瓶だけが残っていた。
手に取ると、最低の酒商人しか商わない安物のシャンパンだった。
「糞爺いが」
苦笑して通りの左右を見ると、左手の闇の方から陽気な鼻歌が糸のように流れてきた。
小さく、親愛の失笑を放って、ラストは瓶を手に昇降口へと戻った。そこで何気なく瓶を見た。さっきおかしいなと思い、老人を求めるうちに忘却していた事柄を憶い出したのである。瓶の口は空きっ放しだった。
もとの位置に戻って眼を凝らすと、すぐに蓋は見つかった。
「爺さん、飲みかけだな」
想像はついていたが、少し腹が立った。蓋を拾い上げようと手をのばしたとき、指先が地面に触れた。
濡れている。
その土を少しつまんで鼻に近づけた。シャンパンの匂いがした。安物の。
「こぼしたのかな」
瓶を見ると、七分の入りである。それ以上は考えず、ラストは瓶を手に看視塔へと戻った。
「それがお土産?」
リラが皮肉っぽい眼つきになった。
「極上の安物さ。君は飲まんでいい」
「あなたもやめといたら?」
「ま、軽く一杯」
ぐいと瓶の口を咥える治安官に、リラは何も言わなかった。アルコール好きで、その分強いのは、誰よりも心得ている。
それが致命的なミスだと気がついたのは、次の瞬間だった。
喉の詰まったような声を上げるや、ラストは鳩尾の辺を押さえて身を二つに折った。
瓶が床に落ちて割れた。ひと口のはずが、中味は一滴も残っていなかった。
「げほお」
ラストは吐き出した。それは酒ではなかった。黒血の塊は床にぶつかり、思い切りよく広がった。
「ラスト!?」
「来るな」
と窒息寸前の声が止めた。
「こいつ……いきなり、おれの胃の中へ――うおおおお」
鳩尾を押さえた指が一、二本ぶら下がった。
その下から細い、血まみれの刃がのぞいていた。それが、ぎりぎりと横へ移りはじめたのだ。肉が裂け、ぶら下がった指が落ちた。血は滝のように降りかかる。
「ラスト」
「大丈夫だ、リラ。こいつを逃がすな」
断末魔ともいえる声が、命じた。
「了解」
一歩下がって、女戦士は腰の刃を抜き払う。ラストはよろめき、苦悶に身をよじりつつ、倒れはしない。
ラストは歯を食いしばった。全身の筋肉を引き締め、肛門も絞り切る。苦痛をこらえるためではなかった。
「もう逃げられないわよ」
肉に食いこんで動かぬ刃に向けて、リラは凄然と話しかけた。その美貌のなんたる怖さ、凄艶《せいえん》さか。
「名を名乗りなさい。黒死団の尖兵?」
「……これは、しくじったか」
ラストの鳩尾が、陰々たる声で言った。
「まさか、治安官が疑似貴族とはな。一世一代の不覚よ。おれの名はドモン。黒死団の犬だ」
「別名があるわね。ステジバン・トーエック」
「そんな名前の農夫を知っていたな」
「覚悟はできてるわね」
リラは右手を引いた。
「その前にもうひとつ――村に潜むのは、あなただけ?」
「さて、な」
「あの蝙蝠遣いを殺したのは、あなた? それとも別の仲間?」
「いや、おれたちじゃない。あれは別の――」
急に邪悪な響きを帯びて、
「どうやら、この村にいる危険なものは、おれたちばかりじゃなさそうだな。せいぜい、気張って探せ。あと二日もすれば本隊がやってくる。何がいようと、まとめて地獄行きさ。さあ、刺すがいい」
「ご忠告ありがとう」
リラの眼に凄まじい光が点った。殺意の電流に右手が震えた。
だが、彼女は右手を下ろした。
「リラ、どうした?」
汗と血にまみれたラストの問いにも答えず、リラは左腰のパッチから煙草ほどの銀色の円筒を抜き出した。
そこだけ黒い片端をケープにこすりつける。内側から火薬の燃えるような音がした。
「少し荒療治になるけど、我慢して」
「よし」
呼吸が合うとは、こういうことだろう。怯えも疑惑も示さず、ラストは口を開けた。そこへリラが円筒を突き出す。咥えず、ラストは呑みこんだ。
「――貴様、何を!?」
声が叫んだ。絶望の叫びであった。
それが終わらぬうちに、ラストの身体は火を噴いた。
口と鼻と耳と――鳩尾から噴き出した焼夷弾の炎は一万度に達した。
声もなく膝を折る火だるまの治安官――その腹のあたりから、別の絶叫が迸り、じきに熄《や》んだ。
どっと倒れた身体と炎へ、白い霧が襲いかかる。
「敵は液体人だったわ。刺したりしたら、その傷口からこぼれて逃げる。刺せとせがむわけね」
小型の消火ボンベの中味を、なおも噴霧しながら、リラの表情は冷たく、その眼には――悲痛な色が揺れていた。
サイボーグ馬を駆って一キロほど離れたところで、Dは手綱を引いた。
荒野の真ん中である。
戦車とレーザー砲が爆発するのを確かめてから、彼は集合地点を去った。ギルたちは戻ってこなかったのである。
もうひとつ、戻ってこなかったものがある。Dの左手は、なおも手首から先を失っていた。
探しもせずに彼は帰途についた。分離したときから、運命はそれぞれに委ねられている。無事なら戻る。戻らねば――それだけのことだ。
Dが馬を止めたのは、しかし、背後の無法者集団の壊滅状態を確かめるためではなかった。
闇が苦鳴を放ったのだ。
左手の声で。
Dの眼は、荒野の一点を凝視していた。
胸まである雑草が夜風にゆれている一角だ。
草の陰からひとつの顔が浮かび上がった。
Dと酷似した体型を覆う上衣は、ブーツの踵まで届いていた。
草を踏んで近づいてくる男が、長剣を右肩に担いでいることにDは気づいていた。その先に、人間の手首が、手の甲から平まで刺し貫かれている。
「忘れ物だ」
と男は言った。
「最初に刺したときは、自らの身を裂いて逃げた。おかげで貯めこんだ弾薬がぱあだ」
男は低く笑った。敵意も害意もない、無邪気とさえいえる笑い声だった。
「だが、そんなものはどうでもいい。もう一度捕まえたこいつ[#「こいつ」に傍点]を連れてきたのは、こいつを通して、おまえの居場所を感じられた[#「感じられた」に傍点]からだ。おれの名はトーマ。黒死団の頭だ」
「D」
おお!? 自ら発した驚愕の叫びが男をすくませた。
「あんたがDか。一度、会いたいと思っていたぞ。そうとも、おれたちは会わなきゃならなかったんだ。嬉しい、嬉しいぞ、Dよ」
まさしく、男――トーマは狂喜に蝕まれていた。
その眼は血走り、口は涎《よだれ》を流した。がちがちと鳴るのは、二本の牙であった。
「偽りの貴族か」
Dの右手が肩の剣の柄《つか》にかかった。
「まあ、待て。あわてると、この手首が死ぬぞ」
「好きにしろ」
トーマは眼を剥いた。王手を打ったつもりが、予想外の反撃を食ったのである。
「待て、こら待て。おまえは一生、左手を失くしたままでいいのか?」
「―――」
トーマは眼をしばたたいた。途方に暮れているように見えた。
「では、預かっていても仕方がない。返そう。だが、その前に、少々、賛辞を連ねさせてもらおう。まず、あのミサイルだ」
Dは無言である。敵の正体がわかった以上、普段の彼なら問答無用で一撃を浴びせているだろう。
「爆破するか持っていくと思ったら、発射させるとは、な。しかも、無人の荒野の果てにある大氷河に命中させるとは、芸が細かい。戦車もレーザーもやられた。おかげで、次の仕事から、無理攻めは効かない。話し合いでもするか」
「三人はどうした?」
これも普段のDの問いではないが、今回はリーダーだ。部下への責任上、尋ねざるを得まい。
「おれが相手をしたよ。それでいいだろう。で、次の相手はあんただ」
「まず、その手を返せ」
「いいとも――それ」
トーマが肩の剣を上下に走らせると、左手は解放された。剣が前後に動いた。
ぎゃっ、とひと声。なんたる無惨、左手は空中で二つに割られ、それぞれDの左右の草の中へ落ちた。
「なんとなく、付けさせてはまずいような気がしたのでな。さあ、見せてくれ、吸血鬼ハンター“D”の実力を。おれを殺《や》れるかどうか、この眼で、この身体で確かめさせてくれ」
トーマは左手の指を咥えた。
歯の打ち合う音が消え、別の音が取って替わった。
ぼりぼりと。彼は自分の指を食いちぎっている最中だった。
手が突き出された。親指のみを残し、四指は根本から食いちぎられた手が。
「これで同じだ。おれはフェアにやりたい。いいぞ、D。なぜ左手を探さない。心配そうな顔をつくらない。いいぞ、それこそ、おれの求めている男の条件だ」
トーマは血まみれの手で敬礼した。
その身体が疾走に移ったとき、Dも跳躍した。
「いいやぁあああ」
どちらの声か。
天と地と――すれ違った影の間に刀身の響きが弾け、まばゆい火花が散った。七メートルの距離を置いて二人は対峙し、ふたたび風となって走った。荒野を吹くに、かくもふさわしく、かくも呪わしい風があろうか。
世にも美しい黒風は銀の牙をふるい、吹き合う烈風は鋼の爪を立てた。
光の粒が躍り、そのたびに周囲の暗黒は荒涼たる平原のあちこちをおぼろに照らし出した。
風は吹き合い、吹き交わし、またぶつかった。
苦鳴が闇に弾け、重いものが地に落ちる音がした。
「おおおおお――何故だ、D?」
のけぞるように身をそらして、トーマはわなないた。全身から黒血が飛び散った。彼は右手で左肩を押さえた。腕は断たれていた。
「何故だ、D? 何故、おれを殺せん? おれの片手を奪い、おれに心臓を刺されたのは何故だ?」
Dはよろめきつつ後じさった。その胸を斜めにトーマの刃が貫いていた。言うまでもない。死闘のただ中で、またも合併症が突発したのである。
「いかん、いかんぞ、D。おまえはおれに斃《たお》されてはならん。おれを斃してこそのハンターだ。そうではないか、でないと――でないと」
トーマは天に挑むがごとくのけぞって吠えた。
「――おれは、貴族になってしまう」
Dは倒れた。
そちらを見向きもせず、トーマは右手のみをのばしてDの心臓から一刀を抜き取った。
「もういない。もう誰もいない」
すすり泣きに似た声が草むらを渡った。それの伝えるものは、まぎれもない悲愁だった。
この少し前、ジェネヴェ村の看視塔の中で、炎に灼かれる治安官を救わんとするリラの表情も、同じものを湛えていたのだった。
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第五章 残地諜者
夜が明けるとすぐ、黒死団のドモンこと、農夫ステジバン・トーエックの家の捜索と、ロスキンパン爺さんの尋問が開始された。
トーエック一家の捜索は当然として、爺さんは、彼との共犯関係を疑われたのである。トーエック――液体人は、爺さんの持ってきたシャンパンの瓶に潜んでいたのだ。
「大体、おめえ、一人前の男が、シャンパンの瓶なんかに収まるかよ」
一応、もっともだが、酔っ払いのたわごとである。液体人の構成分子は、数万個がひとつに溶け合い、しかも液体の性状を失わない。誰でも知っていることだ。
爺さんは無論、知らぬ存ぜぬを主張した。酒場でしこたま飲み、そこでラストとリラが看視塔にいると聞きこんだまでは覚えているが、塔へ行ったのも、瓶を置いてきたのも記憶にないと言う。
タイミングを考えた場合、爺さんの呼びかけに応じて、ラストが塔から下りていくまで、五分ほどかかっている。声をかけた爺さんは、すぐに瓶を置いて立ち去ったのだから、その間に瓶の蓋を開け、中味を出して自らが忍びこむことは、爺さんの後を尾けていけば十分に可能だろう。ただし、トーエックは酒場にはおらず、爺さんが塔へ行こうと思いたったのは――爺さんの証言によれば――酒場でラストとリラがそこにいると聞いてからだから、偶然、彼を見つけて後を尾けたことになるが、これも可能性としては低い。前もってという場合も十分に考えられるのだ。
尋問に当たったラストが、ここで詰まっていると、ドモンことトーエック家からリラが戻ってきた。
「トーエックは、昨夜、飲みに行くと言って家を出たそうよ。時間は――」
それと、ロスキンパン爺さんがうろついていた時間を掛け合わせると、爺さんが酒場へ行く前に遭遇していてもおかしくないことがわかった。
リラの捜査は行き届いていた。トーエック家から戻る途中に、爺さんの家へも寄り――二〇〇メートルも離れていない――爺さんが酒場へ行く前に、別の村人とすれ違っていたのを確かめてきたのである。
「“これから仕事かい?”と声をかけたら、お爺さん、“おお、治安官と恋人さんを激励に行くのよ”と瓶をふってみせたそうよ」
時間的に見て、折よくこの邂逅に出くわしたトーエックがこれを聞きつけ、爺さんの瓶に忍んで、と企んでもおかしくはない。つまり爺さんは最初から二人を激励に行くつもりだったのだ。
「一応、家へ戻そう」
とラストは判断した。
「しかし、あくまでも可能性の問題だ。誰か見張りをつけておこう」
「それがいいわね」
酒臭い息を撒き散らしながら、へっぽこ治安官めと罵《ののし》る爺さんにお引き取りいただいてから、ラストは次の難題に取りかかった。
村役場へ村長を訪れたのは、昼少し前である。
二時間後、村の正門から二人の母子が追放された。
トーエックの妻と三歳になったばかりの男の子である。
非違《ひい》のある村人の扱いは、村長が決定権を有する。ラストの訪問はこのためであった。
四年前、村へやって来たトーエックと知り合い、一子をもうけた。それから今日まで、妻は夫の正体を知らずに過ごしてきた。
トーエックのような存在は、辺境の村では珍しくない。そのため、村は独自の掟を定めて、彼らの素顔を白日の下にさらそうと努める。ジェネヴェの場合は、
「家族は村外からやってきた夫乃至《ないし》妻の行動に注意を怠らず、村人として異常と判断した場合、その理由の程度にかかわらず、治安官に申し出ること」
厳然たる一項が定められていた。トーエックの妻は、これに違反したと見なされたのである。
村長と顔中に包帯を巻いた副村長、ラストとリラの立ち会いの下、審査が行われ、何も知らなかったという妻の抗弁は、受け入れられなかった。
「自らの身を液体と化せしめるような人物が、わずかな異常も露呈しなかったはずはない。万にひとつ、妻の陳述が事実だったとしても、それに気づかずに過ごしたのは、共同体の一員として、はなはだ不適当と見なされねばならない」
これが、村長の判断であった。
副村長から、少し厳しすぎませんかとふがふがいう意見も出たが、この男は村長のやることには、すべてひとことはさむのが癖だから、今回も無視された。
審理が簡潔に進んだのは、陽のあるうちに、隣り村まで行けるようにとの“温情”であり、そのために、近所の連中が馬車へ家財道具一切を運びこんだ。
子供だけはここにいさせてくれと泣き叫びながら、妻は背後で閉じる門扉の音を聞いた。
そして二人はそこに残った。村長自ら、門の上に立って、早く去れと説得したのだが、妻は村にいさせてと主張して譲らなかったのである。
誰も相手にしなくなっても、妻の悲痛な声だけは熄《や》まなかった。
村の中では戦闘訓練が続き、みな、いつもより熱心に打ちこんだ。
格闘術の時間など、何かを忘れようとでもするかのように遮二無二向かってくる村人相手に、プロの傭兵たちも本気にならざるを得ず、負傷者が続出、ついに実戦時にまずいと打ち切られた。
門を守る村人も、農作業に精を出す村人も、役場の職員たちも、村長も副村長もラストもリラも傭兵たちも、妻の声を聞いていた。それは非情な掟さえ揺るがすものであった。
だが、ひとりとして、引き戻そうと主張する者はいなかった。トーエックの子供が生まれたときからずっと、床に伏しがちの妻に代わって乳をやり、熱を出せば医者へと担ぎこんだ隣家の主婦ですら、耳をふさぎながらも、追い出さないでとは言わなかった。
辺境に生きることの意味を、彼らは生まれたときから理解してきたのだ。
陽が落ちた。母子が去ることを誰もが期待した。
門の向うの声は、悪罵に変わっていた。妻は子供を抱えて持ち上げ、この子をごらん、この子が何をしたのと喚いた。眼に涙はなかった。とうに涸れ果てていたのである。きょとんとしていた子供が、訳もわからず泣きはじめた。
門の内側《なか》の男たちは、みな耳を押さえて歯を食いしばった。泣き出す者もいた。村も世界も青く沈もうとしていた。
やがて、諦めるときが来た。これ以上留まることは、妖物の餌食になることを意味する。呪詛を吐きつけ、妻は馬車の手綱を握った。車輪のきしみが、闇の奥を遠ざかっていく。
「急げ」
と誰かがつぶやいた。馬車の姿が見えなくなっても、子供の声は尾を引いた。
泣き声が不意に熄んだ。
その意味を、その瞬間に村人全員が理解した。
何人かが門の上へ駆け登り、それより早く、看視塔の見張りが、
「ギルたちだ」
と叫んだ。
非常事態宣言のサイレンが村の空を流れはじめた。
その少し前、治安官オフィスで、ラストは不意に孤独になったことを知った。
戦闘時の人員の配置や、食料の配給について訊きに来ていた村人たちは、母子が追放されてから、いつの間にか姿を消していた。
ラストのせいではない。誰もがわかっていた。だから、責める者はいない。だが、村長以外の身近な責任者は、常に治安官なのだった。
こんなとき、顔を背けるだけのささやかな生贄を、人々は必ず必要とするのだった。
青い影が入ってきた。
パンとチーズの塊を運んできたシェリルだった。
「どうしたね?」
尋ねるラストへ、
「父――村長が持っていってあげろって。ステファンさんのところでこしらえたチーズよ。村でいちばんおいしいの」
「それはそれは。お父さ――村長に礼を」
ここで自分を見つめている双眸《そうぼう》のひたむきさに気づいて、
「何を見ている?」
と訊いた。
「――何も。かけていい?」
「ああ」
テーブルの向うに腰を下ろすと、シェリルは篭を下に置き、
「前から訊きたいと思っていたことがあるんです」
と言った。
それは、ラストのいちばん怖れていることだった。それでも、彼は、
「何だい?」
と訊き返した。
「ここでの任期を終えたら、何処へ行くんですか?」
「当てがあるのかってことかい?」
「ええ」
シェリルは彼の顔から眼を離さなかった。それから逃げたいと思いつつ、
「これまでも、これからも、そんなものはあった例《ためし》がない」
シェリルは眼を伏せた。
「よかった」
と言った。噛みしめるような声だった。
「それなら、ここにいてもいいんですね?」
ラストの胸に、ひどく和やかなものが流れこんできた。彼にはそれに身を浸す権利があった。
そうだ、と言いかけたとき、耳の奥に聞こえた。――門の外の母親の叫びが。
「いや」
ラストはかぶりをふった。危ないところだった。
「無頼を気取るわけじゃないが、おれは君らとは違う。君らの住むところには住めないんだ」
「どうして?」
シェリルが身を乗り出してきた。日頃、父のかたわらで伏し目がちに日程《スケジュール》を告げ、ペンを走らせているだけの娘の想いの激しさに、ラストは少なからず驚いた。
ひたむきな眼差しが注がれていた。そこから逃げるように、ラストは眼をそらした。
「人の行く道は生まれたときから決まっている。親父の受け売りだがね。そこを踏み外したら、元には戻れない。気がついたら霧の中だ。その先に破滅という名の崖があることは、落ちてみないとわからない」
「あなたは――落ちたことがあるのね?」
「一度だけ、な。それから、迷いっ放しだ」
シェリルは眼を閉じ、そのまま口にした。
「その道は、ここに通じていたのかも知れない。そう考えられませんか?」
ラストは、いいやと答えるつもりだった。
「ありがとう」
と彼は言った。
「ちゃんとした返事を聞かせて下さいませんか? 村長も知りたがっています」
「いずれ、な」
「いつでしょう」
「そう見るな。君の眼には敵わん」
「私は、返事が欲しいだけです」
「この件が片づいてからだ。昨日の爆発の規模からみて、敵の到着は数日遅れる。だが、それだけで必ずやって来る。Dもギルたちも戻ってこない以上、こちらの戦力は敵以上に激減したといっていい。それでも、おれや村の人たちは戦わなきゃならん――君もだ」
シェリルはそっと見つめた。憂いを含んだ治安官の顔ではなかった。岩に刻まれたような、厳しい男の顔がそこにあった。
「そうでした。あわててしまったようね。ごめんなさい」
シェリルが立ち去ると、入れ違いにリラが入ってきた。ドアの方を眼で追って、
「悪いけど、外で聞かせてもらったわ。あの娘《こ》は少し危険よ。あなたを好きな分、危ないわ」
「………」
「私が敵で、あなたを手強いと見たら、大事な人を使って弱みを握るわね」
「そのとおりだ」
「どうするつもり?」
ぶっきらぼうに訊いた。
「決まってる。この仕事の片がついたら出て行く。おれの道はもう決まってるんだ」
リラはうなずいた。
「あなたの息の根は私が止める。安心してらっしゃいな」
「その節はよろしくな」
久しぶりに二人は顔を見合わせて笑った。
そのとき、緊急事態発生を告げるサイレンが、村の夜空に鳴り渡った。
飛び出した二人へ、馬に乗って駆けつけてきた正門の見張りが、パラオとジョッシュが戻ってきたと告げた。ギルとDはいないという。
「丸一日、何をしていたのかしらね」
リラの美貌は精悍《せいかん》な戦士のそれに変わっている。
言わんとするところは明らかだ。
疑似吸血鬼のもとへ向かった連中が、一日置いて、闇夜に戻ってきた。
無事だと考える方がおかしい。
オフィスの前につないである馬に飛び乗り、正門まで急行するや、ラストは、
「母子はどうした?」
と訊いた。
「あきらめたらしく、五分ばかり前に行っちまいました」
「莫迦《ばか》な。奴らとぶつかるじゃないか!?」
「そうです」
見張りの返事を、ラストは門の上へと駆け上がりながら聞いた。
強引にねじ曲げられた街道は、門から五〇メートルばかりのところを走っていて、幅一〇メートルほどの道が両者をつないでいる。
門上のライトが三個、一五、六メートル向うの地面を大きく照らし出している。
二人は、奥の闇から巨大な光輪の中へ踏み入れたばかりのようであった。
いや、四人が。
パラオの腕にはトーエックの妻が、ジョッシュの腕には三歳の子供が抱きかかえられていた。
四人が一〇メートルまで近づいたとき、
「そこで止まれ」
とラストがスピーカーを口に当てて命じた。
左右に並ぶ村人と傭兵たちの弓や火薬銃は、すでに四人の胸もとに狙いをつけている。
パラオとジョッシュの足が止まった。
ジョッシュが眩しそうに眼を細めて、
「ご挨拶だな。昨夜の戦果は見てくれたろう。これが英雄を出迎えるやり方かよ?」
「いままで何をしていた?」
「馬をやられちまってな」
とパラオが肩をすくめた。
「あの荒野には、物騒な妖物がゴロゴロしてる。そいつらと戦いながら戻ってきたんだ。もちっと優しく扱ってくれても、罰は当たらねえぜ」
「おまえたちも、辺境のルールは知ってるはずだな。傷痕のチェックを行う。その前に、二人を下ろせ」
母親と子供の示す反応を、ラストは見抜いていた。
瘧《おこり》にかかったように震え抜き、汗みどろの顔は、恐怖に引きつっているではないか。死相とは、あれだ。
わかるのだ。二人のそばにいる彼らにはわかるのだ。
二人の身体が氷のように冷たいことが。呼吸《いき》をしていないことが。光に白く染められた顔の中で、そこばかりが異様に紅い唇と、そこからのぞく白い牙が。
「二人を下ろしてチェックを受けろ。何もなければ、今夜は酒盛りだ」
二人の戦士は白い顔を見合わせた。
「――だってよ、ジョッシュ」
「冷てえな、パラオ」
「んじゃ、言われたとおりにすっか?」
「それしかあんめえ」
パラオが大きくうなずいてみせた。
「いま下ろす。チェックの用意をしてくれや」
門上の一同の間を安堵の風が渡った。
そのとき、すべてがふり出しに戻った。
パラオの両眼が、かっと赤光を放つや、戦闘士は震える母親の首すじにかぶりついたのだ。
これが予想外の反応であったことは、ジョッシュが、あっと驚愕の叫びを放ったことでもわかる。
後に、母親の身体を調べて判明したことだが、村への帰還を求めていた彼女は両手で大門の扉を叩き抜いたのである。女の皮膚は破れ、肉がのぞいた。鮮血が噴いたのは言うまでもない。
恐らく、パラオはこらえていたのだ。母親の手から漂う血の臭いと色に。そして、ついに、ぎりぎりのところで耐え切れなくなったのだ。
母親の絶叫が闇をつんざき、断末魔の痙攣が肉づきのいい全身を襲う。
門上の人々は凍りついた。それは、はじめて眼にする伝説の恐怖だったのである。辺境から貴族の威光が失われて久しく、人々はその残滓《ざんし》たる犠牲者を眼にはしても、吸血の現場を見た者はかなりの高齢者しかいないのであった。
だが、これが貴族の吸い方か。
牙を立てたところから、溢れる血潮を吸い尽くす――どころか、パラオは頭をひとふりするや、母親の喉を半ばまで食いちぎったではないか。
ぼっと鮮血が噴いた。
耳を押さえたくなる悲鳴を放ちつつ、母親は両手をふり廻した。
光輪の中に朱の血塊が踊り狂う。
パラオの顔を見よ。
真紅の瞳、血まみれの牙、狂喜にわななく頬――そして、母親の肉片を吐き出すや、どっぷりと開いた血の穴へ、ふたたび顔をふり下ろした。
銃声が上がった。パラオの眉間に小さな穴が開き、顔の上半分が吹っとんだ。門の上で、やったぜ、ミリアムという叫びが上がった。
だが、パラオは倒れなかった。残った口が笑いの形にひん曲がる。
破壊部分から肉が盛り上がり、骨が生じる。眼球が光った。これが吸血鬼の再生か。白い牙がふたたび母親の首に吸いこまれた。
音がする。みな聞いた。喉を鳴らす音が、ごくりごくりと。
それまでこの莫迦がと咎めるような表情を向けていたジョッシュの眼も、このとき、爛々《らんらん》と妖光を放ちはじめた。
肉食獣の顔が子供を見据える。
怯え切って声も出ぬ子供の白い喉――新たな血に飢えた牙がそこへ。
びゅっと空気がその右肩を叩いた。
それは短い白木の矢に変わってジョッシュを回転させた。
子供が手を離れて地に落ちる。
ぐおお、と叫んで躍りかからんとするその首を、二本目の矢がうなじから胸まで貫通してのけた。
のたうつ姿も獣のようであった。白木の矢は致命傷は与えられなくても、通常の武器に十倍する苦痛を、貴族とその一派に与え得る。
「下りるな」
周りの連中に告げるや、ラストは身を躍らせた。
着地すると同時に、すでにつがえた三本目をパラオに向ける。
咄嗟に、パラオは母親の身体を掲げて盾とした。
助からないのはわかっていたが、ラストは射てなかった。
「おどきなさい」
背後で聞き覚えのある声がした。
こんな声を出す女がいるとすれば、その心臓は石で、筋肉は鋼でできているに違いない。そして、氷の神経繊維。
「何しにきた?」
ラストの問いに、
「射てなければ、子供を連れておどきなさい」
と女戦士は命じた。
リラ。
止める間もなく、しなやかな身体は風に揺れる花のように、ふらりと前へ出た。
ジョッシュへは眼もくれず、足取りはパラオを目指している。
三本目をのたうつジョッシュへ射ちこみ、ラストは駆け寄って子供を抱き上げ、門へと引き返した。
リラは跳躍に移った。
哄笑《こうしょう》を放ちつつ、パラオが、まだ痙攣中の母親を頭上にかざした。
その心臓を貫いた刃が自分の眉間に食いこむのを、彼は呆然と眺めた。リラは、ラストの身体も刺し貫きかねない女なのだ。
「痛い」
パラオが呻いた。言葉と一緒に口から血泡が溢れた。
「こんなに痛い。おかしいぞ、おれは貴族になったのに」
二つの身体を串刺しにした長剣を手に、リラはその前方に舞い降りている。右手の人さし指が左の腰――そこから突き出している小さな金の輪にかかった。
母親の身体をぶら下げたまま、パラオが問いかけるように両手を広げた。芝居じみた動作だった。
「おい、女――おれは貴族だ。この母親の血も吸った。甘い。こんなに美味いものだと思わなかった。貴族の証拠だろう。それなのに、どうして、ただの鋼がこんなにも痛いのだ?」
「洗礼を受けさせたのよ」
リラが冷たく言った。
「何処にあるかも知れない私の故郷《くに》の教会で。たっぷりと聖水をふりかけた第十三号ベレニス鋼――刀鍛冶《かたなかじ》は一千万回も打ってくれた。ありがたく生命乞《いのちご》いをなさい」
パラオが突進した。
かっと開いた唇も口腔も真っ赤に彩られていた。
ひゅん、と空気が鳴った。
横にのいたリラの左脇をパラオは走り抜けた。腰から下だけが。
五、六歩走って、突然、それ[#「それ」に傍点]は岩に激突した怒涛のような鮮血を噴き上げて倒れた。リラの真横に落ちた上半身も、信じられない存在でも見たかのように眼を見開いていたが、みるみる死の表情を広げた。
ライトの光の中で、何やら血色《ちいろ》の一線がリラの手もとで弧を描いたように見えたが、たちまち消失した。
リラはふり向いた。
犬のようにその場に蹲《うずくま》っていたジョッシュが、敵の気配に気づいたか、支えもなしに上体を起こした。
「ああふ」
「ああふ」
とリラが和した。
血刀を手にジョッシュに歩み寄った。
昨日までの僚友に一片の慈悲もためらいもないと、その足取りが告げている。
「あなたも、闘《や》る?」
「貴族の名に賭けて――勿論だ」
恍惚と宣言するその顔へ、
「まがいもの」
ひと声与えて、リラは刀身をふり下ろした。ジョッシュは躱《かわ》す体勢になかった。
肉に斬りこんだとは思えぬ音が高々と鳴った。
「ほお」
ジョッシュは逃げなかった。彼は蹲った姿勢から、上体のみを捻《ひね》ったのである。
リラの刃は、背負った砲身が受けた。
その場で構え直す女戦士の胴体へ、スィングした砲身がその砲口を密着させた。
「こんな殺し方、いまはしたくねーんだが」
とジョッシュが詫びるように言った。
「なら、そうしたら?」
リラが身を沈めた。
左手が左の靴先にかかる。砲身がそれを追った。
「お寝《やす》み、女戦士」
「お寝み、まがいもの」
長い長い炎の柱が斜めに地上へと走った。
それがふたすじ[#「ふたすじ」に傍点]あると認めたのは、ラストのみであった。四〇ミリ対戦車ライフル弾は、リラの眼前で二つに裂け、のみならず方向さえ変えて彼方の地面にめりこんだ。
凄まじい火の柱が二本、天空へと屹立《きつりつ》する。毒々しい炎も黒煙も生んでいないそれは、まだまだ美しい。
そちらへ眼を向けていた人々を、断末魔の叫びがふり向かせた。
棒立ちになったジョッシュの喉を、リラの清浄刀身が、ぼんのくぼまで貫通していた。
「あが……あが……あが……」
声にならない声をふり絞る巨躯《きょく》が、ゆっくりと持ち上がっていった。
女の細腕一本の仕業だと、誰が信じられたろう。
のばし切った腕をわずかに曲げて、リラは巨体を突き放した。二百キロ近いジョッシュが垂直に浮き上がり、リラは左手をふった。
裏切り者は空中で四つの肉塊に化け、血潮の豪雨とともに地面へ転がった。
ひとふりして刃の血潮を払った長剣を鞘へ戻すと、リラは正門の方へ歩き出した。
開いた大扉の向うを村人が埋めていた。
ラストとトーエックの子供を抱いたシェリルもいる。
その前で足を止め、リラは子供の頬に触れた。
「お姉ちゃん」
と子供が破顔した。自分がどんな顔で応じたのか、リラはよくわからなかった。
すぐに離れて、かたわらのラストへ、
「夜が明けたら、隣り村へ追放しなさい」
と告げた表情は、冷厳非情な女戦士のものであった。
何処を見ても、誰が見ても、荒野を覆う死神の翼を発見できるだろう。
「痛えよ」
「水をくれ」
「熱い……焼ける、焼ける、助けてくれ……」
「お頭……何とかしてくれ……」
手下たちの苦鳴と哀願の声が地を覆い、翼はゆっくりと、優しく、その中の最も重い患者の上に、さしかけられるのだった。
六十人中三十二人が死亡、重傷者七名、軽傷者十八名、加えて農家で死亡した三名――つまり、黒死団全員が何らかの傷を負っていた。無事なのはひとり――六十名の中に入らないオンリー・ワン。
彼は負傷者たちのためにうろついているのではなかった。いつもより大きく息を吸い、こよりみたいに細く吐く息を見ればわかる。
「お頭」
盛り土の上で、患者を看ていた男が呼んだ。
副長ともいうべき“凶腕”――ギャランス・ボーデンである。彼の左腕は義手であった。
「こんなとこへ来ちゃいけません。血の臭いが渦を巻いてるし、こいつらだって――」
遅かった。「お頭」のひとことで、動く者もない周囲に、おびただしい動きが生じたのだ。
毛布の上を這い、地面に指を立て、天を仰ぎつつ、彼らはやって来る。お頭――トーマのもとへ。
ズボンの端を、血まみれの、小指の欠けた手が掴んだ。
「助けて……下さい……お頭……」
もうひとつが掴んだ。
「おれも……一緒に……何でもやります。……お袋だって殺します。だから……助けてくれ」
もうひとつ――
「冷たくなってきた。足の感覚がもうねえよ。頼む、お頭――助けてくれ」
それから、不意に声を合わせて、
「血を吸ってくれえ。偽者でも何でもいい。貴族にしてくれえ」
「心温まる合唱団だな」
トーマは苦笑した。
「済まねえ」
頭を下げたのはギャランスだ。
「でも仕方のねえこってす。こんな酷い目に遇うなんざ、考えたこともねえ連中ばっかりで」
トーマは、足下に這いつくばる子分どもを見下ろしている。人間を見下ろす神のごとくに。
「さ、戻れ。手当ては終わってねえだろ」
ギャランスが押しやろうとしたが、彼らは無視した。なおもトーマの足下に群がった。
生命知らずといえど、死が近づけば意識せざるを得ない。怖いのが当然だ。それを覆す“可能性”があった。それもごく身近に。
疑似吸血鬼といえど、それに血を吸われた者も、疑似吸血鬼になれるのだ。それは永劫の生を約束していた。
「お願いだ、お頭、血を吸ってくれ」
「おれのも、おれのも」
「死にたくねえ。助けてくれ」
悲惨極まりない、しかし、何処か生々しい欲望を含んだ哀訴がトーマを撫で廻した。
この哀れな配下たちに、トーマはどう応えたか。
彼は足下ににじり寄る男たちを凝然と見下ろすばかりであったが、ついに、
「ようし、わかった」
と言った。
「暗黒の神に誓って、おまえたちの願い、叶えてやろう」
彼は光る眼で一同をねめつけた。それは血光を放っていた。
「だが、よく聞け。聞いておけ。死とは安寧だ。人間に許された唯一の安らぎだ。真の解放、快楽、愉悦《ゆえつ》といってもいい。おまえたちは、それを捨てることになるぞ。単なる、くだらない、下劣な、唾棄すべき肉の痛みのために。耐えろ、耐えろ、耐えろ。それができなければ死ぬがいい。それが人間だ。だが、どうしても耐えられぬというのなら、未知の死が招く暗黒が怖いというのなら、それもよかろう」
彼は身を屈め、ひとりの顎を掴んで引き上げた。
「誓え、スマトロ。――文句は言いません、と」
「お頭……」
「誓え、スマトロ。おまえは、あと二分と保たねえ」
「……助けて……誓います。何が起こっても……文句は……言いません」
「いいとも、いいとも。他の奴らも誓え。永劫に終わらぬ闇に、暗黒の孤独に、虚空の魔神に」
「誓います」
「誓います」
「文句は言わねえ」
「文句は言いません」
「誓います」
「言いません」
「ようし、ようし、ようし」
トーマは胸を張った。
「では、望みを叶えてやろう。この世で最も高貴な人間の、最も愚昧《ぐまい》なる望みをな。まず、スマトロ、ダチア」
下へのばした手が、二人の手下の首を掴んで引き上げるのを、ギャランスは見た。
獣の唸りを彼は聞いた。
トーマはスマトロの首にかぶりついた。
「ぎええええ」
それは哀れな貴族の犠牲者の洩らす声か。
否《いな》。霧深い森で、月光燦然たる夜道で、哀切なジプシー・ヴァイオリンが夜想曲《セレナーデ》を奏でる寝間で、青い血管《ちのみち》に象牙のごとき牙を立てられた犠牲者たちは、性の絶頂《いただき》に昇りつめたがごとき甘美な喘ぎを洩らすのだ。
これは悲鳴だった。地獄の責めに悶え苦しむ亡者たちの声だ。断じて貴族たるべき通過儀礼ではなかった。
痙攣する部下の身体を、ぼろ屑のように地面へ投げ捨て、
「次はダチア」
トーマを囲む影たちが遠ざかりはじめた。月光の下の顔は能面のように白く、表情を欠いていた。
怖いのだ。地獄の苦痛に勝る恐怖が、彼らに棲みついたのだ。いわく、死んだ方がましだ。
「何処へ行く?」
トーマが訊いた。高々と掲げたダチアの、噛みちぎられた喉から溢れる血潮をビールのように飲みながら。
したたる血は白い顔に飛び散り、全身を狂気の地図のごとく染めていく。
「何処へ行く?」
「助けてくだせえ、お頭」
手下どもは叫んだ。言葉は同じ、内容は正反対の哀訴であった。
「もう、死んでもいい。助けてくだせえ」
「汚れた生命なんかいらねえ」
「おれは人間として死にたい」
口々に噴き上げる言葉は、確かに人間の想いであった。
その顔が、西瓜《すいか》みたいに弾けた。血よりも粘っこい塊がエールのごとく四方へ舞った。
愕然とふり向く別の男の顔がトマトのようにつぶれた。
もうひとり――ザクロのように。
もうひとり――もうひとり――
やがて、月輪に長く尾を引く銃声が。
逃亡者たちは、そちらを向いて動かなくなった。
彼らは望むものを見たのである。
月輪を背景にすっくと立つスマトロを。
硝煙漂うライフルの弾倉に、新しく装弾しながら、
「おれを見ろ」
死から甦った男は高々と宣言してのけた。
「こうなりたいんだろう、おまえたちも。なれるんだ。もう死ななくていいんだ。おれを見ろ。十発に二発しか当たらなかったライフルが、いまじゃ百発百中だ。おい――ギャランス、おまえの自慢のその銃で、おれを射ってみろ」
怒気が副長の顔を黒く染めた。スマトロは、手下の中でも最低の下っ端だったのだ。
「おれの銃は、貴族の出来損ないの成り上がりを射つためのもんじゃねえ」
「なーに言ってやがる。気取んなよ、副隊長。もう、おめーは普通の人間なんだぜ。おれは貴族の末席さ」
「笑わせるな、まがいもの」
期せずして、同時刻、村の正門の前で、リラもまた同じ台詞《せりふ》を投げつけていた。
「何ィ?」
爛と燃える眼を顔に埋めたスマトロへ、背後から、おいと呼びかけた者がある。
ふり向いたその身体を、黒光る鋼が左の首すじから右腰骨まで斜めに斬り抜いた。
「ぐわわわわ〜〜っ」
ライフルも放り出してのけぞった上半身が、斬線に合わせてずれて[#「ずれて」に傍点]いく。
「お頭――どうしてえ?」
牙を剥いて喚くスマトロへ、一刀を背中へ収めて、
「痛むか、苦しいか?」
とトーマは訊いた。
「勿論だ、勿論ですぜ、おっと」
男は両手を身体の前でつないだ。斜めに滑り落ちていく上半身が停止する。
それを膂力《りょりょく》で引き上げ、もとの位置に戻すと、スマトロはようやく長い息を吐いた。全身は血と汗にまみれていた。それは不死身を証明するための激烈な代償であった。
「わかったか。これがいまのおれだ。貴族の仲間だ。吸血鬼の力だ。傷つけば痛む、苦しい。だが、死なずに済むんだ。年齢《とし》も取らねえ。みんな、来い。お頭に貴族にしてもらうんだ」
引きゆく波は、ふたたび方角を変えた。
「お頭、吸ってくれ」
「おれの血を」
「おれも貴族に」
「おれも貴族に」
生と死が人間《ひと》を人間《ひと》と証明する。いま、彼らはこの宇宙の法則を侵そうとしていた。
足下に蠢く血だらけの顔へ、
「わかった。まかせておけ」
と、お頭らしく話しかけながら、トーマの洩らしたひとことを、誰も聞けなかった。
「人間を捨てるか――莫迦どもが」
十分後――手下どもの望みを叶えるには、それだけで足りた――トーマは満面の笑みを、打ち合わせる手に乗せた。
「行くぞ、行くぞ。偽者ども、おれと同じ偽者ども。夜討ちでその力を示してみろ。先に三人送っておいた。そいつらも処分し、油断し切ったジェネヴェの村へ、いま行くぞ」
地の底から湧き上がるような、鬨《とき》の声が――
おおおおお、と唱和した。
その数は十と一名あった。
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第六章 殺人鬼の手
月は嘆いていたかも知れない。
こんなにも美しい月夜なのに、と。
人間は何故、殺し合うのか、と。
月の嘆きはやや正当性を欠いていた。
いま、その下に広がる荒野を疾走していく十一の影は、人間とはいえなかった。
どれも眼を赤く血に染め、死の歓喜に歪んだ唇の間からは、凄まじい乱杭歯をのぞかせ――ぎちぎちと鳴るそれは、吸血と殺戮の期待に震えている証拠だ。
彼らは馬を必要としなかった。
足は人間だった頃の三倍の速さで動いたし、疲れも知らなかった。真紅の双眸《そうぼう》は、闇夜をも白昼のごとく見ることができた。
前方に細い潅木と丈高い雑草が夜風に揺れていた。
何の停滞も疑いもなく跳びこむ寸前――三メートルほどの地点で、全員が停止した。
その位置も姿勢も疾走時と変わらないのは、驚くべき身体能力といえた。土を踏む音もたてないのである。
一斉に先頭の足下へ眼をやった。彼らの走法を阻んだものが、そこに転がっていたのである。
それは一個の髑髏《しゃれこうべ》であった。
――誰が?
眼を草むらに飛ばす。――その瞬間、草むらの向うから、もうひとつ、音をたてて地に落ちた。やはり髑髏が。夜目にも青白く。
同時に十一人は見た。
草むらの向うから天にそびえる白い炎の柱を!
彼らが跳びのくのが一瞬遅れたのは、白い柱をそれ[#「それ」に傍点]としか認識しなかったせいだ。
ない。
炎などない。柱などなかった。
そこにあるのは、いま、十一人の頬を伝わる冷汗の粒を生じさせたもの[#「もの」に傍点]――この世ならぬ鬼気であった。
「ほう」
こうつぶやいたのは、トーマである。つぶやかせたのは、記憶であった。
「憶い出したよ、この場所。――とどめを刺しておくべきだった。死者の唄を二度と聞かぬためにも。いや、刺しても、同じか」
「お頭、行きますぜ」
ひとりが叫んだ。スマトロであった。右手からは、死の自動ライフルが長々と生えている。
「………」
ぎょっとした表情が一斉にトーマを見た。即座に、GOの指令が出ると思っていたのだ。
「行きますぜ!」
いらついて促した。
そのとき、聞こえた。
草むらの彼方から。闇の声が。
人外の絶頂《アクメ》に達してしまうかのような、美しい夜の声が。
「来い」
と。
「――D」
スマトロの口が漆黒を噛みしめるように呻いた。
「――D」
ダチアの歯に噛みつぶされた闇がこう滲ませた。
「――D」
誰かが言った。
「――D」
「――D」
「――D」
だが、何故、彼らがその名を知っている? 知っているにせよ、草むらの陰の主は、なおも闇に溶けているのに。
「お頭?」
スマトロの声は、その事実に気づいた者の恐怖にあおられていた。
トーマは怯えていた。はっきりと人外の恐怖を、その無骨な顔にこびりつかせていた。
何を怯える。貴族は夜を制した者の別名ではないか。恐れるな、世界のすべてを夜だと思え。
顔に変化が生じた。じわじわと唇が歪み、ある形をつくった。
笑い。
ぐい、といびつ[#「いびつ」に傍点]な指が草むらを指した。
「行けえ!」
自分が突進するかのような怒号であった。
スマトロが引金を引いた。
暗黒に火球が炸裂する。決して外さぬ魔力の銃弾。
「行けえ!」
六つの影が風を巻いて草むらへ殺倒した。
殺戮への渇望にたぎる気配がぐんぐん遠のき――
ふっと消えた。
トーマの表情が、闇に命じられたかのように凍りついた。
何が彼らを迎えたのか。
静寂が運命か。
刃《やいば》の打ち合う響きもなく、銃声も悲鳴も上がらず、ただ月光のみが。
否。
別のものが漂ってきた。
トーマが鼻をひくつかせた。
「血の臭いだ」
声は震えていた。のみならず、その肩も首も全身が小さく素早くわなないていた。
握りしめた拳が、ぎちぎちと鳴った。
「血だ血だ血だ。何人死んだ、答えろ、D」
闇は沈黙を守っていた。
「お頭?」
残るひとりが訊いた。
「行きます――か?」
彼はかぶりをふった。
「なんていい臭いだ」
「へ?」
恍惚と月を仰ぐボスを、手下は理解できなかった。
「おまえは、そう思わないのか。血こそ生命なれば。そして、生命とは甘美なものさ。六人分の生命の泉――ああ、行かせた甲斐があった」
手下は眼を剥いた。
「お頭……あんたは……あいつらを……わざと……?」
トーマは草むらへ呼びかけた。
「Dよ、聞こえるな。おれはこれからおまえと再び戦う。そのために昂《たかぶ》る必要がある。おまえが斬り捨てた六人の死体――血のしたたる生《なま》の死を、返してくれ」
両手をのばし、彼は見えざる敵に哀願した。
「お頭?」
手下が手にした長槍を向けた。
「許さねえ。あんた――仲間を、おれの弟を」
殺意に燃える顔を、トーマの顔が見据えた。
「槍を、立てろ」
「?」
「みな、槍を立てろ! なければ銃を掲げろ。剣を天に向けろ!」
月が翳った。
月面には貴族の掘った運河があるという。そこから投擲《とうてき》されたかのように、宙に躍った黒い人影が、思わず立てた手下の長槍に、どっと突き刺さった。
長槍はあとひとりいた。ライフルは二人だった。
三つの死体が、魔法のように舞い上がり舞い降りて、串刺しになった。
トーマが二本の長剣を抜いた。それにも落ちた。天の最後の投棄物は、スマトロとダチアだった。
死者の重さを確かめるように、トーマは両手を思い切り天へと突き上げた。
「おお、首がない」
と彼は喘ぐように言った。
空気が瞬時に凝縮した。
「――!?」
最初からそこに立っていたのかも知れない。
草むらの前に立つ世にも美しい人影を、誰も不思議と思わなかった。
これほどに美しい男ならば、いつだって奇蹟を起こすだろう。
ずい、と前へ出た。
何が起こるのか、無法者たちには理解できなかった。自分たちは不死身という意識が働いたかも知れない。
死体を払い落とす前に、胸へ吸いこまれる光を彼らは見た。
崩れ落ちる半腐れの死体をふり返りもせず、黒い死を授ける使者はトーマに歩み寄った。
「うおおおお」
トーマは両手をふり下ろした。刀剣から飛んだ死体は迫りくる影の胸と腰にぶつかり、跳ね返った。
同時にトーマも吹っとんだ。五メートルも背後の木立ちに激突して止まった。鳩尾に重い塊が激突したのである。地面に落ちたのは、ダチアの生首であった。
呼吸をこらえて後方へ跳びすさった刹那、刀身が首すじを深く斬り裂いた。
無様に転倒して必死に起き上がった。その前に大山《たいざん》のごとく、一刀をふりかざした影が迫る。
「ひぃいいいい」
迎え討つ叫びと意識したものは、恐怖のそれ[#「それ」に傍点]であった。
頭上で交差させた刀身に、影は一刀をふり下ろした。
ぎィんと鳴った。
刃は受け止められていた。――一瞬のみ。
二本の鋼は難なく打ち砕かれ、トーマの頭も二つに割れた。
へなへなとその場にへたりこむ胸部へ、抜き戻された刀身が容赦なく突き出された。
――見てくれ、D。おれの至福の表情を
そんな意識がはかなく閃いて、闇に呑みこまれた。
風だけが、月光の凄絶な沈黙を慰撫《いぶ》するように吹き募った。
「何ともはや……」
死の野末に嗄れ声が湧いて流れた。
「わしが復元するのに丸一日。その間の死が、おまえをこうも狂わせたか。それとも、甦ってすぐ、血臭むんむんの貴族もどきどもがやって来たのが悪かったか。何にしても、凄まじいことをやってのけたものよ。ひとこと――無惨じゃの」
影は無言で刀身を収めた。
戦いを終えた者――勝者のみにつきまとう不可思議な寂寥が、この若者にも容赦なくまとわりついていた。
「とにかく、ジェネヴェの村の脅威は去った。リーダーなしでは彼奴《きゃつ》らは烏合《うごう》の衆だ。一キロも進まぬうちに空中分解する。ようやったと言えばいいかな。――ん?」
声の主は、Dが柄から手を離していないことに気がついたのである。
「――どうした? 残党か妖物でもおるか?」
答えず、Dはなおも必殺の姿勢を維持していたが、やがて、手を離した。
「行くぞ」
歩み出せば、もはや躊躇はない。ふり向きもせず、流麗な影は闇に溶けた。
それから――死のみが広がる荒野の一角に、ただ月光がふり注ぎ、風が啾啾《しゅうしゅう》と渡った。
時は死と無関係に過ぎ、その気配が現われたのも、そんな時の中からかと思われた。
形もない色もない、ただ途方もなく大きな気配のみが荒野を覆い、闇を狂わせ、月光に鎮魂歌を歌わせた。それはトーマの死体に寄り添うように動いた。
――生きたいか?
それは、こう尋ねたらしい。返事はすぐにあった。
――もう……嫌だ。このまま眠らせてくれ
――それでよい。では、生かしてやろう。真物《ほんもの》の貴族として
これだけだ。
トーマの左眼から、ひとすじの紅い糸が、ゆっくりと上昇しはじめた。見渡せば、横たわるすべての死体もまた、同じ糸を月光に赤く染めていた。
――誰も知らぬ生命の糸だ。後は、つなぐだけ
気配は虚空に唱えた。
――まだ終わらぬぞ、Dよ
「爺さん」
と呼ばれた。酔いつぶれた意識の暗雲の中に、それは酔い止めのように広がり、ひとすじの亀裂をつくった。声はそこからした。
「起きな、爺さん、おれだ」
ロスキンパン爺さんは、粘つく瞼を、手を使って押し開けた。アルコールのせいで、眼は血走っている。
村の西の端に建つ一軒家が爺さんの住まいであった。出て行くのはしょっちゅうだが、来る方はまずない。
先に山津波で亡くなった妻と子の顔も、この頃は憶い出せなくなっていた。机の上に飾っておいた写真を、哀しみが募るばかりだと自ら焼き捨てたことも忘れている。
周囲を見廻したのも、夢だと思いながらである。
「窓だよ、爺さん」
耳もとでささやかれたような気がして、ふり向いた途端に、首と肩がずきん[#「ずきん」に傍点]ときた。
痛みは腰まで走った。他のものはすべて曖昧になっているのに、これだけは、年齢とともに強烈さを増していく。
「何処のどいつだ? いま時分……」
窓の方を向くには、三十秒ばかりかかった。蝋燭が一本燃えているきりの闇の中である。
黒いガラスと白い桟に、べったりと人の顔が押しつけられていた。
「おめえは……用心棒の……ギル、か」
「そうだ、入れてくれ」
「なんで、来た? 用件を言え」
自分を巻きこんだ一昨日の事件の一部と、Dを含む四人の破壊工作隊の中に、この大男の傭兵も含まれていたことは、隙間風だらけの記憶にも残っていた。
四人は帰ってこなかったはずだ。
「爺さんの病に効く薬を持ってきたんだ」
ベッドから窓までは、大分距離がある。分厚いガラスを通した低い声が、妙にはっきりと聞こえることを、老人の頭脳は不思議と思わなかった。
「病? そんなものは持っとらん」
「身体中の筋肉が痛むだろうが」
と傭兵は言った。
「ちょっと動けば、肩や肘や膝が抜けそうになるだろうが。眼はろくに見えず、手足も思うように動かねえだろうが――病てのはそれよ」
確か酒場で二、三度飲んだだけの傭兵が、真夜中に訪れ、何故、こんなことを言い出したのか、爺さんにはわからないまま、
「そんなもん――おめえだって、いずれそうなる。嫌がらせに来たんなら、とっとと帰れ」
「治してやるよ、このおれが」
爺さんが、何? と訊き返すまで少しかかった。
「ふざけるな」
「ふざけちゃいねえよ。試しに入れてみな。何にもしやしねえ。あんたみたいな爺さんが、しこたま貯めこんでるとも思ってねえし、どうこうする理由だってありゃしねえだろうが? おれは、あと二、三時間で村を出なくちゃならねえ。せめて、あんたにいい目を見させてから、と思ったんだ」
闇を背景に、蝋燭の光にかろうじて浮かぶ大きな顔をしばらく見つめて、爺さんはベッドから起き上がった。
それだけで腰が痛み、背骨に電流が走った。口の中にはアルコールの滓が残っている。傭兵の、理由にもならぬ訪問理由を受け入れる気になったのは、そのせいであった。
時間をかけて戸口まで歩き、扉にかけた閂《かんぬき》を外した。ひどく息が切れる。
それ以上のことは必要なかった。ドアは向うから開き、黒い風とともに巨体が入ってきた。
「最初は招かれねえと、な」
奇妙なことをつぶやき、ギルは爺さんを見下ろした。その眼は赤光《しゃっこう》を放っていた。
「おめえ……」
爺さんが後じさったのは、分厚い唇からこぼれる乱杭歯を見たからだ。
「おめえ……まさか……」
「仲間が二人、騒ぎを起こしてくれてる間に、西の壁から入ったのさ。昇りやすいところがあってな。もっとも、いまのおれにゃあ、どんな壁だろうと雲みてえなもんだが」
怯える爺さんをぎろりとねめつけ、
「じき、ここを出るってのは嘘っぱちだ。あんたの身を案じて、ってのも嘘だ。だが、安心しな。約束は守ってやるよ。その代わり、あんたにも少々助《す》けてもらいてえことがある。な? 頼むぜ」
子供のときから幾度となく耳にし、そのたびに戒められてきたある出来事が自分の身にふりかかってきたのだと、爺さんにはようやく理解できた。
彼はかたわらの椅子を示して、
「いいとも。とにかく、かけな」
と言った。
Dが戻ったのは、翌日の午後遅くである。厳重なチェックを受けて入村を許されると、集まった人々に、敵の飛び道具はすべて処分したと告げた。
「さすがだな」
と眼をかがやかせるラストへ、
「傭兵たちはどうした?」
やがて、悲痛な面持ちのラストから昨夜の魔戦の一部始終を聞き終わると、
「ギルを捜したか?」
と訊いた。
「昨夜から捜索中だ」
Dはうなずいた。
「恐らく、もう侵入していると見ていい。挙動がおかしくなった村の者にも気をつけろ。奴には隠れ家が要るはずだ」
「それも手配済みよ」
ラストの横からリラが口をはさんだ。
「そいつは結構じゃな――女と組んで一人前か」
いきなり嗄れ声になって、しかもこう来たから、怒る前にみな眼を剥いてDを見つめた。
「話がある」
とDはラストに向かって言った。
「いいとも。おれは村長に戦果を知らせてくる。オフィスにいてくれ」
ラストはビークルで走り去り、リラはその場に残った。草いきれと土の香《か》が流れる道をオフィスへと向かいながら、
「何故、敵の親玉を片づけたと言わなかった?」
嗄れ声が咎めるように訊いた。
「勘だ」
「勘?」
「斃しはした。しかし、まだ、滅びてはいないような気がする」
「まさか。もう腐っておったぞ。ああなってから生き返る芸当ができるのは、ひとりしかおらん」
「………」
「おい、まさか!? わしは何も感じなかったぞ」
「勘だ」
「もしも、あいつ[#「あいつ」に傍点]が加担したら、次の復活は貴族と同じになる。あの親玉ひとりで済むと思うか?」
Dは答えない。
「これは、かえって厄介事の火に油を注いでしまったのかも知れんな。――どうする?」
返事はなかった。
「貴族が十人もいたら、こんな村の守りは空気と同じじゃぞ。おまえでも危ない」
歩み去る世にも美しい後ろ姿が視界から消えて、村人たちはようやく肩の力を抜いた。
「あんないい男を見てると、無法者どももこの村も、どうでもよくなってくるぜ」
「全くだ。女房や娘は家から出すでねえぞ」
「そう言や、ベルゴの女房《かみ》さんがいなくなったのは、一昨年の今頃だったよな」
「そうだ」
ひとりが拳を手の平に打ちつけて、
「タジナの娘とコルベキ婆さんの亭主も、何処へ行っちまったんだか」
「おれたちが知らない間に、あんな色男の流れ者が来て、ほいほい尾いてっちまったんじゃねえのか?」
「違えねえ」
ひとりの冗談に、他の連中が声を合わせて笑い、すぐ、気まずそうに口をつぐんだ。
冗談を言った男は、失点を取り返そうと思ったらしい。
「彼なら、見つけ出せるんじゃねえかな」
と笑ってみせたが、みな顔をそむけた。
ようやくひとりが、
「無法者どもが来たら、また大騒ぎだ。そんなときにいなくなっちまったら、前と同じく見つかりっこねえ。お互い、用心しねえとな」
うなずき合って、一同は持ち場へ戻ろうと散った。
冗談を口にした男が、足を止めて他の連中を見送り、
「全くだ。用心に越したことはねえ」
と、にんまり笑って、腰の背に触れた。本当は刃をひと舐めしたいところだ。
「何人消えても、わかりっこねえしな」
彼はビリーだった。
黒死団を殲滅《せんめつ》させる間、村人を一カ所に集めるというDの提案に、ラストは真っ向から反対した。一時間後のオフィスである。村長とシェリル――オダマも加わっていた。
「女子供はわかる。だが、戦える男までというのは解せないな。ミサイルやレーザーがなくても、疑似貴族に率いられた敵は強力だ。戦士はひとりでも欲しい」
ラストの言う疑似貴族は疑似吸血鬼と同じ意味である。言い方は個人によって異なる。
「攻め方が違う」
とD。
「どういうこと?」
リラが低く訊いた。
いきなり、Dの声が変わった。
「余計な恐怖を与えたくないので黙っておったがな――敵のほとんどが疑似貴族だとわかったのじゃ」
室内は氷室《ひむろ》と化した。
Dが左手を握りしめてから、仕方がないという風に、
「これは未確認だが、遠目から見たところ、リーダーが真正の貴族と等しい力を持っている節がある」
「真物《ほんもの》か」
居合わせた全員がはじめて耳にする治安官の虚ろな声であった。
「いえ、純粋な貴族でなければ、所詮はなり損ないと同じよ」
リラがかぶりをふった。断固として、
「打つ手はいくらでもあるわ。D、いまの話、間違いなくって?」
「ない」
と嗄れ声が応じた。
「いい加減に腹話術はやめて。そんな下品な声、あなたに似合わないわ」
「間違いない」
とDは保証した。リラは眉を寄せて、
「だとしたら、敵は――」
「闇にまぎれて壁を乗り越えるだろう。跳躍するだけでいい」
「内部へ入れたら、もうお手上げだの」
嗄れ声に食ってかかろうとするリラを、村長が抑えた。
「治安官、君の意見は?」
「同じです。疑似貴族がひとりならともかく、いまの備えでは五名もいれば侵入は防げません。そして、侵入されたら迎撃は極めて困難です。ここに真正の貴族――乃至、同等の力を持つ吸血鬼が加われば、迎撃はほぼ不可能と言ってもいいでしょう」
「役立たずが」
オダマ副村長が、テーブルに拳を叩きつけた。ふがふが混じりに、
「村長、このような無能な治安官を採用したことに、私と村人は厳重に抗議しますぞ。いま、この場で、二人のリコール選を行いたいくらいです」
「そして、あなたがすべての指揮を執る?」
リラの声には、副村長の傲慢さをもふり向かせるものがあった。
「執る? いいえ、執れる? なら、そうお言いなさい。ただし――」
リラの左手が、がちり[#「がちり」に傍点]という音をたてた。発条《ばね》と歯車が噛み合う音であった。
オダマのこめかみに、小さな火薬拳銃が当てられた。手の平に隠れるサイズにふさわしい、ささやかな銃口であった。
「デリンジャーというらしいわ。小さい可愛い子ちゃんだけど、牙を剥けば、大の男もいちころよ」
「き、貴様……雇われ者の……流れ者の分際で……」
「いまは治安官補佐よ。鼻の次に耳たぶひとつ犠牲にして、口の利き方を教えて上げましょうか?」
「よせ」
とラストが止めたが、リラはデリンジャーをえぐった。オダマが苦鳴を発する。
「さ、指揮を執ると言ってごらんなさい。ただし、いますぐ、とね。この件が片づいてからなんて抜かしたら、この場で頭を吹き飛ばしてあげる」
「よしたまえ、リラ」
村長が苦々しく止めた。
「彼にもわしらにも君たちにも、まだやらねばならないことがある。今度の件が片づいた後にもな。オダマ君は、これから必要な男だ」
「こいつが? ――現在に文句をつけるしか能の無い屑男なんか、いくらでも代わりがいると思いますが」
デリンジャーを離し、撃鉄《ハンマー》を戻して、リラは左手首をひと捻りした。武器は消えた。
噴き出した汗を拭いながら、オダマは女戦士をにらみつけたが、声は出なかった。
「話を戻します、村長」
とラストが口を開いた。
「いまのDの話が本当なら、自分は前言を撤回いたします。村人を一カ所に集め、襲いかかるまがいものどもと貴族を片づけるしかありません」
「尋常の攻撃で来たら、どうするつもりかね? 疑似貴族といえども、血を吸われれば、同じ輩にされてしまう。傭兵二十名で、村全体を守れるかね?」
「十七名です。――また、二百名でも不可能でしょう」
「では、どうしたら?」
シェリルが、ブリーフ・ケースを抱きしめながら訊いた。
「奴らが来る前に、もう一度、こちらから出動する」
全員がDを注視した。
「ただし、敵も予想はしているだろう。無謀といえば無謀だ。おれがひとりで行く」
「ちょっと――あなたが丸一日戻ってこなかったのは、負傷したからじゃないの? いますぐなんて無理よ。まして、ひとりなんて絶対駄目。これからの村に不必要な人間ならいくらでも特攻隊に加えてもいいけど、あなたは欠くべからざる人間よ」
「そのとおりだ」
とラストもうなずいた。
「君だけは失うわけにはいかん。ギルの捜索にも力を貸してもらいたい。正直、前回、出動させたことを随分後悔したよ」
「当然じゃ」
嗄れ声に重なり、
「村の細かい地図はあるか?」
渋い男の声が訊いた。
「ギル捜しか――助かる」
すぐに用意された地図を広げてDは、
「一応、捜索済みなのは――」
とラストが説明しかけるのへ、
「見逃していれば同じことだ」
にべもなく指摘した。
「おれが直接当たる」
地図によれば、捜査は壁の内縁部から村の中心に向かって行われていた。
赤い印のついた家々をひと渡り見てから、Dは、
「村の中で七十以上の老人、それ以下でも不治の病や、重病を患っている者がいる家はどれだ?」
「どういうこと?」
リラが訝しげに訊いた。
「臨終の床で、助けてやる代わりに、匿《かくま》ってくれと申しこまれたらどうする? あらゆる病と老化現象を治療してやるとも言われたら?」
「なるほど。貴族ならではのやり口だ」
と村長が重々しくうなずいた。
「うむ。――ん?」
みなが見つめている。
「何だね?」
「シェリル、村長のお年齢《とし》は?」
とリラは訊いた。この辺、女は遠慮がない。
「六十八だ」
と村長が答えた。
リラは女秘書を見つめた。
「七十です」
貴族の脅威を考えれば、実の父を見る娘の眼つきも致し方ないといえた。
Dの質問に挙がった家は二十三軒、該当者は五十九人に及んだ。
全員をオフィスの前に集め、Dが尋問を行うことになった。
すでに日は暮れている。
敵がちょっかいを出してきたら危ないという理由で、リラもラストも退室を余儀なくされた。
どうしても気になるリラが、そっと窓から覗くと、Dは招き入れた老人を椅子に坐らせ、その顔をじっと見つめていた。
覗いているリラが、めまいを覚えたほどの美貌である。枯れ切ったとしか思えぬ老人たちも頬を染め、Dの顔に見入る。そこで二、三質問すると、老人たちは陶然たる表情のまま、それに答えるのだった。
問いも答えも、リラにはすべて理解できた。この女戦士は、読唇術も心得ていたのである。
Dの問いは、
「昨夜、村の者が匿ってくれと言ってこなかったか?」
であり、老人と病人の答えは、すべて、
「いえ」
であった。
これは速い。夕暮れどきにはじまった尋問は、わずか一時間で半分を終えた。それでも時間がかかったと思えるのは、遅れてやって来た者がいたからである。
病床の身で来られない者八人が残った。
「明日にしたらどう?」
と止めるリラへ、
「向うは待っていてくれんぞ」
と答えて、Dはオフィスを出た。
そこへ、巡回係の村人が血相変えて駆けつけ、
「シェリルさんがやられた」
金切り声で告げた。
シェリルは、村役場内の医療センターに運びこまれていた。来月に控えた「都」との物産交渉で、明日中に返事をしなければならない用件が持ち上がり、確認を求めるべく、ラストともども村内を視察中の父を追ったのである。村長たちはあと三十分ほどで、治安官オフィスへ戻る予定だった。
発見した役場の職員によると、ガードをつけるという職員たちに、シェリルは必要ないわと固辞し、ひとり外へ出た。
やはり危険だと、当の職員が後を追うと、役場から五〇メートルも離れていない道の真ん中に仰向けになっていたという。
異様に青白く変わった顔に死人の眼を嵌めこんだシェリルを囲み、一同は声もなかった。
「偶然じゃないわね」
リラの指摘に、遅れて駆けつけたラストも、
「多分な。こっちの人心撹乱を狙う作戦だ」
と認めた。
「村長――どうなさるおつもりで?」
オダマ副村長が、勝ち誇ったように訊いた。
「シェリルさんといえど、貴族に血を吸われた者を、城壁内に入れておくことはできませんぞ。むだに警備の人員を割くことになる上に、その人間が襲われないとも限りません」
「わかっている」
村長は即決した。苦悩の翳は微塵もなかった。
「シェリルは西の隔離所へ移す。後は治安官にまかせる」
異議を唱える者はいなかった。こんな場合、正しい処置は決まっている。副村長の言及も正しく、村長の指示もまた正しいと、みなが認めたのだ。
ラストがDに顎をしゃくって隣の病室へ招いた。無人である。
「犯人はわからんか?」
とラストがDに訊いた。シェリルの首に穿たれた二つの歯型に、Dが左手を当てていたのを目撃したのである。彼は勘づいていた。
「疑似貴族に噛まれた奴の仕業だ。ギルだろう」
「ほお、そこまでわかるか。居所はどうだ?」
「贅沢を言うな」
ラストは額をぴしゃりとやった。
「そのとおりだ。一刻も早く狩り出さなきゃならんな。とりあえず――」
告げられぬ語尾が、シェリルの護送だと物語っていた。出て行こうとするのへ、
「少し待て」
Dが止めて、
「村の掟書《おきてが》きは何処にある?」
「そんなもの、何処にも――ほら、そこにあるぜ」
ブック・ラックにはさまれた分厚い黒革の一冊へ眼をやり、
「全部読んだか?」
とDは訊いた。
「現行の分はな」
「五分ほど待て」
「――何を?」
Dは無言でラックに近づき、問題の一冊を手に取ると、ばらばらと全ページをめくってから、それを小脇に戻ってきた。
ラストを無視して部屋を出た。
戻ってきたときは、村長たちを連れていた。訝しげな一同の前で、掟書きをめくって、
「秘書は追放の必要がない」
と言ったから、みんな目を剥いた。
「何故、君にわかる!?」
当然、オダマが食ってかかった。
「シェリルはギルに血を吸われた。ギルの血を吸ったのは疑似貴族だ。この掟書きによれば、村ができたときに成文化された基本の掟は、いまなお有効だ」
Dは開いたページを指で示した。
「最も古い掟の第四条八項だ」
指でつつくと、分厚い本はテーブル上を滑って、オダマの前で止まった。
訝しげに眉を寄せ、副村長はページの表面に眼を走らせた。
驚きの表情が肉のだぶついた顔を歪ませた。
「読め」
沈黙の病室に、Dの声が低く響いた。
少しためらって、オダマは一冊を取り上げ、もう一度眼を走らせてから、口を開いた。
「第四条‥貴族の犠牲者に関する規定。その第八項“貴族に吸血されて生き延びた者による同行為の犠牲者は、村を追うことを禁ずる”――以上だ」
村長が笑顔をつくった。
「先人に感謝するよ、オダマ」
「いいや、まだですぞ、村長」
オダマはDを指さして喚いた。
「シェリルさんが、疑似貴族の二代目にやられたと、どうしてわかるのです? この男が大嘘つきのペテン師でないとは、誰が証明して――うっ!?」
のばした手首をDの左手が掴んでいた。どう見ても、優しく軽く――しかし、副村長は身動きひとつできなくなった。
「来い」
呆気なくDに連れられ、シェリルの病室に戻った。センターの専任医師が、妙な眼つきで迎えた。
声も出ない副村長の手を、Dはシェリルの傷痕に当てた。
一秒――二秒――
副村長の顔全体が急に弛緩した。憑きものが落ちたような表情で、シェリルとDを見つめ、
「わかった」
ぼんやりと認めた。
「犯人はさっきの掟書きに明記されているとおりだ。申し訳ありません。それから――馬小屋で村長を襲った殺し屋どもは、私が雇いました」
医師が息を呑んだ。驚愕が副村長の顔に貼りついた。ドアのところに立つ村長に頭を下げると、Dの手をふり払うようにして出て行った。何が起きたのかと、尋ねる者もない。奇蹟は黙して受け入れるのか、辺境の習いなのだった。
「おれは残りを廻る」
Dも踵を返した。
「おい」
とラストは声をかけた。
「いまのは新手の催眠術か? それと――めくっただけで、掟書きを丸々暗記してしまったのか?」
「―――」
「それに、あれだ。あの掟書きの内容にどうして気がついた? あんたが書いたのかと思ったぜ」
「書くのを見た」
「――なにィ?」
五十年前の話ではないか。ラストは呆気に取られ、それからやっと憶い出した。
「そうか、あんた……ダンピールだったな」
Dは顔を戻して歩き出した。取りつく島もない反応であった。どうでもいいことなのだろう。
「大した男ね」
リラが今度こそ、感嘆の声を上げた。
「あれくらいハンサムだと、他の部分も凄いらしいわ」
「全くだ」
ラストも同意したところへ、村長が、
「いい男すぎて、礼を言うのも忘れて見とれてしまったわい」
「では、我々は巡回に行って参ります」
挨拶して、ラストとリラは歩き出した。
十歩ほど進んでふり向いた。村長は両手を腿の脇に当て、深々と頭を下げていた。
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第七章 単なる前哨戦
残り八人、六家族の家を、Dは次々に訪問して廻った。
一時間もたたないうちにたったひとりに絞られた。
セルゲイ・ロスキンパンである。
「村に潜む残地諜者《ちょうしゃ》候補じゃぞい」
嗄れ声は愉しそうであった。
「あと二人の候補――ミリアム・サライとコドー・グレアムとやらは含まれておらんな。治安官は、ロスキンパンにも見張りをつけてあると言っておったが、この騒ぎではわかったものじゃない。ま、スムーズに片づけようではないか」
Dを乗せたサイボーグ馬は、細い川に沿って歩いていた。
月が水面《みなも》を光らせている。Dの身体が白く染まった。かたわらをヒボタルの群れが通り過ぎたのである。光はまた戻ってきた。しばらく、去りがてらにつき添い、やがて飛び去った。闇が美貌を染めた。
流れの上に覆いかぶさるように、一軒の粗末な農家が見えてきた。
かなり傷んでいる。
家自体が傾き、屋根をのせた平行四辺形と断言できそうだ。
それでも窓から光がこぼれているのを見ると、日常生活は行われ、住人もいるらしい。
「あの爺いじゃぞ、セルゲイ・ロスキンパン――こうも絡んでくるのは、何かある証拠じゃ。注意せい」
サイボーグ馬が通る道の左側は野菜畑だ。Dの眼には黒土の上に整然と並んだタマキャベツを見ることができた。
あと一五、六メートルというところで、家のドアが開いて、仄かな光と、ずんぐりとした人影とをこぼれ落とした。
ロスキンパン老人に違いない。
「やはり、残地諜者か」
Dにしか聞こえない低声で、嗄れ声が洩らした。
しかし、老人はこちらを見もせず、真っすぐに通りを渡って、キャベツ畑に足を踏み入れた。
そして、しばらくあれこれ物色し、いちばん大きなキャベツの実を両手で掴み、思い切り引いた。
呆気なく抜けた。
よろよろと千鳥足気味に、しかし、かろうじてバランスを取りつつ、爺さんは通りへと戻り、さっさと家へ入ってしまった。ドアが閉まった。
「何じゃ、あいつは。キャベツ泥棒か。なんたる情けなさよ」
左手がごちた。
家の前でサイボーグ馬を下り、馬つなぎの柵に手綱を結びつけると、Dはドアを叩いた。
「何じゃ、帰れ」
無礼この上ない挨拶がドアの向うからやって来た。
「お邪魔する」
Dはドアを押して内部へ入った。
いきなり、ドン、と来た。
爺さんの手にした開拓者の護身用専門銃“プロワ”は、天井に初弾を射ちこんだ穴埋めをすべく、派手に震える銃口を、何とかDの胸に据えたばかりだった。
「よせ」
Dは大股に爺さんの方へ向かった。
「来るな、キャベツ泥棒めが」
すべてを棚に置いた呪詛を吐いて、爺さんは二発目を射った。
弾丸は出たが、Dには当たらず、銃自体が爆発した。
銃身は裂け、飛び散った破片が天井と壁の漆喰をささやかに砕く。
驚きと衝撃で尻餅をついた爺さんの白髪頭を、舞い落ちてきた漆喰の粉がさらに白く染めた。
Dが両手を打ち合わせた。どちらも硝煙で汚れていた。左手の平を銃口に押しつけて、発射ガスを逆流、暴発させ、右手で爺さんの顔面を庇ったのだ。刺さった鉄片が、ぱらぱらと石の床へ落ちる。
南の窓から北の窓の下まで一直線に幅五〇センチほどの板の間になっているのは、下を流れる川水をすくうか何かするためだろう。
「おとなしく話を聞け」
とDは爺さんを見据えた。
「でないと、キャベツを食ってしまうぞ」
この若者の冗談は珍しい。
チェックの結果は、異常なしであった。
Dの黒瞳に魂まで吸いこまれながら、ロスキンパン爺さんは、すべてに首をふったのである。
では、とDが去ろうとすると、うまいキャベツ炒めを食わせるから話し相手になっていけという。
「いやあ、村の奴らも冷たい。若い頃は、この筋肉は村の誇りだなどとさんざかおだてよって、老いぼれたいまは、福祉課の婆さんが経文を唱えにくるばかりじゃ。冥土へは楽しく行こう、か、ふん」
急ぐからと背を向けると、コートのベルトを掴んで離さない。
Dがつぎはぎだらけのソファに腰を下ろしたのは、このためもあったが、もうひとつ、あることを確かめたくなったのである。
「村へ来て十年になるそうだな?」
と訊いた。
「おお、そのとおりじゃ、それ以後のことなら猫の不倫までわかるぞ」
「十年以上前から、行方不明者が出ていないか?」
「よく知っとるのお、若いの。村じゃ、旅商人や観光客が来なくなるとまずいからと、抑えておるが、ここだけの話――その頃から、年に十人は消えとるよ」
その多くは旅の商人だが、村人も二年に一人は姿を消しているという。
年齢性別に一貫性はなく、三歳になったばかりの農夫の娘もいれば、八十六歳の水車番もいる。
「苛酷な生活じゃ。逃げ出したか、妖獣にでもさらわれたのじゃろうということになっておるがなあ」
「違うのか?」
「いいや、わからん。ここは辺境じゃ。何が起きても不思議はない。生きてること自体が不思議なのじゃ」
老人は手酌のウィスキーを干して、Dを見つめた。
「何で、そんなことを気にする?」
「黒死団の夜営地――ここから五〇キロほど南へ行ったところだが、大量の人骨が埋もれていた」
「ほお」
「おれの見たてでは、最も古いもので十年、新しいもので一年。刃物で切断された痕があった」
それが、トーマたちに投擲された髑髏《しゃれこうべ》だろうか。
「すると、何か。殺した奴がまとめてそこへ死体を埋めたとか? ――待てよ」
記憶を辿るように空中へ眼を据えて、爺さんはすぐに、わかった、と両手でテーブルを叩いた。
「五〇キロ南と言ったな。あそこにゃ確か、おかしな農夫と女房がいたぞ」
黒死団の夜営地に建っていた農家を、Dは憶い出した。弾薬ともども炎の中に消えた。
「ちょうど、行方不明が起こり出したときあたりに住みついたんではなかったかな。何もない荒野のど真ん中に、次の年にゃ家が建ってたから、驚いた記憶があるぞ」
「怪しまなかったのか?」
「一応、調べたはずよ。わしゃ行かなかったが、当時の村長が調査隊を出してなあ。かなり念入りに調べたが、農家からは何も出なかったそうだ。それに五〇キロもあっちゃなあ。向うも村へは来なかったし、わしもいま、あんたに言われて、ようやく憶い出したくらいだ。村の者も憶えてないんでないの。それにしても、あの近くに骨の山。――あいつらか?」
「あの土地に作物はろくに育たん」
とDは言った。
「二人分の生活を支えるのは無理だ。夫婦の胃を満たしていたものは何だ?」
爺さんの眼が点になった。Dは続けた。
「人里離れた土地に暮らす人間もいる。だが、生きられぬ土地で生きることを選ぶ者は二種類しかない」
「……貴族」
爺さんは、Dを見つめた。
「或いは、疑似貴族だ」
「じゃ、その[#「その」に傍点]夫婦が村へ来て、人を……?」
「少しでもそんな疑いを持たれたら、村人が焼き打ちをかけている」
「………」
「貴族の血を受けた者は、真正にせよ、まがいものにせよ、血を吸うことが目的になる。あの死体は、殺人を愉しむ者の犠牲者だ」
何かに首すじでも撫でられたみたいに、老人は身を固くした。
ようやく、気を取り直すと、
「それじゃあ、あれか、村に殺人鬼がいて、五〇キロ南には疑似貴族が住んでたって? おい、よしとくれ。わしらは何てところに暮らしてたんだ? こら一杯飲《や》らにゃあ」
激しい音をたてるグラスと酒瓶を、Dはじっと見つめた。
なみなみと注いだグラスを一気に空けて、爺さんは長い息を吐いた。手の甲で唇を拭い、
「なあ、まだよくわからねえ。村の殺人鬼がその農家の近くに死体を埋めといたってのは、偶然なのか? 五〇キロも運んでく必要はねえと思うんだが」
「そのとおりだ」
爺さんは肩をすくめた。Dがとどめの一撃を放った。
「疑似貴族は作物は摂らん。殺人鬼は切り刻んだ死体に用はない。流れた血にも、な」
爺さんがとんでもない顔つきになるまで、少しかかった。
「――じゃ、殺したときの血を夫婦に届けて……死体を処分してもらってた?」
「他にも何かを授かっていたかも知れん。死体遺棄のために、五〇キロの往復はきつい。誰にも気づかれず、犠牲者に近づく方法とか、な。貴族のまがいものでも催眠瞳術は使える」
「そうか。それなら、眼の前で子供がさらわれてもわからねえ」
爺さんは、ひどく疲れているように見えた。ぼんやりと訊いた。
「その夫婦はどうなった?」
「家は吹っとんだ。恐らくその前に、夫婦は黒死団に処分されたろう」
「だったら、ひとつは片づいたわけだな。十年間も、たかだか五〇キロの向うに、どえらい化物がいたもんだ」
緊張を解いて、
「待てよ、この村にゃまだ」
「殺人鬼がいるな」
「大変だ。おい、捜し出してくれ」
「おれの仕事は黒死団相手だ」
「治安官はこのことを知ってるのか?」
「まだだ」
「何をしとるんだ。一刻も早く教えにゃならんだろうが。すぐに行け」
「急用があってな」
「こ、この――よし、わしが行ってやる」
身も世もないという風に、爺さんは戸口へ走り、途中でふり向いて、
「こら、キャベツを持っていくなよ」
念を押して出ていった。
闇の道を、リラはひたすら馬を進めていた。
目標は――ない。だが、その進み方は、遮二無二目的地へ急ぐ旅人のものであった。
村の内部《なか》には、悪鬼と化したギルがいる。
その血光を放つ眼が、いつ何処で自分に注目し、後を尾け、襲いかかってくるかも知れない。村人の誰もが感じる危惧を満身に浴びつつ、リラは月光の道を行く。
虫の声、瀬の響き、ふり注ぐ月の光――夏の晩であった。
護衛《カバー》はない。人を付けようというラストに辞退したのである。
「忘れちゃ困るわね、私は戦闘士よ」
こう言って、リラは囮《おとり》の役を買って出たのであった。
ただぶらついているだけでは、ギルが見ればばれて[#「ばれて」に傍点]しまう。リラの目的地をめざすがごとき歩きっぷりは、このためであった。
城壁の内部《なか》でも最も寂しい西の農地を選んで馬を進めはじめてから、もう一時間になる。
焦りはしなかった。ギルが見ていたとして、彼もリラが本当にひとりかどうか、様子を窺っているに違いない。
一刻も早く腹中の敵を斃《たお》して、ラストの肩の荷を下ろしてやりたいという思いがリラにはあった。ギルが現われれば、斃す自信も十分にある。唯一の懸念は、ギルの“技”がはっきりしないことだ。
流れ者の戦闘士、傭兵の多くは、独特の“技”――殺人技術を身につけているのがほとんどだ。
妖物蠢く辺境の地で、それは自分の身を守る盾となり、生活のための糧となり、敵を斃す武器となる。だから、彼らは他人にそれが知れることを極端に嫌がるし、知ってしまった相手が抹殺される場合も少なくない。
ギルの“技”を、リラはまだ見ていなかった。
今夜は駄目でも、いつかは襲ってくるという自信がリラにはあった。
ギルが潜入した目的は内部撹乱に違いない。最も効果的な方法は、敵の中枢を叩くことである。ジェネヴェの村の場合は中心人物――村長、ラスト、リラ自身、そして、Dだろう。だったら、最も襲いやすい場所にいる奴から片づけるのが常道というものだ。
まして、リラは護衛も連れていない。
ふと、リラは頬が赤らむのを感じた。
手を触れると、熱かった。
「そんなはずはないわ」
半ば茫然とリラはつぶやいた。
村長、ラスト――そして、いま記憶をかすめたのはDの面影であった。
その瞬間、リラの右肩を鋭い痛覚が貫いた。
――ひょう(※)だ!
と意識しつつ鞍から右の森へと飛んだ。事態を察したサイボーグ馬は、勝手に安全圏へと走り出す。
太い木立ちの後ろへ廻りこんだ刹那、幹が鋭い音をたてた。リラの肩にめりこんだものと同じひょう(※)が食いこんだのである。
素早く引き抜いて捨てた。臍《ほぞ》を噛む思いだった。この私が、まさか男のことで――
全神経を索敵に集中する。
引っかからなかった。敵は闇に同化していた。
「なら、追い出してみるしかないわね」
リラは左手首をこねた。袖の内側から、直径二センチほどの黒い塊が手の中に落ちる。
それを口先へ持ち上げ、リラは軽く――ともいえぬ息を吹いた。塊はほとんど重さを持たぬタンポポの綿毛のように流れて闇にまぎれこんだ。
「おおーい、そこの女」
道の奥から声が流れてきた。聞き覚えのある太い声であった。
「何つったけな――リルか、リル?」
リラは道の反対側にそびえるニシヤマスギの巨木に顔を向けた。
「リラよ」
と言った。
リラの声はスギの幹から聞こえた。声自体を物体に反響させて、別の方角にいると思わせる一種の腹話術である。違うのは、二、三〇メートル離れていても可能なことだ。
「こら済まねえ。あんまり別嬪《べっぴん》だもんで、顔にばっかり注意がいってな。そっちは覚えてるだろ、こんな二枚目のいい男――ま、あのハンターにゃあ負けるけどよ」
「さあ、誰だったかしら」
今度は五メートルほど前方で聞こえた。
「ギルだよ、ギル。南部辺境区で、その名も高い傭兵様さ。おい、懐かしい邂逅《かいこう》といこうじゃねえか」
「いいわよ、いつでも出てらっしゃい。大歓迎してあげる」
「そら嬉しいね。よし、一緒に出ようじゃねえか」
「いいですとも」
「んじゃ、一、二、三で道に出るぜ。いいか、いーち、にい、さん」
道の奥にギルの巨体が現われた。
「あれ?」
と彼はこちらを指さして喚いた。
「おればっかりじゃねえか。こら、出てこいよ、卑怯者」
「人がよろしいこと」
リラの両手指は、いま最も繊細で無惨な作業に取り組んでいた。右手は上手く操れないが、左手は十分だ。
「さよなら、まがいもの」
左の人さし指――その先に全神経を集中させて、精確に一ミリ引く。
ギルの身体がいきなりすくんだ。両腕を脇につけて気をつけの姿勢になった。同時に、凄まじい悲鳴が、生命《いのち》知らずの大男の口から迸った。
リラの眼だけが、その身体から噴き出す黒血を鮮血と見ることができた。血はすべて縦横正確に同じ間隔で、碁盤の目のように噴出した。
「動くと、ますます食いこむわよ、“リラの糸”。もうとっくに失われた国の、ある都市の、ある街でだけ使われていた不敗の技――ものごころついた頃、たったひとりの遣い手に教えてもらったの」
苦鳴を放つギルの眼が、みるみる赤光を放ちはじめた。リラの胸の中を、当人にも感じられぬかすかな哀しみが吹いた。彼女はこの気のいい傭兵が嫌いではなかったのだ。
「さ、答えなさい。そうすれば、すぐ楽にしてあげるわ。あなたの他に、村には何人の敵が侵入しているの? そいつらの村での名前と居所を教えなさい」
女戦士の声は、夏の熱い夜気を凍らせるかと思われた。
「わ……か……た……」
ギルの声の断片が、リラの耳に届いた。苦痛の極みで、やっと絞り出した声である。
「しゃべ……る……ゆるめ……て……く……」
語尾が弱々しく途切れ、巨体が横倒しになる――と思うや、六十度の位置で止まった。見えない網で絡め取られているかのように。
まさしく、彼の身体は数千万本の金属糸を組んだ不可視の網に包まれていたのである。
リラの人さし指が動いた。
「さ、おしゃべり。ゆるめてあげたわよ」
返事はない。巨体は白眼を剥いて舌を吐いている。
絞めすぎたか。
それでもリラは出ようとはしなかった。ギルの出現ぶりが、愚かなせいではなく、満々たる自信に支えられたが故のものであることは承知の上だ。プロの傭兵の行動ではなかった。
もう一度、力を加えた。
ギルの身体が痙攣したが、声は上がらなかった。
リラの眼が細まった。ギルの手首から鮮血がしたたり落ちているのである。
動脈を切断しないよう調整したつもりだが、しくじったかも知れない。
「まだ、我が師には及ばないわね」
いま、この男を殺してはまずい。
「吸血鬼が失血死なんて――阿呆らしい」
一瞬、そうなったらどうなるのか見たい、という思いが脳裡を横切ったが、リラは木陰を出た。
巨人は武装解除状態にある。武装はしていても、使えなければ同じことだ。
「いらっしゃい」
人さし指が、くいとこちらへ曲がった。
巨人が今度こそ横倒しになった。ごろんごろんと大地を揺らしながら、転がり寄ってくる。これが、月光の下に立つしなやかな美女の、指一本の成果だと誰が思おうか。
指が真横に一線を描くと、巨体はリラの足下で止まった。リラの爪先まで五〇センチ――指の動いた距離も、きっかり五〇センチであった。
「さ、でっかい坊や。おめめを開けて、お姐《ねえ》ちゃんとお話ししましょ」
うんざりしたように声をかけた。
ギルの眼が開いた。それは赤く燃えていた。
跳びのく余裕さえなく、リラは心臓のあたりを押さえて、片膝をついた。
言うまでもない。ギルの“力”――視殺術がふるわれたのだ。
「さ、この蜘蛛の巣をゆるめな」
ギルは優しく言った。唇から出た分厚い舌が、せわしなく動いている。顔中に流れる血潮を舐め取っているのだ。それは絶え間ないエネルギー供給ではないか。
だが、その舌は、ぐげげという喘音とともに、大きく突き出された。
リラの糸はゆるめられるどころか、さらに深く食いこんだのである。頭部は、明らかに脳漿《のうしょう》を噴いた。
「我慢……くらべ……ね」
とリラは微笑した。蒼白と化した顔は、汗の珠《たま》に埋もれている。
「どう?……しゃべる気に……なっ……た?」
ギルの口もとが歪んだ。
「笑わせ……る……なよ……おめえこそ……おれと……キス……しようじゃ……ねえか……偽者でも……貴族になる……ってのは……いいもんだ……ぜ」
「……かも……知れない……わね……」
「本当は……なりてえん……だろ……おれは……知ってるんだ……血を吸われる側から……吸う側に廻りてえ……って奴らが……腐るほど……いることをよ……おめえみてえな……戦闘士だって……本当は……」
「なってもいいわよ」
リラは前のめりに倒れた。黒土の上を糸のような息が這った。
「……でも、あんたと……キスするのは……ごめん」
夜も揺るがす絶叫が、ギルの口から洩れた。
その刹那、彼の身体は数万の細片に寸断されていたのである。
濃密な血臭の蒸気が一帯に渦巻いた。もはや動くものもない野辺の空に月は冴え渡り、やがて血臭も散った。
その頃になって、ようやく血の臭いに気づいた一匹の妖物が、十本の節足を器用に動かして、血まみれの死体に近づいていったが、突然、ピイと放って草むらへ飛びこんだ。
巨大な影が、のっそりと起き上がった。
頭部らしいあたりから、何とも奇妙な――出来損ないみたいな声が洩れた。
「お……り……の……か……ち……ら……じょ……リ……ラ……」
奇妙といえば、その形だ。確かに人体としか見えぬのに、頭部は右半分が欠け、右腕は肩からなく、一本揃った左手ときたら、肘と二の腕あたりの肉が全くない。それも、削ぎ落としたとかでなく、きれいな賽《さい》の目状になって、しかも、その一部がぼろぼろとこぼれ落ちている。血片が、骨が、内臓が。それらを拾い上げて嵌めこめば、完璧な人体がジグソー・パズルのごとく、再生されるだろう。
現に、人影は身体を曲げて、地に広がった破片をすくい上げた。
その間も身体のあちこちから四角い塊はこぼれ、鮮血はしたたり落ちる。
「これが貴族の力よ」
どうやら、復活する部分もあるらしく、声は常態に復した。
人影――ギルは両手を眼に当てた。どちらの手も指はなく、顔には眼球――どころか、鼻から上がなかった。
「なに、じきに元に戻るさ……ほら、水晶体ができた……網膜も……」
右手を離すと、眼窩《がんか》すらない顔の中に、眼ばかりが光っていた。
「心臓を止めるにゃ、片っぽで十分だ。いや、それとも、やっぱり」
突っ伏したリラの背に、ギルの右手がかかった。指は第二関節まででき上がっていたが、力を入れるや根元から落ちた。
「ええい、仕方がねえ。やっぱり、にらみつけて――」
その眼に赤々と妖光が点りはじめる。
リラの身体に断末魔の痙攣が、小さく――
夜空に遠く銃声が聞こえたのは、その瞬間だった。
着弾までの時間からして、五〇〇メートル以上は離れていただろう。
ギルの眉間に小さな穴が開いた。頭は爆発した。
巨体は数秒間そのまま仁王立ちになっていたが、やがて崩れ落ちた。同じ状況でパラオは復活したが、ギルの心臓は賽の目切りにされていた。疑以吸血鬼の再生力も、ついに及ばなかったのである。それは文字通り崩壊であった。
道の上に小さな立方体の山ができ、束の間、真紅の霧がその上に煙ったが、それもすぐ夜風に吹き散らされた。
人間の平均的な歩幅を八〇センチとして、それが五〇〇メートルを踏破するのに必要な時間が流れた。
リラと同じ方角から、月光に招かれたように二つの人影が――新たな登場人物が夜の舞台に上《のぼ》るべく近づいてきた。
胸の奥で血が騒いでいた。多分、どす黒い血だろうとビリーは思った。何とか止めようと思ったが、腰の後ろにはさんだ蛮刀の重さがそれを許さなかった。
「出掛けてくるよ」
と台所のエレナに声をかけて戸口へ向かうと、背中から、行ってらっしゃいとアニュスが声をかけてきた。
開いた寝間のドアの前で、パジャマ姿が眼をこすっている。
「起こしちまったか――早くお寝《やす》み。すぐ戻る」
「うん、わかった」
欠伸《あくび》ひとつしてドアの方へ行った。大きすぎるパジャマは、二年前に亡くなった兄、ジェドのものだ。いつか小柄な次男も、あれが合わなくなるのだろう。それまで生きていられるかどうか、ビリーには自信がなかった。村の連中も莫迦《ばか》ではない。
エレナが台所から出てきて、気をつけてねと、言った。エプロンで拭いた手で、戸口の壁にかけてある人形を取り、彼の上体を撫で廻す。小さな唇から無事帰還の祈りが洩れた。
「どうして、こんな時間に? 他に若い人がいっぱいいるじゃないの」
愚痴が出たのは、ビリーがドア・ノブに手をかけたときだ。
「仕様がねえだろ。いまは年齢がどうこう言ってられる場合じゃねえ。じきに戦争だぞ」
外へ出た途端、歓喜が満ちた。運命の予感など跡形もなくなっていた。疑似貴族も黒死団もあるものか。人間、現在を愉しまなきゃあな。
道の彼方には篝火《かがりび》が燃えている。あそこには人がいる。鋼を突き立てるべき肉と流すべき血がたっぷりと詰まった人間が。
背中の刀をまさぐりまさぐりしながら、彼は自分の眼も、貴族のように血色に燃えているだろうと思った。
走ったせいで酒が廻り、呂律は廻らなくなって、何をしゃべっているのかさっぱりわからないロスキンパン爺さんから、ようよう殺人鬼の話を聞き出して、これはDと話し合わねばとラストがオフィスを出かかったとき、三人の男女がリラを運んできた。
「おお、D――コドーにミリアム」
D以外の二人は、手にした長い火薬銃からもわかるように狩猟を職業としている。村に住むのは必ずしも農業従事者ばかりではないのだ。狩りの獲物は山のみならず、平原にも土中にも存在する。それが辺境だ。
すぐに医療センターへ居合わせた傭兵ひとりが向かってから、疑似貴族のひとりと相討ちになったらしいと説明したのは、長髪のコドー・グレアムである。村に来て四年目と日は浅いが、猟の腕は抜群のものがあり、大物を仕留めて売りさばいては、気前よく酒宴を開くので呑み助どもには人気がある。問題は二十六歳という若さと美貌で、何度か村の娘や人妻たちと不倫を噂されている。
「相手は、豚コマみてーにバラされてたよ。こっちのハンサムが駆けつけてくれたおかげで、素性がわかったのよ」
Dは銃声を聞きつけ、急行したのである。
かすかな銃声だけで、この若者には十分だったに違いない。
「ギルか?」
ラストの問いに、Dはうなずいた。
「ただし、とどめを刺したのは、この娘さんだ。五〇〇メートルの距離で仕留めたという」
ラストは何となくバツが悪そうに立っている三人目――ミリアム・サライへ眼をやり、破顔した。
「そりゃ、ミリアムになら造作もないさ。生まれてこのかた、一発だって外したことのない猟師だ。おれもこの村へ来る途中に見せてもらった」
それは忘れ難い過去の光景だった。
東の平原にミリアムは猟銃を肩づけして立っていた。ラストとリラが近づいても微動だにせず、その銃口の先を追っても、はるばると広がる平原には動くものの影さえ見えなかった。
それから三十分もの間、二人は奇妙な女猟師につき合う羽目になるのだが、その甲斐はあった。
夢でも射つように放たれた猟銃の彼方にはやはり何も見えなかったものの、女が宙に向かって口笛を吹くと、鷹らしい影が黒銀の雲塊渦巻く平原の果てへと飛び去って、やがて、小牛ほどもあるモグリブタをその爪に掴んできた。大きさからして、ミリアムの猟銃の射程は三キロを越えていただろう。
すぐにセンターの医師が来て、軽い心臓発作だと告げ、傭兵もろともリラを運び去った。
「戦力激減じゃの」
と小さく揶揄《やゆ》した嗄れ声が聞こえたわけではあるまいが、
「治安官、あたしたち、東の壁の見廻りが終わって帰る途中だったんだけど、何ならすぐ、別の任務に就くよ。命令して」
とミリアムが申し出た。
ありがたいが目下は大丈夫だ引き取ってくれと丁重に礼を述べて二人を帰すと、ラストはため息とともに、椅子にもたれかかった。
「正直、危《やば》いな」
と首を掻き切る真似をしてみせる。
「リラひとりで村人五十人分の兵力減になる。防衛配置を変えなきゃならないな」
「明日には元気になる」
「え?」
「余計な心配はするな。心臓は止まりかけていた」
「……あんたが治したんだな?」
ラストはDを見上げた。
「ただのハンターじゃないとは思っていたよ。いままで会うたびに身体が凍りついた」
「おまえが疑似貴族だからか?」
永劫のような沈黙は、しかし、すぐに破れた。
「やはり、気がついていたか? いつからだ?」
「はじめて会ったときだ」
「そんなに危い雰囲気だったかい? 牙を剥いてた覚えはないし、おれには首の歯型も奇蹟的に残らなかった」
「勘じゃ」
「頼むから、その声はやめてくれ」
ラストは苦笑しながら手をふった。
「話を聞きたいかい?」
「その前に」
とDが戸口の方へ眼をやって、
「闇夜に五〇〇メートル先の人間の頭部を粉砕できる猟師のことを聞かせてもらおうか」
と言った。
「大したもんだな、ミリアム」
夜道を歩きながらコドーが話しかけた。
「あなたの訓練の賜物よ」
ミリアムの返事には、疲れたような響きがあった。
「弟子は師を超えたか――いよいよ、腕の見せどころだぞ」
「誰を射つの?」
「夜空を行くタビノワシのごとく、地を走るヒカリオオカミのごとく」
コドーは片手で腰の武器を叩いた。直径三〇センチほどの銀色の円盤である。箔状の金属で、百枚重ねても一〇センチにもならない。両腰で二百枚――彼は猟銃よりもこれを得意にしていた。
「まずは――D」
右手が閃いた。
光が月光を映しつつ流れて、数秒後に戻った。それを易々と受け止め元の位置に戻して、
「次に治安官」
左手が閃いた。
「最後に村長だ」
二条の光が消えて戻った。
「承知」
ミリアムの返事に、重い音が重なった。遥か彼方――一キロも先にある森の中で、巨木の倒れる音であった。
「長いこと待ったが、その甲斐はあった。おまえという弟子も見つけたしな」
コドー・グレアムこそ、黒死団の放った最後の尖兵であった。
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第八章 潜む影
夜が明けても敵は来ず、リラは眠り続けた。
看視塔の見張りも沈黙を守っていた。
「あんたのおかげらしいな」
ラストの言葉にDはかぶりをふった。
「昼は来られない身体になったのかも知れん」
「まさか」
ラストはわざと眼を丸くしてみせた。Dの言う意味だけは理解したくなかった。
「確かめたわけじゃない。ただの勘だ」
「的中率は?」
「外れたことがない」
嗄れ声である。
「わお」
とラストは肩をすくめて、
「しかし、疑似吸血鬼に血を吸われた人間は、疑似吸血鬼にしかならない。昼間攻めてくるのに問題はないはずだぞ」
「確かめに行ってこよう」
「それは困る。留守を狙われたらどうする?」
「自分で考えろ」
「おい」
「リラはじきに眼を醒ます。おまえたちはいいコンビだ」
ラストは諦めた。
「礼を言っても仕方がないな。すぐ戻ってきてくれよ」
Dが発って少しすると、その言葉どおり、リラは眼を醒ました。
ラストはDの言葉を伝えた。女戦闘士は眼を閉じて、
「気を失う寸前、左の胸に手が触れたわ。急に楽になった」
「奴さんの左手――何かあるかも知れんな」
リラは答えず、
「ところで、あのお嬢さんは?」
「治ったよ」
とラストは答えた。
これは付き添いの医師から聞いた話だが、女猟師の弾丸がギルの頭部と心臓を粉砕した刹那、シェリルは貴族の睡《ねむ》りから覚醒したのである。
「首の傷口も消えたし、ニンニクの臭いにも平気だ。でかい貸しを作ったな」
「あの娘がまがいもののまがいものになってから、ギルを斃すべきだったわね」
「おい」
ラストは咎めるように言った。自分へのシェリルの想いをリラへ伝えた覚えはないが、そこは女だ、とうにわかっていた。
決して目立ちはしないが、村長の娘が直々、食事や花を差し入れてくる背後に何があるのか考えれば、誰にもわかる。たとえ、父の言いつけで、と弁解してもである。
「それより昨夜、Dとロスキンパン爺さんからとんでもないことを聞いたぞ。この村には殺人鬼がいるらしい」
驚いた[#「驚いた」に傍点]ことに、リラは驚かなかった[#「驚かなかった」に傍点]。
「やっぱりね」
と納得した。
「知ってたのか?」
「最初にこの村へ着いたとき、あなたはここ二年分の事件の記録しかチェックしなかったけれど、わたしは十年分読んだ。行方不明について、村の連中にも話を聞いたわ。何処の村にも、生活苦に喘いで逃げ出す者はいるけれど、ここでは立ち寄った商人や旅の者が多すぎる。村の者を殺せば徹底的に調べられるけど、他所者《よそもの》ならそこまでやらない。どんな村でも、ね」
「しかし、十年間、毎年行方不明だぞ」
「もっと前にもあったかも、よ。資料がないだけで。それに、行方不明は殺人じゃないわ」
ラストは腕組みしてうなずいた。他人の意見に耳を貸す度量はある。
「しかし、殺人鬼がいるとしたら、放っちゃおけない。黒死団と戦ってる間だけはおとなしくしててくれればいいが、騒ぎを隠れ蓑に殺しに精を出されちゃ、目も当てられないぞ」
「そうならないよう、お祈りでもしてなさい」
リラはベッドから下りて身支度を整えた。
「何処へ行く? もう少し休んでいろ」
「あなたにだけ働かせておくわけにはいかないでしょう。それに――忘れないで。あなたにとどめを刺すのはわたしの仕事なのよ。他の連中にまかせてはおけないわ」
「わかってるさ」
厳しい女戦士の眼に、治安官もまた冷厳な眼でもって報いた。この二人を結びつけているのは、友情や信頼ではなく、死のようであった。
黒死団の夜営地まで五〇〇メートルの地点で、
「おまえの言ったとおりじゃの」
と嗄れ声が呻いた。
「妖気がぷんぷん匂うぞ。しかも、真物《ほんもの》の匂いだ。それに、まがいものが混じっておる。何かをこしらえておるようだの」
Dは左手を開いて夜営地の方角に向けた。
「何にせよ、村にとってはロクでもない代物だろう。ぶっ壊しにいくのは良しとして、しかし、あいつら、そんな材料を何処で調達したか、じゃ」
「わからんか?」
「いや」
と左手は否定した。
「あいつ[#「あいつ」に傍点]か?」
Dはその手に手綱を巻いた。
サイボーグ馬を放置し、潅木の茂みに入った。馬は口笛ひとつで戻ってくる。
周囲に気配はない。陽光燦々たる地上は、真正の貴族の世界ではないのだ。
茂みに入って一〇〇メートルほど進んだとき、木と木を打ち合わせるような響きが、Dの耳に入ってきた。
「工作中だの」
嗄れ声は愉しそうである。この寄生物も寄生主と等しい度胸の持ち主らしかった。
「よくわからんが、防衛機構が仕掛けられているとすれば、この先だ。覚えておるか――あいつの住いのもの[#「あいつの住いのもの」に傍点]と似ているが」
その言葉をどう取ったか、Dの足取りに変化はない。
不意に陽が翳った。
いや、冬の日が落ちるがごとく、周囲は忽然と闇に閉ざされたのである。
天候の急激な変化などではあり得ない。闇の濃さ、それが持つ物理的、時間的特性――まさしく夜そのものであった。
「ほお、来よった」
左手が愉しげに笑った。
「気をつけろ、別の奴が来るぞ」
そいつは突然やって来た。
二〇メートルほど前方の地面が盛り上がるや、分厚い土砂もろとも、五つばかりの人影が立ち上がったのである。一昨日の深夜打ち倒した黒死団一派の顔を、Dは認めた。
「こいつら、真物に血を吸われておるぞ。健闘を祈る」
Dにもわかっていた。
刀槍を構える動きが違う。全身から溢れる妖気が違う。
そこにいるのは、獲物の肉をひと咬みで食い取り嚥下《えんか》してしまう豪放な野獣ではなく、心ゆくまで肉も骨も噛み砕き、最後の血の一滴まで飲み干す魔獣だった。
「Dか?」
ひとりが訊いた。残る四人が左右に分かれて、Dの周囲を取り囲むように弧を描く。
その瞬間、Dの戦いが開始された。
黒衣の姿が地を蹴ると同時に、左手が閃いた。
左側の弧の先頭は、心臓へと走る白木の針を受け止めたが、二本目はその手を貫いて胸から背まで抜けた。
敵の呼びかけに返事もなく、これがDの戦いのはじまりであった。
疾走は音をたてず、抜刀はきらめき、一撃は鮮血を噴出した。
前方の影は確かに先夜、死を与えた男であった。Dの刀身が首を切断すると、男は両手を頭に乗せて斬線を押しつぶした。朱線は消滅した。男は声もなく笑った。
「おれたちは、もはや、おれたちじゃあない。あの偉大な存在に新たな生命を授けられた選ばれし者だ。生命には、Dよ、力も含まれているぞ」
左右から長槍が飛来した。風を切る音だけを聞いてDは刀身を閃かせた。
打ち落としたはずの槍は空中に舞って激突し、信じ難い角度から再びDへと襲いかかった。
その二本を打ち落とした脇腹を、右から飛んできた鉄の矢が貫いた。
よろめいた身体へ集中する新たな槍と矢を、しかし、Dはことごとく弾きとばした。
「あの御方[#「御方」に傍点]が言っていたとおりだ。やるな。しかし、同じ力を持つ者ならば、ひとりより四人の方が強いぞ。おまえの剣は我らに届かず、我らの武器も無効と化した。残るは純粋な力のみだ」
頭を押さえた男の口から、含み笑いが洩れた。それは斉唱に変わった。周囲の男たちも笑ったのである。
その声が徐々に――人間以外のものに変わっていった。
獣の咆哮が夜を圧して響く。
「Dよ――狼の餌になって死ね」
男たちはもはや人の形を保ってはいなかった。蠢く巨大な粘塊は、闇と同じ色に染まっていた。
その一部が裂けて、巨大な獣の頭部が噴出した瞬間、Dの刀身は真っ向からそれを断ち割った。
縦に裂けた顔はひとつに溶け合い、Dの頭部と左の胸までを飲みこんだ。
凄まじい音がした。
もう一度、真っ赤な口腔《こうこう》を開き、獣はDの残りも咬み取った。
闇の咀嚼音が聞こえた。
続いて哄笑が噴き上がった。
「なんと楽な戦いだ。これがあの御方の御力か。真の貴族の力とはこのようなものか。素晴らしい、いや、実に素晴らしい」
闇の中に、四人の男たちが立っていた。
「Dなどという男のなんと卑小なことよ。もうよい、すべては終わった。我々は眠りにつこう。あのささやかな村の壁を打ち破る作業は奴隷どもにまかせてな」
突き破られた地面の一角に、四人が移動した。
その鼓膜を笑い声が震わせたのである。
それは、純正の吸血鬼と化した彼らの心根まで凍りつかせる不気味さに満ちていた。
「くくくくく……たかが貴族のお情けの血の一滴を受けただけの餓鬼が、その仲間の数千を斃してきた狩人《かりゅうど》を卑小と呼ぶか。餓鬼のお相手はここまで。これからが狩りの時間よ」
茫然と立ちすくむ男たちのひとりの頭部が、石榴《ざくろ》のように爆《は》ぜ割れた。そこからのぞくのは血と脳漿にまみれた黒い腕であった。
――Dの!?
それに気づいても、残りの男たちはどうすることもできなかった。
もうひとりの男の頭が吹きとぶや、刀身を握った右手が出現した。
三人目の頭からは――確かに旅人帽を被った世にも美しい男の顔が。
「これが吸血鬼の戦い方じゃ」
Dの左手が高らかに笑った。
恐怖の相も露わに、四人目は踵を返した。頭を押さえていた男であった。
その背後で、三つの身体がよろめき、互いに支え合った。
めりめりと肉が裂け、骨がへし折れる。
その手から一刀が飛んだ。刀身は回転しながら、走る男の首を背後から断った。
再び男が頭を押さえ、斬線を消した。
ふり向いて、
「無駄なことを――おれは」
と叫んだ。
「選ばれし者か」
嗄れ声が嘲笑した。
男の足がもつれた。嗄れ声に恐怖したのではない。首の周りに朱色の一線が戻るや、一気に鮮血をしたたらせたのである。血の霧が上半身を包んだ――と見るや、男の首は落ちた。押さえた腕の肘から先がついてきた。
旋回しつつ戻ってきた一刀を、Dは左手で受け止めた。美丈夫としかいえぬその身体は、もはや完全に復元し、三人の男たちは得体の知れぬ粘塊と化して、その足下にわだかまっている。
刀身を背に収めたとき、世界は白くかがやいた。
夜は消え、昼が戻ったのだ。
「陽光の下の弔い――おまえもこれを望むか」
と嗄れ声が言った。愉しげに、揶揄するように。
返事はない。
束の間に五つの死を生んだ戦いの場から、何の感慨も抱かぬもののように、黒衣の影はまた前進を開始した。
五〇口径火薬弾を百発、弾帯に収め、予備に千発入りのブリキ函《ばこ》を用意し終えたとき、治安官がやって来た。
「あら、何の用?」
ミリアムは少し用心した。
「礼を言いにきた」
とラストは、出された金貨茶をひと口飲ってから言った。
「そんなことで時間をつぶしてていいの?」
ミリアムの舌鋒は鋭い。迷惑に思っているのは明らかであった。
「そう言うな。すぐに帰るよ。礼と――頼みがあって来た」
「寝ないわよ」
ラストはひと声笑った。
「そいつは考えてもみなかった。これから頑張ろう」
ミリアムのすぐそばに立てかけてあるライフルへ眼をやって、
「狙撃兵として看視塔に乗ってくれないか?」
と切り出した。
「他に人は?」
「いないこともないが、腕が違う。君なら、敵の最前列を、一キロ先で皆殺しにできるだろう」
「三キロでも大丈夫よ」
「じゃ、乗ってくれるか?」
「いいわ」
「ありがたい――このとおりだ」
頭を下げるラストを見つめて、
「この村の人間でもないのに、よくそこまで頑張る気になるわね」
「仕事だ。それで給料を貰ってる」
「守る価値のないものを守って?」
「ん?」
「何でもないわ。お帰りなさい」
通してくれたときとは別人のような素っ気ない応答に、ラストは少し胸を痛めながら言った。
「これは余計なお世話だが――そろそろひとり暮らしに終止符を打つ気はないか?」
「………」
「西の森近くにいるショーネップ一家を知ってるだろ。あそこの伜《せがれ》が今年十八になる。前から、おまえのことが気に入ってたそうだ」
「余計なお世話よ」
「そう言うな。自分に惚れてる男がいるのは、いいもんだぞ。考えといてくれ」
ラストが出て行くと、寝室のドアから、コドーが現われた。
「世話好きな治安官どのだな。いい話かも知れんぞ。受けたらどうだ?」
「皆殺しにされるのに?」
コドーは残忍な笑いを見せた。ミリアムの肩に手を乗せ、
「おまえは、おれと行く」
「真っ平よ」
無造作に肩をふって男の手を跳ねとばし、ミリアムは罵った。
「この糞みたいな村が、あんたの仲間の手で破滅したら、あたしは他所《よそ》の土地へ行くわ。山に入って狩りをして暮らすのよ」
「両親と同じ生き方だな――血は争えん」
ミリアムの手が電光のように動いた。
コドーの両手が腰の金属板にかかったとき、五〇口径の銃口は眉間に吸いついていた。
「親のことは言わない約束でしょ」
「おまえは西部辺境区で生まれた」
とコドーは怖れる風もなく言った。
「両親と暮らしたのは五年間だけだ。両親は猟をして暮らしていると言っていた。おまえには優しい親たちだった」
ミリアムの指が撃鉄《ハンマー》を起こした。がちり[#「がちり」に傍点]と鳴った。
「だが、ある日、輸送機強盗の捜索隊がやってきて、おまえの眼の前で有無を言わさず両親を射ち殺した。おまえの父親は、五〇〇〇メートルもの高度を飛行する輸送機を旧式ライフル一挺で撃墜し、積み荷を奪っていたのだ」
「射つわよ」
引金《トリガー》にかかる指が白くなった。
「父は罪を償っただけだが、母は何も知らなかった。そして、捜索隊は五歳のおまえを犯して去った」
「………」
「おまえは家を出て、山へ入った。銃と弾薬だけを持ってな。そこで銃の腕を磨いて、捜索隊に復讐するつもりだった。だが、食糧を忘れていた。おれたちが助けなかったら、とうの昔に飢え死にしていただろう。十歳のときまで、おまえはおれたちの中で射撃訓練に励み、とんでもない実力者になった。まさか、書き置きひとつ残さず出て行くほどの恩知らずとは思わなかったが」
「毎晩、代わる代わる犯しに来てくれてありがとうって?」
「不幸な出来事だ。おまえはその後で両親の仇を探し廻り、片っ端から射ち殺した。一キロも先から射たれちゃ犯人もわかりっこない。そして、最後のひとりがついに、この村の住人になっていることを突き止めた。ただ、残念なことに、そいつは行方不明だった。おまえがここへ住みついたのは、そいつが戻ってくるのを待ってのことだろう。四年前、おれが潜入したとき、よく射たれなかったものだ」
「あんただけが、黒死団の中であたしに手を出さなかったからよ」
「日頃の行いが肝心ということだな。だが、こうしてみると、やはり手を出して――」
雷鳴が室内を揺るがした。
爆煙の中で、コドーは右のこめかみに手を当てた。鬢《びん》が一直線に焼け焦げている。その彼方の壁に黒い穴が開いていた。
「出て行って」
とミリアムが命じたとき、外で男の悲鳴が上がった。
「聞かれたか」
走り出そうとするコドーを止めて、ミリアムがドアを開けた。
道をはさんだ前方の森へ、足をもつれさせながら、小柄な影が逃げていく。
「ロスキンパン爺さんよ」
「殺れるか?」
「ご免だわ」
「よし、おれが行く。邪魔するな」
コドーは飛び出していくとすぐ、ミリアムはドアを閉め、テーブルへ戻った。
ライフルの銃桿《ボルト》を引いて固定し、新しい五〇口径弾を補充する。
コドーの言うことを聞く必要もつもり[#「つもり」に傍点]もあまりなかった。だから、彼の要求を入れたともいえる。
会いたくもない過去の亡霊のひとつたるコドーが現われたのも、運命的な出会いと思ったわけではない。ミリアムの精神《こころ》は両親の仇の血と断末魔で満たされていた。それ以外のことは、それこそすべてが亡霊に過ぎなかった。
仇が見つからぬ限り、誰を射とうが同じだったのである。もしも、ラストや村長がコドーを射てと申しこんできたら、ためらわずに引金を引いたろう。
「治安官と村長と女戦闘士――厄介といえば厄介ね」
その声は、手強いという意味とは、別の色合いを帯びていた。
もう大丈夫だろうと、爺さんは思った。
背後は巨木に遮られ、追跡者の足音も聞こえない。
ミリアムの家へ寄ったのは、一杯飲ろうと誘うつもりだったのである。
ひとり暮らしの老人と、やはり孤高を守る女猟師とは、気が合うのか合わぬか、爺さんにもわからない飲み友達だったのである。
ところが家の前まで辿り着いたとき、銃声が聞こえた。
びっくりして押し入ろうとすると、落ち着いた男の声が聞こえてきた。
ただの暴発かと思ったが、気になって聞き耳をたててみた。よくわからなかった。爺さんの耳は、何年も前から少し遠かったのである。
何だか莫迦らしくなり、帰ろうと思って足を進めたとき、足首をひねった。
途端に、家の中から凄まじい凶気が襲いかかってきた。
辺境人の本能が逃げろと教え、彼は森へと飛びこんだのである。
足が止まった。
もうよし、と思ったのではなく、息が切れたのだ。
声もなくへたりこんだ。その頭上を風が吹き過ぎた。
爺さんが見たのは、前方へと飛翔する銀色の円盤であった。
五、六メートル先の巨木に吸いこまれた、と見えた刹那、それは突如、数メートルに直径を広げ、巨木を輪切りにした。
木は眼があるかのように、爺さんの方へ倒れかかってきた。
爺さんは頭を覆って身を丸くした。下手に逃げれば幹の下敷きは免れても、枝に叩かれて即死する。
凄まじい音と衝撃が地面を殴打した。眼の前で五芒形《ごぼうけい》の葉が黒土を叩いた。
「何処へ行くつもりだい、爺さん?」
声が降ってきた。
倒れた幹の頂きにコドー・グレアムが立っていた。両手に銀の円盤をぶら下げている。
「もも森の奥で一杯飲るつもりだったのじゃ。この木を倒したのは、おまえか? けしからん。森役のパトウに言いつけてやるぞ」
「他のことを言いつけられる方が困るな。爺さん、耳はよく聞こえるよな?」
「とんでもねえ。おまえ、いま何つった?」
「ま、何でもいい。運が悪いと思ってくれ」
「ひい」
手にした瓶を投げつけ、爺さんは必死で立ち上がった。
「仕様がねえな」
コドーは手にした円盤を指で弾いた。
それは、しゅるるというような音をたてて左右の木立ちへ飛び、二本の巨木を切断した。
巨大鷲の羽搏きのごとき轟きが降ってきた。二本の倒木は、これも計ったように、五〇センチほどの距離を置いて爺さんの両脇の大地に激突した。
悲鳴はその轟きに呑みこまれた。
爺さんはもう走れなかった。衝撃のせいで腰が抜けてしまったのである。
「あわわわわ」
と声が出た。よく知っている隣の男が、突如、殺人鬼に変貌したような気分だった。
「じゃあな、爺さん。あの世で会おうぜ」
コドーの人さし指の上でくるくる廻っていた円盤が、ふわりと宙に浮いた。
ゆっくり、と思える速度で爺さんに迫っていく。
風が鳴った。
その音が触れた刹那、円盤は美しい響きを上げて跳ねとばされた。
愕然とコドーはふり向いた。
背後の木立ちの間から、エンジンの轟きが近づいてきた。
姿は見えず、しかし、彼の死の円盤を射ち落とした相手は?
コドーは足下を見た。一本の鉄の矢が倒木に刺さっている。
「治安官!?」
夜は果てしなく続いていた。
その中で、奇妙な作業が急ピッチで行われていた。
それは製作というより、組み立てと呼ぶ方が正確だった。
巨大な戦車とも装甲車とも取れる物体は、すべて木製であった。
礎石のような分厚く幅広い板が、一片三メートル長さ二〇メートルもある角材が、ふた抱えもありそうな丸太が、次々に組み合わされ、嵌めこまれて、異形の車両を形造っていくのだ。一本の釘も楔《くさび》もない。
組み立てている工夫は、六人の影たちであった。
彼らは時折、足下に眼をやった。そこには黒い土の上に赤い円や点、直線や放物線が縦横に描かれているのだ。
影たちは、思い思いの印に足を乗せ、かたわらの巨人の家の建材のような品を掴む。そして何かのポーズを取るように上体を動かすと、巨大な板は軽々と持ち上がって所定の位置に固定され、そこへ天空の巨神が操る箸のごとき丸太が嵌めこまれ、支えの角材が噛み合うのであった。
このような奇怪な作業は、たとえ、真正の貴族の血を受けた者たちでさえ、可能だとは思えない。
二〇メートルほど離れた潅木の茂みの中から、Dは作業の終幕を見つめていた。
最後の一枚を刑架《けいか》のような窪みに入れると、六人の影人《かげびと》たちは、彼らの作品に飛び乗った。
車もない、無限軌道《キャタピラ》もない車輛は、草を踏みつぶして走り出した。
Dは草むらを出た。
みるみる距離を詰める。その美貌も眼差しも殺気を知らず、前方の光景だけを見つめていた。
――待て
確かに声だった。確かに天から降ってきた。
Dはふり向いた。
眼の前に巨大なものがそびえ立っていた。
闇の中で闇よりも濃いそれは、明らかに巨人だった。
Dは一軒家よりも広大な長靴と、引き締まった足首、隆々たるふくらはぎを見ることができた。そこから続いているはずの膝の皿や太腿は、遥かな虚空で闇に同化していた。
――Dよ
とそれは呼びかけた。
――おまえと会うのも久しぶりだ。いや、取り消そう。我々に時間は意味を持たぬからな
――何をしている?
とDは呼びかけた。
――こんなところで何を? また、おまえの好きな「実験」か?
巨大な人影は哄笑した。
山が震えるような笑いだった。
――かも知れん。成功例は、おまえだけだ。それでは寂しい
――いまの奴らに、おまえの力を与えたのか?
――それと“夜”をな。あいつらはいまのおまえよりも強いぞ。相手にせず立ち去れ
――いいだろう
Dは答えた。
――おまえが、おれとともに滅びるならば
――光が闇を駆逐する限り、私はここを離れん。闇が光を脅かす限り、私は何処へも行かん
Dは掴み出した白木の針を頭上へと放り上げた。
それは逆しまの流れ星のように上昇し、視界から消えた。
ほどなく、巨人は震えた。苦鳴は冬の山に吹きつける古《いにしえ》の風のようであった。
Dが一刀を抜く前に、それ[#「それ」に傍点]は後じさった。
Dは跳躍した。
巨像のようなものは、闇色の上衣をまとっていた。
せり出した巨岩のような胸のあたりで、Dの跳躍は尽きた。
コートの裾が開いた。
黒い蝙蝠の翼のようにそれは翻り、一度だけ羽搏いた。
Dの上昇はさらに続いた。
いかつい顎が見えた。唇は荒々しいタッチで彫られた墓石のようであった。忌まわしい鉤鼻の上に、細い裂け目のような双眸が横に走っていた。
瞳はあった。これだけは水晶の艶を帯びた黒瞳は、自らに挑んできた美しい若者を映していた。
高度三〇〇〇メートル。そこにも夜は広がっていた。
波のように揺れる豊かな毛髪の中心へ、Dは一刀をふり下ろした。
突然、真の静謐がDを包んだ。
――腕を上げたな
声は満足そうであった。
――だが、まだ私は斃せぬ。それができぬ限り、おまえの旅は続くだろう
Dは地上に立っていた。
陽光がその影を長く地に落としている。
「やはり、あいつか」
左手が呻いた。
「ここは昼だ。しかし、奴らは作られた夜の中を自在に歩き廻る」
すべてに不釣り合いな陽光を拒否するかのように、Dは身を翻した。
「動くなコドー」
ビークルからラストは声をかけた。
眼にした光景が、すべてを物語っていた。
「おまえが諜者《スパイ》だったのか」
「よくわかったな」
コドーが感心したように言った。
「ライフルの音を聞いたのさ」
「ライフル?」
コドーは語尾を疑問形に上げて、
「あの音をか? 家の中で、しかも、おまえが出て行ってから大分たつぞ」
「何でもいい。とにかく、オフィスへ来てもらおう」
「邪魔者が」
吐き捨てるように決まり文句を放って、コドーはふり向かずに右手をふった。
三〇センチの円盤は、標的に当たらずともその五〇センチ前方、その五〇センチかたわらで、内蔵した刃を左右にせり出し、直径三メートルもの巨木を切断する。
ラストは半弓で迎え討った。
ひょおと放った二本は、上昇し下降し、円盤に迫って射ち落とそうとする。
円盤が九十度起きた。横一文字の回転は縦一文字のそれに変わって二本の矢をやり過ごす。だが、矢は方角を変えてそれを追い、円盤も大きくコースを離れて左方の巨木を切断していく。次々に倒れる木々の轟きが三人を跳ねとばした。
眼の前に倒れかかってきた大幹をよけようと、ラストはハンドルを切った。
円盤が飛んできた。
矢を放つ暇はなかった。
ラストの生命はこのハンドルさばきにかかっていた。
円盤が死の翼を広げた。
ビークルは黒土を跳ね上げつつ回転した。円盤の一枚は跳ねとばしたが、二枚目がラストの肩へと走った。
コドーの位置からは、攻撃の成否が判断しかねた。
とどめの一撃に、数瞬のためらいが生じた。
黒い矢がふたすじ――倒木の向うから垂直に跳ね上がった。
「ちい」
愕然とかたわらの巨木の陰に身を入れた瞬間、一本の矢が幹ごとその肺を貫き、もう一本が心臓に命中して、かん[#「かん」に傍点]と音をたてた。
「この矢の力――おまえは……まさか」
間一髪で盾にした円盤を、コドーは思い切りふり上げた。
血が溜まっていく肺にむせながらも、ふり下ろす。胸から生えた鉄の矢は一撃で切断された。
矢を抜かないのは、失血を怖れたためである。木立ちの間を走り去る足取りは、よろめきながらも俊足といえた。
三の矢は送らず、ラストはロスキンパン爺さんを捜し求めた。右腕は血の海に漬けていたように赤い。ちぎれかけた傷口を、ラストは強く押しつけた。コドーの円盤は一矢を報いたのだ。
まるで、倒壊した大城館の構造材が積み重なったような一角に、爺さんは仰向けに落っこちていた。
ひどく腰を打っている。
コドーの反撃に用心しながら、ラストは悲鳴を上げ続ける爺さんを背負って最も近い家――ミリアムの家をめざして歩き出した。腕はもうつながっていた。
幸い居合わせたミリアムに湯を沸かしてもらい、腰を温めると、爺さんはようやくおとなしくなった。
コドーの正体を告げ、気をつけるよう念を押した。
「一緒に行くわ」
ミリアムは銃と弾薬入りの皮袋を担いだ。奥の部屋から、獲物を運ぶ大鷲も空へと放す。
ビークルに爺さんとミリアムを乗せてエンジンを作動させる。
頭上では大鷲が悠々と弧を描いている。
「欲しいものを与えれば、人死には出ないんじゃなくって?」
ミリアムは本質をつく質問をした。
「いや、疑似貴族が望んでいるのは、品物でも血でもない」
妙な表情になるミリアムへ、
「奴の望むものは殺戮そのものだ。手段が目的なのさ。殺したい――それだけだ」
「よくわかるわね」
「ある事情によってな」
「――何よ、それ?」
「何でもない。とにかく、おれは人を守っていられる。それだけで満足さ」
それきり黙って、五、六〇〇メートルほど進んだとき、前方から一頭の馬が走り寄ってきた。
傭兵のひとりだった。
「敵が来た、らしい」
と鞍から身を乗り出した。
「らしい?」
「おれにもよくわからねえ。看視塔から見ると、一〇キロばかり先に黒い闇が広がって、こちらへ近づいてくるんだ。えらいスピードでな。ありゃ、夜そのものだぜ」
ラストは素早く爺さんを抱き上げて男の馬に乗せ、
「おれたちは先に行く。おまえは爺さんを家へ連れて帰れ」
その姿を照らしていた陽光が、すうと翳った。
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第九章 夜と昼の戦(いくさ)
陽のかがやきは闇に塗りつぶされた。夏のぬくみは冬の凍てつきに結氷した。
昼は夜に蹂躙《じゅうりん》されつつあった。
そして夜の生きものがいる。
五〇〇メートルまで近づいたとき、村は攻撃を開始した。
旧式な大口径ビーム砲と対戦車砲が火を噴く。石投げ器も後を追った。モンク力学とタンデスB工学を応用した石投げ器は、投擲した岩塊に、同じ重さの高性能爆弾並みのパワーを与える。
迫りくる奇怪な車輛のかたわらで地面が陥没し、ふくれ上がる火球が分厚い土をめくり上げる。真紅のビームは地面を沸騰させながら近づき、ついに車体を捉えた。
明らかに木製の表面がビームを跳ね返すのを見て、村人たちは戦慄した。それは防御塗装とか木の材質によるものではなく、構造材の組み合わせ方によるものと思われた。
正門前まで無抵抗の前進を貫いてきた車輛は、一〇メートルの距離で停止し、階段状の板をせり出させた。
黒い人影が六人、同じ色の風を巻いて門壁上に駆け上がった。
待機していた村人の火薬銃が迎え撃ったが、射入孔は瞬時のうちにふさがってしまった。粘土を射つのに似ていた。
刃をきらめかして傭兵たちが襲いかかった。
刀身が自分たちの首を断ち心臓を貫くのを、影人たちは待っていたようであった。
落ちた首を拾い上げて傷口に押しつけ、にんまりと笑った。
その手刀が傭兵たちの身体に触れると、妖剣のごとく肉を裂き、防いだ盾や長剣は、紙のように破砕された。
武器を携行している影たちもいた。
村人たちの火薬銃と彼らの自動火銃が同時に火を噴くや、どちらも吹っとび、影たちだけが起き上がってきた。
「ただのまがいもンじゃねえぞ」
傭兵のひとりが上げた叫びが、すべてを物語っていた。
門壁上の抵抗者は、瞬く間に一掃され、影人たちは村へと侵入した。
村役場へと続く坂道の途中に、傭兵たちが二〇ミリ機関砲を並べていた。
急ぐ風もなく向かってくる三名の影人めがけて、一発で人体を解体し得る巨弾が集中した。
ばかでかい空薬莢《からやっきょう》が路上にこぼれ、触れ合っては硬い音をたてた。
影人たちの胸や顔に弾頭直径に等しい真円が穿たれ、背中が爆発する。後方で伏せるのを忘れた村人が流れ弾丸《だま》を食らってバラバラになったのは、とばっちりといえた。
「ここも風前の灯かね?」
会議室の窓から外の惨状を覗きながら、村長が唇を歪めた。声はしっかりしている。同席していたシェリルとオダマが顔を見合わせた。どちらも小さな火薬銃を手にしているが、蒼白な顔は死人のように見える。歯が鳴っていた。オダマには鼻がない。
村長は、ドアの方を向いて訊いた。
「機関砲の連中も殺られた。喉を噛み切られて血を吸われておる。君ひとりで何とかなるか?」
「これくらい――」
リラは微笑を浮かべた。
「危険のうちにも入りません。では、迎え討って参ります」
「しかし、彼らは疑似貴族とは違うぞ。心臓を刃で貫かれても、首を切り落とされても甦ってくる」
「なら、どちらも持っていってしまいましょう」
謎のような言葉を残して、リラはドアの向うに消えた。
三人の侵入者は夜の祝福を満身に受けていた。全身にエネルギーが満ち、細胞のひとつひとつが燃焼し、そのくせ尽きることを知らなかった。
エネルギーは解放しなければならない。新しい存在方法は、その辺もうまくできていた。
絶え間ない飢えとある行為への渇望が、行動のすべて、存在理由そのものであった。
三人とも、二〇ミリ機関砲の射手たちを捕らえ、その喉を噛み切って、溢れる血を呑み干したところだった。
こうなる前に彼らは、貴族とは女の寝室か森の中で、ひっそりと白い喉から少しずつ血を吸うものと思いこんでいた。
白い喉を走る青い血の管に開いた二つの穴、点々とガウンを染める血潮――そんなものではなかった。
肉を食いちぎり、血管を食い破るのが吸血鬼だった。そこから噴出する大量の血潮を、喉を鳴らして呑み干す行為こそ、吸血鬼の醍醐味《だいごみ》だった。
血は限りなく甘く、性欲さえ満たすほど粘かった。
痙攣する犠牲者の喉に何度も牙を立てながら、彼らは殺戮の愉しさに酔っていた。
坂の上に役場と医療センター、公民館等が固まっているのが見えた。
「殺すぞ」
と、ひとりが宣言した。
「吸い尽くすぞ」
と二人目が身を震わせた。
「おい」
と三人目が、坂の頂きに立ってこちらを見下ろす、しなやかな影を指さした。
ごふ、と涎が溢れた。
引き締まった女の内部に燃えるエネルギーの純度と、そこから生じる血流の甘美さ濃密さを感じ取ったのである。
言葉は要らなかった。
一〇〇メートル走者も及ばぬ速度で、新鮮な血と肉とに殺到する。
リラの両手が優美な弧を描いた。それだけで三人の首は宙に舞ったのである。押さえる暇もなかった。首は役場前の広場へと飛翔し、村旗掲揚《けいよう》のポールに団子のように突き刺さった。
リラは村長に言った。持っていってしまいましょう、と。
「まだアップアップしないでよ。真物《ほんもの》に血を吸われたらしいじゃないの」
リラの言葉に、男たちは立派に応えた。
音をたてて血を噴出させながら、リラめがけての突進は止まらなかった。
ぴいんと空気が裂けた。
三人の胸が斜めに裂けてのけぞり、後ろにぶら下がった。
肉が裂け、骨が断たれた。眼を覆いたくなるような解体のさなかから、ぼっと三つの血塊が赤い糸を引きつつ空中に躍った。
その瞬間――三人の疾駆は止まり、前のめりに倒れたのである。リラの眼前一メートルの地点であった。
三つの心臓をリラは両手で受けた。
右手にふたつ、左手にひとつ。生血のしたたるそれに、リラはそっと頬ずりした。
「まだ動いてるわ。生の証《あかし》? いいえ、それもまがいものよ」
三個の心臓は空中に放られた。地上に落ちてから、それは四つに裂けた。
「拾え」
遠くで誰かが叫んだ。
「早く拾え。そして、甦るのだ」
リラは舌打ちした。ふり向く必要はなかった。叫びはポールに刺した首が放っているのだった。
足下で動きが生じた。
首なし胴が――上半身が背中の方へめくれ返った身体が、指を地面に食いこませて、じりじりと滲り寄ってくる。
生への何たる執念、否、殺戮と吸血への。
「くたばれ、化物」
はっきりと吐き捨て、リラは右手をポケットに入れた。
取り出した小さな銀のカプセルのリングを咥えたとき、凄惨な死体は、その心臓に辿り着いた。
ぎごちない手つきで、肉塊を選り分け、心臓の位置へ押しこもうとする。四つの肉塊がひとつに溶け合っているのを見た瞬間、リラはカプセルを投じた。
いかに貴族の犠牲者といえど耐え切れっこない一万度の炎が、三つの身体と心臓とを呑みこんだ。
リラはふり向いてポールの生首を見つめた。口惜しげに眼を剥き、何やら罵っていた顔が、不意に白眼を剥いて筋肉を弛緩させるや、たちまち腐れ果てた肉塊と化して、ポールから崩れ落ちた。
「やりようはあるわね」
リラは指についた首の血を舐め取った。甘くはない。嫌な後味が残った。
すぐにやめ、戦場に加わるべく女戦士は坂道を下りていった。
正門の前に着いた。
血の海としかいいようのない惨状が広がっていた。
おびただしい村人と傭兵の死体が転がっている。首がない。腕がない。上半身がない。腰から下がない。
「生存者――ゼロ」
リラは小さく息を吐いた。
名前が呼ばれた。
正門のすぐ脇に、若い村人がうつぶせに倒れていた。
「ピート」
走り寄って抱き起こした。頭を膝に乗せた。脇腹を大きくもぎ取られて骨と器官がのぞいている。ひどく冷たい身体だった。
「どうして隠れてなかったの?」
ぶっきら棒に訊いた。
「あなたが……戦ってるのに……」
はじめて、リラは自分が嫌になった。
「誰にやられたの?」
「役場の方へ……行ったよ」
「なら、仇は討ったわ」
「本当に?……やっぱり……凄え……や」
「じきに治るわ。しっかりなさい。治ったらまた訓練よ」
「わかってる……今度は……おれが村を……守……る」
「そうよ。他の奴らは何処へ?」
「学校の……方へ……早く……行っ……て……僕は大丈……夫だ」
「待っていられる?」
「大丈夫……先生が……いい……から」
リラはうなずいた。涙は流れなかった。さして哀しくもなかった。胸が少し締めつけられるような気がする――それだけだ。
リラは少年をそっと地面に横たえて立ち上がった。
口笛を鳴らすと、坂の上からサイボーグ馬が駆けてきた。
またがって馬首を巡らせた。走り出しても、少年の方はふり向かなかった。
校門をくぐった途端、全身に緊張が走った。敵はすでに運動場の真ん中にいた。
校舎の玄関前には篝火が焚かれ、傭兵と村の青年団、教師たちが武器を構えていた。
敵は三名。移動するでもなく、防御陣を見つめている。
邪悪な威嚇《いかく》だった。おまえなどいつでも片づけられるのだと、宣言しているのだ。
炎が走った。
村人のひとりが火炎放射器を放ったのだ。
炎は樫の棒を手にした中央の男の胸に吸いこまれた。文字どおり吸いこまれ、ふっと消えてしまう。
村人は顔を狙った。
炎が触れる寸前、男がかっと口を開いた。巨大な口だった。炎はその中に吸いこまれた。
リラは馬から下りて走った。
左右の手に握った糸の塊からひとすじずつ、中央の男へ迸らせる。男の身体を巻くや、思い切り引いた。
手応えはあった。男は四つに分断され、首も落ちるはずであった。
何も起こらない。
男がゆっくりとふり向いた。黒い顔の中で赤光を放つ眼に凝視された刹那、リラの足は止まった。
違う、と思った。
そこにいるのは、彼女が戦ってきた疑似貴族や真正の貴族とも違う――遥か高みの存在だった。
高みとは? 邪悪さだ。そして、奇怪なことに――神聖さだった。真の畏怖に値する者の前に立ったことを、リラは意識した。
男が右手を前へのばして拳を握った。
糸を掴まれた、とわかっても、リラには何ひとつ打つ手がなかった。
握っていた糸玉が消滅し、鋭い痛みが全身に食いこんだ。
糸だ! 自らの糸に自分が搦《から》め取られたのだ!
猛烈な力がその身を宙に浮かべた。
大きく弧を描いて、リラは玄関前の地面に叩きつけられた。
衝撃よりも、全身の肉が裂ける感覚が苦鳴を洩らさせた。身動きできない。糸は指さえもことごとく封じていた。
「大したものだ、大したものだ」
男の声には、疑いようのない賞賛が溢れていた。
「この糸の技――誰のものかは知らんが、おれ以外ならば、貴族さえも滅ぼせたに違いない」
貴族さえも? すると、この男は? リラは絶望すら感じた。
「おれは選ばれた」
男は高らかに言った。それは聞く者すべて――玄関前の人々さえ感動させる歓びに満ちていた。
「おれは選ばれし者だ。あの御方から直々に生命を貰った。そこには力も含まれていた。見よ、見るがいい。それがどういうことか」
男が右手の樫の棒を高く掲げた。
光が満ちた。
闇が、夜が裂けたのだ。昼の光が復讐の牙を研いでいたかのごとく、三人の影人に集中する。
男の左右の影人が悲鳴を上げてのたうった。
「何をする?」
「闇は? 闇は何処だ?」
校舎の影を求めて走り、堪らず横転した。手と顔の肉が、衝撃と重力だけで、乾いた粘土片のように崩れ落ちていく。
貴族もこうなる。陽光の下で吸血鬼は生きられない。だが、この神の光の下に、男は堂々と立っていた。
「見ろ、見ろ、これがおれだ。あの御方に授けられた力だ。誰も真の世界を知らない。人間は夜を知らず、貴族は昼を知らぬ。あの御方とおれだけが、世界の実相を理解し得る。知りたいか、知りたければ教えてやろう。おれの仲間になれ」
声は世界の隅々まで、光に導かれて飛んでいった。
玄関の人々の耳に。
講堂に集合した女と子供と老人の耳に。
村のあちこちに配置された人々の耳に。
「どうした、来い。光の下では来づらいか? では――こうしてやる」
男は頭上で手を叩いた。
世界の果てから天蓋のようにせり出した夜が世界を覆う。人々は頭上に星のきらめきを見た。
男は少し待った。
「これでもその気にならんのか。放っておけば、おれはおまえたち全員を見つけて殺す。八つ裂きにする。歓喜とともに血を吸い尽くしてやる。だが、望むなら、このおれとともに生き、世界の真実を知り、その上で殺戮と吸血を愉しむつもりがあるのなら、おれに加われ。新しい世界を作り出すつもりがあるのなら、おれに加われ。新しい哲学を生む気があるのなら、おれに加われ。作り出す、創造する――そのために必要なのは何だ? 才能か? 決まっている。忍耐か? 勿論だ。閃きか? 言うまでもない。だが、真に必要なものは違う。それは時間だ。いかなる才能も忍耐も閃きも、それを形にする時間がなければ無意味だ。空論だ。宇宙の果てをただ語って何になる? 時間、時間、時間――おれたちは、これを不死と呼ぶ資格がある。おまえたち――おれの仲間には、これが与えられる」
男は言葉を切った。反応を待つ。
「よしなさい」
とリラは声を限りに叫んだ。ひと声上げるたびに鋼の糸は全身に食いこんだ。
「耳を貸しては駄目――人は限りある生命の中で生きるべきよ。だから変われるの。ただ続くだけの生の中で、人は何も生み出せやしない」
肉を鉄が切った。
声もなくリラはのたうった。
「失礼した。いや、邪魔者の声も大きい方が、公平というものだろう。よかろう、それがいい。こうしよう。いま声高に反応を示すこの女が、永遠の生命を与えられたらどうなるか。大いなる見本として、おまえたちの前に提供しよう」
彼は周囲を見廻し、ようやく起き上がった二人の仲間を指さした。
「どちらでもいい。この女に口づけを与えろ。おれの力は勿体ない。おまえたちの牙で十分だ」
二人の男は崩壊した顔を見合わせ、のろのろと立ち上がった。
同時にリラへと近づいてくる。
「やめろ」
玄関でひとりが叫んだ。
「おれたちは貴族になんかなる気はねえ。その女に手を出すな」
飛んできた鉈《なた》が男の頭を割った。それを引き抜いて投げ返すや、村人のひとりがのけぞった。鉈は男と同じ箇所に命中していた。
リラの肩を男のひとりが掴んで引き起こす。肌からしたたる血が、その眼を赤く染めている。
「やめて」
と女の声が叫んだ。
二人の男の両眼と心臓を、黒い鋼の矢が貫いたのは、まさにその瞬間だった。
かっという音は頭蓋を貫通した響きだ。リラを落とし、男たちは大きくよろめいた。
門のすぐ前で、ラストはビークルの運転席から新たな二矢を中央の男に放った。
眉間と心臓とを貫いた矢を掴み、男は難なく引き抜いた。
その矢で倒れた二人を指し、
「こいつらはこれで他愛もなく死ぬが、おれは違う。そして、こいつらも、いまそう[#「そう」に傍点]なる」
彼は右方のひとりの首すじを掴んで引き上げた。
何をしようというのか、男たちを包む鬼気の激しさに、ラストも手を止めて見守った。
さして難しくも奇抜でもなかった。
無造作といってもいい動きで、男は仲間の首にかぶりついたのである。
接触部から真紅の色が滲み出し、赤い流れとなって地面にしたたり落ちた。
静まり返った夜の中に、渇き切った喉を潤す音がとめどなく流れた。
不意に仲間の身体が地面に投げ捨てられ、その音で人々は正気を取り戻した。
何が起きたのか、さして迷う必要はなかった。
ひょろひょろと起き上がる犠牲者を人々は見た。
彼は天を仰いで深呼吸すると、眼と心臓の矢を引き抜いて地へ捨てた。
男が哄笑した。
「これが真の貴族の力だ。吸血鬼というものだ。わかるか。わかったろう。理解しろ。何よりも、こうならなければおまえたちの生命はないことを」
やめろ、という声が玄関の方で巻き起こった。数人が入り乱れている。行くでねえとも聞こえた。
男がにんまりと笑った。唇から白い牙が覗いた。勝利の笑いだった。
その足下へ黄色い物体が黒煙と炎を引きつつ命中した。ビークルのミサイルであった。校舎の窓ガラスが割れ、玄関前の人々が薙ぎ倒される。
炎の中で男たちが燃えている。肉も骨も崩れていく。――そして、みるみる灰から甦っていく。男が口を開けた。炎はその中に吸いこまれた。
炎を吸い切って、男は息を吐いた。
新たな矢が男と仲間の喉を貫いた。
「無駄だ」
男が手にした棒を地面に叩きつけた。
ずうんと揺れた。
ラストが跳躍した刹那、ビークルは分解した。鉄製のジャングル・ジムと鉄棒も後を追う。男の棒が起こした衝撃の成果だった。
弓を捨て、ラストは矢だけを握って男へと向かった。
地はなお揺れている。
男の顔を、ほお、という表情がかすめた。
「ここを走れるとは、おまえ、ひょっとしたら――」
その首すじに鉄の矢が食いこんだ。構わず羽根まで刺させ、男はラストの手を掴んだ。
万力で締め上げるような痛みに呻きながら、ラストは一歩進んで、男の関節の逆を取りながら投げとばした。
重さのないもののように足から下りて、男は右手を上げた。
殴りかかろうとしたラストの身体が羽交い締めにされた。
男の仲間だった。
「こいつの血は、おれが」
仲間の口から涎が飛んだ。
ラストの喉に真っ赤な唇が吸いついた、次の瞬間、男は短く叫んでのけぞった。
ラストを放した背に、蛮刀の刃が深々と食いこんでいた。
「ざまあみやがれ、化物め」
正門の近くでロスキンパン爺さんが小躍りした。
五〇メートルもの距離を狙いたがわず命中させたのは、会心の一事であったろう。
ミリアムは村の正門へサイボーグ馬ごと向かわせたが、爺さんは傭兵と家へ残してきたはずなのに、といぶかしむ余裕もなく、ラストはそいつのぼんのくぼに鉄の矢を叩きこんだ。
「貴様――」
仲間はラストを無視した。首を貫かれたまま、自分を最初に傷つけた爺さんめがけて走り出す。
「わわっ!?」
爺さんも正門の方へと逃亡に移った。
その身体を――いや、夜のすべての上に、何かが覆い被さってきた。
「おまえたちを仲間に入れようなどと考えたおれが莫迦だった。いま、まとめて始末をしてやろう。愚者を賢者の仲間に加えようとは、おれもまだ昔のおれに捉われているのか」
天に向かって喚く男の姿を暗いものが塗りつぶした。
夜の闇よりも、さらに深い闇であった。
「貴族の戦い方を見せてやろう。それから、ゆっくりと死ね」
もはや、ラストには声以外は何も見えなかった[#「見えなかった」に傍点]。
ビリーはついに全力を挙げて斃すに値する獲物を発見した。
闇に閉ざされた世界には驚いたが、それは彼自身の存在も隠してくれる。
手順は簡単だ。いつもどおり後ろから忍び寄り、肉切包丁を突き立てればいい。
あの老人を追いかけてくる黒い男――ほれ、やって来い。おれは正門の陰にいる。
老人が飛び出てきた。
数秒遅れて、そいつが。
追いすがり、ビリーはふりかぶっていたナイフに渾身の力をこめて――
そのとき、獲物がふり向いた。
口腔に牙が光る。こいつは貴族か!? ナイフをふり下ろすより早く、そいつは躍りかかり、ビリーの喉に食らいついた。
絶叫をふり絞りつつ、ビリーはさして痛みがないことに驚いた。閃いた。あのでかぶつ[#「でかぶつ」に傍点]が、おれを変えたのだ。喉へのひと咬みで。あの傷痕だけは嫌だったが仕方がない。しかし、おかげで、この化物と互角に戦える。
ビリーはナイフをふり下ろした。
闇は玄関前の人々を呑みこんだ。
闇は講堂に集まった人々も包みこもうとしていた。
赤ん坊が窓ガラスも割れそうな勢いで泣きはじめた。飼い犬が低く唸り出す。
ラストは、闇の中で蠢くおびただしい気配を感じた。獣の声が聞こえた。餓狼《がろう》に違いない。
何処かで女の悲鳴と――肉を噛みちぎる音が続いた。
羽搏きが湧き上がった。
子供が泣き叫んでいる。
何かがラストの首すじに止まった。
鋭いガラス片みたいな牙が肉をえぐり、流れ出る血を呑み干していく。一匹は握りつぶしたが、それは二匹、三匹と身体中に吸いついた。
男も女も泣き叫んでいる。血を吸われると、天に訴えている。
そこにいるはずの男に、ラストは躍りかかった。
空気を抱きしめて、彼はうつぶせに地に這った。そこへ新たな羽搏きと牙が襲いかかる。
――駄目か、と思った。人間はたったひとりの、貴族もどきに勝てないのだ。
突然、変化が生じた。
羽搏きも狼も潮のように退いていった。新たな闇をラストは見た。村人も。男も女も老人も子供たちも。闇と闇が渦巻き、拮抗し、新たなものが形を整えていく。
それは混沌だった。世界が混沌であった。
誰もが見た。
正門の方を。
サイボーグ馬にまたがる、世にも美しい黒衣の姿を。
D。
闇の男はトーマ。
夜の世界の刺客が二人――ここに相まみえたのであった。
「間に合ったか、Dよ」
トーマが愉しげに言った。
「あの御方に聞いたであろう。おれはもう、おまえに斃されたときのおれではない。あの御方だけの力を譲られた選ばれし者よ。そのつもりで来るがいい」
満腔《まんこう》の自信溢れる鉄の声であった。
対して――Dは?
低い含み笑いがその答えだった。
「くくくくく……二、三時間前に生まれたばかりの赤ん坊が選ばれし者ならば、こちらはただひとりの成功例じゃ。選ばれし者とやら、おまえは、そこから数億回の試練を経て、ここに立つ男になるのよ。くく……おしめも取れぬ餓鬼が、遥か時の彼方におまえのレベルを置いてきた男に歯向かうか? すでに死した男よ、いつわりの生を得た途端に死の意味を忘れたか?」
トーマが棒を構えた。その周囲で、獣が咆哮した。
Dの眼が妖々とかがやきはじめた。
「あいつ[#「あいつ」に傍点]の血を授けられた以上、生かしては帰さん」
蹄が地を蹴った。
トーマが腰を落として迎えた。
馬上でDは一刀を抜いた。
「行け」
突進する騎馬に闇が躍りかかった。それは明らかに狼と蝙蝠の形をしていた。
Dの刀身が二度ふられた。漆黒の中でもそれはきらめいた。
獣の形をした暗黒はたやすく両断され、Dは一気にトーマに肉迫した。
むしろゆるやかに、銀撃の一刀がトーマの頭頂へと吸いこまれる。
棒を上げようともせずに、トーマはそれを受けた。
頭頂から顎まで走った斬線が、なかったもののように消えていく。
「これがあの御方の力よ」
トーマが白い歯を剥いて笑った。
大きく後方へ跳びつつ、棒が地を叩く。
大地が震撼した刹那、サイボーグ馬は分解した。
Dは空中にいた。
その全身が白くかがやいた。
夜が裂けたのだ。
さしめぐむ白い陽光《ひかり》――闇を追い払い、大地をあたため、万物に生命を与える光――それがDに挑んだ。闇の王子の血に。
大きく体勢を崩したまま着地するその心臓を、飛来した樫の棒は紙のごとく貫き、若者を仰向けに倒れた美しい死の彫像に変えた。
光よ光よ降り注げ。汝のぬくもりの手にふさわしからぬ死者のために。
何もかも白く溶ける夏の光の中で、何たる麗しい死者が生まれたことか。
ああ
そして、夜はふたたび黒天鵞絨《くろビロード》の天蓋を閉じた。
トーマは片膝をついていた。
両肩が激しく上下し、虚ろな顔がいまの死闘が肉体のみのものではなかったと告げていた。
数秒を置いて彼は立ち上がり、Dのところまで行くと、墓標のごとき樫の棒を抜き取った。
「これが、あの御方の結論だ。Dよ、おれはいつか、おまえになるだろう」
ふり向いて、彼は歩き出した。校舎ではなく正門の方へ。
その背を運命の糸のごとき笑いが追った。
「おまえは、こいつになどなれん。永劫が許さぬよ」
愕然と身を翻し、トーマは見た。眼前に広がる闇を。彼の生み出した闇よりなお深い闇を。
Dという名の闇を。闇と闇が渦巻き、拮抗し、新たな闇を形造っていく。かがやく闇を。――光明を。
トーマは頭上に棒をかざした。
銀線がそれを抜けて頭頂から股間までを断った。
ぼっと血の霧が渦巻いた。それは爆発に似ていた。
血の霧の向うで、トーマは両手で自分を抱きしめていた。
「何故だ?」
と彼は訊いた。
「答えてくれ。あなたは、おれを選んだのではなかったのか? それとも――ただの、Dをのみ研磨するための捨て石だったのか? 闇よ、闇よ、おれを救ってくれ」
祈りのような叫びを唱え終わった瞬間、彼は縦に裂けた。
すべては闇に包まれていた。
ラストは何も見ることができなかった。リラも玄関の人々も。
「終わりだ」
と声が言った。美しい鉄の声が。それならば、そのとおり――すべては終わったのだった。
ざわめきが上がった。
人々は足下に、自分の影を見た。光だ。
闇は去っていた。
Dの姿はない。
やがて――
治安官と、その肩を借りた血まみれのリラを先頭に正門へと歩き出した人々は、門の横に折り重なるように倒れたロスキンパン爺さんの死体と、腐れかけの骸《むくろ》を発見した。
死体の背中から胸にかけて、一本の肉切り包丁が貫き、その柄は爺さんの手に握られていた。
ビリーという名の殺人鬼は、村人の誰もが知らずにいたが、何年も前に妻と子を自然災害で失《な》くした爺さんが、やり切れない思いをそんな名前の存在しない男とのやり取りで埋めようとしていたことは、何人かが知っていた。女房と子供が死んだのは、そばにいたのに我先に逃亡した村の連中のせいだと、爺さんは酔うたびに繰り返していたものだ。
誰かが腐り果てた死体をのけ、爺さんに上衣をかけてやった。
「凄えや、貴族を斃した酔っ払いだ」
その言葉は、そのまま爺さんの墓碑銘となった。
村の正門に辿り着いた一同を、村長とシェリル、オダマが迎えた。
夕暮れどきだった。
少し早いような気もしたが、昼と夜との協議の結果かも知れないと、誰もが納得した。
「君らに感謝しなければならんな」
村長の言葉は誰に向けられたものか。
「すぐに傷の手当てをして」
シェリルのみが、喜びを眼に宿していた。
「また、明日から普通の生活がはじまるわ。今日のことは忘れましょう」
誰かが、
「そうはいかん」
と言った。
みな、看視塔の方を見た。
コドーが立っていた。
ラストの矢で射抜かれた肺を血で染めながら、彼は左手で治安官を指さした。右手には死の円盤があった。
「忘れるな。貴族もそのまがいものも、辺境の村にはすべて敵だ。おれは見たぞ、治安官、おまえは――疑似……」
その頭部が熟柿《じゅくし》のように粉砕されてから、銃声がやってきた。
ラストが見上げた看視塔の窓の向うで、ミリアムが硝煙たちのぼるライフルを構え直したところだった。
その眼の隅を銀色の光が流れた。コドーの武器だ。
リラを支えるラストは受ける姿勢になかった。
刃はラストを胸部で両断した。
コドーの身体が地に伏してから、ラストの身体もゆっくりと横倒しになった。リラも加えて、転がった身体は三つだった。
「一体……これは」
無理矢理紡ぎ出した村長の言葉が、一同の声を代弁していた。
「裏切り者が……治安官を殺したのよ」
立ち上がりながらリラが答えた。
「立派な……治安官だったでしょ。ラスト・ノーベル……墓には、そう刻んであげて」
亡霊のごとく立ち尽くす人々の中で、ただひとりの農夫がその名に聞き覚えがあった。古参の傭兵だった。
東部辺境区の小さな村に伝わる伝説は、村の若きリーダーが貴族の毒牙にかかり、疑似吸血鬼と化したこと。奇蹟のように、人間だった頃と等しい生活が送れたこと。しかし、やはり村人の視線に耐えかねて村を出るにあたり、彼の両親は優れた女戦闘士を同道させて、彼が貴族の血に眼醒めたときは容赦なく殺戮するよう契約したことを、時の流れの中に伝えていた。
無論、農夫は何も言わなかった。伝説の主は、見事な治安官として別の伝説になることを、彼は知っていたのである。
正門のポールに掲揚された村旗が、かすかな音をたてて揺れた。風だった。
いつの間にか、サイボーグ馬に乗ったDがそこにいることに、人々は気がついた。
「望みは叶ったか?」
とDは訊いた。
「過ぎた死に方だったわ」
とリラが答えた。
「まだだ」
Dの眼がラストの死体を見つめていることに、人々は気づいた。
まさか。二つになった身体が、いつの間にかつながっているなんて。まさか。名誉の死を遂げた治安官が起き上がってくるなんて。まさか。その口から乱杭歯がのぞき、双眸が真紅にかがやいているなんて。
「これがおれだ」
ラストは地の底から湧き出るような声で言った。
「誰か止めろ。自分の血の匂い――こんなに甘いとは思わなかったぞ」
Dが馬から下りた。白い手がその前進を止めた。
「約束があるのよ」
リラはゆっくりと前へ出た。
「ラスト」
と呼びかけた。周りの者がぞっとするほど冷たく、気がつくと涙を流していたほど哀しげな声であった。
治安官の身体が横へ流れた。倒れつつ半弓に矢をつがえ、伏せると同時に放った。
一本目がリラの血まみれの右肩を貫いた刹那、彼の身体は縦に裂けた。反射的にその身を抱きしめたのは、疑似貴族の本能であった。
その胸もとへリラが飛びこんだ。
二人が離れたとき、人々はラストの心臓を貫く黒い矢を目撃した。自らの矢を抜き取って、女戦士は約束を果たしたのだ。
Dは無言で馬にまたがった。
「わざと受けたかな」
と言った。肩の矢のことか。
夕暮れの風が、その髪をなびかせた。
「涼しい」
と誰かが言った。
Dは門の方へと馬を進めた。
止める者はない。
「また会える?」
とリラが訊いた。
返事は無論、ない。
サイボーグ馬の足音が遠ざかりはじめたとき、夕暮れの中で、シェリルが低くすすり泣きはじめた。
『D―魔戦抄』完
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あとがき
終わったときは四百六枚だったのであります。
しかし、真の終わりではない。ゲラ・チェックが待っている。
何が起きたかは言うまい。白い紙は血のように赤く染まり、四百六枚は――想像――四百三十枚になりました。はい。
何かの音頭のように、
「あ、ここ直そ」
「あ、ここ見っけ」
「あ、ここ駄目駄目」
が連続し、ついにラストまで変貌する始末(もっとも、読者の皆さんには、わからねーよな、ハハ、ハハ、ハハ)。
自宅へでもいいからFAXしてくれと言ってたIさん、怒ってるだろうなと、その晩、私は眠れなかったのであります。
しかし、まあ、手を入れただけのことはあったと思います。何はともあれ、読んでみて下さい。今回のD、ひと味違います――というか、ちょっとおかしいですよ。
全力をふり絞ったので、正直、これ以上、本篇については触れたくない。けれど、これでは「あとがき」の名がすたるので、別の話を書くことにしました。
作家のくせになんてまー遅れてる、と思われるかも知れませんが、やっと「リング」観ました。松嶋菜々子ちゃんのじゃなく、ナオミ・ワッツ主演のアメリカ版の方ね。
思ったよりずーっと原典に忠実なリメイクで、非常に比較し易かった。成程、こう工夫してるか、なんて勉強になりました。
恐怖の媒介役がビデオ・テープだから、舞台を何処に移しても映画化は簡単でしょう。だからリメイクになったと思いますが、やはり、素材は万国共通でも、状況が同じでも、原典の方が怖い。
ああいう映画は、全世界の人々に観せるべく、お金かけて、ちゃんと(原典がちゃんとしてないというわけではないゾ)作っちゃいけないんですかね。それとも、先に観た方がインパクトが強いというだけのことなんでしょうか。
日本版を観て、ネタ無しハリウッドがリメイクするのはわかるけど、先にアメリカで映画化され、それと知った日本でリメイクするかといったら(リメイク権高いかナ)、まずやらないでしょう。
つまり、原典はそれだけ怖かったということになります。
最近の日本製ホラーで、私の最もお気に入りは「呪怨」(ビデオ版)なのですが、これも映画化されて大ヒットを飛ばしました。しかし、怖さはビデオ版のほうがX倍も凄い。何故かといいますと、ビデオ版の方は製作日数合わせて九日(だったかな)という強行スケジュールからもわかるように、ろくにお金がかかっていない。お金のかからない劇映画は、ドキュメンタリーに近くなります。ビデオ版「呪怨」はこれが吉と出た。フィクションとノンフィクションを画面で観せられりゃ、怖いのは絶対ノンフィクションの方ですから、私が映画版を観て、あまり怖くなかったのも、これでわかります。あれは、あまりにもちゃんとした映画だったのです(でも大当たりするだけの出来だったと思います)。
また、映画版「呪怨」を観ると、「リング」からスピン・オフさせた部分もあり、ああ、清水(呪怨)監督、これがやりたかったんだな、とわかります。小説、映画に限らず、いい表現は使いたくなるものなのです、はい。幸い「呪怨」は好評につき、「呪怨2」も今夏公開し、ハリウッドでのリメイクも決定したようです。期待して待ちましょう。
二〇〇三年七月某日
「リング」(米)を観ながら
菊地秀行