D―妖兵街道 〜吸血鬼ハンター14
菊地秀行
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目次
第一章 四人の無頼漢
第二章 旅人魔団
第三章 妖兵伝説
第四章 イレーネ
第五章 死への道行き
第六章 吸血城への道
第七章 廃城の翳(かげ)
第八章 妖父子(ふし)
第九章 帰り来るもの
あとがき
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第一章 四人の無頼漢
辺境に平穏な日があるとすれば、今日がそれだった。
浮遊妖物や悪霊を運ぶ北からの風もなく、安酒の瓶片手の酔っ払いが町のメイン・ストリートを端から端まで歩いても、汗もかかずに済んだ。
子供たちは学校の校庭で、「都」で流行っているという少々乱暴な遊びに熱中し、つい十分程前に巡回を終えた治安官は、デスクで今期の犯罪件数に関する書類を作り、雑貨屋の主人は、客の途切れた店の片隅で、じき隣村で開催される火トカゲ・レースの予想に励んでいた。
人喰いネズミが一匹通りを横切っただけで町中が騒乱状態に陥るような、そんな日であった。
「ボセージ銀行」の前に、四頭のサイボーグ馬が止まると、乗り手たちは馬を下り、階段を上がってドアの向うに消えた。充分な打ち合わせと訓練を積んだ動きに見えた。
●射殺された警備員チャド・モストウの話(召喚《コール》によって呼び出された死霊が語る)
あのとき、おれは、じきお昼だ、相棒のガゼル・フーゴとどっちが先に飯にするかを考えていたんです。気が緩んでいました。だから、そいつらが入って来たとき、最初に気づいたのはガゼルの方でした。あのときは、いきなり眉間を射ち抜かれたので、何ひとつ理解できませんでしたが、いまはわかります。あいつらはドアから入って来るなり、火薬銃を構え、ガゼルとおれを射ちました。四人とも女もののストッキングを被っていました。おれを射ったのは、ザック・モロバクという戦闘士崩れの自動装填式火薬銃で、ガゼルのは、スキューダ・コークリというこれも元戦闘士の散弾銃でした。おれは一発でやられましたが、ガゼルは左半身に散弾を浴びながら、スキューダに火薬銃を射ち返して、奴の右腕を肘から破壊したところを、三人目の元兵士ユリ・タタイカの弩《いしゆみ》の一撃を受けました。あれは五十馬力のモーターで引いた弦で鉄の矢を射ち出す超弓《ばけもの》ですから、心臓を射抜かれたガゼルは即死しました。いま、おれの隣にいます。その隣にいるのは、ガゼルを貫通した矢を首に貰った六歳の男の子――パン屋のひとり息子のペーターです。
おれたちを片づけた四人組は、ザックとスキューダに客たちを見張らせ、ユリともうひとりがすぐ、カウンターを越えて事務所へ侵入、二十歳《はたち》になったばかりの出納係トマク・レンの頭を、もうひとりの方が長剣で斬り割り、店長のトム・ノーランに金庫を開けるよう命じました。
店長が渋ったのは当然です。じきに銃声を聞いた町民の自警団や治安官たちが駆けつけてくれると考えていたのです。奴らにもそれはわかっていたはずです。四人目が、いきなり、そばにいた女子行員メデル・ハイサルとマシュー・ネブレスコの首を斬り落としたのですから。たったひと振り――貴族かダンピールでなきゃ出来っこない剣の技でした。
店長は真っ青になって指示に従い、奴らは金袋を奪うや、店長と残りの行員――マトウヤ・ペレスロとジェシカ・ニルセン、キャンギス・ハートレイの首も斬り飛ばしたのです。このうち女子行員のジェシカは、他の二人から三メートルも離れた位置にいたのですが、またもひと振りで斬り殺されました。四人目の剣は一メートルも無いのにです。
この間に、ロビーに残った二人は、客のバス運転手コンチョ・ハーデルイと、主婦ベアトリス・ラショワーと同じくサラ・ショーン、ペーターの母ケティ・ドルセネンを拘束していましたが、ユリともうひとりが金袋を担いで戻るや、無惨にも全員を射殺し、逃亡したのです。四人目の名前も素性も、おれにはわかりません。こんな身になっても、おれにはあいつ[#「あいつ」に傍点]が怖いのです。あの四人目は、何かに憑かれています。こちら側に来てしまったおれにも想像を絶する何かに――そいつの正体を明らかにし、滅ぼさない限り、どんな優秀な戦闘士も、奴を斃《たお》すことはできません。ああ、何だか急に寒けが……ああ、あれ[#「あれ」に傍点]だ。奴に憑いていたあれが、おれの証言に気がついたんです。いけねえ……見つかった。……もう、これまでだ。お別れです。――来るな、おい、こっちへ来るな……あああああ。
カチャリ。
頭髪も顎鬚も真っ白な老人は、旧式で武骨な録音器《レコーダー》のスイッチから指を離して、集まった二人を見渡した。
農作物や家畜の集散地点である富裕な町の富をふんだんに注ぎこんだものか、単なる辺境の町とは思えぬ豪華な町営ホールの一室であった。
天井も壁も床も、一歩間違えば悪趣味と言われかねぬ細密画《ミニアチュール》や絵画や肖像で飾られ、確かに金はかかっているが、こんなところで会談や懇談会を催したら、一秒たりとも落ち着けず、全員、死ぬほど疲れ果ててしまうだろう。
だが、白髪の老人の前方二メートルほどの位置で椅子にかけた女と、彼方の壁にもたれかかったひとりの男は、そんな部屋の魔力をいささかも感じていないように落ち着きはらっていた。
椅子にかけた女の方は、壁の男同様、ひとめで戦闘士とわかる火竜の鱗をつなぎ合わせた柔軟かつ硬度な甲冑を身につけ、尋常な長さの太刀を左肩に抱き寄せている。この手の甲冑のポイントは、強度よりも自在な動きを可能にする鱗の接着法にある。
男どころか女まで、ひとめで虚脱状態に陥りそうな美貌に、右頬の長く深い斬傷が、勁烈《けいれつ》といってもいい凄みを与えていた。
女の身で、イヤリング、指輪、ネックレスのような装飾品は一切なく、甲冑や手甲、脚絆の飾りといえば、切り傷や焼け焦げだけという味気なさに対し、壁にもたれた男の方は、濃紺のケープの下はワイン・レッドに金糸銀糸を織りこんだ絢爛たるベストと、黄金色のスラックス、腰の彫刻入りコンバット・ベルトには黄金の握り付きの短剣、手裏剣の他に、実用品というより美術品に近い、宝石を嵌めこんだ火薬連発銃が二挺収まっている。
悪趣味なのではない。辺境の戦闘士なら誰でも行う、人目につくためのアピールだ。
こういう服装で売るのはまだおとなしい方で、芝居がかった連中になると、町へ入るたびに大通りへ出て、飛ぶ鳥や化鳥を二挺の火薬銃で射ち落としたり、その町や村の鼻つまみにわざわざ喧嘩を売って惨殺し、大きな仕事――たいがいはボディガードか殺し――が来るのを待つという。
戦うための技倆を売る――それしか能のない戦闘士たちにとって、地方の有力者たちの眼に止まるのと止まらないのとでは、天国と地獄の差が生じるのであった。
彼ら戦闘士たちの売値は、その実力や敵の能力、数によって差はあるが、平均的な連中で、一日五十ダラスといわれる。一ダラスで家族四人がフルコースのディナー――メインは雷獣か三つ首大鹿だが――が摂れる辺境の貨幣価値からすれば、かなりの高給といえるが、生命懸けの仕事にしては、まあまあというところだろう。
それだけに、例えば貴族狩り《アリストクラート・ハント》や不死者相手の大仕事となれば、十万、百万単位の収入が保証され、それは引退後の生活にまで大いなる影響を及ぼすのだ。彼らの風体が華美になり、言動が異常に大仰《おおぎょう》、芝居じみたものに変わっていったのも、無理からぬことといえた。
「この後、無法者たちは町民の攻撃をふり切って、これから諸君の赴かんとする『フローレンス街道』――別名『傭兵街道』へと逃げのびた。諸君の仕事と何の関係もない、死霊の告白テープを聞かせたのもそのためだ。敵は単なる傭兵どもだけではないと知っておくのも、悪いことではあるまい」
「助かるね」
と壁際の戦闘士がうなずく。いかつい顔に等しく、鉄と鋼《はがね》がこすれ合うごとき声である。
老人が、君はどうかねと、女戦闘士を見つめると、これは大輪の花のようなイメージとは百八十度異なる声が、
「四人目――何者かしら」
と来た。氷のような声に、老人は身をすくませ、壁の男も、ほうという表情になる。二人の戦闘士は互いの声を、いまはじめて耳にしたのである。
「わからん。死の国から何でもお見通しのはずの死霊さえ、あのていたらくだ。肝心なのは、当人よりも、彼に憑いているという何かだが、邪霊のようなものが、取り憑いた本人に実力以上の力をふるわせるというのは、よくある話だ。諸君なら何とかなるだろう」
「そううまくいくかね、町長どの」
老人と美女の眼が、陽灼けした男の顔に焦点を結んだ。
「どういう意味かね、ストライダーくん?」
「おれは妙に勘が良くってな。一瞬だが感じた。あの四人目の正体をな」
「あら」
女戦闘士が、無表情に驚きを示した。辺境の女戦闘士は珍しくないが、たいがいは意識的に男言葉を使い、男のようにふるまう。この女のように女を隠さぬタイプは珍しい。
「それなら、もう氏素性がわかったんでしょ。教えて下さらない?」
「残念ながら、ノンだ。所詮は勘さ。だが、感じたものは――まるで死人だ。ところが生きてやがる」
「おかしな話ね」
と女が冷やかに、楽しそうに言った。
「その他にわかることは?」
「何もない。また、知りたくもない。出会わねえよう祈るだけだ」
「まだ行くつもり?」
女はストライダーと呼ばれた男を見つめた。
「ひとり棄権してくれると、こっちの分け前が増えるのだけど」
「ああ、おれもそう考えてたとこさ」
ストライダーは笑いながら同意した。
「おれの勘じゃ、今度の仕事にゃ女の出る幕はねえ。悪いことは言わねえ、下りなよ」
「仕事より田舎芝居に出てたらどう?」
「なにィ?」
「素敵な衣裳に眼がくらくらしてきたわ。着てる方はもっと大変でしょ。いざというときに、めまいがしてちゃ、戦いにならないわよ」
町長が苦笑した。
緊張が部屋を埋めた。
「背中も剥き出しのヘボ戦闘士にしちゃ言うじゃねえか。もう少し、ご意見を拝聴させてくれや」
男の全身から凄まじい敵意が放射された。背中云々は、後ろからの不意討ちを避けるための心得の初歩だ。女は冷やかに、
「壁に背をつけるのは結構だけど、一万席の大ホールで依頼主に会ったらどうするつもり? 怒鳴り合いながら打ち合わせ? 終わる頃には、どっちも喉を腫らしてるわよ」
男が壁から離れた。背中の長剣がかすかな音をたてた。刃渡りは二メートル近くある。長身の男にしても長すぎるが、とにかく、武器は銃だけではないらしい。
「今から喧嘩は困るぞ、ストライダーくん、ミス・スタンザ。この救出行の、数少ない志願者なのだからな」
町長が苦々しい声で制止した。男――ストライダーは壁に戻った。この辺はプロらしい。血が昇って儲け話を捨てるのはアマチュアだけである。
「もう募集内容を話してもいいのかい、応募期限は明日の夜明けまでじゃねえの?」
揶揄するようなストライダーの声に、町長は肩をすくめた。
「救出チームを募集してから二日。本当に生命《いのち》知らずの戦闘士なら、とっくに着いてるはずだ。あきらめよう。事態は一刻を争う」
「失礼ながら、町長さん」
女戦闘士――スタンザが顔を上げて、
「“職種:救出、極めて危険、報酬:多し”――これでは人は集まらないわ。それに、目下、カクタス準市で、やくざ同士の大きな喧嘩があって、腕自慢の連中はほとんどそちらに出掛けている」
「すると、諸君は腕に自信がないということになるが」
町長は苦笑を浮かべた。
「事情通と言って欲しいわね」
スタンザが訂正を要求した。
「いくら伏せても、人の眼と口は塞げない。『傭兵街道』に、おかしな連中が溢れ出して、牧場や農家を襲い出した――くらいのことは、ちゃんと耳に入ってるわ」
「カクタス準市の兵が救援に駆けつけたが、それっきりというのも、な」
これはストライダーだ。
町長も、辺境の人間として、ここいらは読んでいたらしく、驚く風も見せずに、
「街道沿いのスローカム家から連絡が入ってきたのが、ちょうど五日前だ。その翌々日に準市から百人の武装兵士が駆けつけ、街道を西へ向かったが、それきり音沙汰がない。通信犬を出す暇もなくやられたらしい。準市当局がやくざの抗争を押さえ切れなかったのは、そのせいだ。そこでもう一日待って募集をかけてみたのだ。馬車と御者は用意してある。今夜、発ってもらいたい」
「どういう状況なの?」
スタンザが訊いた。
「スローカム家の緊急鳥によれば、武装兵らしい連中が街道に溢れ出して、人家という人家を襲撃しているという。一家は『廃墟』に逃げるつもりだ――これだけだ」
「『傭兵街道』の廃墟って――あそこ?」
スタンザの眼が凄まじい光を帯びた。ストライダーが口笛を吹いた。どちらも驚きと――恐怖の証明であった。
「それ以後、連絡は?」
「絶えておる。正直、生存者がいるかどうかもわからん。だから、諸君が向かっても、無駄足かも知れんのだ。それでも報酬は出す。ひとり五万ダラス」
「そいつは豪気だな」
ストライダーの口笛がまた鳴った。
「倍ね」
町長がスタンザを凝視した。今度は、にらみつけるのに近い。
「失礼ながら、相場は充分に上廻っているはずだ」
「相手が悪いわ。『フローレンス街道』に出没する傭兵は、貴族がこしらえ、貴族さえ怖れた魔性の者。奴らの眼をごまかして『廃墟』へ辿り着くだけでも難しいのに、もう一度、それを繰り返さなくちゃならないのよ。二度も死ねないわ」
「襲撃者が傭兵とは限らん」
町長は獣じみた唸りを放った。
「奴らはとうの昔――五千年も前に滅びた伝説だ。今更、甦るものか」
「貴族の生命が不滅だと知らないの? なら、彼らの創造物が新たな生命を吹きこまれたからって、ちっとも不思議じゃないでしょう。とにかく私の報酬は十万ダラス。嫌ならこれっきりね」
抱いていた長剣を左手に移して、スタンザは立ち上がった。
「おれも安売りはしねえよ」
ストライダーも壁から身を離した。
「ま――待て、待ちたまえ」
町長があわてて止めた。禿げ上がった額には汗が光っている。
「罪もない人々が救いを求めている。人間として助けたくはないか?」
「人間?」
スタンザの唇がうすい笑みを刻んだ。それは氷でできていた。
「そういう生き物だったこともあったわね」
「同感。――じゃ、な」
「ま、待ちたまえ」
「十万、出すかい?」
ストライダーが身を乗り出した。
「それは、経理に相談しなくてはならんのだ。西の山脈にトンネルを掘ったせいで、町の財政は火の車なのだよ」
「なら、分相応におとなしくしていることね」
スタンザはドアに向かっている。
「そうはいかん。街道の整備と保全は、わが町の受け持ちなのだ」
「それで『都』から特別助成金を貰ってるんだったな」
にやつくストライダーを、町長は、この三流剣士めがという眼で見つめた。
「確か年に一千万ダラス――これはふい[#「ふい」に傍点]にできねえよな。十万ダラスは譲れねえよ」
スタンザはドアの方へ向かいながら、
「経理に相談していらっしゃい。私はホテルか酒場にいるわ」
「右に同じ」
二人が出て行ってから、町長は、
「これは、あくまでも人道的な立場からの募集なのだ。この銭の亡者ども」
ようやく言いたいことを口にして、地団駄を踏みはじめた。
町の財政は火の車でも、サルーン『白銀城』をはじめとする繁華街の店々は殷賑《いんしん》を極めていた。
店の構成は三種の職業から成る。酒場と賭博場と売春宿である。
酒精と麻薬とニコチンの匂いが、虹色の薄煙となってわだかまる店内のあちこちで、女たちの嬌声と男たちの怒声が入り乱れ、ルーレットやカード、獣の唸りが鳴り響く賭博ルームのドアが開くと、ガードマンがスリっ放しで頭に来たらしい血まみれの男を担いで戸口へと急ぎ、儲けたと思しい旅人か山師が女たちに囲まれて二階への階段に向かう。時々、銃声や鋼の打ち合う響きが聞こえるが、それもすぐに収まり、渦巻く欲望の泥濘《ぬかるみ》に呑みこまれてしまう。
賭博ルームの一角で、凄まじい苦鳴が噴き上がった。
全身緑色の巨体が、藍色の、これも劣らぬ巨躯《きょく》にベアハッグを決めたのだ。
緑色の筋肉が水を入れた風船のように盛り上がった。
骨の砕ける音が響き渡り、たちまち湧き上がる歓声に呑みこまれた。
床の上に倒れた藍色の身体からは、確かに白い骨が突き出していた。
「さあ、緑の勝ち。精算はあちらへ行っとくれ」
と大声を張り上げて、奥の交換所を指さしたのは、この残酷な見世物《ゲーム》「怪獣対決」の審判員である。もちろん、『白銀城』のスタッフだ。
ばかでかい賭博ルームの三分の一――百畳ほどを占めるこのゲームは、実際は、直径十五メートル、高さ五メートルほどの檻の中で行われる。檻には電流が通され、触れるたびに激しい火花を上げるのは改造獣――捕獲した小火竜、岩魔《がんま》、改変人間等に手を加えたものである。
店と客とがそれぞれ腕によりをかけて改造、調教したこれらの妖物を争わせ、賭け金を集めるものだ。
資金力に勝る店側の改造獣が勝つ場合がほとんどだが、最近は客たちもプロジェクト・チームを組んで、それなりの金をかけた妖物を送りこんでくるから、安閑としてはいられない。
「よお」
肩を叩かれても、スタンザは見向きもしなかった。前方二メートルほどの檻から、瀕死の改造獣が運び出される間、電気鞭を持った店員が緑の改造人間を檻の隅へ追っている。
「冷てえな――いいかい?」
と、にやにやしながら訊いたのは、絢爛たる戦闘士ストライダーである。ホテルか酒場という言葉に嘘はなかったのだ。
「勝手にどうぞ」
スタンザの答えは、決して彼が気に入っているからではなく、どうでもいいからなのである。
ストライダーの方も、町民ホールでの、背中が剥き出し云々の発言はどうしたのか、平気で客たちに背中をさらしている。
腰をふりふりやってきた娼婦兼業のウェイトレスにアブサンを注文すると、スタンザの手元のグラスを見て、
「同じかよ、強いねえ」
と誉めた。わざとらしいことこの上ない。
辺境で供されるアブサンは、「都」の本物ではない。労働用の強化人間を基準にした合成酒で、五倍はきつい。火を点ければ燃えるどころか爆発するし、平均的な人間なら一杯で急性アルコール中毒を起こして死亡しかねない。注文するのはまともな[#「まともな」に傍点]人間ではあり得ず、従って、戦闘士は一種の怪物なのであった。
「ところで、あんた、さっきは平気でおれに背中をさらしてたが、ありゃどういうわけだい?」
「今のあんたと同じよ」
「後ろに廻る奴に気がつかないようじゃ、プロの資格はねえってか。ああいうことをされると、ハッタリが効かなくなるんだがな」
「悪かったわね」
白々しいスタンザの返事に、獰猛な叫びと悲鳴が重なった。
肩を押さえた店員が檻から跳び出し、他の者が二、三人駆け寄って、扉を閉める。檻が揺れた。改造人間が体当たりをかましたのだ。
不釣り合いに長く太い指が鉄棒を掴んで、激しくゆすりはじめる。客たちが悲鳴を上げ、女たちの中には席を立つ者もいた。
「大将、気が立ってるな」
「凶暴化促進剤の射ちすぎでしょ」
「全くだ」
あっさり同意し、ちょうど運ばれてきた青いグラスを一気に干した。
その首に、白い手が蛇のように巻きついた。両肩と太腿を露出したウェイトレスである。
「ねえ、あたしにもご馳走して」
甘ったるい声に、ストライダーはにんまりと笑って、
「これでいいか?」
と空のグラスを指さす。
「ええ。口移しで」
「ほう。面白いことを言うねえ。気に入ったぜ、姐ちゃん」
「あたしも――ひ・と・め・ぼ・れ」
華奢な指がストライダーの頬をつついた。
「だがな、この酒は、おめえ向きじゃねえよ」
ストライダーはしかめ面をした。
「あら、どうして?」
女の右手はストライダーの胸のあたりをまさぐりはじめている。
真っ赤な口紅《ルージュ》を塗った唇をストライダーの耳に近づけ、ささやくように、
「ね、隣の女の人――怖いわ」
「ほう、やっぱり、わかるか?」
「今、後ろを通ったら、寒気がしたわ」
「もっともだ」
にやにやとうなずきながら、スタンザの横顔を眺め、
「おい、面白え客がいたか?」
二人の席は、揺れ動く檻を囲んだ客席の、北側の最前列である。
スタンザの両眼は東側の一点を凝視し、まばたきさえしていない。身じろぎも皆無のその姿に、さすがに不気味なものを感じて、ストライダーも視線を追ってみたが、平凡な田舎の客しか眼につかなかった。
その耳に、あの男、と引きつるような女戦士の声が聞こえたのである。
ストライダーに抱きついていたホステスが、ひっと息を引く――そんな声であった。
スタンザが立ち上がった。テーブルの上に十ドルイド銅貨が三枚、音をたてて撒かれた。
「おい」
と呼んだが、しなやかな身のこなしで客たちを避けながら、戸口へと向かう。
「面白い。それじゃあ、おれも」
と立ち上がりかけたストライダーに女がしがみついた。
「行っちゃ、駄目」
「そうもいかねえんだ。面白い手品を見せてやるから我慢しな」
「え?」
女が眉を寄せると、意外と卑しい顔になった。その前で、ごおと炎が広がった。
ぎゃっとのけぞったのは、炎の手がその厚化粧の顔をひと撫でしたせいである。
不埓者と無頼漢からできているかのようなこの店でも珍しい悲鳴が噴き上がり、客たちが一斉にこちらを向く。
「失礼」
「邪魔だ、こら」
客たちの間を縫って、あるいは押しのけて駆けつけた店の者たちは、すでに血相を変えている。
表皮一枚、ぺろんと剥けてのたうち廻る女を抱き起こして、奥へ連れてけと命じた男が、
「お客さん、冗談が過ぎませんか?」
ストライダーをにらむ眼は、すでに収まらぬ凶気が渦を巻いている。女を連れていった二人を除いて、後ろに五人――ただのバーテンとは思えぬ屈強の男揃いだ。用心棒である。
「そいつはこっちの台詞だな」
ストライダーは嘲笑した。
「何だって?」
「それよ」
ストライダーは足下に落ちている品を爪先で蹴り上げた。見事、垂直に跳ね上がったそれを手のひらに受けて、
「今、あの女が抜いたおれの財布だ。顔が焼けたのは、ま、天罰だな」
「今度は言いがかりか!?」
慣れているのか、男は一歩も退《ひ》かない。
「何にせよ、大事な商売ものの顔を焼かれたんだ。ただじゃ帰れないぜ」
店内を客たちが移動しはじめる。酒場からのざわめき以外、音は途絶えた。
用心棒たちに取り囲まれてから、
「で、どうする?」
とストライダーは訊いた。
「おとなしく事務所までつき合ってもらいましょうかねえ。嫌だってんなら」
「――こうか?」
ストライダーの口が開いた。それは青白い炎を噴いたのである。言うまでもない。アブサンだ。点火したのはストライダーの“技”だろう。彼は首を廻した。首は三百六十度回転した。
男も用心棒も、離れた店の床も炎に包まれた。
阿鼻叫喚が店の支配権を得た。人間松明《たいまつ》と化して転がり廻る用心棒たちに狂乱した客たちが、一斉に戸口へと押し寄せ、つまずいて倒れた何人かが踏み殺された。
炎が生んだ狂気は、別の狂気をも呼ばずにはおかなかった。
檻の中の改造人間である。殺戮に猛る精神《こころ》に、炎が狂乱を命じた。
かろうじてそれ[#「それ」に傍点]を食い止めていた鉄枠が、飴のようにひしゃげ、押し開かれる。
外へ出たのは、血に飢えた狂獣であった。その眼に、おびただしい人間と炎の乱舞とが映った。
目標が『白銀城』を出るのは確認した。二秒と遅れず戸口をくぐったはずなのに、通りには姿が見えなかった。
繁華街といっても、夜は貴族と妖物の世界だ。武器を手に店へと急ぐ集団《グループ》が目立つ程度で、独り歩きはいない。
「何処へ?」
と見廻したとき、左方で鈍い音がするや、人影が宙を飛んで地面に激突した。打撃音からして、よほど凄まじい力で殴られたらしい。
スタンザが歩き出す前に、続けざまに三人が、最初の奴の後を追って地面に積み重なった。同じ位置である。最初の奴と同じ姿勢、同じ場所で規則正しく殴られたのではないだろうに、ほとんど芸術だ。
四人目がひっくり返ったときにはもう、スタンザは、彼らが奇抜な出方をした路地の曲がり角まで来ていた。路地は『白銀城』の横に当たる。
足が止まった。
「飛び道具はよくねえぞ」
という嗄れ声が聞こえたのである。右手が腰の長剣――ではなく、ベルトに差した棒状のひょう(※)にかかる。
その前に、左手がやはりベルトからハンドル付きの小さな鏡を取り出して角から突き出している。
鏡面に映じているのは、両手を上げた巨漢とその前で火薬銃を構えた、見るからにならず者といった顔つきの痩せた男だった。
巨漢の方は、身長約二メートル、体重は二百キロ近いと思われる髭面の大男で、顎は三重に垂れ下がっている。どちらかといえば愛嬌のある顔立ちだが、路上の四人の境遇を考えるまでもなく、その格好からして、ただのお人好しではあり得ない。大陸みたいな背中を斜めに渡る長剣、妖魔除けの呪文を書き連ねた皮製のベストと動きやすい太めのパンツ――戦闘士だ。
恐らく、流れ者のごろつきに懐を狙われたのだろうが、これは相手を見損ねた――というより、襲った方が自信たっぷりすぎたというべきであろう。
朋輩《ほうばい》四人を一蹴されながら、武器を握った痩せの眼は、怯えより憎悪に濁り切っている。
「財布なら渡してやるぞ」
と巨漢が言った。こちらは穏やかな口調である。こういう事態に慣れ切っているのだ。しかし、打開策はありそうになかった。
「おめえの死体から貰ってやるよ。後は仲間と一目散だ。さ、泣いて生命乞いをしろ」
そのために、すぐには射たなかったのであろう。
「莫迦《ばか》なアマチュア」
ふとスタンザが洩らした。ひょう(※)を掴んだ右手が上がる。
凄まじい破壊音とともに、強盗と被害者のかたわらで酒場の板壁がぶち抜かれたのは、その瞬間だった。
三人が何が何やらわからぬうちに、これは三メートル近い、人間離れしたプロポーションの巨影が、路上へ躍り出たのである。
檻をぶち壊して逃亡したあの改造人間――と理解する前に、二人の男とスタンザの眼は、そいつの奇怪な形をした顔に集中した。
鼻の下に、巨大な瘤《こぶ》が蠢いている――いや、手と足と胴だ。そいつは人間を咥えているのだった。
闇に炎が上がった。轟きが後を追う。強盗が改造人間へ火薬銃をぶっ放したのだ。
百グラムもある鉛の塊が、そいつのこめかみに命中し、跳ね返った。
改造人間はよろめき、口から酒場の客を落とした。右手でこめかみを掻く。弾痕の下から、防御用の鉄板が見えていた。これは違反ではない。認められている改造の規範内である。
弾丸の効果を信じていた分、男の動きは遅れた。改造人間の動きが速かったせいもある。
ふり上げた拳は粘土の塊のように見えた。
男の頭部に命中した瞬間、それはハンマーと化した。頭部と首がきれいに胴体にめりこむ。首から下が直立しているのが不思議だった。
改造人間の開けた破壊孔から、捕獲用の電気棒や網を手にした店員たちが跳び出してくる。通りにも人影が躍り出た。
改造人間が咆哮した。
店員が突き出す電気棒が、その巨体を青白い電磁波で覆った。
巨体のあちこちでショートの火花が上がる。小竜程度なら充分に失神させ得る高圧電流も、激昂した改造人間にとっては、狂暴さを増すちょっかいでしかなかった。
腕をひと振りするや、店員がピンのように薙ぎ倒される。路地の反対側のホテルの壁に叩きつけられた身体は、空中にいるとき、すでに死体であった。
「やむを得ん、射ち殺せ!」
格上らしい、白シャツに蝶タイ姿が命じた。
だが、火線が集中する前に、巨人は右手の指をのばして地面に突き刺した。水でも貫くみたいに肩まで沈む。
店員のひとりが長剣で斬りかかった。
首のつけ根に食いこんだ刀身は、埋めこまれた防御用の鉄板に当たって止まり、なおも改造人間の全身を走る電磁波の直撃を受けて彼は即死した。
このとき、通りへ投げ出された強盗の仲間たちはすでに起き上がっていたが、揃って『白銀城』の玄関の方へと移動していた。逃げるのではない。どさくさまぎれの獲物を狙っているのだ。
そのとき、背後から、
「こら、何をしてる?」
と呼んだ者がいる。
ふり向くと、路地の入口を囲んだ人垣から離れて、まばゆい光がこちらへやってくるところだった。ストライダーである。
何だ、この満艦飾野郎は、と四人組は視線を交わしたが、眼の隅には凶悪な光がゆれていた。
――どうする? 阿呆みてえに派手だが、見たところ戦闘士だ。
――やっちまえ。いきなりぶっ放すんだ。
――いいぞ。剣を抜く暇をやるな。
同時に火薬銃に手をかける。
夜の通りを鋭い一喝が走った。
火薬銃の銃身を腰のホルスターから抜き出したところで、四人は硬直した。
武術の天才は、気合一閃で飛ぶ鳥も落とすという。ストライダーの一喝にはそれだけの力が秘められていたのである。
人間彫刻と化したゴロツキたちに悠々と近づき、通りの人々がこちらに気づいていないのを確かめてから、ストライダーは、先頭のひとりの懐に右手を差しこんで財布を取り出した。
素早く中味を覗いて、
「けっ、しけてやがる。こんな田舎町へ流れてくるわけだ」
と完全に自分のことは棚に上げてから、残る三人の財布も調べた。その度に、
「けっ」
と吐き捨てた。
「ま、仕方がねえ。宿へ戻って一杯やるか」
こう言って身を翻したとき――彼は動けなくなった。
このとき、路地では狂った改造人間の前に巨漢が進み出たところだった。
凶獣が右手を振り上げる。見物人が逃げ出し、スタンザが再び振りかぶった右手を振り下ろす――
すべてが停止した。
改造人間も巨漢も人々もスタンザも。
彼らは闇を知った。底知れぬ恐怖を秘めたその正体を。
ストライダーの耳にある音が聞こえた。
改造人間も巨漢もスタンザも聞いた。
闇がやってくる。
鉄の蹄《ひづめ》を持つ死の黒馬に乗って。
見るな、と魂が命じた。
見るな、触れるな、匂いを嗅ぐな。今、通りをやってくるのは、人間が見てはならないものだ。人間とは何だ? 魂を持つものだ。だから、魂が命じる。
行かせろ。
その騎馬は、四人組の前を通りすぎた。ストライダーのかたわらも過ぎた。彼らもふり向けなかった。
人々と――スタンザが待っていた。
騎馬の形をした闇は、その背後を過ぎた。
改造人間だけが、そちらを向いていた。
彼だけは闇の命に服することができなかった。彼自身がわずかに闇と触れ合っていたからだ。
恐怖が狂気を誘発した。
ぐいと身を沈めるや、巨大な飛翔体と化して騎馬へと躍りかかった。
その結果を眼にしたものはない。
闇を裂く一陣の光も、肉と骨とを断つ刃の響きも、改造人間の肺が吐く断末魔の吐気も――認識できなかった。
彼らは地に落ちる重い音を聞いた。
じきに、蹄の音が遠く去り、闇の呪縛を恐れたことを恥じる三人の男女が真っ先に眼を向けたとき、彼らが見たものは、路上に転がった惨たる巨躯であった。
巨漢とスタンザが真っ先に走り寄り――
その足音を、この世のものと識別し、ようやく闇の呪縛から逃れ得たかのように、改造人間の巨体は頭頂から股間まで、磨き抜いた鋼のような鮮やかな切り口を示して、縦に裂けたのであった。
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第二章 旅人魔団
「エグザビア」は、町の南の端に建つ小さなホテルである。
メイン・ストリートから外れているため、必ず空きがあり、フロントのカウンターには、いつからか誰のものとも知れない黒猫が眠っている。どんな巧みな盗賊が侵入しても、眼を醒まして一瞥すると評判だ。
築五十年を越すため、何処に触れてもきしむ。しかし、今日の訪問者は音ひとつ立てなかった。カウンターの脇を通り、階段を上がっても、猫は動かなかった。
二階の部屋の前で立ち止まり、影は首をかしげた。
それからドアをノックし、向かって右側の壁に背をつけた。部屋の主が現われたら意表をつくつもりだった。
返事がないのは予想していた。物音ひとつ聞こえない。
三十秒待って、留守かと思った。
念のため、ドアノブに手をかけて廻すと、力も加えないのに内側へ開いた。
気配はない。昨夜、彼を金縛りにした鬼気は、かけらも感じられなかった。
後ろ手にドアを押し、部屋の中へ入った。
二間続きのリビングで、右側に寝室とバス用のドアがある。夕暮れにはまだ間があるのに、テーブルも椅子もクローゼットも薄闇に沈んでいた。窓にはカーテンが下ろされていた。
この部屋の住人は、こんな世界で生まれ育ってきたのではないか。突然、凄まじい恐怖が全身を包んだ。昨夜の鬼気だ。
部屋の主はいたのだ。
「何の用だ?」
声は彼の背後――ドアの横からした。何たる初歩的なミスか。敵も自分と同じ策を取っていたとは。だが、何たる美しい声か。声も口調も鋼なのに。
「はじめまして――だな」
それでも声が出た。せいぜい気力を漲らせたつもりだが、自信はない。
「おれはストライダー。戦闘士だ。ひとつ、いちゃもんをつけに来た」
返事はない。
「そっちを向いてもいいかい?」
「動くなとは言っていない」
ぎゃふんとなったが、何とかこらえて、戦闘士はふり向いた。
気が遠くなりかけるのを、彼は意識した。
この若者は、室内でも旅人帽《トラベラーズ・ハット》とコートを脱がないのだろうか。そして、その美貌も含めて、すべてが闇色のかがやきを放つのだろうか。
「名前を聞かせてくれねえか?」
人間に申しこんでいる気はしなかった。
意志は通じたようだ。
「D」
ストライダーの口があんぐりと開いた。
「あんたが……ダンピールの」
それきり声が出ない。Dの美貌に脳が溶けかかったのである。
「用がなければ」
「いや、ある。いちゃもんだ。あんた、町長に呼ばれたそうだな?」
「………」
「おかげで、あのヤロー、おれたちの増額の申し出を拒否してきた。凄腕の志願者が来てくれたから、おれたちは用済みだ。報酬が半分でいいのなら雇ってやろうだとさ。文句のひとつもつけたくなるだろうが」
「町長のところへ行け」
筋の通った、にべもない返事が返ってきた。
「もう行ってきた。ところが、ヤローめ、二十人もガードをつけて会おうとしねえ。目腐れ金で受けるかどうか、そればかりだ。なに、田舎ガードの百人だってぶちのめすのは造作もねえが、懐寒し何とやらの身でな。泣く泣く受けてきちまったよ。となりゃ、原因に文句をつけるっきゃねえだろ」
「で?」
戦慄がストライダーの背すじを貫いた。Dは、やる気かと訊いているのだ。
生唾をひとつ呑みこんで、
「あんたを脅しつけるつもりだったが、気が変わった。ものは相談だが、おれと組まねえか?」
「………」
「お互いの報酬を吊り上げるためにさ。多分、同じ条件で仕事を受けたのが、もうひとりいる。そいつと手を組むよりは、名高いDさんと組んだ方が交渉にも有利だろう」
「行け」
「おい、ちょっと待てよ」
「おまえに客だ」
「は?」
ノックの音がした。
Dがドアを開いた。
「お邪魔」
と顔をのぞかせたのは、スタンザであった。鋭い眼差しが戸口で室内を走査し、満艦飾の前でおかしな表情をこしらえた。
「何してるの?」
「おまえと同じさ」
「主人はいらっしゃる?」
ストライダーが顎をしゃくった。Dの姿は戸口から見えない。
「入ってもよろしいこと」
「入れ」
Dの返事に、スタンザの全身を動揺が走った。五〇センチと離れていないDの気配に、彼女は気づかなかったのだ。
ドアを閉じ、声の主と向かい合うと、
「スタンザよ。戦闘士」
「Dだ」
ストライダーと同じ反応が、すでに溶けかかっている女戦士の美貌を襲った。
「あなたが……D?……そういえば……なんて、きれい……な」
性格からすれば、ストライダーなど、けっと吐き捨てるところだが、無言である。それがDの美貌なのだ。
「用は?」
スタンザは、路傍の石ころでも見るような眼つきでストライダーを見て、
「出てったら?」
と言った。
「何だと?」
「用は済んだ」
とD。
「まあな」
ストライダーは、スタンザをにらみ返して、
「ま、考えといてくれ」
「断る」
Dの返事に肩をすくめたが、さして失望した風もなく、
「女狐にゃ気をつけな」
ひとこと残して、出て行った。
スタンザはドアに近づき、眼を細めた。
すぐにうなずいて、Dの方を向いた。階段を下りていくストライダーの足音を確かめたのである。
「おまえもいちゃもんか?」
「え?」
スタンザは、Dの左腿のあたりを見つめた。声はそこからしたのである。
拳を握りしめて、Dは、
「いや」
と言った。
スタンザの眉が寄った。
「風邪でもひいてるの?」
「いや」
「声色使い?」
「………」
「ま、いいわ。――かけても?」
「………」
スタンザは不平面も見せず、微笑した。
「愛想のない男って好きよ」
と言った。
「用件を聞こう」
「あたしと組まない?」
「断る」
「にべもない男ね」
スタンザは苦笑して、
「あなたのおかげで、報酬は最初の半分に下げられたわ。それでも背に腹はかえられない。ただ、今回は少しヤ[#「ヤ」に傍点]な感じがするの。だから、一番強い駒と手を組んでおきたいの」
Dは無言である。
スタンザは気にもせず、
「ね、あたしの腕を見てからにしないこと?」
と切り出した。
「行け」
「そう言わないで。相棒の実力を知っとくのも悪くないわよ。これまで見せた奴は、みいんな死んでるんだから」
返事を待たず、スタンザは立ち上がった。Dを無視したというより、自己顕示の成せる業だ。
無造作に立ったスタンザの両手がふっとかすんだ。
左右の壁に硬い音が突き刺さった。
「ほう」
と嗄れ声が感嘆した。今度は気にせず、スタンザは、
「どう?」
と訊いた。
壁には一枚ずつ肖像画が掛けてある。「宿屋の創設者」と絵の下にプレートがついている。有難迷惑な装飾であった。
その両眼に細く短いひょう(※)が突き立っていた。
抜く手も見せぬ、という形容詞そのものの速度であった。音はひとつ、刺さったひょう(※)は四本ずつ八本。千分の一秒も間を置かず、それだけ打ちこんだのである。恐らく、一度に十数名がかかっても、一瞬のうちに眼をつぶされるに違いない。
「どう?」
「お遊びじゃな」
スタンザはふり返った。
Dしかいない。
「お遊びですって? もう一度言ってごらんなさい」
怒りの声にもどこか力がない。侮辱を口にしたのはDだ。彼しかいない。
しかし、どう考えてもDとは思えないのだった。
「言ってやれ、言ってやれ」
ドアの方で、ストライダーの声がした。戸口に立っている。引き返してきたらしい。
「何しに来たのよ?」
スタンザが凄まじい視線を当てた。
「やっぱ、気になってな。いくらDつっても相手は女だ。ローラクされねえとは限らん」
「出て行け」
とDが言った。
にらみ合っていた二人が、はっとDを見つめた。
「なあ、こうしようや、スタンザ」
とストライダーが前へ出た。
「お互い、抜け駆けしようとしたのが間違いだったんだ。どうだい、二人で、Dを雇おうじゃねえか。こりゃ凄いガードだぜ」
「そんなお金がどこにあるのよ、莫迦《ばか》」
「なんだと」
二人の戦闘士を、ふたたび殺気の糸がつないだ。
薄闇を光が交差した。美しい音が鳴った。
抜き打った刀身を、ストライダーは鞘に収めた。
「残念だったな」
得意満面の笑顔になる。
「おめえの武器はおれを避《よ》けてったぜ」
スタンザの放ったひょう(※)を彼は抜き打ちで二つに割ったのである。
スタンザがにやりと笑って、右の頬に人さし指で触れた。
意味ありげなと言い、自分の頬に手を当て、ストライダーは息を呑んだ。指は鮮血に濡れていた。
「避けたのは半分だけ。後の半分――その気になったら、ここよ」
スタンザの指が額を叩くのを見つめるストライダーの顔が悪鬼の形相に歪んだ。
スタンザの微笑が消えた。
ため息ひとつで生死を分かたんとする二つの殺意を、氷の声が尋常に戻した。
「二度とは言わん。出て行け」
二人は一斉にDの方を向いた。殺気に猛っていた眼から、すうと生気が抜けていった。
声もなくドアの方へ向かった。
ドアが閉じてから、
「身の程知らずどもが――もっとも、ああいうタイプでなければ、フローレンス街道などを通ろうとは思うまい」
嗄れ声である。
「あの調子では、まず同行するだろう。だが、単なる救出劇にはならんと心得ておるものか。何にせよ、町長が指定してきた出発時刻は明日の朝だ。それまでゆっくり休んでおけ。――おい、何をしておる?」
Dは壁際に置かれていた鞍と旅行バッグを手にしたところだった。
「これから発つ」
「何ィ?」
「足手まといが多くなりそうだ」
「それはそうだが、しかし――ぐえ」
左手をきつく握りしめてから鞍を掴み、Dはドアへと向かった。バッグは肩にかけてある。
ベルの音が足を止めた。
壁に電話器がかかっている。この町は全家屋に電話器が備えてあるのが自慢だ。発電所は西の砂漠にある。
Dは左手の鞍を下ろして受話器を耳に当てた。
「町長じゃ」
と聞こえた。
「一応、あの二人も同行させて欲しい。これは命令と思ってくれたまえ」
「足手まといだ」
「町としては念を押したいのだ」
町長の声は震えていた。相手が相手だ。
「百万ダラスはそれもコミの報酬と思ってもらいたい」
「では別の人間を捜せ」
「それは困る」
「なら、口を出すな」
「――わかった。まかせよう。だが、彼らが後を追っても仲間同士で殺し合いは困るぞ」
電話が切れる前に、Dは受話器を置いた。
「盗聴とは洒落た真似をするな」
と左手が面白そうに言った。そばで聞き耳をたてていても、ひとことも耳に入るまい。彼とDのみに伝わる神秘的な会話であった。
「どうする?」
「予定通りだ」
Dの返事に、声が[#「声が」に傍点]にやりと笑ったようである。
「では、な」
Dの左手首が骨ごめに腕から離れたのは、次の瞬間だった。
床の上で、それは器用に指を動かしてソファの下へ潜りこんだ。
手首から先のない左手をコートのポケットへ入れ、Dはドアへと向かった。
少し前で止まり、横へのいた。
猛烈なノックの音に、ソファの下から嘲笑のような笑い声が洩れた。
「当分、ここで暮らすか」
殴打はすぐに熄《や》み、代わって、破《わ》れ鐘のような声で、
「おい、いるかあ?」
と来た。
続いて、狂気じみた勢いでドアノブが回転する。それがねじ切れる前に、
「何の用だ?」
Dが訊いた。
声に歓喜が満ちた。
「おお、いたか。おれだよ、覚えてるか?」
「おれ[#「おれ」に傍点]ではわからん」
「わからん奴だな。昨夜、おまえが改造人間を始末したとき、横丁の奥にいただろ。おまえならわかると思っていたが」
「あのでかい[#「でかい」に傍点]男か」
声はソファの下からした。
「おっ、声を使い分けるのか、さすがはDと呼ばれる男だな」
心底、感嘆しきった声である。
「それを見こんで頼みがある。開けろ開けろ開けてくれ」
またドアが殴られた。部屋が揺れた。
「開けてやったらどうじゃ? このホテル、意外と安普請だぞ」
Dはドアノブに手をかけた。どこか憮然としていた。
分厚いプロテクターをつけた肉の壁が、のっそりと入ってきた。
身長二メートル、体重は二百キロ。プロテクターも手甲も、これくらいになるとすべて特注だ。もっとも一流の戦闘士なら、全員そうである。Dの立つ左側の壁の方を横眼で眺め、
「いきなり殴るのはなしだぞ。おお、いたか。よろしく頼む頼む頼む」
いきなり手をのばした。握手のためだろう。
ここでようやくわかったらしい。すぐに戻して、
「いやあ、失礼。誰にでも右手を預けるようじゃ、ハンター失格だわい」
腹をゆすって笑った。根っから陽気なでぶ[#「でぶ」に傍点]らしい。
「何の用だ?」
「頼みがある」
せり出した腹を、ミットみたいな手がばんばん叩く。自慢なのか気になっているのか、よくわからない。でぶはみなこうだ。
「断る」
「聞いてから、そう言いな」
と巨漢はにやにやした。
「――何だ?」
「まあ待て。まず、こっちの要求をしてからだ。これから、おれと一緒に行って欲しいところがある」
「断る」
「どうしてだ?」
心外だという表情《かお》になった。相手の都合は、あまり構わないタイプらしい。
「急ぎの用がある。行くぞ」
「待て待て。あんたにも得になる話だ。実は――」
聞き終えて、Dはまた、断ると言った。
「ただとは言わねえ。フローレンス街道にある吸血城について教えてやるぜ」
Dの眼が光った。
「嘘じゃねえ。おれは十三年前あの城を訪れて生還した、ただひとりの生き残りだ」
「名を言え」
とD。
「な、なぜだ?」
巨漢は動揺した。
「確かに七人のハンターが城を訪れ、ひとりだけ戻った。特異な名前の男だ――言え」
「むむむ」
Dはドアの方へ歩き出した。
「わわわかった。――――だ」
「聞こえんな」
「ベアトリスだ」
「………」
「ベアトリスだよ」
「よかろう。ただし、付き合えるのは一時間だけだ」
巨漢――ベアトリスが告げた場所は、サイボーグ馬を飛ばしてそれくらいかかる。
だが、巨漢は破顔した。
どぉんと胸を叩いて、
「よっしゃ、決まった。おれに遅れず、尾いてきな」
ホテルの支払いを済ませて外へ出ると、Dは歩いて五分ほどのサイボーグ馬の調整屋を訪ね、預けておいた馬を受け取った。ベアトリスは自分の馬を連れている。
「やっぱり、大した色男だな」
調整屋の前で馬にまたがると、髭のベアトリスがしみじみと洩らした。
「ホテルのフロントも、いまの調整屋も、大の男が死んだみてえにうっとりしてた。男の勝負は生まれたときに決まってるって、本当だな」
「行くぞ」
Dが手綱をふった。
「おかしな頼みを受けたな」
町長は、両耳からばかでかいイヤホンを外し、後ろに立つ秘書を見つめた。
「だが、抜け駆けは許さん。すぐに人をやって――おや?」
イヤホンから洩れる声に気づいて、また耳に当てる。
ホテルの部屋に仕掛けてある盗聴器はひとつではない。Dとベアトリスが出て行って二分とたっていなかった。
そのひとつが、再び開くドアの音を聴き取ったのである。
「戻ったらしいな。二人ともいるぞ。ほう、明日まで待つことにしたらしい」
鼓膜をゆする声は、
『ホテルの外には、町長の見張りがいるしな』
これはDの声だ。
『そうとも、あわてる必要はねえさ』
とベアトリスが応じて、
『そもそも、なんでこの町の自警団が救出に向かわねえ。上に立つ者が能がねえからさ。あの町長なんざサイテーだぜ』
『全くだ』
Dが同意した。
『女房や餓鬼の顔までわかるだろ。あの貧相町長。ありゃ、生まれつきロクなもンを食ってこなかった証拠さ』
Dが拍手をしたようである。
そばにいた係員が町長の様子に気づいて、
「代わりましょうか?」
と申し出た。眼が血走り、額には青すじが走って、止めを刺すようにぴくぴく動いている。
返事もせずに町長はイヤホンを耳に当てつづけた。手が震えている。
『人間、餓鬼の頃からいーもン食ってねえと、品性に影響する。あの町長はあれだな、毎日、石みてえなパンと水だけだな。顔に品てものがねえ』
がっはっはとベアトリスが笑ったところで、町長はイヤホンを床に叩きつけた。
様々な復讐の手段が脳内を駆け巡ったが、目下、美しい吸血鬼ハンターに頼るしかないのは、火を見るより明らかであった。
「こちらへどうぞ」
ベアトリスから用件を聞いた受付の女性が立って案内してくれた。
顔は半分とろけている。真正面からDを見てしまったのだ。
長い廊下を通って、院長室とプレートが貼りつけられたドアの内部《なか》へ通された。
窓を背に小さなデスクと粗末な応接セットが横並びになり、デスクの向うから、小柄でふっくらとした感じの老婦人が立ち上がったところだった。
「ノーマンランド孤児院院長のミス・マンプルでございます。こちらは副院長のミセス・デノン」
デスクの横に立っていた長身で骨太の女が頭を下げた。こちらは厳格な女教師のイメージが強い。
マンプル院長はぷくぷくした指で、机上の書類に眼を通し、
「当院のフランコ・ギルビーにご面会の希望でしたね。ええと、そちらが――」
驚きの眼差しで髭面を見上げ、
「ベアトリスです」
とうなずくのを確かめ、小さく頭をふって、
「ご職業は――教師?」
「はい」
ミス・マンプルはちょっと首をかしげてから、
「そちらは――?」
とDを見た。頬が染まっている。
「ああ、おれ――いえ、ボクの弟子です、はい」
「それは――まあ、お美しい方ですこと。ねえ、デノンさん」
「あ、はい」
女教師の分厚い眼鏡レンズの奥の瞳にも、黒衣の姿が灼きついている。
「受付から連絡を貰って調べますと、フランコ・ギルビーは目下、体育の授業中です。終わりまで待っていただけませんか?」
ベアトリスは困って、
「いや、あの、時間がねえ――ないんですよ」
「あの子は当院を代表して、サッカーの辺境区大会に出場します。いまが一番大事なときです。お待ち願えませんか?」
「いや、いいんでさ――いいんです。元気にやっててくれりゃ、こちとら――こちらは何も。これで失礼します。あ、これを寄付させて下さい」
彼は上衣の内ポケットから小さな皮袋を引っ張り出してテーブルに置いた。硬い音がした。
「大した額じゃありませんが」
「そんな」
院長はあたたかい笑みをむさ苦しい巨体へ送った。
「お恥かしい話ですが、当院はいつも窮乏状態にあります。遠慮なくいただきますわ。あなたに神のお恵みを」
と袋へ手を伸ばして、ベアトリスの表情に気がついた。
「どうかなさいまして?」
「いや――一枚返してもらっていいですかね?」
「勿論です」
「いや、その、昨日、博打を打って財布をはたいちまったもんで。まことにみっともない話ですが」
デノン副院長は、いかにもこの女らしく、罰当たりがという表情になったが、院長はにっこりと、
「正直な方ですこと。さ、お取り下さい」
と、うなずいてみせた。
「どーも」
でかい身体をすくませながら、ベアトリスは袋を開いて、金貨を二枚取り出すと、苦渋に満ちた表情でそれを見つめ、うむとうなずいて一枚を戻した。
笑いをこらえて、マンプル院長は丁寧にお辞儀をした。
「デノン先生、これを」
と皮袋を副院長にまかせ、
「で、フランコ・ギルビーとは、どういうご関係でしょう?」
と訊いた。
「いえ、その子の父親に頼まれましてね」
「フランコに父親が?」
「ええ、まあ」
「何処で何をしている方でしょう?」
ベアトリスはあたふたと、
「いやあ、その――大したことはしてません。旅の絵描きです」
「まあ」
「ひと月前、東部辺境区のある町で知り合いになりましてね。それでこの金貨を託されたんですよ。いや、絵描きというのは、銭――金になるものですな。正直、困ったんですが、十年も前に自分が捨てた子が、こちらの孤児院にいる。自分には合わす顔がない。せめて、立派に成長してるか見てきてくれと――ま、こういう次第で、へえ――いや、はい」
「なら、ごゆっくりと」
「いえ、ボクらも急ぐ身で」
「わかりました。では、呼んで参りましょう」
と二人にうなずくや、
「いえ、その、遠目からで結構。頼まれたことですから、話す必要もありません。奴さんには手紙で知らせてやりゃあいいと思います」
ミス・マンプルは妙な表情になったが、こういう要求も時にはあるのか、すぐに立ち上がった。
「では、ご一緒に。デノン先生も」
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第三章 妖兵伝説
四人は中庭へ出た。
思うさま切り拓いたと思しい平地のあちこちで、子供たちが走り廻っている。
彼らを観察していた院長の眼が、ある一群で止まった。
指さして、
「あの中で一番小柄な子が、フランコです」
と言った。
蹴っているのが皮製のボールでないのは、ひとめでわかった。ろくに弾まない弾性布を巻いただけの品は、それでも少年たちに蹴られると、勢いよく宙に舞った。何人もが走り寄る。その誰かの足がボールを蹴ると見えた瞬間、彼らの間から疾風のごとく跳び出した小さな影が絶妙の足さばきでボールを奪い取り、木枠をくっつけただけのゴールへと蹴り放った。キーパーが横っ跳びに跳んだが、のばした手との間に十分な隙間をつくって、ボールはゴールを抜けた。
周囲の見物人から大歓声が上がる。味方が抱きついた――と見ると、敵側の選手も一斉に駆け寄って、白い歯を見せて笑う少年の肩を叩いて去る。みな、笑顔だった。
「あれ[#「あれ」に傍点]ですか?」
ベアトリスが訊いた。
「間違いありません。呼ばなくてもよろしいんですの?」
返事はなかった。
髭面の大男はそこに自分しかいないように見えた。
まぶしそうに細めた眼の先で、小さな少年がまたボールを蹴った。みながそれを追っていく。歓声が湧いた。
院長が静かに話し出した。
「あの子は、あなたがお父さまから伺った年に、当院へやってきました。三歳でした。私たちは『勝負の年齢』と呼びます。それまでにどんな風に扱われたかで、子供の人生は半ば決まってしまいます」
「そうですか」
ベアトリスは納得したように言った。
「で、あの子はどうです?」
「フランコ・ギルビーのご両親は立派な方に違いありません」
こう言ったのは、冷たい女教師だった。マンプル院長もうなずいた。
「ここへ来てからのことは細かく申し上げません。ただ、私たちスタッフ全員が納得していることだけをお伝えします。フランコ・ギルビーは、今、年少組の面倒を見ています。普段は一緒に泥にまみれて遊び、間違ったことをした子は平気で叩きます。相手が年長だろうとそれは同じです。そして、彼らのいいところを見つけては必ずほめようとします。きっと、あの子はそういう風に育てられたのです。人間《ひと》は、怨みや憎しみを忘れないどころか、他人も同じ目に遇わせてやりたいと考えるような生物ですが、同時に、感動や嬉しさも伝えようとする素晴しい精神《こころ》も持っています。重ねて申しますが、あの子はそういう風に育てられたのです」
「ミセス・デノンの言うとおりですわ」
とマンプル院長が引き取った。
「もし、あの子のご両親が健在で居場所が知れたなら、私たちは何をおいても当院へ招き、教えを請うでしょう」
Dはベアトリスを見た。
彼は黙っていた。少し間を置いてから、
「おれは反対ですね」
と言った。
「三つの子供を捨てていくような親ですぜ。それまでがどうとかじゃありませんや。そいつらは人間の屑ですよ」
院長と副院長は顔を見合わせた。
「フランコ・ギルビーは成績優秀につき、幼年部の何名かと近々『都』の専門学校へ進学が決まっています」
と院長が言った。
「学費は自己負担になりますが、あの子なら何とかするでしょう」
戻りましょうかと切り出したのは、ベアトリスだった。
見送る二人の姿が見えなくなってから、ベアトリスは、
「これで気が済んだ。礼を言うぜ」
ウィンクをしてみせた。晴れ晴れとした表情である。
Dが言った。
「あれは、おまえの子だな」
「阿呆か、おめえは」
髭面は吐き捨てた。
「あんな出来のいい餓鬼がかよ。んなわけねえだろ。もっとも、子供を捨てるような親の伜《せがれ》だ。ロクなもんじゃねえかもな」
「………」
「それより、あんたこれからフローレンス街道へ救助に向かうんだろ。約束どおり、情報を教える。おれも連れていけ」
「足手まといだ」
「別の情報も教えるぞ。おっと、怒るな。ほら、気[#「気」に傍点]を受けるだけで、腕の毛が逆立ってる。だが、目下のおれは文無しだ。救助隊の報酬が欲しい」
「額は随分と減ったらしいぞ」
「ま、仕様がねえやな。しがない戦闘士にとっちゃ、それも大金さ」
「約束を果たせ」
「おいよ――吸血城の話だったな。これを持ってけ」
とぼろぼろのメモ帳を懐から取り出して、Dに手渡した。
「あのときの記憶が残らず書いてある。城から戻ってしばらくの間、おれは四十度の高熱にうなされてた。その中で書き記したものだ。悪いが、どれくらい確かかはわからねえ。熱が引いたら、城での記憶はすべて失われていた。違ってたら済まん」
Dはメモの一頁めに視線を注いでいた。
無言でコートの内側にしまった。
「合格か。ありがとうよ」
返事の代わりにDは手綱で馬の首を打った。
「ま、待ってくれ。他にもあるんだ」
ベアトリスの声がみるみる遠ざかっていく。
普通の騎馬で一時間の道を十五分で駆け抜け、前方にボセージの町並みが見えてきた。
Dは馬を止めずに疾走した。
町のメイン・ストリートを行く人々には、黒いつむじ風と映ったかも知れない。
ホテルの前で、スピードを落とす。左手を上げた。
二階の窓から肌色の塊が跳躍した。
それは手首から先のないDの腕に吸着し、復元を成し遂げた。
「うまくいったか?」
こう訊いたときにはもう、全力疾走に移っている。
「まかしておけ。町長め、わしらとあの女名前が、まだあの部屋で、自分の悪口を言っていると思っておるわ」
盗聴器が町長の耳に伝えた罵詈雑言は、左手の腹話術だったことは間違いない。しかも、同時に複数の声音《こわね》を模写し得るらしかった。
「おまえの方はどうした?」
Dはベアトリスからの情報だけを伝えた。メモは読み終えたらしい。
嗄れ声が、
「気の早い奴じゃの。他のを聞いてからでも遅くあるまい」
「真偽は五分五分だ」
とDは答えた。周囲で風が恍惚とちぎれ飛ぶ。
「どちらにせよ、信じて行動するようなおまえではないから、まあよかろう。だが、城中に満ちた妖気で次々に仲間が廃人と化していったというのは、充分に信憑性があるぞ。フローレンス街道に漲る妖兵どもが復活したのは、大公の妖気の復活を意味する」
Dは黙って前方を向いている。いかなるものの復活であろうと、この若者の冷厳さを揺るがすことはできないのだ。
人馬はフローレンス街道へ入った。
別名――「傭兵街道」
現在は、こう呼ぶのがふさわしい。
――「妖兵街道」
全長七〇〇キロに及ぶその道は、貴族によって人間用に設けられたものである。
ドルレアック大公と呼ばれた彼は、溺愛する妻とひとり息子とともに広大な館に住み、夜ごと絢爛たる夜会を催しては、近隣の人間たちを血の贄《にえ》に捧げていたという。それが五千年前のある日。壮大な軍勢が街道を埋め尽し、人々が戦乱の脅威に身をすくませた夜、予想どおりの鬨《とき》の声、怒号と悲鳴、銃声と軍馬のどよめきが入り乱れ、一夜にして消滅した。
街道は兵士たちの死体で満たされ、城からは大公一家のみならず、膨大な召使いたちの姿も消えていた。何が起きたのかはわからない。巨大なものの手が死の風を送って兵士たちを斃し、大公一家を連れさらったかのような怪事に、人々は歓びの声を上げた。
しかし、城には何かが残った。訪れる者は戻らず、ついに廃城と化したまま時間《とき》が流れたのである。街道の周囲には人が住み、年老い、死んで、時間《とき》は五千年を数えた。
そして、今――
山の端《は》に朱色が滲んでいた。沈む陽の最後の光が、街道の端に建つ農家を気弱に照らしている。
その前でDは馬を下りた。
「町長に貰った地図によれば、コグアイ家じゃ。五人家族だが、ボセージの町へやってこないところを見ると、やられたな」
すると、町から一二〇キロばかり離れたこの辺りが、魔界と人間界との境界線ということになる。
窓から明かりは洩れず、煙突から夕餉の煙も昇っていない。家自体の佇まいが尋常なだけに、不気味さが募る。
Dは無造作に玄関のドアへと向かった。
ドアノブを掴んで引いた。
ドアには、来訪者を告げるドアベルがついている。この家は鈴だ。風が吹いても鳴り渡るそれは、かすかな音も立てなかった。
Dは内部《なか》へ入った。
すでに嗅いでいた血臭が押し寄せてきた。
前方に居間が広がっていた。
ソファや椅子、テーブルが並んでいる。ついでのように、人間も転がっていた。
薄闇の中でも絨毯は朱色に染まっていた。
絨毯を踏めば、五人の全身から吸い取った血潮を吐き出すに違いない。
「両親に子供が三人――いちばん若いのは四歳の娘か。酷《ひど》いことをする」
左手が、Dにしか聞こえぬ声でごちた[#「ごちた」に傍点]。
「犯人は、楽に殺してやるわけにはいくまい。さて――」
Dの右手が閃いた。
青い闇を白光が裂き、広間の右方――キッチンの方で固い音がした。
「反応はなし、か。次じゃな」
風が鳴った。
二本目の白木の針は、正面の戸口を抜けて奥の部屋に消えた。
「――次じゃ」
三本目を迎えた部屋には、戸口から壁を埋める本棚と書物が見えた。図書室であった。
何処かに突き刺さる音がした。
「ここもなし、か」
と嗄れ声が言った。
「あとは奥と二階じゃが」
Dはもう左方の階段のところへ歩み寄っている。
「おまえの殺気を孕《はら》んだ針だ。刺さらなくとも、隠れておる奴の血は凍り、心臓は止まりかける。殺人獣でも耐え切れずに跳び出してくるじゃろう。やはり、ここもおらぬか」
Dは音もたてずに階段を上がっていく。
その背後で、転がる死体のほぼ真ん中に当たる床が、ひっそりと持ち上がっていくではないか。
それは、床と同じ色の布を被ったひとりの男だった。腰だめに散弾銃を構えている。
「いいや」
と階段の中央で嗄れ声が聞こえた。
「まだ、ここが残っておるわ!」
声と同時にひとすじの光。
雷鳴とともに、十五発の散弾《ばらだま》が階段へ食いこむ。
躍り上がった空中で、Dは五度《たび》、右手をふった。
あらゆる色彩と同化する幻色の隠れ蓑――カメレオン・シートをまとった男は、すでに床に溶けている。だが、今、立ち上がった絨毯を、白い糸のような針が貫いた刹那、ぎゃっと悲鳴を上げて、玄関ドアの前の床が跳ね上がった。Dの殺気をこめた針の力だ。
絶叫を放ちつつ二発目の引金を引く前に、六本目の木針が、その鳩尾を背中まで抜けた。
どっと倒れた男に駆け寄り、散弾銃を蹴りとばすと、Dはその喉元へ、抜き放った刀身の切尖を突きつけた。
「置き去りにされたか」
あまりにも見かけと違う嗄れ声に、男は蝋のような顔を上げた。すでに死相である。
Dは男の下腹に眼をやった。針のものとは異なる大きな血の染みが、シャツを染めていた。刺し傷が見て取れた。
「助けて……くれ……」
と男は泣くような声で哀願した。
「話せば医者を呼んでやる」
と嗄れ声が言った。
「人質の処分と……分け前で……トラブった……おれはさっさと殺して……逃げようと言ったが……ゼノンは……聞かなかった。なら……分け前を寄こせ……と言うと……いきなりやりやがっ……た。おれは……ろくに……戦えなかった……右手がこのとおり……なんでな」
男のそれは肘から先が消えていた。
「奴らが……置いてったのは……その……シート……と……銃だけ……だ……おれたちの……ために……追手を……食い止めろ……だとよ……畜生め」
「逃亡先は何処だ?」
これはDの質問であった。男の濁り切った眼が、大きく見開かれた。苦痛のさなかで、死相は恍惚と崩れた。
「とんでもねえ……色男が……いるもん……だ。いいとも……教えて……やる……よ……その顔に免じて……な……あいつらの目的地は……ドルレアックの……城だ……そこにある武器や……メカニズムを……使って……追手を……」
男の声が急に途切れた。それでも、必死に瞼をこじ開け、
「おれは……スキューダ……だ。冥土の土産に……あんたの……名前を……」
「D」
言うなり、刀身は殺人者の喉を床に縫いつけた。
「当然の報いじゃの。姿は消せても、殺気と恐怖は消せん。床に溶けているなど、とっくにお見通しじゃ」
Dは刀身を収め、左手を持ち上げた。手のひらを見つめる。
奇怪な顔が出現した。
「急いで追おう――と言いたいところじゃが、これより先は妖兵どもの巣じゃ。ほうれ、妖気が吹きつけてくるぞ。幸い、伝説どおりなら、奴らの守備範囲は街道とその周辺だけじゃ。離れた町や農家なら問題はないが、それにしても、四人組――もう三人じゃが――と、いるかどうかもわからぬ生存者を救出しても、生還させるのは、これは難儀中の難儀じゃぞ。おまえひとりなら、何とでもなるじゃろうが、それこそ足手まといが腐るほどおってはのお。いっそ、生存者がいなければ楽じゃの。残り三人と大公とやらを始末すればよい。ぐええ」
左手を頑丈に握りこんで、Dは外へ出た。
この家族を惨殺した後で、三人の無頼漢どもは、妖兵蠢く死の街道へ突っ走っていったものと思われた。
『廃墟』――ドルレアックの吸血城へ生きて辿り着けたかどうか。
万にひとつ可能だったとしても、そこに待つのは、死に勝る恐怖の運命に違いない。
そして、どのような運命でも、Dは平然と受け止めるのだった。
サイボーグ馬にまたがったとき、白いものが前方から流れてきた。
霧である。
「いよいよ来おった。気をつけい」
Dは疾走を開始した。
空気と霧が肌にまつわり、ちぎれ飛んでいく。
前方から何かが飛んできた、と知ったのは、Dゆえの超感覚である。
背中から滑り出した長剣が迎え討った。
霧の中でもきらめく銀糸の奔流――それに触れたもの[#「もの」に傍点]は、美しい響きを上げて打ち落とされた。
ことごとく路上へ転がり突き立ったそれ[#「それ」に傍点]を見て、
「吹き矢か」
と嗄れ声がつぶやいた。
円錐型の胴の先に、二〇センチほどの針を突出させた武器である。
弓矢と異なり、音をたてぬため、近距離では恐るべき暗殺兵器となるが、これを放った敵は彼方にいるとDにはわかっていた。
第二陣は?
長靴《ブーツ》の踵が馬の胴を叩く――人馬は一体となって宙に舞った。
霧さえ讃えるその美しさよ。
着地と同時に全力疾走に移る。サイボーグ馬を狙った吹き矢は、すべて下方を通り抜けている。
「馬をやられると厄介だぞ。フローレンス街道を固める傭兵どもの吹き矢には、毒が塗ってあるそうじゃ。街道を出ろ」
言われる前に、Dは手綱を左へ引いている。
三度《たび》襲う吹き矢を打ち落とし、平原へ降り立つなり、斜めに突っ切る策を取った。
だが、霧はいっかな晴れず、視界は白一色のまま蜿蜒《えんえん》と続いていく。頼りはDの勘のみであった。
三十分ほども街道と並行に走ったか。不意に霧が晴れた。
Dの眼が細まる。
「あれま」
嗄れ声が上がった。
「何たることじゃ。わしと――おまえさえたぶらかすとは」
サイボーグ馬に制動をかけたのは、先刻脱け出した農家の前であった。
「あの霧に巻かれると、方向感覚が麻痺してしまうらしいの。逆戻りと来たか」
「処分できるか?」
とDが訊いた。
「何とかの。できんと言っても、させるつもりじゃろ。――聞こえるか?」
Dはうなずいた。
「奴ら、笑っておるぞ。まんまと嵌まった間抜けめ、とな」
嗄れ声はDへの叱咤と揶揄を含んでいたかも知れない。
サイボーグ馬が地を蹴った。
今度は平原へと避けなかった。
真っ向から街道を直進する。
霧が押し寄せてきた。意志あるもののように陣形を整え、四方から騎馬を呑みこもうとする。
白い色に溶ける寸前、Dの姿は巨波《おおなみ》に巻きこまれるはかない人影のように見えた。
異変は次の刹那に生じた。
霧がある一点に流れ出したのだ。
その点は疾駆するサイボーグ馬の速度で移動しつつ、巨大な漏斗状の窪みを形成していった。渦巻く霧が、今、自らに生じた大渦に吸収されていく。
霧の最後の一片が呑みこまれるまで約一分――Dは二キロを走破し、なお疾駆を続けていた。
左右をおびただしい気配が移動中だった。
吹き矢の主だ。迷いの霧を発生させた連中だ。妖兵どもに違いない。
「出て来おったぞ。面白くなってきた」
嗄れ声は、はしゃいでいるようだった。
Dは眼よりも耳に、耳よりも第六感ともいうべきものに索敵を委ねていた。
甦った妖兵たちが、街道すべてに展開している時間はまだないはずであった。
今、彼を妨害しているのは、一種の偵察隊に違いない。部隊である以上、指揮系統に従って存在するはずだ。Dが狙っているのは、トップを含む中枢部の破壊だった。
左右から吹き矢の雨が降ってきた。
Dは左手を上げた。
その手のひらに浮かび上がった人の顔は、不気味なにやにや笑いを灼きつけている。
白煙がDと馬を包んだ。
吹き矢は正確に走る人馬の位置へと集中し、白い霧に呑みこまれた。
霧内に突入した吹き矢がすべて消失したことを、Dは知っていた。
左手の口から噴出した白霧は、Dの方向感覚と等しく、吹き矢のそれをも狂わせたのである。
これがあるからこそ、Dは街道の中央突破に挑んだのだ。
「おや」
と左手が意味ありげな声を出した。
Dにもわかっていた。
前方五〇〇メートルばかりのところに、巨大な質量を伴う物体が停止していた。
「思ったより、重装備だの。あれは陣地だぞ」
「迷わせられるか?」
「向う次第じゃな」
嗄れ声が重々しく言った。意味はすぐにわかった。
前方からふたたび白煙が吹きつけたのである。
霧と霧とがぶつかったとき、それは迷いの効果を失った。
飛来する吹き矢を打ち落とすや、Dは一気に馬を跳躍させた。
前方にそびえる二メートルほどのバリケードらしきものを軽々と越える。組み合わせたスチールのパイプに鉄条網を絡みつかせた古典的なものだ。
着地と同時に、霧は消えた。左手も吐いていない。Dの指示ではなかった。阿吽《あうん》の呼吸だ。
灰色の軍服をまとった影たちが入り乱れ、逃げまどう。Dの侵入を予想もしていなかったのだ。
攻撃は十秒以内に開始されるだろう。それまでが勝負だった。
周囲の敵にDは眼もくれなかった。目標は一〇メートルほど前にそびえていた。
鉄板を不様に打ちつけた古代船の艦橋を思わせた。
物理的美的均衡を無視した凹凸部のあちこちに窓と銃眼が開き、砲身や銃身がハリネズミのように四方を威嚇している。
それらがこちらを向く前に、Dは馬から身を躍らせた。
戦車というより要塞《トーチカ》であろう。それにしては雑な造りであった。
よじ昇るための凹凸だらけの上、あちこちに扉《ハッチ》が嵌めこまれている。
Dが舞い降りて、足下の扉の把手に手をかけるや、かたわらの砲身が勢いよくこちらを向いた。
砲口径は七センチある。いかにDとはいえ、直撃を食えばばらばらだ。
左手がそれを掴んだ。
砲の稼動は数馬力のモーターで行う。それがあっさりと下方へねじ向けられた。Dの左手ならではの怪力であった。
ドン、と一発出た。鼓膜を突き破る轟きと衝撃にも、Dはまばたきひとつせず、陣地内に噴き上がる火炎と土砂の奔騰《ほんとう》を見た。
下方から飛んでくる吹き矢をコートの裾で打ち落とし、扉を引いた。ボルトが次々に吹っとぶ。
下の連中は、それなりに準備を整えていたようだ。
分厚い扉が紙みたいに持ち上げられると同時に、火薬銃を手にした兵士が顔を出す。血の気を失った蝋細工のような顔は、仮面のように無表情である。
そいつが目標を定める前に、Dは襟首を掴んだ。ひと呼吸する余裕も与えず丸ごと引きずり出して投げとばす。そいつは手足をバタつかせながら、一〇メートルも向うへ落ちていったときにはもう、黒衣の姿は要塞の内部へ吸いこまれている。
銃声が轟き、悲鳴が上がった。
陣地内を右往左往していた兵たちが要塞へ走り寄る。
うち何名かがその扉へ辿り着いた瞬間、黒い稲妻が躍り出た。
空中でコートの裾を羽根のように広げたDに変身する。
右手の一刀がきらめく、その美しさ――妖兵たちは茫然と見上げた。
Dが着地する前に、要塞は爆発した。
爆風と鉄の破片が兵たちを薙ぎ倒し、バリケードを吹きとばす。
着地したDへ、ふくれ上がった火炎が押し寄せていく。
左手が上がった。
見よ、数千数万度に達する灼熱の炎がすぼまり、一線となり、手のひらに吸いこまれていくではないか。その速度《スピード》こそ怖るべし。一メートルの距離まで迫った炎塊流は、ついにDの身体に触れることもなく消滅してしまった。
Dは直立したまま周囲を見廻した。
地に伏した妖兵たちは、次々に消えつつあった。
全身の輪郭が崩れ、ガス塊となり、風にちぎれていく。
「一度死んだ奴も死ぬか」
左手がげっぷ[#「げっぷ」に傍点]を洩らした。
五メートルばかり向うにひとり蠢いているのを認め、Dは近づいた。
目鼻立ちは人間だが、苦しんでいるはずなのに、無表情なのが不気味だった。
「放っておけば死ぬぞ」
と嗄れ声が言った。
「質問に答えれば、手当てをしてやろう。おまえたちを生き返らせた者の正体と、目的を言え」
唇のない、裂け目のような口が、ぼそぼそと開閉した。
「死ヌ……ノカ?」
「そうじゃ」
「ヨクワカラナイ……オレハ死ヲ……味ワッタコトガ……アルノカ?」
「そうじゃ」
「ワカラナイ……何モ……怖クナイノダ……普通ハ……怖イノ……カ?」
「そうじゃ」
「オレハ……戦ウタメニ……甦ッタ……戦エナクナッタラ……死ヌシカ……ナイ」
「だから、生き返らせた奴の正体と目的を言え。まだ生きられるぞ」
兵士の緑色をしたガラスのような眼の中に、Dの美貌が映っている。すでに生気を失った瞳が、急激に色彩を取り戻した。
「オマエ……美シイ」
と乾いた口が言った。
「キレイダ……オレハ……生キテイタクナッタ……」
「なら、しゃべるがいい」
「……死ニタク……ナイ……助ケテ……クレ……オレタチヲ……甦ラセタ……ノハ……」
「おお」
と左手が口もとに近づき――急に心臓の上にあてがわれた。兵士が痙攣したのだ。断末魔であった。
二秒とたたぬうちに、ガス化した全身は風に白い色をつけた。
「間に合わなんだ」
嗄れ声が忌々しげに言った。
「それでも、お前の顔のせいで、間際に感情を取り戻したぞ。いい男、怖るべしじゃな。――ぎゃっ!?」
握りしめた左手を垂らしたまま、Dは立ち上がった。
バリケードや要塞の破片に変化はない。
「これは、ありもの[#「ありもの」に傍点]を引っ張り出してきたようだな。だが、真に怖るべきは――」
「死を忘れた兵士か」
Dの声は、死の世界を陰々と渡った。嗄れ声は懲りなかったらしい。
「そうじゃ。脅しは効かん。いや、おまえがキスのひとつもしてやれば――ぎゃっ!?」
さっきの倍くらいに強く拳を握りしめながら、Dは後方から近づいてくる足音を聞いた。サイボーグ馬であった。
Dは素早く馬上の美影身と化した。
「道は険しいぞ。次はどんな奴らが待っておることか。どうだ、怖いじゃろう?」
無論、Dは三度《たび》拳を握って、馬を駆りはじめた。
五〇キロほど進んだところで、道の左方に工場らしい建物が見えはじめた。
「確か廃棄された土流エネルギー製造工場じゃぞ。はて?」
赤錆びた工場の煙突から、黒煙が立ち昇っている。
それどころか、明らかに数キロの距離を隔てて、Dの耳は工場の稼動音さえ聴き取っていた。
工場の周囲に置かれた物体へ眼を凝らすDへ、
「わかるかな?」
と嗄れ声が訊いた。
「ミサイル搭載車輛だ」
「しかり。あの工場も奴らの陣地だの。だが、この音は? 工場を再稼動させて、何をしようというのか? 何にせよ、迂回せねばなるまい」
Dは答えない。
黒瞳は別のものを見つめていた。
工場の裏手から、甲虫《かぶとむし》に似た旧型モーター・カー一台が、こちらへ向かって疾走しはじめたのだ。
わずかに遅れて、三台の同じ車影と装甲車らしい影が後を追う。
「何じゃ、あれは?」
「内輪揉めではなさそうだ」
声より早く、Dは疾走を開始している。
旧型モーター・カーの最高速度は時速一五〇キロだが、Dの駆るサイボーグ馬は同じ速度を叩き出した。
三十秒とかからず、モーター・カーと交差する。
Dは止まらずすれ違った。風防ガラスの向うでハンドルを握っているドライバーの横顔が眼の隅をかすめる。
金髪の娘だった。
後続のモーター・カーから妖兵たちが顔をのぞかせた。どれも同じ――人形のような顔つきであった。
全員、手に手に長剣を閃かせてDに迫る。
四すじの動線が一点で交差した。
三台が次々に横転する。兵士たちはことごとく頚部を断たれていた。
一瞬の停滞もなく装甲車に挑むDの姿は、敵の真っ只中を透過してきた幻のように見えた。
砂煙が迫ってきた。装甲車の連射砲の着弾であった。
炎と砂塵に包まれる寸前、Dとサイボーグ馬はジャンプを強行した。
空中で装甲車めがけて跳び移ろうと体勢を整える。
頭上を聞き慣れた飛翔音が通過していった。
Dがサイボーグ馬もろとも着地した刹那、飛翔音は破壊音に変わった。
手綱を絞って馬を横倒しにしたDの頭上を、衝撃波と炎と死とが過ぎた。
馬はそのままに、Dは立ち上がって、自分がやってきた方角をふり返った。
街道の彼方を黒子《ほくろ》のような黒点がやってくる。
見ているうちに、それは大型のジープの形を取った。
Dのかたわらで停止するや、運転席の男がにんまりと笑った。
「Dともあろうものが抜け駆けするたあ思わなかったぜ」
ストライダーである。助手席で、
「人品を疑うわ」
こちらはスタンザがにらみつけてきた。
ジープの右サイドには縦長の墓石みたいなロケット・ランチャーが、左側には三連装のバズーカ砲が搭載されていた。発射煙を立ち昇らせているのは、バズーカの砲身であった。
「ほう、同盟軍だの」
嗄れ声が皮肉っぽく言った。
「抜け駆け野郎が何をぬかす」
とストライダーが拳でハンドルを叩いた。
「おれたちと一緒に行動するよう、町長からも命令されていたはずだぞ。おめえは卑怯者だ」
「卑怯者とは組めまい」
Dが言った。
「うっ」
「二人なら心強いだろう。しっかりやるがいい」
スタンザが眼を剥いた。
「ちょっと。そういう言い方はないでしょう。装甲車を破壊してやったのは、あたしたちよ」
「頼んだわけではない」
Dの返事に女戦闘士の眼に憎悪の光が湧いた。右手が腰へと滑る。
「よせよ」
とストライダーが止めた。
「それより、ありゃ誰だ?」
三人の眼は後方から接近してくるモーター・カーに集中した。
「戻ってきよったか」
と嗄れ声が言った。
頭上から音が降ってきた。
「逃げろ、ミサイルだ」
ストライダーがアクセルを踏むと同時に、五メートルばかり右方で爆発が生じた。
ジープが横倒しになる。
Dはすでに身を翻していた。
「あっちを助けろ」
運転席からふり落とされたストライダーが絶叫した。
続けざまの爆発がその叫びを吹きとばした。
底部に衝撃波を受けたジープが、二人の戦闘士の頭上でもう一度回転して地面に落ちる。
工場の方からおびただしい車影が砂煙を上げて近づいてくるのが見えた。
Dは馬を下り、横倒しのままのジープに走り寄った。
コントロール・パネルに嵌めこまれたミサイルのリモコンを外して、前方を見つめる。
「無駄なことをするな。あっちを助けろ!」
ストライダーの声は怒号であった。ジープのミサイルは肉眼照準だ。複数の敵を一気に殲滅《せんめつ》させるのは、狙いを定めても不可能に違いない。
いきなり、ランチャーが炎と白煙を噴出した。
間髪入れずに発射させられたミサイルは、二十発を下らない。
車輛そのものに命中したかどうかはわからない。だが、爆発したミサイルの炎は、敵の車影をひとつ残らず呑み干した。
醜悪なオレンジ色の炎塊の内部で、別の炎が膨れ上がる。それは正確に敵車の数だけあった。
「まさか――まとめて……」
茫然と呻くストライダーを尻目に、Dはもう一発放った。ミサイルは白い尾を引いて工場の建物に吸いこまれた。天地をゆるがす爆発が生じた。炎の柱が天空へと上昇していく。
Dもストライダーもスタンザもジープも、モーター・カーも吹きとばされた。まずジープとモーター・カーが落ち、大分離れて三人とサイボーグ馬が続く。
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第四章 イレーネ
ストライダーとスタンザは、身体を丸めて衝撃を避け、落ちるや地面に大の字に這った。衝撃を逃がすのに最適なやり方である。
頭上を灼熱の鉄片や溶けたガラス片、シリコン塊が飛んでいく。幾つかが背中の装甲に命中したが、何とか防げた。
衝撃と危険物の落下が去ってすぐ、ストライダーとスタンザは身を起こした。
まだ渦巻く風と砂塵から眼をカバーしつつ、Dとモーター・カーを探し求める。
彼方で黒いコートの裾が翻った。
Dはすでに、倒れたモーター・カーのそばにいた。
「また抜け駆けか。許さねえぞ」
燃え上がる残骸と化した工場の方へ眼をやりつつ走り出し、ようようDのもとへ辿り着くと、倒れた車体の下から、少女が這い出したところだった。
金髪の下の顔は青ざめ、左のこめかみから血が糸を引いているが、溌剌たる若さは隠しようもない。
「大丈夫?」
スタンザがまず訊いた。
「ええ」
娘は小さく答えて三人を見つめた。助けてもらったというには、似つかわしくない表情が顔を染めている。不信と疑惑だった。
「あなたたち――ハンター?」
ふたことめがそれだった。
「あたしと後ろのにやけたお兄ちゃんは戦闘士。黒い方はハンター」
「ありがとう――戻ってきてよかった」
ようやく礼を言ったが、さして感謝の風もない。
「ボセージの町から来てくれたのね。早く連れて帰って」
「せっかちな娘《こ》ね。少し話をしてからよ。私たちは、あなたひとりを助けにきたんじゃないの」
「そういうこった」
ストライダーが、表情をこわばらせた娘へ微笑した。
「おれはストライダー、こっちのおっかねえお姐さまはミス・スタンザ」
ここまで言って、少女の変化に気がついた。
眼は虚ろに見開かれ、表情は恍惚色に溶けている。青い瞳に映っているのが黒ずくめの若者なのは言うまでもなかった。
「あなたは……?」
泣きそうな声である。
「D」
とだけ答えて、
「知っている限りのことを聞かせてもらおう。町へ行くのはそれからだ」
「いいわ……あなたなら」
「おい」
とストライダーが文句をつけた。
「こいつひとりで助けたんじゃねえぜ、お姐ちゃん」
その手をスタンザが押さえて、
「無駄よ。催眠術も使わないのに、お嬢ちゃんの精神《こころ》は彼のもの。――相手が悪いわね。ただし、D、情報は公開してもらうわ」
「断る」
「なんですって!?」
「おれたちは仲間じゃない」
「ちょっと待ちなさいよ」
「そうとも――おい、D、調子に乗るなよ」
血相変えた二人へ、
「おまえたちは、今、同盟を結んでいる。おれとは結ばなかった。それだけのことだ」
沈黙した二人など、もはやDの眼中にはないようであった。
「乗れ」
とサイボーグ馬を示す。少女は素直にうなずいた。町へ帰るより、美しいハンターといる方がいいらしい。
「ちょい待ち」
スタンザの声が、少女の歩みを止めさせた。
「生命の恩人に、自分の名前も教えないで行くつもり?」
両手は自然に垂れている。のばした指の裏に必殺のひょう(※)が秘められているのは言うまでもあるまい。
「ひとり勝ちは許さないわよ、D」
「そういうこった」
Dの背後にストライダーが廻った。こちらも長剣の柄に手をかけた顔は、覆いようのない暗い殺気を湛えている。どちらもやる気なのだ。
Dが応じれば、凄絶な死闘が展開するのは間違いない。また、Dならば応じるであろう。
死の風が砂塵を巻いて吹きすぎる荒野の一角に、すべての人影が凄愴な殺気に凝縮した。
尋常な世界を復活させたのは、意外なひとことであった。
「わかった」
と言ったのだ。――Dが。
スタンザが、え? という表情になった。ストライダーも眼を丸くしている。殺気は跡形もなく消えた――というのも、あっさりしすぎているが、要するに、二人ともそれくらいDとは戦いたくなかったのだ。
「とりあえず同行しよう」
Dの言葉に、ストライダーが大きくうなずいて、動揺を隠した。
「わかりゃいいんだよ、わかりゃあ。じゃあ、どっかで話を聞かなくちゃな」
「町へ連れてってよ」
娘が喘ぐように言った。殺気のせいでDの呪縛が解けたらしい。
「その前に名乗りなさいな」
スタンザが娘をにらみつけた。
「イレーネよ、イレーネ・スローカム」
「町長のところへ、傭兵復活の連絡をもたらした農家の娘さん?」
「そうよ」
三人の頭にこのとき、同一の考えが浮かんだ。
この娘、家族のことが気にならないのか?
「とりあえず、移動しようや」
ストライダーが、燃えくすぶる工場の方を見て、
「あの近くに火山や竜巻の緊急避難壕がある。無断で入っても文句はつけられないぜ」
壕の入口の盛り上がりは、巨石を積み重ねたものであった。
扉は鉄の板である。ごつい錠がかかっている。
「危《やば》いな。指紋錠だぜ」
ストライダーが舌打ちした。滅多に使用される品ではないが、村の食糧庫や金蔵など重要な場所の封鎖には時折使用される。指紋の主は代々の村長で、彼ないし彼女の死亡に際して、指紋は変更される。
「この鎖は太すぎるし――仕様がねえ、吹っとばすか。あの戦闘ジープ、ボセージの町からの借り物だが、マイトも積んであるぜ」
その眼の前を、世にも美しい手が横切った。
Dの左手――それが錠を握りしめるのを三人は見た。眼は莫迦《ばか》な、無駄だと言っている。
キーンと解錠音が響いても、不信のかがやきはすぐには消えなかった。
呆然とする三人を尻目に錠と鎖を外し、Dは易々と鉄の扉を開いた。
「化物かよ――ダンピール」
とつぶやくストライダーの声が背後から聞こえた。
壕の内部はざっと三百人が寝泊りできる広場と充分の食料と水の保管庫、トイレから成る。辺境とはいえ、他の町や村からの救いの手は、十日もあれば届く。
イレーネは広場の一角で話しはじめた。すぐにも町へ戻りたいのは明白だったが、三人の迫力には逆らえなかったのである。
それによると、ボセージの町へ連絡を入れる三十分程前に、朝の遠乗りに出ていた父が、街道をやってくるおかしな兵隊姿を見つけて駆け戻り、町へ連絡した後、家族全員をトレーラーに乗せて逃げた。ひとりだけ残して。
「あたしよ」
とイレーネは自嘲気味に言った。
「なんでえ、乗り遅れたのか?」
「まあね」
「しかし、冷てえ家族だな。いくら乗り遅れたからって、ひとり足りねえってすぐにわかるだろうが。引き返してこなかったのか」
「まあね」
ストライダーは小馬鹿にしたように、
「ひょっとして、おまえ、一家の鼻つまみだったんじゃねえのか?」
「ああ、そうよ。だから何だって言うのよ。これでも、あたしには家も家族もあるのよ。あんたみたいな、人殺して幾らの流れ者の殺し屋とは違うわ」
「何だって?」
ストライダーの眼つきが変わった。イレーネは、はっきりと脅えを示したが、ひるみはしなかった。
「何よぉ」
と歯を剥いた。平凡な農家の娘の行為ではなかった。でなければ、妖兵どもの中から、車を奪って脱出するなど不可能であったに違いない。
「あたしが荷物をまとめてる間に、みんな行っちゃったから、歩いて町まで向かったのよ。そしたら、あいつらが追っかけてきて、途中で捕まっちゃった」
妖兵たちは、さっきの旧型モーター・カーにイレーネを乗せ、廃工場に連行した。
内部を見て、イレーネは愕然となった。
小さい頃、何度も覗きにいった廃工場が、まるで別物に変わっていたのである。
赤錆だらけの掘削機や、エネルギー変換装置はすべて姿を消し、用途もわからぬ巨大なメカニズムが組み立てられていく。空中には放電光が交錯し、作業中に兵士たちがそれを浴びて倒れた。
恐らくエネルギー炉か、それに類したものであったろう。破壊された光景の凄まじさもうなずける。
イレーネは工場内の一室に連れこまれた。
「へえ、そこで何をされたんだい?」
ストライダーが嘲笑した。下劣な想像だと、舌舐めずりする表情が告げている。
少女の視線がその顔を貫いた。火のような眼であった。
「どういう意味よ?」
「言ったとおりさ」
ストライダーの嘲笑はさらに濃くなった。
「あいつらがおめえを生かしとく必要なんざ何処にもねえ。となりゃ、やることはひとつだろ。おめえ、結構ぴちぴちしてるものな」
イレーネが跳びかかったのは、戦闘士の眼が、シャツを持ち上げている胸の隆起に注がれていたからであった。
だが、ストライダーの胸ぐらを捉える前に、両手首は軽くひねられ、少女は悲鳴を上げた。
「ちっと気が強えくらいで調子に乗るんじゃねえぞ。いざとなりゃ、てめえなんざ、妖兵どもにくれてやってもいいんだ」
罵る声が突如、中断した。
スタンザが電撃に打たれたような速度でふり向いた。それを追うストライダーの眼も、恐怖に見開かれていた。
Dが放射しているのは、身の毛もよだつ鬼気であった。
「まだ話は終わっていない」
美しい幽気のような声であった。他の者の眼には、事実そう見えたかも知れない。
「いいや、こんなど生意気な小娘は、ちっとお仕置きをしてやった方が――」
「後にしろ」
Dの返事は短い。反応も短くて済む。だが、万がいち、それを間違えたら? 万がいち、それに逆らったら?
「けっ」
と吐き捨てて、戦闘士は少女を解放した。
憎悪に染まった眼を彼に向ける少女へ、
「続けたまえ」
とDは告げた。
それから後のイレーネの物語は短かった。
丸五日間、充分な食糧と水を与えられた上で一室に放置されたが、ついに脱出に成功した。
「奴らのひとりが、ドアに鍵をかけ忘れたのよ。莫迦な奴」
侮蔑の表情を浮かべるイレーネへ、三人は矢継ぎ早の質問を行った。
最も重要な問いは、やはり、妖兵たちを復活させたものの正体と、その目的であったが、イレーネは、
「知らないわ」
と言下に一蹴した。兵士たちはひとこともそれらしい内容を口にしなかったという。
「おめえの他に、助かった人間はいるのか?」
これはストライダーの問いである。
「寝たふりをしているとき、ドアの外の見張り二人が、大公の城へ逃げたと話し合ってるのを聞いたわ。逃げたのが誰で何人かはわからない。あたしの家族じゃないことを祈るわ」
「あの城へ逃げこめば、妖兵どもは追ってこられないわ。一種の聖域だし」
スタンザの意見に反対する者はいなかった。
「じゃあ、次の行動は決まりだな。城へ行く」
不敵な表情になるストライダーへ、イレーネが血相を変えて、
「なぜ、わざわざそんなところへ行くの? あたしを町へ送っていくのが本筋じゃなくって?」
「そうもいかねえんだよ、お姐ちゃん」
とストライダーが、妙に優しくその肩を叩いた。
「おれたちの仕事は、妖兵どもの手から逃げた連中を救い出すことでな。おめえひとりにかまけちゃあいられねえんだよ」
「あたしだって逃げ出したひとりよ。町へ送っていって」
「悪いが、ひとりで帰りな」
「そんな――あいつらがいたらどうするのよ?」
「安心しな。そこの色男とおれたちが、みいんな片づけちまったよ」
「嫌よ、ひとりで帰るなんて。また、あいつらに捕まったら……」
凄絶な恐怖が血の気を失った少女の顔に広がった。
「なら、一緒に来な」
「え?」
「他に手はねえだろ。救い出す連中のひとりだ。可愛がってやるぜ」
「誰があんたなんかに――」
「おいで」
と言ったのは、スタンザだった。それまでひとことも話さなかった女の、はじめての言葉だった。
「だって――」
イレーネは動揺した。ひとりで無事に戻る自信はない。かといって、進めば妖兵たちの巣に飛びこむようなものだ。それでも、ひとりきりよりは、この三人と同行した方がましかも知れない。Dを見つめる少女の眼は、またも恍惚と溶けていた。
そのDが言った。
「ひとりで戻れ」
「へ?」
素っ頓狂な声を上げたのはストライダーである。スタンザは訝しげにDを見ただけだ。それから、
「どうして?」
と訊いた。
「足手まといだ」
Dはずばりと急所をえぐった。
「しかし、救出する中には、この姐ちゃんも含まれるんだぜ」
「そうよ」
スタンザも同意した。
「この娘も入れての報酬よ。無駄にしたくないわ」
「もう助けた。後方に兵士はいない。眼をつぶっていても帰れるはずだ」
「嫌よ、絶対に嫌」
イレーネが後退した。一番近くの円柱の陰に廻って、首をふり続ける。
「もしも、帰りに敵と出会ったら、運が悪いと思え」
続けざまに冷酷無惨な言葉を放つDの唇を、しかし、イレーネは陶然と見つめた。自分を見捨てていこうとしている男。それなのに憎めない。若者の美しさが感情の基礎を呆気なく崩壊させてしまうのだ。
「決めたわ。一緒に行く」
「そうしな」
ストライダーがうなずいた。
「行かせろ」
とD。
「あたしたちは一応仲間だったわね」
とスタンザが口をはさんだ。
「なら一対二よ。多数決でいきましょう」
沈黙が流れた。
「好きにしろ」
とDは言った。二人の“仲間”と足手まとい。実際、どうでもよかったのかも知れない。そんな声音であった。
「その代わり、おまえたちの責任で面倒を見るがいい」
「わかったわよ」
スタンザが少女の方を向き直って、
「あなた、武器はないわね?」
イレーネがうなずくのを待たず、内懐《うちぶところ》から回転式の火薬銃を抜いて、白い手に握らせた。
「引金を引けば六発射てるわ。反動が強いから、よく狙いなさい。素人じゃ、五メートルがいいところね。射つのは引きつけてからよ。怖がらないこと――いいわね?」
イレーネはうなずいて、武器をスラックスのベルトに差しこんだ。覚悟を決めたせいか、落ち着いた動きだった。
「行くぜ」
ストライダーが促して立ち上がった。
Dはすでに戸口に向かっている。
そのとき、天地が揺れた。
コンクリートで補強した天井と壁に亀裂が走り、破片が降りかかってくる。
「な、何だ、こりゃ?」
ストライダーは落ちてきた破片を長剣の鐺《こじり》で跳ねとばした。
「爆撃ね」
とスタンザが言った。眼は天井の強度を確かめるかのように頭上を向いている。
「随分前に聞いたことがあるわ。フローレンス街道を埋めた古代の傭兵は、空から敵を攻撃できたって。これね」
その瞬間、今とは比べものにならない衝撃が、戸口からDを吹きとばした。
天井の照明が消える。広場を衝撃波が蹂躙《じゅうりん》していく。
暗黒のさなかに、ぽっと灯が点った。
Dか、戦闘士二人の仕業か。
いや――
「みんな、無事?」
イレーネであった。横になりながら掲げた右手に、火縄が点っている。
「何とかな」
とストライダーの声が応じた。
「よくそんなものを持ってたわね」
少し離れたところで、スタンザの声がした。
「辺境の夜は、火の気なしじゃあ危険すぎるのよ。靴の中に隠しておいたの。歩ける?」
訊いたところへ、またも衝撃が襲った。
天井が不気味な音をたてた。亀裂が生じている。
「早いところ出ねえと、生き埋めだぞ」
ストライダーの影が立ち上がった。
「敵は私たちを生き埋めにするつもりよ。出たってやられるわ」
止めを刺すように、黒い鉄の声が、
「出入口はふさがれた」
「じゃ、どうする? 他に通路はねえのか?」
問いはイレーネに向けられたものだ。
「ないわ」
「こん畜生」
「正規の通路はね」
イレーネの影と炎が流れた。出入口とは反対側の方へ。
床と壁との接触面に一カ所、自然の出っ張りとしか思えぬ盛り上がりがあった。
イレーネが手をかけて力をこめると、それはゆるやかに廻りながら、壁の奥へと後退した。四人の眼は、生じた空洞が大人も何とか潜りこめるサイズと見て取った。
「行け」
とストライダーがイレーネを押した。
慣れているのか、少女は虫のように素早く穴の向うに消えた。
「じゃ、な」
ストライダーが、にんまり笑って潜りこんだ。
スタンザが苦笑を浮かべて、
「立派な男ね。――いい?」
無言のDに肩をすくめて潜りこむ。
穴の向うは同じ傾斜路になっていた。急だ。
手で這い進むと、すぐに滑り出した。
そのとき、足の方から轟きと衝撃が伝わってきた。
「――D!?」
顔だけねじ向けて叫んだが、吹きこむ風塵《ふうじん》ばかりが見えただけで、スタンザは一気に急傾斜路を滑り落ちていった。
不意に前方が開けた。
眼の下に人影が見えた。
落ちる、と思った瞬間、スタンザは身を丸めた。落下距離は人影の位置から判断できる。一回転して見事な着地を決めた。
後を追うように、頭上から埃が降りかかってきた。
跳びのいて見上げた。三メートルほど頭上の壁に開いた穴からとび出してきたらしい。
並みの人間だったら、頭、足、どちらから下りても負傷していただろう。戦闘士ならではの技である。
高さ五メートルほどの円筒型の空間である。
「Dは――遅れたか?」
かたわらへ、ストライダーの声が近づいてきた。
スタンザはうなずいた。それで、ふっ切った。
「ここは何処?」
ふり向いて、楕円形の穴のそばに立っているイレーネに訊いた。
「わからない。避難所をこしらえたときには、もうあったとお祖父さんに聞いたわ。この辺に生きてた古代種族の住居だと言ってたけど」
スタンザは周囲を見廻した。石壁だと思っていたが、よく見ると、滑らかな表面を持つ黒土だ。土木作業で、落盤防止用に土を固める薬品があると聞いたが、こちらはまるで、土が石に化けたようだ。
触れてみた。指先から冷たく硬い感触が伝わってきた。確かに石だ。どのような科学技術の成果か、スタンザにも想像がつかなかった。
「あれじゃ助からねえ。いくらダンピールといってもな。行こうや」
ストライダーが促した。三人は穴の方へ歩き出した。頭上から、かすかな震動が伝わってきた。
妖兵たちの爆撃は、なおも続いているらしい。
石室を出ると、何とか立って歩けるほどの通路が蜿蜒と続いていた。石室同様、壁も天井も床も発光しているため、視界は楽だ。土を変化させたとき、発光物質も封入しておいたに違いない。
「出られるんだろうな?」
と疑うストライダーに、先頭を行くイレーネはぶっきらぼうに、大丈夫よと答えた。それきり何を訊いても返事はない。
「あれ?」
ストライダーが呻いた。イレーネが足を止めたのだ。前方には石壁がそびえていた。行き止まりだ。
「おい、どういうつもりだ?」
と長剣の柄《つか》に手をかけるのを、スタンザが肩を叩いて止めた。
「自分も出られなくなる道を案内するわけないでしょ」
「大当たり」
とイレーネは笑み崩れた。
「尋常のルートの脱出路はないけど、特別なルートに一本」
足下の小石を拾うと、だしぬけに左方の壁へ思いきり叩きつけた。
後退しはじめた部分は、縦横二メートルほどあった。
「そこを上がれば出られるわ。行って」
「行ってって――おまえはどうする?」
一歩踏み出した足を止めて、ストライダーが尋ねた。
「いいの、もう」
ようやく、二人の戦闘士は、少女の声音の異常さに気がついた。彼らの理解の範疇にある異常さであった。
「憑かれたわね」
スタンザが四方へ視線を巡らせた。通路は静まり返っている。
「何となく、ここへ入ったときから、背筋がぞくぞくすると思ったが――おい、どうする?」
「そこからお逃げ。その代わり、この娘のことは全権、あたしに委任してもらうわよ」
「そうはいかねえ」
「なら、尾《つ》いといで」
とは言ったものの、先導者はイレーネだ。どうすればいいのか、と奇妙な期待をこめて、女戦闘士はまだあどけなさを留めた娘を見つめた。
はたして、イレーネは左手をのばして土の岩壁に触れた。
今度は開かない。代わりにイレーネが壁へ向かって歩き出した。
その姿が壁面に吸収されたとき、残された二人には、そのマジックの正体が掴めた。
躊躇せず土壁へと向かう。何の抵抗もなく通り抜けたではないか。
「幻の壁か」
「何処かに幻写器が備えてあるはずだわ。怖るべき古代種族ね」
さして恐ろしそうでもない。
二人は今までと全く同じ形の通路を歩きはじめた。
やがて滔々たる水音が聞こえてきた。
「地下の河か」
ストライダーが呻くように言った。
また拓《ひら》けた場所に出た。
二人の身体が白くかがやいた。熱さえ伴っていれば、それは明らかな燃焼であった。
「何だ、これは?」
ストライダーの声も白い光に溶けた。
奇妙なことに距離感は感知できた。
三メートルほど前方にイレーネが立っている。そのさらに五メートルほど先が光の本源であった。
そして、光は単なる発光に留まらなかった。
「――動いている」
スタンザが眠るようにつぶやいた。
光は流れていた。明らかにある種の質量を備えて、左方から右へ。それは二人に、おかしな譬《たと》えではあるが濃密なスープの奔流を思わせた。
さらに――
「内部《なか》に何かいるぞ」
ストライダーのささやくような指摘に、スタンザはうなずいた。
「――人間《ひと》よ」
今、二人の眼には、光を構成するかがやきの微妙な強弱が見て取れた。光は影を生んだ。その影は人の形をしていた。
「こいつは何の冗談だ?」
ストライダーは疑問を声に乗せた。解答は声ではなかった。
――これが地下のエネルギー流よ。
二人の脳内に響き渡ったものは、イレーネの思念だった。
――上の工場ではその一部しか採掘できずに終わったエネルギーの、これが本体よ。もう、あなた方にもその正体がわかるでしょう。
二人の戦闘士はうなずいた。
これほどの確信は生まれてはじめてといえた。
これは怨念の奔流だ。装甲を貫いて心肉に食い入るエネルギーの“質”がそう告げていた。
恐らくは貴族たちが文明を築く以前、否、人類の文明が誕生する以前に、ここに棲んでいたもの[#「もの」に傍点]たちが造り出した地底のエネルギー。彼らは人間の精神の暗黒と、それが生み出す“力”を知悉《ちしつ》していたに違いない。
だから、これを創造し得たのだ。
数万年にわたり、それこそ数十万数百万の生命を生贄に捧げて。
彼らは考え得る限りの残忍な方法で殺された。神への供物としての栄光も誇りもなく、たっぷりと時間をかけて。
目論見は成功したといえる。嬲《なぶ》り殺しにされた人々は、すべてを憎んだ。自分たちの生命を奪う者たちを。生き延びる仲間を。家族を。地獄の死を救ってくれない神を。自分以外のあらゆる生命を。
死の執行者たちは、その憎悪をエネルギーに変える術を心得ていたに違いない。
かくて、死者の怨念は地中を走るエネルギー流と化し、その一族になにがしかの恩恵をもたらしたに違いない。
それは押し寄せる敵を灼き尽し、山を崩して生きものを圧殺した上、天も地も氷結させて数千億の生命を奪った。
戦いとは、結局、消耗戦である。解消されることを知らぬ憎しみに減少は無縁だった。数を恃《たの》んで押し寄せた敵はすべて斃れ、一族は無敵を誇った。
彼らが滅びた後も、憎悪と怨念の奔流は大地の底を飽くことなく循環し、時折襲う地殻変動で地上へ噴出して、近くの者たちを溺死させた。
三万年前、この邪悪な力の存在に気づいた一団が、千年何世代かをかけて封じこめに成功して以来、エネルギーは地底の還流でしかなくなった。
しばらく前、地上に建設された採掘工場は、エネルギー本体から分離して地中に閉じこめられたささやかな量の一部を獲得したものの、その怨念を制御する術もなく、廃滅に追いこまれた。
そして今、ひとりの少女と二名の戦闘士が、この怖るべき流れに遭遇したのである。
彼らは聞いた。
生贄の怨嗟《えんさ》の声を。
断末魔の苦鳴を。
往き場もなく肥大した憎しみを。
そして――歓喜を。
おまえたちも来い、と。
イレーネがふり向いた。
その手が上がった。
手首から先が、ゆっくりと上下する。
「手招きしてやがる」
ストライダーが、ぼんやりと言った。
眼つきが変わっている。
「危《やば》いぞ……逃げよう」
「……そうね」
すでに尋常な会話とはいえなかった。
イレーネが呼んでいる。その背後に、今や、無数の人影が見えた。流れ去りながら、呼んでいる。手招いている。ここへ来い、と。
――いかん。
とストライダーの脳の奥で、彼の声が止めた。
――行っては駄目。
スタンザは自らの声を聞いた。
裏腹に足は動いた。
自分の身体が自由にならない。はじめての奇怪な感覚であった。
そして、近づいてゆく――光の方へ。
イレーネと並んだ。
少女が笑みを浮かべた。人間の心の奥にこんなものが潜んでいるとは想像もつかぬ邪悪な笑みであった。
二人も返した。
等しい笑みを。
揃って歩き出す。
光の中へ。
背後に気配が生じた。
ひとつではなかった。
奇妙な装甲で身を固めた灰色の影どもは妖兵だ。
爆撃のせいで地下への穴が開いたに違いない。
三人を認め、素早く吹き矢を口にする。
その眉間に黒いひょう(※)が唸りをたてて打ちこまれた。顔が半分なくなってのけぞる妖兵たちを押しのけて、新たな敵が細長い筒を向ける。
その全員が、柘榴《ざくろ》のような顔で倒れたのは一瞬のことだ。
最後のひとりが吹き矢を放ったが、それは三人の頭上を越えた。
一秒とかからず十数名を打ち斃したスタンザの技倆こそ怖るべし。
侵入は途絶え、三人はまた歩み出そうとした。
三歩進んだとき、背後に新たな敵が現われた。
スタンザがふり向き、右手が閃いた。
音速《マッハ》を超えるスピードで打ちこまれたひょう(※)は、しかし、すべて、美しい音をたてて弾けとんだ。
先頭の兵が掲げた長方形の鉄板は、盾となってひょう(※)を防いだのである。
盾と盾の間から、数十本の吹き矢が飛来した。
音もない針の弾幕を、ひと振りの剣が迎え討った。
わずかに遅れて、盾と背後の兵士たちが次々と倒れていく。
銃声が轟いた。
スタンザとストライダーが同時に胸と肩を押さえてよろめく。いつもなら銃撃の気配を感じて寸前に身を躱《かわ》し得たのだろうが、目下の彼らの脳と神経は、他者の支配下にあった。
絶叫が噴き上がる。
二人のものではなかった。穴の向うで何かが起こったのだ。
銃声と光が交差し、すぐに静かになった。
一刀を下げた人影は、夢のように美しかった。
消滅した妖兵たちは、わずかに灰のようなものを残している。容赦なくそれを踏みつけ、Dは足早に三人へ近づいた。
茫然とこちらを見つめる二人の戦闘士の顔には、正気が戻っている。傷ついた肩と胸の痛みが奇怪な呪縛を破ったのだ。
「出ろ」
とDは穴の方へ顎をしゃくった。
「おまえ――どうやって?」
生き埋めになったはずだと言いかけて、ストライダーはやめた。これだけ美しい男なら、何をやり遂げても不思議はない。
「大した男ね」
スタンザの声は下方へ流れた。
倒れかかる身体を左手で受け止め、軽々と肩に担いでから、Dは、ひとり前進を続けるイレーネの首すじに右の人さし指を当てて気絶させる。こちらもスタンザの上に、サンドイッチ状に乗せた。
肩を押さえたストライダーに続いて歩き出したところで足を止め、エネルギー流の方を向いた。呼び止められたように見えた。
「無駄だ。おれが仲間に入っても、おまえたちは消え去るしかない」
低い声は何かの答えだろうか。
陰影が手招いている。来いと呼んでいる。
「じきにわかる」
またも質問に答えるような言葉を残して、Dは踵《きびす》を返した。
穴の入口で待っていたストライダーが、
「何だい、今のは?」
と訊いた。右肩から脇にかけて血の花が咲いている。
Dはやってきた方角へと戻りながら、
「おまえたちを外れた吹き矢が、憎悪流に刺さった。狂いが生じるには充分だ」
「狂いてのは?」
「エネルギーが暴走する。何が起きるかはわからん」
二人が地上へ出たとき、大地の底からにぶい衝撃が伝わってきた。
整然と循環していたエネルギーが、統一を失い、四方へと荒れ狂いはじめたのだ。
三人が出てきた場所は、もとの避難壕から一キロほど離れていたが、爆撃に遇った大地は無惨な破壊孔のみを広げていた。
Dが口笛を吹いた。
さして大きくもないのに、待つほどもなく、避難壕の方角から、鉄蹄の響きが接近してきた。サイボーグ馬である。
「あのジープ、勿体《もったい》ねえぞ」
青白い顔でつぶやくストライダーへ答える代わりに、Dは頭上をふり仰いだ。
街道の方から翼を広げた機影がやってくる。数は十数機あった。
「また爆撃かよ」
「動くな」
と告げて、Dは肩の二人を下ろし、一刀を抜いた。
[#改ページ]
第五章 死への道行き
虚空の機影は、みるみるうちに、背中に円筒型の飛行具を背負った妖兵と化した。
磁気利用のメカなのか、その真下にあたる地面の光景が、陽炎《かげろう》のように歪んでいる。
ここにも、かつての雇い主――貴族の文明と彼ら自身の所属した文明とのギャップが見られた。羽根のついた瓜型の爆弾は、兵士の両手にぶら下がっていた。照準も目測に違いない。
「起こして……打ち落としてやるわ」
Dの足下から、喘ぐような声が湧いた。
右胸を朱に染めたスタンザであった。
「邪魔だ」
Dはにべもない。
「あいつらは空から来るのよ。飛び道具を持っているのは、あたしだけよ」
「右手が動くか?」
「………」
「余計な真似をさせるな」
ストライダーに告げて、Dは地を蹴った。
三人を残して飛行体の方へ疾走しながら、
「どうだ?」
と訊いた。相手は見えない。
答えはあった。
「何とかなるじゃろう」
嗄れ声は、深呼吸でもしているような音をたてた。
小さく、ごお、と。
炎が噴き上がるような響きであった。
五体ばかりがDの頭上で停止した。あとの九体が三人の方へ向かう。
妖兵は眼下の敵に肉眼で狙いをつけた。両手を放す――その瞬間、下方の黒い影が左手を上げた。
手のひらを見た。
何か浮いている。あれは、人の顔か?
凄まじい突風が上昇してきたのは、その瞬間だった。
飛行具の安定はたちまち失われ、天と地が逆転する。のみならず廻った。
飛行具がぶつかり、爆弾を投下する前に、兵たちをとんでもない方角違いへ導いた。
悲鳴は上がらなかった。
どいつも滑走しつつ、西へ滑っていく。
爆発は二〇〇メートルばかり離れた地点で生じた。三人を襲った連中も一緒だ。
Dは片膝をつき、コートの裾で衝撃波を防いだ。
「どうじゃな?」
得々と嗄れ声が訊いた。
「また来るぞ」
街道の方から別の影たちが滑ってきた。三体だ。今度は地上すれすれから、火薬銃を連射してくる。
砂塵がDを包んだ。
うつ伏せに倒れるのを、兵士は確認した。そのままDの頭上を越えていく。
美しい死者が魔鳥のように跳ね上がった。
虚空での宴は、閃く刀身と血潮が進行を担った。
妖兵の首を斬り落とすと同時に、Dはその背に着地した。飛行具を操り、首のない死体を旋回させる。
二〇メートルばかり向うから、残る二体が火薬銃を乱射してきた。
Dの身体が揺れた。弾丸は命中しているのだ。
だが。
Dの左手から次々に地上へ黒い塊が吐き出されていく。鉛の弾頭であった。布地に開いた弾痕もふさがり、修復されていく。
近づいてくるDを見ながら、妖兵たちは手も足も出なかった。その美しさの虜になって。
すれ違いざま、空中に血の花が花弁を広げ、すぐに緋色の驟雨《しゅうう》となって地上に降り注いだ。
恍惚と崩れた生首とともに。
背負った飛行具に運ばれるまま、首のない死体は何処までも遠ざかっていく。
巧みに死者の飛行具を操ってかたわらに着地したDを、二人の戦闘士は、空気でも見るような眼つきで見つめた。
Dはそこにいる。それはわかっても、それだけに今の神業が理解しがたいのだ。
「おめえ――何者だ?」
ストライダーが妙にシラけた表情をした。
「ダンピールって、そんなに凄いのかよ、え?」
Dは答えず、横たわるイレーネの首すじに指を当てた。
眼を開いて起き上がり、周囲を見廻した顔は、正常に戻っていた。
「ここは? いつ出てきたの?」
血まみれの男女を認めて息を呑む。
「後でゆっくり説明してやらあ。おい、D。おれはともかく、こっちの女は危ねえぞ」
「余計なお世話よ」
言い返す女戦闘士の顔からは、蝋のように血の気が失われていた。上体を維持できずに崩れ落ちてしまう。
「足手まといか」
ストライダーが毒づいた。
「置いていくぞ」
とD。スタンザはその美貌を見据えてうなずいた。
「わかってるわ。後から追いかけてやる」
いきなり咳きこんだ。動きにも力がない。口から血がこぼれた。
「肺かあ」
ストライダーが呻いた。
「こらあ危ねえな。放っときゃ、半日も保たねえぞ」
「嬉し……そう……ね」
スタンザの声は、息と等しく地を這った。
「ああ。ひとり減りゃ、戻ったときに分け前が増えらあ。おめえの分は、おれが頂くぜ」
にやにや笑っていたのが、刺すような視線に気づいた。
イレーネをにらみつけて、
「何だ、その眼は?」
「人でなし」
「何ィ?」
ストライダーは怒るより呆れていた。この我がまま娘の言葉とは思えなかったのである。
「喧嘩なんか……およし」
スタンザがうわごとのように洩らした。
「早く……行って……生き延びる……のよ」
「ちょっと――しっかりなさいよ。それでも戦闘士?」
返事はなかった。スタンザは失神していた。
イレーネはDを見上げた。切実で悲痛な表情であった。
「あなた、何とかできるんでしょ。助けてやってよ」
答えはない。
「ここへ置いてくつもり? 死にかかってるのよ」
「おまえも置いていかれた」
「余計なお世話よ。だからって、この女性を放っといていいわけがないでしょう」
「おまえが面倒を見るか?」
イレーネは詰まった。Dは少女を見つめた眼を離さずに、
「おまえはここから戻ってもいいのだ。どうする?」
イレーネはスタンザを見下ろし、それから町の方へ眼をやった。焦点の定まらない眼に、揺れ動く内心が表われていた。
「わかったわよ」
罵るように言って、片手をふった。
「怪我人の面倒くらい、家でいつも見てたからね。断っとくけど、この女性を助けたくて尾いてくんじゃないわよ。すんなり町へ戻るより、あんたたちといた方が安全そうだからよ」
「よかろう」
ちっともよさそうじゃない口調で応じ、Dはスタンザのかたわらにしゃがみこんだ。
うつ伏せ気味なのを仰向けにして、胸の装甲《プロテクター》を外す。
下のシャツも捲り上げた。
「……何……する……の?……やめ……て」
血まみれだが豊かな乳房を、スタンザは細いブラジャーで止めていた。
「ちょっと、あたしがやるわよ」
イレーネがあわてたが、Dはかまわず下着を外した。乳房が揺れた。弾丸は左側のつけ根のすぐ上に命中していた。
すでに肉がふさいでいる。
この助平と罵るイレーネの表情が、緊張にこわばった。
Dの横顔を見たのだ。
傷口に左の指が当てられた。親指と人さし指である。
スタンザが痙攣した。
「少し痛む。声を出したければ出せ」
隈の出た瞼がうっすらと開いて、
「冗談……でしょ」
と言った。
Dの指が傷口にめりこむのを少女と戦闘士は見た。
スタンザの顔が凄まじい苦痛に歪んだ。否、砕けた。眼も鼻も口も、人間のものとは思えぬ形に引きつり、身体は痙攣を繰り返す。
イレーネはDの白い麗貌だけを見つめていた。身体が動かなかった。頭の中に自分よりずっと強い誰かがいて、Dへの凝視を命じているようだった。
血まみれでのたうつ美女の胸をはだけ、無惨な傷口に指を二本もさしこんで、眉ひとすじ動かさない男。人間じゃない。そうだ、こんな冷たく美しい男性《ひと》が人間のはずもない。あたしは、この世のものじゃあない光景を目撃しているんだ。だから、耳も押さえないし、眼もつぶれずにいる。血の臭いを嗅いだって吐きもしない。この世ならぬ美しさは、この世のすべてに勝ってしまうんだ。
スタンザが一瞬動きを止め、短く息を吐いてから、また、身をよじった。Dの指が戻りはじめたのだ。
スタンザの口から驚くほど多量の血塊が噴きこぼれ、その顎と胸にかかった。それでも声は洩れなかった。苦痛のあまり舌を噛み切ってしまったのではないかとイレーネは思った。
傷口からDの指が出た。二本の指先には、大粒の弾頭がはさまれていた。勿論、血まみれだった。
それを足下に置いて、Dは、
「出さなかったな」
と言った。
他のときと少しも変わらぬ冷やかな声なのに、イレーネは眼を見張った。ある感情を聞き分けたからだ。それは賞賛に似ていた。
Dが無言で左手をスタンザの口に当てた。
激しく震え、また血を吐こうとしていたスタンザの身体が急に力を抜いた。
――死んだの!?
苦悶に歪み切った顔が、待っていたように安らかな表情を取り戻していく。まるで、Dの左手から奇蹟の特効薬がスタンザの体内へ注ぎこまれでもしたかのように。
左手はすぐに乳房の傷に当てられた。二呼吸とおかずにそれが外されたとき、イレーネは自分とストライダーの驚きの声を聞いた。
血にこそまみれていたが、傷痕は影も形もなく消えていたのである。
夕暮れに入った。
街道の右方にサービス・エリアを認め、Dはサイボーグ馬を向けた。
本来、ダンピールは昼よりも夜の行動を得意とする。Dとすればこのまま突っ走り、『廃墟』への距離を少しでも詰めたいところだが、“人間ども”がそれを許さなかった。
ここまでも彼らの意志を無視してやってきた。
なんと一頭の馬に全員が乗ったのだ。Dの前後にイレーネとストライダーがまたがり、スタンザは肩に担いだ。それで突っ走ったものだから、裸の背に乗ったイレーネとストライダーの尻には、直《じか》に振動が伝わり、特に負傷中のストライダーは、苦鳴と怨嗟《えんさ》の声を洩らしっ放しだった。
「なあ、頼む、おれの傷も治療してくれ」
と哀願しても、Dは一瞥も与えず、我慢しろとさえ言わない。
出血は肌身離さぬ医療キットで押さえたものの、弾丸は体内に留まったままである。自分で取り出せないこともないが、Dが時間を与えない。
「こいつは新手の虐《いじ》めか、畜生」
と怨む眼もかすみ、気が遠くなってきた頃、サービス・エリアに着いた。
エリアといっても、農家を改造した小さな宿泊施設と食堂が一緒になった建物きりで、経営者の本業は農業である。いわば簡易宿泊所というのが正しい。
予想通り、内部は破壊され尽していた。
イレーネによれば、経営者は七人家族だが、ひとりの姿も見えなかった。
逃げ出したのではない証拠に、裏には馬車が残っていた。
「あいつら、みんなをどうしたのかしら?」
イレーネの言葉に答えるものはない。
Dはリビングのソファにスタンザを横たえてから、屋内のチェックに赴いた。
「餓鬼に怪我人が二人か――大した道連れじゃな」
と嗄れ声が嘲笑った。
「それよりも、地下の怨念流はどうした?」
「それじゃ。あそこでドカンと来るかと思うたが、おとなしくなりおったな。あのエネルギーは怨念の集合体じゃ。しかも、意志を持っておる。さぞかし、おまえらと妖兵どもを怨んでおるじゃろうな」
「時節を待つか」
「さよう――最も効果的なところを狙って、皆殺しにするつもりだろうて。少々厄介な相手だぞ。奴らは我々の足の下を巡っておる。つまり、いつもそこにいるということだ。こちらの状況は筒抜けと思え」
「ご苦労なことだ」
「全く」
嗄れ声は、ほっほっほと笑った。
屋根裏から地下室までを調べ、Dは外へ出た。裏庭に納屋がある。
空気は濃い青に染まっていた。はためには平穏そのものの夕暮れである。
Dはふと足を止めた。庭の一角に砂場が仕切られ、ポリバケツとプラスチックのスコップが転がっていた。すぐ近くに幼児用の三輪車も置いてある。
「もうおらんな」
嗄れ声が言った。
「そして、二度と砂場で遊ぶこともあるまいて」
Dは無言で納屋へ向かった。
大きな板戸が三〇センチほど外側へ観音開きに開いている。
手前で、嗄れ声が、ふむと言った。
Dは左の板戸を開いて内側《なか》へ入った。
三歩入ったところで、
「よし、止まれ」
納屋の二階から声がかかった。
地面から長い梯子がかかっている。その横に長身の男が立って、自動装填式の火薬銃を向けていた。
「ザック・モロバクか」
とDが訊いた。男の形相が変わった。
「やっぱり賞金稼ぎか。野郎、ぶっ殺してやる」
殺気の炎《フレア》が全身を包んだ。
「やめろ、ザック」
この声は地上――納屋の奥からした。荷車の横から弩《いしゆみ》を構えた、髭だらけの男が近づいてきた。年齢は四十前後。二階のモロバクより上だ。
「ユリ・タタイカ」
とD。
「ほう、あんたみたいなハンサムに名前を呼ばれるとは光栄だな。おい、ザック、こいつの顔を見るなよ」
「わかってら」
凶暴な声が応じたものの、すでに手遅れ――酔ったような響きが混じっている。
「もうひとりいるな」
Dの視線はユリの出てきた荷車のさらに奥を見据えている。
「いいや、二人だ」
声と同時に荷車の陰から現われたのは、長剣を腰にした中年の男だった。
手にしているのはナイフ。その切尖が食いこみ、白い頬に赤いすじを引いているのは、イレーネだった。
「この娘、何かを捜しにきたらしいな、Dよ」
と、その四人目の男が声をかけてきた。
銀行員の男女数名を容赦なく斬殺したその姿には、不思議なことに露ほどの殺気もない。声も極めて平凡な男のものだ。
「おれの名はゼノンだ。あんたほど有名じゃないが、少しは知られてる」
「貴族ハンターとしてな」
Dが月光のような声で言った。吐息は眠り男の撒く銀砂に違いない。
「これからは、銀行強盗として知られる」
凄まじい悲痛の色がゼノンの顔を覆った。
「それに関しては、後で話がある。聞いてもらいたい」
「話などない」
Dの返事は決まっていた。
「娘を放せ」
「手を組まないか?」
ゼノンが訊いた。真摯な口調である。
「おれたちも、このままじゃ動きが取れない。だが、あんたが来てくれれば大助かりだ」
「ダンピールなら、貴族のこしらえた妖兵どもに詳しいだろう、か?」
「そうだ」
ゼノンは悪びれずにうなずいた。
「必要なのは、おれよりもその娘だ。抜け道その他、色々と知っている」
「だったら、あんたにも必要だろう。手を組もうや」
「何を頼んでるんだ、ゼノン。腕の一本も吹っとばしゃ、何でも言うことを聞くぜ」
二階のザックが喚いた。明らかに精神に異常をきたしている。多血性で短気で粗暴――絵に描いたような人生を辿った挙句、Dと遭遇したわけだろう。
「落ち着け、ザック」
声をかけたのはゼノンではなく、ゼノンの隣のユリ・タタイカである。こちらはゼノンほどではないにしろ、冷静さを維持している。
「おめえはこんなときに落ち着いてられるのか。前も後ろも化物がうろついてる。いつ襲ってくるかわからねえ。頼みのゼノンは目下、当てにならねえと来てやがる。おまけに追手がかかってきた」
「奴らもおれたちと同じだ。だから、ゼノンがとりあえず手を結ぼうと言ったじゃねえか」
「うるせえ。握手してるところを後ろから斬られたらどうするんだ? 賞金稼ぎのやり口は、幾つも見てきてるんだ」
引金《トリガー》にかかった指は、限界まで引いている。
「ザック」
呼ばれた男は、勝手に昇りつめてしまった。狂気じみた叫びを放って引金を――
引くことはできなかった。
絶叫と同時に、二階のザックへ弩《いしゆみ》を射ち上げた[#「射ち上げた」に傍点]のである。矢は床を貫き、勢いを弱めず、ザックの心臓を背中から射ち抜いた。
矢は抜けても、衝撃で身体は前進した。ゴール・テープを切るマラソン・ランナーのような格好で地上へとジャンプする。落ちたときにはもうこと切れていた。
ため息をひとつついて、ゼノンが、
「これで信用してくれとは言わないが、おれたちの言い分が本物なのはわかるだろう」
「娘を放せ」
肩をすくめて、ゼノンはナイフを引いた。イレーネが走り出し、Dの背中へ廻った。
「スタンザの薬を捜しにきたのよ。そしたら……」
「戻れ」
少女は、薄情ものといった表情でDをにらみつけ、それから後じさりはじめた。
戸口から出ていくのを足音で確かめ、
「手を組むとは?」
Dは訊いた。
ゼノンの顔を安堵がかすめた。
「あんたは、おれたちを連れ戻すつもりだろうが、戻りゃ死刑になるのはわかり切ってる。悪いが戻れない。逃げるしかないんだ。ところが、前方には、化物どもがうようよしてると来た。正直、おれたちだけじゃ、切り抜けるのは無理だ。そこへ、あんたたちが来たんだ。あんたの顔を見たときは、おれのどこが神さまに気に入られたのかと思ったよ。一緒に『廃墟』まで行こうじゃないか。妖兵どもは招かれなきゃ雇い主の城には入れない。後は『都』の救助が来るのを待てばいい。おれたちは、そのときのドタバタに紛れて姿を消すさ」
「足手まといだ」
「何?」
「おれの連れは二人とも負傷中だ。これ以上、厄介者を増やすつもりはない」
「おれたちは自分の面倒くらい自分で見られるさ」
「なら、勝手に行くがいい。銀行の金を置いてな」
ゼノンの表情が別人のように変わった。
「おれの受けた仕事は、『廃墟』に逃げこんでいるかも知れない連中の救出だ。妖兵が甦った以上、その使用者も生き還ったかも知れん。おまえたちに関しては、できたら始末した上で金を取り戻してくれとのことだ。争う必要もあるまい」
ゼノンが眼を閉じた。
嗄れ声が、おや? と聞こえた。
ゼノンが言った。眼を閉じたまま。
「そいつはできねえなあ」
「ゼノン!?」
Dは風を巻いて走った。
光が虹色の弧を描いた。もとから、無頼漢たちは、Dの必要人数に入っていない。
刀身はゼノンの頭頂へ躍った。
まさか――受け止められるとは。
いつ抜いた? いつ構えた? 頭上へかざしたゼノンの刀身と噛み合ったまま、Dの刀身は動かなくなった。
ゼノンが微笑した。
Dの眼が光った。
噛み合ったのは刀身に非ず、二人の精神であった。
Dが押した。
ゼノンが押し返す。
二つの力が拮抗しつつ、頂点に達した。その瞬間――
Dの刀は折れた。
受けの刀身が攻撃の死刀に変わって、斜めにDへと走る。
Dは後方へ跳んでいる。間一髪、ゼノンの切尖は届かない――と見えたのは幻想《まぼろし》か。
光は物理法則を裏切ってのびた。Dの肩へ。
迸る鮮血は幻ではなかった。
着地したDは見た。
頭上へ跳躍したゼノンのマント姿を。
どう受ける――Dよ。
鋭い打撃音が夕闇を裂いた。
ゼノンは刀身を翻して、今、打ち落としたものへ眼を走らせ、すぐに脇を見た。
足下の地面にめりこんだ鉄の矢と、それを放ったユリを。
「邪魔を、するか?」
ゼノンの声は、どこか酔っているような響きがあった。
「違う!」
ユリは恐怖に満ちた否定を放った。
「そんなつもりはねえ。あんたの指示に従っただけだ」
「おれ、の?」
「そうだ、覚えてねえだろうがな」
「ああ、覚えて――」
不意にその身体がかすんだ。
「――いないな!」
ゼノンの剣は、二階めがけてその刀身よりも長大な弧を描いた。
低い呻きと、骨肉を断つ音が弾けた。
腰のあたりで二つにされた人影が血しぶきとともに地に落ちる。
「気をつけろ――上から来たぞ!」
ユリの弩《いしゆみ》が、鋼鉄の弦を弾いた。
二階の窓ガラスを突き破って突進してきた影が、五つまとめて吹きとんだ。串刺しの人形を思わせた。
天井が砕けた。ソーラー・システムの破片ともども影たちが降ってくる。
何人かが空中で光る弧に両断され、何人かは地に着いた刹那に二つになった。
Dはすでに納屋を飛び出していた。
裏庭を横切りながら、置き去りにされていた鍬《くわ》を引っ掴み、鉄部の下でへし折る。七〇センチほどの棒ができた。
母屋の屋根から灰色の影が降ってきた。
筒を咥えている。音もなく飛来する矢を躱したとも見えぬ動きで躱し、Dは棒を垂直に突き上げた。
ひとりの顔面をつぶした瞬間、それは軽やかに舞って、五つの影を捉えた。打撃は鉛塊の激突に似ていた。
灰色の影たちは、情け容赦もなく四散したのである。
渦巻く朱色の霧に触れもせず、Dは母屋に入った。
前と左右から吹き矢が飛んできた。音さえしない攻撃を、Dは棒のひとふりで打ち落とした。
二撃を許さず跳躍し、着地と同時に棒を振った。
三名の妖兵が為す術もなく頭をつぶされ、喉を貫かれた。Dは容赦がない。
居間へ跳びこんだ。
「Dか?」
白刃片手にソファの前に立つストライダーがふり向いた。胸だけではない。顔も血まみれだ。
Dを認めて長剣を床に突き立て、それにもたれかかる。安堵の息が洩れた。
「二人はどうした?」
とD。
「スタンザはソファの向うさ。あの小娘の方は、わからねえ。裏口の方で声がしたが、それきりだ」
「しくじったの」
嗄れ声が聞こえた。納屋から帰したことを言っているのだ。
「脱出だ」
Dはソファを押しのけ、横たわるスタンザの首すじに左手のひらを押しつけた。
一瞬激しく痙攣して、スタンザは眼を開いた。
「――D?」
「囲まれた。脱出するぞ」
「わかったわ」
スタンザはソファにすがって立ち上がった。Dは手を貸さず、スタンザも借りようとはしない。立てるかとも訊かぬ男なのだ。
裏口の方から足音が近づいてきた。
ストライダーが身構える。
現われたゼノンが、
「納屋と庭は片づけた」
と言った。雰囲気は尋常に戻っている。
「憑きものが取れたかの」
嗄れ声が皮肉っぽく言った。
「ストライダーにスタンザ。おれの連れだ。戦闘士」
とDが紹介して、
「こっちは――わかるな?」
「ユリ・タタイカね」
とスタンザが冷たく言った。
「そっちは――いや、手配書で見た覚えがある。ゼノン何とかだな」
ストライダーの声は緊張と歓喜に彩られていた。探るような表情が、訝しげなそれ[#「それ」に傍点]に変わった。
「ザック・モロバクは同士討ちで死んだ」
とD。
ますます訝しげなストライダーを無視して、Dはゼノンへ、
「おまえたちと組む気はない。尾いてくるのは勝手だ」
二人はうなずいた。Dの言い分からすれば、不意討ちもOKだが、そんなことを気にする若者ではない。
「二階から外の様子を探れ」
とゼノンがユリに命じた。
不平面もせず、弩の遣い手は階段の方へ向かった。
「こっちが手強いとわかったから、策を練ってるんだろうが、のんびり待ってる時間はないぜ。さっさと脱出しようや。今なら蹴散らせる」
「馬もなしで?」
とスタンザが異議を唱えた。
「奴らの車を奪い取りゃいいのさ。ほら、こんな問答してるうちに、向うは守りを固めちまうぜ」
「あの荷車はエンジンがついていた」
とゼノンが言った。
「周りを板で囲えば吹き矢は防げる。少し手荒だが、試してみる価値はあるかも知れない」
「やめとけや」
全員が声のした方を向いた。
二階からユリが下りてくるところだった。
その身体が白い霧に囲まれている。いや、煙だ。ユリの身体は白煙を噴き上げているのだ。
「空に浮かんでやがった。窓を開けたらいきなり……」
全員が、ユリの身体から生えた吹き矢を見た。
「畜生、熱い。骨まで灼き尽すつもりだぜ。周りは囲まれてる。おまえらも……気を……つけ……ろ」
次の瞬間、ユリの全身は炎に包まれ、床に倒れた。ぶつかるや、微塵の灰と化して砕けた。
「毒塗りか……」
ストライダーが呻いた。
「ひょっとして、最初から……?」
スタンザの声にも脅えは含まれていた。彼らは運がよかったのだ。
かすかな音が壁を叩いた。
霰《あられ》か雹《ひょう》でも降りはじめたようだ。ただし、天井は無言――空から降ってくるのではないらしい。
「吹き矢だな」
ゼノンが四方を見廻した。
壁が白煙を吹きはじめている。
「生物以外にも効果があるらしいな。これじゃあ、囲いつきの荷車も役に立つかどうか」
「どうするよ、D?」
全員の視線が黒衣の若者に集中した。
彼は眼を閉じていた。
それから、頭上をふり仰いだ。
「いい手があるのか?」
ストライダーが詰め寄った。
「答えよう」
とDが言った。みなが眼を剥いたのは、それが嗄れ声だったからである。
「神が救って下さる」
「何ィ?」
「救いは天にあるぞよ、皆のもの」
全員が頭上を見上げた。
十秒足らずで、Dをにらみつけながら元へ戻してから、さらに三秒ほどたったとき――
屋根をぶち抜いて、吹き抜けの天井からそれ[#「それ」に傍点]は落ちてきた。
真鍮製の通信筒である。そのとき、Dを除く全員がはじめて、上空を渡るエンジン音を聞いた。
Dが素早く移動し、階段のすぐそばに突き刺さった筒を抜き取った。先端は二〇センチばかり銛《もり》状に尖っている。
蓋を廻して開けた。中味は一枚のメモであった。
Dが開くと、他に六つの眼が表面に集中した。残り全員も駆け寄っていたのだ。
内容は簡単だった。
走り書きで、
まかせとけ
署名もない。
スタンザが咳きこんだ。ストライダーが後に続く。家を焼き溶かす毒は、ガスにも含まれていたのである。
地面が揺れた。
天井と壁の一部が無惨に崩壊する。
何が起こったのかは、一目瞭然だった。少なくとも三人は、ついさっき体験したばかりだ。
「爆撃だ」
外で激しい動揺が巻き起こるのを、Dは感じた。家を取り巻いていた気配が、呆気なく散じていく。
「出るぞ」
声をかけて崩れた壁の方へと向かう。そこが一番近い脱出孔であった。身体を曲げて苦しむ二人には眼もくれない。仲間意識など、この若者にはかけらもないようであった。
無理もない。
彼らはDほど美しくないのだ。
家の外に出るまで、Dは一切足を止めなかった。
道路にも敷地にも、すり鉢状の爆発孔が残っている。支配者は闇だ。妖兵たちの影はひとつも見えなかった。道の向うで火花が上がった。それがDの顔を赤く染めてから、轟きがやってきた。
背後で足音が止まり、咳きこむ音が相次いだ。全員、脱出に成功したらしい。
「味方らしいな」
ゼノンが声をかけてきた。
Dはうなずいた。
「エンジン音はひとつだ。軍隊や民間防衛隊じゃない」
「じきにわかるさ」
ゼノンの言葉どおり、やがて、爆発の起こった方角から、エンジン音と分厚いハムを思わせる物体が飛んできた。直径二メートルほどの周囲には金属製の手すり《ステップ》がついている。
Dたちから五メートルほど離れた路上に垂直に降下した。砂塵と小石が吹きとんだのを見ると、エンジンとファンは底部についているらしい。
こちらを向いたステップのところで、ハンドル型の操縦桿を操っていた人影が、右側のステップを外へ開けて地上に降り立った。
連射銃らしい武器を小脇に抱えてこちらへやってくる。銃の側面からベルトのようなものが長々と地面に垂れている。ベルト給弾式の連射銃だった。
「具合はどうだね、諸君?」
一同の前で止まり、用心する風もなく話しかけた顔に、Dだけは覚えがあった。
そのがらがら声、髭もじゃの巨体がトレード・マークのベアトリスちゃん[#「ちゃん」に傍点]だ。
[#改ページ]
第六章 吸血城への道
街道は一キロ程先で、森の中を通る。
スタンザとストライダーを、ベアトリスのフライング・ステップに乗せて先にやり、Dたちは徒歩で森へ入った。サービス・エリアの近くに隠しておいたゼノンと仲間たちの馬は、包囲戦の間に連れ去られてしまったのだ。
野営の場所は、すぐに見つかった。旅人用の夜間宿泊防御バンガローである。
強化プラスチック製の、ドーム状の建物だが、二十人を収容できる上、バス、トイレ、薬も食糧も武器まで常備されている。
フライング・ステップより少し遅れてバンガローに着くと、Dは真っすぐ倉庫へ行き、ひと振りの長剣を手にして戻った。
貴族や夜行性妖物を仮想敵としているバンガローには、見てくれだけの安物など存在しない。Dの選んだ一刀も、大量生産ながら火竜の装甲くらいは素人でも貫ける業物《わざもの》であった。また鈍物《なまくら》であろうと、Dの手にかかれば古今無比の名刀に変身する。
「休んでいろ」
ストライダーとスタンザに声をかけて、長剣を肩から吊すと、Dは戸口へと歩き出した。
そこへ、ドアからベアトリスの姿が現われた。
フライング・ステップを調整してきたのだろう。このバンガローを上空から見つけたのも彼だ。
「ねえ、あなた……」
スタンザが声をかけた。
「あいよ」
ベアトリスはふり向いた。髭面がいやらしく笑っている。眼は美女の胸のふくらみに吸いついていた。
スタンザは無視した。
「あなたと似た顔を、昔、見たことがあるの。私の生まれ故郷の西部辺境区――シェラデコブレ城の貴族五人をたったひとりで斃したハンターがいたわ。彼が血まみれで村へ戻ってきて以来、平和な暮らしが続いたのよ。凄い男《ひと》だった。あれは――」
「おれおれ」
とベアトリスは自分を指さして眼をかがやかせた。涎《よだれ》を垂らさんばかりの髭面を見て、スタンザはため息をついた。
「間違いだったようね」
「とんでもねえ。おれもあんたを覚えてるぜ。ちっとも変わらねえな。いや、懐かしい」
「二十年も前の話よ。私は四つだった」
「へ?」
その肩をDが掴んだ。
「もう少し付き合え」
Dの言葉に、ベアトリスは、
「えー?」
という表情を浮かべたものの、すぐにあきらめたらしく、
「追っかけて空爆か?」
と訊いた。
「あれは、ボセージの武器庫から引っ張り出してきた年代ものだ。いつ、エンジン・トラブルを起こすかもわからねえ。爆弾だってあと二十発と少し、連射銃の弾丸は一万発もねえ。なるべく休ませとけや」
「一番近い妖兵の陣地まで連れていけ。近くで降りる」
「何に使う?」
「娘が連れていかれた」
ベアトリスは、へえ、という風に美貌を見つめ、すぐに頬を染めて眼をそらした。
「およそ、そんな理由で動く人間[#「人間」に傍点]とも思えねえがな。で――幾ら出す?」
と言ってから、
「おい、そんな眼で見るなよ。物を頼むのに報酬を払うのは、この世の大原則だろ」
「ついて来るのに文句はつけん」
「おい」
と突っかかりかけ、ベアトリスはこらえた。どう計算しても、他の誰よりもDに恩を売っておいて損はない。
「承知した。エンジンをかけてくるぜ」
巨体が闇へと戻ると、Dは背後をふり返って、
「ゼノン――来るか?」
と訊いた。
部屋の隅で壁にもたれていた影が、
「そうだな」
と身体を移した。それより早く、スタンザが、
「あたしたちはお荷物かしら?」
と声をかけるのへ、
「やめとけよ、スタンザ。お美しいダンピール殿には、おれたち人間なんざお呼びじゃねえんだよ。それに、あんな小生意気な小娘のためにあくせくするなんざ、報酬外さ」
無論、ストライダーである。
スタンザはDを見つめたまま、
「それもそうね。じゃあ、ゆっくりと待たせてもらうわ」
とソファに横たわった。
二十分後、フライング・ステップは垂直に上昇し、高度五〇メートルで北への水平飛行に移った。
「派手にやられたな」
とゼノンが、右の頬を撫でてはしかめ面をするベアトリスに声をかけた。
「うるせえ」
「女にちょっかい出すのもいいが、相手を選んだらどうだ?」
「やかましい。これ以上ぬかすと、放り出すぞ」
ベアトリスの頬には生々しい平手打ちの痕が残っていた。どういうつもりか、トイレへ立ったスタンザの後を追って口説き、特製のをかまされたのである。スタンザは憤然と事情を暴露し、一同は失笑と呆れ顔をベアトリスへ送った。
「音がしないな」
Dが気づいた。
「ああ。消音器《マフラー》だけは完璧だそうだ。三十年前のセコハンにしちゃ、よく働いてくれる。スパイ用だったのかも知れねえな」
「爆撃装置はあるのか?」
「残念ながら、人力さ。目測して放り投げるんだ」
右の足下に固定されている鉄の箱へ、ベアトリスは顎をしゃくった。
左隣には連射銃が銃座に収まっている。その下のブリキ箱は弾丸だ。
ゼノンはどちらへも眼をやって、
「手榴弾もあるな」
と言った。
「そう見えても爆弾さ。火薬の成分が違う。手投げ弾のつもりで距離を取ると、こっちまで吹っとんじまうぜ。――ところで、D」
と呼びかけてから、
「彼だけ連れてきたのには、理由でもあるのかい?」
ベアトリスはパイロットではなく戦闘士なのだった。
Dは前方を向いたまま、
「ひとりではないのでな」
「はン?」
「おれが説明しよう」
ゼノンは少し身体の向きを変えて、二人を視界に収めた。
「おれの内部《なか》には、二人のおれ[#「おれ」に傍点]がいる。医者によると多重人格症というそうだ。大抵の場合はおれが外に出ているが、時たま、もうひとりのおれ[#「おれ」に傍点]と交替する。そっちのおれは、Dという男に勝るとも劣らぬ剣士だ」
「おいおい」
ゼノンがDの方へ首をねじ曲げた。
「そのとおりだ」
突然、機体が右に傾いた。誰も声を上げなかったのはさすがというべきだが、手すりにしがみついた格好は噴飯ものであった。
すぐに正常へ戻し、
「莫迦野郎」
とベアトリスが罵った。
「驚かすんじゃねえ。おかげで手に力が入りすぎた。墜落したらどうするつもりだ」
残る二人が二の句をつげなかったのは、言うまでもない。
少し黙って操縦桿を握ってから、ベアトリスはゼノンをふり向いて、
「しかし、Dより凄いのを飼ってる男か――それにしちゃ、普通だな」
「おれが出ている間は」
とゼノンは答えた。
「だが、奴はおれより強い。自分の意志で、おれを押しのけて出てくるんだ。そうなると、おれにはどうしようもない」
「そいつ[#「そいつ」に傍点]が出てる間のことを、あんた覚えてるのか?」
「だったら、もう少し元気でいられるんだがな」
「ほお」
好奇の光が、ベアトリスの両眼に湧いた。ゴシップ好きらしい。
「あいつは殺人狂だ。おれが知っている中で、最も邪悪で冷酷な存在だ。人間は無色で生まれ、理想の色に染まるというが、あれは嘘だ。あいつは根っから腐り切ってる。この世にいちゃあならない純粋な悪なんだ」
ゼノンは激昂し、拳で胸を叩いた。
「ここ[#「ここ」に傍点]にいる。そいつはここ[#「ここ」に傍点]にいるんだ。おれはそいつの仕打ちを知ってる。何の意味もなく通りかかった幼児の首を斬り、気まぐれで無関係な一家に押し入り、皆殺しにしてきた。金がなくなれば銀行を襲い、欲情すれば女を――しかも、あいつは、どう考えても」
急速に声が退いていった。
空いた手を手すりにかけ、彼は首を垂れた。
「済まん、つい――」
「いいさ」
とベアトリスが、あまり気乗りしない風に慰めた。
「誰だって、ひとつふたつ嫌なもンは抱えてる。ま、あんたのは、ちょっと厄介すぎるがな。なあ、愚問だが――そんなに辛いんならどうして死なないんだ?」
一瞬遅れて、彼は、おっと洩らし、
「着いたな」
と言った。
眼下遥かに、おびただしい灯火が揺らめいている。
その広がりからして、明らかに布陣中の軍隊だ。
「なるたけ近くに降りるぞ」
と告げて、操縦桿を前方へ倒す。
降下する機体から生じる風圧が、Dの前面に押し寄せた。
その耳に聞こえた。
「なぜ、死なないのかと訊いたな」
ゼノンの声だ。だが、それは彼の知っているゼノンではなかった。
「教えてやろう。この世ほど楽しい場所はないからだ」
その腰から夜目にもまばゆいかがやきが鞘走《さやばし》った。
Dも抜いた。
二すじの刀身が月光を刷《は》いた。
「おい、場所を考えろ」
ベアトリスが叱咤した。
「降りてからにしろ。墜死したいのか?」
「おれの一撃を躱した男――しかも、傷痕も残っておらん。おれが待ってたのは、こういう男だ」
ゼノンが唇の端を吊り上げて笑った。ベアトリスの言い分など耳にも届いていない。
「嬉しいぞ、Dよ。今、決着をつけてやる」
もとよりDも場所を選ぶ男ではない。抜き放った一刀は胸前に移り、横一文字の形を取った。
ゼノンが微笑した。
「おまえの一刀、おれは折った。今度はおれのを折ってみるか?」
青眼の構えが、徐々に上がって右上段――彼も逃げぬ、Dの誘いから。
フライング・ステップはさらに降下を続け、ごおごおと鳴る風ばかりが世界を制した。
その中を鋼の声が低く、強く、
「おまえ――生きてはおらんな[#「生きてはおらんな」に傍点]」
次の瞬間――
声もなく打ち下ろされた上段一刀。地から昇った横一文字と噛み合い、かっと暗黒に火花が散った。
凄まじい衝撃が三人と機体を右方へ跳ねとばした。
落ちなかったのは、操縦桿にしがみついていたベアトリスのみだ。
声もなく二つの影は暗黒へ躍り、見えなくなった。生死を賭けた一撃の決着も知らず。
イレーネは闇の中で眼を醒ました。夢ではないかと疑ったのは、そのせいであった。
一点の光もない完璧な闇を、少女はこれまで体験したことがなかった。
人間の世界である限り、どのような苛酷な自然の中にも光はある。正しくは光のようなものはある。それは闇の中を生きねばならぬ人間や獣の気か、或いは希望か。
だが、イレーネには何も見えなかった。
風もない。
つまり、完璧に四方を覆われた空間なのだ。床のみ、石造りとわかる。
不安がイレーネの胸を鷲掴みにした。「辺境」に生きる娘として、それなりの胆はすわっているつもりだが、DNAの中に刻みこまれている原初の記憶だけはどうにもならない。
暗黒の中で、仲間がひとりずつ、人間以外のものにさらわれていった恐怖。次は自分の番だ。
総毛立っている、とイレーネは思った。
あたしは怯えている。そう認めてしまうことで、恐怖を何とか克服できないか。
ここへ来るまでの事情は、すぐに憶い出せた。
あの農家の納屋を出て母屋に駆けこんだところで、首すじに鋭い痛みを感じた。その後はすべて闇の中なのだから仕方がない。ようやく、何かされたのではとの意識が浮上し、点検してみたが、異常はなさそうであった。
身体は勿論、衣服も元のままである。手足も自由に動く。
身体の異常を探っていた手が、右腰のあたりで固いものに触れた。
木と鉄の感触――火薬銃だ。避難壕の地下で与えられた武器を、敵は持ち去らなかったのだ。
限りない安堵が全身に広がった。木製の銃把《グリップ》を握りしめてベルトから抜くと、ずっしりと鉄の重さが手に来た。
「これで何とかなりそう」
こうつぶやいたとき、眼の前で、
「そうかな」
寂《さ》びた男の声。三〇センチと離れていない。いつ来たのか、いつからそこにいたのかもわからない。それらが一丸となって純粋な恐怖と変わり、少女を凍りつかせた。
そういえば――眼の前に誰かいる。呼吸音も気配も感じられないが、立っている。
味方とは思わなかった。そんな都合のいい考えは、今の声を聞いた瞬間に消えている。
冷酷で、嘲笑的で、威圧的で、そして、何よりも飢え切っているような声を。
「あなた――誰!?」
一歩下がって、火薬銃に左手を添え、真正面に向けた。右手の親指で撃鉄《ハンマー》を起こす。引金《トリガー》を引くだけでも発射できるのはわかっているが、撃鉄を起こしておけば、引金を引く距離が短くて済み、それだけ狙いがブレない。
予測どおり返事はなかった。
「誰よ? 返事しないと射つわよ」
一発――と浮かんだ。
こいつ[#「こいつ」に傍点]が味方のはずもない。なら当たればめっけものだし、外れても火薬銃の炎で周囲の状況は掴める。
指が引金を引いた。
同じタイプの火薬銃を射ったことは何度かある。「辺境」に生きる資格試験のようなものだ。
だが、今度の反動《キック》は特別に強烈だった。弾丸が違うのだ。両手は万歳の角度で跳ね上がり、左手は銃から離れてしまう。
前方に人はいなかった。発射炎だけはイレーネの意図を汲んだのだ。石の床と周囲の闇を束の間照らし出して。
ここには何もない。果てしなく広大な空間にいるのは、イレーネ自身と、今の声の主きりなのだ。
「何処にいるの?」
ふり向いて叫んだ。少なくとも前にはいなかった。
「何処、何処、何処?」
イレーネは回転した。もはや、何処を向いているのかもわからなかった。
「よく来た」
声がした。
眼の前で。
イレーネはためらわなかった。
反動が少女を一歩後退させた。
声の位置に、確かに闇とは違う色彩《いろ》が見えたが、もう漆黒に塗りこめられている。
「私は気の強い女が好きだ」
また声がした。眼の前で。
三発目を射つ前に、額に冷たく柔らかいものが当てられた。
――まさか、キス!?
跳びのきながら射とうとした。
動けない。
全身から感覚が消滅していた。
手足はおろか、まばたきもできない。
「気が強ければ、血も熱い」
イレーネは絶叫しようとした。
「ここは、私の寝室だ。人間には少々広すぎるが。鬼ごっこにはもってこいだぞ」
唇が重なった。
イレーネは眼を凝らしたが、何も見えなかった。
三度目のキスは――
勿論、首すじだった。
「対空砲火を食らうとはな。さすがは軍隊じゃ」
嗄れ声は愉しげであった。
「ここの位置はわかっておるか?」
Dはうなずいたきりだ。敵の陣地と思しきところから南南西へ約一キロの地点だ。さしてアテが外れたともいえまい。
高度が二〇メートル足らずだったのも幸いして、Dには傷ひとつ骨折一本ない。ダンピールの血は人間のそれとは違うのだ。まして、今は夜――彼の時間であった。
「あいつらはどうしたかの?」
嗄れ声の問いを、Dは無視して歩き出した。個人の生と死に他人は介入できない。哀しもうと歓ぼうと同じことだ。
「ところで」
と嗄れ声は続けた。
「撃墜される前に受けたあ奴の一刀――どうなった?」
やはり返事はなく、Dの刀身は鞘に収まったままだ。
「あの妖兵ども、実力を発揮するのは、暗くなってからと見た。せいぜい気をつけろよ」
揶揄をたっぷりと含んだ声が、急に生真面目な調子に変わって、
「しかし、なぜ、今頃、奴らが甦ったのか、いくら考えてもわからん。それも昔の装備まで備えてな」
魔法ともいうべき超科学力を身につけながら、彼らは一種の「懐古趣味」ともいうべき性向から脱け出ることができなかった。
自らの身体を風に変えて自在に宙を飛ぶ技術を獲得し、ある特定範囲ならほぼ光の速度で移動し得る方法を実現しながらも、多くは、石畳と街灯の道を古風な馬車で行くことを好んだ。彼らの居城が、例外なく中世ヨーロッパの城を再現しているのもそのためである。
この街道で繰り広げられた戦いも、恐らく、反陽子砲や次元渦動、流星群といった超近代的な大業《おおわざ》ではなく、刀槍を主体にわずかな火薬銃を加えた程度の――それだけに無惨で生々しいものであったろう。
蒸気で動く巨大ロボットや飛空器、エア・カーなどが戦いに加わったとされる。
「ひょっとしたら、戦い自体が貴族の好みだったのかも知れぬな」
「わざと起こしたか」
珍しくDが応じた。
「兵同士が戦うのを見るために」
「かも知れん。ありそうなことじゃ。おまえにも半分流れておる血のせいじゃなあ」
一瞬、左手のあたりに小さな緊張が生じたが、Dは今度は何もせず足を進めた。
言うまでもなく森の中である。密集した草が足音を吸い取ってはくれるが、もとより無音歩行などお手のもののDには、足場が悪いリスクだけが残る。
二〇〇メートルほど前進したとき、前方で、猛烈な連射音が噴き上がった。
「おや、ベアトリスのおじさんじゃな」
嗄れ声が言った。
「あれは飛び入りじゃ。余計な気を廻すな。敵が向うに気を取られてくれれば好都合じゃぞ」
もとよりDは気にした風もなく、前進を続けた。
気がついたときは囲まれていた。
気配でわかる。
大あわてで携帯スプレーを取り出し、頭から吹きかけた。
連射銃の安全装置を解除し、ボルトを引いて放す。発射準備が整った刹那、四方から小さな気配が襲いかかってきた。
吹き矢である。それはことごとくベアトリスの全身に突き刺さり、呆気なく滑り落ちた。
スプレーは空気は通すが、火薬銃の弾丸も跳ね返す透明の皮膜を造り出すのだった。但し、ひと吹き三十分しか保たない。
「だァほ。たかが傭兵が、プロの戦闘士を舐めるんじゃねえ」
できれば見つかる前に移動したかったのだが、フライング・ステップが何とか動きそうだったので修理をという欲が出た。姿勢安定用のフィンが近接着弾の衝撃で歪んでしまったのだ。
気配を感じたのは、バーナーでフィンを熔接の最中だった。
ベアトリスはまず、連射銃で周囲を薙ぎ払った。戦闘士である。夜目は利くが、敵は丈高い草の間に身を隠していた。追い出すのが先である。
悲鳴が上がり、影がのたうつ。
一連射で、敵は一五、六メートルの距離をおいていることがわかった。
しかし、四方にいる。一気に押し寄せられれば、一挺の連射銃では防ぎ切れっこない。
「なるべく近づくなよ、こら」
と声をかけ、彼は左手で短連射を送りながら身を屈め、右手を足下のプラスチック・コンテナにのばした。
「あれ?」
びっしりと並んだ爆弾の列は、一発も欠けていない。
「威力はこっちの方が大きいんだがな」
ごつい手が掴んだのは、手榴弾であった。
「ほらよ」
彼はそれを肩越しに後方へ放った。
爆発が連続し、草の葉と地面と人影を跳ねとばした。
「後ろはいいと。しかし、明日がねえな。こんなところで死ぬわけにゃいかねえんだな」
ぶつくさ言ってる間にも連射は続き、熱い真鍮の空薬莢《からやっきょう》が宙に舞う。
すでに吹き矢の攻撃は熄《や》んでいた。
「しめた」
脱出するなら今だ。
銃架から連射銃を下ろし、爆弾と手榴弾のコンテナをつないで背負う。七十キロ近い重さを、巨体は軽々と受け止めた。ベルト弾の入ったブリキ缶も左肩からかける。こちらも三十キロは越す。いくらタフな戦士といえど、ほとんど限界の重さだ。
ステップを開いて下りようとしかけたとき、前方からエンジン音が近づいてきた。
かなり大型の大出力エンジンだ。
「あちゃあ、戦車か」
口に出してから、眼で確認できた。ごつい影が震えながら巨体を露わにする。
砲塔から突き出た砲身は短く、代わりに、より小口径の砲や機関銃らしい影が、ハリネズミのように不気味に突き出ていた。
「やべ」
跳び下りた。
百キロを越す重量が、膝に食いこんだ。軽合金製の関節ががっしりと支える。五年前に二百キロを背負ってつんのめったとき、両膝とも手術を敢行した。
もう一度、地面に転がった瞬間、猛射が襲った。
戦車には砲弾の他にレーザー砲《キャノン》も装備してあるらしかった。
真紅の光条がステップに命中するや、機体は内側からふくれ上がった。
炎塊が鉄板を押しのけ、突き破っていく。
ベアトリスは止まらなかった。火の粉や破片を浴びながら、草むらを転がっていく。
背負う荷物を考えれば、信じ難い速度であった。
いささかの重さも感じさせずに立ち上がったのは、戦車の左側面を前にした位置である。
荷物を下ろさず右手をふりかぶる。
鋭い吐息とともに巨体が投擲した。爆弾を。
戦車に対するに連射銃や手榴弾をもってする愚を犯さなかったのは、やはり戦闘士ゆえだ。
五十トンを越す鉄の塊は、ハリボテのように、自分が破壊した飛行体の後を追うはずであった。
「ん?」
驚愕が精神と身体を捕縛する前に、ベアトリスは横へ跳んだ。頭上を機関砲の猛射がすぎる。
爆発は生じなかった。
「不発かよ」
二発目を投げる余裕もなかった。
戦車の全砲身は、今度ばかりは逃れようもない精確さで、可憐な名前の男に狙いをつけていた。
男の唇が離れたとき、イレーネは何が起きたか理解できなかった。
安堵が襲いかかってきた。――キスだけだ。噛まれてはいない。
今ははっきり、前方に人の気配が感じられた。
そのさらに前方に、小さな炎が点った。充分とはいえないが、近くのものを識別するには申し分なかった。
イレーネの前に立っているのは、紫紺のケープをまとった長身の男であった。
そして、近づいてくる炎の主は――
その姿がおぼろに認められる距離まで来たとき、イレーネは戦慄した。
農家の納屋で、Dと戦おうとしていた男だ。何ということだ。虎の邪魔をしにきたのが、狼だったとは。
二人から五、六メートルの位置で足を止め、三人目――ゼノンはしげしげとそちらを眺めた。
「空から飛び降りたら、地面が崩れた。おかしなところへ来たものだな。――あんた、貴族か?」
「人間がよくここまで来た」
男の全身から妖気が噴き上がった。
ゼノンの震えるのが、イレーネにははっきりと見えた。
「骨の髄まで痺れたぞ。おれの名はゼノン。そちらはドルレアック大公か」
「よくおわかりだ。――と言いたいところだが、それは父の名だ」
「………」
「人間ごときに名乗る名は持っておらんが、まあいい。面白いところで会った男。冥土の土産に持っていけ。私は、ドラゴ・ドルレアック准公だ」
「貴族に伜か――いても、おかしくはないが」
ゼノンは苦笑した。イレーネは少し落ち着いた。ゼノンが貴族を怖れている風には見えなかったからだ。いきなり自分の喉にナイフを突きつけた悪党といっても、やはり貴族よりは親近感がある。
じり、とドラゴ准公が前へ出た。山が動いたような気が、イレーネにはした。
「長い眠りから醒めたところでな。少々喉が渇いておる。傭兵どもが贄を捧げてくれたが、邪魔者が来た。だが、ただの旅人ではあるまいな?」
「そうなってしまったよ」
ゼノンの右手が柄《つか》にかかった。
その姿を見つめるドラゴの両眼が、徐々に赤光を放ちはじめた。
「ほう、確かに並みの人間らしいが――いや、違うぞ[#「違うぞ」に傍点]。これは面白い男だ」
ひょい、とイレーネを持ち上げ、五歩ほど右へ歩いてから静かに下ろして、
「ここにいろ」
と告げて、もとの位置へ戻った。
「かなりの強敵がこちらへ向かっていると、兵たちから連絡があった。おまえのことか。いや、それにしては、今のおまえの腕でここまで無事に来れるとは思えん」
「残念ながら、仲間がいる」
「ほう。すると目的は何だ? 父の城の宝石か?」
「それもいいな。だが、少し違う。城に人間はいるか?」
「そういえば、兵どもの眼を醒ましたとき、何名か逃げこんだ奴らがおるな。気の毒に」
「どういう意味だ?」
ゼノンの声は落ち着いていた。
「じき、あの城は父の支配になるということだ。ま、安心しろ。すぐに、私が落としてやる」
「父の城を――落とす?」
「不思議そうな顔をするな。人間の世界ではよくある話だろう。貴族とて、さして変わらぬよ。おまえたちの前では超然としておるが、怒りも憎しみも喜びも――そして、哀しみとやらも、嫌になるくらい具《そな》えておる。私が兵どもを甦らせたのも、そのせいだ」
少し離れた「安全地帯」で、イレーネは胸中に立つさざなみを意識した。
この貴族は、父を斃すために兵を起こしたのか。それを支える感情は怒りか憎しみか――それとも。
「もうよかろう。旅人よ、黙って帰れ――とはいくまいな」
「もとよりだ」
ゼノンの鞘が長い光を吐いた。
准公ドラゴの右手も上がった。その手を覆っていたケープが、裏地の色を明らかにしていく。
鮮やかな朱――血の色を。
ゼノンが猛然と地を蹴った。
まるで斬れと言わんばかりに突き出した右腕――その肘へとふり下ろされた刀身は、空中で火花を散らせた。
大きく跳びずさり、ゼノンは准公のマントから生えた一メートルばかりの刀身を見つめた。
奇怪な仕掛けは貴族の技として納得できる。彼を斬り結ばせず後退させたものは、その刀身から伝わる凄まじい膂力《りょりょく》と技そのものであった。
「あの父の息子にしては、私は武術とやらが苦手でな。だから、護衛をつけた。こいつは手強いぞ」
ゼノンが微笑した。
「望むところだ」
今度は准公が走った。
迫りくる刀身を、ゼノンは下段から跳ね上げた。
そのまま止めずに、首へと斬りつけた一刀を、跳ね返った刀身が受ける。
さらに斬りこみ、三合あわせて、ゼノンは後退した。
臍を噛む思いだった。こちらから二度も下がるとは。
視界は血で埋まっていた。ケープから生えた刀身と斬り結んでいるうちに、彼は血の海の中に沈んだような気がした。
「互角か。大したものだ」
と准公は笑った。
「だが、そろそろ決めよう。腹も減ってきたし、父の兵が巻き返しを図っているようだ」
意外な言葉に、ゼノンが眉を寄せた。
頭上から朱色の波涛がのしかかってきたのは、その瞬間であった。
准公のケープだ、と気づくより早く、彼は怒涛に呑みこまれた。
イレーネは見張った眼を閉じることもできなかった。
准公のマントが悪夢のように広がり、ゼノンを覆い隠した。驚く間もなく離れ――ゼノンが現われた。その右肩から、おびただしい鮮血を噴出させながら。
後退する准公の声なき笑い声を、イレーネは聞いたような気がした。
前のめりに倒れたゼノンのもとへ駆け寄ろうとした肩が掴まれ、後ろへ引きずられた。抵抗しようにも掴まれた瞬間に力は失われている。
「共に来い。私の贄よ」
准公の冷たい、しかし、優しげな声は、言い終わった刹那、短い苦鳴と化した。
肩から力が抜け、イレーネは地面に転がった。
夢中で見た。
真紅の十字架と化した准公の背を。
十文字は瞬時に崩れ、鮮血のしたたりとなった。
イレーネは眼を丸くした。必殺の斬撃を加えたのは誰か? 准公とゼノンの間には誰もおらず、また到底、刃の届く距離ではなかった。
「――出て来おったか?」
准公がふり向いた。苦痛に歪んだ顔は、しかし、微笑を浮かべていた。
その前方で、すでに立ち上がったゼノンが、右手の一刀を突き出した。
空いた方の手で自分の胸あたりを指し、
「こいつ[#「こいつ」に傍点]では役者が不足だ。愉しい仕事はおれ[#「おれ」に傍点]にまかせてもらおう」
その笑顔の何と明るく、何と澄んでいることか。そして、何と怖ろしいことか。
「受けられるか、これが?」
右手の剣を彼は横に薙いだ。
反射的に准公は跳びずさった。
着地し、彼は左膝を折った。触れ得るものは一片もなく、しかし、膝は半ばまで裂けていた。
「おかしな技を使う」
と准公は笑った。
「だが、それでは貴族は斃せぬ。見ろ」
彼は立ち上がった。その膝の傷も裂かれたケープも、みるみる復元した。
「これが貴族の技よ。おまえはどうだ? 生身の身で互角の技が使えるのか?」
ゼノンが、にっと笑った。
「できる」
「なに!?」
「わからんのか。貴族は生ける屍だが、おれはとうに死んで[#「死んで」に傍点]おる」
ゼノンが八双に構えた。
ふり下ろせば、刃は無限長と化す。
准公の表情が変わった。
そのとき――
鈍いが確かな衝撃が遠くから伝わってきた。
「ほう――父もやる」
そちらを向きざま、准公はゼノンめがけてケープを閃かせた。
裏地からのびた刀身は、ひとすじの光と化して、ゼノンの胸に吸いこまれた。
間一髪ゼノンが跳ね上げるや、刀身は戻った。
「これも貴族の技だ。おまえの片割れに縁があったら、また会おう」
彼方の闇に引かれるかのように、声と姿が遠ざかった。
棒立ちになったゼノンが、地面に転がったイレーネの方を見たとき、無数の足音が、圧倒的な数の質量を伴って押し寄せてきた。
准公の「父」の軍勢が。
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第七章 廃城の翳(かげ)
砲身がこちらを向いたとき、ベアトリスは歯を剥くしかなかった。逃亡のタイミングは失われていた。
炎が視界を埋めた。
こちらへ噴きつけてくるのが見える。
戦車砲の一撃ではなかった。
跳ぶかわりに伏せた。
ねじくれた装甲板や灼熱したパイプが頭上の空気をぶち抜いてから、衝撃波がやってきた。
背中の荷物が持っていかれそうになる。耳を押さえていても、至近距離の大爆発は鼓膜を引き裂こうと全力を尽している。
めまいを承知で立ち上がった。
戦車のあった場所は、炎が燃えているきりだった。
破片が落ちた草むらの果てや木立ちが燃えている。どうやら、ちょうどいい距離にいたらしい。近ければ炎に包まれ、遠くても破片を食らっていただろう。
だが、今のベアトリスの関心は別のものにあった。
「一体、どいつが?」
戦車をおシャカにしたのかと思った。
いきなり、こめかみが連打された。脳まで痺れる衝撃は、連射銃のものに違いない。
どっと倒れた。
倒れながら、連射銃を構える。敵の気配だけで射ちこむつもりだった。
ほどなく、数個の気配が近づいてきた。細目を開けて観察する。死んだ真似も得意でなくては、この仕事は務まらない。
気配が左方で止まった。一メートルと離れていない。四人だ。
瞼の隙間から眼球だけを動かして、ベアトリスは彼らを観察した。
――?
これまでの妖兵どもと同じ格好だが、服の色が違う。どうやら、濃いグリーンだ。
――別口か?
「とどめを刺せ」
と聞こえた。
ひとりが手にした細長いライフル状の武器をベアトリスの額に向けた。
――そうはいかねえよ。
ベアトリスは引金を発射ぎりぎりまで引いて跳ね起きようとした。
「何ィ!?」
引金は動かなかった。横倒しになったとき、機関部を地面にぶつけたのを彼は憶い出した。
――それだけで発射不能《マルファンクション》か。このへぼ銃が。
絶望が胸をついばむ。
突如、四人の間を突風が吹き抜けた。ばたばたと倒れる姿は、全員、肩を割られていた。
「よお」
急に力が抜けた。倒れたまま片手を上げるベアトリスの前で、黒い突風はDの形を取った。
「生命拾いをしたぜ」
とベアトリスはウィンクしてみせた。
「こいつら、何者だい? これまでの奴らとは違う所属らしいが」
「傭兵は二派に分かれて戦った。雇い主もそれぞれにいたはずだ」
「どいつだ?」
「過去の戦いはドルレアック大公と息子の間で行われた。今度も、その繰り返しだ」
「なんで、そんなことを知ってる? どこにも記録は残ってねえぞ」
返事はない。
「戦いの理由は何だい?」
「不明だ」
「すると、今回もわからんな。どっこいしょ」
と起き上がってから、
「一人二役はどうしたかな?」
「少なくとも片方は無事だ」
「きれいな顔して、肺腑《はいふ》をえぐるようなことを言うねえ」
ベアトリスは、四人組がやってきたのと反対側の方を向いた。
激しい叫びや火薬銃の連射音が聞こえてきた。
「戦って死に、死んでも生き返って戦うか。救われねえなあ。これじゃ、あのお嬢ちゃんも見つけられるかどうか」
「行くぞ」
声だけが美しく残った。
ベアトリスが眼を剥くと、世にも美しい人影は、すでに歩きはじめていた。
十分ほどで着いたとき、戦闘は熄《や》んでいた。
「やけに早いな、おい」
陣地の規模は小さい。せいぜい五十人級だ。とはいえ、動く影ひとつ見えないとなると、異常だ。
戦車も砲も建物も破壊され、あちこちで小さな炎が燃えている。
何よりも眼につくのは、地を埋める兵士の死体だった。
「いやはや、凄まじいものだな。徹底的な掃討戦だぜ。皆殺し《ジェノサイド》ってやつだ」
「おかしいの」
「え?」
と、先を行くDに眼を剥いたのは、もちろん、嗄れ声のせいだ。
「いくら不意討ちとはいえ、こいつらはみな、戦闘準備は整えていた。武器も手にしておる。それなのに、敵はひとりも倒れておらん」
「そういえば、倒れてるのは灰色の奴ばかりだな。――しかし、おまえ、突然、爺むさくなるな」
不意にDが足を止めた。
「吸い取られている」
彼の声がつぶやき、
「伝説どおりじゃ」
と、爺むさい声が応じた。
こんなときに酔狂な真似をしやがる、とベアトリスは思った。南の町で見かけたひとり漫才ってやつか。
「伝説てな何だい?」
不吉なものを感じながら、ベアトリスが訊いた。
嗄れ声が応じた。
「ドルレアック大公の息子は貴族らしく血を吸ったが、父親は直接、生命を吸い取ったという。つまり、異端児じゃ。一説によれば、そのせいで、大公は“神祖”の覚えが悪かったとか」
「鬼っ子はいつも邪魔にされるわけか――ん!?」
ベアトリスが左方へ眼をやるのと、Dがそちらを向くのと同時。
風が吹きつけてきた。風のようなものが。
これは――気か。
陣地を覆うバリケードは、すべて破壊されていた。その彼方に、誰かがいる。否、何かが。
「こいつは、凄え」
ベアトリスが身震いした。口の中で何かを唱えはじめる。妖力封じの呪文だ。
Dは無言で見つめた。
闇の向うから足音が近づいてきた。
Dの鬼気を向うも感じているはずなのに、躊躇する風もない。
Dの眼には、鮮明に見えていた。
二メートルを越す長身のケープ姿だ。
両手に兵士らしい影をぶら下げている。服の上からベルトを鷲掴みにしているのだ。
土を踏む音は、大地を突き崩すような響きを持っていた。
濃緑色のケープ姿は、Dの三メートルほど手前で地上からそびえた。
「わしの作った死の国を、恐れもせずに通過してきた者よ――何者だ?」
「そちらから聞こう」
Dの返事に、緑の敵はかすかに震えた。
「何という美しい声――いや、何たる美貌。これは、盲目状態で相手をせねばならぬかな。美しく、恐れを知らぬ若者よ、わしはドルレアック大公だ」
「おれはDと呼べ」
「知らぬな。しかし、嬉しいぞ。五千年の間に、少なくとも、おぬしのような宝石が生まれておったとは。退屈極まりない世も、なかなかに捨てたものではないようだ」
「何故、甦った?」
にべもなくDが訊いた。
「それは――わからぬ」
緑の巨人――ドルレアック大公の声が遠くなった。
「眠らせておいてくれればよいものを。だが、わからぬでもないな」
「それは?」
「伜も――ドラゴも甦った。そのためであろう」
「息子を斃すか」
「伜はわしを狙う。古《いにしえ》のようにな。そのために我々は“御神祖”の怒りを買ったのだ」
「何故、親子で戦う?」
大公の口もとが歪み、白い歯が剥き出しになった。貴族の特徴――鋭い牙はなかった。不要なのである。
「わしの自慢は歯並みでな。これは伜に勝る」
不意に彼は右手を高々と持ち上げた。掴まれた兵士は弱々しく身じろぎした。生きているらしい。
「女だ」
ベアトリスが呻いた。この男も夜目は利くらしい。
Dの眼もまた、闇に閉ざされた白い女の貌《かお》を捉えていた。
半ば開いた唇に、大公の口が近づいた。
紫色の光が二人をつないだ。大公ではない。女兵士の放ったものだ。
恐らくは傭兵の猛訓練に耐え抜きながらも、ゆるやかな曲線を維持していた女の貌が、まばたきする暇もなく、豊満さを失い、下の骨格を露わにしていく。同時に、艶を失った肌も黄ばんで、時間の悪意――皺に覆われていく。
見る方には時間の感覚も失われる長さに思えたが、現実は一秒足らず。ミイラと化した女兵士は、干からびた音をたてて地べたへ転がった。
「生命を吸い取りおったぞ」
嗄れ声が呻いた。
「身になるのは男だが、味がいいのは女だ」
大公の左手が、もうひとりの兵士――こちらも女――をその口もとへ持ち上げた。
無気味な吸引を止めたのは、Dの声であった。
「女がひとり、こちらの――おまえの伜の陣営に連れ去られた。何処にいる?」
「さて。親子とはいえ、目下敵同士。あいつのすることまでは掴んでおらぬな。そうか、生身の女をさらったか。攻めこみついでに、その女も貰っていくとしよう」
「もうひとつ。おまえたちの兵士が甦ったとき、おまえの城へ逃げこんだ者たちがいる。無事か?」
「おるとも――城にな。来るがいい」
闇の顔がにやりと笑って、
「だが、その前に半ちくな二人目を――」
大公はここで頭上をふり仰いだ。
魔鳥が舞い降りてくる。
漆黒の夜に愛された凶鳥《まがどり》が。
黒い翼は羽搏くよりも翻り、鉤爪《かぎづめ》は、さらに長く鋭く、彼の頭上を狙って。
大公の口が開いた。
舞い降りる魔鳥の美しさに惚けたかのように。
そこからかがやく珠玉《たま》が射ち出された。緑の珠玉が眉間に吸いこまれるより早く、刀身がそれを切った。
光の炸裂が夜を昼に変え、Dの身体を後方へ弾きとばした。
一〇メートルも向うで、彼は着地したが、その身体は煙を吐いていた。
大公の笑いが死の戦場を駆け巡った。
「大したものだ。千人分の生命エネルギーを刀身といえども受けて、それで済むとはな。では、第二波を送ろう」
右手が高々と上がった。
それはつけ根から外れ、重い音をたてて女兵士のミイラの首をへし折った。
大公の妖気が恐怖に変わったのは、その傷口から黒血がじゃばじゃばとたぎり落ちてからである。
「貴様――貴族の腕をつけ根から……何者だ?」
「D」
返事は大公の胸もとで聞こえた。一気に距離を詰めたその疾走の凄まじさもさることながら、見よ、いつ構え、いつ突いたのか。闇色の刀身は吸精魔王の胸から背へと抜けているではないか。
左手の女を放し、大公はよろめいた。
「貴様……貴族の急所を」
そして、笑顔になった。
「これではわしを斃せぬ。もうわかったであろうな?」
Dに対し、これほどまでに勝ち誇った敵がいたか。
「わしの左手も奪ってみよ」
その口がかっと、喉仏が見えるほど広がった。
ふたたび迸る奪われた生命の力。
直径わずか五センチの球体が、Dの身体を焼き尽さんとその眉間へ吸いこまれる。
「――!?」
かがやく緑塊を灼きつけた瞳が、驚天の動揺を湛えて、虚空へと消えていく緑の火球を凝視した。
寸秒の間《かん》に緑塊は消滅した。それを呑みこんだ口が閉じたのである。
額にかざした左手を下ろす間もなく、Dはドルレアック大公の胸を貫いたままの刀身を押しこんだ。
異様な、巨砲の轟きに似た響きが夜を打ち砕いた。
大公の身体が、ねじくれた破片のように吹っとぶ。
二〇メートルはDの倍だ。自らの巨体をそこまで軽々と放った力の存在を、彼は知らなかった。足から着地し、その身体を支えた大地は大きく陥没した。亀裂が蜘蛛の巣のように四方へ走る。
「我が体内に残る生命に匹敵する力の主――貴様、何者だ?」
答えず、Dは左手をふった。
白木の針を大公はケープのひと振りで打ち落とした。
どちらも闘志はいささかも衰えていない。
Dは一刀を青眼に構え、大公は次の放出に備えるつもりか、口を一文字に引き結んでいる。
そのとき、頭上から一羽の蝙蝠《こうもり》が羽搏き下りて、大公の肩に止まった。
残忍なほど典雅な顔に、血も凍る憎しみの色が広がった。
「勝負は次だ」
言うなり蝙蝠が舞い上がる。
尋常のこの生きものとは到底思えない速度で上昇するその両足を、大公の左手がまとめて掴んだ。
蝙蝠もこの世のものではないようだ。
数度羽搏いたきりで、それは五〇メートルも上昇し、闇に同化してしまった。
「逃げよったぞ」
嗄れ声に、Dは尋ねた。
「聞こえたか?」
「ああ。伜がちょっかいをかけてきたとか、ぬかしておった」
Dにさえ不鮮明な蝙蝠の声を、この左手は平気で解読するのだった。
「大層な親子だの――さて、どうする?」
「イレーネを捜してから、奴の居城へ出かける」
「ふむ。しかし、そう簡単に見つかるかの?」
「一時間捜して駄目ならそれまでだ」
「冷たくないか?」
「おれの仕事は、城にある」
奇妙なひとり芝居へ、ひとりの男が口をはさんだ。
「おい、おれも行くぞ、D」
「好きにしろ」
とD。
「しかし、あいつらはどうするよ?」
ストライダーとスタンザのことである。まだ休憩所にいるはずだ。
「彼らがいなければ、分け前はこちらに入る。おまえもその方がよかろう」
「ガルーン、ガルーン」
ベアトリスは滅び去った古代部族の言葉で礼を言った。満面がほころんでいる。こちらへ入る云々がよほど効いたらしい。
「では、調査に取りかかる、か」
ゼノンは眼を開いた。
頭上に奇妙なものが見えた。大きな石の塊を抱えた娘だ。
眼が合うと、娘は困ったような表情になって、
「大丈夫?」
と訊いた。
「何とかな」
ゼノンは熱い肩口に手を当てた。准公に斬られた部分だ。
血止めはしてあった。いつものやり方だった。あいつ[#「あいつ」に傍点]がやったのだ。あれから[#「あれから」に傍点]何があったのか、憶い出したくもなかった。
「落としたらどうだ?」
まだ石を抱えたままのイレーネに声をかけた。
「それもそうね。もう二分もこうしてたんだから。手も痺れたわ」
思いきりよく放した石塊は、ゼノンの顔のすぐ右に落ちた。イレーネは息を吐いた。
ゼノンは上体を起こした。筋肉と神経が痛みに悲鳴を上げる。それをかすかな頬の引きつりに留めて立ち上がろうとするのを、
「まだ無理よ」
イレーネが止めた。荒涼とした口調が、ゼノンに彼女を見つめさせた。
「何があった」
何をした[#「した」に傍点]、とは訊けなかった。
イレーネは眼を伏せた。
「もうひとりのあなたに脅されたの。自分はすぐ引っこむ。逃げるのは勝手だが、危害を加えようとしたら、ただではおかないって」
そのお返しに頭をつぶそうと思ったのではあるまい。自分があの貴族に肩を割られてから、
「何があった?」
重ねて訊いた。
イレーネは眼を伏せ、かたわらの瓦礫の山にもたれかかった。崩れた天井の一部だろう。水爆の直撃を食らっても平気な宮殿を建てられるというのに、貴族というのはどこかおかしい。滅びが趣味としか思えない。
「あっち」
と右側――侵入者がやってきた方角を指さした。
ゼノンは立ち上がった。足がふらつき、間欠的にめまいが襲ってくる。大量出血を補うべく人工骨髄がフル稼動中なのだ。右肩は熱く、麻痺している。
疑問の答えはすぐに――五十歩と行かずに出た。
ゼノンは眼前に広がる光景から眼をそらさなかった。
自分のしたことの結果がこれだ。眼ばかりではない。すべてを身肉に食いこませておかねばならなかった。
イレーネは、まだ瓦礫にもたれていた。
ゼノンに気づいて、
「見た?」
と訊いた。疲れ果てた声である。目撃したのだろう。いかに苛酷な辺境に生きる娘とはいえ、あれを眼のあたりにしては、もとのまま[#「もとのまま」に傍点]ではいられまい。
「君もか?」
うなずいた。
「凄いわね、あなた。何人いて?」
「ざっと七十人だ」
「それを五分もかけずに皆殺しよ。おかげで手に汗握ったわ」
イレーネは眼を閉じた。睫毛が震えている。
その場面を反芻しているのだ。記憶は自分の意志ではどうにもならない表出ぶりをみせる。
ゼノンは地べたに腰を下ろし、上体を寝かせた。
「おれではない、と言っても仕方がないな。さっきの石――落としても構わんぞ」
「今更、何よ」
イレーネは何度も頭をふった。
「見たでしょ、兵隊の中には女も子供もいたのよ。それも容赦なく。――あんた、どういうつもりなの?」
「向かってきたからだ、では理由にならないか?」
「逃げる者まで斬った。子供だったわよ」
ゼノンは長い息を吐いた。
沈黙が落ちた。誰も入りこみたくはない沈黙であった。
じき、かすかな嗚咽が流れはじめた。イレーネの身体が震えている。それは、終わりを知らない悼《いた》みのように薄闇の世界を流れつづけた。
どれほどの時間が経ったか。
ふと、イレーネが顔を上げた。
幸い、一台の磁力カーが軽傷で見つかった。
カバーを開けて内側を調べ、ベアトリスは、
「大丈夫。五分で直る」
と断言した。
かたわらに立つDへ、
「道具も付属してるし――それより、本当にいいのか?」
こちらはイレーネと、ゼノンのことである。一時間捜しても、二人は影も形もなかったのだ。
「気になるか?」
とDが訊いた。
「いや――何も」
ベアトリスは、すでに修理にかかっていた。
剥き出しになった機関部と彼の指の接触点で、青い火花が飛んだ。
「大分前だが、ある貴族ハンターの噂を聞いたことがある。その実力はもとより、修理万端が得意だったそうだ」
「そいつは、珍しい」
「ただひとつ、致命的な欠点があった」
「へえ。何だい?」
「優しすぎたことだ」
「ほお。ハンターの風上にも置けねえな」
「だから、引退したと聞く。活動期間は約三年」
「それだけありゃ、随分と滅ぼせただろうな」
「百一人と聞いた」
「あんたはどうなんだい?」
「及ばんな」
「そいつは、きっと後悔してるぜ。貴族だろうが何だろうが、生命を奪《と》りすぎちまったってな。いつか自分にもそんな日が来ると気がついたんだろう。そしたら、もうハンターなんて仕事はしていられねえ。生命惜しやと引退して、セコく金を貯め、どっかで農機具の修理屋でもしてるさ」
その会話の間も、両手は細かい動きを続けていたが、二分とたたないうちに立ち上がって、
「よっしゃ、これで完璧」
思いきり閉じたフードを叩いた。
「行くか」
とDが言った。その顔から闇が去りつつあった。
ベアトリスは東の方に眼をやった。光と影が行き交って――
「夜明けだ」
と彼は言った。
遥かな高みから、ひとすじの光が斜めに闇を切っていた。
死と闇が去って、別の時間がはじまろうとしていた。
ゼノンの顔が白く染まった。
「夜明けよ」
とイレーネは宣言した。
二人を乗せた磁力カーは、ずんぐりした身体に似合わぬスピードで風を切っていった。
運転ボックスにはベアトリスが収まり、Dは後ろの助手席兼荷台だ。
「ほれ見ろ。完璧だろうが。二百までは出る。例の廃墟まで、とばせばざっと三時間だ」
「邪魔がなければの」
「おめえな、その嗄れ声って、趣味がよくねえぞ。やめろ」
「そうしたいものだがの」
「このヤロー」
と、ふり向きかけ、ベアトリスは鼻をひくつかせた。
「いい匂いだな。おい、Dよ。この辺にサービス・エリアが――」
「敵だ」
「――ま、そうだな。しかし」
彼は大きくハンドルを右へ切った。
鬱蒼たる森の中へ疾走していく。
その首すじにDの左手のひらがあてがわれた。
「う……あ……う……」
ベアトリスは、何かに命じられているかのように、スピードをゆるめた。
本体が大きく傾いたのは、その刹那だった。
二人と荷物が宙に舞った。
黒土を蹴立てつつ横倒しになる磁力カーを、Dは五メートルも離れた着地点で見つめた。ベアトリスと連射銃と弾薬を左右の手に抱えている。手榴弾の箱だけは車の中だ。
「運転ミスだの」
嗄れ声に答えず、Dは前方を見つめた。
「“操り煙”だ」
と言った。
「うむ。満腹の奴でも誘われてしまう。しかし、部隊ではあるまい」
「森の住人か」
Dが応じたとき、左方の木立ちの向うから、地響きのような音が近づいてきた。
地面をする音だ。
木立ちを押し倒して現われたものは、縦半分に切ったハムのような物体であった。高さは優に一五メートルを越す。長さは森の奥まで――わからない。
自分たちの上下左右を、おびただしい影たちがそちらへ走り、飛翔していくのに、Dは気づいていた。
兎、妖狐、赤リス、森河馬、針獣、火虎《かこ》、飛行蛇、空烏賊《いか》――辺境ならではの賑やかさだ。
どれも、“操り煙”に引かれているのは明白であった。
物体の断ち切られた半円のような鼻面の真ん中に、小さな穴が開くや、鼻面一杯に広がった。
大小の生き物たちは、ことごとくそこへ吸いこまれた。
最後の一匹が消えるや、奇怪な“口”か“出入口”は元に戻り、そいつは巨大な蛇のように巨体をくねらせつつ、木立ちの向うに消えてしまった。
Dは左手をぼんのくぼに当てて、ベアトリスを覚醒させた。
そのまま疾走に移る。ベアトリスも後に続いた。
倒れた磁力カーに手をかけ、Dは軽々と引き起こした。
今度は運転席にすわった。
「よっしゃあ」
とベアトリスが後ろの席にまたがる。
Dはアクセルを踏んだ。
動かない。
続けざまに五度試したが、結果は同じだった。
「完璧だったな?」
Dは静かにベアトリスを見つめた。
「そうとも。これは何かの間違いだ。おれの修理のせいじゃない。車が悪いんだ」
「悪いところを直すのが修理だ」
「むむむ」
Dはさっさと欠陥車から下りた。
同時に地を蹴った。
Dだけならともかく、ベアトリスまでも。
二人のもといた位置に、細長い吹き矢が百本近く、まとめて突き刺さった。地面が白煙を噴く。
発射地点は――四方だ。
唯一の安全地帯――巨大な蛇が去った方角へと走る二人を、光る矢が追った。
Dがコートの裾で払うと、それは地に落ち、ベアトリスの身体に突き刺さったものは、すべて抜け落ちた。森へ入る前に新しい装甲塗料を吹きかけておいたのだ。
樹上から山刀を手にした影たちが舞い降りてきた。
その下でDの右手が閃いた。
ことごとく胴を両断された身体が血煙に包まれたときにはもう、Dは走り去っている。
そのかたわらを、絶え間ない銃声の連続が疾走していく。
ベアトリスの連射銃であった。こちらも十キロ近い銃と五十キロを越す弾丸を抱えて、Dの足に後《おく》れを取らない。
しかも、四散する敵へ放つ弾丸は、一発の無駄もなかった。三発の短射で確実に仕留めていく。
突如、灰色の巨影が行手をふさいだ。
三メートルの巨人兵たちは、貴族が趣味で造り出したものだという。すでに右手の長剣を高々とふり上げていた。
空気を灼いて斬り下ろされる刀身の下で、Dの身体も、それを受ける一刀も、あまりにも頼りなく見えた。
刃が噛み合わさった刹那、Dは刀身を跳ね上げた。
万歳の姿勢へ、第二撃。巨人の胴は半ば切断された。
大地を揺るがして倒れる巨躯を尻目に、Dは跳躍し、二人目の一刀を躱すや、頭頂から胸骨までを一本残らず斬り放した。ベアトリスも二人を射ち斃している。
巨人たちが下がった。
二人を中心に円陣を組む。
「話し合いに応じるつもりかな?」
ベアトリスが片手で額の汗を拭いた。
「停戦の条件を考えるか」
これは嗄れ声である。
「来るぞ」
とDが言った。
長剣を帯びた巨人たちの前に、別の巨影が出現した。頭上に掲げているのは、棘つきの棍棒であった。
彼らはそれを無造作に大地へふり下ろした。
地の底から噴き上がる衝撃がベアトリスを横倒しにした。
さらに一撃――衝撃は身体を跳ね上げたばかりか、体内でも縦横無尽に荒れ狂った。
こらえる間もなく嘔吐する。連射銃を射つどころではなかった。内臓が天地を逆に暴れ廻る感覚だ。
その首すじを鋼のような手が掴んだ。
Dだ。だが、その顔は明らかに苦痛に歪んでいる。
「このままいったら、腹ん中が……」
だが、逃げようがない。彼らは地を踏んでいるのだった。
だしぬけに空中へ放り上げられるのを、ベアトリスは感じた。
みるみる内臓が落ち着く。その瞬間、役目を悟った。
地上五メートルから巨人の円陣《サークル》へ、連射銃を射ちまくる。
二人が膝をついた。円陣は破壊された。
Dが走った。
黒い疾風《はやて》と化して巨人たちの間を巡る。
ことごとく地に伏すまで、二呼吸のことであった。
ふり向いて、彼はこちらへ駆けてくるベアトリスを見た。
その背後から、怒涛のような足音が押し寄せてきた。巨人の出動も失敗に終わって、最前衛が出て来たのだ。
「どっひゃあ」
連射銃を向けたベアトリスは、このときおかしな質問を聞いた。
「木に登れるか?」
「おう!?」
返事したときには、黒い魔鳥のような姿が、巨木の大枝に舞い上がっている。
「さあ、どうじゃ」
嗄れ声が愉しそうにゆれたとき、三メートルばかり離れた向いの木の大枝に、ベアトリスが跳び乗った。
「ほお、銃も弾薬も持っておる。――やるのお」
Dたちの向かった方角から、緑色の影が現われたのはそのときだ。
黎明の中で、灰色と緑の波のように兵たちは激突した。
喊声と銃声と刃の噛み合う響きが森を埋め尽し、時折、レーザーらしい光が暁の空を流れた。
「おおい」
ベアトリスが呼びかけてきた。手は口もとに当てられているが、声自体は外へ漏れていない。ハンター独特の会話法である。
「何事だ?」
と訊いてきた。
「親子でぶつかったらしいな。隙を見て、行くぞ」
Dのも声なき返事である。こちらは手を当てていない。
「いいや、ただ逃げるだけじゃ勿体ねえ」
とベアトリスは応じた。
「………」
「これだけの激戦だ。後方も尋常な状態じゃねえ。乗り物をかっぱらってくるぜ。止めるなよ」
こう言って、返事も待たずに乱戦の渦の中へ跳び下りてしまった。
斬り合い、射ち合い、取っ組み合いの混沌が、たちまちその姿を呑みこんだ。
「無鉄砲な奴だの」
嗄れ声が呆れたように言った。
Dは答えず、ベアトリスが消えていった方角を凝視しているばかりだ。
ただし、心配しているか、止めるつもりがあったかどうかは大いに疑問である。
なおも激しさを増す眼下の戦いも、やがて鎮まり、呻き声ばかりが暁光の森に流れていたが、じき、それも熄《や》んだ。
「一日のはじまりだというのに、よう死による」
嗄れ声も、疲れているようであった。
Dは軽々と大枝から下りた。
「あの女名前――還ってはくるまいな」
と嗄れ声がごちた。
「そう思うか?」
「違うかの?」
Dはやや首を左に曲げた。左手をそちらへ向ける。
「お!?」
近づいてくるエンジン音を、嗄れ声も気づいたようであった。
ほどなく、一台の、とてつもなく旧式な燃焼式エンジンらしい単座式二輪車――バイクが、巧みに死体をよけながら走り寄り、かたわらに停車した。
「よお」
と皮製のヘルメットの下で、ゴーグルを跳ね上げたのは、言うまでもなくベアトリスだ。右手には連射銃と弾薬をまとめてぶら下げ、皮ジャンまで着ている。Dが苦笑を浮かべた。ベアトリスの恐るべき調達能力を見くびっていたのに気がついたのである。
「さ、乗んな。磁力カーはうまくいかなかったけど、こいつはずっと扱いも修理も簡単だぜ」
ばんばんと後部シートを叩く手を、Dは無言で見つめ、無言でまたがった。
「むむ、足が楽に着いちまうな。おめえの座高のなさは異常なんだよ。さぞや、胃腸の具合が悪いだろうな。はっはっはあ」
自分のギャグが気に入ったのか、腹を抱えながら、ベアトリスはバイクをスタートさせた。
「しばらく森ん中を行くぜ」
木立ちの間を巧みに縫いつつ走る。
しばらくして、Dが、
「右手が重そうだ」
珍しいことを口にした。
「なあに」
「渡す気にならないのか?」
「悪いが、他人は信用できねえ性質《たち》でな。そうでなくても、万がいち、必要なときに落とされでもしてみろ。そいつを責めるより、自分の阿呆さ加減に泣きが入るぜ。安心しな。この両手はサイボーグ化してあるんだ。前の仕事についたときにな――おっ!?」
二つの顔が同時に街道の方を向いた。正しくは、その上空を。
ずんぐりした飛行体が疾走していく。みるみる飛び去る機体の真ん中に小さな丸窓ともうひとつ[#「もうひとつ」に傍点]のものが見えた。
「スタンザだぜ」
ベアトリスが舌打ちした。
「あの莫迦ども。愚図愚図してやがったな。二人ともあン中だぜ」
「多分な」
「何処へ行くと思う?」
「“廃墟”だろう。緑色だった」
ドルレアック大公の色彩《カラー》が機体を染めていたのである。
ベアトリスはまぶしそうな眼で夜明けの大空を見上げ、
「わざわざ捕虜にしたくれえだ。すぐには殺さねえだろ。それより、先に廃墟に逃げこんだ連中が気になる」
ここでひと区切りして、
「あの化物、大分、大食らいのようだったからな」
返事はない。同感の合図だった。
ふと、ベアトリスの身体が硬直した。
「おい、さっきのでかい掃除器――あれは……まさか、あの化物……どんな生命体でも見境いなく……」
「それじゃ」
「その声は出すなと言ってるだろうが」
喚いてから、ベアトリスは、
「あんな奴が何十匹もいてみろ。放っておきゃあ、この地方だけじゃなく、世界中からありとあらゆる生命が持ってかれちまうぞ」
おぞけをふるった風に言った。
「しかも、みいんな、ドルレアックに吸いこまれて……」
「急げ。このまま行けば、昼までには着くぞ」
「その声はやめろ」
ひと声張り上げ、幾つもの戦慄をふり払うかのように、ベアトリスはアクセルを吹かした。
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第八章 妖父子(ふし)
陽が翳り出したと思ったら、乳白の色が世界を漂いはじめた。
霧だ。
「来やがった、来やがった」
とベアトリスが歌うように言った。バイクのスピードを落とす。
「あのノートによると、この中でまず三人やられたんだ」
ぶら下げていた連射銃が上がった。銃身をハンドルに乗せて軽く動かし、反動を調整する。
「貴族はそれでは斃せんぞ」
とD。
「安心しな。用意してあるって」
と皮ジャンの胸を叩く。木の当たる音がした。
「下りるぞ。わざわざ居場所を知らせてやることもねえだろう。おれたちが襲われたのは、この少し先だ」
「相手の記憶は?」
とDが訊いた。
「無《ね》え。だが、全員、首を裂かれてたとノートにあった。おれは木の枝に袖を引っかけちまってな、少し遅れてったんで助かったらしい。逃げてきた三人の話だと――」
二人の前が乳色に染まった。霧が吹きつけたのである。
「わっ!?」
驚愕の叫びより先に、ベアトリスは両手を上げた。
連射銃に噛みついた刃が、凄まじい音と火花をたてて跳ね返った。
敵は霧のすぐ後ろにいたのだ。
――構えていちゃ間に合わねえ。
ベアトリスは頭上に上げた武器を前方の影めがけて叩きつけた。
それは返ってきた刃にぶつかり、敵をよろめかせた。倒れない。
――タフな野郎だ。おれみてえにな。
一瞬、思考がきらめき、次の瞬間、ベアトリスは突進していた。
二歩目で皮ジャンに貼りつけておいた白木の楔《くさび》を引っぱがし、三、四歩で相手の胸もとへ跳びこんだ。
敵の刃は左手で押しのけた。
楔は正確に第六と第七胸骨の間を抜けて敵の心臓を貫いた。
絶叫が噴き上がり、全身が痙攣した。
引き抜こうとする手も構わず、思いきり地面を蹴る。
敵が後じさる前に、楔はベアトリスの拳分だけ残して埋まった。
仰向けに倒れる敵の口から鮮血が噴き上がった。
地面に倒れた衝撃で霧が晴れ、敵の姿が見えた。
驚愕と――やはりという思いがあった。
あのとき、生き残りのジョセフは、もうひとりのおれたち[#「もうひとりのおれたち」に傍点]が襲ってきたと告げたのだ。
Dの方を見た。
刀身を収めるところだった。
足下に黒い影が伏している。霧が戻ってきて顔は見えなかったが、手と剣が眼に入った。Dと瓜ふたつ――同じ剣であった。
「おい、D」
「霧に映った影が敵か」
いつもと変わらぬ静かな声が、ベアトリスを落ち着かせた。
「何とか片づけたな。だが、今は、廃墟の主人が復活している。何が待ってるか知れたもンじゃねえ」
「戻ったらどうだ?」
「そうしてえのはやまやまだがよ。おれは酒癖が悪くてな」
「ほお」
「その声はやめろ」
「で、どうした?」
Dは関心を抱いたらしい。珍しいことだ。
「飲み屋へ入るたびに、そこの女に結婚を申し込んじまうんだ。おれの懐の中味が目当てだと気がつくまでに、女房を七人替えた。おかげですっからかんよ。で、老後の生活を安定させようと思ったわけだ」
二人は霧の中を歩き出した。
「道はわかるのか?」
嗄れ声が訊いた。
ベアトリスはじろりとにらんだが、あきらめたのか何も言わず、前方へ顎をしゃくった。
黙然《もくねん》と木立ちの間を縫っていく。
「確かじゃろうな、おい」
からかう口調である。
ふり向いて、ベアトリスは、
「うるせえな」
と吐き捨てた。
「これでも記憶だけは確かなんだ。黙ってついてこい」
彼にしてみれば、ノートへ記した記憶にも、盤石の自信があるのだろう。
「おまえが前にここへ来たのは、十三年も前じゃぞ。木の枝の様子も変わっておるじゃろう」
「それも計算に入れてある。ノートにゃ、みんな記してあったろ。いちいち、おかしな声色を使うんじゃねえよ」
「やはり、な」
Dの声である。ベアトリスはコケかかるのを何とかこらえた。
「ベアトリス・ギルビー――女名前だと甘く見た連中は、ひとり残らずあの世送りか行方不明になったそうだが」
「はっはっは。別人だよ」
豪快で得意そうな[#「得意そうな」に傍点]笑いであった。
Dの口もとにかすかな微笑が浮かんだのを、彼は知らぬ。
「おれはそんな大物じゃねえよ。しがねえ三流ハンターさ。でなきゃ、金欲しさにのこのこと、あんなところへ戻りゃあしねえ」
「学費稼ぎ」
と嗄れ声が言った。
「しかし、おかしいな」
ベアトリスは頬をひとつ張って、話題を変えた。
「傭兵どもの数が少なくねえか。あの森からすんなりとここまで来られたのが、不思議で仕様がねえ」
「まだ、醒め切っていないのだ」
とD。
「ん?」
ふり返ったベアトリスへ、
「ドルレアックと伜の精神がではない。傭兵どもを復活させる力がだ」
「なるほど、寝惚けてるってわけか。そりゃ、面白え。一考に値する説だな。しかしよ、それだと、もう少しすると厄介なことになるぜ。奴らがどれくらいの規模の軍勢になるかどうかはわからんが、正面からぶつかったら、この辺一帯どころか、辺境全体が焼け野原になっちまう」
足が止まった。
またふり向いた顔は、とてつもない真理に気づいてしまった平凡人みたいな表情を固着させていた。
「こうなったら、人質を救出しても何にもならねえ。こりゃ、別口の仕事になるぜ」
言うまでもない。ドルレアックとその伜とやらを斃すしか、辺境を破滅から救う手立てはないのだ。
「いずれにせよ、彼らとの戦いなしに、人質の救出は不可能だ。怖いか?」
「当たりめえだろ。世の中のハンターが、みいんなおめえと同じじゃねえんだぞ」
まいったまいったと頭を掻いてから、
「あれかな。貴族の始末料は貰えるかな、あの町長から?」
真顔で訊いた。
「自信家だな」
Dは苦笑したかったのかも知れない。
三十分ほど歩いたとき、前方に黒い石壁が霧を押しのけるように現われたのである。
「着いたぞ」
ベアトリスが両手を揉み合わせた。
「小さいのお」
嗄れ声である。壁に嵌めこまれた門のことを言っているのである。
「そりゃそうだ、裏門だからな。それでも見張りと装甲車が、ざっと三百人とひい、ふう、みい……十六台ある。正門はこの比じゃなかろうよ」
「入るぞ」
「どうやって? 少しでも疑惑を抱かせたら、内部に報告されちまう。あの化物に知られちゃ厄介だ。ストライダーとスタンザが人質に取られているんだぜ」
「尾いてこい」
「そら、まあ、な」
Dは森の中に戻ると、ためらいもなく一本の巨木に近づいた。高さは五十メートルもあるウルトラ杉である。周囲にも同様の木立ちが、夕暮れの蒼みがかった天に挑んでいる。
「背に乗れ」
「え?」
「置いていくぞ」
「わ、わかった」
頭に?マークをまとわりつかせながら、ベアトリスは幅広い背に張りついた。
武器弾薬を加えれば三百キロを越す体重になる。
「――!?」
その重さを気にしている風もなく、Dは軽々と木をよじ登りはじめた。
いや、よじ登りなどしない。まるで昆虫か爬虫類のごとく、するすると木の肌を登るや、十秒とかけずに中程――高さ二〇メートル程の大枝に辿り着いた。
根元から五〇メートルばかり向うに裏門がそびえている。
Dの眼はもう一本――一〇メートルほど前方の杉を捉えていた。
背中のベアトリスが急に身じろぎして、
「おい、まさか――」
と呼吸《いき》を引いた。Dと同じものを見ているうちに悟ったらしい。
Dの右手がコートの内側へ入り、引き抜かれると同時に、指の間から黒色のすじがまだおぼろな月光を横切って飛んだ。
強化繊維の糸である。一度だけ引いて手応えを確かめた。鳴った枝葉はもう一本の杉のものであった。二人の位置より一二、三メートル高い大枝に、糸は巻きついていた。
「行くぞ」
とDが宣言した。
「行くって――おい?」
ベアトリスの質問は空中で聞こえた。
巨大な振り子のように、二人の身体は弧を描きつつ、空中を走ったのである。
糸がのび切ったところで、内蔵式のカッターが糸を切り、空中へ躍り出た。
Dの肩の上で、ベアトリスは眼を見開いていた。
眼下に装甲車と兵士たちが見えるが、向うは上を見ようともしない。
軽々と門を越え、しかも、誰ひとりに気づかれもせずに、門の内側に着地する。衝撃が伝わった。その少なさに、ベアトリスは驚愕した。音すらほとんどしないではないか。
素早くベアトリスが下り、Dは立ち上がって周囲を見廻した。
「おらんな」
嗄れ声の結論であった。兵士のことだ。
二人は素早く巨大な建物に近づき、壁に嵌めこまれた鉄の把手を、Dが左手で握りしめた。
鍵がかかっている。
白い蒸気のようなものが、ドアノブを包んだ。
軽く押しただけで、二人は中へ入った。
「どういう芸当だい?」
とベアトリスが嗄れ声で訊いた。
薄闇に包まれた広間である。照明は点っていないのに光はあるらしい。
Dは冷たくベアトリスを見つめた。
「まず、牢獄だ」
「わお」
「来なくてもいいが」
奇蹟を眼のあたりにした素朴な農夫のような表情がベアトリスを包んだ。
「おい、まさか、おれのことを気遣って――」
だが、すぐに真顔になって、
「いいや、ついてくぜ。手柄やお宝を独り占めにされちゃ敵わねえ」
断固宣言した。
長い廊下を渡り、いくつも角を廻って、不意に暗い一角に出た。
壁に沿って幾つものドアが嵌まっていた。
「おや」
とベアトリスが鼻をひくつかせた。
「おい……」
ふり向いた。
Dは足を止め、右の袖口を鼻と口に当てていた。
ベアトリスは全身が総毛立つのを感じた。血という血が音をたてて引いていく。
この若者の美は、ダンピールの血が支えているのだ。すなわち貴族の血が。
今、廊下に漲《みなぎ》るものは、それを狂わせずにはおくまい。――血臭が。
Dは眼を閉じていた。
連射銃を左手に移し、右手で楔を抜いた。
「おい」
と声をかけた。
Dの眼がゆっくりと開いていった。
ベアトリスは生唾を飲みこんだ。それは赤光を放っていた。
「D」
低い掛け声には、ある種の決意がこもっていた。
すぅと光が消えた。黒瞳がベアトリスの髭面を映している。全身から力が抜けた。
Dが先に立って歩き出し、ある扉の前で立ち止まった。
血臭はそこから流れ出しているのだった。
扉はきしみながら開いた。
臭気を越えた凄まじい刺激が鼻孔から脳へと広がり、ベアトリスは必死に咳きこむのを抑えた。
ドアの向うに渦巻く臭い――その原因を眼にするのが怖かった。
Dは内部《なか》にいた。
たくましい背が見えた。
のこのこ背後から近づき、ベアトリスは薄闇に閉ざされた室内を眺めた。
天井から人間がぶら下がっていた。
小さな村の村民ホールほどもある牢獄であった。
手も足もだらりと下げた人々の数は、百近くあるように見えた。
男も女も老人も子供もいる。
どの衣裳も黒く乾いていた。血を浴びたのである。
「喉をやられてる」
すぐ上の、若い男の死体を見て、ベアトリスが首を掻き切る仕草をし、
「伜のことはわからんが、あの親父の仕業だな――吸うために流した血じゃあねえ」
ベアトリスの眼は、下を向いていた。
床は黒く煮しめられたような状況を呈していた。喉から溢れる血は身体を伝わって流れ、床を埋めたのだ。
そして、そのまま乾いた。貴族は彼らの喉を切っただけで、一滴の血も飲まなかった。
必死にここへ逃げこんだ人々を待っていたのは、無惨な殺戮だったのだ。
Dが奥へと歩いていった。
ふと、足を止めて見下ろした。
粗末な布製の人形が転がっていた。何度も丁寧に繕われた跡がある。それを持つ子も手入れをした両親も、大事に扱ったものだろう。
Dは上を見た。
赤いスカート姿がぶら下がっていた。
「どういうつもりだ?」
ベアトリスが眼をそらして訊いた。
返事はない。
不意に怒りが熱塊となってこみ上げてきた。
「わからねえのか。じゃ、教えてやろう。貴族の意味もねえお愉しみだよ。おめえも知ってるだろ、貴族の人間狩りをよ。自分の城に何人も拉致してきて、好きなように逃げさせ、追っかけ廻すんだ。夜明けまで逃げ切れればよし、駄目ならその場で血を吸われるか、満腹してる場合は、別のやり方でやられる。生皮剥がれた犠牲者が、生きたまま棺桶に閉じこめられた立体映像を見たことがあるだろ。この連中も同じ目に遇ったんだ。どんな気分だ、教えてくれよ。おめえならわかるだろ、貴族の血が流れてるダンピール様ならよ」
怒りが急速にしぼんでいくのを、ベアトリスは感じた。
後悔が残った。
「済まねえ――つい」
「気持ちはわかる」
とDは言った。
「おれに詫びる必要はない。怒りはとっておけ。貴族に会うまでな」
「全くだ」
ベアトリスは首を垂れた。冷汗が頬を伝わった。
「拷問部屋だな?」
とDは言った。
「拷問部屋?」
「あの二人はそこにいるはずだ。生き残りがいれば、同じ場所だろう」
「なるほどな」
人間を痛ぶるつもりの貴族なら、余計な手間暇はかけない。その場で拷問部屋へ連行し、無惨な愉しみにふけるはずだ。
「そのときの記憶は戻ったか?」
「いいや。だが、忘れちまった方がいい。十日もかけて金貨一枚見つからなかったらしいからな」
「今回も同じかも知れんぞ」
「だったら、早いとこずらかるさ。貴族を始末しろたあ言われてねえんでな。だが、城の主が復活したんだ。金目のものも甦っておかしかねえ」
「充分におかしいぞ」
「その声はやめろ。いいか、おれがこそ泥に化けても、他人に言うなよ」
「さっさと行かんか」
「その声はやめろと言ってるだろうが。――なあ、死体はどうする?」
「時間がない。それに、城の機能が復活すると厄介だ」
「おめえ、冷てえな」
「血の問題かな」
「それを言うなよ」
ベアトリスは頭を掻いて、痛切な眼差しを天井の死体に向けた。
「縁があったら、また、な」
彼は戸口へ向かった。
一歩出て、眼を剥いた。
廊下を覆っていた埃は跡形もなく、床で朽ちた肖像画は、その色彩や鮮明さを取り戻して、もとの壁を飾っている。
反対側の壁には炎が燃えて、廊下を照らしている。
「おい、本当に戻ったぞ」
ベアトリスが歓声を上げた。
「もう、仕事は終わりだ。おれはここで別れる。宝物蔵は見つからなかったが、その辺の絵や燭台ひとつだって大金に化けるぜ。そうだ、おまえも仕事は終わったろ。手え組んで捜そうか。山分けでどうだ?」
返事もなく、Dは歩き出した。
「なんでえ、意外に柔軟性に乏しい男だな。まあ、いいや」
ベアトリスは喜色満面で眼を閉じ、天上の美味を前にしたように揉み手しはじめた。
「畜生――放せ、へっぽこ貴族め」
石の床に横たわって喚き散らすストライダーへ、壁に背をもたせて腰を下ろしたスタンザが、
「うるさいわね、往生際くらいよくなさいよ」
と罵った。
「不吉なことをぬかすな、莫迦野郎」
「あたしに当たっても仕様がないわ。ここは拷問部屋よ。じきに係が来るわよ」
「き――貴族かな?」
「わざわざ連れてきたんだから、そうでしょ。あんたなんか捜しに出たおかげで、あたしまで巻き添えよ」
夜明け前、いつまでも戻ってこないDたち三人について、猜疑心を募らせたストライダーが、奴らに出し抜かれてたまるか、おれは追いかけるぞ、と言い出した。
足が無いのに無駄よ、とスタンザが指摘したことが、火に油を注ぎ、んなものすぐに見つけてやらあと、ストライダーは飛び出してしまった。それきり戻ってこない。
そのまま音沙汰がなければ、スタンザは外へ出るつもりなどなかった。
それが、一時間ほどして、避難所の扉がノックされ、インターフォンから苦しげな男の声が流れたのである。
ストライダーのものとは断言できなかったが、放ってはおけなかった。応答がないのもスタンザを立ち上がらせた。
武装を整え、ドアを開けた。その瞬間、意識が途絶えた。ガスだと思っている。
「おれのせいかよ。あいつらが戻ってこねえのがよくねえんだ。いきなりガスで来るとは、思わなかったぜ」
「今更悔やんでどうなるのよ。完全にお手上げよ。武器も取り上げられてしまったし」
「さっさと、ガスを抜きやがれ、こん畜生。でねえと、おれが拷問してやるぞ」
「相手が見えないと威勢がいいのね。黙ってても、じきやってくるわよ」
「くっそう」
二人を連行してきた兵士も、見張りも出て行ってしまった。ガスの効果によほど自信があるのだろう。声こそ出るが、手足はぴくりとも動かない。
「――!?」
「――!?」
二人の眼が、同時にある方角へ向いた。戸口ではない。部屋の奥――闇に閉ざされた一角だ。
この石室《いしむろ》は、天井からぶら下がった鎖や、蓋の内側に鋭い針を露出させた処女の柩、手足を伸張するベルトと歯車を組み合わせた拷問台等の古風な品の他に、さすがの二人にも見当がつかないメカニズムで埋められていたが、その一角だけは、入ったときから遥かに不気味な雰囲気を湛えていたのである。
あたかも、死が最も純粋な姿でそこに蹲《うずくま》っているような。
そして、今、二人は確かに感じた。その片隅から、何かが立ち上がり、こちらへ向かってくることを。
「………」
「………」
二人ともプロの戦闘士だ。その筋では、一流の札がついている。こんなとき、まず敵の正体を探って、必要とあれば話し合いを策し、でなければ問答無用でこちらから攻撃をしかける。
それが――すべて崩壊した。
索敵、攻撃――あらゆる意欲が消えてしまったのだ。
否、恐怖さえ。
やってくるものに対して、彼らは無感情な人形にすぎなかった。
それは――何者か?
拷問部屋の前で、Dは足を止めた。
用心のためか? 否。
「おい」
と、左手が呼びかけた。驚きに声が歪んでいる。
「――わかるか、この気配」
「嫌でもな」
とDは応じた。
手が把手《とって》を握り、引き開けた。
ためらいもなく足を踏み入れる。
部屋の中央に薄闇よりも濃い人影が立っていた。
こちらを向いた。
「おや?」
と、嗄れ声が眉を寄せ[#「眉を寄せ」に傍点]、
影が、
「D」
と言うなり、駆け寄ってきた。
スタンザではない。ましてやストライダーとも違う。
Dの前で立ち止まった影は、まぎれもないイレーネであった。
「何故、ここにいる?」
誰でもしそうな質問を、Dもした。
「地下を通って――」
奇怪な兵士たちに地下の広間へ運ばれ、ドルレアック大公の息子ドラゴと名乗る男の口づけを受けたこと、そこへゼノンが駆けつけ、二人の対決は相討ちに終わったこと。地下には移動用の高速カー・システムがあり、それに乗って終点まで来たこと。城内で、昆虫の形をした護衛ロボットに襲われ、また負傷したゼノンを残して、薬を捜しにきたこと。
てきぱきと話し終えた。
何か別のものを探ってでもいるように、Dは黒瞳を部屋の片隅に向けていたが、何もなかったのか、すぐに短く訊いた。
「ゼノンは何処にいる?」
「地下の倉庫――九番に」
「そこへ戻れ」
「あなたは? 助けてあげてよ」
「仕事が残っている。ここへ逃げこんだ村人は死亡した」
イレーネの顔から、あらゆる表情が消えた。
見開いた眼に、涙が溢れてきた。
「じゃ……母さんも……ジュドも……リノレルも……。ね、みんな何処にいるの?」
「埋められた。二度と会えん」
イレーネはよろめき、片手を壁について身を支えた。
「……凄いこと……言うのね。想像はついてたけど……いきなり、ボディへ来たわよ。あたし……親父以外とは……結構うまくいってたんだ」
呼吸困難に陥ったかのように、せわしなく息を吸いこむ頬を、光るものが伝わっていった。
「あたしを置いてったけど、他の三人は、止めてくれたと思う。それが、みんな? 不良娘だけが生き残って……真面目な兄妹とやさしい母さんが……親父なんか、どうなったっていいけど、さ」
「行け」
冷やかな声が、娘の混乱した精神に鉄鞭《てつべん》をふるった。
前方の美しい顔を怖ろしいもののように見据えて、イレーネは、
「わかったわ」
と言った。
「でも、手ぶらで帰っちゃ、あの人――死んでしまう」
Dは黙って左手を前方へ突き出した。
「待て」
手のひらが上げた声に、イレーネが眼を丸くした。
白刃が閃いた。
眼をしばたたくイレーネの前で、Dは一刀を鞘に戻した。左手は無事だ。
「――?」
眉をひそめるイレーネの胸もとへ、ぺたりと貼りついたものがある。
「――左手!?」
「大概の傷ならそれで治る。持っていけ」
おほん、と聞こえて、イレーネは美しい手首から先の手を見つめた。咳払いか。
「連れていけ」
とDは言い直して戸口へと歩き出した。
ドルレアック大公の寝所へ向かうつもりだろう。
だが、彼は左手を失った。傷ついた身体を治療する者はすでにない。
その前に――拷問室の先住者、ストライダーとスタンザは何処に消えたのか。
そして、彼らに近づいてきた、あの気配の主は?
どの廊下も、部屋も、今や絢爛たる貴族の装いと自信を取り戻していた。
すべてがかがやいていた。
黄金と大理石と宝石でできた館こそ、貴族の住まいであった。
上階に兵士の姿はない。ここは歴史に選ばれた者の場所なのだ。
Dは広い大回廊を進んでいた。
彼方に巨大なドアがひとつ見える。そここそが、この館の主人――ドルレアック大公の寝室であった。
天井から月光が降り注いでいる。本物の月ではない。超技術による発光パネルが真物《ほんもの》と同じかがやき、同じ色彩の光を再現しているのだ。
その下に人型の闇がいる。闇からできた若者が。
扉まであと五〇メートルというところで、背後から、
「おおい、そこの」
声と足音が走り寄ってきた。
紫紺のケープが優雅に躍っている。地下の寝所とやらで、ドルレアック大公の伜――ドラゴと名乗った若者であった。
Dが足を止めぬとわかったか、典雅な顔が怒りに歪むや、右方のケープが夢のように広がり、Dの前方へと廻りこんで、紫紺の壁をつくった。
「どいつか知らぬが、人の家へ入って、主人の伜に挨拶なしというのは通るまい。――人間どもの刺客か?」
「そうなるか」
「正直でいい。だが、あきらめろ。片手では無理だ。それに、父は今日、これから、私が斃す」
「ドルレアックには息子がひとりいた――ドラゴがおまえの名か?」
「ほう。大分前に来た筋肉頼りの連中とは、えらい違いだな。私の名を知っていたか。しかし――」
ドラゴは異様に紅い唇を舐めた。眼は恍惚と濡れている。
「とんでもなくいい男だな。貴様、ひょっとして、ダンピールか?」
「そうだ」
「やっぱりな。となると、狙いは父か、それとも私か?」
「貴族だ」
「両方か――大した自信家だな」
ドラゴはのけぞるように笑った。
「もっとも、地下でやり合ったような、死人兼用の人間もいるくらいだ。甘く見て痛い目に遇った。貴様には油断せんぞ。安心しろ。父は私が斃す」
「何故、戦う?」
「父は、邪魔ばかりするのだ」
「………」
「要するに、私は人間どもを、生きるに値せぬ悪腫《あくしゅ》と見なしているわけだ。それで、片っ端から墓から死人を起こし、そいつらを傭兵として、人間どもの世界に戦いを挑むことに決めた。ざっと五千年前のことだ」
ドラゴは遠い眼をした。
「まだ世界には、貴族の秩序と優雅さが残っていた。いい時代であったよ。私は夜ごと舞踏会で踊り、友人や美女たちと語り明かしたものだ。人間など話題にも上らぬ小さな虫ケラだった。だが、歴史とは、吐き気を催すほど公正なものらしい。やがて、貴族はしおたれ、虫ケラが勃興してきた。そして、私は傭兵どもと彼らのための武器とを作ったのだ」
「人間憑依ガスのことか?」
今度こそ、ドラゴの顔が驚愕を刻んだ。
「そこまで――誰に聞いた? あれはすべて極秘で行われたプロジェクトだった。人間がもうひとりの自分と戦うことになる。わずかなガスがそうするのだ。自分を斬り殺せる人間が世にいるか? ためらっているうちに、幻影の自分に殺されてしまう。こうして世界はいとも容易《たやす》く貴族の手に戻るのだ。唯一の欠陥は、自己破壊衝動の強い人間か、自分を自分とも思わぬ奴には効果がないということだが、これは仕方があるまい」
「ドルレアック大公は反対したか」
Dの脳裡に、敵兵の生命を吸っていた魔人の姿が浮かんだ。彼が誰を相手にしたにせよ、殺戮を止めるなど、信じられぬことであった。
「止める理由は?」
「えらい御方の命令だったそうだ」
その瞬間、ドラゴ准公は後じさった。
Dの眼が光ったのだ。それは、五千年以上を経て甦った彼の魂をすら、戦慄させるものであった。
「それでわかった」
と美しい刺客は言った。
「――何もかも」
「本当か?」
今度は、ドラゴ准公が尋ねる番であった。
「貴様、何者だ? えらい御方は、何故、私の邪魔をする? 教えてくれ、分かるのなら」
「奴[#「奴」に傍点]は少々変わっていたということだ。時々、おかしなことをした。それがよかったのか悪かったのか、奴自身にもわかるまい。今となってはな」
「おい――奴と呼ぶか、貴様は」
ドラゴの声には、真正の怒りがあった。批判的な言動を尽しても、他人が堕しめれば、いかなる貴族も火となってそれを償わせようとする。それが、奴[#「奴」に傍点]なのだ。
Dの上体が沈んだ。
ケープの裏地から出現した刀身は、Dの首すじを一髪残してかすめ、Dの一刀は、ケープを深々と貫いていた。
Dを見つめる凄まじい形相が、この瞬間、それを支える意志を失った。
「――若い頃、一度だけ、その御方の肖像画を見た」
声は震え、そして、虚ろになった。神を見た信者のように。
「……まさか……貴方は……まさか……」
忽然とケープは彼の背に戻った。
「そのドアの向うに父がおります」
彼は疲れたような声で言った。
「あと五分、猶予をいただきたい。その後でなら、存分にお相手いたしましょう。ただ、今の今まで、万にひとつも敗れる気遣いはございませんでしたが、貴方と会ってしまったからには――正しくこのときに、あの御方[#「あの御方」に傍点]にお目にかかれるとは、やはり、天命でございましょうか」
ドラゴはうすく笑った。
「五分だな」
とDは言った。
「おお、頂戴できますか。感謝いたします。たとえ、貴方の訪れが天命ならず、あの御方の仕組まれた結果であったとしても」
「ガスは何処にある?」
とD。
「地下に。私が戻らなかったら、好きに処分なさいませ」
紫のケープの前で、重々しく扉が開き、また閉じた。
何故、ここにいるか――Dは考えていたかも知れない。
解答を能《よ》くする者もいたかも知れない。
だが、彼は独りだった。
月光の降り注ぐ、光にみちた回廊の人影は美しかった。
あまりにも――美しすぎるのだった。
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第九章 帰り来るもの
背後のドアが閉じると、平穏が胸中に満ちた。何とか押しのけようとしながらも、ドラゴには為す術もなかった。
豪華な絵と彫像と絨毯に囲まれた広間の真ん中に、白い柩が置かれ、そのかたわらの黄金の椅子に、緑のケープ姿が腰を下ろしていた。
「来たか、ドラゴ」
ドルレアック大公の緑色の瞳が、静かに息子を映していた。Dに断たれた腕は健在だ。サイボーグ腕だろう。
「このように」
と彼は応じた。
「今、外で会いました。あの御方に[#「あの御方に」に傍点]」
「――まさか。いや、あり得ぬ話ではない。この城が復活してから、わしにはいつもあの御方の気配が感じられた。五千年を経て、わしは今もあの御方の支配下にあるか」
「仰《おお》せのとおりで」
ドラゴは、呆れ果てたという表情になった。
「父上が私の邪魔をし、しかる後、敵対したのも、あの御方のせいでございます。それは怨みません。ですが、いかに大事な用とはいえ、母上を差し出したのは許せません」
「ご命令だったのだ」
「母上はついに戻らず、噂によれば、貴族にとっては汚らわしい限りの人体実験に供されたとか」
「やめい」
「そのような苦悩の色を今更見せたとて、母上は戻りませんぞ。屈辱と苦しみの果てに滅びていた母上のために、私は父上を斃し、人間界を廃滅の淵に叩きこんでみせましょう」
「それは、あの御方のご意志に反する。止めるぞ、ドラゴよ」
「覚悟の上でございます。それと父上――」
ドラゴはわずかに廊下の方へ首を向けて、
「私が出会ったのは、幻でも気配でもございませぬ」
「何!?」
愕然となるその瞬間を狙っていたのか、この息子は。
大公は紫の色に包まれ、四方八方から突き出た刀身が、その全身を貫いていた。
大公は両手をのばして、息子を掴もうとした。
その肘から先が斜めに断たれて床に落ちたとき、彼は身を震わせつつ鮮血を吐いた。
「意外と早かったですな、父上」
ドラゴ准公は哀しげに笑った。
「母上は、あの御方に捧げられた。あの御方は人間どもの肩を持った。私のしたことの理由は、わかっていただけますね」
ケープが閃き、もとの形に戻ると、刀身に支えられていた大公の身体は、待ちかねていたかのように、床へ崩れ落ちた。
すでに戸口へと歩き出していたドラゴ准公が足を止め、ふり向いた。
「私はこれから、あの御方と[#「あの御方と」に傍点]戦います。いずれ、冥府でお目にかかりましょう。行く先は多分同じです」
再び戸口の方へ向かい、彼はまたふり向いた。
緑色の球体が空中を滑ってきた。
「まだ、ですか」
真正面からドラゴは迎え討った。迫る球体。紫のケープが巨大な翼のように広がった。
大扉が開く響きが回廊を渡っていった。
月光の中に滲み出る人影をDは見つめた。
「お待たせを」
と若い貴族は挨拶した。
Dの右手が柄にかかる。ドルレアックとの戦いの結果も訊かぬ。約定に従い戻ってきた男に報いる道は、約定どおり戦いしかなかった。
ドラゴのケープが、望むところと言わんばかりに広がっていく。
「ひとつお断りしておきます」
准公の背後で紫の混沌が渦巻いた。
「この戦いで私が斃されても、傭兵どもは滅びません。彼らは最後の一兵までお互いに戦い、辺境全体に殺戮をもたらしていくでしょう。それは誰にも止められない」
笑みを刷《は》いた唇に、白い牙がきらめいた。
「立派な父でした」
月光の中をDが走った。跳ねとばされた月光は、或いは霧に、或いは雲母のようなきらめきに姿を変えて見送った。
紫の壁がDの刀身を受けた。
真一文字に斬り下ろして、Dは突きの姿勢を取った。
その前後左右を白い光が流れた。あるものを躱し、あるものを受けて、Dは突きを放った。その彼方にドラゴの胸があるはずであった。
布地を貫く手応えが伝わってきた。
ドラゴのケープは幾重もの壁のごとくに折れて、一撃を防いだのである。
「見えますか、私が?」
ドラゴの声が訊いた。Dの視界は紫に蠢く布の壁に閉ざされていた。
「見える」
「――!?」
愕然と凍りつく気配の頂点へ、Dは跳躍した。
紫の壁が眼前に広がり、白刃を噴出する。
躱しもせず、Dは一刀をふり下ろした。
頭蓋を断ち割る手応えが存分に伝わった。
舞い降りたとき、紫の色は月光に溶けていた。
長身の影が、バランスを崩したダンサーのようによろめいた。
「お見事です――さすがは、あの御方[#「あの御方」に傍点]」
顔も胸も、みるみる鮮血に濡れそぼっていくその姿を凝視しながら、
「おれの剣のせいではあるまい」
Dは意外なことを言った。
ドラゴは糸に引かれたように背後の大扉にぶつかり、身を支えた。
ケープを跳ね上げた。その下に胸はなかった。
顔ほどの大きさの穴が抜けていた。穴の向うには大扉の彫刻が見えた。ドルレアック大公のエネルギー球は、致命傷を与えていたのである。
両眼から急速に光が褪せていく。片手が何かを求めるようにのびた。
「返して下さい……母を」
そして、崩れた。床へ倒れたときには、半ば塵と化していた。
青い光の中を灰色の霧のように流れていく。風があるらしい。見つめるDの表情に疲れのような翳がこびりついていた。
「おれを奴[#「奴」に傍点]と見たか」
送る言葉なのかどうか。
Dは大扉へ視線を当てた。一刀は右手にあった。
扉はもうひとつの影を送り出そうとしていた。
「やはり、会ったな」
とドルレアック大公はある種の感慨をこめて言った。剣ぶすまにされた身体には血痕ひとつない。
「戦場で何かを感じた。伜が告げたあの御方[#「あの御方」に傍点]とは、おまえだな」
「息子は消えた。おまえはどうする?」
「わしは伜の行動を封じるため甦った。もはや、この世界に用はない」
「………」
朱唇が笑い、白い牙を吐いた。
「だが、貴族である以上、やらねばならぬことがある。人間の支配だ」
「神祖の命か?」
「いいや、御神祖は人間への威嚇すら禁じられた。これからわしのすることは、偉大なる御意志に背くものだ」
「伜を憐れんだ、か」
大公の両眼が燃えた。その口から死の火球がDめがけて走った。
刃の軌跡がそれを二つに割った。
同時に爆発が起こり、Dの身体を後方へ吹きとばした。
「人間のエネルギーばかりではないぞ。あらゆる生命を集める収集カーを見なかったか?」
Dの胸は青い電磁波に包まれていた。
いや、それは荒れ狂う生命の炎だった。
大公は眼を細めてDを見た。
「そうか、おまえは負傷しておるな。伜も一矢報いたと見える」
それから、急に何かに気づいたような表情になって、
「しかし、伜とは出来が違うはずだ。――そうか、わざと受けてくれたか」
Dの膝がゆれた。大公の攻撃は、骨の髄まで焼き尽そうとしており、それを食い止めるべき左手は、彼とともになかった。
「親としては感謝すべきかも知れんが、所詮は我らの生命を狙う汚らわしい賞金稼ぎ。伜の言葉は戦い前の世迷い言として、処断する」
その口が開いて、濃緑のかがやきを見せた。
Dも一刀を構えた。絶望的な苦痛の中で、その闘志は少しも衰えていなかった。
地を蹴った。
大公の表情が邪悪そのものの笑いに変わるや、死の火球がDの胸もとを襲った。
なおも火を吹く身体をふくれ上がる火球にさらしたまま、Dは長剣を手裏剣打ちに投げた。
大公には余裕があった。もうひとつの火球を、彼は刀身へ放った。
炎がふくれ上がる。不動の楯であった。
それを貫いて刀身が飛来し、笑いを変えぬ大公の胸を貫いた。
のけぞる身体が断末魔の叫びを放った。
「こ、これは、何たる力だ。まさか――まさか、あなたは……あなた様は……」
彼の言葉を聞いたのは、燃えさかる黒衣の影であった。
炎が、地に沁む水のように消えていった。
Dの身体に吸いこまれたのである。黒瞳に凄絶なかがやきが宿ってくる。
「貴様……血を……」
Dの唇は紅く濡れていた。長剣を放る寸前、自ら口腔内を噛み破り、彼はその血を飲んだ。死の火球を貫いた刀身の正体は、それだったのである。
「だが、まだ滅びぬぞ……わしの身体を巡る力も、御神祖のものだ」
「何故、神祖はおまえたちを甦らせた?」
胸から袖口から背中から、黒煙を立ち昇らせながら、Dが訊いた。
「五千年前……わしと伜が戦い、ともに斃れたとき、御神祖は、謀反《むほん》を起こした貴族と戦っていたのだ。彼らは伜に取り入り、死後の復活を約した。五千年後の人間の世を暗黒で塗りつぶせ、と。御神祖はそれを知り、わしもともに甦り、伜を葬れと命じられたのだ。伜の造反は、わしの責任だと仰せられて、な」
「親子がもう一度、刃を打ち合わせるようにか」
「言うな――出直すぞ、御神祖の力を持つ男よ」
上体を曲げ、刀身を残したままドルレアック大公は走り出そうとした。
その前方――大回廊の右方から、ひと組の男女が現われた。
スタンザとストライダー――拷問部屋に溜まっていた鬼気を浴びた戦闘士二名。今まで何処でどうしていたのか、その表情は虚無を見つめている者のそれだ。
「仕事は終わったぞ、大公よ」
ストライダーが言った。ストライダーの声で。だが、そこにいるのは彼ではなかった。
「これ以上は蛇足だ。あの御方が連れ出した闇へと戻れ」
大公は哄笑した。声は血にまみれていた。
「そうはいかぬ。今にしてわかった。伜は正しかった。人間など踏みつぶして血の飽食を味わうのが貴族の生き方よ。わしは伜の遺志を継ぐつもりだ」
その伜を斃した意識がそうさせるのか、大公はぎちぎちとその牙を噛み合わせ、それなりに思慮深げな顔は、往き場のない怒りに紅潮した。
彼は血を吐くように火球を放った。
ストライダーの眉間に吸いこまれる寸前、それは出現した銀の刀身にぶつかり、灼熱した鉄板に落ちた水滴のように消滅した。
横一文字にかざした長刀を下ろして、ストライダーがにっ[#「にっ」に傍点]と笑った。別の世界の力を得た者の笑いだった。
棒立ちになった大公へ、風を巻いて走り寄る。
それがあと十歩の位置まで達したとき、大公の右手が、胸から生えた長剣の柄にかかった。
引き抜きざま投擲した一刀を、ストライダーは難なく打ちとばした。悪あがきにしか見えなかったろう。
その胸もとで火球がふくれ上がった。
Dの剣にわずかに遅れて吐き出したエネルギー塊である。剣がカモフラージュだと、ストライダーは見抜けなかったのだ。
自ら炎塊と化して吹っとぶ戦闘士を見ようともせず、大公は回廊を走り去った。
その後を、黒煙と炎を巻いてストライダーが追った。
「元気なことね」
他人事のように見送りながら、スタンザが嘲笑した。
「いつまで続く鬼ごっこ。あたしたちは違うわよね」
「憑かれたな」
とDは言った。
スタンザは、指で頭をつついた。
「あら、わかる? 拷問室に、おかしな奴がいたのよ。いえ、一種の気配ね。多分、この日あるを期して残しておいたんだと思うわ。五千年も前からね」
Dは一歩を踏み出した。
「あら、元気だこと――どちらへ?」
「仕事は終わっていない」
「ストライダーが片をつけるわよ。あなたは、私の相手をして」
スタンザの右手は上衣の内側に吸いこまれている。
Dは足を止めた。
「あら、ようやくその気になった? あなたの知ってる私じゃないのが残念だけれど」
「あいつ[#「あいつ」に傍点]に憑かれた女――あいつと見なされたいようだな」
「でなきゃ、相手をしてくれないでしょ。私、嬉しいのよ。ようやく、あなたと互角にやれるわ」
スタンザの右手が閃いた。
いつものスタンザなら、右手で鐔《ひょう》を投げる寸前、左半身を思いきり後ろに引く。いわゆる手裏剣打ちで鐔を構える――その動作を省き、一動作で抜いて打つ。そのための欠くべからざる動きだが、今の彼女はそれすら必要としなかった。
そして、Dには鐔を防ぐべき長剣がない。
鈍い音をたてて、鉄の武器は肉に食いこんだ。
Dが顔前にかざした左腕へ。
黒い光が疾《はし》るのをスタンザは目撃したが、どうにもならなかった。左胸に深々とDの小刀を受けて、彼女は三メートルも跳ねとび、床に落ちた。
Dは落ち着いた足取りで床の長剣に歩み寄り、拾い上げた。
その前に、スタンザが立っていた。
右手をふりかぶっている。
「――どういう理由《わけ》? 今の私なら……あなたに勝てると思ったのに……あなたも……違う[#「違う」に傍点]のね」
彼女はダンサーのような奇怪な足取りで後退した。
右手から鐔が落ち、手も下りた。床に響く金属音を追うように、スタンザの身体も横倒しになった。
立ち尽すDの耳に、最後の言葉が低く流れ着いた。
「……でも……同じよ……今[#「今」に傍点]の……私と」
息絶えたそのかたわらを、刃を手にした黒いつむじ風が走り過ぎた。
ドルレアック大公の目的地は、地下に設けた化学研究所だった。
唯一の成果がそこに残っていた。
厳重に密閉された黄金のタンク、その内部に充填されたガス。
大公の目的は、そのバルブを開放して、あまねく世界に行き渡らせることしかなかった。
猛烈な衰弱が襲いかかってくる。出血多量と内臓器官の機能低下が著しいのだった。何とか気力を奮い起こしても、肉体の狂いは抑えようがない。
問題は剣による損傷ではなく、刀身から注ぎこまれた力だ。Dと名乗った若者は、ドラゴが口にしたとおりの魔人だったのだ。
全身を押し縮めるような悪寒が襲ってきた。
必死にこらえ、管制室の椅子にかけると、
「わしだ。ガスの放出を準備せよ」
コンピュータの電子音が言葉を紡ぎ出した。
「承知いたしかねます。照合後に結果をお知らせします」
「莫迦な、わしはこの館の主人だぞ。何の照合だ?」
「ガスに関して操作資格を有するのは、ドラゴ准公しかおりません。他のデータはすべて廃棄されています。ドラゴ准公本人か、その血族以外に指示は受けかねます」
「ドラゴ――」
大公は歯ぎしりした。
「愚か者めが。わしはおまえの望みを。――すぐに照合せい」
声に向かって叫んだ。
「了解」
と応じた。
二つの声が。
戸口を向いた大公の前に立っていたのは、長剣を手にした人影であった。
だが、それだけで貴族たる者が、それほどの驚きは示さない。
「おまえは――人間か? いや――」
「ゼノンと言う。職業は強盗だ。地下をうろついていたら、あんたを見かけた」
そんなはずはない。貴族の五感が、人間の足音を息遣いを気配を、気づかぬなどあり得ないことだ。
人間ならば。
「貴族は生ける死者――それゆえに生者を凌駕する。だが、死人相手ならどうだ?」
絶望が大公を捉えた。たとえ瀕死の重傷を負っていても、相手がただの人間ならば、片手で叩き伏せてみせる。だが、この相手は――
ふと、脳裡をかすめた。
――生ける死者は生者に勝てぬ、生者ではないが故に。死者にも勝てぬ、死者ではないが故に。
誰から聞いたものか。
火球が敵を襲った。
八双に構えた心臓に命中したそれは、火の球を広げることもなく消滅した。
移動しようとする大公の首の位置へ、ゼノンは一刀を叩きつけた。同時に、ドルレアックの指が小さなスイッチを押した。
距離は五メートルもある。
刀身は空を切り――大公の首をも斬った。
鮮血を噴き上げる身体にゼノンは突進し、心の臓へ正確に白刃を突き立てた。
無言で刀身を収め、彼が戸口へ出たとき、大公の首は、コンピュータの声を聞いた。
「照合完了。ガス放出の準備にかかります」
準備は完了した。そして、放出を命じる者は永久にないのだった。
城の周囲に、異様な変化が生じていた。兵士たちの姿は異常に増え、そのために幾つもの小競り合いや、多人数の戦いが頻繁に生じていたが、あるスイッチ[#「あるスイッチ」に傍点]の入った瞬間をもって、すべてが熄《や》んだのである。ガス殺をフォローすべく策したドルレアック大公の第二の手は成功を収めたのである。
「敵対」という意識は全兵士から失われ、「移動」と「殺戮」とが、自意識のない脳を占めた。その二つは、もうひとつの、強烈な意志につながっていた。――「人間」に。
軽やかな足音が、回廊を行くゼノンの前から近づいてきた。
しなやかな肢体が、隠そうともしない剥き出しの歓喜ごと、その胸にとびこんだ。
「無事だったのね。よかった」
こんなとき誰でも口にする言葉には、真実の想いがこもっていた。
娘の背を、ゼノンは無器用に抱いた。
「あの手はどうした?」
イレーネが答えを口にする前に、
「よお」
ブラウスの隙間から、手のひらが現われた。
ゼノンは微笑した。苦笑に近い。
「楽しそうな場所だな」
と言った。
「隠居所にはもってこいじゃ」
ぬけぬけと答えた。豊かな乳房のど真ん中である。
「貴族は斃した。礼を言わなくてはならないな」
左手は少し間を置いて、
「おまえ、まともな方じゃろうな?」
と訊いた。
「安心してくれ。奴は貴族を斃して消えた。精魂を使い果たしたらしい」
「何故、斃したとわかる? 奴の記憶はないはずじゃ」
「貴族を斃して部屋を出るとき、おれが戻ったんだ」
「ふむ――具合はどうじゃ?」
「おかげで何とか」
ゼノンは胸に手を当て、うなずいてみせた。
「ふむ、せっかく拾った生命じゃ。せいぜい長引かせい」
「わかった」
イレーネの満面に喜びが溢れた。
鈍い震動が天井から伝わってきたのは、そのときだ。
「おや、これは?」
左手が手のひらを上に向けた。
「爆発かしら?」
イレーネが眉をひそめたが、ゼノンはかぶりをふった。
「いや、何かが落ちたな。すぐ近くだ」
三人は顔を見合わせ、彼方に見える大階段の方へ歩き出した。
三時間足らずで、ベアトリスは満足すべき成果を上げていた。
宝物蔵はついにわからなかったが、貴族の居間や客間、図書室、厨房等、すべてが宝で満ち満ちていたのである。
燭台一本、灰皿ひとつとっても黄金製であり、宝石をふんだんにちりばめた装飾品が無造作に放置されていた。
富という富を手に入れた貴族は、贅沢に飽いてしまい、興味を示さなくなったため、盗まれる心配が皆無になってしまったのである。
用意してきた袋に片っ端からぶちこんで、ようやく担いで走れるくらいの重さになったとき、かろうじてあきらめた。
先刻の犠牲者のことを考えると胸が痛んだが、なら貴族の品をかっぱらうのは供養になるだろうと割り切ってしまった。
逃げる心配は必要なかった。
裏庭に格納庫があって、一台だけ飛走機が残っているとノートにあった。貴族の乗り物に専門のパイロットは不要だ。声で命令すればいい。試しにエンジンを始動させたら動いたとあった。それに乗って凱旋するつもりだったのだ。
あの飛走機は、まだ残っているはずだ。
引き上げようと、居間を出たとき、激しい震動が伝わってきた。
窓から覗くと、巨大な公園と見紛うばかりの大庭園の一角で、飛行船らしい機体が燃えている。
距離は五〇〇メートルもない。
「なんてこったい」
ベアトリスは肩の袋を下ろし、しげしげとそれを見つめてから、思い切ったようにその場へ放置して、庭へのドアへと向かった。
次に庭に出たのはDであった。
炎の方角から、数個の人影が近づいてくる。
先頭は見覚えのある髭面だった。
背中にひとり、両手にひとりずつ子供を抱えている。首にも女の子が抱きついていた。
後ろには、彼らより年長らしい男の子がこれも背中と両手に子供たちを連れている。
やや遅れて、片足を引き引き駆けつけてくるのは、服装からしてパイロットだ。
Dが歩を進める前に、一同が辿り着いた。
「てめえ、何してやがった?」
ベアトリスが喚いた。こちらは息も切らしていないが、かたわらの少年は、背中の女の子を下ろすなり、両手を地について、激しい呼吸を繰り返しはじめた。
その顔にも見覚えがあった。
この旅のはじまる前に訪れた孤児院で、ベアトリスが食い入るように見つめていた少年――フランコ・ギルビーだった。
一同はベアトリスの案内で、城内の治療室――というより巨大病院――に収容された。子供たちはほとんどかすり傷程度、パイロットは顔と手の甲に火傷を負っていたが、生命に別状なかった。
付き添いの教師は墜落時に死亡。それはベアトリスが確かめている。
この城の上空で急にエンジンが火を噴いたとパイロットが告げた頃、ようやく落ち着きを取り戻したらしい子供たちの泣き声が、広い部屋を渡りはじめた。
「厄介なことになったぜ、D」
ベアトリスの指摘は、二重の意味を持っていた。
外には妖兵どもがうろついているのがひとつ。もうひとつ――彼だけが知っている脱出用の飛走機は、どう考えても、大人五人が精一杯なのだ。自分とD――どちらかが残らねばならない。
「路はある」
Dの返事は、ベアトリスを大いに喜ばせた。
Dの意味する路は、イレーネとゼノンがここまで来た通路のことである。どこまで続いているかはわからないが、城に留まっているよりはましだろう。
「そいつはいい。おめえ、そーいうことは早めに打ち明けろよ」
そのとき、もう一度、鈍い音が建物を震わせた。
今度は地下からだ。
ベアトリスがDをふり返って、
「非常にいやーな予感がするな」
と言った。
「まかせるぞ」
と告げて、Dは治療室を出た。
ダンピールの血の業か、左手の傷はすでに肉も半ば盛り上がっている。
廊下を歩むDの周囲で、城は様変わりを遂げていた。
大理石の床を塵が吹き渡り、天井も壁も朽ち果て、絵画は無惨に剥がれて床に転がっていた。カーテンは床の上で塵芥と化している。
二人の主人が死んで、城もいつわりの生を終えたのだ。地下のコンピュータ・ルームとそこに託された邪悪な意志とを除いて。
イレーネから聞いていた地下通路への階段を下りはじめたとき、下から足音が二つ駆け上がってきた。
イレーネと、その後ろにゼノン。
「D!?」
イレーネの顔に安堵が広がった。
「敵か!?」
Dは予想していたらしい。
イレーネとゼノンがうなずき、返事は嗄れ声が、
「地下から兵どもが上がってきおったのでな、爆破した。さすがは貴族の城じゃ。城塞としての自爆装置も整っておるぞ」
「得意がってる場合か」
とゼノンがうんざりしたように言った。
「もう脱出路は使えない。それにやってきた兵士どもは、両方の混成部隊だ」
「手を組んだか」
「そうなるな。その辺の事情は、あいつ[#「あいつ」に傍点]が知っているかも知れん。ドルレアック大公とやらは、あいつが斃した。その前に何か小細工をしたかも知れん」
「何処で戦った?」
Dがゼノンに尋ねた。
「この下の研究室らしいところだ」
「どう行く?」
「下り切ったところを右へ。それから左、左だ」
「二人を治療室へ連れていけ」
Dはイレーネの胸もとへ言った。
「承知」
返事を待たず、Dは大階段を下りていった。
「大丈夫かしら……」
ぼんやりとつぶやき、胸もとを押さえて頬を染めるイレーネへ、
「行くぞ」
とゼノンが声をかけた。
研究室はすぐに見つかった。
自動ドアは開かなかった。城はすでに死に、エネルギーは断たれているのだった。
「二度滅びたか」
Dのつぶやきに答える者はない。
月光がひとすじの刀身に自らを封じたかのようであった。
右手を引き、Dはドアを見つめた。壁とつくるその線を。
声もなく放たれた光は、あり得ないその隙間に吸いこまれた。刀身の半ばまで食いこんだそれを、Dは身体ごと右へと押していった。
Dの右手がふくれ上がったかのように見えた。
扉は、ゆっくりと開いていった。
手がかけられるほどの幅ができると、Dは長剣を鞘に収めて、ドアに近づいた。
そこで足を止め、ふり向いた。
廊下の奥からやってくるゼノンが見えた。
Dは構わず右手をドアにかけて力を加えた。
銃声が轟いた。
扉の端に命中した弾丸は、表面に傷もつけず砕け散った。
Dはふり向いた。
ゼノンが一刀を抜いた。
「やっとこのときが来たな、Dよ」
Dは無言で一刀を抜きつれた。
階段の上で会った素朴な戦士はもういなかった。
ここにいるのは、血に飢えた殺人鬼であった。否、人間ですらない。
鬼気と狂気とが薄闇に凝結した。
足音が駆け寄ってきた。
Dの眼に映ったのはイレーネであった。
わずかにそらした意識の外で、ゼノンの刀身が閃いた。
間一髪、右へと走った黒衣の右膝から鮮血が床を叩き、Dは片膝をついた。
「ゼノン――やめて!」
汗まみれの顔中を口に変えて、イレーネが絶叫した。
「来るなと言ったぞ」
ゼノンではないゼノンがゼノンの声でつぶやくや、刀身は真後ろにふられた。その首が黒血を噴いても、イレーネは五歩走った。
「お願い……やめて……」
倒れた身体は、何処にあったのかと思われる大量の血を床面に撒き散らした。
ゼノンは一瞥も与えなかった。彼はDを見ていた。戦う者の掟に従い。
「莫迦な女だ」
と言った。足下の少女へ一片の同情すらない声であった。
「おまえを庇いだてにきた。無駄な真似を」
「そのとおりだ」
Dは応じた。
「その娘《こ》は、おまえを庇いだてにきた。無駄なことを」
ゼノンの顔が狂気に歪むや、彼は青眼の構えをDの首すじへと斬り下ろした。距離はなお五メートル。
Dの刀身が受けた。ゼノンは胸中で意識せず笑った。不可視の刃は物理的な打撃ではない。彼の放つ死気そのものだ。それは、いかに鍛え抜いた刀身も両断するはずであった。
弾き返される手応えを感じたとき、ゼノンは宙に舞うDを見た。
唇から自身の血を垂らした貴族の顔を。おぞましい吸血鬼の顔を。
返すべき技も忘れ、案山子《かかし》のように棒立ちになった頭部から股間まで、Dの刀身は鮮やかに抜けた。
二つに裂けた身体の間に、がくりと膝をついたとき、彼はその声を聞いた。
「――感謝するぞ……おれは、おれとして……眠れる」
どちらの声かはわからない。ゼノンの声であった。
「遅れたか」
Dの足下で嗄れ声が無念そうに流れた。
左手首から先が、イレーネの死体の方を向いていた。
「いきなり、ゼノンめに短刀で床に釘づけにされ、抜くのに手間取った。その娘にも行くなと警告したのじゃが」
Dは無言でイレーネの手を取り、肩に担ぐと立ち上がった。
「ゼノンの治療をしている間、それは甲斐甲斐しく手助けをしてくれよった。ゼノンは素っ気なかったが――あれが思いやりというやつかの」
答えず、Dは研究室のドアの方を向いた。
左方からどよめきと、おびただしい足音が、泥流のように迫ってきた。
左手がDの切断部に貼りついた。
「奴ら、地下の通路を開けたか。退《ひ》け」
足音の方から何かが転がってきた。
銀色の円筒――と見た刹那、Dはドアの方へと走った。
爆風と炎が彼をドアに叩きつけた。
なおもふくれ上がるそれが、次の瞬間、急速にしぼみ、収縮して漏斗状の一線となり、小さな口に吸いこまれていく。
「ゼノンの手当てをするとき、倉庫の水を呑んだ。火も風も今、たらふく食ろうた。地水火風――土は我慢しよう」
Dはドアに手をかけた。数トンの扉は滑るように開いた。黒衣の全身に人外の力が満ちていた。
室内に入ると、彼の眼は血光を放って一点に集中した。
メカニズムの生命を示すブルー・ライトが点滅している。ドルレアックが死の土産に押したスイッチであった。
「行くぞ」
「おお」
Dはパネルに走り寄り、ライトの上に左手を押し当てた。
周囲に青白い光が走り、パネルは火を噴いた。
「仕留めたぞ」
声と同時にDは反転した。
戸口で、人影が黒い煙のようにふくれ上がった。
雷光と銃声が轟き、真紅のビームがDの全身を貫いた。
影の中へ影が斬りこんだ。
肉が切れ、骨が割れた。果てしなく血がしぶいた。そして、刀身の速度は何に触れても変わらなかった。
次々に兵士が倒れ、そうやってできた通路を、Dは着実に前進していった。
廊下へ出るや、
「うお!?」
と嗄れ声が呻いた。
大回廊が灰色と緑に埋め尽されている。
いかにDといえど、ここを通過するのは不可能――でなくとも、膨大な時間が必要に違いない。
「何故、死なん? ドルレアックの指令はあれで――」
「間違えたか、時間がかかるかだ」
氷の美声に動揺は一片もない。
「ポンコツだな、あの機械は」
左手の言葉が怒りに触れたかのように、兵士たちが殺到してきた。
「大丈夫か。不時着するとき上から見たら、おかしな奴らが、うようよこの城を取り囲んでた。一体、何が起こってるんだ?」
パイロットの震え声に、ベアトリスはようやく彼の方へ視線と意識を向けて、
「うるせえな。男のくせにつまらんことでブルってやがると、あいつらの前に、おれが喉首を掻っ切ってやるぞ。あの子を見ろ。てめえの千倍もしっかりしてやがる」
もとは、スタンザを脅えさせた貴族ハンターである。何ともいえぬ凄みに気圧《けお》され、パイロットは沈黙した。
ベアトリスはまた、少年――フランコ・ギルビーに視線を戻した。
少年は自分より幼い子供たちを気遣い、励まし、話し相手になっていた。
ひとつのグループの理想的な団長――リーダーであり仲間であった。
子供の勘で不穏な雰囲気に気づいた子供たちは、何度慰め、勇気づけられても、べそをかいては、大丈夫? ホームに帰れる? と飽きずに繰り返したが、フランコは少しもいらだたず、すぐに帰れる、まかせとけと励ましつづけた。
ついでに、ベアトリスの方を向いては、
「ほら、あの小父《おじ》さん強そうだろ。大丈夫、味方になってくれるから」
と、男の泣きどころをついては、ベアトリスをでれでれにさせた。
「坊主――幾つだ?」
とベアトリスは、窓の外に用心しながら訊いた。
Dが去って三十分ほどたった頃である。
「十三です」
その動きと同様、きびきびした答えが返ってきた。
「そうかい、いい面構えだ。さぞや、女にもてるだろうな」
「は?」
「――何でもねえ。おい、おまえらどうだ、このお兄ちゃんのお嫁さんになりたくねえか」
「なりたーい」
四人ばかりの少女が斉唱したものだから、ベアトリスは眼を剥き、それから腹を抱えて笑った。
「ほれ、みろ、未来の後家殺し」
「は?」
ベアトリスはあわてて、
「――もとい、女殺し。ま、しっかりやれ」
「はい」
この男は何者だろうという眼で見つめている。
ベアトリスは咳払いして、
「父さんは、ええ、どういう人だったか覚えているか?」
「全然」
あっさり言われた。
「そうか。か、母さんはどうだ?」
少年は眼を伏せたが、すぐに、
「そっちも全然」
と言った。
「そうか、いや済まん。おめえの母さんだ、きっと美人だったろうな。親父は多分、屑だが」
「どうして、そんなことわかるんです?」
フランコは憤然と訊き返した。
「僕の父が屑だって、どうしてわかるんです? 知り合いでもないのに」
「いや、おめえ――いや、キミね。キミみたいな立派な子を捨ててくような男だぜ」
「父が捨てたって、どうしてあなたにわかるんです? 他の人かも知れません」
「そらま、そうだが」
ベアトリスはしどろもどろに言った。その口もとがほころんでいないこともない。
「じゃあ、キミは、その親父さんはどういう男だと思うんだ?」
「立派な男《ひと》です」
「へ?」
「強くて優しい大人です。それで充分です。僕は父について何も知りません。だから、そう思ってます」
「なるほどねえ」
ベアトリスは腕を組み、眼を閉じて、しみじみとうなずいた。少年に背を向けて、
「そうかい、きっとそうだ。おめえの親父さんは、きっと、男の中の男だよ」
「お兄ちゃん、おしっこ」
男の子が訴え、フランコはそっちへとんでいった。
窓の外で、異様な気配が動いたのはそのときだ。
庭園の彼方の塀を乗り越えて、人形の群れが押し寄せてくる。
「みんな、外へ出ろ。小父さんについてこい」
叫ぶや、気死したようなパイロットの尻を蹴とばし、子供の手を取り、首からぶら下げ、背に乗せた。
廊下へ出たとき、奥の方から二つの影が走ってきた。イレーネの死体をかついだDと――ストライダーである。
イレーネを見て、ため息をひとつついてから、
「てめえ、何してやがった?」
と、ストライダーをにらんだ。
「大公のこしらえた侵入者用の迷路へ入りこんでな。えらい手間を食った」
「けっ、阿呆か」
と罵ったとき、
「彼の手で脱出できた」
と、Dが言った。
「え?」
雲霞《うんか》のような大軍のど真ん中へストライダーの放った一喝のおかげで脱出できたと、いちいちDは説明しない。スタンザ同様、妖気を帯びた彼の気合は、数百の兵を金縛りにしてのけたのである。
ベアトリスは、
「そうか」
と納得するしかなかった。
「下はどうだい?」
「駄目だ」
とD。
「なら、しゃあねえ。こっちへ来な」
ある決意を刻んで、ベアトリスは身を翻した。
鉄扉は閉じていた。Dが力を奮った。
どう見ても数トンは下らない鉄板が滑るのを、ベアトリスと子供たちは茫然と見つめた。
内部では、卵型の機体が発射台に乗っていた。
「具合はどうだ?」
ベアトリスが訊いた。
「異常ナシ」
電子の合成音が応じた。子供たちが硬直し、一斉に泣きはじめる。お化けのように聞こえるのだ。
「阿呆めが」
嗄れ声がベアトリスを罵った。
ベアトリスはDをにらみつけたが、すぐ、
「発射口はおまえのパワーで開くな?」
と声のした方をにらんだ。
「問題アリマセン」
「見てみな、こいつは男五人乗りだ。子供なら倍。つまり、子供の他に大人がひとり乗れる。とりあえず、それを決めなきゃならねえ」
「お、おれだ。パイロットだからな」
と喚くのを、ベアトリスは冷やかに見つめて訊いた。パイロットではなく、飛走機へ。
「おまえ、目的地の名前だけで運べるか?」
「問題アリマセン」
髭面が笑って、
「これで全員五分と五分だ。どう決める?」
ドアの外から無数の気配が伝わってきた。兵士が到着したのだ。
「急ごうや。まず、残る奴――へーい」
片手を上げて一歩下がった。
「後はおめえらにまかす」
フランコが貫くような眼でベアトリスを見つめた。ここへ残って、生き延びられるはずがない。
「さて、どうする?」
とストライダーが肩をすくめてDを見つめた。
「みんな助かりたいよな。くじでも引くか」
「うるせえ!」
叫んだのはパイロットだ。何処に隠していたのか、自動装填式の火薬銃を構えていた。護身用だろう。
「おまえら、戦いのプロだろ。だったら残れ。餓鬼どもは、おれが連れてってやらあ」
充血した両眼は吊り上がり、口の端には唾をためて、もはや狂人の相であった。
「わかった、わかった」
とストライダーがうなずき、
「なあ、兄さん、これでひとり減ったな」
機体がどん、と鳴った。
一瞬、そちらへ気をとられたパイロットの喉へ白光が一閃した。
「子供に見せるな」
ベアトリスが叫んだ。
「へいへい」
立ちすくむパイロットに、機体をぶっ叩いたストライダーが近づき、後ろから首のつけ根と喉仏の少し上を押さえた。
さっさと奥の、タンクが並んだ陰へ連れこみ、自分だけ戻ってきた。
「どっちかだ。決めなよ」
ベアトリスの声に、子供たちの悲鳴が混じった。
そちらを向いて、彼らの見ている方へ、もう一度、向き直る。
扉は灼熱していた。外から熱線を照射しているのだ。
「五分と保たんな――ドアを開けろ。よし、さ、みんな入った入った」
子供たちをシートに座らせ、ドアのところに立つフランコへ、
「急げ」
と促した。
「小父さん」
「ん?」
「立派です」
少年は真っすぐに、もとハンターを見つめた。男なら誰でもそんな眼で見られたいと願うだろう。
「何がだよ」
ベアトリスは口をへの字に曲げた。照れ隠しである。
「僕も小父さんみたいな男になります。きっと、父もそんな人でした」
「そうとも、そうとも」
ベアトリスは、ごつい手で少年の肩を叩いた。まだ骨も細く肉もついていない。だが、あと五年もたてば、父親に負けない男の身体になる。
「おめえの親父さんも、きっと立派な男だろう。おめえを生む片棒を担いだんだものな。実は、おれにも子供がいたら、言ってやりたいことがあったんだ。とうとう夢で終わっちまったがな」
「何ですか、聞かせて」
フランコの眼に光るものがあった。
「いや、もういいんだ。おめえに言う必要はねえ。まるで、ずっと昔に、話して聞かせちまったようだ」
「聞かせて」
ベアトリスは黙って少年の頭を撫でた。
「強くて優しい男になりな」
「はい」
少年の顔がかがやいた。彼はそうやって生きてきたのだった。そして、そうやって生きていくのだった。
「小父さん」
フランコは手の甲で瞼を拭った。
「小父さんは、ひょっとして――」
「まさかあ」
彼は顔中を口にして喚いた。
「おれみてえなのが、おめえの――? なあ、Dよ」
「そのとおりだ」
Dは二人を見つめた。美しい氷の像のように。声はその姿と同じように冷たかった。
「この小父さんは、金に汚く女に眼がない。人の懐を狙うのが趣味で、女と見れば口説く――要するに人間の屑だ」
「おい、いくら何でも――」
眼を剥くベアトリスをDは無視してつづけた。
「だが、小父さんは、これからおれと二人きりで、たくさんの敵と戦う。それだけを覚えておけ」
「おい」
ベアトリスが眼を剥き、少年はDを見つめた。ベアトリスを見たのと同じ眼であった。
それから、あることに気づいた。涙の流れる顔がかがやいた。
Dは微笑を浮かべていた。これから生きる歳月の荒波の中で、少年は繰り返し、それを浮かばせたのは自分だと憶い出し、ある生き方を貫くのだった。それは、そんな微笑だった。
「ひとりは決まった」
とDはストライダーに言った。
「よせよ、おまえらだけにいいカッコさせられるか。おれも残る」
「本気か?」
とD。
「――と思ったが、この先、餓鬼だけじゃ心もとない。というわけで、お言葉に甘えよう」
「それがいい」
とベアトリスがドアに手をかけた。
「さ、行きな。みんな、また会おうぜ」
ストライダーが乗りこみ、フランコが席に着いた。
「都へ」
と告げたのは少年だった。
最後に彼が見たのは、それぞれの笑顔でこちらを見上げる二人の男の姿だった。
それから、フランコは彼らに会うことはなかった。
「都」で貴族の歴史を学ぶ間に、あの城と街道に政府の調査隊が入り、おびただしいミイラ化した死体を見つけたと聞いたが、それが戦闘によるものか、生命の尽きる時が来たものかはわからなかった。
十七の年、彼は「都」の専門校を最優秀の成績で卒業し、特待生として歴史専門の大学へ進むことが決まった。
その日、担当の教師が彼を呼び出し、一冊の通帳を手渡した。入学して以来、君宛に匿名の振り込みが続いていたと教師は言った。
「だが、君には必要がなかった。進学は君だけの力で切り拓いた道だ。これはどうするね?」
後輩に使って下さいと少年は答えた。
白い花びらの降り注ぐ卒業の日、校門を出たフランコは駆けつけた孤児院の仲間や教師たちの祝福を受けながら、ふと校舎の方へ眼をやった。敷地の北の角にブナの木が立っている。その陰に見えた。
白馬にまたがった黒衣の姿と、黒馬の背に乗った髭面の男が。
少年は覚えていた。一瞬たりとも忘れたことはなかったのだ。
大きく息を吸いこんで、そちらへ歩き出そうとしたとき、ひと組の騎馬はそれぞれ馬首を巡らせて、白い花びらの彼方に走り去っていった。
『D―妖兵街道』完
[#改ページ]
あとがき
この頃、身辺に怪事が勃発している――などと書けば、怪奇実話に眼のない方々は、おお、と身を乗り出すところだろうが、まあさしたることはない。
去年の末に亡くなったばかりの友人が、夜、窓の外で手招きしていたり、書き上げた原稿が、毎日数枚ずつ行方不明になったりしたくらいである(おかげで、本書も一月に出すはずがこの様である)。――なんて、みんな嘘。そんなことが起きたら、私はノンフィクションの書き手か心霊研究家になっている。
しかし、おかしなことなら、何度か起こっている。
たとえば、ある日、三回続けてタクシーに乗る羽目になった。このどれもが、料金メーターを倒すのを忘れてしまったのである。
目的地に着いてから、あーっ、と叫ぶのも共通している。ま、他のことに気を取られていたのだろうと思ったが、さすがに気味が悪くなり、三人目の運転手に、
「なんで忘れたのか?」
と尋ねてみた。
「いやあ、お客さんに言われた場所が何処か考えてて、つい」
多分、他の二人もそうだったのだろう。しかし、三人連続というのは、少し気味が悪い。倒し忘れは過去に二度あった(一度は故郷、一度はNY)きりである。
もうひとつ。
さるトークライブへ出かけるため家を出たところ、少々遅れそうになった。時計を見ると午後七時少し過ぎ。そこで担当者の携帯にかけてみたら留守電サービス。
「七時半に行くと言ったけど、八時半頃になるよ」
とメッセージを残し、トークショーは問題なく終わった。
その担当者から電話がかかってきたのは、翌日の昼のことである。
「Kさん――今、電話をくれました?」
「いいや」
向うは奇妙な声で、
「そうですよねえ。七時半に行くつもりが八時半になるって――これって、昨日入れるべきメッセージですよね」
「ああ、昨日入れたよ」
「でも、ちょっと前、私が会議してる最中に鳴ったんですよ。ごめんなさい、取れなくて。でも、着信記録もその時間になってます」
まあ、メカのことである。おかしな狂いが生じることもあるだろう。
しかし、次の例は――
ということでやめておく。笑い話にならないからだ。
今回の“D”――いつもと気色を少々変えてみましたが、いかがでしょう。もとはこういう感じだったという気がしないでもないのですが。
ところで、この二月に我が青春の記念碑、ハマーフィルムの「吸血鬼ドラキュラ」('58)がついにDVD化されます。
何も言いません。よろしかったらご覧下さい。
平成十五年二月某日
「HORROR OF DRACURA」('58)を観ながら
菊地秀行