D―邪神砦 〜吸血鬼ハンター13
菊地秀行
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目次
第一章 飛行車の旅人
第二章 “遊戯場”の敵影
第三章 死の砦
第四章 囁(ささや)く翳(かげ)
第五章 刺客殺
第六章 “神”の誘い
第七章 変わりゆく者
あとがき
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第一章 飛行車の旅人
1
待合室のあちこちに隙間があるらしく、身を切るような冷気は、さほど広くない室内を縦横無尽に駆け巡っていた。我が物顔といってもいい。
外よりましなのは、でこぼこの原子ストーブの熱気が寒さと互角なことと、風の音がしないことだ。エンジンの爆音でも聞こえれば、かえって景気づけになるだろう。
待合室には十人の客がいた。
東部辺境区に位置する田舎町の空港にしては、なかなかバラエティに富んだ顔触れといえた。最大のお得意様――農民の姿がひとりもない。
金属繊維のストゥールを巻いた若い女が、同じ色の金髪をゆらしながら窓際へ寄って、
「荷物の積み込みも終わったらしいわよ。そろそろ搭乗ね」
と声をかけた。特定の相手はいない。さっきからギャンブル・カードをいじくっていた角刈りの男と、夫婦連れらしい老人と老女がそっちを向いたきりで、後は沈黙を守っている。
角刈りの男は若い――まだ三〇前に違いないし、右の頬に三日月型の傷が走っている。窓辺の女にしきりに声をかけていた様子から見て陽気な性格だが、間違いなくやくざ[#「やくざ」に傍点]だ。合成皮のショート・コートの前が開いて、銃帯《ガン・ベルト》とそこに差しこんだ幅広の蛮刀がのぞいている。
「いよいよかい。『都』まで六時間でOKてのは便利だが――」
笑顔を消して一同へ走らせた眼が、対角線上の角に腰を下ろした三人組を貫いた。
「ただひとつの欠点は、客を選べねえこったな」
露骨な当てこすりの対象は、多分ひとりきりだろうが、そいつ[#「そいつ」に傍点]は身じろぎもせず、頭から眼まですっぽりと黒い非透過性キャンバス地のフードで覆われた上、腿の上の両手首は手錠でつながれている。代わりに、両側の二人――治安官のバッジをシャツの胸につけた髭面の大男と、『都』の警官の制服に身を固めたずっと若い男が、凄まじい視線を飛ばした。
若い方は金属製の円筒《ドラム》を背負い、皮のコートの胸に金色のバッジをきらめかせている。田舎で逮捕された犯罪者を引き取りにきた『都』の警官と、責任上同行する治安官――誰の眼にも明らかな構図だ。もうひとつ――頭から陽よけのフードをかぶせられた犯罪者は、半分以上、人間ではなかった。
やくざは老夫婦の方へ顔を戻して、
「あんたらも運がねえな。せっかくの夫婦水入らずの旅を“サクリ”なんぞに邪魔されてよ。――なあ、坊主?」
と、老夫婦の隣に腰を下ろした少年へ同意を求めたが、こちらはうなずくどころか、身じろぎひとつ、彼の方へ眼を向けようともしない。
どうやら、孤児院から別の孤児院へと送られるらしく、尼さんがひとりついているのだが、いつの間にか姿が見えず、また、少年も、待合室へ入ってから、ひとことも口にしていない。あきらめていたのか、尼さんもさっきまで無言の行を通して、二人の間には厄介払いとでもいう風な、冷たいものが流れていたのだった。
狐顔の尼さんにも問題はありそうだが、少年の方も、擦り切れた紺のオーバーに、煮しめたようなマフラーを巻き、うなだれっ放しの青白い顔を見ていると、それなりに整った顔立ちをしていても、こりゃ見放されても仕様がないなと思えてくる。
それでも、ここにいる他の連中がちらちらと彼の方を窺うのは、いかにも自閉症めいた彼の様子が気になるのと、半ば閉じた虚ろな眼にふっと宿る、蒼い瞳のかがやきのせいである。
誰もが思うだろう。こんな美しい眼を持つ男の子なら、見世物にしたって客が呼べる。なにも、“遊戯地”の上を飛ぶ飛行車に乗せなくても、と。
少年の同意が求められないので、やくざは舌打ちし、残るひとりの方――を見ようとはせずに口をつぐんだ。
そこだけに異界の風が吹いているような男であった。
真紅のケープと同色のスカーフ――まさに燃える男だが、青銅を粗削りした彫刻みたいな厳しい顔立ちが軽薄な印象を与えない。
待合室へ入っても、がら空きの椅子にはかけず戸口に立って、左手は腰の長剣にそっと乗せてある。通常の護身用と違った長く厚い剣のつくり[#「つくり」に傍点]を見るまでもなく、戦いのプロ――戦闘士の振る舞いだ。
奇妙なのは背中に負った矢筒――びっしりと矢羽根が埋めているのはいいとして、弓がない。
普段なら、他の誰より訝しげで剣呑な視線を注がれる相手だが、今回は逆だ。老夫婦など、彼の方を見るたびに安堵の視線を交わしてうなずき合う。――“サクリ”がいるからだ。
「操縦手が来たわよ」
女の声に、今度はみな――戦闘士を除いて――窓の方を向いた。
遠い滑走路に停まった太い葉巻そっくりな機体の方から、飛行服に身を固めた男が近づいてくる。
外からかけたドアのロックを外し、操縦手は腕時計を見ながら、
「乗って下さい。大したもんだ。三〇分遅れただけですぜ」
と声をかけた。
そちらへ向かう前に、今度こそ全員の眼が、フードと手錠の男に注がれた。
だが、治安官が手錠につけた細紐を引くと、“サクリ”は逆らう風もなく立ち上がり、前後を二人の警官にはさまれて、冬の陽ざしと木枯しが待つ外へと出て行った。
申し訳程度の狭苦しい通路の両側に三人掛けの座席《シート》が十列並んでいる。
真っ先に搭乗した女が先頭の席の通路側に腰を下ろして、小さな酒瓶の中味をちびちび飲《や》っていると、選りにもよって、先刻のやくざ者がやって来た。
「悪いね、姐さん、ひとつつめてくれや」
と浅黒い顔に白い歯を剥くのへ、女は露骨に迷惑そうな渋面を送った。
「他にいくらも空いてるじゃないの。迷惑だし――窮屈よ」
「そう言うなって。早い話が生命懸けの空の旅だ。どうせおっ死ぬなら、別嬪《べっぴん》と往きてえもんさ。な、ひとつよろしく」
押しの強さよりも屈託のない笑顔が女の気分を変えたのかも知れない。
足を外へ出して、
「奥へ行きなよ」
「おっ、これはありがてえ――おいら、ジャンてんだ」
「名乗らないよ」
と言って、女は小さな銀のカップを干した。
男――ジャンは素早く窓際の席に収まると、ゴム製の席帯をつけながら、
「いいともよ、マリア姐さん」
と、おかしな眼つきで笑いかけた。
女の表情が変わった。
「そのストゥールだよ。刺繍さ」
「ああ、これかい」
と女は金属の糸もほつれたその端へ眼をやって、
「あたしの名前じゃないよ。博打で巻き上げた持ち主の名前さ。太った農夫の女房だったよ」
「まあ、いいさ。あんたが嫌《や》でなきゃ、そう呼ばせてもらうぜ」
「好きにしな。どうせ、名前なんか、あったってなくったって構やしないんだ」
エンジンが唸りはじめた。ジャンはシートの背もたれの隙間から、そっと後ろを眺めて、
「おかしな組み合わせだぜ。な」
とマリアに声をかけた。同意を求めるのが癖らしい。こちらは鬱陶しそうに一杯飲っているばかりで返事もしないので、勝手にしゃべり出した。
「あの餓鬼の付き添い、とうとう戻って来なかったな。尼のくせにあんなに無責任なのは、餓鬼がよっぽどしっかりしてて何の心配もいらねえか、逆だ。おれの見たところ、かなりの問題児だぜ。見送りもしねえで、さっさと行っちまいな、だからな。向うで誰が待ってるんだか知らねえが、ありゃあ、誰にもお荷物に決まってら。なんつったって、あの尼さんは、シロンジェ修道院の者《もン》なんだろ。あそこから追い出されるんだ、相当の玉だぜ。あの首からぶら下がってるメダル。細かい事情はあそこに刻んであるんだろうが、ちょっくら覗いてみてえもんだな」
ごたくを並べているうちに、飛行車はゆっくりと滑走を開始した。窓外の光景――苔むした旧い滑走路や朽ちた格納庫、その彼方の山々等がぐんぐん後方へ流れ去る。
ジャンの口舌も途絶えた間に、機体は上昇気流を巧みに利用しつつ、五〇〇〇メートル上空でジェット気流《ストリーム》に乗った。
「うまく乗ったらしいよ」
窓の外を眺めていた老人が、かたわらで胸を押さえている妻にやさしく声をかけた。
「これで、『都』までひとっ飛びだ。空港にはパレが迎えに来てくれているはずだよ。――苦しいのかい?」
「大丈夫ですよ」
と老夫人は青ざめた顔で微笑し、
「いつものことですもの。でも、パレが来てくれますかねえ」
「勿論さ。手紙も出しておいたし、ホテルへ返事も来たじゃないかね。あれはいい子だよ。デップとは違う」
「デップは正直なだけですよ。こんな年寄り二人、息子だからって誰が歓迎してくれるもんですか」
「そんなものじゃないだろう。わしとおまえが子供たちとの間に築いてきた関係は――」
老人は白い眉を逆立てたが、夫人は疲れたように、
「パレは一番やさしい子ですよ。強く言えないんです――迷惑だってね。ね、あなた、『都』へ行ったら安いホテルを探して泊まりましょう。その方がお互いのためですよ」
「そんなことする必要があるかね。わしたちが、一体、どんな苦労をして――」
眼を剥いた老人を落ち着かせたのは、老妻の苦しげな表情であった。彼は呼吸を整え、記憶を辿った。
「インゲもパジェスも歓迎してくれたじゃないか。デップ――は違ったが、パレだって――」
ふと、彼はいつの間にか眼を開けた老妻が、食い入るように自分を見つめているのに気がついた。
「――何だい、おまえ?」
「いいえ」
と老妻は哀しげに首をふった。彼女は、違う、と言いたかっただけなのだ。
「何でもないわ。そうでした、みんなよくしてくれましたものね」
「そうとも、そうとも」
ようやく妻とつながった歓びに、老人は何度もうなずいてみせた。
老夫人ははかなげな笑顔を崩さずに夫を見つめ、
「これ――“遊戯地”の上を通りますよねえ」
と言った。質問ではなかった。その口調に、老人はひどくもの哀しい何かを感じたが、それを探り出そうとする意欲は失われて久しかった。
「通るよ」
と答えて、彼はまた窓の外へ眼を向けた。四男は迎えに来るはずであった。
あちこちから不気味なきしみを立てながら、飛行車は時速五五〇キロで順調に飛行を続けていた。
沈黙の機内に小さなささやきが湧いた。
「いよいよだぜ」
隣の座席にも届きそうにない声だったのに、ほぼ全員が身を震わせた。
その瞬間、何かが起こり――次の一刹那、飛行車は大きくバランスを崩して気流から外れ、急降下でもあり得ない角度で地上めがけて落下していった。
2
「何てこったい。逝っちまったぜ」
マリアからそう聞かされても信用せずに自分で脈を取り、心音を確かめて、ジャンは操縦手の手を離した。
「これで、飛行車を動かせる人間がいなくなっちまった。――いいや、誰かいるかい?」
と背後の生き残り――つまり、乗客全員をふり返ったが、無論、返事はない。
名も知らぬ操縦手は練達の腕を誇っていたらしく、ほとんど垂直錐揉みの落下を、限界ぎりぎりの機首立て直しで降下に変え、岩だらけとはいえ、何とか平地に不時着させたのは奇蹟といってもいい。
だが、奇蹟もそこまでで、現実は岩場の上に散らばった乗客たちに、負傷という現実を惜し気もなく与えていた。
老人が左腕を骨折して、マリアと治安官がようやく大破を免れた飛行車から持ち出した医療具箱の中味――添木を当てた上から包帯で固定するところだ。
治安官よりずっと若い警官は右肩に打撲傷を負ってしまい、湿布だけを当てて痛みをこらえている。鎮痛剤の瓶は落下の衝撃で液状の中味を箱の底にぶちまけていた。
少年と戦闘士は無事だが、片方は巨岩に寄りかかって動かず、もうひとりは突っ立って四方へ眼をむけているきりだ。
「誰か、この辺の地理に詳しいものはいるか?」
と治安官が一同を眺め廻した。
ジャンが顔をしかめて、
「そら、あんたに決まってるだろうが」
「それもそうだ」
治安官は三重顎の上の顔に渋面をつくって、辺りを見廻した。もう何十回となく見廻した光景に変化はない。
どこまでも広がる巨岩だらけの荒野だ。緑の一点もなく、あるのは身を切るような風ばかり。遠く黄色い砂塵の塊が渡っていく。その前方に、切り立った岩山がそびえていた。
時刻は三:〇〇Pを少し廻ったところだ。十分に光はあるが、翳り出せば冬の日はあっという間に暮れる。それまで一時間とはかかるまい。
腕時計で時刻を調べ、太陽をふり仰ぎながら辺境独特の天目測を行うと、治安官はうなずいた。
「飛行車の内部から測定器を持ち出せれば確実だが、ここは“遊戯地”のほぼど真ん中だ。従って、何処へ逃げても等距離ということになる」
「一番、安全な方角はどこだい?」
とジャンが訊いた。声には敵意がこもっている。やくざにとって法の守護者たちは、常に天敵なのだ。
「同じだ」
治安官はあっさりと口にした。
「あんた方が搭乗した空港のある村のDP(危険度)を1とすると、ここは全方位、十万を越す」
「なら、早いところ、『都』へ向かおうじゃないか」
と青白い顔をした警官が促した。
「幸い、みんな生命は助かったし、飛行車の中には食糧も水も少しなら残ってる。物騒な場所からは、一刻も早く脱け出すべきだろう」
「車なしで“遊戯地”を行進するって?」
ジャンがせせら笑った。
「あんた『都』のお偉いさんらしいが、貴族のこさえた“遊戯地”がどんなもんかも知らねえのか? いままで無事なのが不思議なくらいさ。奴らはもう気がついてる。その気になりゃ、いま八つ裂きにされてもおかしかねえんだぜ。おっと、そう考えりゃ、出てっても出ていかなくても同じことか」
若い警官は真っ向から立ち向かうことにしたらしい。眼尻を吊り上げて、
「貴様のようなゴロツキは、どこまでも無知にできてるらしいな。ここはE3号遊戯地といってな、定期的に航空写真を撮影しているんだ。それによれば、生物など存在していない」
「空から見ても、土の中に何がいるのかわかるのかい、兄さん?」
とジャンは切り返した。
「言い伝えによりゃあ、奴らはおれたちみてえな間抜けな獲物が奴らの領分へ入りこむまで、何千年も身じろぎひとつしねえで待ってるんだ。航空写真だ? 笑わせるなよ」
「貴様」
警官が無事な左手を武器帯《アーム・ベルト》の火薬拳銃にかけ、ジャンもおっとと言うなり蛮刀に手をのばす。
二人の周囲に緊張が凝縮した。
「そこまでにしておけ」
仲裁役にふさわしい寂《さび》を含んだ声が割って入った。
みな、一斉にその主の方を向いて、安堵の表情を浮かべた。ようやく、と思ったのである。
「ここを出るまで、仲間はひとりでも多い方がいい」
と戦闘士は言った。真紅のマフラーが風にゆれている。
警官が、こいつも敵か、という風に唇を歪めて、
「この土地は安全だ。何もいない。おまえたちは根も葉もない伝説に怯えてるんだ」
「その伝説のせいで救助は来ない」
と戦闘士は言った。警官は口をつぐんだ。“遊戯地”はいかなる場合も立ち入り禁止だ。迷いこんだ子供を探すために親が駆けつけることも許されてはいない。不時着した飛行車の救助など、もっての外だ。救助信号を発しようが、発煙筒をたこうが、人文字を作ろうが誰もやって来ない。
「“遊戯地”は直径五〇〇キロのほぼ真円を成している。徒歩で横断するのに、負傷者と女子供の足も計算に入れて、ざっと二〇日はかかる。そして、水と食料は、これだけの人数がいくら食いつないでも二日と保たない。だから、つまらんトラブルで人数は減らすな」
「どうしてよ?」
とマリアは何となく不気味そうに訊いた。
答えは簡単明瞭だった。
「食えるからだ」
みんな凄惨な表情になった。声も出ない。戦闘士は頭上をふり仰いで、
「じきに日が暮れれば、気温は零下に下がる。体力も低下するんだ。大事な栄養源をいまから失くさんでもらおう」
「やはり今日は野宿かな」
と治安官も空を見上げて呻いた。
戦闘士はうなずき、
「それと、旅立つ前に片づけておくことがひとつある」
と言った。
「わかっているはずだ。なぜ、飛行車は墜ちたのか」
これまで、さすがに戦闘士の発言と、好意的な眼で見ていた老夫婦の表情さえ凍りついた。
「どうだ、マリアさん?」
戦闘士の指摘に、女はそっぽを向いた。
「人の名前を気安く呼んで欲しかないねえ。あんたは何てのさ?」
「失礼したな。ビアス――戦闘士だ」
それで気が済んだのか、マリアはそっぽを向いたまま、
「何か見たような気もするけど、何にも覚えちゃいないね。ただ、何を感じたかはわかるよ。あれは――恐怖そのものだった」
声なきどよめきが生じた。
全員が――少年と“サクリ”を除いて――同意したのだ。
「そのとおりだ。飛行車を墜落させて操縦手を殺したのは、まさしくそれ[#「それ」に傍点]だ。だが、どうやって生じた?」
今度は沈黙が座を締めつけた。
あの瞬間、マリアが口にした“恐怖そのもの”を、またも感じたのである。
人間のものとも思えぬ声を上げて、老夫人が夫にしがみついた。やくざと警官は苦痛に耐えるように眼を閉じて震え、治安官の顔は汗の粒を噴いた。
どのような剛毅な精神でも消し飛んでしまうほどの恐怖。そんなものが何処からやって来たのか?
「治安官――あの辺には、そんな病でもあるのか?」
「病? そんなものはない。あんな枯れ果てた土地には、伝染病だって寄りつきゃせんよ」
「では――誰かの仕業ということになるぞ」
みなの動きが止まった。
戦闘士は淡々とつづけた。
「十中八九、犯人はこの中にいる」
「待てよ、おい」
とジャンが口をはさんだ。
「そうとは限らねえぜ。飛んでる飛行車の中であんな真似したら、操縦手がおかしくなるくらい、誰にでも想像はつく。自分も落っこちるんだ。共倒れだぜ」
「ひとりを狙ったのに、力の使い方を間違えたのかも知れん。或いは、当人さえいつそうなるのかがわからないのかも知れん」
一同の頭が一斉にある方向を見た。
少年は相も変わらず俯き、“サクリ”は沈黙していた。
「まさか……」
マリアの呻きを、戦闘士は軽く粉砕した。
「治安官、その“サクリ”に、そんな力があるか?」
「いや、おれの知る限りでは、ない」
治安官はきっぱりと言ったが、囚人を見る眼差しは、別のものに変わっていた。
「こいつが暴れた土地でも、そんな話は聞いていない。そんな――恐怖を他人に伝染させるなんて」
「“サクリ”のことはまだよくわかってはおらん。みな処分されてしまうからな。たとえ、そんな力を持っていたにせよ、自分でコントロールできなければ、宝の持ち腐れだ。発動する前に、処分されてしまうだろう」
「………」
“サクリ”に関する幾つもの定番の光景を、人々は思い浮かべた。横合いから警官が割って入った。
「おい、勝手なことを考えるなよ。この男は『都』の最高研究機関が待っている被験体だ」
「その男が犯人だとは言っておらん」
戦闘士の青い瞳にもうひとりの姿が映っていた。
「坊主――しゃべれるか?」
と訊いても返事はない。
「ずっとみなを見ていたが、あの恐怖を味わって変化がないように見えるのは、おまえだけだ。それとも――最初から感じていないのか?」
それは、少年が犯人ということか。
「答えられるなら答えろ。それがはっきりしないうちは、おまえを同行させるわけにはいかん」
「ちょっと、待ちたまえ」
異議を唱えたのは老人であった。
「その子が犯人とは限らない。あんたもいま、そう言ったじゃないかね。そんな子供を無闇に脅すのはよくないよ」
厳しい岩みたいな顔が、じろりと老人を見た。老人は一瞬ひるんだが、何とか持ちこたえた。
「あんた、『辺境区』の生まれじゃなさそうだな?」
老人はうなずいた。
「ああ、『都』の人間だ。“辺境区”に住む子供たちのところを巡っている途中だよ」
「なるほどな。一〇年も『辺境区』で暮らせば、そんなことは口が裂けても言えなくなる。男も女も老人も子供も区別はない。子供が殺人者になる可能性は、他の連中と何の変わりもないということだ。毎年、何人が子供の手で殺されていると思う?」
「だからと言って、その子が――」
「仕様がねえんだよ、爺さん」
とジャンが横槍を入れた。
「これから先は、どう考えても凄まじい道中になる。少しでも疑いのある奴は、餓鬼といえども連れてはいけねえ。その戦闘士の言うのは正しいんだ。だが、あんたの言い分にも一理ある。まだ、あんなことをしでかした奴が誰かは、みいんな同じだけの可能性を持ってるわけだからよ。そこで提案だが、おれに考えがある」
よほどいい考え[#「いい考え」に傍点]なのか、自慢たらたらである。
「その子をナイフで脅しつけてみよう」
ジャンは、ぎょっとふり返ってマリアを見つめた。声の主は手のカップの中味をきゅっとあおって、
「――ってんだろ。あんたみたいな男の考えることくらい、こっちゃ、てん[#「てん」に傍点]からお見通しだよ。この子が犯人だったとしたら、ひょっとしたら、またあの恐怖を味わう羽目になるんだよ。あんたみたいな無神経は耐えられるかも知れないけど、そっちのお年寄りはどうなると思うんだい。少しはここを働かせなよ」
と空いている方の人さし指で頭を突ついたから、ジャンは眼を剥いた。
「てめえ、おれの頭が足りねえとでも言いたいのか?」
「足りてるとでも言いたいのかよ?」
「こ、この女《あま》」
と拳を握りしめてマリアににじり寄ろうとした。
そのとき、低い驚きの声が上がった。ひとりではない。治安官と警官のものだ。彼らは少年の方を眺めていた。そして、彼がその顔を上げたのを認めたのだ。
「来る」
少年は虚ろな声で言った。同い歳の子供たちに比べれば、ずっと低い弱々しい声だろう。だが、そこに含まれた怯えは身の毛もよだつ本物であった。
「……来る」
もう一度口にして、少年は立ち上がった。全員の眼が注がれているのも知らぬげに、岩場の外へと歩き出す。
「来るって、誰がだ?」
警官が激しく眼をしばたたいた。
「あいつらか? “遊戯地”の“解体人”どもか? それとも――“係員”か?」
「莫迦なことを言うな!」
と治安官は怒鳴った。
「この辺に、そんな奴らがいたことなどない。みんな、ただの言い伝えだ」
「あれ[#「あれ」に傍点]はどうだ?」
と、戦闘士が訊いた。少年は一同から五メートルほど離れた位置で立ち止まり、西の方角へ顔を向けていた。戦闘士はその背後にいた。
“サクリ”を除く全員が立ち上がり、同じ方を見た。
西の一角は黄色の砂塵に覆われていた。砂が渦巻いているのだ。
その内側に、黒い影が滲みはじめた。
距離は五〇〇メートルに近いだろう。砂塵の奥の影は、人とも獣ともつかない。
それなのに、全員が納得した。
人間だ。
男だ。
それも、世にも美しい。
細い草の葉としか見えない影が、明瞭に人の形を取り、鍔広の旅人帽《トラベラーズ・ハット》に漆黒のコートをまとっていると知れ、サドル・バッグと優美な長剣を肩に、ついに一同の前に立ち止まるまで無慮一〇分――彼らは微動だにせず、そこに立ち尽くしていた。
その影の放つ鬼気――否、美しさに、骨がらみ緊縛されたかのごとく。
左手でコートの砂塵を払い落とすと、彼は静かに言った。
「おれはDだ」
かがやく闇が、その全身を包んだように見えた。
「あの飛行車を見てくれればわかると思うが、おれたちは遭難者だ」
と治安官が言った。一同の代表といえば、年齢からいっても彼だろう。
「これから東へ向かうところさ。あんたも運がいいのか悪いのかわからんな。おれは、ヴールキン地区の治安官で、シェリブという」
「あたしは――マリアよ」
その顔が上気しているのも、眼と声が虚ろなのも、この若者が相手では仕方がない。
「おれはジャンだ――見てのとおりの流れ者さ」
「わたしはフランツ・ストウ、こっちは女房のベラです」
と老夫婦の夫が紹介した。老妻は夢でも見るような眼で、黒衣の若者を眺めている。
Dの眼は少年を捉えた。俯いている。
「名前は何という?」
Dが訊いた。これも奇蹟的な現象だが、奇蹟はもう一度起こった。
俯いたきり、しかし、少年の口もとがもじもじと動いたのだ。それは間違いなく言葉だった。
「……トト」
「こら驚いた」
とジャンが大仰に万歳をしてみせた。
「脳味噌が欠けているのかと思ったら、ちゃんとしゃべりやがる。ま、男でも、おまえさんくらい美しけりゃあ、しょうがねえか。泣く子と美人にゃ勝てねえよな」
「いい名だ」
とDは言って、一行の中で最も異質な――フード付きの姿を見た。
「“サクリ”だよ」
と治安官が面倒臭そうに言った。いちいち教えてやる必要もないが、なぜか世話をやいてしまう。その原因が怯えだと、彼にはわかっていない。
「『都』にある政府の研究所へ移送するところだ。なに、薬を射ってある。おとなしいものさ」
「民間人に余計なことをしゃべるな、治安官」
と警官が止めた。
「この男、鬼気が取り巻いている。ただの旅人じゃあるまい。――おい、おまえは何者だ? こんなところで何をしている?」
「馬がやられた。――おれの職業なら」
「吸血鬼《バンパイア》ハンターだ」
世界から音が失われた。Dを見つめる全員の耳から風音さえ消えた。
この若者なら、とみなが納得した瞬間であった。
Dの眼が自分の職業を告げた男を見た。
「吸血鬼ハンター“D”、会えて光栄だ。おれは――」
「戦闘士ビアス――噂は聞いている」
「ますます光栄だな」
ビアスの髭面に微笑が浮かび、消えた。吸血鬼ハンターと戦闘士の出会いはそれで終わりだった。
Dは静かに警官を見た。彼は後じさった。
「――わ、わたしは警察省のワイズマン護送官だ」
「すぐにここを出ろ」
とDは言った。身体は東を向いていた。一同の誰にも関心のかけらもない声であった。
「じきに敵が来る。ここが安全だというのは出鱈目《でたらめ》だ」
「本当か?」
と治安官が周囲を見廻し、
「嘘をつくな。――何も見えんぞ」
と先廻りしていたワイズマンが眼を細めたまま抗議した。
「好きにしろ」
言い捨てて、Dは歩き出した。
一同は完全に無視された。
「待ってくれ――おれとマリアは一緒に行くぜ」
とジャンが叫んだが、Dの足は止まらない。
「ちょっと。勝手なこと言わないでよ」
マリアが酒臭い息を吐いた。
「いいから用意しなよ。この稼業を一〇年もつづけるとわかるんだ。いざってとき、一番頼りになるのは誰かってな。間違いねえ――あいつ[#「あいつ」に傍点]だ。おい、坊主、おめえも来な」
トトは動かない。束の間、その人間性を取り戻させた美は、すでに五〇メートルも前方にあった。ジャンはあっさりと切り捨てた。
「ええい、しゃあねえ。誰か、この子の面倒を見てくれよ。頼んだぜ。――おい、行こうか」
と、簡素型旅行鞄をひっ掴んで立ち上がる。
じっと考えていたフランツ老人が、そのとき立ち上がって、
「わしらも同行します。行くよ、おまえ」
と老妻の手を引いた。
「それがいい」
とビアスも傷だらけのドラム・バッグを持ち上げた。
「待て」
とワイズマンが血相を変えた。
「おまえたちを保護するのは我々だぞ。素性も知れぬハンターややくざ者ではない。わからんのか。ここでばらばらになっては危険だ。おまえたちを救ってやることも――」
喚き散らす若き護送官を黙って見ていたシェリブ治安官が、さすがに聞き飽きたのか、
「無駄ですよ」
と声をかけてやめさせた。
「しかし――」
「どうします? 残りますか? 自分はお手伝いしますが」
「さっき、出かけようと言ったはずだ」
ワイズマンは先を急ぐ連中の後ろ姿へ、忌々しげな視線を突き刺しながら、足踏みして靴の履き具合を確かめた。
「行く前に、操縦手を埋めてやりましょうや」
と治安官が水を差した。
やがて、三つの影が、すでに見えなくなった人々の後を追って歩き去り、静寂だけが張りつめた岩場に、奇怪な現象が生じたのである。
誰ひとり知らなかったことだが、かなりの人数の男女の声と風をはじめとする無数のサウンドが、無人の荒野に展開したのである。
それは明らかに、一時間ばかり前にそこにいた遭難者たちの声であり、やり取りであり、その動きにともなう音響の正確な――すなわち、過去の再現であった。
そして、穴を土で埋める音が絶え、祈りを唱える治安官の声も消えて、さあ行くぞ、とワイズマン護送官の促す声に足音が遠ざかって、風の音ばかりが終わりなくつづく――その少し前、行くぞの声がかかると同時に、そこに居合わせたはずの二人の官憲も気づかなかったもうひとつの声が再現されていたのである。
低く低く、嘲るような、純粋な歓喜のような――だが、これだけは確かだ。声の主は人間ではなかった。
こんな笑い声を人間《ひと》はたてはしない。
それからすぐに、三つの足音が土を踏んで、荒野の果てへと歩み去ったのであった。
「やはり、尾いてくるぞ、厄介者どもが」
と嗄れ声が言った。Dの左の腰のあたりである。そこには左手しかない。
声は叱責の調子をつづけた。
「おまえもおまえだ。あんな役にも立たぬ連中をその気にさせおって。ここが危ないなどと言わねばよかったのだ。しかし、ほとほと運の悪い奴らよ。墜落死という地獄を免れたと思ったら、別の地獄へ跳びこみおって。いいや、この地の方が百万倍も危険じゃが」
Dは無言で先を行く。夕方に近い風は寒々しくなってきた陽光を身にまとって、その冷気を人間の眼からも侵入させてくる。それだけでも、これから朝まで生物が生き抜くには十分苛酷なのに、ここはただの荒野ではなかった。
「聞こえるか?」
と嗄れ声が尋ねたのは、そのすぐ後である。返事はない。それは肯定を意味した。
「あれは――フルートじゃな。ほう、上から下から右から左から、あらゆる方向から聞こえてきよる。これは大層な人数のオーケストラだわい」
「二人だ」
ぽつりとDが言った。
「まさか」
と言って嗄れ声は沈黙し、一秒の間の後、
「そのとおりだ。つくづく怖ろしい奴だと思っていたが、やはり、な。足を踏み入れた早々に、馬まで食われたこの“遊戯地”で、あんな仕事を成し遂げられるのは、正しくおまえしかいまい」
「砦までは?」
「あと八〇キロほどだ。明日には着けるじゃろう。もっとも、真の地獄は着いてからじゃが。くく、あいつら、ここで行き倒れた方が幸福じゃぞ」
声は止まった。Dが足を止めたのである。
昼の陽ざしの中でも玲瓏《れいろう》たる美貌は前を向いたまま、
「足音が消えたの」
と嗄れ声を聞いた。風がその黒髪を草原の緑草のようになびかせた。
「で、どうする? 助けにいくつもりか?」
揶揄するような声が終わらぬうちに、Dの靴は、また前方へと土を踏みはじめた。
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第二章 “遊戯場”の敵影
1
Dと名乗る若者が立ち止まるのを、全員が確認した。
それきり動かない。美しい彫像のように突っ立ったままだ。
思わずこちらも足を止め、
「何かおかしいぜ」
とジャンが首を傾げた。右手はベルトの蛮刀にかかっている。
「動くな。ちょっくら質問してくらあ」
と二歩進んだところで、
「おまえはここにいろ」
と治安官が肩を押さえて前へ出た。
「これはおれの仕事だ。余計な真似をするな」
風に逆らうようにして、治安官は巨体をDの背後まで運んだ。
「おい、何か――」
その眼前でDがふり向いた。
治安官は眼を剥いた。
Dには顔がなかった。旅人帽の下は空洞で、後ろの髪の毛さえも見えなかった。
次の瞬間、そこから[#「そこから」に傍点]何か、紫の塊が弾け出るのを治安官は認めた。
Dの顔から噴出した塊は、おびただしい紫色の触手に分裂して背後の一同を襲った。
逃げる暇《いとま》もかわす余裕もなかった。それほどのスピードだったのである。全員の胴に巻きつくや、それはちぎらんばかりの力で、絞めつけた。
マリアの顔がみるみる青黒く変わって、チアノーゼを起こす。
ワイズマンが呻き、蛮刀をふりかざさんとするジャンの手は胴に押しつけられていた。
上空から黒い影が陽光を浴びつつ走った。
触手の一本が掴み取ろうと巻きつく。弾き跳ばされた。二本目三本目が迎撃に向かう。
それを鮮やかにかわして、黒い鉄の矢は、超音速《マッハ》を越える速度でDの顔――蠢く触手の真ん中を貫いたのである。
声もなくのけぞり、Dは両手で矢を抜こうとしたが、それはびくともしなかった。
すでに触手は人々を解放していた。本体に従ってのたくり、誰の眼にも明らかな断末魔の舞踏を踊る。
ついにDが横倒しになったとき、なおも痙攣する触手を避けて、ひとりの男が近づいてきた。
ビアスである。Dを貫いた起死回生の矢が、空中で彼の放ったものなのは言うまでもない。
他の連中と等しくその両手を捕縛《ほばく》した触手は、幾つかの断片となって地上で痙攣をつづけていた。ちぎり取ったのか。だが、どうやって?
彼はDの断末魔を鋭い眼差しで見下ろした。そこへジャンが喉を押さえつつ、
「畜生め、吸血鬼ハンターなんだとデマ流しやがって。化物の仲間かよ」
とジャンは悪態をついた。
「いや、彼ではない」
「えーっ!?」
ジャンばかりか、他の者も鬼みたいな形相になった。
「気配が違った。我々は何処かで迷わされたのだ。こいつらの仲間にな」
「こいつらって――何だよ?」
「こいつらとしか言えまい。やはり、航空写真だけでは、地上の怪異を映し出せなかったな。――みな、無事か?」
ジャンは後ろをふり向いて、
「ああ。何とかな」
「ストウ夫婦と子供はもっと後ろにやれ」
「――?」
「こっちは無事とはいかなかったようだ」
ビアスの眼が向いた方角を追って、ジャンは身をすくませ、すぐに、おえ、と洩らした。治安官の巨体が横倒しになっている。
敵は彼を絞めつけるより、別の道を選んだらしかった。
ちぎれた首は巨体より五〇センチほど二人に近い地面の上に、こちらを向いて落ちていた。
「埋めてやりたいが、時間がない。後で葬ってやろう。おれたちが無事だったらな」
「縁起でもねえことを言うなよぉ」
ジャンが心細そうに身を震わせた。
「怖いのか?」
「ああ。おらぁ人間には強いが、化物には駄目なんだ」
戦闘士は苦笑した。
「正直な男だな」
「それが取り柄でな。おい、頼むぜ、戦闘士のおっさん。あんただけが頼りなんだからよ」
後ろのメンバーをふり返った顔は、確かに青ざめていた。
「とにかく、行くぞ」
二人は同行者たちの方へ歩き出した。
みな、こっちを見ている。ワイズマン、ストウ夫妻、マリア――その表情が突然、変わった。
恐怖、と認めた刹那、ビアスは上体をねじった。左手に残した矢をふりかぶる。
それが投じられることはなかった。
背後に顔のないDが立っていた。致命傷ではなかったのだ。しかし、その身体は白煙に包まれ、空間から溢れた触手が、ぼろぼろと地面にこぼれ落ちた。こぼれた断片もまた溶けはじめた。
黒いコートの胸から、白銀の切尖《きっさき》が生えていた。
その身体が中身のないもののようにつぶれて溶けはじめたとき、二人は白刃《はくじん》を手に立つもうひとりの黒衣の若者を見た。
本物だ。ジャンの全身を震えるほどの感動と戦慄が貫いた。戦慄の種類はわからない。
「助かった……」
崩れかかる膝を何とか支えたやくざを尻目に、
「戻ったのか?」
とビアスは矢を筒に戻した。
「前進したら、ここへ来た」
とDはこちらも刀身を収めて応じた。そして、ビアスが口を開く前に背を向けて、歩き出した。
「待て」
甲高い声を上げてワイズマン護送官が走り寄り、Dの前に立ちふさがった。“サクリ”は、フランツ老人に拳銃とロープを渡してある。
「この一行の責任者は私だ。勝手な真似は許さんぞ」
「おれは通りすがりだ」
Dの足は止まらない。それに合わせて『都』の護送官も後じさった。
「この先に何があるのかわからん。無闇に移動するのは危険だ」
「――では、ここにいろ」
「彼のことは放っておけ、護送官」
とビアスが、やれやれといった調子で口をはさんだ。
「おれたちとは別の種類の人間だ。行かせろ。おれたちは尾いていけばいい」
「そうはいかん。私は公人だ。おまえたちみんなの生命に責任があるんだ」
「だから、お偉いボクちゃんの命令を聞けってか?」
ジャンが嘲笑った。
「何を言うか、貴様」
護送官は大きく後方へ跳んだ。ビアスが、ほう、とつぶやいたほど、ジャンプの距離は三メートルを越えている。着地と同時に、腰に吊った物騒な品をDに向けた。
太い――二〇ミリはありそうな銃口の周囲を六本の、これは五〇口径程度の銃身が取り囲んでいる。ベルト状の給弾帯が背中の円筒《ドラム》につながり、ざっと五万発は保ちそうだ。華奢な男には似合わぬでかい荷物だとみなは思っていたが、まさか弾倉だったとは。
ほう、と感心したように洩らすビアスの横で、ジャンが血相を変えた。
「おい、やめろよ、兄さん。いや、ゴソー官。話し合おうぜ、な?」
Dを知る者なら、次に展開する光景をたやすく想像して眼をふさぐところだ。自分に牙を剥いたものを、この美しい若者は絶対に許さない。
だが、事態は意外な展開[#「展開」に傍点]を見せた。
Dが足を止めたのだ。
「あれ?」
とジャンが眼を丸くしたのを見ると、この男も全く別の――死の光景を予想していたものらしい。
そのままDは動かない。
護送官は困惑した。とんでもない武器を構えたのは、眼の前の美影身ともいうべき若者から吹き出す妖気に我を忘れた――とても素手では相手にならないと思ったからだ。ふり上げた拳――引金にかけた指の力の入れどころを彼は忘却した。
そのとき――
Dの右手が上がった。
「わわっ!?」
と護送官が武器を抱きしめる。
「よせ!」
とジャンが喚いた。相手はDである。今度は銃火の中でずたずたにされる若者のイメージが浮かんだのだ。
黒い手はゆっくりと長刀の柄《つか》をめざしていく。
「やめろ! 射つぞ」
とワイズマンは制止した。顔は汗で覆われた仮面だ。引金にかかった指は、もう限界まで絞られている。自分とDとをつなぐ鬼気の凄まじさに、彼は半ば気死状態にあった。
Dの手が柄にかかる。爆煙のごとく鬼気がふくれ上がった。
ひっ、と放って蛮刀を抜いたのはジャンばかりで、護送官は身をすくめたきりである。弾丸は発射されなかった。
無言で柄から手を離すDを、みな凍りついたように見つめた。
彼はまた歩き出した。今度は護送官も止めなかった。覇気は完全に失せていた。
「けっ、だらしがねえ。これだから餓鬼はよお」
硬直したままの護送官へジャンは舌を鳴らした。自分の震えは何とか隠しおおせたようだ。ふり向いて、
「おい、行こうぜ。こんな立派なリーダーは放っといてよ」
と露骨に声をかけて歩き出そうとする。その肩に鋼の指が食いこんだ。
いてて、という声も出せない痛みであった。
「どうする、護送官?」
ビアスが訊いた。
それが魔法を解く呪文ででもあったかのように、ワイズマンは武器を下ろしてよろめいた。
「気の短いだけの坊やだと思ったが、よく射たなかったな」
ビアスの声は微笑を含んでいた。
「当り前だ。私は警官だぞ」
「攻撃される前に射てるか、か。で、どうする?」
ワイズマンは顔の汗を拭って上空を見上げた。
蒼みを増している。夜は夕暮れなしで襲ってくるだろう。
「このまま行こう。とりあえず、彼の後をついていけ」
「とりあえず、な」
「とりあえず、だ。彼の行く先が我々と同じだと、私は判断する」
「仰せのとおりだ」
と戦闘士はうなずき、ジャンは唾を吐いた。
2
いつの間にか、荒野は谷間に変わっていた。大分前から湧き出した霧のせいだろう。
みな、不安そうな顔を見合わせたが、先を行くDは平然と乳白の色に溶け、見失わないようについていくのが精一杯、さっきみたいに化物が化けているのではないかとの疑いが、誰の胸をもかすめはしたものの、他の手も思い浮かばず、ひたすら美影身の後を追った。気がつくと、ゆるやかな傾斜を下って、見上げるばかりの絶壁の底に着いていた。
左方を幅広い銀色の流れが走っている。谷川の流れはそれなりに速く、岸辺の岩にぶつかっては白い牙を剥いた。近くを歩けば、氷粒のような水飛沫《みずしぶき》が足ばかりか顔にもしみる。
「ねえ、ちょっと休んでこうよ」
とマリアが先頭のワイズマンに声をかけた。
「ストウさんが保たないし、その子も危ないって」
そう言う彼女自身は老夫人に肩を貸している。一時間ほど前から、年老いた夫と少年には疲れた様子が見えていた。
しんがりを守っていたジャンが駆け寄って、ふらついているトトの肩を掴んで、その前にしゃがみこんだ。
「仕様がねえ餓鬼だな。痩せ我慢するからそんなことになるんだ。ほら、乗れ」
と背中を向けた。
少年はそっぽを向いて歩き出した。何度かジャンが助けてやると申し出たのを、ことごとく拒否したのと同じ態度だった。
二、三歩行って倒れた。ジャンが駆け寄って抱き起こし、
「言わんこっちゃねえ。おれが気に入らねえのはわかるが、ぶっ倒れられちゃあ足手まといだ。無理にでも連れていくぜ。ほれ――乗んな」
と強引に背負ったところで、前方に立っていたフランツ老人がへたりこんでしまった。
「こりゃいかん。おい、ゴソー官」
と呼んでも、向うは“サクリ”を担当している。老人に肩を貸す余裕はない。
じろりとこちらに一瞥を与えただけで、
「おい、D――話がある」
と前方の霧に滲む影に叫んだ。
効果はない。世にも美しい影は霧の中を遠ざかり、薄れていく。
「護送官、金はあるか?」
とビアスが声をかけてきた。
「金?――こいつを送り届ける費用なら少しは」
「幾らある?」
「ざっと五千ダラスばかり」
「十分とはいえんが、道案内を失くすよりよかろう。――おおい、D」
すでに何処から出てくるのかもわからない霧に向かって、
「ワイズマン護送官がおまえを雇いたいそうだ」
当人がぎょっとして何か言おうとするのへ、
「ほら、“サクリ”が逃げるぞ」
と指さして、
「報酬は四千ダラス。護送官をつけ狙う貴族の端女《はしため》を処分してもらいたい。どっかで狙ってるそうだ」
ワイズマンが跳びかかるより早く、こう言い終えて、前方へ眼を凝らした。他の者にも聞こえたから、みな真剣な、生命懸けみたいな眼つきになった。
霧はなおも渦巻き、Dの返事はない。これでは声まで吸い取られてしまったかと、みなの顔に疲れと落胆が広がった。
そのとき――ビアスから五メートルと離れていないところへ、忽然とDが現われた。どよめきが上がった。
「ほら、商談だ。うまく成立させな」
とビアスが護送官の背を押して、
「その男はおれが預かろう」
と、“サクリ”の細紐に手をのばしたが、ワイズマンは紐でその手を払った。仕事に手は出させないというところだろう。
「条件はいま、彼ががなった[#「がなった」に傍点]とおりだ。受けるか?」
「ふたつ条件がある」
とDは言った。
「何だ?」
「おれには先の用がある。それを片づけてからだ」
「――いいだろう」
護送官は渋々うなずいた。
「もうひとつ――前払いだ」
とDは言った。
護送官の顔を安堵の表情がかすめた。“サクリ”の紐を掴んだまま、懐中から財布を取り出して千ダラス金貨を四枚、Dの左手に乗せた。
「ん?」
と眼を剥いた。
「どうした?」
とビアスが訝しげな表情になったが、護送官は、何でもないと答えて財布をしまった。ひとつ息を吐いて、
「そろそろ日が暮れる。野宿をしなくてはならん。みなを守ってもらおう」
「依頼されたのは、おまえを狙う貴族の下女を斃《たお》すことだ」
とDは応じた。
「ところが、奴は私の周りの人間すべてを殺すと通達してきた。みな、狙われている」
ビアスが苦笑を噛み殺した。上手い手だと思ったのである。
「この話はなしだ」
Dはコートのポケットに手を入れた。四千ダラスでは安いということだろう。
「待て。無事に『都』へ着いたら払う。公庫からだ。確実だぞ」
胸の前に上げたDの拳から、光る塊が地面に落ちて美しい音をたてた。金貨だった。
無言で背を向けた。
「待て」
声をかけたが、ワイズマンにはもう打つ手がなかった。
「あの――」
それは、風の音に掻き消されそうな声であったが、Dの耳には届いたようだ。
彼は足を止めてふり向いた。
「おい?」
「ちょっと――」
これはジャンとマリアの驚きの声であった。
ジャンが身を屈めて少年――トトを下ろした。背中で暴れたのである。
細い足はまだ疲れ切っていた。歩く姿はひどく頼りなく見えた。
少年は護送官より一歩、Dに近づいて立ち止まった。
「これ――足して下さい」
小さな手が拳を持ち上げた。
底知れない深さと美しさを湛えた黒瞳が、ふっくらとした掌に乗った銅貨を映した。
「十ダラスかよ、おい」
呆れ返ったジャンの声は、ぐえ、という苦鳴に変わった。マリアが肘で鳩尾《みぞおち》を突いたのである。女の顔には感動の色があった。
黒い手が小さな白い手に重なった。それが離れた後に、銅貨はなかった。
「これで――みんなを」
と少年は言った。舌はもつれた。口はよく開かなかった。
「引き受けた」
とDは答えた。誰にもわからぬ奇蹟が起こったのだった。
「あんた……」
マリアが低くつぶやいた。そのかたわらから銀髪の影が離れ、トトを抱きしめた。ストウ夫人であった。
「こんな子が……私たちを守ってくれようと……」
老夫人の眼からとめどなく涙が落ちて、少年の髪を濡らした。すぐにそこを手で押さえ、小さな救世主は、べそをかいた表情で、おかしな雨降りを見上げた。夫人はもう一度抱きしめた。
そのとき、
「この道の先は、『都』への道路に通じてはいない」
とDが言った。驚くべき発言であった。
「な、なんでそんなところへ行くんだよ!?」
とジャンが抗議の声を張り上げたが、自分たちは勝手にDの後をついてきたのだから、これは筋が通らない。
「おれはそこに用があると断ったはずだ。嫌なら下りろ」
「――わかったよ、へいへい」
「訊いてもいいか?」
とビアスが片手を上げた。
「そこに何がある?」
「古い砦だ」
「砦?」
ビアスにもそれは初耳らしく、首を傾げた。他の連中は顔を見合わせたが、勿論、何もわからない。
「全部聞かせてもらおう」
とワイズマン護送官が身を乗り出した。一応、雇い主だから傲慢な口調である。
「かつて、この辺一帯は貴族の“遊戯場”だった」
とDは話しはじめた。
その名前のみ現在《いま》に伝わり、太古の実情を知る者はすべて灰と化したものの、研究施設兼神殿の一部だけは遺された。一万年ほど前の話である。
この一帯を支配していた貴族のもとへ、神祖の軍が押し寄せたのである。防衛網は次々に突破され、生き残った貴族の三百名ほどが遺跡に立て篭った。
彼らは、数や武器の上では圧倒的に劣勢だったが、それに代わるものを有していた。信仰である。
「貴族が奉じる神は神祖だけだと思うな」
とDは、ひたすら聞き入る人々に告げた。
「彼らはそれなりに独自の神を信仰していた。ただし、ここに立て篭った連中の“神”とやらは、すこぶる独創的だった。三百人少々の貴族に対して、押し寄せる貴族の兵力は三万――しかし、彼らが砦を落とすのに十三カ月を要した。“神”の助勢によって、な。神祖の軍は、篭城した者たち全員を滅ぼし、土地と砦も完膚なきまでに破壊しようとしたが、何故か砦は遺った」
「その――神さまも、貴族と一緒に滅んだのかね?」
怖る怖る尋ねたのは、ストウ老人だった。皺と老人斑に埋もれた顔に、ひたむきな表情が浮いていた。人生の終焉に近づいた老人にとっては、どんな“神”でも関心の対象なのだろう。
「わからん」
とDは答えた。
「だが、完膚なきまでに破壊されたはずの“遊戯場”の一部は、まだ生きていた」
「あの――あんたに化けた化物のこったな」
ジャンが獣のように喉を鳴らした。老人は正反対の口調で、
「すると、その貴族の“神”とやらも、まだ――」
と身を震わせた。それがジャンの気に入らなかったらしい。
「何だかうれしそうだがな、おっさんよ。さっきの化物見たろ。あれの親玉だぜ。そんな奴が残っててみろ。おれたち、たちまち食い殺されちまうわい」
「そんな“神”がいても、立て篭った貴族は勝てなかったのか?」
ビアスが真紅のスカーフを巻き直しながら訊いた。
「結果はそうなった」
とD。
「あなた――何をしに、そこへ?」
マリアの問いには答えず、
「じきに日が落ちる。もうひと息だが、野営の準備をしろ」
準備といっても、飛行車から持ち出した携帯用の原子灯を焚き、その周りに離れず横たわるくらいが関の山である。霧は晴れて、各々の姿がよく見えた。
原子灯の熱量が大きく、半径五〇メートルまで十分に暖が取れるのが救いだった。
岩にもたれかかって眼を閉じているビアスを認めて、川べりへ顔を洗いに行った帰りのマリアが近づき、遠くに立つDの方へちらりと眼をやった。
「ねえ、あんた、あのハンターのこと知ってるんでしょ?」
ビアスは顔も上げずに、
「この稼業で、あの男を知らない奴はいない」
「そんなに有名人?」
「人間《ひと》と貴族の血を併せ持つダンピール――人間であり貴族でもあり、人に非ず貴族に非ず」
マリアは、あら、という風な表情をつくって、
「――何だか、しんどそうね」
と言った。しみじみとした口調であったが、すぐに薄気味悪そうな表情になって、
「さっき、霧の中から出て来たとき――気がついた? 霧がさ、二つに分かれたわよ」
「あれほどの男だ。霧も尽くしたくなるだろう」
マリアは、何よこの莫迦、という眼つきで戦闘士を見つめた。
「霧が女だとは思わなかったわ」
「おれもおかしなものを見た」
「え?」
「ワイズマンも見たはずだ。前金を渡したとき、Dは左手で受け取った」
「そうよね――左利きってこと?」
「右手を空けておくのは、いざというとき、迅速に武器を使うためだ」
戦闘士は冷たい一瞥をマリアに与えてから眉を寄せた。
「あのとき、Dの掌が笑った」
「え?」
「人の顔が浮き出て、にやりとした――間違いない」
3
老夫婦とトト、マリアの順で寝入り、ジャンとワイズマン護送官も白河夜船、“サクリ”も首を垂れて――Dばかりが、原子灯の光暈《こううん》から少し離れて立っていたが、その足下で声をかけた者がいる。
「さすがダンピールだ。夜に強い」
小さな岩に上体をもたせかけた戦闘士ビアスであった。
「昼間、救けてもらった礼をまだ言ってなかったな」
Dは無言である。余計な斟酌というところだろう。
「このとおりだ。礼を言う」
軽く頭を下げる男を見つめていたが、ぽつりと、
「退《ひ》きどきだな」
と言った。
ビアスはきょとんとした表情になったが、たちまち苦笑を浮かべた。
「他人に軽々しく礼を言うようでは、戦闘士はつとまらんというわけか。そのとおりだな」
ビアスは手刀で首の後ろを叩いた。
「おれは今年、四十になる。普通ならサイボーグ馬だが、飛行車に乗ったのは、『都』でガードを公募しているからだ。自由に生きるのもいいが、それは若さに支えられてのことだ。年を取れば何処かの禄《ろく》を食《は》むのに引かれる。ふむ、ダンピールたるおまえにはわからんだろうな」
「老人と子供がいる」
とDは言った。
「疲れ切って寝ている。ここまで来る間に、誰かおまえを頼ろうとしたか?」
「………」
「おまえが戦闘士だと思っているからだ。いざとなったら自分たちを救ってくれる頼みの綱だと、な」
老夫人はマリアが肩を貸し、少年はジャンが背負った。誰よりもタフなはずのビアスに、彼らを委ねようとする者は確かにいなかった。
「済まないな。頼みの綱はポンコツだったんだ。起きたら、子供でも背負うさ」
ビアスは自嘲めいた物言いをした。
「戦闘士と名乗るなら、仕事は別にある」
Dのこの言葉と同時に、ビアスは跳ね起きた。
「いよいよ、本番か」
右腕の横に立てかけてあった矢筒を背負い、長剣を腰にくくる。敏捷な動きに停滞はなかった。
その間にDは寝入っている連中を起こした。どういう具合になっているのか、片手を肩に置いただけで、みな弾かれたように起きた。
「どうした?」
と護送官が訊き、
「敵だ。その岩の陰に集まれ」
Dからこう聞くや、素早く“サクリ”に駆け寄って、岩に結んだロープを自分の手に巻きつけた。
右手の指の間に鉄矢をはさんだビアスを見て、ジャンが身震いした。武者震いである。
「来やがったか、畜生め。おれもやるぜ」
と蛮刀をベルトに押しこむ。
「敵は五人」
とビアスが言った。眼を閉じている。足音を聞きつけたのだろう。
「おれがやる」
みなの眼が注がれた場所には、声だけが残っていた。Dはすでに水辺に近づいている。
ためらいもせず、流れに踏みこんだ。貴族の血を引くものに“流れ水”は大敵だと知っているビアスの眼が光った。
かなり急な流れにもびくともせず、川の真ん中へ進んで上流の方を向いた。水は腰まである。
霧と闇の向うから、五つの人影が水上を滑ってきた。
Dの五メートルほど手前で停止する。
こちらも流れの影響は一切受けていない。それは長靴の乗った円盤の力であった。直径三〇センチほどの金色をしたそれ[#「それ」に傍点]は、装着したものに水すましのごとき表面張力を与え、しかも、いま見るごとく、いかな強力な流れの上でも自在に移動し得るのであった。
停止したのも一瞬で、五人はゆるやかに水上を流れて、Dを中心に円陣を組んだ。全員が金色の鎧《よろい》と兜《かぶと》姿であった。四人が長槍で、五人目がレーザー砲を構えている。
「久しぶりの遊び相手が来たか」
Dと向き合った鎧姿が愉しげに言った。夜風に黄金のマントがゆれる。
「ここが何処か、知らぬわけでもあるまい――よくよく運が悪いか愚か者と見える」
じろりと岸辺の人々へ眼をやって、
「あそこにも人数がおるな。まとめて“人魚狩り”に参加してもらうぞ。――こうやってな」
鎧姿は腰のパウチから、何か小さな魚みたいなものを取り出し、激しく動き廻るそれを水中に放った。
忽然とそれは二メートル近い巨魚に変わって、泳ぎ去ろうとする。
鎧姿の右手から迸る白い光が、彼と水とをつないだ。
神速のひと突きと、Dだけは認めたかどうか。
激しい水飛沫が上がる中から、長槍に貫かれた巨魚が持ち上がった。
「痛い――痛い」
人間の声だ。マリアとストウ夫人が悲鳴を上げた。だが、それだけではなかった。
低い含み笑いとともに、鎧武者がこちらへ向けた魚の顔は――断末魔の苦痛に歪む人間の少女の顔であった。
痙攣する身体を高々と掲げて、鎧武者は笑った。
「これが“人魚狩り”よ。“人虎狩り”もあるぞ。虎と魚とどちらを選ぶ?」
さらなる高笑いの何と邪悪なことか。そして、その中で新たな低い声が、なぜこれほど強く、冷やかに響いたか。
「もうひとつ知っていることがある」
哄笑は断ち切られるように熄《や》んだ。
「何?」
「これだ」
声と同時に跳躍した黒衣姿の美しさ。鎧姿はそれに見惚れたのかも知れない。
ずん、と斬り下ろされる刀身に、兜ごと肋骨すべてを斬り離されてのけぞる仲間を見て、残りが声の代わりに殺気の塊となって槍を構えた。一歩下がっていたレーザー射手が武器を肩づけする。
その喉を左から右に、真紅の矢が貫いた。
灼熱の光を空中へ送りつつ落下する仲間の方は見向きもせず、残る三人はDと対峙した。いきり立って倒せる相手ではないと見抜いたのだ。
足場を固め、腰を落として構えた長槍の見事さ、凄絶さに、第二矢を放とうとしていたビアスが硬直した。
すっとDが沈んだ。
青眼の刀身を、切尖をやや下向かせたまま、Dは肘まで流れに隠した。
三人の眼から白刃は消えた。刀法もまた。流れの中に四つの姿は人型の岩のように停止した。
ジャンが喉を鳴らし、マリアがトトを抱きしめる。“サクリ”すら凍りついていた。
霧を巻いて躍った人影は、Dの左後方の敵であった。
空中から流れる槍の速度は最初の武者に劣らない。
Dの手もとで水が裂けた。
現われた刀身が長槍を弾いて反転し、頭上に弧を描くや、三メートルも向うの水中に落下した敵の身体は、股間から右肺までざっくりと裂けて水に沈んだ――その前に、残る二人も右後方と正面から送り出した武器を苦もなく跳ね上げられて、大きくよろめくところを、疾《はし》る光は容赦なくその胸を断った。
わずかに立つ位置を変え、残心を取った若者の背後を、五本の黒い水流が走り去る。
拭いもせず振りもせず、凄絶なる刀身を鞘に収めて水からあがったDを迎えたものは、歓声の代わりに死のような沈黙であった。
人智を越えた戦いぶりに、ほとほと肝を冷やした――ような、眼つき顔つきではない。彼らはDの正体を知ったのだ。
茫然と見つめる一同へ、
「新手が来ないとは限らない。発つぞ」
ときた。
「そんな無茶な」
と抗議したのはジャンである。老夫婦の方を指さして、
「見なよ、この二人はもう一歩も歩けねえ。おれもみんなもクタクタだぜ。今の奴らの仲間にやられる前に、過労死しちまうわい」
と喚いた。
「それは確かだ」
とビアスが加勢した。
「それに、夜歩くのは昼の十倍疲れる。老人と女子供は負うていくにしても、動きは大幅に鈍るぞ」
「男は来い」
おかしな返事をして、Dは崖の方へ歩き出した。
訳もわからず後について、ジャンがあっと叫んだ。
崖の下に、数は多くはないが、二メートルほどの円筒形の植物が枝葉を広げている。
「筏《いかだ》かよ、おい?」
ジャンが眼を丸くした。
「この木は確かに水にゃあ浮くが、斧《おの》の刃も立たねえくらい硬いんだ。それによ、その斧も鋸《のこぎり》もねえんだぜ」
両手を広げて、まいったと肩をすくめるその前で白光が閃いた。
「――!?」
まさにひと太刀――枝葉を大地に叩きつけて倒れる円筒を尻目に、Dは次の材料に移っていた。
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第三章 死の砦
1
筏は二時間ほどで組み立てられた。ほとんどDのひとり舞台だったといっていい。
水に浮くはずの植物は異様に重く、ジャンとワイズマンの二人が担いでようやく運べるものを、Dは片手で軽々と移動させ、手持ちの極細のワイヤーで結んだ。ビアスが円筒と円筒の隙間に指を入れて引いてみたが、びくともせず、鏃《やじり》の先をこじ入れてようとしても、一ミリも入らない。
「なんという力だ」
歴戦の闘士は舌を巻いた。
全員で川まで運び、すぐに乗り移った。岸辺の岩にもやいだワイヤをDが切って、筏は滑り出した。
濃密な不安が一同を覆っていた。
それを意識したのかどうか、
「なあ、Dさんよ。さっきの鎧兜――ありゃ何なんだい?」
「貴族――の幻だ」
みながこちらを向いた。
「幻って――あんたにばっさりやられて血を出してたぜ」
「幻も血を流す。貴族ならば、な」
「しかしよ、この土地に奴らが残ってるなんて話、何千年も聞いてねえぜ」
「だから幻と言ったろう」
ビアスが口をはさんだ。
「おれの聞いた話じゃ、この辺一帯は、古代貴族の遊び場だった。奴らは人間を様々な形に改造して、狩りを愉しんでいたんだ。それも、“神”とやらが命じたことなのか? それとも、生贄の新型か?」
最後はDへの問いになった。返事はない。筏の中央に立ち尽くす若者は、美しい闇となって夜に同化していた。
何事もなく一時間ばかりが過ぎた。
このまま安全地帯へ着けるのではないかと、誰もが思いはじめた。トトと老夫婦は眠りに落ちている。
Dがふと左右へ眼をやった。
「どうした?」
ビアスが訊いた。この男だけは起きている。
「両側から来る。ざっと二十騎ずつ」
ビアスは耳を澄ましたが、鼓膜をゆするのは風の音ばかりだ。だが、眼の前の美しい若者が言うのなら間違いはない。
「Dの刃《やいば》といえど、ここから岸まで届くまいな」
と彼は髭だらけの顔に、自信たっぷりな笑いを刻んだ。
「まだ見えず、足音も聞こえぬ敵だが、おれにまかせてもらおう」
鉄蹄の響きが近づいてきたのは、それから五分ほど後であった。
先刻の敵とは違う、黒マント姿の男たちが黒馬を駆っている。どちらもその輪郭を青白い炎に縁取られていた。男たちの髪が燃え、馬のたてがみが燃え、健脚が燃えた。
鉄蹄の轟きを聞いたか、危険な気配を感じたか、筏の上ではみなが眼醒めて中央――Dのかたわらに身を寄せている。
すでに筏と並走中の人馬を見て取り、ジャンが興奮の面持ちで立ち上がった。
「また来やがったか、畜生――おい、何でもするぜ」
と蛮刀に手をかける。
「ひとつある」
とDが言った。
「おお、何でえ」
「しゃがんでいろ」
「え――っ!?」
その脛をDの足が蹴った。
ぎゃっと引っくり返って、打撃箇所を押さえながら、
「何しやがんでえ!?」
その叫びを風切る音が貫いた。眼をやって、ジャンは、うお!? と放った。
空中に青い炎に包まれた矢が止まっていた。握り止めているのはDの手であった。
ひょうひょうと青い矢が筏の前後左右を流れた。
「伏せていろ」
ひと言伝えて、Dは音もなく狭い床の上を歩き出した。右手が閃いた。ただひとふりの剣――それが動くたびに、飛来した矢はことごとく打ち落とされた。
「大したものだ」
ビアスが感に堪えたように呻いた。
「全くだ。みいんな打ち落としてるぜ」
「いいや、人に当たりそうなやつだけだ」
「何だ?」
「だから凄い。おまえも参考にしておけ」
「冗談じゃねえ。死んだってあんな真似ができるかい」
「なら、これはどうだ?」
飛来した矢を二本、手にした紅矢で跳ね返し、ビアスは両手を頭上で交差させるように上げた。
両眼は閉じている。
「一体、何を!?」
ジャンが喚いたとき、それが合図とでもいう風に、ビアスの両手がふられた。指の間には四本の矢がはさまれている。
真紅の矢は青い矢の間隙を縫って走った。
左右の岸辺を疾走する燃える騎士たちが、四人ずつ転げ落ちた。
「うおお、こっちも凄えや!」
ジャンが興奮の雄叫びを上げる。
敵の矢は打ち落とされ、こちらの矢はことごとく敵を貫いた。筏は鉄壁の防御と精確無比の攻撃を備えていた。
さらに八人の敵が馬から落ちたとき、Dがぽつりと、
「増えたな」
と言った。
土を蹴る響きと青白い人馬が、もう一度筏と並んだ。
青い矢が雨のごとく降りそそぐ。
「きりがないぞ」
とワイズマンが悲鳴を上げた。
その肩を黒い手が叩いて、え? と世にも美しい顔を見つめた護送官に、Dは右方の崖を指さした。
「あれを落とせ」
疾走する人馬の前方一〇〇メートルほどの崖の中腹が、瘤のように盛り上がっている。
せり出した岩塊であった。
「わかった」
言うなり、立ち上がった護送官の襟首を横に引いて飛んできた一本をやり過ごし、また引き戻して、
「まかせたぞ」
と言った。
ワイズマンの全身が痙攣した。闘志が燃えた。
「“サクリ”を見ていてくれ」
彼は愛用のモーター・ガンを肩づけした。五キロの鉄の塊が肩と腕と足を押しつぶそうとする。
照準は、単なる鉄片としか思えぬ照星と、鉄片に切れ目を入れただけの照門だ。もともと近距離に弾丸をばら撒いて敵を一掃するための武器である。遠距離用の精密照準装置は必要ない。
流れ走る筏から、雷鳴と火線が迸った。
十二ミリ炸裂弾が岩塊のつけ根を破壊していく。
殺到する人馬の一〇メートル手前――三〇メートル上空から落下した岩塊は、圧倒的な重量をもって先頭の十数頭と同じ人数の騎手たちとを押しつぶした。
凄まじい衝撃が水面をゆるがし、岩の破片が水煙を上げたとき、さすがに停止した両岸の人馬を後に、筏は風を巻いて流れを下っていった。
東の空が水のように白んできても、流れはゆるやかにはならなかった。
Dを除いてビアスまでも眠りについている筏の上で、ジャンはひとり不貞腐れていた。
「けっ、どいつもこいつも、人をないがしろにしやがってよお。おれだって、その辺の野郎以上に働けるんだ。それを、ハンターだか戦闘士だか知らねえが、いいとこみいんなさらってちまってよお。けっ、ここにも男がいるのを忘れるなってんだ」
ぶつくさ言うのはいいが、オールを巧みに操って岩や急な下りを避けていくDには聞こえないように、声は落としてある。その辺が若いやくざの限界のようだ。
その耳に、糸みたいに細いが、はっきり声と知れる音が忍び入ってきたのは、そのときだ。
――よくわかる
と、それ[#「それ」に傍点]は言った。
なにィ? と叫んで身を起こしたつもりが、現実は、喉の奥で、ん? と洩らし、身じろぎひとつしただけである。それで抑えなくてはならないような気が、なぜかした。
耳のせいかとも思ったが――
――わかるよ、あんたの不満は。あいつら、あんたをないがしろにするにも程がある。僕が相談に乗ろうじゃないか
「誰だ、おめえ!?」
――しっ
声と同時に、ジャンは眼を醒ました。
反射的にDを見た。
眼が合った。あわてて戻した。
「夢かよ」
とつぶやいた。そっと見廻しても、起きている気配はひとつもない。
「おかしな夢だったな」
もう一度、眠ろうと眼を閉じた。怪しい声はもうしなかったが、それを聞きたがっているのを知って、ジャンは少し驚いた。同時に激しい憎しみがごそりと頭をもたげた。相手はわかっていた。
Dとビアスの野郎――それから、あの護送官だ。餓鬼のくせに、ええカッコしやがって。
何とか眠ろうとした。成果はあった。叫び出したくなるような憎悪を和ませたものは、さっきの細い――親愛の情に満ちた声であった。
――わかるよ。僕が力になろう
「何か気になるのお」
低い嗄れ声がこうごち[#「ごち」に傍点]た。これくらいなら、川の音で他には聞こえない。
「何がだ?」
近づいてきた岩へ素早くオールを当てて、Dは筏を押しやった。
「わしの見たところ、ふたありおかしな奴がおる。あの子供と“サクリ”じゃ。どっちも普通ではないぞ」
「どう違う?」
「子供の方はよくわからんが、ひどく重いものを抱えこんでおるようじゃ。それを消し去らない限り、あの子の憂鬱は続くわい」
「もうひとりは?」
「あれは――危険じゃ」
嗄れ声は、はっきりと口にした。
「これまでは、ただの“サクリ”で通したのじゃろう。護送官も死んだ治安官も平気だったのが、その証拠じゃ。だが、あ奴、その辺の“サクリ”にはない危険な相を留めておる。何よりも雰囲気が剣呑じゃ。おまえも気がついているように、な。これから昼にかけて、おまえの力が最も弱るときじゃ。くれぐれも油断するな」
確かに、Dの美貌にも、その時間《とき》だけの独特のやつれが仄見える。
「おや」
と嗄れ声が驚いたように言った。
「流れが弱まってきたぞ。いよいよ、かの。この速さなら、あと一時間」
「うまくいけば、な」
Dはそう言って後ろを向き、頭上をふり仰いだ。
晴れ渡ってはいるが、まだ弱々しい蒼穹《そうきゅう》の彼方に、無数の黒点が浮かんでいるのを、彼の眼だけは認めていた。
2
それが四枚ずつの翼を持った怪鳥の姿を取って、筏に襲いかかってきたときには、乗客はすべて眼を醒まし、迎撃態勢を整えていた。
翼長の差し渡しが一〇メートルを越す鳥は、鶴嘴《つるはし》のような嘴と、四本の足に四本ずつ――都合十六本の爪を備え、その翼の起こす風だけで、水面には無数の波が立った。
急降下してくるところを、まず、ワイズマンのモーター・ガンが迎え討った。
凄まじい炸裂弾の弾幕に触れた巨鳥の身体は、途方もない大きさの穴を空け、或いはちぎれて川へと落下した。水は紅く染まった。
弾幕を越えて襲いかかれば、Dの剣とビアスの投げ矢が迎え討つ。
刃は一撃で巨鳥の首をとばし、矢は鉄のような嘴さえ紙のごとく貫いた。
二十羽以上を失った鳥たちが飛び去るまで、十数分の死闘であった。
「怪我をした者はいるか?」
ワイズマンの声に、みな首をふった。彼のモーター・ガンとDの剣とビアスの矢は、敵に一矢も報いさせなかったのである。
心なしか、若い護送官からは自信みたいなものが滲んでいる。
「何とか逃げ切れたな」
と汗を拭くのへ、ビアスが、
「まだ安心はできん。昼だというのに人間狩りをやらかす以上、休みなく来るぞ。――貴族が操っているのか?」
最後はDへの問いである。
「人狩りのプログラムが脳にインプットされているのだろう。頭に手術痕があった」
「そこまで見ていたのか」
ビアスばかりか、聞いていた全員が眼を丸くした。
「ちょっと」
とマリアが上空を指さした。
「また来たわよ。何か掴んでる。爆撃するつもりよ!」
その声が終わらないうちに、ひょうと風が鳴って、筏の右側――一メートルばかりのところに大きな水煙が上がった。
波が押し寄せて筏が激しく傾いた。
敵の侵入を許さずスピードを出せるよう、筏のサイズは九人でぎりぎりに落としてある。小さくはないが、大波が来ると弱い。
たちまち四方に黒い岩塊が落下し、水柱の砕けた飛沫が一同を襲った。
「当たらねえぞ、下手糞め!」
と、水びたしのジャンが上空へ毒づいた。
幸い、ワイズマンのモーター・ガンを怖れてか、敵の爆撃は高空から行われるため、命中率ははなはだしく低い。
Dの巧みな操船は、岩の塊をことごとくかわし、わずかに一発が筏の後部を削り取っただけである。
だが、敵は四本の足と嘴にひとつずつ――五個の岩塊を携え下るだけに、攻撃は終わりそうもない。
筏ははげしく揺れ、頭から水をかぶったトトと老夫婦は嘔吐しはじめた。船酔いである。
「こん畜生、近寄ってきて勝負しやがれ」
拳を突き上げて喚くジャンの横に、また水柱が上がって筏がゆらいだ。
同時に恐るべき事態が生じた。Dとビアスがよろめくや、みなが血も凍る恐怖の眼で見守るなかを、激流へ吸いこまれてしまったのだ。
「やっべえ!」
ジャンとマリアがそれぞれの落下地点へ這い寄ったが、流れ去る筏の引く航跡のどこにも二人は浮き上がってこなかった。
恐怖の風に吹かれて、ジャンはワイズマンの方を向いた。頼みの綱は、この若者のモーター・ガンだけになってしまったのだ。
上を見た。
遥か高みを飛翔するだけだった影たちが、妖々と近づいてくる。
「来るぞ、射てえ!」
ワイズマンは引きつった顔でガンを持ち上げ引金を引いた。
出ない。
「どうしたの!?」
マリアが悲鳴を上げた。
「故障だ! 弾丸が出ない!」
「莫迦野郎、貸せ!」
駆け寄ろうとするジャンの前に猛烈な風が叩きつけ、魔物がマントを広げたような巨影が舞い降りた。腐った肉の匂いが鼻を衝く。
「こ、この野郎!」
無造作にふり下ろされた嘴を間一髪でかわすや、交差する形でジャンは蛮刀を叩きつけた。
左の翼の根元から半ばまでばっさり裂けた。そいつは鶴嘴そっくりの嘴をのけぞらせて悲鳴を上げた。耳を押さえてジャンはうずくまった。
老夫人とマリアの悲鳴が上がった。新たな巨鳥が三羽、筏の上に舞い降りたのである。残りの十数羽は、五、六メートル上空を旋回しながら追ってくる。
筏の横から二つの影が跳び上がったのは、その刹那であった。
うちひとつは、信じ難い速度で鳥たちの間を巡った。すれ違うたびに白光が走り、鳥たちの首がとんだ。ジャンのときと違って、それらは声ひとつ立てずに倒れ伏した。
危険を察して飛び上がった鳥の首すじを、鋼の矢が貫く。
上空の鳥たちも身を翻した。羽搏きひとつで急上昇に移る。
轟きと火線が翼を射ち抜き、胴を頭部を粉砕した。
「あんたら――一体……」
最後の一羽が右岸へ叩きつけられるのを確かめ、刀身を収めるDとビアスへ、マリアが茫然と呻いた。
「この野郎、騙しやがったな」
とジャンが硝煙ただようモーター・ガンを下ろしたワイズマンに毒づいたのは、一分近く経ってからである。
「悪く思うな。――そっちの二人とも相談の上でしたことだ。こうでもしないと、奴ら、近くまで下りてこなかっただろう」
ワイズマンは得意げであった。
実のところ、彼に近づき、自分たちが飛びこんだら、銃が故障したふりをして、鳥たちが襲ってくるのを待て、と耳打ちしたのはDである。
「糞ったれ」
ジャンはもう一度、毒づいた。
「ねえ、いい手だったけど、もう勘弁してよ。お婆ちゃん、死にそうだわ」
語気荒く告げるマリアの足下で、ストウ夫人は紫色の唇を震わせていた。
「いかんな――ひどい熱だ」
とビアスが額に手を当てて眉をひそめた。
「もう年だ。悪くすると、夫婦そろって肺炎を引き起こすぞ。温めなくちゃならん。筏を岸へ着けろ」
Dは返事をしなかった。無言で前方を見つめている。
「おい」
とジャンが危険な声をかけた。Dが前方へ顎をしゃくった。
白いものがこちらへ向かってくる。
たちこめる霧だ。空は晴れ渡っている。
「じきに着く。あの“霧”の向うが“砦”だ」
Dの口調はいつもと同じなのに、全員の背すじを冷水が流れた。
劇的なこともなく、筏は濃霧の中へ突入した。
昨夜とは比べものにならない濃密さであった。マリアは思わずハンカチで口と鼻を押さえた。毒霧のただ中に突っこんだような気がしたのである。
視界は白く覆われ、岸も崖も消失した。音は――水音ばかりだ。
全員の眼がDに――といっても、淡い影としか見えない――に集中した。今度は依頼心の他に、怒りも含まれていた。
Dの出した条件――先の仕事を片づける――を呑んでも、いざ、五里夢中ともいえる霧に視界を奪われ、何処へ連れていかれるかもわからないとなれば、こんな境遇へ自分たちを追いこんで、と流れるのが人間の心理だ。平静なのはDと――ビアスのみだった。
一〇分――二〇分――
「おい、本当に手当てしねえと、婆さん危ねえぞ」
堪りかねて叫んだジャンごと、言葉は不意に現われた黒い穴に呑みこまれた。
「ここは、何処です?」
ストウ氏が弱々しい声で訊いた。
「砦の水路に入った。じきに上陸する」
とDが応じた。
ジャンとマリアが歓声を上げた。
「さ、上陸よ、坊や」
マリアはトトを抱きしめた。こちらの身体も驚くほど熱い。
無理もない、と思った。子供の身で、たったひとり飛行車に乗せられ、それが不時着しただけでも大ショックだろうに、次は筏でずぶ濡れときた。加えて、化物どもの襲撃だ。心身ともに異常を来さない方がおかしい。それなのに、この少年は苦鳴ひとつ、愚痴ひとつ洩らさない。
根っから暗いのではないだろうと、マリアは思った。それは女の勘であった。
Dにみなを救けてくれと言ってのけた子だ。俯いてばかりいるその身体のどこかに、勇気という大きな熱いものが潜んでいる。男はいざというとき、それが表へ出せれば、暗かろうが犯罪者であろうが構わない、とマリアは考えていた。
どうやら隧道《トンネル》状の水路を辿っているらしく、天井からひっきりなしに水滴が落ちてくる。左右も天井も、かなり広いと見える。
「ん?」
少し離れたところでビアスの声が聞こえ、マリアは反射的に前方へ眼を凝らした。夢中で焦点《フォーカス》を白い霧の奥へと合わせる。
光っている。何か光るものが前方に浮いている。二つだ。あれは――何だろう。
――と、それは、ゆっくりと持ち上がった。
水のしたたる音。かなり遠くだ。それであの大きさ。なら、実際は?
どうしてそんなに高く上がるの? じっとあたしたちを見つめているの?
近づいていく。ぐんぐん、そいつ[#「そいつ」に傍点]に。
ふらり、と立ち上がった。
光はもう頭上――ほとんど真上にある。
ほうら、下りてきた。生暖かい風が当たる。
その刹那、電撃に打たれたようにマリアは覚醒した。
背後から、凄まじい鬼気が頭上へと注がれている。何か、口にできない恐怖に駆られて、マリアはその場にへたりこんだ。猛烈な震えが襲ってくる。
同時に、頭上のものが急速に遠ざかっていく。
少し間を置いて、水音が筏の横で聞こえた。巨大なものが吸いこまれていくような。
よくわからないが、救われた、という気がした。あちこちで安堵のどよめきが上がった。何だ、いまのは、とジャンが訊き、わかるものかと護送官が答えている。
震えが治まってから、マリアは救い主の方を見た。得体の知れぬ人外のものを、殺気のみで退散させたハンターの姿は、やはり乳白の壁の向うに滲む黒影としか見えなかった。
さらに一時間ほど、今度は何事もなく進んだ頃、忽然と霧が晴れた。
巨大な――石づくりの船着き場へと、筏は針路を右に取ったところだった。
桟橋らしい何本かの石の突出部のひとつに筏を寄せて止め、
「陸だ」
とDはこの若者らしく、短く冷やかに宣言した。
3
周囲には荒涼よりも死の気配が濃厚であった。
Dを除く全員がどこか落ち着かない風情なのは、淀み切った空気に、あちこちに落ちる石の影に、それを感じ取ったからである。
廃滅は気力を奪うが、死は恐怖させる。
どこからどこまで閉ざされた石の城なのに、仄白い光が満ちているのも一同を脅かした。
「どういうこった?」
岩壁に上がって何度か踏んづけ、足場を確かめてから、ジャンがDに訊いた。
「おれたちが来たので、砦の機能が回復した。神祖の軍隊が叩きつぶしたんじゃねえのかよ?」
「エネルギーの素が違うのだ」
「あン?」
Dは岩壁の奥に開いた五メートルもある出入口へ一同を導いた。そこにそびえる巨大な鉄の門が一同の眼を見張らせた。
錆を吹いた表面には、子供の頭ほどもある鉄の鋲《びょう》が打ちこまれている。高さは一〇メートルを越す。
「まるで、巨人用の戸口だな」
と護送官が呻いた。
Dが門の前に立つと、それは音もなく左右に開いていった。
ちょっとした城の大広間くらいもありそうな内部に、一同は進んだ。
「何だこりゃ、窓も戸口もねえぞ。それに、だ。やな匂いがするな」
とジャンが鼻をひくつかせる。マリアも、
「そうよね、ここがつぶされてから、何か入りこんだのかしら」
「五千年間、誰も入っとらん」
ぎょっと、マリアはDを見た。声の方角からして、確かに彼だ。だが、なぜ、そんな嗄れ声を。
疑惑を声の内容が掻き消した。
「五千年? この匂いは、その間、消せなかったの?」
Dが右手を上げた。返事ではなかった。
入って来た鉄の門扉がゆっくりと閉じはじめた。ビアスもワイズマンも不安げな眼をDに注いだが、人外の美貌は眉ひとすじ動かさなかった。
閉じてから五秒ほど、誰も口を開かなかった。Dの反応を待ったのである。
だが、彼は身じろぎもせず、代わりに門扉がまた開いた。
外の光景を見て、一同は声を上げた。
それは船着き場ではなく、どこまでもつづく廊下の端にあるホールだった。
彼らが入った広間は、エレベーターの函《はこ》だったのだ。
驚く暇もなく、Dは先に立って廊下へ出た。
石壁に嵌めこまれた鉄扉のひとつに近づくと、それは自然に開いた。
Dの自然な歩みに誘われるように、一同は内部《なか》へ入った。
マリアが歓びの声を上げた。
外の十倍も明るい光に満ちた石の部屋には、ひとめでそれと知れる医療装置が並んでいたのである。
「ここは人間の下僕用の医療室だ。残念ながらメカはすべて破壊されているが、薬は残っているかも知れない。ベッドは隣だ。みな、ここで待て」
「待てって、何をだい?」
ジャンが訊いた。
「あんたの仕事が終わるのをか? それとも、追っかけてきた化物どもがやって来るのをかよ? おい、ここは安全なんだろうな?」
Dは左手の白いデスクに近づき、その上に置かれた黒い球に左手をかざした。
壁にある図形が浮かび上がった。
「砦の地図だ。食糧を取りにいくくらいは安心だろう。だが、日が暮れたら、ここを一歩も離れてはならん」
「おいおい」
「ここで治療を受ける人間を守るための処置は施されている。安心しろ」
「守るって、何からだ?」
これはワイズマンである。
「神からだ」
答えて、Dはドアの方へ歩き出した。
背後にたむろする人々は、もはや無縁の衆生《しゅじょう》だった。これからは、吸血鬼ハンターの時間なのだ。
隣室のベッドに三人を寝かせてから、マリアは医療室へ戻った。
「どうだい?」
とジャンが訊いた。
「三人とも肺炎の初期症状を示してるわ。温かくして栄養を摂らせ、後は、病院へ入れるしかないわ」
「食糧はいま、ゴソー官とビアスが探しにいってる。しかし、とんでもねえことになったもんだぜ。今頃はもう、『都』のホテルで高鼾のはずだったのによお。こんな得体の知れねえところで、“サクリ”の番だなんて、この世に神さまはいねえのか」
――いるとも
「え?」
とマリアを見たが、向うも何さという眼つきである。
はて、と思ったとき、
――神はおまえのそばにいる
あれ[#「あれ」に傍点]だ、とわかった。筏の上で話しかけてきた声だ。つづけて、
――こんな境遇がおまえの望みか? 違うはずだ。なぜ、こんな目に遇うのかわかるか? おまえが力しか取り柄のない、ただのやくざだからだ。他の連中は――その女も、あの老人たちも、子供でさえ、おまえを見下している
誰だ、とは口にできなかった。ジャンは茫然と、しかし、マリアに気づかれてはならないと意識しつつ、その声を聞いていた。そして、次の言葉を、衝撃とともに胸に灼きつけた。
――神は人間を変えて下さる。おまえをより強く、より怖れられる大きな存在にな
莫迦なことを、と罵《ののし》ったつもりが、声にはならなかった。それはひどく魅力的な言葉だったのである。
――そうなりたいのなら、今夜、この部屋を脱け出して、ある場所へ来い。何処にあるかは、その時が来たら教えてやる
「あなた……聞こえますか?」
隣のベッドから妻の声がしたが、ストウ老人は無視した。骨まで冷たく凍え、疲れ果てている。この上、老妻の哀しげな声の相手をするなど真っ平ご免だった。
彼はひたすら平静な呼吸を心掛けた。
「眠ってらっしゃるのね、ならいいですわ」
あきらめたような口調に胸を撫で下ろしたとき、
「もうおわかりでしょうけど、パレのところへ行っても、歓迎なんかしてもらえませんよ。ええ、あなたの仰っしゃるとおりです。私もあなたも、子供たちにとっちゃ、ただ育ててくれただけの、しなびた老人二人。特別の気持ちなんか、これっぽっちもありゃしません。私は昔、パレに言われました。あの子が家を出て行くときにね。親が子を育てるのは当り前だって。そして、子供が親を見るのは当り前じゃないけれど、親は子供の面倒にならないように、ひとりで死んでいくのが当り前ですって」
毛布の下で、正しく血も凍るストウ氏の耳に、老妻の声は哀しく、やさしく鳴り響いた。
「そのとき、私はあきらめましたよ。子供たちがこの家を出てく、それで私の役目も終わったって。でも、あなたにはわかりませんでしょうね。自分がこれだけのことをしてやったんだから、子供たちも黙っていても同じだけのことをしてくれるって、いつも言ってましたよね。あの子たちは、みいんな知ってましたよ。そして、パレが言いました。やっぱり、出てくとき、父さんは卑しいって。おれたちは誰も父さんの人生を分けてくれと頼んだりはしていない。だから、父さんも母さんも、おれたちの人生の邪魔をしないで欲しいってね」
老人の身体は震え出した。なんという息子どもだ。そして、なんという女房だ。子供たちに歓迎されないのは身に沁みてわかった。昔からうまくやれないのも承知してる。それをわざわざこんなところで、いくら眠ってると勘違いしてるといったって――
――そのとおりだよ
それは老妻の声ではなかった。きっかり五〇年、苦楽を共にしてきたはずの妻の声より、いまはずっと深く、ずっと強く彼の胸に食い入ってきた。老人は、誰だと訊くこともできなかった。声の主は、わかってくれているのだ[#「わかってくれているのだ」に傍点]。
――あなたの不満は当然だ。なんという息子たちだろうね。あいつらは、あんたが好きで彼らを殴ったり怒鳴りつけたりしてたと思ってるんだ。農夫は辛い仕事だ。機嫌が悪いときもある。酒に逃げたいときもある。酔って子供や奥さんに手を上げるなんて、誰でもやっていることさ。言うことを聞かない子供に焼き鏝《ごて》を押しつけたり、食事を与えずに冬の戸外に追い出したりするのも、躾の一環なんだ。あなたのやって来たことは正当だよ。それを理解できない奴らが悪い。ねえ、恩知らずにはお仕置きが必要だよ。ずっと厳しいお仕置きが。それには、まず、あなたが強くならなくちゃあ
老人は、もう誰だと訊かなかった。彼はそうだ[#「そうだ」に傍点]と言った。勿論、老妻にも聞こえないようにだ。
「どうすれば、強くなれる? どうすれば、あの恩知らずどもに復讐――いや、お仕置きをしてやれる?」
――今夜、みんなが寝静まるのを待って外へ出ろ。後はまかせておけ
少年にとって、高熱はむしろ快かった。寝ていられる。こんなにゆっくり横になっていられるのは、何年ぶりだろう。修道院では、いくら熱があっても、作業をさぼるのは許されなかった。ユリナが血を吐いて死んだのはそのせいだったし、ポルは二度と起き上がれず、いつの間にかいなくなってしまった。朝から冷えきったスープとパンふた切れの食事が二回だけで、十二時間も畑仕事を強制されれば、子供は保ちっこない。風邪をひいただけで、ばたばたと虫が落ちるみたいに倒れる。何年か前の冬は、いっぺんに十人も倒れて、庭は静かな戦場みたいだった。
それでも、他の子はまだましだった。仲間がいた。少年にも最初はいたのだが、彼の癖に気がついてからは近寄らなくなった。あれは、離れていれば防げたのだ。仲間たちの無言の拒否は、少年をほとんど絶望的にさせた。両親も妹も弟も、同じ理由で少年を捨てたのだから。ある朝、眼を醒ましたときの、誰もいない家の中の異様な広さを、少年は鮮明に記憶していた。
悲しかった。悲しくないわけがない。家族も、修道院の子供たちも、最初はみんな少年を好いてくれた。それが突然変わってしまう。怒りなど最初から感じなかった。いつの頃からか、少年は俯いて生きていくのが癖になった。みなが背を向ける理由はわかる。それだけに傷は深かった。
いま、少しだけ心が和んでいるのは、隣のベッドの老夫人と、雑駁《ざっぱく》だが気持ちのあたたかそうな女の人に優しくしてもらったからだ。だが、彼らだって――
――そうとも。君のことをよく知ったら、みいんなそっぽを向いてしまう。束の間の親切なんか意味もない。君は少し変わっているだけだ。現に、離れていればどうってことないし、毎日起こるわけじゃないんだろ。それなのに、彼らは君を疎外した。遠ざけた。独りぽっちで放っておいた。君の悲しみを理解しようともしなかった。君なんかどうなろうと知ったこっちゃなかったんだ。もう悲しむのはよせ。必要なのは怒りだ。奴らを叩きのめす、抹殺する、そのための怒りだ
「無理だよ」
少年は身体を丸めて言った。
「僕にはそんなことできない。できるんなら、とっくに怒ってる」
――僕ができるようにしてあげる
声はやさしく言った。昔、どこかで一緒に遊んだ誰かの声に似ているような気がした。
「本当に?」
と少年は心の底から訊いた。
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第四章 囁(ささや)く翳(かげ)
1
ある巨大な門をくぐり抜けた瞬間から、世界は変貌しはじめた。
それまで絶対的な「角度」を保っていた廊下や天井や石柱が陽炎のようにゆらめき、ねじれ、幾何学的均衡を失っていく。
光さえあり得ぬ方向を照らし出し、あらぬ場所に影をつくった。
「重力場に歪みが生じておるな」
と左手が、気色悪そうに言った。
「しかし、古代の貴族とやらめ、おかしな神を信仰したものよ。神祖ひとりを信じておればよかったものを。――おや?」
波打つようにねじれた床の前方――天井と交わる[#「天井と交わる」に傍点]一角に、黒衣の後ろ姿が見えた。
「おまえじゃな、Dよ。面白い、空間も曲がっておるか。いま、ここから向うのおまえに杭を投げつければ、杭はおまえの背中を貫くだろうて」
Dは無言で周囲に残る戦いの爪痕を見つめているようだった。
石柱は砕け、床には大穴が穿たれて、天井の一部は溶けている。神祖の軍は、ここまで攻めこんだのだ。
やがて、前方に崩壊寸前の平行四辺形としか言いようのない、巨大な扉が見えてきた。
その一〇メートルほど手前で、Dは足を止めた。
扉は黒光りする二枚の金属からできていた。観音開きのその下には、奇怪な彫刻の破片が転がり、もとは扉を飾っていた品らしかった。
他に傷ひとつない扉の素っ気なさも、高さ二〇メートル、幅一〇メートルともなれば、圧倒に変わる。
神祖軍のいかなる武器も、この先にだけは無益だった。次元渦動砲ですら、扉そのものを消失させることはできなかったのである。
「ただひとり、神祖だけが門を開けて内部《なか》へ入れた。そして、一年後[#「一年後」に傍点]に戻ったのだ。その間、何をしていたかは、ついに語られず終いだったという」
左手の表面が波立つと、ゆれる筋肉は身悶え震え、小さな人の顔を盛り上げた。
「貴族は神々を呼び出すのに成功していた。これは間違いない。最初、ここを攻めた神祖の軍は、三万――それが一日で消滅した。神の力以外の何ものでもあるまい。逃亡できたものは、“絶対貴族”――ヴァルキュア公ただひとりであったという。放っておけば、間違いなく世界を我が手に収めたであろう。だが、神は完璧ではなかった。神祖自らが出馬したその日に、ここまで侵入を許し、ついに神祖との対決を迎えた。この扉の向うでどのような戦いが行われたのか、考えただけでも身の毛がよだつわい。この戦いの後、神祖は百年の眠りについたという。よほど応えたらしいの」
「奴[#「奴」に傍点]はしくじった」
とDは言った。
「そのとおりだ」
と左手が認めた。
「だからこそ、おまえが来たのだ。しかし、どう考えても、これは受けるべきではなかったぞ。見よ、鳥肌が立っておる。神祖もこうであったろう。そもそも、この扉を開けられるか?」
百人が百人、否と答えるに違いない。扉は一瞬の停滞もなく、震え、歪み、前に出たDが左手をあてがっても、正しい形を取らなかった。
軽く力を加え、Dはすぐに手を戻した。
「ふへえ」
と顔が呻いた。
「なんちゅうこっちゃ、かけた力が別の方向に向く――どころか渦を巻きよって。これでは、紙でできた戸でも動かせんぞ」
その声が流れた。
コートのポケットへ左手が入ると、何かを咀嚼するような音が聞こえてきた。
抜き出した手のひらには小さな口がついていた。もごもごと蠢く唇の間から黒土がこぼれた。
「久しぶりだの」
と嗄れ声が愉しげに言った。
Dは右の手首に左の人さし指を当てて軽く引いた。
細い朱の線がみるみるふくらみ、どっと溢れた血の下に、Dは左手のひらを当てた。
小さな口へ鮮血が流れこんでいく。
口が咳きこむとDは左手を離し、傷口を撫でた。流血は熄《や》んだ。傷口も消えていく。
高く掲げたとき、口がげっぷを洩らした。
ごお、と風が渦巻いた。凄まじい勢いで口に吸いこまれていく。口腔《こうこう》の奥で青白い炎が燃え上がった。
地水火風すべて揃った。
ふたたび、黒い手が鉄扉の表面に触れた。
力を入れた風はない。そのまま――五秒――十秒。
見よ、左右の扉がわずかに内側へ滑ったではないか。ぎ、と鳴った。鉄扉の合わせ目が明瞭な細線となり、太さを増して、その向うから妖々と黒い風が吹きつけてきた。
貴族に関係した事物で、この若者に不可能はないのか。加えられるすべての力を四散させる鉄の扉は、いま、その不動を破られようとしていた。
異変が生じたのは、そのときだ。
鉄扉の左右の石壁には、縦二メートル、深さ一メートルほどの溝が五メートルに渡って彫り抜かれ、三体ずつ――フード付きの長衣をまとった僧侶のような人像が象眼されていたのだが、右側の像はすべてその足下に首が落ち、左の三体のみが無事であった。
その三体が動きはじめたのだ。
人間の喉が放つとは到底思えないグロテスクな悲鳴を上げつつ、床の上をのたうち廻る。石の動きに違いない。だが、そこに徐々に徐々に、人間らしさが加わってきたではないか。長衣の色もはっきりと分かれてきた。紺に、黄に、灰色に。
「“六人の守護騎士”だの」
と嗄れ声が言った。
「三人は神祖が首を落とした。だが、三人は途中で石と化したという。そして、神祖に手傷を負わせた唯一の存在が、その三人じゃった。そうか、伝説は真実であったか。人は石に化け、石は人間に変わる。Dよ、先にこいつらを始末せい」
Dが向き直った。左手の言葉が正しいと認めたのだ。
風のように長衣の影たちへ疾走する。右手が柄にかかった。
手前のひとりの首へ銀光が走った。それは岩すら割る。
「おお!?」
驚愕の叫びに金属音が重なった。先に人間に変身し終えた隣のひとり――黄色の長衣が受けたのだ。Dの一刀を!
次の瞬間、刃は風を巻いてDを襲う。受けは攻撃に転じた。
二度火花が上がり――二人は交差した。
長衣はよろめき、身をひねりながら、脇腹を押さえた。
新たな一刀を送らず、Dは宙へ舞った。
もとの位置を薙いだ新たな一刀が、その着地点に迸る。一番奥の――紺色の敵であった。
そのとき、天地がゆれた。
Dは着地を決めたが、敵はよろめいた。
顔も合わせず、Dがやって来た廊下へと疾走し、瞬く間に消えた。
「やられたか」
嗄れ声が絞り出すような口調で呻いた。Dの左肩が裂けている。鮮血が床に落ちた。黄色の長衣も一矢を報いたのだ。
「あの三人――いかにおまえでも荷が重い。一対一以上では、決して相手にするな」
答えず、Dは門扉を見た。扉は固く閉ざされていた。
ふたたび天地が震えた。
「これは――何事だ?」
今度は返事があった。
「外からの攻撃だ。ここは砦だったな」
そして、死力を尽くした大扉には未練の気配も見せず、美しい黒影は、もと来た道を足早に辿りはじめた。後には首のない石像の数が、ひとつ増えているきりだった。
到着したDを、ジャンとワイズマンが迎えた。
ビアスは外の様子を覗きに司令室へ行ったという。
「おれも行く。ここから出るな」
すぐに身を翻すDへ、ジャンが追いすがった。
「おれも連れてってくれよ。女と餓鬼のお守り役なんざ、もう真っ平だ」
「それも仕事だ」
「おれは勝手にやるぜ」
叫んだやくざの眼とDの眼が合った。やくざは動かなくなった。
「出るなと言ったぞ」
返事も待たず、Dはドアを抜けた。
ジャンの代謝機能が正常に戻ったのは、きっかり三〇秒後であった。
司令室は、砦の七層にあった。砦は十層から成る。
広い空間に並ぶ電子機器はすべて破壊されていた。手の打ちようがないのは一目瞭然だった。
窓から外が一望――それだけが、せめてもだ。
医療室の立体地図で砦の構造はわかっていた。
岩山を丸ごとくり抜いた主要部を守るのは、その前方一〇〇メートルにそびえる岩の壁である。
高さは左右の壁と同じく二〇〇メートルを越す自然の要害は、その底に人間ひとりがやっと通れるくらいの狭隘な通路があるだけで、敵の侵入を容易に許さない。
岩盤の前方には、かつて三重の防御陣地が設けられていたのだが、すべて神祖軍に破壊され、凹凸がうねる大地が蜿蜒《えんえん》と続くばかりだ。
その彼方――二キロばかりの地点を、おびただしい数の「兵」と「兵器」が埋めていた。
甲冑を身につけた兵たちも、歩兵の黄土色、サイボーグ馬にまたがった騎兵の緑に分けられ、後方の戦車の上にうろつく緑や青は上級将校か司令官らしい。鮮やかな色彩は、昼近い陽光を浴びて燦然《さんぜん》とかがやいた。
「貴族ではないな――ならば、何者だ?」
ガラスも砕け落ちた窓辺で眼下を睥睨《へいげい》しながら疑問を口に乗せたとき、背後でドアが開いた。
「――Dか?」
ふり向いた眼に、黄色の長衣をまとった男が近づいてくるのが見えた。
殺気はなかった。それなのに、身体が芯から急速に冷えていく。
フードの中の端正とさえいえる顔は、薄笑いを浮かべていた。
窓に沿って右へ跳びつつ、ビアスは右手をふった。
狙って仕損じなし。どのような標的も斃してきた投げ矢であった。
疾走しつつ、長衣の男の右手が閃いた。
二本の矢を易々と打ち落とした身体は、信じ難い速さで、立ちすくむビアスに迫った。
幅広の刀身が落ちてきた。真っ向幹竹割《からたけわ》り。ビアスは左手の矢で受けた。
まとめて握った四本のうち二本を両断した刃は、三本目の半ばまで食いこんで止まった。
進退窮まったことを、ビアスは知った。
十分に腰をためて受けたつもりが、敵の力は予想を越えていた。足が床に吸いついたように重い。逃げも攻撃もできなかった。
無表情なまま、男は力をこめてきた。ぶつん、と三本目の矢が切れた。刃は最後の一本に食いこんでいる。
――死ぬか
と思ったとき、新たな力が加わり、ビアスは片膝をついた。
2
敵の力はビアスの死を目指して一点の妥協もなかった。押し切られれば、それで最後だった。
不意に圧搾が遠ざかった。
ビアスが跳ね上げるより早く、男は右方へ跳び、焼け焦げた移動テーブルを背に立った。 刀身はビアスに向け、顔は戸口へ――そこに立つDを凝視していた。
無表情な顔に、焦りの色が湧いた。
「手を出すな」
とビアスは声をかけ、新たな矢をはさんだ。
敵はビアスを向いた。刀身を右肩に担ぐようにして突進してきた。
自ら後方へ跳びつつ、ビアスは両手をふった。
敵の刀身が閃いて最初の四本をことごとく打ち落とした。残る四本も同じ運命を辿らせるだけの速度と余裕もあった。
だが、それらは刀身のひと薙ぎを避けて、床に吸いこまれ、三撃目のタイミングもずらして、鳳仙花《ほうせんか》のように散った。
苦鳴が上がった。
二本の矢は打ち落としたものの、残る一本は右の肩から肺を、もう一本は左の首すじを水平に貫通してのけたのである。
同時に四本が来ても、またずらして放たれても、敵の剣技なら容易に打ち落とせたであろうが、同時に別方向から来られては、為す術がなかった。
二本の矢を突き立てたまま、黄色の敵はしばらくの間直立していたが、じき仰向けに倒れた。
それを確かめてから、ビアスはようやく息を吐いた。心臓が高笑いをしている。
思いきり息を吸い、全身に行き渡らせてから一気に吐いた。もう一度繰り返すと、呼吸は正常に戻った。
「見事だ」
顔を上げると、Dがそばにいた。彼だけは、ビアスが斃した敵の実力を知っている。それだけに、重みのある賞賛であった。
「――悪いが礼は言えん」
とビアスは応じた。
「腕が錆びついているのは知ってたが、これほどとは、な。具体的に思い知るのが怖くて修練もさぼっていた。そのツケが廻ってきたわけだ」
拍子抜けするほどの呆気なさで、Dは窓辺に近づいて覗きこんだ。弱音の述懐など、この若者は興味がない。
その冷然たる横顔の、血も凍りそうな美しさにビアスは魅かれたのかも知れない。Dの隣から窓の外を見下ろし、
「貴族ではないな」
と言った。
おびただしい色彩が谷間を埋めている。狭い箱の中に押しこめられた虫たちを思わせた。
人型の兵士らしい影はもちろん、崖に貼りついた蜘蛛のような影もある。水の中にいないのは、やはり貴族の軍ということか。
「神祖の軍だ」
「なに?」
「この砦が再稼働しはじめたときの用心に、破壊軍の一部を何処かに封じてあったのだ。恐らくは閉鎖空間だろうが、数がやや多い」
「ざっと三万――これですべてとは限らんな」
こう言ってから、Dを見て、
「砦の再稼働はなぜだ?」
と訊いた。
「おれが来たからだ」
「そうなることを知っていて、みなを連れてきたのか?」
「放っておけば、三人は死んだ。それに、ついて来たのはおまえたちだ」
「………」
「おれは、神を仕留めにきた。だが、いまはそれがおまえたちを守るだろう。皮肉なものだ」
「しかし――」
ビアスが言い終えぬうちに、凄まじい衝撃が襲った。
岩山を掘削した砦がゆれる――岩山自体が震動しているのだ。
だが――
「向うは何もしていないぞ」
とビアスが壁に手を当てて身体を支えながら叫んだ。
「ミサイルも原子砲も射ってこない。それなのに――わからん」
彼は何らかの返事を期待してDを見つめたが、天与の美貌の主は何も答えず、黙然《もくねん》と地上を睥睨していた。
その顔が不意に翳った。
眉を顰《ひそ》めたビアスの身体も闇に同化した。
「何の影だ?」
ビアスの声には怯えが棲んでいた。生命《いのち》知らずの無法者でも戦闘士でも、人間である以上、恐怖する精神《こころ》は消せない。それは人間にはどうしようもない奇怪な生物かも知れないのだ。そして、いま、声に乗って姿を現わしたのだった。
巨大な影が外の世界を覆いつつあった。地上を、城壁を、陣地の跡をゆるやかに塗りつぶし、大地を埋め尽くす神祖の軍に迫っていく。
軍は後退を開始した。影の正体に気づいたのだ。後方から整然と下がっていく姿は、前を向いたまま――しかし、間に合わなかった。
影は三万人の半分を呑みこんだ。光はある。影の下の兵士たちも見える。
いきなり黒く塗りつぶされた。兵士たちを呑みこんだスペースだけが濃さを増したのである。
影は離れた。そこに兵士たちの姿はなかった。
「半分――一万五千は消えたぞ」
ビアスは額を拭った。いつの間にか汗を噴いていた。代わりに影がない。
「しかし、あの影は何だ。D――見ただろう?」
Dはうなずいた。この男、何もかも知っているのではないかとビアスは疑問を抱いた。でなければ、あれを見て、こうも平静ではいられまい。
室内にいた二人の影を塗りつぶし、一万五千人を何処へか連れ去った影には、おびただしい触手が蠢いていたのである。
「あれが――“神”か?」
「そうだ」
平然たる応答が、ビアスの身体を冷たくさせた。
このハンターは、一体、どんな神経を持っているのか。
「敵は引き揚げたが、また来る」
谷間を後退していく兵士たちの姿を見送って、Dはドアの方を向いた。
「“神”の力はいつも発揮できるとは限らん。また、発揮させてはならん。下へ行け」
「待ってくれ」
とビアスは声をかけた。
「おれは、あんたが来なければ殺《や》られていた。十年前なら互角だったが、いまは押されっ放しだ。どんな相手にも、な。下の連中は、おれを一人前の戦闘士だと思ってるが、実体はもうポンコツなんだ。何もできゃしない」
血を吐くような告白であった。
Dは足を止めなかった。ドアをくぐるとき、鋼《はがね》のような声だけがビアスに戻ってきた。
「おまえは生きている。下の連中は、おまえが頼りだ」
「おい、おれは――」
と呼びかけたとき、Dの姿はすでに戸口を曲がって消えていた。
戦闘開始は、すでに医療室の連中にもわかっていた。
戻ってきたDとビアスを囲んで、口々に説明を求めた。
Dが事情を説明すると、彼らの不安はますます濃くなった。
「このままでいたら、どうなるの? 砦が落ちたら、あたしたち皆殺し?」
「そうだ」
こういうとき、Dの冷厳な事実の指摘は無残ですらある。
「そうなることを知ってて、あたしたちを連れてきたのね。この冷血漢」
マリアの身体は怒りで震えたが、Dはビアスにしたのと同じ返事を伝えると沈黙した。
「つまり、極端な二律背反状況ってわけだ」
ワイズマンが、いまにも何か喚き出しそうな表情で総括した。この男も恐怖を抑えているのだ。
「――敵はここの復活した“神”に攻撃を仕掛けてくる。一方、“神”はそれを迎え討つ。“神”を仕留めるべきハンター殿には、目下、どちらも敵であり味方というわけだ。外の軍隊は“神”を討つ手伝いになるし、“神”は我々を殺そうとする軍隊から守ってくれる。あんた、どうするつもりだ?」
「決まってらあな。“神”をぶっ殺すのよ」
と噛みついたのはジャンであった。毒々しいくらいの敵意を剥き出しにして、
「それで、うまくいったら、おれたちなんざほったらかしにして、さっさと逃げちまう。こんな足手まといなんか連れ歩くよりは、ひとりの方が身軽だからな。おお、ゴソー官さんよ、こいつについていこう、こいつを雇おうつったのは、あんただぜ。どう償うつもりだい?」
「あのときは、あれが最善の手段だった。あのまま、谷間で野垂れ死にした方がよかったのか? この屑やくざめが。もしも、無事に『都』に着いたら、私の力を見せてくれる。貴様など到着したその日に銃殺刑だ」
「笑わせんな、へぼ役人。てめえみてえな能無しが、ここから生きて帰れるわけはねえだろ。真っ先に外の連中に蜂の巣にされるか、“神さま”に取って食われるのが関の山さ。大体、リーダー面すんのはいいが、てめえの面倒は見られるのかよ?」
「貴様」
とワイズマンの手が腰のモーター・ガンにかかる。円筒弾倉は足下に置いてあった。
「やるか、この」
とジャンも蛮刀の柄を握りしめる。
「ちょっと、およしよ、みっともない」
とマリアが割って入った。
「隣にゃ病人が三人もいるんだよ。みいんな聞いてる。男なら体裁くらい考えなよ。――で、きれいなお兄さん。あんた、最初にあたしたちを逃がす算段をするつもりはないのかい?」
「先の仕事がある」
マリアは肩をすくめた。何人もの男の決心とやらを覆した経験はあるが、今度は駄目だと一発でわかる。こうなったら、次善の策を探るのが身上だ。
「なら、あたしたちで勝手に逃げ出すって手があるけど、戦闘士のおっさん、あなたどうお思いだね?」
ビアスはうなずいた。賛同したのである。
「いちばんいいのは、闇にまぎれてボートか、背後の岩山を登るかだな」
こう言ってから、反応を窺うようにDの方を見やったが、冷たい美貌が広がっているばかりだった。Dは先の仕事を片づけたら、彼らを守ると約束した。それを破棄する以上、彼らは無に等しい存在なのだ。
ビアスは病棟のドアへ眼をやって、
「脱出するのはいいとして、彼らを連れていけるか?」
とマリアに訊いた。
女はため息をついて首を横にふった。
「それが肝心なのよね。三人とも、いま、高熱が出てうなされているの。ここ二、三日は絶対安静よ。せめて薬があれば、ああまで苦しまなくていいのに」
沈黙が落ちた。
誰もが誰かに救ってもらいたい沈黙であった。
「置いていけ」
誰の声かはわからない。何処からしたのかもわからない。全員が顔を見合わせ、それから何ともばつが悪そうな表情になった。声は確実に何かを表わしていたのだ。
「おかしなことを言うんじゃねえ」
とジャンが苦々しく周囲をにらみつけたが、声には迫力がなかった。応じる者もない。
「とにかく、脱出はみな一緒だ」
とワイズマンがようやく口にしたとき、一同は一斉にうなずいた。彼はDに向かって、
「“神”とやらを倒すのがあんたの仕事らしいが、見込みはあるのか?」
「おまえはできる仕事しか受けんのか?」
Dは冷やかに返した。
「おれが勝てるかはわからん。いつまでかかるかもわからん。だが、おまえたちの道はおまえたちが選んだ。そして、貴族に狙われている以上、おれがどうなろうと守ってみせる」
「………」
みな眼を伏せた。貴族に狙われているというのは、ワイズマンが考え出した口から出まかせだったからだ。
「だが、先の仕事が終わるまでは待て。その間に脱出しようと留まろうと自由だ。そのためのリーダーもいる」
誰もワイズマンの方を見なかった。
「おれは行く。後はまかせよう」
歩み去るDの後ろ姿へ声をかける者はいなかった。彼は正しかった。
自分の生命は自分で守らなくてはならない。ここは辺境なのだ。
3
四つ目の角を曲がったとき、Dはふと足を止めた。
「どうした?」
と左手のあたりから嗄れ声がした。
「道が変わっている」
「――わしには何も感じられんぞ」
「信者たちは、そうやって生贄の間へ連れていかれた」
「ふむ、余計なことを知っておる男だな。しかし、どうあっても、おまえを“神”の間へ導きたくはないらしい。“神祖”のときにほとほと参ったとみえるな」
「通路をつくるぞ」
「またかい」
左手のひらで小さくげっぷの音が洩れた。
そのとき、うす闇に閉ざされた廊下の奥に、ふわ、と人影が湧いた。
「来たぞ」
嗄れ声は愉しそうであった。
フード付きのマントは灰色をしている。右手はすでに長剣を抜いていた。
Dが抜く前に、敵は声もなく突進してきた。
敵が斬り下ろした瞬間、はじめてDの右手が閃いた。
世にも美しい音をたてて、刃は噛み合った。
Dの背は真っすぐ立って敵の斬撃を受け止めた。腰から足底まで伝わった力を、Dは易々と反転させた。わずかに力を加えただけで、敵は跳ね返されて吹っとんだ。
必死に体勢を立て直したとき、Dはその頭上にいた。
黒い魔鳥と化してふり下ろす一刀――その下で、敵の顔が絶望に歪む。いや、正《まさ》しく一瞬前、Dだけが見た。敵の絶望が笑顔に変わった。
左の首すじから右肺まで、存分に斬りこんだ手応えを感じながら、全く同じ箇所に灼熱の痛覚を覚えてDはのけぞった。
敵もよろめいている。だが、見よ、かろうじて踏みとどまった敵の姿――黒いコート、鍔広の旅人帽、手にした長剣、そして胸もとにゆれる青いペンダント――正しくDだ。
だが、真実のDが、ざっくりと斬り下ろされた傷口から滝のように出血しているのに対して、こちらは平然と笑っている。
と見る間に、大きく踏みこむや、凄まじい攻撃をかけてきた。
かろうじてかわし、Dは後方へと跳躍しつつ、白木の杭を放った。
それは一跳躍の姿勢にある敵の喉もとを貫き、Dの喉から鮮血を迸らせた。
ついに片膝をついたDのかたわらに近づき、瓜二つの敵が刀身をふりかぶる。
その切尖がかすかに動揺した。地上すれすれに白光が横へと走った。
空しい一撃――だが、Dに異常はなく、敵の右膝は深く斬り裂かれていた。
声もなく前のめりになりつつ、かろうじて身を翻す。血の糸を引きつつ逃亡に移った敵の足音を聞きながら、Dは床に刺した刀身にすがって姿勢を維持した。全身を駆け巡る痛みに苦鳴ひとつ洩らさずにいる。
「――もうひとり、おまえができた」
嗄れ声は呆れていた。
「向うも真物《ほんもの》だ。従って真物を斬れば、もうひとつの真物も斬られる。ふむ、筋は通っておるな」
へらへらと告げてから、床に残る血の筋を追って、
「しかし、あ奴め、おまえになった[#「なった」に傍点]のはいいが、顔だけは保たなかったの。おかげで中途退場じゃ」
声が上昇した。Dが立ち上がったのである。致命傷といってもいい傷を二箇所に受けながら、出血は止まっている。
苦しげな風など少しもなく、コートの裾を翻して歩き出した。
その背で鏘然《しょうぜん》と鍔鳴りの音がした。
「全くもう、えらいとこへ来ちまったぜ」
とジャンは右手の蛮刀をふり廻した。敵をぶった斬りたくて仕様がないのである。
風を切る音は意外と鋭い。膂力《りょりょく》に加えて腰が据わっている証拠だった。
「化物を祀る城と、それを攻める大昔の幽霊軍隊かよ。まるで“辺境”のお祭りだ」
「仕様がないだろ。あのハンターの後をついて来たのは、あたしらなんだから。それよりあんた、男ならもう少し腹をくくってどっしり構えたらどうだい? 光りものぶんぶんふり廻して、眼ざわりったらありゃしない」
「うるせえな、スベタ――女なんざ、いざとなったら糞の役にも立ちゃしねえんだ。へらず口叩いてると、きゃあきゃあ泣き叫ぶ声で嗄れちまうぞ」
「何だって、このへっぽこやくざ」
腰を下ろしていた椅子から立ち上がり、マリアはゆっくりとジャンの方へ近づいてきた。
「おい、よさんか」
とワイズマン護送官が声をかけた。ビアスは壁にもたれたまま黙っている。
「邪魔すんじゃねえよ、ゴソー官」
ジャンは喚いて、近づいてきたマリアの胸もとへ蛮刀の先を突きつけた。
「へえ、大したもンじゃないか。素手の女に刃《やいば》を突きつけて、どうしようってんだい?」
マリアの表情には一点の怯えもない。真っすぐジャンの眼を覗きこむようにして、
「辺境の酒場へ行きゃあ、あんたみたいなヤローは腐るほどいるんだ。自分だけは他人と違う。いまはただのやくざや酔っ払いだが、本気を出しゃ、いつでもでかいことがやれる男なんだって、虫のいい夢ばかり見てる、ど阿呆がさ。そういう奴に限って、いざとなると真っ先に尻に帆かけて逃げ出しちまう。できるのは、女子供の前で空威張りする程度さ」
「――てめえ、この」
ジャンの満面が朱に染まった。蛮刀の柄を握った右手が怒りに震えた。
「何だい、文句があるんなら、さっさとそのナマクラを使ってごらん。それもできなきゃ、えらそうな真似するんじゃないよ」
「てててめえ――」
ジャンの視界が燃えた。それは真夜中のような漆黒であった。
ビアスが壁から身を離した。
そのとき――
「来るよ」
小さな声は、しかし、死の静寂を縫って、全員の鼓膜を叩いた。
声の方をふり向いて、マリアが、
「坊や」
と驚きの表情をつくった。病棟へつづくドアの前に立っていたのは、ベッドの上掛けを巻きつけたトトであった。着替えはない。濡れた衣類はもう乾く頃だ。
じろりと、棒立ちのジャンをにらみつけて、マリアは少年の方へ歩み寄った。小さな顔は林檎のように赤かったからだ。
その額に手を触れ、マリアは泣きそうな表情になった。
「ひどい熱じゃないか。――ねえ、誰かその地図で倉庫探して、薬見つけてきておくれよ。――えーい、何してるんだい、この愚図ども。あんたたちが嫌なら、あたしが行ってくるよ」
ふたたび、小さな声が、事態を最初に戻した。
「来るよ」
熱のせいで干からびた唇を動かし、トトはまた口にした。
「何がさ?」
とマリアが、さすがに薄気味悪そうに訊いた。他の連中もそれぞれの場所で耳を澄ませている。
「三人――外からとっても怖い人たちが」
「怖い人? 誰だい?」
小さな頭が横にふられた。
「わからない。でも、三人。もう、そこまで来てる」
全員がドアと――窓の方を見た。気配ひとつない。外は夕暮れだ。闇と光のせめぎ合うそこから、不気味な三つの影が砦へと侵入したことは、疑いようもなかった。
「刺客《しかく》か?」
とワイズマンがビアスに尋ねた。
「多分な。あの地響きの後、敵は何も仕掛けてこない。ここからはよく見えんが、こちらから反撃があったのだ。“神”の手になるしっぺ返しがな。それで、力押しの不利に気がついた。外から攻略できなければ、内側から崩せ――いつの場合でも攻城戦の鉄則だ」
「それじゃあ、そいつらは、たった三人で“神”を仕留めにきたのか?」
「他に考えられるか?」
「おれたちと遭遇したら、どうなる?」
「事情を話してみろ、それは難儀でしたねと、任務を忘れて救ってくれるかも知れん」
「面白え。外から来た殺し屋かい。おれと出くわさねえよう、お祈りをしてな」
さっきまでの一件を忘れ果てたかのように、ジャンが破顔した。蛮刀がまた空を切る。
ビアスが感情を一切含まぬ声で、
「三人で“神”を始末できると判断された相手だぞ。せいぜい、気をつけるこった。マリア――生命が惜しかったら外へ出るな」
「もちろん、そうするとも――と言いたいけど、そうはいかないね」
マリアの低い、切迫した声が一同の注意を引きつけた。
女の白い腕の中に少年がもたれかかっていた。熱のせいで失神に襲われたのは明らかであった。
「ちょっと、この子をベッドへ戻しておいて。あたし、薬を探しにいってくるよ」
と少年を突き出したが、誰も受け取る者がいないので、
「えーい、この役立たずども。ほれ、任せたよ!」
と一番手近のジャンに近づき、その胸に小さな身体を押しつけた。
「な、なんだよ、なんで、おれが」
「あんたが一番、下っ端だからだよ」
「て、てめえ」
またも二人の二回戦勃発――と思いきや、それはまたも、別の声で中断させられた。
笑い声であった。
他人の不幸を何よりも美味な餌とする邪鬼の笑い――そうとしか言いようがない、邪悪な笑い声であった。
みな、そちらを見た。今度は――ビアスさえ、ゆっくりと向いた。
破壊されたデータ処理装置のそばに人影が蹲《うずくま》っていた。
“サクリ”
装置を支える台の脚部に紐でくくりつけられた男。いまのいままで、ひとことも話さなかった男。
貴族の口づけを受け、本来なら、とうの昔に、同胞たちの手にかかって殺害されているはずの男。
その男が笑っているのだった。
狂気ではない。
何から何まで――これまでのことも、これからの出来事も、すべて知り尽くしているという風な、理性に支えられた笑いだった。
悪魔にも理性があるとすればだが。
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第五章 刺客殺
1
三次元地図に食糧庫などの名称はなかったが、マリアは倉庫を虱《しらみ》つぶしに当たるつもりでいた。考えてみれば、不老不死が謳い文句の貴族が、風邪薬など常備しておくわけがない。
だが、人間用の治療室があったことにマリアは望みをつないだ。ここを破壊したのも貴族の軍勢である。なら、人間の薬など歯牙にもかけず放置しておく可能性もある。医療室の破壊具合を考えると、その可能性とやらも暗澹たるものだったが、マリアはあきらめなかった。
「そんなもの、ありゃしねえよ」
とジャンはせせら笑い、ワイズマンも無駄だと言った。どちらも一緒に行こうとは言わなかったが、マリアはせいせいした。
護送官だのやくざだのいっても、外におかしな連中がいると知れば、うろつく勇気も出せやしないのだ。ビアスはほんの少し前にこの階を調べるといって出ていったが、いても同じことだったろう。
エレベーターで地下三階に下りると、ワンフロアまるまる倉庫だとわかった。医療室と同じ階にも薬品用らしい倉庫はあったが、そこは完膚なきまで破壊し尽くされていた。
この階のドアもことごとく溶解され、内部には荒涼と一千年の歳月が詰まっていた。
それでも広い内部を、マリアは隅々まで見て歩いた。
焼け落ちた壁の下に解熱剤のひと壜が落ちていないと、誰が言い切れるだろう。可能性を見つけるとは、そういうことなのだ。
幾つもの部屋を当たり、幾つかの成果を上げた。焼け残った非常圧縮食のコンテナである。直径三〇センチ、長さ一メートルほどの円筒には、百人分の食事がセットされ、しかも重さは二キロもない。
――ひょっとして、いけるかも。
ほくほく顔で次の倉庫に取りかかったが、これはまるで駄目。最後のひとつの前まで来て、廊下にへたりこみそうになった。疲れのせいである。
だが、ドアを見て眼の色が変わった。
焼け焦げはあるが無事だ。
――ひょっとして、とまた思った。――いけるかも。
ドアの横に開閉用のスイッチがついている。
「待っといで。絶対に薬はあるから」
三角形をしたスイッチに指を当てた。
そのとき、スイッチが、水に溶けた絵具のように広がったのである。
ひっ、と息と身体を引いた眼の前で、スイッチは銀色の広がりに呑みこまれ、壁の表面に人型の染みを形成するや、みるみる厚みを帯びてきたではないか。
壁――というより水中から上がってきたような銀色の人型を、マリアは恐怖のあまり虚ろな穴と化した眼で見守った。
鼻がのび、眼がつくられた。一文字の裂け目は口になり、唇もできた。
そして、完成した顔は――
「あたしじゃないか!?」
同時に声を放てば、マリア自身にもどちらが出したものかは判別できなかったに違いない。
瓜二つの女は、ようやく別の表情を見せた。笑ったのである。それも特別、邪悪に。
「あ……あんた一体……」
怯える声に、銀色のマリアが応じた。マリアの声で、
「おれは外から来た。ここで何をしていたのかは知らんが、ちょうどいい。おまえに化けるとするか」
光りかがやく両手が肩にかかった。
声もなく下がりながら、マリアは右手を思いきりふった。
さっき拾った品――二〇センチにも満たぬ短剣の切れ味は抜群といえた。さしたる手応えも伝えず、銀色の両手は手首のやや上から切断されていたのである。両肩に加わる圧搾感ともども両手は床に落ち、銀色の液体に変わった。
もうひとりのマリアはのけぞるように身悶えした。――と見る間に、その身体は足先から崩れて、みるみる床に沈みこんでいく。
「やった!」
歓喜の声とともに、マリアはドアに走り寄った。さっきと同じ位置にスイッチが見える。もう怯える必要はなかった。
その足先で床が持ち上がった。マリアが悲鳴を上げなかったのは、驚きと、波みたいにそびえ立った床の表面が、蛇のように彼女の胴体を締めつけ、息もできなかったからである。
窒息まで二秒とかからなかったろう。救いの手は一秒ジャストで、銀蛇の胴を二つに裂く光の一撃となって現われた。
呪縛がゆるみ、床へ放り出されたマリアは、新たな一撃を敵へと送るDを見た。
痙攣しながらも、蛇体は波打ち、平べったくなり、床へと溶けていく。
マリアは眼を見張った。
Dが眼を閉じたのだ。その背後――五メートルも向うの壁の一部が盛り上がるや、まっしぐらにDめがけてのびてきた。その先端に人の頭と胴が生じ、両手が生えてくる。手の先に指はなかった。それは鋭い鎌であった。
音もなく左右からDの首へと走る――
「危ない!」
マリアの絶叫より早く、Dの身体は回転した。まずその一刀が。
二本の鎌が空中に切りとばされるのをマリアは見た。
間髪いれぬ第二撃が退く敵の肩を割ったが、それを押さえつつ敵は妖々と壁に沈みこむ。
一瞬の間も置かずに、Dの周囲からかがやく人影が立ち上がった。
十を越えるおびただしい数――複数の変身能力を敵は持っていたのである。
いまや、Dを狙うのは二十丁を越える鎌であり刀身であった。
我知らずマリアは後じさっていた。背が壁についた。悲鳴を上げて離れた。そこから別の身体が生えてくるような恐怖に囚われたのである。それでも、眼はDと銀色の敵たちに吸いついて離れない。Dがやられれば次は自分だ、勝って――という真っ当な心理ではなかった。この美しい若者の生死を自分が確かめられる。妖しいときめきがマリアを恍惚とさせた。
だが、次に生じた光景は、マリアの予想を大きく裏切るものであった。
銀色の敵は不意に床へ壁へと沈み、Dだけが取り残されたのである。
彼は階段の方を向いたが、すぐにマリアの方へやって来た。
「無事か?」
どうせ挨拶代わりとわかってはいるが、マリアの胸は妖しくときめいた。
「何とか、ね。――いまの化物は外から来たって言ってたわ」
「聞いた」
「どうして逃げたの? あなたがやられるのかと思ったけど」
「仲間に何かが起きた」
「へえ」
何かとは何かと考えてみたが、何も浮かびっこなかった。すぐにあきらめた。
「ま、いいわ。“神”だの刺客だの、あたしの頭じゃ難しすぎるもの」
「だが――たったひとりで薬を取りには来れる」
「あら、どうしてわかるの?」
Dは答えず、無事なドアに歩み寄ると、マリア念願の、あのスイッチを難なく押してしまった。
鉄の扉は右へスライドした。
内部をひと目見て、マリアは、
「やった!」
と叫んだ。
他の倉庫に比べてずっと小さな内部には、まぎれもない医療品が棚を埋めていたのである。
手近の棚へ飛んでいって、しかし、マリアは絶望の声を上げた。
「何よ、わかんない。どのラベルにも名前がついてないわ」
その代わり、ラベルの色が棚ごとに違う。砦の人間にはこれで判断できたらしい。
「ひとつずつ持ってったって、種類が多すぎるわよ。ああ、もう。どれ持ってったらいいのよ」
「これだ」
マリアの横から黒い手がのびた。手のひらに乗った壜には黄緑のラベルが貼られていた。
「こ、これ?」
「解熱剤だ」
とDは言った。
「他に何が要る?」
必要な薬品を備えつけのカートに乗せてから、マリアはしげしげとDを見つめた。
横顔を、である。正面から見た日には、一秒と保たない。
すぐ、両眼が霞のかかったようにぼんやりとしてきた。それは眼よりも、Dの美貌を判断するマリアの脳の問題であったが、当人は気がつかない。
何度もこすり、しばたたいて、こりゃいけないとあきらめた。横顔も駄目らしい。
「済んだら行くぞ」
とDが言って、もう歩き出した。エレベーターの方へ向かう彼の後ろでカートを押しながら、ふと頭に浮かんだ疑問を、マリアは口にした。
「ねえ、どうしてここへ来たの?」
Dは“神”を退治しにマリアたちのもとを去ったのだ。成功したにせよ、しくじったにせよ、倉庫のフロアにいるのは場違いだろう。負傷したとも見えない。
返事はなかったが、マリアにはすぐわかった。
氷か冬のエキスでできているような黒衣の若者も、薬を探しにきたのだ。自分のためではない。多分、病棟にいる三人のために。
「いいところ、あるじゃン」
つい口を衝いた。
気づくかと思ったが、Dは無言でエレベーターのボタンを押して乗りこんだ。
――照れ性なのかしら。
エレベーターが止まっても、マリアはこんなことを考えていた。
ドアが開いた。
「あら」
棘のある声は、そこに立つ戦闘士――ビアスの胸に当たって跳ね返った。
「薬探しか」
とDが訊いた。
「いま、部屋へ戻って、ワイズマンから話を聞いた」
遅ればせながら、マリアを手伝おうと思い立ったらしい。少なくとも、もうひとり男[#「男」に傍点]がいたらしいと、マリアは少し気分をよくした。
だが、三人が医療室へ向かって歩き出したとき、叩きつけるようにドアを開けて、ワイズマンが跳び出してきたのである。
蒼白な顔を見て、
「どうした!」
とビアスが尋ねた。返事はすぐあった。
「“サクリ”が消えた」
2
ワイズマン護送官によると、ビアスが近辺の探索から戻り、マリアが薬探しに出かけたと聞いて部屋を出るまでは、確かに“サクリ”はいた。
「ビアスと話しながら、私は必ず奴の方を見てたんだ。万が一ってことがあるからな。“サクリ”はちゃんといた。ところが、ビアスを見送ってからふり向くと、もういなかった」
ジャンは最初から見ていなかったと証言した。
病棟も探したが、いない。正しく、忽然と消えてしまったのだ。
「“神”に拉致されたのかよ?」
ジャンの声には嘲りがあった。声はDに向けられていた。このやくざは、いまだに“神”に対して半信半疑なのだ。しかし、
「そのとおりだ」
Dの返事は、やくざも含めた全員を緊張させた。
「“サクリ”には、貴族の血が混じっている。貴族の崇拝する神と感応したとしても、おかしくはあるまい」
「それはそうだが」
ビアスが苦笑した。
「問題はその後だ。一体、“サクリ”はどうなる?」
「わからん。だが、今度出会うときは、まず敵と思え。問答無用で処分するがいい」
「ちょっと待て」
とワイズマンが異議を唱えた。
「あの“サクリ”は、『都』での研究材料だぞ。勝手に殺すなどもっての外だ。私が許さん」
「あきらめろ」
とDは一層、冷たく放った。
「あんな消え方をして、変わらずに戻っては来れん」
「どうしてわかるんだよ?」
これはジャンである。
「いちいち、えらそうなこと吐かしやがって。けっ、へらず口叩く前に、“神”さまって奴を、始末してきやがれ。大体、“サクリ”がどうのこうのって、てめえだって、人間と貴族の合い――」
ぎん、と空気が凍った。その中で、高々と鳴り響いた音がある。
「何しやがんでえ」
平手打ちを食らった頬を押さえて、ジャンは蛮刀に手をかけた。
「ああ、やってごらんよ。できるもんならね」
マリアは両手を広げて、ジャンの前に立った。Dを見た。
「ひとこと言っとくけどね。この人は、あんたがここでぬくぬくしてるとき、何がいるかわからない倉庫の中まで来て、薬を探してくれたんだ。おかげで、トトもご夫婦もぐっすり眠ってるよ。都合のいいときだけ男やるんじゃないよ。この能なし野郎」
「てめえ、このスベタ」
言うなり蛮刀が抜かれ、小気味よい音をたてて跳ね上がった。
「おおおおお」
ジャンは右手を押さえて蹲った。痺れている。自分でも回復に二、三日はかかりそうだとわかる一撃であった。人間技ではない。
Dは手刀を下ろして一同を見廻し、
「これは病棟の三人にも伝えろ。あの“サクリ”を見たら、その場で殺せ」
日が落ちたが、“サクリ”は戻らず、外からの攻撃も、砦内の刺客による襲撃もなかった。
不気味な複数の殺意を秘めて、闇はなお沈黙していた。
圧縮食料を口にしてから、ストウ氏は妻と話しもせず、ベッドに横たわっていた。
夜が怖い。眠るのも怖い。二度と眼醒めはないのではないか。そう思うと怖い。
ふと、耳にやって来た。
――そろそろ、変えてやろう
ストウ氏の身体は震えた。歓喜の震えであった。覚悟はできている。
「どうすればいい?」
小さく訊いた。
答えはすぐに来た。
Dは廊下にいた。
新たな刺客たちの襲撃と二人の護衛たちの反撃に備えているのである。
「刺客どもが結果を出すまで、外からの力押しはないじゃろう。うまくいけば、彼奴《きゃつ》ら、互いに食い合い、共倒れになるぞ。わしらはそれを待てばいい」
左手のあたりから聞こえる嗄れ声である。
一点の光もないはずなのに、物体の輪郭はかろうじて見える。そして、光を放つようなDの美貌であった。
「おれの接近を感じて、“神”と“神祖”の軍は甦った。どちらにとっても、おれは敵だ。おれなら最初に始末する」
「なら、彼らから遠ざかっていたらどうじゃ? とばっちりを受けるかも知れんぞ。ま、おまえと一緒に入りこんだ時点で、彼らも“神”の敵だ。狙われるのは同じじゃがな。おまえもそれが心配で、この辺をうろついておるのじゃろう。案外な性格じゃの。――ぎゃっ!?」
思いきり握りしめた左手へ力を入れっ放しにして、Dは全感覚を研ぎ澄まして闇の息づかいを聞いていた。
急にふり向いた。
医療室の前にトトが立っていた。
前方を指さした。ひたむきな表情が、Dをもう一度ふり向かせた。
廊下の端に二つの人影が見えた。
ストウ老人と――“サクリ”だった。
Dが一歩を踏み出す前に、すっと消えてしまった。
重い音が床からした。
Dは素早く、倒れたトトに近づいて抱き上げた。額に手を当てる必要もなかった。
乾いてからマリアが着せたシャツを通して、肉が焼けるような体温が伝わってきた。
「四十二度じゃ。霊体移動したせいじゃの」
嗄れ声を残して、Dは少年の身体を医療室へ運んだ。
病棟からストウ老人が消失していることを知っても、夫人はさしたる驚きを示さなかった。
「不平不満の多い人でした。甘い言葉につられたのでございましょう。じきに戻ってくると思います。もうお気になさらずに」
戦いは、やはり繰り広げられていた。
Dが侵入しかけて中断せざるを得なかった巨大な扉の前方の床に、銀色の染みが生じるや、みるみる広がり、やがて、眼も鼻も口もない人型が五体ほど、すうっと立ち上がったのである。
そのまま、光る広がりごと馳せ寄った。足は動かさない。
止まらず進んだ。五体はひとつにまとまっている。
鉄扉の合わせめにぶつかるや、それは水みたいにつぶれ、広がり、すぐに原形に復した。
隙間から水の沁みこむがごとく侵入しようとしたのだが、果たせなかったようだ。
あきらめたのか、もと来た方へ滑り出そうとして、銀色の染みは停止した。
二〇メートルほど前方に、黒い人影が立っていた。
Dと瓜二つだと、染みが認めたかどうか。
みるみる湧き出す銀色の影たちは、凶器と化した両手をふるって、黒衣の若者に殺到した。
両者の距離が二メートルに迫ったとき、黒い若者がくるりと背を向けた。
長剣を負った背中が銀色に変わる。
驚愕を知らぬ銀影の刀身が、斧が、大鎌がその身に食いこんだ刹那、全く等しい場所に凄まじい傷を広げて、攻撃者たちはよろめいた。
Dの必殺の攻撃を自らに報わしめた妖術が、再びふるわれたのだ。
人型はすべて床に溶けた。
洩れ水のようにそこにたまった銀円へ、護衛者は黙然と迫った。
染みが跳ね上がったのは次の瞬間だった。
円盤――いや、それは周縁を妖刀のごとく研ぎ澄ました丸い凶器であった。
自分の手足たちと同じ姿をした影の胸を、光が通り抜けた。
それが一〇メートルばかり向うの床へ舞い降りたとき、たたずむ銀影の上半身は、胴の真ん中からするすると滑りはじめた。
床に落ちるや、それは銀色の半円に化け、立ちつづける下半身もまた、同じ形を取って床に崩れた。
凶刃《きょうじん》と化して敵を斃した銀影が、音もなく二つに裂けたのも、その刹那であった。
どちらもぴくりとも動かず、しばらく経ってから、二つの影がそこへ現われたのである。
何ともいえぬ不気味な表情で銀色の死骸を見下ろしたのは、“サクリ”だった。背後の老人は、ぼんやりと虚ろな眼差しを前方に向けているばかりだ。
にやりと笑って、“サクリ”は老人の手を取り、鉄扉へと歩き出した。
ぎい、と錆びついた歯車が悲鳴を上げた。
ぎい
ぎい
ぎい
それは耳を覆いたくなるような悲鳴の合唱であった。
百万年も静かに錆びついていた蝶番の絶叫。鉄の肉が裂ける痛みだった。
見よ、Dすら開き得なかった鉄扉が、いま開いていく。
人の気配を感じて、マリアは眼を開いた。
ぎょっとした。右方にワイズマンの顔があった。
病棟のベッドの上である。男たちは医療室で眠っているはずだ。
「何のつもりよ、夜這い?」
「大きな声を出すな」
と護送官はささやいた。眼はせわしなくストウ夫人とトトの方を向いてはマリアに戻る。
「だから、何だって? 大きな声出すわよ。『都』のお役人って、不祥事を起こすと『辺境』へ左遷されるんだってね」
「もう、いけない」
ワイズマンは、大きく息を吐いた。
「“サクリ”を逃がした以上、これまで積み上げてきたキャリアも地に落ちた。手ぶらで戻れば、待っているのは、いま、おまえが言ったようなことさ」
「だから、どうしたのよ。うじうじとうるさい男ね」
「慰めてくれ」
「はあ?」
マリアは呆れ返った。同時に、こんなものだろうと思った。
「私はもうおしまいだ。そう思うと、いても立ってもいられない。せめて、今夜ひと晩、慰めて欲しいんだ」
「いいわよ、坊や」
マリアは軽蔑をこらえて、『都』のエリートの頭を撫でた。
やさしくその頬へ顔を近づけ、耳もとで、低く熱っぽくささやいた。
「あなたが知らない愉しい目を見させてあげる。その代わり、高いわよ」
「――金を取るのか?」
ワイズマンはあわてた。マリアは呆れた。
「当り前でしょ。あんたを慰めたって、あたしは一ダラスにもならないんだからね。世の中、持ちつ持たれつが鉄則よ」
「幾らだ?」
「それは、あんた次第よ。最低は十ダラス。特別サービスは、それに応じてかかるわ」
「わかった」
ワイズマンはうなずいた。いきなり、のしかかってきた。
その横面へ猛烈な肘打ちを食らわせ、
「こんなところでできるわけないでしょ。外よ、外」
「しかし、それはまずい。敵がうようよしている」
肘打ちにもめげず、太腿や胸に手をのばしてくる。自分を隠さない男だ。
「人間、見栄を捨てると危《やば》いわねえ」
その手を押しのけながら、マリアはどうしたものかと考えた。
いくら何でもここでは。しかし、外には確かに――
「うーん」
と呻いた。その刹那、頭の中で、誰かが同じような声を上げた。
3
「あれは!?」
Dの左手が小さく叫んだ。驚きや恐怖より、待ってましたという感じが強い。
「“神”の声だ」
Dはちら、とドアの方を見つめ、それから走り出した。目標は言うまでもない。
変化は一気に生じた。
天井と床が逆転し、伸び縮みする壁が声を上げて笑う。
床の敷石はすべて一瞬にして裏返り、階段は無限の螺旋《らせん》を描きつつ天空へと去っていく。階段を下りれば上階に辿り着き、駆け登れば地下の牢獄であった。そして、人ならぬものの絶叫と苦鳴は、交響楽のごとく虚空に鳴り響く。
「刺客のどいつかが、“神”を傷つけるのに成功したとみえる」
大きく蛇行しながら暗黒を走る階段の上で、左手は愉しげに言った。
「恐らくは、外の軍勢を掃討する機能――“腕”を奪ったか。だとすると、明日から総攻撃をかけてくるぞ」
不意に足下が崩れた。空中を走っていた石段とともにDは暗黒の中を落ちていった。彼方に銀河が渦を巻いていた。
左手が頭上へのびた。
手のひらに開いた小さな口が、ごおごおと空気を吸いこみはじめる。
じき、吸収される大気は色を帯び、暗黒そのものとなった。銀河の星々も呑みこまれた。
幕が剥がれるように、暗黒はすぼまり、一線となって口腔に消え、その奥から灰色の空間が現われた。
なおも落ちてゆくDの前方遠くに、四すじの足跡が白く抜いたように点々とつづいていた。足跡もともに落ちているのだった。
「なるほど。この[#「この」に傍点]空間を選んだか」
嗄れ声が感心したように、
「これなら近づけるの。だが、エネルギー係数は虚数に転じる。どちらか片方はディラックの海へ吸収されるぞ」
「足跡の先をおれとつなげ」
Dは短く言った。
「無茶な。――まだつなぎのラプラス系が弱すぎる。無理をしたら、おまえだけが非《ヌル》域へ放逐されるぞ」
「奴らを甘く見過ぎた。すぐにつなげ」
意味不明なののしりの言葉が灰色の世界を走った。
Dはその色に溶けた。
石の床の上に立っていた。巨大な石でできた部屋であった。
加工した石を整然と敷きつめた床などない。華麗な絵画に彩られた天井も壁も存在しない。切り出したばかりの巨岩を、配置も考えずに並べたてた挙句、あらゆる均衡が崩れ、すべてがねじくれ歪んでしまった城だ。
青い光が満ちている。ふり向いて、Dは巨大な鉄の扉を見た。あの扉だった。それは人ひとりが優に通れるくらいに開いていた。誰かの侵入を許したのだ。
「外からの刺客は、別の空間を通った」
と左手が言った。
「すると、あそこを通過したのは別の“神”の仲間だぞ」
Dの脳裡に、“サクリ”と老人の後ろ姿が浮かんだかどうか。
「まだ、鳴いておるな」
あの叫びだ。
まだつづいている。
闇が張り巡らされた奥から聞こえてくる絶叫だ。
反響はしない。鉄扉の隙間から流れ出していく。
「奥へと退散したらしいぞ」
Dの周囲で石壁が蠢いた。“神”の苦痛は空間を歪めるのだ。
Dは無言で進んだ。
石の獄は果てしなく、そして無人だった。壁も天井もやがて見えなくなった。Dは声だけを追った。
暗黒に閉ざされた石の平原――Dはそこを行く旅人であった。
「誰にせよ、刺客は大した奴じゃぞ。おまえ以外でこんな場所へ潜入し、しかも、神に――どうした?」
足を止めて、Dは前方へ視線を飛ばしていた。床がゆれている。地響きが伝わってきた。
闇の奥に巨大なものが白々と蠢いている。
一〇〇メートルほど前方で、それは死にかけた蛇の尾のようにうねくり、のたうっているのだった。
近づくにつれて、どうやら触手らしいとわかった。床の震動はほとんど暴力的であった。うねくりがより力強く頻繁だったら、Dとても立ってはいられなかっただろう。
それ自体、燐光を放つような触手は、鮮やかに切断されていた。
真円に近い切断部は直径三メートルにも及び、長く長くのびた触手の端は闇に溶けて見えなかった。
「ざっと五キロはあるな。よく輪切りにできたものだ」
嗄れ声も呆れていた。これは“神”の一部なのだ。
Dの髪がゆれた。
風が吹きつけてくる。
「おや?」
と左手が洩らした。
風は徐々に勢いを増しつつあった。
「いかん、“神”の苦痛が“風”に変わったぞ。――逃げろ!」
彼方から、どよめきのようなものが近づきつつあった。
漆黒のコートの裾が、ちぎれるほどにはためいた。
「逃げろ!」
風速実に一〇〇〇メートルに達する“風”が、Dの位置を襲ったのは、それから一〇秒後であった。
「もうよかろう」
くぐもった声がどこかでした。
ぶよつく蓋を押しのけ、Dは外へ出た。
石畳の平原は、少しも変わらず風の中に広がっていた。
風は――そよ風程度だ。
Dのかたわらに、いま出て来たばかり[#「出て来たばかり」に傍点]の避難壕が横たわっていた。人ひとりが隠れるだけの空間が、ぽっかりとえぐり抜かれた“神”の足が。
「しかし、吹き飛ばされた様子もなし。よくも無事だったものじゃ」
呆れる嗄れ声へ、
「自分の息で自分を飛ばせるか」
とDが応じた。
「なるほどな」
納得したらしい。すると、秒速一〇〇〇メートルの風は、“神”の苦悩の吐息だったのか。
Dは彼方へ眼をやった。苦鳴はなおつづいている。
無言で彼は歩き出した。
どれくらい時間が経ったかはわからない。流れているのは、外の世界の時間ではなかったからだ。
夜明けはいつか。Dの前方には、闇また闇の連なりであった。
「おい」
嗄れ声が促すように声をかけてきた。遥か彼方に倒れている人影を認めたからである。
足をゆるめず、Dは近づいた。
仰向けに倒れた顔を、Dも嗄れ声も見て取っていたに違いない。
下半身を鮮血に染めて倒れているのは“サクリ”だった。
身を屈め、脈を取って瞳孔を調べ、
「試してみろ」
とDは左手を蝋みたいな顔に近づけた。掌にもうひとつの顔が浮いた。
「死んでおる――無駄じゃ」
抗議は認められず、小さな顔は“サクリ”の顔にぶつかってつぶれた。
五秒と待たず、“サクリ”の死体は眼を開けた。
どんよりと濁った瞳にDが映っている。
「――来ると……思った……よ」
と干からびた唇が動いた。外見よりずっと若い声だった。死者の声に変わる。
「……最後に会うのが……あんたで……よかった。おいらを刺したのは……外の刺客だ……二人……いた」
Dは無言である。しゃべるのをやめろとも言わない。絶対に助からないとわかっているのだ。
「奴ら……強かった……“神”の腕を……一本……切り……落とした……だけど……報いは受けなきゃ……ならない……切り落とした奴は……そうじゃない奴より……ずっと……重い……“神”は……不用意に触れたもの……を……許さな……い」
「“神”は何処にいる?」
「……奥の……“神域”……だ。どの方角でも……いい……歩けば……そこに着く」
「刺客はどうした?」
“サクリ”は咳きこみ、瞳が光を失った。
「こら」
と嗄れ声が叱咤すると、光が戻った。
「……二人とも……飛ばされ……た……この砦の……中だと思うけど……わからない……きっと……頭がおかしく……なってる……“神”の罰に当たって……でも、大丈……夫だ……彼が……みんなを……強くする……おいらの……代わり……に」
「みんなとは――医療室の連中か?」
Dが訊いた。その声だけで、“サクリ”の顔には恍惚の光がさした。
「……そう……だよ」
「彼とは誰だ?」
「すぐに……わかるよ。おいらは……みんなを救うつもり……だった……“神”の力を……借りて……でも……もう……できない……だから……彼に……ねえ、おいら、本当は……“サクリ”なんかに……なりたくはなかったん……だ……でも、貴族に血ィ吸われちゃって……森の中なんか……夕暮れの森の中なんか……通らなきゃ……よかった……おいら……あの子に……――に……」
急に声が低くなった。口にしたのは、女の名前らしかった。
「村中の清掃をして……貯めた金で……プレゼントしたくて……」
それを届けにいく途中、彼は“サクリ”になった。
あどけなさを残した表情がすっと消え――凄まじい形相に変わって、“サクリ”は跳ね起きた。Dに両手をのばし、
「みんな、おいらと同じになっちまえ。みんな、“サクリ”に――なっちまえ! 手は――打って……」
それだけ言って、後ろへ倒れた。そっと地面に着いた。Dの右手が後頭部を押さえていた。
“サクリ”の瞳から急速に光が失われていった。
「死が戻ってきたの」
と嗄れ声が言った。最後にもうひとこと――“サクリ”が、
「……打ってある」
全身が激しく痙攣し――弛緩した。
手を離してDは立ち上がった。
「つまらんことを訊くが――どうするの?」
嗄れ声にも答えず、Dはまた歩き出した。前へ。コートの裾が魔鳥の翼のように翻った。
彼は“サクリ”の方を見ようともしなかった。
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第六章 “神”の誘い
1
奇怪な声は、全員の頭の中に鳴り響いたのである。
トトを除く全員が跳び起き、当然、ジャンが病棟を覗きにきて、マリアに抱きついたワイズマンを見つけてしまった。
マリアは何も言わず、ジャンには大笑い、ビアスには無視されて、若き護送官のプライドはなます斬りになり、医療室の片隅でしょんぼりと膝を抱えている。
声の正体は、Dの言っていた“神”だろうと三人の意見は一致したが、いつの間にかDの姿はなく、この後はビアスまかせという雰囲気も出来上がった。
「この階も上も下も、徹底的に破壊されている。つまり、何処へ行っても同じだ。Dが戻るまで、ここで保ちこたえるしかあるまい」
このひとことで、目下、ジャンが廊下で見張りに立ち、屋内の護りはビアスの担当ということになっている。
「はあ、一体、どうなるんだか」
マリアは医療室でため息をついた。
「貴族が崇める“神”さまの棲家へのこのこやって来るなんて、あのハンター、何考えてんだろ。もっとも、ついて来たあたしたちもあたしたちだけどさ」
壁にもたれていたビアスが、じろりとこっちを見て、
「寝《やす》んでいろ」
「やーよ。ああいう変態さんがいるから、危ないもーン」
軽蔑しきった眼つきの先に、膝を抱えたワイズマンがいた。
その顔がマリアを見上げて叫んだ。
「な、何を言うか。汚いぞ、貴様、OKしたくせに!」
「やだ、何言い出すのよ、この変態。はばかりながら、あたしゃ『南部辺境区』一の都市『ショアラ』で、一番でっかいお店に勤めてたのよ。なんで、あんたみたいな小役人に言い寄られて受け入れなきゃなんないのよ!」
「貴様、五十ダラスと言ったじゃないか。あれは――あれは、最高の娼婦の値段だぞ。高すぎる!」
「おいおい」
とビアスが苦笑して、
「『都』の役人は、そんなことに金使ってもいいのか? それも大分、慣れてるようだが」
「ば、馬鹿なことを言うな。我々公務員はつねに清廉潔白だ。遊ぶときは必ず自前だ。そうだ――領収書も貰うくらいだぞ」
「そんなの自慢になるかい、バーカ」
マリアは思いきり舌を出した。
「この糞役人。女抱いて領収書よこせっていう男が何処にいるんだよ、サイテー、ゲス、どヘンタイ」
「こ、このスベタ」
さすがに跳ね起きた。マリアも素早く身構えて、徹底抗戦の姿勢を示す。満々たる闘志と殺気が部屋中にふくれあがったとき、激しくドアがノックされた。
二人とも凍りついた。
「どうした?」
とビアスが口もとに手を当てて訊いた。驚いたことに、声はドアをはさんで反対の位置からした。外から射たれても安全だ。
「おれだ。――帰って来たぞ!」
ジャンの声である。マリアとワイズマンの眼が限界まで剥き出された。
ビアスが訊いた。
「――“サクリ”か?」
「違う」
「違う?」
「とにかく入れてくれ」
ビアスがロックを外すと同時に、ジャンが飛びこんできた。
ビアスの方をちらりと見て、すぐ廊下へ視線を戻す。
「おやおや」
とビアスが曖昧な声を出した。
ジャンが横へのき、二人の間を細っこい人影が、招待はされていないが、誰も文句は言えない大物のように入ってきた。
「お騒がせしましたな」
マリアとワイズマンも茫然と見つめる中、ストウ老人は何となく愉しげに、片手を上げて挨拶した。
「失礼」
と一歩足を踏み入れる前に、ビアスが立ちふさがった。
ぼんやりと見上げる老人へ、
「あんた、“サクリ”と出て行ったな?」
いかつい顔が、誰もがはじめて耳にする冷たい口調で訊いた。これが戦闘士の声か。
老人の表情は変わらない。そっちの方が実はおかしいのだが、周りの連中は気がつかない。
「“サクリ”を見たら殺せ、とDから指示が出ている。一緒に行ったあんたをどうするか、だな」
「――わしを……殺すつもりかね?」
ビアスと老人は頭ひとつ違う。のしかかるように見下ろし、視線で刺し貫いた。戦闘士としての経験、勘のすべてをフル稼働させて、老人の処置を考慮中に違いない。
その両眼に凄まじい光が点った。
ぎょっとしたのは見守る三人だ。
「悪いな」
ビアスの手はすでに掴んでいた投げ矢を、矢筒から引き抜こうとしていた。止める者はない。誰の眼にも正当な判断なのである。老人だけが棒みたいに、怖れげもなく立っている。
「待て」
ワイズマンが声をかけたが弱々しい。ビアスは無視した。誰もが、次の瞬間、心臓を鋼の矢に貫かれて倒れる老人の姿を想像した。
そのとき――
「あなた」
ジャンとワイズマンが、しまった、という風に眼を閉じ、マリアの表情を安堵の翳がかすめた。予想していないこともなかった決定打が出たのだ。
みながふり返り、病棟の出入口に立つストウ夫人を見た。薬のせいで熱はすでに退いたが、病み衰えた顔には憔悴の色が濃い。
枯れ木のような手が上がって、
「あなた……戻ってきて……下すったのね」
「おまえ――ここにいるよ」
ビアスが止める暇もなく、老人は彼の脇を抜けて妻の前に立った。
マリアはビアスを見ていた。
夫と妻が喘ぐように、お互いをその腕にかき抱いたとき、戦闘士の腕は鋼の死をふり上げた。
二人とも!?
「やめて!」
思わず放った叫びを、凄まじい衝撃が粉砕した。
全員が壁へと叩きつけられる。
「“神祖軍”の攻撃だ!」
とジャンが叫んだ。ぶつかった背中より腹を押さえている。
「やっぱ、“神”さんがおっ死んだんだ。それで――」
「おっ死んだんなら、攻撃してくるわけないでしょ、低能!」
同じく腹を押さえながら、マリアははっと気づいた。トトが、と悲痛に洩らして、病棟へと向かう。
「地下三階に退避壕がある」
ビアスが、ドアの方を指さした。
「エレベーターが動くうちに移動するぞ。すぐに乗り移れ。薬と食糧を忘れるな!」
ジャンとワイズマンが壁際のコンテナに走り寄った。
老夫婦を求めるビアスの眼の隅で、二つの人影がドアを抜けるところだった。
舌打ちして彼は後を追った。
ドアを抜けた刹那に立ち止まった。
廊下の真ん中で、ストウ夫妻が左方――エレベーター・ホールの方を向いたまま、硬直していた。
その五〇メートルほど前方に、小柄な人影が立っていた。
グレーのターバンを巻きつけたような衣裳の上に、少女のように小さな顔が乗っている。だが、浅黒い肌の下の筋肉の隆起といい、濃く太い眉といい、まさしく男――少年だ。
硬い音が、かすかに小刻みにビアスの耳に届いた。
老夫婦が震えている。抱き合った二人の歯が鳴る音であった。
「クルルの仲間」
と少年は言った。氷のような声である。
クルル――“神”の名か、とビアスは思った。そして、この餓鬼が三人の刺客のひとりに違いない。
「仲間とは違うぞ。おれたちは、飛行車が不時着し、やむを得ずここへ着いたのだ」
「ここにいれば、クルルの仲間」
少年はまたつぶやいた。
その口が開いた。
歯はすべて牙のように尖っていた。
しゃあ、と放って跳んだ。
決して速くはない滑らかな動きで、少年は夫妻めがけて宙を滑った。
その身体が叩きつけられるように方向を変え、壁に激突したのは、夫婦の顔前であった。
彼のこめかみと脇腹とを貫通して岩壁に縫いつけたのは、二本の矢であった。
勝った、とはビアスは思わなかった。“神祖”の軍から選び抜かれた刺客――“神”を斃すべき相手だ。果たして、一介の戦闘士の技が通じるのか。
「逃げろ!」
まだ突っ立ったままの二人に叫んで、エレベーターの方を指さす。抱き合って震えていた老人たちの姿が眼に灼きついていた。
二人が走り出したとき、ジャンとマリアが跳び出してきた。ジャンは食糧のコンテナと薬品の包みを両手にぶら下げ、マリアはトトを抱いていた。
「こいつか!?」
串刺しの少年を見て、ジャンが叫んだ。
「手伝うぜ!」
「急げ!」
と、これもエレベーターの方を指さして叱咤する。やくざ風情のどうこうできる相手ではないのだ。
走り出した二人の足下に、二本の矢が突き刺さった。びゅっという音は後からした。
それが少年を刺し貫いた鋼の矢だとビアスが気づく前に、小さな身体はひょいと彼の前――一メートルの位置に降り立った。
「遊ぼうよ」
と少年は言って、右手を衣裳の胸もとへ差しこんだ。
出て来た小さな拳は、不釣り合いに大きな人形を握っていた。
かっと口を開くや、白い牙をきらめかせて、少年は人形の右肩に食らいついた。
ひと噛みで腕は食い取られた。
ビアスは絶叫した。彼の右肩にも、眼に見えない牙が深々と食いこんだのである。それは肉も腱も骨も引き裂き、顎をふり、そして、肩から引きちぎられる感覚を与えた。
それでも彼が左手をふると、三本の矢が少年の眉間と喉と心臓を貫いた。
刺されたまま、少年はにこやかに笑った。
「いよいよ」
その口が牙を剥いて人形の――ビアスの首にかぶりつく。その瞬間、二つの身体は凄まじい勢いで空中に舞い上がった。
さしもの刺客が、どうすることもできずに、廊下を飛んでいく。
その少し前、“神”の触手に身を隠したDと左手を襲った秒速一〇〇〇メートルの妖風――“神”の苦鳴が変じた風が、いま、砦の内部を吹き抜けたのである。
岩壁が迫ってきた。右手で押しのけようとしたが、それは動かなかった。
顔の右半分がつぶれる感覚を味わいつつ、ビアスは意識を失った。
2
道に果てはなさそうに思えた。
空間歪曲か迷路かとも考えられたが、そうでもなさそうだ。ここのすべてが“神”の棲家なのだ。
それでもDの足は鈍らず、美貌には疲れの翳さえ見えぬ。孤高のハンターは、なおも道を進んでいく。
「おや?」
と嗄れ声が湧いた。
石畳の彼方に、ひとすじの線が斜めに石の床に突き刺さっているのが見えた。
形からして長剣だ。
「ふむ、あれは――ひょっとして」
と左手が思案の声を放った。
やがて、Dはそのかたわらに立った。
石床に食いこんだ部分を入れると、太さも長さもともに、Dの剣の倍にも達する長剣であった。
鍔と柄とに描かれている動物は――竜だ。
「これは“神祖”の剣だ」
とDは言った。
「ほう。すると、ここは……」
何処からともなく吹いてきた風が、Dの正面から叩きつけた。
「戦場だ――“神祖”と“神”の」
ほとんどあり得ないことだが、畏怖の念に打たれたかのように左手は沈黙した。
それから、
「“神”の死体がないの」
と言った。
「ある」
「――何と!?」
この世界にふさわしからぬ驚愕が走り、風はどよめいた。
「この下だ」
Dの眼は石畳の平原に向いていた。
少し間を置いて、嗄れ声が、
「すると、“神”は――敗れていたのか?」
「少なくとも本体は動けん。でなければ、“神祖”の軍もとっくに一掃されていただろう」
「――墓か。そして、この剣が墓標」
「“神”が死ぬと思うか?」
「なに?」
「行くぞ」
Dの眼は、すでに遠い彼方に向いていた。
「待て、こら」
と嗄れ声があわてた。
「この下に神がいて、しかも、しぶとく生き延びておるというのなら、絶好のチャンスではないか。その剣をひと押しすればよい。“神祖”の剣だ。今度こそ殺せるのではないか?」
「できる」
「な、なら――やらんかい」
「“神”は近い」
「なぬ?」
長靴の底が石畳を踏みしめた。
「これはおれの仕事ではない」
かつての“神祖”の戦いと、いま、歩み去ろうとしているその成果のことだろう。
「また、固いことを言いおって。少しは楽をしようと――いや、わしに楽をさせてやろうとは思わんのか」
悪態をついても無駄なのはわかっていた。それでもつくのが悪態なのである。
「大体、おまえは――」
改めておっぱじめようと小さな口が手のひらに開いたとき、虚空から声が降ってきた。
――よく来た。ここまで封印してあったはずだが、やはり破られたか
左手が、うおおと呻いた。降り注ぐ声のなんと無惨で冷酷なことよ。
「“神”か?」
Dが虚空を見据えて訊いた。この若者には存在しないものが見えるようだった。
――そう呼ぶ者もおる――いや、おったな
「何処にいる?」
それだけがDの目下の関心事なのだろう。
――何処にでも。好きな場所を考えろ。わしは、そこにおる
「………」
――何故、わしを刺さなかった? すべて、おまえの言うとおりだ
「答えはもうした[#「した」に傍点]。出て来なければ、行くぞ」
――よかろう、出て行く。だが、その代わり、ひとつ引き受けてもらいたいことがある
「断る」
――そう言うな
声はわずかに笑いを含んでいた。
――敵は、わしの腕が失くなったのを知って、一気に攻撃をかけてくるつもりだ。この神殿を破壊するに足る武器を、奴らは備えておる。それをつぶせ
「注文をつけて来おったぞ」
嗄れ声が呆れた。
「注文の多い神か。貢ぎ物に慣れておるな」
――それができれば、おまえと会おう
「ほう、殊勝なことを言いよる。どうしてそんな気になった、神よ? ――うおっ!?」
左手の絶叫は、Dの全身に叩きつけられた途方もない憎悪と怒りのせいであった。
――おまえは、同じだ
“神”の憎しみは声になった。
――わしのもとへやって来れた、ただ一人の存在。おまえは同じだ。わかるな。だが、奴は、わしに止めを刺せなかった。おまえはやれるか
「そのために、おれは来た」
Dは静かに言った。吹き募り、怒号する風の中で、声は氷結したもののように響いた。
かすかに床が揺れた。
――奴らは、攻撃を再開した。闇こそ奴らの世界だ。人間は逃げ惑う
“神”の声に侮蔑の調子が加わった。
――おまえが奴[#「奴」に傍点]の成果に頼もうとしなかった故に、わしも現われた。決着をつけてやろう。外の攻撃をやめさせてからな。また、戻ってくるがいい
次の瞬間、Dの周囲を暗黒が押し包んだ。
すぐに晴れた。
「ここは何処じゃい?」
身を低くして、Dは状況を把握しようとつとめた。
すぐ頭上を光る物体が通過したのである。
「偵察球じゃな」
と嗄れ声が、それ以上はないくらい低くささやいた。
右上方におびただしい気配が蠢いている。左手は――水の音。川だ。Dはその川がえぐった地溝の端にいるのだった。
すると、右上にいるのは神祖軍であろう。
おびただしい光が川の両土手を埋めてから川面と空中へ放射され、その中を、さっきの偵察球らしい形が幾つも丸くかがやいて飛んだ。
「おかしなものじゃな。貴族という奴。光は生命取りなのに、かえって憧れておる。それとも単に、人間の真似をしておるだけなのか。機械にまで、それを押しつけよる」
要するに、夜の貴族に光は不要なのである。彼らは日中を歩む人間のごとく夜の闇を見通す。まして、その軍勢の九割九分までは人造人間《アンドロイド》である。完璧な機械にしても、有機化合物の合成人間にしても、視覚維持の照明など必要ない。
それなのに皓々《こうこう》と光が点っているのは、嗄れ声の見解の後半――人間の真似だという点で、学者間の一致を見ている。人間を虫ケラ以下の存在にしか見ていない――それも不老の生命と不死の体力に裏づけられた自信と自負ゆえだ――貴族たちが、全く不必要な人間の真似をする。貴族と人間の心理学者による解答は、やはり、左手のそれ[#「それ」に傍点]と同じだ。“貴族は人間に限りなく深い憧憬を抱いている”のであった。
いまのDにとって、それは余計な感傷以外の何ものでもなかった。
遠くで、鐘でも撞くような重い音がした。
「あれじゃ」
左手がささやいたとき、Dはすでに偵察球の間を縫って土手をよじ登りはじめていた。
しかも、わざと傾斜の緩いところではなく、ほぼ垂直――どころか、反るような部分を選んだのは、やはり、敵の眼から隠れるためか。
土手の上には人型から要塞タイプまで、おびただしい人造人間が整然と並んでいる。
どれも緑色の眼を備えているが、電子脳に伝えられる光景に対して、感情の湧出はゼロのはずであった。
Dは土手に上がって、人造人間たちの間を風のように縫いはじめた。彼らと偵察球のセンシングは、全方位に休みなしで行われている。いかにDが素早くても、逃れる術はない。
Dの胸で、ペンダントが青いかがやきを放っていた。
いつの間にか、周囲は巨大な軟体物の山に囲まれていた。
うちひとつが、ぶるぶると震え、三分の一ほどのところにくびれが走ると、頭ができ、四肢が生じ、二秒とかからず十名ほどの人型ができ上がった。眼も鼻も口もないし、指も分かれていないが、それはじきにできる。
半透明ののっぺらぼうたちは、それでも隊列を整え、闇の中に消えていった。
「交替じゃの」
と嗄れ声が指摘した。
ロボットや機械人間と異なる合成人たちは、任務終了時は、その本来の姿たる合成物質に戻る。軟体物の山だ。
「見張りか、総攻撃用か――何にせよ、惑星のひとつふたつ、自由に動かせる連中が、戦いとなると昔ながらの人海戦術じゃ。訳がわからん」
声は風に流れ、一分とかからぬうちにDは数重のガード・ラインに守られた巨大なドームが見える位置まで達していた。
レーザーやサーチライトの光が、その灰色の壁面を照らし、傾斜に沿って滑り落ちていく。
「機械人間の他に合成人もおる。見つかると厄介だぞ」
その声も待たずに、Dは黒光りするメカマンの間を縫ってドームに肉薄していた。
合成人の一隊がやって来たとき、その姿は壁面に貼りつき、闇と同化した。護衛たちが通りすぎてからもDは地上に下りず、壁面に沿って進んだ。
直線距離で二〇〇メートルほど走って、彼は停止した。
「よし、ここじゃ」
と嗄れ声が断定した。出入口に違いない。
黒い左手が壁面の一箇所に触れた。
音もなく、直径二メートルほどの真円が壁面に穿たれる。
壁面から下り、Dは右手を背の一刀にかけるや、上体をひねって右後方へ斬り下ろした。
頭から胸まで割られてのけぞったのは、棒状の武器を手にした合成人である。
その喉と心臓の位置に二本の矢が突き立っていた。
「――Dか!?」
と声がして、闇をくぐるようにビアスが現われた。
「何をしている?」
Dの眼も口調も敵に対するものだ。いるはずのない男であった。
ビアスは周囲に眼を配りながら、
「――こうだ。敵の攻撃が再開されてすぐ、“神祖”軍の刺客が襲ってきた。おれもやられかかったが、間一髪で凄い風が吹いて、みなちりぢりになった。おれは石壁に叩きつけられて気を失ったものの、なんとか逃げられた。みんな、地下の退避壕にいる。だが、このまま攻撃を続行されたら、砦は朝まで保たない。それで、奴らの武器をつぶしに出て来たんだ」
「ひとりか?」
「そうだ。後は使いものにならん」
「どうやって、ここまで来れた?」
「おれも心配だったが、やってみると意外に簡単にいった。これのおかげだな」
左手首をめくって突き出した。腕時計とも超小型の代謝調節装置《スタビライザー》とも見える。
「センサー・ガードだ。見てくれは悪いが性能は一級品だぞ。アンドロイドどもの眼に、おれは透明人間さ」
Dは手首を一瞥してすぐ、踵を返した。
待て、と言いかけ、ビアスは苦笑してその後につづいた。
3
ビアスが入ると、真円はたちまちふさがった。斬り捨てた合成人の死体をその横に放り出し、Dは前方を指さした。
高さ三メートルほどの巨大な台座の上で、男がひとり椅子にかけていた。
眼の前に、ちょうど銀色のジャングルジムによく似た構造物がそびえ、男は疲労しきったみたいに椅子の背にもたれている。長い紺のガウンの袖からこぼれた手には、金属の棒が光っていた。
「何してる?」
とビアスがこらえかねて訊いた。
「じきにわかる。周りに気をつけろ」
にべもないDの返事に怒りもせず、ビアスは四方を観察した。邪魔者扱いされないだけましだ。
背後に冷たい気配を感じたのは、その刹那であった。
ふり向きざま、ビアスの右手から鋼矢が赤い流星のように飛んだ。
それが貫いたのは、青白い影であった。
影はわずかにゆれただけで、矢は背後の壁に突き刺さった。
青白い影は顔も姿も持っていた。
黒光る甲冑に身を固めたいかつい顔が、白い牙を剥いている。――貴族だ。
戦慄がビアスの身を硬直させた。
四〇年近い戦闘士としての人生で、真物《ほんもの》の貴族に出会ったのは、はじめての経験であった。
投げ矢が効かない。――それだけで恐慌状態に陥った身体は、自由を失った。
青白い貴族は、腰の長剣を抜き放つや、滑るように接近してきた。
その刀身は本物だとビアスは確信した。左の首すじめがけてふり下ろされるそれが、骨まで断つ痛みを幻覚しながら、彼は眼を閉じた。
きいん、と鳴った。
眼を開いた。受けられたばかりか跳ね上げられて、青白い幽鬼はのけぞった。
体勢を立て直す暇《いとま》も与えず、Dの刃は真っすぐその心臓を貫いた。貴族はにやりと笑った。
「そいつは死霊だ」
とビアスは叫び、
「わかっておる」
と返ってきた嗄れ声に眼を剥いた。
貴族が打ちかかってきた。ビアスもはじめて眼にする凄まじい刃であった。力も速度もその辺の戦闘士の比ではない。ハンターなど無意味としか思えなかった。
だが、二度打ち合って左右にその位置を変えたとき、Dが大きく跳躍した。
貴族が遅れたのは、ビアスにもわかった。
すれ違ったDがふり返り、新たな一撃を心臓に与えようとしたとき、貴族はすでに棒立ちであった。胸よりも早く鳩尾のあたりからこれも青白い血が噴出し、彼は青白い光の堆積と化して崩れ落ちた。
「最初は斬れなかったのに、どうしてだ?」
ビアスの問いに、さっきの嗄れ声が、
「気を入れ替えたのよ」
と応じた。
背後から死霊の気配が近づいてきた。ビアスが首をねじ向けると、新たな影が二つ駆けてくるところだった。
片方は剣だが、もうひとりは八〇センチもある刃をつけた長斧を手にしている。
「上へ行け」
とDが言った。
「砦を攻撃しているのは、あのマシンだ。処分しろ」
Dの背後に鉄の階段が上へとつづいている。
Dがかたわらを抜けて、迫りくる敵を迎えた。
ビアスは階段へと走った。
背後から刃の交わる響きが迫ってきた。手摺りを掴んで階段を四、五段駆け上がってから下を覗いた。
Dは長斧をかざす敵と対峙していた。
足もとに青白い染みが広がっていく。もう貴族をひとり斃したのかと、ビアスは息を呑む思いだった。
長斧が打ちかかってきた。重い刃が信じられぬ神速は、ビアスの眼にも光る線としか映らない。
一本の斧は、同時に相手の首と足に閃くように見えた。ビアスは戦慄した。
その攻撃をDはすべて受けた。
それは光る軌跡と描線の対決であった。
複数としか思えぬ同時攻撃をDの一刀はことごとく打ち返し、その黒い背は分厚くゆるがぬ壁のようにそびえ、その足はもとの位置を一歩も動いていなかった。
死霊の攻撃に一瞬の乱れが生じた。飽きたのか、とビアスは思った。
長斧が引かれた。かけるべき攻撃が行われなかったその空隙へ、Dの一刀が躍った。
死霊の背から突き抜けた刃をビアスが認めた瞬間、青白い影は崩壊した。
Dがこちらを見た。死霊より恐ろしいものを感じて、ビアスは階段を駆け上がった。
台上に出た。
椅子の背にもたれていた男は、通常の位置に戻ってこちらを向いていた。
貴族と同じ青白い顔、生気のない眼、こけた頬、唇からこぼれる牙――やはり死霊だった。
右手に矢を掴んでビアスは硬直した。
驚愕すべき力が前方から、総身に激突した。
三メートルも跳ねとばされ、頭だけカバーして床に転がったとき、力の正体はわかっていた。
「力場《フォース・フォールド》か」
「そのとおり」
と嗄れ声が頭上でした。
Dは真っすぐ前進し、ビアスが跳ねとばされた位置の少し手前で、見えない壁に一刀を叩きつけた。
それは等しい速度で後方へ弾かれた。
「貴族の“力場”は、銀河の運動エネルギーを借りてるんだ。破れるのは“神祖”だけだ!」
昔、年老いたハンターから聞いた知識をビアスは口走ったが、この若者はどうせわかっているのだろうと思った。
同時にあることを想起し、彼は自分の考えを恐怖とともに否定した。
Dは何とかしてしまうのではないか。
二人の前方で、椅子にかけた男が動いた。
手にした金属の棒で、眼の前の構造物を次々に打撃していく。
そのたびに構造物は震え、形を変えていった。形を形成する円筒が、その位置を変えてしまうのだ。子供用のジャングルジムは、分子構造を思わせる形に変わり、蜘蛛の巣を連想させる幾何学図形を形成した。
その間、男は休みなく両手を動かしつづける。それは狂熱の指揮者のごとき憑かれた姿だった。
「神秘交響曲――破砕楽章」
嗄れ声がつぶやいた。
「いかん。指揮が終わるまでに奴を止めろ。でないと砦へ――」
声は最後まで言い切ることができなかった。
Dが左手をかざした。
空気がそちらへ流れはじめるのをビアスは感じた。
流れはそよぎになり、風となり、旋風と化した。
「何かに掴まれ」
Dが言う前に、彼は階段のところへ走り寄って、手摺りを両手で握った。
その身体が浮いた。
凄まじい勢いでDの方へ――かざした左手の方角へ吸引されていく。
肩が、肘が、手首が一斉に悲鳴を上げて泣き叫ぶ。肉と腱が限界まで引かれていく。
――奴め、“力場”を吸いこんでしまう気か。
限界が来た。
指が――剥がれる。声もなく、ビアスは空中を走った。
そして、地に落ちた。眼は開いていた。
椅子の貴族が両手の棒をふり上げた。
死の音楽はクライマックスを迎えようとしていた。
黒い稲妻がそれに挑んだ。
棒がふり下ろされる。
銀光が真横に走った。
宙に飛んだものがある。棒を握った手首と――首が。
構造物が崩れ落ちるのをビアスは見た。
「これ一台か?」
「一台じゃ」
嗄れ声が答えた。
Dは階段の方へと歩き出した。足も止めず、ビアスに、
「立てるか?」
と訊いた。
「何とか、な」
と応じたときはもう、Dは階段を下りはじめていた。
文句は言えなかった。ビアスは何の役にも立たなかったのである。
早く脱出しなければ敵が来る。そう思いながら、ビアスはいつまでも立ち上がることができなかった。
ドームの外へ出て、驚いた。
サイボーグ馬にまたがったDは、もう一頭の手綱を放ってよこし、先に疾走を開始した。“神”の力か、防御帯も城門も二人が近づくや易々と開いた。
一同は地下三階の退避壕にいた。
戻った二人を見て、みな歓声を上げた。
「どこで落ち合ったんだい?」
ジャンが一同の疑問を代表して訊いた。
「あれか――“神”さまはやっつけられたのか?」
「残念ながら」
一同の口から絶望の吐息が洩れた。
「なんてこった。じゃあ、まだ、ここから出られねえのかよ? ま、いいや、おらぁひとりでも行くぜ。あの地下の川を流れてきゃ何とかなるだろうが」
へらへらと笑うジャンを、Dがふり返って見つめた。ジャンは胸を反らして笑った。
「何だよ、その眼は? にらみつけりゃあ、おれが恐れ入るとでも思ったのか、色男?」
高をくくったような笑い声は、すぐに消えた。Dの凝視は、なおもつづいていたのである。
小さな嗄れ声が、
「憑かれたの」
と言った。訝しげな表情を浮かべた人々は、Dの次の問いに顔色を変えた。
「“サクリ”は死んだ。老人は戻ったか?」
「ええ」
とマリアはうなずいた。
「何処にいる?」
「そっちよ――奥のベッドに」
そのとき、老夫人の声が、あなた、と呼んだ。
ベッドから上体を起こした夫人が、立ち上がった夫の片腕にすがりついている。
老人は光る眼でこちらを凝視していた。光は真紅だった。
「戻ってきてはならなかった」
とDは低く言って、老夫婦の方へ、黒い死の一歩を踏み出した。
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第七章 変わりゆく者
1
Dが一歩進むにつれて、ストウ老人は一歩後じさった。
夫人の手はもぎ離されていた。
一度敵と見なした相手に、老若男女の区別はない。それがDという若者だ。
「“サクリ”は、みな自分と同じくなるよう手を打ったと言った。おまえがその“手”か」
左手のあたりで、はは、と虚ろな笑い声が上がったが、誰も気づかない。
「あなた」
ベッドの上で夫人が悲痛な声を上げた。女にできることもなかった。老人もDも無視した。
「斬るか?」
とストウ老人が喉を鳴らした。
「――わしを斬るかね? 斬れるかね、こんな哀れな老人を? わしは確かに“サクリ”を通して“神”の力を得た」
Dの背後で一同が顔を見合わせた。
「わしは感謝しているよ、ハンター君。ここへ――大いなる“神”のもとへ連れてきてくれたことに。わしがこれから何をするかわかるかね? この砦を無事に脱け出して『都』へ行くのだ。そして、父と母の面倒も見ずに、のうのうと暮らしている息子どもを、まとめて始末してやるのだ。わしと家内がどんな思いをして育てたのかも忘れて、年に一度の訪問にさえ、迷惑そうな顔を隠さぬ恩知らずどもをな」
老人は、けけけと笑った。品のよい顔からは想像もできぬ、邪悪で卑しい笑いだった。
それに挑んだのは、哀切ともいえる叫びだった。
「あなた、お願いです。いままで私たちがしてきたことを、壊さないで下さい」
夫人はベッドから下りた。青白い顔のまま、よろめきよろめき、夫の方へ歩きながら嗄れ声をふり絞った。
「あの子たちには、あの子たちの生活があるんです。そこへ入ってくるものはみんな迷惑な邪魔者なんですよ。みんな生きる器が決まってて、そこには親の入る余裕《スペース》なんかありません。私たちは、恩を返して欲しくて、子供たちを育てたんじゃないでしょう」
老人が不意に後方へ跳んだ。何の予備動作も示さなかった分、Dの抜き打ちも一瞬遅れた。
それでも、ぼっと青白い霧がしぶくと、老人の身体は奥の壁に吸いこまれた。
「あなた――あなた……」
両手を差しのべて、夫人はすすり泣いた。
「何処に……“神”がいるの? あの夫《ひと》を、あんな風にしてしまって……何処に“神”が? それは、どんな“神”なんです?」
夫人は足を止め、ふり返った。Dが眼の前にいた。
「貴族が崇めた“神”って――どんなものなの? 私が殺してやる――教えてちょうだい」
夫人はDの胸を両手で叩いた。激しく、激しく。何度も何度も。満身の怒りと憎しみがこもっていた。
Dの胸がわずかにゆれた。それだけのことだった。
「教えてちょうだい。あなたが私たちをここへ――こんな“神”のもとへ連れてきたんじゃないの。あたしを連れていって、“神”のところへ。あたしが殺してやるゥ」
打撃音が下がりはじめた。老婆は膝を折り、床にへたりこんだ。その間もDの腹を腿を打つのは欠かさなかった。
その手がついに両脇に落ちると、Dは一同をふり返り、
「この女性《ひと》の夫はいつ戻った?」
と訊いた。
「あの“声”がしてから――三時間くらい後よ」
「いまから三時間前だ」
その間、“神”の手先は一同と一緒にいた。いや、みなが彼といたというべきか。
“サクリ”は言った。みんな同じになれ、と。
手は打った――と。
「何か言いたいことでもあるのか?」
とビアスが訊いた。
Dは無言で刀身を収めた。
「ストウ氏は“神”によって変わった。おれたちもそうだと思うか?」
「あたしたち、ストウさんとはロクに話もしなかったわよ、ねえ?」
「そうだとも」
とジャンも同意した。
「おめえもそうだろ、坊主?」
ベッドの上でこちらを向いていた小さな顔もうなずいた。
Dに見られて、ビアスは肩をすくめ、ワイズマンは大あわてで手を振った。
「あたし、何だかわかるよ」
とマリアが唇を歪めた。
「ここの“神”さまって、ヤな奴だよね。根っから腐ってると思う。何てったって貴族の“神”だもんね。人間の弱いところにそっと忍びこんでさ、多分、“神”さまの力かなんかで。それを真正面から見せつけて、おまえらは弱い人間だとか何とか言うんだよ。違うって言えるわけないじゃん。本当に人間って弱いんだからさ。そこへ奇蹟を起こしてやろうとか、おれが助けてやるとか、甘いことささやくんだ。もう堪らないよ。自分は屑だの滓だの、反吐が出るくらい見せつけられてるんだもの、みんなすがりつくさ。助けてくれと言うよ、本当の救いの“神”なんだもの。それでストウさんは変わっちまった。でも、それって、あの人のせいなのかい? だったら、あたしたちみいんな、“神”さまにひとことささやかれたら、ああなっちまうよ。そして、こう言うよ。――何が悪いんだいって」
マリアは鼻声になっていた。応じる者はいない。必要がなかったのだ。マリアの言葉は正しいと、みなわかっていた。
Dの左手のあたりで、嗄れ声が彼にしか聞こえない声で、
「嘘をついておる奴がいるぞ」
と言った。
「みな、片づけるか?」
返事をせず、Dは一同に、
「まだ、外の刺客がいる」
と言った。
「そして、“神”は滅びていない。おれはまた出掛ける」
「ご苦労なことだな」
とビアスが声をかけた。畏怖の響きがある。
「ここの“神”は、どんな“神”なんだ? 貴族は何のために――?」
「滅びのためだ」
とDは奇蹟のように答えた。
「なに?」
「この砦の“神”は滅び神――彼の手を借りて、貴族たちは死ぬ――滅びるつもりだった」
「まさか。どうしてよ?」
とマリアが眼を丸くした。
「不老不死の貴族が死にてえって? 信じらんねーよ」
これはジャンである。
ベッドのストウ夫人も呆気にとられている。
Dは一同を見廻した。静かな深い瞳から、みな眼をそらした。
「貴族になりたいと思ったことはないか?」
この問いに、全員が虚を衝かれたような表情を見交わした。
「そんなことねーよ」
「まさか、ねえ」
「馬鹿なことを言うな」
これは、ワイズマンである。Dは冷え冷えと続けた。
「老いず死なず――これに憧れる人間がいてもおかしくはない。だが、貴族にとっては、ある意味、厄介なことらしい。永劫の生命とは、決して羨むべきものではないと、多くの貴族が書き遺している」
「わからないわ。ねえ、不老不死の存在が死ねるの? いえ、心臓を貫くか首を斬ればいいのは知ってるけど。なら、どうして“神”さまがいるのよ?」
「自分で滅びるのはなかなか大変らしい」
とD。
「そして、“神”にも貴族は滅ぼせはしない。不老不死ゆえにな。そこで考えた。“神”にこの世を消滅してもらおう、と」
「それは――人間を皆殺しにしろってことだな」
ワイズマンの唇は震えていた。
「そうすれば、人間の血を吸う貴族も呉越同舟だ。とんでもないことを考える奴らだ。なるほど、“神祖”が阻んだのも無理はない」
「D――“神”は斃せそうか?」
とビアスが不安そうに訊いた。
正解が返ってきた。
「わからん」
「もうたくさんだぜ、おい」
とジャンが喚き出した。腕時計を眺めて、
「これ以上、こいつを当てにできるかよ。じきに夜明けだ。“神祖”の軍も昼間は休憩するだろうさ。そうしたら逃げ出すべきだよ。おれはもう行くぜ」
「自信がついたか」
Dの言葉は、ジャンのみならず全員を凍結させた。
何ともいえない視線の集中を浴びて、ジャンはあわてた。
「な、なんだよ、おめーら、その眼は? おれが“サクリ”になったってのかよ? 見てみろ、ほら、何処にも歯の痕なんてねーぜ」
と首の周りを示しても、みなの視線に変化はない。いったん、貴族がらみの疑念がとり憑くと、どんな些細なものでも当分は拭えない。
その頭上へ白光が一閃した。
「ひいっ!?」
と叫んで身をすくめた頭の上で、Dの刀身はまさしく間一髪で止まっている。
Dがそれを収めたとき、窒息寸前の空間へ、どっと安堵という名の空気が流れこんだ。
「なあ、Dよ」
とビアスが呼びかけた。
「別にジャンの意見に賛成するわけじゃないが、おれたちにしてみれば、一理ある意見なのは確かだ。これ以上、あんたが“神”を斃すのを待っていては、こちらの身が危《あやう》くなる。脱出ルートはあるか?」
「あれば、最初から教えている」
「――すると、我々の力だけで包囲を脱けねばならないな。これは難題だ。やっぱり待つか」
「呑気なことを言うな」
とジャンが喚き、
「そうだ、“神祖”の軍が侵入してきたらどうする? こんな退避壕、一発で破られちまうぞ。逃げよう」
とワイズマンも尻馬に乗った。
「それこそ、自信があるのか?」
ビアスの冷静な声に二人は沈黙した。
鋭い音が鳴った。誰かが手を叩いたのだ。
ベッドの方だった。
トトのベッドの横に、マリアが立っていた。
「あんたたち、逃げ出すのはいいけど、子供と年寄りのことも考えてよ。特に護送官さん、あなたにはこの二人に対する責任もあるんじゃないの?」
かすかな揺れが伝わってきた。
「攻撃が再開されたな」
とDが言った。
「おれは仕事に出る。おれの条件は、それが終わるまで待つことだけだ。決めるのはおまえたちだ」
沈黙が落ちた。
「ひとつ、手がある」
とDが言った。
「――何だい、それは!?」
とマリアが眼を剥いた。
「なんで、もっと早く――」
「おれと“神”のもとへ行くか?」
今度こそ、全員の口があんぐりと開いた。
2
「足手まといじゃぞ」
こうささやいたのは、無論、嗄れ声である。
「こ奴らのことなど、“神”退治の後で考えればよい。余計な気配りは無用だ。えーい、おまえは時々――」
この声に、いきなり、
――面白い
と、天が応じた。
マリアが悲鳴を上げて、少年に抱きついた。
全員が天井を見上げた。五メートルもないそこは、いつの間にか暗黒に変わっていた。その背後に広がっているのは無限だと、誰もが納得した。
「“神”が来たのか」
ビアスがよろめいた。
――よくやったぞ。わしを斃した奴と同じ力を持つ男よ。わしも“神”として約束を守ろう。いま、わしは聖域の屋上におる。そこまで来い。そこでわしに勝っても負けても、人間たちは望みの場所へ送り届けてやる。だが、道のりはきついぞ
「おれと戦う約束だ。残りはすぐに連れて行け」
――それでよいのか? おまえがいなくなれば、残る二名がここを襲うかも知れん。あの人間に少し手を貸してやったのは、奴らも知っておるからな
「しゃべったのか」
天井の彼方の闇に潜むものが、声もなく笑う気配があった。
――待っているぞ。おまえひとりでも、仲間と一緒でも、な
見上げる視界に灰色の天井が戻った。黒いすじが蜘蛛の巣のように広がった。
「亀裂だ――出ろ」
Dの声に、コンクリートの破片が降り注いだ。
まだ地響きのつづく退避壕の出入口を恨めしそうに眺めてから、マリアは一同をふり返った。
「食糧も薬も水も、あン中よ。こうなりゃ、行くしかないわね」
「屋上か。近そうだが、大分かかるだろうな」
とワイズマンがため息をついた。
「子供はマリアにまかせる。ストウさんはジャンが面倒を見てやれ」
「冗談じゃねえ、てめえが見ろ」
ジャンが荒々しく歯を剥いた。
「さっきまでおとなしくしてたのが、急に強くなったじゃねーか。おい、あの爺さんに何か吹きこまれたのは、おめえじゃねーのかよ?」
「なにィ」
ワイズマンの手が腰のモーター・ガンにかかる。打てば響くとばかり、ジャンも蛮刀を抜いた。
舌打ちしてビアスが割って入るより、マリアが前へ出るのが早く、それよりも――
「待って下さい」
弱々しい声の方が早かった。
石壁にもたれかかったストウ夫人は、哀しげな眼で二人を交互に見つめた。二人の顔から凶気が消えた。
「私のことなんか気にしないで行って下さい。私は残ります」
「とんでもないわよ、お婆さん――みんな一緒に行くのよ」
とマリアが駆け寄って肩をゆすった。
夫人は横に首をふった。
「あなた、本当に親切な方ね。正直に言いますと、私、あなたのこと軽蔑していましたのよ。酒場なんかに勤めてる方だって。でも、五十年も一緒にいた夫より、あなたの方がずっと親切にしてくれました。信じてはもらえないでしょうけど、いまは本当に感――」
マリアは白髪頭を抱きしめた。
「いいのよ、わかってるわ」
と言った。
「だったら、なおさら放っておけない。何が何でも連れてくから。立てる?」
「ええ――何とか」
夫人はうなずいた。閉じた眼から涙がこぼれ落ちた。こんなところに置き去りにされたくないに決まっているのだった。
「歩ける?」
「ええ。少しは」
「なら、大丈夫よ。ねえ、お婆ちゃんはあたしが連れてくわよ。文句ないわね」
「いいだろう」
とビアスが言った。
「勝手にしな。おらあご免だぜ。あんた方とは別のルートで逃げることにしたよ」
「ほう、どんなルートだ」
とワイズマンが訊いた。
「内緒だよ。おめーなんかに一緒に来られちゃ敵わねえからな。とにかく、おれはひとりで行く――文句はねえな、Dさんよ」
それから彼は口を閉じ、ゆっくりと近づいてくる黒い影を見つめた。
「な、何だよ、文句でもあンのかよ?」
「おまえが“神”の力を得ていないとは限らん。そして、おれは“神”を始末するのが仕事だ」
次の瞬間、ジャンの姿は六メートルも向うの通路上にあった。人間技ではあり得ない跳躍に、全員が眼を剥いた。
「やはり、か」
ジャンの眼が血光を放ち、開いた口の中には鋭い牙が見えた。
「そうともよ。“サクリ”とあの爺さんのおかげで、いまはこんなに元気だぜ。おい、おめーら、おれをただのチンピラやくざだって小馬鹿にしてやがったな。後ろからこっそり尾けてって、ひとりずつ吸い殺してやるつもりだったが、気づかれちゃ仕様がねえ。いま、ここでひとりふたり片づけてやらあ」
「できるか?」
と愉しそうな嗄れ声。
「ああ、見てやがれ!」
ざっと彼は蛮刀をふり上げ、打ち下ろした。
その身体がすうと前進したのである。いや、もとの身体はそのまま、青白い瓜ふたつのジャンが、幽鬼のように本体から脱け出たのだ。
Dの一刀が胴を薙いでも、彼は止まらず、Dの左肩に蛮刀を打ちこんだ。
刀身がよけた。よけられたはずの蛮刀は刀身を通過し、Dの首すじにめりこんだ。血の一滴も出ないのに、Dは片膝をついた。
新しいジャンがにやりと笑った。
Dがその身体を貫いて走った。
後方に直立したジャンの本体へ、刀身が躍った。
身の毛もよだつ叫びを放ちつつ、もうひとつのジャンの身体は空中に片手をのばしたまま一回転して消えた。
頭頂から股間まで縦に裂かれた実体が、ふたつに裂けて床に落ちたのはその後であった。
Dは刀身を収めた。見つめる一同の表情は虚ろだった。牙を剥いたジャンよりも、それを斃したDの刀法の方が、遥かに戦慄的だったのである。
だが、Dは片膝をついた。
「どうしたのよ?」
とマリアが、ビアスに訊いた。
「幻の与えた傷だが、痛みは本物らしい」
「まさか」
マリアの返事に応えるかのように、Dは立ち上がった。
「他に残りたいものは?」
「とんでもない」
とワイズマンが白ちゃけた顔で肩をすくめた。
「さ、行くわよ。二人とも」
マリアが老夫人と少年に声をかけた。二人は立ち上がった。
エレベーターが停まっているため、一行は階段を上がるしかなかった。
二階で老夫人がばてた。
「もう駄目よ、やっぱり。――お願い、先に行って」
すり切れたような哀願を無視してマリアはトトの手を離して、身を屈め、老夫人の方へ背中を向けた。
「いいから。二階分上がっただけでへばってちゃ、とっても上まで行けないわよ。よくここまで頑張ったわね」
「でも……」
哀しげな表情に黒い影が兆した。
黒い腕が細腰に巻かれるや、老夫人は軽々と持ち上がり、ひょいと宙に舞うや、Dの背にしがみついていた。
マリアばかりか、残る三人が茫然とする中、きょとんとした老夫人を背に、Dは無言で階段を昇りはじめた。マリアはトトを見た。
「歩けるわね?」
と訊いた。
「うん」
と少年は答えた。
「いざとなったら、あのお兄さんが守ってくれるわ。でも、人の手を借りたら駄目よ。借りていいのは」
ここで声をひそめて、
「お婆さんだけ――いいわね?」
少年はうなずいた。
「じゃ、行こう」
「うん」
二人は階段を昇りはじめた。後ろの二人の方は見ようともしなかった。何となくバツが悪そうな顔を見交わしてから、男たちは後を追いはじめた。
三階へ上がったとき、白いものがDの足下にまつわりはじめた。
「霧だわ」
と背後でマリアがつぶやいた。床下の奥から吹きつけてくる。
「用心しろ」
Dが短く言った。短くてもこの若者が言えば、第一級非常警報だ。霧の出る天気ではないのは百も承知だ。
「マリア」
とDが呼んだ。
「あ、はい!」
「受け取れ」
すでに影としか見えないDの姿が動くと、ストウ夫人が飛んできた。
いくら何でもむちゃな渡し方である。かろうじて受け止めたものの、夫人の体重プラス速度は、マリアを後ろへよろめかせた。
「下りろ」
Dの指示に、階段の下を向くと、妖々と上がってくる白霧を見た。
「駄目よ、D。下も霧が」
Dを包んだ霧に向かって叫び、マリアは息を呑んだ。
霧は赤く変わっていた。
「D!」
叫んだ腕をワイズマンが捉えた。
「おい、上へ行くぞ」
「駄目よ、霧の中でDが――助けに行って」
「上へ行け」
とビアスがマリアの肩を叩いた。
「Dはおれが――」
ワイズマンがモーター・ガンを抜くのを、マリアが信じられぬ面持ちで見つめた。
武器をふりかぶったとき、ビアスが殺気に反応した。
ふり下ろされた銃身を、彼は左手で受けた。凄まじい衝撃はスチーム・ハンマーに似ていた。
受けた姿勢で、ビアスは膝をついた。痩せこけた役人が戦闘士を打ちのめしたのだ。
ワイズマンが脇腹を軽く蹴ると、ビアスは勢いよく廊下を転がった。
「あ、あなた……」
「来い。三人とも、な」
とワイズマンは笑った。
真っ赤な唇の端から、二本の牙が生々しく剥き出された。
3
霧が全身に染み通っていくのを、Dは感じた。
血流に変化が生じたのは、その刹那であった。
猛烈な勢いで血管から漏出し、毛穴から――いや、細胞膜の隙間から噴出した。
血が視界を奪った。自分の血が。
その瞬間、凄まじい殺気が前方から噴きつけた。
ぎん[#「ぎん」に傍点]と鼓膜を貫く金属音と火花を上げて、Dの頭上を越えて廊下の何処かに着地したものがある。
暗黒の中で間一髪抜き合わせたDの夢想斬りともいうべき一閃に、不意討ちを破られた敵だ。
「やるな」
と機械音に似た声がかかった。
「だが、おれも“神”と戦った男だ。やわか、人間ごときに敗れはせんぞ。この霧で“神”は血と視界を失い、片腕を失ったのだ。おれたち三人は、今日のために“御神祖”から技を授けられたのよ」
口舌を聞く間にも、Dの全身から血は流れ落ちていく。見る者がいれば、Dは人の形をした赤い塊だ。
がっくりと彼は片膝をつき、一刀にすがって立った。
その前から、否、後ろから、否、右から、否、左から、
「見えるか、おれが?」
そして、何かが音もなくDへと流れ寄った。
その瞬間――
「見える」
樹々みな凍らせる木枯しのごとき声が聞こえたかどうか、異様な響きに、人のものとは思えぬ苦鳴が混じって床へと流れ、どっと数メートルそれがつづいて、すぐ静かになった。
Dは反転した。背後の気配に身構えたその両眼は固く閉じられたままだ。
「おれだ、ビアスだ」
と気配が苦しげに声をかけた。
「ワイズマンが“神”の手にかかっていた。マリアとトトと婆さんが攫《さら》われたよ。済まん、不意討ちをかけられた――多分、人質だ」
「もうひとつある」
Dは刀身をひとふりした。床に血が飛んだ。いつもなら、血糊ひと粒つかせる刃ではない。出血のせいで衰弱の極みにあるのだった。
「――何だ、それは?」
とビアスが訊いた。霧のなかでも顔がうすく見える。魔霧は去りつつあった。
「生贄だ」
「………」
「“神”はいまも動けん。ようやく自由になった片腕もやられた。ふたたび“神”として君臨するためには、生命が必要だ。――上へ行ったか?」
「――と思う」
「役立たずめが」
反射的に、何を、と激怒し、しかし、その声は違う、とビアスが思い返したとき、Dはもう、わずかによろめきつつ階段の方へと向かっていた。足下に落ちる影は鮮血であった。
「この上が屋上だ」
最後の一段を踏んで、護送官は天井を見上げた。
右手にマリアを、左手にトトの手を握り、ストウ夫人は背中に負っている。
「“神”さまが待ってるのね。あたしたちをどうするつもり?」
マリアがにらみつけた。
「“神”に訊くといい」
「結局、任務は果たせたわけね。いまは私たちの護送」
「そうなるか――少なくとも、あの二人は出し抜いてやったぞ」
「ねえ、それがストウさ――」
と言いかけて、老夫人に気づき、
「――“神”の奴隷になった理由?」
「他にあるか」
マリアは自由な方の片手で顔を拭った。
「そんな情けない有様だから、貴族に家畜扱いされるのよ」
「何でもいい。私は北の名家の出だ。ワイズマンという名で気がつかなかったか?」
「全然」
わざと小馬鹿にしたような声を上げると、ワイズマンはにやりと笑った。剥き出しになった牙に、マリアはぞっとした。
「私の家は代々、法律家だった。祖父は辺境裁の最高裁判長、父は大陪審委の委員長だった。その後は兄が継いだ。次兄は弁護士になって、『都』で開業している」
「ワイズマン弁護士――知ってるわ。あんた、あの人の弟? よくもまあ、不出来なのが」
「何とでも言うがいい。いまのおまえの言葉は、私にかかわってきた連中すべてが私に聞かせてくれた台詞《せりふ》だ。ワイズマン家の坊ちゃまがなんて出来の悪い――あるいは、たかが囚人の護送官だなんて。おやじにはとっくに勘当されたよ」
「でしょうね」
「……だが、もう誰にもそんな口はきかせんぞ。この砦を出たら、私は『都』へ行く。そして、父と兄貴たちにこの姿を見せた上で、首を引きちぎってくれる。“神”に近いものには、それだけのことをする権利があるのだ」
「“神”にねえ」
とマリアはしげしげと、狂気にとり憑かれた名家のぼんぼんの顔を見つめて、
「――だったら、屋上にいるのは“神”なんかじゃないわよ。あんたみたいな、おかしなプライドに凝り固まってるだけの坊やに力を与えるなんてね。ねえ、覚えてる? ボートの上で、みんなを救うためにその武器を使ったときのこと。わたし、惚れ惚れしちゃったけどね」
ワイズマンの顔に、動揺が走った。
「私がただの人間だったときのことなど言うな。それに、おまえたち、“サクリ”とストウのささやきに耳を貸さなかったのか?」
三人は――ワイズマンの背のストウ夫人も――顔を見合わせた。
「とぼけているのか、それとも、まだ力を得たことに気づかないのか。さっきまでわからなかった私のようにな。まあ、いい――行こう」
「ねえ、こんな子供でも、みんなを救うために何かしようとしたわ。あんた、“神”に近いかどうか知らないけど、恥ずかしくないの?」
「そのとおりですよ」
ワイズマンの背中で、ストウ夫人の声がした。
「人間だってそうじゃなくたって、“神”と名のつく存在なら、大事なものは何かわかるはずです。降ろして下さい。私は自分の足で歩きますよ」
言うなり、夫人は床へ跳び下り――ワイズマンの両手はふさがっていた――咳きこんだ。
マリアは男の手をふり払おうとしたが、うまくいかなかった。夫人は見ていられないような動きで立ち上がり、
「さようなら、マリアさん。あたしは自分で自分の最期の場所を決めますわ。――お元気で」
こう言って、もと来た方へ歩き出した。最期の場所などありはしない。それでも夫人の背は真っすぐにのび、足取りにも力が漲《みなぎ》りつつあった。
マリアは自由になった。ワイズマンが手を離したのである。夫人の方へ駆け出そうとして、立ち止まった。勘が閃いた。向きを変えて跳びつこうとしたとき、ワイズマンはすでにモーター・ガンの銃身を、老女の背に向けていた。
「やめて!」
マリアの叫びは、殺人者の気を変えたようであった。
遠心力を利用してトトを放り出したとき、身体はすでに背後を向き、廊下の奥――一〇メートルも向うの人影に引金を引いていた。
百分の一秒間隔で弾丸を叩きこまれながら、ターバンを巻いて衣裳にした少年は、あどけない微笑を返し、
「遊ぼうよ」
と言った。
ワイズマンの口が開いた。口腔は火のように紅く、二本の牙がひどくはっきりと見えた。
地を蹴ろうとした足が、いきなり、つけ根からもぎ取られた。そうとしか思えないちぎれ方であった。
獣の咆哮を上げてのたうつ“神”に近いものの前にやって来て、少年は手にした人形からもぎ取ったばかりの両足を、彼の鼻先に放った。
「まだ遊ぶ?」
瞳にマリアとトトが映っている。
少年が人形を高く掲げた。粘土か何かでこしらえたらしいその顔は、確かにワイズマンのものだったのに、瞬きひとつの間にトトに変わった。
「こうやって、“神”の手をちぎったのさ」
少年は誇らしそうに言って、トトの人形の首に手をかけた。
次に起こるべき瞬間を脳裡に浮かべて、マリアは眼を閉じた。
ぼん、と紙袋が破裂するような音がして、その予想は裏切られた。
少年はいなかった。彼のいた場所には黒いなめし皮を思わせる大蛇のような触手が、大きな瘤をつくっていた。瘤の下から二本の足が見える。すぐに血がしたたりはじめた。
「“神”よ、よく救けに――」
感極まったように呻く床上のワイズマンの位置に、次の瞬間、瘤ができていた。骨の砕けるような音がした。護送官の悲鳴が聞こえたような気がして、マリアは耳を覆った。
それは、こう言ったようである。
「“神”よ、なぜ私を――」
触手が近づいてきた。トトを抱きしめ、マリアは眼を閉じた。
その胴に柔らかいものが巻きついた――と見る間に、風が頬に当たった。胴への呪縛は消えていた。
眼を開くと屋上だった。
マリアの両側には黄金色のタンクや宇宙通信用のレーダー・ドーム等が並んでいたが、彼女の眼を奪ったのは、途方もなく巨大な――恐らくは屋上の三分の二を占める触手の集積だった。
片腕はなく、いま彼女とトトをここへ導いた触手がもう片方の腕なのだとすれば、それは途方もなく長大なもののようであった。
何処かに胴か頭が見えないかと眼を凝らしてみたが、山のようなとぐろの他には何も見えなかった。
「マリア……さん」
背後の声はストウ夫人のものだ。触手は逃がさなかったらしい。
「大丈夫です。昇降口はどの辺ですの?」
「すぐ後ろよ。十歩も離れていないわ」
震え声だが、内容はしっかりしている。マリアはこの老夫人を見直した。
「じゃあ、私が声をかけたら、そこへ走りこんで下さい。いいですか?」
「ええ」
マリアはタイミングを測った。触手の塊はいやらしく蠢いているくせに、先頭が見つからない。
――とにかく、逃げればいいか。
こんな不気味なものを見ているくせに、足がすくまないのが不思議だった。
「三つ数えるわ――ひとつ」
足に力を入れた。
「ふたつ」
今だ。
「みっつ」
言うなり後ろを向いた。
腕の中の少年が強い力で引かれた。
悲痛な叫びはマリアのもので、少年は床の上で、マリアの左手の指をまとめて握っていた。
「逃げるのよ」
と喚いた。
「駄目だよ、そんなことしちゃあ」
少年はマリアと――立ち止まったストウ夫人の血を凍らせてから、ゆっくりと笑顔をつくり、いままで隠していた牙を剥き出してみせた。
4
「トト――あなたまで……」
これだけを絞り出すのが精一杯だった。マリアは血も凍った。
「そんな顔しないで」
トトの声には、前と同じ、気の弱い分のやさしさが含まれていた。マリアの失神を防いだのは、それだったかも知れない。
「あなた方だけを捧げはしません。僕も一緒に行きます」
「ちょっと、手ぇ離してよ。あんたはそれでいいかも知れないけど、あたしはごめんよ。こうなったら、お婆さん連れて逃げなきゃなんないの、邪魔しないで」
少年は細い眉をひそめた。
「おかしいな。あなたは二人のささやきを聞かなかったんですか?」
「聞いたわよ――実は」
「じゃ、どうして?」
「あんなもの、乗れるわけないじゃないの。おまえは不幸だの、親に捨てられ、旅廻りのジプシーに売られて辛かっただの、大きなお世話よ。そんなことにいちいち腹たててたら、世の中、生きていけないんだからね。あたしは捨てられたとき、親の指を噛み切ってやったし、虐《いじ》めようとした奴は、男だろうが女だろうが、先輩だろうが、金持ちだろうが、三倍返しをしてやったわ。苦しくなかったとは言わないけどさ、自分のやりたいように悔いのないように生きてきたわ。おかげで誰も怨んじゃいない。あんな情けない誘いに乗るつもりなんか、さらさらないわ。ま、他の人はよくわかんないけどさ」
「――羨ましいな、そういう女《ひと》」
「そう思うなら、逃がしてよ。いや、一緒に行こう。ね、それがいいよ」
マリアを見つめる少年の眼に、ひどく和やかな光が浮かんだ。さっきまでマリアの胸に抱かれていたのと同じ光だった。
少年の指が離れるのをマリアは感じた。
「馬鹿――おいで」
とのばした手から、トトは足も動かさずに遠のいた。
「坊や」
とストウ夫人が両手をのばした。
トトの口もとにうすい微笑が浮かんだ。牙は生やしたままの、それは人間の笑顔だった。その胸へ背後から黒い塊が突き抜けた。
「トト!?」
「坊や!?」
二人の女の絶叫を土産に、触手というにはあまりに長大なものが少年を持ち上げるや、凄まじい勢いで彼方へ放り投げた。
青い血潮だけを虚空に引いて、水のような光の中を少年は消えた。落下地点は数十キロも先に違いない。
「よくもやったわね――あんなにいい子を、よくも」
マリアは涙を拭った。
眼前に触手がそびえ立っている。巨大な柱というより塔を思わせた。
トトのように刺し殺されるまでにらみつけていてやろうかと思ったが、彼女にはまだ助けなくてはならないものがあった。
「そっと下がって」
と背後の老夫人にささやいた。
「はい」
「走るわよ、いい?」
「はい」
「いまよ!」
マリアはふり向いた。眼の前に昇降口はなかった。壁のような触手が行手をふさいでいた。
こりゃ、駄目だわ――絶望が胸に歯を立てた。
――来い
と、地下で聞いた声が言った。
「ごめんね、お婆ちゃん――おしまいだわ」
「そんな、謝らないで下さいな。あなた、本当によくして下さいました」
「ひとつ訊いていい?」
「何なりと」
「お婆ちゃん、誘われなかったの?」
ストウ夫人はやさしく笑った。
「いいえ、あの夫《ひと》にしつこく。でも、あたしも他人を怨んだことないんですよ」
「お互い、それだけが救いよね」
「本当に」
どちらからともなく抱き合った。マリアは触手をにらみつけた。
突然、それは激しく痙攣して、消失した。
その背後に昇降口が見えた。
いま、そこから二つの影が、長剣と紅い鋼矢とを手にこちらへ向かってくるところだった。
先頭の若者は黒ずくめのはずが朱く染まっていた。
「D」
「まかせたぞ」
短くビアスに放って、Dは黙々と女たちの横を過ぎた。
――よく来た、力持つものよ
“神”の声が降ってきた。
――だが、わしは何もせん。おまえがあ奴[#「あ奴」に傍点]と同じかどうか見てやろう
Dの身体が空中に躍った。
一度だけ触手の上で跳ね、マリアには見えぬ黒い山の頂に吸いこまれた。
その寸前、長剣を高々とふりかぶるのをマリアは見た。
それから生じたのは、奇妙な出来事だった。
次の瞬間、マリアは荒涼たる平原に立っていた。前方にDが、大地に一刀を刺した姿勢で立っている。ふり向くと、三メートルほど向うにストウ夫人とビアスの姿が見えた。
ふと気がついた。陽が高い。太陽の位置からすると、昼近いだろう。
Dが近づいてきた。
マリアが何か言う前に、
「約束は守ったな」
「え?」
「ここへ運んだ。幹線道路が走っている。じきにバスが来るだろう」
Dのずっと後ろに、赤茶けた大地を走る白い筋が果てしなくつづいていた。
「“神”は?」
「消えた」
その通りだが、愛想もへちまもない返事だった。
「なんだか、おかしいよ、空が――」
「“神”のしわざか?」
ビアスがDに訊いた。
美貌がうなずいた。
「断末魔がこの星の自転を速めた」
マリアは声も出なかった。
「あんたのおかげで、あたしたちは助かったらしいけど――あんたはどうして、ここへ?」
返事はない。そうだろうと思った。
「老人はおまえを誘ったか?」
とDがマリアに訊いた。
「ええ、一度だけね。トトには大見得切ったけど、正直、何回もやられてたら、あたしも誘いに乗ってたかも知れないよ。そういや、どうしてしつこく誘わなかったのかしらね?」
Dの拳が鼻先に突きつけられ、指が開いた。
黄金のペンダント。
「“サクリ”の形見だ」
傾けた手からこぼれる光をあわてて受け止め、
「どうして、あたしに?」
「奴がそれを贈るはずの娘は、マリアという名前だった」
「………」
「“サクリ”はおまえを誘ったか?」
マリアはかぶりをふった。だからどうしたというのだろう。Dは何かを知っているのだろうか。
だが、マリアはすぐに考えるのをやめた。過ぎたことだ。他に、しなくてはならないことが山ほどある。
「ところで、D」
ビアスが声をかけた。彼は途方もないことを口にした。
「――おれも誘われた」
マリアと夫人が後じさった。どちらも蒼白であった。
「もう一度、若いとき以上の力を与えてやると言われてな。我ながら情けない話だ。笑ってくれ。だが、そうなると試してみたくなる。吸血鬼ハンター“D”を相手にな。受けてくれるか?」
Dは右手を柄にかけた。
「ありがたい。存分に行くぞ」
腰を落として投擲《とうてき》の姿勢――両手にはすでに鋼矢が必殺のときを待っている。
二人の距離は五メートル。
凄まじい殺気が凝結する中で、マリアはストウ夫人の声を聞いた。
「バスよ」
Dが地を蹴った。
疾風のごとく走り寄る。朝の光に否を唱える美しい闇の名残りだった。
鋼矢が迎え討った。
打ち落とさずにDは跳躍した。紅い流れを越えた自らの軌跡の頂で、Dはよろめいた。
ひとすじの矢が左肩を貫いていた。Dすらも避けられなかった一本こそ、“神”の与えた力によるものか。
着地と同時に新たな矢が走る。それをはじき返すと同時に、Dは刀を手裏剣打ちに投げた。
それは、なおも投擲の姿勢を取っていたビアスの心臓を貫き、勝敗を決した。
「これが、あの子の辿ってきた道か――Dよ、おれはまだ、ましだ……ったぞ」
口から青い血の一塊を吐いて、彼は前のめりに倒れた。赤茶色の砂塵が舞い上がって、その身体を埋めた。
「助けてもらったな」
とDが言ったのは、その砂が収まってからだ。
マリアはうなずいて、何処かで朽ち果てつつあるトトのことを想った。
ビアスが“神”の第二矢を放つ寸前、四人は怖るべき恐怖を実感したのである。
それはトトが小さな精神《こころ》の中に秘めてきたものであった。生まれたとき、父の手で間引かれようとした赤児時代の恐怖、厄介ものと虐待されつづけた幼児期の怯え。マリアとストウ夫人は立ったまま失神し、ビアスは戦慄した。Dのみが耐えた。それこそが生と死を分かつものであった。
警笛が鳴った。道端に止まったバスが呼んでいる。
D、とマリアが呼びかけた。
「あたし、あの子を探してみるわ。死ぬまでにきっと見つけ出してみせる」
「喜ぶだろう」
Dは静かに刀身を収めた。
二日後のことである。
東部辺境区の長距離バス・ターミナル駅に三人の客が下りた。
ひとりは、バス待ちの客たちが失神しかかったほどの美しい若者であり、あとの二人は若い女と品のいい老女であった。
二人が駅舎付属のマーケットの方へ向かい、老女だけが別のバスの乗り場へ移った。
少し離れたところにいた同じバスを待っている旅人が、見るともなしに老女を見ていると、何処からともなくひとりの老人が現われ、背後から老女の肩を抱いた。
旅人にも届かなかった二人の会話は、次のようなものである。
「迎えにきたよ、おまえ」
と老人が耳もとでささやいた。
「まあ、でも、私は何処へも行きたくなんかありませんよ」
老夫人は幾分か面倒臭さそうだった。
「このまま、あのお二人と一緒に旅をしたかったのに」
「嘘をおつき。おまえだって私の誘いに乗ったじゃないか。さあ、恩知らずの息子どもを懲らしめに行こう」
「私はあなたと違って、あの子たちを怨んだりしていません。いいえ、誰も、怨むなんて――」
それから、はっきりとこう言った。
「あなただけは、別にしてね」
そして、ふり向くなり、夫の胸をDから護身用に渡されていた短刀で刺し貫いていた。
老人は眼を見開いた。口の端から牙と――青い血がこぼれた。
「そうかい……おまえが怨んでいたのは……私だったのかい」
「そうですわね。いろいろありましたものねえ。あなたは覚えておらず、私だけがいつまでも忘れられないことがね。でも、ご安心なさい。ひとりでは行かせませんとも」
「そうかね……ありがたいことだ」
こう言って、老人は消滅した。
老夫人の背が震えているのを旅人は目撃している。泣いているのかも知れなかった。
やがて、夫人はこちらを向き直り、旅人に気がついて一礼すると、また向きを変えて、マーケットの方を眺めた。長いことそうしていてから、さっきから手にしていた短刀で夫人は胸を突いた。
D―『邪神砦』完
[#改ページ]
あとがき
読了した方、
「わあ!?」
と驚かれたでしょうか。ま、これは大仰ですが、今回のDはやや異色作です。どう異色かと書くと、なんでえと作者を罵る読者が出てくる怖れがあります。書きません。読んでみて下さい。
最終回の五〇枚を徹夜で完成させた後、午後一時から20世紀フォックス社の試写に出かけました。
うーむ。なかなかきついものがありましたですね。
しかも、前の席に座った女性が、どういうものか椅子に深く腰かけて――つまり、思いきり背すじをのばして――いるのです。このヤロー、どついてくれると思いましたが、何とか我慢しました。
映画はブルース・ウィリス主演の「バンディッツ」でした。ただ、これは仕事ですので、論評も感想も書けません。面白かった、とだけ。しかし、あの女優――鈴木紗理奈に似てるよな。ヘンなの。
帰りにフォックスの方から、別のロードショー予定作品のパンフを頂戴したら、ジョニー“スリーピー・ホロー”デップ主演の「フロム・ヘル」。十九世紀末のロンドンに暗躍した実在の殺人鬼・切り裂きジャックを描いたホラーで、デップ君はジャックの正体を探る検察官を演じます。どちらかというと、こちらが私向きですか。試写が愉しみです。
私も「切り裂き街のジャック」というSFで、この殺人鬼に挑戦したことがありますが、私の興味はジャックその人よりも、十九世紀ロンドンの再現に向けられていました。映画の監督と製作者が同じ趣味であることを切に望みます。
Dからそれてしまいましたが、ガス灯の点る闇の『都』。石畳の道を渡っていく馬車、死霊のごとくさまよう霧、路地裏に蠢く人々、迷路のような街並み――そして、そこに跳梁する黒衣の影。これも、Dの、私の世界です。
では、「D―邪神砦」をお愉しみ下さい。
二〇〇一年十二月某日
「スリーピー・ホロー」を観ながら
菊地秀行