D―邪王星団3 〜吸血鬼ハンター12
菊地秀行
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目次
第一章 攻防戦
第二章 ミランダ公爵夫人
第三章 スーラ
第四章 八人目の刺客
第五章 マシューの血
第六章 魔の国へ
第七章 死の罠
あとがき
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第一章 攻防戦
静かだった。
外での攻防は、砦の内部に一切届かない。神祖の技術は、敵の攻撃をことごとく跳ね返す障壁《バリヤー》となって生きていた。
遠方から見れば、砦は青い光の環に包まれていたに違いない。絶え間なく射ち込まれるリチウム原子弾と陽子ミサイルの仕業であった。
だが、砦の対空兵器は飛来する死の鳥を次々に撃墜し、放たれるレーザー・キャノンと粒子砲は敵軍を次々に灼き尽くした。誰の眼にも、砦の堅牢さには毛すじほどのゆるぎもないように見えた。
指揮所のエレベーターが開いて、黒ずくめの美丈夫が現われた。電子アイの焦点を合わせたアンドロイドたちの動きが一瞬、停止する。あまりの美しさに、電子脳すら束の間の回路不調に陥ってしまったのだ。
青いたそがれに包まれているような指揮所を一瞥し、Dは、
「伯爵はどうした?」
と訊いた。
「ここにはおりません」
と、アンドロイドの一体が応じた。
「どうしても、戦いを遠望するのは性に合わん。打って出るぞ、とおっしゃいまして」
「位置はわかるか?」
とD。
その眼の前の空間に、広大な光の図面が現われた。砦の見取り図である。一点に朱色の光が点っていた。
「第二武器庫でございます」
と、アンドロイドが告げた。
構えを見れば力量がわかる。八双に構えたスーラを一瞥して、伯爵は、
「やるな」
と笑顔をつくった。強敵に会えば燃えるのが戦士の性質《さが》だ。
中段から下段へ、大槍の穂先を下げる。誘いであった。
スーラは乗った。一歩出て、伯爵の右頚部へ渾身の一刀を叩きつける。
こちらが早い、と伯爵は見切った。
すでに槍は敵の切尖《きっさき》を跳ね上げて――空を切った。
鼻を突き合わせそうな顔前にスーラの顔を見た。機械が眼鼻をつけたような特徴のない顔であった。
首すじに鋼が食い込んだ。それは伯爵の皮膚も内臓も水のように切り裂いて、背骨に当たるまで許さなかった。
「治してやりたいが」
とスーラは、奇妙な言葉を口にしてから長剣を引き抜いた。
彼は伯爵が倒れる前に心臓を貫いた。
敵の攻撃は熄《や》むことを知らぬようであった。
新たなミサイルが障壁《バリヤー》の表面に炸裂するや、それは障壁の面に沿って青いさざ波のような光を広げた。
「3区障壁《セクター・バリヤー》に破孔発生!」
「エネルギー充填完了。修理時間、百万分の六秒。――攻撃飛翔体は“虫食い穴《ワーム・ホール》”と思われます」
もの静かなメカニズムの声が伝える状況を背に、Dは指揮所を出た。
電磁エレベーターを縦横に乗り廻して、スーの入っている病院へ向かった。
エレベーターは函《ボックス》ではなく、電磁コイルの中を走る電磁波の亜空間凝結体と思えばいい。
慣性の法則など無視して縦から横へと瞬間的に移動し、内部の人間にはいかなるショックも与えない。“ドア”も円形の穴が開くだけだ。
不意に、
「今の階に戻れ」
とDは命じた。行先は音声でマザー・コンピュータに伝えられる。
「了解」
返事と同時に、緑色の光面の中央に“ドア”が開いた。
ぶお、と凄まじい殺気が吹きつけてきた。D以外なら顔を覆って、うずくまったに違いない。
外へ出たDの前方――一〇メートルほどの廊下に、伯爵と見まごう黒い巨体が立っていた。その足下に、当の伯爵が伏している。
巨体の主もDに気づいた。手にした長剣を収めず、
「……Dか?」
と訊いた。
返事を期待していないのか、すぐに、
「私は……スーラ」
とつづけた。
「“ヴァルキュアの七人”のひとりだ。いま、彼を斃《たお》した」
と足下の伯爵に眼をやり、Dに戻した。その右手の動きはDの眼にも見えたのに、彼の放った三本の白木の針は、すべて打ち落とされた。
「さすがは……D」
とスーラは、細い眼の中に黒衣の若者を灼きつけて言った。
「敵に容赦はない……と聞いていたが……これほどとは……おかげで……私も……その気になった」
右手の中で、がちゃりと音をたてて柄を握り直す。彼はまだDを理解していなかった。握り直したときDは床を蹴り、反射的に後方へ跳んだスーラの刃が中段まで上がったとき、その頭上から真っ向上段――頭頂から鼻のつけ根まで断ち割っていた。
空中で、しかし、光速の突きを、身をねじってかわしたのはDならではだ。
着地した頭部へ反撃の一太刀が襲う。爪先のみ床につき、Dは右方へ跳びつつ、白木の針を投げた。
スーラの眉間を狙った針は、突き刺さったと見えた刹那、消滅した。寸前のDの一撃のごとく。
走り寄ったスーラの一刀はDの左の肩口を割った。
鮮血が飛んだ。それは意志を持つもののように、なお一跳躍の姿勢にあったスーラの顔に叩きつけられ、彼を盲目にした。
立ちすくむ刺客の胸もとへ黒いつむじ風が、うなりを立てて吸い込まれた。
刃は心臓を貫いた。――そのはずが、彼は切尖の向うへ跳びのき、背後にはエレベーターの“ドア”が口を開いていた。刀身はまたも消失したのである。
眼をふさぐ血を拭いつつ、そこへ跳び込もうとして、スーラはたたらを踏んで立ち止まった。“ドア”から出てきた巨大な影が行手をふさいだのである。
それが長槍を手にしたブロージュ伯爵だと知っても、スーラは驚いた顔をつくらなかった。
「よくできたアンドロイドだったが、あなたは本物か?」
「安堵せい」
と伯爵は凄まじい笑顔になった。
「内臓の手応えもわしと同じだが、壊れても塵にはならなんだろう。それは、おまえがなれ[#「なれ」に傍点]」
横殴りに襲う長槍の一撃を鮮やかに跳躍してかわし、スーラは、しかし、前例のない窮地に陥ったことを知った。
背後に迫る凄愴なる鬼気は――Dだ。
「Dよ、おまえを傷つけ、自分は無事とは――こいつ何者だ?」
と訊いても返事があるかどうかわからないと憶い出したか、
「“ヴァルキュアの七人”か?」
「スーラと申します」
と巨漢は答えた。
「それはご丁寧に。わしに好印象を抱かせたのを土産に、あの世へ行くがよい」
ぐいと構えた長槍から、必殺の気がスーラに絡みつく。
Dとブロージュ伯――アンドロイドの伯爵にその一撃を受けさせず、Dの一刀を消滅させた奇怪な技を駆使する魔人といえど、この二人を向うに廻して無事で済むとは思えない。また、ひとりずつ――などと甘いまねを許す男たちでもない。
それでもスーラは無表情に長剣を八双に構えた。
「では――」
と伯爵が言ったとき、空気が変容した。
それは、この世にあってはならぬ者が現われたときに生じる現象であった。
「これは――」
伯爵の言葉は、断末魔のひと息を吐くように聞こえた。
何か途方もない存在が、いま、ここにいる。
圧倒的なその存在感に骨がらみ縛りつけられ、押しつぶされて、伯爵はよろめいた。必死で吸い込んだ空気は、酸のように胸を灼いた。
その中で、
「来たか、ヴァルキュア」
何という冷たい声、何という静かな声、そして、何という力強い声か。
「二度目だな」
何処からともなく、静かな、雷鳴の怒号を秘めた声が響いてきた。
「マチューシャ村へ入る前に、忠告したぞ。覚えておるか?」
返事はない。Dは虚空の一点を凝視しているばかりだ。
「――よかろう。雑魚だが、面白い雑魚だ。ひとつ、目通りを許してつかわそう。わしはいま、この砦のエネルギー炉の内部におる。一分以内に参れ。でなければ、さらに一分と経たぬうちに砦は火球と化す。ブロージュよ、おぬしの運命はその男に託せ」
「望むところだ」
と伯爵は自信に満ちた声で言った。Dの声を聞いたとき、“絶対貴族”の呪縛から解放されたのである。
空気が渦巻いた。
ヴァルキュアの気配[#「気配」に傍点]が去ったのである。スーラの姿もない。
伯爵はDの方を見てため息をついた。
「末代までの笑いぐさだが――おぬしに頼ってもいいか?」
身を翻す前に、Dはかすかにうなずいた。
エレベーターの“ドア”に吸い込まれる黒衣の後ろ姿を見て、伯爵はもう一度、ため息をついた。
「スーラとか言ったな。奴の技――解析する必要がありそうだ」
この貴族の神経も並みではない。その男を、姿も見せず威圧する“絶対貴族”とは――何者か?
巨大な扉の前で、Dは足を止めた。厚さ五メートルの超重合鋼の扉の向うには、砦の生命源ともいうべきエネルギー炉が、反陽子と陽子が接触して生じる超エネルギーを燃やしているはずであった。
「わしは内部だ。あと三〇秒――時間がないぞ。断っておくが、この扉は神祖の技術をDNAに封印された者でなければ、手を触れることもできん。そのつもりで来るがいい」
すでに、眼には見えない位置からコンピュータの次元渦動砲の照準が、Dに合わされているのだった。
Dは前へ出た。
「死ぬか」
とヴァルキュアの声が嘲笑した。
紫の光が天井から垂直にDへと降りそそいだ。その中にDの姿が浮かび上がった刹那、光は消え、扉の中心をひとすじの垂線が貫いた。
ゆっくりとそれは左右に広がり、Dを迎え入れた。
「ほう――雑魚の割にはやる」
ヴァルキュアの声に、驚きの含有度は少なかった。これこそ驚嘆に値する現象であったろう。神祖の技術をDNAに包含する者――それは神祖と等しい血を有することを意味するからだ。ヴァルキュアは、それに驚いてはいない。そして、彼自身も、ここ[#「ここ」に傍点]へ入れたのだ。
「だが、遅い。すでに三秒過ぎた。エネルギー炉はあと五七秒で崩壊する。停止スイッチは、ブロージュにもミランダにも押せぬ。暴走も停止も、神祖にのみ可能なのだ」
停滞なく炉へと向かいながら、Dは甘い女の声を聞いた。
「崩壊まで、あと五一秒、五〇秒――」
破滅と死とを告げる声に、美女の声を選択したのは誰なのか。いまや、死の天使の宣告と化したそれに恐れる風もなく、Dは大股で炉の前に辿り着いた。
「左手はどうした?」
と、ヴァルキュアの声が嘲った。炉の内部にいると言ったが、影も形もない。
エネルギー炉は制御室《コントロール・ルーム》で調整を行うが、緊急の場合に備えて、炉自体にも制御装置がついている。Dが後者を選んだのは、距離的な問題に過ぎなかった。
「身のほど知らずの三人が、わしの脅威から逃れるためにここ[#「ここ」に傍点]を建設したとき、この炉だけは設計図を引くこともできずに、神祖の協力を仰いだのだ。まず炉があり、それから周辺に砦が構築された。ここはまさしく生命の源だ。Dとやら、それが死に変わるのを防げるか?」
答えを求める“絶対貴族”を捜しもせず、Dは炉の前のある地点に立った。
女の声は四六秒、と数えている。
四方から、おびただしい銀の粒が湧き出たのはそのときだ。
それは瞬く間にDの全身を覆って、瞬く間に消えた。いや、Dの体内に吸い込まれたのである。
ほとんど同時に、Dの眼前に緑色の物体が現われた。
白い――緑にかがやいているのに、そうとしか思えぬ、たおやかな女の繊手《せんしゅ》であった。
「ほう」
今度こそ、感嘆の色を隠さぬヴァルキュアの声である。
Dは右手でそれを握った。
女の声は、二秒と唱えたところであった。
「一秒――」
何の変化もなかった。女の声が途絶えた以外には。神祖の血を持つ者以外は制御不可能な地獄の釜は、見事に火を落とされたのである。
Dは何事もなかったように天井を見上げて、
「来い」
と言った。挑発ではない。命令だ。“絶対貴族”に対して一介のハンターが姿を見せろと命じている。
驚きを隠さぬ声が、
「――御神祖の血を持つ者か」
と言ったが、すぐに傲慢そのものの物言いを取り返して、
「おまえのような賎業者がその一員であるはずもない。どこでどのような処置を受けたかは知らぬが、たった一度の茶番もこれで終わりだ。――死ね」
Dの頭上の一点にヴァルキュアはいた。
逆落としに閃く光流を、Dは一刀で受けた。
火花はDの影のみを床に灼きつけた。音もなく左右に跳躍し、その位置を変えた二人を、凄まじい殺気の糸がつないだ。
Dははじめて“絶対貴族”を見た。
身長も体格もほぼ等しい身体を、黄金のマントが覆い、その表面に散らばる硬質の光の粒から見て、金属繊維をより合わせたものらしかった。マントの下には青緑色の装甲が胴と四肢を瘤のように包んでいた。彼の武器は右手に握られた黄金の光であり、それは金属ではなく、化学的な処理を加えたイオンのような物質と思われた。
新たな構えも取らず、光を引っ下げたまま、ヴァルキュアは、
「――Dよ」
と話しかけた。
声は黄金の下から出た。顎までかかる前髪が眼も鼻も口も隠し、髪自体は腰まで垂れていた。
「よく受けた――と言いたいところだが、当然という気がせぬでもない。おぬし――何者だ?」
じり、とDの爪先が前へ出た。
「ほう――このヴァルキュアの背すじが冷たい、血が凍る。この世の中に、わしとあいつ[#「あいつ」に傍点]以外に、このような男がいたか。殺すには惜しい。Dよ、わしに力を貸さぬか。といっても、それが必要になるのは、裏切り者と二人の子供を始末した後だが。――おっ!?」
ヴァルキュアは右手を上げた。
光の剣は、かがやく粒子を跳躍したDに注ぎ、彼は一刀を立ててそれを受けた。光は左右に切れた。
立てた一刀――それはいかなる変化も示さず、その位置からヴァルキュアの頭上へ。
ぎん、と火花が上がった。
Dの刀身はヴァルキュアの頭上で防がれていた。
直径一メートルほどの真円の楯は、光の剣と等しい黄金のかがやきからできていた。隠し持っていたのではない。ヴァルキュアの能力が無から生み出したものだろう。
光に光が挑んだ。
Dの攻撃に停滞はなかった。息つぎも許さぬ速度で襲う刀身を、後じさりしつつ受け、かわし、ヴァルキュアは光の突きで返礼した。
それを受けたDの攻撃に、一瞬の間が生じた。
ぐん、と楯が前進した。風圧に押されるように、Dは後方へ跳んだ。光の刃が追った。
Dが弾きとばすと、それは斜め上方へ折れて[#「折れて」に傍点]、エネルギー炉の外壁に吸い込まれた。
Dの着地を待たず、室内に赤い光が躍った。
「外壁第三層まで破損」
と機械の声が告げた。
「修理機構作動。破損度レベル5と認める。破損度レベル5と認める」
「至急修理の要あり、至急修理の要あり」
「神祖の技術も神祖の破壊は防げんとみえる」
ヴァルキュアは黄金の顔を少し上向けて言った。声には苦笑が混じっていた。
「わしの意図した破滅ではない以上、手は加えまい。巻き添えを食う前に引き上げるとしようか。――Dよ、おぬしも来ぬか?」
これほどの死闘を戦ってなお、Dを取り込もうとする意図は何なのか。
その身体が輪郭を失い、黄金《こがね》と黒が混じり合った絵具のようなガス塊に変わった。
それが空気に同化したとき、Dは一刀を収めて扉の方へと歩き出した。
「現在、修理中、修理中。破損部ふさがらず。破損部ふさがらず」
「空間縫合必要。技術開発にかかれ」
機械の冷厳な声が背後から追ってきた。慌てているようだった。
扉を抜けたところで、Dは顔馴染みと出会った。
廊下をこちらへやってくる黒焦げの手であった。
「遅かったな」
とDは言った。
「何を言うか。ようやく“シグマ”を黙らせてやったのじゃ。この姿を見るがいい」
「“シグマ”を倒したか?」
「それは断言できん」
手の声はトーンを落とした。
「少なくとも、二度と端末を送り込めぬくらいの目には遇わせてやった。ただ、それで本体が停止するかどうかは――」
「エネルギー炉が破損した」
「なに?」
「神祖の武器による破損だ。力を貸してやれ」
「これ以上、働かせるつもりか。血も涙もない美しい鬼め」
罵り声にも美の形容がつく。Dとはそんな若者であった。
その場に左手を残して、Dはエレベーターの方へ歩き出した。
静寂にふさわしい美しい後ろ姿であった。
そして、内と外ではいまなお、原子をも灼き尽くさんとする凄絶な死闘が激しさを増しているのであった。
砦内には、数分前から警報が鳴り響いていた。
ヴァルキュアの侵入には気づきもしなかったコンピュータの警備の眼が、Dとの死闘の最中に、かけられていた眠りの妖術から醒めたのである。
砦の一角に設けられた病院にも、警備の眼と侵入者迎撃の剣は整えられていた。
本来は、砦を建造した三人の貴族のための施設であるが、その下僕たる人間の病室も幾つかある。数体のアンドロイド・ガードが守るドアの奥に、スーとマシューはいた。
別のアンドロイドが一体、その前を通りかかったのは、Dとヴァルキュアの死闘から二分と経っていないときであった。
ドアの前まで来ると、それは急に方向を変えて、真っすぐそちらへ向かっていった。
「止まれ」
とガードたちが両手首に装着した電子砲を向けても、前進は止まらなかった。
青と白の光が集中し、亀裂のようなまばゆいすじを、侵入者の全身に絡みつかせた。
アンドロイドは痙攣し、制御コンピュータのメモリー・バンクが破壊される前に、前のめりに倒れた。倒れた拍子に右手がのびて、前方のガードの爪先に触れた。
触れられたアンドロイドが、もう一体のガードの方を向くや、同じ攻撃を浴びせたのは、次の瞬間だった。
こちらも前へのめる朋輩《ほうばい》を尻目に、ガードはドアの入室回路に電子砲の焦点を合わせた。
マシューはスーの寝顔を見つめていた。彼を罠にかけ、途中で正気に戻った[#「正気に戻った」に傍点]アンドロイドの擬似伯爵が連れてきてくれたとき、スーは眠りについたばかりだった。
何かに憑かれてDを斃す片棒を担いだとは聞いた。その何かが離れた結果の失神らしかったが、無心に眠る顔を見ているうちに、危険なものがその胸に蠢いた。
子供の頃から、スーのこの寝顔が愛しくて、眠りに落ちるまで待ち、月の光だけを頼りに、いつまでも眺めていたことがある。
寝室を別々にされてからも、夜陰に乗じて忍び入り、飽かず眺めたものだ。その頃はまだ農場にいたし、そばに母の姿もあった。
いま、そういった世俗的な枷《かせ》から解き放たれてみると、昏々と眠る妹の顔の、何と愛らしく、男の欲情をそそる色香を湛えていることか。
そんな妹に意中の男がいると知ったとき、マシューは気も狂わんばかりに懊悩した。その男がDだとブロージュ伯爵が指摘してのけたとき、彼はまさしく発狂したのである。
スーを襲い、その結果、遠ざけられた。わずかに残った理性が当然だと自らを叱咤したものの、いま二人きりになってみると、新たに煮えたぎる男としての欲情に、自分を抑えられなくなりつつある。
彼はスーの上掛けを掴んで、鳩尾《みぞおち》のあたりまでそっと引き下ろした。
スーはパジャマ姿であった。マシューの顔は、憑かれたときのスーよりも異常に見えた。
パジャマのボタンを外し、前を広げても、スーが身じろぎひとつしないことが、マシューの行動を大胆にさせた。
布地の下の肌は年齢にふさわしく、或いは細身の外見にふさわしからぬ豊かな隆起を二つ示していた。
マシューの喉仏が大きく動いた。乳房の先の鴇色《ときいろ》の種子に顔を近づけ、耐えかねたように息を吸い込んでから、兄は妹の乳首に口をつけた。
スーの身体が小さく痙攣した。
軽く吸ってから、マシューは欲望の矛先を愛らしい口に向けた。
糸のような呼吸をつづける桜色の唇に、舌舐めずりする男の唇が迫る。
だしぬけにドアが開いたのは、四枚のそれが重なり合おうとする瞬間であった。
アンドロイド・ガードであった。
「何だ、おまえは?」
「敵が近づいております。一緒においで下さい」
こう言って近づくアンドロイドへ、
「どこへ行く? 伯爵はどうした? ――Dは?」
「お二人とも防戦中です。お二人は安全地帯へお届け致します」
「しかし――」
ガードの右脇から迸る青白い光が視界を埋めた刹那、マシューは罰が当たったのかと考えた。
指揮所にいたブロージュ伯爵へ、二人の行方不明を告げたのは、病室を訪れたDであった。
「いない!?」
立体ホログラフィが結像させたDへ、凄まじい形相を向けて、巨人は長槍をひとふりした。
三台のアンドロイドが吹きとび、ひしゃげて火を噴いた。
「ガードが倒れている? えーい、警備コンピュータは何をしておった? ――安心しろ。どうやって侵入したにせよ、障壁《バリヤー》が張ってある限り、砦から出られはせん」
「入って来たら、出ても行ける」
Dは静かに言って、伯爵をぎゃふんとさせ、
「ヴァルキュアがいる限り、障壁は無効だ。――出るぞ」
「よし、わしも行く」
もともと打って出るつもりが、Dとスーラの一戦をコンピュータに知らされ、出端をくじかれた形で指揮所に上がったのだ。胸の奥で凶暴な貴族の血が騒いだ。
伯爵が一階の突撃口へ下りてみると、Dはすでに白馬の背にあった。
アンドロイド兵士《ソルジャー》は一兵たりとも呼んでいない。雲霞のごとく群がる敵兵のど真ん中へ、二人して打って出る。そのことを二人とも不思議とすら思っていない。
「これを持て」
と伯爵がゴーグル状の品を放った。
「情報端末だ。すでに偵察用無人飛行体《SRPV》を出してある。二分としないうちに発見できるはずだ。そうなったら、わしが血路を開く。救うのはおぬしだぞ、Dよ」
無論、返事はない。
Dはゴーグルをかけた。
装着具合に不備はない。というか、重さは感じられないし、かさばりもしないのである。視界も肉眼と変わらない。
「指令は声で送れ。すぐに――」
そう言った伯爵の視界に、緑色の輝線が地形図を広げた。四つの光点が移動していく。
「光点を拡大しろ」
たちまち、それはアンドロイドと三人の人間――人型に化けた。スーラと、アンドロイドの両肩に担がれたスーとマシューである。
「西の森だ」
と伯爵が口にしたとき、逃亡者たちは足を止めた。
巨木の幹に通常の倍もありそうなサイボーグ馬がつないである。
「馬なら西の街道へ出て、そのままヴァルキュアの領土――北へ向かうつもりだろう。追うぞ」
伯爵は、これも巨大な馬の背にまたがった。
その背後には、例の馬車が控えている。
「じきに夜が明けそうでな」
と彼は珍しく弁解じみたことを口にしてから、Dの方を見て、
「左手はどうした?」
と訊いた。左手首から先はない。
「仕事中だ」
とDは応じた。エネルギー炉の修理はうまくいったものかどうか。
「では――行くぞ」
伯爵が巨馬の手綱を引くと同時に扉が開いた。
そこから中庭を抜けて真っすぐ、黒い土の道が彼方の門へとのびている。
まずDが、ついで伯爵と馬車がつづく。
一〇メートル手前で正面が開いた。
「障壁消却」
の文字がゴーグルの視界に躍る。
同時に二人の周囲を真紅の光条が流れた。
それを浴びた城壁の一部がみるみる蒸発する。
橋を渡った。
一〇〇メートルほど前方から、敵兵が押し寄せてくる。
その前方に巨大な火柱が立ち上がった。ふくれあがった火球は直径五〇メートル以内の敵を、ことごとく呑み込んだ。砦が放ったミニ・ミサイルの成果である。
なおも灼熱する空気の中へ、Dは躍り込んだ。
手綱は左手首から肘まで巻き、右手は添えているだけだ。
憑かれたように疾走する白馬へ、敵兵が迫る。
馬上から白光が薙ぎ落とされた。
斬断された頭部と胴はみるみる枯枝と化す。ヴァルキュアの魔力が消えたのだ。
ライフルを構える敵を青い光が薙ぎ倒した。七〇万度に及ぶ灼熱の粒子ビームは、伯爵の馬車の屋根に装着された砲から放たれ、兵士ばかりか木も土も蒸発させた。
だが、二人の前方に敵は黒々と渦を巻き、ビームやミサイルを射ち込んでくる。伯爵の馬車は被弾し、伯爵自身も炎と破片とを浴びて満身創痍だ。
追いつけるか。
しかも伯爵の体内時計は、ほどなく夜明けだと告げている。
――間に合うか。
少しも減ったように思えぬ敵兵の重なりに、伯爵の胸にはじめて一抹の疑念が生じた。
そのとき――
空気が、ぎんと凍結した。
敵の怒号とざわめきと――あらゆる物音が、ぴたりと沈黙した。風さえも熄んだのである。
「――どうした?」
思わず口をついて、伯爵は驚いた。Dに訊いている。どうして、沈黙の原因をDが知っていると思ったのか。
と、Dが不意に馬の腹を蹴った。
何故か止めるのも忘れ、尾いていくこともせずに、伯爵はDの運命を見つめた。
「おおっ!?」
叫んだのも道理だ。
疾走するDの前方で、馬の蹄にかかった兵たちが忽然と枯枝に変わったのである。
数千数万とも見える軍団の真っ只中を、Dは走り抜け、その後ろには踏み砕かれた木の枝ばかりが蜒蜿《えんえん》とつづく。ヴァルキュア――“絶対貴族”の魔力が破れたのだ!
「あいつは一体――何者だ」
呻くように放って、伯爵はようやく馬にひと鞭くれた。
街道を走りだして二〇分も経った頃、スーラは背後に鉄蹄の響きを聞いた。
スーとマシューは後ろに乗せたアンドロイドに担がせてある。
ふり向いて、
「甘く見すぎたな」
とスーラは無表情に言った。
「あの軍勢を突破して追撃してくるとは、間違いなくDと呼ばれる男。――大公さま、いかがいたしましょう?」
彼は虚空に問うた。重々しい返事が戻ってきた。
「そのまま進め。手は打ってある」
「はっ」
応じながら、スーラは背中を冷たいものが走るのを感じた。
あと一〇〇メートル。Dのサイボーグ馬は、ぐんぐんと前方の巨馬との距離を詰めていく。
さらに一〇〇メートル後方で馬を駆る伯爵は眼を剥いた。
「なんたる速さだ。あの男に追われる身でなくて――いや、わしも追われる身か――とりあえず、よかったわい」
呆れるほどの速度で小さくなってゆくDの黒影を見送って――
次の瞬間、伯爵はあっと叫んだ。
Dの姿が不意に沈んだのだ。いや、前方の巨馬も。地面が崩れた。――そして、黒い亀裂はこちらへ向かってくる。
「い、いかん!」
手綱をしぼって急制動《ブレーキ》をかけた身体が、勢いよく空中に跳んだ。
空中で伯爵は、つんのめるサイボーグ馬と、それに激突する背後の馬車を見た。
道は幅六メートル、長さ一五〇メートルにわたって崩壊した。
爆破でも地震でもなかった。地面の分子構造が、極めて脆弱な状態に変成してしまったのである。
ヴァルキュアの“打った手”とはこれか。
地面へと呑み込まれながら、Dは手綱を咥えた。
両手と口と――三つの力によって操られるサイボーグ馬は、不可思議としかいえぬ技倆を発揮した。軽石状に変わった土砂に、膝まで沈みながら、それ以上沈下することはなかった。四本の足は巧みに、岩盤を選定するかのようにせわしなく動いた。
沈降に非ず降下をつづけながら、Dは地下に生じる巨大な空洞と、そこに吸い込まれるスーラと兄妹と巨馬を見つめていた。
音が聞こえてきた。
水音であった。
地底を川が流れているに違いない。土砂の沈降が急に速度を増した。水に流されはじめたのだ。
スーラたちが暗黒に吸い込まれた。
Dが水中に落ちるまで、一〇秒ほどかかった。
サイボーグ馬は人間が背の立たない川でも何とか泳ぎ抜く。だが、水流はその能力を越えていた。
馬ともども流されながら、Dは前後に視線を注ぎつづけた。
スーラも兄妹も巨馬も見えない。巨大な地下の空洞を流れる黒い水だけだ。空洞の高さは一〇メートルもあるだろう。
不意に馬が沈んだ。何かが水中へ引きずり込んだのだ。Dも後につづいた。
貴族――吸血鬼の血を引くものは、水を苦手とする。ことに流れ水は決して渡れない。ダンピールとて、全身を浸せば貴族の力の大半を失い、平凡な人間なみの能力を駆使する他はない。
水中でもDの視力は完璧であった。サイボーグ馬の鞍から離脱して、一刀を抜いた。
白馬の陰から現われた女は、白い長衣を天女の衣のごとく後方に引いていた。
水妖ルシアン――松明の炎で蒸発させられたはずの妖女は、地下へ逃れたらしかった。
「よく私の国へ来たな、Dよ」
変わらぬ妖しい声音であった。だが、その顔は右の半分が焼け爛れ、唇も半ば崩れて歯茎も歯も剥き出しだ。地上の火に焙られた肉体は、彼女の生命の源でも治療できなかったとみえる。
「地上では無敵でも、ここでは私に勝てぬ。いずれ、ブロージュ伯爵もミランダ公夫人も、私の世界で八つ裂きにしてくれる。その第一号がおぬしだ」
Dの身体に白い布が迫ってきた。
ルシアンがまとった衣を剥いだのである。もともと何枚もの布を縫い合わせた品であったに違いない。
Dは一刀をふるった。布は切れなかった。それは刀身にやわらかく巻きついて、切れ味を奪い去った。
ルシアンは妖しく笑った。衣はすでに何条もの布に分解し、その裸身の周囲を名残惜しげに旋回中だ。白い女体が完璧な美しさを保ち、そして、その顔が半ば焼け爛れながらもかつての美貌を失っていないだけに、この妖女は比類なく妖艶であった。
右手がDを指した。
布は肩から二の腕、手首へと絡まりつつ流れ出し、Dの右肩から腰に巻きついた。利き腕は封じられた。
もう一枚が、白い腕のように喉を巻いた。
Dの口から水泡が噴き上がった。
酸素が切れたのであった。
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第二章 ミランダ公爵夫人
Dの身体から急速に力が脱けるのを、ルシアンは絞殺布を通して感じた。五千年前にも何名かのダンピールと戦ったことがある。すべて斃した。今度の若者はそいつらより強敵ではあったが、倍も絞めておけばいいだろう。
すでに、Dの身体から生体反応は消えている。
ルシアンは邪悪に笑った。
水を切ってDに近づく。念のため、得意の鉤爪で、骨と肉とをばらしておくことにしよう。
Dの握った一刀も気にならなかった。
まさか、それが脳天から乳房の間まで斬り込んでこようとは。
凄まじい痛みにわななきながら、ルシアンの視界は紅く染まった。
黒い水の中を流れつつ水に溶けてゆく妖女の姿を確かめ、Dは水を蹴った。
顔を出すや、激しく肺に酸素を送り込む。並みのダンピールに数倍する持久力を備えているとはいえ、一〇分近い無酸素状態はきつい。
水から上がるつもりはなかった。スーとマシューも流れの果てにいる。なおも、滔々《とうとう》の声を上げる地下の水路の中を、呼吸を整えつつDは流されていった。
頬を叩かれて、マシューは眼を開いた。見覚えのない男の顔が上から覗き込んでいる。その背景を占める青い闇を意識する暇《いとま》もなく、彼は激しく咳き込んだ。
「水は吐かせた」
と男は言った。それからこう言って、マシューの咳を止めさせた。
「おれは“伝道師”クールベ。ヴァルキュアの七人のひとりだ」
愕然とふり向くマシューの顔は、溺死体のようであった。
「おまえの妹も拾い上げる手筈になっていたが、それは相棒の歌唄いが行っておる。少々流れがきつすぎた。だが、おまえだけは捕まえたぞ」
にんまりと笑う土気色の顔へ、
「おれを、どうするつもりだ?」
とマシューは嗄れ声で訊いた。
「どうもせん。国へ連れていく」
「――国?」
「ヴァルキュアさまのお国へな。妹も、それから、Dとか申す奴もそこへ来るはずだ。おれは反対だが」
「………」
マシューは沈黙した。クールベはこうつづけた。よくよく腹に収めていられなかったらしい。
「あのハンター、どう考えても敵にしかならぬ。戦えば、その果ては生か滅びしかあるまい。断じて城の外で斃すべきだ。ヴァルキュアさまは何を考えておられるのか?」
そのとき――
マシューは不意に陽が翳った[#「陽が翳った」に傍点]ような気がして天空を見上げた。
夜明けが近い、と思わせる青の滲む夜空である。
木立ちの影も星のまたたきも見える。それなのに、彼は星空を圧してのしかかる巨大な存在を感じたのだ。
クールベが、おお、と呻いた。
「ヴァルキュアさま」
「何も考えておらん。おまえたちの考えるような事柄はな」
マシューは反射的に四方を見廻したが、声の発現点さえ捜し出すことはできなかった。
遥か天空の高みからとも、測り知れない地の底からとも聞こえる声であった。
「――だから、おまえたち虫ケラの理解できるレベルで命じよう。その人間を殺せ」
クールベは、また、おおと眼をかがやかせた。
「おまかせ下さい、ヴァルキュア様。我らの生命と魂に替えまして、ご下知は果たしますぞ」
存在が消滅するのを、マシューは感じた。次に訪れる運命を知りながら彼は安堵し、すぐに戦慄した。
クールベは立ち上がっていた。
「せめて、死に方は選ばせてやろう」
殺気と嘲笑からできているような声であった。
「もう一度、溺れ死にたいか。自分の手で首を絞めるか、喉を斬るか、それとも――」
マシューは絶叫して跳ね起きた。
頭からクールベへ突進する。時間がかかりすぎた。“伝道師”は左へ身をかわし、マシューの首すじへ手刀を叩き込んだ。
「好意を理解できぬ奴だの」
彼は笑って右手をのばした。
かたわらに木の枝が突き出ている。
比較的真っすぐな一本を、手首のひと捻りでへし折り、槍のように構えて、彼は俯せで呻くマシューに近づいた。
「ヴァルキュア様の下僕《しもべ》として、おれは貴族と戦ったこともあるが、伝説の方法を使ったことはない。人間に試してみるのも、皮肉で面白いかも知れんな」
折れ口の鋭く尖った木の枝を、杭のごとく両手でふりかぶり、伝道師はふり下ろそうとした。
その位置で、彼は膠着してしまったのである。何かが木の枝の端を掴み止めたのだ。
Dかと思った。
枝には拘泥せず、両手を離してクールベは後方へ跳んだ。
もとの位置には誰もいなかった。
首すじを氷のような息が這った。
「木の杭は、やはり貴族に使うがよい。或いは、忌まわしいその下僕に」
――まだ後ろに!?
夢中で呪いの言葉を吐こうとしたその心臓を背中から、灼熱の杭が貫いた。
最後の吐息を放って、クールベはよろめいた。空気を吸い込もうとして、肺は別のものを吐いた。足もとの草に鮮血が跳び散った。
数歩進んで、彼はふり向いた。
白いドレスの女は、ひとめで貴族とわかる美貌と品と妖気を備えていた。
「き、貴様は……ミランダ……」
「公爵夫人とおっしゃい」
ミランダは音もなく近寄り、クールベの胸から生えた枝の先を掴んで左右にねじった。
絶叫が闇を切り、噴き上がる血潮は白い公爵夫人の顔と胸とを赤黒く染めた。
衣通姫《そとおりひめ》――衣を通して美しさがかがやいていたという美姫《びき》のごとき美貌の主が、口もとについた血を舐め取るのを見て、マシューは気が遠くなった。
「大公さま……お許しを……」
とクールベは血まみれの言葉を吐き、草を乱して倒れ、動かなくなった。
マシューは茫然と救い主を見つめた。戦いが終わらぬことを彼は知っていた。ヴァルキュアの刺客たちの術は、ラモアの砦でDから聞かされていたのである。
反射的に、彼は右手をズボンのポケットへ入れた。指先に触れた固いものを握りしめて、うまく使えるものじゃないなと思った。砦でDが与えてくれたクールベ用の武器は、プラスチックの耳栓であった。
「愚かな男よな」
公爵夫人は、軽侮の眼差しを隠そうともせずに言った。
「あのハンターと伯爵がついていて、ひとりこのような時間にこのような場所におるとは――すべては汝が招いたことであろう」
「……ち、違う……」
「何にせよ、おまえは救われた。私は女じゃ。あの二人より計算が好きでな。この借りはいずれ返してもらうぞ」
話しながら、夫人はマシューのかたわらに来ていた。
右手がマシューの襟首を掴んだ。膝も曲げず足も踏んばらずに、たおやかな肢体は右手一本でマシューを吊り上げていた。左手である方角を差し、
「そちらへ行けば、森はじきに抜けられる。私はもう去《ゆ》かねばならぬ。夜明けは死の刻《とき》じゃでな」
そして、白い貴族は青白い光に溶け、マシューはまたもその場にへたり込んでしまった。
痴呆のような表情がその顔を占めていた。何が起きたかはわかっても、感情が追いついていかないのだ。
人間らしい情感が無表情を押しのけるのに一分もかかった。
また、貴族かその刺客がやって来るかも知れない。
マシューは立ち上がり、重い足取りで、公爵夫人の示した方角へ歩き出した。徐々に足は速められ、十歩といかぬうちに、彼は全力疾走に移っていた。
スーはすべてを覚えていた。アンドロイド・ガードの催眠アイに操られている間のことは、夢の中にいたようだが、記憶自体は鮮明だ。その効果が失われたのは、地中の川に沈んでからである。
すぐに引き上げられ、高々と掲げられた。スーラのたくましい腕の力であった。
黒い水に乗って何処まで流されたのかはわからない。二時間もそうしていただろうか。激しい衝撃に襲われ、スーは意識を失った。
陽光に起こされたようだ。周囲に張りつめた光は、もはや暁光であった。
スーは岩場にいた。身体の節々が痛んだが、動くには十分だ。周囲を見廻した。足下にスーラの巨体が倒れていた。岩のようにぴくりとも動かない。スーは仰向けの巨体の左胸に耳を押しつけた。
地響きのような鼓動がやって来た。
自分が安堵しているのを知り、スーはひどく驚いた。この巨人は流される間、ずっと彼女を水の上に支え上げていたのだ。たとえ任務とはいえ、簡単にこなせることとは思えなかった。
その足下に一〇メートルもありそうな裂け目が口を開けている。周囲を囲むように奇岩、巨岩がそびえ、ほとんどが裂け目に向かって傾いている。
水音が聞こえた。巨人のスーラは、スーを地下水路から連れ出し、ここへよじ昇ったのはいいが、力尽きたらしかった。
負傷しているのかも知れない。
眼を走らせ、スーは息を引いた。
右胸の下あたりに赤い染みが広がっている。中心に白いすじが生えていた。
「――Dの?」
針である。地下水路に落ちる途中で刺されたのだろう。
ある感情が身内を支配し、それに従いかけてスーは驚いた。
それは、この場合極めて当然な精神の動きであったが、同時にスーを破滅へと導きかねぬものであった。
苦しんでいる人を助けなくては――そう思った。
だが、巨人は彼女をヴァルキュアの死の罠へと連れ去らんとする刺客だ。それを止《とど》めるためのDの針であり、死闘であった。
自らの精神の動きに従うことは、Dの戦いを無為に変えてしまう。
――逃げよう
頭の中で誰かがささやいた。スーがよく知っている誰かだった。
スーは身を翻し、数歩前進した。
足が止まった。
ひと呼吸置いてふり返った少女の顔には、ある決意が浮かんでいた。
スーはためらいもせず巨人のもとへ戻った。
地べたにしゃがみ込んでDの針を両手で掴む。
「ごめんなさい」
針を中心に、巨人の脇腹に両足をかけて、呼吸を整えた。
「え――い」
声と息とを同時に吐いた。
針は意外と簡単に抜け、勢いあまってスーは後頭部を地面に打ちつけてしまった。
「いたた」
と頭を押さえつつ起き上がり、巨人を見つめる眼が爛とかがやいた。膝立ちになった。針を頭上にふりかぶり――スーは渾身の力をこめてふり下ろした。
馬を手に入れる必要があった。身体の諸機能も低下しつつある。ダンピールにとっても水は宿敵なのだ。
そして、いま、差し交わす枝の間から、黎明が水飛沫のようにこぼれてDの身体を灼く。
水妖ルシアンを斃してから地下の岸辺に流れ着くまで、一時間近くを浪費してしまった。
休息し、裂け目を捜し出して地上へ出るまで、さらに二時間以上。
それでも位置はわかる。陽光のさしめぐむ前に柩へ戻らねばならぬ貴族の肉体的必然は、時空間の把握能力を、そのDNAへ刻印してのけたのであった。
地下水路に落ちた地点から北々西へ直線を引けば、約一〇〇キロと出る。水流は時速六〇キロを越していた。
このまま直進すれば、じきに森を出て――
前方から、足音が近づいてきた。
Dは足を止めずに進んだ。
一分とかけず、白いブラウスにくるぶしまでかかるスカートを身につけた娘が現われた。
金髪が木洩れ日にかがやき、朱色のスカートを燃えさせた。左手に木製の篭を下げている。色とりどりの草花が底を埋めていた。
Dを見た刹那、しなやかな身体は氷の彫像と化した。
普通なら浮かぶ恐怖と緊張をすっとばして、恍惚が全身を色づける。
「近くの者か?」
とDは足を止めて訊いた。
娘の口が開いて、あ、と洩らしたのは数秒後のことだ。
「――そうです。トージャ村の……」
「人を見なかったか? 十六の男と十四の娘だ」
娘は少し考えて首をふった。
礼を言ってDは通り過ぎようとした。
「待って下さい」
と娘が声をかけたのは、一〇メートルも離れてからだった。
「あなた――ハンターですの?」
「そうだ」
とDが足を止めて答えたのは、自分も問うて回答を得たからであろう。
「なら、一緒に来て下さい。お願い。――村が大変なの」
走り寄る娘の眼前から、黒い影はつい、と遠ざかった。
「あ」
それでも娘は追った。黒衣の若者は足早に歩いているとしか思えなかったのである。
娘はすぐ奇怪な現象に気がついた。夢中で走っているのに、追いつけないのである。
若者はしかし、足を速めてはいない。同じ速度で歩きつづけている。現に手をのばせば届きそうな距離にいる。にもかかわらず、二人の距離はいっかな縮まろうとしないのだ。
娘は足を止めた。これ以上走れば声も出なくなると悟ったのである。灼けるような肺から空気と言葉の混合音を絞り出した。
「ついさっき――村の近くを――何か途方もなく――巨大なものが通って――そしたら、その後に大きな――直径一〇メートルもあるような――窪みができてて、そこから――何匹も虫や蛇みたいな――怪物が。何とか少しは――やっつけたんですけど――村の人たちも殺されたり――怪我をしたり。怪物はまだ――村の外にいます。私――何とか見つからずに薬草を――採りに出たんです。でも――帰りが怖くて」
すでにDは最初と同じだけ遠ざかっていた。
娘の必死の叫びも、いまの彼には無意味な風の遠吠えにすぎないのである。
その足が止まった。
「待って下さい――D」
彼はふり向いた。身体を前に折り、両手を膝に当てて荒い息をつく娘へ、
「誰に聞いた?」
自分の名前のことである。
「あれ[#「あれ」に傍点]が通り過ぎるとき――」
娘は声を切り、何とか肺に酸素を満たそうと努めた。
ようやく出た声は、喉を通過する間に潤いを窄り取られたみたいに嗄れ切っていた。
「――聞こえたん――です。じき、Dというハンターが――やって――来る。彼に助けてもらうが――いいって」
「おまえだけに、か?」
「いえ――村の者、何人か。――霊感が強い人たち――ばかりですけど」
「声は名乗ったか?」
娘は首をふった。また少し休み、次に出した声は、ようやく尋常に戻っていた。
「いいえ。ただ、物凄く大きくて、怖かった。あんなもの、この世の生きものじゃあないわ、絶対に」
娘の全身を震えが通り抜けた。この瞬間、彼女は村や怪我人のことも忘れていた。通過した存在に対する恐怖は圧倒的だったのだ。
その正体を、Dだけは知っていた。
「村へ行けば馬を買えるか?」
娘の表情にみるみる希望の波が打ち寄せた。
「助けてくれたら、あたしのところの改造馬、みんなあげる」
近づいてくる若者を恍惚と見つめるうちに、ぐいと腰を抱かれた。
村の位置を告げもしないのに、とうに知悉《ちしつ》しているかのように、黒衣の若者は娘を小脇に抱えて美しい風のように疾走を開始した。
一〇分もしないうちに、森の向うに村の外壁が見えてきた。
人間の叫びと人外の咆哮を風が運んできた。
また襲われたに違いない。
Dは歩を速めた。
裏門の前で、赤い甲殻《から》を被った芋虫が数名の村人相手に死闘を繰り広げていた。
巨大な瘤を十数個もつなぎ合わせたような全長は、六、七メートルもあるだろう。芋虫の武器は丸い頭部からのぞく円月刀のような六枚の嘴であった。
地面には二名の村人が朱《あけ》に染まって横たわり、残る五名も血まみれだ。
だが、彼らも無力ではなかった証拠に、芋虫の節と節とをつなぐ蛇腹みたいな膜には、数本の槍が刺さって黄赤色の汁をしたたらせている。
用心深げに、取り囲んだ村人たちをねめつけていた頭部が、不意に思いもかけぬ速さで身をねじり、後方の村人に襲いかかった。
後ろにいるという油断があった。手にした長剣をひとふりしたのを最後に、中年の男は剣状の嘴に全身を貫かれた。長剣の当たった殻が硬い音をたてた。
嘴が左右にずれると、いままで閉じていた口が現われ、男を呑み込んだ。ぼりぼりという音が、村人たちをその場にすくませた。
芋虫が不意に向きを変え、下方を見下ろした。
その足下にDはいた。娘を抱いたまま、右手は長剣の柄にさえかかっていない。
残忍性と飢えと攻撃欲とに満たされた芋虫の脳の中で、ある指令が生じた。
咥えた獲物を咬みちぎって半分を払い落とし、半分を呑み込むや、一瞬の休みもなく眼下の美影身へと襲いかかる。
その頭部に、銀の稲妻と――かっと甲殻を断つ音が走った。
瘤状の頭を一撃の下に両断されて、芋虫は頭から地面に激突した。下等生命体につきものの断末魔の痙攣やのたうちもなく、生なき有機体と化す。
村人たちは奇妙な表情でその死体を見つめた。
いまのいままで猛威をふるっていた魔物が、一刀――まさしくただの一刀で無害な虫と化した。あまりの状況の変化に精神がついていかないのだ。理解は彼らの脳の内部《なか》にはなかった。
突然生じた沈黙を、娘の声が破った。
「……D。凄いわ……あなた……」
娘を放し、Dは無言で芋虫に近づくと、剣の柄を親指のみで押さえ、五指を広げて、斬撃痕から溢れる血潮を手のひらに受けた。
それを口に含むのを見て、娘が眼を丸くした。
美貌がのけぞった。――と見る間に、その唇から細い血の糸が空中へと噴出したのである。
ダンピールの呼気とはこれほどのものなのか、血の糸は一〇メートルにも達し、そこで赤い霧となって消散した。
噴き終えると、Dは右手の甲で唇を拭い、そのまま立ち尽くした。
この期に及んでも村人たちは棒立ちのままだ。突如現われ、地獄の魔物を一撃で葬り去った若者の剣技に見惚れたのでも度肝を抜かれたのでも戦慄したのでもなく、その美貌に魂を奪われたのかも知れない――娘にはそう見えた。
ようやく、村人のひとりが娘に気づいて、
「おい、マキア」
と呼びかけたとき、異様な咆哮が空気をゆすった。
防御柵の方をふり向く村人を影が包んだ。
柵を越えて宙に舞う巨大な物体の仕業であった。
吐き気をもよおす極彩色に身を委せた蠍《さそり》そっくりの巨大昆虫と、おびただしい吸盤つきの触手が集合したとしか思えぬ軟体生物――どちらも小さな小屋ほどのサイズがある。大蠍のハサミは鮮血に濡れていた。
「あと何匹いる?」
とDが訊いた刹那、触手が水中の水草のごとくDめがけて押し寄せた。
「これだけだ」
と村人の誰かが答え、それが銀色の一閃と化したかのように触手の間を走るや、おぞましい手はことごとく切断されて地面に散らばっていた。
村人たちは見た。わずか数秒の死闘を――彼らは後々まで、それを語り継ぐことになるのだった。
黒衣の若者がゆるやかな弧を描くように滑ると、それに巻き込まれた形で大蠍が側面から接近し、鎌ともいうべきハサミを突き出してきた。
無造作に若者は右手をふり下ろした。いつ上げたのか見たものはいない。火花がとび、大蠍のハサミは地響きを上げて地に落ちた。後に知れたことだが、ハサミの切断面は厚さ二センチの甲殻で覆われ、その硬度は鉄に等しかったのである。
のけぞる怪虫へ一歩踏み出すや、白刃が躍って小さな赤い眼の間を深々と刺し貫き、何たることか、五メートル、二トンは下らぬ巨体を、右手のひとふりで後方の触手の塊へと放り投げた。
塊は後退した。
間一髪で大蠍をかわしたとき、同じ放物線を辿って、黒衣の人影が舞い降りた。
二つになった塊が左右に倒れると、それはすぐに動かなくなり、同時に、無数の触手となって広がった。それをつなぐ胴体部分は形もない。意志を有する触手が集まって群体を構成していたのか、ある意志がそれらを集めたのか、いまとなっては知りようもなかった。
仲間の血臭から強敵ありと判断して集合した先は、彼らを招いたものの刃が描く死の世界であった。
開け放たれた裏門から、新たな人影が駆け出してきたのを見て、ようやく凍りついた村人に動きが生じた。
Dを見つめて、
「あんた、一体――」
と、ひとりがつぶやいたとき、
「Dよ」
と呼びかけた者がある。娘がきゃっと両手を胸に寄せた。
声の主は大蠍であった。村人はまとめて動かなくなった。
「わしの名を名乗る必要はあるまい。おまえが守る娘はいま、わしの配下とともにおる。兄の方も捕えたつもりが、どうやら邪魔が入ったらしい。ところで、わしは星を読む。宇宙《そら》の彼方へ追放されてから学んだやり方でな。――いずれ相まみえるぞ、Dよ。星が語るごとくに。どうやら、わしとおまえの旅は、このためにあったものらしい。愉快ではないか。絶対貴族ヴァルキュアと、一介のハンターとが、いかなる運命の糸で結びつけられているのか、そのときにわかるだろう。そのためにも、Dよ、わしの配下に斃されてはならぬぞ。これからおまえを襲う輩は、このわしの手で肉体も精神も強化した魔物ばかりだ。そのひとりがおまえを斃しても、わしは不思議には思わぬ。そうなればそれも運命。わしは星を罵るとしよう。だが、待つぞ、Dよ。一刻も早く北へ――わしの世界へ来い」
それは誘いではなく、命令であった。
大蠍はもはや動かず、村人たちの何人かがよろめき、何人かが倒れた。主なき声の波動には、それだけの力があったのだ。
ヴァルキュアはこれを伝えるために怪虫どもを生み、村を襲わせたのか。彼の云う星は、Dの来訪を――娘マキアとの邂逅から、ヴァルキュアに告げていたのだろうか。
Dは一刀を収め、村人たちに、
「馬はあるか?」
と訊いた。
一〇分ほどでサイボーグ馬は用意された。
Dと大蠍の会話について、村人は何も言わなかった。そそけだった眼で、美しすぎる若者を見つめているばかりだった。文句をつけない代わりに、礼も口にしない。一刻も早く出て行ってほしいのだ。
鞍代も含めてマキアに渡し、Dはあぶみに足をかけた。
左手を使わず鞍にまたがったとき、村人たちからどよめきが湧いた。彼の左手首がないことに、ようやく気づいたのである。
待ち受ける敵はなお強大であり、そして、いまのDには左手がなかった。
忽然と現われ、いままた飄然と去っていく若者を、村人たちは声もなく見送った。
騎手と馬とが一体となって道の方へ歩き出す、そのかたわらへ、マキアが走り寄った。
「ありがとう、D、ありがとう――また会えるわよね」
それは、自分でも信じていない言葉だった。
「こんなとき、何て言えばいいのかわからないけど――どこへ行くの?」
マキアは並んで歩いた。
馬が不意に走り出した。Dが脇腹を蹴ったのである。反射的に身を翻し、よろめきながらもマキアは何とか体勢を立て直した。
去《い》くんだな、と思った。
森の中で出会い、小脇に抱えられて村まで一緒だった。それだけだ。村へ来てからは、ひとことも口をきいていない。
それなのに、胸が熱い。
「あたし――来月、お嫁に行くの」
ささやくように口にしたのが、せめてもの理性だった。恋人は後ろの村人の中にいる。
さらに何歩か歩いて、マキアは立ち止まった。急に涙が溢れた。
黒い騎手の後ろ姿は、街道を左に折れて、とうに見えなかった。
街道を北へと走り出したDを、小さな埃程度にしか見ていない女がいた。
見くびっているのではない。サイズの問題だ。歌姫カラスは、地上五〇〇メートルを飛翔する大鷲の背中にいた。
空中を世にも美しい歌声が流れていく。彼方の鳥たちも耳を傾けているようだ。
鷲といっても、翼長が一〇メートル、胴のサイズを加えれば、横幅は二二、三メートルにも達する。
クールベと二人でDを抹殺せよと、ヴァルキュア大公に命じられたのは、砦近くの森の中である。彼女もクールベも大公の力で甦った。
二人してDを始末せよ、と大公の指令を受けた。彼はこう言った。
「ゆめゆめ油断はならんが、必ずしも力を合わせる必要もない。二人で斃せば誉めてやろう。ひとりで成し遂げれば、褒美もやろう。そうだな――月の支配をまかせてもよいぞ」
眼をかがやかせる二人を、ヴァルキュアはある地点へと導いた。
そこで、兄妹とDは地底の水路へと落下したのであった。
「後はおまえたちにまかせる」
言い残してヴァルキュアは消えた。
さすがの二人にも、四人の流れ着く場所はわからない。流れ着いたら近くの村へ転がり込むと判断したカラスはトージャ村へと赴き、クールベは水路を辿る方を選んだ。
水路のルートは、復活時に記憶へインプットされていたのである。ヴァルキュアの仕業であろう。共に戦うには及ばずと告げたヴァルキュアの言葉が、協調を妨げていた。
カラスが村へ着いたのは、ヴァルキュアの足跡から生じた奇怪な虫どもが、村を襲っている最中であった。無惨に食い殺され、大バサミで寸断される人々をカラスは見捨てた。ヴァルキュアによって復活した歌姫に、人間の魂は残っていなかったのである。
そして、いま、彼女は大鷲の上で天翔けつつ、地上を駆けるDを追う。
花粉よりもまだ小さなその姿を見る眼には、以前と等しい恍惚の他に、見るものを震撼させずにはおかない妄執の色がある。人はそれを憎しみと呼ぶだろう。精神《こころ》の綾をより理解できる者なら、別の呼び方をするのかも知れない。――愛、と。
「陽は高く、我、さらに高く」
とカラスはつぶやいた。つぶやきは歌であった。
髪をなびかせ、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んでから、彼女は周囲を飛ぶ鳥たちへ眼をやった。
「運動をしてみるかい、おまえたちよ」
これも、やさしい歌声であった。
Dは当てもなく馬を駆っているのではなかった。
村を出るときから、彼は大地の皮殻を通して地下水脈の音を聞いていた。
水はじき地上へ迸り出る。その延長線上に、ヴァルキュアの刺客に拉致されたスーと、それからマシューがいるはずであった。
刺客とはカラスかクールベか。カラスがクールベを刺し、その直後に二人ともナパームの炎に呑み込まれるのをDは目撃した。だが、それがヴァルキュアの配下の死を意味する証拠にはならない。
それとも――もうひとりか。
七人の最後。
スーラと呼ばれる敵か。
いずれにしろ、スーを人質に取られている以上、Dにとっては恐るべき敵に違いない。――尋常の論法では。
だが、Dは風を切って走る。その凄愴な美貌に、恐れやとまどいの色など一片も浮かんではいない。斃すべき相手に対する感慨が、この若者には最初《はな》から欠如しているのだった。
ふと、陽が翳った。突如として、存在していなかった雲が現われたかのような唐突さに、Dも軽く頭を傾けて天を見た。
雲とは異なる黒い広がりが頭上を覆っていた。
それが四方へ拡大していく。いや、近づいてくるのだ。
数千、数万の鳥たちがDとサイボーグ馬をめがけて襲いかかってきたのは、次の瞬間であった。
四枚羽根の小鳥、肉食鳥、翼竜、大鴉――天地を圧する羽搏きと鳴き声の中で白刃が躍った。
長剣を咥え、Dは上衣のポケットから一枚のスカーフを取り出して馬の眼に巻いた。後は手綱さばきで方角を指示する。盲《めし》いた馬は廃棄するしかない。
Dの剣技は無駄も無効もなかった。ひと太刀が泳ぐたびに、数十羽の鳥たちが地上に散乱する。しかし、敵の数はいっかな減ろうとはしない。
馬がよろめいた。
小型翼竜の嘴を鼻づらに受けたのだ。
前方に岩の斜面が見えてきた。道は二つに分かれる。
Dは左方を選んだ。
水路の流れからは外れるが、この際仕方がなかった。
道の入口に立て札と錆びた鎖が張ってある。
騎馬が跳躍した拍子に立て札が傾いた。危険と書かれた文字を、勿論、虚空のカラスは読むことができなかったが、鳥を操る朗々たる歌声を、ふと止めて、
「あの道は?」
と眉をひそめた。
道は左右を岩壁に守られ、かなりの急傾斜で谷底へと向かっている。そこを下りてゆくDとサイボーグ馬は、もはや色とりどりの雲海か、奇怪なガス状生物としか見えなかった。
底へ着いたとき、Dは手綱を引き絞った。化鳥魔鳥が白刃にかかり、それに倍する数が欠損を埋めにかかる。
「この地方の空翔《ゆ》くものすべてを集めた。ヴァルキュアさまから授かった新しい力よ。ほほ、いかに腕利きのハンターとはいえ、皆殺しにするには三日はかかろう。おお、また参ったか」
北の方角に羽搏く影を認めて、カラスは、また魔性の歌を奏ではじめた。勝利の満足のせいで、彼女はDの選んだ道のことを忘れた。
脳裡に閃いたのは、鳥たちの群塊がふたたび移動を開始した刹那であった。
「何をいまさら――待てよ、なぜ、谷の入口で止まった?」
Dはすでに谷間の中ほどまで進んでいる。草一本見えぬ荒涼たる大地に、ところどころ白い霧が長布のようにかかっている。
不意に霧が濃さを増した。
そのとき、カラスは気づいた。
「いかん――そこから出よ!」
叫びは歌声ではなかった。
次の瞬間、谷底は突発的に白い霧で埋め尽くされたのである。簡単な一望では探知し得ぬ微細な亀裂が谷底を埋めていた。そこから噴出する白い霧――いや、無色無臭の死のガスは、一瞬にして、数千羽の空の生きものを即死させた。
見よ、白霧の彼方から脱け出したのは、Dとサイボーグ馬のみだ。ラモアの砦でこの辺一帯の地図を記憶したDの脳には、当然、この死の谷の存在も灼きつけられていたに違いない。
無論、谷の底にはいつも死のガスが充満しているわけではない。間欠泉のごとく定期的に噴き上げる。Dはその時間をも記憶し、だからこそ、谷間に入る寸前で早すぎる時間を稼ぐために馬を止めたのだ。
ガスの中を彼は呼吸《いき》を止めて走り抜けた。通常、外気を吸うサイボーグ馬には、体内の酸素発生装置に頼るよう指示した。引き絞った手綱にはその合図も含まれていたのである。
谷間を抜け、新たな道を昇ってDは街道へ出た。速度を落とさず左方の森へ飛び込む。
鳥のさえずりひとつしない。この近辺の鳥は、いま谷間の底で死の眠りについているのだった。
馬の呼吸を正常に戻し、Dは素早く鞍から下りて、数メートル先の木のそばへ行き、眼を閉じた。
三秒――五秒――その眼が開き、黒瞳《こくどう》が冷やかに上がった。
「森へお逃げか、さすがは私の魂まで奪った御方。だが、逃さぬ。カラスの歌に魅入られるのは、空翔ぶ鳥ばかりではないと知りなされ」
こうつぶやいてから、魔の歌い手は軽く咳払いをし、朗々と豊かなソプラノを大気に満たしはじめた。
それは眼に見えぬ驟雨のごとく、生きとし生けるものたちの耳へと舞い降りていった。
あと少しで作業が終わるというとき、Dは彼方からやって来る気配と足音に気づいた。
今度は地を走るものたちだ。
最短距離にいる連中は、あと三〇秒足らずで森へ雪崩れ込むだろう。
気配を察したサイボーグ馬が、激しくいなないた。
Dは立ち上がり、こしらえた品を左腕の下にはさむと、馬の首へ右手を当てた。
ぴたりといななきは熄んだ。
まだひとつ、厄介な作業が残っていた。
彼は一刀を抜き、前へ突き出した左手首へ無造作に斬りつけた。
その背後から、黒い影がひとつ――流星の速度で躍りかかってきた。
「おかかり!」
大鷲の上で、カラスは激しく右手をふった。
いかに腕利きのハンターとはいえ、数百匹の妖獣妖物を相手に保ちこたえられるはずはない。
おびただしい爪と牙に引き裂かれ、苦悶する若者の美貌を想い描いて、カラスは血まみれの妄想に酔った。
その陶酔した眼は、確かに森の一角から放たれた白い物体を目撃したのである。
それをよけるにはカラスの身も精神《こころ》も溶けており、打ち落とすにはそれは速すぎた。
神速というべきであろう。木の枝の先端を尖らせた矢は、大鷲の胴を難なく貫き、カラスの喉からうなじへと突き通った。
一羽とひとりの苦鳴は混じり合って、空中に音のさざ波を広げた。
旋回しながら落ちてゆく巨鳥の影を認めたものの、その刹那に跳びかかってきた十数頭目のシシトラを斬り倒し、さらに三頭を葬り去ったため、ふたたび眼をやったときには、影はもう反対側の森の彼方に消えていた。
同時に十数メートルの距離に迫っていた獣たちの群れも統一を失い、明らかなとまどいの渦に巻き込まれて、あっという間に散り散りになってしまった。
うち何頭かがDを狙ったが、何の成果も得られず、その剣の贄《にえ》と化した。
静寂が戻ってから、Dは無傷な馬の背にまたがって、森を後にした。
去った後に、太い木の枝の両端を、一本の蔓でつないだ弓が残された。たったひとすじの矢の行方は言うまでもあるまい。
木の枝と蔓と――それだけを材料に作り上げた弓で、これも細い枝の先を削っただけの矢を、五〇〇メートル彼方の魔女に命中させるとは何たる技倆か。しかも、見よ。Dには左手首から先はなく、その切断面は縦に裂けて鮮血をしたたらせているではないか、片手で弓は引けぬ。なんと彼は自ら左手を裂いてそこに弓幹を食い込ませ、右手で弦《つる》につがえた矢を引いたのであった。
そして、死の谷間から森へと飛び込み、耳を澄ませた理由が、天空に潜むカラスの位置を知るための静寂を求めてだったとは、もはや人外の域さえ越えている。
まさしく、彼は“D”であった。
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第三章 スーラ
意識を取り戻して、スーラは驚いたに違いない。
この四メートルを越す巨人の顔は、ひどく鈍重であった。感情とか意志とかを表現するには、あまりにも不向きとしか思えなかったし、事実、そのとおりなのであった。
しかし、彼は驚いた。それはスーを見つめる眼つきでわかる。
どうやら、この娘は、Dの針を急所に受けて失神状態にあった自分から逃げようとしなかったばかりか、その針を抜き取り、あまつさえ、血臭を目当てに近づいてきたドクトカゲを、その針で仕留めてくれたらしい。
この行為をどう取ったらいいものか、彼は判断に苦しみ、しばらくの間、かたわらに立つスーを見つめるしかなかったのであった。
「何とか大丈夫そうね。待ってて、いま、お水汲んでくる」
こう言って、返事を待たず、スーは身を翻した。
水は近い。何しろ、つい三〇分前まで、それに乗っていたのだ。
スーラの巨大な長靴の底から、巨大な亀裂の傾斜を五メートルばかり下ったところで銀色の流れが音をたてている。
水筒も何もない。草に滑らないよう注意しつつ、スーは水辺へ下りると、もう乾いていたスカートの端を流れにつけた。
たっぷりと含ませてから、水面に自分の顔を映す。その辺は身だしなみだ。
顔がゆれている。さしてやつれも見えず、スーは安堵の息を吐いた。
顔が笑った。
水面の顔が。
自分は笑っていない。
――水妖!?
あの女――ルシアンの名と姿が脳裡に去来した瞬間、水中の自分がこちらに両手をのばした。それにつられるように、スーもまた手をのばして、手首まで水に浸けた。
その身体がぐい、と引かれて、声もなく彼女は水中に――
落ちはしなかった。巨大な手がその両足首を空中で握りしめたのである。
ふり向いて、
「あなたは!?」
とスーは叫んだ。驚きと喜びと感激の声で。
巨人は這いつくばった姿勢のまま、スーを引き戻そうと力をこめた。
ずい、と三〇センチほど上がった。
スーの手首を掴んだ何かが持ち上がってきた。それは陽光の下で妖しいガラス細工のようなきらめきを放っていた。
スーラは引っ張りつづけた。やがて、顔が出た。
もはやスーではなかった。
光の加減で、ある場所は消え、ある部分はかがやき、眼も鼻も口も揃っているとも否とも見える奇怪な存在であった。
川に巣食う妖物の一種であろう。
肩が現われ、胸が出た。
この場合、スーラの腕力を讃えるべきか。水妖の巨体に驚嘆すべきか。
スーラはすでに亀裂の頂きまでスーを引き上げ、しかし、半透明の巨体は、まだ肩までしか抜け出ていないのだ。スーが苦鳴を洩らさぬのは、巨大な割に質量が小さいためだろう。
スーラの右手がガウンの内側に入ると、手当てしていたスーも気がつかなかった長剣が現われた。切尖から柄まで縞模様が走っている。
スーラはそれでスーを放さぬ水巨人の両手をひと薙ぎした。
飛沫が上がったが、手は離れなかった。
水を斬ったがごとく、水妖の身体に与えた損傷は、たちまちのうちにふさがってしまったのであった。
「痛い」
ついにスーが叫んだ。水から遠ざかる分だけ、水巨人の重さは増すのである。敵はどうあっても獲物を水中に引き込む気だ。
スーラはもう一度、長剣をふるった。無益としか思えぬ一撃であった。
スーが眼を見張った。
水妖の巨体が忽然と消滅したのである。
同時に彼女は空中を飛び、丈高い草むらに軟着陸を成功させた。スーラが放ったのである。
夢中で起き上がったスーが見たものは、三度《みたび》長剣をふり下ろしたスーラと、消失した位置で[#「消失した位置で」に傍点]その一撃を頭部に受け、声もなく水流へと落下していくかがやく巨体であった。
よほど自信があるのか、スーラは川面を確かめもせず、長剣を片手にスーのもとへと近づいてきた。
はじめて、身も凍る恐怖がスーを捉えた。巨人は、もはや彼女の救った負傷者ではなく、その生命を狙う貴族の配下であった。
立とうとしたが、腰が動かなかった。軟着陸とはいえ、かなりのショックが与えられていたのである。
恐怖に見開いた眼の前に、巨大な手が五指を開きつつ近づいてきた。
猛烈な力が腰に加わり、身体が上昇していく。
革製らしい胸当てをつけた分厚い胸部が眼に入った。その上に顔があった。
昔、村の学校で見た土偶を憶い出した。無表情なそれらの中にひとつ、何処か哀しげな表情をしたものがあった。どう見ても他と同じ顔立ちなのに、何故それだけが例外だったのかスーにはわからない。
ただ、眼の前の巨人が記憶を甦らせたのである。恐怖の塊が氷解していくのをスーは感じた。
「あなたは――」
言いかけたとき、巨人は別人に変わった。
凄まじい殺気が全身にふくれ上がり、炎のようなその波動に、スーの頬は現実の熱さえ味わった。
あらゆる物音が絶えた。
水の音さえ熄んだのである。Dの美しさに万物が息を呑むように、スーラの殺気に震撼して。
何が生じたかもわからず、しかし、スーはすぐに理解し、首と身体を動かせるだけふって、周囲を見渡そうと努めた。
スーラが動いた。スーを掴んだまま、棍棒を取り出し、その丸い先端を地面に当てると、ゆるやかな曲線を描きはじめた。
出来上がったのは、直径一〇メートルにも及ぶ円であった。ただ、端と端とが結ばれず、最後に引いた線は、わずかに円自体の内側に入り込んでいた。
そこから出て、五メートルばかり離れたところに、こちらは二メートルほどの、やはり不完全な円を描くと、彼はその中にスーを置いた。
最初の巨円にスーラが入り込むのを見届けたとき、スーは左方の森の奥から音もなく現われた人影を見た。
「D――さん」
喜んだ。当然だ。だが、想像していたより、胸は弾まなかった。
ちらりとDは視線を送った。それで彼女の状態を見切ったか、無事かの問いもなく、スーラの方へ近づいていく。
守るものの安否を確かめれば、後は敵を斃すのみ。燃える殺気の炎に挑む美しき狩人であった。
五メートルの距離まで接近したとき、Dの右手が長刀の柄にかかった。
スーラの名と素性を確かめもしない。殺気が証拠だ。
「――D」
スーは呼びかけた。何を言いたいのかはわからない。
DからDが分離した。
あまりのスピードのせいで、網膜に残った残像だとの知識はスーにはない。
びゅっと風を切る一刀。
スーラが両断されても当然な、両者と刀身の位置であった。
だが、スーは眼を見張った。
スーラに触れたはずの刀身は、忽然と消滅したのである。
返す刃は――なく、間髪入れずに襲いくる棍棒の一撃を避けて、Dは大きく跳びのいた。
空中で白木の針を放ちざま着地する。針は空中で消えた。
あっ、とスーは自分の声を聞いた。
Dの右手の刀身はもとに戻っていた。
「地面を見て」
とスーは叫んだ。
「その人、何か――円を描いてたわ。何か秘密があるのよ!」
スーラが、ちらとこちらを見て、すぐDへ視線を戻した。
すでにDは、スーラの秘技を見抜いていたかも知れない。
刀身も針も虚空に消えた。スーラが地に描いた円の弧《サークル・ライン》上で。
だが、この円は完全なものではない。結ばれるべき線は最後でずれている。
もしも、Dの左手がここにいたら、
「迷路じゃな」
と洩らしたであろう。
その目的が、侵入者の方向感覚を奪い、永久の堂々巡りを行わせることにあるならば、“絶対貴族”の刺客が、人間ばかりではなく物体をも迷わせる迷路を描き得るとしても、驚くにはあたるまい。そして、物体が迷うとは、この世界から消えてしまうこと――もうひとつ別の方角へ行ってしまうことに他なるまい。スーラの描いた迷路のみが、それを可能にする。
いかなる物理的攻撃も、その線に触れた刹那、無効と化し、一方、スーラの攻撃は自在に行われる。
「あ、あのねえ」
とスーは巨人に呼びかけた。
「それ、卑怯よ。正々堂々と勝負しなさいよ」
まさか、効果があるとは思わなかった。驚くべき事態が生じた。
スーラが、ずい、と円の外へ出たのである。
勿論、それは彼の意志による行動であったろうが、あまりのタイミングの良さに、スーは有頂天になった。
「――どっちも頑張って」
無邪気で無責任な声援は、その刹那に凍結した。
新たに対峙した二人から放たれ、その中間でせめぎ合う殺気の波の凄まじさ。
すでに時刻は昼に近く、一面に緑が溢れ、風が吹くたびに陽光がそれを浮動させる森の一角で、ここだけは殺気のために凍結したようであった。
だが、戦いは短かった。
何故かDは仕掛けず、巨人の一撃が叩きつけられた刹那、一跳躍してスーのかたわらに立ったのである。
「D!?」
スーの叫びは、踏み下ろしたDの右足が、自分を囲む円《サークル》――スーラが描いた二つめの輪の中に入ったと直感したからであった。
Dの右足から右肩までが消えたとき、駆け寄ったスーラが棍棒をふるった。
よける暇もなく、左胸に爆発に等しい衝撃を受けて、Dは数メートルを飛び、先刻、水妖を葬った亀裂の底の流れへと真っ逆さまに落ちていった。
「――D!?」
自分でも想像だにしなかった激情に背を押されて、スーは走り出そうとした。
奇怪な現象がその身に生じた。
一瞬、三六〇度回転したような感覚が全身に生じ、視界が白く染まった。あらゆる物音が絶え、スーは自分が別の場所にいることを知った。このままいれば、自分は誰に知られることなくもとの世界から消滅するのだろう。
だが、帰還はすぐに成し遂げられた。
円内に茫として立つスーの前で巨体が身を屈め、ずれた線を消して、真円を完成させたのである。
よろめくスーを抱きかかえ、スーラはDを呑んだ銀色の流れに眼をそそいだ。巨体を覆うのは、勝ち誇った満足よりも、長い間追いかけてきた獲物を失った猟師のような孤独だった。
眼を開くと、急に懐かしい顔が上から覗き込んだ。
「気がついた?」
スー。
と口にしたつもりだが、声にはならなかったようだ。
「動いては駄目」
と言われる前に動かした両手に激痛が走った。
「身体中、火傷しているのと同じよ。よく助かったものだわ」
ようやく、マシューは自分がベッドらしきものの上に横たわっており、全身に包帯が巻かれたミイラ状態なのに気がついた。
だが、彼を絶望の淵に叩き込んだのは、それではなかった。
違う。この娘は――スーじゃない。
髪の色は同じだ。顔立ちも似ている。だが、いったん正気に戻った眼で見れば――別人だ。
「あなたは三時間ばかり前に、村の入口に倒れてたの。『熱射道』を通ったのね。誰かに聞いてなかったの?」
マシューは記憶を甦らせた。
ミランダ公爵夫人に救われ、救いを求めてさまよううちに、窪地のような土地に出た。
途端に夜明けの暁光が灼熱の光に変わったのである。
必死で逃れようとしたが、あまりの熱さに肌は塩を吹き、たちまち錯乱状態に陥った。それでも、かなり長い間さまよいつづけたのは覚えている。農場で鍛えた体力の賜物であったろう。
「こ……こ……は……何処……だ?」
意外にも声は楽に出た。
「中央辺境区ってのがあったのを知ってる?」
とスーに似た娘は訊いた。
「あ、ああ」
「そこの北の端に近いわ。ラシャルの村」
「北の端……?」
砦から北部辺境区までは、馬をとばしても丸一週間はかかると、砦でブロージュ伯爵から聞いている。いつの間に?
マシューの疑問を感じ取ったのか、
「『熱射道』の秘密は空間の歪みにあるっていうのが、以前調査した学者の先生方の定説よ」
と娘はつづけた。
「太陽光を和らげる大気層の部分が何カ所か歪んでて、直射日光が届いちまうのね。それと同じ現象が地上でも時々起きるらしいわ。あたし、あんたみたいな人を何人も助けたことあるもの」
束の間、マシューは気が遠くなった。
北の端――それこそ、自分とスーが最も恐れている場所ではないか。よりによって、自分の足で地獄へ辿り着いてしまうとは。
胸中に哀怨《あいえん》ともいうべき炎が燃え上がり、マシューは呻いた。炎はスーの顔を備えていた。
「泣かないで」
眼の縁を白い指がそっと撫でた。
「あんたがどこの誰かは知らないけど、歩けるようになるまでは面倒見てあげるわよ。塗ってある薬、よく効くわ。全治まで三日ってところね」
「……ありが……とう……」
「いいわよ。困っているときはお互いさま。あたし、スー[#「スー」に傍点]っての。――ん、どした?」
「……マシュー……だよ」
ようよう口にしてから、マシューは眼を閉じた。スー[#「スー」に傍点]の顔は消えたが、もうひとりのスーはなおも胸の中にいた。それが、スー[#「スー」に傍点]の顔にならぬよう、彼は声なき祈りを神に捧げつづけた。
「彼奴《きゃつ》――まだ現われぬか?」
つぶやいたのは巨大な柩であった。
窓ひとつない室内は闇に閉ざされている。それなのに柩の主が外へ出ないのは、真昼だからである。
「じきに会える。も少し車のスピードを上げい」
闇の中でこう答えたものがある。
光の中で人間が見たら、腰を抜かしかねまい。柩の上に貼りついたそれは、手首から切断されたとしか見えぬ左手であった。
「辺境の道がどんな状態か知らぬわけでもあるまい」
と柩の声は応じた。言うまでもなく、ブロージュ伯爵のものである。
「それは、おまえたち貴族の責任じゃ」
と左手は鋭く言った。
「自分たちの馬車が通る幹線道路だけは永久金属を用いて整備し、人間たちの道づくりは、狂樹や妖物を撒き散らして妨害した。中世のごとき伝説の魔界をこしらえ、現代の人間を魔法と妖怪の渦巻く世界の力なき農奴のような状態に貶めるためにじゃ。人工血液は完璧の域に達していた。なぜ、ひと思いに人間の抹殺を謀らなかったのじゃ。おまえたちの世界に人間は必要あるまい」
「その問いに答えを出した者は、それこそ銀河の星の数ほどおる」
と伯爵の声は言った。
「だが、これこそ正しいというものはひとつもなかった。或いは――」
少し間を置いて、左手の声が、
「――或いは?」
と訊いた。答えがなくても当り前の問いであった。にもかかわらず、
「――誰でもが正解を知っていたのかも知れぬよ。いや、いまでも、な」
「ブロージュ伯よ、手に入るもの以外の何かが欲しいと思ったことはないか?」
新たな唐突の問いに伯爵は沈黙した。左手のそれは伯爵の急所を貫く矢のような効果を発揮したのである。柩から伝わってきたのは激しい動揺であった。じき、それは感慨めいた情感に変わった。
「科学、魔法、文明」
伯爵の声の中で、それらの言葉は空中楼閣のごとく虚ろに響いた。
「我々はその究極までを成し遂げ、しかし、なお、見果てぬ夢があった――としか思えぬ」
「見果てぬ夢――夢か――おまえたちの世界にそのような曖昧なものは存在せんよ」
と左手は嘲笑した。
「夢ならば現実にする。希望は成就する――それが貴族たちのやり方じゃ。人間を生かしておいたのは、そのためか? 見果てぬ夢を夢ではなくするための?」
伯爵がもしも答えたら、人間と貴族の歴史において、驚嘆に値する解決の糸口がつかめたかも知れない。だが、そうはならなかった。
警報が長い尾を引いて、
「前方に生体反応あり」
と女の声が伝えた。
「二名及びサイボーグ馬一頭。ひとりは人間、ひとりは合成生命体と認めます。距離は三千」
「どうやら、あの兄妹の片方と、刺客どものひとりじゃの」
左手が渋い声で言った。
「Dの後を追って二日目。ようやく追いついたか」
二人――と言っていいものかどうか――は、いまの言葉どおり、Dの出立より一時間ほど遅れて砦を出たのである。
敵兵はことごとく枯枝と化して倒れ、砦は突如、安泰を迎えた。原因はわからない。Dを補佐するために砦を出たブロージュ伯はすぐに舞い戻り、核炉を修理してのけた左手ともどもこの自走車に乗り込んで出発した。砦への攻撃はすでに熄んでいた。残るのはアンドロイドばかりであったし、二人の関心はもはや兄妹の運命とDの行方にあった。
飛行偵察ロボットも飛ばし、地崩れや地下水路、戦闘地点をも発見したが、兄妹とDと刺客たちの行方は杳として知れなかった。
そして今日、三日目の昼過ぎに至って、ついに生体感知レーダーが、求める者を発見したのである。
「三次元立体イメージ像《3DIG》を出せ」
と柩が命じた。
生体感知レーダーは対象の実体そのものではなく、化学的な生体反応を捉える。そこから対象の像を製作するのはコンピュータの仕事だ。
暗黒の中に、二つの立像が浮かび上がった。
スーと巨人だ。
「おまえか!?」
と左手が柩に向かって素っ頓狂な声を張り上げ、無反応と知ると、
「冗談じゃ」
と訂正した。巨人も伯爵も等しくでかい。
「スーラという奴じゃな。しかし、あの巨体ではサイボーグ馬でも、この辺が限界じゃろう。休憩でもしておるのか?」
「そのとおりです」
と女の声が答える。
「で、どうする? 外へ出て戦うかの?」
と左手が嫌味ったらしい声で訊いた。さっきの冗談が無視されたのを根に持っているらしい。
「止まれ」
と伯爵の声が伝えた。音も衝撃もなく自走車は停止した。
いまは陽光あふれる昼だ。動けぬブロージュはどう出るのか。何よりも前方の敵は、Dさえ一蹴してのけた巨人スーラなのであった。
この二日間で、スーにはある種の安堵が生まれていた。
スーラに対してのものである。自分を狙う貴族の刺客だという一点から生じる恐怖は拭いようもないが、それ以外では、この巨人は決して自分を傷つけるものではないと得心できたのである。
口はひとこともきいてない。話せないのか、話す気がないのか、はじめからいままで押し黙ったままである。
スーが確信に至った源は、彼の行動にあった。
ここへ来るまで何度かスーは逃げ出そうとつとめた。マシューのことも気になったし、何よりも、自分の生命を狙う貴族の巣窟などへ、のこのこ行きたいわけもない。
隙を見て逃げた。実際、スーラは隙だらけだったのである。
サイボーグ馬に乗っている間は、自分の前で馬にゆられているスーに触りもしない。彼の重さにへばった馬から下りて歩くときも同じだ。休むときは必ずあの奇怪な“迷路”に閉じ込められるから、そうなる前にと、二度、馬から跳び下りて逃げた。
二度、妖獣と遭遇した。不意をつかれなかったのは僥倖であった。
最初はまん丸い全身から粘液をとばして餌を取り、木から木へと移動する蜘蛛竜《くもりゅう》であり、二度目は、人間の女性そっくりの幻を作り出して旅人を呼び寄せるメクラマシであった。
間一髪でスーラが駆けつけ、棍棒の妙技を駆使しなかったなら、彼女は二度も[#「二度も」に傍点]食われていただろう。
救出された後でスーは拷問を覚悟したが、巨人の扱いはいままでと寸分の変化もなかった。移動中に放りっぱなしなのも、そのままだ。
ただ自分の連行のみを命じられた有機体ロボットかとも思ったが、傷だらけのスーの足に、自分のガウンの内側から取り出した薬らしきものを塗ってくれる心遣いを見ると、そうでもないらしい。そのおずおずとした手の動きは、巨大であるだけにスーの笑みを誘った。
昨日の晩、巨人はDの針がつけた傷痕に同じ薬を塗ろうとして、何度かしくじった。
堪りかねて、塗ってあげると申し出た。巨人はなおも黙って塗ろうとした。傷は深いが小さい。広い範囲に塗ればいいのに、常人用の小さな刷毛が巨人には針程度にしか見えないらしく、どうしても、ちまちまと付けてしまう。
――運動神経が鈍いんじゃないかしら
とスーは疑わざるを得なかった。それから二度試みて二度しくじったのを見て、ついにスーはこう宣言した。
「あたしがやります。自由にして下さい」
巨人は少し考えて要求を入れた。
刷毛を取って塗りつけた。あまりにも簡単な作業に呆れることもできなかった。
スーラは何も言わず刷毛を受け取って、スーの周囲に“迷路”を描いた。
いま、スーラはスーと同じ円の中に入れたサイボーグ馬の様子を見つめている。
馬はDが乗ってきたものである。スーラの姿は愛馬を見守る飼い主のようだった。
まだ昼ひなかなのに前進を中断したのも、馬の疲れを慮ってだとスーにはわかっていた。この巨人の正体さえ知らなければ、十全の安堵を抱いて身を委ねたであろう。愉しい旅でさえあったに違いない。
ひどくやさしい気持になっている自分をスーは意識した。
気がつくと、やわらかなメロディが口をついていた。
森にみなぎる光よ 風よ
伝えておくれ
昨日の想いは忘れたと あの人に
今日の想いは さらに深いと
明日 野辺はささやき草に埋もれ
その声は 私ひとりの声だから
歌い終えてから、サイボーグ馬を気遣っていた巨人が自分の方を見つめているのを認めて、スーは少し驚いた。
「――どうしたの?」
壁のような顔の中で、細い眼がまぶしげにしばたたかれた。
「いい……声だ」
と巨人スーラは言った。
「……憶い出し……た……おれも……森の中で……生まれた……遠い山の中の……森で……」
「どこの山?」
この巨人がはじめて身近に感じられ、スーは思わず訊いた。
「……忘れた……どうでも……いいこと……だ」
「そんなことはありません。それは――」
言いかけて、スーは沈黙した。故郷を去ったのは、自分たちではないか。凄まじい木枯しのような孤独感に骨がらみ捉えられ、スーはその場に立ちすくんだ。
その呪縛から逃れようと、身を震わせて叫んだ。
「そんなことはありません。生まれ故郷って――」
木洩れ日が声を吸い取った。声がかがやきを放った。それは細長い物体に変わってスーラの胸もとへ直進し、虚空に消えた。ハンド・ミサイルは永遠にもうひとつの方角へ進みつづけるだろう。
スーラが立ち上がった。
凄まじい光を放つ双眸の見つめる方角をふり返り、スーは息を呑んだ。
「ブロージュ伯爵!?」
「無事でおったようだな」
伯爵は眼の前を横切る木の枝を掴んでへし折ろうとしたが、枝は拳を貫いた。
「見たとおりの幻だ」
と伯爵は言った。浮遊分子の凝縮による立体像だが、実物そのものだ。
「迷路だな。そこにいられては、外からは手が出せん。だが、おまえも迎え討てはせん。――とりあえず、出て来い」
スーラの巨体が“迷路”の上に沈んだ。
と見る間に、それは信じられぬ敏捷さで跳躍し、幻のブロージュとぶつかり、その身体を貫いて疾走に移った。
右手に棍棒を下げたその背を二本の銀色の火矢が追い、左右の肩甲骨の下に命中した。
岩が前方へ跳躍したかのように見えた。
その両胸から火柱が抜けた。二発のハンド・ミサイルは、命中の瞬間、内蔵していたエネルギーを一〇〇万度の熱衝撃波に変えて噴出したのである。
地響きを上げてスーラは倒れた。巨体の倒れかかった巨木が、その重さを支え切れずに、土と根を掘り起こしつつ横倒しになる。
いかに巨人スーラといえど、一〇〇万度の熱波に体内を駆け巡られて無事なはずはない。すでに身体は死の痙攣の言うなりだ。
だが、ミサイルは背後から――幻のブロージュ伯の方角から襲った。それは確かに、彼のマントの内側から発射されたのである。伯爵は幻ではなかったのか。
断末魔の苦痛にわななく、自分と見劣りしない巨体に近づき、伯爵はにんまりと笑った。
「分子の凝集次第で、幻も実体に近づく。本物のミサイルや長槍をぶら下げられるくらいにな。ふむ、ハンド・ミサイルの二発くらいでは死なぬか。では、いま首をはねてくれる」
伯爵の右手で長槍がふられた。それは指を貫いて抜け、三メートルほど手前の地面に斜めに突き刺さった。力を入れすぎて、やわな分子構造を通過してしまったのだ。してみると、この槍は本物か?
ブロージュは照れ臭そうな笑みを浮かべて槍を引き抜いた。慎重な動きである。
彼はスーラの胴を蹴って仰向けにした。熱波の抜いた傷口はわずかに心臓をずれている。狙いはそこ[#「そこ」に傍点]だ。スーラが右手で右の傷を押さえた。
長槍がぐいと引かれた。
「幻とはいえ、ブロージュ伯爵の姿に滅ぼされるのを光栄と思え」
哄笑を放ちつつ、伯爵は槍をふり下ろした。
その穂先が目標地点に触れる数百分の一秒の間に、彼は見たかも知れない。スーラの右手が、心臓の上につながらぬ円を描くのを。
穂先は消えた。のみならず、勢い余ってくり出される穂も柄《つか》も“迷路”に呑み込まれた。
「こしゃくな真似を!?」
伯爵のミスは、長槍を引き抜こうとしたことであった。その穂が半ばまで戻ったとき、その胴を横なぐりに棍棒が襲った。
長槍は吹っとび、棍棒は胸を抜けたが、伯爵は大きくとびずさった。着地点は槍の落下点と等しかった。
長槍を構え、彼はスーラへと突進した。
あと数歩でスーラに届く、と見えた刹那、奇怪な現象が貴族を捉えた。見えない戸口が出現したかのように、空中に吸い込まれたのである。
突如、静けさが誕生した。
黄金の光の下に横たわるスーラの巨体は、ひどく場違いに見えた。
一分ほどかけて、スーラは上体を起こし、両足に力を加えて立ち上がった。両胸の貫通孔はすでに消滅しつつある。再生細胞の魔力だ。
彼は伯爵の自走車を襲撃するつもりだった。いかな大貴族といえども、陽光満ちる時間《とき》は、柩の内部《なか》で闇を伴侶に眠らねばならない。
絶好のチャンスだ。自走車に備わる護衛メカがいかほどの力を有していようとも、試みる価値はある。
歩き出そうとして、彼はスーの方を見た。
およそ石仏のごとき無表情に、動揺の波が渡った。
スーの姿はなかった。侵入も脱出も許さぬ“迷路”は何者かの手で完璧な輪をこしらえ、皮肉なことに、そこから脱け出るのは至極容易なのであった。
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第四章 八人目の刺客
二度ほど周囲を見廻してからスーラが走り去ると、サイボーグ馬をつないだ木のかたわらの薮が葉のざわめきを発し、スーが現われた。
その左肩におかしな代物が乗っている。
男のものらしい左手が、細い肩を背後から掴んでいるのだ。撮影しておけば、心霊写真で通るだろう。
それどころか、
「去《い》ったのお」
口まできくと来た。
「ええ」
とスー。
「何じゃ、せっかく自由の身にしてやったのに、不満そうだのお」
「違います。とっても嬉しい。でも、あの人は悪い人じゃあないんです」
「かも知れんな」
意外なことに左手はスーの言い分を認めた。
「だが、敵には違いない。となれば、一刻も早い死を願わねばならぬのだが、おまえにそれは無理じゃろう。――馬には乗れるな。行くぞ」
「何処へです?」
「伯爵の自走車と落ち合う場所は決めてある。スーラがいくら捜しても、あの車は見つからぬよ。それにしても、Dの奴め、何処にいる? わしが先にこの娘を見つけてしまうとは、護衛としてなっとらん」
「あの、Dは――Dは……」
「どうした?」
ただならぬ物言いに何かを感じたらしく、左手は指に力をこめた。――と、スーの背後から、ひょいと左手首までがジャンプしたみたいに現われ、器用にバランスを取ってその肩に乗り直した。
「術にかかって、水に……」
「なにィ?」
そしてスーは、巨人とDとの戦いを物語ったのである。
「ふむ、その程度でへばる男ではないが、水――それも流れ水というのが気にかかる。よし、ブロージュと落ち合ってから捜しに出かけるか」
「はい」
スーもうなずいた。ずっと気遣っていたことだ。
二人(?)はそこから一〇分ほど歩いた森の中で自走車と遭遇した。
車内へ入るとすぐ、
「無事だったようだな」
とブロージュ伯爵の声が降ってきた。その中にまぎれもない安堵と労《いたわ》りの響きを聞きつけ、スーは少しとまどった。
「いい声であったぞ」
「え?」
「あの歌だ。何という?」
やっと思い出した。こんなに離れた車の中で、伯爵は自分の歌声を聞いていたのだろうか。
「タイトルはありません。母がよく歌っていました」
「ふむ。――まあ、よかろう。移動するぞ、奴が来る」
「よかった」
スーは胸を撫で下ろした。これでブロージュとスーラが戦わなくても済む。
「――よかった? 何がだ?」
伯爵の声に問われて、
「私――どちらにも傷ついて欲しくありません」
と答えてしまったのも、安堵のせいであった。
はたして、伯爵の声はスーが青ざめるほどの迫力と敵愾に満ちた。
「ほう、拐《かどわ》かされた娘が拐かした奴の身を案じるか。面白い。どれほどの奴か、やはり、ここで試してやろう」
「そんなつもりじゃ――」
スーは夢中で抗弁した。
「あたしはただ――あの人は悪い人じゃないんです」
「悪かろうと悪くなかろうと、敵だ。おまえの生命を狙っておる。そして、我々はおまえを守らねばならん」
この台詞の中にゆれる怒りと嫉妬にスーは気づかなかった。
「――敵は何処におる?」
女の声が応じた。
「北々西五五四メートル、目下、周辺を彷徨中です」
「よし、そちらへ向かえ」
「待て」
と別の声が割って入った。スーの肩に止まった左手だ。人さし指が、ぐん、と天井――ブロージュの方をさし、
「おまえはいま、この娘を守るのが仕事と言ったはずだ。ここで戦えばいたずらに危機を招くことになる。それはおまえの言葉に背くことにもならんか?」
凛とした声音であった。
一瞬の沈黙を置いて、ブロージュの声が鳴り響いた。いくぶんか、自棄《やけ》気味ではあったが。
「前の指示は撤回する。砦へ戻れ」
ふたたび安堵に包まれたスーの肩を左手がそっと叩いた。
車のエンジン音をスーラは遠く聞いた。全速で追いかけたが、車の影さえ見られぬうちに、何も聞こえなくなった。
すぐに追おうとサイボーグ馬のつないである休憩地へ戻ったが、馬は姿を消していた。恐らくスーを連れ出した何者かの仕業であろう。鉄壁といってもいい“迷路”を破った相手に違いない。
敗北感が彼を棒立ちにした。
「ミスをおかしたのお」
スーラは右を向いた。
錯綜する木立ちの間に、真紅の影が立っていた。
フード付きの長衣をまとった人物は、声からして老婆と思しいものの、その顔も手も見ることはできなかった。
「私はキマ――大公の力の一部だ」
と真紅の影は言った。
「この先、おまえだけでは荷が重い。力を貸せとのご命令じゃ」
「………」
「私は直接手を下さん。あくまでおまえのサポート役に留まる。心してかかるがいい。そこで、いまの車――ブロージュ伯爵めだが、砦には行き着けぬよう細工しておいた。奴を斃す手立てを考えてから、ゆっくりと追うがいい」
誰かが入ってくる気配があった。スー[#「スー」に傍点]だろう。
マシューは眼を開いた。瞼がしみるように痛むが、前ほどではなかった。
「ひどい傷だのお」
全身が、ぎんと硬直した。Dの左手を思わせる嗄れ声だったからではない。弄《いら》うがごとき口調の邪悪さゆえである。
「お……ま……え……は……」
何とか、糸みたいな声を絞り出した。薬の力で唇が動かない。
「大公さまの力の一部じゃ」
と声はつづけた。
「おまえと妹を、大公さまの領土へ連れていくのが仕事よ。最初に託された者どもが案外とだらしのう斃されてしもうてな。その分だけ、おまえの護衛どもが手強いというわけだが。――動くな。せっかくに治りかけた皮膚が、また剥がれるぞ。私の名はキマという」
「………」
「ここへ来たのは、もちろん、おまえを連れ出すためだが、私は強制はせん。おまえが自発的に、大公さまのもとへとやってくるように仕掛けてやろう。――あら、起きちゃ駄目」
老婆の声が急に若く弾んだそれに変わると、気配まで別人のものになった。
「――動いては駄目と言ったのに、仕様がない人ねえ」
「……スー……か?」
「そーよ。――さ、横になって」
肩を押されて、マシューは固い床についた。
「……いま……ここに……誰かいな……かった……か?」
「誰も。――あ、そういえば、入ってきた瞬間、赤いものが見えたような気がしたけど、それこそ気のせいよ」
辺境の生活は厳しい。無害な幻や夢を見せる悪霊や幻覚獣を気になどしていられない。
「薬――替えるわよ」
スーの手当てには、心がこもっていた。
包帯を解き、前の薬をガーゼごと剥がした後で、丁寧にお湯で身体を拭く。
「随分よくなったわね。もうしゃべってもオッケーよ。歩くくらいならいいかな」
「ここは君の家だろ?」
やっと自由になった口でマシューは訊いてみた。
「そーよ」
「いいのか、おれなんかが泊まり込んで?」
「どうせひとりだから。気にしないで」
「村の人は――何にも言わないのか?」
「放っといて」
少し怒ったように、
「余計なこと気にしないの。あたしはソファで寝るからね。変なことしないでよ」
新しい塗り薬を貼りつけられ、包帯が巻かれたが、今度は胸と背中の一部だけで済んだ。
「さ、これでよし」
「ありがとう――おれ、出て行くよ」
スーは眼を丸くして、は?と言った。
「これ以上、迷惑はかけられないし、もとのところには妹もいる。早いとこ戻らないと。悪いけど、馬と食料を貸してくれないか、後で必ず返しにくるから」
「返さなくてもいいわ」
とスーは言った。ひどく生真面目な表情がマシューを驚かせた。
「その代わり、あなたの行く場所まで私も一緒に連れて行って」
「どうしてだよ?」
「明日――亭主が帰ってくるのよ」
「はあ?」
「どっちにしろ出てくつもりだったんだけど、あなたを見たら気が変わったの。これ、あたしのいい男《ひと》だって見せつけてやろうかと」
「ちょっと――」
「安心して」
とスーは笑いかけた。
「考えてみたら、あんまりいいやり方じゃないわよね。それに、うちの亭主、でかくて乱暴だから。『都』の観光に出掛けたとき、村の連中一同で『保安局』に陳情して、そのまま刑務所へぶち込んでもらったの」
「ご主人って――何なの?」
「火竜ハンター」
「………」
ハンターにも様々な種類がある。凶暴な妖物専門の腕利きは、それなりの実力を持ち、名誉と報酬を保証される。吸血鬼ハンターに次ぐ最高峰は、火竜ハンターにとどめを刺すというのが定説だ。
火竜といっても、単に口から火を吐くだけの単純な生物ではない。全身を灼熱させて放つ炎は、時速五〇キロで疾走しながら山ひとつ焼き抜き、小さな湖を一〇秒で干上がらせる。近年、その墓地と称される一角が深山内に発見されたが、骨は意外に少なく、代わりに大きな穴がおびただしく地面に空いていたという。死を前にした火竜が、最後の力で自らを灼熱させ、地の底深く我が身を埋めていった跡だという。一説によると穴は地球の核までつづいていて、そのせいでその地方には火山が多いとのことだ。
こんな妖獣を相手にする火竜ハンターが、明晰な頭脳と強靭な肉体を備えるのは理の当然であり、中には『都』の違法医師のもとを訪れて、自らの肉体を半ば機械化――サイボーグ化する連中も多い。
このような精神状態の男たちが穏健な人格の持ち主であることは、森の中の一葉を探すのに等しく、仕事が終われば盛り場で粗暴の限りを尽くし、喧嘩、流血の果てに殺人まで犯す輩が続出する。
スーの夫はその典型といえた。
村へ戻るたびに男たちと殴り合い、他人の女房、娘に手を出してまた大喧嘩になり、半死半生のありさまで村を出ていく村人たちが連続した。『都』への陳情は、村中が我慢した挙句の結果だった。
そんな男が帰ってくる。村人と妻への怒りに胸を煮えたぎらせて。
「村の男たちは迎え討つ準備してるけど、うちのは半分以上サイボーグよ。『都』の保安隊だから捕まえられたけど、ここじゃあ、岩に紙つぶてをぶつけるようなものよ。ね、逃げよう」
「そ、そりゃ、いいけど」
あまりの事態の変転ぶりに、マシューの返事は曖昧になるしかない。逃げようと誘うくらいなら、なぜ夫に紹介するなどと言ったのか。若いマシューにはわからないことだらけだ。
「火傷が治らないかなと思ったけど、何とかなりそうだわ。あいつ、真っ先にあたしを殺すでしょう。さ、脱出よ」
「い、いまから?」
「当り前よ。明日来るって言ってるのよ。だったら、今日の深夜だわ。ここにいてもいいけど、村の連中はあんたがあたしの家へ泊まり込んでるって知ってるからね。何言いつけるか、わかったもんじゃないわよ」
「それじゃ、脅しだ」
「背に腹はかえられないわ。――どうするの?」
「行くよ」
他の返事ができるはずもない。それから一時間もしないうちに、寝静まった村から二頭のサイボーグ馬に分乗した二つの影が、せきたてられるように脱け出していった。
夜の辺境は魔性の世界だ。そのための武器も準備してあったらしく、マシューはまだ痛む手に火炎放射器を握らされた。油のタンクは背中だ。
村へとつづく道を走って街道まで辿り着いたとき、マシューはスーの努力が水泡に帰したことを知った。
砦の所在を伝えると、
「こっちよ」
とスーが白いリボンみたいな道の一方の端を指さし、急に凍りついた。マシューも後を追い、これまた動きを失った。
月光の下をサイボーグ馬にまたがった人影が悠々とやってくる。
「――ご主人?」
「そーよ」
スーの返事も虚ろだ。彼女は馬を寄せ、身を乗り出した。
「射程距離まで来たら、灼いて」
「そんな……」
「死にたいの!? 殺される前に殺すのよ!」
もうひとりのスーがひどく懐かしかった。
馬が止まった。
馬上の影が眼のあたりに片手を上げた。ごついヘルメットとゴーグルをつけているのに、マシューは気がついた。首から下も装甲《プロテクター》だらけだ。冷たい汗が頬を伝わった。
「そこにいるのは――スーだな」
分厚く荒々しい咆哮に似た声が夜気を渡った。
「ご亭主さまが帰ってきたぜ。よくも、窮屈なところに何年も放り込んでくれたな」
「うるさいわねえ」
とスーは言い返した。
「あんたみたいな野蛮人、一生、『都』にいればよかったのよ。わかる? ここにいる人、あたしの彼よ。あんたなんかと違って、すっごく優しいの。何しにノコノコ戻ってきたのよ。さっさと刑務所へ帰りなさい」
「てめえ」
男の右手がふりかぶられたのをマシューは見た。
距離は優に一〇メートルある。ライフルか?
ひょう、と風が唸った。
男の手で何か長いすじが旋回した――と理解したのは、ベルトにはさんだ火炎放射器のグリップを弾き飛ばされてからだ。
「それは――鞭か?」
「そうともよ」
と男が哄笑した。
「火竜の足に絡めてぶっ倒し、その首に巻きついて息の根を止める特殊鋼でできてるんだ。おめえの首くらい、根もとから引き抜いちまうぜ」
「逃げろ、スー」
馬首を右へ巡らせながら叫んだ。森が黒々と広がっている。夢中で馬の腹を蹴った。
その耳もとで銃声が鳴った。鼓膜を痺れさせる重々しい響きは――散弾銃だ。
男のサイボーグ馬が、がくっと前のめりになった。
「森へ入って!」
スーが叫んで馬首を巡らせた。右手の散弾銃は紫煙を噴いている。切り詰めた《ソード・オフ》銃身は、近距離で多数の敵を相手にするためだ。散弾の数は二十発に及ぶ。
森へ飛び込むまでの数十メートルが地獄だった。
ふり返って叫んだ。
「追ってこないぞ!」
「来てるわよ!」
意外な返事に横を見た。並んで疾走中のスーの眼が、かっと左下――二人の間の地面に吸いついている。
追いかけて、マシューも眼を剥いた。草むらを蛇のようなものが走っている。
鞭だ。鋼の鞭が追いかけてくるのだ。
いきなり、スーめがけてジャンプした。散弾銃の火線が地面を叩き、それを叩き切った。
痛みでも感じるのか、地面でのたうち廻る姿が、ぐんぐん遠ざかっていく。
「やったぞ!」
「何がよ!?」
鞭を切ったと言おうとした瞬間、右から黒い影がのしかかってきた。
その下を走り抜けた刹那、地響きが追ってきた。
ふた抱えもありそうなシガラミの幹であった。
「どうして――!?」
「もっと来るわよ――右へ!」
言われるままに手綱をしぼったその前へ、コドクジュの巨木が世界を揺るがした。
「何なんだよ、一体!?」
マシューの声は悲鳴に近い。
「亭主の鞭よ。火竜の首も切るって言ったでしょ! あれ、火竜の炎を防ぐために一キロものびるのよ」
「わわっ!?」
マシューの叫びは、このとき眼の前の地面から、真っ赤な眼をした影が躍りかかってきたからだ。
次の瞬間、それは銃声に吹きとばされて地に落ちた。そこへ間髪入れず倒木が襲いかかる。
走りに走り、追われに追われて、気がつくと二人は森の外へ飛び出ていた。
だしぬけに馬がつんのめった。
頭から地べたへ叩きつけられた――はずが、間一髪で受け身を取れたのは、どちらも辺境の生活で鞍慣れしているおかげだった。
それでも頭まで痺れる衝撃をこらえつつ、
「ちい〜〜〜〜」
「いったあ〜〜〜〜」
と顔を上げたその眼前に、装甲服の大男が立っていた。
「ここは――もとの場所だ」
愕然と男を見つめるマシューへ、
「そのとおりだ」
と下卑た声が愉しげに、
「おまえらは、おれの鞭に追われて、森の中をひと廻りしただけなんだぜ。逃げられやしねえんだ」
男の右手で、びゅん、と鞭が唸った。わずか三メートル程度にしか見えないそれが、一キロものびて二人を追ってきたとは、マシューには信じられなかった。
「ねえ、さっきのは冗談よ」
とスーが膝をつきつきマシューの前へ来て庇った。
「この男《ひと》はただの旅人なの。急いで、村を出るって言うから、連れてってもらうことにしたのよ」
「旅人にしちゃ、荷物が少ねえな、坊や」
と男は言った。内蔵のスピーカーを使っているらしく、くぐもった声である。
「まあ、いい。どうせ村の連中、みな殺しにするつもりで戻ってきたんだ。ひとりや二人増えても愛嬌ってことにしようや」
「やめてよ」
「安心しろ。この坊やは一発で首を落としてやるよ。ただ、おめえはそうはいかねえ。手を取り足を切り、一寸刻み五分刻みだ。どきな」
「嫌よ」
しゅっ、とマシューの喉の周りで空気が弾け、彼は声もなくのけぞった。男の手の鞭は、スーを迂回して後ろのマシューの首に巻きついたのである。
夜目にもどす黒く変わるマシューの顔を見て、スーが狂気のように夫へ跳びかかって、顔面へ右の拳を叩きつけた。一〇〇万度の炎を数秒なら避け得る特殊合金のヘルメットである。鈍い打撃音だけを成果に、スーは拳を押さえて身を屈めた。それで空しい戦いは終わるはずであった。
派手な響きが地面から上がり、スーは苦痛に満ちた顔をそちらへ向けて、あっと叫んだ。
夫が倒れている。
「ど、どうして?」
とつぶやく背後で、マシューが咳き込んだ。鞭の呪縛が解けたのである。
スーはよろよろと夫の顔のあたりに近づき、マスクの留め金に手をかけて外した。
「死んでる」
叫んだつもりが、それは恐怖に押しつぶされたつぶやきであった。
夫の顔は灰茶色に変わり、しなびて、無数の皺に覆われていたのである。
「こ、これじゃ、ミイラよ。一体どうしたっていうの?」
それでも辺境の娘である。もう百年も前に死んだような夫の顔に指を這わせたのは、立派というしかない。
瞼も開いて瞳孔を確かめ、
「信じられない。本当――とっくの昔に死んでたのよ、この亭主《ひと》」
「でも……」
のこのこと近づいてきたマシューが、青い痣のついた喉を撫でながら言った。
「確かに動いていたし、口も――」
「魔術にかけられたのね。この亭主《ひと》、もうそれこそ何年も前に死んでたのよ。それが復讐のために――待ってよ、どうして、いいときにおっ死んじまったの?」
「わからない。とにかく、これでもう安心だ。君は、村へ戻れ――おれはひとりで行く」
「ちょっと待って――あたしを置いてくつもり?」
スーがなじった。
「その方がいい。世話になった」
後じさるマシューの手に、ぐいと腕を絡めて、スーはその顔を睨みつけた。
「一生連れ添うなんて言ってない。とにかく、この村を出て他のところへ行きたいの。途中まで一緒に行って。ねえ、こんなこと言いたくないけど、あたしが助けてあげたのよ」
マシューはスーの顔を見つめた。その眼に映るスー[#「スー」に傍点]が、次第に別人になっていくことを、スーは知らなかった。
「違う」
マシューのつぶやきが、ひどく痛切に響いて、スーは、え?と訊き返した。
「おまえじゃないよ、スー[#「スー」に傍点]。おれが守ってやったんだ。おまえが生まれたときから、いままでずっと。それなのに、おまえは、おれから離れようとした」
スーではないスーの喉に、たくましい指が食い込んだ。
「あんな、どこの馬の骨ともわからない吸血鬼ハンターの誘惑なんぞに乗りやがって。おれの立場はどうなる? 許さねえぞ、スー。絶対に許さねえ」
声が震えた。マシューの肩と腕も震え、スーの身体も震えた。身体はマシューの震えが止まったと同時に、仰向けに街道へ倒れた。
これは自分を救ってくれた女だと、マシューが気づくには数秒かかった。
「スー!?」
夢中で恩人の身体にすがりつき、喧嘩みたいに揺すり、あきらめ、それでももう一遍揺すったとき、
「あきらめが悪いね」
と嗄れ声がかかった。
月光の下でも、真紅の女はそのように燃えていた。
「その娘は死んだよ。生き返らせることができるのはヴァルキュア大公さまひとり」
銃声と散弾の火線に押されて、キマは三メートルも吹っとんだ。
長衣の裾が地上に炎のごとく広がり、背中から落ちたキマをやさしく包んだ。
「おまえはいま、スーという名の見ず知らずの女を殺したのではない。妹もスーと言うた。おまえはその手で妹を殺したのだ」
「ち、ちが……」
抗弁しようとして、マシューは口を開けなかった。キマの指摘は正しかったのだ。彼が殺したのは妹のスーだった。あれほど子供の頃から愛し、守り、庇ってきた娘だった。それがおれを裏切るなんて。みんな、おまえが悪いんだ、スー。おれは何もしていない。悪戯半分に首を絞めただけだ。その手から、スーの散弾銃が滑り落ちた。
「もう逃げられないよ。どうする、マシュー? わたしと一緒に、大公さまのところへ行くか?」
「おれは殺していない」
とマシューはつぶやいた。
「おれはいつだって、妹を、スーを守ってきた。殺すなんてしない」
「いいや、おまえは守ってなどこなかった。スーが礼を言ったことがあるか?」
マシューは答えを考えた。すぐに出た。だから、黙っていた。
「おまえのような兄は、妹にとって、広々と広がる世界の門を閉ざし、狭苦しい個室に彼女を封じ込める害虫なのだ。おまえの行うすべてがスーには疎ましく、おまえの妹への賛辞が、スーには墓地から甦った屍体の呪詛《じゅそ》に聞こえていたのだ。真実を見つめよ、マシュー。おまえもそれに気がついていたはずだ。だから、必要以上にスーを庇い、守り抜いて、真実の隠蔽を謀ったのだ。そして、それがおまえの万倍も美しい別の男の手によって揺らぎはじめたとき、おまえはその手で――」
「やめろ!」
マシューは真紅の姿へと突進した。
長衣の胸ぐらを掴まれ、フードに手をかけられても、長衣は動かなかった。
「この野郎」
そして、マシューは絶叫を放った。外されたフードの下から自分を見つめる顔は、いま手にかけたはずのスーであった。
立ちすくむマシューの首に氷のような白い手が巻かれ、墓地の腐った土のような吐息が鼻孔をくすぐった。
「よくも殺してくれたわねえ」
とスーは言った。
「一緒にいらっしゃいな、兄さん」
その顔が妹のものだと知った刹那、マシューは女の手をふりほどき、脱兎のごとく街道を走り出した。
マシューが、もうひとりのスーと村を出たのとほぼ同時刻、そこから馬で七日間かかる森の中で、こんな会話が交わされていた。
「何故、止めた?」
「前方に、不可視の障壁があると、センサーが感知いたしました」
「構わん、こちらにも砦で装備した重力場包囲機構がある。フル稼働させて突破せい」
「敵も重力場バリヤーです。触れたものは、すべて原子以下の素粒子レベルに分解されてしまいます」
「それはこちらも同じことだ。どちらが吸収され、どちらが残るか、パワーの勝負だ。――行けい」
ブロージュ伯の自走車は、エンジンの唸りも猛々しく疾走を開始した。
その前方――二メートルほどのところで、不意に空間が陽炎のように歪んだ。
エンジンは音もなく停止した。
「どうした!?」
とブロージュ伯の声が喚いた。
「危険です」
と女の声が言った。その声の主なら、さぞや別嬪《べっぴん》だろうと思われた。
「コンピュータは、接触後五秒間に空間の歪み、五〇秒以内に当車輛の消滅を結論いたしました」
「構わぬ。行けい」
「やめんか」
とその肩に手を乗せたものがある。
「スーがおる。重力場にすりつぶさせる気か」
「えーい、厄介な」
伯爵は大きく肩をふってその手をふり離した。手は床に落ちて、
「いてて」
と言った。
「南々西より人体と思しき個体がひとつ接近中。オーラ測定によれば人間ではありません」
虚空に浮かんだのはスーラであった。立体像は道なき森の中を、瞬時の停滞もなく前進し、その前方と周囲で、巨木も潅木も隔てなく、見えない力で押しのけられたかのように倒れていくのだった。
「あれ[#「あれ」に傍点]に重力場が備わっていたとは思えん。しかも、確実に追尾してくるとは――誰か力を貸した者がおるな。居間を映せ」
虚空にスーが現われた。
空間歪曲技術の応用で、広大かつ豪奢な貴族の住まいとしか思えぬ一室の片隅で、少女は椅子にもたれて眠っていた。
「――誰の夢を見ておるのか」
不思議と穏やかな声であった。伯爵はドアの方を見て、
「開けよ」
と命じた。
「――何をするつもりだ?」
と床の左手が訊いた。
「追ってくる敵を迎え討つ――他にすることができるか?」
「おまえほどもサイズのある奴――気をつけい」
「おまえ以外の者に、そう送られたかったぞ」
ブロージュの姿は闇に呑まれた。
「奴め――嬉々として行きおった。いい年齢《とし》をして、嫉《や》いておるな。いや、男の嫉妬は怖い」
床の上でぶつぶつと好き放題を口にしていたが、ふと、
「待てよ。ひょっとしたら――おい、操縦室のドアを開けい」
と言った。
「ご主人の命令以外には反応できません」
応じる声へ、ひょいと人さし指をのばして、
「ふむ、そこ[#「そこ」に傍点]か」
と左手は意味ありげにつぶやいた。
車から十歩ほど離れて、伯爵は右胸に埋め込まれた重力場スクリーンのスイッチをオンにした。思念で作動する。
同調した自走車用のバリヤーからあっさりと抜け出す。
その全身から燃え立つ鬼気は、近づきつつある敵への憎しみに違いない。だが、さらにそれを支える油火のごとき粘着性の感情の炎を、伯爵は理解していなかった。
さらに一〇メートルほど進み、潅木ばかりの一角に出た。
「ここでよかろう」
右手の長槍が一閃するや、弱々しい木立ちはことごとく吹きとばされ、伯爵は突如、出現した直径二〇メートルほどの丸い空地の中央に立ち尽くした。
二秒と待たず、前方の木立ちが左右に開いた。
「昼間、会ったな」
伯爵はスーラの棍棒に眼を移した。
「よくここまで来た。誰の手助けだ?」
スーラの愚鈍とさえいえる表情に変化はない。
「ふむ、口がきけんか? ならば、そのまま地獄へ行くがいい!」
伯爵の身体が信じ難い速度で、いまひとりの巨人へと走った。
あと一〇メートルまで近づいたとき、二人の間の空間が大きく歪み、そこへ突っ込んだ伯爵の身体もまた波のように崩れた。
重力場同士の特性が異なるためか、不透明な皮膜を押しのけるようにして、伯爵はスーラの肩を長槍で貫いた。
穂先は、スーラの肩に触れる前に消えた。
「ふんっ」
低く放って、スーラの棍棒が躍った。
伯爵の頭頂へふり下ろされたそれは、電波撹乱による像のように歪んで伯爵を通り抜けた。
「わしを斃せるのは、この槍のみよ」
再度、伯爵の長槍が閃いた。
スーラの額から顎まで一線が走り、それは上衣の裾まで延長されて、巨体の前を月光にさらした。
伯爵の眼は、身体の前面に描かれた赤い巨大な“迷路”に注がれた。
「ふむ。どうして顔に描かなんだ?」
槍はスーラの顔面を貫いた。
渾身の一撃であった。引くことは考えず、伯爵は根限り突き入れた。
その手応えのなさに眼を剥いたのは、数瞬後のことだ。穂は抜けていなかった。
スーラの手が槍の柄を掴んだ。
伯爵が驚きの叫びを上げた。スーラの上体が大きくふられると、槍はその顔にめり込んだまま伯爵の手を離れた。
恐るべき一瞬が訪れた。
スーラが奪い取った槍を構えるまで、伯爵は避難する体勢になかった。彼はスクリーンのエネルギーを強化した。
空間が歪む。それを貫いて走る伯爵の長槍――よける間もなく、光る穂は彼の心臓を――貫く寸前で停止した。
忽然と出現した手が、その柄を握り止めていたのである。手首の先しかない左手が。
「油断大敵」
落下しながら、ひょい、と六メートルもの長槍を跳ね上げて旋回させるや、左手は手首の力だけでそれを投擲した。
槍はスーラの顔面を貫く寸前でかわされ、わずかな頬の肉を持っていった――いや、顔全体の皮膚を。
その下から現われたもうひとつの顔には、これも鮮やかな赤い“迷路”が渦を巻いていた。上のマスクは、それに触れないように貼りつけられていたのだろう。
「さて、お互い手がつまったな」
と左手が愉しげに言った。
「余計なことを」
と吐き捨てたのは伯爵だ。自分が危機一髪の状態に陥ったことよりも、他人に救われたという屈辱のためか、全身は小刻みに震えていた。
「どうするつもりだな?」
と左手。
「貴族を甘く見るな」
伯爵の右手がマントの内側に入ると、長剣を掴んで戻った。
呼応するかのように、スーラが後ろに跳んで、右の人さし指を咥えた。
左手のひらにそれで何かを描いた。
伯爵が地を蹴った。獣の跳躍に似ていた。
頭上からふり下ろされる岩をも砕く一撃を、スーラは左手で受け止めた。刀身は消滅した。手のひらには血の“迷路”が描かれていたのである。
伯爵が二撃目を送ろうと体勢を整える。
不意にスーラが沈んだ。誘いでも偽りでもなく、自然に前へのめったのである。
伯爵の刃にためらいはない。
今度こそ逃がさんとふり下ろす一刀――しかし、鋼の下から、スーラは忽然と消え失せたのである。
「おのれ、またもや」
夜目にも白い牙を剥き出す伯爵へ、前方の木立ちが嗄れた笑い声を放った。
「そこか!」
跳び込もうとする巨体へ、
「よせ!」
と左手の叫びも遅く、しずくのような赤点が流れ寄り、伯爵の胸に命中した。
重力場スクリーンが真紅に染まる。
それが褪せたとき、伯爵はもう獣の闘志を忘却したかのように、木立ちの奥へ眼を注いだまま、長槍を拾いに歩き出した。
「いまひとり、敵が増えたようだな」
戻ってきた伯爵に左手が話しかけた。
仕留め損ねた自分に腹を立てているのか、返事もしない。左手は構わず、
「せっかくおびき出したのに残念至極だの」
とつづけた。
「何ィ?」
「さっき、操縦席の運行記録を調べさせてもらった。スーを拾った地点からここまで、ずうっと亜空間通信波が流されておる。貴族が仲間同士で使う“秘波”というやつだ。おぬし、それでスーラを呼び出したな。スーが庇ったのが、それほど憎いか」
風を切る音は、言い終える前にした。
もといた[#「いた」に傍点]位置に突き刺さった長槍を、一メートルばかり跳び下がった場所で見ながら、
「こら、可愛いスーちゃんが見ておるぞ。スクリーンは点けっ放しだ」
と左手は嘲笑した。
「貴様――わしの車の機能を自在に操れるのか?」
伯爵は無造作に長槍を抜き取って自走車の方を向いた。
夜のみ開く窓に、スーの顔が浮いていた。
「いいとこを見せられなくて残念だの」
声を出さずに笑う左手に答えず、長槍をひとふりすると伯爵は自走車の方へ歩き出した。
居間へ入るとすぐにスーがやってきた。
何を言うでもなく戸口に突っ立って、槍をかけ、マントを脱ぐ伯爵を眺めている。
「何を見ている?」
と伯爵がいらだたしげに訊いた。
「あ、いえ」
スーは俯いてしまった。
「あの左手に何か言われたか?」
「いえ、そんな、あたしは、ただ……」
「ただ――何だ?」
「怪我をしていないか――気になって、それで」
「わしが、か?」
「――はい」
「貴族の下僕ごときに、貴族が斃されると思ったか?」
「………」
「寝《やす》め」
スーの方を向きもしないひとことであった。
「………」
「――どうした、寝め」
「……ごめんなさい」
伯爵がふり向くのに少しかかったところを見ると、なかなか理解できなかったらしい。
「……あの……いえ……ありがとう」
今度は伯爵が、
「………」
「あたしたちのために……傷ついて、生命懸けで戦ってくれて……でも、あたし……何にもお返しができなくて……」
「仕事だ――寝め」
「はい」
スーは頭を下げて出て行った。ドアが閉じる前に、もう一度、ありがとうと聞こえた。
伯爵はため息をついた。長いため息であった。何処かおかしいが仕方がない、とでもいう風に。
足下で声がした。
「かっかっか。オヤジめが。ありがとうで天にも昇る心地かの。ちょろい貴族じゃの。アリガトウ、オ・ジ・サ・マ」
左手が部屋を飛び出すまで、一〇分にわたる追跡劇がこれから開始されるのであった。
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第五章 マシューの血
異常に気づいたのはスーだった。
農場の癖で、夜明けと同時に眼を醒ますと、まだ開きっ放しの窓から外を眺め、
「おかしいわ」
と床上の左手に叫んだ。
「何?」
「太陽が右手に、つまり、あちらが東だとすると、方角が逆です。私たち――どんどん砦から遠ざかっているわ」
「莫迦なことを」
と一笑に付したのは左手ならぬ伯爵の声だ。
「わしはひと晩じゅう起きておった。計器など見なくても、自分の進む方角くらいわかるわ。この車は確かに砦へ向かっておる」
「いや、待て――確かに光は東から、だ。これはおかしい。調べてみろ」
左手の言葉に、伯爵は調査を命じた。女の声が応じ、待つほどもなく、
「異常ありません。あと一時間ほどで砦へ到着いたします」
と告げた。
だが、窓外の自然は二人に異議を唱えている。
「いや、確かにおかしい。――止めろ」
もはや伯爵も気づいた。
ふた呼吸ほどの間を置いて、
「停止いたしました」
窓外の景色はなおも動いている。
「コンピュータもやられおったか」
と左手が言った。性格の問題か、他人が窮地に陥ると喜ぶ節がある。そこに自分が加わっていても、だ。
「そうか、スーラに力を貸したとかいう奴の仕業だな。これは強敵だぞ。コンピュータだけならまだしも、我らの方向感覚まで狂わせよった」
そのとおりだ、とスーは血も凍る思いだった。貴族とDの左手――このひとりとひとつ[#「ひとつ」に傍点]をして、為す術もなく敵の術にかからせてしまうとは。
「済まんが、後はまかせる。わしの幻も出す。自由に使うがいい」
伯爵の声に、柩の蓋のきしみ音が重なった。貴族の柩には、必ずこの音が付属する。一種のノスタルジアかも知れない。
「この無責任貴族めが!」
と左手は喚いたが、すぐに、
「こら、車を止めい」
と命じた。止まらない。
「わしの指示にも逆らうか、よし」
「どうするんですか?」
スーがこらえかねたように訊いた。
「止まるまで待つ。何がどうなろうと、この車内にいれば安全じゃ」
自走車が停止したのは、それから一時間以上経ってからである。窓は自動的に閉じられ、窓外の景色は立体像で確認するしかないのだが、左手の指示は叶えられなかった。
そのとき――照明も消えた。闇が二人を包んだ。
「ふむ、こうしていても仕方あるまい。――出て来るか」
「駄目です!」
とスーは左手の声のしたあたりへ叫んだ。
「絶対に危ない。敵が誘い込んだ場所なら、好きなだけ罠が仕掛けてあるに決まってます」
「わしもそう思う。しかし、ここにこうしていても埒が明かん。まずは新鮮な空気と陽の光を入れなくては、な」
「でも――ドアは開くんですか?」
「そこだよ」
どんと床が鳴った。左手が叩いたらしい。図星――と言いたいのか。
「こら、ドアを開けい」
光が闇を追い払った。
「開きおった。やはり、な。では、行ってくる」
スーは、
「そんな」
と言ったきり沈黙した。次の言葉は思いつかなかった。
左手が器用に指を動かして外へ出た途端、ドアは閉じられた。
自走車の止まった場所は、黒土の上に点々と敷かれた石畳の上であった。
前方は遺跡だ。
大理石の柱や建物の基礎部分の石組み、彫刻等が蒼穹《そうきゅう》の下に蜒蜿《えんえん》と連なっている。くすみや風化具合などから判断して、かなり古い――数千年前のものだろう。
「ここは――」
左手が驚いたような、面白そうな声を出した。正体に思い当たったらしい。
「ふむ、少々まずいところへ来たな。早いとこ脱出せねば」
左手は、ドアの方を向いて、
「開けい」
と言ったが開かない。どうやら、おびき出されたようだ。
「出て来い」
と声をかけた。
「ここだ」
返事はすぐに――背後からあった。
真紅の長衣姿が立っていた。
「八人目の刺客か」
と左手が言った。
「そのとおりだ。――と言いたいが、私はおまえたちの敵ではない。少なくとも闘うつもりはない。強いて言えば、後方の支援部隊というところか」
「こんなところに連れて来ておいてか?」
「ほう。――さすがだ。ここが何処かご存じか?」
「貴族の治療院“アスクレピオン”」
と左手は言った。
「それも精神治療専門だの。よくもいままで残しておいたものだ」
「残ってなどおらんよ」
真紅の影の言葉は、左手を驚かせたようだ。
「ここは禁断の地であった。石柱や石壁は私がさっき掘り出し、並べておいたのだ」
「ほう、たいしたものじゃ。わしがもう一本あったら[#「もう一本あったら」に傍点]拍手は惜しまぬのだがな。車のメカを支配したのもおまえか?」
長衣が震えた。笑ったのである。
左手はつづけた。
「そうやってわしらをここへ導いた以上、後方支援などと強弁するつもりはあるまいな。もとに戻すか――死ぬか」
「おまえたちが」
長衣は風でも探るように右手を上げた。皺深いミイラのような手であった。
「ここはかつて、清浄の地であった。風は唄い、澄んだ水が流れ、生命が溢れていた。何よりも、“御神祖”の“気”が貯えられていた。それこそが、治療の要だった」
手は力なく下りた。
「だが、いつか、時は移り、鳥はもはや唄わず、風のそよぎも聞こえなくなった。生命は死の力に変わり、“御神祖”の“気”さえも吸収されてしまったのだ。その原因を知っているか?」
「――ヴァルキュアの“生命”じゃの」
意外、という風に長衣が硬直した。
「知っていたか。おまえ――とDとは何者じゃ?」
「“絶対貴族”は名前のとおりの野心家だったと聞く。世界に残る“神祖”の聖痕を、ことごとく滅ぼし去ろうとするほどにな。だが、自分の生命を賭けるには、相手が強大すぎた。それが結局は、この星からの追放劇を招いたのじゃ。そして、ヴァルキュアの生命と“神祖”の“気”がぶつかった後には、恐るべき破滅と廃墟のみが残った。ヴァルキュアが追放されてから、貴族たちの最大の仕事とは、その廃墟の徹底的な破壊であった。人間に覇権を譲り渡したのは、その作業に疲弊したからだとも言われておるな」
「しゃべりすぎだぞ、左手よ」
長衣が嘲笑った。
「おまえの気配を感じて、ほうれ、もとの患者どもが集まってきた。ゆっくりと相手をしてやるがいい」
左手が緊張した。陽光燦々たる廃墟のあちこちに、白い人影が立ってこちらを見つめているではないか。
同時に、自走車のエンジンが唸った。
ゆっくりと廃墟の内部《なか》へと前進していく。
「こら、止まれ。止まらんか」
と左手は喚いたが無駄だった。
「私は争いを好まぬ。後は患者どもに任せよう。健闘せよ」
ふっと空中に消えた長衣の方を向きもせず、左手は車体に貼りつき、停止を命じた。
その甲斐もなく、自走車は廃墟の中央へと入り込んだ。
「やむを得んな」
左手は自走車から跳び下りた。跳び下りると同時に、土を鷲掴みにした。それはみるみる手のひらの中に消えた。
「ぐええ」
呻きとしか言いようのない声とともに、土は吐き戻された。
「何じゃ、この土は。霊的に汚染され尽くしておるぞ。水は車の中で飲んである。残るは――」
手のひらがひょいと持ち上がった。小さな口が開いていた。
ごお、と風が唸ってその口に吸い込まれた。
「ぐおお」
苦鳴を運んで戻った。
「――風まで腐り切っておる。何という呪われた土地じゃ。こうなっては――」
左手は路傍の小石を咥え、呑み込んだ。十個ほど含んだところで、自走車のドアが音を立てた。
眼をやって、戸口に立つスーを認め、
「来るな」
と叫んだ。
だが、スーの背後で火花が上がり、少女は反射的に跳び出した。ドアが閉まった。
「逃げい!」
左手の叫びに応じて、スーが周囲を見廻し、自走車のやってきた方へ走り出そうとした。
白い影が、すうと滑り寄る。
「ふんっ!」
鋭い吐息とともに、左手の口から小石が迸った。
それは白い影の身体を貫き、小さな穴を空けた。影がふり向いた。眼も鼻も口もない。それなのに嘲笑した。貴族の死霊に物理的な攻撃は通用しないのである。
だが、立ちすくむスーにふたたび襲いかかろうとして、彼らは硬直した。首を曲げて、胸の貫通孔を見た。それは倍もの大きさに広がり、なおも拡大しつつあった。
痙攣しながらその穴に呑み込まれた死霊を無視して、左手は新たな敵に石つぶての攻撃を見舞い、さらに八体を消滅させた。しかし、右からも左からも、陽光の下を敵はやってくる。
「え――い、こっちへ来い」
と左手は叫んだ。走り寄るスーの右手首を握りしめ、
「左へ走れ。――地下がある!」
どうやら、この施設の地理に明るいと見える。
確かに一〇メートルほどで、地下への階段が現われた。
一気に駆け下りた。
スーは息を呑んだ。
黒い水を湛えた地底湖というべきだろうか。石の柱と通路が、その間に張り巡らされている。
「ここは!?」
「最も性質《たち》の悪い精神疾患にかかった貴族用の医療センターだ。あちこちに青銅のボートが見えるじゃろう。あれに患者を乗せて水の上を漂わせるのじゃな」
「でも、貴族って――水が苦手じゃ」
「だから、最も重症の連中じゃて。貴族の精神障害というのが、どんなものか知っておるか?」
「――人間と同じじゃないんですか?」
「とんでもない。――そっちへ行け。お、来たぞ」
反射的に石段の方をふり返り、スーはめまいがした。
石段の上に白い影が幾つもゆれている。
眼をつぶって走った。
「ここじゃ――危ない」
左手が止めてくれなければ、通路の端から落ちるところだった。青銅のボートに乗るように指示され、ついでにオールも漕げと来た。
ひと漕ぎすると、ほとんど力を入れずにボートは走り出した。
「何処へ行くんです?」
「この遺跡の核――中心へじゃ」
「そこに何が?」
「得になるものじゃよ。――おっ!?」
二人がボートに乗り移った通路の端に、追跡者は移動していた。ためらうように揺れていたが、不意に音もなく黒い水へと身を投じた。
落ちても沈まない。腰の高さあたりまでで、追ってくる。
――逃げられない。
スーは心臓が冷たく凍るのを幻覚した。D――助けて。
ボートが停まった。
「着いたぞ」
と左手が言った。
「着いたことは着いたが、やはり、いかんかったな」
スーは周囲を見廻した。瞼がこわばっている。
黒い水ばかりだ。そして、後ろからは――いや。
四方はすべて、白い影に囲まれていた。
「怖いわ。どうなるんです?」
「この水の下に、“神祖”の“気”が貯えられておるはずじゃ。それは地底湖全体に満ち、天井のあの明かり取りの窓から地上へも噴出して、この施設全体の患者の精神《こころ》を癒しておったのじゃ。しかし、いまは“神祖”の“気”も呪われた邪気に侵され、どぶ泥の下に眠っておる」
「それが眼を醒ませば、私たち助かるんですね?」
「そうじゃな」
「どうすればいいんです?」
「“神祖”の“気”に等しい力と品格を持つ“気”で刺激する他はあるまい」
「あなたなら?」
「――残念」
「じゃあ――嫌だわ、こんなところで死ぬなんて」
スーは絶望的な眼つきで周囲を見廻した。震え上がった。こんなに近くに来ていたなんて。
背中に冷たいものが触れた。引かれるみたいに気が遠くなる。
夢中でふり向いた。
青白い、端正な顔をした若い男だった。
「可愛い子だね」
と、そいつは言った。
「私のところへおいで」
自分では動いたつもりもないのに、身体が後ろに引かれた。
これで限界――と思ったとき、眼の奥が白くかがやいた。後ろで悲鳴が上がり、急に動きが止まった。
若者の顔が、村へやってきたフリークス・ショーの溶解人間みたいに溶けて、身体ごと崩れていく。
炎のこぼれる口を閉じてから、左手が叫んだ。
「前へ飛び込め!」
訳もわからず、今度は自分から動いた。
思ったよりずっと冷たい水が、骨まで染みとおってくる。浮上した。眼の前に左手が浮いている。五指が器用に水をかいているのを見て、スーは思わず笑ってしまった。
それどころではなかった。
三メートルほど離れたところから先は、水は見えなかった。白い影は何千人分突っ立って、スーを見つめているのだろう。
どれも美しいといっていいくらいの顔立ちを備えた男と女――ただ、その口もとからのぞく乱杭歯が。
襲いかかってくる――スーは眼を閉じたが、死霊どもに動く気配はなかった。明らかに卑しい、飢え切った眼つきで見つめたきり、中には歯を食いしばって耐える奴までいた。
「どうして、何もしないの?」
水を掻きながら訊いた。
「弱ったとはいえ“神祖”の“気”だ。わずかながらこの一角に漂っておる。奴らはそれが怖いのじゃよ」
「でも、このままじゃあ、どこへも逃げられないわ」
「ふむ」
と左手が唸ったとき、死霊の輪の一角――スーの右方――が崩れた。
死霊同士がもつれ合っている。スーの眼に、それは白い影同士の絡み合いのように映った。
複数の影からひとつが分離した。――というより、数個の影がひとつを持ち上げたのである。なおももがくそれを、複数の影たちはスーめがけて放った。
この世のどんな生物も上げ得ぬ悲鳴をスーは聞いた。
スーのかたわらに落ちた影は、瞬きする間に溶け、黒い水は拡散してしまったのである。
つづいて、もうひとつ。
もうひとつ。
そのたびに彼らは絶叫を放ち、人間と等しい苦痛に身を灼きながら溶けていくではないか。
「生け贄じゃな」
と左手が呆れたように言った。
「こうやって“気”を浪費させ、しかるのち襲いかかるつもりじゃ」
「輪が――縮まってる!?」
スーは根限りの絶叫を放った。五十体もの生け贄を捧げられて“神祖”の“気”は衰弱し、死の包囲網は確実に迫りつつあった。
白い影はもはや溶けなかった。
ずわ、と影が近づく。両手をスーめがけてのばし――
「助けて」
スーは声に出して叫んだ。――D。
その上に死霊たちが折り重なり――絶叫とともにのけぞった。
光が彼らを捉えていた。軒並み額を。そこから死霊たちの顔は左右に裂け、青い光ともども水中に没していくのだった。
「―――」
眼前に水中から生えた刀身が見えた。それは徐々に上がって、黒い手甲をした手が現われた。手が肘まで出たとき、黒い旅人帽も浮上した。
「――D!?」
スーは涙が溢れるのを感じた。数千の死霊に対するたったひとりの守護者――しかし、もう恐れることはないと、スーにはわかっていた。
現に、遠ざかった死霊たちはいっかな包囲を狭めようとしないではないか。
「ほう、いままで何をしとったのか?」
指でぱちゃぱちゃやりながら、左手が訊いた。
返事は無論ない。
「おまえが川に落ちたというのは聞いた。察するに、その川か支流がアスクレピオンの地下に通じていたな。だが、日数を計算すると、おまえは丸一日、ここにいたことになる。眠っておったのか? そんなはずもない。――この底に何がある?」
Dは無言で左手の方へ左腕をのばした。片方が可愛らしく泳いで、二つは密着した。
不意にDの右手が動いた。――スーの眼にはそうとしか映らなかったが、頭上から落ちてきた白い影が四つ、波紋もたてずに水面へ落ちた。形からして、最初は二つだったのが四つになったらしい。
「来るぞ。――奴ら、生きものの魂を奪わずにはおられんのだ。貴族も人間もダンピールも差別はせん」
「潜れ」
これが浮上してきたDの第一声であった。
――同時に、スーの腰に鋼の腕が巻かれるや、少女が息を吸い込むだけの十分な余裕を置いてから、Dは水中に沈んだ。
水底までは四メートルほどしかなかった。黒い岩盤の広がりの中に一カ所、分厚いコンクリートの蓋でも被せたようなヘドロの塊があった。
激しい水流をスーは感じた。Dの落ちた川は、ここへつづいていたのだ。
腰に巻いた手のあたりで、ごぼごぼいう声が聞こえたので、スーは驚いてそちらを見た。
「そうか。この下に“神祖”めの――」
前方に白いものがゆらめいた。死霊がここまで追ってきたのだ!
夢中でDにすがりついた。
水中ですら光を放つほどに美しい若者は、一気に水を蹴ってヘドロの山に向かった。奇妙なことに、水底には他に汚物のかけらもない。
若鮎《わかあゆ》のような優雅さでDはヘドロの山に近づくと、一刀を無造作にふり上げた。
その周囲から白い影の大群が水の壁を圧して迫る。
さらに白い光が水中に満ちた。
Dが一刀をふるった結果かどうか、スーにはわからない。
次の瞬間、Dは上昇に移り、少女の顔は黒い水をしたたらせながら、茫々たる地底湖の広がりだけを見つめていたのだった。
「“神祖”の“気”――あそこに封じ込められていたか」
スーの腰のあたり――まだ水の中だ――から、嗄れた声が上昇してきた。
「それを解放した途端に、死霊どもは癒された――順当な結末じゃな」
「何だか、さっぱりした感じ」
とスーが落ち着いた眼差しで周囲を見廻した。
「……とってもきれいになったわ、この地底湖」
「成仏したようじゃの」
と嗄れた声が洩らしたとき、Dはもう岸の方へと泳ぎはじめていた。
自走車はもとの位置にあった。
「やれやれ。いざというときに役に立たん親父じゃわい」
と左手が怨嗟《えんさ》の言葉を吐き吐き、
「待てよ。車のコントロールは敵の手中にある。それなのに無事とは――ぐえ」
Dが扉の上に左手のひらを押しつけたのである。開けろ、ということだ。
かすかな摩擦音をたててドアが開いた。
「コントロールは戻っておるぞ」
Dは真っすぐ伯爵の寝室へと向かった。
巨大なドアが彼とスーとを迎え入れた。
「あっ!?」
スーは拳を口に押し当てたが、驚きの声を消すことはできなかった。
「ほう、空っぽじゃ」
と左手がそれは愉しげに言った。豪奢を極めた家具調度はそのまま、伯爵の閨《ねや》ともいうべき巨大な柩は忽然と消失していたのである。
「これは大ニュースじゃ。貴族誘拐事件――それも、超大物じゃぞ」
「キマと言ったか」
Dの眼に奇妙な光が点っていた。事情は地底湖を出てから、スーと左手に聞いている。
「そうじゃ。空間移動《テレポート》が使えるらしい。しかも、自分以外の物体も自在に動かせるとみえる。――ブロージュめ、何処へ拉致されたか。厄介なことになったぞ」
Dは窓の方へ眼をやって、
「そうでもあるまい」
「なにィ!?」
今度こそ、左手ばかりかスーまで眼を剥いた。
「まだ間に合う――行くぞ」
スーは左手の方を見やったが、彼はすでに、Dともどもドアの方へと動き出していた。
伯爵を柩ごと拉致した恐るべき相手の居場所を、Dは心得ているというのか。だとしたら、真に恐るべきは、この美しい若者に違いない。
よく晴れた日である。陽ざしは白く熱い。自走車から北へ五キロほどの地点に岩場が広がり、その中でも特に高い――巨岩が寄り集まってひとつの岩を形成したその頂きに、これも巨大な柩が置かれていた。
長さは五メートルもある。
さらに――
柩の真上に真紅の長衣を着た人影が腰を下ろしていた。キマである。
「さて、伯爵。いよいよ最後の時が来たぞ」
嗄れ声が流れた。
「おまえのことだ。内部《なか》にいても外部《そと》は見えるだろう。ここが何処かも、な。太陽に最も近い場所よ」
「キマとか言ったな」
柩がしゃべった。
「おかしなところへ連れて来た。空間移動は科学で成し遂げたが、個人の能力《ちから》は類例がないはずだ。貴様、何者だ?」
「大公さまに近い者よ」
とキマは応じ、中天を仰いだ。
「これから、おまえの柩だけを移動する。いかにブロージュ伯爵とはいえ、この陽ざしの真下で生きのびるのは至難だぞ。心してかかるがよい」
「できるか、おまえごときの力で?」
「あの車からここへ、造作もなく搬送した私の技を忘れたか。今度はその身で思い知るがいい」
キマは右手を柩の表面に当てた。荘厳な宗教儀式か何かを連想させる重々しい動作だった。
一秒――二秒――柩全体が靄でもかかったようにかすみ、ゆらいで、おお、見よ、その内側に明らかに、巨大な人間の姿が浮き上がってきたではないか。
その人影が小刻みに震えはじめた。何やら悪夢でも見ているのか、或いは極度の精神集中でも行っている風な奇怪な震えであった。
すると靄と化していた柩の輪郭が、ふたたび濃さと形を取り戻してきた。人影もそれに呑まれた。
「おのれ」
キマの全身も人影同様にわなないた。
原形に復しつつあった柩が、またも姿を失っていく。
これが消えたとき、内部に眠る伯爵は、陽光の下にさらされ、無残に朽ち果てるのであろう。
消失が止まった。また形を取り戻し――また薄れていく。
「わたしの勝ちだ」
と汗みどろのキマがささやいた。
淡い影と化した柩の人影が、低く呻いて顔面を押さえた。
キマの邪悪な笑みが、ひときわ濃さを増した。
そのぼんのくぼから鼻のつけ根にかけて、ひとすじの針が貫いたのである。
苦鳴を放つより先に、キマは針を鷲掴みにした。針は消え去り、傷口だけが残った。小さな血の粒が盛り上がってきたが、それも消えた。
「空間移動を使えたのは、おまえだけだったな」
背後からの声に、キマはふり向いた。
その口が途方もない驚愕を示して、あんぐりと開いた。
「あ……!」
と、しばらくしてから、キマは呻いた。
「……あな……た……は……あなた……さま……は……」
言い終えたら、こと切れそうな声であった。
この妖人は、Dを知っているのか。そして、Dもまた知らぬではないらしい。だからこそ、理由はいまだ不明のまま、その頂きへ忽然と出現し得たに違いない。
「覚えていたか」
とDは言った。
「忘れて……なりましょうか……あなたさまが……あなたさまが……けれど……まさか……」
「心臓が口から飛び出しそうな顔をしとるぞ」
と、Dの自然に垂らした左手の声である。感心している。呆れている。
「キマよ――おまえの現在《いま》の主人に伝えろ。いずれ会うことになると」
真紅の身体が震えた。
「――それでは……わたしを……生かしておかれるつもりか? ……まさか……」
「行け」
声と同時にキマの身体が朦朧《もうろう》と煙った。銀色の光が斜めに走り、ちん、と澄んだ音がした。
鞘に収めた柄から手を放し、Dは巨大な柩に近づいた。
「無事か?」
「無論だ」
と伯爵の声がした。
「余計な真似をしに来おって。あの程度の刺客、わしが串刺しにしてやったものを」
Dは無言で背を向けた。
「待て」
伯爵の声は少しあわてていた。
「置いていくつもりか?」
「動けるのか?」
斜面を下りつつDが訊いた。
「残念ながら、柩には移動装置がついておらん」
「なら、日暮れまでそこにいるしかあるまい」
「何とかする気はないのか?」
「急ぐのでな」
そして、Dは岩山を下りていった。その気配と足音が遠ざかってから、柩はこうつぶやいた。
「あの人非人めが。しかし、空間移動を操り、コンピュータまで自由にする化物に、攻撃ひとつさせる気を起こさせず放逐してしまうとは。まこと、あいつこそ化物だ。それにしても化物同士……どうやら知り合いらしい。一体全体、あいつは何者だ?」
Dは自走車を岩山の麓に止めておいた。スーには外へ出てはならないと厳重に命じてある。
その姿はどこにも見当たらなかった。
「どういうことじゃ?」
さすがに左手も呆れたようである。
キマかと疑ったが、あれだけDに怯えていた相手が、わざわざ舞い戻ってくるとも思えない。
「コンピュータはスーの指示を受けるか?」
とD。
「いいや」
「調べてみろ」
Dはコンピュータの制御ユニット部へ左手をのせた。
やはりないと左手が告げたのは二秒ほどしてからだ。まだ、密着したまま、
「キマ以外で、このコンピュータに指令できるものということになるな」
「カメラはどうだ?」
沈黙は一瞬だった。
「ほう、作動しておるぞ。映してみよう」
Dと一緒だと左手のパワーも増すものか、伯爵のみ稼働可能なはずのメカは、瞬く間に二人の前に、車のドアを開けてスーを連れ出した存在の立体像を鮮明に再現した。
「こいつは!?」
左手のひらに、小さな口が驚愕を示して、ぽっと開いた。
「兄さん――何処へ行くの?」
スーが訊いても、マシューは掴んだ右手を離さず、森の奥へと入っていく。一刻も早く、伯爵の自走車やDたちから離れたがっている風で――いや、事実そうに違いないと、スーは醒めた眼で兄の行動を捉えていた。
理由はわかる。兄の憑かれたような眼差し、こわばった横顔、機械じみた歩き方――思わず眼をやった喉に、貴族の歯型は開いていなかったけれど、ひとめで術にかかっているとスーは見抜いた。
だからドアは開けなかったのだ。なのに兄は入ってきた。スーの疑いは決定的になった。
それなのに、さして逆らいもせず、スーは引かれるまま外へ出た。
「ここにいては危ない。おれと逃げよう」
こうささやくマシューの抑揚のない声を、スーは哀しみと、ある決意とともに聞いた。だからこそ、憑かれた兄といても怯えは感じなかった。
「兄さん」
スーはもう一度呼んで、少し抗った。
意外にあっさりと、マシューは足を止めた。
「何処へ行くの?」
スーはやさしく訊いた。
「大公さまのところへ、だ」
後ろ向きのまま告げるマシューの言葉を理解しても、恐怖は湧かなかった。思ったとおりだった。そして、マシューも想像どおりなら――
「じきに、Dさんたちが来るわ」
「わかってるとも」
マシューはうなずいた。
「だから、おまえをある機械のところへ連れて行く。おれは、それと同じ力を持つ人のおかげで、ここへ戻ってこれた。その人は、ずっと昔に同じものをこしらえて、それがこの近くに埋まっているんだよ。もとは何千キロも離れた土地にあったんだが、機械自体が誤作動を起こして、ここへ移動してしまったんだ」
「それを使って、私を貴族のところへ?」
「そうとも」
マシューは激しく両手を打ち鳴らした。
「大公さまは素晴らしいお方なんだ。この世界を丸ごと買えるだけの力を持っている。星の果てへ放逐されたときも、自分の領土を飛翔体に貼りつけて行ったんだぜ。だから、いまは元通りの素晴らしい王国に暮らしてるよ。おれたちは間違ってた。あんな素晴らしい方の与えた運命に逆らっちゃいけない。首が欲しいと言ったら、差し出すべきだ。血を所望されたら――」
「やめて!」
スーは声を震わせて叫んだ。
マシューは前方を指さした。
「おれを変えた人は、キマという。キマは自分の運命を予言する力があると言ってた。おれに移動機の在り場所を教えたのも、そのためなんだろう。そこだよ、スー」
密集する木立ちと潅木の間に、五、六メートルもある石像らしい形が幾つか斜めに突き刺さって見えた。
「使い方は教わった。さあ、行こう、大公さまの国へ」
マシューはふり向いた。
血走った眼もいい、泡を吹いた口も許せる。だが、その表情は――妹を見つめるその表情は、完全なる狂気に支配された、スーの見知らぬ人間のものであった。
――兄さんじゃない。
その言葉を胸に叩きつけて、スーは右手をベルトの背に廻した。そこに差してある一本の生木の枝――その先端を鋭く尖らせた杭は、スー自身の手で削ったものであった。
マシューの胸もとへ飛び込んだとき、杭は腰だめに構えた。
マシューの痙攣は、スーの全身に伝わった。
すぐに手を離したが、指は細い手応えに絡みつき、容易に外れなかった。
「兄さん」
スーの眼に涙が溢れた。実の兄を刺した。それだけでも許せない罪だが、スーの涙はそのせいではなかった。彼女はマシューを憎悪する自分の精神《こころ》を否応なしに理解したのだった。
自分を犯そうとした兄――その凄惨な認識の前に、兄と妹の絆はもはや存在していなかった。
マシューが情熱をこめて彼女を犯そうとしたように、スーは嬉々として兄の胸に楔《くさび》を打ち込んだのだ。
「スー……」
耳もとで自分の名が聞こえた。二人は寄り添い、抱き合うように立っていた。
「兄さん……ごめんなさい」
スーの頬を涙が熱く伝わった。
「おまえ……これは仇討ち……か?」
「え?」
「憶い出したよ、スー……おれは、ここへ来る前に……もう、おまえを殺していたんだ」
「兄さん!?」
スーは兄の顔を見ようとしたが、動くことはできなかった。マシューの手は宝物のように、少女の肢体を抱きすくめていた。
「……だから、これは……仇討ちなんだ……おまえは……スーじゃ……ない」
「………」
抱きしめた手が、徐々に背中を滑り上がって肩へ。
「スーじゃないなら……連れて行ったって……仕様がない」
肩から首へ。
くっ、と息が詰まった。
スーの視界は、たちまち暗黒に閉ざされた。
―――
光が戻った。割れそうだった頭から、内側を満たしていた黒いものがいっせいに退いていく。
いきなり肺へ流れ込んできた酸素のせいで、スーは激しく咳き込みつつ、地面へ突っ伏した。
「離せ」
とマシューの声が聞こえた。すぐ前で争う気配がある。
白いドレスの影が、背後からマシューの両手首を掴んで、押さえ込もうとしていた。
肩越しに美しい顔が見えた。
向うもスーに気づいた。美貌が妖しく笑った。
「覚えているわね、私を?」
スーはうなずいた。
魔性の歌姫カラス。
Dの矢に、喉もとを貫かれた妖女は、前よりも一層血の気を失った顔を、さも嬉しげにほころばせた。
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第六章 魔の国へ
何を言い、何をしたらいいのかもわからぬうちに、スーは戦いが終わるのを目撃する羽目になった。
執拗に抵抗するマシューに業を煮やしたのか、カラスは右手だけを離し、もう一方の手ももぎ離そうと身をひねったマシューの鳩尾に、凄まじい膝蹴りをかけたのである。
およそ、この美女のたおやかな姿からは想像もできぬ暴力に、ぐふと息を洩らして、マシューは前のめりになった。
その身体を軽々と肩にかついで、カラスは大股にスーの方へと歩いてきた。
ぐいと上体を曲げて、スーの肩を掴んだ。骨まで痺れる痛みであった。スーはのけぞった。
立ち上がるスーを見て、カラスが微笑した。
その腹部を、スーの二本目の杭が貫いたのである。
カラスはよろめき、スーを見つめた。陰火の燃えるような瞳である。
心底、怯えに怯えて、スーはふり向き、真っすぐにもと来た方角へと走り出した。
後ろから足音が追ってくるような気がした。
どんなに速く、どんなに遠くまで走っても、足音はつけてきた。
疲労と呼吸困難で何度となくつんのめりかかり、ついに前へのめった。
身体は途中で止まった。たくましい胸と腕とが支えたのである。死にそうな眼で、恩人の顔を見上げ、
「――D」
言うなり、スーは気を失ってしまった。
冷気が額から広がり、すぐに眼が醒めた。額から左手を離して、
「何があった?」
とDが訊いた。
「兄さんが、キマとかいう人に憑かれて、あたしを連れ出したんです。刺しちゃった。そこへカラスが来て……」
兄に絞殺されかかったとは言えなかった。
聞き終えると同時に、Dは左手を前方へ突き出した。
光が一閃した。
刀身を収めて、Dが右手で掴むと、左手首はきれいに外れた。
「人使いの荒い奴め」
と、ののしる左手をスーの足下に置き、
「一緒に帰れ」
とだけ告げて、Dはスーのやってきた方角へと走り出した。
二人が自走車のところへ戻ってすぐ、Dも帰ってきた。単身である。
「――兄は?」
とスーは訊いた。この美しい若者は、何があっても氷のような雰囲気が変わらない。その行動と結果とを他人が推定するのは不可能だ。
「いない」
「え?」
「気配ひとつない。代わりに空間移動の形跡があった」
「それは――」
スーは詳しい事情を物語った。
「メカともども移動しおったか。何処へ行ったものか」
左手のつぶやきに、
「ひとつしかあるまい」
とDが応じた。
「ヴァルキュアの国だの。――どうする?」
「兄妹を守るという契約だ。ヴァルキュアの領土へ入る」
「この娘《こ》はどうする?」
「同行させる」
「砦の方がよくはないか?」
「キマには手傷を負わせたが、死んではいない。砦に置いて防げるか」
「防御機構を強化すればよかろう」
「時間がかかりすぎる。マシューの運命は一秒単位で縮まっていくと思え」
「では、このまま行くつもりか? ヴァルキュアの領土へ?」
思わずの問いだったのであろう。左手はすぐに沈黙した。
Dはスーの方を向いた。
何か訊かれたわけでもないのに、スーは混乱した。
限りなく深い黒瞳《こくどう》が見つめていた。精神《こころ》の底まで見透されているような気がして、スーは怯えた。
「喉に痣《あざ》がある。男の指の痕だ」
とDは言った。
「一緒に行くか?」
おぞましい光景が甦った。自分の首を締めつけていたときの兄の表情。
スーは眼を閉じて、
「二度と見たくない。――あの顔は」
と両眼を押さえた。数秒、そのままでいた。
それから、手を離し、顔を上げて言った。
「でも、あたしも兄さんを刺してしまったの。それでおあいこだと思う。一緒に連れて行って下さい」
「とんでもない兄貴だが――決まったの」
左手が疲れたように言った。
「いい度胸をした娘だ」
いまのいままで沈黙を守っていたブロージュ伯爵の言葉がそれに重なった。感心したような響きであった。
それから五日間、一同の旅は停滞なく進んだ。
スーラもカラスも、新たな刺客ともいうべきキマも姿を見せなかったし、無論、マシューの消息もそれきりだった。
「北部辺境区に入ります」
と美女の声が伝えたのは、六日目の夕刻であった。
室内に映し出された全方位立体像を眺めながら、まず伯爵が、
「これは凄まじい」
と言ったきり絶句した。
現在知られている北部辺境区の姿は影も形もなかった。
そこにあるのは、どこまでも平らな――草木の影さえ見えぬ――黒い平原であった。
その表面は夕暮れの光にも金属のようなかがやきを放ち、それでいて、吹きつのる風をも凍らせるような鬼気を放っていた。いかなる生ある形も気配も見受けられない地平の彼方へ眼をやるうちに、見る者は途方もない絶望と喪失感に襲われ、その場に昏倒するだろう。
遠くで稲妻が走った。
「北部辺境がいまの形になる以前のヴァルキュアの王国だの」
左手の声に、
「そうだ」
とブロージュが答える。巨大な椅子にかけている。そのかたわらに腰を下ろしたスーの椅子は来客用の品だ。Dは立ったままである。
「奴は北部辺境区を徹底的に改造してしまった。奴が追放されたとき、この土地は見渡す限りの荒野だった。自分の王国もポケットに入れて持っていったと噂されたものだ。どうやら正解だったらしいな」
「――五千年前の地理がわかるか?」
とDが訊いた。
伯爵は胸を叩いた。銅鑼《どら》でも打ったような轟きが室内を渡り、スーが身をこわばらせた。
「まかせておけ、脳は衰えておらんわ。コンピュータにも、地図を覚え込ませてある」
「何処から入る?」
「何処からでも同じだ。あの土地のすべてにセンサーが仕掛けられておる。要は、ヴァルキュアが敵とみなすか味方と判断するかで、入れるかどうかが変わってくる。それに、我々はとうに奴の眼に入っておるだろう。つまり、どこからでも、いつでも来いということだ」
「五千年前に、よく入れたのお」
これは左手である。答えは簡単だった。
「“御神祖”がセンサー除けの処理を加えてくれたのだ。それに商人や旅人も通行できた」
だからこそ、スーの祖先も三人の刺客と遭遇できたのであろう。
「では――正面攻撃といくかの」
と左手が、まとめるように告げてから、
「――その前に、あそこにたむろしている連中から事情を聞いてみるとしよう。大方、『都』の調査隊じゃろうて」
土と鋼の境目あたりに、馬車や自走車や輸送車輛が固まっている。そのかたわらには円筒を二つに割ったような宿舎が並んでいた。
その中間あたりに人影が集まり、こちらを眺めている。最初から出ていた連中は、さしたる武装もしていないが、いま宿舎から跳び出してくる男たちは、自動ライフルや火炎放射筒、レーザー小銃等を手にしている。近づいてくるのは正体不明の自走車なのだ。
レーザー小銃を構えた男が一歩前へ出た。
真紅の光条が斜めに、自走車の前方の地面に吸い込まれた。
直径三〇センチほどの大地が溶解し、水蒸気を噴き上げた。
「しゃらくさい」
せせら笑う伯爵をスーがふり返って、
「やめて下さい」
と言った。彼の声に報復の意志を感じたのである。
「止《と》めろ」
とDがドアの方へ向かうのを、横眼で眺め、
「このわしが、いちいちおまえの指示に従わねばならんのか」
伯爵は不平面《づら》をしたものの、
「生命を預かっている――おまえのな」
と返され、ますます不平面を露骨にして、
「止めい」
と命じた。
現われた黒い若者をひと目見た途端、声にならないどよめきが男たちの間を渡った。その美貌に度肝を抜かれ、その妖気に骨まで痺れたのである。
「調査隊か」
とDは訊いた。
男たちが顔を見合わせたところへ、宿舎のひとつから長身の壮漢が姿を見せて、足早に彼らの前へ出た。
「『都』から派遣された第二次辺境調査隊のものだ。おれは隊長のオットーという」
「Dだ」
今度こそ、凄まじいどよめきが渦巻いた。
「君が――Dか……」
オットーの精悍な顔にも、興奮と驚愕の色がある。
「どんな賞賛も足りぬ凄腕のハンターと、『都』にまで響く名だ。まさか、こんなところで会えるとは――」
それから、後方の自走車へ眼をやって、
「あれが乗り物か?」
と訊いた。眼の前の若者と自走車とが、どうしても一致しないのである。
「便宜上、な」
とDが答えた。どうやらオットーが気に入ったらしい。
それがわかったのか、調査隊長も微笑して、
「――確かに貴族退治なら、吸血鬼ハンターの出番だな。これまで何人も出掛けて帰らなかったが、Dと呼ばれる男なら、或いは――」
「第二次調査隊と言ったな」
「ああ。ひと月ばかり前に第一次が出動して、それきり消息を絶った。おれたちは二日前に到着したが、ベース・キャンプを設営して、いよいよ明日、出動だよ」
「――おい、よかったら、あんた、一緒に行かねえか?」
と髭だらけのひとりが声をかけてきた。
「吸血鬼ハンターてな、貴族の生態に詳しいんだろ。一緒に来てくれると助かるぜ――なあ」
同意を求められた男たちも一斉にうなずくのへ、
「よさんか、みっともない」
とオットーが一喝した。
「彼には彼の仕事がある。おれたちがいても足手まといになるだけだ。もっとも、おれたちにとっても同じだがな」
にやりとDを見たところへ、
「偵察が戻ったぞ!」
と声が上がった。何人かが走り出す。オットーもそっちへ眼をやり、すぐにDを向き直って、
「後でな。お互い、情報交換だけはしとこうや」
と言って背を向けた。
「やるのお、あの男」
左手が感心したような、嘲るような声を出した。
返事は無論、ない。
戻ってきた偵察の姿を見て、オットーは息を呑んだ。
両腕が肩のつけ根からもがれて、恐らく逃れながらだろうが止血殺菌帯を貼りつけてあるせいで、何とか生を長らえているとしか思えない。五分と保つまいとオットーは判断した。戻ってこれただけでも奇跡の重傷だ。
「ひとりだけか?」
と声をかけた男に訊いた。偵察隊は五人出してある。男はうなずいた。周りの連中ともども凄惨な顔つきである。
医師が駆けつけてきて傷口を調べ、偵察に気づかれぬよう首を横にふる。
「何があった?」
オットーの問いは理解できたらしく、偵察は灰色の唇を震わせたが、声は出なかった。
剥き出しの瞳から光が急速に失われていく。
「駄目か」
と死者を送るように眼を閉じかけたオットーの視界を、黒い影が斜めに横切った。
死にゆく者の額に当てられた左手と、美しい若者とを、男たちは交互に見つめた。何やら呪文を唱えた奴もいる。あまりの美しさと人間離れした妖気に、Dの行為はすべて神秘的なものに映るのであった。
偵察の眼に光が戻った。驚愕の叫びが噴き上がり、死から甦った仲間に視線を集中した。
「わかるか、ボラン? ――オットーだ。他の連中はどうした? 何があったんだ?」
のぞき込むオットーの肩を、痩せこけた手が掴んだ。オットーは顔をしかめた。凄まじい力であった。
「みんな、やられた……逃げろ……奴ら……追って……くるぞ」
何人かがぎょっと黒い平原の方を眺めたが、すでに濃い蒼闇《そうあん》に覆われはじめた大地には何も見えなかった。
「奴らって何だ?」
と別の男が訊いた。
「光る円筒だ……何十本も手があって……仲間を持ち上げやがった……それから、何か……注射して、みんな……バタバタと……」
そのときだった。平原に近い方から、
「何か来るぞ、光ってる!」
男たちは一瞬、偵察の顔を凝視してから立ち上がった。
「……来たぞ……逃げろ……闘っても……無駄だ」
大きく息を吸った身体に、鋭い痙攣が走り、彼はこと切れた。
騒然とする周囲も知らぬげに、Dは立ち上がった。
死者に頭をひとつ下げてから、オットーが、
「君のおかげで、やってくるのが敵だとわかった。礼を言う。――下がってくれ」
「隊長――助けてもらったらどうだい?」
火薬連射銃の弾帯を、何重も首に巻いた男が、Dの方へ顎をしゃくった。
「彼は民間人だ。自分で自分の身を守ればいい。他人を当てにするな」
「けどよお」
「くどいぞ。……バリケードを強化しろ。一〇〇メートル以内に入れるな」
Dの肩をひとつ叩いて、じゃ、なとオットーは走り去った。医師が死体の手を掴んでどこかへ引きずっていった。
「放っておくつもりか?」
と左手が訊いた。
「そういう指示だ」
「ま、そうじゃの。しかし、あのオットーとかいう奴、人間にしてはできておる。無駄死には勿体――ぎゃっ!?」
拳をきつく握りしめ、Dは闇の中に黒々と蹲《うずくま》る自走車の方へと歩き出した。
光点の接近具合は、幸いゆるやかであった。
発見から五分で、キャンプの前面には強化プラスチックと軽合金の楯を並べた三重のバリケードが完成し、防衛体制は整えられたのである。
「二〇〇メートルまで接近」
と赤外線望遠鏡をのぞく隊員が声を張り上げた。
「一〇〇メートルで攻撃開始だ。狙いをつけろ」
オットーの指示を待つまでもなく、すでにライフルの照準はつけられ、火炎放射器の油煙で汚れ切った銃口は青白い点火炎を噴いている。
光点はすでに本体を露わにしていた。着実に近づいてくる。こちらに用心している風もない前進は、ゆるやかなだけに、守る男たちの胸に不気味なさざ波をたてた。
「一〇〇メートル」
望遠鏡の隊員の叫びと同時に、火線が夕闇を赤く染めた。
円筒状の身体に着弾の火花が点る。前進に変化はない。弾丸はことごとく胴体の曲面で滑ってしまうのだ。
「五〇メートル――四〇メートル」
看視役の声が三〇メートルを告げた刹那、二条の炎が敵を襲った。満を持して待機中の火炎放射器であった。
命中した炎は接触部分で広がり、すぐに滑り落ちた。円筒生物の外被は、油も水と同様に弾きとばす特殊加工が施されているのだった。
為す術もなく、男たちは二〇メートルの声を聞いた。
凄まじい爆発が円筒たちをよろめかせた。つづけざまの炸裂に、炎と煙が敵を押しつつんでしまう。最後の武器――榴弾砲であった。
黒煙の向うから銀色の胴が見えてきた。
バリケードがみるみる剥がされ、へし折られていく。触手の仕業だった。どう見ても数メートル足らずのそれが、二〇メートルに伸びたのだ。
「後退しろ。逃げるんだ!」
オットーの叫びを待たず、男たちは敗走に移る。バリケードを解体した円筒どもは、蛇のごとき触手を蠢かしつつその後を追った。
二人捕まった。悲鳴は断末魔の絶叫に似ていた。
みるみる地上一〇メートルまで持ち上げられ、首すじに別の触手の針が突き刺される。
「野郎」
オットーの足下に、二つの死体が放り出されたとき、彼は腰のサーベルを引き抜いた。
もとの位置で、接近してきた円筒の胴へ一撃を食らわせた。
加えた力はそのまま戻って、彼の手首から肩までを痺れさせた。
触手が胴に巻きついた。鉄の輪で締めつけられる激痛と窒息感がオットーの眼をくらませた。
みるみる顔が暗紫色に染まり、痙攣が全身を襲う。
もがく首すじに別の触手が近づいていった。先端の針が、火炎放射器の炎に妖しくかがやいた。
オットーを捕らえた円筒は斜めに滑りはじめた。切断された電気系統のメカが青白い電磁波を放つ。
襟首を掴んで引き起こされ、オットーは蘇生した。
世にも美しい若者が見下ろしている。恐怖も腰の痛みも忘れて、彼は陶然と眺めた。
「動けるか?」
とDが訊いた。我に返って、
「――何とか、な」
まだ、陶酔感が抜けない。
「行け」
凄まじい力で後方へ跳ばされ、オットーは頭から地面へぶつかった。夢中で跳ね起き、ふり返る。
円筒はDを新たな敵と認識したらしい。男たちを追う数台を除いて、一斉に黒衣の美影身へと殺到した。
オットーは眼を剥いた。
斬れたのだ。Dの右手の一刀が閃くたびに、火器を物ともしなかった円筒どもが呆気なく両断され、地面で青い火花を噴き上げるのだった。
Dを捕獲すべく伸ばした触手も残らず断ち斬られた。
「後ろだ!」
と、誰かが叫んだ。
男たちを追っていた円筒が、Dの背後に廻ったのだ。
電光の速度で黒衣がはためくより早く、巨大な槍の穂が二台を串刺しにするや、一気に空中へと跳ね上げた。円筒は虚空に吸い込まれ、やがて、一〇〇メートルも右方で青い光が二つ、閃いて消えた。
歓声は上がらなかった。
男たちは、見てはならないものを見たのである。――身の丈四メートルもの貴族を。
「余計な真似であったかな」
ブロージュ伯の言葉は、その長槍が円筒を貫く前にDが反転し切っていたのを見抜いたためか。
その右手で、ごお、と長槍が風を切った。周囲の男たちが悲鳴を上げて身をすくめる。腕ならしではない。明らかな威嚇行動だ。
「き……貴族だ」
誰かの声を合図に、
「で、でけえ」
「化物……」
どの声も小さく、脆く、散発的であった。人間の精神には、貴族に対する根源的な恐怖が、潜在意識のレベルで灼きつけられている。一万年以上前、貴族が人間に施した遺伝子レベルでの“教育”の成果だという者もいるが、当時の記録はすべて抹消され確かめようもないのが実情だ。いかに科学力に差があろうと、一万年の長きにわたって人間に反抗の兆しも見えなかったのは、このせいだと考えれば辻褄があう。貴族の方もそれを知っているから、思いきり傲慢になれる理屈だ。
地上四メートルの高みから、人間たちを見下ろすブロージュ伯爵の眼には、明らかに軽侮《けいぶ》の光があった。ま、彼とDがいなければ、調査隊は全滅していたかも知れないのだから無理もない。
「話は聞き終えたのか、Dよ?」
天から降り注ぐブロージュの声に、人々はまた身をすくめた。雷神の怒号に近い。
「終わった」
Dは刀身を収めた。
「ここに留まる理由はあるのか?」
「ない」
「では、行くぞ。ヴァルキュアはもう、あの青二才を人質に仕立てて、我らを壊滅させる策をたてておる。いつ出発しても同じだが、ここで足止めを食らっている暇はあるまい」
ここで伯爵は言葉を切り、ほうという表情で周囲を見廻した。
殺気が漂っている。調査隊全員が、伯爵に武器を向けているのだ。どれも音をたてる勢いで震えながら、その銃口からは濃密な殺意が炎となって噴き上げているようだ。
突如として、貴族に対する人間のもうひとつの反応図が描かれてしまった――滅ぼせ、と。
Dが割って入った。
「彼はおまえたちを救ったぞ」
と、彼はオットーに言った。オットーも四本銃身の火薬拳銃を伯爵に向けていたのである。
「ああ。――礼を言う」
オットーは横目でDを見た。瞳には憎しみが燃えていた。それは美しい若者を灼きつけても衰えなかった。
「君にも感謝している。だが、ここにいる連中は、ひとり残らず、貴族のせいで肉親を失ってる。『都』での掃討戦は二〇年もつづいたのだ」
「他人を憎むのは愉しいことだ、か」
嗄れ声が一瞬、オットーの眼をDの左腰の方へ吸いつけた。彼はすぐに視線を戻して、
「君は――ダンピールだったな。なら、どちらの気持もわかるか? それとも、どちらもわからないというつもりか。だが、これに介入するつもりなら、そうやって都合よく済ますわけにはいかんぞ。離れていろ。さもなければ、あの剣技でおれたちを殺せ」
「彼は斃せんぞ。任務を果たさず死ぬつもりか?」
「構やしねえ」
オットーの左右にいた男たちが、火薬銃と鉄鋲《てつびょう》ガンの銃口をDに向けた。
「おれの餓鬼は、女房に首を引っこ抜かれて死んだ。女房は前の晩、貴族に血を吸われてたんだ」
「おれの家族は、貴族の人間狩りの獲物にされたんだ。親父と女房と娘が二人、貴族の馬車に轢かれてぺちゃんこさ。おれは、それを引き取りにいかなきゃならなかった。みんな二回ずつ轢かれてたぜ」
「あんた、ダンピールだってな。なら、その剣を抜きなよ。そして、どっちかに斬りかかるんだ。できたら、おれたちの方に頼むぜ。貴族の血を引く奴を吹っとばしてやれるからな」
狂気の渦巻く瞳を、深く冷たい黒瞳が映していた。
「Dよ――動くな」
と伯爵が言った。
「ここは何もせぬがよい。ただし、後でわしを怨むなよ。おまえの中の人間が」
静寂が落ちた。あらゆる気配が二種の狂気に吸い込まれたのである。
すべてがDから遠ざかっていった。人間の憎悪も貴族の怒りも。彼はどちらにも属していなかった。
その剣は抜かれるのか、鞘に収まったままか。閃くとしたら――どちらへ?
夕闇に殺気が死を求めて凝集した。
「待って下さい!」
誰も想像しなかった声が、闇と殺気を後退させた。
男たちと伯爵と――Dの眼が一斉に自走車の方を向き、そのドアの前に立つしなやかな影を捉えた。
スーは小走りに前へ出て、何とか男たちにも顔立ちが見分けられる距離に来た。
この勇気ある娘は、一触即発の状況に耐えられず、車を出てきたのだ。だが、どうやって? 車のメインコンピュータには決して彼女を車外へ出してはならぬと命じておいたのに。
伯爵はじろりとDを見て、苦笑した。彼の左手は手首から先が消滅していたのである。自走車からスーが出てこれたのは、この辺に鍵があるらしい。
「争うのはやめて下さい。この人たちは、わたしを守ってここへ来てくれたんです」
まず、とまどいの風が男たちの間を吹き渡り、ただちに驚きに変わった。
「守って?――貴族が人間をか?」
「おまえ、何処の娘だ?」
「いや――人間か? 証拠を見せろ」
「そうだ!」
驚愕と疑念と怒りが、どよめきにまとまってスーの全身を打った。
ほとんど物理的な打撃に等しい声の嵐を、スーは身じろぎもせずに受けた。車を飛び出したときから覚悟は決めている。
どよめきが退いていった。
オットーが前に出たのである。彼は伯爵を見上げ、スーを見下ろしてから固い声で訊いた。
「君は――人間か?」
「はい」
「何処の村の者だ? 名前は?」
スーが答えると、
「貴族と一緒に旅をして、人間のままとは信じられん。何もされなかったのか?」
「はい」
スーは胸を張った。ここが頑張りどころだ。
「伯爵は何もしません。ただ、わたしを守って、兄を助け出すために、ここまで来てくれたんです」
「――何もなかったと証明できるのかよ!?」
男たちの中から震え声が飛んだ。オットーの表情が変わった。
貴族と旅をして何もなかった――血を吸われなかったと証明する方法はひとつしかない。口づけの痕がないことを知らせるのだ。そのためには――
「できます」
間髪入れぬスーの返事であった。またも男たちは動揺した。
「おい、君」
とオットーが声をかける前に、スーはすでにブラウスのボタンに手をかけていた。
少女はためらいもなく、夕闇の中に一糸まとわぬ肢体をさらしたのである。
それから男たちの方を向いて、
「好きなだけ調べて下さい」
と言った。
捨身というにも大胆すぎる少女の行動に、男たちは声を失った。
だが、真正面を向いたスーの表情はこわばり、眼には涙が浮かんでいる。唇は固く、血が出るくらいに噛みしめられたままだ。そして、身体は限りない羞恥に小刻みにゆれている。
十四歳の少女だ。平気なはずがない。
不思議な静けさが一同を包んだ。
「よし、おれが確かめてやる」
「おれもだ」
「おれも」
男たちの中から、三人が口々に名乗りを上げて前へ出た。
「行くか?」
冬の霜も凍りつくような声が三人の足を止めた。その瞬間、彼らは身動きもできなくなったのである。
それ以上、Dは言わぬ。
だが、その位置から一歩を踏み出せばどのような運命が待つか、男たちはこの上なく確実に知った。
少女の肌に指一本触れさせはしない。その決意を疑う眼に白い裸身を探らせはしない――黒衣の若者はひとことでそう宣言したのであった。
「もう、よせ」
新たな死の瞬間を溶かしたのは、オットーであった。
「三人とも戻れ。――済まなかったな、娘さん。恩を仇で返すところだった。このとおりだ」
深々と頭を下げる姿に、スーはその場に蹲ってしまった。安堵したのである。
そのうえに黒い影のようなものが下りてくると、スーの裸身を包んで離れた。スーの身体を青い布が守るように覆っている。巨大なハンカチをかぶせた伯爵の手は、すでに虚空へ戻っていた。
Dが歩き出した。オットーも隊員たちの方も見ずにスーへと近づく天工の彫像のごとき美しさと漲《みなぎ》る鬼気に、動くものはない。
「行こう」
とDは言った。スーが立ち上がり、涙を拭ってDの胸にもたれかかった。マシューはもういない。
すぐに離れた。いつまでもそうしていられる相手ではないと、少女にもわかっていた。
音もなく伯爵が先頭に立った。スーを守るように。しんがりにはDがいた。
「うまくいったようじゃな」
と嗄れ声が言った。いつの間にか、Dの左手は原形に復している。
「誰の血も流れんかった。おまえの手を離れたのはわしの独断専行じゃが、ああでもしなければ、おまえは伯爵を庇うために、あいつらを皆殺しにしていたじゃろう。娘には気の毒をしたが――ぐえ」
握りしめたDの拳はかすかに震えていた。凄まじい握力に指は白く変わっていた。
「ぐええ……おま……おまえは……まだ甘い……健気な心意気とやらに……感動しおった……か……ぐええええ……」
声は熄《や》んだ。Dの指の間から、赤いものが滲みはじめていた。
ドアが開いたとき、珍しい顔が三人を迎えた。
「人間の娘にしては、頑張ったこと」
艶《あで》やかな美貌に華麗な白いドレス姿は、ミランダ公爵夫人以外のものではあり得ない。
「大した車じゃの」
と左手が伯爵に聞こえよがしに言った。公爵夫人が自在に入り込んだことを揶揄しているのである。
伯爵は露骨に苦い表情をつくって、
「何処で何をしておった?」
ぶっきらぼうに訊いた。ガリオンの谷で“シグマ”の造り出した異空間に呑み込まれて以来の再会である。
「色々と」
口もとに手を当てて笑う仕草は、眼もくらむほどの妖艶さだ。繊手は白く、唇は血のように朱い。
長い睫毛をしばたたかせて、スーへ向かい、
「妹はこれほど立派なのに、兄の方ときたら」
と洩らした。
「兄さんと会ったんですの!?」
スーは爆発したような叫びを叩きつけた。
「そうじゃ――助けてつかわした。ついでに刺客のひとり――クールベとやらも始末しておいたが」
「兄は――何処に?」
「あれは――」
公爵夫人の説明で、彼女とマシューとの一件はスーが兄を刺したときより前だとわかった。
「やはり、行くしかないの」
「すぐに出動しよう」
と伯爵がうなずいて、ミランダへ、
「おぬしも同行するだろうな?」
あまりして欲しくない口調である。
「いいえ。ここで下りましょう。やり残したことがあるの」
「我らの仕事は――」
「じきに追いつきますことよ。夫を亡くしてから気がついたのだけれど、わたしはひとりが性に合っているのです。自由に月の光を浴び、月光草と闇水仙の香りをかぎながら夜の世界を飛び廻るのが、わたしの生き方です」
「生き方のお――死に方ではないのか」
小さな嗄れ声の方を、じろりと一瞥し、しかし、スーの方を向き直った夫人の眼と表情は、不思議に穏やかであった。
「私は勇気ある者が好きじゃ。人間は別だと思っておったが、おまえを見て気が変わった。どうやら、私は守る価値のある者を守っているらしい」
「そんな」
しかし、スーは微笑した。
伯爵とDが顔を見合わせ、
「気でも狂《ふ》れたか、あの女」
と伯爵がつぶやいた。
そこまではよかったが、
「あのような兄のことは忘れて、私の一族に加わらぬか?」
とミランダは誘い出し、
「こら」
と伯爵に制止される羽目になった。
「残念だこと。立派な貴族のふり[#「ふり」に傍点]ができるのに」
こう言ってミランダは後じさり、ドアの前まで行くと、
「また、いずれ」
と言うなり、一塊の霧が、いかなる細菌の侵入も許さぬはずのドアの隙間から、すうと抜けていった。
「相も変わらず、我儘な女だ」
ため息をひとつついて、伯爵は、
「出動せい」
と空中に命じた。
「おお! 動き出したぞ」
「化物ども。――何処へ行くつもりだ」
「何にせよ、これで厄介者が消えたぞ」
口々に勝手な感想を述べる隊員たちの見守る中を、自走車はエンジン音もたてず闇に閉ざされた平原へと進み、じきに見えなくなった。
「彼らに、この先で待ち受けている存在について訊くべきだったな、隊長さん」
肩を叩かれてふり向くと医者だった。周囲にみちる負傷者の呻き声に、オットーはとがめるような視線を送った。医師は咥えたパイプを外して、
「さして数はおらん。重傷が三人――あとはかすり傷だ。貴族の廃墟から見つけ出した新薬でな、明日の朝までにはみな健康体だよ」
「その薬の噂は聞いた」
とオットーは周囲に眼を配りながら、腰の火薬銃を確かめて、
「何でも、あらゆる生物の細胞も再生させる効果があるそうだな。それでは、事実上の不死と違うのか?」
「似ているな。現実には人間は使用してもせいぜい二度ほどで効かなくなる。所詮、貴族の真似はできんということだ」
医師は禿げかかった頭部を撫でつけ、紫煙を吐き出した。
「しかし、不老不死の貴族が、なぜそんなものをつくり出したんだよ、医師《せんせい》? 健康体に薬など要らんだろうが」
オットーの当然の問いに、医師は眉根を寄せてさらに頭を掻いた。
「ま、これも噂だが――あんたも聞いた覚えがあるだろう。いわゆる“神祖”と呼ばれる伝説の貴族の王が、ある呪われた実験に憂身をやつしていたと」
急に周囲の空気が冷たくなったような気がして、オットーは身を震わせた。
このとき、何とも奇怪な事態がキャンプに発生したのである。
オットーと医師が会話をしている一五、六メートル背後で、他の隊員がバリケードの修理や、銃器の運搬等に励んでいたが、その一番奥――作業用の照明台を組み立てている五人ほどの男たちの後ろに、忽然と白い貴婦人が出現したのである。
そして、手近のひとりの首すじに紅玉《ルビー》のごとき唇を押し当てるや、男は声もなくその場に崩れ落ちた。
それなのに、誰ひとり――三〇センチと離れていない隣の男さえ気がつかないのだ。黙々と作業をつづける二人目にそっと女が近づき、最初の男と同じ運命を与えた。五人目が倒れても、彼らはついに貴婦人に気づかず、他の隊員たちもそちらを見ようともしない。
女はあわてた風もなく、優雅な足取りで、バリケードの端で支持架を熔接中の隊員に近づき、次に隣の隊員に――
時折、女の方を向く隊員もいるのだが、事前にそれを察知する能力があるのか、女は巧みに犠牲者の背後に隠れてしまい、闇がそれを助けて、誰の眼にも止まらないのである。
こうして、次々に隊員たちは倒れ、女はオットーと医師に近づいてくる。
“神祖”とその怪しい実験の話題は、二人が我を忘れるほど熱中するのに十分であった。
「すると、やはり“神祖”は、そういう意図を持っていたということになるが、信じ難い話だなあ」
「わたしもそう考えていたが、古代調査局から入ってくる情報を分析すると、噂は正しいとしか思えないんだな」
医師はようやく頭から手を離して、
「一般の貴族から見ても、“神祖”という大吸血鬼は理解しがたい存在だったと、貴族の遺した資料や手記にある。案外――だったかも知れないぞ」
ふうむ、と腕を組むオットーの三メートル後ろで、ロープを巻き込んでいた隊員が、女の口づけを受けたばかりだ。隣で同じ作業に従事している若者はそちらを見向きもしない。
「これも噂だが」
と医師は人さし指を立てて、
「“神祖”の呪われた実験は、大陸で一億近い人命を奪ったが、ただひとつ、成功例があったそうだ」
「ほう、それは――」
とうなずき、ひょいと右横の医師へ眼をやったら――いない。
闇にすくい取られたかのように、医師は影も形もないのだった。
「おい、医師《せんせい》――ど、何処へ行った?」
口に出しながら、オットーは異常事態の発生に気づいた。
人を呼ぼうと見廻して、ぞっとした。
誰もいない。
「こいつは――」
舌打ちして、オットーは宿舎へ駆け戻った。
『都』生まれの『都』育ちだが、辺境の調査専門で二〇年を過ごしている。似たような事例は幾つか記憶にあった。
闇夜にまぎれて、ひとりひとり消えていく人間たち。多くは高度な知能を備えた妖物や悪霊の手によるものだが、その場合、まず大半は途中で仲間たちが気づくという。
例外はひとつ――夜そのものが人間を狙ったときだ。
すなわち――貴族が。
ベッドのかたわらに杭打ち銃が立てかけてある。人間が貴族に対して唯一、対抗し得る手段だ。
掴んだ。
その手首を掴んだ。
毛布の内側からのびた白い手が。
うおお、と叫んでもぎ離し、杭打ち銃を向けた。
どん、と杭の底にはめ込んである高密度ガス信管が弾けて、秒速三〇〇メートルで噴出した杭は、容赦なく毛布の真ん中を貫いた。
女の手は、最初からなかったかのように消えた。
オットーは右手を見た。紫の指の痕が鮮明にこびりついている。ひどく痺れていた。
武器を左手に持ち替えて、オットーは宿舎を走り出た。
二歩目で立ちすくんだ。
尋常な光景がそこにあった。
多銃身モーター銃を整備中のケニ、弾薬のチェックに眼を光らせているブレク、鼻歌混じりでうろついているコーレイとジャバン、ライドとローとアグリファスはバリケードの修理に余念がない。
ドクターは?――さっきと同じ位置で禿頭を撫でつつ、パイプをふかしている。
夢かと思った。
右手を見た。痣ははっきりと残っている。左手は杭打ち銃を下げている。
背後で夜の風が冷たく宣言した。
「おまえたちは、我らの餌であった。それが、貴族に銃を向けるとは」
風を巻いてふり返った眼前に、白い美女が立っていた。
青白い肌は、しかし、白いドレスよりも月光にかがやき、唇もまた朱々《あかあか》と夜の月を映している。
反射的に銃を構え――女が右手をひとふりした。凄まじい力が指先に炸裂し、三キロ近い銃は枯枝みたいに吹っとんで消えた。
「貴族だぞ」
と女を見据えたまま、数歩下がって叫んだ。
「射て。焼き殺してしまえ」
「何てことを言うんだ、オットー」
と医師の声が聞こえた。女に似ていた。
オットーはふり向けなくなった。何が起きたのか、十分にわかっていた。もう、おれしかいないのだ。
「おれたちのご主人に、挨拶をしなよ」
とケニの声が言った。ケニだった[#「だった」に傍点]化物の声が。
背後から肩と肘に触れてきた左手を、オットーは悲鳴とともにふり払って前へ出た。
女が眼の前にいた。
「私は公爵夫人ミランダじゃ」
そして、目通りを許すとでもいうかのごとく、白い貴婦人は、ゆっくりと右手をのばしてきた。オットーの喉もとへ。
彼は両手で顔を覆った。
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第七章 死の罠
どこまでも黒い大地が広がっていた。時折、彼方に稲妻が光ると、それだけで、死の中の生を感じられるのだった。
少なくとも、スーは安堵を感じた。
「まるで海じゃな」
という左手の声に、
「何ですか、それ?」
つい訊いてしまった。
「広いところじゃ」
「広い?」
「そして、蒼い」
「蒼い?」
「何をしち面倒な。――巨大な湖だと思えばよかろう」
と巨大な長椅子に横たわった伯爵が、小莫迦《こばか》にしたように鼻を鳴らした。
「大きな湖、ですか?」
スーは何とか具体的な形を想像しようとしたが、出てくるのは、湖のイメージばかりだった。
「そうだ」
と伯爵は、珍しくにやにやしながら、こうつけ加えた。
「しかも、塩辛い」
「どうしてです? 塩辛い水なんて信じられません」
「塩ジャケが棲んでおるのだ」
「それは――お魚でしょうか?」
「ふむ、全長が一〇〇キロはあるかな。だから、長いこと浮いていると移民が上陸したりする。島と間違えてな。ひと月足らずで街もできるし、土地の開発や売買も行われる」
「よさんか。出鱈目じゃよ、お嬢ちゃん」
「えーっ!? ひどいわ、伯爵」
唇を尖らせて抗議する少女を、伯爵は無表情で見下ろしていたが、
「なるほど――あれの言っていたとおりだ」
と言った。
その内容よりも口調がスーの気を引いた。
「あれ[#「あれ」に傍点]って――兄さんのことですか?」
伯爵は、いいや、と答えて、椅子から下りた。
「もう休め。おまえは人間だ。陽ざしとやらの中で生きるよう心掛けておくがいい」
巨体が居間を出て行くと、スーはしょんぼりと、
「伯爵を怒らせてしまったみたいね」
と言った。
「いいや、あの声は違うの。珍しや、あいつにも哀しい憶い出があるとはな」
「あれ[#「あれ」に傍点]って誰なんでしょう」
「余計な詮索はやめろ」
静かなDの声が、少女を硬直させた。
「夜の闇を生きるのも生と呼べるかも知れん。一万年も生きれば、様々な想いがあるだろう。陽光にさらせば消え去る記憶でも、な」
「――そうです、ね」
スーは俯いた。それから顔を上げ、しっかりした声で、
「そうなんだわ。貴族にだって、あたしたちと同じ感情があるんだ。喜んだり、哀しんだり、怒ったり、苦しんだり。そうだわ、ちっとも不思議じゃないんだ。あたし、伯爵とずうっと一緒にいたのに、まるで気がつかなかった」
「すかしとったのじゃ。貴族というのは、おかしな連中でな。笑ったり泣いたりは、トイレでこっそりやることにしておる。傘を持ち歩くくせに、雨が降ってもささん」
「へえ」
眼をかがやかすスーへ、
「感心するな。嘘っぱちだ」
とDが釘を刺した。
「なーんだ」
ちらりと左手へ怒ったような視線を当て、もう寝ます、とスーは居間を出て行った。笑顔だった。与えられた寝室は、隣の客室である。伯爵なみのサイズを誇る貴族はさすがに少ないらしく、調度はすべて人間サイズ。音声指示で風呂も沸くし、食事も届けられる。ただし、貴族用なので、スーは途中の村で仕入れた食料を自分で調理して口にする。
Dは窓に寄った。
この車の窓は二つあって、言うまでもなく高い方が伯爵用、低いのが同乗者専用だ。
「目下、異常なしだの」
と左手が言った。
「――ということで、話がある。わしが知らずにおぬしが知っている事柄があるのは我慢ならんのだ。――おい、キマとは何者だ?」
「今頃、どうした?」
「いよいよ、ヴァルキュアの領国じゃ。気になる」
「知らぬことがあってもよかろう」
「そうはいかん。気分の問題じゃ。これはなかなかに容易ならぬことじゃぞ」
「ほう」
とDは洩らした。左手の主張に感じ入ったのではない。
「噂をすれば、か」
「――ん?」
「外にキマがいた」
「何じゃとお!?」
「奴の領土だ。不思議はあるまい」
「仰せのとおりで」
Dはふり向いた。
来客用の豪華な肘掛け椅子の向うに、キマが立っていた。その右手は肩から失われていた。別れ際、Dが放った一刀の成果だった。
「ヴァルキュアの伝言でも伝えに来たか? 無事では帰れんぞ」
「承知の上でございます」
真紅の頭巾姿はその場に片膝をついた。
「キマの生命を賭けた願いでございます。このまま、お戻り下さいませ」
「何事じゃい、これは?」
こう言ったきり、左手も言葉を失った。
「おれの仕事――ヴァルキュアから聞かなかったのか?」
代わりにDが訊いた。殺気も鬼気もない。だが、それが一瞬に凝縮した刹那の恐ろしさは、敵のみが知るところだ。
「存じております。何という運命の巡り合わせかと、私は神を呪いました。ですが、それを言っても詮ないこと。いまは、あなたさまのお生命を守るだけが、私に託された使命と心得ております」
「おまえはヴァルキュアに仕える身だ。おれに必要なのは、それだけだ」
「“絶対貴族”に勝てるとお思いですか?」
「結果を知って仕事を受けはせん」
「あなたさまなら、そうでございましょう。ですが、あれは――恐ろしいお方でございます。あなたさまの、おち――」
キマの身体は、同じ姿勢で三メートルも離れた床の上にいた。
空間移動に距離は関係ない。正《まさ》しく所要時間ゼロで、キマは世界の果て――否、宇宙の果てまで到達し得るのかも知れぬ。
と、その頭巾に覆われた額のあたりから、布地の朱よりさらに濃い赤が滲み出て、伏せたままの鼻梁を辿り、その先から床へとしたたりはじめたではないか。
まさか――移動に移る限りなくゼロに近い時間内に、Dの一刀はその額を割っていたというのか。
「昔は斬れなかったぞ、キマ」
刀身を収めずDは言った。
「仰せのとおりで。我、ついに及ばず。かような私ごときの生命と引き換えに、お戻り下さいと願っているのではございません。お捜しの人物をお連れいたします」
「ほう」
小さな嗄れ声。
「マシューのことか?」
「さようで。あの若造さえ戻れば、あなたさまが、ヴァルキュア大公の領土を侵しなさる理由も消滅いたしませぬか?」
「せん、な」
相手の精神《こころ》を斬り裂くがごとき一閃の物言いであった。
「それは――何故?」
「ヴァルキュアの望みは兄と妹――二人の生命だ。おまえが連れ戻しても、奴は必ず追ってくる。もう一度二人を連れ帰れと命じられて、キマよ、拒否はできるか?」
「ここへ来たこと、そして、もう一度、あの若者を連れて戻ることで、生命は捨ててございます」
鼻先からしたたる血は、彼の前の床に、朱く重い広がりをつくっている。
そのとき、
「なかなかに、他人の家で行うには、面白い交渉だな」
天井から覆いかぶさるように、ブロージュ伯爵の声が降ってきた。
「ここは、狭いながらも我が屋敷だ。おまえたちの話、主人としてすべて聞いた。キマとやら、覚悟はできておろうな?」
朱い頭巾は動かず、あわてた風もない。
「――と言いたいところだが、ここはマシューの身柄を保護するのが先決だろう。どうだな、D? とりあえず、信じてみては?」
Dの手が一刀を収めた。
キマの口もとから安堵のため息が流れる。
「キマとやら、その約束に、わしは入っておらぬな?」
「もとよりのこと」
「ならばよい。わしはこのままヴァルキュアの国へ向かう。Dよ、おまえは二人を連れて戻れ」
「それがようございます」
とキマが一礼したとき、
「待て」
と嗄れ声が止めた。
「ひとつ訊きたいことがある。――おぬし、ここへ来たのはDを立ち去らせるためか。それに間違いはないようだが、では、なぜ、去らせようとする?」
キマの表情に、何やら感情の色がかすめたようである。
同時に、しん、と静寂が凍りついた。キマの全身から、眼を背けたくなるような妖気が立ち昇ったのである。
「では――すぐに連れて参ります。くれぐれも約定をお違えなさりませぬように」
嗄れ声が、おい、こらと止めたのは、陽炎のようにゆらいだキマの姿が、忽然と消失してからであった。
「残ったのは謎か」
と嗄れ声がつぶやき、それと相打つ響きのごとく、
「Dよ、おまえは何者だ?」
地上に挑む寸前の雷鳴のごとく、ブロージュ伯爵の声が落ちてきた。
何処とも知れぬ暗黒の道を、真紅の長衣姿が進んでいた。
黒い道だが土ではない。左右にそびえる黒い壁も石とはいえなかった。
遠い稲妻が、大地に壁面にかがやきを映し出す。すべて鋼だ。
測り知れない重量が、キマの上空に雲のように垂れ込めていた。
稲妻からして、天井は存在しないはずなのに、そこは広大無辺な、しかし、いかなる精神の飛翔も許さぬ閉鎖空間の内部としか思えなかった。
やがて――というのは、この空間に時間というものが存在したとしての話だが――キマは、壁と等しく黒い巨大な鋼の平面の前で足を止めた。
それも束の間、彼の姿は音もなく消滅した。
光が一閃した。
空と大地をつなぐ青い光のすじの中に、忽然とキマは出現した。立とうとして、彼は前のめりに倒れた。
「入れぬぞ、キマ」
声が降ってきた。ブロージュ伯爵の居間での状況と瓜二つながら、遥かに凄まじい、途方もない力を秘めた声であった。
「その館を覆う虚数空間は、おまえの移動力をもってしても通過はできぬ。Dは条件を呑んだか? 呑んだであろう」
キマは必死で身を起こし、片膝をついて頭《こうべ》を垂れた。
「ご存じでしたか」
「知らぬと思うか? 前にも申したとおりだ。我が領土の空間にみちるエーテルには、領内に生きるもの、死したもののすべてが刻印されておる。過去現在未来に至るまでの思考の内容さえも、な。だが、それを読むことは至難の業よ。わしだからこそできる。このヴァルキュアのみが為せる業だ」
「仰せのとおりでございます」
「だが、不可思議なことが世にはあるものよ。このわしが、いかに意識を統一し、脳の髄まで絞り抜いて読み取ろうとしても、どうしても不可能な部分がエーテルを凍結させておる。キマよ、Dとは何者だ?」
「………」
「必要とあれば、おまえの頭をここで断ち割り、直接、脳に訊くこともできる。どうだ、それを可能と思うか?」
「遺憾ながら」
「やはり――無駄か。なぜだ、キマ? “絶対貴族”と呼ばれるこのわしが、なぜに一介のハンターの素性を探り出せぬのだ?」
「申し訳ございません」
「連れて行け」
と声は言った。
「は?」
「あの人間を連れて行け。そして、Dの動きを見ろ。奴の行動のすべてをわしは知りたいのだ」
「何故でございます?」
「わからぬ。おまえだけがそれを知っておる。だが、もはや問うまい。わしはこの手ですべてを知ってみせるぞ。行け――亜空間は取りのぞいた」
最初からそこにはいなかったかのように、真紅の身体は消えた。
遠くで、また稲妻が明滅した。
キマとマシューが忽然と自走車の居間に出現したのは、キマの最初の訪問から一時間とたたぬうちであった。
「遅かったな」
と伯爵が毒づき、眼をこすりこすりやってきたスーは、兄さんとつぶやいたきり、その場に立ちすくんだ。
実の、二人きりの兄妹だ。うれしいのに嘘はない。だが、その感情をみるみる不安色の影が塗りつぶしてしまったのは、ひとめで、マシューが異常だと見抜いたためであった。
表情も身体も弛緩しっ放しで突っ立ったマシューの額に、Dが左手を当てた。
だらしなく涎を垂らした口が、へへ、と放った。それきり、濁った虚ろな眼にも表情にも変化はない。
左手は戻った。
「いかんな。脳がない」
嗄れ声の指摘は、棒立ちのスーに雷《いかずち》の直撃を与えた。
「それ――ないって――記憶が抜き取られてるってことですか?」
「いいや――脳味噌そのものが頭蓋の内側から消失しておるのじゃ。代わりに別のもの――エーテルが詰めてある。血管やら神経やらは、エーテルに記されている記憶上の脳に接続してあるのだな」
「じゃあ、兄さんは――」
「呼吸をしているだけの死者と思ったがよかろう」
この辺は、はっきりと口にする。スーは自分を両手で抱き、しばらくそうしていてから、ゆっくりとマシューの方へ歩み寄った。
「兄さん」
とささやきながら、肩をゆすりはじめた。
「兄さん、しっかりしてよ。わたしを見て。わかる、わたしがわかる? 兄さんが犯そうとした妹よ。お願い、憶い出して」
涙がこぼれるのをスーは意識した。不思議だった。
犯されかかり、自分も殺そうとした。肉体も精神もこの兄のためにずたずたにされた。それなのに泣いている。
「これで戻れたというつもりか?」
Dがキマを見つめた。
「ここへ連れてくるまでは、正常でございました――信じてはいただけますまいが」
「信じてもどうにもならん」
Dの声は秋霜《しゅうそう》の鋭さを帯びた。
「おれが母親に守ると約したのは生ける死者に非ず。失った精神の源は取り戻しにいかねばならんな」
「――もう一度、私を信じてはいただけませんか?」
「最初から信じてなどいない」
冷やかに言い放ったDへ、
「この際、身体が戻ってきただけましだと考えてはどうだ?」
巨大な椅子に腰を下ろした伯爵が声をかけた。
「かといって、もうこいつ[#「こいつ」に傍点]に脳を持ち出させるのは無理だ。おぬしは、ここで待て。おい、償うつもりがあるのなら、わしをヴァルキュアのもとへ連れて行け。それで帳尻が合ったことにしてやろう」
「………」
「嫌か? 嫌ならここで死ね」
伯爵の手はすでに長槍を握っている。
「生命《いのち》は惜しゅうございませんが――約定を違えたのは私の方――お連れいたしましょう」
「決まった。Dよ、二人を頼んだぞ。じき、ミランダも来るやも知れん」
空気をゆるがして立ち上がろうとする巨人貴族の前に、黒くしなやかな影が静かに立ちふさがった。
「行くのはおれだ」
「ならん」
長槍の穂先がぴたりとDの左胸に据えられた。
「こんなところで争うのは、莫迦げておるがやむを得ん」
と伯爵が言った。
「ヴァルキュアの狙いは、兄妹の他にわしとミランダだ。加えて、奴と戦ったことがあるのも、わしとミランダだけだ。従って、今回もわしが行くのが道理」
「おまえたちは、人間の手を借りねばヴァルキュアを捕えられなかった」
とDは静かに反撃した。
「おれがどれほど役に立つかは知らんが、他人の手は借りずに済ませるつもりだ。残れ」
「おまえがだ」
次の瞬間、Dの身体を殺気の矢が貫き、たちまち呑み込まれた。
返し矢は同じく殺気――とはいかない。二人をつなぐ凄愴な緊張の糸を感じて、スーの意識は暗黒に吸収された。その耳に、
「二人とも来るがいい」
と聞こえたのである。
「兄さん!?」
とスーが声の主の正体を暴いた。
虚ろな表情はそのまま、首をやや右へ傾げてマシューはつづけた。
「――と言いたいが、その兄妹を放ってもおくまいな。わしが選ぼう。Dよ、参るがいい」
「待て」
「じき、おまえも片づけてくれる、ブロージュよ」
とマシューは言った。いまにもその腹が裂けるのではないかと思えるほど、濃密な迫力の漲る別人の声であった。――“絶対貴族”の。
「だが、いまはここで待て。さもなくば、この若者の身体は二度といま見る形にはならぬほど砕け散るぞ」
「貴様……」
伯爵の槍の穂が怒りで震えた。だが、勝負はすでについていた。彼もまた、兄妹の生命を守ると五千年前に誓ったのだ。
長槍が床と垂直な位置に変わる。
「キマよ。おまえの主人[#「主人」に傍点]を連れてこい」
とマシューは命じた。
「マシューの脳は?」
と伯爵が訊いた。火竜のごとき声である。
「二人が移動したらすぐ、戻してやる」
「いま、戻せ」
これはDだ。嫌なら行かないと言えば済む。
「――よかろう」
マシューは両手でこめかみを押さえた。首が真っすぐな位置に戻る。ごきりと頭蓋が鳴った。
生気と理性の色が広がるマシューの顔を、スーは茫然と見つめた。
不意に彼はよろめき、何とか持ちこたえて、周囲を見廻した。
「ここは――スーか? どうして、おれはここに?」
「よかろう」
とDがキマに向かって言った。
キマが立ち上がり、右手をDの肩に乗せた。
二人の姿が消滅すると同時に、マシューは床に崩れ落ちた。
前方にそびえる巨大な城門をDは見上げた。
キマはかたわらにいる。
縦は優に一キロ、横は五〇〇メートルを越えているだろう。その頂きを闇の中に見分けられたのも、Dの視力ならではだ。
頭上で風が鳴った。
左右は黒い城壁である。黒光りする材質は、金属に違いない。落雷ひとつで世界は電磁波の地獄と化すだろう。
「なぜ、通り抜けん?」
とDは訊いた。
「この門は“神祖の門”でございます。通り抜けられるのは、ヴァルキュアさまのみで」
「奴を宇宙の果てへ放逐したのは、神祖ではなかったのか?」
なぜ、その名を冠した門があるのか、という問いだろう。
風が怒号し――その中に、耳を覆いたくなるきしみ[#「きしみ」に傍点]が鳴り響いた。
ゆっくりと巨大な門は、その中央から内側へと開きはじめた。
開き終えるのを待たず、Dは足を踏み入れた。
内側の広場は、平原とさえ言えたかも知れない。
茫々と広がる鋼の荒野――その一角に黄金のマントをまとった人影は、しかし、孤独なその姿とは無縁な圧倒的な迫力を周囲に放散していた。
「Dだな」
「ヴァルキュアか」
互いの名を口にしたのは確認ではない。相手をこの場で必殺せずにはおかぬという意志の表現だ。
「もっと大きな男かと思っていたが――かなりの見栄っ張りらしいの」
嗄れ声を聞き取ったか、
「わしの狙いはおまえではない。だが、もはや敵として扱おう。ここへ招いたのは、息の根を止める前に訊いておきたいことがあったからだ」
Dは動かない。背の一刀にすら手をかけていない。
「吸血鬼ハンターと聞いた。ダンピールとも聞いた。だが、他は何もわからぬ。このヴァルキュアが、宇宙のすべてを記したエーテル――“アカシア記録”を調べても、な。Dよ、おまえは何者だ?」
「あの兄妹をまだ狙うつもりか?」
Dは訊き返した。それだけしか興味はないとでもいう風に。
「五千年前、わしはあの二人の先祖に宇宙へ追いやられた。五千年は長かったぞ。おまえたちは、依頼人と約定を交わすそうだが、生命に賭けてそれを破りはすまい。わしも誓った。彼奴《きゃつ》の子孫にこの怨みは果たすと」
憎悪に燃える視線が、滑走する黒い影を捉えた。
ヴァルキュアの胸もとへ跳び込む姿さえ、Dは美しかった。
刃はケープの背中から抜けた。
間髪入れず、Dは後方へ跳んでいる。
立ちすくんだまま、ヴァルキュアはにっと笑った。
「まがいものめが」
と嗄れ声が吐き捨てた。
貫いた手応えが生身のものではないと、刀身が伝えたのだ。
「問いの答えを貰っておらん」
頭上を埋めた黒い虚空から降ってきた声は、天に棲む魔王の声かとも思われた。
「そのためにここへ来ることができた身を感謝せい。それができなければ――」
金色《こんじき》の光が天と地とをつないだ。稲妻ではない。灼熱の荷電粒子流であった。
天も地も黄金に溶け、その中にDの姿は、はかない陽炎のようにゆらめいた。
一億度に達する奔流は突然消えた。
黒い広場のあちこちに光の粒が燃え、Dは左手を高く上げてもとの位置に立っていた。
灼熱の流れは、その手のひらに開いた小さな口に吸い込まれたのであった。
「やはり、招いただけの価値はあった。その粒子流は、小惑星帯《アステロイド・ベルト》の半分を消費して、火星にある我が砲台から射ち出したものだ。この星の二つや三つ、わけなく貫通する」
かつて放逐以前に宇宙《そら》の大深淵から来襲したエイリアン船団を迎え討った貴族たちの中で、最も勇名を馳せたのは“絶対貴族”――ヴァルキュアであった。
彼は他の貴族との一切の共闘を断ち、自費を投じて太陽系内の全惑星に戦闘基地を建設したのみならず、当時の貴族たちの科学力を百年凌駕すると評された大戦艦に自ら乗艦し、最前線で敵を迎え討ったのである。
思考形態、倫理観が根本的に異なる生物同士の遭遇――まして、片方は明らかな侵略の意志を持つ場合――は、片方の殲滅をもって終了しなければならない。
エイリアンたちにとっての不幸は、取るに足りない小さな星系の主人《あるじ》たちが、いかなる生命体も及ばぬ闘争心と対敵憎悪及び不死性の持ち主だったことである。
一千年近い攻防を経て、貴族軍はついに侵略軍を撃破、帰投する生存者を追尾して、その母星さえ宇宙の一角から葬り去ったのである。このときも先陣に立ったのはヴァルキュアの名前であり、敵星を宇宙の塵と変えたのも、彼の子飼いの科学陣が開発した秘密兵器であった。
彼にしてみれば、地球を貫通する粒子ビームなど、子供騙しであったかも知れない。
「防御障壁《Dシールド》も使わずにこれを受けるとは、いかなる貴族にも不可能だ。Dよ、ひょっとしたら、おまえは――」
虚空の声は言い澱むがごとくゆらいだ。
「そして、Dよ――このわしも――」
戻っては来たものの、スーにはマシューをどう扱っていいのかわからなかった。
自分を犯そうとした兄である。それも突発的な狂気や出来心ではなく、十分に意図的なものであったのは明らかだ。
自分が一方的な被害者なら、許せばいい。怒りも憎しみも抑えつけて、うわべだけ繕ってもやっていけるだろう。
だが、スーはその手で兄を刺したのだ。明白な殺意を持って。兄が狂ったからというのは、自分への言い訳にしかならない。
正気に戻ってすぐ、マシューは与えられた一室にこもり、出てこようとはしない。
自分の行為を悔《く》いているのか、スーの殺意に黒い怒りを感じているのか。何ひとつわからないだけに、スーはやりきれない想いで満たされた。
伯爵もこれでは口も手も出しかねるらしく、
「兄の方に用心せい」
それから、Dの帰りを一日待つとコンピュータに命じたきり、無視を決め込んでいる。
しばらくは放っておこう、とスーは決断した。
何もかも、この旅に出てから狂ってしまったようだ。どんな結末にせよ、それが訪れたとき、マシューも自分も新しい気持ちで顔を合わせられるかも知れない。
ほとんどあり得ない皮算用と知りながら、スーはそう思うしか精神《こころ》の安寧を求められなかった。
寝つけそうもないが、何とか眠ろうと部屋の前へ来たとき、ドアの前に立つマシューを見た。
「兄さん……あたし……」
と言ったきり、次がつづかない。
「おいで、スー」
とマシューは微笑した。胸のどこかがひんやりするような笑いだった。
「いいものを見せてやろう。僕があそこ[#「あそこ」に傍点]で身につけたものをだ」
「兄さん……まだ……」
「ヴァルキュアの術にかかっているってかい? 安心しろ。おれは、おまえが一番よく知ってるおれさ」
廊下をはさんだマシューの部屋のドアが開いた。
「おいで。おれたちが生きていくのに必要なものだ」
スーはなおもとまどい、ふと、ブロージュ伯爵の看視の眼が車内に行き渡っていることを憶い出した。マシューにコンピュータをどうこうできる能力《ちから》はなさそうだ。
マシューの左手が脇腹に触れた。スーが刺した部分である。苦痛に歪む表情を見た途端、スーは前に出て、兄の肩に手をかけて支えた。
そのまま、無言で兄の妹はドアの内側へ消えた。
ドアが閉まった。
このとき、自走車のコンピュータが正しく作動していたら、次のような会話を聞き取ったであろう。だが、スーが兄を見かけた瞬間から、コンピュータの記憶は別の光景を目撃し、別の声を聞いていたのである。
「何を見せたいの、兄さん?」
「そこにかけて。おれは大丈夫だ。――さ、よく見るんだ。あそこへ行くと、こんなことができるようになるぜ」
沈黙。
そして――少女の悲鳴。
『D―邪王星団3』完
[#改ページ]
あとがき
またも完成したのは、締め切り当日。あ――終わった終わった、ルーマニアでも行くか、と思ったら、
「わあ、全四巻になってる」
というわけで、「D―邪王星団4」は四月に出ます。もちろん、四月二十一日公開の傑作アニメ「バンパイアハンターD」に合わせようという目論見であります。
しかし、このアニメ、何度観てもいいなあ。
過日、麻布のスタジオへ、日本語のアフレコを見学に行ってきました。D役の田中秀幸さん、左手役の永井一郎さん、レイラ役の林原めぐみさん等、主要キャストが勢揃い。吸血伯爵夫人役の前田美波里さんは去年のうちに録ってしまったとのことで、残念でした。
調整室の窓の真ん前からスタジオを見ることができて、いや、凄い迫力でした。役者さんの感情移入って、声だけでも全身で表現するから凄いです。
ちょうど居合わせた、アメリカのフィルム会社の方から、
「前のアニメのビデオもアメリカで売れています。翻訳は出さないんですか?」
と言われ、私も突然、野望に燃えて、
「そーだ、全米の書店でDシリーズ発売。行けえ」
とばかり、同席のソノラマ編集部長I氏をせっついたのですが、はて、どうなることか。実は初作の翻訳原稿、もう上がってるんですよ。
それはそれとして、Iさん、昨年末の「忘年怪2」ではお世話になりました。外谷さんに絞められた首は大丈夫でしょうか。
では、「D―邪王星団3」をお愉しみ下さい。絶対に「4」が読みたくなるはずです。
二〇〇一年二月某日
「忘年怪2」のビデオを観ながら
菊地秀行