D―邪王星団2 〜吸血鬼ハンター12
菊地秀行
[#改ページ]
目次
第一章 ヤノシュの歌姫
第二章 ガリオンの谷間
第三章 ラージンの武器番
第四章 敵と味方と
第五章 神祖の技術
第六章 ラモアの砦
第七章 サイバー・アサシン
あとがき
[#改ページ]
第一章 ヤノシュの歌姫
1
「動いたぞ」
蝋燭一本きりのけだるい光の中で、声と同時に幾つもの気配が蠢いた。
一斉に上を見る。壁には粗末な簡易ベッドが立ちならぶ、一見して宿舎とわかる部屋の天井に、その男はいた。
地上三メートルほどの高みに、頭を下に浮いているのである。
地上の連中がいくら眼を凝らしても、視認は不可能だったが、男は身体のどこからかひとすじの糸を分泌し、それに身を委ねて、蜘蛛のように身体を丸めてぶら下がっていたのである。
いま、顎を掻く指も、手足も、丸みを帯びた体躯に比して不釣り合いに長い。成層圏すら戦いの場にする蜘蛛男――スピイネであった。
「あの村の周囲に張り巡らせておいた糸――北へのルートが切られたばかりだ。となると、行く先はヤノシュか」
「誰が?」
と訊いたのは、僧形の影――クールベだ。彼の右腕は首から包帯で吊られていた。
「あの糸の切り方の凄絶さから見て――Dだろう」
「何のために?」
これは女の声である。廃屋としかいえない部屋の隅に、縁まで水を入れた陶器の水差しが置いてある。人の姿は見えないのに、声はそこからした。言うまでもなく、水妖女ルシアンに違いない。
「わからん」
スピイネが答えるのと、ほとんど同時に、
「やはり、な」
と応じた声がある。老人の落ち着きと、若さの張りを共に備えた響きの方をふり返り、
「おお!?」
「“説得者”キュリオ!?」
「ようやく参られたか?」
クールベもルシアンもスピイネも、こぞって畏怖の声を上げたのである。
電源を失った自動扉が開きっ放しの戸口に立つ影は“伝道師”クールベと同じ型の頭巾付き長衣をまとっていたが、その色は遥かに凶々《まがまが》しい朱《あか》で、さしもの妖人たちも、迂闊には近寄り難い妖気を漂わせていた。七人の刺客たちの中でも、最強のひとりらしい。
床上の他の影が、起き上がろうとするのを、
「よせ」
と押しとどめる声は威厳に溢れていた。天井から床へと下りたスピイネが、
「では――なぜ、Dのみがヤノシュの村へ?」
「あの村の生きる糧を想起すれば、すぐに答えは出る。さすが、辺境随一にして、二、三とは月ほどの距離があるといわれる男よ。生き馬の眼を抜きかねぬ真似をする」
「そ、それは?」
「おぬしらの取った手段は、スピイネの糸から聞いた。そこから敷衍するに、彼奴《きゃつ》、“時だましの香”を求めにいったのよ」
どよめきが三つの口から迸った。
“時だましの香”――吸血貴族にとって、昼を夜に、夜を昼と偽るこの香は、時として永劫の生命を滅びから救い、また時として、不滅の夜においても致命的な運命に陥らせる二律背反の品であった。
「そうか、昼を夜に!?」
ルシアンの声に怒りがこもった。
「さすれば、昼とはいえ、向う側の戦力は三倍になる。ブロージュ伯とミランダ公爵夫人。――彼らにとっても陽光にみちた夜など、はじめての経験であろうよ」
「では、何としても阻止しなくては」
と、もうひとりの長衣僧服の主――クールベが呻いたが、
「その傷で何ができる」
とキュリオは冷やかに指摘して、床に横たわる影を見た。先刻、キュリオがその正体を明らかにしたときも、うんうんと呻いてろくに動けなかった人影は、“首斬り役人”ジュサップであった。
「私の見たところ、スピイネも負傷し、ルシアンも無傷ではあるまい。あの三名――ひとりを除いては、さすがに生粋の貴族。しかも、唯一の例外が、はたして貴族に劣らぬ実力の持ち主と来ておる。いまのお主らでは容易に斃《たお》せまい」
「しかし、このまま傍観するわけには。あなたが到着するまでは待てとの指示に、何ら迎え討つ手は打っておりません。正直、どうなることかと思っておりました。無論、いざとなれば我ら、あの三人ごとき軽く斃してごらんにいれまするが、しかし、Dが単独で走ったならば、これは戦う以前の絶好の機会かと」
「そのとおり。彼奴は我らに気取《けど》られぬようにと、ひとりヤノシュをめざしたに相違ございません。こちらがそれを看破した以上は――」
二つの異議は、クールベとスピイネが唱えたものである。
それに対して、
「カラスが行っておる」
と朱色の長衣は答えたのである。
愕然たる声が噴き上がった。
「おお――“歌姫”が!?」
「ついに甦りましたか!?」
歓喜のあまりか、天井からつう[#「つう」に傍点]と降下してきたスピイネの逆しまの顔は、もはや勝利の笑みに歪んでいる。
「――あの歌ならば」
姿なき水妖ルシアンの声にさえ、決して快いとはいえぬ、しかし、畏怖の響きがあった。
「そして、念のためにもうひとりつける」
「え?」
朱色の影が動いて、床の上から、ぎゃっと悲鳴が上がった。太った影が蹴とばされたのである。
「大した傷でもないのに、この怠け者めが。カラスには言ってある。さっさとヤノシュへ向かえ。向かわねば、説教を食らわすぞ」
「ひええ」
とばかりに、一も二もなく跳ね上がった丸っこい影は、“首斬り役人”ジュサップであった。
Dがヤノシュの村へ入ったのは、その深更であった。
夜空に月が皓々と燃えている。それですら、馬上のDの美貌には及ばない。月のかがやきは反射光にすぎないが、Dの美しさは、自ら発光するのであった。
訪れる旅人のために極力隠し通しているせいか、空気に異臭はないが、それでも隠蔽不能な極微の臭素をDは感じ取ることができた。
石造りの家々と並んで、塩化ビニールの幌で覆われたカマボコ型の施設が、月光の下に眠っている。それは匂いにすら死を含む凶猛なる毒草の成育ドームであり、その周囲に点在する畑にも、すべて毒花毒草が妖しく絢爛と咲き誇っているのであった。
村の中央を走るメイン・ストリートを通って、Dは一軒の家の前で馬を止めた。他の家と見分けがつかぬ平凡な建物である。
馬を下りて木戸を叩くと、少し間を置いて、
「何時だと思ってやがるんだ、トンチキ野郎。取っておきの毒蜜をぶっかけるぞ」
と、壁の一部から、男の声が罵った。
「済まんが急ぐ」
「うるせ――」
怒声は突然、消えた。潮が急速に引いたような感じであった。次の声は恐怖と驚きと――懐かしさから出来ていた。
「あんた、ひょっとして――D、か?」
「頼みがあって来た」
「まままま待ってくれ。いいい今開ける」
木戸の向うから、ただならぬ気配と派手な音がして、いてててと来た。どこかにぶつかったらしい。
閂が抜かれて、木戸はきしみながら内側へ開いた。
光を背にした影法師《シルエット》は、すぐに異様に痩せた白髪の男に変わった。老人の顔ではない。だが、艶のない干からびた肌は、露わになった骨組みと一緒に、男をひどく年老いて見せていた。
「一体、何事だ。三年ぶりだぜ。こんな格好で会うとは思わなかったよ」
「頼みがある」
「あんたが、おれにかよ。いいともいいとも、あんたのおかげで長らえた生命だ。ロクな使い方をしなかったが、借りは忘れてねえ。遠慮なく言ってくれ」
「“時だましの香”を作って欲しい」
とDは言った。
男の口が、あんぐりと開いた。そんな元気があったのかと思われそうな大胆な開け方だった。
男は一歩下がって、Dを家の中へ通した。後ろ手に閂をかけてから、狭い居間へと導いた。丸テーブルをはさんで、粗末な椅子にかけた。
「途方もねえ依頼をする男だな。だが、そいつがDという名を持っているんじゃ仕方がねえ。これからすぐ調合にかかるぜ」
ようやく落ち着きを取り戻した男へ、しかし、Dは冷やかに、
「少し手を加えてもらいたい」
と申し出た。
「ほう――どんな風に?」
Dの要求を聞き終えたとき、男は妙に静かな声音で、
「いつまでだ?」
「明日の昼までにマチューシャへ戻る」
「となると――今晩中、夜明けまでがリミットだな」
と肩をすくめた。あっさりと、
「無理だ」
「辺境区一の毒薬の専門家――カリム・ムーベへの頼みだ」
「やってみよう」
にやりと浮かべた笑みの不敵さは、どうやら最初からその気だったらしい。
「それじゃ、おれは作業場へこもる。だが、奥には女房子供が寝てる。音はたてないでくれよ」
言い残して返事を待たず、これだけは青銅でできたドアの向うへ消えた。
ドアに錠を下ろしてから、左の壁に嵌めこまれた鉄扉を開けて内部をのぞく。
粗末なベッドの上で、妻が、六歳になる息子と四歳の娘の髪の毛を撫でている。
ムーベが鉄扉を閉めようと身を翻したとき、妻がちらり[#「ちらり」に傍点]と眼をくれた。
「あんた[#「あんた」に傍点]……」
「大丈夫だ」
こう言って、ムーベはドアを閉めた。
作業場には、おびただしい毒薬を詰めたガラス瓶が作りつけの棚に収められ、西の壁と接する温室には、毒草と毒虫が区分けして育てられている。瓶も温室もすべて二重三重構造だが、ひび割れひとつ生じれば、家どころか村全体が地獄と化すだろう。
「さてと」
壁にかけてある防毒マスクを頭から胸まで被り、手袋をつけると、彼は温室に通じるドアを開けた。
人ひとりが立って入れる気密房がある。そこへ入って扉を閉め、次の扉を開けた。第二の気密房である。もうひとつ――第三の気密房を抜けて、やっと温室へ入った。ここはもう空気そのものが毒といっていい。
恐ろしい花とは、かくも美しいものか。毒地獄は、紅、藍、蒼、緑、紫等々、この世にはあり得ないと思うしかない絢爛たる色彩に飾られていた。
いつもは飽きもせずに愛でるそれらに眼もくれず、ムーベは温室の中央へ行った。
縄で四方を囲まれ、特別、栄養の配合と配分に手間をかけたせいで、周りとは別の色をした土壌の真ん中に、その花は白々と咲いていた。百合に似ているが、花弁は二枚多く、印象はずっとやわらかい。その茎から採れる透明な花汁が、“時だましの香”の原料になるとは、毒薬づくりで名をはせるヤノシュの村でも、彼以外誰も知らぬ秘密であった。
「百年に一茎の花だ――よろしく頼むぜ」
ムーベは手袋をはめた両手で、花の周囲の土をそっと除けはじめた。
茎にでも葉にでも、かすり傷ひとつつけただけで、茎内の養分は一瞬のうちに変質してしまう。
丁寧に、静かに、機械のように精確にひとつの動作を繰り返しながら、彼は一度、手を休め、奇妙な台詞を口にした。
「済まねえな。――D」
2
夜の底を美しい音が漂っていた。音は風にまつわり、翻弄され、月光に押されながらも、長い時間をかけてやって来たのだった。
目的地のドアの前で、音は軽くため息をついたが、休みもなく、ドアの隙間から身をよじって忍び入った。
部屋には人影が壁にもたれていた。他に誰もいない。三:〇〇PM。何もかも仮の死に浸っている。
壁にもたれた影が、ふと眼を開いた。そこから黒いかがやきが溢れ出るような黒瞳《こくどう》であった。
Dは戸口に眼をやり、すぐに壁から離れた。
外へ出ると、今度ははっきりと聞こえた。
黒衣の左腰のあたりで嗄れ声が、
「これはいい声をしておる。歌声で船人を魅了して、岩礁に船ごと打ちつけさせる魔女を知っておるが、この歌い手はそれに勝るぞ。Dよ、心せい」
すでにDは歩を進めている。嗄れ声の忠告も空しく、夜の歌声に正常な意識を奪われ切ったものか。足音なき歩行はやがて、村の中央広場に黒衣の美影身を招いた。
石畳の広場の中央に井戸がある。そのかたわらに、ひとりの女が立っていた。
月光に裸身が浮いている。光を通したドレスを、Dの眼はうすい紫と識別した。
静寂が落ちた。女が唇を閉じたのである。
ここからムーベの家まで、細くかすかに、しかも選択的に届いた歌声を、女は誇る様子もなく、Dもまた、一片の感慨さえ示さない。
「私は“歌姫”カラス」
女の額から黒髪を飾る黄金の輪が月光にきらめいた。輪の中央はやや盛り上がって奇怪な生物の顔をレリーフし、その両眼には碧い宝石が嵌め込まれていた。
「――と言っても、答えられませんね。あなたは私の歌を聴いてしまった。――Dね」
返事はない。呪縛の印と見たか、女はうすい唇に微笑を刻んだ。透明な笑みであった。
「あなたの手は、とうに読まれていました。私はあなたを斃すために派遣された刺客です。本来なら、“時だましの香”ができるまで待つはずが、私は村へ入って来るあなたを見てしまいました」
女の眼差しに不可思議な感情が宿った。哀しみ――と欲情だったかも知れない。こうつづけた。
「あまりに美しい。私の胸は、あなたのその美貌で灼き崩れそうです。――でも、それがあなたの不幸のもと。私が恋い焦がれるほどの男なら、必ず他の女性が放ってはおきません。あなたも男なら黙ってはいないでしょう。ああ、そんなこと耐えられない。でも、私は想像せざるを得ないのです。お笑いください、D。あなたに他の女性の手がのびるのを座視するくらいなら、私の手にかけます。“時だましの香”など待たず、いま、ここで」
女の右手に、両端が鋭く研ぎ澄まされた短刀が現われた。
優雅にそれをふりかぶり、カラスは手裏剣打ちに投げた。
それはDの胸もとへと走り、寸前で停止した。
「――!?」
愕然と眼を剥く歌姫に、黒衣の主は、
「“歌姫”カラスの名前は聞いた。もうひとりの名前を言え」
「あなた――私の歌を?」
愕然と呻く女へ、
「聴いた」
返事は空中でした。
跳躍したDが頭上からふり下ろした一刀に、頭頂から胸骨全部を切り離されて、カラスはのけぞった――と見る間に、ドレス姿は動かず、Dの剣のみがその左肩をわずかに外れて空を切る。
そこから、びゅっと二刀目が夜気と胴を薙いだが、刀身はDの手に何も伝えず、カラスは高らかに笑った。
「――確かにお聴きになったようでございますね。そうなって私を討てた方はいらっしゃいません」
かつての伝説の妖女に魅せられた船人のように、カラスの歌声を耳にしたものは、我知らずその魂を吸われ、腑抜けと化してしまうのか。
「自死なさいませな」
と美女はささやいた。
刀身を横に薙いだ姿勢から、Dは片手の青眼に構えを移していたが、その両眼はうすく閉じられていた。
カラスの表情に、驚愕が蠢いた。
無益な凶刃をふるった美しい若者が、突如、別の存在に変わったような印象を抱いたのである。
「あなたは……」
みなまで言う前にDの眼が開いた。それは血光を放った。
ひい、と叫んだ歌い手の頭上に、もう一度、刀身が舞った。前と同じ状況で、しかし、今度こそ、カラスの最期だった。
だが、次の瞬間、空中でDは大きくよろめいたのである。
その背から鮮血が迸り、着地し片膝をついた頭上に五月雨のごとく降りそそいだ。
「はっはっは、どうでえ?」
新たな笑い声は、Dがやって来た広場の入口から上がった。
地べたに打ち下ろした斧の柄を掴んで、まだふらつき[#「ふらつき」に傍点]から回復していない影は、“首斬り役人”ジュサップであった。
「いま着いて、塒《ねぐら》を捜しにきたら、いきなりこれかよ。おい、カラス、おれさまに感謝しな。黄金がザクザク手に入る歌でも歌ってくれや。――よいしょ」
やっとの思いで斧を持ち上げると、またも、ふらふらと――しかし、その当たらぬ斧の恐ろしさは、誰よりもDの知るところだ。彼の背骨は粉砕されていた。
一見、頼りなげに見えながら、いかにカラスとの死闘に全神経を集中していたとはいえ、Dの背を断ち割るとは、まさしく“絶対貴族”の七刺客に数えられるだけはある。
「だがよ、おめえも大したもんだぜ。完全に気配は絶ったつもりなのに、やっぱ、読まれてたかい。本来なら胴が二つになってるとこだ」
ジュサップは、にやりと唇を歪めて、
「ほうれ、ほれ、“首斬り役人”ジュサップ様の“闇雲斬り”を味わったか? 狙わなくても斬れる[#「狙わなくても斬れる」に傍点]んだぜ」
と宣言した。よろつく足を踏んばり、斧をふり上げる。その眼はDを映しても、斧の向きはあらぬ方角だ。
「その距離じゃ、いくらDでも刃が届くめえ。だが、おれの斧なら斬れる。おい、カラスよ、見てな。辺境一の美しいハンターを、いま、おれがバラバラにしてやるぜ。まず、右手だ」
月光の下で黒鳥の羽根のようにコートが躍った。Dが片腕を抜いてはねたのである。
ジュサップの真正面から拳を突きつける。
「この」
斧が銀色の軌跡を引いた。
ぼっ、と音がして、拳は手首から切断されていた。
黒血が奔騰する。
Dが地を蹴った。
まさしく月面に躍る魔鳥――美しく巨大なる蝙蝠《こうもり》。
よろめきつつ、ジュサップには次の攻撃に移る余裕があった。次は反対側の足だ。
その、まさしく彼の足下で、小さな嗄れ声が、
「わかったの?」
と、つぶやいたのである。
答えは――ジュサップの斧の一閃。
Dの腿が裂け、新たな血が迸る。右足の血であった。
愕然と見開かれたジュサップの両眼の間を白光が通り抜けるや、黒いものが噴き上がり、ジュサップはのけぞった。
自分には眼もくれず、歌姫めがけて反転するDを映した両眼は、なおも驚愕に見開かれていた。
「逃げたか」
地面から尋ねる嗄れ声に、Dは近づいた。カラスの姿はすでになかったのである。
刀身を収めた右手で拾い上げた手首を左手の切断面に押しつけて離すと、みるみる斬線は消滅し、手のひらの表面が波のようにゆれた。
出現したのは、眼も口も鼻もついた小さな顔であった。この世の誰にも似ていない。ただの“顔”だ。
小さな面《つら》が地上のジュサップを見下ろし、
「三度もしくじれば、パターンを読まれるとは思わなかったのか、この頓馬めが」
と愉しげに罵った。
いかに見当違いの方向へ刃をふるって相手を斬殺するジュサップの“闇雲斬り”とはいえ、全くの出鱈目であるはずがない。そうならば、ジュサップに勝てる相手は事実上いなくなるからだ。
二度斬られ、そして、三度目に右腕ならぬ左手首を落とさせて[#「落とさせて」に傍点]、Dはジュサップの斬撃地点と傷口との位置関係を読み取ったのである。
Dほどの遣い手がなぜ三度も、というのは、二度目の背の傷は、全くの不意討ちであり、彼は前後二つの攻撃から“闇雲斬り”のパターンを読み取り、空中で身体を捻って、足の浅傷《あさで》にとどめたのである。
左手に注意を向けるよう仕向けたのは、無論、右手で刀を操るからだ。
一体、どのような素材でできている品か、コートの傷はとうにふさがり、Dの肉体も完全に復活したようだ。
「これでひとり――あと六人か。先は長いの」
と左手の顔が言った。軽い口調ではなかった。いま斃し、そして逃れたもうひとりの敵から、残る五人の恐ろしさをこの上なく確かに感じ取ったのである。
「それにしても、あの女――何処へ消えたものか。まだどこぞの物陰から、わしらを狙っておるのじゃろうて」
Dは身を屈めて、地面の小石をひと掴み、空中へ放った。
その描く放物線を、別の線が斜めに断ち切った。
石は地面に落ちた。
「まだ、カラスの歌声が効いておるな。おまえだからあれで済んだ。別人だったら、とうに百回も自殺しておるだろう。おまえがそうなる前にカラスを斃さねばならんぞ」
「治療をしろ」
ジュサップの身体を持ち上げると、Dは広場の南西を占める木の柵へ向かって投げた。
一〇〇キロはありそうな巨体が、豪速球のごとく風を切って飛び、柵のかなり向うの薮の中に落ちた。遺体へのいたわりなど微塵もない。抜け殻とも思っていない冷血の所業だった。
「もうはじめとるわい。ただし、脊椎じゃ。少々時間がかかるぞ」
Dは答えず、もと来た方へ歩き出した。
背骨を叩き折られた男の動きは、月さえも惚れ惚れとするような優美なものであった。
3
ムーベの家へ戻ると、折よく当人が奥から顔を出して、
「出来たぞ」
と言った。
日々扱う品のせいか、爪は溶け、関節のふくれ上がったその右手には、青い蝋燭が一本握られていた。
「正真正銘、“時だましの香”だ。即製だから、効果一〇〇パーセントとはいかねえが、あんたの目的にゃ十分叶うだろう。――どんな目的かは知らねえが、な」
全身全霊を打ち込んだ芸術家特有の満足げな笑みをBGMに、Dはそれを見つめていたが、不意に、
「点してみろ」
と言った。
「はあ?」
ムーベが口をぽっかりと開けたのは当然だ。眼を白黒させて、
「おい、いまは夜だぞ。こいつを点けたら――」
夜は昼に変わる。ダンピールたるDが貴族のような地獄の苦痛に苛まれることはないが、それでもかなりの苦しみを経験せずには済むまい。
「点けろ」
Dの声は鋼の凄みを帯びていた。
その美貌を陶然と見つめ、ムーベはじきに肩をすくめて、
「わかったよ。わーん明るいって、べそをかくんじゃねーぞ」
テーブルに備えつけてある自家製マッチに手をのばして一本点け、青白い炎を蝋燭の芯に近づけた。
小さな光が点った刹那、Dの身体が大きく痙攣した。人間の血が流れるとはいえ、夜から昼への急激な逆転は、たやすく堪えられるものでもない。血液は逆流し、新陳代謝は狂いまくる。貴族の血が、その運命を絶叫し抜くのだ。ダンピールでも発狂する者が少なくない。
Dの白蝋の頬を、汗の珠が幾つも伝わった。小刻みに震える体内の臓器は、すべてが灼熱の苦痛に泣き叫び、のたうち廻っている。
「いかん――消すぞ」
堪りかねたムーベが手をのばす――その鼻先を、冷たい吐息のような風がひとすじかすめた、と思った刹那、火は消えた。全身の感覚が夜だと告げている。
Dの方をふり向いたムーベは、蝋燭の高さに上がった左手が、開いた形から握りしめられるのを見た。その一瞬、手のひらに人間の顔らしいものが見えたような気もしたが、彼はすぐに忘れて、
「無事かよ?」
とDに声をかけた。
「何とか、な」
冷やかな返事に苦痛の色は微塵もない。
「カリム・ムーベの仕事、確かに受け取った」
コートのポケットから一枚の金貨を取り出し、Dはテーブルに置いた。
ムーベは困惑の表情をつくった。“時だましの香”ともなれば、標準貨幣のミルカラ金貨で五十枚が相場だ。
やや大ぶりで厚めのそれに当てた視線が、何かを彼の脳に伝えた。
両眼が限界まで見開かれた。
まさか、と小さくつぶやいて、ムーベはゆっくりとそれをつまみ上げた。手は震えていた。金貨を手のひらに載せてしげしげと観察したとき、震えは全身に伝わった。
「これは……神祖金貨だな……」
驚きと恐怖が詰まった声である。消え入りそうなそれは、長いこと空気の中に余韻を引いていた。
「神祖の生誕一万年を祝して『都』が鋳造した代物だ。確か限定五十枚――これを手に入れた者は、人間でも貴族の称号が与えられたくらい価値のある、宝物中の宝物だぞ。D――おまえは一体、何処で? いや、手に入れようとして入るものじゃない。最初から持っていなければ[#「最初から持っていなければ」に傍点]、な。――Dよ、おまえは何者だ?」
「礼はした」
蝋燭を掴んでDは立ち上がった。
人の形をした世にも美しい闇が閉じたドアの向うに去ると、少し間を置いて、奥の戸口から妻が現われた。
「起こしちまったか?」
妻は首をふって、歌うように言った。
「いいえ。外に出てたから」
「餓鬼どもはどうした?」
「寝たわ」
と答えてから、妻はにっこりした。
「嘘よ。まだわからないの? うちには子供なんかいやしないのよ」
ぼんやりとした驚きの表情が、ムーベを捉えた。
そんな、莫迦な。いや、そのとおりだ。最初から子供なんかいやしなかった。
それに、女房はこんなに色っぽかったか。もっとごつくて、小さくて、身体中に土と汗の匂いが立ちこめてて――
待てよ、女房は確か六年も前に流行《はやり》病いに罹って――
「みんな死んだ」
とムーベはつぶやいた。自分に納得させるために。
「そのとおりよ。あなたのそばには、もう誰ひとり残っていない。ひとりぽっちに耐えられる? でなければ、自分で生命をお断ちなさい」
一分前まで妻だった女は、ムーベの右の耳に唇を寄せた。耳と唇を、低い、ゆるやかな旋律がつないだ。歌声であった。
「自ら死を招く歌よ。Dには効かなかったけれど」
やがて、身を引いた女は艶然と微笑した。
まぎれもない歌姫カラスであった。
ムーベは立ち上がり、ひょろつく足取りで仕事場の戸口をくぐった。
壁に並んだガスボンベに近づき、バルブに手をかける。三千種類の毒草から採取した毒を混ぜ合わせた最強の毒ガスは、無色無臭なのであった。
少しして――しゅうしゅうと鳴り響く噴出音に、人体の倒れる音が重なるのを確かめ、美しく邪悪な歌姫は、新たな歓声を求めるかのごとく、闇へのドアを抜けたのであった。
廃家には沈痛な空気が漂っていた。
「ジュサップが斃されたか」
と呻くように確認したのは、伝道師クールベであり、静かにうなずいた華麗な雰囲気の女は、魔性の歌姫カラスであった。ヤノシュ村での出来事を語り終えたばかりである。
「だが、“時だましの香”は、確かにDの手に渡った――そうだね、カラス?」
四つの顔が一斉に声の主――キュリオの方を向いた。荒涼たる、それでいて一触即発の気を孕んだ精神状況を逆撫でするかのように、その声は冷静且つ温和だったからである。
「確かに」
歌姫はうなずいた。神経を逆撫でといえば、この美女の声もそうだ。平凡な会話もどこか歌うように聞こえる。
「そして、製造者も始末いたしました」
「随分と楽しそうだことね」
新たな発言に、一同は顔を見合わせた。出てくるな、という予想が適中したのである。
声の主はキュリオ同様、一同の視線を浴びた。地面のすぐ上で。例の陶器の水差しであった。
その幅広い口の上に、女の顔が乗っていた。生首といってもいい。水妖ルシアンであった。
貫くような視線をカラスに当て、
「いまの話からすると、ジュサップはあなたを守って死んだ。私たち以上に哀しんでもいいはずよ?」
「お言葉ですが、私の胸はその哀しみとやらで張り裂けんばかりだわ」
と、カラスは言った。微笑を浮かべている風に見える。歌っているように聞こえる。
「それに、みんなも聞いたでしょ。Dのことを口にするときのこの女の顔――まるで、恋人を語るごとく、よ。あの顔に篭絡《ろうらく》されたんじゃなくって?」
「おっしゃるとおりよ、ルシアン。なんて美しい男でしょう。あの冷たく、それでいてどこか哀しそうな瞳、美神よりもすっきりとのびた鼻梁、一滴の血潮を落としたくなる氷の薔薇のようなあの唇。――無視することができるほど、私は美に無関心な女ではないのよ。だから、誓いましょう。あのような美しい男は決して生かしてはおけない、と。Dはこの歌姫カラスが必ず斃してみせましょう。私のこの歌で」
ルシアンの生首が、とっさに次の台詞を発せないほど、静かで激烈な宣言であった。
次の言葉は天井からした。
「ほう。ヤノシュ村の方角から早馬だ。いま、おれの糸を破って、マチューシャの村領へ入ったぞ」
今度は、スピイネが全員の注目を浴びた。
「男か女か?」
とキュリオ。
「糸は男と言ってるな」
「ヤノシュの村からというのが気になる」
キュリオは少し考え、
「私が行ってみよう」
とドアの方を向いた。
声なきどよめきが、全員の間を渡った。この男の出動は、味方すら怯えさせるのであった。
「キュリオ殿――馬は?」
とクールベ。
「ご懸念なく」
「かなり早い――もう追いつけませんぞ」
とスピイネが天井からつけ加えた。
「それも、ご懸念には及ばぬ」
朱色の長衣はこう答えてドアを押した。
外へ出るとすぐ、彼はゆっくりと街道の方へ歩き出した。
辺境の人間なら、気でも狂ったかと夢中で声をかけるが、決して家からは出ないだろう。辺境の夜の闇は危険という成分からのみ成り立っているのだった。
廃棄された農村の下働き用宿舎から二〇メートルばかりも行ったところで、キュリオは頭上に獰猛な羽搏きを聞いた。
「馬が来た」
こう言って見上げる眼に星は映らず、襲いかかる巨大な影のみが広がった次の瞬間、彼は虚空に舞い上がっていた。
鋭い鉤爪がその肩に食い込み、夜行性の大鷹は、片翼三メートルもの翼を羽搏いて、不用意な獲物を北にある巣へと運ぼうとしていた。
その鼻先が方向を南へ――マチューシャの村へと転じたのは、北へと身を翻してすぐであった。
キュリオが馬と言った意味はこれか。
大鷹はまさしく従順な馬のごとく、キュリオを目的地へと運んでいく。上空へと連れ去られながら、キュリオが祈りのような口調で何事か口にするのを聞いたのは、大鷹のみであった。
地上を走るのと天《あま》を翔《か》けるのとは、かくも差が生じるのか。一分足らずのうちに、キュリオは、月光の下を糸のようにのたくる街道を進む騎馬を確認したのである。
彼は目標を指さし、抑揚のない声で言った。
「頭を噛みつぶせ」
奇妙なのは、この内容よりも、それが大鷹への指示としか思えなかったことである。しかも、大鷹は即座に降下に移った。
一度、方向転換のために羽搏き、後は滑空のみ。次に上昇の羽搏きを行ったとき、騎手の頭部は失われているはずであった。
キュリオの顔は高速のために生じた空気圧によって歪んだ。
あと一〇メートル。
馬首にしがみつくような、必死の騎手の姿が近づいてくる。
虚空を縫って、途方もなく長大な槍が飛び来ったのは、その瞬間であった。
ねじ曲がったそれは、曲率を十分に計算に入れて、狙い違わず、大鷹の腹を斜めに貫いた。
断末魔の悲鳴にふり返った騎手の顔を見る暇もなく、錐揉み状態に陥った大鷹は地上に激突し、巨大な襤褸《ぼろ》のように二転三転すると、街道脇の空地に突っ込んで、さらに土と草を跳ねとばした挙げ句、ようやく停止した。
息絶えながら、なおも痙攣をつづける大鷹の身体の下からキュリオが這い出したのは、一分ほど経ってからである。
よろめきよろめき立ち上がって、頭をふっている最中に、
「翼で庇ったか」
低いが堂々たる厚みを持った声が夜気を圧した。
あわてた風もなく、キュリオは前方――六、七メートルのところにそびえる巨影に眼をやった。
「あなたは……」
「腹空かしの鷹がそんな健気な真似をするはずもない。おぬし、ヴァルキュアの七人のひとりだな」
「さて、何のことで?」
「Dがヤノシュの村から戻るのをカバーし、追撃を食い止めるつもりで待機しておったが、早々に一匹かかったとみえる。昼に来いなどとさもしい手を使いおって。――いま、この夜に、貴族と戦う勇気があるか? わしはブロージュ伯爵だ」
[#改ページ]
第二章 ガリオンの谷間
1
身の丈三メートルの大男――どころか巨人相手である。よほど巨心臓の持ち主でも、心臓麻痺を起こしかねない。
それが、朱色の長衣をまとった説教師は怖れげもなく、
「ご丁寧にかたじけのう存じます。ヴァルキュアの七人のひとり――キュリオと申します」
「どんな技を使う?」
「企業秘密でして」
「はっはっは」
と巨人は大笑した。遠慮のない笑い声である。
「面白い男だな。だが、自らヴァルキュアの名を出した以上、生きては帰れんぞ」
「それは、こちらの台詞かも知れません」
「吐《ぬ》かせ!」
ブロージュ伯爵の右膝が上がるや、ずんと地べたを踏みつけた。
ひとすじの線がキュリオめがけて走った。途中でそれは左右に開いて、巨大な亀裂となった。
「ひっ!?」
心底から恐怖の叫びを絞り出して、キュリオは横へ跳んで逃れた。その足下にもうひとすじの亀裂が口を開け、彼を呑み込んだ。伯爵はもうひと踏みしたのである。
「?」
勝利を確信した巨人の眼が、満足げに細められたのは、キュリオの身体が胸のあたりで止まったからである。亀裂はそれ以上広がらなかったのだ。
低い吐息をついて、伯爵は軽々と宙を跳び、大鷹のかたわらに着地した。無造作に長槍を抜き取り、穂についた鷹の血をひと舐めする。
両眼が血のかがやきを帯びはじめる。
「生の食事は久しぶりだ」
舌舐めずりする唇からは、すでに二本の牙がのぞいている。
「さっきは鷹だけを狙った。色々、訊きたいことがあってな。おまえたち七人のうち、四人の技はわかった。もうひとりも想像がつく。おまえを含めてあと二人――どのような技を使う? それから、もうひとりの風貌は? 名は何という? その裂け目はわしが停めた。ひと踏みでおまえなど呑み込んでしまうぞ。地の底でノシイカになるのが嫌なら、とっとと白状せい」
「もうひとりに関しては、何も申し上げることはございません」
とキュリオは答えた。静かな声である。それが伯爵の怒りをかきたてた。
「ですが、私の術に関してなら、少々お目にかけてもよろしゅうございます。この亀裂を止めたのは、伯爵、あなたではございません」
「何ィ?」
闇の中で、端正ともいうべき貴族の顔が、怒りでどす黒く変わった。
小さな絨毯ほどもある足が地を叩いた。その耳に、
「およしなされ」
とキュリオの声が聞こえたのである。
亀裂は震え、わずかに広がったきり、そこで停止した。
両手を踏んばり、キュリオは死の淵から脱けた。奇妙なことに、伯爵は次の攻撃をかけなかった。
彼は眼を閉じ、顔をしかめて、頭痛持ちのような苦悶の表情をつくっていたが、キュリオが亀裂から脱出するのとほとんど同時に、後方へ跳躍したのである。
しかも、何を思ったか、長槍を地面に突き立て、両手で耳を押さえたのである。
「ほう、私の説教術を見破りましたか。さすがは貴族だ。ですが、それでは何もできませんな。達磨の状態で滅びていただきましょう」
キュリオは何をしたのか、ブロージュ伯はどうなってしまったのか。何ひとつ不明のままで、朱色の説教師は長衣の内側から重そうな山刀を取り出した。道なき道を行く旅人や巡礼僧にとっては、立ちふさがる森を切り拓き、獣を斃すための必需品である。
彼はそれをふりかぶると、
「御免」
と叫んで巨人めがけて投げた。それはものの見事に貴族の心臓を貫いたのである。
ブロージュ伯爵の顔が月光の下でみるみる青白く変わった。両眼から光が失われると同時に、皮膚は艶を消し、乾いた河底のように、おびただしいひび割れが生じた。それが剥がれ落ちるや、巨人の全身は大量の塵となって衣裳から吹きこぼれ、風のない大地にうず高く積み重なった。
衣裳が崩れ、月光の下にきらめく粉塵を撒き散らした。
「死亡確認」
とつぶやいて、キュリオは村の方へと眼をやった。こうなるとわかりきっていたような気負いのない態度であった。味気ないといってもいい。
これが大貴族ブロージュ伯を斃したものの行動だろうか。いや、そもそも、彼はどうやってブロージュ伯を斃したのか。
「もう追っても無駄でしょうな。敵のひとりを斃したことでよしとしますかな。後はDと公爵夫人――二人とはいえ、血も凍る敵だ」
見くびってはいないが、しかし、絶対の自信に揺るがぬ声であった。
彼は飄々たる足取りで大鷹の死骸に近づいた。いや、ブロージュ伯の長槍で貫かれた身体は、なおも胸を膨縮させている。
「これで足ができました」
キュリオは鷹の顔の前で身を屈めた。夜気に低いつぶやきが流れた。
たくましい羽搏きが地上から舞い上がったのは、二分ほど後であった。
大鷹だ。瀕死の大鷹がふたたび天を翔けはじめたのである。しかも、見よ、その背にしがみついているのはキュリオではないか。
翼の巻き起こした風に、地上の灰は渦を巻いて四散し、ようやくそれが収まったとき、月のみがまばゆい闇夜のどこにも、鷹の姿は見えなかった。
正午を知らせる鐘の音が遠くから聞こえてきた。
朱色の長衣を着た男が、ふと顔を上げて、床から二〇メートルほどの壁面に開いた巨大な亀裂に眼をやった。
細長い、蜘蛛のような手足を持った人影が亀裂の縁に立って、外を眺めている。
「来たか――スピイネ?」
と声をかけたのは、“説教師”キュリオであった。
スピイネの両手が頭上で×印をつくり、急に止まった。
「来た」
返事は天空から飛来した。
「さすがだな。不意討ち用に谷間の周囲に糸を巡らせておいたが、やはりDと呼ばれる男と、女とはいえ貴族だ。正面切ってやって来ましたぞ」
「そうであろう」
とキュリオは、哲学者みたいな、思索的な表情でうなずいた。
「そうでなくてはならぬ。そういう相手でなければ、この勝負、面白くはならんわ」
「では――自分はこれで」
「おお、行くがよい。見張り役、ご苦労――一センチでも遠く谷間から離れろ」
キュリオが言い終えると同時に、スピイネは外へと身を躍らせた。
彼は落ちなかった。身体は上昇し、みるみる亀裂を縦断して消えた。この男の実力を知る者が見れば、異常としか思えぬ性急さであり、臆病ぶりであった。
亀裂に眼をやったまま、キュリオは微笑を浮かべた。蔑みの笑みではない。口もとに漂うのは共感と理解だ。
「成層圏まで逃げたか。それでも恐怖は消えぬであろうな。かく言う私も、ご覧のとおり膝が震えておる」
微笑は苦笑に変わり、彼は右方の光る床に横たわるマシューとスーに眼をやってから、もとの位置へ顔を戻すと、作業の仕上げに取りかかった。
地上二〇メートルの壁面に生じた亀裂と言った。だが、その壁の亀裂はなおも伸び、ドームの高さは五〇〇メートルにも達するのだ。
周囲に巡らせた回廊は、小さなビルを二つ並べて乗せられるほどの広さを誇り、しかし、窓はひとつもない。
本来、この巨大なドームの内部は零下二七〇度にまで下げられ、それでいて、なお不敵に作動するメカニズムが常備されていたのである。
メカニズム――いま、キュリオが片手をあてがい、何やらつぶやいている物体がそれだ。
巨大な氷柱《つらら》にも似た外見には傷ひとつない。高さ一〇〇メートル、キュリオが立つ基礎部分の直径は三〇〇メートルにも及ぶ巨大なコンピュータ。かつて“シグマ”の名で呼ばれたそれは、貴族がついに造り出した“神”として、ここ、ガリオンの谷間に君臨していたのであった。
いまは防御機構も失われ、廃棄されてから数千年の埃が溜まって灰色を呈しているが、その偉容と機械ならぬ迫力は、いささかも減じていない。見上げるうちに貴族といえど鳥肌が立つといわれた迫力は、機械とはいえ、支配者だけが持つものだ。
そんな神聖とさえ呼べるメカニズムの前で、キュリオは何をしているのか?
彼はつぶやいているのではなかった。
耳を澄ませばわかる。
彼はささやいているのであった。
「眼を醒ましなされ。それが、あなたの使命でございます。この谷間にかけられた五千年の眠りの呪縛から、いま甦りなされ。それが、あなたの使命でございます」
エネルギーも尽きたのか、もはや動かぬメカニズムへ、キュリオの言葉は蜒蜿とつづく。諭すように、力強く、辛抱強く。
ああ、説教師の由来はこれ[#「これ」に傍点]か。夜明けからすでに七時間以上、彼は壮大な廃墟の一隅で、大コンピュータに復活を説いているのだ。飽きもせず、繰り返し繰り返し、眼醒めの必要性と正当さを。死んだ無機物[#「死んだ無機物」に傍点]に聞く耳が、理解力が備わっているかなど問題ではないという風に。汗にまみれた疲労の色濃い顔には、諦めも絶望もなかった。
「敵が来ます。あなたと我々とを破壊するために。この私ですらはじめて遭遇する恐ろしい敵です。あなたを救い、私たちをお救い下さるためにも、お眼醒め下さいませ」
ちょうど千回めの祈りを唱え終えようとしたとき、重々しい響きがドームを震わせた。
愕然とキュリオは身を離し、“シグマ”の頂きへ眼をやった。
「おお、ついに――これで谷間が甦る」
その顔を光が白く染め、床にその影を長く落とした。
“シグマ”の全身がかがやきはじめたのだ。
何処かで何かが動く気配。
反陽子炉だ。
防御機構だ。
宇宙線分析回路だ。
それから――それから――
数分後、キュリオは身を翻した。斃すべき敵のデータは、知る限りを吹き込んであった。人質兄妹の処置も済んだ。後は“シグマ”と、その支配を受ける谷間にまかせればよい。だが、その結果は?
スピイネは脱出し、自分も全力で逃亡に移っている。なぜなら――
いつの間にか彼は金属の道を走っていた。頭上には雲ひとつない晴天が広がっている。
左右に建ち並ぶ建造物はすべて、誕生のときと寸分変わらぬ姿を留めていた。それは、これらが貴族の生活とは無縁の証しだった。
工場その他の生産施設に対し、貴族たちはその科学の粋を集めて、永久化を施した。工場の骨組みは絶対金属であり、錆びも腐りもしないそれらが支えるおびただしい量の資材や部品には、ことごとく永劫《エターナル》コーティングが施され、その効果を最大限に発揮すべく腐食せざるを得ない部品には、それぞれ修理プラントが設けられた。
これに対して、貴族たちの夜を彩る庭園や家々、別荘、馬車等は平凡な自然の創造物――石や木や黄金から造られ、永劫の生命を持つ一族たちの、奇妙な性向と強迫観念めいた憧憬とを如実に示していた。滅びぬものは、滅びを望むのだろうか。
走るキュリオを、四方から押し寄せる光の奔流が白く染めた。
陽光さえ色褪せる光は、谷間の復活の証しだった。
靴底から地震のごとき唸りが伝わり、空気中のイオンが稲妻のように肌を刺す。――ひょっとして、自分はとんでもないことをしてしまったのではないか。
恐怖にも似た思いが胸をかすめた。
ガリオンの谷間――ここで何が行われたのかは、ヴァルキュア様も教えては下さらなんだ。あの方の考えは我らには到底理解できぬ。この星を破壊することとて、気まぐれでやりかねぬ御方だ。
あの方はただこう言われた。Dを斃すためにガリオンの谷を使え。“シグマ”に抹殺を命じろ、と。
突如、キュリオは足を止めた。
光る道の前方に、二つの影が現われたのである。
前からずっとそこに立っていたのか。いや、その先にある谷間の入口からやって来たのには違いないが、キュリオの眼には、世にも美しいその姿が、長い長い間、そこに立ちつづけていたように思われてならなかった。
彼は足を止め、恭《うやうや》しく一礼した。
「お初におめにかかります。七人のひとり、説教師キュリオと申します」
「Dだ」
その声と美貌に、五千年の歳月を越えて、死したメカを甦らせた男は恍惚とうち震えた。
2
「男のくせに、男を見てぽーっとしないでいただきたいわね」
と、かたわらの白いドレスの女が邪悪そのものの声で言った。
「私はミランダ公爵夫人。あなたが人間なら、それなりの礼儀をおわきまえなさいな」
「これは失礼を」
とキュリオは一礼した。
「おめにかかれて恐悦至極に存じます」
「よろしい」
夫人は満足げに微笑して、Dの左手に握られた青い蝋燭を見た。
陽光が小さな炎さえ白く溶かしているが、蝋涙は確実にしたたっている。ミランダ公爵夫人が陽光の下を歩く様を見ればわかる――“時だましの香”であった。
「二人は何処にいる?」
とDは訊いた。
この若者は、それ以上口を開くまい、とキュリオは確信した。後の台詞はすべて余計だ。そして、余計な言葉を口にするには、彼は美しすぎる。
「そちらこそ、もうおひとりはどうなされました? と問うのは愚か者ですな。ブロージュ伯爵は昨夜、私が斃させていただきました」
「あら、惨いことを。あの人はあれで優しいところもあったのよ」
とミランダ公爵夫人が、どことなく嬉しそうに言った。
「ひどいことをする方ね。そちらこそ、いますぐひとり減らしてさし上げるわ」
「ほう、それはありがたい。この嫌な浮世を、ようやく離れられますな」
言いながら、キュリオは背中が冷たく固まっていくのを感じた。
自分はなぜ、こんな話をしているのだろう。眼の前の若者との会話を終わらせたくないからか。私は彼の声をもう一度聞きたいのか。
それは愚かだ。愚かな真似だ。見よ。返事をしない者など不要だと、背筋を凍らす鬼気が告げている。
Dが前へ出た。
背骨が断たれるような幻痛を味わいつつ、キュリオは叫んだ。
「その先の中枢センターにいる。二人とも無事だ!」
Dが地を蹴った。
逃げようとして、その眼光にキュリオは凍りついた。
「やめなさい」
と諭すように言った。駄目だ、と思った。声に真実味がない。動揺がそれを許さないのだった。
斬られる!
食い込む鋼の痛覚を頭頂に意識したのは、Dが跳躍する前だ。
「ひい!」
と叫んだのは、奇妙なことに、安堵した瞬間だった。
死の一撃は打ち下ろされなかった。彼は眼を開け、頭上をふり仰いだ。
「夢か」
と、つぶやいた。
黒衣のハンターと白い女貴族は忽然と世界から消滅していた。
安堵のあまりよろめいたキュリオの脳裡に、一刀を手に馳せ寄る鬼気迫る美貌が浮かんだ。ああ、その美しさ。
一瞬、キュリオの胸の中を不可思議な感情がかすめた。それが、斬られたかったという欲望だとは、理解できなかった。
まこと夢だったのかも知れない。
暗黒の中をDは突進していた。
キュリオのことは、すでに頭になかった。ミランダも消えている。Dがキュリオの頭上に一刀をふり下ろした瞬間、彼女もまた、ある空間へ呑み込まれたのである。
突如出現した空間の穴《スペース・ホール》が、この谷間を統括するものの仕業だとは、とうに察していた。“時だましの香”はポケットに収めてある。
「わかっているだろうが、速度は光速に達しておる」
嗄れ声が言った。驚き呆れている風はない。よくある話なのだ。Dと声の主は、四次元的に歪曲された空間を、どこまでも移動中なのだ。
「光速を超えそうだ。となると、危《やば》いぞ」
と声はつづけた。
「別の異形空間につながるぞ。脱出じゃ。土はさっき食らっておいた。火は何とかなる。水はおまえにまかせるぞ」
Dが右手を前方に突き出した。一刀を左手に移す。
「しかし、風がなあ」
と嗄れ声は、悩む顔がくっきりと想像できるような声を上げた。
猛スピードで移動しているのはわかるのに、空気抵抗はゼロ――宇宙空間を落ちていくようなものだ。それなのに、窒息しないのである。
鮮血が迸った。Dが左手の一刀で右の手首を斬ったのだ。一刀を右手に戻し、溢れる鮮血をDは左手のひらに受けた。これが水か。一滴もこぼれない。
「よっしゃ」
嗄れ声と同時に、左手で傷を撫でる。後にうす赤い一線が残り、すぐに消えた。
「光速を超えるぞ」
嗄れ声は、横にのばした左手のひらから聞こえた。
「風はない。耐衝撃の準備をせい」
手のひらに小さな口が浮き上がった。その中に、ごおと青い炎が湧いた。
空間が歪んだ。小さな口が吸い込んだのである。左手首が消えた。同時に、凄まじい衝撃がDを包んだ。
――――
「よく、私の閉鎖空間を破れたな」
と渋い男の声が言った。
「だが、大分辛かったようだ。術にかかっているな」
Dは巨大なドームの中に立っていた。前方にそびえる塔から、声はした。
「私の名は“シグマ”――反陽子コンピュータだ」
「子供が二人いるはずだ」
とDは応じた。シグマも反陽子コンピュータも、この若者には何ほどの意味も持ってはいない。
「確かに。――ここだ」
Dの爪先から一メートルと離れていない床上に、黄金色の一線が生じるや、音もなく上昇して高さ三メートル横二メートルほどの空間が生まれた。厚みはない。真横から見れば存在しないのだ。
その中にマシューとスーがいた。
Dを確認したらしく、両手をのばして走り出す。確かに走っているとわかるのだが、いくら地面を蹴っても大きさは変わらない。Dと空間の距離は一メートル足らずだが、二人と空間との距離は無限なのだ。
「――Dよ」
と“シグマ”の声が呼びかけた。
「私を眼醒めさせた男は、おまえの剣からさっき救出した。その男が与えた指令はおまえの抹殺だ。だが、おかしなことに、別の力が別の指令を与えていたのだ。五千年前になんとたった[#「たった」に傍点]いま、その処置を講じろと」
「どんな処置だ?」
とDが訊いた。さすがに興味が湧いたのであろう。
「テストだ」
どんなテストだと訊くのが筋だったが、Dは、
「誰の指示だ?」
とつづけた。
「ヴァルキュア大公殿だ」
もしも、ブロージュ伯とミランダ公爵夫人がこの場にいたら、いや、ヴァルキュアの七人の誰かひとりでもいい。この返事を聞いて、驚愕したに違いない。
スーとマシューをガリオンの谷間へ連れて行き、“シグマ”を眼醒めさせるというのは、ヴァルキュア自身の指示だったからだ。
彼は五千年も前に、Dがここを訪れる運命を看破していたのか。すると、マシューとスーは、そのために連行されたのか。
誰が考えても、そんな手間をかける必要はない。刺客たちが会話していたように、ヴァルキュアの狙いは、二人に対する復讐であるからだ。
「ほう、ヴァルキュアが、おまえに興味を持っていたか。それも五千年も前からとは。――これは面白くなってきた」
嗄れ声のつぶやきには好奇が渦巻いていた。
「誰かと一緒か」
“シグマ”の耳は、つぶやきを逃さなかったらしい。
「何はともあれ、抹殺の指示よりも私は創造者の命令にまず従う。Dよ、“シグマ”のテストを受けろ。終わりまで二人は預かる。その後に連れて行け。但し、テストに通ればの話だが」
スーとマシューの幽閉空間は、出現時とは逆に上端から消却されて消えた。
「テストを開始する」
錆を含んだ“シグマ”の声が宣言した。
次の瞬間、Dは赤茶けた砂地が果てしなく広がる荒野のただ中に立っていた。
「幻実空間《ファントム・リアリティ・スペース》だの」
と左手のあたりで声がした。
「一瞬にして、おまえを移送するとは大した技術だ。貴族なら最高位の元老クラスにあたる」
声が終わらぬうちに、前方から鉄蹄の響きが伝わってきた。黒馬の騎士が片手に黒い長槍をふりかざしてやって来る。頭から爪先までをカバーする鎧も黒だ。
馬にも装甲を施してある。いかにDが扱うとはいえ、容易な戦いになるとは思えない。
二〇メートルほど先で、騎士が面《マスク》に手をかけて開いた。
「ほう」
嗄れ声の驚きに、今度は嘘はない。
マスクの下から現われたのは、マシューの顔ではないか。
「幻覚機構の仕業じゃ。騙されるな」
嗄れ声を合図と見たかのように、マシューの顔を持った騎士は黒馬の横腹をひと蹴りした。
砂塵を巻き上げつつ突進してくる敵を、Dは一刀を下げたまま見つめた。動く気配はない。
いつものDなら、造作もなく斃せる敵だろう。だが、救い出すべき少年の顔を持った相手に、どう相対するか。
虚ろなマシューの顔が突然、歪んだ。悲痛な表情が、鉄蹄の響きを圧して叫んだ。
「――D、助けてくれ!」
その右手で長槍が光った。
「手が、身体が勝手に動くんだ。止めてくれ」
その声に、もうひとつ重なった。さらに悲しげな叫びであった。
「――D、兄さんを殺さないで!」
スーの声だ。
「あれも幻じゃ」
三つの声をDはどう取ったか。飄然と立ち尽くす姿に、迎撃の風は微塵もない。
マシューが槍を引いた。声とは裏腹に全身に殺意が漲った。
「やめてくれ!」
マシューがのけぞった。
「やめて、D!」
スーが叫んだ。
「幻じゃ」
と嗄れ声がつぶやく次の刹那、地響きと砂塵がDを呑み込んだ。長槍が迸る。
耳を覆いたくなるようなスーの叫びが空中を流れた。
その空中にDもいた。
鉄蹄にかかる寸前、彼は長槍をかわして跳躍し、マシューの頭上を越えたのである。頭上を?――頭はなかった。疾走をつづける馬上になおも騎士はいる。その頭部は鮮やかに切断されて鮮血を噴いている。血潮の一部は朱の霧となって風にふぶいた。
音もなく着地したDの左方で鈍い音が鳴った。首が落ちたのであろう。
走り去る馬を見ようともせず、Dは宙を仰いだ。
頭上に羽音を聴いたのである。
小さな鳥の影が見えた。ぐんぐん近づいてくる。
ふた呼吸と置かず、それは片翼一〇メートルを越す大鷲と化した。
二〇メートルほどの高みで激しく翼をゆらして滞空しつつ、それは金属を思わせる嘴を開いた。
その中にスーの顔があった。
顔は涙と恐怖に濡れていた。
3
「兄さんを殺したのね」
スーの叫びに合わせて、空中に涙が飛び散った。ひと粒がDの肩に落ちた。
頭上の翼影を見上げる美貌には、表情というものがなかった。
「あれほど頼んだのに、兄さんを。あたしも殺して――殺してごらんなさいいいい」
声は逆流れに疾《はし》った。いったん上昇もせず、大鷲が急降下に移ったのだ。
「やめて! 殺さないで」
スーの顔が落ちてくる。D、動かず。大鷲の爪がぎりりと開いた。
白光が大気を薙いだ。骨を断たれる音がして、巨大な爪が足首ごと切断されて吹っとんだ。大鷲の左足だった。
だが、右足はDの肩を捉えて、凄まじい勢いで上昇を開始したのである。
力強く羽搏きを繰り返しながら、大鷲は首をねじ曲げてDの方を見た。
その口の中から、
「D――助けてちょうだい」
と、スーの泣き声が聞こえた。
「あ、あたし食べられてしまう。お願い。早く、早く――助けて」
涙でくしゃくしゃになった健気な顔へ、その刹那、剣が躍った。
喉もとから脳幹までをひと突きにされて、スーが即死するや、Dは刀を引き抜き、大鷲の右翼のつけ根へ一閃を送った。
大鷲が上げた声は、断末魔のそれであった。
すでに高度は一〇〇メートルを越している。
必死に飛行を維持しようと努めながら、ついに錐揉み状態に陥った。
「跳べ!」
と嗄れ声が喚いた。Dへの叫びである。
「跳ばんか。ぶつかるぞ」
しかし、反応なしと見て、
「つくづく厄介な宿主だわい」
呆れ果てたようにぼやきが出たとき、巨鳥は大地へ吸い込まれた。
Dは無言で眼前の“シグマ”を見つめていた。
いままでの体験がすべて、“シグマ”による幻覚であったのは明らかだ。何が起き、何をしたのかも、この若者は承知している。
「テストは終わったかの」
と嗄れ声がささやいた。
「一次のみは、な。――しかし」
コンピュータの声は絶句した。
「これが驚きという感情か。私の創造者に与えられてはいたが、実感するのははじめてだ。いまの二例に対するおまえの反応を、私は五千二十五種ずつ想定していた。見事に裏切られたものだ。げに恐るべき男よ――おまえは何者だ?」
「二人を戻せ」
とDは言った。
「テストは続行中だ」
と“シグマ”は言った。
「そして、テストの結果がどう出ようと、おまえが生き残っている限り、私は第二の指示どおり、抹殺にかかる」
世界は白く変わった。
吹きつける雪は、すでにDの膝までを埋め、それだけで触れるものを凍てつかせるような北風の怒号は、灰色に厚く塗り込められた魔天にどよもした。
空気を吸い込むたびに肺は凍りつき、すでに機能は停止状態に近い。それでも雪を貫く足どりの確かさ力強さは、ダンピールならではのものだ。
「そろそろ頂上じゃぞ」
と左手が声をかけた。
「奴が待っているはずじゃ。体力は残っておるだろうな」
答える代わりに、Dは足を止めた。
優美とさえいえる白い傾斜の頂きは、雪と風が渦を巻いて視覚を拒んでいたが、不意に影が滲んだのである。
Dの眼にも、それは黒々とそびえる巨大な壁のように見えた。
「来たか」
と、それは、天空から降下する偉大なものの声で言った。
「よく来た。だが、もはや戻れぬぞ、Dよ。わしを斃さぬ限りは」
天と地を白い光がつないだ。落雷はDの全身を包み、灼熱の電磁波で彩った。
白い光の奥で、左手が上がった。
光は陽炎のようにゆれなびき、撹乱し、かがやく霧のようにその手のひらに開いた口に吸い込まれた。
Dが地を蹴った。
巨大な存在に届くまで、一度雪を踏んだが、跡はつかなかった。
彼には影の急所がわかっているのだろうか。右八双からふり降ろした一刀は、確かに肉と肋骨《あばら》を断つ音を従えて、影に食い込んだ。
声もなく影と気配は消滅した。
影の向う側にあたる着地点は、跳躍線の延長上であった。
「手応えはあった」
と嗄れ声は言った。
「あ奴に一矢、いや、一刀を報いるとは、おまえ以外に――」
声は中断した。Dの見ているものに気づいたのである。五メートルほど前方に立つ雪よりもなお白いドレス姿に。
風にたなびく黒髪に雪片が白い宝石のように止まり、すぐに滲んで消えた。
聖夜のように澄んだ黒瞳が静かにDを映していた。
Dよ。
瞳に劣らず美しい声であった。
剣をお捨て。そして、いらっしゃい、私の腕《かいな》の中へ。私はただの一度も、おまえを抱いてやれなかった。
女は腕を広げ、不思議そうに上空を見上げた。
魔鳥のように舞い降りてきた若者は、何のためらいも見せず、女の頭頂から股間まで一気に斬り下げていた。
――――
「母も斬り捨てたか」
“シグマ”は、床上に立つ黒衣の若者へ、もはや人間そのものの感情をこめた声をかけた。それは“シグマ”自身、想像したこともない行為であった。
「おまえは何処から来て、何処へ行く? おまえは――何者だ?」
「二人を返せ」
とDが言った。
「テストはここまでだ。返さなければ、連れて行く」
ずい、と前へ出る若者の、何という迫力、何たる鬼気か。
“シグマ”の部品は、一斉に恐怖の情を生み出すべく、活動を開始した。
天井から細い光がDを貫いた。
Dの表情が苦痛に歪むや、その身体はどっと崩れ溶けてしまった。
「人体分解酵素――精神は私にもわからぬ深さと強さを持ち、しかし、肉体はそうはいかなかったな」
“シグマ”の電子的思考部位のどこかで、警報が鳴り響いた。
痛烈な“痛み”が“全身”を駆け巡った。“シグマ”の“眼”はその一カ所に吸い込まれ、刀身の半ばまで突き刺さった一刀を見た。
そこから四方に青い電磁波がのびている。
「私の――急所だ――やる――な」
床の上に、かつてDであった腐敗液の溜りが広がっていた。
それが立ち上がったのである。衣服をまとった何か、と見えたのも一瞬のことで、黒い瞳を“シグマ”に据えた仁王立ちの偉丈夫は、D以外ではありえない。
「Dよ――Dよ――Dよ――おまえ――おまえ――は――は――は――一体――何者――者――者――者だ――?――?――?――?」
“シグマ”の“視界”は急速に絞られ、暗黒にきらめく光の一点と化し、やがて完全に闇に閉ざされた。
――――
「父を斬り、母を殺して、私まで――」
“シグマ”は自らの声を遠く聞いた。それは、ひどく哀しげな、哀しみを知ったメカニズムの声に違いなかった。
「このようなものをも、人間は運命と呼ぶか。テストは終わった――Dよ、行くがよい。おまえの抹殺は、私がこれから生み出す刺客にまかせよう」
Dと“シグマ”の中間に、ふたたび黄金の室内が出現した。スーとマシューが、のめるようにそこから出現し、兄は何とか踏みとどまったが、スーはDの胸にぶつかって、ようやく停止した。そのままずるずると崩れていく身体をDは抱き止めた。張りつめていた気力の糸が、安堵のせいでばらばらに切れてしまったのである。
肩で息をしいしいこちらを見つめるマシューを数秒観察し、
「行くぞ」
とDは顎をしゃくった。そこから入ってきたわけではないのに、正確に戸口を指していた。
谷間の入口につながれたサイボーグ馬は三頭いた。マチューシャの村で買い取った馬である。Dは最初から二人を連れて戻るつもりだったのだ。
何とか意識を取り戻したスーを自分の後ろに乗せ、一頭余分になった馬を引いて歩き出す。
遠い岩山の上から、これを見ている三つの影があった。
「何たることだ。全員無事だとは」
驚きを隠さず、茫然と呻いたのは、説教師キュリオであった。
そのかたわらで、
「私の歌の効き目も失せてしまったらしいですわね。ですが、恥とは思いません。あの男、途方もなく強い。やむを得ませんわ」
魔性の歌姫カラス。だが、豆粒ほどの騎影を見つめる眼も、キュリオともうひとりの仲間をはっとふり向かせたその声も、恍惚と溶けていた。
この女、よもや――凄まじい二対の眼差しが、ようやく尋常なものに戻ったのは、うかされたような口調はそのままに、
「だからこそ、二度としくじりはしません。私の歌を、私を愚弄した恐るべき男――必ず、このカラスの歌声で息の根を止めて進ぜましょう」
と宣言したときであった。
「しかし、わからん。この私の説教が効かなかったのか。そんなはずはない」
「だれにでも間違いはありましてよ」
カラスがうす笑いを浮かべた。慰めるより言外の意味の方が強いのは明らかだ。
「それに、なぜ、ヴァルキュア大公殿は、あの子供二人を人質に取れなどとおっしゃったのでしょうか。大公殿の目的は、あの二人の抹殺なのではありませんか?」
それはすでに刺客たちの間でも議論し尽くされたことである。そして、解答は出ていない。
「とにかく、戻ろう。次策を練らねばならん。――スピイネ」
と三人目の名を呼んだ。反応はない。ふり向いたが、誰もいない。
「何処へ行った?」
ある考えが脳裡に浮かんだ。
「さて。私は――」
カラスも周囲を見廻したが、おざなりなのは一目瞭然である。刺客たちのうちで最も協調性に欠けるのが、この美女なのである。
キュリオは、哲学者みたいに端正な表情に、哀しみに似た色を宿らせた。
「――莫迦者が、まさか」
[#改ページ]
第三章 ラージンの武器番
1
「おい、スーよ」
とマシューに声をかけられ、Dの腰に手を廻し、背に額を押しつけていた少女は、はっと顔を上げた。兄の声に、いらだちと怒りを感じたのである。
「もう大丈夫だろ。空いてる馬に乗れや」
「そうね。――わかりました」
逡巡する間もなく、スーは、
「止めて」
と言った。Dの背中に当てた視線に、甘やかなものがこもっていた。
両手を馬の背に当て、身体を持ち上げたとき、
「待て」
とDが止めた。
「何だよ」
とマシューがすかさず唇を尖らせた。
「おまえも移れ」
とD。
「何ィ?」
マシューは顎を突き出して、
「あんたの馬へか? 三人も乗れるかよ」
「抱えて行く。――来い」
「バーカ。本当の狙いはスーなんじゃないのか?」
とんでもない発言に、スーは蒼白になった。
「兄さん――何てこと言うの!?」
「本当のことだ。おれは前から気になってたんだよ。スー、おまえ、こいつにほの字[#「ほの字」に傍点]だろう」
「兄さん!」
「いいか、おれは絶対に――」
マシューの怒りも言葉も、そこで途切れた。
黒い影が虚空から舞い降り、彼を押しのけて鞍《サドル》にまたがったのだ。
馬は走り出した。
「わわわ」
大慌てでDの腰に掴まっても、言葉は出なかった。
その背後に凄まじい閃光が噴き上がった。
「伏せろ!」
Dは叫んで、身を低くする。訳もわからず、マシューもそれに倣った。スーはDの左脇に抱えられている。
前方の岩を廻った瞬間、マシューの背を灼熱の波が叩いた。灼けた空気と溶けた岩が唸りをたてて飛んでいく。
「何処へ行くんだ!」
マシューが喚いたのは、明らかに崖っぷちへと疾走しているからだ。だが、ふり返れば、文句などつける余裕はなかったに違いない。
岩を廻った炎と衝撃波は、三人の背後に迫っていた。
ふたたび、灼熱がマシューの背を叩き、次の瞬間、首を、後頭部を灼いて消えた。
「わわわわわ――っ」
恐怖の叫びはあくまでも眼前の現実に対するものであった。
落ちていく。
崖っぷちから跳んだサイボーグ馬は、五〇メートルは下方を流れる水流めがけて石のように落下していくのだ。
恐怖のあまりマシューは眼を閉じ、そこで意識は途切れた。
背後のマシューを右手に抱え、Dは空中でサイボーグ馬から離れた。馬への負荷が大きすぎると判断したのである。
兄妹の身体を垂直にして足先から水中へ突入する寸前、猛烈な衝撃が三人を上方へ吊り上げた。
ある意味でマシューには幸いであった。
Dが右手を離すや、彼は一メートル足らずの位置から難なく水へ落ち、たちまち意識を取り戻したのである。
夢中で浮かび上がって虚空を仰いだ彼の見たものは、空を灼く炎と落下してくる岩塊であった。
必死で水中へ潜り込む。その背に煙を吐く岩の塊が命中した。
糸はDの胸からスーをも巻き込んでいた。それがいかに強靭で、操る者の力が凄まじいものであるかは、マシューを捨てて一刀を掴んだDの一撃でも切れず、また、二人を時速二〇〇キロもの速さで高々度へと引き上げていることでも明白だ。
すでに高度は二千メートルに達し、止まる気配はない。スーは失神していた。
「わしの出番かの」
左手の嗄れ声は、なぜか期待に震えていた。
「何十年ぶりかのキスシーンじゃ。こら、邪魔をするなよ」
Dは無言で虚空を見つめている。
高度三千メートル。
五千メートル。
七千メートル。
一万メートル。
一万五千。空は濃い紫色を呈していた。
人間の呼吸が不可能な高空に、Dはひとり浮かぶ蜘蛛に似た男を認めた。
「おれはスピイネだ」
と男は名乗った。声は届かない。Dの耳のみが捉え得る、かすかな音の動きであった。
「ようこそ、おれの戦場へ来た。こんないい男を始末するのは忍びねえが、浮世の義理だと勘弁しておくんな」
ちら、と左脇のスーを見て、蜘蛛男は眼を細めた。
Dの左手が少女の鼻口を覆っている。成層圏で人間の窒息を防ぐのは、機械の手を借りぬ限り不可能な技であった。
「おかしな真似をするな。その娘を苦しませれば動揺するだろうと思ったが、あてが外れたぜ。だが、おめえは随分と苦しいはずだ」
Dといえど、零下五〇度、酸素量ほとんどゼロの成層圏での戦いは、皆無に違いない。
「放っときゃ、いくらダンピールでも死ぬ。地上に戻せばまた生き返るだろうが、その前に心臓を串刺しにしてやるから安心しな。なあ、この糸が切れるかい? 切れやしめえ。こいつはあるお方から授かった大層な糸なんだ。切断できるのは、これもその方から頂戴したこの爪だけよ」
スピイネは顔の前に右手をかざして見せた。腕同様にバランスを崩すほどに長い爪の先も周縁も、鋭く研ぎ澄まされていた。
「おめえを吊った糸は、おれから出てる。だが、おれを吊るしてる糸の出所はわかるめえ。こいつはな、月からのびてるんだよ。おれは貴族がこしらえた“月宮殿《げっきゅうでん》”の実験室で生まれたのさ。もっとも、それがわかったのは、そのお方の使いが“月宮殿”の親衛隊のひとりにおれを召し抱えようと迎えにきたときで、おれはそれまで、お袋と貧民窟に暮らしていたんだよ。夢を見ているようだったぜ。おれは死ぬまでその豚小屋にも入れそうになかった宮殿の黄金造りの一室で、そのお方からおれの出自を告げられ、ヴァルキュア様の親衛隊に加わるよう命ぜられたんだ。出自ってわかるかい? このおれ、スピイネ様はなあ、精子の段階から超人となるよう手を加えられたエリート中のエリートだったのよ。餓鬼の頃から、生まれる子供で生き残れるのは百人にひとりといわれる月の貧民窟で、一対百の殺し合いにも負けたこたあなかったが、まさか、あのお方から貰った能力《ちから》のおかげとは考えもしなかったぜ。Dよ、そんな男を敵に廻したことを不運だったと思いな。しかし、キュリオ様の言うことも当てにならんな。あの谷間の反陽子コンピュータは、何をしてやがったんだ。まあ、おれの隕石攻撃からも逃げられた男だ。無理はねえと誉めておいてやろう。おや、瞼が垂れてきたようだな。いいとも、安らかに寝ちまいな。眼が醒めたら、その小娘ともども、この世とは別の場所にいるぜ」
スピイネは哄笑した。彼の自信を支えるのは操る糸であり、その糸の端は、三〇万キロ彼方の月の一地点に結ばれていた。
「そうだ」
スピイネは破顔した。何とも邪悪な笑みである。
「愉しい遊びを思いついたぜ。おめえとその小娘に向かって、これからナイフを投げる。その朦朧《もうろう》とした頭と身体で何とかかわしてみな。ま、おめえたちが死ぬまで、終わりのねえゲームだがよ」
その声が終わらぬうちに、スピイネは手首のスナップだけで、細長いナイフを投擲した。
スーへ向けた三本は打ちとばし、自分への三本も始末したが、四本目がDの胸に食い込んだ。
スピイネは狂喜した。“シグマ”ですら斃せず、キュリオさえ怯える敵を自分が斃したのだ。見えない糸の上で小躍りし、彼はすうとDの方へ降下していった。
半分まで下りた、と思ったとき、心臓が音を立てて縮まった。
紫色の空の中でも、翻った黒衣ははっきりと見えた。
まさか、この寒さの中で?
閃いた疑問が、スピイネの最後の意識だった。
糸を掴んで跳躍したDの鋼の刀身に、脳から股間まで切り下ろされて、彼は空中で大きく痙攣して、すぐおとなしくなった。
迸る血潮が湯気を放ってみるみる凍りつく。落下するその破片をかわしつつ、Dはさらに一刀をふるった。
あのお方以外は切れぬと断言したスピイネの月面糸は難なく切断され、三人は凄まじい勢いで地上へと落ちていった。
凍てついたコートも帽子も、たちまち空気摩擦によって熱を帯び、煙を吐いた。
「行くぞ」
スーとその鼻口を押さえた左手のひらの間から、愉しげに嗄れ声が洩れた。
「スピイネめ、ひとりでDに挑むとは大胆な愚か者だ」
罵るように吐いたのは、伝道師クールベだ。
「しかし、ここまで打撃を与えたあの大爆発は、間違いなくスピイネの隕石がもたらしたもの」
女の声である。みな、それに応ずるかのごとく、四方を見廻した。壁は崩れ、天井には大穴が空き、外れた梁が床に突き刺さっている。人間が住むどころか、いられるような場所ではないが、そこに集まった連中は無論、人間以外のものたちであった。
「いかにDといえど、あの直撃に耐え得るか。それに、スピイネが成層圏での戦いに持ち込めば、勝敗は八分と二分にまで広がりましょう」
艶やかな、侮蔑の笑いが異議を唱えた。そんな声さえ金鈴のようだ。歌姫カラスである。
「あの若武者が、スピイネのような醜い男に? 冗談も大概になさいませ。あれは千年、いや万年にひとりの男。天と地の間に生まれた奇跡の宝石でございます。スピイネの世界などで生命を落とす者ではございません」
カラスは部屋の一点を見てしゃべっていた。そこに人影はない。青銅の水差しがひとつ置いてあるきりだ。彼らがここを仮の作戦本部に選んだときから、その位置に置き去りにされていた錆だらけの水差しであった。そこから女の声がした。
「身中の虫とは、おまえのことだ。夜にかがやく月がスピイネを守っておる。今頃、Dは成層圏から地上へ、火の玉と化して燃え尽きておるわ」
カラスの眼が爛とかがやいた。
沈黙が空間を包んだ。天井の亀裂から、何やら鋭い音が聞こえたのである。風を切る音だ。
「出ろ!」
キュリオが叫んだ。
影たちが窓や壁の穴へと走る。
天空から落下してきたものが、廃屋の天井をぶち抜き、爆撃のように四散させたのは、その直後であった。
押し寄せる瓦礫と衝撃の波に、さしもの魔人たちも地に伏せ、宙に舞うことを余儀なくされた。
すべてが収まり、炎と黒煙を噴き上げる廃屋の跡に近づいた彼らが見たものは、大地に穿たれた窪みに横たわる黒焦げの遺体の一部であった。
かつて、ブロージュ伯爵はスピイネの術中にはまって成層圏からの落下に見舞われたものの、貴族の不死身は彼を救った。
だが、いま、一同の足下に転がる物体は――
「落とす方が落とされたのでは、洒落にならんな」
クールベが呻いた。声はつぶれていた。
「ひょっとして――相討ちということは?」
「成層圏はスピイネの王国だ。そこの王が敗れた以上――考えられぬことではないが――まず、それはあり得んと思え」
キュリオの言葉であった。
炎の音さえ失われたような静寂が落ち、やがて、
「しかし、あの方から授けられたスピイネの糸を――Dはなぜ切れた?」
とクールベがつぶやいた。
「あの男ならば」
恍惚と溶けたカラスの声である。それに怒るでも、異議を唱えるでもなく、いまや二人の朋輩を失った刺客たちは、陽光の下に黙然と佇んでいた。
2
その日の夕暮れ、マチューシャの村を出る一行を見送る者はなかった。
いざ出て行くとなれば、村長まで死亡した村のトラブルの原因が、すべて彼らにあると思い出したのである。石もて追われるとはいかないが、手綱を取るDとマシューに送られる別れの言葉は冷厳な拒否であり、再会の握手は、家々の戸口や窓のカーテンの隙間から送られる無表情な眼差しであった。
「なんだよ、これは?」
と手綱を取ったマシューが御者台でぼやいた。
「そっちが来てくれというから、助けにいってやったんだぞ。用が済めばポイ、か」
「そのとおりだ」
馬車のかたわらで、サイボーグ馬にまたがったDが言った。
「おまえと同行するのは、ダンピールと二人の貴族だ。これから先は、ますますきつくなるばかりだ」
マシューはけっと吐き捨ててそっぽを向いた。もともと、こらえ性のない性格は、母とスーの悩みの種だったのだ。逃げずに農場をやって来れたのが、不思議といえば不思議なのである。
「やめて、兄さん。Dさんの言うとおりよ」
幌の中から出て来たスーが、たしなめるようにその肩に手を置いた。幌の内側《なか》でやりとりを聞いていたとみえる。
沈黙した兄の肩に頬を当て、ちらりと後ろへ眼をやって、
「でも――寂しいわね」
と言った。
見送りのない旅立ちのことを言っているのか、それともかたわらの自走車か。その主たるブロージュ伯が斃されたことは、Dから聞いている。ミランダ公爵夫人も行方知れずだが、こちらも無事では済むまい。
「寂しいか、ふむ」
と手綱を掴んだDの左手が面白そうに言った。
「ブロージュめが聞いたら、血の涙を流して喜ぶじゃろうな。貴族がいなくて寂しいなどという人間は、千万にひとりもおらん」
車輪をきしませながら、馬車と自走車は走り出した。後には轍の跡が残った。
村外れから二〇メートルばかり進んだとき、幾つかの小さな叱咤と足音が追ってきた。
Dがふり向き、きょとんとしている御者台のマシューとスーに、見てみろと顎をしゃくった。
二人は席から横へ身を乗り出して後ろを見た。
十人近い子供たちが、防御柵の前で手をふり廻している。
「さようならあ」
「ハンターのお兄さあん」
「元気でねえ」
「おいらもハンターになるぜ」
「さよならあ」
声を限りに叫ぶ子供たちの眼に光るものがあった。戻ってくる者との束の間の別れではない。二度と会うことはないと、彼らは知っているのだった。
スーはDの方を見て言った。
「あなたによ、D」
美しい若者は前だけを見つめていた。
決してふり向くことはないと、スーにはわかっていた。
馬車と自走車がつながって街道の向うに漂い出した闇に消えると、子供たちはひとり去り二人去り、最後に、いちばん小さな影が残った。Dに励まされたあの少年であった。
青い闇がさらに濃く塗りつぶされても、少年は街道の向うに眼を注ぎつづけていた。あの美しい若者が戻ってくるような気がしたのかも知れない。
少しして少年の母が現われ、連れ戻そうとすると、少年は泣いて抗《あらが》った。母は細い手首を掴んで引きずろうとした。固く鋭い痛みが走り、母は手を離した。足下から拾い上げた細長い木の枝を、少年は両手で構えていた。それは黒衣の若者に教わった構えと持ち方であった。
母親は舌打ちして、今夜のご飯は食べさせないよ、と言った。少年は舌を出した。何て子だろうと罵りながら母親が去ると、少年はその構えのまま街道をふり返った。誰もいなかった。少年は、精一杯の声をふり絞って棒を突いた。三度それを繰り返してから、呼吸を整え、少年はまた闇に閉ざされた街道へ眼差しを注ぎつづけた。
休まず馬車を走らせ、一行は夜明け近くにラージンの村境へ到着した。
少し前から鼻をひくつかせていたマシューが、じき防御柵の見えてくるあたりで、ついに我慢できなくなったらしく、
「何だい、この匂いは」
と激しく咳き込んだ。
スーは彼の指示どおり、幌の内側で難を逃れている。
「ラージン油《オイル》だ」
とDが言った。
「何だ、そりゃ?」
身体を派手にゆらしながら、マシューはDをにらんだ。
「この村で製造される兵器すべてに使用される良質の油だ。じきに慣れる」
「勘弁してくれ。腸《はらわた》がでんぐり返ってるよ」
「ここにいろ」
とDが言った。
「え?」
「何かあったら声を出せ。聞こえる」
「ど、どこ行くんだよ?」
「油に血が混じっている」
「え?」
馬の横腹を蹴って疾走に移ったDを、マシューはぼんやりと見送った。村まではまだ五、六〇〇メートルあると地図に出ている。風もある。そんな条件の中でDは血臭を嗅ぎ分けたのであった。
「スー、怖くなったぜ。ダンピールてのは、やっぱ、貴族と同じ化物だ」
門《ゲート》前の広場で、Dは馬を止めた。
暁光の下に村は眠っているように見えた。
だが、監視塔に人の姿がないということは、異常以外の何ものでもなかった。
「凄まじい血の匂いだの。十人や二十人と違うぞ」
嗄れ声は、しかし愉しそうであった。
Dが馬を進めた。そのとき、閉ざされていた門がゆっくりと内側へ開いていった。凄まじい血臭が空気分子を汚していく。
出現したのは、身長二メートルほどの、装甲をまとった人型であった。
兜甲《かぶと》のようなヘルメットに顔面のスチール・マスク、手も足も打ち抜きの鉄板で覆われ、関節部は歩くたびに、鉄と鉄とのすれ合う音を立てた。あちこちに熔接の痕が仄見える。
ひとめで戦闘服と知れた。ラージン村の一武器製造者が発見した重量吸収の技術によって、一トン近い鉄の塊を人間が内側から自在に操ることが可能になったのである。右腕には自動装填式火薬銃、左腕には六十ミリ榴弾発射筒が装着されていた。
門から出ていったん足を止め、それはDを認めると、二秒ほど間を置いて、がしゃがしゃと広場に出てきた。
胸部装甲を中心に跳び散った朱色のはねを、冷たい陽光が生々しく照らし出した。
Dとの距離は約七メートル。
戦闘服の右手が上がった。火薬銃の銃口がDの顔面をポイントする。
黒い突風が横へ跳び、サイボーグ馬の頭部が血の霧と化した。弾丸は空気を裂いて虚空に消えた。
戦闘服の腰から上が右へ回転した。
黒い突風が、Dめがけて走る。
つづけざまに火を噴いた。
飛来する火線を、Dはそのコースを予測済みのように身を翻してかわした。モーターで移動する上半身より遥かに速く、敏捷な動きであった。
戦闘服がDと向き合ったとき、斜めに走った刀身は、五ミリの鉄板を、その肩から胸にかけて厚紙のように切り裂いていた。
服の動きが止まった。――と見えた刹那、それ[#「それ」に傍点]は右手をぎくしゃくと動かして、顔面のマスクに当てた。上に開くと、内側に人間の顔がのぞいていた。面長の若い男であった。
虚ろな眼にも涎《よだれ》で汚れた口もとにも、苦痛の翳はない。Dの刀身はその身体に食い込んだはずであった。
「狂っておるな」
とDの左手が言ったとき、戦闘服の左手も動いた。
榴弾筒が眼前のDを向く。
狂人の顔が短く笑った。
その胸もとを背後から真紅の光条が貫いた。Dが跳ぶ。灼熱のレーザー・ビームは服の内蔵弾薬を貫通していた。
装甲のサイズからは信じられない大きさの火球が、毒々しい油煙をまといつかせつつ膨れ上がった。
破片と爆発音が後を追う。
静寂が戻ったとき、地面から立ち上がったDのコートの背は、数条の白煙を立ち昇らせていた。灼けた鉄片と炎のひと舐めを受けたのである。
Dが上体をひねると、コートはうねり、煙は消滅した。
Dの眼は防御柵の上端に立つ人影を映していた。
短髪の下の浅黒い顔は、黒いアイパッチで左眼を覆っていた。今どき珍しい、対貴族戦に従事するゲリラのまとう茶の軍服を着けている。
「無事か?」
男が声をかけてきた。
「悪いことは言わん。ここに寄らずに立ち去れ。ラージンの村はもう死滅した」
Dは答えず、門の方へ向かった。
くぐるとすぐ、路上に倒れた人影が見えた。ひとりではない。どの人影も、その下から赤いものを滲み出させていた。
「来ちまったのかい、物好きな」
柵の後ろに設けられた監視台から、隻眼の男がDを見下ろしていた。
「何があった?」
Dが訊くと同時に男は跳び下りて、すぐ横に着地した。足音も立てぬ羽毛のような着地ぶりは、平凡な農夫のものではなかった。
「よくわからねえ。おれもしばらく『都』へ行って、三時間ばかり前に戻ってきたところだ。まだ霧がひどくて、村の中はよくわからなかった――」
監視塔に人がいないのを不審に思った男は、びくともしない門を無視して、柵を乗り越えた。
霧が赤く染まっているのかと思った。それほどの血臭だったのである。
「大規模な殺しがあったのはすぐにわかった。臭いの生々しさからして、一時間以内にな」
こう言ってから、男はDの方を向き、
「おれはグリード――この村に雇われてる戦闘士だ」
と名乗った。
3
Dはマシューたちのもとへ戻って、すぐに発つ、と告げた。
「待ってくれ。夜中に走りづめで、もうくたくただ」
とマシューが異議を唱えた。
「おれはともかく、スーは保たない。休ませろ」
「危険がある。――村は全滅だ」
マシューは眼を剥いた。
「んな莫迦《ばか》な。おれも、あの村の噂は聞いたことがある。辺境でも一、二を争う武装化村だぞ。強盗団だって襲わないところだ。そう簡単に――」
「確かめた」
マシューは沈黙した。
「行くぞ」
と馬首を巡らせたDへ、
「だめだ、スーを休ませなきゃあ」
マシューの金切り声が追った。御者台に仁王立ちになった若者は、何かに憑かれたかのように、全身を痙攣させていた。血の気を失くした唇から、言葉が乱れ飛んだ。
「あの娘は、生まれつき身体が弱い。ここまで来れたのだって奇跡に近いんだ。おれはスーを守る責任がある。ここで休憩だ」
狂乱といってもいい兄の様子を静かに見つめながら、
「いま出れば、夕方までには“宿場”に着く」
とDは言った。
“宿場”とは、村と村との間の距離が長く、必然的に一夜の野宿が強制される場合、妖物や野盗の攻撃から旅人を守るため、辺境管理部が設置した宿泊施設のことである。水や食料や明かりはもちろん、武器も装備され、管理人がいる宿場も多い。
「スーは保たねえよ」
マシューは御者台の上で地団駄を踏んだ。
「ちと、おかしいな、こ奴」
左手が小さく罵った。
「兄さん、やめて」
幌の中から、か細い声と身体が現われた。ほっそりとした顔は、確かに面《おも》やつれしていたが、マシューの反応がふさわしい重病人とも思えない。
「Dさんの言うとおりよ。あたしは平気です。このまま進みましょう」
「けどよお」
まだ言いつのる兄の背中に、スーはもたれかかった。
「お願い、マシュー」
「わかったよ」
マシューは妹の手の甲をそっと叩いてうなずいた。
遠くで地鳴りのような音がしたのは、そのときだ。
少し遅れて、衝撃が大地を伝わってきた。それは長くつづいた。
「街道の方じゃな」
嗄れ声を聞く前に、
「動くな」
と言い残して、Dは走り出した。
村から三〇〇メートルばかり離れた土地を走る街道は、ちょうど村からの道と交差する地点で、岩塊に埋もれていた。左手の崖を何者かが破壊したのである。
三メートルにも達する巨岩の堆積を、ゲリラの衣裳をまとった影が、顎をかきかき見上げていた。
そのかたわらで馬を止め、Dは開口一番、
「おまえか?」
と訊いた。
「あー?」
グリードは岩塊の山を指さし、それから自分をさして、しかつめらしくかぶりをふった。
「村の連中を皆殺しにした化物さ。姿が見えないんで、ひょっとしたらと思ってたら、これではっきりした。“武器番”の仕業さ」
「“武器番”?」
嗄れ声の問いである。グリードの耳には届かない。
「この村の生命線は、手ずから造り出す武器だ。買い手は辺境中からやって来る。傷つけちゃいけねえのなら、一カ所にまとめて保管するわな。その管理に当たるのが“武器番”さ」
不敵といってもいいグリードの精悍な表情に、白ちゃけたものが混じった。
「村ん中は、村人だけでなく、武器庫も工場もばらばらにされてた。てっきり“武器番”もと思ったが、考えてみりゃ、あんなことができるのは“武器番”しかいねえ。その辺に隠れてな」
「おまえはどうする?」
「帳尻合わせさ」
とグリードは、手にしたレーザー・ガンで肩を叩いた。
「人殺しは吊るさなきゃならねえ。その前に、なんでこんなことをしでかしたかしゃべらせてからな。おれは戦闘士だ」
「雇い主はもういない」
「仕事を受けちまったもんでな」
「“武器番”の装備は?」
「あれは、どこの村でも極秘条項だ。当人と村長しか知らねえ。おれが耳にした噂によると、六〇ミリ粒子砲と誘導ペンシル・ミサイル二百発、火炎放射器二基、短針銃《ニードル・ガン》一基ってとこだが、何か、貴族相手の秘密兵器を装備してるらしいぜ」
「強敵だな」
「全くだ」
グリードは頭を掻いた。
「だから、のこのこと出てくんなよ。街道をふさいだ以上、奴はあんた方も殺す気だ。すぐ現われねえのは、おれと射ち合って火傷したからよ。おれが殺られたら、あんた方、何とか逃げ出しな」
「一緒に来い」
こう言ってDは鞍の後を示した。
グリードともども兄妹のところへ戻ると、Dは事情を告げて、村へ入ると言った。ただし、スーはいいというまで幌の内側にいろ、と。
スーは何故とも訊かずにうなずいた。
マシューは疑惑の表情を崩さず、グリードを指さして、
「彼は信用できるのか?」
と訊いた。
「いいや」
とグリードは答えて、
「後は勝手にやりな。おれは仕事にかかる。――いい雇い主だな、Dよ」
こう言って歩き去った。自分を見るマシューの眼つきが気に入らなかったのは明らかだ。
門をくぐるや、マシューは茫然と死体の横たわる光景を眺めた。
「なんてこった。誰がこんなことを?」
「“武器番”だそうだ」
「ラージンの村の“武器番”がか?」
マシューには知識があるらしい。
「そんなことが。――だったら大変だ。D、すぐに出よう」
「街道はふさがれた。爆発物はあるか?」
「潅漑用の水路をつくる爆薬があるよ。いま――出す」
幌の中に潜り込むと、黄色い円筒を両手に抱えて現われた。きっかり一ダースあった。
「大して威力はない。その――岩を吹っとばすのは無理だよ」
「宿を捜す」
こう言って、Dは馬を進ませた。
「待ってくれ。見つかったらどうする? どっかに隠れた方がいい」
「もう見つかっている。“武器番”には高性能の透過レーダーも備わっているらしい」
「じゃ、どうすりゃいい?」
「いちばんいい塒《ねぐら》を捜すことだ」
マシューはぐうの音も出なかった。
「いま、“武器番”はグリードにやられた傷を修理中だが、いつかはやって来る。それまで休んでおけ」
マシューは額の汗を拭いて、
「いい塒なんて、どこ捜しゃいいんだよ、こんな血だらけの村で?」
そのとき、幌の内側からスーが顔を出した。
周囲の光景を見たとたん、真っ青になって眼を閉じる。
「入ってろ!」
とマシューが叫んだ。
「いいの、大丈夫よ。こんなことにも慣れなくっちゃね。――ねえ、Dさん、いい宿があるわ」
真正面からDを見つめる妹の眼の光に、マシューの表情はひどくこわばっていった。
三人が馬と馬車とを乗り入れたのは、村民センターの前であった。
破壊されてもおらず死体もない。ホテルを兼ねるここなら、柔らかいベッドと新鮮な食料が常備されているはずだ。
駐車場に馬車と自走車とを入れると、すぐにDが現われ、もと来た方角へ走り去った。
広い部屋の窓からその後ろ姿を見送り、
「大丈夫かしら?」
とスーが不安そうに訊いた。
「仕様がねえだろ。おまえが提案した塒だ。誰もいなくなっちまったけど、住み心地はよさそうだ」
と周囲を眺め廻していたマシューが答えたが、
「違うわ」
おとなしい妹には奇跡的な怒りの言葉を耳にして、はっとその方を見つめた。
「おまえ――」
マシューの顔はみるみる凄まじい表情をこしらえた。
「やっぱり、あいつが気になるんだな。あのダンピールの――化物が」
「やめて! あの人は私たちを守ってくれているのよ。いい加減にして!」
「いい加減にするのは、おまえの方だ!」
マシューは妹の手首を掴むと、ふり廻すようにして自分の方を向かせた。
「何するの、兄さん!?」
怯え切ったスーの鼻先に指を突きつけ、
「いいか、兄として言う。二度とあのダンピール野郎と親しくしちゃいかん。雇い人とは距離を置け」
「嫌です!」
マシューは逆上した。いままで自分に反抗などしたことのない妹であった。自分も理不尽な兄貴風など吹かしたことはない。二人を知る人すべてが、あんなに仲のいい兄妹がいるとは信じられないと、ため息混じりに口にする二人だった。
世にも美しい若者がその仲を裂いた。それを殴り消すかのように、マシューは手をふった。
頬を激しく鳴らして、スーは倒れた。マシューは拳をふるったのだ。
「スー、ごめん! 大丈夫か!?」
肩に触れた手は、激しく跳ねとばされた。
「スー!?」
「触らないで! 嫌い!」
突如、マシューは孤独を感じた。この世でひとりきりになったと思った。何もかも彼に背を向け、遠ざかっていく。父も母も、それからスーまでも。
「スー」
足下の妹をふり向いた顔は、もはや正常な彼のものではなかった。
両手を前に出し、彼はゆっくりと妹の方に身を屈めていった。
その眼の隅に何かが映った。
窓は駐車場の外――村の中央を向いている。といっても、広がるのは何も植えていない荒涼たる麦畑と、それを縦横に走る畦道である。
奇妙な物体は、その畦道の一本に立っていた。
簡単に表現すれば、直径二メートルほどの黒い球体に乗った美少女だ。長い金髪を頭の後ろでまとめ、農村に珍しい白い肌と都会的な美貌は、さぞや村の若者たちの胸をときめかせたことだろう。
白い首を覆う黄色いハイネックのシャツが、その豊かなボディ・ラインを露わにしている。
そして――
球体の中心部を横断するパイロンにセットされた武器は――大口径のビーム砲、火炎放射器、ミニ・ミサイルランチャー・ボックス、ニードル・ガン及びその弾薬――およそ統括者には似つかわしくない剣呑《けんのん》な物ばかりだ。
マシューは瞬時に悟った。
こいつだ。これが“武器番”だ。
球体の美少女の眼には、生気というものが欠落していた。どう見ても十六、七歳としか思えぬ美貌をひと目見れば、誰もが狂気に蝕まれていると知る。
歯車の噛み合う音を立てて、粒子ビーム砲が村民センターを捉えた。
「やめろ!」
マシューが夢中でスーの上に折り重なったとき、青空の下を真紅の奔流が迸って村民センターの中央壁面に命中し、灼熱の領土を広げるべく、強化プラスティックやコンクリを食らい尽くしていった。
つながれたサイボーグ馬が狂乱し、手綱を切って馬車ごと逃走に移る。
ビーム砲はそれも狙った。
少女のこめかみに、突如、白いすじが生えたのはそのときだ。
白い木の針であった。三〇センチを越すそれは、少女の右のこめかみから左耳の下まできれいに打ち抜いていた。
少女は横を向いた。
一〇メートルほど右の畦道の上に、黒馬にまたがった人型の闇がいた。
蒼穹の下に生じた闇の、何と美しいことか。
「アナタ……ハ……?」
と串刺しにされた少女が、恍惚とつぶやいた。
村ひとつを破壊してのけた美しい“武器番”とDとを、凄惨な殺気がつないだ。
[#改ページ]
第四章 敵と味方と
1
「答えられるか?」
とDは訊いた。
いつもと変わらぬ低い声が、一〇メートルも離れた相手の耳にも、はっきりと聞こえたのである。
美少女の狂気の顔に、一瞬、陶然とした表情が流れた。
それも束の間――球体は動いたとも見えずに回転し、少女はDと対峙した。
Dが自分をおびき出すために村民センターへ入ったのだと、気づいたかどうか。全くの無表情のまま、少女はビーム砲を放った。
灼熱の奔流が、砲口に陽炎を作り出した刹那、Dは馬を全力疾走に移した。のみならず――蒸気を噴き上げつつ溶解する畦道から忽然とDが消滅したのを、“武器番”は不思議と思わなかった。狂った脳ではなく、それは精神による直感だったのである。
――あれくらい美しい男《ひと》がこの世に存在するはずがない。
馬から離れて舞い降りたDの一刀を弾き返したのは、彼女の生存本能の力であった。
刀身と同じ速度、同じ方角へと跳躍したDは、毫《ごう》もバランスを崩さず着地してのけた。
「電子障壁だの」
と嗄れ声が指摘した。
「さっきの針は不意討ちだが、今度はおまえを見ている。生存本能がスイッチを入れさせたのよ」
音もなく球体が後じさった。その背後に見える光景が歪んでいる。力場移動に違いない。
不意にDは全身に凄まじい負荷を感じた。
「いかん、標的固定用の力場だぞ――脱出せい!」
嗄れ声の終わらぬうちに、球体の背後から白煙が噴出した。その長い尾を曳きつつ、細長い物体が陽光を跳ね返しながら急上昇に移る。後端からまばゆい炎を噴いて、ペンシル・ミサイルはつづけざまにセンサーの導く力場へと吸い込まれた。
いや、たくましい腕が広げた手のひらの中へ。そこに開いた小さな口に。
三十発のミサイルはことごとく呑み込まれ、最後の一発を吸い込んだ刹那、口から猛烈な炎と黒煙とが一〇メートルものびたのである。
表面に小さな肉顔が生じ、目一杯苦しげに、
「大層なお食事じゃ」
と呻いた。
声は後方へ流れた。Dが一気に“武器番”との距離を詰めたのである。
斜めに切り下ろす必殺の斬撃――球体の表面に鮮やかな火花がとんだ。まさしく間一髪でかわしたのである。そのまま停止せず、村の中心部へと後退していく。
Dはなお追おうとした。
一歩踏み出そうとして、彼は立ち止まった。
前方の光景が歪んだのである。力場が発生している。接触した刹那、鋼鉄の軍艦でも分子に還元されてしまうブラック・ホールにも似た力の場であった。その内部には虚無さえ存在しないはずだ。敵の置き土産であった。
「おまえの針を食らっても平気か。――サイボーグか強化人間だの」
Dが刀身を収める音を聞きながら、左手がつぶやいた。
「しかし、あの兄妹――気の毒に」
Dは村民センターの方を向いた。崩壊した建物のあちこちから炎が上がりはじめていた。スーもマシューも見えない。Dははなはだ危険な運命に二人を陥れ、しかも、失敗したことになる。
小さく口笛を吹いて、Dはサイボーグ馬を呼んだ。
馬にまたがったとき、右の頬の横を真紅の光条がかすめた。
Dはふり向いた。
この若者は機械の殺気[#「機械の殺気」に傍点]すら感じる。不意討ちが効果ゼロに終わるのは、そのためだ。それが、かわさなかった。
西へとのびる畦道の果てからジープが近づいてきた。
ジープは巧みに畦道を進んで、Dのかたわらで停まった。馬車と自走車は村民センターの駐車場に残してある。
ハンドルを握っていたグリードが、炎を上げる村民センターと、なおも水蒸気に包まれている麦畑を見てから、Dへ視線を戻し、
「“武器番”と闘《や》ったな」
と言った。頭のてっぺんから爪先までDを見つめるその眼に、みるみる驚嘆の色が湧き上がってきた。
「それなのに、傷ひとつついてねえとは、あんた化物か、ん?」
グリードは隻眼を剥き出して、Dの腰のあたりに眼を注いだ。低い、嗄れた笑い声を聞いたような気がしたのである。
しかし、すぐに向き直って、にやりと笑い、
「あんた、やっぱり隠れてろ。化物に二匹もうろつかれてちゃ、落ち着かねえ」
と言った。あくまでも、ひとりで戦うつもりらしい。
崩壊したセンターへ眼をやったとき、沈痛な表情を浮かべて、
「まさか――あン中かい?」
Dはうなずいた。
「うわ」
と自分の肩をすくめて、グリードはDの肩を叩いた。
「いい子たちだったよな」
と言ってから、
「あの女、何処へ行った?」
「村の中心だ」
「ありがとよ。気ィ落とすな。――引っ込んでろよ」
ジープに乗ると、エンジンをふかしてから、片手を上げて挨拶した。人懐っこい笑顔だった。
ジープは畦道を走り去った。
少し見送ってから、Dはサイボーグ馬にまたがって、馬車と自走車の方へ近づいていった。
グリードには、わからないことが多すぎた。村人全員虐殺の原因も過程もわからない。
村に戻ったら、全員、朱《あけ》に染まっていた。ほとんどの村人が家の中で死亡し、異変に気づいて逃げ出した連中も、跳び出した道の上で殺害されている。
“武器番”ならやれる――瞬時に閃いた。だが、どうして?
発狂した、とわかったのは、村の中を捜索中、他の戦闘士たちに攻撃されたときである。
何とか撃退できたのは、火薬銃を主とする彼らの装備に対し、グリードの武器が遥かに強力且つ精確なレーザー・ライフルだったのと、接近に際して、彼らが一切、沈黙への配慮を欠いていたためである。
しかし、ならば狂気はどこから来た?
稀に発狂性のヴィールスが人体に侵入する場合はある。だが、“戦闘士”と“武器番”だけ、となると、そこには人為的なものが介在することは否めない。Dにもこれは話してある。
――そいつらの正体がわかったら、八つ裂きにしてくれる。
グリードの胸に村長と娘のヴィーネの顔が浮かんだ。
流れ者の彼が村を訪れて仕事を求めたとき、村人たちの蔑みと嘲笑を叱咤して、農家の下働きの職を与えてくれたのは村長であった。丸一年、食事だけで重労働をこなした彼を、村長は“戦闘士”に抜擢した。
「この恩は忘れません」――自らのこの言葉を、グリードは忘れていなかった。
重労働の日々から逃げ出したくなかったといえば嘘になる。疲弊しきった肉体が、そんな考えを脳に伝えたとき、不思議と現われたのがヴィーネだった。
白く細い手は、そのたびに、弁当のボックスを抱えていた。
「父さんから」
と、ひとこと言ってボックスを手渡し、少女はすぐに背を向けたが、ほんの一瞬、眼と眼が合ったとき、顔をそむけようとはしなかった。ふっくらとした桜色の頬と自分を映す大きな瞳を、グリードはよく覚えていた。
世の中捨てたもんじゃねえ、と思った。もう少し我慢してみるか。
血と死体に彩られた村で、彼は真っ先に村長宅を訪れた。村長は玄関の前で、ヴィーネは寝室前の廊下で倒れていた。村長は心臓を射ち抜かれていたが、ヴィーネは顔の半分が消失していた。破損部は黒く焦げていた。ビーム砲の猛射を浴びたのだ。
残った半顔《はんがん》の表情の不思議に穏やかなことが、グリードを狂気から救った。
少なくとも、冷静に戦う気になったのだ。敵はことごとく斃され、彼は生き残った。
“武器番”のことはよくわかっている。正直、戦いたくはなかった。その心理に激しい復讐の炎を吹きつけるのは、村長とヴィーネの死の姿であった。
――必ず、殺す。
ジープのハンドルを操る手は怒りに震え、隻眼は死のかがやきを放つ。
村の中央部を廻ったが、“武器番”の姿はなかった。
Dに与えられた手傷を治療中に違いない。
ひょっとしたら、外へ?
グリードは門へと車《ノーズ》を向けた。二分とかけずに着いた。
「ん?」
門の前に、眼にも鮮やかな朱色の人影が立っていた。
「何だ?」
とつぶやく前に、身体は無意識にライフルを構えている。
五メートルほど手前でジープを止めて、
「誰だ、あんたは?」
と声をかけた。
長衣姿は前へ出ようとした。
「動くな。――そこでしゃべりな」
「ありがたい」
と長衣の人物は言った。低いのに、よく通る声だった。
「水の通路を辿って先廻りするのに、ひどく疲れました。私はキュリオと申します」
「つかぬことを訊くが――村をこんな目に遇わせたのは、あんたか?」
「――おっしゃるとおりです。およしなさい」
最初のひとことを聞き終えた刹那、グリードは引き金を引くつもりだった。現に引いた。指は動かなかった。
「お互い、行動には慎みが肝心です。ゆっくりと話し合いましょう」
“武器番”は、彼女と村長しか知らぬ秘密の場所に身を潜めていた。
村の北の外れに武器の保管倉庫がある。その地下の岩盤内に製造工場が丸々収まるほどの自然の空洞が存在するのだった。
すでに移動体からは下りて、“武器番”は粗末なスチール製のベッドに身を横たえていた。周囲には武器弾薬がロッカーやラックを埋めている。あちこちに工作機械も見える。地上の倉庫はいわばカモフラージュであり、地下のこここそが真の保管庫であり、製造と修理のための工場でもあるのだった。
頭の中がひどく痛む。Dの針に貫かれた脳はとうに機能を停止し、瞬時に予備電子脳に肉体の管理が移行していた。
電子脳の思考は、戦闘のための分野にほぼ限定されるが、それでは危険だというので、尋常な思考もぎりぎり可能なように調整を受けていた。
それは『都』からやって来た技術者の仕事だったが、彼は作業の後、“武器番”をしげしげと見つめ、感に堪えたように、
「おれも、もとは貴族のお抱えだった。おかげで、一年前までは渡り鳥生活だったよ。あんたもそうらしいな。いつだって、辛い目を見るのは、弾き出された連中さ」
こう言って去っていった。
“武器番”の素性はわからない。赤ん坊のとき、門の外に捨てられていたのである。監視役の交替時に放置されたものと思われた。
当時、村は飢饉に襲われ、外部の人間を養う余裕はなかった。本来なら容赦なく妖物か魔獣の餌にされる。それを救ったのは、いずれ役に立つ、と断言した村長の鶴のひと声であった。
赤ん坊はエリスと名づけられ、村の寡婦の家で育てられることになった。費用は村長が負担した。
物心つく頃から、エリスの際立った才能は誰の眼にも明らかになった。
卓越した運動・反射神経と精神力である。
「これで肉体の機能が男なみだったら、超人といってもいいんだが」
と定期的に村を訪れる辺境医師団は口を揃えた。
そして、十五歳になったとき、エリスは“武器番”に任命されたのである。村で製造されるおびただしい武器は、各地からの商人や村人によってたちまちさばけるが、それでも、かなりの極上品や、発売禁止の危険な代物は、村の倉庫に残る。これを聞きつけた野盗や強盗団が密かに、或いは公然と襲撃してきた例は、枚挙に暇がない。
そんなとき、“武器番”は倉庫内の最高兵器を身につけ、彼らを迎え討つ。出番は戦闘士すべてが斃れた後だ。
だが、たとえ何より優れた武器を装備していても、操る者が人間である以上、戦闘能力にはおのずから限界が生じる。村では“武器番”のサイボーグ化によって、それを乗り切ろうと努めた。説得には村長があたった。
エリスは黙って承諾した。自分の運命について、育ての親たる寡婦からそれとなく聞かされていたし、成長して何処へ行こうという気も、何になるという目的もなかった。自分はこの村に拾ってもらった孤児だ。なら、この村のために働こう。この清々しい、あまりにも切実な決意の代償に、エリスの体内には予備電子脳や高感度センサーが埋め込まれ、子宮の代わりに過去に一度だけ製造され、実験段階で使用を停止されたある武器[#「ある武器」に傍点]が装着された。最も危険な品は、それを守る娘の体内に収められたのである。
狂った脳から切り離された電子脳による自我は、狂気の記憶を留めながらも、あくまでも“武器番”としての限定的な正常を取り戻していた。正気に戻ったのである。
かくていま、エリスは疲れ果てた肉体を休め、その後、移動体の修理と武器の調整に取りかかろうとしていた。
ひどい喉の渇きを覚え、エリスはベッドから起き上がって、少し離れたところに引いてある水道のところへ行った。この空洞内の施設は、代々の村長とその家族、及び“武器番”が秘密裡に資材を運び込み、整えていったものである。
水は地下水を利用している。
バルブをひねって勢いよく流れ出すのをカップに受けた。
ひと口呑んでカップを棚に戻し、エリスは奥の工作機械の方へ歩き出した。
三、四メートル進んで止まった。電子脳とセンサーが背後の気配を感知したのである。
ふり向くと同時に、銃把《じゅうは》を前にさしてある大型の火薬銃を抜いた。
青い水底を思わせるドレスがまず眼についた。それが、美しいと断言し得る美貌はもちろん、頭のてっぺんから裾まで、びっしょり濡れていることも驚きだった。そういえば、肌も水のようだ。放っておけば、自然に水に戻るか、蒸発してしまうかだろう。
「オマエハ……何者ダ?」
「ルシアンと申します」
2
妖女は恭しく頭《こうべ》を垂れ、
「水のあるところ、私の入れぬ場所はありません。もうひとりのお方を、ある殺人者よりも速くこの村へ送り届けたのも、地下の水脈を辿ってきたのです」
と言った。エリスの当然の質問を予期してのことだろう。
「私ト戦闘士タチガ狂ッタノハ、長衣ヲ纏ッタ男ノ説教ヲ聞イテカラダ。奴ハドコニイル? イイヤ、オマエモ奴ノ仲間ナラ、今、ココデ引導ヲ渡シテヤロウ」
いきなり、火薬銃が吠えた。銃声が岩盤に反響し、ルシアンの眉間に小さな穴が空いた。脳漿が吹き出し、それはすべて水であった。
「無駄ですわ」
エリスは素早く左手の壁に走って、火炎放射器を取り出した。ノズルについたピストル型グリップを掴んでルシアンへ向ける。
「火ガ勝ツカ水ガ勝ツカ。試シテミヨウ」
今度も問答無用――六千度の炎は立ちすくむ妖女の顔面を捉えた。水蒸気が上がる。
ルシアンは横へ跳んだ。頭部はない。炎の仕業だ。次の瞬間、首の切り口から半透明の塊が膨れ上がってくる。
炎はふたたび水妖を襲った。ルシアンの右半身が蒸気と化して消えた。
凄まじい形相をこしらえつつ、妖女は水道の方へと後退した。炎は容赦なくその後を追った。床には水がしぶいている。それに触れた刹那、ルシアンの身体は溶け崩れ、大量の水となって床に叩きつけられた。跳ねとんだ飛沫《しぶき》を、六千度の火炎が入念に乾燥させていった。
「おや」
と誰かが小さな鼻をひくつかせた。
エリスは火炎の温度を下げて水道をひと吹きし、一滴の水も余さず蒸発させてからバルブを固くしめてベッドへ戻った。
水のある場所なら自在に出没可能な妖物であろう。ルシアンと名乗ったそれともう一匹が、誰かの先廻りとして村を訪れ、その結果、戦闘士と自分が発狂状態におとしめられ、村人たちを虐殺したのだった。そう仕向けたのは、ルシアンの仲間らしい。そいつもルシアンも必ず斃す。
だが――何処かが違っているような気もした。何度となく記憶を辿ってみたが、きれいに欠落している部分がある。予備電子脳も致し方なかった。
あの女は何をしにきたのか、と思った。恐らく、エリスがまだ仲間の術中にあると推測して、新しい使命でも与えにきたのだろう。ひと休みしてから、武器を揃え、必ず抹殺してくれる。
村人を虐殺した記憶は、軽い胸の痛みを残して、予備脳が消去した。エリスは眠りに落ちた。
眼を醒ましたのは、物音を耳にしたからだ。鉄扉の向うに誰かいる。
エリスは風を巻いて走った。何を選ぶかは決めている。ラックからレーザー・ライフルを引っ剥がして腰だめに構える。
ドアが開きはじめた。その隙間へ真紅の光条が飛んだ。ビームは下から斜め上方へと動いた。鉄扉の上半分が音をたてて床に転がった。切断面は赤く溶けている。
ドアの向うの敵も、同じ状況で二つに分かれているはずであった。
右手首に鋭い痛みが走った。白い針が生えている。
それを掴んで引き抜きざま、エリスは目標も見ずに投げた。電子脳のセンサーにまかせたのである。
鉄をも貫く勢いで飛来したそれを、Dは左手で握り止めた。
「ナゼ、ココガワカッタ?」
エリスが訊いた。疑問とその解決は、電子脳の余裕部分だ。
「ゲル化油の匂いがした」
と嗄れ声が言った。
「火炎放射器を使ったの。排気煙の色も匂いもよく分解してあったとはいえん。――おっと、おまえが攻撃するとなれば、銃口を上げてから引き金を引かねばならん。この男はその前に両眼に針を打ち込むぞ」
「障壁ヲ張ッタ」
「訊きたいことがある」
と鋼の声が言った。
エリスは目眩《めまい》を感じた。いま、声を聞いた刹那、眼前の若者の凄まじい美貌を、“武器番”の精神《こころ》以外が意識したのである。
「村人を殺したのは、おまえか?」
「……ソウダ……ト思ウ」
「確実ではないのか?」
「断言ハデキナイ。記憶ガ抜ケテイルノダ」
「おまえを狂わせたのは誰だ?」
「朱色ノ長衣ヲ着タ男ダ。用心シテイタツモリダガ、イツノ間ニカソバニイタ。ソシテ、囁カレタ。狂ッテシマエ、ト」
「よく覚えておるな――おまえ、そうか、電子脳だな」
と嗄れ声が言った。
「ワタシ本来ノ脳ハ、オマエニ破壊サレタ。ソノオカゲデ正気ニ戻ッタ。仇ヲ討ツベキカ、礼ヲ言ウベキカ」
「これから、どうする?」
「私ニ術ヲカケタ奴ヲ捜シ出シテ殺ス」
静かに見つめていたDが、
「囁いた奴は、機械も手なずける」
と言った。
二人の間に無言のときが流れた。
エリスの身体から、ふっ、と緊張が抜けた。
「礼ヲ言ウ」
「なんの」
と、嗄れ声が得意げに応じた。
「火炎放射器を使った相手は――水か?」
これはDだ。
「ソウダ」
「奴は水のある場所なら何処へでも現われる。気をつけろ」
こう言って、きびすを返した。無防備とさえいえるたくましい背が、鉄扉の向うに消えるのを、エリスは無言で見つめた。あのまま戦えば、自分は間違いなく斃されていただろう――電子脳はそう考えていた。
外へ出て、Dは村民センターの方へ向かった。
陽はなお高い。
「お疲れのようじゃな」
と左手が、皮肉たっぷりな声をかけた。サイボーグ馬の上である。
「昼は人間、夜は貴族の生きる世界――おまえはどちらでもあり、どっちでもない。いつ、ふさわしい世界が見つかるかの。――ぐえ」
握りしめた拳をそのまま、Dは馬を進めた。十分ほどで、破壊されたセンターの見える位置――エリスと死闘を展開した畦道の上へやって来た。
馬車と自走車は廃墟の前に止まっている。
畦道の途中で、Dはふり向いた。西の方からかすかなエンジン音を耳にしたのである。高い。
接近してくる影は、単座のジェット・ヘリであった。風防ガラスさえない剥き出しのゴーカートにも似た座席《シート》には、グリードが腰を下ろしている。
左手は操縦桿を握り、右手にはレーザー・ライフル。無表情な顔が不気味だ。
「彼奴《きゃつ》――憑かれたぞ」
左手の声と同時に、Dは馬の腹をひとつ蹴るなり跳躍した。
音もなく、深紅色の光が降りそそいできた。
首を灼き貫かれたサイボーグ馬が横倒しになる。土砂が舞い上がった。
Dの左手から白い光がヘリめがけて走った。
それが届く寸前、ヘリは垂直上昇に移った。白木の針は空気を灼いて消えた。
ヘリは一〇〇メートルも上がって滑空に移った。Dの力をもってしても、如何ともしがたい距離であった。
火矢が降ってきた。畦道は火を噴いた。炎が農家の小屋を包んだ。
Dは左手に見える村の方へと走った。火矢がそれを追った。両者の距離は確実に縮まっていった。――次は危ない。
不意にヘリが傾いた。
急激に姿勢を崩して、村の中心部へ降下していく。
家並みの向うに消えてすぐ、鈍い衝撃音が上がり、さらに数秒を置いて、黒煙をまといつかせた火の柱が立ちのぼった。
破壊音を聞きながら、Dはセンターの方へ向かっていた。グリードの運命の方角には、一瞥を与えただけだ。嗄れ声が、
「あれは、グリードの意志による攻撃ではないぞ。運がよければ助かるじゃろうが」
ここで言葉を切って、
「敵がひとり増え、味方がひとり減ったことになるのかの。よくわからんが」
すでにDは、センターの前まで辿り着いていた。
馬車の御者台から、マシューとスーが顔をのぞかせた。
スーは両手でモーター作動の弩《いしゆみ》を抱いていた。子供でも扱えるとはいうものの、三キロ近い武器で高度一〇〇メートルのヘリを狙って命中させるなど、少女の技ではなかった。死に物狂いの精神と肉体の成果に違いない。
Dと眼が合った瞬間、スーは武器を足下に落とし、その場にへたり込んでしまった。
「十四かそこいらの小娘がのお――人間、他人のためにでも死に物狂いになれるとみえるわ」
揶揄するような左手の言葉に、Dは無論、何も言わなかった。
3
二人は村民センターに入らなかったのである。Dが指示した隠れ家は遥かに安全堅固な場所――すなわちブロージュ伯爵の自走車の内部《なか》であった。
ブロージュ伯が滅びてなお、Dが自走車を捨てずに同行させた理由のひとつはこれ[#「これ」に傍点]であった。無論、貴族の車を扱えるのは貴族のみだ。だが、Dが自走車のドアに左手を触れ、何かをささやくと、ドアは難なく開いて二人を迎え入れたのである。
「スー、スー」
夢中で妹をゆり動かすマシューを制して、Dは左手を少女の顔に当てた。
蝋のような肌に血色が戻り、瞼が開くのをマシューは茫然と見つめた。
「どうやって車から出た?」
とDは少し間を置いて訊いた。自走車を制御するコンピュータには、絶対に二人を出すなと命じておいたはずだ。
「わかりません。窓から見ていたら、あなたが危なかった。何とか助けようと思ったんです。馬車に弩が積んであったのを思い出して、ここから出してよって叫びました。何度も何度も――そうしたら、ドアが開いたんです」
Dは少女の頭に手を置いた。
「助かった――礼を言う」
少女の顔は薔薇色に染まった。
「似ているな」
「え?」
「母さんは、いっとき、おれと一緒に戦った。そのときの顔と同じだ」
少女の眼に光るものが膨れ上がった。それが頬を伝わる前に、Dは道の方に眼をやって、
「行くぞ」
と言った。
「はい」
マシューは顔をこわばらせていた。どす暗いものが面貌を変えていた。恥辱と怒りだった。
その耳に聞こえた。
「自走車へ戻れ。――それから、弩は重い。今度は一緒に持ってやれ」
マシューがふり向いたとき、Dはもうサイボーグ馬の方へ歩き出していた。
数分後、一行は街道へ向けて、前進を開始した。スーとマシューは自走車の内部である。
「村人を皆殺しにした奴をおびき出し、その背後に、ヴァルキュアの七人の影がないか確かめる。あの二人をセンターへ隠すと見せかけて、あの娘――エリスと出会ったのはいいが、どうも腑に落ちないところがある」
左手の声は真剣であった。
「まず、グリード以外の戦闘士が発狂状態に陥った。これはキュリオの仕業に見えるが、あ奴なら、狂えとは命じまい。そんなことをしても何にもならんからだ。おまえとあの二人を殺せ――これが正解じゃろう。すると、命じたのは誰か? また、村人全員を殺したのが彼らとエリスだったとしても、皆殺しにする理由は何か? キュリオとルシアンが先廻りしていたにせよ、この辺は彼奴のやり方と合わん。少なくとも、殺人狂ではないようじゃからの。となると――」
Dは無言で前方を見つめている。
「もうひとり、奴らとは別の刺客がおるのじゃ。Dよ――“シグマ”の台詞を覚えておるか? 奴も刺客を送ると言っておった」
ガリオンの谷間で、Dと別れる寸前、反陽子コンピュータは、確かにそう告げたのだ。
「ヴァルキュアの配下は残り五人、“シグマ”の刺客は、はて何人が送り込まれたか。厄介な旅になりそうじゃぞ」
返事はなく、やがて、街道を埋め尽くす岩塊の前で、Dは馬を止めた。
馬から下り、馬車の御者台からマシューが用意しておいた潅漑用の爆薬を取り出して、岩塊に近づく。
軽く跳躍して岩塊に貼りつき、さらに二度三度と跳躍を重ねて岩塊の向う側に消えた。
岩塊の頂きに現われるまで、二分ほどかかった。
「何とも恐るべき奴だ」
つくづくという感じで左手が呻いた。
「わしの計算どおりの個所に、計算どおりの量の爆薬を仕掛けるとは」
Dの右腕には、なおも数個の爆薬がコードごと巻きついている。
ふと、Dがふり向いた。村の方角から、おびただしい人影が近づいてくる。
「ほうほう」
と愉しげな嗄れ声である。
「――村の連中だぞ」
まぎれもなく、家の中で道の上で血にまみれていた人々であった。朱色に染まった顔には、にこやかな笑みが浮かんでいる。
ぞろぞろと押し寄せてきた死人たちは、街道と交差する村道の端で立ち止まった。先頭の列が一歩を踏み出そうとする鼻先に、Dが舞い降りたのである。
死人でもこの若者からみなぎる鬼気は感じるのか、笑顔はことごとく絶えていた。
「なんて、いい男だ」
Dと向かい合った中年男が呻くように言った。明瞭な声である。
「あんた――村で暮らさないか?」
顔という顔が一斉にうなずいた。
「馬も連れも一緒に暮らしたら。家も畑もやるよ」
Dは無言で、男の顔を見つめていた。男の右眼には、ぽっかりと赤黒い空洞が開き、眼球は喉仏のあたりでゆれていた。二つをつないでいるのは、白っぽい視神経だった。
「なるほど。死人の戦闘集団をつくるのが目的か。皆殺しの意味が、ようやくわかったわい」
中年男は、困惑の表情で、Dの腰のあたりに眼をやった。嗄れ声はその辺からしたのである。
あきらめて、男はDの肩に手をのばしてきた。
「村へおいでよ」
その鼻先で白光がきらめいたと思いきや、男の右手は肘から斬りとばされていた。
男はきょとんとした表情で、まず傷口を見つめ、それからのけぞった。悲鳴が上がった。わざとではなく本物だ。死者も痛みを感じるのか。
Dは後方へ跳んだ。
「おいでよ」
「村で暮らそう」
「あたしたちのところへ来て」
男も女も老人も若者も、すがりつくように両手を突き出し、Dめがけて殺到した。
その前方で火の花が噴き上げた。火炎と衝撃波が轟音と村人たちを四方へ跳ねとばす。
Dは爆薬を点火してから後退したのである。死者であろうとあるまいと、敵に対するいたわりなど、この若者には無縁であった。
黒煙をテープのように引きちぎって、残りの村人たちが襲いかかってくる。
刃が陽光を跳ねた。
村人の首は機械仕掛けのように宙に舞った。一滴の血も流れず光の下に繰り広げられる光景には、一種の爽快味すら感じられた。
数からいえば、圧倒的に多勢に無勢だ。百人を越す村人の波をただひとふりの剣が制止し得る術はない。
だが――見よ。
Dの刃の描く軌跡に触れた刹那、死人たちの首は容赦なく落ちたのだ。倒れた身体はその場にうず高く重なり、人体の防波堤を自ら構成する。それを乗り越えようとすれば銀の光輝が走って、新たな首なしの死体が折り重なるのだった。
Dと剣が形成する制空圏の中へは一歩たりとも入れず、村人は新たな死に殉じていった。
確実に少なくなる生ける死者の最後尾から、ひとつの影が村の方へと走り出した。
斜め上空から灼熱の朱線が、人影の腰を貫いた。
どっと倒れるその足下から、白い小犬が飛び出し、一目散に村へと向かっていく。
刀身のきらめきに灼熱の朱線が加わり、村人たちを蹂躙した。
五分とかけずに累々と広がった死者たちの真ん中に、ジェット・ヘリが降下してきた。
レーザー・ライフルを手にした男は、グリードに間違いない。
Dと眼が合うや、大あわてで左手を突き出し、
「勘違いするな。墜落のショックで元に戻った。あんたを救けに、別のヘリを引っ張り出してやって来たんだよ」
「誰に憑かれた?」
「朱い長衣を着た野郎さ」
Dが近づいてくるのを見て、グリードは身を固くしたが、美しい若者は構わずその額に左手を当てた。
異様に冷たいものが脳内に染み込んでいく。悲鳴を上げそうになった瞬間、消えた。
左手を離して、Dはグリードに背を向け、逃げ出した村人の方へと歩き出した。チェックを終えたらしい。
倒れた村人は二十歳前後と思しい若者であった。ぴくりとも動かない。
「死んでるのか?」
と尾いてきたグリードが、やや前屈みになって見下ろした。
「だが、おれは腰から下を射ったきりだぜ。死んじゃいねえ――いや、もとから死んでたんだわな」
「村の人間に違いないか?」
とDが訊いた。
「ああ、エグベルトって男だ。平凡な若いのだよ」
「憑かれたな」
平凡な若者のみが逃げようとしたのは、彼が村人とは別の存在だったことを物語る。
「だが、どうして死んじまったんだ?」
怪訝そうなグリードへ、
「彼は犬を連れていた」
とDは言った。あるかなきかの風が、長い黒髪をゆらしている。真に美しいものは、わずかな変化のみでも新たな美を他人に発見させる。グリードは恍惚と見入った。
Dの言葉の意味に気がついたのは、彼が村の方へ歩き出してからである。
「そうか、グリードに憑いていた奴は、犬に乗り移ったのか!? 早いとこ捜さなきゃ、別の誰かに――といっても、村人はもういねえ、か」
ヘリへ向かおうとした足を、Dの声が止めた。
「そこにいて、子供を守れ」
渋い声は、はっきりとグリードの鼓膜をゆすったのに、声の主の姿はすでにない。
「わからねえ男だ」
とグリードはしみじみつぶやいた。
裏門から村へ入ってすぐ、Dは門の下の地面に左手を当てた。
「嗅ぎつけたか?」
「ああ」
と嗄れ声が応じた。
「その先の小路を右へ曲がれ――しかし、犬に憑いた奴め、まさか臭いで追いかけられるとは思わんだろう。お株を奪われたの」
Dは黒い疾風と化して小路を疾走した。
前方に、巨大な倉庫らしい建物が三つ並んでいた。いちばん手前のシャッターが開いている。
「気をつけろ。オイルと金属の臭いがする」
と左手が警告を発した。
あと三メートルで、という距離まで辿り着いたとき、シャッターの向うから黒い鞭のようなものが迸って、Dの右足に巻きついた。
白刃が一閃して、それは呆気なく断たれたが、わずかに遅れて、おびただしい数の触手が唸り出たのである。
数百本は下らぬそれは、鋼からできていた。
押し寄せるうちの十数本が地面に転がるや、Dは五メートルも後方へ跳んだ。
[#改ページ]
第五章 神祖の技術
1
倉庫のシャッターが吹っとんだのは、Dの着地と同時だった。
それは、どう見ても蠢く触手の塊であった。
どこかに本体があるはずなのに触手の林しか見えず、しかも、自重を支える分以外は、すべて四方八方にのたくり、陽光にきらめく金属製の生きもののように不気味この上ない。
「この村の連中、ただの武器づくりではなかったようじゃな。動かしたのは、しかし、あの犬か?」
嗄れ声の疑問に答えるかのように、触手の塊の真ん中に、コクピットと思しい透明な球体部がせり上がってきた。
乗っている人物を見て、左手が、ほう、と洩らした。
「説教男じゃぞ」
「犬は?」
とD。得体の知れぬメカを前にして、あわてた風もない。
「間違いなくあの倉庫の中じゃ。あの説教男め、自分でわしらを見つけて現われたか、それとも――」
小犬の脳を支配していた存在は、倉庫にいたキュリオに憑依したのではなかろうか。このようなメカを使うのが、キュリオの本意とは到底思えなかった。
触手が吹きつけてきた。
後退しつつ、Dは周囲の状況を神速で把握していた。ここは倉庫前の広場だった。テスト場も兼ねているのだろう。二百坪は優にある広場のあちこちに、検査用のメカニズムや小道具が設置されている。井戸もあった。
Dと触手の化物は、広場の真ん中で対峙した。
「奴の意志か――犬の意志か」
嗄れ声がこうつぶやくのを合図に、触手が襲いかかってきた。白刃《はくじん》がそれを薙ぎ払った。切断された触手は、切り口からたちまち再生した。この村の技術者は、金属を再生させる方法を思いついたらしかった。
「きりがないの」
左手がうんざりしたようにつぶやいた瞬間、触手が一斉にDの方を向いた。
圧縮空気の噴射音を残して、それは槍のようにDの左右を走った。
命中しそうな触手をDはすべて斬断した。一瞬、Dの前方に失った触手の埋めるべき空間が生じた。そこへ身を入れざま、Dは左手をふった。
新たな触手がその全身へと飛び、うち三本を斬り離したものの、二本が右胸と鳩尾を貫いた。
片膝をつくDを触手が押し包み、しかし、たちまちその動きは乱れて、それは右方へと移動しはじめた。
コクピットの内側で、キュリオは断末魔の様相を呈していた。その胸と喉から白い針が生えている。Dは狙いをあやまたなかったのだ。だが、たかだか木の針が耐熱耐震の防弾ガラスを打ち貫いて目標を捕捉するとは、何という力か。何という正確さか。
地に立てた一刀にすがるようにして、Dは立ち上がった。
血の気を失った顔に苦痛の色はない。
キュリオを斃した以上、触手は暴走を開始するはずだ。放置すれば、村の外へ出て、絶え間ない破壊と殺戮を繰り返すだろう。いまのうちに滅ぼさねばならない。
Dは胸の触手を引き抜いた。鮮血が地面を叩いた。腹部のも抜いて、すでに一〇メートルも離れた触手の塊へ向かおうと一歩を踏み出したとき、後方から遠い声が呼んだ。
「待テ」
ふり向くDの前へ、漆黒の球体が音もなく接近して停まった。
その上部から、エリスの美貌がDを見つめていた。
「ココハ、私ニマカセテ」
とエリスは静かに言った。眼は触手に据えられ、すぐDに戻った。
「私ハ“武器番”ヨ。狂ッタ武器ヲ片ヅケルノモ仕事」
「………」
「会エテヨカッタ――忘レマセン。コレハ、電子脳デハナク、私ノ本当ノ気持チデス」
機械の冷たさを残していた声が、不意に変わった。
「さようなら、D」
髪がなびいた。仄かな香りが風に混じって消えた。
触手めがけて疾走する球体をDは見送った。
触手の向きが一斉に変わった。エリスを迎えるように開いた。奇怪で凶暴な食虫花を思わせた。球体はためらいもせず突っ込んだ。触手が閉じて美味な獲物を搦め捕る。
「いかん――跳べい!」
嗄れ声より早く、触手と球体のもつれ合う中心に、直径二メートルほどの暗黒が生じた。それはみるみる広がり、二つのメカの身体に領土を広げていった。
「小ブラックホール発生装置じゃな」
と嗄れ声が言った。
「あの女のどこかに埋め込んであった。あれが、秘密兵器だったらしいの」
暗黒は球体のほとんどを吸収し、その端に白い貌《かお》が残っていた。エリスはこちらを向いていた。次の刹那、それは空間の穴に吸い込まれた。
「笑っておったな」
と嗄れ声が言ったのは、エリスを呑み込んですぐ、暗黒が消滅してからだった。
「――しかも、香水を――」
声は熄《や》んだ。Dが止めたのではない。自ら口をつぐんだのである。
かすかな香りを、娘は死を覚悟したときにつけてきた。誰のためにつけたのか。風とDだけがそれを嗅いだ。
Dは無言で、暗黒の消滅地点へと向かった。
地面の一部分が丸くえぐられていた。暗黒の円周の一部が食い込んだ場所である。
その端に黒い四角な穴が空いていた。周囲を石で囲われている。地面からの露出部分を吸い取られた井戸の名残りだった。縁まで水が溜まっている。
「井戸か――こいつはわからなくなってきたな」
と嗄れ声が重々しい口調で言った。
この村にキュリオひとりで現われたのではないことはわかっている。水妖ルシアンが一緒だ。そして、あの女は水のあるところ、忽然と出現するのだった。
キュリオが消滅する瞬間を、Dは見ていない。――逃げただろうか。
いずれにせよ、この村に長居は無用だった。
Dは身を翻して、もと来た道を歩き出した。
風が吹いた。そこに含まれているのは、陽光と草と木の匂いばかりで、若い娘の肌を飾る甘やかな香りは少しも漂っていなかった。
三十分後、数百トンの岩塊を難なく吹き散らして、Dと二台の車輛は進みはじめた。
グリードが見送った。
別れ際、Dは、
「来るか?」
と訊いた。
グリードはびっくりしたように彼を見つめて、
「あんたが人を誘うとは、ね。――何にせよ、光栄だよ。だが、おれはここに残る」
と言った。
「村を出ていて、帰ってくる連中が何人かいるんだ。そいつらに事情を説明してやらねえとな。また、一から村づくりでもおっぱじめるかも知れねえし、別の土地へ移るんなら、護衛もいるだろう――おれの代わりに仇を討ってくれたらしいな。礼を言うぜ」
「それは――」
言いかけて、Dは娘の名前を知らないことに気づいた。
「“武器番”のした仕事だ」
「は?」
茫然と眉を寄せるグリードにうなずきもせず、Dは馬にまたがった。それきりふり向かなかった。
「あばよ」
グリードの言葉に御者台のスーが手をふった。
馬車と美影身は、ゆるゆると進みはじめた。
その姿が街道の端に消えるまで見送ってから、グリードは村へと歩き出した。
陽光はやっと、午後の和やかさを帯びはじめていた。
それから二日間、Dも予想しなかった平穏な道程がつづいた。
左手が、
「順調に行きすぎる。不気味じゃ」
と言い出し、Dですら、答えはしないものの、うすい笑みを浮かべたくらいである。
スーとマシューは逆に大喜び――とはいかなかった。
スーの容態が伯爵の馬車の中でかえって悪化してしまったのである。弱った身体に貴族の車に充満する妖気が悪影響を与えたのは明らかであった。
幸い、これはDが左手を当てると、すぐに回復した。したものの、本来の病弱さは変わらず、ほとんどの時間を幌の内側で過ごす羽目になった。
マシューがますます暗く不機嫌になっていったのは、このせいもあった。
父の一件で苦しめられてはいたものの、母を中心に兄妹は立派に農場を経営していたのだ。そこへおかしな連中がやって来て、過去も過去――五千年も前の因縁話を持ち出し、三人を守ると言い出した。
その言葉に嘘がなかったのは、これまでの道中が証明している。しかし、自分とスーを守る代償のように母は死に、スーは息も絶え絶えの状態に陥った。Dのせいではないと知りながら、マシューの想念は、こいつらさえやって来なかったら――へと収束していく。
その先に広がる世界には、母も無事で農場は大きくなり、やがて、スーも結婚する。ただし、マシューよりずっと見映えが悪く、力も頭も大分劣る若者だ。
少しの間、二人は家を出て結婚生活を営むが、スーの方で愛想を尽かして母と自分のもとへと帰ってくる。そして、ここが肝心だが、スーの夫は男としての能力も皆無に近く、スーは一度もベッドを共にしていないのだ。
それは誰にも口にできない、マシューだけのひそやかな想いだった。それが激しく胸をときめかせるものであればあるほど、元凶ともいうべき三人への暗い怒りは一方的に募って、今や腐臭さえ放ちはじめていた。
決定的になったのは、スーがDを慕っていると気づいたときである。
伯爵は塵と化し、Dとともにガリオンの谷間へ赴いたミランダ公爵夫人はついに戻ってこない。もはや、頼るべき相手はDしかいないのだ。ところが、マシューにしてみれば、ここでDさえいなければ、という方向へ向かう。
自分の力だけでスーを守れれば、彼女は必ず兄を見直し、すがりつくだろう。こんな驚くべき見当違いをやらかすには、それなりの理由がある。奇妙なことに、兄妹は、Dたちと刺客との死闘を一度も眼にしてはいないのだ。人外の死闘が身に沁みていない以上、敵の脅威にも実感が湧かない。マチューシャの村からガリオンの谷間へ連れ去られたときも、何ら痛い目に遇わされたわけではなかった。
ここから、Dがいなくなっても何とかなるのでは、という結論が導き出される。その結論の中心には、ひとり妹を守るマシューがいる。彼は兄を越えた自分に酔っていた。
「あと一時間で『砦』に着く」
とDが声をかけてきたとき、マシューは思い決した。
真正面から彼を見て言った。
「行かなきゃ、まずいかな?」
「――どういう意味だ?」
とDは訊き返した。マシューはすでに間違いを悟っていた。
男も女も関係ない。何という美しさか。見つめているうちに、マシューの脳は妖しい霧に閉ざされ、心臓は激しく打ちはじめる。血管の中を巡る血の流れさえ彼は意識した。
それよりも――真っ向から吹きつけてくるこの妖気は。マシューは血も凍った。それでいて、精神はなおDの美貌に陶然と溶けていた。
「スーは――おれが守りたいんだ。ひとりきりで」
それだけ口にできたのも奇跡だった。
「おれは、おまえたち二人を守らなくてはならん」
とDは言った。もの静かな口調である。
「そういう契約だ。破棄できるのは契約者だけ。そして、その女性《ひと》は死んだ」
「………」
「だが、そうしたければ、するがいい」
左手のあたりで、おい、と小さな声が上がったが、Dは拳を握ってつぶし、西の方角を見つめた。
緑一点ない岩山の縁を燃やしつつ、陽が沈みかけている。
「じきに貴族の時間だ」
とDは言った。マシューを脅かすような口調はまるでない。彼はただ事実を告げるにすぎないのだ。
マシューは戦慄した。
夜の恐怖は、辺境の人間の骨の髄まで染みついている。
「おれはここで別れる。真っすぐ進めば、『砦』が見えてくる。戻るなり、野営するなり、好きにしろ。明日の夜明けに迎えにくる」
後方へ顎をしゃくって、
「あの車のドアには、おまえたちの指示で動くよう手を加えておいた。残しておく。好きに使え」
「要らねえよ。持ってけ」
Dはもう馬車の前に出ていた。どんな仕組みなのか、自走車は黙々と馬車の後を尾いてくる。
「ええい、畜生」
マシューは手綱を引きしぼってサイボーグ馬を止めた。半ばヤケであった。
急に濃くなった夕闇の波に溶け込もうとするDの後ろ姿へ、
「二度とおめえの世話は受けねえ。明日も来なくていいぞ」
喚き声は、たちまち闇に呑まれた。
2
「おかしなことになったぞ。いや、面白いというべきか」
空中で、こうつぶやいた声がある。
地上三〇〇メートルに浮かぶ迷彩塗装を施した不可視気球――その底部ゴンドラの内部《なか》で、探査鏡のファインダーを覗いているのは、伝道師クールベであった。背後にいるのは朋輩二人――説教師キュリオと歌姫カラスに間違いない。
キュリオは無事であったのか。そのとおり、エリスが死を賭して仕掛けた小ブラックホール発生装置による攻撃を、間一髪、彼は触手タンクを井戸に近づけ、そこに潜んでいたルシアンの力を借りて脱出したのである。しかし、その身がいかに瀕死の傷を負っていたかは、いま、ゴンドラの隅のベッドに、ひとり横たわっていることでわかる。その喉と胸とを貫いたDの二本の針が、決定的な効果を発揮しなかったのは、防弾ガラスの力によるものだ。
そんな彼の方へは眼もくれず、
「あの兄妹、どうやらDに見捨てられたらしい。いやいや、見捨てたのか。ま、それはどうでもよろしい。とにかく『砦』とやらに逃げ込まれては厄介だと思っていたが、これは絶好のチャンス到来だ」
と、クールベが低く鼻を鳴らした。眼は憎悪に燃えている。マチューシャの村でDに浴びた一撃を彼はまだ覚えている。復讐鬼といっていい。
「ここまで来て、Dと別れた?」
カラスが夢見るような眼差しを空中に据えて、
「そんな愚かな真似を、いくら下賎の者とて。――私たちをおびき寄せる罠ではございませんの?」
「かも知れん。だが、奴らにとっても、あと一時間の道程で『砦』に潜り込む方が、おかしな罠を仕掛けるよりは百倍も確実な保身の策よ。わしは喧嘩別れと取る」
「――では?」
「わしらの役目はあの兄妹を処分することだ。すでにルシアンは地上で二人を捕捉しておるだろう。カラスよ、わしとともに地へ下りろ」
「――あの兄妹二人に三人がかりで? 大仰にすぎませぬこと?」
「兄妹の始末はルシアンで十分。わしらは念には念を入れる役目だ」
「それは?」
「Dを追い、Dを斃す」
一瞬、カラスの美貌に衝撃の翳が走ったが、魔性の歌姫はすぐにそれを消して、
「喜んで。――お供いたしますわ」
と優雅にうなずいてみせた。それから、ちら、と奥のキュリオに眼をやった。
「放っておけ」
とクールベは、にべもない口調で言い捨てた。かつての畏敬の風など影も形もない。
「そちらはもはや廃人だ。死ぬのを待つ身に、何を期待してもはじまるまい。Dの先廻りをするぞ」
三十分後、二人は脱出ハッチに近づき、内部へ入ってドアを閉めた。ドアを固定する音が鳴り響くと同時に、キュリオは眼を開いた。黄金のかがやきが眼窩を埋め、眼球は光に呑み込まれていた。
彼は立ち上がり、何をするか決めかねているように周囲を見廻した。
「中部辺境区」がその存在を忘れられ、死を食らう風ばかりが、餌を求めて彷徨をつづけているかのような荒涼たる土地を、Dは黙々と馬を進めていた。街道の左右は灰赤色の平原と岩山が延々とつづき、時折、丘の上や山の麓に古代の廃墟らしい遺構が窺えた。
道に迷った旅人が、ここは何処だと誰かに尋ね、中部辺境地区だと教えられたら、彼は首を傾げ、そんな土地があったんですかと訊き返すだろう。
「中部辺境区」の存在を人々の記憶から奪い去ったのは、四方から侵蝕してきた東西南北各辺境の領土だといわれている。地誌学的には正しい意見だが、人々が好む理由はこうだ。
すなわち、ここで戦われたあの凄惨な戦闘を、生きとし生ける者すべての記憶から抹殺するために。
数千年を経て、この試みは成功を収めた。いまや、中部辺境区の存在を知るものは、古老と呼ばれる人々しかいない。
夕闇ははや闇となり、その密度で旅ゆくものたちを封じ込めんとするかのように、濃く重かった。
奇妙な事態が生じたのは、さらに十分ほど歩を進めてからである。
草一本生えていない街道の両側に、突如、小さな、しかし、まばゆいばかりの灯が点ったのである。
それは青銅の皿に載った蝋燭の炎であったが、Dの両脇で点々と連なり燃えるそれらを空中で支えるものは、白い大理石の燭台であった。
数十本、否、数百本の蝋燭が左右につづく街道からは、いつの間にか硬い音がする。サイボーグ馬の蹄が踏んでいるのは、大理石の道であった。
そして、その遥か前方――何もない荒野の一角に、いま忽然と出現した巨大な建造物らしい影は――
「あれが『砦』か」
何処かで低い声がした。
Dよりずっと建物に近い、これもそれまで存在しなかった深い森の中であった。大理石の道は、その中央部を貫いている。
「でも――いつの間に? 『砦』とは何だったの?」
最初の慨嘆はクールベで、次の問いはカラスのものだ。二人は、彼らもその名を知らぬ超古代のものらしい巨木の陰に身を潜めていた。
「我がヴァルキュア大公様の復讐を恐れて、例の三人が建造したものという」
「愚かな真似を。そのようなものは、ヴァルキュア様のひと息で消し飛んでしまいましょう」
この美女が、たとえヴァルキュアとはいえ、他人を誉めるなど珍しい。クールベは、そんな眼つきでカラスを見つめつつ、
「ところが、そうも言えんのだ。あの『砦』には、御神祖の技術が導入されておる」
「まあ」
貴族による科学技術の発達は五千年前にピークを迎えたが、その彼らですら理解不可能な物理法則を応用した、御神祖の技術と呼ばれる一連の超技術があった。
技術そのものは存在しても、その根本原理を解明し得るものは神祖のみであり、貴族たちに許されたのは、神祖から下しおかれたそれらを使用することだけであった。扱い方のみは、一般の理解値に落としてあったのである。
「でも、御神祖の技術はある時期を境に封鎖され、それを応用した事物はすべて破壊されました」
カラスはとがめるような眼差しをクールベに当てた。伝道師は眼をそらした。脳裡を埋めていた殺害の凶念が、一瞬失われ、信じ難い色がそれに変わった。――哀しみが。
「あれは貴族の種族的衰退がはじまったとされる頃と、軌を一にしていた。貴族たちの間でも、御神祖の技術をもってすれば、衰退の時期を一万年は遅くできたのにとか、御神祖は貴族の滅亡を早めたがっているのではないかと、疑惑と怨嗟の声が地に満ちたものだ」
「御神祖はどうなさったのです?」
カラスは重ねて訊いた。貴族に仕え、超絶の能力を持ちながら、彼らは貴族ではなかった。その歴史に疎いのもやむを得ない。
「何もせん。そのような声に、いちいち応じるような小さな方ではなかったのだ。また、正面切って異を唱えるものもいなかった。わしが思うに、ふむ、御神祖は滅びを選んだのだ」
「ヴァルキュア様は何もしなかったのですか?」
「そこよ」
クールベは、訳がわからんといった表情になった。
「御神祖の技術が封鎖された時期、ヴァルキュア様はまだ地上に健在であられた。当然、抗議の先鋒に立ってもよさそうなものだ。少なくとも両手の指くらいは、御神祖に異議を唱え得る方々もいたという。そして、ヴァルキュア様は実際、『都』へと向かい、御神祖にも面会したという」
カラスの美貌を、一生にこのときしか、と思えるような興味と好奇とが満たした。
「――それで?」
乾いた声であった。
「――何も。会って一時間としないうちに、ヴァルキュア様は御神祖の館から退出し、その日のうちに辺境へと戻られた。何を話し合われたのかは今日まで伝わっておらん。ただ、ヴァルキュア様が――もとから凶暴残忍なお方であったが――本格的に狂い出されたのは、その日以来と聞いておる」
「辺境中の妊婦の腹を裂き、引き出した胎児を八つ裂きにしたというのも、その頃でしょうか。ほほ、あの方らしい」
軽い艶やかな笑い声を歌姫はたてた。クールベが、じろりとうす気味悪そうな視線を当て、
「あの『砦』には、御神祖の技術が使われておる。あれだけは、御神祖も文句をつけなかったという。ヴァルキュア様はそう申しておった」
「そういえば――私たちも、『砦』ができる前に消滅させられたのでしたわね。ヴァルキュア様の手にかかって」
それを言うなら、ヴァルキュアの追放劇も、『砦』の建造以前に行われたはずだ。『砦』そのものが、彼の復活と報復に備えるためのものであったからだ。だが、そんな疑問は毫ほども二人の脳をかすめないようであった。
「何にせよ、あの『砦』に入られてはまずい。幸い兄妹はDと別れた。今こそ目的成就にかけがえのないときだぞ」
クールベは、闇の中でも仄白い歌姫の美貌をふり返って、
「じきにDが来る。歌を聞かせろ」
と命じた。両手は耳に当てている。栓をしているのだ。
カラスはうなずき、ためらいもせず口を開いた。
それは調べと言葉とを含んだ風のようであった。効果からすれば、霧という方が正しいかも知れない。
歌声は森全体を巡り、染み込んでいったのだ。やがて、彼女は口を閉じ、クールベの肩に手を触れた。
「よし」
とクールベはうなずき、長衣のポケットから、ある塊を取り出して、地面に置いた。
「話は聞いておるな、行け」
それ[#「それ」に傍点]は小さな頭をひとつ下げ、カラスも驚く速さで街道へと走り去った。四肢を備えた人間《ひと》のように見えた。
3
Dは馬を止めた。
大理石の通路の五メートルほど先に、左手の森陰から、矮人《こびと》としか言いようのない姿が駆け出し、道の真ん中で立ち止まったのである。
身長は二〇センチもないが、丈の長い上衣とズボンをはき、頭には鍔なしのボックス帽をつけている。
「おまえがDだな」
と矮人は、こちらを見上げ、耳を押さえたくなるようなキンキン声で指摘した。
「私は、伝道師クールベだ。マチューシャの村で一度会った。覚えているか?」
「本物は何処にいる?」
とDは矮人――いつわりのクールベに尋ねた。
「寝言を言うな。クールベはおれだ」
と矮人は細く吊り上がった眼を、さらに吊り上げて喚いた。
「でもって、おまえを斃しにやって来た。覚悟するがいい」
「………」
「『砦』へ行くのをやめて、ここでおれと戦え。いま、息の根を止めてやる」
言うなり、そいつはよろめいた。眉間からうなじにかけて、白い針が貫いている。そいつにしてみれば、太い杭でも打ち込まれた気分であったろう。
呆気なく倒れた矮人を尻目に、Dはそいつが出て来たのと反対側の森に眼を向けた。
岩ですら怯えるような視線であった。その背から光が溢れた。一刀を抜いたのである。そのまま動かない。刀身は自然に垂らしたままだ。
木の陰から、クールベとカラスは、美しい若者を凝視しつづけていた。クールベは動揺が収まらずにいた。
彼はマチューシャの村で、Dの一刀を浴びたことがある。あのときの痛みは、しかし、こちらへ向かってくる若者の全身から放たれる鬼気の凄絶さに比べれば、子供騙しだった。
何度も修羅場をくぐり、数多くの敵やヴァルキュアに逆らう貴族すら斃してきたクールベが、恐怖のあまり失神しかけたのである。間一髪で、かけておいた妖術が効果を発揮し、空中の小型気球を操って難を逃れたものの、痛みと高熱に絶叫したその夜の醜態ぶりは、何よりも一刀を下げて迫る美しい若者の悪夢のせいであった。
それと同じ眼が、いまこちらを向いた。クールベの血は凍った。さらに、全身から放たれるあの鬼気が、ふた抱えもある巨木の幹を通して、全身を金縛りにしている。
「なんと……恐ろしい」
カラスの声に、クールベは内心激しくうなずいていた。
その耳に、鳥の声が聞こえた。一羽や二羽ではない。数百、数千の鳥が一斉に鳴き喚き出したのだ。眠っていた鳥すべての眼を、Dの鬼気は醒ましてしまったのである。
それのみか、木立ちが嵐に吹かれるようにゆれるや、おびただしい影が凄まじい勢いで羽搏き、空中に舞い上がったではないか。
クールベもカラスも茫然と見上げる夜空は野鳥の大乱舞の舞台と化した。
「美しい……怪物」
カラスが絶頂を迎えたような声で洩らしたその刹那――
鋭い気合が夜気を断った。
天空から音をたてて鳥たちが落下する。狂態の絶頂でのDの一声に、そろって気を失ったのである。
同時に、森の中の二人も、
「わっ」
「きゃっ」
と刺客とは思えぬ心底からの悲鳴を迸らせていた。
Dが馬上から跳んだ。
「逃げろ、カラス!」
叫んで走り出そうとしたクールベの頭上から、一度、二度ジャンプして死の三度目――小枝をへし折りつつ降下してきたDの上段一刀が、うなりをたてて伝道師の頭部へ食い込んだ。――と見えた刹那、刃は方向を変えて、Dの胸もとに巻きついた黒い帯を切断していた。
蔦《つた》だ。
木立ちの幹に巻きついた蔦が、Dの刀身に絡んでその手を停止させたのである。
クールベとカラスが逃れるのを見つつ、Dはもう一度、刀身をふった。
蔦はことごとく切断され、Dは二人を追った。その肩に腰に蔦は蛇のように巻きついた。
「まかせい」
と左手が言った。
右腕を封じた数本をまとめて左手で握るや、蔦はたちまち火を噴き切断された。
ふたたび刀身が閃き、残る蔦を切り払って、Dは前へ出た。
つづけざまに爆発音が轟いた。
Dを囲む木立ちの根元が火を噴き、ふくれ上がる。クールベとカラスが仕掛けた爆薬の仕業であった。
頭上へ倒れかかってくる木立ちから、Dは地を蹴って跳びのいた。地響きを聞きつつ着地したとき、地に迫る黒い影たちがDを呑み込んだ。
今度は三本だった。
貴族でもあり得ないと思われる超絶の運動神経が、幹と幹とのわずかな隙間をDにすり抜けさせなければ、まさしくノシイカであったろう。
木立ちは明らかにDを狙っていた。爆発の角度やパワーによるものではない。木自体に倒れんとする意志が備わっているのだった。
木と木の間に身を入れたまま、Dはそのとき、かすかな歌声を聴いた。
「カラスとか言ったな」
左手が愉しげにつぶやいた。
「この調子では、あの兄妹も危ないぞ」
街道の周囲に忽然と生じた森の中で、正直、マシューは途方に暮れた。
半分は意地でDと別れた。野宿するつもりで荒野に入ったら、三十分もしないうちに世界に変化が生じた。
「一体、どうしたの、兄さん?」
幌から出て来たスーも、あまりの環境の変化に恐怖を隠さない。二人は地面の上にいた。マシューは化学燃料に火をつけたところだった。
「わからない。また、Dの奴が何かしでかしたんだろ」
「人のせいにしないで!」
スーの怒声は、マシューの眼を見張らせた。
「私が眠っている間に、勝手にDさんを放り出したりして。一体、どうするつもりなの!?」
「おっかねえ顔をするなよ。心配するなって。おまえは絶対、おれが守ってやらあ」
「兄さんひとりで、どうなるっていうのよ。あの大きい伯爵もミランダさんも、あっという間にやられてしまったのよ。そんな――そんな強い敵が何人もあたしたちを狙っているのに、兄さんに何ができるの? 夢見るのもいい加減にして!」
スーの叫びは、マシューにとって恐ろしいほどに論理的であった。反駁のしようがない。こんなとき、唯一、取るべき手は非論理の採用であった。
「莫迦野郎、その言い草はなんだ? おれが今まで一度だって、おまえを守ってやれなかったことがあるか? 町のチンピラ十人に絡まれたときだって、農場が二首犬に襲われたときだって、おれが守ってやった。少しは感謝しろ。兄貴を信頼しろよ!」
「相手が違うのよ、兄さん!」
スーは身を震わせた。
「あたしたちを狙っている相手は、五千年の歴史の中から甦ってきた大貴族なんだわ。もっと現実を見てよ。第一――第一、兄さん、偉そうなことを言うけど、母さんも守れなかったじゃないの!」
「うるせえ!」
兄の手がいきなりふられるのをスーは見た。
左の頬に鈍い衝撃が伝わり、気が遠くなった。
気がつくと地面に横たえられていた。背中が冷たい。
眼の前にマシューの顔があった。別人のような表情をしている。身体中が冷えた。
「兄さん――ちょっと、どいてよ。重いわ」
大変なことが起こりそうな予感を、笑顔にまぎらそうとした。
押しのけようと手を動かしたが、手首を地面に押さえつけられていた。
「おまえは、おれが守ってやる」
兄の口から出た声も、いつもとは違っていた。
「わかった。わかったってば。――だからどいてよ。ねえ、重いの。重い」
いきなり唇がふさがれた。
全身が震えた。恐怖以上の戦慄であった。起こっていることが信じられなかった。
「兄さ……ん」
夢中で引き剥がし、やめて、と叫んだ。
左手が自由になった――と感じた途端、左の乳房を掴まれた。悲鳴を上げた。
「やめて。気でも違ったの!?」
自由になった手でマシューの髪を掴んで横へ引いた。同時に体をねじった。呆気なく、マシューは横倒しになった。
起き上がり、スーは街道へと走った。誰かが通りかかるかも知れない。何よりもDが歩いていった道だ。
「スー、待ってくれ。スー」
兄に似た声が呼んでいた。あれは兄ではなかった。別の生きものだった。
木立ちの間に大理石の道が見えた。
汗を拭いて、スーは足に力をこめた。
いきなり、眼の前に逆さまな女の顔が現われた。
「――!?」
悲鳴が喉に貼りついた。女が現われたのは、確かに自分の額から[#「額から」に傍点]だったからだ。
軽々と宙を跳んでスーの前に立った女の顔に見覚えはなかった。
「あ……あなたは……誰?」
舌がもつれた。名前は知らなくとも、正体は明らかだった。
「私はルシアン」
と隻眼の美女は言った。身体の線をはっきりと浮き上がらせた白いドレスは、水に濡れていた。いや、それは――
「あなたの汗よ」
とルシアンは両手を広げた。
「水は私の世界であり、私の通路、私の門《ゲート》。水ある限り、私から逃げることはできないわ」
にやりと不気味に笑って、
「いらっしゃい、私の世界へ」
白い手がのびて、スーの右手首を掴んだ。それは水の感触そのものであった。
跳びずさろうとしたが、足は動かなかった。
「ほうら、いい気持ちよ」
声と同時にルシアンは溶けた。人の形をした水塊と化したのである。それは、スーの手首から一気に全身を押し包んだ。
スーは必死に水の膜を破ろうとしたが、指はめり込むばかりで、空しく水を掻いた。
息が詰まる。吸い込んだ。鼻孔と口から水が流れ込んだ。咳き込んだ。吸い込むと、また水が入ってきた。
地面の上で溺死の運命がスーを捉えていた。
急に眼の前が暗くなった。
――助けて
声に出したつもりが、声にはならなかった。
――助けて、母さん……
……D。
不意に胃と肺から何かが逆流した。激しい蒸発音を聞きながら、スーは仰向けに倒れた。
たくましい腕がそれを支えた。
「マシュー!?」
叫んでから咳き込んだ。水蒸気がスーの顔を撫でた。
マシューは右手に火のついた枝を握っていた。焚火の一本だ。悶えるスーと、その身を包む水の膜を目撃した刹那、彼はすべてを察して、その火を水の膜に――ルシアンの身体に押しつけたのであった。
スーの身体から離れた水体は、地上にわだかまり、みるみるルシアンの姿に変わった。背中から陽気が立ち昇っている。
「ひとりずつと思ったが」
ルシアンは表情を消してから、あらためて、にんまりと唇を歪めた。
「兄妹揃って片づけてくれる。ほほ、そのような粗末な火、もう通用せんぞ」
「うるせえや――化物!」
マシューが一歩出て、松明《たいまつ》を突き出した。
ルシアンの右手が燃える先端を掴んだ。凄まじい白煙が噴き上がって、火は消えた。
ルシアンは右手を上げた。その手に指はなかった。漂う水蒸気に化けたのに違いない。
ルシアンが右手をふった。ふたたび指は揃った。
マシューはスーの前に立って庇った。その顔に汗が滲んだ。
「美しい顔じゃな」
と水妖が破顔した。
[#改ページ]
第六章 ラモアの砦
1
Dが身を伏せた巨木の向うに、白い人影が浮かんだ。
魔性の歌姫カラス。その歌声に魅入られて、森の木立ちはDの敵に廻ったのであろう。
「聞いておられますか、私の歌を? 美しいお方よ」
カラスはこう呼びかけた。その間も歌声は彼女の口から流れ出るのだった。
「こうなった以上、敵と味方。斃すか斃されるかが、選べる唯一の道です。よくお聞き下さいませ。一度であなたを楽に死なせてさしあげます」
「わしも手を貸そう」
もうひとつの影が木立ちの陰から現われ、カラスと並んだ。クールベであった。
「これ、カラスの歌ばかりではなく、わしの言葉も聞くがよい。いいか、この場で自らの心臓をえぐり出せ。そうすれば、我らが神もお喜びになる。――うっ!?」
最後に呻いてよろめいた理由は、その背中に食い込んだ懐剣だ。柄は真紅の宝石《ルビー》が嵌め込んであった。
「何をする……カラス?」
「よくも、私の邪魔をなさいましたわね」
と歌い手は冷やかに言った。
「私の歌声で、やさしく冥府のドアを叩かせてあげるつもりでしたのに、自らの心臓をえぐり出せなどと、おぞましい。さっさと、おくたばりなさいませ」
言うなり、何という女か、よろめくクールベに近づくや、背の懐剣を抜き取って、もう一度、心臓の上を刺し貫いたではないか。
堪らず倒れ伏すクールベには、もはや見向きもせず、カラスは片手を胸に当てて深く息を吸い込んだ。
その喉もとを、ひとすじの針が貫いたのである。
声もなくよろめいた歌姫は、折り重なった木立ちの間から、すっくと立ち上がる黒衣の影を見た。
「………」
何か叫ぼうとしたが、声は出なかった。
「おまえの歌声も、伝道師の言葉も聞こえん」
とDは言った。
「どうして……どうして私を?……あなたを安らかに……殺してあげよう……と……」
Dが音もなく近づくのを、カラスはよろめきながら陶然と見つめた。何処かに歓喜する自分がいた。
Dが右へ跳んだのは、次の刹那であった。
森の一角で炎が膨れ上がった。
ナパームの炎は、まずその風圧で木立ちを薙ぎ倒し、それから万物の核までを灼き尽くす準備に取りかかった。
ルシアンの手がのびてきても、マシューは動けなかった。
手が顔に触れた。
「濡れている」
と水妖は言った。
「まずは、おまえから」
それが吐くような声を上げて、身体を折ったのである。
海老のように曲がった鳩尾《みぞおち》を、丸太のようなものが背まで貫いていた。
それは途方もなく太く長い鋼鉄の槍であった。
両手で槍を掴みつつ、ルシアンは顔を上げた。見てはならないものを見たような表情が浮かんだ。
「おまえは……塵に……」
「汝、塵なれば塵に還れ」
と槍の柄の向うから声が聞こえた。
マシューとスーが同時にふり向いて叫んだ。
街道脇の炎に照らされた巨大な人影は三メートルもあった。
「ブロージュ伯爵!?」
まさしくそこに立つ巨人は、ブロージュ伯爵に間違いない。だが、マチューシャの村外れでキュリオと戦い、一敗地にまみれて塵と化したはずの彼が、なぜ、いま忽然と登場してきたのか。
「驚いたかな?」
と巨人は嘲笑した。愉しくて堪らないようである。
「ヴァルキュアを斃した男だぞ、わしは。その木っ端のような部下どもの術にかかったくらいで、おめおめと滅びると思ったか? 灰と血がある限り、わしは何度でも生き延びる。灰は自然にわしの車へ戻り、貯蔵してある血潮を浴びたのよ。わかったか?――なら、安堵して逝くがいい」
彼は槍を押した。それは抵抗もなくルシアンの身体を貫き、しかし、ルシアンの手は空を掴んでのけぞった。
「水になって逃れるか? できまい。わしの槍にこめられたエネルギーには逆らえん。この槍には、ヴァルキュアを斃すべく、御神祖の力がこめられておるのだ」
ルシアンの身体が突如、崩れた。
黒い土に広がった染みが、みるみる吸い込まれていく。
その上に炎の塊が投じられた。炎は直径二メートルにも広がり、三人の姿を照らした。
燃えさかる炎の下から、凄惨な悲鳴が聞こえたような気がして、スーは耳を押さえた。
「死んだん、ですか?」
とスーが訊いた。
「わからん。おまえたちの用意した化学燃料次第だ」
炎の塊のことである。
「ずっと――一緒に、いてくれたんですか?」
これはマシューである。
「ああ」
笑っている、とスーは感動に近い気分で考えた。貴族が人間に笑いかけている。
そして、知った。
「あなたがいて下さるのを知っていたから、Dさんはいなくなったんですね」
もう一度、巨顔を笑み崩しただけで、巨人は答えなかった。
スーは兄の手を掴んで、
「兄さん――『砦』へ行こう」
と言った。兄への嫌悪はまだどこかに残っていたが、気になるほどではなかった。もっとも、夜二人きりになるのは遠慮しよう。
「では、『砦』へ行くぞ。おぬしの好きなDも待ちかねておるじゃろう」
伯爵の巨大な手が肩にのった。意外と柔らかで、優しい触れ方であったが、スーはそれどころではなかった。
「な、なんなんです、それって?」
「ほう、赤くなった。図星とみえる。失礼だが、その年齢《とし》の娘なら三日も見ていれば、好きな男がいるかどうか一発でわかる」
「そんな――あたしは別に――」
耳まで真っ赤になったスーを、伯爵は不思議な眼で眺めた。そう、娘を見る父のような。
「しかし、おかしなものだ。恋だの惚れただのになると、貴族も人間も変わらんな」
スーは伯爵を見上げた。語尾の調子《トーン》がやや下がったのが気になったのである。スーは細やかな神経を持つ娘だった。同時に、彼女は、以前、何げなく口ずさんだ歌を、伯爵がもう一度聞かせろと申し込んだのを憶い出した。
「そういう女性《ひと》がいるのですか?」
スーは、伯爵にではなく、貴族一般について尋ねたのである。
だが、伯爵ははっとするような孤愁を顔に広げ、軽く肩をすくめると長槍を肩に乗せて、背後をふり向いた。
「馬車に戻って、行くか。道ができた以上、『砦』も復活しているだろうて」
夜気を押しのけるようにして、馬車と自走車は走った。
馬車の御者台で鞭をふるのは伯爵であり、兄妹は幌の中にいた。
スーはマシューと顔を合わせないようにして、幌についた窓から延々とつづく大理石の道と、それを照らしつづける炎を見つめて、感動の息を吐いた。
マシューの方も妹には何も話しかけず、ベッドに横になったままだった。
伯爵の出現とその戦いぶりを見て、彼は毒気を抜かれた。妹を求める黒い獣は姿を消していた。だが、伯爵はとんでもないことを口にしてしまったのだ。スーにもそれはわかっていた。だからこそ、口にできなかった。妹がDを愛していると、第三者の伯爵も認めたのだ。スーの本心は、そのときの反応を見れば明らかだった。
胸の中に消えたどす黒い獣が、いつか頭をもたげると、マシューは胸うつ不安に怯えながら認めざるを得なかった。それも、近いうちに。
馬車の揺れが急速に収まりはじめた。
幌の外から、
「着いたぞ、出ろ」
と言う伯爵の声が鳴り響いた。
すぐに馬車が止まり、御者台へ顔を出した二人が見たものは、おびただしい灯火に包まれてそびえる巨大な建物であった。
どう見ても石なのに、その表面は鋼のように艶光り、五、六〇メートルはありそうな巨大な建物を、幾本もの回廊がつないでいる。
窓という窓には皓々と明かりが点り、神殿らしい円柱で囲まれた建造物も見えた。
そのすべてを、三人の前方にそびえる城壁が囲んでいた。優に三〇メートルを越す城壁には、巨大な門が嵌め込まれ、彼らとの間は幅広く、深さもありそうな堀で隔てられていた。黒い水が灯火を映している。その異様な美しさに、スーは息を呑んだが、すぐ、あることに気づいてもう一度、遥かに深く息を呑まねばならなかった。
門が渡されるべき堀の縁で、黒馬にまたがった若者がこちらを見つめていた。
震えるのを通り越して、陶然となるしかない美貌は、決して笑みを浮かべてはいなかったが、スーの胸には熱いものがふくれ上がり、涙が頬を滑り落ちるのを感じた。
伯爵が馬車の手綱を手に取り、二人と二台とをDのかたわらへ導いた。
「待たせたな」
と彼は黒衣のハンターに声をかけた。
「橋を渡せ」
とDは言った。
彼なりの死闘を展開したにもかかわらず、疲労の翳などない。
「派手な音がしたな」
と伯爵は門の方を向いて言った。
「空から来た。気球船だろう」
「ふむ――話は後だ。開門」
巨腕が上がった。右である。
門はゆっくりと左右に開き、そこから長い黒い橋がのびてきた。
「先に行け――おぬしなら誰も文句は言わん。ミランダでさえも、な」
Dは黒馬を橋へと進めた。伯爵の言葉など意識もしていまい。近いものが先に入った方が手間取らぬ――それだけだ。
それきりこちらをふり向きもせず、長い橋を渡っていく後ろ姿が、スーにはひどく哀しく映った。
2
豪奢な一室に落ち着いたのは、それから三十分ほど後だった。
『砦』というのが、こんなにも贅を尽くした王宮のような場所ならば、たとえば『都』に残る貴族の宮殿などはどれほど絢爛たるものなのか。スーは考えてみたが、うまくいかなかった。
マシューと離れ離れになったことで、不安のひとつは消えたが、あくまでも当座の問題にすぎない。これから先どうなるかは、とりあえず考えないことにして、スーは窓から外を眺めた。
胸がどん、と鳴った。
すぐ下方の通路の端で、黒衣が風にゆれていた。
かたわらの壁には灯明が踊っている。それなりの風があるらしいのに、小さな炎はゆらぐばかりで消えず、黒衣の影を闇から救い出しては、また闇に呑み込ませた。
この美しい男性《ひと》は何を考えているのだろう。そう思って、スーは甘美な空想に浸った。その中で、彼はスーのことを考えているのだった。
別の、遥かに巨大な影がDのそばに近づき、スーの夢想を打ち砕いた。伯爵であった。
スーは窓から離れた。他人の話を立ち聞くような躾を母から受けてはいなかった。
それでも胸の高鳴りは一向に消えなかった。自分がどんな立場にいるかは承知しているつもりだ。
そんな中で、胸が熱くなるような想いを抱けるのがうれしかった。
――人間も貴族も同じだな。
誰かが口にしたそんな言葉が身体を横切った。
「とりあえず、上空に敵はおらん」
と伯爵はDに言った。
「一〇〇キロ四方を走査したし、偵察機も飛ばした。もう、何処かに着陸したと見るべきだろう」
「刺客はまだ残っている」
とDは答えた。伯爵もうなずいた。Dを襲った二人――クールベとカラスのうち、クールベは危ないが、カラスの方は生き延びている可能性が高い。Dの針を喉に受けたとはいえ、ヴァルキュアの七人と呼ばれる刺客のひとりだ。一方、伯爵が刺し貫いた水妖ルシアンも、その死を確かめたわけではない。
「だが、いくら彼奴とはいえ、このラモア『砦』の内部《なか》にまで侵入はできんぞ。御神祖の技術の粋を集めたセンサーが、一秒の休みもなく、『砦』から一〇キロ以内の地上と空と地下とを監視しておる。おかしなガスの一塊も潜り込めはせんよ」
「ヴァルキュアは神祖の技術とは無縁だったのか?」
「そんなはずはあるまい。我々が貴族の生活を維持していられたのは、御神祖の技術あったればこそだ。ヴァルキュア大公――絶対貴族とて例外ではあり得ぬ。しかし、奴に与えられた技術の成果は、御神祖の怒りを買った瞬間に、機能を停止させられておる。百度《たび》甦ろうとも、この砦をどうこうできはせん。ここにあの兄妹を置いて、どうだ、わしと二人、ヴァルキュア退治に出かけぬか?」
「よかろう」
とDは言った。
「おお!」
伯爵の巨顔が喜びにかがやいた。大貴族たる彼にとっても、この月さえかすませる秀麗な若者は、ひどく謎めいた存在だったのである。
伯爵自身、五千年の間に、何度となくハンターと戦い、苦もなく退けてきた。中にはダンピールもいた。
だが、この若者はそのどれとも異なる超変異種といえた。
まず、その美しさ。次に、その身に帯びた、伯爵すら怯えさせる雰囲気――鬼気といってもいい。これがある疑問を束の間、彼に抱かせるのだ。極めて近しい雰囲気の持ち主を、伯爵はひとりだけ知っていた。まさか。いや、しかし――Dと会ってから、正直、数千、数万回も、問いと否定を繰り返す日々であった。
伯爵は夜の暗黒を凝視しつづけているDを見つめた。それから、柄にもなく息を吸い込んで、決意を強固にした。
「訊きたいことがある」
Dは身じろぎもしない。興味のかけらもないという素振りである。構わず、伯爵は話しかけた。
「おぬし、御神祖の――」
声の最後を警報が掻き消した。
伯爵は眼を空中の一点に据えて、
「何事だ?」
と訊いた。
頭の中に機械の声が広がった。
「西より飛行物体が接近中。高度一五〇〇、時速二〇〇キロ、気球船と思われます」
「三十分で来るな。撃墜しろ」
と命じてから、Dに、
「おぬしの言っていた空からの刺客だな。まあ、見ておれ。ミサイル一発で射ち落としてくれる」
自信たっぷりに断言した。
断言するには早急すぎたようだ。
ミサイルは発射された。命中もした。彼方の闇に青い火の花が咲いた。それでも気球船は墜《お》ちず、悠々と近づいてくるのだった。
夜空を真紅の光条が切り裂き、飛行体を直撃した。レーザー・ビームと粒子ビームの乱舞であった。一〇〇メートルの岩盤を瞬時に貫くエネルギー照射も、気球船の突進を阻止はできなかった。
次々に繰り出す手段もことごとく無効となり、砦の最上階にある戦闘指揮所でモニターを見つめる伯爵の渋面にもかかわらず、標的は砦の上空にさしかかろうとしていた。
「かくなる上は、あの船に乗り移って」
手にした長槍をひとふりする伯爵の背後で、
「好きにさせろ」
とDの声が言った。いつの間に、と眼を剥く伯爵へ、
「向うも、神祖の技術を応用してある。無駄な攻撃をつづけるよりも、内部《なか》で仕留めるがいい」
「敵を砦内に入れるつもりか? バリヤーを張れば、誰も入れんのだ」
「その代わり、こちらも出にくくなる。放っておけば、ヴァルキュア自身が乗り出してくるかも知れん。あの二人を不必要な危険にさらすわけにはいくまい」
「もっともだな」
巨人は腕組みしてうなずいた。
「砦内にも迎え撃つ準備は完璧だ。メカの手は借りぬ。この槍でどいつもこいつも串刺しにしてくれる」
Dは周囲の影に眼を走らせた。
どれも巨大なアンドロイドである。
「敵は我々も狙ってくるだろう。ひとつ、我々と同じ目に[#「同じ目に」に傍点]遇わせてくれる」
にやりと笑った唇から、鋭い牙がのぞいた。彼は貴族なのだった。
『砦』の敷地の真ん中に達するや、気球船は急速にしぼみはじめた。ガスを抜いたのである。
原形を失い、皺だらけになりながら、しぶとく降下してくる全長一〇〇メートルの気球船は、奇怪な空中生物のように見えた。
「ふざけた奴めが――空気を抜いて降下するとは、な。見つけ次第、わしが仕留めてくれる」
気球船の残骸が神殿のすぐ前――大階段にも少し触れるように地上にわだかまるのを確かめ、伯爵は長槍を手に指揮所を出て行った。
エレベーターへ向かって廊下を歩きながら、伯爵はようやく、指揮所にDがいなかったことに気がついた。
「敵はあの説教師じゃろうな」
左手の声は風に流れた。
長い廊下をDは移動中であった。どう見ても石づくりの廊下は、しかし、かなりのスピードで前方へ流れた。別の方角へ行きたければ、廊下の交差点で別の流れに乗れば済む。
「コンピュータすら、説教に従わしめる男だ。人間など、ひとことで刺客に仕立てられるだろう。加えて、奴め、“シグマ”の端末に乗り移られている恐れがある。このままでいくと、血の一滴も流さぬうちに、砦は乗っ取られるぞ。気がつくと、周りはみな敵じゃ。耳栓の用意はいいな?」
Dの耳孔をふさいだ栓は、カラスの歌とクールベの言葉には効果があったようだ。キュリオの説教にも効くだろう。だが、キュリオに憑いた“シグマ”の刺客には。死者を甦らせる能力《ちから》は耳栓ひとつで防ぐわけにもいくまい。
「キュリオと分離すれば、敵は二人になる。ふむ、なかなかに厄介な話だぞ」
Dは答えない。戦闘指揮所を出てから十分以上が経過していた。彼は何処へ行こうとしているのか。
さらに五分ほどして、それは明らかになった。
流れる廊下は巨大な扉の前で停止した。
扉の表面は滑らかな黒曜石のかがやきを放っているが、周囲の壁には、奇怪な生物や世界を描いた彫刻が飾られ、それが扉の無機質ぶりとその奥に潜むものの不気味さを強調していた。
「何をしている?」
天井から、ブロージュ伯爵の声が降ってきた。
「そこは砦の中心だ。反陽子コンピュータ・ルームだぞ。いかにお前とて侵入はできん」
「なら開けろ」
Dの反応はにべもない。
「遺憾ながら、わしもひとりでは何ともならぬ。砦をこしらえた三人の持つキイを同時に差し込まねば、その扉は開かん。ギャスケルは滅び、ミランダは行方知れずだ。わしにもどうにもならん」
「役立たずが」
と罵ったのは左手であった。
「――何か言ったか?」
答えず、Dは前へ出た。
「やめい!」
はっきりと恐怖をこめたブロージュの声に、機械の合成音が重なった。
「この門《ゲート》を通過するには、三つのキイが必要です。ご提示下さい。ご提示なく前進する場合は、侵入者と認め、排除いたします」
すでに不可視の武器がDに照準を合わせているに違いない。
驚きの声が上がった。
Dは何事もなく扉の前に立ったのである。
「その防御システムは、御神祖の技術が応用されておる。どうやっても停止は不可能。Dよ――おぬしは何者だ?」
無論、返事はない。
扉の前で、Dはその表面に左手を当てた。
見えざる伯爵の視線が、黒衣の美影身に集中する。
十秒……二十秒……
「お、おお!?」
まぎれもない大貴族の驚愕の叫びであった。
見よ。神祖の力が守る巨大な扉が、音もなく左右に開きはじめたではないか。
3
広い廊下をブロージュ伯爵は肩をいからせて進んだ。
顔には怒気が波打っている。たかだか気球船に砦上空への侵入を許し、あるまいことか、搭乗員まで忍び込ませてしまった。
それは、着陸地点近くのセンサーや警備アンドロイドが、ことごとく、誰も見なかったと証言したことで明らかになった。念のため彼らを調べると、メモリー・ボックスに侵入者のデータが残っていたのである。
朱色の長衣をまとった侵入者は、気球船の上空侵入時点で、ひとり降下してのけたのである。広場の一角に隠してあった不可視装置つきの飛行ベルトも見つかっている。
このままでは、砦内のメカすべてが敵に廻ることもあり得る。科学技術の粋を凝らした砦は、その最大の長所が、いま、守るべき者たちの最大の脅威と化しているのであった。
人気のない廊下の前方に、曲がり角が見えてきた。
左方から、ひょいと人影が現われた。警備用のアンドロイドであった。
両手と胸部に二基ずつ熱線砲《ヒート・キャノン》を装備している。
伯爵を確認すると同時に、胸のライトが束の間点滅したが、チェックに異常はなかったらしく、そのままかたわらを通過していった。
伯爵の全身を六〇万度のシャワーが襲ったのは、数秒後であった。
ひと声上げる暇もなく、伯爵は灰と化して床に散らばった。
背後で両手の熱線砲をようやく下ろしたのは、すれ違ったばかりの警備用アンドロイドだった。
キュリオの説教を聞いたのか、“シグマ”の憑依体に乗り移られたのか、或いはその両方か。すでに電子脳を敵の精神《こころ》に奪われたアンドロイドは、いとも簡単に呆気なく、大貴族を灰と化したのである。
胸のセンサーで伯爵の消滅を確認すると、アンドロイドは静かに向きを変えた。
その前方に巨大な影が立っていた。支配された電子脳に、わずかな驚きのパルスが生じた。
熱線砲の発射スイッチをオンにするより早く、飛来した長槍はその胸を貫き、断末魔の火花を噴き上げた。
「勿体ないことを」
と伯爵がごちたのは、焼失したアンドロイドにかぶせた人工皮膚は、その容貌のみならず、体内の諸器官までも模造してみせるからだ。警備アンドロイドのセンサーが、体内までのセンシングを行っても、伯爵を自分の仲間と識別するのは不可能なのであった。勿体ないとは、その開発にかかった膨大な費用をさしている。
黒煙を噴き上げたまま横たわる警備アンドロイドをしげしげと眺め、伯爵は顎に手を当て、太い眉をひそめた。
「一台見つかれば百台は仲間がいると思わねばなるまい。すでに、どれほどが汚染されているか。これは、Dのやり方が正しかったようだ」
チャイムが鳴った。これは金鈴のようにスーの耳の内側で反響した。
ドアに近づき、
「どなた?」
と訊いた。ドアの外で生じている死闘を、スーはまだ知らない。
「わしだ」
とブロージュ伯爵の声がした。
スーはロックを解除し、ドアを開けた。
頭を下げて入ってきた伯爵は、何か巨大な物体のように見えた。
「ちと、トラブルが生じた」
と彼は言った。
「済まんが、一緒に来てくれ。Dのいるところへ移す」
「え?」
スーの表情が、恐怖より歓びを選んだ理由はいうまでもない。
じろりとそれを見て、巨人の口もとにも素直な笑いが浮かんだ。
「すぐに出るぞ」
「はい」
まず伯爵が、つづいてスーがドアをくぐった。
外にはマシューが立っていた。
「二人一緒だ。ついて来い」
Dは白い光の中に立っていた。両手はせわしなく、床からせり出した白い水晶のような装置の表面を叩いていた。
装置はコントロール・パネルであり、形もまた水晶に似ていた。設計者の趣味だろう。
すでに三十分以上、Dはパネルに取り組んでいた。眼の前にコンピュータ本体の姿はない。広さもわからぬ室内を埋めるのは、おびただしい光――光点の集積ばかりだ。合わせれば兆を越えるだろう。
光点に見えるが、もしも、その速度を計測したら、秒速三〇万キロを超えるのがわかるだろう。光よりも速い物質がここにあった。
物体が光速に近づけば近づくほど質量は増大し、光速寸前に限りなく無限大に接近する。光速を超えられないのはこのためだが、いま、この反陽子コンピュータに使用されている情報伝達物質は、それ自身の質量がマイナスのタキオンと極めて類似しているのであった。
「“シグマ”より、こちらの方が伝達速度は速い。従って、向うが否定、破壊、消失する前に、自壊せよとの指示も送り込めるはずじゃが、ふうむ。さすがは“シグマ”。プロテクトも完璧に近いの。タキオンでも破れんか」
左手の声は固い。
「こちらへ送り込まれている“シグマ”の端末は二つある」
とDが言った。
「ひとつは別の場所にいる」
「ふむ」
「もうひとつは近い」
「ふむ――ん!?」
何げないDの口調に、嗄れ声は激しい動揺を示した。
「――ど、どこにおる!?」
「そこだ」
Dはふり向いた。自分のやって来た入口が、光のどこかにあるはずであった。
それと思しい場所に、巨大な影が立っていた。
「伯爵じゃの」
「入れたのか」
とDがふり向きもせず訊いた。両手は相も変わらず、水晶の上でせわしない動きを示している。
「何の用だ?」
「何をしている?」
「侵入した端末の捜査だ。ひとつはわかった」
「ほう」
「“シグマ”はこちらのコンピュータにも介入してきている。たとえば、キイなしでも入れるように」
二つの意志が死を乗せて走った。
伯爵の長槍がDの背から胸を貫き、それが忽然と消え、残像だと知ったとき、馳せ寄ったDの逆流《さかなが》れに迸る一刀――伯爵の股間から右乳の下まで一気に斬り上げていた。
青い火花と電磁波に総身を彩られつつ、巨人はその場に崩れ落ちた。全身が痙攣し、機械にあるまじき生々しい断末魔を見せる。眼の光が失われる寸前、電磁波の先から、まばゆい球体が現われ、何度か床と壁にぶつかって消滅した。
Dはふり向いた。
コントロール・パネルを長槍が貫いていた。
「治せるか?」
と訊いた。
「わからんが――やってみよう。早う行け」
伯爵に化けたアンドロイドが敵の術中にはまった以上、スーとマシューが気になった。素朴な田舎の兄妹は、伯爵もどきを疑いもしないだろう。
長槍を掴んで一気に引き抜いてから、Dは左手を前方へ突き出した。
白光が一閃するや、左手首から先は、自らの意志によるかのごとく、勢いよくコントロール・パネルに跳びついた。これからは、彼[#「彼」に傍点]が“シグマ”に挑むのであった。
外へ出てすぐ、Dは眼を閉じた。意識を集中している風である。一秒もかけずに眼を開いてから、
「スーとマシューの部屋へつなげ」
と言った。
間髪入れず、脳の中に応答が生じた。
「おりません」
「何処だ?」
「不明です」
「誰か連れ出したものがいる――探れ」
「ブロージュ伯爵です」
不意に、強烈な“声”が入り込んできた。並の人間なら脳が灼きついてしまいそうな迫力に富んでいる。
「わしだ――二人を連れ出してなどおらんぞ」
「………」
「どうやら、キュリオではなさそうだな。奴なら、すぐに殺しておるだろう。Dよ、おぬし、それを見越して、気球船の乗組員を内部へ入れたか」
「おまえの顔をしたアンドロイドは何体いる?」
「五体だ。うち一体は斃された」
「おれので二体――あとの三体は見つけ次第破壊しろ」
「勿体ないことを」
「十中八九、敵はキュリオに憑かれている。奴でなければ、まとめてセンサーの眼をくらませることはできまい。――術にかからないセンサーはないか?」
伯爵は沈黙した。
「なら、造るしかない。――工作室はどこだ?」
「案内しよう。わしの声に従って来い」
石の床は猛烈なスピードでDを運びはじめた。
ちょうどその頃、スーとマシューは、ひどく物騒な場所にいた。
いつ果てるとも知らぬ広大な空間を、大小の武器や兵器が埋め尽くしている。
レーザー・ガン、粒子砲、次元渦動発生装置、重力場コントローラー、反陽子手榴弾《グレネード》、原子力戦車、単座ロケット・ヘリ――どれも実弾とエネルギーをこめられ、燃料も満タン。スイッチひとつで実戦投入が可能な状態で待機中であった。
伯爵が偽者だというのはわかっていた。ここへ導かれた二人を待っていたのは、Dにあらず、朱の色の長衣をまとった死人のような男だったからである。
「私はキュリオという」
凍りつく二人に、彼はそう名乗り、奇妙なことを口にした。
「もっとも、いまは“シグマ”様に仕える身だが」
「おまえは、ヴァルキュアの――?」
マシューは震える指でキュリオをさした。
「そのとおり。あなた方にとっては幸いだった。私の新しい主人は、あなた方の生命に興味はない。むしろ、Dにある」
「――Dに? どういう意味?」
スーが我を忘れて身を乗り出した。マシューが凄まじい視線を当てたが、スーは気づかない。
「何も知らぬのか? そうだろう。誰であろうと、身の上話をするような男では、貴族狩りなど務まらん。それだけに、厄介な男でもある」
「おれたちに用がないのなら、帰してくれ!」
とマシューが叫んだ。
「そうはいかん。用はある。いま、それを果たしてもらおう。娘よ、Dと会えるぞ。感謝するがいい」
長衣の下の、死人みたいに濁った眼に自分の姿を認めて、スーは足から凍りついていくような気がした。
[#改ページ]
第七章 サイバー・アサシン
1
反射的にスーは逃げようとした。その肘をキュリオの手が掴んだ。脳髄まで痺れた。
膝から崩れる妹がマシューを狂乱させた。
頭からキュリオの腰にぶつかった。呆気なく長衣姿は跳ねとばされた。勢い余ってマシューも五、六歩進み、ようやく踏みとどまった。
キュリオは床に倒れている。マシューは青ざめた。ぶつかったとき、キュリオの身体からは生体反応が感じられなかったのだ。
「そいつは抜け殻よ、お兄さん」
スーの声であった。なぜかマシューはふり向けなかった。
「いまは私が代理」
「スー」
「そいつはもう、とうの昔にDの針のせいで死んでいるの。でも、私が入ればまた甦る。それまで、ここに保管しておくわ」
ようやく、マシューはふり返った。
スーが立っている。いつもの明るい、線は細いが、気丈な妹だ。
だが、どこかが違う。
「では、行ってきます、お兄さん」
スーが恭しく一礼した。
「ど、どこへ行くんだ!?」
「私の愛する人のもとへよ。わかってるくせに」
「やめろ」
スーがDのもとへ行く。マシューは地を蹴った。彼が考えていたのは、このことだけだったのだ。
「じゃあね、お兄さん。おとなしく待っていて。ああ、身体が燃えるわ」
口汚い悪罵をマシューは耳にした。自分が放ったものだとは気がつかない。やめろと叫びつつ、スーに抱きついた。
腕の中でスーが回転した――と思う間もなく、右の顎に強烈な衝撃が炸裂し、彼は吹っとんだ。床に肩から突っ込んだとき、もう意識はなかった。
突っ伏した兄の姿へ、冷酷この上ない視線を浴びせて、スーはにんまりと笑った。
「後で聞かせてあげる。あなたが抱こうとした妹が、どんな風に愛しい男を篭絡《ろうらく》するか」
「よし、修理は完全――とはいかんが、時間がない。これで行くぞ」
コントロール・パネルの上で左手が拳を握った。加えて、パネルを叩いた。物理的にはあり得ない行為であった。
「おお!」
と彼は驚きの声を上げた。
「“シグマ”め。もうひとつ、端末を送り込みおったか。くそ、修理中で手が出せんかったわ。Dよ、気をつけい。“シグマ”よ――わしと勝負じゃ」
その刹那、凄まじい電撃が左手を直撃し、パネルから跳ねとばした。
床へ落ちた手は、黒い煙を噴いていた。
「くそったれ」
と罵って、左手は指を立て、パネルの方へと前進を開始した。シュールな光景であった。手首がくそったれと言うのは、もっとシュールだが。
近くで、地面が揺れている。巨大なものが近づいてくるのだ。
歌って迎えようかと思ったが、身体も喉も動かなかった。
地響きはすぐに熄み、何か巨大なものが、上から覗き込む気配が降ってきた。
誰かが名前を呼んだ。
「カラス」
閉じていた瞼が、徐々に開きはじめた。
「そのお声は――」
嗄れてはいるが、声も出た。
「ヴァルキュア様」
「いかにも、ヴァルキュアだ」
と声は言った。
「私のみではない。スーラもここにおる」
「それは……」
額に何かが触れた。手であるべきだと思う。しかし、それは虚無の大深淵の一部であった。
「よい、休め」
と声はやさしく言った。
「そこにいるのはクールベか。ふむ、黒焦げだが、致命傷は背中の傷だ。おまえの仕業だな」
「………」
「Dに惚れたか、あの美しさに――隠すな、無理もない」
静謐といってもいい口調である。いたわりの精神《こころ》もこもっている。それなのに、カラスは胸の底から湧き上がってくる不安と恐怖を抑え切れなかった。
「私も興味がある。ただのハンターにしては、彼奴、あまりにも強すぎる。恐らくは、私の戦う最強の敵となろう。だが、所詮は混血の出来損ない。最後には私が勝つ」
途方もなく濃密で分厚いものが全身を包み、カラスは窒息しかけた。わかっている。ヴァルキュアの精神の「動き」そのものだ。
「ひとたび死ね、カラスよ、クールベよ」
と絶対貴族の声は宣告した。
「そして、また生きよ。新たなヴァルキュアの刺客となって。その間に、私は砦内の奴らにひと泡吹かせてやろう」
闇がカラスの脳を埋めた。
工作室を出たところで、Dは回廊を近づいてくる小さな影を見た。
工作室へ入ってから十五分と経っていない。キュリオの言葉に従わぬセンサーが出来上がったとは思えない。
「D――D――」
一層、速度を早めてきたのはスーであった。
夢中でしがみついてきた。
「怖かった。逃げてきたんです。兄さんはまだ下にいるわ」
「誰が連れ出した?」
「伯爵です。あの人――憑かれてしまったんだわ」
「どうやって逃げた?」
「隙を見て。私、気絶したふりをしてたんです。伯爵もキュリオも、その間にいなくなってしまった」
「兄さんはどうした?」
「私とは別の部屋に入れられました。私が逃げてしまったから、ひどい目に遇わされていないかしら」
スーの眼に涙が光った。
「場所は何処だ?」
「地下の――」
スーは顔をそむけた。頬が桜色に染まっていく。
「言えません。――来て下さい」
「ここにいたまえ」
「嫌です。それに、また伯爵が来たら――いえ、伯爵に憑いた何かが、別の誰かに乗り移っていたら」
「おれから離れるな」
スーの顔は喜びにかがやいた。
その左手にすがりつき、
「ええ、絶対に」
と言ってから、俯いて笑顔をつくった。人間の性質《さが》悪なりと誰もが思いそうな笑顔だった。
スーを背中に乗せて、Dは廊下を走り出した。
「ここです」
スーが告げたのは、青い扉の前であった。
スーを下ろさず、Dは扉を押した。
軽やかに開いた。
ひと目で脱衣場とわかった。壁の窪みに金属製の篭がのっている。
香料をたっぷりと含んだ空気が鼻をついた。明らかに催淫剤が混じっている。スーが口に出せなかったのが、このためとは思えなかった。
「奥です」
とスーは前方のドアを指さした。大理石の壁に嵌め込まれた青銅のドアである。貴族は使用する金属にも古風なものを選んだ。
Dはドアを開けた。
スーは下ろさない。
香料の匂いは、脱衣場とは比べものにならないほど濃密になった。
「兄さんはここにいるはずよ」
スーの声は大人の女のそれのようであった。
2
Dの脳裡に、この部屋の用途が閃いた。すべては伯爵から借りた砦の設計図を一瞥しただけで、記憶済みである。
浴室――と常人は呼ぶだろう。ただし、使用者は常人ではなかった。
大理石の床は、なみなみと緑の湯を湛えた浴槽であった。
使用者のことを考えてか、鏡は置いてない。
ゆらめく蒸気がDの周囲で渦を巻き、固まり、人の形を取りはじめた。
全裸で妖艶この上ない美女たちがそこにいた。
もしも左手がいれば、
――ブロージュの好みか
と揶揄したことだろう。
浴槽の湯も、いまや妖しく沸き立ち、こねくって、形を取るのは豊かな乳房と太腿と濃艶な美女の顔だ。貴族が水を苦手とすることを考え合わせれば、湯ではなく、変身能力を付与された、ある種ゲル状の軟物質であろう。
この砦の一室で、ブロージュ伯爵は創設者ならではの特権的快楽に浸っていたに違いない。
Dの首に腰に肩に、白い腕が絡まり、太腿が巻きついた。蒸気の女たちである。
Dは無言で立っている。
――こりゃ、絞り取られるぞ
と左手なら言うだろう。
だが、次の瞬間、白い女たちはDから遠ざかり、みるみるもと[#「もと」に傍点]の蒸気に還元してしまった。
Dの背で、茫然とつぶやくスーの声が聞こえた。
「あたし……わかるわ。あなたが美しすぎるから、自分たちが恥ずかしくなってしまったのよ。……なんて男性《ひと》」
「マシューはどこだ?」
尋ねるDの首に、スーの腕が巻かれた。
うす紅に染まった肉感的なそれは、断じて十四歳の少女のものではなかった。
「知らないわ、あんな兄貴」
Dの耳もとで、スーの声は妖しい女の響きを伴って鳴った。
「今頃、武器庫の中で震えてるわよ。それより、あたしのこと、どう思う?」
Dの胴を白い脚が締めつけた。大人の女の脚が。
「この浴室には、とても素敵な効果があるのよ。どんな小さな女の子でも、百歳のお婆ちゃんでも、登録した使用者の好みの女性に仕上げてしまうの。今のあたしは、だから、ブロージュ伯爵の好み。でも、あなたはどう?」
Dは動かない。
「――どうやら、お好みではなさそうね。残念だわ、D。それでは別のやり方で、愛していただくわ。あなたに」
Dの首が、かすかに痙攣した。
“シグマ”の魔性が乗り移ったのだ。スーの身体がその背から滑り落ち、床に転がった。
Dは壁際までよろめき、片手を当てて身を支えた。
長い吐息が唇から洩れ、それが二度、三度と重なって、五度目には尋常なものに戻っていた。
マシューは眼を剥いた。
ドア脇に立って自分をねめつけていた伯爵が、その姿勢のまま、どっと前方へのめったのだ。想像以上の音が空気をゆすったが、地響きはゼロだった。この瞬間、砦のセンサーの一部、アンドロイドのうち数十台は、いっとき作動不能に陥り、数秒後、復活するのだった。
マシューは立ち上がり、もうひとりの敵――キュリオの方を見た。ぴくりともしないのを確かめ、恐る恐る近づく。
転がっているのは、土気色の顔に死の色をまざまざと刻印した男だった。
マシューが同じ足取りでドアまで近づいたとき、伯爵の身体が、山が動くように向きを変えた。悲鳴を残して、彼はドアへと走ったが、それは開かず、スイッチを探り当てることもできぬまま、彼はふり向いて、ゆっくりと起き上がる巨人を見つめるしかなかった。
砦の中心では、人知れぬ死戦がなおもつづいていた。
「見事だの“シグマ”」
と左手は半ば呆れ、半ば感嘆の声を、遥か彼方の敵に送った。
手首から指先まで、それは黒く焼かれていた。
「大した強情なプロテクトだ。だが、こちらに力を使いすぎたよ。いよいよ、最後だ――む?」
コントロール・パネルに表示された文字と数字の羅列を読み取って、左手は舌打ちした。
「そっちもしんどいはずだぞ。この上、新しい端末を送り込もうとするか」
焼け焦げた身体[#「身体」に傍点]の上で、光が明滅した。周囲の光点は断末魔の様相を呈しているのだった。“シグマ”の攻撃は、左手に留まらなかったのだ。
姿も色も気配もなく、人間やメカニズムにとり憑き、死者さえ復活させる“シグマ”の端末。これ以上増えれば、Dの手にも余るのは明らかであった。
ぐったりとしたスーを肩にDが浴室を出たとき、廊下をブロージュ伯爵とアンドロイドの一団がやって来た。
「突然、センサーもアンドロイドも常態に復した。おぬしの手柄だな。“シグマ”の手先は何処だ?」
Dは右手の人さし指でこめかみに触れた。
伯爵は眉をひそめ、それから驚愕の表情と長槍をDに向けた。
「頭の中に――おぬし、まさか!?」
「センサーは戻ったはずだ」
この言葉の意味を伯爵が理解するまで、数秒を要した。
「――奴は、死んだのか?」
うなずくDを見て、
「自分にとり憑かせ、意志の力で破壊した、か。Dよ――おまえは一体、何者だ?」
「マシューは何処だ?」
とDは訊いた。
「地下の武器庫だ。わしに化けたアンドロイドが一緒だ。じきに連れてくるだろう。それより、その娘は?」
「背伸びのしすぎだ」
伯爵はきょとんとしたが、すぐにふり捨てて、
「病院へ連れていけ。名医がいる」
と言った。
先導する伯爵の後につづきながら、Dは右手をコートのポケットに入れて、機構が剥き出しの、十五分即製センサーに触れた。
憑依者を感知するこのメカニズムの索敵第一号が、スーだったのは言うまでもない。
彼女の誘いに乗ったのは、無論、自らに憑依体を乗り移らせて処分するためだ。スーを気絶させることも可能だが、憑依体が出てこなくては困る。
だが、大人の女に変化《へんげ》したスーの妖しい誘いは、単に憑依体の意志にのみよるものであったのか。
アンドロイドの背で、スーはいつの間にか安らかな寝息をたてていた。
自分を見つめるDの眼に感情のゆらぎさえ存在しないことを、幸運にも少女は知らなかった。
廊下の向うから、もうひとりのブロージュ伯爵とマシューの姿が見えた。
照明が消えたのは、その瞬間であった。
警報が鳴り響き、機械の声が砦中を渡った。
「全方位より攻撃あり。距離は五〇〇――各員戦闘配置につけ。繰り返す、全方位よりの攻撃あり。各員戦闘配置につけ」
3
敵は忽然と、まさしく忽然と現われた。砦の三次元レーダーが存在を確認したときにはすでに、堀の外に隊列をしいており、迷彩色の軍装に身を包んだ兵士たちが、堀を渡るべく、橋の架設作業に取りかかりだしたのである。
バリアーを張る寸前、遠方から次元渦動ミサイルが一発射ち込まれ、倉庫群の一部が異次元に吸い込まれたものの、以後の攻撃はすべてバリアーが無効とした。Dたちが聞いた警報は、初弾とそれ以後のものだったのである。
スーとマシューとブロージュが超高速エレベーターの中に入ると、せっかちな伯爵は、先に指揮所へ行くと、後方のDに告げてドアを閉じた。
後には、マシューを連れてきた伯爵もどきのアンドロイドが一台残った。自分で造ったわりには、自分が二人いるのは耐えられないらしく、降りろと蹴り出されてしまったのである。
アンドロイドの伯爵は、無言で、近づいてくるDを見つめた。
Dと伯爵の眼が合った。
Dは何かを感じたのである。
大きく右へ跳ねた、そのもとの位置へ、唸りをたてて落下した長槍は、石床に亀裂を生じさせるパワーを発揮したのである。
Dも一刀を構えた。
「憑かれていたか」
淡々と言った。憑かれていようといまいと、この若者には毛筋ほどの関心もない。
「よくわかったな」
伯爵は破顔した。
「わしは、マシューといるとき、憑かれた。矛を交えてもらうぞ、Dよ」
「“シグマ”の端末か?」
「そうだ」
三人目――左手が指摘した“新しい”敵だが、Dが不思議とも思わぬのは言うまでもない。この若者にとって、敵は斃すための存在――それだけだ。
伯爵が間合いを詰めた。Dに小細工など無駄だと、憑依者もとうに見抜いている。つづけざまに長槍で突いてきた。
パワーからすれば、誰がどう見ても問題にならない。受ければDの刀身は折れ、跳ねとばされてしまう。
いや、受ける前に、伯爵の繰り出す槍の迅速さよ。一秒に三十度、そして、Dはそのすべてをかわし、受けた。
その受けの凄まじさよ。伯爵は四メートルの距離から一歩も動けなくなった。両手が痺れた――機能不全に陥ってしまったのだ。
死力を尽くしてもうひと突き――スピードも鋭さも最高であったが、攻撃そのものがパターン化していた。
凄まじい膂力《りょりょく》で長槍を弾き返すや、Dは地を蹴った。
黒い流星と化して巨人の胸もとへ飛ぶ。
がっと食い込んだ。その若者の一撃に、人間も貴族もアンドロイドもない。
Dの一刀は急所――胸部の電子脳を刺し貫いていた。
電磁波が四方へとのび、Dの美貌を青く染めた。
刹那、世界は激しく揺れて、二人の頭上から膨大な構造材と石塊とが落下してきた。
バリアーが消滅し、射ち込まれたミサイルの一発が、Dたちの戦う階上に命中したのである。
「やったぞ!」
半ば溶けた水晶の上で、黒い手首が絶叫した。
「見たか“シグマ”――おしまいだ、覚悟せい!」
拳を握って躍り上がる左手の周囲で、急速に光点が失われていった。
「いかん、こちらもやられたか。だが、二秒で復活する。Dよ、我慢せい」
この二秒の間に、ミサイルが炸裂したのだった。
Dが瓦礫の山から脱け出したとき、伯爵もどきの姿はどこにも見えなかった。
下敷きは、最も信じられぬ結論であった。
二秒後、バリアーは復活したが、その間に敵は飛行装置で堀を渡り、三十人ほどが砦内に侵入した。
レーザーとミサイル、粒子砲がこれを迎え撃った。
神祖の技術を応用した防御体制の前に、敵兵士は次々に斃れ、一時間足らずで全員掃射されてしまった。
ほどなく、指揮所にいるブロージュ伯のもとへ、敵兵の死体が届けられた。
ひと目見て、伯爵は眉をひそめ、死体をつまみ上げた。
「何じゃ、これは?」
それは、長さ五センチにも満たない枯枝であった。
伯爵[#「伯爵」に傍点]はよろめきよろめき通路を進んでいった。
当てなどない。Dの一撃で破損した電子脳は、伯爵の顔を持つが故に、特に与えられた補助電子脳の助けを借りて、その足を運ばせているにすぎなかった。
だが、敵の攻撃はあまりに鋭く正確であった。
その衝撃と破損は補助脳にも及び、彼はついに人気のない廊下の一角で横倒しになった。
死を自覚せぬまま死を待つ彼の頭上に、このとき、途方もなく巨大で凶悪な気配が広がったのである。
「ふむ、“シグマ”の端末か」
と声は言った。彼に触れもせず。
「ならば、憑依もできよう。まだ移る力はあるか?」
敵か味方か――彼には判断もつかなかったが、なぜか逆らう気にもなれなかった。彼の電子の気力さえ吸い取るような存在が、そこにいたのである。
「スーラよ、手を出せ」
彼は、顔の上にかざされた巨大な手を見つめた。彼が憑いたアンドロイドほどもある。しかし、声の主のものではあり得ない。それはわかる。いかに大きくとも、これはこの世の生き物のものだ。だが、声の主は違う――根源的に違うのだ。
かざされた手へ、彼はかなりの力を使って右手を重ねた。最後の憑依も、いつものように劇的なクライマックスとは縁のないものだった。
「よし」
と言う声が聞こえたとき、彼はスーラと名乗る新しい人格の中にいた。
「何だ、おまえは?」
伯爵は、前方を行く巨大な影に声をかけた。
影は足を止め、ふり向いた。
「ほお」
思わず声が出た。
伯爵とほぼ同じ体格を、影は戦闘士の定番ともいうべきブルーのシャツと黒いベストに包み、腰のベルトからひとふり――長剣をさしていた。スラックスも、手袋も黒だ。
「何者だ?」
「スーラと申します」
巨漢は両足を揃え、軽く頭を下げた。眼だけは伯爵から離さない。
「ヴァルキュアの七人のひとりだな?」
その名に記憶があった。
「さようでございます。あなたはブロージュ伯爵様。ちょうど、ようございました。ミサイルの爆発に乗じて侵入しましたものの、肝心の子供たちがどこにいるか、わかりかねていたのです。お教え下さい」
「ふむ。嫌だと言ったら?」
「やむを得ません。剣にかけて」
巨漢の右手に刀身が光った。いつ抜いたものか。
ヴァルキュアの七人――最後のひとり、スーラ。ここで大貴族とまみえる。
外ではなお戦闘がつづき、そして、Dよ、何処にいる。
『D―邪王星団2』完
[#改ページ]
あとがき
待ちわびる朝の光、夜の熱気の中で。
――と、これは「夜の大捜査線」の中で、レイ・チャールズだか誰かが歌った一節でしたが、待ちわびる黎明がさしても、原稿は進まず、自宅で原稿を待っていた担当のI氏は、ついに出社してしまう有り様。
もう明日はない。こう言い渡されて、ようやく最後の一枚を書き終えたのが、朝の八時少し過ぎ。もう百枚を二日でやる年齢じゃありませんですね。
で、アニメ版「バンパイアハンターD」の話ですが、正式な上映はまだ未定。来年の四月頃になりそうですが、さて。
ただ、今年十二月二日に予定されている「ソノラマ文庫二十五周年記念イベント」で、上映されるようですが、日本語版の製作はまだ。「夕張映画祭」のときと同じく、字幕になるのかな。このアニメ版は、病的にアニメ嫌いの私が驚倒したというくらいの大傑作。何度でも言いますが――
みなさん、是非、ご覧下さい。
過日、トルコへ行って参りました。イスタンブール、イズミール、カッパドキアと廻って、エフェソスの遺跡、アスクレピオン(古代の医療施設)、ペルガモンの廃墟――いやあ、凄かった。カッパドキアの地下都市なんぞ、もうどうでもいい。また、行くぞー。
この旅行の成果は、多分、別のシリーズに生かされることでしょう。こちらもお楽しみに。
二〇〇〇年ミレニアム 十月四日 早朝
「スーパー・ジャイアンツ/宇宙怪人出現」を観ながら
菊地秀行