D―邪王星団1 〜吸血鬼ハンター12
菊地秀行
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目次
第一章 邪星来る
第二章 魔性の布石
第三章 魔圏に棲む者たち
第四章 星から来た貴族
第五章 首斬りジュサップ
第六章 魔道境
第七章 死の宴、緋(ひ)の宴
あとがき
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第一章 邪星来る
階下での戦いの響きを、彼は玉座に腰を下ろし、眼を閉じて聞いていた。聞こえぬはずの音である。
刃と刃、鋼と鉄の噛み合う響き、断たれる肉と骨の悲鳴。その代わり、声もなく倒れ伏してゆく者たちの床に触れる音。刀身と刀身が打ち合う火花さえ、彼は視る[#「視る」に傍点]ことができた。
城館の防御機構は、ことごとく無効と化し、戦闘士たちも斃されて、いま、足下の広間では、最後の腹心十五名が恐るべき敵を迎え討っている最中だ。
彼の部屋に光はない。無論、窓も。完全な闇の中でも見える眼を持ちながら、蝋燭やランプ等、人間と同じ照明装置を用意する者たちの中にあって、彼は無視を通した。
その結果、部屋には今かけている椅子とテーブル、そして、柩しかない。
外の闇は彼には必要なかった。この部屋にいさえすれば、等しい暗度と密度とを兼ね備えた漆黒が永劫に彼を取り囲んで離さない。
この部屋を出ないようになったのは、あれはどれくらい前のことだったろうか。
白いかがやきが瞼の裏に点った。人の顔であった。
苦鳴が聞こえた。心臓を貫かれた家臣の断末魔の呻きは、十五人目のものだ。
早すぎる。驚くべきというも愚かな、恐るべき早さだった。それが敵の実力《ちから》であった。
胸の奥に熱く疼くものがあった。
力に応ずる力――その名前を彼は憶い出そうと努めたが、うまくいかなかった。
遥か昔、この部屋に入ってこの椅子にかけた瞬間から忘れ去ったもの。それ以後の彼は平穏であった。
聞こえぬ足音が階段を昇ってくる。胸のざわめきを抑えかねて、彼は眼を開けた。埃が視界を覆い、すぐに世界が見えた。
扉の前にいる。
厚さ五センチほどの構成層に印刷《プリント》した次元渦動や、逆転位相メカ、仮想現実回路等は、死力を尽くして侵入者の排除をはかるだろう。何もかも無駄なような気がした。
もはや、非在の音響は脳にイメージを抱かせなかった。それだけに、ドアと襲撃者の間では凄惨な死闘が繰り広げられているに違いない。
一分が過ぎた。
ドアの端――錠の部分に光るものが生えた。
それは水でも切るみたいに、錠の部分をえぐり抜いたのである。
ドアが音もなく開いていく。彼の真正面で。
細い光のすじが太さを増し、長方形になったとき、向う側に立つ影が見えた。
右手に一刀を下げている。血一滴ついていないのが不思議であった。
鍔広の旅人帽《トラベラーズ・ハット》と黒いロングコート。帽子の下の顔を見たとき、彼は思わず、低い感嘆の呻きを吐いた。
しゃべるには咳払いをしなくてはならなかった。
「世にも美しいハンターがいると聞いていたが、よもや、自分が相まみえるとは思わなんだ。私はブロージュ伯爵。おぬしの名は――?」
「D」
それは言葉というよりも、意味に近かった。
「そう聞いた」
さっきの瞼と、いまのこの唇と――双方が巻き起こした塵芥の渦の中で、彼――ブロージュ伯は静かに立ち尽くす美しい死神を見つめた。
「しかし、世に私を滅ぼすべく、おぬしを雇うような人間がいるとは思わなんだぞ。この館も、私や召使たちの記憶も、もはや下界の者どもから失われて久しい。私がこの部屋へ最後に入ったのは、はて、いつの――」
「五千と一年前だ」
Dと名乗った刺客が補足した。その姿に毫も殺気のないことに、ブロージュ伯爵は感嘆を禁じ得なかった。
「ふむ、そんなになるか。――で、化石のような貴族が邪魔になったのは、この土地の農民か? おぬしのようなハンターの口が軽いとは思えぬが、よければ聞かせてくれ」
「『都』だ」
とDは言った。
「『都』? しかし、ここは南部辺境区のさらに南の果てだ。いかなる意味でも『都』の注目を浴びる場所ではないぞ」
「人間にとって五千年は、大きな変化が生じるに十分な時間だ」
とDは言った。
「『都』は辺境地区の積極的開発に乗り出した。表向きは、辺境になおも残る貴族の忌まわしい影響力を排除し、農民たちの精神《こころ》を解放するという名目だが、真の狙いは、こういう場所に秘匿されている品だ」
伯爵はうすく笑った。
「貴族の知恵と宝物か。人間どもは、怪物と呼んでいた者たちの残り滓さえ拾い集めようとするか。なるほど、化石も邪魔になる理屈だ」
彼は戸口に立つDに会釈してみせた。
「よく教えてくれた。感謝する。礼は、五千年の垢を落とした上で精魂こめてお相手いたそう」
伯爵は肘かけに手を当て、ゆっくりと立ち上がった。
全身を灰色の塵が包んだ。五千年間、その身体につもった埃だった。椅子にかけてから、彼は一歩も動かなかったのである。
肌の上を滑る埃の感触は、むしろ心地よかった。伯爵は腰に手を当ててのばした。腰椎のみならず背骨や肩甲骨までが、ぼきぼきという音を立てた。それは彼が屈伸を行い、両手をふり廻し、あるいはのばしてもついてきた。
「思ったほど傷んではおらぬようだ。場所はここでよかろう」
見廻す空間は、すべて灰色だ。渦を巻く埃が、絶え間なく視界を埋めようと試みる。
その間、Dは黙って見守っている。信じ難い愚行といえた。動かぬ貴族に行動のチャンスを与えるなど。
伯爵は椅子に立てかけてあった長槍に手をのばした。
掴んでひとふりすると、埃は雲の塊のように剥がれ落ち、恐るべき黒い武器を五千年の眠りから醒ました。
全長六メートル、穂の部分実に二メートル五〇もの大長槍など、実用を通り越した非現実的な飾りや子供騙しとしか思えぬが、それは操る人間を常人と仮定しての話だ。巨大な玉座から立ち上がった伯爵の身長は、きっかり三メートル。玉座の腰かけから床まで二メートルあった。
それきり、牽制のひとふりも、恫喝の気合もなく、ずい、とDの胸に向けて構えた姿はむしろ朴訥すぎて、殺気のさの字もない。
Dと等しく。
「よう待ってくれた。――参る」
と声をかけるや、状況は一変した。Dの身体が陽炎のように歪んだ。
槍の先から放たれる殺気が、空気を変質させているのだ。並みの相手なら、向けられただけで気死に到る。
それに応じて、Dはゆっくりと長剣を上げていった、そのとき――
「なんたることだ――Dとは、これほどの男か」
今度こそ、無限の畏怖に震える声が伯爵の口の端からこぼれた。
彼が何を感じたにせよ、それは永久に知られることはなかった。
Dが床を蹴った。
頭上から打ち下ろされる刃の凄まじさ恐ろしさは、斃《たお》された貴族のみが知っている。
千分の一秒の間隙――尾を曳く流星の下で、光の水車《みずぐるま》が廻った。
弾かれたのは火花であったか刃であったか。世にも美しい響きとともに、Dの刀身は跳ね上げられ、彼は黒衣の裾を魔鳥の羽根のように翻して、大きく左へ跳んだ。
埃ひとつ舞わせぬ静謐な着地を決めたその足下へ、唸りを上げて旋回する槍の穂が襲いかかる。
間一髪、かわして跳躍した黒衣の胴へ、あり得ぬ方向から柄が跳んで、しかし、がっきと刀身と噛み合った。
空中でふるったDの一刀こそ恐るべし。次の刹那、鋼と思しい槍の柄は五〇センチも先から断たれて、宙を跳んでいたのである。
のみならず、Dの左手が上がるや、びゅっと風を切って打ち下ろされた黒い光が、狙いたがわず、巨人の喉下を貫いた。
声もなくよろめいたのは一瞬で、ブロージュ伯爵は素早く左手で刺さった凶器を掴んで投げ捨てた。
「ほう」
と呻いた。
それは切断された槍の穂であった。自ら切り落としたそれを、Dは左手で受け止め、手裏剣として使用したのである。斜めに切り落としたのも、そのためであったろうか。
だが、命中箇所から黒血を迸らせながら、長槍を構える巨人に乱れはかけらもない。
Dもまた。
ブーツの右足首部分が斜めに裂けて鮮血を滲ませ、先刻の伯爵の一撃が無効に非ずと知らしめながら、青眼に構えた一刀も当人も微動だにせず、美しい氷の像のごとく漆黒の闇中に立っている。
その闇が凝結した。みるみる室内温度が降下していく。
Dへと吹きつける巨人の殺気のせいであった。
対して、Dはどう迎え討つか。黒衣の若者は立ったままであった。いや、彼に触れるや殺気は消滅した。吸い込まれたのか、跳ね返されたのかはわからない。
だが、彼の姿は妖しく歪み、その中でただひとすじ――刀身のみが不変の姿をとって、恐るべき槍者《そうじゃ》に据えられていた。
どちらが動いたのか、問うのは意味がない。
五千年の闇に塗りつぶされた漆黒の空間で、かっと火花が散った。
そのはかない光が空中に消えるより早く、
「待て」
と告げる声がした。
「五千年前に失った生命を惜しみはせん。私が死者と化しても永らえてきたのは、ただ、この瞬間のためだ。Dよ――決着は必ずつける。その約束のいまひとつ前の約束を果たすまで、待ってはくれぬか?」
すでに殺気は霧消し、二つの姿は突きを放つ刀身と、横へ払った長槍の形をとってひとつに溶け合ったかのように見えた。
「星が流れた」
とDは言った。その頭部は巨人の鳩尾《みぞおち》のやや上あたりに位置していた。窓ひとつない部屋で、その眼は虚空に何を認めたのだろうか。
「――そのせいか?」
「ヴァルキュア公が戻った」
と巨人は言った。遠い声であり遠い眼であった。その眼が赤光を放った。
「彼は自らを虚空へと追いやった者たちの骨まで焼き尽くそうとするだろう。罪科《つみとが》のない子孫にも一片の慈悲も与えまい。私は、それを阻止《とめ》ねばならぬ。遥か彼方の日々に彼らの先祖と交わした約定にしたがってな」
影は二つに分かれた。
伯爵が長槍を下ろすと同時に、Dの肩のあたりで鍔が鳴った。刀身は収められたのである。
無防備に背中を見せて、Dは戸口へと歩き出した。
「感謝する」
伯爵の声が届いたかどうか。
「最後の槍は、必ずおぬし相手にふるおう」
闇の居室を出たとき、自然に下げた左手のあたりで、
「――今回は誉めてやる」
と嗄れ声が言った。
「おまえも見た。わしも見た。あやつが見たものをな。大凶星が北の果てに落ちたぞ。長い長い尾がわしにはまだ見える。おお――来るぞ。わしらにしか感じられぬ衝撃がな。だが、それは死でも終焉でもないぞ。――五」
Dは歩きつづけた。一瞬たりともその足は止まらず、彼は階段を下りはじめた。
「四」
暗黒のただ中で、巨人が長いため息をついた。
「三」
西部辺境区内の小さな村で、三人家族がふと眼醒めた。
「二」
Dが足を止めた。階段の途中であった。
「一」
星は凍土《ツンドラ》と大森林の土地に吸い込まれた。
「ゼロ」
静かだった。時が止まったかのような静けさが世界を包んでいた。
それから――
「来たぞ」
と嗄れ声が告げたとき、死の彫像のごとく美しい黒衣の若者は、ようやく歩きはじめた。
「北部辺境区の半分は壊滅したぞ」
彼の眼にも、その死は映じていたのかも知れない。
北部辺境管理局の調査団が、隕石の落下地方へ足を踏み入れたのは、二日後のことであった。
「こりゃ……」
ひでえと言うつもりだった若い地質学者は、眼前に広がる光景を前に口をつぐむしかなかった。それは、いかなる浅薄な感想も許さぬ光景だったのである。
ごおごおと耳を打つのは、泥流のどよめきであり、それはいま、馬上で硬直した彼らの眼下数メートルのところを黄土の奔流と化して流れていくのだった。
泥水だけではない。へし折れた部分を生々しく露呈しつつ、押し流されている巨木――時折、聞こえる鈍い衝撃音は、おびただしいそれらがぶつかり、打ち合う音なのである。
それに絡みつくようにして、巨大な甲殻獣や正体不明の妖物――人間の死体も流れていく。
「凍土《ツンドラ》の氷が溶けたんだな」
「しかし、落下地点まで、あと二日はかかる。それなのに、もうこんな川か。一体、何十メートルあるんだよ」
もうひとりが、地図と写真を取り出して、眼下の光景と見比べた。
川幅は優に五〇〇メートルを越し、水飛沫のせいでもあるまいが、向う岸は霧にかすんで、何ひとつ見分けられない。
地図にある大樹木の連なりなど影も形もない。そもそも川が映っていないのである。
「まだ、こんなものがあるのかよ。いち抜けた」
「うるせえぞ、ダン。いいか、『都』じゃ、おれたちの報告を一日千秋の思いで待ってる人々がいるんだ。海でも川でも、あれば渡る。すぐ、渡河の用意をしろ」
二〇名近い男たちは一斉に馬を下りて、馬の背から荷物を下ろしはじめた。
「ロープ準備完了」
と誰かが叫んだのは数十分後のことであり、頭上から爆音が舞い降りてきたのは、そのさらに二〇分後である。
ロケット推進装置のついたロープを見えない向う岸に打ち込み、ロープ先端の特殊合金製のドリルが大地を数十メートル潜って自らを固定する。
水流が強かろうが、これを掴んで馬ごと渡るしか途はない。
悲愴な覚悟を固めた一同が、一斉に空を見上げて、
「ありゃ、何だ?」
「ヘリだな」
「何者だ!?」
口々に叫んだ相手は、悠々と灰色の曇り空を飛行していく五個の機影であった。
「近くの村にあんな装備はねえぞ――すると」
全員の胸にある言葉が浮かんだ。
「強盗団だ」
「野郎――屍肉食い《グール》どもが。根こそぎかっぱらわれちまうぞ」
空中に怨嗟《えんさ》の歯ぎしりが湧き上がるようであった。
それが驚愕の叫びに変わった。
五機のヘリは一斉にその航路を乱すや、水飛沫とも靄ともつかぬ紗幕《しゃまく》の奥に落下していったのである。
ローターとローターがぶつかり、弾き飛ばされた破片が別の機体を直撃した――と見る間に空中に紅蓮の花が咲いた。
黒煙は空中に拡散し、炎は数百の破片に身をやつして、紅草《くれないそう》の花びらのごとく散ってゆく。それが靄の彼方に消えると、煙ばかりが空中に漂い、やがて消滅した。
「何があったんだ?」
「乱気流か?」
「そんな強いのが吹くもんか――隕石のせいだよ。ありゃ、呪われた星なんだ」
「やっべえ。おれたちも近づきすぎると溺れるぞ。引き揚げた方が利口だよ、リーダー」
「うるせえ。ジョッシュ、おまえが一番先に渡れ」
「畜生、ヤブヘビかよ」
結局、押し寄せる流木や死骸を避けて、一行が渡り切るには、丸半日を要した。川幅が、なんと五〇〇メートルを越していた上、荷物も馬もあった。
もうもうたる濃霧は一メートル先の光景も白々と塗りつぶし、リーダーは、輪になって集まり、両隣の人間を必ず確認せよとの指令を下した。
「地面はどろどろだぜ」
「ああ。熱があるんだ」
「その辺に火山でもあったかよ」
「いや。あれだ。隕石のぶつかったときの摩擦熱がまだ残ってるんだ」
「阿呆か。あれから二日以上経ってるんだぞ。そんなものとうに冷えてるわい」
「だからさ――隕石自体がまだ灼熱してるのさ。見ろよ、落下地点まであと二日はかかるっていうのに、木という木は根こそぎ倒れてる。この辺の氷は平均三〇センチもあるのに、それだって、この川と霧に化けちまった。ここまで通って来た村は、みいんな地震でつぶれるか、地割れに呑み込まれるかだ。丘は崩れ、沼は干上がり、鳥も獣も見ちゃいねえ。いくら大隕石が落ちたからって、あり得ねえ話さ。それに、『都』からの連絡じゃ、天文台が観測した流星のサイズは、直径二〇センチにも満たねえ小物だそうだ。いくら何でも、ぜーってえ、こんな大惨事は起こしっこねえとよ」
「リーダー、なんでそれを黙ってたんだ!?」
と何人かが声を合わせたが、リーダーはいたって平然と、
「そらあ、決まってらあ。そんなことバラしたら、おまえら誰ひとりついて来るもんかよ」
「そらそうだがよぉ、しかし――」
そのとき、焚火のそばで、じっと眼を閉じていた老猟師が、しい、と唇に指を当てた。
「どうした、父っつあん?」
リーダーは声をひそめるのへ、
「北の方から何か来る。えれえスピードだ」
と言った。
「何者だい?」
「わからねえ。おい、火ィ消せ。みんな音を立てるな」
一座に緊張が漲《みなぎ》った。老猟師以外は農夫であり、調査団の日当と箔付けを目当てに参加したのが本音だが、農夫の相手は畑を荒らす妖物、妖獣だ。焚火に消火剤を撒き、それぞれが武器を手に荷物の陰に隠れ地に伏せる――どの動きも無駄のないツボを得たものであった。
一分が経過した。
さらに三〇秒ほどが過ぎた頃、霧の奥に赤い光点が生じた。
「来たぞ」
老猟師が、手にした火薬銃の撃鉄を起こした。
光点はみるみる指先から拳大になり、その頃には、全体の輪郭も黒い影として霧に滲み出していた。
高さ二メートルほどの円筒の下から、何条もの細い管か触手のようなものがくねっている。赤い光点は、円筒のほぼ中央に点っていた。
円筒の数は十を越す。
リーダーが猟師の方を見た。戦闘ならベテランだ。
老猟師は無視した。近づいてくる敵について、本能的な勘が働いた。これまで何度となく死の淵から生の領域へと彼を引きさらってきた勘が、相手にするなと告げている。逃げろではない。相手にするな、だった。
猟師が行動に移る前に、戦端は開かれた。
「引きつけて射て」
とリーダーが命じたのだ。
影が滑り寄ってきた。聞こえたのだ。
「射て!」
絶叫とつづく銃声を鼓膜にぶち当てながら、老猟師はライフルを荷物に立てかけ、火獣のベストの右襟をつまんだ。落ち着けと言い聞かせながら、指先に意識を集中するとすぐ、細く固いものが当たった。
前方で悲鳴が夜気を裂いた。
団員のひとりが触手に絡め取られたところだった。両足をバタつかせながら空中へ持っていかれる。その途中でライフルを構え、射った。硬質の響きを上げて、弾丸は方角を変えた。
円筒はもうはっきりと見えた。
全身が銀色で、鉄環をつないだような触手が二本、円筒を支えている。残る六本が戦闘用らしく、別の荷物の下に潜り込んだ団員は足首を捕縛され、あっさりと引き出された。
あちこちで悲鳴が上がり、銃声が応じ、やがて静かになった。男たちが抵抗を放棄したのではない。空中でもがくその後頭部に一本の触手が当てられ、先端から細い針を打ち込んだのである。
さして深いとも見えないのに、団員たちを襲った変化は戦慄すべきものであった。
頭の内側での軽い痛み――その一点へ何処からともなく何かが流れ出していく。
――そう感じたのを最後に、男たちは意識と生命を失った。
ぐったりとしたその身体は、地上へ放り出されたとき、すでに呼吸もやめていた。
円筒はその眼を血走らせながら、死者たちの上空を旋回していたが、ついに、荷物の陰に突っ伏した老猟師の姿を認めた。
滑り寄った何台かのひとつが触手をのばして首すじに当てる。すぐに戻すと、彼らはもはやあらゆる興味を失ったかのごとく、一瞬の停滞も示さず、やって来た霧の――水蒸気の奥へと消え去った。
彼らはセンサーともいうべき触手からの反応によって、接触者の生命反応の有無を探り、しかる後、長針状の吸収装置によって、生命エネルギーの核ともいうべきものを吸い取ってしまうのであった。
人間の生命エネルギーは、全身に配置されたチャクラによって体内に漲る。その人間の精神と肉体がより高度なレベルに達するにつれて、チャクラの位置も高みへと移動し、後頭部のチャクラの回転によって、人間は宇宙のエネルギーと合一する。
それがもはや人間以上の存在であることは、古来より描かれた、後頭部に輪をいただく「聖人」の像が知らしめてくれるだろう。
円筒が生命エネルギーを抜き取る箇所に後頭部を選んだのは、そのために違いない。
岸辺は、死の静寂に包まれた。川の音は絶えないのに、そうとしか感じられないのである。無残な死体のせいかも知れない。
殺戮者が去ってから一時間ほども経ったとき、死の世界に動きが生じた。それは、東の空を青く染めた黎明が、凄惨な大地にも、その光の色淡い翼を投げかけた瞬間であった。
老猟師の死体である。
脈搏は停止し、脳波も絶え、あらゆる生命反応を消失していた木乃伊《ミイラ》めいた肉体は、いま生命の意味を取り戻しつつあった。
体内を血はとうとうと流れ、力強い心臓の鼓動を楯に、彼は眼を開いた。
思考を一時間前に同調させるべく、三秒ほど眼を閉じて考え、それから彼は奇しくも、円筒たちが朋輩の生命を奪ったのと全く同じ――後頭部の一点に手を廻し、長く鋭い針を抜き取った。
長さ三〇センチもある白い獣骨の針――それが刺すべき一点を教えたのは彼の父であり、父に伝えたのは祖父であった。
「森の中や凍土で動けなくなったとき、助けが来るまで食料が保たないと思ったら、ここへ打て。そうすれば、おまえは死体になる。ただ一本、血管の中で一番細い管が、血を送り込んで脳を死なせずにおいてくれるが、後は死体と同じだ。この血管は誰にも見つからねえ。刺し方によって、三〇分、一時間から、一年、一〇年まで自由になる」
その間、飲まず食わずでも大丈夫だと父は言い、獣の有無を確かめてから針の時間を調整しろと念を押した。
「祖父《じい》さんの祖父さんが言ってたことだが、遥か昔、丸い筒みたいな身体に、蛇蛸の触手をつけたような奴らが現われ、人間を殺しまくった。そのとき助かったのは、たまたま、この針の実験を行っていた我が家のご先祖だけだった」
老いた猟師は、何やら口の中でつぶやいた。父と祖先への感謝の言葉であった。
霧に包まれた土地に広がる惨憺たる状況を見渡し、
「埋めてやらねばなるまいな」
と彼はつぶやいて、荷物に立てかけた火薬銃に手をのばした。
それを掴むなり、彼は狩猟中のプロに変貌した。
銃床を肩に当てたときにはもう、撃鉄が上げられていた。
装甲火龍用の三キロを越すライフルは、しかし、微動もせずに泥流に向けられていた。
どよもす水音に生じた変化を、猟師の耳は聞き取ったのである。
濁流から岸にかかった一本の手を、老猟師の眼は認めた。
下流へ押し流されそうになるのを支えるみたいに、もう一本の手が現われ、次の瞬間、全身が躍り上がった。難なく――というわけにはいかず、水に押されて数十センチずれた地点に何とかへたり込む。
ぜえぜえ胸を上下させているのへ、
「リーダーかい?」
と老猟師は声をかけた。
泥まみれの身体が跳ね上がったが、すぐに緊張を解いて老人の方を向き、
「父っつあんか」
と長い息を吐いた。
「よかった、無事だったか。あいつらが水ん中まで追っかけてこなくて助かったぜ。後はみいんな――」
老猟師はうなずいた。
「やられちまったよ。あんた、よくもまあ無事で――そうか、水魚狩りのベテランだったよな」
リーダーは笑おうとしたが、笑顔はつくれなかった。
彼の村近くには、いくつもの沼と湖がまとまって水を湛え、一族の者は代々、水魚を捕獲するのを生業としていた。全長三メートルにも及ぶ魚は、恐るべきことに貪欲な肉食魚で、リーダーの一族の手によらなければ、容易に陸揚げできる代物ではなかった。
その捕獲に、リーダーが頭抜けた存在であることを立証し得たのは、持って生まれた天性のおかげだった。彼は呼吸を止めた状態で、一時間以上も水中に留まることが可能だったのである。
「ロスコーが持ってかれたところで、水へ飛び込んだんだ。水草に掴まって――おれも意気地がねえなあ、一時間以上も出て来られなかったぜ。何はともあれ、あんたが生きててくれて助かった。ひとりより二人の方がこの先、心強いからな」
「ひょっとして――行くつもりか?」
老猟師は眼を丸くした。
「この先には、あいつらがいるんだぞ。ひょっとしたら、もっとおっかねえ奴が」
リーダーは呼吸を整えながら、また地面に仰向けになった。
「これが仕事だ、仕方がねえやな。村の者がみんな、怖い思いをしながら帰りを待ってるんだ。おれひとりが、おめおめ逃げ戻るわけにゃいかねえよ。第一、こいつらが犬死になっちまう」
ここで、彼はやっと気づいた。
「そうか、父っつあんに強制はできねえな。せっかく拾った生命だ。むざむざ捨てるこたあねえ。こっから先はおれひとりで行く――達者でな」
「とりあえず、みんなを埋めるとしよう」
老人は、光を帯びてきた東の空を眺めた。
「それから出発だ。明るいうちに、できるだけ奥へな。おれも行く」
八人の遺体を埋めてから小休止の後で出発したのは、正午を過ぎていた。徒歩で一時間と進まぬうちに、二人の周囲は何とも奇怪な様相を呈しはじめた。
徐々にうすれてゆく霧と引き換えに、かなり奥まで見通す視力を得た眼には、まさしく荒涼たる大地しか映じなかったのである。
いや、これを荒涼と呼べるかどうか。
果てしなく広がる黒土の大地であった。生きるものの影などなく、あの円筒生物の赤い眼のかがやきが懐かしく思えるほどの茫漠さが二人の調査員を包んだ。
背中の食糧と武器とを支える足は、ぬかるんだ地面にくるぶしまでめり込み、水蒸気は蒼穹《そうきゅう》を隠して、その罪滅ぼしに、時折、七彩のスペクトルで二人の視界を彩った。
二時間が過ぎ、四時間が過ぎた。五時間めの道程にさしかかる寸前、環境に異変が生じた。ぬかるみから踏み出した靴底が、現在は二人が何よりも希望するもの――固い地面に触れたのだ。
「おお!?」
二人は足下を見、それから彼方へ広がる大地を眺めた。銀色を大地と呼ぶことはできそうになかった。
「何だい、こりゃ?」
リーダーが薄気味悪そうに言った。未知へと挑む調査隊のトップに選ばれ、団員たちのほとんどの死を目撃しても先へ進もうとする使命感に燃えた男だ。決して臆病者ではない。その声が震えていた。
「わからねえ」
と猟師は首をふった。
「わからねえが、この先、隕石の落っこちたところまで、ずうっとこうに違いねえ。おれたちは別の世界に足を踏み入れてしまったのさ」
「別の世界って、何だよ?」
「さて、な」
「貴族の世界って意味か?」
「多分な」
リーダーは猟師のその口調が気になった。
「違うのかい? はっきり言ってくれや」
「勘だぞ」
「おお」
老猟師は足を止め、背中をゆすって荷物の位置を直した。すぐに歩き出した。
「貴族は貴族だが――別の貴族だ、と思う」
「――別の? 貴族に違いがあるのか?」
「わからねえ。だから、勘だ」
「信じるぜ、おれは」
リーダーは寒々とした表情で周囲を見廻した。霧と銀色の土地。それだけだ。丘も木も永劫に氷で封印された凍土もない。
宵闇が降りかかり、闇黒に変わっても二人は歩きつづけた。止まるのが怖かった。時折、リーダーが地図と測量図を取り出して位置を確かめるが、それも歩きながらおこなった。
進むにつれて、疲労とは無縁の恐怖と絶望が二人の胸に色濃く広がりはじめた。
もう帰れない。おれたちはここで死ぬんだ。
だが、それに対して四つの眼は、断固たる闘志のかがやきを放った。
たとえ死んでも、この奥にあるものを見ずにはおかない。そして、必ず、待つものに伝えてやる。
深夜に彼らは休息を取った。リーダーが倒れてしまったからだ。
眼を醒ますと昼を過ぎていた。そして、霧と銀色の平坦な土地だけが何処までもつづいているのだった。
ずっと前から、二人の胸にはある確信が据えつけられていた。この土地は人工のものだ。しかし、こんな途方もない代物を、誰がつくったのか。二〇センチの隕石に封じ込めたのは誰なのか。
食事を摂り、また歩き出す。
老猟師は、若い頃、西部辺境区で目撃した巨人の話を語った。
「なあ、父っつあん、あんたは、一キロ先の天使ミミズさえ射ちとばす腕がある。山刀一本で三鬼竜とやり合う度胸だって申し分ねえ。あんなちっぽけな山にくすぶって、ちんけな村相手に鳥や獣の肉を売っていなくても、『都』へ行きゃ、いくらでもいい仕事が待ってるだろうによ。――どうしてだ?」
リーダーのこの問いかけが契機《きっかけ》であった。
「昔の話さ」
と老人は語りはじめた。
自らの力に限りない自負を抱く多くの若者のように、彼もまた辺境の各地をさまよっては名を上げる機会を狙っていた。
そんなとき耳にした、一年間でひとつの山の獣を食らい尽くしてしまい、また別の山へ移っては尽きない食欲を満たす魔物の伝説は、若き猟師に炎のような名誉欲と闘志とを与えた。いまも彼が潜むという山へ、愛用の火薬銃一挺きりで分け入ったのは、決して無謀ではなく、熱い青春の発露であった。
丸ひと月、巨木と奇岩が主のような山中をさまよい歩き、ついに発見を断念して下山する途中、濃い霧に巻かれた。
その場で露営を決意したものの、霧は濃さを増すばかりで、いっかな晴れようとはしない。風さえ吹かぬのである。
露営が三日目に及んだ晩、事態は急変した。
渦巻く白霧の奥から、壮絶な地響きとともに、巨大な人影が現われたのである。
「餓鬼の頃、貴族のことを書いた絵本で見た。機械と人造生命を合体させた巨人獣だったよ。身の丈四メートルあまり、錆だらけの鉄兜と装甲で全身を覆い、毛むくじゃらの手には鉄の棍棒を持っておった。顔は、そう、狂った人間と言ったらいいのか。眼は虚ろで口の端から滝みたいに涎《よだれ》を垂らしておった。黒い涎をな。オイルの匂いを今も覚えておる。
ただ、ひとつだけ、そのときも今も気になっていることがあるのだ。絵本によれば、そいつはコンピュータ制御から解放された失敗作で、五千年以上も前に貴族の手によって破棄されておるはずのタイプだったのだ」
だが、そいつは真っすぐに猟師のもとへとやって来た。
ふり下ろされる棍棒を、何とかかわせたのは、僥倖というしかない。
地面を転がりながらも火薬銃を発射したのは、猟師としての天性の為せる技だ。
弾丸は確かに巨人獣の顔面に命中し、そいつは上体をのけぞらせた。
「命中と思ったさ。手応えもあった。だが、そいつは倒れなかった。膝をつきもせずに、口から血の塊を吐いたんだ。それは、わしの足下にめり込んだ。血塊と見えたのは、血に染まった弾頭と一本の牙だった。なんと、奴は――」
時速一二〇〇キロ――マッハで飛翔する弾丸を牙で受け止める。まさしく食い止める、とは。
そいつが突進してくるまで、驚愕のあまり、老人は第二弾を送り出すことができなかった。夢中で放った二発目は胸当てに当たって跳ね返り、三発目は虚空に消えた。
巨人が不意に横へ跳んだのだ。
左手の霧の奥は大森林であった。そこから樹木をへし折り、根こそぎ押し倒す音が、猛烈な勢いで近づいてきたのだ。
巨人獣は狂気の咆哮をひとつ上げる余裕しかなかった。
霧の中から躍り出たのは、そいつに劣らぬ巨人だったのである。
「ぼろぼろのマントに上衣――しかし、どれも最高の材料を使っているのはひとめでわかった。絶対金属の繊維を造り出しながら、貴族というのは、なぜあんなヤワなものを身につけたがるのか、さっぱりわからねえ」
巨人の武器は長槍であった。精緻な意匠を彫刻した槍は優に五メートルを越え、その半ばを占める穂の鋭さも、敵の棍棒の迫力にひけを取らなかった。
最初に巨人獣が襲った。もとは貴族の手になる戦闘生物だが、このタイプだけは貴族ともあろうものが、制御因子のDNA挿入がうまくいかなかったとされる。
ふり下ろされる棍棒は、猟師の弾速にも劣らないと見えた。
それが跳ね返った。のみならず、巨人獣もまた、前のめりになった打撃位置から跳ねとばされたのである。
よろめくその首に、光が躍った。
柄で棍棒を跳ね上げ、旋回する穂で敵の首を断った長槍は、巨人の黒い手の中でふたたび大きな弧を描いて停止した。
「わしは、そこにあるとも見えなかった木陰からすべてを目撃していた。これが伝説の巨人だと一発でわかったよ。奴は赤いマントの肩から、何頭もの大鹿と双頭熊の死体とをぶら下げておった。わしに気づいたのか気づかなかったのか――多分、知っていても気にもせなんだのだろう。巨人獣の身体を軽々と担ぎ上げると、もと来た霧の奥へと引き返していった。後は追えなかった。怖かったのさ。あれは貴族に違いない。しかし、昼の光の下を自在に歩く貴族とは何者か。その正体を考えただけで総毛立っちまった」
それでも、巨人の足音が完全に途絶えてから、火薬銃に新しい弾丸を装填した上で五分ほど後を追ってみた。
巨人の足跡がはっきりと残る大地の上から、巨大な首が猟師をねめつけていた。断ち切られた巨人獣の生首と知った刹那、猟師は声もなく身を翻し、その日のうちに山を下りたのだった。
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第二章 魔性の布石
「わしはそれから、真っすぐ故郷へ戻り、子供の頃から住み慣れた山にこもった。あんな化物を見てしまっては、二度と他の山を放浪する気にはなれなかったのよ。わしの猟師としての気骨のどこかにひびが入ってしまった。何年か経って、同じ山の中から何千年も昔の巨人の化石が発見され、あまり生きてるみたいなので気味悪がった村人の手で、洞窟ごと破壊されたと聞いたときも、もうどうでもよかった。あの巨人獣だとすると、わしはあのとき、何千年も昔の山中をさまよっていたのかも知れんが、それもどうでもよかった。故郷へ戻ったわしは、若者の姿をした爺いだったのさ。これが、あんたの質問への答えだ」
リーダーは、黙々と耳を傾けていたが、最後の告白から十歩ほど進んで、
「そんな臆病者が、どうして調査隊に志願した?」
と訊いた。
「もう一度、試してみたくなったのさ。ひょっとしたら、ひびをふさげられるかも知れん、とな。年を取ると怖いものがなくなるで」
老人はひっそりと笑った。
それが消えるまで待って、リーダーは、
「おれの話もしよう」
と言った。
――――
三〇年ばかり前、おれが十五のときだ。
あんたも知ってのとおり、おれの一族は代々、潜りの血を引いてる。曾祖父《ひいじい》さんの話によると、先祖は水の精に水中での呼吸術を伝授されたそうだが、それはいい。
おれの家では十五になると、他所《よそ》の土地へ行って、水魚狩りの腕を磨くのが掟だ。親父も兄貴たちもそうした。おかげで、三人の兄たちのうち二人は帰ってこなかったがな。
おれが足を向けたのは、北部辺境区の西にある湖水群だった。二百近い湖や沼沢地からは、様々な伝説が瘴気《しょうき》みたいに立ち昇っていた。
毎年、ある月のある日になると、湖水の中央に現われ、湖の水を一気に呑み干してしまう巨大な口、月の明るい晩にある沼へ出したボートの上から水中をのぞくと、亡くなった村の者が酒盛りをしている話だの、少しでも水が汚されるとその日から岸辺の家を一軒ずつ湖中に運び込んでしまう水霊の物語だの――どれも眉唾で、他愛ない伝説にすぎなかった。
おれが唯一、真物《ほんもの》と踏んだのは、東南沼沢地のひとつ――一〇平方キロもない小さな湖だった。
面積の代わりに深さは一〇〇メートルを越え、しかも、太古の神殿めいた遺跡が存在するという。周辺の言い伝えでは、古代の神々が湖底のさらに底――大地の核近くに封印しておいたものが、地殻変動で浮上したのだという。おれは、晴れた日に舟を出し、水中を眺めた。見えたよ。折れた円柱や、建物の残骸らしいもの――それよりも、遺跡の中心に据えられたガラスの函の中に横たわる全裸の美女。
水魚なんて、どこでも同じだ。凶暴だろうがなかろうが、あるコツさえ掴めば、何千匹でも串刺しにできる。どうやって自分の技に磨きをかけるか、おれの考えは、特殊な環境での水魚狩りだった。おれは湖中の水魚を一度に十匹、加えてガラスの柩に眠る美女を運び上げる、と村外れに公示した。そこに記した名前と住所から実家が割り出され、公示の内容が伝わることになるのは、あんたも知ってるよな。
三日後、村の連中の見守る中で、おれはボートを漕ぎ出し、遺跡と美女とを発見した地点で潜水に移った。
村の連中が神殿と美女に憧れと好奇心と恐れを抱いていること、最後の要素が強烈なせいで、いままでどちらも放置してきたことなどは、村の子供たちから聞いてあったから、これをやりおおせても、無事には済むまいという予感はあった。
一〇〇メートルあたりで水魚たちが襲ってきた。何度見ても薄気味悪い奴らだ。もっとふさわしい名前はないのかと、奴らを見るたびに思うぜ。ずっと向うから、全長五メートルもある大魚が、熊手みたいな牙をぎりぎり噛み合わせ、鉄より固い鱗を水面からの陽光にきらめかせつつ、接近してくるんだ。しかし、もの凄い透明度だったなあ。
おれは銛とナイフだけで、都合八匹の水魚と渡り合った。負傷もしたよ。ほら、この左の中指ねえだろ。だが、いったん血が流れると、水魚どもは敵味方の区別もつかなくなる。共喰いをはじめるんだ。その間を縫って、奴らの心臓をひと突きにするんだが、これだけは、別の血が教えてくれるとしか言いようがねえ。とにかく、おれは十五分もかけずに八匹みんな仕留めちまったよ。
後の仕事は簡単だ――と思った。二〇〇メートルまで潜って、ガラスの中の女を小脇に抱きかかえて浮上するだけだ。
さすがに二〇〇ともなると、頭は水圧に締めつけられてがんがん鳴り、蓄えといた酸素の消費量も大幅に増えた。おれは気にせず、ガラスの柩に近づき、ナイフで破ろうとしたが、うまくいかなかった。ただのガラスじゃなかったんだな。となれば、最後の手段を使う他はねえ。おれはパンツのポケットに粘土爆薬を詰めておいた。水魚の超大型や、氷海中にいる間に水面が氷でふさがったとき使うのが順当な品だ。
ガラスと石の台の接触面に、少しずつ貼りつけながら、おれは惚れ惚れと女を眺めた。
黄金にかがやく髪は波のようにゆらぎ、白いドレスの胸には紫の薔薇が飾られていた。唇とアイシャドーと同じ色だった。あんな別嬪《べっぴん》――地上の何処にもいやしねえ。
閉じた瞼の形にうっとりし、澄ましたような鼻に身を震わせて、おれはいつの間にか、呼吸の限界に近づいているのにも気がつかなかった。息が詰まって、はっとしたときにはもう、残り時間は五分を切ってたな。眠る姿に未練はあったが、おれは二〇メートルばかり離れて、点火スイッチを押した。
黒煙と火の花が水中に躍り、すぐに消滅した。ガラスはびくともしていないように見えた。
こんなはずはないと泳ぎ寄り、おれはガラスに手をかけ、開けようとした。
向うから開いたよ。
美女はたちまち真の水中に横たわり、そして――
いきなり、おれの左手首を掴んだ。千匹の蛇に巻きつかれたような不快感が股間まで突き抜けた。
この瞬間、おれは貴族の正体を知ったのさ。
逃げようと暴れるおれを見る女の眼は、もう開いていた。
ああ、いまでもうなされる。夢に出てくるんだ、あの地獄のような眼。あと一秒見つめ合っていたら、おれは発狂していたにちがいない。
あのとき、反対側の手を銛ごと突き出したのは、神の助けだと思う。
女は左眼を押さえ、この世に二つはないような美しい手の間から、鮮血の筋が立ち昇った。
気がつくと、おれは、これまでに出したこともない速度で急浮上の真っ最中だった。
女は追って来たにちがいない。すぐ横を血の糸がねじれながら上昇していったからな。下を見たらおしまいだったろう。固くて冷たいものが爪先に触れたような気がするが、あれは女の指だったにちがいない。
もう少し上がったところで、おれは意識を失い、二度目に気がつくと村の病院にいた。女のことは――ボートを出した物好きが、おれが自分のボートへよじ昇った瞬間、水中で身を翻したのを目撃している。水は血で濁って、たちまち女の姿を隠しちまったそうだ。
おれは退院したその日に故郷へ戻った。水魚狩りをはじめるまで三年もかかった。今でも、黒い水の中から片目のつぶれた美女が現われるんじゃないかと思って、気が遠くなることがあるよ。ここへ来た理由もわかったろ。父っつあんと同じさ。
霧と銀色の世界に、また夜が訪れた。身体の芯まで疲れ切って、金属の大地に横たわった二人が眼を閉じ、一瞬、暗黒の淵に吸い込まれてふたたび浮上したとき、同時に青い光を認めた。
霧の奥に滲むかがやきは十を数えた。
サイズはこぶりだが、これは距離的なものだろう。かなり強烈な光体ということになる。
「何だ、ありゃ?」
と銛銃を引き寄せるリーダーを、老猟師は唇に指を当てて制した。小さく、
「石になれ」
と命じて身を伏せる。絶対に動くなという指示である。辺境の人間なら呼吸まで調節し得る。
幸い光点はそれ以上近づいて来ず、しばらく漂ったきりで、二人の進行方向の奥へと消えてしまった。
「近いな」
「行こう」
澱のような疲労が骨の髄に溜まっていたが、二人は気にもせず歩き出した。あまりに単調な風景におかしくなりかけていた精神《こころ》が、みるみる尋常さを回復していく。
一〇分としないうちに霧が晴れ、何とも奇怪な光景を二人の眼に灼きつけた。
青い光点がおびただしく明滅する地点まで、目測だが一〇キロはあるだろう。光は様々な形の建造物を光輪の中に浮かび上がらせた。その数と現実の大きさを頭の中で再現し、リーダーと猟師は顔を見合わせた。
「まるで『都』だぜ」
「いや、もっとでかい」
そう答えた老猟師へ、リーダーは凄惨な表情を向けた。
「直径二〇センチの隕石だぜ。どうすりゃ、『都』に化けられるんだ?」
「貴族ならできるさ」
と老人は答えた。
「貴族とは別の貴族なら、もっと簡単にできるさ。――落下地点は、あそこか?」
地図と『都』からの観測結果をチェックし、リーダーはうなずいた。
「行こう」
やがて、凄まじい建造物が二人の眼前に屹立しはじめた。凄まじいとは、天空へ挑む高さでも、山脈ひとつを凌駕しそうな大きさでもない。強いて言えば、形か。
長辺は藍色の虚空にそびえて見えず、短辺でも五キロはありそうな二等辺三角形が、一歩進んだところから見上げると、まぎれもない正方形に変わり、高さ五〇〇メートル、縦横三〇〇〇メートルに一〇〇〇メートルは下らぬ長方形の建物の連なりが、瞬きひとつで忽然と消滅してしまう。わずかに漂う霧の魔術というよりも、光の屈折がどうにもおかしなところからして、空間そのものが四次元的に歪んでいるらしかった。
二人の足下にも大階段が螺旋状に地下へと巡っているかと思えば、広い道が人ひとりも入れそうもない建物と建物との間《スペース》に消え、直径一〇〇メートルもありそうな大円柱が一五、六メートルで途切れ、そのくせ、二人の眼には何の違和感も抱かせない長大さを示しているのだった。
二人の周囲を青い光の球が漂い、うちいくつかはすれすれを通過しては、何処へともなく消えていった。
三次元力学を無視した巨大都市の中を進むうちに、驚異で麻痺しきっていた感覚が、ようやくある異常を伝えてきた。全身がむず痒いのである。
前から無意識に掻いていたらしく、ふと眼をやると、皮膚が裂け、肉がのぞいているくせに、血は一滴も出ていない。
「何だ、こりゃ?」
戦慄するリーダーに、
「この『都』の内部には、エネルギーが満ち溢れてるんだ。おれたちの身体も同調してる。このまま進めば、別のものになってしまうかも知れねえぞ」
リーダーは、じっと老猟師を見つめた。
「戻れば、ならねえか?」
「わからねえな」
「なら、行ってみるまでだ」
二人の顔が白くかがやいた。虚空より落下する稲妻であった。
それは巨大建造物群の、さらに彼方に吸い込まれ、まばゆい光の円穹《ドーム》を形成した。
そこに何かがいるはずであった。
そこに小さな星が落ち、そこから巨大な都市が生まれ、茫漠たる銀色の大地が広がったのだった。
進むにつれて、二人の肉体には異形の変化が生じはじめた。
皮膚は風に舞う薄紙のように剥がれ落ち、露わになった肉も、点々と銀の路上を彩った。
そこ[#「そこ」に傍点]へ辿り着いたとき、二人の肉体は、わずかな肉と内臓を骨に付着させた生ける屍にすぎなかった。
群がり集う青い光体のひとつひとつは直径が優に五〇メートル、山脈のごときその集合体の果ては、二つの屍には無論、見えなかった。
「あれは何だ?」
リーダーの声はもはや声ではない。
「わからねえ」
応じる猟師の声も同じだ。にもかかわらず、二人はかつてない明瞭さで会話することができた。
老人は、すぐにつづけた。
「――いや、多分、エネルギーの塊だ。やられた仲間たちの生命もあの中に加わっているぞ」
「こんなにも生命を集めて――何をしでかそうというんだ?」
静かな声である。感情の変化はもはや二人に存在しなかった。
「わからねえ。だが――あの隕石の落下で、この辺一帯は全滅したにせよ、生きものはさして多くなかったはずだ。あれは、地上のもンじゃねえぞ」
「じゃあ――隕石と一緒に、宇宙から――来た?」
「間違いねえ。或いは、あの建物でこしらえたものかも、な」
老人の言葉にリーダーはふり向いた。白い骸骨が。透明化した骨は、銀色の広がりと彼方の建造物を透かせた。
稲妻が天空と地上を白々とつないだ。逆しまに――地上から天空へと。
光体の山脈《やま》が舞い上がるのを、二体の骸骨が見上げていた。
それは闇色の彼方に吸い込まれ、星ひとつない虚空へと消え去った。
リーダーの骸骨は、猟師のそれがつぶやく声を聞いた。
「光あれ」
数秒後、暗黒に生じた一点のかがやきは、みるみる明るさと広がりを増して、天空を白く染め抜いた。銀の大地もそれを映し、二体の骸骨も、そのかがやきに溶けた。
そして――
空は一気にかがやきを失った。
それはひとすじの光に収束し、地上へと降臨したのである。
だが――
光の円穹《ドーム》はもはや生じなかった。光のすじは、大地の一点――小さな黒い窪みに吸い込まれた。そここそが隕石の落下地点であり、すべてのはじまりであった。リーダーの骸骨が、頚骨をきしませながら、左方の天空をふり仰いだ。
闇黒を赤い光点が迫りつつあった。
何処からともなく放たれた次元ミサイルは、目標地点の上空五〇〇メートルで直径五キロの「穴」を空中に穿った。
銀の大地が、巨大建造物が、はりぼてかミニチュアのごとく舞い上がり、その穴に吸い込まれていく。
誰かが隕石の正体を知り、その抹殺を謀ったのだ。貴族の手になる時空構成回路の空間掘削と連結時間はジャスト一〇秒――それだけで、北部辺境区は消滅する。
だが、狂気の上昇は突如、停止した。
宙吊りになった破壊物は、次の瞬間、大地へと降り注いだ。いや、吸い込まれた。小さな黒い窪地へと。
「穴が――」
リーダーの叫びを、老猟師は遠く聞いた。
「ひっくり返ったぞ」
見よ。虚空に開いた異次元の穴は、その内側からこちら――外側へと黒い通路をせり出しはじめ、あたかも糸のようにのばして、地上の窪地につなげたではないか。
通路は逆転した。
そして、通路が吸収されるにつれて、穴もまた引かれ、すぼまり、ひとすじの糸となって大地に吸い込まれたのである。
空間に穴を空ける――この一事にどれほどのエネルギーが費やされるものか。
事もなげにそれを吸収した大地の窪みと世界に静寂が満ちた。
遠くで稲妻が光った。
窪地から黒い形が起き上がったのは、どれほどの時間を経てからか。
それは確かに人間の頭であり、首であった。金髪のゆるやかなウェーブが耳と首すじでゆれている。
肩が出て、胸が出た。それだけで、プロポーションの素晴らしさがわかる、たくましく厚い胸であった。この両腕に剣を握らせれば、千軍万馬もひと討ちにするだろう。
上半身と下半身の境は、くびれた腰と瘤のような腹筋が担当していた。
尻から腿にかけては優美と野性の極致だった。地を蹴れば天を翔け、波頭を踏めば大海原をも疾駆し得るにちがいない。
その闘志、その迫力、その優雅――誰もがこの男に剣と槍と弓を与え、百万の兵を与えて戦場に向かわせたいと願うだろう。
その瞼が徐々に開いていった。瞳は紅《くれない》であった。
我に力を与えよ、とそれ[#「それ」に傍点]は告げていた。さすれば、この世界に屍山血河《しざんけつが》を築き、生きとし生けるものすべてを根絶やしにしてくれる。
男は咆哮した。
天地が鳴動した。男の頭上から稲妻が落ちる。風が唸った。眼にかかる金髪を払おうともせず、男は何か叫んだ。何度も繰り返し、右手をふり廻した。演説に似た仕草であった。忽然と拳の中に現われた長剣は、その褒美に与えられたものであったかも知れない。全長一メートル、幅二〇センチの直刀は、黒い鋼のかがやきを帯びていた。
「これなるは、妖剣“グレンキャリバー”。触れるものすべてを断たずにはおかぬ。“神祖”よ、五千年の時間をおいて、私はまた戻ってきた。たったいまから、貴族も、人も、夜に怯えねばならぬ。“神祖”ごときの手によって、我が領土ごと星々の間に追われた“絶対貴族”――第三代ローレンス家当主、ローレンス・ヴァルキュアの名において」
世界は白く溶けた。
巨大としかいいようのない落雷であった。その青白い光彩のただ中で、全裸の男は妖剣グレンキャリバーを高々と掲げ、凄まじい笑顔をつくった。
「だが、その前に、私は礼を言わねばならぬ。“神祖”ともども、私を宇宙《そら》へと放逐した人間と貴族とに。いま行くぞ、――よ」
最後の言葉は雷鳴が掻き消した。
間断なく稲妻は閃き、永劫に消え果てるとは思えぬ白い光に、“絶対貴族”ローレンス・ヴァルキュアの姿と声は白く溶けた。
草原を漆黒の自走車が、草と白い蒸気を撒き散らしつつ疾走中であった。
左右に四基ずつ――都合八基の大車輪を装備した馬なしの車は、喘鳴に似た轟きを放つ蒸気タービンによって、全長一五メートル、高さ五メートルもの巨体に動きを与えている。
窓には黒いカーテンが下ろされ、いまは日中――昼日中《ひなか》であることが、乗客の素性を何より雄弁に物語る。
両サイドで誇らしげに牙を剥く黄金の獅子の紋章を見るまでもなく、ブロージュ伯爵の自走車だ。
南部辺境区にある城を出て丸十日間走り詰めの結果は、現在位置――西部辺境地区のほぼ中央に広がる田園地帯であった。
昼夜休まず、彼は何処へ何を求めて行こうとするのか。
左手にそびえる丘の上で、白煙を引きつつ走る黒い車を見下ろす馬上の黒影も、同じことを考えていた。
Dである。
「いやあ、とばすとばす。まるで、我が子が狙われているようじゃな」
手綱を握ったDの左手が、嗄れ声で面白がった。
「何処へ行く?」
とD。
陽光の下で、いかなダンピールといえどきつい状態にあるはずなのに、月輪のごとき美貌は苦痛の翳さえ留めてはいない。
「この先にある町といえば、シールグッドム、ワルハラ、ソムイ――しかし、どれかは特定できんな。みな特徴のない田舎町よ。――しかし」
と声はここでひと呼吸おいて、
「わしには、もっと気になることがある。おまえ、なぜ剣を引いた? いかな理由があろうと、敵は斃す。今回のみ、その信条に背を向ける理由が見当たらん。あ奴の甘い申し出にゆらぐようなヤワな精神《こころ》の持ち主でもあるまいて。しかし、まあ、あの『都』から来た小役人め、毒づく途中でおまえにひと睨みされて凍りついておったのは、愉快痛快丸かじりであったが。――うわ!?」
いきなりDが馬の腹を蹴ったのである。こちらも休息なしで自走車を追ってきたサイボーグ馬は、ふたたび猛烈な勢いで丘陵を疾走しはじめた。
十分ほどして、前方から聞き違えようのない水流の轟きが流れてきた。
「うほお。これは凄い。隕石の落下のせいで、こっちまで被害が及んでいるのは知っていたが、新しい川までできたか」
川というよりは、荒れ狂う水のすじといった方が正解だ。幅は丘の上から見たところ、いちばん狭い部分でも二〇〇メートルを越す。橋など形もない。
「これでは、迂回して浅瀬か橋を探すしかないな。ブロージュの車も――よよっ!?」
眼下を行く黒長い車体はスピードを落とさず、川縁へと到達するや、一片の停滞も見せずに濁流へ身を躍らせた。
「しまった! 潜水モードも付属していたか!?」
呆然とする嗄れ声もものかわ、黒衣の美貌は黙然と激流を見つめ、やがて、向う岸近くの水中から跳び出した車体が、ロケット・ブースターの炎も露わに岸辺へと着地し走り去って後、ようやく、
「渡し場は西だ」
と馬首を巡らせた。肉眼では到底確認できぬ距離も、この若者には何ら妨げにならぬらしかった。
「えーい、渡し場の位置を知っておるなら、なぜ早く言わん。いや、行かぬ? これで大きく出遅れたぞ」
喚く左手をてんから無視して、Dは丘陵を駆け降り、巨木が立ち並ぶ黒い森へと進入した。
蛇行する根の間を平地のごとく軽やかに駆け抜け、十分ほどで渡し場へ出た。
ブロージュ伯爵の自走車が人目につかぬ草原を選んだのは、もちろん、旅人との摩擦を回避したためだが、急ごしらえがありありとわかる渡し場へは真っすぐ街道が走っている。正確には、街道があっての急造の渡し場だろう。より合わせたロープを渡しただけの、危険どころか不気味この上ない「橋」の前には、それでも七、八名の旅人が集まっていたが、奇妙なことに、みな「橋」と激流に背を向け、街道脇にこれだけ一本そびえ立つアオカシの巨木を眺めていた。どれも惨たる表情である。
人々から離れ、彼らの見ているものが見える位置まで来て、Dは馬を止めた。
「これは!?」
嗄れ声に、嘘偽りのない驚きがこもった。
旅人たちの好奇の眼を引きつけ、露骨な不快感とともにそっぽを向かせてしまうのは、アオカシの幹に縫い止められた半腐乱の遺体だった。それはDにとって見知らぬ人物ではなかったのである。
「ギャスケル将軍」
嗄れ声は、不思議と静かだった。かつて、Dと戦い、一敗地にまみれながらも逃亡したただひとりの貴族――凶暴比類なき魔人を誰がこのような目に遇わせたのか。
その身体は白い糸状のもので木の幹に巻き止められ、心臓にあたる衣裳の部分には乾いた黒血が奇怪な紋様を描いている。
だが、はたしてそれが致命傷かどうかと、貴族の急所について詳しい人間でも首をひねりたくなるだろう。
無惨につぶれた頭部の眼窩からは右眼球が神経繊維を引いて胸もとまでぶら下がり、鼻も唇も内側へめり込んで、歯は一本も残っていない。耳からは脳漿と思しい、これも干からびた物質がこぼれて、胸や脇腹は、折れた肋骨の先を四方へ露出しているではないか。どこかぎくしゃくとした全身の印象も、よく見れば、砕けへし折れた四肢を無理にまとめて縛りつけたせいとわかる。
ただ、殺しただけではない。凄惨無比の嬲《なぶ》り殺しといっていい。
「あの不死身の大将軍を……一体何人がかりで。いやいや、その辺の戦闘士や小貴族が万人集まっても斃せる相手ではあるまい……どのような技を身につけた化物が……」
「落とされたな」
ぽつりとDが言った。
「落とされた?」
と嗄れ声は眉を寄せ、
「不死身の貴族がどこかから落っこちて、ひいひい言っている間にとどめを刺されたとでも言いたいのか? 一〇〇〇メートルの高さから落ちても、そんな打撲傷、二秒で完治してしまうわ」
「一万メートルではどうだ?」
「なに?」
「四万八千メートルでは?」
「一万と、四万八千――おい、こら、まさか、成層圏から落とされたとか!……なるほど、それなら、いかにギャスケル大将軍といえど、五体はばらばら、復元するのに何日かはかかるだろう。しかし、誰がそのような……ざっと見て、死後二日は経っておる。二日前、何が起こったのか……」
このときにはもう、物見高い連中も、よく見れば単なる[#「単なる」に傍点]死体に飽きたのか、そろって身を翻し、身軽な何人かはロープの橋を渡りはじめていた。
吹きさらしの死体にDは近づいた。もとより、埋葬の気持ちなど、非情な若者にあろうはずはない。だが、静かにかつての敵を見上げるその孤影には、死者以上に痛切なものがあった。
数秒見つめた後、彼は奇妙なことをした。
「ギャスケル」
と呼びかけたのである。感極まった挙句の激情の表出ではない。明らかに、単なる呼びかけであった。
死者が答えた。
「――Dか」
ひとり、落とし物をしたらしい旅人が近くへ戻ってきて、そのとき、ぎょっと二人の方を向き、これは危《やば》いと思ったか、捜し物もそのまま、そそくさと橋の方へ行ってしまったが、反応といえばそれだけで、Dは飄然と、
「誰にやられた?」
と二日前の死者に尋ねた。まさしく、大将軍は死んでいる。滅びている。でなければ、このような無惨な姿をさらしているはずがない。にもかかわらず、干からび潰れた唇が動いた。
「スピ……イ……ネ」
「誰だ、そいつは?」
と訊いたのは嗄れ声である。
「……Dよ……ダイアリスの家へ……行け……ヴァルキュアは……その家族を……狙って……くる」
「ダイアリス? 何じゃ、そいつは?」
「……ソムイの……北の村外れ……助けて……やれ……所詮は……無益な努力だが……七人の下僕……おれは……その中の……たったひとりに……斃され……た」
「おまえと、そのダイアリス云々とは、どういう関係にあるのだ? こら」
嗄れ声にDの質問が重なった。
「ブロージュ伯を知っているか?」
潰れた頭がうなずいたようである。
「ヴァルキュアを……追放したのは……“神祖”の命を受けた彼奴《きゃつ》と……おれと……ミランダ公爵夫人……そのとき……ある人間の力を……借りた……五千年……前にだ……ヴァルキュアは言い残し……た……必ず戻り……我らに復讐を……すると……おれたちは……それを信じた……そして……誓ったのだ……ヴァルキュアが……地上へ復帰したとき……ダイアリスの子孫を……奴の手から……守ろう……と……ヴァルキュアの……復活を知って……おれも……ダイアリスの子孫のもとへ……駆けつけるつもり……だったが……この様だ……Dよ……行け……行って……」
子孫を守れ、というつもりだったのか、ヴァルキュアを斃せと訴えるつもりだったのか、それきり声はなく、ギャスケル大将軍の身体から、眼に見えぬ何かがすっ[#「すっ」に傍点]と抜けていった。
「ひい!?」
と後方で声が上がったのは、さっきの旅人が、こわごわ様子を窺っていたのである。
死体が口をきくだけでもこの世ならぬ恐怖なのに、それが突然、首も手も足もはらはらと崩れ落ちたばかりか、空中で霧か霞のように霧消するのを目撃し、彼はその場にへたり込んでしまった。
「死後二日も生きておったか」
と嗄れた声がつぶやいた。感慨がこもっていた。
「よほど、ダイアリス某《なにがし》の子孫が気になっていたとみえる。断っておくが、余計なことは考えるなよ、D」
Dは流れの方へ眼をやった。
「そこに、ブロージュ伯爵もいる」
「むむ」
と言ってから、嗄れ声は嘆息した。
「日が暮れれば、スピイネとかいう奴も動き出す――行くぞ」
黒い騎馬は風を巻いて疾走に移った。
鉄蹄の轟きにふり向く旅人たちの頭上を軽々と越えて、わずかな風に揺れ動くロープの端に、鮮やかに着地を決めた。橋の底部が、二〇センチほどの隙間を空けて横に渡した五本のロープにすぎないのを考えれば、神技とさえ呼べる馬操術であった。
代わりに渡り出したばかりの何人かが足を滑らせ、かろうじて手すり用のロープに掴まって、この莫迦野郎とDをののしったが、黒衣の若者はコートの裾を風になびかせつつ、物騒な橋の上を全力疾走に移っていた。
二〇〇メートルの半ばまで、瞬く間に渡り切ったとき、その耳に女の声が届いた。
「ギャスケルと話していた男――死体と話していた男――おまえの名前をお言い」
その若く金鈴のごとき声が聞こえなかったように、Dは走りつづける。
「死人と話せるのは、貴族のみ。でも、おまえは違う。貴族に非ず、人に非ず。――ならば、この世に用なき存在《もの》。いま、ここで死ぬがよい」
さあ、と橋が沈んだ。あっという間に、Dは水中にあった。必死に水を掻く馬も激流に押し流されていく。Dが乗っていられるのは、馬の姿勢を崩させぬ彼の手綱さばきによるものであった。
三メートル押し流される間に、一メートルは向う岸に近づいていく。
サイボーグ馬が後方へのけぞった。
ふり向くDの眼に、泥水の中からのびた白い手が見えた。右手は馬の尾を掴み、左手は尻にかかっている。
あっという間に、尾がもぎ取られた。
ずるり、と尻の皮膚が剥けた。肉もついていた。合金製の骨格が露呈し、ちぎれたコードが泥水と接触して小さな火花を上げた。
手はその奥にも侵入した。神経系の着色コードを掴んだとき、Dの一刀が閃いた。
水を切ったような手応えが伝わった。女の手は傷痕ひとつ残さぬまま、コードを毟り取った。火花が色彩と激しさを増して弾けた。サイボーグ馬が痙攣する。
すうと白い手が水中に没した。五メートルほど向うに白い女の姿が立ち上がったのは、それと同時であった。
腰までかかる金髪と、それにふさわしい典雅な美貌を白いスリムなドレスに包み、女はごおごおと流れる水の上に立った。
サイボーグ馬は、すでに首以外は水中に消え、その背のDもろとも流されるばかりだ。そして、水上の女も、同じ姿、同じ速度でDを追っていく。その左眼はふさがっていた。
「怯えてはおらぬな、そなた」
女の声には憎悪と感嘆の響きがゆれていた。
「水の外の生きものは、水を恐れるものよ。大した男とこの胸に抱いてやりたいところだが、どうやら我らの目的にとって、途方もなく大きな障害になるような気がする。ギャスケルを囮《おとり》に待っていたもう二人の貴族の片割れではなさそうだが、わらわの判断で処分する。その美しい顔も姿も泥水の中に没せよ。この仕事が終えたらすぐに捜し出して、永久に清雅な湖中に封じ込めてやろう」
「それはどうも」
と笑いを含んだ嗄れ声に、水妖女が気づいたかどうか。
「おまえの名前――聞いておこう。わらわの名はルシアンじゃ」
「D」
白い美女の隻眼が、かっと見開かれた。
「――そなたがD!? そうであろうとも。わかっておった、ひと目見たときから。ああ、それなのにわからなんだ。わらわの想像とは美しさの桁が違う。――聞いたぞ、いくたびも何百何万遍も聞いたぞ。世にもまれな美しさと、鬼神も青ざめる強さとを併せ持ったダンピールだとな」
水妖女――ルシアンは恍惚と身を震わせた。
「嬉しいぞ、D。会えて嬉しい。おまえを殺せて嬉しい。その美しい肺にも胃にも泥を詰めて、いつまでも水の底に眠らせておこう」
その身体が妖々と水中に没した。美女の顔のみが水面に浮かび、にやりと妖しく唇を歪めるや、滑るようにDめがけて突進してきた。
どう迎え討つ、Dよ? 刃の無益はすでに明白だ。
二人の距離が二メートルまで近づいたとき、ルシアンが躍りかかった。
水面から離れたドレスの裾は水と溶け合い、長い黄土色の尾を曳いた。
その顔は、愛しいものの抱擁を求めるかのような至福にかがやき、そして、別のかがやきが一閃した刹那、凄まじい苦悶に歪んだ。
頭頂から股間まで、銀のすじが通りすぎるや、その身体は縦にずれたのである。
形容を絶する叫びを上げて、ルシアンは空中で砕け、無数のしずくと化して濁流に降り注いだ。
そのまま流れに身をまかせるDの胸もとで、手綱を掴んだ左手が、
「おまえを甘く見たな。たかが水の化物が」
愉快そうに笑った。
「切ったが逃げた」
笑いが止まった。
「ほお。では、別の方法を考えねばならんな」
「その前に渡るぞ」
「もっともだ。急がんと、ブロージュめの報酬を取りはぐれる恐れがある。いや、もう間に合わんかも知れんな」
Dは手綱を絞った。半死状態の馬は、ひと声いななき、ふたたび弱々しく、しかし、全力で水を掻きはじめた。
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第三章 魔圏に棲む者たち
ソムイの村では、オオタマネギと幻覚アオムギとで百ダラスになった。それで、ひと月は保つ。
来月の中頃には、今日の倍の収穫があるから、秋口まで十分やっていける。
マシュー・ダイアリスは、金貨を入れた皮袋を上衣の上から叩いて、通りを村外れへと急いだ。馬車が止めてある。
予想の倍の収入を得たせいで、運命に対する厳しさがゆるんでいたに違いない。
馬車止めの入口に固まっていた黒い塊が、彼を認めるや、五つの人影に分離したのである。
マシューが絶望を感じたのは、その中のひとつに、見覚えのある顔を認めたときであった。
他の四人も札つきの不良として、子供の時分からの馴染みだが、こいつは頭抜けて古い。
「やあ、父さん」
とマシューは呼びかけた。何とか笑顔をつくれた。
「母さんとスーが心配してるよ。早く帰って来な」
「冷てえな、おまえ」
父――ベアドはこう言って、酒臭いげっぷを洩らした。
「一緒に帰ろうたあ言えねえのか?」
「帰る気はあるのかい?」
マシューは父の横をすり抜けて、馬車に辿り着いた。
右側にオットー・フラナガンとミズ・クァロナ、左側にオーゲン・シャウワイとジョペス・ララクシスキー――子供の頃から格闘技をやっているジョペスを別にすれば、さして怖い相手でもない。後の三人はまとめてぶちのめしたこともあるし、ジョペスとも二、三度やり合って、いい勝負だった。邪魔が入らなければ勝てた、と思っている。だから、この四人組もマシューに因縁をつけることは滅多にない。どちらもいつかは黒白をはっきりさせるつもりでいた。
御者台に手をかけたとき、
「なあ、マシュー、父さんを助けてくれや」
と来た。哀れっぽい声である。金をせびるときはいつもこうだ。
マシューは動きを止め、ため息をついた。
ふり向こうかと思ったが、ふっ切って、ステップに足をかけた。
鈍い音が背後でした。苦鳴が重なった。ふり向くしかなかった。父が鳩尾のあたりを押さえて崩れ落ちるところだった。
その前で、ジョペスが右の拳を腰のあたりに引いている。よろめく父の腰をオーゲンが蹴った。前のめりに倒れたところを、オットーとミズが蹴りまくった。
「やめてくれ」
と父は頭を抱えたまま呻いた。
「金はどう返すんだよ、この糞親父」
「てめえの女房と娘を売りとばしても返しなよ」
二人がひとこと言うたびに、父の背中や腰は打撃音を立てつづけた。
「おい、右手――折っちまえよ」
ジョペスが命じた。
いちばん図体のでかいミズが父の上に乗った。二人の影の間から、父の腕が突き出て、頭の方へ寄っていった。
父は長い悲鳴を上げはじめた。
マシューは身を翻した。自分の行動の意味はよくわかっていた。父でなければ放っておく。
まず、オットーに向かった。彼は素早く父の身体をまたいで逃げた。ミズは父の腰を蹴っていて遅れた。彼が体勢を整える前に、マシューはその右膝へ蹴りを入れた。
でかくても重くても、骨の強さと神経は常人と同じだ。ぎゃっと叫んで尻餅をついたところへ、顔のど真ん中に靴先を叩き込んだ。
一発でのけぞった。
仰向けにぶっ倒れるのを見もせず、マシューは反転した。ジョペスとオーゲンが両手をふって、戦意がないことを示した。
用心しながら、マシューは父親のところへ近づき、
「大丈夫かい?」
と訊いた。
すすり泣きが返事だった。無性に腹が立ち、無性に悲しかった。
ジョペスの方を見上げた。てめえら、と自然に出た。いくら借りてたかは知らないが、これは借金とは別だ。
「来やがれ」
と立ち上がった。力が漲った、と思った刹那、両足がすくわれた。
「わわっ」
前のめりに倒れたが、腕立て伏せの要領で激突は避けた。
ジョペスの靴が、その手を跳ねとばした。跳んでくる蹴りを何とか急所カバーでかわし、マシューは地面に右手を当てて思いきりジョペスとオーゲンにふった。黒土を顔に受けて、二人は動きを止めた。
マシューは立ち上がった。
その右の腰に鋭い痛みが突き刺さった。
マシューは右腕をふり廻してそいつの首根っこを掴んだ。誰なのか、予想はついていた。
「マシュー、金をくれ」
と父親は言った。酒臭い息である。
「ごめんだね」
と答えて、マシューは前方のジョペスに、
「つるんでるんだろ?」
と訊いた。ジョペスは肩をすくめて笑った。
「まあ、な。――言い出しっぺは、親父さんだぜ。まとまった金が欲しいんだってよ」
「マシュー」
痛みがさらに食い込んだ。
「さっさと出せえ。出さねえか」
父はナイフをえぐり、息子を悲しみに満ちた失神状態に陥らせた。
マシューが気づいたのは、動く馬車の上だった。自分で乗ったのか、連中が乗せたのかはわからない。サイボーグ馬は、勝手知ったる道を着実に農場へと進んでいた。
金貨は皮袋ごとない。腰の傷は内臓に達していないが、幸運だと喜ぶ気にはなれなかった。
周囲はすでに闇の領土と化し、村外れから農場までの一本道は、起伏の多い大地に白いリボンのようにのびていた。
月はある。マシューは痛みをこらえながら、ムーンライト・ゴーグルを装着した。わずかな月光を増幅させ、世界を白昼のごとく見せるゴーグルは、夜の道を行かねばならない旅人にとって絶対の必需品であった。
左手に黒々とした窪地が見えてきた。二百年ほど前の大地震で陥没した名残だというが、広すぎる。一〇万ヘクタールはあるだろう。近くの強盗団の一部や飛行生物が幾種類か、盗品や食い残した人間の隠し場所に使っているそうだ。
瘴気を噴き上げる沼地や、毒草ばかりの生育地等もあり、おかしな生物には事欠かないから、早めに通過した方がいいと、マシューは鞭をふり上げた。
「ん?」
と顔をそちらへ向けたのは、眼の隅に何やら疾走中の黒い物体を捉えたからだ。
西の方からかなりのスピードでやって来る。馬のない車体――かなり大型の自走車だ。
「まさか、家へ?」
首をひねる前に、恐怖が心臓に冷たい息を吐きかけた。あんな車――貴族しか持っていない。それが夜、我が家の方角へと向かっている。
たっぷりと恐怖を溜めた眼が、そのとき、驚愕に乗り換えた。
なんと、スピードもゆるめずに、五トンは優に越えそうな自走車が、ふわりと宙に浮いたではないか。
思わず、マシューは馬車を止めた。眼は地上一〇メートルほどで停止した自走車に据えたまま、御者台の下の薬箱を取り出す。次に何が起こるか、猛烈に見たくなったのである。それには痛み止めが要る。
消毒用の軟膏を傷口にすり込み、痛み止めのカプセルを一個口に含んだとき――
天空から、ひとりの人間が下りてきて、車の正面――一〇メートルばかり離れた空間に頭を下にして止まった。蜘蛛みたいに手足の長い痩せぎすの男だった。ぴったりした茶色のシャツが身体のラインを明らかにしている。
マシューは耳を澄ませた。切れ切れに、男の声が聞こえた。
「出……来い……ブロ……伯爵……ギャス……軍の……最期……見届け……か?」
車の天井の蓋《ハッチ》が開き、そこから現われた男を見て、マシューは、わお、と口走ってしまった。
身長優に三メートルはある巨人だ。右手の槍も合わせたように長く太い。ひとふりで竜巻も起こせそうだ。
「車……下ろせ」
と、巨人が地面の方を指さして命じた。
「自力……下ろして……み……」
明らかな挑発の言葉であった。二人の間に凄まじい敵愾心の糸が張られていることに、マシューは気づいていた。
「名前を……聞こ……」
と巨人が言った。
「スピイネだ」
それだけがはっきりと聞こえた。
その声に合わせて、蜘蛛のような男は両手をのばし、その指先から、ひらひらと白い糸様のすじが巨人へと飛んでいった。
蜘蛛の糸――とマシューが確信したほど、男は蜘蛛に似ており、すじは糸に似ていた。
それが触れるまで、巨人は待ってはいなかった。
仁王立ちになった位置は移さず、手にした槍を正中線に合わせて直立させるや、その中心から大きく回転させたのである。
風が唸った。巨大なる風車か――その描く弧の下端は彼の爪先にあり、上段は頭上を越えて廻った。
漂い寄ってきた糸はそれに触れるや、ことごとく消滅したのである。
マシューが、おお、と叫んだ。
隠しようのない驚きがスピイネの身を震わせたとき、伯爵は槍を投げた。ひとすじの黒い光であった。それはスピイネの胴の真ん中から背中まで、小気味よいくらい真っすぐに貫き通ったのである。
世にも不気味な悲鳴を上げて全身を痙攣させ、蜘蛛男は動かなくなった。四肢は内側へ撓《たわ》むように曲げられていた。
マシューが目撃してから、一分足らずの出来事である。絶対安全な場所にいる彼が、緊張のあまり身じろぎひとつできない死闘であった。
空中にゆれる串刺しの死体を前に、これも空中の車の屋根で、伯爵は少しの間仁王立ちになっていたが、不意にマシューが眼を剥くひとことを洩らしたのである。
「芝居は……まで」
途端に、スピイネの手足がのびた。細い眼が開いた。
「さすが……ブロ……伯爵……これは……返……ぞ」
彼は両手を槍にかけて、するすると引き抜いた。軽く放ると、伯爵は空中でそれを受け取った。
「ギャス……将軍とは……会えな……ようだな……せめて、同じ……死……をしろ……」
スピイネの声が終わると同時に、その顔面をまたも長槍が貫通し、後頭部から斜めに抜けて、眼下の地面に突き刺さった。
マシューは息を呑んだ。
長槍を再度投擲したとき、すでに上昇を開始していた車は、伯爵に飛び下りることも許さぬ猛スピードで星空の彼方に吸い込まれたのである。
我に返ったマシューが蜘蛛男に眼をやると、何処に消えたものか、影も形もない。
悪夢を見たような気分で、マシューは家へと戻った。
血まみれの息子をひと目見た母と妹は、奇怪な死闘の物語を聞こうともせず手当てにかかった。
ひととおりの処置を終えると、
「あんたの応急処置で傷口もふさがりかけてたし、血も止まってた。念のため、明日、フレディ医師《せんせい》のところへ行っといで」
母の宣言に、マシューはうなずいて、もう寝ると言った。
母は黙って彼の眼を見つめた。
「何だよ?」
「喧嘩の相手は、本当にあの四人組だけかい?」
「そうだよ」
「それにしちゃ、中途半端な刺し方だね。少しだけど、ためらってるよ」
マシューは肩をすくめた。
「母さん、村へ行くたびに、あの夫《ひと》のことを聞かされるんだよ。例の女の家に入りびたりで、飲んだくれてるばかりだってね。雑貨屋のハーニャさんのとこにも、何度もお金を借りに行ってるらしい。次の収穫期に払うからと詫びてきたけれど、あの夫《ひと》なら自分の息子にもたかる[#「たかる」に傍点]。駄目なら――刺すくらいはやるだろう」
「母さん」
マシューはとがめるように言った。何を言っても無駄なのはわかっていた。この辺境でただひとり、二人の子を育ててきた女の眼は絶対に確かなのだ。
「あの夫《ひと》だね?」
マシューはうなずいた。その肩をやさしく叩いて、
「二、三日ゆっくりお寝《やす》み。残りの収穫は、母さんとスーとでやっておくよ」
ドアへと向かう母に、マシューは呼びかけた。
「母さん――この件は誰にも」
母は足も止めずに戸口をくぐった。
ドアが閉じた。
マシューはため息をついて、ベッドに横たわった。
痛み止めが効いてか、少しうとうとしてしまったようだ。
固い音が彼を眼醒めさせた。
ぼんやりと何処からだろうと考えた。あの音は――ガラスだ。
右方を向いた。
闇を詰めた窓外に、白い顔がゆれていた。世にも美しい金髪の美女――眠気が吹っとんだのは、その美貌のせいもあるが、ガラスを通して吹きつけてくる異様な鬼気の力であった。
マシューは眼を閉じ、ゆっくり五つ数えてから開けた。
顔は消えていた。寝呆けた脳の見た夢か、と思った。そういえば、あれほどきれいな顔なのに、片目だった。
また、音がした。ドアのノックだと識別する落ち着きは残っていた。
「お入り」
と窓から眼を離して声をかけた。
入ってきたのはスーだった。パジャマの上に長いガウンを羽織っている。
「まだ起きてたのか?」
「気になって」
とスーは答えた。生まれつきはかなげな娘で、身体の異常はないのに両親は長くはないと考え、マシュー自身もそう思っていた時期がある。いまでもそれは変わらないが、十四歳にもなると、このまま何とかいけるのではないかという希望が生まれるのも確かだった。
「傷なら大丈夫だ。明日いちにち休めば畑に出られるよ」
「よかった」
スーは微笑した。血の気のない唇が結ぶ笑みは、悲しくなるくらい愛らしくて、マシューはいつも、その細い肩を抱いてやりたくなる衝動を抑えるのに苦労するのだった。
「どうした?」
それきりこちらを向いたままの妹の顔に、覆い隠しようのない不安の影を認めて、マシューはやさしく声をかけた。
スーは片手を口もとへ持っていくと、人さし指の付け根を噛んだ。
「おい」
「兄さん――夢を見ていない?」
「夢?」
「あれからよ」
「あれから――って。みんなで同じ夢を見た――十日前のことか?」
スーはうなずいた。
「星が落ちる夢を見た。北部辺境区は大変なんですってね。私、それから毎日、怖い夢を見ているのよ」
「――どんな夢だ?」
「兄さんは、見てないの?」
「どんな夢だ?」
スーは眼を閉じ、両手を胸の前で握り合わせて、怖い、とつぶやいた。
「霧の中から影が近づいてくるの。幾つも幾つも。一昨日数えたら、八つもあったわ。ひとつだけ、途方もなく大きな――山のような影が後ろに立っていて、他のはその麓っていうか――足もとから湧き出してくるの」
「気のせいじゃないのか。たかが夢だろ。夢魔ならこの辺にもいるし」
「わかるのよ、私には」
スーは身を震わせ、訴えるように言った。
「何が?」
「私たちを狙ってるって。あいつらの目当ては私たちなのよ」
「私たちって――おれも母さんも、か?」
「父さんも、よ」
「なら、親父にまかせよう」
「兄さん!」
悲痛な表情の妹へ、マシューは片手をふって、
「冗談だよ」
と言った。
「けど、おれたちがそんな奴らに狙われる理由はないだろ。そもそも、北部辺境に隕石が落ちたとき、おれたち以外にもおかしな夢を見た奴って、たくさんいると思うぜ。夢なんて、そんなものだからさ。第一、誰かに狙われるとしても、それと隕石とどういう関係があるんだ? 星から刺客がやって来たって? おまえだっておかしいと思うだろ?」
「――だから、兄さんは見てないの?」
「ああ。何にも」
「――そう、よかった。私だけなんだわ」
スーはドアにもたれかかった。不安が消えたのではないことは、表情からわかった。このもの静かな妹は、他の家族のために安堵しているのだった。
母さんはどうなんだ、と訊こうとして、マシューは思い留まった。薮蛇《やぶへび》になってしまう。
彼はベッドから下りて妹に近づき、その手を取った。
「もうお寝《やす》み。夢なんかいつか醒めちまうさ。醒めなくても、夢の中で白馬の騎士が救けに来てくれるよ」
「そうね」
スーは微笑した。切ないのはこの笑顔の方だった。運命という奴が、何にせよ辛さを伴うのなら、少女はそのすべてを知っているにちがいない。
「スー」
呼びかけたとき、妹の表情が変わった。誰もが夢を映しているようだと誉め讃える双眸《そうぼう》は、兄ではなく別のものを映していた。窓とその向う側に立つ人影を。
性別すら確かめるのも忘れて、マシューはふり向いた。
ガラスは闇だけを映していた。
標本にされたみたいな妹の肩をゆすって正気に戻し、
「誰がいた?」
とマシューは訊いた。
「女の人」
とスーは喘ぐように答えた。
「とってもきれいな、でも、とっても怖い女の人。あの人よ。私たちを――私を狙ってる女の人。夢の中では、はっきり顔が見えないんだけど、いまわかったわ」
「部屋へ戻ってろ。ドアにも窓にも鍵をかけて、魔除け草を持つんだ。ボルト銃はあるな?」
「大丈夫。怖くなんかないわ」
とスーは胸に手を当てて保証した。
いま、そこに触れれば、破《わ》れ鐘《がね》のように鳴り響いているだろうと、マシューは堪らない愛しさを、ガラス細工のような、それでいて気丈な妹に抱いた。
手斧と白木の楔《くさび》をベルトに差し込んで外へ出た。
スターライト・ゴーグルのせいで、視界は良好だ。
満天の星である。
マシューは、しかし、見ることができなかった。光量の増幅によって夜を昼に変えるスターライト・ゴーグルは、尋常な光源に対しても同じ効果を発揮する、見る者は瞬時に網膜を焼き切られて盲目だ。
母屋の周りを見たが異常はない。納屋へ向かった。
耕運機や自動田植え器の他に、農具の修理マシンや火薬、化学薬品の類が詰まっている五〇坪ほどの建物は、母屋から二分とかからない。二つの建物の間には古い井戸があるきりだ。
納屋の出入口まで来て、マシューは足を止めた。
扉に手を当て、押した。一昨日、蝶番に油をさしておいたせいで滑らかに開いていく。
暗黒が詰まっていた。
手斧を抜いて握り直す。
扉の陰に誰か隠れていないだろうか? ふと思った途端に無視できなくなった。
そっと隙間に身を入れて――
すい、と現われた。
「わっ!?」
小さく叫んでふり上げた手斧が空中で止まった。
「あわて者」
ひどく懐かしい声である。
「母さん――どうして、こんな時間に?」
「おかしなものを見つけてね。――納屋には誰もいないよ」
たくましい、とはいえぬ母の両腕には、銃身と銃把《じゅうは》を短く切った散弾銃が乗っていた。
子供たちには何も言わず、ひとりで危険な夜の中へ出た。この親らしいとマシューは熱くなる胸を隠して、
「駄目だよ、母さん。そういうときは、おれに言ってくれないと、面子が立たねえだろ」
母は息子を頼もしげに見つめ、すぐに怖い顔になった。悪戯をしたり、生意気なことを口にしたとき、この顔から平手打ちが、他人に迷惑をかけたときは拳が飛んでくるのだった。
「阿呆、十年早いよ」
と息子をにらみつけて二人は外へ出た。
マシューが扉を閉めた。
「さ、戻ろ――」
と声をかけて、母が凍りついているのに気がついた。
同じ方を見た。
井戸のかたわらに、白いドレスを着た女が立っていた。胸をせり出し、思いきり腰をしぼってから、満を持したかのように大きく広がったスカート。舞踏会を愉しむ貴族の礼装だ。
「アデル・ダイアリスに息子のマシュー」
と女は光る眼で二人を見つめた。瞳は黄金《こがね》に輝き、金髪の上を月光が銀河のように滑っていく。
女が前に出た。
「近づかないで」
母が散弾銃を肩づけした。込めてあるのはいつもの九粒弾だろう。この距離で食らえば、人間の頭くらい軽く四散する。
「私たちは留守番よ。ここの家族は旅行中。来年まで戻って来ないわ。何の用?」
「生命《いのち》です」
と女はにこやかに言った。冬の夜みたいに静かなのに、冬の夜みたいに母子はぞっとした。
「あなたたちに新しい生命を与えるべく、私は来ました。その銃をお捨てなさいませな」
明るい声は二人の頭の奥で妖しく鳴り響いた。
二人は眼を閉じた。網膜に黄金の双眸が燃えていた。
母親の銃がゆっくりと下がっていった。マシューの手は動かなかった。
「いらっしゃい」
女が手招いた。その指先から出る見えない糸に操られる人形のように、母子はふらふらと女の前に立った。
女はまずマシューを眺め、それから母に眼を移した。
「気の毒に」
皮肉っぽい口調には、憐れみがゆれていた。
「この無数の皺、たるんだ肌、きつい眼差し――すべては歳月などという呪われた代物のせいですわ。若い頃はさぞや美しかったでしょう。いま、青春の美を取り戻しなさいませ」
白い人さし指がのび、母のシャツの胸もとから腹まで滑ると、シャツの前は一文字に裂けた。
母は下着をつけていなかった。豊かなふくらみに、女の手が触れた。
「おお、見事な胸をしていらっしゃること。わかりますとも、内側《なか》の血のたぎりが。人間《ひと》の血は熱い。我らみんなの憧れです。それは、ここから汲み取ることになっております」
手は肉のふくらみから離れ、美しい虫みたいに母の肌を這い上がって、首すじに辿り着いた。
その指が軽く表面を掻いただけで、母は小さく喘いだ。
「白い肌に透ける青い血のすじが見えますか。どこにあるか、よく覚えておきなさい」
そして、女は朱色の唇を、母の首すじに押し当てたのである。
なまめかしい妖物のような朱唇と、たおやかな首の間から同時に、嘔吐するような声が洩れた。
母とマシューは後じさり、女は左胸に両手を当ててよろめいた。
握りしめた拳の間から、血まみれの木の枝の先端が突き出ていた。
「おのれ……何者……」
ふり向こうとするその髪の毛が、井戸の方に引かれた。
何の抵抗も示さず、その身体は井戸の中へと引きずり込まれていた。
顔を見合わせる母とマシューの耳に、水音が響いた。
「あの女は貴族よ、マシュー」
「わかってる。でも――どうして、誰が?」
マシューは手斧を握り直し、母は素早く散弾銃を拾った。
井戸の表面に光るものが盛り上がってきた。
それは石の縁からこぼれ、二人の足下まで広がった。水だ。
それに驚く暇はなかった。
なおも溢れる水の下から、妖々と女の姿が浮き上がってきたのである。
腰までかかる金髪、月光も恥じらうかのような美貌に白いドレス。だが、いまの美女ではなかった。ドレスは艶かしい身体の線《ライン》がはっきりとわかるほど細い。何よりも――隻眼だ。
「お、おまえは!?」
手斧をふりかぶるマシューへ、女の唇が言った。
「アデル・ダイアリスとマシュー・ダイアリスですね。私の名はルシアン。あるお方からの命を受けて参りました」
その髪から顎先から、絶え間なくしたたるしずくは月光色の宝石であった。
たったいま、ひとりの女貴族を滅ぼした魔力と登場の仕方を見るまでもない。陽光の下の大河でDと死闘を演じ、その刃を二度も受けながら逃げ去った水妖――ルシアンであった。
吹きつけてくる妖気――それにさえ水の分子が含まれているのか、母子の顔に手に水滴が盛り上がり、アデルは両眼を手の甲で拭った。
「スーを連れてお逃げ」
と叫んだ。
「いや、母さんこそ逃げろ。こんな奴、おれひとりで」
「貴族を斃した化物よ。おまえの手に負えるわけがない。――お行き!」
「真っ平だ!」
ぬかるみと化した地を蹴って、マシューは突進した。
女が地上に下りた。その顔に浮かぶうすい笑いに、心臓が凍りつくような冷たさを覚えながら、
「おおおおお」
渾身の力を右手にこめてふり下ろした。
狙いは女の頭部――もろに決まって刃は食い込み、その手も食い込んだ。いや、肩も身体も。水のトンネルでもくぐったような感触を残しながら、幾千の水飛沫《みずしぶき》とともにマシューは女の背後に転がり出た。
前のめりから身をひねって、両手を突いて上体を起こしながら叫んだ。
「抜けた――この女の身体は、水でできてるんだ!」
「おどき!」
アデルが叫び、マシューが逃げるのも待たずに引金を引いた。
どん、と地の底がゆれるような轟きが弾け、ルシアンの頭部は粉砕された。
反動で持ち上がった銃とのけぞった身体をかろうじて元へ戻し、アデルは、しかし、二連銃の左の銃口を、棒立ちの女に向けた。
ルシアンの首の付け根から、透明な塊が盛り上がってきた。と、見る間に眼鼻がついて金色《こんじき》が流れ、風にたゆとう黄金の髪を持った美女の顔ができ上がったのである。
ルシアンがにっと笑った。
血も凍る恐怖を背筋に感じながら、アデルは二発目を放った。
何とも不景気な音を立てて、銃口から黒煙が吹き上がった。弾丸は不完全燃焼だったのである。
水妖女は声もなく笑った。
「弾丸《たま》が湿《し》けたのは、自然の現象ではありませぬ。私の力です。あなたたち母子も、身体の内側から私の大好きな水の皮袋に変えてさしあげましょう」
ずい、とルシアンが前へ出た。
その腰にマシューがしがみついた。
「この化物。逃げろ、母さん!」
しがみついた腕が、妖女の腰の真ん中で絡み合った。
ルシアンの右手が自分の鳩尾のあたりへ潜り込むと、勢い余って背中から突っ込んできたマシューの首すじを掴んで、前方へ突き出した。
マシューのもがく手はその腕を突き抜けるのに、マシューの首を押さえた女の手は鋼のように微動もしなかった。
「まずは孝行息子から」
言うなり、左手がマシューの口腔へと吸い込まれた。
マシューが咳き込んだ。その鼻と口から透明な水が溢れ、彼は身をよじった。
月光の下――大地の上で若者は急速に溺死への道を辿っていた。
「やめて!」
アデルは散弾銃を捨てて、腰のベルトにつけた皮鞘からナイフを引き抜いた。眠っている間も離したことのない刃渡り二〇センチものナイフは、辺境の必需品である。
躍りかかれば、マシューと同じ運命が待つだけと知りつつ、この母は恐れも躊躇もしなかった。
ふりかぶって走った。
怪事はその前で生じた。
何やら白い、霧状のものがルシアンの全身を包んだのだ。
喉がつぶれるような悲鳴を上げて、水妖女は身悶えした。
マシューの口から腕が抜け、マシューの首も身体から抜けて、彼は地べたへ仰向けに倒れた。
のたうつルシアンの顔は眼鼻を失い、手は胴に溶け込み、足は溶け合った。
かろうじて人体の名残を留めた水塊は、かがやく霧に苛まれつつ井戸へと躙《にじ》り寄り、最期の力でもふりしぼるような格好で地を蹴った。霧の呪縛を離れたか、水と化した女は滝のように暗い底へと降り注いでいった。
アデルもマシューも、その場を動くことはもうできなかった。眼前の怪異は、辺境に生きる鉄の意志と身体を持った二人にしても、精神的に耐え得る許容範囲を逸脱していたのである。
霧が変わっていった。
人間の輪郭が備わり、四肢が生じ、黄金の髪がゆれた。
白いドレスの女貴族は、静かに二人の前に立った。
「貴族の下僕《しもべ》が不遜な真似を――召使が所詮、主人《あるじ》に勝てるとでも思うたか」
二人に向かって、朱色の唇が笑いかけ、ようやく、女は母子に眼を剥かせている物体に気がついた。
その左胸から木の枝の先が生えている。
笑みを苦笑に変えて、女はその先端を掴んで前方へ引き抜いた。肉の裂ける音がしたが、苦痛の表情はない。急所を刺し抜かれぬ限り、痛みは伴わぬのだ。
しかし、左胸――心臓は貴族の唯一といってもいい急所ではないのか。
「あの女には、後で応分の処罰を与えよう」
枝を投げ捨て、女はゆっくりと二人に手をさしのべた。両眼がまたも妖しい黄金の色を帯びる。
「おいで」
と手招きをしたその瞬間、女の後方五メートル――山と積まれた干し草の上に、天空から何かが落ちてきたのである。
それこそ落雷百個ともいうべき轟きと衝撃が、大地をゆすった。
母子は五メートルも後ろへ跳ねとばされて、納屋の扉に激突し、納屋自体も傾いた。女貴族すらよろめき、井戸にすがって身を支えたのである。
炎が上がった。
落下物との摩擦で干し草が燃え上がったのだ。一体、どれほどの高さから、どのような物体が?
地べたにへたり込んだアデルとマシューの眼はそう問うている。美女の表情もそう尋ねている。
解答はすぐに現われた。
炎の中から、巨大な人影が、ぬうと立ち上がったのである。
ワインレッドのガウンに右手の五メートルもの大長槍。炎の中から出現しながら、のっしと一歩を踏み出した身体のどこにも炎などついていない。
それでも気になるのか、空いた方の手で、肩や腰を叩いてから、巨人は睥睨《へいげい》するかのように三人を見下ろし、
「久しぶりだな、ミランダ」
と声をかけた。
「公爵夫人とおっしゃいましな、ブロージュ伯」
と女貴族はにこやかに天空をふり仰ぎ、
「どちらからお戻り?」
「地上四万八千メートルから」
とブロージュ伯爵は首すじを叩いた。
「スピイネといったか、奴め、空中におかしな配下を忍ばせておったわ。私だからこそ切り抜けたが、最終的には落とされた。いやはや、みっともない」
「相も変わらず、闘志満々の呑気者であらせられること。――これで約束を守れますの? 五千年の錆びつきはなかなか落とせませんわ」
ずけずけと口にする白い美女――ミランダ公爵夫人へ、ブロージュ伯爵は人の好い笑顔を与えた。どこか深い部分でわかり合っているような、そんな笑みであった。
「さて――」
と巨人は、納屋の前でようよう立ち上がった母子へ眼を向けて、すぐに左方へ移した。
母屋の玄関から、ブルーのガウンをまとったスーが姿を見せたのである。手には原子灯がゆれている。
「母さん、マシュー」
呼びかけてから、奇態な訪問者に気づいて彫像と化した。
「スー、お家にお入り!」
母の叫びにも足は動かない。気死してしまったのだ。
三メートルの高みにそびえる巨人と月光にかがやく白いドレスの美女、背後では干し草の燃える炎が夜気を照らしている。何かできる方がおかしい。
「子供たちに手を出さないで!」
マシューを庇うように、アデルがその前に立った。貴族を前にして、素手の人間に何かできるはずはない。
「おかしな真似をしてごらん。あんたたちがその忌まわしい牙をこの子らの血管に突き立てる前に、あたしが噛み殺してやるよ」
「面白うございます」
ミランダが唇を吊り上げた。笑いの形の端から、白い牙がのぞいた。
「よせ」
と、巨人の手がその肩にかかった。それだけで破損しそうなかよわい肩なのに、軽くゆすると、巨人の手はあっさりと跳ねとばされた。
「よせ」
巨人はもう一度かけた。ミランダの肩もびくりとも動かない。
「どうして邪魔をなさるの? この家族にとっても、このやり方が一番なのですわよ。貴族の仲間になった人間を、貴族の下僕といえど、おいそれとは手にかけられません。貴族だって同じですわ」
「それはそうだが」
「なら、邪魔をなさらないで」
「いや、待て。私たちの意見はともかく、まず取り上げるべきは、彼らの考えだ。――こちらの美女に血を吸われてみたいかね?」
「真っ平よ。それ以上、来ないで」
アデルは断固拒絶した。なんだか様子がおかしい。貴族がただ血を吸いにきたのでもなさそうだ。第一、この辺にいるはずのない貴族が二人もまとめて家へ来るなんて、絶対に狂ってる。何かある。自分たちにわからない秘密をこの二人は抱いている。とにかく貴族――血を吸う魔物だ。絶対に油断してはならない。
凍えそうな身体に決意が熱い血を還流させはじめた。
こんな母親の姿を、ブロージュ伯爵は遥かな高みから眺め下ろしていたが、
「断固たる拒否か。――おまえのやり方はあきらめろ、公爵夫人」
「あら、お互いにとって、一番得になる方法なのに。考え直しなさいな、人間の奥さま」
ミランダの眼が、またも黄金のかがやきを帯びはじめた。
アデルの瞳の奥に同じ色の光が点り、厳然たる意志を溶かし去ろうとする。
「おい」
「お黙りなさい」
とミランダは、憎しみをこめた声で言った。そのくせ語調は愛想のよい貴婦人だ
「あなただって、内心はこれが一番と思っているはずですわ。私は心変わりを求めているだけ。余計な口を出さないでいただきます。――いらっしゃい」
アデルは手招きに応えた。危うし、月光に豊かな胸をさらしつつ、吸血鬼の血の罠に陥ろうとする気丈な農夫の妻――
生と死の距離が二メートルまで狭まったとき、ミランダの足下に小さな破壊音とともに青白い原子の炎が広がった。炎はドレスに燃え移り、みるみる公爵夫人を人型の松明《たいまつ》に変えた。
「母さん」
よろめくアデルに駆け寄ったのは、マシューとスーだった。
「ほう」
と巨人が空中で感心したように呻いた。
この小柄な娘が、手にした原子灯をミランダに投擲して母の危機を救ったことに対する賛辞であった。
それどころか、外へ出るとき持ち出したらしいボルト銃を手に、母と兄を庇うように立ったではないか。
「大したものだぞ、この一家。――ミランダよ」
同意を求めたのではなかったが、人間松明が応じた。
「本当に。これなら、私のお返しにも耐えられることでしょう」
燃える両手が横に上がって、鋭い吐息とともにふり下ろされた。
炎は消えた。原子灯そのものも。
立ち尽くす白い美女の肌にもドレスにも、焼け焦げの痕ひとつない。
「いらっしゃい――いえ、私からうかがいますわ」
伯爵が止める暇《いとま》もなく歩き出す。
二歩で終わった。
ミランダ公爵夫人はふり向いた。
ブロージュ伯爵も、また。
彼らが何を聞き、何を見たものか。母と子がそれを知ったのは、五秒ほどおいてからだった。
母屋の奥の闇――農場の入口から蹄の音が近づいてくる。
一体、誰が?
ああ、ミランダもブロージュも、これが恐れを知らぬ貴族の表情か。
「どなたか?」
尋ねる公爵夫人の声は震えていた。
「力持つものだ」
とブロージュが答えた。
「誰が?」
とアデルがつぶやき――
答えは月光が浮かび上がらせた。
いま、闇の奥から現われた美しい闇は、黒い騎馬の形を取って月光の下をやって来る。
干し草の横を過ぎるとき、炎が半身を赤々と灼いた。
巨人とミランダから三メートルほどの位置で、彼は停止した。
「遅れたというべきか、間に合ったなというべきか――とにかく会えたな、Dよ」
伯爵の声に含まれた畏怖を聞き取って、ミランダ公爵夫人は生唾を呑み込んだ。
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第四章 星から来た貴族
三つの怯えた顔が、台所のテーブルを囲む。これも三つの人外の顔に食い入るような視線を注いでいた。
Dとブロージュ伯爵とミランダ公爵夫人――同じテーブルで彼らを迎え討つのは、アデル・ダイアリスひとり。戦力を考えれば、不公平を通り越してシュールとさえいえる布陣だが、奇妙なことに、この三人は彼女と子供たちの敵ではないのだった。
マシューとスーは居間に通じる戸口に並んで立ち、その顔は母同様、戦慄と気丈さの入り混じった表情を浮かべているが、その奥に奇妙な――憧れめいた色があるのは、彼らの最も近い位置に立つ美しいハンターの力であった。
二人とも、彼の名を知っていた。伝説めいたその剣の技も、子供の想像力という強力無比の烙印を得て、精神と脳の深奥に灼きつけられている。だが、それよりも、知らずのうちに、その胸をときめかせる――何という美しさ。
妖艶この上ない月光の美女ともいえるミランダ公爵夫人でさえ足下にも及ばない。桁どころか格が違いすぎるのだ。見つめられなくても、少し見ているだけで頭の芯がとろけ、世界が歪みはじめる。Dの美貌の凄まじさに、二人の潜在意識が醜いものは去れと命じてしまうのだ。
恐らく、ブロージュ伯はともかく貴族の典型というしかない公爵夫人までが、内部《なか》で話をしろと命じるDの言葉に口をへの字に曲げながらも従ったのは、やはり、この美しさのせいではなかったか。
子供たちは、いままでブロージュ伯とミランダが交互に語った驚くべきかつ恐るべき真実も忘却しかけるほどの妖しい恍惚に浸っていた。
それはアデルも同じだった。母親としての責任感と矜持が、かろうじてDの美貌に眼をやらぬことで正常な意識を保たせてはいるが、その手は強く、新しいブラウスと上に羽織ったガウンの合わせ目を握りしめている。Dが現われたとき、彼女の胸は剥き出しだったのだ。
彼女が貴族たちの物語に尋常の反応を示すことができたのは、案外、この羞恥のせいだったかも知れない。
深夜、彼女と子供たちを襲った恐怖の真相は、星から帰り来た貴族の物語であった。
五千年前、北部と西部及び東部辺境区のすべては、ひとりの貴族の支配下にあった。
ローレンス・ヴァルキュア。
「奴は“絶対貴族”と呼ばれた」
ブロージュ伯爵の、むしろ温和ともいうべき顔が、このとき鬼そのものに見えた。
「貴族の中の貴族、その力、その富、その身分において、誰ひとり逆らうもののない大貴族――そう呼ばれるにふさわしいものを、彼はすべて身につけていた」
多くの貴族は辺境区での任務を殊の外嫌悪したが、彼は自ら進んでそこへ赴き、しかも、辺境の中でも最悪といわれる北の果てに残る謎の超古代人類の城館を改造して、何たることか、北部辺境区の半ばを占める大城塞を建造、そこから本来他の貴族の管轄地域である東と西と南の辺境区へも手をのばしたのである。
当然、戦いが勃発したが、東と西の管理官は、五十年ももたずに敗退し、ただひとつ南の貴族団のみが頑強に抵抗した。
「それが、私とこのミランダの夫ハーネス公、そして、ギャスケル大将軍だった。汗顔《かんがん》のいたりだが、ひとりでは勝ち目がなかった。奴は自身の力も、奇怪で強力な武器を創造する能力も、そして、後に控える家来たちも我々を遥かに凌駕していたのだ。“神祖”の血を引いていると噂されたのも、あながち眉唾とはいえまい。奴の追放の後、残った機械類や兵器を調べた担当官は、その原理を探るために寝食を忘れ、ついに発狂して陽光の下へとび出したほどだ。
奴が何の目的でそんなものを創り出したのか、皆目見当がつかん。わかるのは唯一、貴族、人間を問わず生きとし生きる者への気が狂うほどの憎しみだ。恐らく何かが、奴が秘匿していた凶悪なる因子を顕在化させてしまったのであろう。奴の城の地下からは、ありとあらゆる方法で惨殺された人間と貴族の死体が五百万も発見されたのだ」
「記憶違いでしてよ、ブロージュ伯」
笑い声とともに、ミランダ公爵夫人がその言葉を引き取った。
「死体は四百万、あとの百万はまだ息があった。生首と心臓だけが生きていたのですわ。四次元界にあるといわれた姿なきタンクから供給される生存剤を送り込むたった一本のチューブによって、死ぬこともできずに。しかも、その薬品には、死なせも発狂もさせぬための激痛成分と精神安定ナノマシン、それから、絶対の孤独と絶望に精神を膝下《しっか》させるための“仮想現実”そのものが含まれていたわ。ローレンス・ヴァルキュアが絶対貴族と呼ばれるのは、このためよ」
さしものヴァルキュアも、南の三者連合軍の実力には手を焼き、戦いは千年にも及んだ。辺境はことごとく焼け野原と化し、血の雨が血の河と湖を生じさせ、呪法科学の戦いでマグマの核まで腐り果てた大地は、ミランダ公爵が“夢”を見させることによって、かろうじて生を保ち得たのである。
「あのときは凄かったわ。何かの古代の記念日のときよ。私たちはそれまで、マグマやレイ・ラインのパワーを借りてヴァルキュアの鼻を明かしてきたけど、まさか、お返しに流星をぶつけてくるとは思わなかった」
飛来物は、地球から三億キロほど離れた小惑星帯からリモート・コントロールされる鉄質小隕石だった。秒速二〇キロで大気圏内に突入した隕石は、宇宙砲台の攻撃にもかかわらず、五百個のうちの一個が防御網をかいくぐって、全辺境区のど真ん中に激突した。
半径五〇〇キロの大地が天空に噴き上がり、山は消え、海は灼熱した。死者は三千万人――なぜ、隕石の襲来を事前にキャッチできなかったか、貴族たちの間で法廷が開かれるほどの騒ぎになったが、これは簡単に結論が出た。闇と放射線のみの大宇宙は、貴族にとって両親にも比すべき愛しい存在なのであった。その大いなる空間が自分たちを裏切るなどと彼らは考えず、従って、観測の必要性を認めなかったのである。最愛の両親の胸の裡《うち》を、誰がのぞこうとするだろう。
しかし、現実は宇宙の徹底的な観測を促し、ついにその五日後に、飛来する直径一万キロの隕石、否、惑星を発見したのである。
その形状と速度から、アルファ・ケンタウリに属する恒星の周囲を巡る小惑星のひとつと判断されたものの、最早、防ぐ手立てはなかった。絶対貴族の方は、他天体の重力圏を突き破って惑星ひとつを解放したのみか、別の星を滅ぼすために使用するという途方もない計画を可能にしたのである。
三人の貴族を絶望の黒い腕が捉えた。
そのとき――
「御神祖が腰を上げられたのですよ。忌避し得ぬ大宇宙の法則をどうやって覆したのか、あと九〇〇万キロのところに達していた惑星は、突如方向を変えて、宇宙の深遠へと飛び去りました。ある意味で、破滅を覚悟したときより茫然となった私たちに下されたのは、ローレンス・ヴァルキュアを生きて捕縛せよとの、御神祖の下知でした」
これこそが、五千年前の地球滅亡寸前の最大の謎なのだが、地球滅亡の当日、ヴァルキュアは自らの居城で酒池肉林の宴を繰り広げていたのである。
逃げる手段は講じてあったのかも知れない。だが、ひとりの兵士も連れずに居城に潜入してきた三人の貴族を、彼はただひとり大広間で迎え討った。
不死身の貴族同士の死闘は凄惨を極めたが、ついにハーネス公が斃れ、ギャスケル大将軍も手傷を負った。
さしも勇猛果敢なブロージュ伯爵も滅びを意識したとき、三人がやって来た侵入孔を抜けて、ひとりの人間が姿を見せるや、手にした二本の剣を十文字に組み合わせてヴァルキュアの額に押しつけたのである。
「こういう風[#「こういう風」に傍点]にな」
と伯爵は指を使って再現し、眼をそむけたまま、
「これこそ、我らが最も苦手とする形状よ。さればこそ、人間の記憶からは完全に抹殺され――はは、もう忘却したようだな。この単純な形の前には、絶対貴族も下級貴族もない。恐らくは御神祖だとて――いや、とにかく、額を押さえてのけぞったヴァルキュアをわたしとギャスケルは、嫌になるほどあっさりと取り押さえ、侵入孔を辿って城から連れ出したのだ」
伯爵はここで静かに――アデルと二人の子供たちを見つめた。
「勇敢なる人間は、ヴァルキュアの城に実験材料として幽閉されていたのを逃げ出した男であった。街道の片隅で腹痛に苦しんでいたところを、わたしが薬を与えた。なぜそのような真似をしたのかわからぬが、滅びを決意していたせいかも知れぬ。彼は感謝し、この礼は必ずすると言った。我らは、それならともにヴァルキュアの城へ来いと笑った。それきり彼のことは忘れたよ。しかし、彼は自らの約束を忘れなかったのだ。
ヴァルキュアの領地の端で別れるとき、我々は男の気持ちに報いたい、何なりと願いを申せと伝えた。彼は少し考え、自分には未来を読む力があると言った。それはめったに働くものではなく、そのせいで、しがない旅の学者で終わりそうだが、さっき、ヴァルキュアを退けた剣の技も、その力によって見た光景をなぞったものである。それがいま、珍しくも続けざまに働き、地球へ落ちる星を見た。恐らく、ヴァルキュアは宇宙へ追放された後、いつとは知れず戻ってくるに違いない。そのとき、お二人がご存命ならば、私の家族乃至、子孫の身を守っていただきたい、と。我らは承知した。そして、彼の言葉どおり、御神祖がヴァルキュアの心の臓に杭を打ち込まず、生きるがための壮大な施設もろとも宇宙へ追放すると宣告されたとき、彼奴《きゃつ》の帰還を信じたのだ。
そしていま、ローレンス・ヴァルキュアは戻り、我らもまた戦いを開始した。約定を守り、我らを救った勇者の子孫を、これも約定どおり守護すべく、な。ヴァルキュア奴《め》はこう言い遺したのだ。――怨みは忘れぬ。必ず帰り来りて、おぬしら二名、否、ハーネスめの家族と、それから、忘れてはなるものか、あの小賢しい人間の子孫に、悪魔すらも思いもつかぬやり方で血の復讐を遂げてやる、と」
そのときまで石と化して聞いていたアデルの口が、ようやく開いた。
「その男の人が?」
「ウィンスロー・ダイアリスと聞いた。私には昨日出会ったように思えるが、五千年前のおぬしらの先祖に間違いない」
ブロージュ伯爵の指摘は正しい。でなければ、今夜の怪事の説明はつかない。
五千年前の先祖と言われても、あまりに遠すぎて、はじめて聞く名前にも記憶などまるでない。
その人物との約定によって、絶対貴族とその兵士どもから守ると、天井につっかえそうな巨大な貴族と愛想はいいが冷たそうな女貴族は言う。アデルにしてみれば、彼らなどに来てもらわない方が、ずっと救われる気分であった。
伝奇物語ともいうべき話が終わると、アデルはひとこと、
「ぴんと来ないわ」
と言った。
三人もそれは予測していたらしい。
「無理もない。だが、すべては事実だ。私と戦った成層圏の蜘蛛男、ミランダ公爵夫人の心臓を貫いた水妖女。彼らの他にも、おまえたちを狙っている魔性がいると考えるがいい。そして、彼らはギャスケル大将軍さえ斃《たお》した。疑うのも無理はないが、このままでは子供たちも危ない」
伯爵の言葉は、アデルの弱点を串刺しにした。しばらく考えた挙句、
「わかりました」
と彼女はうなずいた。
「でも、どうすれば?」
「とりあえず、ここを出ろ」
「農場を? でも……」
「母子揃ってこのような人里離れた土地に留まるのは、餓狼《がろう》のうろつく荒野に裸で両手を広げるようなものだ」
「でも、ここは……」
十年間の苦労の結晶だと、アデルは絶叫したい思いを呑み込んだ。
最初の三年は夫がいた。近隣でも随一の膂力《りょりょく》の持ち主で働き者だった。
鍬が土を砕き、ふさわしい季節が訪れると、どこよりも見事な乳吹《ちちぶき》草や大林檎が実をつけた。冬になると夫は狩りに出かけた。村祭りで負けたことのない長槍と射撃の実力は、本職の猟師ですら三舎《さんしゃ》を避ける地下獣牛や針鬼獣を何頭も仕留めて、村を訪れる精肉屋や毛皮商人の度肝を抜いたものだった。
鋤をふるう夫の筋肉に光る汗の粒を、アデルはいつも頼もしく見つめていた。
十年前のある日、村に酒場ができた。町に昇格したいという愚かな村長が、北の町から招聘した店だった。酒だけならともかく、けばけばしい衣裳と嬌声と、若い身体とそれを十分効果的に駆使し得る卑しい精神《こころ》とがついていた。
作物を売りに村へ出かけた夫は、それ以外にも折を見つけては外出するようになり、やがて戻らなくなった。いまの女が何人めかはわからない。
近所の――といっても、最低数キロは離れていたが――人々も村の連中も、最初は酒場勤めの女を責めたが、やがて、矛先を夫に向けるようになった。
アデルも子供たちも、何度、女の白粉と安香水の臭いが充満する部屋を訪れ、夫に帰還を請うたかわからない。
あたしはいいわよ、と、どぎつい化粧の顔は、いつも嘲笑ったものだ。でも、この男性《ひと》がねえ。
村人の話によると、夫は日がな一日、女の部屋にこもるか、たまに外へ出ては、知り合いに小銭をせびって酒代に費やしているようだった。
放置していたわけではない。女の部屋のベッドから叩き起こし、ライフルの銃身でぶちのめしてから家へ拉致したこともある。
すべて無駄だった。
泣きながら追いすがるマシューに鞭をふるう姿を見たとき、アデルの胸から何かが消えていった。それは、出来たての大林檎を真っ先に息子に与え、スーを肩車した夫の笑顔のような気もしたし、一日の農作業の後でドラム缶の風呂で汗を流した、広くてたくましい背中のような気もした。
その日から、アデルはひとりで子供たちを育てようと決めた。
男手も何度か雇い、そのたびに、深夜、言い寄ってくる彼らを放り出す羽目になってやめた。
優秀な男はすでにいた。七歳の力は到底夫の代わりになるはずもなかったが、彼は母親の姿を見て育ったのだった。
鍬一本でよろめいていた身体は、三年後には苛烈な畑仕事をこなしはじめ、さらに三年を過ぎたとき、アデルは最も苛酷な作業をしなくてもよくなったことに気がついた。
その晩、アデルは台所でひとり両手を眺めたのを覚えている。骨太のごつい手であった。手のひらを指で弾くと、固い音がした。この手で毎日、花を摘み、家中に飾っていたのかと思うと、ひどく恥ずかしい気がした。
左脇からのびた手が、その手をやさしく包んでも、何が起きたのかよくわからなかった。若い男の手であった。アデルよりずっとやわらかい、しかし、頑丈な手であった。そのときはじめて、アデルは息子が十三歳になったことを知った。
それから、アデルが畑に出る回数は次第に減ってゆき、代わってスーがさまざまな事柄を身につけるようになった。
二人が畑から帰ると、近所の連中が頃合いを見計らって、通りかかる風を装いながら相伴に与りたがるほどの料理がテーブルを飾っており、破れた衣類は必ず翌日にはつぎが当たって、石鹸の匂いもさわやかに物干しにゆれていた。
いずれ子供たちがここを離れようと、まだしばらくの間は、こんな穏やかな心安らかな日々がつづくだろうと、アデルはひそかに納得していた。
それがいま、テーブルをはさんで、三人の貴族――ひとりは半分だけ[#「半分だけ」に傍点]だが――と相対する羽目に陥るとは。
そして、彼らはアデルと子供たちに、厳しく貧しいが生きる価値のあった日々の終焉を告げている。
嫌だ、と彼女は両手でテーブルを叩きたかった。
あなた方は何をしに来たの。いきなり、人の生活に押し入って、一方的にそのすべてが終わったと宣言する。その理由は――五千年前の先祖との約束だ。できるだけ早く農場を出ろ、と来た。
「わかりました」
ともう一度言う前に、彼女はふたたび何かを失う決意をしていた。
「荷物をつくりなさい。長い旅になるわ」
こう言われて、マシューもスーも困惑の翳を顔中に宿らせたのは当然だ。アデル以上に叫び出したいものがあったに違いない。それでも、二人ははい[#「はい」に傍点]と応じた。
突如襲いかかる理不尽な運命に従うのも生きることだと、すでに心得ていたのである。
戸口の奥へと身を翻そうとして、マシューがふり向いた。
「母さん――親父はどうするの?」
「放ってはおけないでしょ。夜が明けたら連れてくるわ。――で、私たちは何処へ?」
「中部辺境区だ」
と伯爵は言った。
「中部?――そんなもの」
と眉を寄せるマシューへ、アデルが、
「昔はあったのよ。いまでは東西南北に侵蝕されて、いつの間にか忘れられてしまったけれど、一部は残っているわ。でも、そこに何が?」
「私たちのつくった砦がありますの」
疑問を解いたのは、公爵夫人であった。
「この日あるを期して、二千年をかけて築いた堅牢比類なき砦です。感謝なさってもよろしいのよ。みな、あなた方のため」
「頼んだわけではありません」
凛たるアデルの返答に、公爵夫人の柳眉は少し逆立った。
「今度、そのような恩着せがましい物言いをしたら、私たちは別行動を取ります。いつもそのつもりでいて下さい。はっきり申し上げますが、私たちは、まだあなた方を信じてはいません」
「これはこれは」
白い美女はため息混じりに肩をすくめて、
「人間が忘恩の徒になり下がるのは、五千年程度で十分ですのね。ならば、私もお伝えしておきます。私は最初から、あなた方に情けをかけるのは反対でありました。あなた方の先祖とやらが余計な手助けに入らねば、夫も存命だったと思っております。ここへ来たのも、単に夫の交わした下らぬ約束を守るため。私もヴァルキュアめに狙われる身。本来なら、あなた方ごときにかまけず、領地の城で迎え討つ準備を整えている方が得策なのですわ。逃げるならお逃げなさい。一刻も早くそうなった方が、私には好都合でございます。いずれは救いに来るなどと考えぬがお身のためでしてよ」
二人の女は火の出るような眼差しを交わし合った。
マシューとスーは凍りつき、さしものブロージュ伯爵が苦笑を浮かべたとき、
「誰か来る」
伯爵とミランダが――否、三人の家族が一瞬驚きの表情を隠し切れなかったのは、声のするべき位置が、誰ひとり知らぬ間に窓辺に移っていたからだ。
窓外の闇に眼をやる黒衣の若者は、人間にはない貴族の超感覚にも、その動きを気づかせなかったのである。
誰よりも度肝を抜かれたのはマシューとスーだったかも知れない。彼らは、最後までDから眼を離さなかった。離せなかったというのが正しい。母と奇怪な訪問者たちとの会話に神経を集中しながらも、眼の中では、天上の美貌が光を放っていた。
それが――いつの間に。怯えるよりも、マシューは感嘆の眼差しを宿していた。
「西から四人。馬だ」
「ふむ、確かに」
と公爵夫人が微笑し、
「この乗り方は――人間ですわね」
と言った。
「下りた。家から二〇メートルも離れてはおりません。声からして、青二才ですわ」
「若くて四人」
アデルとマシューが顔を見合わせた。
「あいつら、何のつもりだ」
荒涼とした表情で、拳を打ち合わせるマシューへ、
「電気をお消し。きっと意趣返《いしゅがえ》しだろう。こんな時間に家から離れたところに馬を止めるなんて――本気だよ」
「ふむ、どうやら、別のトラブルを抱えているようじゃな。間違いだらけの人間らしいわ」
と、公爵夫人が反対側の窓の外へと眼をやり、
「じき、私は眠りにつかねばなりません。その前に、人間相手に遊んで差し上げましょう。断っておきますが、これも、あなた方のためですわ。大事な夫の約束は妻たる身が守らねばなりません」
さっさと席を立ったかと思うや、ドアのそばまで歩いていって、すうと細い隙間に吸い込まれてしまった。
魂を吸い取られたみたいに、この破天荒な外出を見つめていたアデルは、すぐにマシューの方を向き、
「行っておいで。あの女に子供たちを襲わせてはいけない」
断固として命じた。マシューはためらった。
「でも、母さん、あいつらは――」
「いくら悪《ワル》でも、死に方くらいはまともであるべきよ。貴族に八つ裂きにさせては駄目。見捨てれば、私もおまえたちも一生苦しむわ。――それは父さんの教えだった」
マシューは黙って母の肩に手を置き、各部屋の隅に忍ばせてある杭打ち銃を取ろうと立ち上がった。
驚愕の気配が伝わった。アデルは身をひねって貴族とハンターが消えているのを知った。
「いつの間に? スー」
戸口の娘は、怯えた表情でかぶりをふった。
「母さんが、父さんの教えだと言ったとき、二人して、外へ――」
訳もわからず、マシューは武器の方へと走った。
マシューが家をとび出したとき、すでに決着は半ばついていた。
Dの言葉どおり、家の裏口から二〇メートルほどの路上に、仁王立ちになった公爵夫人が、Dと巨人をねめつけていたのである。白くか細い繊手《せんしゅ》は、失神した若者を二人ずつぶら下げていた。
人外の存在三人――その凄まじい鬼気の放射を、人間ながらひしひしと身肉《しんにく》に感じて、マシューは立ち止まらざるを得なかった。
三人が一斉にこちらを見た。
「何の用ですの、可愛い坊や?」
とミランダが冷かすように訊いた。唇からのぞく乱杭歯が月光にきらめいた。
「そいつらを離してくれ」
とマシューは言った。我ながら情けない声だと思った。
「こいつらは、あなたの敵。私にはよくわかる」
「そうだけど、あんたが手にかけちゃいけない。おれが片をつけるよ。それから――坊やと言うのはやめてくれ」
白い妖女は、喉をさらけ出して笑った。
「人間は英雄ぶるのがやたら好きと聞き及んでおりましたが、どうやらそのようですのね。敵とわかっておる輩を始末するのに、自分の手を汚さずに済むと、私に感謝なさいませ」
「駄目だ。人間には人間の死に方があるんだ。離してくれ」
決意が少年の身体をこわばらせた。
「ほう」
と公爵夫人は揶揄する笑みに変えて、
「――嫌だと申し上げたら?」
ひとことでマシューは戦慄した。決意などあっさりと霧消してしまう。人間は所詮、貴族の威勢には勝てないのだ。
ミランダの笑みがまた変わった。今度は嘲笑であった。
「お下がりなさい」
やさしく、断固たる貴族の下知――実際、マシューは後じさった。
そのとき、聞こえた。夫人の両手の下で糸のような哀しげな声がひとつ――
「……助けて……くれ」
マシューの全身に力が漲った。それは愚かな人間に与えられた、あまりふさわしからぬ、けれども最も崇高なる資質であった。――弱い者を見捨ててはおけない。
「離せ」
マシューは杭打ち銃を肩づけした。
「そのようなオモチャで、私を斃せると思いまするのか。私が生を得たのは、あなたの先祖との約定の、さらに五千年も前のことですわ。白い杭の一本ごときで、やすやすと討たれはいたしません」
自信に満ちた言葉が嘘でないことは、先刻の――もうひとりの白い女ルシアンとの戦いで、マシュー自身が確認したばかりだ。
白木の杭といえど、貴族の心臓を打ち抜かぬ限り効果はない。腹でも肺でも眉間であろうと頭頂であろうと、杭は無効の証しに平然と引き抜かれる。唯一、効果的とされるのは喉だが、それは古来からの伝統――吸血鬼を滅ぼすには心臓に楔を打ち込み、しかる後、首を切り離す――に則っていると見ていい。
そして、この女の心臓に杭は役に立たぬ。
だが、少年はもう迷いも恐れもしなかった。構えた銃口は、微動もせずに公爵夫人のふくよかな胸に不動の直線を引いていた。
「お射ち」
夫人が左手で胸を叩いた。二人のチンピラは離れなかった。何たる怪力――夫人の手が軽やかに動くたびに、二つの身体は激しく振動した。
それでも、マシューがなおためらったのは、眼前の妖女は自分たちを救いに来たのだという思いが横切ったからである。
「射たぬのですか?」
と、公爵夫人は白い牙を剥いた。
「では、射ちやすくして差し上げましょう。ご覧」
いったんは下げた手を、ぐいと持ち上げて、人形みたいにだらしなくぶら下がった二人の片方を手もとに引き寄せ、その首すじへ公爵夫人は朱唇を近づけた。
「助けてくれ」
すすり泣くような声とマシューの胸にかけた原子灯の光に照らし出された死人のような顔――ジョペス・ララクシスキーであった。
その首すじに、つ、と食い込む二本の牙を見た刹那、マシューは引金を引いた。
高圧ガスに打ち出される杭の速度は時速一二〇キロ――弾丸には遠く及ばず飛距離もないが、この距離なら外しっこない。
白いドレスの胸もとで、黒影が杭を鷲掴みにした。横合いからのびたその手の主は言うまでもない。
「なぜ、止めた、Dよ?」
と尋ねる公爵夫人の声にも、どこか愉しげな風がある。
「救う者と救われる者同士が争ってもはじまらん」
Dはマシューに杭を放ってから、
「そいつらは、彼にまかせろ」
と言った。
「おや、あなたまで、私の邪魔をなさるおつもり?」
「邪魔はせん。だが、おまえが彼を傷つければ、ブロージュ伯爵が黙ってはいまい。新たな戦いの果てに、伯爵が斃されるのも困る」
「それもそうですわね」
侮蔑の表情が、白い美貌に渡った。
「あなたの美しさに忘れ果てておりましたが、あなたは我らの生血を吸って生きる卑しい猟犬。ならば、黙って見ていらっしゃいませな。犬の差しで口はやかましゅうございます。いえ、いま黙らせて差し上げましょう」
公爵夫人の眼がDの眼と合った。Dの黒瞳に黄金の火花が点る。突如、それはゆらぎ、細まり、断末魔寸前の一瞬の光芒も放たず消え入ってしまった。
「よせ」
と声をかけたのは巨人である。彼はDの全身を彩る鬼気を感じたのだ。公爵夫人は力尽きたように二、三歩後じさっている。
「その女――無礼ではあるが今回の件には欠かせぬ戦力だ。いなければ、私がヴァルキュアの手にかかるやも知れぬ」
この言葉のせいかどうか、きれいに妖気を断って、Dは東の空へ眼をやった。
「夜明けが近い」
伯爵が眉を寄せ、
「――また夜に。すぐに旅立て」
こうマシューに告げてから身を翻した。闇に呑み込まれるまで、巨体は足音をたてなかった。
茫然と見送ったマシューが、ふと気づいて眼をやると、公爵夫人の姿もすでになく、道の彼方を白い霧が流れ去っていくばかりであった。
倒れた四人に駆け寄ったところへアデルもやって来て、まずマシューが、ついで母が息を呑んだ。
貴族に噛まれこそしなかったものの、触れられただけで人間はこうなるのか、凶暴な若さを持て余していたような四人組は、いずれも干からびた、白髪だらけの老人――否、ミイラと化して黒土の上に転がっているのだった。
声もない二人の背後で、家の方へと歩み去る足音が聞こえた。
後を追おうとするマシューを、アデルが止めた。
「どうして、母さん?」
「あの男も貴族の血を引いている。家にいてもらいたくないわね」
「でも――」
「彼の狙いはあの巨人よ。巨人が私たちを守ろうとする限り、彼もついてくるわ。それだけでたくさん」
母に読み違えはなく、二人の前に黒馬にまたがったDが姿を見せたのは、それから二分もたたぬうちであった。
黙然と歩み去る美しい馬上人へ、何か抑え切れないものを感じて、マシューは激しくこう呼びかけた。
「おれ――感動したよ。お兄さん、強いなあ」
ちら[#「ちら」に傍点]とこちらを見たような気もしたが、Dは黙々と歩み去る。まだ別れることにならないとわかり切っている少年の胸を、またも激しい情熱の風が吹き乱れ、彼はこう叫んでいた。
「どうすれば、ハンターになれるんだ? ヴァンパイア・ハンターに?」
母が驚愕と恐怖の眼を向ける前に、Dは闇の中へと去ってゆく。
二人が残った。
言い知れぬ寂寥がアデルとマシューを包んだ。それは、この世にもう自分たちしかいない、と確信する想いに似ていた。
母がマシューの胸に顔を押しつけて、唇を震わせはじめた。
「これからどうなるの、マシュー? 私たちは畑仕事以外に何もできない。なのに、農場を捨てて、貴族たちの指示に従わなくちゃいけないのよ。母さん怖いんだよ」
声は嗚咽に変わっていた。
静かな驚きがマシューを捉えた。母のこんな姿を見るのがはじめてだったからではない。思いもかけぬほど冷静でいられたためである。
「大丈夫だよ、母さん」
男の子はやさしく母親の肩を叩いた。
「何とかなる。いまは出てっても、また戻ってくればいいんだ。おれたちは何処でだって生きていけるよ」
水のような淡いかがやきが世界に滲みつつあった。
三人の男女が去った方角――東から。
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第五章 首斬りジュサップ
息も絶え絶えの四人組を、当座の応急処置の後で病院へ連れて行ったりしたので、出発の準備が整ったのは、翌日の昼すぎであった。
最後の荷物は村に残っている。
四人組の処置をひとりでこなしたアデルは疲れ切ったらしく、あまり口をきかなかった。彼らを運び込んだ病院と、そこからの知らせで駆けつけた治安官とに、四人組の奇怪な症状についてあれこれ聞かれ、家の近くに倒れていたの一点ばりで隠し通してきたマシューにも、それはありがたいことであった。
四人組の一件はもう知れ渡っているらしく、すれ違う村人たちは揃って疑い深げな眼つきを送ってよこした。
傷痕も残さず人間の精気を吸い取ってしまう妖物が、この界隈にいた例はない。四人の症状から見て最も近い加害者は、いうまでもなく貴族である。なぜ、ダイアリス家の長男はそうだと証言しないのか。邪推はたやすく貴族のひと噛みに結びつく。
母子の乗った馬車は村の目抜き通りに入り、一軒しかない旅篭の前で止まった。父を虜にした酒場女は、ここに部屋を借りているのである。
「ガメシュさんとこで、これを仕入れといで」
とメモをスーに渡して、アデルは馬車を下りた。
「母さん、おれも行こうか?」
とマシューが声をかけたが、
「飲んだくれの亭主ひとり引っ張ってくるのに、母親が息子の手を借りたりしたらお笑い種だよ。買い物を済ませても済ませてなくても、二十分後にここへ戻っといで」
夫はいなかった。帳場の前を階段の方へと向かうアデルを見て、宿の主人が留守だと教えてくれた。今頃は酒場か町外れの停留所だという。旅人や知り合いからおめぐみを受けるのだ。
アデルは眼を閉じて礼を言い、酒場へと向かった。いなかった。停留所は村の西の外れにある。
村への訪問者がまともな人間ばかりとは限らない。人間の記憶を読んでその中の人物になりきる幻想獣や、偽装生物マガイ、乃至、貴族の従者が新鮮な獲物の物色を命じられていない保証はない。様々な旅客を乗せた旅馬車を村の中央まで乗り入れさせるのは、生命と――魂に関わるのだ。そのため、ソムイの停留所には武装した係員がいて、旅人の素性のチェックを怠らない。
大きなバラックといった感じの停留所が道の彼方に見えてきたとき、その前に停まった一台の旅馬車が、街道へと砂塵を巻いて走り去った。
さらに五分ほど歩いて、停留所まで一〇メートルというところで、アデルの耳を男の叫びが叩いた。
「映らねえ!」
「射て!」
何が起こったかは眼にしなくても一目瞭然だった。旅人の誰かが係員の持つ鏡に姿を映さなかったのだ。
火薬銃の轟きに悲鳴が重なった。
もう一発、轟音。
だぶだぶの上衣とズボンをはいた農民と思しい男が、停留所の横を廻って現われた。
真っすぐアデルめざして駆け寄ってくる。
その背後に、朱に染まった二人の係員の姿が見えた。ひとりが銃を構えて、
「伏せろ!」
と叫んだ。
思いきって右へとんだアデルの左横で、そいつは悲鳴を上げてのけぞった。銃声がわずかに遅れて届いた。そいつはそのまま五、六歩前進し、まず膝をついてから、ブリッジでもするみたいに仰向けに倒れた。
すでにアデルは跳ね起きている。右手に護身用のボルト銃を握っているのは辺境の女ならではだ。
その眼の下で、小刻みな痙攣を繰り返していた男は、すぐに動かなくなった。
「怪我はねえよな?」
片足を引き引きやって来た係員が、男に火薬銃を向けたまま訊いた。
「大丈夫よ。そっちの方がひどいわ」
腰から下が血にまみれている男がひとりきりなのを知って、アデルは停留所の方を向いた。
二人目はアデルが目撃した位置にへたり込んでいる。祈りを捧げるような格好で前へのめった上体のどこかから流れているらしい血が、膝からしたたって地面を染めてゆく。地の神は飽食するだろう。
足下のそいつ[#「そいつ」に傍点]は、アデルが視線を戻したときにはもう、悪臭を放ちつつ溶け終えていた。分解はほとんど数秒の化学変化であった。
「新人だよ――新しい化物だ」
とかたわらの係員が、ようやく火薬銃を下ろして、
「おれは人を呼んでくる。あんた、あいつを看取ってやってくれねえか? こいつの爪で胸をざっくりやられてな、もう長かねえ。他に人はいねえんだ」
「いいですとも」
男と別れて、アデルは停留所の方へと急いだ。
坐り込んだ男は死んでいた。
裂け目というより穴に似た感じの傷は心臓から肺に達し、ここまで来れただけでも奇跡といっていい。
「言い残したいこともあったでしょうに」
アデルは跪《ひざまず》き、胸のロザリオを握りしめて祈りの言葉を口にした。周囲に神が幾つかある[#「神が幾つかある」に傍点]。アデルは停留所のかたわらに立つブナの巨木よりも、その二、三メートル前方にそびえる巨石を選んだ。天に召される者を守るなら、やさしい木よりも岩の神がふさわしいと思ったのである。
最後に神の名を呼ぶ前に、後ろから近づいてくる気配に気がついた。まさか。頼むからそれだけはやめて下さい、神さま。
「よう、アデル」
聞き違えようもない夫の声であった。
「いいところで会った。おまえで助かったぜ。な、眼をつぶっててくれや」
酒臭い息から顔をそむけて、アデルは立ち上がった。
もう一遍、眼を閉じたかった。この二〇年間、何も見ずにいたいと思ったことは何度もあるが、いまほど強烈に願ったことはない。
はっきりと夫を見据えた。酒のせいで青白くふくれ上がった顔、死んだ牛みたいに精気のない瞳、だらしなくのびた髭と、血管ばかりが浮かび上がった痩せこけた腕。
この夫《ひと》はもう死人だ。はっきりと納得した。
「あなた、何をするつもり?」
犯罪者を誰何《すいか》するような声音であった。
その眼から、夫は気弱そうに顔をそむけて、
「決まってるじゃねえか。こいつは、その、もう要らねえものを持ってるかも知れねえだろ」
アデルはその横顔を見つめた。よくないと知りながら、やめたいと思いながら、そんな行為を繰り返した挙句、いまでもそう願いながら、もう一生変われっこない男の顔を。
済まないと詫びながら盗みに走る。もう二度としない、これだけだと誓いながら人を殺す。夫はそんな怪物になってしまったのだ。
アデルは一歩退いた。
それをどう取ったか、夫は両手をよれよれの上衣にこすりつけて汗を拭ってから、男の死体の上に屈み込んで、皮チョッキのポケットを探りはじめた。
左は空だが右で見つけた。皮袋を開けて、彼はにんまりした。自分のポケットに押し込み、
「これで当分飲めるな。内緒だぜ、アデル」
妻の方をふり向いたその鳩尾に、アデルのナイフは柄《つか》まで刺し込まれた。
夫は後じさりしながら、両手でナイフの柄を握った。抜こうと力を入れ、痛みに顔を歪めてやめた。
「何をするんだ、アデル?」
声はまだはっきりとしていた。
「今したことのせいだとは思わないでね、あんた」
と、アデルは棒立ちになったまま言った。
「あの四人組を介抱してるときに聞いたのよ。あなた、昼間の意趣返しに、強盗に入れとけしかけたそうね。騒がれたら殺してしまえ、後は火を付けときゃわからねえって。――どこで狂っちまったの」
「嘘だ」
夫は紫色に変わった唇を震わせて否定した。
「嘘だ。おれはそんなこと言っちゃいねえ。……アデル、信じてくれよ。おれは、あの子らの……父親だぜ」
どっと路上にへたり込み、そのショックで顔を歪める夫へ、
「姿形だけはね。中身は別人よ。あたしと子供たちの知ってるあんたは、十年前に死んじまったのさ」
「アデル……アデルぅ……」
弱まる声に合わせて、夫は上半身を後ろにのけぞらせ、じき仰向けになった。虫の息である。鳩尾から生えたナイフの柄が、短い呼吸のたびに震えた。
「あんたは、あの二人と一緒に行っちゃあいけない。せめて、あたしの手で――貴族に殺られる前に、あたしの手で送ってあげる。でも、安心して。あの子たちを守り切ったら、あたしはあんたの後を追うから。あっちでなら、昔のあんたに戻ってるかも知れないものねえ」
アデルは村の方へ眼をやった。人の姿はない。
「ごめんなさい。――行くわ」
と告げてから、夫の身体を肩に担いで、左手に見える小道の方へ小走りに走り出した。やって来る村人たちと遭遇せずに雑貨屋の裏へ出られる近道だ。
夢中で走った。
一刻も早くマシューたちと村を出なくてはならない。夫の死体は小道から外れて隠しておけば、当分は見つかるまい。
ふと、奇妙な感覚がアデルを捉えた。見知った道を進んでいるのに、違う道を歩いてでもいるみたいな。
立ち止まって左右を確認しても、確かにこの道だ。左右の光景にも覚えがある。なのに、頭の奥の淡い部分が違うとささやく。
夫の痙攣が肩に伝わった。
アデルは道を左へ外れて、鬱蒼たる森の中へ入った。
不意に広場へ出た。
六、七〇坪と思しいほぼ円形の空地である。どう見てもはじめての場所だ。
その中央に立つ人影も、はじめて見る顔だった。
焦げ茶色の頭巾と長衣は、ひとつづきなのかどうかよくわからない。
身長もアデルととんとん、さしてたくましくもないのに、刃を下に柄を上に向けて地面に立てた大斧は、ひどく不釣り合いに見えた。
こんなところで、大昔の首斬り役人みたいな格好をして何を?――疑問は秒瞬の間《かん》も置かずに解答を得た。
待っていたのだ、あたしを!?
「待っていた、おまえを」
と、そいつ[#「そいつ」に傍点]は言った。顔立ちは四〇代半ばか五〇代はじめと思えるのに、ひどく嗄れた――昔会った自称一二〇歳の老僧とよく似た声であった。
「おれの名はジュサップ。ヴァルキュア様の首斬り人だ」
「ヴァルキュア……」
突如、半ば夢物語だった名が、冷厳な現実となってアデルの精神を直撃した。
「本当だった――のね」
「おまえとその肩の男――どちらも、我が主人ローレンス・ヴァルキュア様の宿敵の末裔として処断する。ここへ来て、どちらでもよい、その首受け台に頭を乗せい」
男――ジュサップは、斧の柄に触れていない左手で足下を指さした。
鉄板の両端に力を加えてたわめたようなU字型の台が、三〇センチほどの高さのごつい台座に支えられている。
瞬時にその目的を悟って、アデルは戦慄した。
思わず身を翻そうとしたが、足は動かなかった。
「逃げても無駄だ。おまえはおれの手にかかるからこそ、ここへ来た。首斬りロードを踏みしめてな」
嘲笑するジュサップの視線は、アデルの足下に注がれている。
そこから彼の足下まで、いや、たったいまアデルが通ってきた地面の上にずっと、幅五〇センチほどの赤い布が敷かれ、小道の方へ血色の河と化している。
特に足下を見はしなかったが、こんなもの踏んだ覚えはない。
「一度踏んだら、おれの斧にその皺深い首を捧げるまで、逃げられはせんよ。――来い」
その声にどんな魔力が潜んでいるのか、いや、踏みしめた血の道のせいなのか。アデルは抗う様も見せずに、焦げ茶色の刺客の方へと歩きはじめた。
自らの意思でそうしようと思ったわけでは無論ない。かといって、抗いながらというのとも違う。最も適切なのは、自然に――或いは必然的にという表現だろう。アデルはこの死への行進を極めて素直に受け入れていた。
台の前に立った。
存在するはずもない広場を巡る木立の間からは、木洩れ日が美しいうす布のように降り注いでいる。
「首を出せ」
アデルは夫を下ろし、跪くと、U字型の台の上に額をのせた。
陽灼けしたたくましい女の首を見て、ジュサップは満足げに眼を細めた。
「よいしょ」
意外と情けない声を上げて、彼は大斧を抱え上げた。途端に二、三歩よろめいたのは、先刻までの豪語とは裏腹の情けなさであった。
よろめきついでに身体は流れて、彼は持て余したように、大斧を地面にふり下ろしてバランスを取った。すると、すぐそばに生えていたさし渡し五〇センチもある木の幹が、半ばまでざっくりと裂けたのである。
「ええい――我ながら情けない」
まるで喜劇芝居のように自分をののしりながら、ジュサップは今度こそやや腰を落として斧を引き抜いた。
アデルのかたわらまで近づく足取りは、しっかりしているようで、やはり危なっかしい。
ふう、とひと息ついて、彼は気合とともに大斧をふりかぶった。
どのような心境なのか、アデルは逃げようともしない。或いはこれこそ、頼りない首斬り役人の魔性の技なのか。
大きくふりかぶった斧を、彼は渾身の力をこめてふり下ろした。
何処からともなく飛んできた白く細い杭が、その右肩を貫いたのは次の瞬間だった。
「わわわわわ」
何とも大仰な悲鳴を上げて、彼はよろめき、その存在理由《レーゾン・デートル》ともいうべき斧を取り落とした。
杭を掴んで引き抜きながら、
「だだ誰だ!?」
と四方を見廻す。時間をかける必要はなかった。赤い首斬りロードが木立の間に消えるその上に、世にも美しい黒衣の影が立っていた。
「痛いぞ、畜生、血も出てる。何の怨みがあるんだ、貴様」
喚き散らす声がふっ[#「ふっ」に傍点]と熄《や》んだ。敵の美貌に気づいたのだ。黄金の木洩れ日に照らされたその顔その姿、それはこの世のものではなかった。
「だ、誰だ、おまえは?」
「D」
光が凍りつくような声であった。
「邪、邪魔をするつもりか?」
「何も」
「何も、という話があるか。見ろ、これを。おれは出血しているんだぞ」
と肩を突き出し、
「何も、で済むか。なぜ、こんな真似をしたか言え。でないと、ただでは済まさんぞ」
Dの身体が陽炎のようにゆらいだ。ジュサップに向かって歩き出したのである。木洩れ日のかがやきがそれを送った。
「く、来るな」
と、ジュサップは絶叫した。大斧を構えてDを威嚇しようと試みるが、両足が支え切れずに千鳥足になってしまう。
「油断するな」
Dの左の腰のあたりで嗄れた声がした。
「星から戻った貴族の尖兵だぞ、あんな不様なはずはない。もしそうなら、こんな奴に安眠妨害をされて、腸《はらわた》が煮えくり返るわい」
「腸があるのか?」
Dが抑揚のない声で訊いた。声は沈黙した。
その横合いから、
「いやぁあああ!」
必死の叫びとともに大斧が降ってきた。へっぴり腰にしては狙い定めた一撃が命中すれば、Dの首は斜めに斬り離されていただろう。だが、その右手が電光の速度でジュサップの手首を捉え軽くひねると、首斬り人はきれいに宙をとんで、三メートルも離れた草の上に頭から落ちた。
うーんと呻いておとなしくなった。
「くう、堪らん奴じゃな。あのへぼぶり[#「へぼぶり」に傍点]は芸術じゃぞ。気をつけい。必ず何かある。おまえに刃を向けた男だ。始末せい」
Dは黙って、台に頭をはさんだままのアデルのそばへ行き、その首すじに左手を当てた。
女の身体は勢いよく跳ね上がり、せわしなく周囲を見廻した。
「D!? ――どうして、ここに?」
「寝込みを起こされた」
アデルは茫然と、
「この森にいた、の」
とつぶやいた。
「この広場の外だ。ここは、あいつのつくった非実在空間だ」
「やっぱり。はじめて見る場所だと思ったわ」
と言ってから、
「ひょっとして、起こしたのは私?」
「停留所のそばでな」
アデルが愕然となったのは、この言葉を聞いて少したってからである。
ひょっとして、この美しい若者は夫殺しも目撃していたのではないか。
だが、アデルはそれを確かめることができなかった。
いきなり肩を掴んで、左へ押しとばされたのである。
その瞬間、鼻先を銀色の光がかすめた。
二人に忍び寄り、新たな一撃を浴びせかけたジュサップは、またもあっさりとかわされ、つんのめるように地面へ二撃目を食い込ませた。失神は寸秒だったのである。
闘争心はあるらしい。
糞ぉ、畜生と乱発しながら、斧を抜こうとしても抜けずに、柄に身をもたせかけて酸素を貪り出す。
一刀の柄にかかっていたDの手が離れた。
演技だとしても、Dは隙を見て倒せる相手ではなかった。
Dはジュサップを無視して、倒れたアデルの夫の方へ眼をやった。
アデルは眼を閉じた。
そのとき、断末魔のような声が、またもアデルの運命を変えた。
ジュサップが三度目の攻撃を試みたのだ。それは大きくそれて、Dから一メートルも離れた空を切った。
まさか、Dの背が、右肩から左腰の上まで断ち割られて鮮血を噴き上げようとは。
声もなくDは後方へとび、着地と同時によろめいた。流れる血潮が地面を叩いた。
いかに彼とても、狙わずして相手を斬り裂く攻撃には、対処のしようがなかったに違いない。ましてや、二度のちゃんとした[#「ちゃんとした」に傍点]攻撃を受け止め、その相手がこの上なくどん臭いと確認したとすれば。
「どうだ、おれの実力、わかったか?」
ジュサップも、しかし、よろめいて、またも地に食い込んだ斧にすがっている。
「狙うとうまくいかんが、外すと斬れるんだ。おれを舐めると、こうだぞ」
虚勢すぎるくらいの虚勢だが、その足はふらつき、満面汗まみれで声は上ずっている。世にも珍しい、敗者のごとき勝者であった。
声が止まった。
信じられないと見開かれた瞳に、仁王立ちになったDの姿が灼きついた。
傷の影響は皆無と見て、ジュサップは逃亡に移った。別人のような速度で、最も近い木立へと走り出す。斧と台とをひっ掴んでいったのは、いかにもこの男らしかった。
走りながら彼は左手をふった。灰色の塊がひとつ、草むらに落ちた。
ひとすじの光がジュサップの背中へと流れたとき、それが跳ね上がったのである。
Dの白木の針は、拳ほどの塊の口[#「口」に傍点]に食い止められていた。
小さな洞《ほら》のような眼窩、干からびた皮膚に貼りついた糸のような黒髪――それは干し固められた人間の首であった。
恐らくは、自ら斬り落とした生首に魔性の技を加えて製作したものであろう。
それは空中で咥えた針を吐き落とすや、Dめがけて風を巻いて走った。
Dの右手から二本目の針が飛んだ。
干し首が咥え取る。針はなおも進んで後頭部から抜けた。
急速に軌道を狂わせ、干し首はDの足下に落ちた。落ちてなお、それは小さな歯をカチカチと鳴らしてDの足に喰らいつこうとしたが、じきに動かなくなった。
「自分の斬り落とした首を操るか。操られる方は堪らんな。あのへっぴり腰――大した玉じゃぞ」
Dの左手首のあたりから洩れる奇怪な声に、アデルは我に返った。辺境の怪異に慣れた女にも、悪夢を見るような死闘であった。
黒衣の若者の背からしたたる血潮が現実だと告げていた。それと、彼女の足下に横たわった夫の死体が。アデルはそれに決着をつけねばならなかった。
「D――私は……」
灼熱の痛みがその背から胸まで突き抜けた。
ふり向きかけて倒れる身体をDの腕が支え、アデルはナイフを投げる格好で上体を起こした夫を見た。
「丈夫だけが取り柄だった――わね」
アデルはDの方を向き直った。必死の動きだった。まだしなければならないことがある。マシューとスーを見守ってやらなければならない。筋も道理もない運命から守り抜いて、マシューの嫁をこの眼で見、スーを嫁がせるまでは死んではならないのだ。
「D――」
「しゃべるな」
「夫のところへ――連れて行って」
すでに倒れた夫のかたわらまで行き、アデルは隣に下ろしてくれと言った。
それが叶えられると、アデルは夫のポケットから金貨の袋を取り出した。
アデルはDの腕を掴んで引き寄せた。袋を胸に押しつけた。夫が死体から盗み出した金である。それでも、アデルはそれにすがらねばならなかった。
「これで……子供たちを守って……私はもう……駄目。……マシューには……赤毛のお嫁さんを……貰ってやって……あの子は働き……者だから……お嫁さんは……怠け者でもいい……明るくて……やさしい子なら……それから……スーは……」
Dは黙って聞いている。死にゆく母をみつめる眼差しは冷厳そのものであった。
「……あの娘……には……」
アデルの手がDの腕を滑り落ちた。
その身体を抱き止め、
「スーには、どんな彼がいい?」
とDが訊いた。
アデルの眼から、ひとすじの涙が落ちた。
「あの娘には……」
そして、母親は全身の力を抜いた。
旅篭の前で母を待っていると、治安官事務所の方が急に騒がしくなって、人だかりがしはじめた。
何人かが停留所の方へ駆け出していくのが見えた。事務所の馬車も出て行った。
残った連中のうちから、ひとりがマシューのところへやって来て、停留所での出来事を話し、母親は死体の番をしているから迎えに行ってやりなと言った。
停留所まで半分というところで、前方から黒馬にまたがった昨夜の吸血鬼ハンターが現われ、両親の死を告げた。理由を尋ねても話さず、裏道を通って導かれた森の奥で二人の死体と対面し、兄妹はすべてを呑み込んだ。
亡骸を馬車に積むと、おれは母さんに雇われた、とDは告げ、すぐに村を出ると言った。
「その前に――農場へ戻ってくれ」
とマシューは主張した。
「母さんと父さんを埋めてやりたいんだ。二人で大きくした家だからね」
驚いたことに何処からともなく、
「何を言うか、この莫迦《ばか》もの。日が暮れたら――」
確かにこう言う嗄れ声が聞こえたが、すぐに、短い悲鳴みたいになって静かになり、Dは農場の方へ向かって顎をしゃくった。
農場が近くなると、死体に付き添っていたスーが声をひそめて泣きはじめた。
農場に着いてもスーは泣き熄まず、二人の死体を寝室のベッドに寝かせた後で、マシューはついているようにと妹に告げて、墓を掘りに裏庭へ出た。
場所はもう決まっていた。地所を見下ろす東の丘の上が、母のお気に入りの場所だった。
天気のいい時期になると、母はよくテーブルを出してここで食事をし、西の山際に没していく夕日を三人で飽かず眺めたものだった。何もかも赤く染まっていく中で、風にゆれる母の白いエプロンばかりが、マシューの眼にいつまでも残った。ここに埋めてと口にしたことは一度もないが、落日を見つめる母の赤い横顔の記憶が、マシューにその想いを抱かせたのであった。
穴を掘りはじめてからしばらく、背後に気配を感じてマシューはふり向いた。
Dが穴の上から見下ろして、替わろうと言った。
「おれひとりでやるよ」
とマシューは断った。
「ここはおれたちの家だ。家族のひとりでも健在なら、死に場所を決めるのに人手は必要ない。悪く思わないでくれ」
Dは黙って後ろを向き、
「ひとりではなさそうだ」
と言った。
マシューが穴から顔を出して同じ方を見ると、シャベルを持ったスーが納屋から出てくるところだった。
掘り終えたとき、日は山陰に消えていたが、残照が残りの仕事を手伝ってくれた。
柩の用意がないため、母のお気に入りのカーテンで二人をくるんで、穴の底へ寝かせた。ブルーの地に白い桃の花を散らしたカーテンを五年も使ってから、母は勿体ないと箪笥の奥に仕舞い込んでいたのだった。
土をかぶせようとシャベルを取ったとき、スーが、
「母さん、喜んでるよね、父さんと一緒で」
と言ってしゃくり上げはじめた。
「ああ、喜んでるとも。やっと、父さんが帰ってきたんだ」
とマシューは嘘をついた。二つ穴を掘っている時間はなかった。掘ったとしても、別々に埋めると言ったらスーは泣いて止めただろう。
土をかぶせてから、スーが用意した花をその上に乗せた。白い花であった。マシューは花の名前を知らなかった。
「兄さん、お祈りして」
と言われて、マシューは困惑した。何度も葬式に出たことはあるが、祈りの言葉を真面目に聞いたことはなかったのである。
口ごもっている背後から、鋼《はがね》のような声がした。
はじめて聞く遠い国の祈りの言葉だった。兄と妹は黒衣の若者の声を追った。あるかなきかの風に、白い花がゆれていた。
村へと通じる道に出るや、マシューはすぐに馬車を止めた。
前方に止まった巨大な自走車に見覚えがあった。あちこちひしゃげている風なのが記憶に確信を与えた。しかし、どんなに頑丈な造りとはいえ、あんな空の高みから落ちて、それで済むなんて――
この車が実は高度四万八千メートルから落下してきたと知れば、マシューは声も出なかったに違いない。
馬車の前に立つ巨大な人影が片手を上げて、
「よい時間に旅立ちだな」
と声をかけてから、
「二人足りぬようだ」
御者台にはマシューとスーが並んでいる。
「村へと行ってみたが、ダイアリスはいなかった」
兄妹は顔を見合わせた。この巨人に父の行方を尋ねられた相手の神経を慮ったのである。村は今頃パニックの渦中だろう。
「死んだ」
馬車の横からDが応じた。
「母親も一緒だ」
「ほう」
と巨人は眼を丸くして、兄妹とDを見つめた。人間の行為に無関心な貴族とはいえ、訊きたいこともあったに違いないが、何も言わずにうなずいた。
「――では、二人。私が必ず守ってみせるぞ。安心するがいい」
「言っておく」
とD。
「おれは母親に雇われた」
一瞬、ブロージュ伯爵は呆気に取られたような表情をつくって、それから、不気味とさえいえる笑みに変えた。
「これはしたり。私たちが血に狂ってこの子らを襲えば、世界一の貴族ハンターに迎撃されるというわけだな」
笑みを兄妹に向けて、
「よい護衛を得た。さぞや心強かろう」
こわばった二つの顔から返事は出て来ない。
「よいよい。馬車の中に入って眠れ。手綱は私が取ろう」
と言うや、伯爵は二人の返事も構わず、馬車に近づいて御者台に片足をかけた。地面に立っても、御者台の二人より高い。
マシューがDを見た。
「内側《なか》へ行け」
とDは馬車の方へ顎をしゃくって、
「大丈夫だ。見かけほど重くはない」
と言った。兄妹は従った。
「よいしょ」
極めて人間らしい掛け声ひとつ――巨体が御者台に上がるや、たちまち、あちこちから板と鉄のきしみが湧き上がった。
「こらしょ」
と腰を下ろした途端に、ボルトが外れ、板が折れはじめる。
「弁償してもらうぞ」
とDが言った。一応、雇い主の馬車である。
「わかっている。心配するな。しかし、こう、なかなか窮屈なものだな」
ついに両足は四頭のサイボーグ馬の間にのばして、伯爵は手綱で馬たちの尻を叩いた。
兄妹のざっと三倍の体重を、馬たちは難なく支えて前進を開始した。
Dが横に並んだ。
「誰とやり合った?」
と伯爵は前を向いたまま訊いた。
「背中の裂け目が見える。伯爵の配下にひとり奇妙な斧使いがいた。ジュサップ・トーレラン――“首斬り役人”だ」
Dは手短に事情を物語った。
聞き終えると、伯爵は無表情に、
「当時、ヴァルキュアには七人の戦闘士がいた。スピイネもそのひとりだろう。これは七人全部が甦ったと見ていい」
「後の五人を知っているか?」
「いや、ジュサップひとりだ。ただ、彼らの手にかかったとされる、実に奇怪な死体の話は聞いたことがある。管理官の役得でな」
彼は上体をねじって、馬車のドアの方を向いた。信じられない柔軟さであった。ドアを軽く叩いて、
「出て来い――この先、生命《いのち》に関わる話だ。聞いておけ」
と声をかけた。少し待って、
「おかしいな。なぜ出て来ん?」
と不平面をした。
「ドアが開かぬのだ」
とDが顎をしゃくった。巨大な尻がドアをふさいでいたのである。
「これはいかん。――聞こえるか?」
夜の闇に、胴間声がごおごおと轟いた。Dがじろりとそちらを見たほどの迫力があった。
「聞こえたら返事をせい。――せぬか」
ドアの内側からのノックの音を聞いて、伯爵は満足した。
「いいか、おまえたちを狙う貴族の配下たちが、その持てる力を駆使して造り上げたらしい死体の状況は、このようなものだ」
まず、首を斬られた死体――これは“首斬り役人”ジュサップの手になるものだろう。その後、首がことごとく行方不明だったことも、干し首の一件で納得できる。
第二に、ひと晩で湖を埋め尽くした水死体。うち半数は全身の肉を、まるでゆでた豚みたいに毟り取られていた。これは女水妖ルシアンの仕業に違いない。
第三に、遥かな天空の高みから落下したごとく、平べったくつぶれていた死体――人蜘蛛スピイネの製造だろう。
第四に――これ以降、犯人に関する知識はない――ひとつの町の住人が丸ごと姿を消していたもの。ある日、東部辺境区の人口二万ほどの町の住人が、忽然と消滅していた。酒場には飲みかけのグラスがテーブルに残され、半ばまで灰になった煙草が煙を上げていたという。これを発見したのは、ちょうど町を留守にしていて、そのとき戻った住人だが、状況はどの家でも同じで、ほんの数分前まで平凡な日常生活を営んでいたところへ何かが生じ、みな一斉に――何ひとつ気にする余裕もなく――町を捨てたとしか思えないのだった。
第五に、これは、とある貴族の戦闘部隊での事件だが、千人余の兵士が自殺するという怪事が生じた。この日、<都>からある歌手が慰問に訪れ、十数曲を披露して去ってからの出来事で、奇跡的な生き残りである戦闘で耳を負傷していた兵士によれば、歌手の公演中は何の異常もなく、その夜、彼以外の全員が死を選んだものであった。この兵士のみが生存者ということで、歌手の追及が行われたが、それきり行方は知れない。部隊を指揮する貴族は、ヴァルキュアに敵対していたひとりであった。
「後の二人に関しては――わからぬ」
とブロージュ伯爵は言った。
「もっとも、以上の例もすべて、ヴァルキュアの七人が手を下したと仮定してのものだがな。何にせよ、厄介な奴らには違いない。まだ肩が痛むぞ」
厄介な、と言ったが、ヴァルキュアの七人――スピイネと名乗った蜘蛛男が聞けば、そちらこそと青醒めたであろう。巨人は成層圏から墜落して、なお健在なのであった。
そして、かたわらを行く黒い美青年は、彼の話に表情ひとつ変えず馬を御していく。
この先に何が待つにせよ、彼らと“絶対貴族”の刺客たちとが出会うとき、必殺の血飛沫《ちしぶき》は上がらざるを得まい。
それを望むのか、哀しむのか、行く手の闇はなおも濃さを増し、妖風は二台の馬車と、闇の護衛ともいうべき二人の男に吹き募るのであった。
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第六章 魔道境
それから三日の間、マシューとスーは貴族に関して幾つかのことを知った。
まず――彼らに馬車をまかせるな、であった。
昼の間、ブロージュ伯爵は自走車に入って眠るから、手綱を取るのはマシューの仕事になる。問題は夜である。こんなにモタついていてはいかんとばかり、三メートルの巨体が、めりめりと御者席に腰を下ろして馬の尻をひっぱたく。ただでさえ夜の御者の異常を知っている馬たちは、恐怖から逃れんものと狂気の疾走を果たす。確かに速い。凹凸の激しい地面も石畳の道も最大スピードで突っ走る。カーブもそのまま廻る。当然、馬車の後部は遠心力に従い、道から飛び出し、脇の木立や岩に激突する。
それだけでも肝が縮むのに、崖っぷちともなると馬車の半分は宙に浮く。男のマシューはもちろん、スーは悲鳴、阿鼻叫喚――何度も気を失いかけ、初日の――つまり翌日の日中は寝込んで過ごしたほどだ。
「いい加減にしてくれ」
とマシューは抗議したが、
「追ってくる奴らの実力を見たはずだ。一秒といえども黄金の時間だぞ」
と言われれば、相手の三メートル、三〇〇キロと無関係に口をつぐまざるを得ない。Dが無言なのも――いつもの癖とは別に――そのためであった。
次に、他の生きものに対して容赦がない。
近道とあれば、伯爵は森の中でも岩山でも、躊躇なく爆走した。当然、危険な生物がうろついているど真ん中だ。
樹上から襲いかかる三つ首のハイドラ、地中に巣食う異形の化物モール族を、長大な槍で吹きとばし、串刺しにするのはともかく、人蝙蝠《ひとこうもり》となると羽根を生やしているだけで人間そのものなのに、何ら精神的な痛痒を示さずばらばらにしてしまう。こいつらは声も人間並みに、助ケテ、痛イと発するため、兄妹は耳をふさがずにはいられない。
容赦なく刃の錆にするのはDも同じで、こちらはもっと冷酷に、ばっさばっさやるように見えるのだが、その冷たさが逆に人間的な怒りを二人に喚起させず、伯爵の方はどこか殺戮を愉しんでいる風に見えるのが、我慢しきれないのであった。
串刺しになった妖物の苦鳴がいつまでたっても終わらないので、スーがとどめを刺してやってくれと頼むと、
「見せしめだ。君たちは知らぬだろうが、そいつらは人一倍怖がりでな、仲間の悲鳴が上がると、丸三日は巣から出て来ん。その間に、安全地帯へ行こうという策だ」
これも一理どころか二理も三理もある。人間を生きたまま八つ裂きにする人蝙蝠の残忍性は、マシューたちも知悉《ちしつ》しているから、やはり沈黙を余儀なくされるのであった。
それにしても、三日のうちに、何百匹の妖物が彼とDの手にかかったかと思うと、馬車の轍の後に累々たる死体が横たわっている様が極彩色で脳裡に浮かび、二人を苦しめるのだった。
そのたびに、救いを求めるように兄妹が眼を向けるのは、並んで疾走する黒衣の若者――その冷厳な美貌であった。
あまりにも生々しく凄惨な現実の中を、彼らともども通過しながら、その美しさには微塵のゆるぎもない。生も死もこの若者には遥かに遠く、世にも稀な美貌のみがそこにあるのだった。
これが貴族というものか――兄妹は恍惚として眺め入り、突然、その精神《こころ》のありようの危険さに気づいて我に返るのであった。
その三――貴族は不死身である。
これはもはや伝説的な事実であって、兄妹も自然と納得済みの事柄であった。しかし、いざ、眼のあたりにすると、つくづく戦慄と寒気を感じざるを得ない。
空気を打ち抜く勢いで疾走中の崖上の道で、カーブを曲がった途端、“山小父《やまおじ》”とぶつかった。眼も鼻も口も手足もあるのかないのかわからない毛皮の塊だが、直径だけは一〇メートルもある。身体の半ば以上が崖下へこぼれかかっていた。
馬たちがモロに突っ込んでも、あっさり跳ね返され、自走車の制御装置の助けもあって、馬も馬車も無傷で済んだが、伯爵は崖下へ転落した。
二人が跳び下りてのぞくと、五〇メートルも下の岩肌に大の字になっていた。
いくら何でも、と悲しいとも安堵ともつかぬ気分を味わっていると、自走車の底部からアーム状のメカがせり出し、ペダル付きの昇降器を下ろした。数分後、戻ってきた伯爵は身体にも服にも傷ひとつなかった。“山小父”の姿はいつの間にかない。
そして、最後に――
人間に対する二律背反ともいうべき感情である。救いにきたといいながら、夜、ともに焚火を囲むとき、伯爵の兄妹を見る眼は冷やかであった。侮蔑というのではない。人が獣を軽蔑しないように、彼は人間を自分たち以下の単なる生き物と見なしているとしか思えなかった。
それが、突如、消滅する時間があった。
焚火にぬくまりながら、スーが歌を口ずさんだのである。大分前、「都」で流行ったという静かなメロディと軽薄な歌詞を、スーの声は宝石に変えた。
もともと、兄妹の農場に一夜の宿を求めた旅人や商人たちが、台所で口ずさむのを小耳にはさんだだけで、「都」へ連れていけば超一流の歌い手になれると断言し、金貨の袋をテーブルに載せて、おれに世話をさせてくれと頼む者も珍しくなかったほどの歌唱力である。
自走車に寄りかかっていた伯爵が、大地を踏みしめて近づき、
「もう一曲歌ってくれ」
と申し込んだ。
マシューが仰天したのも無理はない。スーなど、きょとんとした人形みたいな顔で伯爵を見上げるしかなかった。貴族が人間の歌に興味を持つなど、聞いたこともなかったのだ。
マシューはDを見た。Dはスーを見つめていた。そして、スーは伯爵から眼を離さなかった。
奇怪なリクエストに、彼女は嘘偽りのない響きを聞き取ったのである。
だが、彼女は歌うことができなかった。にわかにかき曇った空が、突如、土砂降りを招いたのである。
川を渡れぬという伝説のとおり、吸血鬼は水に弱い。伯爵はそそくさと自走車に戻った。それ以来、彼が兄妹に要求を出したことはない。
ただ、スーだけがいつまでも、伯爵のそのときの表情を記憶に留めていた。それは、テーブルに金貨の袋を置いて彼女を求めた旅人に似ていた。美しいものを焦がれ求める顔は、人間《ひと》も貴族も変わらないのであった。
二台の馬車と一騎の騎馬は、四日目の早朝にもと中部辺境区へとつづく街道の入口にさしかかった。
といっても、アデルの言にあったように<中部辺境区>の呼称は絶えて久しく、伯爵の言うがごとく、わずかに一部の地域に留まるのみで、そこへ通じるこの道も、いまでは人馬の往来が絶えて久しい。
「他の街道を通っていけぬわけではないが、この道が最も近く、人家も少ない」
Dの言葉に、兄妹はうなずいたものの、すぐにその意味に気づいてぞっとした。他人を巻き添えにしたくない――戦いの予告だった。
「“砦”まではどのくらいかかるんです?」
「通常はひと月。このペースなら十日だ」
マシューは苦笑を浮かべざるを得なかった。昼は自分が手綱を取り、夜の間は伯爵にまかせたおかげで、それだけの時間と走破が可能になったのだが、猛烈な走りっぷりのせいで、夜は馬車内で熟睡することもできず、スーともども疲労しきっている。
いまのDのひと言から、この先に待つ死闘を実際に想起して戦慄を覚えたものの、内心ほっとしたのも事実だった。
「この街道は使われなくなって二千年になるが、途中、三個の村がある。マチューシャ、ヤノシュ、ラージンだ。そこへ着くまでは危険が多い。武器の点検をしておけ」
「そのとおりだ」
自走車から伯爵の声がした。日中である。仕掛けたマイクを通しているに違いない。
「少し休んでおけ――出発は一時間後だ。ただし、おれの見えるところにいろ」
マシューとスーが馬車を下りて身体をのばしている間に、伯爵の声は小さく、
「ミランダが来んな」
と言った。ささやくようである。
Dは黙って街道の奥と、走破した道の彼方を視界に収めている。
「ああ見えて義理堅いところのある女だ。人間への借りとはいえ忘れてはおらぬはずだ。必ず追尾していると私は見るが」
「敵と出くわさなければ――な」
とD。
「三つの村の住人は安全か?」
「一応な。だが、ヤノシュとラージンは――」
とDは言った。
「ヤノシュは毒草栽培、ラージンは武器の製造で長らえている村だ」
「人間が荒っぽいというわけか? ――よかろう。それくらいでなくては、我々の付き添っている甲斐がない」
「――これは、五千年も居室にこもっていた自閉症の親父の台詞とも思えぬな」
「何か言ったか?」
蚊の鳴くような嗄れ声も、伯爵のマイクは拾ったとみえる。
Dは答えもせず、
「敵は近い」
と言った。
「そのとおりだ」
と伯爵の声は答えた。これだけ昼夜をわかたず疾走した挙句に、と兄妹なら驚くだろうが、とばした本人には自明の理だったらしい。
そのとき――
Dの視線がやや上を向いた。
街道は十数キロを細いリボンのようにのびて峡谷に入る。その頭上にみるみる黒雲が湧き集まったのである。
谷間を影が覆った。あたかも支配の宣言であった。
黒雲はさらに広がり、見上げる二人の顔も影をもって閉ざした。
閃光が走った。光と影がせわしなく世界を染めていく。
黒雲が巨大な――縦横数キロにわたる人の顔になっても、Dの美貌に変化はない。
黒い雲の彫刻は、端正とさえいえる若い男の顔であった。
太い眉、それだけを描くために天才絵師が生涯を棒にふってもおかしくない典雅な鼻梁と唇――すべてが気品に満ち、そして、Dのみならず世界を睥睨する切れ長の双眸には、見たものの魂まで戦慄させる冷酷と無慈悲が満ちている。
「私がヴァルキュア大公だ」
と雲は言った。
「この道に入るもの、辿り着くことはなく、戻ることも叶わぬ。私を星々の間に放逐した一味はここを進むしかあるまいが、黒衣の若者よ、うぬは去れ。そのために三秒の猶予を与えよう。もはや、何も言わぬ――ひとつ」
いつの間にか、Dのかたわらでマシューとスーが彼を見上げていた。伯爵のマイクは沈黙を守っている。
「――ふたつ」
稲妻がDの顔を青くかがやかせた。ただひとつ動かずそこにある美しい像のごとく。
「みっつ」
と天からの声は伝えた。間を置かず、
「愚かな。苦痛に満ちた死を選ぶか。その美貌、おまえも魔天の申し子かも知れぬ。――行くがよい。私の兵が道の奥におまえたちを待っておる」
天をゆるがすどよめきが降ってきた。嘲笑であった。
突如黒雲は遠ざかり、三人は朝の光を感じた。
「疲れは取れたか?」
とDが訊いた。
「ああ。でも、疲れどころじゃないぜ」
マシューの言葉にスーもうなずいた。伯爵の声が、
「こんなところにヴァルキュアがお出ましとは驚いた。しかも、おまえに離脱を要求するとは。――Dよ、おまえは何者だ?」
二対の視線と見えざるもう一対の眼に、冷やかな声が応じた。
「行くぞ」
と、ただひと言。
その日の朝、マチューシャ村の空に礼拝の鐘が鳴り響いた。村人のうち周辺に出没する妖物を相手にする超感覚の持ち主たる猟師は、蒼穹《そうきゅう》を渡る澄んだ音に一種凶々《まがまが》しい響きを感じて、警告を発する気になったかも知れない。
だが、大多数――といっても百人足らず――の人々は、驚きのあまり外へと跳び出し、三日前から熱病で床についていた猟師が現われる前に、礼拝所へと小走りに駆け出していた。
五百人ほどいた人口が、移動熱射病によって現在の数まで激減した二十年前から、礼拝所は廃墟と化している。僧侶が病死してしまったためだ。何度か『都』や教区の委員会に新任者の要求をしてはみたのだが、医者と同じく、辺境の中央部へ訪れる者もなく、人々は天の助けなしで、苛酷な日々を生きてきたのだった。
礼拝所への無防備な訪問を誰が責められよう。朽ち果てた所内に蝋燭が点り、はじめて見る女神の玄義図が壁にゆれて、埃を払った台座の向うに灰色の僧服をまとった長身の影が立っていれば、なおさらだ。
さすがに戸口にわだかまったまま動かぬ人々へ、見知らぬ僧は両手を広げて、
「みなさんを歓迎します。――お坐り下さい」
鏡より澄んだ低声を投げかけた。あくまでも慎ましい口調に、逆らえない強さが含まれていた。
顔を見合わせながら村人たちは席についた。頑丈に造られていた椅子は、きしみながらも彼らの体重を支えた。
「私は通りがかりの移動伝道師です。名はクールベと申します」
と僧は一礼し、台上の皮表紙の本の頁をめくった。説教書であろう。自らの信じる神の教えを伝えに地方を巡る“移動伝道師”たちが、信仰の具体的内容を記した説教書を拠り所とするのは、辺境の人々すべてが知るところだ。
村人のひとりがおずおずと手を上げた。村長であった。
「何か?」
村長はひとつ咳払いをしてから、
「この礼拝所を、いつの間にこんなにきれいに? わしは空に星が留まっている頃から起きていたが、おまえさまの来訪には気づかなんだ。一体、いつ参られた」
クールベは微笑した。はじめて人々は、この男の顔が馬のように長く、糸のような細い眼をしていることに気がついた。
「あなたが起きるより早く。掃除には時間がかかりました」
「で――おまえさまは、どんな神さん[#「さん」に傍点]を信じていなさるのかね?」
これは、とある農夫の女房の質問であった。危険と隣り合わせに生きる辺境の人々は、集団よりも個人的に信ずる神を抱いている。別の神の教えを伝える伝道師は、ある意味で、剣呑な存在なのであった。現にこの村でも、互いの“神”を巡って、過去何度か殺し合いが生じている。
「穏和かつ厳しい神です」
とクールベは答えた。
「ですが、これは誓って申し上げる。みなさんの固有の“神”と敵対するものでは決してありません。無論、強要もありません。私の話を聞いていただいた上で、みなさんが否と応じるならば、私はいつでもこの土地を去りましょう」
人々の間に安堵の波が渡った。
クールベはさらに頁をめくり、やがて、ある部分で止めると、改めて一同の方を向いて静かに語りはじめた。
「我が神の名はブロージュ、ミランダ、及び――D。けれど、決してそれを打ち明けてはなりません」
午後の光の中に、釘を打つ音が木霊のように鳴り渡っていた。
Dは馬車を止めるつもりはなかった。食料も水も余裕がある。敵の待ち伏せの拠点となるような場所は、なるべく避けるか早急に通り過ぎたかった。マシューとスーにもそう伝えてある。
それが、村にさしかかった途端、馬車の前に、いきなりひとりの少女が跳び出してきたのである。
悲鳴に近い叫びを上げて、マシューは制動板《ブレーキ》を踏みつけたが近すぎた。
少女は蹄の下に沈んだ。
「止まれ!」
マシューは馬に命じて御者台から跳び下りた。サイボーグ馬の中には脳に軽い知能手術を受けているものもあり、単純な指示を与えるなら声に出した方が早い。
馬脚の間に倒れた少女はスーと同い歳くらいに見えた。粗末なワンピースのあちこちが破れ、剥き出しの肩に青い痣がついている。
「痛い」
と洩らした。苦しげな声である。
「大丈夫?」
マシューはあわてて訊いた。
返事はない。不安の雲に胸を包まれながら、マシューは少女を運び出した。
もう一度、驚愕の瞬間が彼を待っていた。
馬車の行く手を、びっしりと人垣がふさいでいたのである。
「何事だい?」
誰に発した言葉でもなかった。
人垣の最前列にいた老人が、杖をつきつき前へ出て、
「わしは村長じゃ。頼みがある」
と言った。
「頼み?」
と眉を寄せるマシューへ、
「よせ」
と鋼の声がかかった。
「先を急ぐ。その娘をのけて馬車へ戻れ」
「――でも」
村長がふがふがと声をふりしぼった。
「その娘は、あんた方を留めるために犠牲になったのじゃ。頼む――話を聞いてくれ」
「犠牲になったのなら、そちらの意志だ」
Dは静かに冷たく言った。
「乗れ。――行くぞ」
マシューはとまどった。足下で少女が呻いたのだ。
「このとおりじゃ。頼む」
何と老人はその場に膝をついてしまった。そればかりか、後ろの村人も一斉に土下座を敢行したのである。
「いま、村が直面している災厄を滅ぼす“神”が来ると、ある人物のお告げがあった。間違いない、あんたたちじゃ」
握り合わせた老人の手が小刻みに震えた。
「お願いだ、話だけでも。――この通りじゃ」
老人と村人は一斉に平伏した。
「どけ」
Dの声は冷やかな霧雨のように彼らに降りかかった。
「――D」
とふり向くマシューへ、
「余計な時間を費やしている暇はない。おれは母さんとの契約を守らなくてはならん」
「わしたちはどかねえぞ」
と村人のひとりが叫んだ。
「あんたたちに行かれたら、死ぬしかねえ。行くならおれたちを殺して行けえ」
村人は本気だった。死んでもどかぬつもりでいた。だが、それと死ぬのは別ものであった。
凄まじい恐怖に心臓を鷲掴みにされ、彼は硬直した。
ずい、と黒馬の若者が前に出た。
殺られる、と思った。
世にも美しい死神がそこにいた。
年寄りを哀れとも思わず、生命を賭した哀願に精神を波立てることもなく、自らの規範《のり》に逆らうものは、一顧だにせず斬り捨てていく美の魔性が。
一刀の下に血煙を上げて倒れる自分の姿を、老人は恍惚と夢想した。
マシューが止めなかったら、そのとおりの光景が出現していたであろう。
「やめろ、D!」
彼は身悶えするようにして叫んだ。
「母さんとの契約と言ったな。母さんなら、絶対にこんなとき、この人たちを見捨ててはいかない。おれもそうしたいんだ」
黒馬の足が止まった。
「話を聞くがいい」
と彼は言った。
「ありがとう」
ぶっきらぼうに礼を言い、マシューは足下の少女を指さした。
「この娘《こ》を医者のところへ」
村人たちが駆け寄り、少女を運び去ると、彼は跪いた村長に近づき、
「話を聞くよ」
と言った。
村長の家へ出向いたのは、マシューとスーとDの三人であった。
マシューはスーを同行したくはなかったのだが、ばらばらにしては危ないと、Dが強制したのである。
開け放たれた窓からは、相も変わらず大工仕事の音が忍び込んでくる。
椅子にかけた村長と数名の村人はマシューにまかせて、Dは隅の壁を背に立った。日陰であることを意識したものはいない。
村長の話というのは次のようなものであった。
「実は今朝、旅の移動伝道師とやらが、村の教会へやって来たのですじゃ。それがただの人間に非ず。第一、夜が明ける前に村へ入り、礼拝所の清掃をして我々を迎えたというのじゃが、とんでもない。わしは随分と早くに起きておったし、徹夜で酒場を出ん者たちもいた。その誰もが、そいつのやって来た足音も、教会からの物音も耳にしておらんのじゃ。鐘の音で教会へ呼び集められたときから、わしには奴の正体がわかっておった。挙句の果てに、おかしな“神”の話など、得々と開陳しおってからに」
「おかしな“神”?」
マシューは厄介なことになってきたなと感じた。“神”さまが絡んできては、若い自分の手に余る。そもそも自分たちとどんな関係があるのか。
「奴に言わせると、その“神”の名はブロージュ、ミランダ、そして、Dじゃ。ま、奴はしゃべってはならんと言っておったがな。おまえさんの名は入っておらなんだが、Dさま[#「さま」に傍点]の雇い主というなら、こりゃ、“神”よりえらい存在じゃの」
そう言って、老人はようやく笑顔を見せた。他の連中も笑った。Dと兄妹の関係はすでに話してある。旅の目的は別だ。
マシューは困惑してDの方を見た。黒衣の若者は人型をした黒い妖花のように、隅の影に溶けていた。
「何をこしらえている?」
と彼は訊いた。大工仕事のことである。
「それじゃ」
と村長が膝を叩いた。
「あれは、“神”を讃える神殿よ。もちろん、ただの板張りの掘っ建て小屋だが、伝道師奴《め》はそれでもよいと言いおった」
「名は?」
「クールベじゃ」
「一体、何をしろって言うんだ。Dを“神”と言ったり、今朝やって来て“神殿”を建てろだの――そいつは何を考えているんだよ?」
マシューの問いに村長たちは顔を見合わせた。苦悩と困惑がガスのように皺深い表面を撫でた。
「何処にいる?」
これはDだ。
村長、マシューをはじめ、一同がぞくっと身を震わせた。スーでさえ兄の腕に手を置いた。静かな声に含まれた鬼気を感じたのである。
マシューが訊いた。
「――あいつら[#「あいつら」に傍点]かな、D?」
「そうだ」
神秘的としかいえない黒瞳が村長を映した。老人は何かから逃れるように椅子のまま後じさり、倒れる寸前で立ち直った。
「わからねえ」
と言った顔は死人のようであった。
「夜、また来ると言って出て行った。それまでに“神”を“神殿”に祀れ、と言い残して。何人かが追いかけたが、影も形もなかったよ」
「そいつの要求は、それだけか?」
「要求は、な」
村長が眼を伏せた。マシューが気づいて、
「――脅されたな。何だって?」
村長は唇を噛んだ。
「この要求に従わねば、村には貴族の祟りがある、と」
「どんな?」
「いま、教会へ行けば、床の上に、血痕が残っておる。笑いとばした村の者の上に天井の石材が崩れ落ちたのじゃ。そいつが、手にした説教書をふっただけで。奴は言った。指示に従わねば、村中の者がこうなる、と。それから、つけ加えた。おまえたちを救えるのは、その“神”しかいない、とな。わしらはそのひと言で、すべてを打ち明ける気になったのじゃ。わしらにも、正直、奴の目的は見当さえつかん。むしろ、あんたがたの方が詳しいとにらんでおるが」
「さっきの娘――どこにいる?」
とDが、おかしなことを訊いた。
少し間を置いてから、村長が、
「集会所だ。医者はおらんが、薬の用意はある」
こう答えたとき、Dはすでに影から分離して戸口の方へ向かっていた。彼こそが美しい影のようであった。
マシューもスーも大急ぎで立ち上がった。
村長の家から五〇〇メートルばかり離れた集会所で、彼らは奇跡を眼のあたりにした。
母親が付き添って投薬をつづけていた。蹄にかけられた少女の額にDが左手を当てるや、ほんのひと呼吸の間に、苦しげな呼吸が熄んで熱が退《ひ》き、全員が眼を剥く間もあらばこそ、ほんの一分で少女は回復してしまったのだ。
泣いて抱き合う母子をよそに、Dはこう宣言した。
「雇い主の行為は埋めた。おれたちも出て行くぞ」
村長は仰天して喚いた。
「待ってくれ。わしらはすべて打ち明けて、村を助けてくれと頼んでいるのだ。このままあんたたちに行かれては、村人は皆殺しだ。奴はやる。奴を何とかしてくれ。そもそも、あんた方が奴を招き寄せたんじゃねえか」
Dはマシューを見た。
いっぺんに五〇も歳を取ったような表情で二、三秒考え、マシューはうなずいた。
「そいつを倒せば、おれたちも楽になる。D――乗ってみよう」
黒衣の若者は無言のまま、一同は外へ出た。
「おれは礼拝所に行く」
と告げて、Dは二台の馬車を止めてある方へ歩き出した。
ブロージュの馬車の前で足を止めると、扉に向かって、
「マシューとスーだ。預かれ」
いつもと変わらぬ口調で言った。
継ぎ目ひとつない車体《ボディ》の一部にぽっかりと開いた穴を、マシューもスーも茫然と見つめた。
「おれが戻るまで内部《なか》にいろ。何が起こっても出すな、ブロージュ」
「まかしておけ」
眠たげなブロージュの声が応じた。おっかなびっくり、それでも何とか二人が乗り込み、穴が消滅すると、Dは村の方へと戻りはじめた。
村長宅の前に群がる人々を完全に無視して礼拝所に入った。村人たちは戸口で立ち止まったきりだ。
石造りの堂内はひっそりと冷えていた。壁には幾つもの石像が象眼され、輪郭だけの瞳がDを見つめていた。
村人個々人によって信仰の対象たる“神”は異なるが、ここでは比較的統合されているらしい。
前から二つめの長椅子と後方の壁に近い床に、血の染みが残っていた。戸口のそばに血に染まった石塊《いしくれ》が積んである。
Dはその石に左手の平を向けてから、さらに天井へ上げた。
「間違いなく、真上の部分が抜け落ちたのじゃ。天井全体がひどく傷んでおる」
と左手が言った。
「だが、破損部には何の細工もない。全く偶然に反抗者たちの頭上の部分だけが崩れたとしか思えぬな。おまえにもわかっておろうが、念力や呪術による残留思念もゼロじゃ。おかしな術を使いよる」
「記憶にあるか?」
「ノン――ぐえ」
握りしめた拳をさらに固めて、Dは外へ出た。
大工仕事の響きは、いっときの休みもなく空気を伝わっていく。
大空に幾つか色とりどりの凧が舞っている。数少ない子供たちの娯楽だろう。
「おい、何処へ行く? ――まさか、自分から罠に入るつもりではなかろうな?」
嗄れ声があわてた。
「罠は出来損ないだ」
「それはまあ、そうだが――好んで虎穴に入ることもあるまいに」
返事もせずに、Dは坂道を上っていった。坂の頂きにほとんど完成した木材の骨組みが見えてきたとき、せわしない足音と苦しげな声が追ってきた。
「待ってくれ、お待ち……」
ふり向いたDの前でようやく足を止め、村長は何度も深呼吸して息を整えた。
「まさか……あそこへ……行くつもりでは……あるまい……な。危険だと……言った……はずじゃ……ぞ」
途切れ途切れの声が、老人の誠実さを表わしていた。
「まだ、出来てはいない。おれたちを妨害するための品なら、破壊しておくのがよかろう」
「いまやられたら、村人が危険じゃ」
老人は同意を求めようとDを見つめて口をつぐんだ。その表情がみるみる恐怖の翳を濃くした。
「――そうか、おまえさんは……村の人間などどうでもいいのだな……自分たちの旅さえ無事で終われればいいのか」
「それが仕事だ」
「わしらは、自分の身の危険も構わず、あんた方にすべてを話したのだ。それをどうにでもなれとは、あまりに冷たかろう」
「おれを雇った人物は、二人の子供を守れと言って死んだ。それ以外、おれには興味がない」
茫然と立ちすくむ村長を残して、Dは歩き出した。
骨組みだけ見れば、明らかに一軒の家のようである。一辺一〇メートルの正方形――高さはもう少しある。
五人の村人が壁板や天井の梁にぶら下がっていた。その全員がDに気づくと同時に、二人が悲鳴を上げて地べたに落ち、残りは手近の棒や板にすがりついた。時ならぬ落下の原因は言うまでもない。Dの美貌に魂まで奪われてしまったのだ。
地上にいた三人ばかりがすぐ駆け寄って抱き起こすと、幸い尻から落ちたせいで二人とも無事だった。
「これなら、外周りだけは今夜中に完成するじゃろう」
と嗄れ声が言った。
「おまえを中へ封じ込めて、さて、何をするつもりなのか」
Dは背後の村長を見つめた。
恐ろしいものでも見たかのように、村長は後じさった。身体が不意に沈んだ。大地が陥没したのである。腰まで埋もれて止まった。老人は手で踏んばって脱けようとした。駆け寄る村人たちの足を止めたのは彼の絶叫であった。
髪の毛が逆立ち、上体が猛烈な勢いで痙攣するや、瞳がひっくり返った。同時に、口と鼻からホースでぶち撒けたように鮮血が噴き出し、地面に当たって激しく飛沫をとばした。
硬直する村人へ、下がれと手で指示して、Dは前へ出た。
がくりと首を折った村長を無視して、ゆっくりと坂を下りはじめる。
村人たちの蒼白のどよめきが追った。
血まみれの村長が、ぐいと顔を上げるや、前のめりに倒れたのだ。腰から下はなかった。彼の身体は胴の部分で無造作に切り離されていたのである。いったん熄んだ村人たちの恐怖のどよめきが炎のごとく再燃したのは、その上半身が虫のように両手で土を掻き、Dめがけて這いはじめたときであった。
「後ろだ!」
誰かが叫んだときにはもう、上体は腕立て伏せの姿勢から、昆虫みたいに跳ねてDの頭上に躍った。その胴から地面へと流れるひとすじの線にDは気づいたか。後ろなぐりに銀光が閃くや、村長の身体は空中で大きく逆方向にバウンドし、どっと地上に落ちた。
胸前で、掴みかからんと曲げた五指が空しく痙攣するのを尻目に、Dもまた宙に舞った。
地上の獲物に襲いかかる黒く美しい魔鳥のごとく。
その手に握られた一刀は、五メートルも離れた地面にDの膂力プラス落下速度ごと、正確に叩きつけられた。
半ばまで斬り込んだその地面から、長剣が抜けると同時に、凄まじい勢いで黒い液体が噴出した。血だと気づく者はいない。
Dは右手を右真横にふった。光は、その刹那地中から出現した黒い鎌状の物体にぶつかり、世にも奇怪な音を立てた。五メートルもある鎌は斬断音を放ちつつ斬りとばされたのである。道の端に立つ大岩に食い込んだ姿は、まさしく鋼の大鎌であった。
「地下の“人形使い”だ」
「いいや、“死人使い”だ」
すべてを目撃した村人たちの叫びにこもる畏怖は、地中で息絶えた大鎌を持つ生物に与えられたものか、いま、刀身を収めて村長の遺体の方をふり返る黒衣の若者に向けられたものか。
いずれにせよ、地中に潜んで、わずかな厚みだけを残して穿った穴に落下してきた犠牲者を殺害、その神経系に一本の“操り糸”――誘導疑似神経を通して自在に動かし、自らは生涯出られぬ地上での食物捕獲を担当させる恐るべき地下生物が一匹、いま死に絶えたのは間違いない。
「ふむ。正直、この村の者すべてが操られているのではないかと危ぶんではいたが、どうやら杞憂だったようじゃ」
左手が洩らす声を、Dだけが聞いた。
ふたたび建築途上の小屋へと歩き出した彼の前に、立ちふさがる者はない。村人たちは、真昼に魔を見たかのごとく道を開き、Dは小屋の正面に立った。
風が忍び寄ってきた。Dは左手を上げて、風に乗る何かを掴んだ。一枚のメモである。表面にのたくる朱い文字は、血で記したもののようであった。
その小屋に手をかけたら、
村の者みなが事故で死ぬ
署名はなかった。
読み終える前に、Dは身を翻した。風の吹いてきた方角へ。
[#改ページ]
第七章 死の宴、緋(ひ)の宴
坂道を一〇メートルほど下った左右に、石塀の名残が五、六メートルばかりつづいていた。高さは二メートルもある。
銀光一閃。
塀の向うで、ぐぉ、という苦鳴が上がった。Dの姿は空中にあった。斜めに切断された石塀が、鈍い音をたてて倒壊する――その彼方に、彼は音もなく塀の方を向いて着地した。
Dと塀の中間に、僧服姿が右肩を押さえていた。指の間から鮮血が溢れて、灰色の布地を鮮やかな朱に染めていく。
「ヴァルキュアの手の者か?」
と、Dは低く訊いた。名前など尋ねない。斃すべき相手だ。必要なのはその出自だけである。
「ち……違う」
僧服姿は必死で首をふったが、何よりその顔色がよくしゃべる。
Dが、ずいと前へ出た。
次の瞬間、二つの出来事が生じた。Dがやや姿勢を崩すや、その頭上へ天の高みから、極彩色の影が舞い降りてきたのである。
光が躍り、それは二つに裂かれた凧となって地面に転がった。通常ならば、刃はそのまま反転して僧服――グールドの額を割る。
だが、切尖の描く斬線から、的は大きく跳びすさっていた。のみならず、その地点で右手を高く上げたのである。
身体は宙に浮き、さしものDも及ばぬ速度で虚空へと舞い上がった。
その姿を追ってDの右手から白木の針が投げ上げられ、僧服は喉を押さえたものの、うっという呻きも上空へと流れて、その姿はみるみる小さくなり、点と化して蒼穹に呑み込まれた。
例によって血玉ひとつついていない刀身を収めたとき、坂道を幾つかの小さな足音が上がってきて、
「あったぞ」
「あ、切られてる」
「ひどーい」
と子供たちの声が吹き乱れた。
Dは凧を取り上げ、彼らの方へ近づいた。硬直した少年たちの顔には、怖れと憧れの色がある。ひとめで只者ではないと知れる若者は、辺境の地を離れることのできぬ子供たちにとって、憧憬の的たる異邦人なのであった。
「誰の凧だ?」
とDが訊いた。その視線が危険だとでもいう風に子供たちは後じさり、
「こ、こいつのだよ」
と、ひとりが押し出された。
八、九歳らしい赤毛の少年であった。引っ込み思案らしく、眼を伏せ、緊張で身体をこわばらせている。子供たちは全部で五人いた。
「悪かった。弁償しよう」
Dはコートの内側から一枚の硬貨を取り出した。手をのばしかけ、少年はあわてて引っ込め、首をふった。
「そんなに――悪いよ」
「その代わり、質問に答えてくれ。――あれは糸を切ったのか?」
凧同士をぶつけ、戦わせて相手の糸を切る遊びは、凧揚げの常道だ。
少年は眼を伏せたまま首をふった。
「ううん。切れちゃったの」
「あたしがやったの」
と、少年の後ろで太った女の子が胸を張った。
「わかった。――ありがとう」
Dは少年に硬貨を与えて、歩き出した。
坂道へ出て、ふり向いた。
すぐ後ろで、子供たちが立ち止まった。また歩き出し――ふり向くと、また止まって、こちらを見つめている。
「モテモテのようじゃぞ」
嗄れ声は愉しそうである。
「何か用か?」
とDが訊いた。
顔を見合わせて、もじもじしている。それでも、瞳の中にきらめく子供らしい好奇心と憧れだけは隠しようがない。
さっきの太った女の子が意を決したように、
「お兄ーさん――ハンター?」
と訊いた。
「そうだ」
「吸血鬼《バンパイア》ハンター?」
「そうだ」
返事が終わる前に、歓声が噴き上がった。
「凄えや、吸血鬼ハンターだってよ!」
「かーっこいい!」
「はじめて見たときから、きっと、って思ってたんだ、おれ」
「素敵い〜〜〜〜」
太った女の子が、
「ねえ、貴族を何人斬ったの?」
「そうだな――たくさんだ」
「凄ぉい」
「たくさん、貴族が滅びると嬉しいか?」
「もちろんだよ」
子供たちは一斉にうなずいた。
「あんな化物、みいんな灰になっちまえばいいんだ」
「そうよ、そうよ」
リーダー格らしい背の高い少年が、真っ赤な顔で、
「あのお――おれもハンターになれるかなあ?」
と訊いた。
「なりたいのか?」
「うん」
「頑張るといい」
「うん!」
下がった顔が勢いよく跳ね上がった。
馬車のところに戻るまで、坂を駆け上がっていく何人かの村人とすれ違った。大工仕事に従事していた連中が、村長の死を知らせたのだろう。
「帰れ」
とDは言った。子供たちが離れようとしないのだ。
「帰れ」
語調を強めると、さすがに、さあっと遠ざかったものの、石像や塀の陰から様子をうかがっている。
「ここでは英雄じゃな」
揶揄するような嗄れ声に、
「凧が落ちかかり、おれは石を踏んでバランスを崩した」
とDは言った。嗄れ声が受けた。
「結果――奴は逃げおおせた。見たところ、偶然が二つ重なっただけだ。礼拝堂の村人も村長も偶然[#「偶然」に傍点]、天井が崩れ、地面に落ちて死んだ。しかも、土中には偶然“死人使い”がいた。――ふむ、出来すぎているな。とはいうものの、おまえが石を踏んだのは偶然の産物だし、凧の方も、それに間違いない。ふむ」
「偶然を操れる、か」
少し間を置いて、
「かも知れん」
「だとすると、おれも奴は斬れんか?」
「――あり得る話じゃ」
偶然を自在に起こせる術者なら、術者自身も意識することなく、攻撃者は風に舞う木の葉に視界を遮られ、守備側は攻撃を受ける寸前、防御服の留め金をいい加減に止めておいたのに気がつくかも知れない。
「手を探らねばならんな」
と嗄れ声が重くつぶやいたとき、かすかなモーター音とともに、ブロージュ伯爵の自走車のドアが開いた。
マシューとスーが現われ、大きくのびをした。Dが戻ったので解放されたに違いない。
Dは冷たく、
「伯爵が出ろと言ったのか?」
マシューが手をふった。
「違う。おれたちが出してくれと言ったんだ。凄く豪華で、お城みたいに広い部屋だけど、人工灯だから、どうしても息がつまる」
かたわらで、スーが黙ってうなずいた。
「何があった?」
と伯爵の声がやって来た。
Dが事情を説明すると、
「おかしな術を使いおる。我らの知っている敵の中にいるか。それとも、未知の二人組の片方か。――ん?」
陰鬱な独白を遮ったのは、またも参集してきた子供たちであった。
無言のDへ、リーダーが、
「あのさ――お兄さん、この村を出てっちゃうんだろ?」
と切り出した。
「そうなるな」
「それじゃあ、おれたちもう二度と、吸血鬼ハンターになんか会えないと思う。だから、……あの」
「やめておけ」
と、嗄れ声が言った。Dにしか聞こえない特殊な会話である。
「餓鬼どもに、おまえの技を見せても、一文にもならん」
「何が見たい?」
とDが訊いた。
「やった!」
子供たちがどよめいた。マシューもスーも顔を見合わせ、好奇の視線をDに向けた。
「こら、愚か者」
「何でもいいよ、何でも」
と少年たちは声を合わせた。Dは彼らの足下を指さした。
「石を取って投げろ。いつでも、何処からでもいい」
子供たちは指示に従ったが、小石を手に尻ごみしたのは無理もない。
「遠慮はいらん。――おれは吸血鬼ハンターだ」
Dの言葉が、子供たちの闘志に火を点けた。
「みんな――いっぺんに行くぞ。散らばれ」
リーダーの指示に、小さな戦士たちはDの周囲に走った。
Dはその位置に立ったままだ。
子供たちを緊張の糸がつないだ。遊びではない。これは戦いなのだ。
「行けえ!」
リーダーの叫びと同時に、石つぶてが四方からDを襲った。
少年たちが見たものは、はたして何であったのか。
立ち尽くすDの周囲を光の糸が巡ったのだ。
鍔鳴りの響きを耳にしても、光は子供たちの網膜に、美しい黒衣の影とともに灼きついて消えなかった。
渾身の力で放った石が、ことごとくその足下に転がったことも、彼らの意識にはなかった。それに気づいて、ようやく人並みの驚きが甦ったのは、数秒後のことである。
驚きのあまり声もない彼らに、Dは身を屈めて地面から一本の――五〇センチほどの木の枝を拾い上げた。
「打って来い」
と子供たちに差し出す。
「えっ!?」
驚きよりも感激の色が、幼い顔に広がった。まさか、吸血鬼ハンターが稽古をつけてくれるとは。
だが、さすがに木の枝に手をのばすのはためらわれた。
Dが右手をふった。木の枝はひとりの少年の足下に突き刺さった。凧を切られたあの少年だった。
少年はDを見ていなかった。うつむいた眼は地面を映していた。数秒が過ぎた。と、その顔が少しずつ上がってきた。木の枝の方へ。そして、彼は両手でその枝を握りしめたのである。
「凄えや――そいつ、いちばん意気地がないんだぜ」
とリーダーが眼を丸くした。
「何するにも、尻ごみして、いちばん後なんだ。いちばんトロいんだよ。それが――真っ先に。おい、愚図、気でも違ったんじゃねえの」
「えらいわ。愚図くん、やっつけちゃえ」
と太った女の子が手を叩き、他の子供たちもそれにつづいた。
少年の顔は上気し、ひとめでそれとわかる決意が、男らしい表情を造形していた。愚図と呼ばれつづけた胸の中に少年が秘めていたものが、この瞬間、彼を炎に変えているのだった。
誰にも言われず、命じられず、
「ええ〜〜〜〜いっ」
気合は幼く、激しかった。
彼はDに突っ込み、その左脇を通り抜けた。子供たちの眼には、Dの身体を貫いたように見えた。
必死にブレーキをかけ、土を踏みしめながら、少年はふり向いた。
Dの右手は肩の柄にかかっている。これから来る、と見て、少年は枝を構え直した。
Dの口もとを淡い翳がかすめた。微笑である。
彼は軽く爪先で地面を踏んだ。
少年の握った部分を残して、枝は地面に落ちた。
声のないどよめきが、子供たちと――マシューとスーの口から洩れた。
いつ抜いて、いつ切ったのか。それよりも、真正面から突っ込んできた少年をどうやって動きもせずにやり過ごしたのか。すべては謎だ。だが、子供たちは受け入れた。相手は吸血鬼ハンター――貴族を斃せる男なのだ。
茫然と構えを解けずにいる少年の前にDは立った。
「わかっているな。おれは腰を打たれた」
その手が触れると、食い込むように木の枝を握っていた指が剥がれ、中味はDの手に移った。彼は地面に落ちた分も拾い上げた。どちらの切り口も、木の枝なのに金属のような光を放っていた。
Dはそれを接着させ、ふた呼吸ほど置いて、片方の手を離した。
枝は分かれなかった。
彼はそれを少年の手に戻し、
「ふってみろ」
と言った。
恐る恐るふられた。
「力一杯だ」
少年はふり上げ、ふり下ろした。風が唸った。枝はそのままである。
驚きと、もうひとつの感情が少年の――子供たち全員の顔をかがやかせた。それは感動であった。
「ここまでだ」
とDは言った。
「君は吸血鬼ハンターを打った。それを忘れるな」
返事はない。
Dがわざと打たせたことを少年は知っていた。子供たちも百も承知だ。だが、少年は恥じらいはしなかったし、子供たちも文句は言わなかった。彼らが目撃したのはDの行為ではなく、自分で枝を取り、Dに突進した少年の姿だった。Dがわざと打たせようが、打たせまいが、子供たちには、それで十分なのだった。リーダーが肩を叩いて、
「やるじゃん」
と言った。
「もう愚図くんって呼ばないよ、あたし」
太った女の子の顔が笑っている。
少年の顔に満面の笑みが広がっていったとき、Dはもうマシューとスーのもとへと歩き去っていた。
西の山の端《は》を彩る紅の、最後のひとすじが喪《うしな》われると、ブロージュ伯爵が現われた。
「そのクールベとかいう奴、私を襲った蜘蛛男とつるんでおるな」
と成層圏から落ちてきた男は指摘した。
「となると、こちらも空中戦の策を立てねばならんな。いや、その前に――神として祀られる心構えをしなくては、な」
「行くのかい?」
とマシューが不満げに訊いた。
「それが、おまえの望みだろうが。そもそも、この村に足を止めたのも、おまえがいい顔をしたからだ」
「そりゃそうだけど、何だか心配になってきた。あんたたち――やられないだろうね」
伯爵は凄まじい笑顔になった。
「それこそ、“神のみぞ、知る”だ。お粗末とはいえ、“神殿”までつくらせるとは、単なる思いつきとも思えん。必殺の自信があるのだろう」
「大丈夫かなあ?」
マシューの声と表情は、さらに暗く翳った。
「村の連中、何だか棘々しい感じがあるんだ。村長が死んだのを、あんたたちのせいだと思っているらしい」
伯爵は、かたわらのDをちらりと眺めて、
「私のせいかな?」
当てこすりの口調であった。この辺は人間も貴族も変わらない。Dは返事をしなかった。
「神は三人――私とDとミランダだ。だが、ミランダはいない。“神殿”へ入るのが二人では、本当の“神”の逆鱗に触れるのではないか」
Dが兄妹の方を見て、
「おれたちが戻るまで、伯爵の馬車で待て」
と言った。
「大丈夫かい? ――戻ってこれるのかい?」
「困った坊主だな。おまえがよせと言うのなら、私たちも余計な時間を割く必要はないのだ。どちらにする?」
「それは――一度、引き受けたんだから」
「なら、安心しろ」
伯爵が少年の肩を叩いたが、マシューはなおも、
「二人で行かなくてもいいんじゃないのかなあ。万が一ってこともあるぜ」
と未練がましく食い下がった。
「兄さん」
とスーがたしなめるように、
「兄さんが言ったことよ。きちんとして」
「おれは、ちゃんとしてるよ」
マシューは激昂した。
「――けどな、ここは農場やおれたちの村とは違うんだ。おれたちを守ってくれるのは、この二人しかいない。彼らがいなくなったら、どうなると思う? おまえの生命だって狙われるんだぞ。母さんみたいになりたいのか!?」
「ここで、そんなこと言わないで」
スーの頬は紅く染まっていた。怒りではなく恥ずかしさで。
「貴族を信じろ、というのは無理かな」
と伯爵が笑顔になってもう一度、マシューの肩を叩いた。若者も一八〇センチはあるのに、三メートルの巨人相手では大人と子供だ、激しく揺れた。
「私の馬車の内部《なか》にいれば安心だ。まだ若いが、ワインくらいなら飲めるだろう。貴族の酒は極上だぞ――さてと、行くか」
右手の長槍を、ぶん、とひとふりして、声をかけると、Dも村の方へと歩き出した。
半月が出て、風がある。
すでに家の中や通りのあちこちから様子を窺っていた村人たちが、あわてて窓や扉を閉め、或いは、家の陰に身を隠す。
「ふむ、やはり貴族は恐怖の対象か」
いくぶん自負のこもったブロージュ伯の声に、
「――どうかな」
とD。
「村長を殺した相手を見物中というわけか。誤解を解いておいた方がよくはないか?」
伯爵はこう続けたが、Dは答えず、二人は坂道の前に到着した。四人ばかりの村人が待っていた。
村長よりひと廻り大きく、ひと廻り老けたような老人が頭を下げて、
「こっちですじゃ」
と、先に立って坂を登りはじめた。他の三人も白髪白髯の老人――何となく死者の行進を思わせる。
日が落ちる少し前に、釘を打つ音も熄んでいた建物は、半月の光の下に白々と静まり返っていた。戸口に立っていた二人の男が頭を下げる。
超突貫工事にしては、見事な造作であった。窓ひとつない。
「他の家は干し煉瓦なのに、ここだけは例外か。――木は燃えるぞ」
これをつくれと命じたものの意図を読み取った、とでもいう風に、伯爵は笑って天空を見上げた。
先導の村人たちがそれを追ったのは、Dに追いつめられた伝道師の逃亡の仕方を聞いたせいだろう。
魔天へ消えた男は、魔天より地上を睥睨しているかも知れない。そして、ふたたび魔天より訪れるのか。
「内部《なか》に誰かいるか?」
Dの問いに、男たちは一斉にかぶりをふった。先刻の中年男が“神殿”を守っていた二人組の方を向いた。
「いえ、誰も。猫の子一匹――へい」
と片方が何度もうなずいた。誰もが怯え切っている。貴族を見るのははじめてなのだ。しかも、三メートル。そして、もうひとり――かたわらの闇よりも暗く、月光よりも美しい若者は――わかる。ダンピールだ。
「では――」
伯爵の右手がのびると、拳から生えたみたいに槍がのび、建物のドアを突いた。
蝶番のきしみを残してドアは内側へ開いた。
四メートルに少し欠けそうな高さは、伯爵でも無理なくくぐれる。
肩を並べてランプらしい光のゆれる戸口へ近づき、
「ほう」
と伯爵が眼を細めた。
「近頃の猫は、香水をつけるらしいな。それも、貴族の品を」
二人同時に足を踏み入れた。
木製の床と天井と壁と、四面にひとつずつ炎をゆらめかせているランプ。――それ以外は何もない。前方の壁の下に横たわる、たおやかで妖艶な白い姿を除いて。
Dの左腰のあたりで、
「ほう、ミランダか」
と嗄れ声が正しくその名を呼んだ。
白いドレスに、悩ましく肢体の線を形取らせて横たわるドレスの女は、まさしくミランダだ。
「いつ、誰が、どうやって、この女をここへ?」
嗄れ声の問いは、二人の問いでもあったろう。
遠い過去に、ブロージュ伯ともども、“絶対貴族”に挑んだ女怪。ダイアリス農場でも、あの水妖女を易々と撃退してのけた正真正銘の女貴族が、かくも呆気なく眠らされて、かくも無防備な姿をさらすとは、天地の崩壊よりも信じ難いことであった。
二人は同時に足を止めた。
伯爵がまかせろとうなずいて、長槍をふりかぶった。
まさか――ミランダを刺し殺すつもりか。Dに止める気配はない。
ごお、と大気をくり抜く音をたてて、剛槍はミランダの腹部を串刺しにした。驚くべきことに、伯爵は槍を投げなかった。猟師が魚を突くように、彼はその手で朋友を刺したのである。
これが貴族の――吸血鬼の本性なのか。確かに槍穂の先で声もなく痙攣するミランダの悶えを槍から手から感得して、典雅とさえいえる顔は、悪鬼の血笑を浮かべているではないか。
Dは止めぬのか。立ち尽くしたまま、嗄れ声だけが、
「ふむ。面白いことをする」
と言った。
串刺しの美女の動きが止まったのは、その瞬間であった。
鮮血溢れる腹部と槍へ、赤光を放つ視線を注いでから、じろりと横向きに伯爵を見上げた眼には、憎悪と嘲笑の光があった。
「愉しい眼醒めさせ方だこと」
とミランダは言った。その口腔《こうこう》から、がっと血の塊がこぼれて床に朱の紋様を描いた。
眼醒めさせ方というのが事実なら、これは何とも凄い、地獄の悪鬼の覚醒法であることか。
血まみれの口が喚いた。
「さっさとお外し下さいませな。この無礼な成り上がり殿」
肩をすくめ、にやりと笑って伯爵は長槍を引き抜いた。
傷口がみるみるふさがっていく――ばかりか、溢れた血潮さえも布地に吸い込まれるみたいにうすれ、まばたきひとつする間に消えてしまう。
染みひとつない純白のドレス姿が起き上がるのを、男たちは黙然と見つめた。
貴婦人ともいうべき清雅な美貌を不快な表情がかすめたのは、穂先に残る自分の血潮を、ブロージュ伯爵が舐め取るのを見た瞬間であった。
「どうやって、ここへ来た?」
Dが訊いた。当然の質問である。
「さて」
とミランダは艶然と微笑み、上目遣いにDを見つめて。
「私にもわかりませぬ。今日いちにち柩で休み、気がついたら、ここにおりました」
「深層移動はした覚えがあるか?」
貴族に特有の無意識空間移動の意味である。
貴族は突如、その柩から移動する場合がある。その歴史がはじまって以来、極めて希少な数にすぎないが、安逸なる闇に閉ざされた閉鎖空間から、陽光燦々たる天地の真ん中に、我知らず出現してしまう怪現象は、それが貴族ならではの精神の働きに基づくものであると結論づけられたとき、彼らの間に一大恐慌を巻き起こした。“神祖”専属医師団の調査によって、その原因が、光を求める深層心理の働きと断定されても、多くの貴族は容易に信じようとしなかった。伯爵の言葉の意味はこれ[#「これ」に傍点]である。
「ありませぬ」
とミランダは軽蔑したように答え、しかし、笑みを絶やさずに、
「――けれども、これからもないとは断言できませぬ。多分、それが起こったのでしょう。でなければ、なんでこの私ともあろうものが、知らずにこのような下賎な場所へ」
「偶然[#「偶然」に傍点]、来たか」
Dのつぶやきは、二人の貴族をふり向かせた。
「そんなはずはない」
と伯爵が受けた。
「いかにミランダとて、そうも都合よく我らの前に現われることができるものか。第一、ここを知らぬはずだぞ」
「見たか?」
Dの問いに、女貴族は艶やかに首をふった。
「いや、はじめてのところじゃ」
伯爵が長槍の柄を愛しげに撫でて、
「となると、ヴァルキュアの腹心のうち、我らの知らぬ力の持ち主の仕業か」
「ヴァルキュア自身かも知れんな」
Dの言葉が空気を凍らせた。
眠れるミランダをここへ運び込んだのが誰にせよ、その気になれば彼女の生命を絶つことも可能だったはずである。それをしないのは、姿なき敵の圧倒的な自信と、ここに仕掛けた罠の完璧さを物語っていた。
凍結した空気を打ち砕いたのは、ミランダであった。
「三人揃って、こんな犬小屋のようなところでうだうだ[#「うだうだ」に傍点]と議論し合っても何にもなりませんわ。話は後ほどうかがいます。私はこれにて失礼をば」
ドレスの裾を翻して戸口へと進む肩が小刻みに震えている。まんまと敵に拉致された上、それに気づかなかった自分を、朋輩二人に目撃された屈辱のせいか。
だが、誇り高き女貴族の足取りは、三歩とつづかずに止まった。
「お二人は、どこから入られました?」
この問いに二人はふり向き、ブロージュ伯が、おお、と唸った。
ドアのあるべき場所は、板張りの壁が覆っていた。扉を示す切れ目はない。
「ほほう。これはまた――愉しい遊びを仕掛けてくれるわ。出たいか、ミランダ? なら待っておれ。いま――」
伯爵が頭上で槍をふり廻した。掘っ建て小屋など吹きとんでしまいそうな風が渦を巻いた。その中で、がっと衝撃音が湧いた。
伯爵が槍を引き、右方の壁を見つめた。
疵《きず》はない。だが――
「ぶつかった――どうだ、D、私の眼の迷いか?」
黒衣の美貌が同じ方へ眼をやりながら、
「いや、縮んでいる」
と答えた。
六メートル近い長槍が壁にぶつかってもおかしくはない。だが、伯爵はそれを見越して長槍をふるったのだ。
見よ。眼を凝らせば、Dの言葉どおり、天井は三人の頭上に迫り、四方の壁は確実にその距離を狭めてくるではないか。
「おかしな仕掛けですこと」
ミランダは妖艶に微笑んだ。人間なら、どんなに剛の者でも眼を剥かざるを得ないこの事態を心底愉しんでいるとしか思えないのは、やはり貴族ならではの不敵さか。
「ブロージュ伯、ご自慢の槍で何とかなされます?」
「ふむ」
と受けた巨大なる貴族の表情も仕草も、どこか愉しく嬉しげだ。
何の予備動作もなく、彼は長槍を右手の壁にふった。
それは明らかに、さっきより短い軌跡の先で、激しい音をたてて跳ね返った。
「あら、見かけ倒し」
傷痕ひとつない板壁へ、ミランダの嘲笑ともいうべき声がかかった。
口もとを歪めて長槍を構え直す伯爵へ、
「あなた、お断りしておきますけど、前後を止めても左右がありますのよ、或いはその逆が。――あら?」
最後の驚きの声は、Dが前へ出たのを見たからだ。
右手が肩へ流れ――と見る間に、ランプのゆらめきを銀光が断った。
壁に描いた斬線。伯爵とミランダが驚きの声を上げた。
すうと消えた。
刀身を収め、Dはさらに進んで迫りくる壁に左手のひらを押しつけた。
「ふむ、重力吸収だな」
と嗄れ声が言った。
「この家自体が一種のブラック・ホールと思えばよい。板の外側は――いや、いまや板自体が、電子も中性子もひとつに融合した超高密度の物質と化しておる。このまま放置しておけば、我々はいずれこの家に吸収されて、自らブラック・ホールの一部に成り果てるぞ」
「まあ」
とミランダが、わざとらしく口もとへ手を当てた。いつの間にかハンカチを握っているのは、淑女のたしなみというやつか。
「おお、窮屈になってきおったな」
と伯爵が言った。声はDのすぐ頭上で聞こえた。
片膝をついた巨人をじろり[#「じろり」に傍点]と見上げて、Dはコートの内側からひと掴みの黒土を取り出した。
「念のために用意しておいたか。おまえにしては珍しいことじゃな。――うぐへっ」
握り固めた土を手のひらへ――その表面に浮かんだ人面の口へ押し込むと、Dは一歩左へ移った。前後の動きは伯爵の槍が何とかストップさせているが、左右は如何ともしがたく、天井はもう二メートルにまで達していた。伯爵は仰向けに床に横たわっている。
「失礼」
甘い声と同時に、やわらかい香水の香りとドレスの肩がDに触れた。左にいたミランダがやはり追いつめられてきたのである。
「先程から拝見していると、頼りになるのは、あなたのようですわね。何とかお出来になる?」
かぐわしい息がDの顔にかかった。冬の木枯しのような息が。
「手を貸せ」
とDは伯爵に告げた。
「しかし、それは――楽には立てんぞ」
と伯爵はごちた。
「手だ」
Dは身を屈めて伯爵の左手を取った。
眉をひそめるのも構わず、シャツの袖口のボタンを外して手首を露出させる。
その手首に小指の先を当てるなり、強く引いた。
溢れる血潮を左手のひらで受ける。一滴もこぼれぬのはいうまでもない。
「おお――おかしなものがついておるな」
「まあ、不可思議」
いまにもDにくっつきそうな伯爵とミランダの顔が大仰に驚いてみせた。この窮状がわかっているのかどうか、さっぱりわからない。
「よし」
左手の声と同時に、Dは伯爵の裂傷を上から同じ指でなぞった。傷口も血も消えた。
「息を止めろ。空気を吸う」
左手の口が、ごおと鳴った。同時に三人は窒息状態に陥った。残されたわずかな空気を、奇怪な人面疽《じんめんそ》の口は、ひと息で吸い込んでしまったのだ。
その小さな口腔の奥で青白い炎がゆれた。
地水火風――すべて揃った。
ミランダが震えた。顔面は蒼白である。Dに何を感じたのか。
天井は腹這いになったDの頭上まで下りていた。
左右は二メートルもない。
「失礼いたします」
ミランダがごろりと伯爵の上に寝そべり、Dはその前方へ膝立ちで這いはじめた。
前後から壁が迫る。長槍は限界までしなっていた。刻々と達成されつつある掘っ建て小屋のブラック・ホール化により、槍の両端にかかる圧力は数億トンに達しているはずだ。何という罠か、そして何という槍か。
天井がさらに下がった。
「ねえ、苦しいわ」
とミランダの声が背後から聞こえた。
旅人帽の頭に天井が当たる。
完全につっ伏した姿勢で、Dは一刀を抜いた。
対するは、電磁波も光も洩らさぬ超高密度の壁。
背後で骨のきしむ音。
刀身は突き出された。
それが幻のごとく壁へと吸い込まれるのを、ミランダとブロージュ伯爵は見た。
四方に光の亀裂が広がった。
ブラック・ホールの崩壊現象とは如何なるものかはわからない。
狭苦しい空地の上に横たわる三人を、半月が白々と照らし出していた。
真っ先に立ち上がったのはDである。
遠巻きにしていた村人から、どよめきが上がった。
「神さまは無事じゃったぞ」
「だども、なして寝そべってるだ?」
「とにかくお祀りするべ」
地べたへ膝をつくと、彼らは両手をふりあげ、へえ〜〜〜〜とお辞儀をしはじめた。
Dは一刀を戻して、後ろの二人をふり向いた。
巨大な影が、弓状にひん曲がった長槍をしげしげと見つめて、
「うーむ」
と苦渋に充ちた声を上げた。
「直らんな」
数百億トンの圧を支えた品である。折れなかったのが奇跡なのだ。
あきらめたのか、Dの方へ眼を移し、こちらは明らかに畏怖の響きを込めて、
「――お主、何者だ?」
と訊いた。
「そうですとも。なんて、素敵なお方」
伯爵のかたわらに立つミランダが両手を握り合わせて身を震わせた。
「まるで――まるで、あの御方の若い頃を見るような――いえ、私がはじめて拝謁の栄に浴したときはもう、大宇宙を思わせるご風采でしたから、想像でしかありませぬが、まこと、若ければこの騎士殿のような――」
「彼はハンターだ」
と伯爵は憮然たる声と顔で言った。
「あら」
「――とは言うものの、似ていないこともないな」
二対の視線が、明白な興味と好奇とを湛えてDの全身に絡みついた。
坂道を足音が駆け上がってきた。
村人のひとりだ。どうした、と尋ねる老人たちを無視して、真っすぐDの前へ走り寄り、
「自走車が、盗まれちまった。おれと何人かで見張ってたんだ。そこに、ついさっき、あの伝道師がやって来て、車に何かささやいた。そしたら、車がひとりでに走り出して、街道を西の方へ行っちまっただよ」
「追いかけなかったのか?」
と老人のひとりが頬を震わせて叫んだ。
「それが、あっという間の事で。車のスピードも恐ろしく速くってよお」
「伝道師はどうした?」
「わかんねえ。自走車に気ィ取られてて、気がついたら、もういなかったよ」
「ちょっと」
とミランダが、咳払いしてから伯爵へ、
「管理不行き届きではございませんこと?」
「そんなはずはない」
伯爵は唸るように吐き捨てた。
「あれは陽子コンピュータによる完全管理の車だ。識別センサーは五百万のチェックポイントを五十万分の一秒で走査し、私を見分ける。他人の指示で操作されるなどあり得ない」
「でも――動き出しちゃった」
「う、うるさい」
伯爵の顔が夜目にもどす黒い凶相に変わった。
一触即発の仲間割れかと、村人たちが立ちすくんだとき、彼らのひとりがあることに気づいた。
Dが空を見上げている。
村人がつづいて、あっと叫んだ。
その声が、伯爵とミランダの眼をも虚空へ向けたとき、先行していた村人たちから雲のようなどよめきが湧いた。
「ありゃ、何だ?」
「半月が満月になっとる」
「上半分はなかったぞ――おい、ありゃあ字ではねえか」
皓々とかがやくもと[#「もと」に傍点]半月の上半分に、黒々と滲んでいるのは確かに文字だ。
「な、何て書いてあるだ?」
眼を凝らす人々には決して聞こえぬ嗄れ声が、
「明日の13PM、ガリオンの谷へ来たれ。三名揃わぬときは、人質の生命はないものと覚悟せよ」
陰々たる口調であった。
「おい、ガリオンの谷とは何だ?」
頭上から降り注ぐ伯爵の問いに、知らせに駆けつけた村人が震え声で応じた。
「西へ三キロばかり行ったところにある谷だ。昔の貴族の実験場だったとやらで、この村ができてから、入った者はねえ」
「ふむ、何処へなりと出かけるが、昼というのはちと難儀だ。Dよ――いい手はあるか?」
返事はない。
救出に赴くのはDも同じだろう。
だが、板張りの小屋をブラック・ホールに変え、見えぬはずの半月に文字を浮かび上がらせる力の主に、いかにDとはいえ、はたしてよく戦い得るか。
まして、二人の味方は陽光の下で身を隠さねばならない宿命《さだめ》だ。
「――Dよ」
と伯爵がまた訊いた。その服の裾を、ミランダのドレスを風がゆらし、Dの髪に届いた。
黒衣は月光にかがやき、世にも美しい顔が、
「ある」
と低く言い放った。
「D―邪王星団1」完
[#改ページ]
あとがき
今回の“D”は、ここ数年来の作品《もの》とひと味違う。こう断言しても差し支えあるまい。
基本はここ数年来と等しい“ロード・ノベル”なのだが、作者のノリが違う。
ずん、と畳に腰を落ち着け、胡座をかき、蕎麦茶などを嗜みながら、ゆっくりとペンを走らせている。
安定感と執着を我ながら感じる今日この頃である。じゃあ、いままでのは何だったんだ、とおっしゃる方もあるだろうが、都合の悪いことはとりあえず置く。とにかく違うのである。
時折、“D”の世界のもと[#「もと」に傍点]は何だろうと考えたりする。
私の場合、多くは映画やTVのドキュメンタリー番組なのだが、いや、人間の力とは凄まじいものだ。
と書くのは、いまちょうど、BS11で「トルコ特集」を眺めているからで、私は、イスタンブールの地下宮殿にいるのである。
現在のような土木建築メカがない時代に、よくもこんなものを、とため息が出る。本当はエイリアンか地底人がこしらえたものだと、いつかわかる日が来るだろう。そう思えるくらい凄い。
大理石づくりのメデューサの首が逆さまになっているのは、その眼でまともに[#「まともに」に傍点]見られたら石になってしまうからだ、なんて、メデューサの存在を信じていた世界じゃなきゃ思いつかないだろう。
大自然に勝る、などと言うつもりはないが、少なくとも人間は挑んではいる。荒れ地に町をつくり、水を引き、田を耕し、やがて、長年月のうちに、時移り人変わりして、廃墟と化していく。――これ[#「これ」に傍点]かな。
“D”の物語で、とりわけ“背景”というより“風景”が大きな役を果たしているのは、作者のこういう性癖による。
新宿「ロフト/プラスワン」での次のトーク・ショー用に、ユニバーサルの怪奇映画をまとめて観る機会があったのだが、やはり、「魔人ドラキュラ」(31)の古城、「フランケンシュタイン」(31)の実験室のセットにため息が出た。怪奇映画は絶対に別世界を創造するものなのである。そのためには、別世界用の背景が要る。かくて、セットと美術がかがやきを増すのである。
最近、これを満たしてくれたのが川尻善昭監督による新作「バンパイアハンターD」。私のイメージを凌ぐ“D”の世界が次々に展開していく。街灯の点る夜の街路をDが疾走するシーンなど、震えるくらいのカッコ良さだ。そうなのだ、私はこういうシーンが観たくて映画に行くのだよ。いくら豪華だろうと、現実の建物をそっくり真似たセットなどに用はない。必要なのは別世界なのだ。
ちなみに、この「バンパイアハンターD」――本篇は完成し、英語[#「英語」に傍点]の完全版も出来ているのだが、日本公開のメドはまだたっていない。“ヒジョーに残念”である(このギャグ、誰が使ったかわかる?)。ま、期待して待ちましょう。
では、次巻をお愉しみに。次も凄いぞ。
平成十二年六月末
「バンパイアハンターD」を観ながら
菊地秀行