D―ダーク・ロード3 〜吸血鬼ハンター11
菊地秀行
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目次
第一章 処刑の日
第二章 毒薬婦人
第三章 愛娘(まなこ)愛憎
第四章 疫病の村
第五章 ロカンボール卿
第六章 身中の虫
第七章 惨割(ざんかつ)の剣
あとがき
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第一章 処刑の日
1
村の広場に作られた死刑台は、ギョティーヌと呼ばれていた。
高さ五メートルほどの板のてっぺんに重い鋼の刃が据えつけられ、執行係が支えのロープを切り落とすや、下方に跪く死刑囚の首めがけて落下する仕掛けである。名称は発明家の名前を取ったとも、この発明家自身もギョティーヌの犠牲になったとも言われるが、よくわからない。
「今まで何度も見たが、自分がかかるとなると、嫌なもんだな」
窓辺でこう言ったのは、ジュークであり、
「まったくさ」
と同意したのは、粗末な三段ベッドの一番下に腰を下ろしたセルゲイであった。そこにはゴルドーが眠っている。ロザリアは女だから向いの房だ。ここは村の監獄であった。
「こんなことになるのなら、もう少し、物資の横流しでもして、遊んで暮らしとくんだったな」
「おまえ、おかしな知識を持ってるようだが、何とかならんのか?」
ジュークが窓の鉄格子をひとつ叩いて、セルゲイの方を向いた。
「からっきしだよ。荷物は洗いざらい村の奴らに取られちまった」
セルゲイは両手のひらをジュークに見せた。すっからかんの意味である。
「車の物資はどうなる?」
と訊いた。
「ここの連中がかすめ取らなきゃ、届けるか、取りに来るように言うさ。ま、盗賊に襲われた、でぱあ[#「ぱあ」に傍点]だな」
「やれやれおかしな目に遇っちまった」
セルゲイは立ち上がり、通路に面した鉄格子の方へ歩いていって身をもたせかけた。
「ロザリアも、シュー、ストンか?」
と手刀で首の後ろを叩く。
ジュークがうなずいた。
「おれたちの仲間だと思われてるからな。いったん貴族と関わりがあると疑われたら、病人だろうが女子供だろうが、容赦はなしだ」
「貴族もヘチマもねえな。こうなってみると、人間の方がずっと野蛮だぜ。少なくとも、あいつらは血を吸うだけだ。吸われた奴に聞いたことがあるが、途中から、それはいい気持ちだそうだ。ああ、ゴルドーの奴が羨ましい。あのまま一気に首を落とされたら、何も知らずに楽に死ねるぜ」
心底、羨ましそうにセルゲイがつぶやいたとき、錠前を外す音がして、蝶番がきしんだ。石床を踏む足音が幾つかこちらへやって来る。
牢番らしい屈強な村人を先頭にやって来たのは、ユッタ村長であった。
青白い老婆顔に、黒いサテンのドレスがぞっとするほど映える。言うまでもなく、中身は希代の毒殺魔グレートヘン博士だと知る者はいない。
「汚らしいところね」
と鼻の前で片手をふり、ジュークとセルゲイへ氷のような視線を浴びせて、
「処刑は正午きっかりに行います。その瞬間、最初のギョティーヌの刃が、あなた方の誰かの首に落ちると覚えておきなさい」
ジュークは、ロザリアを助けてやってくれと申しこんだが、一笑に付された。
反対側の鉄格子の向うで眠りつづける少女を、横眼で見やり、
「あの娘もあなた方の仲間――それだけです」
「この因業婆あ」
とセルゲイが喚いた。怒りのあまり、激しく鉄格子をゆさぶる。
「あんな娘の首を斬って誰が得をするってんだ? ――助けてやれ。でねえと、おれが化けて出て、てめえの皺首を掻っ切ってやるぞ」
「下品だこと」
ユッタ村長は顔をしかめた。この野蛮人めという表情である。
「あなただけ、処刑を早めることもできるのよ。一秒でも長く生きたいと思わないのですか?」
「やかましい、この人殺しめ」
と鉄格子越しに首を絞めようとするのを、
「よさんか」
とジュークが肩を引いて止め、
「何を企んでいる?」
と訊いた。
「あら、おかしなことを。死を前にした幻想かしらね」
「覚えているかね、おれを?」
とジュークは村長の眼を見つめて訊いた。
「もちろんよ」
「おれも覚えている。記憶にあるとおりだ。外見はな」
「おや」
「あんた、厳しい人間だが、罪もない娘をロクに調べもせず、ギョティーヌにかけるような化物じゃなかった。――あんた、本物か?」
「おかしなことを」
と村長は吐き捨てた。その眼に走った動揺に、ジュークは気づかない。
村長は後ろの警備役をふり向き、
「この男と二人だけで話があります。呼ぶまで外にいらっしゃい」
と命じる。
さすがに戸惑う二人へ、
「お行きなさい」
語気冷たく言い放って退散させてしまった。
ドアが閉まった。素早く近づき、村長はドアの周囲を右手でなぞり、鍵穴にも当てた。それから、右手をガウンの内側にさし入れ、小さな土色の壷を取り出した。
「あんた――ひょっとして」
この行為だけで、異常を察したジュークが低く呻いた。
「お黙り」
枯れ枝みたいな指が蓋を取った。刺激性の香りが牢内に満ちた。空気の粒子がひとつぶひとつぶ汚染されていくような濃密な香りに、ジュークとセルゲイが激しくむせる。
「か――看――守」
叫ぶ声は、喘鳴に変わった。
「私の名はユッタ村長。洗礼名はグレートヘン博士」
老婆は妖艶な若い女の声で告げた。
「五万人の貴族に毒を盛った女だと、聞いたことがあるかしら。その力はいま、Dと名乗るハンターの抹殺に注がれるわ」
すでに、ジュークとセルゲイは椅子にしがみつきながら、床へとずり落ちはじめている。毒――ではない。あまりに強烈な香り。それだけで、意識はたやすく闇に沈んでしまう。
「おれたちを……おかしな目に遇わせても……Dは……来ない……ぞ」
ジュークの声は、断末魔のそれに近い。
「そうかしら。私の考えは別よ」
と老婆は嘲笑った。壷の蓋は閉じていた。
「彼の辺境における行動を、ここ数年分、細かく知らせてもらったのよ。身の毛がよだったわ。貴族の中にすら存在しないほど冷酷非情な精神《こころ》の持ち主。泣いて生命乞いする貴族の子の胸を、情け容赦なく刺し貫いたこともある。本来なら、あなた方を助けになど来るはずもないわ」
皺だらけの口もとが、にやりとひん曲がった。唇は紅玉《ルビー》のように赤く艶《あで》やかであった。
「でも、あの男は貴族ではないの。血は汚らわしくも熱いのよ、人間のように。それが肉体を動かす以上、彼はあなた方を見殺しになどできない。必ず助けに戻ってくるわ。そして、この村が墓場になるのよ」
「来る……もん……か」
こう言って、セルゲイは意識を失った。
「来るな……D」
ジュークも後につづいた。両手が椅子から離れ、折れた膝の前に落ちた。
「目張りをしておいたから、匂いは外へは漏れない。あなた方が役立つのはこれからよ」
老婆の醜い手が錠前にかかった。それは呆っ気なく外れた。音をたてないように受け取り、床に置いてから、老婆は三人の房に入った。
跪いた形のジュークとセルゲイを見下ろし、
「下品な格好ね」
と言った。祈りを捧げる格好に似ていなくもない。
老婆の手には三個の壷があった。
「どれも効果は異なる。もしも、あなた方を助け出したとしたら、Dは四人分の私を相手に戦う羽目になるわ。助けられなかったとしても――手は打ってあるの」
そして、彼女は壷を手に取り、その中味を三人の口に注いでいった。三種の香りが空気に混じり、摩訶不思議な匂いに醸造された。
眠るゴルドーが済むと、老婆は錠前を元通りにかけ、向い側――ロザリアの房へ入った。
四つめの壷の蓋を取ったとき、首すじに何か――
「――?」
ふり向いたが、誰もいない。
誰かに見られているような気がしたのだが、勘違いだったようだ。
「残念ね。眠り姫でも、私は容赦しないのよ」
血の気を喪った唇の間に、黄金の液体が注がれた。
やがて――ユッタ村長が、童女のような笑みを口もとに刻んで牢番を呼び、出て行ってから、狭苦しい廊下に忽然とひとつの影が現われた。
どう見ても、誰が見てもロザリアだ。
だが、牢内のベッドにもロザリアは横たわっているではないか。
廊下の影は、静かに哀しげにベッドの自分を見つめていたが、その両眼に、はっとするような決意を滲ませると、音もなく前進を開始した。
前方は石壁である。ためらいもなくそこへ接触する寸前、横手のドアが開いて、牢番が入ってきた。定時のチェックである。
一瞬、二つの影は重なり、分かれた。ロザリアが男を通り抜けたのである。
「あン?」
と牢番がふり返ったときは、ロザリアの姿は石壁に吸いこまれた後だ。
彼は身を震わせ、両手で全身を叩いた。それから大股でロザリアの牢に近づき、内部を覗きこんで、ほっとした表情を浮かべた。
「テューダー酒を飲《や》りすぎたか」
信じられない出来事との遭遇で狂いかけた理性を、何とか補おうとする定番の解釈を声に乗せると、牢番は鉄格子にもたれて、長い息をついた。空気にこもる匂いは跡形もなく消えている。
「何だかよくわからねえが、このままじゃあ済みそうにねえよな」
これまでの人生のように、小さな、いじいじとした声は、しかし、どこか確信めいたものに支えられていた。
2
夜明けの空を覆った鉛色の雲は、昼近くになっても不精を決めこんで、いっかな動こうとしなかった。
村の女たちと男たちの一部は、これから行われる儀式とその後始末を思って表情を曇らせ、はしゃぎ廻る子供たちを叱りつけるのに忙しかった。
広場には、徹夜作業で完成したギョティーヌが、二枚の木製レールの頂きに、分厚く鋭い刃をとどめて、誇らしげにそびえ立ち、かたわらの掘っ建て小屋では、処刑人がうんざり顔でコーヒーをすすっていた。
処刑十分前に、ジュークとセルゲイが牢獄を出された。ロザリアとゴルドーは牢番に両脇を支えられている。
広場までの道の両側は村人たちで埋め尽くされていた。眼が興奮にぎらついている。娯楽の少ない辺境では、無惨な死も立派なショーのひとつなのである。
四人の処刑者と牢番の移動につれて、人々も動いた。ナイフや斧をふり廻して威嚇するお調子ものを、火薬銃を手にした看視役の牢番が制止しつづけている。
ユッタ村長はギョティーヌの前に立っていた。
内心、彼女はDの出現を確実視してはいなかった。処刑の日時を知る術もないだろうし、昨夜、ジュークたちにはああ言ったが、絶対に救出に赴くとは正直、断言できない。わざと一日――処刑日をDが知るように空けたが、効果があるとも言い切れない。それなら、四人の首が無為に跳ぶだけだ、とこの恐るべき女は割り切っていた。その場合、彼女自身の手でDを斃すことが当面できなくなりそうなのが問題だが、彼女には圧倒的な自信があった。
ゼノン公もメフメット大公も、所詮は力でしか覇を競えぬ鈍重な男たちである。知能《あたま》が足りない。もはや、筋力で相争う時代ではないのだ。
Dも同じタイプ、とこの女は、グレートヘン博士の眼で見ていた。ならば、自分の知恵で十分に斃し得る。後は、出会えばいい。それは別のやり方を考えよう。
四人が死刑台の下に辿り着いた。雲の色が一層重く、鈍く染まったようだ。
「余計なおしゃべりをしてもはじまりません。すぐにはじめましょう。まず最初に――」
「おれだ」
とジュークが胸を張った。
「その娘から」
「きさま――貴族か!?」
掴みかかろうとしたジュークは、たちまち牢番たちに押さえつけられてしまった。
「おれを先に殺せ。女は後にしろ」
「こんなところで、男のやさしさを発揮してもはじまりませんよ」
ユッタ村長は冷やかに言い捨てて、ぐったりと落ちたロザリアの顎に手をかけて持ち上げた。
「よく眠っているわ。このまま一刻も早く行けた方が幸福というものです。――お乗せ」
「やめろ」
ジュークとセルゲイはなおも異議を唱えたが、四肢の自由も奪われた彼らには如何ともしがたく、ロザリアは二人の男に両脇を支えられたまま、木の階段を昇っていく。十三段あった。
昇り切ったところで、片方の牢番がギョティーヌの底部にはめこんである、真ん中に穴を空けた板の上半分を持ち上げた。
用意してあった直径二〇センチほどの丸太を下半分の板の穴に通し、上の板を下ろす。上下を固定し、すぐ横の木のレバーに近づいた。
群衆がざわめき、波打って、そこから生まれた沈黙の波が広場に行き渡った。
十分に見物人の眼を意識し、少し間を置いてから、牢番はレバーを引いた。
落下音には摩擦音が混じっていた。
突き出た丸太が鮮やかに切断されて、下の籠へ落ちたとき、興奮と――明らかに感動の叫びが群衆をゆるがした。
牢番は片手を上げて群衆に挨拶し、嫉妬の眼差しを注ぐ相棒に近づくと、手を貸してロザリアを例の板の前に跪かせた。
丸太と同じ状態にするまでの過程は、極めて事務的に行われた。広場はふたたび静まり返っている。
ここまで何も起こらなかった。
これからも、と誰もが思った。村の周囲には、もちろん見張りが、どんなささいなものも見逃すまいと眼を光らせている。
一匹の虫も。
牢番の手がレバーを掴んだ。無造作に引いた。
凶暴なうなりが天から地へと滑空する。
その刹那であった。
ギョティーヌが壇ごと宙に浮いた。地面への埋没部分がいともあっさり引き抜かれ、跳ねとばされた土も後を追う。
ギョティーヌの上空五メートルほどのところに、突如、黒い穴が出現したのである。
村人たちがそれに気づくより早く、穴は周囲のあらゆるものを吸いこみはじめた。ギョティーヌも、その刃も、ロザリアも、壇上の牢番たちも。
何が起こったのかわからぬまま、ジュークもセルゲイもゴルドーも宙に浮いた。牢番たちも負けじと追尾を開始する。
ただひとり、ユッタ村長だけが見破った。
「空食虫!?」
だが、それを自在に操れるのは、メフメット大公のみ。彼が処刑の邪魔に入ったのか?
「逃がしては――」
駄目と叫びかけ、村長はあきらめた。
「空食虫」の穴《ホール》が何処につづいているか、当の虫ですらわからないとされる。時の果てか地の底か――いずれにしろ、吸いこまれたものたちは永遠に戻らない。
ここに思い至って、ようやく、指導者にふさわしい台詞が出た。
「みんな、お逃げ。穴に吸いこまれるわ!」
声は、逃げ惑う者たちの指標となる前に、虚空へと吸い上げられる村人たちとともに上昇する方を選んだ。
村の外壁から五〇〇メートルほど離れた林の中でも、ひときわ高い木立の頂きから、黒い影が魔鳥のように舞い降りてきた。
音ひとつ立てずに着地した事実より、その寸前、空中で開いた黒い花のようなコートの裾を見ればわかる。――Dだ。
光と影の交錯する王国のような林の中で、黒き絢爛とも称すべき姿――そのかたわらで、これも華麗な色彩の影が、訝しげな、それでいて恍惚たる眼差しをDへ向けた。
何をするつもりかと、表情が問うている。
何も訊けず、何も教えられず、ただひたすらにDを慕ってついてきたレディ・アンであった。
Dの方も、その娘がいた方が都合がいいと断言したわりには、使役しようとしない。それがかえって、可憐な少女には辛いのであった。
「あと五秒」
と左手のあたりで嗄れ声が告げた。
Dは左手のひらを外へ向け、胸のあたりで構えた。
「……三……二……一……いまじゃ!」
手のひらから小さな塊が噴出した。小さな虫であった。それは五メートルも宙を飛び、草むらの上で自らを食った。
虚ろな黒い渦のごとき穴が生じたのは、その刹那であった。
小さな穴は大きく広がり、次の瞬間、そこから途方もないものが噴出したのである。
大地をゆるがし、草をつぶして斜めに突き刺さったのは、ぴかぴかの新品ギョティーヌであった。それにつづいて、人がみるみる地面に折り重なって、小さな山をつくった。
「四十人ジャスト」
と左手が愉快そうに告げた。
「おお、おるおる。ロザリアも、ジュークもセルゲイも。ゴルドーも無事じゃぞ。絶妙なタイミングじゃった。感謝せい」
Dは無視した。
まず、ロザリアのかたわらにしゃがんで脈を取り、瞳孔を調べて、ジュークに移った。
四人すべてを看終えると、Dはまとめて肩に担いだ。三〇〇キロ近い重量を物ともしない。もっとも、貴族では当たり前なのか、レディ・アンも驚きの表情はない。
残りの村人には眼もくれず、Dは村を出た。首を斬られる娘を、眼を皿のようにして待ち構えていた連中である。
村の外に荷馬車と馬がつないであった。早朝、隣村まで走って買い取ってきたものだ。
四人を乗せるや、Dは御者台に移って手綱を握った。美しい主人に魅せられているかのように、四頭のサイボーグ馬は恍惚と走り出した。
「どうして、あんな真似が?」
四人と御者台の間で、レディ・アンが首を傾げた。「空食虫」の食い破った空間から、四人が出現したことを言っているのである。
答えは――意外にも――すぐにやって来た。Dの左手から。
「『空食虫』の造り出した空間の穴に呑みこまれたが最後、あらゆるものは時空の彼方へ飛ばされてしまう。ただし、それにはきっかり十秒の余裕があるのじゃ。ちょうど、人間や動物が食いものを呑みこむ前に、咀嚼する時間を取るようにな。そして、そのタイム・リミットが来た瞬間、同じ『空食虫』による穴を別の場所に発生させれば、吸いこまれたものは、自動的にそちらから排出される。ただし、これには、超人的な技術が必要になる。後から出て来た村人三、四人を見たじゃろう。ほとんど原形質に逆戻りじゃ。ま、この四人以外はこ奴の目的外じゃからよかったがの」
左手の長口舌が終わると同時に、レディ・アンはしみじみ、
「『空食虫』を操るなんて――」
とつぶやいた。
もともと二匹の虫は、メフメット大公が例の廃墟で、復活したDへ吹きつけたものだ。
かわしもせずに両断したその二匹に、Dは左手の生命エネルギーを注入し、生き返らせてしまったのだ。虫自体の生命力がもともと旺盛だったせいもある。
ここまではさして不思議でもないが、『空食虫』は容易に人間に慣れない。いつ自身を食らいはじめるか、予測不可能なのである。そのために、虫の捕獲者自らが穴に吸収される事故も数知れず、ついに、先天的に虫扱いに秀でた血筋の人間以外は、飼育に手を出すこともなく、『空食虫』の扱いは、秘術秘法の一典型として、闇の世界にのみ命脈を保ってきたのであった。
それを、Dはいともたやすくこなしてしまったのだ。
「どうして、あんなことが……」
感嘆に染まるレディ・アンの眼と頬であった。
「こ奴の親は特別でな。およそ、貴族のやることで、こ奴にできぬものはない。ぐええ」
まるで絞めつけられたみたいに声は熄み、少し経ってから、Dは握り拳を放した。
その間も、それからも、レディ・アンは、人形のような瞳に好奇心と憂いとを湛えて何やら思い巡らし、やがて、はっとしたように、
「貴族のすべてをこなし、父親は特別……もしや、あなたは……あなたさまは……」
こうつぶやいたとき、馬車は道を大きくそれて、右手の渓谷へと轍を進めていった。
狭くて急な道を危なげなく疾走するサイボーグ馬の安定性に眼を見張り、すぐにそれが手綱を取るDの力量のせいだと知って、レディ・アンの眼は感嘆と、もっと深い光に彩られた。
巨大な昆虫の脚みたいに枝を広げた木々の間に、それらに守られるかのように慎ましく横たわる石造りの砦の跡を背後に、やがて、滔々たる水音と白い飛沫が前方にゆれた。
滝である。高さは優に一〇〇メートル、幅一〇メートルほどのその瀑布へ、サイボーグ馬は横合いから突進し、派手に飛沫を噴き上げるや、滝の背後に広がる巨大な洞窟に到着した。
3
面積は優に三〇〇坪――天井まで二〇メートルはある大洞窟は、以前からセルゲイに、その存在を聞かされていたものだ。
古文書で読んだ超古代の――貴族以前の文明の遺跡だとセルゲイは言い、大きな滝の後ろに隠れているが、昔から近隣の連中は怖がって近づかず、一万年の長きにわたって、古代文明の姿をそのままとどめているはずだ、と断言した。
確かに、Dの超感覚だからこそ発見できたが、外からはまず――かなりそばまでいっても、洞窟の存在を看破することは難しい。ギャスケル大将軍の刺客はともかく、村の追手なら絶対にまけるだろう。
ただし内部は、だだっ広いばかりで、古代文明のかけらもない。
妙に滑らかな地表や壁面を見て、左手が、
「これは溶けておるのじゃ。それも、十万度以上の超高熱が一分間以上、照射されたにちがいない。貴族の仕業じゃの。自分たち以前の文明の名残を根絶やしにしてしまったのじゃ」
しばらくの間、Dは馬車から外したサイボーグ馬を駆って、洞窟内を点検し、馬車のところへ戻って、四人を平坦な地面へ下ろした。
その額に左手を乗せると、ジュークとセルゲイはすぐに眼を醒ました。
Dはレディ・アンに眼をやった。
「はい! ――何か?」
向けられた視線は氷のように冷たいが、この少女には慕いつづける男の愛しい一瞥としか映らない。
「彼を起こせ」
Dはゴルドーの方へ顎をしゃくった。
「はい、喜んで」
「治せるのか!?」
とセルゲイがぼんやりと驚きを表現した。
「どうして、今まで放っといたんだ?」
ジュークも眼をしばたたいた。
「治せと言って治したと思うか?」
とD。
「無理強いすれば、自ら生命を絶っていただろう」
「そのとおりですわ!」
レディ・アンが叫んだ。声は感激に震えていた。
「敵に利を与えるなど、貴族にとっては地獄に落ちる方がましの恥辱でございます。自分の斃した敵を救えなどと強制されれば、私はその場で滅びを選びました。――ああ、私のことを、これほどまでに、わかっていて下さったのね、D」
胸前で白い繊手を組み合わせて、感激にむせぶ少女を、ジュークとセルゲイは呆っ気にとられて見つめ、それからDに視線を移した。
「早くしろ」
といつものように、ぶっきら棒に告げて、Dはロザリアの額に左手を当てた。
「やはり、いかんな。これは呪法だ。こんな目に遇わせた当人を始末するしかない。ギャスケルを、な」
こう言う左手の声を、それまで黙って聞いていたアンが、
「この女――何者です?」
と怒りを滲ませて訊いた。
「知らぬわけでもあるまい」
とD。
アンはかぶりをふって、
「この女、あなたが眠っているときに来ました[#「来ました」に傍点]。あの廃墟へ。今日の処刑について知らせておりました」
「二重存在《ドッペルゲンガー》か」
と左手がつぶやいた。辺境では別段、珍しい存在ではない。だが、その多くは本体の意志に反して邪悪な行為にふける陰画――陰体《ネガティブ》である場合が多い。ロザリアがそれに当てはまるとすれば、彼女を連れての旅は、腹中に毒を服んでの道行きと等しいではないか。
同じ結論に達しでもしたのか、レディ・アンの口もとを久々に見る――この娘らしい――残忍な翳がかすめた。
「危険な女ですわ。始末いたしましょう」
すでにふりかぶった右手の先から、鎌のような爪がのびてくる。
眠れる娘の喉笛へ、風を切ってふり下ろされたそれは、しかし、びしっと鳴って空中で停止した。
手首を押さえた黒い手は、Dのものであった。
「お放し下さい」
と無念に身悶え、歯がみする少女の形相の凄まじさ。身も世もなく恋に狂った女の顔だ。それは吐き気を催すほど醜悪で、同時に限りなく美しくもあった。
「愚か者」
左手がうなじに触れ、レディ・アンはその場に崩れ落ちた。
「赦しません……」
激しく肩で息をしながら、恐るべき美少女は、自身に念を押すようにつぶやいた。
「あなたに近づく女を……私は絶対に赦しません……」
無惨ともいえる少女の真実の叫びを、美しいハンターはどう取ったか。彼は一瞥も与えず、
「ゴルドーを眼醒めさせろ」
と告げて、ジュークとセルゲイをふり返った。
「どうする?」
「どうするって?」
二人は顔を見合わせた。
「他の村へ届けるべき荷物はもうない。おれと別れれば、ギャスケルも追っては来まい」
「いい考えだ。そうしよう」
と破顔して、ジュークは真顔になった。
「まだ、おれたちとの契約は続行中だな?」
「無論だ」
「なら、手伝ってくれ。荷物と馬車を取り返しにいく」
「おい、待てよ」
悲痛としかいいようのない声を上げたのは、セルゲイであった。
「あの村へまた戻るのか? 正気の沙汰じゃないぜ」
「おれたちは運び屋だ。荷物を分捕られ、殺されかけましたで済むと思うか? 他所の村じゃ、一日千秋の思いで荷物の到着を待ってるんだ」
「しかし、なあ」
「おまえの娘が死にそうだ。『都』から来る医薬品があれば治る。ところが、役にも立たねえ運び屋が、雁首揃えてやって来て、積み荷を盗まれましたと、土下座してオイオイ泣く。ああいいよと肩でも叩くつもりか、え?」
貫くような眼光を向けられ、セルゲイは頭を掻いた。
「わかったよ。あんたの言うとおりだ」
「同感」
野太い声に勢いよくふり返り、セルゲイは喜びの声を張り上げた。
「ゴルドー!?」
「気がついたか、おい!?」
と、セルゲイを追ってジュークも走り寄る。
「おお、見てのとおり、ぴんぴんよ」
上体を起こした髭男は、豪快に笑いながらガッツポーズをつくった。
「おい、セルゲイ」
呼ばれて、
「何だよ」
と顔を突き出した途端、いきなり顎ががつんと鳴った。
膝から崩れたが、何とか上半身は持ちこたえ、顎を押さえて、
「何しやがるんだ?」
とセルゲイは喚いた。
「反省しろ、莫迦《ばか》野郎。荷物より先に、てめえの無事を考えるような運び屋は屑だ。さっきのおめえがそうだよ。二度と尻尾を巻いたら承知しねえぞ」
「わかったよ、わかった」
セルゲイは泣き笑いの表情になって喚いた。
「どいつもこいつも、使命感に燃えてやがる。おめえら長生きしねえぞ」
「おめえもだ、阿呆」
と敵側の二人がののしった。
「取り返す手段を考えたらどうだ?」
Dの言葉に、みな我に返った。
それから、瀑布の轟きの裏で、別世界の存在のような美貌と、まあ並の顔が三つ、真剣に声をひそめ、荒らげては討議を重ね、外の陽ざしが色褪せる頃、ようやく結論が出た。
「来るか」
「来やせん」
「来るわ」
三つの思惑が空中で入り混じり、そこに溶けこむと、二人の旅人とひとりの老婆は、お互いの顔をしげしげと見つめ合った。
中年の旅人に化けてはいるが、その眼差しの凄絶さと、全身からこぼれる人間離れした貫禄は抑えようもない。メフメット大公と、ゼノン公ローランドであった。一時間ほど前、「空食虫」事件の後始末でごった返す村を離れて、北にある丘の頂きに登った。夕暮れも近い蒼穹を鳥の影がかすめていく。
話はもちろんDと運び屋たちの運命に関してで、いまの三者三様の意見は――
「あんな馬車と荷物のために、生命を取られかかった村へ戻ってくるものか」
とメフメット大公が言った。唇ばかりか顔まで歪めたのは、腰やら手やらに、時折、切断されたみたいな痛みが走るからで、どうやら、Dにやられた複製《ダミー》――巨大人形の痛覚が、本体に伝わってくるらしい。
「来る」
と断言したのは、ゼノン公である。
「辺境に生きる者にとって、そのプロとしての使命を果たさずにいることは、死に勝る屈辱と聞く。奴らは必ず、馬車と積み荷を取り戻しにやって来ると、わしは見るぞ」
「人間どもの生態にお詳しいようね」
老婆――ユッタ村長――実はグレートヘン博士が、ちらりとゼノン公の顔を見た。皮肉な眼つきであり、皮肉な口調であった。
「ですが、今回はそれが役に立ちますわ。私も人間たちは戻ってくると思います。なぜ彼らと同道しているのかわからぬDはともかくとしても、あの三人組は」
「それなら、それで結構」
とメフメット大公は頭上を見上げた。
「今日の早朝から、わしとゼノン公は村の外で待機しておった。Dか、その息のかかった奴らが来れば、今度こそ死の制裁を与えてくれる、と誓いながら。だが、まさか――まさか、あんな手を使いおるとは」
大公は右の眼帯を取った。
一対の視線の彼方に、数羽の鳥が輪を描いて舞っていた。
と、そのうちの一羽が突然、羽搏きを止めるや、まるで大地を愛してでもいるかのように急降下してきたではないか。一秒と空けず二羽めが――三羽めが。
哀れな鳥たちが彼方の森のどこかに消えると、メフメット大公は、ようやく息を吐いて、眼帯をかけ直した。
眼力だけで――眼から送る殺気だけで、飛ぶ鳥を落とした。貴族にとっては生理的に当然の現象で、その証拠に、二人の同類たちも、いっかな表情を変えようとしない。
ただ、大公の怒りの激しさとその理由だけは、痛いほど理解できる。大公のみが駆使し得るはずの「空食虫」でもってしてやられた。しかも、想像するに、あれはDに放って二つにされた虫どもではないのか。だとしたら、ものの見事に裏をかかれた責任は、すべて彼――メフメット大公にある。空翔《ゆ》く鳥を狂死させた彼の怒りの因はそれであった。
「お怒りはよくわかりますが、お二人の再戦は必要ありますまい」
男二人は、ユッタ村長――グレートヘン博士を見つめた。憤怒の眼差しは、いまのひとことに、はっきりと嘲笑の響きがあったからだ。
「どういう意味だ?」
ゼノン公ローランドは静かな声で訊いた。
「すでに手を打ってあるという意味ですわ。私だけしか打てぬ手を」
男たちは顔を見合わせた。どちらも人後に落ちぬ無双の戦士であるだけに、この毒殺婦人の実力だけは認めざるを得ない。
胸に湧き上がった不安の雲は、ひょっとしたらこの女なら、という文字を形造っていた。
「どんな手を?」
つい揃って訊いてしまったのも、そんな精神《こころ》の表われであった。
「内緒です」
とグレートヘン博士は形通りの答えをしてから、蒼みゆく空をふり仰ぎ、大きくのび[#「のび」に傍点]をした。
「Dが戻ってきてもこなくても、すでに我が術中にある身――術はとうに奴の身を蝕んでおりますぞ。ああ、あれほど呪わしかった陽の光が、今日は何と気持ちのいい。昼というのも、捨てたものではありませぬな」
無邪気とさえいえる歓喜にみちた眼を、不意に細めて、
「おお、鳥の群れがゆく。アマカケルでございましょう。先ほどの大公が睨み落としたのとは、倍も高い。同じことができますか、メフメット大公?」
眼力の主はそっぽを向いた。さすがに無理なのである。
「ゼノン公は?」
訊かれて、赤い服の旅人は槍投げのように右手を引いた。いつの間にか、肘から指先まで、グロテスクな装甲で覆われている。
彼は何もない[#「何もない」に傍点]右手をふった。
風を切る音は、手のもの[#「手のもの」に傍点]ではなかった。
上がる。上がる。――上がる。
「当たりましたわね」
グレートヘン博士が眼を細めて言った。鳥の影が数個、はっきりと落下してくるとわかったのは、それから二十秒ほど後であった。
落ちた。地軸をゆるがせて遠ざかった、三人の形成する円の中心に。
十羽近いアマカケルはすべて、その胴から背を、地上から離れたときは眼に見えなかった長槍で射貫かれていた。
「お見事ですわね」
グレートヘン博士は笑った。ユッタ村長の姿のまま、こう言った。
「でも、やっと十五羽。ゼノン公の“長槍”も、一〇キロ離れれば、百羽のうちの十五羽きり。ほほほほほ」
「正気の台詞だろうな、グレートヘン博士?」
ゼノン公は、まとった衣服のごとき怒りの炎で全身を覆っていた。
「もちろんですわ、ゼノン公――ご覧あそばせ」
老婆の左手が上がった。薬指には、紫の貴石をはめこんだ黄金の指輪がかがやいていた。その貴石が上にめくれ上がると、台の部分から霞のようなものがひとすじ、空中へ立ち昇ったのである。
十秒たった。
二十秒。
メフメット大公とゼノン公ローランドは、誇り高い貴族にも似合わぬ卑しい蔑みの笑みを交わした。
グレートヘン博士の狙いはわかっている。だが、高度一万メートルまで空気中に拡散せず辿り着ける毒など、この世に存在するはずがない。まして、指輪から立ち昇ったのは、気体ではないか。
二人の笑みが消えた。グレートヘン博士が虚空を見上げたのである。そして、笑った。笑いながら、ふわりとひと跳びふた跳び――一〇メートルも跳びのいたのである。
「お退きなさいませ」
メフメット大公が、こちらはひと跳び一〇メートル。そして、残ったゼノン公の全身と周囲を、次の瞬間、怒濤のごとき打撃音の連打と、真紅の霞が覆ったのである。
忽然と装甲甲冑に身を包んだゼノン公の肩で、頭で、おびただしい塊が飛び散り、四散した。
嘴だ。頭だ。眼球だ。爪だ。羽根だ。羽毛だ。――鳥だ。一万メートルを落下してきた鳥たちが公に、大地に激突する響きだ。霧は血であった。
「十五羽を引いた残り全部でございます」
と遠くでグレートヘン博士の声が言った。
「Dにも仕掛けましたこの猛毒――とうの昔に風にちぎられ、大気に溶け、哀れな鳥に届いたときは、百万倍にも薄められておりました」
博士は身を翻した。
「お逃げなさいませ。どこか石の陰へ。まず五キロ以内の大地は、空翔くもので覆われ尽くすでしょう」
それから数秒後、老婆の口にしたとおりの範囲は、鳥と虫と爬虫と――すべて飛翔するもの数万の死骸で埋まったのであった。
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第二章 毒薬婦人
1
その深夜。村を取り囲む柵の、正門と西のそれぞれ一カ所に、人影が忍び寄った。
正門の方はひとつ。西は二つ。
正門の方は足音を響かせ、西は音もなく。
足音に気づいた正門監視塔の村人が、探照灯を向ける。
ささやかな蝋燭の炎を特殊なレンズで百万倍に増幅した光が、夜の侵入者の姿を白々と浮かび上がらせた。
「D」
と言ったきり、村人は凍結した。
白い光に彩られた黒衣の若者は、幻の立像のごとくゆらぎ、かがやき、その美貌がこの世のものとは到底思えなかったのである。
Dが無言で前進するのを見て、監視塔の村人は、ようやくサイレンのスイッチに手をかけた。
寂寞たる夜に鳴り響く音の叫びは、村長の家にいる主人と二人の旅人の耳に届いた。
「来たぞ」
「やはり、な」
短く三度鳴ってから、音は熄んだ。
「Dですね。ひとりで来たらしいわ」
ユッタ村長が、老人とは思えぬ身のこなしで椅子から立ち上がった。紫煙がゆらいだ。メフメット大公の葉巻である。
「では――行くか」
とゼノン公も立ち上がった。
「籖引きどおり、まず、わしが相手をする。奴にとどめを刺す前に、娘の居所を吐かせねばならぬので、これは幸運だった」
「次が私か」
メフメット大公は、手にした葉巻を陶器の灰皿に押しつけてつぶした。
「では、誰も知らぬところに身を隠すとしよう。――失礼する」
彼の戦法は不死の巨大人形だ。本体は何処かに隠れて操るのだが、そこに攻撃をかけられてはまずいから、仲間とはいえ、姿を隠すのは当然だ。特にこの仲間は信用できない。
二人揃ってドアの方へ向かったとき、足下から忍び寄っていた白煙が、その姿を包んだ。
「残念だったな、グレートヘン博士」
とメフメット大公は憎々しげに笑った。
「おぬしが三番目に甘んじるはずがないのも、我々に毒を吸わせて足止めしようとするのも、すべてお見通しだ。で、ここへ来る前、ギャスケル大将軍の主治医から、血液に解毒機能を与える薬を貰っておいた。もはや、おぬしの手に勝ち札はないぞ」
その身体が前方へ、糸で引かれるみたいにゆらいだ。
「そんな……はずは……」
まず、メフメット大公が、その上へ折り重なるように、ゼノン公が倒れた。
二人を見下ろして、毒薬貴婦人は、老婆の顔で鈴のように笑った。
「大将軍の主治医とな? そんな専門外に、私の愛しい毒のすべてがわかってたまるものか。いま吸っていただいたのは、新しく合成した品。いかな解毒剤も効かぬわ」
白い喉を上げて笑い、
「では――私、毒殺魔グレートヘン博士が、貴族ハンター“D”の始末に出かけましょう。“御神祖”の意に従って」
そして、老婆の仮面を被った希代の毒殺魔は、軽やかにドアを抜けて、夜の世界へと出て行った。
戦いと生と死とが待つ貴族の王国へ。
サイレンと同時に、西の柵をよじ昇って村内に侵入した二人は、ジュークとセルゲイであった。
「D――大丈夫かな?」
「他人を心配する前に、自分の仕事を片づけろ。荷馬車と積み荷は何処にある?」
ジュークの言葉に、セルゲイは少し考え、
「いつも物資を置いとく場所だ」
声を合わせて、
「西の倉庫」
この村へ何度か来たことのある男たちであった。
闇を縫うように、物陰から物陰へと走りつつ、セルゲイが言った。
「あのお嬢ちゃん――置いて来ちまったが、気になるな」
「ゴルドーが見てるさ」
「だからさ、気になるんだよ、ゴルドーが」
ゴルドーは何度、レディ・アンの額と後頭部に、火薬銃の銃口を突きつけたか知れない。
自分をついさっきまで人事不省に追いこんだ恐るべき娘、というより、紛れもない貴族のひとりだという事実がそうさせるのである。
なぜ、生かしておく? と、これも何度繰り返したかわからない自問を脳裡に浮かべる。Dが、貴族の攻撃封じになると言ったからだ。それは確かだ。そう思う。だが、理性は納得しても、感情が。人のDNAに刻みこまれた貴族への恐怖が、ともすれば、足下に横たわるあどけない天使の顔を吹きとばせと命じるのだ。
だが――と理性が冷たく告げる。
貴族は火薬銃では死なない。頭を吹きとばそうと心臓を百回持って去《い》こうと、ひと夜の闇に放置すれば甦る。完全に息の根を絶つには、あれしかない。白木の杭か鋼の刃を心臓に打ちこみ、首を刎ねるのだ。
そして、これも何度となく、ゴルドーは試みた。腰のベルトにさした山刀を抜いて娘の首を斬り落としてしまおうと。心臓を刺し貫いてしまおうと。
山刀を抜き、ずっしりとした重さを手の中に感じながらふりかぶる。ふり上げる。そのたびに、同じく手の中に甦る。刃が貫いたあの女の胸の感触が。
死ね死ね、と何度つぶやき、叫んだことだろう。全身の神経が筋肉が、汗まみれになりつつそう命じる。
わずか数十センチの、生と死を分かつ距離。少女の死を命じる圧倒的な声の底から、ひとすじの細い、しかし鋼の認識がゆらゆらとやって来る。
おまえは、母や弟妹を殺したあの女を刺し殺したのだ、と。手のひらに問うてみろ、と。あの柔肉に鋼をさし入れた瞬間、伝わってきた感じに。
「できねえ」
ゴルドーは、またも、ふりかぶった山刀を下ろすしかなかった。
Dと二人の仲間が出かけるとき、同行を申し出たレディ・アンは、Dの拳を脾腹に受けて昏倒したきりだ。もっとも、その前に手足はワイヤーで縛られ、眼隠しをされるという目に遭っている。手足は例の怪力封じ。眼隠しは、言うまでもなく貴族の催眠術を無効とするためだ。
「おれにはできねえ。やっぱり、待つしかねえのか」
汗を拭ってつぶやいたが、耳の奥を制する滝の音のせいで自分にもよく聞こえない。
眼の隅で何かが動いた。
レディ・アンであった。Dの一撃から眼醒めた小さな吸血淑女は、恐怖に見開かれたゴルドーの眼の中で、ゆっくりと滑らかにその上体を起こした。
けだるげな声が、
「見えないわ」
と言った。全身が緊張した。後ろに廻された両腕に力がみなぎる。だが、鋼の糸は切れなかった。
「動けないわ」
何と美しく愛らしい、そして不気味な声だろう。これが貴族か、とゴルドーは頭の隅で考えた。瀑布の怒号さえ消え、少女の声のみがちりちりと鳴り響く。
「誰の仕業? そこにいるの?」
なぜ、
「ああ」
と答えてしまったのか。
「いるのね」
少女の言葉はゴルドーの心臓を凍らせた。
「お願い、眼隠しを取って」
と少女は哀しげに訴えた。
「お願いよ。何も見えないの」
「いかん。動くな」
「どうして、聞いてくれないの。意地悪すると、お返しが怖いわよ」
「黙れ」
「お願い」
とレディ・アンは繰り返した。やや鼻にかかった愛らしい十歳の少女の声。その顔を見なくても、深い水底のような瞳の青と、黄金の髪と、ふくよかな頬と唇を連想してしまうその声。
「お願いよ、お願い」
自分のすることを、ゴルドーは明確に意識していた。
汗を拭い、その手をズボンにこすりつけてから、身体中の関節のきしみを聞きながら、レディ・アンの方へ歩き出したことも。ああ、なぜ、Dは彼女の口もふさいでいかなかったのか。手が動いている。少女の方へ。眼隠しの結び目へ。どうして、ほどくなんて。
「ありがとう」
水の青がゴルドーの顔を映した。
水底に潜む憎悪と生々しい飢えが浮上してきた。
2
開かれた正門から出てくる老婆の姿を、変わらぬ雲の海の下で、Dは真昼のように見た。
同行すべき二人の貴族――メフメット大公とゼノン公ローランドの姿がないことが、奇異の感を抱かせたかどうか。しかし、この世のものにあらざる美貌は、厳冬の空気のように、ひっそりと、近づいてくる敵を迎えた。
「私の名はご存じかしら?」
と村長が訊いた。
「後の二人はどうした?」
とDが訊いた。斃すべき相手の名前など、この若者にとってはどうでもよいことなのだ。
「眠らせたわ。あなたを斃すのは私――グレートヘン博士よ」
すでに老婆の声音とは異なる、蜜がしたたるがごとき妖艶な女の声であった。
「いつ起きる?」
「彼らの抵抗力次第ね。ひょっとしたらもう[#「もう」に傍点]。ひょっとしたら永劫に。人間なら十回は死ぬだけの薬を嗅がさせてもらったわ。もしも、まとめて片づけたいのなら、今のうちが確実よ」
Dが動いた。同感だったとみえる。疾走しつつ一刀を抜いた。
グレートヘン博士の身体が、その描く軌跡の範囲内に達した刹那、鮮血がひとつの死を彩るはずであった。
だが、妖女まであと五メートルの距離に達したとき、Dは大きく前へのめったのである。
大地に一刀を立て、それを軸に起き上がろうとする下半身も、呆っ気なく崩れた。
その顔に、ぷつぷつと黒い球が吹き出すや、糸のようなすじを引いて流れ落ちはじめた。
血だ。Dの毛穴から、鮮血が噴き出しているのだ。
「あの四名――無事に連れ戻したか。よくやってくれました」
嘲笑しているのは、夜目にもまばゆい美女であった。
「彼らには、私の毒を飲ませておいた。あの四人は自らも知らぬ間に毒人間と化していたのよ。いかにおまえでも、わからなかったのは当然ね。ひとりひとりでは何の異常も見出せないの。でも、彼らが吐く息を吸っていると、それが体内に徐々に蓄積され、軽微な化学反応を起こす。すなわち、あと一種の毒が加われば、不死の貴族も陽光にさらされたのと同じ境遇に陥るのよ」
Dの額が縦に裂け、そこから眼もくらむ光のすじが走って正門の一部を照らし出した。
肩が裂けた。二の腕が裂け、胸が、腹が裂ける。光は衣服も貫き、大地と虚空を走って、Dを黒衣をまとった人型の太陽に変えた。
「いかなる大貴族も、この毒の秘技“黎明”にかかったときは悲鳴を上げて、殺してくれと願った。おまえはどう?」
返事もせずに、Dは前のめりに倒れた。一刀を握ったその肘から手首までが裂け、新たな光を放った。光はかがやきを増し、黒衣の若者を呑みこんだ。
まぎれもなく、夜に生まれた太陽。生みの親の哄笑も、やむを得なかったかも知れない。
闇の中の昼――そのただ中で、しかし、グレートヘン博士の笑い声は拭ったごとくに消えた。
かがやきはなおも増幅され、ギャスケル大将軍の防護帯を通して、彼女は肌を灼く昼の熱を感じ取ったのである。
「どうしたのよ!?」
驚愕の叫びを放ちつつ触れた部分は灼熱と化した。不死の肉体が骨の髄まで灼かれる恐怖を、彼女は意識した。光は、恐るべき毒殺魔の妖女も呑みこみつつあった。
「ええい――お消え!」
絶叫しつつ跳びずさろうとした足が、両膝から砕けた。関節部は白い炎に包まれている。防護帯が破れたのだ。
「まさか――まさか、助けて」
狂気のごとくグレートヘン博士は炎を叩き消そうとあがいた。だが、叩かれるたびに白い光はその輪郭を広げ、叩いた手もまた新たな炎を噴いた。
「なぜ――なぜよ。私――燃えてしまう」
叫ぶ全身は光に包まれた聖像のようだ。かつて、人間の中には、同じ人間の所業に抗議すべく、自ら炎を浴びた聖者がいたというが、こちらは聖者ならぬ魔性の貴族の大苦患《くげん》。
地獄の苦痛に発狂しかけたその寸前、Dを呑んだ光の中から、うなりを立てて飛来した白木の針が一本、グレートヘン博士の心臓を貫いた。
「ぐげえええ」
断末魔の叫びを放った身体は、すでに皮膚も肉も灼け落ちた白骨の骸《むくろ》だ。それでも口は動き、言葉を紡いだ。
「どうして? どうして、私の“黎明”が効かないの? 教えて頂戴、誰か。――ああーっ!?」
最後の声は、驚愕よりも恐怖の表現であった。
毒薬の女王を灼き尽くさんとする光の源は急速に色褪せ、闇の追撃を避けるかのごとく後退してゆくその奥から、ひとつの黒影が立ち上がったのだ。
昼のみを恐れる貴族の血を引きながら、自ら陽光の源と化してなお、死から甦った男――Dよ。
「おまえは……いかなる大貴族よりも……強いのか? ……たかが、ダンピー……ルが。合いの子め……が」
燃える妖女は骨と化した右手をふり上げた。手に握った壷は誰のための毒か。彼女はふり向き、村の柵の方へそれを投擲した。壷の中味は、空気に触れたが最後、無色無臭のガスと化して一〇キロ四方の生物を窒息死させる猛毒であった。
「見るがよい。私の最後の置き土産を――ええい!」
根かぎりにそれを放った博士の姿は、もはや骸骨以外の何物でもない。ゆるやかな弧を描きつつ柵を越えようとした壷を、白い光が追った。
白木の針は壷を砕かず弾いた。空しく地に落ちるその途中で、黒い手が受け止めた。手甲もコートもずたずたに裂けながら、限りない力と迫力とを感じさせずにはおかぬDの手であった。
それがコートのポケットに仕舞われるのを見て、グレートヘン博士の骸骨は、ほとんど灼け崩れた歯と顎とをさも口惜しげにかちかちと鳴らし、それから,あらゆる連結を失って、がしゃりと崩れ落ちた。
その骨もみるみる形を失い、灰と化していく。それなのに声だけは聞こえた。
「どうして……よ?」
「おまえのしたことを、教えてくれた者がいる」
とDは応じた。女の無念を不憫に思ったのか? いや、あまりに非道な戦いぶりを、かえって見事と思いでもしたものか。
「それは……誰……?」
しゃべっているのは、灰の山の上に残る髑髏だ。頭蓋骨だ。声帯も舌も、とうに灰と化している。それでも出る声は、執念としか思えない。
「ロザリアだ」
とDは答えた。
正しくはもうひとりのロザリア――幽体とも二重存在《ドッペルゲンガー》ともつかぬ存在が、夜明け前、樹上から死刑台の様子を観察していたDのもとに現われ、グレートヘン博士が四人に飲ませた薬について教えたのだ。
「おまえは同じ手を、かつてある大貴族に使った。おれは、それを覚えていた」
「そんな莫迦な……一万年も前の……話だわ。それに……どうやって解毒剤を?」
「そんなものはない」
髑髏の歯が、ぴたりと動きを止めた。
「あのやり方なら……貴族も骨まで灼けるの。……自分が太陽になるのだから、……誰にも……耐えられっこないわ。それなのに……解毒剤もなしで、どうやって……? あれを……耐え抜いたのは、“神祖さま”しかいないのよ……」
声は途切れ、また上がった。あまりに低く、人間の耳には到底届かぬ声が。
「いま……やっと……気になってはいたけれど……Dよ……あなたの顔……どこかで見た。まさか……まさか、あなたは……あなた様は……」
最後に残った骨の形が崩れ、灰と変わるのを見届けてから、Dは正門の方へ歩き出した。彼が引きつけておかねばならない敵は二人、まだ村の中にいるはずだ。
歩むDが門まで二メートルのところにさしかかったとき、地面から斜めに、黒い閃光が迸った。
Dの鳩尾《みぞおち》から入って、後部の首のつけ根から抜けた。
声もなく、Dは左手をポケットに入れたまま右手で長槍をひっ掴み、自分は上へ移動しようとした。そのとき、二本目の槍が、またも地面から噴出した。Dはそれも右手で掴んだが、鋼の穂はその手をすり抜けて、鳩尾と首のつけ根とをつないだ。
地面の中から笑い声が上がった。それは上昇し、黒土をはねのけて現われたのは、巨大な甲冑であった。ゼノン公ローランド。
「わしは最初からおまえたちの戦いぶりを地面の中で見ていた。グレートヘン博士も言ったとおり、あの毒とやらは、さして効かなかったのでな。そうして、あることに気がついた。Dよ、おまえ――眼が見えずにいるな」
荷馬車は、確かにあの倉庫に格納されていた。荷物も積みこまれたままだ。
それを罠と思わなかったのは、この村に連続して起こったトラブルのせいで分配する余裕がなかった、と二人は判断したからだ。半分は正しい。後の半分は、その正しい判断のせいで、二人の脳裡から呆っ気なく放逐の憂き目を見たのだが、これは罠なのであった。
そう――罠だ。
二人がかりで、ざっと――できるだけ細かく――調べたが、問題はなさそうであった。誰かが隠れている風もない。
「よし」
ジュークが安全を保証し、セルゲイが喜んだ。外の闇は静まり返っている。Dと敵はいかなる異次元の闘争を戦っているのか。
Dが囮になって正面から乗りこみ、村の連中を引きつけておく間に、二人が馬車と積み荷を頂戴して逃げる。実に単純でクラシックなやり方であったが、どうやらうまくいったらしい。Dは気になるが、自分の仕事を終えたらさっさと脱出しろ、と命じられている。
ジュークが屋根の上によじのぼり、セルゲイが御者台に乗った。
「一気に抜けるぞ」
とセルゲイが手綱を手に取った瞬間、倉庫の戸口から、三メートルもありそうな人影が入ってきた。
「わわわ」
「何だ、あいつは?」
としか言えないうちに、三メートルもある大男は、滑らかな動きで荷馬車の前に移動した。
ぬう、と突きつけられた巨大な顔に、セルゲイが、Dが隣村で調達してきたリベット銃を引き抜いた途端、
「よせい」
と言われて凍りついてしまった。なにせ、縦一メートルもある顔の台詞である。
「誰だ、おまえは?」
セルゲイよりタフなジュークは、それでも屋根の上で、火薬銃を構えた。
「わしの名はメフメット大公――ギャスケル大将軍の客人だ。おっと、射てば村の者がとんで来るぞ。それに、射っても無駄だ」
「どうしようってんだ?」
御者台のセルゲイが訊いた。これくらい眼の前にでかい人間の顔があると、あまり怖さは感じない。むしろ、呆れている。
「別に。おまえらなど、どうこうしてもはじまらん。本来なら、黙って行かせてもいいし、叩きつぶしても差しつかえはない。どちらにする?」
「そら、黙ってどーぞ、だよ」
セルゲイの返事に、ジュークもうなずいた。
「ただな」
それまで、どこかユーモラスに見えた大公の表情が、突如、情け容赦のない貴族のそれ[#「それ」に傍点]に変わった。
「おまえたちは使える。Dを斃す道具にな。あの女狐に騙され、眼醒めが遅れたせいで、ローランドにも先を越されたが、この倉庫の前でおまえたちに気づいたのは幸運だったかも知れん」
「何だか知らねえが、さっさと行ってくれよ。あんた遅れるばっかりだぜ」
「いいや、構わん。いかにグレートヘン博士、ゼノン公ローランドとはいえ、ひとりでよくあのハンターと戦い得るとは思えぬ。あの剣捌き、あの気迫――口惜しいがわしひとりでは到底太刀打ちできぬわ」
巨大な顔が、にんまりと邪悪な笑いに引き歪んだ。拳ほどもある眼球に二人の顔が映っている。
「やはり、ハンデが必要だな」
3
ゼノン公の指摘は正しかった。Dは盲目のままだったのである。第一の妖女ローランサン夫人の手になるにわか盲目は、その最後の日に、恐るべき強敵を次々とDにぶつけてきた。
そして、なお開かぬ瞼の下の敵は、不可思議な手によって命じられた戦うべき運命《さだめ》以上に、愛娘を奪われた憎しみに燃えている。
Dがグレートヘン博士を葬り去れたのは、仕掛けた罠を過信して口舌の徒と化した、そのおしゃべりから、彼女の位置や動きを読み取ったゆえに他ならない。死の壷を投げるときですら、彼女は気分を出したのだ。
串刺しにしたDを地上三メートルまで持ち上げ、ゼノン公は愉しげに両手の槍をゆらした。
Dの口から声にならない苦鳴が洩れ、槍の穂にしたたる血潮以外にも噴出する血は、真紅の雨となって降りそそいだ。
「これは、いつものわしのやり方とは違うぞ、D――愛する娘を奪われた父の怒り、血の怒りだ」
いつもはむしろ陽気な戦いぶりとさえいえるこの貴族の、何たる陰惨無惨な仕打ちであることか。鳩尾から首すじへ、二本の槍を交差させたDは、苦患の前に成す術《すべ》もないように見える。
「しかし、おかしいぞ」
とゼノン公は巨大装甲の内部で眉をひそめた。
「おぬしとはじめて戦ったとき、その眼はすでにローランサン夫人によって光を失っていた。しかし、その戦いぶりはとても盲目などとは思えず、今の今まで、わしもその事実を忘却しておったよ。はて、なぜ見破れたものか」
「すぐに――」
と頭から、月光のような冷声が降ってきた。
「なに!?」
「――わかる」
声と同時にDが動いた。上へ? いや下へ。なんと、串刺しにした槍を抜こうとはせず、美しきハンターは、その逆を――さらに深く刺されるのを望むかのごとく、ゼノン公の手もとへと我が身を降下させたのであった。新たな肉が裂け、鮮血が噴きこぼれる。
「わわっ!?」
と槍を離すゼノン公より早く、頭上にふりかぶったDの一刀、惚れ惚れするほど美しい光の軌跡を描きつつ、甲冑の頭部に吸いこまれた。
青白い火花が上がり、ゼノン公の苦鳴が夜気に奔騰した。
「Dよ――おぬしは……何者だ!?」
よろめきつつ、巨大な右腕が拳をふった。ぶん、と風がうなる。
左手でブロックしたが、体重差は如何ともしがたく、Dは一〇メートルも跳ばされ、村の正門に激突した。刺したままの二本の長槍は、尋常な身のこなしを奪い去っていた。
頭部の軌跡から火花を噴いて闇を青く染めつつ、ゼノン公は倒れなかった。
「やはり、打ちこみが甘いぞ、Dよ。そしてわかった。おぬし、左手をどうした?」
コートから出たDの左手――その手首から先は、忽然と消失していた。
「セルゲイ、ここはあきらめよう」
とジュークが火薬銃を下ろした。
「そんな化物相手じゃ、やり合うだけ無駄だ。生命あっての物種さ。下りな」
「へいへい――夜這いにきて、亭主に見つかり引っ返す、か」
セルゲイは肩をすくめてハンドルを放した。メフメット大公の巨大な顔が遠ざかる。
その瞬間、手首だけで火薬銃を持ち上げるや、腰だめよりもなお低い位置で、ジュークは一発射った。
轟きが巨大な顔の鼻の下に黒穴を穿つ。
至近距離での一撃に、さしもの巨大人形もよろめいた。
「いいやっほううう」
肺の空気を叫びと変えて、セルゲイはアクセルを踏んだ。
エンジンの咆哮一過、馬車は突進した。辺境用――妖獣妖物の気配を察するや、ワン・アクセルで突進し得るアフター・バーナー付きエンジンは、〇・五秒で時速一〇〇キロに達する。
反射的に巨人は戸口へ移動しようとする。セルゲイはその右脚を狙った。
真正面から激突――寸前にハンドルは左旋回。ノーズの右端で足払いを食わされた巨人は、派手にバランスを崩して左半身に床へ倒れこむ。
その地響きをエールに馬車は走った。
「どっから出る!?」
ハンドルを握りながら喚くセルゲイへ、
「正門へやれ」
とジュークは叫んだ。眼は倉庫の出入口を向いている。
屋根が吹っとんだ。黒い塊が跳躍し、空中で手足をのばした。
続けざまに火薬銃が唸った。肩づけした銃床から、骨も砕けんばかりの反動が叩きつけられる。Dが調達したせいか、それは火炎獣の装甲さえ貫く“ペネトレーター”ライフルだったのだ。通常は三脚をつけ、固定して連射する。並の人間では持ち上げることもできない。受け取ったとき、ジュークは絶望的な気分に陥ったものだが、いま、それが彼らを救った。
こめかみと肩と脇腹に叩きこまれた大口径“ペネトレーター”弾に巨人は空中で大きくバランスを崩した。
逃げる馬車の屋根に舞い降りるべく、計算し尽くした跳躍だっただけに、必死にのばした手も間一髪の差で本体に届かず、左半身を建ち並ぶ家畜小屋に突っこむ。
跳ね起きた身体の上で、安らかな眠りを妨げられた三つ首鶏が、大兎が、ウシブタが跳ね廻る。
「おのれ」
巨大顔の中で、巨大な眼が火を噴いた。
「もはや許さん。誰も知らない世界へ飛べ」
その口が、かっと開けば、噴出するのは「空食虫」しかない。
虫は放たれた。
疾走する馬車の頭上で停止――等速で飛翔させたのは、ジュークたちに恐怖を味わわせようという悪魔的な発想だが、怯えるかわりに、ジュークは左手を上げた。
まるで、自分の腕に無理やり引っ張り上げられるような格好で、彼は跳躍し、何と今まさに自らを食らわんと体を丸めた「空食虫」を掴み取ったのである。
メフメット大公はそれを目撃したが、何が起きたのかはよくわからなかった。掴み取られても、「空食虫」は我が身を食らって、死の穴を穿つはずだ。
何も起こらないと知ったとき、彼は大地をゆるがせつつ追尾を開始した。
走りながら、もう一匹放った。虫に何か異常が生じたと判断したのである。今度のは馬車の前方で任務を果たすはずであった。さっきの分より遥かに速く高い。
まさか、ふたたび、ジュークが跳躍しようとは。
五メートルも跳び上がって、またものばした左手で虫を捕捉しようとは。そして、その左手のひらに、見間違えようもない人間の口が裂け、二匹目の虫も呑みこもうとは。
これまた引っ張られる形で、見事に屋根の上へ舞い降りたジュークへ、
「ご苦労」
と左手がねぎらった。その嗄れ声はまぎれもない。ジュークの手を袖の内側に追いやり、知らぬ顔で表に出ていたのは、Dの左手だったのである。
いかなる貴族の手が待ち構えているやも知れぬ村の中へと二人を送るに際し、Dは護衛に左手をつけたのだ。それを失った彼が、盲目とゼノン公に看破された理由《わけ》もそれで明らかであろう。
「まだ来るか!?」
とセルゲイが喚いた。
「まだだ」
とジューク。黒い巨影は、二〇メートルの距離に迫っていた。ぐんぐんと詰めてくる。
急カーブを曲がり、橋を渡って坂を上がり――
「正門だ!」
とセルゲイは、彼方に迫る門の形を認めて叫んだ。
叩きつけられた門の表面から身を剥がしつつ、Dは刀身を咥え、空いた右手で刺さったままの長槍を引き抜いた。
その間、ゼノン公が甲冑の修理に追われて攻撃の手を休めるのも、計算済みであったろう。
めまいが襲った。貴族といえども、とうの昔に失血死しているほどの血を流し、串刺しにされ、全身を灼き尽くされた――エネルギーを補充する左手もいない。立っていられる方がおかしいのだ。
刀身が上がった。
甲冑の眉間から青い光が消える。
同時に跳んだ。
垂直にジャンプした甲冑が長槍を投げた。楕円の軌跡を描きつつ跳ぶDの一刀が、それを弾きとばした。
袈裟懸けに切り下ろした二刀目は空を切る。ゼノン公はDの背後にいた。信じ難いスピードの移動であった。Dは反転した。その胸を三本目の長槍が突き抜けた。
着地はDに片膝をつかせた。
無事降下したゼノン公の両手には、新たな槍が光っている。
すでに三本の槍を受けたDの顔は蒼白に近い。
ゼノン公が右手をふりかぶった。最初は囮――二本目がとどめ。
「今度は心臓だ」
そのとき、Dの姿が右へと流れた。
正門を押し倒して、荷馬車が出現する。
「Dの仲間か!?」
とっさに長槍が飛んだ。
馬車は奇跡のように左へ旋回してかわした。セルゲイの運転技術の賜物ではない。彼は槍を認めることすらできなかったろう。夢中で門を突き破ったら、眼の前に鎧の化物がいた。反射的にハンドルを切った。それは彼自身を救ったのみならず、信じられない僥倖をもたらしたのである。
門の奥で絶叫が迸った。よろめくように現われたのは、巨大なメフメット大公であった。その胸にはゼノン公の槍が深々と刺さっている。
「ゼノン公――きさま……」
「待て、誤解だ」
大あわてで訂正したのも束の間、巨人メフメットは刺さった槍を引き抜くなり、甲冑の仲間へ投げ返した。
それはゼノン公の腹部を貫き背へ抜けた。
「莫迦ものが――何が大事か、わからんのか」
憤怒の叫びを上げる仲間へ、メフメット大公が迫る。
口腔が開いた。
甲冑の巨人の全身がこのとき、錐のように旋回した。土砂を巻き上げたのも一瞬――巨体は黒土に没していた。
「逃げおったか――えい、仲間を消すわけにもいかんな」
巨大なる人像は憤懣やる方ない眼つきで周囲を見廻した。馬車は走り去り、Dの姿もない。
やがて、彼も消えた。
残された闇ばかりが深い。村長に外へ出てはならぬと命じられた村人が、ようやく禁を破って動き出す夜明けまではまだ遠く、闇は残酷に、かつ冷やかに、死闘の余韻にひたっていた。
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第三章 愛娘(まなこ)愛憎
1
人型の錐と化して地面を掘り抜いたゼノン公が、地上へ現われたのは三十分後、村の北一〇キロほどのところにそびえる峡谷の底――白い水が岩打つ流れを眼の前にする川原であった。
内部でスイッチを入れると、いかなる硬質の岩もえぐり抜いてきた超金属の鎧は、うす紙のような箔と化して、めくれ、丸まり、折りたたまれて、ゼノン公の身を覆う平凡なボディ・スーツに化けていた。
貴族は水を嫌うのが通例だが、この男だけは例外的に水を好んだ。といっても特異体質の類《たぐい》とは異なる。平気で流れ水に近づけ、手を入れることができる男は、貴族の女に無条件でもてはやされたのである。
彼は水辺に近づき、流れに右手をかざした。飛沫が手に当たり、まるである形を眼にしたかのように、不死の肉体に悪寒を生じさせた。
白い、と言ったが、それは夜を昼のごとくに見る貴族の眼ゆえの特性であって、黒雲に閉ざされた空に呼応するがごとく、谷底にも一点の光すらなかった。
「バラードラック男爵の夜宴、ヴァルハラ卿の川下り――どの夜も月と星に満ちていたが」
黒い水面に声は消え、漆黒の闇の中で、ゼノン公ローランドは、ひどく感傷的な表情をしていた。
「さすがに少々疲れた。Dのような若造がこの世にいるとは思わなかったわい。奴の左手がどうなっておるのか知らんが、元どおり付いたら、正面からかかってはとても――」
彼は右手を上げた。
何もない空間に半透明の長槍が生じ、向う岸へと吸いこまれたときには、槍たる実体を具えていた。
「おっ!?」
少し驚いたような男の声が上がったが、本当に驚愕したのは、ゼノン公の方であったろう。
二〇メートルもの川幅を隔てた川原の人物は、全身の力をこめて投擲した彼の長槍を、いともたやすく右手で受け止めてしまったのだ。
正直、ゼノン公は相手の顔を識別したわけではなかった。こんな時間、水辺をうろつく貴族など自分しかいるはずもない。だとすれば人間、しかも、やはり時間からしてDの仲間だと、攻撃をかけたのだ。
いま、はっきりと端正な顔が見えた。
「シューマ男爵」
「返すぞ」
こう叫んで、相手は手の槍を放った。
心臓めがけて飛来した槍を片手で握り止め、ゼノン公は驚愕した。そのスピード、その精確さ――男爵は真の殺意をこめて放り返したにちがいない。
「いま、そちらへ行こう」
何の屈託もない男爵の叫びに苦笑しながら、ゼノン公は長槍を浮遊分子に分解した。
男爵がやって来た。
水棲の妖魔でも溺れかねない急流を、彼は平然と渡ってきたのである。足が確かに水に触れている証拠に、一歩踏み出すごとに白い水飛沫が上がった。
「これは男爵」
ゼノン公は、自分でもそれとわかる気まずい声で挨拶した。ろくに見もせず攻撃をかけたのはこちらだから仕様がない。
「ご無事でしたかな」
と男爵。こちらはにこやかだが、あんなお返しをしておいて、ご無事もへちまもない。
「もとより。――Dとやらも、あと一歩のところまで追いつめました」
怒りを隠さぬ返答であった。ご無事という言葉が気に入らないのだ。
「それは重畳《ちょうじょう》」
男爵はあくまでにこやかに、
「――ですが、そのあと一歩が怖い」
「何故、ここに?」
とゼノン公は話題を変えた。この男とは、どうもウマが合いそうにない。初対面である。顔だけは、大将軍が個々に見せた立体映像で記憶していた。
「グレートヘン博士は残念でしたな」
と切り出されて、ゼノン公は内心、ぎょっとした。恐らくは、メフメット大公すら知らぬ事実である。それを――
「大将軍は、あれで何もかもお見通しらしい」
と男爵は言った。心服している風はない。うんざりした物言いである。どこか崩れた洗練という趣きのあるこの貴族には、ギャスケル大将軍の豪放さなど、侮蔑の対象でしかないのだろう。
「何をしに来られた?」
とゼノン公は、苛立ちを抑えながら訊いた。
「そぞろ歩き」
と答えて、男爵は破顔した。
「――と言いたいところだが、この土地に、実は気になる場所がありましてな」
「ほう」
ゼノン公の相槌もいい加減だ。さっさと別れたくて仕方がないのである。
「この先に滝がある。もう水音でおわかりでしょうな。その瀑布の裏に、人間どもの巣が隠されていたのです。汚らわしい場所は、とうの昔に掃討され、溶かし尽くされましたが、それを行った指揮官が私の叔父でした」
「それはそれは」
「で、今宵、大将軍の許可を得て、我が一族の誉れともいうべき歴史的遺物の検証に赴いた次第です。――どうです、ご一緒に」
「済まんが辞退させていただこう」
「それは残念。では、近いうちにまた」
こう言って彼は、瀑布の響きへ向かって川原を歩き出したが、五、六歩でふり返り、
「なるべく早めに御帰城なさい。私の勘では、Dはこの辺におりますぞ」
と告げて、また歩き出した。
「何を吐《ぬ》かすか、トンチキめが」
腹中に溜まった黒い塊を、ゼノン公は言葉にして吐き出した。
シューマ男爵の身体はすでに闇に溶けている。
いかにも胸糞悪いと言わんばかりに、ゼノン公は川原の石を流れに蹴りこんだ。川の音《ね》がその音を呑みこむ。
ゼノン公はふと顔を上げた。
別の音が聞こえたのだ。
確かに人工動力――エンジン音が夜気を渡ってくる。
「まさか――奴ら、ここへ!?」
呆然と音の方――切り立った崖の彼方へ向いた顔に、凄まじい歓喜の表情が湧き上がってきた。
「馬車が来るなら、Dも来る。今度こそ、まとめて始末してくれる」
その身体を銀色の皮膜が包んだ。
滔々の声を上げる川辺に、甲冑の戦士は立った。その右手にみるみる槍が出現する。
そして、シューマ男爵が妖々と渡ってきた川面をこちらはひと跳びで渡り切るや、切り立った崖めがけて頭から突進し、錐のように旋回しつつその内部に潜りこんでいった。
甲冑内のレーダーは、すでに地上を走る存在のサイズ、重量、形までを推定し、グラフィック化してスクリーンに投影中だ。
あの荷馬車に間違いない。
Dもいるか。
いなくても、奴らを捕らえておびき出すことはできる。いや、面倒だ。殺してしまえ。そうすれば、彼は怒りに身をまかせて戦いを挑んでくるにちがいない。――このどちらも大いなる勘違いではあるのだが、ゼノン公は勝手に信じた。
推力全開で、彼は上昇を開始した。
あと一〇〇メートルで峡谷への下り口というところで、セルゲイはハンドルを左に切って森の中へ入った。
前もって用意しておいた木の枝や木の葉を馬車に被せて、ジュークともどもカムフラージュに取りかかる。
「村の連中は、こんな時間に追いかけて来やしねえから安全だが、貴族は危ねえ。風魔でも使えば簡単に見つけられちまうぜ」
とぶつくさ言うセルゲイへ、
「気休めさ。――さ、早いところ、下に知らせてこい」
「あいよ」
何とかカムフラージュを終えると、セルゲイは御者台に備えつけられた照明弾をひとつ手に取り、森を出た。夜目の利く赤外線ゴーグルはつけたままである。
道を下りず、崖の上を夜風にあおられながら、例の滝の方へ向かう。東の空に黎明が広がりはじめている。夜明けだった。
ほどなく凄まじい水音が近づいてきた。
足を止めた眼下を、川が流れていく。赤外線ゴーグルの視界を緑に染めて流れる水の帯は、セルゲイの右方三〇メートルほどで滝壺へと落ちていくのだった。
真下にゴルドーたちがいる。
セルゲイは照明弾を滝壺に落ちるよう傾け、底部の紐を引いた。
ピンクの光球が、煙の尾も同じ色に染めつつ、滝壺へと吸いこまれた。
瀑布の後ろにいても、そのかがやきに気づかないはずはない。これで迎えに行く間に、ゴルドーは出発準備を整えているだろう。準備といっても、二人の女の片方にそれを告げるくらいだが。
「シューマめ、運のいい奴よ」
背後からかけられた声に、聞き覚えがあった。
シャツの胸ポケットへ走らせた右手も――全身が硬直した。三千ボルトもの高圧電流が、セルゲイの身体を貫いたのである。
「きききききき」
貴様というつもりが、きだけで舌が動かない。
「レディ・アンはどこにいる? いや、答えずともよい。滝の裏だ。そこへはもう、わしの仲間が行っておる。ところで、おまえ――人質と死体とどちらになりたいか?」
「きききききき」
「まあいい。森の中にいる男ひとりを残して、後は足手まといだ。死ぬがいい」
セルゲイの肩に置いた指先へ、ゼノン公は一万ボルトの高圧電流を流すつもりであった。
「お父さま」
と暁の風が呼びかけるまでは。
驚きのあまり、ゼノン公は相手の肩から手を離し、セルゲイはその場へ昏倒した。
自らの左斜め前方――地面から突き出た岩の上に、レディ・アンは両足を揃えて立っていた。すらりとのびた足の間には、鬆《す》というものがまったくない。
「おお、おお、レディ・アン――」
絶句したゼノン公の、無事だったかという声は、誰の耳にも聞こえず終いだった。
「お父さま――まだ、この人たちをつけ狙われますか?」
対して、娘の声には再会した実父に対する思いやりのかけらもない。
「こいつらに用はない。用があるのはDだ」
「まだ、そのようなことを」
「おまえは裏切り者になりたいのか、レディ・アン? ギャスケル大将軍は決しておまえを許さぬぞ」
「お詫びには後ほど伺いますわ」
「あの大将軍が受けるものか」
「では、殺します」
平然と言う愛娘を、ゼノン公は呆然と見つめるしかなかった。
「やはり――Dのために色ボケにされたか。レディ・アンよ、父と一緒に来い。洗脳を解いてやる。その前にこれを浴びよ」
ゼノン公は右手をのばした。小さなスプレーが握られていた。ここから霧状の液体が噴出して、少女の身体を包んだ。
「今日で三日目。シールドが破れる。これでまた三日保つ」
やさしい声に、レディ・アンはむしろ憂鬱そうであった。
「もう、私のことはお忘れ下さい。ここにいるのは、お父さまが愛したレディ・アンではありません」
「おお、何ということを」
ゼノン公は、訴えるように巨大な両手をのばした。
次の瞬間、紫の光がレディ・アンとゼノン公の右手の人さし指とをつないだ。
「あああああああ」
石の上でレディ・アンは限界まで身を反らして喘いだ。金縛りにあったような身体から白煙が立ち昇った。
ゼノン公の眼には、闇よりも深い狂気が宿っていた。
「おまえを他人に渡すくらいなら――いいや、この父を裏切り、見捨てた罰だ。ここで死ね」
夜のみが聞く狂気と哀愁の絶叫が、このとき熄んだ。すぐに、ぼんやりと、何か憶い出しつつあるような口調で、
「待てよ、待て……おまえは……確か……」
もう一秒あれば、つづく言葉は解答を示したであろう。だが、ゼノン公は、甲冑の両眼を赤くかがやかせつつ、右方を、道の方をふり向いた。
レディ・アンがセルゲイの後を追うように倒れた。
五メートルほど向こうに水のような光を背景に立つ影は、他の登場人物の滅びを見届けに現われた黒い死神とその愛馬のように見えた。
ただし――
この死神は美しい。悪魔と呼べるほどに。天使とも見まごうほどに。その前に、人は恍惚と生命と魂を差し出すにちがいない。
Dよ。
2
「わしがどれほどおぬしを捜し求めていたかわかるか?」
ゼノン公の声は、棒読みの台詞に似ていた。
「おお、まだ左手はついておらぬな。よいよい。これで勝敗は決したぞ」
「捜す必要はなかった」
陰々たる、しかし、どこか涼やかな声が応じた。
馬上のDだ。
「おれは、ずっと、おまえを追っていた。いま、やっと追いついた」
「な――に?」
当惑したゼノン公の脳裡を、稲妻の記憶が閃いた。
私の勘では、Dはあなたのすぐ近くに。
「いつからだ?」
「村の門の前で、おまえが消えてから、ずっと。土の中を潜る音は、地上によく届く」
とはいうものの、それを聞き取れたのは、Dの耳ならではだろう。彼がようやく、ここに至ってゼノン公に肉迫できたのは、地下をまっしぐらに進める装甲甲冑と、道なき道を行かねばならぬサイボーグ馬の機動力の差だ。
「よくぞ、わしを追う気になった。その傷で。だが、まさしくその傷で左手のカバーもなく、わしに――ゼノン公ローランドに勝てると思うか? おまけにDよ、おぬし、まだ盲目ではないか」
Dの両眼は固く閉じられていた。
「なりませぬ……D……お父さまと……戦っては……」
地の底から響く亡者の声の主は、レディ・アンであった。
その眼には映るのだ。Dの姿が。ゼノン公の長槍三本に串刺しにされた血まみれの姿が。
つぶらな、というしかない瞳に、涙が光っている。そんな姿で敵を追い求め、いま刃を交えんとしている凄絶な闘志に感動したのではない。愛しい男の血まみれの姿に涙しているのだ。父のことなどどうでもよい。荷馬車のことも、ギャスケル大将軍のこともどうでもよい。そんな身体で戦わないでくれ、一刻も早くこの場から立ち去ってくれと、彼女は声なき声で訴えているのだった。
そして、彼女の愛する男は、そんな心根に理解のかけらも示さぬのであった。
Dが一刀を抜いた。
その身体が躍る。
愕然とゼノン公は後退していた。
跳躍の速度、吹きつける怒濤の気迫――どれも、瀕死の人間のものではなかった。
ふり下ろされる一刀を、ゼノン公は長槍で受けた。
槍は二つになった。装甲の右の肩口から青い電磁波が蜘蛛みたいに触手をのばす。あと一センチで、Dの刃は内部のゼノン公に届いていただろう。
「くう」
呻きつつ、Dの着地を見届け、ゼノン公は装甲をその背後へ移動させた。速度はマッハ3を超える。
Dの背に狙いを定める余裕がゼノン公にはあった。正門前での戦いの再現か。
光はDの方からやって来た。
いつの間にか逆手に握った剣を、彼は後方へふったのである。
刀身は装甲を紙のように貫き、内部のゼノン公の心臓も貫通した。
「おおおおお」
苦鳴と呪詛の混交を撒き散らしつつ、ゼノン公は、もう一度、長槍をふり上げ、ふり下ろした。跳ね上げられ方の呆っ気なさは特筆ものであった。
Dの新たな一閃。
巨大なる甲冑は、うす紙の箔と化して風に舞った。
地上に残る名残は、よろめく足を踏みしめて立つ壮漢ひとりであった。
地上で上体を起こすレディ・アンめがけて一歩を踏み出す。
身体は腰骨の上で二つにずれた。倒れた拍子に、驚くほど大量の黒血が噴き上げ、二つの身体を霧のように包んだ。
「アン……レディ・アン……」
黒血と一緒に、糸のような切れ切れの声で、ゼノン公は娘の名を呼んだ。
レディ・アンがにじり寄った。
「わしは滅びる。……そばにいておくれ……アン」
「よろしいですとも、お父さま」
レディ・アンは必死で上体を起こし、父の頭を膝の上に乗せると、やさしくその髪を撫でた。
「アン……アン」
「お父さま」
と少女はささやいた。青い瞳には寂寥の翳《かげり》があった。
「何だね、アン?」
「嘘をついて死ぬのはよくないわ。本当に好きな方の――お母さまの名を呼んでお逝きなさい」
と少女はささやいた。青い瞳には、憎悪の翳があった。
「何を……言うんだね……アン……わしが愛したものは……おまえ……きりだ」
「嘘よ」
アンの口が開いた。と、見る間に、ゼノン公の額に真紅の花が咲いた。
「ア……アン?」
「嘘つきへのお仕置き」
ゼノン公の顔に凄まじい苦悶の色が宿った。最後の生命が死の花に吸い取られていく。花は光一片とてない暗黒のさなかで、赤く妖しいかがやきを帯びはじめていた。
「ご臨終ですわよ、お父さま――真実をおっしゃい。私を犯したときに呼んだ名を」
ゼノン公の唇が、きゅっと吊り上がった。最後の痙攣の発作が不死者の身体を襲った。
最後の吐息が、嗄れ声をともなって洩れた。
「……アン」
塵と化してゆく父から眼を離して、レディ・アンはよろよろと立ち上がった。
虚空の一点に眼を据え、
「最後まで大嘘つき……あなたは楽になれたけれど、私は永久に救われないわ」
その眼からひとすじの涙が落ちた。
それを拭おうとしないのは、Dに見て欲しかったのか。
黒衣の若者をふり向いて、
「後ろ向きのままお父さまを刺したとき?」
と訊いた。
Dの両眼は闇の色を湛えていた。ローランサン夫人に閉ざされてから三日たち、毒煙は効力を失ったのである。レディ・アンが口にした、まさにその瞬間に。
「おおい――セルゲイ」
遠くから、ジュークの声と足音がやって来た。
やがて全身を現わし、
「おお、ここにいたか」
とDの肩にすがって立つ仲間を認めて、安堵の表情になったのも束の間、たちまち何かを察して、
「これがあった方がよかろう」
上衣のポケットから左手首から先を取り出して、Dに手渡した。
Dが左手首の斬断面に当てると、合わせ目は消滅し、Dは両腕の主に戻った。
セルゲイがジュークに事情を話し終えると、一同の注目は当然、レディ・アンに向けられた。
「何故、ここにいる? ゴルドーはどうした?」
とジューク。
「あの洞窟で眠っているわ」
「おまえが眠らせたな」
「邪推は禁物です。おっしゃるとおりだけれど」
「逃げるつもりだったな?」
「いいえ。Dのところへ行くつもりでした。この崖の上まで来たら、父が地面から現われたのです」
「あいつ――妙なことを口走ってたぞ」
とセルゲイが痺れる舌で言った。
「滝の裏にはもう仲間が行ってるとか。……待てよ、もうひとつ。……シューマは運のいい奴だ、とか」
一同の前を黒衣の影が通りすぎた。
「D!?」
「出発の用意をしておけ」
Dは崖の端へと進んでいた。
「私も行くわ!」
レディ・アンが走り出した瞬間、黒衣の影は闇に同化した。
わずかに遅れて、金髪の少女も。
二人の投身を見送ってから、ジュークとセルゲイは、顔を見合わせ、もと来た道を辿りはじめた。
Dが滝裏の洞窟へ入ったとき、シューマ男爵は横たわるゴルドーとロザリアのかたわらで胡座《あぐら》をかいていた。
「久しぶりだな、D」
ふり向かずに声をかけてきた。Dが足音も気配も消さなかったせいである。
「私は運がいい。まさか労せずして、君に会えるとは。――断っておくが、この二人の運命は、私が握っている。君の剣でも追いつけんよ」
「何をしに来た?」
とDは訊いた。ゴルドーもロザリアも、首に吸血の痕はない。眠れる人間二人を前にして何もしない貴族は、かえって恐ろしかった。
「この洞窟を見学にな。もと人間たちの宗教儀式の遺跡だったのを、私の叔父が処分したものだ。いやはや、徹底的に掃討したものだな、思わず怖くなった」
「立て」
「かけたまえ」
と男爵は左横の地面を叩いた。
「実は少し気になることがあってな。これがすっきりしないと、君と戦うにも気が乗らない」
「何のことだ?」
と尋ねたのはDの声ではなかった。
男爵は、ぎょっとしたようにふり返り、Dの左手へ眼をやって、
「なるほど、それか」
とうなずいた。
「まあ、主人より物わかりはよさそうだ。――話というのは、こうだ。なぜ、我々は招かれたか?」
「ギャスケル大将軍の刺客としてじゃろうが」
と嗄れ声が応じた。いまさら何を、という口調である。
「それはわかる。ところが、当の大将軍どのが、どうもおかしいのだ」
「ほう。――何が、じゃ?」
「なぜ、我々を選んだかわからないという」
男爵はあっさりと口にした。声には明らかに苦悩の響きがあった。
「さらに、我々はなぜ生き返ったのか? いや、いや。その根源にはこの質問がたゆとうておる。すなわち、ギャスケル大将軍は、何のために甦ったのか、だ」
「――Dを斃すため、じゃろう」
「何故に?」
「それは、こちらの質問じゃ」
と左手は呆れたように言った。
シューマ男爵は少し沈黙した。滝の音ばかりがやかましい。ゴルドーがつけた電子照明灯の光が、一同の影を長く、遠い石壁にゆらめかせている。暁光はまだこの洞窟の奥まで届かない。
やがて、男爵はふたたび語りはじめた。
「ギャスケル大将軍も我々も、永の眠りについていた。これが問題だぞ。我々はみな、滅びてはいなかった。罰を受けて永劫の眠りを命じられたのだ。命じたのはすべて“御神祖”であった。つまり、我々は、この日のために眠りにつかされた、と解釈した方がいいのではないか」
「ふむふむ」
「Dよ」
声音も変えて、男爵は呼びかけた。ひどく切実な響きが岩壁に反響した。
「教えてくれたまえ。我々は、なぜ君を狙う?」
返事はない。
「なぜ、君は狙われる」
返事はない。
「そして、Dよ。私は、ある戦慄すべき結論を出さざるを得なかった。そのために、どうしても、はっきりさせておかねばならぬことがある。――Dよ、君は何者だ?」
この世のものとは思えぬ美貌に、電子の火が、光と影を交錯させた。
3
「答えてはもらえまいね」
と男爵は両手を広げて、大きくのびをした。
「実は、私も聞くのが怖い。こんな気分になったのははじめてだ。その身体から漂う血の臭い――ゼノン公は斃されたな」
朱色の身体がすっくと立った。
「だとすれば、次の番は私。――だが、その前に確かめたいことがある」
ステッキで肩を叩き叩き、男爵は洞窟の奥へと進んでいった。
ふとふり返って、ゴルドーとロザリアへ眼をやり、
「離れたからといって、その二人が危険なことには変わりがない。私の用が済むまで待ちたまえ」
と言った。どこかのどかな印象の男だが、その秘めたる力をDは知悉している。
いちばん奥の光も届かぬ岩壁の前で、男爵は足を止め、ステッキでその表面を叩いた。
「ほうXマークがある。叔父は俗物でね。マークひとつにも、もう少し人目を意識して欲しいものだが、彼はここに何かを埋めたらしい」
「何をじゃ?」
とDの左手が訊いた。
「我が家に伝わる伝説によれば、ある武器を」
「武器?」
「叔父は“御神祖”の宮殿で、“究極戦闘要員”のトレーニングと、武器の開発を担当していたのだよ。性格的には諧謔味に富んだ男だった。そのせいで“御神祖”の配下でありながら、ふと思いついて、世にも奇天烈な代物を造り上げてしまったのだ。すなわち、“御神祖”を滅ぼすための武器を」
瀑布の音ばかりが支配する洞窟のただ中を、束の間、別の音が占めた。――沈黙という名の音が。
それから、嗄れ声が、
「おかしな一族じゃの」
と幾分愉しげに言った。
「――それを知り合いにでも見せて廻っておれば、大した男というべきなのだろうが、意外と小心者でね。叔父は造ってから怯えた。ところが壊す勇気もない。隠し場所も考えたのだが、いったん不安になると、何処へ隠しても“御神祖”の眼は騙せない気がする。で、エフェリス産の血のワインも飲まずに考えていた究極の隠し場所がここさ。古代の人間どもの遺跡を溶かし尽くしたその後に、途方もない冗談で生まれた反逆の証しを隠匿する――なかなかの思いつきだろう?」
ステッキが小さな印の上で躍った。すると全方位に亀裂が走り、成人の頭ほどのサイズの穴が開いたではないか。
「動くなよ、D、動くな」
気安い調子で言いつつ、男爵はステッキを左手に移し、右手を穴の内部に突っこんだ。
「ん?」
と首をかしげた瞬間、穴の向こうで異様な――何かを噛み砕くような音がして、彼は眉をひそめた。
「痛《つ》う」
と呻いて抜いた。戻ってきた手は肘から先がなかった。
「素直に武器だけ埋めておけばいいものを。ひねくれ者が」
こうののしって、男爵は左手のステッキを無造作にその穴へ突き入れた。
ぎゃっと悲鳴が上がって、すぐ静かになった。
男爵は右手を差しこみ、引き抜いた。肘から先は元に戻っていた。貴族の不死たる所以である。
彼はもう一度、その手を穴に入れ、無理やり首をDの方へねじ曲げて、
「あった。ところで、私がこれをどう使うと思うかね?」
とにこやかに破顔した。
「もちろん、君用だ。叔父が私に残してくれた遺書には、その威力も使い方も説明してあった。それによれば、これなら十分に君を斃し得る。――どうだね、あの二人の人間を犠牲にして、私に逆らってみるか?」
「ハッタリかも知れんなあ」
「試してみる勇気があるか?」
と男爵は左手の方へ眼をやって嘲笑した。
「いいや、Dと呼ばれる男なら、勇気など七つの海を満たすほど持ち合わせているだろう。その男の方は、おぬしに護衛を依頼した相手のひとりと見た。雇い主を犠牲にする没義漢かどうか?」
疑いもなく、これはDの遭遇した最大の危機といえた。自分のために他人の生命を見捨てられる男なら、畏敬をこめた口調でその名を呼ばれはしまい。そして、そんな若者へ向けられた武器は、甘んじて受けられるほどのなまくら[#「なまくら」に傍点]ではあり得ないようであった。
男爵は宣言した。
「では、行くぞ、D。こんなとき、どんなふるまいをするかで、男の値打ちが決まると思え」
男爵は腕を引こうとした。その盆の窪みに、真紅の薔薇がつぼみを広げたのは、次の瞬間であった。
可憐な花は、その外見とは裏腹の地獄の苦痛を不死身の肉体に与えた。
「ぐおおおおお」
花に手を当て、男爵はのけぞった。
「だ――誰が?」
蒼白で汗にまみれた額に、ぽっと二つ目の花が咲く。
「ぎえええ」
身悶えする拍子に右手が抜かれた。何も握っていない。ふり向いた憎悪の眼は、Dの遥か後方――瀑布の出入口に、ずぶ濡れで立つ小さな影を映している。レディ・アンだ。
ずぶ濡れなのは、Dと一緒に崖を跳び下りたとき、彼女だけ滝壺に落ちてしまったからだ。もとより、Dが手を貸してくれるはずもない。自分で岸辺に辿り着き、這い上がってやって来た。そして、Dを恫喝するシューマ男爵を目撃したのである。
Dの敵は自分の敵との妄執に取り憑かれたレディ・アンだ。ゴルドーもロザリアもどうとでもなれ。愛しい男の前で勝ち誇る父の仲間[#「父の仲間」に傍点]に、彼女は死の花を送った。
「D――今よ!」
言うが遅い。Dは跳躍し、男爵の頭上から長剣を叩きつけた。
ステッキを上げて防ぐ余裕も男爵にはなかった。
死の一瞬――岩壁が爆発しようとは。さすがのDも、この不意討ちは如何ともしがたく、岩の破片と爆風とを満身に浴びて、洞窟の真ん中まで吹きとばされた。
「――D!?」
叫んで駆け寄りつつ、レディ・アンは見た。
消失した岩盤の向うから現われた奇怪なものを。
はためには、直径二メートルほどの赤黒い粘土の塊だ。あちこちにくびれや皺が走り、あちこちがポンプみたいに膨張を繰り返している。中でも奇怪なのは、全身から突き出た一〇センチほどの棘で、せわしなく突き出しては戻り、戻っては突き出して、そのせいか、真円に近い球なのに、ちっとも安定して見えない。
「これは――D?」
レディ・アンの問いかけに、
「武器の護衛じゃ」
と嗄れ声が答えた途端、球体の棘のひとつが鞭のようにDめがけて走った。
一刀がそれを弾くと、第二、第三の棘が襲った。
そのことごとくを弾き返し、Dは体勢の整わぬ鞭の間を本体へと走った。
刀身が貫く音はしなかった。鍔もとまで刺しこんだ太刀を、Dは半ばまで抜いてから後方へ跳んだ。
刃には体液らしい黄色い液体が付着していたが、それの仕業か、刀身は白煙を上げて溶けはじめたのである。Dは左手を鍔もとに当て、切尖までしごき上げた。溶解は止まった。
液体は強烈な酸であった。Dの刀身が生じさせた傷口からそれがこぼれると、すでに溶けていた岩盤が、またも灼熱の泥土と化して溶解しはじめた。
「古代人の遺跡を溶かしたのは、こいつじゃぞ――逃げい!」
嗄れ声を聞くまでもない。すでに白煙は洞窟内に満ち、床も天井も溶け崩れていく。
ゴルドーとロザリアを小脇に抱え、瀑布の方へと走りながらふり返ったDが見たものは、白煙の奥で死の液を撒き散らしつつ萎んでゆく球体のシルエットだった。
「シューマは生死不明か」
と闇のどこかでギャスケル大将軍の声がした。残念そうな気ぶりも、沈痛の情も感じられない物言いである。
「ローランサン夫人にグレートヘン博士、ゼノン公は斃され、メフメット大公は無事だが、手傷で手一杯だ。甦らせた者のうちで残るは貴公を入れて四名。しかも、ひとりは敵側についた。果たして役に立つかどうか」
「お言葉ですな、大将軍」
ともうひとつの声が言った。ギリス少将――闇人の声である。
「ですが、確かに一理ある。私もやり合って身に沁みました。Dの腕をどうこう言っても何にもなりませぬ。言いたいことはただひとつ――Dとは何者なのでしょうか?」
「わからぬ」
ギャスケルの返事はあっさりとしていた。
「“御神祖”から賜ったデータの中にも、彼に関することは何ひとつ入っていなかった。それが何故か、などと考えてもはじまらん。我々にできるのは、彼奴を斃すことのみだ」
「仰せのとおりで。ただ、そのために呼ばれた者たちが、少々頼りないのが玉に疵」
ギャスケルは苦笑を浮かべた。これはうなずかざるを得ない。
「そこで――ひとつ提案があるのですが」
「それは?」
大将軍は、どこにあるかわからぬ天井へ視線をとばした。
「シューマとメフメットとレディ・アンの生命をまとめて、もうひとり[#「もうひとり」に傍点]お招きなさい。確かそれは可能なはず」
ギリス少将が、即断の返事を期待していたとしたら、大外れであった。ギャスケル大将軍は、闇よりも重い沈黙に身を浸すことを選んだ。
「余計なことを申し上げましたかな?」
しばらくして、ギリス少将の声が心配そうに訊いた。
「ひとり足りんな」
と大将軍は重々しく応じて、少将の声を凍りつかせた。
「三人より四人の方がいい代役を選び出せるであろう。ま、冗談だ。だが、三人分はどうしても必要だな」
「御意」
どうやら、ギリス少将という男、かなりのおべっか使いらしい。
「ギリス少将、命じるぞ」
「はっ」
「全力を挙げてDを斃せ。貴公を四人目としない、それが条件じゃ」
「喜んで」
「貴公ひとりの手では骨が折れそうだ。わしの侍従どもを使え。シューマとメフメットの居場所はここ[#「ここ」に傍点]だ」
どんな風に指示されたのか、暗黒で、
「おお!?」
と驚愕の叫びが上がると、
「確かに。――大将軍さまは、新たなる者の眼醒めを準備なさいませ」
とつづいて、
「我輩、実はゼノン公ローランドの娘をひそかに恋しておりました。これで大手をふって接触することができます」
嬉々として、まず声が、すぐに気配も消えると、〈南部辺境区〉第一の戦士にして保護者、かつ管理人たるギャスケル大将軍は、
「このロリータめが」
と吐き捨てた。
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第四章 疫病の村
1
「ん? ――街道封鎖か」
御者台のジュークが、二〇メートルほど前方の路上に認めた男たちは、確かに武装し、背後の道には木製のブロックと鉄条網が張られていた。
滝壺を出て、いまは午後も遅い。
あと二十分ほどで次の目的地ハルドゥ村に到着する道の上である。空は昨日よりも重い雲をはらんで、陽ざしの断片も地上へ赦そうとはしない。
一〇メートルほど手前で停止すると、五人いる男たちの二人がやって来た。空圧銃を手にしているが、銃口は上向きだ。もっとも、こちらも上向きで、いざとなれば、瞬時に射ちまくる用意はあるから、害意なしの証明にはならない。強盗団はどんな手でも使う。
男たちは、ここから南へ三〇キロばかりのところにある村二つの名前を名乗り、街道封鎖の理由を告げた。
「伝染病!?」
「ああ、“噴水病”だ」
ジュークも、屋根の上のゴルドーも言葉を失った。
数ある辺境の病魔のうちでも最凶最悪といわれる伝染病のひとつである。それで全滅した村は数限りない。ひとりでも患者が出た場合、現場からの連絡によって、近隣の村は総出で、その村の周囲を封鎖し、病魔の沈静を待つ。――大抵の場合は全滅だ。
「“噴水病”なら治るぜ」
ジュークの台詞は、男たちの眼つきを険しくしただけであった。
「本当だ。『都』の病院が特効薬を開発してな。ハルドゥ村にも届ける手筈になってるんだ。新薬の注文票もあるぜ」
辺境の村が最も必要としている品のひとつに『都』の新薬がある。不老不死の貴族たちは、自身のための医療開発には熱心ではなかったが、彼らの餌である人間[#「餌である人間」に傍点]のために、その科学力をもって「薬」の発明や「病院」の建設に乗り出した。この辺は、少し歪んだ愛犬と飼主の関係を思わせる。
衰亡の果てに貴族たちがその姿を消しても、残された医療施設は人間たちの運営にまかされ、まがりなりにも――どうしても理解できないメカニズムや理論があるため――成果を上げている。
辺境の村のうち裕福なところは、ジュークたちのような運搬業者に依頼し、「新薬」や「新型医療装置」が開発され次第、問答無用で配達する旨の契約を結んでいる。ハルドゥ村もそのひとつであった。
「信用できねえなあ」
男の片方が疑わしげな声を張り上げた。バリケードのところにいる連中に緊張が走る。
「“噴水病”の村が出たら、翌日に特効薬を持ってきた。話がうますぎらあ」
「こんなことで嘘をついて何になる? 昨日、患者が出たのなら、まだいくらも治療ができる。みんな、治るんだ」
「治らなかったら、どうする?」
と、もうひとりが訊いた。
「あんた方まで発病したらどうするつもりだ。これ以上、厄介事はごめんだよ。ここは引っ返すか、迂回して行きな」
「わからねえのか。薬はある。これを注射すれば、“噴水病”は治るんだ」
男たちは顔を見合わせた。最初にしゃべった方が、卑しい笑みを浮かべて、こちらを向いた。
「その特効薬とやらが効かなかった場合、あんた方もハルドゥの村に閉じこめなくちゃならねえ。けどな、こんなでかい車でバリケード突破をされちゃあ止めようがねえし、これ以上、ハルドゥの村に武器を持ちこまれても困る。車をここに残して丸腰で行くなら許可しよう」
「莫迦を言うな」
とジュークは眼を剥いた。
「ハルドゥ村までは、この車であと二十分もかかる。徒歩なら六時間だ。妖物がうようよしている道を、そんなに長いこと武器も持たずに歩けるか」
「なら、行かせられねえなあ」
二人組が一歩引くなり、バリケードのところの連中が銃口をこちらへ向けた。
同時に屋根上のセルゲイが下の二人に火薬銃を向ける。
二人目の男がうす笑いを浮かべて、バリケードの方を指さした。
「よしなよ。ありゃあ、携帯式ミサイル砲だ。『都』じゃ“ロダン”と呼んでるらしいな。おれたちを射つのはいいが、この車もろとも粉々だぜ。運び屋がそんな真似していいのか?」
ジュークの顔に苦悶の色が湧いた。積み荷は運送屋の生命と誇りの別名であった。
二人組は嘲笑して言った。
「ついでに、通行料として、そうさな、荷物の半分もいただくとするか」
その姿が翳った。
別の人影が降ってきたのである。それまでは馬車の背後に隠れて見えなかった護衛の影であった。
「D」
とつぶやいたのは、ジュークである。
「――D!?」
その名から何を連想したのか、恐怖の相をみなぎらせて頭上の影をふり仰いだ二人組は、そのとき、黒い手にまとめて襟首を掴み取られて、声を上げる間もなく宙吊りにされた。
そのまま死体みたいに動かなくなったのは、ジュークたちにとっても意外であった。
「やめてくれ。逆らいはしねえよ」
「殺さねえでくれ」
哀訴の声は粟立っている。よほどDが怖いらしい。
「二人を下ろせ!」
とバリケードのところで、ひとりが口の脇に手を当てて叫んだ。
その左横では、図体の大きなのが、細長い筒の先に黒色のミサイルを装備した“ロダン”を照準中だ。
「どうする?」
とDはジュークに訊いた。
「行くさ。それが仕事だ」
「ついて来い」
とDは指示して、バリケードの方へ歩き出した。
動揺はバリケードの男たちに移っていた。ミサイルの進行方向真ん中にはDと仲間がいる。何よりも、近づいてくる馬上の若者の美しさ。この世のものではあり得ない。
「止まれ」
それでも叫んだ。
「止まれ。止まらねえと、ぶっ放すぞ」
できないのはわかっていた。近すぎるし、一発で食用牛五十頭分はする高価なミサイルを、個人相手に使用するわけにはいかない。
ぴゅっと空気が鳴った。射手の感じたのは、ミサイルを収めた発射筒《ランチャー》から伝わるかすかな震えだけであった。
鍔鳴りの音を残して、Dの刀身は鞘に収まっている。
銃を持ちながら、射つことを忘れた棒立ちの男たちは、Dの鬼気よりも美しさに魂を奪われたのかも知れない。
黙々とDは通りすぎた。今度はこちらの番だとばかり、うす笑いを浮かべたジュークとゴルドーを乗せた馬車がそれにつづく。
街道を遠ざかるその後ろ姿へ、
「畜生め」
とミサイルを向けたとき、射手は、さっきの震えの意味を理解する羽目になった。
発射筒の前半分が、音をたてて地べたへ落下したのである。一トンの衝撃に耐え得るといわれた合金の筒は、うす暗い空に、それは美しい切り口を示して転がっていた。
村の入口に近づくにつれ、吊り上げた男たちに別種の恐怖に対する反応が表われはじめた。
「下ろしてくれ。これ以上近づいたら、感染《うつ》っちまう」
「後生だ。勘弁してくれ。“噴水病”になんかなりたかねえ」
夢中で手足を動かしても、優に一五〇キロを越す体重を支えるDの片手はびくともしない。
かえって、ジュークの方が気の毒になったらしく、
「もう、放してやれよ」
と口をはさんだが、
「また同じことをやるぞ」
とDに言われて沈黙した。男たちが積み荷の半分を要求したことを言っているのである。
「村から出ようとする者にも同じ要求をしたかも知れん。金だけ奪って始末するという手もある」
二人組が反発もせず、互いに顔をそむけ合ったところを見ると、あながち的外れの指摘ではなかったかも知れない。
「貴様ら……まさか」
と屋根の上でゴルドーが怒りの呻きを洩らしたとき、ジュークが御者台の上で身を固くした。
「誰か来るぞ」
と前方を指さして叫んだ。
三〇メートルほど先で右へ迂回している道から、二人連れの人影が現われたのである。
十歳前後と思しい少年と少女であった。連れというのは、針金みたいに細い手を握り合っているためだ。
何故か全身が――頭のてっぺんからサンダルをはいた爪先まで、ペンキをかぶったみたいに赤い。
空中の二人組が悲鳴を上げた。
「“噴水病”だ。――セルゲイ、薬を用意しろ」
ジュークが馬車を止め、御者台から下りた。紙包みを抱えて車内から現われたセルゲイともども、おっとり刀で少年と少女に駆け寄る。
だが、二人が到着する前に、幼い影は揃って地面に倒れこんだ。
その前まで来て、ジュークとセルゲイは息を引いて立ちすくんだ。
どちらも本物の噴水病患者を見るのは、はじめての経験であった。
少年も少女も血まみれであった。傷はない。それもわかっている。
鮮血は今もじくじくとその顔から、首から、腕から、足から滲み出ているのだ。全身の毛穴から。
辺境の村々に配布されている「辺境医学全書」によれば、この菌は、断定できぬ種類の妖物によって媒介され、人間が感染すれば、強烈なめまいや倦怠感、疲労を覚える。さらに三時間以内に、肺に近い部分の毛穴から出血がはじまり、効果的な治療を施さない限り、出血後半日以内に死亡する。直接の原因は失血死だが、そこに至るまでの体内での細菌による発病プロセスは、いまだ解明の途中にあり、効果的な治療手段は見つかっていない。
血まみれでうろつく患者たちの姿には鬼気迫るものがあり、休みなく体内から血液を噴出させることから、“噴水病”と呼ばれるに至った。
あまりに無惨な姿に、思わず立ちすくんだ二人だったが、すぐに人間としての情が湧いた。セルゲイが紙包みを破り、薬液を詰めた使い捨ての無痛注射器を二本取り出して、一本をジュークに手渡した。
直接、静脈へ射つ。細いせいで血管が浮き上がらず難渋したが、何とかクリアした。
「間に合ったかな?」
沈痛な面持ちで訊くセルゲイへ、ジュークはもっと沈痛な面持ちで首をかしげた。どう見ても遅すぎる。
倒れてなお手をつないでいる少年と少女の眼が、同時に開いた。
「おお!」
喜びの声を上げるセルゲイへ、
「輸血の用意をしろ」
と命じて、ジュークは身を乗り出した。
「苦しいか?」
と訊いた。
「うん」
嘘をつく力もないのであろう。少年は弱々しく、
「アンは?」
と訊いた。ジュークはやさしく、
「隣にいる。君の手を握ってるよ」
「よかった。ひとりで逝くのは寂しいよね。おれも一緒についていってやるんだ」
「しゃべるな。すぐ楽になる」
言ってから、ジュークは言葉の内容に気づいて、無惨な表情になった。
「うれしいな。この病気、とっても苦しいんだ」
「わかってる。よく我慢したな」
少年の赤い顔をジュークは手で拭った。皮膚感染の恐れもあるが、気にならなかった。下から現われた素肌は蝋の色をしていた。
「小父さんたち……薬を持ってるのかい? 治せるの?」
「ああ」
「じゃあ……村のみんなを助けて」
ジュークは、はっとして少年の隣――少女の方を見た。
「父さんも……母さんも苦しんでるの……あたしたち……助けてもらいに来たの……でも……その人たちに射たれちゃって……」
ジュークとセルゲイの視線から、二人組は眼をそらして、
「う、嘘だ」
「ひどいんだよ」
と少女はつづけた。愛くるしい顔は髪まで赤く染まっている。
「……あたしたち、村の人からお金を持ってけって言われてたの。それで出してもらえるって。……でも、お金だけ取られちゃった……」
「てめえら」
セルゲイが立ち上がった。火薬銃を抜いた。
ひとりずつ眉間に突きつけ、
「出さないのは仕様がねえ。だがな、生命と引き換えの金だけ盗むなんざ、貴族だってやりゃあしねえぞ」
まくしたてる間に、増幅された激情は暴発へと突っ走った。
「死ね!」
震える銃口の前から、次の瞬間、二人の姿はかき消えた。Dが持ち上げたのである。
「邪魔するな」
「こいつらにはふさわしい死に方がある」
冬の静夜を思わせる声に、二人組ばかりかセルゲイまでも凍結した。
「そうだ」
とジュークが低い声で言った。
「いまはこれ以上死人を見たくねえ。二人とも死んだよ」
2
セルゲイは肩を落として、赤い死顔を見つめた。
「笑っているようだぜ、なあ」
「安心したんだろう。――おれたちに会ってな。これでおれも、地獄へ行っても罪が軽くなりそうだ」
ジュークはそっと二人の頬を撫でた。
「埋めてやろうか」
「後だ。村へ薬を届ける」
「わかった」
セルゲイは銃を収め、二人組に唾を吐きかけてから、子供たちのところへ戻り、両手を組み合わせてやった。
そのかたわらに美しい影が落ちた。
「――D」
美しいハンターは吊るし上げた二人を地面に下ろし、その顔をあどけない死顔の方へと押しつけた。
二人は地面を蹴って逃げようとしたが、鉄の腕は断固として逃亡を許さなかった。
「やめてくれ」
「助けてくれよ。な、伝染《うつ》っちまう」
哀訴が悲鳴に変わった。二人の唇は、少年と少女の頬に押しつけられたのである。別れのキスをするかのように。
二人はその場へ崩れ落ちた。ようやくDの呪縛が解けたのである。身じろぎしない。失神していた。
「当然の仕打ちだが――凄い真似をする」
ジュークが、恐怖に満ちた眼差しをDに当てて言った。
「こいつら気が狂うぞ。もっとも、辺境じゃあ、その方が幸せかも知れんが」
馬車の方へ歩きかけ、彼はあっ、と言って立ち止まった。
眼の前に、もうひとりのアンが立っていたのである。
「アンって言ったわよね」
ガラスのように澄んだ眼が、地上の少女を映していた。
「ああ、そうだ」
「どうして、人間は死ぬの? 病気かなんかで」
「人間だからさ」
とジュークは答えた。
「ふうん。――泣いているの?」
「そうだな」
「人間は死ぬってわかってるんでしょ?」
「ああ」
「なら、何が悲しいの。当然の結果だわ」
「ぶち殺すぞ、この餓鬼」
遠くでセルゲイが叫んだ。
「よせ」
と制してジュークはレディ・アンに、
「何も感じないのか、向うのアンは死んだ」
「何も」
ジュークはうなずいた。何か見極めたような表情であった。
「ならいい。さ、馬車へ戻れ。村へ入るぞ」
メフメット大公は、北の森の中にいた。
巨大な姿は、直径が一〇メートルもありそうなラングィアの巨木にもたれかかり、そのかたわら、瓜二つだが、ずっと小柄な――人並みのサイズの、これまた大公がいる。
いま、本体と分身とがようやく顔を合わせたのである。奇妙なことに、本体は頭の後ろで腕を組み、巨体のまがい大公も同じ格好をしていた。
ちょうど、Dたちが街道封鎖の連中とやり合っている頃だ。
「Dとかいう奴め――化物だ」
人間から見ると、化物としか思えない貴族が言う。
「ゼノン公の死体も見た。グレートヘン博士もやられた。残る私ひとりでは、到底、勝ち目がなさそうだ。これは、こっそり戦線離脱をした方がよさそうだ」
彼は手を離し、上半身に触れて廻った。
「ここと……ここと……ここも斬られたな」
眼は巨大な分身の、同じ部分を見つめている。
本体が無事である限り、分身は壊れず、分身が平気な以上、本体が致命傷を受ける恐れはないものの、やはり、どこかで物理法則には従わなくてはならず、分身が傷を負うたびに、本体の受ける傷は治りにくくなっていく。
深い森の木漏れ日も色褪せて光なく、二人は[#「二人は」に傍点]暗く翳った。
「そうと決まれば早い方がいいが――しかし、根本的な問題が解決していないな。私たちは何故、甦った? Dを斃すためか?」
影の下の顔が、さらに暗い表情を刻んだとき、分身が風を巻いて起き上がった。自分と瓜二つの動きに、それを当然と思いながら、大公は見惚れた。
森の奥――南の方角から長身の影がやって来る。
全身を闇色の装甲で覆った侵入者は、大公の一〇メートルほど手前で足を止めた。
「Dの手のものか?」
あり得ないと知りつつ、そう訊かざるを得ないほど、吹きつけてくる殺気は尋常のものではなかった。
「おぬしの仲間よ」
何処からともなく、ギャスケル大将軍の声が降ってきた。
「将軍!?」
「それは、わしが招いたもうひとりの刺客だ。名はロカンボール卿という――」
その後につづく言葉を、メフメット大公の驚きの声が封じた。
「ロード・ロカンボール――それは貴族の歴史が変わっても、決して甦らせてはならぬ大凶人」
「凶神と呼ぶがいい」
と姿なき声は頼もしげに言った。
「わしはおぬしらに絶望した。鳴り物入りで呼び集め、いまだ、あの若造ひとりを仕留められぬとは、何たる期待外れ。すべてを根本的に変えねばならん。つまり、メンバーの入れ替えだな」
「私と――ロカンボールとを替えられるおつもりか? ――末代までメフメットの呪いを受けますぞ」
「残念ながら、おぬしひとりでは役不足よ。あと二人――シューマ男爵とゼノン公の娘もつける。一対三の変則トレードだが、これでも卿は不満であろう。Dを確実に斃すには、四人分の生命が要る、と」
ギャスケルの声が届いたのか届かなかったのか、鎧武者は動こうともしない。ゼノン公の近代的な装甲とはちがって、ひどく不格好な骨董品のイメージがある。
右手が上がった。腰の長剣にかかる動きは、ひどくぎくしゃくとしたものであった。それでDの相手になるわけがない。――それなのに、メフメット大公の本体は、三メートルも後ろに跳びずさったのである。
「卿はまだ半ば眠っておる。おぬしら三人を斃す契約を成就していないものでな。だが、それでも十分相手になれるぞ。メフメット大公よ――試してみるがいい」
「逃げるつもりでしたが」
ある決意を瞳に湛えて、メフメット大公は言った。
「ここは下がれませぬな、大将軍。私以外の呼び集められた者たちのためにも、ロカンボール卿は滅びねばなりません」
「ふむ、よく言った。そう来なくては、わしも少々寝醒めが悪い。卿よ、よろしいな?」
返事は抜き放たれた長剣であった。Dの湾曲刀とはちがい、両刃の直刀である。肉も厚い。精妙な剣技よりも、ふり廻し、ぶち斬り、叩き斬る方に向いている古風な一刀だ。
巨大なる分身の口が開いた。たとえ、どんな技の遣い手だろうとD以上の奴はいないという確信が、メフメット大公にはあった。分身の斬られ方が、それまでの敵とまるでちがう。地獄の痛みに本体はのたうち、のみならず、数秒間、本当に死にさえした[#「本当に死にさえした」に傍点]。あんな化物じみた遣い手が、この世に二人といるとは思えない。ロカンボール卿の名も実力も聞いてはいたが、やはり、自らの身体で味わった生々しさの方が信頼はできる。
分身の口から吐き出された「空食虫」は、鎧武者の手前三メートルで自らを貪り食った。
ぽかりと空いた虚空の穴へ、ごおごおとあらゆるものが吸いこまれていく。
卿の右手が無造作に上がった。手応えひとつ感じさせぬはずの空間の穴をめがけて、彼は切り下ろした。
穴は縦に切れた。あっという間の消滅に呆然と立つ分身へは眼もくれず、卿は右手の剣をふりかぶり、三〇メートルも離れた硬木へと投げた。
木の後ろから、断末魔の苦鳴が上がり、すぐ静かになった。
ぎくしゃくと機械人形のような動きでその木へ近づくロカンボールの背後で、巨人が倒れ、みるみるうちに極彩色の粘塊と化しても、彼はふり向かなかった。
柄まで刺し通った剣を掴んで一気に引き抜く。片手であった。
向う側で何か重いものが崩れ落ちる気配がしたが、ロカンボール卿は気にした風もなく長剣を鞘に戻すと、もと来た方へ歩き出した。
「これであと二人ですな、ロカンボール卿。じきに出会えますぞ」
というギャスケル大将軍の声が笑い声に変わり、次第に遠ざかった。
木漏れ日ひとすじささぬうす闇の森に、血の匂いを嗅いでか、おびただしい虫の羽音が集まりつつあったが、突然、それらは一斉に飛び散った。
運命の木から三メートルと離れぬ草の上に、大岩が転がっていたが、その陰から燃えるような真紅の姿が現われたのである。
「やれやれ、ようやく吸血花を引き抜いたばかりなのに、おかしな事態になってきたものだな。三人の生命と引き替えと言ったが、残るはギリスとレディ・アンと私。誰が選外か知らんが、どうやら早めにおさらばした方がよさそうだ」
3
村は、ジュークたちの予想を大幅に上廻る惨状を呈していた。地獄と言ってもいい。
地面も住居も井戸も厩舎も、すべて血に染まっていた。
戸外にも屋内にも朱色に染まった村人が倒れ、息のある者とない者を問わず、毛穴という毛穴から、糸のような血の噴水が、からくり仕掛けみたいに吹き出しているのだった。
やむを得ず死人はその場に放置し、息のある者だけに薬を注射して廻ったが、村といっても広い。三分の一も片づかないうちに日はとっぷりと暮れ、一同は照明灯と車のライトを頼りに作業を進める他はなかった。
薬を射っても、ほとんどが手遅れの状態で死んでいく。生後数カ月と思われる赤ん坊の死体を眼のあたりにしたとき、ゴルドーとセルゲイは声を上げて泣いた。
凄惨な作業に精を出す一同から離れて、レディ・アンは荷馬車の外に立っていた。
粗末な家の中から、畜生というゴルドーの声と、セルゲイの泣き声が聞こえる。
何がそんなに哀しいのか、可憐な少女は理解できなかった。
人間は老いて死を迎える。それはわかっている。一方、貴族たる自分は? すでにレディ・アンは八百年近くをこの姿で生きていた。永劫に――白木の杭を胸に受けるか、陽光を浴びて朽ちるまでこうだろう。それは素晴らしいことではないのか。
死を迎えた人間の悲哀は、貴族たるレディ・アンにとっては極めて理解しがたいことであり、優越感をくすぐるものであった。
そのはずだ。それなのに、なぜか今、荒涼たる風が胸を吹く。
レディ・アンの脳裡にあるのは、自分と同じ名前の少女の死の姿であった。
アンは二度と動かない。二度と生き返りはしない。なんと空しい。なんと脆弱な。――あれが人間だ。死にゆく者にとっても残される者にとっても、死とは限りなく残酷なものに思える。
だが、あの少女――もうひとりのアンは、安らかな死顔をしていた。
誰かがこちらのアンの耳にささやいたことがある。
人間が羨ましい。精いっぱい生きて、もっと生きたいと思いながら死ぬからだ、と。
そういえば、レディ・アンの知っている貴族は、どこか怠惰な倦怠に包まれている。華麗な舞踏会も、黄金のオペラ座で上演される荘厳な劇も、すべて、血と死臭がけだるい夏の午後のように漂い、貴族たちは笑いさざめきながら疲れていた。
疲れて疲れて、その先はどうなるのか。もとより、レディ・アンに頽廃の美が理解できるはずもなく、彼女が抱いたのは、掴みどころのない不安とやり切れなさだけだった。
だが、人間は十歳の少女でも、満足そうに死んでいく。精いっぱい生きるということか――あれが?
ゴルドーやセルゲイの言葉も遠くなり、レディ・アンは世界から切り離されているような気がした。空には星もない。月も。
「レディ・アン」
と呼ばれた。
ふり向いたが、誰もいない。
「闇の中では見えん。夜は世界が影でできているからな」
「――ギリス少将!?」
「当たった」
「何処にいるの?」
夢中で訊いてみた。
「あなたの足下だ」
闇が広がっているきりだ。少将が言うのなら、そのとおりなのだろうと思った。嫌いな相手ではなかった。
どうやってここへ? と訊きかけてやめた。“闇人”と呼ばれる男にとって、夜と闇は彼の王国なのだ。
「何の御用です?」
反射的に訊いてしまった。
「まさか、Dの生命を狙って……」
「最終的には、ね」
とギリス少将は答えて、
「だが、今はもっと大事なことがある。私の大切な女性の身の上だ」
「何のことですの?」
「ギャスケル大将軍は、我々を見限った。三人分の生命と引き換えに、より強力な刺客を送りこむつもりだ。……ロカンボール卿を」
「ま」
と言ったきり、レディ・アンは声を失った。
「よりによって、何という非道な真似を……」
「逃げたまえ」
「え?」
「そのために私は来た。三人のリストの中には、君の名も入っている」
「誰なのです、その三人は?」
「シューマ男爵、メフメット大公、私、それに君、だ」
レディ・アンの柳眉が寄った。
「ギリス少将の名はどちらに?」
「それも運命だね」
「ひとりだけ、ギャスケル大将軍に取り入ったのですね」
若いだけに、レディ・アンの理解と思いこみの激しさには凄まじいものがあった。
「待ちたまえ。話を聞け」
「いいえ」
言うなり、右手を金髪に突っこみ、まとめて何本かをむしり取るや、問答無用で地面へ突き刺した。髪の毛は鋭い針と化していたのである。二〇センチもめりこんだそれを引き抜き、
「出てらっしゃいな、卑怯者!」
と声を限りに叫んだ。
「落ち着きなさい、レディ・アン」
今度は、はっきりと聞こえた。
「私はただ君の身を案じて――」
「そういえば、みんなへの免罪符になるとお考えですのね。私をダシに使わないで!」
声がした、と思った位置へ、レディ・アンは髪針ともいうべき武器を叩きつけた。
そのたびに、別の場所から、
「やめたまえ」
「話を聞きなさい」
「私が助けてあげる」
と、誠実そのものの声が上がる。どちらも夜と闇の世界に生きるとはいえ、その神出鬼没ぶりは、“闇人”と呼ばれる男に一日の長があるようであった。
ついに、レディ・アンは、
「D」
と叫んだ。
「ええい、穏やかに連れ出そうとすれば是非もない。“影”のやり方で言うことを聞かせてやろう」
声が消え、ほんの数瞬――レディ・アンの全身が、足から漆黒に染まった、と見る間に、可憐な鬼女とも呼ぶべき少女は、するすると大地に溶けこんでしまったのである。いいや、影に。
沈黙の一角にDが駆けつけたのは、数秒後であった。
眼を凝らしたが、闇を昼と変える貴族の眼力をもってしても、地面に広がった闇の虚実を見分けることができなかった。
それ以上は動きもせず、彼は奇妙なことをした。
背の長剣を抜くや、眼の前の大地に突き立てたのである。それから刀身に背を向け、
「聞こえるか?」
と前方の闇に向かって訊いた。
少し間を置いて、
「おお」
と応じた。天から降りてきたとも、地から湧き上がったともつかぬ声である。
「気配も封じたつもりが、やはり見破られたか。つくづく恐るべき男だな。その実力に名乗ろう。おれはギリス少将というものだ。“闇人”とも呼ばれる。すでに一度、お目通り願っているよ」
「娘はどうした?」
「預かった。安心しろ。責任をもって逃亡させる」
「逃亡?」
と訊いたのは、嗄れ声である。
「ギャスケル大将軍はな――」
と声は言い、三対一の奇怪なトレードについて、全員の名前をあげて公開した。
「まあ、かくなる理由で、この娘はもらっていく。私は二人で逃げるつもりだ。行きがけの駄賃におぬしの生命を、と思ったが、やはり甘くはないな。その刀――これでは背後から襲うこともできん」
突如、Dの足下から霞のようなものが湧き上がり、頭上から覆いかぶさってきた。
光が流れた。闇夜では見えないはずの光が見えた。ふたすじ――それは霞を真一文字に切り裂き、わずかに遅れて躍りかかってきた黒影に吸いこまれたのである。
霞は消滅し、刀身はDの手にあった。
闇のどこかで苦鳴を思わせる声が聞こえた。
「不意討ちも無効か。“闇人”の技はこれきりではないが、おぬしとはこれで終わりだ。私とお嬢さんとの幸せを祈ってくれ」
声は遠ざかってゆき、やがて、消えた。
Dは右手の刀身へ眼をやった。珍しく血痕が付着している。ひとふりして足下へ落とした。それは黒い大地へ跳ねた途端に広がり、あっという間に見えなくなった。影の血であったらしい。
「何と、ロカンボール卿か」
Dの腰のあたりで、Dのものではない声が呻いた。
「貴族の誰もが、貴族に生まれたことを悔いるといわれた大凶人、生まれながらの大量殺人鬼じゃ。“神祖”の狂った落とし子と噂されておる。――あれも招いていたか」
ひと息ついて、
「これは、ますます厄介なことになってきた。最悪の旅じゃな」
治療は翌日の昼下がりまでかかり、何とか保ちこたえられそうな村人は八名に達した。
「四、五日休んでいれば治るだろう」
ジュークの言葉にみんなうなずいた。
「これから、どうしたらいいだろう?」
と年配のひとりが口にすると、完全なる沈黙が落ちた。
村は完全に包囲されている。いくら彼らが疫病は治ったと主張しても、それが解かれるはずもない。彼らの狙いは、ハルドゥ村の丸ごと消滅なのだ。
「救いを求めにいっても、射殺されるのがオチか」
ジュークは腕組みした。
「となると、打つ手はひとつだな。――え?」
ゴルドーとセルゲイがうなずいた。ジュークはひと塊になった村人に、
「安心しろ。じき、安全地帯へ連れていってやる。あんた方――この村を離れて、ひとりで生きていけるか?」
みな、顔を見合わせた。中年以上の男女五人は不安げに眼を伏たが、三人の子供たちが、
「うん」
と瞳をかがやかせた。
ジュークとDは外に出た。
「やっと救われたよ」
感激した風なジュークへ、
「未来が映っていたからだ」
とDは返した。
「そのとおりだ。子供の力は未来の力だ。おれはそれに手を貸すぜ」
「馬車に乗せろ」
とDが不意に言った。
「――油の匂いがする。ガソリンだ」
「何ィ?」
眉を寄せながらも、ジュークはDと同じ方角へ眼をやった。
遠くに村を囲む柵がそびえている。その向うからつづけざまに矢が射こまれたのだ。白いすじを引いている。火矢だ。
地面に、屋根に突き刺さった刹那、それは直径数十メートルもの炎を広げた。
矢は四方から休みなく降り注ぐ。人間の力では不可能だ。投射器でも使っているのだろう。
包囲側は、ハルドゥの村を焼き尽くすことに決めたのだ。
荷物を積んでいるから、村人たちは村の馬車になる。
「無理だよ。一発当たったらおしまいだ」
とセルゲイは呻いた。すでに火の手が上がり、空気はひどく熱い。
「荷物を下ろそう」
「仕事を果たすんだ。おれたちは運び屋だぞ。自分の子供が死んでも、荷物は届けるんだ」
「け、けどよお」
「おれが付く」
Dが馬の方へ向かいながら言った。
「気にせずに行け――早く」
ジュークはじっと黒衣の若者を見つめた。
噛み締めるように言った。
「まかせたぞ」
「まかされた」
と嗄れ声が言った。
治療を施していた家に、三本の火矢が突き立ったとき、馬車は猛烈な勢いで、村の出口へと走り出していた。
道も家もすでに炎の海だ。
矢はなおも降り注ぐ。
それが――一本たりとも、村人を乗せた馬車には届かなかった。
馬車の背後を守ったDの刀身が光の弧を描くたびに、矢の群れはことごとく二つになり、跳ばされて、地に落ちる。
まさしく、気にする必要はないのだった。
「門が閉まってるぞ!」
とゴルドーが叫んだ。
「まかしといて」
セルゲイが片手で胸を叩き、片手で持ち上げたものは――
“クリーナー”がかすかな音をたてるや、門は忽然と消滅し、待ち構える包囲陣を蹴散らして、二台の馬車は街道の奥へと走り去った。
おお。光が洩れている。
鉛色の雲を貫いて、陽光がさし恵んでいるのだった。
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第五章 ロカンボール卿
1
五キロほど南へ走ったところで、ジュークはようやく馬車を止めた。
全員が――村人たちまで――真っ先にDの方を向いた。
誰の眼も恍惚と煙っているが、もちろん、そのもと[#「もと」に傍点]とするところは別だ。美貌と――剣の冴え。
「何とか突破したが、問題はこれからだ」
とジュークが宣言した。
「彼らが逃げ出したことは、近隣の村に回状が廻されるだろう。恐るべき“噴水病”の患者が逃亡したと、な。それでは何処へも行けん。別の辺境区まで行ければいいが、時間がない。さて、どうするか、だ」
みな、首をかしげた。ただでさえ、他所者の嫌われる辺境だ。みなで新しい村をつくったとしても、発見され次第、火矢を射ちこまれるだろう。定住できなければ放浪者になるしかないが、今頃は、旅人のチェックも厳重を極めろと、あらゆる村の連中が手ぐすね引いているにちがいない。
「“噴水病”が治ったと、村々に認めさせればいいのだな」
とDが言った。セルゲイがうなずき、
「ああ。それができりゃあ、土地は余ってるんだ、小さな村からだってやってけるさ」
「手はある」
全員がぎょっとし、それから、歓声に近い叫びが上がった。この若者が言うことなら、と誰もが信じたのである。
「『都』の“辺境医療部隊”がいまこの辺を廻っているはずだ。そこで彼らに検診を受けさせれば、行く先々の村すべてに、異常がないと保証して廻るだろう」
「それだ――医療部隊!」
とゴルドーが分厚い胸を叩いた。
「あれなら大丈夫だ。事情を話せば、適切な処置を取ってくれる」
村人たちが抱き合って涙を流しはじめた。
それを横眼で見ながら、セルゲイはジュークにこう耳打ちした。
「しかし、医療部隊は何処にいる? これ以上、配達は遅らせられないぜ」
「順当に動いていれば、今日の夕方、カクタスの宿場に着くはずだ」
とD。
「順調にいけばね」
「運を天にまかせよう」
とジュークが決定打を放った。運を天に――辺境で交わされる最後の言葉は、常にこれ[#「これ」に傍点]なのだった。
気がつくと、裸で寝かされていた。両手両足にはロープがきつく巻きつけてある。こんなもの、と力を入れてもびくともしなかった。ロープが固いのではなく、レディ・アンの力が失われているのだ。
場所は廃棄された猟師小屋らしい。獣の血脂肪《ちあぶら》の匂いが床や壁にしみついている。ガラスも破れた窓から、疲れたような陽ざしが洩れている。夕暮れ少し前、とレディ・アンは踏んだ。
ぎょっとした。
大将軍から処理を受けた耐光外皮膜がそろそろ効果を失う時分だ。あわてて手足を見たが、火傷も腐敗もしていない。そんな兆候もなかった。
胸を撫で下ろしたとき、向かって左方にあたる部屋の隅から、
「眼が醒めたようだな?」
という声がした。
「ギリス少将ね。――よくも!?」
愛くるしい娘が、鬼女の形相で喚いた。
「無駄だ。影を見たまえ」
「え?」
床を見て、ぎょっとした。窓からの光が艶やかな腹や腿を照らしているのに、その先に影はなかった。
「“闇人”の“影盗り”――影を盗られるのは、昔から生命を取られるのと同じだ。動けはしまい」
「ほんと。――戻しなさいよ、卑怯者」
「そうはいかん。ここを出せば、君はすぐ、あのDとかいうハンターのもとへ帰ろうとするだろう」
「当たり前よ。愛しい方なの」
「私にはそれが辛い。――実は私はひと目見たときから君が気に入っていたのだよ」
とんでもない告白を、ろくすっぽ聞いていなかったのか、レディ・アンが、えっ!? と叫んで自分の裸身へ眼を走らせたのは、数秒後であった。
「ははあん。――それ[#「それ」に傍点]でこれ[#「これ」に傍点]か。この変態。ど助平親父! 着るものを返して!」
「まあ、もう少しいいではないか」
と隅からの声は、訴えるような口調で言った。――正しくは、隅に生じた影からの声であろう。それは、どことなく人の形をしていた。
「何がもう少しよ。わかったわ。七百年ほど前、『都』の居住区で娘たちの入浴を覗いたり、下着を盗んだりしたのは、あなたね!? 訴えてやる!」
「訴えられるほどのことはしていないし、下着も盗んでおらんよ。ほんの気持ちだ」
「変態! 死んでも、あなたの自由になんかなるものですか」
厳然たる決意を瞳にこめて、レディ・アンは隅の影をにらみつけた。影は少し動揺したように見えた。
「まあ、その、あれ[#「あれ」に傍点]だ。不謹慎な真似をしようとは思わんから安心したまえ。私はその、あどけない美しさに魂を奪われやすいのだ」
「何度もやってるのね!」
「その辺はとやかく言わないことにしよう」
と声は咳払いをして、
「――で、一緒に逃げてはくれまいか?」
と切り出した。
「気は確かなの!?」
「聞きたまえ。大将軍はロカンボール卿を、君を含めた三人の生命を与えて復活させることに決めた。君が逃げれば、卿は中途半端な状態でDと戦わざるを得ない。つまり、君はその手で愛しい男とやらを救うことになるのだ」
「あなたと手に手を取って、ね。死んだ方がましよ。それに、たとえ、私がロカンボール卿に滅ぼされても、Dが負けるものですか」
「愛ゆえの欲目は判断を誤らせるぞ」
「うるさい!」
レディ・アンは身悶えした。こりゃ手に負えないと思ったか、隅の影は、
「困ったジャジャ馬だ。もっともその辺がこちらにはこたえられないのだがね。――一緒に逃げるのが嫌では仕方がない。私ひとりで行くとしよう」
「大正解よ」
と言い放ち、レディ・アンは眼を剥いた。
隅の影から、明らかに手と思しい影のすじが壁づたいにのびて、巧みに光を避けつつ、窓の日除けを下ろしてしまったのだ。
うす闇が小屋を支配した。
「こうなればやむを得ん。愛しい娘をあのような若造にくれてやるくらいなら、ここで想いを遂げた後、灰にして美しい壜に詰め、生涯肌身離さずにおこう。済まないが、覚悟してくれたまえ」
「ちょっと――おやめ下さい!」
あわてて丁寧な言葉遣いに戻ったが、影の濃い床の上を、さらに濃密な黒影がひとつ、すうと滑ってくると、影の手をのばして、全裸の美女を抱きしめた。
「きゃあ」
娘らしい悲鳴を上げて身をすくめるレディ・アンに、影ははっきりと歪んだ歓びを表現した。
「ふはは、いいぞ。この脅え方が堪らん。成熟した女では、こうなっても反抗する。可愛らしさなどかけらもない。ほれ、もっと脅えろ。もっと怖がれ」
影の手は、少女の白い腿を這い、腰から、幼い乳房へとせり上がっていった。
「嫌よ、嫌よ、嫌。お父さまあ」
冷たい木の床の上で、レディ・アンは泣きじゃくった。変質者にとっては願ってもない官能的な光景であったろう。もう一本の手が、ヒップのふくらみへ廻る。
「嫌あ」
叫ぶ口を黒い影の口が覆った。
レディ・アンの姿は、何か平べったい蛇か何かに巻きつかれたような無惨な小動物に見えた。
――――
次の瞬間、
「うおおっ!?」
と叫んで跳びのいたのは、“闇人”――ギリス少将の方であった。
跳びのいたといっても、床の上を影が退いたわけだが、べつのものも動いた。一輪の真紅の花が。レディ・アンの妖花の秘技は健在であったのだ。それは二次元平面の影さえも、三次元的に――縦に貫いた。
「この――ジャジャ馬めが」
影は怒号した。怒りは、隠せぬ激痛が煽りたてていた。
「もはや許さん。その身体、まずばらばらにしてから想いを遂げてくれる」
「できるかしらね、変態さん」
とレディ・アンは嘲笑った。十歳としか見えない全裸の少女――しかし、これは不敵な、死を賭けて戦い抜いてきた戦士なのだ。
「私の術を知らなかったのが運の尽きね。ただの裸のお嬢ちゃんと思って? 私はお父さまより、殺した数がひとり多いのよ。さあ、おとなしく私の花の餌におなりなさい」
「ぐぐぐ……ぐ」
血の花は床の上から生えていた。その花弁が黒々と染まっていく。吸い取っているのだ。影の血を。
――と、小屋の内部の光が急速に翳ったのである。
何か巨大なものが窓の外を通ったのだ。ギリス少将の影は新たな影に溶け――窓の光が戻ったとき、床には赤黒い花弁の花が一輪転がっていた。
レディ・アンは唇を噛んだ。
ギリスの次の攻撃を予感したのである。
だが、勝ち誇った笑いも、憤怒の声も聞こえてはこなかった。小屋内の影のどこかに紛れた“闇人”は、レディ・アンより別のものに気を奪われているようだった。
木戸が開いた。
それだけで内部が息苦しく感じられる巨躯の主は――ギャスケル大将軍に他ならなかった。
「将軍」
と呼ばれる前に、ギリス少将の居場所はお見通しだったらしく、部屋の北の隅へ眼をやって、
「わしの領土内にいる以上、どこへ逃げても無駄だぞ、ギリス少将。――メフメット大公の生命は貰い受けたが、シューマは何処にいるかわからん。ゼノン公の息女を加えてもひとり足りぬな」
「大将軍――それはいけません」
少将の声は怯えを含んでいた。ギャスケルの言葉の意味がわかったのだ。
「私は名案の提案者であります。いかに大将軍といえど、そのような仕打ちは後世に悪名のみを留めましょう」
「とうに留めておるよ」
とギャスケルは苦笑した。この辺は妙に人間臭い。
「だが、おぬしの言い分ももっともだ。――こうしよう。シューマ男爵を見つけて参れ。それでおぬしはこのセレクトから免除する」
「喜んで」
と影は言った。それから、ふと気づいたように、
「その娘はどうなさいますか?」
と訊いた。
2
天にまかせた運は、まだ幸運と呼べるものであった。
夕暮れの光を蹴散らしつつカクタスの宿場へ到着した一行は、三時間ほど前にやって来た「辺境医療部隊」が、宿場の外れに、臨時病院を開いていることを知ったのである。
八人の村人を連れて行き、事情を話すと、最初は仰天したものの、そこは辺境を巡る医師たちである。すぐに、検診を行い、三十分足らずで、全員“噴水病”は完治していると太鼓判を押してくれた。病院へ収容し、周辺の村々にもその旨を伝えてくれるという。
ジュークたちは手を取り合って喜び、八人の村人は嬉し涙を流した。
意気揚々と旅籠へ戻ると、二階の窓から、
「よお、諸君」
と呼びかける奴がいる。ふり仰いで、Dまでが、ほお、という眼差しになった。
渡り廊下から身を乗り出して手をふるピンクのパジャマ姿は、シューマ男爵であった。
五分後に、全員ロビーで会った。
D以外は殺気立つ一同へ、男爵は落ち着きたまえと告げ、もう戦うつもりはないと断言した。理由は、
「大将軍が我々の生命を狙い出したのでね」
であった。
ロカンボールか、とDが口にすると、男爵は驚きを隠さず、
「さすがだな。メフメット大公は、私の眼の前でやられた。次は私とレディ・アン。生命あっての物種さ」
「なぜ、こんなところにいる?」
Dの問いに、彼は肩をすくめて、
「いくら逃げようとしても、ある範囲から出て行けないのだよ。大将軍の“移動領地”に取りこまれているのだろう。こうなれば、あわててもはじまらない。ここの旅籠の湯はなかなかの名湯だぞ」
「おかしな野郎だな」
とゴルドーが毒づいた。
「大将軍の領地内にいる以上、いずれロカンボールがやって来る。ただで死ぬつもりはないのだ。Dよ――力を貸してはくれまいか?」
「虫がよすぎるな」
敵の生命など歯牙にもかけぬ冷やかな声であった。
「だと思ったよ」
男爵は首の後ろをぱんぱんと叩いて立ち上がった。
「せっかく生き返ったと思いきや、用済みとなれば、平気で処理される。――一体、どこのどいつが与えた運命だ?」
寂寥の翳を瞳に湛えながら男爵は立ち去った。
Dは外へ出た。夜気を吸うためである。光と影と――どちらにも属する若者ではあったが、やはり、貴族の血は、夜の闇の中でその美貌を際立たせる。
「Dよ」
背後から、三人が追ってきた。路上である。遠くでギターの調べが聞こえた。曲は「いつの日も」であった。
「ひとつ、依頼――というか、頼みがあるんだ」
とジュークが後ろの二人をふり返って言った。
「レディ・アン――あの小娘のことだ。何とか、助けてやってくれないか?」
Dは黙って男たちの顔を見つめていた。
「その――三人で話し合ったんだ。よくわからんが、このままだと、あの娘も殺されてしまうんだろ。できるものなら、助けてやって欲しいんだ」
「おまえを狙った娘だぞ」
Dの眼はゴルドーに向いていた。
髭面がうなずいた。真っすぐにDを見て、
「承知の上さ。とんでもねえ娘だが、ここ何日かは一緒に旅したんだ。殺されるとわかってて、見捨てたくはねえんだよ」
「あんたが嫌なら無理にとは言わねえ。ただし、できればと思ったんだ。済まなかった。忘れてくれ」
Dの肩をひとつ叩いて、ジュークたちは旅籠へ戻った。
「おかしな奴らじゃの」
と左手が、訝しそうな声で言った。
「自分たちを殺そうとした娘を、一日二日一緒にいただけで、助けてやれと言い出す――性根が甘くできておるのだな。ん?」
嗄れ声は、おかしなものでも目撃したかのように停止した。
Dは、疲れ果てた三人の男たちの背を、黙然と見つめていた。
その唇に笑みが浮かびはじめていた。
ジュークがゴルドーがセルゲイが、このときふり返ってみたならば、それを浮かばせたのは自分だと、生涯語りつづけたことだろう。それは、そんな微笑だった。
通りをざわめきが走った。
宿場町である以上、道の両側に建つほとんどが、ホテル、旅館を含めた旅籠と旅人向けの遊戯場になる。日が落ちたといっても通行人も多い。その彼らが一斉に、Dがいるのとは反対側の道の端に眼をやり、あたふたと手近な建物に走りこんだのである。逃げこんだといってもいい。
黒い潮が押し寄せるかのように、店々の明かりが消えていく。
すでに吹きつけてくる殺気を、Dは満身に受けていた。並の人間たちでさえ、身も世もなく避難させる殺意は、通りの奥からこちらへやって来る長身の鎧武者が滲み出させているのだった。
「ロカンボール卿じゃぞ」
と左手が言った。
「恐らく、シューマ男爵を処分するためにやって来たのじゃろう。手を出してはならんぞ。そうすれば、奴は勝手に去る」
しかし、その言葉を嘲笑うかのように、ロカンボール卿は一五、六メートル向うで立ち止まった。
「面白い」
どこかたどたどしい言葉遣いであった。
「メフメットとか云う奴はすでに斃した。後ふたりで、私は甦る。だが、ここに、ひとりで十分まかなえる男がいた。――私はロカンボール卿だ。名は何と云う?」
「D」
「おお!?」
と鎧武者は驚きの声を上げた。
「D――その名の男を片づけるために、私は招かれたらしいぞ」
Dは動かない。二人の間のやりとりは言葉だけだ。平穏な宿場町の夜の一景――だが、そこが、死の翳がみなぎる戦場と化していることを誰が知ろう。ここに生きられるのは、戦士だけだ。
「おーい」
誰かがDの背後で呼んだ。
旅籠の門前に、真紅の衣裳に山高帽をかぶってステッキをついた男が立って、にこやかな笑みを浮かべていた。
「もうひとり――Dよ、また会おう」
そして鎧武者は、Dの存在すら忘却したような足取りで、二人目の獲物――シューマ男爵の方へ向かっていった。
「これは見ものじゃ」
と嗄れ声が、芝居でも見るみたいに愉しそうに言った。
Dは動かない。無言で二人の方を見つけている。
彼はすでにジャルハの駅頭で、男爵の術を目撃済みであった。
敵の歩みを止めさせ、何の物体の交流もないのに、相手の喉から血を噴出させる男。いかに左手が恐れるロカンボール卿といえど、その秘術に抗し得るか否か。
すい、と男爵のステッキが上がった。
ロカンボールの足が止まる。
「男爵のペースじゃぞ」
明かりを消した店々やホテルの玄関の中にも、息を殺した気配が集まっている。固唾を呑んで見つめる二人に、しかし、勝敗は呆気ないほど簡単についた。
男爵のステッキが右へと走った。
卿の喉がぱくりと開いた。これは傷口ではなかったかも知れない。
卿が一歩進んだ。見物人たちは跳びずさる男爵を連想した。現に彼は跳んだ。
ロカンボール卿が腰の剣を抜く。まだ空中にいる男爵めがけてふった。
さらに二度。
男爵が着地した。
「お株を奪われたな」
と彼は苦笑した。
「だが、Dには勝てん。――頼んだぞ」
その全身に三条の朱の線が走るや、彼は六個の肉塊に分かれて地上に崩れ落ちた。
信じられない量の鮮血が路上に噴出し、通り雨みたいに地べたへ叩きつけられた。
「ふむ」
とDの腰のあたりで、嗄れ声が感心したように呻いた。
呆っ気ないといえば、あまりに呆っ気ない男爵の死であった。彼もDにつながっていた。見えない糸で、何者かに操られていたといってもいい。その糸が断たれた相手に、しかし、美しいハンターは何の感慨も抱いていないように見えた。
秒瞬の死闘が終わっても、ためいきひとつ流れぬ路上で、鎧武者は刀身を握った手を喉に当てた。ひと撫でで傷痕は消えた。
「これで二人……Dよ、三人目が済んだら、また会おう」
Dは応じた。
「その三人目――殺させるわけにはいかん」
彼が一歩踏み出すと同時に、路上の空気は新たな――遥かに凄まじい緊張に凝結した。
Dとロカンボール卿との距離は三メートル。たったそれだけが、どちらかの生の長さだった。
シューマ男爵同様、刃も触れずに敵を斃す剣――勝機は、相手の剣を動かす前に掴まねばならない。
Dの刀身が闇のかがやきさえ映して躍りかかったとき、ロカンボール卿は剣で受ける体勢になかった。
彼は左腕を上げて受けた。
どぼっ、という音は、鎧の断たれる音とはいえなかった。
人々は路上に落ちた一本の生腕を目撃したが、Dの刀身が反転して卿の胸に吸いこまれるところは見えなかった。
火花と美しい音が散った。
大きく跳びずさる鎧武者の姿に、群衆の間から、なぜかはわからぬまま、悲痛ともいえるどよめきが流れた。
ロカンボール卿は、左腕を落とされながらも、Dの二撃目と打ち合わせたのである。
刀身が弧を描く。Dはその秘術をかわせる位置にはなかった。
その左頸部から右肺上葉にかけて、夜目にも黒いすじが走るや、逃亡を企てるような勢いで鮮血が噴き出し、彼は路上に片膝をついた。
攻めの順番はなおもロカンボールにある。だが、Dの一撃をかわした鎧武者もまた、刀身を下ろしてよろめいた。失った腕のダメージは、多分、彼自身が感じる以上に大きかったのである。
胸から下を黒朱に染めながら、Dが立ち上がった。
ロカンボール卿の刀身も上がった。
新たに展開する死生境に、人々が三度息を呑んだとき、どこからともなく、地鳴りのような轍の響きが近づいて来た。
ロカンボール卿がやって来たのと同じ方角から、巨大な馬に引かれた黒い馬車が現われた。
Dもロカンボール卿も跳びのき、ふたたび重傷ゆえのよろめきを示す。
馬車はその間に止まった。あまりの巨大さに、両側の店の庇や看板は容赦なく剥ぎ取られ、削り落とされていた。
扉から降り立ったのが、ギャスケル大将軍なのは間違いない。
じろりと前後の二人を見て、
「妙な予感がしたのでとんで来たが、何と凄まじい」
と本気で感嘆した。
「だが、決着は次にせい。Dよ――あの小娘は預かった。ロカンボール卿の傷が癒えるまでに救い出してみるか?」
ぐいと西の夜空を指さして、
「わかるな、わしの城が。そこの前庭で待っておる。もちろん、来ずともよいがな。――乗りたまえ、ロカンボール卿」
二人が乗ってドアが閉じる――瞬間、Dが跳躍した。
刀身は馬車の屋根に食いこみ、閉じかけたドアの半分を斜めに斬り取ったが、彼はまたもその場に片膝をついた。
「わしの城じゃ。――待っておるぞ」
大将軍の叫びが哄笑に変わったのは、馬車の姿が闇に溶ける寸前であった。
Dが馬をつないである方へ歩き出すと、セルゲイが駆けつけてきた。血相を変えて、
「大変だ。あんたと連中の戦いを見物してる隙に、ロザリアがいなくなった」
3
ネグリジェ姿の女を乗せた馬が、街道を一心不乱に、行ってはならぬ方向へ走りつづけていた。
深夜に近い辺境の道を行く旅人は滅多にいないが、もし、いたとすれば、その女の風体よりも、手綱を取らず両手を馬の首に巻きつけて、ぐったりとそれにもたれかかっている姿に気を引かれたであろう。
乗馬中に何らかの事故で倒れ、驚いた馬のみが爆走中――それにしては、馬の走り方に妙に整然としたものがあるし、第一、騎手が倒れたくらいで、いつまでも走りつづける馬はない。
女の背に黒い影がぴったりと張りついて、手と思しい細長い影が手綱にかかっているのに気づいた者も、その影が意志を持ち、狂走する馬を操っているとは想像もつくまい。
旅籠からロザリアを拉致したギリス少将であった。
やがて彼は、闇の奥にそびえるギャスケル城へ入った。
前庭から大広間まで、ロザリアは自分で歩いた。これも張りついたギリス少将の影が操ったものである。
「よく戻った」
天と地から噴きつけてくるギャスケルの声に、ギリス少将はロザリアから離れた。ようやく、ロザリアは床に崩れ落ちた。
「お約束どおり、身代わりを連れて参りました。まさか、レディ・アンは?」
「そこにおる」
右方で扉の開く音がした。奥の方にレディ・アンが立っていた。今度は白いドレスを身につけている。ギリス少将――床上の影へ投げかける眼差しは、嫌悪と憎しみに燃えていた。
「愛しい男が帰って来たぞ、レディ・アン」
と大将軍の声は揶揄するように言った。
「おやめください。ご冗談が過ぎます」
娘はあたたかみのかけらもない声で言った。
「それはあまりに情《つれ》なかろう。“闇人”と呼ばれた比類ない暗殺者が、おまえのために人さらいにまで身を堕したのだぞ」
「他人を愛するのなら当然のことですわ。――たとえ、自分が愛されずに終わっても」
いちいち凄まじい棘を含んだ少女の言葉であった。
「あの猟師小屋での約定どおり、レディ・アンの身代わりを連れて参りました。これでロカンボール卿を眼醒めさせる犠牲には――」
「もちろんだ、と言いたいが」
「何!?」
床上の影は激しく震えた。
「おまえが連れてきた女は、代わりにはならぬよ。わしの選んだ刺客ではないのでな」
「――待て。なぜ、それを黙っていた?」
「その女――何故か[#「何故か」に傍点]必要なのだ。いずれはこちらへ取り戻さなければならなかった。お主は、その点で功績があったことになるな。だがな、レディ・アンの身代わりには使えぬよ」
「騙したな、ギャスケル」
ギリス少将は憤怒の声を上げた。
「逃げるのだ、レディ・アン――ここにいてはならぬ!」
少女の足下へ、影が滑り寄る。爪先から這い上がろうとして――床に落ちた。レディ・アンの姿は忽然と消えていたのである。
「立体像だ、ギリス少将」
とギャスケルの声は嘲笑した。
「それすら気づかぬとは、狂恋のあまり眼まで狂ったとみえるな。くく、影にも色ぼけというやつがあるか。だが、シューマとメフメットの生命を得たいま、あとひとりでロカンボール卿は我が仲間となる。どうだ、おぬしが身代わりになってみるか?」
大将軍の笑いはなおもつづき、不意に熄んだ。
ギリス少将も笑い出したのである。
彼は言った。
「いや、これは我が身の程もわきまえぬ狂態でございましたな。いざとなれば、やはり可愛いのは我が身が一番。レディ・アンは謹んで進呈いたします」
「それが分別というものだ」
とギャスケルの声は言った。
「女が二人さらわれたとなれば、Dは必ずやここへ来る。レディ・アンだけではわからぬが、あの荷馬車の連中の護衛をする旨の契約がまだつづいている限りはな。わしとロカンボール卿で十二分に対抗はできるが、どうだなギリス、改めて手を貸さぬか?」
「喜んで」
「では――部屋で待て。私は歓迎の準備を整える」
「レディ・アンはどうなさいましたか?」
「はは、まだ未練があるか。無理もない。おぬしのその恋慕に免じて、あの娘の生命を卿と交換するのは、Dが来るまで待つとしよう」
「それはそれは」
影は卑しい相槌を打った。それから、もっと卑しい口調で、
「その前に、よろしければですな――ひとつ、その」
「よかろう」
と天井からの声は言った。今度は好色さと侮蔑の響きがあった。
「生命を取る前に、おまえの想いを叶えてつかわそう。レディ・アンは、『赤い塔』の頂きにおるわ」
ロザリアの誘拐が告げられてすぐ、Dは出発の準備を整えた。
いつもなら、サイボーグ馬の蹄の具合を見るくらいで、およそ、戦いの準備とは思えないが、今回はちがった。
三人がDの部屋を訪れたとき、彼は抜き放った刀身へ眼を走らせているところだった。
入れと言われて入ったものの、その表情の荘厳ともいうべき迫力に、ジュークたちは息を呑んだ。
だが、Dはすぐに刀身を収めた。
「出かける」
とひとこと言った。意を決したという感じは微塵もない。
「行ってくれるか」
ジュークが悲痛な眼を向けた。
「契約だ」
とDは答えた。
「すまねえな。何もかもあんたまかせで」
「気にするな。人間がどうこうできる相手ではない。おれの仕事だ」
一同は外へ出た。
いつか雲は晴れ、頭上は満天の星であった。
旅籠の前で、Dは馬にまたがった。
別れの言葉も、この若者は告げぬ。
軽く左手を上げた。それだけで馬首を巡らせた。
「おお、いい星空じゃ」
と嗄れ声が言った。黒い騎馬は蹄の音を響かせて走り出し、じき、闇に呑まれた。
三人の男たちは発する声もなく、黙然と星空の下に佇んでいた。
重々しい響きを上げて、ギャスケル大将軍は分厚いドアを開いた。
城の南の端に立つ『保管塔』の地下である。その名称とは異なり、実質上は危険物貯蔵庫で、宝物等の貴重品は別の場所に眠っている。
厚さ三メートルの巨大なドアがはめこまれた壁も、ドアと同じ超高密度鋼だ。この保管庫を破壊できるのは、反陽子爆弾と“神祖”の呪文のみと噂されている。
背後で閉じるドアの唸りを聞きながら、ギャスケルは、広大な室内の真ん中にぽつんと置かれた長椅子と、それに横たわる人影を認めて、ある感慨を抱いた。
反陽子砲、次元稼動ジェネレーター、癌ヴィールス生命体、呪い用合成人間――この星を百回も殺せるような兵器をすべて別の場所へ移したのは、精神誘爆の恐れがあるからだ。たったひとりの貴族の狂的な思考が世界を破壊しかねない。もっとも、世界を破滅させるには、この貴族ひとりで十分だが。
「ロカンボール卿」
と一〇メートルの距離を置いて、ギャスケルは呼びかけた。正直、この貴族のそばへは、あまり行きたくない。
長椅子の影は、ゆっくりとこちらを向いた。
鎧は長椅子の足もとに脱ぎ捨ててある。白いシャツにスカーフ、白い騎士用スラックス。端正なつくりの若い顔だけがひどく目立って青白い。
ギャスケルを映す瞳には、前になかった理性の色が浮かんでいた。
「ギャスケル将軍か」
と彼はけだるげに返した。
「左様――三つの生命のうち二つは手に入れた。あとひとつ。それも持ち主は二人もおる。どちらを選ぶかは、おぬしにまかせよう」
青い瞳の中のギャスケルが、卑しい笑みを口もとに浮かべたが、若者――ロカンボール卿は、けだるげに身体の向きを変えただけだった。
やがて低い声が、
「気がつけば与えられていた生命――さして欲しくもないが、ひとたび与えられれば捨てるのも惜しい。大将軍よ、娘たちはどこにいる?」
「会いたいかな?」
「前の二つは男のもの――私を甦らせるのはどんな娘か、生前に確かめておきたい。礼を言わねばならぬ」
「その後で殺さねばならぬが」
と大将軍は何気ない皮肉を口にし、
「参られい。引き合わせよう」
と、ドアの方を向いた。
「その前に――」
こう呼びかけられて、ギャスケルは立ち止まった。ぞっとした風がないでもない。
「一手所望する」
ギャスケルはふり向いた。ロカンボール卿は、長椅子のかたわらに立っていた。下げた右手に長剣が光っている。
その姿を凝視しているうちに、ギャスケルの瞳に、凄絶な光が湧き上がってきた。彼もまた勇猛果敢な戦士なのだった。
「よかろう。だが、わしに挑んだ以上、稽古では済まぬぞ」
と、およそ理不尽な台詞を吐いて、精神《こころ》はすでに、ロカンボール卿を滅ぼすことにのみ集中している。
どちらからともなく、抜き合わせた。
青光る長剣とその倍は優にある黒い巨剣とが、五、六メートルの距離をおいて対峙する。
その切っ先がどのような弧を描くか――常にうす闇を湛えているかのような冷え冷えとした巨大な空間に、緊張が張りつめた。
どちらが先に間合いを詰めたかはわからない。
美しい音と火花が散ったのは、二人を隔てる床の真ん中であった。
ギャスケルの突きを間一髪でかわしざま、音もなく滑り寄る刀身。それを左の手甲で受けるや、大将軍は突きを連続させた。
三本まで打ち合わせ、――及ばずと見たか、ロカンボール卿は後方へ五メートルも跳びずさった。
着地した。眼の前にギャスケルがいた。同時に、同じ距離を跳んだのである。
「それはシューマ男爵の秘術――横取りは恥と思え」
言うなり、完全に密閉されているはずの空間に白い光が生じた。ギャスケルの放った稲妻がロカンボール卿を貫いたのである。
苦悶する若い顔。のぞきこみ嘲笑する半顔の鉄仮面。また、新しい顔が――笑み崩れるロカンボール。驚愕のギャスケル。
なんとギャスケルは全身に、ロカンボールと同じ灼熱の痺れを覚えたのである。
愕然と彼は稲妻の放射を止めた。
全身から白煙を立ち昇らせつつ、ロカンボール卿は静かに言った。
「これは、おぬしの秘技だぞ、大将軍」
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第六章 身中の虫
1
うす闇の中で、レディ・アンはDのことを考えていた。奇跡以外に、現在の境遇から逃れられるとは思えなかった。
金縛りの状態にあったDを救ったことで、満足するしかないのかも知れない。
それでもよかった。焦がれぬいた男のために何かをしたのは間違いない。あの若者は、レディ・アンのことなど歯牙にもかけていないかも知れないが。それでも、できるだけのことはやったのだ。
「レディ・アン」
誰かがこう呼んでも、レディ・アンはそちらを見ようともしなかった。黒衣の若者がその胸を熱く占めていた。
「レディ・アン」
二度目でようやく眼を開けた。呼ばれた事実よりも、呼んだ相手のせいである。
閉じたきりのドアの前――
うす闇を刷いた床に落ちる人影――ギリス少将であった。
「監視装置も警報器も壊してある。さ、逃げるのだ」
「あなたも物好きな――」
レディ・アンは絶句した。
彼女はギャスケル大将軍がギリス少将に課した実験の結果を知らなかった。自分の生命惜しさに、少将はいわばレディ・アンを売ったのである。
だが、あまりに不甲斐ない服従ぶりは、どうやら擬態であったらしい。彼は自らを唾棄すべき変節漢に仕立て上げ、ギャスケルの眼をくらませた上で、レディ・アンを救出する道を選んだのだ。
その愛の形は、尋常なものから比べれば確かに歪んだいびつなものではあるが、生命を賭してまでレディ・アンを救おうと試みた心情は、見上げたものとしか言いようがあるまい。
半ば呆れ、嫌悪しながらも、それだけはわかるのか、
「――どうやって、ここへ?」
とつぶやいたレディ・アンの声にも、感動の響きが隠せない。
「影に厚みはない。その気になれば、“御神祖”の寝所にも忍びこんでみせるぞ。さ、逃げる用意をしろ」
「用意と言われても」
「動けるな?」
「ええ」
レディ・アンは立ち上がった。
「では、脱げ」
「は?」
「報酬の一部はここで貰いたい。――脱げ」
影の声は上ずっていた。明らかに状況設定に興奮しているのである。一分一秒を争う脱出の瞬間に、嫌がる娘の衣類を剥ぐ。――確かに、レディ・アンが、
「この変態親父」
とののしったのは正鵠を射ていた。しかも、
「報酬の一部って、どういうことよ?」
「それは――キミ」
と少将の影は言いよどんで、
「いまは見るだけということだ」
「後で何かしようって腹ね」
「その辺は――話し合おう」
「話し合う必要なんかないわよ! そんな条件つきなら、私、ここに残るわ」
「愚かな。ここにいれば死ぬだけだ。ロカンボールは、私のように女に優しいという美点は持っておらん」
「あなたは優しいんじゃなくて、変態なだけよ。あなたみたいな――」
ここで言いよどんで、
「何だかわからない変態のいうことを聞くくらいなら、ここに残って、ロカンボール卿に殺してもらった方がまし」
「ロカンボールはDを狙っておるぞ」
影の放った言葉は、レディ・アンを凍りつかせてしまった。
「そのために奴は復活したのだ。おまえがみすみす奴の完璧な眼醒めに手を貸せば、それはDに最強の敵を与えることを意味する。それでもいいのか?」
ほとんど地獄へ落ちたような表情のレディ・アンへギリス少将の声は、天上から下ろされた一すじの蜘蛛の糸のごとく響いた。
「奴はまだ二人分の戦士の生命しか吸収していない。私とおまえが逃げれば、半覚醒の状態でDと戦わねばならんのだ。それならDが勝つ。ロカンボールに勝ち目はない。だが、奴が完全なる眼醒めを迎えたら――Dとて歯が立つまい」
「違います!」
このとき、レディ・アンは身を震わせて叫んだ。
「あの人は勝ちます。私の愛した人は絶対に負けない。それが、どんなに厳しい条件下の戦いでも。また、敗れたとしても――そのときは私も一緒に滅びましょう」
影は少しの間、沈黙を守った。驚きがその心臓を止め、声帯を握りしめているのは確かだった。
「わかった、わかった」
とギリス少将はあきらめたように言った。
「そこまで思いつめているのでは、仕方がない。好きにするがいい。私もこれで去ろう。だが、もう一度だけ尋ねる。レディ・アンよ。私とともに逃げる気はないか?」
「毛すじほども」
「わかった。――おまえの死を見たくはない。私はこのまま去ろう」
「はい」
無慈悲といってもいい返事であった。それきり黙って、ギリス少将たる影はドアめがけて前進し、ドアと床の間の線に達するや、あっという間に吸いこまれて消えた。
レディ・アンは、またため息をひとつつき、床の上に横たわった。彼女の想いは、Dとともにいることであった。眼を閉じれば、世にも美しい顔が静かに彼女を見つめている。その眼差しは現実のものより少し優しかった。
その身体が、一瞬、緊張した。黒い影が突然、背後から彼女にのしかかったのである。いや、貼りついたというべきか。
それは出て行ったドアと床の合わせ目から、ふたたび入りこんできたギリス少将の影であった。
身じろぎひとつする間もなく、レディ・アンは金縛りにされた。声ひとつ出ない。それどころか、影が立ち上がるや、彼女もまたすうと直立したのである。いや、この場合、レディ・アンが立ったから、影も立てたというべきか。
それはとにかく、レディ・アンはぎごちない歩みでドアへと近づき、耳もとでギリス少将の低声を聞いた。
「やはり、惚れこんだ女をみすみす死地に置き去りにするわけにはいかん。――錠は外してある。さあ、参れ。いいや、ともに抱き合ったまま、別世界へと赴こう」
廊下に人影はなかった。
階段の方へ向かおうとしたとき、下方から幾つかの足音が近づいてきた。現われたのは、従者の服を着た銀色のノッペラボーであった。つるつるの顔には眼も鼻も口もない。アンドロイドである。
貴族が従者を選ぶ場合、その性質《さが》獰猛な者ほどアンドロイドのような絶対服従の機械を選ぶことが多い。人間や同類では気にさわるのである。
「私の恋人を連れにきたか」
ギリス少将がつぶやいたときにはもう、レディ・アンを確認したアンドロイドたちは、大股にこちらへ向かってきた。
「がらくたどもめが」
笑いさえ含んで言うと、影の手が拳を結んでレディ・アンの脾腹を突いた。
ふわりと崩れる身体から、床へ映った影をめざとく見つけたアンドロイドの眉間のあたりから、紫の粒子ビームが迸って影を射ち抜いた。
床の貫通孔だけを残して、影はアンドロイドの足下へと走った。そもそも厚みのない影を破壊することができるのか。
影はアンドロイドの足に貼りつき、その胴体から背中へと抜けた。
ふたたび足から床へ戻ったとき、厚みのない刃に貫かれたアンドロイドの身体は激しく痙攣し、襟や袖口から黒煙が噴き上がった。
突っ立ったまま、がくりと首を落とした一台の背後で二台目が痙攣する。五台の機械人形がスクラップになるまで、十秒とかからなかった。
地を這う影は神速で倒れたレディ・アンの背中に戻った。
レディ・アンの眼が開かれ、相変わらず声は出ないまま、少女は立ち上がった。
そして、アンドロイドの死骸の向うに立つ紫紺の姿を目撃したのである。
「ギャスケル大将軍」
「その声は――? ほう、そうか。ギリス少将が憑いたか」
と大将軍は半眼に人間らしい驚きの表情を浮かべて、
「やれやれ、我が威光も地に堕ちたか。たかが暗殺好きな一貴族に反抗されるとは、末代までの恥辱だな。それを雪がねばならんとなると――ギリス少将、覚悟はできておろうな?」
「それはもう」
レディ・アンが眼を剥いた。声は彼女の口からしたのである。
「ですが、大将軍の手にかかれば、ロカンボールを完全に甦らせる三人目の犠牲者となりましょう。そこで、この娘――ゼノン公ローランドの忘れ形見にして、私の愛するレディ・アンを、何とか見逃してやっていただきたい」
「ほう、自分の身を捨てて、娘を逃がすというか?」
ギャスケルの片手がのびて、すぐ前に立つアンドロイドを押しのけた。それは石壁にぶつかり、金属ではなく、粘土がつぶれるような音をたててから床に落ちた。顔はひしゃげていた。
「そのとおりです」
ギリス少将は――レディ・アンは一歩下がった。
そちらに道はない。行き止まりだ。逃れるには窓がひとつ。しかし、外は一〇〇メートルもの垂直の壁である。
「信じられぬな」
ギャスケルはなおも前進した。二台のアンドロイドが左右の壁に激突した。
「私も齢《よわい》四百五十三年を閲《けみ》して、ひとつ、真実の愛に生きようかと」
レディ・アンは数歩下がり、ついに窓の脇に来た。眼に恐怖の色がある。本来、不死の貴族は、いかなる高度から落ちようとびくともしないものなのに、彼女の抱いている恐怖は異常とさえ思える強さだった。
「それは結構な心がけだ」
ギャスケルの左右で最後のアンドロイドがつぶれた。
「だが、おぬしがいま我が手にかかって滅びるのは、ロカンボール卿のためではない。純粋にわしへの裏切り行為のゆえだ。したがって、その娘は最後のひとりとしてロカンボール卿の復活に捧げられる」
「なんと無慈悲な」
「それが辺境の掟だ」
「ごもっとも。――ですが、私めは好きませぬ。あなたは、所詮、田舎貴族でございました」
ギャスケルの手が黒剣の柄にかかった。
獲物たちの背後に逃げ場はない。その確信が、動きを遅くした。
「おっ!?」
声より早く、鞘走った一刀が窓の前の空間を薙いだとき、レディ・アンは、その背に貼りついた“闇人”もろとも、地上一〇〇メートルの窓の外へと身を躍らせていた。
2
レディ・アンは悲鳴を放った。断末魔のそれは、頭の中で鳴り響いただけだった。
彼女は失神した。
だが、その代償に彼女は落ちなかった。ギリス少将の四肢は、レディ・アンの身体に貼りついたまま延長され、塔の外壁にその身体を固定したばかりか、まるで蜥蜴《とかげ》かその手の爬虫類みたいにするすると降下しはじめたのである。
同じ窓から身を乗り出し、ギャスケル大将軍は、おのれとひとこと叫びざま、脇差を投げつけたが、それは石壁に七メートルほどの裂け目をつけたばかりで、レディ・アンと“闇人”はあっさりとかわし、たちまち地上へ到達してしまった。
レディ・アンは立ち上がり、塔の方をふり向いて、ギリス少将の声で笑った。
その笑いが途切れたのは、彼と彼女が跳び出した窓から、ギャスケル大将軍が跳躍したのを見たからだ。
「しまった!」
ひと声叫ぶや、影はするりと、レディ・アンの背から身体の前部に移動した。前方へ伏せた。
そして、これまでレディ・アンの身体を操っていたものが、今度は彼女を背負う形で、猛烈なスピードで疾走しはじめたのである。あたかも、地を覆う闇が、そのまま彼の全身であるかのごとき神速ぶりであった。事実、闇が彼と同等の濃さを持っていたらそうであったろう。だが、ギャスケルの城には、窓から洩れる灯火や庭の照明等、おびただしい人工の光が存在し、それらが直接届かぬはずの空間まで、闇の色をうすめてしまうのであった。ギリス少将の支配し得る闇の国は、自らのサイズ内に留まるのだ。
塔の前は広場であった。レディ・アンがその真ん中まで来たとき、ギャスケル大将軍は、ようやく、落下地点に自らの穿った陥没から立ち上がったところだ。
――逃げられる
とギリス少将は確信した。
前方の地面から、波が押し寄せてきた。ギリスには珍しく、急制動もかけられずに、それに触れた瞬間、切り裂かれるような痛みを全身に覚えて、停止した。
――もうひとりいたな
二〇メートルほど前方に、鎧武者が立っていた。全身から放たれる殺意の波は、なおもギリス少将の身を切り刻もうとしていた。
焦燥がギリス少将をせきたてた。背後に遠く、ギャスケル大将軍の気配を感じたのである。
負けず劣らず凄絶な鬼気が迫ってくる。
「将軍」
とロカンボール卿が口を開いた。大将軍ではなかった。
「どちらもいいのか? 二人いる」
「構わぬよ」
ギャスケル大将軍の返事は、やや不機嫌そうである。大[#「大」に傍点]抜きはよろしくないらしい。
「だが、できれば女の方にせい。ギリス少将はわしが始末する。本来は四人の生命が欲しいところだが、おぬしなら三人分でDと互角に戦えよう」
「それはそれは」
ギリスは朗らかに笑った。腹を据えたらしい。
「お忘れですかな、大将軍。私とグレートヘン博士がともに、“貴族殺し”と呼ばれていた事実を?」
闇のさなかで、ギャスケルの凶相にさっと動揺の色が走った。それよりも、地を走る“闇人”の方が早かった。
黒い影が巻きついたギャスケルの身体は、自ら大きく反り返って後頭部を地べたへ叩きつけていた。一〇〇メートルを落下して起き上がる超人に、さして効果があるとも思えなかったが、何と彼は白眼を剥いて失神したのである。
そして、背についた影は胸へと抜けた。
「がわぁぁぁぁ」
恐らく、いかなる凄絶な死闘の際も、洩らしたはずのない無惨な苦鳴が大将軍の口をついた。
その襟もとから胸前から袖口から裾から、黒血が溢れ出たのは、数秒後のことだ。彼は失神したまま、のけぞり、身悶えした。四肢はあり得ない形に曲がり、踊る断末魔の死のダンスだ。
その身から影は離れ、なお立ち尽くすロカンボール卿の方を向いた。
びゅっと風を切って黒い光が飛ぶと、地上を走るギリスの影を地面に串刺しにした。
影は水のように流れ去り、後には黒い刀身が残った。
立ち尽くす卿の靴底から足へ。足を登って胴へ――今度は一発でとどめを刺す!
だが、その刹那、世にも恐るべき事態が発生したのである。
死の影に巻きつかれたロカンボールの身体が、地面に崩れ落ちたのだ。それは、ギリスの技でもロカンボールが気死したせいでもなかった。
「お、おまえは!?」
ギリス少将がとまどったのは当然だ。まさか自らの超能力を相手も具えていたとは。
もつれ合う影と影との死闘をレディ・アンの虚ろな眼だけが、見つめている。
突如、離れた。
「ぐうううう」
影のひとつから、耳を覆いたくなるほどの苦鳴が洩れた。
それとは別の影が、しゅるるとレディ・アンの方へと走り、地面と身体の間に滑りこむや、可憐な娘は猛烈な勢いで、最も近い裏庭へとつづくドアに向かって流れ出した。
だが――うす闇の庭には、細いすじが一条、レディ・アンの軌跡のとおりに黒々とつづいている。
「出血がひどいな」
とレディ・アンはつぶやいた。当人は失神しっ放し、ギリス少将の声だ。
「奴は影に慣れていなかった。何とか一矢は報いたが、じきに追ってくるだろう――おれもあまり保ちそうもない。とすると――」
レディ・アンの動きが止まった。
広大な裏庭のほぼ中央――大理石の散策路の上である。
うつ伏せた身体の下から、人影が分離した。
男のものらしい横顔が、じっとレディ・アンを見つめて、
「何とか助けようとしたが、これまでだ。私も滅びるが、後悔はしていないよ、お嬢ちゃん。君のような娘に会えて、しあわせだった……。しかし、君がおめおめ、ロカンボールの生贄になるのを見捨ててもおけん。それなら、いっそ、私の手にかかってくれたまえ」
最後の力をふり絞っているのか、レディ・アンに近づく影の動きは、ひどくスローモーであった。
その手が、少女の身体にのびる。“闇人”にくぐり抜けられた者は、大将軍でさえ地獄の苦しみに身を灼かねばならない。レディ・アンの滅びは確実であった。
のびた手が、レディ・アンの胸に這い上がり――激しく痙攣した。
地に落ちた影の胴体を――背中から心臓にかけて、長剣の影が貫通していた。
それを握った影の手は肘から、生身の、地面に片膝をついたロカンボール卿に戻っていた。
引き戻すと、手も長剣も尋常の姿に戻った。
「きさ……ま……」
ギリス少将のうめきは、少なからず卿を驚かしたようであった。必殺の一撃は文句なしに心臓を貫き、少将を即死させていたはずであった。
執念だ。レディ・アンへの狂気のごとき想いが、死人を死なせないのであった。
「渡さんぞ……この娘は……私のもの……だ」
両手を広げて掴みかかる影をたやすくかわし、ロカンボールは剣先を地につけた。それは影と変じて、ギリスの影をもう一度貫いた。
ギリス少将はのけぞり、最後の痙攣に包まれた。
もはやこれまで。ロカンボール卿は立ち上がり、レディ・アンに近づくと、その胸の上に長剣の切尖を当てた。
鋼の先が胸の肉に食いこむ。
それを外して、
「美しい娘だ。確かにもうひとりおったな。どちらが美しいか見比べてからでも遅くはあるまい」
とロカンボール卿は、彼方にそびえる城館の影に眼をやった。
ギリス少将の攻撃は、ギャスケル大将軍の理解と経験さえ遥かに凌駕するものであった。
細胞のひとつひとつが焼け爛れ、窒息し、嘔吐する感覚に、彼は呻吟し、のたうち廻った。現実に脳は死に[#「死に」に傍点]、心肺機能は完全に停止したのである。
復活には十分を要した。
「水を」
とつぶやき、ギャスケルは左手を上げると、前腕にかぶりついていた。
黒血がこぼれた。したたるそれを、彼は砂漠の遭難者のように呑みこんだ。
少なくとも一リットルは貪ったであろう。
ようやくひと息ついて、唇を拭ったとき、
「気が済んだか?」
と遠い背後で誰かが訊いた。
思わず前方へと跳躍し、五メートルも先に身をひねって着地したのは、いかに飢えていたといっても、背後に近づく気配に気づかなかった驚きと恐怖からであり、気配の主がどこからやって来たのかという疑念からであった。
「――D!?」
サイボーグ馬にまたがった黒衣の美影身の背後で、開かずの門のひとつは大きく口を開けていた。
「どうやって、わしの城の門を抜けた? きさま――何者だ?」
「レディ・アンとロザリアはどこにいる?」
Dの放つのは、常に問いであった。
「ひとりは城館の地下に、もうひとりはいま、裏庭へロカンボール卿が追っていった。じきに会えようぞ」
「待てんな」
黒衣が翻った。馬のかたわらで、Dの背が鞘走りの音をたてた。
その響きだけで身を切られるような錯覚に襲われ、ギャスケルもまた長剣を抜いた。
「その前に――」
と彼は剣の切先を下段に置いて言った。妙にさっぱりとした声であった。
「いまのおぬしの侵入の仕方で、ひとつわかったことがある。実に驚くべき事実だが、わしはさして気にならぬ。おぬしと会ったときから、知らぬ間に悟っていたような気がする。しかし、わからぬ。“御神祖”は何故、我々におぬしの抹殺を命じたのか」
ギャスケルの頭上に喘ぐほど美しい闇と顔が広がった。黒衣という名の闇が。
そこからたぎり落ちる銀光を、ギャスケルはかろうじて受け止めた。
鋼の衝撃音は、すべて全身を突っ走る痺れに変わったようであった。
頭がかすんだ。
――何という――やはり、“御神祖”の……
不意にバランスが崩れた。鍔ぜり合いになった刃を、Dがつっぱずしたのだ。
よろめく大将軍の腰へ一刀が。だが、巨体は魔鳥のごとく刀身の上を跳んで、Dの背後に立った。
ここぞと背中へ袈裟がけに走る剛剣――右の首すじから左脇の下へと抜けるはずの刀身は、しかし、激しい衝撃と火花とともに跳ね返った。ふり向きもせず、Dは肩越しに一刀を下ろして受けたのだ。
一瞬の怒りに逆上し、ならば突いてと巨剣を戻し、
「でええええええい」
絶叫して鉄をも貫く必殺の突き――見事にDの頸を貫き通した。
それが虚空に残る残像だと知った刹那、後ろへ倒れざまに、こちらも突いたDの刀身は、鮮やかに大将軍の左胸を貫いた。
声もなく身を震わせ、しかし、ギャスケルは大きく跳びのいていた。
そのまま、二跳び、三跳び――城館へとつづく回廊の扉の前まで跳んで、
「残念だな、D。わしの心臓は右にある」
と喚いた。その口から血塊がこぼれた。
Dが新たに地を蹴る前に、彼は肩から扉の内側へ、我が身を押し入れた。
鋼の扉が閉じ、わずかに遅れて、白木の針が表面で跳ね返った。
Dは追わなかった。
身を翻して、裏庭へ向かう。そこにロカンボール卿と娘二人の片方がいるはずであった。
3
意識を失ったレディ・アンを肩に担いだまま、ロカンボール卿は城館へと戻った。もうひとりの女――ロザリアの居場所は、大将軍に聞いてある。
迷路のような階段と廊下を辿って、ようやく出現した鉄扉の向うで、ロザリアは真紅のベッドに埋もれるがごとく横たわっていた。
その顔と、肩から覆いかぶさったレディ・アンの顔を、髪をひっ掴んで持ち上げ、見比べて、ロカンボール卿はにんまりと唇を歪めた。貴族特有の朱唇から白い乱杭歯が不気味にのぞく。
「なるほど、どちらもなかなかの美形だ。こちらの娘の生命を貰うのも、とりあえず、惜しくなったぞ。ここで、ギャスケル将軍を待つとするか」
そう言うと、荒々しく少女の身体を床に放り出し、卿は一刀を床について、その柄に身体をもたせかけた。
眼を閉じ――開いた。
「凄まじい剣気が迫っている」
誰に言うともなくつぶやいた。
「ギャスケルではあるまい。すると、残るは――D。じきにここへ来そうだとなれば、奴の平常心を狂わす仕掛けを施さねばならんな」
双眸がレディ・アンを見つめ、ベッドのロザリアへ移った。ふと、眉が寄った。
「この娘……」
別人が洩らしたような口調である。かといって、胸に浮かんだ何かを確実に把握することもできなかったらしく、訝しげな表情を少し濃くして、
「私の対D戦術に加担してもらうとするか」
と邪悪なかがやきを眼に宿した。
Dは階段の途中で立ち止まった。
感覚が異常を告げている。確かに下へ降りているのに、五感は一歩も前進――下降してはいないと訴えているのだ。
「迷路にはまったの」
と左手が興味津々といった声で告げた。
「ギャスケルの城に同調していないと、どこまで行っても、果てしない階段巡りというわけだ。――どれ、土と火は面倒だ。水と風だけでやってみるか」
Dの左手を前へ突き出したのが、D本人か声の主かはわからない。
その手のひらに、むくむくと小さな顔が浮かび上がったのである。そして、もっと小さな、皺だらけの唇を尖らせた。
Dは右手を突きだし、左の人さし指を手首に走らせた。さしてのびた爪とも思えないのに、肉は裂け鮮血が滴った。それはすべて、下方に移動した左手――その小さな口腔に吸いこまれたのである。
三秒ほどつづけて、Dは左の手のひらを傷口につけた。ちゅうという音がして、出血は止まった。
左手を離すと、Dは頭上に掲げた。手のひらのあたりで、細い風の音が聴こえた。
それが、ごうごうたる嵐の怒号に変わるまで、二秒とかからなかった。
小さな口が空気を吸いこんでいる。その口腔の奥のさらに奥で、いま青白い炎が噴き上がった。
Dの眼が血光を放った。
黒髪が巻き上がり、針のごとく打ち合う。
食いしばった歯の間から鋭い牙が生えてきた。
体内を流れる血の顕現――Dは吸血鬼そのものと化した。
「することは――わかるな?」
と嗄れ声が訊いた。
返事はない。Dの唇から洩れたのは、絶叫であった。
地下の一室で、ロカンボール卿が、ふと、耳をそば立てた。
「なんという凶暴な叫びだ。なんという力強い叫びだ。なんという美しい叫びだ。そして――なんという哀しい叫びだ」
その足下でレディ・アンの声がした。
「わかるわ。聴こえる。あの方の叫びなのね。じゃあ、近くにいるんだわ」
少女もまた、Dの叫びを聞いて眼醒めたのか。言ってから、レディ・アンはロカンボール卿の顔をしげしげと見つめて、
「まさか……」
絶句した。
「あなた……泣いていらっしゃるの?」
「よし」
嗄れ声と同時に、Dの叫びは止まった。崩れかかった美しい黒い像のように彼はよろめき、しかし、倒れなかった。
震える右手が肩の長刀にかかった。抜き放った刀身を、Dは無造作に足下の階段に突き立てた。
その位置から下へ、階段は軟体動物のように溶けた。
Dはふり向いた。背後の分も、影も形もない。
左右の壁も消え、彼はたった一枚の階段を支えに暗黒のただ中に浮いているのだった。
次の瞬間、彼は身を躍らせた。なんのためらいもなかった。コートが黒い深淵に挑む魔鳥の羽根のように翻った。
――――
靴底が固い地面を踏むまでの時間はゼロだと、身体が伝えた。
Dは地下の廊下に立っていた。背後に階段がある。いつから降り切っていたものか。足下の床には、細長い刀痕が確かに残っていた。
右方は行き止まりである。Dは反対側の通路の奥へと歩き出した。
鉄扉が現われた。押すと、きしみつつ開いた。
様子を探る必要はなかった。
真紅のベッドに横たわるロザリアのかたわらに、仁王立ちになった装甲の騎士。その足下に伏せたレディ・アンは、片手で上体を支えていた。
「よく来た、Dよ」
とロカンボール卿は静かに迎えた。どこか物憂げな声である。
「勝てんぞ、それでは」
とDが言った。
その全身から不可視の鬼気が迸ってロカンボールを襲った。ロザリアの全身が痙攣し、レディ・アンが小さく呻いて自分を抱きしめる。
「ほお」
とDの左手が唸った。ロカンボールに触れた刹那、鬼気は消滅してしまったのである。
「さすがはギャスケルの最終兵器じゃの。――これは、おまえも危ない」
二人の距離からすれば、決して届かぬささやきであった。
「そのとおりだ」
とロカンボール卿はうなずいた。
「私の身体の中には三人の戦士の生命が入っている。それだけでも、おまえと互角。――そして、いま、もうひとりの生命を我が物としよう。Dよ、おまえなら、どちらを選ぶ?」
胸前で合わせていたマントから黒い右手がのぞいた。手は長剣を握っていた。切尖はレディ・アンの左胸に触れた。
「この娘か――それとも」
刃は黒々と移動し、ベッドのロザリアの胸に食いこんだ。
「――この女か。いいや、実のところは決まっておる。ギャスケルが、ともにおまえを斃すべく復活させた仲間は七人――最後のひとりがこの小娘よ」
刃はふたたび、レディ・アンの胸のふくらみを突いた。
あのレディ・アンが、そうされても、怯えの表情しか浮かべられないのは、三人の生命を入れたロカンボールの魔力を実感しているためか。
「本来ならば、この小娘をとうに処分しておいてもよかったのだ。なぜ、放っておいたかわかるか?」
ロカンボールの問いには、奇妙な感情がこもっていた。状況からすれば、勝ち誇り、揶揄しきった言葉であって当然だ。それなのに、彼の問いは切実であった。
Dは答えない。ロカンボール卿はつづけた。
「私はさっき、おまえの声を聞いた。あれはまぎれもない貴族の声であった。ダンピールの声ですらなかった。正真正銘の貴族――Dよ、おまえは何者だ? それほど濃密な貴族の血を引くものが、なぜ、我々を狙う? そして、Dよ。我々はなぜ、いま、おまえを斃すべく、新たな生を授けられるのだ?」
それは闇の成分さえ変化させそうな悲痛な響きであった。天の摂理において、問われたものは応じねばならない。
Dの唇が開き、鋼のような声が洩れた。
「新たな生、とはいえまい」
「なに?」
「新たな滅びかも知れん。確実な滅びかも」
ロカンボールは沈黙した。マスクの下の眼には、明らかに動揺があった。それが収まるほんの数秒の間に、彼はある結論に達した。
「新たな、確実な滅び――我らはひょっとして――」
その声の、驚きさえ色褪せたあまりの絶望に、レディ・アンがはっと彼の方を見上げた。
見上げた視線の先に、巨大な石像がそびえていた。天を圧するといってもいい。地上を睥睨していると見てもいい。
仁王立ちになったその足下で、ギャスケル大将軍は、不可思議な眼差しを、遥かな高みの石の顔へ送った。
「貴方のおかげで、新しい生は、この上なく不幸な結末を迎えそうですぞ、御神祖」
してみると、これは“神祖”の像なのか。現実に彼と敵対し、矛を交えた史上最悪の反逆者ギャスケル大将軍の城に、なぜ、“神祖”の像が屹立しているのか。
それは、像を見ればわかる。
単なる石像から溢れる威厳は、見るものを圧倒し、抵抗し得ぬ畏怖の情を胸中に灼きつけずにはおかぬ。
ひとたび彼と戦ったギャスケル大将軍が、宿敵ともいうべき人物の石の像を、さすがに彼以外はその所在も知らぬ城の一室に安置したのもむべなるかな。
「七人のうち五人までが斃れ、残るはロカンボールと小娘のみ」
とギャスケルはつづけた。どこか反抗的な口調に、悲哀めいた響きが滲みはじめた。
「その小娘の生命も奪い、十中八九、彼は勝ちましょう。それが我々に与えられた貴方の使命でした。それは、私が築いた貴方のこの像の手に、私が加えた覚えのない石板の文字として描かれていたのです。刺客たる七人の名とともに。最後のひとりだけは、摩耗して読み取れませんでしたが、ゼノン公の娘でございましょう――」
“神祖”の像は いまも石板を手にしていた。そこに刻まれた指令も七つの名も摩滅し、もはや読み取ることはできなかった。
「私はその七人を集めるだけでよかった。彼らの脳にもまた、Dを斃すべき指令が、永劫に消せぬ烙印のごとく刻みこまれていたからです。ですが、五名は滅び、わしもまた重傷を負いました。“神祖”の力なら、彼らにDを凌ぐ力を授けることも不可能ではなかったはず。五名が斃れたとき、わしはこの事実に気づき、同時に、ある身の毛もよだつ推測の虜になったのです。――神祖よ、我々は、ひょっとしたら。……いや、まさか――そのような。いかに神祖とて、そのような所業は……我々はあくまでも、Dを斃すために呼び集められたもの。でなければ、滅んでも滅び切れぬ」
ギャスケルの腰から黒い稲妻が逆しまに流れた。
ふりかざした剣を、ギャスケルは石像を威嚇するかのようにふった。
「そうでござろうが、神祖よ。明言下され。我々はDを斃すために生まれ変わったもの、Dに斃されるために生まれたのではない、と。――いや、それはすぐに証明される。ロカンボールがDの心臓をえぐり、首を刎ねたときに。あ奴は、三人分の生命を手に入れた男。いかにDといえども、及びはいたしません。今頃は最後の――四人目の生命も呑みこみ、恐るべき無敵の剣士となっておることでございましょう」
いつか、すがるような口舌になっていた。これが史上最凶と恐れられた大将軍の声だろうか。
彼は口をつぐんだ。
「神祖よ」
それは祈りに近い言葉だった。
頭上で気配が動いた。
ふり仰ぎ、ギャスケルは、おお、と叫んだ。
像の手が下りてくる。摩耗した指に石板を握りしめたまま。
読めとでもいう風に。
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第七章 惨割(ざんかつ)の剣
1
貴族がいようといまいと、その居城が遺る地域の闇は、ことさら濃く深いという。
年に何度もない祭りの日、踊り廻る人々が、城館の窓に灯る明かりを見て戦慄し、宴の終焉を知る――そんな恐怖がこもっているためだ。
一説によれば、貴族の――それも大貴族の苦悩する晩に限って、闇は自らの身を切り裂き、咬み破り、さらに濃密な闇色の血を流すといわれる。
だとすれば、今夜、ギャスケル大将軍の城を取り巻く闇は、信じられぬほど深いものであった。
ある想念が、ひとりの恐るべき貴族を懊悩の亡者と化せしめていた。
彼はすでに問うていた。
自分は、なぜ、ここにいるのか、と。
「Dよ」
と彼は敵の名を呼んだ。
「Dよ――知っているのなら答えてくれ。我々は、おまえを斃すためではなく、斃されるため[#「斃されるため」に傍点]に甦ったのではないのか?」
きん、と空気が凍りついた。
Dは答えない。
だが、世界が知った。
ロカンボールが。
レディ・アンが。
眠りつづけるロザリアまでもが。
そのとおりだ、と。
「やはり、な」
とロカンボールはうなずいた。
「さっき――おまえを待つあいだに、ふと思いついたのだ。我々が、長い死の眠りより呼び出された共通点は何か、と。戦闘の技か? いいや、他にも比肩すべき者たちがいる。――となれば、七人はまるでつながりのない、ばらばらの存在なのだ。こと、おまえに関しては、な。そこで考えた。我々を甦らせたのはギャスケルだが、彼を復活させ、あまつさえ、我らを招集したのは“神祖”である、と。“神祖”に対する我らの共通点とは? 考えるまでもなかった。我々は生前、ことごとく“神祖”に反抗してきた者ばかりなのだ。その頂点に君臨するのがギャスケル将軍なのはいうまでもない。彼もまた、滅ぼされるべく[#「滅ぼされるべく」に傍点]復活してきたのだ。――これですべて理屈がとおるぞ、D」
ロカンボールの眼に、凄まじい絶望が荒れ狂った。
彼はのけぞって笑った。そのあまりの凄惨さに、レディ・アンは思わず耳を覆った。
「滅びるための生か。はは、よかろう。“神祖”の意志ならば、いかなる抵抗も無駄だ。だが、無駄な抵抗といえど、抵抗は抵抗だ。そうする者の意志は、たとえ虫ケラのものでも伝えねばならん。Dよ――私は滅びても、おまえも生きては帰さぬ。おまえが救いに来たこの娘もろともな」
ロカンボール卿の剣は、寝台のロザリアへと上がった。
「待って」
と叫んだのは、レディ・アンであった。ロカンボールの手が止まらぬのを見て、少女はこうつづけた。
「この女――私に殺させて下さいませ」
「おや」
と洩らしたつぶやきが、Dの左手からだと見抜いたものはない。レディ・アンの突発的行為に、驚きの感情を示すものもない。
Dを盲愛する娘――考えてみれば当然のことだ。
「D――あなたはどうしても、この女を救おうとなさいますか?」
必死に立ち上がり、ロザリアの方へ腕をふって、少女は叫んだ。
「誓って申します。この女は、あなたを愛してなどいません。あなたを愛しているのは、この世で私ひとりです。それなのに、あなたが私を捨て、この女を救おうとなさるのなら、私はいまこの場で息の根を止めてやりましょう。Dよ、私を好いてくれとは申しません。ですが、せめて、この女よりは私を優先して。私がこの女を殺すのを、黙って見ていて下さいませ」
レディ・アンの叫びは憎悪と哀しみにまみれていた。可憐な手が口もとに上がり、赤い薔薇を掴んで戻った。
「これを胸に――」
ああ、メフメット大公を、グレートヘン博士を、闇人たるギリス少将を死の淵へと追いやった死の花を、生身の人間が受けたらどうなるか。
「二秒とかからずに木乃伊《ミイラ》――よくごらんなさいませ、ロカンボール卿」
少女は右手に吐き出した薔薇を、ベッドへ放ろうと右手を上げた。
白い針が花を貫き、石づくりの壁にめりこんで止まった。
貫く――いや、次の瞬間、ぼろぼろになってしまった薔薇を、手の中の二枚の花びらを、レディ・アンは茫然と見つめた。
「ああ、あなたはやはり、女の情で動くような男ではありませなんだ」
黒い宝石のような眼に涙が溢れた。
「それなら、私も、あなたにふさわしく、この女の生命をあくまでも」
反対の手が口もとに上がり、さらに高く、真紅の薔薇を掴んで上がった。
飛来した白木の針を、ロカンボールの長剣が打ち落とす。
その右眼に、突然、赤い花が咲いた。
何でたまろう。声もなくのけぞる。そのかたわらから跳躍したレディ・アンの繊手が、寝台のロザリアをすくい上げて、Dへと放る。
それを受け止めたDは、ロカンボールの行動を阻止できなかった。
片眼を射貫かれた激痛をこらえつつ、右手の長剣が一閃する。斬跡は着地寸前のレディ・アンの首すじを通った。
鮮血は上がらず、しかし、細い首の半ばまで斬り裂かれて、少女はどっと床に崩れて動かなくなった。
その間も、ロカンボールは片手で右眼に咲いた真紅の花を抜き取ろうとつとめていたが、ついに、
「骨まで根を張ったか」
と呻いてあきらめた。赤い花の中心から、もっと赤いものがしたたりはじめた。
ロザリアを床に横たえ、Dは静かに立ち上がった。眼の隅にレディ・アンが人形のように転がっている。
「三人分」
とDは短く言った。それは、三人の生命で自分に勝てるかと問うているのか? ロカンボールはそう取った。
「十分だ!」
彼は走った。
Dも、また。
二つの黒影がひとつに溶け――離れた。
その一部が風にちぎられたかのように広がり、巨大な血の花が咲いた。二輪。
同時に迸った鋼の刃は、互いの脇腹を裂いていたのである。正確に同じ場所を、同じ深さで。
傷口を押さえつつ二人は反転した。
「ほう、奴め、おまえの――いや、相手の技を瞬時に再現できるとみた」
Dにもそれはわかっていた。
「どうだ、D?」
とロカンボールが長剣をひとふりした。
「私は、まだ二人分の生命がある。いや、私のを入れれば三人――三度死ねるというわけだ。それを防ぐために、おまえは私を斃さねばならん。だが、そのための技を私もまた使える。あと三度、私を殺すまで、おまえの生命が保つかどうか」
Dが左手を前に突き出した。
「?」
さしものロカンボールの眼が訝しげに細まったとき、彼は一気に左手首を斬りとばしていた。
「何をする――こら!?」
「おれが斃されたら、何もせずに去れ」
とDは命じた。静かな声に鉄の意志が含まれていた。
やや間を置いて、
「承知じゃ」
と床のどこかにとばされた嗄れ声が応じた。
左手首から迸る血潮を気にもせず、
「おまえは三度――おれは一度。これでよかろう」
とDは言った。たとえ、ロカンボールが三つの生命を手にしていようとも、Dのエネルギー供給装置ともいうべき左手がある限り、勝機はあり得ない。しかし、Dがその有利なハンデを自ら放棄した理由《わけ》は?
ロカンボールの隻眼から、いっとき、殺気が消えた。
「よくわからぬが――感謝すべきなのかも知れんな」
と彼は言った。
「だが、私は滅びぬ。それがおまえのために生命を失い、私が生命を貰った者たちへの供養になる」
隻眼に新たな炎が燃えた。もはや憎しみはなく、不思議と清々しい、それだけに灼熱の闘志であった。だが、いまの自分の台詞が、その手にかかったメフメット大公がもらした言葉そのものだと、彼は気づいていたかどうか。
右眼の花からこぼれる血の流れが、不意に強まった。
同時に走った。
ともに背後に同じ距離を残し、刃の描く刃筋も同じ。きんと打ち合う火花は赤く、肩口へ食いこむ切尖の鋭さもまた等しかった。
よろめきつつ離れる二人の、その凄絶なる姿よ。左の首すじと脇腹からの出血のみならず、自ら断った左手の傷口からも鮮血を迸らせるDも凄惨ならば、首と腹とはいうまでもなく、右の眼窩に咲いた血の花から、絶え間なく血の糸をたぐり出すロカンボール卿もまた凄まじい。
三度と一度――その数は知らず、次の一撃で決着がつく。――天が知った。地も知った。
Dが刀身を鞘に収めるのを見て、ロカンボール卿は緊張した。だが、いかなる剣技を駆使しようと、彼の能力はそれを再現し得る。自信が口もとに笑みを浮かばせた。
Dが地を蹴った。音もなく静かに――猛然と。ロカンボールも同時。
三度ぶつかる――寸前、Dが大きく上体をかがめた。
その鞘から自然に滑り出た刀身に、冷たいものを感じつつ、ロカンボールは長剣一閃で弾きとばした。
Dの身体が大きく右へねじれた。剥き出しになった胸。ロカンボールの身体は刀身の直撃を敢行した。どこかでやめろと叫ぶ声を、ロカンボールは聞いた。
串刺しにする寸前、Dの身体がわずかに右へねじれ、急所を外した手応えに凍りつくロカンボールの頭上から、彼の弾いた一刀をからくも捉えて真っ向幹竹割《からたけわ》りに斬り下ろしたDの一撃――頭頂から股間まで一気に斬り下げていた。
Dすらもどのような結果を生むかわからぬ不測の攻撃を、さしものロカンボール卿の再現機能も補えなかったのである。
装甲ごと二つに裂けたロカンボールのかたわらで、Dもまた片膝をついている。
背まで抜けたロカンボールの剣を、Dは柄を握って引き抜いた。呼吸は短く浅い。
意志とはまた別の、超人的な何かによって、Dは立ち上がった。全身血まみれの姿は、美しい幽鬼を思わせた。
ふたたび片膝をついたのは、レディ・アンのかたわらであった。
それだけで、少女の蒼白の顔に、生気が甦ったのである。閉じられていた眼は大きく見開かれた。
「D――」
哀しげな声であった。
「ロザリアは無事だ」
とDは言った。
「おまえの力だ」
「よかった」
レディ・アンは微笑した。
「うれしいけど――涙、出ています?」
Dはかぶりをふった。
「やっぱりね。だから、なかなか、死ねないんだわ」
少女は死ぬことの意味も知らぬげに見えた。Dを見つめて、
「死んでゆくのに、何も言ってくれないのですね。そういう風に躾けられたのですか?」
「かも知れん」
「そんな男に看取られて逝くのを、父は哀しむでしょうね」
花のような表情に哀切な翳がかすめた。
「でも、仕方がないわ。あなたがどうしても守ろうとした女性《ひと》を、私は助けてあげられた。それで満足します」
すっと瞼が落ちた。
「いついらっしゃるかわからないけれど、あなたが私のところに来たら、同じ国で暮らせるかしら?」
Dはうなずいた。少女の眼が閉じ切っているのに気づき、ああ、と答えたとき、レディ・アンの身体は変化を開始した。
数秒後、Dは足下に横たわる木づくりの人形を見下ろしていた。神に愛された技巧者の手がけた品であろう。その顔にも身体つきにも、レディ・アンと名乗った少女の面影が、はっきりと息づいている。
かすかな物音がDをふり向かせた。
ロカンボールは、静かに眠ることを拒否するタイプらしかった。
縦に裂けた身体を左手で抱き合わせ、唇に咥えた長剣を震わせながら、残った右手で彼は血まみれの身体をレディ・アンの方へと這わせているのだった。
2
「もう……ひとり……だ」
わずかにずれた唇から、割れた言葉が洩れた。石床に立てた金属の指がその表面をこすり、空しく滑っては、また立って、今度は数十センチの前進を果たす。
「もう……ひとり……生命があれ……ば……私は……Dを斃す」
こう言いながら、彼はDを見ていない。そもそも、物を見ることができるのか。ロカンボール卿を進ませているのは、狂気のごとき妄執のみであった。
その背後で、
「違う」
と誰かが言った。
「違う!」
そう叫んで、ギャスケル大将軍は眼を剥いた。石板の文字を読んだのである。ほんの数十秒前まで、確かに摩耗し、字の形さえ定かならぬ石の表面には、七つの名がはっきりと読み取れたのである。
シューマ男爵
ローランサン夫人
メフメット大公
ゼノン公ローランド
グレートヘン博士
ロカンボール卿
そして――
信じ難い力で、ロカンボール卿はふり返り、死魚のごとき眼を大きく見開いて言った。
ギャスケル大将軍が、七つ目の名を呼んだ。
ロザリア、と。
いま、床の上から妖々と立ち上がった女は、その姿形もまぎれもないロザリアであった。
だが、Dのみはその名を呼びはすまい。眼醒めた女の目的は、Dを滅ぼすことであると、血色の両眼が告げていた。
「やっと会えたわね。本当の私と」
こう言って、にやりと笑う唇の間から、獣のような牙がのぞいた。
「七人目は、おまえか?」
とDが訊いた。
「そう。でも、それに気がついたのは今の今よ。懐かしいわ、D。あなたと旅をしていた自分が」
ロザリアは、それから、床上のロカンボール卿に眼を移して、
「最初から私を殺しておけば、Dを斃せたかも知れないわね」
と言った。
「まだ……間に合う……Dを殺……せ」
ロカンボールの妄執の生命《いのち》も尽きかけたか、朱色の正中線は太さを増しつつあった。血泡とともにこぼれる言葉は、最後のあがきにちがいない。
「お休みなさいな、ロカンボール卿」
「きさま……みなを……裏切る……」
言い終わらぬうちに、彼の身体はまたも二つに裂けた。恐るべき貴族の生命力も、ついに尽きたのである。
その死体を数秒見下ろし、ロザリアはドアの方へと歩き出した。ふり向きもせず、
「ギャスケルのところへ行くわ」
と言った。
Dがつづこうとすると、
「こら、待たんか」
どこかから嗄れ声が上がり、そちらへのばしたDの左手へ、びゅっと風を切って飛翔してきた手首が貼りついた。
「便利な付属品ね」
冷やかなロザリアへ、
「何を言うか、わしは独立した――」
嗄れ声が、ぎゃあぎゃあ喚きはじめたが、Dはひと握りでこれを沈黙させ、ロザリアの後を追ってドアをくぐった。
「来よるな、裏切り者とハンターが」
巨大石像を祀った部屋で、ギャスケル大将軍は眼を閉じてうなずいた。モニターテレビなどひとつもないが、閉じた眼の裏には何かが映るらしい。
「よし」
彼は眼を開けた。決意というには凄まじい光が点っていた。
やや顔を上向け、地鳴りのような声で、
「城を消す。完全消滅時間は十五分後だ。中止命令はすべてキャンセルしろ」
「了解。指令を実行します」
とどこからともなく機械の声が応じた。
「幸運を祈るぞ、Dよ」
ギャスケル大将軍の身体を、天井から放たれた白い光が押し包んだ。
次の瞬間、彼は城の最上階にいた。屋上である。
左斜め奥に、不格好な球体に三本の円筒を絡みつけたような物体が置いてあった。普段は下の階に格納されている脱出用の飛行体である。
大股で近づき、自動的に開いたハッチへ身を入れようとしたとき、その首を冷たいものが撫でた。
将軍はふり向いた。
彼がいた位置に二つの影が月光を浴びていた。
「ほう、どうして来た?」
もはや逃げる策は無効と認めたか、ギャスケルの声に、腰を据えた凄みがふくれ上がった。
「私は、あなたに選ばれた“刺客”よ。この城とも同調しています」
ロザリアが淡々と言った。Dはそのかたわらで美影身と化している。
「なるほど。わしのできることはおまえにも、というわけか。そう仕向けたのはわしだが」
じろり、とDを見て、
「そのハンターがわしを追うのはわかる。だが、なぜ、おまえが? 刺客の使命を忘れたか?」
「私に与えられたのは、Dを油断させて斃すこと。ひとりだけやり方が異なるせいかしら、頭の中に、ある方の意志が残留しているわ。将軍――もうあなたにもおわかりでしょうけど、私たちはDに斃されるべく[#「Dに斃されるべく」に傍点]生まれたのよ」
「わかっておる。もはや」
と将軍は答えた。
「わしらが復活する時期、そして、Dを斃すためと信じておまえたちを集めたこと、さらにはDがこの土地へやって来た事実――すべては遠い過去に、ある巨大な意志によって定められていたのだ。それはわかっておろうが?」
将軍の視線は美しいハンターを貫いた。
「おれを待つ者たちがいる」
とDは静かに言った。ギャスケルの話など、幻とでもいう風に。
「ふむ――どうでもよいか、わしの話も、この現実もな。わしは恐ろしい。おまえのその精神《こころ》が。わかるか、D? ある御方を憶い出させるからよ」
驚きの顔がDをふり返った。ロザリアである。
「まさか――それは、私の記憶にもないけれど……D、あなたは……」
「そのとおりだ、ロザリアよ。おぬしをこのような運命に導いたのは、わしではない。遥かな過去にそれを策した御方があったのだ。それは――もうわかるであろう? そのハンターとの関係も、な」
将軍は邪悪に笑った。
「さあ、どちらに牙を剥く? わしにか、Dか。くれぐれも考え違いをするではないぞ。わしとおぬしと――ふたりでかかれば、Dとて敵ではないわ」
ロザリアはDを見つめていた。その身体から鬼気のようなものが噴き上がりはじめた。
笑みを深めて、ギャスケル大将軍も一刀を抜いた。
「――D」
とロザリアが言った。その眼に光るものがあった。
「愉しかったわ、あなたたちとの旅」
その全身から垂直に気の塊が噴出したのである。それは空中で巨大な獣じみた形を取り、彗星のごとき尾を曳きつつ襲いかかったのである。――ギャスケル大将軍へ!
「愚かもの!」
叫びと黒い鋼の切尖が、獣の白い背中から抜けた。
月光の下に墨のような血潮が広がった。
首すじを押さえてよろめいたのは、ギャスケル大将軍である。獣は五メートルも離れた位置に跳んでいる。霧が集まってできたような身体には、傷痕ひとつない。
はじめてDと会った晩、谷間の犠牲者[#「犠牲者」に傍点]たちを葬ったのは、これ[#「これ」に傍点]であった。
「これで、復讐は済んだわ」
とロザリアは冷やかに告げた。将軍に? Dに?
「では、使命を果たさなくてはね。D――この獣はどんな攻撃を加えても死なないわ。私にもどうしようもないの。斃せるのは――」
ここで、ロザリアはふと、城壁の方へ眼をやった。
下は見えない。だが、何かを見たようだ。口もとに結んだ笑みは、ひどくやさしいものであった。
「あの三人組――来てくれたようよ。放っておけなかったのね」
「おまえを、だ」
とDが静かに言った。
「やさしい人たちね。人間だった[#「人間だった」に傍点]ときが、私はいちばん愉しかった」
ふと眉を寄せ、
「でも、彼ら、どうして門をくぐれたのかしら?」
Dの胸もとで、青いペンダントがあえかな光を放っていた。
「ひと言かけてやったらどうだ」
ロザリアははっとしたようにDを見つめた。その眼に光るものがあった。
彼女は石壁に近づき、下をのぞきこんだ。
やや間を置いて、
「見ろ、ロザリアだぞ」
と言う声が聞こえた。
「セルゲイよ」
Dがかすかにうなずく。
「無事だったか、やったぞ!」
「ジュークだわ」
「いま行くぞ。待ってろよお」
「ゴルドーの声よ」
ロザリアは片手をふった。
おお、と歓声が上がった。待ってろよお。
ロザリアはもとの位置に戻った。その頬を光るものが伝わった。
「あの人たちには何も見せたくない。何も見られたくないわ。――D」
言うなり、涙で濡れた瞳が血光を放射し、凶獣の狂気から成る気が跳躍した。
Dの長剣が躍った。
彼は肩を押さえ、指の間から、ワインに似た血がこぼれ落ちた。
五メートルほど彼方に着地した獣には傷痕も見えなかった。
「おまえでも……斃せんぞ、その獣は……」
飛行体にもたれかかったギャスケル大将軍の半身は血に染まっている。
「とどめを刺すなら、早うせい、ロザリアよ。城はあと五分と保たずに消滅する」
ロザリアの瞳が動揺したまま、城壁の方へそそがれた。三人を案じたのか。
一瞬――Dが跳んだ。
獣が迎え討つ。
どちらも空中で刀身と爪とをふりかざした。
その刹那、何かが起こった。
ロザリアが愕然と宙をふり仰ぎ、ギャスケル大将軍でさえ眼を剥いた。
Dが――
獣は斜めに裂けた。平凡な犬のように、声なき断末魔を放ちつつ空中に溶けていく。
同時にロザリアもまた倒れた。
倒れた瞬間、身体は斜めに断たれた。Dだけが、それを獣と寸分違わぬ傷と見て取った。
「な、何しやがる!?」
背後で聞き覚えのある声が上がっても、Dはふり向かなかった。
城壁を真っ先に乗り越えてきたのは、ゴルドーであった。ジュークとセルゲイがいま、顔を出した。城壁に鉤がひっかかっている。鉤つきのロープ銃を使ってよじ昇ってきたのだ。ロープ銃にはウィンチがついているから、銃が射手を引っぱり上げてくれる。
「見たぞ、おれは。よくもロザリアを!?」
怒りがゴルドーの脳を狂気に染めていた。もちろん、Dがロザリアを斬り倒した瞬間など目撃できるわけもない。ゴルドーが見たのは、倒れたロザリアが二つになる寸前の光景であった。位置からしてギャスケルではない。となれば、残りはひとりだけ。まさか、Dに限って、とはゴルドーは思わなかった。ダンピールという先入観がある。それに何が起こってもおかしくはない。ここは辺境なのだ。
腰の山刀を抜いて、ゴルドーは突進した。
「ゴ、ゴル」
城壁からジュークとセルゲイが跳び下りたとき、彼らの仲間は、山刀を腰だめにして、Dの背に突進していた。
Dは避けようともせず、ゴルドーの山刀は、そのつけ根まで黒い影に埋もれていた。切尖が腹から出ていた。
Dの前で飛行体が浮上した。
重傷を負ったDが成す術もないうちに上昇し、西の方角へ飛び去った。
「いずれ、な」
とDは星座を仰いでから、ゴルドーをふり返った。
輸送隊一の野性児は、ジュークとセルゲイに引き倒されていた。
「この莫迦」
「頓馬」
殴る蹴るの暴行現場を、Dは無視してロザリアに近づいた。
「術にかかってたのか?」
とジュークが訊いた。
「そうだ」
とDは答えた。もとから貴族だったとは言えなかった。
「あと二分じゃぞ」
と嗄れ声が告げた。
「城はあと二分で消滅する――逃げろ」
「ロザリアを放ってはいけねえよ」
これはセルゲイであった。
「来い」
Dは両手をのばしてジュークとセルゲイを両脇に抱えた。
「おい、おれはどうする?」
ゴルドーが異議を申し立てた。
「しがみつけ」
すでにDは城壁に寄っている。
「わあ」
ひと声叫んで走り出し、Dの首すじにしがみつく。
次の瞬間、四人は空中にいた。着地するのに、どれくらいかかったかはわからない。なぜ、衝撃がなかったのかも。
城は砂でできていたかのように崩壊した。
粉塵が激しく吹きつけ、Dを除く三人は眼を固く閉じて顔をそむけた。
「刃物は使えるか?」
とDが訊いたのは、砂塵の嵐が終息してからであった。
ジュークとセルゲイの視線を浴びたゴルドーが、きょとんとした眼で両手を眺めた。
「何でもねえ――あんたを刺したのに……」
「ロザリアの贈りものだ」
とD。理由は言うまでもない。その姿勢で、ゴルドーは大地に両膝をついた。髭だらけの顔を、涙が伝わっていった。
一行の旅が終わったのは、一週間後であった。
最後の村に物資を運びこむと、Dは村外れで三人と別れた。
「また危ない目に遇ったら、助けに来てくれるな」
とジュークが言って、右手を差し出した。Dは黙って握りしめた。驚くものはいなかった。誰も当たり前のような気がしたのである。
「死ぬまで待ってるぜ」
とゴルドーがDの肩を叩いた。
「あんたなんかいらんよ」
とセルゲイがにやにやしながら言った。
「おれの知識でみんなを救ってみせるぜ」
Dは無言で馬首を巡らせた。
三人はもと来た道を。彼は常に前へ。
「ギャスケルは逃げた。また、来るぞ」
と少したってから左手の置かれたあたりで声がした。
「しかし、あの七人が神祖に楯ついた連中だとしても、なぜ、わざわざ今になって、おまえに滅ぼさせたのだ? 神祖といえど、奴らの眠りを妨げることはできなんだ。奴自身の定めた法は鉄じゃからな。――しかし、今更、神祖に逆らってどうこうでもあるまい。ふむ」
嗄れ声はDに同意を求めず、質問もしなかった。返事はないものとわかっていたためである。
「ほう、空が――あれは雷雲だぞ」
声の終わらぬうちに陽は翳り、彼方から雷鳴が響いてきた。
「自然も敵か――よくよく前世の不幸な男よ」
Dは無言で進んだ。
その秀麗な美貌は、二人の女と三人の男たちの記憶など、どこにも残っていないと告げていた。
[#改ページ]
あとがき
「D――ダーク・ロード3(最終巻)」をお届けいたします。
Dというキャラクターの設定上、小説はすべてロード・ノベルにならざるを得ないのですが、そのうち、Dが一歩も村を出ない話とか、ひとつの部屋の中だけで、長編一本が片づいてしまう話とかを書いてみたいとも思います。そこには、どんなDがいるでしょうか。
ひとつ、書いておきたいことがあります。作家という職業についてです。
世の中には、書いてはいけないことがあります。
けれど、作家に書いてはいけないことなどありません。作家は何をどのように書いてもいいのです。
ホラーを例にとれば、どんなに残酷なスプラッターまがいのホラーを書いても、また、読んだ人を精神的に限りなく落ちこませ、傷つけ、自殺に追いやってしまうような話でも、書いても構いません。ホラーや他の分野を問わず、書くとはそういうことなのです。
何をどのように書いてもいい――これが作家の権利です。
もちろん、これに対して起こるあらゆるリスク――世の中の非難、版元の出版拒否、PTA的糾弾、取次や書店の販売拒否とそれによって生じる経済的困窮、ないし、作家生命の危機まで、作家はすべて引き受けます。これも書くということですし、これが作家の義務なのです。
世の中、品のいい、口当たりの素晴らしい小説だけでは決して成り立っていません。その方が異常です。
自分の書くもの、書きたいもの、書くべきものは、作家自身が決めます。誰に忠告される筋合いもありません。また、作家が他の作家にそんな真似をするはずもありません。誰だって、作家になったときにそのことはわかっているからです。
もしも、社会的タブーに触れ、非難の矢面に立たされたとしても、臆せず屈せず、なおも我が道を進んでいけば、私はその人を作家だと認めます。作家がモラリストである必要などかけらもありません。また、モラリストだからといって、残虐非道な大量殺人小説を書く場合だってあるでしょうし、倫理観に溢れた清々しい物語を殺人鬼が書く可能性だってある。それが小説というものの、作家というものの面白さだと私は思います。
繰り返します。作家は何をどのように書いてもいいのです。
これから小説を書こうとなさる方が、妙に萎縮した気分にならないよう、柄にもないことを記してしまいました。ごめんなさい。
平成十一年七月三十一日
「吸血鬼ドラキュラと狼男」を観ながら
菊地秀行