D―ダーク・ロード2 〜吸血鬼ハンター11
菊地秀行
[#改ページ]
目次
第一章 魔城探訪
第二章 神祖の翳
第三章 古戦場の遺物
第四章 ギャスケル登場
第五章 鬼女降臨す
第六章 淑女と左手
第七章 処刑前夜
あとがき
[#改ページ]
第一章 魔城探訪
1
灰色の雲は地に着くほど重く低く垂れこめ、時折、紫の光が細い糸となって天と地をつないだ。そのたびに虚空の一角は淡くかがやき、かがやきは色褪せつつ彼方へ広がって、やがて消滅した。
また、ひとつ。今度は近い。
窓外の光に、ギャスケル将軍の顔は聖者のように白くかがやいた。
「ようこそ、いらした。お待ち申し上げていたよ」
ギャスケルはふり向いた。豪奢としかいいようのない贅を尽くした応接間であった。「都」の芸術家や考古学者たちが来れば、取るに足らない壁の彫刻にかじりついて、一生離れまい。
「そういう約束でして。――甦らせていただいて、感謝しております」
どこか皮肉な口調で、手にしたワイン・グラスを持ち上げたのは、シューマ男爵であった。
「で、他の連中も、すでに?」
「全員、揃っておる。貴公が最後の客だ」
「恐れ入ります。――で、いつ顔合わせのパーティを?」
「やらぬ」
「は?」
「お好きかな?」
「ええ、まあ」
男爵の残念そうな返事に、将軍は破顔した。
わお、と言いたくなるのを、シューマ男爵は必死にこらえた。
はじめて見たときは、身長も肩幅も山くらいありそうに見えたが、今は普通のサイズだ。それだけに、迫力は百倍も強烈といえた。
顔の右半分は銀色のスチール面である。「都」の遠征軍と一戦を交えたとき、虐殺に励みすぎて、夜明けにも気がつかず、雲間からさしこむ直射光をもろに半顔に浴びた結果だという。
その凶悪獰猛な性格は、残る半顔から読み取るしかないが、観察する必要はあるまい。ひとめでそれ[#「それ」に傍点]と知れる。
吊り上がった眼は邪気に満ち、鼻は鷲の嘴のごとくもり上がって、その下の唇も、それだけで骨も噛み砕けそうなほど分厚い。時折のぞく乱杭歯の迫力は、妖物も凍りつきそうだ。
「貴公らは、互いの顔を見ることはない。この城にいる限り、いや、目的を果たしてここを出ても、だ」
「それは、また、どうして?」
「余が最も嫌悪するのは、結託であるからだ」
男爵の口もとに、驚きと――皮肉な笑みが浮かんだ。それに気づいたのか気づかなかったのか、将軍は前と変わらぬ獰猛な口調で、
「貴公らは、生前の約束によって復活し、ここへ来た。その力を結集して、我が敵に当たらねばならぬ。だが、それが済んだとき、貴公らが手を結ばぬという保証があるか?」
「何のために?」
「このギャスケルを滅ぼし、領土と力を手に入れるためだ」
「それは――」
「妄想とは言わせぬぞ、男爵」
将軍の唇が歪み、乱杭歯が剥き出しになった。子供なら心臓麻痺でも起こしそうだ。黒マントが翻り、その右手が窓へとのびる。
また稲妻が光った。
「今度は何処へ落ちたのか。多分、Dと呼ばれるハンターのもとへだろう。奴は多分、そこにおる」
「彼は、なかなかの玉ですぞ」
男爵の表情が真面目になった。彼はDと相対したのだ。
「迎え討つ貴族は七名おる。少なくはない。すべて一騎当千の強者よ。そして、全員が余の生命と地位と財産を狙っておるときた。――驚きたもうな。それくらいの連中でなくては、ものの役に立たん」
「それは、まあ」
と男爵は首肯《しゅこう》し、
「しかし、それではひとりずつ、Dと当たることになりますが」
「そのとおり」
「失礼ながら、将軍はあの若者と戦ったことは?」
「ない」
「でしょうな」
うなずく顔の中で、冷やかな眼ばかりが、ギャスケルを貫いて離れなかった。
彼が何か言う前に、男爵は片手を上げて、
「おっしゃりたいことはわかります。ですが、私の申し上げたいことも、ひとたび、彼と刃を交えてみれば一目瞭然といっていい。あの若者の敵意、殺戮への意志、いや、何よりも太刀筋の生む風刃を指先に浴びただけでも、将軍の目論見が無に帰すことはご理解できましょう。本気で彼を斃《たお》す気がおありなら、この城に招かれた者全員の総力を挙げてかかるべきですな。――それでも、斃せるかどうか」
爆風のごとき反論が来るかと思ったが、将軍は沈黙した。
そして、すぐ、にやりと笑って男爵を見つめたのである。彼の首すじを冷たいものが這った。
「敵を知り、己れを知れば、百戦危うからず――確かに、余が敵の実力を知るほど、確実な対処法はないな」
「さすがはギャスケル大将軍」
と恭《うやうや》しく頭を下げながら、男爵は胸の中で、眼の前の招待主を恐れた。
窓の外で、また、稲妻がかがやいた。
「三十発目で雨か。危なくって仕様がねえ」
ジュークの声は、滝なす土砂降りの怒号にかき消されもせず、テントの下の二人に届いた。三十発とは稲妻の回数である。
車の横に張ったテント――といっても、十人は優に収容できる広さがある――は、紐一本引くだけで組み立てと収納ができる最新型であった。
「しかし、えれえことになったな。Dが言ってた『移動領地』って何だよ?」
セルゲイの問いにゴルドーが、
「領地があちこちへ移動するんだろ。だから、おれたちは、いつの間にか、ギャスケルの領地へ入っちまったんだ」
「それじゃ、もう出られねえってわけか。いくら逃げても、領地の方が追っかけてくるんじゃ、よ」
「その辺は――Dまかせだ」
ゴルドーの答えは、全員の眼を、開けたままのテントの戸口へ集中させた。Dはテントの周囲を見廻りに出かけていた。
それに応えるように、雨足の向こうから、別の響きが聞こえてきた。
足音だ。
「鉄条網は張ってある」
とジュークが緊張した声で言った。
「電流も流してある。Dもそうしておけと言ったしな」
「あの足音――Dじゃねえぜ」
ゴルドーが、かたわらの火薬銃を引き寄せた。安全装置を外す音が、いやに高く響き渡る。
「ああ。複数だ」
立ち上がったセルゲイの右手にも、輪胴式の火銃が握りしめられている。
全員、羽織っていた強化ビニールのコートの前を締め、フードを被った。口もとまで覆うと、内蔵されている圧縮ボンベから酸素が注入される。放射線を撒き散らす生物や毒ガス地帯を通過するのには、必須のアイテムである。
「行くぞ」
まず、ジュークが、ついでゴルドーが外へ出た。セルゲイはテントに残りだ。
跳び出した時点で、ジュークとセルゲイは、雨の奥から滲み出た人影に気づいていた。
人影は三個――よろめくように近づいてくる。
襤褸《ぼろ》をまとった女たちだ。
辺境のルートに出没する妖物たちのリストを頭に浮かべようとして、ジュークは中止した。ここはギャスケル将軍の領地なのだ。常識は通用しない。
「止まれ」
と叫んだのは、女たちの距離が七メートルまでに近づいたときだ。
「どうする?」
ゴルドーが小声で訊いた。
「とりあえず――止まれ!」
ジュークの大声に、女たちはぴたりと停止した。
「誰だ、おまえたちは?」
ジュークは、二番目にいる大柄な女に照準を定めた。雰囲気からリーダーと察したのである。
「――助けて」
と先頭の女が両手をさしのべて叫んだ。ずぶ濡れの姿は、わざとやっている風にも思える。
「ああ、助けてやるとも。正直に話したらな」
「私たち、あの城に――ギャスケル城に閉じこめられていたの。まだ、仲間がたくさんいるわ」
「なぜ、一緒に出てこねえ」
「動けないのよ。みんな、血を吸われて」
言い切った途端、女はよろめいた。あまりに抑圧された感情が一気に迸って、かろうじて安定を保っていた精神と肉体のバランスを崩してしまったのだ。
「よし――喉を見せろ。お前たちが吸われてないという保証もねえ」
残る二人が肌に貼りつく髪の毛をのけて、両の首すじを交互に向けた。どちらも青白い肌には傷ひとつついていない。
「よし、合格だ」
とゴルドーが嬉しそうに言った。得体の知れぬ相手だが、吸血鬼の印《マーク》さえなければ、若いし、グラマーだし、何よりも美女だ。
「さっ、入りな入りな」
どちらかというと呑気なゴルドーらしい配慮だが、さすがにジュークは、
「その倒れた女の首も調べろ」
と命じた。
「おお、そうだったな」
とゴルドーは、素早くその娘に近づき、喉を見ようとした。
「傷はねえな。OKだ――」
こう言われても、ジュークの顔は固さを崩さず、
「近頃は、物騒でな。自分で自分に催眠術をかけて、記憶喪失や別人格になるのは簡単なもんさ。傷痕を消すこともできるって聞いたぜ」
と言った。
「じゃあ、どうすんだよ?」
とゴルドー。テント内のセルゲイはまだ動かない。
「吸血鬼を見分ける方法は、ひとつだけ。それも簡単なもンだ」
「どうするんだ?」
「これよ」
ジュークの手が腰に廻るや、次の瞬間、真っ赤な塊を取り出したのである。――真紅の薔薇を。
女たちが顔を見合わせた。
「これが『都』の最新の研究成果よ。どこにでも咲いてる単純な花が、貴族の血を引くものの手にかかると、見る見る萎れていくそうだ」
ジュークは、倒れた女の上に身を屈め、その首すじに花を置いた。
2
遠くで雷鳴が聞こえた。
紅い花びらが色褪せ、萎たれるまで、三秒とかからなかったろう。
ジュークの手には、刃渡り三〇センチ以上もある鋼《はがね》の剣が握られていた。
もう一度、身を屈めると同時に、その勢いを刃に乗せてふり下ろす。
下方から跳ね上がった白い手が、その手首を掴んだ。
眼にもとまらぬ速さで反転した娘の仕業であった。
吊り上がった眼は憎悪の血光を放ち、朱色の唇は二本の牙を剥き出しにして――可憐な顔も悪鬼そのものだ。
ジュークの顔は苦痛に歪み、握りしめられた手首から先は、暗紫色に染まっていく。
貴族と戦う羽目になったら逃げろ。それができなければ、捕まるな――このことわざは、彼ら[#「彼ら」に傍点]の持つ怪力の恐ろしさを伝える名言だ。人間の四肢など一息でもぎ取られてしまう。
「ジューク!?」
「女を見ていろ!」
叫び返すや、ジュークは左手の火薬銃を旋回させた。自分の右手の方へ。
轟きが天地を揺るがし、オレンジ色の火線は右手首を吹きとばしていた。――女の手を。
大きく後ろへ跳ねたジュークの左手で、再び火薬銃が唸った。
右手の痛みなど歯牙にもかけぬように跳ね上がった女の頭部が、西瓜と同じ色彩の中味を四散させる。
反動の大きな火薬銃を左手一本で扱い、しかも頭に命中させるなど、射撃のプロでも大難度の技であった。ジュークの訓練は血を吐くほどのものであったろう。
「そっちは!?」
銃身を残る女たちの方へ旋回させるジュークの表情は苦痛に歪んでいた。
「わからねえ――違うようだぜ」
とゴルドーが応じる。
「こっちへ来い。――いや、セルゲイ」
とジュークは、怯えたように立ちすくむ女たちを見据えたまま、声を張り上げた。
テントからセルゲイが顔を出し、これも、ぴたりと女たちに銃を向ける。テント内での情況判断だろうが、なかなか大したものだ。
「女たちから眼え離すな。ゴルドー、おれの背中のパウチに、赤いカプセルが入ってる。真ん中あたりだ。二つ取って、爪で傷をつけろ」
ゴルドーは素早く彼の背中に廻って、ベルトにくくりつけたパウチの蓋を開けた。
大小のカプセルや、ガラスのアンプルがびっしり詰まっている。真紅のカプセルはすぐに見つかった。先端に指を押しつけて引いた。カプセルは真紅の薔薇に変わった。圧縮加工してあったらしい。
何も言わぬまま、ゴルドーはそれを二人の女に放った。
それぞれの腰のあたりに当たって落ちた。落ちると同時に腐れ果てた。
がっと牙を剥いて襲いかかってくる。
三挺の銃が火を吹いた。
首を失った身体が血の糸を引いて草を押し倒していく。緑は朱に変わった。
「生き返ってこねえかな?」
とゴルドーが訊いた。
「首を離されちゃあな。おい、見ろ」
セルゲイが指さす先で、女たちは屍衣《シュラウド》の内側で溶解しつつあった。
「よっしゃあ」
とうなずいてから、
「おい、ジューク――どうしたい?」
向けた眼の位置が低い。
膝をついたジュークに、二人が駆け寄った。
「どうしたんだ?」
「手が――!?」
ジュークの右手はどす黒く腫れ上がっていた。原因はすぐにわかった。手首に別の手首が五指を食いこませているのだ。ちぎれた女の手首が。
「化物が!」
ゴルドーが吐き捨て、ブーツから山刀を抜いた。
凶器の迫力からは程遠い細かな動きで、女の指を切り離していく。
手首は地面に落ちたが、指は離れなかった。
「しつこい女だな」
ゴルドーが額の汗を拭った。
「おれにまかせてくれないか?」
黙って様子を見ていたセルゲイが切り出したので、彼は怪しいものを見る眼つきをした。
「何か手があるのか?」
「本で読んだことがある。これは“死人爪《しにんづめ》”というんだ。いったん食いこんだら、相手が死ぬまで離れない」
「何とかできるのか?」
今度はジュークの問いだ。灰色に近い顔色であった。
「ああ。説明してる暇はない。まかせてくれるか?」
「いいだろう」
「おい、それより、腕切っちまった方が早くねえか?」
とゴルドーが身を乗り出した。無茶なようだが、死ぬよりも腕一本、というのが辺境の掟だ。
ジュークがセルゲイを見上げた。
「どうだ?」
「うまくいけば、腕も切らずに済む」
どこか自信なさげな表情であった。
「よし、まかせるぞ」
ジュークはきっぱりと言った。
「いいのか、おい?」
と眼を剥くゴルドーを無視して、
「おまえ、もともと学者向きだったよな。医者向きかどうかはわからんが、頼むぞ。おれを片腕にしてくれるなよ」
「わかった。安心してくれ」
とセルゲイが胸を張る。こちらも覚悟を決めたのだ。
Dが戻ってきたのは、二人してジュークをテント内に運んですぐだった。
セルゲイが事情を説明した。
「よかろう」
とDは、およそいかがわしいとしか思えぬ手術を見守ることになった。
「D――あんたも『死人爪』に関して、何かを知ってるんだろ。おれの見たところ、こいつは、まるっきりの素人だ。まかせといていいのか悪いのか、見当もつかねえ。教えてくれよ」
「おれの仕事は貴族を狩ることだ」
ジュークの手術には無関係、無関心という意味だろう。
「冷てえな、おい」
と声を荒げるゴルドーをなだめるように、
「もっともだ」
とベッドの上に縛りつけられたジュークが声をかけた。
「そこで見ててくれ。なに、すぐに治るさ。いいドクターがついているんだ」
と言ってから、
「やっぱり、ギャスケルの領地かい?」
と訊いた。
「そうだ」
とD。
「じゃあ、奴の放った化物がうようよしてやがるな、畜生」
とゴルドーが火薬銃を叩くのへ、セルゲイが、
「いや、それはほとんどいないはずだ」
と口をはさんだ。
「どうしてだ?」
歯を剥くゴルドーの前で、
「そのとおりだ」
とDが静かに言った。
「ギャスケルは、妖物を嫌った。他の貴族のこしらえた人工生命体でも、自分の領地に侵入すれば、容赦なく処分した上、その死骸を持ち主に送り返したらしい。『都』との一戦で孤軍奮闘せざるを得なかったのも、味方がつかなかったからだ」
「なんて、マイペースな野郎だ。貴族の中にも嫌われ者がいたのかよ」
ゴルドーが首を傾げた。貴族同士というのは、一枚岩の団結を誇っているというのが一般常識である。
「しかし、いまさっき――」
とゴルドーが吸血女たちのことを話すと、セルゲイが、
「人間の形をしていれば別なんだ。特に女は」
「なんだ。すると、野郎、ただの女好きか?」
「そうなるな」
とこれはDである。いつもの口調でやったものだから、ゴルドーとセルゲイが、ぎゃははと吹き出してしまい、ジュークまでも、台の上で苦笑した。
「いや、そうなんだ」
とセルゲイが、馬車から持ってきた自前の薬箱の中味を台上に並べながら、
「ギャスケル大将軍というのは、調べれば調べるほど個性的な男でな。実は、昔の貴族のことを調べる連中にアンケートをとると、“興味のある貴族”の第二位は、三位を遠く離して必ずこの男なんだ。そればかりじゃない。“会ってみたい貴族”も同じく毎回二位。ちなみに、こっちの方に三位はいない。誰も他の貴族なんぞ、顔も見たくないんだぜ」
「万年二位か――一位は誰なんだ?」
とジュークが低い声で訊いた。苦痛を堪えているのは、すぐにわかった。
セルゲイは痛ましげな表情になるのを押さえつつ、
「どっちも神祖だ」
と答えた。ジュークは納得した風に、
「やっぱり、な。――しかし、神祖の遺志を受け継いだ『都』と一戦交えるくらいだ。仲はよくなかったんだろ?」
「いや、それが、覚えはめでたかったと、どの本にもある」
「捨てちまえ、そんな与太本」
とゴルドーが吐き捨てたとき、ジュークの喉が嫌な音をたて、全身に痙攣が走った。
「いかん――“死人毒”が心臓まで来たな。早すぎる」
セルゲイが唇を噛んだ。
「何とかしろ、このヤブ医者。だから、おれは――」
「黙ってろ!」
と一喝し、セルゲイは眼を閉じた。
すぐに開くと、薬箱の中から二本の瓶を取り出し、消毒器から高圧注射器を一本抜き取って、双方の瓶の中味を吸入した。
その手際のよさと冷静沈着な手の動きに、ゴルドーが呆れたように若い横顔を眺めた。
一瞬の停滞もなく、薬液を満たした注射器の先端はジュークの左手の静脈に押しつけられ、高圧ピストンが動いて二秒とたたないうちに、セルゲイの顔から苦痛の色は引いていった。浅く短い呼吸も、あっという間に尋常に戻る。
脈を取っていた手を放し、セルゲイは、
「しばらくは、これで保つ」
と長い息を吐いた。安堵の吐息とはいかなかったようだ。
「だが、心臓にまで来てしまっては、おれにもどうにもならない。さて――」
苦渋の海に沈みかけた仲間へ、ゴルドーが怒りの石を投げつけた。
「最初から、腕落としといた方がよかったんじゃねえのか、おい?」
セルゲイは、はっきりと首をふり、
「あの時点では、間に合ったんだ。だが、ここまで毒の廻りが速いとは――おれのミスだ」
「ミスで済むなら、治安官はいらねえんだよ」
とゴルドーはえらく古典的な絡み方をして、
「さ、どうするつもりだ? いま、ひとりでも抜けられたら、えらい難儀だぞ。おれたちにゃ届けなきゃならねえ荷物と、それを待ってる連中が山ほどいるんだ」
「手はある」
とセルゲイ。
「おや」
「“死人毒”の解毒剤と同じ成分の草があるんだ。それさえ手に入れば――ただし、このままの状態では、ジュークは保ってあと一日」
「何処にあるんだ? ギャスケルの城のお庭の真ん中か?」
「ギャスケルの城の中庭の真ん中だ」
ゴルドーが眼を剥いた。
「悪いが、二人でジュークを守ってくれ。おれが採りに行ってくる」
「ほお」
とDの左手のあたりから声が上がったが、気づいたものはない。
「阿呆か、てめーは。貴族の人気投票ナンバー2と、どうやってやり合うつもりなんだよ。『都』の通信記者がインタビューに行くんじゃねえんだぞ」
「行きながら考えるさ」
「もうひとり減るだけだ」
Dの声が二人の眼を引きつけた。
「しかし、このままじゃ」
「ギャスケルの城には、ロザリアもいる。解毒草の件も、ギャスケルを始末すれば済むことだ」
「そ、そらまあ」
ゴルドーが、渋々うなずいた。
「おれを雇え」
「何?」
ターバン頭の驚きをよそに、セルゲイの顔に喜びの色が走った。
「そうか――Dがいた。辺境一の吸血鬼ハンターが」
「そのとおりだ」
弱々しい声が台の上から漂ってきた。
「ジューク!?」
死相としか言えない顔が、それでも厳しい表情をつくった。
「あの娘を……救けてやってくれ……ついでに、おれも……よろしく頼む……報酬は……今回の……おれの給料丸ごとで……どうだ?」
「三人分じゃな」
嗄れ声の要求に、残る二人が眼を剥いたが、すぐに、
「えーい、わかった」
「頼んだぞ、D」
全幅の信頼をこめた依頼に、
「丸一日、明日の正午まで――お前たちの方が辛いかも知れん」
冷やかなDの返事に雨音が混じった。
3
貴族の城の多くは、中世ヨーロッパのそれをモデルにしているため、周辺の地勢、防御構造等は、古い図鑑や絵巻物を一読すれば大抵は解明できる。
数千年間にわたる“人間・貴族戦争”において、人間側が昼間の[#「昼間の」に傍点]攻城戦に最も利用し、現実に成果を挙げ得る助けとなったのも、それら[#「それら」に傍点]から抜粋した中世城塞の三次元解体図であった。
これは後年、安価なペーパー・バック版となって辺境全域に広まったが、Dもサドル・バッグの中に一冊携帯していた。テントを出てすぐ雨は熄《や》み、錆色の空を稲妻が時折、青く染める。
それを取り出して、ページをくろうとすると、
「それに、ギャスケルの城は載っておらんよ」
と嗄れ声が釘を刺した。
「あれ[#「あれ」に傍点]は相当におかしな男でな。どんな貴族の会合にも出席せず、自分も呼ばず、孤高を通したのよ。神祖に可愛がられていたのも、そのせいかも知れん。ギャスケルの奇矯な行動は、多分、神祖の――」
長口舌でも断ち切るかのように、
「何処から入れる?」
とDが訊いた。図面はなくとも、嗄れ声の主は知悉《ちしつ》しているらしい。返事はすぐあった。
「無理だの。防御は鉄壁じゃ。恐らくは現在もな」
Dは無言で手綱を引き絞った。
サイボーグ馬は、峨々《がが》たる岩山の隘路《あいろ》を前進しはじめた。
「やはり、真正面からいくか。なんと、生命がいくつあっても足りん奴よ。ギャスケルの思う壷だぞ」
だが、左手のこの予想に反して、暗雲の下にそびえる山城からは、何ら攻撃の手がかけられなかった。
気づかぬのか、それとも、内部《なか》へ引き入れて後、料理しようという腹か。
並以上の胆力の持ち主でも、考えあぐねて神経を病みかねぬ雷鳴と稲妻の世界を、世にも美しい若者と馬は黙然と進んでいく。
石塊《いしくれ》の散乱する悪路はなおもつづくが、その騎乗偉ぶりならば、城までは、まず普通の四分の一――二時間ほどで到達するに違いない。
城内には不穏の気が満ちていた。
Dの接近は、無数の立体像や三次元モニターによって、今日招かれた“客人”たちに伝えれていた。
「おお、何と美しい」
「これがハンターか、信じられん」
という素直で無邪気な感嘆派がいれば、
「ひとりで我らがもとへ赴くとは、自信過剰の若造めが。余人の手は借りぬ。このおれの手で八つ裂きにして、臓腑は凶鳥《まがどり》どもに食わせてやろう」
などという物騒な武闘派の声もある。
さすがに、話し合って云々などという穏健派の声はひとつもないが、中に、
「ここへ辿り着くまでに、小手調べとして、私が出向きましょう」
と申し出た声がある。
「メフメット卿か」
応じたのは、ギャスケル大将軍である。
「左様。なに、たかだか顔立ちが目立つくらいの若造――いや、実に美しいですな。あれでハンターなどとは片腹痛い。腕が立つなどと、所詮、その辺の田舎貴族の配下を二、三人始末した程度の張り子の虎でありましょう。腕の一本も引っこ抜けば、尻尾を巻いて逃げるは必定」
「だといいが、あれは、ギリス少将ですら敗北させた男だぞ」
それは、Dと戦い逃走した闇人《やみびと》のことであった。
「ギリスはギリス、このメフメットは、あのような不様な姿はさらしませぬ。ひとつ、手軽なお遊びの許可をいただきたい。それに、我らは、大将軍のおかげで陽の下も歩けるようになりもうしたが、彼奴《きゃつ》の身内を流れる貴族の血は、昼の戦いを厭うはず」
「昼歩けるのは、わしの力ではない」
と大将軍は吐き捨て、
「だが、彼奴はどうみても彼奴自身の血の技だ。メフメット卿、ここは静かに彼奴の到着を待たれい。取るに足らぬ相手とわかってはいても、どうにも心穏やかにならぬ。奇態な若造だ」
メフメット卿の声は、うす笑いを隠さなかった。
「これは天下のギャスケル大将軍ともあろう方が。いや、その盛名に我らが脅えたのは、はや二百年も昔でありましたか」
「大将軍」
と別の声が呼んだ。女の声だ。それも若く美しい――天下の美女に違いない。
「メフメット卿に行かせなさいませ」
たおやかとさえいえる響きの中に、誰もが眼を剥きそうな棘がのぞいていた。
「これはローランサン夫人か」
ギャスケル大将軍の声に、畏怖の響きがこもるとは。
「――しかし、な」
「大将軍ともあろうお方が、まさか、あの若者ひとりを恐れているのではございませぬな?」
女――ローランサン夫人の声は、これも冷やかな笑いを帯びた。
「莫迦《ばか》な。――わしの生前から、この城へ乗りこみ、この首を狙う愚かな輩は後を絶たなかった。そのすべてをわしは事前に察知しておったが、ひとりとして城の前で斃したことはない。漏れなく前庭まで招き入れ、しかるのち、わしなりのもてなしを授けた。そこから先へ入って来るものは、ひとりとしてなかったがな。これがわしの流儀だ。誰も異議を唱えることは許さん」
断固たる宣言であった。
あらゆる声は沈黙を選んだ。それを確かめた上で、大将軍は言った。
「ローランサン夫人よ、貴女にひとつ頼みがあるのだが」
「まあ、私ごときに。――光栄でございますわ。何なりとお申しつけ下さいませ」
孔雀が羽根を広げるように、ドレスの裾を床に這わせる華麗な姿が眼に浮かぶ声であった。
「ある娘を拉致した。人間どもが巷でいう“犠牲者”のひとりだ。これを手なづけてもらいたい」
「――と、おっしゃいますと?」
「実は、あの娘を捕らえた理由が、わしにもよくわからんのだ」
二人以外の耳には届かぬ、極秘の会話であった。
「つい数刻前におっしゃいました。大将軍の一族に加えるために、と」
「加えるには目的がある――らしい」
ローランサン夫人の声はしばし沈黙した。
「――それもわからずにこの城へ?」
「最初は、Dの動きを封じるためかと思っておった。ところが、そうでもないらしい」
「らしい?――大将軍は自らの行動を理解しておられませぬのか?」
「実は、な」
「………」
「貴女にだけ伝えておこう。わしはなぜ復活した?」
驚きの宇宙が詰まったような沈黙が下りた。
“神祖”の授けた記憶によって、行動のすべては知悉していると、大将軍は断言していたのである。
「いま、わかっておる理由がひとつある」
「何でございましょう」
少し間を置いて、夫人の声が、
「――なんと。それほどの大物なのでございますか!?」
驚愕には、何処か恍惚たる響きが混じっていた。
城門前で馬の足を止める必要はなかった。
黒い鉄鋲を打ちこんだ鉄の大門は、これからが凄いぞとの声なき恫喝を示しつつ、左右に開いたのである。
躊躇なく、Dは馬を乗り入れた。
「大したものですこと」
と女の声が鳴り響いたのは、背後で門がひとりでに閉じ、Dが前庭の中央に馬を進めてからであった。
贅を尽くした、といっても、モデルにした中世の城庭らしい面影は少しもない。ただ巨木を無造作に植えつけ、芝を張り、石の通路をつけただけの素っ気なさである。ひと目でわかる。ここは武人の城なのだ。
何より眼につくのは、牙のごとき城壁と、おびただしい銃眼、矢穴であり、可愛げのかけらもない魔獣の彫像に仕込まれた熱線砲のプリズム眼であり、吹きすぎる風に仕込まれた風圧センサーの殺気だった。
「――私の名はローランサン夫人。ここへ招かれたひとりです」
声は花のように笑った。氷の花だ。
「ギャスケル大将軍は、自らあなたを迎える気でいらっしゃいましたが、まずは私に味見をと、おねだりしてみたのです。ですから、ここから先へ行きたければ、私を斃してからお行きなさい。あなたが捜しにきた娘は、私が預かっています」
「何処にいる?」
Dは蒼みを強く帯びはじめた空を見上げて訊いた。
「東の塔の最上階に――ですが。その昇り口へ辿り着くのも大変な仕事。貴族ハンターごときでは、一生かかっても不可能です」
Dは無言で前進をつづける。広大な前庭から城の各部へ、各庭へつながる通路はあちこちに見える。
「無駄なことを」
ローランサン夫人の声は嘲笑した。
「レーザーをお射ち」
前庭にメカの殺気が凝集した。
Dは黙々と進んでいく。その胸で青いペンダントが、まばゆい光を放っていた。
「どうしたの、お射ち!」
驚きと怒りに満ちた声は、すぐ、毒々しい笑いに変わった。
「どうやら、メカニズムに狂いが生じたようね。なら、これはいかが?」
突如、前庭の光景が一変した。
木立ちや通路の配置は同じだが、一面、朱《あか》い。
地上にも城壁にも鮮血が塗りつけられている。いや、地上は見えない。Dの周囲は、おびただしい死体の山で埋め尽くされている。ヘルメットを被り、装甲服と長剣と化学銃を手にした兵士たちの死体だ。
胸をえぐられ、喉を裂かれ、首をもがれた肉体から流れ出る血潮は、すでに何日を経たものか。前庭は発狂しそうな悪臭に満ちていた。
折り重なった死体の下の方はすでに腐敗し、眼球は流れて糸を引き、肉は骨から剥がれてと蛆虫《うじむし》が――
頭上の青空さえ、あまりの臭気と酸鼻《さんび》な光景に腐り果てそうだ。
それでいて――なお。
この情景を美しいと、人は言うだろう。ただひとり、馬にまたがった黒衣の若者が存在するがゆえに。
死の凄惨も醜さも、すべてを呑みこみ消却してしまうDの美貌であった。
この若者の前では、死さえ恥じ入るのか。死者と鮮血は不意に色褪せはじめた。形と色を失うその向こうに、現在の石壁か、彫刻が透けて見え、じきにそれは、Dの存在するもと[#「もと」に傍点]の庭と化した。
「不思議な力を持つ男じゃ」
ローランサン夫人の声が、また聞こえた。今度は、方向もはっきりと、ずっと生々しく。
Dの顔がかすかに上がった。
中庭へとつづく門まで、あと一〇メートル。その門の楼上に、白い長衣をまとった美女がこちらを見下ろしていた。
典雅な美貌もさることながら、その肌はドレスにも負けず白々と滑らかだ。白い長手袋に包まれた指の間には、象牙でこしらえた、これも細いパイプが紫煙をくゆらせていた。
「私がローランサン夫人です。あなたは――D」
手綱を握る黒い左手が、
「三千年前に滅びた女貴族じゃぞ」
とささやいた。
「面白い。あまりに凶悪無惨なため、神祖の手で直々裁判にかけられ、心臓をえぐり出された女じゃ。ここには、謀反人ばかりが集まっているとみえる」
「そのペンダントと左手に、あなたの力の源が隠されているようね」
見破ったという風に夫人は微笑した。朱唇の間から、白い牙がぬうとのぞいた。
[#改ページ]
第二章 神祖の翳
1
Dは視線を下ろした。女になど興味はないという風に。おまえのような醜い女には。――そう取ったか、ローランサン夫人の形相が変わった。
長いパイプがDの方を向くや、しゅうと一条の紫煙がのびてきた。――と見る間に、それはDの前方二メートルほどで白い霧と化して広がり、人馬を包みこんだのである。
霧というより、やはり煙と呼ぶ方がふさわしい濃度であった。その中に、きらきらと舞い寄る小さなかがやきを認めたのは、Dの眼ならではだ。
「針じゃぞ」
左手の緊張した声が聞こえたときにはもう、身体は鞍から跳んでいる。
背後で馬がいなないた。
きらめく粒に点綴《てんてつ》された馬体は、むしろ美しいと思えたが、そのかがやきが紅く変わるや、馬はひと声叫んで横倒しになった。
人工皮膚が色を失い、皺が寄り、全身がしぼんでミイラ化の運命を辿る。微小な針の大群は、ピラニアのごとくサイボーグ馬の体液を吸い尽くしたのである。
紫煙と針はDを追った。
中庭への扉に、Dは左手を当てた。
「その扉は大将軍でなければ開かぬ」
ローランサン夫人は頭上から嘲笑した。
「そして、この城のあらゆる技術は、すべてご神祖の――おお!?」
驚愕の叫びを放つなり、夫人は空中へ身を躍らせた。それは人の形をした白い華麗な花であった。死の煙と針とが、開け放たれた戸口へと吸いこまれるのを見ながら、夫人は着地した。
「馬車を」
とふり向いて命じた。
近くの木立ちの間から、白鳥を象《かたど》った白塗りの馬車が出現し、夫人のかたわらに止まった。引くのは四頭立ての黒馬である。たてがみが午後の陽にかがやいた。
「逃してなるものか。私の死煙と恋針を破った男――必ず、この手で」
「御手を」
白手袋をのばしてきた御者にすがって座席に乗りこむや、何のつもりか、美しい妖女は右手に握った長い針で、御者の延髄を貫いた。理由はない。苛立ちの解消だ。
声もなく痙攣する男を御者台から蹴落とし、手綱を取った表情は、悪鬼以外の何ものでもない。
手綱をひとふり。黒馬たちは石畳の道を疾走に移った。
その眼前で扉が閉じてゆく。
「小賢しい真似を!」
パイプから紫煙のすじがのび、扉に当たるや、それはしなびた木のミイラと化して、鉄蹄の震動のみで崩壊した。
雲霞《うんか》のごとく立ちこめる埃の中を突き破り、夫人は中庭に入った。
戦闘部隊や兵器を並べるための広場が中心の、およそ潤いに乏しい大空間の右方に、青々とした草木の一角が彩りを添えている。
Dはそこへ向かっていた。
「その顔にふさわしく、花摘みか――させぬ!」
その執念が伝わったかのごとく、馬たちは石の地面を蹴ってDに迫る。鉄蹄が火花を散らした。
三〇メートル――二〇――闇が翻った。
一〇メートルまで縮まったとき、Dがふり向いたのである。
両手は自然に垂らし、親しいものの訪れでも迎える風情なのに、妖女ローランサンの背に、冷たいものが走った。
御者台から客人用座席《シート》まで、半透明のカバーが覆う。防御用力場《D・フォース・フィールド》だ。
Dは動かない。それは黒い神秘的な美の像であった。
黒馬が黒い怒涛のごとく迫る――その前方で、Dは身を沈めた。
ローランサン夫人が見たものは、一瞬のかがやきであった。
だしぬけに前の二頭が沈んだ。
急制動も間に合うはずがなく、後ろの二頭がそれにのしかかってつんのめり、馬車も宙に躍った。
馬の蹄にかけられる寸前、Dは左へ跳びのいた。のきざま一刀を放ったのである。刀身は見事に二頭のサイボーグ馬の前足を膝から切りとばした。
断末魔の悲鳴を上げる馬たちをよそに、Dは空中を見上げた。
五メートルほどの高みから、ローランサン夫人の笑みが降ってきた。
「自分で空を歩くのは、『都』の夜会では田舎ものの行為とされていたわ」
夫人は、うっとりと眼を閉じた。追憶がその典雅な顔を、どこか哀しげに見せていた。
「でも、私は好きでした。月光の下を流れる河、散策する恋人たち、ワルツの調べと、いつ果てるともなく繰り返される夜会――いい時代だったわね」
二人をつなぐ殺気の糸が、つかの間ほぐれた。
そのとき、静かな声がローランサン夫人の耳に、ある言葉を口ずさんだ。
生を知らず、死を知らず
それゆえに、汝、その名を呼べ
遥かなる者と
愕然と見開かれた瞳がDの顔を映した。
空の高みで、睥睨《へいげい》すべき女貴族は大きくよろめいた。
「その歌は……貴族の中でも選ばれた一部のみが、ご神祖の館で聞かされた歌――つくられたのは、我らすら眼にしたことのない……奥方さまであったという。……なぜ、それを?」
夫人は眼を閉じた。閉じてもなお、この世ならぬ美貌は網膜に灼きついていた。
記憶と呼ぶ混沌のどこかに、小さな光が生じた。それ以上、かがやきを増さぬ光が示したものを、女貴族は唇に乗せた。
「その眼――その鼻――その美貌――まさか……あなたは……あなたさま[#「さま」に傍点]は……」
その眼前にDがいた。
女貴族の追憶も、彼をさま[#「さま」に傍点]と呼んだ精神《こころ》の葛藤も、黒衣のハンターには無縁のものであった。
跳躍しての一刀は真っ向上段から、ローランサン夫人の身体を縦に割り、返す刀で心臓を串刺しにしていた。
金髪もドレスも、灰色の塵と化して空中に崩れ散ったとき、着地したDは再び、木立ちの一角へ足を進めていた。
「ほう、薬草園じゃな」
と嗄れ声が感心したように言った。
中庭の一角――といっても、左右前後とも視界に入り切れないほど広い草木の大地は、整然と草花自身によって区分けされ、赤、青、黄、紫、白、と華麗とも可憐ともいえない絢爛たる色彩が匂い立つようだ。
「あれは、ジュポン・デ・ラ・ネール――一メートル以内に近づいただけで、どんな生物でも即死する猛毒の花じゃ。おお、周りは骨だらけときたか。あちらは、ギャトガヤ・チェリアンといって、香りで生物の脳を操る誘導草の一種じゃ。『都』との一戦では、大層役に立ったと聞いておる。向こうは――」
Dは構わず、花園の中へ足を踏み入れると、膝までありそうな青草の密集した一角に入りこみ、ひと渡り見廻してから、足下の数本をひとまとめにして引き抜いた。
「それじゃよ」
と嗄れ声が満足そうに言った。
それをコートの内ポケットへしまうDへ、
「とりあえずの目的は果たした。後はロザリアの救出じゃが、さて――」
Dがふり向いた。
その両眼に、銀色の塊がひとつずつ――ふっと止まったのである。
それはかがやく銀の薔薇であった。一瞬にはたき落とされ、地面にぶつかるや、おびただしい銀の針と化して砕けた。
さしものDも気づかなかったことだが、ローランサン夫人の灰は風に舞い上がって、空中で渦巻き、二個の薔薇と化したのである。
女貴族の最後の執念の賜物か、空中を漂い、ほんの数センチの距離まで迫っていたそれに、さしものDも気づかなかったのである。
彼は片手で両眼を押さえた。その指の間から、血潮がすじを引いた。
「眼をやられたか!?」
さすがの嗄れ声も驚きと動揺を隠せない。まさに、これから最難関の救出劇というそのとき、美しき吸血鬼ハンターは、その両眼を失ってしまったのである。
「毒はわしが消す。だが、視力は――浄化炎を使っても丸三日はかかるぞ。ここは退くに限る」
と、これは順当な策だろう。
Dは言った。
「おれは雇われた」
「そうじゃったの」
声はあっさりと同意した。Dの心意気に打たれたのではない。そもそも、Dが心意気で動くかどうか。彼は仕事を受けた。眼が見えようが見えまいが、それは果たす。冷厳なプロの倫理を左手も心得ていたにすぎない。
「なら、行くか。わしを斬り落とさんよう、せいぜい注意せいよ」
「ゼノン公」
呼ばれて高い天井へ眼をやるとすぐ、
「ギャスケルだ。ローランサン夫人が斃されましたぞ」
と来た。
「ほほう」
と反応したのは、白いトランクス一枚の裸の男であった。
なんと彼は、ずっと前から窓際に大の字になって、陽光を浴びていたのである。ずっと前というのは、夜が明けてすぐだ。この城へ来たのは昨日の夜だから、ほとんど徹夜で夜明けを待ち、裸になったのである。
大将軍に呼ばれたとおり、名はゼノン公ローランド。見てくれは三十四、五歳だが、実年齢は無論、三千歳を越える。
彼は金色の胸毛をぼりぼりやりながら、
「あのおばん[#「おばん」に傍点]を斃すとは、Dという男――名ばかりのハンターではないようですな。ところで、何を?」
と訊いた。どうにも緊張感に乏しい男である。そういえば、貴族といっても、「都」の優雅さや「辺境」の精悍さとも縁遠い垢抜けなさが、たるみ加減の腹や、将軍との応対ぶりにも表われている。大体、日光浴をする貴族というのからして間違いだ。
「――で、次の出番だが、貴公にお願いしたい」
依頼というより威圧そのもののギャスケル将軍の言葉に、ゼノン公爵は頭を掻き、
「自分でないと、まずいですかの?」
と訊いた。どうも、しみじみしない。
「いや、特別、貴公にというわけでもないが」
将軍の声はとまどった。天下の大将軍にして、この中年貴族は扱いづらいらしい。
「なら、他の者にしてはいただけまいか? 自分は目下、心ゆくまで陽の光というやつを愉しんでおるのです。いやあ、快適至極。改めて、このような時間を授けて下すった将軍殿に感謝したい」
「それは結構だが、貴公が否と申されれば、別のものを送り出さねばならなくなる。たとえば、レディ・アン聖騎士」
その女名前を口にした将軍の声には、どこか小狡《こずる》いというか、卑しい響きがあったが、はたして、パンツ一丁の公爵は、がばと上体を起こした。
「ならぬ――それはならぬぞ、将軍。えーい、汚い真似を。わかった、あの娘を戦《いくさ》に駆り出すなら、自分が参る」
「うまく乗せましたな、将軍」
かたわらの長椅子にかけたシューマ男爵にこう言われて、ギャスケル将軍は露骨に嫌な顔をしてみせた。このいかにも都会派というべき貴族の言辞には、いちいち毒や棘が含まれているのである。
今回、呼び集めた連中は、全員、過去には一騎当千――どころか、ひとりで万人を屠《ほふ》るといわれた強者ばかりだが、それだけに、どうもギャスケル自身を屁とも思っていないところがある。はっきりとした敵対行動こそ取らないが、彼に向ける言葉、視線、態度などに仄見えるそれは、わずか二日のうちにギャスケル自身を怒りに狂わせ、しかるのち憂鬱にした。
以前の彼なら――いや、現在の彼でも――自分に対する軽侮や挑発を感じただけで、当人をその場で八つ裂きにしていたことだろう。自身の臣下のごとくたやすくはいくまいが、そうする自信はギャスケルにあった。
ところが、今回はどうしてもうまくいかない。というより、できないのだ。理由はわかっている。彼に強制し得る唯一の力が発動中なのである。
だが、何のために?
柄にもなく混迷に陥りかけたギャスケルの様子を、シューマ男爵は底意地の悪そうなうす笑いを浮かべて眺めていたが、
「ところで、聖女はもちろん、お使いになるつもりでしょうな?」
と念を押すように訊いた。
苦悩に歪んでいたギャスケルの顔に、悪魔の笑いが浮かんだ。ようやく、本来の彼――他人の苦しみを美食に、生命乞《いのちご》いの絶叫を天上音楽に変えて愉しむ悪魔の彼が甦ったのである。
「もちろんだ」
と大将軍は、その血も凍る名声にふさわしく堂々とうなずいてみせた。
2
中庭からロザリアが幽閉された塔へは簡単に行けた。
城兵の妨害もない。あまりの無関心さに左手が、
「横着な奴じゃのお」
と、ののしったほどである。
その間に、左手は小さな口で大気を吸い、Dの血を飲んだ。そのたびに、口腔の奥に青白い炎が白熱する。そうして得たエネルギーで、彼はDの体力を維持し、破損し負傷した部位の治療にあたるのであった。
いまは眼だ。だが、数千年の齢《よわい》を経た妖女ローランサン夫人の使った毒は、さすがに強烈無比で、治るにしても気長に治療するしかない。あと三日――Dは盲《めし》いたままで、来襲する敵を迎え討たねばならない。ただ左手と自身の勘のみを補佐役に。
「しかし、あまりに簡単すぎる。罠があるぞ」
Dは螺旋状の石段を昇りはじめていた。垂直距離にして約五〇メートルというところで、上層部に出た。
見張りもいない。
壁には丸窓が無造作にくり抜かれ、反対側はドアがついた石壁である。
頑丈だが古くさい錠がついているのを、Dは難なくむしり取った。
電子装置による攻撃、防御機構はすべて封じてある――というより、もともと数少ない――だけに、古くさい落とし穴や、吊り天井等がむしろ気になるのか、ドアは静かに開いた。
外からもわかっていたが、かなり広い部屋である。
壁の小窓と天窓から、光のすじがさしこんで、夕暮れの近い時刻を示していた。
中央に置かれたベッドの上に、ロザリアは横たわっていた。眠る時刻ではない。
「ロザリア」
とDが呼んでも、ぴくりともしない。術か薬で眠らされているのだ。
ベッドの周囲を水音が巡っている。
さし渡し二メートルほどの溝を水が流れているのだ。水路というより、小さな川である。
「ほう」
と左手が呻いた。
「さすが、大貴族じゃ、いい手を使いよる」
吸血鬼は流れを渡れないことは、周知の伝説兼事実だ。
子供でさえ平気で遊びほうける、膝くらいまでの深さしかない川で、酔った貴族が転倒、そのまま溺死した例もある。最も簡便な貴族除けのひとつで、辺境にも洩れなく広がっているが、貴族の邸宅に使われた例は、かつてない。それだけに、ギャスケル将軍は、恐るべき大胆な発想の持ち主といえた。
Dは戸口で足を止め、循環する流れに顔を向けたが、すぐに右手を前へ突き出すと、人さし指の第一関節部を親指の先でこすった。
爪の力か、人さし指の皮膚は切れ、みるみる鮮血が盛り上がる。
人さし指がふられた。
小さな血の塊は尾を引くこともなく、流れの真ん中に落ちた。
その刹那、水面が泡立ったかと思うと、太さ七〇センチもある鰻《うなぎ》のような蛇みたいな黒い首が幾つも持ち上がったのである。
口は見えず、胴と区切りのない頭部らしい先端の両脇に、眼らしい光点が二つ、ライトのようなかがやきを放っている。
それは大気中の血臭も嗅ぎ分ける能力があるらしく、一斉にその眼をこちらへ向けた。
光の奥に、さらに強烈な光が生じ、せわしない点滅を開始する。
それは、光のない水中で獲物を引き寄せるための器官であったものが、どうやら、何らかの改造を施されているらしく、すぐに左手が、
「ほう、催眠術を使いおるか」
と言った。
つい、とDが前へ出た。
静かな足取りで流れ水の方へと向かう。
またたく光の眼が彼を待っている。術にかかった獲物の到来を待っている。
Dの足が水辺まで一メートル足らずの距離へと近づいたとき、黒い鰻もどきの顔が縦に裂け、ピンクの口腔と白い小さな牙がのぞいた。
水面から一メートルほど出ていた頭が、ぐんぐん高みへ昇っていく。
五メートルほどで、みな停止する。その口から涎《よだれ》のようなものを垂らしているのは、飢えのせいか、それとも、彼らにもDの美しさがわかるのか。
次の瞬間、しゅう、と蛇みたいな声を上げて、そいつらは頭上から躍りかかってきた。
Dの顔へ頭へ肩へ脇へ、その口が食いつき、肉を裂いた――と見えた刹那、銀光が一閃した。
いや、Dの身に牙をたてた鰻どもの姿は、すべて幻像だったのである。
彼らの頭はことごとくDの身体をすり抜け、或いは外れ、襲撃と等しい勢いで床にぶつかった。
その後に鮮血が雨のようにしぶいた。
信じ難い移動速度でそいつらをやり過ごしたDの足下で、頭部を切断された胴が力なく身をくねらせていたが、すぐに動かなくなった。
この手の生物は、致命傷を負ってもかなりの期間長らえているものだが、それさえ許さぬDの盲目の剣技であった。
流れ水はすでに赤く染まったが、これ以上の護衛は存在しないようであった。
Dは水辺に達した。前進を開始してから一瞬の休みもない。どころか、十個以上の首を切りとばして、自分は返り血一滴浴びていないのだ。現在、盲目だと考えれば、この若者の底知れぬ恐ろしさがわかるだろう。
右手の刀身を、彼は流れに差しこんだ。
「一〇メートル」
と左手が言った。
「泳ぐのも厄介だ。跳んでゆけ」
その声が終わらぬうちに、Dの身体は空中に舞っていた。
床を蹴ったのに違いないが、その音ひとつ響かず、膝を曲げた様子もない、魔跳ともいうべき跳躍であった。
二メートルの距離など何のこともない。だが、流れの真上で異変が生じた。
コートの裾が、旅人帽《トラベラーズ・ハット》の鍔が急速に下向く。
流れが貴族の通過を拒もうとしているのだ。
疾風の速度も優雅な軌跡も大きく乱れて、しかし、間一髪、Dの靴底の前半部だけが、かろうじて向こう側に着地し、彼に床を踏ませた。
眠っているロザリアに近づくと、Dはすぐ額に左手を当てた。
「これは――強烈な術がかかっておる。おまけに薬まで」
と嗄れ声が呻いた。
「――だが、幸い、この種類の薬ならば、さっきの解毒草で基本成分は溶かせる。ここで治すか?」
「いや」
Dはロザリアを肩に担いだ。これから脱出までの死闘を考えれば、眠っていた方が足手まといにはならない。
こちら側には、流れにかける金属製の橋が折り畳まれていた。向こうからリモコン操作できる仕組みである。
片手で放り投げるようにしてそれを架け、Dが易々と塔を脱出したのは、それから一分とかからぬ後のことだった。
雷は熄《や》んだが、風は強くなり、空気まで冷たさを増した。
ジュークの容態は悪化するばかりで、呼吸はさらに切迫し、身体は火のように熱い。
「何処行きやがったんだ」
とゴルドーがののしったのは、Dではなく、セルゲイのことである。三人目の仲間は、三時間ほど前からいつの間にか姿を消して、それきり現われない。
もとから、輸送屋にしては線の細い男だったが、ここで逃げ出すほどの無責任とも思えないし、こんなところでひとり抜け駆けするのは本物の阿呆だ。
とにかくこうなると、ジュークと荷物をひとりで見なければならないから、ゴルドーは持ち場を離れるわけにはいかず、じき夕暮れもやってくる。
「糞ったれ!」
ぴしゃんと拳を反対側の手に叩きつけたとき、左手の方から、ひたひたと草を踏む音が近づいてきた。
「セルゲイか?」
と尋ねたゴルドーは、すでに、六連銃身の火薬銃を肩づけしている。
足音は一瞬、立ち止まり、すぐ近づいてきた。
「返事をしろ、セルゲイか!?」
Dのはずはない。馬の足音ではないからだ。セルゲイでないとすれば、残りは妖魔妖物の類に決まっている。
とりあえず、ジュークは輸送車の内部に移してあるが、妖物どもの爪や牙にかかれば一発だし、高分子鋼も通過する幽怪もいる。いずれにしても、ゴルドーひとりの手には負いかねる状況であった。
「しゃーねえ」
彼は覚悟を決めた。ジュークには、万が一のときにと、灼熱手榴弾をひとつ渡してある。言うまでもないが、護身用ではなかった。
木立ちの間から人影が現われたとき、六連銃の引金《トリガー》は落ちる寸前まで引かれていた。
「あン?」
緊張にこわばるゴルドーの顔が、急にほぐれた。
草を踏み踏み現われたのは、十歳に手が届くかどうかというくらいの、金髪おさげ髪の少女だったのである。
澄んだ碧眼、少女にしか似合わぬピンクのドレスがぴたりと身につき、膝丈のスカートからこぼれる足には、グレーのハイソックスと白い靴。赤や青の宝石をあしらった黄金のブレスレットをはめた手に、これもグレーの花篭を提げて、中にはいっぱいの花々々。
緊張のあまりブチ切れ寸前だったゴルドーでさえ、少女を取り巻く一帯が、突如、華麗な花畑に化けたかと思った。
何も言えずにいるうちに、少女は小さく、
「動くと射つぞ」
と言って立ち止まり、自ら両手を上げた。あまりに可憐な声であり仕草であった。ゴルドーの銃口が、徐々に下がっていった。
「動くなよ、お嬢ちゃん」
とゴルドーは命じた。なぜ射たないのかはわからない。こんな場所に、かたぎ[#「かたぎ」に傍点]の娘のいるわけがないのだけはわかる。
少女は相変わらず万歳をしたまま、きょとんとこちらを見つめている。
「名前は何てんだい?」
「そういうときは、そちらから名乗るものでしょ」
天使のような唇が、天使のような声を放った。ゴルドーは急に和やかな気分になった。
「こら失礼したな。ゴルドーってんだ。輸送屋さ」
「あたくしは、レディ・アンよ」
「なるほど。確かにちっちゃなレディだ。けど、こんなところで何してる?」
「お花摘み」
当然の答えが返ってきた。
「お家はどこだい?」
少女がうすく笑った。ゴルドーはぞっとした。
「あそこのお城よ」
声音も変わって言い放つ紅玉《ルビー》色の唇から、白い歯がのぞいた。それは錐のように尖っていた。
「うおおおおお」
姿形に騙されてはならない。――辺境で生き抜く鉄則だ。
ゴルドーは引金《トリガー》を引き、六連銃は吠えた。六個の雷鳴が少女を後方へ吹きとばした。後方の地面が黒土を噴き上げる。
ピンクのドレスもぼろくずのように裂けて、少女は身動きもせず横たわった。
3
客観的に見れば、あまりにも無惨な仕打ちにもかかわらず、ゴルドーは銃口を下ろさなかった。最大の緊張が彼を捉えていた。
あどけない少女を射った――相手を妖魔と知りつつ、その外見から来るどうしようもない後悔と自責の念が、胸中に虚無の空白を形成した瞬間、妖物は反撃に出る。何万人もが殺害されてから学んだ辺境の知恵だ。
輸送車の方から、
「どうした、ゴルドー?」
糸みたいに細いジュークの声がしたが、生死を分かつ境界に立つ彼は気づかない。
一〇秒……まだだ。……二〇秒……まだだ……三〇秒……四〇秒……
レディ・アンのスカートの裾がかすかにそよぎ、それが風の仕業だと知ったとき、ゴルドーは武器を下ろした。
満身汗まみれで息も荒い。
それでも、ふり向いて、
「射っちまった。出るなよ」
と声をかけるだけの余裕は取り戻せた。
汗を拭い、もう一度、六連銃を肩づけして、死体の方へ歩き出す。
ぼろぼろになったその足下まで来て見下ろし、ゴルドーは眼を剥いた。
「――人形!?」
匂い立つような金髪、澄んだ碧眼、あどけない表情、ふっくらした手足――そのどれもが、つくりものだ。金髪は金属繊維、瞳はガラス玉、顔も手も木製だ。
さっきの、生命にあふれた可憐な姿は? いや、牙を剥いた悪鬼の表情ですら、生身の生き物のものであったのに。
頭の中味をそっくり持っていかれたような気分で立ちすくむゴルドーの耳に、そのとき、あどけない声が鳴り響いたのである。それは天上から降り落ちてくる金の花のような歌声であった。
――レディ・アンを射ったわね。
と声は伝えた。
――でも、私を打ち砕くことはできないわ。お願い、早く救けてちょうだいな。
あらゆる意志が、生命が、脳から全身に伝わるがごとく、娘の声はゴルドーの血管を冷血のように流れて、彼を硬直させた。
そして、身と等しく一点に凍りついた眼は、穴だらけの人形がひょいと起き上がるのを網膜に灼きつけたのである。
右の眼を射ち抜かれた人形の顔に、あどけない少女の顔が重なり、また人形に、そして、少女へと変わった。
「お花を上げるわ――レディ・アンのお花畑から摘んできたばかりの血綴草《ちつづりぐさ》を」
ふくよかな手が、反対側の手にかけた花篭から純白の花を一輪摘まみ上げるや、ゴルドーの胸へと放った。
――と、またたく間に、白い花弁は鮮烈な朱《あか》に染まり、ゴルドーは地獄の苦痛にのけぞった。
六連銃が、あさっての方向を向いて吠え、彼は大の字に地面へ倒れた。
いまや、真紅に染まり抜いた花が、体内に根を張っていく。その感覚が確かにあった。
「元気な人ね」
と彼の頭の横で、レディ・アンが愉しそうに言った。
「血もたっぷりとあるわ。もう一本大丈夫ね」
死の花篭へ死神の手が入った。それが美しい白い一輪を掴み出したとき、
「レディ・アン」
と、背後から呼んだものがある。
ふり向く前に、声の主はそれを投げたに違いない。
青い瞳がセルゲイを映した瞬間、その眉間に白い花が突き刺さったのである。少女が手にしたのと同じ血綴草が。
「ひっ!?」
ひとつ叫んで、レディ・アンは後じさった。手にした花を新たな敵に投じようとする額の上で、白い花弁はみるみる紅く染まっていったのである。
よろめいて倒れたのは、まぎれもなく生身のレディ・アンであった。
セルゲイが駆け寄り、輸送屋の腰につけてある七つ道具の細紐でその身体を縛ると、ゴルドーに近づいて、胸の花に手をかけた。
花は倍にも膨れ上がっているように見えた。手応えは、水を含んだスポンジに似ていた。
握りしめると、きゅう、と鳴いた。花の悲鳴だ。ゴルドーの血を吸って、それは別の生きものに変貌しつつあるのだった。
「こん畜生」
セルゲイはののしり、思いきりそれを引き抜いた。きゃあ、と悲鳴を上げて、そいつはゴルドーから離れた。根がついてきた。セルゲイは立ち上がって引いた。根は泥のように生き血をしたたらせつつ、抜き出された。長さは五メートルもあった。
それを投げ捨て、紙のような色をしたゴルドーの額に眼を戻して、
「こりゃあ、輸血をする必要があるな」
とセルゲイはごちた。だが、それに必要な血液はどこにある? 輸血用の器具は?
しかし、セルゲイは後ろ――自分のやって来た方角――を向いてから、自信満々の風で胸を叩いた。
「運がいいぞ、ゴルドー。おれに感謝しろよ」
「どうもおかしい」
と嗄れ声が言った。
Dにしか聞こえない声である。ロザリアを背負った彼は、中庭にいた。
「あまりにも易々《やすやす》と来れすぎた。ギャスケルという名の男の城で、こんなことはあり得ない。必ず何か罠がある」
「わかるか?」
とDは訊いた。
真っすぐ突っ切って、前庭、それから門を抜ける――入ってきたのと逆コースだ。
「いや、今のところ、何の予兆もない」
と嗄れ声は答えた。唇が開くたび、喉の奥で青白い炎がゆらめく。Dの眼の治療のためのエネルギー燃焼であった。
地《ち》は花壇の土を食らい、風《ふう》はある。水《すい》はDの血だ。火《か》が足りないが、それを望むのは、贅沢というものだろう。
空は蒼く暮れつつあった。夜のものたちが生き返る。いや、この城の場合は、本来の生気を取り戻すというべきか。
それはともかくとして、Dの侵入も、ロザリアの救出もとっくに気づいているはずのギャスケルから、何の妨害工作もないのは不思議でしかたなかった。
Dは一気に走り出した。
「本気で突っ切るか!? これは面白い」
広い空間を、探知されていると知りつつ抜けるなら、端をなぞるか、木立ちや建物やらの障害物に身を隠しながら行くのが常套だ。
それを一気に、中庭のど真ん中を抜ける――いかにもDらしいが、無鉄砲この上ないというほかない。背中にロザリアがいることを考えれば、あまりに無責任だ。弾丸《たま》か矢除《やよ》けに使うつもりかと言われても、反論はできまい。
だが、はたしてDは知っていたのだろうか。そうとしか思えない。中庭を突っ切り、前庭を抜けて、城を脱出するまで、彼の身には何事も生じなかったのである。
「おかしい」
嗄れ声がつぶやいたが、Dは一向に構わず、道を駆け下りていく。
「おまえ――攻撃が来んとわかっているのか?」
「攻撃するつもりなら、塔に辿り着く前にかけてくるはずだ」
Dは珍しく解答を与えた。
「ギャスケルというのは腑抜けか? いや、大将軍と呼ばれた男がそんなはずはない。すると――」
「止められている――」
「何?」
「――のかも知れん」
「誰が、ギャスケルを止められる?」
嗄れ声は、すでに声の主が探索モードに入ったことを告げていた。それはひどく短かった。
「考えるだけ無駄じゃ。ひとりしかおらん。――しかし、なぜ、あいつ[#「あいつ」に傍点]が?」
答えはない。
蒼茫と暮れゆく急坂を、Dはまっしぐらに下りてゆく。背中のロザリアに少しの振動も伝わっていないのは、神技というしかない。
あと半ばで地上、というところまで達したとき、
「おおおおおい」
遠くで呼ぶ声が聞こえた。かなりの距離があると思うのに、Dが足を止めたのはなぜか?
次の瞬間、上空から眼前三メートルと離れていない地面へ、猛烈な地響きとともに、紫色の人影が落下したのである。
ゆらぐ大地が鎮まる数秒の間に、Dは、それが巨大な甲冑を身につけた人間――ないし、甲冑そのものであると感じ取った。
鎧ではない。
身長三メートル、胴も腕もグロテスクなほど太く、武骨なつくりで、貴族末期の世紀末的洗練とは程遠い。
貴族同士が覇権を巡って争い、外宇宙からの侵入者を迎え撃っていた波乱の時代のものだろう。
さすが武骨だが大将軍の手になる城への道だけあって、亀裂ひとつ入らぬその上で、甲冑の騎士は、メカニズム音ひとつ出さず直立していたが、すぐ、
「少しは驚いたかな?」
と渋い男の声で訊いた。これだけで、胸をときめかす娘もいるだろう。
「さっきの声は、わざと遠くから聞こえるように反射させた。そして、いきなり眼の前だ。――どうだね?」
極めて真面目な口調である。本気で答えを知りたがっているのだ。
「貴族だな」
とDが言った。
「違う違う」
甲冑は取り乱したみたいに右手をふった。貴族のメカニズムだけあって、人間と少しも変わらぬ滑らかな動きである。
「正しくは、もと[#「もと」に傍点]貴族だ。おれはご神祖に放逐された身でな」
甲冑は、かかかと大笑し、
「実は女遊びが過ぎて、『都』の宮廷に集う女官たちを片っ端からいただいてしまったのよ。その中にひとり、ご神祖の掌中《しょうちゅう》の珠《たま》がいたわけだ。おかげで、二千年も柩の中に封じこめられた。意識だけはあるよう脳に細工されたから、いやあ、辛かったぞ。退屈で気が狂いそうだったわい。娘が救けてくれなかったら、今頃は――考えただけでも身震いがするわ。ま、とにかく、地の底深く埋められるとき、貴族の資格も剥奪されてしまってな。今では無為徒食の徒だ。もとの名はゼノン公ローランドと申した」
「ゼノン公?」
Dの左拳のあたりで、驚きの声が上がった。
「ローランド? ――なんと、ギャスケルめ、途方もない奴を集めよった」
「なぜ、ここにいる?」
とDが訊いた。
「わからん」
甲冑は肩をすくめた。三メートルもあるロボットの行為だとすれば、ユーモアがありすぎた。
「よく考えれば憶い出せるのかも知れん。そういえば、何か理由はあったようだが、目下は霧の中だ。ただ、おれは『都』の兵のひとりとして、ギャスケル将軍と戦い、相討ちになった。それが、いま、彼の指揮下に入っておる。理由はギャスケルにもよくわからんそうだ。いや、面白い」
「ローランサン夫人、ゼノン公ローランド――最強の戦闘向き貴族が集められておるな。他に誰がおることか」
左手のつぶやきに、甲冑はやや上体を突き出して、
「ほう、左手がしゃべるか」
と感心したように言った。
「それがおぬしの生命の素というが、一度、斬り取ってみたくないこともないな。おっと、そのような殺気をよこすな。おお、この装甲甲冑をつけていても、肌が粟立《あわだ》つぞ。おぬし、ただのハンターではあるまい。まして、ただのダンピールとも異なる」
「言うことは済んだか?」
Dが言った。静かな宣戦布告だと、耳にしたものはわかる。突如、風さえ熄《や》んだ。
「いや、まだだ。しかし、おれはおぬしを斃さねばならん。でないと愛娘《まなむすめ》が危険にさらされるのでな。レディ・アンという――知っているか? ふむ、知るはずもあるまいて。その娘のために、わしは怨みもないおぬしを斃す。――許せよ」
言うなり、右の拳が襲った。マッハを越すパンチに空気が灼け、じき、オゾンの匂いが鼻を刺す。
人間の顔ふたつ分くらいもある拳の一撃を、Dは間一髪で避けた。
五メートルも跳び下がった右手には、一刀が光っていた。
甲冑の拳が青い火を噴いた。別れ際に放ったDの刀身の仕業であった。
[#改ページ]
第三章 古戦場の遺物
1
甲冑の巨人は、左手で拳を押さえた。その指の間からも青白い火花は放電の触手をのばしてきた。
「大したものだ。眼が見えないのに、これか。やはり、ただ者に非ず。この装甲は、デュープ重分子鋼からできているのだぞ。――おっ!?」
叫びは、跳躍したDが、夕映えに魅いられた黒い魔鳥のごとく舞いおりたせいである。
閃く刀身。
だが、二撃目は頭頂をカバーしようと持ち上げた甲冑の右腕に当たって跳ね返った。
「油断しなければ、こんなものだ。もとはデュープ鋼だが、それ以上の強度を精神力によって得られる処置が施されている。もう油断はするなということだな」
言うなり走った。
五トンを越える鎧が、飛燕《ひえん》の速度でDに迫る。
左手がフックを放った。Dの顔に激突する半ばまで来たとき、肘から手首にかけて一メートルもある刃がせり出し、フックは横なぐりの一刀と化した。
きいん、と空気が斬れ――ついでに刃が触れてもいない遠方の木立ちがまとめて四、五本、きれいに切断されて道に転がる。
あまりのスピードに空中に真空が生じ、そこに触れたものを裂くという“かまいたち現象”だ。
Dのコートの裾が、ぱっと口を開けた。
刃が戻ってくる――その寸前、彼は地を蹴った。
黒い稲妻と化して、ローランドの胸もとに跳びこむ。
「ぐおおおお」
絶叫に青い放電が彩りを与えた。
巨大甲冑の戦士は、滑らかに[#「滑らかに」に傍点]よろめいた。
胸部を貫いた刃が、不十分と見たか、返す刀で二撃目が襲う。
五トンの巨体は軽々と宙に舞った。
道のかたわらにそびえる巨木の一〇メートルもの高みにある大枝をしならせつつ、すっくと立つ。この甲冑は、濡れた紙の上も破らずに歩行することができるに違いない。
「そっちの精神力が上だったというわけか」
甲冑は胸を押さえた。青白い光の他に血のすじは見えなかった。
「いっそ、金属だけの鎧にした方がよかったかも知れんな。とりあえず、ここは退《ひ》こう。だが、娘の生命がかかっている。じきに、また」
巨体が枝から離れた――見る間に、反重力としか思えぬ飛行ぶりで木立ちの向こうに消えてしまう。音ひとつ立てなかった。
「怪我の功名――いや、盲目の功名というべきか。あいつの一撃をかわせたのは、眼が見えんせいじゃぞ」
左手の嗄れ声には、ほっとした調子が含まれていた。
肉眼を通しての死闘では、敵の動きに眼を奪われる。それでは、Dといえど、あの甲冑のスピードについていけなかったろう。盲目の勘によってのみ、彼は死の猛打をかわし、反撃に移れた。
「いっそ、このまま見えずにいるか。少なくとも、あいつにはその方がよさそうじゃぞ」
路傍に下ろしたロザリアへ、まるで眼が見えるみたいに躊躇なく近づき、抱え上げたDへ、左手が生真面目な口調で言った。
甲冑には、自動修理回路が備わっていた。装甲のみならず、内側の操縦者をも保護し治療する。
Dの刃はローランドの心臓を少し外れて、右肺を背中まで抜けていた。
装甲を貫くだけでも、物理的にあり得ない現象なのに、わずか、数ミリの差とはいえ、搭乗者を串刺しにする剣技の持ち主――超絶としか形容のしようがない。
加えて、細胞組織が癒着しないのだ。並の刀槍による傷なら――たとえ、銃創であろうと――不老不死を誇る貴族の肉体は、細胞自体がまたたく間に分裂再生して、傷口をふさぐ。人間では再生不可能といわれる神経細胞ですら、ヒドラなみの造作もない復活を見せるのだ。
特殊な剣ではない。空間や次元をねじ曲げるような怪異な剣法でもない。ただの、平凡な突きだ。
それなのに、破壊された細胞は灼熱の痛覚を訴え、噴きこぼれる血潮は迅速な治療を要求する。
「――怪物め」
貴族が口にすればギャグにしかならない。しかし、戦慄と恐怖がこの言葉の真実を支えていた。
完治には一年を要すると、医療コンピュータが告げた。
「そうはしておれん。とりあえず、応急処置だけしろ。装甲の修理が完成したら出動だ」
コンピュータは、三〇分後にOKを出した。
貴族が跋扈《ばっこ》する辺境の旅行者にとって輸血のための装備は、必須アイテムである。貴族による吸血はともかく、妖物の牙と爪が負わせる傷は、速やかな止血と解毒、血液の注入を必要とした。
幼児でも使用可能な間に合わせのキットから、大規模な隊商、輸送隊等が常備する人工血液合成ユニットまで、『都』や辺境の企業や民間の医師の手になる作品は、優に数百を越える。
セルゲイがゴルドーに施したのは、そのうちの簡便なキットを利用したものだったが、とりあえず生命は取り止めたようだ。
車の中に、ジュークと並べて彼を寝かせると、セルゲイは草の上に横たわるその元凶に近づいた。
額から真紅の花を生やしたあどけないその顔を見ていると、セルゲイは自分が情け無用の殺人者になったような気がした。
「さて、どうしたもんかな」
彼は娘――レディ・アンを見下ろして首をひねった。
妖物は即、始末し、できれば焼き捨てるのが辺境の鉄則だ。墓標を立てる必要もない。
「おれの趣味からすると、絶対に生かして連れていきたいんだが、あの二人の面倒も積み荷の世話もしなくちゃならない。Dが戻ってきたにしても、人手不足はどうしようもないところだ。やはり、捨てていくか」
嗄れ声が言った。
「連れて行け」
「なに!?」
愕然とふり向いたセルゲイは、森の奥から姿を現わしたDを見た。
「いま――連れて行けって言ったのか?」
サイボーグ馬はどうしたのか? 訊きたいことは山ほどあったが、肩に担いだロザリアを見た途端、どうでもよくなった。助かったのだ。
例によって、セルゲイの問いには答えず、
「その娘には親がいる。招かれた貴族のなかでも抜群の技量を誇る奴だ」
「――人質か、おい? 卑怯な真似はよしてくれよ」
「生き延びることが第一義だ」
とDは言った。
「すべては、その後になってから考えればいい。――生命があったらな」
「しかし、あんたひとりいれば、我々は何とかなるんじゃないのか?」
「また、空がぐずついてきた」
とDは片手を旅人帽の鍔に当てて、レディ・アンを見つめた。
彼は自分の与えた傷の程度とローランドの回復力、及び、自動治療装置の効果がわかっていたのだろうか。
「じきに来るぞ。その娘のミスを取り返しにな」
「えっ!?」
セルゲイの驚きの声を、地響きが呑みこんだ。
激烈な揺れのせいだ。セルゲイは必死で手をのばしたが、つかまるものはなく、一秒と保たずに尻餅をついてしまう。
Dは大きく跳びずさった。
彼のもとの位置で、地面が盛り上がった。黒土を跳ねのけて現われたのは、つい先ほど、Dとの戦闘中に負傷した巨大甲冑に間違いない。
「せわしない奴じゃのう」
と左手が感嘆した。
「急ぐ身でしてな、D」
「娘の身を案じていると言ったな?」
すでに静まり返った大地の上で、Dが訊いた。
「そのとおり。娘も招かれたひとりでな。わしがおぬしを斃さねば、次に娘が駆り出されてしまうのだ」
「ギャスケルがそう言ったか?」
尋ねるDの両手は自然に垂れたまま、柄《つか》の方へと上がる気ぶりもない。
「ああ」
「娘はそこにいる」
Dはひっくり返ったセルゲイの足下を指さした。
甲冑にはめこまれた電子の眼が回転しつつこちらを向き、
「レディ・アン!?」
と小さく驚きの声を上げた。
セルゲイが大あわてで起き上がり、少女の額に腰のベルトから抜いた釘のようなものを突きつけた。
「やめろ――天罰が下るぞ」
「貴族が何ぬかしやがる」
とセルゲイは叫んだ。
「とっとと失せろ。でねえと、娘の脳味噌ん中に、これを射ちこんでやる。おれは、おめえの娘の弔い方をちゃあんと知ってるんだ」
「なぜだ?」
ローランドの声が重くなった。
「街道一の考古学者だからよ。ここは、あんたとギャスケル軍が戦ったところだ。従って――」
レンズのはずの両眼が赤いきらめきを放った。
真紅の光条は、しかし、セルゲイの眉間まで三〇センチのところで遮られた。
真横に突き出されたDの刀身が跳ね返したのである。
ビームは甲冑を襲い、間一髪、神速の移動に、頭部の端を溶かしただけにとどまった。
「速いな――D」
その声が終わらぬうちに、黒衣の影は巨人の胸もとへ吸いこまれた。
巨人が左へ走った。
空を切った刀身を、Dは思いきり同じ方向へふった。鍔近くを握っていた手を、柄の端までずらす。
しかし、彼は盲目の身ではないのか。その神速、その目標測定、その攻撃を何が支える?
刀身の描く弧は、跳びのく巨人に追いすがり、腹当てに接触した。
恐るべし――鋼は紙のように裂けた。滑らかな動きに、はじめて乱れが生じ、八メートルも彼方へ着地した巨人は、バランスを狂わせ片膝をついた。大地が揺れる。いつもなら、羽毛のように軽々とこなすところなのだ。
上向いた電子の眼が、宙を舞う美貌の影を捉えた。ふりかぶった一刀――なんと美しい、必殺の形相か。
唸りをたててふり下ろされる一刀は、ごつい頭部を難なく二つに割って、本体をも両断するはずであった。
世にも美しい音とともに、Dの身体は跳ね上がった。斬撃に加えた力は、すべて彼に戻されたのである。
鮮やかに身をひねって着地し、青眼に構えたDは、巨人の頭上に横一文字に長槍が渡されているのを知った。
ゼノン公ローランドは、それを両手でかざし、Dの一刀を受けたのである。
だが、全長七メートルにも及ぶそれを、一体どこに所持していたものか。何よりも、Dは必殺の一撃を放ったのだ。その位置、その力、その精神力をもってしても断てぬ武器があろうとは。
「この槍は特製でな。浮遊分子やイオンの結合体だ。実体化すれば、デュープ鋼の五千倍の強度を持つ。Dという名の男でも断てぬよ」
ローランドの声は自信からできていた。
「その上、こんな芸当もできる――見ろ」
甲冑は槍を横抱きに構えた。
すう、と消えた。
甲冑の手のみがDの方へのびる。
黒衣の背中から胸にかけて、長槍が貫通したのは、次の刹那であった。
いや、貫いたのではない。
Dの背と胸の貫通部に、空間の歪みみたいな渦が生じている。原子融合――長槍は、突如、Dの身体が占めている空間の一部に、同時に存在しつつ現われたのである。従ってこの場合、Dの身体を貫いたというより、身体から生えた、というのが正しい。
前のめりに倒れる途中で、一刀を大地に立て、それにすがるような形でDは息絶えた。
2
「浮遊分子は幾らもあるのでな」
空中へローランドの右手が上がると、その手の中に長槍が現われた。
左手が上がると、もう一本。さらに三本目が現われ、それらをまとめてひと振りすると、あっという間に消えてしまった。
「このとおり、何処へ何本でも出せるし、消すのも思いのままだ。さて――」
頭部が旋回するや、セルゲイを見据える位置で止まった。
「娘を返してもらおうか?」
「いいや、断る」
とセルゲイは冷汗まみれの顔をひと拭きした。
「返したら、おまえはすぐにおれを殺すだろう。そのときの用心はしてあるんだ」
彼は右手を上衣の間にさしこんだ。
「この戦場で、おめえとギャスケル大将軍は戦った。記録が残ってるんだ。おめえらの戦いぶりと、お互いの弱点を探り、見つけるまでの全記録がな。おれは、この先でそれを見つけた。保管庫をこしらえたのは、どいつか知らねえが、おかげで役に立ったぜ」
「何のことだかわからんが」
巨大甲冑は静かに近づいてきた。
その距離が三メートルまで達したとき、セルゲイは、右手を上衣から抜いて高々と掲げた。
小さな干からびた葉であった。それが驚くべき効果を上げたのである。
甲冑は両眼を押さえて後じさった。神の無重力は失われていた。踵が土を掘り、地面は大きくゆれた。
「貴様――よくも……」
ローランドの声は喘ぎに近かった。
「凄んでる場合じゃねえだろ。――ほうれ」
セルゲイが葉っぱを放るや、それが頼りなくひらひらと宙をさまよっているうちに、甲冑は身を翻して、木立ちの間へ走りこんでしまった。
遠ざかる地響きよりも、押し倒される木立ちの動きで、セルゲイは脅威の退散を知った。
ぺたんとその場へへたりこみ、
「本当《ほんと》に効くかどうか――気が気じゃなかったぜ」
こう口にした瞬間、額は汗で埋まった。丸々一分間、肩で息をしてから、彼はのろのろと身を動かし、二メートルほど前方の地面から、例の葉を取り上げた。
しげしげと眺める眼は、まだ、信じられないと言っている。
「これがなあ」
二本の指に短い葉柄をつままれて、吹く風にゆれている葉はトリカブト――通称“オオカミグサ”であった。
「とりあえず、Dを埋めてやらなきゃあな」
セルゲイはふり向いた。
前のめりに倒れたDの背中から胸を、確かに長槍が貫いている。限りなく貴族に近いダンピールとはいえ、またそれ故に、心の臓を楔《くさび》に打ち抜かれたら絶望的と、辺境のものなら誰でも知っている真実だ。
「しかし、このDもとんでもねえ化物だと思ったが、上には上がいるもんだ。そんな奴の弱点が葉っぱ一枚ときてやがる。世の中、矛盾から出来ているんだな」
「そのとおりだ」
聞き慣れた嗄れ声が、セルゲイを硬直させた。
驚愕の視線をとばしたが、人の気配はない。そもそもこの声は誰が出していたのか。セルゲイは――莫迦げた解釈だが――Dが腹話術を使っているのではないかと思っていた。もちろん、そんな真似をする理由はわからない。
だが、Dは息絶え、声はする。
「何をオタついておる。おい、槍を抜け」
と声は当然のことのように命じた。
あたりを見廻し、
「ど、どこにいるんだ?」
とセルゲイは震え声で訊いた。
「余計なことは訊くな。さっさと抜かんか」
「じ、自分でやったら、どうだ?」
「それでもいいが、わしには別の、もっと大事な用がある。えーい、抜かんか。抜かないと、お前は協力を拒んだと、Dに伝えるぞ」
「伝えるって――おまえ」
「生き返るのじゃ、この男は」
「え――っ!?」
セルゲイは眼を白黒させた。すぐに常態に復したのは、考古学を身につける過程で読んだ本の一冊に、ドミティウス・ブラウニングの「貴族伝説考」三巻があり、眼前と全く同じ状況――貴族の中には、心臓を白木の杭で貫かれてなお、その杭さえ引き抜けば復活する猛者もいる――が記されていたためである。
「抜け」
今度こそ誘導されるみたいに、彼はDの死体に近づき、背中から突き出た槍の柄を掴んだ。
それは恐ろしい作業だった。Dの筋肉は異様な強さで槍の穂を咥《くわ》え、セルゲイの渾身の力をもってしても、数センチずつも引き抜けないのだった。
息を切らし、汗まみれになり、それでもようよう最後の三センチを抜いたとき、セルゲイは半死半生の状態にあった。断末魔の喘鳴《ぜんめい》に近い呼吸を行いながら、彼は、
「抜いたぞ」
と姿なき声の主に告げた。
「よし」
えらそうな返事を聞いても、怒る気にもなれなかった。
長槍を放り出し、セルゲイは草の上にへたりこんで、それでも、じっとDの様子を窺った。
前のめりの身体に変化はない。左手が胸の下にあるのは、打ち抜かれた瞬間、反射的に槍を抜こうと掴んだものか。
「ん?」
その左手の消えてるあたりで、妙なものが見えた。光ったのである。Dの胸のあたりに青白い光が点ったのだ。
確かめてみたいという好奇心と同時に、何とも不気味な感情に衝き動かされて、彼は動けなくなった。それきり青い光も見えなくなった。
沈黙が夕暮れの森を蒼茫と染めつつあった。
そのとき、嗄れ声がした。
「おい、こっちへ来い」
一発で、セルゲイは従った。もともと好奇心はたぎっているのだ。必要なのは契機《きっかけ》であった。
膝立ちで進んだ。Dのかたわらへ来ると、ぬうと死者の左手が胸から出て彼の右膝に乗った。
「ひい!?」
声が出たのは、乗った手の手のひらが上向きだったからではない。その表面が波立ち、歪むや、明らかに人間の顔としかいえないものが浮かび上がってきたためだ。
「おおおおお」
「何が、おまえ[#「おまえ」に傍点]、だ」
と人面瘡が小さな口でののしった。その口腔の奥に、青白い炎が燃え上がったように見え、セルゲイは思わずのぞきこもうとした。
その鼻先で指が握りしめられた。
「見たいか? 見たければ、おまえの血をよこせ」
「な、なにィ?」
血という単語に、人間は恐怖を感じずにはいられない。貴族と結びつくからだ。ましてや、血をよこせとは。
「えーい、この臆病者。こいつがダンピールだというのを忘れたか。おまえがベーコンや卵を食らうのと同じだ。さっさと血管を切って、たんまりと提供せい」
「そ、そんな――できないよ」
「えい、面倒じゃ」
避ける間もなく、セルゲイの右手はDの左手に掴み取られていた。
手首の裏側に鋭い痛みが走った。
うお、と上げる声と一緒に、生温かいものが流れ出ていく。――いや、この感じは、吸い取られているのだ!
急に身体が何ともいえない浮揚感に包まれた。何もかも遠くなり、凄まじいスピードで降下していく。
意識が暗黒に吸いこまれる直前、
「よし、これでOKじゃ」
という嗄れ声が、はっきりと聞こえた。
そして、ほんの十数秒後、眼を開けたセルゲイの姿を、かたわらに立つ黒衣の偉丈夫が見下ろしていた。
「D!?」
「世話になったらしいな」
「いや――とんでもねえよ」
「借りはいずれ返す。――森を出るぞ」
「これから暗くなるぜ」
と言いかけて、彼はDの出自を憶い出した。これからは、彼の時間なのだ。それと――もうひとつ。
「D――あんた、眼が」
彼の瞼は閉じられていた。
「安堵せい。わしの指示とこ奴の勘で何とかなる」
セルゲイはこの嗄れ声を信じることにした。
「断っとくが、動けるのは、おれひとりだぜ」
その足下に、束にした草の葉が放られた。
「解毒草だ。煎じて飲ませろ。これでひとり増える」
と嗄れ声が言った。
セルゲイが草を煎じていると、Dがやって来た。とても盲目とは見えぬ滑らかな動きである。周囲には、鼻が曲がりそうな悪臭がたちこめている。
「邪魔してくれるなよ、いま、微妙なところなんだ」
「ゴルドーの輸血装置はどうした?」
とDは訊いた。
「え?」
一瞬、訝しげな視線を宙にさまよわせて、セルゲイはすぐに納得した。
「ああ、あれか。あんたなら知ってると思うんだが、このすぐ近くに、対ギャスケル戦争のときの、『都』軍の補給施設が埋もれているのさ。そこから失敬したんだよ。あの小娘に打ちこんだ花もな」
レディ・アンの吸血花によって失血死寸前に陥ったゴルドーを救ったものは、いま、彼の周囲に置かれた貴族のメカニズムだったのである。
「場所はわかるな?」
「ああ」
と言ってから、スプーンでひとすくい、煎じた汁を口へ運び、
「おえ」
と吐き出してから、
「こら効くわ」
にやりと笑った。その顔へ、
「二人に飲ませたら、案内してもらおう」
と盲目のDは告げた。
薬物の効果は劇的であった。ひと口ふた口――吐き出そうとするのを口を押さえて嚥下《えんか》させるや、セルゲイの見守る前で、ジュークの赤ら顔から色が退き、苦悶の表情も消えた。
浅くせわしない呼吸が、みるみる正常に戻るのを、セルゲイは眼を丸くして見つめた。
服用後、二分とたたないうちに、ジュークは簡易ベッドから起き上がり、Dが用向きを告げると、
「ああ、おれが見てるよ、さっさと行きな」
と勧めてくれたのである。
セルゲイを先に、Dは森のさらに奥へと足を踏み入れた。
三〇〇メートル程度歩いたところで、セルゲイは足を止め、
「ここだ」
と前方にそびえる巨大な岩と土の堆積を指さしたのである。
これは巨大かつ広大な土塁《マウンド》のように見えた。
「――といっても、見えねえよな」
「いいや、見える」
と嗄れ声が答えた。
「はいはい」
「入りづらいが、入口はここだ」
セルゲイは何故か投げやりな気分で岩に近づいて、その右端の表面に走る亀裂の前へDを誘った。
いまの二人の位置からは、細い糸のような裂け目にすぎなかったものが、右方へ迂回して見ると、大人ひとりが何とかすり抜けられるくらいの広さはある。
「もとは封印してあったんだろうが、いつの間にか裂けちまったんだ。貴族てなおかしな種族だよ」
とセルゲイが嘆息した。
Dは例によって無言。そして、盲目のままだ。
3
セルゲイの指摘は、ある意味で正しい。
貴族の行動における矛盾を最も切実に表わす言葉に「中世趣味」がある。
すなわち、建築、衣裳、装飾、絵画――あらゆる美術分野におけるゴシック趣味がそれである。
それに溺れるあまり、貴族は時折、奇怪な行動を取る。
いかなる土地にも三日あれば「都」なみの大都会を建設し得るだろうに、辺境の荒涼たる山河や暗鬱な森はそのまま残し、近代的なビルやドームの代わりに、破風や尖塔で埋もれたような、古風な城館《シャトー》を造り上げた。
道路はすべて石造りであり、時折、超高速移動のために専用道路が建設されたのである。
そして、ここにもその一例があった。
水爆の直撃にも平気な施設の出入り口には、超合金の扉の代わりに巨大な御影石《みかげいし》。
長年月の間に巨石は摩耗し、ひび割れた。それは侵入者を容易に受け入れることになる。
「先に行くぜ」
とセルゲイは身体を横にして、亀裂に滑りこんだ。
巨石の短径は一〇メートルもあった。
何とかすり抜けて出たところは、凄まじい破壊の痕をとどめた一角であった。
天井も壁も、外から爆圧を受けたみたいに潰れ、セルゲイはまた身震いした。そのくせ、何処からともなく漂う光のせいで、視界は困らない。
背後にDの気配があった。
「ここを見たときは、ほとんど絶望しかけたが、少し奥へ行ってみたんだ。そしたら――」
ビルくらいもありそうな柱が崩れて壁と互いに支え合っている隙間を抜けると、通路はぐっと右へ曲がって、セルゲイを黄金色のドアの前に導いた。
これはスイッチがついている。
セルゲイが押すと、ドアはきしみ音をたてながら開いた。
内部《なか》は巨大な倉庫としかいいようがなかった。
おびただしい金属製の棚が眼の隅から隅まで並び、その上に形状の異なる品が、それこそ遠目には線《ライン》状に見えるくらい整然と並んでいる。
大小のメカ、木箱、鉄の函《はこ》、金属製のコンテナと思しき品、石の壷――あるものはそれこそ小箱程度から、土木装置らしい天を突く巨大メカまで一緒くただ。血綴草らしい色彩を散らした花畑も遠くに広がっている。
すべてを使い尽くすには、千年もかかりそうだ。
「資料によると、人造血液だけで、貴族百万人に千年供給できるだけの量が貯蔵されてるとよ。百万基もある血液製造器を除いてだぜ」
知識を開陳できる相手をようやく見つけて満足したのか、セルゲイは饒舌であった。
「その製造器だって、一基で一万人分の血液を半永久的にまかなえるってんだから、凄えよな。味は泥水なみらしいけど、それで満足してりゃ、人間との関係も、もう少しうまくいったのによ」
セルゲイは一番近くの棚に行き、並んだメカのひとつを叩いた。
ゴルドーのために稼動中の輸血マシンである。
小型の血液合成タンクと輸血装置が一体化している。
「便利なもンだぜ」
セルゲイが台の端にあるスイッチを押すと、一見複雑なメカはたちまち折り畳まれ、プラスチックのバッグ・サイズにコンパクト化されてしまった。
「これなら、いっぺんに幾らでも運び出せる。資料に載ってた写真通りさ。さすが貴族だな、ドアの一番近くにあって助かった」
Dは黙って聞いている。
この膨大な量に圧倒されたのかと、セルゲイは妙にいい気分になった。
「いくら、あんた[#「あんた」に傍点]だって、この中から――」
ふり向いた。そこに立っているのがDではないと気づいて、表情が失くなるまで、一秒ほどかかった。
ホネダキカラスを思わせる痩身の男は、戦闘用のヘルメットをかぶり、戦闘服に身を固めていた。
血の気を失ったその顔を見るまでもなく、死魚のようによどんだ、濁り切った眼で正体がわかる。
貴族の兵士だ。
自らと同じく不死身に近い、しかし、意思のない機械人形《ロボット》のような生物を、貴族は使い減りのしない重宝な兵士に選んだのだ。
「“生ける死者《リビング・デッド》”」
いつからDだと思っていたのか。Dは何処へ消えたのか。考える暇もなく、セルゲイは喉もとにのびてくる青白い幽鬼の手を見つめた。
指が喉に食いこんだ。
ぷつん、と爪が皮膚を裂く。流れ出す血をセルゲイは意識した。
喉がちぎり取られる。――恐怖が脳を灼いた、その刹那、眼前の死人兵は、一瞬、全身を痙攣させて仁王立ちになった。その心臓から白い切尖《きっさき》が突き出されているのをセルゲイは見た。
兵はヘルメットと衣裳ごと崩れ、青灰色のその堆積を見ずにセルゲイは、その一刀を鞘に収める美青年へ視線を送った。
「一体――どうして?」
ようやく口にした問いに、Dは左手を上げて、比較的近くの棚を指さした。
「あの壷か!? ――開けちまったよ、確かに!」
輸血装置を肩にかけ、セルゲイはその棚からひとつ白い陶器の壷を手に取って、蓋を開けてしまったのだ。
だが、何も現われなかった。壷の中には、白い塩の結晶みたいなものが詰まっていた。セルゲイはそれを床にこぼし、しばらく眺めていたが、変化なしと見て放置したものである。
「まさか。――あの壷の中味か!?」
愕然となるセルゲイへ、
「ひと壷に五〇人」
と嗄れ声が応じた。
セルゲイは周囲を見廻した。
何処にひそみ、何をしていたのか、棚の間から、部屋の奥から、青白い人影がゆらゆらと近づいてきつつあった。
古代において、人間の本質は塩とする考え方があった。やがてすたれたこの理論を、貴族たちは飽くことなく追究していたのだろうか。
「どうするんだよ、D?」
死人兵と同じ顔色になりながら、セルゲイは腰から鋲打ち銃を抜いた。
「おれの用は済んだ。――出ろ」
そういえば、Dは左手に銀色のコンテナをひとつ下げている。
何もかも忘れるほどの好奇心が湧いたが、眼の隅にはっきりと映りはじめた青白い死人の顔が、セルゲイを現実に戻した。
「伏せろ」
すべてDに従おうと決めた瞬間のひとことであった。
思いきり身を沈めた頭上を、真紅の波が走って、戸口の壁に命中した。
粒子砲だった。加速された素粒子の灼熱を、壁は色も変えずに受け止めた。
びゅっと空気が鳴って、奥の死人兵が崩壊する。Dの白木の針が心臓を貫いたのだ。
他の兵士たちは武器を持っていないようであった。僚友が斃されるのも気にせず、黙々とDとセルゲイに迫る。
戸口へ走り出そうとして、セルゲイは足をひねった。
立てなくなってはまずい。自分から倒れた。Dはすでに戸口に辿り着いている。
立ち上がったセルゲイの肩を、冷たい指が掴んだ。
「わわわわわ」
叫びざま、夢中でふり向いた。
眼の前にあの顔[#「あの顔」に傍点]があった。
鋲打ち銃が、その眉間に上がったのは、反射神経と生存本能の力であった。
ぱん、と高圧気泡が弾け、秒速三〇〇メートルで打ち出された一〇〇グラムの鉄鋲は、死人の後頭部を丸ごと持っていった。
昔、瓜二つの状況でゾンビを斃したことがある。やった、と思った。
死人は倒れなかった。肩に食いこんだ指の、骨を圧搾する音が聞こえるような気がして、セルゲイは悲鳴を上げた。
不意に痛みが拡散した。
夢中で肩をふって前へ跳び、ふり向いたセルゲイは、死人兵の胸から突き出ている白刃を認めた。Dが戻ってきたのだ。
「行け」
とドアを指さし、迫り来る他の死人兵と対峙する。
一刀を下げただけの静かな姿であった。生ける死者は恐怖というものを知らない。そう造られている。だからこそ、兵としてもってこいなのだ。
だが、眼前に立つ美しい静かな偉丈夫の前で、死者たちは硬直した。
Dの姿に彼らが見て取ったのは、死よりも恐ろしい何かであったろうか。それでも、死者たちは前進しようとした。
セルゲイはドアの前でふり返ったところだった。
Dの右手から光が弧を描くのを見た。それは手近の死人兵の首を薙ぎ、さらに向こうの死者の首をも落として鞘に吸いこまれた。
澄んだ鍔鳴りの音は、床にぽろぽろと転がる生首には不釣り合いのようであった。
あの嗄れ声の主の力か、Dの超人的な勘による剣技か。こちらへ走り寄るDに、なぜか自分まで首を落とされるような気がして、セルゲイは開いたドアの向こうへ跳びこんだ。
瓦礫のホールを抜け、巨石の隙間へ身をねじ入れる。その寸前、彼はDがホールの真ん中へ銀色の円筒を投げつけるのを見た。
息の詰まりそうな隘路を抜けた途端、胴を抱えられ、五メートルも前方へ持っていかれた。
着地と同時に、地響きが身体をゆらした。巨石が火を噴いた。毒々しい油性の炎が石を割り、土塁そのものがふくれ上がっていく。分子の張力が失われた瞬間、炎が大地から駆け昇り、土くれを岩をさらに細かく砕きつつ虚空へと噴き上げた。
すでに二跳躍して森の奥に達していたDとセルゲイの身体は青白くかがやき、木立ちの影が黒々と落ちた。
「まさか、あの補給倉庫を丸ごと――」
セルゲイは絶句し、恐怖を漲らせた眼でDを見つめた。
「そんなことをしたら、この地方が丸ごと吹っとんじまうぞ」
「入口をふさいだ」
とDは答えて、セルゲイに安堵の息をつかせた。
やがて、その言葉どおり光は色褪せ、地響きは遠のいていった。
「行くぞ」
とDは身を翻した。
「え?」
「落ちてくる」
「あっ!?」
セルゲイは驚愕と恐怖の眼を見張った。
約四〇秒後、二人の走り去った森の一角に、原子弾の炎の噴き上げた灼熱の瓦礫や構造材が落下して、みるみるあたりを炎の海に変えた。
キャンプ地に戻ると、セルゲイはひと足先に到着したDを見つけた。
「どうしたんだ、何もねえぞ!?」
こりゃ、場所を間違えたか、とセルゲイは周囲を見廻し、地面に残るタイヤや露営の跡を確認した。
そのかたわらへ、焼けた石が落下し、白煙を噴き上げた。
あちこちで小さな炎が上がる。
「ジュークの野郎、逃げ出しやがったな。卑怯者め!」
「彼の仕事は、荷物の輸送だ。当然の処置だな」
とDが、コートの裾をひとふりして、灼けた鉄片を弾きとばした。
「どっちへ行った?」
「向こうじゃな」
答えた嗄れ声の異常さに、セルゲイは気づかない。
Dの左手がさす方へ、彼は獣のような敏捷さで走り出した。
[#改ページ]
第四章 ギャスケル登場
1
「ゼノン公の首尾はいかがでしたかな?」
高密度な闇に占められた空間に、シューマ男爵の揶揄するがごとき声が流れた。
「しくじりおった。ばかりか、娘まで人間どもの手に渡ったわ」
闇を圧する呻きは、獅子獣の咆哮に似ていた。ただし、この獅子は百万倍も凶暴で一億倍も邪悪にちがいない。
「それはそれは」
シューマの声には、結果に対する無念も、ゼノン公に対する同情もない。無論、その娘などどうなろうと知ったことではないのだ。
「ローランサン夫人を斃され、ゼノン公の愛娘まで奪われて、一矢も報いられずとは――いやはや」
「おぬしが行くか、男爵よ?」
「とんでもない」
漆黒のただ中で、人の姿など見えないし、また、存在もしないのに、わざとあわてて手をふるシューマの姿が見えるようであった。
「しかし、ゼノン公ともあろうものがだらしがない。将軍――将軍が彼の娘を人間どものもとへやったのは、当然、彼らを殲滅《せんめつ》させるためでしょうな?」
「もとよりだ」
「娘が戦いに出たと知れば、ゼノン公も死に物狂いで働きましょう。さすが、将軍のお知恵は深いところに働く」
とチクリとやって、心底不思議そうに、
「しかし、なぜ城内でDを斃さなかったので?」
と首をかしげた[#「首をかしげた」に傍点]。
「確かにあの男、顔に似合わぬ化物じみた力の持ち主。――ですが、将軍にはここで始末しようという意思の破片もお見受けできませんでしたぞ」
「この城で斃しては、おぬしらを集めた愉しみがなかろうて」
「ほう。すると、やはり我々は、あ奴を処理するために甦ったのでしょうか?」
「他に何がある?」
「それならば――よろしい」
男爵の声に、満足と安堵がこもった。ただし、本気でそう思っているのかはわからない。
「――で、次もゼノン公にまかせるおつもりですか? このままでは、彼奴《きゃつ》ら、何とかご領地を出てはしまいませんか?」
「ここは出られぬ」
将軍の声は、宇宙のごとき自信に満ちた。
「わが移動領地――“さまよえる大地”を、わしの意図に背いて出て行ける者など、この世にはおらん」
「失礼ながら」
と別の声が割って入った。メフメット大公である。
「将軍は、あのハンターが倉庫から運び出した品をお忘れか?」
どうやら、彼はいながらにして、Dやセルゲイたちの行動を観察できるらしい。
「あれは――」
「わかっておる」
闇をつんざくギャスケル将軍の一喝であった。
「だが、あのような子供騙しが、このギャスケルの領土に通じるか、諸君、いま少しの観察を愉しみたまえ」
ジュークが馬車を出したのは、天空から落下する凶弾を避けてのことだが、いまやそれに森林火事が加わっていた。
四方から炎が噴き上がり、かわしかわしで逃げた挙げ句に、気がつくと、行く手も戻り道もオレンジ色の壁にふさがれていた。
「こいつは、耐火シールドしかないな。だが、いつまで保つか」
シールドは耐火耐熱繊維の袋と思えばいい。ボタンひとつで馬車を包んではくれるが、保ってまず三〇分が限度だ。
ジュークが御者席のボタンを押そうとしたとき、車内から、
「何をしている。早く縛《いまし》めをほどかぬか、無礼者」
権柄《けんぺい》ずくのくせに妙に可愛らしい女の声が耳に届いたのである。
「ほう、あの花摘み娘、気がついたか。――セルゲイの話では、あと丸一日は眠りつづけるということだったが」
「とかぬか。なら、自分でとる」
ジュークがはっとする間に、凄まじい衝撃と破砕音が身体に伝わってきた。
「逃げたか?」
と身をひねった頭上から、ふわりと華麗な色彩が舞い降りて、彼の隣にすわった。むしり取った血綴草を地べたへ叩きつけて。
火薬銃へのばした手も遅く、その喉元に、ぴしりと少女の愛くるしい指が突きつけられたのである。刃のように鋭い爪を持った指が。
ひと掻きで、首を落とされる――ジュークは自らの勘を信じた。火薬銃から手を離して、
「おれを殺すか?」
と訊いた。
「火を止めい」
と娘――レディ・アンは命じた。
「済まんが、無理だ」
とジュークは答えた。
「おれは貴族と違う。こんな大火事を一発で消せる力も道具も持っていない。君、どうだ?」
「愚かな人間め」
と美少女は可愛らしく吐き捨て、
「お父さまは、どうしていらっしゃる? 助けに来てはくれぬのか?」
とつぶやいた。
その心細げな調子に、ジュークの胸に奇妙な同情が湧いた。
「来てくれるといいが、そうではない場合も考えるとしよう。車内に戻れ」
「身の程を考えよ。――私に命令する立場か?」
爪の先が、ぎりと喉に食いこむ。肌を流れる血を、ジュークは意識した。
「わかった。しかし、おれを殺して、ひとりで炎の中を脱出できるのか? もう周りはすべて火の海だぞ」
少女は沈黙した。その気品匂うがごとき面貌に、明らかな動揺と――恐怖の波が渡った。
「君は本当に貴族の娘か?」
ジュークは訊いてから、少し後悔した。
さらに深く可憐な爪を打ちこんで、少女は怒りに身を震わせたのである。
「その侮辱――炎に身を焼かれながら後悔せよ」
なんと、触れるだけで折れそうな細腕が、軽々とジュークを吊り上げたではないか。これだけの力なら、たやすく彼を、彼方の火炎地獄へと投擲《とうてき》できたにちがいない。だが、彼女は投げることができなかった。
小さな身体を凄まじい鬼気が打ったのである。串刺しにされた痛みが全身を貫いた。無論、幻痛にちがいない。だが、何かを感じて、アンが頬に当てた指先に付着したものは、紅い鮮血であった。
あり得ない物理現象を肉体に起こさせるほどの妖気の持ち主とは――
ジュークを高々と掲げたまま、アンは地上へと跳んだ。
草の上に立って後方を向いた少女の顔が認めたものは、紅蓮《ぐれん》の炎と吹きつける熱気を背に立つ二つの影であった。
「………」
レディ・アンは声を失った。人影の片方――奇妙な棒状のメカを右手に握った黒衣の若者から放射される鬼気の故ではない。両眼を閉じたその美しさに、魂さえ奪われてしまったのだ。
「彼を下ろせ」
とDは言った。
アンは動かない。反抗するつもりさえなかった。彼女は敵の美貌に、なお忘我の域にあった。
すっと敵が前に出た。
それに気づいて反撃を加えようとした刹那、可憐なる貴族の娘は、脾腹《ひばら》に電光の一撃を受けてその場に昏倒した。
「縛っておけ」
と背後のセルゲイに命じて、Dは前方の炎に、右手のメカを向けた。
それは確かに、一本の金属の棒のように見えたが、不意にその先端から新たな、もっと細い管がのびて、パラボラ・アンテナみたいに広がったのである。
アンテナといっても外被《がいひ》はない。骨組みだけである。だが、そのすけすけのアンテナを、正面からのぞいたものは、奇妙な光景を眼にしてまばたきを繰り返したであろう。
光景? ――それは、まさしく光景であった。
アンテナの中ほどいっぱいに、暗黒が広がっているのだ。その彼方にきらめくのは――星々だ。
セルゲイとジュークの位置からは、単なる骨組みとしか見えないアンテナを燃えさかる炎に向け、Dは握りについた稼動レバーを倒した。
炎が燃えた。暗黒の小さな大宇宙に。それは、一同の前方に猛り狂う炎地帯《フレア・ゾーン》――その一角と瓜二つであった。
ふっとそれは消滅した。
地上の炎も、また。
セルゲイとジュークが驚きの声を上げた。
差し渡し三〇メートルほどもある一角が、炎と木立ちもろとも消えてしまったのである。
残った炎は荒れ狂っているが、それらが死の舌をつなぐべき木も草も、黒土ともども根こそぎ失われていた。
「“真空掃除器《クリーナー》”か!?」
呆然と呻くセルゲイに問い返すものはない。
正しくは“瞬間転移除去装置”とでも呼ぶべきであろう。貴族たちは、戦闘がひと息つくと、持ち前の潔癖さを発揮し、この単純なメカニズムを使って、累々と横たわる死人兵の死体や兵器の残骸を宇宙空間へ放出したという。Dがあの補給倉庫から持ってきたコンテナの中味は、これであったのか。
「なかなかやりますな――将軍」
とシューマ男爵が冷やかすように言った。
「あれなら、将軍の領土全体を吹きとばして脱出できますぞ。あれで盲目とは信じ難い。やはり、Dと呼ばれる男は違う。いや、恐るべし」
「ここはやはり、Dを斃し得る大物が出動すべきでしょうな」
とメフメット大公が荘重な物言いをした。
「お邪魔してよろしくて?」
いきなり、闇さえも色褪せるような、華やかな女の声が割って入った。
「これは、グレートヘン博士」
シューマ男爵とメフメット大公が声を合わせたのは、声の響きばかりではなく、その醸し出す絢爛たるイメージに圧倒されたのである。博士と呼んだが、まるで“都”のオペラ座の大舞台を圧する偉大なる歌姫だ。
「いまのいままで傍観させていただいておりましたが、ようやく、わたくしの出番が来たように思いまして」
華やかな声は、魔人たちを圧倒したか、口を開くものもない。
いや。闇を伝わり交差するのは、明らかに恐怖と戦慄だ。
Dの左手さえ驚嘆させた魔人たちは、何に怯えているのか。答えはひとつ――女だ。グレートヘン博士に間違いない。
「あら、お静かなこと。――みなさま、異議なしと思ってよろしいのかしら?」
返事はない。
博士の声は明るく、花のように、
「それでは、異議なしと認めまして。――失礼いたしますわ、将軍」
「待て」
重々しい声に、闇の中をある気配が流れた。安堵である。
「あら、何か?」
「わしが参る」
闇がどよめいた。グレートヘン博士の声でさえ驚きを隠さなかったのである。
「いよいよ大本命のおでましか――少々、早すぎるような気もいたしますが」
これはメフメット大公である。
「全く。これでは我らが甦った甲斐もなくなってしまいそうですな」
皮肉っぽい口調は、言うまでもなくシューマ男爵だ。
闇の中を気配が伝わった。
ギャスケル将軍が立ち上がったのである。
それだけで、男と女の声は苦鳴に変わった。何という気迫の凄まじさよ。
外にはまだ手負いの獅子が、ゼノン公がいる。レディ・アンもまた敵だ。
Dよ――どう迎え撃つ?
2
馬車は文字どおり、炎を横目で見ながら疾走中であった。
Dの“真空掃除器”が炎を吸いこむたびに、安全地帯は着実にのびていく。そうしてできた道を、Dは馬を駆って突進していくのであった。
隣についたDを見て、手綱を握るジュークは内心舌を巻いた。美しいハンターのところへは、炎さえ降ってこないのだ。そして、彼は盲目なのである。左右からふり落ちてくる燃える木の葉や枝を払いのけようとしないのを見て、やっとそれとわかる。
「抜けられそうだな」
そんな男が味方であることで、つい、希望的観測が洩れた。
「まだ領地内だ」
Dの顔に遠い炎が反射している。
「じきに抜けられるだろう。いくら、ギャスケル大将軍の領土だと言っても、無限ではあるまい」
「領地が移動することを忘れるな」
「そこだよ。――それも無際限なのか?」
「いや」
「なら、大丈夫だろう。そのたびに抜ければ、いつかは出られる。荷物はみんな真空パックしてあるしな」
「ここはギャスケルの領地だ」
「おい」
ジュークは苦虫を噛みつぶしたような顔で言った。
「時々、思うんだがな。あんた、どっちの味方だ?」
この質問の持つとんでもない意味に気づいて、次の瞬間、彼は蒼白になったが、Dの方は気にした風もなく、
「来るぞ」
と言った。ジュークが、
「えっ!?」
と聞き返してしまったのは、それがひどい嗄れ声だったからだ。
「もうわかっておるだろうが、途方もなく強大な敵が迫っておる。十中八九、ご領主さまだの」
「ギャスケル将軍か!?」
叫んだのはジュークである。
「落ち着け、落ち着け。それほど怖いか?」
嗄れ声に揶揄され、ジュークは妙な表情を浮かべた。
「そういやあ」
「それほど恐ろしくはあるまい。おまえは所詮、この土地へ来ては去る流れ者じゃ。ここに根づいたものの恐怖はわからんて」
図星をさされて、ジュークは唇を歪めたが、それきりだ。
「馬車を止めろ」
Dが言った。Dの声である。ジュークははっとその顔を見たが、何も言わなかった。
急停車の衝撃に、セルゲイが窓から顔を出して、どうしたと訊いたが、降り立ったDを見て、こちらも沈黙した。
火勢は衰えたが、炎はなお四囲を焼いている。
馬車の前方――一〇メートルほどの位置に進むと、Dは“真空掃除器”を四方に向けて、たちまち、直径五〇メートルほどの広場をつくった。
それから右手をふると、吹けば飛ぶような“掃除器”は、軽々と一〇メートルを飛んで、狙いすましたごとく、御者台のジュークの膝上に落ちた。
「手を出すな」
静かな、有無を言わさぬ宣告に、ジュークもセルゲイもうなずいた。
これから何が起きるにせよ、自分たちには指一本触れることもできないと、彼らは承知していた。
どこからともなく、鉄蹄の響きが近づいてきたのは、一分ほど後であったろうか。
Dが左を向いた。
「ほう、道なき道を来るか。さすがはご領主さまじゃな」
ぼっと炎が消えた。木立ちがゴムのように左右へしなる。その間を広場へ躍りこんだ黒馬の馬車は六頭だてであった。
「ほう」
とDの左手が洩らした。
何から何まで巨大だ。黒馬は通常の馬よりふたまわりは大きく、体長は三メートル、地面からたてがみをなびかせる頭までもそれくらいはある。戦闘用に使っても、恐るべき武器になるだろう。
巨大な馬の引く馬車もまた、それにふさわしく雄大といえた。
遠い炎を表面に映す車体は鋼《はがね》でできている。平坦な部分はどこにもない。鋼を埋めるのは、すべて怪異な彫刻であった。すなわち、苦痛の相をまざまざと留めた亡者の顔まである。どれも断末魔の形相凄まじく、決して得られぬとわかる救いを求めて眼を剥き、舌を吐いている。傍から見れば、この馬車は、亡者に取り憑かれた死神の愛車、いや、亡者どもを生む地獄の釜と映るかも知れない。
静寂が世界を占めた。
遠くで炎はなおも燃え狂っている。裂ける木の音もする。炎の起こす風の唸りも絶えてはいない。それなのに、ジュークもセルゲイも、完璧な沈黙の中にいることを知った。
彼らの五感はすでに麻痺し、狂いはじめていたのである。いや、世界そのものが。
「これは……」
とDの左手が呻いた。苦痛の叫びと取れぬこともない。
「何という妖気だ……万物の法則に反しておる。これがギャスケル大将軍――神祖につぐ大貴族の正体か」
馬車が運んだものは、登場の仕方も心得ているようであった。
古風な蝶番のきしみが静寂を破った。それでいて音はない[#「それでいて音はない」に傍点]。何と静かな戦場か。
馬車の扉が開くと同時に、一メートルもの高みにある出入り口の下から地上へ、幅広い踏み段が下りた。
そして、黒い雲とも形容すべきものが身を乗り出してきたのである。
まず、巨大な――一本の毛もない頭部が見えた。顔の半分は銀仮面だ。そして死の陽光を避けるためか、頭も顔も、露出部はすべて黒色に覆われていた。
首から下――小山のようなたくましい肩は、漆黒のマントの下からも、その形がはっきりと見えた。マントの左半分は跳ねのけられ、黄金の糸で奇怪な模様が織りこまれた黒い上衣がのぞいていた。
腰の後ろに引かれた見えない右手からは、これも黒一色の長剣――巨剣というべきか――の柄がのびていた。
円柱のごとき黒い足が乗ると、鉄の踏み段はきしんだ。
徐々に全貌を現わす巨躯は、古代の伝説にある、瓶から出現する魔王を思わせた。
最後の一段まで踏みしめて、巨人は地面に降りた。
二メートル超の巨躯がDを見下ろす間合いは、五メートルもない。これが城の中でシューマ男爵らに揶揄されていた大貴族か。Dの前に立つのは、限りなく巨大な、世界を制する魔王以外の何ものでもなかった。
そして、何と、魔王は上体を屈め、右手を胸に当てて恭《うやうや》しく一礼したのである。王に礼を取る臣下のごとく。
「おぬしがDか。名前は聞いておる。わしはギャスケル将軍だ」
声音もまた丁重であった。
対して――こちらも闇色に彩られた盲目の若武者は、いつものとおり、恐れげもなく、
「おれがDだ」
と応じた。その刹那――世界に音が戻ったのである。死は生に転じた。
「ほう」
と洩らすのは、ギャスケル大将軍の番であった。
「聞きしに勝る。――これでは、ローランサン夫人が斃され、ゼノン公が及ばなかったのも無理はない。その辺の田舎貴族では、束になってかかっても到底歯が立つまいよ」
「おれはいま、馬車の護衛が仕事だ」
とDは言った。
「黙って通すか――それとも」
聞く者がいれば、絶望のあまり発狂してもおかしくない無謀な脅しだ。宣戦布告といってもいい。
だが、これが耳に届いた瞬間、凍りついたようになっていたジュークとセルゲイは、思わず、心底からの感嘆の叫びを上げたのである。
彼らにはわかっていた。Dは――この美しい戦士は恐れていない。彼もまた魔人のひとりなのだ。
「通せぬな」
とギャスケル将軍は、少し考えて言った。
「何故かと言うとだな、我ら甦りし者たちの目的が、どうやら、おぬしを斃すことにあるらしいからだ」
「らしい[#「らしい」に傍点]?」
と嗄れ声。
「訳もわからずに、おれを狙うか」
とD。両眼を閉じたままである。
ギャスケルの表情は――半分だけ苦悩の色を滲ませた。
Dが訊いた。
「なぜ甦った、ギャスケル将軍?」
「それは、わかる。――ご神祖との約束だ」
「約束か」
「そうだ。よく覚えてはおらんが、わしは滅びる前に、ご神祖と復活の契りを交わした。確実にこの世に復活することを条件に。復活の時期もご神祖にまかせた。ただ、そのとき、ご神祖はひとつの条件をつけた。――おお」
ただでさえ凄まじい面相が、歓喜に歪んだ。ひと目見ただけで、鳥は落ち、獅子は失神しかねない。
「憶い出したぞ。ご神祖は復活に際して条件をつけたのだ。甦った後、自分のために一度だけ働いてもらう、と。おお、いま、はじめてわかったぞ。それ[#「それ」に傍点]がこれ[#「これ」に傍点]だ。おぬしの抹殺にちがいない」
大将軍の黒い右手が長剣の柄にかかった。
その眉が寄った。
「しかし、待て。――確か、わしは……」
「ギャスケル将軍は、自らの力で甦る技術を開発したと聞いた」
とDが補足するように言った。
「それを使わず、神祖の力に頼ったのは何故だ?」
Dの質問の答えを探っているのか、或いは、自ら招いた疑惑の解明に励んでいるのか、ギャスケルは全身に沈黙を塗り固めた。
歯を使わずとも石くらい噛み砕けそうな分厚い唇が、ようやく、きしるように言葉を吐き出した。
「そうだ、わしの力では、復活の時間までは特定できなかったのだ……いつ甦るかわからない。だが、ご神祖は自在に操れると。――わしは、なるべく早く、千年以内と願って了承を得た」
「他の貴族もか?」
「訊いたことはないが、多分な。ただし、彼奴らは復活の法など知らぬはずだ」
それなのに、シューマ男爵もローランサン夫人もゼノン公も甦り、ギャスケルのもとへ参集して、Dとの一戦のために爪と牙を研いでいるのだった。
彼らもまた、神祖と契りを結んだのか? Dを斃すことを条件に?
「おれを殺してどうするつもりだ?」
とDは訊いた。
「そこがよくわからんのだ」
とギャスケルは腕組みして答えた。
「その理由がどうしても思いつかん。――何故だ?」
Dの口もとを、うすい苦笑いがかすめた。殺そうとする当人がその理由を思いつけずに煩悶するなど、前代未聞のことだったのである。
「では、どけ」
とDが告げた。
「そうはいかん。約束は守らんとな。まして相手が相手だ。まあ、よい。おぬしを片づければ、おのずとわかるだろうて」
鋼が胸をかすめる音がした。
長い長い刀身は、彼方の炎を映して、しかし、白々とかがやいた。
事ここに至っても、Dは背の一刀に手をかけていない。閉じた両眼は何を映しているのか。
将軍が一歩踏みこんだ。全体重を乗せたと思える驚異的な踏みこみなのに、音はしなかった。
刀身が落ちてきた。
真っ向からDは受けた。いつ抜いたのか、見た者はいない。――将軍でさえも。
世にも美しい響きを上げて、将軍の長剣は、Dの一刀と噛み合った。
「おお!?」
驚愕の叫びは、ジュークとセルゲイの洩らしたものか、それとも左手か。Dが右膝をついたのだ。
将軍の黒い顔がにんまりと笑った。
技ではない。単に力で押しまくる、その原始的な戦闘法で、彼はDを圧倒しようとしていた。
3
だが、将軍のうす笑いの奥には、隠しようもない感嘆があった。
「よくぞ、ギャスケル将軍の一撃を持ちこたえた」
声にそれが出た。彼は心の底から、二つになろうとしている若者を讃えているのであった。
「“都”から来た剣客も騎士も戦闘士も、ことごとくこの一刀で塵となった。避けられたものはおらん。Dよ――その名を忘れんぞ」
同時に、その右腕がふくれ上がった。片腕の膂力《りょりょく》のみで、将軍は刃ごとDを両断するつもりであった。
「ん?」
怪訝そうな表情がかすめた。
彼はやや爪先を立て、上体へ重みを加えた。
表情は、はっきりと驚きのそれ[#「それ」に傍点]に変わった。
Dの刀身が断てぬのだ。いや、Dが下がらぬのだ。
それどころか、いま、彼の巨剣に下方から加えられる圧力は、徐々に、間違えようのない強さで彼の巨体をもとの位置に押し戻しつつあった。
まさか、たかが一介の盲目の貴族狩りが、力で自分を圧倒し得るとは。
「おおおおお」
と眼を剥いたのは、ジュークとセルゲイだが、ギャスケル自身も同じ思いであったろう。
いま、Dはすっくと立った。
「まさか……この力……もしや、おぬしは――」
声と巨剣が跳ね上げられたのは、その刹那であった。
巨体は大きく後方へ跳んだ。光が迫ってくる。それが胸もとをかすめて去ったとき、将軍は大地をゆるがして着地した。
身軽さは失われていた。その代償は黒い上衣の胸もとに残る一条の太刀傷であった。
「まさしく――化物」
ギャスケル将軍がこんな言葉を洩らすのを、誰が想像しただろう。
「このわしも、剣一本では危ない。では、わしなりの技を使わせてもらうぞ」
天が翳った。
前触れの轟きもなく、空中から迸った雷光はDの頭上へひとすじの白い線を引いた。
五千万ボルトの高圧電流は、いかなる吸血貴族をも骨まで灼き尽くすはずであった。世界は白く、青く変わった。
その中に、ひときわ鮮烈な青がきらめいた。突進するDの胸のペンダントであった。
「貴様!?」
愕然とふりおろす巨剣は高々と跳ね上げられ、返す一刀は逃げる間も与えず将軍の心臓を刺し貫いていた。
「ぐおおおおおおおお」
巨獣の苦鳴が天地を震わせた。
Dはすでに刃を戻している。間一髪で将軍が身をかわしたと悟ったのである。
とどめの一刀を、将軍はかわす体勢になかった。
地面がゆれた。Dは姿勢さえ乱さなかったが、将軍は大きくよろめいた。森の彼方から炎が噴きつけてきた。
一瞬とまどったDの切尖が送り出されたとき、ギャスケル将軍の身体は空中に舞っていた。
馬車の御者台に下りるや、六頭の黒馬は地を蹴った。
スピードを上げつつ、一目散に、やって来た方角へと走り去る。
「だらしがないな、我が大将」
何処かで誰かの声がした。
「もう少しで光装甲が破られるところだ。恐るべき剣よ」
「それに――Dが追ってくるぞ」
すでにふり向いて、ギャスケル将軍は気づいていた。
自慢の合成馬の脚力を物ともせず、両眼を閉じたDが追いすがってくるのだ。
恐怖と戦慄が灼熱の苦痛に喘ぐ胸を白く染めた。
鞭を取って叩きつけた。
馬はぐんぐんスピードを上げていく。手をのばせば馬車の背に届く位置から、Dは急速に遠ざかった。
足を止めたDを残して、黒い闇馬車は風を巻いて走り去った。
車に戻ったDを、ジュークとセルゲイの白ちゃけた顔が迎えた。
生還を喜ぶだの、健闘を讃えるなどという人間の感情レベルを逸脱した戦いを眼のあたりにして、脳が麻痺してしまったのである。
「か、肩でも揉もうか?」
ようやくセルゲイが口にしたとき、Dは御者台にのぼろうと手をかけたところだった。
「いいえ、私が揉んでさし上げますわ」
きらめくような口調が、Dさえもふり向かせた。
セルゲイが、あっと叫んだ。
馬車のかたわらで、Dを見つめているのは、レディ・アンであった。
ジュークとセルゲイは、行く手に待つ運命を確信した。そうさせたのは、Dを見る、限りなく熱い眼差しであった。そして、彼らにある決意をさせたのも、恋する女の恍惚ととろける、しかし、炎のような眼差しであった。
「将軍さまの気で眼が醒めました」
とレディ・アンは言った。能天気とさえいえる愛くるしさも、華やかさもない、むしろ哀切な口調であった。
「そして、拝見いたしました。あなたの戦いぶりを。盲目の身で、あのギャスケル様に手傷を負わせるとは――何と凄まじい」
ジュークが目配せし、セルゲイが火薬銃を腰だめにした。
「私――あなたが好きになってしまいましたわ、D」
「よせ」
恋情を打ち明けられた返答にしては、素っ気ない言葉だったが、向けられたのは無論、セルゲイだ。
彼はレディ・アンに狙いをつけた火薬銃の引金に、指をかけたところだった。
「邪魔するなよ、D」
とジュークがとりなすように言った。言ってから、彼の盲目ぶりは嘘ではないかと思いついた。
「この小娘を連れて行くと厄介なことになると思うんだ。いま、始末した方が絶対にいいぞ」
「連れて行くと言った」
「けど、危ねえよ」
とセルゲイも言った。
「そいつの眼を見たろ? ――あ、いや、おれたちには見えるんだ。あんたに惚れ切っちまってる。きっと面倒を引き起こすぞ」
「ほほ、確かに」
と、あどけない少女は、大の大人を二人まとめて嘲った。
「私はこの方を好きになっただけです。あなた方が敵であることには変わりがありません。ですが、ご安心ください。何もいたしませんわ。――Dがそう命じるのなら」
「信じられるか、阿呆」
とセルゲイが吐き捨てた。
「お好きなように。私が信じて欲しいのは、この世にただおひとり」
少女は花のような笑顔をDに向けた。
「連れて行け」
とDは言った。
「うれしい」
と胸もとで両手を組み合わせるアンを無視して、
「まだ役に立つ。いいか、一切、おれたちの邪魔をするな。前進に些細な不利益をもたらしでもしたら、その場で処断する」
「喜んで斬られますわ」
死をさえ厭わぬ喜びのオーラが少女を包んだ。愛するものに与えられる死を、十歳に満たぬ少女は、歓喜をもって迎えようとしているのであった。
顔を見合わせるジュークとセルゲイに、
「これでよかろう。――行くぞ」
とDの声が静かに飛んだ。
「じきに、ご領地を抜けますぞ」
とメフメット大公の声が言った。Dたちのことである。
「まだゼノン公がおられるが、愛娘を人質に取られては、行動は大幅に制限されましょう。ましてや、Dとやらに惚れてしまっては」
「おっしゃるとおりですわ」
グレートヘン博士のやや高い声は、してやったりと言わんばかりの調子である。
「恋に眼がくらんだ女は、その相手のものですわ。敵も味方もありません。私たちは、もうひとり新しい敵をこしらえてしまいました」
「ゼノン公に責任を取らせよう」
呻くようなギャスケル将軍の声がした。
彼は長椅子に身を横たえていた。ほんの数分前まで、その治療に専念していた医師や看護婦は、治療機械ごと去っていた。
治療の効果は――ほとんどない。
Dの死の太刀は、巨人ギャスケル将軍の再生細胞からその機能を根こそぎ奪い去ってしまったかのように、傷口はふさがらず、灼熱の苦痛が絶え間なく襲うのであった。
それでいながら、声は平然たるものだ。紙のような顔色も噴き出す汗も、黒い陽光防御体《シェルター》に隠れて外からはうかがえない。
彼は長椅子に寝そべっていた。
「お邪魔してもよろしいかしら?」
グレートヘン博士が訊いた。
「よかろう」
答えるとすぐ、長椅子のかたわらにほっそりとした影が幽鬼のように立った。
「お痛みのようですわね、将軍?」
「何のたわごとだ」
とギャスケルは、そっぽを向いた。敗北は周知の事実だが、弱みを見せるわけにはいかない。まして、この女はギャスケル大将軍にとって、どうにも性が合わないのである。
「私に隠してもはじまりませんわ。将軍――私、専門家ですのよ」
「よく知っておるわ。神の間違いのひとつ――生まれてはならなかった女。生命を救うべきその手で、何百万人をあの世へ送った?」
「野暮なことを」
影は口もとに手を当てて笑った。
「すべては、貴族の世界をよりよくするための努力とその結果ですわ。たかが人間の百万や二百万――どうなろうと知ったことですか」
「それもそうだ」
と将軍は苦笑した。
「だが、おまえの逃亡後、廃棄された研究施設からは、貴族の死に切れぬ[#「死に切れぬ」に傍点]死体までもが見つかった。その数、約五万――最高苦の刑を科せられたのも無理はない」
「あの施設さえ焼いておけばねえ」
影はまた笑った。
「さすがご神祖の手になる苦痛刑ですわ、私の安楽死術も役に立ちませんでした。今でも、あの苦しみを憶い出すと怖気《おぞけ》が走ります。……ああ」
影は震えはじめた。記憶との抗争が熄《や》むまで一分ほどかかった。
「そろそろ、私の出番ではありませんこと、将軍?」
こう尋ねる声には、博士と呼ばれる冷酷さばかりが詰まっていた。
「ならぬ」
「なぜでございますの?」
「答える必要はあるまい」
「私が、あの裏切り者の小娘を捕らえて、生体解剖にするとでもお思いですの?」
「解剖は構わんが、ゼノン公を敵に廻すのは困るのだ」
「ああら、私がそのような愚策を弄するとお思い? あの小娘を始末し、ゼノン公には感謝され、Dとやらいう厄介者をこの手で斃してご覧に入れますことよ。ここだけの話ですが、他の方々に同じ芸当ができるとお思いですの?」
できぬであろうよ、おまえほど残酷な真似は――と胸の裡《うち》でつぶやいたきり口にはださず、それもよかろうと将軍は思い直した。
「ならぬ」
「あら、私、どうしてもやりたいわ。勝手に試みてよろしいかしら。あのハンター――この手で八つ裂きにしてさし上げたいの。許可して下されば、お礼をしてさし上げますことよ」
「礼?」
「こんな風に」
か細い手がギャスケルの胸に触れた。
「おお!?」
と、地上最凶の貴族は驚愕の叫びを上げた。
Dの一刀が与えた痛みは、突如、跡形もなくなったのであった。
[#改ページ]
第五章 鬼女降臨す
1
馬車の前方に、新たな木立ちと、明らかに森の中の踏み分け道とは別の道が見えた。
「どうだ、D――あれ[#「あれ」に傍点]かい?」
御者台で手綱を握るジュークの問いは期待に弾んでいた。
「そうらしい」
Dの返事は、それが人間の拓いた道で、同時に、ギャスケルの領地を抜けたことを意味していた。
「いやったあ!」
ジュークは激しく手綱をふり廻し、居住区のセルゲイにも脱出成功を知らせた。
だが――森の中をDの勘に頼って走りに走って三時間。すでに世界は蒼茫《そうぼう》と暮れつつある。
ジュークとセルゲイの歓喜の叫びとともに、馬車は道へ躍り出た。
「覚えがあるぜ、確かにクラクフ村への道だ」
馬たちも今度は怯える風もなく、鉄蹄が大地を蹴って、程なく、一行は見覚えのある村の防御柵の前で止まった。
木造の監視塔から身を乗り出して、こちらを誰何《すいか》したのは、前にも会った[#「前にも会った」に傍点]黄色いシャツに火薬長銃の若い男だった。
「輸送屋だ」
とジュークが名乗ると、男は白い歯を見せて笑い、
「待ってたぜ。――しかし」
と眉をひそめて、
「あんたとは、どっか[#「どっか」に傍点]で会わなかったかい? それもごく最近に?」
「そうかも知れねえな」
とジュークは苦笑を投げた。
柵の扉は問題なく開いて、村人たちの喊声が馬車を迎え入れた。
かつて霧に包まれていた家々からは子供たちが跳び出し、村人や穀物を積んだ荷馬車が、ひっきりなしに通りを往来していた。
「ほっとしたぜ」
しみじみと本音を洩らすジュークに手綱をまかせ、Dは眼を閉じたまま動かずにいたが、馬車が中央広場に乗り入れ、四方から待ちかねた村人たちが押し寄せてくるや、盲目とは思えぬ身のこなしで馬車から降りた。
「お連れ下さい!」
可憐哀切な声が馬車の内部から呼んだ。
「頼むよ、D」
と、レディ・アンを見張っているセルゲイの哀訴が追ってきた。
「ゴルドーが役に立たねえから、おれがジュークを手伝わなくちゃならない。この小悪魔を見ててくれ」
放っておけ、とでもいう風に、Dは踵を返した。
途端に――
「誰か、お助け下さい」
と金切り声が噴き上げたのである。
「私はウーシキの村のものです。輸送隊の男に誘拐されました」
先頭にいた村人たちが、ざわめいた。ジュークとDに集中した視線の幾つかは、はっきりと疑惑に染まっていた。
「こら莫迦、黙れ」
と、セルゲイが止めに入ったらしい。
「あーっ、何をなさるのです。いやらしい。その手をお離しなさい!」
ざわめきが広がった。
Dはふり向き、居住区のドアを叩いた。
「下りろ」
その冷厳さに気づいているのかいないのか、
「うれしい!」
レディ・アンの叫びには、言葉通りの感情がびっしりと詰まっていた。
「ロープはどうする?」
とセルゲイ。
「外せ」
こうなった以上、捕らえたままの姿で出て来たら、極悪非道の徒だと、攻撃されかねない。
「感謝しろよ、貴族の小娘――いま、ほどいてやるぜ」
「ほほほ、知らぬが何とやら――おめでたい方ですこと」
「なにイ」
セルゲイの怒号は、次の瞬間、驚きのそれに変わった。
「わわっこの女《あま》、ロープを弾きとばしやがったぞ!」
「私はいつだって逃げられたのです。あなたを殺した上で。それをしなかったのは、ただ、愛しいお方と離れたくなかったため」
居住区の戸口から、華麗な色彩を身にまとった少女がDのかたわらに降り立つや、村人の間から、ためいきとも何ともつかぬ声が上がった。それは水面を渡るさざなみのように村人たちの間を広がり、みなを陶然たる表情に変えた。
少女――レディ・アンは、あどけなさをそっくり残したまま、愚かな人々を見廻し、艶然と微笑した。
「ほほほ、みなが私たちのことを羨ましげに見ておりますわ、愛しい方。――さあ、参りましょう、涼やかな木立ちの陰へ、夕風の渡る青草の褥《しとね》に」
外見はどう見ても、十歳の小娘だ。だが、濃艶な女のようなその台詞を笑うものなどない。
見よ、村人たちの顔には新たな相が――恐怖の色が黒々と湧き出しているではないか。レディ・アンの正体を、彼らは察したのだ。
「貴族だ」
誰かが言い、みなが一斉にうなずいた。
「貴族だ」
「貴族だ」
「あの若えのも、そうか?」
「貴族にちがいねえ」
「ちがいねえ」
「ちがいねえ」
同じ言葉を重ねながら、村人たちは自らを暗示にかけていたのだった。侵入者用に、さりげなく隠匿し、配置してある槍や大鎌が手から手へと渡り、杭打ち銃の撃鉄が起きる。白髪の老婆が、大きな前掛けをつけた主婦が、つぎはぎだらけの衣裳をまとった子供たちが、ちがいねえと唱えつつ、武器を手に、眼を据える。
じり、と人垣が前進した。
ジュークもセルゲイも動けない。些細なきっかけで、平凡な村人たちが狂気の暴徒と化すのを知っているからだ。
「ちがいねえ」
「ちがいねえ」
「ちがいねえ」
声が前進した。――止まった。
ジュークとセルゲイの顔に、感動と――恐怖の風が吹き渡った。
Dも同時に動いたのだ。
それだけで、百人を越す村人の動きは凍りついた。
何げない風情でDは歩きつづけ、最前列の村人とぶつかろうとする寸前――人垣は大きく左右に分かれた。殺戮用の自己催眠状態にあった村人たちが、それ[#「それ」に傍点]すら忘れて脇へ退いたのである。
彼らのつくった道を、Dは黙然と進み行く。その後を花のように可憐で華麗な娘が追い、やがて彼らが夕闇の向こうに去っても、村人たちの眼からは、絢爛たるイメージがいつまでも消えなかった。
広場から東へ少し離れたところに、小さな森があった。
細い小川が流れている。夕暮れのわずかな光が、流れ水に最後の青いかがやきを与えていた。
「素敵な晩になりそうですわね」
Dから五メートルほど離れて、アンは後をつけていた。胸に色とりどりの野の花を抱いている。見つけるたびにこれを摘んで遅くなったのだ。
「星がたくさん出ましょう。いつもより、ずっとたくさん。――あら?」
嬉々とするアンを尻目に、Dは森の最も奥まった部分に横たわったのである。
素早く駆け寄って膝を折り、アンは血相を変えて、美しい若者を覗きこんだ。
「どうなさったんですの?」
「逃げるなら、今がチャンスじゃぞ。こいつは動けなくなった」
嗄れ声がアンの眼つきを険しいものにした。
貴族の血を引くダンピールは、昼夜ともに行動し得るが、時折、そのツケが今回のような形で廻ってくる。
人間と貴族と――二種類の血のせめぎあいが、尋常ならざる疲れを突発的に全身に行き渡らせてしまうのである。
意識は失われ、四肢の動きは停止し、あらゆる代謝機能は限界すれすれまで下がる。ほとんど仮死状態に陥るのだ。それが、どれくらいつづくかは、ダンピールにもわからない。運まかせだ。
「失礼ですが――どなたですの?」
とアンは険しい声で訊いた。もちろん、嗄れ声の主に、である。
「これは驚いた。逃げることより、わしが気になるかの?」
「逃げる気なんてありません。私が心を砕いているのは、すべて、この方のためですわ。とても怖い方。ここまで一緒なのに腕を組むこともできませんでした。到底、私を愛してなどくれはしませんわ。でも、よろしいの、私は愛しておりますから。――ところで、あなたはどなたですの?」
「腐れ縁の者、とでも思ってもらおうか」
アンはDの左手を覗きこもうと、身を乗り出した。右手のほうに膝をついたのである。
その喉もとを、Dの左手が掴んだ。
「あ――やっぱり……」
「近づくな」
錆を含んだ声で命じるや、Dはアンを背後へ押しやった。
尻餅をついてもすぐ起き上がった眼には、さすがに怒りの炎が燃えているが、Dを見た瞬間、たちまち消えて、
「どうして、そんなに情《つれ》なくなさるんですの? 私、あなたに危害を加えるつもりなど毛頭ありませんわ。ただ、その不快な声の出所を確かめたかっただけなのです」
「――だそうだ」
Dは鳩尾《みぞおち》のあたりに置いた手に話しかけた。
「余計なお世話じゃ」
「まあ」
アンは眼を剥いた。
「やっぱり、得体の知れない化物が。――さぞやお困りでしょう。いま、祓ってさし上げます」
たおやかな身体に闘志が燃えた。アンは立ち上がった。
「やめんか、こら。――それより、さっさと退散した方が身のためじゃぞ。こいつは、おまえの父親を牽制するために、おまえを利用しようとしておるのだ」
「わかっておりますわ、そんなこと」
アンはDの足の方から廻りこんできた。
「私、一切、構いませんことよ。愛するお方に利用されるなら、本望ですわ。ひょっとして、あなたは嫌々、このお方に取り憑いていらっしゃるのですか?」
「そうなるかの」
「失礼な」
アンの満面は怒りに紅潮した。
「これほど胸の炎を燃やしている私が、まともにお相手もしていただけませんのに、好きでもないあなたが勝手にくっついて、迷惑をかけてるなんて。断然、引き離さずにはおきません」
アンの右手がDの左手へ近づいた。黄色い野の花をつまんでいる。
「何をする!?」
この珍妙奇怪なやりとりを聞いているのかいないのか、眼を閉じたDは身じろぎもしない。呼吸さえしていないようだ。
声を出す左手を、アンはじっと凝視していたが、すぐ、こくりとうなずき、
「えい」
切り取った茎の端をその甲に突き立てた。ただの花なのに、それはDの手を貫通するかと思われるくらい深々と埋もれた。
「ぎええええ」
凄まじい苦鳴が上がったのは、少したってからである。
「この小娘、何をする。わしの役目を知らんのか。うう、苦しい、力が抜けていく」
「いい気味ですわ」
アンは片手を口もとに当てて、甲高く笑った。いかにも貴族の娘――それ以外の何者でもない。
誰もが惚れ惚れと見つめるにちがいない笑顔の前で、黄色い花はみるみる別の色を帯びていった。茶褐色に、そして赤に――真紅に。
「ぐおおおおおお」
苦鳴はなおも噴き上がり、応じるように、左手に変化が生じた。
血の気を喪失し、蝋を思わせる色になると、白い蒸気みたいなものが毛穴から噴き上がる。
それが熄《や》んだとき、レディ・アンはうっすらと微笑した。
Dの左手首から先は、干からびた、まさしくミイラそのものと化していたのである。
「いま摘んだ花とは別の血吸い草《そう》。これで邪魔者は消えましたわ」
少女は艶然と、眠れるDに微笑した。
「もう、あなたは私のもの。ふふ、これを見たら、お父さまは何とおっしゃるかしら?」
そこで、ふと気づいたように、
「そうだわ。いま、お父さまに来られたら――いやだ。この方をお隠ししなくては」
アンは素早く四方を見廻した。愛くるしい顔に焦燥の色がある。
やがて、ひとりうなずくと、はじめて見せる緊張の表情で、彼女はDの身体を離れ、二メートルほどの距離を置いて、胸の花を一本ずつDの周囲に埋めはじめたのである。
あたかも、彼の身を守る障壁のように。
「“花とりで”」
とレディ・アンはつぶやいた。
二十本ほどを埋め終えて、彼女はDのかたわらに寄り添った。眼に欲情の光があった。
「あなたのために、私、父をさえ裏切ろうとしています。これくらいの報酬は、事後承諾で頂いてよろしいと思いますわ」
そして、この恐るべき可憐な淑女は、Dの顔に自分の唇を勢いよく近づけたのである。
2
尋常な精神《こころ》の持ち主が見れば、甘美な恋の一景と映ったであろう。
だが、アンは願いを叶えることができなかった。
大地がめまぐるしく揺れ動いた、と意識するより早く、七、八メートル離れた一角が波のように盛り上がり、分厚い、石混じりの黒土を押しのけて、あの装甲人が出現したのである。
「お父さま!?」
「驚くことはあるまい。――心配したぞ、レディ・アンよ」
マイクを通した声は、ややつぶれていたが、娘を想う真情に溢れていた。
「一刻も早く救出に、と思いながら、その若者の技量を考えると、気ばかり焦って進まなんだ。わしの鎧さえ断ち割った男よ。この父にも弱気の虫がいたと驚くか?」
「いいえ」
とアンはかぶりをふった。こちらも真情であった。
「このお方が相手ならば当然でございます。たとえ、お父さまが尻尾を巻いて逃亡に移ったとして、私は驚きません」
ゼノン公からの反応は、ひどく曖昧なものであった。彼は以前と違う娘を感じ取ったのである。
「アンよ、おまえは――」
「去っていただけませぬか、お父さま」
とアンは、父の眼のあたりをじっと見つめて言った。
「できますれば、二度と私とこの方の前に現われぬと誓って下さいませ」
「気は確かか、アン?」
「これほど確かなことは、私めの人生の中にありませんでした」
「ふむ――できぬと言ったら?」
「はい。お父さまといえど」
「滅ぼすか?」
「はい」
何というあっさりとした会話か。何という凄絶な会話か。
「もちろん、わしに滅ぼされることも前提にしてか」
「いいえ」
きっぱりとした返事に、装甲人間は驚いた。いや、呆れ返った。
「何たることを――それほどに?」
「はい。盲目の身で大将軍さまを撃退した、その戦いぶりを眼のあたりにしてからでございます。ひょっとして、お父さまも、私の知らぬ間に?」
「一敗地にまみれた」
「やはり――ああ、何という凄まじいお方か」
アンの声はうち震えた。いや、全身がわなないた。恋の感動だと少女は自分を讃えた。その中に含まれた欲望には気づいていなかった。
「レディ・アン――眼を醒まさぬか?」
ゼノン公の声は、急に低くなった。
「おまえは私の宝だ。他人に奪われるくらいなら――」
「その手で滅ぼすと? ほほ、できますの、お父さま? あんなに愛して下さったこの私を?」
アンが放ったのは嘲りの矢であった。それはゼノン公の急所を貫いたらしく、彼は低い呻き声を上げて沈黙した。
そのとき――遠くから人声と足音が近づいてきた。
村人たちが、ゼノン公の起こした地響きを怪しんで駆けつけたのである。
「アン――もう一度だけ言う。そこをのけ」
「もう一度だけ申します。――お断りいたしますわ」
その手が上がって、装甲の父へ純白の花が飛んだ。Dの周囲にほとんど植えてしまい、残った三本のうちの一本である。
驚くべきことに、それは装甲に当たっても跳ね返らずに融合した。のみか、装甲の表面には、瞬く間に、根の形が走ったではないか。
装甲の巨人が、片膝を地面についたのは、次の刹那であった。
「レディ・アン!?」
この瞬間まで、まさかと思っていたゼノン公の絶望的な叫びにも、少女は動じなかった。
「私が触れた花は、その種類を問わず、他のあらゆるエネルギーを吸収してしまいます」
少女は声もなく笑った。
「人の生血でも、戦闘装甲のエネルギーでも、落雷や川の流れであろうとも。そうしたのは、ほほ、お父さまではございませんか。まさか、自分に使われようとは思っていなかったなどと、世迷いごとはおっしゃらないでしょうね」
「言わぬ」
マイクの声は急速に遠ざかり、雑音が混じった。
「もはや、戻れとも、のけとも言わぬ。レディ・アンよ――父の涙を手向けに滅びよ」
「ごめん蒙ります」
二本目の、黄色い花が飛んで、白い花の右脇に突き刺さった。片膝をついた姿勢から、装甲巨人はさらに前へ傾いた。
「お父さまは、それは私を慈しんでくれました。ですが、親が子を愛するのは理の当然。子が親を愛する理はございません」
恐るべき可憐な少女は、三本目――うす紫の花を放とうと右手をふりかぶった。
「愚かもの」
その瞬間、アンは、装甲巨人の――父の声が前と変わらぬ迫力であることを知った。
うす紫の花が飛んだ。
凄まじい光が弧を描き、それは二つになる前に、風圧でちぎれ、消し飛んだ。
「あ――っ!?」
レディ・アンの苦鳴に符節を合わせるかのように、その左肩から鮮血が噴き出し、彼女はのけぞった。
「滅びはせぬ。反抗の罰にしばらく苦しめ。Dよ――生命は貰った!」
装甲の肘からのびた鋼の刃からは、アンの血潮が点々としたたり落ちていた。
三メートルを越すそれに首と胴とを斬り離されて、Dはなお生を保っていられるのか。
だが、この瞬間、思いもかけぬ妨害がゼノン公の前に生じたのである。仰向けにDへ重なり倒れたアンの周囲から、七色の色彩がうなりを生じて、装甲の全身に吸いこまれたのだ。アンが埋めておいた花が。
滑らかな表面に縦横に走る根の形の凄まじさよ。
装甲の巨人は、ふたたびよろめいた。そもそも、アンの最初の二本――二度の攻撃のダメージから抜けてはいないのだ。まして、今度の花は二十本近くあった。
その間にも村人たちの声と足音は、ぐんぐん近づいてくる。
「村の人間ごとき、屁でもないが。――また退《ひ》こう。アンよ、次に会うとき、おまえの血を愛する父に吸わせるな」
そして、彼は出現した土中の穴へ足から滑りこんだ。鈍いモーター音が響いて、装甲は旋回しつつ、地底深くその姿を没してしまった。
駆けつけた村人の先頭は、ジュークであった。セルゲイをゴルドーとロザリアのそばに残して、急ぎやってきたのである。
地面に開いた大穴と、そばに横たわるDとレディ・アンを見て、村人たちは息を呑んだ。
左肩を裂かれて血まみれの少女が、世にも美しい若者を守るべく、実の父と戦って倒れたなどと、だれが想像できたろう。彼らが感じたのは、貴族への恐怖と、訳もわからぬおぞましさ、そして、自分たちの平穏がこの二人と、その招くものたちによって脅かされるという、辺境の人間独特の直感であった。
「殺せ」
と誰かが言った。それが、
「殺せ」
「殺せ」
の繰り返しから、催眠術的な太く大きな意志になるまで、さしたる時間はかからなかった。殺戮の意志はなおもその胸中に燃えている。
ジュークの制止も無駄であった。
力でねじ伏せようとしても、殺戮へ突き進む機械と化したような村人が相手では、火薬銃一挺の手に余る。
村人たちが地面の二人へ押し寄せようとする寸前、めまぐるしく回転した脳に、閃きの火花が散った。
彼は村人たちの前へ跳び出し、両手を広げて、
「待ってくれ。この若いのは、おれたちの護衛役の吸血鬼ハンターだ。ダンピールだが、そこの娘を見張っていた。娘は貴族だ。どうやら、ここで殺し合ったにちがいない。――いま、おれが娘にとどめを刺す。それでよしとしてもらいたい」
血走り狂った村人たちの眼に、理性の光が戻った。状況から見て、貴族の娘がハンターに斬られたというのは納得できる。地面の大穴は不思議だが、こちらは彼らの理解を絶していた。
「それで、どうだ?」
とジュークは声を張り上げた。不安なのは、こういう場合、決定権は村長にあり、こちらも彼ひとりに絞って訴えかければいいのだが、この村では、助役ともども三日前に隣村へと出かけ、明日戻るという。
顔馴染みも何人かいるが、彼らがリーダー的な位置についているかどうか、ジュークには、とっさに判断ができなかった。
「それでよければ、注文の品以外にも、この村へ特別な配慮をしよう」
これも間一髪の閃きであったが、前のに比べて絶大なる効果を上げた。
村人のほとんどが、憑きものが落ちたような表情になって、顔を見合わせたのである。
「どうする?」
という声とささやきがあちこちで交わされ、それから小さく、
「いいだろう」
「よし」
となって、こちらもすぐ、合唱に変わった。
「その貴族の娘を殺せ。そしたら、すぐ品物を置いて村を出て行くんだ。いいな?」
ひとりではない。何人かの声が合わさったものだ。
「承知だ」
ジュークは答えて、Dと――アンの方へふり向いた。覚悟はできている。Dを救うために、いたいけな娘を始末するのは仕方がない。もともと、自分たちを殺しにやって来た娘なのだ。
「槍を貸せ」
たちまち足もとに、長い凶器が何本も放られた。
うち一本を手に取り、ジュークは片手でレディ・アンの足首を掴んでDから引き離した。
姿勢を正して槍の狙いをつけるべく、少女を見下ろす。
顔は見ないようにした。左の頬が血に染まった少女の顔は、天使そのものであった。
これは殺人ではないのか――一瞬、脳裡をかすめた考えを無視して、意外なほどふくよかな胸もとへ、鋼の穂を突き立てようとする寸前、
「お待ちなさい」
低いが落ち着いた女の声が一同をふり向かせた。
「村長だ」
と誰かが叫んだ。
「お早いお帰りで」
ざわめきの調子で、声の主が村人の信頼を十二分に受けているのはわかった。
人垣が左右に分かれ、自然に出来上がった道を、従容《しょうよう》とした足取りでジュークの前までやって来たのは、五十年配の小柄な女性だった。
髪の毛は白いが、小さな青い瞳には、溢れんばかりの知性と意志とがみなぎっている。
「村長のユッタ・カミュでございます」
丁重にジュークへ一礼して、
「何の騒ぎでございましょう?」
村人が口々にわめき出した。声が声を消し、単なる騒音と化す中を、
「静かになさい」
風刃《ふうじん》のような村長の一喝で、沈黙が戻った。
「ワルドさん、お話しなさい」
呆気に取られるほどの穏やかさに化けた声の指摘に、人垣の中から、馬みたいに長い顔をした中年の男が前へ出て、ユッタ村長に事情を説明した。
一方的な部分もあるので、ジュークが口をはさみかけると、後でうかがいますと言って、確かに彼の話も聞き、一同に向かって、
「虫の知らせでしょうか。日程を一日早めてよかったこと。でなければ、いたいけな生命がひとつ、弁明も許されずに失われていたところでした」
容赦ない糾弾に、村人たちは眼を伏せた。その後でジュークをふり返った顔は、別人のように温和であった。
「あなたも、お仲間の生命を救うためとはいえ、たとえ貴族でも、このような娘を手にかけようなどと、二度と思わぬように。見ればそちらのお若い方も治療が必要でしょう。よくなるまで、寄合所《よりあいじょ》にでもお泊まりなさい」
3
ある意味で、ジュークにとってユッタ村長の温情はありがた迷惑といえた。Dへの処置と宿泊許可に関しては文句のつけようもないが、レディ・アンを手にかけてはならぬときついお達しが出たのだ。
正直なところ、彼は少女を処分したかった。ここで争っても仕方がないと、とにかく礼を言い、村人の手を借りて二人を馬車に戻してから――アンは自分で背負った――何事だと尋ねるセルゲイを無視して、寄合所へと向かい、ひととおりの宿泊準備を整えた上で、空き部屋のひとつで事情を説明した。アンに対する考えも伝えた。
驚いたことに、セルゲイは、
「連れて行こうや」
と言った。仰天して、
「どうしてだ?」
「話を聞くと、地べたの大穴は、あの小娘の親父――ゼノン公なんとかって奴が開けたもんだろう。その親が逃げて娘が血まみれってのはよくわからないが、おれの考えじゃ、あの小娘――Dにやられたんじゃなく、Dを助けようとしたんじゃないのかな。おれはずっと見張ってたからわかるんだが、ありゃ骨の髄からDに惚れ切ってる。Dが死ねって言やあ、喜んで自分の心臓に杭を打ちこむぜ。となりゃあ、おまえ、Dの代わりができたようなもんだ。当人はDにしか興味はないだろうが、Dのためとなれば、生命懸けで戦うし、それがひいてはおれたちのためにもなる。――だろ?」
「確かに一理ある。しかし、Dはいつ眼が醒めるかわからねえし、あの小娘も重傷だぞ」
「しっかりしろよ、ジューク。相手は貴族だぞ。見た眼は十歳でも、身体の出来は不老不死の化物さ。Dの百倍も早く治っちまうさ。放っとけ放っとけ」
こうまで理路整然とやられては、ジュークもうなずかざるを得ない。セルゲイによると、ゴルドーもじき快癒するとのことだ。ここはひとつ賭けてみるか、と思った。
返事を聞くまでもなく、ジュークの表情から読み取って、セルゲイは軽く彼の肩を叩いて、
「よっしゃあ。じゃ、いいな。おれはDの様子を見てくる。今夜の見張りはおれにまかせて、ゆっくり眠ってくれ」
寄合所は意外に広く、輸送馬車を五、六台収容するくらいの車寄せもあった。馬車はそこに止めてある。セルゲイは空き部屋を出て、Dを寝かせてある一室へと入った。
右隣ではゴルドーが輸血をつづけ、左はロザリアだ。アンだけは血止めして車の中に置いてきた。ドアや窓にはオオカミグサを貼りつけてきたから、簡単には出られまい。好き勝手にうろついているところを村人にでも見られたら、またひと騒動にならないとも限らない。
Dに関して、セルゲイはひとつの危惧を抱いていた。
さっき、村人に部屋へ入れられるところを見たら、左手首から先がミイラみたいに干からびていた。あれがDの肉体に巣食う専門医師だというのがわかっているから、気になって仕様がない。Dのもとを訪れる目的はそれであった。
だが、廊下を十歩も歩かないうちに、彼はDの部屋の方角から、聴き違えようもない、窓ガラスの破壊音を耳にしたのである。
おっとり刀で駆けつけたセルゲイが見たものは、ベッドに横たわりっ放しのDと、闇が吹きこんでくるような破壊された窓をにらみ据えて動かぬ血まみれのレディ・アンであった。村の医師とセルゲイが見たときには、貴族のくせに心臓も止まりかけていたのが――やはり、仮病だったのだ。
「てめえ、やっぱり」
「下品な言い方はおやめ下さいませ」
「いつから平気だったんだ」
「斬られたときからですわ。相手は父ですのよ、ほほほ」
こりゃ、何を言っても無駄だと悟ったセルゲイは、
「どうした?」
まず、Dの様子を見て、異常がなさそうだと判断してから、この問いを放った。
「ご覧なさい」
とレディ・アンは、Dのベッドの下を指さした。
床の上で、肉厚の蛮刀が黒々と天井の光をはね返している。
「村の連中か!?」
緊張した問いにアンはかぶりをふった。澄み切ったガラス細工のような青い瞳は、怒りに燃えている。
「じゃあ、誰だ?」
ばっか[#「ばっか」に傍点]ねえ、決まってるじゃないのみたいな返事が返ってくると思いきや、アンは冷静に、一語一句吟味しているような調子で、
「ゴルドーさんですわ」
と答えた。
さすがに仰天して、
「莫迦な――」
と言っても、本当だと言い張る。まだ輸血中のゴルドーが、どうやってここへ来たのか? 物騒な蛮刀で何をするつもりだったのか? 後の方は考えるのも不気味だが、何となくわかる。前のほうは――
「君はどうしてここへ?」
その問いに対するアンの答えは明快であった。
「左手の始末をつけに来たのです。とどめを刺しておきませんでしたから」
「オオカミグサはどうした?」
「私には効きません」
あどけない笑みに、今度ばかりは身の毛もよだった。
「とにかく、ゴルドーを見に行こう」
二人してドアを出たところへ、ジュークも破壊音を聞きつけてやって来た。
揃って隣のゴルドーの部屋へ押しかけると、彼はここへ収容したときと寸分変わらぬ格好で、輸血装置にかかっていた。
「どういうつもりだ、おい?」
ふり返ったセルゲイの眼には、開け放たれたドアと、明るさは申し分ないが、どこか寒々しい光に照らされた廊下の光景だけがとびこんできた。
「お別れいたします。短いながら楽しい旅でございました」
何処かから、哀切極まりないレディ・アンの声が降ってきた。
「じきに村の人たちが来ます。私は滅ぼされるでしょう。その前にここを出て、陰ながらDさまをお守りいたします」
声が途切れた光の中を、玄関の方から猛々しい足音と人声が折り重なってやって来た。
新たなトラブルを恐れ、実はアンがDを襲って、とジュークとセルゲイが口裏を合わせ、ようやく村人たちも納得した頃、アンは小さな女豹のごとく闇を走って、一点の光も滲ませぬ、とある建物に到着した。
闇の中で塀の看板を透かすと、鋼板に、
村役場
とある。
裏口の鍵があいている。
少女は風のように廊下を渡って、一階の奥の部屋の前に到着した。
申し合わせたように照明を消したドアの列の中にあって、ここだけは電灯を点しているのだった。外から見えないのは、すりガラスの窓から洩れる光が妖物を呼び寄せるため、シェードを貼ってあるからだ。
ドア・ノブに手をかけたとき、
「お入りなさい」
と声がした。
アンは部屋へ入った。
広い室内の奥――木製のシャッターを下ろした窓の前のデスクに、白髪の女性が腰を下ろしていた。
アンが離したドアの表面には、「村長」のプレートが貼りつけられていた。
「ようこそ、レディ・アン」
村中の尊敬と信頼を集める女村長は、心からなる親愛の笑みを、愛らしくも呪わしい貴族の娘に投げ与えた。
「やはり、あなたですのね、グレートヘン博士」
アンはいつもの花のような笑みを出し惜しみしなかった。村長は苦笑して、
「隣村にいた本物が戻る途中を襲って、うまく化けたつもりだったけれど、よくおわかりね。それに、名村長がゴルドーを操っていると、どうして見破ったの?」
してみると、彼女はここでゴルドーを操作し、すべてを観察していたらしい。
「ゴルドーさんを操り人形にした時刻を考えたのですわ」
アンは少し得意げに言った。どう見ても、おしゃまな美少女だ。
「私がDさまと馬車を離れるまで、あの方に異常は見られませんでした。馬車で寄合所へ運んだのは、ジュークさんとセルゲイさんですが、あのときは村の人たちも、馬車の周りについていましたから、誰も手出しはできません。ここへ来てからは、侵入者はいないと、私が断言できます」
「気を失ったふりをしていたのね? うまく騙されたわ」
「恐れ入ります」
「でも、どうして?」
「決まっています。同情を引くためですわ」
「大したお嬢さまだこと」
グレートヘン博士と呼ばれた女村長は、白い喉を見せて笑った。
「で――名推理のつづきをお伺いしたいわね」
「はい。もうお話ししたようなものですわ。あとゴルドーさんにおかしな工作をするチャンスといえば、みなが私とDさまのところへ駆けつけたとき以外ありません。あなたはそのとき、馬車の止めてある方からいらっしゃいました。たったひとりで。助役さんは先に行かせて」
「セルゲイさんが見張っていたわよ」
「あの人にも術をかけただけの話ですわ」
村長は何度も満足そうにうなずいた。
「名推理だこと、レディ・アン。お父さまは、さぞかし自慢でしょう」
「もう父でも娘でもありません。父は私を斬りましたし、私も父と縁を切りました。いま、私に大事な方はひとりだけ」
「よりによって、因果な男に惚れたものね」
村長の顔に浮かんだのは、疑いようもない、慈愛に満ちた同情であった。奇妙なことに、それに感動でもしたのか、光るものがアンの頬を伝わったのである。
「ありがとうございます。それで、博士は、Dさまをどうするおつもりですの?」
「処分します。邪魔をするかしら?」
「はい」
「なら、あなたも」
少し哀しげに言って、村長は恍惚と眼をかがやかせた。
「因果な恋だけど、あなたのお気持ちはよくわかっていてよ。あんなにも美しいハンター――六千年を生きた私も見た覚えがないわ」
「なら、手を出さないで下さい」
「だからこそ、私がやって来たのでしょうが」
女村長の口もとが、ようやく、おぞましい形に歪んだ。
「私の手にかかったのが、どんな人たちだかご存じでしょう。どれひとりとっても、天与の美貌を誇る人間、それから貴族も少々。誰ひとり、殺してくれ、滅ぼして下さいと泣いてすがらなかった者はいませんでした。それはそれは、腕によりをかけたもの」
「指一本触れさせませんわ、あの方にだけは」
凛然《りんぜん》と言い放ったアンの顔から、もはや、きらびやかな笑みは拭い去られたように消えていた。
[#改ページ]
第六章 淑女と左手
1
興奮なお醒めやらず、しかし、村長の保護する顔馴染みに手荒い真似もできないといった雰囲気で、村人たちがアンを捜しに出かけると、ジュークはセルゲイに、
「おれは連中と一緒に行く。おまえは後を頼むぞ」
と告げた。
「正直、自信はねえな。ロザリアもいるんだぜ」
「あれは眠り姫だ」
「ギャスケルのつくった眠り姫さ。いつ王子さまのキスならぬ大将軍の呪文で眼を醒ますかわからねえ。喉首を掻っ切られてから、信じてたのにと言っても間に合わねえよ」
「しっかり縛っとくさ。あのお嬢ちゃんみたいな力持ちじゃなさそうだしな」
セルゲイはため息をついて、
「勝手にしな。――とにかく気をつけて行きなよ」
と手をふった。
外では、村人たちの持つ松明《たいまつ》やカンテラの光が夜光虫のようにせめぎ合っている。
ジュークをそこへ送り出してから、セルゲイは真っすぐDの部屋へと向かった。
気になる彼の左手を、今の騒ぎで確かめ忘れていたのである。
ドアを閉じると、セルゲイの足は少しもつれ、あわてて体勢を立て直した彼は、両のこめかみを強く揉んだ。疲れかと思った。
Dの左側に来て、セルゲイは片膝をついた。眼つきが険しくなった。
Dの口もとにガラス片を当てて、呼吸がほとんど無きに等しいこと、身をゆすってその眠りが死に近いほど深いのを確かめ、彼は立ち上がった。
霞がかかったような脳の中で、赤い眼をした白髪の老女が、何かを命じていた。ゴルドーもいたようだ。
確か――
上衣の内側から刃渡り五〇センチもある山刀を取り出し、セルゲイは、それを何度か握り直して満足のいく位置で固定した。
――隙を見て、Dの左手を切り離しなさい。
老女はこう言ったのだ。
ゴルドーが先に手を出しかけたようだが、しくじった。それも、左手の始末をしにきた小娘に邪魔されたのだから恐れ入る。
「見てろよ、レディ・アン。いま、おれが片をつけてやるぜ」
Dのミイラ化した左手首を左で握って思いきりのばし、ろくに狙いもつけずに、セルゲイは山刀をふり下ろした。
細木をぶち切るような手応えも一瞬で、左手首はあっさり切断された。
ぴくりともしない枯れ木のようなそれをしげしげと眺め、セルゲイは床へ放り出した。それこそ、枯れ木が落ちたような音がした。
「困ったお転婆さんね」
ユッタ村長――いや、姿形は村長のままで中身はグレートヘン博士――は、静かに立ち上がった。
「あなたの好きなお花は、もうみんな蕾を閉じて眠りについているわ。どうやって私を斃すつもり?」
「花ならありますわ」
村長の眉が寄った。レディ・アンが右手を口もとへ持ち上げたのを見たのである。
優婉な花びらのような唇が開くと、少女はうす桃色の塊を手の中に吐き出した。
「静夜香――私の母が好きだった花ですわ。母は父に滅ぼされました」
短く言って、アンは手のひらのやさしい花に、ふっと息を吹きかけた。
風に流れる花びらのように、ゆるゆると飛翔してきたそれを、かわすも受けるも簡単であったろうに、村長にはできなかった。
花に見惚れた摘み人のごとく立ちすくんだまま、彼女は眉間にそれを受けたのである。
皮膚の下を根が走り、うす桃色の花は、みるみるもっと濃い色に変わった。
「あら!?」
と洩らしたのは、しかし、アンの方であった。
見かけによらぬ必殺の凶器にちがいない花は、何ともおぞましい色彩に変わって、力なく萎れていった。
「アン、私の専門が毒薬の研究だと、お父さまに教わらなかったかしら?」
老女は妖しく笑った。謹厳な顔立ちに、想像もつかない若々しい美貌が重なった。笑いを止めても顔は戻らなかった。
「グレートヘン博士」
あらためて、レディ・アンは強敵の名を呼んだ。
「甦る前の私の肖像をご存じかしらね、お嬢ちゃん?」
と、村長の服装《なり》をした美女は話しかけてきた。どうやら、自己主張とナルシズムの塊であるらしい。自らの過去を話したくてたまらないのであった。
「いつ生まれたのかは、私も覚えていないわ。六千年より後ということはないでしょうけれど。はじめて、毒に興味を持ったのは二歳のときよ。ええ、覚えていますとも。毒薬の調合を趣味にしていた父が、私を実験材料に使ったの。それは美しい私の顔が、どこまで苦悶に歪むか見たいと言ってね。望みは果たされた。私は地獄を見たわ。身体中の血が煮えくり返って、脳も内臓も灼け爛れた。毛穴という毛穴から血が噴き出し、私は内臓も口から吐いたのよ。父を恨んだ。ご神祖も恨んだわ。でも、奇跡が起こったの。その苦痛と大苦患《くげん》の中で、私はそれに勝る喜びを魂に得たのです。わかる? ――自分では決して味わえない苦しみの甘美さ。それを生み出した毒薬の素晴らしさよ。あまりの効果に仰天し詫びる父へ、私は毒について教えてくれと頼んだの。それから三千年――貴族の歴史の中で、私が“生まれて来ない方がよかった女”と呼ばれるに至った理由はご存じよね?」
長い長い自慢話であった。アンはこくりとうなずいた。彼女の知ってる解答が、グレートヘン博士の自慢話を不愉快には聞かせなかった。少女は恐れげもなく、歌うように言った。
「あなたは五万人以上の貴族に毒をお盛りになりましたの。どんなに猛毒を調合しても死なないのをご存じのくせに。その代わり、あなたの薬は、永劫に貴族たちを苦しませる力がありました。あなたはそんな彼らを、自分の城の地下室に隠し、弄び抜いたのです」
「私は彼らに、ありとあらゆる毒を与えて反応を調査した。不老不死――これほど使い減りしない、理想的な実験材料が他にあるとお思いか。それでも、男と女では反応が違う。老人と赤子では薬の効き方が違う。ああ、あれは何と甘やかな、幸せに満ちた星霜《せいそう》であったことか。私の調合した麗しい薬の一滴で、幼女の腹は蟻のようにふくれて爆発し、伯爵夫人の裸体は泥のように溶けた。苦しみのあまり、自らの身体を掻きむしり、皮を剥き肉をそいで、ついに、骨と脳だけになってしまったのは、あれは、リシュール公国の王であったと思う。それでも、彼らは死ねないのだ。四散しても、どろどろの流動物になっても、彼らは生き永らえ、果てしない苦痛に苛まれる――そして今も。ご神祖は私を捕らえたとき、その領地から五万名の死にきれぬ貴族を収容し、それが私が手にかけた公式の数としたが、ふふ、ご神祖の知らぬ狂気山脈のどこかには、まだまだその百倍もの数が呻き苦しんでおるわ。今の私の気懸りは、いつ彼らのもとへ戻って実験がつづけられるかよ。いいえ、もうしたわ。ギャスケル大将軍の城中でも。私は自分を変えられない。止められない。あなたを捕まえ、Dを斃したら、私、一刻も早く故郷へ帰してもらうつもりなの」
忌まわしい、と誰もが考えるに違いない実験にもかかわらず、その実行者の全身から立ち昇るのは、純粋無比な情熱と未知なるものへの憧憬であった。
「あのハンターが何者であろうと、所詮は人間との混血児。私が手にかけた貴族の方々とは比べものにならないでしょうけれど、あの美貌は私でさえ胸が高鳴るわ。私の毒で悶え苦しむのが見たい。九穴から血を吐き、眼球を飛び出させ、自ら唇を噛み破るところが見たい。そのための細工は、すでに二人の人間に命じました」
「二人? ゴルドーと――」
「さっき、あなた自身が言ったではありませんか。術をかけた、と」
「セルゲイ!?」
まさしく少女は跳び上がった。恐るべき毒学者が出会ったはずの、もうひとりの男の名が閃いたのである。彼はまだ、Dのそばにいる!
愕然とふり向き、つまり、博士に背を見せてしまったのは、Dを思いやる故のミスであった。
その肩胛骨の間に、一本の針が深々と突き立ったのである。針は三〇センチもあり、その反対側の端から一ミリにもみたぬ半透明の管がのびて、何と女村長――グレートヘン博士の口腔に消えていた。
突如、その管に黄土の色彩が流れた。博士の愛した毒が、アンの体内に注入されたのである。
「まずは――お遊びから」
と博士は微笑した。
レディ・アンは、刺された瞬間のけぞっただけで、そのまま勢いを落とさずドアへと走った。針は抜け落ち、うなりをたてて博士の口に吸いこまれた。
ドアを抜けたとき、アンは激しく咳きこんだ。体内を凄まじい熱と悪寒が駆け巡るのを、彼女は意識した。
「どうするおつもり?」
ドアを抜けて、グレートヘン博士の声が追ってきた。
「Dは眠りつづけ、彼を守る男たちのうち二人は私の操り人形よ。そして、周囲の村人たちは、みな私を尊敬しているわ。Dは、ここで死ななくちゃならないのよ」
アンは玄関へと走った。あと三メートルというところで、向こうからドアが開き、村人がなだれこんできた。立ち止まったアンを認めて、一瞬きょとんとしたが、すぐに背後をふり向き、
「いたぞお」
と叫んだ。
アンは左へ跳んだ。窓がある。ガラスは月の破片のようにきらめきつつ割れた。
その数枚を踏み砕き、これは本物の月の下を、可憐な乙女は走りつづける。何処へ、何を求めて? もう救いなどないのに。――アンよ。
2
自分の足がひどく遅いのに、アンはいらだった。遠く近く、あちこちから、見つけたぞ、何処にいる、こっちだ、などの合唱が聞こえる。それが聞こえるうちは自由に動けると見てよかった。
突然、
「寄合所だ」
と切れ切れに聞こえて、アンは戦慄した。闇の中に蠢く松明のいくつかが、彼女の目的地と同じ方向に動き出す。村長の――グレートヘン博士の指示によるものであろう。あのスピードなら、まだ救いはある。
疾風のごとく駆け戻った寄合所の周囲には人影もなく、アンは真っすぐDの部屋まで行けた。
ひとり横たわるDのそばに駆け寄り、シーツをめくって、アンは息を呑んだ。
Dの左手は、手首から失われていた。その切り口を見れば、凶器も力の具合もわかる。
アンは床の上を見やり、こう叫んだ。
「どちらにいらっしゃるの、左手さん? あなたの力が要るの。Dさまのために貸して」
それから、応答を待って耳をそばだてた。五秒……十秒……二十秒。
遠くから人の声が近づいてくる。
「仕方がないわ、私が連れ出して――」
とDのベッドの方へ歩き出そうとしたとき、小さな固い音が床から弱々しく跳躍した。
アンの眼が据えられた方角に間違いはない。Dのベッドの下だ。
アンは床に膝をつき、首を斜めにねじって覗きこんだ。
干からびた手は、単なるゴミと判別されても仕方がないありさまで転がっていた。
「ねえ、聞こえますか。私、レディ・アンと申します」
返事がなければ、指の一、二本もいでも正気に戻すつもりだった。こんな目に遭わせたのはアン自身なのだ。治す手はいくらもある。
「……何の用じゃ?」
か細く、嗄れ切っているが、あの声に間違いない。アンの小さな胸は、希望と安堵ではちきれそうだった。
「生きていたのですね、やっぱり」
「干からびても簡単には死なんよ。何のために……わしを捜しておる?」
「Dさまをお助けするためです。もう時間がないので詳しくは申し上げられませんが、村長はグレートヘン博士が化けています。貴族の歴史でいちばん危険な毒薬の専門家です。ゴルドーとセルゲイさんを使ってDさまを狙っています」
左手から、かすかな音がこぼれた。細くて短いため息だ。
「私に協力してもらえそうなのは、ジュークさんとあなたしかいません。だから、戻ってきましたの」
「何にせよ……おまえの……奴に対する気持ちに……嘘はないのがわかる。……まずはDとわしを……ここから運び出せるか?」
「はい」
アンが答えたとき、玄関の方で勢いよくドアの開く音がした。足音と声とはいうまでもない。
アンは素早く手をのばして左手を掴み、立ち上がってベッドのDを肩に担いだ。
左手に関しては、当初の目的とまるっきり逆さまになってしまったが、その不思議さを、この少女は不思議と感じていない。
十歳としか見えない体が、大の大人を肩に、切断された左手を右手に、軽やかに窓辺へ走り寄ろうとして、前方へ倒れた。
「何を……するか。この莫迦……」
弱々しくののしりかけて、床に落ちた左手は、それより大きな声で、おっ、と呻いた。ベッドの下では逆光のせいでよく見えなかったレディ・アンの顔が、いまははっきりと見えたのだ。
「おまえ――何者じゃ?」
床の上で必死に起き上がろうともがいている顔は、いつものあどけないそれより倍もふくれ上がり、熱のせいかどす黒く充血しているではないか。顔ばかりではない。手も足も、身体全体が醜く肥大して、あのあどけない少女の面影はどこにもない。
「おまえ……毒に……やられたな。その身体で……よくもここまで……」
左手の感嘆の声を、アンは聞いていない。邪毒の廻り切った身体に鞭打って、必死に起き上がろうとする。
何とか立ち上がり、左手とDとを担いだ瞬間、叩きつけるようにドアが開かれ、戸口から人影が水泡《みなわ》みたいに押し寄せてきた。
「いたぞ!」
「病人をさらって逃げようとしているぞ」
「杭はどこだ? ハンマーを持って来い」
戸口から長銃を手にした男たちが三人ほど現われ、アンを見つけるや、村人たちの最前列まで来て膝射ちの構えを取った。
杭打ち銃の撃鉄はすでに上がっている。高圧ガスの力で毎秒五〇〇メートルを誇る白木の杭は、難なくレディ・アンの心臓を貫くことだろう。恐るべき少女の健気な戦いは、ここに進退窮まったかのように見えた。
「わしの掌で口をふさげ」
嗄れ声がした。是も非もない。反射的に、アンはミイラの掌を口に押しつけた。柔らかいものが唇に当たった。それは掌に生じた小さな唇であった。その間から、何か熱いものが口腔に入りこんでくる。
「射て」
誰かが叫んだ。
音速を超える速度《マッハ》で三本の楔《くさび》がいたいけな少女の胸に集中する。
それが正確にアンを射抜いた証拠に、三本の楔はその位置でぶつかり、互いを跳ねとばした。
そのうちの一本が窓の方へ跳び、それに合わせて、何とも奇妙な形の小さな影が、窓ガラスのはまっていない窓を貫いて闇に同化した。
着地と同時に、アンは近くの森へ向かって走った。
右手に握った左手の声が、切れ切れに聞こえた。
「どうじゃ……わしの口づけの味は?」
「大層、元気が出ましたわ」
とアンは応じた。まだ身体の芯はだるいが、力がみなぎっている。左手の唇は彼女の口を通して、微量だが、高純度のエネルギーを吹きこんでくれたのだ。顔の腫れが、みるみる退《ひ》いていく。
「……あと二時間は……保《も》つ。Dは土に埋めい。頼んだ……ぞ」
今のエネルギーが、左手の最後の分だとアンにもわかっていた。右手が重くなった。死んだのか失神か、アンにはどうでもいいことだった。本来なら、ここで放り出すかとどめを刺している。彼女が左手を救ったのは、ただただDを助けたいその一心であった。
寄合所の周囲は、人影と光線とが入り混じっている。その間の闇を縫って、アンはさしたる苦労もなく、一キロばかり先の森へとびこんだ。
なすべきことは承知していた。
月光さえもささぬ漆黒の闇の中で、か細い繊手が土を掻きはじめた。可憐な顔はほとんどもとに戻っている。
途中でその音が止まる。抑えた毒の悪戯であった。凄まじい悪寒が意識を奪い去ろうとする――それにも耐えて、少女は手も服も土まみれにして地面を掘りつづけるのだった。
やがて、長い満足のため息が身を寄せ合う木立ちの中を流れた。
「首まで埋めていいのかしら? いえ、それでは呼吸ができませんわ」
とにかく、Dを抱えて穴の中に横たえ、土をかぶせた。
「これで生き返る」
激しい息つぎの中にも、安堵の響きがあった。
「いいえ、たとえそうならなくても、私以外のものに手出しはできません。眼が醒めぬのなら、一生ここに――いいえ、隙を見て私と一緒に脱出いたしましょう。あなたは眠っていて下さればいいのです。生涯、私が面倒を見てさしあげます。そして、そして、もしもダンピールが尽きる生命というものに従わねばならないのなら、そのとき、私もともに参ります、愛しい方」
このいたいけな少女の胸に秘めた情熱がどれほどのものか、闇中での告白は、自らの身を灼くほどに激しくせつない真情の吐露であった。聞くものはいない。Dはひっそりと眠りつづけ、左手もまた喪神中だ。そこに語りつづける空しさを、しかし、レディ・アンは空しさと感じていない。
独白を終えた少女の眼には強烈な意志が燃え、頭脳はめまぐるしく回転していた。いずれ捜索隊は来る。その前に囲みを破ってDを村から連れ出さねば。少なくとも夜明け前。それから先は、二人きりの旅だ。十歳の自分が意識を失ったDを担いで旅することを、この少女は恍惚と夢想した。それは、生まれてはじめて感じた魂の充足ともいうべきものであった。
本当に、この方が一生眼醒めずにいてくれたら。
高揚とうらはらの切なさがこみ上げ、アンは涙ぐんだ。
近づく気配に気づかなかったのは、その激しい想いに我を忘れていたせいだろう。
細枝の踏み砕かれる音が鼓膜に届いた刹那、アンは身を翻した。
その顔を白光が直撃した。
「動くな」
「いたぞ」
とひとりがふり返り、口に手を当てるのを、
「呼ぶな!」
ともうひとりが制した。
「その小娘はおれたちで片づけるんだ。次の村長選がある」
「おっ、そうだ」
このときにはもう、アンの眼は、屈強な三人の男と、手にした杭打ち銃を闇の中ではっきりと見分けていた。
「化物め、もう逃がさねえぞ」
白熱灯を手にした男の声は震えをおびている。夜中に貴族と会う。はじめて味わう恐怖に違いなかった。貴族の衰亡がはじまって数千年を閲《けみ》した今では、本物の貴族と遭遇する機会はさして多くない。まして、相手は人形のごとき美少女だ。恐怖に戦慄しながらも、男たちが失神も逃げもしなかったのは、そのせいであった。村長選という、極めて生々しい理由もあったかも知れない。
「三挺とも杭が出る。おれたちは村の射撃係だ。どう逃げても、二本は命中させてみせるぜ。あきらめな」
「ひとつ伺います」
アンは恐れげもなく訊いた。
「この方には、手を出さないでくれますわね?」
カンテラの光が移動し、Dの顔を捉えた。どう考えてもおぞましい光景なのに、光を受けた美貌の、凄愴とでもいうべき美しさに、男たちは陶然となった。カンテラが下がった。手にした男が夢見心地に陥ったのである。
その腰に猛烈な蹴りが加わり、カンテラの男は我に返った。光が上がった。
「しっかりしろ」
と一喝した蛮声は、中央の影のものであった。村長選もあるから人を呼ぶな、といったのは彼である。アンに向かって、
「悪いがな、今度のトラブルの素は、おめえたち二人――貴族と貴族の血を引く半化けを村へ招いちまったせいだ。輸送隊の奴らには、それなりのペナルティが科せられるだろうが、おめえらは二人ともここで消えてもらう。後は、おれの判断が正しかったとみなに思わせるように持っていくだけだ」
凄惨な決意が野太い声を上ずらせていた。
「私ひとりなら、とふと迷いましたが、そうですの、このお方まで手にかけるとおっしゃる」
レディ・アンは、むしろ爽やかな声で、自問するように言った。
だが、地面から突き出たDの首のかたわらに立ち、光輪の中にあどけない可憐な顔を白々と浮かび上がらせているその双眸――上目遣いに男たちを見据えた瞳の何と凄まじいことか。愛する男の生命も損なうとの無慈悲な発言を耳にした瞬間、愛くるしい少女は鬼女に変じたのである。だが――
「射て!」
と中央の男が叫んだ次の数瞬に、アンには成す術があったのかどうか。
いや、あったのかも知れない。その証拠に、三人の男は揃って喉を掻きむしり、空を掴むと、そのまま思い思いの方向にのけぞり倒れたのである。地面に触れたときにはもう、鼻と口から黒血を噴いてこと切れていた。断末魔の痙攣は倒れる間に行われた。
その死に様から看破したものか、それとも貴族特有の超感覚の成せる技か、アンは片手を口に当て、しゃがみこむや、もう一方の手でDの口を押さえた。
夜風が渡る闇の奥から声が聞こえた。
「まだまだ安心なさいな。貴族の血を引くものには甘い香水程度」
「グレートヘン博士」
倒れた三人の背後にそびえる木立ちの間から、ユッタ村長が歩いてきた。地面には木の根が蛇行迷走しているにもかかわらず、平地を歩むような滑らかさであった。
「毒は風に撒いたの。さ、Dを置いて去りなさい。でなければ、風の向きを変えられぬ限り、貴族といえど、永劫に苦しまねばならない猛毒が吹きつけるわ」
ほんの一瞬、アンは躊躇した。“グレートヘン博士の実験”は、貴族ですら眉をひそめ弾劾せずにはいられぬ凶行であった。小さな心臓が止まりかけたのも無理はない。だが、次の瞬間、アンはそんな自分を後悔していた。
生体解剖がなんだ、全身腐るのがどうした。私がなるのは何でもない。Dさまさえ、救えるものなら、私は喜んで死の眠りにつこう。
アンはまた口からうす紫の花の蕾を手に吐いた。
それに息を吹きかけ、グレートヘン博士のもとへと飛翔させたのも同じだった。
花はふたたび萎れて博士の眉間から落ちた。
「無駄な真似はおよしなさい。どこにそんな力が残っていたのか知らないけれど、二人揃って私の毒風で腐り果てるがいい」
博士=村長の宣言が終わる前に地面がゆれた。
博士は大きくバランスを崩し、魔の風は虚空へと吹き上がって消えた。
よろめいた足を木の根に取られて仰向けに倒れつつ、アンは、自分とグレートヘン博士の間に大地からせり上がった巨大な影を目撃して叫んだ。
「お父さま!?」
3
「ゼノン公――そこまでお狂いか?」
かろうじてバランスを取り戻し、足場を固めようと努力しながら、グレートヘン博士は絶叫したが、次の瞬間、闇を圧する介入者を見据えて、
「メフメット大公!?」
と驚愕の叫びを放った。
「いかにも、メフメットである」
巨大な影は一礼した。滑らかな動きではあったが、すでに、その名の貴族も、その戦闘法も知悉《ちしつ》している博士には、巨影の正体も看破していた。
「“メフメットの機械人間《オートマン》”」
全長四メートルにも及ぶ巨大な機械人間が、メフメット大公の武器なのであった。
いわばロボット、ないし、アンドロイドといったところだが、貴族の科学力が産んだメカニズムは、遥かに優美で人間そのものと思える精妙な動きを可能にした。
見るがいい。夜風にゆれる黒髪、東洋的な精悍なマスクとそれを乗せた浅黒い顔、金糸、銀糸、青、赤、紫――あらゆる色彩の糸で縫われた絢爛たるマントと衣裳。本物[#「本物」に傍点]のメフメット大公と寸分違わぬ――いや、巨大なだけで瓜二つの顔と身体のつくりに違いない。
これに比べれば、アンの父ゼノン公の戦闘装甲など、芸術的センスのかけらもない武骨な甲冑にすぎない。
もうひとつ両者の違いは――
「どこにいらっしゃるの、メフメット大公?」
と博士が声をかけた。
「ギャスケル大将軍の城の地下だ。少々、ワインを飲みすぎての」
と巨大なるメフメット人形は答えた。ゼノン公の甲冑は彼自身が内部に入って制御《コントロール》しなければならないが、メフメット大公の機械人間は、文字通り、遠隔の地から自在に動かし得る操り人形《マリオネット》なのであった。操縦者にとって、どちらが便利で安全かはいうまでもあるまい。
「とても羨ましいことね、メフメット大公。それなら、すでに失くなってしまったお国の夢でも見ていなさい」
「そうもいかんでな」
巨大な大公は、口もとに手を当てて、軽いゲップを洩らした。軽い? それは地鳴りのような音をたてたのである。彼は言った。
「ゼノン公が、大事な娘を危ない目に遭わせるのは何事だと、大将軍に食ってかかったのよ。誰が見ても、これは将軍のやり方が悪い。そこもと[#「そこもと」に傍点]が出動したと聞いて、もし万が一、アンに引っ掻き傷ひとつでもつけたら、自分もその一族も敵に廻ると宣言され、大将軍もあわててわしを派遣したという次第だ。いやはや、妙なところで気の弱いお方じゃて」
ため息らしいものをひとつついて、
「地中から探査虫を放ってようやく見つけた。間一髪、間に合って重畳《ちょうじょう》。さ、手を引いてもらいたい」
「そのおませなお嬢さんは恋狂いよ」
博士もため息をついた。ただし、大公のまがいものより百倍も上品である。
「排除しない限り、Dを斃すことはできないわ」
「その件については、わしに一任なさるとのことだ」
「信じられませんわ」
「おいおい」
にせ[#「にせ」に傍点]大公は、情けなさそうな声を上げた。
「そんなこともあろうかと、大公の書きつけを持参した。――いいかな」
「偽物だわ」
「博士」
「私は大将軍の傷を治して今回の出動権を獲得した。誰であろうと邪魔は許しません。Dは私の獲物よ。おどきなさい」
「やむを得ん」
巨大なるメフメットは、大きく上体を反らした。深呼吸だ。戦闘前の。
夜空を見上げた姿勢のまま言った。
「この[#「この」に傍点]わしは機械だ。グレートヘン博士の毒も効かんぞ」
「そうかしら」
博士の声は、突然、締めつけられたような呻きとともに止まった。にせ大公の手が電光の速さで彼女の首を掴んだのだ。
「ぐぐ……ぐ……」
夜目にも、どす黒く変わっていく苦悶の顔へ、
「では、城へ戻るといたしますかな、博士」
と巨人は、やさしく終結宣言をした。
「おっと――肝心な用を忘れていた」
身体を右斜めに向けて、まだ地面に尻餅をついているアンへ、残る片手をのばす。
「さ、お父上のもとへ――」
巨大な手甲をはめた手が、このとき、激しく痙攣した。
「こ、これは――身体が痺れる……まさか……」
「効いたわね、メフメット大公」
わななく指の間から素早く抜け出て、太い木立ちの陰に隠れると、グレートヘン博士は種明かしをはじめた。
「お苦しみはどちらかしら、大公? この汚らわしいまがいもの[#「まがいもの」に傍点]、それとも、遠いお城のあなた?」
「な、何故、わしが? あなたは――博士、いつ、毒を盛った?」
「お城でね」
巨人の苦しむ様子を横目で見ながら、博士は巨体の向こうに意識を集中した。
「私、同じ目的の仲間――などというものを信じていないのよ。敵だらけのこの世に生まれてきたのが不運だわ。だから、お城にも毒を撒いておいたの。ふふ、ここは領地じゃないから、大将軍のお耳にも入らないでしょうね」
「なんという……ことを……あなたは、みなを……殺《あや》めるつもりか……」
血を吐くような叫びは、文字通り、黒血の雨となって大地に降りかかった。何という精巧なメカニズムであることか。彼方の城中にあるメフメット公が吐血した刹那、機械人間もまた血を吐いたのである。
理想的な機械とは、まさしく操縦者と一体化――その微々たる動きまでも操縦者と等しい代物だというが、貴族の科学力は“同一回路”――あるいは“ドッペルゲンガー回路”と呼ばれる仕組みでこれを成し遂げていた。これを備えた機械人間は、操縦者が悲しみの淵に立たされれば悲嘆の涙を流し、傷つけば同じ場所から人造の血を吹いたという。それは事実だったのだ。
「その毒が効果を現わすのは、服用者が私に殺意を抱いたときにのみ。安心なさい、貴族なら一時間足らずで回復するはず。その間に私は――」
と苦悶する機械人間の後ろへ廻りこんで、
「いない」
愕然と眼を見張った。あの娘は誰の予想をも超えた能力の持ち主だったに違いない。博士と機械人間が戦ったわずか数分の間に、首まで埋めたDを掘り返し、担いで逃亡するほどに。
「おのれ……あの小娘」
歯噛みの音さえ響かせて立ちすくんだ背後から、
「地震はこっちだ」
「おお、何かいるぞ」
「杭を持ってこい」
緊張七分、闘志三分の村人の声が吹き渡ってきた。
舌打ちひとつ、博士は村長の顔と声のまま、そちらへ身をよじって、
「こっちよ、貴族がいるわ。誰か助けて」
と叫んだ。
「人が来るわ。蹴散らして行きなさい」
と、呼吸困難で喘ぐ機械人間に言った。
その後、生じた出来事は、クラクフの村にとって、最大の悪夢となった。
貴族と思しい巨大な人影が森から現われ、押し寄せた村人をことごとく踏みつぶし、殴り殺して闇に消えたのである。村を出るまでの間に、二十人が殺され、破壊された家は八軒にのぼった。それが人間そっくりの顔を持っていただの、酔っ払ってでもいるみたいな足取りだっただのという目撃者の証言は、惨事の興奮と悲しみの中に紛れ、村長の指示でようやくつかの間の平穏を取り戻したのは、夜明け近くであった。
やり場のない村人たちの怒りの矛先は、当然、輸送隊に向けられた。
捜索に加わっていたジュークは縛り上げられ、寄合所に押し寄せた群衆によって、セルゲイもゴルドーもロザリアまでもが村の監獄に入れられた。
これは異例の処置といえた。貴族に関係した者は、即刻追放すべきというのが、辺境の掟だったからである。危害を加えた後の、貴族の復讐を考慮しての配慮である。
指示したのはユッタ村長であった。困惑し怯える村人へ、彼女は、
「この村だけは事なかれではないことを、貴族の脅威にも全員が否と立ち向かうことを、世にしろしめす絶好のチャンスです」
と言った。村人の何人かはそれでも異を唱えた。それに対して、
「彼らが他所《よそ》の村で、今回のような事件を引き起こしたら、私たちは彼らを放逐したことを一生後悔するでしょう」
と言って口をつぐませ、なぜか、
「村の被害を鑑みて、全員、斬首の刑。刑は公開として、明日の昼行います」
と一日の猶予を置いたのである。
アンは幸せであった。彼女がDと左手を伴って村を出られたのは、すぐ後に生じた、にせメフメット大公の狂乱のおかげであった。夜の闇を走りに走り、村から数キロ先にある古い廃墟に身を隠したときは、夜明けが近かった。
ギャスケル将軍のもとで、陽光の下でも行動できるよう、全身に霧状のシールドを浴びせられてはいたが、黎明《れいめい》は魔性の血にやはり痛打を浴びせずにはいなかった。
破孔からさしこむ水のような光の中で、アンは苦悶し、喘ぎながら床の煉瓦を外し、現われた黒土を掘ってDをその中に埋めた。
作業が終わった頃、陽射しはさらに強まり、これまで知らずに来た世界の明るさは小さな身体を容赦なく灼いた。
「シールドは三日しか保たんぞ」
とは、将軍の厳命であった。
それでも、石の柱と壁がひっそりと影をつくる一隅に横たわったとき、少女の胸を占めるものは、愛する者を守り抜いた安堵と、夜が訪れてからの幸せであった。
もはや人間の手の及ばぬ貴族の世界がそこにある。たとえシールドが破れようと、昼に陽光と人間どもから身を隠すのは、さしたる難事とは思えない。
どこまでも行ける――月光と星明かりと夜風の世界を、Dと二人きりで。
廃墟の奥まで調べる余裕もないまま、アンは昏々と眠った。
眼を醒ましたとき、まだ昼の最中と身体が告げた。
眼の前に立つ娘には見覚えがあった。
馬車の人間たちは、眠りきりの彼女をロザリアと呼んでいた。
「おまえは?」
戦闘態勢に入りつつ、入り切れずに苦鳴にも似た声を放つアンへ、娘は哀しげな視線を当てて身を翻した。
「何処へいく!?」
立とうとしたが立てず、アンは手と足を使って床を這った。
柱を曲がってDの姿が視界に入る。ロザリアはそのかたわらに膝をつき、何事か話しかけているようだった。
「明日の朝」
とか、
「処刑」
という言葉が切れ切れに耳に届いた。ひどく不吉な予感がした。あの娘はDをもとの世界へ連れ戻そうとしているのではないか。
「聞こえません」
とアンは柱にすがって立ち上がりながら叫んだ。
「聞こえません、その人には――お帰りなさい」
手のひらに死の花を吐き出したとき、ロザリアはさしめぐむ光に溶けたかのように消えていた。
清涼な光のすじに身を灼き、悶えながらアンはDのもとへとにじり寄った。彼はそこにいた。
「ああ……」
少女の眼から光るものが零《こぼ》れた。それが涙という名前であることもアンは忘れていた。ただ、それを浮かばせた悲痛な想いだけを胸に抱いていた。
「行かないで……どこへも行かないで下さい。私と……ずっと一緒にいて」
[#改ページ]
第七章 処刑前夜
1
二人の人物が、ユッタ村長を自宅に訪問したのは、翌日の昼下がりであった。
ひとり暮らしの村長の家は、いつもと違って、窓には厚いカーテンが引かれ、内部は闇の棲家のようであった。昨夜の捜索と、巨人を眼のあたりに見たショックとで疲れ果て、少しでも深い眠りを摂《と》りたいとの理由である。
それでも二人が名乗ると、彼女は闇の奥から現われ、露骨に迷惑そうな表情《かお》で居間へ通した。何かの匂いを隠そうとでもするかのように、居間には強い香が焚かれていた。
お茶の用意もせず、ガウン姿を恥じらう風もなく、
「ようこそ、ゼノン公」
「よくいらっしゃいました、メフメット大公」
と白い歯を見せた。少女のようなつぶらな瞳と皺ひとつない艶《あで》やかな、しかし、生気というものをまるっきり欠いた青白い肌。何よりも、べっとりと鮮血を塗りたくったような紅い唇――妖しいまでに美しく艶《なま》めかしい顔は、村人に慕われる老村長のものではなかった。
「我らの用はわかっていような?」
と、埃まみれの赤い旅人服を着た男が、テーブルの上に身を乗り出して訊いた。
禿げ上がっているのに、眉は濃く、鼻下から顎にかけては、鳥か何かの巣みたいに髭もじゃだ。何処かに、昨夜、Dを連れて逃げ出した少女の面影がある。今日は戦闘装甲をつけていない。ゼノン公ローランドであった。
そして、もうひとり、こちらもよれよれの上衣とズボンをまとった普通サイズの中年の旅人――昨夜、瓜二つの機械人間が巨大な顔を見られているので、右の眼を眼帯で隠し、顔色も白く、鼻の形も髪形も変えているが、精悍無比の殺気を、いまははっきりと露呈させたメフメット大公が、
「おぬしがDを斃したとしても、このままでは済まさんぞ」
と底冷えするような声で脅しをかけた。
対して、ユッタ村長――グレートヘン博士は艶然と破顔し、
「失礼ですが、貴族の中でも知性と勇猛をもって鳴るお二人のお言葉とも思えませんわ。それは、言いがかりでございます」
ぬけぬけと言い放ったものだ。
二人の男が、全身から殺意の炎を噴き昇らせたのは、言うまでもない。さすがに、かすかな脅えと動揺が美女の貌《かお》をかすめたが、見事にそれを掻き消して、
「お二人が揃ってここへ来られたのは、ギャスケル大将軍の許可を得てでございましょうね?」
と念を押した。
「もとよりだ」
とゼノン公。
「我らがつるむ[#「つるむ」に傍点]のを防ぐため、単独行動以外は許そうとなさらなかった大将軍が、例外中の例外として連れ立っての抗議を許されたのも、博士、おぬしの行為が眼にあまるためだぞ」
もはや、赤光を発する貴族の眼を、真っ向から受け止めて、グレートヘン博士は皮肉な眼つきで、
「私の行為とは――あなたのお嬢さまを救いもせずにDもろとも片づけようとしたことをおさしでしょうか。それとも、それを諌めにいらしたメフメット公に逆らったことを?」
「両方だ」
とメフメット大公がいつわりの隻眼を赤く染めて、
「加うるに、我ら一同に毒を盛った科《とが》もあるぞ。おぬしは――」
貴族中の大貴族が絶句し、
「気でも違ったのか?」
よほど、これがおかしかったのか、博士は口もとを隠すのも忘れて、
「狂人に毒薬の研究ができるとお思いか?」
と笑った。
「その問いは、私が最初の貴族を実験に使ったとき申されるべきであった。しかし、そのときも、それから今に至るまで、誓って私は正気――狂ってなどおりません」
「なら、覚悟はできていような?」
ゼノン公が右手を肩まで上げた。何かを掴むように輪をつくった手指の中に出現した長槍で、彼はDの胸を貫いたのであった。見よ、何やら半透明というにも淡い形が、長々と空間を占めつつある。その先は真っすぐ、老女のガウンをまとった美女の心臓部へ――
「これも、大将軍の許可が?」
「もとよりだ」
博士はうなずいた。大将軍が彼女を持て余し気味なのは確かなのだ。にもかかわらず、眉ひとすじも動かさずに、
「私を滅ぼして、どうやってDをお捜しなさるのか?」
と訊いた。
「それは何とでもなるわ」
とゼノン公は答えたものの、口調が少しゆるんでいる。自信がないのだ。
「大将軍の発明したシールドのおかげで、私どもは昼間も活動し得る力を身につけました。お嬢さまが本気でDを守るおつもりならば、すでに遠く逃げ去っているでしょう。たとえ、お二方でも捜し出すのは至難の業」
「おぬしならできるというのか?」
とメフメット大公が顎を突き出した。
「どうやって?」
「明日の朝、Dの仲間を処刑いたします。すでに、近隣のすべての村に通信鳥をとばし、早馬を走らせてそれを知らせました。Dが聞けば飛んで戻りましょう」
「たわけが。戻らなかったらどうする?」
とゼノン公が吐き捨てた。
「Dという男は、仕事の仲間を決して見捨てぬと聞いております。今回、何のつもりか、輸送隊の一員に加わっているのは、ご存じの通りです」
「Dは眠っているというではないか。あれは、ダンピールのみに起きる期間不明の昏睡症状に間違いない。今日中に眼醒めて、仲間の処刑を知るなどと、誰が決めた?」
「それならば、新しい首無し死体が三個できるだけのこと。お待ちになられるだけの価値はあると存じますが。どうしても、私の生命をご所望とあれば、その後でご随意に」
この二人の大貴族を前に、よほどの自信があるのか、それとも本当に狂気の沙汰なのか、一歩も退かぬ弁舌の冴えであった。
二人は沈黙し、顔を見合わせ、それから、ある種の疑いを湛えた眼で美女を凝視した。三人の輸送隊を処刑するというくだりで、この女博士は、ただ殺人を愉しみたいのではないかと思ったのである。
「どうなさる?」
とメフメット大公が訊いた。
「わしは娘を捜す。Dといれば、Dを討つ。それとは別に――待つのもよかろう。一日の辛抱だ。そして、もしも、Dが来なければ、この女を八つ裂きにする愉しみが待っておる」
手の中のガラス細工みたいに半透明の槍は、いまや確たる実体を具えた凶器と化している。
すっとそれが進んだ。
Dの胸を貫いた穂先が少し、グレートヘン博士の胸のふくらみに食いこむ。わずかに眉をひそめただけで博士は耐えた。
穂は戻された。
「正直、わしはDが来なければと思っておる」
ゆっくりと立ち上がりながら、旅人姿のゼノン公は言った。槍は闇色の空気に同化しつつあった。
「娘が無事なら、その後で捜す。それよりも、この女の心臓を我が長槍で串刺しにしたいものだ」
「同感だ」
もの凄い感想を洩らす二人の前で、しかし、グレートヘン博士は、天上音楽に聴き惚れる聖女のような笑みを湛えているのだった。
西の空がやや青みを帯びてきた午後遅くの黄金の光が、やさしい夕光に変わりつつあるひととき。その光が布地のように降りそそぐ廃墟の一角にDは眠りつづけていた。
アンの見たロザリアは、あれは幻であったのか。そのささやきが眠れる美青年の意識に触れた風はない。
夕暮れどきも近い空気と風のせいか、アンはもう一度眼を醒ました。
ロザリアを目撃し、Dをまた別の場所にと思いつつ、疲労と昼の光のせいで寝入ってしまったのである。
やや寝呆け気味だった表情が、みるみる内部からかがやきを取り戻し、歓喜にあふれてくる。
Dは無事だった。後はともにここを出るだけ。
立ち上がろうとして、小さな身体は大きくよろめいた。猛烈な脱力感が襲ったのである。
床に伏したときには、理由がわかっていた。Dの左手が与えたエネルギーが切れたのだ。後はグレートヘン博士の毒が全身を駆け巡る。何とか意識は確かで悪寒も軽いのは、これまでの間に、毒自体も薄れてきたのだろう。
「もう少しかかりますね」
ひとり納得して、そのときアンは、Dの切断された左手首から五〇センチほどのところに蠢く物体を視認した。
Dの左手だ。彼の復活に少しは役立つかとここまで運んできたら、あの死に損ない、いつの間にか息を吹き返して、ふたたびDと結合すべく動き出したとみえる。だが、そんなエネルギーが、ミイラと化した手のどこに?
急に閃いた。ロザリアだ。Dの耳に忌まわしいたわごと[#「たわごと」に傍点]を吹きこんでいたあの女が、左手に生命エネルギーそのものを与えたにちがいない。だが、どうやって? あれは車の中に眠ったままの平凡な人間ではないのか。
アンは困惑した。そして、Dの左手に意識を集中することに決めた。
自分がここに来てからの時間と、左手が走破した距離、目下のスピードを考え合わせると、そのエネルギーも大したことはなさそうだ。
「えい」
掛け声一発、アンは石柱にすがって立ち上がった。
次のえい[#「えい」に傍点]で一歩を踏み出す。すがる杖も壁の凹みもない。
激しくよろめき、何度も倒れて、それでもアンはようやく左手に追いついた。五〇センチの距離は一〇センチにまで縮まっていた。
「お気の毒さまです」
アンは、毒のせいでまた腫れだした顔に天使の笑みを浮かべて、周りの地面を見廻した。
甲の上から鷲掴みにしたDの左手の反抗の動きを感じつつ、眼にした古釘をつまみ上げた。
「こら……やめろ」
か細い嗄れ声は、かえってこの少女に潜む性質に火を点したようだ。
古釘で彼女はDの左手を貫き、地面へ縫いつけた。自分の左手ごと。
「塵になるまでこうしておいで」
左手の痙攣と弛緩を確かめてから、彼女は自分の手を引き抜いた。
「このお方はいずれ眼醒めます。それまでは私が背負っていきましょう。もうあなたに用はございません」
薄墨の色を深めてゆく廃墟の中の、太陽のごとき笑みと笑い声であった。
ついに、復活した左手も倒れた。もはや、Dを復活させるのはD自身あるのみ。そして、ジュークのゴルドーのセルゲイの、ロザリアの生命は、今宵の彼の動きを待つしかないのだ!
「参りましょう、愛しい方」
やがて、アンは埋められたDのそばに辿り着いた。
土をのける手にも、前より力が入る。闇は貴族の味方なのだ。
半ばまで掻き出したとき、アンは戸口の方をふり向いた。
2
灰色の影が立っていた。両手に花束を抱いている。野の花らしかった。
灰色の頭巾《フード》付きの長衣をまとった老人である。長衣の腰のあたりに細い紐がまかれ、そこから粗末な皮製のパウチや、ガラス瓶やらがぶら下がっている。
向こうもアンに気づいたらしく、
「何をしているのだね、女の子がこんな時間に?」
と訊いた。訝しげな響きは、アンの身なりから何かを察したものらしい。
「何も」
アンはおしゃまな声でかぶりをふった。
「村の子ではあるまい。――まさか……貴族か?」
「でしたらいけませんの? ここは廃墟です。誰が入ってもいいはずですわ」
老人の表情に空の色より暗いものがさした。
「そのとおりだ。いや、違う。わしが見つけるまで、ここはまさしく廃墟だった。打ち捨てられた伽藍だ。だが、今は違う。わしが甦らせようとしておる。試みは半ばまで成功した。いま、ここはおまえたちと一緒だ。生きてもおらんし、死んでもおらん」
「失礼な方ね。やっぱり人間だわ。私たちはちゃんと生きています」
「夜のみを」
と老人は言った。
「昼の光の中でも生きられなくては、生きているとはいえん。――貴族がこんなところで何をしている? わしのしていることに気づいたとは思えんが」
「あなたこそ、どなたですの?」
「わしはこの近辺の村を渡っていたアドルカの司祭だ。年のせいで三年ほど前に引退したが、その前にこの廃墟を見つけ、失われた宗教の秘密を探し求めておるのさ」
「宗教? ――人間の方々が救いを求めるというあれ[#「あれ」に傍点]ですか?」
この世界にも宗教はある。貴族の全盛期には、それに比例するかのように様々な形の新興宗教が創設され、その数は数万に及んだという。そのすべてが呪われた貴族からの防御と解放を求めたものであったが、ほんの数種を除いては形ばかりのものにすぎず、貴族たちから相手にもされないうちに滅んで、今ではこの老人が口にしたアドルカ派ほか、いくつかの宗派が残存するきりだという。
老人の返事はなく、アンも彼に興味を失った。
ふたたびDの身体から土をのけ出した彼女へ、老僧は緊張した声をかけた。
「何をしておる? おお、そこに埋められているのは人間か? なんと美しい。読めたぞ、おまえは犠牲者をここに埋めて人知れず忌まわしい吸血の所業に耽るつもりだな」
たわごとを、とアンは胸の中で嘲笑した。何でもいい。所詮、人間ごときに、私の崇高な目的が、愛の想いが理解できるはずもない。
「放っておくわけにはいかん。やめい――やめぬか。あどけない顔をして、何という恐ろしい奴」
老僧はアンの背後に駆け寄り、腰の鞘から抜いたナイフをふりかぶった。もとは宗教儀式にでも使うものらしく、刃は中ほどからねじれ、経文らしい字句が全体に刻んである。
吸血貴族が支配する世界で生き残るために、宗教は殺生を禁じていない。
ふり下ろされたナイフを、アンは止めようとしなかった。老僧に背を向けたまま、彼女は小さな背中でそれを受けたのである。正確に心臓を後ろから貫くはずの刃は、ほんの数センチで止まった。
老僧の顔に狼狽の相が走った。刃の伝える手応えは、人間や貴族の肉体のものではなかった。
「お、おまえは!?」
叫ぶ喉を人形のような手が掴み、ほんのひとふりで老僧は奥へと投げとばされた。
三メートルも向こうに落ちた拍子に腰の瓶が割れ、中味が床にぶち撒けられた。
それだけで老僧のことなど忘れ、アンはDの掘り出しにかかった。
奥で老僧の呻き声と、がさごそ動く音とが聞こえたが、気にもならなかった。夕暮れの風が床を渡って細かい粉塵をとばし、金髪をゆらした。ひといきに作業を終わらせるつもりだったが、毒の残存効果が何度か中断させた。
その間に、廃墟の奥では別の作業が行われていた。石床の上に叩きつけられた老僧が、腰を押さえつつ起き上がり、さらに奥へと手と足で這い出しはじめたのである。
その奥には、何やら祭壇の跡らしい空間と石の平台とが置かれ、左右の壁と天井は石ではなく岩だ。それもよく見ると、人為的な力で徹底的に破壊し尽くされた痕がある。すなわち、この廃墟は、Dとアンの位置から数メートル先で、岩山の内部に掘り広げられていたのである。
老僧もアンも、一万年以上昔、ここで何が行われていたかは知らなかった。
かつては小さいながらも敬虔な信者を集めた場所であり、核戦争後も何とか残存していたものの、ここにある何かを憎み恐れた貴族たちのために毀《こぼ》たれ、しかし、信仰を捨てずにいた人々の手で何度か再建され、また破壊されて、幾星霜を閲《けみ》するうちに、今のような荒涼を極めた形で放置されたのであった。
老僧がここに執着したのは、若い頃読んだ古文書に、古代宗教に関する記載があり、その崇拝の対象とした偶像に、いかなる貴族をも退ける力があるとされていたのである。
彼が布教場所を定めぬ放浪の僧となって、山河遥かな村々をさすらったのは、ひとつにはそれを求めてのことであった。
求めているものが、貴族を脅かす何かが、ここにあると僧は信じた。その痕跡は、石の平壇とその背後の基石のような丸石に残されていた。丸石の中央には、分厚い板状のものをはめこんだ亀裂が走り、僧はこの何かが貴族の脅威であったと判断した。古文書のその部分は焼けて読めなかったのである。
だが、後ろにあるのは、岩の壁だけだ。そこに何を見出したのか。老僧は辿り着いた。岩壁の下には空き缶でつくった燭台に、ちびた蝋燭が乗っていた。その横に鉄製の楔《くさび》とハンマーが転がっているのを見ると、彼はどうやら岩壁を砕くか彫るかしていたらしい。確かに、老僧のほぼ頭のあたりにあたる岩の表面には、差し渡し五〇センチ、深さ三〇センチばかりの洞《うろ》が穿《うが》たれていた。
燭台のそばにあるマッチをすって火をつけると老僧は両手を組み合わせて何かつぶやき、右手の指で額と両胸に触れた。それからまた手を組み合わせて何かぶつぶつと唱えはじめた。つぶやきは彼が古文書から解読した古代の祈りであり、仕草は宗教儀礼に則ったものであった。
「はじめて試すぞ、貴族を相手に――人間の生み出した聖なる力を思い知れ」
アメンアメンと彼は何度も口にして祈りの効果を待った。
何も起こらない。蝋燭の炎が風にゆれているばかりだ。
「そんなはずはない。わしの研究に間違いはないはずだ。この祈りでもって、貴族は必ず――」
「さあ、参りましょう」
青々と空気もぬれた廃墟の内部《なか》に響くレディ・アンの歓喜の叫びであった。
黒土の中からDはその全身を現わした。
身を屈め、その彼を両手で抱き上げた十歳の少女の童顔は歓びにかがやいている。
無益な祈りをつづけている僧になど眼もくれず、彼女は、世にも美しい聖体を運ぶかのように恭しくDを抱き、朽ち果てた戸口の方へ歩き出した。
足が止まったのは、あと十歩で戸口という位置であった。
廃墟の入口には石段がついていた。それを人影が上がってきたのである。髭だらけで禿頭の男であった。
宵闇の光の中で、二人は遭遇した。
「お父さま」
「アン、ここにいたか」
埃だらけの旅人姿のまま、ゼノン公ローランドは愛娘に笑いかけた。どこか淫らな笑みであった。
「どうして、ここへ?」
「あの博士の、おまえに対する扱いがあまりに酷いと将軍にねじこんだのよ。痛い目に遭わされたメフメットの奴も助勢してくれたわ。そうして二人で博士のもとへ赴き――」
手短に昼の経過を語って、自分はこの一帯を捜しに出たのだと言った。
「わしの甲冑の速度はわかっていよう。まず、村人に、人家か洞窟か廃墟はないかと尋ね、しらみつぶしに当たったのよ。ここで十六カ所目だ。こんなに早く見つかるとは思わなかったぞ。――さ、戻るのだ。そのハンターの心臓を串刺しにしてからな」
最後のフレーズには、もはや一歩も譲らぬという決意がみなぎっていた。
「戻るなら、おひとりで。この方を滅ぼそうというのなら、私を滅ぼしてからどうぞ」
こちらも断固たる決意を冷やかに湛えたレディ・アンの返答は、髭に隠れた父の唇を激しく震わせた。
「まだわからぬのか、お前を想うわしの気持ちが?」
「ほほ、私のような娘を生んだ男の方の気持ちなど、到底」
とレディ・アンは笑った。
「そして、その子を犯すような父親の想いも、また」
「何を言う――あれは!?」
「幼くして[#「幼くして」に傍点]死んだお母さまの面影を私に見たからですか? お母さまも十歳の姿で亡くなられました」
「やめい」
「もうお忘れですの? 私は克明に覚えておりますわよ。あのとき、お父さまが何をしたか、私をどう呼んだか。――アリス、と」
ゼノン公の顔からあらゆる表情が消えた。いかなる怒りの相よりも恐ろしい無表情を、灰色の光が覆ったのは、その刹那であった。それは顔のみか、両腕を、胸を、腹を、両脚を辿って、彼を別人に変えた。
巨人の装甲は、一枚の箔《はく》だけでできていたのかも知れない。
三メートルの高みにそびえる父の頭部を、レディ・アンは黙然と見上げた。
「お前を傷つけることはできぬ。だが、その男は何としても、いま、この場で処分する。わしの愛娘をたぶらかした憎い奴。八つ裂きにしても飽き足らぬ」
「それは私があなたに申し上げること」
愕然と立ちすくむ巨人の眼前を、レディ・アンは廃墟内へと退いていった。
「アン」
叫んで巨人もそれを追う。その気になれば足音ひとつたてぬはずが、心理的動揺も極まったか、巨体はそれにふさわしい地響きをたてた。
床が陥没し、石壁が崩れ落ちる。新たな死と破滅を迎えようとする廃墟の床の上を、レディ・アンは幻のように滑った。
巨人が右手をふった。槍は空中で実体化し、レディ・アンの眼前の床に突き刺さった。間一髪でかわしたはずが肩を打ち、バランスを崩したレディ・アンの手からDが転がり落ちる。床全体が陥没したその底部へ、Dは仰向けに倒れた。奇しくも、アンが埋めた場所と寸分変わらぬ位置だ。
粉塵が風に舞ったが、アンは瞬きひとつせずに、近づいてくる父を見つめた。いや、その青い瞳から噴きつける感情は、断じて実の親に対するものではない。それはまぎれもない、炎のような憎しみであった。
もはや吸血花の技は通じぬ。そう覚悟を決めたか、彼女は摺鉢状に凹んだ床の底へ跳び下りると、Dの胸の上で両手を広げて立った。
ぶん、と風を巻いて長槍が飛び、彼方の石台を打ち砕いた。威嚇投擲である。岩壁と床に亀裂が黒々と走った。
「これが最後だ、のけ」
ゼノン公のふりかぶった右手には新たな一本が光っている。
「お投げなさい」
とアンは言った。その声にも表情にも、怯えの翳《かげ》は微塵もない。少女は死ぬ気であった。力及ばぬまでも、愛する男を守り、ともに死ぬつもりであった。神々しいとさえ言えるその姿は、さしもの巨人戦士をも青い光の中に硬直させた。
だが、それもつかの間――あくまでも逆らう娘に、ついに勘弁の忍耐も尽きたか、無機質な装甲の顔から、違えようもない憤怒の気が伝わるや、巨人は右手をふり下ろそうとした。
その瞬間、誰が予想したであろう。凄まじい悲鳴がその口から噴き上がろうとは。
ふり向いて、ああ、レディ・アンものけぞった。
彼らは見た。それは網膜に灼きつき、脳さえも灼いた。
奥の岩壁の下にうずくまった老僧が捜し求めていたもの――恐らくは、古代の僧侶が貴族の破壊から免れるため、岩壁の内側に生じた自然の空洞に隠し置いた品が、いま長槍の一撃で壁が崩れ落ちて現われたのであろう。
夕闇の光の中に、それは十文字の石の全身と、両手を広げてそこに貼りつけられた小さな人間の像とをしめしていた。像の頭は茨の冠に覆われ、無惨な苦悶に疲弊した表情《おもて》には、しかし、見るものすべてを感動させずにはおかぬ限りない慈悲と博愛がみちている。
恐るべき魔人の親子を打ちのめしたものは、一万年を閲した石の十字架であった。
3
長い長い時を経て、それを守ろうとした古代僧の想いも霧消し、それは単なる石の品に変わっていたであろう。
だが、神性とは、魔性とは何なのか。小さな石の十字架の前に、二人の貴族は狂乱し、ゼノン公はよろめきよろめき、戸口へと戻りはじめたのである。
「下がるのだ、レディ・アン――我らの力及ばぬものだぞ」
彼は身体中が燃え上がる苦痛に耐えていた。次の瞬間、熱は凄まじい冷気に変わり、悪寒に全身が震える。何よりも、胸の奥からこみ上げてくる底知れぬ恐怖よ。
愛娘の返事も聴かず、彼はこけつまろびつ廃墟の外へと逃れた。
アンが残ったのは奇跡的なことであった。事ここに至っても彼女はDの身を案じたのである。もはや連れ出そうとしても父が黙ってはいまい。一緒に死ねればよかったが、それも叶わぬ以上、せめて、ただいま現在の苦痛からDを救わねばならぬ。彼もまた、呪われた貴族の血を引いているのだった。
実際、Dはまだ眼醒めてはいない。いないが、聖なるものの力は視覚によらずとも魔性を侵略する。
アンはDの顔を上から抱きしめた。身体は瘧《おこり》にかかったように震えている。苦しいが安らかな想いだった。このままで、と思った。このまま、この人と逝けるなら、このままでも。
頭上を何かがかすめた。
アンは見ることができなかったが、それは何とも奇妙な代物であった。一匹の赤色をした虫が、玄関から放りこまれたのである。それは、飛翔するみたいに真っすぐ廃墟の奥まで飛んで、十字架の真ん中――人像の首にひっかかると、丸い口で尻すぼみの尻尾を咥え、数珠のように、その首にぶら下がった。そして、何ともおかしなことに、尻尾の方からぱりぱりと音をたてて自らを咀嚼しはじめたのである。
直径三〇センチほどの輪がみるみる小さくなり、ささやかな像の細い首と等しい太さになってもさらに食いつづけ、そして、突然消滅した。
文字通り、後には何も残らなかった。――いや、人像の顔の真ん中――鼻の先あたりに小さな黒点が付着している。穴だ。次の瞬間、それはひと抱えもある巨大な黒い洞《うろ》に変化したのである。
人像の表面に発生したのでは無論ない。十字架上とも違う。それは突如、空間それ自体に出現した虚空――空洞であった。
どこへつながるのか、それはうなりをたてて、こちら側の空気を吸いこみはじめたのである。あたかも、向こう側に宇宙でも口を開けているかのごとく。
吸いこまれるのは空気ばかりではなかった。石塊も岩塊も、動くものはことごとく、凄まじい速度で黒い空間に呑みこまれていくのだ。穴よりも大きな石塊が触れると、穴は自然に広がって嚥下し、またもとに戻った。この勢いでは、じきに廃墟そのものが呑みこまれてしまうのではあるまいか。
アンが宙に浮いた。Dもまた。
その瞬間、玄関の方から、さっきと同じ虫が飛びこんできて、虚空に吸いこまれた。忽然と穴は消滅し、二人はもとの位置に落ちた。
宙を舞っていた瓦礫が次々と落下する。その響きの中に、二匹の虫が飛び来った方から、
「“空食虫”の食らった痕を埋めるには、もう一匹放りこむしかない」
と穏やかな声が聞こえた。
アンには聞き覚えがあった。身を起こして、
「メフメット公!?」
「左様――ご無事であらせられるかな。お父上ともどもあなたを捜しに出て、いま偶然出会った。お父上もおられるが大層な容態だ。ここは私とお帰り願いたい。もちろん、Dとやらの首と胴とは切り離して」
「お断りいたします」
「申し訳ないが、私はお父上ほど甘くはない。一度だけ言う。どきなされ」
「いいえ」
きっぱりと首をふるアンの顔に灯影がゆれた。老僧の点した蝋燭が、奇跡的に消えずに転がってきたのだ。
風がアンの髪とスカートの裾を吹きなびかせる。
「では――もう一匹。二人とも虚無の空間へ消えるがいい」
あくまでも穏やかな声だけに恐ろしい。
空食虫――自らの身体を呑みこんで消滅する代償に、空間に穴を穿ち、あらゆるものを呑みこんでしまう虫。そんな物騒な代物を、メフメット大公は自在に操るのであった。
言葉通り、それ以上の呼びかけはなく、ひゅっと虫が飛んだ。今度は放物線を描いてDとアンの頭上へ。空中ですでに我食らいを開始し、アンの頭上で穴を――
銀光が下から垂直に跳ね上がった。
それはひとすじの刃と化して、出現した穴に切尖《きっさき》を突き入れたのである。穴が青い稲妻を吹いた瞬間、刀身は抜き取られた。穴におぞましい虫食い穴は存在しなかった。
垂直に突き上げられた刃は、黒い手に握りしめられていた。腕はアンのいる窪みの底から生えていた。
「――D!?」
アンのかたわらから、たくましい上体が起き上がった。鍔広の旅人帽はわずかに傾いたくらいで、その貌《かお》のおぞましいほどの美しさを損ねてはいない。神も魔性も、この若者の美しさの前に声を失うがいい。
なおも吹き荒れる風の中に、すっくと仁王立ちになったのは、まぎれもなくDであった。
「いつ――どうやって眼を?」
同時に放ったアンとメフメット大公の声には恐怖さえこもっていた。
彼らは知らなかったのだ。アンが地面に縫いつけたときから、左手が休みなく黒土を食らっていたことを。陥没した床を伝わって、老僧の砕けた瓶の中味が――水が流れこんできたとき、左手がそれを浴びたのを。吹き荒れる風が左手を吹きすぎるとき、突如、吸引されたかのように途切れるのを。そして、転がり落ちてきた蝋燭の炎もまた、小さな口に吸引され、干からびた手がみるみる尋常な姿を取り戻すや、古釘から自らを引き抜き、Dの左手首とつながったことを。
地水火風――この世を構成する四大元素が小さな口の中でひとつに融合された刹那、青白い炎が噴き、Dは甦った。
もとより、これだけで、ダンピールの宿痾《しゅくあ》が敗北したのではあるまい。眼醒める時期にさしかかっていたのであろうが、しかし、最大の功労者が干からびた左手だったことに疑いは入れない。
Dは立った。その眼はなお盲目の証しに閉じられている。だが、すがるようなアンに一瞥も与えず床を上がっていく勇姿を見て、誰が視力を失っていると思おうか。
眼醒めた瞬間から、彼のすべては、その存在理由に――戦うことに捧げられているのだった。
夕暮れは青から墨色に世界を塗っている。戦う男たちにふさわしい色に。
「メフメット大公か」
とDは呼びかけた。
玄関の向こうの闇に、巨大な顔が浮かんでいた。その眼を通して、どこかで飲んだくれている真物《ほんもの》の大公は、Dを見ているのであった。
「よくご存じだ。お初のお目見えと存ずるが」
「聞いたことがある。随分と昔に」
「それは光栄のいたり。事情を話している暇はないが、私の名を呼んだ以上、死ぬ覚悟はお持ちだろうな」
「事情は聞いた」
Dの左手の意味を知らぬものには、信じられないことであった。メフメットは驚愕の表情を浮かべた。
その口が開くや、しゅっという音をたてて、二匹の空食虫が放出された。
Dは真っすぐ進んだ。自らを食い尽くす前に、それは空中で両断され、ただの虫の死骸と化して床に落ちた。
新たな虫が放出される前に、Dは跳躍した。
神速の突きをからくもかわしつつ、にせメフメット大公は後退した。階段から路上へ舞い下りた三メートルの身体に乗った顔に、不遜な笑みはかけらもない。
軽く息を吐いたその頭上に、漆黒の雄姿が舞った。魔鳥のごとく躍ったDの一刀――交差させて受けたメフメット大公の両腕は、肘から切り落とされてしまった。
あり得ないことだが、Dはこの瞬間、どこか遠くで、真物の大公の悲鳴を聞いたような気がした。
それで躊躇するような攻撃なら最初からしない。受けを許さぬ壮絶な第三撃は右胴であった。
ぱっと鮮血が――オイルの匂いが空中に紅葉《もみじ》の葉のように広がった。Dの刀身は巨大なるメフメット大公のボディも寸断してのけたのだ。
どっと倒れる巨体から身を離し、Dは反転した。
道の向こうにゼノン公の装甲が立っていたのである。
Dの切尖がこちらを向くと同時に、ゼノン公はかたわらの二〇メートルもの高さの巨木の大枝――これも一五メートルはある――に跳躍し、つづいて木の後ろに廻って、その姿を消してしまった。
「ひとり」
と嗄れ声が言った。
「いいや」
とメフメット大公の声が言った。
ふり向きもせず後ろへ薙ぎ上げた刀身を、巨大な手のひらが二つ合わさって包みこんだ。
「おや」
と嗄れ声が呻いた。にせメフメットの両腕は、たったいま斬り落とされたばかりのはずであった。
「驚いたかね。これはわしの分身なる機械人間――わしの本体が死なぬ限りはこいつも死なぬよ」
と巨大な大公は笑った。両肘のみか胴もくっついている。
「技は同じだが、力はわしの三百倍もある。どれ、その刀を折ってから、ゆっくりと料理してやろう」
大公は両腕に力をこめてねじった。刀身はやすやすと砕かれ――はしなかった。
固く合わせた機械人間の両手のひらの間を、Dの刀身がゆっくりと、小指側へと下りてくるのである。愕然と最大出力を試みたが、刀身はびくともしなかった。
「うおおおお」
思わず叫んだいつわりなき恐怖の絶叫を、前頭部へ食いこみ、断ち割った刀身が止めた。
オイルを鮮血のごとく宵闇に撒き散らしつつ、にせ大公は後方へ跳んだ。
着地する寸前、地面の上に黒い大穴が開くや、彼はそこへ吸いこまれた。
「さすがに、我らが呼び集められただけのことはある。仲間四人の処刑は明日だ。よければ処刑場へ来い」
機械人間を呑みこむや、虫穴は消滅した。
刀身を拭いもせずに、Dは背の鞘に収めた。そもそも一滴の血もオイルもついていないのである。刃そのものは普通の鋼だから、やはり腕の冴えとしか言いようがない。
村の方を見て、
「明日の朝か」
と嗄れ声が言った。
「どう助ける? それとも、おまえらしく、見捨てるか? 道は一本、方向は二つある」
Dはすぐ歩き出した。何の情感もこもらぬ、それゆえに美しい歩行ぶりであった。
「あなた――D」
廃墟の入口から、アンの切なげな声がした。
そちらを見もせず、Dは歩き去った。
石段の上にぺたんと膝をつき、アンはすすり泣いた。
「どこへ行かれるのです、D? そちらの方角は――」
最後の声は夜風に呑みこまれた。
星が出ている。
明日という日を予言しているのか。それはまるで血色の珠玉のごとく赤く燃えていた。
『D―ダーク・ロード2』完
[#改ページ]
あとがき
はっはっは。約束どおり[#「約束どおり」に傍点]五月に出したぞ。ま、世の中に絶対はないということで、よろしく。
ついでに、もうひとつ――は書かないでおきます。最後までお読み下さい。そしたらわかります。
しかし、寝食を忘れて執筆に励んでいるのに、なぜ、こんなに進みが遅いのであろうか。
担当のI氏は、前回の「あとがき」を読んで、
「あー、そうですか――」
だし、他社の編集者も、ほとんど、
「へっへっへ」
「でへへへへ」
「またあ」
これだけ信頼されない作家も珍しい。ま、もうひとつの信頼[#「もうひとつの信頼」に傍点]は裏切らなかったわけです。
この二巻目は、敵の扱いが少々変わっています。アンだけではなく、大将軍もその他の連中も。
実は作者の仕掛けた罠という奴なのですが、これはすぐにはわかりません。じっくり読んで、もう一巻――しまった。
本篇の執筆を終え、ヒイヒイ言いながらこの「あとがき」にかかろうとしたとき、面白い依頼が入ってきました。こういうことがあるから、作家はやめられない。
極秘である、と向こうの担当者は念を押すのですが、私にゴクヒと言うのが間違ってる。
少しだけ小出しにすると――「花嫁」「イゾベル」ですかね。こまめにラブ・コールは送っとくもんです。夏頃には真相が判明するでしょうから、お楽しみに。あ、「モンロー」でも「パステル」でもいいです。
なお、「ロフト・プラス1」の前回トークショーでは、ファンの方から結構なプレゼントをいただきました。この場を借りて感謝いたします。その後で、やはりトークショーにいらしてた「ラヴクラフト予備校」の方からも、貴重なクトゥルーもののビデオを頂戴いたしました。これもありがとうございました。そのうちクトゥルーやります。楽しみにお待ち下さい。
平成十一年五月七日
「探偵ラブクラフト」を観ながら
菊地秀行