D―ダーク・ロード1 〜吸血鬼ハンター11
菊地秀行
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目次
第一章 死者の村よりひとり
第二章 廃滅の牙
第三章 大将軍の遺産
第四章 将軍の招きびと
第五章 保管世界
第六章 輸送屋たち
第七章 浮動領地
あとがき
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第一章 死者の村よりひとり
道は翳っていた。
左右は果てしない平原の連なりだ。あちこちに岩山や、林らしい影も点在しているが、荒涼たる雰囲気を救う何の効果もない。
灰色の雲を敷きつめた空は、時折、遠い雷鳴を放った。
雨になるかも知れない。
日がな一日、馬は荒野を進んでいた。単調な色と風景の連続は、鞍にまたがる騎手の胸から、感情というものを奪い去ってしまう。
怒りも喜びも哀しみも灰色の世界に同化し、代わりに胸を占めるのは、ダルな倦怠だ。旅人はこんなとき、死さえ願うかも知れない。
だが、その騎手は華麗なる例外であった。
鍔広の旅人帽《トラベラーズ・ハット》の下の眼は、虚無さえ恐れるような光を放ち、あるかなきかの風に逆らって前方に据えた顔は、この世にあるはずがないと、誰もが確信するほどに美しい。男も女も硬直し、獣さえ見惚れるにちがいない。だが、その美しさは、肩からのぞく湾曲刀の柄《つか》に黒手袋の手がかかったとき、刀身はその刃に死の色を塗りつけずにはおくまいと、見たものすべてを納得させる美しさだ。
灰色の空も、黄土の平原も、その美を際立たせるために存在するような騎手と馬が街道をゆく。行く手に待つのは――生か死か。
天の唸りがかなり近くなった頃、道はその行く手に村らしい影絵をゆらめかせはじめた。
雲海がかがやいた。
青いジグザグが天と地をつなぎ、雷鳴は少し遅れて聞こえた。
それは、騎手と馬に捧げられた歓迎の合図だったろうか。
閃光と同時に、騎手はあるかなきかの風に、血の臭いを嗅いだのであった。
それは村から吹いてきた。一〇キロも彼方にある村から。
騎馬が村にさしかかったのは、それから一時間後であった。
街道を右へ折れる小路の奥に、高い木の柵と門《ゲート》がそびえていた。門は開いている。
血の臭いは間違いなくそこから吹いてくるのだった。
騎手は、しかし、馬の向きを変えようとはしなかった。わずかなためらいも見せず、前進をつづけていく姿には、怯えなどかけらもない。
血臭渦巻く村に与えられたものは、冷厳な無関心にすぎなかった。生存者がこれを知れば、一生彼を怨むだろうか。いや、あきらめるに違いない。苦しみもがく生よりも死を選ばせられずに済んだ、と。
村への道を二、三メートル過ぎたとき、若者の耳は、かすかな音と声とを聞いた。
音は足音であり、声は若い女のものであった。
「たす――けて」
若者の行動は印象を裏切るものであった。
彼は馬を止め、手綱を引いて馬首を巡らせた。
その長靴の踵で軽く腹を蹴ると、サイボーグ馬は小走りに逆方向へと向かいはじめた。
門をくぐると、辺境の村らしい景観が騎馬を迎えた。
木立ちのあちこちに点在する木造りの家々。広場も井戸も、家畜置き場も倉庫の連なりも揃っている。
だが、来訪者を誰何《すいか》する声もなく、刀槍や火器を手にした自警団が周囲を取り巻く様子もない。
騎手は真っすぐ村のメインストリートへ入った。
この村に満ちるいかなる異常にも、冷たい美貌は眉ひとすじ動かす風もない。
左手に雑貨店の看板が見えた。
「ヤライの店」
辺境で幅広く商売を行っているチェーン店の出店である。
馬がその前で足を止めると同時に、ドアが内側から開いて、白い影がよろめくように現われた。
板張りの歩道を二、三歩進み、どっと前へのめる。
燃えるような赤毛がゆれた。
騎手は馬から下りて、娘に近づいた。足を止める前に、娘は地面に両手をついて起き上がろうとした。
騎馬の接近には気づいているだろうに、そちらを見もせず立ち上がった。
歯を食いしばった顔は、十七、八の美少女のものであった。
泣き疲れたような眼のあたりを、娘は片手でこすり、それから騎馬を見上げた。その瞳がみるみるうちに陶然と見開かれ、頬は薔薇色に染まった。
馬上の騎手は、疲労と悲憤と絶望のさなかにいる娘にさえ、我を忘れさせる美貌を具えていたのである。
「あなた――誰?」
娘は虚ろな声で訊いた。
「私はロザリアよ」
「Dだ」
そのとき風が吹いて若者の髪をなびかせ、帽子の鍔を押さえさせた。
「さよならと言ってるみたいね」
と娘――ロザリアは眼を細めた。
「何があった?」
とDは訊いた。
「みんな殺されたわ」
ロザリアの返事は淡々としていた。白い指が首をさした。黒いスカーフを。
「見なくてもわかるでしょう。この下には歯の痕が二つもあるわ。私は貴族に咬まれたの」
空がきらめいた。娘の半顔が白くかがやき、遠くで雷鳴が轟いた。
「見せてみろ」
とDは言った。
「やよ。気分のいいもンじゃないし、とりあえず、あなたに逃げられたら、私、どこへも行けなくなってしまう」
「おれは吸血鬼《バンパイア》ハンターだ」
ロザリアの眼が限界まで見開かれた。
それでも半分、霞がかかったようなのは、やはり、眼前の若者の美しさのせいだ。
「あなたがハンター……ひょっとして、ダンピール?」
「そうだ」
声と同時に、ロザリアはその場へへたりこんでしまった。全身を支えていた緊張の糸が切れたのである。
肩で大きく息をひとつつき、怨みがましい眼でDを見上げた。
「これでおしまいか」
「どうしてだ?」
「とぼけないで。私は“犠牲者”よ。それがうろついていたら、吸血鬼ハンターなら見逃しはしないわ。この村がこんな風になったのも、あなたの同類のせいなのよ」
血の臭いはハンターたちのばら撒いたものか。
「何があった?」
Dは、また訊いた。
「あんたの仲間がやって来て、みんなを殺して廻った。それだけのことよ――見てみたら?」
ロザリアは、突然、すっくと立ち上がり、出て来た雑貨屋の戸口へと向かった。先刻の救けを求める声など、どこ吹く風といった風情である。
Dは馬を下りた。
どこか苛立たしげな馬の首をひとつ撫でて、ロザリアの後を追う。
店内は血に染まっていた。床でも天井でもない。空気が、だ。
カウンターの手前に、二人の村人がうつぶせに倒れていた。
背後から襲われたらしく、背から鉄の杭の端が突き出ている。
太さと長さから見て、杭の重量は五キロを越しているだろう。不意をついたにせよ、凄まじい膂力《りょりょく》の持ち主の仕業であった。
「カウンターの向こうには、ミドウ爺さんがいるわ。ここの経営者よ」
そこから立ちのぼるもうひとつの血臭を、Dは嗅ぎつけていた。
ロザリアの方を見て、
「隠れていたのか?」
娘はうなずいた。
「あたし、ここでバイトしてたのよ。ちょうど、奥の倉庫に小麦粉の袋を取りにいってたの。そしたら、いきなり凄い声がして」
出て行こうと思わなかったわけではないが、身体中が硬直してしまった。それほどもの凄い叫びだったのである。
「そこに倒れているジャドさんとラルークさんの悲鳴だったのね。人が死ぬときって、あんな声も出るんだ。それから何かが床へ落ちる音がして、ミドウ爺さんが“おめえら、何処のもンだ?”って。それもすぐ――」
「返事はなかったのか?」
「何も。爺さんの倒れる音がしてから、笑い声が幾つも起こったわ。確か四人分」
恐怖のさなかで、あどけなさを残した赤毛の娘は、殺人者たちの声から、人数を割り出していたのだった。
「私、倉庫の中で固まっていたのよ。そしたら、足下をでっかい食肉ネズミの影がさあっと。私は驚かなかったけど、缶詰の山が崩れたわ。私――死ぬんだと思った。そいつら、入ってきたわ」
「何故、助かった?」
「わからない」
ロザリアはかぶりをふった。
「私はただ、倉庫の壁に背中をこう押しつけて、眼を閉じてただけなのよ。息が止まるかと思うほど緊張したわ。倉庫ったって、人が三人も入ればいっぱいなプレハブよ。奴らが来たとき、眼の前に立つのがわかったもの。あいつらにだって、絶対見えたはずよ。それなのに、行ってしまった。いねえぜ、うん、とだけ言い残してね」
聞き終えると、Dはきびすを返して外へ出た。
通りを渡って真ん前の酒場に入る。
ここも血の海だった。
十人近い男たちが自分たちの血の中に倒れている。背から胸から杭が露出し、首のない死体が三つあった。
「ひとりも逃げられなかったのね」
追ってきたロザリアが嗄れ声で言った。
突然の襲撃者は、常日頃、信じられないほど手際よい殺戮ぶりを誇っているに違いない。
腰の山刀に手をかけた死体がひとつ、壁際に立っていた。抵抗しかけてやられたのだ。五〇センチほどの杭は男の心臓ごと壁まで貫いていた。窓際で、そちらへ手をのばしたまま串刺しにされた男は、脱出を試みたのに違いない。
「凄いスピードよね」
とロザリアは頭をふった。四人いたにせよ、重い鉄の杭を自在にふるって、ひとりも逃がさず、瞬時に十名余りを惨殺するなど、並のハンターではない。しかも、杭は抜き取られていない。そいつらは、ひとり何本も――何十キロもの武器を携帯していたのか。
「首を見たか?」
とDは訊いた。首無し死体についての質問である。年頃の娘にとんでもないことを訊くようだが、ここは辺境だ。質問者はDであった。
「そんなもの――全然」
ロザリアは顔をそむけた。
では、殺戮者どもが持ち去ったのか。何のために?
Dは外へ出た。
「私、あいつらがいなくなってから、村中の家を見て廻ったのよ。皆殺しにされてたわ。ひとりも生きていない。この村はもともと人数が少ないの。これ以上、どこへ行っても、待ってるのは死体ばかりよ」
「女子供はどうした?」
ロザリアは眼を閉じ、かぶりをふった。死の風は、年齢も性別も関わりなく、村の生命すべてを呑みこんで去ったのだ。
「殺した奴らを見たか?」
Dは通りの向こうへ眼をやりながら訊いた。
「ううん。笑ってもいいけど――私、倉庫から出られなかった。あいつらの馬と馬車の音が、通りを門の方へ行ってしまうまで。倉庫にいる間、外からずうっと悲鳴や叫びや命乞いの声が聞こえていたのよ」
「ただの馬車だったか?」
「そういえば、蒸気の音がしゅうしゅういってたわ」
Dが尋ねたのは、通路の土に深い轍の跡が何条も残っていたのを見たからだろうか。
「あなた、あいつらの正体を知っているの?」
Dは答えず、
「この村はいつからある?」
と訊いた。
ロザリアの眼が剣呑な光を放ったが、すぐにあきらめたように、
「あなたに隠してもはじまらないわね。五〇年くらいになるらしいわ。もとは廃村を改修したものよ。ねえ、わかってるんでしょ。ここが“犠牲者”の村だってこと?」
「みな、スカーフを巻いていた」
とDは答えた。
それを取れば、二つの牙の痕がさらけ出されたであろう。
「どうして外してみなかったの? ハンターなら、首にスカーフを巻いた人間は、自分の親だって、剥ぎ取って調べるのが当たり前じゃあないの? あたしの知ってるハンターは、みんなそうしてたわよ」
「村の人口は?」
とD。
「二百と――ちょっと」
「弔う気があるか?」
この言葉の意味を娘が理解するまで、数秒かかった。
「埋葬してくれるの?」
その眼に、みるみる涙が溢れた。
「信じられない。あんた、吸血鬼ハンターでしょ……あたしたちを殺すのが仕事なんじゃないの?」
「埋めている時間はない。火葬だ」
ロザリアはうなずいた。光るものが散った。
「何だっていいわ。人間らしく弔ってもらえるのなら。みんな喜ぶ。ありがとう」
“犠牲者”とは、いうまでもなく貴族に血を吸われながら、何らかの理由により、吸血を中断され放置された者たちの総称である。
通常、彼らは村から放逐され、厳重な監視の下に隔離されるか、或いはあっさりと処分される。昨日まで家族だったもの、友だったものの心臓に平然と杭を打ち込むことのできる人間は、存在してもごくわずかであった。村々の中には、専門の“処分屋”を雇うところもある。時として、吸血鬼ハンターがその役を担うのは、やむを得ぬ、或いは相応の成り行きであったろうか。
だが、“犠牲者”たちは死を待つだけではなかった。
虚ろな眼差し、陽光を避けて日陰を求める性向、暗い森を好んでさまよう放浪性、そして突発的に現われる吸血行為――貴族の虜になったものの特徴を幾つか、ないし、全く欠いた“犠牲者”の存在は、貴族が世界の覇王と化した太古から指摘されていたが、彼らは速やかに同胞の手になる死から脱出し、未知の土地へと逃亡するにいたった。
だが、喉の傷は隠せなかった。ここに宿る吸血鬼の魔性は、火で焼こうが酸で溶かそうが、手術で肉ごと削除し、新たな部分を移植しようが、まさしく不死者のごとく、忽然と再生するのであった。
必然的に、“犠牲者”たちはスカーフや類似の品で呪われた口づけの痕を隠さざるを得ない。健常者たちにとって、それこそが格好の識別法となったのである。
かくして、彼らは、新天地からも放逐され、鬱蒼たる森や山岳地帯の奥、人々が忌み抜いて近寄らぬ太古の呪われた遺跡等に生活の場を求めた。
馬車を使って村中の死体を集め、村外れに並べるまでに、午後の空は光を完全に失った。
闇が統《す》べる世界のただ中で、二人はしかし、休みなく作業をつづけた。Dはもとより、ロザリアも、貴族たちと等しい闇を貫く眼を持っていたのである。
二百余名の死体を積み重ね、Dがハイオク燃料をその上に撒く間、ロザリアは哀しげに、しかし、眼をそらさず非情な作業を見つめていた。
燃料は、いざというときの用心に、村外れに埋めてあったものである。他の物質はことごとく持ち去られていた。
Dが照明スティックを取り出した。ひとふりで、二〇センチほどの化学物質を固めた棒状の先端は、まばゆい炎を放った。
ロザリアの声が聞こえた。
「みんな、いい人ばっかりだったのよ。――私、この村で死ねると思っていた」
Dは待っていたのかも知れない。
沈黙は数秒――そして、火は投じられた。
かがやきが二人の全身を暗黒から遊離させ、その上ではためいた。炎はゆれるのであった。
十万度の炎は、まばゆい蜃気楼のように見えた。その中で、“犠牲者”たちの影は音もなく崩れ去っていくのだった。
「さよなら、みんな」
ロザリアはもう涙を見せなかった。涸れ切っていたのである。何か言いたいと思ったが、言葉は出てこなかった。
Dが代わりをつとめた。
「どうする?」
彼を知るものが聞いたら、耳を疑う台詞であった。この若者が、他人の意見を求めるとは。
「ここにはいられないわ。西へ行きたい。ヴァルハラの村があるわ。聞いたことなくって? ――ひょっとして、同じ方角かしら、なんてね」
「同じだ」
「え――っ?」
ロザリアの顔がみるみる歓喜に昂揚した。
「じゃ、じゃあさ――連れてって」
「おれは、おまえの仲間を殺した連中と同じだぞ」
「違う」
おうむ返しに出た。次の言葉を口にしながら、ロザリアはこれが本心だと納得した。
「あなたは違う。わかるわ。これでも、人を見る眼はあるつもりよ。あなた、とっても怖い。みんなを殺した連中より、ずっと無慈悲で恐ろしいかも知れないけれど、絶対に悪い人じゃないわ」
「この街道を真っすぐに行け。五〇キロほど先で、ダッジ・タウンに出る。その先はそこで訊け」
「ね、ひょっとして、放っていくつもり?」
「足が無事なら歩ける」
「待って。私――“犠牲者”よ。気の毒な病人だわ。守ってやろうと思わないの?」
「陽の下で歩けるなら、何とでもなる」
Dは冷然と背を向けた。歩き出したその後ろ姿を茫然と、陶然と見送っていた娘は、少しして、天を灼く炎に向かって祈りの言葉を唱え、それから、大急ぎで後を追いはじめた。
雑貨屋の前で追いついた。
「なんて早足なの、あなた?」
全力疾走したのに、追いつけなかったことを言っているのである。どう見ても、Dは普通に歩いている。大股ですらない。それなのに、距離は少しも縮まらなかったのだ。何とか追いつけたのは、Dの方で足を止めたからにすぎない。
「ちょっと、ひどいじゃないの。年端もいかない娘を――」
喚きかけて、ロザリアの舌は固定された。門の方から、幾つもの光点がまとめて近づいてきたのだ。
ロザリアは震えた。それは音を立てていた。――しゅうしゅう、と。
それが一メートルも離れていない場所に、ひときわ高い蒸気音を発して止まるまでに、ロザリアの眼は正体を見抜いていた。
照明灯で飾りたてた自走車である。
水蒸気の音は、背後の円筒――ボイラーが洩らしたものだ。
車体に虫みたいにくっついていた人影が、一斉に地面へ下りた。空気が揺れた。音はない。見事な体術の主たちとしかいいようがなかった。みな、木綿のシャツにポケットがやたら多いベストを着て、眼にはごつい暗視ゴーグルをつけている。
「いるか?」
とDが訊いた。
殺戮者たちの有無をロザリアに尋ねたのである。
「いないわ」
即座に答えがあった。Dの背後からロザリアの顔がのぞいていた。
「でも、同じような格好して、乗り物もそっくりよ」
「どうやら、先発がひとり、残しちまったようだな」
と影たちのひとりが、冷たい声を出した。残忍非情な品性がはっきりとわかる類の声である。
「おれたちも、この炎がなきゃ、通りすぎるところだった。貴族の仲間は残らず始末しねえと、善良な村人たちは、おちおち眠れやしねえ」
男たちの手が、一斉に腰の武器にかかった。蛮刀、短槍、杭打ち銃、投げナイフ――どれも柄はすり切れ、垢まみれで、使いこんだ日々の苛烈さと長さを物語っているが、それでも貴族を手にかけたかどうかは、保証の限りではない。貴族とはそれほどのものなのだ。吸血鬼ハンターを名乗る輩は多いが、そのうち何割が夜の生き物《ナイト・クリーチャー》を手にかけているかといえば、一パーセントにも満たぬであろう。
「な、なによ、女の子まで殺すつもり? ふんだ。私にだって、強い用心棒がいるんだからね」
「確かにどえらい色男だ」
男の声には、恍惚たる響きが含まれていた。頭をふって、邪魔な考えを追い払い、Dの首すじに眼をやって、
「どうやら、“犠牲者”じゃねえようだな。通りがかりなら、さっさと消えちまいな。これから先は、あまりいい見ものとは言えねえ」
「ねえ、殺す気よ」
とロザリアは、Dのコートの裾にしがみついた。男たちをにらみつけて叫んだ。
「どうして、私たちを殺すのよ? 私たちが何をしたっていうの?」
「ひとたび血を吸われれば、貴族の仲間だ。そいつらがひとまとめになってちゃ、まともな人間は安心して暮らせやしねえ」
「どうして、私たちがまともじゃない、なんてわかんのよ? 誰にも迷惑をかけないよう、ひっそりとまとまって暮らしてるだけじゃないの」
「おまえらの血の中には、貴族のDNAが入りこんじまってる。いまはおとなしくしてても、いつ牙を剥くかわかったもんじゃねえ。みな、リスクを犯すのは嫌なのさ。――あきらめな」
男は腰から幅広の蛮刀を抜いた。人間どころか牛の首でも落とせそうな刀身は、厚みがないと思えるくらいまで研ぎすまされている。
「ひと思いに楽にしてやるぜ。さ、こっちへ来な」
男は反対側の手でおいでおいでをしながら、無造作に近づいてきた。
「嫌よ、助けて!」
ロザリアはDの背にしがみつく。
舌打ちして、男はDの肩に手をかけ、押しのけようとした。
その手首にDの手が重なった。男は邪魔が入るのも計算に入れていた。ふり上げた蛮刀には、待ってましたといわんばかりの歓喜がこもっていた。
刃は空中で止まった。手首から伝わる痛みは、彼の想像を絶するものであった。
声も出ない代わりに、
「てめえ!?」
「ぶち殺されてえか!?」
背後の男たちが、それぞれの武器を手に、音もなく二人を取り囲んだ。絶妙なフォーメーションである。日頃、よほど激烈な訓練を積んでいなくては、こうはいくまい。
おお、と声が上がった。
捕らえられていた男が、Dと同じ向きに頭から放り出されたのである。二、三人が受け止めたものの、男はその場にへたりこんでしまった。
「両手がぶらぶらだ!」
と別の男が叫んだ。男の両腕は、肩と肘と手首で砕かれていた。だが、いつ? 見たものはいない。
Dにあらためて視線が集中する。そこにあるのは、傲岸《ごうがん》な驕りに満ちた自信と恫喝ではなかった。未知の存在に対する、畏怖より深く強いもの――肌を刺す恐怖であった。
いまとおなじ技なら使えるものもいる。どこかで別人のを目撃した男もいる。だが、眼の前の遣い手は、彼らとは別の存在だと、全員が直感したのである。
だが、鍛えぬいた闘争心が瞬時に恐怖を抑えた。アドレナリンが血中に流れこんでいく。
「自身に返る」
Dの言葉は、無論、忠告などではなかった。男たちは意味を掴みそこね、手に手に武器を閃かせつつ殺到した。その後ろで、杭打ち銃とリベット・ガンを手にした男たちが必殺の射撃姿勢を取る。
耳を聾さんばかりの絶叫が噴き上がったのは、次の瞬間であった。
四名がのけぞった。全員、Dに切りかかった男たちであった。その頭部や頚、肩に食いこんでいるのは、彼ら自身、或いは、朋輩《ほうばい》の刀身であった。
そればかりか、悲鳴は同時に、背後の火器を構えた男たちからも上がった。よろめく男たちの予備の山刀が、彼らの喉を裂いていたのである。
炎に照らし出された男たちは二人いた。十人が一瞬のうちに二人になった。その凄まじさを彼らは意識していない――いや、できなかった。
興奮し切ったロザリアの声が、死の沈黙を破った。
「やっちゃえ、D!」
生き残りの両眼が限界にまで見開かれた。いま、あの小娘は何と言ったのか。
D? ――まさか、D? 吸血鬼《バンパイア》ハンター“D”か?
もしも、男たちが並のハンターであったなら、その場にへたりこんで失禁するか、後をも見ずに逃亡に移っていただろう。だが、限界を越えた恐怖に闘争心を失った瞬間、課せられた心理操作によって、二人の男は感情の制御を外れたロボットと化した。
ひとりが短槍を横抱きにして突っこむと同時に、もうひとりが蛮刀を手裏剣打ちに投げた。
次の一瞬間に起こった出来事を克明に記せば、次のようなものであったろう。
突進してきた男の槍を、半身になってかわすや、Dは左肘でその顎を突き上げた。どれほどのパワーが加わったのか、八〇キロを越す身体が、垂直に宙へ浮く。飛来した蛮刀がその心臓を貫くのも、Dは計算していたのかも知れない。男が即死する寸前、短槍を奪い取るや、残るひとりに投擲したのである。鋼の穂は、男のいかなる防御も許さず、その喉笛を貫通した。
男たちが倒れる前に、戦いは終わったのであった。
しかし、地面から上がった音は、三つあった。Dの背後から様子を窺っていたロザリアが、あまりの凄惨な戦いに、卒倒してしまったのである。
その夜の闇は、いつもと違っていた。炎のかがやきに満ち、血臭に満ちていた。
ただひとり、血の香を噴き上げたはずの影だけが、美しく玲瓏《れいろう》と、その場に立っている。
自分の生み出した死の光景を見ようともせずに、Dは雑貨屋の前につないだサイボーグ馬の方へ歩き出した。ロザリアも置き去りである。彼女のために戦ったのではない。娘を捕らえようとした男が、Dの肩に手をかけた刹那、死は男たちの頭上に黒い翼を広げたのだ。
二、三歩進んだとき、
「――Dとは、な」
背後の地面が、埋められた死人のような声を放った。
両腕をへし折られた男である。大殺戮の契機をつくった男だけが、生き長らえていた。
「一度……会いたいとは、思っていたが……やはり、こうなった……か。おれの名はクィン。……“グレイズ”の者だ」
Dは、馬のそばにたてかけてあった鞍を馬の背に載せた。足を止めもしていないのである。
「待って……くれ。この辺は、危険な妖物が多い。おれも……連れて行って……くれ」
馬と人が歩き出した。男――クィンは両足だけで何とか立ち上がった。
「本当だ……ここ半年の間に……妖物が飛躍的に増えた……以前は安全圏だったが……今はもう……」
ここまで伝える間に、黒ずくめの騎手と白馬は門まで数メートルの位置に達していた。
男が、がっくりと肩を落とした。
蹄の音が止まった。立ち止まり、Dはすぐ村の方へ向き直った。馬が歩き出す。その頭上へ黒い影が躍りかかった。
びゅっ! と風が鳴った。
影は縦に裂かれた。影とは違う黒い液体が、空中で墨汁のように広がった。
地べたへ伏した影は、どちらの部分も黒い剛毛だらけの身体から、鋭い鉤爪をのぞかせていた。クィンの言葉は嘘ではなかったのだ。
Dの背で、かすかに鍔鳴りの音がした。
何事もなかったように、彼は馬を進め、ロザリアのかたわらで下りた。
失神した身体を肩に担ぎ、軽々と馬にまたがって、今度こそ門へと一直線に向かう。
「頼む……後生だ……待ってくれ」
クィンの声が地を這うように追ってきた。
「どこで死んでもいい覚悟は……してたんだ……だが、死ねねえ理由ができちまった……ヴァルハラって村に……女がいるんだよ。そこを出て五年……おれは、帰る途中だったんだ」
一度耳にした町の名前が繰り返されるのを、Dはどう聞いたか。
彼は馬を止め、左方を――自走車の方を向いた。
そのとき、手綱を取った手のあたりから、確かに、嗄れ声としかいえない声が闇を渡ったのである。
「相も変わらず、甘い男よ」
小馬鹿にしたようなその声は、地面のクィンを、ひどく安堵させた。
自走車の車内は異様に狭く、異様に暑かった。
もともと二人分のスペースしかない上、ボイラーの熱と水蒸気が容赦なく侵入してくるのだ。員数外の連中にとっては、外にいた方がむしろ快適だったろう。
Dが操縦席を一瞥したところから、運転ははじめてと踏んだクィンも、一、二度、操作の手順を誤っただけで、あっさりとドライブ・コントロールを成し遂げたのを眼のあたりにしては、呆れ返るほかなかった。
サイボーグ馬はおとなしくついてくる。車とはつないでいない。
本来なら、夜の旅はしないのがセオリーだ。人間の眼が届かぬ闇の中で、果てしない飢えと殺意だけを秘めて待機中の魔物や妖物は数多い。
だが、ハンドルを握るのは、地上のセオリーがすべて当てはまらぬ美青年であった。
じき、ロザリアが眼を醒ました。
クィンを見て、ぎょっとするのへ、クィン自身が事情を説明した。ヴァルハラにいるという女の件のみ隠した。
はたして、ロザリアは牙を剥きかねない勢いで反発した。
「どうして、こんな人殺しを助けてやるのよ。自分がどんなことをしたか、殺されたみんながどんなに恐ろしかったか、自分で味わってみればいいんだわ。暗い森の中に五分も置き去りにしてやればわかるわよ」
「うるさいぞ、この小娘」
とクィンも顔中を口にして喚いた。
「おれの仕事は吸血鬼ハンターだ。貴族に血を吸われた半死人どもを片づけるのが仕事だ。いいか、おれと一緒に旅してる間、車から下りねえ方がいいぞ」
「うっさいわねえ。両手も動かせない能無しタコ人間に何ができんのよォ」
ロザリアの右手が髭面へと走り――空を切った。
「この、この、この」
ばちん、と鳴ったのは六発目であった。
クィンはよろめいた。意外なロザリアの力であった。
「やっぱりだ、この化物娘」
彼は憎々しげに叫んだ。まがりなりにもハンターを名乗る以上、女子供のパンチなどかすらせもしない運動神経の持ち主であるはずだ。それがもろ食らった理由はひとつしかない。ロザリアのスピードは、女子供のものではなかったのだ。
「おめえはやっぱり、貴族の仲間だ。人間の街を、その首の傷を出したまま歩いてみろ。一分とは生きちゃいられねえ。それなら、いま、おれが殺してやるぜ」
「へえんだ。それなら、Dも殺してごらんなさいよ。あんたにできるの? 彼だって、ダンピールなんだから!」
次の瞬間、ロザリアはDの方をふり向き、
「やば。しゃべっちゃった!」
美しい後ろ姿は微動もせずに、
「知っているはずだ」
と低く返ってきた。
「わお」
「へっ、おかしな道中だぜ。吸血鬼ハンターが二人に、“犠牲者”がひとり。うち二人は貴族の血を引いてるときてやがる」
クィンは嘲笑した。
「それなら、夜の道中も安全なはずだ。おめえたちの活動時間だからな。おい、おれに遠慮しねえで、その辺の農家へ血を吸いに行ったらどうだい?」
怒りのあまり、ロザリアの全身はわなないた。
「こここの――D、何とか言ってよ」
返事はない。
「ほうれ、みろ。そっちはさすがに自分の立場をわかってる。いいか、おめえも――」
夜の声が刃のように光った。
「静かにしろ」
それだけで、二人の表情は死者のものになった。
「夜の道を夜明けまで歩いたことがあるか。なければ、身を屈めていろ」
その言葉の意味に同時に気づいたのは、やはり辺境に生きる男と女だったからか。
狭い板とクッションの座席の間に、二人は身体を押しこめた。
「何だ?」
とクィンが訊いた。無意識に身を起こして、車窓から前方を覗きこむ。ゴーグルは健在だ。
すぐに、
「おっ!?」
と呻いた。
左手から、白い小さな影が、すいと道の真ん中へ進み出たのである。
「出やがったぞ!」
とクィンが叫んで、全身を緊張させた。
「助け……て」
小さな声が耳の奥で鳴った。
「普通の女の子よ!」
とロザリアが運転席のDに声をかけた。距離は一〇メートルもない。
「馬を止めて!」
少女がこちらを向いた。
すべすべした桜色の頬、波打つ黒髪、あちこち破れたドレス、怯え切り、救いを求める表情――鬼神でも、この子だけは、と節を曲げてもおかしくないくらいに可愛らしい。
自走車は、彼女に向かって進む。スピードは落とさず、落とす様子もない。
「やめて!」
黒い車輪の下で、引きつぶされる無残な姿をロザリアは想像した。
次の瞬間――娘は空中に舞っていた。
その身体がDの額の位置まで達した刹那、右手の閃きと同時に鞘走る一刀――声もなく、少女の身体は縦に裂け、白い花びらのように黒い地面に舞い落とされていた。
「今のは、何よ?」
ロザリアが後ろで叫んだ。
「飛び上がったとき、凄えおっかない顔をしてたわよ。化物だったのね」
「今頃わかったのか、阿呆」
とクィンが嘲笑した。
「こんな時間に、都合よく、馬車の前へ転がり出てくる娘がいるものか。化物に決まってる。おめえみたいな甘っちょろい親切心でも出して、車を止めてみろ。あの牙と爪で、おれたちはズタズタだ。――わっ!?」
不意にスピードが上がり、ロザリアは横の革ベルトにしがみついた。クィンの方は、かろうじてバランスをとった。
「どうした!?」
とクィンが運転席に身を乗り出す。
「尾いてくる」
Dの静かな答えは、かえって彼を恐怖させる効果を上げた。
クィンと――ロザリアもリア・ウィンドの方へ眼をやる。
「うお!?」
「やだ!?」
空中を白いものが追ってくる。
闇の中なのに、最初と同じく、何もかもはっきりと見えた。黒髪と桜色の肌と愛くるしい顔立ちを。――あの娘だ。
だが、いま、耳まで裂けた口は針のごとき牙をせり出し、両手の指先からのびた爪は、その腕の長さくらいもありそうだ。
何よりも二人の心臓を鷲掴みにしたのは、両眼に燃える緑の炎だった。憎悪が火を噴いているのだ。片手をのばし、身をくねらせ、泳ぐように宙を渡ってくるその姿は、外見が愛らしいだけに、通常の妖魔に数十倍する恐ろしさがあった。
「追いつかれるぞ!」
とクィンが叫んだ。車と娘の距離は確実に縮まっていく。超自然のものと文明の利器と――常に前者が勝る世界であった。
クィンが右手を腰の蛮刀にかけ――ようとして呻いた。手は折れたままである。
あっ、とロザリアが眼を丸くしたのはそのときだ。
娘の身体が真ん中から縦にずれた[#「ずれた」に傍点]――としか言いようがない。
左半分が拳ひとつ分ほど後退したのを、ロザリアは見た。
「斬られていたんだわ、Dに!」
その通りだ。飛翔する少女の身体はすでにDの一刀を受けて、いまや、再結合するパワーも失ったか、二つに裂けつつある。
娘が自分を抱きしめた。その顔には、明らかに限りない憎悪と呪いと――苦悶の色があった。
「急いで!」
ロザリアの声は、娘の方を元気づけたかのようであった。
両者の差はさらに縮まり、いまや、娘は窓外に――のばせば手の届くところまで接近していた。
燃える眼が、二人を射た。
鉤爪が――左手がのびた。
ガラスが硬い音をたてる。爪先が当たったのだ。ロザリアが身をすくめる。
だが、次の瞬間、娘は急激に遠のいた。
その力も尽きたのか、二人が最後に見たものは、闇の中に飛び散る二つの可憐な身体だった。
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第二章 廃滅の牙
安堵が二人の胸に――入りこみはしたが、すぐに消滅した。
車はスピードを落とすどころか、さらに増して疾走をつづけたのである。
容赦ない振動が二人の足底から脳天まで突っ走り、窓ガラスを通して、ごおごおと鳴り響く風が鼓膜を引きちぎろうとする。
ロザリアがベルトを掴んだまま、険しい声で、
「ちょっとぉ。このまま、このスピードでふっとばすと、あんたの仲間の人殺しどもに追いついちゃうんじゃないの?」
「そうかも知れねえな。だったらどうする? 仇討ちでもしてみるか?」
にやつくクィンの髭面へ、
「ええ。ひとり残らず吸い殺してやるわよ」
とロザリアは歯を剥いた。クィンの顔から笑いが消えた。娘の全身は怒りの気に彩られていた。ロザリアは、クィンを指さして宣言した。
「覚えてらっしゃい。その最後はあんたよ」
「面白え」
とクィンも凶相を浮かべて、
「なら、仲間と会うまで待つこたあねえ。いまここで決着をつけてやらあ」
「ああら、愉しそうねえ。おてて[#「てて」に傍点]がなくて、私に勝てるの?」
冗談でも芝居でもない。クィンの満身は殺意にふくれ上がり、胸前で両手の指を鉤型に曲げて構えたロザリアの眼は、赤光を放ちはじめている。これから展開するのは、本物の死闘なのだ。
それを止めたのは、凄まじいブレーキの叫びだった。
今度は身体を支え得る体勢になかった。二人は前方に吹っとび、運転席との仕切り壁に激突した。
「何しやがるんだ、このぼんくらドライバー!」
「そうよ。私たちを殺すつもり!?」
死闘も忘れてののしる声を、遥かに低く、静謐な言葉が沈静させた。
「道を間違えた」
コケかけるのを何とかこらえて、クィンは仕切り板に向かって喚いた。
「こら、おめえは本物のDか?」
その答えは、彼の仲間を自分は太刀も抜かずに処分した技倆が証明している。何よりもクィン自身の両腕が。
「そこにいろ」
とDの声が聞こえた。
「おい、開けろ」
とクィンは、肩をもんでいるロザリアに命じた。
娘は凄まじい形相で、
「どうして、あんたにえらそうに命令されなくちゃならないのよ。自分で開けたら?」
「おれは手が不自由なんでな」
「そう? なら、動けるようにしてあげるわよ」
「ぎゃああ――っ」
クィンはのけぞった。ロザリアの蹴りが右の肘に当たったのだ。狭い車内では、かわす術もなかった。
激痛にのたうちまわる男を冷やかに見下ろし、ロザリアは吐き捨てた。
「わかった? この世界じゃ、強いもンが勝つのよ。あんたの仲間も、じき同じ目に遭わせてあげるわ。村の人にしたみたいに」
それから、彼女はドアを開けた。
まず眼についたのは、かがやく月であった。
ほぼ満月に近い銀円のかがやきは、しかし、その下に立つ黒衣の若者の秀麗さを引き立てる役でしかないように思われた。
ロザリアが車を下りたのは、その美しさに惹かれたのかも知れなかった。
空気は甘く、さわやかだ。昼間より、ずっと。
周囲を見廻し、少しして、
「ここはどこ?」
と尋ねる声は、やや不気味そうだった。
いつの間にか、周りは一〇〇メートルもありそうな絶壁で囲まれていた。月光に岩肌が宝石みたいな光を放っている。
谷底だ。ただし、異様に広い。千坪は優にありそうな黒土の地面である。
Dは車から五メートルほど離れた地点に立っていた。
何を見ているのかはわからない。
月光の下で風に吹かれているだけか――およそ、この場の状況からするといい加減なそれ[#「それ」に傍点]さえも、この若者がやれば一幅の絵画になる。才能のある画家ならば、彼に触れて恍惚となった風を描くこともできるだろう。
自分たちの立場さえ、ロザリアは忘れた。
このまま、ここにいたい――と痛切に思った。
「戻れ」
とDは言った。冷たい声音は、ロザリアを正気に戻し、ついでに怒りさえ植えつけた。
「どうしてよ?」
とにじり寄る足下の地面が、激しく動いた。
はっと見下ろす眼に、砂をかき分けて出現する黒い塊が映った。
先端から現われる出現のしかたは、水中船に似ていた。
「これは――棺桶!?」
愕然とするロザリアの腰に黒い手が巻きつき、馬車の方へと走った。
その前方で次々と砂が吹きとび、そのたびに黒い木箱が行く手を阻むかのごとく現われた。
恐怖に満ちた眼で周囲を見廻し、谷底全体が浮上する黒棺で覆われつつあるのを知って、ロザリアは戦慄した。
「何なのよ、これは、D?」
それでも声に震えがないのは、さすが“犠牲者”と、おかしな誉め方をするべきか。
「“犠牲者”の住まいだ」
「えっ!?」
思いきり丸くした眼の中に、別の光景が映じた。
柩の蓋が一斉に開いたのである。
間髪入れず、内部《なか》の者が上体を起こした。
青白い顔に血塗られたような朱唇、虚ろな眼――確かに貴族の“犠牲者”だ。
だが、その中に、ミイラどころか枯れ木のごとく干からびた、眼も鼻も口も皺に埋もれたような連中がいる。
「何よ、あのガリガリは?」
指さすロザリアへ、
「初期の“犠牲者”だ」
とDは言った。
「彼らはこの谷に集まり、生とも死ともつかぬ生活を送ろうとした。貴族の仲間になりきっていない“犠牲者”は、確かに、人間の血を求めずとも生きてはいけるが、もとの自分より遥かにゆったりしたペースで年を取る。恐らくは、この谷で血の渇きを癒さず時間を送っているもののひとりだ」
「なんてこと……」
ロザリアのつぶやきは、同情に染められていた。
「――D」
と、何かを決心したような顔つきで話しかけたとき、
「男だ……」
と、嗄れ、ひびが入ったかのような声が言った。
「女だ」
と別の声が遠くから聞こえた。
「入ってきたぞ、人間が。……おれの親父はどこにいる?」
「あたしの母さんは?」
「愛しい人は?」
彼らは四方へ眼を走らせ、空しく終わるや、二人の方へ眼をやって、
「こいつらしか……いない」
「いないわね」
「いないよ」
「なら」
「なら」
「なら」
声は風のまやかしの合唱かと思われた。
「それなら――血を」
一斉に両手がさしのべられた。
その手が、ゆっくりと、空しく指を折り曲げ、開き、また曲げながら後退していった。
胸もとで後退は熄《や》んだ。――掴みかかるような格好で。
近くで誰かが獣のような唸り声を上げた。
そちらを見れば、舌舐めずりするその唇の間から、鋭い乱杭歯がのぞいている。貴族になる寸前の連中もいるのだ。
最も近い四、五人が、信じ難い速度でDとロザリアに襲いかかった。
銀光が舞った。
黒血の風が渦巻いた。
“犠牲者”たちが喉を押さえて倒れ伏す。血の噴水を迸らせた刀身を手に、Dは後方の影たちを一瞥した。
掴みかかろうとする姿勢のまま、“犠牲者”たちは、たじたじと後ろへ下がった。
醜悪な妖気を、美しい鬼気が圧倒している。
「車へ戻れ」
とDが片手でロザリアの背を押した。
たた、と三、四歩前へのめって、ロザリアは夢中で足を踏んばった。
車へは三メートルもない。
その間に柩と人影が立っていた。
女だ。うす汚れた屍衣《しい》の腰まで垂れた黒髪が揺れている。
干からびた老婆のような顔だが、よく見ればまだ若い。
ロザリアの足は動かなくなった。
眼に熱いものがこみ上げた。
女が口を開いた。洞窟のように虚ろで黒い。熟柿のような歯茎に、歯は一本もなかった。――二本の乱杭歯を除いて。
「あなた……あなた……私は……」
呻く肩に、しなびた両手がかかった。指が食いこむ痛みは、ひどく鈍かった。
女のどんよりした瞳に感情の色が湧いた。
肩から手が離れた。
その喉から、ぱっと川鯨《リバーホエール》のように鮮血が噴き上がり、女はのけぞった。
白刃を手にした美丈夫を、
「――D」
と認める前に、たくましい腕がロザリアの腰を抱き、軽々と車の位置まで運び、ドアを開けるや、荷物みたいに乱暴に放りこんだ。
ドアが閉じられた。
夢中で身を起こし、窓から外をのぞく。
歩み寄る“犠牲者”たちの群れと、そちらへ向かうDの後ろ姿が見えた。
「ここは、“犠牲者”どもの巣だぜ」
クィンの緊張した表情が迎えた。
「それも凶悪な――ほとんど貴族になっちまった連中ばっかりだ。こんなところに集まって人間をおびき寄せ、血を吸いまくっていたんだな」
侮蔑とも怒りともつかぬ顔がロザリアを見つめた。
「おめえたち、知ってて放っといたんじゃねえのか、こいつらを」
「違う……」
ロザリアは言った。
「違うわ……あの人たちは――」
「人じゃねえ」
「人よ」
血走った眼と涙が滲んだ眼と――空中で火花が散った。
その視界の隅に何を認めたのか、二人してはっと窓の外を見た。
「おおっ!?」
と叫んだのはクィンの方である。ロザリアは息を呑んだきり声もない。
月光に黒いコートの裾をマントのごとくなびかせて、Dが戻ってくる。
すでに一刀は鞘に収められ、その背後に立つ“犠牲者”の姿はひとりとしていない。
累々と横たわる男女の姿に、
「ひどい」
とロザリアが嗄れ声で呻いた。
車内の二人には一瞥も与えず、Dは運転席に戻り、車はピストンの音も凄まじく、もと来た道を辿りはじめた。
街道へ戻ると、Dは車を止め、二人の方をふり返って、
「ここで待て」
と言った。
「おい、冗談じゃねえぞ。夜のど真ん中に、こんな半貴族の半化けと残されちゃ敵わねえ。おれは両手が不自由なんだ。おまけに、さっきの奴らが追って来るかも知れねえよ」
「誰が、あんたなんか襲うもんですか」
とののしってから、ロザリアは怒りの眼差しをDへ向けた。
「ねえ、あの人たちは、人間じゃあないけれど、化物でもないのよ。それをどうして、あんな風に無残に殺せるの?」
「殺しちゃいねえよ」
「え?」
ロザリアはふり向いた。クィンがうす笑いを浮かべて、喉に人さし指を当てた。
「“犠牲者”どもの動きを封じるのは、あそこを掻っ切るのが一番なんだ。おめえ、仲間のくせに知らねえのか。今頃は傷口もふさがって、平気であのうす暗い谷間をうろついてるさ」
ロザリアは茫然とDの方を向き直った。クィンは文句を続行した。
「だから、こんなところに残されちゃ敵わねえと言ったんだ。――なんで、ひと思いに始末しなかったんだよ?」
「そんなことする必要ないわよ。“犠牲者”は――」
言いかけて、ロザリアは口をつぐんだ。“犠牲者”に関する内容は、自分に返ってくるのだった。
「どうした、はっきり言えよ」
運転席の背にもたれたクィンが嘲罵《ちょうば》を浴びせた。
「“犠牲者”は、自分の血を――」
その顎が鈍い音をたてて外れた。
「D!?」
ロザリアは運転席へと戻っていくDの手を見つめた。
「彼らが外へ出たと聞いたことがあるか?」
とDが立ち上がりながら訊いた。
「いいえ」
「旅人たちが行方不明になったことは?」
「いいえ」
「彼らはあの谷間で暮らしていた。ただ、内心の血を求める欲望が、通りかかる旅人を招いてしまうときがある。今日のように月の明るい晩などだ」
ロザリアは無言でうなずいた。自分でも理解できない感情が声を抑えたのである。
誰もが知りながら、なぜか口にしない事実。人間たちにはあまりにも忌まわしく、“犠牲者”にとっては単なる生きる術のひとつ――自分の血を吸って生きられる。或いは、同じ“犠牲者”の血を吸って。
多くの場合、彼らは運命を受け入れ、村外れの隔離場所で運命の時を待つが、あくまでも生に執着して逃亡する“犠牲者”も少なくない。
彼らが引き合うのは、貴族の一員に変成する際に授けられた超自然の力によるものか。
邂逅した二人が手を携えて人跡未踏の地に住居を求めると、吹き寄せられるように同じ境遇の“犠牲者”たちが集まって、集落を形成する。
人間としての意識が強ければ、農耕や狩猟によって生活を維持するが、体内に流れる貴族の血は、動物の血潮でその飢えを満足させることを許さない。
他者の血を。――人間と貴族と、ひとりの内部で両者の凄絶な戦いが行われ、そのうち、誰もが気づく。自らの血も、いまだ人間の血である事実に。仲間の血も、また。
人々は、これをおぞましいと見た。
“犠牲者”たちの集落が、見つかり次第、有無を言わさず焼き打ちされるのは、まず、この自己吸血行為のせいであった。
人の影が定かならぬ山野に、地の果てに、孤島に、“犠牲者”狩りの雄叫びが鳴り響き、血風が渦巻いた。
“犠牲者”たちの中でも、比較的貴族の影響が少ない者たちは、特殊なメイクで喉の傷を塗りつぶし、陽光の下でも歩ける特性をフルに活用して、人里近い場所に居住地をこしらえた。交流を拒まず、一般人が加わるのもよしとした。こうして、生存する彼らの集団は、辺境だけでも数百にのぼるという。ロザリアの村もそのひとつであった。
谷間に蠢く“犠牲者”たちが、外へ出て人間たちを襲った事実はない。旅人が誘いこまれた風もない。
彼らは自らを糧に、ひっそりと生き抜いていたのだ。Dたちが誘いこまれたのは、偶然に他ならなかったのだ。
「――D、何をするつもりなの?」
無駄かも知れないと思いつつ訊いた。自分でも呆れるほど穏やかな声であった。
「おまえたちの村へ戻って、ダイナマイトを取ってくる」
とDは答えた。
「え?」
「谷への道を封鎖する」
「えーっ!?」
「これまでは無事だった」
とDは言った。
「だが、旅人を招き寄せたら最後、杭を持った連中が押し寄せる。彼らは彼らだけで生きていけるだろう」
ロザリアの眼に、みるみる光るものが溢れはじめた。
「そうね、そうだよね」
素早く手で拭った。ロザリアにはわかっていた。あの干からびた若い女が、なぜ一度掴んだ肩を放したのかを。
彼女はロザリアを仲間と悟ったのだ。そして、ロザリアも、また。
「きっと、あの人[#「人」に傍点]たちだけでうまくやっていくよ。外には迷惑をかけずに。なら、あの人たちだけにしてやるのが、いちばんいいんだね。――D、あたし、ここで待ってるわ。早く、早く行ってきて」
黒い姿は、車の横に佇むサイボーグ馬に乗り移っていた。どうやってか、ずっと見ていたロザリアにも理解できない速さとやり方で。
「ここを動くな」
声だけが闇の路上に残った。
鉄蹄の音を響かせてDが戻ってきたのは、ほぼ一時間後であった。
馬を止め、Dは周囲を見廻した。車がない。闇は静まり返っている。
運転できるとすれば、ロザリアだが、何が起こったのか。
「おらんな」
手綱を握った左の拳あたりから、嗄れた声がした。
「道のどちらからも、わしらを追い越していった奴はおらん。となると、勝手に逃げたか。いや、あの娘がおまえの指示に逆らうとは思えん。街道の向こうからやって来た奴らに連れ去られたとみるのが常道じゃな。くく、このところ退屈な旅がつづいていたが、ようやく面白くなってきおったわ。――それより、もう気づいておるじゃろうな?」
声が終わる前に、Dは馬首を例の谷間の道へと向けていた。
彼の鼻は道の奥から漂ってくるかすかな匂いを嗅ぎつけていたのである。――血臭を。
「並の人間にはわかりもせんが、これは大量死の結果じゃぞ。さて、どうする?」
からかうような左手の声に、Dは馬の脇腹に踵を叩きつけることで返事に替えた。
谷間は、はじめて足を踏み入れたときと等しい静寂に包まれていた。
唯一異なるのは、柩が地上に並んでいることだけだ。月光の下に、それらは黒々と横たわって、谷間の擬似死者の王国を告げていた。車の姿はない。
馬上でDは柩の列に視線を注いだ。美しい眼に凄絶といってもいい光が宿る。それは戦いの合図だった。
谷間の真ん中に何かがいた。
ぽっ、と地面が盛り上がった。
土煙が走った。水を切るがごとく、左右に土を跳ねとばしながら、突進してくる。地中に何かが潜んでいるのだ!
月光へ黒衣が躍った。
Dが舞い下りたのだ。
腹を蹴られた馬が勢いよく走り出す。
地上へ下りたDの右手には長剣が握られていた。
土煙が方向を変えた。速度はサイボーグ馬を凌ぐ。
Dは動かず――次の瞬間、その姿は黒煙に呑みこまれた。
空気を鋭い波が渡った。
土煙はDを残して、谷間の入口へと疾走していく。じき、闇に呑まれた。
Dは無言で一刀を収めた。
「やるのお」
と嗄れ声が言った。それは、Dの技倆に対してのものであったのか、或いは土中の敵に贈ったものか。Dの左腿は鮮血を噴いていた。
「もう一センチ右にずれていたら、大動脈を切断されておる。だが、彼奴《きゃつ》も悲鳴を上げておったぞ。少々相手が悪かったな」
Dは答えず、左手を傷口に当てた。出血は奇跡のように止まった。手近の柩に近づき、蓋に手をかけて開けた。鍵はかかっていない。
“犠牲者”が横たわっていた。
上半身は朱に染まっている。すでに固まりかけた血の出どころはすぐにわかった。
誰かが胸をえぐり、首を切断したのだ。
よほど凄まじい力で一撃のもとに行ったらしく、“犠牲者”の首は、皮一枚残して胸から離れかかっていた。
次の柩も同じだった。その次も、また次も――
やがて、Dは“犠牲者”すべての死を確認し終えた。
「足跡ひとつ残っておらん。どうやら、人間の仕業ではなさそうじゃな」
と左手が、さすがに呆れたような口調で言った。先刻の敵は地中にいたのだ。
「これだけの“犠牲者”を始末するのに、人間ならば二〇名以上はいる。しかし、解せんのは――」
声が熄《や》んだ。
Dがふり向いたのである。
彼の耳は、常人には到底、聞き取れぬ音を――谷間の入口にさしかかった一群の馬車の響きを捉えたのであった。
「五台――荷馬車だの。大丈夫――行き過ぎた」
嗄れ声が言った。何事もなかったのが、惜しいという口調だ。
「恐らくは、街道の村々へ生活必需品を運ぶ深夜の急行便じゃろうて。しかし、あの轍の響きはかなりあわてておる。あの村へ立ち寄ったか。――何にせよ、次は、あの二人と蒸気車が何処へ行ったかじゃが、おまえに興味はもうあるまいな」
「そのとおりだ」
Dの答えは、張りつめた闇よりなお暗く冷たかった。
馬車の一団が去ってから、Dは街道へ出た。
「あわてずに行け。あの二人が先に行っておるのなら、今の連中が見つけてくれる。少なくとも、おまえほど冷酷ではあるまいよ」
嘲るような声を無視して、Dは走り出した。
すぐに荷馬車の一団に追いついた。
前後左右に、サイボーグ馬に乗った護衛たちがついている。御者の隣にも、空圧銃を抱えた男たちが同乗していた。
最後尾の馬車から二頭の馬が離脱して、Dの行く手をふさいだ。
馬の首に装着した火薬銃を向けたまま、左手のライトもDの顔に当てる。
光の輪の中に浮かび上がった美貌に、二人揃って声もなく硬直する。子供でも斬り倒せそうだ。
片方の髭面が何とか気を取り直して、
「お、おめえ、何者だ?」
あまりのDの美貌に、声は怯えさえ含んでいた。夜の生きもの――妖魔ではないかと思ったのである。
「おまえたちはどうじゃ?」
二人は顔を見合わせた。眼前の若者の声は、その美貌とは似ても似つかぬ嗄れ声だったからだ。
「人を誰何《すいか》するならば、そちらが先に名乗るのが礼儀じゃろう」
「おれたちは、辺境商工ギルドの輸送隊だ。この辺一帯の村から注文を受けた品を届けるのが仕事だ」
と、もうひとり、布切れをターバンみたいに巻いた男が言った。
左手の推論はここに確証を得たことになる。
「おれは吸血鬼ハンターだ」
Dが言った。
氷のように冷たく美しい声に、男たちはもう一度驚きの顔を見合わせた。
ターバン男が、
「吸血鬼ハンター!? その顔は……あんた、ひょっとして――」
「――D」
ともうひとりが、夜を恐れるかのように呻いた。
「そうじゃ」
またもや嗄れ声の挨拶であったが、二人に訝しむ余裕はなかった。辺境に生きるものたちの間で、世にも美しい吸血鬼ハンターの名と戦いの歴史は、半ば伝説と化していたのである。
髭面がライトを下ろし、銃から外した右手を差し出した。
「おれはジュークってんだ。名前は聞いてる。会えて光栄だ」
ためらっていたターバン男も後につづいて、
「ゴルドーだ」
「Dだ」
と美青年は名乗ったきりである。ちょっととまどってから、二人は手を引っこめた。気を悪くした風はない。
この辺境で、平凡な民間人以外のものが、安易に利き腕を預けるのは死に直結すると、彼らも知っていたのである。
「蒸気車を見なかったか?」
とDは訊いた。
「いや」
二つの首が揃ってふられた。
「誰にも会わなかったぜ。この先の地方は洪水で物資の輸送が滞っていてな。それで急いでるんだ。間道にでも入ったんじゃねえのか」
答えるジュークに、Dは左手を上げて、礼と別れとを告げた。
手綱を取ると、二人が道を空けた。
ゴルドーが馬車の方へふり返って、
「大丈夫。ハンターだ。通してくれ」
と叫んだ。
Dは疾走を開始した。
馬車の横を通過する黒衣の美貌に、照明と武器を構えた男たちの視線が注がれた。
「待ってくれ」
声がかかったのは、馬車を抜き去る寸前であった。
馬を止め、Dはふり向いた。
馬車に廻した木の通路の上から、ひときわたくましい男が身を乗り出している。Dの眼には、その鬢《びん》の白髪もひとすじひとすじはっきりと見えた。
「おれは、この輸送隊の責任者だ。カイルという」
男は片手を口の脇に当てて声を出した。
「あんたの顔を見てわかった。D――だな? だったら、頼みがある。おれたちのガードをつとめちゃもらえんか?」
Dはすぐ背を向けた。
「待ってくれ」
カイルの声は一オクターブ高くなった。それに切実な響きが加わった。
「あんたが吸血鬼ハンターなのはわかってる。承知の上で雇われてほしいんだ。給料は、貴族相手と同じだけ出そう」
「この先は貴族の土地じゃあない」
Dが答えた。
その響きだけで、男たちは表情をこわばらせた。ダンピール――貴族の血を引くものの声は、人間にも一発でわかる。
「それだけの人数と装備があれば、問題はあるまい」
「実は、ここへ来る前、旅の占い師に行く末を占ってもらったんだ。三度占って、みな大凶と出た。信じるわけじゃないが、ゲンかつぎもある。ここはどうしても、頼もしい助っ人が欲しいのさ」
Dは無言で背を見せた。
「どうしても、駄目かい?」
「達者でな」
そして、彼は夜の中を疾走しはじめた。
一時間も走った頃、黎明《れいめい》が東の空を水のように光らせはじめた。
「夜明けだ。人間の時間じゃな。だが、あの娘、どこへ行ったか」
うすれゆく闇の中で、左手のあたりから声がした。
「あと五キロも行けば、ドネリコの村じゃが、あそこは確かに低地で、しょっちゅう、川の氾濫にやられておる。おまえも貴族の血を引く以上、水は苦手。早いところ突破するか、別の道を行くかじゃな」
会話は走ったままである。Dはスピードを落とさない。じき、道は下降しはじめた。
左右の風景も木立ちに岩塊が混じり、全体が鬱蒼たる雰囲気に包まれ出す。
前方に銀色の帯が見えた。それ以前から聞こえるどよめきは言うまでもない、川の流れであった。それもかなり激しい。
道は途中で断ち切られていた。直線距離で一〇メートルほど向こうを流れる水飛沫は、濁り切った泥水だ。
「川ではないな。洪水の名残じゃ。これでは、周囲の村などひとたまりもあるまいて」
「本流は?」
とD。
「ここから二キロ西を、この流れと直角に走っておるわ。この勢いじゃ、廻り道をするか。急ぐ旅でもあるまい」
「わからんか?」
「はン?」
と嗄れ声が眉を寄せたような響きを上げたとき、馬は一気に流れへと進み出した。
声はむしろ、感心したように、
「おまえ――何を感じた? 時折、わしより鋭い勘を発揮する奴なのはわかっておるが」
ぶつくさ言っている間に、Dは流れに乗り入れた。
みるみる腰まで泥水につかる。馬がよろめいた。サイボーグ馬さえ安定歩行を得がたい急流なのである。並の騎馬なら、あっという間に流されていただろう。
「ふむ」
と声が言った。
圧倒的な水の圧力に押されつつ、サイボーグ馬は首をふりふり安定を保ち、何とか水流を渡りはじめたではないか。
馬の力もある。だが、その足取りを正確に、力強く維持しつづけているのは、鞍上《あんじょう》のDの手綱さばきに他ならない。
馬が傾けば反対側へ身をずらし、あきらめかけると横腹を蹴って活を入れ、ごおごおと流れる激流をみるみる、あと一〇メートルで向こう岸というところまで渡り抜いてしまった。
濁流の彼方から黒い塊が流れてきた。柩だ。
「水流が墓場から掘り起こしたか。だが、被葬者はただ者ではなさそうだ。墓はどこにある?」
嗄れ声の意味することは、流れる柩を見ればわかる。
濁流は音をたててDの前方を右から左へ――上流から下流へと驀進《ばくしん》する。それに対して黒い柩は、波に叩かれ、押しやられつつ、ゆっくりと、しかし、確実に左から右へ――下流から上流へとやって来るのだった。
Dは馬を止めた。
足をすくわれそうな馬上で巧みに重心を移動し、バランスを崩さぬその前を、怪異な柩は、やがて妖々と流れすぎた。
「何じゃ、あれは? Dよ、中身を確かめたくはないか?」
「雇われてはいない」
「なら、放っておけか。けけ、残念至極じゃな。わしなら、中身を細かく調べた後、太陽の真下まで連れていって、埃に変えてやるのだが。ま、いい。とにかく固い地面へ急げ。この馬が立っていられるのも限界だぞ」
途端に馬は動き出し、三〇秒とかからぬうちに、村の地面に立っていた。
荒涼たる風景がDの眼前に広がった。
家屋も土塀も木立ちも路地も、かなりの間、水に浸かっていたものか。どれも灰色の泥を付着させている。横倒しになった家や樹木の様からして、洪水は一気呵成に押し寄せたものらしい。
「無茶をしよる。こんな村を一直線に通り抜けて、どうする気だ?」
嗄れ声のぼやきに耳も貸さず、Dは村の通りを中心に向かって歩き出した。
家具やら農器具やらが散らばるせいで、馬は歩を進めるのにひどく苦労した。
急に視界が開けた。村の中心――広場へ出たのである。
「おやおや」
嗄れ声が珍しく驚きと好奇心を含んだ響きを発した。
泥濘と雑多な流出物に覆われた広場の真ん中に、あの蒸気車が止まっているではないか。
「頑丈なつくりだが、よくもあの流れを渡り切れたものだ。いや――」
そもそも、蒸気機関でもって、水の中を突っ切ろうという発想が異常だ。
馬車を操っていたのは、別のもの[#「別のもの」に傍点]にちがいない。
「おい、素通りはよせ。近寄って、のぞけのぞけ」
声にせきたてられたわけでもあるまいが、Dは馬を進めて蒸気車に近づき、馬上からドアに手をかけて開いた。
いきなり噴出した黒い影がぶつかる寸前、Dは神速の反射神経で身をかわし、影はダイナミックに大地と抱擁した。苦鳴をひとつ放って気を失う。
「ほう、クィンじゃな。他には――おらんか」
車内はもぬけの殻である。ロザリアの姿はない。
Dは馬を下り、クィンのかたわらに身を屈めて、左手のひらを首すじに押しつけた。
激しく全身を痙攣させてクィンは眼醒めた。
はっと上体をひねってかたわらのDに気づくや、
ぎゃっ!? とひと声、身を翻して手足で地面を掻く。
その襟首を引っ掴んで足下へ引き据え、Dは低く、
「何があった?」
と訊いた。
返事は前へ出ようとするがむしゃらな力と、男が出すとは思えぬ甲高い悲鳴だった。
「無駄じゃよ、よせよせ」
と嗄れ声が止めた。
「うぬ、気がふれておる。よほどの目に遭ったとみえる」
「治せるか?」
「危険じゃな。無理な治療は脳そのものの機能を破壊してしまう。妖圧もかかっておる。ここは少しずつ、治していくに越したことはない」
左手が、なおもじたばたするクィンの首を掴んだ。
身も世もない恐怖の表情が、急速に和らいでいった。
全身の力を抜いて、クィンは地べたにへたりこんだ。
「何があった?」
Dがまた訊いた。
虚ろな眼に、精神活動を表わす気の力が広がった。質問に応じるべく、クィンの脳は記憶を辿りはじめた。
何度か、かすかな光を放った後で、ようやく、
「ギャスケル将軍が……」
と言った。
「ギャスケル将軍? ――あの怪物か。そういえば、この辺は奴の領地に近い。だが、あ奴はとっくの昔に塵と化したはずだぞ。おい、見たのか?」
「窓の外に顔が……」
とクィンは凄惨な声で言った。
「大男だった。何人も供を連れて。そいつらも、みんな、でかかった。ギャスケルが窓を叩いたんだ。おれが、誰だい? って訊くと、そいつは名前を名乗った。虫酸が走るくらい、馬鹿丁寧な言葉遣いでな」
「なぜ、開いた」
「最初はそんなつもりはなかったんだ。武器は付いてたから、野郎の顔面か心臓に一発お見舞いしてやるつもりだった。ところが、そうする前に――」
ここでクィンの言葉は途切れた。
せっつこうとして、嗄れ声があっと叫んだ。
クィンが消えはじめたのだ。
全身の輪郭が妙に曖昧になり、向こう側の景色が透けて見えはじめた。
「いかん。こら、待たんか、こら」
のばした左手の指も空を切り、クィンはさらに空気と同化していった。
最後に二つの眼球だけが空中に残り、じきにそれも消えた。
「ギャスケル将軍の死に様を知っておるな」
と左手のひらが呻いた。
「しかし、奴は生きていたのか、或いは怨霊の作動によるものか――人体消失は、奴が領民を怯えさせる最高の手段じゃった」
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第三章 大将軍の遺産
ギャスケル将軍とは、南部辺境区最大の領土を誇っていた貴族の名前である。
その凶暴さ、残忍さ、冷酷さは、生前に並ぶものがなく、同類の貴族でさえ、彼の名を聞いただけで恐怖に身をすくませたという。
三百年ほど前、別の大貴族の舞踏会に招待されたギャスケル将軍は、招待先の領民の美しい娘に懸想《けそう》し、自らの城へと連れ去ったのみか、貴族とのトラブルを予測し、先手を打ってその領内へ攻め込み、貴族の一族郎党はもとより、領民すべてを殺戮してしまったのである。
また、二百年ほど昔、辺境一帯に領民の大減少が起こった際、人間の血と区別がつかないと豪語する人工血液を近隣の貴族に贈り、全員を毒殺してのけた。目的は彼らの領土の併合であり、彼はその許可を受けるため、貴族たちの死は、貴族の遺伝子に選択的に効力を発揮する伝染病によるものと「都」に届けたが、さすがに怪しんだ貴族院の長老たちは、大規模な調査団を送りこみ、将軍の暴挙を暴き出し、陽光による滅びを命じた。
この処分に対して反抗したギャスケル将軍の起こしたのが、“Gの乱”であり、「都」の軍勢との五〇年にわたる攻防の結果、将軍は捕らえられ、その領土の最高峰・ギャスケル峰の頂きにある太古の遺跡で陽光の下にさらされ、灰と化したのである。
“G”の乱による荒廃のため、辺境区の領民の六割は死に絶え、放射線や細菌兵器に汚染された広大な土地が永久に封印された。「都」では、辺境区の全面的封鎖も考えたという。
だが、ギャスケルの非道悪業の最たるものは、やはり、無辜《むこ》の民の虐殺であった。
貴族が領民を餌食にするのは当然の行為だが、そこには貴族の品性や、人間に対する考え方についての差が大いに反映される。
ほとんどの貴族は、血の渇きを覚えるごとに、領民のもとへ使いをやって、人身御供を供出させたが、これとても、医療的な意味での吸血を行って安らかな死を迎えさせるものと、半ばのみにとどめて無事、村へ帰すものとがあり、吸血鬼と化した領民を汚らわしいと焼き殺すものと、下僕《しもべ》のひとりに加えるものもいた。
また、数少ない貴族たちの例の中には、領民と交渉の上、定期的に血液の供与を受けて友好的な関係を保つ一派、人身御供の見返りとして、その親兄弟に大枚の財宝や超技術の一部を授けるものたちもあったのである。
ギャスケルは、そのどちらにも属さぬ大凶人であった。
彼は血に飢えた場合はおろか、面白半分としか考えられないやり方で、領民たちを苛《さいな》んだ。
ひと晩で五十人の女子供の喉笛を噛み切った上、たったひと口しかその血を飲まず、最後の十人は単に殺害されたにとどまった。
かと思うと、一族に招集をかけ、とある村の住民をひと晩で何人吸い殺せるか競争すると言い出した。夜明け前に、その村は丸ごと死滅していたという。
また、彼は「都」の大貴族たちも知らぬ超古代の技術の秘密を解読し、その効果を領民たちの身で試した。
ある村は、大宇宙の彼方から招き寄せられた隕石のピンポイント直撃を食らって消滅、今もその跡は直径五キロの大隕石孔となって残っている。
地震、洪水、新種の妖獣や怪物の出現などはお手のものであり、あるときは、山をひとつ動かして反抗的な領民の村をつぶしたり、虐殺した人々の死体に防腐処置を施した上でピラミッド状に積み重ね、五〇〇年で地上三〇〇〇メートルに達したともいわれる。
だが、ギャスケルが駆使し、「都」の軍勢との圧倒的に不利な戦いを五〇年ももちこたえさせたものは、物質消滅の技法であった。
いかなる方法によってか、彼はあらゆる生命体、あらゆる物質を、一切のエネルギー変換によらずに消すことができたのである。
将軍の城砦へと押し寄せる無気質な兵の一団が、千人単位で透明化し、やがて、そこだけ何かに食いちぎられたみたいにぽっかりと穴が開いた。――従軍記録兵の報告にはこうある。
さすがに膨大なエネルギーを消費するらしく、頻繁な消滅は不可能なばかりか、他の兵器も使用不能に陥って攻略軍の軍門に下ったが、「都」では将軍の捕獲を絶対の条件にした。戦いが五〇年の長きにわたったのは、このためである。「都」の目的は、ギャスケル将軍の持つ太古の遺産を自分たちのものにすることであったと、これは公然とささやかれた噂である。
将軍は捕らえられ、血まみれの貴族たちですら恐怖する方法で拷問されたが、ついに口を割らず、山頂の露と消えた。
いま、Dと左手の見たものは、まぎれもなく、ギャスケル大将軍の“消滅”であった。
「大将軍が生きていたか、或いは、彼の衣鉢《いはつ》を継いだ者たちの仕業か――いずれにしろ、何者かの手になる“消滅”には違いない。しかし、なぜ、あの二人が?」
「ここは将軍の領地か?」
とDが訊いた。
「いいや、一番近い境界も北に三〇キロばかり離れておる。第一、あそこは“Gの乱”で使い放題にした核兵器や妖術兵器のせいで、蟻さえ棲まぬ荒地と化しておる」
「将軍の技術は“消滅”のみか?」
暗黒の中のDの問いであった。沈黙が落ちた。左手から驚きの気配が伝わった。
「記録に残る限りはな。これは、将軍の城の科学施設にあったデータやコンピュータの記録と、開城後、一年を調査に費やした『都』の科学者連中の公式発表をもとにしておる。だが、一説によると、将軍のもとにある超古代の技術書には、断片的だが、“消滅”の他に“再生”に関する記述もあり、将軍はほぼその読解と応用に成功していたともいわれておる」
嗄れ声は、強烈な吸引でもされたようにすぼまり、すぐ、
「ふむ――いまも実験中というわけか」
謎を解いた名探偵みたいな口調に変わった。
「だとしたら、謎の扉を解き放った鍵は、大将軍の居城跡にあるな。面白そうだ、行ってみるか?」
「おれの用ではあるまい」
Dは馬上に戻った。前方を見つめる表情に、わずかな行を共にした男女への想いは、かけらも見当たらなかった。
「おや」
嗄れ声がわざとらしい驚きの調子を含んだ。
Dが気づいているかどうか、四方から音もなく、銀色の流れが忍び寄ってくる。
水だ。
「増水か。おまえがここへ入った途端――おお」
あれよあれよと言うしかない。押し寄せる水は、いつの間にかサイボーグ馬の下腹にまで届いていた。
Dは動かない。
ごぼ、と右方で水泡《みなわ》の弾ける音がした。一〇メートル先だ。小さな水泡がつづけざまに砕けていく。
それが、ゆっくりと近づいてくる。
八メートル……七メートル……六メートル……
五メートルまで近づいたとき、Dの瞳がそちらを向いた。
水泡の動きは停止した。
数瞬、大きなのがひとつ弾け、その後を追うように、水と同じ色をした人間が、ぬうと腰まで浮上したのである。
子供だ。泥水をしたたらせる顔は、十二、三といったところか。下腹が異様にふくれ、手も足もだぶついて、明らかに溺死者であった。
少年は、光のない死人の眼をじいっとDに向けていたが、じき、唇をいびつな形に歪めるや、出現と同じ速度で水中に没した。
「笑っておったぞ」
と嗄れ声が愉しそうに言った。
「この村の子であろう。早く楽にしてやるがいい」
声の終わらぬうちに、サイボーグ馬の身体が、ぐいと水中に引かれた。
間髪入れず、空中に躍ったDの下で、馬体は、まるで小さな穴に吸いこまれる水泡みたいに押しつぶされ、あっという間に水中に呑みこまれたのである。
水柱とともに、無残なその破片が噴き上がったのは、Dの爪先が農家の屋根を踏んだときであった。
ばらばらと水中へ落下する足や首やらをどう見たか、
「どれもこれも、ねじくれておる。よほど強烈な渦に巻きこまれたらしい」
と嗄れ声が分析してのけた。凄惨としか言いようのない光景を前にして、なお、愉しげな響きは消えていない。
サイボーグ馬の骨格は、瞬間、五〇トンの負荷にも耐え得る高分子鋼材だ。それを一秒足らずでひしゃぎ、破砕させるとは、どれほどのパワーが凝集されたものか。
屋根の上で、Dは軽く膝を曲げて再び跳躍に移った。
まさに一瞬――その足場が崩れたのである。
まばたきする間も与えず、数十条の白い線が下方から家の屋根を――いや、家中を貫いたのである。
コートの裾を翻し、魔鳥のようにDは跳んだ。
恐ろしくも美しい、としか言えぬその姿に、わずかな歪みが生じているのを、誰が気づいたか。
水中から丸い顔が浮かんだ。溺れ死んだ少年の顔が。
分厚く腐敗したその唇が尖るや、白いすじが一条、空中のDへと走った。
いつもなら、人体工学の限界を越えた、しかし、無理のない動きで刀身が閃き、凶器を跳ね返していただろう。だが、一刀にかけた手の動きは、わずかな歪みによって遅れ、刀身が触れるより早く、白い線はDの左脇腹から右腕のつけ根まで、一気に貫通していた。
直径五〇メートルほどある広場の中央に立つ巨木が、Dの目標であった。
張り出した大枝の一本に着地した刹那、二本めの白線が襲った。
銀光がきらめき、線は狭霧《さぎり》のごとく数万の水滴となって霧消した。
「水か」
嗄れ声の指摘より早く、Dはよろめき、幹にもたれかかった。
三度《みたび》、水中から襲ったすじが、鉄のような硬さの樹皮を易々と貫き、虚空に消えた。数キロ上空で本来の姿に変わり、空中に四散するか、雨滴と化して舞い下りるのだろう。
水。まさにそれは水であった。
土左衛門と化した少年は、何者かによって与えられた猛烈な吸気によって小さな渦を生じさせるや、吸いこんだあらゆるものを打ち砕き、また呼気をもって、液体を超音速で飛翔する槍と変え、鋼の板さえ貫くのであった。
魚のような迅速な移動法にも助けられたものか、水の槍は巨木を囲む水中から、角度と位置とを変えてつづけざまに迸り、直径三メートルもの幹を、うす紙のように貫き、切り裂いた。
「『都』の記録にあったぞ、覚えてるか?」
と嗄れ声が言った。
「『ギャスケル大将軍の兵器目録』の一項――“死者による水中攻撃兵器”だ。生物兵器、それも死人とは、むごい真似をする」
Dが左手を顔に近づけ、何事かささやいた。
「えっ!?」
と嗄れ声が驚き、手のひらの中央が波打つや、眼鼻口を揃えた人間の顔が浮かび上がったではないか。
「できぬことはないが、それは他のより、遥かに多量のエネルギーを消費するぞ。おまえには、一度刀をふるうくらいしか残らない。別の手を――うぐぐ」
身を屈め、大枝の下まで上がった泥水の中に左手を突っこみ、Dはすぐに引き戻した。
「げっぷ」
と手のひらの中の顔が洩らした。
それが合図ででもあったかのように、水中から迸る二すじの水路がDを貫き、体内で斜めに交差して抜けた。
両の脇腹から太い血のすじを迸らせつつ、Dは立ち上がって左手を水面に向けた。
すでに人面瘡は表出している。その口がかっと開いた。
Dの頭上から、小さな火の玉が落下してきたのは、その瞬間だった。
巨木に触れるや、それは水に投じられた油のように広がって、炎はみるみる枝も幹も覆い尽くした。水面に落ちた分は巨大な火の花を咲かせ、風に乗ってDの方へと吹き寄せる。
「何事じゃ!?」
Dはすでに頭上をふり仰いでいる。
黎明が水のように白く染め上げた東の空はともかく、天のほとんどは闇の支配に身を委ねている。
その黒い虚空をしなやかに飛翔する、鳥とも人ともつかぬおぼろげな物体を、Dの眼は捉えた。
そいつはいったん東の空へ向かって飛び、反転してDの頭上に達するや、火の玉を投下した。
水面は燃えた。
かろうじて水上に現われていた農家も納屋も炎に包まれ、炎は竜のごとく天空へと螺旋を巻いて走った。
Dの頭上から燃えさかる枝がふり落ち、足下には火の水が吹き寄せた。
五メートルほど向こうで、黒いものが水中から躍り出し、小さな弧を描いてまた水に落ちた。
あの少年だった。
「ようやく姿を現わしおったか。しかし、何故じゃ? 呼吸《いき》をする必要はあるまい。そういえば、何かほざいていたようじゃが、おまえ、聴いたか?」
Dは無言で燃え狂う水面を見つめている。
鮮血にまみれた下半身も白蝋のごとき額も、すべて炎の色だ。
「来るぞ――今度は両方から」
左手が警告を発した。
天駆ける物体は再度反転し、水中の影はDの足下に迫る。
深傷《ふかで》を負ったハンターに、それを乗り切る余力が残されているのかどうか。
水槍が虚空を貫いた。Dの刀身がそれを弾き返すや、世界は蒼白となった。
Dののばした左手が、炎を吐いたのである。青白いそれが、どれほどの高エネルギーを秘めているものか、それが触れた水は一瞬に蒸発し、深さ一〇メートルもの洞《うろ》が穿たれたのである。
その寸前、小さな人影が鮎のようにしなやかに跳ねた。
水中に没しようとするその身体へ、Dの一刀が走った。
刀身の切尖はわずかに届かない。それが、すうとのびた。
少年と刃と、二つの描く弧が触れ合った刹那、肉を断つ響きと、かすかな苦鳴が上がった。わずかに遅れて水柱が二つ――大きな水柱と小さなそれ[#「それ」に傍点]と。Dの刀身は、死少年の首と胴とを切り離したのである。
いま与えたばかりの死に、何の感慨も持たぬ冷やかな瞳が、空中の敵を求めた。
炎塊は降下してこなかった。
川の方へと飛び去る影をDは認めた。
その身体を、細い線が斜めに貫いている。水中との同時攻撃を、空の上のものにさせなかったのは、どこからともなく飛来した十数本の矢の一本であった。
「あの輸送隊じゃ」
と嗄れ声が言った。
「矢の刺さった角度からして、川のあたり。おまえを救うつもりだったかどうかはわからんが。――いかん、あの化物、報復に向かったぞ」
はたして、Dが燃えさかる幹から身を離すか離さぬかのうちに、彼方の闇が赤く染まり、銃声と怒号が交差しはじめた。じき、それは悲鳴に変わった。
「水が退く」
恐らくは、死少年の新たな死が、妖水の氾濫術を無効にしたものであろう。溢れる泥水は、呆気にとられるほどの愛想なさで退きはじめ、その後に一層、泥まみれの大地をさらしていった。
馬はない。
Dは地上に下りるや、泥濘を蹴たてて疾走しはじめた。
青みがかった空の下に、夜を惜しむかのごとき、巨大な炎が燃えていた。
濁流を隔てた川向こうの道である。あの輸送車に違いない。
ためらいもなく、濁流に身を躍らせようとして、Dはその場に片膝をついた。
左手による火炎攻撃は、彼の体内に残るエネルギーのほとんどすべてを費やしたものだったのである。ましてや、いまは重傷を負った身だ。
死少年を斃《たお》した超人的な剣技をふるい得ただけでも奇跡に近い。
「待て。いま、土を補給する」
と左手が騒いだが、頭をひとつだけふってDは立ち上がった。
「おお!?」
と呻いたのは、無論、嗄れ声である。
「さっきはひとつ――今度は行進じゃ」
Dにも異論はなかったであろう。
見よ、衰えを見せぬ泥の濁流の中を、傲然とその流れに逆らいつつ、柩がやってくるではないか。ひとつではない。十、二十、いや、五十も百も――ほとんどは粗末な荒木を釘で打ちつけたものだが、中には精妙な彫刻を施した白や黒塗りの柩もある。
そのどれもが、押し寄せる大自然の流れに抗して、水を切り、押しのけ、掻き分けて川上へと進んでいく。
行進と左手は言ったが、それは行進曲ではなく死の歌を伴奏につけた柩の行進だ。
「これは愉快だ。欣快《きんかい》だ。おい、Dよ。ひとつ捕まえて陸揚げせい。中身を調べるのだ」
「後だ」
言うなり、Dは流れに身を躍らせた。余力がゼロに等しい人間とは思えぬ速度で、抜き手を切って向こう岸に迫る。柩の間は巧みに抜けた。
彼が岸辺を道路へと走り去ってもなお、黎明の下、不気味な死者の寝所の行進は切れ目なくつづいている。
その中に眠るのが、柩にふさわしい者たちであるならば、上流にいる招き人は、彼らに何をさせ、どう使おうというのだろうか。
空は白々と色を刷《は》き、泥流は収まることを知らない。
道路に出たDを迎えたのは、燃えさかる道と、あの輸送車であった。
謎の飛行物体の火の玉攻撃を受けたのは一目瞭然であった。
生き残りらしい何人かが周りにいたが、成す術もなく遠巻きにするばかりだ。火葬にされた巨獣から、黄金の牙やプラチナの骨格を抜き出すことは誰にもできない。
Dの姿を認めて、馬に乗った人影が三人近づいてきた。
「D――あんたか!?」
「天の助け――と言いたいが、少し遅かったぜ」
髭面のジュークとターバン姿のゴルドーの全身も、現実の炎とは別の業火に彩られていた。
ゴルドーが、もうひとりの細っこいノッポをさして、
「こいつは、セルゲイだ。ひょろひょろに見えるが、実はおれたちの中で、いちばんタフなんだ」
ノッポは口の中でもごもごと挨拶らしい言葉をつぶやき、軽く頭を下げた。
「結局、生き残ったのは、外廻りにいたこの三人だけよ」
「いや」
と蚊の鳴くような声でセルゲイが異論を唱えた。
「隊長もいたよ」
その隊長に、Dは輸送隊の用心棒を依頼されたのだった。
ゴルドーとジュークが歯を剥いたが、手遅れだと知って顔を見合わせ、
「車を焼いた奴――知ってるよな。あいつを射たのは、隊長だったんだ」
とジュークが顎鬚をかきまわしながら言った。うつむいたまま、
「あそこら辺が村だとわかってたからな。火の玉を落とす化物を黙って見てはいられなかったんだろう。それが結局、身の破滅を招いたわけだ。ま、自業自得ともいえる――」
「そんなことはねえ!」
きしるような声は低く小さかったが、ジュークをぎょっとさせるだけの迫力を備えていた。
「隊長はいつだって正しかった。今度のもそうだ。悪いのは、あの空飛ぶ化物だ」
「そうとも――そのとおりだ」
とゴルドーが痩せた肩を叩いて慰めた。
「取り消せよジューク、頼む」
セルゲイは唸るように請うた。
髭面がうなずいた。
「わかった。隊長は正しかった。いつだってそうだった」
「ありがとう――そのとおりだ」
セルゲイの背で、固い音が鳴った。Dと同じ湾曲刀が二本――どちらも、少し長い――交差させてある。
炎がゆれた。
「崩れるぞ」
言うなり、ジュークがひと鞭当て、四人が身を翻したその後へ、火祭りの贄《にえ》と化した輸送車は、地響きとともに崩れ落ちて、四方へその残骸を撒き散らした。
しつこく飛んできた火の粉を片手で払いながら、ゴルドーは路上のDへ、
「爆撃されたとき、替えの馬を何頭か切り離しておいた。ここで待ってりゃ、じき戻ってくる。それに乗っていきな」
と声をかけた。
Dが訊いた。
「これからどうする?」
「仕事をつづけるさ。おれたちは輸送隊だ」
「同じく」
とジュークが右手を上げ、セルゲイも細い顔でうなずいた。
「物資はあるまい」
とD。
「それがあるんだよ」
ジュークが、やっとという感じの笑みを見せた。この髭男は、根っから陽性の人間なのである。
「おれたちは基本的には、あの輸送車で物資を運んでいたが、なんせ辺境一帯を廻る身だ。一台じゃすぐなくなっちまうし、強盗だの化物だの天変地異だの今みてえなことだのも予想しとかなきゃならねえ。事故でパアになりました、じゃ通用しねえ仕事なのさ。で、鉄道が走ってるところに限り、幾つかの安全な駅に荷物を送りこんでな、こっちの物資が少なくなったら、そこで補給するシステムを取ってるんだ。だから、物資は常に満杯ってわけさ」
「その駅が、ここから北へ五キロの地点にある。ジャルハってとこだ。おれたちはそこへ行くよ。馬車と馬と人手を集めりゃ、何とでもなるさ。最後までやれるかどうかわからねえが、仕事を放っぽり出すわけにもいかねえ。それに、補給を心待ちにしてる村ばかりだ」
ゴルドーの声にも力がこもっていた。
物資に乏しい辺境の村々にとって、彼らは待ち焦がれた救いの神なのだ。
「馬が来た」
とセルゲイが小さく言った。まだ燃えつづけてはいるが、火勢も大分収まった道路の奥から、数頭の馬がこちらへやって来る。
「好きなのを選んでくれ。辺境一のハンターに進呈するよ」
すでに集まってきた一頭の手綱を取って、Dはコートの内側へ手を入れた。
そこから黄金の光が跳んで、美しい軌跡を残しつつ、ジュークの手もとへと吸いこまれた。
それを素早くキャッチし、指を開いて眺めてから、
「ドラクゼ金貨か」
と髭男は感心したように言った。
「これ一枚で他の金貨の十五枚分はある。さすがに超一流のハンターは違うな」
と愉しげに眼を細めてから、Dへと投げ返した。
「気を悪くしねえでくれ。尊敬してる相手から金は取れねえよ」
「尊敬?」
驚き呆れたような唸り声が、手綱を掴んだ左手あたりで上がったが、Dが拳を握るや消えた。
「辺境で生きるものは、多かれ少なかれ、あんたの噂をきいてるよ。どこまでホントかわからねえが、おれは信じてた。その噂の主を眼の前にして、この眼に狂いはなかったと思う。あんたは本物さ。馬はおれの気持ちだ、収めてくれ」
「それじゃ、おれたちは行く――達者でな」
とゴルドーが片手をさし出しかけ、気がついて引っこめた。
「駅へ行って、仲間の埋葬の手配もしなくちゃならん。どうせ、出席してる暇はねえが。――あばよ、会えてうれしかった」
ジュークが片手をふって、馬首を巡らせた。
遠ざかりゆく騎影を見送るDのどこかで、
「三人で何ができるかのお」
嗄れ声が遠く聞こえた。
ジャルハの村まであと二キロという地点で、ようやくジュークが沈黙を破った。
「人手が集まるといいが」
「無駄なのはわかってんだ。今さらダメ押しするな」
とゴルドーが、うんざりしたように言った。
「仕方がねえ、三倍払うって――いや、ダメだな。最悪、この三人きりと思わんと」
「惜しかった」
ぽつりと洩らしたセルゲイの言葉に、二人は揃ってうなずいた。何が惜しいのか、聞かなくてもわかっていた。
「あれくらいのハンターがひとりいてくれたら、おれひとりで十分なんだが」
ジュークのつぶやきを、ゴルドーが嘲笑った。
「莫迦《ばか》、おめえだっているかよ」
「もっともだ」
髭面とターバン姿が一斉に声の主をにらみつけ、すぐに三人揃って肩を落とした。
未練と知りつつ、ジュークはまたつぶやいた。
「――Dがいてくれたら」
「呼んだか?」
いつの間にか、隣にもうひとつの騎影が並んでいた。声は彼が発したものである。
ふり向いて、ジュークも――他の二人も茫然と、世にも美しい若者を見つめた。朝まだきの薄明の中で、それは天上のかがやきであった。
「あ、あんた――どうして?」
ようやく声の出たジュークへ、
「馬の代金を受け取らない以上、働いて返すしかあるまい」
とDは言った。
「一緒に来てくれるのか?」
ゴルドーが虚ろな声で訊いた。信じられないのである。
名うてのハンターに限って、厳しいまでに単独行を選ぶものだと、彼らも辺境に生きるひとりとして知っていた。
「馬一頭分――この地方を抜けるまでだ」
ぼんやりと、ジュークは右手をさし出した。それが無駄な行為のはずだと気づいたのは、黒い手袋をはめた手がしっかりと握り返したときだった。
「よろしくな」
とDは言った。
貨物列車には一〇名以上の護衛が乗っていた。
全員、最新の武器で身を固め、頻発する強盗団への備えは万全であった。
鉄道自体は輸送専門で、人間は扱わない。路線が極端に少ないのと、強盗や妖物どもの襲撃が頻繁なため、利用者がいないのである。
あと三〇分でジャルハの駅という地点で、輸送会社のバッジをつけた荷物係が、コーヒーを運んできた。
護衛のひとりが鋭い眼つきを彼に向け、
「飲んでみろ」
と言った。
強盗団による買収はよくある手だと心得ているから、荷物係も肩をすくめて、ためらわず、黒いお湯としか思えない中味をカップに注いだ。
「どのカップにも少しずつ注げ。それからみんな飲むんだ」
荷物係は口笛をひとつ吹いて、
「僕が社長になったら、是非とも専属の護衛になって下さいよ」
こう言ってから、ポットを置いて立ち上がった。
空気に触れたポットの中味が、ガス状の食肉生命体と化して、口から溢れるのには、さらに五分間を必要とした。
その間に、荷物係はしめし合わせておいた仲間二人とともに他の荷物係を射殺し、これも一党の運転手に命じて、列車を停止させた。
後は、強盗団がやってくるのを待って、大枚の分け前を貰った上で、姿を消すだけだった。
貨物列車のドアから、生命体の成分に混じると猛烈な毒性を発揮するガスを噴霧し、三〇秒待ってから内部《なか》へ入った。
荷物以外は何もない。
護衛たちは跡形もなく生命体に同化され、自らも空気の成分と化してしまったのだ。
三人は列車の扉に手をかけ、開けようとした。強盗団との邂逅時間にはもう少し間があるし、さすがにこの内部にいるのは堪えられなかったのである。
糸のような隙間から、青白い黎明がさしこんだところで、作業は中断された。
「待ちたまえ」
と誰かが声をかけたのである。
荷物しか積んでいないと、三人の頭には入っている。また、無賃乗車専門のろくでなしが潜んでいたとしても、ガス生命体が見逃すはずもない。
「もう起きる時刻だが、少々、明るすぎる。閉めてはもらえまいか?」
次の声が終わる前に、三人はようやく声の発現点を探し当てていた。
食料品らしい木箱を積み上げた山の前に、ひとつだけ、やや細長い木の箱が置いてある。
よく見ると、他の箱と違って釘一本使っておらず、板の表面も磨き抜かれているようだ。
そこから、声がした。
三人は腰のホルスターから回転式の火薬銃《パウダーガン》を抜いた。ガス生命体を放った荷物係の銃には、散弾が詰めてある。
一〇メートルの距離で直径一メートルに広がる三〇発の散弾は、標的の体内に入った瞬間、茸《マッシュルーム》状に変形し、相手に凄まじいダメージを与える。
「おい」
長銃身の拳銃の撃鉄を起こしつつ、度の強いメガネをかけた男が、
「あれは――確か――」
「そうだ。ヴィゴネールの駅から乗せた――確か、実験用の土が入った箱だ」
「土に――木の箱か」
と三人目の、革のヴェストを着こんだ男が、虚ろな声で言った。
「中身は調べたんだろうな」
「それは確かに」
と荷物係がうなずいた。木箱と土となれば、貴族の定番だ。土には鋭い鉄杭が打ちこまれ、陽光にも十分さらされて、これでは隠れ得ようはずもない。
だが、声は確かに、そこから――
「おれが扉を開ける」
と荷物係は小声で言った。
「光がいっぱいにさしこんだら、箱を射て」
「よし」
「わかった」
二人がうなずき、ついでに銃口も大きく震えた。唯一の望みは――もう夜明けだ。
扉に手をかけるや、荷物係は渾身の力をこめて扉を引き開けた。
水のような光が車内に満ちる。
轟音と火花が彩りを与えた。
木片が吹きとび、弾痕が穿たれる。ひときわ大仰《おおぎょう》に木屑が乱舞し、灰色の土が舞った。荷物係の散弾の仕業だ。
三人の弾丸は、たちまち尽きた。
次弾を装填するのも忘れ、血走った眼が無残な木箱に注がれる。大小の穴からこぼれる土が床に小さな山をつくっていく。
「殺った、よな?」
と厚メガネが、怯え切った声で訊いた。貴族が相手では、銃弾など意味がない。陽ざしだけが頼りだ。
「ああ」
と革ヴェストがうなずいたものの、荷物係に向けた表情はすがりつくようだ。二人を引き込んだのは、この男なのである。
「大丈夫、仕留めた。それに、貴族だったら、こんなお陽さまの下で、生きていられるかよ。いま、証明してやらあ」
行きがかり上、不様な真似はできなかった。
荷物係は弾丸の尽きた拳銃を片手に、木箱へと進んだ。
自身の散弾が開けた大穴の上へ身を乗り出し、片手で土を払い落とす。
「ほら、見ろ、誰も――」
いねえ、と言うつもりだった。そんなはずはない。声はそこからしたのだ。
彼はじっと土の表面を見つめた。
いつまでもそうしているので、
「何かあったのか?」
と厚メガネが訊いた。
返事はない。
革ヴェストが前に出た。厚メガネよりは肝が太いらしい。
「おい」
と荷物係の肩に手をかけた。
途端に、荷物係はぐっとさらに身を屈めて箱の中を覗きこみ――
「?」
次の瞬間、大きくのけぞって、床の陽だまりにぶっ倒れた。
喉が半ばちぎれている。
無残な死体から――箱へ。自然な動きを示した革ヴェストと厚メガネは、ぐうと呻いて、陽光に火炙りにでもなったかのように立ちすくんだ。
箱の破れ目から――その下の灰色の土の中から、土気色をした死人の手が突き出ている。
手首から上は血まみれだ。と見る間に、手はおぼろにかすんだ。何か蒸気のようなものに包まれたのである。
「いかんな、上薬を塗り忘れた。あれはヒリヒリするのでな」
声があわてたように言った。
「まあ、愚か者をあと二人始末するくらいは保つだろう。それに、長いこと眠りっぱなしで腹も減った。こんなところで我輩に足止めを食らわせた以上、誰か荷物を運び出す助っ人がやってくるのだろうな」
血まみれの手は土の中に戻った。
音がした。厚メガネと革ヴェストは血が凍った。
陽光を浴びても平気な貴族――これは驚きだ。
そいつが音をたてている。ちゅうちゅうと吸っている。指についた荷物係の血を。
棒立ちになった二人の背後で扉が勢いよく閉じた。
闇がすべてを塗りこめた。夜明けの空気の中で暗黒の饗宴が開かれようとしていた。
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第四章 将軍の招きびと
列車は定刻より三〇分遅れてジャルハの駅に到着した。これだけ時間どおり[#「時間どおり」に傍点]なのは珍しいケースで、駅長も駅員も顔を見合わせたくらいであった。
Dはゴルドー、ジューク、セルゲイと一緒に荷物の引き取り口に廻り、馬を下りた三人を後方でカバーするよう馬上で待機した。
駅に着いても安心できないのが辺境だ。到着と同時に強盗団に襲われ、焼き払われた駅舎は枚挙に暇がない。ジュークが駅員に証明書を見せて、受け取りOKの許可を得た。
引き取り口を抜けてホームへ出たとき、列車の後尾の方から朱い人影がやってきた。
丸い山高帽から膝まであるケープ、ジャケットからボウタイまで朱色ひとすじの男であった。
顔は若いのに鼻の下には美髯《びぜん》をたくわえ、右手には黄金の握りがついた青いステッキをついている。
陽光を浴びた顔や手は、クリームでも塗ったみたいに艶光りしていた。
この伊達男は左の親指を咥えて、ちゅうちゅうやっていたが、三人の前を通りすぎるとき、その手を外して山高帽の鍔に触れ、軽く頭を下げた。
三人は無視した。気障な野郎としか思えないのである。村へ着いてから、荷馬車の手配や何やらで眠っていないせいもある。
男は気にした風もなく、また指を咥えて吸いはじめたが、五メートルほど進んで足を止めた。
左は荷物の引き取り口である。Dがいた。
山高帽が静かにDの方を向いた。
眼が合った。
何処かで驚きの声が上がった。
突如、陽ざしが翳ったのだ。
Dの髪がなびいた。
朱いケープの裾が激しく翻る。
風だ。
灰色の空に閃光がきらめいた。
ジュークとゴルドーとセルゲイが気づいた。駅員たちも――
吹きつける風と稲妻と雷鳴のただ中で、彼らは、それが戦いであることを理解した。
馬上のDと――地上の山高帽と、二人をつなぐ空間に、見えない火花が散った。
「何処から来た?」
Dが訊いた。
罪人に罪科を尋ねる審問官のように。
山高帽がうすく笑った。
「遠くから」
と答えた。
自らの罪を信じぬ清廉な被告のように。
「何処へ行く?」
「遠くへ」
「ギャスケル将軍の領土なら、確かに遠い」
「よくご存じですな」
山高帽の笑みは深くなった。
Dは眼をそらさず、
「あの貨車からは血の匂いがする」
と言った。
「おまえの左手からも。――将軍の“招きびと”か?」
山高帽の表情に驚きの色が広がった。それを隠そうとし、彼はすぐにやめた。
「今度の招待では、どんな傑物にお目にかかれるのかと思っていたら、これは。“招きびと”の伝説をご存じならば、あなたは――D?」
「Dだ」
虚空のかがやきがDの顔を白く染めた。
恍惚のどよめきが上がった。駅員と三人の輸送隊員が洩らしたものである。一瞬の美しさは、彼らの魂まで奪い去ってしまったのだ。
いや、もうひとり――
陶然とDを見上げた。
「その名に対して名乗りましょう。我輩は、シューマ男爵です」
「聞いた名だ」
Dの声を雷鳴が叩いた。
「ご存じでしょうが、“招きびと”は我輩のみではありません。いずれ、みな、あなたにお目にかかることになるでしょう。――通ってもよろしいか?」
「駅の道だ」
「では――」
シューマ男爵は前方――改札口の方を向き直って歩き出そうとした。
全身がその意思に沿おうと動き出し――かけて止まった。
閃光が二人を青白く飾り――
雷鳴。
男爵のステッキが、すっとその先を浮かせた。
Dは動かない。
予期せぬ戦いは、どちらかの死をもって終了せざるを得ないと、誰もが確信した。
そのとき――
駅舎の玄関口あたりで、鉄蹄の響きと車輪の音が重なるや、それは急制動の悲鳴に変わって、停止した。
風と稲妻の中で、朗々たる、しかし、血の通った人間のものとは思えぬ声が、
「シューマ男爵はお着きか。南部辺境第三区管理官にして将軍――ギャスケルよりの迎えの馬車でございます」
駅員たちが、この言葉の恐るべき意味に気づくには、数瞬の間を必要とした。彼らはDとシューマ男爵との対峙に、魂まで奪われていたからである。
「ほう」
まず、男爵の全身がほぐれた。
Dへの笑みは絶やさず、ステッキを突いて、
「迎えが来たようですな。今回はこれにて――」
そして、彼の笑みは消えた。
Dは変わらない。世界が突如変化しても、この美しい若者だけは、眼前の敵を斃さずにはおかぬ。
戦いはなおもつづいていたのだ。
ステッキを持ち上げようとして、男爵の顔に、どす黒い絶望の憤怒が湧いた。
次の数秒の間に、何らかの結末が二人のもとを訪れていただろう。だが、天はそれを許さなかった。
上空から、異様な掛け声とともに、人間が降ってきたのである。
生物の内臓らしき袋にガスを詰めた気球を身にくくりつけた男たちであった。凶相を見るまでもなく、その服装《いでたち》、槍や剣での武装具合から、ひとめで強盗団と知れる。身体の前後に小さなプロペラのようなものをつけ、それによって、飛翔方向を制御するらしかった。
空からのこういう無法者の来襲が珍しくない辺境の駅では、空中への監視も本来は怠りない。大量の物資を運ぶ貨物列車の到着時には、特に厳重になる。
だが、今回に限って、人々の注意は異形ともいうべき二人の対決に根こそぎ奪い取られていた。
駅舎の屋根に設けられた監視所の役員は、辺境の貧乏村には珍しい火薬式自動小銃を上空へ向けた刹那、躍りかかってきた強盗のひとりに刺殺された。
犯人は、一緒に降下してきた別のひとりと、自動小銃と弾薬に台座ごと気球を取りつけ、ボンベから浮遊力の強烈なガスを注入する。
浮かび上がった武器は重要な戦利品として、遠い山中に待つ輸送馬車へ曳行《えいこう》されていく。
空中の男たちの手から次々に手投げ弾が投下され、駅舎も駅員たちも成す術もなく吹きとばされた。
「貨車へ入れ」
駅長が叫んだ。敵の目的は物資だ。それを積んだ貨車まで破壊するわけにはいかない。
駅員たちも反撃に移り、弓や空圧銃で数人の無法者を撃墜してのけたが、何分、不意討ちの上、敵の数は圧倒的に多く、駅舎への後退を余儀なくされてしまう。
その間に列車の屋根に着陸した男たちが、実に素早く手際よく輸送用の気球を取りつけ、列車はミニチュアみたいに軽々と宙に浮いた。
Dと男爵の頭上からも、矢の雨を降らせつつ敵が舞い下りてきた。
奇妙としかいえない現象が生じた。
着地した強盗たちが、そのまま地べたへ崩折れてしまうのだ。その胸に腹に、いつの間にか刺さっているのは、たったいま、彼らがDへと放った鉄の矢ではないか。
馬上で動かず、彼は左手に手綱を握り、右手一本で必殺の矢を掴み取り、手首のひとふりで攻撃者のもとへと投げ返したのである。
「さすがですな」
と男爵は微笑した。
「まるで、赤ん坊と大人の喧嘩だ。それでは我輩のはどうですかな」
ホームの左右から、剣と棒を手にした男たちが駆け寄ってきた。
血に飢えたような悪相と雰囲気が渦巻く男たちの足が、五メートルほど先でぴたりと止まった。
総毛立った顔から、みるみる血の気が引き、冷や汗が溢れ出す。そこへ貨車の屋根から跳び下りた三人が加わり――これも金縛りになった。
「どうしたね、来たまえ」
と男爵は呼びかけた。
それでも無頼漢たちは動けない。いや、動かないのだ。ストップをかけているのだ。そこから一歩でも離れたら、即死するとでもいう風に。
男爵がステッキを上げ、右側の二人をさした。
「来い」
すると、さされた男たちが、まるで操り人形か催眠術にでもかけられたみたいに、ふらふらと前進したのである。
二、三歩進んだところで、ステッキがすっと前へ突き出され、すぐに引かれた。三度。動いた距離は一〇センチもない。
くう、と鶏みたいな声を放って、男たちが喉を押さえてのけぞった。指の間から鮮血が噴き出したのは、仰向けに倒れてからである。
確かに傷口はステッキの動いた線の延長上にあった。だが、その先端からは優に三メートル以上離れ、どう見ても接触は不可能だったのである。
ステッキは左手に移り――右側の男たちをさした。
「来たまえ」
男爵の声は、抵抗できない暗示のようであった。
こちら側の二人もふらふらと前へ出た。うちひとり――棒を持った男が、かろうじて踏みとどまって、それをふりかぶりざま、獰猛な掛け声ひとつ、打ち下ろしたのである。
二メートル近い棒でも、男爵との間には同じくらいの隔たりがあった。棒の先から黒い鎖が跳び出し、男爵のステッキに巻きついたのは、次の一刹那である。
男は死に物狂いの力をこめて引いた。棒と鎖を扱うだけあって、男は巨漢であった。常人の三倍はありそうな体躯は、凄まじい筋肉の凝集によって、ひどくスマートに見えた。鎖はわずかな弛みも示さず一直線に張りつめ、男爵は微動もしなかった。
いきなり、男爵がステッキをふった。物理的にはあり得ない現象が起こった。
何と、二人の位置はそのまま、張り切った鎖が大きく波打ちながら走って、男の手首を棒ごと縛りつけたのである。
手首は折れた。――棒ごと。男が悲鳴を上げたのは少し後であった。
のびたステッキが一〇センチほど横に動くと、その喉から鮮血が噴き出し、男は新しい口を押さえながらその場に倒れ伏した。
ひとり残った。魅入られたみたいに動けないそいつへ、
「行きたまえ」
と男爵は声をかけた。呪縛は解けた。男は線路の上へと逃走に移った。
列車はすでに空中に浮いている。
走って腰のボンベとプロペラを調整しながら、その真下へ入った。
男爵が、
「ご覧あれ」
と告げたのは、Dに対してか、貴族特有の自己愛的大見栄であったか。
ステッキは思いきり弧を描いた。
列車を持ち上げた気球のロープがすべて切断され、それを曳いていた男たちは血を噴いた。
逃亡した男は舞い上がったところだった。落下する列車を彼は空中で支える形になり、足が地に押し戻された瞬間には、地球を支えるタイタンと化した。悲鳴は列車と地面が癒着する響きにかき消された。
響きはもうひとつ上がった。Dの左方に空中から手投げ弾が投じられたのである。
身を翻したサイボーグ馬の上で、Dは左手を上げ、吹きつける灼熱の破片を弾きとばしつつ、右手をふった。
宙を飛んだ白木の針は、第二の爆撃を敢行しようとしていた男の喉笛を貫き、手投げ弾もろとも空中に四散させた。針はつづけざまに三人を縫い、ついに強盗たちは悪罵を放ちつつ逃亡に移った。
なおも騒然としているホームに立つDのもとへ、ジューク以下の三人が駆けつけてきた。
彼らなりに奮戦したらしく、みな衣服は破れ、血と砂と火薬屑にまみれている。
「見てたよ、凄え。この乱戦の中で、馬から下りずに、あっという間に一〇人近く片づけちまったぜ」
「本当に無事かよ、おい」
喜びと驚きの声をよそに、Dはホームの端に眼をやった。
駅舎の改札を抜けようとしていたシューマ男爵が立ち止まってこちらを向き、片手を鍔に当てると軽く頭を下げて消えた。
「Dよ、あいつ、貴族か?」
ジュークが、白々とした表情で訊いた。
「そうだ」
「まさか。――陽の光の下を歩いていたぜ」
これはゴルドーである。もとから黄ばんだターバンは血に染まっていた。
「稀にいる」
「昼歩く貴族か――天下無敵だ」
セルゲイがぼそぼそと口を動かした。
「ギャスケル将軍に喚ばれたとかいってたよな。どういうこった。将軍はとっくの昔に……」
言いたくなさそうにつぶやくゴルドーの肘を、ジュークがこづいた。
「相手は貴族だぜ。また、生き返ったのよ。あいつらに時間は関係ねえ」
「そうか――おお、馬車が走り出した。あいつめ、ギャスケル将軍のところへ行くつもりか」
「何にせよ、おれたちのルートとは関係ねえ。ひと安心だ」
とジュークが長い息を吐いたところへ、駅員がやってきて、つぶれた貨車の荷物を点検してくれと申し出た。
「こりゃ、一日仕事だ。D、すまんがつき合ってくれや」
とジュークがすまなそうに言った。
三台の貨車のうち、残った一輌分の物資は、幸い、奪われた二輌の分を足したより多かった。
人手を雇って借りた荷馬車に積み込み、村を発ったのは、昼を大分過ぎてからである。
「次は、ジェルキンの村か。陽が落ちる前には着けねえな」
何となく嫌そうな御者台のジュークの言葉に、
「ともかく急いだ方がいい」
と眼を光らせたのは、ゴルドーにあらず、隣の席に腰を下ろしたセルゲイであった。寡黙なこの男が珍しく空を見て、
「夕暮れまで、あと三時間。村まではもう三時間かかる。野営して明日の朝いちばんで届けたらどうだ? 契約期日より二日しか遅れてねえんだろ」
「莫迦野郎。村の連中がどれだけ待ち焦がれてるのかわからねえのか。おれたちの届ける薬が一時間遅れただけで、毒甲虫《かぶと》に刺された赤ん坊が死んじまうかも知れねえんだ。世迷いごとをぬかすと、叩き出すぞ」
青すじをたてて怒るジュークに、セルゲイはたちまちシュンとなった。どうも辺境に生きる男らしくない。
馬車の上で、そのやりとりを聞いていたゴルドーが、にやりと笑って後ろへ行き、後尾デッキに下りて、しんがりを守るDへ話してきかせた。
「セルゲイってな、おかしな奴でよ。人間は悪くねえし、仕事もきちんとやる。辺境でだって生きられそうなのに、何かひと味足りねえんだ。話も妙に理屈っぽいしよ。あれがインテリつうんだかね。――おっと、早くなった。ジュークの野郎、どうしても、今日中にジェルキンへ到着する気だな」
じき、周囲の光景は荒涼の度を増してきた。
緑一点見えない平原の道である。あちこちに、さしわたし一〇〇メートルもありそうな大穴が開き、奇岩が折り重なって、芸術品ともいえる奇態なピラミッドを形づくっている。
あちこちから立ち昇る白煙は、毒性のガスで、周囲には、おびただしい鳥や獣たちの骨が散らばっていた。
「風向きが悪いな。こっちへ流れてくるぜ」
と、屋根に戻ったゴルドーが、御者台へ声をかけた。
「大丈夫さ。大した量じゃねえ。吸い込んでも、寿命が何カ月か減るだけだ」
ジュークの返事に、
「それもそうだな」
その二人の耳に、
「今日は別だ」
と、うっとりするような男の美声が聞こえた。
本当にうっとりしかけ、二人――いや、三人はあわてて街道の両側へ視線を飛ばした。
いつもなら、地表をうすく流れるだけの白煙が、急に、地面の色さえ覆い隠して白々と渦を巻きつつこちらへやってくる。彼方の森も山脈も白く煙り、輪郭のみを残して――それもすぐに見えなくなった。
「何だ、こりゃ?」
と眼を剥くゴルドーとセルゲイへ、
「眼を閉じろ、息もするな。あと一分で抜ける」
とジュークが叫んだ。
このガス攻撃に耐えられるのは、サイボーグ馬のみだ。
「はあっ!」
掛け声をかけるや、ジュークは手綱をふって馬の足を速める。
ガスの前進速度は遅いが、こちらも荷馬車の分不利だ。重い。
「追いつかれるぞ」
とゴルドーが叫んだ。
後方の道はすでに白く閉ざされ、ガスは馬車を追ってくる。まるで生き物のように。
「急げ」
「駄目だ、追いつかれる」
とセルゲイが後ろを見て絶望の声をふりしぼった。
そのかたわらに、人の気配が生じた。
「――D!?」
御者台は両脇に護衛と予備の御者の三人が乗れる。
Dは疾走する馬から乗り移ったのである。猛然とゆれる御者台で、二人を隅の方へ追いやると、彼は仁王立ちになって手綱を握った。
突然、馬が変わった。
そうとしか思えぬスピードの上がりっぷりであった。
「おおおおお」
屋根の上で、把手にしがみついたゴルドーが感嘆の叫びを放つ。
「早え、早え。この馬――超一級だぞ」
「違う。御者が凄えんだ!」
追いすがるガス塊を尻目に、馬車はぐんぐん距離を開け、やがて、左右に崖の迫る谷隘の道に入った。
Dはかまわず突っ走る。ただ、手綱を操るだけで、六頭のサイボーグ馬は、勝利こそ誉れと教え込まれた名馬のごとく地を蹴った。
小石一つを踏むだけで、馬車は狂気のごとく、或いは狂喜のごとく跳ね上がった。
「止めてくれ!」
ゴルドーが金切り声を張り上げた。Dが手綱を握ったときから、もう一時間以上、把手につかまったきりだ。馬車と一緒に内臓が跳びはね、脳は踊り、骨は哄笑を放つ。それが一時間。
残り二人も手すりにつかまって、落ちないようにするのが精一杯の荒っぽさだ。
ぎゃあ、ひい言ってるうちに谷間を抜け、道はやや下りになり、そして、緑の木々の間に村の家々が姿を見せはじめた。
馬車は三人の男の悲鳴と絶叫を土産に、ジェルキンの村へと突入した。
昼間は門の柵も開いている。
何が起こったのかわからず、茫然と立ちはだかる村人たちを尻目に、大通りを抜け、一気に中央広場へ。
石とぶつかった蹄が火花を散らし、轍が土に食い込む。
突如、静寂が落ちた。
ジュークは、のしかかる格好のセルゲイを押しのけて立ち上がった。
「大丈夫か?」
と屋根のゴルドーに声をかける。
「死んでるぞ、莫迦野郎」
「もっともだ」
と御者台から下を見下ろし、胸の中で、しまった、と洩らした。
遠巻きにした村人は、ひとり残らず怒りの形相を浮かべていた。
鋤や鍬はもちろん、大鎌や長刀――弓矢まで構えている。
責任者は何処だ、と眼を皿のようにしたが、Dの姿はない。
ジュークは一同に向かって、
「おれたちは、物資の運送屋だ」
と大声を張り上げた。
「あに言うだ、このスピード狂」
と、農夫のひとりが叫んで大鎌をふり廻した。
「うちの婆さん、びっくらこいて、腰抜かすとこだったぞ」
「鶏が驚いて、卵を生まなくなったら、どうする気だ、こら」
と若い農夫が歯を剥いた。
「大変だ」
と遠くで素っ頓狂な声が上がった。
「ヤペイのお袋さんが、泡噴いちまったぞ」
「こんの野郎」
「田舎者《もん》だと思って、舐めてけっかる」
「火炙りにしてしまえ」
どっと押し寄せる村人を相手に、まかり間違ったら、ジューク以下の三人もただでは済まなかったろう。
そこへ、
「待たねえか、これ」
と、どう聞いても歯が欠けているとしか思えない声が、ふがふがとかかった。途端に、村人たちの全身から殺気が失われた。
人垣を割って現われたのは、地面と平行に腰の曲がった、齢《よわい》百歳とも二百歳とも思われる老人であった。ついた杖は、太い木の枝を磨き込んだ品だ。
「お久しぶりだや、ジュークさん」
と老人は、ふがふがと名前を呼んで、
「それにゴルドーさん――もうひとりは新入りかの。この前会ったのは、かれこれ半年も前だが、ちゃんと覚えておるよ」
「助かったよ、村長」
ジュークは心底胸を撫で下ろした。
「荷物を下ろすかの。ほれ、みんな手を貸してやれ」
村長が顎をしゃくるや、今までの凶気は何処へやら、村人たちは喜色満面、女や子供や老婆までが馬車へと押し寄せようとした。
「近づくな」
とジュークは一喝した。慣れているのか、凄まじい蛮声であった。人波はぴたりと止まった。
「あれま、あに冷てえこと言うだ。わしゃ、あんたらの手を助《す》けようと」
「いいから下がってろ」
ジュークは、これ見よがしに腰の火薬銃をさらけ出し、
「さ、物資を下ろすぞ、誰も近づけるな」
と二人の仲間に命じた。
荷物下ろしが終わり、村長から代金を受け取ったのは、夕暮れどきであった。なんと、全力疾走三時間の距離を、Dは一時間足らずで走破してしまったのである。
一晩限りの宿泊料を払い、三人で野宿の準備を整えていると、いつの間にか背後にDがいた。
「わっ!?」
と驚いてから、
「ど、どこに行ってたんだよ、今まで?」
非難混じりにジュークが問いつめると、
「なぜ、村の宿を借りない?」
とDが訊いた。
旅人用の宿舎として、小さな村では村人の家を開放するのが普通だし、それなりの規模になると、専用の宿舎も備わっている。料金さえ払えば、土の上に眠る必要はないわけだ。
「冗談じゃねえよ、D」
とジュークは鼻を鳴らして夕闇を透かした。
「あんた、ハンターとしては超が百もつく一流だが、他は世間知らずだな。こんな村の連中に隙を見せてみろ、一分で馬車の中身は空になっちまう。見な、あの家と木の陰を。二、三人隠れてるだろ。みいんな物資を狙ってるんだ」
荷物の積み降ろしを手伝おうとした村人たちを追い払ったのも、それが理由であった。
「それにしては、嬉しそうだな」
Dはジュークを一瞥して、言った。
「わかるかい?」
「ああ」
「責任上、かっぱらいはこっぴどく痛めつけるがよ、おれは、こいつらが好きなんだ。こんなど田舎の――一歩外へ出りゃあ、貴族が放し飼いにした化物どもがうようよしているちっぽけな村でよ、必死に生きてるんだ。そらあ、こすっからくもなるさ。おれがあいつらだったら、残りの物資の半分はとっくに頂戴してるね。それだけ、あいつらは頓馬で良心的なんだよ」
ジュークは穏やかな眼をしていた。
「――おれの親父も」
と言いかけたとき、向こうからセルゲイがやってきて、
「二時間ばかり貰っていいか?」
と切り出した。
「いいけど――何をする?」
「この村の外れに遺跡がある。覗いてきたいんだ」
「あー?」
と髭の間から歯を剥き出したが、ちら、と暮れなずむ空を見て、
「一時間半で帰ってこい」
と命じた。
礼を言って去るセルゲイの後ろ姿へ眼をやりながら、
「おかしな野郎だ」
とジュークは眉を寄せて、隣のDを見た。
そこには誰もいなかった。
サイボーグ馬を全力疾走させると、遺跡までは三〇分足らずで着いた。
闇色に近い空の下に、草一本ない荒地が茫々と広がっている。
ここを遺跡と呼ばせるのは、この土砂の下から覗く奇々怪々な品々であった。
ねじくれた金属のアンテナらしきもの、発電器を連想させる巨大な円筒の一部、いくら頭をひねっても正体などわかりそうにない複雑なメカニズムの断片、飛行装置と噂される円盤の破片――「都」の考古学者が来たら、宝の山だと大騒ぎになるだろう。
馬ごと遺跡へ踏みこんだセルゲイの顔は、別人のような知的興奮を刷《は》いていた。
明らかに超高温で叩かれた金属体に近づき、手を触れ、観察する。半壊の水晶体の周りを何度も廻って、食い入るような視線を送る。辺境の輸送業者は、突如、学究の徒に変貌したかのようであった。
それからの一時間近くは、セルゲイにとって至福のときであった。
残照の最後のにじみが闇に閉ざされる寸前の空を見やって、小さな舌打ちをしたとき、
「気が済んだか?」
と背中からDの声が呼んだ。
ふり向いて、
「驚かすなよ」
と息を吐く間に、Dは彼の隣に並んだ。
「あと五分もしないうちに、貴族の世界が来る。戻った方がいい」
「そうだな。つい夢中になっちまった。くわばらくわばら」
とあたりを見廻し、
「やっぱり、わからなかったな。畜生」
と無念そうにつぶやいた。
「何がだ?」
とDが訊いた。これがどんなに珍しい――どころか、奇跡に近いことか、セルゲイにわかるはずもない。
得意な科目について質問された優等生みたいな調子で、
「ここは遺跡っていうより、古戦場の跡なんだ。見てくれ、ここに転がってるのは、巨大なレーダーや発電器や戦車の残骸だよ。本体は地中に埋もれているが、本格的に発掘すれば、それこそ、どこを掘っても貴族の兵器が出てくるだろう。しかも、ここがどんな戦場か知ってるかい? ギャスケル大将軍と『都』の軍隊が雌雄を決した場所なんだぜ。ああ、ぞくぞくする。――おお」
獣のように咆えて、セルゲイは右手をふった。
それから、Dを見て、ようやく現実に戻った。
「いや、済まない。つい、夢中になっちまった。輸送屋のおしゃべりじゃねえやな」
ここで眼をそらそうとしたが、Dの瞳に吸いつけらて離れず、
「――ここには、そのときの、戦史を収めた保管庫があるはずなんだ」
と打ち明けた。
再び熱狂が取り憑きはじめていた。
「伝説の大将軍対貴族の連合軍だぜ。どんな戦いがあり、どんな結末を迎えたか、おれたちが知っている以上の出来事を知りたかあねえか。この戦いは、貴族の間でも伝説になってる。つまり、真の有様は誰も知らねえんだ。この戦場のどこかに埋まっている大理石と絶対金属の建物の中に、それが隠されてるんだよ」
「おまえ――学者だな」
Dは静かに言った。
「よしてくれ。ちょっぴり歴史に興味のある、ただの運送屋さ。さ、もうあきらめがついた。帰ろう。いくら、Dが一緒でも夜はうす気味が悪いぜ」
Dが前に出た。
「おい、村はあっちだよ」
と指さすセルゲイへ、
「来い」
とだけ言って進むにつれ、馬の足も速くなっていく。
魔魅《まみ》に見込まれたかのように、セルゲイも馬に鞭を入れた。
黒雲のごとき闇の中心へと、二人は全力疾走に移った。
一〇分ほどで、Dは馬を止めた。セルゲイは馬上で装着した夜光器のピントを合わせている。Dの速度に何とかついて来られるだけでも大したものだ。
ようやくピントを合わせ、馬上からひとあたり見廻して、
「何にもねえぜ、おい」
と抗議した。
Dは答えず、前へと歩いていく。
「おい、何処へ――」
追いかけようとして、しかし、闇の深さに脅えた足は、前進とためらいの動きを同時にこなしかねて、セルゲイをつんのめらせた。
「ひいこら」
夢中で起き上がる途中に、地面の方を向いた眼は、あるものに気づいた。
「おい――あんた、ここへ来たな」
言ってから立ち上がり、セルゲイはズボンの前をはたいてから、
「いかん」
大あわてでDの後を追った。
黒衣の若者は闇に挑むかのように、漆黒と同化しつつあった。こんなところに置き去りにされては敵わない。
「足跡があった。あんただろう。あの勢いで村へ突入したのも、ここへ来たかったからだな」
それで、当初、Dが消えていた理由《わけ》も納得できる。
闇の中の道行きも一〇メートルも行かずに終わった。
Dが立ち止まったのである。その前方には荒野と闇が広がっているばかりだ。奇妙な状況よりも、黒衣のハンターの後ろ姿の美しさに、セルゲイは陶然となった。
Dが左手を上げた。
あるかなきかの夜風の速度を測っているとも、中天にいま、白々とかかる月の光の重さを調べているとも、セルゲイには感じられた。
すると、左手の先の方で、奇妙な嗄れ声がこう言ったのである。
「よし。呪われた保管庫の門よ、いま開け」
手のひらから、何やら赤黒いすじが月光の下を走った。何とそれは、セルゲイの可視範囲を遥かに越えた彼方の闇へと吸いこまれたのである。
何事もなかったように下ろしたDの左手からは、一滴のしずくもしたたりはしない。
一体、何が? ――こう疑念を抱きながら、セルゲイは答えを知っている自分の精神と、答えの内容とに戦慄している。
甦るのか、あれが? 奇怪な声が告げた伝説の――呪われた保管庫が? あれが?
両足の底から、かすかなゆれが伝わってきた。
真正面から風が叩きつけ、その痛みにセルゲイは、顔をそむける前に手で覆った。
それでも指の間から覗く。息を呑んだ。その息が肺のなかで凍りついた。
闇の彼方から、地平を圧して銀色にかがやく雲が押し寄せてくるではないか。
彼が背を向けなかったのは、前に立つ人影の不動の静けさによるものだ。
銀雲はすでに天も地も埋め尽くし、地表はごおごおとどよめいた。
Dが呑みこまれる寸前、セルゲイは眼を閉じた。
運命に対して、全身が硬直の体勢を取る。苦痛と恐怖の予感にセルゲイは失神しかかった。
だが、どこかに希望を抱いていたのかも知れない。前方の若者と一緒なら――と。
凄まじい風圧が全身を叩き――ぴたりと熄《や》んだ。
セルゲイは眼を開いた。怖かった。人が見てはならないものが、眼前に広がっているかも知れない。
Dの背中が見えた。
安堵が胸を突いた。
つかの間であった。
視線は、美しい若者の前方にそびえる巨大な物体を捉えた。
銀色の雲だ。
動いている。
その表面は音もなく渦巻いている。それなのに、広がりもしないのだ。
セルゲイは視線を上方に移した。
銀雲は天まで届くように見えた。
声が出たのはいつかわからない。Dの後ろ姿に、動く気配を認めたからだ。
「何だ、こりゃ?」
「保管庫じゃ」
と、あの[#「あの」に傍点]嗄れ声が言った。それが誰のものなのか怪しむ意識も、セルゲイにはなかった。
「さっきはまだ、出現のための時刻《とき》が来なかった。さあ、ついて来い」
Dが遠ざかった。
少しためらい、セルゲイは後につづいた。この場にひとり残され、戦場の死霊や妖物どもと対峙するよりは、死人のように美しい若者と未知の世界へ足を踏み入れる方が、遥かにまし[#「まし」に傍点]だったからである。ただし、正しい[#「正しい」に傍点]かどうかはわからない。
Dの姿を雲海が呑みこんだ。
渦巻く雲の前でセルゲイは立ち止まり、それから大きく深呼吸をひとつして、大股に侵入した。
霧に包まれる感触さえなかった。
セルゲイは眼を開いた。
青い光が四方に満ちていた。雲のただ中に彼はいるのだった。前方に佇むDは、最初から少しも動いていないのではないかと思われた。
「ここは――雲の中か?」
「他の何処だと思う?」
と例の嗄れ声が、小馬鹿にしたように訊いた。
セルゲイは自分が密閉された空間に閉じ込められているのに気がついた。
天井も壁も床も渦巻く雲だ。その内側に七、八メートル四方の空間が形成され、二人はそこにいるのだった。
「ぼんやりとしとらんで、外を見ろ。滅多に見られぬ保管庫の内部だ」
嗄れ声の意味は、すぐにわかった。
雲海を透かして、外側の光景が見えるのだ。そして、セルゲイとDとを包んだ空間は、一個の球体となって移動中なのであった。
だが、何という広大な、そして、荒涼たる眺めであることか。
あの古戦場ですら、これほどの死と静寂と虚無に満ちてはいない。
見渡す限りの黒暗々たる鋼鉄の平原であった。視界は確かに闇につぶされているにもかかわらず、セルゲイはその平原に横たわる巨大な廃墟や乗り物らしい残骸を、はっきりと見ることができた。
「ここは外とは違う。保管庫の内部だ。廃墟は侵入者を防ぐ防御機構の成れの果て、乗り物は侵入者たちの使った戦車や自走砲だ」
嗄れ声は淡々と、
「この保管庫の秘密を求めてやって来たのは、おまえのような虫ケラ考古学者とは違う。名だたる貴族の軍勢であったし、外宇宙から飛来した異星人たちでもあった。いま見る限り、保管庫内での戦闘は、外よりも激しかったに違いない。見るがいい、この凄惨な死と破滅を」
眼前を眼下を淡々と流れ去る光景は、声の千万倍も悲劇的であった。
崩壊した構造物は地平の彼方まで蜿々と連なり、時折、稲妻とは思えぬ光が、平原を青く照らし出すと、人とも機械ともつかぬ声が、哀しげに斉唱するのだった。闇に閉ざされ永劫に光というものを知らぬ犠牲者たちが、まだ生きているのだろうか。
「流れ星か」
嗄れ声の彼方で白いものが闇を切った。
やがて遠い地表で青い光が湧き上がり、ほんのわずかだけ、こちらに広がるように見えて、すっと消えた。
「いや、どこかの貴族が射ちこんだ流星ミサイルか。アステロイド・ベルトに基地があるのだろうが、それを操る奴らが生きていたのは、もう何千年か前だ。しかし、よく、この保管庫のバリヤーに穴を開けたものだて」
セルゲイにも、それは、歴史として甦る大事業のような気がした。
「ここから先は、誰も踏み込んだことがない。創造したギャスケル大将軍と――“神祖”以外はな」
嗄れ声に、Dがうなずいたようにセルゲイには見えた。
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第五章 保管世界
「何かこう、寒くねえか?」
焚火にそだ[#「そだ」に傍点]をくべながら、ゴルドーが訊いた。
馬車の周りをひと廻りして戻ってきたジュークへ、沸いたぜとブリキのカップに入れたコーヒーを差し出す。
ひと口飲《や》って、ジュークは顔をしかめた。旅人用の乾燥コーヒーは、“黒いトウガラシ”と綽名されている。それでも飲みこんだのは、独特の興奮性物質のせいで、副作用なしの覚醒効果が抜群だからである。
口直しのキャンデーをひとつ放りこんで、くちゃくちゃやりながら、
「そういや、この時期にしちゃ冷えるな」
こう答えて、右手に巻いた腕時計型のハンド・モジュールに眼をやる。小さなキイを押すごとに辺境標準時から、現在位置標示、ヘルスメーターへと画面が変わる品は、「都」の機械工が手づくりで年に十個しか製造できず、辺境での入手は極めて難しい。生命を狙われる恐れがあるので、所有者は滅多に人前にさらさない。
気温モードに合わせて、
「三度か。普通なら十一度と出てる。おかしいな」
「村の奴らが何か企んでるんじゃねえだろうな。――凍死させて、残った品をかっぱらっちまおうとか、よ」
ゴルドーの言葉は、ジュークの鼻を鳴らしただけだった。
「こんな村に、気候調節器とか、あると思うのか? 多分、妖気のせいだ」
「妖気ィ?」
「この冷却の原因が気象装置じゃないとすれば、それしかあるまい。村の奴らも毛皮に着替えていた」
「妖気って妖物か?」
「わからねえ。動物にしちゃ凄まじすぎるぞ」
「くわばら、くわばら」
ゴルドーは、枝をもう一本加えた。火の粉が舞い上がった。
「ああ、こういうときは、ひとりでも多い方がいいのによ。おい、セルゲイはともかく、Dはどうした、Dは?」
「さて」
「奴さん、うす気味が悪くていけねえ。腕の方もルックスも凄いが、やっぱ、ダンピールだな、近づくと空気が――」
いまと同じく冷たくなるのだ。二人は総毛立った顔を見合わせた。夜気のせいばかりではなかった。
「おい」
とジュークが顔を右の方に向け、眉を寄せて、
「聞こえるか、あれ?」
ゴルドーも眼を閉じ、耳をすませてうなずいた。
「馬車の音だ」
「あれ[#「あれ」に傍点]か?」
「そうだ。シューマって貴族の馬車だ。駅のときと同じ音がする」
「おまえの耳なら間違いねえな。――いままで、何処で何してやがった? とうの昔に糞ったれ将軍さまの領地へ出向いたと思ってたぜ」
ののしるジュークの耳に、いまははっきりと、闇を圧する鉄蹄の響きが聞こえた。
南から北へ――
「ここ[#「ここ」に傍点]だ」
ゴルドーが立ち上がった。地面から掴み上げた多銃身火薬長銃の撃鉄を起こし、セレクターを押して射撃モードを斉射に合わせる。直径一〇ミリの弾丸を一度に三十二発も食えば、大抵の妖物は即死する。
音が高くなった。近づいたせいもあるが、あらゆる音が絶えたのだ。村も気づいたのだ!
深々とふける夜に、魔性の足音が近づいてくる。
ジュークが腰のボルト銃の銃把《グリップ》に手を当て位置を確かめた。
「五〇」
とゴルドーが言った。頬を伝わる汗が月光にきらめいた。
「四〇……三〇……二〇……一〇……来た」
同時に、鉄蹄は門の外で止まった。蹄と轍のとどろきがぴたりと熄《や》む。鮮やかとしかいいようのない急停車ぶりであった。
自分たちの心臓の音さえ聞きながら、二人の輸送屋は闇の中に立ち尽くした。
「私はシューマ男爵だ」
と朗々たる声で呼ばわった。マイクを使っているはずだが、肉声としか思えない。
「この村にいる吸血鬼ハンターに用がある。門を開けろ。開けなければ勝手に入るぞ」
必ずしも恫喝の口調ではない。それだけに村人たちが怯え切っているのは、びしりと凍りついた夜気が証明していた。
「村には何もせん。村の者にも用はない。ハンターに会いたいだけだ。それとも、そちらから出てくるか――吸血鬼ハンターよ」
ジュークは眼を閉じた。万事休す。こういう場合の村人の反応は、十分すぎるくらいにわかっていた。
「三分待とう。その間に何の反応もなければ、無茶を承知で入るぞ。その際は、多少の犠牲はつきものと覚悟するがいい」
男爵の声が終わらぬうちに、闇のあちこちから音と声とが噴き上がった。
扉を開け、広場へ殺到する足音と――怒声だ。
「あいつら、何処にいる?」
「広場だ」
「さっさと追い出すんだ。嫌だつったら、殺しちまえ」
殺到する叫びに、ジュークとゴルドーは顔を見合わせ、苦笑した。怯えがないわけではないが、これくらいのトラブルにすくみ上がっては、辺境を行く輸送隊に加われはしない。
「しゃあねえな」
ジュークが残りのコーヒーを一気に呑み干した。
「腹をくくるか。――遺書は書いてあるんだろうな?」
とゴルドーが訊いた。
「おまえ、書いたのか?」
「阿呆。そんな暇あるか」
「暇ぐらいあるだろ」
「うるせえな」
「おれは毎回書いてる。なけ無しの遺産をおまえらなんかに分配されたかねえからな」
「ふうん」
二人の周囲には、すでに村人たちの波が押し寄せつつあった。波は敵意のしぶきを飛ばした。その中での会話である。
「で、書いてねえのか? ねえんだな」
とジュークが人波を見渡しながら念を押した。
「ああ、書いてねえよ!」
ついにゴルドーが爆発した。
「それがどうした? 遺書を書いてなきゃ、輸送隊に入っちゃいけねえのか?」
「とんでもねえ。だけど――どうしてかなア?」
「てめえ、ジューク、知ってやがるな?」
「何をかなア?」
髭面でこれをやられると、気味が悪い。
「おれは字が書けねえんだよ!」
「ひえええ、知らんかったア」
わざとらしくのけぞった身体が、鋼のしなやかさで反転した。
自然に両手を下ろしたその姿に、殺気ひとすじ、隙の一分もないのを見て、満々に殺気を湛えた村人たちも、ぴたりと前進を停止した。後ろの奴らはそれでも止まれず、少し押し合いへし合いする。
「こらあ、みなお揃いで――何の用だい?」
とジュークが微笑した。
「とぼけるな。ハンターを出せ。吸血鬼ハンターだ」
「さっき、馬車を操ってた奴だ。どこさ行った?」
村人たちの手には、鍬、鋤、鎌の他に、輪胴長銃や旧式の気圧銃、火薬ガンも光っている。それらの噴き出す殺気が村人たちの凶気とすり合って火花を散らした瞬間、二人の運命も決まるだろう。
「見てのとおりだ――そんな奴はいない」
とジュークがとぼけた。
「何処さ行った?」
「知らんな」
不気味な沈黙が村人たちの間に落ち、次の瞬間、じり、と輪が狭まった。
「本当に知らんのだ。吸血鬼ハンターが、おれたちと同じことをしていちゃ商売にならねえ。多分、じきに戻ってくるさ。あの貴族の匂いを嗅ぎつけてな」
ジュークは門の方へ顎をしゃくった。
「確かに、奴さんは吸血鬼ハンターだ。聞いたことあるだろ。――Dってんだ」
どよめきが村人を包んだ。
えて勝手な人間の心理は、言葉ひとつで浮動する。Dというただひと言で。
「D――か」
「吸血鬼ハンターだ」
「負けたことがねえって話だぞ」
「あんなきれいな男、あたし見たことないわ。あんな人間いない。人間でないなら――貴族だって斃せるわ」
「そうだ!」
「――Dを呼べ!」
「すぐだ。何処にいる?」
手前勝手な希望と期待に満ちた顔と声へ、ジュークが重々しくうなずいた。
「まかしておけ、すぐに来る」
ひときわ激しい歓声が上がった。
それに重なって、
「あと一分」
みなの血を凍らせる貴族の声が、門の向こうから降ってきた。
村人の形相が三度《みたび》変わった。
「Dは何処にいる?」
「早く――出せ」
「村がやられるぞ。みいんな喉を裂かれて血を吸われちまう」
娘の絶叫が夜気を貫いた。生命ではない、魂を汚される恐怖だ。
「あと三〇秒」
シューマ男爵の声は、何処か愉しげであった。
「間に合わねえ。やっぱり、おまえたち、出てくだ」
人垣が縮まった。
「おい、ジューク」
とゴルドーが小さく呼びかけた。
「貴族より人間に囲まれた方が、おれぁおっかねえぜ」
「全くだ」
「……二〇秒」
「出てけ! おまえら、出てけ!」
村人の声が重なった。異なる内容なのに、どれも同じに聞こえた。
「一〇秒」
村人がにじり寄る。それは人間の顔ではなかった。恐怖と狂気に彩られた悪鬼の顔だ。
「五――四――三――二――一」
どん、と大波が打ち寄せるみたいに村人たちが突進した。
その足を、馬のいななきと――驚きの声が止めた。
「お、おまえは――何者だ!?」
少し間を置いて、
「待て、何処へ行く!?」
明らかにシューマ男爵の叫びであった。最後の声は蹄と轍の響きが踏み消した。
猛烈なスピードで遠ざかっていく。
「行ったぞ!」
「もう大丈夫だ!」
村人たちの嬉々たる叫びをよそに、ジュークとゴルドーはさすがに顔を見合わせ、
「あの野郎、何処へ行った?」
「その前に――何を――いや、誰を見た?」
漆黒の闇を、執念の光が貫いていた。シューマ男爵の双眸《そうぼう》である。彼は馬車の窓から身を乗り出していた。
Dとの遭遇と、そのための村の破壊も辞さぬ決意とを易々と翻させたもの[#「もの」に傍点]は、その闇の何処かにいた。
姿こそ見えないが、分子変化まで測定、探知可能な粒子センサーには緑の影がはっきりと映っている。彼の追うものは、いわば、ひどく希薄なガスの状態で空間を移動しているのだ。
ただし、時速一二〇キロで疾走する馬車との差が縮まる気配もない理由はわからない。
ある意志によるものだろうか。
村から一キロも離れたあたりで、男爵は眼を剥いた。
センサーからも緑の影が消滅したのである。
「無と化したか」
車内に戻っていた男爵はつぶやき、黄金のブレスレットに向かって、
「馬車を止めろ」
と命じた。
月光に照らされた森の中の路であった。
木立ちの影が互い違いにさし交わしている。
馬車を下りた男爵の足下に、自らの影はなかった。
彼は深々と夜気を吸い込んだ。
「何処へ行ったかとあわてても、わからんものはわからんか。それよりも、この味のいい空気を肺に満たして、汚らわしい村へ――Dのもとへと戻るとするか」
ふと、男爵は足下に眼をやり、何かを認めて身を屈めた。
草むらに、名も知らぬ花がひっそりとゆれている。
それを拾い上げ、鼻先に近づけたのは、夜の香りを求めたのか。
だが、目的を遂げる前に、男爵は花を捨てた。茎だけ――の。可憐な花びらは、彼が手を触れたときに干からびはじめ、持ち上げたときにはもう、空しく散っていたのである。
「嗅げるのは、手づくりの香りだけ、か。貴族の宿命とはいえ、やるせないものよ」
憮然とつぶやくその前に、白いものが立っていた。
「おまえは……?」
愕然とはせず、むしろ呆然と見つめたのは、夜の見せる幻のごとき少女の姿が、あまりに現実的であったためか。
村の門の前で彼の前に忽然と現われ、また消えて、三度小路の彼方に立って男爵を誘った少女――彼女はひとりの貴族を何処へ導こうというのか?
のばした男爵の指先が、少女の腕に触れた。伝わる感触は、確かに柔らかな現実の肌だ。その下に流れる熱い血潮も、また。
男爵は力をこめてその腕を掴んだ。
眉が寄った。
指の中の実感が溶けていく。
男爵は指を握りしめた。
少女はいなかった。月光は粛々と雨のごとく降りつづいている。
男爵は眼をしばたたいた。
路の彼方に少女がいた。最初からそこにいたように。足下には黒い影が落ちていた。
「この路を辿れということか」
ついに男爵は理解した。
「――いいだろう。望みのままに、夜を行こう。それが夢であり、ギャスケル大将軍の要求を裏切る旅であろうとも、私は恐れんぞ」
彼は身を翻して馬車へと戻った。その肩から払い落とされた光の粒を巻いて、馬車は走り出した。
男爵が再度馬車を止めたのは、廃墟の一角であった。
二頭のサイボーグ馬を認めて、彼は馬車を下りた。
その彼方に銀色の雲が渦巻いている。
闇を透かして凝視する貴族の眼が、このとき、爛々とかがやきはじめた。
「そうか。私の呼びかけに答えられなかったのは、やはり、不在だったからか。しかし、この雲が、将軍の口にしていた“保管庫”か。だとすれば、この内側には、どんな世界が広がっておることか。ひとつ覗いてやろう」
男爵は光る眼で地面を走査した。二すじの足跡が見つかると、彼はその後について歩き出し、じきに、真っすぐ銀雲に吸いこまれた。
雲海内を航行しはじめてから、すでに一時間以上が経過していた。嗄れ声が口にした、ギャスケル大将軍と“神祖”以外には足を踏み入れたことのない領域に突入してからも二〇分が過ぎている。
眼下には同じく鋼の平原ばかりが空しく広がり、時折、同じ鋼の山脈らしきものが現われる他は、動くものの姿もない。
地平の光も絶えて久しい。一体、あの雲の内部には、どれほど広大な世界が広がっているのかと、セルゲイは不気味なものを感じはじめていた。
訊きたくても、前方を向いたきりのDの後ろ姿は、厳然と揺るがず、どんな問いかけも拒否していた。
――これが貴族の文明か。
感嘆は戦慄の同意語であった。
不意に、青が濃さを増した。
強烈な衝撃がセルゲイを床に投げ出した。
「やはり、生きて[#「生きて」に傍点]いたか。このまま進むのは危険だぞ」
嗄れ声の方を必死で見上げた。Dはもとの位置に立っている。激しくゆれる床に、嘔吐がこみ上げた。
生きていた、とは防御機構のことだろう。眠りつづけていたメカニズムは、新たな敵に対して実力行使の機会を得たのだ。
「この乗り物は、“保管庫”のじゃないのか? ――うおっ!?」
赤い色彩が室内の青に挑んだ。火花だった。なぜか、セルゲイはほっとした。
嗄れ声が聞こえた。
「いかんな、識別装置が故障中とみえる。このままでは撃墜されるぞ」
「何とかしろ!」
叫んだセルゲイを床が跳ねとばした。一発食らったらしい。
「降下するぞ」
嗄れ声が言った。彼らの乗り物は撃墜されたのか。
「着いた」
「え!?」
セルゲイは頭を押さえたまま、眼を剥いた。一秒とたっていない。
眼の前を黒い影が右から左へ歩き去った。
「何をへばっておる。下りろ。やられるぞ」
セルゲイは夢中で起き上がった。
背骨と左の肩がひどく痛んだが、気にしてはいられなかった。
Dの姿はない。セルゲイは左方の壁へ突進した。
突然、窒息した。
酸素がない。急激な呼吸不能に、肺が激しく喘ぎ、心臓が喚いた。
「いかん――こいつは普通の人間じゃったわ」
声と同時に、口の中に何か冷たいものが吹きつけられ――途端に呼吸《いき》が楽になった。
大きく咳きこんだのは、Dが左手を抜いてからである。
「な、なな……」
「ここは人間用の空気ではないのだ。恐らくは、侵入したエイリアンどもが、自分の世界に合わせて変えよったんじゃろう。安心せい――これで、どちらもOKじゃ」
セルゲイは涙目で周囲を見廻した。
平原のただ中だ。あちこちに塔や戦闘メカと思しい残骸が横たわっている。そのどれもが、セルゲイの想像を絶する形を持っていた。
「エイリアンどもの兵器じゃよ」
と嗄れ声が言った。
「このあたり一帯は、奴らの前進基地だった。結局は撤退したが、貴族相手によくぞここまで来れたものだ。Dよ――ひとつ、大将軍の技術の粋とやらを検証してやったらどうじゃ?」
「どうする?」
久々の美しい声をセルゲイは耳にした。
「後ろの建物へ入れ。指揮統制所だ。残っている兵器を操れる」
二人は向きを変えて、背後の鉄の城へと入った。
背中を風が打った。
黒い鋼の壁が前方にそびえていた。
Dがぶつかるや、その表面は波立ち、水のように彼を呑みこんだ。セルゲイも同じだった。
嗄れ声が何か口にした。人間の声帯では絶対に不可能な発音は、エイリアンのものだろうか。
忽然と視界が開けた。
何もかも溶けたような空間であった。角というものがひとつも存在しない。すべてが黒々と澱み、いくら努力しても、距離感というものが掴めない。
セルゲイに理解できるメカも調度も何ひとつなかった。
壁も床も軟体生物のように歪み、そのくせ不動の硬度を備えているのだった。
床の窪みに、それだけ灰色の形がはまりこんでいた。長いすじが何本かそこからのびている。
――手か、足か?
セルゲイの首すじを冷たいものが伝わった。
ここが指揮所だろうか。窪みの内部のものは、エイリアンの死骸か?
「おい、おまえ――そこの死体を放り出して窪みの中へ入れ。サイズは何とか合わせろ。頭でも足の先でも、どっか一部でいいのじゃ。でないと、このコントロール・ルーム内の防御回路の守りを受けられんぞ」
大急ぎでセルゲイが従ったのはいうまでもない。
実際に試してみると、窪みは異様に長く、異様に細く、どうやってDが入りこんだのかわからない難物であった。
一部でもという言葉にすがるようにして、右腕を肩からねじこんだ。変化はない。きついだけだ。
「いいようじゃ」
と嗄れ声が言った。
「では、異星人のお手並み拝見といくかの」
わずかな間を置いて、セルゲイは呻いた。
眼の中に閃光が爆発したのである。それは脳内に生じた現象であった。
煮えたぎる。脳が。
「ごおおおおおお」
全身が苦痛にそり返り、背骨の噛み合わせが一斉にきしんだ。
劫罰の報酬は“視覚”で与えられた。
視界が三六〇度開けたのだ。
“攻撃じゃ”
嗄れ声が脳に鳴り響いた。ひとことひとことが、その響きで脳を灼き狂わせた。何もかも混濁し、溶け合い、ぼろぼろになっていく中で、“眼”だけが冴え渡っていた。
鋼の平原の表面に、黒い塊が盛り上がり、みるみる飛行体の形を取るや、次々に地平の彼方へ飛んでいく。それは、いま、外部で行われている現実の光景であった。広大な平原は、異星人たちの戦闘機製造工場であり、格納庫であり、発着所でもあったのだ。
“飛行距離七九八四四二八九一。――敵、なお見えず、じゃ”
と嗄れ声が言った。
“いや、待て――前方三九、四一、六六に飛行物体発見。これはおもしろい。よし、攻撃開始じゃ”
こちら側の攻撃体の数は、ジャスト一千。搭載兵器は反陽子砲とミサイルであった。
闇の中に数千の光の球が生じ、闇の彼方へ消えていく。それは、どこか北の村で見た祭りの光景をセルゲイに連想させた。
“全弾命中”
と嗄れ声が告げ、すぐに、
“ほう、ビクともしとらんな。そういえば、位置も速度もわかるのに、形も大きさも不明じゃ。異星の奴らは、昔、何を攻撃したのか”
“来るぞ”
とDの声がした。落ち着いている。澄んだ夜のものだ。
何処とも知れぬ前方に、光点が生じた――と思った刹那、“視界”全部が、脳そのものが白光に覆われ、セルゲイは失神した。
――――――
気がつくと、Dの背に負われていた。
周囲は――外だ。
鋼の平原の上に彼らはいた。そして、彼方から風ばかりが吹いてくる。
後ろを見た。
何もない。
それだけの距離を、気を失った彼を背に、Dは歩いたのか。いや、最初からすべてが夢だったような気が、セルゲイにはした。
いきなり落とされた。
したたか尻を打ち、ひいひい呻いている間に、Dは声もかけずに先へ行く。
「待ってくれ」
何とか起き上がって追いついたとき、彼はいまぶつけたとこ以外に、痛みがないことに気がついた。あの[#「あの」に傍点]左手のおかげだろうか。
「おい、説明してくれ。一体、どうなったんだ?」
「あの基地は全滅した」
足も止めず、Dは言った。Dの声であった。
「保管庫の防御機構の攻撃を受けてな」
今度は嗄れ声が言った。
「さすが、ギャスケルありと謳われた男よ。世界が滅びるまで、ここは安全だろう。異星人どもが、初戦で敗退したのも無理はない」
「―――」
「で、やはり、わしらの力だけで当たることにした。じき、目的地に着く。心の準備を整えておけ」
「じきって……その、防御機構はどうするんだ? おれたちには何もしないのか? いや、おれたちは、いま何処にいるんだ?」
「あの戦闘体が破壊された地点から十倍進んだところじゃ。防御機構は――何もせん[#「何もせん」に傍点]」
Dの胸でペンダントが青い光を放っていた。
「何も? どうして!?」
答えるかわりに、Dは足を止め、背後をふり向いた。
平原の向こうに立つ人影を、セルゲイも認めた。
「あれは……?」
「また来たか、昼夜の区別なしにうろつく不良貴族めが――シューマ男爵じゃ」
と嗄れ声が告げた。
「防御機構が停止したおかげで、ここまで来れたとみえる。どうする、始末していくか?」
声を闇が運び去った。
男爵は近づいてくる。
新たな敵を、美しきハンターは殺気のかけらさえ示さず、運命のごとく飄々と迎えた。
五メートルほど離れた地点で、男爵は立ち止まった。
マントが黒い風になびいている。
「ようやく、お目にかかれたな」
男爵は優雅に一礼した。
「ここまで来れただけでも大したものだ。並の貴族なら、とうに素粒子レベルまで分解されていただろうからな。Dよ――君は何者なのだ?」
「何をしに来た?」
とDが訊いた。鋼の平原にふさわしい声だった。そこには死が満ちていた。
「我輩は、あのまま真っすぐ、ギャスケル将軍のもとを訪れるつもりだった。遅れては恥だからな。ところが、途中、馬車の中で眠っている間に、将軍からの連絡があったのだよ。ジェルキンの村に、世にも美しい吸血鬼ハンターがいる。そいつを斃してもらいたい、と。急遽、引き返してきたのは、そういう事情だ」
「ギャスケルは甦ったか」
「招待状は、彼の名と筆跡で来たな」
男爵は杖の先で額を叩いた。
「他にも招待を受けたものはいるか?」
「寡聞《かぶん》にして知らぬよ」
「招かれた理由は何だ?」
Dの問いは単刀直入である。
「わからんな。いや、隠しているつもりはない。つまり、我輩が招かれ、それに応じるのは、父の代からの約束だったのだ」
男爵は、Dが乗ってくるのを期待していたのである。
美しい若者は沈黙を守っていた。
やむを得ず、男爵はまた杖で額を叩いて話しだした。
「百年ほど前、父は将軍と、彼のサインの入った招待状が届いたら、何も聞かずに私にそのもとを訪れさせるとの約束を交わしていたのだ。そのことを記した日記の存在は、招待状に書かれてあった。また、招待の終了が将軍から直々に宣告されるまでは、彼の指示に従わねばならないとも」
「余計な約束だな」
「全くだ」
男爵はうすく笑った。
「大将軍がいつ、何のために甦り、我輩を招いたのかは、我輩自身も大いに気になる問題だ。で、ひとつ訊きたいのだが、Dよ、君がこの保管庫へ来たのは何のためだ?」
セルゲイが、はっと若者の美貌の横顔を見つめた。それこそ、彼の知りたい事柄の第一だったからである。
「ここには男爵と『都』の軍勢との戦いの記録が残されておる。それが目的か?」
「………」
「ギャスケル大将軍ほど、古代より謎の多い人物は貴族の中にもおらん。『都』の軍勢との戦いで勝利した記念にここに保管庫を建て、自らの生涯の記録を封印した。それが目的かね。――何のために?」
「ギャスケルは、私の旅の邪魔になる」
「旅の?」
「輸送隊の馬車を見ただろう」
男爵の両眼が、大きく見開かれた。
「まさか」
と言った。
「まさか――君が輸送隊のガードらしいというのは気づいていたが、そのために、たかだか、辺境のさもしい人間どもへ下らぬ物資を供給する仕事を成し遂げるために、ここを暴こうとしているのか? そして我輩の役目は、そんなつまらん用事を果たすハンターを始末することなのか? そうなのか?」
ああ、と呻きながら、男爵は片手で顔を覆った。道楽で芝居でもやっているのではないかと思われる大仰な動きだった。
「何と、下らぬことをしてくれたのだ、Dよ。ああ、引き返してきたのは無為であった。――しかし、それはあきらめよう。Dよ、このまま戻ってはくれまいか?」
「戻ってどうする?」
「保管庫さえ暴かねば、君をここで斃す必要もあるまい。いずれ、ということにしたい。駅頭での戦いぶりを見て、我輩は少々、感服してしまったのだよ」
「大将軍がおれを斃そうとするのは、保管庫云々とは無関係かも知れんぞ」
言われて、男爵は眼を細めた。
「そういえば、保管庫を狙っているとは聞かなかった。我輩も、この付近にあるとは知っていたが、正確な場所は知らずにいた。なら、なぜ大将軍は、君を?」
ここで、眼を糸のようにして、
「すると、あの娘は、大将軍が派遣したものか?」
とつぶやいた。
「娘?」
嗄れ声に、男爵が怪訝な表情になった。
「村を訪問中の私の前に現われ、結果的に、我輩をここへ導いた娘だ。すぐに消えてしまったが」
「どんな娘だ?」
これはDの声である。
男爵は説明した。
聞き終えると、Dの左手のあたりで、
「ロザリアじゃな」
と嗄れ声がした。
「しかし、あの娘、どうなった? おまえを狙う貴族をわしらのもとへ導くとは。――やはり、大将軍に洗脳でもされたのか?」
「どうする?」
とDが訊いた。――男爵へ。
それだけで、空気が凍りついた。
男爵が肩をすくめた。
「ほう、忘れていたよ。我輩は君を斃せと命じられておったのだ。しかし、いまも言ったが、戻ってさえくれれば」
「父の約束を違えるか?」
「我輩には我輩のやり方があるのでな。この年齢になって、父だの顔も知らぬ大将軍だのとの関係を、ことさら大事にする必要もあるまい」
「道の途中だ」
とDは言った。
「それでは」
と男爵が応じた。
それだけだ。たったそれだけで、二人は死闘のただ中に突入したのである。
セルゲイがその場を離れようとして硬直した。足が動かない。
Dの手は自然に垂れ、男爵の杖はその先をDの胸に向けている。この状態から、いかなる事態が生じるか。
「おっ」
小さく洩らして、男爵が視線を外した。Dも後を追ったのは、背後に気配を感じたからである。
七、八メートル向こうに白い少女が立っていた。
「ロザリア」
嗄れ声だ。Dは他人の名を口にしない。
「大将軍の遺産の犠牲者になったと思ったが――どうやら、それだけではなさそうじゃな」
「あの娘か?」
とDが男爵に訊いた。
「さよう。――お知り合いか? 君の生命を求める存在を君のもとへ導くとは、皮肉なものだな」
「助けて」
か細い声が、風にまぎれて漂ってきた。
「助けて――D」
「どこにいた?」
とDは訊いた。
「そして、どこへ行く?」
「助けて」
とロザリアは繰り返した。白い貌《かお》に、哀しみと恐怖の色があった。
「どうしてこうなってしまったのか、私にもわからないの――助けて」
Dが前へ出た。
「待ちたまえ」
と止めたのは男爵だ。彼は杖を下ろし、素早くDの前へ出ると、好奇の光を隠さず、ロザリアを見つめた。
「ふむ。ギャスケル大将軍は、空間消滅を得意技にしていたか。――待っていろ、我輩が助けてやる」
「できるのか?」
嗄れ声が訊いた。
「おかしな声を出さんでもらおう。下がっていろ」
男爵は杖を持ち上げ、その先でゆっくりと空間を叩くように動かしはじめた。
「まず、脆い部分を探す。――ここだ」
いともあっさり、前へ一メートル、地上二メートルほどの一点で杖を止め、
「封鎖する」
と言った。
杖はすぐに離れた。
「完了だ。次に――」
杖はロザリアをさした。
「あの娘自身が空間の移動通路となっているにちがいない。――固定する」
杖の先が青く光った。
「いけない!」
とロザリアが叫んだ。
それが、男爵の行為に向けられたものでないのは、すぐにわかった。
大地の表面が円筒状に盛り上がるや、男爵を頭から呑みこんだのである。
次の瞬間、それは微塵に砕け、杖をふり上げた男爵が姿を現わした。
円筒はDをも襲った。
その身体に触れるのを厭うたのは、Dよりも神であったかも知れない。
Dの長剣が閃く前に、飛来した稲妻が黒い鋼の蛇の頭部をことごとく粉砕したのである。
「D」
ロザリアが呼んだ。
その姿を透かして、背後の光景が見えた。
「いかん」
男爵の杖がさす前に、ロザリアは消えた。
「待っているわ、D、待っている――」
鋼の平原に声だけが残った。
「遅れたか」
と男爵は杖をひとふりして、失望を表現した。
「おかしな杖だな」
とDが言った。
「ギャスケルの空間移動は、誰かにヒントを与えられたという。――おまえの父か?」
「よくご存じだな」
と男爵はわざとらしく眼を丸くして、
「いよいよもって、ただのハンターではないな。――残念ながら外れだ。父ではない。我輩さ」
この男ははたして、何百何千年を生きているのだろうか。彼は杖で左の手のひらを叩き、
「この内部《なか》に防御機構の修正回路が組み込んであるのも、ギャスケル大将軍の礼だ」
その身体が青白くかがやいた。稲妻が貫いたのである。
軽く息を吐き、男爵は杖を高々と頭上に掲げた。
光がその先端に吸いこまれた。稲妻の一撃は十億ボルトにも達していた。つづけざまに落ちかかる光のエネルギーを、男爵の杖は易々と吸収した。
「これでは埒があかん。ひとつ、我輩にまかせてもらおうか」
男爵はDを横目で見た。
「いいだろう」
「では――」
男爵は右手の杖を床と平行に、遥かな地平に向けて構えた。
「修正回路、最大出力」
男爵は宣言するように言った。
平原を渡る風が激しさを増した。
Dのコートと男爵のマントがたなびき、天の高みを、地上のいかなる音響とも異なる轟きが渡っていった。
「気をつけてくれたまえ」
と男爵は風に眼を細めて告げた。
「防御機構が、その持つ能力を上げて、我輩を斃そうとしておる。修正回路は信用できるが、いざとなったらわからん。君も巻き添えを食う恐れがある。どちらかが負傷したら、我々の決着は後日だ。よろしいか?」
「いいだろう」
「よろしい。――では」
平原の果てに、青白い光が点った。
それは陽光のようにゆらめき、くびれ、ひとりの女の姿を形づくった。
「あれは……」
異様なものを感じて、セルゲイは後じさった。生物としての生死の勘が、がむしゃらに逃亡を勧めていた。何千キロ先ともいえぬ地平の彼方にいる女が、まるで眼の前にいるように識別でき、しかも、自分たちと同じ大きさだとわかる。
女が両手を宙に上げて何か叫んだ。
悲鳴か――或いは、歌ででもあったろうか。
「ぐう」
心臓を押さえて、男爵は地上に片膝をついた。凄まじい痛みを覚えたのである。
時を置かず、Dもよろめいた。
嗄れ声が言った。
「この声を聞いたら、どんなに強い貴族の心臓も止まり、血は腐敗する。メカニズムはすべて作動を止め、単なる鉄の箱と化すじゃろう。だが、それは防御機構の最後の抵抗じゃ。奴は狂っておる。おまえをそれ[#「それ」に傍点]と識別できぬほどにな。――手を打てるか?」
問いの答えは、Dが与えた。
彼はその場にすっくと立ったのである。身を折って苦悶する男爵とセルゲイを尻目に、背の一刀を抜くや、大きくふりかぶった。
投ずるつもりか、その女に。
数千――数万キロの彼方にいる、いや、いないかも知れないのに。
太刀は投じられた。
待つ必要はなかった。次の瞬間、女は胸を押さえてのけぞり、そのふくらみの間に、確かに刀身の影が見えた。
世界は真紅に染まった。
心臓が巨人の手で握りしめられ、セルゲイは声もなく意識を失った。
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第六章 輸送屋たち
腹腔に空気が溢れた。気がつくと、セルゲイは蟻地獄のように開いた漏斗状の穴の底にいた。
眼の前でDが左手を引いたところだった。
その手のひらに、何やら人の顔みたいなものが蠢いていたが、眼をしばたたくと消えていた。――というより、Dが手を下ろしてしまったのである。
「ここは?」
腹の中の冷気に耐えながら訊いた。
「あの古戦場の跡だ。馬をつないだところから、三メートルも離れていない」
まさか、とも思わなかった。この若者といる限り、つきまとう現象だろう。
頭上を仰いだ。星が出ている。
「どれくらい、たった?」
「ちょうど一分だな」
今度は、
「まさか」
と口を衝いた。
セルゲイは四方を見廻した。
直径三〇メートルほどの穴の上に、月と星が光っている。深さは約五メートル。
Dはセルゲイに背を向けると、身を屈めて、底の地面に手をのばした。
何かを掴んで引っ張り上げる。
「おおお」
掛け値なしの驚愕の叫びが、セルゲイの口から放たれた。
繊細ともいえる五本の指がつまんだのは、分厚い板の端であった。
いま、地中から全身を現わしたものは、しかし、縦二メートル、横一メートルもの石板であった。重さは一トンを越すだろう。
これが、ダンピールの――貴族の血を引くものの怪力か。
セルゲイは声もなかった。
Dは石板を土壁にもたせかけ、表面の土を払うと、左手のひらを押しつけた。セルゲイなど気にする風もない。
セルゲイに疎外感はなかった。美しい吸血鬼ハンターの世界が、自分のものとは所詮、無関係であることは、すでに身に沁みている。
「伝わったかの?」
あの嗄れ声だった。どう見ても、左手がしゃべっているとしか思えない。
「いや」
「やはり、ロックをかけたか。これを外すには時間がかかりそうじゃ。持って来い」
この一トンもありそうな石板をどうやって運び出すのかと、セルゲイは狼狽した。
Dの右手が上がった。無造作にふり下ろされた拳の下で、巨大な石板はあっさりと砕け、たちまち一塊の砂塵と化した。
Dはその砂山に右手をさし入れ、じき、何かをつまみ出した。
「見るか?」
とセルゲイの眼の前に突き出された人さし指の先に、縦横五ミリほどの四角い金属片が付着していた。
「何だ、こりゃ?」
「戦勝記録と、ギャスケル大将軍の歴史だ」
「これ……」
セルゲイが唯一、このとき発し得た言葉がこれ[#「これ」に傍点]である。
すると、さっきの果てしない鋼の平原と稲妻は? 異星の基地は? すべて幻だったのか?
「本物だ」
とDが、セルゲイの胸の裡《うち》を読んだように言った。
セルゲイはうなずいた。
「――男爵はどうした?」
「防御機構が崩壊したショックで、飛ばされた。何処へかはわからん」
いずれ会うことになるだろう、とセルゲイは思った。あんな化物があっさり逝くはずもない。
「行くぞ」
Dの声にそちらを向いたとき、黒い影は、すでに傾斜面を昇りはじめていた。
誰がこんな穴を開けたんだ、とぶつぶつ言いながら、崩れる地面を踏みしめ踏みしめ、セルゲイも地上へ出た。
馬は無事だった。
「男爵のがねえな」
とセルゲイはぐるりを見てから、地面へ眼をやった。
轍の跡は往復ついている。客を古戦場まで送り届けてから連れ帰ったものか。或いは、消えたままの彼を追い求めて去ったのか。
ぼんやりしていると、
「行くぞ」
短い声が、もと来た方角へ去っていく。
――夢だったのか、それとも現実か。
頭をひとつふって、セルゲイは馬にまたがった。
ジェルキンの村へ戻る行程の半ばくらいまで達したとき、向こうからジュークがやって来た。
村での出来事を二人に聞かせ、男爵の野郎が急にいなくなったんで、あんたたちを追っていったと見当をつけた、村にもいづらくなったから出て来ちまったよ、とジュークは伝えた。
馬車は街道でゴルドーごと待たせ、自分だけ古戦場へ様子を見に来たという。
「男爵の野郎はどうした?」
セルゲイはため息をひとつ吐いてから、
「来なかったよ」
と答えた。
「あン?」
怪訝そうなジュークから眼をそらさず、
「古戦場には何もなかった。昔のガラクタが転がってただけだ。男爵は別のところへ行ったんだろう」
「けど――おめえ」
「何もなかった」
こう繰り返してから、セルゲイは、ちらとDの方を見て、
「ちょっとだけ、おかしな夢を見たけどな」
と言った。
Dは答えない。
それもいいだろう、とセルゲイは思った。この美しい若者は、自分たちとは別の世界の人間なのだ。果てしなくつづく夜と月光と風の世界の。ここで寡黙になるのも無理はない。
「ジェルキンでの用事も済んだし、今夜はどっかで野宿といこう。明日はクラクフの村だ」
ジュークは、先のことにしか興味がない、という風に笑った。辺境の地を行く輸送屋に、昨日などないのだろう。
三人は街道へ戻った。
馬車の前に、ゴルドーが所在なげに立っていた。
こちらへ浮かべた救われたような表情で、何かあったなと、セルゲイは直感した。
ジュークも同じだったらしく、馬から下りるなり、
「どうかしたか?」
と訊いた。周りへの鋭い眼配りも忘れない。
ゴルドーは口ごもり、意味ありげな表情で馬上のDを見上げた。
「男爵か?」
とジュークが緊張したのも無理はない。
「いや、その……」
「どうしたんだよ、え? はっきりしろ、はっきり」
「いや――色男は得だな、と」
「なにィ?」
ゴルドーは肩をすくめて、御者台の後ろにある居住室のドアに手をかけた。
内側には四人用のベッドがある。
ジュークが覗きこんで、
「あー?」
おかしな声を上げて、すぐこちらを向いた。
「何だ何だ」
セルゲイが後につづいた。面白がっている。
こちらも、すぐにふり向いたが、Dを見上げる眼には、驚きばかりが強かった。
「おい、D」
とドアの内側へ顎をしゃくる。
馬を下り、Dは静かにドアへと近づいた。
冬の静夜のごとき黒瞳が見たものは、ベッドに横たわる長い髪の娘だった。
小さないびきをかいている。
長い旅から戻ってきたばかりだという風に。
ロザリアだった。
クラクフの村までは、丸二日の道程であった。
その間に――というより、初日の朝から、ロザリアは荒くれ男たちと打ち解けてしまった。
野宿の翌朝、見張りのゴルドーまでうっかり眠りこんでしまい、気がつくと朝食ができていたのである。
“地獄の味”は、気が狂ったみたいに深い味わいのコーヒーに変わり、紐を引けば三秒でOKのインスタント・フーズ・パックは、ふっくら焼き上がったベーコン・エッグとキツネ色のトーストと野菜スープに化けていた。
「ごめんなさい。冷凍庫から勝手に使わせてもらいました」
と照れ臭そうに詫びる娘を、男たちは茫然と見つめた。
辺境の旅ともなれば、例外なく危険がつきものなのは当然だが、金目の物資を運ぶ輸送隊となれば、これは危険極まりない。路傍の小石ひとつでも敵と思えと、隊員たちは徹底的に叩きこまれる。
よりどりみどりの強盗団はもちろん、妖獣、悪鬼、悪霊等、ありとあらゆる魔性のものが、人間と物資をめがけて襲いかかる。
そのために、輸送隊は十分すぎる兵器と腕利きのガードが必要なのだ。三つの村を廻るのに最低一〇人、辺境の一区画ともなれば三〇人以上は必要とされる。そのため、輸送会社は四六時中、人員募集を怠らないし、「都」の武器商人と契約して、最新の火器を購入するのも忘れない。
今回、ジュークたちが請け負った村は都合五村だが、常識からすれば、わずか五人で廻るなど、自殺行為に等しい。
ただし、時に、質は量に勝る。
三人の輸送屋は、改めてそれを納得する羽目になった。
食事の後、第一に遭遇した危険地帯は、深い森であった。
辺境の森は妖魔、妖物の巣だ。一〇〇メートル進むだけで白髪が一本増えるといわれる。
入った途端、一同はおびただしい凶気と鬼気とを感じた。全身の皮膚が針を刺されるように痛み、体温がみるみる低下する。これに怯えを感じた刹那、猛襲の牙が閃くのだ。
それがない。
森を抜ける間に、千回万回も襲い来ておかしくない妖物どもが、まるで腰でも引けたみたいに仕掛けてこないのだ。それどころか、光の一片も通さぬように枝々を広げた木立ちの間から伝わってくるのは、怯えと恐怖なのだった。
理由はわかる。ひとつしかない。
森へ入る寸前、Dが御者台に座った。これだ。
それだけで、血に飢え、飢餓に狂った化物どもがすくみ切ってしまったのだ。このハンターの美貌に打たれでもしたように。
ゴルドーが、
「凄え」
と洩らしたのは、森を抜けてからしばらく後である。
「化物どもに怯えはしねえが、化物どもを怯えさすことはできねえ。それをいとも易々と――」
ジュークの感嘆も、それこそ怯えていた。
そして、御者台で手綱を握ったDの横顔は、陽光にさえ仄白く妖しくかがやいて、彼らには、妖物たちの沈黙がやはり、この美貌の虜になったせいではないかと思われてくるのだった。
昼近くなって、ゴルドーがジュークにこう耳打ちした。
「おい、馬の足がやけに速くねえか? 絶対にいつもの倍近く来てるぜ」
返事はこうであった。
「当然さ」
恐るべき用心棒の他に、この旅には可憐な料理人と歌姫がついた。
輸送隊の食事は、まず栄養と時間とを考える。
それなりの満腹感を与え、十分すぎる栄養やカロリーを案配できた上で、出発の時間をできるだけ短縮できれば、味や見てくれは二の次三の次である。
それが、ロザリアの白くて細い手にかかると、別のものに生まれ変わった。
テーブルに並べられた料理を見て、男たちは眼を丸くし、席に着くことはできなかった。
「何をしている?」
と馬車にもたれたDのどこかから、揶揄するような嗄れ声がかかる。
「う、うるせえ」
とゴルドーが顔を真っ赤にして喚く。
「おかしな声出しやがって。こここんな立派な料理が、くく食えるかあ」
「あ、いけない?」
とロザリアが、しまったと口に手を当てても、多銃身長銃の使い手は、ぶるぶると身を震わせているばかりだ。
「いや、いただこう」
とジュークが席に着いた。
「おれも」
とセルゲイがつづく。
「ナプキンをどうぞ」
二人は顔を見合わせ、テーブルの上に折りたたまれた布を開いて、首の後ろで結んだ。
あまりきつく結んだせいで、赤ん坊の涎掛《よだれか》けみたいになった。
「何だ、それは?」
とジュークがセルゲイを、小馬鹿にしたような眼つきで見た。
「おまえこそ――ボク、涎垂らしちゃ、め[#「め」に傍点]ですよォ」
まさに一触即発――寸前、
「静かにしなさあい!」
何とも可愛らしい、そのくせ妙に貫禄のある叫びが二人の顔を叩きつけ、ばしん、とテーブルが鳴った。
「食事の席で、騒ぎは許しません! 今度したら、抜きますよ!」
場というものがある。その場にふさわしい存在というものがある。ここでは、ロザリアであった。
「わかったよ」
とジュークが渋々テーブルへ戻り、
「へーい」
とセルゲイも後につづいて、ナイフとフォークをガチャガチャやりはじめた。
「あなたは、どうしてもお嫌?」
女主人は、最後の反抗者に向かって訊いた。声はあくまでもやさしい。
「あ、当たりめえだ。おれは妥協しねえぞ。辺境にゃ、辺境のやり方があるんだ」
と断固、抵抗の構えを見せるかたわらで、
「あ、胡椒取って」
ドスのきいたジュークの声がきこえた。
口も鼻も歪めて身を震わせるゴルドーへ、
「わかりました。じゃ、食べられるようにしてあげます。――席にお着きなさい」
ぴしりと宣言するや、さっさとゴルドーの前から、ナイフとフォークと色とりどりの皿を片づけ、
「はい、どうぞ」
でん、と置いたのは、ベーコンの塊。
「はい、これも」
とボウルにのった生卵。次はキャベツの塊、丸ごとニンジン、皮つきジャガイモと並べて、
「これでいかが? イーッ」
と舌を出した。
「お、おお、上等だ。食ってやる」
いい年齢《とし》して、こちらもムキになったゴルドー君が、ベーコンの塊をステーキみたいに分厚くスライスし、二つに切って口へ運び、手づかみで引き裂いたキャベツを口いっぱいに詰めこんで、バリバリやっている横で、
「たまにはいいもンだな」
「おお。これが人間の生活だぜ。いけねえ――キミ、レモンをよろしいか?」
「よっしゃ、じゃねえ――よろしい。うい、むっしゅ」
などと二人で嫌がらせをおっぱじめたから、ついにゴルドーは爆発した。
いつの間にか涎掛けにしてるエプロンをひっぱがし、ジュークとセルゲイに叩きつけて、
「この裏切り者。小娘ひとりに手なずけられやがって。覚悟しやがれ」
と浴びせかけた。
二人は顔を見合わせ、
「困ったものだね、ジューク」
「全くだね、セルゲイ」
「たかだか食事のことでこれ[#「これ」に傍点]だ。人間、ああはなりたくないな」
「何がだよ、このトンチキども」
「放っておきたまえ、セルゲイ。人間、じき過ちに気づくものさ」
「その通りだね、ジューク」
と、手のこんだ肉汁《グレイヴィ》がたっぷりかかったステーキを揃ってぱくつきはじめたものだから、
「てめえら、こら」
と歯を剥き出したところで、
「では」
とDが席に着いた。
「お、おめえもか、ぶるーたす」
「辺境では滅多にお目にかかれない料理だ。賞味しない手はあるまい」
「この色男――おれだけは世界が別だって面しやがって。やるこたあその辺の悪党なみだな。い、嫌がらせ野郎」
「なら、あなたも、はい」
と、ベーコンの皿が押しやられ、湯気の立つスープが置かれた。
う、う、うと唸っている間に、最初の皿が並べられ、はい、ナプキン、とロザリアが手ずから首に巻いてくれた。
成す術もなく、ゴルドーは、気がつくとナイフとフォークを手にしていた。
ステーキをひと切れ頬張ると、彼は眼を白黒させた。
これは演技じゃないなと見て、ロザリアが心配そうに、
「おいしくない?」
返事もなく、ゴルドーは口の中の分を呑みこみ、身じろぎもせず皿を見つめた。
仲間の二人と――Dの視線がその巨躯に集中する。
「ね、駄目?」
哀しそうに訊くロザリアへやはり返事もなく――
彼は憮然とした表情で、少し恥ずかしそうに、もうひと切れステーキを切り取って口に運んだ。
全部平らげてから、
「晩もこれかい?」
「いいえ。ごめんなさい、私の趣味でやっちゃいました。次から普通に戻します」
ゴルドーは、ふんと鼻を鳴らし、そっぽを向いて、
「明日からにしな」
と言った。
その晩の野営地で、ジュークは、こりゃ、明日の午後には着くぞ、と無謀にも大きな声でつぶやいてしまい、またも、セルゲイに、
「当たり前ですよ」
と白い眼で見られたのであった。
「御者がいい男だと、馬もはか[#「はか」に傍点]がいくらしいな」
とゴルドーも言った。
彼は少し前、馬車の後尾でぼんやりしていて、横についたジュークに、何を考えてるんだ、と訊かれ、
「今晩のメニューだよ」
と答えて、にらまれたばかりである。
その食事も終え、夜も深々とふけはじめると、今夜の張り番を決めることになった。
「おれが立とう」
とDが申し出たが、
「それじゃあ、しめしがつかねえ」
とジュークが言い、クジを引いて、ゴルドーが当たった。
輸送屋の朝は早い。ジュークとセルゲイはさっさと寝床へ入り、ゴルドーとDだけが外に残った。
馬車の周囲を何度か廻り、焚き火に火を絶やさないようにするのが、見張り役の仕事である。
深夜に入った頃、さすがに疲れたのか、ゴルドーは焚き火のそばに座りこんで、火にかけたコーヒーをカップに移して飲みはじめた。
月は、それ自身が発光しているかのように皓々と冴え渡り、森の彼方から吹いてくる風が、狼の遠吠えの声を運んできた。
「飲《や》らねえか?」
とゴルドーは、馬車にもたれかかったDに声をかけた。
「いいだろう」
珍しく、Dはカップを受け取り、熱い中味を黙って胃に流しこんだ。
「一度にかよ」
とゴルドーは呆れたように眼を剥いた。
「やっぱ、ダンピールは違うな。恐れ入ったぜ。なあ、貴族は溶岩を呑みこんでも、甘露甘露と笑うそうだが、本当かい?」
「かも知れん」
「どうして、ダンピールがハンターになんかなったんだ? ありゃ、いわば仲間殺しだろうが」
Dはカップを地面に置いて、
「ダンピールは嫌いか?」
と訊いた。
「ああ、うす気味悪くてな。ジュークの野郎は喧嘩好きだからよ、強えって噂だけで敬意を表する癖があるが、おれは現実しか見ねえ。貴族のハンターだろうが、何だろうが、ダンピールてのは、半分貴族に間違いねえ。つまり、半分は化物だ。そんな野郎を信用できるかい」
「もっともじゃ」
と嗄れ声が同意した。
ゴルドーは顔をしかめて、
「頼むから。その腹話術はやめてくれ。出すんなら、色っぽい女の声に――」
理不尽な要求は、先細りに闇に呑まれた。
何処からともなく、可憐な歌声が、夜気を渡ってきたのである。
「ランド・サイレーンか」
ゴルドーが素早く、耳栓を取り出した。
深夜、流れてくる甘哀しい歌声の主を見たものはいない。それに誘われて、生者の地から離れたものは、翌朝、やつれ切った死人として見つかるのが常だ。だが、最後の瞬間、その眼に映ったものがどんな存在であろうとも、死者の顔は、至福の笑みを浮かべているのだった。
幸いなことに、海ならぬ大地で旅行く者を招く魔性の歌い手を遠ざけるのは、何の工夫もない耳の栓だけで事足りた。
今では、辺境を旅馴れた者たちは、布や紙の栓を通して耳の底にかすかに響く歌声にうっとりと聴き惚れながら、夜を過ごすことができる。
だが、二人が耳にしたのは魔性のものの歌声ではなかった。
居住区のドアの前に、ロザリアが立っていた。
何処かで光る風車《かざぐるま》
それに当たれば別の風
運ぶ香りは歌になり
春の里へと駆けつける
大事な人の耳にだけ
月光の下で歌う娘を、Dが見つめていた。ゴルドーが、そして、いつの間にか開いた居住区のドアから、ジュークとセルゲイが耳を傾けていた。
歌い終えたロザリアは、巻き起こった拍手に素直な反応を示した。驚き、頬を染めたのである。
逃げるように焚き火のそばにやってきて、
「嫌だわ、聴いていたの」
と眉をひそめた。
「大したもんだ。料理以外にも武器を隠してたのか」
ゴルドーが惚れ惚れしたように言った。
「次をリクエストしていいかい?」
「駄目よ。これしか知らないの。父さんが教えてくれたのは、これ一曲だけだわ」
「ケチな親父だな」
「父さんを悪く言わないで」
柳眉を逆立てるロザリアに、ゴルドーは口をつぐみ、妙にしみじみと、
「そうだな」
と言った。
「親父の悪口は言っちゃあいかんよな、そうだとも」
焚き火がはぜた。Dが枝をくべたのである。
炎が三つの顔を影絵の舞台に変えた。
哀しんでいる。笑っている。怒っている。泣いている。
「親父は猟師だったんだ」
とゴルドーは話し出した。
「腕はよかった。おれもお袋も三人いた弟妹も、親父ひとりいりゃ、一生不自由ない暮らしができると思ってた」
また、狼の声。夜はひっそりとふけていく。
「みんなには未来があった。人里を離れた野蛮な暮らしでも、おれたちはみんな猟師とその女房になることを夢見ていたんだよ」
そこへ、ある冬の日、ひとりの女がやってきて、一夜の宿を乞うた。
様子がおかしいと母は断ったが、父はこの寒夜に気の毒だと招き入れてやった。
「次の日も女は出て行かなかった。村が妖獣に襲われ、親ともはぐれてひとりぼっちだという。親父は、雪が溶けるまでいるがいいと言った」
女が牙を剥いたのは、五日目の夕暮れどきだった。
猟に出た父とゴルドーが戻ってみると、家の外も中もやたらと血が飛んで、妹の悲鳴が聞こえた。
家の中へ跳びこんだ父とゴルドーが見たものは、床に倒れて断末魔の形相を浮かべている母と弟妹であった。
ショックのあまり、茫然と立ちすくむ二人の足下に、びしゃんと、血しぶきを上げて叩きつけられたものがある。下の妹であった。
「親父はすぐ、射った。火薬銃だった。女の顔は半分になった。左側が残ったと思う。そっち側だけで、女はにんまり笑い、親父に向かってきた。その爪で喉を裂かれる前に、親父は残る半分も吹きとばした。それで終わりだったと思うかい? いや、ハンターならわかってるよな。首がなくなっても女は死ななかった。両手をのばして、うろつきはじめたんだ。方角がわからないのがせめてもだった。おれは、居間に置いてある杭を取り出してきて、女の背中から突き刺した」
ゴルドーの声が熄《や》んだ。記憶は正確に残っているようだった。日灼けした頬に光るものが伝わった。
「女は死んだ。けど、埃にはならなかったし、腐りもしなかった。昼間もうろついていたんだから、吸血鬼じゃあねえ。“犠牲者”だ。血を吸われただけのなり損ないが、しらばくれて、おれの家へ入りこみ、家族を皆殺しにしちまったんだ。なあ、お袋は優しかったよ。弟は賢くて、妹たちは可愛らしかった。そうして、親父は強かったよ」
手の甲で荒っぽく眼のあたりをこすって、ゴルドーは両手の指を開いた。
「おれは、それ以来、刃物が一切使えなくなった。あの女を刺したときの手応えが、手のひらに残ってるのさ。獲物をバラせなきゃ、猟師にはなれねえ。そこまではともかくとして、ナイフ一本使えねえ男が辺境で生きられるわけはねえ」
「どうして輸送屋を選んだ?」
とDが訊いた。
刃物を使えない男が、最も苛酷な職業を選んだ。Dの質問はそこだった。
「逆療法だよ。ナイフや山刀を使わざるを得ない化物相手の職業につけば、何とかなるかも知れねえと思ったんだ」
「ならなかったらどうする? おまえしか頼る者がいない相手はどうなる? そのとき、都合よくナイフを握れるか?」
「わからねえ――そうなってくれればいいと思うだけさ」
「相手はそうでなければ死ぬ。そのとき、おまえは人殺しだ。自分が死ねば済むなどと思うなよ」
ゴルドーの身体が震えた。Dの言葉は刃のように胸を刺したのである。
「おまえが逃げているのは、刃物ではなく、刃物を使った戦いだ。それに直面して立ちすくむ人間は、辺境には必要ない。『都』へでも行くがいい」
長い息をひとつ吐いて、ゴルドーは首をふった。
ふり向いて、ロザリアを見た。やさしい表情であった。
「あんたの歌のおかげで、つまらねえおしゃべりをしちまった。おっと、愚痴じゃねえよ。やべえ、やべえ。これじゃ、もう一緒に旅はできねえな」
「そんなことありません」
とロザリアは眼を拭った。ゴルドーの話を聞いてるうちに、彼女は泣いていたのである。
「きっと元に戻れますわ」
「そうかい、ありがとう」
ゴルドーは明るく笑った。
「そうなったら、おれは猟師になるんだ」
「輸送屋はおやりにならないんですか?」
「冗談じゃねえ。こんな物騒で下品な仕事やってられるかよ」
二人は声を合わせて笑った。
世界の一部が青く染まったのは、その瞬間だった。
甲高い音が静寂を破壊する。
「隠れてろ!」
とロザリアに叫んでから、
「警報センサーに何かかかったぞ」
と居住室へ喚きながら、車の後方へ走る。
馬車の周囲には、夜間、対妖物、野獣用の電磁鉄条網が張り巡らされている。超小型超高出力の発電器《ダイナモ》は、三〇万ボルトの高圧電流を鉄条網に流して、侵入する外敵を焼き殺すのだ。
無論、分厚い鎧や耐電性の皮膚を持つ敵には役に立たない。しかも、今度のは、火花の散り具合からして大物だ。
車体を廻って、
「おおっ!?」
と口を突いた。
紫煙を上げる破れた鉄条網の前に、Dが一刀を手に立っている。
ゴルドーが会話の相手をロザリアに変えた時点で、侵入者の存在に気づいたものか。恥辱と若者への感嘆にゴルドーの身は震えた。
「どうした!?」
駆けつける足がぴたりと止まった。
Dの全身から、こちらの身を灼くような鬼気が放射されたのである。血も骨も凍結し、しかし、ゴルドーには、それがささやかな放散にすぎないとわかっていた。
Dの気は前方――ゴルドーの右斜め前に向けられていた。
眼を凝らしたが、何も見えない。
不可視獣《インビジブル・ビースト》か? だが、それなら棲息地域が違う。あれは確か――
瞬間――世界が爆発し、ゴルドーは顔を覆った。顔面に衝撃波が叩きつけられたのである。抱えた多連装銃が異様に重みを増した。
後は、月光の下に美しいハンターだけが残った。
「大丈夫か?」
と呼びかけても、ゴルドーはすぐに動くことはできなかった。
足下の草がつぶれているのに気づいたのである。それは、死によって実体を取り戻す、見えざる魔性のようであった。
倒れる音ひとつしなかったのである。
まず、見えたのは、青緑色をした液体の流れであった。
その泉のような噴出地点を中心に、ややうすいが同じような色彩が広がり、倒れたものの輪郭を露わにしていった。
体長二メートルほどの生物である。全身は熊に似ているが、毛はなく、身体つきもずっと細く華奢だ。いちばん不気味なのは形だけは人間そっくりの頭部だが、ゴルドーをすくませたのはそれではなかった。
そいつの身体と両手は、まっすぐ彼の方に向けてのばされ、三本の指についた二〇センチもある鉤爪は、彼の爪先一メートルにまで達していたのである。明らかにこいつは、Dではなくゴルドーに狙いを定めたのだ。
後ろからセルゲイとジュークが、武器を手に走り寄ってきた。
即死した妖物へ眼をやり、
「そいつは――」
と眉を寄せた。
「そうだ」
とゴルドーもうなずいた。
「ジョッホ竜だ。この辺にいるはずがねえ。もっと北――ギャスケルの領地にだけ棲息する化物だ。貴族の力を使っても、透明生物はそう簡単にはできなかった。だから、領土内でだけ使われてたんだ。侵入者撃退用にな。今じゃ、こいつが侵入者になっちまった」
「どういうこった? 制御装置がコントロールできなくなっちまったのか?」
とジュークが首をかしげた。
「――何か知ってるのか、D?」
ゴルドーの声に、一同は、はっとDへ眼をやった。
深く澄んだ瞳が、冷やかに視線を吸い取り――ついでに魂まで吸い取ろうとした。
「明日、クラクフの村へ着けばわかるだろう」
と美しいハンターは、夜の声で言った。
「休め――先は長い。夜番はやはり、おれが立つ」
怒りがゴルドーを捉えた。
「おれの仕事だ」
食いつくように呻いた。
Dはじっと彼の眼を見て訊いた。
「見えたら、射てたか?」
「もちろんだ」
「なら、明日まで保持しておけ。睡眠不足は、たやすく照準を狂わせる」
「そうしろ、ゴルドー」
とジュークが声をかけた。
「どうもこの辺りはおかしい。いつもと違う。もっと得体の知れねえ奴らが出てくるかも知れんぞ。今夜はDに頼んで、明日から夜の番の検討し直しだ」
「わかった」
とゴルドーはしぶしぶうなずいた。
三人で居住区の方へ向かって歩き出す。二、三メートルほど行ったところで、ゴルドーがふり向き、
「二度とおかしな言いがかりつけるなよ。吸血鬼ハンターがどんなに腕利きだって、容赦しねえぞ」
とDに指をつきつけた。
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第七章 浮動領地
翌日は、朝から霧が出た。
二、三〇メートル向こうの景色は、乳白色の中に包みこまれて、輪郭しか見えない。
草や葉に触れれば音をたてそうな、じっとりと重い霧であった。
いつの間にか水気を含んだ髪を撫でつけながら、
「これじゃ、雨の方がマシだぜ」
と御者台のジュークがぶつぶつ言いながら、右隣のDを見た。
馬に乗ったセルゲイは馬車の左手を伴走し、ゴルドーは、荷台の上でにらみをきかせている。ロザリアは居住区だ。
「あんたのおかげで、おかしな奴らは襲ってこないが、記憶のいいサイボーグ馬でなけりゃ、とうに道に迷っているとこだぜ」
サイボーグ馬といっても、千差万別なのは、通常の馬と変わらない。輸送屋の荷物運びに欠かせないのは、決して迷わない――一度通った道は必ず覚えている記憶素子を備えたサイボーグ馬なのであった。
田舎で仕入れた馬だから、技術や耐久性で「都」製より劣っているのは仕方がないが、素子センサーは新品同然、道がなくても、道なき道を選択できる“勘”回路もついている、と世話した老人は保証した。
はたして、もうもうたる霧の中でも、迷わず前進してきた馬が、三〇分ほど前から、おかしな動きを示すようになり、ついに完全に停止してしまった。
「あの爺い、安物を売りつけやがったな。見てろ、帰りに寄ったら、ただじゃおかねえ。月のない森の中でも、葉っぱ一枚触れずに全力疾走できるちゅう話だったぞ」
歯ぎしりするジュークへ、横合いからセルゲイが、
「この霧のせいじゃないのか。妙に湿り気が多いし、重い」
ジュークは上衣の左肩に眼をやって、縫いつけてある分析板を見た。表面に大気成分分析紙を貼りつけた木の板である。
「大丈夫――ただの霧だ。おかしな成分は含まれちゃいねえ」
「じゃ、何なんだ?」
ジュークは答えず、Dの方を見た。
「わかるかい?」
Dは無言で手綱を取った。
馬たちがざわめいた。
手綱が激しくしなってその首を打った。
馬たちはわずかに前進して止まった。
「あんたでも駄目か。一体、どうなってるんだ?」
馬たちに眼をやって、ジュークは首を傾げた。
「何か恐ろしいものでも前にいるのか? まさか、あんたほどおっかないのが――いや、失礼、馬どもは、どう見ても脅えてるんじゃねえよな」
「とまどっているな」
とDは言った。
「この先は彼らのいくべき場所ではないのだ」
「どういうこった?」
「道がないのだろう」
「そんな――」
ジュークは眼をこすって、
「よくは見えねえが、道はつづいてる。この先、どこまで真っすぐで、どこで曲がってるのか、おれだってわかるぜ」
「馬にはわからんのだ」
「え?」
「どういうこったい?」
とセルゲイも不穏げな声を出した。
「行けるか?」
とD。
「あ?――ああ」
セルゲイは手綱をふった。次に馬の腹を蹴った。二度ずつ繰り返した。馬は動かなかった。
「……一体全体」
セルゲイのつぶやきに、森のどよめきが重なった。
霧が吹き散らされる。突風を避けて、ジュークとセルゲイは顔をそむけた。
すぐに熄《や》んだ。そう感じると同時に、
「道ができたぞい」
と嗄れ声が告げた。
前方に眼をやって、霧の晴れ間につづく小道――ジュークとセルゲイは顔を見合わせた。それは間違いなく、クラクフの村へと旅人たちを導く道であった。
二時間後、何事もなく、一同は村を囲む防御柵の前に到着した。
監視塔に、黄色いシャツ姿に火薬長銃を下げた若い男の姿が見えた。
「輸送屋だ」
とジュークが声を張り上げた。
男は片手を上げて、
「少し待ちな」
若いが野卑な口調であった。
通信器のところへでも移動するのか、若い男は後ろへ下がり、一同の視界から消えた。
一分……
「遅いな。なんでチェックに来ねえんだ?」
と屋根の上からゴルドーが毒づいた。
辺境の村では、ノー・チェックで来訪者を入れることはない。馬車などはなおさらだ。村の財産を狙う強盗や野盗が身を潜めていないとは限らないからだ。
五分経過――誰も来ない。どころか、門の向こうに人の気配もしない。
「おかしいな」
とジュークが監視塔へ眼をやって、
「おーい、そこの」
と呼びかけた。
応答はない。
姿を見せようともしない。
何度か呼びかけ、ジュークは、全く違う声で、
「おかしいな。――何かあったか」
とつぶやいた。
「たった五分でかい? 塔の奴は、まるで普通だったぜ」
とセルゲイ。
「おっ!?」
Dが馬車を下りたのである。
足早に大門に近づき、左手を表面に当てた。何故か、三人はぞっとした。
Dが左手を戻した。
大きく一歩後退する。二歩目が地面へ着くより早く、銀光が閃いた。
門は自然に開いた。
一同を待たず、刀身を収めて、Dは門を押した。
真ん中から左右に易々と開き、村の光景が現われた。
曇り空の下に、木立ちと家々が静まり返っている。
「おかしいな」
ジュークが眼を光らせた。
「昼だってのに、誰もいねえ。女子供の声さえ聞こえねえぞ」
「どうするんだ?」
「ここで待て」
とDが声をかけてきた。
「わかった。――すまんがチェックを頼む。馬車を危ない目には遭わせられねえんだ」
言い終える前に、Dは小さく口笛を吹いた。
馬車につないであるサイボーグ馬が首をふって、軽く巻きつけてあるだけの手綱を外し、Dの方へ走り出す。
眼を見張るような優美な動作で鞍にまたがり、Dはこちらを見ようともせずに、門をくぐった。
厚さ二〇センチもある閂《かんぬき》は、滑らかな切り口を見せて両断されていた。
さして大きな村ではない。この時刻なら、人の声で満ちているはずだ。
Dは真っすぐ、広場へと向かった。
空気には昼餉《ひるげ》の匂いが満ちていた。
焼きたてのパン、温かい牛乳とコーヒー、野菜とフルーツ・ジュース、塩をまぶしたビーフとポークのステーキ、ドレッシングの酢の香り、粗挽き胡椒、ウィキョウをたっぷりと使ったホワイト・シチュー――
少なくとも、ほんの数分前まで、村は生きていたのだ。
背後で男女の話し声がした。馬のすぐ後ろだ。
Dはふり向いた。
誰もいない。
前方で子供たちの笑い声。
向き直っても――いない。
通りすぎる畑や農家にも人の姿はなかった。畑には鋤や鎌や篭《かご》が転がっている。口の開いたランチ・ボックスからは白い湯気が上がっている。
たったいま、誰かがボックスの口を開けたばかりだという風に。
じきに広場、というところで、背後から足音が迫ってきた。
せわしない息遣いが、
「D」
と呼びかけに変わった。足もとに駆けつけてきたのは、ロザリアであった。
「隙を見て――逃げてきちゃった。私も見たいわ。何か起こってるのに、じっと待ってるなんて嫌よ」
鞍の把手に手をかけるや、ロザリアはあっという間に馬の背にまたがっていた。馬は気にする風もない。
「慣れているな」
ロザリアはDの腰に腕を巻きつけた。一度こうしてみたかったという風に、嬉々として。
すぐに広場へ出た。
曇り空の下に、人っ子ひとりいない広場は、黙然《もくねん》と静まり返っている。
おかしなもの[#「もの」に傍点]もいない。
おかしな気配もない。
誰も、何もいないだけだ。何も聞こえないだけだ。
それだけで、これほど気味が悪いとは。
「やだ――怖い」
ロザリアが腕に力をこめた。
「下りるぞ」
とDが言った。
「えーっ」
「集会所に耳を澄ませろ」
広場の右方に建つ二階家だ。
ロザリアは眼を閉じ、すぐに開いた。
「人の声がするわ。みんな、あの内部《なか》に隠れてるの!?」
Dは答えず、馬を下りた。
ロザリアも従った。Dは手を貸そうともせず、ロザリアも望みもしない。
建物のドアには鍵がかかっていなかった。
Dがドアを開けた途端――
「熄《や》んだわ」
とロザリアが水泡みたいなひとことを放った。それから、
「ねえ、D」
Dは足を止めた。
「後ろで声と音がするの。何十人もいるわ。話したり、馬車を引いたり、水を汲んだりしてる。ね、本当にいるの?」
「その眼で見ろ」
「嫌よ」
Dは扉を押して集会所へ入った。
うすい光が、がらんとした椅子だけのホールを照らしている。
ここも無人の館だった。
あらゆる部屋を覗いたが、誰にも会わなかった。
「どうしちゃったのよ、この村?」
うす気味悪そうに訊くロザリアへ、Dはおかしな問いを放った。
「この村の名は何という?」
「クラクスの村でしょ」
「クラクフだ」
「違うわよ、クラクスよ」
それ以上、Dはやり合わず、外へ出た。
ほんの十数分前まで人で溢れていた村は、そくそくと胸を蝕む恐怖の王宮と化して、二人を包みこもうとしていた。
「違うわ」
とDの背後でロザリアがつぶやいた。肌の粟立《あわだ》ちがわかるような声であった。
「さっきの広場じゃないわ[#「さっきの広場じゃないわ」に傍点]」
馬のところまで来ると、Dが、
「前へ乗れ」
と言った。
「え? 私――後ろで」
「前だ」
「はい」
そうなると、Dに逆らえるものはない。
鞍の前にまたがったロザリアの腰に、鋼のような黒い腕が巻かれた。
驚きとともに感じたかすかなときめきを、ロザリアは否定できなかった。
もと来た道をDは走り出した。
「確かにおかしいの」
巻かれた腕の先から、嗄れ声がして、ロザリアは身を固くした。
「ここはクラクスの村であって、クラクフの村ではない。クラクフであってクラクスでもある」
「ふむ――やはりな」
Dの低いかすかな声を、ロザリアは恍惚と聞いた。
「あのチップにあった。ギャスケルは“神祖”から、近隣の土地をすべて自分のものとする権利を与えられたのだ。ただし、条件があった。領地の面積は一定のものとする――すなわち、奴は領地を好きな場所へ移動するしかなかったのだ。人間が自らの呪われた土地と避けて通ることも、これで不可能になった」
「すると、奴は――」
自らの声を、ロザリアは遠く聞いた。
「復活した」
それは、嗄れ声と同じ言葉だった。
「何故だ?」
「奴に訊け」
「そうするか」
声が真顔になった(?)とき、Dが背後を向いた。
村を取り巻く防御柵の彼方から、黒いすじが何本も大空を背景に、巨大な弧を描きつつ飛んでくる。
腹を蹴られた馬が、狂ったように速度を上げる。
頭上に飛翔音。落ちてくる!
Dの一刀が空中を斜めに切り裂いた。
かっと鳴る切断音を、何のものとロザリアは聞いたか。
「い、今――何を、D?」
怯え切った鼻先へ、長さ三〇センチほどの、黒い木の枝が突き出された。
枝を武器とする。――よくある手だ。その辺の妖術使いでもたやすい仕事だ。
だが、次の瞬間、ロザリアはぎょっとした。
その枝は柵の向こうから飛んできたのだ。そして、柵は小さな砦ではなく、数百人の人々が棲息している村の土地すべてを護っている。
その径は狭いところで数キロに及ぶだろう。数千メートルの彼方から襲いかかる木の枝。攻撃の第二波は?
門が見えてきた。
「イヤッホー!」
無意識の喊声《かんせい》が、少女の口を突いた。
「あそこを出れば安心だわ!」
「そうかのお」
「何よ――こいつ」
ロザリアはDの左の拳にしがみついた。
その刹那、凄まじい衝撃が襲った。Dが急制動をかけたのだ。ほとんど同時にサイボーグ馬を回転させてショック・ストリームを放逐する。
ロザリアは夢中でDの手にしがみついた。不思議と悲鳴は出なかった。腰に巻かれた鋼の腕が彼女を支えていた。
もう一度、馬首を右方へと巡らせて、Dは路上に横たわる障害物を見つめた。
黒い柩であった。
だが、Dが馬を止めるとは。
飛び越えもせず、止まる方を選ぶとは。
それをさせたのが、平凡な黒い柩とは。
内部《なか》に誰がいる?
耳障りな音がした。
蝶番の音だ。
馬上から注がれる冷厳無比な視線の下で、柩の蓋は、いまゆっくりと開いていった。
柩はひとつではなかった。
どれほどの広さかわからない、うす墨色の空間に、それは黒々と位置を占めていた。
「みな、聞くがいい」
この部屋に主人《あるじ》がいるとすれば、うす闇そのものであったろう。
いつの間にか、部屋の中央――というより柩たちの真ん中に、黒衣の影が忽然と立っていた。そんなはずはないのに、その頭は見えない天井につくほど高く、その肩は見えない壁に届くほど広かった。
闇はその全身から滲む雰囲気のようであった。
「わしの送った柩のひとつが邪魔しておる」
と黒衣の主は言った。
聞くものは誰か。柩の死者か。彼は淡々と、そのただ中で話しつづける。
「あの若造がどれほどの奴か知らぬが、わしのものになった女を連れて逃げようなどと片腹痛いわ。あの柩の中身は、この領地へ喚び寄せた者の中でも、いちばんの小者。それに足止めを食らうようでは、ダンピールなどと申しても、たかが知れておる。であろうが?」
声に声が和した。
「さようでございます」
「さようでございます」
「さようでございます」
それは黒衣の主を囲むすべての柩が放った声であった。
「わしはここに甦った。さて、何をしよう。いいや、それはわかっておる。わしが無念の死を遂げたとき、ご神祖さまが授けて下さった“記憶”によってな。――では、わしは行く。あの娘をわが一族に加えるためにな。おまえたちは陽が沈んでから持ち場につくがよい」
彼は黒マントを翻して歩き出した。
壁のように重々しく、風のように軽やかに。
闇の中に渦巻くような螺旋階段を上りつつ、こう洩らしたつぶやきは、もちろん、誰にも聞かれずじまいだった。
「――しかし、何故、あの娘を?」
柩の内側には闇が詰まっていた。
曇天の下を歩く貴族もいる。決して驚くべき現象ではないが、ロザリアの心臓はフル稼働の蒸気ピストンのごとく脈打った。
最後のきしみを伝えて、蓋は開き終えた。
柩には、縁まで闇が詰まっている。黒い水のように。内側《なか》の死人《しびと》は水死人かも知れない。その肺にも腹にも、たっぷりと闇を詰めて。
闇がせり上がってきた。頭部からゆっくりと、生を受けた死者ではなく、いつわりの生を真似た死者の動きで。
闇はこぼれなかった。
それは長衣のごとく内側のものを隠したまま、柩から立ち上がり、地上へと降り立ったのである。
内側は夜なのだ。敵はその中に隠れているのだった。
「それも、大将軍の“技術”のひとつか?」
Dが訊いた。
光が迸った。
闇の下方――人間なら膝に当たる位置から鋭い刃が噴出したのである。それは、Dの乗ったサイボーグ馬の足を切断し、返す一撃で胴をも両断するはずであった。
切った。――空を。
Dは馬ごと空中にいた。
闇の刃が迸る寸前、彼は手綱のひとしぼりでサイボーグ馬を跳躍させたのである。ただ一歩も後退させず、予備動作もなしで。
光が後方へ躍った。
それは空中でDの刃と噛み合い、世にも美しい響きと火花を上げて跳ね戻った。
闇は動かない。
その背後――というべきだろう――に着地したサイボーグ馬から、Dは黒い風のように舞い下りた。
「行け」
と馬の尻を叩いて門へと走らせる。
闇との距離は五メートル。どちらも有効打を浴びせるには、一跳躍が必要な距離であった。
しゅう、と光がのびた。
左胸を引っかけるような一撃を弾く寸前、もうひとすじが右頚部へ走る。
難なく弾きとばしてDは地を蹴った。音もない跳躍《ジャンプ》は、静かを通り越してしなやかとさえいえた。
その美しさに見惚れたか、闇は――闇人《やみびと》は硬直したように動かない。
たぎり落ちる怒涛のように、Dの一刀はその頭部から股間まで切り下ろしていた。
鮮血が赤い花火のように開いた。
Dが跳び離れた。
その鳩尾《みぞおち》から背中まで貫き通った銀の刃は、執念のように離れず、彼の動きに合わせて延長された。
Dの必殺の一撃は、まさしく闇そのものを断ったように手応えがなく、その刹那、闇の放った一刀が致命傷を与えたのである。
Dは後退し、刃はさらに追う。
それは激しくねじられ、Dを痙攣させた。
新たな一刀が追った。
Dの刃が噛み合い、空中で固定された。
「来るぞ、三本目っ」
と嗄れ声が言った。
それはDの首をはねるつもりであったに違いない。
異様な音をたてて、光はDの肩口で停止した。その切尖は左手のひらに吸いこまれていた。ぽっかりと浮き出た小さな顔の、小さな口の中に。
割れた米粒のような歯が、文字通り刃を食い[#「食い」に傍点]止めているのだった。
これで、Dに防ぐ手立てはない。
「四本目」
声が告げた。
直進してきた光を、間一髪、Dは首を傾けてかわす。その右頬が血の霧を噴いた。
――――
とどめの一閃を闇が吐く。
Dの身体が大きく回転した。
闇人の剣は、ことごとく半ばからへし折れ、うち一本が直進してきた刃を跳ねとばした。
こちらを向き直ったDの頬からその唇へ、鮮血がすじを引いているのを見て、闇人の――闇の表面に、はじめて動揺の波が伝わった。
口もとの血をひと舐めして――唇からのぞく白い牙よ――Dは腹部の刀身を引き抜くや、闇めがけて投げた。
これまでのDとは異なる彼の投じた一刀は闇を貫き、そして、突き立った。
空中を声にならない苦鳴が渡り、闇人はよろめいた。
その先に柩があった。
闇人が倒れたこんだと同時に、蓋が閉じる。ガラスのように透きとおっていく柩を白木の針が貫通し、地面に突き刺さった。
「ギャスケルが手を貸しておるな」
と嗄れ声が呻いた。
「だが、おまえには手を出せん。所詮は“神祖”ごときに授かった“技術”よ。しかし、奴め、何故今ごろ復活してきおったのか。あのチップには、復活のプログラムしか入っておらなんだ」
そのとき、背後から二頭分の蹄の音が近づいてきた。
ジュークとセルゲイであった。
馬から下りて走り寄る二人を、
「近づくな」
というDの風刃《ふうじん》のような声が止めた。
背を向けたまま、彼は左手の甲で口もとを覆った。
制止の理由を知ってか知らずか、二人は急停止し、口々に、
「無事か?」
と訊いてすぐ、地上に撒き散らされた鮮血に気づいた。
「大丈夫か?」
「何とか、な」
こう言われると、他に言葉はない。
「わかった」
とジュークがうなずき、
「ロザリアはどうした?」
と訊いた。
「戻っていないのか?」
Dは後ろ向きのままである。
「ああ。帰ってきたのは馬だけだ」
「消えちまったぜ。監視塔の奴もいなかった。村の連中もそうなんだろ?」
とセルゲイが、あたりを見廻しながら気味悪そうにつぶやいた。
「何だかおかしいんだ、D」
ジュークは右手で左の二の腕を撫でた。辺境に生きる男の剛毅《ごうき》な顔が、露わな恐怖に白ちゃけていた。
「確かに何度か来た覚えのある村なのに――違うんだ、ここはクラクフの村じゃない」
「違うぜ、ジューク――クラクスの村だよ」
とセルゲイが訂正して、ふと、
「また、霧だ」
と言った。
何処からともなく湧き上がる白い紗が世界を包みこもうとしていた。
その中で見覚えのある家々には、いつもと変わらず、そして、全く別の何かに見えた。
「ここは、ギャスケル大将軍の領地だ」
とDが言った。
「まさか――」
「ちゃんと地図で調べてあるぜ」
二人の声はDの背に届く前に砕けた。
もはや、Dは後ろを向いているのではなかった。彼は前方を凝視していた。
霧の彼方――いままで存在しなかった火竜の背のごとき峨々《がが》たる岩山の中腹にそびえる城を。
驚くにはあたらない。ここは、ギャスケル将軍の領地なのだった。
そして、優美さのかけらもなく、屹立する禍々《まがまが》しい城塞こそ、ギャスケル城――“神祖”に次ぐ吸血魔王の居城なのであった。
『D―ダーク・ロード1』完
[#改ページ]
あとがき
一月も予定が二月、二月が三月になり、
「本当に三月ですかァ?」
との、軽蔑とあきらめと怒りの声の中、ついに、「D―ダーク・ロード」が完成しました。
しかも、喜んで下さい。前後編二巻――“D”をふた月連続でお愉しみいただけます。→おまえが言うな。
実は最近――といっても数年来――何とはなしにDとは疎遠になり、当人もこれはいかんなア、などとのんびり考えていたのですが、ファンレターを貰うと相変わらず“D”への支持が「魔界都市ブルース」と並んで圧倒的なのです。
思えば一九八二年の九月に「魔界都市<新宿>」を、翌八三年の一月に「吸血鬼ハンター“D”」を出して以来、十数年、私はこの第一作と第二作に支えられて作家業を営んできたようなものでして、私も“D”も、よく長持ちしたものです。
最近、新宿の「ロフト・プラス1」というお店で、年に二、三度トーク・ライブ・ショーを開いており――昔の私の出無精を知る人は、のけぞり返るでしょうが――そのとき駆けつけて下さるファンの方々の質問でも、この二作の新刊はいつ出るのか、という問いかけがいちばん多いのです。
どうやら、作者の思惑を越えて“D”はただならぬ生命を獲得してしまったらしい。そうして下さった読者の皆さんに深く感謝いたします。
で、「ロフト・プラス1」のトーク・ショーですが、三月五日の深夜《ミッドナイト》零時(だから、正確には六日の朝から)から四時まで「深夜の怪獣王国2」(「〜その1」はその前)と題して、未公開怪獣映画のオンパレードをやらかし、次回は六月二五日にまたやらかします(内容は内緒。多分、ホラー関係のトークになるでしょう)。私の相棒I氏は毎回へべれけで、放送禁止用語を撒き散らし、場慣れした(大いに結構)ファンは酔いつぶれて、人の話など聞かずに自分の世界に没頭、隣では美しい奥様を加えたH・P・ラヴクラフトのファン・サークルが勝手にオフ会を開いているという、いつの間にか、私たちは酔っ払いの宴会に呼ばれる芸人と化している感があります。
とにかく気軽に楽しめ、その筋の意外なゲストまでゴロゴロしているというお祭り騒ぎみたいな四時間です。よろしかったらどうぞ。今度、歌を歌わされるかも知れません。
次巻「D―ダーク・ロード2」は、四月発売予定。
絶対出します。乞う御期待!
平成十一年三月某日
「魔人ドラキュラ」(スペイン版)を観ながら
菊地秀行