D―双影の騎士2 〜吸血鬼ハンター10
菊地秀行
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目次
第一章 雪中脱出行
第二章 ユマは何処(いずこ)に?
第三章 北のシューシャ
第四章 “門”の前で
第五章 死人(しびと)街道
第六章 ムマにて
第七章 Dは何処(いずこ)より
あとがき
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第一章 雪中脱出行
1
「――D」
ミアは茫然と立ちすくんだ。瞳には二本の牙が映っていた。見てはならない牙が。見たくはなかった牙が。
「嘘よ」
と、つぶやいた。
「嘘よ嘘よ嘘よ」
「いや、現実だ」
ケンツが一段上がってミアを背後に庇った。
「戻るんだ、ミア」
「駄目よ、出口はそこしかない。次のを探し出す前に私たち、参ってしまうわよ」
すでに二人の足は棒のように固まっていた。
「どいてくれ、D」
とケンツは声をかけた。
「あんたとやり合っても、勝ち目がないのはわかってる。だが、それとは別に、やりたくないんだ」
ダンピールとDを忌み嫌っていた若者は、すでにDに畏敬の念を抱いていた。Dが片方の本性――貴族の牙を剥き出しにしても、その気持ちに揺らぎはなかったのだ。彼は鉄矢も隠し刃も構えようとしていない。
ずい、とDが前へ出た。
爛とかがやく真紅の双眸《そうぼう》が二人を射た。その刹那、ケンツはミアを守ることに決めた。
左手が上がった。
びゅっと空気を灼いて鉄の矢が走る。受け止められるはずもないそれを、Dは胸もとで掴み取った。
同時にケンツが跳躍した。
戦う、と決めた瞬間、彼の脳裡に浮かんだ唯一の戦法は、Dの手を封じることであった。
すなわち、彼は自ら左手を落としていた。残るは右手一本。これさえ使えなくすれば、それが自由になるまでの数秒間だけはケンツの攻撃を受けざるを得ない。ケンツの勝機はここしかなかった。
Dが鉄矢を投げ捨てる。ケンツがその頭上からDの首すじへと隠し刃を叩きつける。――一瞬、ぐおっという苦鳴とともに、若者は空中で身をよじった。
どっとDの足もとに落下した左の肩から、黒い矢が生えていた。彼自身の放った矢が。
受け止めた矢を捨てず、Dはそれをケンツの方へ投げ返したのである。
苦悶するケンツを静かに見下ろす表情の美しさに変化はないが、その瞳に浮かぶ憎悪の波動を見よ、飢えの凄まじさを見よ。
彼は右手をのばすや、ケンツの首を鷲掴みにした。
「うおおおお」
苦悶の声は上へと流れた。
片腕一本でDはケンツを吊し上げてしまったのである。ケンツの手から隠し刃が落ちて、固い音をたてた。
若者の首は、彼の唇の前にあった。
かっとそれが開いた。口腔さえ真紅に見えて、ミアはめまいを覚えた。だから――
「やめて!」
と叫んだのも、隠し刃を拾い上げて、Dの胸もとへ突っこんだのも、覚えてはいない。
気がつくと、二段ほど階段を下りたところで、二人を見つめていた。
ケンツはDの足もとに蹲《うずくま》って咳きこみ、美しいハンターは無言でミアに視線を当てていた。
その大胸骨の下あたりに刺さったケンツの隠し刃よりも、Dの眼差しがミアに衝撃を与えた。
「よくやった」
それは、彼女のよく知っている美しい吸血鬼ハンターの声であった。
ミアの足もとで嗄れた声が、
「そうとも」
と告げたが、彼女にはDしか理解できなかった。
「D――治ったのね」
安堵と涙にくぐもる声に答えはなく、Dはケンツの肩を掴んで立たせると、先に立って階段を上がっていった。
ケンツの後ろについて昇り出そうとするミアの足首を、人の手が掴んだ。
「きゃっ!?」
と叫んで見下ろし、ミアは息を引いた。
肩から切断されたDの左手が足首を握りしめているのだ。
「な、何よ」
「いいから、進め。ついていく」
と左手が言った。しゃべるのはわかっていても、状況はうす気味悪い。
「歩けないの?」
「そうじゃ」
「仕方がないわね。――でも、Dと長いこと切り離されてても生きてゆけるわけ?」
「ま、なんとか」
「ふうん」
妙に納得して、ミアは裾を気にしいしい階段を昇りはじめた。
陽光が一同を包んだ。
地下の施設で追いかけっこをしている間に、一昼夜が過ぎていたらしい。
周囲の光景に眼をやって、
「ここは――ジリイラの山だ」
ケンツが驚きの声を上げた。
村の西のはずれにそびえる山塊中のひとつだ。海抜一五〇〇メートル。山頂は四季を問わず、雪を戴いている。
抜けるような蒼穹《そうきゅう》と点在する黒い岩肌以外は、純白の世界が三人を取り囲んでいた。脱出孔は岩塊の間に開いている。
どうやら、地下の施設は“赤い土地”どころか、村とその周囲も包含して広がっているらしい。
「寒い」
両肩を抱くようにしながら、ミアはDの方を見た。
美しいハンターは岩から少し離れたところに立って、頭上をふり仰いでいた。
光に包まれたその顔と姿の美しさよ。頭の中まで陶然と痺れたミアが、そのまさに光のはらむ危険性に思い至ったのは、数瞬の後である。
ダンピールの体内を流れる貴族の血に、陽光は致命的な効果を与えるのだ。
だが、美しいハンターは恐れる風もなく光に顔を向け、片腕で身体を支えることもせず、そして、二本の足で立っていた。
階段の途中では、なおも残存していた狂気の翳《かげ》が跡形もなく光に溶けているのに、ミアは驚いた。
母に聞かされた貴族の話が耳の奥に甦った。
「光は貴族の身体を灼き、私たちが火に焙られる以上の苦痛を与えるの。でも、光には不思議な力がある。貴族が愛さずにはいられないような。その証拠に、陽光にさらされて死滅した貴族は、ひとり残らず笑っているのだよ。光の中にある何かが、貴族の血に潜む凶悪無残なものを灼き尽くしてしまうのかも知れないね」
「D」
ぼんやりつぶやいたとき、足首が引かれた。
「何よ!?」
「わしをあいつ[#「あいつ」に傍点]のところに連れて行け」
「自分で行きなさいよ、気味が悪いわねえ」
「何を言うか、おまえには左手がないのか? とっとと連れて行け」
「もう!」
それでも人のいいミアは身を屈め、嫌そうに左腕を拾い上げた。
「よせよ、ミア、おれが持っていってやる」
様子を見ていたケンツが声をかけた。
「余計な真似をするな、若造」
と左手が凄みを利かせた。
「うるさいぞ、この化物」
ケンツが左手をのばした。言うまでもなく鉄矢の照準である。
「わっ」
と叫んで左腕がミアの手から跳ね上がり、雪の上に落ちた。白雪を散らしてDの方へ突進する。
「騙したのね!?」
怒るミアの肩をケンツが叩いた。笑っている。ミアの顔もほころんだ。
走る左腕は、Dの足もとで跳躍し、左肩の切断面に密着した。
斬線が消え、たちまち常態に復する。Dは一瞥も与えず、陽光を浴びていた。
「おい、あの若造、殺人狂だぞ。――殺《や》れ」
と左手が自然に上がってケンツを指さしたが、Dはすぐに下ろし、
「下りられるか?」
と二人に訊いた。
「ああ、大丈夫だ」
とケンツが胸を張った。
「昔、何度も登ったことがある。まかしてくれ」
「では、行け」
「ちょっと待ってくれ。――あんたは来ないのか? そうか、また、あそこへ戻る気だな?」
「行くがいい」
静かだが、風刃《ふうじん》のようなDの言葉であった。
二人はうなずいた。
「D、戻って来て」
ミアが言った。凍った息の白さに、Dの姿はおぼろにかすんだ。
「下で待ってるわ。必ず、来て」
返事はない。
「行こう、ミア」
ケンツが腕を取った。
そのとき、二人の眼の隅を虹色の光がかすめたが、眼を凝らすと何もなかった。
ミアはふり返りふり返り、雪の斜面を下っていった。岩のかたわらに立つ黒衣の若者の姿は次第に遠ざかり、吹きつけてきた雪煙がそれを隠した。
「さて、どこから下りるかな」
ケンツの言葉は、ミアを愕然とさせた。
「あなた、登り慣れてるんじゃないの!?」
「あれは――嘘だ」
「どうして、そんなこと。この斜面、かなり急よ。多分、下の方の雪は固まってるわ。たやすく雪崩が起きるわよ。ルートを知ってる人間じゃなきゃ無理よ。それに――」
ミアは口を押さえようとしたが遅かった。のけぞる暇もなく激しいくしゃみが口腔から炸裂した。二発目と三発目をこらえたのがせめてもといえた。
数秒――二人は耳を澄ませた。
ミアが肩を落として、
「大丈夫だったみたいね」
ケンツは首をふった。
「いいや、来てる」
え、と眉を寄せたミアの耳にも、遠い彼方の重い響きが伝わってきた。いまのくしゃみのせいでないにしろ、雪面が崩れやすいのは確かだった。
「断っておきますけど、遭難したらあなたのせいよ」
「したら、文句を言ってもはじまらないぜ」
とケンツは受け流した。
「それより、さっさと下りようや。幸いあそこから下まで岩場がつづいてる。伝っていこう」
「そうね」
ミアは頭上をふり仰いだ。
蒼い空が悠々と広がっている。この空と太陽が守ってくれる――そう思った。
いつかまた、あの地の底へ戻らなくてはならなくなっても、この蒼穹と陽光が闇を駆逐してくれる。
それから、小さく、誰にもきこえないように――
そうでしょ、D。
「とりあえず、外へは送り出した、と」
闇の中で嗄れた声が言った。
「で、これからどうする気じゃ?」
「破壊する」
Dは何気ない風に応じた。その言い方があんまりあっさりしているので、相手の声も、
「ふうむ」
と、何気ない返事をしてから、
「なにィ!?」
と、あわてたくらいである。
「こ、ここをか?」
「他にあるか?」
「いや。――しかし、こんな巨大な施設をどうやって? わしの計算によれば、地下三〇キロ、東西南北にこれも三〇キロはあるぞ」
「エネルギー・ラインの流れを逆方向へ向ける」
嗄れ声は沈黙した。少しして、
「ふむ。そうすれば、確かに逆流したエネルギーが炉心に集中して、許容量を超えれば、ドカンじゃ。――しかし」
「しかし、何だ?」
と珍しいDの問いであった。
「正直言って、勿体ない」
と声は告げた。
「いかに奴[#「奴」に傍点]といえど、この施設を造るのに、どれほどの歳月を要したことか。そうさな、ざっと千年」
「六〇日だ」
「え?」
「工事に着手してから、きっかり六〇日で完成した」
「この大法螺吹きめが。誰がそう言った?」
「ここ[#「ここ」に傍点]がだ」
「そうか。そう言えば、ここ[#「ここ」に傍点]は奴がこしらえたところじゃ。ふむ、おまえにわかるのも無理はない。歳月の記憶はいまも空間に刻印されておるわ。だがな――」
「どうした?」
「もうひとりのおまえと約束したのを忘れたか? ケンツたちの仲間のうちひとりでも無事に脱出できたら、おまえは三日間、この施設へ入ってはならんのだ」
「違《たが》えはしない」
「しかし――」
声は途切れた。次の声はきくものの心胆を凍りつかせるような恐怖を含んでいた。
「おまえ、まさか……」
2
山頂から、直線距離で一〇〇メートルは下ったところで、二人は足を止めた。
岩場伝いのルートは、足もとがひどくごろつき、体力を消耗する。何よりも足が傷つく。バランスを崩した身体を支えようとして、岩についた手も痛む。
「君はタフだな」
とケンツが感心したのは、ミアがハンカチで手の平と甲を巻きはじめたのを見たからだ。白い布には、みるみる血が滲んだ。
「そうでもないわよ」
「その靴は平地用だ。それなのに、鳥みたいに歩いてる」
「魔術用の草や薬草の採集でね、山登りには慣れてるだけ」
「それにしたって――」
「私のことはいいわよ。勇敢なお兄さん――無事に下まで行ける算段をして」
「お、おお」
と答えたのが、妙にふらついたのは、「勇敢なお兄さん」のひとことが効いたからである。ミアにはそんな気がなくても、ケンツの心臓と頭には特殊な効果があった。ミアを見つめる瞳は熱く、頬は上気した。この勇敢な若者にとって、はじめての恋であるらしい。
だが、いかにも若者らしく燃え上がった情熱は、そうさせた当人の次のひとことで、あっという間に鎮火してしまった。
「何だか、変な予感がするの」
「そうか、君は占い師だったな」
ミアのことは村の連中から聞いている。
「占い師は母よ。私は予備軍」
「きれいなお母さんだったろうな」
「はは」
とミアはあっけらかんと笑った。
「ありがと。お世辞でもうれしいわ」
と言った。ちっともうれしそうじゃないのが玉に瑕《きず》だが、ケンツには気にもならない。
地底の魔窟で見たときは、精神的な緊張もあって、可愛い娘だなくらいにしか感じなかったが、いま、陽光の下で開放感とともに見ると、その艶やかな髪といい、桜色の頬、小鼻が愛らしい鼻梁の線といい、薔薇色をした唇といい、何と溌剌たる黄金の息吹に包まれていることだろう。
ふと、ケンツは、自分とミアが恐るべき脱出行の途中ではなく、申し合わせて白銀の峰へ登ってきたような錯覚に捉われた。
その頬を白い風が打った。肌を切るような冷気が染みこんできた。
風の吹いてきた方角に眼をやり、純白の濃霧が奇怪な立像のような形を取っているのを見た。
「急ごう」
とミアをふり返ったとき、占い師の娘は、黒い岩の上に両膝をついて、上衣のポケットから、虹のような色をした布袋を取り出したところだった。
「おい」
「待って。行く手に何があるか占ってみるわ」
「できるのかい?」
と訊いた途端に、ぴしゃりと頬が鳴った。
間髪いれずの平手打ちである。あまりに近距離だったのと、まさか、この娘がという思いのせいで避け切れなかったのだ。ミアが一切の予備動作を見せなかったせいもある。
「何をする!?」
叫んだ声にはさすがの迫力があるが、ミアの返事はもっと凄かった。
猫のような可憐な瞳が、激しい光芒を放ってケンツをにらみつけ、
「わかるのか、ならいいけど、できるのか、は許さないわ。侮辱よ」
と、杭でも打ちこむみたいに挑んだ。
「わかった。ごめんよ」
ケンツはあっさり引いた。よくわからないが、これは自分が悪そうだ。
ミアもぱっと破顔して、
「いいのよ。――見てて」
袋の中から取り出したのは、多面体にカットされた黒い石と数本の鉄の針であった。石は陽光をまばゆく跳ね返した。
「どうすんだ?」
「この石のカット面は、全部で六十二あるわ。その中に、これから私たちが出くわす災難の主が三つだけ現れるのよ。なければもちろん出て来ない。それからこの針はね、この石を刺すの。本当は刺さりっこないんだけれど、一度だけ貫ける。その面の位置から、私たちの取るべきルート――方角がわかるわけ」
「面白そうだ。やってくれ」
ケンツは好奇心と期待にみちた表情になった。この娘のやることなすこと、胸に甘く切なく響く。――恋の魔力だ。
ミアは両眼を閉じた。そのしなやかな身体を、見えざる力場《パワー・フィールド》ともいうべき気が包んだ。
盲目の状態でミアはためらうことなく針を取り、石の上に置いた黒い宝石の上にふりかざした。
真の占い師にだけ可能な、儀式的荘厳さを感じて、ケンツは息を呑んだ。
次の瞬間、声もなく、針はふり下ろされた。その下で黒い宝石が向きを変えたような気がケンツにはした。
「やった!」
思わず洩らした。針は確かに多面体のひとつを向こう側まで刺し貫いていたのである。
だが、つづけて、
「ひび[#「ひび」に傍点]が!?」
愕然たるミアの声が噴き上がったではないか。
見よ。黒い宝石の表面全体に、針の貫通部分を中心にして、蜘蛛の巣状の白い糸が張り巡らされている。
「おかしい。こんなはずはないわ。これでは、私たちの行く方角がないことになってしまう」
「………」
ミアの恐るべき言葉に、ケンツは反応しなかった。できなかったのである。このとき彼は、乳の下全体に、胴を輪切りにされたみたいな、地獄の痛みを覚えたのだ。
宝石の生む驚愕のせいか、ミアはそれに気づかない。
彼女は石を間近に引きつけ、じっと刺すような視線を注いだ。
「見えるわ。障害物の姿が――顔が」
ほんの少し間を置いて、それこそ地獄を垣間見た生者のような叫びが迸った。
「――D!?」
どこかから、硬質な音が波のように押し寄せては、広大な空間に拡散していった。
「わかるか? ボルトの締まる音、ちぎれたレーザー・コードのつながる音、電子神経回路がオープンになる音――この施設は復活しようとしておるぞ」
左手から放たれる嗄れ声に、Dは前方のうす闇を見つめたまま応じた。
「奴[#「奴」に傍点]がそう造った。復活も計算に入れてのことだろう」
「しかし、この施設の破壊は、奴にとってもショックであったろうな。破壊者は誰だ? 貴族の中の反対派か?」
「おれだ」
「は?」
声は、きょとんとしたような響きを帯び、それから、もっと低く、うなるように、
「――わしは知らんぞ」
と言った。
「おれの知らんことも、おまえは知っていた。お互い様というわけだ」
「待てよ。わしも最初の頃[#「最初の頃」に傍点]は記憶が途切れがちの赤ん坊同然だった。その頃の話か。いや、待てよ、おまえと組んだのは、あれは――」
青白い光がDと声とを染めた。
何処《いずこ》とも知れぬ天の高みから地下の暗黒へと、ふた抱えもありそうな光のすじが放出されていく。
いつの間にか、Dは途方もなく巨大な竪穴にかかる通路を渡っていた。
「エネルギー・ラインの一分系にすぎんな。それも、極めて微量のエネルギーを運搬するにとどまる」
と嗄れ声が言った。
「その量はざっと四兆五千億ジュール。瞬時に解放すれば、惑星の二つくらいは吹きとばせるじゃろう。些細な量じゃ」
通路のほぼ真ん中で、Dは足を止めた。
「この下だな」
「さよう。炉が生きておる」
Dは無言で左方のガードレールに歩み寄った。
「おい、何をする? 下りる気か、ここから? いくらおまえでも――」
ガードレールを乗り越える仕草は、重さのないもののように見えた。
黒衣の裾を羽根のように翻し、世にも美しい人影は、暗黒の底へと降下していった。魔鳥のごとくに。待つのが地獄だとしても、この若者は、そこの番卒どもを震撼させるにちがいない。
びょうびょうと吹きすぎる風と光の青嵐の中で、
「あの二人はどうなるか、ちと心配じゃて」
という嗄れ声がきこえた。
返事はない。
突然倒れたケンツの身体を岩陰に横たえ、ミアは何度もその頬を叩いたが、何の反応もなかった。
あわてて脈をとっても無く、瞳孔も開き切っている。
死んだのか? まさか。――しかし、そうとしか思えないケンツの反応であった。
「どうして、急に?」
ミアは正直、途方に暮れた。
見渡せば、左方の斜面からは濃霧と見まごうばかりの雪煙が斜面をこちらに漂い流れてくるし、右方では、はっきりとしないが雪面の滑落がはじまっているようだ。ミアひとりで下りられる状況ではないし、ケンツを放っていくつもりもなかった。
すると、打つ手はビバークしかない。雪煙をやりすごすのだ。雪煙が吹雪の前兆だといえないこともないが、そこまで考えても仕方がない。
ビバークに適当な場所を求めて、ミアは眼を走らせた。雪山自体は、何度も母のお供で登った経験があるし、ビバークもこなした。雪洞を掘る道具はケンツが持っているだろう。ミアはあきらめなかった。
左後方をふり返ったとき、かなり離れた岩壁の上に、明らかに人工的な角度を持った構造物が見えた。
「やったあ」
とミアは指を打ち鳴らした。
「ちょっと、起きてよ、ねえ」
とケンツを揺すったが、すぐに立ち上がって、
「やっぱり、駄目か。連れてくしかないわね――幸い、雪だし」
とつぶやいた。その頬を霞のような白煙が叩いた。
「来た来た」
のんびりしてはいられない。だが、ケンツを運ぶ術はなく、彼を放っていく気もないのだった。
雪煙が濃さを増してくる。
「ん?」
ミアは吹きつける白魔の方向へ眼を凝らした。
白く紗でも張ったみたいに霞む彼方に、人影らしいものが見えた。
「あ――っ!?」
と歓喜し、両手をふり廻しかけてやめたのは、幾つもつながっているその影たちが、どうにも雪にあおられる人間らしい反応を示していないからだ。山登り用の装備らしいものもないのに、手を上げて雪を遮りもせず黙々とやってくる。体型もみょうにずんぐりとして、全員の首が胴にめりこんでいるように見える。極端な猫背なのだ。
戦慄がミアの胸を吹き抜けた。
この地方の雪山に残る伝説を憶い出したのである。
人間を見つけては、雪の中の巣に連れこみ、食らい尽くしてしまうという雪魔人――カラドーマの伝説を。
逃げなくちゃ、いますぐ、あの建物へ。
でも、どうやって、ケンツを?
倒れた若者を見下ろすミアの眼に、はじめて焦燥と絶望の色が湧いた。
3
五〇分後、建物の窓から、ミアは雪煙に覆われた下方の岩場を見下ろし、ため息をついた。
ケンツは粗末なベッドに横たわっている。容態は変化なしだ。
建物は予想通り、古い時代の避難所であった。戸口のプレートによれば、百年以上も前の代物だが、現在、コンクリートづくりの外壁は風雪を軽々とクリアし、内側の壁にも天井にも染みひとつない。
何よりも、百年以上前には不断に酷使されたらしい温度調節装置が、スイッチひとつで作動したのがうれしかった。隅々まで不凍油がさしてあり、傷み易い部分には完璧な補強と修理がなされていた。
恐らく、ここを使用した最後の人々の仕事であろう。ミアは会うこともない彼らの心遣いに深く打たれた。おかげで自分は、両足を掴んで引きずってきたケンツともども、凍えなくて済んだ。おまけに奥の棚には防寒服と保存食料の貯えもある。山を下りるには十分すぎる装備だった。
ミアはベッドに戻ってケンツの額に手を当て、瞳孔を調べた。身体はすでに冷たく、脈拍はもちろんゼロ、瞳孔も開きっ放し――完全に死んでいる。
ところが、勘が違うという。人間が死ねば、何か本質的なものが肉体から分離する。人によってはこれを魂と呼ぶが、これによって、死体は完全なる抜け殻となるわけだ。占い師の母は、葬儀の司祭長も兼ねていたから、ミアも幼い頃からその手伝いで、何百という死体を眼にしてきた。例外はなかった。死体とは抜け殻のことだ。
ケンツにはそんな感じがしない。人間を人間たらしめる何かは、まだ彼の肉体の内部で命脈を保っているのだ。それこそが生の証しだった。何としても村まで連れ帰るとミアは決心していた。その熱い決意を、砂上の楼閣のごとくにゆるがす風があった。
黒く青白く限りなく美しく妖しい風――それはある若者の面をつけていた。
――D。
ミアたちの行く手に立ち塞がる妨害者が彼だとは、どういう意味なのか。
にせDかとも考えた。だが、彼の顔を浮かび上がらせて数瞬後に砕け散った宝石が、ミアの直感に伝えてきたのは、本物のD――そのイメージであった。
なぜ、彼が? 考えただけで、ミアの胸は不安に圧《お》しひしがれ、その勇気は宝石と同じ運命を辿りそうだった。
あの美しいハンターは、一体、何者なのか?
不意に視界が翳った。ミアはふり返り、はっとした。窓の外がいつの間にか白魔に覆われている。風の方角が変わったのだ。
この避難所がなかったら――胸を撫で下ろし、窓ガラスに顔を近づけた。
悪鬼の顔が窓に貼りついていた。
吊り上がった目尻、どろんと死んだような眼球、三日月形に裂けた口とそこからのぞく黄色い歯列。白い剛毛が密生したその顔は、ミアの知るどんな妖物よりも凶暴残忍で知能的であった。
「きゃっ!?」
と叫んで身を引くと同時に、顔も消え、代わって白い握り拳が激しく窓ガラスを叩いた。
あいつらだ。雪煙の中を行進してきた妖物――カラドーマが、雪煙の方向転換に合わせてこちらにやってきたのだ。あるいは別のカラドーマかも知れないが、ミアには同じことだった。
戸口のドアが鳴った。ふり向くと同時に、天井が音をたてた。どちらも打撃音だ。敵の数は不明。
ミアは奥の倉庫へと跳びこみ、立てかけてあったボルト小銃を掴んだ。
ボルト操作で弾丸の装填発射を行う通常のライフルではなく、文字通り高圧の、圧搾空気の力でボルトを打ち出すのだ。火薬式のライフルは、その重々しい銃声が、たやすく雪崩を引き起こす恐れがある。避難所の使用者たち――というか設計者たちは、至れり尽くせりを本分としたにちがいない。
隣のブリキ缶をのぞくと、五〇発入りの弾倉がちょうど一ダースとガス・ボンベが三本残っていた。缶の蓋についた把っ手を掴んで、居間兼寝室へと戻る。かなり重くて、ミアの足はもつれた。
居間へ入った刹那、窓ガラスが砕けた。
破壊音と衝撃波が真っ向から叩きつけてきて、ミアは缶を落として片手で顔を覆った。
すぐに開いた。
窓からカラドーマの上半身がのぞいていた。開けた穴が狭いのだ。入りこんだ右手に握った塊でガラスを打ち砕こうとする。
あと三つある窓にも凄まじい顔が牙を剥いていた。
ミアはガス・ライフルを構えた。
「来ないで! 射つわよ」
と叫ぶ。
つっかえた奴が顔を上げ、ひと声、獣の叫びを放つと右手を向けた。
「やめて!」
叫びざま、ミアは引金を引いた。
空しく空引きした指の感触に戦慄する前に、恐怖すべき事実にミアは気づいていた。ライフルには、ボンベも弾倉も装填していないのだ!
「待ってろ!」
自分でも阿呆かと思う台詞を投げつけ、片膝立ちになって、ライフルを逆しまにし、缶からボンベを取り出して銃床底部の装填孔に叩きこむ。辺境の娘なら、誰でも何種類かの武器の扱いは心得ている。獣の声が近い。ボンベはOK。弾倉を拾って、引金前方の装填孔へ。
弾倉止めのかちりという音が甘美このうえない。
肩づけして立ち上がったとき、眼の前に白い塊が着地した。
鼓膜を引き裂く咆哮とともに、そいつは窓ガラスを破壊した武器を、ミアめがけて投げつけた。
左肩に凄まじい衝撃を感じる前に、引金を引いたと思うが、確かではない。
そいつの顔面は鼻のつけ根を中心に、すり鉢状にへこんだ。
頭だけのけぞりつつ、後ろの壁にぶつかってつぶれる。
ミアの身体は倉庫のドアにぶつかって止まっていた。ずり落ちようとするのを両足を踏んばってこらえ、ライフルを構えようと左手を動かして、痛みに苦鳴を洩らす。
窓ガラスを破る武器はひとつだけだったらしい。
次の一匹が同じ窓から跳びこんできたとき、ミアは右手だけでライフルを握っていた。背をドアにつけて身体を安定させ、息を吐くと同時に、ライフルを持ち上げた。弾倉を入れて四キロを越す重さを右手一本で固定するのは不可能に近い。
狙いは勘。ライフルの重量のせいで、ガスの反動は限りなくゼロに近い。
シュッと弾き出されたボルトは、マッハ3のスピードで、二匹目の胸部を直撃した。
背中の射出孔から大量の肉と内臓とを噴出させながら、そいつが吹っとぶと同時に、ミアも激痛に意識を失った。
ライフルのわずかな衝撃が、その身体をドアに押しつけ、そこから逆進して体内に戻ったのだ。左肩の骨にはひびが入っていた。
Dの眼前に、不可思議な円筒がそびえていた。
不可思議というのは、見上げる上端まで一〇〇メートル以上もある円筒なのに、全体が三次元の幾何学を無視して微妙に歪んでいるように見えるせいであった。
「はじめて見る、これが“揺曳炉《ようえいろ》”か。エイリアンどもの技術が入っているというが、とんでもない代物をこしらえたものだ」
貴族の世界でも、その文明を支えるエネルギーが最重要課題なのは論を俟たない。
通常の形態から得られるエネルギーのうち、理想に近いものが、増幅器を利用した太陽エネルギーだったのは、何とも皮肉な話だが、一種の倫理観によって、彼らは根本的に異なるエネルギー源の開発に着手した。
まず成功したのが、数学と幾何を応用した異次元空間からのエネルギーであるが、これは約一千年後、「向こう側」からの奇怪な生物の攻撃によって破棄された。
これとほぼ同時期に、“神祖”直属のエネルギー開発センターは、さらに根本的なエネルギー開発に成果を上げていた。すなわち、無限運動エネルギーに。
不老不死にその存在理由《レーゾン・デートル》を置く貴族たちの十万人近くが、この開発中に衰弱死したという事実は、その不可能を立証する厳然たる物理法則に異議を唱えた報いであった。
あまりの凄惨さに、神祖自ら開発記録の破棄を命じたこの大事業が、一応の完成を見たのは、五千年を経てからである。
無から有を取り出す物理学の夢を実現したこのメカニズムは、しかし、さすがの貴族たちの文明をもってしても、三基の建造を数えるのみで、それぞれが極秘の場所に設置された。
無限ともいうべきエネルギー製造の秘密は、ある種の歪みと震動にあった。無限に近い組み合わせの中から最も理想的なパターンを選び出すのに、貴族の科学力は五千年を要したのである。
そのひとつがいま、Dの眼の前にそびえていた。
「貴族の象徴がひとつ消えるか」
左手のつぶやきを、Dはどう聞いたか。
何の感慨もなさそうに歩み寄る彼の頭上から、黄金のシャワーがふり注いだ。
いかなる物質をも瞬間的に消滅させてしまう十億度の熱線は、しかし、Dの身体に触れた途端、その熱を失った。Dの胸もとで青いペンダントが静かにかがやいていた。
この侵入者がただものではないことを、守護者ともいうべきビッグ・コンピュータは見抜いた。以下の攻撃はすべてキャンセルし、あらゆる機能を防御モードに専従させる。
不可視のシールドがDの前方を覆った。“反力場”《アンチ・フォース・フィールド》――触れるものは、ことごとく消滅する。
あと三歩。
二歩。
一歩。
飄々とDは通過した。
残るは最後の砦――“血の封印”。神祖の血を引くもののみが通過を許される障壁であった。
突如、コンピュータは、その機構内に封じられていた“最終指令”が発動されるのを意識した。これだけは、コンピュータの意志を無視し、あらゆる状況に優先する。
回路が切り替わり、“揺曳炉”の全エネルギーが、千分の一秒で炉の底部にはめこまれた黒い函《ブラック・ボックス》に集中する。
ずん、と空気が震動した。
「おや」
嗄れ声が眼を丸くした。
二人の前方にあるのは、巨大な黒い淵だけであった。
そこに埋めこまれ、そびえ立っていた貴族の象徴は、忽然と消滅していた。
「空間移動か――こしゃくな手を使いよる」
と左手が呻いた。
「どこへ行った?」
Dの問いを沈黙が受けた。それから、
「ムマか?」
とDが訊いた。
「十中八九」
「どこにある?」
「し、知らん」
いつもなら拳を握りしめるところを、Dはあっさりと踵を返した。
「では、別の奴に訊こう。おれより、ここに詳しい奴に」
その口調に、左手から異様な戦慄が伝わった。
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第二章 ユマは何処(いずこ)に?
1
Dが暗い通路の向こうから現れ、開け放たれたドアを抜けて入ってきたとき、もうひとりのDは、巨大な整流器にもたれていた。
「おれを呼んだな」
と入ってきたDが念を押すように言うと、整流器にもたれたままのDはうなずいた。彼は二人しか在り場所を知らぬ通信装置で、もうひとりの自分を呼んだのであった。
「おまえがここにいるとは思わなかった。さっさと出て行け」
と、ののしるにせ[#「にせ」に傍点]Dへ、
「刺客はどこにいる」
とDは訊いた。
一見、何の関係もない言葉のやりとりだが、その真意に気づいたものは、戦慄するだろう。
「あいつか」
にせDの口もとに、得体の知れぬ笑みが広がった。
「あいつを捕まえてどうするつもりだ?」
「ムマへの道を訊く」
「ムマ?」
「おまえも知らんのか」
「ああ。だが、いま耳にした途端、背筋が凍りついた。そこに何がある?」
「おれに関する秘事らしい」
「なら、おれにも秘事だな」
と、にせDは言って、じっと考えこんだ。
「その単語の意味を、おれも知りたい。刺客はまだ、この施設の中にいる。外へ出たものがあの二人しかないのでな」
そして、Dを見つめ、
「おまえ以外の人間が脱出した場合、おまえもここへは戻らんと約束したはずだぞ。おれ[#「おれ」に傍点]は希代の大嘘つきらしいな」
「彼らなら、戻ってくる」
とDは言った。
「何ィ?」
「おれ[#「おれ」に傍点]は、おとぼけも上手いのか」
にせDは、少し間を置いて、片手を腹にあてた。折り曲げた身体は急な腹痛に見舞われたようにも見えたが、口からこぼれたのは笑い声だった。
「はっはっは……よくもお見通しだな。確かにあいつらは返してもらったよ。だが、そう仕向けたのは、おまえ[#「おまえ」に傍点]だぞ。責任転嫁はよせよな」
「どこにいる?」
「いまさら、カッコつけんじゃねえよ――来な」
にせDは通路の奥に顎をしゃくり、背を向けて歩き出した。
五、六分も進んで、ドアのひとつを開けた。
光の満ちる白い部屋の真ん中に置かれたベッドに横たわっているのは、ミアとケンツだった。
ベッドの周囲に白い塊が幾つもうずくまり、低いうなり声を立てている。雪魔人カラドーマだ。
「男の方はまだしばらく、女はじきに眼を醒ま――」
にせDの言葉が終わらないうちに、ミアは身じろぎし、すぐに眼を開いた。右肩に手を当て、顔をしかめ、驚きの表情をつくる。
「骨は治しといた」
と、にせDが声をかけると、ようやく気づいて、はっと上体を起こした。
「――ここは、また……」
「そう、逆戻りだ」
「どうして……」
とつぶやいたところで、ミアは周りの雪魔人に気づいて、
「こいつらは、あなたが――?」
怒りの眼をにせD[#「にせD」に傍点]に向けた。
にせDは人さし指を立てて顔の前でふった。
「ちょっ、ちょっ、ちょっ。――おれじゃねえよ。正確には親父だ」
「……?」
「ここをこしらえた男さ。大したもンだろ。こいつらも、こいつらの任務も親父が与えたのさ」
「任務って……人さらいのこと?」
ずけずけ訊かれて、にせDは苦笑した。
「ま、そうだな」
「ここへ連れこんで、どうするつもり?」
「さて、な。――だけどよ、あんた方が戻ってきたのは、こいつらのせいじゃない。その兄さんが元気だったら、無事に山を下りられてたろうさ」
それは確かだった。ミアひとりの力でさえ、カラドーマたちに、あれだけの痛打を浴びせたのだ。
「じゃ、誰のせい?」
「こいつ」
にやにやと指さす先に、Dがいた。
「どうして!?」
ミアは眼を丸くして叫んだ。怒りを憎悪に変えてねめつける視線に、にせDはたじたじとなった。
「Dが何をしたっていうの? 自分の責任を転嫁しないでよ」
これはさっき、にせDがDに向けた言葉である。にせDの苦笑はさらに広がったが、何とか止めて、
「その兄さん、下りる途中で痛みを訴えただろ?」
とケンツに顎をしゃくった。ミアの返事を待たず、彼は驚くべき発言をした。
「こいつがやったのさ。おれはモニターで見てた。傷痕ひとつ残さず、血一滴流さず、彼の胴を輪切りにしてのけたんだ」
ミアは茫然とDを見つめた。声も出なかった。D――この若者《ひと》は、本物のDなのだろうか。どちらもにせもの[#「にせもの」に傍点]のような気が、ミアにはした。
「そんな眼で見るなよ」
と、にせDがわざとらしく言った。
「でなきゃ、こいつはここへ戻っちゃ来れなかったんだ。あんたたちが帰ってきた。つまり、出て行けなかったから、こいつもここにいられるわけさ。おれに言わせれば、やむを得ない仕儀ってやつだ。だが、どうやら、そこまでやっても望みは叶えられなかったらしい、な?」
「――D、いまの話は本当なの?」
絶望的な想いを抱きながら、ミアは訊いた。答えはわかっていた。
「そうだ」
Dははっきりと言った。
「そう言ってくれれば、私、逃げなかったのに」
「彼は出て行ったろう。君を連れて、な」
そこでDが止めれば、ケンツは生命《いのち》懸けで粘ったにちがいない。ミアのために。彼はそういう若者なのだ。
「ひどいわ」
「まったくじゃ」
とDの左手のあたりで、嗄れた声がしたが、ミアは無視して、
「これから、あなたの都合で私たちがどうなるのか教えて。お願いだから、もう二度と、私たちを助けるなんて調子のいい嘘をつかないで」
冷厳とさえいえる声を、冷美としかいえぬ美貌が受けた。それを睨みつけているうちに、ミアは怒りのたぎりが醒めていくような気がした。
「じきに人が来る。おれが彼と会うことができたら、戻るがいい」
「――人って?」
Dを見つめる眼の隅で、にせDが髪を引き抜く真似をした。
「あの人。――いつ来るの?」
壁のどこかが、かすかな電子音を発した。ほぼ同時に同じ方角に向いた三人の眼は、壁の一部に、それまで気がつかなかった画像が浮き出ているのを見た。
施設の見取り図だ。詳細この上ない。その中を赤い光点が移動していた。
「モニター」
にせDが口にすると、無愛想な画像は消え、暗い通路を黙々と進む馬上の男が見えてきた。青い刺客――ユマである。いままでの見取り図は、画面の右上にスケール・ダウンして映っている。
「北東の2号通路だ。どこへ行くつもりなのかな――」
ミアが、あっと叫んだ。光点が消えたのである。
「モニターされてることに気がついたな。伊達におれたち相手に戦ってねえな。これで行く先がわからなくなった」
「本当か?」
Dが訊いた。
にせものは、にやりと笑って、
「いいや。――手はあるさ。一緒に来るかい?」
「おれには用があるが、おまえにはないはずだ。なぜ、誘う?」
「困った野郎だな。おれは、おまえなんだぜ。おまえが奴に会いたいなら、おれにもそうする必要があるんだ。――姐ちゃん」
「ミアです」
「これは失礼。――ミアちゃんも一緒に来な。この若いのなら心配はいらねえ。こいつが逆から[#「逆から」に傍点]斬れば元に戻るのさ」
「本当なの、D?」
「そうだ」
「なら、すぐに治して」
「そうなったら、出てってもらうぜ」
と口をはさんだにせものを、ミアは睨みつけた。
「しばらく待て」
とDはミアに言って、にせものの方を向いた。
「いやよ、私も行きます。もう、危ない目に遇うのはたくさん」
「しかしよ、そいつはどうするんだ?」
「――一緒に連れていきます。迷惑はかけないわ、私が背負っていく」
二人のDは一瞬、顔を見合わせた。にせものが言った。
「こいつは呆れた。――ま、いいだろう、一緒に来な。そいつは、おれ[#「おれ」に傍点]がおぶってくれるさ」
おれと呼ばれたDは、迷惑そうな無表情のままであった。
「なんてこった。おれはリーダーだぞ」
数分後、ぶつくさごねるにせDの背で、ケンツは呼吸なき眠りを眠っていた。
あの後、ミアの提案で三人はジャンケンをしたのである。その結果だ。
何かこの大施設と結びついた超感覚でもあるのか、迷うことなく前進するにせDの後について十分も歩くと、前方に巨大な黒い奈落が見えてきた。
向こう側が見えないほどの幅がある。通路は一直線にそれを渡っていく。
「ここは、ちと危険だ」
と、にせDが足を止めた。
「通路が途中で大分傷んでてな。悪くすると、落っこちる。何なら、遠廻りしてもいいが、それだと大分遅れる。――泡を食う旅でもねえし、そうするか」
「このまま行け」
とDが言った。
「そう言うだろうと思った。けどな、この二人はどうする?」
「お前にまかせる」
「おい」
「ジャンケンの義務は二人の面倒を見ることだ」
「そらそうだがよ」
「私なら自分の身は自分で守ります」
とミアが敢然と言ったが、
「せっかく守り神がいるんだ、甘えたらいい」
と、Dはにせものに顎をしゃくった。
「うるせえ。いいんだな。なら、行くぞ」
橋に足をかけた瞬間、物騒な兆しは、かすかな軋み音となって現れた。ガラスとガラスが触れ合うような響きである。
「分子の結合力が大分弱まってるぜ。こりゃ、おれたちはともかく、お姐ちゃんには無理だ」
「いや、大丈夫だ」
Dはミアに手を差し出した。
連れて行ってくれるのかとそれに触れた瞬間、ミアの身体は宙を横切って、ケンツの背の上に乗っていた。
「何をしやがる!?」
「おまえなら、二人でも大丈夫だろう。なにしろ、おれ[#「おれ」に傍点]だ」
「てめえ」
その足下で通路が軋んだ。
「わお」
「気をつけて行け」
にせものは歯を剥き出したが、結局、黙って歩き出した。約束だけは守るタイプらしい。なるほど、Dと同じだ。
「ごめんなさい」
とミアは背中で詫びた。
「あの、私、自分で歩きます」
「いま、下りてみな。一発で足下がスッと抜けちまうぜ。気にすんな、あんた方二人くらい何でもねえよ」
「――ありがとう」
と頭を下げてから、ミアは後方のDを睨みつけた。
「いいって、いいって」
と気楽に言いながら、にせものは、右手を胸の前でふった。
その拳の中に一本の髪の毛が握られていた。
「来たぜ」
言いざま身を伏せた頭上を、音もなく静かな風が通り抜けた。
飛来した髪の毛を、こちらも左手で掴み取るや、Dは電光の速さでふった。
新たな髪の毛がそれ[#「それ」に傍点]にまつわり、巻き取られた。
「いまのは小手調べだ。次が本物だぞ」
と、にせDが叫んだ。
「通路を射貫かれたら危《やべ》え。――一気に抜けるぞ」
声だけ残して走った。ケンツとミアと――二人の若者を背負って、軋み音ひとつたてないのは、奇跡といってもいい技であった。
前方の闇へ眼を凝らしたが、この施設の主ともいうべきにせものの眼にも、何も見えなかった。奈落の幅は一キロを越えるのだ。
新たに飛来した二すじの髪は、かわして打ち落としたものの、足下に刺さった三本目は如何ともしがたかった。通路はもろくも一〇メートルにわたって崩壊し、にせDと二人の若者は、声もなく暗黒の淵へのめった。
思わず見上げたミアの眼の中に、砕けた通路の端から前方へ跳躍するDの姿が灼きついた。
2
一〇メートルの距離をDは一気に跳んだ。
着地した足の下で、通路が銀粉と化して崩壊する。新たな跳躍に移った左胸を、飛来した髪の毛が貫いた。
もんどり打って通路上へ落下した身体は、きらきらと舞い狂う破片を死出の衣裳《シュラウド》にまといながら、これも暗黒に呑みこまれた。
通路の奥の闇が人の形を取ったのは、それから五分ほど経過してからだった。
黒馬にまたがった刺客が誰かは、いうまでもない。
にせDは、二人の若者を背負ってガラス細工のようにもろい通路を平然と渡ったが、こちらは馬一頭の重さがかかっている。それでいて、蹄の下の通路は軋み音ひとつ上げないとは、どのような技量の持ち主か。
通路の縁で立ち止まると、二人のDを呑みこんだ暗黒の奈落へ眼を落とし、
「ムマのことを知ったものは、死なねばならん」
と沈痛な声で言った。
「そうかい」
と応じた声は、もちろん、彼のものではなかった。
それは、地獄の底から噴き上がってきた魔神の声のようにも思えたが、ユマはなんと、馬を三歩ほど後じさりさせるや、声の発生地点めがけて、馬上から三条の髪の毛を放った。
〇・五秒とかからぬ神速の連射はしかし、手応えもなく闇中に吸いこまれ、
「外れだよ」
嘲る声が返ってきたとき、彼は大きく馬首を巡らした。臆したのでは無論ない。狭く脆い通路の上で、姿も見えぬ敵と戦う不利を悟ったのである。それは、完全なる攻守の逆転を意味した。
だが、疾走に移る寸前、馬の蹄はたたらを踏んだ。
前方二〇メートルほどの通路に立つ、世にも美しい人影を捉えたのである。
背中の長剣に手もかけぬ自然体だけに、それは、ユマの胸に何とも言えぬ戦慄の風を吹きつけた。その背で――
「後はないぜ」
今度こそ愕然とふり向いた眼の先で、にせDが片手を上げた。背に二人の若者は見えない。
「どうやって助かった?」
ユマが馬上で訊いた。すでに動揺の風はない。前と後ろを恐るべき敵にふさがれて、悠々たるものだ。
「内緒だよ」
と、にせDがにやにやしながら言った。その眼が凄まじい光を放ちはじめた。
「おれの代わりに若いのが二人落ちた。重荷だが、あんな死に方はねえやな。おめえ、このままじゃ帰れねえぞ」
「そんなつもりはない」
とユマは馬上で笑った。地上の部下を睥睨する大君の風格さえ漂わせて、
「死なぬなら殺すまで。追いつめられたのは、おれではないぞ」
言いざま、足が馬の腹を蹴る。
蹄が通路を叩くと同時に、それは粉々に砕け、にせDは宙に舞った。
馬上の射手に奇怪な変化が生じたのはこのときだ。
腰から上が、まるで機械仕掛けのごとく一八〇度回転するや、跳躍したにせDの心臓へと髪の毛の波を放ったのだ。
飛燕を飛鳥が迎え撃った。
抜き打ちに、にせDがふるった一刀――髪の毛をまとめて跳ね返したのは、見事というしかない腕の冴えだったが、そのうちの一本を疾駆する馬の右腿に射ちこむとは、まさに神技。
崩れるように倒れた人馬へ、Dが突進した。
その眼前で巨影が躍った。
馬とユマだ。そして、舞い上がった馬体の側面から、ぱっと音をたてて、巨大な翼が広がったのである。この馬は天馬だったのだ。
さしものDが、白木の針を送るのが一瞬遅れ、身をひねって投じたときにはもう、空飛ぶ人と馬とは、何の反応もない闇の奥へと消えていた。
「逃がしたな、頓馬」
Dの背後に着地したにせDがののしった。
「おまけに、胸に一発食らいやがって。――髪の毛はどこだ?」
「ここじゃ」
嗄れ声が言った。そちらに――Dの左手の方へ眼をやって、にせDはおおと眼を剥いた。
髪の毛の半分ほどが、手のひらからはみ出していたからだ。そして、彼が見守るうちに、髪はすうと手のひらから抜け出して、床で身をくねらせた。
「髪も食っちまうのか、変わった手のひらだな」
心臓を射貫かれたと見えたとき、Dは左手で髪の毛を受けたのである。
「後はまかせたぞ」
とDは言った。
「おい」
と、にせDが呼びかけたときにはもう、通路の奥へと走り出している。黒衣の姿はすぐに闇と同化した。
それを見送ってから、
「畜生め。甘い汁を吸うことばかり考えやがって」
悪態をひとつついて、にせものは、通路の端に戻った。
右手を無造作にふる。
袖口に仕掛けられた投射器から、千分の一ミクロンという不可視の鋼線が一直線に闇へと吸いこまれた。
手応えがあった。手首のひとひねりで、モーターが逆進し、それが巻きついたものを引いて戻った。
闇の底から浮き上がってきたのは、ケンツを両腕に抱いたミアであった。
宙に浮いているように見える身体を支えているのは、通路から落ちていく途中で、にせDが彼方の天井へ放った鋼線なのは、言うまでもない。パイプか何かに引っかかったものだろう。
通路の上に下ろしてから、鋼線を外し、
「あいつは行っちまったよ」
と、にせDは闇の奥を見据えた。
「だと思いました」
とミアはうなずいた。それから、にせものの顔をのぞきこむように、
「――で、あなたは何をしてらっしゃるんですの?」
「はン?」
「Dさんと同じだと言いましたよね。なら、どうして追いかけて、助けようとしないんです?」
「いや、それは――」
「私たちなら、もう大丈夫。ここで待っています。早く行ってください」
「ここは危ねえんだよ。おれの命令をきかねえ化物がうようよいる」
「――でも」
「たとえジャンケンの結果でも守らなくっちゃな」
静かな声は、不動の意志に支えられていた。ふと、ミアは本物のDかと錯覚した。
ユマが施設の内部をどこまで知悉《ちしつ》しているのか、Dにはわからなかった。
ミアの話では、かなりのところまで、少なくとも彼よりは把握しているらしい。だとすれば、罠を仕掛けるのも簡単だ。
急に左右の壁が消失した。空間の広がりをDは感じ、足を止めた。
何ひとつない広場ともいうべき場所であった。
円形の床は直径一〇〇メートルを越す。周囲の壁には無数の扉と窓とが穿たれていた。あちこちに積まれているのは、骨らしい。床に広がる染みのような影は、血の痕だろう。
ここが何の用途に使用されたのか、考える前に答えは与えられた。
「よく来たな。ムマをめざす男よ。だが、ここまでだ」
声は天からも地からも壁からも響くようにきこえた。
「ムマとは何だ?」
とDが訊いた。
「それは地名か、人の名か、あるいは――」
「好きなように考えるがいい。それこそムマだ」
「それをおまえに教え、知るものを抹殺せよとの指令を与えたのは誰だ?」
「おまえに言ってもはじまるまい。おれの使命は、死そのものだ。それも、ムマよ」
「揺曳炉がテレポートした先を知りたい。それもムマだろう」
「その通りだ」
ユマの声が闇を深くした。
「ここの場所の名を知っているのか? 知るまいな。あの世の土産に覚えておくがいい」
Dは無言で周囲を見廻した。それから言った。
「“影の戦場”か」
驚きの気配が伝わってきた。右後方の壁の一点から。
ふり向きもせず、Dの右手のみが走った。
うす闇を縫って白い針が飛んだ、その彼方で、うっという低い呻き声が上がった。
このとき、Dはそちらへ向き直ったが、前進することはできなかった。
四方を取り巻く扉が、突如、消滅し、黒々と打ち抜かれた円形の穴の中から、長身の影たちが出現したのである。
ひとつからひとり――広場へ歩み出た影たちの周囲に、次々と別の影たちが魔鳥のごとく、黒い翼を広げて舞い降りた。
眼を凝らせば、どの影も似たような背格好だ。鍔広の帽子をかぶり、丈の長いコートをまとって、優美な弧を描く長剣が背中を飾っている。
いや、瓜二つ――いやいや、常人ならば、まず自分の眼を、それから正気を疑うにちがいない。
同じだ。そこにいる影たちは、すべて同じ人間なのだ。
ああ、うす闇の中でも、かがやくようなその姿、その美貌。――Dだ。すべてが、全員がDなのだ。
先を歩む連中は足を止めず、後につづく者たちは素早く肩を並べて、Dの群れは一団となって、広場の中心に立つただひとりのDへと歩み寄る。
常態ならば、これは悪夢だ。同じ顔、同じ姿の自分が十数名、無表情に近づいてくれば、当人は怯えた挙句、発狂しかねない。傍観者がいれば、恐怖と混迷の果てに喪神してもおかしくない。同じ人間の集合とは、それほど不気味なのだ。このとき、人ははじめて、美醜の存在する意味と、すべてが等価だとの真理を悟ることになるだろう。
だが、今回は例外であった。
ひとつのきら星を中心に、その周囲を彩る同じ色形の星々の、何と美しいことか。
その狭間を満たす虚無の空気さえも、その冷厳さでもって、居合わせた者の精神を恍惚のうちに凍結してしまいそうだ。美しいとは、こういうことなのだろう。――死そのものでさえも。
中心のDまで十歩の位置にさしかかったとき、自然に円陣を組んでいた影のDたちは、一斉に刀身を抜き放った。
背から弧を描いた光のすじが、あるいは上段へ、あるいは中段、下段へと流れ、不動無欠の構えを形造るや、それらは中心へと閉じる華麗な花びらに生じたおびただしい光る花芯のごとく、Dめがけて斬りこんだ。
たぎり落ちる光、光、光――その真ん中で、黒衣の影が優雅に閃くや、かがやく花芯の何本かは打ち上げられ、へし折られ、人の形をした花びらたちもまた、首に肩に胸に、無残な傷を斬りこまれて地に伏した。
Dと等しいのは姿形だけではなかった。その技の切れも力もスピードも同じはずであった。
現に殺到する刀身の何本かは黒衣の肩に、腰に食い込み、確かに鮮血を噴かせている。それなのに、Dの動きに遅滞は生じず、悪夢のごとく狂い舞うコートは、美しい襲撃者たちを幻惑するのみならず、猛烈なる攻撃をも跳ね返し、その右手の閃くところ、いつわりの双生児たちは、次々と斃《たお》れていくのだった。
光と闇の境界ともいうべき薄明の広場に、血の霧が躍った。
「おお!?」
と苦しげな、しかし、驚愕に彩られた叫びが上がったのは、死闘の開始後、五秒とたっていなかった。
「影が褪せていく!」
それは、声の主独特の表現であった。
見よ、Dに挑むDたちに、五秒間の死闘の間に何が生じたのか。彼らの眼尻は下方にずれ、鼻は曲がり、唇はだらしなく垂れ下がって、もはや、原型たるDの片鱗も留めてはいない。
繰り広げられるのは、すでに美と醜の闘いであり、冷やかな美の刃《やいば》の舞に、醜いものはことごとく打ち斃されていくのであった。美しいものと醜いものは、もはや、等価値ではなかった。
顔ばかりか、四肢のバランスまで奇妙に崩れた最後の影が地に伏したとき、Dは刀身を翻すようにふって、声のした位置へと走った。
3
それは、地上から三層上――一〇メートルの高さにそびえる黒い戸口であった。
わずかに膝を曲げるや、Dは一気に跳躍した。
黒い魔鳥のごとく七メートルも風を切って上昇し、壁に貼りつくや、光に負けじと移動する影の速さで穴の中へ吸いこまれた。
床の上に横たわっているのは、青い刺客ユマ――のはずであった。
その姿はなかった。いや、あった。床の上の凄まじい血溜まりと、白木の針に射ち抜かれた眼球がひとつ残っていた。
血臭ふんぷんたる血の輪の中からそれを拾い上げ、
「左か」
と判断したのは、いかにDとはいえ、何とも不気味で喜劇的な台詞といえないこともなかった。
向かいの壁に黒い出入口が穿たれている。血溜まりから血痕が点々とつづき、その一メートルほど手前で絶えている。そこで血止めをしたにちがいない。凄まじい精神力の持ち主といえた。
「まだ、遠くへは行くまいな」
と左手が嗄れ声を出した。
「ここは追う手じゃろう。敵は負傷しておる。それも重傷だ」
Dも同意見らしい証拠に、声の終わらぬうちに、足は出入口の方へ一歩踏み出していた。
それを止めたのは、地上から届いた呼び声であった。
見下ろすと、もうひとりの自分が立っている。にせDだ。すぐDに気づいて、
「逃がしたな」
と声をかけてきた。
「何も言うな。その顔を見りゃあわかる。なにしろ、おれ[#「おれ」に傍点]だからな。だが、深追いはよせ。この先は、おれでもよくわからない危険地帯だ。この地下の腐ったメカニズムの生んだ化物がうようよしてる。新しい手を考えた方がいい」
「その方がよさそうじゃの」
嗄れ声が言い終える前に、Dは宙に舞っていた。
着地した彼の前で、にせDはしみじみと周囲を見廻し、
「よくもまあ、自分をこれだけ殺せたもんだ」
と、これも、しみじみと口にした。
「こいつら、クローンだな。おれとおまえのデータがここのどこかに残ってるんだ。だが、おまえ――いいや、おれたちの美貌まではどうにもできなかった。そう簡単に真似されちゃあ敵わんしな」
と、ぶっ倒れたひとりの片手から、長剣を蹴りとばして、
「それでも、わからんことがある。顔は崩れても、腕は変わらないはずなのに、あっさりと皆殺しとは、こはいかに。おれも、これだけの人数の自分と闘えば、全滅はさせられるが、おまえみたいに二本足で立ってる自信はない。自分の実力はわかるからな。――おまえ、何を隠してる?」
「ミアはどうした?」
Dは長々とつづきそうな、にせもののおしゃべりを断ち切った。
「広場の出入口に置いてきた。待てよ、そういや、気配が――」
ふり向いて眼を細め、
「いない」
猛烈な悪臭が、ミアを正気に戻した。
広場の前まで、にせものに背負われて来て、何やら死体らしきものが、あちこちに散らばっているのに気がついた。
待っていろ、と告げて、にせDはその場に彼女を下ろし、うす闇へと消えた。
その後ろ姿を見ているうちに、急速に意識が遠のいた。
気がつくと、現在《いま》いるのは、倉庫と思しい広大な空間であった。眼を醒ますほどの悪臭が立ちこめ、低い天井と狭い通路をふさいでいる。
一五、六メートル向こうに出入口らしい光が点っていて、その前に見覚えのない形が立っていた。
身長はミアと同じくらいだが、その顎鬚といい、腰を庇った立ち方といい、かなりの年配――老人だ。
「あの」
声をかけると、こちらを向き、かくんかくんとやって来た。右足を引きずっている。
「眼が醒めたようだな」
老人はミアの前に立ち、その顔を眺めた。暗くてよくわからないが、皮膚は黒光りしている。陽に灼けたのではなく、垢じみているらしい。年齢は――精悍そのものの眼からは想像もできないが、ざっと七〇以上。皺で埋め尽くされている。
「早く縄をほどいて」
と両手を並べて前へ突き出すと、
「縄などない」
「あら」
てっきり縛られていると思ったのである。
「おっちょこちょいめが。――何をしに来た? まあいい。どうせ、死ぬ身だ」
「死ぬ? ――どうして?」
「わしの神への供物《くもつ》となってもらう」
「あなたの神の!?」
「そうだ」
「お断りします」
「はは、面白い娘だな。供物に捧げるには惜しい。しかし、やむを得ん仕儀なのだ。そのおかげで、わしはこの地獄より性質《たち》の悪い地下牢の中で、五千余年も生き延びてきたのだからな」
「そりゃ、凄いわ」
ミアは心から呆気にとられた。それだけ長生きできれば、なるほど、神がかりの、こんな眼つきになるはずだ。
「あなたは、一体、誰なんです?」
「名前か? あったが、忘れた。――そうだな、昔、呼ばれていた“ギイ”とでも名乗っておこう」
「――ギイ、さんですか?」
「おかしいか?」
じろりと一瞥され、
「いえ、別に」
とミアは愛想笑いをした。
その眼のただごとならぬ光り方。こりゃ、話しても無駄、とミアは自力脱出へ方向を転じた。幸い、手足は自由だし、魔術の小道具一式も腰袋の中に健在だ。
早いところDかにせDのもとへ駆けつけて、揺曳炉とやらの行く先を突き止めねば。二人の行動の邪魔になっては絶対にならない。
そう改めて決心し、ふとミアは軽い驚きを感じた。いつの間にか、DとにせDを同じ眼で見ている。同じ姿形でも、中身は天と地ほども違う二人なのに。――驚くと同時に、戦慄に近いおののきを、ミアは心の深い部分で感じ取った。
「娘」
と、ギイが呼んだ。いつの間にか、出入口に近いところに戻っている。
「ミアです」
「来い――ミア」
袋の中の品を指で確認しながら、何食わぬ顔でミアは近づいた。
かがやきが増してくる。
素通しの出入口かと思ったら、ギイの位置まで来ると、巨大なガラスがはめこまれているのがわかった。
窓だったのである。
「五千年の昔、ここ[#「ここ」に傍点]はある存在専用の観測室だった。いまは見る影もないが、貴族の手になる神秘なメカニズムが並び、青白い貴族どもや、召使いアンドロイドどもが、その存在のために右往左往していたものだ。存在はここに立ち、下方の“神”を眺めた。いや、彼には“神”という意識はなかったかも知れん。それを造り出したのは、彼自身だったのだからな」
光の方向が下からなのはわかっていた。ガラス――というより、遥かに光の透過度のよい物質らしい――に顔を押しつけ、細めた眼を向ける。強烈な――だが、何とか耐えられるかがやきの内側で、色と形を具えた何かが蠢いている。
――何が出てくるの?
言いようもない恐怖の芯に全身を貫かれながらも、ミアは眼をそらすことができなかった。
混沌が形を取りはじめた。天地創造のときのように。
出て来る。光の中から――近づいて来る。ミアに向かって。
――いま!
絶叫が占い師の娘の口から迸った。それは恐怖という名の色に染め抜かれ、戦慄という名の響きを放っていた。
ガラスが鳴った。何かが叩いたのだ。ミアの最も恐れていたものが。
声もなく跳びのき、ミアはゆっくりと後退しはじめた。
ギイのかたわらを過ぎたのも気がつかなかった。
巨大な窓が、顔ほどの大きさになったとき、背中に固いものが当たった。
ふり向いて眼を凝らした。
これも巨大なものが黒々とそびえていた。
厨子のようなものか、と思った。違う。――わかった。わかっても、納得できなかった。なまじ正体が明らかなだけに、あり得るはずのないサイズが、正しい認識を不可能にしていた。
ミアの頭部までそびえる坐台、頭上遥かを床と水平に走り、坐台の両脇で優雅に雪崩れ落ちる手すり、その後方に高々と中空の闇にそそり立つ岩盤のごとき背もたれ――それは椅子だ。何の飾りもない、それだけに所有者の凄絶な威厳を示さずにはおかぬ暗黒の玉座だ。
「この間《ま》の主――わしの言う存在の椅子だ」
ギイの声は恐怖に白くおののき、また、誇らしげであった。
「奴はその椅子にかけ、窓外を見つめていた。いや、その位置から下方が見えるはずもない。見たのではなく、感じていたのだろう。何をだ? お前にはわかるまい。他の誰にわかる。わしだけだ。このわしだけが、奴が思念を凝らし、貴族の青い神経細胞を最大限に働かせて、感じ取っていたもの――精神《こころ》の眼で見抜いていたものの正体を知っている。なぜならば――」
声を奪われたかのように、老人は言葉を切った。
「おお――来るぞ」
彼はミアの方をふり向き、骨のような指をのばして絶叫した。
「何ということだ。奴が来る。あの方がやって来る。聴こえるか、あの方の足音が。おお、ただひとつ――まぎれもなく、あの方の足音だ。石床を踏み鳴らし、岩壁を反響させ、天井に亀裂を走らせるあの方の足音だ」
ミアには、何ひとつ聴こえてこなかった。
彼女はギイではなく、その背後の窓を見ていた。
光が這い上がってくる。
下方からやって来る。彼女の見たものが。
そして、背後からも、ギイを恐怖させるものが――
喉仏を震わせて、ギイは絶叫した。全生命力を吹きこまれたかのように、指先が痙攣した。
ミアは見た。
窓に貼りついた悪夢の顔を。
「来るぞ!」
「きゃああああああああ」
窓ガラスが微塵に砕け散った。
ドアが大きくスイングする。
ミアの腰に、ぴしりとおぞましい色と吸盤付きの触手が巻きついた。
抵抗しがたい勢いで、窓の方へ引きずられていく。
人影が突進してきた。ふたつ。どちらも同じ服装であった。信じがたい速度でミアに迫り、片手が首の方へと廻った。
次の一刹那に銀光がミアの瞳の中で廻り、彼女はどっと床に投げ出された。尻の痛みも忘れて、
「きゃっ!?」
と身を引く。足もとで切断された触手が跳ねまわっていた。
「誰だ、お前たちは?」
ギイがこちらを向いて地団駄を踏んだ。
「奴ではないな。――確かに、奴の足音だった。あの方が来たのだ。たったひとりで。だが、おまえたちは違う。――何者だ?」
二つの人影――二人のDは、静かに老人を凝視していたが、
「ひとり[#「ひとり」に傍点]と言ったな。奴が来たと」
と片方が、自分に言いきかせるように言った。
「すると、おれたちのどちらかが、にせものということになる」
もうひとりのDのひとことは、ミアのみならず、何も知らぬギイさえ凍りつかせた。
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第三章 北のシューシャ
1
「まだ、移動物体探査装置が動いていてよかったな」
と、そのDがつづけた。
どっちかわからず、ミアは二人を交互に見比べている。こうして見ると、瓜二つどころか、ひとりのDが同時に二人存在しているとしか思えない。ミアの頬は紅く染まった。美しさも倍だ。
「この地下施設に、もうひとり、おれたち以外の奴がうろついてるのはわかっていたが、ようやく捕まえたぞ」
これで、にせD[#「にせD」に傍点]とわかった。
「爺さん――おまえ何者だ?」
「ギイだ」
老人はぼんやりと答えた。ミア同様、二人の美貌にイカレたのである。
「その年齢じゃ、古株だな。いつからここにいる?」
「五千年ほど前だ」
「五千年?」
眉を寄せつつ、にせDの右手が一閃した。老人の喉もとから鳩尾《みぞおち》までシャツが裂け、鉄色の肌がのぞいた。形状も動きも筋肉と等しい軟金属の皮膚だ。これならあと五千年は保つだろう。
「サイボーグか、爺さん」
にんまりするにせDへ、
「半人間と呼べ」
とギイは喚いた。血走った両眼と泡をとばす口もとを見つめ、にせDはもう一度、刃《やいば》を閃かせた。
今度はヘルメットが両断されて床に落ちた。
毛一本ないギイの頭部が現れると、にせDはしげしげと眺めて、右のこめかみを指さした。
「その傷――どいつにやられたのかは知らんが、剣《つるぎ》によるものだ。なるほど、それで脳の保存器に異常が生じたか。しかし、貴族の下僕用サイボーグともなれば、保存器は絶対金属のはずだ。おれにも、あれは切れんぞ」
老人が片手でこめかみを押さえた。
「わしは狂ってなどおらん。その娘を置いて、とっとと出て行くがいい」
「この娘をどうするつもりだった?」
ギイの眼は、玉座近くに立つもうひとりのDに据えられた。彼の放った問いである。にせDを判別したときから、ミアはこちらのDのそばに移動していた。
「わしの“神”への供物だ」
「いや」
とDの腕にしがみつく。鋼の感触が伝わった。思わず手を離したのは、それに驚いたのではなく、Dに抱きついたという行為自体に、罰当たりな、と宗教的な畏怖を感じたのだ。それこそ、神にためぐちをきいてしまった人間の動揺に似ている。
「あの窓の下――でも、いるのは神なんかじゃありません」
とミアは震える指を破壊された窓に向け、それから床の上で、ようやく動きを止めた触手に移した。
Dがそれを見下ろし、
「“神”とは、これか?」
とギイに尋ねた。ミアは息を呑んだ。老人が眼を剥いて激しくかぶりをふったのである。完全な狂気の相であった。
「笑わせるな。わしの“神”は、こんな汚らわしいものではない。類希なる美しい存在だ。このわしが創造したのだからな」
「――創造? “神”を」
ミアは、はじめて、この老人の狂気を実感した。あの光の底にいるのは、こんな怪物なのに。
「おまえの造った“神”とやら――見たいものだな」
とDが静かに言った。
ギイは嘲笑した。
「笑わせるな。“神”はわしだけのものだ。見るにふさわしい人間にしか見えぬが故に、“神”だ。それは、わしと奴しかおらん」
「奴とは?」
「この部屋の主だ。わしに、ここを造らせた存在よ」
「ここは――あなたが!?」
眼を丸くするミアへ、
「そうだ。わしは、奴の――あの方専属の技師だった」
「技師[#「技師」に傍点]――だから、ギイ[#「ギイ」に傍点]なのね」
「おれたちを見な」
と、にせDがにやにやしながらギイに顎をしゃくった。
「ようく、この顔を見るんだ。何か憶い出さないか?」
「………」
狂気の眼が、それでも数秒間の真摯な凝視を敢行し――不意に思いきり見開かれた。瞳を占めるのは、恐怖と驚きの色であった。
「まさ……か」
唇が声にならない言葉を発した。
「まさか……そんなはずはない。奴が……おまえたち[#「たち」に傍点]は……奴なのか? ――あの方なのか!?」
「――光が!?」
とミアが窓の方を指さして、甲高い声をふりしぼった。
「光が上がってくる!」
「爺さん、ここは何のための部屋なんだ!?」
横目で窓の方を見ながら、にせDが尋ねた。
「ここは――供物を捧げる……」
「阿呆。そいつは、おまえの都合だろうが。もと[#「もと」に傍点]は何だったか訊いてるんだ、もと[#「もと」に傍点]は?」
「もと……は……?」
ギイの眼に動揺の雲がかかった。わかっているのだ。深層心理に植えつけられた恐怖が、理解と告白を妨害しているのだった。
「見て――見て! あれは――」
ミアの顔は蝋細工のように色を失っていた。部屋に光が満ちた。
光源は窓外にかがやき、その奥から、誰の眼にもお馴染みの形が、ゆらめきゆらめき、出現しようとしていた。
「――顔よ!」
ああ、その容貌の何という美しさ、凄まじさ。
「わかったぞ!」
にせDが深々とうなずいた。
「爺さん、お前、いま、何を考えてる? ――そいつ[#「そいつ」に傍点]のことか? 奴のことか?」
固い音が連続した。ギイの歯が恐怖に打ち合う響きであった。
「わしは……わしは……」
その胸ぐらを掴んで、
「わしは、何だ? 誰のこと[#「誰のこと」に傍点]を考えてる? あれは――」
窓の向こうの顔を指さす表情も、凄惨そのものであった。
「――奴[#「奴」に傍点]だな。この部屋の主だな。あれが、おまえの“神”だ。狂ったおまえの造り出した狂った神――そうとも、あいつを造り出したのはおまえだ。この部屋では、窓の外の光を、自分の思念で好きな形に造り変えることができるんだ」
「そんな――じゃあ、私が見たのは――」
「おまえがそのとき、頭の中で考えてるものだ。おまえ、怖がって、怯えてなかったか。光の中に、自分がいちばん怖いものがいると。――それが出てきたんだ」
にせDの声も姿も光に呑み込まれた。
「下がれ」
Dがミアの肩を掴んで玉座の背後へ引き入れた。光は玉座をも包んだ。
「D」
美しい影は自ら光の波へと身を躍らせた。
全身がわななく。
光とは波と粒子からできている。光波といい光子という。
その波のひとすじ、粒子のひと粒に、破滅的なエネルギーがみなぎっていた。
あるものはDの身体を通過し、あるものは筋肉に内臓に骨髄に食いこんで、致命的なパワーを放出する。それは、強烈な放射線を浴びた人間を想起すればよい。
「大丈夫か?」
近いところから、にせDの声がした。
「何とか、な」
Dがいちいち答えるのは、同じだという親近感が働くのか。
「どうする?」
「他人に訊かなければ、何もわからんおれ[#「おれ」に傍点]、か」
「うるさい」
にせDは激怒し、よろめいた。強烈なエネルギーの負荷が、肉体の防御機能をオーバーしはじめたのである。
「いかん、足に来た。おい、おれ[#「おれ」に傍点]、あの爺いを殺せ。これは、あいつの思念が生んだ化物だ」
ギイは床の上にのびている。
そちらへ向かおうとして、Dの膝は大きく崩れた。
両膝をつき、手までが後を追う。
「D」
玉座の陰からミアがのぞいていた。
「出るな」
Dは立ち上がり、よろめくようにしながらも、ギイのそばに来た。
老人の眼が恐怖に見開かれた。Dの意図を悟ったのだ。
Dが動いて、何かを言おうとしたが、声にはならなかった。
Dの身体が白く溶けた。
巨大な顔は、その中に彼を捉えて、エネルギー光の集中砲火を浴びせていた。骨から灼かれる苦痛に、Dは無表情に耐えた。
「殺れ、殺ってしまえ。ムマの名にかけて」
ギイが顔中を口にして喚いた。
その眼前で、Dが一刀を抜いた。刃《やいば》も白くかがやいた。
「わわわ」
なおも口をぱくぱくさせる老人の首すじに、Dは刃が当たらぬように刀身を板みたいに打ちつけて失神させた。この巨大な顔がギイの思念の産物である以上、彼の意識さえ失わせれば、消滅するはずであった。
「おや」
近くでにせDが呻いた。
顔は消えず、さらに内奥よりの光を増した。
「行くぞ」
とDが言った。自分へか、それとも、にせDへか。
熾烈な攻撃など意にも介さぬように床を蹴るDを追って、にせDも走った。その髪が抜け、顔の皮膚がずるりと剥け落ちた。
十歩で、Dは顔を抜けた。さらに十歩走って反転する。
顔が迫ってきた。
「こいつは創造者を超えたぞ」
と嗄れ声が言った。
「自分の意志で存在し得るのだ。そして、おまえへの強烈な憎しみに猛り狂っておる」
「恨まれるのが仕事だが」
かっと開いた巨大な口から、Dは五メートルも跳び下がった。玉座の真下であった。
顔の口もとが白い炎に彩られた。歯を噛み合わせたのである。一瞬の遅滞が生じた。
Dの身体が躍った。一気に台座上に跳躍する姿は、灼熱の騎士のごとくであった。
顔はなおも迫った。
白い灼熱が、玉座もDも呑みこんで渦巻いた。
その内側でさらに、まばゆい光が一閃した。
巨顔は突如、苦痛の表情を浮かべてのけぞった。
閉じた瞼が炎に包まれ、絶叫する口が裂け、支えきれなくなった顎と頬の筋肉が崩れ落ちていく。白い炎の皮膚が破れると、そこからさらに白熱の炎が噴き出し、別の炎とつながって、面上のあらゆるものを灼きつくしていく。
ほんの一瞬、顔は天空に向かって吠えた。それは玉座の上に置かれた王の巨大な生首の絶叫とも見えた。
死と黄金の瞬間を炎が溶かしたのは、次の刹那であった。
そして、いま、自らを消滅させた炎の最後の一片が宙に溶けると、玉座の上に立っているのは、黒衣の若者ただひとりであった。
「やったのお」
黙然と長剣を収めるDへ、左手がつくづく感心したように言った。呆れ返っているのかも知れない。
「狂った精神の創り出した化物には、より強い精神力で対抗するしかないが、あれを砕くとは――やはり、血は争えんな」
それが勝利の解答であったのか。だが、その代償に、Dの顔は無残に灼け爛れ、コートも旅人帽も煙と白炎を留めている。刀身はぼろぼろだ。
「その程度の火傷なら、わしが手を出さんでも、おまえの体内の再生機能で何とでもなるが、その服と剣は新調しなくてはならんな。さて、どうしたものか」
「安心しなよ」
地上からDが呼びかけた。もちろん、にせものである。
「この施設が誰のためのものか忘れたのかい? ついて来な。生まれた子供に、親としては、不憫な生活をさせられないとさ」
数分後、にせDが案内したドアの向こうには、眼にも鮮やかな衣裳が数千数万――絢爛たる色彩に包まれて、広大な広間を埋め尽くしていた。
次の間で、Dはこれまた壁を埋め尽くす武器の中から、ひとふりの長刀を選んだ。その優雅な刃のカーブ、質実剛健な柄《つか》と鞘のつくり――彼愛用の剣と瓜二つであった。
2
次の作業は、医療センターを訪れることだった。
高エネルギー波が直撃したのは、二人のDばかりではなかったのである。
治療システムがかろうじて作動するベッドの上には、ミアとギイが横たわっていた。
ミアは玉座の陰にいたが、顔を出したため、エネルギー光をまともに浴び、陽灼けのごとき症状を呈していた。
「システムが完璧に作動してるんじゃないんだな」
と、にせDが、空咳《からぜき》のような音をたてる治療システムの基台を蹴りとばした。合金製のボディがへこむ。
「これじゃ、エネルギー光の治療は無理だ。『都』の病院へ入れる必要があるな。それに――」
と、離れたベッドの上で呻吟しているギイへ、冷たいとも同情的ともいえる眼差しを当てて、
「あっちはもう助からんな。透過フォトを見ても、内臓はもちろん、脳まで腫物《できもの》で一杯だ。大体、あんとき、ひと思いに息の根を止めときゃ、こんなに苦しまずに済んだのにな」
とDにあてこすりを言った。対してDは、
「ムマだ」
とひとこと言って、にせDの口を封じた。
「こいつが知ってるのか?」
「さっき、光の中でそう口にした」
二人のDの視線が合った。驚くべきことに、溶けた顔の皮膚はほぼ完全に復元し、髪の毛ももと通りだ。この二人の代謝機能は、無限に近いエネルギー稼働率を誇っているのだろう。
にせDは、両手を組み合わせて、ヒャッホーと小声で歓喜した。
「なら、まだあいつの息のあるうちがいいな。早速、尋問しようや」
だが、それは無理とわかった。痙攣しながら口にするギイの言葉は、何ひとつ脈絡のない狂人のたわごとだったのである。
「精神矯正器はイカレてるしな。こりゃ、お手上げかな」
腕組みするにせDの眼の前で、Dの左手がのびた。ギイの額に手のひらが当てられたのである。
……五秒……一〇秒……固く閉じられたギイの両眼が大きく見開かれた。瞳の中に、見間違えようのない正気の光を認めて、にせDが、
「おや」
と唸った。
「……ここは……医療センターか……?」
ギイがこう訊いたのは、周囲を見廻してからである。
「そうだ」
とD。手はすでに離れている。
「……そういえば、わしは長い夢を……見ていたような……気がする。……治療している……のか?」
「いや、よく聞け。おまえは、じきに死ぬ」
「おい」
と、にせDが眼を剥いた。ミアも上体を起こした。
「そうか……そうだろうな……わしは……生きすぎた」
「ムマとはどこにある?」
Dが切りこんだ。
「ムマ……?」
ギイの両眼に、どんよりしたものが広がった。
「ムマだ」
「……ムマ……ムマ……とは一体……」
不意に凄まじい恐怖の色が、年老いたサイボーグの顔を支配下に置いた。
「ムマ――そうか、ムマだ!」
と老人は叫んだ。その胸のあたりで、小さく、モーターの乱れるような音がした。
「人工心臓がやられたな」
とDの左手がつぶやいた。
「ムマとは何だ?」
Dがつづけた。
「あれは……あれは……わしが造ったものだ」
「なにィ?」
と、にせDが眼を据えた。
「……あの方の……アイディアをもとに……わしが可能性を研究した。それから……造り上げるまで……全責任を負った」
「そいつは何だ? ――何かの装置か?」
にせDが口をはさんだ。
「……違う……」
「じゃ、土地か?」
ギイの顔が横にふられた。同時に、全身に痙攣が突っ走った。
「いかん。断末魔が近いぞ」
左手の叫び通り、確実な死が、五千年を永らえたサイボーグを捉えつつあった。
瞳から光が失われ、表情が人形じみてくる。
二人のDがふり向いた。
ミアが立っていた。二人など眼中にないように老サイボーグに近づき、頭の横にしゃがみこむと、半ば焼け爛れた老人の手を両手で包みこんだ。
「おい」
と、にせDが声をかけたが、強い口調ではなかった。
「私の母は、占いの他に葬儀の巫女も務めていました。死んでゆく人を送る仕事です」
ミアは静かに言った。
「私も教えられました。仕事で人の死を送るなんて、嫌で嫌で仕方がなかったけれど、森の中で行き倒れた人を見つけたとき、誰も呼ぶ暇がなくて。その人は私の腕の中で死にました。やっと、そのとき、私の仕事の意味がわかったような気がしたんです。誰だってひとりじゃ死にたくありません。そのとき、そばにいてあげられるなら、それは仕事じゃなくて、人間としての務めだと思いました」
老サイボーグの額に、白い珠が浮いていた。機能失効によって、循環体液が皮膚に滲み出てきたのだろう。ミアはそれを拭った。
「静かにお行きなさい」
老人に話しかけるように言った。Dに話しかけるように。にせDに話しかけるように。いまここにはいないが、じっとすべてを見つめている何かに話しかけるように。
「誰も何も訊かない。あなたはしゃべる必要もありません。静かにお行きなさい」
ギイの閉じられた瞼が、小さく痙攣した。涙が溢れた。
「……ムマは……ここを出て……北へゆけ。我が姪シューシャが……いるはず……だ」
言い終えて、息を吸おうとした途中で止まった。喉が詰まり、喘鳴《ぜんめい》を放った。ミアの手指を握りしめる。
娘の顔に苦痛の色が渡った。
それだけだった。
ミアの指から老いた手が離れ、ベッドの上からすとんと垂れ下がった。
ミアがゆっくりと首を垂れた。
少し間を置いて、
「送ってやったか?」
とDが訊いた。
「ええ」
「運のいい爺さんだ」
と、にせDが羨ましげに言った。
「放っときゃ、いずれこの地下のどこかで、身体中が錆びついて倒れ、妖物どもの餌食になるはずが、こんな別嬪に見送られてあの世行きときた」
「おかしなこと言わないで下さい!」
とミアが睨みつけた。眼に光るものがあった。
「こりゃ失敬」
「私たちに謝る必要はありません。でも、死んでゆく人を敬う気持ちは持っていて欲しいと思います」
「………」
「君の具合はどうだ?」
とDが訊いた。
「えっ?」
「具合はどうだ? 顔が灼けている」
「大丈夫です、全然。――エネルギー除けの薬も呑んでいるし」
「指を折っていないか?」
「それは――」
ミアは右手の人差し指を、そっと握った。それだけで呻いてしまう。第三関節から折れているようだ。
その指をDの左手がそっと握った。
「あ」
驚きの声は、すぐ、別の驚きを意味した。痛みが引いてしまったのだ。
「ありがたく思えよ」
と左手がえらそうに言った。
「さあてと、いよいよ本題に入ったな」
と、にせDがバツが悪そうに言った。
「この姐ちゃんのおかげで――」
「ミアです」
「ミアちゃんのおかげで、こいつはついに、宝の在り場所を発見できそうだぞ。北だってよ――おれ[#「おれ」に傍点]」
とDに呼びかけた。浮き浮きしている。これが本性だとすると、Dの方は、大嘘つきで見栄っ張りのエエかっこしになってしまう。
「北にいるシューシャか」
とDがつぶやいた。
「これだけで、わかります?」
とミア。
「大丈夫さ。そっちへ行けば、こっちへ来る連中と会える。そいつらに訊けばいいし、なにしろ、こいつの姪っこだ。誰にでもわかるさ」
Dは無言で踵を返した。
「おい、待て。いまのはみいんなおれのアイディアだぞ。ついてくぞ」
にせDも後を追おうと身体の向きを変えた。
「駄目。私も行きます」
「上まで一緒に来たまえ」
とDは足を止め、前を向いたまま言った。
「そこで村へ戻れ。後のことは忘れたまえ」
「そうしろ」
と、にせものも同調した。この辺の呼吸はぴったりだ。
「嫌です」
「もう、おまえにできることはないんだぜ。足手まといになるだけだ」
「占いが使えます」
「チンケな田舎術師の出る幕じゃないな。引っこんでいろ。大体、おふくろの教育が――」
Dはわざと止めなかったのかも知れない。鋭い音が響き渡るや、ミアは茫然と平手打ちした右手を見つめ、にせDは頬っぺたを押さえて苦笑した。
「ごめんなさい。でも、母を莫迦《ばか》にすると許しません」
断固として言い放つ娘を見るにせDの眼に、ぞっとするほどの凶光がゆらいだが、たちまち消して、
「いや、すまん。――ま、後はおれ[#「おれ」に傍点]にまかせよう。そっちの方が受けがよさそうだ。だがな、姐ちゃん」
「ミアです」
「ミアちゃんよ。そいつとおれは見ての通り、同じ存在なんだぜ。それを忘れるな」
ミアはDの方へ向き直り、真正面から美貌と相対した。
「連れて行って下さい」
「村へ戻れと言ったぞ」
「それなら、約束して下さい。私がいなくとも、世界の危機を回避してみせると。決して、自分たちだけのために闘いはしないって」
「約束する義理はあるまい」
「なら、一緒に行きます」
「赤の他人になるぞ」
ミアは息を呑み――たちまち、受け入れた。独りで生きること、それが辺境のルールなのだ。
「わかりました。もう絶対に迷惑はかけません。何が起きても放っといて下さい」
「口もきくな」
「―――」
この声音は別人ではないかと、ミアは血も凍る思いだった。
「ほらな。おれの方がずっと優しいだろ」
にせDの声も空しく脳裡をかすめたきりだ。
「わかりました。でも、出口まで連れて行って下さい」
「勝手についてこい」
「わかりました」
こんなひとことのために、気力を奮い起こさなければならないとは。こみ上げてくるものを、ミアは必死でこらえた。
三人が地上へ出たのは、夕暮れどきだった。もうひとり――ケンツはDのサイボーグ馬の背にゆられていた。
二人の馬がいつの間にか地下の通路につながれていたのに、ミアは仰天したが、犯人らしいにせDは、何も語ろうとしなかった。
ミアはにせDの後ろにまたがった。
「しっかり、腰に手をまわせよ」
「はい」
怒ったように従ったのは、この娘らしからぬ、あてつけ[#「あてつけ」に傍点]だったろうか。――効き目などないのはわかっていた。
「もっとしっかり」
にせDが、Dの方を横目で見ながら言った。
「はい」
「行くぞ」
とDが言った。
「おお」
途端に、Dの背後から宙をとび、にせものの膝の上に、どっと落ちてきたものがある。眠りつづけるケンツだ。
「おい、何のつもりだ?」
「受けがいい男にまかせる」
とDはふり向きもせずに言った。
「おい」
「後から来い」
言うなり、黒衣の騎手は、砂塵を巻き上げて走り去った。――北へ。
茫然と後を追いながら、
「ふてえ野郎だ。次に会ったら、ただじゃおかんぞ」
と、にせDは歯を剥いた。その後ろで、
「まったくです。ケンツさんを病院へ入れたら、すぐに追いかけましょう」
とミアがそそのかし、にせDを大声で笑わせた。
3
北への道を、Dは三日三晩、休みなく馬を駆り、やがて、最初の小さな集落に辿り着いた。
疲れ切ったサイボーグ馬の調整と世話を頼んだ。廐舎で、シューシャという名の女性について尋ねると、
「ああ、遅かったな。三年前に亡くなった」
との答えだった。家も取り壊されたとのことだったが、住所を訊き、廐舎の貸し馬《レンタル・ホース》を借りて向かった。
村の西に広がる丘陵地帯には、確かに家の基礎しか残っていなかった。
辺りを眺めているうちに、ガソリン式の荷馬車が通りかかって、Dを認めて停車した。
「あんた――そこのきれいな男《ひと》、何をしとるのかね?」
くしゃくしゃの帽子を被った人の好さそうな農夫が荷台から声をかけた。
「そこは何も残っとらん。何百歳になるかわからん女の魔法使いが住んどってな。いろんな悪さをしたもんで、家ごと焼かれちまったわ。今でも、夜になると鬼火が点ったり、おかしな影がうろついたりしとる。悪いことは言わん、早うお帰り」
「墓はないのか?」
とDは訊き返した。一〇メートル以上離れているのに、低い声はかすれもせず農夫の耳に届いた。
「あるよ。無縁仏はあんまり可哀相だちゅうて、村の坊さまがこしらえた墓が。あんたの立ってるところから右に、丘が見えるじゃろ。その麓じゃ」
礼を言って、Dは馬にまたがった。丘までは五〇〇メートルもない。
斜面を浅く掘った窪みに、細長い墓石が立っていた。表面にシューシャの名と三年前の日付だけが刻まれている。生年月日はない。
少しの間、つつましげな墓を見つめ、Dは左手を墓石の頂きに載せた。
観察者には、死者への想いを断ちがたく、空しくも切ない感慨にふける美丈夫と見えたかも知れない。そして、失われた墓の主を、絶世の美女だと独り合点で夢想したにちがいない。
「どうだ?」
とDは訊いた。
墓石にではなく、非論理的にも、左手に。
「隠れ家はない。確かに墓所だ。ただし、重硬石でつくられておる」
ほとんど鉄と変わらない原子密度を誇る加工石は、生者に害を為す死霊・怨霊を封じこめるためのものである。
「内部《なか》は?」
「そこまではわからん」
Dの右手が背中へのびるのに気づいたか、声は大慌てで、
「おまえ――まさか、剣で重硬石を貫く気か?」
問いではなく制止の口調であったが、それが終わらぬうちに、Dの右手は一閃した。
背から抜いて突き刺す。刃は当然、弧を描き、つづいて貫通の一直線を示すはずだ。
Dの刀身は、鞘から真っすぐ墓石へ跳んだとしか見えなかった。
墓石のもと[#「もと」に傍点]から、ほぼ六〇度の角度で大地へ食いこんだ刀身は、三分ほどのところで一瞬の停滞を見せ、わずかに速度を落としたものの、真っすぐ半ばまで前進した。
「これは――出るぞ!」
と左手が叫んだ。
人外のものを言葉で示すとき、人間はなぜ、出る[#「出る」に傍点]と言うのだろう。
確かにそれ[#「それ」に傍点]は出た。
Dが刀身を引き抜くと同時に、はっきりと眼に見える瘴気のようなものが墓石から立ち昇り、しかし、空中で拡散してのけた。
Dは後ろを向いた。
白い屍衣をまとった女がひとり、そこに立っていた。
抜けるような肌の向こうに風景が透けていた。
「シューシャか?」
Dは生者に話しかけるように訊いた。
「おまえは――D」
「知っていたか」
「魂の力を知らぬわけでもあるまい。おまえに関する話は、ことごとく私の耳に届いておる」
「ムマはどこにある?」
とDは訊いた。女の正体を確かめるでも、驚いた風でもない。怯えの翳など無論、ない。
「知りたいか。それなら、私の願いを叶えてもらいたい」
「言ってみろ」
透き通った女の頬に喜びの色が湧いた。その右手が胸もとへ上がった。少しとどまり、離れた。おぼろげな体内に、黒い塊が息づいていた。
ひとめでわかる。――心臓だ。
「あのお方[#「あのお方」に傍点]――といえば、おまえにもわかるだろう。私はこれを埋めこまれた。私が殺されても、これは動きつづけた。そして、私の永遠《とわ》の旅路を妨げている。ムマへの道を知りたければ、これを止めてもらいたい」
女の眼に涙が滲むのをDは見た。魂も泣くことができるのだろうか。
「おまえは、私の叔父がいた地下王国から来たのであろう。あそこで何が行われていたか、知らぬわけではあるまい」
「うむ」
と答えたのは左手だ。女はうすく笑った。
「私もあそこで働いていたひとりだった。あのお方[#「あのお方」に傍点]の実験には、それこそ貴族の科学から、あらゆる民族の原始呪術までが必要であったのだ。だが、それが進むにつれて、私の精神――いや、あそこに勤務する貴族たちの無慈悲の精神でさえ、耐え切れぬ事態が生じてきた。次々に生まれる妖し子たち――そして、ああ、私にはきこえる。この心臓が伝えるのだ。失敗作と見なされた赤子たちの悲惨な泣き声が。彼らはみな、底知れぬ深い穴の中に放棄されてしまう。その光景が、私をどれほど苦しめたか誰にもわかるまい。発狂寸前で、私は何名かの仲間と語らって、亜原子炉を暴走させて、地下王国を逃亡した。そして、ここから馬をとばして一年もかかる凍てついた氷河の間の村に住まいを構えたのだ」
女の声には、冬の闇よりも濃密な絶望が、繰り返し鳴っていた。Dが黙って耳を傾けているのも、そのためであった。
「だが、安住の地はやはりなかった。あの地下の王国で、許されぬ作業に従事していた者は、永遠にあのお方の黒い腕《かいな》から逃げられはしないのだ。日ごと夜ごと、私は夢の中で、戻って来いとささやくあのお方の声をきいた。そして、百年を過ごした氷河の村を後にしたのだ。それからの三百年、私は幽鬼のごとき姿で辺境をさまよい歩き、この村に居を定めた。
ここで行った奇怪な実験は、すべてあのお方の声に従ったものだ。その結果、私は呪われ、殺されてしまった。それを恨んではおらぬ。あのお方が裏切り者を決して許さぬことは、重々承知の上で、反旗を翻したのだからな。
だが、あのお方が私に科した運命は、安らかな死ではなかった。私の耳には、暗い穴に放りこまれる寸前、その運命に気づいて必死にすがりつく赤子たちの泣き声が灼きついている。首にも腕にも赤子の手がまとわりつく。眼を閉じれば、助けてと哀願するその顔が浮かぶ。私が逃げ出そうとしたものの中に、私は封じこめられた。そして、永遠に逃れることはできない。この心臓――あのお方が、私が村人に殺害される前夜に夢の中に現れ、夢の中で取り替えたこの心臓がある限り」
女は眼を覆った。耳をふさいだ。自らを抱きしめた。芝居じみた仕草だけに、それはかえって、彼女の置かれた悲惨さを露わにしていた。
「この心臓を止めて」
女の声は、ろれつが廻らなくなっていた。必死なのだ。生命ではない。魂の自由がかかっているのだった。
「あのお方がこしらえた心臓は誰にも止められない。ただひとつの成功例を除いては」
成功例はおまえだけだ。
「ムマへの道を知っているな」
とDは念を押した。
「おお、やっておくれか!? 知っているとも。私は、あのお方の侍女だった」
Dはその場を動かず、手にした一刀に左手を添えて大きく脇に引いた。
突きの構えである。はたして、重硬石さえ貫いた一撃といえど、魂の心臓を――それも、夢の中で魂に備えられた人工の[#「魂に備えられた人工の」に傍点]心臓を破壊し得るのか。
Dの両眼に凄まじい光が点った。すっと瞼が閉じられ、次の瞬間、刀身は黒い心臓を刺し貫いていた。
シューシャが絶叫した。
心臓を押さえてのたうちまわる姿は、半透明なのを別にすれば、現実の苦痛に苛まれる現実の肉体そのものであった。
Dは刀身を下ろした。
何の手応えもない――空気を貫いただけなのはわかっている。黒い心臓の邪悪な脈動は変わらない。
それが傷ついたとき、魂に地獄の苦痛を与える、夢と同じ成分でできた人工の心臓――それは一体、いかなるもので、いかなる方法で破壊し得るのか。
「やめろ。魂が苦しむだけじゃ」
苦渋に満ちた嗄れ声が制止した。
「しくじったようだ」
とDは、ようやく動きを止めて痙攣中のシューシャの魂に話しかけた。
「どうする?」
「……あなたは? 私を可哀相だと思う? もう、同じ苦しみを与えるのは嫌? 尻尾を巻いて逃亡したい?」
涙を溜めた眼がDを見上げた。一撃で憔悴しきった顔に、そのとき、ゆっくりと希望の笑みが広がっていった。
「――やる気だね、やってくれるね。こんな私を、呪われた運命から本気で救ってくれる気だね。ありがとう、ありがとう」
「無茶な真似はよせ」
と左手が止めた。
「魂は死なん。おまえがしくじるたびに、苦しみ、のたうつのだ。次が成功するという保証がない限り、これは拷問じゃ。――ぎゃっ」
ひと息に握りしめた拳を開き、両眼を閉じた。精神集中に入ったのである。二撃目は救いとなるか、それとも惨劇を生むか。
冷気が広がった。Dの精神集中に伴う超常現象である。
再び、脇に引かれた一刀――空気を灼いて迸るや、またも黒い器官を串刺しして、シューシャをのけぞらせた。
同時に、Dも胸を押さえて前方へのめっている。
その背中から心臓にかけて、ひとすじの鋼の矢が生えていた。
誰かが背後から狙ったのだ。いつもなら難なく、相手が射つ前に殺気を感じて攻撃に移っていただろう。だが、強烈な精神集中はそれを許さなかった。
右手を胸から突き出している部分にかけ、Dは前方へ引いた。
ずるりと血まみれの矢が二〇センチも抜け、彼はその速さと角度に合わせるように前のめりに倒れた。
「ああ――D、D、D」
苦痛も忘れてDにすがりつくシューシャの顔には、しかし、運命を知っているものの空虚さが濃い。
墓所を風が渡っていく。倒れた吸血鬼ハンター以外は、人の姿はない。霊魂は尋常の世界に存在を許されたのであった。
Dの背後――五〇メートルも離れた道の上に、荷馬車が止まっていた。御者台で五キロもある投矢器を肩づけしているのは、先刻、Dにこの場所を教えた人の好さそうな農夫であった。
「あんまりきれいな男だで、何かあると思って追っかけてきたら、やっぱり、おかしな真似をしでかしとる。わしがせっかく重硬石の中に封じた魔女の怨霊を助け出そうなどとは、不埒千万。後ろからは卑怯だが、罰あたりに慈悲などいらぬ。とっとと地獄へ堕ちろ」
彼は投矢器を下ろして、帽子を取った。頭には一本の毛もなかった。それから、懐から折り畳んだ僧侶帽を取り出して頭に載せた。シューシャの墓をこしらえた坊主とは、この男であったのだ。
投矢器に円筒形の矢筒を装着し、坊主は馬車から下りた。
「シューシャの霊は、呪われておった。決して成仏はできぬ。長くこの世に留まって害を為すにちがいない。だからこそ、この墓所へ幽閉したものを、この邪魔者めが、余計な真似を」
彼はDに近づき、その顔を思いきり蹴とばした。
唇が裂け、血がとんだ。
「やめて」
シューシャが叫んで、Dにのしかかった。
「何を小賢しい真似をするか、この邪霊め」
と坊主はののしった。彼には霊魂が見えるのである。
投矢器の先をシューシャの心臓に向け、片耳からイヤホンみたいな品を取り出して、
「『都』で手に入れた聴音器だ。おまえたちの会話はすべて聞いたぞ。この矢全部をおまえの心臓とやらに射ち込んで、成仏するかどうか試してやろう」
と憎々しげに宣言した。
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第四章 “門”の前で
1
「やめて」
シューシャの哀願もものかは、坊主と呼ばれる聖職者にあるまじき形相をつくるや、男は投矢器の引金を引いた。
圧搾空気によって秒速二〇〇メートルで射ち出された鋼の矢は、シューシャの胸を貫き、霊魂を地上にのたうちまわらせた。
「やめて……やめて」
泣き叫ぶ肢体が、サドじみた性格の火に油を注ぎ、坊主は舌舐めずりした。
「ほう、苦しいか。痛むか。霊魂でもそうか。これは一本、『都』の本山へ出す論文が書けそうだな。もう少し、実証をさせてくれい」
びゅっ、と空気を灼いた二本目が心臓を貫き、彼方の大地に突き刺さった。
シューシャは声もなく痙攣した。
「どれ――もう一本」
と投矢器を肩に当て直したとき、
「いい加減にしろよ、糞坊主」
背後からかかった声が、確かに、さっき地上に這わした黒衣の若者の声だと気づいた刹那、首すじに冷たい鋼があてられ、男は声もなく硬直した。
「意外に早く着いた。――見てやれ」
長剣を構えたもうひとりのDのかたわらを、
「――D!?」
と叫びながら駆け抜けていったのは、もちろんミアだ。
「運がよかったな、糞坊主」
と、にせDに言われ、男は立ったまま、
「何が?」
と訊いた。
その眼の中で、ずいと立ち上がった影がある。
黒い大地の精のごとく――しかし、それならば、大地の精とは美の化身にちがいない。
「い、生きていたのか。貴族でも心臓を射ち抜かれれば死ぬぞ」
「おれ[#「おれ」に傍点]は格別でな」
と、にせDは、胸から生えた矢をやすやすと引き抜くDを誇らしげに見つめた。その口もとに黒くこびりついているのは、彼自身が流した血だ。言うまでもなく、それが復活のエネルギー源になったのである。
「おれが止めなかったら、おまえは三本目を射つ前に、二つに割られてたぜ。あの[#「あの」に傍点]おれは、このおれ[#「おれ」に傍点]ほど優しかないんだ」
「おまえたちは、双子か?」
「いいや。――ひとりが二人なのさ」
と言われても、坊主は眼を白黒させるばかりだ。それは、もうひとりのDが近づいてくるのを見たとき、最高潮に達した。
「た、助けてくれ、殺される」
「そら、仕様がねえなあ。後ろからいきなり射ったのは、おまえだ」
「あ、あれは、村のためを思って――」
「村の平和のために、手出しもできない魂に、二本も射ちこんだのかい?」
「み、見えるのか?」
「当たり前だ。あいつがおれで、おれもおれなんだぜ。あいつにできることは、おれにもできるし、できないことは――駄目だろう」
などと言っているうちに、Dがいよいよ近づき、
「あの方とやらの力が、シューシャの心臓に効いている」
と言った。
「シューシャは村人に殺されたが、その心臓のせいで虚無化しきれずにいる。こいつは、それを見越して、シューシャの霊を重硬石の中に封じこめた」
「なるほど。それで、墓を暴いたおれ[#「おれ」に傍点]を狙ったというわけか。太い野郎だ」
「わ、わしは村人のためを思って――」
「苦しむ霊を嬲り殺しにしかけたか。――どうする?」
Dは坊主の方を向いた。
美貌に変化はない。だが、何という変わり果てた形相か。
両眼は血光を放ち、いまにも血の涙がしたたり落ちそうだ。うすい唇の両端はきゅうと吊り上がって、三日月の口もとからは二本の乱杭歯が凶々《まがまが》しくのぞいている。そして、真紅に染まった唇の意味するところは――
「き、き、貴族……」
これだけ言い残して、坊主はへなへなと地面にうずくまってしまった。恐怖のあまり、失神したのである。
「村のため、というのは本当だろうぜ」
と、にせDが面白そうに言った。
「だが、こいつめ、根っからのサディストだ。いずれ、魔女の疑いか何かかけられたジプシーとか放浪の民の娘を、救うふりして寺へ引っ張り込み、針で刺す、火で焙るって狼藉に及ぶのは眼に見えてる。――おっ!?」
最後の声は小さかった。Dの右手が閃くのを見たのである。
正座してうつむいた形の坊主の喉と股間から、鮮血が噴出した。股間はともかく、喉はどうやって断ったものか。
坊主は二カ所を押さえてのたうち廻ったが、声は出なかった。
「声帯を切ったか。これで経文は唱えられない。ついでに、あれを切ったら、おかしな気も起こらなくなるな。坊主としても、男としてもおしまいだ。何か、おま――いや、おれ[#「おれ」に傍点]の方がよっぽど酷い存在に見えてきたぞ」
Dは黙って刀身を収め、ミアの方へ歩き出した。
すぐに、にせDが追ってきて、二人は倒れたシューシャのかたわらに立った。
「治せるか?」
とDが訊いた。表情はもとに戻っている。貴族の狂気は去っていた。
「少しは楽にしてあげられたと思うわ」
とミアはうなずいた。
「もう大丈夫さ」
とシューシャが上体を起こした。
「大分、きついけど――次も同じかい?」
「今度は、おれがやってみよう」
と、にせDが声をかけて、シューシャの眼を丸くさせた。ようやく、Dが二人いるのに気がついたのである。
「楽な姿勢を取れ。とりあえず、一撃だ」
「やめて」
シューシャは後じさった。
「どうしてだ。おれはこいつと同じだ。安心しろ」
いままでの結果では、安心は無理である。
「なぜ、そんな顔をする? 一度で駄目なら二度やれば――」
「痛むのよ」
とシューシャは絶叫した。
「そうなんか。よし、一発で決めよう」
「この、いい加減男」
「なにを」
と気色ばむにせ[#「にせ」に傍点]Dの肩に、Dが手を置いた。
「放せよ」
「おれが試してみよう」
「しくじったじゃねえの」
「最後だ。駄目ならあきらめる」
「ほう。断っておくが、おまえの成功はおれの成功、おまえの失敗はおれの失敗だ。いいか、恥をかかせるなよ」
「ほっほっほぉ」
「何だ、いまのは?」
とDの左手を見下ろし、
「おまえには、おかしな奴がついてるな。こいつだけは、おれにもない。何者だ?」
「内緒じゃ」
「下がれ」
とDが言った。空気に緊張がみなぎる。にせDさえ、大きく後退した。
シューシャは凍りついたように動かない。
Dが太刀の柄に手をかけた。
両眼は再び閉じられた。それが開くとき、一刀が閃く。
ミアはゆっくりと立ち上がり、Dの脇をすり抜けようとした。
その手首がぐっと掴まれたのである。
悲鳴を上げる暇もなく、重さもないように引きつけられた身体は、その白い喉を喘ぐ形でDの口もとにさらした。
「よせ!」
と叫んだのは、にせDか左手か。
赤い唇がミアの喉もとに吸いつく――その寸前、Dはミアを高く掲げた。
手首に指が食い込み、肉が裂ける感覚をミアは意識した。
手首からあたたかい流れがしたたり落ちていく。
どっと地面に落とされた。ミアはなぜかDの方を見なかった。
ぎん、と凝縮した空気に身を震わせた瞬間、
「うお」
と呻くDの声がきこえた。
それは、にせDの洩らしたものだったが、ミアが顔を上げたとき、Dの背で刀身は音もなく鞘に吸いこまれ、その前方で、シューシャの幻影はよろめいた。
「ああ……やはり……やはり……あなたが……」
うすれゆく女の眼から涙がこぼれた。涙は空中で消えた。
「ムマは――どこだ?」
とDが訊いた。声は前方へ流れた。前のめりに倒れたDに、ハンカチで手首を押さえたミアが駆け寄った。
「伝えたわ。――さようなら、D。あのお方の――」
すでにシューシャの姿はなく、声だけが天とも地ともつかぬ場所から流れてきた。
「行っちまったな」
Dを仰向けにして、胸に耳を押し当てているミアのかたわらで、にせDが感慨深げに言った。
「だが――誰に、何を、どう伝えたんだ?」
「Dに、ムマの位置を、よ」
とミア。
「どうやって?」
「わからないわ。あなた、Dの分身なんでしょ。なら、早く眼醒めさせてよ」
叩きつけるようなミアの言葉に、にせDは、意外な返答をした。
「見ろ」
と言ったのである。
顎をしゃくった地面に、ミアはDの手がのびていくのを見た。
動きが止まったとき、人差し指は前方の平原をさしていた。
「北だな」
と、にせDが言った。
「そうです」
とミアが決意を声に乗せた。
また、北であった。
ムマはそこにあるのか。そして、Dはいつ眼醒めるのか。
二人は彼方を見やった。
蒼茫と暮れてゆく黄昏の平原であった。
「行くか」
にせDが、Dを肩に担いで立ち上がった。
「行きましょう」
ミアはすでに馬車の方へ歩き出していた。
2
漠々たる雲を踏んで、Dは何処《いずこ》とも知れぬ場所を歩いていた。
自分は気を失った。ここは無意識のうちに見ている世界――夢そのものだ、とは理解している。
歩いてもいる。
だが、どこへ?
現実の自分がどうなっているのかは、気にはならなかった。
シューシャが引き入れたここ[#「ここ」に傍点]が、ムマへの入口だとはわかっている。守るものもいる。そして、彼らは、入口に辿り着いたものを放ってはおかない。
シューシャのこの能力は、“あのお方”とやらの秘書として身につけたものだろう。あのお方とは誰なのか、Dは知っているのだろうか。
雲の海の方に、巨大な菱形の建造物が見えてきた。そこまで辿り着くのに、ほんの数歩とも思え、また、永遠に達し得ないようにも思えた。
「門《ゲート》じゃな」
と左手がささやいたが、これも夢か。
「あの彼方にムマがある。その前に、門の錠前を開けねばならんぞ」
Dは足を止めた。
左手の言葉に怯えたのではない。“門”と彼との間に、何かが立ちはだかったのである。
それは実体のない“気配”でありながら、Dには、それが持つ質量や圧搾感がはっきりと感じ取れた。
――来たか、ここまで
声がきこえた。鼓膜を震わせる音の響きではなく、しかし、まぎれもない声であった。
――おまえなら、あるいは、と思っていたが、やはり、見事だ
「おれは行く。邪魔するな」
――そんな真似はせん。そもそも、私はここにはいないのだ。いると感じるのは、おまえの五感が勝手に紡ぎ出した幻覚にすぎん。おまえは自ら私を感じ、いま、自らの手で斃そうとしている。空しい所為《しょい》ではあるな、Dよ
Dは妖々と前進を再開した。足もとの雲は凄絶な渦を巻いて乱れ、周囲を逆巻き流れた。
――この声も、おまえ自身が勝手にきいているだけにすぎん。すなわち、虚無だ。ムマもそうかも知れんぞ、Dよ。いや、おまえも、そして、この世界自体が
気配が刻々と迫りつつあるのをDは感じた。それさえも、彼自身の意志の所産なのかも知れない。問題は、それを彼自身が空しいとするかどうかだった。
――空しいぞ、戻るがいい
Dの右手が太刀の柄にかかった。
にせDを乗せた馬が、御者台の横に来た。
「わかってるかい?」
何気ない調子であった。ミアも手綱を手にしたまま、同じく軽く、
「ええ」
と顔を向けた。
「合図したら、こっちへ跳び乗りな。おれが捕まえてやる」
「お願いします」
にこやかに会釈しながら、背中は凍りつきそうな緊張の真っ只中だ。
後部座席から噴き上げてくる殺気の、ほんのひとかけを感じた途端、この様だ。ああ、Dよ。
「相手は、あなた?」
尋ねる声はあくまでも穏やかに夕闇に溶け、内容は生命に関わる深刻さだ。
「いいや。おかしな話だが、そこのおれ[#「おれ」に傍点]の殺気はすぐに、どこかへ吸いこまれてしまう。おれの考えじゃ、おれ[#「おれ」に傍点]の意識のいるところだ」
「それって、どこです?」
「頭の中――あるいは、無意識の中。悪くすると、いくらおれ[#「おれ」に傍点]でも、一生出て来られないぞ」
「そこで、誰かと戦っているんですか?」
「そうだ。――ほう、柄を握ったぞ」
恐るべき指摘を、ミアは無視して、
「どうすれば、こちらへ戻って来れるんです?」
と訊いた。
「敵を斃せば、あるいは。もうひとつ――縁起でもないが、そこのおれ[#「おれ」に傍点]が死ねば」
「助けてあげて。あなた、彼なのでしょ。それならどうすればいいか、わかると思います」
「それが、今回はどうも」
「ひょっとしたら」
とミアは新たな悪態を思いついて、即座に口にした。
「そうだわ。もしもの話ですけれど、後ろのDが――後ろのあなたが死ねば、あなたも死ぬんじゃありませんか。一心同体なんでしょ」
明らかに、にせDは動揺した。ミアの言葉は、彼女が考えた以上の苛烈さで、正鵠《せいこく》を射たのである。彼は少し考え、
「ふむ、その通りかも知れんな」
と自分に言いきかせるように言った。
「だとすると、おれはこっちにいるから無関係だと安心しちゃいられない。おい占い師、何かいい手はないか?」
真顔で訊かれ、ミアは、この男《ひと》、本当にDの分身なのかと疑った。返事はできなかった。背中にかかる鬼気が、限界にまで達しようとしている。
「あなたにわからないことが、私にわかるわけありません」
「そう言うなよ」
にやりとして言い放ったにせものの眼が、血光を放った。
「いまだ!」
ミアの動作に遅延も停滞もなかったのは奇跡といっていい。
間髪いれず、御者台からにせDの方へジャンプする。
布地の裂ける音に、血が凍った。上衣の裾が、座席の隅に突き出ていた釘の頭に引っかかってしまったのだ。
にせDが手をのばす。
コンマ数秒の空中での停滞。
ミアの背で白光が躍った。
Dは抜き打ちで放った。
火花が散って、刀身は跳ね返された。
青眼に構え直すDの頭上で、声は重々しく言った。
――どうやら、おまえの邪魔をするのは、私だけではないらしいな。Dよ、克つことだ。私ではなく、おまえ自身にな
立ち尽くす若者の周囲で、雲が渦巻いた。
「危《やば》かったな」
人事不省のまま躍らせたDの刀を受け止めたにせ[#「にせ」に傍点]Dは、自らの刀身に眼をやった。話しかけた相手がその刀身かミアかはわからない。
ミアならば、いったん抱き止められてから、御者台に戻っている。
「ありがとう」
と礼を言うのも、背後のDをふり向きながらだ。美しいハンターは、刀身を握りしめたまま、再度の不可解な眠りについている。
間一髪でにせものが抜き打った一撃がなかったら、ミアは袈裟掛けにやられていたにちがいない。彼にしてみれば、ミアを抱き寄せるよりは、刃を打ち合わせる方が、遥かに容易で迅速だったのである。
「刀を取り上げた方がよくはないですか?」
ミアの申し出に、にせDはかぶりをふった。
「おれは向こうでも戦ってる。こっちで余計な真似をしたら、悪影響が出ないとも限らない。そのままにしておけ」
「――でも、また……」
「不安ならこっちへ来な。とにかく、おれ[#「おれ」に傍点]の動きを束縛しちゃならん」
「わかりました」
と答えてから、ミアはくすりと笑った。
「何がおかしい?」
「よくわからなくって」
「何が?」
「あなたたち二人――どう見ても敵同士なのに、おかしなところで助け合うんですね。――双生児ってそうなんですか?」
「どうかな」
と、にせDは宙へ眼をやった。蒼い闇に包まれた横顔に、疲労とも見える哀愁の色があった。
だが、彼はすぐに凄愴ともいうべき表情を取り戻して、前方の山影を見据えた。
「旅が長いか短いか――とにかく行くしかないぞ」
「わかってます」
ミアも手綱を握りしめた。
“門”が近づいてきた。
取り囲む雰囲気が殺気の強度を増してゆく。
“声”の指摘が正しければ、D自身の生む殺気なのか。
「落ち着け、D」
と左手が制した。
「おまえの精神に異常が生じておる。アドレナリンの分泌が――おっ!?」
声が乱れた。前方に人影が現れたのである。
「ほう――おまえ[#「おまえ」に傍点]だの」
と左手が、呆れたように言った。
近づいてくる影の顔はまだ判然としなかったが、誰にでもわかる。
その輪郭の美しさ、背に負った長剣の優雅な曲線《カーブ》、その足取り――まさしく、D。
「――!?」
不意に新たな殺気に襲われ、ミアは御者台で凍結した。
何という間断なき死闘。
自分より眠れるDの方に凄惨なものを覚えて、ミアはにせDの方を向いた。
小さな悲鳴が喉の奥で鳴った。
そこにいるのは馬だけであった。鞍の上から、もうひとりのDは忽然と消えていた。
現れたDは、Dの五メートルほど前方で停止した。
「おれか?」
とDが訊いたのは、ひょっとしたら、このDは、あのにせ[#「にせ」に傍点]Dか、と直感したためだ。
「そうさ」
と新しいDは白い歯を見せた。その陽気な口調に、確かに覚えがあった。
「何だか知らんが、呼ばれちまった。しかも、どうやら、決着をつけろってことらしいな」
Dはすでに抜いている。
抜き合わせたにせDの全身から、剣気が噴き昇った。
「ここがどこだか知らねえが、あんまり、環境はよくねえようだな。意味もなく敵意が湧き上がってくるぜ」
「おれの精神の産物だそうだ」
にせDは、うええとのけぞって見せた。
「だとすると、おれ[#「おれ」に傍点]は生まれついての殺人狂か。こりゃ、我ながら持て余すはずだ。必要なのは、安らぎを与えてくれる存在だな」
「あると思うか?」
にせDは少し考え、
「ねえな」
と言った。
「お互い、因果な路を辿るよう運命づけられてるらしい。ここで決着をつけるのもいいかもな」
ずい、と上がった二ふりの刀身からは、憎悪さえ超えた透明な殺意が、見えない炎を上げている。
二人のDが死力を尽くして刃を交えたら、どのような結果が生じるか。辺境に住むもので、これに興味を抱かぬ存在はいまい。ましてや、にせ[#「にせ」に傍点]とはいうものの、当人の言葉を信じるならば、このDもまた寸分違《たが》わぬD自身だ。
どちらが勝つ?
どちらが敗れる?
見るものとてなき、しかし、凄絶極まりない死闘が、いま展開しようとしている。
「手を出すな」
とDが妙なことを口にした。左手に告げたのである。
地を蹴ったのは、同時としか思えなかった。
鋼の雄叫びを上げて打ち合わされた刃より、雲の大地に踏みこんだ脚力の凄まじさよ。どちらの前足も、足首までめりこんだではないか。
二つの影は硬直した。
力は互角。物理の法則に従って、どちらも身じろぎひとつできなくなった。
動いた方が斬られる。――二人とも直感した。
不動の泥沼に入りこむ前に、どちらからともなく左右へ跳んだ。
白光の交差。
着地するなり、がくりと左膝をついたのも同じだった。その胸から白い光が生えている。白木の針であった。
「やめい」
と左手が叫んだ。
「これ以上戦えば、二人とも死ぬぞ。おまえたちの力は全くの互角じゃ」
制止の声は、二人の敵愾心をあおりたてる効果しかなかったようであった。
黒い猛虎のごとく、二人は走り寄った。
今度は違った。
Dは最短距離を選んで右からの突きを。にせDは、全体重を乗せた上段幹竹《からたけ》割りを。
千分の一秒で結果が出る。
「やめて!」
瞬間、二人は刃を押さえて、黒い凶鳥《まがどり》のごとく後方へ跳んだ。
刃の軌跡の途中に、細い人影が出現したのを認めたためだが、全力を叩きこんだ一刀を、触れ合う寸前で止めるとは――神技だ。
「ミア?」
どちらかが呻いた。
3
「どうやって――?」
と口にしかけて、にせDは沈黙した。自分がここへ来た以上、ミアが来ても不思議はない。
いや、不思議といえば――ミアが出現した刹那、二人の体内から、吹き荒れる凶気が、潮が引くように消失するのを感じたのである。
次の瞬間、ミアの姿は視界から消えていた。
「ほう」
と左手。
「ほう」
と、にせD。Dは口をつぐんだままだ。
「まいったな。急にやさしい人柄になっちまった。そっちのおれ[#「そっちのおれ」に傍点]もだろ。こいつは引き、だな」
「何をしに来た?」
とがめるようなDの声からも、凄絶な調子は失われていた。
「それがわからんおまえでもなかろう」
と左手が言った。
にせDは、何となくバツが悪そうに立っている。握った刀に気づいて、だるそうに鞘に収めた。
「あの娘――見かけはともかく、一本、鋼の筋が通っておるぞ。おまえたちの世界へやすやすと入りこんできたのが、その証拠だ。血で血を洗う争いに明け暮れている男どもの精神を、ほんのちょっと顔を見せただけで萎えさせてしまうとは――いやはや、恐るべきは女じゃな」
にせDは頭を掻いたが、Dは静かに前方を見つめていた。
“門”《ゲート》がそこにある。
「行くぞ」
と言ったときはもう、歩き出している。
「まかせるよ」
にせDが言った。
気配が消えた。
「奴――戻ったな」
と左手が、懐かしそうに言った。
「どうした?」
と、にせDが馬上で訊いた。
「おかしな眼で見るな」
「あなたこそ、変な眼つきをしないで下さい」
「いや、あんたが、一瞬、消えたような気がしたもんだから」
「あら――私も。あなたが見えなくなりました。でも、次の瞬間、すぐもと通りに――あの、私もですか。一体、どうしたのかしら」
「何だか、そっちのおれと、一戦交えたような気がするんだが」
にせDの眼の先に、Dが横たわっていた。
「そうだったにせよ、不幸な結果にはならなかったのですね。見て。とっても静かな寝顔。きっと、こんな顔、見た人いないわよ」
「かも、な」
「一体、誰がこんな風にさせたのかしら。凄いわ」
「全くだ。――ところで、あんたと夢ん中で出会ったような気がするんだがな」
「まさか」
「そうだよな」
にせDはうなずいた。それから、大事なものでも見るような眼で、ミアを見つめた。
馬車も馬も、闇の中を進んでいく。後は、Dを待つのみだった。
ミアの背後で、身じろぎの音がきこえた。
「――D」
「いよいよ最後のバトルかな」
にせDの眼が光った。
近づくにつれて、“門”は巨大な全貌をDの眼前にさらした。
高さは優に五〇〇メートルを越すだろう。
巨大な扉と、それを支える門枠――それだけだ。
扉は木製のようだが、表面はひどく艶光り、それは、石造りと思しい門枠も同じだった。幅は――わからない。左右で渦巻く雲の壁に溶けこんでいる。
「開けられるか?」
と左手が訊いた。
「ここまで来た。――開けざるを得まい」
「どうやる?」
静かにDは一刀を抜いた。
「ここがおれの精神の世界なら、おれの意志次第でどうにでもなるはずだ」
――その通りだ
と“声”が応じた。
――私はおまえによばれた。おまえを妨害するためではないぞ。この場で斃すためだ。人の精神の動きほど、奇妙なものはないな
Dは扉の前まで進んだ。
左手を押し当てる。
「厚さは無限大か。――さすがは、“奴”の心理障壁だ。Dよ、どうやって開ける?」
「開けはせん」
「なにィ?」
Dは一刀を突きの形で構えた。
どこかで苦鳴がきこえた。雲が渦巻いた。あるかなきかの光をその表面に映しながら流動する。それは、まぎれもないエネルギーの流れであった。
「おお!?」
と叫んだのは左手であった。彼はDの全身にエネルギーが吸いこまれていくのを感知したのだ。
「何という奴だ。ついにこの世界そのものの生命を、自在にコントロールすることを覚えたのか。――いや、これは、ただの精神集中だ。それだけで――」
両眼を閉じたDの姿は身じろぎもせず、ひとつの美しい像のように見えた。
音もなく怒号するエネルギー雲が、その身体に吸いこまれていく。
「やめい――死ぬぞ」
左手は激昂した。
馬と馬車が同時に停止した。前方に、黒々と山脈が立ちはだかっている。稜線は闇に同化しつつあった。
「北の山脈《やまなみ》ですね」
とミアが言った。
「そうだ。約二億年前の造山運動でできた。このどこかにムマがあるのか」
「かも知れません。――わかりませんか?」
「さっぱりだ」
この辺、にせものははっきりしている。
「わかるのは――」
またも、馬車のDに眼をやり、にせものは凝結した。ミアも、また。
「来い。離れた方がよさそうだ」
にせDの吐息が白く凍った。大気に異常はない。彼の肺が、否、内臓すべてが凍結しているのだ。
ミアが身を乗り出し、手をのばした格好で凍りついた。その口から白い息が吐き出され、停止した。
「こりゃ、いかん。――こっちへ来な」
凍りついたミアを鞍の後ろへ移し、
「今度こそ、あの“門”を開けるつもりだな」
と口にしたところで、にせDは馬車の周囲に視線を走らせた。
「ほう、開放祝いに、おかしな出席者が集まってきたもんだ」
ミアは耳を澄ませたが、何もきこえなかった。
占い師の娘として、五感を鋭敏化する訓練は受けている。かなりの雑踏の中でも、二〇〇メートル以内なら、どんな音でも聴き分けられるし、静かな雰囲気なら五〇〇メートル先の足音でも何とかなる。
一体、どこから、と訊きかけて、にせDが馬を下りたのに驚いた。
どこの村でも売られている平凡なサイボーグ馬の背を撫で、固形栄養剤を含ませる姿は、愛馬に対するような慈しみに満ちていた。
馬の筋肉がほぐれ、眼がうるんでくると、彼はミアの方へ眼くばせして、
「来たぞ」
と言った。
やって来た方角から、こちらを押し包むように、半月形の火の玉が接近してくるのに、ミアも気づいていた。
闇の中から幽鬼のように浮かび出たかがやきは、確かに馬にまたがった人間であった。
だが、馬も人も骨なのだ。闇の中に鬼火のごとく青白い骨格が浮かび上がり、それがゆらゆらと近づいてくるさまは、辺境でも滅多に見られないような物凄さであった。
二人から四、五メートルほど離れた位置で立ち止まり、
「バルガを痛めつけたのは、おまえたちか?」
と、ひときわ立派な骨格を持つ髑髏が訊いた。陰々たる声であった。
「誰だ、そりゃ?」
と、にせD。
「この先の村の坊主だ。おれたちに仇をとってくれと連絡をよこした。同じ顔をした男二人と、小娘ひとりが相手だと、な」
「おまえら、あの生臭坊主の何だ、親戚か?」
「強いて言えば、仲間だ。あいつの寺に泊まった旅人が出かけた後で、こっそりと行く先を教えてくれる。分け前は少し高いが、ま、仕方あるまい」
「おまえら、追い剥ぎか」
にせDが吹き出した。
「それにしちゃ、おかしな格好をしてやがる。――こんなコケ脅しじゃ、狙う相手は女子供だな」
じろりと、都合十騎を一瞥して、
「おまえたちを退治する義理もない。とっとと失せろ。これからこっちは、ひと騒動あるんだ」
と宣言したひと騒動とは、もちろん、Dのことだろう。
いなす口調であった。幽鬼たちの間から憎悪の気が立ち昇った。
「おまえたちの生首は、村の入口に飾ってやろう。供養はあの坊主にしてもらえ。成仏はできまいがな」
骨だけの蹄が土を蹴った。突進の合図である。
「ちょい待ち」
と、にせDが片手を上げて、
「おまえら、その旅人たちをどうした?」
と訊いた。
骸骨たちの間を低い笑いが走った。
「詫びを言って帰したと思うか? みな、その辺の土の中に埋まっておるわ。おまえの言った女子供もな」
「それはそれは」
敵には声だけきこえたかも知れない。にせDが跳躍し、会話した骸骨とその馬の真ん前へと舞い降りつつ、どちらの頭部も両断するまで、誰ひとり気づかなかったのである。そのスピードの物凄さよ。
どお、と倒れた衝撃波が、骸骨どもを覚醒させた。
光る手綱を引きしぼり、骨しか見えぬ馬の腹を蹴るや、にせDめがけて殺到する。
馬の空洞化した眼窩の奥に、火の玉が点った。
それが、にせDへと矢継ぎ早に走るや、受けた刀身の位置で、みるみる目映い火球がふくれ上がった。
火球は二個、三個と数を増し、にせDのみならず、その一角を光る土地と変えた。
何もかも白い光に溶け、やがて、急速にうすれると、サイボーグ馬もにせDの姿も残っていなかった。
「D!?」
思わず御者台から叫ぶミアへ、
「うちには、貴族の核エネルギーとやらを扱っていた奴がいてな。そいつから、いまの武器を教わった。放射線はほとんど出ないから安心するがいい」
「ご親切に」
ミアは精一杯の皮肉をこめた。
「よく見ると、童顔のくせに色っぽい顔をしているな。これは始末するよりも、巡回奴隷工場に売った方がいいかも知れんな」
「真っ平ですわ」
つん、とそっぽを向いた肩に、白い骨指が食いこんだ。
「下りろ」
とドスを効かせて命じた骸骨の前から、ミアの姿が消えるや、二、三メートルばかり離れた別の馬の鼻先へ、すい、と出現した。驚愕した馬が、いななきとともにのけぞる。全部の馬にそれを繰り返すや、一同は混乱に陥った。
直立しかける馬を何とかコントロールしようと焦るもの、鞍から落っこちるもの、落っこちて馬に踏んづけられるもの。悲鳴と馬のいななきばかりが夜気を撹拌させていく。
突然、一点に火の玉が生じ、直径一メートルほどの小火球にふくれ上がる。分裂や核融合につきものの放射線こそ発生させないが、中心温度は一万度に達している。
火球が収縮を開始すると、そのかたわらに立ち尽くすミアの姿が現れた。かがやく火球が消えると同時に、前のめりに倒れる。光を浴びた左半身が煙を上げていた。
「やったぜ。顔が半分灼けちまったが、なに、まだ高く売れらあ」
と火球を放った奴が、馬上で哄笑するその耳に、
「地獄へ行きな」
「え?」
平和な驚きが、骸骨が最後に意識した感情だった。
きれいに首を斬りとばされた骸骨を馬から蹴り落とし、にせDは鞍の上で、動揺する強盗団に天使のような笑みを見せた。
白い骨の馬にまたがった姿は、骸骨どもよりよく似合った。
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第五章 死人(しびと)街道
1
「わわっ!?」
と骸骨どもの口から、炎とともに恐怖の音声《おんじょう》がこぼれた。
すでに、にせDは、骨だらけの人馬が、蛍光塗料を塗ったこけ脅しコスチュームだと見抜いている。
右側の奴――馬上からにせD[#「にせD」に傍点]は跳躍した。
そいつは腰のベルトにはさんだ釘打ち銃に手をかけていたが、抜き切ることもできず、心臓を貫かれた。
空中で、にせDは、おやとつぶやいた。
彼はそんな風に斃《たお》すつもりではなかったのだ。着地の姿勢がわずかに崩れたのも、予想外の体勢で舞い降りたためだ。
馬上から灼熱のボルトが射ちこまれたが、左肩をかすめさせただけで、右斜め前方――落馬した三人へと疾走する。もとより信じ難い脚力に、攻撃はことごとく外れた。
昆虫銃を構えたのは左端の骸骨だ。踏みこんで袈裟がけに――とはいかず、意識せぬまま両手は形を変えて、しかし、見事に敵の頚部を刺し貫いていた。
何だ、こりゃ?
頭に閃いたのも束の間、真ん中の骸骨は半回転しての突きで即死させ、ついで三人目。馬体にすがって立ち上がり、二連銃を構えた奴へ、大きく跳んで真っ向上段から――しかし、なぜか刀身も腕も別の構えを取って――
その分、遅れた。
二連銃が火を吹いた。
「いえええええ――っ」
Dは自分の叫びを遠くきいた。
足と腹筋、背筋、大胸筋の張りとバランスの絶妙さを、彼は意識した。それが両腕と刀身を支える。
滑り出す刀身の切れ――完璧であった。
切尖《きっさき》は扉に直角に触れ、滑らかに吸いこまれた。蜃気楼を刺すがごとく。
世界のエネルギーのすべてがDの身体を通って刀身へ流れこんだ。――一瞬のうちに。“門”はかすみ、輪郭を失い、その彼方の光景を露わにしていった。
夕闇の下に広がる、茫々たる荒原を。
それがいまいる世界と同時に、現実のものであることに、Dは気づいていた。
虚実は完全に一致したのである。
Dはふり向いた。
月光の下で、にせDがうずくまり、ミアの顔に白布を当てていた。放射線除去湿布――骸骨どもの鞍鞄の中にあった品だ。
その周囲に転がっている死体の主は言うまでもない。生存者はゼロであった。彼らは、Dと名乗る若者を敵に廻したのだ。
「やられたか?」
とDは訊いた。鉄のように温かみのない声である。いつもの美しく氷のようなハンターがそこにいた。
「放射線のびんた[#「びんた」に傍点]を食らった。生命に別状はねえが、顔をやられた。ここじゃ手当ての仕様がない。これは『都』でしか治せんぞ」
「ついてくるなと言ったはずだ」
Dは冷然と言い放った。ミアは気絶していない。じっとDを見つめている。自分の苦しみを訴えているのではない。Dの無事を喜んでいる眼差しだ。その報いが、これか。
「おい、ちょっと冷たくねえか」
さすがに、にせDが物言いをつけたが、
「いいんです。その通りなのだから」
とミアが止めた。健気な表情に、しかし、哀しみの色を消せずにいるのは、致し方あるまい。
「でも、よかった。無事に戻ってこられたんですね」
と見上げた。Dは馬車の後部座席にいたのである。
「こいつらは?」
Dは馬車を下りて訊いた。強盗団だと、にせDが事情を説明した。
「いつ、ここへ辿り着いた?」
Dは荒涼たる平原を遠望した。
彼らの足もとから、ひとすじの道が岩石だらけの広がりを一直線に貫いている。
「これは――」
「通称“死人街道”だ」
と左手が言った。
「いま、憶い出した。どうやら、わしの記憶からも消去されていたらしい。発見するまでは、な」
「誰が消去した[#「誰が消去した」に傍点]?」
「さて」
「だが、北の果てにある道なら、いずれは辿り着く。あのシューシャという女、なぜ、こんな廻りくどいやり方で説明した。――“門”などと」
「おいおい、最初からあったんじゃねえよ」
と、にせDがミアと顔を見合わせてから、呆れ返ったように言った。
「ここにはな、最初、山脈があったんだ。地図にも載っている“北湖山脈”ってやつだ。最高峰は北湖山の海抜五千メートル。他にも四千メートル級の山が三つ、三千メートル級なら七つもあった。それが、ほんの――そうだな、二秒間で均《なら》されちまったのさ」
「均された?」
「そうなんです」
とミアが、ようやく上体を起こして言った。片手で左頬の湿布を押さえている。シャツもスラックスも、左半身は焼け爛れているが、幸い、肉体は無事だったようだ。
「まるで夢を見ているようでした。あの巨大な山脈が、まるで、幻みたいに震え、輪郭を失って、みるみる平らになり、そして、その後に、この平原ができたんです」
数千万年前、大自然の力が造り上げた大地の躍動が、いまはこの、滑らかな土と石塊の広がりなのか。
数千億――いや、数兆トンの岩と土はどこへ去ったのか。Dが貫いたあの“門”は、北湖山脈だったのか。
謎は、荒涼たる平原に姿を変えて、月光の下に眠っていた。
「“死人街道”か」
とDがつぶやいた。
「その通りだ」
と、にせDが言った。三人は月光の重ささえ感じながら立っていた。
死人街道たる名の所以はと、Dは訊かなかった。左手が答えないのはわかっていたからだ。
それよりも――
「行くぞ」
彼はサイボーグ馬の方へ歩き出した。それしかない。この若者に後退はなく、そして、彼を導く道は、修羅へとつづいているのだった。
にせDも鞍にまたがり、ミアは馬車へ戻った。
二頭の馬と一台の馬車は、月光の下を進み出した。
「ところで、な」
と横に並んで、にせDが声をかけた。Dの返事を待たず、
「おまえ、どうやって“門”を開けた?」
「突いてみた」
Dの返事は短い。
「なるほど、やっぱりな」
と、にせDが納得したのは、数秒後のことだ。
彼は骸骨どもに対する自らの攻撃が、ことごとく突きに変わったのを忘れてはいなかったのである。
“死人街道”――その不気味な名前の由来は知らず、山脈ひとつを隠れ蓑に使った平原とその道は、月光の下を行けども果てさえ見えず、ただ磊々《らいらい》たる岩石の重なりばかりで、未知への探究と希望に燃える開拓者でさえ、絶望と狂気に囚われるようだ。
ミアを襲ったのは空虚さであった。
陽光の下なら、まだまし[#「まし」に傍点]であったろう。だが、ダンピールたる二人は夜の旅を選んだ。それを、仕方がない、自分は邪魔者だと納得しつつ、なお荒涼たる道をゆく精神の荒廃は抑えようがないのだった。
だが、辺境に生きるものならば、同じような経験をしたことはあるはずだ。魔物が徘徊する夜の道、骨で埋もれた街道。それが三日三晩もつづく、果てしない距離。
それなのになぜ、こんな恐怖や無力感が忍びこんでくるのかわからない。
いつの間にか、ミアは手綱を放してしまっていた。急かされなくなった馬は足を止め、馬車自体もスピードを落として、やがて、停止した。
先行していた二人のDが、すぐに駆け戻って、
「どうした?」
と訊いたのは、にせDの方である。
「何でもありません。何だか――空しくて。少し休めば、何とかなると思います」
「きつかったからな」
と、にせDは頬を掻いた。
「陽が昇れば、きっと――」
「それでは、おれたちが困るな」
「ごめんなさい」
「疲れたのか、行く気がなくなったのか?」
冷やかな問いが、にせDの後ろから放たれた。
「それは――」
ミアは口ごもった。正直な答えは言えなかった。
「このまま、ここにいたいか。何もかもどうでもよくなったか?」
Dはミアの胸を刺しつづけた。ごまかしきれず、
「ええ」
とミアは首肯した。
「なるほどな」
にせDは、Dに眼をやった。
「これが“死人街道”たる所以か――おまえの左手に訊いてみな」
「その通りだ」
嗄れ声が、憮然たる口調で認めた。
「もう少し先へ行ってみるがいい。じきにわかる。いや、ここでも」
三人は周囲を見廻した。生暖かい風のような妖気が、首すじに吹きつけたのである。
「見なよ」
と、にせDが、街道の右――東の方へ顎をしゃくった。
土と石塊の向こうに、人影が立っている。襤褸《ぼろ》をまとい痩せこけた影のそばにも同じ影が、その隣にも、その後ろにも――
「彼らはこの道を辿ってきたものたちだ。ムマへと向かってな。わしの知る限り、その歳月は五千年以上、街道を辿ったものの数は、二千万人以上に及んだ」
「何人が辿り着いた?」
「ゼロじゃ、わしの知る限り」
「なぜ、そんな真似を? ムマてな、そんなにいいところなのか?」
「わからんな。だが、彼らは自らの意志で来たのではないぞ」
「何だと?」
「呼ばれたのじゃ。――“あのお方”とかいう奴に」
「二千万人がかよ?」
「奴はムマで何かの実験をしておったらしい。そのために、強い人間を必要とした。肉体ばかりか、精神も百万人の強さを誇る男女をな。この街道は、奴の目に適う人間を選別するための、いわばテスト・コースなのじゃ」
やる気のない人間――精神的な強さの足らぬ人間はここですべてを投げ出し、進むことも退くこともできずに、路傍の屍《かばね》と化し果てるのだろう。
「じっとこっちを見てるぜ、おっかねえ」
ちっともおっかなくなさそうな声で、にせDが言った。
「何もできんよ。できるくらいなら、行くか戻るかしておるわ」
「もっともだ。しかし、この姐ちゃん、どうする?」
「連れていけ」
とDがにせものに言った。
「それしかねえな。さ、来な」
と鞍の後ろを叩くと、ミアはのろのろと身を起こして、乗り移ろうとした。
「いかん!」
と左手が止めた。
「どうしてだよ?」
「“死人街道”の恐ろしさはここじゃ。疲れたものは、力のあるものが背負う。連れていく。だが、じきに大いなる過ちに気づくのだ。すなわち、この無気力は伝染する、と」
「済まねえな」
にせDが身を引いた。ミアは馬車に取り残された。
「すると、この姐ちゃんは――」
「置いていくしかあるまい。そうしても、いずれは街道の空気に蝕まれはするだろうが、少しは時間が稼げる。ましてや、おまえたちは特別じゃ」
「けどよ」
「少したてば、置き去りの我が身を哀しむのも面倒臭くなる。真の無気力とはそういうものよ。――安心せい」
「そうか――なら、気が楽だ」
と、にせDはうなずいた。
「悪いな、姐ちゃん。ここまでらしいぜ」
ミアはうなずいた。三人の会話の意味も、自分の取るべき道も、はっきりとわかっていた。
「いいんです。……行ってください……私、残ります」
「そう言われると、後ろ髪を引かれるが、ま、仕方がねえ。――さよならだ」
にせDが馬首を巡らせた。
そちらを見る気力も失せたのか、俯いたきりのミアの眼から、ひとすじの涙が頬を伝わった。頬は焼け爛れていた。
黒い手がのびたのは、ミアが涙を見せる前であった。
「――?」
ぼんやりと顔を上げ、ミアは馬上のDを見つめた。
「よくここまで来た」
とDは言った。冷たく、優しい声で。顔を焼かれた娘へ。
「この先も来れる、な?」
「……ええ」
差し出された美しい指を、ミアは固く握りしめた。
2
荒野をびょうびょうと風が渡っていく。どこから吹いてくるのだろうかと、ミアはDの背に顔を押しつけたまま、ぼんやり考えた。
Dとつながっているのは、ミアの手ではなかった。最初は抱きついていたが、その気力もなくなり、いまは細いロープで縛りつけてある。正直、考えるのも面倒臭かった。
Dはどうなのだろうかと思った。私の無気力は伝染性だという。放っておいてもおかしくなるのに、この上、伝染ときたら、いかにダンピールといえど、無傷ではいられまい。
馬にゆられてどこまで来たか。
もう何もかも鬱陶しい。このまま死んでもいい、と投げやりになる寸前、最後の気力が叱咤する。
占い師は、みんなのために働くのよ。あなたはまだ使命を果たしていないわ。
それは、物心ついた頃から、厳しい母に吹きこまれた占い師としての信念であった。
Dは声ひとつ、かけようとしない。
何度、喪心し、何度、甦ったことか。
「あれは何だ?」
にせDの声が、うすれゆく意識に細い光をさしこんだ。
「え?」
Dの腰に手を廻し、横から首を出す。どうやって身体を動かしたのかも、意識にはない。
瞼が開いた。視神経が脳に伝えた映像は、月光の下に浮かび上がった棘々しい形であった。どれひとつとして軟らかい線のない構造物が地平を埋めている。
「見えるか?」
とDが訊いた。
「え、ええ」
と答えて、声の出ることと同時に、Dの問いに驚いた。この若者は、ミアの様子を黙って見守っていたのだろうか。
「やだ」
と口に出た。涙がこみ上げてきたのである。夢中で拭った。
「何が、だ?」
「何でもありません。――あれは、何でしょう?」
「見たところ、工場だ」
「ムマ、でしょうか?」
Dは沈黙した。ミアにもわからなくなった。
「ムマだといいな」
と、にせDがかたわらで言った。
「知りません」
とミアはそっぽを向いた。自分を馬に乗せることを拒んだことを、ちょっぴり根に持っていたのである。
「ほっほっほ」
と嗄れた笑い声がDの左手で上がった。
「色男もかたなしじゃな。ちょっとした料簡違いで女を邪慳にすると、それ、そういう目に遇わされる」
「うるせえ」
「しかし、おぬしとDは、全く同じ人間だというのに、本質的な部分でどこか食い違っておる。この差は何なのか。ふむ、あの工場にいる奴に訊いてみるか」
道は真っすぐ、黒い建造物へとのびている。
三人が城門ともいうべき巨大でいかめしい正門をくぐったのは、それから三時間後だった。
門自体は扉が外れており、遠望したときの荒廃の印象は、中庭から、すべての建物や塔に及んでいた。
「ここがムマなら、揺曳炉があるはずだ」
とDがぐるりを見廻した。
「ちょい待ち。その前に医療部を探そうぜ。この姐ちゃんの頬っぺたを手当てしなくちゃな」
「おまえが連れていけ」
Dはにべもない。
「なるほど、わかった。そうしよう」
にせDがにやりとした。
「いけません。私のことより、二人して、炉を探して下さい」
ミアが夢中で叫んだ。この工場の敷地内に入った途端に、無気力は跡形もなく消えている。
「いいんだよ、おれは別に炉なんぞに興味はねえ。ここに来れば、なんで生まれてきたのか、わかると思ったんだ。ま、おいおい調べるさ」
「そんな悠長なことを言っていていいのか?」
と左手がちょっかいを出した。
「わしの見たところ、ここはムマではないぞ」
「なにィ!?」
にせDとミアのみか、Dまでも左手を見つめた。
「手の分際でえらそうな。ここがムマじゃないって証拠を見せてみろ」
とにせD。
「証拠は、“死人街道”じゃ。見ろ。あの通り、真っすぐ正門から、この施設の中央を貫いておる。舗装もされておらん。つまり、ここは、街道の途中に建設された、別の工場だということじゃ。街道は、多分、あのまま裏門から抜けておるじゃろう。余計なところにいつまでも留まっておっては、時間を無駄にするばかりだ。その娘の手当てをしたら、早々に出発するが良策じゃて」
「ふむ、一理あるな」
にせDは、ぐるりに眼を向けた。
「だがな、これは工場なんてもんじゃない。ひとつの都市くらいもある施設だ。あの地下工場より凄いぜ。ここがムマでなけりゃあ、一体、何だってんだ?」
「わからん。だが、この荒廃ぶりを見ると、とうの昔に廃棄されたことだけは確かだな。――おっ」
にせDが馬首を巡らせ、片腕を突き出した。Dの背後で倒れかかったミアが、ぴたりとその肩を押さえつけられた。
「おれが医療部を探してみる。おまえら、廃墟巡りでも何でもしてろ」
ミアを連れたにせDが憤然と去ると、左手が話しかけた。
「彼奴《きゃつ》、大丈夫か。大分、頭に血が上っておったようだが」
「あいつもおれだ[#「あいつもおれだ」に傍点]。どう思う?」
この若者が質問するなどというのは奇跡に近い。
「少なくとも、あの娘に関しては心底、尽くし抜くじゃろう。自分の身に危険が及んでもな。おまえと同じく、我が身の死など歯牙にもかけておらん。――ただし、彼奴の目的の妨げとなれば別じゃ」
彼は街道でミアを捨てようとした。
「覚えておるか、前にわしの言ったこと――おまえと奴は、本質的に同じ存在だと」
Dはかすかにうなずいた。
「それがどうも自信がなくなってきたわい。彼奴とおまえと――ふうむ、よくわからん」
すでにDは前庭の背後にひときわ高くそびえる建物に足を進めていた。自らの出自など知ったことではないという風に。その通りであろう。
美しい若者の非情の瞳《め》は、過去も未来も見てはいないのだった。
一階の埃の積もったロビーに、CGによる施設の案内図が生きていた。どこかに秘められたエネルギーは、荒廃の極にあるこの地で、なおも生き永らえているらしい。
中央研究センターの地下三千階に、名称不明の一角があった。この施設の中枢であろう。
Dはそこへ向かった。
にせDの方も、すぐに医療部を発見した。これだけの広大な施設なら、人間の作業員も働いていたはずだと踏んだのである。
基本的に貴族に医療部は必要ないし、彼らの人間に対する冷酷無残な支配体制からして、保安医療など、一顧だにせぬように見えるのだが、その辺が貴族のプライドの問題なのかどうなのか。人間を労働者として迎えた施設には、例外なく、最新の技術と設備とを導入した医療機関が設けられているのである。
にせDも、別のビルでCGの構造図を見つけ、そこの地上五百階にある病院へ、ミアを連れていった。
ワン・フロアだが、『都』の大病院の優に百棟分はある。そのくせ、収容人員は、設備から見て百人程度――それが人間労働者の数なのであろう――なのが凄まじい。
「これなら、死人も生き返るぜ」
とつい洩らしてしまい、にせDは苦笑したが、それほどの超科学的医療メカが備えられているのだった。
ところが、そのメカを動かすためのエネルギーがない。エレベーターは動いたのだから、ゼロなのではなく、伝達機構に異常が生じているのだろうが、さすがのにせDにも、その故障箇所を見つけて修理することはできなかった。
薬を、と思っても、その薬を用意するのもすべて、作動不可のコンピュータによるものときた。オート・システムの弊害である。
「何てこった。いま、薬を探してくるから待ってな」
にせDが侵入したのは、薬品庫であった。ここもコンピュータ管理は死滅していたから、力づくでドアをこじ開け、何とか放射線治療薬を見つけて戻った。三時間が過ぎていた。
「おや」
と声が出た。
ミアの姿はなかった。
ひょっとしてDか、と思った。
「あいつなら、どっかに隠れて、人をコケにして喜びそうだ。それにしちゃあ、おれ[#「おれ」に傍点]の気配が――ないなっ!」
叫びざま、彼は上体をねじった。抜き打ちに放った刀身に黒いすじがからみつき、両断された髪の毛と化して床に広がった。
「貴様は――ユマ!?」
ドアの前に立つ男は、にせDの声にも無反応であった。
その身体つき、表情、そして、いま斬り落とされた髪の毛――確かにユマだ。
否――にせDは眼を凝らしてそれを否定した。ユマにしては背が低く、太りすぎの気味がある。動きも緩慢だ。
「おまえ――何者だ?」
はっきり別人とみなしての問いであった。
死の体毛が吹きつけてくるのを、床すれすれに走ってかわしつつ、にせDはユマの横手へ廻るや、首すじに剣の峰を叩きつけた。
倒れた顔は確かにユマだ。だが、微妙に違う。
活を入れて、ぼんやりと眼を開いたのへ、
「こら、娘をどこへやった?」
と訊いた。
「知りたいか?」
にせユマ――というよりユマ2号は、嘲笑を見せた。明らかに確信犯である。
その喉もとにぴたりと切尖を押しつけて笑いを止め、
「おまえ、ユマのでき損ないだな?」
と、にせDは訊いた。
ユマ2号はそっぽを向いた。屈辱と怒りが顔をどす黒く染めた。
「それがこの施設の中をうろついているというと、そうか、おまえら、ここで生まれたのか」
突然、にせDは自分が恫喝の状態にあることも忘れて凍りついた。ある考えに度肝を抜かれたのである。
「おい」
とユマ2号の顎に手をかけてゆすり、
「ひょっとしたら、この施設は――おまえらを造り出すためだけに……」
「その通りだ」
背後から、いや、四方から声がきこえた。ユマの声が。
「そいつは、おまえを我々の中心に置くための囮だ。どこへどんなに素早く動こうと、攻撃は防げんぞ」
「やれやれ」
と、にせDはユマ2号の喉もとから刀身を引いた。
うす笑いを浮かべた顔が立ち上がり、いきなり唇を尖らせた。
吐こうとした唾を、2号は呑みこむ羽目になった。
にせDの刀身が頭頂から胸骨まで斬り下げていたのである。
ごお、と殺気と――血風を浴びながら、
「舐めんじゃねえよ、でき損ない」
と、にせDは、その片頬に凄絶な笑いを作った。
3
「やはり、大した腕だな、Dという名前を持つ男よ」
声はひとつであり、数十人の斉唱であった。一瞬、腹話術の一種かと考えたが、気配は無数にある。
「おまえら、あれか、合唱隊か?」
「当たらずといえども遠からずだ」
と声は一斉に笑った。
「我々は、すべて同じ記憶と使命を植えつけられている。ムマの存在を知ったものたちを処分するためにな。結局、選ばれたのはひとりだけだったが、どうやら、打ち捨てられたものたちにも、生き甲斐が与えられたらしいな」
「死ぬのを生き甲斐っていうならな」
にせDの全身が、次の瞬間、闇色に染まった。
八方から吹きつけた黒髪が巻きついたのである。
同時に、周囲を埋めたユマたちの数名が、声もなくのけぞった。その胸から喉から白木の針が生えている。
どうと倒れてでき上がった包囲網のほころびへ、にせDが黒いつむじ風と化して飛んだ。
新たな攻撃を送る暇もないスピードであったが、脱出して五メートルも届かぬうちに、彼は鈍い音とともに床へ落ちた。
鮮血が跳び散った。全身に巻きついた数千数万本の髪の毛は、にせDの鋼の皮膚に食い入り、肉を裂いたのである。
「でき損ないといえども、おまえを斃す力も具《そな》えた我々だ。ここには二十五人いる。まずは充分な人数だな」
声は一斉に和した。
「殺せ!」
うす闇の中で別の色が躍った。すでに夜は明けかけている。白い色――白木の杭だ。二十五本の手がそれを握り、ふり上げた。
「使命のひとつを果たすぞ」
全員が、黒い甲虫に群がる青い蛾のように、にせDを取り囲んだ。もはや、どの一刺しでも致命傷を与えられるだろう。
「滅びよ、D。ご神祖の――」
声は乱れた。ほつれた言葉は苦鳴に変わり、その方角に全員の眼が注がれた。
そこに生じる動揺と恍惚感――
「D」
誰かがささやいた。
「下がれ」
とDが言った。
影たちは、青い水の流れのように、新たなDを取り囲んだ。囲もうとした。毛髪の嵐を銀光が切り結び、黒い風が力なく床を埋め尽くすと、Dだけが悄然と立っていた。
二十五名のユマは、ことごとくその周囲に伏している。
DはにせDに近づき、軽い右手のひとふりで、食いこんでいた髪の毛を切り払った。皮膚には傷ひとつ残さない。
ぱっと血の霧が噴き上がった。――と見る間に、にせDは平然と仁王立ちになっている。
食いこんだ毛髪の痕は、みるみるふさがっていく。身体だけではなく、衣類まで元通りになるのは、本物のDとは異なった素材を使っているのだろう。
「余計な真似をしてくれたな」
と肩を廻しながら悪態をつく。
「まあ、そっちは助けたつもりだろうから、一応、礼はしとく。この施設はな――」
「ユマを造り出すためのものだ」
にせDは渋い顔で、
「何でえ、知ってたのか」
と吐き捨てた。
「この施設の中央へ潜りこんできたわい」
Dは嗄れ声で[#「嗄れ声で」に傍点]言った。
「なら、この情報はどうだい? ミアがいなくなったぞ」
「え?」
と嗄れ声。当のDは眉ひとすじ動かさない。
「ひとり生かしてある。喋らせよう、ひっひっひ。――ぐえ」
Dは左手を固く握りしめたまま、累々たる屍のひとつに近づき、襟を掴んで引っ張り上げた。
そいつはすぐに息を吹き返したが、ミアの件にふれると、知らんとそっぽを向いた。
にせDの容赦ない一閃が両耳を斬り落としても、答えは同じ。嘘はついていないと、二人のDは判断した。
「――こいつらじゃないとすると、誰が?」
にせDが遠い眼をした。
「そして、どこへ?」
死と沈黙が部屋を支配した。
「床の上におかしなものがあるぞ」
と嗄れ声が言った。
Dがまずそちらを向き、にせDが後を追った。
「あの娘のいる位置だ」
と、にせDが指を鳴らした。
「占い棒じゃの」
色とりどりの模様が書きこまれたすじ[#「すじ」に傍点]は、長さ二〇センチほどの金属製であった。太さは指揮棒ほどもない。
Dが拾い上げようとして、束の間、動きを止めた。
「どうした?」
と、にせDも何か感づいたらしい。
Dは手にした棒をろくに見もせず、また床へ放った。
ちん、と落ちた棒は、当然転がるべき方向へは行かず、きれいな弧を描いて自らを固定した。――拾う前と同じ位置であった。
四つの眼が棒の先に注がれる。
「こっちにいるってことだな。――間違わずに追ってこい、と。さっき、拾うとき、動かなかったんだろうが」
「街道の方角じゃ」
と嗄れ声が言った。
「そこにムマがある」
Dの顔を水のような光が打った。夜は明けようとしていた。
「行くぞ」
「ああ」
二つの影は、肩を並べてドアの方へ歩き出した。
路上へ降り立ったとき、靴底から、重い震動が伝わってきた。
「何かやらかしたのか?」
と、にせDが横目でDを窺った。
「地下の陽子炉のエネルギーを解放した」
「なに?」
Dは鞍に手をかけた。
「ただ、少し計算を間違えたようだな。一〇分ほど早すぎる」
「やけに落ち着いてるねえ」
にせDはサイボーグ馬を疾走に移らせながら言った。
一〇分後、“街道”を疾走中の二人を背後から、凄まじい衝撃波が襲い、馬ごと薙ぎ倒した。
ミアは混沌の中にいた。
それが、一度だけ、彼女自身が入りこんだ、Dの混沌と同じものだとは、気づいていなかった。
妖々と立ちこめる雲の中を歩いていくと、前方に途方もなく巨大な存在を感知した。
ある感情がミアを貫いた。恐怖は無論あった。一歩間違えば、二度と立ち直れないほど濃密で凄惨な恐怖が。
だが、不思議なことに、ミアはそれ[#「それ」に傍点]を恐れなかった。その感情が、ミアを救ったのである。想像もつかないくらい奥深く、冷たく、そして、何よりも奇妙なことに、温かい。ミアの足が止まらなかったのは、そのためであった。
“似ている”
と思った。そのスケールはあまりに違うが、根源的な部分は瓜二つだ。
Dと。
――その通りだ
どこからともなくその“声”が響いても、ミアは驚きも脅えもしなかった。かえって、こんな質問が滑り出た。
“あなたは、Dの近親者ですね?”
――想像力というのは恐ろしいものだな
“声”は笑ったようだった。
――だが、それは人間の美点のひとつだ。だからこそ、人間は滅びもしなかったし、おまえもここへやって来れた
“ここは、どこなのです?”
――好きに考えるがいい。そこ[#「そこ」に傍点]が実際にここ[#「ここ」に傍点]だ
“まるでZEN問答だわ”
ミアの愚痴に、相手は今度こそにやりと笑った。
――そんな言葉を耳にしたのは久しぶりだ。さすがは、占い師ノア・シモンの娘だな
“母のことを!?”
――知っておる。おまえの右の尻にある黒子《ほくろ》のことも、な
「やめて下さい!」
ミアは思わず口に出した。そしてようやく、今まで考えていただけだと気がついた。
“私をどうするつもりなのですか!?”
――わしにも、わからん
と頭の中の声は言った。
――自分のしたいことが、果たして、本当にしたいことなのか、おまえにわかるかな?
“それこそ、ZENだわ”
とミアは考えた。
“わからないなら、帰して下さい”
――そうはいかん。おまえは、自分のしたことが、まだよくわかっておらんようだな
“私のしたこと?”
不安が黒い染みのように広がった。心臓が激しく打ちはじめる。自縛心の術を使わなくては。
――おまえは、ほんの一瞬、ここへ入ってきただけで、奴[#「奴」に傍点]を連れ戻した
“奴って、Dのこと?”
――他にいるか?
周囲の空気が急激に圧力を増し、ミアは身をすくませた。
少なくとも、Dとこの“声”の主との間には、凄絶といってもいい精神的なつながりがあるに違いない。
ひょっとしたら。
“私がDを引き戻したのなら、それをどうしようと?”
気力をふりしぼって訊いた。彼方の存在から、凄まじい鬼気が投射されはじめたのである。気死してしまいそうな――しかし、陰惨な感じはない。
“なんて、堂々とした気迫なの”
ミアは妙な驚き方をした。これなら、拷問の果てのような死だけは、与えられずに済みそうだ。
――月並みだが、わしの役に立ってもらおうか
“え?”
――奴はムマへ来た。来てはならぬ、いや、来なければならなかった土地だ。いずれ、奴は多くのことを知るだろう。だが、それは間違いだ
「間違い?」
また、口にしてしまった。この存在のひとことは、途方もない意味と重さを持っているような気がする。まるで、神とやらが、平気で、地上の人間の誰かに、“死ね”とでも命じたかのような。
――ムマは、奴の到来を、遥かな未来で迎えるはずであった。やむを得ぬ事情により、それは早まった。そのせいでもないが、小さなミスが連鎖反応を起こし、今では取り返しのつかない規模にまで広がっている
ある考えが、ミアの脳裡にひっそりと浮かんだ。冷たい小さな点のようなそれは、みるみるミアの自制を無視して、圧倒的な確信を備えるに至った。
“ミスって、もうひとりのDのことですか?”
あっと思ったときには、問いは終わっていた。
――その通りだ
ミアは眼を閉じた。その答えをききたかったのかどうか、よくわからなかった。
やはり、ミスだったのだ。あんな美しい男《ひと》が二人[#「二人」に傍点]もいていいはずがない。それは、世界の自然律に対する反逆だ。
そのとき、
――ささやかな情報だけで、自分の隙間だらけの愚見を真実だと思うのは、人間の特長だが、占い師がそれでは務まるまい
“愚見?”
――おまえはどちらを真物《ほんもの》だと思っておる?
衝撃がミアの頭を横殴りにした。宙に浮いたような酩酊感が、めまいさえ感じさせた。
自分が先に出会った方が真物だ[#「先に出会った方が真物だ」に傍点]。あるいは、自分の好みの方[#「自分の好みの方」に傍点]が。
――違うか?
そうだ。まさしくその通りだ。
“じゃあ……じゃあ……”
存在からうなずく気配が漂ってきた。
――真物はどちらか? それならば、こう尋ねるがよい。真物とは、そも何者か、と
ミアの心臓を握りしめたのは、後の問いの方であった。
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第六章 ムマにて
1
二人は馬を並べて街道を走りつづけた。速歩などではない。サイボーグ馬は全力疾走のたてがみを風になぶられつつ、灰色の世界をえぐり抜いていく。
曇天であった。
頭上に鉛色の雲が重く垂れこめ、その重さで、風は澱み水のように歪みつつ流れ、地の草も圧《お》しひしがれているようだ。
すでに昼をすぎ、街道の果てには何ひとつ見当たらない。
「どこまで行くんだ、おれ[#「おれ」に傍点]よ?」
おれ、はDへの呼びかけである。
答えはない。
にせDは、ちっと舌打ちの上、横目で睨みつけたが、そのうちに、うっとりしはじめ、あわてて前を向いた。Dの美貌に惚れ惚れとなったのである。
しかし、それは自分の顔だ。何百度となく、鏡で見た覚えがある。毎回うっとりした。Dには皆無の自己陶酔癖を、にせDはたっぷり持ち合わせているにちがいない。
「なんでえ」
と吐き捨てたのは、自分の妖しい心の動きが恐ろしくなったのか、それとも単に気恥ずかしいだけか。
さらに無言の疾走が一〇分ほどつづいた。不意に、Dの馬が前のめりに崩れた。
電撃のように、Dは前へ投げ出され――はしなかった。
鞍の上で両足を踏んばり、膝で馬体の脇腹を押さえつければ、後は反り返ってバランスを取るだけだったのである。
鞍から下り、馬の前足を調べて、Dは無理だと判断した。軽合金の骨格にひびが入っている。溶接しても、これまで通りの疾走は不可能だろう。
「どうするんだ?」
事情を察し、ついでに、物騒な未来もうすうす感づいたにせDが、馬上から話しかけた。
「おまえの後ろに乗せてもらおう。何なら逆でもいいが」
「そう言うと思ったが、お断りだな。おれは先を急ぐ。ましてや、まだ、ムマの影も形も見えん」
「そう思うか?」
とDが訊いた。
「なにイ?――おまえ、見えるのか?」
「わからん」
「ほれ見ろ。思わせぶりなことばかり口にしやがって。このええカッコし野郎」
「では、置いていけ」
にせDは、鞍の上で歯がみした。
「それができねえんだ。常識で考えると、自分で自分を見ちゃいけねえ。自分の持ってるよくねえ部分が、他人の百倍も客観視できるからな。こりゃ、堪らねえ。だから、昔から、ドッペルゲンガーを見た人間は早死にするっていうだろ。ありゃ、もうひとりの自分に殺されるんじゃなく、自殺しちまったんだよ。ところが、おれがおまえを見ると、これが、別に嫌でも何でもねえ。しばらくするうちに、うっとりと、な。こりゃ、どういうことなんだろうな。――仕様がねえ。乗りな」
Dは首を横にふった。
「先に行け」
「何だ?」
「気が変わった。後から追いかける。先に行け」
「おい、何を――」
と言いかけたとき、はっとしたような驚きの色が、にせDの顔をかすめた。
「ははあん。そうか、追手がかかったのか――どいつだ?」
と来た方角へ鋭い眼差しを注いだが、すぐに思い返したように、手綱を引いて馬を前進させた。
「じゃ、な。後はやっぱり、まかせるぜ」
と五、六歩進んだところでふり返ると、Dはもう後ろを向いている。そのたくましく孤独な背中に、ふと、哀愁を覚えたとでもいうべき視線を当て、にせDは激しく馬の腹を蹴った。
鉄蹄の響きが背後に消えると、Dの左手が、
「行ったか。ああいう振る舞いも、おまえらしいわ。どっちがどっちか、わしですら、時々、わからなくなってくる。Dよ、あいつとはムマへ行かん方がいいかも知れんぞ」
「もう遅かろう」
と冷やかに答えたのは、左手への回答か、それとも、背後から迫る追手とやらとの関係を表現したものか。
「具合はどうじゃ?」
と左手が訊いた。答えぬDへ、
「白血球、赤血球ともに著しい減少が見られる。骨髄がやられたな。典型的な放射線障害じゃ」
先刻、ユマ製造工場の陽子炉を破壊した際に浴びたものだろう。無論、Dは不死身に近い。貴族の血がそのような形の死を許さない。だが、一時的とはいえ、迫りくる敵を迎え討たねばならぬときては――
「ええい、早いとこ、土を食わせろ。それから水じゃ。水筒にまだあろう。馬の排尿でもいいぞ。――むぎゅ」
拳を握りしめ、Dは糸のようにつづく街道へ眼を細めた。
その美丈夫といっても足りぬ姿を包むものは、金剛石のごとき変わらぬ冷厳さだ。
だが、もしも、D以外のものが迫りくる気配の正体を感知したら、この場から一メートルでも遠ざかろうと、尻に帆をかけて逃走に移ったにちがいない。
見よ、ひたすらのびるリボンのような道の彼方は、模糊《もこ》と煙っているではないか。それどころか、もはや、はっきりと聞こえる。――地響きが。
灰色の空の下、Dをめざして進行するものたちは、百や二百の数ではあり得ない。まぎれもなく数千のオーダーだ。それが地を踏みならしつつやって来る。距離は約五〇〇メートル。
砂煙がDを押し包んだのは、それから二〇秒後であった。
「どうじゃ?」
と左手が訊いた。
「生ける死者だ」
とDは答えた。答えざるを得ない問いであった。
ぶつかる寸前、道の脇へ跳んだその前を、大地を揺らしながら黙々と歩いてゆくのは、おびただしい数の、襤褸をまとった男女であった。
どの顔も青白い。生気はない。眼も死んだ魚のようだ。それでいて、彼らは死者ではなかった。弱々しい足取りも生者のそれだ。何よりも呼吸している。胸が波打っている。
そして、全員の首すじ――頚動脈の上に、ぽつんと浮いた二つの黒点――牙の痕だ。
「どこから集まってきたのか。――奴の犠牲者だ」
左手の声も陰々と響いた。
ああ、“死人街道”を行く生ける死人の群れ。かつて、この道は、何かの実験に招かれた犠牲者たちのための道であった。数万、数十万の生ける死者たちが、ここを通ってムマへと向かったのだ。その後、理由は知れず街道は山脈と化した。恐らく、招かれた者にとっても、不測の事態であったろう。
貴族の犠牲者たちは、町を、村を追われ、数千年の歳月を、自らの行くべき道の新たなる開放を待ってさまよいつづけたのだ。
その証拠に、身につけた襤褸は、ことごとく数十年、数百年前の衣裳にちがいなかった。
「見よ、奴の力を――みなの顔が歓びにかがやいておるぞ。どんな力を有する貴族でも、血を吸った犠牲者たちに、あのような表情を浮かばせることはできん」
あたかも、霊地へ押し寄せる信徒のごとき人々の顔を、Dはどう見たか。
貴族の犠牲者が、一種、性的な恍惚に囚われ、それ故に二度三度と、彼らの来訪を待ち受け、厳重な監視下では、自分を守ろうとする家族を殺害しながらも、外へ出ようと目論むのは、周知の事実だ。
だが、いまDの前方を黙々とすぎる人々の顔に浮かんでいるのは、性のレベルをとっくに超越した宗教的歓喜――崇高とさえ呼べる至福の表情であった。
これが、奴[#「奴」に傍点]の力なのだ。
「ムマには奴がいよう」
と左手が言った。
「斃せるか、奴が?」
Dは答えなかった。左手が深いため息をついた。
「かく言うわしにもわからんが、ひとつだけ確実なのは、あいつらの後を尾けていけば――」
すでにDは道の方へ歩き出していた。馬はない。
疾走する生ける死者たちの中には、馬に乗ったものもいたが、もとより、Dには見向きもしない。
不意に、陰惨たる行進の群れから、一台の馬車がこちらへ躍り出た。
Dの前で止まったその御者台の上から、濁った、だが美しい形の瞳がDを凝視した。
「あなたは――」
とつぶやいたのは、みなのように襤褸をまとい、青白い肌の娘だ。死人の形相に変わっても、もとはさぞ、と思える美しさを留めていた。
「あなたは……」
ともう一度つぶやき、首をふって、哀しげに、
「……いえ、違うわ……でも……どうしてなの……あの方と瓜二つ……」
「あの方とは誰だ?」
とDが訊いた。
「あの方とは……あなたの……こと」
娘は眼をしばたたいた。
「違う……違うわ。……あの方は……この先にいるはず……こんなところに……」
「その通りだ。おまえもそこへ行く」
「……そうだわ……私……行かなくては……」
「おれも乗せてもらいたい」
とDは申し込んだ。
「駄目よ……あなたは、私たちとは違うわ……その道を辿っては、いけない人なのよ……」
と馬首を巡らそうとしたとき、
「ものは考えようだぞ、お嬢さん」
とDの声がした。それは美しい若者の口から出たものではなく、その左手が放ったものであったが、娘にはわからない。
「おれは見ての通り、あいつ[#「あいつ」に傍点]と近いところにいるものだ。この何万という連中の中で、あいつ[#「あいつ」に傍点]が何人を選ぶと思う?」
「……それは……わかりま……せん……」
「何しろ、おまえさんが選ばれる可能性は、それこそ、万にひとつもない。そのとき、わし[#「わし」に傍点]――いや、おれ[#「おれ」に傍点]が口をきいてやろうじゃないか」
「あなたが……私を……あの方のそばに……置くように?……」
娘の死人面に、生気のようなものが甦ったのは、よほど嬉しかったのだと見える。
「そうそう――ぎえ」
また、Dが拳を握ったのである。今度はゆるかったようだ。悲鳴でわかる。
「なら……いいわ。約束してくれるわね? 本当に、あの方のそばにいられるように……私を推薦してくれるって……」
Dは左手を放した。
「……い、いいとも。約束じゃ」
かろうじてDの声である。
「?」
「いや、約束だ」
「……なら……」
娘は後ろの荷台の方へ顎をしゃくった。
次の瞬間、Dの姿は車上にあった。その早業と、音も立てぬ着地ぶりに、
「……あの方も……そうだった……夜の風のように速く歩いて……月の光のように音を立てなかった……」
陶然たる娘の口調であった。
「行こう」
とDが言った。
娘が手綱をふると、馬はすぐ走り出した。
生ける死者の往来で、喧噪を極める“死人街道”へ。
2
「どんな奴だった?」
とDが訊いたのは、一時間ほど走ってからである。
「あの方の……ことかしら?」
娘は――サベナという名前だった――虚ろな眼でDを見た。
「そうだ」
左手の方で、小さく驚きの声が上がったが、Dは気にも止めなかった。
娘は少し考えた。死人の脳にはどんな記憶が詰まっているのか、濁った双眸《そうぼう》に、徐々に、不思議な光が滲みはじめたのである。
「……大きな方……でした。……とても、大きな……はじめて会ったとき……私は何も言えずに……あの方を……眺めていたわ……あの方も、じっと……私を……燃える石みたいな紅い眼で……ああ、あの情熱……世界の何にも替えられない……」
このときだけ、それこそ燃えるような情熱のかがやきが娘の瞳の中に点るのを、Dは見て取った。
生ける死者の情熱――それは、人間への吸血と貴族からの口づけ以外にはないはずだ。娘の眼に満ちるそれではあり得ない。――恋情では。
「奴はおまえの血を吸った相手だぞ――いまの境遇に堕《おと》しめた奴が憎くはないのか?」
Dそっくりの声だが、やや嗄れ気味だ。
娘は眉をひそめた。質問の意味を理解するまで、少し、時間がかかった。
「憎い?……それは、どんなこと? ずうっと昔に……抱いたような気もするけれど……」
「驚いたの。いかに血を吸われたといっても、これくらい人間の意識が残っていれば、多少は相手への憎悪を留めているものだが、まるでない。これは、まさしく奴[#「奴」に傍点]だ。もう問うな、D。奴がどれほどのものか。見よ、この街道をゆく万人の眼に、娘と同じ恋慕のかがやきが宿っておるわ。どんな貴族にこのような真似ができる?」
Dは答えない。冷やかな眼差しは前方のみを見つめている。これまで生きてきたのと同じく、そして、これからも生きていくのと等しく。
生ける死者の眼のかがやきが、やはり、偽りの生であるならば、ダンピールたる彼の眼差しのみが、生者の情念を表しているのは、皮肉というしかない。
「おお!?」
と左手が呻いた。サベナが、はっとDの方を向く。美しい若者から放たれる鬼気の波動が、どれほど速く、どれほど強烈か。その証拠に、周囲の死者たちが、次々にこちらを向いたではないか。
あれ[#「あれ」に傍点]は、とそのうちの誰かが叫んだ。
「あれは、あの方[#「あの方」に傍点]ではないか」
そうだ、と誰かが応じた。
「そうだ、あの方だ。おい、みんな、あの方がいるぞ」
叫びは、これも波と化して四方へ広がった。
サベナの馬車が止まった。前後左右の連中や馬車が急停止したのである。
「あの方だ」
「あの方だ」
「あの方だ」
その連呼に混じって、
「私をお側に」
「おれを――」
「僕を――」
「あたくしを――」
世にも不気味な求めの声が一斉に湧き上がった。そして、声の主たちは、すがるように両手をのばして、Dの方へと進みはじめたのだ。
生きてもいない、死んでもいない者たちの前進。その青白い幽鬼じみた顔、痩せ細った手足、死そのものを映す瞳――これほど不気味な人の群れが世にあるだろうか。
そして、その両眼だけは恍惚とかがやいているのだ。Dへの恋に――
彼らはDをどうしようというのか。訴え求めるだけか、それとも、愛しさのあまり、その両手で彼を抱きしめ、圧搾し、窒息させるのか。あるいは、強靭な力を持つ指で、その皮膚を剥ぎ取り、眼をえぐり、肉をちぎり取るつもりか。
そのどれにせよ、Dに防ぐ術があるとは思えなかった。
灰色の空の下に、誰にも予想のつかぬ光景が展開されようとした、その刹那――
すっくと立った影がある。Dだ。突如吹きつけた風が、漆黒のコートをはためかせ、たくましい長身の上に乗った麗貌の美しさ、艶《あで》やかさ、そして冷たさに、歩み寄る死人たちは、愕然と立ちすくんだ。
ああ、と誰かが呻いた。それきりだ。他のものは声もない。
その面貌を凄まじい気がはたいてすぎた。
Dが右手で空間を薙ぎ払ったのだ。
「下がれ」
彼は言った。ただひとこと。それがどんな効果を生んだか――まさに、それだけで、彼らは従ったのだ。数百人の歩み寄る死者が、まるで脅え切ったものの表情を浮かべて、たじたじと後じさったのだ。
「やはり」
と左手が呻いた。悲痛と驚きと、感動の混じった声で。
「やはり、こいつ[#「こいつ」に傍点]は彼奴の――」
「おれは違う」
とDは敢然と宣言した。生ける死人たちが後じさったのは、若さにも似ぬ圧倒的な威厳のせいか。いや、彼の美しさに打たれてであったにちがいない。――そう思わせるほど、灰色の空の下、すっくと立った黒衣の若者は美の結像のように見えた。
しばしの沈黙の後、
「そうよ」
という声が、街道を流れた。口にしたのは、手綱を握ったままのサベナであった。
「ご覧なさい。よく似ているけど、この男《ひと》は別人よ。私たちが愛したお方は、もっと大きく、もっと黒く、もっと強かった」
「そうだ……」
力ない同意が幾つか風に乗った。
「やはり……あの方ではない」
「違う」
「違う」
弱々しい亡者の声が一同の上に広がると同時に、ざわついた影たちは次々に前方を向き、誰からともなく歩き出し、すぐ、速足に移った。
サベナの馬車もその波に呑まれた。
「おや」
と左手が、珍奇な発見でもしたみたいな口調になった。その前に、Dの眼は街道の右の荒れ地へ向いている。
前方から疾走してきたのは、にせDであった。最初は小さな点としか見えなかったものが、やがて、人馬一体の姿となり、にせDとなって、馬車の横に止まるまで、一分とかからなかった。
並んで馬を歩かせながら、
「こいつら、あれ[#「あれ」に傍点]か。この街道を往来してた死人どもか?」
と訊いた。さすがに勘はいい。何しろDと同じなのだ。その死人たちも、新たなDの登場に気がついたものは、ぎょっとしたように彼の方を見つめたものの、少し前のDの一件でこりたのか、すぐ眼を戻して歩を進めてこようとはしない。
「何しに来た?」
とDが訊いた。
「何もかにも――何にもねえのよ、この先には」
と、にせDは、前方へ眉をひそめてみせた。疲れとも苦悩とも、あるいは両方とも取れる翳が、その面上を流れた。
「いくら走っても、街道が蜿蜒とつづくばかりだ。いくら行っても何もないとわかるんだよ。空しいもんだぜえ。おれはそれでも行くつもりだったが、馬の方がへたっちまいやがった。疲れたんじゃねえ。今はもうこの通り、ピンピンしてる。虚無感に囚われちまったのさ。サイボーグ馬てのは、知能や感性は並の馬以上だが、それでいて、ニヒリストにはならねえ。それが、この先進むのは嫌だってよ。わかるのさ、何もねえってな。で、仕方がねえから引っ返したってわけだ。こいつら、街道ができてから、どっかから寄り集まってきたんだろうが、無駄だよ。何もありゃしねえ。もっとも、死人は疲れねえからいいが」
「正確には半死人じゃ」
「うるせえ」
と罵り、にせDはさっさと列から離れた。
「無駄足は踏みたくねえんでな。お先に失礼するぜ。――ご機嫌よう」
「ああ、さらばだ」
と嗄れ声が、さも、せいせいしたという風に言った。
「けっ」
と鼻を鳴らして、にせDは馬首を巡らせる――そのとき、
「おお!?」
真っ先に叫んだのは、左手であった。
見よ、不吉な一行の先頭の、さらに前――少なくとも五キロは離れている地点に、巨大な城砦がそびえているではないか。周囲には高さ一〇〇メートルもある塀と、差し渡し二〇メートルもある堀を三重に巡らし、内側に屹立する建築物は、角《つの》のようなレーダーやパラボラ・アンテナ、重力波砲や、デストロイヤー、G時空歪曲砲等が針のごとくせり出し、それ自体、一匹の獰猛凶暴な生き物の様相を呈している。
DがじろりとにせDを見た。当然、そちらは茫然と前方を眺めている。そこで、Dの視線に気づき、
「何だ、その眼つきは。おれ[#「おれ」に傍点]のくせしやがって。なかったんだよ、あんなもの、どこにも――誓うぜ」
と喚くのへ、Dは無言で顎をしゃくった。
「なかったんだ、本当だ」
「どうやら、そのようだぞ」
と左手が奇妙な援軍を放った。
「あの城――どうもおかしい。どう見ても実体だが、一方で幻のようにも見える」
「別に不思議ではあるまい」
とDが言った。
確かに南の辺境に巣食う妖物の中には、近づく人間の思考を読み取り、その最も望む存在を思念の力で実体化させる能力を具えたものもいる。歩行能力がないのと臆病なのとが合わさった結果、生み出された自然の理《ことわり》だが、これは幻覚というには、あまりにもスケールが大きい。
たとえば、北の果ての海辺を懐かしむ旅人の前には、まさに心象風景通りの広漠たる氷海が、それこそ果てしもないスケールで再現されるのだ。幻覚ではない。氷に触れれば冷たく手のひらに貼りつき、氷に手をつけば、すぐ凍傷にかかる。
もちろん、催眠術の高級なものにかかれば、単なる木の枝も焼け火箸と化して、触れた手に火脹れを生じさせるが、この妖物の生み出すのは本物だ。その証拠に、旅人のひとりが、氷海から出現した怪魚に呑みこまれてそれっきり、という記録が残っている。
だが、Dの左手は、刻々と近づいてくる城砦へ、手のひらに浮き出た眼を、哲学的思考にふけっているとでもいえそうな眼つきで向けつつ、
「あれは、違う。違うと思うが、わしにもよくわからん」
と沈痛な言辞を吐いた。
にせDは、あんなものはなかったという。それを信じるとすれば、あの城はいま、忽然と出現――三次元空間の一角を占めたことになる。それも、恐らくは数千万トンの重量を擁して、だ。
貴族の科学力をもってすれば、無から有を生み出せぬこともない。ましてや、この“死人街道”はひとつの山脈でもって数千年の間ふさがれ、解放されると同時に、周辺から半死人の大群衆を呼び集めた巨大怪異の集積場である。何が起きても正直、不思議ではないが、左手はなおも、
「どうも、おかしい」
と眼の玉をくるくるさせた。
「見たところ、確かに本物だが、どこかおかしい。造られ方がなあ」
その造られ方を検証する機会は、すぐに訪れた。
ムマを認めた一行は、足を速め、ついには駆け出して、一時間足らずのうちに、外縁の前に到達したのである。
勢い余った後方からの押しに抗し切れず、先頭の何十人かは堀――といっても水はない、何千メートルかわからぬ深淵のことだが――の内側へ真っ逆さまに墜落していったものの、他は何とか持ちこたえ、堀の前へ、みるみる扇状に広がった。当然、街道からははみ出してしまう。
眼前にしてみると、何という巨大な、広大な建築物であろう。堀も城壁も、限りなく左右に広がって、ついに視界から消えてしまい、どちらの端へ眼をやっても、見定めることは不可能だ。その奥の建物など、高さが二〇〇、三〇〇メートル級のものが林立して、塔ともなれば、優に千メートルはあるのではないかと思われる流線形のやつが天に挑んでいる。
そして、どう考えても、群衆のために現れたにちがいないくせに、彼らを前にしても、すべては沈黙し、人影ひとつ見せぬまま、静まり返っているばかりだ。
「これでは入れぬな」
と、にせDがぶつくさ言った。その両眼に不敵な笑みが浮かんでいるのは、さすがだ。
「かといって、あの石の塀には、門らしい門も、扉もなさそうだぜ。どうやって客を入れる気だ?」
至極当然な質問なので、Dも左手も無言でいたが、そのとき、前方で驚きの叫びが噴き上がった。
それは、にせDにも伝染し、
「へえ」
と言わしめたのである。
「こら、凄え。街道が真っすぐ、塀を越えてのびていくぞ」
3
街道は外堀、中堀、内堀を越え、城壁に到達した。
と、線一本見えなかった壁上に、街道の幅と等しい一辺一〇メートルほどの穴が忽然と現れたのである。
これを招きと解釈しないはずがない。半死人の群れは、奔流と化して、どっと街道から城へと押し寄せた。馬車のDも馬上のにせDも、その中にいた。
闇が一同を包んだ。城へ入ったのである。
「どうだ?」
と、にせDが、Dの左手に訊いた。
城壁の向こうに庭はなかった。半死人たちの行く手にあるのは、深い闇ばかりであった。入ってきた戸口からの光さえ遮断されているのである。貴族――吸血鬼の城だと思えば、それも当然だが。
「これじゃあ、みんな、鬼ごっこの鬼だぜ」
と、にせDが感嘆した。暗中でも真昼のように見えるはずが、この闇だけは見透かせないのである。Dも同じだ。
広い部屋だということはわかる。いや、空間というべきか。柱一本、感じられないのである。天井も壁も、あるのかどうかさえわからない。
そのうち、考えてみれば当然の、ある現象が起こりはじめた。
次々に流入してくる連中の数が、減り出したのである。闇の中で、あちらへひとり――ではなく、何十人単位だが――あるいは、こちらへと、思い思いの方角へ去っていくのである。
思い思いといったが、その立ち去り方は明らかに意図的なものが、それも、動きからして、彼ら自身以外の意志が感じられた。
「選ばれたな。いや、選り分けられたというべきか」
と左手がつぶやいた。それは、人知では窺い知れぬある基準によって、行く場所が選ばれるという意味でもあった。
「さて、我々はどこへ行かされるのやら」
何しろ、万を数える人間の流入である。広い空間とはいえ、みるみる埋まってしまうのに、それが少しも窮屈な感じがしないのだ。
人も馬車も次々と消えていく。その速度と整然さは、類を絶していた。
入城後、一〇分とたたぬうちに、二人のDは、自分たちだけが取り残されたことを知った。Dは裸馬にまたがっている。サベナの馬車を引く一頭を貰い受けたのだ。
最後の足音と轍の軋みが、ある方向へ去っていく。途絶えた。
「さて、我々にはいつお呼びがかかるかの」
左手がこう言ったときだ。
Dの右方で空気が動いた。正確に言うと、そこに空洞が生じたのである。
「これかよ」
にせDが愉しげに馬首を巡らせた。
それから、ちら、とDの方をふり返ったのだが、その眼と表情に去来する不可思議な翳に、Dが気づいたかどうか。
「はっ」
とサイボーグ馬の腹を蹴ったのは同時、二組の人馬は暗黒の彼方めがけて、疾駆しはじめた。
数秒だったかも知れない。それとも、数時間の乗馬であったか。二人は蒼い部屋にいた。
いつ、どこで馬を降りたのかわからない。
どこから降りそそぐのかわからぬ蒼い光であった。二人の影も蒼く染まった。
「どうやら、ここからは、勝手にやれってことらしいな」
にせDが周囲を見廻しながら、独りごちた。
「おれは勝手に行かせてもらうぜ。――じゃな」
後ろ姿が蒼い光の中に滲み去ると、
「やっと行きおったか」
と安堵の嗄れ声がした。
「気になっていたか?」
とD。
「ああ、勘だがの。あいつとおまえ――いつかは雌雄を決せざるを得んとしても、いまは離れておったがよい」
「いつか、か」
Dの口調に、左手のひらで、小さな眼がぎょろりと上向いた。
「どちらもおれ[#「おれ」に傍点]だ。そして、どちらもムマに来た」
Dはここで切り、
「おれは何者だ」
と言った。もとより問いではない。しかし、ミアがここにいたら、その鉄の語調に含まれる、うす絹のような凄絶な悲哀に、息を呑んだことだろう。
「とにかく、行くがいい。奴が向こうなら、我々はこちらだろう」
左手が促す前に、Dは歩きはじめていた。
前方に黒い函のような形が見えはじめた。
貴族の血を引くものなら見間違えるはずもない。――柩だ。
彼は身を屈め、蓋に手をかけて開けた。
干からびた屍体は、その顔に苦悶の痕をまざまざと留めていた。
左手を乗せて、Dは、
「どれくらい前のものだ?」
「ざっと五千年」
と左手は答えた。
「死因は、体内ホルモンの異常分泌によるDNAの暴走じゃ。見ろ、ほとんどの皮膚はミイラ化しておるのに、右手の一点と肺だけは正常のままじゃ。ほら、肺など、まだ機能しつづけておるぞ、五千年を超えてな。つまり、この二つだけは、貴族になれたわけじゃ」
「それが結末のひとつか」
「さよう――奴流に言うと、失敗作というわけだ。左手を貸せ[#「左手を貸せ」に傍点]」
Dの左手は屍体の胸から生えている木の杭を指で弾いた。
「そして、始末されたわけじゃ。おお、おお、累々と並んでおるわ」
Dの眼にも見えていた。
柩はひとつではなかった。
その向こうにも、また向こうにも、おびただしい数の木の函が、まるで、オブジェのように、乱雑に狂的に積み重なっているのだった。いや、その彼方にも、また彼方にも、無限の合わせ鏡のごとく蜿蜒と果てしなく……
次の柩の蓋を開ける必要はなかった。蝶番は腐って外れ、ずれた間隙からのぞく右手は、これもミイラ化していた。白いフリルのついた袖口は女性のものだろう。
指の間から小さな黄金のかがやきがこぼれていた。
手のひらに拾い上げたものは、小さなペンダントだった。誰かにことづけるつもりだったのか。柩の外のものに。彼女を封じたものに。
Dは小さな貝のように繊細な蓋を開けてみた。
小さな写真が入っていた。セピア色に変色してはいるが、そこに灼きつけられた一瞬は、時の流れに抗してゆるぎない幸せな記憶を留めていた。
若い男女は、雪を抱いた山と実り豊かな麦畑を背に、その瞬間が永遠につづく魔法をかけたかのような微笑みを見せている。
娘は、しかし、選ばれ、ここへ連れてこられたのだ。
ペンダントの蓋を閉め、Dはそれを娘の手首に巻き戻した。他にするべきこともなかった。
「すべてが失敗例か」
と彼は柩の墓場とでもいうべき一角でつぶやいた。
――その通りだ
と誰かが答えた。
――成功例はおまえだけだ
にせ[#「にせ」に傍点]Dは反射的に周囲を見廻した。
気配はあった。それは、天井のような気も、足底のような気も、隣にいるような気もした。
彼のまわりには累々たる柩の集積が広がっていた。そのどれもが胸に杭を打たれた屍体であることはわかっていた。
「みんな失敗例かよ」
とつぶやいたとき、いまの声がきこえたのだ。
「訊きたいことがある」
と彼は“声”に向かって訊いた。
「おまえてのは、ひとりだけか? おまえたちの間違いじゃないのか?」
――成功例は、おまえだけだ
「よっしゃ」
と、にせDは胸を叩いた。その両眼に、いままで浮かべたこともない凄惨な色が宿った。
「――おれだけか。なら、あのおれ[#「おれ」に傍点]は邪魔だな」
柩の海をDは黙々と進んだ。
当てがあるのか。ない。ないとしか思えない。ただ、いつもと変わらぬ美しく冷厳たる姿は、死者でも甦りそうな、凄まじいオーラに包まれていた。
怒りだ。
骨の髄まで氷のメカニズムでできているようなこの若者が、いま、最も縁遠いとしか思えぬ感情に身を灼いている。
罪なくしてここへ招かれ、無残な最期を遂げた人々への憐憫ゆえか、それとも、自らに直結する運命的な何かを見ているのか。目的地も定かならぬはずの彼の足取りは、獲物に向かう猛虎を思わせる。
「ざっと計算してみたがな」
と嗄れ声が言った。
「これまで通ってきた柩の数と広がりからして、総数はざっと――」
「十万と七、八千」
「その通り」
沈痛な声であった。それだけの生命が招かれ、杭のひと打ちで消え去ったのである。
何のために?
誰のために?
成功例とは何か?
それはDか、にせDか?
急に光の色が変わった。
うす闇が落ちたのである。世界も一変していた。
左右にそびえる装置は、影でできているように見えた。
この世にあり得ない実験のために、メカニズムもそれ自体の体質を変換させられてしまったのだ。
それは生きていた。
いつの間にか、Dは壁の途中に設けられたデッキから下方を見下ろしていた。
壁は垂直に数百メートルも下り、その底部に、無数の黒い点を蠢かしていた。
“死人街道”を来た連中だと、ひと目でDは見抜いた。
――ここでは、第一の選別が行われる
“声”が鳴っても、Dは動かなかった。
天井から黒い羽搏きが、折り重なりつつ舞い降りてきた。
蝙蝠《こうもり》の群れである。それがただの無害な生き物でないことは、数秒後に明らかになった。
黒い哺乳類たちは、下方に立ち尽くす生ける死者たちの首すじへ貼りつくや、その小さな牙を頚動脈へと打ちこんだのである。
それを払おうともせず突っ立ったまま、半死人たちは、次々に崩れ落ちていった。青白い顔から、最後に残っていた血の気は完全に失せている。
最後のひとりが倒れると同時に、蝙蝠たちは一斉に舞い上がり、次々に上昇して天空に消えた。
底に横たわる数千の人影を、Dの冷やかな瞳が映した。それは死者にたいする眼差しではなかった。――と、見よ。蝙蝠に、吸血蝙蝠に一滴残らず血を吸われた死体が――今度こそ本物の死体の幾つかが、ふらふらと立ち上がったのだ。半死人といい、死人というが、これこそは地獄から甦った亡者そのものであった。
――まだ、死んではおらんぞ
と“声”が言った。
――あ奴らは、体内の血を吸い尽くされて生き延びた。たとえ、その前に貴族の口づけを受けていたとしても、人間の要素がまだ残っているうちにああなっては、不死の作用も働かん。一〇〇パーセント死亡するはずだ。それを生存したということは、わしの授けた力を、死の寸前で発動させる能力を具えていたという意味だ。他の試験場でも、同じような合格者が生き延びていることだろう。ざっと、一パーセントだ
Dとともにこの城へはいった半死人を二万人として、約二〇〇人。
またも、光景が変わった。
それは、生き延びた者たちへの、凄まじい死の洗礼だった。
よろめき歩く彼らに、前方に設置された高出力レーザー砲や、火薬式自動小銃、超音波砲が火を噴いたのである。
真紅の光条に心臓を貫かれ、マッハで飛来する鋼鉄の弾頭に身体を裂かれ、超音波の猛射に細胞をぐずぐずにされて全員が倒れ、そして、何名かが立ち上がった。
――物理的攻撃も、いまの彼らには充分な殺戮法だ。こうして、またふるいにかけられる
眼を覆うばかりの“選別”は、さらにつづいた。
選び抜かれたもの《エリート》は、飢えた妖物の爪にかかって引き裂かれ、食いちぎられ、強靭な触手に巻きつかれた挙句、全身の骨を砕かれて窒息した。
ここに至って、ようやく、彼らの身につけられた貴族の特性が発揮されたのである。死人たちのずたずたに引き裂かれた肉体は、信じ難い回復力をもって再生した。この世界では決して不思議な現象ではないが、砕けた骨がつながり、ちぎられた肉が癒着し、破壊された眼球が、網膜も水晶体も無から生み出されるなど、やはり、奇跡に近い超常現象であった。
ここに至って、幾つかの集団《グループ》が集まり、生き残りは十数名を数えたが、そのほとんどが死者の眼に明白な狂気を宿して、さまよいはじめたのである。
――脳が戻らんのだ。繰り返される死の苦しみと恐怖のためか
残りは五名。その中に、Dは見覚えのある顔を目撃した。サベナである。別の集団だったため、いまのいままで現れなかったのだ。
――最後の“選別”を行う
申し渡すような響きを耳にしながら、Dは前方へ抜き打ちの一閃をふるった。眼前に見えない壁が立ちふさがっているのを承知していたのである。
刃は抵抗もなくすぎた。
前進しようとして、Dの身体は見えざる壁に阻まれた。
――貴族の口づけを受けたものは、人間でありながら、貴族の特性を身につける。だが、それでは根本的な解決にはならん。あくまでも、そこには隷属が――主従関係が成立するからだ
もしも、この場に貴族がひとりでもいたら、驚きのあまり、半狂乱状態に陥ったかも知れない。
“声”の主は――ムマの支配者は、貴族と人間を平等に扱うのが正しいと言っているのか!?
――わしの求めたものは違う。求めるものは違う。Dよ、おまえもそれは知っておろう
“声”にのしかかるような重みが加わった。
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第七章 Dは何処(いずこ)より
1
サベナを含む五名は、自らの運命に気づいているのだろうか。わかるのは、満面を彩る充足の表情だ。選ばれたものの恍惚と不安というが、五人の男女は、まさしく身も精神《こころ》も愛執の炎に灼き溶かされて、そこにいるのだった。
頭上から光が下りてきた。
発条《ばね》状のマジックハンドにつながった注射器のような金属筒である。人数分あった。
――わしのDNAを注入する
“声”が宣言したとき、Dは再度、一刀をふるった。両眼を閉じ、無念でふるう夢想剣――今回も手応えはなく、しかし、見えざる壁が切断され、崩壊するのは感じられた。
Dが前へ出る――その眼前で、五人のエリートたちを狂乱の突風が襲った。
Dでなければ、眼を覆い、顔をそむけたであろう。
不可視の何者かに打撃されたように、五人は床に激突し、跳ね上がるや、きりきり舞いをしつつ壁にぶつかり、そこから、反対側の壁へ頭から突進して、再び床にぶっ倒れた。
全身を凄まじい死の痙攣が貫き、白蝋のごとき皮膚が、みるみる黒ずみ、干からびていく。
ミイラ化がはじまったのだ。
「……D」
近づいたDの足に、黒い手がのびてきた。跳びのけるものを、Dはそうしなかった。
足首が掴まれた。
掴んだミイラの顔からは性別も判定できない。
「……D……殺して……」
と、そいつ[#「そいつ」に傍点]は息も絶え絶えに呻いた。
言い終えて、瞬きする間もなく、ミイラの胸に白光が吸いこまれた。
「合格者はなし、か」
嗄れ声が暗然と呻いた。一万余の半死人は、ひとり残らず潰えたのである。数千年間、街道の復活と、恋情をたぎらせた結果であった。
「出ろ」
とDが言った。五名の死体を見下ろした位置である。
動くものの姿はない。告げた相手はひとりしかいまい。
「わお」
と左手が声を上げた。冗談めかしたつもりか。しかし、こんな虚ろな声を出したことはない。
――よかろう
と“声”は言った。
「来るぞ」
と左手が言った。
――よかろう
と“声”は言った。
にせDは身構えた。
奴は前にいた。
ぐんぐん気配がふくれ上がってくる。
質量さえ備えて。
斬れる――と思った。
虚空の一点から、凄まじい衝撃波が二人の顔を叩いた。
どちらも眼は閉じなかった。
それでも、出現の瞬間を見ることはできなかった。
いつの間にか、彼[#「彼」に傍点]はそこに立っていた。黒いケープの裾が、あるかなきかの風にゆれている。
身長は二メートルを越す。その肩幅と、うす闇に滲みながらも迫る胸の広さと厚さよ。
顔は見えなかった[#「見えなかった」に傍点]。
「随分と昔のことだ」
とDは静かに言った。冷厳そのものの声である。
憎しみの口調ではなかった。意志はある。冷たく燃える意志が。こいつを斃さずにはおかぬという意志が。
それなのに、右手の刀身は上がりもしない。
彼は、古い書物を想い出させた。
黴臭い書庫の隅に置かれたきり、いつしか忘れ去られた書物。だが、それがなくては、書庫そのものの意味がない分厚い一冊。黄ばんだページは紙か羊皮紙か。ことによったら、本というものができる以前から存在していたのかも知れない。
それを見つけても、ページをめくるものはいない。怖いのだ。恐ろしいのである。そこに記されている知識を知ることが。知ってはならぬ太古の歴史、陽のあたる世界から抹殺された夜の世界の血塗られた歴史、呪われた技術、そして、二つの世界にまたがる、発狂を招く真実を。
Dが前へ出た。
にせDが走った。
どちらも五メートルをひと跳び。
巨影の胸もとへ入った。父に抱かれる息子のように。
苦痛の波が伝わってきた。刀身は確かに心の臓を貫いたのである。
Dはえぐった。
にせDもえぐった。
その耳に届いた。
――おまえたちなら、わしを斃せる。だが、わしの跡を継げるのは、わしの許可を得たものだけだ
Dはさらにえぐった。傷口に空気が流れこんでいく。
黒衣の苦しみが刀身を伝わってきた。
「やった――やりおった」
と左手が叫んだ。
――見事、といっておこう
痙攣が“声”を運んできた。
――おまえたちなら、わしを斃せる。どうした、つづけぬのか?
痙攣が急に停止したのを、Dは感じた。
柄《つか》を持つ手に力を加えた刹那、影はふっと消滅した。消えたのではない。後方へ跳んだのである。普通なら、Dも同じ速度で跳ぶ。刀身は寸分も抜け戻らぬはずだ。
だが、影はすでに彼方のうす闇を黒く染めつつあり、Dは追撃の姿勢になかった。
床を蹴ろうとした瞬間、うす闇が影を溶かしこんだ。
「もう、おらん」
と左手が言った。
「奴め、気になることを。――おまえたちとは、おまえとあいつ[#「あいつ」に傍点]のことだろうが、では、どちらかひとりが手を引いたら、残るひとりでは、永劫に奴を斃せんという意味か……」
「あいつも、奴を刺した。感じたな?」
とDは刀身を収めながら言った。
「うむ」
「なら、斃せたはずだ」
「ふむ。――あいつの気持ちもわからんではないがな」
左手の発言が意味するところは重大であった。
「揺曳炉を探すぞ」
とDは四方を見廻した。
「奴を追わんのか?」
「そのために来たのではない。おれの仕事は、あの村の安全だ」
少しの間があいた。
「そうか――そうじゃったな」
左手は、何か安堵したようであった。
「炉の位置がわかるか?」
「さて、それじゃ。おまえにまかせよう。水はよいとして、地は無理じゃ。すると、残るのは火と風か。少し冒涜的じゃが、仕方あるまい」
Dは白木の杭を二本取り出し、一本ずつ左右の手に握ると、思い切りこすり合わせた。
炎が上がった。摩擦熱で火をつける。物理的には当たり前すぎる現象だが、貴族の血を引く怪力の主でなくては無理だ。
「これでは不足じゃぞ」
Dは両手をふった。
炎が流れ、足下の柩の中身に突き刺さった。五千年前のミイラは乾燥しきっていた。
ぼん! と炎が三メートルも噴き上がる。
飛び散った炎は、次々に別の屍体と柩とを火葬に付した。
灼熱がDの頬を打ち、炎の舌がコートの裾と油をめた。
Dが動かぬのは、無残な運命を遂げた死者たちを火葬に付す目的が、彼らを送るためではない――その贖罪のためだろうか。
「早くせんと、おまえが火だるまじゃぞ」
Dが左手を上げたのは、炎がコートの裾を燃やし、髪の毛に飛び火してからであった。
炎は手のひらの口に吸いこまれ、その吸引力の巻き起こす突風は、Dの身を焦がす炎をも四散させた。
煙すらも根絶やしにしてから、
「火と風は揃った。次は――水じゃ」
Dは右手を掲げ、左手の人差し指を手首に押しつけた。
ひと掻きすると、ぱっくりと裂けた皮膚から、鮮血が溢れ出した。Dはそれを左手のひらに受けた。
確かに水だ。液体だ。だが、これはなんと凄まじい喉しめしだろう。
したたる血潮は手のひらにあいた小さな口へ吸いこまれ、やがて尽きると、小さな口の奥に青い――炎が燃えはじめた。
同時に、Dの青白い顔に、生気が甦った。
「どうじゃ、わかるか? わしよりもおまえの方が、目下、五感どころか六感までが作動しているはずだが」
Dの眼は閉じられていた。
数秒――彼は両眼を開き、
「地下だ」
と言って歩き出した。左手から体内に注ぎこまれた、地水火風をエネルギー源とする超パワーは、時として死滅した肉体を再生するのみか、五感と第六感を、生物的限界を超えて先鋭化するのだった。Dの答えは勘以外の何ものでもあるまい。
Dは風を巻いて走った。
幾つかの廊下を渡り、階段を下り、エレベーターにも乗った。
やがて、到着した地下深い一区画に、怪異な炉は妖しいうねりを繰り返していた。
「見つければ、操作は簡単じゃよ。――どれ」
巨大な銀色の円筒としか言いようのない死のエネルギー源へ、Dが数歩足を運んだとき、
「おーい」
上空から声がした。Dの声である。
炉の頂きと判断したのは光速に近い。Dはふり仰ぎ、一〇〇メートルはある炉の頂きに立つ二つの影を見た。
にせDと――ミアである。
「おーい、これから下りてくが、まず、その刀を捨てろ」
陽気な声は剣呑《けんのん》な要求を伝えてきた。
Dの左手のひらに、二つの黒点が浮かんだ。眼だ。Dは左手を上げた。じろ、と眼は上空へ眼線を送って、
「あいつは、おまえとともに奴を滅ぼすのを中断した。代わりに何を得たか、だな」
「わからんか?」
とD。
「いいや」
「おーい、どーした。捨てねえと、この娘の生命がないぞ」
にせDは背の一刀を抜き、かたわらのミアの首すじに刃を当てた。冗談とは思えなかった。声も表情も陽気なだけに、かえって危険な印象である。
Dは長刀を抜いた。
「鞘ごとだよ。ついでに、鍔《つば》と鞘とを縛りつけるんだ」
鞘にはもともと高分子ザイルが巻いてある。刀身、あるいは鞘ごと放った刀を引き戻したり、ふり廻して敵を威嚇するためだ。
Dは鍔の通し穴にザイルをさし入れ、鞘のループにも廻して刀身と鞘とを固定した上で、足下へ落とした。
「遠くへ蹴れ」
それに従うと、
「よっしゃ。じゃあ、いま下りていく。おい、左手を前に出しな」
と来た。
「あいつめ」
左手が尋常ならざる低音を発したのは、にせDの意図を見抜いたからか。
Dは黙って左手を突き出した。
「よっしゃ」
遥かな高みで浮ついた声が上がり、
「――ああああああ」
逆落としに落下してきたではないか。
にせDが跳び下りたのだ。そして、Dから一メートルと離れぬ床上に音もなく着地してのける寸前、びゅっと一条の閃光が走るや、Dの左手は、肘から斬りとばされていた。
一〇メートルも向こうの床上に転がった左手を愉しげに眺め、にせDは鮮血したたらせる傷口を押さえるDにウィンクした。
「済まねえな。状況が変わった。――もう、わかるだろ?」
「奴に吹きこまれたか?」
「図星だよ。我ながら情けねえが、おまえだけが跡継ぎだといわれちゃ、触手も動くわな」
「なりたいのか、奴に?」
「おおよ」
にせDは、照れ臭そうに鼻の頭を掻いた。
「あいつが誰だかわかってるんだろ。おい、この世界の王様だぜ。おれはそれになれるんだ」
「王国は滅びかかっているぞ」
「なに、また盛り返すさ。辺境じゃ、まだまだ、領主さまだけは健在だ。そいつらを統合して、やがて、『都』へのして出る。人間どもなんざ、貴族が地力を出しゃあ一発で金玉が縮み上がるって」
「おまえはどっちだ? ――貴族か、人間か?」
Dの問いに、にせDの表情が歪んだ。
「それは、そのまま、そっちにお返しするぜ。もっとも、答えはわかっているがな。この優等生」
Dはうすく笑った。
「おれが優等生なら、おまえも同じだろう」
「はは、こりゃ、一本取られた。な、物は相談だが、組んでみる気はねえか? 二人して、『都』に押し出すのさ。貴族の生き残りを従えてな。反抗する奴だの何だの、厄介事は持ち上がるだろうが、おれたち二人いれば大丈夫。ひとにらみでトラブルは解決さ。なんてたって、おれたちは奴の――」
にせDは、ある恐るべき内容を口にするところだったのだ。
だが、そのとき、
「――D」
と切迫した声が呼びかけた。ミアである。にせDが小脇に抱いて一〇〇メートルを跳び下りて、彼女も傷ひとつついていない。
「炉がおかしいわ」
「あン?」
と、にせDがふり返り、しかし、Dの胸もとに突きつけられた刃は微動もしていない。Dも不動のままだ。刃を向けている相手は、彼自身なのである。
ゆるやかに身をくねらせていた核炉の動きが、いまは激しさを増していた。
「これは――炉心の暴走がはじまったな。さっき、てっぺんに昇ったときから、おかしいとは思っていたんだ」
「放っておくつもりか?」
「とんでもねえ。ここでドカンといかれた日にゃ、半径一千キロの大穴が開いて、辺境の半分は人も妖物も棲めなくなっちまう。何よりも、おれたちだって一巻の終わりだ。原子に分解されても復活できるかどうかは、ちと自信がねえ。だが、安心だ。なにしろ、おれが、炉の制御法を心得ているんだからな。もうひとりいるが、そいつがどうなるかは、さっきの質問の返事ひとつにかかってる。さ、どうだい?」
Dは答えた。
「『都』へは、ひとりで行け」
にせDは眼を細め、哀しげに笑った。
「そうかい、そういうことか。これで、炉の鎮魂係は、おれひとりになったな」
思わせぶりにそっぽを向いた次の瞬間、顔も身体もそのまま――右手のみが弧を描いた。
空気を灼いて閃く一刀を、まさしく間一髪、Dは後じさってかわした。驚くべきは、その距離が、わずか一歩だったことである。
「わかってるだろうが――小手調べだぜ」
刀身を思いきりのばした姿勢を崩さず、にせDはにやりとした。
ミアが、ひっ、と息を引く。ようやく、何が起こったのか気づいた。それくらいにせ[#「にせ」に傍点]Dの一刀は速く、Dの動きはさらに素早かった。そして、攻撃は本気ではなかったのである。
「奴は、おまえの前からは、すぐに姿を消したが、おれとは、あれから[#「あれから」に傍点]しばらく話し合ったんだ。いろんなことを教えてくれたぜ。奴[#「奴」に傍点]の貴族や人間支配のノウ・ハウとか、その結果、手に入れたものとか、よ」
「それが欲しくなったのか?」
「ああ、そうとも。何が悪い? おれには貰う権利がある。おまえにもあるが、拒否したのを忘れんなよ」
「奴は何を約束した?」
「何も。おれに跡を継がせるとも言いやしなかったぜ。おまえを斬れ、ともな。あくまでも、おれの独断専行だ」
「やめて!」
とミアが叫んだ。
「二人ともやめて。あなた方は同じだって言ったじゃないの! それは自分を殺すことになるわ!」
「それも仕方がねえ」
にせDの全身から、ミアをすくませるような殺気が放射された。
「事ここに至っては、一心同体てのは邪魔になるばっかりだな。やはり、人間、独立独歩に限る」
Dが絶妙な受け方をした。
「――人間か」
にせDの表情が、さっと変わるや、
「うおお」
怒号が迸らせる抜き討ちの一刀。身を低くしてかわしたものの、信じ難い角度から反転する第二撃に、左の肩から、ぱっと鮮血が噴き上がった。それを押さえて後じさるDの頭上へ、黒い魔鳥のような影が舞い上がって、
「いけえ!」
絶対の勝利を確信した刀身が、怒涛のような凄まじさでふり下ろされた。
Dから床上の太刀まで五メートル――間に合わない。
にせDの顔面にそのとき、朱が散った。
Dの左肩の傷から、鮮血がとんだのである。このために、右手で傷口を押さえていたにちがいない。
「くうっ!?」
と、両眼を潰された驚きより、幹竹割《からたけわ》りの切尖に何も感じず、絶望的な呻きを洩らしたにせDの上半身へ、下方から斜めに銀光が走った。
左右の肋骨のど真ん中から脊椎までも切断されつつ、にせDは眼を開いた。朱い視界に、片手なぐりの一撃を浴びせたDと、右手の一刀が見えた。
その足もとから、黒い鞘が斜めに突き出ている。刀身を結んだザイルがほどけて巻きつき、鞘の端を掴んでいるのは、切断されたDの左手であった。
「歩けるとは……思わなかったぜ」
にせDの口から鮮血がこぼれた。
「紐をほどけるとも……な。おれ[#「おれ」に傍点]とおれ[#「おれ」に傍点]の差は……こいつ、か」
言いざま、右手の太刀がDの腰めがけて一閃したが、すでに力もスピードもなく、跳躍したDの縦一文字の直撃が、その脳天から顎までを割った。
血煙とともに倒れた自分を、Dは無言で見下ろした。
自分だ。自分なのだ。
「……出来……不出来は……仕様が……ねえ」
と、にせDの血まみれの唇がふるえた。
「だがよ……やっぱり……愛は平等を……モットーにしたかった……ぜ……やっぱ……愛されてたのは……おまえ……か。なあ……せめて……おれと同じ目には……遇うな……よ。おれの分……ま……で……」
にせDはこと切れた。
「なぜ――こんな真似を」
左手の言葉に答えるものはない。
Dは足下の左手を拾い上げ、肘に癒着させると、揺曳炉の方へ歩き出した。
「これは、わしの考えじゃがな」
と左手が誰に言うとはなくつぶやいた。
「地殻変動か何かのせいで、あの地下工場にあったこいつが作動しはじめた」
こいつとは、揺曳炉のことである。
「もうひとりのおまえも、そのとき、眼醒めた。だが、それは間違いだったのじゃ。工場も奴も封印されていたのだからな。そして、奴は気づいた。これはわしの考えだがな――あの工場の完膚なきまでの破壊の痕、あれは、奴が自ら手を下したものではないのか。工場が誰かに利用されるのを恐れたとか、成果が上がっての撤退などという甘いものではなく、奴は、自らが行った実験を呪ったのではないか。――だからこそ、誰よりも早く、工場とおまえの片割れの復活に気づき、処分するために動き出したのではないか。おまえに、ムマへ行けとそそのかした貴族も、ひょっとしたら、奴が派遣したのかも知れん」
「始末させるため、か。――出来損ないを」
Dは炉の制御区へ入った。
炉の調整を終えて戻ると、ミアだけが立っていた。
「これで炉は二度と作動しない。あの地下工場には、自然に朽ちていくだけの破壊エネルギーを送りこんでおいた。村へ戻り、安心だと伝えたまえ」
「連れてって」
ミアが駆け寄った。
その身体が前へのめった。白い喉からせり出してくる黒線をDは見てとった。
娘の身体が床に重なると同時に、黒い霞がDめがけて吹き寄せた。
押し包まれる寸前、Dの太刀が閃いて、黒い広がりを両断したが、新たな毛髪の波涛がその全身に絡みつき、刀身も巻いた。
「ムマの秘密を知ったものは死ぬ」
奥の暗闇から現れたのは、いうまでもなくユマだ。
「おまえが私の生地で、出来損ないども相手に暴れていた頃、私は地下で強化処置を受けた。あの方のこしらえた装置だ。この糸はおまえでも切れんぞ」
近づきながら、彼は頭部の毛髪を引き抜き、口もとにあてがった。
「ひと息でおまえの心の臓は串刺しだ。さらば」
「さようなら」
それは、いま通りすぎたミアの倒れたあたりからした。
ふり返ったユマの胸から背にかけて灼熱が突き通り、のけぞる暗殺者の頭上から、跳躍したDの太刀が躍った。
刃は髪で巻かれていても、ユマの身体を縦に裂くくらいは造作もなかった。
暗殺者が倒れるのも見ずに、Dは立ち尽くすミアに近づいた。全身の髪の毛は次々にほどけていく。ユマの死とともに、髪の魔力も失われたのだ。
「礼を言う」
「いいえ」
とミアは首をふった。
「これじゃあ、やっぱり、村へは帰れないわね。――わかっていたでしょ」
ミアは手にした短剣の鞘で喉の髪針をさした。その口もとからのぞく歯は、二本だけ鋭く尖っていた。
「奴か?」
Dの問いにうなずいた。
「あなた方二人のうち、生き残った方を守るのが、与えられた役目。でも、あの方には、あなたの方だとわかっていたようだわ。――愛されているわね」
ミアは手で口もとを隠した。笑ったのである。
「さ、もう行って」
「どうする?」
「私はここに残るわ。あなたと行きたかったけど、この歯じゃあね。できたら、ケンツを治してやって。――さようなら。もうじき、ここはもとの山脈になる。さようなら、D。会えてうれしかった。もうひとりのあなたにも」
ミアの眼に涙が光った。
うす闇の世界で、二人は彫像のように動かず、じっと対峙していた。
朝日が稜線を染めてゆく。見るものは誰ひとり、この雄渾《ゆうこん》な峰々が、巨大施設そのものだとは考えないだろう。
Dはサイボーグ馬の背で、山脈をふり返った。
「あそこは、おまえの故郷だったのかも知れんな」
嗄れ声にも、美しい顔は感情の色を見せなかった。
「いやいや、いまとなっては何もわからん。さて、行くか」
Dは馬首を巡らせた。
「おい、そっちは――」
嗄れ声は抗議し、すぐに、そうか、と言った。
そちらが、ミアの母が住む村の方角だと知ったからだった。
『D―双影の騎士2』完
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あとがき
「双影の騎士2」は意外な結末を迎えました。ただ、これが本来の形であったかどうか、作者の私にもはっきりとはわかりません。
二人のDの結末をどうつけるか、第一巻から迷っていたのですが、二巻目でも同じでした。
Dの出自に踏みこんでみたものかどうか、一番悩んだのはこの点です。さんざん悩んで食ばかり進んでしまい、何キロか太ってしまいました。正確な数字は訊かないで下さい。肥満が小説の結末にどれくらい役に立つかはわかりません。一読なさった方は、感想をお寄せいただけると幸いです。
いずれは、Dの出生や過去にも足を踏み入れなくてはならないのですが、次回からは、もと通りの形――過去を秘めた寡黙な男が貴族ハンティングを請け負うという形に戻していきたいと思います。ご了承下さい。
この美しいハンターは、行く先々での悲哀に満ちた出来事を、どのような眼で見つめているのでしょうか。
今回、筆がちっとも進まず、担当のI氏や印刷所、製本所等々のみなさんに、迷惑をかける結果になってしまいました。いつものこととはいえ、深くお詫びいたします。
平成九年九月九日『吸血鬼』を観ながら
菊地秀行