D―双影の騎士1 〜吸血鬼ハンター10
菊地秀行
[#改ページ]
目次
第一章 「ムマ」へ
第二章 双貌の影人(かげびと)
第三章 “闇住い”
第四章 汝(なんじ)、その名を告げよ
第五章 蒼い刺客
第六章 若き侵入者
第七章 脱出魔行
あとがき
[#改ページ]
第一章 「ムマ」へ
風は疾《はや》く、重かった。
重いのは殺気という名の分子を含んでいるからであった。
荒涼たる大地の一角で二つの影が対峙していた。
そこを過ぎるたびに、風は狂暴になった。天は幽明境のごとく昏《くら》い。
突如、片方の影が躍った。垂直に三メートルも上昇しつつ両手を真下へふった。
黒土が毒々しい炎を噴き上げたと見るや、地上の影めがけて走った。――ふたすじ。
優れた画家の引いた線のように、火線は人影の中心に集束した。
銀光が交差した。――ふたすじ。
炎も物理的な存在である以上、質量と硬度を持つ。ならば、より巨大な質量と硬度でもって跳ねとばすことも可能だ。
鮮やかな切断面を火炎に与えて弾きとばした光は、ひとふりの刃と化して宙に舞った。
単なる跳躍が飛燕《ひえん》となる。空中の影が新たな上昇に移ろうとするより早く、真っ向から打ち下ろされた刀身は、その頭頂から首のつけ根までを断ち割っていた。
風が紅く染まった。それが黒い地面に鮮血を叩きつけたとき、二つの影は十数メートルの彼方に降り立った。
片方は崩れ落ち、片方は屹然と大地を踏みしめて。
刀身を拭いもせず、勝利者は背の鞘へと収めた。血糊はひとしずくもついていない。刀身に仕掛けがあるのではなく、スピードが血の粘着力に勝ったのだ。
風が恍惚とかがやいた。影の顔を吹き抜けたのである。
鍔広の旅人帽《トラベラーズ・ハット》の下に光る深い黒瞳、数千数万の画家たちに絶望を与えずにはおかない鼻梁の線、果てしもなく重い意志を静かに湛えた唇――
風が求めた。名を教えて、と。
「……D」
と呼んだ。
頭を二つに割られた人影が呼んだのである。すでに死相と化した顔が笑っていた。
「……Dよ……聞け」
声も亡者のものであった。
ごおと天地が唸り、黒いコートの裾がDの顔を隠した。死人《しびと》の声から遮るように。聞かせまいとするように。
鋭い打撃音が鳴った。
黒手袋をはめた手がコートを弾き落としたのである。
「おお……聞く気があるか……ひとことで済む……もっとも……おまえにとっては……地獄へのひとこと……じゃが」
地上の影は、白髪白髯《はくぜん》の老人であった。色とりどりの金属糸で織り上げた長衣は、その配色の妙によって、彼が貴族の中でも重きをなす魔道士であることを物語っていた。
美しい影はひとことも放たずに立っている。そんな台詞は数万回も聞いてきたとでもいう風に。
二つに裂けた血まみれの顔が左右に開きかけ、老人は両手を上げてそれを閉じた。
「……『ムマ』へ……行け」
その声こそ地獄から聞こえてくるようであった。
言い終えると同時に、彼は両手を離し、開いた裂け目からどろりと、血とも脳漿ともつかぬ液体が溢れ出した。いつわりの生は終わったのである。
びょうびょうと風のみ叫ぶ荒野に、
「『ムマ』といったか」
新たな声が湧いた。それは自然に垂らしたDの左手のあたりで聞こえた。
「何の意味だ?」
とDは訊いた。
驚きの気配が左手から噴き上がった、一瞬――
「知らんな」
と干からびた声は応じた。
「死を前にした奴のたわごとよ。おまえを混乱させるための置き土産じゃ」
その声に苦痛の呻きが混じった。Dの左拳は固く握りしめられていた。
「ぐぐ……無茶を……する……な……」
拳がふるえた。指と指は融け合い、爪は肉と皮を破った。紅い細いすじが、地面へとしたたりはじめた。
「答えろ」
とDは言った。
「何のことだ? ……痛《つ》う……わしは……何も……」
「『ムマ』とは何だ? 人名か? 土地の名か? それとも……」
「し……ら……ん……」
嗄れ声は、唾でも吐くような調子に変わった。
拳がひと廻り縮まった。
沈黙が生じた。
数秒の間、恐るべき緊迫を維持してから、Dは指を開いた。
黒い手のひらを覆う血潮を風が吹き散らした。
Dはうすく眼を閉じていた。ムマという言葉は記憶のどこにも存在していなかった。
それなのに、身体はささやかな異常を伝えていた。
血流のスピードが速い。数千分の一秒――その違いをDの肉体は確実に捉えていた。
心臓か、遺伝子か。
それは妖しいときめきに似ていた。
ムマ、と聞いた瞬間から。
Dはうす闇に閉ざされた平原の彼方に眼をやった。
地平線いっぱいに煙のようなものが蠢いている。
風に揺れるおびただしい影の集積であった。
Dの眼にのみ、それははっきりと醜い正体をさらした。枯れ木のような腕、鉤爪を備えた指、腐敗物の中から生まれたごとき肌、死魚を思わせる腐眼。膿腫を浮かばせた胴――すべては、いま斃《たお》した魔道士の呪術が地底の墓より招かんとした存在であった。
正体はDにもわからない。彼らを使って何を成し遂げようとしたのかもわからない。使役者はいま、血まみれの死者と化していた。
Dは短く口笛を吹いた。
どこかから鉄蹄の響きが近づいてきた。白いサイボーグ馬が足を止める前に、Dは鞍の上にいた。
手綱をしぼるや、馬はそのまま疾走を開始した。
出来損ないの死生者の群れとは反対の方向へ。――恐らくは、魔道士の口にした地獄へと向かって。
ギルハーゲンの村へ、白い馬と黒い騎手とが黒白のつむじ風のごとく侵入してきたのは、深夜すぎであった。深更《しんこう》の重い闇に街灯が滲んでいる。
山裾に広がる、丘の多い村の中でも、とりわけ小高い丘の上に、屋根も壁も黒く塗りつぶされた家が、闇のようにうずくまっていた。
窓もない。
ドアすらもあるのかないのか見分けられないその家の前で、Dは一度だけ拳をふり下ろした。
闇に細い光が走り、広がっていく。ただ一度のノックに応じて開くドアとは見えなかった。
煤けたランプを手に立っているのは、白髪の老婆であった。髑髏に皮を貼りつけたような顔立ちをしている。黒い木の葉が左眼を覆っているのは、眼帯代わりだろう。裂け目のような口が開いた。
「こんな時間に、南部辺境随一の魔道士オリガの家を訪れるとは――生命ばかりか魂も捧げる用意はあるんだろうね」
暗い洞《うろ》から吹き出す冷風のような声である。
「望むならば、な」
とDは言った。
女魔道士の両眼が、その瞬間、かっと見開かれた。
「その声は――」
光の向こうで、老婆は激しく両眼をしばたたいた。
「いや、その美しい顔は――それは……まさか」
「魔道士オリガに訊きたいことがあってきた」
Dが言い終える前に、ドアは大きく開いた。
数分後、分厚いテーブルを前に腰を下ろしたDのもとへ、女魔道士は熱い茶を運んできた。
光も闇も音さえも吸いこむような美貌に、不思議な眼差しを当てながら、
「何の用だね?」
と訊いた。
「魔道士オリガの得意技は、記憶の過去遡行だときいた」
「その通りだよ。人間、馬、鳥、影食い、炎獣、心霊鬼――どんな妖物の記憶の中にだって忍びこんで、昔を憶い出させてやるさ。でも――」
言葉を切ってから、オリガは途轍もなく罰当たりな真似でもしたみたいに表情を失った。
その先に世にも美しい顔があった。彼女の次の言葉は裏切りであった。人間ではあり得ない美しさへの。
「でも……」
老婆は必死に自分の矜持を守ろうと努めた。
「でも……あんたはごめんだ。帰っとくれ。あたしは今夜、誰とも会わなかった。どんな美しいものも見なかった。そう確信して死んでいくことにするよ」
「なぜ、怯える?」
小さな丸テーブルの向こうでDが訊いた。
「何も怯えてやしないさ」
「おれとは初対面のはずだ。それとも――」
「あんたなんか、見たこともないね。――ともかく出てっておくれ。でなきゃ、あたしが出て行くよ」
「おれの記憶を取り戻してくれ」
Dの言葉は、老婆を瘧《おこり》にかかったみたいに震わせた。
「言ったろ……冗談じゃあないよ」
「報酬は規定の十倍だ。それと、ひとつ術を授ける」
「術を?」
「おまえ自身の過去を覗く術だ」
「馬鹿なことを」
老婆は低く笑った。過去遡行を行う道士が自らのそれを遡れないのは、自然の摂理であった。
Dは笑わなかった。老婆の笑いも止まった。すぼまった口を舐め、彼女は干からびた声で、
「あんたには……できるっていうのかい? ……いいや、できる……できるとも……あんたなら。……あのとき、五歳のあたしの前で……三〇人近い野盗を叩き斬った……美しい悪魔なら。――あたしが覚えているたったひとつの過去さ」
「どうする?」
訊かれて、老婆ははっとDの左腰のあたりに眼をやった。いまの嗄れ声の質問は、その辺から放たれたような気がしたのである。
少し考え、老婆はうなずいた。
「わかったよ、美しい悪魔。料金は普通で結構。後はあたしの過去と引き換えさ。でも、疑うわけじゃないけれど、証拠を少し見せておくれでないか?」
とまどいが揺れる老婆の眼の中で、Dの左手が上がった。手袋はつけていない。それがテーブル越しに右のこめかみにあてがわれると同時に、老婆の身体は椅子の上でのけぞった。
表情が変わった。変化は数分の一瞬ごとにやってきた。
怒りが、憎しみが、怯えが、喜びが、そして、哀しみが、皺深い顔を容赦なくかすめ、叩き、翻弄して去った。
どこかで、鍋の蓋が小さな音をたてた。薬草を煮ているらしい。
二度目の音が鳴る前に、老婆は平凡な姿勢で椅子にもたれていた。筋肉の弛緩とは別の、不思議な安らぎが全身を包み、彼女は涙を流しているのだった。何を見たものか。
何度かしばたたいて涙を切り、老婆はDに焦点を合わせた。
「合格だよ、D」
老婆は澄んだ声で言った。
「憶い出したよ、いろんなことを。礼を言うかわりに、あんたの望み、必ず叶えてあげる。――こっちへおいで」
ランプを片手に立ち上がり、戸口へと一歩踏み出して、老婆はよろめいた。バランスを取り戻す暇もなく右へ流れた身体を黒い影が支えた。
Dである。
「案外、根は善人かもね。D――こっちへおいで」
戸口を出て暗い廊下を少し歩き、老婆は奥のドアを開いた。
金属製のベッドと椅子だけの、殺風景な部屋である。
「横におなり」
とDにベッドを示し、老婆は壁の凹みから、一本の竹笛を取り出した。
「これは戻り笛というんだ。内側に独特の仕掛けがあって、脳の記憶野にちょっかいを出せる。今まで二万近い人間や妖物に当たったけど、失敗例はひとつもないよ」
それなのに、Dを嫌がった。老婆が五歳のとき、凄愴な剣をふるった男というのは、やはり、彼なのだろうか。その過去を垣間見ることを恐れさせたものとは。
「横におなり」
とベッドを指してオリガは笛を咥えた。
やがて、呂々《りょりょ》と細い調べが立ちのぼり、天井から壁へと移り、室内を巡った。
「深部第一層――通過」
笛を咥えたまま、どうやって出すのか、オリガは低くつぶやいた。
メロディーが変わった。失われた記憶を取り戻す名笛の秘密は、内部の還記憶構造と魔道士一族しか知らぬ調べであった。
Dは動かない。眠っているのか。いや、そもそも呼吸はしているのか。
その美貌に魅入られたかのように、
「深部第二層――いいや、一気に行くよ、神秘層」
魔道士オリガの声に、血に酔ったみたいな凄惨な響きが混じった。神秘層――それは、彼女の一族にのみ触れることが可能な、人間の精神《こころ》の神秘域であった。
あらためて咥え直し、オリガはそれまでとはまったく別の、異様に短いリズムを放出しはじめた。
音の矢が光さえ伴って、美しいハンターの耳から――いや、直接、脳へと叩きつけられていく。
オリガの輪郭がぼやけた。一瞬に噴き出した汗が全身を覆ったのだ。
見よ、失われた記憶を喚び戻すものが、いかなる惨状を呈するか。――女魔道士の身体は歪み、干からび、体重は十分の一にまで落ちた。
この恐るべき代償に応えるべく、魔笛の紡ぎ出す音色は、石でも身震いせんばかりに冴え渡り、奇怪なメロディーは魔軍の行進のごとく整然と凄絶に鳴り響いた。
眠れるDの顔に、表情らしきものが走ったのは、その刹那であった。
右手がかたわらの一刀にかかる。
「やめろ!」
絶叫は誰のものであったか。
小さな黒い家から迸った女の悲鳴は、さらに深い闇へと吸いこまれた。長く長く尾を引いて――ふっと消えた。
それさえなければ、今夜は、殊の外、静かな晩であった。
翌日――黒衣のハンターが村から二〇〇キロも離れた昼すぎ、魔道士オリガの家を訪れた村人は、血まみれの居間に散らばる八つ裂きの老婆の死体を発見して、声もなく立ちすくんだ。
街道を習慣的に往き来する旅人たちの数は意外に多い。赤白青――三色まだらの幟《のぼり》を背中から頭上へ高々と差し、白い薬箱を肩からぶら下げた白衣の薬売り。旧式の鉄甲車から、重機関砲や鉄鋲銃《てつびょうじゅう》の銃身を突き出し、車体に「戦士あり」と大書した契約戦闘士たち。馬車の上でとんぼを切り、口の中から花を吐き、その花へナイフと火炎をとばして仕留めてみせる旅芸人たち。etc.etc.――その全員が眼を剥いた。
ある者には前方から、別の者には後方から、凄まじいスピードで疾走してきたサイボーグ馬があったのである。
いや、馬だと見抜いても信じられなかった。どう考えてもサイボーグ馬に出せる速度ではなかったし、しかも、ある者の眼には、すれ違う一瞬、世にも美しい人影が映え、ある者の眼には、その人影が馬と並んで走っているように見えたからである。
いずれにせよ、彼らが眼を見張ったとき、サイボーグ馬も人影も遥か彼方に去っている。それは、自慢の馬にまたがっている戦士団や、街道随一の評判をとる早馬の郵便配達《マッハ・エクスプレス》にさえ、競おうという気を起こさせもしない――まさしく、風の魔王にでも魅入られたかのような疾走ぶりであった。
Dである。
だが、この美しい若者が、このような走り方をしたことはかつてない。彼が全力疾走を命じると、サイボーグ馬は鬼気に憑かれたごとくに狂奔した。その結果が飛燕にも似た疾走だ。これでは保たない。サイボーグ馬が疲弊してきたと見るや、Dは自ら馬を下り、併走してその負担を軽くした。
もちろん、その時間は少ないし、馬の速度も落ちているが、狂走する馬体と並んで走るなど、人間には、恐らくは貴族にさえも不可能な芸当だ。
それでも、馬はつぶれた。
街道には、街や村とは別に、旅人用にサイボーグ馬やエネルギー・バイクを提供する休憩所がある。
走りこんでくるなり倒れたサイボーグ馬を一目見て、あまりの疲労に息絶えたと知ったときにはもう、新しい馬を選んだDは、サイボーグ馬の埋葬代も含んだ大枚の金貨を置き土産に、砂塵の彼方へ去っている。
この三日間、彼は一瞬の休みもなく二千キロ以上を走破し、サイボーグ馬はすでに三頭目であった。
まさに狂気の疾駆だ。Dの鬼気が乗り移った馬。だが、その鬼気は何のために、どこへ向けられているのか。
Dよ、どこへ行く?
その果てに何が待つ?
荒涼たる夜の平原の彼方が、水のように色づきはじめた。
この若者の行く手には、常に運命があった。
それは誰のものか? ――Dよ、今度こそ、おまえの?
Dよ。
セドクの村に――正確には村外れに、途方もない異変が生じたのは、Aの季節の第三の月、その二十六日目だった。
村の旅篭《はたご》「セドクの家」は、東から巡礼にやってきた老婆たちを泊めていたが、それがこの日の夕刻、突如、二〇名全員が心臓麻痺を起こして死亡。簡単な調書を治安官が作成した後で、死体安置所へ運ばれた。
深夜、安置所の管理人が治安官事務所へ、奇怪な知らせを持って馬を走らせてきた。
安置所の死体が次々に起き上がり、石塀をぶち抜いて、村外れの「赤い荒野」へと行進しはじめたというのである。
貴族に血を吸われた、と治安官は逆上し、何をしていたのかと管理人を責めたが、当人は断固として貴族が近づいたはずはないと主張、とにかく、捜索隊を編成し、死体たちを捕獲しようという話になったとき、今度は、安置所の近くにある墓地の墓守りが死人みたいな顔色でとんできた。
墓地中の死体が墓の中から起き上がったと彼は告げた。
三メートルもの分厚い土をかき分け、地上へ出て、歩きはじめたと。
どこへだと治安官は訊いた。答えはわかっていた。
「赤い荒野」
と墓守りは答えた。
急な呼びかけに、しかし、辺境の住民の不可避の使命として、たちまち三〇人以上の男たちが応え、先を尖らせた槍と杭と弓矢を手に、村外れへと急行した。
大地震が襲ったのは、目的地まで三分の一という地点であった。
天地は鳴動した。大地が布地のように波打ち、急速に傾斜していった。
捜索隊が全員無事だったのは、奇跡というしかない。
馬ですら逃れることもできずに横倒しになった大地の上で転げ廻っていたのは、永劫に近い時間とも思えたが、後に、揺れる地面は五秒とつづいていなかったことが知れた。
それでも、休震後、五分とたたないうちに、治安官ほか数名が前進を決めた勇気は称賛に値する。
サイボーグ馬をとばしにとばし、砂に含まれた成分のせいで血のように赤い平原の縁に辿り着いたとき、彼らは今度こそ、それまでの怪異など念頭から消し飛ぶ恐怖に打たれて、馬上で、いや、馬ごと凍りついた。
赤い大地は失われていた。
彼らが見たものは、果てしない外縁から急角度で滑り落ちる、すり鉢状の大陥没であった。
だが、自然現象として考えれば、あり得ないことではない。一行を戦慄させたのは、その広大な――後に直径二キロメートルと知れた――縁に群がる影たちであった。
襤褸《ぼろ》をまとった者、それなりの服装をしている者、全裸に近い者、老若男女を問わず、身動きひとつせずに陥没の底を覗いている者たちからは、人間らしい生の息吹が、いささかも感じられなかったのである。
その死魚のごとく澱んだ眼、崩れ落ち、骨がのぞいた頬、胸にも腹にも虫食い様の穴が開き、白々と蠢くものはと蛆《うじ》にちがいない。
すべてが死者だ。
ちがうぞ、と墓守りが平べったい口調で言った。ちがうぞ、こりゃあ、うちの村の墓地だけじゃねえ。多すぎる。
治安官が、背後におびただしい人の気配と足音をきいたのは、そのときだ。
死骸だ、と誰かが叫んだ。声を月光が吸いこんだ。
背後から、おびただしい死者が街道をやって来る。治安官たちは気がつかなかったが、よほど遠いところから歩きつづけたものか、両足首から下は埃で真っ白だ。
「何をする気だ、こいつらは何なのだ?」
治安官のつぶやきなど知らぬ気に、歩く死者は歩みを重ね、生者のかたわらを過ぎた。
そして、まるで背後から押されでもしたかのように、すり鉢の縁に立つ死人《しびと》たちは、一斉に身を躍らせたではないか。
その背後から次の連中がつづく。その後もさらに、その後も、その後も。
凄まじい恐怖と臭気に脳を直撃され、捜索隊は全員失神した。
彼らを村へ連れ戻したのは、残りの隊員たちだった。そして、治安官は、それから丸二日間にわたって、墓地へと急ぐ死者の行列を目撃したのである。
一体、この地方にこれほどの死骸が埋まっていたというのか。いつまでこんなことがつづく。
誰もが脳裡にこんな疑念を浮かべ、発狂しそうになった夕暮れどきである。
気がつくと、死者の行進が絶え、村人たちが茫然自失の体で、こちらの方が新しい死者のごとく通りへ脱け出たときである。
世にも美しい黒衣の若者と疲れ切った馬が、風を巻いてこの村へ入って来たのだ。
「セドクの家」の前に馬を止めるや、ふらふらしている村人のひとりを捕まえて、
「何があった?」
と訊いた。
その美貌と口調が、心身喪失状態にあった村人を正気に戻した。彼は一部始終を物語ったのである。
「遅かったか」
何の感情も含まぬ鉄のような声でつぶやき、Dは馬にまたがろうとした。
「待って」
と声がかかった。低いが、ほのかな色合いを帯びた声である。
Dは見もせず、馬の脇腹に踵《かかと》を当てた。
どっと地を蹴る美しき騎馬へ、もう一度――
「待って――D」
娘はミアと名乗った。一〇〇キロほど北に住む占い師のひとり娘であるという。
そういえば、地につきそうな長衣にも下のスカートにも、出自を示す不可思議な紋章が織りこまれ、幾重にも首を飾るネックレスと手首のブレスレットにはめこまれた石は、闇の歴史を留めたような深いかがやきを放っている。
Dの名を知っていたのは、この土地に生じた怪現象を予知し、そのとき、遠方から駆けつける男の名前として、母親が告げたのだという。
「お母さまの話では、この現象の謎を解く鍵を握っているのは、遠くから来た男の人だろうって」
とミアは固い声で言った。
「この一件は、どんな個人の手にもあまる。唯ひとり、Dという名の男を除いてね。D――あなたがそう呼ばれる男なら、一体、あなたは何者なの?」
「未来が見えるのか?」
とDは訊いた。
「少しは」
ミアの声に慎み深い誇りと自負がこもった。
「なら、わかるか、結末が?」
「いいえ、お母さまにも、それは。でも、力不足で見えなかったんじゃありません。邪魔されたんです」
少し間を置いて、娘はつづけた。
「何が起こったかは、あなたが来る前に村の人にききました。お母さまは、地図上の一点をさして、途方もなく邪悪な力が働いていると言いました。巨大な陥没と同じ地点です。多分、中心でしょう」
「どんな力だ?」
「邪悪な、としか」
「母上が来た方がよさそうだが」
「私もそう思います」
とミアは怒った風もなく認めた。
「でも、残念ながらそれはなりません。この一件を予知してからすぐ、母は血を吐いて倒れました。多分、もう亡くなったでしょう」
「看取らずに来たのか?」
「母の指示は絶対です」
とミアは前方へ眼をやったまま答えた。年齢は十六、七。あどけなさを留めた顔に、それとは不似合いな意志の力が広がっていた。
「今度の事件を、単なる大規模な災厄と見てはいけない。これは、世界の根源に影響を及ぼす大事だと、母は申しておりました。本来なら自分が行く。行っても詮《せん》ないことだろうが、人間の、世間の未来を垣間見る力を持つものとしては、微力なりと尽くさなくてはならない。でも、自分はもう動くことも不可能だから、おまえが行け、と」
世界の成り立ちをさえ揺るがす事件に、娘を向かわせたのか、この母は。
母の死の未来を知りながら、ここへ駆けつけたのか、この娘は。
Dが手綱を引いた。
顔がその背中にぶつかる寸前、ミアは素早く顔をそむけて、右の頬が当たるだけに済ませた。
布地を通して筋肉の隆起が伝わってきた。
ほんの一瞬のめまい。
「着いたぞ」
とDは言った。
「はい」
彼の腰に巻きつけた手を離し、ミアは鞍の突起に手をかけて身を支えた。
Dが下りる前に、身を躍らせた。
先に地上へ降り立った娘に声もかけず、Dは歩き出した。
これまでの会話はすべて、馬上で交わされていたのである。
自然に垂れた左腕の、手首の辺りから、人間には聞こえぬ嗄れ声が、
「なかなか大した娘だぞ」
と洩らした。
「小娘の身ひとつでこんな修羅場へ駆けつけたのがひとつ。馬から下りるのに、おまえが手をさしのべてくれるのを待たなかったのがひとつ。ひとりで生きるように、躾が行き届いておるわ。嫁にするなら、ああいうのが」
声は途切れた。Dが拳を握りしめたのである。
静かに、重く、その歩みが向かう前方には、数多《あまた》の死者を呑みこんだ大陥没が口を開いていた。
「凄いところね」
Dの右横から下を覗きこんで、ミアがしみじみと口にした。
陥没の落下の高度はその直径にくらべて、さしたることはない。三〇〇メートルほどだ。
傾斜が混じり合った底部は、岩塊やら土砂やらが入り乱れて、その間を赤い土が埋めている。
「まるで、血の海ね」
とミアが右手で頬をこすりながら言った。
「死者も血を流す、か」
ミアは横眼でDの腰のあたりを眺め、それから顔を見つめた。みるみる薔薇色に染まる頬を意識してか、素早く眼をそらして、
「あなた、妙な声を出すのね。私をからかっているんですか?」
Dは返事をせず、片足で傾斜の縁あたりを踏んだ。
「真面目に訊いてるんです。答えてください」
Dは無言で下を眺めている。無視された怒りが、ミアを無謀な行動に駆り立てた。
意外に敏捷な身ごなしでDの後ろに廻るや、
「失礼」
いきなり腰のあたりを蹴り上げたのである。
手応えはなかった。あるのは、奈落の上に広がる空間であった。
「きゃっ!?」
反射的に軸足に力を加えた途端、固いはずの地面が、ごそりと崩れた。
自分の絶叫を頭上に聞いた刹那、落下感を意識した身体はぴたりと停止したのである。
Dの左腕が襟首を掴んだと知ったのは、そこへ必死に手を廻してすがったからだ。
空中に浮いた、と思った瞬間、固い地面に両足がついていた。ほっと安堵した瞬間、首から手が離れ、ミアはよろめいた。
まじまじとDを凝視する眼に、底知れぬ恐怖と怒りと――感嘆の光がこもりはじめた。
「この陥没は何のためだと思って?」
尋ねる声には、信頼と――親愛の情さえ混じっていた。
返事はまたもない。ないが、怒りの情は湧き上がってこなかった。
「占い師の娘だと言ったな」
と指摘された途端、嬉しくなってしまったのだからたわいない。
「ええ」
「ここから、この地方一帯の墓地を脱け出した死体が跳び下りた。数千体になる。なぜだと思う?」
少し間があった。
気がつくと、ミアは片手を胸もとに当てていた。鼓動が激しい。ここは制動の法を施すべきだった。
心臓の一点――左心室のあたりを軽く指で押し、呼吸をできるだけ細くする。
たちまち正常に戻った。元来、気は強い――気丈な方だ。
「推測だけど、いい?」
Dはうなずいた。
「生け贄だと思うわ」
「その通りじゃ」
嗄れ声の返事は、確かにDの左手のあたりからきこえた。眼をやったが、もちろん何も見えなかった。
「その通りだ」
今度は、錆《さび》をふくんだ男の――Dの声であった。すると、耳のせいだったのか。
「今回は死骸で済んだが、次は生身の人間が落ちていくだろう」
「数千人……」
ミアのつぶやきは問いでもあった。答えはやはりない。それが答えとも言えた。
「一体……何のために?」
「この底にいるものの意志だ」
「底に?」
いましがたの恐怖も忘れて、ミアは穴の縁から下を覗かざるを得なかった。
すぐにそれを憶い出したように後じさって、Dを見つめた。
「あなた、知っているの[#「知っているの」に傍点]?」
答えもせず、Dは美しい像のように立っていたが、
「家へ戻れ」
とだけ告げると、何と、何の予備動作もなく、穴の縁からその内側へ、頭からつんのめっていった。
「――D!?」
思わず呼んで後を追い、穴の縁でかろうじて踏みとどまったミアの眼を、白いものが覆った。
ガスだ。
口もとを押さえ、占い師の娘は大きく跳びずさった。
陥没の縁から噴き上がる白いうねりは、数百条もありそうであった。
突如、一斉に地中のガスが噴出することなどあり得ない。
人工的な仕掛けだ。そして、それを誘発したものは――
「D」
ガスの成分も不明のまま、ミアは思いきり空気を吸いこんで、穴の縁へと駆け寄った。
下方へ眼をやる。つぶれるかも知れない。なぜ、あの若者の姿を追い求めようとするのか。
その行動があまりに突飛だからだ。今のように。その正体が途方もなく不気味で巨大に思えるからだ。占いに現れたごとく。
そして、最後に浮かんだひとつを、ミアは意識の表面へ出ないよう、激しく無視してしまった。――美しいからだ。あまりにも。
Dの姿はどこにも見えず、ミアはまたも後じさった。ガスの濃度と勢いが増したのである。単なる目くらましらしいのが救いだった。
追いかけることはできない。待つか、村へ戻るか。
決断はミアの仕事ではなかったようだ。
後方から蹄の響きが近づいてきたのである。モーターらしい響きもある。ミアはふり向いた。
街道の奥に見えていた影たちは、一〇秒としないうちに、ミアの前に止まった。
陥没を発見した村の警備隊であった。珍しい品を携行している。
モーター音の正体は、鉄甲車であった。
鋲打ちの鉄板を溶接した車体は、異様にごつごつした旧型《タイプ》らしく、鉄板の縁はあちこちがめくれ、ごつい砲塔も、そこから五〇センチほど突き出した四〇ミリ砲身も錆を吹いている。
装甲部に広がる焼け焦げやおびただしい弾痕は、数十年の間に、野盗や妖物といった侵略者たちを撃退してきたかがやかしい証明にちがいない。小さな村の守護神としては、まだ十分な働きが可能なようであった。
ミアの眼は、その横に並んだ荷馬車に吸いついた。
山積みされた木函《きばこ》の表面の焼きこみ文字は、高性能破壊弾と読めた。
貴族同士が争った戦場や軍事施設から入手した武器弾薬の類を、村や町が収納しておくのは、さして珍しいことではない。とりわけ、操作法の簡単な武器――ライフルや手榴弾等は、いざこざの際に力を発揮した。この村の北には、かつての貴族の実験場だったらしい荒野と廃墟が広がり、足を踏み入れるものもない。
治安官が馬から下りた。ミアの方へ近づきながら、荷馬車に群がる連中へ、
「爆弾を抱えて、崖の縁に並べ。すぐに投擲《とうてき》するぞ」
「ちょっと待って下さい」
ミアは自分の方から治安官に駆け寄って叫んだ。
「どうするつもりなんです? こんな奇怪な穴に爆弾なんか投げこんだら、どんな反応が起こるかわかりません。それに、いま、ひとり落っこちたばかりだわ」
「ひとり? 誰だね、そいつは?」
「――Dという人。ハンターです」
実のところ、ミアはDが吸血鬼ハンターだと知っていたわけではない。彼の美貌、物腰、鋼と氷を思わせる印象から、反射的に出てきた言葉であった。
「それがどうして穴の中へ? いや、その前に、君は何者だ?」
治安官が太い眉を疑惑に寄せたとき、
「ミアだろ。北の方に住んでる占い師の娘でさ。おれ、占ってもらったことがあるんだ」
声を上げたのは、さっきから荷馬車の御者台の上で、彼女を見つめていた若者であった。分厚いウールのシャツを着て、首に赤いスカーフを巻いている。洒落っ気にふさわしく他の連中よりは数段、整った顔立ちの主である。
「北の占い師といやあ、ノア・シモンさんか。名前はきいたことがある。随分と恩義を受けた連中がいるらしい」
治安官の顔がほころぶのを見て、ミアは少しほっとした。
「そのハンターってのは、あんたの知り合いなのか? 一体、何をしに?」
こう尋ねて、治安官は口をつぐんだ。
いや、全員がその場に硬直した。
もうもうと白煙を噴き上げる大陥没の縁は、大地から一メートルほどまでがこれも白煙に覆われていたが、その向こうに人影が見えるのだ。
たくましい輪郭の膝のあたりで、コートの裾がはためいている。
背に長剣を負ったその影の主を、ミアだけは見抜いた。
「D!?」
何人がこの声を聞いたことか。
反射的に歩き出そうとしたミアの右腕を、背後から誰かが握りしめた。
「行くな」
あの御者の若者だった。
「でも」
「彼はいつ落ちた?」
「五分とたってないわ」
「あそこへ落っこちて、そんなに簡単に出て来られると思うか?」」
「途中で引っかかれば」
「そう思うか?」
「いいえ」
「下がってろ」
ミアを後ろへ押しやり、若者は腰に手を当てた。火薬銃が専用のホルスターに収まっている。それを抜いてから、霧の中の影へ、
「おい、おれは村のものだ」
と呼びかけた。
同時に、人影の色がひときわ濃くなり――次の瞬間、それは霧を抜けて、若者と相対した。
どよめきが流れた。恍惚たるどよめきが。村人たちは影の主の顔を見たのだった。
「――D」
その名前を、ミアだけは知っていた。
[#改ページ]
第二章 双貌の影人(かげびと)
その服装、何よりも複製不可能なその美貌。――確かにDだ。
ミアは胸を撫で下ろした。それが見知らぬ若者の無事を喜ぶこころの動きにしては、ひどく熱いときめきを伴っていることに、占い師の娘は気がつかずじまいだった。
「あんた……」
若者が声をかけ、一歩近づいた。
次の瞬間に生じた光景は、誰の予想をも大きく――戦慄的に裏切るものであった。
光が一条流れた。どこからどこへ、とはわからない。ただ、流れた。
「わっ!?」
という叫びを上げて、若者が跳びずさったところを見ると、彼だけは光の軌跡を看破したのかもしれない。それとも、単に反射的な動作だったのか。
Dの背で美しい音がした。
若者は小走りに戻ってくると、ミアの前で立ち止まった。
その両眼に涙が溢れているのを見て、ミアは少し驚いた。
「おれ……ゾアっていうんだ」
舌足らずの口調で言った。
「覚えといてくれ……ゾアだよ。……な」
何か抵抗できないものを感じて、ミアはうなずいた。
「私は――」
言いかけたミアの前で、若者は頭を押さえるように両手を頭頂で交差させた。
その首のつけ根に、すうと一条、赤い線が真横に走った。
訳もわからず、ミアは叫んだ。
「ミアよ、私は――ミア」
若者の眼からひとすじの涙が落ちた。口もとで笑みが結ばれ、それから、彼は大きくのけぞった。
首が背後に落ちると、鮮やかとしか言いようのない切り口から鮮血が虚空へ噴き上げ、折から吹きつけてきた風に乗ってDの方へと流れ、招かれたかのごとく、その全身を叩いた。
血まみれの――朱色の美しき人像。
それすらも、ミアを陶然とさせ、男たちに感嘆を――より官能的な呻きを上げさせたのである。
だが、それも数瞬、男たちはたちまち我に返るや、治安官が鉄甲車の砲塔へ拳を打ちつけ、
「攻撃用意だ! あいつを狙え!」
と絶叫した。
待って、と思いつつ、ミアは動けなかった。
ゾアと名乗った若者の凄惨な死が、脳が炸裂せんばかりの圧倒的な印象であらゆる思考を叩きのめしてしまったのである。
あの光がゾアの首を切ったのは間違いない。だが、その場で斃《たお》すこともなく、死を覚悟させた上、ミアに名前まで名乗らせてから死に至らしめた。――その奇怪な神技《しんぎ》を、何と表現したらよかろうか。
いや、それよりも、Dはなぜ、かくも無残な真似を?
ミアを気死せしめたのは、この疑念であった。
いま、生々しい血の雨を浴びて真紅に染まった美貌の、その玲瓏《れいろう》たる美しさは、陽光さえくすませんばかりだ。
この若者なら、親でも殺す――わかる。わかるのだ。
だが、そう理解しながらも、ミアの胸の中には、彼が決して無垢のものを無残に殺戮したりはしないという、小さな熱塊のような確信があった。
歯車とモーター音の刺々しい混合が、ミアの意識を現実に引き戻した。
鉄甲車の砲塔がDの方を向いたのである。砲身は、美貌の中心――顔面へ不動の直線を引いていた。
砲塔内の射手は、鉄板を少し切り取り、ガラスをはめこんだ照準窓から、冷静に狙いを定めていた。
ガラスに描かれた照準線――十文字の中心が、標的の眉間で停止する。
いまだ。
右手の人差し指と中指をかけた引金をぐい、と。錆びついた指応えが安全限界を越える――その寸前。
射手の視界は真紅に染まった。正確にはガラス窓が。
Dが上体を大きく反らし、ふり戻したのを、彼は目撃した。だが、まさか、Dの全身を彩った血が、鉄甲車めがけて逆流してくるとは予想の外だったにちがいない。その勢い――パワー。鉄の車体は打ち震えた。
だが、砲は火を噴いた。
四〇ミリ炸裂弾は狙い違わず――いや、大きく狂って吸いこまれた。Dの顔ではなく、その足下に。
火花と黒煙を轟きが混ぜ返した。衝撃が、真紅のDに見惚れていたミアと男たちを薙ぎ倒す。
Dは空中にいた。血の奔流は砲の迫撃よりわずかに早く車体をゆるがし、彼は同時に宙に舞っていたのである。
舞い降りた。地上の直線距離一〇メートルなどないもののように、彼は空中から鉄甲車の先端部に着地したのである。
間髪いれず、銀光が砲塔を縫った。
四〇ミリ砲戦までなら楽に耐えられる装甲を、Dの刀身は紙のように貫き、内部の射手の喉をも刺し貫いていた。
刀身を引き戻し、Dは地上のミアを見てにやりと笑った。ああ、その美しさ、残忍さにきらめく青春の結晶よ。ミアはほとんど失神しかけたほどである。
Dは軽々と宙を跳び、一行から五メートルほど離れた位置に着地した。
刀身には一滴の血もついていない。
はじめて、
「来い」
と言った。Dの声だと確かめ、ミアは絶望を味わった。
「来い」
ふたたびの誘い。
ミアの周囲から、人影がすうと前進した。
村人たちである。手に手に槍と杭を握っている。闘志満々――と見えて、その表情は、まるで何か異形《いぎょう》のものに取り憑かれでもしたみたいに虚ろであった。
「行っちゃ、駄目!」
ミアは叫んだが、かえってそれが一種の合図になった。
数歩進んでいた村人たちは、声にならない叫びを上げるや、一斉にDめがけて突進したのである。
光が交錯し、次の瞬間、朱のしぶきに変わった。
首を失った男たちの身体から噴き上がる血潮は、地獄の祝宴のためのにぎやかしのように見えた。
鈍い音がDの周囲でつづいた。切りとばされた首が落下したのである。
そのひとつを刃で刺し、Dはミアめがけて放った。
一メートルほど先に落ち、足下へ転がってきたそれを見て、ミアは息を呑んだ。
ゾアの首であった。
「おまえに恋した男の首だ」
とDは静かに言った。
ミアは必死で顔を上げた。正視に耐えず、上へそむけたのである。
眼の前にDがいた。
「………」
声も出せぬミアと吸血鬼ハンターとの間に、ぬうと、ゾアの顔が持ち上がってきた。Dが串刺しにしたのである。
「この表情では、安らかに眠れるとはいえまい。口づけでもしてやれ」
何という残忍さか。蒼白な娘の顔へ無残な生首をぐいと近づけ、しかし、Dの表情に、すっと驚きの色がかすめた。
彼は生首とミアに本当に口づけさせるつもりでいた。
ミアはすくんでいた。それには自信があった。その娘の顔へ強引に押しつけた生首が、すうとめりこんだのである。いや、男女の顔がダブった、と見えた瞬間、ミアの身体は首のみかDをも重なりつつ[#「重なりつつ」に傍点]通り抜け、その背後に立ったのである。
愕然とふり向きざま、Dは一刀を後ろなぐりに放った。
ミアは十分、刀身の届く位置にいた。
そして、刃が光流と化してその身体を幹竹割《からたけわ》りにした刹那、虹色の光を放って消えてしまったのである。
「あっ!?」
という声が鉄甲車の方からした。
見よ、車体の後尾に手をつき、胸を押さえてよろめいているのは、これもミアではないか。
「めくらましか。――児戯《じぎ》にしては見事だ」
Dは冷やかに前へ出た。驚くべきことに、右手の刀身にはゾアの生首が留まったままだ。
近づきつつある美しき魔人を前に、ミアは動くこともできなかった。
心魂こめた分身の法術を破られた覚えはかつてない。
術を破るのは術のみと母から学び、絶対の――大自然の哲理に則った絶対の自信があった。それが、何の変哲もない剣士のただの一刀に敗れるとは。
ミアの硬直は、破幻による物理的な疲労よりも、この絶望によるものであった。
その青ざめた口もとに、またも、死人の口がつきつけられた。
「それ、安らかに送ってやれ」
とDは言った。口もとが笑っている。
顔をそむけたミアの頬に冷たい唇が当たった。
「ほうれ、なぜ、逃げる?」
あくまでも、静かで冷たい、冬の夜のようなDの問いであった。
唇がずるりとミアの唇を追った。ミアの背が車にぶつかり、もはや逃走不可能と告げた。
そのとき――
天地が鳴動した。さしものDがよろめき、ミアは二メートルも横手へすっとんだ。
突如、軟泥と化したがごとく揺れる地面の上で、鉄の車と死体とが狂気のダンスを踊る。
Dは懸命にバランスを取りつつ、陥没の縁へと走り出そうとした。
「甘く見すぎたか」
つぶやきは誰に与えられたものか。
その肩が、突如、見えざる刃物に触れたがごとくに切れた。
ぼっと血の霧がとぶ。
揺れ動く大地の上で、Dは身をねじって、後方を見た。
一〇メートルほど向こうに黒い馬が立っていた。
「ほう」
と彼は噴き出る血を止めるのも忘れて、感嘆のひとことを放った。
サイボーグ馬だ。だが、サイボーグ馬にも質の優劣はある。いま、彼の後方に、大地の鳴動という自然法則を無視して平然と直立する馬は、その骨格の見事さ、皮膚の艶、筋肉のつき方――すべての点から見て超一級の品格と性能とを示していた。辺境で容易に手に入れられる馬ではない。
そして、Dの眼は、馬上の蒼い人影に吸いつけられていた。
蒼いというのは、濃藍色《のうらんしょく》の長衣をまとっているからだが、まるで糸のような長髪が頭頂から腰のあたりまで覆って顔さえも見えず、しかも、これも、どこかぞっとするような神秘的な藍色を呈しているからであった。
「誰だ?」
熄《や》まぬ大地の動きに逆らいつつ合わせつつ、Dは尋ねた。
「オリガは始末した」
と蒼い影は、揺れ動くDへ、不動の姿勢を保ったまま告げた。
「次は――おまえ自身」
オリガとは、『ムマ』の謎を解くべくDが訪れた女魔道士の名前だ。
彼女はDと会った晩に八つ裂きにされたが、それはどうやら、この蒼い騎手のしわざだったらしい。
「何者だ?」
Dはもう一度訊いた。この大激震の上で微動だもせぬ相手の実力を前にして、右肩からの鮮血も止まらぬのに、動じた風もない。
「なぜ、おれを狙う?」
突風がコートの裾を吹き乱した。
蒼い影の髪が、おびただしい虫のように横へとたなびく。それなのに、顔は見えなかった。
「おまえは知った[#「知った」に傍点]。――それだけだ」
地を這うような声であった。Dが何を知ったというのか、また、それを蒼い男はどうやって知ったのか。なぜ、彼はオリガを殺したのか。
「それ以上、訊いても無駄だな」
Dは右手の刀身をひとふりして、ゾアの生首をはねとばした。
黒馬と蒼い騎士が近づいてきた。
確かに地面を踏んでいるのに、なおつづく揺れには何の影響も受けていない足取りであった。
騎士と馬とが無造作に刀身の間合いに入った刹那、Dは無言で一刀を横に薙いだ。それは馬の前脚を切断し、前のめりになった馬から放り出された敵には、間髪いれぬ二撃目が与えられるはずであった。
切れた。
黒馬は前方にくずおれる。予想通りに。そして、蒼い騎手も飛んだ。予想通りに。
反転したDの刀身は、苦もなくその胴を輪切りにしてのけた。
天地が蒼く閉じたのは、その刹那だ。分断された男の体内から、蒼い色が虚空に舞ったのである。
いや、それは髪の毛であった。一体、蒼づくめの騎手は、身体中にどれほどの量の毛髪を有していたのか。万、十万、否、百万を超す髪の毛が飛び散り、しかも、そのことごとくが大地を貫き、岩を刺し、鉄甲車にさえ突き立ったのである。
最初の突風をDはことごとく弾き落とした。だが、蒼い針風は尽きずに襲う。
一本が左肩を貫いた。抜く間もなく、次の数十本は跳ねとばしたが、こぼれた一本が鳩尾《みぞおち》を刺し、さすがによろめく一瞬を、新たな針が右の眼を後頭部まで抜けた。
のけぞる彼を新たな蒼い嵐が襲おうとした、その横合いから、白煙が波のように押し寄せた。
陥没の底から溢れる噴煙だ。確かに風向きはその方向へ変わったが、まさしくDにとって危機一髪の瞬間に、護衛のごとく滲出してきたのは、彼を守らんとする意図さえ抱いているように思われた。
その中で、どのような意志と行為が炸裂したか。白煙の怒涛はなおも凄まじさを増し、渦を巻き、何もかも不気味な白一色に塗りこめると、もうもうと街道へも流れはじめていた。大地の鳴動はなおもつづいている。
その深更。
ミアは村の病院にいた。身体は骨の髄まで疲労を訴えているのに、頭には昼日中の出来事が灼きつき、明滅して離れず、眠りたいのに眠れないという一種の不眠状態をつくり出していた。
彼女が覚えているのは、Dに生首とのキスを強要され、まさに、という瞬間、大地が鳴動した――そこまでだ。
身体が一、二度、地べたに叩きつけられ、気がつくと、新たに村からやってきた調査団員たちの看護を受けていた。
そのひとりから聞いた話によると、現場には横倒しになった鉄甲車と、その下敷きになって両足を失った治安官だけが残され、ゾアを含めた村人たちの遺骸は忽然と消失していたという。
村人たちは、ミアからも話をききたがったが、彼女は沈黙を守った。すべて、治安官にまかせた方がいいと判断したのである。村人たちをだますには、虚ろな顔つきを維持しているだけで事足りた。
いまだに演技をつづけながら、ミアは、湧いては消えるおびただしい疑問に彼女なりの解答を出そうと努めたが、どれひとつ満足できないまま、疲労と絶望の結論に沈みこんでいった。
最後に、ひとつだけ残った。
ベッドを下り、ミアは窓辺へ近づいた。中庭が見えた。花壇の白い花がゆれている。月の光を浴びて咲く月光草《ルナ・プリナ》であった。
月は中天にかかっている。その銀盆のごとき表面に、あらゆるかがやきを凌駕して、ひとつの美しい貌《かお》が灼きついていた。
「……D」
せつないつぶやきを、ミアはせつないと意識していなかった。
彼の無残さを眼の当たりにした。自分に向けられたものである。戦慄し、怒り、憎んだ。――それでいて、なお、鮮烈な美貌は、うら若い女占い師を虜にしていた。
「いけない、こんなことでは」
ミアははっきりと口に出して言った。
「何のために来たの? 母さんさえ見捨てて」
意志と感情が激しく争ったのは、一瞬のことである。
年相応に豊かな胸が大きく盛り上がり、苦しげな吐息となってしぼんだ。
「明日になれば、もとに戻るわ」
とミアは自分に言いきかせた。
「明日になれば」
それは、何の裏付けも自信もない言葉だった。
澄み切った冬の夜へ、ミアは救いを求めるようにひたむきな視線を注いだ。
闇が濃さを増した。月が雲に隠れたのである。明かりは他にない。
すぐに月が主役の座を取り戻した。
静寂がいっそう深まって感じられたのは、しかし、そのせいではなかった。
白馬にまたがった人影が庭の片隅に立っていたのである。
それ[#「それ」に傍点]を讃えるために月が存在するかのような美貌に、月光が罪深い影を落としていた。
D。
恐怖が湧いた。疑念が渦巻いた。怒りがこみ上げた。――そのすべてを忘れて、ミアは窓ガラスを押し開いた。
白馬と騎士は近づいてきた。音はない。中庭の小路は煉瓦を敷きつめたものなのに、Dの操る馬の蹄は無音を維持しているのだった。
「――無事だったの……」
一メートルと離れていない位置で立ち止まった美貌へ、ミアはつぶやいた。
無事だったの? ――それが、陥没孔へ舞い降りたDへの問いかけだと、気づいていないまま。
Dが馬上から身を寄せてきた。片手が敷居にかかったかと思うと、ミアが身をのけぞらせる暇もない素早さで風が吹きこみ、吸血鬼ハンターは室内に立っていた。
「――D」
「訊きたいことがある」
とDは夜の声で言った。
「何……かしら?」
答える前に、Dは右手をのばした。背中があたたまるのをミアは感じた。
窓を閉めるのを忘れていたと気づいたのは、数瞬後のことである。恥ずかしさがこみ上げた。それを拭い去るように、
「何かしら?」
とまた訊いた。
「上で何があった?」
この質問を理解するまで、少し時間がかかった。
「上でって――あなた、冗談はやめて。あれは、あなたでしょ[#「あれは、あなたでしょ」に傍点]?」
非難の叫びをかろうじて抑えた娘の顔を、Dは静かに見つめて、
「おれが何をした?」
「何を……って――あなた、気は確か?」
「残念ながら、そのようだ」
ミアの眼はDの左腰のあたりに注がれ、小さな戸惑いを示してから、また、顔に向けられた。
「おれが上がってきたのは、たったいまだ。上には血の匂いがこもっていた。――おれがやったのか?」
少し間を置いてから、ミアはうなずいた。
「あれは、あなたじゃないの[#「あれは、あなたじゃないの」に傍点]?」
「………」
「それとも――覚えてないの[#「覚えてないの」に傍点]?」
「わからん」
「わからないって……」
「おれは底に着いてすぐ、意識を失った。その間のことは覚えていない」
この美しいハンターが、かりそめにでも意識を失うなど、ミアには信じ難いことだった。驚きを何とか圧《お》し殺してから、
「わかったわ、話して上げる。そのかわり、あなたも、地下での出来事をきかせて」
「それはできない」
「どうして!?」
思わず、責めるような口調になった。
「知らん方がいいからだ」
闇にふさわしい低く重い言葉に、不可避の重圧を感じながら、ミアは反駁[#「反駁」に傍点]した。
「ずるいわ、そんなこと。あなたがいないとき、私、凄い目に遇いました。何てったって、あなたに――」
言ってから、ひどい目に遇わせた当人が眼の前にいると知って、ミアは絶句した。すると、これまで、あの[#「あの」に傍点]Dをこの[#「この」に傍点]Dとは思っていなかったのか。
「おれに?」
「あ、あなたに……その……」
「やはり……な」
と嗄れた声が言った。精神的緊張が極限まで達しているミアには、気にもならなかった。
「何があった?」
Dはまた訊いた。
ずるい、と思いながら、ミアはもう逆らえなかった。
威圧感ではない。いや、それも確かにあるが、静かな問いの中に、ほんのかすかに、ひどく切実なものを――この鋼と氷からできているような若者にはおよそ似つかわしくない、哀しみのような響きを聴き取ったのである。
「いいわ」
がっくりと肩を落として、ミアはかたわらの椅子をすすめた。
「おかけなさい。みんな話してあげる」
それから、自分はベッドの縁に腰を下ろした。
冬の月光の下を時間《とき》が流れた。
「わかった」
と告げて、Dは無造作に立ち上がり、窓の方へ向かった。
「待って」
かすかな声に、彼はふり向いた。ミアはうつむき加減に、自分の膝を見つめていた。
「それだけですか?」
「……?」
確かに、これでは愛想どころか、素っ気なさすぎる。
「私の話だけきいて、それで、もう行ってしまうの? お礼もしないで」
「それもそうだ」
と嗄れ声が言った。何だか面白そうである。
Dはぐいと左の拳を握りしめ、
「礼を言う」
と言って、また背を向けようとした。
「駄目」
言われて、また、ふり向いた。
「もっと、ちゃんとしてください」
「ほうほう」
と嗄れ声。今度は驚いた風もある。
だが、いちばん驚愕しているのは、ミア自身だったろう。
なぜ、こんなことを言い出したのか、自分でもわからない。何か熱いものが胸の中で蠢き、堪らなくなって口に出すと、とんでもない言葉になっている。しかも、こんな深夜、病院の一室で、世にも美しい若者と二人きり。ご丁寧なことに、そばにはベッドまである。
ちゃんとした[#「ちゃんとした」に傍点]礼がどんなものか、ミアにはわからなかった。ただ胸が熱い。
その膝の上へ、Dの手がのびた。
心臓も停まる思いで眼を閉じた。手はすぐに離れた。
開けた眼が、膝の上に載った数枚の金貨を映した。
「それしか礼の仕方を知らん」
とDは言った。
「ちが――」
思わず立ち上がりかけた。床の上で金貨が澄んだ音をたてた。
その肩に黒い手が載せられた。それを望んだはずなのに、茫然と立ちすくんだきり、ミアは口もきけなくなった。
ひょっとしたら、この若者は冷酷無残な殺人鬼だ。その前で、自分は何をしているのだろう。
手はすぐに離れた。厚く重く冷たい――そのくせ、ミアの胸に、それまでとは異なる、静かなあたたかさを滲ませていく。
冷気が顔を打った。
騎馬の影が月光の下を遠ざかっていく。音もなく。
長いこと、占い師の娘はベッドの縁から動こうとしなかった。それから立ち上がり、そっと窓を閉めた。
翌日、ミアは暁光の中で眼を醒ました。
病院はまだ寝静まっている。荷物を――といっても、そこへ運ばれたとき身につけていたものだけだが――整え、病室を出ても、とがめる者はいなかった。
歩いて村外れの馬屋まで行き、小柄なサイボーグ馬を買い、簡易鞍を載せた。
はたから見ると、ひどく切迫した風に映ったかもしれない。
「こんなに早く、どこへ行くんだね?」
と馬屋の親父が訊いた。
「あんた、昨日、病院へ運ばれたっていう、占い師の娘だろ?」
狭い村である。情報の伝達速度はコンピュータ並みだ。
「昨日の今日だ。何か、とんでもねえことが起きそうな気がする。あんた、早いとこ、ここを出てった方がいいぜ。昨日、行方知れずになった連中の家族が、あんたに会わせろって、いきり立ってるってこった」
「困りましたね」
とだけ応じて、ミアは馬にまたがった。村の外――ではなく、村の中へと走り出した。途中で、農作業に出るらしい何人かの村人とすれ違ったが、気にもせず走った。
一〇分とかからず、村の西の外れに出た。村を横断してのけたのである。大陥没は北の外れにあたる。
一見無関係なこの場所で、ミアは馬を下りた。何をしに来たのか。
眼の前に、荒涼たる平原が広がっていた。かなり濃度の強い酸性土のせいで、こちら側は農耕に適さない。
平原とはいっても、あちこちに峨々《がが》とした岩塊が盛り上がり、転がって、荒涼の上に凄惨さまで加えているようだ。
ミアが下りたところは、真上から見ると、その岩塊群のほぼ中央にあたる岩の前であった。
手綱を手近の尖岩に軽く結んで、ミアはその岩を登りはじめた。
子供の頃から、母の指導で占いとそれに付随する術などの修行に明け暮れていたせいで、野外活動は得意とはいえなかった。手にはすり傷ができ、息も上がってくる。
十五、六メートルの高さの頂きへ辿り着いたときには、肩で息をしなければならなかった。
「確か、ここだわ」
荒い息をつぎはぎしながら、下方を見下ろす両眼が、その刹那、確信と恐怖に彩られた。
ミア以外の人間の眼には、黒土の大地としか見えない茫々たる広がりの中に、ひとすじの赤い線《ライン》が見えるのだ。
太い。ここの位置から逆算して幅一メートルは下るまい。地中をえぐり進む無限長の大蛇を、ミアは連想した。
どうやって、これを断つ?
絶望的な吐息を洩らしながら、気がつくと、ミアはバックパックの肩紐を握りしめていた。頼るのはこれ[#「これ」に傍点]と自らの判断しかない。
さらに眼をこらすと同時に、ミアは両足の靴底で岩肌を強く踏んだ。この地上に置かれた石の力《パワー》が体内へ――視神経へと流れこんでくる。
赤い線のどこか。どこかにあって[#「あって」に傍点]欲しい。
地底にのびる大蛇の背を、食いこむような視線が渡っていく。
赤がぼっと滲んだ。そこだ。
眼術で角膜にその位置を灼きつけ、ミアは岩を下りはじめた。
馬に乗り、目標の地点まで五分とかからず着いた。
「いよいよね」
胸が激しく鳴った。母の手を借りぬ、はじめての大仕事だった。
まさか、地中を走るエネルギー・パイプを破壊するなんて。
深さは――ざっと一〇メートル。こんなにも浅いところに、辺境の四分の一を破壊し尽くすエネルギーの還流装置が埋もれているなんて、誰が想像しただろう。何百何十年を耐えてきたのか知らないが、よく無事だったものだ。
だが、いま、自分はそれを破壊しようとしている。
逡巡は一瞬であった。
ミアはバックパックを下ろし、ずんぐりした楕円球の金属塊を取り出した。
赤い先端部を引っぱり、錐状の指向性アンテナをのばす。
タイマーにのばした指が震えている。スイッチ・オン。赤ランプが点滅を開始した。
もう後戻りはできない。あとは、一〇分以内にできるだけ遠くへ逃げることだ。
原子弾の炸裂は、アンテナによって地下一〇メートルにまで達し、容易にエネルギー・パイプを破壊し得るだろう。
洩れたエネルギーがどうなるのかは、神のみぞ知るだ。ことによったら、ミアは、この地方一帯の生物をことごとく死滅させた死神として、歴史に名を残すかもしれない。
「母さん――やるわ」
自分に言いきかせて、原子弾を地面に突き立てる。
地中での爆発だから、通常は五〇メートルも離れれば安全圏だが、パイプからのエネルギー漏出がどのような暴走を成すかわからない。
一キロは離れねばなるまい。
馬を求めてミアはふり返り、愕然となった。
眼の前にDが立っていた。
少し離れたところに栗毛のサイボーグ馬がいるから、ミアの知らぬ間に、どこからかやって来たのだろう。足音ひとつ聞こえぬ不思議さも、この若者なら決して不思議とは思われない。
「あなた――D?」
ミアは自分の声を遠く聞いた。
「他に何かに見えるか?」
「いいえ」
と答えてから、近づいてくるDへ、
「いま、原子弾を仕掛けたわ。もうタイマーは解除できない。逃げて」
「面白いことをする」
Dは足を止めず、ミアの隣まで来て、原子弾を見つめた。
「そうよ。この村の――いいえ、辺境一帯に広がろうとする魔を祓うの」
ミアの右手がブラウスの内側へ忍び入ったのに、Dは気がつかない。
「おれは――」
まで言いかけふり向いたのは、ミアの殺気を感じたからだ。
Dがふり向き終えるより早く、ミアは右手の短剣《ナイフ》をDの心臓の上に正確無比に突き立てていた。
時間が止まった。
あらゆる動きが停止し、風さえも熄《や》んだようであった。
新たな動きは、ミアから生じた。
突き立てた短剣から手を放し、一、二歩後じさったのである。
Dは棒立ちのままだ。
「なぜ、だ?」
と訊いた。
「あなたは殺人鬼よ。――おかげで、昨夜のDが本物だとわかったわ。やはり、二人いたのね」
Dは息も絶え絶えに、
「どうして……わかった?」
「昨日のあなたは、白い馬にまたがっていた」
「なるほどな」
声に力がこもった、とミアが驚く暇もなく、Dは左手を、胸に生えた短剣の柄《つか》にかけるや、いとも簡単に引き抜いていた。
「やり直すか? それとも、ここで生皮を剥がれた上で、原子の炎に燃え尽きるか?」
喉もとにかすかな痛みが走り、ミアはいつの間にかDが長剣の切っ先を食いこませたのを知った。
「このタイプなら、爆発まであと一〇分。少しは話をきく余裕がある、――そうか、おれ[#「おれ」に傍点]は昨夜、おまえのところに出向いたか」
ミアの眉が寄った。
Dの最後の言葉が邪悪な冗談ではなく、本当に知らなかった[#「本当に知らなかった」に傍点]のだと感じられたからだ。
馬が違うから、別人だと思っていたが、まさか――
「おれはそこで、おまえと何を話した?」
「………」
「おれが、おまえや村の連中と渡り合ったことを、か?」
「………」
「おれは庭へ入り、窓からおまえの部屋へ入りこんだ――な。そして、別れ際、おまえの肩に手を載せた。――覚えているか?」
ミアは全身の血が引く思いだった。
やはり、このDは昨夜の――
「馬は全部、買い替えた、ということにしておこう。何を話した?」
「あなたが、いま口にしたことよ。――それだけ」
Dはミアの眼をじっと見つめ、
「では、次だ。――なぜ、ここへやって来た?」
刃が喉にまた少し食いこんだ。
「……夢で見たのよ」
「夢で?」
「母さんが出て来て、伝えたの。この土地と私がやるべきことを。――ねえ」
ミアは気力を奮い起こして言った。
Dは面白そうに、
「何だ?」
「私の質問にも答えて。あなたは何者なの? このエネルギー・パイプは何のため?」
Dの唇が笑いの形に歪んだ。
「地獄で教えてやろう。そのうちに、数限りない連中がおまえの後を追うことになる。その誰かに訊いてもいいぞ」
その口調に含まれた宣告に、ミアは眼を閉じた。覚悟はできているつもりだった。脳裡を様々な思いが去来した。
夢に出て来た母――彼女は死んだのだろうか。自分も亡くなったら、近くの村の占いは誰が賄うのか。ケビン爺さんの孫娘の相手は、ソーヤー家の次男か? 郵便局長のぼんくら息子か?
灼熱が喉を衝き――不意に消失した。
その痛みより、前方から叩きつけてきた凄絶な凶気に、ミアはよろめいた。
遠ざかる意識の中で、こう聞いた。
「やっと会えたな、おれ[#「おれ」に傍点]に」
夢中で眼を開いた。
その光景は、ミアの想像を絶するものであったが、予想通りともいえた。
三メートルほどの距離を置いて、立っていた。――二人のDが。
[#改ページ]
第三章 “闇住い”
鍔広の旅人帽、漆黒のロング・コート、背の長剣――そして、何にもましてその美貌。
どちらも、どう眼を凝らしても、Dだ。
だが、そこから周囲へ醸し出す雰囲気は、陰と陽のごとくに違う。
長剣を手にしたDのそれは、鋼や石さえも腐敗しかねぬ凶気だが、素手のまま立つDから漂うものは、むしろ死闘に臨む澄み切った鬼気であった。
二つの美姿《びし》が、すっとぼやけた。
ミアが涙を流したのである。よかった、やはり、Dは二人いた。あの人[#「あの人」に傍点]は、あいつ[#「あいつ」に傍点]とは違った。――その歓喜であった。
「抜くか、D?」
と刀身を下げたDが訊いた。
「おまえにもわかっているだろうが、おれたちの実力は、この世に二つとない、まさしく互角。となれば、先に抜いているおれの方が有利だが」
DはDをDと呼び、呼ばれたDは答えない。ただ、その美しい姿を勁烈《けいれつ》な殺気が貫いた。
「いま、おれはおまえを殺せる。だが、それではあまりにつまらん。勿体ない。おれ自身が消えるのは、この世界にとって大いなる損失だ。Dよ、おれと組め」
「Dとはおまえの名だ」
はじめて、もうひとりのDが口を開いた。全く同じ口調、同じ声音――しかし、まるで違う。
「この世界を己れのものにしたいのなら、そうすればよかろう。おれは奴[#「奴」に傍点]の行方を知りたいだけだ」
「その手掛かりを求めて来た、か。くく、おれには何の興味もないか。――つくづく恐ろしいおれ[#「おれ」に傍点]よ。これまで生きた歳月の凄絶さが察せられるわ。だが、安堵しろ、それもここまでだ。――最後に訊く。おれと手を組む気はないか?」
世界が凍りついた。時間さえ停止し、色彩を失った影絵のような空間の中で、錆びた、だが、世にも美しい若者の声が、ただひとこと、
「ない」
ぶん、と空気が鳴ったとき、Dの太刀は胸もとへとのびている。誰が見ても逃れ得べくもない神妙の速度と鋭さとをもって。その刹那――
「おっ!?」
と呻いたのは、どちらのDだったか。
刃《やいば》を放ったDの身体に、ミアがぶつかったのだ。
反射的にDは彼女を押しのけ、刀身を繰り出したものの、最初のスピードと切れはもはやなかった。
きいん、と光が鳴った。
Dが後方へよろめいた。予想外の反応だったからだ。いかに当初の迫力を欠こうとも、もうひとりのDが抜き打ちに、彼の刃へ刀身を噛み合わせようとは。
思いきり後ろへ跳んで体勢を整えつつ、Dは右手をふった。体当たりしたミアの首が跳び、シャボン玉のように消える。
だが、これは大きなミスといえた。
刃を噛み合わせたDは、その場に待たなかった。先のDを追って跳躍したその姿と速度と距離は――まさしく互角、瓜ふたつ。
着地したDの頭部へ、真っ向上段からふり下ろされる情け容赦のない豪剣――どぼっと、凄惨な音がした。
血潮が爆発した、としかいえぬ赤い奔騰《ほんとう》が世界をかき乱し、どっと地に落ちたものは、肩のつけ根から切り落とされた右腕であった。
一刀を握ったそれは、激しく痙攣したが、みるみる土気色に変わった。
もしも、そのDが洩らした「互角」が本当ならば、ここで彼の生命は絶えていたかも知れない。彼はなおも跳躍して逃げようとしたが、その姿勢は安定を欠き、かたや、もうひとりのDは盤石の跳躍姿勢にあったからだ。
だが、このとき、二人の間の地面にぱっと砂煙が上がるや、村の方角から、火薬式ライフルらしい重々しい銃声が響いてきた。
DとDが同時にそちらを向き、やってくる人馬の影を認めた。
何人かが馬上でライフルを構えているが、射ったのが誰かはわからない。
片腕を失ったDが青ざめた顔で低く笑った。
「奴ら、幻でも見た気でいるかもしれん。正気に戻してやろう。ひとまず、さらばだ」
そして、地上の片腕をすくい上げるや、身を翻した。
逃げるDと追いすがるD――その身体に数個ずつの弾痕が穿たれた。
わずかに身体を震わせただけで倒れもしなかったのは、さすがダンピールだが、逃げるDは追いすがるDの方を向いて、
「あと二分足らずだぞ」
と告げるや、後も見ずに栗毛の馬へと走った。
残るDは――ほんの一瞬、躊躇を示し、すぐにふり向いた。
ミアと押し寄せる村人と――原子弾と。
そちらへ歩き出した身体が少しよろめいた。胸と肩のあたりに三個の赤い点が形を整えつつあった。ライフル弾は一トン近くある装甲獣用のものだ。並みの人間なら三度即死している。
砂塵を巻き上げて近づく馬の上で、射手たちがライフルを構えた。
新たな銃火と美しい標的の間に――このとき、
「やめて!」
叫んで走り出した影がある。ミアであった。
生きている。先刻、切断されたのは幻だったのだ。
「この人は違うの。やめて!」
必死の姿は、必殺の射撃を中断させた。その間にDは素早く原子弾へと近づいている。
身を屈めた周囲に、弾着の砂煙が上がった。
Dは気にした風もなく、原子弾を引き抜いた。
先端部に左手のひらを当てる。
灼熱のプラズマがその身体を包んだ。
視神経が灼き切れたかのような閃光に、ミアの眼は自然に閉じた。
世界は青く染まった。押し寄せる馬たちの先陣が脅えて立ち停まる。
影を失った世界に、再び影が生じるまでどれくらいかかったか。
忽然と青い光は陽光に呑みこまれた。
すでにエネルギーの放出を終えた原子弾のボディを足下に置いて、Dは黙然と立っている。
その人間離れした美しい姿と、たったいま目撃した光の狂宴に、これはただの相手ではないと見て、追っ手も馬もたたらを踏んでいたが、
「女はあそこだ!」
ガラガラ声の叫びが叱咤の鞭と化して、再度、馳せ寄ってきた。
きたものの、足を止めたのは、Dから一〇メートル以上離れた位置であり、誰も馬から下りようとはしない。
数頭が別に走り去ったのは、逃げたDを追っていったのだろう。
「何の用だ?」
とDは静かに訊いた。
「治安官が、ある男が村の者を皆殺しにするのを目撃した。見間違えようのない、この世に二人といない色男だそうだ」
こう言ったのは、リーダー格らしいでっぷりと太った白髪の老人であった。胸に治安官バッジをつけている。しげしげとDを見つめ、すぐに頭をふって、
「いかん、いかん、男のわしまで変な気分になりそうだ。若いの、名は何という? おっと、わしはオールド・ジャル――三代前の治安官よ」
「D」
老人の顔から、一瞬のうちに血の気が喪失した。ふわりと後ろへ倒れかかるのを、左右の男たちが大慌てで支えた。
「大丈夫だ、離せ」
と頭をふりふり、男たちの腕を跳ねとばして元の位置へ戻った、老《オールド》ジャルは、
「その顔を見たときから、ひょっとしたらと思っていたが――まさか、本物と会おうとはな」
呻くように言う顔は冷たい汗にまみれていた。
「治安官として命じる。すぐに村を出ろ。さもなければ、ここで」
右手が上がった。かつてはよほどの実力者だったのか、一斉にライフルを構えた射撃者たちの動きには、微塵の迷いもない。
だが、それが、これまた一斉に乱れた。Dが男たちを一瞥したのである。
「それでは当たらんな」
と嗄れ声で言い、Dはその場へうずくまって両眼を押さえているミアへ眼をやった。
「原子弾の炎で眼をやられた。治療が要る」
「言われんでも医者へ連れて行く。治安官の話だけでは納得できんという家族がおるのだ。そのひとりと今朝、病院を脱け出した後、すれ違ったものでな。我々が参上したというわけだ」
「それにしては数が多すぎる」
これはDの声である。最初の「当たらんな」で、顔と声とは天国と地獄ほど違うなと思っていた老《オールド》ジャルは、またも仰天した。ようやく内心の動揺を抑えつつ、
「わしの判断だ。ひょっとしたら、村の者を皆殺しにした化物のところへ逃げたのかもしれんと思ったのでな。どうやら的中したらしい」
このとき、Dはミアのかたわらに屈みこんで、彼女の手をやさしくのけ、かわりに自らの左手を両眼にあてがっていた。
「その化物を帰していいのか?」
「二度と村へ近づかんと約束するのなら、な。吸血鬼ハンター“D”――その名は“赤い死”よりも恐ろしい」
「それは、貴族たちの噂よ」
沈んだ女の声に、男たちは一斉に、Dと自分たちとの間の地上を――ミアの方を見た。
起き上がった娘の両眼は、静かにかがやいていた。
「吸血鬼ハンターは、私たちを守って貴族の成れの果てと戦う真の勇者だわ。その中でも、人格、技倆、美しさ、ともに史上最高と謳われる男の名前――それが“D”。恐ろしいなんて罰が当たる」
「この村の近くに貴族なんかおらん」
背後の馬の主から、悲鳴に近い声が上がった。
「それなのに、吸血鬼ハンターだなどと。一体、何の用がある?」
そうだ、そうだと何人かが唱和した。
「それは……」
ミアは返事に窮した。理《ことわり》は村人たちの主張の方にあった。平穏が支配する村にとっては、貴族の翳どころか、それにつながる存在すら忌むべきものなのだ。まして、吸血鬼ハンターともなれば――
「その通りだ」
返事を引き取ったのは、Dであった。
「おれの用は済んだ。もう出て行く」
「まだだ!」
馬の列の背後から、憤怒《ふんぬ》の叫びが上がった。
「治安官の話じゃ、うちの伜《せがれ》を殺したのは、おめえに間違いねえ。黙って行かせやしねえぞ、老《オールド》ジャル!」
男たちは一斉に皺だらけの老人の方を向いた。射手たちだけはDから眼を離さぬのは、見事なものだった。
誰の眼にも殺戮への期待があった。火のようなそれを受けて、老人の顔は岩盤のように、微動だにしなかった。
「二度と来んと約束しろ」
と言った。Dへ。Dは答えた。老人へ。
「できんな」
空気が凝結した。全員が耳の奥で鋭い金属音をきいた。それは脳が発する“危険”信号であったろうか。
危険だ。この若者は――美しすぎる。
射手たちの指は、限界まで引金を絞っていた。指が震えた。
みな、胸中に叫んだ。
早く決めてくれ。もう、引くしかなくなってしまう。
冬枯れの荒野を、干からびた声が流れた。
「行け」
ライフルの銃身が、へし折れるように下がった。射手たちが安堵したのである。
「断っておくが」
と老人は、必死で決意を声に重ねようとした。
「今度、森の近くでおまえたちを見つけたら、遠慮なく射つ。忘れるな」
Dは棒立ちのミアへ眼をやり、
「おれとは無関係だ」
と言った。
「この村とも無関係さ」
と老治安官は言明した。
「二人とも、さっさと出て行け。幸い馬は無事だ。二度と村へ近づかない方がいいぞ」
Dは無言で背を向け、少し離れた岩場につないである馬へと歩き出した。
「治安官、きいて下さい」
とミアは呼びかけた。切羽詰まった思いであった。
「いま、この世界を、途方もない厄災が襲おうとしています。それがどんなものか、何ひとつはっきりしませんけど、起きるのは間違いありません。その発生源がここなんです」
「行け」
と老《オールド》ジャルは突き放した。
「きいて」
その足下に銃声と同時に砂煙が上がり、ミアは一歩下がった。射手のひとりが射ったのである。
「行け」
ミアは断念した。唇を噛みしめ、サイボーグ馬へと向かう。
不意に背後から蹄の響きが走り寄ってきた。
ふり向いて、身を遠ざけようとしたが遅かった。
太い手が腰に巻かれるショックに呻いた瞬間、ミアは横抱きの状態から、馬上に引き上げられていた。
「ハンター、こっちを向け!」
ミアの背後で、その肩に片手で小型の石弓を載せ、手綱を握った手でコンバット・ナイフを頚動脈に当てながら、騎手は絶叫した。
「よせ、ガリ」
老《オールド》ジャルの制止もきかず、
「おれの伜を殺した件は、まだ片づいてねえ。動くな――動くと、この女を殺すぞ」
とたくましい農夫は叫んだ。
Dは黙って馬へ向かって行く。
「止まれ! 女が死ぬぞ!」
声を満身に浴びながら、Dは馬にまたがり、農夫――ガリの方を向いた。ミアの安全など少しも考えていない風だ。もちろんだ。彼はDであった。
「てめえ、女を」
そして、Dはもう一度背を向けた。馬は歩きはじめた。
「てめえええ」
人間にこんな憎悪と絶望の叫びが出せるとは。それが終わらぬうちに、ガリは左右の手首に鋭い痛みを感じた。
眼をやった。白い木の枝が生えている。Dの白木の針であった。
獣の叫びを放ちながら、ガリは両手を持ち上げた。馬上で身をよじらせた拍子に、鞍から転げ落ちてしまう。横倒しになった身体が大地を転々とした。
射手たちの全身を黒い殺気が縁取るや、銃身が持ち上がった。
「よせ!」
叫んだのは老《オールド》ジャルだ。その声に銃声が重なった。
ミアの耳たぶに火のような痛みが走り、キン、という音が鳴った。
同時に、ぎゃっとひと声、射手のひとりが馬上でのけぞったではないか。
右肩を押さえた左手のひらの下から赤い染みが滲み、紫煙を引きつつライフルが地上へ落ちた。
何が起こった? ――今度は動揺と驚愕の翳に包まれて、残った射手たちは馬ごと立ちすくんだきりだ。Dの右手には一刀が光り、それは胸前から真一文字に頭上へと立てられた。
いや、答えはわかっていた。信じたくないだけだ。
まさか、必殺の弾丸を刀身で跳ね返し、射手自身へ送り返すとは。
それが可能かと理詰めで考える前に、そうとしか思えぬ事実の前に、男たちの血は凍った。
もはや、新たな攻撃は不可能であった。それを見抜いたかどうか、美しいハンターは一刀を鞘に戻し、寂然《じゃくねん》と背を向けた。
やがて、白馬が蹄の音を立てはじめても、誰ひとり、それを止めだてしようとする者はいなかった。
追尾してくる馬の蹄の音にも、Dはふり向かなかった。村から西へとつづく街道の上である。
足音はじき横へ並んだ。
「意地悪ね、ふり向きもしないで」
とミアは手綱を引き絞りながら言った。Dは答えもせずに進んでいく。
村にも自分にも、もう用はないのだろうとミアは納得した。それなら、彼自身の目的とは何なのか?
「ねえ、お願いがあるの」
とミアはDの方へ身を乗り出して言った。
「私と村へ戻ってください。お願いします」
返事はない。
少し進んでから、
「返事くらいして」
「断る」
嗄れ声だった。Dがちらと左手の方へ視線をとばした。
「あなたが自分以外のことに関心がないのはわかっています。でも、きいて。あの人たちに言った通り、この村には大きな危機が訪れようとしています。それは、放っておけば、この世界さえ根本から変えてしまうような大災厄の萌芽です。私は母から教えられてここへ来ました。何もできないけれど、でも、放っておけなくて。――D、あなたなら、できるの。あなたなら、運命を変えられる。それだけはわかるの。だから、お願いです。村に残って下さい」
「なぜ、そんな世話をやく?」
ミアは眼を丸くした。Dの声であった。左の拳が握りしめられていることに気づかない。
「君も村から追放された身だ。人質にもされた。あの村がどうなろうと、何の関係もあるまい」
「私もそう思うのよ。でも放っておけない。私は――占い師の娘なの。見てしまった未来には責任があるのよ」
「不必要だ」
「あなたにはそう思えるのでしょう。でも――」
「村の連中は余計なお世話と言うだろう」
「わかってるわ」
ミアは唇を噛んでからうなずいた。
「それは、どうやら、それだけでは済まんようだ」
「え?」
「後ろだ」
ミアは身をねじった。道の向こうに、陽炎のような騎影が揺れていた。十近い。
「村の連中?」
死人を出した家族だろう。我慢できなかったと見える。
「行きましょう」
声をかけたがDは動かない。
追手と彼とをミアが見交わすうちに、はっきりと人馬の姿を取った影は、二人に追いつき、追い越し、五メートルほど前方に一列に並んだ。
全員、壮漢だ。ごついのから痩せ型、白髪混じりから禿頭までよりどりみどりだが、二人をねめつける火を吹くような眼差しと敵意は甲乙つけ難い。
手にした槍と太刀と弓とが陽光を浴びている。
Dとミアは立ち止まった。
「おれたちは、昨日、伜を失くした」
と弓矢を手にした壮漢が言った。
「このままじゃ納得できねえ。伜も浮かばれねえ。もう一度、話をきかせてもらおう」
「私が一緒にいました。息子さんたちと――私がお話します」
とミアが割って入った。
「あんたの話は後だ。病院の治安官は、そっちの男が殺人者だと言った。それなのに、老《オールド》ジャルは何もせずに帰そうとしている。おれたちゃ、納得できねえのさ」
「だから、力づく? ――やめて。見たでしょ、遠くからだけど、この人と瓜二つの影を。何人かが追いかけて行ったわ――こっちの方向ね。あいつが犯人よ」
男たちが顔を見合わせたところを見ると、何人かは覚えがあるらしい。
だが、それも束の間、すぐに二人の方へ据え直した眼差しは、少しも和らいではいなかった。
「いま、おれたちの眼に入るのは、おまえだけだ」
「だからって――」
「わかってる」
禿頭の農夫は、必死に感情を抑えようと努力しながら、
「だから、不意討ちなんぞしたくねえ。そいつの腕も見たが、卑怯な真似などごめんだ。伜たちにもそう教えてきたからな。だから、ひとりずつかかる。おれたちを斃したら、好きなところへ行くがいい」
Dは無言で壮漢を見つめていたが、このとき、ぽつりと、
「まとめて来い」
と言った。ミアが愕然と、
「――D。この人たちと戦っては駄目!」
「数を頼む気はねえよ」
「おまえたちの伜を殺したのは、おれだ」
世界が凍りついた。ミアですら、かっと眼を剥き、声もない。
石の像と化したかのような男たちへ、
「おれは行く。――止めてみろ」
凍結した世界に美しい動きが生じた。
「D、やめて」
後につづきながら、ミアは夢中でかき口説いた。Dの身を案じているのではない。いかに壮漢たちが腕自慢であろうと、刀槍ごときで、この若者に勝てるはずもない。かといって村人たちの身を気遣っているのとも違う。彼女は、Dを確信犯的な殺戮者にしたくないのであった。
五メートル。
Dは黙然と進んでいく。
「やめて」
三メートル。
ミアは馬を止めた。
一メートル。
怒号と光が世界を埋めた。Dへと四方から襲いかかる銀光。そして、光が迎え討った。ただひとすじ。
長い金属の響きをミアはきいた。
光の流れた方角の地面で、別の音が連続した。刀が槍が、弓と矢が突き刺さったのである。
馬上の男たちはことごとく右手を押さえて呻いた。手首は脱臼していた。その痛みよりも、すべてが、眼前の若者のふるったたったの一撃によるものと知って、男たちは硬直したのである。
Dが前へ進んだ。列が崩れた。男たちが馬に命じたのではなく、馬自体が脅え切ったように左右へ分かれたのである。
Dは歩み去り、その後をミアが追う。
二つの影が道の彼方に消えてから、ようやく禿頭の男が、
「化物が……」
とつぶやいてから、つけ加えた。
「違うな、あれは」
「ああ」
と、ひとりが答えた。
「おれたちを怒らせ、叩きのめして、気を楽にさせやがった。人殺しにできるこっちゃねえ。――おれたちのミスだ」
「案外、大した男かもしれねえな」
男たちは、別人を見るような眼差しを道の奥へと送ったが、Dとミアの姿はもうどこにも見えなかった。
黒い大地の上に整然ときらめくひとすじの線《ライン》――“貴族の道”に入ってすぐ、それまで、どうミアが説得しても聞く耳を持たぬ風だったDが、ふと上空を見上げて、
「強いな」
と言った。陽射しのことであった。
「ええ」
さすがに腹を立て、こちらも大分前から口をきかずにいたミアが思わず応じてしまったほど、肌は汗ばんでいた。前方の風景が時折、歪む。陽炎が立つのだ。
「少し休まない?」
とミアは訊いた。
「何だか、太陽に異常でも起こったみたい。とても保たないわ」
「あと一キロ我慢しろ。休憩所がある」
「“闇住い”ね」
ミアはかがやく道の前方へ眼を凝らした。六角形の石とも金属ともつかない物質を敷き詰めた道は、幅一〇メートルもの広さをくねらせつつ、遠く見える奇岩の彼方につづいている。
貴族たちが敷設したこの道は、数千年もの間、ささやかな摩耗の痕跡も示さず、大地と海底と空中を縦横に駆け巡っているのだった。
“闇住い”とは、Dも口にした休憩所のことだ。
太陽と地球との宇宙的な運行だけは、貴族にも手の出しようがなかった。朝の訪れとともに、貴族たちの道にも陽光はさし恵む。無論、彼らは昼の間、馬車に守られた柩に身を潜めるが、万にひとつ、身ひとつで陽光にさらされる危険を考えて、数十キロおきに緊急避難用の施設が設けられていた。これが“休憩所”である。
サイズは最低ふたりから、大は百人収容可能な大型まで様々だが、ミアのいう“闇住い”と呼ばれるものは、一〇人から二〇人が死の光を免れる規模を誇っていた。
数千年来の貴族たちの衰退に伴い、多くは風化し、破棄され、あるいは人間の手で破壊されてきたが、まだかなりの数が、かがやく道のあちこちに残って、生き残りの貴族や迷いこんだ人間たちに、苛酷な旅における束の間の憩いを提供するのだった。
ミアばかりかDもひと休みしたそうに見えるのは、体内を流れる血の性質を考えれば当然すぎるほど当然といえた。
いま苦しいのは、ミアよりもむしろDの方かもしれないのだ。
「おかしいわ」
とミアが隣のDを見たのは、五分を経過してからであった。唇を動かすたびに汗の珠が飛んだ。
「陽射しが強すぎる。いくら何でも――」
「急ぐぞ」
と言うなり、Dは馬の腹を蹴った。
陽炎が立ちのぼり、その姿を映した。歪んでいても美しいのだった。
二分とかけず、前方右手に灰色のドームが見えてきた。
「あった」
ミアはぼんやりと考えた。熱にうかされた身体に、感情の欠落が生じている。
皮膚が灼けるように痛んだ。視界は白く染まった。陽光は灼熱の凶器と化しつつあった。
二頭の馬が並んでドームの前に到着した。
夢中で鞍から下り、Dの方を見た。
美しい身体がゆっくりと倒れこむところだった。
「――D!?」
大地へ崩れた身体に駆け寄り、ミアは自らの意識が遠くなるのを感じた。
占い師の娘は、Dの上に重なって倒れた。
陽光が容赦なくその身体を焙《あぶ》った。
額から強烈な冷気が広がり、ミアは眼を開いた。
Dの左手が額にあてがわれていた。
「動ける……か?」
と、仰向けに倒れたまま、Dが訊いた。
「――ええ、何とか。あなたが助けてくれたの?」
「こうなると、おれよりおまえの方が動ける。――扉を開けろ」
“闇住い”のことだろう。
「わかったわ」
ミアはうなずいて立ち上がり、背後をふり向いた。
愕然となった。
「ないわ!」
意識を失っていたのはほんの数秒間であろう。いや、たとえ一時間であっても、このような事態が生じるのは不可能だ。
灰色の重々しい建築物は忽然と姿を消し、ミアの視界を埋めるものは、奇怪な形状の石塊《いしくれ》が連なる谷間であった。
「そんな、馬鹿な……」
「それは……幻覚だ」
とDが言った。
「幻覚?」
ミアは眼をこすったが、新たな光景はいっかな変化しようとしなかった。
「貴族以外の……生命体が近づいた場合……防御機構が作動する……谷間は幻覚だ」
「でも、さっきは確かにドームが――」
「おれと……いた……からだ」
そのDが倒れたとき、ミアは単なる人間と認められたのだ。
「ドームは……そこにある。触れてみろ」
信じられない面持ちで、それでも、ミアは右手を前方にのばした。
何も感じられない。空間は空間にすぎなかった。
そう伝えた。
「意識にも効果が及ぶようじゃな」
Dとはまったく異なる嗄れ声に、ミアははっと声のした方を見つめたが、Dの左手が地面に落ちているきりだ。
「どのみち、人間の手で貴族の建築物を開くのは不可能じゃ。――D」
促すような声は、どう考えても左手のひらからきこえてくるようであった。
それを確かめたいという猛烈な好奇心に駆られる前に、
「おれの左手首を切り離せ」
とDが命じた。
「――何ですって!?」
ミアが眼を剥いたのは当然だ。だが、それが拒否の意志に変わる前に、
「放っておけば……二人とも蒸し焼きだ。コートのボタンを外せ」
逆らうことを許さぬ圧倒的なDの声であった。
ミアが従ったのは、そのためだが、耳の中に、あの言葉が鳴っていた。
二人とも[#「二人とも」に傍点]蒸し焼きだ。――そうしてはいけない。そうしてはならない。救わなくてはならない。――Dを。
ボタンを外すと、
「左に剣がある。――それを使え」
いかにも使い古した鞘から黒光りする柄《つか》が生えている。柄には油を塗った蔦《つた》が巻かれていた。
抜き取った手に、鋼の刃がずしりと男の武器の重さを伝えてきた。
この美しい若者は、こんな重い武器をふり廻しているのだろうか。両脚がふらついた。
「早く斬れ……時間がない」
「でも――斬って、どうすれば?」
返事はない。
Dは両眼を閉じていた。
思わず覗きこもうとしたとき、
「こいつは人事不省に陥った。早く斬り離せ」
ミアは硬直した。
「あなたは……一体?」
「こ奴の左手じゃ。早くせい。でないと、おまえも奴も死ぬぞ。――ま、ひとりは滅びるといった方が正確だが――」
「………」
「ほう、顔つきが変わったの。やる気になったか。そうじゃ、そうやって剣を持ち上げい。こら、足がふらついとるぞ、しっかり踏んばらんか。もっと性根を据えろ。そうじゃ。持ち上げて――いまじゃ!」
ミアはふり下ろした。
剣から両手をもぎ離そうとしたが、指は柄に貼りついた飾りみたいに固く巻きついていた。
はじめて人間の手を斬り離した手応えに、ミアは気死状態にあった。
その足首をぐいと掴んだものがある。ぎょっと眼を落として、ついに、きゃあと叫んだ。足首を掴んでいる指も、その背後の手も、たったいま斬り離したDの左手そのものであった。
「わしが自分で行ってもいいが、それよりは生身の人間に運んでもらった方が、ずっと早い。こら、わしを拾って、指示する場所へ運んでいけ」
「……やだ」
「やだとは何じゃ。でないと――」
「わかった、わかりました」
「何じゃ、その不貞腐れようは。おまえ、自分の義務がわかっておるのか?」
「義務なんかじゃないわ」
「やかましい、さっさとせんか」
次の瞬間、足首から全身に電撃が走り、ミアを跳び上がらせた。
「な、何するのよ、この――」
「左手じゃ。つべこべ言いおると、今度は電撃のパワーを上げるぞ」
「フォークない?」
「この小娘!」
「もう!」
まるで体操でもやるみたいな動作で、ミアは左手を拾い上げた。脳裡にDの姿を思い浮かべていなければ、不可能な作業だった。
「どうするのよ、これ[#「これ」に傍点]を?」
眼をそむけながら訊いた。手首の斬り口から、血は一滴もこぼれていない。
「これ[#「これ」に傍点]ではない。左手さん[#「さん」に傍点]じゃ」
「どうするのよ、左手さま[#「さま」に傍点]?」
「へらず口を。――いいか、丁寧にわしを持ち上げ、言われたところへ運べ。それで万事は丸く収まる」
「ひょっとして、さっき、私を冷やしたのもあなた?」
「ほっほっほ」
さも驚いただろうという笑い声に、うんざり顔を圧《お》し殺して、ミアは左手を持ち上げた。
その身体が白く染まった。陽光が灼熱したのである。
ミアは眼を閉じた。身体はとにかく、視神経がたまらない。
「奴[#「奴」に傍点]め、ついに太陽まで操りはじめたか。こいつは放っておけんな。――ミアよ、急げ」
「何よ、なれなれしい」
ののしりながら、ここは従うしかないとわかっていた。
「どうするのよ?」
「真っすぐ普通の歩幅で五歩進め。それから、右へ二歩と半。そこでわしを眼の高さへ上げろ」
「はいはい」
「はい、は一度でよろしい」
「は、い」
と歯を剥いてから、言われた通りの位置まで動いた。汗が吹き出して、体内の冷気が失われつつある。
ふらり、とした。
「こら、動くな。微妙な操作が必要じゃ」
と左手が喚いた。
「あ、はい」
必死で持ち上げ、しかし、また崩れかけた。こりゃ、いけない――おしまいだろうか。脳まで熱い。
眼を開けた途端に汗が流れこんできた。前髪が額から眼にかかる。
必死で頭をふったその視界に、横たわる美しい顔が見えた。
「――D」
どこからともなく、力が湧き上がった。自分のためではなく、別の誰かを救わなくてはならない――そのための力であった。
「いいぞ、そうじゃ、持ち上げい。――よし!」
何もない空間へ左手がのび、すっと消えた。
めまいが襲った。
「よくやったぞ、ミア」
満足げな嗄れ声を耳にした途端、ミアはその場へ倒れ伏した。
大理石の階段を下りて、ミアは奇岩に囲まれた湯殿に辿り着いた。自然の温泉に手を加えた貴族専用の風呂である。
胸から腰までを覆ったバスタオルを落とし、シャワーを浴びてからつかった。
汗まみれの身体が浄められるようだ。
長い息を吐いて周囲を見回すと、蒼穹《そうきゅう》の下に広がる岩場のあちこちから、雲みたいな湯気が立ちのぼっている。
ここが、核兵器の直撃にさえ耐えられる堅牢無比なドームの内側だと、誰が信じられるだろう。
ミアが眼を醒ましてから三〇分以上が経過していた。
左手が内部へ入って、貴族用の代謝調節剤をDに与え、彼がミアを引き入れたとは、左手の話である。いつの間にか、もと通りDの一部と化しているのを特に不思議とも思わなかったが、
「お湯でも浴びて来たまえ」
と、空中に出現したドームの見取り図を示す声に、かつてない穏やかさを感じて、ミアは嬉しかった。
平穏な安らぎに溶けてゆく。その満足と調和の感覚を、しかし、胸の中から湧き上がる不安が押しつぶそうとする。
もうひとりのD――あれは何者なのか。母の占いに出た、この世界の成り立ちにまで影響を与えかねない未曾有の危機とは? 自分はどうすればいいのか。
Dは? ――ふと閃いた。あの美しいハンターが、占いに出た危機を回避し得る唯ひとりの存在なのは間違いない。だが、ミアの見たところ、彼は冷然たる拒否と無関心を置き土産にこの土地を去るであろう。そうしたら、残された自分に何ができるのか。
味わった覚えのない痛烈な孤独感が、小さな胸を締めつけた。
「怖いわ――母さん」
湯の中で、ミアは自分を抱いた。あたたかさは幻のように空しく感じられた。
「私は母さんとは違う。どうしたらいいの? 何もできないのよ」
身体が小刻みに震えた。何年ぶりかのことであった。閉じた瞼の間から涙がこぼれ、頬を伝わった。
ふと、頭上に人の気配を感じた。近づくのも知らさず、突如として出現した。――それが正体を告げた。
「――D?」
顎まで湯に潜ったのは、そう尋ねた後であった。
「やだ。何しに来たのよ?」
気配は答えない。見られているのか、とミアは羞恥に身の縮む思いだった。そのくせ、どこかで――ほんの少しだけ――胸が躍った。
「やだ、出てってよ」
「出ろ」
その声が、自分に向けられたものではないと知った刹那、ミアの身体は湯の温度を忘れた。
三メートルほど前方の湯から人影が立ち上がった。
たぎり落ちる滴も、その顔と姿を隠すことはできなかった。
D。
だが、どちらの?
湯中のDが、にっ[#「にっ」に傍点]と笑った。湯の高さは腰。両手の肘から先は湯の中に沈んでいる。
「用があって来た」
と言った。どうやって、もうひとりのDと左手の眼を盗んで“闇住い”に侵入できたのか。
「去るのか、D?」
と訊いた。ほんの少し、間をおいて、
「答えまいな、しゃべるまいな、おれ[#「おれ」に傍点]ならば。――おれも正直、おまえのいない方がいい。だが、いつ戻ってくるかもしれないと考えるくらいなら、いま、ここで処断した方がよさそうだ」
湯殿のDの姿がすっと沈んだ。
胸まで水位が高まり、次の瞬間、湯中から、恐るべきものが地上のDを襲った。
かっとミアが眼を見開いたのは、それが生首だったからだ。斬りたてらしく、どの首も傷口が生々しい。
「さっき、おまえを行かせた、村の連中だ」
と、Dは宣言した。
「役立たずどもめが。しかし、いまなら役に立つぞ。――こいつらは、おまえに感謝していた。これを見ても、何も感じぬのか?」
白いすじが空気を灼いた。
生首が揺れた。その眉間に白木の針が突き刺さっている。地上のDの放ったそれを、湯船のDは村人の首を楯に防いだのだ。
飛沫《しぶき》を上げて、その身体が湯中に没する。
「動くと、娘が死ぬぞ」
声は湯の中からした。
「刃は両脚の間に触れている。うら若い娘が下から縦に裂けるのを覚悟でおれを討つか、おれ[#「おれ」に傍点]よ」
ミアは恐怖に心臓を鷲掴みにされながら、股間に意識を集中した。
刃の感触はない。だが、Dの姿をした男が、嘘をつくとは到底思えなかった。
そして、これこそが恐怖の本質であったが、背後のDは、彼女の生命など無視して敵を討つのではないか。
母さん――
突如、襲いかかるはずの苦痛に備え、ミアは眼を閉じた。
ふら、とめまいを感じた。それは一瞬でもあり、永劫でもあった。
「行ったの」
と左手の声が言った。
「出ろ」
何事もなかったかのようなDの声であった。
突風のような激情が、ミアの胸に吹き乱れた。
いま、自分は彼に斬られる覚悟を決めた。恐怖とあきらめのどこかに、この人に斬られるのなら、という想いがあった。
それなのに、この冷たさはどうだろう。自分の精神《こころ》も知らないで――
ミアはふり向いた。ひとこと言ってやるつもりだった。
だが、湯気のたちこめる白い浴場に、美しい若者の姿は、もうどこにも見えなかった。
[#改ページ]
第四章 汝(なんじ)、その名を告げよ
ミアが着替えて居間に戻ると、Dは窓のそばに立って外を眺めていた。
黒衣の姿は、ありふれたポーズを取りながら、周囲のすべてから、ひどく隔絶して見えた。
そうやって生きてきたのだろう。恐らくは生まれ落ちた瞬間から。
この若者の両親とは、どんな人間だったのか。――異様なまでの好奇心に、ミアは身の内が震えた。
D――と呼びかけようとした寸前、黒衣がこちらを向いた。
反射的にミアは立ち止まり、動けなくなった。
このDはどちらのDなのか?
「安心せい、本物じゃ」
左手の声がきこえてきたときには、本当に力が抜けた。それほど、もうひとりのDの暗躍ぶりには、心底脅えていたのである。
「あのDは――もう?」
「徹底的なドーム内のチェックを行った。恐らく逃げただろうて」
「――とは限らん」
ミアは愕然とDを見つめた。この若者のひとことには、左手に数倍する重みがあった。
「おれたちは、奴の侵入に気がつかなかった。出て行くのも同じだ」
「あなたの眼を盗んで“闇住い”に出入りするなんて。信じられないわ」
「奴はおれだ[#「奴はおれだ」に傍点]。不思議はあるまい」
「何者なの?」
と言ってから、無駄な質問だったと気がついた。
「ひと休みしたら出て行く。君は好きにしろ」
「どうしても行くの?」
「用は済んだ」
「あの人たちは殺されたわ。あなたの姿をした男のために。あいつは、あなたをこの土地に留めておきたいのよ。このままだと、もっと死人が出るかもしれない」
「おれと人死には関係あるまい」
「あいつは、あなたが我慢できなくなるのを待っているのよ。次々にあなたと関係を持った人たちを殺して、あなたが自分のところへやって来るのを待っているんだわ」
「考えすぎだ」
「違うわ」
「そうだとすれば、あいつは間違いを犯した。おれは出て行く」
「死と破壊と殺戮が世界を覆うのを知りながら? それを食い止めることができるのは、自分だけだと知りながら?」
「君が出て行かないのなら、おれが行く」
Dはテーブルの上に置いてあった鞍鞄《くらかばん》を持ち上げ、ドアの方へと身を翻した。
全く無意識に、ミアはこう叫んだ。
「何とかしてよ、左手!」
「左手――さん[#「さん」に傍点]じゃろうが」
歩み去るDの腰のあたりで嗄れ声が言った。
「何とか引き止める手はないの? この人、自分がどんな存在か、まるで気がついていないのよ」
「そうじゃろう」
「止めて」
一緒になってドアの方へと移動しながら、ミアは夢中で叫んだ。
「礼をするか?」
左手の声が急に小さくなった。
「します!」
考えもせず叫んだ。
「よかろう――金はあるか? こいつはハンターじゃ。――ぎゃっ!?」
苦鳴は握りしめた拳の間からきこえた。
Dはドアを抜けようとしていたが、ミアには十分だった。
「待って。私、あなたを雇います」
怒鳴るように言った。
Dの足が止まったとき、ミアは勝利を確信した。
Dはふり向き、そして、すぐ歩き出した。
「ちょっと待って。私――」
「この地方に貴族はいないと言ったはずだ」
彼は吸血鬼ハンターなのだった。実力のふるい甲斐がないところに残っても仕方がない。
ミアは絶句した。
Dは行こうとしている。ミアとの間には、永劫ともいえる距離があった。
そのとき、ある考えが脳裡に閃いたのは、天啓か陰謀か。
「D――」
と呼びかけた表情は、別人のように固く勁烈《けいれつ》であった。
「あいつは、あなただと言ったわね。なら、あいつもダンピール――貴族の血が流れている」
この娘は自分の口にしている内容がわかっているのだろうか。
戸口の向こうで、Dの姿は像のようにぴたりと停止している。
「貴族が最も好むのは、若い娘の――処女の血ときいたわ。なら、D――これはどう!?」
いきなり左手を持ち上げるや、ミアは右の拳をその手首の上で一閃させた。護身用のナイフが握られていたのである。
音さえ立てて、鮮血が床にたぎり落ちた。
「本物の処女の血よ。――ああ、D、何も感じないの? お願い、何とか言って」
ミアは動脈を断っていた。血止めをしなければ、一分とたたないうちに出血多量で死ぬ。
Dはふり向いた。
闇色の影の上部で、二つの光点がかがやいていた。血色《ちいろ》の紅玉《ルビー》のごとく、生々しく残忍な飢えを湛えて。――Dの双眸だ。
「ごめんなさい。私、とんでもないことを。でも、これしかなかった。D、その眼があなたの血の証し。あなたに流れている貴族の血の。D、私の依頼よ。あなたのその手で――あなた[#「あなた」に傍点]を斃《たお》して」
言い終えると同時に、ミアはその場に崩れ落ちた。血液の急激な消失のせいもあるが、途方もない発言は、まさに必死の気力をふり絞ったものだったのである。
地上に落ちた白い花のつぼみのような姿のどこかから、濃厚な匂いを放つ赤い染みが広がっていった。
ミアは眼を開いていた。
近づいてくる。世にも美しい影が。だが、その血も凍りそうな鬼気。彼女の知らぬDが。
足下で黒い影が立ち止まり、真紅の双眸が見下ろした。
「そうよ、D――私の血を吸って」
ミアは、なお血のすじを引く左手を上げた。
「あなたなら、いいの。そして、あなた[#「あなた」に傍点]を――斃して。これが私にできる報酬よ」
手が力なく床に落ち、小さな血の飛沫《しぶき》をとばした。
完全に意識を失った青白い娘を少しの間見下ろし、それから、ゆっくりとDは身を屈めていった。
白い喉の下に、青い管が浮き上がっている。頚動脈だ。
その晩、現役のもと[#「もと」に傍点]治安官――老《オールド》ジャルは、黒い夜風の訪問を受けた。
鍵のかけてあったはずのドアが開いた、と思った刹那、吹きこんできた夜風がランプの炎を消し、生じた闇の中に、夜風が凝固したような黒い人影が見えた。
窓外に月が出ている。
「おまえは――D?」
眼を剥く老ジャルの前の机に、人影は次々と五個の生首を並べたのである。
「埋めてやれ。断っておくが、斬ったのはおれじゃない」
老ジャルは、自分が果てしない孤独な宇宙のどこかにいるような気がした。
「わかっておる……しかし、村の連中には、それでは済まんぞ」
「好きにしろ。おれはあちこち動かねばならん。邪魔をしないように伝えろ」
「一体、なぜ、戻ってきたのだ? Dよ、わしの身にもなってくれ」
「おれと同じ力を持った貴族がこの地にいる。放っておいていいのか?」
「証拠があるのか? ここは平穏な村なのだ。おまえとあの女が来るまでは。この首でも見せたら、みな、一丸となっておまえたちを狙うだろう。だが、たとえ百倍の人数が集まろうと、おまえに勝てる道理がない。わしが恐れているのはそれだ。Dよ、罪もない村人を手にかけるか?」
「明日、広場に村の連中を集めろ」
とDは言った。
老ジャルは石でも砕けそうな視線を浴びせて、
「説得でもするつもりか? ――それとも」
「時間は正午がよかろう。また来る」
老ジャルが口を開く前に、影は闇に溶けた。
Dの指定した時刻、あの地鳴りを凌ぐ胎動のごとき音が村の広場を埋めていた。
それは、手に手に武器を持って集合した男女の、憎悪と不安と殺意に満ちたざわめきと息遣いであった。
蒼空と陽光が地面に影を鮮明に灼きつけている。
広場のすべてを、五対の虚ろな眼が、どんよりと映していた。
今朝、老ジャルの依頼を受けた大工が、大至急で仕上げた木製の台――その上に並んだ生首である。
老治安官はすべてを村の公会堂で村人に話し、全員一致でDの抹殺を決定してから、広場へと繰りこんだのである。
Dへの怯えを認めた上での決意だ。いかにDといえど、ここへやって来て無傷では済むまい。いや、ミアの不安と恐怖の核――村人を手にかけたら。
「治安官、奴は本当に来るんだろうな」
ひとりが、台のそばに立つ老ジャルに訊いた。
「そう言っておった」
「おれたちをここへ集めといて、目ぼしいものをかっぱらおうてんじゃ――」
「あれは本物の男だ。来るといったら来る」
「やけに肩を持つじゃねえか」
「うるさい」
と老ジャルが青すじを立てたとき、
「誰か来るぞ!」
と声が上がった。
全員が思い思いの方向を眺め、
「こっちだ!」
とひとりが決定した。
村の通りを人影がやって来る。
「Dか?」
「違う。それに、何人もいるぞ」
「あれは、ゲールだわ!」
母親らしい年老いた女の声が、歓喜を噴き上げた。
「セストもいるぞ、クーナンも! あの穴から出て来たのか!?」
「生きていたんだわ!」
それは、最初に大陥没へと向かい、消息を絶った男たちであった。
三人いる。
全員が大規模な潮流と化して、そちらへ走り出そうとした。
それが止まった。逆戻りのパワーが、後方の連中をのけぞらせた。
「ゲール、セスト、クーナン!」
三人の男たち――みな若者だったが――の様子がどこかおかしい。
いや、外見、歩き方に、別段異常はない。それなのに、おかしいのだ。
まるで、陽光の下を歩くのが場違いだという風に。
一同が沈黙して見守る中、三人は広場へと足を踏み入れた。
「ゲール」
年老いた女が、石の首飾りを揺らせつつ前へ出た。涙が光っている。
「生きててくれたのね。母さん、もう、何にも――」
息子――ゲールが、にっと笑った。
その瞬間、びゅっと空気が唸った。
母親はひどく高い位置から村人たちを見下ろしていた。血の帯を引く生首と化して。
「ゲール!? セスト!? クーナン!?」
歓喜の声は恐怖のそれと変わった。
村人のひとりが火薬銃を構え、一発射った。
ゲールの右肩が弾けた。次の瞬間、彼はジャンプして、射手の眼前まで七メートルも跳ぶと、その首すじめがけて右手をふった。
恐るべき手刀であった。射手の首が吹っとんだのみならず、巻き添えを食らった左隣りの村人二人の首も、半ばちぎれ、血の噴水を吹きつつ転倒したのである。
「セスト――一体ゲールは?」
兄にすがりつくようにして尋ねたのは、まだ二十歳にも満たぬ妹であった。
その側頭部にやさしく両手をあてがうと、兄はさらにやさしく右方へひねった。首は正確に一八〇度回転し、頚骨を砕かれた妹は即死した。
先発の二人に劣らず、クーナンも行動を開始していた。
知らぬ間に、彼は一本の枯れ枝を手にしていた。
一五〇センチにも満たぬそれ[#「それ」に傍点]が、還ってきた若者の手にかかると、凄まじい威力を発揮したのである。
軽いひとふりで、古い装甲服を着た村人の胴体がひしゃげた。同じ強さで突くと、三人の村人が串刺しになった。
のみならず、
「おい」
と声をかけると、ふり向いたゲールとセスト目がけて、枝を突き上げたのである。
串刺しの三人は勢いよく跳び出す。それが空中にいる間に、ゲールとセストの手と足が上がった。
村人の身体はきれいに首だけが分断されて地に落ちた。
「何をする。――みんな、仲間だぞ」
老ジャルの右手から、声と一緒に真紅の光条が迸った。
ルビー・メーザーがセストの右胸を貫き、炎と煙で包んだ。容赦なく連射を浴びせて、ついに打ち倒した刹那、老ジャルは頭上から降下するゲールを見た。
いかん、と眼を閉じたため、新しい運命の、世にも凄まじい斬断音を聴いたのは、その耳であった。
どっと地に落ちたのは、ゲールの右腕だ。肩のつけ根から斬り落とされた若者は、老ジャルの五メートルも後方に降り立ち、その右方――さらに五メートルの位置に立つ、世にも美しい黒衣の青年を、ねめつけていた。
D――
誰かがその名を呼んだ。
ゲールが何か言い、疾風《はやて》のごとく突進するや、黒い騎士の鳩尾《みぞおち》と胸部に思いきり左手で正拳を打ちこんだ。一秒間に一〇発――神がかったスピードである。
Dはすべてをかわした。身体は優雅な弧を描いた。そして、一刀が閃いた。
刃はゲールの失われた右腕のつけ根から、真横一文字に走り、呪われた心臓を両断した。
倒れるゲールを尻目に、Dは反転した。
その顔を、細い死の枝が横一文字に薙いだ。
二撃目を、とクーナンが身構えたところで、枝は肘ごと斬り離された。
棒立ちになったきり、クーナンは動かなくなった。
その喉もとに突きつけられているのは、Dの刃《やいば》であった。
「実験用の死体を集めにきたか?」
とDは錆びた声で訊いた。
「それとも、殺戮こそが、実験か? ――答えろ」
クーナンは答えない。眼にこそ恐怖の色はあるが、機械のような無表情を保っていた。
その左手が、これも肩から落ちたのである。
「うおおおおお」
とのけぞる敵へ、
「二度は訊かん。――おれ[#「おれ」に傍点]はどこにいる?」
静かな問いであった。
空気が美貌を打った。
クーナンの身体は、後ろ向きのまま跳躍したのである。
一〇メートルもの彼方に着地するや、さらに猛烈なジャンプをかけて広場を脱け出し、後をも見ずに走り去った。
黙って刀身を鞘に戻し、Dは村人たちをふり返った。
鐘の音が遠くきこえた。正午――Dの約束した時刻だ。
惨憺たる表情と瞳がDを捉え、徐々に別の色を浮かべはじめた。
老ジャルがのろのろと近づき、
「よく……来てくれた……」
と言った。倒れた二人を見下ろし、
「あれは……一体?」
「変えられた。――いま暴れたのは、おまえたちの仲間の姿をした別人だ」
「……変えられた? 誰に?」
「おれと同じ姿をした男だ」
「それなら、昨日の朝、追いかけていった者から報告を受けている。確かに瓜二つだったそうだ」
「放っておくつもりか?」
「わしとしては、逃げ去ってくれれば不問に付すつもりだった」
Dは右足を上げて軽く地面を踏みつけた。
「奴はこの下にいる。貴族の血を引くものだ」
「――おめえと瓜二つだからなあ!」
いきなり、Dの横合いから、悲痛な叫びが上がった。クーナンの木槍に串刺しにされた女の子を抱いた血まみれの中年男だ。父親に違いない。
「治安官からきいた。おめえ、ダンピールだってな。貴族と人間の合いの子だ。あいつは、おめえの兄弟に違いねえ。――おめえ、おれたちをここへ集めて、あいつらに襲わせたな」
空気が変成した。おびただしい憎悪の帯がDの周囲から一斉に噴き上がったのだ。
「皆殺しにするつもりか? どうなんだ?」
「返事をしろ」
口々に声が言った。
「部品を集めている」
平然とDは応じた。
「部品? 部品て何だ?」
「死者の肉体から採取できるものだ」
沈黙が落ちた。
とまどいが去来する村人たちの表情のひとつが、戦慄を固着させた。つづいて、もうひとつ、もうひとり。――Dの言葉の恐るべき意味を、ようやく理解したのである。
「きさま……殺した上に、中身[#「中身」に傍点]まで盗む気か?」
耳をふさぎたくなるような叫びが上がった。これも血まみれの女のひとりが、右手にナイフをふりかざして、Dめがけて走り寄ろうとする。
その背後から両手で抱き止め、
「あんたの気持ち――いや、あんた方の気持ちはわかるが、この若いのは犯人じゃない。その証拠に、みろ、仇を討ってくれたじゃないか」
地べたには二人――ゲールとセストが横たわっている。
「これも罠だ。こいつらにわざと暴れさせ、助けにきたんだ。おれたちを信用させるために」
そうだ、という声が上がった。
老ジャルはため息をついて、
「Dよ――これでは手に負えんぞ。やはり、早く出て行った方が……」
「依頼があった」
「何ィ!? 誰からだ?」
答えず、Dは一歩進み出た。
憎悪の声がぴたりと熄《や》む。
「腕自慢は出ろ」
とDは、自分の前の地面を指さした。
凄惨な村人たちの表情が、また変わった。内臓まで煮えくり返る怒りも、いま眼にしたDの手練の前には、冷めるしかなかったのである。
「出ろ。仇を討つ気力もないか。あの三人を派遣したのは、おれだ」
どん、と音のない波動が広場を渡った。
街道で、追尾してきた村人たちに施したのと同じやり方である。
「どうした、怖いか?」
とDは静かに挑発した。
「親の、子供の仇を前にしたまま、行かせるか。なるほど、おれがここへ現れたのは間違いではなかったわ」
Dは踵《きびす》を返した。口もとには冷やかな笑みが浮かんでいる。侮蔑のそれ[#「それ」に傍点]であった。
広場の出入口につないであるサイボーグ馬の方へ、数歩進んだとき、
「待ちやがれ!」
若い声が吠えた。
Dはそのまま進む。
「ふざけやがって。許さねえ、妹の仇だ」
手に大鎌を握りしめて叫んだのは、二十歳前と思しい若者だ。
「この村にも男がいるってのを教えてやる。みんなも見とけ!」
よせ、と誰かが止めたが、若者は猛然と地を蹴った。
ふり上げられた大鎌は、人間の首どころか胴さえも二つ三つまとめて両断しそうな迫力があった。
「うおおおお」
気合というには、あまりにも破れかぶれの叫びとともに、ふり下ろした一閃。距離もパワーも十分なそれを、Dはわずかに上体を右へ傾けてかわした。
間髪いれず、反転して襲いかかった鎌の刃は見事というタイミングの一撃であったが、それも空を切り、うわっと若者がよろめくのを尻目に、Dはもとの方向へ進んでいく。
無防備に背を見せた、侮蔑ともいえるその姿へ、若者はたちまち逆上し、立ち上がるや、再び駆け出した。
光条が流れた。ふたすじ。
大鎌の刃はDの右肩を大きく跳び越えて前方の地面に食いこみ、若者の喉には刀身の切尖《きっさき》が押し当てられていた。左の肩越しに突き出されたDの刃であった。
後ろ向きのまま、Dがいつ距離を詰めたのか知るものも、いつ一刀を抜いたのか見たものもいない。
「名前は?」
硬直した若者にDが訊いた。
「………」
「名前は?」
「フロスト……だ」
「少なくとも、ひとりは男がいたわけだ。――助けてくれと言ってみるか?」
この質問、この冷酷――彼は本当のDだろうか。
「そうすれば、生命は助ける。――どうだ?」
若者の顔は汗にまみれていた。恐怖だ。死の恐怖のせいだ。彼は口を開いた。唇は激しく震えていた。
「殺せ……この……半化物」
次の瞬間、猛烈な足払いを食らって、フロストは転倒した。
仰向けの姿勢から立ち上がろうとして、彼は自分の大鎌をふり上げたDを見た。
「まだ、言う気にならないか?」
「殺せ! 同じ化物になって、てめえを殺しに来てやる」
無造作にDは鎌をふり下ろした。
その刃《やいば》に、横から突き出された長剣の刃《は》が噛み合い、青白い火花を上げた。
「もうひとりいるぜ」
剣を構え直した赤髪の男の姿は、本格的な剣の訓練を受けたもののようで、地上の若者が、
「ラッシュさん」
と明るい声を張り上げた。
それに応じたもののごとく、さらに三個の影が、Dを取り囲んだのである。いずれも剣と手斧を武器にした男たちであった。
数を頼むのではない。その証拠に、
「ひとりずつだぞ」
と言い放ったラッシュに、みな整然とうなずいたのである。
「面倒だ」
とDは言った。昨日の村人たちへの言葉と等しく。
「まとめて来い」
そう言われても、かかれないのがこの男たちであった。だが、鋼のような響きの声を耳にした途端、彼らは全員、拍車に打たれた馬のごとくDめがけて殺到した。
そして、ことごとく、利き腕の手首を脱臼させられて武器を落としたのである。
大鎌ではない。Dの右手の手刀――その一撃によって。
「おまえたちの相手の力がわかったか?」
何事もなかったようなDの言葉は、村人たちを完全に打ちのめした。
声もない絶望の人影へ、
「今後一切、おれの邪魔をするな。おまえたちの真の敵は、地の底にいる。おれが奴を斃すことが、失われた生命への供養になるだろう」
こう告げて、Dはサイボーグ馬の方へと歩き出した。
やがて、蹄の音が彼方へと遠ざかっていっても、追おうとするものもいず、悪罵の声もきかれなかった。
ミアは“闇住い”の前に立った。
もちろん、ガード・システムが作動しているため、肉眼で見ることができないのは昨日と同様だ。
Dは近づくことも禁じた。もうひとりのDが侵入していたのだから当然の行為だ。
ミアにもその気はなかった。目下の住まいは村外れの廃屋である。そこを抜けてやって来たのは、占い師の娘として、貴族の遺品に興味を引かれたからだ。
貴族たちが、その科学文明とは別に、呪術的な文明も同時に発展させ、高度なレベルでの実現を可能にしていたことは、その道に足を踏み入れてみればすぐにわかる。ミアたちの占いも、体系的には、彼らの文明の成果にのっとっているのだった。
だが、貴族の遺した呪術文明のすべては、垣間見ることもタブーとされ、あるものは焼かれ、あるものは地底深くに封印された。
時が経つうちに、極めて微小な部分が禁断の知識として流出しはじめたのは、やむを得ないことだったかもしれない。
この場合、それを成し遂げたのが、邪悪な目的を持つ人間の魔道士たちだったという事実も、非難されるにはあたるまい。
彼らは絶対零度に近い極寒地帯へと入りこみ、造り出した貴族すら入るのをためらったという生きている森へ侵入し、手づくりの潜水球で五万メートルもの深海潜航を行った。
焼かれた書物や破壊された分子記録、空間封印レコード等は、細心の注意と魔力とをもって継ぎ合わされ、再生の道を辿った。
歳月は流れ、邪悪な目的に端を発した努力は、決して実り多いとはいえなかったが、大陸のあちこちに撒き散らされた禁断の知識は、生真面目な学徒や研究家たちの探求心にも火を点すにいたった。ミアもそんなひとりだったのである。
貴族の施設には、ひょっとしたら、呪術や秘儀参入の秘法のヒントが隠されているのではないか。占い師の娘たるミアの精神《こころ》は、凄まじい好奇と探求の心に突き上げられたのである。
だが、見えざるドームは、退出時にDが封印した。ミアの手では入室も不可能だ。だから、と考えた。前まで行くだけなら。どうせ入れないんだし、危ないことは何もないわ。
いま、その前に立ち止まり、馬上から見下ろして、彼女の胸に去来するのは、やっぱりという安堵と――失望であった。
馬の首を撫で、
「帰ろう」
とささやいた。
そのとき、光景が変わった。
突如、灰黒色の建物――ドームが忽然と現れたのである。
思わず手綱を引きしめ、しかし、ミアは瞬時にその虜となった。
なぜ、どうして? ――と働くべき思考を、壁の表面に生じた長方形の穴が打ち砕いた。
出入口だ。
一体、誰が?
馬上でここまで考える余裕があった。見えないドームは開いたままである。
入ってはいけない、と理性が命じた。ミアはそれに従える娘だった。現に、手綱を引いて馬首を巡らそうとさえしたのである。
そのとき、穴が――戸口が縮みはじめたのだ。
反射的に、ミアは馬から跳び下りていた。それでも、戸口の前まで行って立ち止まるだけの理性は働いた。
入ってはいけない。おかしい。
入口は閉じていく。
それが、背を丸めてようやく人ひとりが通り抜けられるサイズにまで縮んだとき、ミアはまさしくその通りの姿勢をとって、暗い穴へ突進していた。
内部は昨日、見た通りだ。貴族の施設は、貴族以外の存在にはチェック機構が働き、侵入者は処分されるときいたが、そんなこともなかった。
なぜ、姿を現し、自分を招いたのか――いざ入ってみると、疑問はより具体的な恐怖の黒雲と化して胸中で渦巻いた。
ミアはまず出入口のところにある三次元見取り図で、ドーム内の構造をしらべた。操作は簡単だった。ドームは彼女を貴族と見なしているらしかった。
「瞑想室」というのがあった。
地下三階――最下部の一室である。
自走路とエレベーターに乗って着いた。縦横高さが五メートルほどの立方体の部屋であった。妖しい図や色彩もない。
それでもコンクリートを貫くような視線で見回していると、
「ご熱心だな」
だしぬけの声に、ミアはきゃっと叫んでふり向いた。
「――D!?」
扉の前に立っているのは確かにDだ。両腕ともに健在。
だが――
「あなたは、どっち[#「どっち」に傍点]なんです?」
怯えを隠そうとして、うまくいかない声に、
「おまえの知らん方のDだ」
「にせもの!?」
この反応に、Dは喉をそらして笑った。
「何がおかしいのよ!?」
ミアは腰のパウチに右手を走らせた。ループに差しこんだカプセルには、占い用の秘粉が入っている。
怯えは消えていた。
「その左手――どうやってつけたの?」
「貴族の力を知らぬわけではあるまい。斬られた腕をくっつけるなど、子供の遊びだよ」
Dは片手をふって、
「いや、失礼したな。にせものか――それがどんなに奇妙な呼び名か、おまえにはわかるまい」
「にせもの[#「にせもの」に傍点]はにせもの[#「にせもの」に傍点]でしょう」
胸いっぱい怒りを張り詰めさせながら、ミアは眼前の美しい若者に対して、奇妙な親近感が湧き上がるのを抑えることができなかった。
「おれに言わせれば、あいつがにせもの[#「にせもの」に傍点]だが、まあいい。おまえをここに入れたのは――」
「やっぱり、あなた、ね」
「虫のいいことを。――おまえの好奇心だ」
「違うわよ」
一応、言い返したものの、図星だ、と認めざるを得なかった。幸い、相手はそれ以上、突っこまず、
「やはり、占い師の娘だな。どうしても、貴族の秘密を探りたいとみえる。だから、待っていた」
戦慄がミアの背を貫いた。自分の心理を、このにせもの[#「にせもの」に傍点]は巧みに読み取り、ここへ招き入れたというのか。
「なぜ、よ?」
右手はいちばん物騒な――溶解粉カプセルを握りしめていた。
「そう喧嘩腰になるな。おまえの知りたいことを教えてやろうというのだ」
「私の、知りたいこと?」
「おれが誰か」
「あっ!?」
「そして――奴が誰か。こっちの方が興味がありそうだな」
にやりと笑った表情は確かにDのものだが、ミアは心底ぞっとした。この若者がDではないと確信したのはこの瞬間である。
「来るがいい。こんな部屋を眺めていても何にもならん」
そう言って身を翻した黒衣姿の後を、ミアは少しためらっただけで追いはじめた。
同じ階の廊下をエレベーターと反対方向へ進んでいくと、すぐに突き当たった。
それでも、にせDは足を止めない。
「ちょっと、危ないわよ」
声をかけてから、はっとしたが、黒衣姿は躊躇なく前進し、壁にぶつかり、ふっと呑みこまれてしまった。
「これも幻だったの?」
念のため、片手をのばすと、冷たい表面が反発してきた。本物としか思えない。
茫然としていると、確かに壁の中から、
「奴のチェックもこれは見破れなかったようだな。無理もない。一昨日までは、普通の壁だったのよ」
「じゃあ、あなたが造り変えたの!?」
「そうなるな」
「………」
「驚くことはない。なかなか、素直な娘だな。――貴族にとっては簡単なことだ」
「やっぱり、あなた、貴族の生き残りなのね。なら、正直に自分の姿に戻ったらどうよ?」
冷たい石の壁に、ミアはその言葉を叩きつけた。残忍冷酷な相手がDの姿をしていることに、我慢ならなかったのである。
「自分の姿に?」
驚いたことに、石壁の向こうからきこえてきたのは、これも驚きの声であった。
ミアの胸に、ある[#「ある」に傍点]――自分でもよくわからない不気味な――動揺が走ったとき、それは、異様なふくみ笑いと化したのである。
「よかろう。じき、そうしてくれる。その前に――来い」
石壁から黒い手がのびた。ミアに退く暇も与えず、それは胸もとを掴み、石壁へと引きこんだのである。
恐らくは、分子構造に何らかの手を加えたのであろう。水というより濃霧の中を走るような感覚を皮膚が受け止めたと思った刹那、ミアは向こう側にいた。
むっとするような熱気が顔を叩いた。温度が高いというのではない。水分を多量に含んだ空気だ。
前方のにせ[#「にせ」に傍点]Dよりも、彼女の眼を引いたのは、周囲の光景であった。
巨大な洞窟――それも、凹凸のない壁と床と天井から、ひと目で人工のものと知れる。もと[#「もと」に傍点]が自然の産物でも、明らかに人間の手が加わっている。――いや、貴族の手が。
直径五、六〇メートルはありそうな大空洞は、何とか天井まで見渡すことができた。照明装置はない。壁や天井自体が発光しているのだ。
「かつては、もう少し、光量が豊富だったのだがな。一度、動力装置が完膚なきまでに破壊されてからは、いくら手を加えてもこうしかならん。自己修復機能はご神祖の手になるゼロ空間にシールドされていたものを。恐るべき敵がいたものだ」
「敵? 貴族に敵がいるの?」
「いまだ、正体はわからんがな。――来い」
二人は前進を開始した。
熱気のせいで、ミアは一〇分と歩かないうちに呼吸切《いきぎ》れしてしまった。
「もう駄目よ。この暑さ、何とかならないの?」
と喘ぎ喘ぎ言うと、
「地熱のせいだ。サーモスタットが修理不能でな。我慢しろ」
「歩けないわ」
と顔を伏せたとき、左腕の下に、ぐいと鋼のような腕がさしこまれた。
「何を――」
言い終える前に、ミアの体は持ち上げられ、回転し、にせDの背中に負われていた。
「何するのよ、下ろし……」
あらがっても何にもならないのはわかっていた。すでに、にせDは歩きはじめている。疲労と息苦しさで、ミアはすぐ黒い背にもたれた。
頭上で身の毛もよだつ叫びが交錯したのは、そのときだ。
ぱっと生臭い風が背を叩いたと思うや、ぎええとひと声、何かが首のあたりをかすめて落下していった。
「走るぞ」
にせDの声が風を切りはじめた。
「一体、何よ?」
「大破壊があった後、飼育していた護衛獣の生き残りが、内部に広がったのだ。現在のここは、極めて危険な環境といえる」
「そんなところで、何をしているのよ?」
「じきにわかる」
「じきって――」
ミアの言葉を再び頭上に迫る羽音が断った。
どんな形の生き物かもわからない。その羽音の異常な多さが、ミアを戦慄させた。
音が広がった。一斉に舞い降りてくる。
つづけざまに生じた切断音は、ほとんどひとつづきの長い音のようにきこえた。
周囲に落下音が響く。だが、迫り来る羽音はいっかな減ろうとしない。
「どうやら、奴らの血を浴びたらしいな。その匂いに引きつけられて来るのだ」
「何とかしてよ」
二人は疾走をつづけていた。その先に待つ運命を、ミアはまだ知らなかった。
[#改ページ]
第五章 蒼い刺客
背中に切り裂くような痛みが走った。
迸りそうになる苦鳴を必死で抑えつけ、ミアはにせもの[#「にせもの」に傍点]の肩に指を食いこませた。
その手が腰のパウチにのびる。
「溶解粉があるわ」
と低くささやいた。
「声をかけたら伏せて」
「わかった」
にせDの面白げな口調に、ちょっと不満を感じながら、ミアはパウチから粉末のカプセルを抜いた。
空中に散布し、カプセル上端のライターで着火すれば、半径一〇メートル以内の物質は岩といえども溶けるはずだ。
ただ、着火者が無事でいるためには、点火のタイミングを十分に考慮する必要がある。本来、こんな動きの速い状況には不向きなのだ。
しかし、こだわっている場合ではなかった。
「止まって」
と声をかけ、手だけで噴射孔を上に向けたところで、カプセルが滑った。
「あっ!?」
夢中で動かす指の間を、不運の典型のように、小さな容器はあちこち触れながらすり抜けて消えた。
「どうした?」
「カプセルを落としたわ」
「どうする?」
背中に迫る魔の羽音――ぎゃっと声が上がって、何匹かが舞い落ちる音がした。
「探すわ。下ろして」
「これか?」
鼻先にカプセルが突き出された。
「ど、どうして!?」
訊くまでもない。落ちる前に、拾われたのだ。ミアは敗北感に打ちのめされた。
「早くしろ。敵は待ってくれんぞ」
また、妖しいものの羽音に斬断音が重なり、ミアの背中を翼らしいものが打った。
殺虫剤の要領でボタンを押す。噴射は二秒間――音が消える。
ライターのぎざぎざに指をかけ、
「伏せて!」
沈みながら、指を引いた。
虹色の光球がふくれ上がった。強烈な酸が空中の生命を呑みこみ、溶解していく。
「よかろう」
と、にせDが言ったのは、どれくらい経ってからか。
体重の重圧がすっと消えてから、ミアは自分が下になっていたことに気がついた。溶解粉の炎を、にせDが間一髪で防いでくれたのだ。
ぼろぼろになったコートの背から、ミアは長いこと眼を離さずにいた。
「何を眺めている?」
と、にせものが背中を向けたまま訊いた。
ミアはあわてて、
「化物の死体よ。みんな溶けちゃった。結局、姿は見られなかったわね」
「行くぞ」
「わかったわ。すぐに――」
答えた途端、天井が反転した。
崩れ落ちるミアを素早く支え、にせDは、背中に当てた指から伝わる湿り気を感じた。
妖物の一撃を受けたミアの背の出血量は、ほとんど限界に達していたのである。
「本当の姿といったな」
にせDの両眼が爛々とかがやきはじめた。
「では、見せてやろう。――いま」
霜の降りたような声でこう告げ、彼は、ミアの白い喉にその美貌を近づけていった。
気がつくと、ベッドの上に横たわっていた。
いままでの出来事を憶い出し、ぎょっと周囲を見回すと、荒廃しきった室内は、それでも病室の面影を残している。
天井も壁も崩れ、かろうじて薄明を保つ中に、溶けたベッドや医療器具らしいものがうかがえた。ここにあるのは、重く暗い死であった。
「起きたか」
だしぬけに頭の方で声がきこえ、ミアは息が止まるかと思った。
見下ろしているDが本物か、にせものか――と考え、失望の吐息が洩れた。
「起きたのなら、つき合ってもらおう」
と、にせDは伝えた。
「ここは、どこ?」
「病院だ。もっとも、すでに原形さえ留めてはいないが」
それはミアにもわかった。貴族の施設をここまで破壊し得る存在とは、一体――新しい謎が脳裡を占めた。
ミアは身を起こした。
背中がひどく痛んだ。
「あまり派手に動かぬことだ。応急処置しかできていない。出血多量だ」
戦慄がミアの背筋に氷の柱を突き通した。
出血――貴族の血を引く男の前で!?
首すじに両手を当てた速度は、これまでの人生で最高といえた。
指先が、滑らかな肌触りを伝えてから、
「安心したか?」
と、にせものが口を開いた。愉しげであった。
「なかなかに魅力的な香りではあったが、いま、おまえを下僕《しもべ》にするつもりはない。汚らわしい昼の光の中で生きられる身体でないと、目的が果たせないのでな」
ミアは、この台詞をロクにきいてなかった。貴族の毒牙にかからずに済んだ安堵が、すべての思考を奪い去っていたのである。最後の言葉の恐るべき意味に気づかなかったのも、そのせいであった。
少しして、ミアが口にしたのは別の言葉であった。
「あなたが背中の手当てをしてくれたの?」
「死なれては困るのでな」
「もう大丈夫よ。――で、どうするの?」
にせものの眼が光った。
「ここで――」
言いかけたとき、闇が濃さを増した。ミアは気がつかなかったが、この部屋の壁にも発光効果は残っていたのである。
頭上を見上げたにせ[#「にせ」に傍点]Dの表情に、ミアははじめて緊張の色を認めた。
「――奴め、意外に早く防衛機構を突破したな。さすがは――」
消えた語尾がミアの胸をときめかせた。
「何があったの? ――D?」
「ここにいろ」
と、にせものは命じて身を翻した。
「外にはおかしな奴らがうろついている。出るな」
声は奥の闇に吸いこまれた。
Dをおれ[#「おれ」に傍点]と呼ぶにせものを、あれほど、あわてさせた存在とは? ――ミアの好奇心は限界までふくれ上がった。
“闇住い”を訪れたことといい、これが再び、彼女を危険の暗黒へと導いたといっていい。
何と、背中の痛みを押して、ミアはベッドから下り、にせDの吸いこまれた方角へと歩き出したのである。
服は着せられている。
パウチも無事だ。何か他に武器になるものは、と探し、長さ五〇センチほどのスチール管を拾い上げた。
両手で軽くふると、具合がいい。かわりに背中に鋭い痛みが走った。
遠目には闇と見えたその内側に、ドアがあった。
前に立つと自然に開いた。
こりゃいいわ、と外へ出ると、すぐに背後で閉じた。
あわてて、前の床を踏んづけてみたが、今度はびくともしない。にせDが、出るなと告げたわけだ。
「困ったわ」
と悔やんでみたが、すぐにあきらめた。ミアの習った占いでは、ひとつの方法で結論が出なければ、すぐ別のやり方に移行する。占星が駄目なら風占い――それは現実の彼女の行動の指針ともなっていた。
ミアの立っているのは、幅広い廊下だった。
はめこまれたドアともども、自然発光する金属製だが、表面は灼け爛れ、歪み、油煙に黒々と塗りつぶされて、凄まじい破壊者が、容赦なく通過したことを物語っていた。
それにしても――ミアは胸中に感嘆と、底知れない恐れが広がるのをどうすることもできなかった。
地上の人間には想像することもできないこの施設を、こうまで叩きつぶせる存在とは、一体、何者なのか。
知りたい――それは、ミアの新たな好奇心に、いかに眼を閉じても瞼の裏で灼熱する閃光を点火させた。
にせDはどこへ行ったのか? ――考えるべきは、まずそれであった。
「久しぶりにやってみるか」
ミアは廊下の中央まで移動し、手にしたスチール管を直立させた。
方角占いの呪文を唱え、一歩下がる。
管は垂直に一〇センチほど浮き上がった。これは占いにおける最も重大な要素「公正な位置」を示すものである。
「はっ」
ひと声かけるや、管は落下し、向かって左側に倒れた。
それを拾って、ミアはためらわず進みはじめた。右側へ[#「右側へ」に傍点]。
空気はひどく熱い。おかしな匂いのしないことだけが救いだった。
一〇分も歩く間に、幾つも曲がり角や階段にさしかかり、ミアは同じやり方で方角を決めた。
にせDの言った“おかしな奴ら”にも出くわさなかった。地下施設の荒廃と破壊の度は、進むにつれて増してきたが、その点に関してだけ、ミアは気にしなくなっていた。
それが甘い、と知ったのは、工場と思しい地帯に入りこんですぐだった。
途方もなく巨大なメカニズムの遺構が左右に屹立し、それがみな半ば溶け、歪み、あるものは内側のメカを露わにしながら、それもまた溶解しているのだ。
巨大メカ自体も、クレーンや、炉らしいと識別できるものもあれば、見ているうちに昏迷《こんめい》に陥るような立体と球体の合成物もあり、その用途を考えただけで、ミアは首すじが冷たくなるのだった。
「凄いわね――でもみんな死んでいる」
そのくせ、薄明は絶えることなく、ミアの影を床に落としているのだった。
整流器と思しい高さ二〇メートルもある円筒の前まで来たとき、背後の気配にミアは気がついた。
ふり向いた。影がひとつ、素早く鉄柱の向こうに隠れた。人影だが、にせDのものではない。第一、あの男なら隠れたりしないだろう。
「誰?」
とミアは強い口調で呼びかけた。世界は静まり返っている。
「出てらっしゃい。お互い、気味が悪いだけよ」
消えたあたりをにらみつけながら、ミアは右手をパウチに滑らせた。手探りで発光粉のカプセルを抜いた。
足下に一秒ほど噴射してから、蓋を開け、後ろ向きで移動しながら、中身をこぼしていく。
五メートルほど進んだとき、もとの位置に、人影が現れた。
やや前のめりで両腕を垂らした嫌な姿勢のまま、足早にこちらへ向かってくる。逃がすつもりはなさそうだ。
薄明の中でも、はっきりと顔が見分けられる距離まで近づいたとき、ミアの口から恐怖の叫びが迸った。
「あなたは――ゾア!?」
薄明のせいともいえる、自身のせいともとれる、白蝋のような顔色をした若者は、確かに一昨日、彼女に恋を打ち明けて首をはねられた若者だ。
見よ。その証拠に首を――つけ根を取り巻く黒い縫い痕を。
「ゾア……一体、誰が、そんな……?」
ミアの眼に涙が溢れた。
それは、自分を恋した男の痛ましい姿への哀悼の涙であり、死者を冒涜した奇怪な手術者への怒りの涙であった。
だが、無表情に近づいてくる若者の、何という無気味さ。
「ゾア――何か言って」
青白い顔。その中の死魚のように濁った眼。
「ゾア。近づかないで」
ついにミアは叫んだ。
いいや、来る。
恐怖がミアの行動を決した。
身を屈めざま、カプセルのライター部を点火する。
眼もくらむ閃光が薄明を否定し、ゾアの足下へと滑った。
さっき撒いておいた発光粉の上に、ゾアが踏みこんだのは、まさにその瞬間。
固く眼を閉じた瞼の裏さえ白く染まったような錯覚に襲われ、ミアは両手で顔を覆った。
「ごめん!」
うすく眼を開いてふり向き、走り出す。無我夢中だった。
燃焼音だけが少しの間、追ってきた。
生ける死者は、悲鳴も上げられないのであった。
「ゾア……ゾア……」
すすり泣きがミアの口を割った。
そのとき――
天地が回転した。猛烈な震動が世界を歪ませ、自分でもわからぬ方角へミアの身体は投げ出され、吸いこまれていった。
滑り落ちる感覚があった。少なくとも飛んでいるのではなかった。身体の下には傾斜が感じられた。
どうなるのか、と思った――その刹那、突き上げるような衝撃に身体が跳ね上がり、悲鳴を上げたその途中で、ミアは尻から固い地面の上に落ちた。
「痛たたた……」
尻ばかりではない。背中の傷が開いたのがわかる。生あたたかい湿り気が腰の方へと滑っていく。
揺れは去っていた。
何か途方もない力の暴走が生じたらしい、とはわかっても、具体的にどんなことが、までは想像もつかなかった。
取り返しのつかないことをしでかしたような気がして、ミアは恐る恐る周囲を見回した。
息を呑んだ。
さすがの発光体も異常を生じたのか、薄明はいま、せわしなく明暗を交錯させて、一種のストロボ効果を現出させていたが、その中にミアが認めたものは、果てしなく広がる黒土の地面と、立ち並ぶ墓標群であった。
本来は、ミアのいた階よりさらに下層部に存在していたのだろうが、そこも大地震の直撃を蒙ったらしく、墓標はことごとく倒れ、裂けた地面からは柩の一部、あるいは全部が突き出している。
「こんなところに墓地が……」
誰がつくり、誰を埋めたものか。
いちばん手近の墓標へとミアは四つん這いで近づき、その文字を読んだ。
数字しか記されていない。金属板にレーザーか何かで焼きこんだものだ。
「この数字は……五千年も前の……。こっちは三千と……二百年……こっちは……」
五、六基の墓標に刻まれた数字は、すべて、三千年以上前に立てられた事実を示していた。それは同時に、この地下施設が作動していた歳月の長さも物語っているのだった。
「さすが……貴族ね。でも、彼らがこんなに簡単に何人も死ぬはずがないわ。……すると」
埋められているのは、人間か。それとも――
ここで、ミアは立ち去るべきであった。尋常な思考からすれば、三千年前の遺体が原形を留めているはずはない。
だが、好奇心はなおも胸中に燃え、一メートルと離れていない場所に、柩がひとつ、丸ごと露出していては――
腰と背中に切られたような痛みが走ったが、気にもならなかった。
膝立ちでにじり寄り、ミアはその蓋に手をかけた。
開くかなと思ったが、あっさりと滑った。
さすがに、すぐ覗きこむことはできず、ミアは眼を落として、呼吸を整えた。
「一、二……」
と数えて、
「三」
顔を上げた。
眼の前に顔があった。
眼球だけを光らせた、干からびたミイラのような顔が。
声もなく身を引いた。その肩に、冷たいものが載せられた。
手を触れてみた。冷たい指であった。
ミアの眼は前方を――柩から脱け出ようとする人影を見つめていた。
ひとつではなかった。
光と闇がめまぐるしく交錯する。光――柩の中で立ち上がった。闇。光――外に出ている。闇。光――近づいてくる。
彼方の柩から。埋もれた柩から。蓋が滑り、こじ開けられ、のびた腕、立ち上がる影、影、影。
「嫌あ」
絶叫して、ミアは身をひねった。
肩に衝撃が加わり、すぐに離れた。五、六歩、膝で歩き、立ち上がってふり向いた。
全身を震えが包んでいた。
ゾアが立っていた。
めまぐるしく交代する光と闇が、少しの間、ミアに彼の異常を気づかせなかった。
顔の形がおかしい。右半分が闇に包まれっぱなし[#「包まれっぱなし」に傍点]だ。
「ない……」
半分、ない。そして、ゾアも近づいてきた。
後退するしかなかった。
脅え切った自分が、彼ら[#「彼ら」に傍点]にはどう映るのかと思った。のばした手が求めているのは、親愛の情だろうか、それとも、血と肉か。
背中が何かに当たった。金属のポールだ。逃げ場はもうなかった。
「ゾア……」
と彼女はその名を呼んだ。
手の林が迫ってきた。固く干からびた木の枝のようなその中で、ただひとつ、ゾアの手のみが生者の趣を留めていた。
ぐい、と乳房が鷲掴みにされた。ゾアの手に。
激痛にミアは悲鳴を上げた。
ちぎり取られる。
急に痛みが退《ひ》いた。ゾアの手はゆっくりと離れ、弧を描いて倒れる身体に従った。そのこめかみを貫く、光る針にミアが気づいたかどうか。
他の死者たちも、次々と地に伏していく。そのこめかみに、胸に、腹に、きらきらと光る針が突き刺さっていた。
「私の髪だ」
声は左方でした。
黒馬にまたがった蒼い影は、前と同じく腰まで垂れた長髪で覆われていた。
「あなたは――」
それしかミアの声は出なかった。一体、何度、同じ問いを発すればいいのかと、急に馬鹿らしくなったのである。
背中の痛みと出血が体力を急速に奪いつつあった。
「おれの名はユマだ。――そう記憶している」
「何者なの? どうしてここに?」
ミアは黒馬をしげしげと眺めた。
「奴[#「奴」に傍点]がいるはずだ」
「奴って――どっちのD?」
「どちらも、だ」
この男の中でも、二人はひとりなのだろう。
「あなたは、刺客なの?」
「………」
「どうしてDを狙うの?」
「奴[#「奴」に傍点]は知りすぎた」
「何を?」
「それを知れば、君も死ぬ」
「どうして、私だけ助けたの?」
「おまえを連れていけば、すぐに奴が現れるからだ」
「さっきから、奴と言ってるけれど、Dは二人いるのよ。本物とにせものと」
蒼い髪の向こうで、何かが光った。眼だったかもしれない。
「君は何も知らんのか」
声に反応するまで、数秒を要した。
「知らないって――何を?」
「いや、言うまい。私が奴を斃《たお》すとき、遺言としてききたまえ」
「もったいぶらないでよ」
「馬に乗れ」
黒い馬が近づき、蒼白い影が馬上から手をのばした。
「嫌よ」
ミアはポールから身を離して後じさった。
「ほう。なぜだ?」
「Dをおびき出す餌になんかなりたくないわ」
「それでも来い」
「絶対に嫌よ」
「なら、君に用はない。こいつらと同じ目に遇わねばならんぞ」
頭が――というより髪の毛が、累々たる死者の方を向いた。
「どうして?」
ミアの額に冷たい汗が滲みはじめた。
「おまえは奴らと一緒にいた。知ったかもしれん[#「知ったかもしれん」に傍点]」
「何も知らないわよ。――ねえ、どうせ殺されるなら教えて」
「何をだ?」
「何もかも、よ。まず、あなたは何者なの?」
「………」
「ケチねえ」
とミアは毒づいた。
「何でも教えてやるけど、自分のことは駄目――これって最低だわ」
「泣いているのか?」
言われて、ミアはやっと気がついた。
足下にゾアが倒れている。首を斬られ、いままた、髪の針に貫かれて。
「ええ、泣くわよ、泣いて悪いの。占い師の娘だって人間よ。悲しいことがあれば泣くわ。頭へ来れば怒るわよ。それのどこが悪いの」
きっと蒼い刺客をにらみつけて、
「殺すなら殺したら。あんたみたいな嘘つきに利用されてたまるものですか」
「これは面白い」
刺客は声もなく笑った。
「何がよ」
ミアは手の甲で涙を拭いた。
「私の囮《おとり》になるのが、それほど嫌か。それほど、Dという男に惚れているか」
ミアは跳び上がった。
「お、おかしなこと言わないで!」
「そうかな」
「そ、そうよ」
「まあ、よかろう。他に何が知りたい?」
もうひとりのDは何者――と喉まで出かかり、なぜか、ミアはためらった。周囲を見回し、
「ここは何なの?」
「太古に貴族がこしらえた施設だ。一万年近くをかけて、ある実験が行われていた」
「それは?」
「人間と貴族の血の融合だ」
あまり、あっさり言われたもので、とっさには理解できなかった。
単語のひとつひとつを脳が吟味し、つなげ、意味を構成する。その結論は――
「何て言ったの?」
蒼い影は答えなかった。
「人間と貴族の血をかけ合わせる? ……そういう意味? その実験をここで?」
「そうだ」
めまいがミアを襲った。かろうじて、ポールにすがりついて身を支えたものの、理解のもたらす衝撃は、いっかな去ろうとしない。次の問いを、ミアは必死で探した。
「じゃあ――じゃあ、ここを破壊したのは誰なの? 人間にそんなことできっこないし。――貴族の仲間争い?」
「貴族でも無理だ」
「どうして?」
「ここはご神祖とやらの設計になるものだ。彼以外のいかなる貴族といえど、壁に傷ひとつつけられまい」
「じゃあ、誰? 貴族には異世界生命体や外宇宙生物が敵対していたってきいたけれど」
「違う」
「もったいぶらずに教えてよ。どうせ、殺すんでしょ。誰がしたの?」
「それは――」
蒼い刺客の答えに、ミアが耳を澄ませた瞬間、大地がまた揺れた。
それは数秒つづいた。
馬から下りるそぶりも見せなかった刺客が、天井を見上げ、
「さすがの戦いぶりだな」
と言った。
「それなのに、崩れても破片ひとつ落ちてこないとは、やはり、神祖の技か」
それから、ミアへ向き直った顔は、表情はともかく、戦慄的なかがやきを双眸に宿していた。
「この揺れと破壊は、奴[#「奴」に傍点]が争っているせいだ。それも近づきつつある。本当に、君は不要となった」
手綱を握っていた左手が、ゆっくりと顔の前へのび、くい、と引かれた。髪の毛を抜いたにちがいない。それは長い針のように、ミアの身体を貫通するだろう。
光と影の交差がなおもめまぐるしい世界で、死は確実にミアを捉えつつあった。
「短いつき合いだったな」
と蒼い刺客が言った。
そして、彼は左手をふった。その左方へ。
虚無だけが広がっていた。
ミアはその方へ眼を向けて、明暗を凝視した。
影が立っている。闇に閉ざされ、光に打たれて。しかし、屹然と。
「――D」
ミアは、燃え盛る希望の声を遠くきいた。
馬上の影はあわてた風もなく身をひねって、こちらの方を向いた。
空気を灼いて何かが迸った。
飛来した白木の針は、蒼い刺客の顔前数十センチの位置で停止していた。
ミアが、あっと叫んだのも道理。それに巻きついているのは、数十条の蒼い髪の毛ではなかったか。この刺客の髪は、それ自体、自律神経を備えているのだった。
互いに初太刀は無効。二の太刀のもたらす結果を考え、ミアは動けなくなった。
これは人間同士にあらず――魔人と魔人の対決であった。
五メートルほどの距離をおいて対峙した二人を光が照らし出し、闇が呑みこんだ。
あなたは、どちらのD? ――ミアの問いは胸中に沈んだ。
「私が誰か、知っているな?」
蒼い刺客が訊いた。
「奴から[#「奴から」に傍点]きいた」
静かなDの返事に、ミアは胸がつまった。本物の――彼女がよく知っているDがそこにいた。
「自分と戦う気分はどうだ? その挙げ句が、せっかく修復しかけた研究所が、またもとの木阿弥ときた。――選ばれた者同士の戦いとは凄まじいものだな」
「オリガを殺したか?」
「それが仕事だ。この実験について知識を得たものは、その量にかかわらず、ことごとく抹殺せよ――おれはそう命じられている」
「誰から、だ?」
「訊くまでもあるまい。おまえも知らなければ、ひとりのハンターとして一生を終えたろう」
蒼い影が風に吹かれたみたいにざわめいた。いや、蛇のごとくに。
どちらも戦いの準備は整っていたのだ。
刺客の左手が髪にかかった。
ひと掴み引き寄せ、口もとへ持っていく。ふう。吐息の音がミアの耳にもきこえた。
音もなくDへと走る数百本の針。
Dの一刀がそれを薙ぎ払った。
髪は切れなかった。
見よ、Dの刀身がみるみる蒼々《あおあお》と染まっていく。蒼い刺客の髪がことごとく巻きついてしまったのだ。
「それで刀は無効だ」
刺客の声に笑いが加わった。
「その後で、おれの髪を受けられるか?」
声と同時に、蒼い凶器はざざと鎌首をもたげている。
新たな攻撃を防ぐ武器をDは封じられた。
「うっ!?」
驚きの声が上がった。
刺客は馬上で身をよじった。その首に後ろから両手を巻きつけているのは、なんと、ミアではないか。
「――D、早く逃げて」
悲痛な声は、次の瞬間、苦鳴に変わった。
その胸から背にかけて、きらきら光る針が貫いていた。
だが、蒼い刺客は、おっという表情になった。ミアが忽然と消滅したのである。
大陥没の縁で見せた分身の術がまた出たのだ。本体はポールのそばで胸を押さえてうずくまっている。
Dが出るか、蒼い刺客が仕掛けるか。――結果は意外だった。
蒼い刺客がいきなり馬首を巡らせるや、ミアの方へと走り出したのだ。
Dが跳躍した。ストロボ効果に、一刀がきらめく。髪の鞘はすでにない。
ふり下ろした刃は、がっと刺客の肩を打ち、馬上で大きくゆらめかせたが、かろうじて踏みとどまり、右方へ大きくかしいだ姿のまま、蒼い刺客は黒い闇の奥へと走り去った。
近づいてくる気配に、ミアは顔を上げた。針で串刺しにされた痛みは急速にうすれつつあった。
分身を構成するのは、思念と空中の浮遊分子、彼女自身の毛穴から滲み出る蛋白質だが、そのつくりが精緻になればなるほど、分身の感覚も本体と似てくる。分身の受けた苦痛をある程度ミアが味わうのは、このせいであった。
「無事か?」
とDが訊いた。右手には一刀をぶら下げたままだ。
「そう見える? ガタガタよ」
「後で手当てをする」
ミアは拍子抜けした。Dの指示に背いて“闇住い”に入った挙げ句がこれだ。容赦ない叱責を覚悟していたのに。
「具合でも悪いの?」
冗談混じりに訊こうとして、ミアは彼が自分ではなく、背後の闇を凝視しているのに気がついた。
まさか、新しい敵が。蒼い刺客のだしぬけの逃亡は、そのせいではないのか。
はたして、闇の奥から近づいてきた姿は、これもDであった。
言うまでもなく、にせものだ。蒼い刺客は彼に気づいて逃げた。いかに実力があろうと、二人のD相手は、危険すぎたにちがいない。
「どこまで行っても、果てしがない戦いの道か」
と、にせDは皮肉っぽい口調で言った。声はDだから、彼の別の面を窺うような気がして、ミアは嫌な気分に陥った。
何を察したのか、にせDは片手を上げて、
「ちょっと待て。これ以上、同じ条件で戦っても無駄だ。ひと休みしよう。美しい見物人もいることだ」
ミアはDの方を向いて、
「そうしましょう」
と言った。理由はわからない。
Dの下げた刀身に蒼い髪が巻きついていた。これが刺客の逃亡を許した原因だろう。敵の攻撃を避けられずと見て、ミアは分身の法を使ったのだ。
だが、Dが手首をこねると、糸はたちまち寸断されて、吹きなびきつつ地へ落ちた。
「あら」
その声が急速に遠ざかると、ミアは地面へ横倒しになった。
寸前、滑り寄ったDの手がその身を支え、素早く後ろ向きにされ、どうやったのか、背中が剥き出しになるのが感じられた。
「何を――」
「治療だ」
Dの言葉は、背中に広がる心地よい冷たさが証明してくれた。
「無茶をしたもんじゃな」
ぼそぼそとつぶやく嗄れ声に、ミアは思わず涙がこぼれそうになった。痛みがぐんぐん退いていく。
意識がはっきりしたところで、
「よかろう」
と嗄れ声が告げ、Dは立ち上がった。これもどうやったのか、服はもと通りだ。
「それは、おれにもできん」
と、黙って立っていたにせD[#「にせD」に傍点]が、感心したように言った。
「あいつめ、差をつけやがった。――仕方がない。おまえは優等生だったらしいからな」
にせものは二人に顎をしゃくって、
「来な。ここの真の姿を見せてやるよ」
そして、踵《きびす》を返すと、自分がやって来た暗黒の方へ歩き出した。
三人は実験室と思しい空間にいた。
天井も壁も床も、すべて、これまでと同じく高熱に叩かれ熔融していたが、形も留めぬメカらしい物体の配置や薄明の死の中になおも漂う雰囲気によって、それと知れるのだった。
円筒の形を残したメカが、一〇メートルほど向こうで、時折青白い光を放った。
「ここが、施設の中枢だ。徹底的にやられたが、さすがに生き延びていたな」
ミアは胸もとを押さえた。寒さではない。冷気に近い雰囲気が、惻々《そくそく》と忍び入ってきたのである。
ここで行われたのは、人間が知ってはならぬ実験だった。
「覚えているか、D。おれたちが生まれたところを」
返事はない。また、にせものも期待はしてなかったようである。
すぐ前にある溶解物の隆起を見つめ、無造作に斬りつけた。溶けているとはいえ、金属のはずなのに、隆起は水のように抵抗を示さず、縦に両断された。
「ここに、分娩器があった。――わかるか、D、おれたちが生まれたのは、母の家でも分娩室でもなく、実験のための部屋だったのだ」
Dは黒い影のように立っていた。
静かだった。太古からそう命じられ、万象がそれを守ってきたような静けさであった。
それを、不埒な声が、総毛立つような響きでもって破ったのである。
「おれたちが生まれたって……それじゃあ、D、あなた方は……?」
「その通りだ」
と、にせものがうなずいた。
「おれたちは、ここで母親の胎内から摘出され、切り離された。背中がこう特殊なくっつき方をしていたそうでな。それで、ここまで似てしまったらしい。外見も能力も。Dよ、どちらが兄で弟だ?」
「………」
「無理もない。答えはできぬよな。だが、おれにはわかるぞ。すぐに生を得たおまえとは異なり、長い長い間、重く冷たい闇の中に封じられていた、このおれには、な」
ここでひと息つき、
「あいつ[#「あいつ」に傍点]は、すべてを同じにしたかったらしい。何のつもりか。おれたちは、全く同じ条件で同じ女の子宮の中で育ち、千分の一秒と違わぬタイミングで分娩された。誰の眼から見ても、兄でも弟でもあり得んよ。つまり、おれはおまえ、おまえはおれ、ということだ」
めまいがミアを襲った。身体がひどく冷たかった。まさか、この二人が兄弟だったとは。いや、にせものの言葉を借りれば、同じ存在だったとは。
「おれをにせもの[#「にせもの」に傍点]と呼ばなかったかな」
気がつくと、にせDが微笑を浮かべていた。
「ある意味で、それは間違いではないのだ。なぜか、おれはここへ封じられ、Dには世界が与えられた。これだけ長いこと遅れては、にせもの呼ばわりもやむを得まいとは思うがな」
「なぜ、今頃、甦ったの?」
「わかりきっている。この世界の覇権を貴族の手に収めんとして、だ。そうプログラムされている」
「あの大陥没を起こしたのも、あなたね?」
「そうだ。この施設を作動させるための準備だ」
「作動?」
ミアは眼を丸くして、四方を見回した。
「こんなに破壊し尽くされていて――作動ですって!?」
「これを造ったのが神祖だということを忘れるな」
「それにしたって」
と、ミアが異議を申し立てたとき、発光照明が急に点滅を開始した。
「どうしたの?」
「愛しい男に訊いてみたらいい」
何よ、と思ったが、ミアはDの意見をききたくなった。
「D――何事?」
静かな返事は、その内容にもかかわらず、ミアを安堵させた。
「甦ろうとしているのだ。この施設自らが」
[#改ページ]
第六章 若き侵入者
「そんなことができるの?」
ミアはDに尋ねたが、彼は答えず、代わりににせもの[#「にせもの」に傍点]が、
「神祖の手になる統計だぞ。天井や壁を構成する分子のひとつひとつに再生機能が備わっているにちがいない。おれの計算では、三日のうちに、五割は成就するだろう」
「そうしたら、あなた、どうするつもり?」
「想像力の欠如した女めが」
にやりと笑うににせもの[#「にせもの」に傍点]の表情に、ミアはおののいていた。
「この施設は単なる遺伝子研究だけではない。それなりの防御や攻撃機能も備わっているのだ。神祖のこしらえた機能がな。おれの記憶によれば、ボタンひとつで大陸の半分を塵に変えてしまう力がある。いいや、本来の遺伝子研究の成果を、おかしな形で人間どもに披露するのも面白かろう」
「だから、そんなことをして、どうなるのよ? あなたの目的は何なの?」
「おれにもわからん――よくはな」
ミアは絶句してしまった。
にせDの邪悪な笑いがさらに深くなった。
「何事も理屈で割り切れなければやっていけないというのなら、長いこと放っておかれた怒りのせいだと思え。当たらずといえども遠からず、だ」
「お願いだからやめて」
ミアは哀願するように言った。なぜか、このとんでもない大量殺人者を、本気で憎む気にはなれなかった。
「他にすることはあるはずよ。あなたくらいいい男なら、何でもできるはずだわ」
自分でも無茶な台詞なのはわかっていた。Dを指さし、
「彼だって立派なハンターだわ。あなたが彼と同じだっていうんなら、それ[#「それ」に傍点]だってやれるはずよ」
次のにせもの[#「にせもの」に傍点]の言葉は、ミアを芯から凍りつかせた。
「親殺しだぞ」
沈黙が落ちた。それは、いかなる凄愴な気をも凌ぐものであった。
Dの方を向こうとして、ミアはためらった。
「その通りかもしれん」
Dのひとことは、むしろ救いだった。だが、Dは自ら認めたのか――神祖の嫡子たることを。
「D」
「もうよかろう」
新たな言葉に、にせDの全身から殺気が噴き上がった。
「待って、D」
「どけ」
黒衣の姿が前進した。立ちふさがるつもりのミアが、何の抵抗も示さず、横へのいてしまったのである。
Dの右手に刀身が光った。
同時に、にせDも一刀を抜き放った。
「繰り返しだぜ、D」
と、にせものが言った。どこか空しい口調に、ミアの胸が小さく疼いた刹那、Dは猛烈な勢いで地を蹴った。
ミアの眼は、一瞬の光の炸裂としか捉えられなかった。
にせDの頭上で青い火花が散るや、二すじの光が蛇のように絡み合って床へと流れ、跳ね上がり、Dの胸もとで、二つめの火花が散った。
ミアが眼を覆ったのは、そのせいではなかった。
刀身が打ち合うたびに、部屋中に異様な気がふくれ上がるのだ。二つの途方もないエネルギーが意志をもってぶつかり、跳ね返り、さらに濃密なそれとなって閉鎖空間を内側から押し破ろうとする。
破壊のための破壊、膨張のための膨張――三つの脳は灼け、肉体は半透明半質量と化していた。
二人の刃はともに相手を傷つけることはできないようであった。
鋼がぶつかり、美しい音をたてるたびに生じる気の乱流に、ミアの身体は翻弄され、旋回し、壁に叩きつけられた。身体は半ばめりこんだ。
ここは二人のDの王国なのだった。
そのとき、薄明に緑の色が生じた。点滅を繰り返して暗転し、ふたたび点滅を繰り返す。
「非常警報だな」
と、にせDが言った。――とはミアが判断しただけで、はっきりとはわからない。二人はめまぐるしく位置を変え、互いが本体とも影とも化していたからだ。
「わかるか、D、何が起こったか? ――おれにはわかるぞ。侵入者だ」
「侵入者?」
と眼を見張ったのはミアである。
にせDは眼を半眼にして立ちすくんでいたが、すぐ、
「ふむ、あのちっぽけな村にも、骨のある奴はいるらしいな。陥没を下りてくる」
「え?」
「愚か者めが。この研究所がいかに凄まじい城塞であるか、生命と魂と引き換えに思い知ることになるぞ」
三人の頭上一メートルほどの高みに、確かに大陥没をロープで下る数個の影が映し出された。
村の男たちであろう。人数を四人と数え上げ、見知った顔が三つとミアは判断した。
全員がバックパックを背負い、長剣や斧、ボルト・ガンや電撃銃で武装している。中でも最も若く最も精悍な感じの若者がミアの眼を引きつけた。
彼の名はケンツといった。村の狩人の息子で、弱冠十九歳だが、素手の喧嘩はもちろん武器を使わせても、彼の右に出る男はいなかった。この大事件に際して、いまのいままで姿を見せなかったのは、所用で隣村まで出かけていたからにすぎない。
今朝、戻る前に隣村で大事をきき、帰り着くやすぐ、男たちを集めて、大陥没の底を調査するためのボランティア集団を結成し、十分な準備を整えて乗りこんできたのである。
決して軽はずみな若者でないことは、募集に応じた村人の中から、いかに特技を備えていても、妻子持ちは排除したことでも知れる。
その他の男たちも冷静沈着かつ豪胆、村や家族の安全のためなら生命を捨てて悔いない勇者たち揃いだ。
ほぼ一線となってロープを下りてきたが、半ばまでさしかかったとき、だしぬけに岩壁が怒った。
足底が触れただけで、四人の身体はロープごと跳ねとばされ、ロープをねじらせつつふり戻った眼の前に、不気味なミイラがにらみつけていたのである。
古代のミイラの埋葬地点だったのだろうが、もちろん、このとき、岩壁があっさり崩れ落ちたことも、その数がぴたり四体であることも、単なる偶然であるはずはなかった。
茫然と見つめている男たちの前で、干からびた肉体の名残に、みるみる変化が生じた。筋肉に青い血管が走り、膨張し、赤みを取り戻すや、桜色の皮膚が潮《うしお》のようにその上を覆った。
一糸まとわぬ豊かな胸の隆起は――女だ。
そして、金髪、赤毛、黒髪、緑の髪を腰まで垂らした女たちは、それがこの世の名残であったとばかり、妖艶匂いたつような媚笑を浮かべて、男たちに両手をさしのべたのである。
通常なら誰でもおかしいとわかる。だが、異常の度合いが際立っていたため、男たちはむしろ呆気にとられてしまい、白い腕が首にからみつくままにさせた。
危険に気づいたのはケンツだった。
東部辺境区《セクター》から助っ人を依頼されたとき、カインの森で、人の形をした樹木に遭遇した。
その美貌、その肉体の妖艶さに思わず抱きつこうとする寸前、地元のベテランが手製の火炎放射器で救出してくれた。後できいたところによると、花芯から分泌する強烈な催眠汁の匂いで人間の思考を停止させ、手の形をした花弁の中に包みこんだ後、溶解吸収するのだという。
すでに四肢の自由は利かない。とっさにケンツは歯で下唇を噛み破って正気を取り戻し、ベテラン猟師から譲り受けておいた火炎放射器を浴びせかけた。
三人のミイラ美女はまたたくまに炎に包まれたが、四人目は生き延びた。村人のひとりがすでに美女の腕の中に跳びこんでいたのである。
ずぶりとその体内にめりこんでいきつつ、
「助けてくれ」
と仲間は絶叫した。救いを求めてふり向いた顔は、半ば肉が落ち、眼球のみをはめこんだ髑髏と化している。
「すまない、ギャロ」
成仏してくれと祈りつつ、ケンツの火炎放射器は黄金色の火矢を送りこんだ。たちまち干からびたミイラに戻った美女は、そのせいか、よく燃えた。
「これで三人――これ以上、減らすつもりはない。十分気をつけてくれ」
ケンツの呼びかけに一同――といっても残り二人だが――冬の清流を浴びたみたいに、気を引き締めてうなずいた。
「もう、ひとり亡くなったわ。やめさせて、D」
ミアは叫んだが、Dの顔を持つ二人の若者は何も言わなかった。
「ああ、下へ着いたわ。――あなた、この城の機能を停止させられるんじゃなかったの? やめさせて」
決してあきらめぬ叫びに、にせものが肩をすくめた。
「目下、この施設は自己修復にほとんどのエネルギーを割いている。まだ、おれにコントロールの全権を渡す余裕はないのだ」
「――D。何とかして。お願い」
「他人のことだ」
美しきハンターは冷やかに言った。
「それでも放っとけない。あなたが嫌なら、あたしひとりで行きます。あなたは――」
にせDが苦笑して、意外なことを言った。
「おれを斃《たお》せか。娘――何なら、おれが助力してやろう」
「え?」
「これでも、こっちのおれ[#「おれ」に傍点]よりは赤い血が流れているらしい。どうだ?」
「わかったわ。お願いします」
「なら、そっちのおれに、このおれに手を出すなと命じろ。おまえが雇い主だろう」
「D、きいた通りよ。この人に手を出さないで」
「好きにしろ」
なぜかDは、これ以上のやりとりに拘泥しなかった。
「ただし、同行はする」
「もちろんよ」
「もちろんだ」
と、にせものも深々とうなずいた。おかしな具合にペースがそちらへ移りつつあるのを知ってか知らでか、Dは相も変わらず黙然と立っている。
「彼らの位置ぐらいわかるでしょ。案内して」
「ただし、ひとつだけ条件をつけるぞ」
と、にせD。
「何よ?」
「あの三人のうちひとりでも無事に救出したら、今日のところは二人ともここから出て行け。そして、三日間戻ってくるな」
すぐには判断できず、ミアはDの方を見たが、美しいハンターは何も言わなかった。
いまの判断を怒っているのかとミアは考え、少し落ちこんだ。それと、この施設の機能が正常に復するまで後三日かかるといったにせもの[#「にせもの」に傍点]の言葉が耳に残っていた。
だが、白煙渦巻く大陥没の底に降り立ち、行方もわからず立ちすくんでいる三人を見ると、やはり、放ってはおけなかった。
「承知しました。約束は守ります。さ、案内して」
「よかろう」
してやったりとばかりにDとミアとを眺め、にせものは身を翻した。
二日前、大陥没の上で何があったか、入院中の治安官からきいているだけに、ケンツたち一行は、村の消防隊の倉庫から耐熱服と防毒マスクを借り出してきていた。服はすでに着用し、マスクは――なにぶん古いので、ガスに耐えられなくなったら、という条件で、底へ下り立つ少し前に被った。
確かに暑苦しい上に、濾過した空気の吸収量が少ないらしく呼吸が浅くなる。一刻も早く調査を終了しないと、マスクのせいで死んでしまいかねない。
陥没の底に何かある、乃至、誰かいる、とケンツは確信していた。そのため、じっくりと時間をかけて探すつもりだったが、この装備では――彼は自信が急速にしぼむのを感じた。
それでも気落ちしなかったのは、若さと使命感、それに、大人以上の修羅場を経験してきたという自信のせいだ。
彼の全身には百余箇所に及ぶ傷痕が残り、うち半分のせいで生命を落としかけている。五〇トン近い岩熊を仕留めた際、肺まで達する裂傷を負いながら、土砂降りの中、細菌の巣といってもいいジャングルを脱け出せたのは、西部辺境で学んだ薬草の知識のおかげだった。
RENと呼ばれる台地で、奇怪な矮人族に襲われ、五本の毒矢を射こまれながらも、彼らが“神”と呼ぶ地震体を破壊してのけたのは、「都」のひとつにある図書館で身につけた護身魔法の力であった。
今度も何とかなる。駄目なら死ぬまでだ。若者らしい潔癖さと覚悟がケンツに十二分に実力を発揮させてきたのは言うまでもないが、今回は三人の仲間連れ、しかも、ひとりはすでに抹殺されている。若きリーダーとしての重責は、ケンツの頭脳と判断を微妙に狂わせつつあった。
どことはいえないが、Dと呼ばれる殺人者が出入りする場所と、その戸口があるはずだ。
三人は白い蒸気が満ち満ちる薄明の世界で、必死の捜索を開始した。
五分……一〇分……二〇分……
気は耐熱服を通して滝の汗を呼び、足は赤土にめりこんだ。
三〇分が経過したとき、ケンツはマスクに装着されているマイクを使って、二人の名を呼んだ。
「グラフとチャン――いったん陥没から出るぞ。出直しだ」
応答はない。
「グラフ――チャン!?」
弱々しい声がレシーバーを通してやってきた。
「チャン……だ。熱気で眼をやられた。方角がわからない」
「迎えに行ってやる。そこにいろ」
ケンツは足下を見つめた。村のペンキ屋に頼んで靴底に仕掛けてもらった蛍光塗料が黄色くかがやいている。チャンのは緑、グラフのは青。出発地点へ戻って跡を辿れば、発見することは容易だ。
グラフにチャンを探しに行くと呼びかけ、ケンツは方向を変えた。
足跡は残っている。
追いかけようと一歩踏み出したとき、蒸気の向こうに人影が滲んだ。
「チャン!?」
「そうだ」
低い声だった。
「あんた、眼をやられたんじゃなかったのか?」
「ああ、何とか見えるようになった」
「グラフは知らないか?」
「わからん。この蒸気だ」
「呼んだが、応答がない。熱にやられたかもしれないぞ」
「彼のことより――入口があった」
ケンツは愕然となった。
「なぜ、それを早く言わない? どこだ?」
「こっちだ。案内する」
チャンが歩き出すと同時に、ケンツは方角と歩数とを数えはじめた。
二百六十七歩で奈落の壁の前に出た。
鉄のドアが埋めこまれている。縦横三メートルずつ――人というより馬車用とも思える。
「開《あ》くかな?」
押してみた。
指先が触れただけで、きいと蝶番がきしみはじめた。
幅を増していく空間が、向こう側を垣間見せはじめた。
廊下らしい。
「どうする?」
とチャンが訊いた。
グラフのことが気になったが、
「行くしかない。チャン、あんたはここでグラフを待ってくれ」
「もう死んだ――と思わないか?」
「思わない。確かめない間はな」
「わかった。待っていよう。気をつけて行けよ」
ケンツはひとり、ドアの隙間に身を入れた。
外とあまり変わらぬ薄明の世界が待っていた。吹きこんでくる蒸気が視界を遮ったが、進むにつれて消えた。
途方もなく巨大な施設だということは、すぐにわかった。
一体、誰が、いつこんなものを?
おれたちは何も知らずに、その上にのうのうと暮らしていたのだ。冷汗が噴き出した。
すぐに曲がり角へ出た。
どっちへ、と迷っていると、右側から靴音がきこえた。落ち着いた足取りでこちらへやってくる。
眼を凝らした。通路の奥から右を廻って、男のものらしい影が現れた。
「グラフ!?」
それは勘と、身体つきから判断したものだ。バックパックを背負い、眼にはゴーグル、鼻から下には防毒マスク――グラフに間違いない。
だが、足早に右へと曲がったケンツを見てあわてたのか、人影は通路を猛スピードで走り出した。
「待て、グラフ!」
人影は右手の壁に吸いこまれた。愕然と追いかけて、その壁に別の通路があるのを見て、ケンツは迷わずに跳びこんだ。
前方を影が走っていく。
幾つか角を曲がり、幅広い石段を下りた。
どこまでもつづく灰色の世界には、静寂が満ちていた。
突如、見上げんばかりの巨大な扉が眼前に立ちふさがり、ケンツはたたらを踏んで立ち止まった。グラフがその中へ入りこんだかどうか、自信はない。
何か禍々《まがまが》しいものを感じて、反射的に、引き返そうと思った刹那、扉は左右に開きはじめた。
こちら側より湿った空気が肌にねばりついた。
薄明のさなかに人影らしきものが見えなかったら、入ろうとはしなかったろう。
意を決して跳びこんだ。
背後で扉が閉じ、その風圧が彼を数歩、前方へ押しやった。
――誘いこまれた。
そんな思いが強くした。
薄明には青い色がついていた。皮膚を通して染みこんでくるような気がして、ケンツは緊張に身を固くした。
あらためて四方を見回すと、熱い決心も凍りつくような妖気に満ちた場所である。
どこまでも広がる巨大な石の床と大天井にはさまれて、これも見上げるばかりの石の像が屹立し、しかし、じっと見ているうちに、いつの間にか壁と天井は異様に近づき、逆転し、彼は床から天井を見下ろしているのだった。
あちこちに階段や中二階のような壇も見えるのだが、それすら、ほんの少し視点をずらしただけで、形は歪み、ねじくれ、階段は途中でちぎれ、渦を巻いている。ここでは幾何学は意味を失うだろう。
視覚の異常が胎内《たいない》へ――内臓へと伝わり、ケンツは猛烈な嘔吐感に身を灼かれた。
大地の震動が音になってきこえたのは、そのときだ。
前方――薄明に包まれた彼方から、それは近づいてきた。
足音だ、とケンツは理解した。ようやく、この奇怪な施設にふさわしい存在が、彼自身の前に姿を現そうとしているのだった。
ケンツは左手首から肘まで覆う革ケースの突起に触れた。
内蔵された鉄矢と円筒状の発射台が、発条《ばね》の力でせり上がってくる。高圧酸素の力で射ち出される矢は、五〇メートル離れた大型装甲獣の甲殼も貫く。過圧分の酸素が排出孔から抜けていく漏出音が、ケンツの闘争心に火を付けた。
薄明に闇が生じた。それは人形をしていた。
足音は轟きと化した。
「こいつは……」
そんな感情だけは抱きたくないと思っていたものが、声に混じった。
前方の低い階段上に停止した影は、三メートルもあった。
鉛色の装甲に全身を包み、顔と頭部は縦に三条の筋《スリット》が入った面だ。
右手に五メートルを下らぬ槍と、腰に長剣。
「何者だ?」
とケンツは尋ねた。
「“管理人”だ、ここの」
錆びた声が返ってきた。
「“管理人”? 一体、いつから?」
「おまえの先祖が、まだ形を成さぬ頃からだ」
「ここで何をしている?」
「説明してもわかるまい」
「おれたちの仲間が何人も姿を消した。ここにいるのか?」
「いる」
「連れて来い」
「おまえの力で連れ出すがよかろう。彼らは必要だ」
「どこにいる?」
「おまえがこれから行くところだ」
言うなり、巨体が躍った。
一〇メートル近い直線距離を一気に跳躍して迫る姿は、見上げるケンツさえ惚れ惚れさせる圧倒的な量感があった。
空中で構えた槍の穂先がケンツの胸を貫くまで、何ら余分な動きは必要とされないだろう。
着地は大音響を伴っていた。
「こっちだ」
ケンツの声は右方できこえた。
やや膝を曲げた姿勢からそちらを向こうとして、巨人は上体を崩した。
両膝をつき、左手が加わった。
膝の関節部から鉄矢の端が生えていた。その早業もさることながら、ケンツはいつ、落下する巨体を避けてのけたのか。
明らかに驚愕の念を抑え切れない巨体へ、左腕を真っすぐにのばして、
「仲間のところへ案内しろ」
とケンツは凛、と命じた。
「会いたいか?」
と巨人が訊いた。声音に、ぞっとする響きが揺れていた。
「当たり前だ」
「では、会わせてやろう。――出ろ」
最後のひとことは、ケンツに向けられたものではなかった。
それに呼応するかのように、天空から何やら風を切って落下してきたものがある。
床に叩きつけられる音と、跳ね上がる高さから、それまでいた位置を探ることもできたが、ケンツにはそんな余裕はなかった。
見よ、彼の足下に散らばったものは、おびただしい人間の腕と脚と胴と首――ばらばらに切断された無残な断片ではないか。
「ジン、カツマ……ソーゴ、ダルス――何てことを!?」
茫然と見つめるケンツの眼に、立ち上がる巨人が映り、その耳に、抜け落ちた鉄矢の床に当たる音が響いた。
「そいつらの生命は、この場所のために捧げられた。おまえも加われ」
巨人の声を鋭い金属音が貫通した。ケンツの第三矢がこめかみを貫いたのである。
大きくよろめきつつ、巨人の右手が弧を描いた。
スイングした槍の穂先は優に一メートルを超え、その両端は刃のように研ぎすまされていた。いま触れれば、大型竜の胴さえ断つだろう。
「おお」
叫んだのは巨人だ。ケンツは死のスイングの上にいた。
巨人の顔の高さに。
凄まじい膝の発条は、先天的な筋力の強さに狩人としての苛酷な訓練が加わった成果だ。
右手が上がった。降下しつつ、革当てからせり出した蛮刀の刃を握る。
落下速度に体重を乗せて、ケンツは真っ向から巨人の頭部に刃をふり下ろした。西部辺境一と謳われる鍛冶屋に鍛えさせた特殊鋼の刃であった。
使い慣れたケンツが驚愕するほど易々と、刃はドラゴンの兜と面当てを断ち切り、胴の半ばまで食いこんだ。
だが、着地したケンツの表情に広がっているのは、勝利の笑みではなく、困惑の翳であった。
銅板以外の手応えは、まるでなかったのだ。
低く笑いながら、巨人は両手で兜と面とを持ち上げた。内側《なか》に首はなかった。そこにあるのは単なる空洞であった。
「これは仮の姿だ。この施設が修復し終えるまでは、おまえたち相手に実体が必要でな。ふふふ、首がなくてもよく見えるぞ」
今度は突き出された槍をかわすこともできず、ケンツは棒立ちのまま受けた。そして消滅した。
巨人がふり向いた。
ケンツは扉のところまで後退していた。だが、ふり向いて彼は立ちすくんだ。確かに扉のあった位置は、冷たい石の壁が詰まっていた。
「すばしこい奴め」
と首なし巨人が槍をひとふりした。刺し殺されたケンツは残像だったのだ。彼はジャンプのみならず、マッハを超えるスピードで移動が可能な駿足の持ち主であった。
「形勢逆転だな」
と巨人が大笑した。
万策尽きた。これ以外にケンツの陥った状況を表現する言葉はあるまい。いかに彼のスピード、鉄矢と隠し刃の技をもってしても、実体のない相手を斃《たお》すのは至難の業だ。
巨人が兜を戻した。そして、彼は凄まじいことを二つやってのけたのである。
右手の槍をふり上げるや、石の床めがけて叩きつけた。
穂先は何でできているのか、波飛沫《なみしぶき》のごとく飛び散って、ケンツの足下にきらめく波頭の帯を構成したのである。破片はことごとく一〇センチ以上あり、鋭い破損部を棘針《とげばり》のように露出していた。
ケンツの足は奪われた。槍の破片は、彼の靴底をたやすく貫き、行動不能に陥らせるだろう。
歯噛みする若者を冷やかに――といっても眼はないが――見下ろし、巨人は二つめの行動を起こした。
重々しい足音を引きずりつつ、落下したバラバラ死体に近づくや、腰の長剣を抜いた。そして、手や脚や胴に浅い切り傷をつけていったのである。
すべて終えると、彼は剣を手にしたまま、
「いち」
と数えた。
「にい」
死のみが横たわる石床に動きが生じた。
「さん」
ずるりと立ち上がった人影は――
「カツマ、ソーゴ、ダルス――」
愕然たるケンツの叫びにも応えようとせず、五個の死体は不気味に手足を痙攣させている。
巨人の使ったのは死人再生の妖術か、単に遺体をつなぎ合わせて動かしてみただけか。どちらにせよ、遺体が現状に満足しているとは言い難いであろう。
見よ、立ち上がったのは、確かに人体だが、それぞれの選択は、単に距離――手近か否かによるものか、金髪の若者の頭部には、どう見ても中年の胴がつき、左右の手も別人のものだ。足はかろうじて同じだが、頭と胴の持ち主のものではない。
だが、これは普通だ。少なくとも頭と胴はひとつずつ、手と足は二本ずつついている。
他の身体は、造形の神の悪ふざけとしかいえなかった。
二本の右腕が主導権を得ようと掴み合い、両足はともに左足だ。それを見下ろす空虚な顔は――なんと逆さまときた。
「やめろ」
ケンツは歯ぎしりした。
「やめろ、この化物。みんなをもとに戻せ」
「みんな? ――もう誰ひとり自分のことなど覚えておらん。これは、これ[#「これ」に傍点]と同じ空《から》の容れものよ」
と巨人は胸を叩き、
「だが、おまえさんにとっては、まだ仲間のようだな。それでは手にかけられまい」
腕がケンツを指した。
死者は――無残にも異形にすげ替えられた死者たちは、ぎくしゃくとケンツに向かって前進を開始した。
槍穂の破片を踏みつつ迫るその姿は、地獄の釜の中から出てきたばかりの悪鬼としか形容のしようがない。
鉄矢と隠し刃を構え、しかし、ケンツはやはりためらった。いかにグロテスクな形態になり果てても、顔は仲間のものだ。幼い頃からともに学び、遊び、喧嘩をした仲間のものだ。
ケンツの額には苦悩の汗が滲み、両手は大きくふるえた。
「どうした、死人と思え。それでも、手にかければ、一生仲間殺しの汚名がつきまとうぞ」
巨人がそっくり返って笑った。
死んだ仲間たちの両手がケンツの喉もとへ迫る。たとえケンツが彼らを蹴散らしても、足下には金属の棘針。あえて踏みつけ、脱出すれば、巨人の長剣が待っている。
進退窮まる。しかし、巨人をにらみつけるケンツの眼の中には、絶望よりも闘志が燃えていた。その死の瞬間まで、この若者は戦う方を選ぶだろう。
左手のふるえがぴたりと熄《や》んだ。一直線にのびた鉄矢の狙いは、死した仲間たちにあらず、後方の巨人であった。
一矢報いる。――運命になおも挑んで。
巨人の笑いが不意に止まった。突如、世界が夢であったことに気づいた覚醒者のように、彼は後方を向いた。
さっき、巨人のやって来た薄明の彼方に、三つの影が立っていた。
ひとつは女、あとの二つは世にも美しい黒衣の主、そして、どちらも同じ姿形をとって――
「あいつが元凶だ」
と片方が片方に言った。
「おれの役目はここまでだ。後はまかせる。三日間の約束、忘れるなよ」
女がいまの台詞を言われた方の美影身を見つめた。
「D――私、行くわ。もしもやられたら、後を――」
「雇い主が死んでは困る」
Dは、じろりともうひとりの自分をにらんでから、巨人へと顎をしゃくり、
「処分しろ」
と言った。
「そうもいかん」
と、にせDは鬱陶しそうな表情で、これも巨人を見た。
「この研究所自体が、破壊され尽くした後の再生途上なのだ。おれが主人であると理解している部分もあるし、納得していない機構もある。残念ながら奴は後者の代表だ。いずれはおれの指揮下に入るが、いまのところは、おれさえも敵と見なすだろう」
苦いとすらいえる返事に、Dは静かに言った。
「なら、おまえが始末しろ」
「言うだろうと思った」
にせものは肩をすくめて、
「だが、ここで議論しあっている場合でもあるまい。あの若いの、危険だぞ」
「そうよ、D」
とミアも同意した。
Dは、にせDから眼を離さず、
「失せろ」
と言った。自分が戦っている間の、ミアの身を案じたのである。
「よかろう。あいつを始末してくれれば、おれも助かる。――遠い国から幸運を祈ろう」
すっとぼけた返事をして、にせものは奥の闇へと歩き出し、数歩進んでふり向いた。
ミアと眼が合うと、
「達者でな、勇敢なお嬢さん」
それまでとは別人のようなやさしい声をかけ、ミアが返事をする暇もなく、闇に消えた。
奇妙な感情のゆらぎからミアが我に返ったのは、一秒足らず後のことである。
本来の凄惨なる死闘の場へ眼を向けたとき、すでにDは階段を下り切っていた。
巨人まで二〇メートルもない。
美しきハンターの身辺にただよう静寂が、突如、死闘の叫喚に変わる前哨として、ふさわしい距離であるか否か。
無造作にDは進んだ。対して、巨人は棒立ち。
黙然と進み入るDが、刀身をふり上げたその刃の下にまで入りこんだとき、巨人の刀身が横薙ぎに首のつけ根を襲った。
青い火花が薄明にきらめきの粒をはかなくとばし、澄み切った金属音が鳴った。Dが抜き打ちの一刀で受けたのだ。見よ、巨人がよろめいたではないか。
それも束の間、必死でバランスを保ちつつ、第二撃を頭上へと打ち下ろす。
Dはそれを受けなかった。
彼は軽く床を蹴り、空中で斬り下ろした。
刀身を収めるのとほとんど同時に、巨人の上半身は、右の首すじから左の肋骨最下端にかけて上体がずれた。すう、と滑り台みたいに、流れて床に落ち、けたたましい音をたてた。ミアがケンツが、生ける死者たちまでが眼を剥いた。
刀身と、なお床を踏みしめて立つ巨体の残りにちらと眼を走らせただけで、Dはケンツの方へと歩き出した。いや、いまの戦いで一瞬たりとも足を止めていない。
その背後で、巨人の残る上体が、ぐうっと身を屈めた。断ち切られた左半分を持ち上げて、もとの位置にくっつけようとする。
村人たちの死体は復活したのだ。
かろうじて乗った。長剣をふり上げ、Dに向かって再び、ふり下ろそうとする。
歩きながら、Dの右足が軽く床を叩いた。
巨人の上体がもう一度滑り落ち、派手な響きを上げたときにはすでに、Dは死者たちの群れの中に突入していた。
床上の破片など気にもせず、一刀が閃くと、死者たちはたちまち寸断された。
さしものケンツが正視できないほどの、人間味などかけらもない「分解」であった。さらに、床上の破片を蹴散らし、
「ついて来い」
と言った。
破片の包囲網を抜けると、ケンツは茫然と二人――Dとミアを見つめた。
「あんた方――一体?」
「村でお目にかからなくて?」
ミアの問い返しに、ケンツはかぶりをふって、
「いや、知ってるよ、ミアさんだったな。それに吸血鬼ハンター“D”」
凄まじい光がDを見つめる両眼に溢れた。ケンツにとって彼は殺人鬼なのだ。
「こんなところで、何をしている?」
「迷いこんだのよ」
ミアは嘘をついた。正直に言っても理解してもらえるはずはないし、ミア自身にも理解は遠い夢だった。
「なら、早く逃げろ」
「逃げろって、あなたは?」
「おれには、まだ用がある。ここで何が行われようとしているのか、確かめなくては」
「それより、脱出なさいな。いつまでいても、何もわからないうちに殺されてしまうわよ。――あの人たちみたいに」
ケンツの眼には、かえって強烈な光が宿った。
「なら、仇も討たなくてはならないよ。あんたたちは行ってくれ」
「駄目よ、放ってはおけない。無駄死にになるわ」
「覚悟の上だ。おれひとりで、ノコノコ戻るわけにはいかない」
「いいえ、そうなさい。ここに巣くっている奴らの恐ろしさはわかったでしょう。死人を操れるの」
「あの鎧の中身はなかった。声しかきこえなかった」
ケンツはぼんやりつぶやいた。
「そんな奴らを相手にして勝てっこないわ。戻ったって誰も責めやしない」
「戻れたらの話だ」
とDが口をはさんだ。
二人はぎょっとして彼の方へ眼をやった。
「おまえの仲間はみな死んだ。おまえだけがここへ入れたのは、敵が誘いこんだからだ。そんな相手を易々と帰してはくれまい。あの銅製の鎧の中身は、いまもどこかで、おれたちを監視しているだろう」
「――あいつは、何なんだ?」
ケンツは顔を歪めた。妖物妖霊の類なら知悉《ちしつ》しているし、何度か渡り合った覚えもある。だが、あいつ[#「あいつ」に傍点]は全く別の代物だった。ケンツは超自然的存在に対する護符を身につけているのだ。
「じきにわかる」
ケンツは、はっとDの左腰のあたりへ眼をやった。嗄れ声から、左手と判断したが、ミアは何も言わなかった。
「それよりも、三日の待機が地上でとは限らなくなってきたぞ。あの二人[#「あの二人」に傍点]は、確か、まだ仲間ではなかったな」
それは、にせDと鎧の中身の存在の意味であった。
ミアは生唾を呑みこんだ。
「ここは復活しつつある。完全に修復してしまえば、わしらの手にも負えぬ大要塞と化すだろう。もちろん、安穏と留まってなどいられはすまい。ここは、一刻も早く地上へ逃れる手だ」
Dはしゃべっていないから、ケンツは眼を白黒させているばかりだ。確かに嗄れ声はDの腰――自然に下げた手のあたりからきこえてくる。
「行くか」
とDが歩き出した。
「そこは――」
ケンツが息を呑んだ。黒衣の前方には扉の消失したあの石壁がそびえているばかりだ。
と、Dの前方の壁が電子像のように崩れ、忽然とあの扉が出現したではないか。
思わず、かたわらのミアへ眼をやり、すべてを見通している娘の横顔に、驚愕と畏怖と、何かあこがれめいた表情が揺曵《ようえい》しているのを認めて、若者はかすかな痛みが胸中に走るのを感じた。
[#改ページ]
第七章 脱出魔行
「ここは一体、どこなの?」
とミアが呻くように訊いたのは、例の祭祀場を出て小一時がすぎたときであった。
Dを先頭に廊下を抜け、階段を上がり、それは決して不安ではなかったが、休みなしの行軍は、娘の身体にはきつすぎたのである。
「まだ半分も来ていない」
「ごめんなさい、休ませて。喉も渇いたし」
ミアはくずおれた。眼の前に、また階段がある。その先は闇に溶けていて見えない。あてもない上昇が、娘の気力と体力を奪い去ってしまったのである。
「けど、おかしいぜ。これだけ急な階段上がって、まだ地上に出られないなんてさ」
ケンツの声にはDへの不信感が濃い。
殺人鬼だというのではない。その疑いは、Dと過ごした短い時間のなかに消えている。ミア絡みの理由がひとつあるのだが、実のところ、彼はDの素性をミアからきいていた。ダンピール――これが気に入らないのである。貴族の仲間ではないか。それなら、人目を避けて深山幽谷の中に隠棲でもしていればいいものを、のうのうと世間と交わり、おまけにハンターを、それも吸血鬼ハンターを生業にしているときた。
吸血鬼――自分の仲間ではないか。
裏切り者、とまでは思わないが、釈然としないのは確かだ。筋が通らない。Dを見るケンツの眼は、決して友好的とはいえなかった。
「邪魔が入っておる」
ぼそぼそとつぶやくような声が応じた。
「邪魔?」
と眼を丸くしてから、Dの腰の方へ眼をやって、
「腹話術でも使うのかい、あんた?」
と訊いた。
「さっきの鎧の中身が空間を歪めておるのだ。おかげで、出口までの距離は十倍ものびた。こちらはこちらで逆修正しながら進むから、何とか前進はできる。でなければ、死ぬまで堂々巡りだ」
「で、いつ着けるんだよ?」
「そうだな、あと一時と半。それも、これ以上の邪魔が入らなかった場合に限る」
「これ以上って?」
「このままではいつか逃げられてしまう」
「イェイ。おめでたいこった」
ケンツはやけくそ気味に手を打ち合わせた。
「何はともあれ、急いだ方がいいな。剣呑《けんのん》な空気が取り囲んでおるぞ」
ミアは顔を上げた。Dが近づき、身を屈めたのである。
「?」
「おんぶしてやろう」
嗄れ声が言った。
「でも――」
「いいから。こいつ[#「こいつ」に傍点]は、その辺の奴らと身体の出来が違う」
「――はい」
ミアは立ち上がり、素直に身を預けた。
黒衣のせいか、はためには細身とも映る背中だが、いざ触れてみると、惚れ惚れするくらい広くてたくましい。身体中に安堵が広がった。
「いいのかい?」
とケンツが文句をつけた。
「何がだ?」
「女に格好いいとこ見せるのは結構ですがね。いざってとき、反撃が遅れたりすると困りまっせ。おれに泣きつかないでくれよ、色男」
自分でも意外な嫌みに驚いていると、その表情が急にこわばった。
嗄れ声が低いふくみ笑いを放ったのである。
「何がおかしい?」
ケンツは気色ばんだ。そばにミアもいる。当然の反応だ。
「泣きつくのはどっちか――ぐえ」
苦鳴のようなひと声を上げて、声は熄《や》んだ。
「面白いことを言うじゃないか。どっちが泣きつくか、試してみるかい?」
ケンツの身体は自然に戦闘体勢を取っていた。全身の力を抜き、両足の親指のみに力点を置く。Dとの距離は三メートル。右の隠し刃はともかく、左の鉄矢なら十分効果を発揮する。
「やめておけ」
とDは言った。さらにきつく握りしめられた左手の拳が、糸を引くような呻きを洩らしたが、ケンツの耳には無論、届かない。
「ね、やめて」
Dの背中でミアも口を添えた。
「そんなことしてる場合じゃないでしょう。力を合わせてここを出る算段をしないと――」
ケンツはひたむきな娘の顔を見つめた。澄んだ眼が、彼の頭に広がるじめついた熱を取り去り、いっとき、正常に戻した。
「その通りだな」
とうなずき、Dに、
「悪かった。おれも疲れてるんだよ」
と詫びた。
「いいや。おまえは正しい」
Dの冷たい返事の意味に、最初に気づいたのはミアであった。背の上で愕然と身を固くして、
「D……」
と口にしたのが精一杯の異議申し立てであった。
「おい」
とケンツも動揺を隠さなかった。
「おれは、ちょっとどうかしてたんだ。悪かったよ」
「来い」
とDは静かに言った。ミアを背負ったままの両手はふさがっている。
「やめて、D、どういうつもりなの?」
「彼は戦いたがっている。それなら、早めに願いを叶えてやったがよかろう」
「もう、そんな気はないよ」
ケンツは肩をすくめた。
その右頬を灼熱のすじがかすめた。
背後の石壁に、かつんと突き刺さったのは白木の針であった。しかし、両手がふさがった状態で、いつどうやって?
「そういう気かい」
ケンツは頬に右手の指を当て、指先を眺めた。血に染まっている。
「何が気に入らないんだかわからないが、売られた喧嘩は買うよ」
こう告げたときには、すでに、精神も肉体も戦闘状態に入っている。湧き上がる闘争心の純粋さに、ケンツは口もとに微笑さえ浮かべた。
「だが、その前に、ミアを下ろせ」
その頭上から光が半月の弧を描いた。
「うわっ!?」
と跳びのくことができたのは、持ち前の超スピードゆえだ。
着地したその眼前にDは迫っていた。両手はミアの背に廻り、得物を握っている風もない。
「くそっ!?」
鉄矢を放とうとして、ケンツはまだ左手を上げていないことに気がついた。
持ち上げてDの腹部に狙いをつける。一年もかかったような気がした。
圧縮酸素のしゅっという解放音。
射ってから血が凍った。――ミアがいる。貫通したら!?
だが、身体は矢の行方を追うよりも旋回を選んだ。
Dの攻撃が空気を裂く音を、間一髪頭上でききつつ、右手の隠し刃をDの腰に叩きこむ。
手応えなしに愕然と跳躍する。着地したその頭上に、ぴたりと冷たいものがあてがわれた。
眼の前にDがいた。
びゅっと額に叩きつけられた風圧が何を意味するのか悟って硬直するケンツへ、
「どうする?」
と訊いた。
「殺せ!」
眼を閉じたまま叫んだ途端、ケンツは、すっと刃の気配が離れるのを感じた。足下で、ちりんちりんと固い音が響いた。
眼を落とし、若き狩人は今度こそ血も凍る思いを味わった。
彼の放った二本の矢であった。Dの両手は相変わらずミアの背に廻ったままだ。一刀も握っていない。それでいて、ケンツの頭部へ幹竹割《からたけわ》り寸前の一撃を浴びせ、マッハの速度で飛来する鉄矢を受け止めたのも、この美しいハンターの技に違いない。
全身から力が抜け、ケンツはへなへなとその場にくずおれてしまった。ここに至って、互いの実力差の底知れぬ深淵に、身も精神《こころ》も燃え尽きてしまったのである。
「立てるか?」
とDが訊いた。
「ああ」
すんなりと出た答えのわだかまりのなさに、ケンツ自身が驚いた。彼我《ひが》の実力差は、Dに対する偏見を一気に拭い去ってしまったのである。
若さの持つ清新さと、ハンターという職業に付随する潔さとは、ケンツの精神を、蝕みつつあった妖気から解放してのけた。
立ち上がって照れ臭そうに笑い、
「あんた、心理学者だな」
とDに向かって言った。言われた方はにこりともせず、
「上がるぞ」
ひと声かけて、階段へと歩き出した。
五〇段ほど昇り切ってすぐ、広い通路へ出た。
Dが足を止めた。
「どうしたんだい?」
と前へ出たがるケンツを押しとどめ、
「二人とも、眼を閉じて耳をふさげ」
と言った。
訝しげに眉を寄せたが、もうこの若者の技倆の底知れなさは承知しているから、極めて素直に、
「わかった。それだけか?」
と訊いた。
「この廊下を進んでいくと、必ず邪魔が入る」
とDは説明した。
「どんな邪魔かはわからん。しかし、決してふり向くな。向いたら、その時点ですべては終わる。城から出られなくなるかもしれん」
「わかったよ」
とケンツはうなずき、ふと、ある疑問を感じた。
「なあ、どうして、この廊下のことを知ってるんだい?」
Dの返事は短かった。
「わからん」
それから、
「行くぞ」
歩き出してすぐ、三歩と進まぬうちに、ケンツは背後から流れてくる人の気配に気づいた。
「ケンツ」
と呼びかけられ、彼は内心、あっと叫んだ。両耳を固く押さえているのに、その声がはっきりきこえたからではない。
声の主は――
「グラフ!?」
思わずふり向きかけ、かろうじて堪えたのは、Dの注意を憶い出したからだ。
あの大陥没の底で行方不明となりながら、彼を奇怪な巨人のもとへ誘いこんだ仲間が、ここで何をしているのか?
「ケンツ――きいてるか? おれは負傷してるんだ。おかしな化物に片足をかじられて動けない。おまけに腹もやられた。出血多量で危ない。助けてくれ」
か細いが、血を吐くような叫びであった。
Dとミアは何事もなかったように前を歩いていく。グラフの声はケンツにしかきこえないらしかった。
そして、仲間は弱々しく、痛切に訴えつづける。
「助けてくれ。置いていかないでくれよ、ケンツ。おまえ、リーダーだろう。おれを救うのも仕事だ。頼む、連れていってくれ、責任を果たせよ」
「グラフ」
ついに耐え切れず、ふり向こうとした肩を、強い力が圧搾した。
いつの間にか後退してきたらしいDが、前を向いたまま、後ろ手で彼の肩を掴んだのだ。なぜ、自分の苦悩に気づいたか、彼には想像もできなかった。
途端に、耳の奥で凄まじい怨嗟《えんさ》にみちた叫びが上がったが、ケンツが発狂する前に消えた。
延々とつづく廊下をさらに一時間ほど進み、次の曲がり角に来ると、Dは、
「もう、よかろう」
と言い渡し、三人はその場で小休止をとった。
グラフは死んだろうか、とぼんやりと考えているうちに、ミアのすすり泣きがきこえ、ケンツは驚いてその方を見た。
「どうしたんだ?」
ミアはDの背から下り、床の上に腰を下ろしていた。膝の上に幾つかの染みができている。涙の跡であった。
「どうした?」
重ねて訊くと、かすかに首をふって、
「何でもないわ」
と言った。声が内容を裏切っている。
「何でもないわきゃねえだろう。泣いてるじゃないか」
「放っといて」
「ああ。あと五分、な」
ミアはふと顔を上げ、
「どういう意味?」
と訊いた。
「五分も泣きゃあ気も楽になるよ。そしたら、男と女の会話といこう」
「馬鹿」
ミアは吐き捨てたが、声は小さく、きつくもなかった。
少し黙ってから、
「母さんに呼ばれたの」
と言った。
「もう亡くなったはずなのに、何度も何度も呼ぶのよ。いないって思っても、つい、ね」
「ふり向いたのか?」
「ううん」
とDの方を見た。美しい若者は、少し離れた位置で壁にもたれている。
「手を握ってくれたの。そうしたら、急に気持ちが楽になって」
「そうかい。そりゃよかったな」
つっけんどんに言って、ケンツはミアのそばから離れて、廊下の先の方へ歩いていった。壁に背をつけ、そっぽを向いてしまう。
「どうかしたの? 私、何か言った?」
きょとんとするミアに、
「季節病だ。若いうちしかかからん」
と嗄れ声が応じた。
「どうしたらいいかなあ?」
「男とつき合ったことはあるか?」
「占いが忙しくて」
「天然記念物か、おのれは」
「行ってやれ」
これがDの声だったので、ミアははっとした。行ってどうしたものか。それでも、行けば何とかなるような気がした。
自分でも固いなと思う歩き方でケンツに近づき、
「あの、どうしたんですか?」
ともっと固い声で訊いた。
訊かれた方は、そっぽを向いたまま、
「何でもない」
と取りつく島もない。
「困ったわ」
救いを求めるようにDの方を見たが、こっちは眼を閉じて何か考えている風だ。その姿にうっとりしかけ、あわててケンツへ向き直って、
「素敵だわ」
と言ってしまった。
「はン?」
と眼を剥いた若者が見たのは、自分のミスに気づいて頬を赤らめ、うつむいてしまったミアだから、途端に咳払いをして、崩れる強面《こわもて》を、必死で維持しようと努める。
すべて誤解だ。そして、すべては誤解からはじまる。
「あの――何でもないなら、これで」
ミアの顔はまだ赤い。
「ああ――あ、ちょっと」
「え?」
とふり向くミアへ、
「何でもないよ」
また、そっぽを向いた。
Dの左手が、グフグフと、水でも含んだみたいに笑ったのに、二人は気がつかない。
「くくく、ここは若い者同士でと、お節介な仲人なら思うところだな。しかし、見たところ、あの娘、おまえにほの字[#「ほの字」に傍点]だが」
「地上までどれくらいかかる?」
「そうだな、わしの勘ではざっと三〇分。――何事もなければ、だが」
Dの胸で青いペンダントが澄んだ光を放っていた。
そこへ、ミアが憤然と戻ってきて、
「あのわからず屋!」
とののしった。
「どうした?」
これはDだ。おや、ほんのちょっぴりだが、愉しげな風情がある。
「知りません。人が何を訊いても、不貞腐れて口もきかないの。男のくせに、女の――いいえ、男の腐った奴だわ」
「何言ってやがる」
遠くでケンツが口を尖らせた。
「おまえこそ、未来のヒステリー婆あだ。ちょっといい男を見ると、すぐ色目を使いやがって」
「何ですって!?」
ミアは逆上した。両手で印を結び、何やら怪しげな呪文を唱える。
「えい!」
ぱんと手を打ち合わせるや、
「うわっ!?」
悲鳴を上げて、ケンツがのけぞった。
頭の中で雷鳴が鳴り響いたのである。
ふらふらとよたりながら、
「痛《つ》う。こいつ、何をした?」
「ふん、だ」
とミアはそっぽを向いた。
「人のこと、侮辱した罰よ。脳味噌が破裂しなかっただけ、ましと思いなさい」
「この」
と片手をふり上げたものの、脳内炸裂の余波がまだ残っているのか、足をもつれさせて大きく横倒しになった。
「やだ!」
ミアが駆け出した。自分の術の成果に責任を感じたらしい。
Dはそちらを見ようともしなかった。
彼は音もなく身を屈めていた。
前方の闇から人影が飛び出すや、一気に切りかかってきたのだ。
間一髪で軽く[#「軽く」に傍点]かわし、Dは足を払った。勢い余って倒れた身体は、ミアとケンツの足下へ滑走していって、そこで止まった。
すぐに立ち上がり、右の短槍を構えた男をひと目見て、
「チャン!?」
とケンツが叫んだ。
「おまえは――外で」
「何をしていたんだ、ケンツ」
チャンはDの方を親の敵でも見るみたいな眼つきで見つめた。
「おれはずっとおまえを待っていた。それなのに、やって来ず、おれはとうとう――」
「悪かった。だが、話をきけ。この人たちは、おれたちの敵じゃない。――おい」
「無駄だ」
遠くの方からしたような声にふり向くと、一メートルほど向こうにDが立っていた。
「そいつはおまえの仲間じゃない。下がれ」
「そんなことはない。確かにチャンだ。――やめろ」
「騙されるな」
とチャンは血走った眼をDに据え、
「おれにはわかるんだ。こいつには貴族の匂いがする。敵だ」
「下がれ」
とDはケンツに繰り返した。
次の瞬間、チャンはDめがけてもう一度突っかけた。
Dは右へかわした。そうせずにはいられない微妙な角度の突きであった。
チャンの両手が穂先の方へ滑るや、そこを支点に短槍は旋回し、Dの足を打った。鉛が仕込まれた柄は鉄棒も曲げる。
Dの身体が流れた。短槍と同じ方角へ。
ミアが驚きの声を上げた。Dの両足は槍の柄を踏んでいたのである。
愕然とチャンは短槍を捨て、右手を腰の山刀にのばした。
その頭頂から肋骨すべてを断って、Dの一刀が斬りこんだ。
血の霧が驟雨《しゅうう》のように舞って、床と壁と――ミアとケンツにまで降りかかった。チャンは崩れ落ちている。
「チャン!?」
駆け寄って、取り返しがつかない事態を悟り、ケンツは顔を伏せた。少ししてDに向かって上げた顔は、憎しみと怒りの面を被っていた。
「なぜ、殺した? あんたの腕なら、殺さずに済ませられたはずだ。なぜ、殺した?」
「君の仲間じゃない」
「ふざけるな。なぜ、わかる?」
「右の足首を調べてみろ。すれ違ったとき、砕いておいた。その後も奴は平気で立っていた」
怒りを抑えて、ケンツは仲間の右足に触れた。すぐ、
「あんたの言う通りだ」
とうなずいた。
「だが、これだけで、チャンじゃないとは言えない。――D、おれは気が済まないぜ」
「話はここを出てからにしろ」
なおも食い下がりたげなケンツが矛を収めたのは、
「そうよ、やめて」
とミアがとりなしたからである。
「――わかった。その代わり、無事地上へ出たら、いいな?」
「承知した」
決闘を申しこんだ相手を映すDの瞳は、意外にも穏やかであった。
三人は通路を進みはじめた。
一〇分後、ミアが手を鼻に当て、
「おかしな匂いがしない?」
と訊いた。
「おれもそう思ってたよ」
とケンツもシャツの袖や襟を引っぱって匂いを嗅いだ。
Dは黙っていた。
二〇分後、二人のいう“匂い”は隠しようもなく、一行を取り巻きつつあった。
「これは、血だ」
とケンツがつぶやき、ミアもうなずいた。
Dは沈黙を守っていた。
三〇分後、むき出しの肌が血潮で覆われるのではないかと思える臭気の中で、二人は黙然と前を行くDへ、不安げな視線を注いだ。
やがて、Dの足が止まった。
前方に石段が見える。
「あの上が出口だ」
と嗄れ声が言った。そこに緊張を感じ取るのは容易だった。
「D」
とミアが呼びかけた。黒い影は彫像と化したかのように、重く、動かない。
「先に行け」
とDが言った。何かを堪えているような響きに、二人は思わず顔を見合わせた。
「どうしたの、D?」
「行け」
ミアの肩をケンツが叩いて、
「先に行きな」
と促した。
「でも――」
「あいつのことなら心配すんな。おれが守ってやる」
ミアは若い顔をみつめ、
「頼むわ」
と言ってから、歩き出した。すぐ後にケンツがつづく。
ミアがDの右横をすり抜けようとしたとき、黒い腕がのび、彼女の肩と腰とを巻いて抱き寄せた。
「何をする!?」
「やめて、D!?」
怒号するケンツと身悶えするミアとの前で、Dは奇怪な行動に出た。
左手を翻してコートの内側へ入れると、刃渡り四〇センチばかりの分厚い予備の刀を抜き出し、それを口に咥えたのである。
のけぞるように美しい顔をそらせ、一気にふり下ろした先は、顎の高さに突き出した左腕であった。
異様な音をたてて、左の手首が落ちた。
そして、ケンツの驚いたことに、手首は一気に、ミアの腰を抱き寄せている右腕へと跳躍した。
二つが触れ合うと、右手の指が開き、ミアを解放した。
素早く走り寄ったケンツがミアを抱き寄せ、後じさる。
「なぜ……前に行かん?……そっちは後ろだぞ」
奇怪な呻きをDは洩らした。
「そうだ、早く行け!」
これは左手の嗄れ声だ。同じ内容を口にしながら、なぜか相争っている風がある。
左手首がDの首へと跳ね、反対側の壁へと押しつけた。
「行け!」
怒号に近い叫びに押されて、二人は通路を進んだ。階段を駆け昇る。Dの方は見なかった。何か、想像を絶する悪い出来事が生じているような気がした。
二、三〇段も上がったろうか。ほぼ同じくらいの段数の上に、鉄の扉がそびえている。
「あそこだ!」
足に力をこめたその刹那、下方から黒いつむじ風が吹き抜け、二人の頭上を越えて五、六段上の階段上に、とんと立ったのである。
Dであった。だが、彼らの知っているDか、これが。
一層青白さを増したその肌、両眼からこぼれる真紅の光――そして、ああ、うすい唇からのぞく二本の牙。
敵が策したものは――チャンの血に混ぜておいた臭放物質の目的は、これであったのか。
いま、二人の若い男女と脱出孔の前に立ちふさがる恐るべき貴族――それこそ、Dであった。
『D―双影の騎士1』完
[#改ページ]
あとがき
長い間お待たせしました。「吸血鬼ハンター“D”」の最新刊をお届けします。
今回の“D”は、いままでとふた味[#「ふた味」に傍点]ほど変わっているのにお気づきでしょうか。
私はこれまで意図的に“D”の過去には触れないできました。
これは純粋に個人の趣味の問題で、シリーズものに特徴的な“連鎖性”が苦手であるということにすぎません。
まあ、一応はシリーズですから、必然的に“D”の過去に触れることになる。それをせいぜい小出しにしておいて、各エピソードの主要人物とは、あまり関係がないようにする――つまり、あくまでも彼ら彼女らの物語を主体に、生き生きとそのたびごとの出来事を綴るというのが、“D”シリーズの手法だったわけです。
今回、大幅にそれを崩しました。
これは“D”の物語です。
主人公は“D”本人であり、他の登場人物は脇役にすぎません。問題は“D”が二人いることなのですが――前口上はこれくらいにします。後は本篇をお読み下さい。
では、なぜ、作者はこれまでの禁《タブー》を破って“D”自身の物語に足を踏み入れたかですが、読者の皆さんは、さだめし、重い理由、深い訳があるのだろうとお考えになるでしょう。
残念でした。
今回の“D”が書きはじめられた原因は、実に単純で、馬鹿馬鹿しいものなのです。
従って、
「おまえはアホか」
と石をぶつけられたくない作者は、事態をことごとく隠蔽することにしました。
“D”の過去が描かれた原因は、一生、誰にもわかりません。恐らく、原因をつくり出した担当のI氏にもわからないでしょう。
文句、糾弾、怒りのお便りはそちらへどうぞ。FAXでも電話でも構いません。
そのかわり、――もし、今回の“D”が気に入った場合は、その原因もまたI氏にあります。
感謝、喜びのお便りもI氏へどうぞ。FAXでも電話でも、直接訪問でも構いません。
平成八年十一月某日 『ドラキュラ・血のしたたり』を観ながら
菊地秀行