D―蒼白き堕天使4 〜吸血鬼ハンター9
菊地秀行
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目次
第一章 伏魔殿の主人(あるじ)
第二章 殺戮の平原
第三章 “山の民”との戦(いくさ)
第四章 ミスカの場合
第五章 遥(はる)けきシャングリ=ラ
第六章 昏(くら)き死の結託
第七章 蒼き翳(かげ)の天使
あとがき
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第一章 伏魔殿の主人(あるじ)
1
事態は混沌の度を増しつつあった。その果てに冷たく息づいているのは死であった。いや、滅びというべきか。
ミスカとフシア――体内に“破壊者”が巣くっている二人でさえ、彼を見て茫然となった。
鬼気が彼らとカリオールの顔を横薙ぎにした。
「お下がりください、バラージュさま」
押し戻そうと両肩に当てた手が、男爵のひとふりで弾きとばされ、カリオールは二、三メートルほど奇妙なダンスのような後退を見せて、ようやく立ち止まった。
「カリオール」
と誰かがその名を呼んだ。
「はい」
と答えるのにコンマ何秒かかかったのは、カリオール自身にも、そんな声を出す人物のあてがなかったからだ。地の底から立ちのぼる幽鬼の声。
「カリオール……この二人は?」
と男爵がつづけて訊いた。
「近づいてはなりません、バラージュさま。ともに体内に“破壊者”を抱いたものどもでございます」
「“破壊者”……」
男爵はミスカとフシアを貫くように見つめた。
「私は……ヴラド卿に敗れた。……このままでは到底……勝てまい……それは恥じ入るところではないが……我が大望を果たせぬままに……終わってしまう」
鬼哭《きこく》のような声はこう結んだ。
「“破壊者”ならば……勝てるか?……ヴラドに?」
「それは」
反射的にカリオールは答え、愕然となった。男爵の意味するところに気づいたのである。
「どうだ?」
「それは……」
「カリオール」
老学者は敗北を悟った。
「勝てる、とは申しかねます。――五分五分、と」
じり、と男爵は歩を進めた。
「この二人――どちらでもよい。体内の“破壊者”を私に渡せ」
老人の顔色は、その白い鬚と同じになった。
「なりません」
叫びは男爵の足取りをさらに進めた。幽鬼のごとく憔悴しきった表情が蒼く染まった。ミスカとフシアの身体から放たれた電光であった。
「できぬのか、カリオール? では、私が勝手に――」
だが、どうしようというのか。父に敗れた屈辱と、クロモの化粧によって、男爵の精神と肉体は極めて不安定かつ異常な状態にあった。“破壊者”を自らに取り込もうという考えも、妄執が生み出したものだ。床を踏む足は頼りなく、膝は砕けかけている。
フシアがにやりと笑った。
もとより、“破壊者”を注ぎ込まれた彼も、目下のところは正常とはいえない。本来、貴族の不死性のみが許容し得る灼熱の純エネルギー体ともいうべき存在は、彼の脳を灼き、脆弱な肉の檻を脱出しようと荒れ狂った。内臓も筋肉も骨も灼熱し、焼け爛れ、数千分の一秒で再生し、また溶解していく。その無限の繰り返しに勝利するのはどちらか?
しかし、いま、フシアの狂った脳は、その潜在意識に焼きつけられた吸血鬼ハンターとしての“指令”を認識した。
両眼が閉じられた。口もとに浮かんだそれは、古代、東の国に伝わるという宗教的立像の笑みに似ていた。
両瞼が開いた。
解放される――“破壊者”のパワーが!
天も地も蒼白になった。万物が影を失い、影そのものと化す。風すら熄《や》んだ。あらゆる音が絶えた。
男爵の身体を蒼い光の環が包んでいた。その内側にうっすらと男爵の姿が滲んでいる。それが消えたとき、ひとりの貴族が世界から抹消されるはずであった。
蒼い光環が急速に色を失った。
見る間に収縮し、散り散りになって、ふっと消えてしまう。
その内側に、もうひと重の円環が残った。
カリオールがそれに眼を移し、さらにミスカを見た。
男爵を守った蒼光《そうこう》が消える前に、ミスカとフシアの手が同時に前方へのびた。
再び、世界は蒼一色に溶けた。それが凄烈な白を帯び、何もかも呑み込む虚無と等しくなる寸前――色と形が戻った。
男爵は床上に立ち、カリオールはその右斜め後方で両手をさしのべ、クロモとサイファンは巨大な硬質ガラスの円筒の陰から顔だけをのぞかせていた。
物音も絶え、声もなく、それはひどく静かで平和な光景だった。
動きが生じた。クロモとサイファンだった。
二人の魔人が占めていた位置を見つめ、その右へ左へと視線を移しながら、
「いねえぞ」
と呻いた。
「どこ行きやがった。おお、左右の壁にあんなでけえ穴が空いてるぜ。そこから逃げたか、分解しちまったかだな」
「逃げた――いや、どちらも吹っとんだのじゃ」
とカリオールが嗄れ声で言った。
「どうします、放っておきますか?」
「馬鹿なことを言うな。“破壊者”を体内に宿した連中じゃぞ。放置すれば、世界を破壊しかねん。かといって、おまえたちに為す術は――ええい、探せ。手分けして、いや、ミスカさまはよい。じき、貴族の血が破壊の意志を押し止めてくれよう。男爵さまを救ったのも、あの方じゃ。先にフシアとやらを探せ。居場所を見つけ次第、連絡をよこすのじゃ。よいか、手出しはならん。息も吹きかけてはならんぞ」
二人の部下が飛鳥《ひちょう》のごとく闇の中へ消えると、カリオールは床上のバイロン・バラージュをふり返った。
男爵の眼は閉じられていた。呼吸すらしていないように見える。仁王立ちの姿勢で、彼は意識を失っていた。
「おいたわしい」
そのやつれ果てた横顔にまといつくカリオールの声には、嘘いつわりのない悲哀がこめられていた。
「お母さまも、あなたさまもまた。――ですが、じきですぞ。さして長からぬ明日、ヴラド卿はこの私めが斃《たお》してごらんにいれます。それまでお待ち下さい。決して、あなたさまが悪鬼になどなられませぬように」
そして、彼は男爵に近づき、その両肩に手を当てた。
男爵の手が動いた。今度はカリオールの手を弾かず、万力《まんりき》のような力で手首を握りしめたのである。
骨の軋む音を聞きながら、老人は感嘆した。
「おお、それほどまでに卿をお討ちになりたいのか? 意識を失ってさえも?」
彼は言葉を切り、破壊された水槽に眼をやった。それから身をひねって、壁の二つの大穴を見た。
「どちらかひとり……」
そのつぶやきが何を意味するものか、老学者の双眸は、泣きじゃくる幼子でさえ卒倒しそうな危険なかがやきを放っていた。
Dはソーントン通りの倉庫にいた。
簡単に倉庫というが、その内容は、この村でなければ劫罰《ごうばつ》の雷火が閃きそうな代物であった。
甲虫《かぶとむし》を下りたラグーンがシャッター脇のドアを開けて招き入れたとき、Dが視線をとばしたほどの品々が、五階建てのビルくらいもある空間を埋めている。
五〇メートルもありそうな武骨な腕《アーム》にシャベルを取りつけたパワー・シャベルは、その辺の一区画など五分で粉砕してしまいそうだ。
黒光りするドリルが単体で存在するような地底掘削用ドリル・マシン。――体高が五メートルと低めだが、ドリル長のみで三〇メートル、全長は四〇メートル近いため、起重台によって直立の姿勢をとっている。マントル内へ侵入しても、無事に帰還すると評判のドリルは、かつて東の海に存在したといわれる伝説の大陸――アトラントで製造されていた奇金属オリハルコン・ベースの合金製だという。
「あれが何だかわかるか?」
奥へと向かう自走路のスピードを落としながら、ラグーンが指さしたのは、黒い小山のような基部《ベース》の周囲をおびただしいレールが取り巻いているメカニズムであった。
原子の見取り図を連想させる外見は、はた目には整合性のないレールの軌道を示しながら、よく見れば、すべて一定の法則にのっとって構成されていることがわかる。
「ビッグ・バン加速器か」
Dの返事に、ラグーンは大きくうなずいた。液体金属の鎧はつけていない。巨体を包むのは、この村の顔役にふさわしい絢爛たるガウンであった。
「さすがだな。その辺の無教養なハンターとはひと味ちがう。ここだけの話だが、あいつを一発、ヴラド卿の館に射ち込んでみたいと思うときがあるぞ」
ラグーンの上気した表情は、その結果生じる破壊で、卿の生命さえ奪えると信じているらしかった。
宇宙の成立時に生じるという大爆発現象「ビッグ・バン」――それと同じ効果を、この加速器は生む。人間にはいまなお未知のある物理法則によって導かれるレールの湾曲率と角度から射出される「物質」は、疾走中に光速を超え、標的に命中時、時間軸にも干渉する。これこそが「ビッグ・バン」の最大効果といえるのだが、いま、二人の眼前をゆるやかに過ぎゆく巨大なメカニズムは、その時間干渉作用を取り除き、純粋な破壊のみの稼働を旨とする壊滅的な死神なのであった。
「すべて貴族のメカだな」
とDは言った。
「『都』から運んだか?」
「とんでもない。すべて、この地で、おれが組み立てたのさ」
Dの眼差しを受けたいかつい顔が、みるみる子供のような喜色と自慢とを露わにした。辺境一の歓楽境の総元締めは、案外、単純な人間なのかもしれない。
「もっとも、メカの理論だけはあの方から教えてもらったけどな。後は、おれが設計図を引き、熔鉱炉をつくり、原料を運んだ。発電所も建てた。見せたかったぜ、この村外れに広がる製造工場のスケールをよ」
「“知識”も代償か?」
Dの問いが男の熱気を奪い去った。
「その通りだ。おかげで、この村はヴラドの力を借りなくても、野盗や妖物の類に襲われたことがねえ。おれの館も、一見、阿呆みてえな田舎のストリップ劇場だが、ちゃあんと内側には“知識”の大理石を張り巡らせてあるのよ」
ちょうど自慢が終焉を迎えると同時に、自走路は狭いトンネルへ入り、やがて金属ドアの前で停まった。
ドアの向こうには、倉庫とは名ばかりの二間つづきの豪華な居室が連なり、手前の応接間でメイが二人を迎えた。
「D――タキは?」
不安げに尋ねる少女へ、
「救い出して、別の場所にいる」
「よかった」
メイは肘掛けにもたれて涙ぐんだ。
「だが、貴族の口づけは受けた」
とDは静かに冷酷につづけた。
メイの身体が痙攣したように小さく跳ね上がってDを見つめた。
「それじゃあ……」
「君の要求通り、タキは救い出した。おれの仕事は終わりだ」
Dの美貌の虜になったように眼を離さず、メイは生唾を呑み込んだ。小さな顔が俯くまで、少し時間がかかった。
「そうだ――そうだよね。もう、おしまいなんだ。タキは収容所に入れられるの? それでおしまいなんだ?」
「契約を続行する意思はあるのか?」
一瞬、よく聞き取れなかったとでもいう風に、メイは動きを止め、眉を寄せた。ぽかんとDを見た。
「でも――あたし、お金が」
「後払いでいいと言ったはずだ」
「何なら、おれが立て替えようか、お嬢ちゃん?」
ラグーンが片手を懐へねじ込んだ。
「いいえ。あたしが何とかする。D――子供料金もあるのよね?」
銅鑼《どら》のような響きが部屋中に谺《こだま》した。ラグーンがのけぞって大笑したのである。
驚くべきは、Dの唇をかすめた影であった。どう見ても――微笑。
「余計なお世話だろうが、どうやって稼ぐんだい?」
興味津々たるラグーンであった。
とん、とメイの片足が床を蹴るや、小柄な身体は垂直に三メートルも跳ね上がり、優雅に反転するや、ラグーンの肩に手を突きざま、斜めに部屋の隅へと跳んだ。
「ほう」
と顔役が唸ったのは、少女の身体が電気スタンドの笠の上に舞い降り、絶妙のバランスを維持したまま一礼したときであった。
「おれも色んな軽業師を見てきたが、こんなに可愛い天才ははじめてだ。どうだ、おれの館で稼ぐ気はないか?」
「あら」
とメイはすがめでラグーンを眺め、
「あたし、高いわよ」
と言った。
ぱん、とミットみたいな手を打ち合わせて、
「よっしゃ、契約成立だ。契約料ははずむぜえ」
ラグーンは重々しい、しかし会心の笑みを見せた。Dに向かって、
「文句はねえだろうな。華麗なる軽業師《フライヤー》の誕生だ。これで、タキを救けるのはあんたの仕事だぜ。――ヴラド卿相手にな」
皮肉とも嘲笑ともつかぬ最後の言葉に、メイがはっとしたとき、かすかな揺れが四方から伝わってきた。
「おや」
とつぶやき、ラグーンはDを見つめた。
Dはすでに戸口へ向かっていた。
「メイを移すなら早くしろ」
彼には、彼だけが聞き取った爆発音の正体がわかっていたのである。
クラウハウゼンへの途中、とある町の外れで、“破壊者”に憑かれたミスカが、人形師マリオを消滅させた――あの爆音であった。
2
一応平和なクラウハウゼンの夜を、その日脅かした存在に対する第一報は、奇怪な爆発音の後、一〇分ほどしてからもたらされた。
老学者カリオールの居館近くに住む農夫一家が馬車を駆って治安事務所を訪れ、泡を吹きながら、隣の農家や森が次々に消滅していくと告げたのである。
形ばかりの治安官はすぐラグーンに連絡を取り、私設の治安部隊の出動を要請、彼らがやってきたのを確かめてから、その後につづいた。
これは彼らのせいではないが、全員血の気を失い、発狂せんばかりの農夫一家は、ひとつの重要な情報を伝え忘れていたのである。
彼らがここへ来る途中、サイボーグ馬にまたがった世にも美しい若者と出会い、奇怪な消失について語りきかせたことを。
イオン化した空気のただ中で、Dは馬を止めた。
現場[#「現場」に傍点]は眼前に広がっていた。
直径五〇メートルほどにわたって大地が摺鉢状に陥没している。いや、陥没部分の内側に一本の木立も岩らしきものも見つからない以上、くり抜かれたという方が正しいのかもしれないが、それも正確ではないのは、その表面がガラス状に溶解していることで明らかだ。
深さ一〇メートルにも及ぶそれは、月光に光の粒を凝集させて妖しくかがやいた。
摺鉢の外側にある木の柵や踏み石、木戸等の残存物から見て、消滅したのは家を中心とした離れ、及び家畜小屋にちがいない。穴の縁近くに、納屋らしい二階建てが無事であった。
さらに馬を進めると、月光の下に惨たる光景が連続しはじめた。
蜂の巣状に溶解した大地のきらめきは、月光を圧した。
誰がこんな真似を?
どぉん、と鳴った。
Dの超感覚は、それがかなり遠くだと告げていた。
村の方角だった。
Dは馬首を巡らせた。
最初の爆発音を生じさせたのは、確かにこの穴を掘った奴だ。そいつが移動したのか。Dの出した結論は簡単だった。
「二人じゃな」
と左手のあたりで声がしたが、Dは見向きもせずに疾走を開始した。
ラグーンから、村へ入る前に阻止せよとの厳命を受けた治安隊は、農家から村に到る街道、間道のすべてに網を張ったが、すぐに間違いだとわかった。
轟きは、彼らでさえ夜間足を踏み入れるのを躊躇する暗い森の奥から近づいてきたのである。それも、異常なスピードで。
偵察のつもりで木立の間へ駆け込んだ何人かは、すっぽりと木立ごと消滅し、きらめく摺鉢状の穴を残した。何らかのエネルギーが発生しているのは明らかなのに、風ひとつ吹かず、熱波ひとすじ伝わらなかった。
生き残りは遠ざかり、夜目を凝らしたが、穴の周囲には動くものの影もなく、次の瞬間、彼らも虚無と化した。村まで一キロもない地点であった。
村に残った治安隊の指示で、得体の知れぬ存在のやってくる方角の住人は、着の身着のままの避難を完了させていたが、その破壊の惨禍が村まであと数百メートルの位置に達したとき、爆発はぴたりと熄んだのである。
武器を忍ばせて通りのあちこちに身を隠した治安隊員と自警団が、恐怖の眼を凝らすその前に、闇の街道の奥から現れたのは、長身の細い影であった。
月光の下でさえ、ひとめで尋常の人間だと知れる。ただ、ホテルの終夜バーのバーテンのみが、その顔が刻印された記憶を甦らせて、低い叫びを発した。
それは、夕暮れどきに彼の店を訪れ、ある情報を得るや、絡んできた用心棒を難なく一蹴して去った、その一蹴ぶりが不死身としか思えぬ異様さだったからである。
フシア――とバーテンはその名を繰り返した。
防衛部隊は困惑した。農夫の証言した恐るべき破壊を、魂を抜かれたみたいに虚ろなこの男が成し遂げたとは、妖獣妖魔が君臨する辺境といえど、到底思えなかったからである。そうしている間に、フシアは繁華街の入口まで来た。フィッシャー・ラグーン直轄の王国である。
ネオンがきらめき、音楽が鳴り響いているのは、ラグーンがその名にかけて、名も知れぬ脅威への同調を許さなかったからだ。
足を止め、ぼんやりとそちらを見つめるフシアの全身が白く染まった。
真昼の陽光に数百倍する光が、重ささえ含んで彼の全身を打った。治安隊の設置した投光器の仕業である。
「動くな」
とスピーカーの声が天空から叫んだ。
「おまえは何者《モン》だ? 農家をぶっつぶしたというのは、おまえか?」
信じられなくても、可能性はある。身柄を押さえる前に安全地帯から尋問するのは、辺境のルールだ。
フシアは答えない。
「耳がないのか。三つ数える。そしたら攻撃に移るぜ。いいか――ひとつ」
無茶苦茶なやり方だが、この村の住人に非ずと知れた相手に情けは無用――これも辺境の掟だ。
物陰から、投光器の陰から、左右の家のベランダや屋根から、フシアに向けられた武器には、火薬弾やレーザー・ビームともども、必殺の気がこめられていた。
対するフシアの反応は――無視であった。
この不死身の男の肉体はともかく、精神の方は救いようもないほど破壊され、狂気の極みにあったのである。
“破壊者”を宿すものは、その肉体のみならず精神にも貴族の剛直さが求められる。“破壊者”を制御し得るのは、それを生み出した種族の下知《げぢ》に他ならないからだ。それが不可能なとき、寄生された宿主は破滅と殺戮の権化となる。村が破壊を免れたのは、フシアの潜在意識に残る人間性の破片《かけら》がいっとき、発動したからにすぎない。
それも――消えた。
フシアの両眼は蒼くかがやき、彼は大地を踏みしめるようにして一歩前進した。
四方で閃光がまたたき、銃声がそれを追った。
大粒の弾丸がめりこみ、肉がはぜる。千発以上をほとんど同時に食らった肉体は、一気に倍にも膨張して見えた。
射手たちの表情は異常だった。憑かれたように引き金を引きつづけた。
安心できない。あいつ[#「あいつ」に傍点]は、肉片になっても生き返ってくるかもしれない。射て射て射て。弾丸ですべてを削り取ってしまえ。
その祈りに応じて、地上でのたうつフシアの肉体は確実に小さくなっていった。
頭部はすでにない。両腕は吹きとばされ、両脚も腿だけが残って、胴体も半ば以上は失われた。――ここに到って、
「射ち方やめ! ――粒子砲」
指揮官は、灼熱の掃射に後始末をまかせた。
投光器の光を真紅の光条が貫き、地上の肉塊を四方から押し包んだ。レーザー・ビームと異なり、粒子砲は接触部以外の広範囲も灼き尽くす。
大地は灼熱の泥濘と化した。煮えたぎる土がフシアの残骸を呑み込んでいく。
「よかろう」
と、重い声が言った。
現場の上空二〇メートルほどのところに、闇色の飛行船が滞空していた。声はその底部に設けられた居住区の内側で発されたのである。
「これで片はついた。何者かは後で探ればよかろう。それよりも、森へ向かった男が気になる。骨折り損だったか……」
そう言って、フィッシャー・ラグーンがDの消えた方角へ眼を向けたとき、
「ボス――下が!?」
かたわらの展望室のそばに立つ配下が絶叫した。
「何?」
ぐいと荒石みたいな顔をひん曲げ、配下と同じものを認めて、ラグーンは眉を逆立てた。
粒子砲の照射はすでに熄み、投光器の描く光輪は、なおも沸騰する地面を浮き上がらせていたが、その中心から、何かがぬうと立ち上がってきたのである。
頭がある。手もある。足も――それは明らかに人間であった。細身とさえいえる肉体から、熔けた大地の炎をしたたらせながら。
ぐいと投光器を見上げた顔が、傷ひとつないフシアのものと気づいた刹那、
「射てえ」
と指揮官の声が叫び、蒼い光が虚空に乱舞した。
巨神の腕が飛行船を跳ねとばした。
水素を詰め込んだ軽い浮遊体が、剛性さえ帯びて一〇〇メートルも上昇する。
かろうじて破砕を免れたのは、貴族の“知識”による合金製の機体と、単なる[#「単なる」に傍点]衝撃のせいであった。
「何が――起こった!?」
手摺りに掴まって、かろうじて身を支えたラグーンの怒声に、
「下の――下の通りが、丸ごと」
配下の応答が重なった。
声もなく窓へととびついたラグーンの眼には、しかし、繁華街のネオンしか映らなかった。投光器はどうしたのか? それよりも、ネオンが、あれでは半分[#「半分」に傍点]だ。
「船の投光器をつけろ!」
と彼は命じた。何十年ぶりかの反論が返ってきた。
「危険です。地上にはあいつ[#「あいつ」に傍点]が!?」
「えーい、構わん、点灯だ!」
天空から一条の光が地上へと走った。
白々と照らし出されたものは、摺鉢状にえぐられた大地と、その底に立つ全裸のフシアであった。天よりさしめぐむ光の中に浮かぶその姿――神はこのように地上へ降臨するのかもしれない。
しかし、この神は恵みの神ではない。草木一本残そうともしない破壊神であった。
その証拠に――見よ、周囲の家並みは跡形もなく消失し、半径一〇〇メートルに及ぶ摺鉢状の大地に呑み込まれている。
その滑らかな斜面に足をかけ、フシアはゆっくりと地上へ進みはじめた。
穴のサイズはDが発見したものの二倍。さらに広がったら、村ひとつ地上から消滅させるのも可能ではないのか。
「攻撃を――」
引きつるような配下の声へ、
「いや、待て。じきに来る」
とラグーンは制した。
フシアが穴から出た。
上空を見上げる。配下が悲鳴を上げた。
フシアがふり向いたのは、そのせいではなかったろう。
彼のやって来た通りの角を曲がって、黒い巨体が出現したのである。
黒光りを放つ基部を取り巻くおびただしいレールの軌道。
「あれは、ボス――『ビッグ・バン加速器』ですぜ!」
愕然と叫ぶ配下の声に、ようやく安定を取り戻した飛行船内で、ラグーンは、
「他に手はなさそうだ」
と慧眼《けいがん》のほどを披露した。
万物を消滅させずにはおかぬ“破壊者”の魔力に対して、こちらは大宇宙の星々と生命を生んだビッグ・バンの再現。
「面白え。悪魔と神の対決だぜ」
ラグーンの言葉を保証するかのように、一〇メートルの距離を置いて停止した加速器は、重厚な唸りを立てはじめ、レールは数億分の一ミリの誤差も許されぬ神の角度を整えつつあった。
その前に――暴威をふるうか、フシアという名の破壊神よ?
3
月が雲に隠れた。
加速器のどこかに黄金の光が点ったのはその刹那であった。
光はどこかのレールに移動し、キンという音がした。
電磁波による加速状態から、貴族の科学だけが発見し得た極微帯電粒子の超加速へと移動するまで一千万分の一秒。
全レールを舐める黄金のかがやきを、加速体が通過した痕だとラグーンが見抜いたとき、すでに光速を超えたそれは、フシアの顔面を直撃していた。
蒼い光が幻のように花弁を開いた。
もしも、神の眼が目撃していたら、加速体がフシアに命中する直前、光が彼の全身を包んだことに――いや、彼の身体そのものが蒼い光と化したことに気づいたであろう。
宇宙を誕生させるはずの弾丸は、それ[#「それ」に傍点]に呑み込まれた。
フシアがよろめいた。
消滅する寸前、爆発した加速体の衝撃波が、光の壁を貫いてかろうじて顔面を襲ったのだ。
両眼を押さえつつ、彼は右手をのばした。
指先からとんだのは、まさしく、それくらいの大きさの蒼い光の粒であった。
それが加速器の基部に付着するや、みるみる辺縁を広げた。基部もレールもことごとく蒼く染まり、ひとつの運命のように色褪せると、加速器は跡形もなかった。
陽炎がゆらめいた。
フシアは向きを変えず、加速器の出てきた角を見つめた。
生じた現象を説明するのは難しい。
直径一〇〇メートルの範囲にわたって家並みが消滅し、地に大穴が生じた。こうとしか言えない。いつ、どのように家々が消え、大穴が穿たれたのか。――過程は不明のままだ。あるいは存在しなかったのかもしれない。
「ボス。このままじゃ、村が――」
配下の叫びはラグーンの声よりも大きく鳴り響いた。
「――いや、世界が!?」
フシアが前進を開始した。行く手には、ラグーンの館がそびえている。村人はそこに避難しているはずであった。
フシアがふり向いた。
背後から鉄蹄の轟きが近づいてきたのである。
巨大な穴の外縁でサイボーグ馬を止めた影を、そのとき、雲間から漏れ出た月光が照らし出した。
フシアの歩みが止まったのは、その美貌のせいだったかもしれない。
夢の中ですら人間の出会えぬ美しい顔は、しかし、勁烈《けいれつ》な鬼気を放ちつつ、馬上からフシアをねめつけた。
――Dよ。
しかし、いかに凄腕の吸血鬼ハンターといえど、宇宙創造のエネルギーを虚無と化さしめる魔神に、はたして抵抗する術があるのかどうか。
フシアの顔に怒気がみなぎった。
精神を食い破られても最後に残る潜在意識が、Dと自らの関係を想起させたのだ。
両眼が爛と死の蒼光を放つ。
Dは動かない。
天空の飛行船内でラグーンが息を呑み、巨穴の別の外縁の一点で、倉庫から脱け出してきたメイが蒼白となった。
死生を隔てる瞬間の誕生には、それにふさわしい儀式を必要とする。
待てい
大音声は、怒れる地の神が放ったものかと思われた。
Dとフシアの眼が一瞬、外側から弧を描きつつ、巨大な穴の一点に集中した。
いつからそこにいたのか、いかなる手段で出現してのけたのか、忽然と立つ黄金の笏を手にした影は、ヴラド・バラージュ卿に他ならなかった。
じろりとDを見て、
「この場はわしにまかせるがよい、ハンターよ」
とヴラドは告げた。
Dの健在に驚き怒るそぶりもない。フシアの不意打ちを恐れる気配もない。圧倒的な自信と迫力を秘めた人影に、フシアさえ呆気にとられたかのようだ。
「これでも、貴族として、虫けらといえども領民どもを守る義務がある。手出しは無用だ。それに、いずれ戦わねばならぬおまえに、わしの持つ力を示しておくのも暇つぶしにはもってこいだろう」
ぶん、と風が唸った。
手にした笏で、フシアをねめつけたのである。Dは動かない。
「いかなる力を誰によって授けられたか知らぬが――いや、大体の見当はつくがな――貴族とは、すべてが死に絶えた呪われた大地から生まれたものたちの名よ。成り上がりの破壊者ごときとの差を、その身でとっくりと味わうがいい」
「こりゃ、凄え」
飛行船の中でラグーンの配下が拳を握りしめた。
「これは面白い」
とつぶやいたのは、Dの左手あたりからの声であった。
「見ておけ、D。我ら貴族の真の力をな」
ヴラド卿の右手がぐいと引かれた。槍を投げるように笏杖を構えたのである。
一メートルほどの長さのそれが、ずぅんとのびた。
延長部分は黄金の槍穂であった。恐らくは未知のエネルギーの結晶体であろう。
周囲は陽炎のごとく歪んだ。
フシアの右手が魔の光点を放つ。
笏も飛んだ。
光点が方向を変えて弧線の先端に付着する。
自身を蒼芒と変えながら、ヴラドの笏は疾《はし》った。
蒼い光が水泡のごとく流れ去り、黄金の穂先が現れる。――フシアの眼前で。
それはフシアの顔に命中したのみならず、後頭部まで抜けた。
数秒の間をおいて、彼は三歩後ろに下がり、その身体をすいと沈めた。そこは奈落の縁であった。
「下がれ」
とヴラド卿が叫んで後方へ跳んだ。
今度の爆発音はひどく小さかった。
一〇〇メートル上空の飛行船をかすかなゆれ[#「ゆれ」に傍点]が通過するのを感じながら、ラグーンは展望窓の底に浮かび上がった光景を見つめた。
巨大な空洞の底に、三分の一ほどのサイズの穴が口を開けていた。
そこがフシアの墓地に他ならなかった。
「投光器を消せ。館へ戻るぞ」
とラグーンは命じた。
穴底を確かめなくともいいのか、と配下は思ったが、ここは主人の命令に従う手だと納得して、操舵桿を握った。
月光に尾翼をきらめかせて去ってゆく機体を見上げて、
「ふふ、尻尾を巻いたか、能なしラグーンめが」
とヴラド卿は吐き捨て、Dの方を見た。
「どうだ、ハンター――かかってきてもいいのだぞ。おまえの肝っ玉が縮んでさえいなければな。ほれ、あの笏はもはやない。ははははは」
挑発の言葉は笑いに切り換わり、そこで熄んだ。
ヴラドは金縛りになった。Dから放射される鬼気のせいであった。
「これは……“破壊者”よりも凄まじい。……おまえは、やはり……あの方[#「あの方」に傍点]の――」
卿はDを見ていた。
何の予備動作も示さず、二〇メートルの距離を一気に跳躍してくる黒い騎馬を。
卿のガウンがはためくや、袖口から白光が迸って馬の胴を薙いだ。
やった! ――かつて、いかなる敵に対したときも感じた覚えのない安堵が、卿の油断を招いたといえる。
Dはその頭上にいた。
真っ向からふり下ろす斬撃の凄まじさよ。卿は左手をかざして受けた。
鉄甲をはめたそれが肘から飛び、その額も墨汁のごとき血を噴き上げた刹那、反転してその胸をえぐるはずだったDの一刀は、これも鍔元から砕けて闇に消えた。
ヴラド卿が跳躍してその位置を変えると同時に、Dもまた怪鳥《けちょう》のごとくコートを翻して後方へ跳んでいる。
いま、Dに一刀はなく、ヴラドは片肘を失い、額は容赦なく黒血を噴出している。この場合、Dの斬撃の威力を称えるべきか、それだけ[#「それだけ」に傍点]にとどめた卿の防御力に感嘆すべきなのか。
「よくやった」
とヴラドは片手でガウンの裾を破ると、額にあてがった。
「さすが、と言っておこう。だが、わしの方も、これが実力ではないぞ。いずれまた会おう」
足を動かしたとも見えないのに、ヴラドの姿は二〇メートルも一気に後退した。
そのかたわらに黒塗りの馬車と馬とが待っていることを、Dだけが看破した。
Dが追わなかったのは、彼の俊足をもってしても追撃は不可能と見て取ったためである。
黒い御者が鞭をふるって馬首を巡らせたとき、月光が鋭い描線を斜めに光らせた。
白木の針は馬車の外板を貫き、御者を落下させたが、馬車は休みなく轍の音を響かせて、暗黒へと走り去った。
路上に残された御者に歩み寄り、Dは紫の上衣を引き上げた。
ぎくしゃくと地上へこぼれたのは、朽ち果てた骨格であった。落ちると同時に塵と化したそれ[#「それ」に傍点]を見下ろし、Dは馬車の去った闇へと眼をやった。
小さな影が彼方からやってきた。
メイである。
Dに声をかけようとして、少女は彫像となった。月光の下である。
黒衣の若者から迸る凄まじい鬼気は前方の闇へと向けられていたが、少女をも金縛りにした。
そこにいるのは、無愛想だが本当はやさしくて強い、ハンサムなお兄ちゃんではなかった。
獲物に死の牙を突き立て、断末魔まで離さぬ闇の殺人者。――メイは、吸血鬼《バンパイア》ハンターを見たのだった。
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第二章 殺戮の平原
1
館の北にあるエア・ポートへ飛行船を降ろし、ラグーンは禿げ頭の中身をせわしなく活動させながら、寝室へと向かった。
村と治安隊の損害、補償、再建プランと費用の捻出――考えなければならない事柄は山ほどあった。それなのに別の難問が、それも超弩《ど》級のやつが待ち構えていようとは。
豪奢としかいいようのない寝室には、円形の大ベッドが備えられていた。いまだに藁の寝台も少なくない農家の連中が見たら、暴動でも起こしかねない逸品だ。
ラグーンが難しい表情《かお》でそこへ向かったとき、ベッドの真ん中からすう、と人影が立ち上がったのである。
愕然と立ちすくむラグーンへ、
「驚いたか。なりばかりは大きくても、所詮は人間じゃな」
陰々たる声が流れてきた。
貴族の怪力ですらどうしようもない窓の鉄格子が溶けていたと知るのは、翌日になってからである。
「あなたは――何の御用かな?」
呆然となる一歩手前で踏みとどまったラグーンの問いに、
「訊きたいことがあってきた」
と白い人影は答えた。
満々と水を湛えた空間を、紫青のガウン姿が舟も使わずに渡っていった。
左の肘から先は、ついさっき、電子義手に取り替えてあった。
足を止めると同時に、ヴラドの耳に女の声が衣擦れのように鳴った。
「その腕と額の傷――あの闇のように美しいお方の仕業ですのね?」
ヴラドは思わず、深々と残る斬撃痕に手を当てた。これはともかく、腕の方はわかるはずもないのに、声の主の判断は正確であった。そして、額の傷――彼の再生能力をもってすれば、この十倍深くとも、とうの昔にふさがっているはずなのに。
「知っていたか。おまえが奴と会ったのは――まあ、よかろう。所詮は瑣末事だ。ここへ来たのは、単に告げるためよ。――バイロンは滅びたぞ」
見渡す限りの水面から、あらゆる動きが消えた。もとから、そのようなものはなかったのだが、いま与えられたのは、確実な死ともいうべき静けさであった。そのせいで、
「あなたが――あなたの手で息子を?」
次の声は、ひどくよく響いた。
「他に誰がおる? このヴラド・バラージュが手塩にかけた伜《せがれ》を、他の誰がよく斃し得るか。あ奴は今頃、川魚の餌になっておるわ」
ヴラドの言葉を水が吸い取った。
「あの子は水に?」
「おう」
「ならば、今宵も次の晩も、永劫に油断はなさいますな。滅びは水にありませぬ」
「――何?」
「あなたは自分の妻を水に封じられました。貴族にとって地獄より辛く冷たい世界へ。この領土を流れる小川、茫と広がる湖、いいえ、木の葉にとまった雨のひと粒にも、私の想いがこもっておりまする」
決して怨んだ調子のない、それだけに身の毛もよだつような声であった。
ヴラドは鼻先で笑った。
「おまえの怨みが奴を救けたと申すか? ――それもよかろう。何度生き返り、我がもとを訪れようとも、そのたびに始末してくれる。それより、わしが告げにきたのはそんなことではない。これから『山城』へ移るぞ」
「――何ゆえに?」
と声は訊いた。水面は静まり返っている。
卿は額の傷を指さした。
「おまえは地獄におればよいが、わしはこの世に生きねばならん。ここしばらく気骨の折れることばかりだ。この傷をつけた男――また、やって来よう。迎え撃つには、それなりの場所が必要だ」
「とはおっしゃっても、あそこは、“山の民”の棲む場所でございます。なりませぬ、断じてなりませぬ。彼らに敵を与えれば、それこそ無関係なものたちへ死と破壊が及びまする」
「だからこそ、いまのわたしには必要な場所なのだ。いいや、あのハンターにとってもな。あ奴――あの方[#「あの方」に傍点]の血を引いておるぞ」
「………」
「あの美貌、あの力、あの気迫――まさに美丈夫よ。一度は撃退したが、それもわしが勝ったからではない。捕らえた小娘を救い出しにきて、それを果たして去ったのよ。聞くがよい、あのグリードでさえ一敗地にまみれた」
「………」
無言の返答は、いい気味だと思っているのではなく、ヴラドの言葉に含まれた戦慄と驚きに同調しているのであった。
「これでわかったであろう、遷都の理由が。あの方の血筋を迎え撃つには、あの城へ行かねばならぬ。そうとも、わしは心底、脅えておるのだ。あのハンターではないぞ、あ奴の身体の中を流れる血潮を。それに、クラウハウゼンの村の内部にも、不穏な動きがある。ハンターに助勢する力――ラグーンかもしれぬな」
「……まさか」
「くくく……人間どもだぞ、相手は。わしらの思いもつかぬことをしでかしても、不思議はあるまい。すでに、カリオールに手を打てと命じてあるし、わしも手は打った。いいや、カリオールの奴もこのところおかしいが、それはじきにわかる。奥よ――おまえはここへ残れ」
沈黙が落ちた。やがて――
「喜んで」
と女の声は言った。
『山城』に待つ“山の民”とは何か? 声は安堵さえ含んでいた。
翌日の早朝、Dとメイはラグーンの案内で館の地下にある隔離室へ向かった。
「隔離室といえば聞こえはいいが、実は敵の捕虜を収容しておくための監獄だ」
とラグーンは笑った。
「だが、地下三〇〇メートルにある厚さ三メートルのベトンともなれば、いくら貴族の招きが強くとも、おいそれと出て行けやしねえ。無論、来るのも難しい。あんたがついていれば、なおさらだ」
四方を取り巻く特殊コンクリートの壁を通して、無限の質量が肌寒く感じられ、三人の眼の前に立つ鉄扉の監視窓からのぞくと、広いベッドに横たわるタキが見えた。
「急造だが、タキを移すため、できる限り居心地はよくしたつもりだよ。だが、いくら近づけないようにしても、血を吸った貴族そのものを始末しなくちゃ意味はねえ。そいつはD――あんたの仕事だぜ」
ラグーンは美しいハンターの横顔を盗み見たが、眠れるタキを凝視する美貌には感情の断片も認められず、かえって、めまいすら感じたくらいで、
「これから出かける」
Dの言葉をきいて、ようやく我に返った。
「行くか?」
無駄な質問だった。答えはなく、Dは静かに扉を離れかけた。背中の一刀はラグーンから買い取った品である。
「あ、タキさん」
とメイが監視室を指さした。少女はDの肩に乗っていたのである。
ベッドから起き上がったタキが一同に気づくのに、時間はかからなかった。
窓に顔を押しつけて、
「みんな、元気なのね。メイ、あなたも」
「そうよ、タキさんもすぐ元気になるよ。Dさんが、あいつらをやっつけてくれる」
「そうよね。お願いするわ。私、それまでご隠居さんね」
「はは、そう」
メイは窓から手を差し入れようとした。窓には届かなかった。Dが退いたのである。
タキは“犠牲者”なのだ。
「そうよ、メイ。――気をつけて」
とタキは哀しそうに笑った。
「今度、この扉が開いたら、あなたはもとの[#「もとの」に傍点]あなたに戻ってるわ。絶対に。あたしが鍵を開けてあげる」
メイの言葉を誰がどう聞いたか、Dとラグーンは同時にきびすを返した。
後方に控えていたラグーンの部下に後を任せ、三人がエレベーターに乗ると、
「タキ――早く普通に戻るといいね」
とメイが唇を噛みしめた。
「まったくだ」
と応じたのはラグーンだった。
「それは、ひとえにこの色男の双肩にかかっている。奮闘を期待しよう」
内容は揶揄とも取れるが、重厚な物言いであった。Dを皮肉の通じる相手とは思っていないのだ。
「それなら大丈夫よ」
とメイは信頼に満ちた眼で若者を見上げた。エレベーターに乗ったとき、肩からは下りている。
「でも、あたし、わかんないことがあるの」
今度の眼差しは疑惑に満ちてラグーンに向けられた。
「ほう、何かな?」
「あなたは、わたしを変な男に抱かせようとしたでしょ。それをDが救ってくれた。でも、Dがお城へタキを救け出しに行ってる間、あたしを守ってくれた人たちは、あなたが雇ったんですってね。その上、タキとあたしを匿ってもくれてる。もう人身売買はしないと思うし、どうして急に味方についちゃったの?」
急所を衝くという表現があるが、メイの言葉はまさにそれであった。
ラグーンの石でできた海坊主みたいな顔に、波のようなものが伝わるや、こめかみに青いすじが浮いた。まさか、一〇歳の小娘に、こんな質問をされるとは思わなかったのである。
細い眼が異様な力を湛えてメイを射た。貴族以外の誰をも凍りつかせる一瞥を、メイは無邪気な凝視で迎え撃った。
ラグーンはにやりと笑った。
「ま、色々あってな」
「その色々を話してくださいな」
とメイは主張した。
「あなたは、あたしを変な男に抱かせようとしたわ。その責任を取ってくださらない。――あたし、ちゃんとしたお話がききたいの」
嗄れ声が、
「だろうな」
と言った。ラグーンが訝しげにDの左手のあたりを見て、すぐ、メイへ視線を戻した。
「威勢のいい嬢ちゃんだな。その辺は色男に訊きな。おれにできるのは、あんたたちを卿に内緒で『館』に保護してやることだけだ。それでも生命懸けなんだぜ」
「まあ、どうして自分の口から話さないんですか?」
再度、メイが問いつめようとしたとき、エレベーターが停まった。地上ではないと、階数を示すライトが告げている。
「すまんが、地下の通路から出てくれ。あんたがここにいると知れたら、さすがにまずい。真っすぐ行けば出口だ。頼まれた装備は外に用意してある」
Dと別れ、メイを館の一室へ戻すと、ラグーンは執務室へ入った。
テーブルの上に一通の封書を認め、彼は眼を獣のように光らせた。
蝋を溶かした封印の紋章は、バラージュ家のものであった。
封を切り、文面を読むラグーンの顔から血の気が引いていった。
明日 ○:○○、『山城』へ参れ
ヴラド
「しまった」
拳の中で皺だらけになる封書も忘れて、ラグーンは中天を仰いだ。
「あそこへ――『山城』へ移ったか。Dよ、まだ間に合うぞ、戻ってこい」
2
Dは空中にいた。ラグーンの用意してくれた装備のおかげである。
蒼穹《そうきゅう》と白い雲の下を彼は不吉な凶鳥《まがどり》のように風に乗り、風を操って飛んでいった。
組み立て式のグライダーは、翼長六メートル、胴長四メートル――翼に貼った飛翔獣の鱗が風力と速度の調整を容易にし、子供でも楽に長距離の空の旅を愉しめる。
二度目の城入りに際し、Dは空中からの侵入を企てたのである。
城が見えてきた。
巧みに翼を操ってDは降下に移った。無論、貴族の城である。対空防御にも怠りはない。敵の接近を三次元レーダーが捉え、数百基に及ぶレーザー、粒子ビーム砲、火薬利用の高角砲が迎え撃つ。だが、Dが監視塔の基部に着陸するまで、火砲は一度たりとも火を噴かなかった。
Dの胸で、青いペンダントが深い光を放っていた。
電子メカはすべて使用不能となり、歩み寄るDの前に、ドアはことごとく道を開けた。
異様な静けさがDを迎えた。
「誰もおらんぞ、ここには」
と左手が言った。
それはDにもわかっていたことである。
「隠れたか」
Dはつぶやいた。手に話しかけたという風ではない。
「相手も馬鹿ではない。おまえに昼襲われたらどうなるか考えたまでよ。ただし、その次はわからん。逃げっ放しか、それとも――」
Dはふり向いた。一階の大ホールであった。
足下へ白い帯が流れてきた。霧であった。その奥に立つたおやかな白い姿は、前日、地下通路で垣間見た女のものであった。
顔は見えない。全身が濡れそぼっている。まるで、たったいま、水から出て来たようだ。
「北へ五キロ――剣山《ソード・マウンテン》へお行きなさい。中腹の城で、卿がお待ちよ」
返事も与えず、Dはもと来た方角へきびすを返した。
その背中へ、
「待って」
と女が呼びかけた。霧の声で。
「私も連れて行って。――外へ」
悲痛とさえいえる響きであった。
足も止めず、Dは同じ道を通って城の頂きに出た。折り畳んだグライダーは監視塔の下の窪みに隠してある。
翼が雄々しく開いたとき、Dの背後に白い女が立った。
「私も連れて行って。――山城へ行くには、“殺戮の平原”を通るしかない。待ち伏せされたとき、私が役に立つわ」
「目的は何だ?」
機体を風に浮かせながら、Dが訊いた。
「外へ出てみたいの。長いこと、ここから連れ出してくれる人を待っていたわ」
「役に立つかもしれんぞ」
と嗄れ声が言った。
「ここへ来い」
白い女がやって来ると、Dは後ろから女の腰に左腕を巻いた。
じっとりとした手応えが伝わってきた。
「馬が必要よ」
と女が言った。その定かならぬ顔は頭上の蒼穹を仰いでいた。
「“殺戮の平原”は空を飛んでは越せないわ。地上を行くしかない」
Dは水中にあるようなおぼろな首すじへ眼をやり、ちらと頭上の太陽を仰いだ。
「おまえはいいのか?」
「気にしないで。馬なら西の家畜小屋に残っているはずよ」
「やれやれ、また畳まねばならんな」
低い声が面白そうにひとりごちた刹那、Dの身体は無造作に宙へ舞っていた。
家畜小屋の前へ降り立ったのは、一〇秒後であった。
無言でグライダーを畳み、Dは残りの数頭から一頭を選んでまたがった。鞍のない裸馬である。
女はDの背後にまたがったが、腰に腕を巻こうとせず、馬が歩き出すと落馬しかかり、Dの手を借りて戻るや、ようやくしがみついた。
「ごめんなさい」
と詫びてから、
「あなた、美しすぎて」
と小さくつぶやいた。馬は疾走に移っていた。
三〇分とかからず、荒涼たる平原が眼前に広がった。その彼方に緑一点ない黒曜石のような岩山と、中腹の城が見えた。城門から細く長い階段が下方へとつづいている。
「ここから直線距離で五キロあるわ。“殺戮の平原”――恐ろしい場所よ」
「ほう」
おかしな口調の返事とその放たれた位置へ女はふっと顔を向け、それでも、
「かつて、ここでヴラド卿に反抗する村人と卿の兵との戦いが行われたのよ。村人の後ろ盾になったのは、西部辺境の貴族だったわ。ちょうど、平原の真ん中で彼らはぶつかった――」
「いつだ?」
Dの声が女の身体を固くさせた。
「――夜」
「貴族の時間《とき》だな」
村人は人間として戦ったのだろう。それなのに、戦う時間は貴族のものであった。
「そして――村人は敗れた。生き残った全員が捕らえられ、この平原に生き埋めにされたのよ。数は千人を超えたわ。地面が赤いのは、彼らが流した血のせいだといわれている」
城の地下深くにいて、この女はなぜ知っているのだろう。
馬の腹に踵を当て、Dは前進を命じた。
五〇〇メートルと行かないうちに、馬の背に、かすかだが確かな震動が伝わってきた。
「走って。あの大岩のところまで!」
女の声は急激に陥没した。
大地が砂のように崩壊したのである。おびただしい亀裂の内側へ粉微塵と吸い込まれていく様は、砂糖菓子の崩壊に似ていた。
女が低く、驚きの声を上げた。
落ちながら、馬は疾走をつづけていた。
その蹄は倒壊する地面を蹴り、崩れ去る寸前の大地へ着地すると同時に叩き、そうやって五〇メートルもの大奈落を渡っていくのだった。馬の力か、騎手の技倆か。――だが、奈落の半ばまで到達したとき、前方には黒い虚空だけが口を開けていた。
落ちていく。
女はしかし、穏やかであった。
大地はすでに地底深くに崩れ、人馬の姿は虚空に浮かぶ絵のごとくであった。
風が周囲で唸り、怒号した。
そして、二人と一頭は舞い上がったのである。
それに気づいて頭上を仰ぎ、女は今度こそ、あっと叫んだ。
Dの背から巨大な翼が生えていたのである。グライダーの翼だ。
それを彼が馬の首にくくりつけていたのは知っている。ワンタッチで広がるメカニズムなのもわかる。だが、このグライダーには胴はない。それは間に合わなかったのだ。そして尾翼もなしに安全に飛行し得る機体は、このタイプにはあり得ない。安定と方角を司るのは尾翼の役だからだ。
Dは――この美しい若者は、物理現象の鉄則を無視した。それどころか、サイボーグ馬の胴を両脚にはさみ、女の重さをも支えて、力強く確実に奈落から上昇しつつあった。
「村人を援護した貴族の戦士たちは、あの穴に呑み込まれたわ。村人たちは、ここで孤立無援になった」
女の言葉をDは聞いていたのかどうか。
大陥没の縁すれすれまで浮かび上がると、一〇メートルほど滑空し、すぐ着陸に移った。
といっても、サイボーグ馬の足が地についた刹那、すでに折り畳まれかけていた翼は完全に浮揚力を失い、馬は疾走に移ったのである。一瞬の遅滞もない鮮やかな手練としか言いようがなかった。
Dが手綱を引きしぼった。急停止した馬のかたわらに、女が指示した大岩がそびえている。だから止めたのではないことはすぐにわかった。
「動くな」
と告げて、Dは馬を下りたのである。
彼は五歩進んだ。三歩目から先は、赤い草の丈が膝に達するほど長い土地であった。
「村人たちは、しゃにむにその中へ突進していった」
馬上の女が低く低く言った。
「他に道はなかったのよ。でも彼らの半数はたちまち斬り伏せられてしまった。それも――」
草の間から複数の光が逆しまに流れた。光はDの膝を狙った。
軽やかに跳躍してかわしざま、Dは空中から抜き打ちに放った。光の半月が草を斬りとばし、同時に、人間のものではない苦鳴と青い血が空中に奔騰した。
着地したDの周囲を複数の気配が取り巻き――停止した。今の手練に脅えたのである。
だが、
「ほう、これは厄介な」
と自然に垂れた左手の平あたりから声が上がったのは、この戦いにのぞむ不利を見通したものらしい。
草の葉に隠れた刺客たちの身長は、気配から察して五〇センチもないのだった。
自らの膝の高さにも満たない相手と対決する場合、その低さ[#「低さ」に傍点]はこちらにとって絶対の敵となる。尋常の人間の身体はそのような相手と剣をもって戦うようにはつくられていないからだ。いかな名剣士といえど、その実力を最高に発揮するためには、標的が自分の腹から上の身長を有していなくてはならない。せいぜい妥協しても、腰あたりまでだろう。
それより低ければ、当然、こちらの重心も下がり、腰は曲がり、刀身を操る支点となるべき両腕の動きも極端に制限される。それは、いかな名人達人にとっても、最初からその力をふるうことが不可能な、はじめての経験なのだ。対して、敵がその高さでの決戦に長じていたならば?
かつて、村人たちの両脚は造作なく切断されたであろう。敵に向けるべき彼らの刃は空しく、力なくふり廻されるばかりで空を切り、いたずらに死者の数を増やしたにちがいない。
敵の輪が狭まった。Dの刀身が下がったのだ。
「――血に染まった草の中に、でも、敵の死骸もあった。彼らを斃したのは――」
またも薙ぎ上げられた光を、刀身の一閃で跳ね返し、Dは再び跳躍した。
その頂点で静止する姿の、なんという美しさ。
敵が動きを止めたのは、Dのスピードに驚いたせいもあるが、このため[#「このため」に傍点]でもあったろう。
その背から心臓へ、空中から唸りをたてて飛来した白木の針が貫いた。わずかな敵に効力を発揮した村人たちの弓矢と槍に似て。
着地したDへ、もうひとすじ、銀蛇の閃きが襲ったが、あっけなく跳ね返された瞬間、ぎゃっとひと声上がって、すべては静寂に戻った。
刀身をひとふりして血痕を弾きとばしたDを、狭霧がそっと包んだ。
「……なんという男……」
喘ぐような賞賛の声に、音もなく馬へと戻って、
「次は何が来る」
とDは冷やかに言った。
3
「わからない」
女の返事は簡潔明瞭であった。Dの反応はなし。もとより、女の意見を求めた言葉ではない。最後の最後に役に立てばいい――そのくらいの気持ちであったろう。
鞍にまたがり、Dは前方を見つめた。
「来たのお」
嗄れ声に、女が身を固くした。
それは、彼方の山城から舞い上がった黒点であった。蒼穹を背景に、翼が備わり、四肢を加えて、奇怪な飛行生物の姿を整えていく。
一〇秒と待たずに人馬と飛行物は遭遇した。
編隊を組まず、一気に舞い降りてくる。
異様に凹凸の多い身体であった。両腕がのび、爪がのびる。まさしく、上空から地上のものを引っかけ引き裂くための武器。それは一メートルにも達した。
だが、迎え撃つべくDの手に光る一刀も、あらゆる敵の屍山血河《しざんけつが》を築いてきた魔性の太刀だ。いかなる敵、いかなる攻撃であろうと、その閃きの前に崩れ去らぬ存在はあり得ない。
爪が描いたのは上弦の月であり、刀身が送ったのは下弦の月であった。
打ち合う響きはなく、不気味な怪音とともに、三匹の飛行生物はもんどり打って地上へ激突した。
空中で首を断たれた胴がようやく血を噴いたとき、サイボーグ馬は遥か前方の地を蹴っている。
残りの十数匹はなおも追いすがりつつ、すぐには攻撃の様子を見せなかった。まさか、こうまでたやすく三匹の仲間が葬られようとは。
だが、先頭の一匹が突如、急上昇に移るや、残りも一斉にその後につづき、五〇メートルほどの高みで方向を転じて、各々、急降下に移った。
勇猛としかいえない戦いぶりだが、Dに通用しないのは、今見た通りだ。
「気をつけろ。あの身体のでこぼこが気になる。あれは――」
嗄れ声を、Dの頭上で反転した影と、凄まじい衝撃が殴り消した。
大地は鳴動した。
跳ねとばされた馬の上で、Dは手綱を引きつつ、自ら身をひねった。その髪がなびき、コートが翻る。衝撃波は彼を秀麗に見せるための任を負っているかのようであった。
奇蹟のように足から着地した馬体を、頭上から空気圧の大ハンマーが直撃した。
間一髪、Dの手綱さばきが躊躇なき前進を促さなかったら――
草と土が飛び散り、大地は陥没した。五〇トン以上の負荷がかかっている。
Dの眼は、その直前、急降下から急上昇に移った飛行生物の姿を捉えていた。
高速で移動する物体が急激に方向を転じれば、前方には猛烈な衝撃波《ソニック・ブーム》が生じる。敵の攻撃はまさしくそれだ。だが、その大きさとスピードからして、ここまでの破壊力を有するとは信じられなかった。
「あの瘤じゃな」
嗄れ声が言った。
「奴ら、ビル風のごとく、あの瘤の間に風を通すことによって、パワーを増幅させておるのじゃ。――来るぞ!」
声は上方へ流れた。
三度目の容赦ない直撃は、Dの掲げた左手の平を選んだ。
雷鳴のような音が大地を渡っていく。
馬はなお疾走をつづけ、Dは左手に折り畳んだグライダーの翼を握った。
上空の生物たちは明らかに動揺した。必殺の衝撃波が忽然と消滅した――いや、手の平の一点に吸い込まれたように見えたからだ。さしもの彼らの視力をもってしても、そこに生じた小さな、点ともいえない口までは識別不能だったにちがいない。
だが、彼らの真なる驚愕は、次の瞬間に訪れた。
新たな三匹が降下に移った。その間を黒い美影身が地上から吹き抜けたのである。
銀光と血風が躍り、三匹は別の――死の急降下をつづけていく。
Dは一気に残りの真ん中に突っ込み、新たに四匹が血の煙を引きながら落ちていった。混乱する敵中を突破し、上空で反転する。
起死回生とはこれだ。天空の敵は天空で迎え撃つ。――馬と女を地へ残し、Dは人工の翼に身を託した。
最も近い敵へと急降下に移る。
恐怖に歪んだ獣の顔が、いきなり右へ走り去った。右方から凄まじい突風がDを襲ったのだ。
ほとんどきりもみ状態に陥りながら、Dは体勢を立て直そうと努めた。
流れるように墜ちていく黒衣の姿を見下ろしながら、生物たちは声もなく笑った。
自分たちの巻き起こす乱気流から逃れ得た獲物はない。翼長一〇〇メートルを超す大鷲でさえ、全身の骨を千カ所以上粉砕されて地上へ叩きつけられたのだ。ましてや、人間ひとり――
墜ちてゆくDに彼らは追いすがった。止めを刺し、無残な死を見届けるために。
全身の瘤が微妙に蠢き、流れる空気を吸引し、加速させ、一気に噴出する。
Dの左手がグライダーから離れた。右手がそれを掴む。刀身は口に咥えられていた。
ごおと吹きつける死の乱気流が方向を転じた。彼らは見た。白い手の平に開いた口を。それは空気を吸い込み、吐き出した。Dを墜死に導くべき乱気流はかえって彼の身体を受け止め、上空へと解き放った。
逃れようとした生物たちの身体を猛烈な力が撹乱した。Dの手の平が放つ吐気であった。死の舞踏《ダンス》を踊る敵たちの真ん中へ、黒衣の影が吸い込まれ。血が渦を巻いた。
Dが直接、馬上へ降下してきたのは、最後の敵の死骸が大地へ叩きつけられてから数秒後であった。
おぼろげな姿が馬上に伏せている。
女はすぐに身を起こして、城の方を眺めた。
「行きましょう。多分、攻撃はこれで最後――“殺戮の平原”も、あなたは殺せなかったようね」
「どうだ、カリオール?」
卿の声に訊かれて、老学者は、
「平原は突破されました」
と答えた。
「やはりな」
平然たる響きの陰に、カリオールは無念の断片を探し出そうとしたが、うまくいかなかった。
「人の血が混じっておるとはいえ、人間風情とは所詮、器がちがう。くくく……小細工で斃せるなどと考えたのがまちがいであったな」
「汗顔の至りでございます」
「おまえの造り出した部下も大分減った」
カリオールは一瞬、ふり向こうとしたが、できなかった。
ここは山城に設けられた彼の研究室《ラボ》だ。室内にはうすいとはいえ、光が溢れている。卿の行動し得る時間ではなかった。それなのに、確かに背後には気配が感じられるのだ。
「この山城には、それなりのもてなし方がある。まかせるぞ、カリオール。少なくとも、ハンターなどにわしを刺させるような真似はするな」
「ご懸念なく」
「くくく、懸念はいくつもあるわ。グリードから聞かなんだか。奴の仕事を邪魔した五人の敵――そいつらが水の泡から出て来たとは思えん。雇った奴がおる」
「それに関しては、すでに人を放っております」
「――もうひとつ。ミスカ殿はどうした? いいや、ミスカ殿に取り憑いた“破壊者”の力を、昨夜の男が備えていた理由は?」
「あれは、もう申し上げました。私の不手際――愚かな好奇心の罰は受けさせていただきます」
「好奇心――なるほどな」
これは、先夜、負傷して戻った卿の治療中に交わされた会話の繰り返しであった。
「まあ、よかろう。罰よりも、おまえには別の試みを与えよう」
「は?」
「昔ながらのやり方よ――こちらを向け」
カリオールは従った。
卿の気配が遠ざかり、代わって、背後のドアから二つの影がおずおずと入ってきた。四〇歳ほどの女と――男の子だ。
じろりと一瞥したきりで、
「これは、どういうことで?」
と老学者は姿なき主人《あるじ》に尋ねた。
「『都』から連れてきた。おまえが一〇年も前に愛した旅の歌い手とその子よ。子供は今年一〇歳になるそうな」
「おたわむれを。この老骨にとって一〇年の歳月は、すでに遠い霧の中。憶い出しようもありませぬ」
「さようか。――女よ、どうだ?」
問われるまで、年齢よりずっと若くしなやかに見えるその女は、じっとカリオールを観察していたが、不意に眼を伏せて、
「いえ、知らぬ方でございます」
と言った。
つづく卿の声は満足げであった。
「子供にはわかるまいな。ならば、やりやすかろう。カリオール――その二人を殺せ」
「なんと、仰せられました?」
さすがに老学者の眼に、ただならぬ光が点った。女は子供の手を握ったまま、硬直した。
「調べはついておる。その女がおまえと情を通じたのはまちがいない。だが、なぜか、どちらも知らぬと言う。それならば殺しやすかろうと言うておる」
「なぜ、そのような真似を?」
「急におまえの忠誠を試したくなったのよ」
「あなた様はどうご理解なさっているかは存じませんが、私には無縁としか言えぬ女と子供。生命を奪うことが、私めの忠誠心の証明になるとは到底思えませんが」
「いいや、なる。なぜなら、おまえにはわかっているからだ」
「そのような」
「とぼけるな、カリオール。しかし、そのとぼけ方では、いかな恫喝も無駄だろう。生命を惜しむおまえでもあるまい。こう言ったらどうだ? ――我が妻に会うことを禁じる、と」
カリオールは眼を閉じた。勝敗は決した。
「おまえの妻に対する想いは、とうに知り尽くしておる。もはや、わしには何の用もない女。バイロンを心安らかにするべく立ててくれと申した墓を、その願いを叶えてからわざと破壊してやったことからも、それはわかるであろう。愛そうと寝ようと、おまえの好きにするがよい。ただし、この二人を始末してからだ」
「………」
老人の醜い顔が歪むのを、女と少年は血も凍る思いで見つめた。皺だらけの奥から現れたのは、苦悩と残忍の翳であった。
「おお、おまえらしくなったぞ、カリオール。それよ、その顔よ」
と卿の声は笑った。
「人間が情を通じるとはどういうことなのか、わしにはわからなんだ。人と人、人と貴族――おまえはどちらを選ぶ?」
カリオールの足下に堅い音をたてて光るものが転がった。
それは黄金の柄も鮮やかな抜き身の短剣であった。
「早くせんと、奴が来る。あ奴は、おまえも容赦はせん。会えなくなるぞ、愛しい女とも」
老学者カリオールは、自らの未来を見つめるような眼差しを足下の剣に投げたまま動かなかった。
長いこと。
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第三章 “山の民”との戦(いくさ)
1
「新しい女を五人採用しました。一応、お目通し下さい」
ラグーンの部屋へやって来た「館」のマネージャーは、こう言って頭を下げた。
一大歓楽境たる「フィッシャー・ラグーンの館」に欠かせないのは、常に新鮮な催しと女たちである。
たとえば、性感を最も刺激する強さに電圧を調整されたエレキ・クラゲが充満する「電撃風呂」や、女体そっくりの感触の柔軟素材でできた「ゼリー・ダンス・ルーム」――こういったイベント・ルームをこしらえるために、「館」は一日も休まずどこかを工事中だし、女たちの顔も一週間に一度は変わる。
「館」のスカウトが近隣の村や『都』まで出向いて連れてくることもあれば、募集の噂を聞いた女たちの方から押しかけてくる場合も多い。今日の新人五人のうち二人は前者であり、三人が後者に該当した。
「連れて来い」
低頭したマネージャーはすぐ、部屋の外に待機させていた女たちを連れて戻った。
年齢は三〇代半ばから一〇代まで、どれも美形揃いの中でも、とりわけ色っぽい三〇代はじめのミンという名の女と、一九歳だという清純そうなペイジの二人がラグーンの眼に止まった。
女たちの方もそれとわかったらしく、ミンはわざとらしく腰をくねらせて主人の視線に応え、ペイジは恥ずかしそうに俯いた。
「『ラグーンの館』へ来た以上、おまえたちは外の女たちとはちがう人間になった。汗臭い野良着とも、垢抜けない恋人ともおさらばだ。『都』の女どもにも負けない、いい暮らしをさせてやる。その代わり、捨てるものも大きいが、我慢できなければいつでも出て行くがいい。ただし、この『館』の水を呑んでしまった以上、外の世界で二度と真っ当な暮らしができるなどとは思うなよ。おまえたちは別世界の住人になったのだ。今日からこの『館』がおまえたちの家だ。行ってはならんとマネージャーに言われたところ以外はどこへでも入って、好きなことをして構わん。おまえたちを危ない目や哀しい目に遇わせた奴らは、このおれが容赦せん。安心して働け」
いつもの口上が終わる頃には、いつものように、女たちの表情は信頼と自信と妖しさに満ちていた。
「行きな」
と命じて女たちが出て行くと、ラグーンはマネージャーを呼び止め、ミンとペイジを連れて来るように命じた。
万事心得たマネージャーは、一応控室に全員を連れて行き、係の説明が終わった後で、二人をラグーンのところへ連れ戻した。
ラグーンは席を外していた。
椅子にかけて待てと命じ、マネージャーは去った。
「何の用かしら?」
と不安げなペイジへ、
「決まってるじゃないの。幸運の鳩が舞い降りてきたのよ。白じゃなくピンク色の翼をして、ベッド背負ってさ」
こう言って、ミンはにやりと笑った。
「そんな……いくら何でも……こんなに急に……」
「馬鹿ね、あんたって。自分で応募してきたんでしょ。もう少し腹据えなさいよ。うまくやれば、他の連中の百倍のスピードで玉の輿よ。――二人揃って」
最後のひとことだけ、顔をそむけて口にすると、横目でペイジをにらみつけるように見た。
そこへ、ラグーンが戻った。
二人の頭のてっぺんから足の爪先まで、ぞっとするような眼でねめつけ、
「おまえたちも餓鬼ではあるまい。これが二つとない幸運なのはわかっているな。どう使うかはおまえたち次第だ。さ、ひとりずつ、こっちへ来い」
「二人一緒でもいいのよ」
ミンが嗄れ声を出し、ペイジは、
「いや」
と頬を染めて横を向いた。
「おまえからだ」
顎をしゃくった先で、ミンは艶然と微笑んだ。
それが凍りついたのは、彼女との時間を過ごしたラグーンが、間を置かずに嫌がるペイジを寝室へと連れ込み、やがて出て来たその顔つきを見たときであった。
「おまえは仕事につけ」
とラグーンは冷たくミンへ命じ、彼女が憤然と出て行った後で、立ちっぱなしのペイジを後ろから抱きしめた。
「怖いわ」
「おれがか? それにしては、激しかったがな」
「ちがいます。今の、ミンさん。あたしのこと、凄い眼で見てた」
「女の嫉妬だ。仕様がない。――そんなことより」
よほど、この細っこい清純そうな娘が気に入ったのか、ラグーンの両眼は好色そのものの光を湛え、武骨な指は折れそうなくらいに細い腰のくびれを揉んでいる。
「いやよ、気持ちがついていけないの。何もかも急すぎて」
ペイジは夢中で男の手をもぎ放して逃げた。ドアの前で立ち止まった後ろから、また抱きついてきたラグーンの手は、前より力強く、前より熱かった。
「何も怖がることなんかありはせん。可愛いな。この『館』にいる限り、おれが帝王だ。おまえに指一本触れさせはせんよ」
「本当に?」
ふり向いて彼を見つめた顔はこわばり、両眼はうるんでいた。少女雑誌の表紙に出てもおかしくないつぶらな瞳、長い睫、可憐な鼻と花びらのような唇――そのどれもが、一度、自分のものにしてみると、信じられないほど妖艶な女の匂いを放って、ラグーンは半ば酔ったみたいに唇を重ねた。
「守ってくれますよね?」
「もちろんだ」
「なら、あなたのこと、みんな教えて。私の男だと証明して」
「いいとも」
調子に乗りやがって、この――と思いながらも、ラグーンは半ば本気の自分に驚いた。
「その代わり――いいな?」
返事も待たず、彼は華奢な身体を軽々と抱き上げると、再度、男の挑戦のゴングを鳴らすべく寝室のドアをくぐった。
ベッドに放り出されて、切なげな悲鳴を上げながら、ラグーンには見えないように、ペイジはにっと笑った。
可憐な娘そのものの顔に、一瞬、男の表情が浮かんで消えた。自ら歓楽の国に身売りした娘は、なんと、“化粧好き”のクロモの変装であった。いや、彼の化粧を施された“千手足”のサイファンであった。
彼が忍んできたのは、カリオールの命令を受けたからである。老学者もまた、卿の話から、フィッシャー・ラグーンに叛意ありと判断し、動かぬ証拠を掴むよう二人の部下に命じたのだ。
サイファンひとりが化けたのは、クロモには、もうひとつの指令が課せられたためである。
「ミスカ殿を探せ」
こうして二人はそれぞれの任務についた。どちらがどちらを選ぶかは、ジャンケンで決めた。
クロモが男爵に化粧を施そうとして失敗した倉庫の隠れ家で、サイファンは夜明けに化粧を受け、その足で「ラグーンの館」へ向かった。
その際に、倉庫の前で、クロモが何かを探すような視線を放っているのを見て、
「どうしたの?」
と完璧な女言葉で尋ねると、
「いや、昨夜、男爵と邪魔をしたハンターをここから連れ出すとき、奴らの馬がつないであったんだ。面倒なので後からと放ってきたら、もういねえ。もったいないことをしたと思ってな」
「誰かが連れていってしまったのよ」
とサイファン、いや、ペイジという名の田舎娘は、つつましげに答えた。クロモの化粧がその力を発揮するとき、サイファンは基本的な性格と意志の力は留めながら、声も肉体的特徴も、化粧した女のものに変わってしまうのであった。
「それもそうだな」
とクロモも納得し、まじまじと自分が造り上げた異性の朋輩を見つめた。
「あの馬の荷物が気になってはいたんだが、もうどうしようもあるまい。――ま、しっかりやんな」
これが暁闇《ぎょうあん》が蒼く滲みはじめた頃の出来事であった。
寝室の中で、ラグーンはペイジことサイファンの虜となった。
クロモが彼に施した化粧のもとになったのは、可憐なくせに天性の淫戯でもって、数百人の男を魅了し、その財産を奪った挙げ句、男たちの妻のひとりに刺殺された希代の淫女だったのである。
「おまえはおれと一緒にいろ」
と命じられ、ペイジ=サイファンは、嬉しそうに微笑んだものの、内心舌打ちした。クロモの話では、淫女とベッドをともにしたものは、男女の別なく脳髄まで溶かされ、狂わされ、彼女の意に諾々と従う奴隷と化してしまうはずであった。
もちろん、誤算がラグーンのとてつもないタフネスぶりによるものであることはすぐにわかったが、もう一度、その場でベッドに引き込むパワーは、彼=彼女にも残っていなかった。
ラグーンは無愛想にペイジ=サイファンの髪を撫でながら、石のような口調で、
「おれの見たところ、おまえには、見かけ以上の能力《ちから》がありそうだ。とりあえず、おれのお気に入りということで『館』じゅうを歩いてみろ。そこから何か見て取ったら、後でおれに言え、それなりの待遇を考えてやる」
それから、彼は最も危険な女=男を連れて「館」の遊覧に出かけた。
幹部たちに紹介し、女たちにも会った。若い娘たちは反発と嫉妬の炎を眼に点したが、その数倍強烈でいいはずのベテランたちは穏やかであった。ラグーンの連れている娘という立場が何を意味するか、即座に納得したのである。
対人間への顔見世が終わると、ラグーンは「館」内の部屋をことごとく彼女に見せ、その利用法を説明した。
娼館から賭博場、ゲームセンターから、オフィス、エネルギー中枢部に到るまで、ペイジはポカンと口を開いたまま従った。
ただひとつ、南翼の廊下を曲がったとき、当然、直進すべきラグーンが、不自然に左へ折れた。
「あの……こっちは?」
と問いかけたペイジを、凄まじい眼線が貫き、すぐに温和な色に戻った。
「工事中でな。ロボット犬が守っている。近づくと咬み殺されるぞ」
と告げた。
「わかりました」
広い背を見せてきびすを返すラグーンの後について歩きながら、ペイジの口もとが、してやったりと歪んだ。
ラグーンは、それにも気がつかなかった。
2
山城へと疾走しながら、Dはまたもグライダーの翼を広げようとした。
山城から放たれる朗々たる声がそれを止めた。
「門は開いておる。おまえを妨げるものはないぞ、ハンターよ。城へ入って、身動きもできぬわしを探し出すがよい。ただし、昼の光がおまえの味方をする間にな。今宵は暗く長く、そしておまえにとって、最後の晩となるだろうて」
この言葉に偽りはなく、翼はそのままに、大門は左右に開いて、城と地上をつなぐ階段の前へとDを導いた。
見上げれば、段の先は細糸のように城へとのびている。
「三千段あるわ」
と女が教えた。
Dは翼を頭上に広げた。
「さよなら」
と女の声がして、背中の気配が遠ざかった。
「行くか?」
「ええ。見たいものは山ほどあるけれど、あなたの骸《むくろ》だけは見たくはないの」
「ここまでの礼を言う」
その言葉を、突如、巻き起こった風が四散させた。
Dは一気に階段を上昇していった。上方に城の門が開いている。風はヴラド卿の放ったものであろう。手の内はお見通しというわけだ。
逆らうのはたやすかったが、Dは敵の手に乗った。
平地の城とは比べものにならないほど狭隘な前庭も抜け、ホールへ吸い込まれた。
途端に風は絶え、彼は垂直に床へ落ちた。着地と同時に、鋭い眼差しは前方を見つめている。
武骨な木のドアを、腰の曲がった老人が抜けてくるところだった。
ドアが閉まると、彼は頭を深々と下げ――まるで胴から外れたように見えた。
「ヴラドさまお抱えの医師ジャン・ドゥ=カリオールと申します。お待ち申しておりました。あの方[#「あの方」に傍点]と親しいハンターどの」
くい、と顔が上がった。その上に赤光がきらめいた。
ミスカとフシアを虜にした猫眼ともいうべき眼だ。
それを映したDの眼も赤く染まり、二人はぴたりと動かなくなった。
美しい若者と老人との間をふたすじの赤光がつなぎ、その中心に凄まじい意志の葛藤が見えざる炎《フレア》を上げた。
「おかしな小細工を使うのお」
と嗄れ声が笑った。
「だが、この男には効かん」
だっとDが地を蹴ったとき、カリオールは両眼を押さえてよろめいている。
その頭頂へDの刃が躍り――かけ、彼は反転した。
玄関の扉の前に、見覚えのある人影が立っていた。
「これは男爵」
嗄れ声は訝しげであった。
「様子がおかしい。――気をつけい」
声が終わらぬうちに、
「殺せ」
とカリオールが叫んだ。
男爵は動かず、Dもその場に止《とど》まった。どちらの殺気がどちらを金縛りにしたのか。その凄愴な鬼気の凝集に、カリオールさえ氷像と化した。
蒼い身体の真ん中に、すっと裂け目が走った。まばゆいかがやきがマントを押しのけ、Dめがけて迸った刹那、黒衣の影もまた床を蹴った。
光がDの残像を断って反転し、上空で刀身をふりかぶったDと男爵との距離は五メートル以上あった。
「ぐほっ!」
と呻いたのは、蒼い影であった。
端正な顔を下向け、彼は左の首すじから右の胸椎ことごとくを斬り放して生える一刀を見下ろした。
男爵が倒れる前にDは大股に近づき、柄に手をかけた。
倒れるにつれ、男爵の自重によって刀身はDの手に残った。
手にした刀身をDは音もなく背後に向けた。
喉もとに突きつけられた切尖《きっさき》へ、カリオールは細いため息を洩らした。
「さすがは……さすがは……」
切尖は皺首にめり込み、赤い血を滲ませた。老人だからといって、容赦する若者ではない。
「彼はどこにいる?」
とDは奇妙な質問をした。卿ではない。卿を彼とは呼ぶまい。そして男爵は自ら噴いた鮮血の世界の住人と化している。
「それも見破ったか。……男爵は別の場所におる」
とカリオールは答えた。どんな目に遇っても冷笑を絶やさぬようなこの老人が、心底脅えていた。
「どこだ?」
「……わしの……家だ」
「奇妙なダミーをこしらえたのお。主成分は霊的物質《エクトプラズム》らしいが、戦闘能力は男爵よりやや劣る程度じゃわい」
カリオールの眼が、Dの左手の方へ少し動いたが、刀身がさらに食い込むと、また凍りついた。
「単なる人造人間《ホムンクルス》や能力移植体ではなさそうじゃ。人工的な分身《ドッペルゲンガー》かの」
「ヴラドはどこだ?」
とDは訊いた。
「わからん。この山城は、わしの知らない場所が多すぎるでな」
「では、用はない」
「ま――待て! 話がある。あの方に関する情報だ!」
これはカリオールの切り札であった。こんなにも早く使ってしまったが、一〇分の一秒でも遅れれば、首と胴は永遠に別れてしまっただろう。
「あの方とは?」
「――ご神祖よ」
「何を知っている?」
「やはり、興味があるか。――これでわしは命拾いだの。わしの部屋へ来い。知る限りのことを教えてやる。いいや、わしは最初から、おまえと戦う気はないのよ」
「先に行け」
彼の言い訳などどうでもいいという口調で、Dが命じた。
奥のドアを抜け、長い廊下を渡って、二人はじき、カリオールの研究室に着いた。
平地の城のものよりはさすがに狭いが、設備は劣らない。
「やはりな」
と左手が、誰にもきこえないようなつぶやきを洩らしたのは、先刻の分身という言葉と連動する何かを見つけたのか。
「話せ」
低く短いが鋭いDの指示に、カリオールはうなずいた。自分の要塞ともいうべき研究室に戻ったものの、ゆとりや安堵感は塵ほども見られない。Dの鬼気がそうはさせないのだ。
「Dという名の男が、バイロン・バラージュ男爵と旅をして何も気づかなかったはずはあるまい。彼の父はヴラド卿にあらず。――ご神祖であったよ」
こう言って、天井からぶら下がっているロープの一本に身をもたせかけ、片腕を巻きつけて、天井の方を向いた。眼に悲哀の色があった。
それからの物語は、大半、Dが水の女――ヴラド卿の妻にして男爵の母――から耳にしたのと同じものだった。
「だが、卿はついに、ご神祖の何かを授けられた息子を愛さなかった。いや、許さなかったと言っていい。卿は男爵さまを責め苛み、ついに生命まで奪おうと企んだ。男爵さまを救ったのは、母――コーデリアさまであった。おかげで男爵さまは召使いとともに逃亡し、今日、こうして復讐の道を辿ってこられたのだ。だが、そのためにコーデリアさまの受けられた罰は眼を覆うばかりのものであった。貴族にとっては水は太陽の光につぐ恐怖じゃ。卿はコーデリアさまに人体改造手術を施し、水への恐怖は残したまま、未来永劫、水中で生きることを強いたのだ」
老学者の肩が震えるのをDは見た。それは哀しみでも怒りでもなく、同時に、そのどちらでもあった。
「誰を呪っている?」
とDは訊いた。
「わしだ」
老学者は唇を噛みしめた。
「卿の妻に改造手術を施したのは誰だ?」
「――わしだ。それもわしだ」
カリオールはロープに巻きつけた腕を思いきり引いた。天井のどこかで固い音がした。それが、この老人に許された唯一の苦悩の表現のようであった。
「あの方は――コーデリアさまの手術に麻酔は許さなかった。貴族とはいえ、痛みは感じる。そのために気の狂うものもおる。誓ってもいい。貴族を水の中で生きるように変えるべく、あの方が味わった苦痛は、地獄程度ではすまなかったであろう。しかも――」
老学者はふり向いた。蝋みたいな色の顔に浮かんでいるのは、人間の表情ではなかった。
「――しかも――ああ、Dよ、あの方に会ったか? コーデリアさまは常にお静かだ、常におやさしい。わしが狂気のメスをふるっている間も、苦痛に顔を歪め、幾度も失神しながら、決して罪深いわしを責めようとはなさらなんだ。施術を終えて、申し訳ないと涙ながらに詫びるわしの手を取り、ご主人さまを頼みますとおっしゃったときのあの瞳の色――ああ……いまも、コーデリアさまは水の中におる。決して果てることのない苦痛と哀しみに苛まれながら――そうしたのはわしだ。このジャン・ドゥ=カリオールだ。ゆるさんぞ、ヴラド・バラージュよ」
最後の突拍子もない発言に、
「ほう」
とDの腰のあたりで驚きの声が上がったが、カリオールは気づかず、細い、涙に濡れた眼で、Dの顔を貫いた。
「バイロンさまは戻られた。恐らくは、ご神祖の力と技を持って。ご神祖は成功したのだ。その力の完全なる発動には時間が要る。わしがそれを成し遂げよう。だが、その前に――」
老人の鬚だらけの口が、肉でもしゃぶるようにねちゃねちゃと動いた。
「Dよ。ヴラドさまを弑《しい》せ」
世にも美しい若者の耳がそう聞いた刹那、カリオールは絶叫した。
「コーデリアさま、あなたのために、いま、ハンターを斃します」
そのロープは、最初から選んでおいたのであろう。
Dとカリオールとが急速に遠ざかり、その間に深い裂け目が生じた。裂け目はみるみる広がり、空の色と深い緑に彩られた。
Dのいる部屋の半分を丸ごと外へ打ち出したのは、なんと壁に仕込まれたジェット・エンジンだった。
部屋は二〇メートルも下の地面に激突して、火を噴いたのである。
Dは空中にいた。
離さずにいたグライダーの翼は、またも彼の生命を大空に救い出した。
地上から噴き上がる炎を避け、一気にカリオールの研究室へと上昇に移ったその足に、下方からぴしりと巻きついたものがある。
研究室の半分が落下した草むらと、同じ色の縄であった。最初の一条がDの足首を巻くと、たちまち地上から数十条が放り上げられ、十数条が全身に巻きついた。
Dの右手と太刀が躍った。
まさか――縄はふるえたが、切れなかった。そればかりか、飛行獣の羽根のパワーにさえ逆らって、Dの身体を地上へ引き降ろしはじめたのだ。
縄の主は? どのような技が隠されているのか?
ついに無駄と見て、Dは翼を放した。地上五メートルの高さから、もんどり打って地上へ。
いや、彼は足から降り立った。
城の周囲を埋める森の一角であった。
彼をいましめる縄はことごとく、木立の間に吸い込まれている。確かに気配と狂気がそこには蠢いていた。だが、なぜか、地上へ引きずり降ろした獲物へ、間髪入れぬ攻撃は襲ってこなかった。
Dは俯いていた。その姿には何ら不気味な点はない。
それなのに、津々と、空気ばかりか木も岩も凍りつかせるようなこの気配は――
そいつ[#「そいつ」に傍点]が木立の上から舞いおりたのは、それに耐え切れなくなったせいだろう。――Dの鬼気に。
人体を先史時代へ退化させたような肉体は、縄と同じ色と光沢を放つ胴当てや手甲、脚絆に守られていた。
その手に光るのは、武骨な鉈であった。
反撃は無駄、こちらの攻撃のみが獲物の頭蓋を割る――そいつの脳裡にはパターン化した死の過程が鮮明に描かれていた。
びゅっと地上から白光が薙ぎ上げられた。
防具に塗った山獣の脂肪と山の砂が弾きとばすはずの刀身は、難なく胴当てを割り、そいつの筋肉から内臓、脊椎までを断って背中から抜けた。
地上へ激突した身体は血飛沫と二つの肉塊に分かれた。
血風を浴びて、Dの半身が朱に染まる。
静寂が落ちた。またも――
静かだった。じつに静かだった。
「どうした? ――来い」
というDの声がきこえた。
俯いた顔の下で赤いものが艶めかしく動いた。舌だ。彼は唇についた血を舐め取っていたのだった。
ゆっくりと顔が上がった。
その両眼は、カリオールの眼やこの世界のどんな血の色よりも妖しく赤いかがやきを放っていた。
3
Dが口にしたのは、いまの生け贄の血ではなかった。彼は男爵のダミーから左肩に傷を受けていたのである。そこからこぼれる血潮を、地上へ引き下ろされる寸前、口にして、いま吸血鬼ハンターは、彼自身が最も呪い、誰もが忌むべき存在と化した。――吸血鬼と。
しかも――
前日の深夜、彼とタキを招き入れた村の医院で、ラグーンは恐怖と懐かしさが交錯する眼差しを天界の美貌に当て、Dの問いに答えた。
「救けた理由かい? あんたに、あの方と同じ匂いを嗅いだからさ。おれは、あの方に力を貸して、大層なお返しを貰った。恩に着てるよ。何となく、あんたが他人とは思えねえんだよ」
Dの縄はまだ解かれていない。違くから見れば、蜘蛛の巣にかかった黒き秀麗な蝶だ。忌まわしい虫が、醜い脚と牙とをこすり合わせながら急襲してくるまでの生命としか思えまい。
ぐい、と一斉に縄が引かれた。
ぴんと張ったそれ[#「それ」に傍点]を、Dは軽々と引き戻した。
動揺と悲鳴が上がり、左右の草むらから三個の影が同時に殺到した。どれも最初の男と同じ格好をし、鉈と鎌を握っている。
Dの刀身が閃き、最初の二人は一撃も加えられずに血玉と化したが、三人目は前の男の肩に両足をかけるや、もうひととび前方の木の幹に跳び移って、鋭い鎌を投げた。
そのスピード、タイミング――常人の眼にも止まらず、予測も不可能な角度からの攻撃であった。
Dの首を掻き切るはずの鎌は、金属の火花とともに方向を変え、樹上の男が移動する暇もない速度で、彼自身の喉を半ば裂いていたのである。
ここに至って、縄はゆるんだ。
全身のひとふりでそれをふり払い、Dは狭隘な石の大地の上にひとり立った。
「“山の民”じゃな」
と左手が言った。
決して地上には下りず、深山幽谷を自らの世界として生きる一族のことである。外界との接触を避け血族結婚を繰り返していたため、いつしか精神的肉体的な退化現象が生じ、猿人に近い身体つきを持ったが、山での生活にはその方がふさわしいともいわれる。
人里のみならず、人間の住まいを忌み嫌う彼らがヴラドの山城近くに棲息しているのは、食料や衣類その他と引き換えに、闇の護衛を引き受けていたものか。ヴラドが山城へ移ったのは、Dの追撃を計算し、彼らに迎え撃たせるためであったのか。だとしたら、試みはここに潰えたことになる。
四つの無残な――を通り越して、美しいとさえいえる芸術的な死体を、妖しい眼で追い、Dは刀身を八双に構えた。
前方の木立の間から、何やら、蒸気機関の立てるような音が響いてきた。
五秒と待たずに現れたのは、山肌と同じ色の、巨大な芋虫を思わせる機械であったが、ゆるゆると進む過程で、一本の木も折れないのが不思議だった。そいつのボディは、隙間が狭いところでは厚みを失い、器用に身をくねらせて通り抜け、しかも、重さを感じさせなかった。直径は五メートル、全長一〇メートル、重さ三トンを超えると見えるのに。
それは“山の民”の乗り物か武器か――Dの前方で、そいつは木のかたわらから、どん、と地上に落ちた。
木立の上や繁みの間から人影が猿《ましら》のごとく跳び出し、巨体に乗り移る。
胴の側部がめりめりと裂けてめくれるや、折り畳まれた大鎌が現れた。六、七メートルは下らないそれは、木を刈り、岩を切るのに使用されるものにちがいない。
ぶん、と叩きつけられた刃の上へと跳躍しながら、Dは後方へ跳んだ。
その身体が木立の間に吸い込まれるのと同時に、ひと抱えもありそうな巨木が五、六本、滑らかな切り口を示して倒れてきた。大地が揺れ、咆哮する。
炎の輪がDの周囲を走った。木立の切断面が摩擦熱のために火を噴いたのである。
「これは手強い」
と左手が呻いた刹那、左右から横殴りに分厚い光が襲った。
Dの刀身がそれに噛み合い、弾きとばしたのは、僥倖に近かった。
さらなる痛撃を加えようとして、しかし、山の芋虫はぴたりとその腕《アーム》を止め、背にまたがった奴らから、どよめきが噴出した。
大鎌はともに半ばから切り落とされて、大地に転がっていたのである。
Dは一気に間合いを詰めた。
芋虫よりも恐怖に駆られた連中が、鎌と鉈を放る。そのことごとくを弾きとばして白光が唸ると、彼らは血飛沫を上げて虫から落ちていった。抵抗するものすべてを容赦なく切って落としたのは、吸血鬼の血の為せる業か。
身を避け、跳び下りる連中には構わず、Dは芋虫の背の上で一刀を逆手に持ち替えるや、頭上高くにふりかぶった。
何を感じたのか、芋虫が、ぎゅえんと叫んで身をすくめた刹那、垂直に落ちた刀身は、その鍔元まで、皺だらけの背の一点を貫き通していた。
その下に位置するものは、生物としての神経中枢かメカの動力回路か、恐らくは、どちらでもあったろう。
虫の内側で何やら白熱の塊が生じるや、それは狂ったように暴走を開始した。
ひょっとしたら、そこ[#「そこ」に傍点]はそいつの死に場所だったのかもしれない。
木立の間に黒い裂け目が口を開けていたのに、Dすらも気がつかなかった。
跳び込むような落ち方であった。
寸前にDは跳躍し、その右手からひとすじの黒い縄がとんで前方の木の枝に巻きついた。
のたうちながら小さくなっていく虫を下方に、振り子のごとく弧を描いて裂け目の向こうへ跳ぼうとしたDの身体が急に沈んだ。
誰が放ったのか、一本の鉈が黒縄を切断したのである。
白い虫の姿はまだ遠く見えていたが、その後を追って落下する美しいハンターは、その衣裳にふさわしく、たちまち暗黒にまぎれて溶融した。
カリオールは鉄扉を閉じて、眼の前の石段を下りた。
地下の墓所である。
荘厳とそびえる石壁に開けた穴に、絢爛たる意匠を凝らした柩が整然と収められている。カリオールさえその名も性別も知らぬ、太古から連綿とつづくバラージュ一族の死の歴史であり、その証人たちの宿りであった。
三次元的にはおよそあり得ない形に歪んだ門を幾つもくぐって、カリオールはやがて、ひときわ天井の高い墓所の前に出た。
腰ほどの高さがある壇の上に、都の宮殿でもそうは見かけぬ豪奢な柩が座している。
ヴラド・バラージュの墓であった。
「Dは地の裂け目に呑み込まれたようでございます」
頭を下げて恭しく告げた。
「よかろう。“山の民”は役目を果たしたかな」
「死者も多数出ましたが」
「報酬は十分に与えよ。さらに、裂け目を探ってDの屍体を探すのだ。終わりとは、それ[#「それ」に傍点]だ」
「承知いたしましてございます。それを確認し次第、私はひとまず拙宅へ戻りたいと存じますが」
「よかろう。ただし、あと少し待て。おまえの他にもうひとり、忠誠を確かめねばならん奴が来る」
「承知いたしました」
カリオールは一礼して背を向けた。柩が太古の闇に塗り込められる距離まであと少しというところで、
「バイロンのことだが」
と柩の声が追ってきた。
「斃しはしたが、滅んだような気がせぬのだ。あれも探すがよい」
カリオールは少しの間、その場に立ちすくんだ。声の真意を測りかねたのである。バイロン・バラージュはいま、彼の屋敷にいる。そして、カリオールはそのために帰りを急いでいるのだった。
彼は黙って頭を下げ、
「承知いたしました」
と言って歩き出した。それ以上の声も行為も柩の主からは発せられなかった。
ラグーンがやって来たのは、カリオールがDと男爵の死体の捜索をホムンクルスどもに命じてすぐだった。
「ヴラドさまにはごきげん麗しゅう」
と、地下の柩に向かって一礼する巨人を、卿は無言で見つめた。
「呼ばれた理由がわかっているか、ラグーンよ。二〇年ぶりだ」
「さて、皆目」
巨人は首を傾げた。
「はて。――昨夜の破壊された村の建物を弁償していただけるので?」
真顔で訊いた。
「たわけ、何を申す」
「ですが、私めの知る限り、あのような力を持った生物が村の近辺に潜んでいたなどということはあり得ません。また、外からやって来たのなら、村へ入るまでに破壊を繰り返していたはずですが、その痕も見えません。あやつは、村の中に存在した常人が突如、奇怪な力を有したか、付与されたかしたのです。後者と考えた方が無理はありません」
「ふむ」
「では、誰がそのような真似を? ――奴がやって来た方角には、カリオールの屋敷がございます」
「………」
柩の思考による沈黙をどう受け取ったか、ラグーンは、
「で?」
と促した。柩の中の存在に脅えている風はない。かといって、軽んじてもいない。絶妙な反応ぶりといえた。
「Dと申すハンターを知っているな?」
断定的な口調である。
「いえ」
「昨夜、奴は下の館から、わしが喉しめしをした娘を連れ去った」
「まさか――」
ラグーンの驚きは必ずしも演技とはいえなかった。Dの行為を知ってはいても、別の当事者――殊にヴラドの口からきくと、感嘆せざるを得ない。結果的にはそれが吉と出た。
「わしは奪還のためグリードを差し向けたが、撃退された。Dという名の男はやはり凄まじい。だがそのとき、奴に手を貸した者がおる」
「とんでもない野郎ですな」
「そのとんでもない奴を、わしは、おまえとにらんでおるがな」
「ご冗談を」
「色々な条件を考え合わせると、村の中ではおまえしかおらん。また、Dという男が仲間の手を借りるときいたこともない」
「で、どうしろと?」
ラグーンは結論を急いだ。ヴラド卿の疑惑は容易なことでは動かせないと踏んだのである。
「あの村で唯一、わしに忠誠を誓わずともいい人間は、おまえひとり。あの方との約束により、わしもおまえには手が出せん。ただし、おまえがわしに叛旗を翻した場合は、その限りに非ずだ。――ラグーンよ、わしに忠誠を誓うか?」
「真っ平ですな」
「はは、やはり、思った通りだ。これはどうあっても、謀反の証拠を掴んで、この世から抹殺しなくてはならんな」
「何でしたら、いま、ここで」
「それはできぬ。いかにこのわしといえど、あの方との約束をたがえる度胸はない。――ところで、ラグーン。おまえ、貴族と同じ血を受ける気はないか?」
「へ?」
「とぼけるな。永劫の生命というやつよ。その代わり、陽の下を歩くことはできなくなるがな」
「くわばら、くわばら」
「見るがよい」
柩の声は言った。それに応ずるがごとく、ラグーンの背後で蝶番の軋む音が鳴り響いたのである。
ふり向いて、巨人は、
「テレナ」
と叫んだ。
それは、十数名いる愛人の中で、最も気に入っている女であった。
「昨夜、わしの下女となった」
青白く痩せ細った幽鬼のような、それだけに健康な人間以上に狂おしく美しい女は、緩慢な足取りでラグーンの方へ近づいてきた。
「どうだ、その女――おまえがおまえたちの世界で愛していた以上に美しく若かろう。それは、永劫に変わらぬ。しかも――」
天井から真紅の光条が女の後頭部から眉間を貫いた。白煙が立ち昇ったが、女の歩みは止まらず、眉間の炎も傷もたちまち消滅した。
「一〇〇万度の熱線が脳を灼いても死にはせぬ。夜に生きるのも、これはこれで愉しいものよ」
「貴族の生命ねえ」
とラグーンは、眼前に立つ美女をしげしげと眺めて腕組みした。
「申し訳ないが、ヴラド卿、形あるものはすべて滅びるというのが私の意見でして。来な」
彼は左手を離して女を手招きした。嫣然たる妖気を唇に浮かべて、女は両手を広げた。
その腕の中へ、一歩、巨体が踏み込みざま、女の背中から青黒い鋼が生えた。
わななく指がラグーンの背にめり込んだが、彼は気にもせず刃をえぐり、女を突き放した。
床に倒れた身体はすでに死者そのものと化し、妖しい美しさの代わりに、死と腐敗の兆候を露わにしはじめたが、ラグーンはしみじみと、
「ほれ、安らかな表情になりましたぜ。やっぱ、人間は人間として情けなく死ぬのがいちばんで」
と、大刃の短剣を懐に収めながら言った。
「わしの下女を殺したな」
柩の声が呻いた。
「これで、おまえを処分する理由ができたぞ。どうやってここを出る?」
「とんでもない。私は悪い病気にかかった女を始末しただけで。『館』にでものこのこやって来られては、敵わないですからね」
「わしの口づけを、悪い病いと言うか?」
「言葉のあやですよ、ヴラド卿」
とラグーンは微笑し、
「たかが人間のたわごとに、いちいち目くじら立てていては、栄えあるバラージュ家の沽券にかかわるのではありませんか? それに、いまの提案――一考に値すると思います」
「ほう。では、なぜ、その女を?」
「貴族の不死身ぶりを手に入れるのは、ひとりでたくさんでしょうが」
こう言って、ラグーンは笑みを深くした。卿の声はもう聞こえなかった。
薄明の墓所に、奇怪な共感の雰囲気が漂いはじめていた。
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第四章 ミスカの場合
1
Dは穴の底にいた。
ふり仰ぐと、頭上には例の裂け目が稲妻のように見えている。五〇〇メートルは垂直降下したにちがいない。
大地に衝突寸前、彼はコートを羽根のように広げてブレーキをかけたのである。
それでも衝突は凄まじく、骨折と内臓破裂は免《まぬか》れなかったが、すでにその気配もない。
貴族の血と左手の働きであった。
「おかしなところじゃの」
左手がやや疲れたように言った。手の平には小さな眼が二つ浮かび上がり、好奇の光を湛えて周囲――といっても一方向だが――を見廻している。
そこはただの大地の穴ではなかったのだ。Dの長靴が踏む地面は、煉瓦《れんが》様の石が整然と敷き詰められ、地の底らしく苔《こけ》やら草やらに覆われてはいるが、確かに人の手による遺跡なのであった。
Dは右方へ進んだ。
前方の横穴――その彼方にそびえるのは、得体の知れぬ模様を彫り込んだ石の壁であった。
その奥にも崩れかけた壁が幾層もつづき、倒れた柱らしい品も、石塊《いしくれ》の堆積の上に窺《うかが》えた。柱の形状の洗練ぶりからも、遺跡イコール文明の高さが知れる。
「太古の遺跡じゃな。ざっと三万年――人間の時代にも、すでにここにあったろう」
Dは軽く壁に手を触れた。その部分は砂のように崩れ、残りの部分も脆《もろ》い菓子の倒壊ぶりを見せて、彼の足下に広がった。
「危険じゃな。天井も危ない。そっちへ行くのはよせ」
「穴を登りたいのか?」
「いいや」
Dは構わず進んだ。
左側の天井が崩れ、石と黒土が床に頬ずりしている。最初は持ちこたえていたものが、地殻変動に耐えられなかったのだ。
だが、天井自体はかなり高く、奥へ行くほど穴も広さを増してくるようだった。
地上の裂け目から洩れてくる光も、すでに役に立たない闇の中であるが、Dも左手も困った風はない。
「ロープ、滑車、移動用クレーンか……ここはどうやら、工場らしいぞ」
左手の声に、Dは足を止めた。
「しかも、生きている」
「何!?」
左手の声へ、低い唸り声が応じた。
前方を斜めに走るパイプらしい環の上に、緑色の光が二つ燃えている。――眼だ。
そいつが跳びかかってきた刹那、Dの刀身が一閃し、二つに分かれた肉塊が床に転がった。
「手応えからして、人造生命体《ホムンクルス》だ。工場の番犬だろう」
「他には――なしだ。行け」
今度は一〇メートルも進む必要はなかった。
足を止めたDの前方に巨大な物体が横たわっていた。
「これは――さっきの化物に似ておるな」
闇の中で左手は感じ入っているような声を上げた。
広い台の上に鎮座したもの[#「もの」に傍点]は、駆動部分を骨組みで包んだだけと見えた。
「未完成品か――いや」
左手の言葉にDはうなずいた。
「完成品だ」
そのとき背後に、あるはずのない気配が近づいてきた。
ふり向きもせず、Dの左手が閃き、空中で白い針がそれを捕捉した。
胴体を貫かれて落ちたのは、小鬼のような身体に翼をつけた人造生命体《ホムンクルス》であった。
「胸にTVアイをつけておる。見つかったぞ」
と左手が面白そうに言った。
「こちらは穴の底で手も足も出ん。煮るも焼くも向こうの思うがままだ。さて、どんな手で来るか」
Dは台の上に舞い上がり、物体の内側に身を入れた。
「何秒だ?」
と訊いた。
「ざっと三〇秒……二九……二八……」
それは敵の攻撃までの時間であった。
エンジンと思《おぼ》しいボックスの上に、石造りの操縦席が固定されていた。やや大ぶりなのは、シートや背もたれをかけるためだろう。
操縦は床から突き出た鉄製のレバーが担当するらしかった。鉄自体の性質によるものか、特殊な処理でも施してあるのか、錆は一切ない。
一本を手前に引いた。駆動部の石製の歯車が噛み合い、火花が散る。
「二一……二〇……一九……一八……」
ボックスの内部で、小さな爆発が生じた。三度小刻みにつづき、停止する。
Dはレバーを戻し、もう一度引いた。
今度はスタートした。爆発は長い、絶え間のない唸りに変わった。車体が震動する。
「一四……一三……一二……おや」
左手の眼が、ひょいと上方を向いた。
「あの音はミサイルか……ちと早めるぞ。九……八……」
Dの手が次のレバーにかかった。
「七……六……」
横穴の入口で、閃光が膨れ上がった。光を伴う衝撃波が何もかも呑み込み、噛み砕きながら押し寄せてくる。柱が壁が影のように滲んで消えていく。
押し寄せた衝撃光をおぼろげな外皮が跳ね返した。光の波は口惜しげにその周囲を巡って牙を剥き、渦巻いた。
だが、外皮も煙を上げている。
「まだ、完全ではない。二発目には耐えられんぞ! 強化せい」
声はすでに乗り物の操縦を理解しているようであった。
間に合うか。
きっかり二秒後――二発のミサイルが穴の底で炸裂した。
ラグーンが山城へと発《た》ってすぐ、ペイジ=サイファンは行動を開始した。
ラグーンが案内を中止した南翼の建物がその目標であった。
ラグーンの部屋を脱け出してそこへ達するまで、数人の男女と出会った。
相手の気配を察すると、彼=彼女の身体はトカゲのように壁を垂直によじ登り、天井に張りついた。
驚くべきは、両手も両足も一切使わなかったことである。吸盤つきの見えない手足が備わっているかのように、彼=彼女は天井から下を行く男女をやり過ごし、そのまま前進した。
目的地のドアも天井から這い下りた逆しまの姿勢で開けた。
鍵はかかっていなかったが、すべてが空き部屋か物置に使用されているきりであった。
ついに探しあぐねて、茫然と立ちすくんでいると、いきなり、
「何してるの?」
愕然とふり向いた。声の主があどけない少女だったからではない。そんな娘の気配を察しられなかった自分に驚いたのである。クロモの化粧によって別人になるということは、本来の感覚や運動神経もある程度、化けた相手に順応するらしかった。
殺意をたっぷりと塗り込めてふり向いた眼は、あることに気づいて、やさしく少女を見つめた。
娘はメイであった。
「何してるの、こんなところで?」
訝《いぶか》しげな童顔へ、
「何でもないの。お姐《ねえ》さん、迷っちゃったのよ。ここ、はじめてだから」
「娼館で働いている人?」
とメイは屈託がない。辺境に生きるものにとって、娼館や風俗営業は決して悪ではないのだ。
「そうよ」
「じゃあ、全然、場所がちがうわ。あっちよ」
と指すのへ、
「でも、さっき、この辺で人影を見たのよね。凄いハンサムな男の人だったわ。あんまりきれいなので、つい探しにきてしまったのよ」
「ああ、それ[#「それ」に傍点]――」
メイはその名を言いかけて、口をつぐんだ。
「知ってる人なのね?」
とペイジ=サイファンがささやいた。あくまでも、やさしく明るい田舎娘らしい訊き方である。モデルになった殺人淫婦も、日頃はこうだったのであろう。メイもころりとやられた。
「ううん、ちがうよ」
と首をふる仕草が、そうだ[#「そうだ」に傍点]と言っている。ペイジは天使のような笑みを見せた。
「いいのよ、それなら。私、もう少し探してみるわ。さ、お行きなさい」
「本当にいたの?」
今度はメイが訊いた。昨日の昼近く、水車小屋でDと別れ、ラグーンの雇った戦士たちにこっそりここへ連れ込まれて以来、Dにもタキにも一度会ったきりだ。タキはいま、地底の隔離所に眠り、Dはヴラド卿の城へと乗り込んだきり、いまに至るも帰らない。
二人はどうなるのか、いや、それにもまして、メイには眠りさえおぼつかなくさせる不安があった。
ヒュウである。旅の途中で行方不明になった弟は、どこへ行ったのか? 彼を探し出せるのがDがしかいないとは勘でわかる。そのDも――
不安に堪え切れず部屋を出た。
外出は禁じられていたから、人に出会ったら隠れるつもりでうろついているところへ、ペイジを見かけたのである。声をかけたのは、その娘の物腰が自分以上に寂しく頼りなげだったからだ。ひと皮剥けば、自分を最初、ラグーンのところへ売りつけた片割れだとは知りようもなかった。それくらいに見事なクロモの化粧であった。
「ええ、確かに」
こう断言されると、メイにはDへの会いたさが制御できないほどに募った。
「どこで見たの?」
「この辺――と思うのだけれど、見つからないわねえ」
「ひょっとしたら」
「え?」
「ううん、何でもない。じゃ、あたし、行く」
「待って。あなたは誰なの?」
「メイ」
「私はペイジよ。――また、会えるといいわね」
「うん」
にこやかに手をふる林檎の頬へ、こちらも手をふり返し、しかし、少女の姿が廊下の角を曲がって消えるや、ペイジはまたも壁から天井に張りつき、音もなくメイの後を追いはじめた。
メイが立ち止まったのは、すでにペイジ=サイファンがチェック済みの廊下の端であった。行き止まりの壁がそびえている。
すい、と少女は前進し、壁に溶け込んだ。壁は一種の光学的な幻像だったのである。
「なるほどな」
確かめずにいた自らの迂闊《うかつ》さに苦笑し、ペイジ=サイファンも天井で壁を抜けた。
「お」
思わず声を出しかけたのは、向こう側のスペースが、あまりにも狭かったからだ。人間三人がすし詰めでやっと身を隠せるほどしかない。
本当の行き止まりの壁に、エレベーターのものらしいドアがはめ込まれ、メイはその前に立っていた。
この下に何かある。いや、誰かいる。十中八、九、タキとかいう娘だ。メイを見つけただけで、ラグーンの謀反気は明らかだが、もうひとりを匿《かくま》っているとわかれば、これでカリオールさまへの任務は十分果たしたことになる。よし。
ペイジ=サイファンの眼が凶光を放ち、背中のあたりで、ぽきぽきと、見えない指の鳴る音が連続した。
エレベーターのドアが開いた。頭上で身構える田舎娘の姿をした死にも気づかず、メイは一歩を踏み出した。
ペイジ=サイファンが身を躍らせ――ふっと静止した。
背後の廊下を足音が近づいてきたのである。
一瞬、とまどう間に、メイはさっさとエレベーターに乗り込み、ドアを閉めてしまった。
舌打ちして、ペイジ=サイファンは廊下の天井へと戻った。邪魔ものの正体を見届け、場合によってはうさ晴らしにひと太刀《たち》浴びせてやろうかと思ったのである。
そこに立っていたのは、奇妙な男だった。
頭からすっぽり灰色の頭巾を被り、首から下も同じ色の長衣をまとっている。腰のあたりで結んだ紐が唯一のアクセントであった。
長衣の胸から突き出した巻いた皮とも紙ともつかないその表面に、サイファンの眼は、地図らしい模様を見て取った。
戦慄が全身を貫いた。
――こいつ……子供の頃、絵本で見たぞ。
記憶は恐怖によって鮮明に再現された。
見開きのページに展開された惨劇の場面。
右手を高く掲げ、左手で肩越しに後方を指さしている頭巾姿と、その足下に片膝をつき、感謝の祈りを捧げている貴族。背後の窓に見えるのは、黄金の峰々と宮殿だ。貴族が求め、頭巾が教えたものは、そこへつづくひとすじの白い道なのであった。
頭巾の名は確か――
そして、彼が掲げる少年少女の生首と、床に横たわる血まみれの二つの首なし死体の意味するものは――
――こいつが、なぜ、ここに?
さしものサイファンが、天井に磔《はりつけ》にされた虫みたいに動けずにいると、頭巾の方が上を向いた。
軋《きし》るような声で、
「あの娘に手を出すな」
と言った。
「さもなければ、おまえの行く道を、おれが決めるぞ」
そして、頭巾は歩み去った。
かろうじて天井に取りすがったサイファンに、その後を追う気力のかけらもないことは、したたる汗と次の台詞が明らかにした。
「一体――どいつが、あいつを……呼び出した? “案内人”なんかを……?」
「じき、陽《ひ》が暮れるってえのによ。探し物は見つからず。こいつぁとことんついてねえ」
やや蒼みを添えた空の下を、長いこと蹄《ひづめ》の音と愚痴がつづいていた。
それが不意に熄《や》み、
「おっ!?」
と歓喜と驚きの叫びに変わったのは、乗り手が、急斜面の片側に生えた潅木《かんぼく》の繁みをのぞいたときであった。
黒土に、皿みたいに平たい石が埋もれていたが、その上に、世にも美しい若者が黒々と横たわっていたのである。
やや青黒いが白面と呼んでもいい肌に施された、閉じられた眼、鼻、唇――あらゆる造作の、なんという美しさ。
長くしなやかな睫《まつげ》は風にふるえ、鼻梁《びりょう》の明晰さは、天工の手になるもののようだ。白い歯をややのぞかせている唇をひと眼見て、吸いつきたいと思わぬ女はいまい。――男とても。
だが、その美は危険だ。美しくも妖《あや》しく、清涼であると同時に退廃的だ。
欲情すら感じたクロモが、すぐに動けなかったのも、身じろぎしない若者の醸《かも》し出す何かが、背すじに氷の刃《やいば》をあてがったためであった。
だが、戦慄はたちまち、この殺人者の血に流れる怪異な芸術的欲求にとって替わられ、彼は馬の背にくくりつけた化粧道具に手をのばしていた。
「この美しさ。こいつがDだな。男爵のときはしくじったが、今度はうまくやってみせるぜ。おれの――クロモさまの化粧をな」
そして、彼は馬を下り、昏々《こんこん》と眠りつづけるDへと足音を忍ばせつつ、近づいていった。
ヴラドの山城の門前へDを連れたクロモが辿り着いたのは、それから一時間が経過してからであった。
宵闇はすでに世界に覇《は》を唱えつつあった。何もかも蒼茫《そうぼう》と暮れてゆく。貴族の眼醒めまで、三〇分とかかるまい。
大門上のTVアイは、Dの顔を見てたちどころに入場を許可した。
そこには明らかにクロモの手になる化粧が施されていたのである。
人造生物《ホムンクルス》どもが地を走り、宙を舞って刀槍を閃《ひらめ》かせるただ中を、二人は城の奥へと進み、ついに、例の地下墓所へ通された。
柩《ひつぎ》の前で、
「Dを連れて参りました」
とクロモは一礼した。
「なぜだ?」
と声が訊いた。禁断の眠りの地にふさわしい響きが、クロモを硬直させた。
「なぜ――とおっしゃいますと?」
「わしの生命を狙うハンター――その場で始末こそすれ、なぜ、連れて来たかと尋ねておる」
「それは……」
「愚かもの」
柩のどこかから紫の稲妻がとんで、クロモの胸を貫いた。
二撃目は、すでに床を蹴って跳躍したDを空中で捉えたが、刀身はこれを二つに裂き、柩のかたわらに着地と同時――何と柩そのものを縦に両断していた。
だが、Dのみは感知した。その寸前、柩から跳躍して五メートルも離れた床に降り立った鎧武者《よろいむしゃ》の姿を。
「グリード公爵か」
「また、逢ったな」
紫の光を全身にちりばめて、鎧の主は笑った。
「卿はおらぬぞ。おまえが来るのを見越して、館へ戻られた。今頃は閨《ねや》も移しておろう。ひとたび身を隠せば、それは決して見つからん」
グリードの言葉の正しさは、人間VS.貴族の歴史が証明するところだ。
全盛を誇り、人間など虫けら以下に見なしていた時代にも、貴族の墓所を暴いてその心臓に杭を打ち込む人間はいた。
多くの貴族たちが歯牙《しが》にもかけなかった些細かつ少数の蛮行《ばんこう》も、貴族の種的衰退期に入るや、俄然頻度を増し、貴族たちはその墓を野蛮人どもの眼と破壊から隠蔽すべく腐心することになった。
地下の大墓地は定番として、鬱蒼たる森、峨々《がが》たる山中、凍結湖の底等、ありとあらゆる場所が改造され、あるいは改造された柩を呑み込み、地上を遥か離れた成層圏を漂うステーションにも、おびただしい数の墓所が設けられた。
昔ながらの風習を尊ぶ者たちも、三次元幻像や、錯覚ゾーン、迷路等を駆使して執拗な墓場暴きを阻止せねばならず、電子機器、化学兵器、生物兵器等――貴族の科学技術の粋《すい》は、確かに一時期、このために費やされたのである。
統治時代の反動か、人間たちの捜査と探索は執拗を極めたが、リストの幾つかは、ついに発見されずに終わった。異次元空間さえ利用し得る貴族たちの奥の手に、人間はやはり勝てなかったのである。ヴラドもまた、空間支配の術を会得しているのであろうか。
墓所が蒼く染まった。
Dめがけて乱れとぶ稲妻の灼《や》きつける影は、いっとき、地底の世界を影絵の王国のように見せた。それはひどくはかない色彩《いろ》であった。
Dは一気に進んだ。
刀身が稲妻を火花に変え、直撃を受けた黒衣は燃え上がった。
「ちい」
叫んでグリードが跳躍した。
空中で両手を合わせ、全身を辿る稲妻を指先に収束させる。一千億ボルト――いかなる生物もこれによく耐え得るとは思えない。紫青《しせい》の光条が、たぎるようにDを押し包んだ。
何もかも青く青くかがやき、静謐《せいひつ》とさえいえるその光の中心に、黒い美影身が夢のように滲んでいた。
それが濃さを増し――光は急速にうすれた。いや、吸い込まれているのだ。Dの掲げた左手の平に。そこに生じた小さな口に。
全エネルギーを注ぎ込んだ一撃の無効の故《ゆえ》か、これも一跳躍して頭上に躍ったDの刀身を、よける意志のかけらも見せず、次の瞬間、グリード公爵はその頭頂から顎《あご》先までに朱の線を引かれ、もんどり打って地上へ――ヴラド卿の柩の上へと落下していった。
2
グリードよりわずかに遅れて着地し、Dは横たわる二体の敗者を見つめた。
だが、その彼自身、黒衣は焼け爛《だた》れてなおも炎を噴き、刀身は半ばから溶け歪んで鞘《さや》に収まりそうもない。仁王立ちのまま動かなくなっても、誰も不思議に思わぬ惨たる姿だ。
その足下へ、
「畜生――騙されちまったぜ……」
クロモの呻き声が漂い流れてきた。
「まさか……眼え醒ましてやがったとは……おれとしたことが、ぬかった……ぜ」
火炎地獄と化した地底の古代遺跡から、間一髪で脱出し得たDが、さすがに昨夜来の疲労を休めていたのが、クロモの見た姿だ。泥と血にまみれたその様子から、失神中と判断し、化粧道具を抱えて近づいたまではよかったが、まずは口紅をとのばした手首を、ぐいと掴まれた。
後は言わずもがな。無難な化粧を施し、Dに命ぜられるままに山城浸入の案内役を強制されたのである。クロモ自身が、さしてヴラドのシンパといえないのも影響した。
「畜生……もう一回……思うさま……腕をふるってみてえや。……クロモさまの化粧の腕を……よ」
地を這う苦鳴に混じって、D、と呼ぶものがあった。
Dはグリード公爵の方を向いた。
「……D……面を外して……くれ……見えないのだ」
立ち尽くす影が、横たわる影に近づき、片手をのばして面当てを外した。
「おや」
と嗄《しゃが》れ声が上がった。
裂けた鎧から突き出た顔は、若い女のそれであった。
短く切った金髪がうす闇に光った。蝋《ろう》のような顔には、すでに死相が濃い。
「あなた……口が重そう……黙って聞いて……」
裂けた唇が声と血とを噴いた。
「私はシューン・グリード……公爵は夫の称号よ……二〇〇年前、西の貴族の夜会から……ヴラドに拉致されて……それから、彼の……護衛役……」
「夫はどうした?」
Dの問いに、女――シューンはうすく笑った。
「……訊いてくれるの……。私を救いに来て……ヴラドに滅ぼされた……わ……。いま……やっと……夫のもとへ……行ける」
女の手がすいと上がって、Dの足首を掴んだ。なぜか、Dは動かなかった。
「……ね、私……まともな顔をしている?……あの人に……笑われないかしら?」
「大丈夫だ」
「嘘よ……血まみれ。……そういえば、この何百年間は……化粧もしていないわ……見せる相手もいなくって……せめて……たしなみ程度は……」
身を屈《かが》めて女の手を放し、Dはクロモに歩み寄った。
「――最後に化粧を施してみたいと言ったな。来い」
こう言って、片手を掴んでシューンのもとへ引きずってきたのは、この若者らしいといえばいえるが、極めて乱暴なやり方ではあった。
床の上で上体を起こし、相手《モデル》をひと目見るや、
「……よし。まかしときな」
とクロモは両眼をかがやかせた。
「まかしときな……最高の死化粧を……施してやる……ぜ。だがな、その代わり……おめえさんは、苦しげな表情ひとつ……つくっちゃならねえ。筋肉の筋……一本狂っただけで……化粧は無駄になっちまう……からよ……おれにも……直してる暇は……ねえ。最後の門出だ……我慢……しな」
腰につけた道具入れを開いて、彼は入念にシューンの顔に腕をふるいはじめた。
化粧を施すもの、施されるもの、どちらも半ば死者である。断末魔の苦痛に苛《さいな》まれているのである。だが、血臭《けっしゅう》とうす闇の世界で、一切を喪失したかのように手を動かす男と、安らかな表情で横たわる女とは、そんな人間的な事情を超越した神々しい存在のように見えた。
どれほどの時間がたったか、あるいは、少しもたたなかったものか。
「よっしゃ、終わりだ。最高の出来だぜ」
とクロモの声がきこえた。
彼は手鏡を取り出し、シューンの顔の前にかざした。
細い吐息がその表面を曇らせたが、映ったもののかがやきを消すことはできなかった。
「これが……私……」
シューンは満足そうに眼を閉じ、もう一度開いてDを見た。
「ありがとう……あなたに……似てるわね」
そして、こと切れた。同時にクロモも前にのめって動かなくなった。新たな住人二人を迎えて、墓所は静まり返っていた。
「ヴラド卿はどこか――もうひと汗流さんとな」
嗄れ声も知らぬかのように、Dは帽子の鍔《つば》に手を触れた。別れの挨拶だったのかもしれない。そして、彼は静かに死者の国に背を向けた。
礼拝堂の窓からこぼれる光よりも、柩を包む青い靄《もや》が、別の時間の訪れを告げた。
夜が――貴族の時間《とき》がやって来る。
カリオールはため息をついて床上に跪《ひざまず》いた。
じきに男爵が眼醒める。それを迎えるのが彼の日課なのだ。少なくとも、かつては。――バイロン・バラージュの幼年期と少年期、老人は最も優れた下僕であり、教師であり、師であった。
聡明な若者は、「都」の貴族に負けぬ気品と精神の高貴さとを具《そな》えていた。山崩れで亡くなった村人たちの葬儀に参加するといってきかなかった少年を、彼はどれほど愛しく思ったことだろう。
だが、老人があれほど少年貴族の教育に身を入れたのは、常にあの方[#「あの方」に傍点]がいたからであった。
いま、人生のたそがれを迎えて、カリオールははっきりと認めることができる。
フェンシングの稽古に汗するバイロンのかたわらで、ひっそりと我が子を見つめていた。黄金の髪が月光にやわらかくゆれ、ひとすじふたすじが、白いうなじに愛しげにまつわりつく。
我が子を見守る誇らしげな眼差しは、自分にも向けられたものだと、空《むな》しい満足さえ胸を熱くした。あの方が月光の下でしか生きられぬが故に、自分は昼の陽光を呪い、夕暮れまで外出をさし控えたものだ。バイロンの気配りで、ひとり竪琴《ハープ》を爪弾《つまび》くあの方を、ひっそりと遠望したときの感動は、いまも彼の眠りを満ち足りたものにする。
いま、同じ時間《とき》が戻り、バイロンの柩の前にかしずいてはいても、世界はなんと変わってしまったことだろう。自分は何のためにここまで老残の身をさらし、老いさらばえてきたのだろう。
祈りの言葉を捧げる前に、礼拝堂の扉が開くのを彼は意識した。
屋敷に施された様々な侵入防止装置を一蹴《いっしゅう》してここへ辿り着ける男を、ひとりだけ知っている。いや、もうひとり。
「――Dか?」
とジャン・ドゥ=カリオールは訊いた。
返事はない。闇が濃さを増したようだ。
「気になったか、バイロンさまが? あの方もおぬしと同じ境遇の主であるぞ」
「ヴラドの墓所はどこだ?」
宵闇に流れる鉄の声であった。
「それはわからん。このわしにもな」
「わかるものがいる」
カリオールは苦笑を浮かべてふり向いた。
「それが目的で来たか。しばし待て、男爵さまはじきに眼醒められる。卿の眼醒めと等しく、な。男爵さまが躊躇されても、わしが口添えをしよう。――Dよ、ヴラドさまを討て」
「心境の変化かの?」
嗄れ声は、Dにもカリオールにも向けられたものではなかった。
「そして、地底の湖深く、永劫に苦痛の水中に漂うお方を、わしの用意した褥《しとね》に移せ、移してくれ。――来い」
返事を待たず、カリオールは右手の杖を足下へふった。
大理石の床面が鏡のようにゆれた。
そこに映し出されたのは、満々たる真紅の水であった。
「血と同じ成分の溶液じゃ。あの方の苦痛を少しでも和らげるには、この中に浸る他はない。この館の地下にわしがつくった紅い湖は、今でもあの方を待っておる」
老学者は片方の拳を握りしめ、片方の杖をふるった。ひとたび地を打つと湖の幻は消え、ふたたび打つと、闇色の亀裂が蜘蛛の巣状に走った。
「バイロンさまに父を弑《しい》させてはならぬ。Dよ、おまえが戦ってヴラドさまを斃《たお》せ。そのために、わしはいかなる手助けもしよう」
「おれの知りたいのは、ヴラド卿の柩の在りか――それだけだ」
カリオールの眼差しが、とまどいの翳《かげ》にゆれた。
「――わからぬ」
「男爵――どうだ?」
とDは呼びかけた。柩に問うたのである。まだ陽は残っている。すると、柩が答えた。
「知っているとも。あいつのことなら何もかも、な」
「男爵さま――ああ、陽の落ちる前に五感が眼醒められまするか。やはり、あの御方のお目に叶った方――」
「カリオール、黙れ」
「ははっ」
電撃に打たれたみたいに、老学者はひれ伏した。
「それがすべての元凶だったのかもしれん。――Dよ、私がここへ着いてから何があったかは知らんが、ヴラド卿に関しては、私にまかせろ」
「依頼を受けた」
とDは言った。
「誰にだ? 卿の犠牲者は?」
返事はない。依頼主がメイだとも、救うべき犠牲者がタキとも言わぬ。ハンターの仕事を遂行する上で、それは無関係の事柄なのであった。
「カリオール」
と男爵の声は畳みかけた。
「依頼主は存じませぬが……ヴラドさまの口を汚したのは、タキとか申す娘でございます」
血も凍る沈黙が落ちた。それを破ったのは、貴族の時間で最初に聞こえる音――夜の世界の訪れを告げる蝶番《ちょうつがい》の軋《きし》みであった。
柩の蓋はゆっくりと開きつつあった。
幽鬼のごとく起き上がり、立ち上がった人影の名はバイロン・バラージュといった。
「Dよ――一夜《いちや》待て」
蒼い貴族は夜の声で言った。
「この私の名誉にかけて、父は――ヴラド・バラージュは私が斃す。それをもってタキのことは許せ」
「墓所はどこだ?」
とDは訊いた。こちらも夜の声であった。
「それは言えぬ。また、告げてもわかるまい。バラージュ一族のみが、おぼろにそれを知るばかりだ。D――タキのもとへ行ってやれ」
「………」
「ヴラド・バラージュという男を甘く見てはならん。普通の貴族と同じに考えてはならん。すでに、犠牲者のもとへ向かっているかもしれぬのだ。私はもうひとつの可能性を探る。いや、何があろうともヴラド・バラージュはこの私の手にかけなくてはならん」
少しの間、行《こう》を共にした蒼い影を見つめ、Dはきびすを返した。
「感謝する」
男爵の言葉に、
「一夜だけだ」
闇の彼方から冷厳な返事が返ってきた。これからはじまるのは、そんな時間なのだ。
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第五章 遥(はる)けきシャングリ=ラ
1
ひそやかな足取りを、メイは部屋の内部《なか》で聞いたような気がした。辺境にいる者には、時折、こんな瞬間が訪れる。
廊下を渡ってくる。ずっと遠くから。
ああ、いま、ドアの向こう。
ノックの音もひそやかであった。
ラグーンのはずはない。
夜の静寂《しじま》をひとすじもふるわさぬような歩き方は、夜の一族しかできない。
誰何《すいか》はしなかった。
メイはドアを――黄金のノブだけを見つめた。
廻ったかどうかもわからない。
ドアは開いた。
白いドレスを着ているのに、ひどくおぼろげなイメージをメイは抱き、その原因を探った。
影がない。
月の光はもの足りなかったにちがいない。
「元気でいたか?」
ミスカが尋ねた。
「ええ」
メイは胸を撫で下ろした。
「でも、あなた、どうしてここに? 学者さんのお家へ行ったんじゃなかったの?」
「いいや、ここでよかったのだ。私の祖父が昔、ラグーンにある品を預けてあった。私はそれを開けてみた」
ミスカは静かに人間の少女を見つめていた。
「へえ。何か大切なものだったんだ。無事だった?」
「ああ。ちゃんと残っていた。小さな香炉だけれど」
「よかったね、ミスカさん、よかったね」
と少女は手を叩いた。
「そういう品物は、すぐに壊れちゃうんだよ。よかったね。お祖父さんも、きっと喜んでるよ」
素直な笑顔であった。ミスカは眼をそらした。そのまま言った。
「香炉には、地図が仕込まれていた。両親も何もかも失くした私の行く先が」
「へえ」
メイは眼を丸くした。
「そんなことってあるんだ。――それでどこへ行くの?」
「まだ、わからない。連れて行ってくれる者がいる。いま、向こうで待っている。メイ、私と一緒に行かないか?」
「あたしも?――やだ!」
大仰に首をふる少女へ、女貴族は驚きの顔を向けた。
「なぜ?」
「だって、あたし、まだ、こっちの世界で見たいものいっぱいあるもの。しなくちゃいけないことだって、たくさん」
「父母は亡くなったときいたぞ」
「そうよ。でも、そんな人、他にもたくさんいるよ。父さんも母さんも、あたしより年上の人は、たいてい、あたしより先に死んじゃう。それが、あたしの親みたいに少し早いと哀しくなるけど、仕方がないわよね。その分、あたしたちがしっかり生きればいいんだ。あたしが母親だったら、死ぬとき、きっとそう思うよ」
少し間を置いて、
「おまえの年齢《とし》で、生きることは辛くないのか?」
とミスカは訊いた。返事を期待しているような口調だった。
「辛いに決まってるじゃないの」
メイは、呆れたという風に答えた。
「両親も亡くして、この年齢でさ、辛くないわけないでしょ。いいことなんか、たまにしかないわよ」
「それなら、なぜ……」
「たまにいいことがあるからよ」
ミスカは沈黙した。年端もいかぬ少女の答えは、貴族たる彼女の理解を絶していたのである。
「世の中、いいことばっかりじゃないけれど、悪いことばかりでもないの。誰でもそう。あたしだって苦しいときはあるし、貴族のあなただって、辛いときはあるでしょう。その中で、何とかやってくのが多分、生きるってことなのよ。あと三〇年もたてば、きっと、あたし、辛かったことも懐かしく憶い出せる。そんな人間になりたいんだ。あなたや男爵のことも、きっと、そんな風に憶い返しては、人に話すようになるわ」
それから、メイは真っすぐミスカを見つめて微笑した。心からの笑みであった。
「でも、いいわね、そんな素敵なところがあって。あなたはあたしたちより辛いんだね。あたしは行かないけれど、誘ってくれてありがとう。行こう。――見送るわ」
「いいえ、ここにおいで」
とミスカは少女の肩に手を置いて言った。
「――見送り[#「見送り」に傍点]はひとりでは足りないの」
「え?」
白い姿が遠ざかるのを、メイは寂しげに見つめた。
激しいノックの音が白い姿を横へのけた。
「姉ちゃん――おれだよ、姉ちゃん」
喧嘩をしているような声。メイは跳び上がった。
「ヒュウ――ヒュウなのね!?」
脱兎のごとく走って、ドアを開けた。
ラグーンの巨体に背後を守られて立っているのは、嘘いつわりのないヒュウであった。
二人は抱き合った。
雷みたいな声を上げて泣く姉弟を、ラグーンはしばらくの間、無言で見下ろした。
「帰り道、馬の蹄鉄が外れてな。近くの農家で別の馬を借りたが、そのとき、引き取ったんだ。農家の主人が、昨夜遅く、ソーントン街の倉庫の前を通りかかったとき、つないであった馬の背で、積んである袋が動いてた。開けてみると、こいつ[#「こいつ」に傍点]だ。話をきいたら、悪党にさらわれて来たという。急いで連れて逃げた。ま、馬ごと失敬してきたのは、詮索しないことにしよう。農夫は、明日にでも治安官かおれのところへ連れて行くつもりだったらしい」
てきぱきと説明して、ラグーンはめずらしく温かい笑顔を見せると、
「今夜は水入らずでいな。じき、Dも戻るだろう」
こう言って立ち去った。
手を取り合う二人の背後へ、このとき、別の影が立った。
「二人なら、見送り[#「見送り」に傍点]もできるわ」
とミスカは、二人がふり返らずにいて幸運だったとしかいえない光を双眸に湛えて告げた。
メイの部屋を出てから、ラグーンはミスカの隠し部屋へ向かった。
脳裡に昨夜の出来事が生々しく再生された。
夜明け前、忽然と現れたミスカは、彼女の祖父が一〇年前、ラグーンに預けた品を出せと命じた。
かつて、ヴラド卿との会見にのぞんだミスカの祖父が、人間の刺客にねらわれたとき、ラグーンはヴラドの要請でガード役を担当したのである。
彼を頼りになると見たミスカの祖父は、古びた金属の香炉を託し、万がいち、自らの一族の証しを持った者が引き取りに訪れた場合、速やかに手渡し、できる限りの援助を与えるよう、大枚の貴金属とともに言い残して去った。
受け取ったミスカは、その香炉を点すために一室と、ラグーンの同伴を要求した。
ラグーンは足を止め、呼吸を整えた。
香炉に火を点すや、立ち昇ったあの黒煙が怖かったのではない。それが拡散せず、人間の背丈で止まり、どうやら未知の化学反応を引き起こしていると気づいても怖くはなかった。灰色の頭巾と長衣をまとった人間に化けても怖くはなかった。
身の毛がよだったのは、そいつが、人間の言葉で、
「わしが“案内人”だ」
と告げた瞬間だった。
“案内人”――誰が、本当に存在するなどと考えるものか。ああ、Dか――ヴラド卿がここにいてくれたら。
それから先は憶い出したくもない。だが、覚えている。耳が、脳が、眼が覚えている。
「私を連れて行って、“彼方”へ」
ミスカの要求に、奴はこう答えた。
「一二歳以下の子供が二人要る」
それが戦慄の素だ。天下のフィッシャー・ラグーンの足を止め、身内から沸き上がる戦慄を必死に食い止めさせている原因だ。
子供を要求する。――決して珍しいことではない。百年前まで、どの村でも行っていたことだ。だが“案内人”は別だ。あいつらが、子供をどうするか……ああ、どうして、あいつらに関する本を読んでしまったんだ。どうして、あの現場に同席して……。やめさせなければ。何があっても、“案内人”との契約を結ばせてはならない。
気を取り直すまで、数分を要した。
何とかミスカの部屋に辿り着き、ラグーンは慄然となった。
いない。
「しまった! もう!?」
洋々と広がる水であった。これが、限界の存する空間だとは、眼にしたものの誰もが信じはしないだろう。視覚的にも精神的にも、そんな茫たる思いを抱かせる水面《みなも》であった。
その上をどこからともなく、小さな舟《ボート》が渡ってきた。
真ん中近くに立つのは蒼い男爵であり、背後に控えるガウン姿は、ジャン・ドゥ=カリオールであった。
二人は、カリオールでさえ知らぬ秘密の抜け道を通って、城内へ侵入したのである。
父との再戦に先立ち、男爵の求めた地がここであった。
舟《ボート》が停まった。カリオールがエンジンを停止させたのである。
「ここか?」
「さようでございます」
恭しく頭を垂れたきり、カリオールが動かなくなったのは、このとき、水面を漂ってきた女性を、まず、男爵の眼に触れさせようと慮《おもんぱか》ったからであった。
「バイロン」
老学者は耳をふさぎ、蒼い男爵は、水中をゆらめく白い姿に静かな感慨を向けた。
「いま、戻りました」
と彼は言った。
「と申しても、二度目の帰参でございますが」
「知っていますとも」
水中の女は幻のように見えた。
「あなたが父上に敗れて水路を流されたとき、私が気づかなかったとお思いか? 私が何もせなんだとお思いか?」
「………」
「私はずっとおまえを見ていました。そして、流れ去るのにまかせたのです」
「それは、なぜ?」
「おまえが“流れ水”ごときで、生命を落とすはずもないことは、生んだ私が誰よりも心得ておりました。水中にいる限り、陽光による滅びも避けられる。それならば、このまま、この土地を流れ去るがよいと思ったのです。いま、再びここへ戻ったあなたに何を言っても詮《せん》ないことと知りながら申します。バイロン、私の息子――黙って城からお出なさい。おまえの戦いは何も生みません」
「承知の上でございます、母上」
もとより、何かを得るための戦いではなかった。息子が父を殺すのだ。それは虐げられ、追放された息子の復讐か、あるいは地底の湖に放逐された母の無念を晴らすためか。
そのどちらであろうとも、それはあまりにも無残な、貴族の言葉でいえば、最大の侮蔑的表現に値するものであった。――“あまりにも人間らしい”と。
「バイロン」
と母の声はある想いを含んだ。これから母が、おまえだけに一大秘事を打ち明ける。心してお聞きなさい。――そんな声であった。
「お父上は、おまえを憎みました。それは一族の総領たるべきおまえが、別の存在に変わってしまったからです。あのお方[#「お方」に傍点]の要求を、父上は拒みませんでした。喜んでおまえを差し出した。それは間違いではありません。ですが、父上の前に、おまえを憎み、滅しようとしたものがいたことを、いま話しておきましょう」
男爵は眼を閉じた。常にそうしてきたように、彼はすべてを受け入れ、静かに耐えようと試みた。自分は人間ではないのだ。
だから、そっと訊いた。
「それはカリオールですか?」
「いいえ」
「あのお方でしょうか?」
「いいえ」
「では――?」
「私です」
2
静けさを乱すものはなかった。ボートを取り巻く水は毛すじほども騒がず、男爵は石のように身じろぎもしなかった。悲劇とはそういうものらしかった。
「まさか」
男爵は平穏さを保っていた。
「カリオールにお訊きなさい」
と水中の女は言った。
「真実《まこと》のことかカリオール?」
「さようでございます」
と老学者は病んだ声で答えた。はじめて、さざなみがボートの外へと渡った。男爵が全身の力を抜いたのである。
「お母上――コーデリアさまに命じられて、あなたさまの胸に、トネリコの杭を打ち込もうとしたのは、私でございます。バイロンさまでなければ、杭の傷痕がまざまざと残っておるはずでございました」
「彼はしくじりました。私も悔やみました。おまえの泣き叫ぶ声を耳にした瞬間、悪夢から醒めたのです。カリオールの手で、いまのこの境遇に落とされたのも、思えば天罰でした」
バイロン・バラージュ――父に疎まれ、母に殺されかけた蒼い男爵は、声もなく立っていた。
「お父上を弑《しい》するならば、その前に、母も死なねばなりません。バイロン、私の言いたいのは、それだけです」
男爵と母と老学者と――三つの想いがそれぞれの形を取ったかのように、淡い光の中に見え隠れしていた。
ふと、男爵が右方を向いた。カリオールが顔を上げた。女がゆらめく。
三人は途方もなく巨大な気配を感じたのである。
それは鳴り響く声となってやって来た。
「愁嘆場《しゅうたんば》は終わったか、麗しき母と子よ」
ヴラド・バラージュの声であった。
男爵は全神経を声の発現地点へと向けたが、どうしても特定することはできなかった。
「さあて、母の言い分は聞いたであろう。我が出来損ないの息子よ。父はあらためて戦うために下りてきた。おまえがやって来るのは最初から上で見ておったよ。いま、おまえがどんな心境でいるのかはわからぬが、わしの生命を狙った以上、生かしては帰せぬ。安心せい、息子が父を弑する前に、父が息子を滅ぼしてくれる」
突然、舟は枯葉のごとくゆれた。凄まじい衝撃波が水面を叩き、水は怒りの捌け口を求めて狂奔した。
「ははは、わしが見えるか、バイロン、我が息子よ。それもできぬようでは、とても弑するなどとは――」
哄笑《こうしょう》が噴出し、突如、停止した。
「きさま、どこから来た!?」
驚愕の声が、怒涛に静止を命じたかのようであった。
青銅の舟《ボート》が優雅な水面に最初からそうであったように止まった刹那、その右舷――右方の水面を突き破って、魔鳥のような黒影が躍り出たのである。
「――D!?」
しなやかな影はどこにあるかもわからぬ天井めがけて左手をふるや、黒衣を翻して反転し、どうやったかわからないが、足から水面に舞い降りた。
優美な黒い水鳥のように彼は沈まなかった。なんと、長靴の底をわずかに濡らしただけで、水面にすっくと立ったのである。
高みから降下した紫紺の影は、それに応じたのかもしれない。これも、わずかなさざ波をひろげただけで水面に直立するや、右手のひとふりで、Dめがけてオレンジ色の火線を三すじ迸《ほとばし》らせた。
受け止めたDの左手が炎に包まれ、ふっと消えた。彼の放った白木の針は、音速に近い速度で投げ返され、大気との摩擦で炎を生じたのである。灯影《ほかげ》にゆらいだ顔の美しさに、ヴラド卿は恍惚となった。
「Dよ、どうしてここに?」
と尋ねたのは男爵であった。
「後を尾けた」
返事は理詰めで短かった。
自らの甘さに男爵は苦笑し、
「手を出すな」
と告げた。
「勝てるなら」
「勝つ」
もはや、戦う以外、男爵の目的は存在しなかった。
舟の舷側に透き通った二枚の円盤が落ちた。Dの放った品である。
カリオールの屋敷で見かけたプラスチック板をカットしたものだと、男爵にはわからない。Dが彼の分も用意しておいたのは、地下の母のもとを訪れる男爵の心理を読み取り、そこが戦いの場となる可能性を考慮したためか。
人間どころか、鼠一匹を支えるのが精一杯としか思えぬ、鼻緒一本ない丸板の上へ、男爵は自然な動きで両足をのせた。水に浮く男は三名となり、彼は悠々と父ヴラドに歩み寄った。
「気分がよろしくないようですな、父上?」
と訊いた。
「いかに父上といえど、水は貴族にとって忌むべき敵です。ですが、私には――」
貴族は流れ水を恐れ、そしてバイロン・バラージュにはそれを恐れぬ血潮が流れているのだった。
紫紺の大ガウンの上で、悪鬼のような顔が唇を歪めた。
「それが出来損ないの印だ。我が息子よ、永遠に呪われるがよい!」
手にした黄金の笏を、ヴラドは男爵の足下めがけてふった。
直径五メートル、長さに至っては不明の裂け目が生じ、男爵を呑み込もうとその口を広げた。
男爵は空中にいた。
足下の大奈落を尻目に跳び込んだ先は、ヴラドの胸もとであった。
「おおっ!?」
これは意外だったとみえ、ヴラドは死の笏をふるうのも忘れた。
その右肘を下から圧して麻痺させ、思いきり後ろへねじって逆を取ると同時に、男爵は左腕を父の首に巻きつけた。木の根をよじったような手応えが伝わってきた。
淡い光の中で、ヴラド・バラージュの顔は真っ赤に充血し、さらに濁った紫に変わった。
「絞め技か――いい手じゃ」
Dの左腰のあたりで、嗄れ声が言った。
不死たる貴族は、たとえ窒息死に陥っても数分後には復活するが、その心臓へ杭を打ち込むには十分な時間といえた。
密着した影と影とが離れず、ふるえるきりで、さらに一〇秒がすぎた。
意外な技が呆気ない決着をつけるかと思われたそのとき、男爵の腕にかかっていたヴラドの左腕が不意に垂れた。力尽きたのではない。それは背中へ廻って、右手の笏を掴み取るや、足下の水中へ唸りをたてて打ち込んだのである。
「ああっ!?」
切なげな苦鳴を上げたのは、いつの間にかそこへ漂っていた白い影であった。水中に赤い紗《しゃ》が雲のように広がった。
「コーデリアさま!?」
絶叫したのはカリオールだ。わずかに遅れて、
「母上!?」
と叫んだ男爵の声は、その身体もろとも、大きく身を屈めたヴラドの頭上を越えて、水面へ弧を描いた。
水飛沫が上がった。
水中へ没した男爵の影へ、ヴラドが右手をふりかぶった。細身の短剣の柄尻に真紅の宝石がきらめいた。潜るにしても、浮上するにしても、男爵には身をかわす余裕がない。
流れる銀光と跳び散る火花は、ほぼ同時に炸裂した。
抜き打ちに放ったDの一刀を、ヴラドは左の肘で――断たれて無いはずの肘で受けたのである。
「チタン合金の腕よ」
いぶし銀の光沢を示しながら、彼は哄笑した。
「前のものより具合がいいし、パワーもある。Dよ――おまえの剣はすべて封じられるぞ」
試してみろとばかりに、上段から襲う第二撃。
やはり左手でそれも受け、同じ手を足下の水に沈めるや、卿は拳を握りしめた。
ひとすじの水が、なおも空中に留まるDの胸を貫いた。
それはただの水ではなかった。ヴラドの人工腕の握力は、実に五〇トン。直径一ミリにも満たない水流の速度は、マッハ3に達した。
それはDの背から抜け、ついでに彼を五メートルも後ろへ吹きとばした。
胸のあたりを炎と変えて、Dは水中に没する。
Dの死を確かめもせずに、ヴラドは息子の方へ眼をやった。
水中を漂う白い女体の胸から、彼の笏が生えている。それを掴んで、
「母上――」
と男爵が呼びかけた。
「無駄じゃ。心臓をひと突き――息はあっても長くは保つまい」
水面に仁王立ちになって哄笑するヴラドを、男爵が見据えた。蒼い姿を包む水は赤く染まっていた。
「ほう、ようやく、眼の色が変わったな、バイロンよ。だが、それは間違いだぞ。わしより早くおまえに手をかけた女を滅ぼしてやったのだ。感謝せい」
「その通りだ、ヴラド」
男爵は女の頬に手を触れた。彼は父を呼び捨てにした。
「幼児の私を殺《あや》めんとした女はこうして死んだ。ここにいるのはいまこそ、私の母だ。感謝するぞ、ヴラド。おまえは私の真なる敵だ」
「その敵をどう斃す?」
ヴラドは身を屈め、男爵に白い歯を見せた。
「わしの血を引きながら、別の男の力を与えられた裏切り者。その力をもって、そこからわしを斃してみよ。どうした、水の上にも立てぬか」
あらためて、ヴラドの右手に白刃《はくじん》がきらめいた。
それは空中で停止し、彼は愕然と身をひねった。
片手に一刀を握った黒衣の影が、妖々と水の上を近づいてくるところだった。
「また、邪魔をするか、ハンター? 何度やっても同じ――」
Dの一刀がまたも同じ軌跡を描くのを秒瞬に見極め、ヴラドは苦笑を浮かべた。
眼を剥いた。
チタン合金の肘はふたたび断たれていた。
Dの全身から水がしたたっていた。口もとへ引かれた水のすじはほのかな紅色《べに》を呈していた。
「きさま……」
「同じところを斬った」
とDは言った。
血光を放つ双眸を、ヴラドははじめて、真の恐怖をもって見つめた。この美しい若者は、彼の脅えを愉しんでいるのか。
「きさま……甦ったのか、貴族の血が……」
立ちすくむはずが、反射的に一歩下がって、頭頂へ叩きつけられた一刀――間一髪でかわしたはずが、ぱっと血風が舞った。
よろめく巨体へ疾走する黒いつむじ風。
「やめろ、D!」
鋼さえも断ち斬る剣線を乱したのは、その声か、それとも、突如、世界を襲った奇怪な波動のせいか。
天が地に、地が天に。
重力場さえ逆転したかと思われる感覚のさなかで、Dは見た。
茫々たる水の広がりの彼方に映じる別の風景を。
こちらとそちらの端境に立つ数個の人影を――ミスカとメイとヒュウ、そして、灰色の頭巾をまとった長衣姿であった。
3
ミスカに導かれて、メイとヒュウは館の地下にある廃棄された廊下を歩いていた。
壁や天井の漆喰は剥げ落ちて床に散乱し、明かりといえば、ミスカが手にした燭台に点る蝋燭の炎ばかり。さながら朽ち果てた幽鬼の城を歩む亡霊の道行きだ。
それなのに、ヒュウもメイも明るかった。ミスカとまた一緒になれたからである。人間と貴族の相剋――永劫の泥沼ともいうべきこれを、二つの柔軟な精神はともに過ごした数日を武器に、いともたやすく乗り越えようとしていた。
「へえ、ミスカさん、そんなにいいところへ行っちゃうんだ」
素っ頓狂な声を上げるヒュウの方を見ず、ミスカは黙々と歩きつづけた。少年が姉からきいた話では、これからミスカが遠いところにある貴族の楽園に行く。私たちはその見送りだ、ということになっている。
「そこで幸せになるといいよな。ああ羨ましい。――でも、ちょっと寂しいぜ」
「寂しい?」
ふと、白い貌《かお》がこちらを向いた。
「何がじゃ?」
「ミスカさんと別れるのが、さ」
少年は怒ったように言った。
「何日も同じ危ない旅をしてきた仲じゃないか。やっぱ、ただの相乗り客みてえに、じゃ、さよなら、とはいかねえよ」
「私は――貴族だ」
「わかってるよ、そんなこと」
と少年は咳払いした。その眼にぼんやりと何かが滲んできた。
「あんたは貴族さ。でも、おれたちは血も吸われなかったし、かえって、助けてもらったような気もするんだ」
「助けた? ――私がおまえたちを?」
「ああ、おいら、男の子だから、ちょっとした苦労や危ないことは覚悟してる。姉ちゃんだってそうさ。キビシイ世間を渡ってきたからなあ。二人とも、お尻にゃナイフの痕が残ってるよ。でも、ミスカさんは貴族の女だろ。そんな白くてきれいなおべべ[#「おべべ」に傍点]着て、手だって柔らかい。スプーンやフォークより重いものは持ったことがないだろ。そんなお姫さまがおれたちと同じ危険な目に遇おうってんだ。こっちも頑張らなきゃと思うよ、それは」
「おべべ? お姫さま? ――私は貴族だぞ」
ミスカは混乱した。わざわざ貴族と繰り返したわけは、人間よりも能力的に優れているのだと強調するためだ。昼間はともかく、ひとたび闇が落ちれば、暗視能力、巨木さえ引き抜く力、鳥のごとき跳躍《ジャンプ》と飛翔力、一〇〇キロを休みなく走れる持久力と、何よりも獲物をひとにらみで金縛りにする催眠術等々、人間は貴族に遠く及ばない。それなのに、この人間の少年は、いったい、自分をどう見ていたのだろう。
「貴族だって何だって、女だろ、あんた。女が頑張ってるのに、おれがへばれるわけないよな」
訳のわからない文句をつけるな、という表情で、ヒュウはミスカを見た。
だが、彼自身、今度の旅では沼地の怪竜に襲われかけ、魔術師にさらわれ、フシアの手に移ってからは、意識を奪われた状態で袋詰めのまま何日かを過ごしたのだ。農夫に発見されたとき、飢えと渇きで衰弱死寸前だったのである。
それがたった一日、十分な食事と休養を摂っただけで、丸ごともとのヒュウに戻ったのは、若さゆえの体力と、天性の明るさのせいとしか表現のしようがない。この少年に、人間と貴族の区別など存在しないのだ。
だから、寂しい。ミスカと――貴族と別れるのが。
「ねえ、ミスカさん」
とメイが呼びかけて言った。
「私も寂しいわ」
ミスカは無言だった。
それもすぐに終わった。三人の前に、開け放たれたホールの入口が黒々と口を開けたのである。内側に灯影がゆれている。
荒涼たるホールの中央に長い燭台の蝋燭が点され、そのかたわらに、灰色の長衣姿が立っていた。右手を背の方に廻している。
「あれが“案内人”? ――変なの」
ヒュウが子供らしい忌憚のない意見を述べた。メイは首を傾げただけだ。
「おいで」
ミスカが二人の背を押して、灰色頭巾の前へと導いた。
メイはさすがに不気味なものを感じたのか、警戒の眼で彼を見上げたが、ヒュウは、
「こんちわ」
と挨拶してから、きょろきょろとあたりを見廻して、
「こんなとこから旅に出るのかい? 一体全体、どこへ? ――痛てっ!?」
と右の耳を押さえて跳び上がった。
「な、何すんだよ、この野郎!?」
と激昂する小さな顔へは一瞥も与えず“案内人”は、右手に隠し持った山刀の刃を眺めていたが、そこに付着した少年の血を舐めた。
「げえ。何だよ、こいつ?」
「確かに一二歳以下の子供の血だ」
と“案内人”はうなずいた。
「そっちもそうか?」
はっと見上げるメイの眼の前で、
「ええ」
とミスカの花のような顔が首肯《しゅこう》した。
「よかろう。すでに契約は交わされておる。いまさら変更はできんぞ」
声のはらむ異世界の妖気に、姉弟はようやく、何かおかしいぞと思いはじめた。
「ミスカさん――契約って?」
メイの問いに、
「帰るあてを失った貴族がわしを招いたのだ」
と“案内人”が言った。
この世で帰るよすがを失った貴族は、歴史のはじまりから存在した。貴族同士が必ずしも友好的な関係を保っていたわけではない。むしろ、戦いに明け暮れていた日々の方が遥かに長いであろう。
かつて、太古で「中世」と呼ばれた時代、美しい薔薇の花を刀槍の紋章にした別種の[#「別種の」に傍点]貴族たちが死と破滅の水をそれに与え、戦乱の巷を闊歩していたごとく、不死の貴族たちもまた、不死であるがゆえに果てしない不毛の惨戦を生きていた。
戦えば勝者と敗者が出るのは、彼らの世界でも変わらない。「中世」の勝者に慈悲の観念が乏しかったように、現代の貴族たちの、敗者に対する追及と殲滅ぶりは苛烈を極めた。
逃亡貴族たちは、あるいは隣国の救いを求めて亡命し、あるいは人里離れた深山幽谷や地底の洞窟、深海の都市に逃避した。
いまも辺境の各地に残る山中や地中の廃墟はその名残であり、その近辺をうろつく殺人マシンは捜索者の放った破壊メカニズムの生き残りであり、海人たちを呑み込む大渦や全長一〇〇キロにも及ぶ大怪魚《クラーケン》は、攻めるものと守るものとの技術の粋が生んだ戦闘兵器であった。
それでもなお、地上には追われるものたちが多くいた。自らの身の置き所がどこにもないと知った彼らは、宿命のごとく、この世にはあり得ぬ地に、救いの宿りを求めようと計ったのである。
古代の魔道書に最先端の量子力学や神秘工学の成果が組み合わされ、数千年の時間と数千万人の滅びが生じた挙げ句、彼らは異界へのほころびを開けることに成功――そこに逃亡者の理想郷を見出したのだという。
理想の地《シャングリ・ラ》――それはその持つイメージの常で、具体的な事情は一切伝わらず、甘美な空想だけを、よるべなき逃亡貴族たちの胸に点した。
そこへ辿り着いた貴族たちから、こちらの非情な世界に残った友人縁者たちに宛てた手紙と称される品が、朽ち果てた幾つかの古代博物館にいまも飾られているという。
現在では単なる伝説――または、そこへ辿り着く術を知るもの全員が死に絶えたといわれる“理想の地”に関して、ただひとつ、リアルな戦慄で貴族たちの胸を満たすのが、““案内人”の物語であった。
灰色の頭巾で顔を隠し、同色の長衣をまとった彼らは、古代の秘儀により忽然と現れて、道を求める貴族たちへ“理想の地”への道程をさし示すというが、そのとき、ある恐るべき契約を結ぶ。すなわち、“理想の地”を求める者たちは、いたいけな幼子たちの生命を要求されるのだ。
それ自体は、古来からの習わしに珍しいことではないと妥協しよう。しかし、“案内人”と交わす“契約”の恐ろしさはそこにはない。
サイファンやラグーンさえも戦慄した一幅の絵画、一葉のイラスト――そこに描かれた“案内人”の手に掲げられた子供の生首は、なぜ、断たれてなお、生々しくすすり泣いているのか。
「来るがよい」
と“案内人”が手招いた。反射的に姉弟は後じさった。その背を押し止めたのは、ミスカの手であった。
「ミスカさん!?」
「何すんだ!?」
叫ぶ二人を、死の翼のような声が沈黙させた。
「その女は“契約”を結んだ。わしの案内を得る代わりに、おまえたちの生命と魂とを与えると。――そして交わした以上、逃れる術はない。“契約”を違《たが》えれば、交わした者へも、この世にあり得ざる罰が下される」
「嘘だろ、姉ちゃん!?」
「助けて、ミスカさん」
いつもなら、軽業で鍛えた足が二人を天に舞わせている。それを地上へ、根が生えたみたいに押さえつけているのは、首すじを掴んだミスカの力であり、“案内人”の妖気であった。
二人の頭部に“案内人”の手が触れた。そこから全身の力が流出し、姉と弟はその場にへたり込んでしまったのである。
その首すじへ、まずメイから、ナイフが浅い血の輪をつくった。そしてヒュウの分が終わると、“案内人”は一歩下がり、
「見るがいい」
と背後の、がらんどうみたいなホールの半分を指さした。
「ああっ!?」
驚きの叫びを上げたミスカの眼は、そこに夜の大海原を捉えていた。白い波頭が乱れ、それはどこの世界の光景か。天空にかがやく月は四つあった。
忽然とホールは消えた。夢でも幻でもない。それは、あらゆる気力と感覚とを失って床にへたり込むメイとヒュウにもわかった。
彼らの耳朶《じだ》に響く波音は本物であり、月影をかすめて羽搏く鳥も本物だ。何よりも、その掴みどころのない、それゆえに真実と知れる茫たる距離よ。
「うっ」
と二人が同時に呻いた。何という無残。首の血の輪から一斉に鮮血が噴き出して、全身を濡らしはじめたのである。そればかりか、傷口に塩を――いや、酸を塗りつけるような激痛が全身を駆け巡った。
「いま、おまえたちの首を断つ」
と“案内人”は山刀をふりかぶって宣言した。
「だが、それは安らぎにはならぬ。おまえたちの首は、未来永劫、死の苦痛に苛まれるのだ。この世界が滅びても、な。その代わり――ほれ」
最後の呼びかけの意味を、ミスカは理解した。
夜の波が砕ける海の彼方に、おぼろげな光が滲みはじめたのだ。
それは陸地であった。
やがて、光りかがやく都になる。――ミスカは確信した。
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第六章 昏(くら)き死の結託
1
恍惚たる女貴族の瞳の中で、伝説の都は刻々とその姿を整えていった。
足下から悲しげに立ち昇る、幼い姉と弟の呻き声も届かぬのか。ミスカの言を希望への旅立ちと信じ、せめて見送ろうと地の底へ同行し、別れが辛いとさえ口にした子供たちの苦しみを理解もできぬのか。
気品に溢れた顔は、独占の歓喜に醜く歪み、朱の唇は舌舐めずりさえしている。
二人はすでに血だるまだ。
そのとき、黒い水面を左右に押しのけて、海中からひとすじの白い道が出現したではないか。
「あれが理想郷への道だ。だが、わしの案内なしで渡ることはできん。自分を幸運だと思うがいい」
ミスカの耳にその言葉が届いても、脳が理解し得たかどうか。現実からの逃避に凝り固まった貴族の娘は、彼方の大陸を見つめているばかりだ。
「では、道を踏め」
“案内人”がヒュウの顔を掴んで仰向かせた。刃の端を血輪にあてがう。
「やめて」
メイが細く叫んだ。
ここにはDがいなかった。バラージュも、ラグーンもいなかった。ただひとりを除いて――
すいと上げられた山刀が、その刹那、空中で停止した。ふり下ろす寸前の物理的停滞ではない。か細い繊手《せんしゅ》が“案内人”の手首を掴んだのだ。
「何を――?」
彼はふり向いて、むしろ、やさしくミスカに尋ねた。
その手の逆を取って、ミスカは“案内人”を突き放し、子供たちの前に立った。
ああ、誰が想像しただろう。この白い娘が二人を庇おうとは。そして、「お逃げ」と叫ぶとは。
その声と姿への感動が、血まみれの二人に力を与えた。
よろめきつつ立ち上がり、姉が弟の手首を掴んで戸口の方へと走り出す。
それを見送りながら、“案内人”は何もせず、二人が視界から消えると、ミスカへ顔を向けて、
「わかっているな?」
と訊いた。
ミスカは返事もしなければ、うなずきもしなかった。青い瞳は現実を見据える力強い確信と、他人を守ると決めた清々しさに満ちていた。
「“契約”を交わした以上、それを破棄した場合、生け贄も契約者も永劫に呪われる。罰はすぐ下されるであろう」
ミスカへ近づきつつ、彼は山刀をふり上げた。貴族の女に対して、あまりにも無神経とさえいえる戦いのポーズであったが、なぜか、ミスカは動けなかった。頭巾の中は黒々とした闇しか見えないのに、いま、二つのかがやき――というにはあまりにも冒涜的な光が彼女を貫いたのだ。“案内人”の眼が。
その刹那、ミスカは思考だけを残して、神経の機能を失った。心臓すら停まったのである。
びゅっと唸りをたてて、山刀は、切ないとさえ見える女の首すじに、深々と食い込んだ。
血が噴出した。ミスカの全身が痙攣したが、声は出せなかった。痛みのせいであった。
“案内人”の一撃は、他者の数千倍の苦痛を与えるのだ。
ぐい、と血まみれの凶器をしごきながら抜き、“案内人”はもう一度、無造作に打ち落とそうとした。ミスカの頭頂へ。
頭巾の中の眼がひときわ、汚《けが》れた光を放散した。
不意にその右方が消えた。
片手でそこを押さえた“案内人”の足下に、小さな石つぶてが落ちた。
同時に邪眼の金縛りが解けたか。ミスカが凄まじい苦鳴を放って床に倒れた。
小さな赤い影がそれに駆け寄り、
「姐ちゃん、しっかり!」
と抱き起こした。
ヒュウであった。少年は女を見捨てて逃げなかったのだ。
だが、三メートルと行かないうちに、二人の前方へ灰色の影が立ちふさがった。
「自由にはなったが、“案内人”の与えた痛みは消えぬ。痛みを導くのも仕事でな」
山刀がふり下ろされた。間一髪、とんぼを切って刃《やいば》をかわし、ヒュウは空中で、手にした石を投げた。
軽業の神技であったが、傷つき出血しているヒュウの身体は、やすやすとかわせるスピードしか出せなかった。
“案内人”が近づいてきた。
「やめて」
とミスカが弱々しく叫んだ。
ふり下ろされる一刀――辛くもかわしてのけたのは、やはり、軽業のヒュウゆえだ。
「おおっ!?」
驚きの声を上げたのは“案内人”であった。
ヒュウの位置は、現界と奇怪な海との境界であった。そこから一歩、大海原へと足を滑らせ、ヒュウはもんどり打って黒い水に落ちた。
波飛沫も波音も本物であった。
その瞬間、次元の渾融《こんゆう》が生じた。
“案内人”のつくり出した異界の海原は、こちら側の、より近似した世界を求めたのである。異形の気の満ちる水の広がりを。
海中から必死の思いで顔を出し、前方に立つ赤黒い人影を見て、ヒュウは絶叫した。
「――D!?」
まさしくD。――しかも、ヴラド卿の鋼の肘を断ったばかりのDだ。
地下の水と異界の海水とが混交した。
「やめろ!」
“案内人”がヒュウへと手をのばした。気力も体力も使い果たした少年は、海の道――“理想の地”への道路にすがりつき、よじのぼったのである。
何もかも青く白く染まった。静謐ともいうべき色彩《いろ》のさなかに、人影がはかなく蠢いていた。
気がつくと、ヒュウはホールの床の上に横たわっていた。
かたわらに、血まみれのミスカが倒れ、メイが介抱中だ。そして、彼を見下ろしているのは、美しい吸血鬼ハンターであった。
「D――おいら……」
「話はきいた」
Dが小さくうなずいたような気がして、少年は報われた。
「あの……」
しゃべり出そうとする口を押さえたのは、Dもミスカもホールの奥――黒い海の方を見たからだ。
そこに海はなかった。燭台の炎が照らす、冷え冷えとした石の上に、蒼い男爵と白い女がいた。横たわる女の胸から、笏らしい品が長々と突き出ていた。それなのに女のドレスが白いままなのは、全身の血が流れ出し、水に拡散してしまったらしい。
明らかに、それは死者を送る光景であった。
そのとき、白い女がうっすらと眼を開いた。すでに心肺機能は停止し、色褪せた唇は糸のような息すら吐いてはいないというのに。
「やはり……こうなりましたね」
母の声は静かで明晰であった。
「もはや、私には何もできません。おまえの好きなようになさい。水の中を漂いながら、私は星を見てきました。おまえの星とお父上の星を。とても相容れない。――あなたと父上……どのような戦いもいつかは終わります。でも……それがどんな終わり方をするか。バイロン、私の息子……わたしはとても怖いのです」
「母上……」
男爵はつぶやいた。運命を見通せるものなら、それしか言えないのだった。
「私の後は追わないで」
水に濡れた白い手が上がって、男爵の頬に触れた。
「そして……許してください。あなたの母を……」
滑り落ちようとする腕を、男爵は捉え、頬に押し当てたままにした。
肩は震えもせず、涙ひとすじ流さなかった。蒼い手の下で、女の腕は輪郭を失い、褐色の灰と化した。それでも男爵は姿勢を崩さなかった。長いことそうやっていた。
「Dよ」
と呼んだのは、さらに経ってからだった。
「カリオールはそこにいるか?」
「いや」
「いまは誰よりも奴に会いたくてならん」
抑揚のない声であった。
「ミスカ殿がそこにいる。カリオールさえ加われば、彼女の中の“破壊者”を私に移動させられるはずだ」
「奴はあの地下に残った。ヴラドが正気なら、裏切り者として抹殺されているだろう。それに――」
「それに?」
「おれが見た灰色の頭巾は“案内人”か。奴もヴラドとともにいる」
Dは倒れたミスカと姉弟の方を向いて、
「“案内人”との契約を破ったな。奴はどんな手を使っても、死の処罰を与えるまではあきらめんぞ」
「ヴラドと組むと思うか?」
「わからん。おれは二の太刀で奴の頭を割った。重傷だが、死にはせん」
男爵は立ち上がった。その手から腰から、褐色の塵芥がこぼれ、床の上を這った。それを見下ろそうともせず、拳に残った分だけをマントの内側へ収めると、
「私はカリオールの屋敷へ行く」
と男爵は告げた。
「どうする?」
とD。
「ミスカ殿も連れて、この手で“破壊者”を移すつもりだ」
「その“破壊者”も、“案内人”を前にしては何もできなかった」
「少なくとも、ヴラドは斃せる。あるいは互角に戦えるはずだ。これは私の戦いなのだ。繰り返すが、手を出すな、Dよ」
「カリオールなしで、やれるつもりか?」
「これでも機械いじりは昔から得意だった。マニュアルでもあれば、何とかなるかもしれん」
「奴の弟子にさせろ」
とDは右へのいた。男爵がうすく笑って、
「一計だな」
言うと同時に、マントの内側から光の帯が走った。はっとするメイとヒュウとミスカの顔を束の間、白く照らして、光の帯は戸口を右へ折れた。
ぎゃっ、という叫びが上がった。つづいて足音が。すでに疾走を開始していたDが後を追う。
長く走る必要はなかった。一〇メートル先で、金髪を長く垂らした田舎娘がひとり、棒立ちになっていた。その前方で行く手をふさぐ壁みたいにフィッシャー・ラグーンの巨大な影が、
「こんなところで、何をしている、ペイジ?」
と訊いた。
「あたしは何も。――この上を通りかかったら、おかしな音がしたので入ったら、いきなり……」
その右の肩に開いた傷を見、それから、Dに眼をやって、
「あんたがやったのか?」
ラグーンは固い声で訊いた。
「いや。――だが、よく化けた。クロモの化粧か?」
「何だと!?」
さすがに茫然となるラグーンの前で、小さく哀しげな顔が左右にふられた。
「ちがう。――ちがうのよ」
「そうか――そうだったのか」
とラグーンは押しつぶしたような嗄れ声を出した。
「クロモの化粧なら、男も女そのものになれる。金玉だって女のあれに化けちまうんだ。まして、ど淫乱をモデルにでもすれば……やれやれ、とんだ女に惚れたものだ。フィッシャー・ラグーン、一生の笑い者だな」
もはや何を言っても無駄と、ペイジは悟った。もちろん、本性は千手足のサイファンだ。化粧さえ落ちれば、本来の彼に戻れる。
“案内人”を目撃してから、こりゃ何かあると、メイから眼を離さず、その結果、ヒュウとミスカを加えた三人の後をつけて、それ以後起こった怪事の一部始終を眼にはしたものの、まさか、気づかれていたとは知らぬが仏だった。
「どけ」
と彼は、女の声を男の口調で放った。
「化けの皮が剥がれたな。どこのどいつか知らねえが、フィッシャー・ラグーンをコケにした代償は支払ってもらおう」
「やかましい!」
ペイジは地を蹴った。女の足だ。せいぜい五、六〇センチの垂直跳びがいいところだ。ぐうん、とのびた。床を蹴った瞬間、片手殴りに化粧を落としたのだ。跳躍力は千手足――千本の手と足とを持つサイファンのものであった。
軽々とラグーンの頭上を跳び越えざま、不可視の一本が後頭部にめりこみ、ラグーンをよろめかせた。
着地して、サイファンはふり向いた。頭骨をへし折ったはずの蹴りが、硬質の手応えを伝えたのだ。
「おお!?」
ラグーンはもはや単なる巨人ではなかった。
全身を覆う銀色のかがやきは、液体金属の装甲だ。しかも、装着は千分の一秒で行われる。
一瞬、飽くなき敵意をサイファンは凶眼に点したが、こういう得体の知れないタイプとはやり合わない方が得と判断したのか、立ち上がるや走り出そうとした。
その前方へ、銀色の巨体が、これも彼の頭上を越えて着地したのである。背後にはD。
ラグーンめがけて滑り寄るサイファンの口もとには、自信に満ちた笑みがこびりついている。彼の不可視の手は、石づくりの巨人さえ一蹴してのけたのだ。
銀の胸もとへ両足が吸い込まれた。
五〇トンの巨石さえ動かすフライング・キックは、何ということか、彼の腰までラグーンの胸板に沈めた。そのくせ、背からは抜けないのだ。
「液体金属か、この裏切り者」
はじめて出会う強敵――というか物質に泡を食いながらも、炎のような敵意を見せた。
「勝手が違うようだなあ」
と銀色ののっぺらぼうが嘲笑した。
「今度は、そっちに合わせてやる。もう溶けたりしねえよ。さ、かかってきな」
露骨な挑発であった。サイファンは動かない。
ラグーンの胸と腹が鈍い音をたててへこんだ。一瞬に数百発の見えざるパンチとキックを食らったのだ。だが、へこみの底が湧き水みたいに盛り上がって、表面はたちまちならされた。
「効かんぞ、効かんぞ」
ラグーンの声に押されたように、サイファンは後退した。顔が苦痛に歪んでいる。見えざる手足の何本かが折れてしまったのだ。巨大な要塞の外壁を殴るのに似ていた。ラグーンの身体を包む液体金属は、分子の結合度を自在に変化させて、あるときは水のように打撃を呑みこみ、あるときは超硬質装甲と化して跳ね返すのだった。
「千手足のサイファンもここまでかい? それじゃあ、こっちの番かな」
のっぺらぼうが両手を広げた。手のひらが布地みたいに開いてサイファンを押し包んだ。
「ほれ、逃げてみな。“千手足”の綽名が嘘でなければな」
ぐうっと抱き寄せ、押しつぶそうとした。――酔漢がホステスにやるような、遊び半分の動作だった。だが、ラグーンは思わず、
「おお!?」
と叫んだ。両腕がじわじわと押し戻されていく。彼は岩石をも抱きつぶす力をこめたのだ。
「さすがは千手足」
と洩らした刹那、両腕はぱっと羽根みたいに押しのけられ、巨体はバランスを崩した。
サイファンが身をひねる姿は、一本背負いの要領に似ていた。ただし、その手は何も掴まず、ラグーンとの距離は二、三〇センチもあった。
「てええええい」
雄大な弧を描くラグーンの姿にふさわしい裂帛《れっぱく》の気合であった。
彼は背から石の床へ落ちた。寸前に背中の装甲が流れて床上に広がり、クッションのように衝撃を吸収する。さらに、発条《ばね》みたいにたわんで彼を跳ね起きさせたとき、サイファンは一〇メートルも先を突っ走っていた。
その後方から黒い影が追いすがった。Dであった。両眼が血光を放った。
背中から抜き打ちに放たれた長剣は、サイファンの頭頂へ峰打ちに吸いこまれた。Dがその力を解放したとき、千本の手足も為す術がなかったのか、いともあっさりと直撃を食らって、女の衣裳をまとったサイファンはその場に崩れ落ちた。
2
借りた馬の背にまたがって、男爵は見送りに出たラグーンに、
「礼を言う」
と告げた。「館」の中庭である。メイとヒュウは医師の治療を受けている。馬の背にはサイファンがくくりつけられていた。同じく男爵が手綱を握るかたわらのもう一頭に、ミスカが乗っていた。夜目にも苦痛の翳が濃い。それでも彼女は男爵の申し出を受け入れたのである。彼女の体内の“破壊者”を男爵へ移すために協力することを。
「なに。どうってこたあねえ。あんたの話もよく聞かされたよ。他人とは思えねえ」
ここで男爵の視線に気づき、自分も「館」の方を向いて、
「Dはタキって娘んところへ行ってるよ。夜はまだ長い。あんたの親父さんの巻き返しがあるかも知れないからな。――しかし、ま、冷てえ男だよな」
と言った。
あのホールを出てから、ひと言も交わさず、黒と蒼の若者たちは別れたのであった。
「あんたと親父さんの相剋にゃあ、奴は無関係。けどよ、あんたが親父さんを斃せばタキは救われ、逆ならまた狙われる。そう考えりゃ、まんざら、そっぽを向いてもいられまい。――しゃあねえマイペース野郎だな」
「よい」
と男爵は静かに言って、遠い門の方へ馬首を巡らせた。
銀盆のような月が頭上にかがやいている。遠くで鳥が鳴いた。
「こんないい晩なのに、あっちでもこっちでも斬り合いか」
とラグーンがつぶやいた。これが送る言葉だった。
門の手前に、楠の巨木が天空に挑んでいた。
その影に溶けるように、黒衣の姿が立っていた。
影の前にさしかかっても、男爵は馬を止めなかった。
通りすぎたとき、ふり向いて、
「昼に会いたかったが」
と言った。
返事はない。代わりに――
黒い手が旅人帽の鍔にそっと手を触れた。
蒼い騎手と二頭の馬は通りすぎた。その姿と気配が知覚域を去ってから、Dは楠から身を離して歩き出した。タキのもとへ。
彼にはハンターとしての仕事があった。それには、男爵と父との戦いは、何の関係もないのだった。
贅を尽くした広大な居室に、しばらく前から、地獄の亡者がたてるような凄惨な呻きが流れていた。
「薬が……効かん……なぜだ? ……なぜ、傷口がふさがらぬ……奴の剣は特別なのか……カリオールよ……?」
あらゆる手段を尽くし終え、朱に染まった寝台のそばで、もの凄い血臭を嗅いでいた老学者は、返事をしかけて自制し、内心、黒衣のハンターの技に舌を巻いた。
ヴラドの顔は頭頂から顎までを包帯で覆い、左肘は失われている。腕の方は手術の邪魔とカリオールが取り外したものだが、頭の傷がどうしてもふさがらず、いかなる麻酔薬を射っても痛みが退《ひ》かぬのであった。
基本的に不老不死たる貴族は、手傷を負っても浅ければ瞬時に、重くとも数時間以内に完治する。また、負った瞬間以外、必ずといっていいほど痛みは伴わない。
二時間前から悶え苦しみ、広大な居室の半分を自らの血で汚したヴラドの姿は、異例中の異例なのであった。
「カリオール……わかっておろうな……この裏切り学者……背信の徒よ。……もし、万がいち、この身に何かあれば……配下のものが黙ってはおらん……おまえの身体は八つ裂きにされ……生きながら鳥葬の場に投げ捨てられるだろう」
「承知しております。――ですが、手は尽くしました。あのハンター、Dという名前は、やはり、ただ者ではございませなんだ」
「D……Dよ……」
かっと両眼を見開き、ヴラドは虚空をにらんだ。空間が火を放つかと思われるほど、凄愴な眼差しであった。
「あいつさえいなければ……あいつさえ。カリオール、この傷は治るな? ふさがるな?」
「努力いたします」
「忘れるな、おまえの生命がかかっておるのだぞ」
何という醜態か、と老学者は胸の中で舌打ちした。
いずれ傷はふさがり、痛みも退くであろう。それまで放っておくのが最高の治療法だ。それにしても、あのDを名乗るハンター――一体、何者なのか?
一礼して、
「痛み止めの調合に参ります」
と告げ、ドアの方へ歩き出したとき、寝台の枕元に、すうと灰色の人影が立った。地底湖からヴラドが招いた“案内人”がそこに座していることを失念していたのである。よほど、頭の隅からも追い払いたかったとみえる。
それなら、さっさと退出すればよいものを、カリオールはその場に釘付けになった。
科学のみならず魔道の究明に励んだ碩学として、この二人の会話だけは聞き逃せなかったのである。
“案内人”はカリオールなど歯牙にもかけていないようであった。
「その傷、治してやろう」
と彼は話しかけた。
「おお、ありがたい――連れて来た甲斐があった……頼む……頼むぞ。もう一度……奴と――Dと戦わせてくれ」
「見返りは払わねばならんぞ」
一瞬、カリオールのみならず、ヴラドさえも凍りついた。“案内人”に支払わねばならぬ代償とは何か――考えただけでも心臓が止まりそうになる。
「な……何を求めるつもりか?」
思わず、カリオールの方が訊いてしまった。
「わしとひとつになれ」
“案内人”の話し相手は、もちろん、ヴラド卿だ。愕然とカリオールはふり向いた。
あまりといえばあまりの偶然の一致に、仰天したのである。男爵は父ヴラドを斃すべく“破壊者”との一体化を求めた。対して、いま、ここで、ヴラド卿と“案内人”がひとつになろうとしている。この親子は、ついに相容れぬ魔天の宿敵なのであろう。
ヴラドは何と答えるのか、カリオールは息を止め、耳を澄ませた。
「……わしの中に、あなたが入る……すると、どうなるのか?」
不安を圧《お》し殺した問いだが、これは当然だ。
「我々の力が倍になる……まあ、これは、わしとおまえが同レベルだった場合だが」
「おお、それならば――」
「ただし」
と“案内人”は水を差した。
「おまえの力が極端に劣っていた場合、おまえは瞬時に死ぬ。いいや、貴族流に、滅びる、といおうか。わしはひとりで、裏切り者を斃すことになる」
ヴラドは沈黙した。
さすがに怖じ気づいたか、とカリオールは悪意もなく思ったが、そのとき、彼は地鳴りのような響きと震動を感知したのである。
幻なのはすぐにわかった。にもかかわらず、全身の感覚はそれを現実と認めて譲らない。
ヴラドだ。ヴラド卿が決意を固めたのだ。それに地響きが随伴したのである。
爛《らん》と光る双眸が灰色の長衣をにらんだその気迫と妖気は、たったいままで、頭を割られたと絶叫していた男のものではなかった。
「わしが滅びるか。ふむ、しかし、わしの力がおまえを凌ぐとは考えなかったのか。よかろう、入れ。――わしの肉体が破壊されなかった場合、支配する精神は、無論、強い方なのであろうな?」
「その通りだ」
「では、入るがよい。おまえがわしの力を乗っ取るか、わしがおまえを支配するか、これも一興」
強がりではない。破れかぶれや自暴自棄なのでもない。ヴラドの血の気を失った顔は、見るものを石と変えんばかりの凄絶な自信に満ちていた。
どうなるのだ? ――カリオールは気死しそうな精神を鼓舞しつつ、二人の妖人を見つめた。
“案内人”が勝ち、ヴラド卿の精神が敗れたら? はたまた、ヴラド卿が勝利し、“案内人”が力のみ残して消滅したら。
いずれにしても、想像もできぬ力を有する破壊神がとめどなき殺戮の大渦を世界中に巻き起こすのは間違いない。
たとえ、“破壊者”と男爵が一体となったにせよ、それにDが加わるにせよ、この史上最凶最悪の魔神と互角に戦い得るか否か。
寝台のヴラドにのしかかる灰色の影を、カリオールは平穏な絶望に身を委ねつつ見つめた。
3
「来ると思うか?」
嗄れ声が訊いた。
鉄格子の前である。奥には昏々と眠るタキが見えた。
「来る」
とDは答えた。
「同感じゃ。だが、来るとしたら、まず、パワーは三倍――いや、五倍」
「なぜ、わかる」
「昔、一度だけ見たことがあるのだ。“案内人”がある貴族に憑いた現場をな」
嗄れ声は疲れたように言った。
「貴族は敗れ、“案内人”が勝った。その結果、三つの村が完全に破壊された。死者は二千人を超えた」
「そいつ[#「そいつ」に傍点]はどうした?」
「仕留めた」
「おまえ[#「おまえ」に傍点]が、か?」
「さて」
と嗄れ声がはぐらかしたとき、鉄格子の向こうでタキが身じろぎした。
時刻《とき》は深夜。地底の一室だ。
ベッドを下りてこちらへ向かってくる肢体は、以前より遥かに官能的で妖しい雰囲気を醸し出していた。
貴族に血を吸われた女は、なぜ性的な箍《たが》を外されるのか――永遠ともいえるこの命題の結論は、吸血行為そのものが、女性の性的なリビドーを解放し、性行為を司る肉体の機能を昂進させるということだ。では、なぜ、単なる吸血行為が? ――となると、いまだに答えはひとつ。
不明。
だが、ひとたびこの境遇に堕ちた女性は、その官能美、淫蕩さは他に比べようもなく、「都」の退廃的な芸術家や宗教団体の中には、ひそかに貴族を招いて妻や女性信者の血を吸わせ、腐敗の美地獄へ堕ちた彼女たちの姿を愛でるものもいるという。
「D」
鉄格子に顔と豊かな胸を押しつけるようにして、タキが呼んだ。白い手がのびてきた。求める男は、黒い人型の鋼のように動かない。
「……とっても怖いの、D。抱いて頂戴」
鼻にかかった甘く淫らな声がDの身にからみついた。
「おかしいのお」
嗄れ声は、Dの左手の平あたりからきこえた。
「何がだ?」
「この娘の様子じゃ。たった一度の吸血行為なのに、あまりにもはまっておる[#「はまっておる」に傍点]。はて?」
「どうして来てくれないの?」
タキは眼を細め、口を半ば開いて喘いだ。うす絹を貼ったような口腔の中で、赤い舌が蠢いた。
「お願いよ、抱いて。怖くて寒いの。お願い」
タキの左手が胸もとへずれると、ブラウスのボタンをひとつずつ外していった。その手つき、外し方は、男をそそるのに長けた女獣のものであった。
艶めかしい白いふくらみが、布地を押しのけるようにのぞいていく。
最後のボタンを外して、タキはDを見据えた。
その自信と淫らさのつまった表情が、憤怒の形相に変わった。
「なぜ、抱かないの? このあたしが欲しくないの? この不能者、インポ・ハンターめ」
両手が鉄格子を掴み、思いきりゆすった。
「殺せ……殺せ、こいつを殺しておしまい!」
いつの間にか、Dの背後のドアは外から開いていた。
二つの人影が跳び込んでくるなり、Dめがけて鋲打ちガンを放った。
秒速三〇〇メートルで唸りとぶ鉄の塊が貫いたのは、コートの裾であった。
身を屈めたDの鞘ごとの一撃を臑《すね》に受けて、二人はのけぞり、倒れて動かなくなった。あまりの痛みに失神したのである。
鉄格子の向こうで歯を剥くタキへ、
「大した玉じゃの。外の警備員を声だけで誘惑しおったか。Dよ、これはただ事ではないぞ」
Dはタキを見た。深い黒瞳《こくどう》であった。タキは眼をそむけた。
口を開きかけて、Dはふと頭上を見上げた。
「来たの」
と左手が言った。
Dは無言でタキに背を向けて歩き出した。
捕縛用に用意してあるワイヤーで二人の警備員を縛り上げてから、戸口を抜けた。
ドアを閉める寸前、
「――D!」
タキの叫びは妖しい淫女のものではなかった。眼には涙が溢れていた。
「救けて、D」
Dはふり向いて、ドアを閉めた。
タキの下半身から力が抜け、両手だけで鉄格子にぶら下がる形になった。指も切なげに離れた。娘は石床に腰を落としてすすり泣いた。
それに安堵が混じっていたと誰が知ろう。
ドアが閉じる寸前、正気に戻った彼女の呼びかけに、Dはかすかに――力強くうなずいたのだった。
月は一層、かがやきを増したように見えた。
中庭の木立や石の上に、月光が銀色の雲のようにうずくまっていた。
Dは庭のほぼ中央にかがやく丸池のほとりに立っていた。それだけで、月光も「都」から取り寄せられた芸術的彫像たちも色褪せる。
水面をわずかにゆする風も、この若者の顔だけは恥じらうように避けていく――そんな気がする。
館の方からラグーンの巨体がやって来た。
「来そうかい、D?」
と門の方を向いて訊いた。
「家にいろ」
「そう言うなよ、ここは、おれの地所なんだぜ」
「だからだ」
ラグーンは眼を白黒させて、情《つれ》ないハンターをにらみつけた。
「で、どうだい、勝てそうか? 何なら、うちの若いもンを貸すぜ。どいつもこいつも生命《いのち》知らずだ」
「生命を失くしては、知らぬも知るもあるまい」
と言ったのが、妙な嗄れ声だったから、ラグーンは思わず彼の左手を眺めた。
「一切、手出しはするな」
とDは厳命した。
「わかったよ」
渋々うなずきながらも、ラグーンはDの左手と美貌を交互に眺めた。
「じゃあ、せめて、おれがあんたの戦いぶりを見届けといてやるぜ」
「家にいろと――」
「おーっととと」
三メートルも後ろへ跳びずさったラグーンの身体を、月光が銀色にかがやかせた。装甲をまとったのである。
「好意づくしを太刀風《たちかぜ》で迎えられちゃあ敵わねえ。おれは、あんたの親かもしれねえんだぜ。――わっ!?」
まさしく、その太刀風が顔面すれすれをかすめたのだ。装甲の内側《なか》からそれを知り、ラグーンは戦慄した。全身から冷たい汗が噴き出してくる。殺気の片鱗も予備動作も抜きで、あんな凄まじい一刀をふるうとは。
「化物め……。あのお方に精を提供はしたが……絶対におまえは、おれの伜《せがれ》じゃねえ」
ちん、と刀身を鞘に収めて、Dは戸口の方を向いている。
「あのとき……おれは質問してみたんだ」
とラグーンはつづけた。
「人間から精を集めて、貴族と人間の合いの子でも造る気か、ってな。答えはしなかったが、おれは食い下がったぜ。そんなことして、うまく行くのかってな。行ったためしがあるのかって。――そしたら、答えたぜ」
Dは黒い像のように立っていた。
「“成功例はひとつだけだ”」
ラグーンは探るような口調で言った。
「――おお、Dよ、見な、池の上を。おれの姿ははっきりしてるのに、あんたのはぼやけている。ダンピールの宿命かい。人間と貴族の合いの子――あれ[#「あれ」に傍点]は誰のことなんだろうな、え?」
次の一撃を警戒して、ラグーンはいつでも跳びのける体勢を整えていた。
来なかった。
異様な気が月光を凍らせた。
「来たの」
と嗄れ声が告げた。
「だが――おかしい。気配は感じられるのに、どこかが……」
すっとDが左へ動いた。
門の真ん前。――身を屈めるようにして、黒い騎影が中庭へ入ってきた。
絢爛たるガウンを地面すれすれに垂らし、右手に笏杖を持ったその姿は、まぎれもないヴラド・バラージュだ。
だが、その中身は!?
「娘はその下か」
北の果てにある氷の洞窟から吹きつけるような声であった。口調はヴラドだ。貴族の意志の力が“案内人”を制したのだ。
「邪魔をするな、どけ!」
と言ってから、唇を舐めて、
「いいや、そこにおれ。いま、肘と頭の怨みを晴らしてくれる。ラグーンよ、おまえもこ奴に加担するか?」
「とととんでもない」
昼間、山城でヴラド相手に一歩も退かなかった顔役が、装甲さえ下ろした生身の姿で一種恭順の意を表明したのは、やはり、常とはちがう何かを感じたものか。
「まあ、よい。おまえの処分は後でしてくれる」
かっと鋭く息を吐き、騎手と馬とは真っ向からDをねめつけた。黒馬は胴も脚もチタン装甲で覆われていた。
笏がDへ向かってのび――Dの右手が柄にかかる。
「待て!」
叫んだのは、ラグーンの声か嗄れ声か。
大地が鳴動したのは、まさにその瞬間。
「地下からも来たか!?」
その声の意味するところを知りながら、Dは身を沈めた。
黒馬が突っかけたのだ。鉄蹄の下で閃光が真横に走った。
見よ。眼にした全員《すべて》が語り伝える吸血鬼ハンター“D”の抜刀《ばっとう》の技を――馬の前脚は肘から断たれて吹っとんでいた。
どっと前にのめる馬上から、まばゆいきらめきが月光を跳ね返しつつ宙に舞う。地上から黒いつむじ風が飛んだ。
両者の交点で、きん、と鋼の打ち合う響きが散り、少し遅れて地上で水飛沫が上がった。二人が池の中へ落ちたのである。
ラグーンが走り寄り、あるものを認めると、池の中へ飛び込むような仕草を見せたが、
「ええい」
とひと声、吹っ切って、タキの眠る一棟へと走り出した。
池は二〇メートルもの深さがあって、地下の展望室から水着姿の踊り子のショーを満喫できる仕組みであった。
そんな歓楽の舞台の真っ只中で、いま、いかなる死闘が展開されているものか。月光蕭然《しょうぜん》たる水面にラグーンが見たものは、昏《くら》い運命を思わせる黒血の広がりであった。
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第七章 蒼き翳(かげ)の天使
1
失神から醒めると、サイファンはすぐに、自分がカリオールの屋敷にいることを知った。
かたわらに蒼い男爵とミスカが立ち、とんでもないことを尋ねた。
ミスカの体内の“破壊者”を男爵に移すためのマニュアルの有無である。
正直に、知らんと答えると、男爵は少し考え、
「手伝え」
と命じた。Dにも劣らぬ美貌から血も凍るばかりの鬼気が吹きつけ、サイファンは夢中でOKした。
驚いたことに、男爵は、カリオールの実験室にある装置の役割を、ことごとく知悉《ちしつ》していた。
やがて核炉に原子の蝋燭が点り、大釜の中で妖しい化学薬品が煮えたぎりはじめる。
「タキオン噴射装置:エネルギー充填九〇パーセント――OK」
機械の声が、チェックの結果を告げていく。
「精神波動転換モード、アルティメットへ――OK」
「精神体移動用亜空間α:結束率九九九九九九九九分の一――OK」
手伝えと言われたが、サイファンの役目は不必要な装置やテーブルの移動にとどまった。彼にとってはお茶の子さいさいの仕事であった。ある場所に立っているだけで、巨大な遠心分離器もメーザー式スタビライザーも難なく動き出したのである。
準備が整うまで一〇分もかからなかった。
男爵は自動制御装置の調整を終えると、長椅子に横たわるミスカのもとへやって来た。
「すまないが、いよいよです」
片腕を失い、首が半ばちぎれかかった美女は、白蝋の顔色で、しかし、うなずいた。出血は止まり、傷口もふさがりかけているが、地獄の苦痛はそのままだ。恐るべき“案内人”の魔力であった。
「私の内部のもの[#「もの」に傍点]は、まだ眠っています――よろしいのでしょうか?」
「寝惚けているうちに」
と言って、男爵は微笑した。
「あの姉と弟の口から、傷を負われた事情は聞きました。――ご立派です」
「愚かなだけですわ。それも“破壊者”が内側《なか》に入ったせい」
「でしょうか?」
「え?」
と眉をよせる典雅な顔へ、
「貴族にも可能性があるのかもしれません。単に衰亡への道をひた走るのとは別の、種としてのもうひとつの可能性が。私とあなたは、少なくともあなたは、図らずもその好サンプルとなられたのかもしれません。生命《いのち》を懸けて人間の姉弟を救ったのも、その表れでしょう。それは恐らく、放っておけば永遠に知られることなく、遺伝子のどこかで眠りつづける微小な何か[#「何か」に傍点]です。それに気づき、滅びゆく種族の運命を回避せんと図った存在がありました。私が人間の血を欲さぬのも、その存在が眠醒めさせた何か[#「何か」に傍点]に付随する現象のひとつでしょう。あなたが子供たちを庇ったことも、また」
「でも、私は……」
「“破壊者”が何かを励起したと考えられます。彼の存在意義を考えれば皮肉としか言いようがありませんが」
「わからない……とても理解できませんわ、貴族が人間を思いやるなどと……」
言ってから、口をつぐんでしまった。それは彼女自身の行為だったからだ。
男爵はミスカを、おびただしいコードがつながった台の上に導いた。
「横になって。――すぐに終わるはずです」
「本当かよお」
巨大な蒸溜器の陰でサイファンが声を上げた。
「マニュアルもなしで、“破壊者”を乗り移らせるなんて、正気の沙汰じゃねえぜ。いくら機械に詳しくたって、作業にはノウハウってもんがあるだろう。しくじったら、どうする気だい? 大体、“破壊者”が中途半端な形で暴走しだしたら、世界はどうなるかわからねえ。あんた、止められるのかよ?」
「下がれ」
と男爵は鋭く命じた。
「おまえの用は済んだ。行くがいい」
「はいはい。こんなところへ長居して巻き添えを食っちゃ堪らねえもんな。――お先に失礼しますよ、お偉い男爵さま」
彼は戸口の方へ歩き出し、途中でふとふり向いて、
「いまの話――ホンチャンですかい?」
奇怪な表情で訊いた。真顔である。
「そうあることを願おう。――行け」
サイファンは肩をすくめ、ぶつぶつ言いながら歩き出した。
「人間と貴族か……馬鹿臭え……思いやり……冗談だろ、おい……」
男爵は制御装置の前に立ち、核エネルギーの始動スイッチを入れた。どこからともなくモーター音が沸き上がり、円筒形の電磁石と電磁石の間を青白い電流が結ぶ。
台上でミスカは眼を閉じ――やがて開いて男爵を見つめた。
「どうなさいましたの?」
「これでは永遠にヴラド・バラージュの敵ではないかもしれません。――私にはできない。急にできなくなった」
男爵の苦渋に満ちた表情と声は、ミスカに痛みも忘れさせた。彼女は上体を起こした。
「なぜ、急に? “破壊者”の狂乱を恐れたのでしょうか?」
「それよりも――あなたが怖いのです」
「私が?」
ミスカは茫然となった。しかし、すぐに思い当たって、
「私が――もとに戻ることが?」
男爵はうなずいた。美貌に苦悩の翳がゆれた。
「あなたは貴族と人間とをつなぐ大いなる可能性のひとつです。それには“破壊者”の占める要素が大きい。私はそれを取り除きたくないのです」
「それでは――望みを遂げられませんわ。お母さまの仇も」
「ヴラド・バラージュは討ちます。ですが――」
唇を噛む男爵へ、ミスカは何ともいえない視線を注いでいたが、急に低く笑った。
「何を?」
「私は――男爵さま、貴族と人間を結ぶ美しい鎖になどなりたくありませんのよ」
「それは――」
「私があの二人を救ったのは、ものの弾み――というより、飼い犬が他人に殺されるのを見捨ててはおけないのと同じ心理ですわ。まして、彼らは愛犬でもありません。確かに、並の人間よりは愛しく想う気持ちもないではありませんが、でも、私には荷厄介《にやっかい》なだけ。一刻も早くもとの私に戻してくださいませ」
冷然たる口調であった。男爵はミスカを凝視していたが、やがて、首を横にふった。
「あなたは嘘つきにはなれません」
「そんな」
「いいや。その眼はやさしすぎる。人間の生命を救うことを知ってしまった者は、ふたたび冷厳には戻れません。また、戻らぬ方がいい。ラグーンの館でお待ちなさい。“理想の地”へは行けませんでしたが、別の理想の体現者にはなれるでしょう。“案内人”は私が必ず処分します」
「でも……」
ミスカは言葉を切った。男爵の言う通りだったのである。彼女の精神《こころ》に、もはや、本能的な人間への侮蔑と憎しみは存在しなかった。あの幼い二人――必死で人生を生き抜き、また生き抜いていこうとする姉と弟を、彼女は愛しているのだった。
「降りなさい」
制御装置を離れ、男爵はミスカの方へ歩きながら、片手をさしのべた。
台が光芒を放ったのはそのときだ。
眼には見えない力が、ミスカを台上に仰向けにした。その身体が大きく痙攣し、弓なりに反り返った。
愕然とふり返った男爵は、制御装置の前に信じられない人物の姿を認めて、
「カリオール!!」
と叫んだ。
「この老骨めは、あなたを買いかぶっておったようでございますな、男爵さま。何という愚かな、情けない精神《こころ》を育まれました。貴族に必要なのは、人間どもをひざまずかせ、その生血の最後の一滴までも吸って悔いない鉄と氷の精神でございます。それでなくて、なぜ、お母さまの無念を晴らせましょう。男爵さま――私におまかせ下さい。このジャン・ドゥ=カリオールが、ミスカさまより、あなたさまにその力をお移しいたします」
「カリオール――ならん」
男爵が二歩進んだ。マントの内側から光の帯がとんで、カリオールの左肩を割った。鮮血を撒き散らしながら、老学者の狂気はいささかもゆるぎはしなかった。
「魔天の主よ、不滅の神祖よ。いま、その名にかけて、最強の破壊者をバイロン・バラージュ男爵へ捧げまする」
彼は右手をディスプレイのスイッチに叩きつけようとした。
それが空中で止まった。老人は愕然とふり向いた。後ろには彼を止める何者の姿もなかったのだ。
「やめときなよ、大将」
戸口にサイファンが立っていた。
「き、きさま――邪魔をするか、この裏切り者め」
夢中で手足をふり廻しながら、カリオールは装置から引き剥がされた。
「あんたも年齢《とし》相応に枯れたらどうだい。少し色気がありすぎだぜ」
「なぜ、邪魔をする!?」
「いい話をきいちまったもんでな。おれのお袋も貴族に血を吸われたのさ。だが、まだ貴族の片割れになりきってもいねえのに、心臓に杭を打ち込んだのは、それまで付き合ってた村の連中だった。どっちがいいのか悪いのか、おれにゃまだわからねえが、貴族と人間が手ぇつなげりゃ、おれみてえな思いをする餓鬼は少なくなるだろう。おれはそのとき九つだった」
不意に建物がゆれた。床と壁が液体と化したように波打ち、次の瞬間、戸口のあたりが、烏賊《いか》の頭部そっくりに盛り上がるや、石塊《いしくれ》や土砂を撥ねのけて、巨大な芋虫のような物体がうねり出たのである。
とっさにカリオールを突きとばしたサイファンの頭上から、数トンはある石塊がのしかかり、頭上一メートルで停止した。にやりと笑ったサイファンの意識がそちらを向いたのがまさに千慮の一失。
ぶん、と走った芋虫の大鎌は、さしもの千手足が出る間もなく――いや、確かに見えない手足の何本かが切断される手応えを四方の空間に与えつつ、サイファンの胴を輪切りにしていた。
「このわしの邪魔をするとは――裏切り者めが、当然の報いだ」
ののしる声は芋虫の上から降ってきた。二つになりながら、そこは超人技の持ち主のタフさ加減か、はっきりと両眼を開いてそちらを向いたサイファンが、あっと叫んだ。
“山の民”の戦車の上に立つ老醜の姿は、カリオールその人であった。
もうひとり――サイファンが封じたカリオールは、芋虫の下で石塊と土砂に埋もれていた。即死にちがいない。すると――すると、これは?
「わしの研究の成果を卿ならばご存じだ。――お出なさいませ」
カリオールの声と同時に、芋虫のどこかからか、ヴラドが立ち上がった。その両腕に抱えられている娘は――タキに間違いない。すると、Dは敗れたのか!?
サイファンにも、もうひとりのカリオールの死骸にも一瞥さえ与えず、ヴラドは床上の息子を睥睨《へいげい》した。
「なぜ、わしがここに来たと思う? 安心せい、おまえを始末しに来たのではないぞ。わしを裏切った仇に、より深い絶望を与えに来たのだ。見よ、この娘、ラグーンのところの地下に隠れておったが、簡単に手に入れた。明日の晩、わしの花嫁にしてくれよう。さらに――お、そこにおるのは“理想の地”を求めてやって来た娘御だな。“案内人”から、ようく話はきいておる」
この男には珍しく、好々爺然《こうこうやぜん》とした微笑が唇をかすめた刹那、
「よせ!」
と絶叫しつつ、男爵のマントが白光を放った。
それを弾きとばして飛来した笏杖は、無残、台上のミスカの胸を背まで貫き、ベッドから床まで刺し通した。
「ミスカ!?」
駆け寄ろうとした男爵の身体を笏杖の端から迸った閃光が撥ねとばした。マントが炎に包まれ、しかし、男爵はすっくと立ち上がった。その髪が皮膚が炎に炙られ、焼け爛れていく。
「おお、反骨の血は衰えておらぬな。よいとも、バイロンよ、わしは逃げも隠れもせぬ。なおもわしを狙いたければ、明日の夜〇:〇〇に“死骨原《しこつばら》”に来い。わしがおまえを抱いて歩いた懐かしい場所よ。ひとりで来るもよし、助太刀を連れるのもよし。ただし、一秒でも遅れたら、この娘の喉にわしの牙が食い込むことを忘れるな。あきらめよ、バイロン――わしのことも、何もかも忘れて村を出ろ。どこか遠くの田舎貴族のもとへ身を寄せて名を名乗れば、一生涯、人間の血には困らんぞ。ただし、名乗る名前は、わしのにせい」
男爵の胸からふたたび光条が迸ったが、すでにヴラド卿は芋虫の体内に消え、カリオールもまた失せていた。
地響きを上げて、巨大なものが地底へと向かいはじめたとき、男爵はミスカのもとへと走り寄った。
かよわい肉体は虫のように台上に止められている。男爵の母がそうだった。
「男爵さま……」
ミスカが眼を開いた。バイロンは耳をふさぎたかったろう。彼はまたひとり、全く同じ状況で、愛した女の死出の言葉をきかなければならないのだった。
「お行き……なさいませ」
とミスカは糸のような息を吐いた。
「お父上の申した通り……この村を捨てて……あなたは滅んでは……なりません。もしも……貴族と人間が……理解し合えるのなら……それがこれからの……あなたの使命……私もお手伝い……したかった……」
ミスカの身体が急に重くなった。
「男爵さま……刺される寸前……私は“破壊者”を……抑えました。これ以上……血を流してはいけません……お願い……どうか、村を出……て」
朽ち果てる美女の姿を男爵は見ようとはしなかった。
彼は笏を掴んで一気に引き抜いた。それから、ゆっくりと制御装置の方を向いて言った。
「あなたは過ちを犯した、お父上」
ヴラドの呼び方はまた変わっていた。だが、世にこれほど悲痛で凄惨な父の呼び方があるだろうか。
「私は明日、あなたを弑《しい》す。父上よ、貴族と人間の力をその眼でごらんになるといい」
そして、彼はついに放棄したはずのメカニズム――“破壊者”召喚の制御装置へと悠然たる足取りで進んでいった。
2
陽が昇り、陽が暮れた。
今宵もラグーンの不夜城に灯が点り、着飾った田舎者たちと女の嬌声が室内を彩る頃、Dは眼醒めた。
水中での死闘の末、彼はヴラドを仕留めた。その代わり、自らも重傷を負い、傷ついた身を、中庭の隅にある薪小屋へ横たえたのである。ラグーンはもっと快適な場所で医者に診せようと主張したが、すでにDは眠りに落ちていた。
地下の隔離室に巨大な地底戦車みたいなものが侵入して、タキがさらわれたのはわかっている。いかな手傷を負ったとしても、この若者は敢然と救出に向かうだろう。
それをしなかったのは、水中で断末魔のヴラドが洩らした奇怪な言葉であった。
わしは滅びるが、明日の晩〇:〇〇、死骨原《しこつばら》で待つ。地下にいる娘とな。一秒でも遅れれば、娘はわしの花嫁となろう。
こう言い残した首を、Dの刃は断ったのであった。
だが、水中で朽ち果てるヴラドを確認して浮上したDの姿も、凄惨としか言いようがなかった。ヴラドの笏は彼の首をもまた、半ば切断していたのである。
茫然となるラグーンを尻目に、Dは薪小屋へ入って戸を閉めた。
ラグーンは戸の隙間からのぞいた。そして、奇怪な――さしもの彼もはじめて眼にする光景を目撃した。
地面に横たわったDは、右手でちぎれかかった首を押さえ、左手を傷口に当てていた。血はなおも溢れている。それが流れぬのだ。一滴残らず左手の平に吸い取られていくのだ。それは左手がたてる、ちゅうちゅうという音でわかった。
Dがダンピールだというのは承知の上だ。だが、こんな――自らの血を吸うなどという忌まわしい存在が、この世にあり得るのか。
驚愕はそれだけではなかった。左手が離れると、首は半ば癒着していた。そして、左手は――明らかにDの意志ではなく自ら――地面に落ちると、五指を動かして土を掘り、掘った土の上に、いま吸ったばかりの生血を吐き出したのである。
その瞬間、こちらへ向けられた手の平には、まぎれもない眼と鼻と口とが浮き上がり、戸の外にいたラグーンを硬直した死体に変えた。心臓麻痺を起こさぬのが不思議であった。
怪異な左手による儀式はなおもつづき、血の泥濘と化した盛り土の中に左手が突っ込まれるや、土はみるみる小さな口に飽食されていった。最後のひと口を頬張り終えると、口の奥に青白い炎が燃えるのをラグーンは見た。それは明らかに、圧倒的に神秘的で力強いエネルギーの燃焼であった。
昏々と眠りつづけるDの首の傷痕は、一秒とかけずに消えた。
そして、いま、夕暮れとともに薪小屋から出て来たDを、ラグーンはひとり迎えた。
「とりあえず、一杯やったら[#「一杯やったら」に傍点]どうだい?」
自分でもおかしな口調だと思った。彼はDの――左手の食事を見てしまったのだ。
「なぜ、おれを刺さなかった?」
とDは訊いた。
「え?」
「おれを見る眼に殺意があった。ヴラドに命じられたのか。代償は貴族の力か?」
「お見通しかい」
ラグーンは額を叩いた。
「あんたの戦いを見るまではそのつもりだったが、やめたよ。あんたみたいな男に狙われちゃ、一生脅えて暮らさなきゃならん。それに、おれはもともとヴラドは好かねえんだ」
その言葉を信じたのかどうか、
「死骨原とはどこだ?」
とDは質問を変えた。
「おお、ヴラドの城の西に広がる原だ。城の手前を左へ折れりゃあすぐさ。だが、誰が待ってる? ヴラドは斃したんだろうが?」
「片方はな」
「はン?」
「奴は二人いる」
ますますラグーンにはわからなくなった。
「カリオールは何を研究していた?」
少し考え、手を叩いた。
「そう言やあ、『都』へおかしな書物を注文させられたことがあるぜ。確か、分身[#「分身」に傍点]についての本だ。――おい、まさか、あの、ヴラドが二人もいるってのか!?」
Dは無言でつないである馬にまたがった。
ぶっきらぼうに、
「世話になった」
「大したことはしてねえよ。けど――達者でな。さすがのおれも、あんたの生き方だけは真似できねえ」
歩き出した馬の背後から、
「こんなこと言うだけ無駄だろうがな。疲れたら、いつでも寄りなよ。歓迎するぜ。いい女も揃えとくよ」
Dは片手を上げた。左手であった。こちらへ向けた手の平に、にんまりと浮かぶ笑顔を認め、ラグーンはつんのめりそうになった。
西の空を染めてゆく夕暮れをカリオールは卿の館にある実験室の窓から眺めていた。
老残の身――皺深い顔、腰の曲がった影法師は赤い光の中に吸い込まれ、溶け込んでしまいそうだ。
現実に、彼はすでに抜け殼であった。眼の前でコーデリアが刺し殺されるのを目撃した瞬間に、老骨の身を支えていたかすかな情熱の火は消えた。
いま、彼は死ぬ気であった。右手の杖の柄には、ナイフが仕込んである。弱々しく脈打つ老いさらばえた心臓をひと刺し――それで虚しい人生とはおさらばだ。
さしたる決意もなく、その刃を自分に向けたとき、背後で名を呼ばれた。
ふり向いて、カリオールは眼を剥いた。
三メートルほど向こうに立つ白い女の全身からは、水滴がしたたっていた。なぜか、顔は見えなかったが、彼にはそれが誰か、ひと目で理解できた。
「奥方――コーデリアさま!?」
「さよう」
と女はうなずいた。昨日の昼下がり、Dに向けたのと同じ声で、
「すると、効果はあったのですね。ああ、この一〇年、私はそれも知らずに……」
「無理もありません。私が現れたのは、おまえが失敗と見なしてから一年を経てからです」
分身――カリオールがこの観念に取り憑かれたのは、ヴラドの妻が水中に漂う運命を余儀なくされてからだ。
もうひとりのコーデリアさまをお造りして、別の運命をお与えしたい。
思慕から生じた情熱は、日を追うにつれ妄執の度を深め、ついに天才の頭脳は、動物実験に成功、勇躍コーデリアの分身化に乗り出したのである。
そして、失敗に終わった。
カリオールがくじけたわけではない。現に、彼自身とヴラドに対しては成功したのである。もっとも、ヴラドの場合は、当初、声のみという形をとり、完全な実体化は男爵の帰郷の報をきいた後であったし、カリオール自身が我が身に試したのも同じ頃であったが。
もちろん、それまでにも、新たな光明が見えるたびに再度の被験を水中の奥方に薦めたが、返ってくるのは、穏やかな拒否ばかりであった。
だが、まさか、最愛の者に対してのみしくじったはずの試みが成功していたとは。
「コーデリアさま」
主従の鉄則を忘れて、老人はその名を口にした。
「なぜ、それを教えては下さらなかったのですか? でなければ私はこれほど苦しまなくて済みました。あなたを水中の住人としたことに」
コーデリアが告げなかったのは、そのため[#「そのため」に傍点]なのかもしれない。
「死んではなりません、カリオール」
と水の女は言った。冷たくもやさしくもない、それこそ水の中のような声であった。
「おまえには、やらなければならない仕事がひとつだけ残っています。創造主は造り出したものに対して、最後まで責任を負わねばなりません。あの方の分身を始末なさい」
カリオールは震えた。女の要求は察しのついていたことである。それでもなお、口にされると、彼は戦慄せざるを得ない。あのヴラド卿の分身を――
「私は長い間、あの地下から出ることはできませんでした。それが可能になったのは、あの美しい若い方が、もうひとりの私に会いにやって来たときです。私はあの方について外へ出た。その気になりさえすれば、私の気配は誰も感じることはできません。カリオール、おまえの実験は、おまえが考えた以上の成功を収めていたのです。私は昼の光の中をあの方と馬に乗って走ることができました。そして、この館へ戻り、おまえと夫が手を染めたすべてのことを見聞きしていたのです」
「………」
「それに関して言うことは何もありません。ひとつだけ――カリオールよ、あなたの造り出した夫も私も破壊なさい」
老人は生唾を呑み込んだ。上下する喉仏は無惨であった。
「それは……奥方さま……できません。いいえ、なりません。第一、いまのヴラドさまが分身かどうか、私にもわかりませんのです。……奥方さま、消え去るのは、あなただけかもしれません……この老人に、もう一度、魂を引き裂かれる苦しみだけはお与え下さいますな」
「おやりなさい、カリオール」
老人は濡れた女に背を向けた。その肩にじっとりと白い手が触れたのは、すぐ後のことであった。
水の中を漂う女は、やはり貴族の魔性を具えていたのかもしれない。その手がゆっくりと喉を探り、胸を撫でるたびに、老人の頬は紅色《べに》を取り戻し、息遣いは獣のようになった。
「おまえは一度、私を滅ぼした。その手でそのメスで。もう一度、私を消し去ること――それが、おまえの償いです。そのとき、おまえもお死に。死出の旅だけは一緒に出かけましょう」
カリオールの両眼に倒錯した生気が湧いた。ひどく昏《くら》い色であった。
3
死骨原の名の由来は、貴族と戦って果てた村人たちの死体が野ざらしに放置されたからだという者もあれば、貴族の奇怪な実験に使われた生物の死骸が捨てられたからだという説もある。
いずれにしろ、その土地の土は、たっぷりと血を含んでいるように赤く、それを吸ってか、生い茂る草は異様に丈高く緑が濃い。
夕刻から風が出た。
飛翔生物の多くはその勢いに抗せず、この原を見捨てたが、数匹の蜥蜴《とかげ》状生物が器用に赤土を掘り起こし、昆虫や地虫をついばみはじめた。
不意に何かを感じた。
獲物を捨てて一斉に走り出した生物たちの後から、巨大な芋虫に似た物体が現れ、原のほぼ真ん中に停止した。何と無残な。――その鼻づらには、全裸のタキが十文字に手足を縛りつけられていた。
ハッチを開いて、ヴラド卿が顔をのぞかせた。
恐るべき笏を手に“山の民”の乗り物の上に乗った姿は、風になびく髪といい、絢爛たるガウンといい、美少女を生け贄に、呪われた儀式を執り行わんとする魔界の王の風格さえあった。
四方を睥睨《へいげい》して、
「あと一分――まさか、二人とも臆しはせぬな」
と言ったところを見ると、最初からDと男爵の到来を予期し、二人まとめて戦うつもりであるらしい。恐るべき自信であった。
芋虫の先端まで行くと、そこから、じろりとタキを見下ろし、
「約束通り、昨夜の喉しめしは我慢したものを。これも約束通り、一秒でも遅れたら――」
にやりと笑って乱杭歯を剥き出しにしたところは、まさに悪鬼。
軽々と地上へ降りるや、何を思ったか、またもや笑いの形に唇を歪めて、タキの方へ近づいた。
気配を察して、タキが眼を開いた。
「やめて……近寄らないで」
必死にそむける顔から豊かな胸へ、欲情鬼としか言いようのない眼線を送るとヴラド卿は、
「くくく、吸わなければよかろうな」
右の乳房へ紫色の分厚い唇を押しつけたのである。
ぷつんと肉を破る痛みにタキは苦悶し、柔肌と唇の間から、つうとふたすじの血が糸を引いた。
「吸うてはおらんぞ。吸うてはおらん」
口を離すと二つのうじゃじゃけた牙の痕が黒々と残った。
そして、左の乳房の艶やかなふくらみへも、いやらしい唇は貼りついた。
「あううう〜〜っ」
とタキが身をよじる。貴族の口づけが犠牲者を恍惚たらしめるのは、吸血という行為自体の持つ魔力だというのが通説だ。それを伴わぬ咬裂《こうれつ》は、まさしく肉を貫き裂くだけの、苦痛を与える野獣の行為でしかない。
のたうつ娘の全身は血にまみれ、歯の痕はぬめらかな腹にも腋の下にも太腿にも、容赦なく刻印されていった。
血の匂いに酔ったか、ヴラドの顔は恍惚としていた。欲望を抑えるための行為とはいえ、手も足も動かせぬ娘に催眠術もかけず、突っ立つ牙の痛みを味わわせるとは、これも貴族の残忍さの表れか。
恐怖と痛みのあまり、タキは失神した。
ヴラドは時間を感じて、風の中でつぶやいた。
「あと三秒……二秒……一秒……ついに――」
その胸が異様な音を立てた。
稲妻の速度で飛来した木の槍が貫いたのである。
槍は二メートルもあった。
衝撃に二、三歩下がって、
「来たか!?」
と血走った眼を向けたのは、前方の草の波だ。風に波動するたびに月光が散って、まるで蛍の乱舞を見るように美しい。
それを押し分けるようにして――
「D」
黒い姿は右手に一刀を握りしめていた。
ヴラドは右手で槍を握り、前方へ引き抜いた。
「よく来たな。バイロンは、奴はどうした?」
「ここだ」
声は背後から起こった。ヴラドはふり向かず、
「何をしておる、参れ」
と言った。Dの木槍に確かに心臓を貫かれているくせに、苦痛の色もない。
「Dよ――下がれ」
と男爵は声をかけた。
その顔を遠眼に眺め、Dはうなずいた。それを合図と見たか、ヴラドの身体が旋回した。
彼は息子の顔を見た。そして、おお、と呻いた。
青春の結晶ともいうべき美貌に変化はないが、しかし、頬の肉を削ぎ落とされ、肌は血の気を失い、まるで、地底の亡者だ。何よりも惨と血色にかがやいてヴラドを見つめる双眸の凄絶さ。
魔王を斃すには悪鬼になるしかないと思い定めたか、男爵よ。
「どうした、“破壊者”を収めたか、バイロンよ」
とヴラドは訊いた。当然だ。
「いや――私だけだ」
こう言うやいなや、マントの懐から迸る光条――対して、ヴラドの右手からも笏がとんだ。
生死を分ける時間は永劫か一瞬か。
ヴラドの体が縦に光を噴いた。同時に笏に貫かれた男爵の身体が後方へ吹っとぶ。
その身体が一瞬、大きくふくれ上がったように見え――次の刹那、体内で、どおん、と大太鼓を打ったような轟きが生じた。
それでも辛うじて崩れず、体勢を維持した男爵へ、
「きさま――やはり“破壊者”を」
と呻いたヴラドの身体には、光のすじが走ったままだ。それは左右にヴラドの巨躯《きょく》を押し開いていった。
「なんの」
彼は両手を側頭部にあてた。見よ、渾身の力をこめて、裂けようとする身体を押しふさいでいく。
「見たかバイロン、これがおまえの父だ」
大笑するその胸を光の帯が薙いだ。ヴラドの身体はまさしく十文字に裂かれた。
「うおおおお」
と彼は叫んだ。天地が怒号するような苦鳴であった。その顔を夜の風が叩いた。
「ふさがらん、ふさがらんぞ、何をしておる“案内人”!?」
よろめきつつ、彼は草の中へ倒れ込んだ。その五メートルほど後ろに、男爵も伏している。いまの光撃は、最後の力をふりしぼったものだったのだ。
そこまで這いずり、ヴラドは男爵の胸から生えた笏にすがって立ち上がった。
「わしか、おまえか――コーデリアの後を追え」
掴んだ笏を思いきり彼はこねた。為す術もない男爵の身体が激痛に反り返り、のたうち廻る。
止《とど》めとばかり、笏を引き抜き、ヴラドは頭上高くふりかぶった。
もう一度――心臓へ。いかに“破壊者”を収めているとはいえ、二度目の攻撃には耐えられまい。
その身体が震えた。
背後から心臓へもう一本の笏杖が貫いたのである。それは、彼が妃を滅ぼした笏であった。
「き、きさま……」
ふり向こうとしたが、その必要はなかった。
黒いコート姿は吹きすさぶ風の中を、妖々と彼の前に廻った。
「出番はなかったな」
低く言うなり、Dは一撃の下にヴラドの首をはねた。
それが遠くの赤土の上へ落ちても、胴体は倒れなかった。
串刺しにした笏を生やしたまま、のそのそと歩き出す。生き別れた生首の方へ。
「滅びぬ……わしは滅びぬ……」
声は遠くからした。赤土に転がった生首がしゃべっているのだった。
「……“案内人”よ……連れて行け……“理想の地”へ……」
「おお」
と風が呻いた。Dの左手あたりで。
見よ、首なき胴体の進む前方の空間が陽炎のごとく歪むと、あの光景が――黒白の波頭と彼方の大陸が現出したではないか。その彼方にきらめく水晶の宮と永遠に絶えぬ光。おお、波を割って、あの水路がせり上がってくる。
Dは無言で男爵のもとへ歩み寄り、抱え起こした。ヴラドの取り落とした物を拾って、血の気のない右手に握らせる。
「使えるな?」
と訊いた。
男爵がうすく眼を開いて、うなずき、
「“破壊者”の力ではないぞ」
と言った。
彼は恐るべき存在の力を借りなかったのだ。無際限の破壊を招く恐れがある。父を斃すためにそれを得ようとする強烈な欲望を、清冽な意志で抑えつけたのである。だが、憎しみは残った。このままでは父に勝てない。絶望と憎悪が重なり合って、激情の頂点に達したとき、別の力が眼醒めた。
それは――
「なら、おれと同じだ」
とDは言った。
男爵が両足を大地に打ちつけ、笏と右手を大きくふりかぶったとき、Dは手を放した。
唸りとぶ笏がヴラドの生首を微塵に砕くのを見ながら、男爵は前方へ打ち伏した。
ヴラドの巨体が倒れるのも、同時だった。その手がわなわなと震えながら、きらめくシャングリ=ラへとのびる。
だが、夢のような空間へ触れる前に、指先が急に力なくしなだれ、貴族の手は空しく赤い地面を叩いて、それきり動かなくなった。
父と子の対決は終焉したのである。
それを見届けてから、男爵の方へと戻りかけ、ふと、Dは風に聞き耳をたてた。
「女の声じゃの」
と左手が言った。
「男爵の母に似ておったが――はて」
あとにしてわかったことだが、ヴラドの館にあるカリオールの実験室で、老学者は頚動脈を切断して息絶えていた。そのかたわらには、誰もその目的がわからぬ破壊された機械があり、さらに、床の上には、水を撒いたような跡が残されていたという。それが人の形をしているのを見て、発見者たる農民数名は恐れおののいた。
老学者が、ひそかに想いを寄せていた女の要求に従って、分身のメカニズムを破壊したのがいつかはわからない。
ヴラド卿が本体であったのも、ことによったら知らぬままであったろう。かつて非業の運命をそのメスで与えた女が、ふたたび、自らの破壊行為によって水と化していくのを見送りながら、カリオールが何を想っていたかも謎のままである。
死出の旅には共に出た。しかし、その手が握り合わされていたかどうかは、それも余人の知るところではない。
Dが男爵に別れを告げたのは、二日後の夜明けであった。ラグーン館の中庭には、ヒュウとメイ、それに主人《あるじ》が見送りに出ていた。
男爵の体力はすでに回復していた。それはDの回復と等しい驚異的なスピードであった。
「同じじゃの」
と左手が感慨深げに言った。
「成功例がもうひとつ、か」
「ここへ残るか?」
とDが男爵に訊いた。
「いや、すぐに旅に出る。貴族に居場所はあるまい」
と男爵は微笑した。
「もう貴族じゃねえんだ。残りゃいいものを」
ラグーンは心底、名残惜しそうに若い貴族を見つめた。
庭には冬の陽が満ちはじめている。生命に溢れた一日がはじまろうとしている。そして、この二日間のうちに、“ある御方”から受けた処置が、ヴラド卿を斃した力以外の効力を発揮したものか、男爵は陽光の下でも歩ける自分を発見したのである。彼は“破壊者”の力を借りなかった。無際限の破壊を招くのを、意志の力で避けたのである。ラグーンの発言の意味は、ここにあった。
「代わりにおれたちが残るよ」
誇らしげに言うヒュウの頭をメイがそっと撫でた。二人はラグーンの館で軽業のショーを見せることになったのだ。
「断っておくが」
Dの言葉にラグーンがあわてて両手を前に突き出した。
「わかってる。金輪際、この二人におかしな真似はしねえよ。んなことしたら、あんた、風みてえにやって来て、おれの首をかっ切っちまうだろう」
「タキさんがいないね。すぐに行くって言ってたのに」
とメイが後ろ――館の戸口をふり返った。
「見て来よう」
と歩き出したヒュウの肩を押し止めて、男爵が向かった。
冬の陽ざしが蒼い影を地面に落としていた。
戸口に姿が消えて、数分がすぎた。タキの部屋は戸口から三つめだ。
「おれが」
とラグーンが行きかけると、漆黒のコートがすぎた。
戸口をくぐり、タキの部屋の前でDは立ち止まった。
ある臭いを嗅いだのである。
静かにドアを押した。
窓から差し込む光が白いベッドの上にたまっている。
そこからタキの上体がのけぞっていた。Dを見送るために着替えたらしいグレーのセーターの上に、点々と赤い玉が散っている。
近づいて見下ろした。タキはこと切れていた。
「その娘――私たちに加わる前から、“犠牲者”だったのだ」
背後から陰々たる声が響いてきた。男爵は戸口の陰に立っているらしい。
「ヨハン卿とか言ったか、彼の催眠術で“犠牲者”たる記憶は抑えつけられていたが、昨日のショックで眼醒めたらしい。私が近づくと、急に抱きついてきた」
恐らく、Dと男爵の油断を見澄まして、“犠牲者”の本性が眼醒めるキイワードか何かを植えつけられていたのだろうが、いまのいままでそれは使われずにきた。
Dはふり向いた。
首すじに片手を当てた男爵の胸もとにも血の斑点が散っている。
「噛まれたか?」
「ああ」
その蒼ざめた顔、血の気の失せた唇、そこからのぞく鮮血に赤い牙――タキの喉は食い破られていた。
「おまえも眼醒めたか」
Dの耳に遠い声がきこえた。
成功例はおまえだけだ。
タキの声が甦った。
救けて、D。
Dは蒼い声を聞いた。
「D――私を滅ぼせ」
「依頼がない」
「私が依頼人だ」
「承知した」
一瞬、ふたすじの光が透明な朝を飾った。
男爵の光は、大きく反り返ったDの上体をかすめて床を貫き、Dの刀身は彼の胸を壁に縫い留めていた。男爵のマントがDの瞳を蒼く染めた。
起き上がり、タキの身体をベッドに横たえると、Dは部屋を出た。男爵の最期を見ようとはしなかった。彼の光撃が、わざと外れたことを、Dは知っていたのである。
「何をしに来た、ここへ――男爵よ」
そのつぶやきを聞くものはいない。
限りなく昏《くら》い美しい人影が廊下を歩き出す。戸口の方から、迎えに来たらしいメイとヒュウの笑い声が近づいてきた。
『D―蒼白き堕天使4』完
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あとがき
二年かかったことになります。
“D”シリーズ中でも最大長編「蒼白き堕天使」は、ここに完結しました。みなさんのご愛読を感謝します。
当初は二冊のつもりだったのです。Dたち一行は一冊で旅を終え、二冊めで男爵は望みを果たす――それが倍の大部になったのは、ひとえに作家のせいだと私は思っています。なんていい加減なヤローだ。
そのかわり、この最終巻は、かなり壮絶な物語になりました。詳細は本編に委ねるとして、書いている私も、担当のI氏も、
「いいのかいな」
と首をかしげ、ため息を洩らしたものです。
Dの物語には、必ず一種の悲劇的な旋律というか色合いが漂っているのですが、今回は特にそれが強いとだけ申し上げておきましょう。
何はともあれ、「蒼白き堕天使」は完結しました。作者が作品について語るのはこれくらいにして、みなさんに愉しんでいただけたらと思います。
なお、例によって、私の担当者という不幸を存分に味わってしまったI氏に、感謝とお詫びの言葉を捧げたいと思います。
ありがとうございました。そしてごめんなさい(何回言ったら気が済むんじゃ、こらーとI氏)。
平成八年三月某日
「DRACULA RISING」を観ながら
菊地秀行