D―蒼白き堕天使3 〜吸血鬼ハンター9
菊地秀行
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目次
第一章 霧の岩道
第二章 美姫と“破壊者”
第三章 ハンター狩り
第四章 水の女
第五章 破壊転生
第六章 ラグーンという男
あとがき
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第一章 霧の岩道
昼すぎから霧が出た。乳白色の水の粒子は、しなやかで妖しい踊り手のように御者なき馬車とかたわらをゆく馬上のDにまつわった。
道は左右を磊々《らいらい》たる岩塊の連なりに閉ざされながら、細いリボンのようにつづいている。
谷間とはいえない。まさしく岩の間の道だ。
霧が濃ければ濃いほど道から外れる可能性が高い分、便利な岩の防壁といえた。
正午近く。ここを抜けて平原を半日も行けば、日暮れには目的地クラウハウゼンの村が待つ。
ついに来た。
だが、この感慨を何人が抱いていることか。
柩を封じた馬車からは無論、声もなく、馬上のDの表情は冷たく冴えて、いかなる感情の色も読み取れない。
その眼がある光を帯びたのは、霧の道を歩き出して三〇分も経過した頃であった。
彼は馬を止め、少し戻って、馬車のドアを軽く叩いた。
「どうした?」
Dにしかきこえぬバラージュ男爵の声である。
「わかるか?」
とDは訊いた。こちらの声も男爵以外の耳には入らない。
「いや。どうかしたか?」
「道が違う。迷わされたらしい」
いつの間にか、道は消滅していた。
「君らしくないな。――かくいう私にも感じられなかったが。霧のせいか?」
それ[#「それ」に傍点]はわかるらしい。
「多分」
とDは答えた。
彼の超感覚をもってしても、霧それ自体は平凡な水の粒子にすぎない。
「どうだ?」
と尋ねた相手は、バラージュではなかった。
「ただの霧じゃな。どうして道に迷ったのか、わしにもわからん」
左手の声に、Dは左右の岩場へ目線を投げた。
「岩も本物じゃよ。霧が晴れるまで待つかの」
「いや」
「わかった」
Dは左手を高く上げた。その手のひらにみるみる生じたものは、人間の目鼻であった。口が開いた。
ごお、と鳴ったのは、吸引の音ではなく、風の唸りであった。
霧は渦を巻いて手のひらの口に流れこんだ。
一〇秒――二〇秒――最後の乳白色の端末部が吸いこまれると、
「おや、ま」
と、呑みこんだ本人が驚きの声を上げた。それより先に、Dは気がついている。
そこは、以前と変わらぬ道の上であった。
左右には岩塊が連なり、ひとすじの道は五〇メートルほど先で右へ折れている。
「おかしなことになったな」
男爵の声が言った。
「また戻った」
とDは答えてふり向いた。
「迷った間に、こちら側[#「こちら側」に傍点]で歩いた距離は約三〇メートルだ。その間に何か工作がされたと思うべきだろう」
わずか三〇メートル。だが、Dと男爵にそれと気づかせず異界の道を歩ませたとすれば、奇跡のような距離であった。
「心当たりはあるか?」
それは、細工をしたものに関しての問いであった。
「――カリオール博士ならば」
「その打つ手がわかるか?」
「いくつかは。私の幼児期の家庭教師だった」
「では、眼を開けておいてもらおう」
それだけ言って、Dは馬車を引く馬の手綱を動かした。轍の軋みとともに、馬は歩き出した。
岩角が近づいてきた。
先にDが曲がった。
一〇メートルほど前方に、黒い人影が横たわっていた。
うつ伏せの姿は黒衣と同じ色のコートをまとっていた。
Dに似ている。
すでに攻撃は開始されたと見るべきであろう。
Dは馬を下りた。
「やめろ」
と男爵が制した。
「罠に決まっている。近づくな」
だが、道いっぱいに横たわった人間を放ってはいけまい。
青空には白い雲が浮かんでいる。道の両端には可憐な花が白々とゆれている。そして、道の上には死体がひとつ。
Dは、誘いに乗るつもりだったのかもしれない。
死体のかたわらに近づき、身を屈めた。
死体が仰向けになったのは、その瞬間であった。
青白い顔がDを見上げた。――それはD自身の顔であった!
ほんの一瞬、二人は顔を見交わしていたが、すぐにDは立ち上がり、一刀を抜いた。
刀身が白い光をきらめかせるや、地上の人影は首と胴とに分離した。
「人形だ」
とDは言った。このとき、彼は自分の顔に軽い引きつりのようなものを感じていた。
足下の人影は確かに首の斬り口から木製の切断面をのぞかせていた。
「奇妙な真似をするな」
男爵の声にも困惑がゆれていた。
「カリオール博士の技だとしても、覚えがない。Dよ、異常は感じないか?」
「何も」
短く答えて木製の残骸を道の脇に放り、Dは馬上に戻った。
ただひとつ、黒衣の胸のどこかに引っかかるものがあった。
二台の馬車は黙々と過ぎた。
遠ざかる轍の軋みを白い光の下できいているのは、切断された人形の首だけであった。磨き抜かれた滑らかな木肌は、凹凸のないのっぺりとした表面を陽光にさらしていた。美しい吸血鬼ハンターの顔は跡形もなく消滅しているのだった。
昼だというのに、分厚い闇に閉ざされた部屋であった。
さらに濃い闇が二つの人の形をとって凝縮していた。
腰の曲がった老人と、その背後の直立不動の若者である。
金襴の刺繍が老人を包んでいた。丈の長いガウンを着ているのだ。異様に長いガウンは、老人の背後の床に影のように落ちていた。
ふと、老人が右手を耳に当てて、
「完了だ」
と言った。
「では、うまくハンターを?」
と訊いたのは若者だ。老人は何かを達成したらしく、また彼はその弟子か少なくとも手下らしいのに、歓んでいる風はまるでない。むしろ疑っているようにきこえる。
「術はかかった。間違いない。だが――」
「――だが?」
「ひとつだけ気になる」
じろりと若者の方をふり返ったその顔の凄まじさよ。もちろん、真の理由は別にあるが、部屋の闇はそのために張り巡らせてあるのだと言っても、疑うものはあるまい。
老人斑と皺と白い顎鬚で埋め尽くされた顔は太古のミイラのようなのに、糸みたいに細い両眼には黄色い光が溢れ、緑色の眼球は、途方もない知力と邪悪さと意志の力とを噴きこぼれさせている。
「おまえのこしらえた奴の仮面だが、ザナス、完璧であろうな?」
「お疑いになられますか?」
若者――ザナスは固い声で訊いた。
「いいや。おまえの腕はわしも認めておる。何にせよ、“移し”の呪法は成った」
と老人はうなずき、もと[#「もと」に傍点]の方向へ顔を向けた。
「では、予定通りに」
と告げて、退出しようと一礼する若者へ、
「敵は水軍人どもを斃《たお》した男だ。決して油断はならんぞ。心してかかれ」
と老人の声が追った。
若者が出て行くと、しばらくの間、老人はその場を動かず、やがてかたわらのソファに腰を下ろすと、何やら感慨深そうに、
「バイロン・バラージュ男爵……わしを覚えておいでか。あなたを類い希なる資質を持つお方と見抜いた、希有なる家庭教師の名を?」
「カリオール博士」
闇のどこかが呼びかけた。反射的にふり向いた老人の顔には、すでに相手の正体を見抜いた恭《うやうや》しさと畏怖とが溢れていた。
「これは――いつ、おいでで?」
頭《こうべ》を垂れながら、老人――カリオール博士は内心舌を巻いた。彼の実験室には、異なる成分の空気が入りこんでもわかる警報装置が仕掛けてあったのだ。
「わしはいつも、おまえのそばにおる。おかしな研究を成し遂げて、わしに対して使われては困るのでな」
「ご冗談を」
カリオールは、内心、一五〇年前だ、と思った。その頃、一度だけ反抗を試みた。その結果は――いまも彼自身わかっていない。試みはしたが、何も変わらなかったのだ。彼の放った暗殺者の姿だけが消え、声の主はいつもと変わらぬ姿を博士の前に見せた。そして、誰ひとり、いかなる咎めも罪科も加えられることなく、今日に至っている。
以来、彼は闇の声の主に忠誠を誓ってきたのだった。
「伜《せがれ》は来たか?」
この問いからすれば、声の主の名は、ヴラド・バラージュにちがいない。
「確かに。あと半日で」
とカリオールは答えた。
「おまえの術をもってしても、ついに斃すことは叶わなんだか。無理もない、護衛があのハンターでは、な」
はっと、カリオールは闇の彼方に眼をやった。彼は、いや、彼らは闇を昼のごとく見渡すことができる。その眼にも、闇以外のものは映らなかった。
「ご存じなのですか、“D”を?」
「いいや」
「………」
「Dは知らぬよ。そのような名の人狩り屋は。だが、そやつは、わしが別の名を知っている御方によく似ておる。――らしい」
「御方……」
カリオールは絶句した。一日に二度も驚くなどとは、何百年ぶりだろう。とうの昔に死滅し、蘇生薬で命脈を保っている皮膚が、なお、総毛立っている!
この方が“御方”と呼んだ。自分の知る限り、そのような呼び方をする人物は、ただひとりしかおられぬ。だが、口ぶりからすると、その方とは違うようだ。では――
記憶が渦を巻いて流れた。脳細胞のひとつひとつを、針の先端がつついていく。活動中の細胞、眠りかけている細胞。とうに活動を中止した細胞、そして、脳がその存在さえ忘れてしまっていた太古の脳細胞。そのひとつに――
あった。
だが、それは一瞬の閃きを放って永劫の闇に消えた。
閃きを留める――不可能だ。だが、理解せよ!
カリオールは周囲のすべてを忘れて、その一点に意識を集中した。
具体的な情報の記憶という形をとったのも、ほんの一瞬――それはみるみる遠ざかっていく。カリオールの集中力がそれを追い、虚無に吸いこまれる寸前、最後尾に触れた。
「憶い出しました……」
口にしたのは、勝ち取った部分もそうしなければ、脳から去りそうだったからだ。
「……あの御方[#「御方」に傍点]には……確か……おひとりだけ……しかし……まさか……まさか……あの汚らわしい屍肉食い《ダール》が……貴族ハンターが……その御方[#「その御方」に傍点]とは……」
「そうかも知れぬ。だが、そうではないかも知れぬ」
声は重々しく言った。それは彼自身、判断も理解もできぬという告白であった。
「となれば、我らとしては、あくまでもバイロンめの仲間と見て、処断する方針でのぞまねばならぬ。はて、それが裏目に出たときが恐ろしいな」
こう言って、声は低く笑った。
ひょっとして、この方は、あの御方[#「あの御方」に傍点]の――にも歯向かう気か、とカリオールは戦慄した。それはすなわち、あの御方を敵に廻すことでもある。あの御方のご家族への想いは、貴族全体を支配する掟に他ならないからだ。
「用意せよ、博士、用意せよ」
闇からの声は高く低く告げた。
「この土地へ入る前でも入ってからでもよい。あらゆる手を使って、彼奴《きやつ》らを斃すのだ」
「おまかせ下さい。すべてはこのカリオールめにまかせ、心安らかにおわせられますよう」
どこからともなく、長い長いすすり泣きにも似た声がきこえてきたのは、そのときであった。
女だ。
彼女はとてつもなく悲しんでいるにちがいない。悲しみのあまり、気が狂い、それでも嘆かずにはいられないのだ。――誰でもそう思う。
「おまえの他にももうひとり、伜の接近がわかる者がおったな。だが、歓迎の歌が死者を迎える嘆きとは、はて、なにゆえか」
声は笑いを帯びた。
「カリオール博士よ」
「はっ」
ガウン姿が大きく震えた。
「行くがよい。さすがのわしも胸が痛む。あの声は他人《ひと》にきかせるものではないようだ」
「承知いたしました」
と頭を下げたとき、老人は、声の主が自分の前から消滅したことを知った。
「承知いたしました。――胸が痛むなぞと口にできるお方」
そう言ってから、さすがにぞっとしたが、身を灼く雷火は落ちてこなかった。
数分後、彼は長い螺旋階段を、彼自身どれほどの深さにあるのか知らぬ、ある部屋へと下っていった。
石壁のところどころに原子の炎が青く燃え、石段と壁とに影がゆらめいた。
下降は、いつものように唐突に終わった。広大な石畳のホールに立つと、左右から甲胄に身を固めた衛兵が近づいてきた。全員が合成人間である。ひとり一トンを越す重合金の存在は、足音も立てなかった。
長槍が博士に向けられ、その先端が赤くかがやいた。
「のけ」
言い終わらぬうちに、槍先の延長線上にある博士の胸に赤点が灯り、背中まで抜けた。背後の石壁も赤熱し、みるみる直径五センチほどの小穴が穿たれた。
ここの衛兵たちは、生を与えられたとき、まず、以後訪《おとな》うものすべてを区別なく抹殺するようセットされていたのだった。
「愚かものどもめが。世界というものを知らん。――のけ」
一歩踏み出すと同時に、ガウンの袖口から発したまばゆい光の帯が衛兵たちをひと薙ぎした。
それが再び袖口に消えると同時に、老人は前方の扉へと歩き出した。
後に残った衛兵たちは身動きもせず、槍を構えた姿勢のまま、その場に立ち尽くしていた。
明度は十分だが、どこか寒々しい地下の照明の下で、その姿は生なき彫像のように寂しげに見えた。
扉の前でカリオールは立ち止まり、右手の人さし指を口に当てると、指の腹を少し噛み切った。
ぽつんと浮いた血玉を、扉の錠前に空いた穴に落とすと、一秒と置かずに錠の外れる音が鳴り響いた。
黄金の把手に手をかけ、カリオールは身震いした。これから彼を迎える人物と出来事について考えたのである。
長いため息をつきながら、彼は扉を押した。開き終えるまで、ため息と同じ時間がかかった。
すると、老魔道士の耳に、ふたたび鬼哭啾々《きこくしゅうしゅう》ともいうべき声が届いたのである。
深さも知れぬ地の底で、近づくものすべてを抹殺すべく待ち受ける護衛たちに囲まれて泣き過ごす女とは、そも何者か?
長い廊下のあちこちに、青銅と思しい扉がはめこまれていた。扉の両側の壁には、原子の火が燃えている。
おぼろな影を床に落としながら進むミイラのような老人の姿は、女の悲声に導かれているように見えた。
やがて、前方に城門のごとく巨大な扉が見えてきた。
声はその内側《なか》から洩れてくる。だが、それ自体は糸のように細く低く嘆きに満ちた響きが、見上げるばかりの大扉を抜けてこられるとは到底考られないことであった。
扉の麓に達すると、カリオールは前回と同じ錠前に同じく血を含ませた。錠内の記憶回路は、それからDNAを抽出し、登録されている入室許可メンバーと照合、解錠装置にOKを出した。その間、千分の一秒。
扉は真ん中から左右に分かれた。
厚さ五メートルものそれを抜けるとき、カリオールは天井を見上げた。高さは優に一〇メートルを越えるだろう。
夕暮れのような光が迎えた。
見渡す限りの水であった。
風のそよぎすらないことを証明する静謐な水面《みなも》が、光による粘り気も見せず、清々と広がってゆく。
果てはない。いくら眼を凝らしても見えないのだ。
カリオールの足下は十段ほどの石段になっていた。最下段の石は水に沈んでいる。
そこに一隻の青銅のボートが浮かんでいた。舫《もや》われていないのは、水に動きのないせいであろう。
女の声はつづいている。水面を瀟々と渡ってくる。一〇〇年もかけてそれを求める探索者のように、カリオールはボートに乗り、船内に格納されていたオールを使って、水をかきはじめた。
波紋が広がっていく。この水の広がりが、波というものを知るのは久しぶりのことだ。
一〇分ほど漕いでカリオールは手を止め、耳を澄ませた。
女の声が右の船べりのすぐ脇からきこえてくると、鼓膜が確認した。
彼は身を乗り出し、水面をのぞきこんだ。
ボートのすぐ下を、ひとりの女が血の糸を引きつつ漂っていた。
いや。
女は永劫にそこにとどまっているのだった。
長い黒髪は流れもせず、落ちもせず、もとより浮かびもせずに、白いドレスをまとった身体に巻きつき、髪の毛と同じ色をした瞳は、静かに虚空を見上げていた。
しなやかな鼻すじの印象が全身の線から指先まで行き渡り、ひょっとしたら、あらゆるきつさを水が拭い去ってしまったのではないかと、老人は何年ぶりかで考えた。
そして、女の唇。血の気を失った、肌よりも青ざめたそれ[#「それ」に傍点]だけが、なぜ際立って見えるのか。
動いているからだ。妖しく切なくゆらめいて、声を発しているのだった。
「奥方さま」
と声をかけたのは、しばらくたってからである。
「奥方さま、カリオールでございます。お知らせしたいことがあって参りました」
必要なのは、二人を隔てる水を貫く時間だった。往信と――返信。
「よく来た、カリオール」
悲愁の声は、無感情の挨拶に変わった。
老人は平伏した。
「私の声に応えたのでしょうか。深い嘆きの声に?」
「さようでございます。私どもの知らぬことも、奥方さまはご存じでございました」
「水の中にいれば、私には星の動きも、世界の廻る音もきくことができます。柩の蓋が開く音も、狼の遠吠えも、地平線に沈む太陽の嘆きと闇の歓声も」
「恐れ入ります」
「あの子が戻ってきたのですね?」
と女の声は訊いた。
「さようでございます、もはや、城から半日のところにおられます」
「では、あの方[#「あの方」に傍点]は?」
「あわてておられるようです」
「そのような」
「私の見立てでございますが、バイロン様は、お父上を凌ぐ力を身につけられた上で戻ってこられたようで」
「あの方にもそれ[#「それ」に傍点]がわかる。ほほ、愉しいこと」
水中の声は弾んでいた。
「では、おまえが妨害工作を行っているのでしょうね」
「はっ」
返事に澱みはない。
「乗り越えるでしょう、あの子なら」
「いいえ」
とカリオールは断固として言った。
「私がそうはさせません。バイロン様は、この土地へ入る前に生命を落とされるでしょう」
「貴族たるものが人間の手にかかると? ――ほほ」
「すでに、ザナスが出向きました」
女の笑いが熄《や》んだ。
「ザナスが?」
「さようで」
「……そうか、あの者が出向いたか。これは……バイロンも斃されるかも知れぬ」
「仰せの通りで。また、護衛のハンターはすでに、我らが手に落ちました」
「これからじゃな、カリオール、これからじゃな」
「さようでございます。この次、奥方さまにお目にかかれるのは、私めかバイロン様――来なかった方は、二度とご尊顔を拝することはありますまい」
「よく知らせてくれました、カリオール。礼を言いますぞ」
「ご懸念なく」
そして、別れの挨拶もなく、カリオールはボートを漕ぎ戻しはじめたのである。
それが、ぴたりと停止したのは、彼方に石段と大門が形を取りはじめたときであった。
「奥方さま」
と彼はつぶやいた。
オールは動いている。水を切る手応えもある。それなのに、船は一センチも進まないのである。
のみならず、彼は水面が徐々に船べりへとせり上がってくるのを見た。自分の方が沈んでいるのだと気づくまで、時間はかからなかった。
「バイロン様を私の手にはかけさせぬとの思し召しか。それもよかろう」
彼は立ち上がり、右手を水面と平行にのばした。すでに水は船べりからボートの内部を浸しはじめている。
ガウンの袖口からひとすじ、銀の糸状のものが尾を引くと、それは水に混じり、すぐに拡散した。
足首まで水に浸かったとき、カリオールはボートから水面へ片足を踏み出した。
彼は沈まなかった。もう片方を――身体を水面に移しても、靴底はまるで石床を踏むように、水面を押していた。
花びらのように沈んでいく青銅のボートを、彼は冷やかに見守った。
岸まではまだ遠い。
ため息をひとつついてから、老科学者は、自らつくった水上の路を、ゆっくりと歩き出した。
岩場を抜けるまで、あと一時間というところで、サイボーグ馬の一頭が足首をねじった。
Dが調べてみると、踵の人工靭帯が切れている。
修理をかねて休憩を決めた。他の馬の具合も調査する必要がある。
「ここを出れば平原だ」
とDは誰かに話しかけるように言った。
「敵にしてみれば、最後の砦だ。総力を挙げてくるぞ」
「そうはなるまい」
異議を唱えたのは、バラージュ男爵の声であった。
「いや、かかってはくるが、切り札はむしろ、村へ入ってからになる。――カリオール博士ならそうするだろう」
「なるほど」
「クラウハウゼンでの強敵の名を知っているか?」
とDが訊いた。
「まず、ザナス」
と声は答えた。
「カリオール博士の愛弟子だが、私も詳しいことは知らん。ただ、博士は年齢《よわい》を重ねるのに、彼は二〇歳前のままだそうだ。貴族でなければ、合成人間だろう。普段は博士の助手を務めるが、いざとなれば自由意志[#「意志」に傍点]での活動もできるという。特技は――よくわからん。私のきいた限りでは、恐ろしい相手――このひと言だ」
「次は?」
「化粧好きのクロモ」
男爵の声に不快げな響きが加わった。
「父の親衛隊長で、朝から晩まで化粧している男だ。自分ばかりでなく、他人にまで施す。その結果、どうなるかは知らんが、一説によると、施されたものは、化粧にふさわしい性格になるという」
「三人目は?」
「千手足《せんじゅそく》のサイファン。格闘術の天才だ。飛び道具を持っている相手にも素手で勝つという。相手の無残な死体を見ると、千人がかりで襲われたとしか思えないそうだ。――最大の強敵はこの三人。他に彼らの配下がいる。こいつらも手強い。ひとりで並の兵士十人分の働きはするだろう」
「――だが、出向いては来んな」
サイボーグ馬のチェックを終え、Dは近くの岩の窪みに身を入れた。
いかに秀れた吸血鬼ハンターとはいえ、貴族の血を引く限り、陽光の下での疲労度は人間を遥かに凌ぐ。陽の中の闇こそ、彼らが本能的に求めるものであり、同時にその回復力も、常人の比ではない。
馬車は陽光の下に静止し、Dも岩のつくり出す闇に溶け、静まり返った昼下がりの岩場に太古の静寂が訪れた。
馬がざわめいたのは、数秒の後か。Dが窪みを離れた。刀身一閃、馬車から切り離されたサイボーグ馬たちが、前方へと疾走を開始する。
彼らとDのみが、岩場の向こうから接近してくる羽音に気がついたのである。人間の耳には容易にきこえない――蚊の羽音よりもかすかな飛翔音であった。そのどこに異常を感じたのか、岩角を曲がって一気に接近してくる三つの音に、Dの背から白光が閃いた。
音がひとつに減り、それだけが馬車へと吸いこまれたとき、黒い表面が異様に波立ったのである。
それは一種の振動であったろう。羽音は弾きとばされ、唸りながら反対側の岩壁へとぶつかって――爆発した。
爆発そのものよりも、岩壁を焼き崩した火球から見て、焼夷弾の一種にちがいない。火球はみるみる広がり、反転してDと馬車を襲った。
十万度の炎は衝撃波を伴っていた。二台の馬車は軽々と横転し、岩壁に叩きつけられた。その車体を、なおも灼熱の風が叩いた。
数秒――炎が岩道に沿って走り去った後で、名残とばかりに吹き荒れる風のさなか、
「無事か、D?」
と問う男爵の声がした。
灼け崩れ、火山地帯のように白煙を吐く路上に、いままで存在しなかった黒い塊が生じていた。
あちこちに炎がゆれ、黒煙を噴き上げるそれが、すっくと立ったのである。人の形になったのである。世にも美しい黒衣の若者に。
「無事か?」
と尋ねる男爵の声も、生存を確認したらしい。
Dは無言でコートの肩や胸を叩いて炎を消し去った。
その左手が、下品で満足そうなげっぷ[#「げっぷ」に傍点]を洩らしたことに気づいたものはない。
耐熱耐寒、耐衝撃――特殊繊維のコートと、炎を食らう左手とでもって、火炎地獄を脱したDであった。
平原の彼方に一台の蒸気《スチーム》馬車が停止していた。
その後部の、円筒に鐘をかぶせたような蒸気エンジンの上にちょこんと胡座をかいて、
「ほら、火が出た。――しかし」
とつぶやいた男がいる。
片手で双眼鏡を眼に当て、もう一方の手は何をしているのかというと、さっきから、ぼりぼりと、網みたいな服の上から背中をかいている。背越しに背中を――だが、その手はなんと、腰のあたりまでぶら下がっていた。
「あの程度のことで、バイロン様がやられるとは思えんな。まして、護衛はDと呼ばれる男だぞ」
話しかけている口調だ。返事は馬車の中からした。
「わかっている。炎焼弾は単なる余技。こちらの知りたいことは確かめた」
「そいつぁよかった。で、何を仕掛けたんだい?」
「“面移し”だ」
「まさか」
腰をかいていた腕が止まった。
「あれは、おまえ――しくじったりしたら、おまえが――ザナス」
「九九パーセントの自信はある」
「九九・九九九パーセントだって、完璧にゃ遠い。誰を狙ったんだ?」
「Dだ」
「ぎええ」
と男はのけぞった。勢い余ってエンジンから落っこちかけ、いや、現実に一メートルも落下し、そこで止まった。長い右足が、鐘《ベル》状の頭部を押さえていたのである。
「なんて無謀な真似を。――あんな色男、この世の者じゃねえぞ。いくらおまえの面つくりの腕が人間離れしてるからって、そりゃ、自殺行為だぜ」
「いいや」
と声は自信をみなぎらせて否定した。
「結果を確かめたと言ったはずだ。――成功と、な」
「そうですかい。あたしゃ、信じられませんな。クロモの野郎だって」
ひょいと、まるでアメンボウが水面を走るみたいな勢いでエンジンのてっぺんへ戻り、男は大笑した。
「それ以上、馬鹿笑いすると、サイファンよ――」
ザナスの声に怒りがこもった。
「わーった、わーったよ。しかし、クロモの野郎だって――!?」
言ってしまってから、ぎょっとしたように口をつぐみ、おそるおそる四方を見廻す表情には、道化ではない脅えがあった。それどころか、馬車の内側の気配も尋常ならぬ鬼気をおびたのである。
「奴のことは吐《ぬ》かすな」
とザナスは命じた。
「わかった」
男――“千手足のサイファン”は、ひょいとエンジンの上に立ち上がって、もう一度、双眼鏡を眼に当てたが、
「うわお。こりゃ、凄いことになってる。早いとこ脱出しましょうや。あいつらがおめめ[#「あいつらがおめめ」に傍点]を覚ましてけつかるぜ」
と絶叫した。
ほどなく、円筒の内側で何やらロッドか歯車が動き出すような音がして、鐘状のヘッドとのつなぎ目に開いた蒸気排出孔から、白煙が八方へ金切り声を上げて飛んだ。
馬に頼らぬ非合理的な乗り物は、勢いよく向きを変え、四分の一日先にあるクラウハウゼンの村へと疾走を開始した。
しかし、ザナスの成功とはどういう意味か?
そして、クラウハウゼン最強の戦士と男爵が名指しした三人のうち二人に、あれほど恐れられる第三の男――“化粧好きのクロモ”とは、そも何者か?
岩場を抜ける前に、天高くそびえる煙の壁にDは気づいていた。
「野火じゃな」
と左手が言った。
「さっきの炎が原因じゃろ。風は村の方へ吹いておる。ここで待つのも手じゃ」
Dの眼にも、それは順当な策と見えた。
草は炎を噴き上げ、吹きつける風がそれをあおりたてる。視界はすべて貪欲なオレンジと黒とに染まっていた。
そのとき――
ぐらりと大地が揺れた。左右の岩が軋み、打ち合って火花がとんだ。
百トンもありそうな大岩に斜めに亀裂が走った瞬間、Dはすでに戻ってきて、つないでおいた馬たちの尻へ鞭を浴びせていた。
二台目――ミスカの馬車を行かせてから自分もとび出そうとしたその足下で、地面が跳ねたのである。何か途方もなく巨大なものが地中で蠢いたかのように。
岩もとんだ。Dも馬もとんだ。ほぼ垂直に。そして、一〇メートル近くもとび上がって静止し、真っすぐ地上へ落下した人馬の上へ、それこそ数百トンもの岩塊が落下したのである。
まさに間一髪――あっという間に押しつぶされ、得体の知れぬ肉と電子機関とスチール製の骨格とに分解した馬の背から、黒衣の影が岩場の出口へと矢のように走った。出口から身体を丸めて噴き出る勢いは、背後に落下した巨岩の衝撃波に乗ってのものかと思われた。
岩場から二〇メートルも離れた炎の真っただ中で、Dは馬車の行方を求めたが、黒煙などないもののように見通す彼の眼をもってしても、二台の馬車の姿は、どこにも見えなかった。
「あの男爵ならうまくやるじゃろう。たとえ、昼で馬車の外へ出られずとも」
左手の声に炎が吹きつけた。
「村は向こうじゃ」
と左手が言った。
「早いとこ行かにゃ、こっちにも火が廻ってくるぞ。風向きはいつ変わらないとも限らん」
Dのかたわらで炎塊が噴き上がった。
「ほう、焼却虫か何かの巣があるらしい。運悪く踏んづけでもしたら、アウトだぞ」
声は前方へ移動している。炎を踏みしめてDは疾走を開始していた。
地面は火を噴き、幾つも陽炎《かげろう》が揺れた。
炎塊がもり上がった。コートの裾が閃き、炎はあっけなく四散した。
「うほ、馬がないと不便かと思ったら、平地ならば変わらんな。――とんでもない男じゃ」
Dが走りながら、ふり向いた。足音が追ってくる。ひとつではない。その証拠に大地が揺れている。
凄まじい力が大地を打つ、地鳴りのような響きであった。
Dの眼は、炎の向こうから押し寄せる霞のような影の集団を捉えていた。
先頭は針だらけの毛布のようなクロケムシの大群だ。その後から体長三メートルもある平原ネズミの群れ、つづいて三つ首イノシシ、土掘りバイソン――それこそ地平を埋め尽くさんばかりの平原動物たちの大暴走――レイジング・ランであった。
火を恐れ、安全地帯を求めての疾走だが、これに巻きこまれたが最後、火竜とて圧死は免れない。すでに炎に包まれていたクロケムシの一匹が堪らずスピードを落とすや、あっという間に暴走に巻きこまれ、悲鳴を上げる暇もなく踏みつぶされてしまった。
Dまで、あと一〇〇メートル。いかに彼といえど、ふり切って逃げるスピードはない。
方法はひとつ――
「奴らの背に乗るしかあるまいな」
と左手が言った。
七〇メートル――五〇メートル――
だが、両者の距離が三〇メートルまで近づいたとき、何とも奇怪な現象が勃発したのである。
何を見たのか、何を感じたのか、先頭のケムシどもが一斉に制動をかけたのだ。
火の粉が乱舞し、しかし、もちろん、暴走は止まらない。押し寄せる背後の圧力に先頭の連中はたちまち押しつぶされ、そして――その犯人たちも、がくんと前方へのめったではないか。
Dは後方へ跳んでいる。
空中で見た。
彼と暴走獣たちとの間で、大地が一文字に裂けるのを。
黒い深淵へ次々と落ちていく動物たちの姿は、まさしく地獄へ吸いこまれる亡者のそれに似ていた。
亀裂は開きつつあった。Dの着地点にまで。
「これは凄い」
と左手が呑気な感想を洩らしたとき、Dは舞い降りた。
黒い、底無しの淵の真上に。
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第二章 美姫と“破壊者”
どこからともなく、一条の黒い鞭が跳んできたのは、その瞬間であった。
Dの腰がぴしりと小気味よい音をたてるや、巻きついた鞭は彼を深淵の縁から燃える大地へと導いた。
着地と同時にDは立ち上がらず、火の粉をまいて転がった。大地はなおも開きつつあった。
その淵から、鮮やかなピンクの壁がそびえ立ったのである。
炎の世界にあって、陽炎のように濡れて見えるそれは、一〇メートルも屹立するや、火も草も押しつぶして地に倒れこんだ。
Dはすでに二〇メートルも前方にいる。
と――それは、分厚く平べったい肉の舌でありながら、尺取り虫みたいにたわみ、猛スピードでDを追いはじめたのである。
一気に一〇メートルを詰める。
肉の大波がのしかかったとき、白光が閃いた。
鮮血が吹雪いた。
三メートルも切り裂かれたそれが、狂気のように痙攣するのを尻目に、Dは疾走した。
背後に別の波が迫った。なんと奈落の底は新たな肉の舌を吐いたのである。
舌――まさしく、それは大地の舌であった。Dを追うのは三匹、いや三枚――うち一枚が、小動物らしきものを捕らえるや、あっという間に深淵へと連れ去ったのである。
上になり下になり、二枚の肉波のうねりが再びDを呑みこもうとした刹那、炎の彼方から光の帯がそれを薙いだ。
Dの刀身でさえ切断はできなかった肉舌は、あっさりと四つに分断され、地面で跳ねまわる先端部の断末魔を尻目に、本体は深淵へと吸い戻されていった。
Dの前方に馬車の影が現れた。
その脇に男爵が突っ立ち、Dを認めるや、素早く扉を開いて、車内へと身を入れた。
「待っていたようじゃの。いまの光もあいつか。しかし、真性の貴族が陽の下で、よくぞ耐えられたものじゃ」
Dは答えず馬車に走り寄ると、素早く御者台に昇った。
手綱を取った途端、がくんと世界が傾いた。右斜め五メートルほどのところで、大地が再び口を開いている。
車輪が土を蹴り、馬車は疾走に移った。その背後を亀裂が追い、踏みつけたばかりの大地は、みるみるその内側へと崩れ落ちていく。
「な、なんじゃ、これは!?」
と、左手が喚いた。
「地虫《アースウォーム》だな」
とDが答えた。本人も興味をそそられたらしい。左手はしみじみ、
「地虫か。――ならやりかねん」
と洩らした。
地下五〇〇メートル以上の深淵に棲息する全長五〇キロにも及ぶ虫たちについては、ざっと四〇〇〇年前まで、単なる伝説とされていた。
ある事情により、地底都市建設の必要に迫られた貴族の科学陣が、北部辺境の地下三〇〇〇メートルの地点で、その巨大な肉体の一部と接触したとき、生物学と同時に、生物兵器の歴史にも新たな一頁が記されたのである。
“地虫”と仮称される長大なミミズ状の生き物は、土そのものを体内へ摂取し、エネルギーに変えるという、生物としては理想的な生命維持システムを備えていた。いわば、霞を食って生きる人間である。もともと不老不死を誇りながら、唯一、陽光の下での活動のみを制限される貴族にとって、彼らのエネルギー循環機能を応用することは、自らと等しい不死身の、しかも、時間の制限がなく戦いつづけられる兵士の誕生を意味した。
辺境や極地を支配する大貴族は、中央には知らせず、独自にその製造と軍隊化に打ちこみ、一部は公然と反旗を翻した。
三世紀にわたる戦いの後、なんとか大貴族たちを封殺した中央執行部は、永劫にわたって不死身戦士《インモータル・ソルジャー》の製造を禁止し、その生命維持システムのノウハウを、銀河の彼方に存在するという大重力星の核部に凍結した。
機密保持の当然の帰結として、“地虫”たちの大殺戮も敢行され、しかし、物理的に不可能なそれは、彼らの棲息地と思しい土地を地表からマグマの一歩手前まで、彼らには摂取不可能な特殊なコンクリート状物質を流しこむことで代用された。
いま、地表を焼く熱波により活動を促された一匹が、その封印を破ったものか、当初から逃げのびていたものかは定かではない。
一匹? ――彼らはその体内に無数のエネルギー摂取孔、すなわち口と舌とを有しているのである。彼らが身じろぎをすれば、地表の万物はあえなく崩壊し、すべては大地の底へと落下する。これは生物滅亡のハルマゲドンに似ていないこともなかった。
「間に合わん。呑まれるぞ!」
左手の叫びに応じるかのごとく、Dは右手を――二日前まで存在しなかったブレーキ板の横にある木の棹にかけた。
馬車の底部に取りつけられた格納庫から、黒い球体が二個吐き出され、追いすがる亀裂へと吸いこまれた。
敵は何メートルの地下にいるのか? 三〇〇、とDは踏んでいた。
旋回する車輪から、別の地響きが伝わってきたのは、三秒後であった。
遠くで鈍い炸裂音がきこえた。
「止まったぞ。――効いたな」
左手の声をきき、確かに追いすがる亀裂が停止したのをその超感覚で理解しながら、美しい顔は無表情に前方だけを見つめていた。
すべては計算通りだとでもいう風に。
ここへ辿り着く二日前、一行はとある森の中で移動鍛冶屋と遭遇したのである。
旅人にとって、これほど力強い味方はない。古代からの工作秘術を身につけた一族の末裔である彼らは、貴族しか駆使し得ぬ最新のエレクトロニクス・テクニックも難なく使いこなして、辺境の村々や旅人たちの工具や武器を整備し、改造し、必要とあればその場で製造もする。
Dの要求は、半日以内での馬車の武装強化であった。
貴族の乗り物に優雅さだけを備えたものはない。そのしなやかな車体は三次元レーダーと超音波破壊板を兼ねているし、精緻微妙な彫刻の多くは、レーザー・ビームや超小型ミサイルを、あるいは槍の穂や鉄の矢を射ち出す発射装置だ。ドアを閉めれば、馬車全体は完全密閉の要塞と化す。これで標準装備だ。貴族の位が上がり、敵も多くなれば、座付きの科学者たちの考え出した、それこそ奇想天外な武器と防御装置が車体を飾ることになる。
人間界において、唯一、それらに匹敵する工作技術を備え、彼らを嘲笑し得るものこそ、移動鍛冶の群れなのであった。
敵の昆虫焼夷ミサイルを弾きとばした振動する車体も、底部の武器格納庫も、鍛冶屋の作品だ。仕上げたのは、まだ二〇代そこそこの若者であった。
支払いを受けた後、彼は車体を叩いて、
「これで、その辺の貴族の戦車だの、トーチカだのにはひけを取らねえよ。おれの腕もそうだが、なにしろ、もと[#「もと」に傍点]がよく出来てる。ま、乗ってる連中を見りゃあわかるがな」
移動鍛冶屋は、商売相手を選ばない。人間でも貴族でも平等に扱い、それゆえに、一部の人間たちからうとまれ、蔑まれるのは、誰かと似ていなくもなかった。
最後に、彼はDの肩を叩いて、
「おれの前にも一度、誰かの手が入ってるな。まあ、いいさ、攻撃も防御も、そこ[#「そこ」に傍点]よりぐっとランクを上げといたぜ。ま、サービスだ。達者で行きなよ」
と言った。
「感謝する」
若者は眼を丸くした。
「よせやい、普通の口もきけるんだ」
蒸気エンジン・トラックを駆って走り去る後ろ姿を、Dは黙って見送った。
炎の乱舞が終焉に向かったのは、約二〇分後であった。
どこからともなく飛来したメカ・プレーンが、大量の消火剤を散布したのである。
「貴族の防火対策じゃな」
と左手がつぶやいた。
貴族たちの科学技術をもってしても、不時の大災害や大自然の変動は、完全な予想が不可能なものであった。そのために、ある程度の広さや美術、学術的な重要性が認められる地域には、必ず完全自動の災害対策システムが設置され、それは貴族たちが遺した最良の遺産といわれた。
夕陽の照り映える湖や、風吹き渡る草原を、限りない生命を育み、鳥の声の絶えることのない森林を、その美しさゆえに人々は失わずに済んだのである。
それを成し遂げたものたちは、落日の中に滅び去り、それを讃えるのは、彼らを滅ぼしたものたちなのであった。
いまの消火プレーンも、そのシステム末端に属するソフト・ウェアであったろう。
「抜けたようだな」
と男爵の声が言った。
「ミスカの馬車はどこだ?」
とD。
「あと二〇キロほど先に、小さな川と菩提樹の木がある。そこだ」
だが、一〇分とかけずに到着したDたちの前に、川はきらめく水を湛え、菩提樹はやわらかな影を落としてはいたが、ミスカの馬車はどこにもなかった。
「連れ去られたか」
男爵が呻き、Dは平原の彼方を見つめた。そこから誘拐の首謀者がやってきたとでもいう風に。
「おまえの父親か?」
と訊いた。
「多分」
その配下という意味も含んでの返事である。
「真っすぐクラウハウゼンの村へ向かったとなると――」
こうつぶやいてDは沈黙した。
「ミスカが危険だ」
と男爵が受けた。
「体内に眠る“破壊者”を、奴らが目覚めさせなければいいが。万が一、無慈悲な拷問でも加えたら、“破壊者”はその肉体を守るために覚醒するかも知れん」
「娘たちをどう扱うと思う?」
氷のような声で訊かれて、男爵ははじめて、自分とDとの根本的な違いに気がついたかも知れない。
「すぐには殺すまい」
と答えたのは、少し間を置いてからである。
「あいつ[#「あいつ」に傍点]のことだ。必ず、私たちを滅ぼすための道具に使おうとするだろう。具体的な手段は私にもわからんが。――Dよ」
と呼びかける声に、切実なものがあった。
「あの三人を救い出すまで、契約を延長してはもらえんか?」
「断る」
冷やかな声であった。美しい吸血鬼ハンターにとって、彼らは任務達成の過程で生じた不要な因子にすぎないのである。
もうひとり、いまだ行方知れずのヒュウも。
「――そう言うだろうと思ってはいたが」
それ以上の台詞は思いつけなかったらしく、男爵の声は途切れた。少しして、
「それにしても、あの二人、私の馬車に乗っていればよかったのに。――なぜ、ミスカのところにいた?」
ミスカの馬車を拉致し去ったのは、ザナスとサイファンであった。
危険地帯を早々と脱してクラウハウゼンの村へ戻るところを、やはり気になって野火を見物中、ミスカの馬車がやってきたのである。
もちろん、淑女の乗り物にも、移動鍛冶屋の手は入っている。強硬手段に訴えれば、彼らとて無事では済まなかったろう。
たやすく拉致できたのは、なんと、停止した馬車の中から、こんな声がきこえたためである。
「そこにいるのは――ほう、サイファンではないか」
蒸気エンジンのてっぺんで胡座をかいていた当人は、ぎょっとして落っこちかけた。
「その声は――ミスカさま!?」
「いかにも、ミスカじゃ。変わりないか?」
「そ、そりゃあ、もう、この通りでございます」
と大あわてでうすい胸を叩くのを、馬車から降りたザナスが妙な眼で見上げて、
「知り合いか?」
と訊いた。
「ああ。知っての通り、おれは傭兵上がりでな、もとはウィンズローって土地の用心棒をしていたのさ。そのとき、世話になってたご領主のお嬢さまだ。まさか、こんなところでお目にかかろうとは」
「おまえが、こちらの方へ行ったのは存じておる。すると、いまはクラウハウゼンのご領主の子飼いか?」
「とんでもない」
とサイファンが答えたのは、ミスカのこれまでの旅路を推測したからだ。
「よかろう。こんなところで何をしているのです?」
「はい、平原の監視がいまの仕事でして。あ、こっちは相棒のザナスで」
「誓って、ご領主の禄《ろく》を食んではおらぬな?」
「お誓いいたします」
「よろしい。では、『フィッシャー・ラグーンの館』までの道を教えておくれ」
「え!?」
とサイファンが眼を剥いた。ついでにザナスまでが。
「ミスカさま、あそこは――何かのお間違えではございませんか?」
「いえ、そこです。そこに私の大事なものが預けてあると、お祖父様が言い遺されたのです」
「お祖父様――おお、公爵さまはお元気でしょうか?」
「死にました。村人に裏切られて。私はそれで、この土地へ来たのです」
「それはそれは。――しかし、行く先が『フィッシャー・ラグーンの館』とは、ミスカさま、他に行く当てはおありですか?」
「ない」
きっぱりとした声に、隙間風みたいな不安がまつわっていた。
「それでは、私の知り合いの家へいらっしゃいませんか。もちろん、貴族ではありませんが、貴族に極めて近い立場のものでございます」
「何という者じゃ?」
「は、ブロスメン教授と申す科学者で。それは立派な邸宅に住んでいらっしゃいます。所詮は卑しい人間の家ですが、それさえ我慢なされば、それなりに快適かと」
ミスカの声は沈黙した。それは、彼女の動揺を示していた。
ややあって言った。
「やはり、私の用件は『フィッシャー・ラグーンの館』にある。まずはそこじゃ」
内心舌打ちしながら、サイファンは、
「では、ご案内いたしましょう」
と申し出た。
「不要じゃ。私はここで連れを待たねばならぬ」
「失礼ながら、どなたで?」
「申せぬ」
これで、ミスカとバイロンの関係がはっきりした。彼らはバイロン・バラージュの他にもう一台の馬車の存在を知っていたが、その乗員まではわからなかったのである。
「この炎です。はたして来られるか?」
「必ず来る」
ここまで黙っていたザナスが、口をはさんだ。
「そして、ご一緒にクラウハウゼンへ入られるおつもりか?」
ミスカは沈黙した。自分とは直接関係ないとはいえ、バイロンたちがはっきり敵対行為をとっているヴラド・バラージュの領地へ、彼らとともに入っていくのはリスクが大きすぎた。
揺れ動く精神《こころ》を見透かしたかのように、
「『フィッシャー・ラグーンの主人《あるじ》』は、私とは古くからの知り合いです」
と言った。
都市部の詐欺師が辺境から出てきた娘をたぶらかす――昔もいまも変わらぬ常套手段であり、ザナス自身、うまくいくと思っていたかどうかは怪しいものがある。
ミスカは、
「おお、――ならば!」
と嬉しそうに言った。純粋培養の花が寒風一過でしおたれるのは、いつの世でも――貴族といえど変わらないものらしい。
「すぐ、彼に出会えるように計らえ。よいな?」
「承知いたしました。ただし、彼はいま、東部辺境区域へ商用で出かけ、一両日中に戻る予定です。それまでは、ブロスメン教授のもとに身を寄せられるのが賢明かと存じますが」
「さようか。では、そうしよう」
ミスカは極めてあっさりと了承した。
いざ、クラウハウゼンの村へ入ってみれば、これまでの戦いすべてがマイナスに働く。その心細さがあったからとはいえ、こうまで二人の甘言につられてしまうとは、やはり、お姫さまとしか言いようがない。
元来、人間を軽蔑しきっている貴族は、それゆえに、下等なものどもが自分たちを騙すはずがないと、油断しきっている部分を突かれると弱い。人間たちの一斉蜂起に、堀を割ってしまったのも、根本的にはこれ[#「これ」に傍点]が原因とされている。
こうして、ミスカは男爵と訣別した。
ただ、それには、彼女しか知らない、もうひとつの理由があったかも知れぬ。
ブロスメン教授の屋敷とやらへ、白い馬車が到着したのは、夕暮れどき――その少し前であった。平原地帯は危険だからと、二人が全力疾走を促したのである。内心は、ひょっとしたら炎を抜けて来るかも知れない男爵とDとを考慮したからだ。
白い馬車が停まり、扉が開くと、さすがの二人があっと驚いた。
白い美女につづいてこわごわと降りてきたのは、人間に間違いない、それも二人の娘だったからだ。
ミスカが彼らとの同行を受け入れた理由が彼女たちにあったとは、はじめて気がついたことである。
「その二人は望むようにしてやるがよい。長い旅であったな」
こう言って、二人をザナスにまかせ、ミスカはサイファンともども立ち去った。
「“タブゥ”の動向が明らかになり次第、今夜にでもご連絡を差し上げます」
とザナスが声をかけた。
幾つもの門を抜けて庭園を進んでいく途中、
「何をお考えで?」
とサイファンが訊いた。
「何も」
と答えたミスカには、ややむきになっている風がある。
「これはしたり。私はまた、あの二人を気にかけていらっしゃるのかと」
「馬鹿な。なぜ、そのようなことを?」
「貴族の馬車から人間が出てくることがまず意外。さらに、女性の貴族はことの外、同性の人間を嫌うものでございます。ミスカさま、ひょっとして、あの娘たちを好ましく思っていらっしゃるのではございませんか?」
「サイファン、それ以上、愚かなことを申すと――許さぬぞ」
「へえっ。これは失礼をば」
と“千手足”のサイファンと呼ばれる男が、電撃されたみたいに緊張した。このへんは貴族の実力だ。
「私が考えていたのは、おまえが嘘つきではないかということじゃ。――見よ。この庭園、荒れ放題に荒れておる。まして、前方のあの塔よ。下界を見下ろす魔道士の棲家そのものじゃ。おまえ、私を瞞着《まんちゃく》するつもりではあるまいな」
「め、滅相もない」
と、サイファンは長い片手をふって否定した。
確かに、貴族でも我慢できると彼の告げた大邸宅の庭園は、まさしく荒涼たるもの。かつてはそれなりの優雅さとスケールを保っていたのだろうが、庭木は朽ち、大理石の小道と噴水には空しく落ち葉や枯れ葉が積み重なって、腐植土の層かと見まごうばかりだ。それどころか、どこからともなく漂い流れる不快な瘴気と、化学薬品らしい匂いに、人間より遥かに敏感なミスカの嗅覚は刺激され、何度も咳きこむところであった。ここにあるのは、凄まじい破滅と死にちがいなかった。
その象徴が――いま、ミスカが立ち止まった、天を衝く塔であった。いや、闇水軍が根拠地にしていたあの巨木を知っていれば、スケール的には驚愕することはないが、数少ないガラス窓や、四方八方へ突出したおびただしい角のようなアンテナ、そこからぶら下がるコードとも網ともとれる切れ端等から滲出する妖気は、及びもつかぬ凄まじさだ。
――ここには想像外のものがおる。
元来、恐怖心に乏しい貴族たるミスカさえ、たたらを踏みそうなのを見て取り、サイファンは内心ほくそ笑んだ。
彼もザナスもカリオールの私兵だ。ヴラド・バラージュの部下として勇名を馳せているのは、カリオールが彼らをヴラドへ貸し出したからにすぎない。ミスカをヴラドの居城ならぬここへ連れてきたのも、まずは本物[#「本物」に傍点]の大将へと思ったからである。
この女を使えば、ひょっとしてバイロン・バラージュをどうにかできるかも知れない。ヴラド公のカリオールに対する覚えはますますめでたくなり、その配下たる自分たちも、ますます重用《ちょうよう》されるだろう。
「確かに凄まじいところですが、主人だけは、貴族のもてなし方を知っております。ささ、どうぞ」
こう言って、正面の大扉に手を当てた。さすがに蝶番の軋みを苦鳴みたいに響かせながら、それが開くと、どっと妖気まじりの空気が吹きつけた。薬品臭はきついが耐えられないほどではない。
うす暗い光に包まれて立っていると、どこからともなく、燭台を手にしたガウン姿の老人がやって来た。上半身は、床と平行な角度まで曲がっている。
ミイラのような顔の中の眼は、燭台など不要と思われるほど固く閉じられていたが、ミスカまであと数歩の位置で足が止まるや、かっと開いて不気味な光を放った。
「こちらが我が主人――」
「カリオールでございます」
冥府から吹きつける冷風の唸りみたいな声に、ミスカはその名がサイファンの口にしたものとは別人であることも忘れ、数瞬後、怒りの感情が湧いた。
「名前がちがう。――騙したな」
「とんでもございません。それは、あなたさまの緊張を解こうとの、こやつの心配り」
陰々滅々たるカリオール博士の声であった。
ミスカはカリオールの名を知らないが、サイファンとザナスは、彼女がバイロンと一緒である以上、承知していると考えた。カリオールは、彼の父ヴラドの腹心というも愚かな、いわばもうひとりのヴラド自身だと、この領主を知る誰もが認めていたからである。そんな名前を口にしただけで、ミスカは同行を拒否するにちがいない。
だが、いま、その妖人ともいうべき老科学者を前にしてのミスカの反応から、サイファンは自身の嘘が杞憂に終わったことを知った。
「おまえは何者じゃ?」
とミスカは尋ねた。
「ヴラド・バラージュに仕えるものでございます」
「何を――!?」
とふり向いてサイファンをねめつける眼が赤光を放った。みるみる吊り上がる眉と唇。口腔からいまのぞく二本の乱杭歯――美女は貴族たる、吸血鬼たる本性を剥き出しにした。
「およしなされ」
と老人が低く言った。ミスカは向き直り、彼の眼をのぞきこんだ。
貴族の赤光がすうっとうすれていった。
両眼を押さえてよろめき、ミスカは老人へとびかかろうと両膝を軽く曲げた。
その肩を短く鋭くぴしり[#「ぴしり」に傍点]と打ったものがある。老人の杖であった。それだけで、ミスカは石化したように動かなくなった。
杖はすぐに離れ、ふくよかな左の乳房のやや右上を突いた。
サイファンがあっと叫んだ。
杖は何の抵抗もなく、白い美女の胸から背へと貫き通ったのだ。
ミスカは動かない。顔からは生気も表情も失われていた。
「蜃気楼はどっちだ、娘か杖か?」
とカリオールは不気味につぶやき、
「かつての大恩ある主人の孫娘を、よくぞ売った」
と、身も震える侮蔑とも取れる賞賛の言葉を吐いた。サイファンが唇を噛んでうつむいたことで、彼がどう取ったかは知れる。ただ、いかに主人とはいえ、怒りの表情ひとつ浮かべないのが不思議であった。
「この娘――バイロンさまの同行者ならば、やはり、ヴラドさまの前に連れ出さねばなるまい。ただ、その前に――」
じっと、硬直した美しい顔をのぞきこんで、
「――気になる。この相は、別のものの相を宿しておる。だが、それが何なのか――」
そして、かたわらのサイファンへ、またもや、生唾を呑みこませるような言葉を吐いた。
「もうひとりが何者か、おまえ相手に試してみるとするか――どうじゃ?」
「フィッシャー・ラグーンの館」は、クラウハウゼンの村の西の外れにそびえる大城館であった。
スケール的には、中央に位置するヴラド・バラージュの居城には遠く及ばないが、その豪奢さは別の意味で負けてはいない。夜ごと、百数十といわれる窓には極彩色の灯が点り、バイオリン、竪琴《ハープ》、チェロ、オーボエといった古典的楽器から、貴族たちの技術を模倣したという電子音楽の調べまでが滔々と流れてくる。
すべて「都」から運んだという贅を尽くした調度品や料理と酒――そして肌も露わな女たち。クラウハウゼンの村にこの地方第一の豊かな財力をたくわえさせ、近くの村ばかりか、遠い辺境地区からも訪れるものがひきも切らぬという原因こそ、これ[#「これ」に傍点]であった。
実にこの館はそれ自体一個の巨大な歓楽の都――大遊戯館にして娼館なのであった。
高価な葉巻とアルコールと香料と、女たちの嬌声とに埋まる館の一室で、タキとメイは黒い大テーブルをはさんで、隻眼の大男と向かい合っていた。
この館の主人にしてその名を冠させた男――フィッシャー・ラグーンである。
ザナスは二人の背後――ドアの脇の壁にもたれかかり、冷たい眼で三人を眺めていた。
この席へ着く前に、彼が二人へ告げた言葉はこうだ。
「この館の主人は顔が広い。おまけに道義心も厚い。おまえたちの境遇を話せば同情し、きっと相談に乗ってくれる」
そして、いま、二人の娘をしげしげとつぶさに観察した大男は、生きている左の眼を好色そうに光らせ、
「よかろう。年上の方が五万、もうひとりは三万だ」
と宣言した。
いきなり立ち上がったのは、もうひとり――メイの方であった。くるりとドア横のザナスをふり向き、
「あんた、騙したわね。こいつ人飼いじゃないの」
と巨人を指さしたものだ。ザナスは肩をすくめ、
「ま、仕方がない。あの女貴族よりはましだと思いな」
にやりとした刹那、その眼前でメイの顔が一回転するや、ぐん、とのびた両足がザナスの鼻柱を見事に捉え、その反動を利用して、ラグーンの顔へと跳ねた!
空中でその身体がいきなり抱きかかえられるのと、鼻血の糸を引きながら、ザナスが頭をふったのと同時だった。
「何すんの、離して!」
「死にたいの。およしなさい!」
暴れる手足を必死で押さえながら、タキは絶叫した。彼女は何を恐れているのか。フィッシャー・ラグーンの巨体は大デスクの向こうで、面白そうにこちらを見つめたまま微動だにしない。
なめし皮みたいに黒光りする顔に表情が動いたのは、ザナスが二人の襟首をとらえて、椅子へ引き戻したときである。
「よせ」
どことなく、肉食獣の唸りを思わせる声で制止した。
「この餓鬼ども、大層な真似をしやがる」
ザナスは二人の肩に両手を置いていた。指が食いこんでいるわけでもないのに、メイもタキも身動きひとつできなかった。
「ラグーンさんよ、この話はなかったことにしてくれ。こいつら二人ともマジソン橋から吊るしちまわねえと気が済まん」
「いいや、値段まで決めた以上、もううちの商品だ。その手を離せ。――これを持って出て行くんだな」
テーブルに黄金の延べ板が置かれた。
「いいや、収めてくれ。こいつらに自分の骨の砕ける音をきかせてやりえてんだ」
「ザナス」
巨人の眼が凄まじい光を帯びた。ザナスは平然とそれを受け止めた。
「こいつらのために、館をぶっつぶす気かい?」
静かな声音であった。
巨人がうすく笑って、
「ヴラドが嘆くだろうよ。――いい部下を失くしたって、な」
「いいだろう」
ザナスが白い歯を見せた。
「もう少し、誠意を見せなよ、な」
巨人の手がテーブルの上を撫でると、忽然と三枚の延べ板が出現した。
「ありがとうよ。さすが館の大将だ。世間ってものがわかってる。――じゃ、まかせたぜ」
娘たちの肩から離した手で延べ板をかき集め、ザナスは意気揚々と立ち去った。
巨人――フィッシャー・ラグーンと三人きりになっても、タキとメイは椅子に固まったままだ。本来なら、ザナスから二人を引き取っただけ人間味というか恩情がありそうに思えるが、いざ、前にしてみると、その全身から吹きつける威圧感は、ある意味でザナスを凌いでいた。
「私たち、騙されたんです。帰して下さい」
とタキが主張しても、表情ひとつ変えずに、
「おまえたちには、値打ち以上の金を払った」
と重々しく宣言した。
「それだけの仕事はしてもらうぞ。ここへは色々な客が来る。その中でも、新人には一番扱いにくい客を与えて慣れさせることになっている」
かれはデスクに埋めこまれたスクリーンに映る人物名に眼を走らせ、
「今夜は――ほう、ひとりは“デバラ”の旦那か。それと――」
ここで息を呑んだ。
二人の“新人”は、その初日にして、滅多に見られないものを目撃したのだった。
フィッシャー・ラグーンの恐怖の相を。
Dと男爵が着いたとき、村は夕闇に溶けていた。
だが、明るい。まばゆいほどだ。街路には松明と原子灯が煌々と点り、ところかまわず並べられたテーブルと椅子の上では、人々がビールのジョッキやモンスター・チェスや歓談に時間《とき》を忘れている。
家々の庭こそ閉じられてはいるが、窓明かりは消えず、酒場やレストラン、雑貨屋まで、一杯やれるところは、あらゆる扉をオープンにして、客たちの来訪を待ち構えている。
御者台の男爵の耳には、ジプシー・バイオリンのもの哀しげな旋律が響き、馬上のDの足下では、子供たちの放った花火が虹色の爆発を起こした。
男爵とDとを見つけると、さすがに顔つきが変わり、辻楽師たちの演奏も中断されるが、通りすぎれば尾を引くこともなく、前と同じかずっと陽気な世界が出現するのだった。
「不思議なところだな」
と男爵が話しかけた。
「領主が健在なのに、村人がこれほど生き生きと夜の生活を送っている村は、辺境広しといえどもここ[#「ここ」に傍点]だけだ。――わたしが去ったときからこうだった」
「いつの話だ?」
とDが訊いた。
「我々に時間《とき》の話は無意味だ」
言ってから、男爵は苦笑した。
「失礼したな。君を貴族だとばかり思いこんでいた」
「なんの」
男爵は眼を細め、
「何か言ったか?」
と訊いた。
Dが左手でぎゅっと手綱を握りしめ、
「いや」
と答えた。
小さな苦鳴をきいたような気がして、男爵は耳を澄ませたが、それきりになった。
「もし、あの二人のことが気になるのなら、この先の四つ辻を右に曲がったところに『リパー亭』というホテルがある。そこへ宿をとれ。情報が入り次第伝える」
それは、二人の旅もそこで終わるという意味であった。
二分足らずで着いた。平凡な辻であった。
「世話になった」
と、男爵が言って、重い袋をDに手渡した。
「約束の礼だ。また、な」
Dは黙って馬を止めた。最後に、雇い主の背後を見守るとでもいう風に。
黒馬車は黙々と通りすぎた。
それが道の端の闇に溶けこむのを見届けてから、Dは辻を右へ折れた。
「リパー亭」は一〇分ほどのところにあった。
辺境の村の宿は粗末な代物が多く、村の規模が大きくなるにしたがって、商人宿や一般の旅人用等に分かれてくる。
「リパー亭」はそのどちらでもなかった。強いて言えば長者用である。
一階は酒場兼レストラン兼賭博場で、駐車場には最新型の蒸気《スチーム》馬車やガソリン・カーが、磨き上げられた車体を月光にきらめかせている。通常の馬車もすべて六頭だて以上、黄金や貴金属を使った最高級品だ。使うものもないらしい馬つなぎに手綱を巻きつけると、Dは玄関をくぐった。
ピアノとバイオリンに合わせて乱れ飛んでいた歌声が、彼がフロントへ進むにつれて、ドミノ倒しのように消えていった。
ホールやラウンジにいる客たちに、鋭い視線を注いでいる用心棒たちも、気死したように動けなくなった。華麗な色彩のただなかに侵入した黒い死神――だが、この死神の何という美しさ。人々が彫像と化したのは、Dの身辺に漂う鬼気のせいもあるが、その美貌に我を忘れたためであった。
最高級の馬車と服装をした客以外は満室と断れ――こう命じられていたフロント係は、玄関のドアをくぐったDをひと目見た途端、鬼マネージャーの命令を忘れた。
「部屋はあるか?」
「ございます。最高級スイートが。ですが、あなた様にはふさわしくありません」
「シングルでいい。後は馬に合成蛋白をやってくれ」
「承知しました。料金は――結構でございます」
Dに見つめられ、フロント係は正気に返って、正規の料金を告げた。
とりあえず三日分を払い、鍵を受け取って階段の方へ歩き出したとき、左奥の酒場から、桃色の嬌声と豚の高笑いがこぼれた。
「今日来たばっかりの新人を虐《いじ》めちゃ駄目よ、バルコンさん」
とくすぐるような声で言ったのは、毒々しい色塊の中に蠢く女のひとりであり、
「わしが、そんな不道徳漢に見えるか?」
と応じたのは、二〇〇キロは優にありそうな肥満漢であった。
女たちの腕はその首や胴に巻きつきながら、眼は背後の長身――黒い背広の上下を着た若者に熱っぽく絡みついていた。顔立ちも身体つきもあまりに似ていない。身のこなしと眼つきからして用心棒だろう。
「わしは、やさしく話をするだけだ。その辺の助平爺いどもみたいに、うら若い乙女の危ない部分をのぞいたり、いじくったりはせん。わかるか、わしの趣味はな、実は、夜伽話[#「夜伽話」に傍点]なんじゃよ!」
どっと下卑た喊声と笑い声がホールに巻き起こり、玄関へと流れていった。
六頭だての馬車を駆って「フィッシャー・ラグーンの館」へ辿り着いたバルコンは、玄関ホールでたちまち女将を含む女たちに取り囲まれた。
醜悪この上ない胸や、五重六重にたるんだ上に、豚の尻みたいに突き出た腹、それだけは逸物らしい股間へとのびる手は、もちろん、営業用のサービスだが、半分以上は本気の証拠に、女たちは残らず眼をうるませ、口の端から涎をしたたらせて、ひっきりなしに喘いでいる。毎日の食事に混入された催淫剤と、たったいまも、空気中にたちこめる香料に含まれた媚薬の効果であった。
長ければ長いほど、いや、たった一週間でもこの館に留まれば、女たちは自らの内から絶え間なく湧き上がる肉欲の奴隷となり下がり、逃げ出そうとする意志も萎え果て、主人と客の命ずるままに、いかなる快楽をも提供する牝獣となり果てる。そういう女たちを求める客も無論多いが、すれていない処女[#「すれていない処女」に傍点]を要求する声はさらに高い。こうして、近隣の村や町や「都」にまで、いわゆるスカウトがとび、「フィッシャー・ラグーンの館」に新鮮な娘の供給を怠らないのだった。
「さっき連絡を受けた通りの娘はいるだろうな?」
とバルコンが狐そっくりの女将に訊いた。
「そりゃ、バルコンさん。うちがいるといって、その通りじゃなかった娘《こ》がいますか? ちゃんと、屋上のペントハウスのスイート・ルームで、バルコンさんのお出でを待ちかねておりますよ。何分、今日入ったばかりの娘ですから、失礼もあるかも知れません。その辺はおてやわらかに。それから――」
ここで女将は声を落として、
「手足くらいは折っても構いませんが、殺しちゃ嫌ですよ」
とつけ加えた。
「わかった、わかった。前の娘――ゼジルだったか――あのときは酒が入っていた。今日はほれ、素面《しらふ》同然だろうが」
と、火をつけたら燃えそうな息を吹きかけられ、女将は咳きこんだ。
バルコンは立ち止まって四方を見廻し、
「それより、ラグーンの奴は、今日も挨拶に来んのか? ここへ通い出して五年になるが、その間一度として主人の顔を見た覚えがないな。――少々、無礼がすぎやせんか?」
「すみませんねえ。なにしろ、おれの顔など見たら、どんな美人だって抱く気がしなくなるってのが、ボスのモットーでしてね。いいじゃありませんか、ボスの挨拶をきいたからって、女の子の味が変わるもンじゃござんせん」
露骨な言葉を堂々と言ってのける遣り手婆あを、苦々しげに見つめているうちに、バルコンはふと、思いついたように、
「しかし、娼館てのはどんな小さな村にもあるが、仮にも貴族の城の眼と鼻の先に、こんなどでかい淫らな館を建て、大っぴらにドンチャカ騒ぎまくってだな、何の咎めも受けないというのは、どう考えてもおかしい。貴族というのは、血を吸って欲望を満たしちまう分、人間の快楽にも潔癖症を押しつけてきやがるからな。ちょっと目立ったばかりに、客や従業員ばかりか、主人の一族郎党に至るまで皆殺しにされた店もあるくらいだ。おかしい。腑に落ちん。それでだ――」
今度はこっちが声を落として、
「こんな噂をきいたことがあるぞ。フィッシャー・ラグーンの大将は、実は貴族の落とし胤《だね》だとな。それも、とび切り位の高い――」
途端に、女将が血相を変えて、
「何おっしゃるんですか。うちのボスは正真正銘の人間ですよ、あなた。貴族の子供といやあ貴族だ。それがこんな館を経営するわけがないと、あなた、おっしゃったばかりじゃありませんか。貴族の生んだ貴族じゃない子といえばダンピールだ。それだって、半分は貴族の血を引いている。お天道さまの光を長いこと浴びれば、あたしたちより早くひっくり返るし、腕の一本も失くす大怪我したって、ぴんしゃんしてられる。あたしゃ、誓っていいますが、ボスは人間です。裸になってお陽さまを浴びてるのも見たし、性質《たち》の悪い客と喧嘩になって刺されたときは、そりゃあ大変な手術をしたもんです。いまでも、お腹にゃそんときの傷が残っててね、あたしにだけは、時々見せてくれますよ。バルコンの旦那、あんた、それをみいんな知ってて、火のないところに煙を立てようってんですか?」
「とんでもない」
女将の見幕に怖れをなして、バルコンはそっぽを向いた。
それだけで、女将は相好を崩した。大事な客の機嫌をこれ以上損ねてはまずいという職業意識の発露である。彼女はプロ中のプロであった。
ずい、と美しい黒服の若者が前へ出て、
「そこまでにしておきたまえ」
と言った。凄味たっぷりの甘い声であった。周りの娘たちが身悶えし、中には豊かな胸を揉みしだく者まで出た。
「ペントハウスへ上がる。ついてこい」
とバルコンは、出腹丸出しでそっくり返り、美しい用心棒に、
「あいつは馬車の番だぞ。大丈夫だろうな?」
と念を押した。
「ちゃあんと見張ってます。今のあいつに出来るのはそれくらいで」
「それにしちゃ、奴は自信たっぷりで、うす気味の悪い野郎だ。放っといた方がよかったかな」
このとき、簡易エレベーターが下りてきて、女将と二人の男性だけが乗り込んだのだが、動き出すと女将は、すぐに話を憶い出した。
「誰ですね、そのうす気味悪い男ってのは?」
「ここに来る途中、シャバラ渓谷で拾ってきた野郎さ。腕は一本しかねえし、身体中、打ち身だらけでもう駄目かと思ったら、何とか生きてやがる。しかも、クラウハウゼンの村まで連れてってくれ、お礼は用心棒になってやる、ときたもんだ。どうだい、世の中にゃあ、呆れた男がいるだろうが。あんまり熱心だから、天に功徳を積むつもりで連れてきてやったのさ。とはいうものの、あれじゃ、明日まで保つかどうか」
「医者には連れてったんですか?」
「阿呆。助かりっこねえ奴をそんなとこ連れてってどうするんだ? それこそ、銭の無駄使いさ」
こう言っているうちにエレベーターが止まり、一同は夜風を相手に月光の踊る屋上へ出た。
二〇メートルほど向こうに、淫らな赤い光を点した窓と建物の影が見える。
屋上の左右に黒々と迫っているのは、楡の巨木である。ただし、どれも、一〇〇メートル以上は離れているから、銭のない不心得ものが、せめて覗き見だけでもとやって来る怖れはない。
「これが鍵ですよ、旦那。じゃあ、私はここで」
女将の挨拶も、エレベーターが降下する音もどこへやら、篝火《かがりび》の燃える通路を歩き出すバルコンの両眼はすでに浅ましく血走り、荒い息と一緒に舌まで吐いている。現実に、彼は背後からついてくる用心棒のことさえ忘れていた。ただ、当然のことのように、そのタイプの人間らしく、最後の一点で危機管理能力は働かせていたのである。用心棒の足音だ。それが絶え間なくつづいている限り、彼は安全のはずであった。
一見、ただの背の高い色男だが、「西の都」では、五指に数えられる戦闘士だった。特技は上衣の内側に隠した手裏剣打ちである。時速二〇〇キロで疾走してくる火炎獣五匹を、一瞬に仕留めた腕は、バルコンも目撃していた。
ドアのところへ来たときも、鍵を使ってそれを開けたときも、用心棒の足音には何の変化もなかった。
入ってすぐ、小さいが豪華な居間。その隣が寝室であった。居間に並んだ奇怪な拷問道具を見て、バルコンは、顔中がとろけるかと思った。年端もいかぬ田舎娘を極悪非道の器具を駆使して苛むのが、彼の最も得意とするところであった。
仕切りもカーテンもない寝室のベッドの上に、手足を大きく広げて横たわる少女を確認したとき、彼は今宵の快楽の充実を確信した。
細引きでベッドの四隅の支柱に手足をつながれた娘は、どうやら薬も何も射っていないらしく、バルコンの接近に気づくや、狂気のように暴れだした。
言うまでもないことだが、これほど男を興奮させる仕草はない。
黒い鞭と電撃棒片手に、ベッドの足もとに立ったとき、少女のうすいパンティ一枚で守られた股間へ注がれる彼の眼は、もはや人間のものとは言えなかった。
「さ、いい子だね、お嬢ちゃん、小父さんがひと晩、ゆっくりと可愛がってあげるよ」
そう言って、彼は猿ぐつわをはめられた少女によく見えるよう、電撃棒を高く掲げてスイッチをONにした。
先端から青い稲妻が迸り、少女は眼を見開いた。
恐怖のあまりだ。それでこそ、おれの女神だ。
「最初はやさしくいこう。この棒だ。なに、ちっとも怖くなんかないよ。君のあそこが、ちょこっと焼けるだけだ、いいね?」
彼が棒を腿の間へ近づけても、少女は身じろぎもしなかった。その眼はじっとバルコンを――いや、肩越しにその背後を見つめていると知って、彼は同時に、少女の眼が少しも怯えていないことに気がついた。
ふり向こうとした首根っこと、電撃棒を握った右の手首に氷の万力で締めつけられたような感覚が走り、出腹のバルコン小父さんは凍りついた。
首がゆっくりと後ろへねじ向けられ、彼も肩越しに、背後の黒影を見ることができた。
長身黒衣の美青年。だが、その美しさは彼のよく知る用心棒のものでも、この世界のものでもなかった。
猿ぐつわの下で、少女が何か叫んだ。
口の中に布切れを詰められているため、声にはならなかったが、メイは、
「――D」
と呼んだのであった。
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第三章 ハンター狩り
そこにいるのは、まさしくDであった。だが、いつ、どうやってこの館へ? 屋上へ? ペントハウスの内部《なか》まで忍び込んだものか?
現に、女体への欲望に五感を桃色に染めまくっていたバルコンでさえ、背後の足音にだけは気を配り、そして、何ら異常を感じることなく、ペントハウスへ足を踏み入れたではないか。
「き……さま……何者だ?」
首根っこだけで、気管まで絞めつけられたわけではないのに、バルコンの顔はもう紫色を呈している。凄まじい力と、眼前の世にも美しい顔から吹きつける鬼気のせいであった。
Dの片手がバルコンから離れるや、びゅっと風が鳴って、メイの四肢は自由を取り戻した。凄まじいとも神がかっているとも何とも言いようのない剣技である。
バルコンは、それを見もしなかった。窒息寸前の苦痛の中ですら、彼はその美貌に見惚れていた。若者の名前をようやく憶い出したのは、このときであった。
「こんな……いい男……まさか――まさか……D?」
「その娘の他に、“新人”がもうひとりいるはずだ」
と黒衣の若者は低く低く言った。バルコンにとって、暗黒の魔天からとも、限りなく重い、地の底から響いてくるとも取れる声であった。
「どこにいる?」
それではDは、メイとタキのためにやってきたのか。無惨な姿をさらし、自由になったいまでもそれを恥ずかしいと思いながら、メイの両眼から熱いものが溢れた。
「し……知らん。わしは、いい娘《こ》たちがいる……とだけしか……。若いのとそうでないのと……どっちがいいというから、年齢《とし》をきいて……若いのを選んだ……」
「あたし、知ってるわ!」
涙を拭いながらメイが叫んだ。
「タキさんは、“お城”へ連れていかれたのよ!」
ひい、と“出腹”の喉が鳴った。首すじを掴んだ指に力をこめ、
「心当たりがあるのか?」
とDが訊いた。
「そら……あんた……この辺で“お城”といえば……ヴラドさまのしか……。そういや……あのお方も……若い娘の血が大好……物」
そこまで言って、バルコンはひと声、くえ、と呻いて失神した。Dがついに気管まで絞めたのである。
無様に倒れる肉塊を軽々と片手で横薙ぎにすると、寝室の隅の壁まで飛び、激突して動かなくなった。
「ありがとう」
立ち上がったメイは、枕元に脱ぎ捨てられていた衣服をすでにまとっている。
「怪我は?」
冷たい問いが、天上からの声のようだ。
「ううん」
「行くぞ」
とDは背を向けて、ドアの方へと歩き出した。後に続くメイが外へ出るや、強い夜風が髪の毛をなびかせた。左右から木立の鳴り騒ぐ音が押し寄せてきた。
篝火の炎が糸みたいに細くなりながら、Dとエレベーターとの中間に倒れた黒い影を点滅させている。バルコンのボディガードだ。
「リパー亭」で、“今日入ったばかりの新人”について耳にし、バルコンの馬車の後をつけてきたのを別にすれば、誰に知られることもなく、ペントハウスを訪問できた理由《わけ》は、すべて整っていた。
すなわち、一〇〇メートルばかりも離れた木立の枝から、蜘蛛の糸ほどもない特殊な糸を屋上の手すりに結びつけ、それを渡ってきたのである。糸の先には鉤《フック》がついているのは言うまでもない。夜風の吹きすさぶ一〇〇メートルの遠投だが、Dにしてみれば何程のこともない。
館は二重の堀と三種の外郭で囲まれているし、電子アイと人間のガードが四六時中、厳戒体制を敷いているから、Dにしても、忍びこむのに多少は手間取ったろうし、助平親父相手の事態は一刻を争う。
ただ、ペントハウスにバルコンが来るとまでは彼にもわからなかったから、屋上に降り立ったとき、エレベーターを出て来たでぶ[#「でぶ」に傍点]と遭遇したのは、偶然の運んだ幸運といっていい。
女将が去ってから、彼は用心棒を当て身で昏倒させ、でぶについてペントハウスへ入った。バルコンの耳に、背後の足音が異状なく響いていたのは、Dならではの神技というしかない。
そのDの足がぴたりと止まった。メイもぎょっとして、かたわらのレーザー・アンテナらしい鉄柱の陰に、横っとびにとんで隠れた。眼を凝らしたが、倒れた影以外、何も見えなかった。
その影が、ひょいと起き上がったのである。わざと横たわっていたとしか思えぬ滑らかな動きであった。
余裕も置かず右手が閃いた。飛燕《ひえん》の速度で迸る手裏剣打ちは、バルコンが全幅の信頼を置く用心棒にふさわしいとも思えたが、そのことごとくをなんと素手で打ち落としながら、Dは最後の一本を左手で受け止め、用心棒の頭頂を唐竹割りにしながら、それ[#「それ」に傍点]を横の闇へと投じた。
苦鳴が上がる寸前、Dの顔面に吹きつけてきた霧状のものを、篝火が赤く染めた。一瞬、Dは大きく後方へ跳んだが、その胸や胴から赤い霧の糸を引いているのはやむを得ない。
「ざまあ見ろ……やったぜ、D」
奥のどこかで声がすると、ガスボンベが並んだ陰から、マント姿の男がよろめくように現れた。やつれ切った瀕死の顔に、かつて紅はこべと呼ばれたハンターの面影を見るのはたやすかった。
「おれの霧を浴びたな……あれは、どんな衣類にも浸透して……身体の内部《なか》へ潜りこむ……早いとこ……植え変えるんだな……Dよ……」
そして、心臓をひと刺しに貫かれた男は完全にこと切れ、前のめりに倒れ伏した。昏倒していた用心棒に活を入れたのも彼だろう。
あのシャバラの渓谷でDの止《とど》めの一刀を免れた紅はこべが、大崩壊に巻きこまれて瀕死の重傷を負いながら、ただDと男爵に一矢を報いるべく、バルコンにすがってここまでやって来たとは、Dの与り知らぬことであった。紅はこべとて、まさかこんなところでDと会おうなどとは夢にも思っていなかったであろうから、これも偶然の不可思議というしかない。
「D――大丈夫!?」
と駆け寄るメイへ、
「近づくな」
と鋭く叱咤したそのとき、エレベーターのドアが光と人影とを屋上に溢れさせた。
素早く半月状にDとメイとを取り囲んだ三人の男たちは、館のガードマンである。その後方――ひときわ大きく闇を圧してそびえる巨体の主は――
「フィッシャー・ラグーンの館に忍びこむとはいい度胸だし、いい腕だ。拷問にかける前に、名前ぐらいはきいといてやろうかい」
ここまで言って、驚愕の気配が全身から噴き上げた。いや、三人のガードマンも同様だ。
このとき、向きを変えた風のせいでDの顔を浮かび上がらせた篝火の炎が、またもや別の方へ流れ、美貌は闇に沈んだ。しかし、それで十分であった。
「なんてまあ、いい男が……」
ここで、巨人ははっと気づいた。
「そうか、あんたが――D……いやあ、噂話なんか信じるもンじゃねえな。万倍もハンサムときてやがる」
語尾が切れた。しげしげとDを見つめるラグーンの表情に、かすかな波が伝わった。それが驚きか困惑かはDにも読み切れなかった。
すっとDが動いた。それは急激な脱力感の招いたよろめきだったのだが、ガードマンたちには、人外の美貌の主の攻撃と映った。彼らはDの放つ鬼気にも金縛りとなっていたのである。
武器が唸った。
五トンの張力に耐えぬいた鋼線の弦が放つ鋼の矢が三本、黒衣の美影身に吸いこまれ、うち二本は片手で撥ねのけられたものの、最後の一本がその右胸を深々と射ち抜いた。
「あっ!?」
と叫んだのはメイと――ラグーンであった。
Dはよろめきつつ後退し、メイを右手に抱くや、左手で胸の矢を抜き、手裏剣打ちに投げた。それはDを射ったガードマンの額を貫き、彼を即死させた。
心臓ならともかく、右胸は貴族の血を引くダンピールの急所にはあたらない。ましてや、矢は抜いたのだ。傷口などたちまちふさがってしまう。
だが、Dのよろめき方は、まるで、その一矢により体内の病巣が一気に噴き出たかのような不安なものであった。
メイを小脇に手すりへ走り寄り、右手で空中の一点を握りしめる。
「おおっ!?」
「何かが張ってあるのだ!」
第二矢を放つより、Dの頼りない足取りを見て自らの手でと思ったか、ガードマンたちは弓を捨て、腰の山刀を抜いて馳せ寄った。
「やめろ!」
巨体をゆるがせて叫んだラグーンは、どちらの身を案じたのか。
手すりの上でコートの裾が魔鳥の羽のごとく翻るや、Dとメイは空中を彼方の森めがけて滑空していった。右手にメイを抱き、左手で空の一点に張った鋼線を握りしめて。
そのDの口にくわえた白刃を認めるまで、ラグーンには殺到した二人が血煙を上げてのけぞった理由がわからなかった。
彼が手すりに近寄ったとき、影は闇に溶けていた。風だけが鳴っている。
巨漢の娼館経営者は、異貌ともいうべき顔を鳴り騒ぐ森陰へ向けて、ぶつぶつと呪文のごとくつぶやいた。
「……あの顔……まさか、まさかな。……いずれ近いうちに会おうぜ、Dという名の男よ」
Dが館の屋上へ辿り着いたのと同じ頃、男爵もまた、村の中心にある豪壮な城の門前に到着した。
途中、何ら妨害工作とは出くわさなかったものの、だからこそ、敵の――父親の手が読めない焦燥は確実に胸を灼いた。自分の到着を知らぬわけがない。
はたして、二重の堀にさしかかれば、自動監視のモニター・アイがこちらを凝視しているにもかかわらず、橋は即座にかけられ、正門に辿り着けば、哨兵は無言で門を開けた。
そしていつの間にか、彼は馬車を降りて、城内の巨大なホールにひとり立っていたのである。
もはや、焦りはなかった。あっても顔や態度に出すような青年とはちがう。
彼は黙然《もくねん》と前方にある玉座を見つめていた。黄金と宝玉をちりばめたそれ[#「それ」に傍点]にかける男のもとを去ったのは、かれこれ二〇年も前のことだ。
感傷はない。あってはならぬ仕事を、彼は成し遂げに来たのだった。
「よく来たな」
声が落ちてきた。これが父と子の邂逅の姿だった。
「いや、よく戻ったというべきか。――護衛のハンターはどうした?」
「さて」
これが、支配者に対する第一声であった。
「存じませんな。途中で別れました。彼の仕事は見事に果たされましたゆえ」
「惜しいのお。いまのわしには、おまえより、奴の方が興味のあったものを」
姿はない。寂寞たるホールのどこにも虫の姿一匹さえない。それなのに、男爵には、城主の気配が厳然と感じられるのだ。
「用件を――言わずともわかっておるが――きこう」
「二〇年前の約束通り、お生命を頂戴に」
はじめて、男爵の美しい顔に笑いと殺気が広がった。笑いは、積年の想いをようやく口に出せたからだ。
「覚えていたか。――ほう、その面構え、それなりの修練は積んだものとみえる。ヨナやフラゼッタらがいれば、さぞや喜ぶことだろう」
それは、二〇年前、涙ながらに男爵を見送った忠臣たちの名前だった。
「ヴラド卿」
と彼は父の名を呼んだ。
「彼らに手を出さぬというのは、私が城を去る折の約束だったはず。まさか、違えはしますまいな?」
「もちろんだ。おお、そのような眼で見るな。その眼ゆえに、おまえは生命を狙われるのだぞ」
「その通り――実の父に。父上、今度は私の番でございます」
「わかっておる。あわてるな。そう憎むな。わしが約束を守る男だということを見せてやろう。――出でよ、ヨナ、フラゼッタ」
声が二つの気配を招いた。
男爵の視界に出現した人影は、空中から突如、湧き出たように思われた。それは確かに、過去の彼が誰よりも信頼し、彼らも彼を慈しんできた老臣たちであった。
だが――
近づく二人を見つめる男爵の瞳に広がったのは、哀しみの色であった。
二メートルほど手前で立ち止まった二人に、男爵は黙って片手を差しのべた。
二人の手も上がった。そして、指と指とが触れ合った刹那、彼らの首は血煙を上げて落ち、数秒と置かずに衣裳だけを残して灰と化してしまったのである。
静かに瞑目し、頭を下げる男爵の頭上で、嘲笑が巻き起こった。
「断っておくが、わしは約定を違えはせなんだぞ。おまえの一派を無事に飼うておくのは、お前が再び、わしを弑《しい》する凶心を抱いてこの城を訪れるその日まで。いや、一日早かったか。はは、これくらいの誤差は我慢せい」
「よろしい。お言葉通りにいたしましょう。我慢いたします」
と男爵は言った。
「ただし、ヴラド卿が私の前に姿をお現しになるまで。――お早めになさい」
言い終わらぬうちに、男爵のケープの内側から白光が迸った。
Dの左手が、彼の主人《あるじ》より速いと断言した光の噴流が、ホールの外周をひと薙ぎするや、大理石の柱はことごとく切断され、壁はその典雅な彫刻のすべてを二つにされて、床へと落下させた。
地響きと大音響を、砕け散る腕や足の破片が飾った。その中で、男爵のみが青い光に包まれて立っていた。
破壊神の常のように、孤高に、寂しげに。
やがて、天地の鳴動が終焉を迎えると、
「まだ、お出になりませんか?」
と男爵は尋ねた。青い瞳は清雅に澄み渡り、男らしい精悍な顔立ちは微笑さえ浮かべている。何という美しい破壊神。
「いま、行こう」
と、それしか手はあるまいと思われるヴラドの返事であった。
「だが、その前に、もうひとり会わせたいものがおる。――出でよ」
声にこもる自信から、男爵はすでに、次に生じる事態を予測していたのではあるまいか。
横転した彫像の陰から、白い影が滅びの女神のごとく現れたとき、すでに彼はその名を口に出していた。
「ミスカ殿――呪われた城におられたか」
「何をした?」
と男爵は天を仰いで詰問した。
「この女性に何をした、ヴラド卿?」
「何もせん、わしはな」
と声が応じた。
「何かしたのは、おまえも馴染みの医師よ、ジャン・ドゥ=カリオールだ」
「さようでございます」
と声がした。男爵の後ろからである。それだけで十分と判断したのか、男爵はふり向きもせず、異様に腰が曲がったミイラのような老人へ、
「生きていたか?」
と訊いた。労りなど、かけらもない声である。
「ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます」
深々と頭《こうべ》を垂れる老人は、心からなる感激の情を示していた。
「その娘御に何をした?」
「はい、極めて危険な存在が体内に巣食っておりまする。いえ、体内というよりは精神の内部に」
それは男爵も“破壊者”として知っている存在だった。
「それで?」
「この姫と話し合ったところ、本人も“破壊者”を追放して欲しいとのことでございます。叶えることにいたしました」
「おまえなら、できるであろう。私もそう言ったことがある。だが、気懸かりなのはその先だ。追放した“破壊者”をどうするつもりだ、ジャン・ドゥ=カリオール? 追い出しましたが、行き場もなくて戻って参りました、では済まんぞ。また、おまえがそのような真似をするはずがない。――何を企んでおる?」
「これは異なことを」
カリオールはのこのこと男爵の横を廻って、ようやくミスカと並んで彼の前に立った。
「私は、この姫のお力になる以外、何の他意もございません。いま、かような状態なのも、無事に手術を行うための麻酔の作用によるもので」
「なら、連れて行け。その代わり、断じて失敗は許さん」
「承知いたしました。ご懸念なく」
と老人はミスカの腕を取って、後じさった。
冷たいようだが、男爵の行動にはそれなりに筋が通っている。まず、ミスカと彼の縁は、本来、クラウハウゼンの村に到着した時点で完全に切れたのだ。次にミスカの体内の“破壊者”を放逐できるのはカリオールしかいないと、これは男爵も認めざるを得ない厳たる真実だ。また、人間たるカリオールが、たとえミスカをどう見ようと、貴族たる彼女に不利益な真似はできない。貴族に仕えるものの、それが掟だからだ。カリオールにできるのは、ミスカと“破壊者”を分離し、彼女を無事に解放することだけだ。
「ヴラド卿――愉しい余興でしたが、ひと幕で十分堪能いたしました。そろそろ、本分に戻らねばなりますまい。出られよ」
「その前に、もう一度だけ、見せたい余興がある」
前とは違う声の響きが、男爵の眼を瓦礫の頂きに集中させた。
そこへ、ぬうと立ち現れたのは、青紫のマント姿だった。
男爵よりも頭ひとつ高い――二メートルを越す長身だが、正方形に見えるのは、肩幅が異常に広いからだ。
面長の顔は黒い――黒人というのではなく、眼も鼻も口も輪郭しか見えない肌は、金属の光沢を帯びていた。
大きくはだけた、これも漆黒の胸もとで、黄金と宝石をちりばめた胸飾りが揺れた。
ひときわ眼を引くのは、黒い右手に握られたまばゆい笏杖《しゃくじょう》であった。頭部にはめこまれた真紅の石が妖しくかがやいている。
「卿よ」
と男爵は呼びかけた。
それに応じるかのごとく、胸前にたぐり寄せられていたマントの片翼が開かれた。
そこから現れた娘の姿は、あるいはと予期してはいても、男爵に低い吐息を洩らさせるに足りた。
「タキというたな。娼館に売られ、わしのもとへ来た。処女《おとめ》であるという。確かに美しい喉をしておる」
「触れるな、ヴラド」
男爵が前へ出た。
声もなく笑いながら、ヴラドはタキを抱き寄せた。術でもかけられているのか、タキは虚ろな眼をしたまま動かない。
「貴族でありながら、人間の血を吸うことを恐れる愚かもの。この娘を用意したのは、おまえに真の血の饗宴を見せつけるためじゃ」
その身体を縦に光の帯が両断した。
頭頂から眉間を通って股間まで抜けたまばゆい筋が、ゆっくりとヴラドを二つに押しのけようとする。
太い筋が糸に変わった。それがほろほろとちぎれて消滅するまで、一秒とかからなかった。
男爵は二撃目を放たなかった。黒い手がタキの腰を巻くや、ぐいと抱き寄せたのである。
黒い唇が開くのを男爵は見、真っ赤な口腔と白い乱杭歯をも認めたが、どうすることもできなかった。
タキの首すじと唇が重なった。忌まわしい黒白の交合は二秒ほどつづき、卿は唇を離した。それは赤く濡れていた。
男爵がこの凶行を黙過したのは、それが貴族にとっての日常的な「食事」の一景にすぎなかったからではなく、彼自身の遺伝子と個性にかかわる衝撃的な心理状態のゆえであったが、のけぞったタキの喉首に、二つのうじゃじゃけた傷痕と、そこからこぼれる朱色のすじを見た瞬間、彼は脱兎のごとく二人のもとへ走り出した。
その足下が、いや、ホール全体の床が突如、沈んだのは次の瞬間であった。
成す術もなく男爵は数十メートルを落ちた。彼を待っていたのは冷たい水であった。それは、ごおごおと音を立てて彼を呑みこみ、押し流した。
伝説にいう。
吸血鬼は流れ水を渡れぬ、と。
必死で手足を動かす耳に、高笑いと、
「おまえも貴族の端くれならば、そのまま溺れ死ぬがよい。もしも、助かりでもしたら、未来永劫に呪われるぞ」
という叫びが投げかけられた。
村外れの、廃棄された水車小屋にDとメイはいた。
小屋といっても、水車の動力で粉をひくなどというレベルではない。
水車の直径は優に一〇〇メートル。まさしく天高くそびえる神のろくろ[#「ろくろ」に傍点]とも見えた。いまなお悠久の回転をつづける幅五メートルもの大輪を動かすべく、小屋の横を川は滔々と流れていた。
Dとメイがいる小屋は、正確には発電所と呼ぶべきものであった。
より廉価な太陽《ソーラー》発電に切り替えられて二十数年を閲《けみ》していたが、広大な内部には、巨大なエネルギー変換装置をはじめとするおびただしいメカニズムや道具類、宿泊施設がそのまま残っていた。
Dが横たわっていたのは、そのベッドのひとつである。
メイを救出してから、一気に村外れへと走り、偶然見つけたここに入りこんだのだが、メイがお茶でもとキッチンを探し出し、幸いいまでも供給されている電力利用の電熱器にポットをかけ、いったん戻ってみると、Dは横になっていた。
少女を働かせて自分は楽を決めこむような若者ではないから、どうしたの、と覗きこみ、メイは愕然となった。
Dの黒衣の胸から、真紅の花弁を持つ花が三茎も生え出していたのである。
それが血の色だと、辺境に生きる娘はすぐに見抜いた。この花は、Dの血を吸い上げて、妖しくかがやいているのだと。
呆然と立ちすくむ娘へ、
「他所《よそ》にいろ」
とDは命じた。その手に細いメスが握られているのを見て、メイは思わず、
「だめよ、お医者さん呼ばなくちゃあ!」
と叫んで駆け寄った。
「医者では治せん」
とDは言った。
「それに、愚図愚図していると、追っ手がかかる。おれたちのことはもう、ヴラドの耳に入っているだろう」
十一歳の娘に事情を説明する。――それは子供ではなく、辺境に生きる女として見ている証拠であった。
「ひとりで――手当てするつもり?」
「行け」
「嫌よ、手伝います」
「君にできることはない」
「あったらどうします?」
自分でもどうして口をついたかわからない言葉であった。この美しい若者に負けないためには、挑戦的にならざるを得ないと、女の本能が命じたのかも知れぬ。
「待ってらっしゃい。いま、お湯を汲んでくるわ」
大急ぎでキッチンへ戻り、白い湯気を噴き上げるポットの湯を鍋に移して、水道の水を足し、よったらよったら両手で抱えて引き返すと、すでに凄惨とも何ともつかない光景が展開していた。
Dは自ら、血まみれのメスで一茎の花をえぐり取り、二本目に取りかかっていたのである。
床のうえに放り出された花の根が何と一メートル近くもあるのを見て、それが体内に潜りこんでいる図を想像してしまい、メイは鍋を取り落としそうになった。おまけに、根から滲み出る血が、床の上に小さな溜まりをつくっている。
Dは無言で二本目の茎のまわりに、円でも描くように食いこませたメスを動かした。
メイは眼を見張った。赤い花は、次の出来事でも恐れるかのように、花弁をわななかせたのである。
その根もとを掴むや、Dは一気に引き抜いた。
何とも言えぬ叫びが耳を打った。花の上げる悲鳴。
「待って」
と三本目に取りかかるDへ声をかけ、鍋を簡易テーブルの上へ置いてから、メイは失神した。
気がつくと、ベッドにいた。明かりは消えていたが、室内には水のような光がたちこめ、外では鳥が鳴いている。夜明けだ。
ひと晩中、ひっくり返っていたらしいと気がつき、メイはベッドを下りた。
Dの横たわっていたベッドも床の上も血まみれだが、鍋はない。
運んでくれたのだろうかと思った。気がついた自分に、必要以上に不快なものを見せまいとして。
「――D!?」
宿泊所を出ると、小屋のドアが開いていた。メイはまだ弱々しい光の中へ躍り出た。
玄関から川辺へ木の段がつづき、水が滔々と声を上げるそのかたわらに黒衣の人影が飄然と立っていた。
風がコートの裾をなびかせている。
「――D」
と呼びかけ、ようやく、頭上からさしかかる巨大な影に気づいて上向き、メイは金縛りになった。
西部辺境の大遊園地で乗った大観覧車――あの五倍はある。冷たく濡れた霧が顔に当たった。水車の輪にぶつかる水飛沫であった。
陽が天空高く昇れば、この水車の影は、クラウハウゼンの村を横断ないし縦断してしまうのではなかろうか。
この壮観から、水辺の若者に意識が向いたのは、すぐ――二、三秒後のことである。
駆け寄る娘の方をふり返りもしないハンターを、しかし、メイは冷たいとも、嫌われているとも思わなかった。
日頃見せる態度がどうあれ、自分の生命が危険にさらされたとき、彼は魔神のように駆けつけてくれたではないか。それが命懸けの行為だったのは、そばにいた自分が何よりも知っている。昨夜の血の花の苦しみは、自分を救うためにDが受けた傷なのだ。
改めて礼を言おうとしたが、言葉が見つからなかった。
どんな呼びかけをも拒絶する冷厳なものが、黒衣の若者にはあった。それが何のせいなのか、メイにはよくわからなかった。
ふと、Dがこちらを向いた。その胸は何事もなかったように黒衣で覆われていた。
「――D……」
それしか口に出せなかった。言いたいことは山ほどあった。
だが、美しい若者は、限りなくたくましい山のようにそこにいた。救助のことも、妖しい花のことも、吸い上げられた血と凄まじい手術のことも、それでいいのだった。
「昨夜、何かがここを流れていった」
とDは言った。
「え?」
「おれが出たときは、もう流れ去っていたが――」
光る水の彼方に眼をやってから、Dは小屋の方へと歩き出した。
メイは追わなかった。朝の風に吹かれていたかった。
小屋の中に消えるとき、美しい姿を陽光が照らし出した。
川向こう――森の彼方から朝日が昇ろうとしている。
ふと、Dは、ここで夜明けを待っていたのだろうかと思った。
とりたてて理由はないが、メイにはそれが、ひどく哀しい考えのように思えてならなかった。
クラウハウゼンの村を横断する川は、東から西へ流れる一本と北から南への計二本がある。
なぞればほぼ直線となる川と川との交差点は、ヴラドの古城である。澄んだ水の流れは、分厚い城壁の地下へ吸いこまれ、東からの流れは西へ、北からのそれは南へと脱け出る。水流は水車の例を見てもわかるようにかなり激しく、山間部ばかりか村の中でも年に何人かの水死人が絶えない。
村人は南北の一川《いっせん》をピアス、東西の一流をスピアと呼んでいた。
そのピアス川の下流に、早朝からおかしな屋台がかかっていた。
折り畳み式のテーブルをはさんで小さな椅子が二つ。占い師風ではあるのだが、定番の水晶玉も星座表もない。テーブルに並んでいるのは、ただひとつ、小さな鏡だけだ。
早朝からクラウハウゼンの村へと急ぎ、あるいは通過する旅人は数多く、いやでも屋台は眼に入る。
ほとんどの者は最初、何だ、こりゃ? という風な訝しげな眼つきを送るが、そのかたわらに立つ人物に気がつくと、ぎょっとして、まじまじとその顔を見つめ、そのうち眼が合うと、もう一度ぎょっとした表情になって、そそくさと立ち去ってしまう。
夜明けから一時間ほどの間に、屋台の前を通りすぎた旅人や馬車は十人、三台を数えるが、すべて同じ反応を示した。
そこへ十一人目と十二人目――父娘《おやこ》連れらしい二人がやって来て、父親は行き過ぎようとしたのだが、娘の方はぴたっと足を止め、屋台の横に立つ男を指さした。
「父さん、見て。あの人――凄くきれい[#「きれい」に傍点]よ」
夕方、別の村で商用のある父親は、うるさそうに道の奥からそちらへ眼をやったが、途端に、はっと眼を剥いた。
これは夢ではないか。
立っているのは、虹色のコートを着た男だ。クラウハウゼンの村の賑わいは父親も知っているから、こんな狂気じみた色彩をまとっている男を見ても、さして気にも止めなかったが、顔は別だった。
面長の――馬面といってもいい顔なのに、つぶらな瞳、すっきりとのびた鼻梁、草の葉のような唇、そして、透きとおるような肌。どこから見ても青春の美そのもののような少年の顔なのだ。
悪いと思いながら、つい、かたわらの我が娘《こ》と見くらべてしまう。しかし娘の方は気にもせず、男のパフォーマンスに夢中だ。
パフォーマンス? ――男は片手に三段重ねの化粧函を、片手の指の間に化粧ブラシをはさんで、自らの顔にメイクを施しているのであった。
「ほら、できた」
とブラシを睫毛から離すと、父娘は、ああ、と呻いた。
よくよく見れば、眼は細すぎるし、瞼は異様に厚い。鼻筋こそシャープにのびているものの、小鼻は左右にいかって、いわゆる胡座をかいている状態だ。唇もソーセージみたいにもったりと貼りついている。
それが天下の美少年に見えるのだ。
メイクの力だ。しっとりと濡れたようなアイシャドウが瞼に影を落とし、微妙な肌の色を再現したファウンデーションが、小鼻の三次元的な張りを二次元平面に塗りつぶしてしまう。はかなげに見える唇は、言うまでもなくルージュと塗り方の妙だ。
「お嬢さん、いかが?」
と指さす椅子の方へ、娘はふらふらと歩き出した。
「おい――ジョーナ」
と止めかける父親へ、
「ご安心下さい。これから村へ入ろうという旅のお方専門のメイク師クロモでございます。美しいお嬢さんをさらに美しくするのが生き甲斐で。お代は――金など要りません」
「金はいい?」
父親の口もとを吝嗇《りんしょく》そうな笑いがかすめ、あわててそれを消すや、彼は、
「しかしなあ」
と言った。
「あたし、して欲しい」
と娘がうっとりと、化粧したごつい男を見つめた。よく見れば、男――クロモの素顔がわかるのだ。だからこそ、施されたメイクの素晴らしさに、女の本能が天にも昇る心地になる。これまで通った旅人は男ばかりであった。
いいじゃないの、無料なんだから、と言われれば、父親も何となくうす気味悪い奴だと思いながら、まさか、朝っぱらから妖物でもあるまいと考え直して、結局、してもらう羽目に陥った。
娘を椅子にすわらせ、自分は反対側に腰を下ろして、さて――
メイクは一分とかからずに済んだ。恐るべき速さの上に、適確この上ない化粧であった。アイ・ブラシが躍り、パフが虹色の粉をはたいた。
「いかがでしょう?」
と鏡を差し出すクロモの顔は、素顔の馬面に戻っている。これは、こちらがあんまり美男子だと、娘がいくら良くなっても感激はうすい、と判断したのにちがいないが、はたして、
「すっごーい」
と娘は歓声を上げた。いや、声をふりしぼった。
妖艶極まりない眼差し、桜色の頬――鏡に映っているのは、まさしく、水の泡から生まれたヴィーナスに外ならなかったのである。
「いかがです、お父さん?」
クロモの呼びかけに、呆然となった父親は返事もできなかった。娘の変貌に呆気にとられた、いや、何やらそれ以上の、というより別種の感慨に身の内が満たされたように見えた。
「いや……凄いもんだ……あの娘が、こんなにも……色っぽく……」
眼も声も虚ろだ。
「素敵だわ、お父さん――ほら、あたし、世界一の美女よ」
スカートの端をつまんで、くるくると廻り出した娘をクロモが追いかけ、父親から少し離れたところで、ささやくように、
「気に入りましたか、お嬢さん?」
と訊いた。
「もちろんよ、ありがとう! あなたは世界一のメイク師だわ!」
「いいえ、ただの化粧好きで。それよりお嬢さん、この顔には美しいモデルが実はいるんですよ」
「モデル? ――でもいいわ、こんなにきれいなら、そういう人が二人いたって、いいでしょ」
「もちろんですとも。ですが、それは考えものです。このモデルというのは、実は希代の悪女なんですよ」
「悪女?」
娘は足を止め、ぼんやりとクロモを見つめた。
「そうなんです。自分がきれいなのを鼻にかけて、男どもに貢がせる、金がなくなった男はあっさりと切り捨てる、友人の男友達は自分のものにする、果ては男に命じて銀行強盗、家畜泥棒、人殺し、誘拐――何でもやらせました。しかも、最悪なのは――」
少し離れたところで、父親は娘に何ごとかささやくクロモを眺めていた。
何だかおかしいぞ、と思ったとき、娘がこちらへ向かってきた。新しい美貌は、さっきよりずっときつい顔をしていた。
「どうしたんだい、おまえ?」
思わず、不気味な感じがして尋ねると、
「ううん、何でも」
首をふるなり、娘は腰の護身用ナイフを抜いて父親の胸に刺し通した。
「お――おまえ……」
それきり言葉もなく倒れた父親に、クロモが駆け寄って脈をとり、うなずくと、父親の懐を探って分厚い財布を取り出した。
二、三度重さを確かめ、上衣のポケットへ入れると、血染めのナイフ片手にぼんやり立っている娘を、恭《うやうや》しく示し、
「このモデルの最悪の特徴は、利用した男を皆殺しにすることで。――育ててくれた父親なんぞは殊に危ない。くわばらくわばら」
と愉しげに口上した。
それから娘の背後へ廻り、その肩にやさしく手をかけると、またも耳もとで、
「こういう極悪人を生かしておいちゃ、世の中に法も道もないことになる。それじゃあ、いけません」
次の瞬間、娘はのけぞった。
左右の乳房の間から、鋼の先がのぞいていた。
痙攣する背に片足をかけ、ぐいと蛮刀を引き抜くと同時に、娘の身体を道の下を流れる川へと蹴りとばして、
「へい、化粧はおしまい」
にんまりとする美少年[#「美少年」に傍点]の耳に水音が届いた。
舞い上がった水飛沫が川面に落ちて大小の波紋をこしらえると、そこから少し離れたところに、赤い水の広がりと小づくりな身体が浮かび上がり、激しい水の勢いにまかせて流れ去っていく。
すぐに父親の身体も後を追わせて、
「意外な儲けがありました。本日はこれにて店仕舞い」
恭しく頭を下げた遥か彼方を、赤い布地みたいな血の帯を引いて流れ去る死体が、どんな気持ちでこれをきいたか。
ひょいと持ち上げた美しい顔が、眉根を寄せて、
「おや、他にもあたしみたいな奴が」
とつぶやいて上流の方を見た。また、すぐに川面に眼を戻す。
この辺は川幅も大きく広がり、その分、流れも、急なところにくらべてゆるやかなせいで、川っぷちから倒れこんだ木立や棒杭に、色んなものが引っかかって離れないのだが、いま、父娘を始末した地点より五、六メートル上流に、人がひとり、片手を倒木の枝に引っかけ、他はすべて水中に没しているのを発見したのである。
つまり、「他にも――」云々の台詞は、この水死体製造者に自分を引っかけた悪質な冗談だったわけだ。――わけだが、それを眺めているうちに、クロモの眼は驚愕の光を帯びてきた。
深い海を思わせる蒼いマント、水中にたゆとうてなお雄々しく映る偉丈夫さ――これは決して人間ではない。貴族だ。
そして、クラウハウゼンに存在する唯一の貴族と、最近慌ただしいその事情とを鑑みれば――彼はカリオールとヴラドに仕えるものであった――これは、あいつだ。畏れ多くも、卿を弑し奉りに来るという不届き者――バイロン・バラージュ男爵に外ならない。それが、なぜこんなところに? 決まっている。昨夜、すでに城を訪れ、返り討ちにあったのだ。
ざまあみろ、とはクロモは思わなかった。ザナス、サイファンと並ぶヴラド卿の三強のひとりだが、後の二人ともども、元はカリオールの配下だからして、卿への忠誠心はさして強くない。
とりわけ、このクロモは、バイロン来襲の防御陣をザナスとサイファンにまかせ、自分は朝っぱらから強盗殺人に励んでいるように、はっきり言って、ヴラド卿など、いざとなったら見捨てて逃げ出してしまえくらいに考えているマイペース男――というより異常性格者なのである。
面白い、親子で殺し合うがいいや、と彼は内心でせせら笑った。
そのとき、唯一水から出ていた男爵の青い手が、ぴくりと動いた。
実は男爵の手は直射日光を受けず、倒木の枝葉が水面に落とす影の中に入っていたのである。ただし、太陽がもうほんのちょっとでも高みに来れば、影は退き、手の甲あたりの線は陽光にさらされる。そのちょっとが来てしまったのだ。
服と手甲で覆ってはいても、貴族の肉体は陽光に微妙に反応する。不死の肉体がいま、それを妨げようとする力に対して異議を唱えはじめたのだ。
「これは面白い」
とつぶやきながら、クロモの表情に何とも愉しげな邪悪さが浮上した。
彼は素早く倒木の位置まで歩き、枝の一本に手をかけて、上体を川面へ突き出した。
そして、男爵の手首を掴もうとした刹那――彼の手首にも男爵の指が絡みついたのである。
「ひい!」
と洩らしたところを見ると、この化粧マニアは、意外と臆病者らしかった。
それでも、絡んだ指がそれ以上上向きもしないのを確かめ、どうやら安心と思ったか、渾身の力をこめて、男爵の身体を倒木の上に引き上げてのけたのだ。
だが、すでに木は直射日光にさらされていた。
男爵は声もなく身を痙攣させた。その濡れた美貌から白煙が立ちのぼりはじめた。
「こりゃ、いかん」
貴族の崩壊を悟ったクロモは、その身体を肩にかつぐや、かたわらの鬱蒼たる森の中へと全速力で走りこんだ。
木漏れ日すらない深い闇の底のような草むらへ男爵を下ろすのに、二分とかからなかった。
肩で息をしながら、彼はあらためてバイロン・バラージュの顔を見た。
「なんて、いい男。これは化粧のし甲斐があるわ。さ、眼を覚まさぬうちに」
そう言って取り出したメイク用具の不気味さは最前の無残な殺人劇でも知れる。
ああ、闇の壷の底のような大森林の一隅で、彼はどんな化粧を男爵に施そうとするのか? また、その意図はどこに?
[#改ページ]
第四章 水の女
メイの眼には、完全に回復したように見えるDだが、実際はなお、肉体内での熾烈な戦いを繰り広げていた。
紅はこべの放った吸血花は、かつて彼が男爵の肺から切除した分より、遥かに悪質強力だったのである。
毛根の先から噴出させる毒素は、ダンピールたるDの血液成分さえ忌まわしいものに変えた。血そのものが毒と化したのである。この花は汚れた血を好むのだ。
しかも、抜き取られる寸前、地獄への道連れとでもいうつもりか、分泌した毒素はこれまでの十倍の量にも達した。それは、いまなおDの血液を汚染し、体内を巡っている。
不老不死たる貴族の肉体を有するDだ。汚れを自浄する能力が血にはある。だが、それは半日か、一日か、三日先か。
昼前まで彼は水車小屋――というより工場の内部《なか》で動かずにいた。
メイは不安だった。タキのことである。
昨夜、あのでぶ[#「でぶ」に傍点]は、Dに首を絞められながら、タキはヴラド卿の城だと言った。ヴラド卿は処女の血が大好物だとも告げた。
ひょっとしたら、もう遅いかも知れない。
Dはどうしてる――と思いながら、見ると、黒い美影身は足音も立てずに工場内を歩いて廻っているようだ。思索ではなく、観察であろう。時折、メイには訳もわからないメカニズムに手を触れたりしている。
早く助けに行ってあげて。
じれったさを感じながらも、辺境の娘としての厳しい認識も頭をもたげてくる。
彼には、自分たちを救う義務も義理もない。彼の仕事は貴族――吸血鬼を狩ることだ。それが、貴族二人の護衛として、死闘をつづけながら目的地まで辿り着いたのは、おかしいといえばこれほどおかしいこともないが、その辺は、この美しい若者の、人間とも貴族ともかけ離れた不思議な性格からだと、理解できぬこともない。
だからこそ、メイには到底理解し得ないDひとりの信条にのっとって、彼は昨夜の救出劇を演じたのだ。
それなら、タキも――とは、メイには言えなかった。彼女ひとりを救うため、Dがどれほど犠牲を払ったかは、小屋での凄惨な手術を見ても明らかだ。いまは完治した――ように見える。だから、助けに行って、とは口に出せるものではなかった。
昼近くになった。
空漠たる小屋の内部に、三つ目の、あり得ない嗄れ声がした。
「雨じゃ、な」
窓の外を絹糸のような筋が斜めに走っていく。
「通り雨ではなさそうじゃ。予定が狂ったの」
Dは答えず、数を増してくる雨の筋を見つめた。
正午から一時間――これこそ、貴族の力が最も弱まる、いわば魔の時間帯なのである。柩の中に眠るもののバイオリズムは極端に低下し、ほとんど身動きできなくなる。バラージュ男爵とて、この時間にはDへ話しかけることはできなかった。そして、父たるヴラド卿も例外ではあるまい。
さて、雨が降った。
この場合はどうなるのか? 数多くの貴族の科学者が測定したところによると、バイオリズムの低下は通常の真昼より押さえられる。
雨も吸血鬼の弱点たる流れ水の一種にはちがいないのだが、真昼の陽光を遮るという意味で、貴族にとっては、毒をもって毒を制すような効果を与えられるのだ。
だが、ダンピールたるDにとって、これは大いなる試練以外の何ものでもなかった。雨が貴族の味方になるのは、彼らが柩に守られているからだ。対してDは、素肌に流れ水を浴びなければならない。
その筋肉は敏捷性と強靭さをともに失い、身体は重く、悪寒と熱とが交互に全身を襲う。
ほとんどの吸血鬼ハンターは、雨の日の戦いを避け、柩の中の貴族はこのときとばかり、配下の刺客をさし向ける。
Dが鞍を取り上げ、メイの方へやって来た。
きょとんとして棒立ちになる娘へ、
「おれは村を出る」
と言った。
少女の瞳に、納得と――絶望が色を刷《は》いた
「それとも、おれを雇うか?」
メイの頭に破《わ》れ鐘が鳴るような大音響が渡ったのは、少ししてからである。
「私が――あなたを?」
「おれはハンターだ。雇い主は区別せん」
「でも……」
メイは胸の中に熱いものがこみ上げてくるのを覚えた。それは感動であった。
「でも、お金がないわ」
「後払いでいい」
Dは冷たい声で言った。
「それなら――それなら、雇える。D――あなたを。タキを助けてあげて」
「承知した」
とDは言った。契約はここに成立したのである。
「城へ行く。ここで――」
待て、と言いかけて、Dはまた、窓の方を向いた。
すでに煙をかぶせたような雨足に、風景はすべて影絵みたいに滲んでいる。その彼方からきこえる鉄蹄《てってい》の響きを、彼は聴きとったのである。
「来たようじゃの」
と嗄れ声がメイにはきこえぬ声で言った。
「敵が来た。外の船着き場にボートが舫《もや》ってある。それに乗って待て」
静かだが、有無を言わさぬ鉄の声に、タキは無表情に奥のドアへと走った。それを見届け、Dは小屋の中央に進み、黙然と立ち尽くした。
五秒――一〇秒。鉄蹄の響きは大地を打ち砕くどよめきと変わり、小屋の前で止まった。
「十名」
と左手が言った。
「出て来い、ハンター」
ドアを通して呼びかけるマイクの声がきこえたのは、すぐ後だ。
「おまえの素性は知れておる。雨の中へ出るがよい。それが嫌でも、あと五秒後に、この小屋は吹っとぶぞ。――五……四……」
声が「一」と数えたとき、Dはドアを抜けた。
雨に煙る世界のただ中に、すでに馬を下りた人影と、なおも馬上に留まっている二人の男とが滲んでいた。
「挨拶しよう」
と馬上の若者が、にんまりと唇を歪めた。
「ご存じかも知れんが、おれはザナス。ヴラド卿に仕える下僕だ。こっちは“千手足”のサイファン」
「えらいことをしでかしたもんだな」
とサイファンが呆れたように言った。
「フィッシャー・ラグーンの館へ押し入って客をコケさせ、ガードマンを斬り殺すとは、よ。あんたな、あそこはただの娼館じゃねえんだ。いわば、この村のもうひとつの聖域だぞ」
「余計なことを」
じろ、とザナスがにらみつけたが、サイファンは、
「いいじゃねえかよ。どうせ、いまここで死ぬ身だ。吸血鬼ハンターが何も知らねえであの世に送られちゃ、化けて出てこないとも限らねえ」
と言ったが、どうやら当人の方がしゃべりたいらしい。
「あの館がそもそも、あんなに派手に商売していられるわけがわかるかい? ここだけの話だが、あそこはご神祖の――うげ」
と息を詰まらせたのは、ザナスが片足を彼の脇腹に食いこませたからだ。
苦痛に顔を歪めて、しかし、すぐもとの顔に戻ると、この男、平然と、
「――とにかく、あそこで血を流しちゃならねえのさ。それを破ったのは、あんたがはじめてだ。いい悪いは別として、おれは感心したが、こんなに早く討っ手がかかったのも、そのせいさ。連絡を受けた卿がカンスケになっちまってよ、昨夜のうちに、村中へ捜索の手をのばしたってわけさ。ここを見つけたのは、テレビ・アイを内蔵したヤマバトのおかげだ。もっとも、朝のうちでよかった。いまのこの降りじゃ、よっぽど接近しなきゃ、わからねえだろうからな」
ここまでまくしたてて、ひと息ついた。
「ガリルという名を覚えているか?」
とザナスが冷たく訊いた。
「奴が率いた水軍団――おまえたちに斃されたであろうが、ここにいるのは、あの後で改造された、軍団中の精鋭部隊だ。おれたちの番になる前に殺られるなよ、D」
こう言って、ザナスが顎をしゃくるや、それまで雨に打たれていた人影は、ゲコ、とひと鳴きし、音もなくDめがけて前進を開始した。
水溜まりを踏みつつ近づく奴もいる。胴体の半ばまでを土に溶かした奴もいる。最も不気味なのは、その両方――水から出たり入ったりしている奴だ。
そいつらを平然と迎え、
「おまえたちの主人のもとへ、昨夜、娘ひとりと男が出向いた」
とDが言った。
「どうなった?」
「おお」
とサイファンが片手を上げ、またザナスににらみつけられた。
「カリオール師匠にきいたよ。男てなバイロンさまのこったろ。可哀相に、その娘とやらが眼の前で血を吸われるのを見せられた上、流れ水にドボンだとよ。いまはどうなったか。多分、水ん中でふやけて、魚の餌だろう。もう、泣けてくる話だよな」
「おまえが来たのがわかってから、城の警備は十倍も堅くなった。鬼神も入れまい。もっとも、おまえにはそのような心配は無用だろう。――かかれ!」
ザナスの叱咤とともに、二名の水軍人がDめがけて躍った。右手の蛮刀が雨にしぶく。
Dは動いたとも見えなかったのに、そいつらは勝手にその両脇を通過し、背後のドアに激突した。泥がぶつかったような音がして、呆気なくつぶれた。後には黒い粘液の染みが残った。
いつ抜いたのか、Dの右手に鈍くかがやく一刀を認めて、馬上の二人は顔を見合わせた。
「こりゃ、無駄死にだよ」
とサイファンが、なおDを取り巻く六名の水軍人を痛ましげに見つめた。
「下がらせろ、おれがやる」
「いいや、おまえには、あの女貴族をカリオールさまのもとへ連れていかせてやった[#「連れていかせてやった」に傍点]。いい目を見るのは、おれの番だ」
サイボーグ馬の腹を蹴ると、馬は雨中を前進した。
「お疲れのようだな、D」
とザナスは馬上から呼びかけた。
驚くべきことに、彼はいまの太刀さばきから、Dの体調を読み取ってしまったのだ。誰の眼にも、異常があるなどと見えぬ斬断の神技から。
「もうひとつ教えてやろう。おまえはすでに、おれの術中に落ちておる」
はっとしたのは、Dではなく、むしろサイファンの方だ。
「行け!」
とザナスの叱咤を受けて、今度は三つの影がDに殺到した。
そのことごとくが、彼の周囲で泥とも粘塊ともつかぬ残骸に変わったとき、Dの両肩から鮮血が噴き上がった。
「手がよく動かなかったようだな。おまえがあの岩道で見つけた人形のせいさ。おまえと同じ顔をしていたろうが。あれはおまえさ。そしてあの人形を通して、おまえ自身が、今度はおれの操り人形になったんだ」
「どうだい、ハンター、もうひとつこしらえといたぜ」
ザナスが右手を背中に廻すと、翻った右手に、鮮烈な美貌がきらめいた。
Dの顔――いや、面であった。
古来、人間の顔を再現する写真や面には、被写体の魂を吸い取る妖力があるとされていたが、このザナスのこしらえた面は、まさに言い伝え通りの力を発揮したのである。ほんのいっとき、Dの魂は瓜二つの面に移され、彫り出したザナスの支配下に入る。
心臓を杭で射抜く間だけ。
残った水軍人どもがDを押しつつみ、次の瞬間、白光に首を斬り離されて溶解した。しかし、見よ、Dの右脇腹からも鮮血が迸っている。
「効いているのに――やるなあ」
とザナスが掛け値なしに感嘆し、ぐっと手綱を引いた。
サイボーグ馬がいなないて、前進の姿勢をとる。
「いよいよ、おれが相手だ。あの世の門を叩けるよう、手袋は肌身離さず持っていろ」
篠つく雨をついて灰色の人馬は走った。
ザナスの右手には、すでに長剣が握られている。
鮮血にまみれて、Dは、しかし、黒い孤独な鉄像のように立っていた。
その顔が、もうひとつ[#「もうひとつ」に傍点]の顔を見た。
高々と掲げた美しい仮面に縦に亀裂が走ったのは、その刹那であった。
「あっ!?」
気づいたザナスが絶望的な叫びを放ったのは、Dめがけて跳躍した後だ。
その頭上へ躍った世にも美しい黒影の一刀は、いかなる呪縛とも無縁の速度と力とをもって、面つくりの頭頂から胸まで一気に斬り下げていた。
灰色の世界に朱の色が渦巻いた。
着地と同時に反転したDの顔面へ雨の壁がうねるように叩きつけた。
それでも瞬きひとつしない双眸は、遠ざかりゆく影と鉄蹄の響きとを捉えたが、もはや追撃は不可能な距離であることも明らかであった。
一体、どんな刀法を駆使しているのか、血の一滴もついていない刀身を背に戻して、Dは小屋の方へ身を翻した。
その後方から、生命あるものの声とは思えな呻きが這い上がってきた。
「甘く……見過ぎた……のか? ……“D”という名の……男を……よ?」
それはザナスの声であった。確かに頭頂から胸骨までを斬り下げられながら、なんと、彼は馬上で手綱を握りしめていたのである。満身――どころか馬の背まで血まみれだ。そして、なおも血は傷からこぼれ、しかし、それももはや出尽くしたのか、ふり注ぐ前に消し落とされて、凄まじい傷痕と白蝋の肌とを露わにしつつある。
いつものDなら、容赦のない止めを送るところだ。それを踏み止まったのは、この敵の精神力に、奇妙な感動でも覚えたものか。
「ひとつだけ……教えて……くれ……どうして……おれの……面が……」
死者さながらの言葉にも、Dは答えない。そのとき、二人を隔てる雨の紗《しゃ》を風が別の方向へ向けた。
すでに死相と化していたザナスの両眼に驚愕の光が点るや、それはみるみる、納得したような、安らぎともいうべき翳に変わっていった。
「そうかい……本物は……そんなにも……いい男だったの……かい……これじゃあ、おれの手になんぞ……負えるはずが……ねえ……面は……恥ずかしがったんだな……」
最後にひと言、
「色男はちがうな」
感嘆のつぶやきを洩らすと同時に、ザナスの身体は鞍から地面へ落ちた。
死体を確かめようともせず、Dは土砂降りの中を水車小屋へ戻った。
メイが駆け寄ってきた。ボート乗り場にいろという指示に反して、雨中での死闘を見ずにはいられなかったのである。
黒衣の脇腹からしたたる鮮血が、少女の網膜を紅く染めた。
立ちすくんだのはほんの一瞬で、メイはすぐ、ブラウスの片袖を引き裂き、Dの傷口に押し当てようとした。
「よせ」
短く言ってDは奥へと歩き出した。
「どうして? 手当てしなくちゃ。いくらダンピールだからって、ひどい傷よ」
「じきに治る」
静かだが、圧倒的な重さに満ちた拒否の前に、メイは立ちすくみ、しかし、すぐに気力を奮い起こした。
「駄目よ。黴菌だってうじゃうじゃいるんだから。――さあ、見せて」
驚いたことに、Dは立ち止まり、無言で黒い脇腹を示した。
布地を押し当てようとして、メイは、
「あら?」
と洩らした。流血は嘘のように止まり、こびりついた血潮は黒々と乾き切っている。
それは、彼女の知識にあるのとは根本的に異なる、魔法のような治癒現象であった。
ダンピールならではか? いや、誰の話を聞いても、単なるダンピールがこれほど凄まじい回復力を示すのはあり得ないことであった。いずれにせよ、彼女は何の役にも立たなかったのだ。
茫然と立ちすくむ少女の前を二、三歩行きかけ、Dは足を止めると、ふり向いて片手をのばした。
「貰おう」
と言った。
メイの顔がかがやいた。冬の清夜のように美しく冷たい若者は、他人の心づかいに報いることを忘れてはいなかったのだ。
布を傷口に当てると、
「すぐに出る――用意しろ」
とDは言った。この隠れ家は、すでに気づかれている。
「わかったわ」
大きくうなずく少女の瞳の中に、ゆっくりと地に沈むDの姿が映った。
「――D!?」
駆け寄って、メイは、片膝をついたDの傷口に眼をやった。
布は真っ赤に濡れていた。
「どうして!?」
思わず叫んだとき、布と傷口との間から、血にまみれた木の根みたいなものがうねくり出たのである。いや、まぎれもなく、それは細い根であった。ああ、Dの体内に播かれた紅はこべの種は、その血を吸って、ついに外部へと伸張するほど成長したのである。Dが脇腹への一刀を受けたのは、降りつづける雨とザナスの魔力もあったが、この内なる脅威の存在も大きかった。
うねくり出ようとする根を、Dは鷲掴みにするや、一気に引き抜いた。肉の裂ける音を立てて、血まみれの塊が現れた。それが何やら不気味な花の形をしているのを見て、メイは遠のく意識を必死で引き戻した。
「それは――何?」
Dは立ち上がり、恐るべき吸血花を地べたへ放って踏みつぶした。大量の血が波紋のように広がった。
メイが何もできずにいるうちに、彼は、
「少し待て」
と告げると、奥の管理人室へ入った。
ドアを閉め、ベッドの縁に腰を下ろしてから、右手で小刀を抜いた。
何をしようというのか? ――手術だ。体内に巣食い、なおもその勢力を広げていく血の花を、彼は自ら胸を裂いて摘出しようとしているのだ。
ただでさえ少ない血の気を失った美貌に苦痛の色など一片も留めず、Dは左胸の一点に切尖を当てた。
鮮血が噴出した。
やや眉をひそめただけの表情で、Dは冷静に小刀を握り、胸部を十文字に切り裂くと、その隙間から右手をさしこんだ。
と血の糸を引きながら摘出された花は、一〇分後で六茎を数えた。
うっすらと汗を滲ませながら、Dは小刀をひとふりして血の珠を払い、
「出ろ」
と低く命じた。
ゆっくりとドアが開いていった。
「やっぱり見破られていたか」
戸口で愉しげにつぶやいたのは、頭から黒いマスクを被った壮漢であった。眼どころか口さえも開いてない。文字通りのノッペラボーだ。
腰に提げた戦闘ベルトのつけ方も、一見無造作に見える長剣の角度も、並々ならぬプロの凄みを感じさせた。事前に彼の接近に気づきながら、Dがいかなる行動も起こさなかったのは、殺気が感じられなかったためである。
黒マスクは軽く頭をふり、
「いかんな。見てるとめまいがしてくる。こんないい男が世の中にいるとは思わなかったぜ」
ため息混じりに洩らしてから、
「ある人の依頼であんたを護衛することになった。――用意してくれ」
「ある人とは誰だ?」
とDは訊いた。開胸手術の後だなどとは微塵も感じさせない口調である。
「おれたちもわからん」
と男は答えた。
「ただ、昨夜中に依頼され、あんたの居所を教えてもらっただけだ。――さ、一緒に来てくれ」
「まだだ」
と答えて、Dはベルトのパウチから、小さな皮袋を取り出した。
茶色の粉末を傷口にふりかけたとき、黒マスクが、
「おい」
とあわてたように声をかけた。
火花が上がった。一塊の黒煙が空中へ漂っていく。ぷん、と広がったのは、肉を焼く匂いだ。Dがふりかけたのは、火薬だったのだ。辺境ではよくある消毒法だが、現実に眼の前で見ると、何という荒っぽさか。
「聞きしに勝るな」
黒マスクが呻いたのは、治療法そのものよりも、Dの表情に一点の苦痛の色も浮かんでいなかったからだろう。ベッドの縁から平然と立ち上がる姿を見ては、なおさらであった。
部屋を出ると、小屋の真ん中にも五人の黒マスクが、メイを守るように立っていた。全員が腕利きと、その居ずまいで知れた。これほどのプロを六人も――ひょっとしたらそれ以上――雇うとは、依頼人はよほどの金満家らしい。味方だとわかったのか、メイも気味悪そうだが、脅えの気配はない。
一同は外へ出た。みな、黒い煙のように雨に溶けた。
街道を避け、間道を通って、分かれ道に出た。直進すれば町へ、右に曲がれば禁断の土地――ヴラドの館へ出る。
Dが馬を止めて、
「隠れ家というのはどこだ?」
と訊いた。最初の黒マスクが、
「町のソーントン通りにある倉庫だ。すぐにわかる」
「その娘だけ連れていけ」
メイが、はっとこちらを見た。
「どこへ行く?」
「おれにも依頼主があってな」
とDはメイに片手を上げた。
上げたときにはもう、雨を弾きとばす黒影と化していた。
「あの傷で――大した男だ」
黒マスクが錆びを含んだ声で言った。
「ヴラドの館へ行くか。――だが」
Dはすでに雨に溶けていた。
「Dという名の男でも、ヴラド卿には及ぶまい」
それは、メイにも反発できぬ真実を告げる口調であった。
滔々と流れる川が、大きく右に折れるところで、Dは立ち止まった。
曲がれば館が見える。
Dの胸に青いペンダントが妖しくかがやいていた。彼を求めるセンサーその他の電子機器はすべて無効と化す。いや、Dの姿を捉えられなくなってしまうのだ。
敵は昔ながらのレンズを応用した索敵器と、人間の眼に頼る他はない。
馬を近くの木につないで、Dは川辺に下りた。
さっきから、遠くで鴉《からす》の鳴き声がした。
ヴラド卿の館の上空を舞っている不気味な鳥たちをDは憶い出した。彼は館を迂回し、その後方に廻ったのである。
館とその周辺の事物に関しては、旅の途中で男爵からきかされていた。
流れはゆるやかとは言えなかった。川縁の岩に当たった水は、白い牙を剥いている。
Dは静かに水に入った。浅くはない。ひと足で腰まで。次の一歩で肩が消えた。
旅人帽だけが、黒い芥のように浮かび、それもすぐ見えなくなった。
言うまでもなく、Dは水中を移動しているのだ。
そして、流れは五〇〇メートルほど先で、館の底に吸いこまれる。
通常ならば、飲料水として、あるいは他の用途にも水は必要だ。だが、貴族の城は水を必要としない。川に用はあるが、水そのものに重要性はあまり認められず、また城内には雨を降らせるメカが完備しているのだ。
ヴラド卿の館が例外的に水を必要とする理由をDは知らなかった。彼は川と城の構造を遠目に見て、水の流入を看破してのけたのである。
程なく、黒い巨大な取り入れ口が、洞窟のように迫ってきた。
表面に太い鉄の棒が縦に走っている。水中の侵入者に対する備えもやはりあったのだ。
Dはそのうち二本を両手で握りしめた。曲げる気か? いかに貴族の血を引くダンピールとはいえ、太さ三センチもの特殊鋼を曲げるなど不可能だ。ましてや、ここは貴族が最も苦手とする水中ではないか。
Dの口から気泡が噴き上がった。同時に墨みたいなすじが口の端からこぼれ、網のように広がっていった。
血だ。彼は自ら唇を噛んだのだ。
ぐいと右腕をひねるや、鉄棒はゴムのように曲がった。左側の一本も後を追う。
身をひねって棒を抜け、黒い穴の中に吸い込まれていくとき、Dの両眼は血色の妖光を放っていた。自らの血を飲んで貴族の力を解放したその美貌は、悪魔も三舎を避けるような、冷酷無惨な吸血鬼のそれと変わっていた。
流れがゆるやかになり、上方から青い光がさしこんできたとき、Dは浮上に移った。
生きものの気配はない。
上がったところは、水路の横を走る点検用の歩道だった。前後にドアがある。
Dは素早く周囲の構造を調べ、前方のドアへと向かった。
コンピュータ照合のドアである。胸もとで青い光がきらめいた。ドアは音もなく開いた。
凄まじい光景がDを迎えた。
途方もないサイズの黒いピストンが縦横に並び、運動を繰り返している。それを支えるアームが一回転するたびに、どこからともなく白い蒸気が噴き上がり、Dの姿を霧の中の佳人のように隠した。
アームの長さは優に五〇メートル、それを支える基部は途方もなく大きく広く、重さは千トン単位であろう。
一往復のたびの音も猛々しく、超弩《ど》級の雷鳴のように響き渡って、Dでなければ、発狂するか、その前に自ら鼓膜を引き裂いてしまいそうだ。
恐らく城のエネルギー循環を支えるための装置なのだろう。白い蒸気の壁の中にゆらめく黒いメカニズムは、まるで永劫の作業をつづける異世界の巨人《タイタン》のように生々しく、凄絶であった。
「大したものだな」
とDの左手のあたりで声がした。一転、それが、
「おや?」
という訝しげな感想を洩らしたとき、Dの眼も巨大なメカニズムを離れて通路の前方を向いていた。
一二、三メートル前方に立っているのは、確かに白いドレスの女だった。ほの白い、燐光ともいうべき光が全身を包んでいる。
「ほう」
と左手が洩らしたほど、その姿は美しく、気品にあふれていた。
だが――
「死人じゃな」
と言う声が届きでもしたかのように、女は崩れ落ちた。
足早に近づき、Dはその地点に女の影どころか、ドレスさえ残っていないのを確かめた。
ひとつだけ。――石の通路はぐっしょりと濡れていたのである。
左手のひらをあてがうと、
「真水じゃな。川の水を百パーセント濾過したものじゃ」
と返事があった。
「察するに、あの女は水でできているか。――いや、これは冗談じゃ。はっはっはっ」
笑い声が終わらぬうちに、Dは大きく右へ跳び、水路に身を投じた。
機械の間から、巨大なカブトムシみたいな形のものが現れ、通路の染みに近づいたのである。
そこに到るまでにDの残した水滴の痕もある。
カブトムシは胴の半ばから前半分を水路の方へ向けた。
それが何をするつもりだったにせよ、Dはすでに水路の彼方へと流れ去っていた。
カブトムシは館内の、いわばパトロール・カーだろう。Dの侵入は発見されたと思う方が正しかった。
水路の流れに身をまかせて一分とたたないうちに、不意に巨大な広がりがDの全身を包んだ。
四方は果てしない水であった。Dをここへ運んだ水の流れは、もはや些細な動きも世界に与えず、ただ青い光だけが、不動の虚無に救いを与えていた。
光をめざしてDは浮上した。
「おかしなところじゃな」
左手が言った。声がくぐもっている。まだ水中なのだ。
首だけ出して、Dは四方を見廻した。天井は天蓋《ヴォールト》のように湾曲し、自然石の粗さを失っていない。自然の洞窟に手を加えたものだろう。
「川の水はここに流れこむ。だが、何のためにじゃ? 小魚一匹おらんぞ」
Dはこのとき、水中へ――手の方に視線を向けていたが、低い声で、
「いや、いる[#「いる」に傍点]」
と言った。
白い女の顔が下方からひっそりとDを見つめていた。
ひたむきと言ってもいい眼差しには水の中の孤独がこもり、白いドレスには、水中なのにはためくことも許されなかった歳月がたゆたっているようだった。さっきの女に間違いない。
「いつの間に……」
左手のつぶやきは、Dの思いと同じだったかも知れない。Dの超感覚にさえ、女は接近の気配を感じさせなかったのだ。
Dは再び水中に没した。この女が水の外にふさわしい存在ではないと、考えたのかどうか。
「ようこそ、強いお方」
女の声が頭の中で鳴った。テレパシーというのではない。女の唇は確かに動いている。声だけが、Dの頭の中に反響したのである。
「男爵の母上か?」
とDは訊いた。こちらは通常の声である。水中で普通にきこえるのが不思議だった。
「おお――あの子はつつがないでしょうか?」
「会わなかったのか?」
とD。
「それは――ここに来たのでしょうか?」
「確かに」
「では――では、あの夫《ひと》が……」
「息子は父を狙った。父も平気で息子を手にかけられるのか?」
「あの夫ならば」
「斃されたとして――」
Dは冷然と言った。
「彼の遺骸はどのように扱われる?」
「地下の焼却炉か、川へ」
「もうひとり、若い娘が来たはずだが?」
「存じません」
「ヴラド卿の寝室はどこだ?」
「北側の地下ですわ。いえ、でした[#「でした」に傍点]。――昔は」
最後のひと言に、無限の想いがこもっていた。それは怨念でも怒りでも、哀しみでさえなかった。感情は女を取り巻く水のように澄んで静謐であった。
Dが水を蹴ろうとしたとき、
「――きいていただけませんか、ある物語を」
と女が呼びかけた。
「貴族の血を引きながら貴族ではないお方、人間の精神《こころ》を持ちながら人間でないお方――そんな方にきいていただきたいのです。私たち[#「たち」に傍点]の物語を」
女の声に、はじめて感情がこもった。それは静謐な世界の破壊と混乱とを意味していた。
「わお」
と左手が呻いた。
常人ならば眼を開けてもいられない激情が、水圧を貫き、Dを翻弄した。
女は穏やかに漂っていただけではないのだ。
そのとき、水を伝わる波が別の音を伝えてきた。
「侵入者が発見されました」
水中にまで声が届いた。機械の声である。
「こちらにやっては来ませんでしたでしょうか?」
「お下がり」
と女の唇が動いた。
「失礼いたしました」
「ほう、これは珍しい。機械の声が脅えておる。ここのご婦人は、ただの土左衛門ではないようだ」
どこの国の言葉ともわからぬ単語を使ってから、左手は沈黙した。
「聞こう」
とDは言った。女の激情はすでに失われていた。
「あの子――バイロンが生まれるひと月前、我が館に、あの方がやって来たのです」
女は水の中で話しはじめた。
「そうです――あなたと、とてもよく似た雰囲気を持っていらっしゃる、あの御方が」
大広間の真ん中にわだかまった黒い巨大な影としか覚えていない――そう女は語った。
夫も家来たちもひれ伏し、彼女もそれに倣ったとき、その御方は、
「ひと月後に生まれるおまえたちの子供――まず、これからすぐにある処置を施し、生まれてから三カ月間、わしが預かろう」
と宣言した。
「失礼ながら、何をなさるので?」
とヴラド卿が訊くと、即座に、
「新しい貴族をつくるのだ」
この返事は、女を震撼させた。その御方が、人間の娘たちを大量にさらって、貴族たちに何やら怪異非道な実験を行っているとの噂が、根強く流れていたからである。
夫が反対する、と彼女は思った。だが、その御方を前にした夫は、一も二もなく、
「それは――光栄でございます。もはや、お好きなように、存分にお役立て下さい」
頬が蕩けんばかりの笑顔で賛意を示したという。
その後のひと月、女は悩んだ。人間と貴族の血を混ぜあわせる――噂の告げる内容はこれだ。生粋の貴族育ちの女にとって、それは、地獄へ落ちるにも等しい蛮行であった。よりによって、私の子をそのような。
彼女は悩み、逃亡から親子揃っての自殺まで考えたが、どれも決行にはいたらなかった。妻の胸中を察した卿が、厳重な監視をつけて見張らせたのである。
やがて、出産の当日、その御方は再び訪れ、約束通り、赤子を連れて去った。
揉み手せんばかりに見送る夫が戻ると、女は激しくなじった。
「なぜ止めてくれなかったのです? なぜ、私たちの宝をあの御方に? 私は怨みます。一生、あなたを許しません」
血を吐くような言葉に、夫は、
「三カ月待て」
とだけ言った。
女にとって、身肉を削られるような三カ月が過ぎた。そして赤子は戻ってきたのである。
再び広間にそびえた影は、すやすや眠る赤子を床に置くと、ひと言も言わずに去ろうとした。
その背へ夫が呼びかけたのである。
「成功しましたか、それとも――失敗で?」
返事はなかった。
「バイロンは、何の変化もなく育ちました。私と夫とみなの祝福を受けて。あの子が成長するにつれ、私の嫌悪もうすらいでいったのです」
たくましい若者に成長した我が子を見るうちに、女は何があっても、この子を守り抜くと誓った。
変化はむしろ、夫の方にあった。
バイロンの姿を見る夫の眼に不興げな光が漂っていると知ったのは、彼が物ごころついた頃であった。
日を重ねるうちに、それはますます険しさを増し、ついには残酷な暴挙となってバイロンの身にふりかかったのである。
ある日、彼の棺が知らぬ間に地下の寝所から運び出され、陽光にさらされたことがあった。蓋にはある時刻が来たら開くように、時限装置がセットされていたのである。
バイロンの全身は焼け爛れ、炎に包まれた。
「あなたもご存じかどうか。陽光に焼かれた貴族の肌は、二度ともとの白さを取り戻すことはありません」
女は哀しげに言った。
「あるいはその方が幸せだったかも知れません。この一件以来、夫のあの子に対する気持ちは、殺意としか形容できぬものに変わってしまったのです。――あの子の肌がその日のうちに、もとに戻って以来」
[#改ページ]
第五章 破壊転生
ミスカはカリオールと一緒に、ある場所にいた。もちろん、自由意志によるものではない。はじめて彼と会ったときに奪われた精神の自由は、今も彼女の眼を虚ろにし、いましめもないのに逃げようともせず寝台に横たわる美しい人形と変えていた。
ここは実験室である。
おびただしいガラス器や薬品、原子発電機、熔鉱炉等に囲まれて、カリオール自身もかたわらの椅子にかけている。
その姿は、囚われの美女へ忌まわしい実験という名の責めを行わんとする地獄の老番卒のように見えた。
だが――老人の顔には険しい皺が寄り、苦悩の翳が蝙蝠《こうもり》の羽根みたいに貼りついているではないか。
実に彼はもう丸一日近く呻吟していたのである。
手もとの羊皮紙の束をめくり、ざっと眼を通すと、もう百回も行った動作を、またも繰り返した。
紙束を両手で膝に叩きつけたのである。悪魔すら招喚させ得るといわれるこの大妖術師にしては珍しい興奮ぶりであった。
「いかん。どうしても、“破壊者”がこの娘から離れようとはせん。二人を無事に切り離すのは不可能だ」
彼は立ち上がり、寝台上のミスカをにらみつけた。
本来なら絶望が宿ってもおかしくない双眸に、憎悪の炎が燃えている。この精神こそ、カリオールを毒蛇さえ恐れる大妖術師にしている資質だったのだが、今回の障害はそれをもってしても、如何ともしがたかった。
「分離させれば娘は死ぬ。それは許されん。それに――」
と呻いたとき、天井近くに開いた丸窓の縁あたりから、
「サイファンでございます」
と奇妙なイントネーションの声がふってきた。
黒々とうずくまった影は大きな鴉のものであった。両眼が紫色にかがやいている。眼球の代わりに水晶がはめこまれているのだ。
ちら、と鬱陶しげな視線を鴉ではなく遠くのドアへと当て、
「通せ」
とカリオールは命じた。
ほどなく扉が開き、当人が入ってきた。
そしてザナスが斃されたと告げたのである。
「ザナスが? ――いつだ?」
老妖術師の瞳に、希望というにはあまりに卑しい光が点ったが、サイファンが答えるや、すぐにそれは消え、彼は浮かしかけた腰をもとの位置に戻した。
「いや、もはや間に合わん。死人の肉体ではな。――それに奴でもまだ荷が重い」
その声の妄執ともいうべき響きに、さすがのサイファンが不気味そうに、
「何のこってす?」
と訊いたが答えはなく、しかし、大妖術師は急に何事か思いついたらしく、もの凄い眼を部下に向けた。
「な――何ですか?」
「おまえでもいい[#「いい」に傍点]か?」
何とも形容しがたい声と眼つきに、サイファンは反射的に腰の蛮刀へと手をやった。
主人といえども――そんな決死の眼つきの前で、カリオールはまたも虚しげに首をふった。
「駄目だ。一分も保つまい」
「一体、何のこってす、さっきから。ザナスの魂に労いのひと言もねえんで?」
「奴の給料はおまえにくれてやる」
「へへっ、それなら話は別だ。じっくりと考えごとをなすって下さいな。では報告だけはしました。あっしは館へ戻ります」
「待て」
と老人は呼び止め、椅子から立ち上がると、近くの大テーブルに近づき、原子ランプの炎を底に受けているフラスコを掴んだ。
底の方に二センチほど、うす紅色の液体が溜まっている。それがミスカと“破壊者”の関係を知ってから、全精力を打ちこんで結晶させた成果だった。
フラスコを手に近づいてくる主人へ、
「ちょっと待ってくださいよ」
とサイファンは片手を上げて止めた。一瞬、不思議な現象が生じた。上げたのは確かに右腕一本なのに、それにダブっておびただしい数の手が見えたのである。だが、彼の前で立ち止まったカリオールの眼に映るのは、確かに右腕のみであった。
「一体、あっしをどうしようってんで? そんなおかしな色の薬を服《の》ませようってんじゃないでしょうね?」
「そうだ」
「やめて下さいよ」
あの男爵が三本の指に数えた戦士のひとりは、真面目に血相を変えて後じさった。主人の薬とやらによほど懲りているらしい。
脅えを隠さぬ部下へにんまりと笑いかけ、カリオールは、
「安心せい。もう紫の亡霊に変えたりはせん。それはな、身体強化薬だ」
「何です、それは?」
サイファンは細い眼をさらに細くした。
「肉体を鋼鉄に変える薬だ。一滴服めば、おまえはひと打ちで館の核炉防壁も破壊できる超人と化すだろう」
「服ませて下さい」
「その代わり、一時間で全身が粉々になるぞ」
「前言を撤回いたします。――ですが、そんな益体《やくたい》もねえもの、どうして調合なすったんで?」
「容れものをつくるためだ」
「容れもの?」
カリオールは白い顎鬚をなびかせて、ミスカの寝台をふり向き、
「あの娘の体内に凄まじいものがおる。いまは眠っておるが、ひとたび覚醒すれば、地上のあらゆるものを破壊させかねぬ存在だ」
と言った。
「まさか」
と、常識的な反発をしてみたものの、この大妖術師が、こと妖異な現象や事物にかけては、嘘どころか冗談も口にしないと知っているだけに、サイファンにもそれ以上の否定の言葉は出せなかった。
「わしは、それを意のままに操りたいのだ。それには、万難を排して、その存在――“破壊者”と呼ぶがいい――を娘から分離させねばならん。だが、今のままでは、わしも奴をコントロールはできん。そうなるまで、別の――わしの自由になる肉体の中に眠らせておかねばならんのだ」
老人斑の浮き出た手が、フラスコを握りしめた。
「なら、この屋敷にも召使いどもや人造人間《ホムンクルス》どもが幾らも」
「たわけ!」
とサイファンを一喝し、カリオールは狂気のごとく叫んだ。
「世界を破壊し得るものを封じる岩屋が、その辺の脆弱で汚らわしい肉体で通用するものか。貴族だ。貴族の身体ならそれができる。あの娘が証拠じゃ。だが、ヴラド卿の禄《ろく》を食む以上、わしには貴族を実験台に使うことはできぬ。そこで、この強化薬を調合したのだが、やはりいかん。もとの肉体が、強化薬の生み出すエネルギーに耐えきれんのだ」
「その“破壊者”ってのは、それほど凄えんで?」
サイファンが恐るおそる訊いた。主人の言うことが本当だと頭では理解していても、心理的にはまだ納得できないのだ。
すぐに、彼は軽率な質問を後悔した。
カリオールが唇を歪めて笑うや、
「見たいか?」
ささやくように尋ねたのである。今までの経験では、こんなとき絶対にろくなことがなかった。それも凄まじい規模で。
「見たいか?」
大妖術師がまた訊いた。眼に狂気の光があった。
「え……ええ」
断ることはできなかった。
カリオールの不気味極まりない笑みは、一層迫力を増した。
「よかろう。では、少しだけ[#「少しだけ」に傍点]見せてやろう」
老人はそう言うと、曲がった腰のまま、よろよろとミスカの方へ戻った。見えない糸に引かれるみたいに、サイファンも後につづく。
ミスカのそばへ行く前に、カリオールはテーブルの上に置いてあった呼び鈴を手に取って振った。
澄んだ響きが空中に吸いこまれた。意図は不明のままそれを置き、老人はミスカのかたわらに立つと、白い右腕を持ち上げた。
「調査の結果、“破壊者”はここからが一番出やすいことが判明した」
サイファンは眼をこらしたが、貴族特有の、陶器のような柔肌のどこにも、おかしな点は見つからなかった。
「わしにも見えん。まして、おまえには見えん」
とカリオールは自慢げに言った。ミスカの腕を掴んだのと反対の手に、銀色の針が光っていた。
長さ五〇センチもある長針だ。
「ただ、わしのつくった機械がそのツボ[#「ツボ」に傍点]を、“破壊者”の出入口を指し示す。見せてやろう、“破壊者”の力の片鱗を」
いま、ここで? と考え、サイファンはぞっと身を震わせたが、カリオールの針は動かず、妖術師は後ろを向いた。
サイファンの入ってきたドアが再び開いて、巨大な人影を招き入れたのである。
「泥人間《ゴーレム》……」
とサイファンはつぶやいた。
ぎごちない足どりで石床を踏みつつ、こちらへ歩み寄ってくる圧倒的な人影は、まぎれもなく粘土製の人像であった。
妖術師たちは、人間の召使いには不可能な雑用をこなさせるべく、様々な手段を用いるが、その代表的なものが“生命ある人形”だ。
青銅、土、あるいは花や空気からさえ、彼らの調合した不可思議な霊薬は、生命を備えた人形をつくり出す。中でも粘土をこね上げた像は、最も強靭かつ従順といわれ、魔道士、妖術師、貴族たちがこぞってその性能を競い合ったものであった。
「いけねえ。こいつは戦闘用ですぜ」
とサイファンが情けない声を上げた。
「戦いもねえのに生命を吹きこんだんじゃ、また眠るまでに大騒動だ。こいつは特に寝つきが悪いんじゃあねえんですかい?」
「その通りだ」
とカリオールは右手の針を持ち上げると、徐々にミスカの白い腕へと近づけていった。
ガチンと床が鳴った。
粘土像が鉄靴の踵を打ち合わせて直立不動の姿勢を取ったのである。身長は二メートル五〇、体重は五〇〇キロを超える。このサイズでは家事の手伝いには向かない。戦う――それだけのために生み出された人型の兵器であった。
「よく来た」
カリオールは、じろりとサイファンを見て、
「そいつを殺せ」
「―――!?」
サイファンが異議を唱える余裕を、ぐん、とふり向いたゴーレムが奪った。
「や、やめてくれ、大将」
後じさる腰が、別のテーブルにぶつかって激しく震撼させた。
サイファンが身を離しても震えは止まらなかった。床を踏みならして、ゴーレムが突進してきたのである。
それは巨大な蒸気機関の突進に似ていた。
何百キロもありそうなテーブルをことごとく跳ねとばしながら、両腕を広げてサイファンに迫る。吹っとんだ器具や瓶が永劫につづくような音をたてて砕け散った。
脱出不可能な速度であり迫力であった。
鉄環が巻きついたような腕の交差の中を、しなやかな影が斜め右方へと跳んだ。サイファンだ。だが、一体どうやって?
それは、生身では絶対にあり得ない角度と速度を持つ跳躍であった。しかも、彼は両手を自然に垂らした形で、天井へ貼りつくように停止したのである。なんと――斜めのまま。
「ただ逃げたと思われるのもしゃくだな。――お返ししてもいいですかい、大将?」
この問いに、一部始終を見ていた床上のカリオールは、奇妙に人懐っこく笑って、
「よかろう」
と答えた。
「お許しが出た」
サイファンは、いままでの脅えが嘘のように精悍な表情をつくった。
「いくぜ、木偶《でく》の坊」
その顔をすっと黒い影が覆った。
眼の前に巨人がいた。五〇〇キロの巨体が床を蹴って舞い上がったのである。――一〇メートルもの高空へ。
今度は捕まえる気などないらしかった。空気をえぐり抜いてサイファンの顔を襲ったのは、巨大な粘土の拳であった。粘土といっても、カリオールがこね上げ、薬品を混入させた土は、鋼の強度を持つ。
その眼前からサイファンの姿は忽然と消滅した。
彼は姿勢を変えず真後ろに天井を下がったのである。だが、どうやって? 両手はだらりと下げたままだ。
フックを放った姿勢を崩さず、ゴーレムは降下に移った。
その背をすれすれにかすめてサイファンが跳んだ。右手に蛮刀がひらめく。ゴーレムの左腕が後ろねじりに走った。サイファンの肩に激突――と見えた刹那、彼は垂直に地上へと降下した。
どのような可能性を考えてもあり得ない飛翔ぶりであった。あたかも、おびただしい見えない手足が、その身をあらゆる方向へと放り投げているような。
軽やかに着地したその前へ、地響きとともに巨体が落下した。
自重プラス加速度――五トンを超す衝撃に、粘土の巨人は両膝を軽く曲げただけで耐えた。
信じられぬスピードでふり返る。その迫力に気圧《けお》されたか、サイファンは棒立ちだ。
巨人の右腕はすでに限界まで上がっていた。
ぐおん――爆発音をたてて落ちてくる。真下にサイファンの頭部があった。
異様な音が上がった。異様な光景がそこに生じていた。
サイファンはにこやかに両腕を組んで立ち、その頭上――一センチと離れていない位置で、ゴーレムの拳はぴたりと静止しているのだった。
「お気の毒さま」
言うなり、サイファンは右手の蛮刀を巨人の心臓へ深々と突き立てた。
「そこまでだ」
カリオールの制止に、サイファンは口を尖らせ、身を引いた。ついでにゴーレムの胸の蛮刀を引き抜き、腰の鞘に戻す。
ずん、と巨人が前進した。闘志は失われていない。その腰を白光がかすめた。カリオールのガウンの袖口から迸った光である。
巨人の動きが、寸分の余裕もなく停止する様は、ユーモラスでさえあった。
床すれすれのところで止まった前足の爪先を見て、サイファンが唸った。
カリオールは巨人に近づき、その腰を叩いた。
爪先が床を踏み、巨人はしかし、そこでまた動きを止めた。
「飲むがいい」
老人の手が突き出したフラスコを掴み、口元へと上げた。粘土の像が妖しい液体を嚥下するのを、サイファンは呆気にとられたように眺めていた。
「下がれ。もうわしでも止められん」
カリオールはすでにミスカのかたわらに走り寄っている。サイファンがその場へ止まったのは、この男らしくもなく、いや、そこは戦士の成せる技か、強化薬とやらを服用した巨人の実力を、この眼で確かめたいと思ったからであった。
だしぬけに、ゴーレムが跳躍した。
サイファンが記憶しているよりはるかに速いスピードであった。
「わわっ!?」
叫ぶ頭上に巨体が落下し、サイファンには逃げる余裕がなかった。
彼の顔の倍ほどもある靴底がのしかかり――そして、巨人は転倒した。
まるで撥ねのけられたかのように。そして、サイファンの両腕はその位置になかった。
つぶれたテーブルを床に残して、起き上がろうとする巨人の背へ、
「こっちだ」
という声がかかった。それが主人のものだと気づいたのか、いや、両眼に燃える憎しみの炎は、新たな敵を認めた戦士のそれだ。
起きながら、巨人は身をひねった。背中からガラスや陶器の破片がきらめきつつ床に散る。
ゴーレムの見たものは、いままさに、女の白い腕に突き刺されんとする長い針と、それを手にした老人であった。女の手首に青い光点が付着している。針はそこへ吸いこまれた。
引き抜くと同時に、戦慄が部屋中を走った。誰のものか? 巨人の、カリオールの、サイファンの――いや、部屋の空気そのものが脅えたのかも知れない。
天窓のガラスが鴉ごと吹っとんだ。吹きこんできた風が狂乱の舞いを踊る。
「た、大将」
サイファンが叫んだ。どうしたことか、彼の全身は赤い霧のようなものに包まれていた。
巨人の前方――カリオールのかたわらに、いま、青白い靄のような一塊が生じていた。
それはミスカの手首から漏出したものであり、拳大で止まったのは、カリオールが再び針を刺して傷口をふさいだからであった。
これが――これが“破壊者”か。
数瞬、狂った泥人間《ゴーレム》の双眸から狂気が消失し、しかし、たちまち新たな激情が――敵に対する殺意が燃え上がるや、それ[#「それ」に傍点]は地響きを上げて、青白い靄へと走り寄った。
女の話が終わると、Dは水面を見上げた。
「行くぞ」
と言ったのは、左手に対してか女に対してのものか。
「お待ちなさい」
と女が止めた。
白い手が光る夢のように動いてドレスの胸元をかき開いた。美しく豊かな乳房であった。
右側のふくらみに指が触れると、ひとすじの赤い血が糸のようにのび、二〇センチほどのところで小さな朱の珠をつくった。
「お飲みなさい」
と女は言った。
「この地底湖を無事に脱出するには、私の許可が必要です。それがこれ[#「これ」に傍点]。ハンターが貴族の血を吸うなど、穏やかならぬものがあるでしょうけれど、ここは曲げて私の申し出をお受けなさい。でなければ、あなたがいくら強くてもあの夫《ひと》に勝てる見込みはありません」
それは嘘いつわりのない真情の告白であったろう。
Dは言った。
「おれは、それを飲む者を斃しに来た」
そして、彼は一気に浮上した。
泳ぎ去る気配が水中に伝わってきた。女がつぶやきを洩らすのは、水中を世界として以来はじめてであった。
「何という美しい男――何という強い男。でも、あの夫には……」
Dがヴラドの寝室へ辿り着いたのは、三〇分後であった。女は昔といったが、いまもそこは館の北の地下室であった。
水中の女は、地底の湖からの脱出は不可能と告げたが、いま、壮麗な彫刻を施した大扉の前に立つDには、全身ずぶ濡れ以外に傷ひとつない。
かつて、カリオールの身体を貫いた怪力線も、行く手をふさいだ扉も、Dのペンダントがきらめくところ、片方は沈黙し、片方は音もなく開いて、黒衣の若者の通過を許した。
途中、数匹のカブトムシ――ガードマンと遭遇したが、Dの刀身は分厚い装甲をことごとく貫通し、数多くの迷路や罠に陥ることもなく、主人《あるじ》の私室へと到着したのである。
立ち止まりもせず、Dは前進した。
大扉の開閉は古風なキイによると見せて、その実、コンピュータの支配下にあった。
三重の扉はことごとく美しい若者の前に自らを開け放った。
そして最後の扉が音もなく開いたとき、Dは広大な広間の床の上に、天蓋と環状の五重水路に守られて横たわる青銅の柩を目撃したのである。
もとより、地下といえど、窓には分厚いカーテンが下りている。一点の光とてない暗黒のただ中で、Dの眼は静かに凄絶にきらめいた。
すでにDの足は水路にかかる通路を踏んでいた。あの地底湖を出てから、彼の足はひとたびも停止していない。
それが止まったのは、柩から洩れ出る音を聴いたからであった。
音? ――いや、それは苦鳴だ。呪いの声だ。安息の地を汚し踏みにじる者に対する、死者の罵倒であった。
「ほう――彼奴《きやつ》、嫌がっておるぞ。よほど柩を暴かれるのが苦手と見える。外はまだ昼じゃ」
左手の指摘通り、Dが歩き出すや、柩からの苦鳴はさらに大きく、さらに激しさを増した。
最後の水路を渡り、柩の前に立つや、Dは蓋に手をかけた。
一気に引き上げる。錠がちぎれた。
柩を覗きこみ、
「おや」
と呻いたのは、無論、左手の方だ。Dの黒瞳は静かにこちらを見上げる娘の、血走った双眸と蝋のような顔を映していた。
その顔めがけて、白い腕がのびてきた。
「……D……」
とタキは言った。その首すじに刻印された忌まわしい歯型と血痕を、Dは静かに認めた。
上体を起こそうとする鳩尾《みぞおち》へ左手が当てられると、タキは小さく呻いて前のめりになった。
柩の頭の部分に小さな録音機が取りつけられている。男の苦鳴はこれだろう。
背後で気配が生じた。うまく隠れていたのだろうし、Dの五感が前方の柩に奪われていたのも確かだ。だが、相手はDだ。その超感覚さえ欺き、自らの存在を悟らせなかった相手とは?
Dは動かなかった。一歩でも、いや、指一本動かした刹那、敵の攻撃が光のごとく襲いかかってくると実感したのである。
「よく来たな、Dと呼ばれる男よ」
と背後の声が言った。
「その長い旅の労苦に免じて、一献《いっこん》なりと進呈したいところだが、いかんせん、お互い立場が悪い。せめて、楽に死なせてやろう。いや、滅ぼすと言うべきか」
低い笑いが、声の主を緊張させた。
「死ぬと滅ぼす――それは人間による区別よ。どちらでもよい、与えられるか、それが?」
「ほほう」
と背後の声は感心したように、
「ひとりではないのか。面白い。Dのどこに潜んでいるかは知らんが、まとめて送ってやろう。ふり向くがいい」
そして、Dが従った刹那、未知の攻撃が加えられるのであろう。
Dは動かない。緊張した風も脅えた風もなく立ち尽くすその姿に何を感じたか、声はまた言った。
「どうした、こちらを向かぬのか?」
闇からの声に、その闇よりも遥かに暗く澄んだ声が、
「いいのか?」
と訊いた。
向いても、いいのか、と。
声の主は沈黙した。
無防備に立ち尽くす黒衣の若者の全身から、この世ならぬ鬼気が渦を巻いて立ち昇る――それを感知したものに、もはや、平穏な目覚めは訪れまい。
「これは……これほどの男とは……」
ようやく洩れた言葉の内容はともかく、内蔵する重みは、先刻の柩からの苦鳴と等しいものであった。
しかし、すぐに声は、自信と凶暴さにあふれる響きを取り戻した。
「やはりそうか。おまえは、あの御方の――」
ぴいんと空気が凍りつき、次の言葉も凍結した。
白光がDの背へ走り、撥ねとばされた。わずかに背をゆすって、Dは鞘で攻撃をうけたのである。
同時に黒衣は飛燕《ひえん》と化して後方へ跳んだ。
Dが見たものは、闇にわだかまるおぼろな巨影であった。
それが何であろうとも、Dの刀身を防ぐ術があろうとは思わない。
落下速度と自重とを刀身のすべてにこめて、彼は一刀を斬り下ろした。
空を切る手応えを実感した刹那、右肩を灼熱の痛覚が切り裂いた。
Dの身体が稲妻の速度で弧を描いた。黒い血の帯を引きつつ三メートルも離れた床の上に着地する。一刀は左手にスイッチされていた。
「一体、どうやって?」
低い嗄れ声が状況のすべてを物語っていた。攻撃の来た方向へDは眼をやったが、敵影を認めることはできなかった。巨大な影はさっきと同じ位置にそびえている。
「左手でわしに勝てるか?」
嘲笑う影の胸もとがゆれた。Dの手から飛んだ白木の針は影を貫き、後方の壁に突き刺さった。
「二本だ。――一本足りんな」
と影は言った。
Dが走った。右へと移動する影の胴を左腕の刀身が薙いだ。
半ばまで食いこんだ刀身は、小さな痙攣とともに止まった。
Dの左胸から細い針が生えていた。
「三本目だ」
と影は言った。
「これも運命[#「運命」に傍点]よ。自分の墓地を悟ったか、ハンター」
声が終わらぬうちに、Dは片膝をついている。D自身が放った針は背から心臓へと抜けていた。
だが、どうやって?
その瞬間、Dの真後ろには誰ひとり存在しなかったのだ。
ゆっくりと影が後ろへ廻った。
いかなる攻撃を仕掛けられても、Dが応じられるとは思えない。それでも刀身を床に突き立て、Dは立ち上がろうとした。
影が感嘆した。
「心臓を貫かれて、大したものだ。おまえは、やはり、あの御方の――」
声が苦鳴に変わったのは、次の瞬間だった。
二人の間に黒いものが霧のように散った。まさしく心臓を貫かれたDが、身をひねりざま、刀身を閃かせて影の胴を斬ったのである。
「き――貴様――何という奴だ」
よろめきつ影は後退したが、Dは追わなかった。彼は再び床に膝をついたのである。貴族――いや、どんな生物でも心の臓をひと突きにされて生きていられるはずがない。いまの一撃ですら不可能どころか奇跡なのだ。
「あの御方に免じて安らかな止めをと思ったが、もはや許さん。八つ裂きにしてくれる」
影の大音声は室内をゆるがした。
突進してくる。
そのとき――
凄まじい衝撃が世界を震わせた。
警報が鳴り響く。
天井に亀裂が走るや、崩れ落ちてきた構造材と埃とがDを押し包んだ。
成す術もなく、影は戸口へと後退した。その足下に広がった裂け目から、勢いよく水流が噴き上がった。
「何事だ?」
叫んでから、唸った。床の上には黒血が糸を引いている。単なる刃傷なら貴族の肉体はすぐに再生してしまう。美しいハンターの一撃は尋常なものではなかったのだ。
「カリオール博士の実験室で爆発が生じました」
頭上で大鴉が答えた。
「馬鹿な。たかが、爆発ごときで、わしの寝室まで――」
「単なる爆発ではありません。次元的な影響さえ及ぼしています」
「次元にか――?」
影は頭上を仰いだ。
何が生じたのか、カリオール博士にだけはわかっていたが、このような結果までは予想していなかったであろう。
一塊の青靄とゴーレムが接触した刹那、実験室は倒壊した。
博士が無事だったのは、その寸前、腰の分子バリヤー発生装置を作動させたからであった。
「サイファン――サイファンはおるか!?」
叫びに対して、
「へーい」
呑気とさえいえる返事は、中庭に面する壁に開いた大穴の向こうからした。
ひょこんと顔を出した部下も、爆発に巻きこまれる寸前、とっさに室外へ脱出したとみえる。その辺は勘のなせる技だ。
「一体全体――何が? ゴーレムはどこに?」
「ここにおる」
とカリオールは塵を払うような動作をして、
「分子レベルまで分解されてしまったであろう。えーい、喉にからみよる。もっとも“破壊者”も消えてしまったか。次元の断層にでも呑みこまれてくれれば、戻っては来れまいが」
「ゴーレムが消えたのも“破壊者”のせいですかい?」
「他におるか?」
「いえ。――しかし、大将、そんなもん外に出したら……」
「その通りじゃ」
カリオールは蒼白な顔へ笑いかけ、
「おまえのお粗末な脳でもやっとわかったか。――待つのは世界の破滅。“破壊者”とは、そのために造られた存在じゃよ」
悪魔のような笑い顔が、このとき、奇妙に深刻に――見ようによっては笑顔より凄惨なものに変化した。そして、大妖術師は実におかしな言葉を口走ったのである。
「世界を破滅させ得るものなら、何者をも斃せる。何者でも、な」
すでに自動消火装置がドライアイスと消火剤を散布しているところへ、ガード・ロボットたちが駆けつけ、少しして、卿の黒い影がやってきた。
事情を説明し、カリオールは、
「あの娘御――私が家へ連れ帰って改めて調査したいと存じますが」
とミスカを示した。あの猛爆の中でも、寝台に横たわった彼女だけは、髪の毛一本乱れていなかったのである。
「好きにせい」
と卿の影が言ったのは、“破壊者”の恐ろしさを知らぬのではなく、いかなる妖しい実験を試みようが、この大妖術師が自分を裏切るはずはないという自信からであった。
彼はつづいて、自分の寝室を訪れた吸血鬼ハンターについて告げた。
俄然、カリオールの両眼に凄まじい炎が宿った。サイファンにミスカを守れと命じて、二人は卿の寝室へ向かった。廊下も階段も惨たる姿をさらしていた。
やがて、寝室へ到着した二人を迎えたものは、破壊の痕のみであった。
美しい黒衣のハンターばかりか、柩の中のタキまでも、闇に溶けたごとくに姿を消していたのである。
「彼奴――ひとりでここを脱け出たのか」
茫然と立ちすくむ二人の足下を、冷たい水がひたしていた。
館の北にあたる森の中にDはいた。
自力で脱出したのではない。心臓に針とはいえ生木の杭を打たれ、タキを肩に動けるはずもない。彼の杭を抜き、館を脱出する道案内をしてのけたのは、地下で会った白いドレスの女だった。
どこから来たのかもわからない。確かに水中で会話した女にちがいないのに、どこか、ずっとおぼろげではかなげな印象であった。
森の中へ入ってすぐに、Dが、
「おまえは、水の中の女か?」
と訊いたのは、そのせいであろう。
女は答えず、
「お大事に――」
澄んだ声で言うと、ついと、顔を右へ向けた。
入り乱れる鉄蹄の響きを、Dはすでに気づいている。
「お仲間が参りました。私はこれでお暇いたします」
Dの眼の前で、その姿は急速に細部を失い、あっという間に草を濡らす水と化した。
その怪異に思いを寄せる風もなく、かたわらに横たわるタキを庇うようにDは立ち上がった。
Dの数メートル手前で停止した騎馬隊は水車小屋を訪れた男たちであった。
「無事で何よりだ」
と馬上から、黒マスクのリーダーが言った。
「ヴラド卿の館へ招かれずに入って、生きて出て来たのは、あんたで二人目だ。敬意を表するよ」
「何の用だ?」
Dはにべもなく訊いた。
「あんたが館へ向かってすぐ、この辺り一帯にリサーチ鳥《バード》を飛ばしたのさ。ここへ駆けつけられたのもそのせいだ。あんたの希望は何でもきくようボスから命令されている。余計なお世話だが、あんたの馬も連れてきた。――指示してくれ」
「小屋は用意できるか?」
とDは訊いた。
彼の足下に横たわる青白い娘を見て、馬上の男たちは、その意味を了解した。
「わかった」
「この娘の血を吸った奴が来ても、おまえたちの正体が知られずに済む場所に造れ」
とDは言った。
犠牲者と加害者は吸血行為を通じて、時間的空間的につながり合っている。
男たちがマスクを被るのは、Dよりもむしろヴラド一派に正体を知られてはまずいからだろう。
「西の外れに“聖域”がある。そこに来てくれ」
それから、黒い顔でにやりと笑い、
「いつでもいいぞ。もう小屋は建ててある」
「馬を貰おう」
とDは言った。
黒マスクのひとりが彼のサイボーグ馬を引いて前へ出た。
タキを肩に乗せ、軽々と鞍にまたがって、Dは手綱を取り、
「案内を頼む」
と言った。
取りつく島もない対応ぶりだが、その美しさ、その気品が、毫《ごう》も反感を抱かせない。それどころか、マスクの男たちの間から、まぎれもない感嘆の気が噴き上げた。
「来てくれ――こっちだ」
リーダーの靴が馬の腹を蹴り、一同は蹄の音も高らかに西へと走り出した。
目的地に着いた男たちの姿は、夕暮れに蒼く染まっていた。
荒涼と広がる土地のあちこちに、廃墟らしい建物の残骸が散らばっていた。
朽ち果てた土台、石壁、塔の一部――蒼茫たる光の中では、鬼哭啾々《きこくしゅうしゅう》たる滅びの光景と見えてもおかしくはないのに、土地を包む空気は、むしろ清雅であった。
こういう土地は稀にある。
貴族たちの館や砦の多くが、呪われた土地を選んで建てられているのと同じ意味で、彼らが決して近寄らない――忌まわしげな視線を当てて無視するしかない地所が世にはある。
その伝承を辿ってみれば、太古の宗教的遺跡が残る場所だと判明するだろう。
ここでは、かつて貴族たちと根源的価値を全く異にする存在――聖なるものが祀られていたらしい。
らしいというのは、そのほとんどが貴族たちの手によって破壊され、埋め立てられて、遺跡らしい遺跡が残る土地は、世界にも指を折るくらいしか残存していないからだ。
貴族たちとの戦いにおいて、人間たちがまず利用しようと考え、その発掘に血道を上げて、ついに発見した護符や聖体の幾つかが、貴族たちとの講和条約にいかなる効果を発揮したか、計り知れないものがある。
リーダーは馬上から、遺跡のほぼ中央にそびえる合成建材らしいドーム状の小屋を指さした。表面は、たそがれの光に蒼鈍く光っている。
「あれでどうだ? 出来合いの品を運ばせたものだが、機能的には十分のはずだ」
「手廻しのいいことだ」
Dは珍しく相手の意見に感想を洩らして馬を進めた。
マスクの男たちを外へ残し、Dとタキだけが小屋の内側《なか》へ入った。
入ってすぐ、管理人用の小部屋がテーブルと椅子と簡単な炊事場を備え、その向こうが鋼鉄の柵で仕切られた房だ。優に三人は入れる。窓はない。貴族の手先には生きた霧もいるのだ。
管理人のベッドにタキを横たえ、Dはその首すじに左手を当てた。
短く身をのばして、タキはすぐ眼を開けた。
虚ろな眼がようやくDに焦点を当ててから、明瞭な意志を宿すのに少しかかった。
「……D……Dなのね!?」
それから周囲を見廻し、
「ここは……どこ!? ――あいつは[#「あいつは」に傍点]!?」
「館からは連れ出した。ここは犠牲者を封じる小屋だ」
タキの表情をみるみる暗黒が覆った。
「じゃあ……私……貴族に?」
片手が首すじへのびて、止まった。
「君は貴族の口づけを受けた」
とDは冷やかに言った。
「だが、加害者はおれが始末する」
「あなたが――助けてくれるの?」
すがりつくようなタキの声に、Dはうなずいた。
「君のために、おれを雇った人間がいる。契約は果たされねばならん」
「一体、誰が?」
「メイだ」
タキが口を開くまで、少し間があった。
「……あんな子が……私のために……でも、あなたを雇うには、お金が――」
「後払いだ」
じっとDを見上げるタキの眼に、光るものがにじみはじめていた。
「助けて、D――お願い」
「契約は守るといったはずだ」
Dは眼線を宙に向けて、
「じきに闇の国になる。すべてはそれからだ」
と言った。静かな声を、その国の王子たちをことごとく抹殺してきた戦士の鋼の強さが支えていた。
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第六章 ラグーンという男
両眼に憎悪と捜索の炎を燃やしている男がいた。
長髪が半顔を覆い、視界を妨げているのを払おうともしない。男は馬上にいた。
美形とすらいえる顔立ちなのに、すれちがう連中が気色悪げな表情を露骨に示して顔をそむけるのは、異様に青白い――病的なほどの肌の色のせいだ。
夜の闇の中で見ると、男は幽鬼そのものであった。
ただ、男の背後に健康そのものの七、八歳と思しい少年が乗り、その腰に手を廻しているのだけが、人の眼を和ませた。
クラウハウゼンの村へ入るとすぐ、男はホテルの終夜バーへ入り、中年のバーテンに近頃村を訪れた美しい若者について何か知らないかと尋ねた。はじめての村で情報を仕入れるのに、いちばん手っ取り早い手段である。
「知ってるとも」
と、その若者の名もきかず、バーテンはうなずいた。
「馬車でヴラド卿の館へ乗りこんだそうだが、返り討ちに遭ってよ、噂じゃ、死体は川へ流されたが、可哀相にそこで化粧好きのクロモに拾われたらしい」
「クロモ? ――それから?」
「料金外だなあ」
バーテンはそっぽを向いた。
「ふうん」
と青白い男は、ちょっと考えてから、
「なあ、おれがいま、あんたを腕ずくで脅しあげたら、このホテルを出る前に、用心棒どもに取り囲まれちまうよな」
しょぼつく雨みたいに陰気な声であった。
「そうなるな」
こういうタイプの泊まり客も多いのか、バーテンは平然たるものだ。
「そうなったら、おれもやり合わなくちゃならない。その結果、どうなると思う?」
「さあてね」
その鼻先に幅広の刃が突きつけられて、バーテンは顔をこわばらせた。
「ベルを押す前に――よく見な」
言うなり、男は刃を自分の首すじに当てるや、一気に引き切っていた。
「―――!?」
バーテンの剥き出しになった眼は、ぱっくりと開いた傷口から、一滴の血も出ないことを確認した。
「ほうら、よく見な」
と男は自分の髪の毛を掴んで首の半ばまで開いた傷口をパクパクさせ、
「こんな男とやり合ったら、用心棒はどうなると思う?」
首が戻ると、傷口はみるみるふさがり、糸のような一線を残し、それもじきに消えてしまった。
「ひょっとして……あんた、吸血鬼ハンターの……フシア……か?」
ようやく気づいたバーテンの表情は、運命を知ったものの諦念と恐怖に彩られていた。
「そう呼ぶ奴もいるな。――さ、その色男はどうなった?」
バーテンはにわかに正直になったと、したたる汗が告げていた。
「クロモが化粧を施したんなら、奴の住処《すみか》にいるはずだよ。――西の外れにある廃棄された倉庫群のひとつだ」
「ありがとう」
フシアはバーテンの肩を叩くと、右手を閃かせた。
先に払ったチップは彼の手に戻っていた。
「お、おい。それはひどいぜ」
「人間、真っ当な稼ぎで暮らすのが一番だ。あんた、清貧を貫くタイプだよ、な?」
にやりと幽鬼みたいに笑って、フシアは酒場を出た。
少年を乗せたままのサイボーグ馬の方へ歩き出す背後で、靴音が鳴り響いた。
構わず歩く前方へ二つの人影が廻りこんだ。
後ろにも二人。
「用心棒かい?」
とフシアは足を止めて訊いた。
「おれたちの前で、面白い真似をしてくれたな」
背後のひとり――髭面の男が言った。毛玉のようなものを握った右手を開いたり閉じたりしている。
「黙って帰しちゃ、明日から給料が貰えなくなるんでな。ここはひとつ、店へ戻って詫びを入れるか、おれたちとやり合うかにしてもらおう」
すでに周囲には、店から後を追ってきた客や従業員たちが輪をつくっていた。
フシアは第三の道を選んだ。馬の方へと歩き出したのである。
これも計算済みだったものか、前方の二人が腰の長剣を抜くや、音もなく距離を詰めた。後のことなど考えてもいない。
風を切って襲った刃は、フシアの身体を左右から斜めに切断するはずであった。
まさに刃は抜けた。
その位置で二人はつんのめっている。あまりの手応えのなさに、勢い余ったのだ。
悠々とフシアは馬に辿り着き、鞍につけてある火薬式長銃《ライフル》を掴んだ。
轟く火声に見物人たちは逃げまどい、二人の用心棒は頭の半分を消失して地に這った。
残る二人に銃口を向ける前に、天から霞網のようなものがフシアへと舞い落ちて、その全身を包んだ。
光が炸裂した。
青白い電磁波を浴びた身体は、闇に燃え上がる人形のように見えた。
「五〇万ボルトだ。火竜もいちころだぜ」
と網の端を握りしめた用心棒の親玉は、黄色い歯を見せて笑った。超高電圧の放電装置は、発電器《ダイナモ》ともども右の手首にくくりつけてあった。
青い煙を噴き上げつつフシアの身体が倒れると、彼は右手をふった。恐るべき電気網はたちまち一塊となってその手のひらに吸いこまれた。
「片づけとけ」
ともうひとりに命じて店の方へ歩き出したとき、彼は見物人たちの表情に気がついた。
うそ寒いものが、ちらと背中を撫でたのは、ふり向く途中でだった。
フシアは立っていた。なお青い煙を噴きながら、その肌には焼け焦げひとつなく、死人の色を保っている。
「て、てめえ」
棒立ちになった額を長銃の鉄丸が射ち抜いた。
身動きもできないでいるもうひとりに、
「片づけな」
と告げて、フシアは馬にまたがり、西の方をめざして走り去った。
ようやく人々が死体の周りに集まりはじめたとき、バーのドアのそばで、なおひとり、馬の去った方角を凝視する男がいた。
「また、おかしなのが来やがったか。久しぶりで刺激的な村になりそうだ」
こうつぶやいた絢爛たるスーツ姿は、バーの経営者でもあるこの村の大立者――フィッシャー・ラグーンであった。
倉庫群までは二〇分とかからずに辿り着いた。
少年と馬を少し離れた木立に結びつけ、フシアは半ば崩れた建物の間を歩きはじめた。
目標はすぐにわかった。
まともな倉庫は幾つか残存しており、そのうちのひとつに灯が点っている。音もなく走ってその戸口へ着くと、
「化粧好きのクロモ? ――おかしな名前だ」
ドアには鍵がかかっていなかった。不注意というのではなく、誰も来るはずがないという自信の表れだった。現に、うす明かりとともに吹きつけてきた空気には、不死身のフシアをもぞっとさせるような鬼気がこもっていた。
戸口を抜けた前方には、二メートルほどの仕切り用のパネルが並んで、倉庫の奥を訪問者の眼から隠していた。
一カ所だけ、人ひとりが通れるくらいのスペースが開いて、原子灯の光が洩れている。フシアの位置からは何も見えなかった。
足音を忍ばせてパネルに近づき、そっと覗きこんでフシアは眼を細めた。
自然光に近い光が妖々と満ちる室内には、おびただしい数の人間が床に転がり、壁にもたれ、あるいはひとりで、あるいは積み重なって、まるで人間市場の様相を呈しているのだった。
これだけでも実に不気味な光景だが、フシアを動揺させたものは、その人間の顔すべてに、化粧が施されていることであった。
それがどれも凄まじい。太い眉は吊り上がり、眼は爛々と、あるいは欲情にあるいは憎悪に燃え、そのくせ、誰ひとり身じろぎもしないのだ。
動かぬ人々の間から、鼻歌のようなものがきこえてきた。
中央の椅子に腰を下ろした二つの影には、もうフシアも気づいている。片方――ごつい体形の方が、もうひとりの、こちらは惚れ惚れするほどたくましく美しい人影の顔に、何やらブラシらしいものをふるっている。
化粧好き――フシアの眼が爛々とかがやいた。
彼は隠れることも忘れて歩き出した。さすがに足音だけは忍ばせているが、どのような敵であろうと自分を斃すことなどできぬという絶大な自信の成せる技であった。化粧済みの人々は身動きひとつしない。
黒く塗りつぶされた影の顔が識別できる位置に立ったとき、フシアは、あっと叫んだ。
化粧している方は、見たこともないいかつい男だったが、されているモデルは――
「バラージュ男爵――!」
それはまさしく、彼らが狙いつづけてきた美しい標的であった。だが、服装《いでたち》はそのままでも、何という変わり果てた風貌であることか。
青い翳を塗りたくられた肌、黒い隈で縁どられた眼は幽鬼のように陰惨な光を湛え、唇だけが毒草みたいに赤い。
ひと眼見たくらいでは、以前の男爵をよく知っているものでも、彼だとはわかるまい。
茫然と立ちつくし、しかしフシアはすぐ、不思議な現象が自らの胸中に生じはじめたのを感じた。
無残なり男爵の美貌――だが、凝視しているうちにフシアの眼は、凄惨な化粧のイメージが消滅していくのを確認したのである。
醜い姿の哲学者が、しばらくその挙措を見守る者に、内から湧き出る精神の高貴さを否応なく感得させるがごとく、醜悪な仮面を被せられた男爵の天与の美貌はみるみるそれを剥ぎ落とし、自らかがやきはじめたのだ。
鼻歌が止まった。
ブラシを持つ手も止まり、いかつい男はがっくりと肩を落とした。
「またも、しくじった。――ヴラド卿、あなたの息子こそ恐るべし」
この男のふるう技の真の恐ろしさも知らず、フシアはうす笑いを口もとに止めて、
「クロモとはおまえか?」
と声をかけた。
恐らく、全身全霊を男爵のメイクに注いでいたのであろう。男は愕然とこちらをふり返った。
身体つき同様ごつい顔は、化粧のような繊細な神経と技術を要する仕事にふさわしいとは、とても見えなかった。
「誰だ、おまえは?」
「フシア。ハンターだ。――化粧好きのクロモとはおまえだな」
「何の用だ?」
すでに、クロモは満々たる自信を取り戻していた。
「その男――おれたちが狩っていた相手だ。引き渡してもらおう」
クロモは、ちら、と男爵に眼をやって、
「おれの化粧も乗らない相手を狙ったか。なるほど、狩り切れなかったのも無理はない」
にやりと笑った眼の中で、フシアの表情はみるみる悪鬼の形相に変わった。
「おもしれえ眼つきをするな」
とクロモは顎を突き出して言った。
「そんな悪相の野郎にはおれの化粧がばっちり決まる。愉しみにしてな」
フシアは無言で間合いを詰めた。敵がどんな技を使うか知らないが、いかなる傷も治療可能な再生細胞を有する自分に、致命傷など与えられるはずがない。
化粧など、こいつを八つ裂きにしたら、地獄へ行けるよう施してくれる。彼は懐の短剣を握りしめた。
その周囲で、ぞわ、と気配が動いたのは次の瞬間だった。
クロモに意識を十分残したままふり向き、フシアは眉を寄せた。
床から壁から、化粧を施された人間たちが起き上がり、じっと彼をねめつけているのだ。
虚ろな視線に意志はない。それだけに不気味この上なかった。
「死ね」
クロモの声が合図。
男たちは妙にぎくしゃくした動きでフシアに近づくや、その首に腹に長剣を突き刺した。
気にもせず、フシアは右手のナイフで男たちの喉を裂き――そして愕然となった。
頚動脈から迸る血潮は床にぶち撒けられるばかりでなく、朱色の霧みたいにフシアのいる一角を押し包んだ。まちがいない、美しい動脈血だ。
みるみる男たちは血の気を失い、そして倒れず、フシアにとびかかってきた。
「ちい!」
その手をかいくぐり、一方の壁を背にして、フシアはようやく事態の重大さに気がついた。彼は不死身だ。同時に、こいつらも。
「てめえ。“死なずの化粧”を!?」
クロモが、にっと笑った。
フシアが口にしたひと言――“死なずの化粧”とは、実は特別なものではない。辺境の地では広く行われている埋葬の際、再生を期して死者の顔に施されるものだ。正確には“死なず”ではなく“甦り”の化粧とも称すべき代物だが、人々はやはり現世利益を求めて、いつしか呼び名も“死なずの化粧”と変わった。
だからといって、施されたものが不死者になるなどあり得るはずもないが、それがクロモの手にかかるや、世にも美しい不死者たちの誕生となるのだった。
男たちが半月形に並ぶや、長剣、短剣等を身体じゅうに受けたままのフシアへとふたたび襲いかかろうとした。
その足下へ、小さな黒い球体が転がったのである。
重々しい爆発音が天地をゆするや、人工の不死者たちは木っ端微塵に吹っとんだ。球体は炸裂弾であった。
「き――貴様あ」
驚きと怒りに仁王立ちになったクロモの前方で、白煙をまとわりつかせたフシアが、
「見ろ」
と胸もとを指さした。
「おお!?」
と叫んだのはクロモだが、これは無理もない。フシアの胸部には直径五〇センチもの大穴が穿たれ、向こう側が透けて見えるのだ。
フシアの手がひと撫ですると、傷は跡形もなくふさがった。驚嘆といってもいい再生細胞の働きである。
もう片方の手で赤い球を弄びながら、
「おれにしかできない戦法よ。さ、つづけて来な」
とフシアは嘲るように宣言した。
いかに“死なずの化粧”が施されているといっても、それが破損した部分を埋め合わせるわけではない。吹きとばされた男たちの肉体は、腕をもがれ、胸からちぎれても、なお、立ち上がろうと蠢いている。
残りの連中へ、クロモが何か命じるより早く、三度《みたび》爆発が生じた。
壁に大穴が開き、男たちは宙に舞う。
フシアの身体におびただしい破片が食いこみ、たちまち新しい肉に呑みこまれた。体内で分解されるまで一分ほどかかる。
あちこちで炎が上がった。灯影にあぶられて立ちすくむクロモの姿は、突如授けられた運命にすくみ上がった人間そのものに見えた。
フシアが地を蹴った。
クロモの眼前に着地するや、その胸に懐剣を突き立てようと右手をふりかぶる。
その胸を背後から黄金の光が貫いた。細胞が百万度近い高温に蒸発し、たちまち再生する。
倉庫の戸口へとふり向くフシアの前に、白鬚の老人が飄然と立っていた。
地面と平行に曲がった上体を支えるべく杖こそついているが、細い両眼の湛える光は、プロの戦闘士さえ顔色なからしめる凄まじさであった。
「言云《ことづ》て鳩を貰ってな。待ち切れずに急ぎ来てみれば、おや、大宴会の最中か。しかし、これはやりすぎじゃな」
「カリオールさま」
と叫ぶクロモには眼もくれず、フシアを見つめる眼差しに、何やら好奇心というにはあまりにも凄絶なかがやきが、波のごとく盛り上がってきた。
「再生細胞がこれほどまでに効率よく稼働する人間ははじめて見る。ふむ、ようやく新しい容れものが見つかったか」
老人の言葉をフシアは無視した。内容が理解できなかったせいもあるが、なぜか冷たい風が首すじを撫でたのである。
小さな影は、ひょこひょことやって来て、フシアの手前約四メートルで立ち止まった。
フシアの手の中で懐剣が弧を描いた。刃の方を持つや、フシアは老人に投擲しようとした。
その身体があっという間に硬直したのである。
その一瞬、カリオールの両眼が鮮紅色を放ったのを、見ることができたかどうか。
クロモに向けた老人の眼は、もう尋常なそれに戻っていた。
「役立たずめが」
軽蔑を剥き出しにした一声に、クロモは声もなく頭《こうべ》を垂れた。
「火を消すがいい」
と命じて、カリオールは男爵に近づいた。死闘の間、彼は身じろぎもせず坐っていたのである。
「クロモ」
と彼は、消火器を片手にした部下へ呼びかけた。
「は!?」
とふり向いたその顔の半ばまで、木の杖がめりこんだように見えた。
のけぞる身体へ容赦なく打撃が加えられ、クロモは悲鳴を上げながら、床を転げ廻った。
腰の曲がった老人とは到底思えぬ力であり、急所の捉え方であった。クロモは脳髄まで痺れた。
「うぬは、この方を誰だと心得る?」
老人は怒号した。獅子の咆哮に似ていた。
「恐れ多くもバイロン・バラージュさま――ヴラド卿の正統なるご子息だ。それを、それを、貴様のような下劣な下郎の慰みものに――ええい、すぐにこの汚らわしい化粧を取れ。取らぬか。バイロンさまをもと通りの姿に戻すまで、日ごと夜ごと打ち据えてくれるぞ」
ふり上げふり下ろされる杖の威力がどれほどのものか、クロモは失神していた。
やがて横たわる部下への打擲《ちょうちゃく》もひと息つくと、カリオールは男爵の足下にひれ伏した。
「お生命《いのち》を狙ったこと、また、知らぬこととはいえ、このような下賎のものの手にお肌を触れさせましたこと、心からお詫び申し上げます。かくなる上は、私めの館にて心ゆくまでご静養下さいませ。貴方さまの崇高なる目的も、不肖カリオール、すべてを存じておりまする。いまはともかく、母上さまとのご対面もいずれ近いうちに成就されんことを、お約束いたします」
そして、この奇怪な精神《こころ》を持つ老科学者の妖眼から、嘘いつわりのない熱い涙が溢れ出したのである。
風にある種の気が混じりはじめたのに、Dは気づいていた。
来る。
タキの血を吸った貴族が、その渇望を抑えかねて、血色の闇の底からやって来る。
小屋の外でサイボーグ馬のいななきが上がった。黒マスクの男たちは、まだ気がついていまい。
「D――」
と鉄格子の向こうからタキが呼んだ。
ふり向くDに、
「眠いわ。とっても。何だか……おかしい」
Dの返事も待たず、娘は床に崩れ落ちた。
「珍しい例だの」
Dの左手のあたりで、好奇心むんむんの嗄れ声が言った。
「犠牲者が眠りにつくとは、とんときいたこともない。まして、この娘は――」
「敵の廻し者か?」
とDが訊いた。
「そうじゃ。あの魔術師め、娘自身も知らぬ仕掛けを、脳みそのどこかに施したにちがいない。貴族の口づけを受けたことで、それが発動しなければいいが。万が一そうなったら、厄介だぞ。前門の火竜、後門の水鬼じゃ。今のうちに処置をしておくか」
Dは仕切りの鉄格子に近づき、その間から左手を突き出して、タキの顔に触れた。
タキの寝息がさらに深くなったのを確かめ、Dは立ち上がった。
「眠った上に失神させられると、どんな夢を見るのかの」
感慨深げな左手のつぶやきを残して、Dは外へ出た。
黒い風が漆黒の髪をなびかせてすぎる。
月は明るく、風は澄んでいるとはいえなかった。
東の彼方――あの館の方角から突き進んでくる鬼気をDのみは知っていた。
前方に立つ五つの影のひとつが、
「そろそろ、かな?」
と訊いた。
「手を出すな」
とDは言った。
「そうもいかん。万難を排してあなたを守護せよとの依頼を受けておる。足手まといにはならんつもりだ」
月光の下に立つ影は、いずれも凄愴であった。
Dが言った。
「名前をきいておこう」
「――おれはブロスだ」
「ゼッカ」
「シュウマ」
「バイアンだ」
「クラリスよ」
最後のひとつは女の声であった。
「吸血鬼ハンター“D”の戦いぶり、とっくりと見せてもらうぞ」
とブロスはDに告げてから、仲間たちをふり返り、
「自由戦闘配置だ」
彼を含めて五つの影は闇に溶けた。
「早い、な」
嗄れ声が言った。声は月光の下に嫋々《じょうじょう》と流れた。
「――死人《しにびと》は旅が早いゆえ」
そして、一分がすぎた頃、Dの耳はまぎれもない鉄蹄の響きをきいた。
「ひとり、じゃな。おまえの実力を知って――よほどの自信があるとみえる。それとも、あの娘の血が気に入りでもしたか」
左手の声に応じもせず、Dは闇の奥を凝視していた。
廃墟へ入っても、蹄の音に変化はない。
「二〇〇メートル」
と左手が言った。
「一五〇メートル」
澄んだ音が夜を走った。鋼の相打つ響きに肉を断つ音が重なり、重いものが地を打つ。そして蹄の音は停滞なく近づいてくる。
「一〇〇メートル」
すでにDは、闇を圧して迫る巨大な騎馬を視界に収めていた。
漆黒に猛々しい筆で首と胴をつないだような馬が見えた。
馬上の騎手は暗雲の塊であった。膨張と収縮を繰り返す雲塊から、黒い根のような腕が時折のぞき、顔にあたる部分には確かに眼や鼻のようなものが見えた。
雲間から青白い稲妻が飛んで、表面に付着した墨のようなはね[#「はね」に傍点]を浮かび上がらせた。血だ。
怒涛のごとく突進してきた騎馬は、Dの五メートルほど手前で鮮やかに停止した。
馬の首に巻かれた手鋼は太い鎖であった。その端は雲の中に消え、操る手を見ることもできなかった。鐙《あぶみ》を踏む足も黒雲に覆われている。これが騎士の甲胄なのだろう。
「Dか?」
と遠い雷鳴を思わせる声が訊いた。
Dは答えない。彼はすでに、眼前の敵がヴラド卿でないことに気づいていた。
「おれはグリード公爵だ」
と雲は稲妻とともに名乗った。
「ヴラドはどこだ?」
とDは訊いた。新しい敵――それも、こんな状況で派遣された以上、凄腕にちがいない男の登場を前にして、何の感慨も含まぬ口調であった。
「卿と呼べ」
黒雲の騎士――グリード公爵は怒号した。
「ヴラドはどこだ?」
とDは繰り返した。
二人の間を青い稲妻がつないだ。Dの左肩が小さな炎を噴く。
「ヴラド卿からただ者ではないときかされていたが、さて、この程度の攻撃は気にもとめぬ大物なのか、それとも恐ろしくて口もきけんのか? ――おれは後者と踏んだが」
肩の炎がDの横顔を青く染めた。うつろう翳は、天上の美貌をさらに深く美しいものに見せた。
グリードの攻撃に間が生じたのは、彼も眩惑されたのかも知れなかった。
「おっ!?」
驚きの声を黒雲が放ったとき、Dは馬の鼻先まで距離を詰めていた。
黒馬が棹立ちになった。半獣半機のサイボーグ馬ですら、Dの美しさに魅了されていたものか。
跳躍したDの刀身が、刃のすべてを黒雲に斬りこむ瞬間まで、グリード公爵は何もできなかった。
だが――
刀身から伝わる手応えのなさを感じ取った刹那、逆流する衝撃波にDの身体は黒い塊と化して宙を跳んでいた。
地面へ叩きつけられる寸前、黒い翼が開いた。広がったコートであった。
ゆるやかに舞い下りた若者が次の攻撃を送るべく体勢を整えたとき、黒い騎馬は大山《たいざん》のごとく眼前に迫っていた。
いかにDとはいえ、奇怪な暗雲装甲への致命的な攻撃を紡ぎ出す余裕はあるはずもなかった。
稲妻が槍の形をとってDの胸へと走った。
貫いたと見えた刹那、それは左手に吸いこまれ、白刃が月光を断った。真横に、一文字に。
「おおっ!?」
と暗雲が叫んだのは、急激に前のめりになる自分を意識したからであった。
横薙ぎに払ったDの抜刀は、雲の甲胄にあらず、黒馬の前足を斬りとばしていたのである。
つんのめる速度とタイミングを見れば、騎手もまた大地へ叩きつけられる運命が待っているとしか思えなかった。
血煙を上げて倒れる馬を横にとんでかわし、Dは見た。
前方へ跳んだ黒雲が地面にぶつかるや、毯《まり》のように弾んで小屋へと向かうのを。
風を巻いてDは走った。
走りつつ左手が上がった。
その手のひらに小さな口が開くや、空気はごおごおと唸りつつ、その中へ吸いこまれた。
黒雲の端もそちらへ流れはじめたとき、それは小屋の扉と接触した。
小屋の崩壊の様は、巨大な嵐に巻きこまれたかのようであった。
そのとき――
空中から光る玉がひとつ、吸い寄せられるように暗雲へと降下してきた。
触れた刹那、それは火花とともに弾け、雲の表面へ霧状の物質を散布した。
「ううっ……」
苦鳴は確かに雲の――グリード公爵の放ったものであった。
一体、誰が? ――と思うより早く、雲塊に追いすがったDは、渾身の力をこめて一刀を叩きつけた。
手応えがあった。
絶叫は黒血の奔騰《ほんとう》とともに宙へ舞った。
迸る電光の下をDは飛燕のごとく跳んで、二撃目を送ろうとした。
その刀身へ新たな球体が吸いついたのである。
ぱっと弾けたそれを、Dが両眼を閉じて避ける間に、暗雲は大きく闇の奥へと滑空していった。
稲妻が二、三度とび、それもすぐに消えた。
左手で両眼を拭って、Dは斜め左方へ眼をやった。
そちらから近づいてくるエンジン音を聴取したのである。
現れたのは、甲虫《かぶとむし》を思わせるずんぐりした乗り物であった。金属の表面を月光が冷たく硬く波打たせている。風だった。
敵か味方か。どちらにしても、Dにとっては興味津々たる存在のはずだ。
だが、ただの一瞥を与えたきりで、彼は小屋へと足を運んだ。
倒壊といっても押しつぶされたのではない。残骸は四方に散らばっている。タキを見つけるのはかえって楽だった。
ほぼもとの位置に、同じ姿勢で横たわっている。
問題はその上にのしかかった鉄格子だった。
二〇〇キロ近いそれを、Dは左手で掴むと、軽々と後方へ放った。
格子は甲虫の鼻先の地面に突き刺さり、急停車させた。油圧ブレーキの音が鋭く夜を切り裂いた。
Dはそちらをふり向きもせずに、タキの状態を調べた。鉄柵がただ倒れかかったのか、吹っとんできたのか――人体への影響はまるで異なる。
タキの口からは鮮血がしたたっていた。内臓破裂にまちがいない。表情に苦痛の色が認められないのが奇妙だった。
Dは左手をタキの頭頂から後頭部、頚から背へと滑らせ、腰、腿と触れつつ、爪先で終えた。
「胸椎が二本折れておる」
と左手のひらから声がきこえた。
「後は胃と小腸の一部破損。重傷だの。本人が気づいとらんのがせめてもじゃ」
「医者のところへ運ぶまで保たせろ」
とDは言った。
「もう、処置してあるわ。代謝機能を限界まで落とした。冬眠状態と同じと見ていい」
この間に、停車した甲虫の表面が鳥の翼みたいに開き、壁を思わす巨躯が降り立った。
頭から爪先まですっぽりと銀色の衣裳で包んでいる。光沢からして金属なのに、関節のようなものは一切なく、それでいて、歩み寄る動作は滑らかなものであった。
巨漢は五メートルほどのところで立ち止まった。
Dも立ち上がって銀色の巨人の方を向いた。
「おれが五人の依頼主だ」
抑揚のない声は、機械を通したものであった。
「邪魔をしたのも、おまえか?」
Dの言葉の意味は、グリード公爵の攻撃を妨げると同時に、彼の追撃をも妨害したという意味だ。
「そうなるな」
巨人は苦笑した。金属のマスクは目鼻立ちのないのっぺらぼうなのに、このときははっきり鼻と唇とが浮き上がったのである。液体金属にちがいない。
「おおっと。そう殺気をとばすな。胆がひしがれる」
巨人は後じさって、
「おまえの邪魔はしたかも知れんが、少なくとも敵でないのはわかるだろう。話をきけ。いや、その前に、そこの娘を医者に診せねばならん。当てはあるのか? ――なければ、おれの知り合いのところへ連れて行くが、どうだ?」
少し間を置いて、Dは、
「まかせよう」
と言った。光る巨人の言葉を信じたのかどうかはわからない。タキの身を第一に考えたのである。巨人の名や素性を尋ねないのは、どうでもいいからだ。
「ついて来い」
と巨人は足早に甲虫の方へ歩き出した。ドアが閉まり、エンジンが唸りはじめたとき、Dは馬上にあった。タキは膝の上に乗せてある。
甲虫がゆっくりと走り出した。その後を一、二歩追いかけ、Dは不意に馬首を巡らせた。
ある方向へ一五〇メートルほど駆けて、止まった。
黒土の上に冷え冷えと五つの身体が石のように転がっていた。
ブロス
ゼッカ
シュウマ
バイアン
そして少し離れたところに、クラリス。
首から下は装甲《ボディ・アーマー》ごと黒々と焼かれていたが、上向いた横顔にだけは傷ひとつなかった。
ほつれた赤い髪が、頬の上で哀しげにゆれている。
Dは無言で向きを変えた。星が光っている。死者を送る言葉は、この若者にはないのだった。
甲虫はゆっくりと廃墟を出ようとしている。それを追って美しい騎馬がゆく。夜明けまで三時間。
夜明けを憎んだ闇は、カリオールという名の屋敷で、いまひとつ、呪わしい劇《ドラマ》の幕を開けようとしていた。
塔の最上階にある広大な実験室が舞台であった。
登場人物は、カリオールとクロモ、サイファン及び、助手役の泥人間《ゴーレム》三名。室内の中央に置かれた巨大な水槽内に漂う女貴族――ミスカ。そして、もう一名。
泥人間たちに命じて、発電機の回転数を調整したり、自らも水槽の電離層チェックに余念がないカリオールを横眼に見ながら、サイファンはこうつぶやいた。
「もう、勘弁して下さいよ、大将」
それを隣のクロモが小耳にはさんで、
「ヴラド卿の館じゃ、さんざんだったらしいな」
わざとらしい同情をこめて言った。
「ああ。あれ[#「あれ」に傍点]をまたやらかすとは、大将、頭がどうかしてるぜ。誓ってもいいが、今度こそ、あの世行きだ」
「ま、愉しみにしてるよ」
「塔の外でなら、おれもそうなんだが」
とサイファンが応じたとき、
「よおし、準備は完了した」
この老人には珍しく、勝ち誇った声が実験室内に広がった。
「早速――最後の施験台を呼べ」
二人の泥人間が、ややぎごちないが足早に、部屋の片隅にある井戸らしきものに近づいた。
天井のレールにぶら下がった滑車からロープが垂れ下がり、暗い口に消えている。
泥人間のひとりが、床の止め具に結びつけられた反対側のロープを掴んで引いた。
滑車は回転し、すぐに井戸の内部から、ロープでがんじがらめにされた人影が、光の中に現れた。
「誰だ、ありゃ?」
と尋ねるサイファンへ、
「フシアとかいうハンターよ。男爵を狙って、おれのところまで来やがったところを捕まえた」
「フシア――と言ったな?」
こんな夜半に叩き起こされた怒りも忘れて、サイファンはなるほどなという表情をこしらえた。
「噂にきいたことがある。どんな傷を負っても、瞬時に再生してしまうという。フシアのフシは不死身から取ったあだ名だそうだ。そうか、大将、えらいことを考えたもんだ」
「わかるのか、おまえに?」
「何とかな。――こりゃ、早いとこトンズラこいた方がよさそうだ。今度しくじったら、それこそ生命がねえ」
しゃべくりながら、もう出入口の方へ後じさりはじめたサイファンの腕を、クロモの手が掴んだ。
「てめえひとりだけいい目を見ようたって、そうはいかねえぞ。世の中にゃ、一蓮托生って、いい言葉があるんだ」
「そんなところで、こそこそ何をしている?」
だしぬけに跳んだカリオールの一喝が、二人の手下を直立不動にした。
「おまえらは今夜、未曾有の科学の成果を、わしとともに眼にする光栄に恵まれたのだぞ。もう少し、謹厳になれ、謹厳に」
「はっ、失礼いたしました」
「同じく」
まだ事情を呑みこめないクロモはともかく、サイファンの声は絶望にコーティングされていた。
カリオールは何をしようというのか。腰をひん曲げた姿勢で、彼はのろのろとミスカを封じた大水槽に近づき、横に置かれた大型レバーを引いた。
すると、部屋の窓という窓が一斉に開き、いわく言い難い妖気をはらんだ風が吹きこんで、室内を不気味に駆け巡った。
叩きつけるような風から顔をそむけながら、クロモとサイファンは、この部屋に入ったときから感じていた釈然としないもの――水槽の中を漂う美女に思いを馳せていた。
貴族に水は禁物なのである。それは、封じられた貴族の意識を奪い、永劫にわたる眠りを強制する。
「ミスカさまは封じた」
とカリオールは、動きを生じつつある水の中の美女を凝視しながらつぶやいた。
「そして、奴[#「奴」に傍点]もまた。貴族の体内にいる限り、奴も水は苦手のはず。奴――“破壊者”といえどもな」
彼は杖で床を叩いた。
水槽からは、おびただしいビニールのチューブが床の上までくねっていたが、それらが蛇みたいに鎌首――針のついた先端を持ち上げ、井戸の上にぶら下がったフシアめがけて移動しはじめたのである。
針の先が深々とハンターの全身にめりこんでいくのを見て、サイファンが柄にもなく、うええ、と喉を押さえた。
その肘を、別の肘がつついた。
「何しやがる?」
と歯を剥くサイファンへ、
「見ろ!」
とクロモが水槽を指さした。
ミスカの口から青い光が水中へとこぼれはじめていた。
「“破壊者”だ」
サイファンは声の震えを抑えることができなかった。
貴族の生んだ狂った最終兵器――この世界のみならず次元さえ狂わせる戦慄の怪物は、再び解き放たれようとしていた。
だが、その“憑坐《よりまし》”ともいうべきミスカの身体を離れて、青い光は明らかに苦悶に身をよじった。
水を嫌う貴族の体内に潜む以上、“破壊者”もまた、水を恐れるのだ。
のたうち、渦巻く青い光が、このとき、すうと水槽の縁からさしこまれたチューブの方へ引き寄せられていった。
チューブ自体が吸引したのではない。苦しむ“破壊者”が脱出孔を求めたのだ。
ミスカの口はなおも光を吐き、いまや、すべてのチューブは青白く染まって、フシアの体内へと流動物を注ぎこんでいく。
そして、フシアもまた、井戸に満たされた再生細胞強化液に浸けられ、その不死身ぶりを増していた。
一分――二分――なおも注入はつづく。
ついに、ミスカの口が最後の青い光を吐き出したとき、フシアの両眼がかっと見開かれた。それは眼の形をした青い光だった。
「いかん――早すぎる!」
カリオールの叫びと同時にフシアの身体から、一斉にチューブが弾けとんだ。
それは残らず水槽に戻って、みるみる水を青く染めた。
ロープがちぎれ、フシアの身体が床へ落ちる。いや、見よ。その床が円錐形にくぼみ、四方八方へ走る亀裂の凄まじさよ。彼はもはや、不死身の“破壊者”であった。
「まだ、身体になじんではおらん。今のうちに止めい!」
三体の泥人間がフシアへと迫り、その身体に触れた刹那、塵と化して床にわだかまった。
フシアの手が、なおも自らを呪縛しているロープにかかると、あっさりとそれはほどけ、彼の手に合わせて、鞭のようにしなった。
狂気とも鬼気とも妖気ともつかぬ熱風が室内を一蹴して、戸口を吹き下りていった。
サイファンとクロモが仲良く床に伏せる。
だが、恐るべき事態は、次の瞬間に生じた。
水槽が音もなく炸裂し、溢れる水とともにミスカが床に下りたのだ。
彼女は倒れなかった。二本足で立ち、全身から水をしたたらせつつ、フシアを見つめていた。床を覆う水の中には何もなかった。ミスカが眼を開いた。そこに青い光が詰まっていた。
「水槽に残った“破壊者”がミスカさまに戻ったのじゃ」
カリオールが本心からの絶望と恐怖をこめて叫んだ。
「しかも、どちらも肉体に同化しておらん。ここで、ここで戦うぞ。――世界の破滅じゃ」
カリオールは両手を広げて、青い眼を持つ二人の間へ駆けこんだ。世界のためを考えての行動ではないのは、次の――途方もないひと言でわかった。
「“破壊者”よ。きけい。おまえを不死身の体内へ移したのは、ヴラド卿を抹殺するためじゃ!」
床の二人――サイファンとクロモが、愕然と老人の方を見つめ、そのせいで、彼らはこのとき、戸口から入ってきた幽鬼のような影に気がつかなかった。
ミスカとフシアの間に、凄愴なものがたちこめた。その密度が限界まで達したとき、世界は破滅を迎えるのだろう。
さしものカリオールにも成す術はないものか、胸前で印を結んだ刹那、フシアの両眼から迸る青い光条に跳ねとばされて、壁に激突した。
防御膜に包まれた身体を床から起こし、老科学者は、あっと叫んだ。
クロモとサイファンの叫びがそれに和した。
「下の階でお寝みいただいておりましたのに――吹き下りた“気”が、あなた様を戦いの場へ? やはり――やはり、根っからの貴族」
感嘆を通り越して感動とさえいえるカリオールの言葉を捧げられるべき貴族――バイロン・バラージュ男爵は、無表情にきいていた。
甲虫がDとタキとを導いたのは、繁華街のど真ん中にそびえるビルの一室であった。
ドアに、
「リューベック医院」
とある。
「治療が済んだら、別の場所へ移す」
と巨人はDに告げた。
ドアをノックすると、白衣長身の女性が現れ、一同を中へ招じ入れた。
「ミレーユ・リューベックです」
と名乗る声が虚ろなのは、もちろん、Dを見たせいだ。
Dはタキの症状を告げ、治療を依頼した。
検査を入れて、三〇分もすると、ミレーユが済んだと告げた。
「ひと月は絶対安静。――といいたいところだけれど、もう、半分は治りかけているわ。貴族の口づけを受けた娘の常でね。完治にはあと二日もあれば十分でしょう」
それから、銀の巨人へ眼を移して、
「奴らが探していた色男って、この人?」
「そうだ」
「どうして、あなたが?」
「放っておけ」
言われて、女医は肩をすくめた。
「いずれにせよ、これ以上、気取ってもはじまらんな。――腹を割って話さにゃならんこともある。正体を明かすとするか」
巨人の頭頂に小さな点が生じるや、銀色の装甲は水のように流れ落ちて、内側の人物をさらした。Dにも見覚えのある顔は隻眼《せきがん》であった。
「おれさ、フィッシャー・ラグーンだ」
Dの反応の無さは、ラグーンの予想を裏切っていたようだ。
「知ってたのかい?」
訝しげに訊いた。
「一度会った」
とDは言った。
「同じ身体つきの人間は二人といない」
ラグーンは自分の胴に眼を移し、数秒、しげしげと見つめてから、
「世の中にゃ、恐ろしい男がいるもんだな」
と言った。
「ここへ連れて来てもらった借りがある。――話をきこう」
「そう、情《つれ》ない言い方をするな」
ラグーンはうすく笑った。酷薄な表情が、ひどく人間臭く見える。もっとも、この世のものではない美貌を前にすれば、誰でもこうなるだろう。
「何故、助けてくれるのかって訊くのが普通だぜ」
「話がないのなら。――それで借りはなしだ」
「待てよ」
とラグーンは落ち着いた声で、
「おれは、あの方[#「あの方」に傍点]に会ったんだ」
Dの顔に、はじめて表情が浮かんだ。
「いつ、どこで、だ?」
「かれこれ三〇年も前になるか。おれが駆け出しのチンピラだった頃、この村でよ」
彼はひと息ついて、
「貴族の館がある村で、こんなにも夜が賑やかなところを知ってるかい? ヴラド卿も、おれにゃあ手が出せないのさ。あの方[#「あの方」に傍点]の、お墨付きがあるんでな」
「お墨付き?」
「“ひとつ、ここの村人の血を吸ってはならない。”“ふたつ、夜間の公共娯楽場は、フィッシャー・ラグーンがそれを取り締まる限り、自由勝手とする。”その他、色々さ」
「なぜだ?」
とDは訊いた。
ラグーンの顔に何ともいえない表情が浮かんだ。この男は、恐らく、この上ない幸福ものか、二人といない不幸な人間なのだ。
「それを教える前に、Dよ、あんたの実力を見せてくれないか?」
爪先から上昇してきた液体の光が、彼を銀の巨人に変えた。
「ミレーユ、あれでおれを射て」
巨人の指は、部屋の隅に立てかけてある火薬銃をさしていた。
よほどこの男の奇行に慣れているのか、女医はためらいもせずにそちらへ行って二連銃を掴み、弾丸の装填を確かめてから肩づけした。
「いいわよ」
「射て」
火花と轟音が部屋を震撼させた。
医者の治療室で自らを射てという装甲の男、平気でぶちかます女医、それを眼の当たりにして、眉ひとすじ動かさぬ美青年。これこそ異世界の夢魔の光景といえた。
ラグーンの胸部に二つの穴が開いた。奇妙なことに、水面に石を落としたみたいな波紋が広がり、弾痕も水みたいに消えた。
ラグーンが右手をふると、手のひらが波打ち、二個の弾頭を床の上へ吐き出した。
「どんな武器でも、こいつは破れない。おれの想像するある人物の剣を除いてはな。――D、出番だぜ」
声と同時に、銀光が一閃した。
「わっ」
とのけぞったラグーン氏は、こうまでだしぬけにとは思っていなかったようだ。
その頭頂から股間まで、ひとすじの斬線が鮮やかに描かれ、すっと消えた。
Dはすでに刀身を収めている。ミレーユ医師がためいきをついた。
「思いちがいだったかな」
ラグーンの声は冷たかった。
それが、もう一度、
「おおっ!?」
という驚愕の叫びに変わるや、再び浮き出た斬線は、液体の鎧をあっという間に巨人の足下へ溶け崩れさせていた。
女医もラグーンも声もない。ややあって、
「やはり……やはり、思った通りだ」
と呻くラグーンの顔には、子供のような歓喜が溢れていた。
「ようやく、三〇年たってようやく、おれの秘密を打ち明けられる男がやってきた。うれしいぜ。泣きたいくらい、うれしいぜ」
彼の感動には、疑いもなく、ひとりの男の歴史がこめられていた。
ただし、相手を選ぶべきであった。
「話をきこう」
鋼の声が言った。
それも理解していたらしく、ラグーンはうなずくと、すぐにこう切り出した。
「おれが出会ったとき、あの方は、ある実験に没頭していたようだ。ひと目見て、こう申し込まれたよ。おまえの精が欲しいってな。――女貴族と掛け合わせ、新しい生物をこしらえるために、よ」
『D――蒼白き堕天使3』完
[#改ページ]
あとがき
ええ、もう、ここで何を作者が言いたいのか、読者諸兄はお察しのことだろう。
つまり、あれですよ。ひとつ増えたという次第だ。
「D――蒼白き堕天使」は、ついに四巻目に突入することになったのである。
理由は複雑で、とても語り尽くせるものではない。苦悩の決断を、読者は行間から読み取って欲しい。(ムハハ)
しかし、前二巻のロード・ノベル形式の単純さに比べて、今回のストーリイや登場人物の多彩さはどうだろう。大いに、愉しんでいただきたい。
最後になったが(いきなり? という方のために。――作者はもうボロボロなのですよ)、毎度おなじみ遅筆の原稿を、最後まで投げずに待っていて下さった担当のI氏、及びご迷惑をかけたあらゆる方々(イラストの天野さん、この間お目にかかれてうれしかったです)に感謝とお詫びの言葉を。
ありがとうございました。そして、ごめんなさい。
平成七年十月某日
「COUNT DRACULA」(未:ルイ・ジェールダン主演のTV用ミニ・シリーズ)を観ながら
菊地秀行