D―蒼白き堕天使2 〜吸血鬼ハンター9
菊地秀行
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目次
第一章 マジシャン王国
第二章 死の村
第三章 虎と狼
第四章 天翔(あまかけ)るもの
第五章 火神雷神
第六章 血の渓谷
あとがき
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第一章 マジシャン王国
1
夜が明けても、男爵とヒュウは戻らなかった。なおも虚ろなミスカを馬車へ乗せ、男爵の馬車にはタキとメイを残して、Dは飛行体の墜落現場へ向かうと告げた。
「あたしも行きたい」
と、すがりつかんばかりだったのはメイである。タキが止めなければ、尾いてきただろう。
「私にまかせて下さい」
タキの言葉を後に、Dは馬を駆った。
途中で左手が、
「大丈夫かの、あの娘」
|嗄《しゃが》れた声で疑問を呈した。
「どっちがだ?」
「タキの方じゃよ。もっとも、あれがおかしいとなると、メイも危ないがの。放ってきたのは、まだ[#「まだ」に傍点]大丈夫と思ったからか?」
「足手まといだ」
「やはりな。それと、例の吸血鬼女だが――ありゃ、ますます|剣呑《けんのん》だぞ。絶対に何かが憑いておる」
「チェックはした」
「それで発見できるようなものではないのじゃろうよ。思うに――」
「いずれ、わかる。近いうちに、な」
「ふむ、その通りじゃな。――なあ、わしは気味が悪いぞ」
それきり答えず、墜落地点まで、Dは無言を通した。
奇怪な光景が陽光の下に待っていた。飛行体の姿は、どこを探しても見つからなかったのである。
もとより、Dは墜落地点を確かめてはいない。飛行速度と降下角度から見てこの辺と判断するしかない。
馬上から眼を光らせているうちに、何かを見つけたらしく、Dは馬を下り、空地の一隅に近づいた。
拾い上げたのは、薄い布の切れ端であった。古い品ではない。ひと塊になっている薮に付着していた。
「飛行体の成れの果てじゃろうよ」
と左手が言った。
間違いないだろう。
それをポケットに仕舞い、Dは東の奥を黒々と染める木立の群れに眼をやった。ヒュウはともかく、男爵は、陽光も通さぬ枝葉の下に身を横たえているかもしれない。吸血鬼ハンターのアイデンティティ崩壊もここに極まれりだが、とにかく雇い主だ。
そちらへ向かおうとしたとき、風がささやきかけた。
――その森は……危険だ
糸のように細い声は、バラージュ男爵のものであった。
「どこにいる?」
「君の位置が……よくわからないが……空地の南側だ……大きな石がある」
首をわずかに廻しただけで、Dはそれを認めた。
――その下に裂け目がある そこだ
「何をしている?」
――音楽でも聴いていると思うかね 戻る前に陽が昇ったのだ
「ヒュウを探していたのか?」
返事はない。そうだという男ではなかった。
「しばらく、そこにいろ。今度はおれが探す」
――おかしな奴と会った フシアといって槍で刺されても死なん 体内の血を毒液に変える 胴と首を二つにしたつもりだが 他のところを探しに行って戻ったら死体は消えていた フシアのフシは不死身のフシだろうな
「ハンターのひとりか?」
――そうだ
それきり興味を失くしたように、Dは馬首を巡らせた。新たな敵をどのように考えているのか、美しい無表情からは窺いしれなかった。
――その森はおかしい
風が男爵の声で告げた。
――昨夜見たものと変わりはないが まるで違う
ならば行くしかあるまい。――それがDという若者であった。
「確かにおかしいの」
木立の間へ入る寸前、左手のあたりから楽しそうな声がきこえた。
昼の闇が騎馬を包んだ。左右から差し交わされた枝々の影である。わずかな光と圧倒的な闇が、Dの美貌におぼろな|斑《まだら》をつくった。
深い森であった。
それでも、細い踏み分け道が幾すじも走っている。ほとんどはけもの道だが、太いものは、狩りか菜摘みにきた人間がこしらえた分だろう。
青草や苔に混じって、可憐な色彩が点描のように散っている。野の花であろう。時折、頭上を羽搏きと黒い影が飛んだ。
何げなく馬を進めているように見えながら、Dは全神経を五感に集中していた。鳥やけものの声はもちろんのこと、苔の間を潜る昆虫の擦り音、微風にゆれる草の葉の動きまで、今の彼は聴き分け、見て取ることができるのであった。
道の左手に、直径一〇メートルもある巨木がそびえていた。数千年を経たのかと思われる木肌は、無数の裂け目と瘤を生じ、あちこちがぼんやりと鈍い光を放っていた。相当の老樹でなければつかないといわれるヒカリゴケである。煎じて飲めば、リンパ系の病に圧倒的な効果を発揮する。
その陰から、ひょろひょろと二つの影が道へ歩み出た。
ヒュウと――シルクハットに黒い燕尾服の老人だ。|燕《つばめ》の尾に似た上衣の裾は、ひょろ長いどじょう髭によく似合っていた。蝶ネクタイにあしらった宝石が、Dの瞳に赤い点を生じさせた。
「お初に……ではないな。街道で一度会った。私はヨハン卿――人呼んで|街道の魔術師《トレイル・マジシャン》」
少し待ったが、Dが動かないので、肩をすくめ、
「名乗るのも面倒か。Dだな――わしの助手が居候を決めこんでおる」
はじめて、Dが口を開いた。
「子供を放せ」
もの静かな口調に何を感じたか、魔術師はびく、と全身をすくませ、
「逆らえば――問答無用というわけか。どちらが上位かわからんな」
どじょう髭の先をひねって、にやりと笑った。薄い唇の間からのぞく歯は、肉食獣のように尖っていた。
「だが、この子は返せん。返して欲しければ――そうだな、まず、その剣を捨てて男爵とやらのところへ案内してもらおうか」
顔は笑っているが、冷酷そのものの眼であった。
Dの右手が背の剣にのびた。
あっさりと言いなりに――こう思ったのか、ヨハン卿の面長の顔がにっ[#「にっ」に傍点]と笑み崩れた刹那、彼は大きくのけぞり、二度三度と身体を旋回させた。
その右眼から細長いものが生えていた。白木の針が。剣へのばした手が、鞘に仕込んだそれを、稲妻の速さで打ち込んだとは、目撃しているものにも信じられなかったろう。
「き、きさまあ――よくも」
顔を蒼白に変えて喚くヨハン卿に、蹄の音がのしかかった。立ち直る余裕など与えず、Dが一気に馬を駆ったのである。
馬上から閃光が迸った。
ヨハン卿の頭部を割った一刀を手に、Dは反転した。
その間に卿は巨木の陰によろめき走っている。
シルクハットのみならず、その下の頭部も断ったはずの刀身は、Dの右手に異様な感触を伝えてきたのである。
優美なカーブの先端には、山高帽が貼りついていた。――と、それは見る間に溶け崩れ、黒いタール状の粘りと化して、刀身全体を覆ったのである。
路上の少年には見向きもせず――近くに敵はいないと看破した上で――Dは巨木へ廻りこもうとするヨハン卿めがけて馬上から跳躍した。
美しい黒い風の飛翔。
間一髪――横なぐりの一刀は魔術師の頭部に届かず、木の幹に食いこんだ。
まさか、跳ね返されようとは。
|眉宇《びう》を寄せたのも一瞬、Dはヨハン卿を追って、自らも幹を廻った。
消えていた。――気配も残さず。天に昇ったのでも、地に潜ったのでもないのは、Dの超感覚が証明している。
それ以上は追わず、Dは刀身を見つめた。溶融した山高帽は、付着する間は刃の切れ味を奪うつもりらしかった。
道へ戻った。
ヒュウはもとの位置にぼんやりと立っている。
違っているのは、その手もとにひとすじのロープがぶら下がっていることだった。握っているのではない。天から垂れているのである。
Dは頭上を見上げた。
木漏れ日のさす枝々の空隙が丸い天蓋のように抜けている。ロープはその中央に吸いこまれていた。
ヒュウが片手でそれを掴んでも、Dは動かなかった。
Dがそこにいることを知らないのか、少年は|猿《ましら》もかくや、と思われる身のこなしで、頼りなげにゆれるロープを昇りはじめたのである。
五メートルほど昇ったとき、Dの右手から白木の針がとんだ。それが貫く寸前、ロープは意志を持つもののようにうねり、針を打ち落したのである。
うねりは止まらなかった。
Dの次の攻撃を避けるがごとく、ロープは激しく身をくねらせつつ少年を乗せて急上昇を開始し、見る見るうちに天空の彼方に消えてしまった。
Dは馬にまたがった。頭上をふり仰いだ。|蒼穹《そうきゅう》を求めたのではない。黒い雲のようなものが天空からふりかかってきたのである。
大地にしぶいたのは鮮血であった。地をえぐるほどの強さは、どれほどの高みから落ちてきたものか。
眼の前を同じ色の塊がかすめた。地を歪ませて跳ね上がったのは、付け根から断ち切られた少年の両腕であった。血飛沫が躍った。両脚がつづいたのである。どん、と鳴った。黒土に胴体がめりこんでいた。下方から衝撃が噴き上げ、失われた首の切り口から臓器を弾きとばす。最後にひとつ――干し柿のようにつぶれた。
Dは馬上から、かつてはひとつのものであった人体を眺めた。それぞれが衣裳をまとっている。ヒュウのものであった。無残につぶれた頭部にも、勇敢な少年の面影が残っているように思えた。
「どうじゃな?」
と左手のあたりで声が訊いた。
「まがいものだ」
とDは言った。血の雨の真下にいたはずなのに、透き通るような肌には朱の一点もない。
「なるほどな。よくできておる。だが、合成体ではないぞ。人間の身体じゃ。奴――おまえを脅かすために、別の子供をさらったな」
そして無残に寸断したというのか。ヒュウそっくりの子供の四肢が備える相違点を、Dの眼は見通していたにちがいない。
「どうするの?」
重く尋ねる声にも、氷の花のような美貌は眉ひとすじ動かさなかった。そのイメージから、コートを翻して下馬する姿など想像もできなかったろう。
地上に下りて一歩踏み出したとき、遺骸が急に動いた。
地上にめりこんだ胴へ、ねじれた両腕が滑り寄り、地べたへ手のひらをついて勢いよく起き上がるや、肩の切り口へ付け根を押しつけた。
五指が動いた。最初、途方に暮れたように、左右勝手に動いていたものが、ようやく慣れたか、十指を組み合わせて、指を曲げ、そらせてから、互いの手首を折り曲げはじめた。二〇秒ほどそれをつづけると、腕はようやく手のひらを地べたにつき、何度か肘をのばしたあと、二度目に地中の胴体を持ち上げた。両脚が転がりつつ近づき、下半身にくっついた。
脚の|慣れ方《トレーニング》は、立つことであった。
誰が見ても立派な肉体――とはいえまい。四肢は大地にぶつかった衝撃でねじ曲がり、右の肘と左の膝は骨を突き出している。胸から上がぐしゃぐしゃの胴は血まみれで、しかも、首がない。
「ばらばらにしてもこき使うか。――たいした魔術師じゃ」
呆れたような嗄れ声にも、遺骸の動きは止まらず、ついに地べたでつぶれた頭部へ手をのばした。
すっとDが前へ出た。一刀の下にDは小さな胴を二つに断った。
操られた死体は、最後の悲惨を見せずに崩壊した。
「太刀は切れんはずじゃが――さすがだの」
嗄れた声が惚れ惚れするように言った。切れるはずのない刀身で切る――物理現象さえ凌駕するDの力であった。
Dは馬に戻った。馬首を巡らせ、もと来た道を歩き出す。
「行きはよいよい――とかいう歌があったの」
声がついていく。
「後はこうじゃったか――帰りは怖い。方向が逆じゃぞ」
わかっている、という風にDは訊いた。
「このまま行くとどうなる?」
「罠じゃろう。なんともいっても、ここは魔術師の王国じゃ」
馬の足取りに変化はない。Dは自ら虎穴を選んだのだ。
敵のちょっかいを切り崩していけば、張本人との接点が掴める――こう考えたのか。
不意に馬がたたらを踏んだ。必死で後足立ちになる。
Dは手綱を引いたが、サイボーグ馬の動きがそれについていけなかった。
後足で一歩下がり、耐え切れず下ろした前足の下に地面はなかった。
大地のはずの地点に広がる虚空を、Dは見た。
風を巻いて落ちていく。
幻覚だ。あり得ない世界であった。しかし、耳もとで唸る風音、逆立つ髪とコートの裾――何よりも時速三〇〇キロもの落下感がこれを嘘とは思わせない。
「たいした散歩じゃの」
と風にちぎれる声が言った。
「このまま、地上に叩きつけられれば、本当にぺしゃんこだぞ。みな、嘘だと思え。――うげ」
握りこんだ拳を手綱へ戻し、Dは落下をつづけた。
黒い大地が迫ってきた。時速五〇〇キロで落ちていく。
――大地に!
Dは森の道に立っていた。もとの位置であった。周囲を見た。油とも血ともつかないものが、路上と草むらにぶち撒かれていた。遥か彼方に四散した破片は、サイボーグ馬の一部であったろう。馬は敵の心理攻撃から逃げられなかったのだ。
Dは無言で歩き出した。
一〇〇メートルも行かないうちに、周囲を白光が包んだ。人工の光でないのは、Dが思わず片膝をついてしまったことからもわかる。自然光――それも、真昼の百倍近い輝度を持つ陽光であった。
「暗黒の森に光の土地――これこそ、ヨハン卿の魔術の粋」
憎悪の詰まった声が天空から降ってきた。荒い息がDの与えた傷の重さを如実に表していた。
「ダンピールに流れる貴族の血が、光からの逃亡を許すまい。どう切り抜ける、吸血鬼ハンター?」
声は光の方角からきこえた。そこをめがけて白木の針が走ったが、反応は哄笑のみであった。
「血迷ったか、ハンター? それくらいしか手がないのなら、次はこちらの番だ。――ほうれ」
燦然たる陽光の輪をきらめきが彩った。
おびただしい鋼の矢がDを襲い、長剣に跳ねとばされたのである。のみならず、それらはことごとく矢の形をした紙切れと変わった。現実には、ゆるやかに舞い落ちたにすぎぬ紙片を、本物の矢と速度だとDに錯覚させたヨハン卿の術こそ恐るべし。次の瞬間、Dの背から鳩尾まで一本の短槍が刺し貫いたのだ。
陽光に照り焼かれ、いつわりの攻撃に全神経を集中させていたDに、これは防ぎ切れなかった。
「右手のまやかしに注意を引きつけ、真のトリックは左手で行うのが、魔術の極意」
ヨハン卿の声は高らかに笑った。
「見破れるか、ハンター、わしの大トリックを!?」
哄笑を風切る音が断ち切った。
Dの右手から黒い稲妻が天へと逆しまに流れたのだ。自らを刺し貫いた短槍を瞬時に抜き取り、投擲した先は、声とは反対――右側の樹上であった。
ガラスの砕けるような響きが葉をゆするや、あっと驚きの声が上がった。同時にDの動きを封じた光の牢獄は忽然と消滅している。
「見破るか、Dよ、ヨハン卿の|術《マジック》を!?」
叫びに向けて白木の針が放たれ、もう一度、苦鳴が上がった。
樹上からきらめく破片がふり落ち、ガラスのようなその表面に黒血がしたたった。
Dの右手が刀身をふりかぶった。敵はまだ致命傷を負っていない。その判断の正しさは、つづいて起こったメカニズムの唸りが証明した。
短槍と白木の針とが消えたあたりから、翼を広げた鳥のような飛行具が降下し、その中央――操縦席らしい楕円形の窓ガラス越しに、ヨハン卿のどじょう髭が見えた。その片目には黒いハンカチが押し当てられている。
「また会おうぞ、恐るべきハンターよ。この眼の礼をせねばならん。――忘れるな」
黒い翼が不器用に羽搏き、上昇を開始するや、飛行体はずんぐりした形からは想像もできぬスピードで枝々の間に吸いこまれた。木の折れる音がして、数本の枝が置き土産のようにふり落とされ、それきり物音も気配も途絶えた。
刀身を収め、馬上へ戻る前に、Dは少し離れたところに広がる無数のかがやきに眼をやった。
ただのガラスの破片にあらず、映し出された木立は鏡の鮮明さを備えている。
これでわずかな陽光を増幅してDの動きを封じ、紙片を矢と錯覚させる幻を見せたのだろう。
手品のトリックは単純なものほど効果的だというが、ヨハン卿のそれは魔力に近い効果を発揮したのである。
森の入口へと歩き出す前に、Dは片手で口もとを拭った。手の甲についた血をコートにこすりつける両眼は赤く燃えていた。短槍によって肺から逆流した血液は、謎の陽光の呪縛から解放する力をダンピールたる身に与えたのであった。
Dはバラージュ男爵の潜む大岩に戻った。
――気に乱れがある
と男爵の風は言った。
――その分ではしくじったな
「先に戻る。日が暮れたら来い」
Dは歩きはじめた。
――奴らは人質をとった すぐに連絡をよこすだろう だが私が戻るまでいかなる行動も取らないでもらいたい
「承知」
陽光の下を美しい黒影は歩み去った。
遠く離れた丘の上に、黒い虫のような飛行具が舞い降りていた。その機体がつくる影の中で、
「やはり、返り討ちか」
と若い声が、納得したとも軽蔑ともいえる口調で言った。
「大した男だ。あの陽光を浴び、あの槍で串刺しにされながらも生きている。回復も早いだろう。しかし、わしの眼は二度と開かず、腹の傷もしばらくはかかる。代償は高すぎたようだ」
応じたのはヨハン卿であろう。
「ですから、僕が助力をと申し上げた。そもそも、昨夜、声をかけてきたのはそちらですよ」
「この眼でDとやらの実力を見たかったのよ。どれほどの相手であろうと無事に戻り、後々仕留める自信はあった。正直、おまえはそのときの手助けのつもりだったのだが。――これは一筋繩どころの話ではないな。あ奴、ただの吸血鬼ハンターでも、その辺のダンピールでもないぞ」
「その通りです。そして、バラージュ男爵もまた」
「わしはすぐ、次の手を考える。今度こそ仕損じないよう、念入りにな。おまえは、仲間のもとへ帰れ」
「言われずとも。――しかし、連絡は密に願いますよ、ヨハン卿」
「安心せい。それより、おまえこそ、わしと手を結んだことを、くれぐれも|気取《けど》られるな」
「それこそ、ご安心を。彼ら抜きの報酬の額を考えれば、万にひとつのミスも犯しはいたしません。それもこれも、邪魔なハンターを仕留め、バラージュ男爵を仕留めるため」
そして、影からもうひとつの影が分離し、風を巻いて丘を走り下っていった。
少年を連れずにDが戻ったことで、キャンプ地には小さなパニックの嵐が吹き荒れようとしていた。
「ヒュウはどこへ行ったのよ?」
茫然とつぶやく少女へ、
「さらわれた」
とDはぶっきらぼうに告げた。やさしく噛んで含めるような説明をする男ではない。少女の眼に涙があふれた。
「どうして――どうして、探してきてくれなかったの? 誰にさらわれたのよ?」
「相手はわかっている。必ず取り戻す」
「それまでに……殺されたら……」
「殺すためにさらう奴はいない」
いきなり、メイはDの胸もとにとびこんできた。両手がつづけざまに厚い胸を叩いた。
「あなたがヒュウを置き去りにしたのよ。たったひとりの弟なのよ。父さんも母さんも、貴族のために殺された。ヒュウも殺されちゃう。貴族は私たちの敵よ、人殺しよ。あなたにも半分、血が流れているんでしょう。だから、あの子を見殺しにできたのよ」
小さな拳は何度もコートに当たり、そのたびに跳ね返った。跳ね返っても、メイは殴りつづけた。そうすれば、この美しい若者に痛みを感じさせれば、ヒュウが帰ってくるとでもいう風に。それまでは手が折れてもやめないつもりだった。
息が荒く、ふり上げる手も弱々しくなった。それでも殴った。腫れ上がった手が鈍い痛みを伝え、メイは苦痛に顔を歪めた。
その手首を鋼のような指が掴んだ。
はじめて、少女は自分が途方もないことをやらかしたのに気がついた。
「それ以上叩くと、骨が折れる。――おれの、な」
頭上から見下ろす氷の花のような美貌と黒い瞳に出会った途端、メイの気力は急速に失われた。
Dをどうこうできないことはわかっていた。Dの言葉が嘘だというのもわかっていた。そして、彼が誰のためにいつわりの弱音を吐いたのかもわかっていた。
Dの胸にぶつかったのは、メイの上体だった。両手を脇に垂らし、たくましい身体に身を預けた形で、少女は弟のために自分にできる最後のことをした。大声で泣きはじめたのである。
声が広場を巡り、木立と陽光に吸いこまれても、少女は泣きつづけた。
それから不意に身を離すと、後をも見ずに木立の間へと走り去った。
静かにそれを見送るDへ、
「追わぬのか?」
嘲るような声が訊いた。
Dの背後にある白い馬車――ミスカの馬車から漂う声であった。
「いや、追っても無駄じゃ。あの娘の胸は、弟への想いとおまえへの憎しみでたぎり返っておる。ほほほ、寝首をかかれぬよう注意することじゃな。貴族と人間――二種類の血などを持つがゆえに、どちらからもうとまれる――ダンピールなどという合いの子には、それが分相応の運命よ。ほほ、私はあの小娘に少し好意を抱いて――」
女貴族の声はそこで途絶えた。
何かに脅えたかのように、白い馬が後足で|棹《さお》立ちになり、激しくいなないた。
馬と馬車とを取り囲んだのは、形容しがたい鬼気であった。それを放つものは、厳しい眼ざしをメイの消えていった地点へ注いでいたが、不意に右を向いた。
森の奥の方から、タキが現れたのである。野営に備えてか、大量の枯れ枝を両手からあふれさせていた。
Dを認める前にその場へ凍りついたのは、鬼気の洗礼を浴びたからだろう。
そこから何を察したのか、
「ヒュウは見つからなかったのね?」
と言った。
「そうだ。――この先の森にメイがいる」
「わかった。探してくるわ」
|薪《たきぎ》を足元へ放り出してから埃を払い、二、三歩行ってからふり向いた。
真一文字に結んだ唇が開くまで、少し間があった。
「D――ヒュウに何があっても、あなたのせいではないけれど、私もきっと、あなたを怨むわ。あなたと二人の貴族を」
タキが走り去った後、白い日射しの満ちる広場には、黒衣の若者だけが残された。その厳しい顔は峻烈なまでに美しく、孤独を含むあらゆる世俗的な境遇とも、哀しみ以下のすべての人間的な感情とも、無縁のように見えた。
2
日が暮れてすぐ、男爵が戻ってきた。
「子供は見つからず、か」
と訊いた。メイはタキと二人、焚き火のそばでぼんやりと炎を見つめている。
「出掛けるぞ」
と木立にもたれていたDは言った。かたわらにサイボーグ馬がいる。町まで戻って調達してきたものだ。
「急な旅立ちだな」
と男爵はメイの方へ痛ましげな視線を送り、
「もう一日、子供を探そう」
と言った。
タキはもちろん、メイさえも驚きの表情を隠さず、奇想天外な貴族を眺めた。
「異議はないかね?」
とDの方を向いた足下に、ひょおと木枯らしのような音をたてて白い針が突き刺さった。
メモらしい紙がついている。
男爵は抜き取って読んだ。
旅をつづけるべし。子供はその道中に現れる
「誰が、いつ?」
「昼すぎに白ウサギが運んできた」
男爵は無言でDを見つめた。
「本当です」
と言ったのは、タキである。
「あなたの馬車の扉にそれを貼りつけて――二本足で立ってです。Dさんが針で刺したら、爆発してしまいました」
「|魔術《マジック》にウサギはつきものだな」
と男爵は苦笑した。
「なら、行かねばなるまいな。――その前に」
男爵は背後の布ずれの音に気づいていたのかもしれない。
ミスカの白いドレスは、|狭霧《さぎり》に包まれているかのように淡くかすんでいた。
「何事もなかったかな?」
「ご安心下さい。すこぶる元気でございます」
と美女はほほ笑んだ。この女に殺意を抱く人間ですら、一発で骨抜きにされてしまうような妖艶さであった。それはいつもと同じだが、男爵の眉宇がわずかにひそまったのは、何を感じてのことか。
「ならばよろしい。いま、きいた通りだ。すぐに発つ」
「あの子供のために?」
ミスカはわざとらしく眼を丸くして訊いた。
「人間の子供の生命が、あなたさまの旅の道程を左右いたしますのか?」
「ご不満か?」
「とんでもございません。私はあなたさまに生命を救われた身。そのご|下知《げじ》に異議を唱えるなど、とてもとても」
「ならば、馬車へ戻られい。夜の旅も愉しいものですぞ」
「その前に」
ひと声で、全員――ばかりか炎まで凍りついたと見えるような人物は、言わずと知れたことだ。
「何事かね?」
男爵はDへ眼をやり、すぐミスカを見つめた。Dの視線を追ったのである。
「昨夜、大爆発が生じた」
とDはミスカに視線を据えたまま言った。
「現場には、おまえひとり。周囲には空気の乱れひとつ生じていなかった。あり得ない現象だ。――何を見た?」
ミスカは四本の指を唇に当てて、声もなく笑った。
「あり得ない現象が起きるような場所か、ここが? つまらぬ言いがかりはよすがよい。合いの子のたわごとと見逃してやろう」
馬車へと歩き出した|艶《あで》やかな後ろ姿が、大地に吸いついたように停止した。
全員が感じた。女貴族と美しき吸血鬼ハンターとをつなぐ凄絶なる鬼気の渦を。
渦はどちらかを呑みこむ。その瞬間に何が訪れるか。
Dか――ミスカか。
鬼気がすぼまり、拡散した。一瞬に必要なものは、激しさでも濃密さでもなかった。意志――その結晶であった。
渦が一気に搦めとった。
Dとミスカとを。
その刹那――
「よせ!」
翻る蒼いマントの叫びが鬼気の奔流を跳ね返した。
どこかで虫が鳴いた。
「これ以上やれば、どちらかが傷つく」
と男爵は二人を交互に見ながら言った。
「同じ貴族として、|淑女《レディ》の肌に傷を負わすわけにはいかん。また、優秀なガードを失うのも困る。ここは私が預かろう」
「おれの見たところ――おまえの命運にも関わる」
とDは言った。おまえとは、もちろん男爵のことだ。
「得体の知れない存在となったものを同行させる以上、危険度は比べものにならんぞ」
「危険の程度を考えながらこの旅をした覚えはない。君も同じだろう」
男爵は微笑した。
「もしも、私が彼女を同行させると主張したら、君は下りるかね?」
「雇い主はおまえだ」
「なら、ここでも強権を発動させてもらおう。二人とも馬車へ戻れ。Dの疑問は、いずれ解決する」
断固たる男爵の宣言であった。
夜の闇を風が引き裂いた。
平坦な道ではない。馬上のDを先頭に疾走する二台の馬車は、跳ね上がり、落下し、黒土と砂塵を噴き上げて、しかし、内部は平穏そのものであった。
「ミスカに何かが憑いたと思うか?」
御者台の男爵が低く訊いた。
「恐らくは、“タロスの武器庫”で。――破壊者が」
Dは答えた。二人の会話は蹄鉄と車輪の響きにかき消されながら、静かに鮮明に鼓膜に届くのであった。
「チェックはしたぞ」
「|古《いにしえ》の知恵は、我々にも計り知れん」
「確かに限りなく危険だ。それを知りながら同行するか、吸血鬼ハンター“D”。よほどの自信があるとみえる」
「仕事だ」
「怖いという感情を知らんのか?」
返事はない。代わりに、
「この速度なら、あと三時間足らずでディームリの村だ」
と言った。
「廃村だから、まっすぐ抜ける。夜明けはコーマの村で迎えることになるだろう」
「どっちで敵が来る?」
「両方だ」
男爵の口もとを不敵な笑みがかすめた。
「まだ話し合っていないが、もうひとつ問題が残っている。――あの娘だ」
タキのことである。
「ヨハン卿のアシスタントと言った。――敵か味方か?」
「敵だ」
Dの回答に曖昧さは破片もない。それでいて、男爵とヒュウを探しに出たときは、そのタキにメイを預けたのだから、計り知れない神経の持ち主といえた。
「やはり、な」
と男爵は言ったきり、こちらも物騒な意見は口にしない。腹中に匕首を呑んで旅するどころか、親の首とロープで結ばれた火竜の子を連れて行くに等しいのに、ちっとも気にしていない。それどころか、子供たちのお守り役ができてありがたい、くらいに思っているのかもしれない。
「残る敵は何名かな」
ぽつりと洩らした途端に、
「ヨハン卿を入れて、まず五名」
ときた。
「どうしてわかる?」
「おまえの目的地までの距離と、奴らが襲ってきた回数、それにメンバーから割り出した数字だ。襲撃は一度につきひとり――多少の増加はあるにせよ、こんなところだろう」
「お見事だ」
男爵は内心、舌を巻いた。確実な数字かどうかわからないが、彼が想定した数とぴたり一致する。
史上最高の吸血鬼ハンターときいて雇ったものの、男爵自身の想像を遥かに超えた能力と技倆――美しき魔王とでも称すべき若者であった。
一方で、Dの方も、理解不能の念を、若き貴族に抱いていたのではなかろうか。
人間に理解を示す貴族の前例は、果てしない歴史の中でも数少ない。示したとしても、それは彼らの労役を軽減するとか、他の貴族の|侵寇《しんこう》から守るなどの現象的措置に留まり、根源的な非人間処置――吸血行為の断絶にはついに至らなかった。
すべてが満たされた状態で、人間に限りない労りを示す貴族たちも、ひとたび飢えに苛まれれば、やさしく頭を撫でていた少女の喉に牙をたてるのだ。
人間がそばにいて、三日と保った記録はない。その意味でバラージュ男爵は歴史に残る存在といってよかった。
「不思議か、D?」
胸中を見透かしたように訊かれて、Dは御者台を向いた。
「以心伝心の法を使うか?」
かつて、|精神感応《テレパシー》と呼ばれていた超常能力のことである。
男爵が、離れた岩陰からDと意見を交わせたのも、この力であったろう。
「多少、な」
と男爵は応じてから、
「正直、あの三人とともにいて、どうしようもない疼きを感じぬわけではないのだ。人工血液で飢えを満たした後、柩の中で見る夢は、彼らの白い喉ばかり。ミスカも同じだろう。おっと、そんな眼で見るな。これでも一応は雇い主なのでな。――安心しろ。君がいなくても、目的地に着くまでの間くらいは、我慢が効く」
Dの眼にある光が宿った。
「何故だ?」
この質問より、質問者の|精神《こころ》を、男爵は理解し得たかどうか。
「私の母は、私が胎内にいるとき、ある処置を受けたのだ」
と男爵は言った。
ごおごおと風が鳴り、車輪が大地を踏み砕いていく。暗天に渦巻くのは嵐を呼ぶ雲か。稲妻が閃いた。
Dが訊いた。
「処置を施したのは誰だ?」
閃光が二人の顔を白く染め、雷鳴が轟いた。遠いせいで、男爵の声ははっきりときこえた。
「ご神祖だ」
馬は走る。馬車も走る。
「クラウハウゼンの村へ行くのは、それが理由か?」
「そうなるか」
男爵は前方へ眼をやった。
「母は処置をやめてくれと、何度もご神祖に懇願したという。それを押し切ったのは、ヴラド・バラージュだった」
「………」
「結果がどう出たかわかるか、Dよ。――不思議だな、わかってもらえるような気がする」
男爵は右手を上げた。
青い手袋の上に同色の手甲がかぶせてある。五指の一本がモーターのような音をたてると、手甲は手袋ごと後退し、裂けた指先から内側の手を露わにした。
絶叫が上がった。
「どうしたの!?」
タキに揺り動かされた身体はひどく熱く、桜色の頬にも額にも汗の珠が浮いていた。
縫い止められたように瞼が震え、やっと開いた奥の|瞳《め》は、純粋な恐怖を刻んでいた。それがうすれるまで、タキを見上げ、メイは激しくその胸に顔を打ちつけた。
「大丈夫よ、もう、大丈夫。――悪い夢を見たのね」
肩を撫でながら、伝わる震えの激しさに、タキは悲痛な想いに囚われた。
「ヒュウが……ヒュウが……身体中溶けて……」
泣く声が言葉に変わったような、メイの叫びであった。
「怖い……怖い……あんな身体になって……」
「夢よ、ただの悪い夢」
とタキはやさしく少女の髪を梳いた。
「今度はきっと、いい夢を見られるわ。悪い夢なんか、現実にはならないものなのよ」
それから、そっと眼を閉じ、メイにきこえないように、
「いい夢も、ね」
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第二章 死の村
1
廃村を抜けるつもりだったが、その一時間半前から土砂降りの雨が一行を叩き、Dは、そこを宿泊地に選んだ。
「ただし、雨が熄みしだい、深夜でも出発する。そのつもりでいろ」
こう全員がきいたのは、村のほぼ中央にある集会所と思しい煉瓦づくりの建物に入ってからである。
厚くたちこめる霧のような蜘蛛の巣と埃とを別にすれば、破損部分もほとんどない室内に、原子灯が点され、タキとメイには革張りのソファがベッドに供された。
外では太鼓を叩くような雨音が響き渡り、少女は不安げに上衣の胸を合わせた。
「凄い降り」
タキの声にも脅えがある。
「確か、村のすぐ近くに川が流れていたな。氾濫する恐れはないか」
男爵の問いにDが応じた。
「見て来よう」
黒い影はすぐ同じ色の闇に呑まれた。
タキは二人の貴族から眼をそらした。本能的な恐怖と嫌悪である。
「ほほほ、怖いか?」
とミスカが嘲ったのは、数分間、雨の音ばかりをきいてからである。
「貴族二人と人間二人――数の上では互角じゃ。考えてみれば、何事もない方がおかしい」
別のソファから立ち上がった白い影へ、いきなり、何かが風を切ってとんだ。小さな石つぶてが奥の壁を叩く前に、ミスカは投擲手――メイが、タキの両腕をふり払って床に下りるのを見つめた。
「ほう、戦いを仕掛けるには、小粒な相手じゃな」
にんまりと笑った|朱唇《しゅしん》からのぞく白い乱杭歯の凄絶さ――弟以上に無鉄砲な少女も、さすがに表情をこわばらせたが、たちまちこちらも憎悪を剥き出しにして、
「あなたなんか怖いもんですか。どっちもいずれは私たちに滅ぼされてしまうのよ。でなければ、あなたたちの支配がまだつづいているはずよ。あなたたちは、世界から弾きとばされて、行くあてもない、滅びの生きものなのよ。いらっしゃい。いま、私がやっつけてあげる。父さんと母さんの仇を討ってやるわ!」
「ほう、はじめてきいた。――父と母が我らの手にかかったと?」
残忍な喜びが白い女の両眼に燃え、次の言葉に変わった。
「それはそれは。彼らはさぞや嬉しかったであろう。よいとも、おまえもいま、後を追わせてやろう」
メイは身を震わせた。恐怖ではない。抑え切れぬ怒りのせいであった。
「やめて!」
ととび出して少女を庇うタキの前に、蒼い影が背を見せて立った。
「邪魔をなさいますな」
怒気を含んで、ミスカは男爵を見据えた。
「なぜ、汚らわしい人間どもをお庇いに――」
「Dとの約束だ」
「あのような合いの子が――」
「この旅には誰よりも必要な男――あなたよりも」
男爵の断定は、血に飢えた女貴族を動揺させるに十分な効力を発揮した。その機を逃さず、
「雨の夜の散歩もなかなかのものではないかな?」
男爵は片腕をのばしてミスカの手を取った。
混乱の表情を浮かべたのは、女貴族のみではなかった。タキも――メイすらも驚きの顔を見合わせたのである。水――とりわけ流れ水は、吸血貴族にとっては致命的な効果をもたらすためである。
雨に打たれた貴族のバイオリズムは極端に低下し、その動作は緩慢に、思考は散漫を余儀なくされる。
今でも、貴族の墓を暴く際、噴霧器やバケツで水を浴びせるのはこのためだ。襲われた旅人が、折から降り出した雨の中にとび出して救われた例は幾つもあるし、水の入った壷を身につけた旅行者は数多い。
馬車から降ろしておいたケースを開けて、タキにプラズマ長銃を手渡すと、
「万が一の用心だ。――すぐ戻る」
と告げて、男爵はミスカともども外へ出た。二人の輪郭を雨しぶきが白くなぞって、じき、それも消えた。
Dの眼前を黒い水が滔々と声を上げて流れすぎていく。
闇の底を真昼のごとく見通せるDの眼であったが、それだけに、たとえ豪雨が熄んでも、すぐにこの濁流を渡るのは不可能だと看破できるのだった。
川幅はざっと一〇〇メートル。大河といってもいい。他の村との交流ルートは、かつて頑丈な木の橋がかけられていたが、村人が去ってからは崩れ落ちて流れ去り、遥か上流と下流とに渡された吊り橋か渡し舟かを選ぶしかなかった。しかも、暗雲低迷というか、黒い水嵩は見る間に増えて、堤を切りそうだ。
このとき、水流を見やりながら、Dは奇妙なことをしていた。抜いた刀身の刃を左手のひらにあてがっていたのである。
「すぐには無理じゃな」
と雨音に混じって声が言った。
「いつ戻る?」
「早くて、後一、二時間。それまでは、別の得物を探さねばなるまい。おまえなら、その辺の妖物ぐらいこれでも造作なく斬れようが、今度の敵は手強い――」
「まかせたぞ」
とDが言ったとき、ついに堤を切った水が、どっとその足首から膝までを押し包んだ。
次の瞬間、Dの身体は軽々と跳躍し、五メートルも後方にある巨木の、それと同じ高さの枝の上に舞い降りていた。もしも、打つ雨がなければ、枝も葉も微動だにしないことに気づいたであろう。
だが、いかに貴族の血を引くとはいえ、流れ水から逃れるにはあまりに大仰な動きといえた。
理由は、黒い濁流に眼を注ぐDの姿が明らかにした。
堤を越える水の中から、数個の人影が立ち上がったのである。
頭のてっぺんから爪先まで、ゼリー状の半透明物質に包まれた人間だというのは、物質の内側ににじむ影でわかった。
だが、一体、何者か? こんな雨の晩、廃村へと向かう目的は、まず、ひとつきり――雨宿りだが、出現ぶりから考えて、あり得ない話だ。
Dも決めかねて、無言の監視をつづけるうちに、先頭の物質が片手を上げて合図するなり、そいつらは次々に流れ水へととびこみ、本物のゼリーみたいに水の色に同化するなり、わずか数十センチの水にあらゆる凹凸を溶けこませて、流れ去った。
「新たな刺客かの?」
答えず、Dが村に近い次の樹へ跳び移ろうとしたとき、
「少し待て。あいつらの技が見てみたいものじゃ」
と声が言った。
雨さえかからなければ、雨音は心地よい調べにも聴こえた。
男爵とミスカは集会所を少し離れた神堂の軒下に立って、土砂降りの世界を眺めていた。
「ここは、何でしょう?」
ミスカが高い塔を持つ神堂をふり向いて訊いた。
「村のものの神を祭る場所だな」
「――神などと、愚かな。人間どもの神は私どもだけのはずでした。この地方の管理局は弾圧を徹底しなかったのでしょうか?」
「『都』にさえ、彼らの神の場所はあった。それは恐らく、力ではどうにもならぬものなのだ。大いなるものを信ずるということは」
「随分と人間にお詳しいようですのね」
ミスカは皮肉っぽく笑った。
「あの子供たちを好き放題にさせておくのも、そのせいなのでしょうか?」
「――あなたは、抑えておられるのか?」
男爵の問いはミスカを動揺させた。
いつの間にか、彼女の体内からも、吸血の欲望が減退しているのを感じ取っていたのである。
「あなたの彼らを見る眼つき、態度からうすうす感じてはいたが――だとすると、興味深い出来事になる」
「何がでございます?」
「我々は、人間を前にして血の欲望を抑えられる最初の貴族かもしれない」
電撃が走ったようにミスカはこわばり、すぐに白い喉を上げて笑った。
「バラージュ男爵ともあろうお方が、愚にもつかぬことを。――私があ奴らを放置してあるのは、あなたの意に添ったまでのこと。お許しがいただければ、今すぐとって返し、喉を噛み砕いてご覧に入れましょう」
答えようとした男爵の顔が、ふと別の方を向いた。
黒い水が妖々と通りを流れてくる。
「堤が切れたか。この雨では――」
つぶやいた踏み段の下も、たちまち黒い流れに覆われ、この勢いでは床上浸水にもさして時間はかからぬと思われた。
男爵とミスカが緊張を全身に湛えたのと、水中から黒い塊が躍り出したのと、ほとんど同時。
「あっ!?」
と叫んでミスカが顔を覆った。影の顔の部分から、黒い汁が迸って両眼をふさいだのだ。
「けけ」
蛙――というか両生類のごとき笑い声をたてた顔が、次の瞬間、縦に割れた。
そいつ[#「そいつ」に傍点]には信じられなかったろう。ミスカの視力を奪った粘塊は、男爵にも放ってあったからだ。
黒い水に死骸と化して落下する寸前、そいつ[#「そいつ」に傍点]は片手で両眼を覆う男爵の姿を見た。粘塊はその手の甲にこびりついていた。
「大丈夫か?」
駆け寄る男爵の前で、ミスカは、
「眼が見えませぬ」
落ち着いた声である。
「痛みは?」
「いえ。ですが、これは容易に落ちますまい。あ奴らは何者でございましょう」
「心当たりはある」
男爵は沈痛な声で言い、
「戻ろう。集会所が襲われるかもしれん」
「あなたは――まだ人間どものことを」
憎悪に満ちた声だが、眼が失われた分だけ迫力を欠くミスカの手を男爵は掴んで、歩き出した。
大地が傾いたのは、その瞬間である。
濁流の力か? ――いや、激しいがそれほどの力はない。家々もそれを見越したつくりになっている。
思わずよろめく男爵の背後の水中から、本来、|隠形《おんぎょう》し得るはずもないサイズの人影が三つ躍り上がった。
左手にミスカを掴んだまま、男爵は右手で軒の支柱を握った。
自由は完全に失われた。
背後の敵の手が、鈍い光を放った。鉤爪だ。長さは二〇センチもある。
もはや勝機はこちらにと見たか、躍り上がった空中で、無造作に二人の背へそれをふり下ろした。その刹那、ひとすじの閃光が三人の胴を薙いだ。
男爵のマントの下から放たれたものだと彼らが理解し得たかどうか。
黒い水よりもなお濃い汁を撒き散らしつつ落下する影どもをふり向きもせず、男爵は思いきり左手を引いた。軽々と跳ね上がったミスカの胴を抱き、今度は両足を跳ね上げる。軒の天井にぽっかりと黒い穴が開いた。凄まじい蹴り――というより脚力であった。
足はそのまま穴を通過し、どんな技によるものか、男爵の身体も、つづいてミスカも天井を抜けていた。
「この傾きは、奴らの仕業でしょうか?」
傾いた軒の上で、しかし、平然とバランスを保ちながらミスカは訊いた。
「間違いなく」
男爵は夕暮れのような青いハンカチを取り出してミスカに渡し、雨を防ぐようにと告げた。
三人の刺客を斃した閃光は、すでにマントの内側へと戻っている。そのスピード、その自在、その威力――いかなる敵が不意をつこうとも、全方位、三六〇度をカバーする男爵の秘術にかかっては、一撃を加える前に葬り去られるのではなかろうか。
たとえ、Dといえど。
「行くぞ」
男爵はミスカの腰を抱いた。
ひときわ強い降りがその姿をおぼろにかすませ、通りすぎた。
後に、二人の貴族はいなかった。
2
「水だわ!?」
ちょうど、戸口から外を覗きにいったタキが、ふり向いて叫んだ。
「川が氾濫したのよ。二階へ上がって」
と言ったときにはもう、少女の影は、まばゆい光とともに階段の方へ走り寄っている。原子灯と持てるだけの手荷物――メイも辺境に生きる人間であった。
タキが階段へ辿り着いたとき、ドアの下のタールみたいな水が溢れ、黒煙のごとく床に広がった。
一〇センチもないその内側が裂けて、跳ね上がった二つの影が、あと一段で上り切るメイの眼前に舞い降りたのである。
きゃっ!? という叫びに、そちらをふり仰いだタキがプラズマ銃を向けた。
|引き金《トリガー》にかけた指が撃発位置寸前で停止した。
蛙みたいな顔と形をした影のひとつが、異様に鋭い鉤爪ののびた手で、メイを抱き上げたのだ。
次の瞬間、背中に灼熱の痛みが流れて、タキはのけぞった。音もなく水中から跳ね上がった影が、鉤爪をふるったのだ。
バランスを崩した身体を、ぬるぬるした腕が抱いた。分厚い唇が裂け目みたいに開いて、
「その餓鬼は、人質だ……」
と言った。蛙が人語を話したら、こうなるだろうと思われる声であった。
「こっちは――始末する」
ぐったりともたれかかったタキの肉体の反応から、抵抗力なしとみて、そいつは|止《とど》めの鉤爪をふり上げた。
ゆっくりと。
「ご免こうむるわ」
はっと停止した鉤爪の下で、タキの血まみれの身体が回転した。
斜め上方へ迸った右肘は、正確無比に蛙面の真ん中にめりこんだ。
ぐえ、とひと声よろめく奴を、自分の身体ごと後ろ向きに壁へ叩きつけ、跳び離れたときには、プラズマ銃を肩づけしていた。
階段の上から、メイを捕らえた奴の相棒が跳躍した。
凄まじい降下を、真紅の光条が迎え撃った。命中した首すじを中心に上半身が蒸気と化す。
だっと数段を駆け上ったタキへ、
「餓鬼を殺す」
蛙の声が降ってきた。下からも、
「捨てろ!」
これは顔面を叩きつぶされた奴の怒号だが、もともと平べったいし、血も出ていないから、声の調子で被害を推定するしかない。
どちらにせよ、挟み打ちにされたタキが絶体絶命の窮地に陥ったのは間違いなかった。手にしたプラズマ銃を離せば、鉤爪は容赦なく彼女の心臓をえぐり取るだろう。
「お姐ちゃん!?」
メイの声が鼓膜に突き刺さった。何をされているのか、喉が詰まったような響きがある。
「その|娘《こ》に何もしないで! 射つわよ!」
「捨てろ」
声が交差した。止めは、
「お……姐ちゃん……」
苦鳴は計り知れない重さになって、メイのプラズマ銃にのしかかった。
銃身が下りていくのを見て、下の蛙男が、げろ[#「げろ」に傍点]と笑った。
その瞬間――二階の廊下に面した窓のひとつが、爆発としか思えぬ音響を発して砕け散った。
はっとふり向きつつ、メイを楯にしたのはさすがだが、一瞬遅く、その片目を白木の針が貫いた。
次の瞬間に起こったことは、床を蹴ったDにすら想像もできなかったろう。
よろめく敵の手から、メイの身体がするりと脱け出すや、鮮やかにとんぼを切って、あまつさえ敵の顎を下から蹴り上げてのけたのだ。
階段下から迸ったプラズマ流が、そいつの身体を半分にしたと見た刹那、Dの刃は空中で反転し、一閃の稲妻と化した。
タキの背後から躍りかかろうとしていた蛙男の腹から刀身が生えた。突き刺さった衝撃はそいつを即死させ、両生人間は刃を引き抜く努力も見せずに、手すりの上で一回転するや、黒い水の中に落ちた。
「見てやれ」
階段の途中でなおも凍りついているタキにこう伝え、Dは一刀を取り戻すべく、手すりから身を躍らせた。
水に浮かんだ太鼓腹から刀身を抜き取り、二階へ上がったとき、少女はタキの胸に抱かれて身を震わせていた。
「怪我はないわ」
とタキが小さな頭を撫でながら告げた。
「強い娘よ。涙も出さないわ」
Dは答えず、タキを見て、
「よくやった」
と言った。タキは吐息をひとつ洩らして、
「神出鬼没なのね、あなたって」
怒ったような口調である。安堵感のもたらす精神失調の結果だ。
木から木へと跳び移りつつDが駆けつけたとき、黒い水はすでに集会所へ入りこんでいた。
屋根の上へ舞い降りたDは、天窓から状況を理解し、間一髪で救いの剣をふるったのであった。
少し離れたところに倒れている黒い人影へ視線を向け、
「見覚えがあるか?」
とタキに訊いた。
「あるわけないでしょ」
「ヨハン卿の小道具ではないのか?」
「見たことないわ。隠し玉かもしれないけど」
Dは無言でタキの背に廻った。
右肩のすぐ下からふたすじの裂傷が腰の上まで届いている。背骨寄りの片方がもう一センチ近かったら、脊椎は致命的な傷を負っていただろう。もちろん、血まみれだ。
「動くな」
とDは言って、左手のひらを右側の傷に当てた。
「触らないで」
「治療だ」
手が下がるにつれ、接触部分から、ゆらゆらと白煙が立ち昇った。裂けた肉は奇跡のようにふさがっていた。
もう片方の傷も手当てし、Dは立ち上がった。
「明後日には完治する」
タキは軽く頭をふって、
「あなたって、何者なの?」
「おれより、奴らに訊け」
とDが答えた。
「私に訊いてくれたまえ」
もうひとつの答えがあった。
ホールの戸口にバラージュ男爵とミスカが立っていた。
Dが仕留めた敵の死体から眼を離し、
「これは私の父が放った刺客だ」
と男爵が言った。
娘二人を収容した空部屋を出て、Dは廊下をはさんだ対面の部屋へ入った。男爵とミスカが待っていた。こちらは会議室らしく、一五、六坪のスペースに武骨な机と椅子が散らばっていた。
「眠ったかね?」
と男爵が訊いた。
「ああ」
「雨は熄みそうもない。一時間ほど休ませたら、すぐ発ちたいが」
「いいだろう」
「なぜ、すぐお発ちになりませぬ?」
窓辺で外を眺めていたミスカが、ふり向いて訊いた。
「人間には人間の寝間が必要だ。少しの間、我慢するがよかろう」
「ならば、好きなだけ眠らせればよいものを。それをせぬのは、先刻の刺客の仲間が来る前にお発ちになりたいからでございましょう。どう考えても、ここはすぐ発つのが上策。男爵さま、あなたは自分で自分の首を絞めておられます。それもこれも、あの足手まといどものせい。――置いて行かれなさいませ」
火を吐くような瞳を、深い眼差しが迎えた。
「それはできん。それに、待てぬ時間でもあるまい。あなたは、この私が責任をもって目的地までお送りする」
「あいつらは合成生物だった」
とDが話題を変えた。蛙に似た刺客たちのことである。
「父親の手の内がわかるか? ――この先々で待ち伏せされると厄介なことになる」
「幾つかはわかる。幾つかはわからん」
男爵は淡々と答えた。実の父親を狙い、また狙われる。それがどういうことなのか知り尽くしているような表情であった。
それから、
「前も敵、後ろも敵――少々厄介になったな、Dよ」
と言った。
「おまえの力を父親はわかっているのか?」
「遥か以前のものは」
永劫の生命を持つ貴族らしい答えだった。
「馬車を捨てられるか?」
とD。
「それは構わんが」
「地図によれば、近くに飛行体の発着場がある。使われなくなって久しいが、飛行体が残っていると、昔きいた」
「ほう」
と男爵は眼をかがやかせて、
「それなら、ひと飛びだが、昔とはいつのことだ?」
「遥か以前だ」
「飛行体とは名ばかりかもしれんぞ」
と男爵は苦笑した。
「それでも行くだけの価値はあるかもしれん。幻でなければな[#「幻でなければな」に傍点]」
返事はなかった。Dは耳を澄ませて雨音をきいているようだった。男爵もそれにならった。
妙なる調べ――としか言いようのない美しいメロディが室内を巡った。
「これは――竪琴でございますな」
とミスカが眼を閉じたまま言った。彼女もまた、耳を澄ませていた。
「正しくは水琴だ」
男爵は窓の外を眺めた。
「出かけるぞ、D」
「水琴とは何だ?」
「水中、ないしは雨中、滝壷に張り渡した糸のことだ。水に触れれば美しい音を発し、生き物が触れれば、それに絡みついて息の根を止める。近づくものには――」
男爵はすでに歩きはじめていた。戸口を脱けて廊下へ出る。
人気がないのを確かめて、向かいのドアを開いた。
白い影が開け放した窓の敷居に片足をかけ、上体を突き入れている。
軽やかに宙を飛び、男爵はタキの腰を抱いて引き戻した。
鋼のような腕の中で、タキは両腕をふり廻し、前へ出ようとした。無表情な顔が不気味だった。
その隙にDは窓辺に近づき、メイの消えた虚空を覗きこんだ。
「人質のつもりではないな」
と言った。
「その通り。私や君だからこそ耐えられた。水琴の音に逆らえるものは貴族といえども少ない。――あの娘を探さねばならないな」
男爵の言葉が終わらないうちに、Dは部屋を出ていた。もとの一室へ入り、すぐ戻ってきた。
どんな手を使ったのか、タキはベッドの上で寝息を立てている。
「ミスカは?」
と男爵は訊いた。
「招かれたらしい」
Dは窓辺へ近づいた。水琴の調べはまだつづいている。
「二丁ほど南に祭祀館がある。そこへ移れ」
ここはすでに知られているという意味だろう。
「わかった」
男爵がうなずくのを待たず、黒衣の美影身は闇と同化した。
雨粒をはじく琴の音色へ、沈鬱たる横顔を向けながら、
「頼むぞ、D」
こう告げてから男爵は、そっと娘を抱き上げた。
3
道路が溶けたような黒い濁流を、Dは真昼のごとく見ることができた。堤が切れた直後ほどの勢いはないが、膝のやや下まで粘りつくような水の中を、自在に動ける人間などいまい。メイもミスカも軒下の板張り歩道を歩き去ったにちがいない。あるいは彼らを連れ去ったものたちが。
琴糸は、満遍なく張られているらしく、蠱惑の響きは、遠くも近くもならなかった。
Dは屋根伝いに北へ進んでいた。天から降り注ぐ雨、地を走る水、それを縫って弾ける琴の響き――三者の異なる音の中に、わずかな乱れを聴き取ったのである。
敵は水中を移動する。Dにさえ気取られず、恐らくは張り巡らせた糸さえも|躱《かわ》し抜いて。水音の乱れは、ミスカとメイを連れているせいにちがいない。人質はある意味で、最大の弱点でもあるのだ。
家並みの端まで出ると、Dはそれまでの足取りを乱さず宙に舞った。
闇の中を美しい闇が渡って、一〇メートル近く離れた木立の大枝に舞い降りる。驚くべきことに、一枚の枝葉さえ小ゆるぎもしなかった。
Dが空中の移動を選んだのは、言うまでもなく、敵の土俵内――水の世界で戦うのを回避したのである。
不老不死たる貴族は、それなりに数多くの弱点を持つが、水もそのひとつだ。直接、雨に打たれれば、代謝機能は半分近く低下し、水中に没した身体は、ろくに手足も動かせぬ|木偶《でく》と化す。そんな悪条件の中で、苦もなく木立を渡ってゆく美しきダンピールの姿は、奇蹟としか言いようがなかった。
最後の一本から地上へ舞い降りる姿勢を整え、Dは動きを止めた。村外れである。外壁の柵の一部が、ぽっかりと、食いちぎられたみたいに失われている。メイもミスカもそこから連れ出されたのだろう。
Dは闇中に意識を集中した。
彼の立つ枝と木立の間に、一条の白い線が斜めに走っている。
水琴はここにも仕掛けてあったのだ。いつものDなら難なく見つけられたものを。――雨の影響は生死に関わる。
糸の右側をDは黒い風と化して抜けた。
ざっとその身体が鳴った。絶妙のタイミングで、風が雨を叩きつけたのである。
それでも体勢を崩さず、目標の木立に跳び移ったのは、さすがにDというしかないが、表面に水の膜を貼りつけた枝の上で片足が滑ったのは、まさしく|奇禍《きか》。
バランスを立て直そうと、揺れた身体をもう一度、雨と風とが一撃して、彼は左手を琴糸にかけた。
張りつめた糸のゆらぎは木立に伝わり、地に走った。
どことも知れぬ地点に仕掛けてあった数十条の水琴が外れ、枝上のDに撥ねかかったのは次の刹那であった。
こんな竪琴を、弾き手はどうこなしたのか。幹に触れた糸は半ばまで食いこみ、大枝はすだれのように切り刻まれた。同一地点からの攻撃ならば防ぎようもあったろう。糸は八方から襲った。
雨が途切れた。いや、切れた。闇の中を走った白刃が断ったのである。地面に、枝に、柵の上に――飛び散った滴には糸が絡んでいた。
飛来した細い凶器をことごとく寸断して、Dの姿はすでに次の木立へと跳んでいた。
ミスカには意識があった。水琴の響きに魅入られたものは、通常、夢遊病状態で音の発信地へと急ぐ。ミスカが周囲の状況を認識し得たのは、やはり、貴族の超常能力によるものであった。
部屋を脱けて、まず、道を流れる水の中に下りた。すると、何かが両足首を捕らえ、流れに逆らって移動しはじめたのである。
快速艇にも伍する猛スピードで水を裂いたのは、彼女にも理解できぬ反物理の力であった。
五分とたたぬうちに、ミスカは村を抜け、川さえも易々と渡って、北の森にそびえる巨木の根元近くに開いた巨大な|洞《うろ》に吸いこまれたのである。その間、スピードは一瞬たりとも落ちなかった。
巨木が数百年の長きにわたり、様々な用途に使用されてきた理由は、この途方もない大き|さ《サイズ》にあった。
根元の部分は、百人の人間が手をつないでようやく囲める太さがあり、四囲の群木を抜いて蒼穹に挑む高さは一〇〇〇メートルに及んだ。
その内部に自然の大空洞が存在することを知った人々は――この土地の主人は何度も代わったが――それを巧みに利用しながら、彼ら自身に都合のよい通路を穿ち、大小の部屋をこしらえ、武器と人間を配置し、大量の物資を運びこんだ。巨木は時にこの上ない監視塔となり、飛行体の発着場と化し、大災害における避難所の役目もこなし、格好の倉庫ともなった。
今回は、いささか毛色が変わっているといえたかもしれない。
入り乱れる階段や通路、小部屋どころか二階建て、三階建ての小屋までが残された広大な一角で、ミスカを待ち受けていたのは、やや早目にさらわれたメイと、十数名の黒い影たちであった。
両生類のような呻きを洩らす影たちの正体はひとめで合成生物と知れたが、中でただひとり、尋常な人間と見える影が前へ出て、
「さすがは貴族だ。身体の自由は奪われても、脳の支配は別らしい」
と言った。
暗視ゴーグル付きのヘルメットの下で、右眼だけが凄愴な光を放っていた。隻眼なのである。鼻から下は黒い金属製のマスクで人目を逃れている。マスクは、発声装置も兼ねているようであった。男の声は|呼吸《いき》をつぐたびに、ひゅうひゅうという音を付属させた。
「だが、それがおまえの身の不幸だ。おれの前で貴族と知れたからには、楽な死に方はできんぞ。――|甕《かめ》に漬けろ!」
それがどのような結果をもたらす拷問か、ミスカには知識があったらしく、驕慢の結晶ともいうべき美女の顔は、潮が引くみたいに青ざめたのである。
待つほどもなく、闇に閉ざされた天井から、滑車の廻る音とともに、人間なら五、六人も入れそうな容器が下りてきた。
リーダーの背後にいた何人かが素早く駆け寄って、地上に安定させた。口いっぱいまで水が溜っている。
「丸一日も漬けておけば、さしもの貴族もあの世行きだそうだが、本当か? それよりも、おれは別の罰を与えてみたい。――とりあえず、水に入れろ」
何本もの腕が人形のようにミスカを抱え上げ、甕に漬けた。
「酸を加えろ」
配下のひとりがどこからともなく、別の甕を抱いて現れ、木製の柄杓で、その中身をミスカの甕に移しはじめた。
半透明の液体は、水に触れるや、間欠泉のような白煙を噴き上げた。
声なき絶叫が悩ましい唇を割った。酸を加えた水は、あるいは水に加えた酸は、ミスカの肌を灼き、肉まで腐触させたのである。
「貴族用の拷問酸だ。こしらえたのは貴族だがね」
とリーダーは愉しげに言った。
「完全に滅ぼすことはできないが、地獄の苦痛は与えられる。人間も貴族も、やることは変わらんな」
「おまえは――誰だ!?」
ミスカは自分の声をきいた。痛みのあまり、声帯が復活したのである。ただし、身体はまだ動かない。
「いっそ、我が胸をひと突きにしたらどうじゃ……なまじの遊びごころは……いつか千倍の痛みで身を滅ぼすぞ……」
声はきしむような苦鳴に変わった。酸が加えられたのである。
「そこまでにしておけ。――だが、それ以上、うすめるな」
とリーダーは、柄杓を手にした配下に告げ、かたわらにぼんやりと立つメイに向き直った。
右手がぼんのくぼのあたりに触れると、メイの身体は一度だけ痙攣し、両眼に意識が戻った。
「気がついたか?」
と尋ねるリーダーから、反射的に後じさる。
「安心しろ。とりあえずは何もせん」
リーダーの声は笑いを含んでいた。
「おまえを人質に使うつもりだったが、貴族の女がついてきた。こちらの方が使いでがある。しばらくは、おとなしくここにいろ」
凄味のある眼で一瞥され、メイは凍りついた。
「その|女性《ひと》をどうするの?」
ミスカの入れられた甕の方を見て訊いた。
「決まっておる。おまえの代わりの人質だ。運がよかったな」
「とっても苦しそうよ。何をしたの?」
「貴族の肉を灼き溶かす酸に漬けてあるのだ。滅ぼしはできんが、それだけに苦しかろうな」
「何てことをするの。……やめて下さい。助けてあげて」
「なにィ!?」
リーダーの反応は驚愕の極みであったが、それよりも愕然としたのはミスカであったろう。悶え抜く表情が、はっとしたように少女の方を向いた。
リーダーはしげしげとメイを見つめて、
「おまえ……人間の子供が同行しているときいて、奴らの餌かと思ったが、見たところ尋常のようだ。人間がなぜ[#「なぜ」に傍点]貴族を庇う?」
メイに関する報告は、最初に襲った刺客たちがもたらしたものだろう。
「庇ってなんかいません」
少女は、はっきりと口にした。
「でも、そんな酷いことをしたら、私たちまで、貴族と同じになっちゃうわ」
リーダーの眼がさらに大きく見開かれた。
「まさか、洗脳されたのではなかろうな。こいつらなら、やりかねん」
「ちがいます。私はまともよ。だから、こんなことしちゃいけないってわかるんです」
「相手は貴族だぞ。我々人間を長年月にわたり、虫ケラのように惨殺してきた輩だ。いわば、これは仇討ちだ」
「あなたも――人間なんですか?」
生真面目な問いに、リーダーは声を上げて笑った。
「その通りだ。おまえの庇う貴族のおかげで、こんな姿に成り果てたが、な」
「何か――されたんですか?」
「………」
地の底から湧き上がるような声が、二人をふり向かせた。
「その人間が――なぜ、貴族に使われておるか?」
煮えたぎる甕の中から、ミスカは爛々とかがやく眼で、こちらをにらんでいた。
「おまえは、男爵さまのお父上から派遣された刺客であろう。ほほ、我らを|敵《かたき》よばわりなど片腹痛い。貴族の飼い犬が、人間を見ると、今の立場も忘れて、二本足で立つか」
「口が過ぎますぞ、姫」
リーダーが近づき、ミスカの左耳たぶを掴んだ。腰に下げていた大刃の山刀を抜き、耳のつけ根に当てた。
「やめ――」
メイの叫びが終わらぬうちに、女貴族の片耳は切り取られていた。煮えたぎる酸の水に赤い滴がしたたり、みるみる赤く染めた。
「次は鼻をそぎ、両眼をえぐる。それでも滅びるな。おまえの扱い方には、面白いアイディアが幾つもあるのだ」
「滅びぬ」
ミスカの返事は、メイを凍りつかせた。
「これしきのことで貴族が滅びるものか。虫ケラのごとくと言ったが、私は虫を愛でておった。おまえらの仲間を八つ裂きにした後は、虫の餌にくれてやったものよ。つまり、おまえたちは虫以下の存在であった」
笑おうとした顔が引きつった。リーダーが金髪を鷲掴みにするや、一気に引き抜いたのだ。
美女の半顔――いや、顔全体が朱に染まる凄絶さよりも、髪の半分を持っていかれた頭部の無惨な姿に、メイは手で顔を覆った。
血まみれの耳と髪とを投げ捨て、リーダーはその手を酸の中に入れた。
「ひどい顔があったものだ。傷口は消毒せねばならんな」
すくい上げた水が傷口にかかった。肉は溶け、絶叫がミスカの口を割った。
「もう一杯」
水の糸を引きながら上がった手に、黒い影がぶつかった。
跳躍したメイが、リーダーの脇を越えざま、片足で手首を蹴ったのである。水はリーダーの上衣に飛び散り、白煙を噴き上げた。
着地したメイを数個の影が取り囲んだ。
「手を出すな!」
とリーダーは叱咤し、
「どんなに品行方正な奴でも、人間である以上、貴族の苦しみは歓呼して迎えたものだが。――女貴族は牢に、その娘は、おれの部屋へ連れていけ」
むしろ、面白そうに言った。
「ガリルさま」
と配下のひとりが、蛙のような声で言った。
「どうした?」
「水琴の一部が切られています。そこから侵入した敵がいるようです」
「来るがいい。敵は男爵か用心棒か、どちらにしても、相手にとって不足はないわ」
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第三章 虎と狼
1
Dが巨木に辿り着いたのは、追跡を開始してから三〇分後であった。堰を切ったように襲いかかる琴糸を断ちつつ雨中を前進した結果である。
そして、彼は煌々と明かりの灯る大洞の中で、ただひとり待ち構えていたリーダーと会った。
「噂にたがわぬ美貌――Dだな。おれは、バラージュ卿の闇水軍を率いるガリルという」
「女が二人――どこにいる?」
Dの問いは簡潔明暸である。殺気はない。だが、それが生じたとき、相手にどのような運命が見舞うかは葬られた敵のみが知っている。
「安心せい。娘には指一本触れておらん。ただ、これからどうなるかは、おまえとおれの話し合い次第だが」
「もうひとりはどこだ?」
「女貴族なら、少し可愛がった後で牢獄へ入れた。滅びはせぬが、逃げもできん状態でな」
リーダー――ガリルは残忍に笑い、
「お望みとあれば、いつでも会わせてやろう。その前に、二、三訊きたいことがある――なぜ、稀代の吸血鬼ハンターともあろうものが、貴族の護衛など引き受けた?」
「彼は貴族を斃すのが目的だ」
「では、あの女貴族は何だ?」
「雇い主の命令でな」
「人間と貴族が何事もなく共に旅をしていることに、おれは驚いている。奴らはいつか牙を剥くぞ。Dよ、おまえはどちら側の人間だ?」
その首すじに、ぴたりと白刃が突きつけられていた。Dがいつ抜いたのか、見たものはいない。
「五秒待つ。女たちを連れて来い。一分遅れたら耳をそぐ。二分目は鼻、三分たったら眼をえぐる」
「気は確かか? ――そんなことをしたら、あの二人も同じ目に遭うぞ」
抗弁するガリルの眼に、確かに恐怖が躍っていた。
「五」
とDは冷やかに告げた。
「四……三……二……」
殺気もない鬼気もない。知らぬ者が見れば、戯れに刃を突きつけているように見えたろう。
「……一」
と数えたとき、
「わかった」
ガリルが重々しく言って、右手を上げた。
間を置かず、天井から滑車の音が響くや、篭のような形のものが二つ下りてきたのである。
巨大な鳥篭は、それを囲む鉄枠も太く赤錆びていた。その中に、確かにメイとミスカの姿があった。
地上へ下りるなり、扉は自然に開いて、二人はまろび出た。無我夢中でDの背後に隠れる。
「連れて行け」
とガリルが呻いた。
「いや、まだだ」
闇水軍の主の眼に、真に恐怖が閃いたのは、その刹那であった。
後方へ跳んだ彼を白光が追った。
Dの一刀は狂いもなく、ガリルの胴を輪切りにしたのである。
刃の伝える不可思議な手応えを、Dはどう感じたか。
三メートルも離れた地点に着地したガリルの胴は、まさしく胸のやや下から真一文字に裂けている。
「不思議か、D?」
声と唇が笑おうとしたが、どちらもこわばっていた。彼はDの剣を受けたのだ。
「水軍人か」
Dだけにきこえる左手の声であった。
「戦争用の合成兵士担当の貴族が創り出したという液体人間じゃ。千年で十体と数はすくないが、都合一千万人の敵を殲滅させたときく。これは――厄介だぞ」
「おまえの刃でも、おれは断てぬ。貴族を滅ぼすため、貴族の犬となってから得たこの身体はな。Dよ、今からでも遅くはない。おれに力を貸せ。いいや、真正のハンターに戻れ。ともに滅ぼすのだ、バラージュ男爵とあの女をな」
音もなく、黒いうねりが洞の口からDの足下へ迫りつつあった。
水だ。――闇水軍とガリルは言った。数ミリにも満たぬそこから、幾つもの塊が浮かび、ひたひたとDめがけて流れ寄ってくる。
女二人をその場に残して、Dが地を蹴った。コートが翼のごとく舞った。
獲物を狙う魔鳥のようなその姿に何を感じたか、
「かかれ!」
と叫ぶガリルの叱咤に、数個の影がDの背後へと躍った。
手にした斧がふり下ろされるその間隙を、遥かに速く遥かにまばゆい光が縫った。
着地したDと配下から五メートルも離れて、
「その三名にも“水軍人”としての機能を加えてある。おれほど完璧ではないが、やわか、鋼ごときに断たれはせんぞ」
と、ガリルは嘲笑した。
いま傲然と立つ配下の胴を、Dの太刀が薙いだ瞬間を、彼は目撃したのである。
周囲の敵に眼もくれず、Dは前へ出た。三人が追尾の姿勢を取る。その刹那、驚愕すべき事態が生じたのである。
各々の胴から四方へ、ぱっと黒い水が噴出するや、三人の敵はたちまち実体を失って崩壊し、床に広がる怪異な液体と化してしまったのだ。
「“水軍人”を――“水軍人”を切ったか、Dよ」
今度こそ棒立ちになったガリルの顔面へDの一刀が吸いこまれ、水の抵抗だけを感じて抜けた。
「無駄なことを」
新たな嘲笑を、ガリルは途中でやめた。右手で顔を押さえ、彼はよろめいた。手指の間から黒い水がしたたる。Dの刀身は、ついに、分離を知らぬ液体人間の身体さえ斬断したのである。
新たな一撃の気配を頭上に感じ、
「後ろを見ろ!」
とガリルは絶叫した。敵に言われてふり向く若者ではない。その足と一刀を止めたのは、
「D――」
引きつったようなメイの呼び声であった。
二人の女は背後から首を巻かれ、メイは喉元に、ミスカは心臓の真上に、鋭い斧の刃を突きつけられていた。
洞の中空にぶらさがった塔――古い板張りの獄舎の一室へメイが戻されたのは、ガリルの部屋へ招かれてから二十分ほど後であった。
隣の房である。連れてきた闇水軍のひとりが古い鍵を開けている間に、メイはミスカへ眼をやった。ミスカは背後の壁にもたれて、こちらに背を向けていた。
「大丈夫!?」
とメイは訊いた。酸は貴族の肉体のみを侵すのか、まとった服に変化はない。返事はすぐあった。
「何を話して……きた?」
臨終どころか|死人《しびと》のような声がメイを戦慄させた。
「何も」
「嘘をおつき……私と男爵さまのことであろう……この裏切り者。人間など……せいぜいが、おまえのように……品性下劣な奴ばかり……じゃ」
「違う。――あの人の話をきいていたのよ、私たちを捕らえたガリルって人の」
「ガリル……それが奴の名か」
その声を耳にした途端、メイは後退っていた。
「いま、私の身体は溶け崩れ、復活も遠い。だが、それが成ったあかつきには、何よりもまず、あ奴の手足を、首を、この手でもぎ取ってくれる」
「やめて。そんなことをしても――憎み合っても、何にもならないわ」
そこまで言ったとき、メイの房の扉が開いたのである。合成人間はすぐに去った。
メイは必死でミスカとの交信を求めた。格子のところまで来てと哀願したが、返事はない。
声を嗄らし、壁を叩いて、ついにあきらめかけたとき、小さな拳の下で、煉瓦のひとつがへこんだように思えた。
よく見ると、|周囲《まわり》の漆喰も形を残したまま剥がれて、煉瓦を戻した後に詰め直せば、外からはまるでわからない。恐らくは遠い昔、この房へ閉じ込められた囚人が、隣房の友への連絡手段、ないし脱出孔として穿ったものだろう。
「大丈夫? 痛くない?」
どこにいるかわからない見張りにきこえぬよう尋ねたが、返事はない。
ペンダントを外して手に握り、床に這いつくばる。抜けた煉瓦の孔は床と同じ高さだったのである。
ぎりぎりで拳が通った。念のため肘まで入れた。
その手首がいきなり掴まれたのである。|万力《まんりき》のような圧搾感よりも、骨まで染み通る指の冷たさに、メイは戦慄した。
「痛い……放して」
「温かい手じゃな」
ミスカの声が陰々と響いてきた。
「口がきけるのね、よかった」
安堵と同時に手首が少し楽になったような気がした。
「これは何じゃ?」
「|内部《なか》にお薬が入ってるわ。あたしとヒュウが軽業に失敗したときにつけるの。あなたの傷に効くかどうかわからないけれど――他に持ってないから」
沈黙が降りた。少しして、
「おまえは貴族を憎んでいたのではなかったのか?」
「もちろんよ。父さんも母さんも、あんたの仲間に殺された。当たり前じゃないの」
「すると、その薬は毒か?」
せせら笑うような口調が、少女をかっとさせた。
「そんなこと、つけてみればわかるじゃないの。あたしは、怪我して泣いている人間――じゃないわ、人――あ、また違う、えい、もういいわ、とにかく、放っておけなかっただけよ。貴族は苦しんでる仲間を見つけたら、寄ってたかって血を吸うんだってね。人間は違うのよ!」
ちぎれるような痛みが手首を圧した。悲鳴を上げる前にそれは消え、メイは反射的に右手を引き戻した。
その後を追うように、ペンダントが床を滑ってきた。
怒りが痛みを忘れさせた。
「ひとの親切を何するのよ、へそ曲がり。素直に受けなさいよ!」
滑り返した。
すぐ戻ってきた。
「もう!」
また投擲した。壁一枚を挟んで行われる奇妙なゲームであった。
「頑固な小娘じゃな」
幾度目かで、ペンダントではなく笑い声が戻ってきた。
「何よ、あなたの方が、ずっと」
「これは、こちらで捨てておくとしよう」
冷酷そのもののミスカの声であった。
「勝手にしろ、馬鹿あ!」
悔しまぎれに叫んで、そっぽを向いた。
「ひどい傷じゃないの。放っといたら、貴族だって痛いでしょ。なんで捨てるのよ!」
急に嗚咽がこみあげ、メイは片手で涙を拭った。
そのとき、足音が近づいてきた。
大慌てで煉瓦を埋め戻し、自然な格好で壁にもたれる。――間一髪、数個の人影が鉄格子の前に立った。
鍵が開けられた。隣からもその音がきこえてきたのをみると、ミスカのもとにも訪れたらしい。
「な――何よ?」
反射的に身構える少女の前で、蛙に似たガリルの部下二人は、左右に広がった。右の男は左へ、左側の男は右横へのばした両手の間に、灰色をしたうす膜みたいなものが広がった。濡れ光る表面には、確かに水のような液体のすじが這っている。
「おかしなことしないで。出てってよ!」
叩きつけた声も、近づいてくる灰色の広がりに吸い取られ――と見えた刹那、小柄な身体は、信じられぬ軽やかさで、うす膜の上を跳んでいた。
二人がふり向いたときはもう、格子戸を抜けている。
左へ曲がった。この期に及んでも、ミスカを救おうと思ったのである。
眼の前に黒い壁が立ち上がり、急制動をかけた両肩へ猛烈な力が加わって、少女を停止させた。
「ヒロインは忙しいな」
頭上から落ちてきた言葉のもとをふり仰ぎ、メイは全身の力が抜けるのを感じた。
「しばらく、おとなしくしておれ。おまえたちの型を取るだけだ」
ひゅうひゅうと喉を鳴らしながら、ガリルは穏やかに言った。
2
二人の女に突きつけられた刃へちらと眼をやり、Dは左手を後方へ閃かせた。
白木の針を手首と眼に受けて“水軍人”がのけぞった。
いや、ミスカも心臓を貫かれて。
「気でも狂ったか、ハンターよ!?」
ののしるようなガリルの叫びの中を、メイが走り寄った。右手に斃された敵の一刀を握っている。
「D!」
ふたすじの光が風を切って交差した。
頭から股間まで断たれたメイの刀身が、Dの背をめがけて迸ったのを、吸血鬼ハンターは無論、知っている。
「なぜ――わかった?」
洞の奥へと退きながら、ガリルが唸るように訊いた。
返事はない。
もしも、Dが答えたとしたら、こうであったろう。
五体満足な貴族が、たとえ水軍人相手であろうと、棒立ちになっているはずがない、と。メイを後に残したのは、さしものDも、本物かどうか見抜けなかったからだ。だが、ひとたび敵が本性を現せば、不意討ちといえど、剣をとってDに及ぶはずがない。
ガリルの策は、あっけなく崩壊したのである。
「ここへ来い、Dよ」
奥の間からガリルの声が招いた。
「おまえ用の敵はここにある[#「ある」に傍点]」
すでに四方の床は黒い水に浸されている。そこから跳び出して切りかかる影を、一瞥もせずに斬断し、Dは音もなく疾走した。
その五感が、奇怪な反応を伝えたのである。みるみる血流が停滞し、手足の重さが増す。美しい唇から水泡が立ちのぼった。
突如、見ためには何の変化もなく、Dの周囲は水中と化した。
ゆらめく視界の奥で、白っぽいものが蠢いていた。
巨大な|海月《くらげ》とでもいうべきか。ほぼ偏平な傘の下には瘤状の胴が備わり、そこから数百とも数千ともとれる糸のような触手が、何かを求めるようにゆらゆらと蠢いているのだった。
「いかに図抜けたハンターといえど、貴族の血を引く以上、水中での攻防は地上に一歩を譲る」
ガリルの声は高らかに笑い、その姿はどこにも見えなかった。
「いかなる環境も、自らの生存に最も適したもの――水に変えてしまう合成生命体よ。名はケンラークと覚えておけ。ほれ、早く浮上せねば溺死するぞ。もともと、男爵用に開発したものだが、ダンピールにも役に立ったようだな」
触手がのびてきた。白っぽい半透明の内側を、青いすじが走っている。血管なのか神経なのか、Dの刀身が数十本をまとめて切り離すや、それは糸のような切り口から立ち昇った。
ひどく緩慢な動作で、Dはケンラークの足下に到達した。触手の長さは約一五メートル、全長ほぼ二〇メートルに達する。
一気に床を蹴った。上昇の仕方はまさしく浮上に等しかった。不意に水の抵抗が消えた。Dの周囲のみ、ケンラークが通常空間に戻したのである。
一瞬停止し、落下に移るDの手が、触手の一本を掴んだ。
「いかん!」
と叫んだのは、その手[#「その手」に傍点]であった。瞬きよりも速く、手は離れた。
床への落ち方は軽やかなはずであった。
それが――全身が妙な形に歪んだ。いや、つぶれたのである。すぐに立ち上がった身体のプロポーションは、妙に崩れていた。
「掴めるか?」
と左手に訊いたのは、どういう意味か。
「おお」
との返事が終わらぬうちに、Dは左手を引いた。
「おお!」
第二の声は、驚愕のそれであった。
Dの頭上で、まさしく海の月のごとく白々とゆらめく怪物は、その胴の触手の付け根からまさしく、ぷつんという音を立てて切断されたのである。
舞い落ちる触手をかわしたとも見えずにかわしつつ、Dはこのとき、階段の上から自分を呼ぶ声をきいた。
ふり仰ぐと、長大な螺旋の上方から、小さな顔がのぞいていた。
「こっちよ。――来て!」
黒い水から幾つかの影がメイへと跳躍し、Dの左手から迸る白木の針を受けて、もと来た場所へと転落した。
Dは階段への昇り口へと急ぎ、メイのもとへと駆け上がった。
ケンラークの頭部と胴体は洞の上空へと消えている。
「Dさん!?」
抱きつこうとする身体を制止し、
「ミスカはどこだ?」
と妙にくぐもった声で訊いた。
「あそこよ」
可愛らしい指が、ひょうたんか瓜みたいに宙からぶら下がった塔のひとつを指さし、
「あの|女性《ひと》、身体じゅうが溶けているの。助けてあげて!」
「一緒に来たまえ」
追いすがる敵もなく、二人はミスカの牢の前に辿り着いた。
メイの房の格子戸は開いている。
「どうやって開けた?」
とDが訊いた。珍しいことだ。
「さっき、おかしな型を取られたとき、暴れるふりして、鍵を持ってる奴からスリ取ってやったの」
メイは自慢げに胸を張った。扉は開けるときに鍵を使うが、閉じる場合は自動だ。出て行く奴が盗まれたことに気がつかなくても無理はない。
「そうだ。あたし、おかしな膜に包まれてね。やっと離れたと思ったら、その内側にあたしの姿がはっきり型取られていたのよ。あれ、何に使うのかわからないけど、気をつけて」
その膜から生まれたメイとミスカのにせものは、すでにDの刃にかかっている。
Dは左手を鉄の格子戸にかけた。
牢は人間用であった。ミスカを入れたのは、凄まじい拷問のせいで逃げる体力も気力もないとガリルが判断したのと、いずれは別の牢へ移すか、その前に処分するつもりかだったのであろう。
左手が引かれると同時に、格子戸は剥ぎ取られていた。弾けたネジが遠くの壁に当たって、幾つもの美しい音をたてた。
「出ろ」
こちらへ背を向けたミスカは、すぐに立ち上がった。
ドレスの裾で鼻から下を隠している。貴族の回復能力をもってしても、治癒には遠いのだ。
「行こ」
メイが手首を取った。ケロイド状に溶け崩れた手であった。ミスカは少女の手をふり払った。
「放せ。汚らわしい」
「わかったわよ、ひねくれ|者《もん》。二度と助けてやらないからね」
ふくれっ面をしたメイはDをふり返って、
「行こ!」
Dを先頭に、三人は階段の方へ走り出した。
足底から轟きが噴き上がってきたのは、次の刹那であった。
降り口から覗きこみ、Dが事態を納得した。
螺旋の大階段はそこから崩れて、黒い水の中に転がっていた。ばらばらになった残骸は、巨大な骨格を思わせた。
「上だ」
とDは残った階段に片足をのせた。下までは約二〇メートル。二人の女を抱えて降りられぬ高さではない。Dならば。
「きゃ!」
メイの叫びが下方へと流れた。
見よ。牢獄の床がまるで液体のように波打ち、少女の足を膝まで呑みこんでいるではないか。左手をのばして少女の腕を掴んで引き上げ、
「急ぐぞ」
Dは階段を駆け上がりはじめた。
いつの時代のものとも知れぬ階段は、空洞の内壁に沿って走り、天井や壁からぶら下がり、あるいは突き出た施設へは、それに応じて細長い吊り橋や渡り廊下が走っている。
「もう、駄目」
ついに、メイが手すりにもたれたのは、高さからして一〇〇メートル分も昇った地点であった。
「足手まとい女が。――置いていくぞ。でなければ、背負ってやるがよい」
ミスカが吐き捨てた。
いつものDならそうするだろう。代わりに、
「立てるか?」
と訊いた。
「少し休ませて。一分でいいわ」
メイの返事は切れ切れであった。ミスカが下方へ眼をやり、
「どんどん水と化しておる。あの速度ではあと三〇秒」
愉しげであった。自分は不死身の体だ。
「わかった。行くわ」
メイは手すりから身を離し――よろめいた。
Dがすぐかたわらにいた。すがろうとのばした手は、その腰に触れ、ずる、と鳩尾のあたりまでめりこんだ。
「――!?」
手を抜き出した勢いがあまって、メイはもう一度手すりにもたれ、鈍い破壊音とともにすっと身体が沈んだ。老朽化していた手すりの一部が、衝撃に耐え切れなかったのだ。
悲鳴が上がり――|跡切《とぎ》れた。
少女の上衣のベルトを掴んで引き上げ、Dは階段の上に降ろした。
「これは面白い。おまえが水にされたとは、な」
ミスカは燃えるような眼でDを見つめた。
ああ、ケンラークとの戦いは、美しきハンターにも恐るべき結果をもたらしていたのか。周囲のすべてを水と化すケンラークの秘密は、恐らく、Dが掴んだ触手にあったのだ。なおも人間の形を留め得たものは、Dの体内に流れる貴族の血であったろう。
「だが、左手ならば、この小娘を持てた。何故じゃ?」
柳眉を寄せるミスカを尻目に、Dはメイに対して、上昇する階段の方に顎をしゃくってみせた。
よろめきよろめき、少女は昇りはじめた。短時間の休憩なのに、思いのほか確かな足取りである。軽業で鍛えた心肺機能の成果だ。
だが、ついに両足が鉛と化し、心臓は膨縮を忘れて、二〇メートルと昇らぬうちに、メイはギブアップした。
「もう……駄目、置いて……いって」
例によって、励ましも返事もせず、Dは足下の少女と、すぐ横から延びる渡り廊下とを眺めた。
廊下の向こうは、壁から突き出た三階建ての小屋である。
風化して、壁の一部と化したかのような木の扉の上に、何やら古代の文字がのたくっている。
「入るぞ」
とDが言ったから、メイばかりかミスカも眼を丸くした。
「何を――?」
と抗弁しかけたときにはもう、黒いケープ姿は渡り廊下へ一歩踏み出している。
丸太を組んだ上に厚板をのせた廊下が不気味にきしんだ。埃とも砂ともつかないものが舞い落ちていく。
真ん中あたりでDがふり向き、
「二人は無理だ。おれが渡ったら来い」
と言って、一歩踏み出した瞬間、ぱん、と板の弾ける音がした。
「あーっ!?」
と、|嗄《しゃが》れたメイの叫びは悲鳴だったのか、それとも、真っ二つに裂けた廊下の真ん中から、小屋の戸口まで黒い風のように跳躍してのけた美影身への感嘆の声であったのか。
左手で扉を内側へと押し倒すや、
「上へ行け! 後から追う」
叫んでDは暗い内側へと消えた。
「おのれ――自分だけ」
もちろん、怒りに身を震わせたのはミスカばかりで、
「そんな人じゃないわ。――行きましょう!」
とメイは頭上に広がる大螺旋を見上げた。
Dは何か、決定的な救助法をあの小屋の内部に見つけたのだ。でなければ、生命を賭けて私たちを守ってくれる。廊下が折れたときも、小屋ではなく、自分たちの方へ跳躍したにちがいない。
その腰が不意に荒々しく抱かれ、メイは宙に浮いた。
「あなたは――!?」
「手間ばかりかけおって。いっそ、ここから叩き落としてくれようか」
爛々たる憎悪の眼に少女の顔を映しながら、ミスカは貴族ならではの軽やかな足取りで大階段を昇りはじめた。
後ろ足に蹴った階段が、どろりと形を失った。
3
Dが出て行ってから、彼の指示通り住まいを移し、さらに一〇分ほどしてタキは眼を醒ました。
男爵が馬車から取ってきた音波遮断液を鼓膜に吹きつけたのである。|水琴《みずごと》の音はなおつづいていた。
「私は――どうして?」
と馬車から運んだ毛布の上で訊くタキへ、男爵は水琴とDの説明をした。
「敵の目的は私だ。きっとまた来るだろう。場所を変えたくらいで、眼をくらませられるとも思えん」
「ずっとあなたを追いかけているという敵のことでしょうか?」
「いいや、父の放った刺客だ」
「お父さまの?」
タキは息を呑み、
「どうして、そんな……」
「私が父を殺しに行くからだ」
「………」
「ゆっくり休むといい。何かあったら、これを握りたまえ」
と、棒状の超音波発信器を手渡して男爵は部屋を出た。
ドアを開いた途端、超音波の錐が鼓膜を貫いた。
愕然と部屋へ飛びこむと、ベッドの前の床に、タキが棒立ちになっていた。
手の発信器へ眼をやり、
「ミスか」
と言って、再び出て行こうとする背へ、
「ちがいます」
と、思いつめたようなタキの声が当たった。
男爵はふり向いた。
「わざとしたのかね?」
「はい」
「敵にも超音波をきき取る奴がいるかもしれない。遊び半分はよせ」
「遊びじゃありません。――あなたと話したかったんです」
「私と?」
「あなたは、私が知っているどんな貴族とも違っています。Dさんはダンピール。ですが、あなたは純粋な貴族です。それが、まるで人間のように、小さなもの、弱いものを守ろうとする。私はそれが不思議なのです」
「君の仲間はそうはしないのかね?」
「いいえ。でも、あなたが守ろうとしているのは人間の子です。私たちは虫を守りはしないわ」
「それでは、貴族の方が真の意味で高い文明を築いていたことになるぞ」
「必要なのは、星間連絡船や元素変換装置や五〇万階建てのビルではありません。ずっと単純な――|精神《こころ》です」
タキは言い切り、舌で唇を湿した。とても喉が渇いていた。
「貴族はどうしようもない落日を迎えているわ。あなたみたいな人が、もう三万もいたら、防げたかもしれない」
男爵は黙然と動かなかった。窓から水琴の調べがきこえてくる。
「これからどうするの? お父さんを殺したその後は? いいえ、斃されるのは、あなたの方かもしれない」
タキは男爵の眼を見つめたまま、熱っぽい声で言った。彼も自分もその中に溶かしこんでしまうとでもいう風に。
男爵が何か言いかけたとき、熱い身体が思いがけない速さでその胸にもたれかかってきた。
「死んではいや。死なないで下さい、あたしのために」
「君のために?」
男爵はじっとタキの白いうなじを見つめ、片手を上げると、左の首すじに指先をあてがった。
「あ……」
とタキは小さく身を震わせた。
「人間の子供を守っても、私は貴族だ。君たちが忌むべき、血を吸うものであるのに変わりはない。いま、君を前にして、私がどれほどの誘惑に耐えているかご存じか?」
首すじに触れる貴族の指先が氷のように冷たいことに、タキははじめて恐怖を感じた。
「私もふと思うときがある。普通の貴族であった方がずっと楽ではないかとな。――私はなぜ、こうなった?」
「………」
タキの身体が、ぎゅっとすぼまった。男爵の吐息がかかったのである。それは指と等しい冷たさを持っていた。
「温かい喉だな」
と男爵は言った。
貴族の唇が喉に貼りついたとき、タキは失神した。
全身の力が抜けた女体を苦もなく片手で支え、男爵は唇を離した。タキの喉には染みひとつない。
男爵の表情に悲痛な色があった。彼はひっそりと言った。
「人間の血を吸うことを潔しとせぬ。それゆえ、父は母と私を放逐した。できるなら、私も普通の貴族でいたかったが」
タキを抱き上げて床の上の寝床に戻したとき、男爵は玄関の扉を叩く音をきいた。
旅人か、と思った。敵なら音をたてまい。
豪雨に行きなやんだ旅行者が祭祀館を訪れても不思議はなかった。ただ、厄介者だ。
頑丈な閂がかけてある。二、三分もすればあきらめて退去するだろう。
予想は正確だった。
窓にはシェードを下ろしてある。明かりの洩れる心配はない。
タキの寝姿を確かめ、部屋を出ようとした耳に、別の方向から別の音がきこえた。
上だ。
祭祀館は三階建てである。一階と二階の窓には鉄格子がはまっている。貴族よけだ。最上階にはそれがない。空を飛んでまで、夜間、管理者の老司祭以外は住人のいない館を狙う貴族はいないからだ。
まっとうな旅人にしては、おかしな訪問の仕方だった。
三階の廊下へ出る階段の途中で、男爵は立ち止まった。
男の声が廊下を渡ってきた。
「この村はみんな逃げたはずだ。内側から閂のかかるはずがねえ。絶対に誰かいるぜ」
「旅回りの踊り子か何かだったらいいのによお。今宵、みなさまにお送りするトップレスショーでござい」
下卑た笑いがひとしきりつづき、急に跡切れた。
男爵が姿を見せたのだ。
人間が貴族を見間違えるはずがない。
「き――貴族!」
ひとりが叫んだ。顔も身体も四角い男だった。もうひとりは反対に丸ぽちゃで、どちらもビニールの雨合羽を頭からかぶり、バックパック状のメカニズムを背中にしょっていた。
個人用飛行具――『都』の人間でさえ、そうそう眼にできぬ移動装置である。ジェット・エンジン、ロケット式、イオン・フライト方式等に分かれるが、二人のは見たところ磁力推進式だ。
「どこから来た?」
と男爵が訊いた途端に、二人の手が腰へと前方へのびた。
貴族と顔を合わせたら、どんなに逃げても逃げ切れるものではない。戦って斃すか、自殺するだけが、人間の尊厳を守る道だ。――辺境の鉄則は、その二人の胸にも生きていた。
こちらへ向けられた太い銃口と脅え切った顔へ、
「何もせん」
と男爵は静かに呼びかけた。その視界が灼熱の真紅に彩られた。
二人の男が同時に、銃口の中身を――手製の火炎弾を発射したのである。男爵の顔面に。
片手で顔を覆った姿は、みるみる人型の炎と化した。
ケロシンとゲル化油をベースに、数種類の化学燃料を加えた火炎弾は、廊下と壁に炎の絨毯を滑らかに走らせた。
男爵が一歩前進した。
蒼いマントが魔鳥の羽のごとく広がり、窓を打った。
ばん、と炸裂音がした。炎は跡形もない。
さすがに、身体のあちこちから黒煙と小さな炎を噴き上げつつ、男爵は二人の男に近づき、その喉元を掴むや、一気に持ち上げた。
「ひいい……」
「たたたすけてくれ」
絶望と恐怖と冷や汗に塗りたくられた二つの顔の前で、男爵の焼け焦げた顔は、みるみるもとの美貌と夜の艶やかさを取り戻していた。
「何もせんと言ったはずだ。その飛行具――どこで手に入れた?」
絶望的な男たちの顔に、一瞬、生気が甦った。背負ったメカニズムの力を憶い出したのである。
リモコンのスイッチは右のスリングにはめこまれている。
三つの身体は重さを失ったかのように、天井まで舞い上がった。
「分かれるぞ」
と右側の男が叫んだ。こうすれば、男爵も手を離さざるを得ない。離さなければ、肩からもぎ取られてしまう。
男たちの口元にうす笑いが浮かんだ。
まさか、左右へ移動しかけた身体が一気に引き戻されようとは。
眼から火が飛んだ。
凄まじい勢いで側頭部を鉢合わせさせられ、空中で失神した二人のリモコンを素早く奪い取って、男爵はゆるやかに着地した。活を入れて訊くと、二人は村の北にある飛行体の発着場から来たと告げた。
この地方を管理していた小貴族を駆逐する決め手となった発着場奪取にかんがみ、反乱軍首脳部は、年に一度の整備と点検を近隣の村々に命じた。今年は彼らの村の番にあたり、ひと月の出張の後、ようやく今日、帰路についたところだったのである。
貴族の建設になる発着場は、数百年たっても自動で整備、点検をつづけ、彼らはその動きをチェックするしか仕事はなかった。
飛行体も格納庫に保管され、チェック・マシンによる手入れは完璧だという。大空を飛んでゆけば、地上を行くよりも遥かに短時間で目的地に到達できる。
雨の吹きこむ窓から暗黒を眺めやり、
「早く戻れ、Dよ」
と男爵は遠い眼差しでつぶやいた。
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第四章 天翔(あまかけ)るもの
1
ミスカの足が停まった。
「どうしたの?」
メイは思わず訊いた。小脇に抱えられて移動しはじめてから一〇分と経っていない。
返事の代わりに、ミスカはメイを段の上に落とした。
そこは軽業のプロで、易々と着地した娘の口から、
「あっ!?」
と絶望の叫びが洩れた。
一〇メートルほど先で、階段が切れている。眼を凝らすと、そこから二〇メートルくらいのところから、またはじまっていた。
いかにミスカといえど、この距離はいかんともしがたいであろう。跳んだりはねたりのプロだけに、メイにはそれがはっきりとわかるのだ。
「どうしよう?」
周りを見た。この場合、どーするの? ではなかったのは、驚くべきことだった。ミスカをあてにしてはいけないのだ。少女はそうやって生きてきたのだった。
階段の液化は少し余裕があるだろうが、それもあと一、二分というところだ。
狂気に陥ってもおかしくない状態で、
「見て」
明るい声はミスカをもふり向かせた。指さす方に。
天井からぶら下がっているのは、ロープや葛であった。
そのうち一本が密集部分を離れて、階段の近くにぶら下がっているのを少女は認めたのだ。
「私は、あれに跳び移るわ。あなたひとりなら、向こうの階段へ届くでしょ。これで解決よ」
「愚かもの」
ミスカは吐き捨てた。
「確かに私は移れよう。だが、おまえの足であの葛にまで届くものか。一〇メートルはあるぞ」
「ぎりぎりよ」
メイは目測してうなずいた。
「それに、あの葛は随分と古びておる。仮に届いたとしても、おまえひとりの体重も支えられはしまい」
「あーら、私は軽業師よ。それに、失敗すれば、あなたの目障りがひとり分減るわ――でしょ?」
最後に嫌みを言って、すっきりとした。メイは背後の壁まで下がった。助走距離としてはぎりぎりどころか、まるで足りない。手をのばしてかろうじて届くかどうかだろう。その後で、ぶつん、ときたらもう打つ手はない。
「じゃ、ね」
それはミスカへ向けたものか、ついに間に合わなかった美しいハンターへの言葉か。
思いきりダッシュした身体が宙で抱きとめられ、腰に食いこむ圧力に、うえ、と洩らしたとき、メイの身体は別の方向へと風を巻いて走り出していた。
「どうして!?」
問いは空中で放った。答えも空中だった。
「黙れ」
吸血鬼の夜の筋力が人間を遥かに凌ぐのは周知の事実だが、男女の差はやはりある。
二〇メートル――男でも危うい距離を、ミスカは白い大輪の花のように飛んだ。
右手が手すりを掴んだ。足は階段の端に――
がらりと崩れた。
「きゃあ!」
メイの叫びは奈落へと吸いこまれ――途中でショックとともに停止した。
手すりを掴んだ右手一本が二人を支えていた。
安堵――そのとき、メイの耳は手すりのたてる亀裂音をきいた。
「私を離して! 二人とも落ちちゃうわ!」
自分でもなぜこんなことを叫んだのかわからない。
「離してよ、離せ!」
「少し、お黙り」
ミスカの声は、ひどく落ち着いていた。
手に力がこもった。
「いえええ――っ」
この誇り高い女がこのような声を出すと、誰が想像しただろう。
全身の力を凝縮させた右手一本。――二人の身体は鮮やかに宙に浮き、今度こそ、安全な段の上に舞い降りたのである。
「あ……あああ……」
メイはその場へへたりこんでしまった。ミスカが手を離したのである。何と言ったらいいのか。自分は驚いているのか。それとも感嘆しているのか。
そんな少女の姿へ、何とも凄まじい侮蔑の視線を送り、
「貴族と人間の差がわかったか?」
ミスカは嘲笑した。
「さ、お立ち。とっとと――」
その声の変調が、メイの顔を上向かせた。
「ひい」
と洩らしたのもむべなるかな。
螺旋の遥か彼方から、形容し難い生物が下りてきたのである。
蜘蛛だ。全長五メートルもある大蜘蛛だ。
灰色の剛毛は針のように毛羽立ち、八本の足は二人を認めて勢いを増したようだ。この巨木の主でもあるのか、背や脇腹には、折れた槍や長剣の刃が何本も刺さっている。
しゅうしゅうという音が二人の耳を打った。呼吸音である。
一難去ってまた一難――どころか百難の中に頭から突っこんだようなものだ。
ミスカが前へ出た。
「どうするの?」
どうしようではなかった。さすがのメイも、こんな怪物に対抗する手段は、到底思いつかなかったのである。
絶好の獲物と迫り来る蜘蛛の不気味な眼を、ミスカは恐れげもなく凝視していたが、両者の距離が約五メートルまで近づいたとき、右手を高く上げた。
「下がれ」
凛とした声である。
蜘蛛の動きが停まるのを、メイは茫然と見つめた。
貴族は野生動物を|下知《げじ》できるのだ。声を理解させるのではなく、一種の|精神感応《テレパシー》だろう。
「そのまま、動くな」
と命じてから、メイへ、
「ついておいで」
ふり向きもせずに声をかけ、一歩上がった。
さすがに足は遅いが、背すじをきりりとのばした姿は、貴族の女そのものだ。巨大な蜘蛛をまるで恐れていない。
だが実は、ミスカは内心、脅え切っていた。
下等動物を下知し得る貴族とはいえ、必ずしもあらゆる生物がそれに該当するわけではない。貴族の意志の微妙な乱れを感じ取った凶獣は、唐突に支配を脱し、牙を剥く場合も多々あるのだ。傲慢な姿は、貴族のプライドがそうさせているにすぎない。
蜘蛛の前にきた。
高く折り曲げた一〇メートル近い足は、階段の両端ぎりぎりまで達している。
「踏んではならんぞ」
ミスカは蜘蛛の顔の横にさしかかった。
小豆色の眼が、じろりとこちらを向く。
蜘蛛の精神を支配下に置いている自信はあったが、ミスカは心臓の鼓動が激しくなるのを感じた。
眼前に毛むくじゃらの足が斜め上方にそびえている。その剛毛の一本に触れただけで、蜘蛛は正気に戻るかもしれなかった。
問題は足と胴との隙間だ。蜘蛛の足は三重四重に折り曲げられて、ゆったりとした弧を描いているから幅は問題ないが、高さが低い。大きく身を屈めて通り抜けたとき、バランスを崩したら、それっきりだ。足は片側で四本ある。階段の三分の二は、蜘蛛の身体がふさいでいる。
全神経を足先に集中した。緊張が動きを硬くしている。後ろのメイにぶざまな姿を見られたくなかった。
不意に足が沈んだ。破壊されていた階段の一部がミスカの重みで抜けてしまったのだ。
こわばっていた身体は、神経の危険信号をよく伝えなかった。思わず、ミスカがすがるものを求めた。蜘蛛の足へ!
指が触れる寸前、ミスカの身体は引き戻されていた。
「おまえ――」
ふり向いた腰の後ろで、メイの丸顔が怒っていた。
「しっかりして。階段もまともに上がれないの? 今度は私が先に行くわ」
「………」
「こう見えても軽業師よ。人食い蟻の巣の上に渡した鉄棒で、とんぼを切ったこともあるのよ。棒には油が塗られていたわ」
低くまくしたて、ミスカの前に立つと、言葉にいつわりはなく、さっさと蜘蛛の足をくぐり出した。
ミスカも同じペースで進んだ。破れかぶれであった。貴族が人間に劣ってはならないのだ。
最後の一本を抜け、蜘蛛の最後尾に辿り着くのに、時間はかからなかった。
「へえ、貴族にしちゃよくやったじゃないの」
腕組みしてうなずくメイを、さも憎々しげに見下ろし、
「へらず口を叩けるのもこれが最後じゃ。――上がれ」
「はいはい」
ぴょん、ととんぼを切って見せたのが、少女の油断であった。
両足の踏んだ床は、またもすっぽ抜けた!
「きゃっ!?」
と洩らして身体は跳ね上がり、本能的に安全な部分を求めたのか、階段の反対側――蜘蛛の胴の上に降りた。
血も凍る一瞬であった。
メイは凍りつき、とっさに降りるのを忘れた。
横殴りに走った手が少女を引っかけ、階段へふり落とした。
抗議もできず、メイは大蜘蛛を見つめた。
足がごそりと動いた。
ミスカの片手が喉元に上がった。悲鳴を押さえたのである。
だが、足は新しい位置で固定し、二度と動かなかった。
二人は同時に長い息を吐いた。
「早く――行け」
ミスカの言葉に、メイは逆らいもせず立ち上がった。
「人間めが」
吐き捨てたミスカの肩口に、天井から降りてきたちっぽけな蜘蛛が止まった。
「――!?」
はたき落とした拍子にバランスが崩れ、ミスカは片手で大蜘蛛の胴に触れた。
それだけなら、蜘蛛は眼醒めはしなかっただろう。ミスカの手が触れたのは、蜘蛛の胴に刺さったままの、折れた槍の柄だったのである。
蜘蛛は跳ね起きた。一気に五メートルも跳躍したのである。
空中で向きを変え、着地と同時に巨大な顎を噛み合わせた。
がっちりとくわえこまれたのは、ミスカの胴であった。
声もなくのけぞり、拳で打ったが、鋼鉄のような顎はびくともしなかった。その下に、洞窟のような口腔が黒々と。
メイの身体が|飛燕《ひえん》のように地を蹴って走った。
蜘蛛の上に舞い降りるや、いま、ミスカが刺激した槍の柄を両手で掴み、思い切り、内側へと刺しこんだのである。
地獄の苦痛は蜘蛛の方であった。
鉄とガラスをすり合わせたような悲鳴を上げて、節足を収縮させる。
地へ落ちたミスカへメイが、
「逃げろ!」
と叫んだ。
蜘蛛の足が二本、頭上から迫った。曲がるはずのない角度で足は曲がった。
メイを挟んで持ち上げ、口の方へ持っていく。ミスカは立てなかった。腰には鮮血が滲んでいた。
メイの視界の隅から、黒い顎が近づき――急に止まった。
突如自由になった身体を空中で一回転させ、メイは階段へ降り立った。
蜘蛛は痙攣している。その背へ黒い人影が忽然と立っていた。
「――D!?」
それがさっきの液化したDではなく、彼女の知っているたくましい吸血鬼ハンターであることを、メイははっきりと意識した。
背の一点に刃を突き立てたコート姿が、そのとき、白く[#「白く」に傍点]翳った。蜘蛛の背が数千条の糸を噴き上げたのである。
それは空中で向きを変え、Dめがけてだらだらと舞い降りた。何条かが壁に付着し、その部分は白煙を上げて溶け崩れる。糸は強烈な粘稠度と溶解力とを備えているらしかった。
「D!」
メイの叫びを、ごおという轟きが殴り消した。風の音であった。
糸はことごとくそそり立ち、その根元を銀色の光が一閃した。
残らず切断された数千条が白い虫みたいに入り乱れ、渦を巻いて虚空の高みへ消えていくのを、メイは茫然と見送った。
力尽きたのか、大蜘蛛はがっくりと階段上に伏したまま、身動きもしない。
その背から降り立つ姿が、メイには黒い天使のように思えた。なんという美しい顔だろう。
「D――どうやって?」
涙をこらえながら訊いた。
「無事か?」
「うん」
「ひとり逃げたと思ったが。どうやら、上と下を間違えたらしいの」
横たわったままのミスカの声である。白いドレスは鮮血にまみれ、蜘蛛の顎から離れたときに裂いたスカートからは、生白い太腿がのぞいて、息を呑む|凄艶《せいえん》さだ。
Dは空洞の方を見た。メイが飛び移るといった蔦である。
「あれを伝わって、ここまで。――元に戻ったのね」
これにはミスカも不思議だったらしい。美しい足を隠しながら、
「どうやって戻った?」
と訊いたほどである。
答えず、Dはミスカに手をさしのべた。
「触るな」
「時間がない。――見ろ」
Dは後ろをふり返った。
「壁が溶けていく」
階段を液化させた力は、ついに壁にまで及び、この巨樹全体を水と化そうとしていた。
Dがそれを免れたのは、あの小屋が、扉に記されていたがごとく、堆肥と土の保管庫だったからだ。
小屋の中でDの左手は土を食らい、風を起こして核炉のごとく放熱した。
地水火風――残る水は、D自身であった。
左手の生んだ不死のエネルギーは、やすやすとDに本来の肉体を復活させ、小屋を支えるワイヤーから別のロープへ、ロープからあの蔦へと辿って、間一髪、二人の危機を救ったのであった。
「下はすでに溶けきっているであろう。上へ逃げても、いずれは水じゃ。――どうする?」
Dの苦悩を目の当たりにしようと考えてか、ミスカの問いは愉しげであった。
その身体が軽々と宙に浮いた。Dに抱き上げられたのである。
「何をする!?」
「上だ」
とDは言ってから、
「人間の娘に救われたな。どんな気分だ?」
と訊いた。
喉の奥で獣のような唸りを上げたきり、ミスカは返事をしなかった。
2
巨木の頂きまで達したのは、それから三時間後だった。
昇るに従い、奇々怪々な生物が、次々と襲いかかってきたのである。無数の金色の点が渦巻くような気体妖物、双頭の怪鳥、稲妻を走らせる巨大猫――そのことごとくがDの刀身の錆になったが、猛毒のガスを吐く袋状生物の不意討ちには、ミスカとメイが倒れ、ついに樹上に抜けたとき、二人はともにDの背に負われていた。
巨木のてっぺんには、誰がこしらえたのかドーム状の蓋がはめられ、それでも、三、四人がまとめて抜けられる広さがあった。
蓋を押し上げるや、ミスカが苦鳴を洩らした。空気には青が混じっていた。東の空に水のような光が広がっている。
三人の髪を朝の風が吹き乱した。高度一〇〇〇メートル。雨は熄んでいた。
眼下の森も彼方の平原と丘陵もまだ闇に沈んでいる。
「これ以上はないぞ」
とミスカが背中で言った。貴族だけあって、もう毒煙から回復しつつある。
「なら、降りるしかあるまい」
Dは静かに言った。
「我らはよいが、娘をどうする?」
「気になるか?」
「うるさい」
と答えながら、ミスカはこのとき、嗄れた含み笑いをきいたような気がした。それもごくごく近くで。
すっとDが木の縁に立ち上がった。下方――一メートル下はもう水と化し、巨木自体がゆらゆらと頼りない。
「掴まっていろ」
とDは言った。
巨木の頂きまで昇ったのは、外側へ[#「外側へ」に傍点]出るためだろう。だが、いかにDとはいえ、一〇〇〇メートルの高さから降下して、自身とミスカはともかく、メイの安全を保証し得るのか。
Dは身を躍らせた。
そして、三人は石のように落ちていった。
Dの耳もとで風が唸った。加速度が増していく。
「なかなかのものね」
ミスカが片手で東向きの頬を押さえながら言った。不死身の貴族とはいえ、この女の神経も鉄でできているらしい。ごおごおと唸りとぶ空気の中でも交わし得る貴族の会話であった。
「じきに地上じゃ。娘をどうする?」
「しっかりと抱いていろ」
森が迫ってきた。
ミスカが眼を閉じた。
次の瞬間、猛烈な衝撃が三人を空中に跳ね上げた。
枝や葉を噴きとばして森から跳び出し、また引き戻される。
幹の砕ける音をミスカはきいた。片手をDの首に巻き、片手でメイを横抱きにしている。少なくとも、Dの方は千回窒息死してもおかしくない衝撃であった。
ようやく跳びはねるのをやめた身体が、左手へ傾いた。
幹と同じ方向へ落ちていく――と思った刹那、Dが軽やかにそちらへ身体をふって、三人は別の巨木の枝に舞い降りていた。
Dの背の上でひと息ついてから、ミスカは枝の上へ移った。
「何を使った?」
と訊いた。
枝をへし折りながら横倒しになった幹を視界に収めて、
「あの木に何を巻きつけて止めた?」
Dは左手を上げた。眼に見えないほど細い糸の切れ端が拳からのぞいていた。
「これは――?」
「水琴だ」
それを手に取り、しげしげと眺めて、
「これか。これなら、あの加速度でも切れぬ。しかし、一〇〇〇メートルから飛び降りるとは、無茶なことをする男じゃな」
すべてを水に変えるケンラークの身体を二つにしたのも、この糸だとまでは知らず、糸と巨木とを見比べるミスカへ、
「陽が昇る。急いで戻るぞ」
とDは告げた。
馬車が無人の村を発ったのは、二時間後であった。
嘘のように晴れ上がった空の下に広がる大地はまだ濡れているが、敵将ガリルに痛打を浴びせたことで、当面の危機は去ったとDは判断したのである。
目的地は北の飛行体発着場である。
Dがミスカとメイを連れて戻ったとき、発着場からやって来た二人組はもういなかった。ほうほうの体で逃げ帰ったと男爵は告げ、
「村人が襲撃して来ないとも限らない。早く出た方がよかろう」
とDを促した。柩の中からであった。
クラウハウゼンの村へはまだ遠く、新たな敵も迎えて、しかし、馬上のDの眼は冷やかに澄んでいた。
村外れを抜けるとすぐ、街道へ出た。
男爵の馬車の御者台で、メイはタキの胸に顔を埋めていた。昨夜の救出劇は、少女の肉体と精神に強烈なダメージを与えていたのである。
うとうとしては、悪夢でも見たように、はっと眼を醒ますメイへ、タキは痛ましい眼差しを注ぎ、脅える眼に合うと、やさしくうなずいてみせた。
「ヒュウはもう、帰って来ないのかしら」
それまで無言だったメイがぽつんと洩らしたのは、蒼穹の下を二時間ほど進んでからである。
「大丈夫よ、きっと」
「どうしてわかるの?」
「どうしても」
とタキは力強く言った。
理屈ではないその口調が、メイを安堵させた。
「そうよね、きっと、そうだわ。あの子はいつも運がよかったもの。今度だって」
「そうですとも。あなたは疲れてる。ゆっくりお寝みなさい」
こう言ってから、メイの眼差しが自分に向いていないことに気がついた。
御者台のかたわらを、思わず言葉も失うほどの美しい若者が行く。
タキにも、視線の意味を理解することができた。
強い者の保証が欲しいのだ。
「ねえ、D。メイがヒュウのことを心配してるの。大夫丈だと言ってあげて」
返事はない。
ヒュウの運命がわからないというのではなく、Dにとって、この姉弟は無関係――いわば厄介者なのである。
タキがささやかな怒り混じりのため息をついた。
「そうよね、昨夜、あなたが助けに行ったのも、この娘じゃなく、あの女貴族がさらわれたからなのよね」
と言ったのは、その辺を理解しているからだった。美しい若者は、彼女たちのボディガードではないのだった。
村を出て北へ進むと、二キロほどで、強化プラスチックの舗装路に出た。あちこちが溶けているのは、人間による破壊の痕跡にちがいない。自動修理機構が動かなくなって、大分経つらしかった。
Dは馬を全力疾走させた。敵はどこかで眼を光らせているはずであった。
空港の門は閉鎖されていたが、男爵が昨夜の男たちから奪っておいた錠で電子ロックを外した。
敷地内へ入ってすぐ、うつらうつらしていたタキが、
「まあ!?」
と叫んで眼を丸くした。
広さが人間を驚かせたのである。単なる地方の発着場とは思えなかった。
もとから存在していた大地だけでは足りず、東西の山腹までを切り開いた巨大な発着場には、超高速リニア・モーター|移動機《ムーバー》専用の通路が縦横に走り、それでいて、あちこちに屹立する大型飛行体の邪魔になるとは思えない。
遠くかすむコントロール・タワーやレーダー・サイトらしきものの存在が、タキにはどうしても納得できなかった。
意を決して御者台に上がり、近くの飛行体へと向かうDに、
「どうして、こんなに広い施設をつくったのかしら?」
独り言のように訊いた。返事をしてもらえないのが怖かったのである。
「精神の反映だ」
意外にも答えが返ってきた。
「種としての衰退がほの見えだした頃から、貴族たちの建造物は、常識を無視した巨大化への道を進んでいった。精神は断末魔と言い換えてもよかろう」
「それじゃあ、最後の見栄――みたいなもの?」
「そうなるか」
氷を思わせる若者の声に、疲れのようなものを感じて、タキははっとした。
滅びへの道を自覚したとき、貴族たちは、それに挑むかのように巨大事業へ邁進した。運命を忘却に従わせようと。
いくつかの|星間航路《スター・トレイル》が新たに開拓され、外宇宙への調査団も旅立った。超古代に海没した大陸の一部を半ば強引に浮上させたとき、ある者は落日の遠く去ったことを確信したにちがいない。
だが、いま、広大な発着場には生きるものの気配はなく、自動管理機構のみが、黙々と任務を遂行していた。
足を踏み入れた|旅客《トラベラーズ》センターの、塵ひとつない無人の清潔さが、長年月の空しさをひときわ引き立たてた。
――宴の跡か、Dよ
男爵が訊いた。推測か、それとも見えるのかどうか。
返事をせず、巨大ホールの中央に馬車を入れると、Dは馬から下りた。
「少し待て」
と言って、奥のドアへ向かう。
「私も行きます」
タキが御者台を降りた。メイはぐっすりと眠っている。男爵とミスカに対する不安はなかった。
ドアを抜けて施設内へ入った途端、闇が二人を包んだ。
同時に照明がつく。
夜のただ中にいることをタキは意識した。
「どうしたの!?」
「メイン・コンピュータが来客用に人工の夜を造営したのだ。本来は昼夜を分かたず、だったのだろうが、エネルギー維持のため、訪問者があったときだけ造営回路が働く」
「へえ。――何年ぶりなのかしら」
返事はない。問い直そうとしてDの横顔をみつめ、タキは口をつぐんだ。
気も遠くなるような美貌に刻まれている翳を、悲痛とも悲哀とも取るのは簡単だった。タキの口をつぐませたものは、その深さだった。
「D――あなたは、貴族の滅びを哀しんでいるの?」
言ってから、心臓が凍りつくかと思ったが、これにも反応はなく、Dは廊下の奥にある移動車に乗った。
「コントロール・センターだ」
と告げる。
「認識カードをどうぞ」
と機械の音が言った。
「センターは最も重要な施設です。当発着場のVIPといえども、カードなしでは入れません」
タキはDを見つめた。
Dは操作ボードの挿入スリットに左手のひらを押しつけた。
「有資格VIPと認めます。ご無礼をお許し下さい」
驚愕に剥き出されたタキの眼は、疾走しはじめた移動車がほんの数秒後、
「センターです。地上五〇〇階」
と告げたとき、もう一度、剥き出しになった。
タキの知らぬ間にDが指示したのか、あるいは奇怪な左手の技か、移動車は広大なセンターの廊下を滑って、白いドアの向こうに吸いこまれた。
白い光以外、タキには何も見えなかった。隣のDの姿さえ溶けている。
「ようこそ、メイン・コントロール・ルームへ」
どこからともなく、澄んだ女の声がやってきた。
コンピュータの合成音である。どこかから自分たちを見ている、冷たく知的な美女をタキは想像した。
「五千と一年と二百九十八日ぶりのお客さまですわ。それも、わたしがひれ伏さねばならないほどの高貴なお方。何なりとご用をお申しつけ下さい」
「メイン・ホールにある馬車と客、それに我々二人の総重量を計算し、搭乗可能な飛行体を用意してもらいたい。――火急かつ速やかにだ」
「承知いたしました」
「もうひとつ。最優秀なサイボーグ馬を一頭」
「承知いたしました。ホールへお戻り下さい。すべての用意はそれまでに整っております」
移動車に戻る途中で、
「D――」
堪りかねたように、タキが声をかけた。
「あなたこそ――何者なの? VIPだって自由に入れないところもフリー・パス。メイン・コンピュータは一も二もなく全面服従を誓う。ただの貴族じゃ、絶対に不可能なことよ」
Dは無言で移動車を示した。乗れという合図だが、タキは動かなかった。Dの素性に関する想像が、彼に逆らうことの恐れさえ忘れさせた。
「ダンピールの両親の片方は貴族――D、あなたの親は、ひょっとして――」
「乗れ」
氷雪のような口調が、タキの意志力を微塵に打ち砕いた。
3
ホールへ戻った二人を、男爵とミスカとが迎えた。
通常、暗闇の中でも、実時間が日中である限り貴族は動けない。男爵が特別なのはわかるが、ミスカの方は“破壊者”が助力しているのだろうか。
タキが馬車をのぞくと、メイの姿はなかった。
「私が出る前に、見学してくると言って、馬車を降りた」
と男爵は言った。
「困ったわ、探してこなくては」
不安そうなタキへ、ミスカは憎々しげに、
「人間ごときが貴族の施設を楽しめるものか。すぐに戻ってくるか、道に迷って、その辺でベソをかいておるわ。おまえも探しにいって、二人で抱き合ったらどうじゃ?」
タキが憤然と白い|貌《かお》をにらみつけたとき、頭上から、あの女の声が、
「ご用でしょうか?」
Dは左手を下ろし、
「人間の娘がひとり、施設にまぎれこんだ。場所がわかるか?」
と訊いた。
「外の発着場におります。外へ出て北へ約五〇〇メートルの地点を、同方向へ移動中でございます」
「ご苦労」
「とんでもございません。何なりとお申しつけ下さいませ」
声が消え、ホールには驚愕が残された。
「これは驚いた」
と男爵は幾分愉しげに言った。
「あの声は『特A級コンピュータ』のものだ。人間なみのプライドを持っている。尋常の貴族に、あんな服従的な物言いはせんな。D――君は何者だ?」
無論、返事はなく、ミスカでさえも茫然とDを見つめるばかりだ。
Dは黙って外へ出た。
一〇〇メートルほど前方の発着スペースに、銀色の機体が横たわっていた。
ずんぐりした外見は、決してスマートとはいえなかったが、せり出した小さな翼の下のイオン・エンジンは飛行体としての実力を示していた。
Dは北へと歩き出した。
確かに五〇〇メートルほどの前方にメイの姿が見えた。
コンピュータの指摘と異なるのは、動いていないことだった。
棒立ちになったその前に、黒い人影が立っていた。
Dよりもひと廻り大きく、頭ひとつ高い――巨人といってもいい。
Dは風を巻いて走った。
メイの身体がすっと持ち上がった。巨人の両手の間で、少女は哀しいほど小さく頼りなく見えた。
巨影から二メートルほど手前でDは足を止めた。
殺気もない。緊張もない。二人の間にあるのは、余人には測り知れぬ虚無であった。
「……まさか」
嗄れたつぶやきを、二人のどちらが耳に止めたろう。
「まさか……奴が[#「奴が」に傍点]……ここに?」
声はゆるやかな弧を描いて止まった。Dが左手を上げたのである。メイの方へ。
巨影は、すぐには反応しなかった。密林のように無造作にのびた髪の毛はあるかなきかの風にざわめき、メイを抱き上げた黒いコートの袖は無残にすり切れて、赤い裏地を露出させていた。
巨大な山のイメージがDにのしかかり、コンクリートの大地に固着させたように見えた。
巨人の上体が小さくふるえると、メイはDの左手に乗っていた。
そのとき、背後で、
「――D」
タキの声と足音が近づいてきた。
「どうしたの!?」
Dの横で足を止め、軽く息をつきながらタキは訊いた。彼女もメイを探しにきたのである。
どこまでも広がる発着場のスペースから眼を離し、Dはメイを手渡した。
尋常ならざる雰囲気は、この若者を知る者には、想像もできぬ凄愴なものであった。
「D――男爵が」
と言いかけるのへ、
「先に戻れ」
とDは言った。声には峻烈な拒絶がこめられていた。自分の言葉も意識していない美しい両眼は、巨影の消えたあとをひたむきに凝視していた。
タキは黙ってその場を離れた。
五〇メートルほど歩いてから、何があったのかとメイに尋ねた。
「大きな人に抱き上げられたのよ。そこへDさんが来て」
「貴族だった?」
タキの顔からみるみる血の気が引いていった。この発着場に男爵とミスカ以外の貴族がいるとは――
「わからない。大きな人よ。私、ちっとも怖くなかったわ」
「じゃあ……違うのかしら」
思わずDの方をふり返るタキへ、このとき、少女は奇妙なことを口走った。言ってから、いちばんあわてたのは当人であったろう。
自分へふり向いたタキの表情と声が、その原因であった。
「何ですって?」
彼女自身が貴族と化したような響きが、少女を脅えさせた。メイはこう言ったのである。
「顔も見えなかったけど、何だか――全然タイプはちがうんだけど、Dさんに似てたなあ」
もうひとつ、これはタキともどもに戦慄したことは――
ホールに戻った二人の前に、馬車も男爵もミスカも姿を現さなかった。
忽然と消失していたのである。
二人が去ってすぐ、
「――奴か?」
と左手が訊いた。
「多分」
「多分? ――わからんのか、自分の――」
声は断ち切られるように熄んだ。
左の拳を握りしめたまま、Dは、
「今の男はどこへ行った?」
と訊いた。
返事はすぐあった。
「どなたのことでございましょう?」
「ここではコンピュータもとぼけるか」
「申し訳ございませんが、ご質問の意味を理解いたしかねます」
それきり何も言わず、Dはホールへと戻った。
そして、タキとメイを含む全員が消えているのを確認したのである。
「どこへ行った?」
訊いても返事はない。
「答えろ」
「――その命令には逆らえません。お答えいたします。ある場所へ幽閉いたしました」
惚れ惚れするほどいい声であるだけに、内容は倍も凄まじく感じられた。
「なぜだ?」
「あなたを当発着場へお留めするためでございます」
「いつまでだ?」
「永劫に」
「おれが残れば、残りを返すか?」
「お約束いたします」
「理由をきかせてもらおう」
「それは――」
女の声は宙に消えた。答えかけて翻意したのではなく、あり得ない感情による中断だった。――動揺である。
Dはホールの奥からこちらへ近づいてくる人影を認めた。
あの巨影だった。ざんばらという言葉が最もふさわしい髪の毛は、相変わらず風にゆれていた。それは、巨人の烈しい心情の抑圧からくるもののように見えた。
暗黒に塗りこめられたような唇が開いた。口腔にはやはり暗黒が詰まっていた。
Dはそこから洩れる言葉を待っているように見えた。
ごお、と風が鳴った。肺の中の酸素を巨人が吐いたのである。生まれてはじめて声を出す者のように、巨人は咳きこんだ。きしむような声が洩れたのは、それから少したってからであった。
「……でぃ……でぃい…」
Dの跳躍は、自分の名がそんな呼ばれ方をした怒りのせいとも見えた。
「待て!」
と二人以外の声が上がったとき、巨人は音もなく五メートルも後ろへ跳びながら、マントを大きくふった。
反射的にDは身を屈め、ふり下ろしたばかりの刀身を身体の前で垂直に立てた。
その周囲で壁もドアも夢のように崩壊していった。マントの起こした風はすべてを腐食させる魔風だったのだ。
当たる寸前、その風を二つに断った刀身をそのまま、巨人のマントが動きを止めた瞬間をねらって、Dは白木の針を投擲した。
巨人がそれを反対側の手で掴んだとき、跳躍したDの刀身が、今度こそ、その頭部から顎先まで断ち割っていた。
驚くべきは、その手練より、巨人の崩壊であったかもしれない。全身が歪み、ねじくれた姿は、床に倒れたときにはもう、人間の外見を失い、おびただしい物質の堆積と化していた。
「合成蛋白、人造筋肉――内臓器官もすべて造りものだ。これでよく、おまえの初太刀をかわしてのけたの」
呆れたような嗄れ声に、
「奴[#「奴」に傍点]ならば」
とDは答えた。嗄れ声の沈黙は同意の意味であり、声の主もまた、奴と呼ばれる男を|知悉《ちしつ》しているのであった。
刀身を収めてDは、
「他にもいるのか、奴は?」
と訊いた。
無言であった。
「答えろ。他の連中はどこにいる?」
その顔が白く染まった。いつわりの夜は失われていた。照明は消え、真の陽光がDの影を長く床に引いた。
「コンピュータめ、自ら回路を遮断しおったな。死人に口なしというわけじゃ」
「どこでわかる?」
「メイン・コントロール・ルームじゃろうな。地上五〇〇階の」
皮肉な物言いを無視して、Dは奥のドアへと歩きだした。
「あれは奴[#「奴」に傍点]のまがいものじゃった」
と声は臆せずつづけた。
「だが、最初に会った奴とはちがう。気をつけろ、奴は幾人[#「幾人」に傍点]もいるらしいぞ」
「なぜ、おれを狙う?」
エレベーターの前で止まったDのつぶやきに、声は呆気にとられた風に沈黙した。
「それは、おまえ――おまえが……」
ここで息をつぎ、
「しかし――そうか、考えてみれば、奴からおまえに手を出したことはないの。それも、わざわざ、奴自身の姿を取ってとは――むぎゅっ」
左手が押しつけられたのは、Dが探して蓋を開いたエレベーターの電源系統であった。
青白い火花がとび、外部からエネルギーを注入されたエレベーターのコントロール・システムは、コンピュータの指示を無視して作動を開始した。
数秒後、Dは五〇〇階で降りた。
4
光に満ちていた部屋は薄闇に沈んでいた。
ドアのところでDはぐるりを見廻し、部屋の中央に進んだ。彼にはひとめで、コントロール・ルームの構造が把握できるらしかった。
床の真ん中に直径一〇センチほどのシリンダーの頭部が埋まっていた。
「できるか?」
とDは訊いた。
「土はあるか?」
Dはコートのポケットから黒土を掴み出し、左手のひらに載せた。
みるみる吸収され、土の下から現れた小さな口が、満足げなゲップを洩らした。
「次は水じゃ、な」
Dは眼も鼻も備えた左手を持ち上げ、人指し指を右の手首にあてがって引いた。
噴き出した鮮血は、一滴残らず手の中に吸いこまれた。
「火と風はやむを得ん。――何とかなるじゃろうて」
不満げな声にみなまで言わせず、Dはシリンダーの頭部に左手を押しつけた。
二秒ほどで光が生じた。
「よし。回路を接続した。施設の見取り図を映すぞ」
白い光の中に薄い青が混じった。右方の壁である。光点と光線で描き出された図形を数秒見つめて、
「わかった。コンピュータ回路の系統図を出せ」
と命じた。
「人使いの荒い男じゃの」
声と同時に図形が変化した。コンピュータでさえ理解不能ではないかと思われるコンピュータ回路の構成図も、同じく数秒で読み取り、
「|N《ノース》の289450772と|S《サウス》のQBラインをDXII、DXX、DZ04の三箇所でつなげ」
「了解」
不意に光に明暗が生じた。
左手を床についた姿勢でDは扉の方を向いた。
黒い巨人は、明滅する光と闇に黒々と溶け、あるいは鮮明に浮かび上がった。
「コンピュータの悪戯らしいな」
こう言ったのは男爵である。
かたわらで、天を仰いでいたミスカがうなずき、メイとタキは顔を見合わせた。
馬車も馬もいる。
一同の封じこめられた場所は光の円筒の内側だった。
明るいが、決して眼を痛めぬ輝度のかがやきがゆるやかに天地を取り囲んでいる。
ホールの照明がいっせいに消え、足下がかすかにゆれたと思ったら、ここにいた。まず、男爵とミスカ、二〇分ほど遅れてタキとメイが来た。
それからさらに三〇分がすぎ、あれこれ試して、この牢獄の仕組みも大方はわかっている。
光に手を触れると、それはすうと遠ざかる。その場合、壁の一部が引っこむのではなく、全体に広がって常に真円を維持するのである。
理屈からいうと、どこまでも追っていけばスペースもそれに合わせて広がり、いつかは脱出できるはずだ。
その通り。タキがやってみると、光る壁は逃れるがごとく拡大し、しかし、タキは一〇分ほどで戻ってきた。果てがないのである。
それではと男爵が馬車に乗って走ると、これも同じだとわかった。
「我々は多次元空間に幽閉されているらしい。光る壁は三次元空間を構成し、我々が多次元空間に呑みこまれるのを防いでいる。いわば、あれは我々を妨げる壁ではなく、守るための砦なのだ」
「出られるのでしょうか?」
とミスカは尋ね、つづいて、
「一体、誰がこんなことを?」
と憎悪の光を眼に点した。その解答が先刻の男爵の言である。
「なぜそう思われますの?」
「我々以外の誰が、このような真似をする意図を持ち得ます? Dでなければ、意志を持つ存在はひとつしかありません。たとえ、機械のものであろうとも意志にはちがいない」
「では、コンピュータがその気になるまで、私たちはずっと――」
「そうなりますな」
男爵は平然とうなずき、
「しかし、救いが来るまで座して待つほど悠長な旅でもない。脱出しなければなりません」
「どうやってですの?」
男爵は天井を見上げた。降り注ぐ光に、顔は白く染まった。
「周辺は移動しても中心は変わらない。あそこへ、エネルギーを集中してみよう」
「馬車の、ですの?」
「いや。それではパワーはあるが、質が伴わない。必要なのは貴族のエネルギーです。それだけが、貴族の造ったコンピュータを屈服させることができる。ただし、そのためには――」
男爵の眼がミスカを滑り、タキとメイに焦点を合わせたとき、二人の娘は声もなく後じさった。男爵が見つめているのは、彼女たちの喉であった。
「Dよ――」
と黒い巨人は呼びかけた。斃されたものより、遥かに明晰な発音であった。
「何者だ、おまえは?」
Dは静かに訊いた。見知らぬ敵に対する口調である。
「なぜ、私を――眼醒めさせた?」
「おれが?」
Dにも意外な質問であったらしい。
「私はいつまでも、ここにいるつもりだった。だが」
「おまえは何者だ?」
「………」
「造ったものは誰だ、コンピュータか?」
「D――よ」
巨人は地を蹴った。マントが翼のように広がり、それは巨大な黒い魔鳥のごとく見えた。
Dの一刀は難なくその身体を縦に両断した。
だが、後方に舞い降りた巨人は異常も見せずにふり向き、Dの全身は赤い霧に包まれた。全身の毛穴から噴き出す鮮血であった。
ずい、と巨人は新たな跳躍のための一歩を踏み出し、Dは反転した。左手を床に置いたまま。あまりに不利な姿勢であった。
「おやめなさい」
どこからともなく、女の声が言った。
あのコンピュータの声だ。だが、あの女声ではなかった。
巨人は立ち止まり、Dすらも一瞬、停止したのである。
「その声は――」
畏怖とさえとれるDの左手の呻きであった。
「おやめ下さい、二人とも」
声がつづけたとき、Dの身体は巨人に劣らぬ|凶鳥《まがどり》のごとく飛んで、横殴りにその首を断っていた。
血飛沫は上がらず、巨体は崩れ落ち、いったん飛び上がってその残骸の上に落下した首も、乾いた粘土細工のごとく、ごそりと砕け散った。
一刀を床に立て、それに身を支えてDは起き上がった。
「何ということを……つくづく恐ろしい……」
悲痛な声がDの顔を上向かせた。
「おまえの声か?」
と尋ねる口調は、いつもの鋼だった。
女の声は、以前のものに返った。
「いいえ、あの方から伺って合成したものです」
「………」
「五千年前、あの方はここへ見えました」
とコンピュータは言った。
ほんの数時間限りの滞在であった。彼にとっても、ここは、次の大陸へ向かうための旅立ちの場所にすぎなかったのである。
だが、彼自身も恐らくは予測していなかった事態が生じた。
発着場のメイン・コンピュータが、わずか数時間の接待中に、彼を愛してしまったのだ。
「畏れ多いとは知りながら、私はあの方のすべてを知りたいと思いました。先ほどの声も、様々なことも。間違いだったかもしれません。インプットされたデータは、二度と会うこともないあの方への想いを募らせるばかりで、私はついに考えるだに恐ろしい行為に着手してしまったのです」
すなわち彼[#「彼」に傍点]の創造を。
「正確なコピーはもちろん、不可能でした。私はできる限り、あの方と同じものをつくりたかった。あなたがご覧になったあの方が二人いたのも、そのせいです」
そして、五千年の間、コンピュータは愛するものと寄り添いつづけたのだ。
そこへDが来た。
「奴は、おれが眼醒めさせたと言ったが」
「でき得る限り、私はあの方そのものを再現しようと努めました。その結果でしょう。あの方は、あなたのことも話してくれました。その通りならば、あなたの気が、私のつくったあの方と同調して覚醒を促したとしても、決して不思議ではありません。――憎しみの気が」
Dは静かに立っていた。
ややあって訊いた。光より闇がふさわしい声で。
「なぜ、おれを封じこめようとした?」
「――おわかりになりませんか?」
女の声は哀しげであった。
「あなたは、あの方に――」
声に金属的な響きが入り混じった。
「お行きなさい。早く。――あなたの仲間が脱出なさいました。方法がやや荒っぽかったようです。無方位重層空間にトンネルが生じ、幽閉エネルギーの逆流が起こりつつあります。正確にはあと五九秒で、この発着場は消滅するでしょう」
それは飛行体の使用も不可能な時間だった。
「外には、私のつくったあの方がまだいます。ですが、忘れずに。あの方を蘇らせたのは、D、あなたなのですよ」
Dは音もなくその部屋を立ち去った。
移動車でホールへ戻った。
巨影がマントをはためかせていた。崩壊の風が吹きつのっている。
彼もまた、Dが招いたのか。
「いちばん、奴に近いぞ」
と左手の声が言った。
その|力《パワー》も能力も。
Dの手に一刀が宿った。
照明が激しく点滅した。光と闇の交差がそれに変わった。発着場は破滅の時を迎えつつあった。
「Dよ――来い」
巨人が声をかけ――ふり向いた。
明暗交錯のホールに立つ青い影は、背後の馬車ともども、ずっと立っていたように見えた。
巨人が身をひねりざま、マントをひるがえした。
男爵のマントから迸る光のすじがそれに応じた。
巨人を縦に割った光はみるみる厚みを増し、黒い巨体を床に押し倒した。
「おまえも一撃で斃せなかった奴[#「奴」に傍点]を――」
左手が茫然と呻いた。
「馬車に戻れ」
Dは男爵の横にいる新しいサイボーグ馬に近づいた。
陽光の下に跳び出して全力疾走に移りながら、Dは発着場をふり返った。
ドーム状の光があらゆるものを呑みこんでかがやいた。高さ数キロと思しい巨大な天蓋は、意外に穏やかなかがやきを示しつつ、Dたちが道を曲がる寸前、忽然と消滅した。
後に何が残るのか永遠に知ることもなく、Dは|道《カーブ》を折れた。
通常の街道へ戻ってから、Dは柩の中の男爵へ、ある質問を放った。
「どうやって脱出した?」
「血を吸ってだ。あわてるな、――自分の血をな。これは契約に叶っていると思うが」
Dは無言で馬の腹を蹴った。
一気に馬車の前へ出る。御者台のタキとメイには、走り去ってしまいそうに見えた。
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第五章 火神雷神
1
昼近くまで、一行は休憩もとらずに走りつづけた。
左右に森のある光景が突然変わった。
一行を迎えたのは、見渡す限りの茫たる土と空の広がりであった。
眼を凝らす彼方に褐色の砂塵がいくつも湧き上がり、陽炎のようにはためいては消えた。暗い。陽はさしているのに、どこか暗い。
「OSB古戦場ね」
つぶやくタキの声も翳っているようだ。
御者台から見廻せば、黄土色の大地のあちこちに、鈍く光る部分を見つけるのはたやすい。それが一〇〇万度を超える高熱を浴びてガラス化した土だとは、もはや旅人の多くが知るまい。
馬車が進むにつれて、漠たる光景のあちこちに、奇怪な残存物が幻のように現れた。
崩れかけた円塔や城壁を有する構造物。山ひとつでもたやすく崩しそうな巨大なアームを持つロボット様の物体。明らかに爆発炎上したと思しい飛行体らしきもの。
うつらうつらしていたメイも、ふと開いた眼が像を結ぶや、身じろぎもせず凝視をつづけた。
その瞳の奥に、時折、紫の光が点った。天空と地上とを結ぶ稲妻であった。
「あれは――」
「OSBの地上掃討機構だ。五千年を経て、まだ生きているとみえる」
Dの声から、その歳月の茫大さを理解することは、タキにも容易だった。
OSB――アウター・スペース・ビーイング(外宇宙生命体)が侵入してきたとき、この星の覇権を握るものが貴族だったことは、人間にとって幸運だったのかもしれない。
魔法としか言いようのない超科学の対決は、大陸と海洋のいかんを問わず、この星全体を覆い、貴族勢力衰退の遠因となったとも言われる。
五千年紀後半から激しくなったOSBの攻撃は、貴族とは全く別個の科学体系に基づいていたせいで、かなりの効果を上げ、大陸のいくつかは海に沈み、太陽系内の貴族の基地は灰燼に帰した。
その後、一千年をかけて貴族の反攻が開始され、互角の状態がさらに一千年を経た時点で、OSBは銀河系内から忽然と撤退した。
「その意図不明」
と貴族の歴史書は記している。
地上には、原子戦の名残を留める廃墟や山脈の痕が残され、やがて、それらも砂と風に埋もれて、今ではこの平原をはじめとする数箇所を残すばかり。貴族の多くにさえ、その所在は未知とされる。
タキの腕の中で、少女が身震いした。
「怖い、怖いわ。あいつら襲ってこないかしら」
「大丈夫よ。みんな過去の遺物。とっくの昔に朽ち果てたものばかりよ」
タキの慰めをきいても、少女は震えつづけた。
――Dよ
男爵の声がハンターの脳に届いた。
――気をつけろ この平原は危険だ まだ生きている
「承知だ」
とDは答えた。例によって、タキにもメイにもわからない独特の会話である。
――OSBと古代貴族との戦いは、最後にはその理由さえわからなくなった 彼らが銀河系内を撤退するまで、戦いは憎悪のみによって継続された
「そして、憎悪のみが残る。永劫にな」
Dは顔を上げた。
蒼穹の高みを――大きさからして三〇〇メートルというところだろう――双発の飛行体が悠々と飛んでいた。
「見えるか[#「見えるか」に傍点]?」
Dの問いも大胆なら、
――見える
男爵の答えも不可思議なものであった。
それがヒュウを誘った魔術師の|幻機《げんき》と同じ型のものだとDは見抜いていた。
彼もDと男爵戦での傷を癒して、先廻りを決めこんだのだろう。
「あれは――ヨハン卿の」
タキも気がついた。Dの視線を追ったのである。
その視界の中を、下方から青い光が逆しまに流れた。
あっ、と声を上げる間もなく、ひと突きにされた飛行体はたちまち炎に包まれ、大きく機首を下げるや、降下を開始した。
火柱が上がったところは、街道から一キロにも満たないであろう。
タキとメイに馬車の中に入れと命じ、Dは馬首を巡らせた。
走り去る騎馬を、タキは黙然と見送った。
ヒュウの安否を気遣ったのではないだろうと思った。ヨハン卿の生死を確かめ、生きていれば止めを刺すつもりなのだ。
「怖い……」
Dが到着したのは、工場跡と思しい巨大施設の廃墟だった。
滅びて久しい。吹きつける風がそう告げた。
円柱とも角柱ともつかぬ建造物が斜めに傾ぎつつ天をさしている。高さは、Dの位置からはわからない。少なくとも一〇〇〇メートルは超しているだろう。巨柱群の谷間に落ちた飛行体は、すでに半ば燃え尽きていた。
馬上からDは四方を見渡した。
風の他には音もない。
Dは眼を閉じた。後は気配を感じるしかない。
左手奥で動いた。
一本の円柱の根元に楕円形の口が開いていた。
高さは五〇メートルもある。内側には闇が積もっていた。
そこから五メートルほどの地点まで黒い斑点が散っている。乗組員は途中まで出血をこらえたのだ。言うまでもない。追撃を恐れて。
Dは暗黒の中へ馬を乗り入れた。
どのような狂った精神が造り出した悪夢なのか。
それはメカニズムには違いなかったが、同時に、一個の死した生命体であった。生体としての器官とメカニズムとの完璧な融合――こうして、貴族は天からの敵に挑んだのだ。自身の不死とメカニズムの強さとを備えた超生命体として。
Dの前方――五〇〇メートルほどの彼方を横切る透明の管が人間の血管だなどと誰が信じるだろう。太さ一メートルもの管を数十本もより合わせたそれは、遠い過去に役目を果たしながら、埃以外は傷ひとつついていない。
管は真横に五〇〇メートルほど走って、突如、硬質のパイプと化す。その、つなぎ目もないつなぎ目こそ、貴族の科学の秘密だった。
一説によれば、彼らの実験場には、ダイヤモンドの分子と融合された白血球を体内に持つ人間もいたらしい。
そんな気も遠くなるようなメカニズムに、Dは一瞥も与えなかった。求めるものは、砂塵にまみれた床につづく血痕であった。
それは五〇〇メートルほど前方のメカニズムの間にDを導いた。
量子変換機構と思しい山のようなメカニズムの前に、ヨハン卿は倒れていた。
衣裳もその下の肌も焼け焦げ、凄惨としかいうしかない姿だが、それに加えて右腕は肩からちぎれ、左の膝は八〇度近くひん曲がっている。確実な死が、死蝋色した顔に翼を広げていた。
近づくDを見て、
「来よった……か」
と呻いた。まさか、という驚きと、やっぱり、という諦観がないまぜの声であった。
「わしは……もう死ぬ……Dよ……死が鼻の先に迫った年寄りを……斬りはすまいな?」
サイボーグ馬が足を止めた。老人の鼻の先であった。
馬上から無残な年寄りを見下ろすDの、何という冷厳さ、何という美しさ。
恥も外聞もなく生命乞いをするヨハン卿の瞳さえ、恍惚に溶けた。
手綱を握ったまま下りようともせず、
「ヒュウはどこだ?」
とDは尋ねた。
「あ……あの飛行体の……内部じゃ、可哀相に……焼け死んでしまったじゃろう」
白光が一閃した刹那、ヨハン卿の左耳は床に落ちていた。
すでに死を覚悟したものへの、何という残忍さ。
「次は右の耳、つづいて左の腕」
そもそも、ヨハン卿の言葉が正しいかもしれないではないか。これは根拠のない脅迫だ。最も残忍冷酷な脅しだった。
「……おまえたちを追う……賞金稼ぎのひとりと……後から尾いてくる……わしは早手回しに先行した……それがこのざまじゃ……頼む……斬らんでくれ」
「その賞金稼ぎの名と術は?」
「……確か……フシアと。術は……不死身だと……」
物をも言わず、Dは老魔術師の頭部を顎まで斬ってのけた。
脳漿を撒き散らして倒れる身体をふり向こうともせず、戸口を抜けた。
新たな死と荒廃が内部を支配し、不可思議なメカニズムは再び、沈黙に身を委ねた。
――――
それから数十分を過ぎて――
かすかな音がきこえた。
もし、機械に人間の行動を当てはめれば、長い眠りから醒めたとき洩らす欠伸のような。
つづいて、もうひとつ。
そして――ああ、死んだはずのメカニズムにライトが点っている。あの血管が震えている。嬉々として。その内側をちょろちょろと流れている朱色の液体は? あれは血か!?
天井は見えない。一〇〇〇メートルを超す塔は吹き抜けなのかもしれぬ。そのどこかから、青い稲妻が天と地をつないだ。
地にはヨハン卿の死体がある。
光に貫かれた身体が小さく痙攣した。死後さしたる時間を経ていない死体にはありがちの現象だ。
だが、どこからともなくのびてきた銀色のコードの群れが、電極とも針ともつかぬ先端を、老人の全身に打ちこむにいたって、事態は死の遊戯ではなくなった。
いまや、巨大な血管の中を鮮血はごおごおと流れ、あらゆるメカが生命を取り戻した。
隙間なくヨハン卿の身体を刺し貫いたコードは数千本に達し、卿の姿はうねくる金の蛇の中に埋没した。
何が起ころうとしているのか。コードを動かしているのは何なのか。メカを復活させたものは誰か?
何ものかが生きているのか、この廃滅の地に。
さらに三時間が過ぎた。
どこかで、電磁波の回路が特殊な切り替えを行った。人間の声にしたら――
――完了
死は唐突であった。
光、電磁波、血流、脈動――あらゆる動きが慣性を無視して同時にそして瞬時に停止する。
再び死の沈黙が空間を埋めた。
薄闇のただ中で、ふらふらと立ち上がったものがある。
息絶えたコードの群れだ。
その中心に嵐が生じた。
数千本のコードは一撃で払い落とされていた。
その中心に仁王立ちになったのは、人型の黒い鋼だ。
もとの人物そのまま、痩せこけ、焼け焦げ、手も足も抜け落ち、ひん曲がっているが、そのお粗末な筋肉、二の腕に浮き出た血管、どじょう髭――すべて鋼だ。黒光りしている。
そしてその顔は――まぎれもなく、頭を割られたヨハン卿!
――どうした?
男爵の問いに、Dは馬上で、
「ミスをしたかもしれん」
と言った。それから、
「なぜ、わかる?」
――君の精神を読んだわけではない 何となく、だ ヨハン卿のことか?
「あの廃墟はまるで生きていると言ったな。憎悪のせいで」
――その通りだ 機械に憎しみや怒りは抱けん だが、生物機械なら別だ
Dは黙って馬を進めた。
――だが、あの廃墟の最後のメカニズムとでもいうべきものが、実は作動せずじまいだったことを知っているか?
「いや」
――貴族たちは、実はOSBとの戦いに勝利していた OSBが突如引き揚げたのは、その兵器を使用した際のダメージを考えたからだという説がある そのメカを作動させることができるのは、ご神祖の血を引く数名だったとか
「それだけでよかったな」
横合いから吹きつけてきた風が、美貌にはね返った。
低い地鳴りが平原を渡ってきたのはそのときだ。
Dが馬首を巡らせ、ミスカの馬車へと走った。
窓から覗きこむ瞳に、ゆれ動く柩が映った。
ミスカが出ようとしているのか!? それとも!?
いずれにしろ、異変には違いなかった。男爵と異なり、昼間は眠りつづける女である。
「どうした?」
と訊いてみた。
――わからん 話しかけているのだが、狂乱状態だ 何か危険な兆しを感じたのにちがいない
貴族の昼間の眠りを妨げるものを。
また、地面が揺れた。Dが訊いた。
「反応しているのは、ミスカだと思うか?」
沈黙が降りた。
ややあって、
――いや、彼女の内部のものだ 昨夜戻ってきてから、様子がおかしいと思ってはいたが 我々と一緒のときも眼醒めなかったものが、今、動き出した、か――“破壊者”が
「制御できるか、あの女に?」
男爵は再び沈黙した。問いの答えがわからなかったのではない。Dの心理がであった。
――わからん
「もし、制御できなければ、いま、処分した方が得策だ。この廃墟から出現するものも貴族の創造物だとすれば、“破壊者”と手を結ぶ場合もある」
敵が二倍になる。それも、究極の敵が。
平原の彼方が青くかがやいた。施設のあるところだ。光は消えず、途方もなく広大な青い天蓋と化してどこまでも広がっていった。
「ひとつ、やられた。――はじまったぞ」
言うなり、Dは馬の尻を叩いた。
動物の勘ですでに察していたか、サイボーグ馬は即座に全力疾走に移る。
併走しつつ、Dは後方へ眼をやった。
道の奥から光る球体が二個、こちらへ向かってくる。
空気がみるみる電離していく。プラズマ光球だった。
Dは先頭のサイボーグ馬の手綱を掴むや、大きく右へひねった。
狂走する馬群は右に外れて平原へ入る。ミスカの馬にも後を追わせたとき、ひとつの球体は路上に吸いこまれた。
地の底から光が噴きこぼれたように見えた。
直径五〇メートルほどにわたって大地が陥没していく。
Dは御者台に跳び移った。両眼が凄絶な光を帯び、それが乗り移ったかのように馬たちの速度もたちまち限界を超えた。
「怖い」
馬車の中でメイが唇を噛んだ。
「大丈夫よ」
としかタキには言えなかった。いや、もうひとり。
「大丈夫だ」
澄んだ声とともに、柩の蓋が開くのを二人は見た。
まさか、純粋な貴族が昼間、外へ!?
「子供を見てやれ」
タキが目撃したのは、天井へと吸いこまれる青い影だけであった。
「ミスカの馬車へ移るぞ」
こう告げて、男爵は屋根から後方の馬車へと身を躍らせた。
何たる無謀さか。手も顔も青い長手袋で覆ってはいるものの、陽光の中に身をさらすだけで、貴族には灼熱の苦痛が伴う。衣類の下の肉体はすでに溶けはじめているはずだ。
迫り来るもうひとつの光球の方を見もせずに、男爵はマントの内側に携えていた金色の円筒を後ろへ投擲した。
大地が青く染まった。
光の輪が馬車の後部に迫る。
見えない壁がこれを遮った。光が跳ね返り、押し寄せ、ようやくパワー・フィールドを突破したとき、二台の馬車は砂塵の彼方の染みにしか見えなかった。
2
前方に影のような廃墟が滲んでいた。
Dは馬車を真っすぐそこへ向けた。
途方もなく広いが、高さは一〇メートルにも満たない。平面に広がるメカニズムのための設備なのだろう。
内部は天井も床もクリスタルのかがやきを放っていた。あちこちに開いた破損孔が、むしろアクセントのように見える。
御者台から降りて、
「柩へ戻れ」
とDは男爵に声をかけた。
「そうもいかん。今度ばかりは二人の方がいいだろう」
これも馬車から跳び下りて、男爵はよろめいた。
その首すじにDの手刀が走った。
固い音がそれを跳ね返した。男爵が難なく片手を上げて受けたのである。
「余計な気遣いは無用にしたまえ」
と彼は言った。
「どうしてもとなれば、自分で柩へ戻る。雇い人は分をわきまえたまえ」
「では、ここを守れ」
正反対の台詞をDは口にした。恐るべき柔軟さであった。
「君はどうする?」
「上だ」
とDは言った。この建物に上はない。しかし、Dの視線は、確かに空中に向いている。
男爵が円筒を馬車の周りに距離を置いて並べはじめた。
動きから敏捷さは消えていた。
馬車を降りたタキが、口もとを押さえて驚きの声を上げた。男爵の身体は白い霧に包まれているように見えた。袖口や襟元からこぼれる白煙であった。
「馬車に入っておれ」
ふり向いて命じる男爵へ、
「でも、あなたは身体が……」
「まだ、保つ。敵が来るぞ。――Dよ」
身をよじった男爵の前に、吸血鬼ハンターの姿はなかった。
どこへ、とも訊かずに出入口の方へ向き直った男爵の顔面を突風が叩いた。
青いマントが翻り、髪の毛もなびいた。タキが地に伏せる。
室内へ入ってきたものは、光る球に包まれた黒鉄の人像であった。
その顔にヨハン卿の面影を見つけ出すのはたやすかった。球体の内側には虹色の光の帯が渦巻いている。
そのひとすじが男爵を直撃した。数十センチ手前で跳ね返り、目標を天井に変える。
音もなく、直径一〇メートルほどの大穴が開いた。塵ひとつ出ない。素粒子レベルまで分解してしまったのだ。
足下の円筒を、男爵は卿の方へ転がした。
円筒の先から緑色の光点が卿の額へ走った。眉間に付着した途端、全身に毛穴のようにおびただしい光点が灯る。
卿の鋼の顔がにっと笑った。
瞬きする間もなく、光点は消失した。眉間と心臓のあたりにひとつずつ残り、胸の光が消えると、眉間の分も所在なげにおろおろと体表をふらつきはじめる。
円筒はいわゆる急所センサーであった。光点状の|走査《センシング》機構が、対象物の表面を移動しながら弱点と急所とを探り、本体の攻撃部位に連絡する。
だが、今回の敵には、急所はおろか弱点さえも見つからなかった。走査機構からの連絡なしに応じ、本体のコンピュータは自由攻撃モードを選択、インプットされた人型生体のうち、最も急所の可能性の高い部位へ走査機構を移動し、亜空間伝導路をつないだ。
一気に光速粒子ビームを通す。
ヨハン卿の眉間に生じた緑の点が、眼もくらむかがやきを帯びた。
ヨハン卿の笑みが広がった。
光点は急速に色褪せ、すぼみ、ふっと消えた。黒い光沢を放つ額には傷ひとつつかない。
タキを背に庇いつつ、男爵は後退した。
悲鳴を背中にきいた。
馬車の方を向いたタキの眼の前に白い女が立っていた。
陽光の下でもミスカの青白い肌には何の変化もなく、ただ、両眼だけが鈍い金色であった。
Dは言った。
我々は太古の貴族が創造した脅威を二つ、敵に廻さなければならないかもしれないと。
ミスカの口が開いた。|空洞《うろ》のような口腔から洩れる吐息は、地獄の冷気を思わせた。
Dの姿はなく、いかにバラージュ男爵といえど、火神雷神ともいうべきこの二人を相手取って、勝てる見込みがあるとは思えない。
それでもタキを背中に庇った男爵の|双眸《そうぼう》は、見るものがはっとするほど冷やかに澄んでいた。
卿を包んだ球体の上部が虹色にかがやいた。
光の帯はミスカに吸いこまれた。胸を貫かれてのけぞりながら、ミスカは口を開いた。
ごぼ、と音をたてて半透明の球が噴出する。それは巨大な水泡であった。
恐怖の色がヨハン卿の黒い顔いっぱいに広がると、虹色の帯が水泡を貫いた。凄まじい蒸気を噴き上げつつ、それはスピードをゆるめず卿の全身を包んだ。
ヨハン卿が何か叫んだ。それは人間の言葉ではなかった。
「OSBか」
男爵は真相を悟った。
ヨハン卿の改造を図ったのは、太古の貴族ではなかったのだ。OSBによる対貴族用戦士製造メカ。それがあの廃墟に残存していたのは、貴族たちがOSBから捕獲した品だったのであろう。
Dは言った。憎悪のみが永劫に残る、と。
メカニズムに残されたOSBの憎悪は、ヨハン卿をして彼らの一員に変えてしまったのだ。
だが、その憎悪の気は、貴族の創造した究極の殺戮兵器――“破壊者”の精神にも感応した。
二人の奇怪な戦いを見て、男爵が、
「やはり」
と洩らしたのは、その意味であった。
水泡の中で、ヨハン卿を守っていた球体は、あっけなく溶解し、卿を水中にさらした。
彼が脅えたのは、水そのものであった。OSBの概念には流体が含まれていなかったのである。彼らの種族にとって致命的なのは、たやすく精神の均衡を脅かす「未知への恐怖」であった。かなりの長期にわたり、貴族側が一方的な優位を維持していられたのは、このうちの幾つかを探り当てたためである。
ヨハン卿は発狂した。
彼を取り巻く虹の帯が水泡の中を乱舞し、次第に褪せていく。
それが光った。
じゅん! と灼熱の鉄板に水滴を落としたような響きを上げて、水の塊は消失していた。
ミスカと男爵をねめつける卿の瞳は白く反転し、全身がわなないた。身体中の体毛が逆立ち、筋肉と血管がふくれ上がる。
大きく上体をそらせて戻りざま、彼は痰を吐いた。目標は男爵であった。身をかわした青いマントの頭上を痰は過ぎ、ミスカの足下に落ちた。
マントで顔を覆って男爵は倒れた。光がその姿を白く変えた。
ミスカも両手を顔の前に上げている。
これこそがOSBの必殺兵器だった。
痰が床から生じさせたものは、まぎれもない太陽の光だったのである。
吸血鬼たる貴族は、たとえば人工太陽の下では自在に動き廻る。彼らが恐れるのは自然光だけなのだ。なら、他天体で太陽光を浴びたらどうなるか? たとえば月面では? ――これも平然たるものだ。
そこに心理的、ないし霊的なものが作用するのかどうかは、今なお不明である。貴族の科学力をもってしても、地球上で陽光を浴びたときにのみ塵と化す謎は解かれていない。
OSBの規格外系統の科学は、その謎を解き明かした。
彼らはほぼ、人工の自然光を作り出したのである。地に落ちた痰が太陽を生む。
ついに男爵は倒れ、ミスカも膝をついた。彼らを照らす光は、なおも燦然とかがやきつづけている。
「はっはっはっはっは……」
いきなり老人が爆笑しはじめた。意志なき狂気の笑いだ。だが、男爵とミスカの姿を見れば、勝利に狂う哄笑ときこえぬこともない。虹色の光が遠い壁を貫き、ゼロと化さしめた。
OSB――古代の貴族を苦しめつづけた地球外生物が生み出した超戦士は、いま、狂奔を開始したのである。それは、この廃墟を、いや、この星すべてを破壊し尽くすまで終わらないのではなかろうか。
すうと陽が翳った。
床面の太陽が色を失ったのだ。あまつさえ、破損孔からさし込む光はそのままなのに、この空間だけを徐々に暗黒が覆いはじめたではないか。
四方を見廻すヨハン卿の頭上に、さらに濃い闇が広がった。――と思うや、それは世にも美しい若者の姿となって、ヨハン卿の鋼の頭部を縦に割っていたのである。
それでも、卿は右手を上げた。その肩から生じた虹の帯が、右腕に巻きつくように旋回しつつDを襲う。
白光がその胴を二つにした。
光は反転し、ゆっくりと下半身から分離した上半分をもうひと舐めした。首が跳んだ。
最初に卿の頭を二つにした刀身を鞘に収めて、ほとんどしゃがみこんだ姿勢からDが立ち上がったとき、男爵も立った。ミスカだけが膝立ちから崩れ落ちる。
「遅かったな」
と言ったのは闇の中である。頭上の銀盆のようなかがやきは、食い止められた陽光であろう。
Dは無言で頭上をふり仰いだ。
「ひょっとしたら、ここは全施設のコントロール・ルームか」
と男爵が訊いた。
「そうなるな」
この階からは眼に見えないスペースに制御システムが置かれているのか。Dはそこへ入り、創り出したのか。
闇を。
「OSBの対貴族戦秘密兵器は、人工の自然光だった。|古《いにしえ》の貴族もこれに対抗して自然の闇を創り出していたわけか」
「その通りだ」
「だが、それが実戦に使われたという記録はない」
「封じられたのだ」
とDは何事もなかったように言った。
「誰にだ?」
「恐らくおまえたちの崇め奉っているものに」
「……ご神祖が――なぜ!?」
愕然とする若き貴族を前に、Dは虚空を仰いだ。
闇は光の中に満ち、光は闇のあちこちに水中へ投じた絵の具のように滲んでいた。
「この勝負――どちらが勝った? 闇か光か?」
Dの問いを男爵は遠くきいた。
ややあって――
「先に出ろ。おれはこの闇を始末してから行く」
とDは言った。
「始末?」
「わからんか。広がりつつあるのだ。一年もしないうちに、この星は人工の闇に包まれてしまう。いや、放っておけば全宇宙が」
「そうか。それでご神祖が……あのお方は闇の支配を厭われたのだったか」
Dの気配が遠ざかった。
「君は何者だ?」
男爵の声に答えるものはない。
「ご神祖の封じた暗黒を生じさせ、いままた始末するという。それは、ご神祖の血の成せる業か。Dよ――君は何者だ?」
十数分後、街道を走り出した二台の馬車の背後で、水晶のコントロール・センターは陽炎のようにかすんで消滅した。
馬車の中に二人、並んで歩む騎馬の若者をこれまでとは別の――恐怖と戦慄の眼差しでしか見られなくなったタキとメイがいた。
男爵の問いをきいたのであった。
3
Dたちが大平原の終わりにさしかかった頃――夕暮れの青が空気を染めはじめた渓谷の岩上に、ひとりの男がつくねんと腰を下ろしていた。
シャバラ渓谷。すでにDと男爵の手にかかって三人の仲間を失った生き残り組のひとり――紅はこべであった。
生命知らずでなければつとまりっこない修羅場を、数限りなく乗り切ってきたこの男が、今は子供のような焦りと恐怖の相を浮かべて隠そうともしない。
頭上には絶壁が天蓋のようにそびえて蒼空を隠し、足下からは滔々と流れる水の音が絶え間ない。見下ろせば、一〇〇メートルも下方を流れる幅広い谷川の、砕ける水の白さまで確認できるだろう。
崖の中腹にある五〇坪ほどのでっ張りこそ、かつて、彼らの依頼人の声を吹きこんだ|MD《ミニ・ディスク》が、「おもしろい道具」が用意してあると告げた場所であった。
いつもの彼なら、勇躍してそれを探しただろう。仲間が全員死に絶えても、これで取り分が多くなるとうそぶいたにちがいない。
だが、怖い。
死ぬことが、ではない。この仕事を選んだときから生命など捨てている。
それなのに怖いのだ。
森の中でミスカという白いドレスの女を襲ったマリオはそのまま帰らず、フシアも消息を絶った。僧形のヨプツもまた、自分から姿を消して以来、消息は杳としてわからない。
もちろん、仲間の死など彼にとっては幸運の兆しだ。だからこそ、単身、ここへ駆けつけたとき、|精神《こころ》は躍っていた。
それが、いくら周囲を探しても「道具」とやらは見つからず、そのうちに何やら不安の気が体内で頭をもたげてきた。
一時間ほどの捜索をあきらめたのが一〇分前、ひと休みのつもりが、疲れは取れたものの、|惻々《そくそく》たる恐怖の侵寇が身を包み、何をする意欲もなくなってしまった。
谷の空気は地上より早く冷える。水音は不思議な安堵と眠りを誘う。
ふと、死にたくなった。
理由もなく、ここから跳び下りれば死ねる、と思った。
ふらふらと立ち上がり、崖っぷちへ出た。
何のためらいもなく、空中へ一歩を。
その首すじをぐい、と掴んだものがある。あっという間に、凶暴無比のハンターは、ぶざまな格好で大地に転がっていた。
「――おまえは!?」
彼を見下ろす老人は、依頼者の代理人として、一堂に会した彼らに仕事の内容と報酬等を伝えた人物であった。
「予想はしておったが、まだ仲間割れは早いぞ。そっちも出て来るがいい」
と老人は背後の岩へ向かって言った。
幾つも奇岩が積み重なったその陰から、少し間をおいて、僧形の人影が現れたのである。
紅はこべは事情を察した。
「ヨプツ――てめえ!!」
狂気の形相で立ち上がるのを老人は制して、
「おまえたち二人だけじゃな」
と言った。
「ほう、あとの連中はみんな――」
紅はこべの声に、老人は首をふった。
「自分の意志で来ないものも一名おる。では、道具を用意しよう」
「用意しようたって、どこにもありゃしねえぜ。さんざっぱら探したんだ。あいつはどうやら、それを盗み見していたようだが」
紅はこべの捜索が不首尾に終わった以上、用無しと見て、ヨプツは虚無の精神状態へ落とす術をかけたのか。哲学者のような老人の顔からは、何の感情の色もうかがえなかった。
「来るべき人数が揃うまでは現れん。そういう仕掛けだ」
老人は顎をしゃくった。
出っ張りの中央部へである。
まさか、こんな出現の仕方があり得るとは。
上空から落ちてきたのは、さして大きくもない木の|函《はこ》であった。
地面にぶつかるや、それは粉々に砕けた。
老人以外の二人が跳びのいて破片をよけたほどだから、かなりの高みから投じたものだろう。
紅はこべもヨプツも頭上へ眼をやったが、崖の上には誰も見えなかった。
「じきに奴らはこの溪谷へ入る。それを使って始末せよ」
老人は宣言するように言った。彼を見る二人のハンターの眼は、親愛に満ちたものとはいえなかった。
「何だ、こいつは?」
と紅はこべは函の中身へ視線を注いだ。
「わけがわからん。能書きはついとるんだろうな」
「そのようなもの、必要となれば、それ自身が与えてくれるだろう。戦え、男爵を滅ぼす。そのためのおまえたちだろう」
言い終えると同時に消えた老人など無視して、二人は顔を見合わせた。
理解しがたいものを見た、不可解そのものの表情であった。
渓谷へ入る前に、Dは馬車を止めた。
「どうした?」
と男爵が訊いた。すでに闇は濃く、男爵の姿は御者台にあった。
「待ち伏せにはもってこいの場所だ。というより、ここを抜ければ、クラウハウゼンの村まで五〇キロもない。敵にとっては最後の防衛地点といえるだろう。――来るぞ」
「わかっている」
「ここで待て。おれが敵の様子を探りに行ってくる」
「わかった。頼むぞ」
この辺は|阿吽《あうん》の呼吸である。
天を突くばかりの崖が左右を塞ぐ隘路へ、Dはサイボーグ馬を乗り入れた。
Dの進む路のかたわらを幅広い川が流れている。水は澄んでいるが、黒々と深い。
その真ん中に、ぽっかりと人の頭が浮かぶや、全身から水を滴らせて、ぬう[#「ぬう」に傍点]と立ち上がった屈強な人影は、まさしく闇水軍の将ガリル。そしてその周囲に滔々と流れる水をものとせずに、無数の瘤のごとく浮き上がった顔顔顔は、言うまでもなくその配下だ。彼らもここでDたちを待ち伏せしていたとみえる。
仁王立ちになった足の底は水面に触れているのに、水は白く砕けず、ガリルは身じろぎもせず、
「これ以上の失策は、ヴラド様もお赦しになるまい。我らにとっても正念場。準備はできておる。――Dよ、男爵よ。今度の敵は少々手強いぞ」
そして彼は溶けるがごとく水に同化した。
水流をひとつのネットワークとして考えれば、それを伝わる水は、ほぼ同時に、あらゆる情報を共有できることになる。
ガリルはすでにDを追い抜き、迎撃の準備を整えているにちがいない。加えて、紅はこべ、妖僧ヨプツも、奇怪な武器を擁して一行を待ち受ける。どう戦いどう守る、Dよ、男爵よ。
渓谷を一望するためには、少なくとも二〇〇〇メートルの高度まで達しなければならない。
その高空に、長さ五〇センチほどの楕円形の筒が浮いていた。薄い四枚の羽根で空気流を巧みに操りながら姿勢を維持しつつ、底部に装着したマクロ・アイで渓谷全体の俯瞰、ピンポイントの超接写を同時に行う――いわば三次元高機動カメラとでも称すべきメカニズムであった。
その送る像を薄い紗幕のようなモニターで観ながら、
「おかしな奴らが出てきたな」
と紅はこべは眉宇を寄せた。
「だが、誰であろうと邪魔者は片づける。Dや男爵の前に、まず、奴らから始末してやるか」
「それもよかろう」
とヨプツが皺深い唇を、痙攣のごとく震わせた。
「そちらはおまえにまかせる。これだけの道具が揃ったのだ。子供でもやれる仕事であろう」
「何だと」
紅はこべの凄みを利かせた声も耳に入らなかったごとく、
「耳を貸せ。わしにも考えがある。この前の村で、二つにされたとき思いついた。――こうだ」
自分から口を寄せ、少しの間、何ごとかささやくと、
「面白い」
と紅はこべは一も二もなく賛同した。むしろ不仲の彼らを、瞬く間に結びつけたヨプツの奇策とは?
川に沿って二キロ走ると、前方の崖に、おかしな品が垂れ下がっているのが眼に入った。錆だらけの鉄の鎖である。太さは一〇センチ、各々の輪の直径は一メートルもある。その果ては崖の頂き同様、下からは見えなかった。
一番下の鉄環を掴むのは、馬上のDにとってさしたる難儀ではなかった。少し上向けに上げた手は、やすやすとそれに届き、次の瞬間、彼は空中に舞っていた。
音もなくぴしりと降り立ったのは、垂直に近い崖の壁面である。彼は壁面に対して垂直に、流れる水と平行に立っていた。
何をしようというのか。
両手で鎖の環を掴み、ぐいとしならせた。音波の波形のごときたわみが生じた。それはDの身長を遥かに凌ぐ小山のように盛り上がって崖を打つや、凄まじい勢いで駆け昇っていった。
その鎖は何なのか? Dは何をしようというのか。
ほどなく、遥か上空から雷鳴に似た鈍い轟きが降ってきた。
一種の亜音波は、雨のように地表へ、水面へ、岩上へと降りそそぎ、ガスのように岩と岩との隙間や洞窟の内部へ忍び入った。
その間、Dは鎖を左手[#「左手」に傍点]に握ったまま動かなかった。
この渓谷に生きるあらゆる生命体に接触した音波は跳ね返り、いわば音波探知機のようなその鎖めがけて戻ってくるのだった。
空気分子と同じサイズの浮遊虫の呼吸音をDは聴いた。渓谷いっぱいに横たわる巨大な甲殼生物の息吹も、七色の蝶の羽音も、薄紫色をした可憐な毒茸のささやきも鼓膜に届いた。
そして――
「大物は二人とひとり――ひとりの方は子分を連れておる。ざっと三〇人」
指摘はDの左手がした。
「恐らくはハンターどもの生き残りが二人と、闇水軍のガリルとその配下ども。わしの見るところ、こ奴ら、決して仲間ではあるまい。さて、どちらがどう出るか愉しみじゃが」
Dは無言で左手を背に廻した。
「こら、何をする!?」
あわてたような声を出した刹那、左手は手首から切断され、それこそ、あわてて鎖の環にしがみついた。
「何をする!?」
「我慢しろ」
右手の刀身はすでに鞘に収めてある。Dはコートの内ポケットから何やらもじゃもじゃした黒糸の塊みたいな品を取り出すと、その片端をつまんだ。鋭い鉤針であった。
「やめんか、こら」
なおも抵抗の叫びを上げる左手の切断面に、針は容赦なくさしこまれた。
4
Dと男爵とのコンビが、単なる|護衛《ボディガード》とその雇い主の関係と異なるのは、どちらも実力伯仲――守られる側が守る側なみの強さを誇っていることであろう。
そのために、必ずしも男爵に密着している必要のない護衛は、自在に雇い主から離れて敵を求め、殲滅することができる。攻撃とは最大の防御ということわざが、彼ほどあてはまる護衛も世にいまい。
天空よりの鎖から離脱すると、Dはさらに二〇〇メートルほど離れたところにある急な石段に馬を乗り入れた。
遠い時代の誰かが作ったらしい石の段を、サイボーグ馬は二〇分ほどで一万段昇り切った。
山腹を削り取ったような広場に出た。
これを発見した最初の人間の探検家は、その凄愴さに打たれて三日三晩動けず、ついにミイラ化したというが、|故《ゆえ》ないことではあるまい。
削り取られた山腹の奥には、全高一〇〇メートルにも達する石像が百体以上も彫刻されていたのである。
太古の鑿をふるった|石工《いしく》は、神を彫るつもりだったのか、それとも――
あるものは地上を睥睨し、あるものは高みをにらみ、その手は掴みかからんばかりに指を曲げ、あるいは拳をあるいは手刀を作っている。
その風貌の恐ろしさ。みなぎる迫力は善悪を超越して、見るものの意志力を奪い去り、もぎ取らずにはおかない。
いちばん手前の像の足下に、Dは紅はこべの姿を見ることができた。
「よく来たな、Dよ」
と、凶暴この上ないハンターは、眼をしばたたかせながら言った。凄みを利かせても、Dの美貌の前には、脆くも崩れてしまいそうなのだ。気力をふりしぼって言った。
「だが、気づかれずにここへ来られたとは思うなよ。おれは天空の眼を持っておる」
Dの眼がわずかに上向いたのに、紅はこべは満足した。
「貴族のおもちゃか」
とDはつぶやいて、
「もうひとりはどこへ行った?」
紅はこべは動揺した。
「なぜ、ヨプツのことを知っている? まあ、いい。おまえにはおもちゃ相手が適当だ。ここまで来たことで満足して死ぬがいい。じき、あの男爵もあの女も逝くだろう」
彼は、脇におかしな品を抱えていた。
得体の知れぬ模様を刻んだ羊皮紙を丸めたものである。
何枚もあるうちの一枚を彼は右手で引き出し、顔の前でふった。
ぱん、と音がして、丸められた皮は掛け軸のように広がった。
表面に葉脈のような筋が走っている。
その一本が突然、青くかがやいた。
同時に、最前衛の石像がぐっと胸をそびやかしたのである。
石の上腕筋がふくれ上がり、腹筋がせり上がる。それがしなやかさを備えているのは、どんな技術が駆使されたものか。
ずずん、と大地がゆれた。
石像が一歩を踏み出したのである。
その足下へ、黒い影が蹄鉄の音と化して走った。
まさか、いきなりとは思っていなかったのか。
「うおお」
と叫んで跳び上がった紅はこべには遠いと思ったのか、それとも、|最初《はな》からそちらが狙いだったのか、横殴りに走ったDの一刀が、かっと石を断つ音がした。
石像がよろめいた。一〇〇メートルの石の像が。Dの一撃は、その足首を割っていたのである。
ちょうど、そこに全体重がかかる体勢であった。
両手で空を掴みつつ、巨像は物理の法則に従った。大地にのめる身体の下を、Dは一気に走り抜けて紅はこべへ迫った。
「わわ、来るな」
叫んでふりかざした羊皮紙の表面に別の光が点った。
Dが空中へ躍った刹那、サイボーグ馬の背から腹にかけて、長大としかいえぬ物体が抜けた。
大地へ突き刺さったのは、長さ四〇メートルにも達する石の矢であった。太さは一メートルを超す。その大きさと速度の生み出すパワーに、サイボーグ馬は瞬時に分解してしまった。
山腹の奥で、石像のひとつが二本目の矢を弓につがえた。
その足下へ、Dは空中で銀色の円筒を投げた。
|紅玉《ルビー》のような光が噴き上げ、石像の下半身を包んだ。男爵から借り受けておいたシュタイン原子弾だった。
石像の足首も膝も腿も、真紅の炎の中に塑像のごとく崩壊し、弓と矢を手にした上半身も呑みこまれた。
その炎の一片が空中のDと地上の紅はこべの中間地点へ落ちた。
炎塊の中にDは着地し、しかし、次の瞬間、紅はこべの絶叫が噴き上げた。
灼熱の炎に身をひたしながら、Dの刀身はハンターの右腕を肘から断っていたのである。
もうひと太刀加えれば、追跡者の数は確実に減っていたであろう。
だが、このとき、Dの耳に嗄れた声がこう告げたのである。
「馬車を止めてある方へ、気配が近づいておる。手強いぞ」
わずかに集中力を減じた刀身の軌跡から、紅はこべは間一髪跳びすさっていた。
追わずにDは反転した。“手強い”のひと言がそうさせたのである。
まっしぐらに崖っぷちに駆け寄る。馬がないいま、階段を駆け降りる時間も惜しい。だが、まさか――五〇〇メートル近い高みから空中へ身を躍らせるとは。
下方には、糸のような川が流れている。その水面へ、コートの裾を翻した黒い影は、魔鳥のように落下していった。
男爵はミスカを見舞っていた。彼女の柩は形を変えて瀟洒なベッドに変わり、その上に横たわった白いドレスの美女は、まだ虚空から眼を離さずにいた。
内包した“破壊者”の存在は、表面へ出現した途端、ミスカの自我を徹底的に潜在意識下へ押しこめた。そのショックが尾を引いているのだった。
慰めの言葉も出ずに背を向けた男爵へ、
「私は――何なのでしょうか?」
とミスカが呼びかけた。
「今はわかります。私の体内に、いいえ、精神の内部でしょうか、“破壊者”と呼ばれる存在がいることを」
「それは――」
「そいつ[#「そいつ」に傍点]はいつまた、私の身体を奪うのか、私には止めようがありません。そいつは世界のすべてに対して破壊の鉄槌をふるうでしょう。あなたにさえも」
「方法はある」
男爵の答えは、ミスカの愁眉を開いた。
「本当でございますか!?」
「クラウハウゼンの村に、辺境統制官お抱えの医師がおる。ジャン・ドゥという名前だ。彼なら治せるだろう」
「………」
「ご神祖から直接、魔法手術の手ほどきを受けた男だ。そして、母から私を取り上げた」
「男爵さまを?」
はじめて見る男爵の悲劇的な表情であった。ミスカは胸を打たれた。
その頬にたくましい手が触れた。
「私はもはや、貴族ではないのかもしれぬ。それがどういう意味を持つのかはわからぬが」
「それを知るためにクラウハウゼンへ?」
「夜が更けてゆく。元気になられたら、少し外へ出るがよかろう、谷間にも月光と生命が溢れておる」
言いおいて、男爵は馬車を降りた。
頭上に月光が光っている。
ミスカを見つめたのと裏腹の鋭い眼差しを、谷間の奥へ投げた。ここにいても、貴族の超感覚は、あの鎖の立てる音を聴き取っていたのである。
彼だけはDの死闘を知っているのだった。
静けさにふさわしからぬ匂いが、その鼻を刺した。
マントで口と鼻を覆い、男爵は闇の一角に眼を向けた。
人の気配はない。
急に全身の力が抜けた。いや、力を支える気力が喪失したのである。何ともいえぬ虚しさが全身を満たした。
マントが下りた。
はっと思ったとき、彼は身肉を震わす欲望の虜になっていた。
吸いたい。温かい人間の血を。
体内に渦巻く欲望を、男爵は必死に抑えようとつとめた。たちまち渦に巻きこまれ、吸収されてしまう。
片手を額に当てて男爵は上体を曲げた。
空気にこもる血の匂いは、その間も濃厚さを増していく。
「いかん」
と彼は呻いた。全身が震えた。どこか淫らだった表情が理性を取り戻す。
燃え上がる血の渇望に、精神力が挑んだのだ。
そのまま顔を伏せて――一分――二分。
馬車の方で戸の開く音がした。
男爵の様子を窓から覗いていたタキが、異変に気づいてドアを開いたのだ。
空気に満ちる血の香りを感知できるのは貴族の特性であって、タキにはわからない。
一、二歩近づいて、
「来るな」
男爵の声に足を止めた。本能的な恐怖に襲われ、馬車へ戻ろうと背を向ける。
「いいや、来たまえ」
男爵はタキの方を向いていた。
「嫌」
タキは首をふった。
「こっちを向きなさい」
いつも通りの気品に満ちた声だ。タキの首すじに冷たい風が当たった。
向いては駄目、と思った。向いてはいけない、絶対に。
ゆっくりとふり向いた。
男爵が立っていた。口もとをマントで覆ったまま。
息を呑んだ瞬間、男爵が首すじに顔を寄せてきた。マントが外された。
タキは悲鳴を上げて失神した。
娘の白い首に顔をつけたまま、男爵はしばらく意識を失った身体を支えていたが、少ししてそっと大地に横たえた。
天のどこかで硬い音が鳴った。
風を巻いてDが駆けつけたとき、男爵は馬車にもたれかかるように立ち、空気には一層濃密な血の香りがこもっていた。
Dは立ち止まり、男爵の足下を見つめた。
二つの影が横たわっていた。タキとメイ。
近づいて二人の首すじを調べ、
「契約したぞ」
とDは言った。静かな声である。
ふっと月が翳った。
五〇〇メートルの高みから川へと落ちて駆けつけた。それだけでも、途方もない体力なのに、この若者は息ひとつ乱していない。美しい。ひたすら美しい。
「左手をどうした?」
と男爵は訊いた。
Dの左袖から手首は出ていない。
男爵が大きく跳びすさった。
わずかに遅れてDの刀身が闇を薙ぐ。
軽やかに男爵は左へと円を描き、Dはそれを追って走った。
男爵のマントが白い光を吐いた。
一撃でそれを跳ねとばし、Dは跳躍した。刀身が深々と男爵の左胸を貫き、背まで抜けた。
男爵の身体が崩れ落ち、刀身は自然に抜けてDの手に残った。
「何をしておる?」
白い馬車の方でミスカの声がした。降りてきたところらしく、片足は地面に、もう片方は踏み段にかかっている。
白い美貌が驚きに歪んだ。
「男爵さま!?」
と駆け寄り、死に顔を見下ろしてから、すぐDを見つめた。
両眼に涙が赤く光っていた。血の涙であった。典雅な表情が、みるみる悪鬼のそれに変わっていく。憎悪と――血臭のせいであった。
「許さんぞ、Dよ。よくも、このお方を」
すっくと立った白いドレス姿の妖麗さよ、優雅さよ。
「いま“破壊者”が外へと出たがっておる。解き放ってもよいか」
Dは無言で一刀を下段に構えた。
タキが死に、メイが斃され、男爵も滅びて、一行で残るはDとミスカのみ。いま、この二人も死闘のただ中にあるとすれば、全滅という無残ささえ考えられぬことはない。
月はなお暗雲に隠れ、水音ばかりがせわしなく遠い。
“破壊者”を相手に勝てるのか、Dよ。
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第六章 血の渓谷
1
死闘の現場に、このとき、奇妙な現象が生じた。
ミスカの身体から急速に力が失われたのだ。いや、力を支える気力が。
茫、とすくんだ乳房の間をDの刀身はあっけなく貫いた。
ミスカは倒れた。倒れたのは彼女だけではなかった。Dもまた、その場に片膝をついたのである。
強烈なる精神失調――やる気の喪失であった。
月光の下に別の声が湧いた。
「女に斃させるつもりで一緒に術をかけてみたが、やはり、おまえの方がもった[#「もった」に傍点]か。まあ、よい。いまは息をするのも面倒なはず。|拙僧《せっそう》を敵視する気にもなれまいて」
声の主の方を、Dはぼんやりと見上げた。黒い馬車の屋根で、同じ色の塊が動いている。
そして、僧形の姿を馬車の表面から分離させ、ぬっと立ち上がった老人は、いうまでもないヨプツだ。
「その男爵もおまえも、わしの気配を探ったであろう。だが、無駄だ。これでも以前は密教の最高位まであと一歩に迫った男。身を空にする法術は、貴族の探査能力でも見破れぬわ」
老僧は石みたいな顔をくしゃくしゃに歪めた。笑ったのである。そして軽々と地上に降り立った。男爵の死体を見て、
「この方法を考えついたのは、こいつがおまえとの契約で村娘の血を吸うのをこらえたときであった。いかに強靭な精神力の持ち主とはいえ、所詮は貴族、さんざっぱら血の匂いを嗅がされたうえ、眼と鼻の近くに熱い血の娘が二人もいれば、こうなる他はない。Dよ、よくこらえた。ダンピールとはいえ、さすがだ。――うおっ!?」
最後の叫びの解答は、ヨプツの左肩から生えた白木の針であった。心臓を狙ったものが外れたのは、いかにDとはいえ、ヨプツの術に多少の影響を受けていたものと見える。
Dが立ち上がるより早く、ヨプツはすうと渓谷の入口へと移動し、もう一度、ぎゃっと叫んでのけぞった。
一条の光が右の脇腹を裂いたのである。それは男爵のマントから迸った。
「き……きさまは?……生きて……そうか、芝居だったのか」
「その通りだ」
ゆっくりと身体を起こしつつ、バラージュ男爵はうなずいた。
「私は娘たちに当て身を入れただけで、血は吸わなかった。Dの眼は首すじに歯型のないのを見て取ったはずだ。心臓をわずかに外したのは、気配を掴めぬおまえをおびき出すためだ。手傷のせいで、いまは外したが、次はそうはいかん」
マントが光を放った。
それはヨプツの身体をすり抜け、背後の岩盤に当たって跳ね返った。忽然とヨプツは消滅していた。
男爵の身体が緊張にこわばったとき、背後のDが左手の岩盤に走り寄るや、その表面に一刀を突き立てた。
「ぐおおお」
獣のような叫びが上がるや、岩の表面に浮かび上がったヨプツの姿を、雲間からこのとき現れた月が白々と照らし出した。
「な……なぜ……わかっ……た?」
喉もとを貫く刀身に手をかけた老僧の口から血塊がこぼれ、彼はがっくりと首を伏せた。
刃を引き抜いて、Dは馬車のところへ戻った。
ミスカを抱き起こした男爵が、
「うまく突いたな。気を失っているが無事だ。私も知りたい。なぜ、あの老人のいるところがわかったね?」
「鎖が鳴った」
とDはタキとメイの方へ歩きながら答えた。その左手からこぼれ、渓谷の奥へと消えている極細の糸は、男爵にも感知できないのだった。
月光りのみの渓谷を行く二台の馬車。無謀極まりない話だが、乗っているのは、みな夜の闇の彼方さえ見通す男女だ。
馬車は谷川沿いの道を走っていた。
「あとひとりとひと組か」
御者台の男爵が、ぴたりと馬車に寄り添うDに向かって言った。
「気を抜くな」
とDは言った。
「片や水、片やこの渓谷の中にいる限り、手強い連中だ」
「承知の上だ」
答える男爵は完全にヨプツとの死闘から回復している。そもそも、あの血臭のなかでタキとメイに牙を剥かず、あまつさえ、血を吸う芝居さえ行う余裕を示した男である。身体の出来がなみの貴族とは異なるのだ。
「気になるか?」
ぽつりと男爵が訊いた。Dは瞳だけ動かして彼を見た。
「いや、君は他人の身の上や思惑などに興味はあるまいな。むしろ、私の方が気になる。君はただのダンピールではあるまい」
「ヴラド・バラージュは、神祖の覚えがめでたかったという」
Dは話を変えた。
「神祖の息のかかった典医ジャン・ドゥを使って、昼夜の別なく奇態な実験にふけっていたという。材料は年端もいかぬ赤ん坊や少女たちだったとか」
「………」
「どんな実験が行われたのか、大体の想像はつく。その成果のひとつが――おまえか」
「馬鹿なことを言うな」
男爵の否定に力がこもった。
「だが、それを言うのが君だと、何となく納得できる。私もダンピールになら会ったことがある。辺境で一、二の腕利きもいた。だが、その知力、体力、武器の腕――どれをとっても君は破格だ。桁が違いすぎる。Dよ――ご神祖の成果とは君のことではないのか?」
「この渓谷を抜ければ、あと二日でクラウハウゼンの村だ」
とDは言った。
「父親を斃す準備はできたのか?」
「この旅を決意したときから、な」
ふと、男爵はあることに思いいたり、胸の|裡《うち》で言葉に変えた。
「ミスカよ、あなたは何を求めて行く?」
二キロほど進んだ地点で、道は上りにさしかかった。Dと男爵が最も警戒しなければならない水の流れは、たちまち眼下に遠のいていく。
「これで、ひとつ懸念は去りましたね」
ミスカの馬車から声がした。男爵がふり向くと、白い女貴族は御者台に腰を下ろしていた。
尋常なら、誰でもそうだと|首肯《しゅこう》しそうだが、二人は無言だった。闇水軍の実力を知っているのである。
そのとき、あるささやかな音が、まるで谷間の岩に次々に当たって反響したように、幾重にも重なりながら、三人の耳に届いたのである。
水滴が落ちる音だ。
それを、おかしいと思うだけの緊張感と判断力がこの三人にはあった。
男爵とミスカの手で鞭が鳴った。馬の蹄が荒々しく土を蹴る。Dはしんがりを守った。乗っている馬は男爵の馬車を引いていたうちの一頭だ。
音が迫ってきた。むしろ愛らしい音は、ひとつではなかった。数百、いや数千の単位で二台の馬車に追いすがってくる。
「馬車に入れ!」
Dが命じた。その身体がスピードを落とした。馬の足が急に乱れたのである。馬車も同じだった。そして急坂の途中で、馬たちは足を折り、その場へへたりこむや、気持ちよさそうに寝息をたてはじめたのである。
当然、馬車は停まった。
Dは素早く馬を下り、男爵とミスカに近づいた。
「これを耳に詰めろ」
固めた蝋でつくった耳栓であった。男爵は受け取ってすぐ耳に入れたが、ミスカは手からこぼした。御者台の手すりにもたれて、女貴族はやすらかな眠りに落ちていった。
「水を使ったか」
Dは御者台からミスカを降ろして馬車に入れた。
規則正しい水滴のたてる音をきいているうちに眠くなる。――単純なこの現象を闇水軍は広大な渓谷レベルで利用してのけたのだ。
いまも二人を取り囲む音響は、一種、乱れているように耳を打ちながら、実はきわめて軽快なリズムを刻んでいた。
「これでは動けんな。次はどう出てくる?」
男爵は坂の傾斜を見下ろした。その耳の奥で、音のリズムが変わった。
二人の満身が|秋霜《しゅうそう》のごとき殺気に包まれた。そのとき――
深い眠りを貪っていたとしか思えない馬たちが一斉に起き上がるや、身をひねり、崖下めがけて猛スピードで駆け降りはじめた。
水音は眠りを誘うばかりではなかった。動物の意志さえ操る催眠術の一種だったのだ。さしもの二人も、あまりに素早く凄まじい馬たちの狂騒に飛び移る余裕もなく、遠ざかりゆく影たちを見送るしかなかった。
「追うぞ」
と男爵はDを見た。
「ここに残れ」
とD。雇い主を守るためとはいえ、あまりにぶっきら棒な言い方だが、男爵は気にした風もなく、
「残る意味がない。私ひとりがここで襲われて負傷したら、君の責任になるぞ」
「レディ・ミスカもだ」
「私が危険のただ中にあれば、君はそう言って私だけを脱出させるだろう。そして、安全な場所へ届けてから、自分はひとり、戦いの場へ戻るにちがいない」
「おれの言うことがきけんのなら、契約は破棄する。ここへ残れ」
いつも通りの静かな――鉄のようなDの声であった。
その顔をしげしげと見つめ、どう判断したか、
「わかった」
と男爵は右手を上げた。
「すべてまかせよう。幸運を祈る」
Dは身を翻した。
谷底めがけて疾走する黒い風を見送り、
「頼んだぞ」
と男爵はつぶやいた。
Dに――誰を?
ミスカをか? それとも?
2
タキとメイは最初から眼を醒ましていた。眠る時間まで大分あったし、密閉された馬車内には、水滴の音も届かなかったのである。
馬の狂奔にも気づいたが、手の打ちようもなく、二人は窓外を走る闇だけを見つめていた。
馬車は谷底に着き、川のほとりをしばらく走ると、前方からある轟きが近づいてきた。
流れの一部に砂洲が怪物の背中のように点々と浮かび上がっている。銀飛沫を跳ね散らしつつ、馬車はそこを渡って、川へと流れこんでいる水流を溯りはじめた。
轟きはますます高くなり、空気をゆるがしはじめた。
石ばかりが路上を埋め、その表面も草も木も湿り気を帯びている。
一〇分ほどで、左右の崖が急に広がった。水の流れは本流よりも太く激しく、滔々の声を上げている。それさえも押し包む怒涛の高鳴りは、前方二〇〇メートルほどの絶壁を滑り落ちる水の音であった。
滝だ。
たぎり落ちる水の幅は二〇メートルを越し、その頂きは数百メートルの彼方であろう。
馬車が停まった位置にも降りかかる水飛沫は霧だが、一〇メートルも進めば水滴そのものだ。さらに滝壷に近づけば、豪雨のただ中にいる気がするだろう。
馬車の前方の道も月光に濡れ光っていたが、その表面にいくつもの黒い塊が生じたと思うや、みるみる直立した人間の姿になった。
岩を覆う水の薄膜から立ち上がったといえば、闇水軍の戦士しかいない。
「出ちゃあ駄目よ」
タキはメイを抱きしめて言った。馬車の内部にいる限り安全と、Dに言われていたのである。
月光の下に佇む影は近づこうともせず、無言で馬車を見つめていたが、不意に岩盤に沈んだ。
安堵と不安が交錯する二人の耳に、そのときドアをノックする音がきこえたのである。
四角い窓ガラスに白い花のように浮かんだ顔はミスカであった。
これも安心にはほど遠い相手だが、闇水軍よりまし、と二人は胸を撫で下ろした。
「お開けなさい」
ミスカの声がきこえた。貴族にしかわからないマイクでもあるのかどうか、二人には不明だ。
ドア・ノブに手をのばすメイをタキが押さえた。
「駄目よ、男爵かDが来るまでは」
「でも、あいつら、消えてしまったわ。ミスカが出て来たからよ」
「でも――」
ミスカが眠ったところを二人は見ていない。なぜ、彼女だけが自分たちと一緒に来たのか、少なくともタキには腑に落ちないのである。
「開けなさい、もう安心よ」
窓がまた鳴った。
「男爵さまが来るまで待ってはいられないわ。戻りましょう。でないと、いつ、あいつらがやって来るかもしれない。馬の向きは自分でお変え」
最後の言葉がタキを信用させた。
「いいわ」
手ずからドアを開いた。濡れそぼった夜気が吹きこんでくる。ドアから身を乗り出し、移動用の手すりを掴んで、タキは御者台へ移った。
手すりも|座席《シート》もびっしょりと濡れている。
手綱を掴んだ。馬の扱いなど、ヨハン卿の助手を務めている間に学びつくしている。
馬はなかなか後方を向かなかった。狭い道なのである。
「大変だな、手を貸してやろう」
隣から黒手袋をはめた手がのびて、手綱を受け取った。
「――!?」
ガリルという名前はとっさに浮かんでこなかった。反射的に馬車のドアを見た。
開いている。白い手がそれを押さえていた。
こちらを向いて、にんまりと朱唇を歪めたミスカの眼には、まだ自由意志を奪われた空虚さが漂っていた。
息を呑むタキの代わりに、遠くで鎖のぶつかり合うような音が鳴った。
黒い部下たちがタキとメイを連れ去ると、ガリルは白い花のように立つミスカに近づき、ドレスの胸元を一気に引き裂いた。
こぼれた乳房は、外から見る以上に豊かで滑らかであった。
黒い手が傍若無人に指を食いこませても、ミスカは無表情である。この誇り高い娘の意志は、完全にガリルの術中にあるのだった。
「あの二人にはそれなりの用がある。女子供を使うのは気に染まんがな。しかし、貴族には、おれも喜んで苛烈な役を与えるぞ」
それから滝壷の方をふり向き、
「Dにも男爵にも、ここはわからんはずだ。大至急、迎撃の準備を整えろ!」
激しい口調で命じた。
それから二〇分後、渓谷の夜空に巨大な星がかがやいた。Dと男爵をおびき寄せるための照明弾である。
闇水軍の切り札は、いうまでもなく二人の娘であった。
彼女たちをどう扱ったか。
なんと、二人は滝の途中――高度一〇〇メートルほどのところに逆さに吊るされた。
両足に巻かれた紐を支えるのは、瀑布の中に潜んだ闇水軍のメンバーであった。凄まじい水の落下も、彼らにはなんの障害も与えないのである。
二人が吊るされたのは、落下する水の上だったが、当然、水飛沫はかかる。それでも息がつづくように、ガリルは彼女らの全身を、薄い透明な膜で包んだ。水は一切通さず、呼吸は自由にできる。余計なとも、奇怪なとも取れる気遣いであったが、単に人質の死期を早めたくない、という邪悪な理由からでないのは明らかであった。
で――彼らは待ち続けた。あるものは滝壷に身を隠し、あるものは別の武器を用意して濡れた岩盤に身を沈めて、瀑布の轟きに混じるのは必殺の気であった。
はたして――来た。
最初、それに気づいたのは、タキとメイを支える瀑布の中のひとりであった。
背後というより、上から轟き落ちる激流の中に、水以外の気配を感じた瞬間、仲間へ合図する暇もなく、凄まじい打撃を頚部に食らって失神した身体は、鋼の腕に抱きとめられていた。
水流につけた背をゆすられ、タキとメイは身をよじって、暗い水中からおぼろにのぞく美しい顔を見た。月光がかろうじて判別を許した。
「D!?」
同時に叫んだが、被膜のせいで外へ響かなかったのは、不幸中の幸いであった。
無事を確かめ、Dはゆっくりと、片手の糸をたぐって上昇を開始した。
下の連中は気づかない。まさか、遥か頭上――数百メートルもの高みから救いの手がさしのべられるなど、理解の外だったのである。
まさにDは来た。そしていま、二人を救って力強く確実に昇っていく。
だが、考えてみれば、これがいかに凄まじい体力を要する重労働であるかは、すぐにわかる。
彼が引き上げているのは、二人だけではない。娘たちの足首を縛ったロープ――それを支える闇水軍のひとりも肩にしているのだ。殺さなかったのは、血が滝壷に落ちるのを警戒したためだが、その荷重がある。加えて、遥かな上空からたぎり落ちる水の打撃力――ぶつかる水はほとんど剛体と化していた。
三〇〇メートルほど上がった右方に、奇妙なものがあった。突出した岩が水を裂いているのだ。長年月の間に、岩壁は水に削られて滑らかな平面と化すのが普通だ。あり得ない奇現象であった。
降りるとき、それを見ておいたものか、Dは二人と失神した闇水軍をそこへ載せた。十分な広さがある。
二人の被膜を切らず、自分が手にした細紐をその胴に巻いて、
「ここにいろ」
とDは告げた。
言うまでもない。この場で闇水軍を葬り去るつもりなのだ。
しかし、彼はどうやってここへ来たのか?
滝の頂きまで昇るだけで、馬のないDには数時間を要するであろう。あの鎖の存在と同じ、太古の失われた技術でも発見したのだろうか。それとも――知っていたのか。
「では、な」
敵を横抱きにするや、それ以上、二人の身を案じる風もなく、Dは滝壷に身を躍らせた。
四〇〇メートルを一気に降下する。
さしもの闇水軍も、一分間数千トンの落下水量に混じる二つの異物は識別しかねた。
流れる水の勢いにまかせて接近するや、Dの刃が躍った。
たちまち、滝壷と流れに潜んだ十数名が即死し、濡れた岩盤の兵士たちがその苦痛に気づいたとき、Dはすでに左手の岩上に跳躍しざま、濡れた岩を切った。いや、岩を覆う水を切ったのである。
声もなく、数個の人影が直立し、のけぞり、再び岩盤に沈んだ。
まるで、彼らの潜伏場所を知り抜いたような攻撃は、そびえる岩壁から出現しようとした敵をも即死させ、ついにDは滝壷の端に立つガリルと相まみえた。
「さすがだな、Dよ」
と、闇水軍の指揮官は白い歯を剥いて感嘆した。ちら、と背後の滝に眼をやり、
「人質も逃げたようだ。生きているな?」
Dはうなずいた。
「よかった。あの娘たちにしたことだけは、気が重かったわ」
ガリルの笑顔はひどく澄んでいた。
「だが、もうひとりの女に関しては、そうもいかん。見ろ」
ガリルは右手を上げて、足下の黒い水を指さした。
二人の位置は滝壷の外縁にあたり、水飛沫は豪雨のごとく降り注いでいるが、ガリルの左右には奇岩が黒々とそびえ立ち、絶好の雨除けになっていた。
彼が指さしたところは、岩が大きくえぐれ、小さな淵を形成して、水面は凪いでいる。
白いものが幽鬼のように浮かび上がってきた。
ミスカであった。
「男爵の連れだ。おまえの客かどうかは知らんが、人質にはなると見た。戦いづらいであろうな、Dよ」
Dの右手の刀身が月光にきらめいた。
「戦う前に知りたいことがある。滝壷の上から来たか?」
「そうだ」
敵の質問にこの若者が応じるとは珍しい。
「それに、部下たちを斃した手並み――まるで我々の布陣を正確に知っていたかのようだ。誰かに尋ねたか?」
「この渓谷は貴族以前に|覇《は》を競っていた超古代の人類が棲んでいた場所だ」
とDは言った。
「彼らは一族の人数を確認するために、あるいは、侵入者を識別するために、ある鎖を岩壁からぶら下げた。それは岩壁と打ち合ったときにのみ特殊な音波を渓谷中に放ち、生きとし生けるものすべての位置と数とを明らかにしたという。音波は岩壁の内部の洞窟にも、流れ水の中にも届いた」
「なるほどな。そこまでは知らなんだ。あの響きはそれか。だが、時間的に見て、鳴らしたものがおまえとは思えんが」
Dは左手を上げた。手首から先が喪失しているのを見て、ガリルは眼を細めた。
「おれの手が、鎖を叩いた。――これでよかろう」
「まだだ。どうやって、おれたちに気づかれず、滝の頂きに上がった?」
「エレベーターに乗った」
眉を寄せたガリルの顔面に、銀光が食いこんだ。
Dの一撃はかつてとおなじ場所を切り裂いてのけた。頭頂から顎まで走った刀痕の上を、ガリルは右手で撫でた。線は消えた。
「あのときは油断した。今夜は強化済みだ」
ガリルの手が水中のミスカをさすと、指の間から小さな火花がとんで、ミスカの右肩に当たった。白い肩は内側から弾けた。超小型ミサイルだった。
「闇水軍の将が変わった武器を使うな」
とDは言った。
「刀を捨てろ、Dよ。おまえも我々の仲間になれ」
再び、あの水滴の響きが鳴りはじめていた。
「この女とおまえを手に入れれば、バラージュさまのご子息といえど、斃すのはいともたやすい。Dよ――刀を捨てい」
渋い口調も、子守歌にきこえたかもしれない。Dの膝が、ふっと崩れた。彼は耳に栓を詰めていなかった。
にっと笑み崩れたガリルの口もとが、突然、引き締まった。
Dの背後から、彼は妖々と近づいてくるマントの人影を見たのである。月光の下に、海の底を思わせる蒼がゆれた。
「バイロン・バラージュ男爵さま」
とガリルは呼びかけた。
3
「私は――」
「父の放ったうす汚い刺客――それで十分だ」
男爵の口調は氷を思わせた。水滴の響きは絶え間ない。男爵は耳栓をし、ガリルの唇を読んでいるのだった。
「恐れ入ります」
「私を滅ぼすか、それとも、おまえらが死ぬか」
「自分は使命を果たさねばなりません」
「父上はお元気か?」
と男爵は訊いた。
「お健やかでいらっしゃいます」
「いま一度、ゆっくりと話したかったが、もはや、それもなるまい。私は着き次第、父上を斃す」
「それは――なりますまい」
「母上の墓はいまも花が絶えぬだろうな?」
「………」
「どうした、答えよ」
「バラージュさまが破壊なされました」
夜目にも男爵の顔色が変わるのがわかった。
「滅びゆくものさえ汚すか、あの男は!?」
ガリルは後退した。Dにさえ感じた覚えのない戦慄がそうさせたのである。
「男爵さま――動けばこのお方のお命が」
右手にミスカをさしている。
「たわけ」
と男爵は笑った。
「貴族の生命は最初から死んでおる」
マントの裾から閃いた光は、ガリルの両足の間から逆に流れた。
光る筋が頭頂まで走り、すぐに消えた。
「父上も眼がないわけではないな。ならば、これはどうだ」
光が反転した。ミスカにミサイルを射ちこみつつ、ガリルは右方の巨岩へ跳躍した。空中で光がその胴を二つに断った。流れ水に対する攻撃は無益だ。
だが、胴に入った光の斬線は一瞬に厚みを持った。ふさがる寸前の液体細胞が光圧で吹きとぶ。
ガリルの身体はついに癒着せず、二つの奇怪な物体となって、ミスカと同じ暗い淵に落下した。水柱が上がった。
男爵は素早く淵にと身を躍らせ、ミスカを抱き上げた。肩と心臓の肉が弾けている。ミサイルの威力だ。
「D――」
静かに刀身を収める美しいハンターを見て、男爵はそれ以上言うのをやめた。水滴の音がつづいている。
「居眠りは誘いか? それとも私の技を見るためか?」
と男爵は訊いた。
Dは答えず、ミスカに眼をやった。それを気遣いと取ったか、男爵は独白のように、
「大丈夫だ。“破壊者”が憑いている女性だ」
と言った。
その顔がふと天を仰いだ。Dはすでに上空を向いている。
二人が感じたのは揺れであった。それも、地の底の底から鳴動するような、重々しい。
「馬車へ入れ」
とDはその方角を指さした。
いまや、岩が滝が――渓谷全体が震撼していた。
ガリルの最後の策であろう。貴族さえ眠りに誘う水滴のリズムは、一種の破壊デシベル域の音波と化し、谷間そのものを崩壊させはじめたのである。
ミスカを抱いて走る男爵の周囲で岩壁の一部が跳ね上がり、流れに狂いを生じた水は、怒涛となってDの頭上から襲った。
馬車のドアを開いてふり向いた男爵が見たものは、まるで蛇のように歪みくねった瀑布と、落下する天のごとき断崖の黒さだった。
ほぼ三分間荒れ狂ったエネルギーは、数万年の歴史を有する大渓谷を瞬時に破壊し去り、平衡状態に戻った。
もはや、数条の水が落ちるだけとなった断崖を、鈍い金属の光が飾っていた。表面の岩盤が崩れ去った後、崖はようやく、その本体をさらした。巨大な金属の城壁たる姿を。
そのほとんどは太古に消滅し、残るそれもほんの一部にすぎなかった。超古代の技術は、現代の破壊術に勝った。崩壊のエネルギーにびくともしなかった城壁は、下部レーダー・サイトらしい突出部に、二人の娘を平然と留めていた。
遥か下方――ガレ場と化した滝壷のあたりに、世にも美しい黒衣の人数を認めて、娘たちは手をふった。朝の光が世界を律しはじめていた。
「えらい騒ぎじゃの」
城壁の背後にある出入口から、高速エレベーターで二人を迎えに行こうと歩き出したDの足下で嗄れた声が言った。
身を屈めてそれ[#「それ」に傍点]を拾い上げ、Dは左手首に重ねた。忽然と左手は復元した。
手首をつなげる前に二つの切り口から抜いた針付きの極細糸を、Dは足下に捨てた。ダンピールの反射速度をもってしても、全長五キロに及ぶ糸を巻いて束にするのは難事業だった。崖を打撃した鎖の放つ超音波を左手が感知し、渓谷に潜む闇水軍の数と位置とをDに伝える――その仲介役をこの糸が果たしたとすれば、Dの行為は恩知らずと言えたかもしれない。妖僧ヨプツの潜伏箇所が知れたのも、この糸あればこそだ。
どこか遠くで動く気配があった。男爵とミスカ――馬車と馬たちも無事だったらしい。
「古代の戦場で戦い、渓谷をひとつぶし――何ともダイナミックな旅じゃな」
と声が呆れたように言った。
「これで今回襲って来たバラージュの刺客は片づけたが、時間はまだある。新たな敵がくるやもしれん。気を抜くな」
返事もせず、Dは城壁の方へ歩き出した。
その後ろ姿から漂う孤絶が、夜明けの寒々しい光によく似合った。
『D―蒼白き堕天使2』完
[#改ページ]
あとがき
お待たせしました。ようやく完成。
「D―蒼白き堕天使2」であります。
通常の場合、私は月の半分ないし、三分の一くらいを書き下ろしにあてており、以前の私なら、これで十分、一冊を完成させたのですが、さすがにこの頃は、ムムム。
本来、一月に出るはずの本書がなぜここまで延びたかといいますと、イメージが大きくなりすぎたのですねえ。
自分でも「ぎょっ」となるような趣向が山ほど出てくるのです、今回の“D”には。
まず、あの空洞樹、それからOSB古戦場、ラストの渓谷も凄まじい。
これがちょうど、しんどい精神状態の時に襲いかかってきたから堪らない。
「どうやってまとめるんだよ、こら」
と自分をののしっているうちに、ペンは停滞し(私はまだ手書き)、イメージばかりが増殖してまとまりがつかなくなり、かくして、という次第。お待ちいただいた方は、まことに申し訳ありません。そのお詫びに、今回もDの活躍は待ったなしのフルスピード。
おかげでイメージの暴走も見事に押さえられました。よろしかったら拍手を。
そして第三巻[#「第三巻」に傍点]へのエールもご一緒に。
後に恒例――担当のI氏へ、
ありがとうございました。そして、ごめんなさい。
平成七年四月某日
「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」を観ながら
菊地秀行