D―薔薇姫 〜吸血鬼ハンター8
菊地秀行
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目次
序章
第一章 杭(くい)の道
第二章 薔薇城館
第三章 闇に秘めたる願い
第四章 死の森へ
第五章 薔薇の舞い
第六章 死霊騎士団
第七章 滅びざるもの
第八章 薔薇の園
あとがき
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序章
澄んだ闇に芳香が漂い始めると、村人たちは石畳の通りからそそくさと近くの家々に身を隠すのだった。
香りは村の歴史とともにあった。
百年祭を祝う晩、新任の女性教師が『都』から訪れた夜、村長の家に女児が生まれた宵、冬の白い嵐が吹きすさぶ聖夜――馥郁と街路を渡る香りは人々の眼を、村外れの城からそらさせ、劫罰の苦悩に血走らせるのだった。
どうして風は村へ吹く。
人々はひたすら香りの消えることを祈り、夜明けを待ち望んだ。だが、昇った陽はいつか沈み、夜の翼が|凶鳥《まがどり》のごとく世界を覆う。そのたびに人々の苦悩は深い皺となって刻まれ、一軒きりの酒屋は、またも売上記録を更新する。
窓にはカーテンが下ろされ、街灯だけがうすく点る街路には、ただ香りだけがさまよう。花の香りが。風がぬくみを帯びた季節の晩にふさわしい、夜の|詩《うた》を促すように。
鉄鋲を打ちつけた城門が、雲海でつぶやく雷鳴のような音をたてて閉じると、黒塗りの馬車はすでに中庭への|穹形門《アーチ》をくぐり抜けていた。
車輪が軋んで止まり、ドアが開いた。
中には脅え切った娘が収まっていた。豊かな胸の隆起は、今にも破裂しそうな心臓の動きを伝えているのに、ふっくらとした顔は死人の色を|刷《は》いている。
ドアの向こうから、甘美な香りと絢爛たる色彩が押し寄せてきても、娘は身じろぎもしなかった。
私は幾つだろう、と娘は考えた。十七歳と一カ月。これで終わりなのか。これ以上生きることはできないのか。三日前、友だちと、町の専門学校へ行くと話し合ったばかりなのに。
誰がこんな目に遇わせたの?
誰が私を選んだの?
「降りろ」
ドアの向こうから鉄のような声がした。
迎えに来た奴らのひとりだろう。
逆らうことを許さぬ圧倒的な気迫と妖気に促されるように、少女はドアに向かった。
すでに踏み段は下りていた。鼻孔を満たす香りと目もあやな色彩に、少女はふっと奈落へ吸い込まれるような気分に陥った。
「真っすぐに行け」
声が前方を指したようだ。
ふらふらと歩き出した少女の意識は、すでに半ばうすれている。
ただ歩いた。頬や剥き出しの腕に、刺すような感覚があったが、気にもならなかった。
足を止めたとき、少女の|呼吸《いき》はひどく乱れていた。距離のせいばかりではない。ないに等しい意識が、前方にうっすらと立つ人影を認めたのである。
美しい幻のように近づいてくる。ドレスをまとった女の姿は、少女に身も凍る戦慄と――自分でも信じられないことだが――ほのかな憧憬をもたらした。
何が起こるかはわかっていた。
ドレスの色を白と知り、女の顔がおぼろげに認められるようになったとき、少女は眼を閉じた。
自分の血を吸う|女性《もの》が、世にも醜い貴族だったらどうしよう。村祭りの仮面でも分かる。彼らは身も心も歪んだ怪物なのだ。
両肩が掴まれた。
冷気が氷のように染み込んでくる。それと――甘い香りが。
女の吐息だと気づく前に、少女は本当に意識を失った。
白い牙が哀しいほどに細い頸動脈を突き破ったときも、身じろぎひとつしなかった。
ぐったりとのけぞる少女を、そっと石の路に横たえ、女は身を翻した。
音もなく数歩進んだとき、背後で、およそこの場に似つかわしくない足音と気配が生じた。
「この化物ぉ!」
女がふり返ってから、その胸もとへたくましい男の身体がとび込むまで、二秒ほどかかった。
倍近い体重にダッシュの加速もついているのに、女は一歩も下がらず、代わりに胸の中央から背中へと黒い鋼が抜けた。
男が刃から身を離したとき、女ははじめて一歩後じさった。
「やった」
と男――十五、六の若者だった――は、臨終の吐息のようにつぶやいた。
「やった……やったぞ。ナギ」
少女のもとへ駆け戻り、その身体を抱きしめたところを見ると、それが少女の名前らしかった。
愛しいものを失った絶望とわずかな希望をこめて、若者は生なき身体をゆさぶった。
「起きろよ、ナギ。おまえの血を吸った奴はやっつけた。そうすりゃ治るんだろ? もとに戻るんだろ?」
「その通りじゃ」
声は若者の背筋に冷たい水を流した。
若者は顔を上げた。
白い影は月光の下にひっそりと立っていた。
「だが、私を滅ぼすには心の臓を貫かねばならん。おまえのは少しずれておる」
若者は総毛立ちながらも立ち上がった。少女の|亡骸《なきがら》は胸に抱いていた。死んでも離さない。――そんな気概が全身に溢れた。
「逃げぬのか? 逃げねばその娘の二の舞いじゃ。好いておるならば、それもいいかも知れぬな。どれ――こちらへ来い。それとも、私より、その娘に吸われたいか?」
若者が女の言葉の意味を呑み込むより、白い手がその首を抱く方が早かった。
「ナギ――!?」
この世にこれほど痛切な叫びがあるだろうか。
若者の胸の中で、少女の瞼が開いた。
それが、未来への希望に満ちていたことを若者は知っていた。それが、十七歳の夢にかがやいていたことを知っていた。それが、自分ではない、別の若者の顔を映していたことも知っていた。
いま、瞳は彼を映していた。その形も色も変わりはない。だが、澄んだ黒瞳はどす黒く濁りきり、十七歳の想いの代わりに、卑しい飢えと欲情が渦巻いている。
「お腹が空いたわ」
少女の声を、若者は悪夢の中のように聴いた。
「助けに来てくれたのね。……うれしい。お礼のキスをさせて……」
「やめろ――ナギ、やめてくれ!」
巻かれた手をむしり取り、若者は冷たい身体を路上に突きとばした。少女は声も上げなかった。
「冷たい恋人だこと」
女の声に弾かれるように若者は走り出した。
恐慌状態に陥っていたが、思考のある部分はひどく醒めていた。
|艶《あで》やかな色彩の中に一カ所、異質なかがやきが見えた。
跳び込むと色彩がゆれた。
若者がそれ[#「それ」に傍点]を身に着けるのに、一分ほどかかった。
最後のベルトを左腿に巻いたとき、四方から足音が近づいてきた。
さっきの女のものとは異なる重々しい響きだ。靴底の地面が震えるような気がして、若者は腹に力を込めた。気がつくと、自分が震えているのだった。
右方の色彩が押し開かれた瞬間、若者は地を蹴った。
浮き上がった身体が沈む寸前、背中の翼が開いた。間に合った――込み上げてくる安堵を抑えて、若者は前方の闇を見つめた。身体が上昇していくのがこれほど心地よかったことはない。
下を見た。
遙か彼方に光の粒が点々と散っている。若者の胸は対照的に重く翳った。もう安住の地ではない。これから、どこへ行こう?
左右から背中に衝撃が伝わった。
ぐん、と身体が下がる。翼が切断されたのは明らかだった。
顔をねじって上方を見た。
闇の中なのに、真紅の甲胄は鮮明に眼に灼きついた。
奴は空も飛べるのか!?
夢中で、握りしめた桿を起こそうとしたが、翼に動きを伝えるワイヤーも切断されたらしく、下降は止まらなかった。
「何をしたかわかっているな?」
頭上で声がした。一緒に降下中なのか。
「我らが姫に刃を向けた報い――おまえひとりの生命では、|贖《あがな》えん。その軽挙がいかなる結果を引き起こすか、あの世でとくと見届けるがよかろう!」
不意に、若者は翼が付け根から飛び去るのを感じた。声もなく、彼は垂直に落ちていった。果てしなくつづく奈落。
耳もとでごおごおと風が唸り、気を失うこともできない視界の中に、鈍い銀色の帯が近づいてきた。
遙か下方を流れる糸のような川であった。
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第一章 杭(くい)の道
この地方には珍しく、農耕用の車がすれ違えるほどの幅を持つ道であった。
東へ進めばサクリの村、西へ進めば埃の多い街道へと出る。
道の左右には緑が波打っていた。草原と風だ。丈の高い草は、次々に身をよじりながら、何かを語っているようであった。この世界の遠い支配者の名を。その喪われた伝説を。
あるいは――
村外れの館に立つ、|現在《いま》の独裁者の物語を。
そして――村の方角から狂気のように疾走してくる、数台の荷馬車の事情を。馬を鞭打つ農夫とその家族の引きつる顔に灼きついた恐怖の|理由《わけ》を。
「あと、半分だ!」
と先頭の荷馬車で手綱を握る農夫が叫んだ。
「街道まで出れば、奴らも追っかけてこねえ。領地の外だからな。――ハンナ、後ろはどうだ?」
「ツマクん|家《ち》もヤーライとこの馬車も無事よ」
と助手席から身を乗り出した女房が告げた。太った身体の両脇に縮こまっている男の子と女の子を抱き寄せ、
「これなら、大丈夫よ、あんた!」
「まだだ。あと半分――ここが地獄の渡しよ。うまく、足が立つかどうか」
呻くような言葉は、ひい、という女房の声で切断された。
十メートルほど前方左の草むらから、網膜まで灼き抜くような真紅の騎馬が路上へ一跳躍したのである。
農夫は手綱を引くこともできなかった。二頭の馬が、燃える人馬を避けるように、大きく右へと方向を転じた。
家財道具を満載した荷車は、急速な曲がりについていけなかった。継ぎ棒がねじれ、それに合わせて車体も廻った。空中で棒が砕け、土煙を上げて横転する。とび散る食器類と地響きを尻目に、馬のみが自由の天地へと疾走をつづけていく。
ツマクとヤーライ家の馬車は、間一髪、追突を免れた。必死に踏みとどまった馬の尻に鞭を当て、手綱をしぼって、もと来た方角へ向かおうとする。馬車もろとも路上に倒れた友人一家を救助するそぶりも見せない。
「|青騎士《ブルー・ナイト》だ!」
絶望の叫びは、ヤーライ家の長男の口から、青空へ噴出した。
帰るべき故郷への道は、五メートルほどの距離に立つ青い馬と人にふさがれていた。
だが、澄んだ蒼穹の色彩にあらず、それは暗い深淵へとつづく不気味な海底の青――凍てついた水の青だ。
陽も高い白い道の上で、三つの家族たちは死の沈黙と停止の空間に投げ込まれた。
「何処へ行く?」
前方――真紅の馬上人が言った。
もうひとりの仲間は騎士と呼ばれたが、その通り、こちらも頭から爪先まで覆うのは、真紅の甲胄だ。その胸当ては厚く、肩当て腕当ては巨木のごとく太く、馬上とはいえ見上げるばかりの長身。同じく装甲を施した馬にまたがって戦場を馳せれば、鬼神すらたじろぐと思える偉丈夫であった。その背に二本ずつ交差した都合四本の長剣は、どのひとふりをとっても、大の大人がへたり込んでしまうほどの厚みと重量を陽光にさらしている。
「領地を出てはならんと、布告しておいたはずだぞ」
これは青騎士の言葉だ。真昼の光さえぬくみを喪い、気泡と化して空しく散じてしまうかのような、その深く昏い青。
「我が姫に手傷を負わせた奴の村――誰ひとり逃しはせん。一気に滅ぼされぬことを幸運と思え。――しかし、おまえたちはもはや気にする必要もあるまい。杭が待っておるからな」
細い、鳴りの悪い笛のような音が空気を裂き、ずんぐりした老婆が胸をかきむしりながら倒れた。ヤーライ家の老母であった。残るは|主人《あるじ》と妻と十九歳の長男、十六歳の長女、十二歳の次女の五人。対して、ツマク家は主人夫婦と祖父母、五歳の男の子と三歳の娘の六人だ。
恐怖のあまり心臓麻痺を起こした老婆を、誰ひとり気にかけるものはない。彼らが見ているのは、前後に立ちふさがる炎と水の騎士が象徴する死だ。逃れられない運命であった。
ぐい、と二人の鉄騎士は道の左右を向いた。草原との境に、ほぼ一メートルの間隔で打ち込まれた、高さ五メートルもの杭の列を。ああ、延々とつづくその数もさることながら、その研ぎすまされた先端でゆれているのは、串刺しの白骨ではないか。かなり古いものらしく、杭に骨が引っかかって残っているのは十本に一本あるかないか。それも大抵は脊椎と肋骨だけで、手も足も腰骨も頭蓋も杭の根元に空しく砕け、かなり大きな骨の山を形作っていた。
だが、すでに生命を失ったかのように立ちすくむ家族の両側の杭にさらされた死者は、ほぼ完璧に原形をとどめ、|襤褸《ぼろ》を風にゆらしつつ、魂が吸い込まれるという死の国の|洞窟《ほこら》のごとき髑髏の眼窩を路上に向けて、沈黙の呪詛を放っているようだ。
二人の騎士が距離を狭めた。
「助けてくれ」
と誰かが叫んだ。
その声を真紅の一閃が断ち切った。草が波打った。驚愕と運命を告げるように。
ヤーライの老父は胸もとを見下ろした。青い鋼が貫いている。ツマクの妻も胸もとを見た。血玉のついた切っ先が生えている。背中合わせに立っていた二人を串刺しにしたそれは幅二十センチもありながら、しかし、刀剣ではなかった。老父の胸もとから一メートルほど戻ってやっと根元であり、ふた握りほどもある柄が二メートルほど斜めに上昇して青い拳の中に消え、小指側からさらに一メートルも延びていた。
身長二メートルを越す巨漢といえど、五メートルもの大槍を自在に操れるか。穂先のみならず、精妙な彫刻を施した金属の柄も含めれば軽く百キロ、いや二百キロを越すだろう。
それがしなった。――軽々と。
青い大槍が跳ね上がるや、二人の犠牲者は|発条《ばね》仕掛けみたいに舞い上がり、何と、狙いすましたかのごとく、杭の上に落ちたのである。旧い骨は粉々に四散し、新たな犠牲者が心臓を貫かれた。
「姫は次の罰を与えるまで待つといわれたが、我ら『ダイアンローズの四騎士』は許さん。ちょうど、いらついていた折、よくぞ逃げ出してくれた。手慰みにしかならんが、少しは憂さも晴れようて」
青騎士の言葉に押されたみたいに、人々は走り出した。その前に紅い騎士がいた。
真紅の風が逃げまどう人々の間を走った。それでも人々は、紅騎士の脇を抜けて走った。二、三メートル先でその首が落ちても足は止まらなかった。さらに紅い色のついた風が地上から天へと噴き上げ、人々と騎士たちを街道から遮断した。
「恩知らずの蛆虫ども。愚かなふるまいの罰はこれだ」
高々と笑う騎士たちの前で、血の海と化した路上にへたり込んだのは、ヤーライ家の主婦とツマク家の長男であった。二人は固く抱き合った。
「さて、どちらが――」
と紅騎士が口を開いたとき、村の方角からけたたましいエンジン音が、死に物狂いで近づいて来た。複数だ。
「邪魔が入ったかな」
青騎士が愉しそうに首をねじ曲げた。
二秒とかけずに、無残な殺戮の現場へ到着したのは、ガソリン・タイプの大出力エンジンを搭載したオートバイであった。
エンジンはかけたまま、先頭のバイクの荷台から、白髪の人影が跳び下りた。杖をついた老人である。
「村長のトシュクでござ……」
と名乗る声も尻切れトンボになったのは、路上に散開した惨たらしい死体を見たからだ。十台ほどのバイクのライダーたちも声もない。
「なんてことしやがる……」
村長を運んできたバイクのライダーが、ひとことずつ噛みしめるように言った。五メートル近く離れていても、妖魔の聴力は衰えないのか、青騎士がちょっとそちらを向いた。
「女か」
とつぶやいた。
「だったらどうしたの!?」
手製らしい布のヘルメットをゴーグルごともぎ取るように脱いだ下の顔は、うす桃色の美少女のものだ。大胆にカットした短髪の下で、双眸が怒りに燃えている。
「なんてことを……」
もう一度、押し殺したように呻くや、バイクの|鼻先《ノーズ》をざっと青騎士に向けた。両サイドに二本ずつ――四本のスチール・パイプが前方にのびている。後方のボンベに収納された高圧ガスがパイプ内の金属矢を放てば、それは不動の直線を騎士の心臓へ引くにちがいない。
「ほう、もうひとり、憂さ晴らしの獲物がいたか。少しは生きがよさそうだが」
こう青騎士が応じただけで、空気はまた凍りついた。
「やめんか、エレナ」
村長が沈黙を破った。二人の殺戮者へ向かって、
「死んだ者たちについては何も申し上げません。せめてその二人だけは、お許し下さいませ」
嗄れ声で乞う横顔を風がなぶった。草が歌っている。
およしよ およしよ 救けてなどくれないさ
「この者たちは、姫の命令を無視した。お生命を狙った者が捕らわれるまで、何人といえども村を出てはならん。また、入れてもならん。みだりに逃亡する者は、犯人の一味とみなして即、処断する。――その言葉を遵守させるのが、我らの務めだ」
「それは、あんたたちが、面白半分にみなを殺すからじゃないの! あの女の命令には、まだつづきがあるわ。布告後十日以内に犯人を捕らえられない場合は、村人十名を杭に刺す。以後も一日ごとに五名ずつ八つ裂きにする、と。逃げ出すものがいても当然よ」
「当然?」
二名の騎士は顔を見合わせ、哄笑した。
「その言葉――おまえたちとこの村に返してやろう。見るがいい、この青い大地、実り豊かな穀物――これを実現させたのは誰だ? 荒れ果てた荒野に、錆びた鍬を打ち込んでいた獣のような人間どもか? あのとき、おまえたちは姫に何と言った?」
エレナは唇を噛んだ。動揺が彼女の背後の一団――同じような|服装《なり》からして仲間にちがいない――の間を波のように渡った。しかし、エレナはすぐに顔を上げ、
「昔は昔よ!」
と叫んだ。
「なに?」
青騎士の右手で、長槍がかすかな音をたてた。
「まあ、待て」
と口をはさんだのは紅騎士である。
「ここで、こんなことを言い争ってもはじまるまい。命に背いたものは処分した。その二人、連れて戻れ」
村長が喜色を浮かべて、
「よ、よろしいので!?」
「よい。早く行け」
「それは――さ、二人ともおいで」
と両手をさし出したが、へたり込んだ女と子供は、声も出さず泡を噴いているばかりだ。その眼が映しているのは、世界ではなく、死そのものであった。
「えーい、仕方がない。それ、早く」
村長は意を決したように、血まみれの路上へ進み出た。
あと一歩で二人に手が届く――その瞬間、びゅっと風が唸った。
舞い上がった二つの首を、血の噴水がきらめきつつ追うよりも、草々の歌の方が早かったようだ。
およしなさい およしなさい
救けてなんかくれないから
紅騎士の刃が血風を巻いて鞘へ収まると同時に、青騎士の槍が舞った。
切り口から噴き上げる虚しい生命の証しが風に千々と砕け、真紅の紗幕と化して人々の顔に吹きつけた。その奥から紅騎士の声が、
「背命したものに例外はない。もうひとり、姫を女と呼んだその牝猿も」
反射的にエレナはガス銃の狙いをつけようとしたが、赤黒く染まった視界はそれを許さなかった。代わって襲い来るは鋼の妖剣か、血の長槍か。少女の顔が血と死の色に染まった。――刹那。
朱の幕はふたつに裂けた。新しい|物語《ドラマ》のはじまりを告げるように。
街道の方から吹きつける風に、死の騎士と馬たちでさえ、顔をそむけて後退したのである。
奇怪な現象はすぐに|熄《や》んだ。
そして、顔を上げた者たち全員が見た。
死者と杭の間を妖々と進んでくる漆黒の騎馬を。
誰の眼にも、なぜか、それはひどくふさわしい光景に見えた。
杭に刺された髑髏が風に歯を鳴らした。青草がなびき、惜しむことを知らない陽光はこのとき、流れる雲に隠れて煙った。
誰もが、他のすべてを忘れて新しい登場人物に見入ったのである。
紅騎士から三メートルほど離れて、騎馬は歩みを止めた。
|旅人帽《トラベラーズ・ハット》の下の顔は、この世のものではない。その美しさ。――風さえも熄んだ。多分、恍惚となって。
「道を開けてもらおう」
と旅人が言った。
「何者だ、おまえは?」
と紅騎士が訊いた。
「ここは我らが主人の土地だ。何人も入ることは相ならん。すぐに戻れ」
だが、目下、侵入者はその場で斃すのが彼らの使命ではなかったのか。この冷酷無慈悲な殺し屋たちは、眼前の若者に何を感じたのか。
「この先はサクリの村だな。そこに用がある」
若者は臆した様子もない。長髪が風になびいている。
「ほう、死にたいか」
と声をかけたのは青騎士だ。
「どうした、紅騎士。いい男なので気後れしたか。何なら、おれが」
もちろん、これは冗談だ。紅い仲間の実力と残忍勇猛さは、彼自身が一番よく知っている。だからこそ、
「やってみろ」
こう言われたとき、思わず、きょとんとしてしまったのも無理はない。
「何?」
と問い返したのは、二呼吸ほどおいてからである。
「まかせる。やってみろ」
答えたのは、まちがいなく紅騎士だ。そして、彼は道の端まで後退したではないか。
村長もエレナもバイクの若者たちも、愕然と眼を見張ったままだ。ダイアンローズの四騎士が後じさりするとは――これは白昼の悪夢ではないのか。
何事もなかったかのように若者は馬の腹を蹴った。
抱き合った首のない死体と、かたわらの村長へ一瞥も与えず進み――次に待つのは青い騎士であった。
距離を詰めていく二つの影を見ながら、村長たちの表情は不思議と穏やかであった。やっと、世界が正常さを取り戻した。やっと、青騎士が戦ってくれる。彼らは本気でそう考えていた。紅騎士が黒衣の若者を通したのは、それほどの異常事だったのだ。
青騎士が槍を持ち直した。
距離は五メートル。
青草が哀しげに身をくねらせ、こんな歌を歌った。
およしよ およしよ どちらかが死ぬよ
三メートル。
青騎士の馬が、荒ぶる気を押さえるみたいに低く鳴いた。空には暗雲。
二メートル――今。
はっと紅騎士が後方――草原の方を見た。
「よせ。黒騎士殿のお出ましだ」
緑の広がりの彼方からもう一個の騎影が疾駆してきたのである。馬上の騎士はその名の通り黒い甲胄に身を固めていた。紅騎士が殿と呼んだ一事でも、彼らの上に立つ存在と知れるが、鉄蹄の響きとともに草の海を抜け、街道へ躍った姿には、確かに限りなく重い鉄の核みたいな迫力があった。若者も馬を止めている。
黒い兜が惨状を眺め、
「|惨《むご》いことを。――馬鹿どもが」
吐き捨てるように言う声にも、鉄の重さがあった。
「お言葉を返すようだが」
と青騎士が口をはさみ、
「黙れ」
遠い海鳴りのような一言を受けて沈黙した。
「逃亡者を殺すのは構わん。姫の御下知通りだ。だが、年端もいかぬ子供の生命まで奪ってなんとする。我らは鬼畜ではないぞ。村長、幼子たちへの詫びはいずれ姫からしよう。二度と命に背くものが出ぬよう心を配ることだ」
老人は声もなく頭を下げた。
蹄の音が一同の耳朶を打った。何と、黒衣の若者が歩き出したのだ。その大胆というか、ふてぶてしいというか――あまりに桁外れの行動に、青と|紅《くれない》の騎士さえ声もなく見送ったのである。
「待て」
黒騎士が呼びかけた。
黒衣の影はただ進む。
それを予測していたものかどうか、怒りのかけらも含まぬ声で、
「名を聞いておこう」
と黒い騎士は言った。
「D」
そのとき、雲間から一条の光が若者の顔へさし恵んだ。血の気のややうすい肌が薔薇色に染まる――その美しさ。
路上で、喘ぐような声が上がり、潮騒のようなざわめきが広がった。最初のはエレナ、後は仲間たちの洩らした声であった。
「その名、覚えておくぞ」
黒騎士の声を背に、Dと名乗る若者は悠々と歩み去る。白昼の惨劇など目撃しなかったとでもいう風に。
いつの間にか、騎士たちの姿も消えていた。
「死体を運ぶぞ、手を貸せ」
村長の声に、バイクの仲間たちが駆け寄るのも知らぬげに、エレナのみは村の方へ――美しい若者が歩み去った方角へ、茫とした眼差しを送りつづけていた。
「見た?」
そばを通り抜けようとしたひとりが足を止めて、
「何をだよ?」
と訊いた。
「あの男に手を出せなかった」
エレナは夢を見ているように言った。その通りかもしれなかった。
「ダイアンローズの騎士が三人――すくんじまって、剣も抜けなかったんだ。あの男ならやれる。私たちを救け出してくれる」
握りしめた拳に決意を表す娘のかたわらで、草がささやいていた。
何と?
その青年の訪問は、小さな村に大きな波紋を起こさずにはおかなかった。
通りを歩むDを人々は足を止めて見つめ、茫然となり、彼が歩き去ってからも、長いことその後を追っていた。
首にスカーフを巻いた者たちは例外なく、ひどく恥ずかしそうにそれを押さえ、それからうつむくのだった。
「どこの宿に泊まるのかしら?」
と女たちは、老若を問わずにつぶやき、
「あの剣、あの眼つき――只者じゃねえぞ」
と男たちは噂し合った。
女たちの予想を裏切って、Dは村の宿に泊まらなかった。村外れの一軒家でようやく足を止め、馬から下りると、動物の骨でできたノッカーを叩いた。
扉の横の看板に、
「|魔法治療《ウイッチ・キュア》 ママ・キプシュ」
と焼き文字が押されている。
少しして、扉の向こうから、
「誰だね?」
と落ち着いた老婆の声が訊いた。
「旅の者だ」
とDは答えた。
「ママ・キプシュか?」
「誰に訊いてもらってもいいよ」
「お孫さんからの|言伝《ことづて》がある」
皺だらけの顔の中で双眸が目一杯見開かれた。それから、
「あの碌でなしめ――人の気も知らないで。何処にいるんだね?」
「亡くなった」
「え?」
老婆の身体は人形のように固まった。青い眼が、眼前の若者を美しい死神だと告げている。
「ちょ、ちょっと――どういう意味だね? 詳しく聞かせとくれ」
「この村から南へ十キロほどの川辺にひっかかっていた。自分とあなたの名前と住所、それから『元気でな』と伝えてくれと言って亡くなった。――伝えたぞ」
「あン」
とうなずいてしまい、婆さんが我に返ったとき、黒いコート姿は馬にまたがっていた。
「ちょっと待っとくれ。こら――」
ひいひい言いながら玄関を出て、サドル・バッグに手をかけた。
「なんて愛想がないの。ほんとの色男だよ、あんたは」
と自分の右手の脈をとり、
「ほら、おかげで百五十回を越えそうだ。あたしゃ、二度、人工心臓を取っ替えてるんだからね。三度目は生命が危ない。死んだらあんたのせいだ。一生怨むよ」
「慣れているよ」
Dの返事に、ママ・キプシュははっ[#「はっ」に傍点]としたように彼を見上げた。
しげしげと見つめる間、息が切れるのも忘れていたようだ。うなずいて、
「そうか……そうだろうねえ。凄い鬼気だ。ちょっと走ったくらいで、こんなに息切れするわけがないと思ったら。――あたしゃ、あんたが怖いんだね。ねえ、何人くらい|殺《や》ったのさ、その剣で?」
「用がないなら行くぞ」
「お待ちってば。そう|情《つれ》なくすると、いい死に方しないよ。まあ、情なくしなくても、安らかにゃあ死ねないだろう。――待ってってば。孫の死体はどうなったのさ?」
「川に流した。そういう遺言だった」
「嘘をおつき」
老婆は地団駄を踏んだ。
「どこに好きこのんで川に流してくれって頼む人間がいるもンかい。大体、十キロなら、十分連れて来られる距離じゃないか。あんた、何か隠してるね」
「死体を見せたくないと言っていた。流される途中で何度も岩にぶつかったらしい。詳しく聞きたいか?」
「よしとくれ」
「おれは村外れにいる。訊きたいことがあれば来い」
動き出した馬から、ママ・キプシュは手を放した。
その姿がふり向いても見えないくらいになったとき、
「えらい婆さんじゃの」
手綱を持ったDの左手のあたりから、嗄れた声が面白そうに言った。
「だが、あれくらいでなければ、孫もああ[#「ああ」に傍点]はいかん。くく、川に流した[#「川に流した」に傍点]か。――ぎゃっ!?」
Dは左手を固く握りしめたが、その力は少しも手綱に加わらなかった。
真っすぐに村外れへと出、細い枝道を何度か折れた挙句に、Dは奇妙な廃墟に到着した。
茫々たる青草に覆われた広場の中央にそびえる石と金属の壁は、高熱に叩かれたみたいに溶け、あるいは崩れ、もはや施設の体をなしていないが、眼を凝らせば、石を敷き詰めた基礎部や回廊、部屋部屋の仕切りの痕を見つけ出すのはたやすい。
風にゆれしなる草々と白い花の間を、それらの残骸は直径二百メートルにもわたって、その営為の空しさと時の風の非情さとを示しながら散らばっていた。
かろうじて残る青銅の門と石柱をくぐって、Dは廃墟内へ入った。
頭上で風が鳴っている。
門を抜けるとき、何らかの建築技法の名残か、それは不思議と哀しげな音色となって黒衣の旅人に吹きつけるのだった。
柵らしい木の柱にサイボーグ馬をつなぎ、鞍とサドルバッグと毛布とを下ろして、Dは西の方を眺めた。
緑の丘の連なりが絵のようにつづいている。その一番奥の隆起の頂に、荘厳な|城館《シャトー》がひとつそびえていた。
山岳地帯にほど近いこの地方では、貴族の館といえど砦を兼ねている場合が多いが、これは例外的に、夜に生きるものの本性にふさわしい優雅と絢爛とを備えていた。
死の騎士たちの言う“姫”の居城であろう。
だが、さしたる感慨もなく、Dは眼を廃墟に戻すと、点検するみたいな注意深い足取りで、わずかに残存する屋根や防護壁の間を歩きはじめた。
その歩みが半ば完了したとき、彼の抜けてきた小路の方角から、派手なエンジン音が近づいてきた。
廃墟の手前でバイクを止めたのは、エレナとその仲間たちであった。空気にガソリンの匂いが強く混じった。
廃墟へ入ろうとして、彼らは電撃に打たれたかのように立ちすくみ、現れたDの歩みに合わせて後退した。
美貌と歌声で川船の船長を魅了し、遭難させてしまうという|水妖《オンディーヌ》も、ひと眼見たら自身が犠牲者の轍を踏んでしまうにちがいない美しさと、それを遙かに凌駕して見るものの身肉に食い入る鬼気――四騎士以上の魔物と相対しているような気がエレナにはした。
「話があって来たのよ」
やっと声が出た。喉がひっつきかけ、ひどく嗄れていた。
「何の話だ?」
その声と同時に鬼気も和らいだようで、エレナはほっと息をついた。軽いめまいに襲われたが、何とか踏ん張った。仲間が見ている。無様な真似はできなかった。
咳払いをひとつして言った。
「あたしたち、あんたに感心しちまったんだ。で、仲間に入れてやろうと思ってさ」
Dが背を向けるのを見て、一同は顔を見合わせた。怒りや動揺の表情はない。誰もが黒い旅人の実力を目の当たりにしていた。
ひときわ大型のバイクにまたがった若者が身を乗り出した。バイクに合わせて身長も二メートル近い。
「やっぱ、まずいぜ、エレナ。――入れてやるなんてよ。どう見たって、力はあっちが上だ。ここはよいしょ[#「よいしょ」に傍点]する手だぜ」
「見ず知らずの流れ者に下げる頭なんかないわ」
娘の頬に朱が昇ってきた。唇を真一文字に結んで、
「みな、グラウの店に行ってて。あたしが話をつけてくるわ」
「おい」
「リーダーは誰なの、シュタール?」
「おめえだよ。それに異議を唱えた奴なんかいやしねえだろうが。だけど、今度は――」
「あたしが危ないから、口をはさんだってのかい? じゃあ、今までは、あたしをお守りしてたわけ!?」
両眼が凄まじい光を放って、大男――シュタールを沈黙させた。
「わかった」
とシュタールは眼を閉じて自分を納得させた。バイクのハンドルを握ってふり返り、
「おい、みんな、聞いた通りだ。グラウの店へ行くぞ!」
排気音と気配が消えたのを確かめてから、エレナは廃墟の方をにらんだ。旅人の姿はない。
片手を左胸にあて、呼吸を整えた。腰に巻いた武器がひどく頼りなく感じられた。
それでも、一歩一歩、敷石を踏みしめるような足取りで、彼女は廃墟へ身を進めていった。
馬はすぐ見つかったが、Dの姿はなかった。廃墟はかなり広く、隠れる場所も多い。子供のときから遊び廻ってきたエレナには自宅の庭みたいなものだが、一発で見当をつけるのは難しい。
「見てな。人を無視したらどうなるか、思い知らせてやる」
言いざま、腰のあたりに垂らしていた右手が上がるや、黒い筋が迸って廃墟の石の梁に巻きつき、次の瞬間、エレナの身体は軽々と宙に舞っていた。
最も高い梁――十メートルの頂から見下ろすと、廃墟も一望の下だ。
眼を凝らしたが、下は地面と廃墟との間にわずかな緑の|斑《ふ》が点綴しているばかりだ。
Dを探すつもりが、エレナは西の方角に眼をやっていた。館の像が|焦点《フォーカス》を結ぶ前に唇が歪み、歯が軋んだ。
その怒りが絶頂へ向かって迸る寸前、
「やめておけ」
背後からの声に愕然とふり返るまで一秒も要したことで、怒りの程が知れる。右手ががちゃりと鳴った。拳からこぼれたものは細長い鎖であった。小石大の分銅がついたそれが彼女を宙に浮かせたのである。
背後に立つ世にも美しい若者を、鋭い視線が迎え討った。
「遺跡に罪はあるまい」
とDは言った。
「あんたでもいいさ」
エレナは手の中で鎖を弄びながら言った。十五メートルを越す量は、細腰に巻きつけてあるのだろう。お嬢さん芸とはとても言えまい。Dが来なければ、梁や天井を砕いていたところだ。
「さっきから、随分なことをしてくれるじゃないよ。断っとくけど、あたしたちがあの騎士どもを怖がってるなんて思ったら、大間違いよ」
「用件は?」
風が黒いコートの裾をふるわせた。糸がほぐれ、内側の生地がのぞいている。端はずたずただ。
「これよ!」
びゅっと風を切る黒い光が、Dの胴を腕もろともくびらせた。
「あっ!?」
エレナの叫びは風に吸い取られた。茫然と、彼女は巻き取った木の枝を見つめた。Dが用意したものであろう。彼女の武器を見抜いていたに違いない。当人は前と変わらぬ場所に立っている。
「やるわね」
二撃目は一直線にDの胸へと走った。無限長の突きをDは半身になってかわした。その背後で鎖はスピードを落とさずに廻り、逆進するやDの首に巻きついた。
「かかったわね。分銅術の基礎の基礎よ。さっきのお手並みはどうしたの? あれはまぐれ?」
「いいや」
エレナは思わず四方を見廻した。嗄れたその声が、Dのものとは思えなかったからである。
次の瞬間、漆黒の身体が跳んだ。これは予想外の行動で、エレナはとっさに手がなかった。
光が頭上に躍った。
ひい、と叫んで両手を広げたのは、我ながら奇跡的といっていい反射神経の賜物であった。
じゃりん! と鳴って、鎖は鋼を止めた。
だが、エレナは動けなくなった。Dは一刀を片手で持っていた。対してエレナの手は二本。男女の力の差を考慮しても、跳び退くくらいはできるはずだ。それなのに、身体は鉛にでも変じたかのように動けない。いや、手だけは下がりつつあった。徐々に徐々に、しかし、確実に。
ついに、鎖の端が額に触れた刹那、
「まいった!」
エレナは血を吐くみたいな気分で絶叫していた。
正直、それで救われるという自信はなかった。このまま斬られる――その思いが強かった。この若者ならば仕方ないような気が、胸のどこかにあった。
だから、急に圧搾感が失われ、両手が上へ跳ね戻った瞬間は、あっけにとられたほどである。驚きはそれでも収まらなかった。
彼女になど興味もなくしたように館の方へ眼をやるDの右手。
「剣がない!」
エレナの全身が総毛立ったのはこのときだ。
鋼のかがやきと見えた一閃。鎖を叩いた手応え。そして、あの響き。――どれをとっても凄まじい豪剣の一撃としか思えなかったのに、すべては幻だったのか。彼女が死力を尽くして受け止め、跳ね返そうとして果たせなかったのは、寸鉄も帯びぬ素手の手刀であったとは。
「館には騎士が四人だけか?」
それがDの質問と理解したのは、数秒後のことだ。答えを口にしたのは、さらに数秒後であった。
「わかんないよ。誰も行ったことはないんだ」
それだけ言って、首を落とした。Dが一刀を握っていたら、受けることもできずに両断されていたにちがいないと覚ったのである。
ふと、気がついた。必死の思いで顔を上げて訊いた。
「あんた、あそこに用があるの? ねえ、ひょっとして――ひょっとして吸血鬼ハンター?」
「外まで行ったことは?」
とD。
「あるわよ。何度だってあるわ」
胸の中が熱くなるのをエレナは感じた。冷えきった心臓に、ちょろちょろと血が通っていく。
「城壁のすぐ近くまで防御装置はない。昔はふんだんに備わってたらしいけど、今じゃあっても内側だけだよ」
「出入口は?」
「城門以外はなし――と言いたいとこだけど、ひとつある。これも昔、村の奴らがゲリラ戦をしかける前日に開けといた穴がある。この前――三日前にも通りかかったけど、健在だったよ。大丈夫、楽に入れるサイズさ。ね、行くの?」
「用がなければ帰れ」
「嫌よ。あたしも連れてって」
エレナは全身に力がみなぎるのを感じた。絶望感は消しとんでいた。自分を赤ん坊扱いした若者が館の貴族どもと戦う。意識しただけで興奮に身が震えた。
「あいつらには怨みがあるのよ。特にお姫さまとやらに。お願い、協力させて。さっきの失言は謝るわ。あんたがリーダーで結構よ」
「怨みで貴族は斃せん」
Dは冷ややかに言って上空を見上げた。日没までの時間を測っているのだ、とエレナは想像した。
ふわりと黒い影が傾いた。十五メートルの高さを音もなく舞い降りる。コートが翻り、ある生物の名を少女に連想させた。まるで――
馬の方へ歩き出した影へ、
「あたしも行くわよ!」
ひと声叫んで銃を握りしめ、エレナはDの後を追った。
廃墟を出て五分もしないうちに、エレナは新たな驚きに包まれた。普通のサイボーグ馬の倍の|速度《スピード》を誇るバイクが、疾走する人馬についていくのがやっとなのだ。どう見てもカスタム型でない以上、乗り方が違うとしか思えない。
丘の麓へ着くと、Dは少女の方をふり返り、
「ここで待て」
と言った。
「嫌よ」
エレナは首をふった。
「穴の在り場所を教えていないんだからね。いくらあんただって、探してる間に日が暮れちまうわよ。そうしたら、くやしいけど、あのお姫さまの天下。そうでなくても、あの四騎士は昼間も動き廻るんだ。味方はひとりでも多い方がいいわ」
Dは無言でバイクに近づき、馬上から身をずらした。伸びた左手がハンドルを掴んだ。
すぐに手を離し、彼は馬首を巡らせた。
鞭も当てず、拍車で蹴りもせず、手綱捌きだけで馬を進めていく。
「もう!」
吐き捨ててアクセルを廻し、エレナは眼を剥いた。スタートしないのだ。エンジンは作動中なのに、燃料のジェット噴射が途切れている。
「嘘だ。――今朝、チューンナップしたばかりよ!?」
夢中でアクセルをふかすエレナを尻目に、黒い騎馬はみるみる小さくなっていく。
「覚えてらっしゃい!」
心底からの怒りをこめて、エレナは絶叫した。
館の周囲の地形と仕掛けは、Dの記憶にあった[#「記憶にあった」に傍点]。
迷路、砂地獄、大洪水地帯、槍ぶすま、怪虫陣――侵入を許さず脱出も不可能な死の罠が、これだけとは限らない。制御を担当する電子脳は昼も不断の警戒体制を敷いているだろうし、すべてを切り抜けたとしても、あの四騎士が待っている。生ある者が行くべき場所ではなかった。
黙然とDは進んだ。
忽然と光景が変わった。
黒ずむほどの緑が根こそぎ薙ぎ払われたように消滅し、大地は赤茶けた地肌をさらしていた。草木ひとすじ、石ひとつ見えぬそこから紡ぎ出されるイメージは、仮借なき破壊と破滅だった。
一瞬の躊躇もなく足を踏み入れ、Dはそこを過ぎた。
じき、瀬音が近づいてきた。大量で激しい水の流れは、さらに五分ほど進んだ後に騎馬の行く手をふさいだ。
ガラスのように見える水流は、城館のそびえる丘の西を迂回するように迸って、この地方一帯を潤しているのだった。
川の上流――二十メートルほどの地点に吊り橋がかかっていた。高さ十メートルほどのそれをその三倍も渡れば、城の門へ一直線で通じる急坂の下に出る。
橋まであと五メートルというところで、
「|胡乱《うろん》じゃな」
Dにしか聞こえぬ声が、手綱を握った左手のあたりから響いた。
「さっきの荒地もこの川も橋も、とんでもない仕掛けがあるぞ。勘がそう言うとる。む、もう渡っておるか。聞き分けのない奴め」
声には異議と不満がみなぎっていたものの、何事もなくDは橋を渡り、さしかわす木立の中を走る|隧道《トンネル》のような道へ入った。
陽光が翳り、人馬のあちこちに光と影を鮮烈にちりばめた。
「ほれ――始まった」
と声が言った。
隧道の丸い出口に真紅の騎馬が立っていた。戦いの予兆が空気を染めていく。ここは敵の陣内――圧倒的にDが不利だ。
それでも美しき狩人は進んだ。いつもそうして来たように、ためらいも恐怖もなく。
紅騎士も動かない。
塞ぐものと進むもの――双方が出会ったとき、何が起こるのか。
さしかわす枝の葉も耳を立て、眼を見開いてその瞬間を見守っているようだ。
だが――
紅騎士はすっと脇へ退いた。
当然だという風にDは隧道を抜けた。強敵を見向きもしない。
数歩離れたとき、
「迎えに参上した」
と、軋るような紅騎士の声がきこえた。
「無用だ」
とDは答えた。
「そうもいかん。おまえがやって来るのは、とうにわかっていた。何もせずに迎えろと姫のご命令だ」
まだ、陽は高い。貴族なら眠る時間だが、柩に入っただけで、起きている者もいる。
紅騎士は馬の腹を蹴って、Dに走り寄った。
「おまえがどうあろうと、おれは案内する。それが臣下の務めでな」
Dは前を向いたまま、
「おれが斬りかかったらどうする?」
珍しく自分から訊いた。
「黙って斬られる外あるまい。戦えとは言われておらん」
この凶暴無類の騎士の口から出る言葉か、これが。
「余程、大事な御方らしいな」
「そうだ」
「命じられておれば、おれが姫とやらを斬っても傍観しているか?」
「そのときは、おまえを殺した後で、おれも生命を断つ。だが、そんな心配はいらん」
ここだけ、不動ともいうべき自信に満ちた声で、
「おまえごときに斃される姫かどうか――まあ、会ってみることだ」
それきり黙って、五分ほど歩き、二人は幅広い坂の下に出た。
六十度近い傾斜の彼方に、館とそれを取り巻く壁が見上げられた。
「この坂が最後の守りになる」
と紅騎士は言った。子供なら、普通の口調でも青ざめそうな声に、奇妙な響きが含まれていた。懐かしさであった。
「かつて、我らはここを下って敵を迎え討ったものだ。衆寡敵せず、ここまで侵入されたこともある。だが、いかなる敵も、この坂を昇りきった者はない。打ち寄せる大波を、我らは常に鉄壁となって跳ね返し、ついに退かせた。――何もかも昔のことだがな」
声が切れた。すぐにつづいた口調は、また変わっていた。
「それもこれも、ただひとり、孤城を守る姫の心意気に打たれてのことだ。下界では貴族の落日などと口さがないが、我らは認めん。姫の領地では許さぬ。ここではなお、貴族の栄光がかがやいておるのだ」
真紅の馬は急坂に片足をかけた。軽々と昇っていく姿は、重力場の変動を思わせた。垂直距離で約五十メートルほど上がってから、
「ついて来れるか?」
とふり向き、兜の下で眼を剥いた。Dは三歩と離れぬところにいた。坂の表面の土はひどく崩れ易い。敵の侵入を防ぐためだ。それを平然と昇るには、尋常ではない乗馬の技量が必要であった。
黒土を滑らせながら、二人は坂を昇り切り、じき、門の前に出た。
誰でもここに立って見上げれば、館の四隅を飾る塔や、小館と小館をつなぐ回廊、何よりも本館の偉容――それらが与えるものとは全く異なる感情を抱かずにはいられまい。
そびえる石壁には幾千ものひびが蜘蛛の巣みたいに走り、塔の先端は崩れ落ちて、眼窩のような小穴が開いている。空気中の電気エネルギーや風力エネルギーを吸収するための交差アンテナは、回転こそしているものの、かえって死の世界の印象ばかりを際立たせる。ここは、まぎれもない廃墟であった。
「開門!」
紅騎士が吠えた。|口前《くちさき》の空気が消しとんで真空をつくりそうな大音声である。
「姫の命により、Dを連れて来た。開門!」
声の余韻が消えないうちに、鉄と鉄のすれ合う音が、黒い影を伴って頭上から落ちてきた。
二人と門扉の間には、水も涸れた深い堀がある。橋を兼ねた門扉であった。瀟洒な趣の館にはふさわしからぬ城砦用といえた。二本の太い鎖が上辺の両端から城内へ消えている。
地響きをたててかけられた橋を渡って、二人は城内へ入った。
荒涼たる光景がDを迎えた。
館の前庭であった。
うずたかく積もった木立と枯れ葉とは、腐食土の堆積を思わせる。
|阿亭《あずまや》の屋根はことごとく崩れ落ち、本館の一部もわずかに白い円柱を残すのみ。陽光の下だけに、仮借なく暴き出された光景は、滅びという語彙の持つ優雅さは微塵もなく、背筋の寒くなるような凄惨さを引き立てている。
「あなどるな。これは昼の姿よ」
と紅騎士は告げて、比較的破壊の少ない別棟へと馬を進めた。
Dが通された一室は、誰が手入れをしたものか、黄金と水晶でつくられた古えの豪奢さを保っていた。
「わかっていようが、夜まで待て」
言い置いて、紅騎士はドアへと向かった。
その足が止まった。
ふり向いた眼前にDが立っていた。
「貴様……」
呻く顔に吹きつける凄愴な鬼気――はじめて、彼は美しい若者の正体を知った。
「かつて一度だけ、おれに同じ思いを味わわせた奴がいた。貴様も同じか――吸血鬼ハンター?」
「その通りだ」
とDは言った。
「姫とやらは、どこにいる?」
尋ねるDの両手は垂れたままだ。筋肉ひとすじも緊張していない。だからこそ、怖い。だからこそ恐ろしい。
「おれがそれを言うと思ったか?」
紅騎士は、やっと嘲笑した。
「おれを斬るか。それもいい。おれは戦ってみたい。だが、斬られても手を出すなと姫の申しつけだ。せめて、ここは通さん。Dよ、あの世で逢おう」
彼はドアの前に仁王立ちになった。冥界の扉を守る鬼将のごとく。
「逃げんのか?」
Dが訊いた。紅騎士は哄笑した。
「そのような言葉、生まれてこの方、耳にしたこともないわ」
たとえ死しても、Dの太刀筋なりと見極めるつもりか、見開いた両眼の奥に閃きが走った。黒い閃きが。
最も装甲の薄い部分――喉元を突かれて失神した巨体を見ながら、Dは鞘ごと抜いた一刀を背に戻した。
「我慢強い奴じゃの」
左手のあたりで低い声が感心したように言った。紅騎士は倒れなかった。仁王立ちになったまま、意識を喪っていた。
「さあて。ひとつ尋ねてもよいかな?」
と姿なき声。
「奴を押しのけて出るか、それとも? けけけ――うげっ!?」
左手の指が折れるほど握りしめて、Dは床を蹴った。
五メートルもの高みの天窓へ、コートの裾を翼のように翻した一羽の魔鳥のように。
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第二章 薔薇城館
数分後、Dは本館のホールに足を踏み入れた。紅騎士を眠らせたとしても、敵は少なくともあと三名。うちひとりは眼にこそしていないが、他の連中の実力からして、並の相手ではあり得ない。
玄関の一部が破壊されたきりの天井は、しかし、あちこちが崩れ、筒状の光をほろほろと床に落としている。
Dの目的地は、言うまでもなく、姫と呼ばれる女の墓所であった。
多くの場合、貴族は庭の一角に独自の墓所を持っているが、中には母屋の地下に備えている場合もある。
裏へ廻る前に、まず本館を調べたのは道理に叶っていた。
ホールをひとあたり見廻し、Dは奥のドアへ進もうとした。
その背へ、まるで黄金の鈴でも鳴るような声が、
「よく来たわね」
と言った。
ふり向いたDの眼の前に、おぼろげな人型のかがやきがゆれていた。白いドレスの女だ、とまではわかっても、プリズムを通したような偏光にゆれる顔までは、見透かすことはできなかった。
対峙する前に、Dには正体がわかった。三次元幻像である。顔が判明しないのは、その程度の像でいいと考えているのか、または顔を明らかにしないためかは、わからない。それは、姫がDをどのように判断しているのか不明という意味でもあった。
「私、この館の|主人《あるじ》よ。――姫って呼んで」
サクリの村で館の主人の評判をきいたものなら、困惑に頭を抱えてしまいそうな口調であった。声には二十代前後の渋さがあるのに、しゃべり方は童女のようだ。
「黒騎士にきいたけど、背中の剣を一度も抜かずに、青騎士と紅騎士を威圧したんだってね。私、強い男が好きよ。ねえ、生身の私が行くまで、少し待ってて頂戴。あの部屋を出てもいいけど、昼間とはいえ、ここをうろつくのは危険よ。この奥に別の居場所を用意したわ。何ならそこに入っていて。もっとも、きいた通りの男なら、おとなしくなんかしているはずがないけれど」
「紅騎士はおまえの命令で武器を取らなかった」
とDは幻に向かって言った。
「おれが斬れば、大事な部下がひとり減ったぞ」
「ほほ、私が部下の生命を歯牙にもかけない冷血者だと言いたいの? いまも言ったわ。私が考えた通りの男なら、無抵抗の者を斬ったりしないわよ」
女の形をした光は高らかに笑った。
「私を探しても見つからない。紅騎士は死んでも口を割らないわ。好きなだけほっつき歩くといい。じきに私たちの世界が来る。その時が愉しみね」
声と等しく、断ち切るように光は消滅した。
「やるのお」
左手のあたりで面白がっているような声が上がった。
「おちゃらけた声を出しておるが、家来どもの話だけで、おまえの正体を見抜いておる。ありゃ、食わせ者だぞ。くく、こちらも会うのが愉しみじゃて」
Dは答えず、奥のドアに向かった。調査をやめる気など毛頭ないらしい。
「およしなさいってば」
背後からの声が、その足を止めた。かがやきが、Dの影をうすく[#「うすく」に傍点]ドアに灼きつけた。
「そんな顔してしつっこい男ね。女の寝室を覗くものじゃなくてよ。夜まで待ちなさい。ベッドを使うのは夜に決まっているわ。どうしてもっていうのなら――」
声が短い悲鳴に変わった。
女の形をした光の胸もとに小さな穴が開き、すぐにふさがった。
光彩に飾られた顔が後ろを向いた。すぐに、Dの方へ戻りながら、
「今の何?」
と訊いた。Dが放った白木の針とは想像もつかないらしい。感に堪えたように、
「電子でできている私の肝さえつぶすなんて、途方もない男ね、あなた。――これじゃ、何度も[#「何度も」に傍点]殺されそう」
「たいした自信だな」
Dはふり向いて言った。
「あら、うれしい。やっと口をきいてくれたわね。舌がないのかと思ったわ」
「おまえの墓はどこにある?」
「しゃべると思って?」
かがやきがゆれた。笑ったのである。Dの一撃に肝を冷やしたのは数秒前のことだ。
「でも、せっかくだから教えてあげる。私の世界が訪れるまでに、柩の蓋が開けられるかどうか、スリル満点だわ。――あそこ」
光る指がのび、先端から一条の光を放った。それがDの視線を導いた場所は、荒れ果てた中庭のほぼ[#「ほぼ」に傍点]中央であった。墓の所在を示すものはない。
「行ってごらんなさいな。私も付き合ってあげる」
声は弾んでいた。Dの実力を知りながら、自らの寝所を白日の下で教えるとは、何という不敵さか。だが、それを傲慢とも無知とも思わせない無垢のようなものが、女の声にはあった。
目的地に立って、Dは四方を見廻した。
「何もわかりっこないわ。私の柩はこの地面の下に埋もれている。掘り出すには、筋肉以外の特別な力が必要よ」
光が嘲笑った。
Dは無言で片膝をつき、地面に左手をあてた。
「ざっと五メートル」
少し間を置いて左手から戻った返事に、
「あら?」
と光が驚きの声を上げた。
Dは高く左手を上げた。
不意に生じた空気の動きに、光る女影は大きく歪んだ。
左手に吸い込まれていくのは、空気ではなく、天の轟きのようであった。
手のひらに浮かび出た小さな口を、光る女は見ることができたかどうか。その喉の奥に、風にあおられるがごとくかがやく青い炎を望めたかどうか。見るものがいれば、上空の蒼穹さえもが吸い込まれるような錯覚に囚われたであろう。それも数瞬――轟音は断ち切られるように熄んだ。手の口が閉じたのである。行き場を失った空気が地面の草を叩き、Dの髪をなびかせた。
「何よ、今の?」
驚きと子供っぽい好奇心がないまぜになった響きを隠さず、幻の女はその位置から身を乗り出した。
再度、Dの左手が地面につく。
すう、と地面に肘までめり込んだ。抜き出して位置を変え、再び。――奇怪なくりぬき作業を数度繰り返すと、直径一メートルほどの穴が口を開けた。
もしも、そこにDが入って同じ作業をつづければ、五メートルなど五分とかからず達成できるだろう。
「やるぅ」
と光が呻いた。
「こんな手[#「手」に傍点]があるとは思わなかったわ。おかしな手[#「手」に傍点]ね」
「大きなお世話じゃ」
と、その手が吐き捨てた。
「でも、そう簡単に寝室を開けられちゃあ敵わない。邪魔させてもらうわよ。――出てらっしゃい!」
よく通る、澄んだ声であった。
出て来いと言ったが、しかし、何も現れはしない。荒廃の庭園は、貴族のもとへもわけへだてなくさし恵む陽光の下に静まり返っている。
Dは立ち上がった。彼だけは、その静寂の中に凝集しつつある気配を感じたのだ。
殺気はない。――どころか、あらゆる感情の動きがその気配からは感じられなかった。
「|立体実像《ホログラフ》か」
と言ったとき、彼は十個近い人影に囲まれていた。距離は各々四メートル。どれも軽合金の甲胄をつけた戦士たちである。肩と脇の下を保護する|鰭《ひれ》状の刃から、北の辺境貴族独特の鎧とわかる。
全員が透けていた。胸や顔面部のとりわけ厚い部分は黒い輪郭しか映らないが、腹部や|臑《すね》などは、背後の石柱や木立の色までを、かなり鮮明に透かすことができた。ここにいるのは、血と肉を備えた戦士ではなく、電子の集合体なのだ。
「我が城の護衛たちよ。斬られても死なないけれど、相手を殺すことはできるわ。試してごらんなさい」
そう言い放つ光を貫いて、装甲の騎士がDへと跳躍した。
ふりかぶった長剣の刃は二メートルを越す。元来、装甲馬や戦車を迎え討つ武器なのだ。
風を切る刃が頭頂へ食い込むぎりぎりまで待って、Dは一刀を放った。
確かに騎士の胴を二つに断ったはずが、その部分に青白い筋が走ったきり、二、三度、電磁波みたいに点滅を繰り返して消えた。
着地の姿勢から、ぬっと立ち上がった部下を見て、
「ほっほっほ。いくら吸血鬼ハンターとはいえ、電子の結像は切れないでしょ。でも、彼らはやるわよ」
嘲笑する光が指さすDの足下で、白い石が二つに分かれていた。電子の刃の仕業であった。
おぼろな影たちが濃さを増した。包囲が狭まったのである。いかにDといえど、斬れない敵とどう斬り結ぶのか。
「ほほほ、どうするのよ、ハンター?」
のけぞって笑い狂う顔なき光の耳に、
「こうするわい」
と応じた嗄れ声が届いたかどうか。
同じ装甲の騎士が横薙ぎにふるった長剣の軌跡の内側で、Dはその左首筋から右腰までを斜めに斬り抜いていた。
斬線を示す青いかがやきは同じだった。女の哄笑も同じだった。急に止まった。点滅しながら青い斬線は消えず、電子の上半身はずるりと斜めに滑ったのである。
それが地上に落ちても、下半身はなお立っていたが、傷口から青い光が広がり、ひときわ鮮明に背後の光景を浮かび上がらせるや、千々に砕けて消えた。
「ちょっと。――やるぅ!?」
女の声に感激の響きがあるのは、どういう神経か。
「やっちゃえ。ねえ、やっちゃえ!」
号令一下、長剣に槍に陽光をきらめかせて|衛士《えじ》たちは殺到した。
正面からDは受けた。
切れぬはずの槍は両断され、空を切った刃は両腕もろとも宙にとんだ。いかなる技が電子結像を断つのかと問うても愚かであろう。わずか三秒、Dの四肢が躍動しただけで、幻の敵は消滅したのである。
空中に青白い稲妻が数条走り、庭園は平穏を取り戻した。
「感動的ねえ。――こんな凄い男、見たことないわ」
光の慨嘆は本心からのものであった。
「幻さえ斬るなんて、とても防げっこないわよ。私もおしまいかな。でもね、護衛はまだいるの」
光る顔が空中を見上げた。
青空の一点に黒い粒が浮かび、たちまち数個に分離するや、ふた呼吸とおかずにDの頭上へと舞い降りてきたのである。
かつての貴族の恐怖を記した物語には、「天空よりの守護者」なる一項が必ず含まれていたという。
その代表は、南部辺境地区の貴族、ブロックデン一族の領地に見られた。数千キロに及ぶそれは、すべて天空から発するもの――すなわち、鉄をも溶かす稲妻、大地を腐食させる溶解雨、機械兵をも食いちぎる妖物等で守護されていたのである。
いま、Dを取り囲んだのは巨大な蜘蛛の群れであった。高さは一メートル、のばした脚と脚との距離は十メートル、胴のサイズが二メートルほどもある。はみ出た牙をがちんがちんと金属刃のごとく噛み合わせ、黄色い唾液を流している様は、獰猛な獣でも凍りつく恐怖の迫力に満ちていた。
そいつら[#「そいつら」に傍点]が空からやってくる件に関しては、幾つかの推測がなされているが、中でも高い可能性は、地上数百キロに滞空している「武器庫」から放たれるというものであった。何十年か前、そのひとつが墜落したことがあり、調査の結果、大口径粒子ビーム砲や、気象攪乱装置等とならんで、簡便な耐熱装甲とブレーキ・ロケットをまとった数種の妖獣の死体が人々を驚かせた。装甲は降下時の摩擦熱を防ぐためであろう。
六匹の蜘蛛が一斉に八本の脚をたわめた。
闇がDを包んだ。
一気に跳躍したそいつらが陽光を遮ったのである。
ただの闇ではなかった。そこには一点の光もなかった。Dの視界は瞬時に完璧に奪われていた。
なだれかかるように落下する黒い身体の下に、美しい若者が呑み込まれるのを見て、光る女はなぜか嘆息した。
これで終わりと思ったのである。
肉と骨とを貪り食らう音を聴く前に、光は|踵《きびす》を返した。
別の音が聴こえた。
鋼が肉を断ち、断たれたもの[#「もの」に傍点]が苦鳴を洩らす。――それだ。
ふり向いた光の前方に、Dが立っていた。六匹の蜘蛛のうち三匹がその足下に伏し、残る三匹は最初の包囲位置に戻って、痙攣する仲間の身体と美しい殺人者を見つめている。
「また――やっちゃったの?」
光は呆れ返っていた。
「もう、やだあ。駒が尽きちゃうじゃないの。あと三匹――何とかしてよね」
はっぱをかけられても、生き残り組は動かない。
血刀を握りながら、自らは返り血一滴浴びていないハンターの姿に度肝を抜かれたかのように。
「あれ[#「あれ」に傍点]よ、あれ[#「あれ」に傍点]でおいき!」
女が叫んだ。蜘蛛も思い当たったようだ。
黒い身体のあちこちに小さな隆起が生じ、円錐状の突起を形成するや、音もなく黄色い噴水を立ちのぼらせたのである。
それは、大蜘蛛に似て非なる妖物の体液ないし、排泄物だったにちがいない。霧のように降りそそぐ液体を浴びた刹那、大理石の石柱も大地も白煙を噴き上げた。
「そうよ、それよ!」
狂喜する光は、しかし、あっ!? と叫んで立ちすくんだ。
黄色い死の雨に押し包まれたと見えた黒衣の若者が、次の瞬間、空中から彼女の眼前へ降り立ったのである。跳躍して脱出した場所は、この上ない安全地帯であった。
光の幻影とはいえ、主人のもとへ死の雨は降らなかった。
とまどう妖物の眉間へ白光が吸い込まれ、三匹は同時に前へのめって動かなくなった。
左手に残る白木の針をコートの内側へしまうDを、光る女はしげしげと見つめ、少し間を置いて、
「手の打ちようがないわね、こりゃあ」
と言った。
「ね、今の手裏剣打ち、後で伝授してくれない?」
呆れ返った申し込みにDは答えず、墓所の埋設地点へと戻った。
左手をつくや、
「おや?」
訝しげな声が、手と地面の接点から上がった。
「これは面妖な。墓所が消えておる。はて、天に消えたか、地に潜ったか」
ふり向いたDの視線の先で、光は褪せつつあった。
「こうなったら、墓ごと逃げるしかないわ。じゃ、ね。――夜までお待ちなさい」
色彩は陽光に溶けた。
「面白い女じゃな」
一刀を収めるDに、嗄れ声が話しかけた。
「しかし、あの騎士どもが生命を懸けて守るに値するかどうか。いや、これも悲劇かもしれんぞ。とにかく、夜まで待つとしよう」
返事のかわりに、Dは廃墟の西にあたる壁へ眼を向けた。
見覚えのある人影がバイクを押し押し、用心深そうにやって来る。
エレナだった。
「もうひとり、跳ねっ返りがいたか。今回は生きのいい女ばかりが集まってくるの」
無論、答えはなかった。
陽が暮れてもエレナは帰ろうとはしなかったし、Dも強制はしなかった。いざとなったら眠らせればいいと思ったのかもしれない。
廃園で再会したとき、
「よくも置いてきぼりにしたわね」
とエレナは恨みごとを口にしたが、怒りの調子はなかった。愚かではないらしい。
Dが相手にしないので、
「いまの蜘蛛との戦い見てたわよ。私も夜までお供させてもらうわ」
それから、バイクを直すのにどのくらい手間がかかったかを話し、それきり沈黙した。
三時間ほどで、空は青みを深めてきた。
Dから少し離れた平石の残骸に腰を下ろしていたエレナが小刻みに震えだした。
「怖いのか?」
とDが尋ねたのは、どんな心境か。
「武者震いよ」
エレナは両手で肩を抱いた。
「怖いのか?」
とDが繰り返した。
エレナは震えつづけた。それから、
「当たり前よ」
と言った。怒りの口調だった。
「私はハンターじゃない。生身の人間よ。貴族が怖くないわけがないわ」
「なら、どうして来た?」
「大きなお世話よ」
少女は頭を激しくふって、眼にかかる髪の毛を払いのけた。
「あいつらがいる限り、村には本当の平和が来ない。村長も相談役も尻尾巻いてるからね。私は貴族より、そんな村の連中にひと泡吹かせてやりたいのよ」
「村は平和に見える」
とDは言った。
「それに、満足しているようだ」
愕然とエレナはふり向き、
「もう、わかったの?」
低く、うねるような口調で言った。
「村の連中は、みいんな、支配されることに慣れちまったんだよ。この城の貴族がいる限り、どんなに|旱《ひでり》でも畑は青々とし、穀物はいくらでも穫れる。他所のどんな土地へ行ったって、ここほど豊かな村はないんだ。でも、それはいかさま[#「いかさま」に傍点]なんだよ。夏は涸れた水を補給するために、額に汗して井戸を掘るのが普通だし、冬は畑や池が凍らないよう、夜っぴて火を焚くのが当たり前だ。いつだって、好きなだけ食料が調達できる、倉庫にもあり余ってるなんて、そっちの方が狂ってるのさ」
エレナの告白は、自嘲の気味を帯びていた。
「首にスカーフを巻いた連中がいやに多かったのに気がついたかい? あれはみな、貴族の犠牲者なのよ。この城の貴族は吸い方が|上手《うま》くてさ、殺しもせず貴族にもさせずって芸当が可能なんだ。ママ・キプシュっていただろ。あの婆さんが天才的な魔法医者で、それくらいの傷なら何とかしてくれるから、みんな助かっちまう。あたしなら、貴族に血ィ吸われたら、恥ずかしくて生きちゃいけないよ。どいつもこいつも恥知らずだ。ねえ、今どき、人間が貴族に血ィ吸われても黙ってる村なんてきいたことあるかい?」
Dは無言で月光を浴びていた。その姿に、我知らず気が遠くなりかけ、エレナはあわてて意識を別の対象に向けた。
「あいつら――」
言いかけて、急に眼を細めた。うすい鼻をひくつかせて、
「この匂い」
と言った。
「薔薇だ」
とDが応じた。
青い闇から暗黒へ――もうひとつの世界の訪れを讃えるかのように、淡い花の香りが、陽光の名残をとどめる艶やかな空気の中に混じりはじめていた。
「あ」
新たな驚きの声。
エレナの周囲――いや、二人の周囲に、ぽつりぽつりと白い小さなかがやきが点りはじめたのだ。
そして、かがやきは光ではなかった。
花だ。
どこに身を潜めていたものか。うすやみの中に、白い薔薇のつぼみが絢爛と花びらを開きはじめたのである。
しかも、かがやきは花自体の内部から放たれていた。――ああ、自ら発光する夜の薔薇。
エレナは眼を閉じた。
こんなはずはない、と思った。こんな恐ろしい場所に、こんな美しい花が咲くなんて。信じられない。見たくない。悪鬼の|棲処《すみか》はもっと汚れていなくてはならないのだ。闇の中に澄んだ光が点っていた。網膜に灼きついた薔薇の残像であった。それを求める心の動きをエレナは恐れた。瞼は開いていった。
庭は絢爛たる生命をちりばめていた。
咲き誇る大輪の白い薔薇――その周囲でなおも、開花の優美な螺旋を描く色彩は、うすい紫、紅、|青《ブルー》、そして黒。
目もあやな光の交響に、エレナは恍惚と立ちすくんだ。気づかぬうちに|時間《とき》は刻々と経過し、夜の人々が眼醒めて、すぐに彼女を認め――
だが、力強い手が肩を掴み、嗄れ声が耳朶を打ったのである。
「来たぞ、|姐《ねえ》ちゃん」
肩から脳へと冷水のようなものが走り、エレナは自分を取り戻した。
はっと首をふる。
母屋のホールに三つの影が忽然と立っていた。
「よく来たな」
と言ったのは、青い甲胄の騎士であった。
「我らと会ったその足でここを訪れ、あまつさえ、姫のご寝所を脅かすとは、大胆と言っても言い足りない男――だが、もはや、生きては帰れん」
「それとも、我々の仲間になるか?」
と低く尋ねたのは紅騎士であった。青騎士の声にくらべて、やや迫力に欠けるのは、Dに失神させられた立場上、やむを得まい。
「おまえの腕なら、十分に我らと肩をならべられるだろう。それも嫌なら、その娘もろとも」
「四騎士といったな」
Dは静かに応じた。空気が一瞬、甘い香りを失ったと思えたのは、その鬼気ゆえか。
「青と紅と黒――一色足りんな」
「それに感謝するがいい」
と青騎士が言った。仲間の二人から同意の反応は起きなかった。四人目の騎士は、口にするのもはばかられる存在らしかった。
「この辺境では生と死は限りなく近い」
今まで黙っていた黒騎士が抑揚のない口調で言った。
「おまえもハンターならばわかっていよう。我らの城へ入った以上、どちらかが斃れるまで戦うしかない。だが、おまえの生命――断つのは惜しい。我らと行動を共にせよとは言わん。せめて、姫に忠誠を尽くさんか?」
「冗談はそれくらいにおしよ!」
エレナが絶叫した。ついさっきまで震えていた身体は、別の震え方を見せていた。怒りであった。
「この人は、おまえたちをやっつけるために、神さまが贈ってくれた狩人よ。誰が、あんな化物女の子分になるもんか。見ておいで。村の腑抜けどもの力なんか借りない。この人と私で、おまえら全員の息の根を止めてやる!」
三人の騎士は沈黙した。村娘の啖呵に呆れたのではない。言い終えたエレナが、思わず息を引く。そんな沈黙であった。
「化物と言ったな。――姫を?」
青騎士が呻いた。
「その言葉、高くつくぞ」
と紅騎士。
黒騎士だけが、二人よりやや尋常な雰囲気で、
「おまえたちは、どこまで愚かなのだ」
と洩らした。
「我々が何をしたというのだ? おまえたちに与えているのは、平穏で豊かな暮らしではないか」
「その代わり、何人も殺されているわよ」
「ただで物を貰うわけにはいくまい。正当な代償だ」
「仲間の生命と引き換えに平和な生活?――よして。他の連中はともかく、私はごめんだわ。そんなもの、死ぬまで唾を吐きかけてやる」
「なら、じきに終わりだ」
青騎士がせせら笑って、地上へ身を躍らせた。
同時にバイクのエグゾースト・ノズルが煙と青い炎を噴いた。場違いなエンジン音が、古えの花園をふるわせていく。エレナはやる気なのだ。
「姫を侮辱した罪は重い。楽には死ねんぞ。邪魔するな、ハンター」
「それはこっちの台詞よ」
エレナは思いっきり地面を蹴って横へ移動した。バイクの車輪は三六〇度旋回する。
「この人の手を借りなくても、あんたひとりぐらいなら片づけてやる。人間の実力を見せてやるわ、化物の召使い」
「ぬかしたな」
短い言葉の中に、青騎士の怒りがたぎっていた。
右手に長槍を引っ下げ、ずい、と進み出た迫力は貴族の騎士。エレナはバイクごと一歩[#「一歩」に傍点]下がった。その口もとに、こわばってはいるが確かに浮かぶ笑い――この娘の度胸も相当なものだ。
Dは動かない。残る二人の敵を防いでいるのではなく、エレナの死闘を傍見する観察者と化していた。それがルールと全員が知っていた。
「おれから行くぞ」
と青騎士が言った。
「おいで!」
放った刹那、エレナはエグゾースト・ノズルを下方に向け、すでに通常のアクセル・モードからチェンジしていたブースター・スイッチをオンにした。
ぶおおとノズルが絶叫を絞り出しつつ、エレナを左真横へ運んだ。
青い影はまだ、長槍も構えず、もとの位置にいる。
眼をくらませた。――エレナは歓喜の爆発を感じた。右手の親指が発射ボタンを押している。GO!
バイクの両サイドにセットした|火雷銛《ひらいもり》の推進ロケットの尻を電流が叩いた。
火花を噴きつつ、長さ一メートルの凶器が三本、青騎士へと走った。
その場を動かず、青い手首がわずかにこねられた。
青騎士の全身がかすんだ。その刹那、三本の銛は軽々と彼の眼の前で跳ねとばされていた。手首のひねりだけで、長槍を水車のごとく回転させたのである。
それのみか――一瞬に跳ねられた銛が、騎士を狙ったのと寸分違わぬ軌跡を辿ってエレナへ殺到したのは、いかなる神技か。バイクにまたがった娘に逃れようはない!
爆音が銛の進路を狂わせたかのようであった。
三本の凶器は十数メートル先の地面へ浅い角度で吸い込まれ、自重で刺さらず、転がった。
「ほう」
と洩らした青騎士の前――もとの位置から右へ二メートルほど離れたバイクの上で、エレナは微笑した。たかが機械と小娘にこんな神速の行為が可能など、信じ難いことであった。横移動は青騎士の眼にさえ止まらなかったのである。
「おかしな術を使うわね。でも、これでおしまいよ」
エレナの指が計器盤を滑るや、バイクのライトが真紅の筋を吐いた。一年ほど前に、北部辺境地区へ買い出しに行ったとき購入しておいたレーザー発射機である。通信用だが、五百メートル以内なら十分な殺傷能力を誇る。
青騎士の左胸に真紅の花が咲いた。
見る間に色褪せ、装甲の色に戻る。
「残念だったな」
青騎士の右手で長槍が唸った。そのひとふりが、今度は獲物を逃しはしない。
エレナがにっと笑った。
「勝負はこれからよ」
「なにを――」
どうつづけるつもりだったのか、青騎士が一歩前進したとき、閃光がその顔面を打った。
声もなく両眼を押さえ、騎士は後じさった。立ち止まろうとする身体へ、バイクとエレナがとび込み、青い装甲を地面へ打ち倒した。
「とどめよ!」
エレナが右手を掲げた。先端を尖らせた鉄製のパイプが青騎士の心臓を狙う。
その先端へ白光が走った。電撃のショックはパイプをとばしたのみか、エレナの全身を痺れさせた。
「女に斃されたか。――鞭打ちものだぞ」
黒騎士が重々しく言った。
かざした右の指先から青い光がこぼれている。放電中だ。
「……卑怯……よ……」
エレナがバイクから落ちず、倒れもしなかったのが不思議だった。苦悶に喘いでも、眼の光は戦闘続行を告げていた。
「余計なことをするな」
青騎士が立ち上がった。エレナは怯えなかった。
動かぬ手で懸命にアクセルを吹かし、戦闘態勢を維持しようと努める。執念であった。
「見事だったぞ、小娘。――青い騎士が誉めていたと天界で伝えるがいい」
ぐい、と引かれた長槍一閃! エレナの胸もとに吸い込まれた光を、騎士たちは満足げに見つめた。
美しい音とともに、槍は跳ね上がった。そして、全く同じ軌跡を辿って、青騎士の胸へ吸い戻されたのである。
それを素手で受け止めたのはさすがだが、騎士はよろめき、もう一度尻餅をついた。
エレナの前に立つ黒いコートの美丈夫を、三人の騎士はむしろ恍惚と見つめた。それは若者の美貌への純粋な反応か、そんな男とやり合えるという戦士の歓びか。
「どうしても、やる気か?」
と紅騎士が疲れたように訊いた。
「所詮は同じ屋根の下に住めぬ男よ。――姫が眼醒める前に、我らの手で――」
空気ばかりか、咲き誇る花までが凍りついたようであった。
三人が音もなく散った。
対するはDひとり。
長槍を弾き返した一刀を手に、月光を浴びて立つその姿。青、紅、黒、そして白い薔薇に飾られたその姿。
三人の敵ばかりか、苦痛の極みにあるエレナまでが陶然となった。
紅騎士が爪先に力を込めた。
どのような形にせよ、数瞬後には、生と死が火花を散らせたにちがいない。
そのとき――
「お待ち」
静夜にふさわしい澄んだ薔薇の声が闇に流れた。
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第三章 闇に秘めたる願い
三騎士の反応は喜劇じみて見えた。
声と同時に、その場に片膝をついたのである。
声は三騎士の後ろからしたから、その姿を見ることができたのはDとエレナのみであった。
バイクのハンドルにもたれた娘の口から、驚きの声が洩れた。
降りそそぐ月光が、白いドレスの肩にあたり、胸にあたり、スカートにあたっては溶けていた。束の間、小さな宝石のように凝集したそれらは、ひと息の間も見るものに許さず、ドレスの表面をさざ波のように滑って消えていくのだった。
眉、瞳、鼻、唇――個々の美しさと配置の精妙さを、どんな詩人の筆も書き尽くせはしまい。
澄んだ視線をDにあてたまま、娘は手にした薔薇を口もとに上げた。花びらが紅く染まりそうな唇の色であった。
「やっと、私の世界で会えたわね、Dとやら」
女――というより娘と呼ぶのがふさわしい若い顔の口もとに、月光が珠を作った。今は夜であった。
「せっかく来たんだから、お茶でもご一緒しない? あたしなら、よくってよ」
「姫――!」
と叫んだのは、青騎士と紅騎士であったが、
「お黙り!」
まるではしゃぐような一喝に、二人は沈黙した。
ひょい、と薔薇の花が白い筋を宙に引いた。
「そこの汚らしい娘は困るけど、一緒じゃないと、あなたがOKしそうもないわね。二人ともいらっしゃいな」
家来でも誘うように指先の花をふり、娘は急に動きを止めた。
表情がこわばり、すぐに微笑の形をつくって、
「そんな気を出さないで。仕事ひと筋? ――信頼感抜群だけど、きっと石頭ね、あなたって」
ここで、娘は小さく首を傾げた。
「ねえ、提案があるの。私とさし[#「さし」に傍点]で勝負してみないこと?」
Dよりも、三人の騎士がその場に凍りついた。それでも、Dから眼を離さないのは見事というしかない。
「ほほ、私の気まぐれには慣れてるはずよ。敵を前にしておたつくんじゃないわ。――ねえ、さし[#「さし」に傍点]といっても、長いことチャンバラなんて、みっともない真似はごめんよ。気持ちよくいきましょ。私があなたの前に立つから、あなた、好きなようにかかってらっしゃいな。でも一度だけ。それで斬られれば私の負け。もしも無事だったら、あなたの負け。二人して、お茶に付き合わなくてはいけないわ。――どう?」
全員の眼がDに吸いついた。奇妙なことに、三騎士の眼差しは、そんなことをしたらという怒りや恫喝よりも、黒騎士でさえ、どこかすがる[#「すがる」に傍点]ような色が強かった。
「来い」
とDは言った。姫は――なんと、左手の|指を鳴ら《フィンガー・スナップ》して、
「やった。思い切りのいい男って好きよ」
その身体が宙に舞ったかと思うと、わずかに裾を乱しただけで、Dの前に立っていた。
「姫!」
さすがに青騎士が駆け寄ろうとするのへ、
「お黙りって言ったでしょう!」
氷のような声がとんで、青い護衛役をその場へ釘付けにした。
「これで邪魔は入らないわ。さ、やりましょ」
と誘う声の何というあどけなさ。本人は十分に大人の美女だけに、その落差は奇怪ともいうべき妖艶さを感じさせ、女のエレナでさえ生唾を飲み込んだ。
どのように強靭な神経のハンターでも、こうまで野放図に出てこられては、毒気どころか敵意も抜かれ、とっさに攻撃はかけられまい。
Dでなければ。
姫の脳天へ逆落としに白光が閃いた。
仮借なきDの一刀――しかし、エレナは全身の痺れも忘れた。
確かに頭頂から股間までを二つに割られて、妖姫は微笑したのである。
「どっちの勝ち?」
ああ、Dの刃を受けて、こう尋ねたものがいただろうか。姫の鼻先で、白い薔薇はくるくると廻った。
「おまえだ」
Dは無言で一刀を収めた。
「あら、刃を引くなんて嬉しいわ。あの三人が手を出さないと、私を信じてくれたのね。ますます気に入っちゃった。とびきりおいしいお茶をご馳走するわよ」
二人は姫の後について母屋のドアをくぐった。
騎士たちはついて来なかった。姫がそう命じたのである。ついでに、エレナのバイクに手を出してはならないとも言われ、三人は首肯した。
館の内部は贅を尽くしていた。
水晶と宝石、黄金、そして貴族が合成したという伝説の貴金属をふんだんに使った豪華さに、エレナは茫然と見惚れた。麻痺はDの左手をあてがわれて消えている。
「凄いわ……これが貴族の家?」
二十メートルもありそうな水晶の像の足下を通りながら洩らした感嘆の声は、本音であった。
三人の身体の周りを絶えず霧が流れ、まとわりついた分は美しい男女に変わった。エレナが手をふると、それらは笑いともつかぬ笑いを残しながら遠ざかっていった。
「ご覧の通り、この館は少しも変わっていないわ。昼間の見た目は悪いらしいけど、私の時間になればもとの姿を取り戻すの。――気に入って?」
無邪気に尋ねる姫へ、Dの声が応じた。
「貴族は昼の夢を見ていた。今は夜の夢も見るか」
「あら、随分な言い方ね。私はちゃんと生きてるわよ。あなたみたいに、どっちつかずじゃないわ、ダンピールさん」
エレナは、心臓が口から飛び出しそうな気がした。
「あら、驚いてるわね、その小娘。私より付き合いが長いのに、そんなことも知らないなんて。ね、やっぱり、人間って愚かものじゃなくって?」
「どうして、あなたにわかるのよ?」
エレナは勇気をふるい起こした。貴族に対する人間の恐怖は、あらゆる心理と感情を圧倒する。声は嗄れて、小さかった。
姫は憐むように、
「こんな美しい男が人間にいると思って? 五分も一緒にいれば、別の世界の存在だとわかるはずよ。だからこそ、吸血鬼ハンター」
意味ありげな言葉の含む凄惨な意味を考え、エレナは軽いめまいを覚えた。
貴族どもを難なく威圧した|人間《ひと》が、半分は奴らの仲間だなんて。
「着いたわ」
姫の声に合わせて眼前のドアが開いた。三人が足を踏み入れたのは。豪華絢爛たる部屋であった。
大理石のテーブルを囲むと、音もなく半透明の執事が近づき、純銀のカップにワインを注いで廻った。
「お茶と思ったけど、この方が大人の味よ。お嬢ちゃんにはきついかもしれないけれど」
「なによ、こんなもの」
エレナがあおりかけたグラスの表面を、Dの手がふさいだ。
「用件をきこう。お茶を飲む前に」
「飲み終えたら、戦闘開始ってわけ? 安心なさい。きちんとお相手してあげるわ。ただのお茶の誘いだって、素直に思えないわけ?」
「ああ」
「不幸よね、育ちが悪いってのは」
姫はエレナに目配せしたが、娘はそっぽを向いた。
気にする風もなく、グラスの中味をひと口飲んで、妖姫は切なげに息を吐き、
「ねえ、ひとつ、お願いがあるの」
と言った相手はDである。
「あの四人――と言っても、あなたが見たのは三人きりだけど、始末してくれない?」
沈黙が落ちた。エレナは口もとにグラスを引き寄せたまま、眼を見開いている。居心地が悪そうに見えた。
村に生まれ、村で育った彼女は、四騎士と姫との関係を知悉している。
姫を月とするならば、四騎士はそのかがやきを地上に伝える闇であった。
その命ずるところ、騎士たちはまさしく疾風迅雷のごとく装甲馬を駆って、反抗者を蹂躙し尽くした。
皮肉なことに、それはサクリの村を守ることをも意味したのである。
豊潤な作物を狙って、様々な妖物や武装強盗団が来襲したのは、エレナが知るだけでも十数度を数え、過去には文字通り無数だったという。
焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くす――これらを旗印に襲い来る凶人たちを常に間一髪で撃退し、そのモットーを当人たちに報わしめるのは、姫の命を受けた四騎士であった。
一夜にして、丘ひとつを呑み込む巨獣“ツチナラシ”に果敢に挑み、血まみれの激闘の果てに葬り去ったのは、大地を鳴らして駆けつけた四騎士であった。
そして、その行くところすべてを粉砕し、空中高く巻き上げずにはおかぬ陸津波の襲来に際し、貴族の土木装置と科学技術をもって、村全体を一時期、地中深くに沈めて守り通したのも、四彩の風のごとく現れた騎士たちであった。
孤独な城館に住まう美姫を仕留めようとやってきた腕に覚えのハンターたちは、扉を破ることもできず、唸りとぶ剣と槍の前に斃れた。
奇妙なことに、エレナは――彼女ばかりか、村の長老たちでさえ――姫の実物を目の当たりにしたことはなかった。
彼らが生まれたとき、城館の淑女はすでに伝説であった。人々の胸中に生々しい存在として刻み込まれているのは、時折村へとやってくる騎士たちが、そのたびに姫の名と下知とを告げるからであった。
姫とは、どれほどに|齢《よわい》を重ねた女なのか? 陽光の下を歩む騎士たちの正体は? ――この謎は常に人々の口の端にのぼり、空しく脳の闇の奥へと紛れていった。村の創立よりも遙かに古い城主の年齢を尋ねても無意味だ。騎士たちも、あの変わらぬ甲胄の中で、世代交代を重ねているのかもしれない。貴族には、昼の棺を守るための護衛を事とする人間の血脈が従っているそうではないか。
言うまでもなく、貴族は恐怖と憎悪の対象であり、姫とて例外ではなかった。
ある時期は夜ごとに村の若者が、子供たちが、性のへだてなく消え、首に歯型をつけた青白い亜人間として戻ってきた。彼らの吐息には例外なく薔薇の香りが、ポケットには薔薇の花が溢れていた。館の姫が“薔薇姫”と呼ばれる所以である。
それでも、反抗者は意外と少なかった。騎士たちが対外的な守護者の役を果たしている事実以上に、この辺一帯の人間居住区には、他の辺境区と比して、貴族の脅威が深く根づいていた。村外れの収容所に我が子を閉じ込める母親は泣くばかりであったし、牙を剥く妻の心臓へ杭を打ち込む夫の怒りは酒にまぎらされた。
たまさか、勇気ある反抗者が城館への道を辿ったが、多くはそれきり、闇に呑まれたかのごとく消息を絶ち、さらに多くは無残な死体となって、街道から村への路傍を飾った。
変化の兆しが見えたのは、ここ数年のことである。遺伝子に組み込まれているのかと思われた、根源的な貴族への恐怖を持たぬ若者たちが成長し、なかば公然と、姫と護衛たちへの反抗を企てはじめたのだ。
そのひとりで、リーダーともいうべき危険分子がエレナだった。
「どういうつもりよ、あんた?」
と姫に尋ねる声には、緊張と警戒と――期待が混交していた。
「邪魔なのよ、あいつら」
と答えた美姫の相手は、あくまでもDである。
「私もそろそろ、この土地にいるのに飽きがきたの。こう見えても随分長いのよ。でさ、そろそろ世の中が見たくなったと思って頂戴。でもさ、行くんなら、ひとりの羽根ではばたきたいでしょ。そうなると、あいつらが邪魔なのよ」
エレナもDを見た。途方もない打ち明け話を、この若者はどんなつもりで聞いているのか、と思ったのである。
安堵と感激が胸を満たした。
表情ひとつ変えていない。貴族のどんな策略も、彼は平然と打ち破っていくだろう。美しく、無表情に。
「あいつら、絶対、ついてくるって言うわ。何しろ、私とこの城を守るために生きてるんだからね。そういうの、とっても鬱陶しいと思わなくって。私、昔から、べたべたした愛憎や忠義って胸が悪くなるのよ」
「どうして、今まで我慢していた?」
Dが訊いた。
姫は苦笑を浮かべて、
「そりゃあ、色々あるわよ。ご先祖とのしがらみとか。あいつらも一応は家来だし。仕事を与えとかないとまずいでしょ。働くしか能のない奴らなんだもの」
「それを、飽きたから見捨てるか」
「人聞きの悪いことを言わないで。誰にだって、自分の幸せを第一に考える権利があるでしょ。人間も貴族もそこんところは変わらないって気がするけど」
答えはない。
「私の用件はそれよ。あいつらさえ始末してくれれば、私は別の土地へ行くわ。村は自由になる――んでしょ。これで、万事丸く収まるわ。あなたも、私を滅ぼさなくても済む」
「確かに聞いた」
Dは静かに言った。
「ちょっと」
と諭すように言ったのは姫である。この場を覆いはじめた鬼気に、エレナは声もない。
「ちょっと待ってよ。私はこの土地を去るって言ってるのよ。なにも無理して斃すことはないじゃない? ――あなた、殺人狂?」
「ハンターだ」
応じただけ、礼を尽くしたのかもしれない。迸る銀光は再び美姫を両断し、ついでにテーブルまで二つにした。
「やれやれ」
傷ひとつない姿で、美姫は立ち上がった。その腰を白光が薙いだ。白いドレスは霧のように部屋の中央へ流れた。
「石頭はこれだから。私を斃せという契約を忠実に履行するつもりなら、その依頼主の気を変えるしかないわね。でも、その前に――ごらんなさい」
姫が片手を上げた。
空中に忽然と現れたのは、サクリ村の遠景であった。
空にかがやく銀盆の表面を、黒い羽搏きが翳らせた。
「|蝙蝠《こうもり》!?」
エレナの声が合図となったかのように、おびただしい空飛ぶ哺乳類は村めがけて一斉に降下した。
光景が変わった。
エレナは眼を見張った。
舞い降りた小さな獣たちは、無数の薔薇と化したのである。
街路を路地を絢爛と吹き渡る四彩の薔薇。呆然と見つめるエレナの前で幻は消滅した。
「夢じゃなくって。すべては事実よ。私の花の祝福を受けた村がどうなるか、気にならない?」
「何をしたのよ。あの花は一体?」
「戻ればわかるわ、お嬢ちゃん」
姫は声もなく笑った。
「ここで始末しようと思ったけれど、村へ戻りなさい。でも、生が死に勝る苦悩を招く場合もある。――さ、行って、確かめなさい。私の言葉の意味を」
身を翻して奥のドアへと走る背を、白い針が貫いた。
笑い声は途切れず、白い影は扉へ辿り着く前に霧に呑まれた。
同時に二人の背後で、入って来たドアが開いた。出て行けとの姫の命令だろう。
「戻りましょう、D」
促す娘に答えず、Dは姫の消えた方角へ歩きだした。
「どこへ行くの?」
「ひとりで戻れなければ、一緒に来い。ここにいてもいいぞ」
エレナは眼を剥いた。驚きが怒りに変わるまでは瞬く間であった。ドアの方を指さし、
「見たでしょ、あの薔薇を? 何か、とんでもないことが村に起ころうとしているわ。貴族の害を防げるのは、同じ貴族しかいないわ。あなたも半分はそうでしょ!?」
絶叫しながら、エレナは言葉の意味に気づいた。拳を口にあて、
「ごめんなさい」
と言った。
Dの姿はすでに霧に包まれていた。この世のものとは思えない美しい男女が、まさしく、自分とは別の世界の人間だと、エレナは身を裂くような孤独の中で思い知った。
どうやって館を出たのかは覚えていない。
気がつくと、眼の前に薔薇の花園が夢のように広がり、黒い馬にまたがった騎士がいた。身に着けた甲胄も同じ色だと月光が教えた。
立ちすくむ娘に、
「乗るがいい」
と黒騎士は馬の背を示した。
「………」
「怯える必要はない。無事、村へ送り届けろとの姫のご命令だ。あのハンターとともに出てこなかった場合に限り」
「どうしてよ?」
気張ったつもりだが、声は震えていた。
「何としても村を見せろとの仰せだ。それに、この辺は夜、物騒なものが出る」
「管理が行き届いていないわね。人間しか自由にできないの?」
黒い騎士は声もなく笑った。不快な笑いではないことに気づいて、エレナは気を引き締めた。唾を飲んで、
「自分の車で帰るわ。どいて」
「それなら、あそこだ」
申し出を反古にした無礼もとがめず、黒騎士は右方へ顎をしゃくった。
どう見ても、新車としか思えないバイクが月光を浴びていた。
「おまえたちが中にいる間にチューンナップをしておいた。これも姫のご命令だ。それで帰るにしても、おれが送っていく」
「好きにしたら」
エレナはぼんやりと言って、バイクへ近づいた。
バイクは別の車のようであった。アクセルとブレーキの利き、スプリング・サスペンション、エンジンの作動ぶり――すべてがひと桁ちがう。
あんな短時間にどうやってのけたのか、沸き上がる好奇心をエレナは抑えた。
それよりも何よりも、この男をはじめとする四人――ひとりはエレナも見たことがないが――は、気高い主人の変節を知っているのだろうか。姫は姫で、自分が彼らにしゃべるとは思わなかったのか。
「立派なご主人ね」
皮肉を言ったのは、丘を下り終えてからだ。途端に、凄まじい眼つきで――夜の中でもわかった――一瞥され、エレナは口をつぐんだ。告げ口の気分は、瞬時に失われた。
すぐに前を向き、黒騎士は錆を含んだ声で、
「二度と、姫のことに触れるな」
と言った。脅かされるかなとエレナは思ったが、騎士は何も言わず黙々と歩を進める。
「あなたたちも、じきにおしまいよ」
我ながら無謀と思いつつ、エレナは性懲りもなく悪態をついた。
「あの人なら、きっと、やっつけてくれる。あなた方が束になっても敵いっこないわよ」
「かもしれんな」
あまり、あっさり認められたので、エレナは妙な気分に陥った。バイクは時速三キロほどでのろのろと進んでいる。逃げ出さないのは、正直、怖いからだ。四騎士の中で最も人間的な感情を持つのが、この黒い騎士だとわかっているが、やはり、身近にいると、身体の芯が冷えてくる。恐怖ではなく貴族の仲間特有の妖気が醸し出す物理的な寒さだ。
「なら、とっととここを出て行ったらどうよ? ご主人さまと一緒に」
「姫のことを口にしたら許さんと言ったはずだ」
と黒騎士はエレナの肝を冷やしてから、
「それほど我らが憎いか?」
笑いを含んで訊いた。
「あたりまえよ。昔から何人が杭にさらされたと思っているの?」
「姫への害意をくじくための見せしめだ。やむを得ん」
怒りがエレナを捉えた。
「やむを得ない? 殺される身になってごらんなさい。――もっとも、あんた方は半分死人だから平気か」
黒騎士はかすかに笑ったようだ。
「うまいことを言う。その通りだ」
次の質問は、当のエレナにも何故したのかわからなかった。
「あなたたちは、もとは人間なの?」
「何だと思う?」
「わからないから訊いてるのよ」
「もしも、おれが死ぬときそばにいたら、この面を取れ。それでわかる」
「わかったわ。楽しみにしているわよ」
決めた、と思ったかたわらを、黒い騎士が過ぎた。五メートルほど前へ出てから、
「加速できるか?」
と訊いた。
「〇・五秒でOKよ」
二人は村へと通じる一本道にさしかかっていた。左右は黒い木の幹が天を仰いでいる。
その木立の一本が、ぐにゃりとたわんだような気がして、エレナは眼をしばたたいた。
そういえば、ここは何百回となく通った道だ。あんな木はなかった!
「――!?」
声を出そうと身構えたエレナの視界を、別の木が横切った。倒れたのではない。てっぺんからのしかかってきたのだ。黒騎士の頭上へ!
光の帯をエレナは見た。それが黒騎士の背中から迸り、雪崩れ落ちる妖木に巻きつくや、奇怪な生物はその部分から断たれて地に落ちた。
「行け!」
叫ぶ黒騎士の頭上から、さらに一本が今度は頂を二つに裂き、白い牙を剥き出して襲った。
時速六十キロまで〇・五秒。百キロまで一秒――轟きがバイクとエレナを押し放した。
黒騎士の横をすり抜ける瞬間、眼の隅をもう一度、光の帯が流れたが、ふり向きもせず、エレナはバイクを駆った。
ふり向きはしないが、村へ着くまで、気にはなっていた。
村の門は開いたままエレナを迎えた。とっくに閉じる時刻だ。様子がおかしい。肌寒さをこらえつつ、エレナはバイクを村の通りへ乗り入れた。
貴族のいる地方では、陽が落ちると同時に人々は家にこもる。|人気《ひとけ》がないのは当然として、夜にあふれる薔薇の香りが、エレナを緊張させた。
知らぬ間に、緊張を解そうと左手が乳房を揉みはじめる。
エレナは|門《ゲート》脇の詰め所をのぞいた。人影はない。門番は、門を閉めてもすぐに帰宅することはない。不意の旅人や都から急使がやってくる場合もあるからだ。この時刻に姿が見えないのは、変事の証拠といっていい。
エレナは前方を向き直った。
眼の前に人の顔があった。
悲鳴をこらえてエレナは、
「ミキシン」
と不良仲間の名を呼んだ。はじめて見る虚ろな表情は、幽鬼に似ていた。
「一体、どうしたの? シュタールは?」
「わから……ねえ……」
と涎もろともつぶやき、小柄な若者は首を横にふった。
「いや……みんな……埋もれちまった。……今、穴を掘って……る……」
「穴? 何のことよ? しっかりして!」
たくましい肩を、エレナは両手でゆすった。頑丈そうな頭が激しく前後にゆれても、ミキシンは抵抗しなかった。
左手が勢い余って滑り、ミキシンの背に廻った。
指から伝わる柔らかい感触の正体を、エレナはすぐに見破った。
力まかせにミキシンを回転させる。
「何てこと……」
幅広い男の背中――ほぼ第七胸椎の上には、夜の世界の|象徴《シンボル》が紅く咲き誇っているのだった。
むしり取ろうとしたが、手の中には花弁が残ったきりで、茎はなおも背の中心に根を張っていた。
「みんなはどこにいるの、ミキシン――教えて!」
叫ぶ耳に、蹄の音が触れた。
「――D!?」
と解釈したのは、こんな状態で当然すぎる反応であった。
「無事に着いたな」
と黒騎士は門の外で言った。装甲が白い艶を噴いている。月光の成せる業だ。
「あなたならわかるわね、何が起こったのか……」
ミキシンから手を離し、エレナは低く尋ねた。
「教えて。どうすれば、みんなを救えるの? この花を取るにはどうしたらいいのよ? 教えて頂戴」
血を吐くような哀願を、黒騎士は鉄のごとく聴いていたが、
「仕事は終わった」
ひと言放って馬首を巡らせた。
「待って――待ってよ!」
こう叫ぶ間に、エレナの脳裡に奇跡のようなアイディアが閃いた。
ミキシンを残して、彼女は門の外へと飛び出したのである。
「ここは村の外よ[#「村の外よ」に傍点]。わたしは村に着いていないわ! あなたの任務は終わっていないのよ!」
「子供のような真似はよせ」
黒騎士は遠ざかっていく。
「あなたが何とかしてくれるまで私はここにいるわ。あと一分もすれば、妖物どもが匂いを嗅ぎつけてやってくる。村の外で死ぬのは、お姫さまの命令に背くことになるのじゃなくって!?」
最後の台詞にエレナは自信があった。まさに的中したのである。
黒騎士にしても、二度も馬首を巡らせたのは、はじめての経験だったにちがいない。
エレナに近づき、
「下らんが、うまい手だ」
と言った言葉に抑揚はなかった。台詞そのものが、エレナの勝利を雄弁に物語っていた。
「だが、おれは何もせんぞ。村を見舞ったものは、すべて姫の意志だ」
「要はどっちをとるかよ」
エレナは必死で優位にしがみついた。
「私を殺して罰を受けるか、お姫さまの――あんたと無関係の悪業を防いでしかられるか。私なら、自分の仕事を全うする方を選ぶわ」
「おれはここから動かん」
黒騎士は言った。
「そして、夜の間じゅう、おまえを襲うものを斬り伏せてやろう。おまえもそこにいればよい」
逆転されたことをエレナは覚った。絶望と怒りが身内を吹きすぎ、地団駄を踏んで叫んだ。
「あなた、昼間出歩けるなら、貴族じゃないんでしょ。合成人間? たとえ何であろうと、人間なら、この村を見捨てるなんてできないはずよ。従うってことは、相手を敬う気持ちがあるんでしょ。なら、他人の苦しみを理解することもできるはずよ!」
いささか強引な理屈だが、今のエレナにはこれしか考えつかなかった。効果があるとも、正直、思えなかった。
案の定、黒騎士はぴくりとも動かず、気持ちどころか、生命さえ持たぬ像と化して佇んでいた。
「この人でなし。――いいわよ。もう頼まない! とっととお帰り!」
無益な痛罵を浴びせて門の方へ歩き出そうとした背へ、
「待て」
と確かに声がかかった。
またも逆転――そのうれしさに、エレナは村の内部から近づいてくる人影に気づきながら、そちらに意識を向けることができなかった。
ミキシンとは別の、五、六名の村人を識別できたのは、黒騎士の注意が彼らに向いていると理解してからである。
「そこにいるのは……エレナだね」
と枯れ木みたいに痩せこけた老婆が、うれしげに言った。
「そうだよ、エレナだよ。無事だったんだねえ」
「仲間に入れよう。一緒になろう」
肉屋の格好をしたベスリクと雑貨屋の親父が、泳ぐみたいに手を掻きながら近づいてきた。
全身の血が音を立てて|退《ひ》いていくような気がエレナにはした。
そこにいるのは、彼女がよく知っている顔をした別のものであった。
やられた。――戦慄とともに思った。
でも、おかしい。こんなに見境もなく[#「見境もなく」に傍点]。これまでは若者だけだったのに。
「下がれ」
と声がしても、それが黒騎士のものだとは、エレナには信じられなかった。眼の前の奴らは、姫とやらの仲間ではないのか。
エレナが三歩後じさり、黒騎士が三歩前へ出た。
本能的に、この男の武器は、と背中を眺め、エレナは長さ六十センチほどの鉄鞘がぶら下がっているのを見た。
いや、正確には山刀の柄を二本、上下にくっつけたように見える。形やつくりそのものはかなり荒っぽく、この巨人にふさわしい武器とはとても思えなかった。
門外に出た三人の村人は、さすがにぎょっとしたようだが、彼が仲間とわかるのか、たちまち両手を広げ、エレナの方へ向かって歩き出した。
その首筋を光が横に薙いだ。
シャンパンの栓が内圧で吹きとぶのをエレナは連想した。発酵した果実とガスの代わりに三つの首をはね上げたのは、黒血の噴水であった。
凄絶、凄惨を通り越して、小気味よいとさえいえる光景に度肝を抜かれ、刃を収める音がしても、エレナはそちらを向く気にはなれなかった。
間違いなく、黒騎士は背中の武器を駆使したのだ。しかし、どうやって? 彼は馬上で指一本動かさなかったし、腕をのばしても、三人まとめてどころか、一番手近のひとりにさえ届く武器とも思えない。
あまりの鮮やかさに、斬られたことも失念したのか、しっかりした足取りで二、三歩進み、それからへなへなと崩れ落ちた三人の姿に、エレナはようやく我に返った。
「何てことするの!?」
と黒騎士をねめつけた。
「奴らはおまえを狙ったのだぞ」
と返事があった。笑いを含んでいるのに、興奮したエレナは気づかない。
「殺すことはなかったわ。私は――救ける方法を、と」
「ああなって、おまえのいう救う方法とはひとつしかあるまい」
黒騎士の返事に、エレナは胸をつかれた。まさしくその通り、貴族の下僕と化した人間を「救う」には、黒騎士のとったやり方しかないのだ。
「でも、どうして? ――彼らはあんたの主人の……」
「そんなはずはない」
「え?」
エレナは眼を丸くした。
「姫がそのような真似をなさるはずがない。おまえら人間を、下僕とはいえ、自らと同じ立場に置くなどと――それは間違いだ」
「間違いも何も――」
エレナの言葉を押し潰すように、黒い影は前進した。山が動くような圧力を感じて、エレナは横に退いた。
「間違いは正さねばならん」
黒騎士は門をくぐった。
「待って」
エレナは地を蹴り、馬の前に立ちふさがった。
「どけ。ここは村の中だ。おまえの生死に責任は持たんぞ」
「あなた、村の人みんなを殺すつもり? そんなことさせないわ」
「邪魔をするつもりか?」
黒騎士の声が低くなった。
「ええ」
エレナの返事は三メートルも離れた位置からきこえた。
風がひゅうと唸った。
跳び離れざま、抜き出した鎖を旋回させた腕は見事だが、人間装甲ともいうべき黒い騎士に、それがどれほどの牙となり得るか。バイクは彼女のそばになかった。
甲高い音と火花が黒騎士の面上に閃いた。分銅の直撃であった。それは連続した。ただ一条の鎖を、村娘はその片手のひねりでもって、数十本の武器として使いこなしているのであった。
さしもの騎士の上体がゆらいだとき、エレナは左手も使った。もう一条の鎖に両脚を薙ぎ払われた馬が、どっと前へのめる。巨体が浮いた。物理法則に従い、前方に跳ねとぶ身体が、エレナの後方で羽毛のように足から着地したのはむしろ当然だが、その両手首に分銅が巻きついたのは女戦士の手練だ。
しかも、エレナの両手が上がると、鎖の反対側についていた分銅が斜めに上昇し、左右にそびえる巨木の大枝に巻きついて、騎士の自由を奪った。
「おとなしくしておいで」
バイクめがけて走り出すエレナの背に、
「これから、どうする?」
と低い声が呼びかけた。
構わずバイクに飛び乗り、エンジンをスタートさせる。冷静でいられたのは、黒騎士の呼びかけに嘲笑の響きがなかったためだ。
ライトに装着したレーザー発射機が役に立つかどうかわからなかったが、エレナには他に手がなかった。
「見ろ、小娘」
黒騎士が叫んだ。
伸び切った彼の両手が引かれるのを、エレナは見た。枝が折れる! 真紅の光条が闇を裂いて黒騎士を襲った。
左右から雪崩れ落ちる木の枝がレーザー光を受けた。地響きと風がエレナをバイクごと跳ねとばした。
枝などではなかった。倒れたのは巨木の幹そのものであった。黒騎士はいともたやすく、根元から引き抜いてのけたのだ!
左右の家並みにもたれて、二重の柵となった幹の向こうから、従容たる声が言った。
「では、おれは行くぞ。間違いすべてを修正するためにな。この木がおまえを救ったと思うがいい」
「待て!」
バイクをスタートさせようとして、エレナは愕然となった。
二本の幹はまるで緻密な計算と意志とに基づいたもののように、バイクが決して通過できぬ狭隘な空隙だけを、自身と幹の間に形成しているのだった。
「畜生!」
拳を一方の手のひらに叩きつけ、エレナはしかし、すぐに決断した。
手前の幹の枝から鎖を外し、あらためて幹の中程をひと巻きして固定、一方の端を思い切り伸ばして、地面に打ち込んだ鉄の楔に巻きつけた。楔はバイクの荷物入れに収納しておいたものである。
門まで後退し、前傾姿勢でハンドルを握ったエレナの表情は、焦りと自信に満ちていた。
排気管のノズルが火を吐いた。
宙に引かれたひとすじの細く頼りない道を、バイクは奇跡のように走破し、勢い余って空中高く舞い上がるや、二本目の幹も難なく越えて、暗い路上に降り立った。
ダン! とバウンドしたのを最後の抵抗に、エレナは風を切り、数秒後、中央広場に突入した。
意外な光景が女戦士を待ち受けていた。
広場の真ん中には井戸が掘られてあったが、そのかたわらに黒騎士と、細い小柄な影が肩を並べているのだった。
「ママ・キプシュ!?」
エレナの声には、特別な想いがこもっていた。村の危機を知りながら、胸のどこかに一抹の安堵が宿っていたのは、その名のおかげであった。
「お帰り」
とエレナの方も見ずに、白髪の老婆は応じた。
左脇に小さな甕を抱えている。右手が肘まで広い口に消えていた。
二人が顔を向けている方角へ眼をやり、エレナは息を呑んだ。
月光の下に村の連中が折り重なるようにして倒れ伏しているではないか。ぴくりとも動かない。いや、それ以上に、あちこちに開いた穴に何人もが身を入れている光景が、エレナを総毛立たせた。ミキシンが口にしていたのはこれか。
「どうだね?」
とママ・キプシュが黒騎士を見上げた。
「よかろう。約束通り、三日待つ。その間に――わかったな?」
「いいとも。あたしも約束は守るさ」
自分の死闘が遙か遠い世界の出来事だったような気が、エレナにはした。
黒騎士は無言で黒馬にまたがると、
「では――人間には勿体ない魔法医師よ」
と言って、馬首を巡らせた。
眼と鼻の先を黙々と過ぎる騎馬を、エレナは痴呆のように突っ立ったまま見送った。
馬の足が止まった。
馬上で黒騎士は首だけを曲げて、エレナを見つめた。
兜が肩当てが月光を白く跳ね返し、別世界から送られた彫像のように見せていた。
「また会おうぞ。――戦士よ」
そして、馬は大地を蹴り、通りを走り去った。
肩に手が置かれ、エレナは我に返った。
ママ・キプシュの苦悩に満ちた顔がそこにあった。
エレナが何か言う前に、
「やり合ったのかい、あいつと?」
殺戮者を追い払った老魔法医師は訊いた。
「ええ」
「いい勝負だったんだね」
「どうして、そんなことが?」
「言ったろ、戦士と。――あいつ、あんたが気に入ったらしいよ」
「よしてよ、ママ・キプシュ。それより、これは一体……」
エレナは広場を一望し、小さく、喜びの声を上げた。周囲の家々から、人影が現れたのである。
「あの花に憑かれなかった者もいたんだよ。村の人口の十分の一にも満たないだろうけど」
「後はみな、貴族の仲間に?」
ママ・キプシュはうなずき、エレナは一瞬、気が遠くなりかけた。失神から救ったのは、老婆の次の言葉だった。
「――完全になった[#「なった」に傍点]ってわけじゃない。血は吸われていないんだからさ。なんとかなるはずだよ」
悲痛ともいえる表情に、エレナは次のひと言を呑み込まざるを得なかった。
――三日以内に?
Dは霧の中にいた。
姫を追って、すでに一時間以上が経過していた。エレナはついてこなかったが、それを気にする風はない。
驚くべきことだが、Dには自分の居所が掴めなかった。吸血鬼の血をひく美しいハンターの方向感覚は、ひどく混乱していた。そして、それに頼らないのが、この若者の恐ろしいところだった。
彼は闇雲に歩を進めているのではなかった。
霧には香りが含まれていた。
薔薇である。
まぎれもなく、あの美姫のものだ。霧には他の薔薇の|香《か》もゆれている。
その中を、Dの足取りに迷いはない。
「どの辺だかわかるか?」
左手が訊いた。不安そうだ。――この手が何に怯えているのか。
Dは答えず、それが不安なのか、左手は、
「おまえは知らんだろうが」
とつづけかけ、
「地下二百メートル」
Dに言われて、
「けっ」
と吐き捨てた。
「行く先はわからんでも、深さはわかるのか。おかしな奴だな。――おや!?」
Dもすでに気づいていた。
霧が晴れていく。
白い塊が遠ざかり、うすい帯となってちぎれ、まつわり、蜘蛛の巣みたいに消えていく。その奥から現れたのは、底知れぬ闇だ。
「やな匂いがするのお」
左手が感想を洩らした。
薔薇の香りを失った空気と闇は、たっぷりと、吐き気を催す腐敗臭を湛えているのだった。
「部屋というより、穴蔵だの。――広さは、ほう、四方へ約十キロ、高さ五十メートル、住人は猛獣か。それにしては、静かなものだ。気配ひとつ――」
ない、と言おうとしたのだろうが、このとき、天蓋のような闇の高みから、歯車の軋む音が伝わった。
ふり仰ぐDの眼は何を捉えたか、限りなく澄んだ黒瞳が、彼方の床の一点に止まると同時に、どさ、と軟らかい音がした。
天井のどこかから落下物があったのだ。そして、天井の上の部屋も闇に包まれているらしい。
暗黒の中を、Dはあわてた風もなく歩き出した。
落下地点へではない。腐臭の中にもなお残る花の香を辿ってだ。美姫を斃す――これ以外にDの興味はないのだった。そして、香りの糸が、床にわだかまった巨大な布袋のもとへ彼を導いたのは、果たして偶然であったろうか。
「中味は――生肉じゃな。ざっと一トン」
袋の口から生々しい匂いが洩れてくる。
「わかっておろうが、別の匂いもするぞ。これは――」
声は右へ流れた。移動したDの鼻先を、左右から二つの闇がかすめた。
着地点から、きい、という声が上がった。人とも獣ともつかないが、Dの眼は左右三メートルほどのところに、小ぶりな剣を手にして立つ小柄な生物を認めた。釣り針のように小さな鉤爪、蝙蝠を思わす小さな翼――どれも可愛らしさが先に立つが、その威力は、Dの額からいまふり落ちる黒髪の切れ端で明らかだ。
真紅の光点が点々と灯りはじめた。|人工生物《ホムンクルス》の眼だ。瘤だらけの顔に備わる憎悪の血光であった。
四方から、細い光が流れた。Dめがけて迸る、槍ともいえない短槍であった。
コートの裾が翻ってそれを弾きとばし、瞬間、十文字に裂けた。槍ぶすまとともに飛来した小さな刺客は、練達の技をふるったのである。
新たな攻撃をかけようと、跳躍の姿勢をとった第二陣が紅い眼を剥いた。着地と同時に、二匹の先鋒は縦に裂けたのである。
きい、きいと驚愕の叫びが絡まりあって、さざなみのように遠ざかった。
それが、ぴたりと熄んだ。
白刃を片手に、Dはゆっくりと全身を後方へ向けた。
何かが全身を包んだ。左手が、うお、と呻いた。
浴びたものすべてが気死しそうな妖気が、闇の奥から吹きつけてくる。
地上の三騎士とは全く異なる――それでいて、どこか似通ったその凄まじさ。
これで四人――「ダイアンローズの四騎士」と人は呼んだのだ。
妖気のもとが動いた。やってくる。広大な闇の奥から何かがやってくる。
気配が蹄の音に変わったのは、数秒の後であった。
土を蹴る音が歪み、間延びして聴こえるのも、空間を満たす妖気のせいか。
Dは動かない。一刀を右手に、彼は蕭然と訪れる敵を迎えた。
音が止まった。Dまで五メートルを残していた。
「これは――」
妙に舌足らずな声が高みから投げかけられた。
「食料と相手[#「相手」に傍点]を迎えに来てみれば。……姫も憎いことをする……。この世に、こんな男がまだいたか」
Dは見つめている。
そこに立つ白馬と白い甲胄の騎士を見つめている。いや、単に彼の眼の先に、人馬がいるというべきか。左手さえ呻く妖気に包まれて、美影身のどこにも緊張の色はない。
「うれしいぞ」
と騎士が言った。左腰の長剣がわずかにゆれた。
「久しぶりに……胸が高鳴る。胸が燃える……五百年も前にとだえたはずの鼓動が聴こえる……おお……おお……」
剣がまた鳴った。白騎士の上体は歓喜にわなないていた。せきたてられるように言葉が迸り出た。
「斬りたいか、“スレイヤー”? その美しい男を斬りたいか? ……わかるぞ……だが、少し待て……愉しみは後に……日課を片付けんとな……」
左手がのびた。
騎士は手招きはじめた。けだるげに、ゆるやかに。冥界の白い住人が、生者を招くがごとく。
「来い」
と彼は言った。
「来い……姫の下さったおれの相手……おお、今日のは……生きがよさそうだ……」
光の筋が白い身を貫いた。投擲された槍とともに四方から小さな殺人者が躍った。
その姿が、凶器もろとも白い波に呑み込まれたのである。波の動きは招く手首に似ていた。再びそれが広がったとき、短槍はことごとく地面に跳ねとばされ、四体のホムンクルスは腰の上から八つに分かれていた。Dの縦割りに対するがごとく、横に。
「来い」
手招きは新たな――そして、最後の敵を招んだ。
馬上めがけて飛びかかる三つの影。スピードも高さもちがう、その胴のあたりを白光が薙いだ。同時一閃に。
「おれのマントは……切られておらんな……」
白騎士のつぶやきが終えてから、横に断たれた六つの肉体は地上に散乱した。無残なのは、その姿よりも地上に当たる音であった。
「いかん……いかんぞ……思わず、早めに片づけてしまった……」
喘ぐように白騎士は呻いた。右手の長剣を腰に戻して、
「それもこれも。おまえのせいだ。……それほど美しく……それほど強いせいだ……おお、罪つくりな男よ……いま、“スレイヤー”に会わせてやる」
小刻みな金属音が騎士の腰のあたりで上がった。聴くものがいたら、その不気味さに耳をふさいでうずくまったことだろう。鞘と剣とが触れ合っているのだ。刃がひとりでに鞘から抜け出し、戻り、また抜け出してを繰り返しているのだ。
まだ、斬り足りないとでもいう風に。まだ血が足りない。まだ鞘に収まるには早い。
Dがいるではないか。
これが“|殺戮者《スレイヤー》”であった。
[#改ページ]
第四章 死の森へ
闇の中に対峙して数秒――きこえるのは、“スレイヤー”の鍔鳴りばかりであったが、両名にしか感知できぬ殺気もまた高まっていた。
白刃を交わすとき、腕はどちらが上か。
敏捷凶暴なる|人造生物《ホムンクルス》の攻撃に際して、Dはコートを切られ、白騎士のマントは無傷であった。
加えて、妖剣“スレイヤー”自体が、いかなる魔力を秘めているのか。
沈黙は、白騎士が破った。
「抜くぞ、“スレイヤー”」
白刃が躍った。抜いた、というより刃の方から手の中にとび込んできたような滑らかさであった。
対して、Dは無構え――身体を緊張も緩めもせず、両腕は自然に垂れている。
「やる……」
呻いたのは白騎士だ。
「向かい合っているだけで血が凍りそうだ。生命と魂のやりとりに、これほどの相手とは二度と会えまい」
不意に騎士は馬首を巡らせた。
後をも見ずに蹄の音が遠ざかっていく。呆気にとられるような行動であったが、Dはその場を動かない。
何を待つのか。
遠ざかる鉄蹄の響きが厚みを増した。――戻ってくる。
響き寄る足音は、寸毫もゆるがぬ殺意を秘めていた。
来る。
五十メートル……四十……三十……
Dは不動。
馬上から津波のごとく薙ぎ落とされる一刀を、地より噴き上げる氷雪の一剣がどう迎え討つか。
十メートル……五……三……
荒れ狂う蹄と巨体に、美影身が呑み込まれた。その刹那――
世にも美しい音をたてて、白い光が流れ星のように飛んだ。まさか、Dの刀身が鍔元から折れ飛ぼうとは。
蹄から火花を上げて馬は急停止し、反転する馬上で白騎士は哄笑した。
「“スレイヤー”と相打つ|刃《やいば》なし。――これが最後だ」
Dはどうしたのか。元の位置から動きもしない頭頂へ、再び妖剣は風の唸りとともに打ち下ろされた。|血飛沫《ちしぶき》が上がった。
「おお!?」
驚愕の叫びは、肉へ食い込むのとは別の手応えを刀身が伝えたからだ。
“スレイヤー”の刀身は、頭上で重ね合わせたDの手のひらの間に挟み込まれていた。
だが、Dの手も血を噴いている。彼自身の鮮血はその額にかかり、鼻梁の脇を流れた。
ぐい、と“スレイヤー”が下降した。
「死ね、死ね、死ぬがいい。“スレイヤー”と戦ったものは死ね」
喚く白騎士の両眼は狂気に赤く染まっている。
ああ、この騎士は力でDに勝るのか。それとも、妖剣の威力だろうか。重ねたDの手のひらを、刀身は血の筋をふり落としつつ着実に滑り落ちていく。
「けええ――っ」
狂鳥のような叫びを力に変えて、白騎士は刃を落とした。
その血走った瞳をさらに深い色が射た。
ああ、Dの眼だ。
額から伝わる彼自身の血は、その唇に紅い軌跡をつないでいた。
Dの身体が旋回した。
「うおお」
絶叫が馬上から尾を引き、五メートルもの彼方へ地響きとともに落ちた。
そちらへ歩み出そうとしたDの前へ、白い巨体が躍った。白騎士の馬であった。棒立ちになって行く手をふさごうとする。
「やるなあ」
落下地点で愉しげな声がするや、馬は一目散にそちらへ走り寄った。片手に血刀をぶら下げた白騎士は、横に垂れた手綱をもう一方の手で掴み、ようやく身を起こした。
激しく頭をふり、
「えらい力だな。骨が折れてしまったようだ……まさか……姫と同じ血筋の主とは……吸血鬼ハンターとはおまえだ……な」
「当たりィ!」
闇の奥からこう響いたのは、言うまでもなく姫の声である。
しかし、はすっぱ[#「はすっぱ」に傍点]とさえいえる口調とは裏腹に、その存在を白騎士は感知せず、Dもまた気づかずにいた。
「これは……姫……」
狂気に取り憑かれたような男にも、この主人は特別なのか。“スレイヤー”を背に廻すや、その場に片膝をつき、ついで頭を下げた。一片の狂気も揶揄も見られない、忠誠そのものの仕草である。
ふわ、と踊るような動きで、白い美姫は二人のちょうど真ん中から、左横へ五メートルほどのところに出現した。
「どう、いい経験になったでしょ、白騎士?」
かがやくような笑顔とはこれだろう。
「はっ」
と短く、きっぱりと答えた騎士の声も別人のようだ。
「世の中、こんなに強い男もいるのよ。おまえの“スレイヤー”でも勝てるかしらね」
白い面が上がった。
「お言葉なれど――」
姫はあわてた様子で手をふり、
「いい、いい。――失言だったわ、忘れてちょうだい。決着は後にして。D――あなたもそうなさい。刀がなくなったら、いくら何でも無理よ」
と言いつつ、Dの横顔をうかがう眼には、明らかに怯えの相がある。
Dの両眼は血と燃えていた。
素手のまま彼は前へ進んだ。
「そんな、おっかない顔でにじり寄らないでよ、しっ」
と姫は後退しつつ、
「それより、村へお帰んなさいな。私の撒いた花のせいで大騒ぎのはずだわ」
びゅっ! と空気が切れた。
「姫!」
飛来する白木の針を抜き打ちに斬って落とした白騎士の腕の冴え。だが、あうっ! と苦鳴を上げて姫が左胸を押さえたのは、さしもの彼も逃した一本が、胸を庇った手の甲を貫いたためだ。
「やるわね」
にっと笑ったのは、“スレイヤー”も迎撃し逃したDの手練への賛辞だろうが、Dもまた、今の[#「今の」に傍点]彼の放った針を間一髪、手で止めた美姫の技倆に感じ入ったのではなかろうか。――それも一瞬、コートの裾を翻して、美しきハンターは吸血美姫へと走った。
白騎士が立ち上がる。
大地が鳴動したのはそのときだ。地下二百メートル――無限ともいうべき質量に支えられた地下室の床が、大蛇のごとく跳ねたのである。
Dの身体も宙へとび、二度と床に触れることなく、暗黒に呑み込まれた。
かがやきが戻った。
周囲は星の海であった。
「大丈夫らしいの」
と左手が言った。気遣う様子はない。義務的としか言いようのない口調である。
Dは答えもせず、周囲を見廻した。
闇はこの若者の親族に近い。
彼は巨大な丸石の上にいた。同じような形の岩の列が、表面のいくばくかを三日月のように光らせながら遙か下方へとつづいている。
遠くに明滅する光は集落のものだろう。
「山の上だな」
と左手が呆れたように言った。
「風の強さと方向からして、ざっと三千メートル。どうやら、敵は|瞬間移送《T・ポート》ができるらしい。いや、ぬかったわい」
Dは星を見上げていたが、すぐに眼を戻すと、音もなく岩を下りはじめた。
岩から岩へと跳躍していく姿は、天才舞踏家のようであった。
星の位置から、ここが姫の管理する地域の北の端だということはわかっていただろう。サクリの村まで、馬を駆っても丸一昼夜かかるということも。
「そりゃ面白い話だねえ」
老婆は土色の液体が煮えたぎる大鍋へ、薬草の束をまとめてぶち込んだ。
家の奥にある彼女の調剤室である。歴代の村長といえどもここを覗いたものはなく、かたわらで、いま、城での出来事を打ち明けたエレナが、五十年ぶりの客だという。
煤けたレースのカーテンを通して、昼近い光がさしこんでいる。
「あの姫が、四騎士の抹殺をあのハンターに依頼するとはねえ。ま、あれくらいハンサムなら何でもできるだろうさ」
話がおかしな方向へ行きかけたので、エレナは修正を試みた。
「もう少し驚いてよ、ママ・キプシュ。あの姫が騎士どもを殺してくれなんて言ったのよ。一体、何を企んでいるのかしら」
「企みねえ」
と老魔法医師は、ガラス瓶から赤い粉末を大さじで三杯、鍋へ入れてから、意味ありげに、
「正直なところかもしれないよ」
「本気で殺したがってるって? 何故よ?」
「理由はあんたの言った通りさ。自由になりたくなったんだろう」
「貴族が城を出るって?」
エレナは肩をすくめた。
「そんな話きいたこともないわ。あいつらとお城は光と影みたいなものよ。どっちが消えても成り立たないわ。だから、あたしたちが地獄を見てるんじゃないの」
「地獄ねえ」
とママ・キプシュはこれも意味ありげにつぶやき、
「人間にも変わり者はいる。あんたや孫みたいにね。貴族にいたっておかしかないわさ。少なくとも、姿形は人間なんだからね」
「じゃあ、あいつめ、本気で……」
村一番の知恵袋――ママ・キプシュの言葉を得て、エレナもようやく、美姫の言葉の重大さに気がついた。
「でもね、それは誰にも言うんじゃないよ」
強い口調に、エレナは我に返った。
「どうしてさ?」
「喜ぶ奴ばかりとは限らないからさ、この村じゃあ」
束の間、無残な表情がエレナの|面《おもて》をすぎた。
「それもそうね」
「それより、当座の危機を脱出する方法を考えておくれな。この薬をこしらえるにゃ、どうしても、ヤキの青い苔が足りないんだ」
ママ・キプシュはついに腕を組んだ。
「青い苔って……あれのこと? シャンバラの森にある?」
「いや、いいんだよ。何とか代わりを見つけるさ」
エレナは何か思いついたように、
「そんなものないくせに。昔から嘘は下手だったわね。――いいわよ、あたしが取ってくる」
「やめておき。今はもう|0J《ゼロ・ジャスト》だ。森まであんたのバイクでも二時間、苔をさがすのに一時間――うまく戻れて500|N《ナイト》だ。それに、あの森は危険すぎる」
「ひとりじゃ行かないわよ、冗談じゃない。ボーイフレンドを連れてくわ。幸い、あいつら、村外れの倉庫で飲んだくれてて、吸血薔薇の洗礼を受けてない奴もいるのよ」
「無駄死にになるよ」
「やってみなくちゃわからないわ。あんたの孫だって、そのために生命を落としたのよ。自分の恋人でもない、片恋いの女のためにね。あたしたちみんな、尊敬してるわ」
老婆は眼を伏せ、それから、エレナの肩に手をのせて、ありがとうと言った。
「じゃあ、ひとつ頼まれてくれるかい?」
「もちろんよ。あたしは、あいつらのやること、何でもぶっつぶしてやりたいんだ」
こう言ってから、決意の固さを確かめるように、エレナは奥歯を噛みしめた。
外へ出て、広場へ向かった。ママ・キプシュの家からは徒歩三分とかからない。
村人の多くが我が身を埋めかけた場所には、急ごしらえのテントが張られていた。言うまでもなく、陽光を妨げるためだ。南の村外れに、貴族化した者のための収容所があるが、とても間に合わない。このテントも、無事だった連中が日の出から五時間がかりで張り、それでも足りずに三分の一は、毛布や布地をつないである。
テントに近づくにつれて、異様な呻き声が鼓膜に触れはじめた。
顔をしかめてもどうにもならなかった。耳をふさぎたくはない。聴くんだ。彼らにこんな声をあげさせた奴らへの怒りを、どこまでも維持するために。
テントの入口に立っていた村人のひとりが、エレナに気づいて険しい表情になった。右手の槍を持ち直す。ガリーという農夫だ。
「あたしは貴族じゃなくてよ」
とエレナは一応、笑顔を見せた。
「何でこんなことになった?」
ガリーの表情は変わらない。
「知らないわ」
「あの若いのがやって来て、その日のうちにこのざまだ。おまえらが城への道を辿ったのを見た者がいる」
「途中で引き返したわよ。村じゃ見られないいい[#「いい」に傍点]男が来たんでね、ちょっと、おデートよ」
「けっ、淫売が!」
吐き捨てて男はそっぽを向いた。エレナたちの無軌道ぶりを快く思っている連中はいない。
「失礼」
表情を変えずにテントの入口をくぐってから、エレナは右脚を思いっきり跳ねた。いつもながら、ほれぼれする勘の良さだった。キャンバス地を通して急所蹴りを食うとは、荒事好きな農夫にも初体験だったろう。呻き声は地面のすぐ上から聞こえた。
「レディに対する礼儀くらいわきまえなよ、即席インポ」
憂さ晴らしに格好な一撃だったにもかかわらず、エレナの声は重い。
テント内の呻き声は耳を聾せんばかりに膨れ上がっていた。
眼を閉じまいとするには、エレナの神経でもかなりの努力が必要だった。
半ば土に埋もれ、あるいは土まみれになりながら、地面の上でのたうちまわる村人たち。その背から額から首筋から、忽然と花開いているのは四彩の薔薇だ。
無事な連中が総出で引き抜いても、その裂けた肉の内側から、紅く、青く、黒く、白く、薔薇たちは絢爛と花咲くのであった。
この変則的なやり方では、貴族の|下僕《しもべ》にはなり得ないらしく、昼の光の下で眠るはずの彼らは、分厚いキャンバス地で保護されながらも、陽光にさらされた貴族のように苦しみ悶えている。
だからこそ、心臓に杭を打たずにこうして守っているのだと、エレナは自らに納得させた。貴族の口づけを受けた者ならば、とうに処分されている。辺境の掟だ。
「エ……レ……ナ……」
足下ですすり泣くような声が呼んだ。
エレナは黙って前方を見ていた。
「……助けて……おれ……デコ……イ……だ」
「セレン……よ」
「熱い……苦しい……身体……が……灼け……て……しま……う」
足首が掴まれた。冷たい手であった。エレナは動かなかった。
「少し、待っといで。きっと、元に戻してあげるよ」
こう言いながら、身体は震えていた。握られた足首から、言いようのない悪寒が衝き上がってくる。肌に粟が生じていく。
あの声が――
「エ……レ……ナ……」
「この化物!」
自分でも想像しなかった声が出た。
右手が腰に滑って、装着してある分銅を抜き取った。ふり上げた。ふり下ろした。すべて意図的であった。
嫌な音が聴こえて、生暖かい飛沫が顔にとんだ。
なおも分銅をふり下ろした。何度も何度もふった。その合間にも、彼女の名を呼ぶ声は、かすかに、呪うようにつづいていた。それを消すための分銅かもしれなかった。
背後で別の声が叫んだ。
「エレナ――何してる!?」
太い腕が荒々しく胴を巻き、後ろへ引いた。
「離して! 化物よ。殺してやる!」
最後のひとことは、陽光の下で鳴り響いた。
「落ち着け、阿呆!」
頬が鳴った。
憑きものが落ちたように、エレナは広場の一角に立っていた。
テントの前では、ガリーがまだうずくまっており、エレナの背から前へ廻ったのは、バイク集団のひとりだった。禿げ頭のてっぺんにひとすじの毛髪がエクレアみたいに残っている。バイク団の副リーダー、シュタールであった。
頬を撫でて、
「痛いわね。も少し手加減したらどう?」
とエレナは静かに言った。
「済まねえな」
タッカーは白い歯を剥いて笑った。眼が、その調子だ、と言っている。
「残りは何人?」
とエレナ。
「七人やられた。残りはおれとタン、ニシューきりだ」
「あたしを入れて四人。十分よ」
「何がだ?」
「シャンバラの森へ青い苔を探しに行くわ」
貴族の館とは反対の方角を見つめるエレナに、シュタールは眼を剥いてみせた。
「これからか? ――夜になるぞ」
「覚悟の上よ」
「夕方からあそこへ行くのは、自殺行為だ。無駄死にになるぜ」
「どうして、どいつもこいつも同じ台詞しか吐かないんだろ。――いざってときに生命が惜しくなるんなら、こんな田舎の村でつっぱらかってるんじゃないよ。毛布被って震えておいで」
「けどよお」
「これ以上、言い訳きいてると耳が痛くなる。いいよ、あたしひとりで行く」
「あの苔があると、どうなるんだ?」
「みんな、元に戻る――かもしれない。ママ・キプシュまかせさ」
「………」
なおも口ごもっているシュタールを尻目に、エレナは家の方へ歩き出した。彼女が考えているのは、どんな武器をどこで調達しようかということだけだった。
もうひとつ――
月光の下で翻る黒衣の若者の姿が瞼にゆれていたが、エレナは意志と幾分かの哀しみをこめて、それを押し殺した。
時速百五十キロできっかり二時間走ると、赤土の平原の彼方に黒い靄のような塊が見えてきた。
スピードを上げようと、アクセルをふかしかけたとき、背後から、ちいさなエンジン音が近づいてきた。
構わず走りつづける左右に、数秒後、三台のバイクがぴたりと横一列に並んだ。
「腰抜けはお帰りよ」
前を見たまま言った。右隣のタッカーが頭をぺん、と叩いて、
「そう言うなよ。こうやって来たじゃねえか」
「えらそうに」
「勘弁してやりなよ、エレナ」
と左隣のニシューが、まん丸い顔の中でウィンクしてみせた。饅頭みたいにふくらんだ男だ。
「なんでもっと早く、おれたちのところへ来ねえんだと、タンと二人でとっちめといたぜ、な」
「シュタールは、おれたちのことが心配だったんだよ」
と、ニシューの隣でタンがうす笑いを浮かべた。ニシューの相棒といっていいくらいの仲だが、身体つきは宿敵――鍛え抜いた筋肉の塊だ。
「もっとも、余計な斟酌だがな。リーダーをひとりで植物採集にやるほど、おれたちゃ堕ちてねえつもりだ」
シュタールは少ない髪の毛をいじりまわして照れている。エレナはにこりともせず、
「わかりゃいいのさ。あたしたちが他人の役に立つなんて、こんなときしかないんだからね。あんたたちの生命は預かったよ」
返事はバイクの轟きであった。
十分後、四人は黒い巨木が闇色の枝と葉を広げる森の入口に辿り着いたのである。
立錐の余地もなさそうな木立の間に、糸みたいに細い踏み分け道を見つけるのは容易だった。
「バイクは置いていくしかないわね」
エレナはシートから降りた。
「青い苔の生えてるところは、わかってるのかい?」
シュタールが、大砲みたいな火薬銃と弾帯を背中に背負いながら訊いた。タンは一メートルほどの太い円筒と、そこから延びた管を車から下ろし、ニシューは軽くステップを踏みながら、両手首をせわしなくこねくりまわしている。その周囲に細長い光が幾つもきらめき――
「行くわよ」
エレナの宣言と同時に、それは三本ずつの投げ刃と化した。
まるで黒雲のように覆いかぶさってくる梢にも隙間はあり、細長い光の筋が洩れている。自然が生んだにしては妙に幾何学的な秩序を持っていて、旅の画家でも訪れる者が多いという。
エレナの記憶では、森の西にある岩場のあたりが青い苔の群棲地だ。
用心しいしい奥へと入り込むにつれて、森の育む様々な品が一同の視界を埋めた。
「ちい。ヨガリソウ、ヒマンタイジ、あれはタケノビルだ。あれだけまとめて『都』で売りゃあ、半年は左うちわで暮らせるぜ。ああ、勿体ねえ。採ってきちゃ駄目か?」
こう洩らすタンへ、
「一秒でも惜しいわ。そろそろ礼儀正しい森が牙を剥く頃よ」
叱咤しながら、エレナ自身も惜しいと思う気持ちを抱かざるを得なかった。
タンが名を挙げた――いや、それ以上に、木の根っこや幹の間にいくらでも姿をのぞかせている色鮮やかな植物は、どれも医療用として『都』から来た商人垂涎の的なのだ。近辺の村が、さしたる耕地面積もないのに結構裕福なのはこのおかげであり、しかも、この森の木立が噴出するオゾンと土壌の成分が特殊なせいで、いくら採集しても尽きることがない。彼らが辿る踏み分け道は、そんな採集民が残した跡なのだ。
「気がついてる、シュタール?」
とエレナが何気ない風に訊いたのは、それから三分ほどたってからである。
「ああ」
と禿げ頭はうなずきもせずに応じた。
「さっきから尾けられてる。おれの勘じゃ、ちょっと厄介な野郎だ」
「あたしもそう思うわ。森の住人かしら?」
「わからねえ。つかず離れず――頭の出来はよさそうだ」
二人につづくタンとニシューもこのやりとりは耳にしているはずだが、気にした風もない。辺境で生きる上にツッパリを通してきた若者たちである。肝は据わっていた。
「ちょっかいをかけてみるか?」
「そうね」
声と同時に、エレナは右手の指を二度鳴らした。
反応なし。
前方で道が蛇行し、木立の間に消えている。そのカーブへ一歩踏み込んだとき、エレナ・グループのチームワークはその成果を見せた。
わずかに上体を右へ向けざま、ニシューの右手から黒い光が尾を引いて流れた。
神速としか言いようのない速さで木立の間へ吸い込まれた投げ刃であった。
シュタールが火薬銃の銃口を、タンが管の先端をふり向けたのは、数瞬後のことだ。
さらに数瞬――
「止まったな」
とシュタールがつぶやいた。投げ刃ではない。追尾してくる気配の意味である。エレナも眼を光らせて、
「投げ刃は消えたわ。外れたの?」
「いや、弾きとばしても音がする。避けても木に刺さる音がする。かといって、おれの刃が受け止められるはずもない」
「じゃあ、どうしたの?」
エレナは仲間の技を少しも疑っていない。
「多分――」
ニシューが口を開きかけたとき、空中から音もなく、黒い人影が降ってきた。
「クビトリだ!」
叫ぶニシューの首に毛むくじゃらの手がかかり、彼は空中高く持ち上げられた。シュタールの火薬銃が火を吐くより早く、エレナの分銅が唸りをたててそれを追い、骨の砕ける音と獣に近い悲鳴とともに、ニシューは地べたへと戻った。
枝の鳴る音がつづき、一同の頭上に何やら霧のようなものが降りかかるや、静寂が訪れた。まだ、陽は空にある。それなのに、虫の声ひとつ、鳥の声ひとつ聴こえないのがこの森の特徴だ。
「うえ、こりゃ、血だぜ」
禿げ頭にかかった液体を指ですくい、シュタールがののしった。
「クビトリめ、エレナの分銅を食らうとは、二百歳にしてようやく耄碌しやがったな」
「ちょっと――どういう意味よ」
エレナはじろりとシュタールをにらみ、
「殺せなかった以上、また来るかもしれない。尾けてくる奴の気配も消えちまったし、そろそろ腹くくって行くよ」
再び歩き出す姿には絶対の決意ばかりがみなぎり、三人の男たちは、さすが大将と相好を崩した。
歩き出してすぐ、ニシューがタンへ、
「いまのクビトリ、な。――おかしな格好してたのに気がついたか?」
「いや、おれはおまえのすぐ下にいたんでよく見えなかった。何か――着てたよな?」
「おれは見たよ。グリーンのシャツと縞柄のズボンだ。あの組み合わせは、ジェッペ爺さんのお気に入りだった」
タンは沈黙した。
一年前、九十歳になるジェッペ爺さんは、若返りの妙薬と言われるモドリグサを求めて森へ入り、それきり消息を絶った。ニシューは老人の隣家に住んでいた。
「やっぱり、爺さん――クビトリに殺られたか」
やっと口にすると、ニシューは首を撫でながら、
「もうひとつ見た。おれの首を掴んだ手な。毛むくじゃらだったが、肘の内側に傷がついてたよ。ありゃ、おれがまだ四、五歳の頃、薪割ってた爺さんが、あやまってつけた傷と瓜二つだった」
「……すると、あれは……爺さん?」
タンの声は糸のようであった。ニシューは首をふった。
「ちがうな。あいつの顔は猿そっくりだったよ。絶対に爺さんじゃねえ」
「さっきから、うす気味の悪い話をしてるんじゃねえぞ」
いきなりシュタールが凄んだ。この場合、二人はぎょっとするより、むしろ救われたような表情になって、口をつぐんだのである。
木立の壁が切れたように消失するや、不意に奇妙な形の岩の山が視界を埋めた。
まるで、精密機械で研磨したかのような滑らかな立方体の連なりよりも、一同の眼は、その周囲の地面に吸いついた。そこが目的地であった。
「無えぞ、おい」
進み出たシュタールにつづいて全員が視線をとばしたが、岩石の周りには、青い苔どころか黒い土以外の色彩は見当たらなかった。
「なんてこった。――枯れちまったんだな」
タンが拳を打ち合わせた。エレナは岩山へ眼を走らせて、
「そんなはずないわ。去年も見かけたのよ――あそこ!」
指さす先――二十メートルを越える岩山の頂近くに、見過ごしそうな青い色がこびりついていた。タッカーがふり向いて、
「誰が昇る?」
「あたしよ」
「危ねえぜ」
「あんた方なら安全?」
首を撫でながら、ニシューが肩をすくめた。
「クビトリが出るかもしれない。見張ってて」
言い残して、エレナは手近な岩の出っ張りに手をかけた。器用によじ昇る姿は、紗をかけたように暗い。蒼茫と夕暮れが迫っていた。
火薬銃を構えて、シュタールが不安げに周囲を見廻した。
「風が出た」
と言った。
「他のも出てくるさ」
とタンはニシューを見て、
「顔色が悪いぜ、大丈夫か?」
と訊いた。
首を揉みながら、ニシューは片手で額の汗を拭いた。
「以前、ママ・キプシュからきいた話だが」
とタンは|管《つつ》先の金属ノズルを握り直しながら言った。
「この岩山は大昔、貴族がある実験に使ったもんだそうだぜ。だから、こんな――こさえたみてえにきれいなんだ」
「何の実験だ?」
とニシューが訊いた。
「なんでも、辺境にばら撒く妖物を造り出すため、まともな生き物を集める必要があった。母体ってわけだな。この岩はそのための司令塔だそうだよ。あのクビトリもキバナシクイも、そうやって造られた新種だとよ」
「とんでもねえことをしやがる」
「おや、少し元気が出たな、ニシューよ」
「ああ、やっとな」
彼は首から手を離さず、にやりと笑ってみせた。
「どうだ、エレナ?」
シュタールが口もとに片手を当てて上空へ叫んだ。もちろん、エレナの足場がしっかりしていると見てからだ。
「大丈夫よ。あと少し」
威勢のいい答えに安堵して、森の方を向いた途端、
「きゃあ」
と悲鳴が降ってきた。
うお!? とふり仰いだシュタールの眼に、エレナの全身に絡みつく、蔦ともロープともつかない何条もの筋が映じたのである。それは、明らかに意志による動きを示しながら、てっぺんの岩の、その頂からこぼれていた。
驚いたのはエレナである。岩肌の一番下にこびりついた苔に手をかけた刹那、頭上からこんなものが絡みついてきた。当然、肝をつぶし、危うく落ちそうになった。それを支えたのがこの奇怪な触手なのだから、世の中皮肉なものだ。巻きつかれた瞬間、エレナはとんでもないことに気がついた。この冷たく硬い感触――金属だ。こいつは生き物じゃない!
「射っちゃ駄目よ、みんな!」
大声で釘を刺してから、うねくる触手を押し離しつつ、右手を腰のベルトにくくりつけた円筒に滑らせる。
『都』の商人から死んだ父親が極秘で買っておいた火炎弾である。
発火リングを抜いて放置すれば、五秒後、一万度の高熱が半径五十メートルを灼き尽くす。――というより、溶かす。こんな状況で使うのは無茶かもしれないが、他に手はなかった。
リングを口に咥えた。いきなり、本体がひったくられた。銀色の触手が同じ色の円筒に絡んで、すぐ頭の上でふり廻している。ヒューズの燃える音が、いやにはっきりと聴こえた。あと四秒。
「持ってけ、早く!」
血も凍る思いの中で、よくぞ声が出たものだ。出たとして、よくぞ下の連中に救いを求めなかったものだ。
もっとも呼んだとしても、三人が構っていられたかどうかは怪しい。
その寸前、三人は森から出てきた異形の影に緊張していたのである。
上半身は人間の男であった。剥き出しの、鍛え抜かれた見事な裸体――その下は長い尾をずるずると引きずり、おお、森から五メートル出ているというのに、その先はまだ木立の中に隠れているではないか。蛇だ。夕暮れの残照を青緑に反射するその鱗――妖しく蠢く蛇腹様の腹部。まさしく蛇だ。
三人の前へ来るまで、その眼はうつろであったが、立ち止まり、じっくりと男たちを凝視するうちに、爛々と緑の燐光を放ちはじめた。
「クビトリの血の匂いがする。おまえたち、奴よりもおれの餌になれ」
空気が洩れるみたいな、シュウシュウという音と一緒にこう叫ぶや、蛇人間はいきなり、シュタールに掴みかかった。
その顔面――眉間に黒い大きな穴が開いた。
タッカーの火薬銃から蛇人間の眉間へめり込んだ直径二十ミリの鉛弾は、その全エネルギーを脳内にぶちまけきれずに、後頭部から多量の脳漿とともに抜けた。
一秒とたたずに、射入孔、射出孔ともにふさがり、蛇人間はにっと笑った。貴族の合成した生物の末裔か。――凄まじい再生機能の働きであった。
もはや、表情は人間のそれではなく、悪鬼の顔だ。
がっと開いた口から糸のような舌が突き出し、先端がばちっと二つに裂けた。
その顔面へ、ごおとオレンジ色の塊が噴きつけたのである。炎であった。それはタンの手にした管先のノズルから噴き出ていた。彼の背負ったタンクには高温燃焼の油性物質が満たされ、高圧空気によって送り出されるや、外気との摩擦で炎と化す。――|火炎放射機《フレーム・スロアー》であった。
突こうと斬ろうと、否、射たれようと平気な妖物も、焼かれた傷は再生しないのか、炎に包まれた外皮はみるみる焼け崩れ、蛇体は断末魔のダンスを踊る。
「採ったわ!」
エレナの叫びに、シュタールだけが頭上を仰ぐ余裕があった。
エレナが降りてくる。小脇に抱えているのは、確かに青苔の山だ。
やった、と歓喜した眼の奥で炎がゆらめいた。
「あん!?」
と呻いた刹那、ぐおおと岩の頂から狂気じみた炎が噴き上げ、岩山全体がぐらりとゆれた。
「早く来い、崩れるぞ!」
「わかったわよ、受け止めて!」
と言うから、苔だけ放るのかと思ったら、当人も身を躍らせて、完全な準備のできていなかったシュタールは、豊かな肢体を受け止めたものの、尻餅をつく羽目になった。
「|痛《つ》う」
と呻いている間に、エレナはさっさと立ち上がり、眼前でのたうつ妖蛇に眼を丸くしていた。
十メートルはありそうな胴が、ぶんぶんとくねって大地を打つ。そのたびに天まで鳴動するかのようだ。
その上へ、いきなり岩の塊がとび乗った。どん、とつぶして跳ねとび、地面で二度ほどバウンドする。
必死でバランスを取りながら、エレナは森へと走った。
その背後で岩山が――岩のピラミッドが、まるでドミノのごとく崩壊していくのだった。
「どうなってるんだ!?」
とシュタールが訊いたのは、あの踏み分け道を一目散に疾走しながらだ。
「あたしから火炎弾を奪った馬鹿触手が、点火済みのやつを、あの岩の中へ持って帰ったのよ。あれはきっと捕獲装置か何かよ。あの岩の中はどうなってたんだろう」
「見たいのか、貴族のメカだぜ」
「誰が!!」
言い返したとき、エレナは背後に、まぎれもない蹄の音をきいた。
辺境に生きる女が、貴族ではなく、黒衣のハンターを想起してしまったのは何故か。ふり向いて、エレナは凍りついた。
彼女たちの疾走に合わせてか、むしろスローモーに近づいてくる馬の主は黒騎士であった。
何度も見たことがある。四騎士の長としての迫力と凄みは十二分に感じたが、追われる立場となると、それどころではない。まさしく死神。
しかし、何故、彼がこんなところに?
「畜生!」
同じく棒立ちになっていたタンが、ノズルを黒騎士に向けた。
噴き出す火球。
避けもせず黒騎士はその中に突っ込み、抜けた。炎は装甲やマントの表面を滑って消えた。
大地から逆光が迸った。声もなく、タンは縦に割れた。裂けかかった身体を鉄蹄が蹴散らし、完全に二つになって、勇敢な男は草むらに倒れた。
エレナは立ち止まった。ふり向いて、追尾する騎士をにらんだ。シュタールとニシューも右へ倣い、ついでに黒騎士も停止した。
胸の動悸が収まるのを待って、
「あんたね。――森へ入ったときから尾けてたのは?」
とエレナは詰問した。
「そうだ」
地響きのような声であった。
「どうして尾けてきたの?」
「決まっておる。その苔を村へ持ち帰られては困る。出来損ないどもを始末できなくなるのでな」
「これで治るのよ! もう、あんたたちの仲間じゃなくなるの!」
「汚らわしい!」
光芒が走り、エレナの眼前で大地が弾けた。
|土塊《つちくれ》を浴びてもエレナは怯まなかった。
「ちょっと、待ちなさい!」
顔中を口にして喚いた。その見幕が効いたのか、黒騎士は動きをやめた。ここが正念場だった。エレナは思い切って、
「いいことを教えてあげる。あんたが忠誠を誓っている、えらいお姫さまのことよ!」
「姫のこと?」
訝しげながら、笑いを含んで黒騎士はつぶやいた。どうせその場しのぎの出鱈目を、と思ったのであろう。
「そうよ、あいつのことよ。あんたの行動はお姫さまの許可を得ているの!?」
「………」
「やっぱりね。正直なのが取り柄だわ。そんな風に忠義面して陰で命令違反なんかするから、邪魔者扱いされるのよ!」
「邪魔者?――おれがか?」
さすがに黒騎士は怪訝そうな声を上げた。この男にしてみれば、考えも及ばぬ発言であったろう。
「いいえ、あんた方全部よ」
形勢は逆転しつつありと思って、エレナは声に力を込めた。
「教えてあげるわ、特別にね。あんたのお姫さまは、私とDに、あんた方を始末してくれと申し込んだのよ!」
どんな反応が返ってくるか、口走ってからエレナは戦慄した。
沈黙が落ちた。心臓の鼓動が|銅鑼《どら》のように頭の中で鳴っている。
黒騎士の肩がゆれた。
低い声が甲胄の何処かから洩れてきた。
泣いているのかと思った。
シュタールもニシューも顔を見合わせている。
突然、エレナは間違いに気がついた。
いま、夕闇を押しのけて高々と上がる声は哄笑であった。
「ははははは、何を言い出すかと思えば。――この世に生を受けて、これほどの面白い冗談をきいたことはないぞ。姫が我らを処分せよと、おまえらに命じられたか」
「本当の話よ!」
抗弁しても無駄とエレナは思った。黒い死は確実に彼女の頭上へ死の翼を広げるにちがいない。
果たして、黒騎士は前進を開始した。駆けもせず、ゆっくりと。巨大な山のように。
「昨夜の戦いぶりからして、人間にしては見所のある娘と思っていたが、このような小細工をするとは失望したぞ。しかも、その細工が無礼この上ない。――許せん」
「何よ、あんたこそ。こっそり人の後なんか尾けてきて。――どうして、最初から姿を見せなかったのよ?」
「おまえがどう出るか見たくてな。この森へこんな時間と知りつつ来るには、それなりの決意と力がいる。それを見たいと思ったのだ。何を探すつもりか興味もあった」
「いつから尾けてたの?」
エレナは質問を探した。今は時間を稼ぐことだった。それが、ほんの数分生き延びるだけにすぎなくても、青い苔を届ける可能性を捨てるわけにはいかなかった。
「おまえたちが村を出たときからだ」
「やな奴。最初からスパイしてたのね」
「すべては姫のためだ」
黒騎士の身体が次第に大きくなってきた。着実に近づいていることに、エレナはやっと気づいた。
「エレナ、逃げろ!」
いきなりシュタールが二人の間に入った。火薬銃が雷鳴と火炎を放った。硬い音がはるばると鳴って、黒騎士の上体がわずかにゆらぐ。
兜の額に浅い窪みが生じていた。その周囲が連続してへこみ、小さな火花と弾丸を弾きとばした。
「ごめん!」
二発目でエレナは地を蹴った。シュタールの銃声が胸に痛かった。
黒騎士の馬を立ち往生させるため、木の間へとび込もうとも思ったが、バイクのある地点へ先廻りされたらそれっきりだ。まっしぐらに走った。
蹄の音がきこえた。全身の血が引く思いだった。
「シュタール」
自然に口をついた。
鉄蹄の轟きは一メートル足らずのところに迫った。馬の熱い息が首筋に当たった。
――おしまい、か。
ふっと思った瞬間、天を衝く咆哮が右手から走った。
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第五章 薔薇の舞い
叫びに聴き覚えはあるが、現物を見たものは少ない。
「森の人」という通称と、火竜でさえ頭から食い殺し、巨木を爪楊枝代わりに使うとの伝説を信じてはいなかったが、時折森の近くで発見される巨大な骨格には、決して出会いたくないと思わせる危険なものがあった。
いま、黒騎士に躍りかかったそれは、全長三メートルほどの毛むくじゃらの楕円形であった。ふた抱えもありそうな手足がついているが、指は見当たらない。
恐らく、エレナについたクビトリの血の匂いに引かれたものだろうが、彼女にはまさしく天の助けだった。
走り出そうとする背を、衝撃と馬の叫びが打った。思わずふり向いた。黒騎士と馬は横倒しになっていた。
「森の人」が片手を上げて馬の腹を叩いた。装甲がへこみ、馬は苦痛のいななきを放った。
光の帯が毛だらけの肩の半ばまで食い込むのをエレナは見た。黒い飛沫が夕闇を彩り、枝葉に降りかかった。
「森の人」は反対側の手をふった。鈍い音がして黒騎士はのけぞった。見事なフックであった。
「まかせたわよ!」
投げキッスを送って、エレナは地を蹴った。希望が湧いていた。
出口は眼の前だった。
視界の開ける音を聴いたような気がした。エレナは身を震わせた。
バイクは元の位置に元の格好で待っていた。
シートをまたぐや、スターターを点火する。エンジンが唸った。
「エレナ」
聴き違いかと思った。もう一度――すぐ近くだ。
声の位置を掴む前に、人影が駆け寄ってきた。
「ニシュー!?」
「何とか逃げてきた。シュタールがあんたを守れと」
「彼は――!?」
「やられたよ」
ニシューは首を押さえた。
涙が出そうになって、エレナは顔をそむけた。
「乗って。――行こう」
「いや、まだだ」
「え?」
ニシューの顔はひどく歪んでいた。
「見ていろ、エレナ」
彼は両手を側頭部にあてがい、上へと持ち上げた。
あまりすっぽり[#「すっぽり」に傍点]と抜けたので、エレナの驚きは思ったより少なかった。
「ニシュー!?」
ざっと地面が鳴った。
森の中から跳躍してきた影が、二人の五メートルほど向こうに落ちたのだ。黒い剛毛で包まれた手足は、言うまでもなくクビトリだ。シャツとズボンをつけているのを見ても、エレナは驚かなかった。
噴き上がるニシューの黒血を眼のあたりにしながら、エレナの手は反射的に腰の分銅にのびた。
やや前のめりの姿勢は猿に似ていた。それがもと[#「もと」に傍点]なのであろう。
草を踏みながら近づいてくると、クビトリはニシューの背後で止まり、両手をのばして、彼が頭上に掲げた首を取り上げた。
あっさりと捨てられた。クビトリの手が自分の首にかかった。
「まさか」
ある恐怖の予感がエレナを硬直させた。
クビトリは自分の首を引き抜くと、まだ血を噴いているニシューの首の付け根に置いた。首は逆向きであった。それが、ぎりりとエレナの方に向き直ったのである。同時にクビトリの身体は崩れ落ちた。
額と下顎が異様に突き出た巨猿の顔が牙を剥いた。
首のすげ替えは、脳の移植を意味する。こうやって老いた肉体のみを取り替えて、クビトリは永遠に近い生命を得る。
がっと口が開いた。真っ赤な口腔の上下に植わった歯は、すべて針のように尖っていた。
ニシューの身体が宙に舞う。のしかかられる寸前、エレナは反射的に動いた。バイクはすでに猛っていた。
バイクが跳ねた部分は下半身だったようだ。クビトリはエレナの頭上を越えて草むらへと落ちた。急速にターンし、エレナはニシューの身体へライトを浴びせかけた。
眼の前に手をかざす仕草は、クビトリそのものであった。
「ニシューの仇よ」
レーザーが闇を貫き、クビトリの掌を灼いた。ぎゃっとひと声、宙へ躍ったが、掴まるべき木も枝もなかった。こいつを生かしておいては新しい犠牲者が出る。エレナは着地点へと突っかけた。
敵はうずくまっている。百五十キロでエレナは激突した。
跳ねた! と全身から力を抜いた刹那、車体が前へのめった。
凄まじい勢いでバウンドする車体が、エンジン音だけを響かせながら横倒しになってから、クビトリは立ち上がった。
右手に握った輪をバイクめがけて放る。車体とそのかたわらに横たわるエレナの足元まで辿り着いた輪は、そこで横倒しになった。バイクの前輪であった。鋼鉄のボルトで固定されたそれを、クビトリは片手のひと掻きで剥ぎ取ったのである。
ゲヘ、と洩らしたのは、単なる呼吸か、笑ったものか。
のっそりとエレナに近づく表情には、憎悪と飢えと、まぎれもない欲情の翳が貼りついていた。
仰向けに転がったエレナは、これまでの死闘のせいか、上衣の胸もとが大きく裂けて、白い乳房が半ばまでのぞき、スラックスの右腿も斜め一文字に口を開いて、若々しい乙女の肌が露出している。
じっとそれを見下ろし、豊かな胸の起伏を確かめてから、クビトリは舌舐めずりをした。
両手でシャツの上から乳房を掴む。エレナはぴくりともしない。
何をするつもりか、人間の身体を持った獣は、エレナの上に重なった。月光の下に背徳の光景が繰り広げられるのか、奇怪な口がエレナの半ば開いた唇に重なろうとした刹那――
この世のものとも思えぬ叫びを上げて、クビトリは上体をのけぞらせた。逃げようと両足を踏んばったが、腰に巻かれた腕がそれを許さなかった。
「お気の毒さま。生まれたときからバイクの事故には慣れてるのよ」
左手で敵の腰を抱き、右手の武器で脇腹をえぐりながら、エレナは嘲笑した。
「これは、あんたが殺したニシューの投げ刃よ。昔、記念に貰った品。彼に刺されているとお思い」
悶える固い肉を思いきり三度えぐり抜くと、ついに抵抗は熄んだ。
ゆっくりとのけぞっていく身体を今度は支えず、エレナは素早く立ち上がった。
全身が痛んだ。いくら慣れているとはいえ、百五十キロで吹っとんだ身体は、あちこちで悲鳴を上げている。
シュタールたちのバイクへ向かおうとふり向き、エレナは肝心なことを失念しているのに気がついた。
三メートルと離れぬところに黒騎士が立っていた。
「いつから見てたの?」
上衣のポケットに突っ込んだ青苔を確かめながら訊いた。両脚が溶けてしまいそうだ。
「よくやった」
と黒騎士は穏やかな声で言った。讃える口調を感じる余裕はエレナにはなかった。
「女が苦労してるのを黙って見てる男なんて最低よ。――死んじまえ」
バイクまでの距離をエレナは測っていた。四メートル。たいした距離ではない。間に黒騎士がいるだけだ。
黒騎士が何か言った。エレナは理解できなかった。何と言ったの?――一緒に来い、とか?
「ええ――いっ!」
エレナの右手から分銅がとんだ。全身で放った一撃を、黒騎士はあっさりと左手で弾き下ろした。衝撃に腕が痺れて、エレナは分銅を落とした。ここまでか、と思った。
眼の前に暗闇が広がった。近づいてくる黒騎士の姿が、最後に見た光景だった。
――ごめんよ、シュタール、タン、ニシュー……あたしも、ここまでだわ。
意識が戻った。急速な眼醒め方からして、倒れてからさして時間を経ていないようだった。
草むらの上だ。起き上がろうとして、エレナは全身が総毛立った。闇色の虚空に名状しがたい殺気が渦巻いていた。
月がある。二つの影は、その真下で対峙しているように見えた。
右に黒騎士。
平原の草をなびかせる夜風が、左の影のコートを優美にはためかせた。
「D」
エレナの声は、喜びよりも恍惚としていた。
不意に黒騎士が後じさった。
「ここは手を引こう」
「おれは引かんぞ」
とDが言った。黒騎士はエレナを指さし、
「いかにおまえでも、おれを斃すには時間がかかる。その間に娘は死ぬかもしれん。もっとも、おまえと関係がないというならそれまでだが、こんな荒野で朽ちさせるには惜しい女だ」
Dの返事を待たず、騎士は森の方へ歩き出した。黒い馬が待っている。「森の人」の攻撃にも耐え抜いたらしい。
Dが近づいてきた。
エレナは顔をそむけた。
「ごめんね――足手まといになっちゃって」
と言った。
「あたしがこんな風じゃなければ、あいつを斃してくれたわよね」
その額にDの左手が置かれた。エレナは思わずDの方に向き直った。痛みは忽然と消えていた。
眼が合った。吸い込まれるような深さに、エレナは恐怖さえ感じて瞼を閉じようと努めた。
Dの方から遠ざかった。立てとも言わない、立てるかとも訊かない。手を貸そうともしない。
エレナはひとりで立ち上がった。
「どうして、ここへ?」
あたしが気になって来た、と言ってくれないものか。
「あの城から辺境の境界までT・ポートされた。その帰りだ」
味も素っ気もない、と思った。それも、この若者らしい。
二人は馬とバイクの方へ歩き出した。
「ねえ、あたしがここにいる理由は訊かないの?」
エレナは胸中の不満を口にすることにした。返事は無論、ない。抑えようと思っても、ため息が洩れた。
「あたしのことなんか、どうでもいいのね。あの城にもあたしが勝手についていったんだしさ。でもね、一応は一緒に戦った仲なんだ。元気かとか、大変だったなとかくらいは言ってほしいわよね」
口には出さぬ胸中の声であった。
Dは馬にまたがった。ここへ来る途中の農家で刀ともども購入したサイボーグ馬である。
エレナもシュタールのバイクに乗った。
エンジンをスタートさせたとき、Dがこちらを向いた。
「仲間は死んだか?」
「ええ。――あたしが誘ったのよ」
エレナは眼を閉じた。三人の家族に何と言ったらいいのか。
今度こそ慰めの言葉でも、と一瞬思ったが、そんな娘の心情に惨たる想いだけを残すかのように、Dは風を巻いて疾走を開始した。
村の門は閉ざされていた。内側から叫び声が上がった。男の声も女の声もあった。怒号よりも悲鳴の方が多いようだった。
「開けて!」
叫んだが応答はない。何かが起こっている。容易に想像がついた。エレナはそれを意識の上に浮かばせまいと努めた。胸の中がひどく冷たい。門の高さは三メートル以上あった。
なす術もなく立ちすくむその胴を、鋼の腕が巻いた。
驚きの声はそのことでなく、自分が高々と門を越えた事実に対してであった。
着地も静かであった。
「広場は向こうだな」
とDが訊いた。ダンピールの血に潜む力を知らぬものには、信じ難い|跳躍《ジャンプ》力であった。
「そうよ!」
エレナは叫んだ。頭がひどく痛んだ。希望のもたらす興奮のせいであった。村への途中で、昨夜の一件は話してある。
無反応もいいところだったが、それが効いたのか。
通りに人影はなかった。広場へ近づくにつれて、叫びは大きくなっていった。
角を曲がって、エレナは息を呑んだ。
テントが燃えている。炎が眼を灼いた。
その周囲をうろついているのは、四彩の薔薇を咲かせた村人たちである。
騎士の影がそのかたわらを過ぎた。
村人の胸を斜めに細長い直線が貫いた。
即死した身体を、騎士は片手で槍ごと楽々と持ち上げ、炎の中へ投げ込んだ。
「青騎士」
全身の血がたぎっていた。エレナはDのことも忘れた。テントの周囲には、うろつく人々の数倍に達する人影が折り重なっていた。
時折、銃声が上がり、青騎士は胸や腹から火花を散らせてよろめいた。
すると、馬が信じられない速度でその場所へと走り、突き出す槍の先から断末魔の絶叫が迸った。
やめて、と誰かが叫んだ。父親の名を呼ぶ子供の声もした。
「あの――人殺し……」
駆け出そうとしたエレナのかたわらを黒い影が通りすぎた。
炎へ向かうコート姿は、紅蓮に縁どられた美しい怒りの像のように見えた。
十メートルほど先で殺戮を繰り返していた青い影が、見えない稲妻に打たれたかのように馬ごとふり向いた。
「どこにいた?」
Dを見て愉しげに訊いた。
「こいつらを始末せよと、黒騎士どのに言われてきたが、実はおまえとやり合えそうだと胸を弾ませてきたのよ。もう四、五十人は死んだぞ。Dよ、おれを止めてみせるか?」
「それが仕事だ」
Dの背が鍔鳴りの音をたてた。青騎士も槍を持ち直した。
燃えさかる炎の色も、その轟きも、二人の間を流れる殺気のために氷結したようであった。
Dが走った。一刀は後方へ流していた。
馬の脚を狙ってそれが銀光を引いたとき、青い騎士は月へ向かって跳んだ。
Dの胸と背へ、槍が繰り出された。ひとすじの武器は二本あるとしか見えなかった。
ともに弾いてDは跳躍した。いや、二撃目は空中で弾きとばしたのである。疾走する騎馬の頭上へ人間が追いすがれるものかどうか、青騎士といえど、考えもしなかったにちがいない。
ふり下ろされるDの|切尖《きっさき》が突如、方向を変えた。
払うように右へふられた刀身へ、横殴りに黒い弧が襲った。馬の腹につけておいた二本目の槍を青騎士がふるったのだ。
刀身は折れ、Dは空中へ投げ出された。炎の中でコートが悪夢を覆う翼のように舞った。
生と死の一刹那。――エレナはその飛翔を恍惚に近い感情の昂ぶりとともに脳裡へ灼きつけた。
青騎士が待っていたのはこの瞬間だった。
空中ではいかなる標的も彼の槍を避ける術はない。それが人間である限り。
十分な余裕をもって青騎士は狙いを定め、長槍を投擲した。
狙いたがわず!――腹から背までを刺し通され、Dはもんどりうって地上へ落下した。
手綱を引いて馬を止め、青騎士は残る一本を右手に持ち替えた。
片膝をついたDまで、十メートルあった。
「これで終わりだ。D――あの世でおれを待て」
鉄蹄のどよめきとともに突進する鋼の騎士。その槍をふるう前に、Dの姿は蹄にかけられるにちがいない。
ぐいと槍を引いて標的から眼を離さず、しかし、青騎士は見た。
長槍に刺し貫かれたまま、黒衣の美青年がすっくと立ち上がる様を。
地を駆ける蹄の怒号より高い叫びは、驚きの声か、必殺の気合か。――人馬と人とが交差した刹那、甲高い音とともに一本の槍が宙にとんだ。
「!?」
民家の前で、名騎手ならではの手綱さばきで馬首を巡らせ、新たな攻撃をかけようとして、青騎士は愕然となった。
その手に槍はなかった。
そして、仁王立ちになったDの右手に、彼自身を串刺しにした槍が握られていると認めた刹那、空気を灼いて飛び来ったそれは、装甲もろとも騎士の心臓を貫いた。
「やった! やったわ、D!」
エレナの歓呼を、蹄の音が断ち切った。
なんと、まぎれもなく心の臓を貫かれた青騎士を乗せたまま、馬が走りはじめたのである。
「止めろ!」
「城へ帰すな!」
姫の報復を恐れてか、やはり、目撃者らしい村人の声が上がり、棒か鋤のようなものが叩きつけられたが、馬はなんなくかわして裏門の方角へと走り去った。
「D!」
夢中で駆け寄るエレナの前で、吸血鬼ハンターは何事もなかったように|旅人帽《トラベラーズ・ハット》の鍔に手を触れた。
「あなた――串刺しにされて……怪我は?」
その腹部に血痕を認めて、エレナははじめて美しい若者に戦慄した。
「とんでもない男がやって来たね」
嗄れた女の声が言った。ママ・キプシュであった。
「はじめて見たときから、あんまりきれいすぎると思ってたんだ。それに、その回復力――あんた、ダンピールだね?」
「そうだ」
エレナは声もない。
「折れた刀のかわりに敵の槍を武器にしようなんて、なまじの戦闘士にゃ考えもつかないし、そのために自分の身を串刺しにさせるとなると、ただのダンピールでもなさそうだ。ねえ、名前は確かDだったね」
老婆は光る眼で彼を見据えた。
「そうだ」
Dの返事は静かだった。ママ・キプシュは視線をずらして、そろそろ火勢も収まりかけたテントと、周囲に転がった死体を見た。
「奴ら、最初からみんな[#「みんな」に傍点]を放免する気なんかなかったんだねえ。でも、そのポケットからはみ出てる苔を使えば、二、三日でみんな元に戻る。エレナ――今日は私のところへおいで」
「何でも手伝うわよ、ママ・キプシュ」
「それだけじゃあないさ」
と老婆は、英知の光を湛えた眼を苦しげに細めて、
「本当に怖いのは、こういう羽目になったときの人間さ。――あんたならわかるだろう?」
Dに向かって言った。
ゆっくりとうなずくのに満足してか、
「なら、この娘についてておやり。大変なのは、恵みの陽がさしてからだよ」
ママ・キプシュの予言は正鵠を射ていた。
翌朝、エレナの泊まったママ・キプシュの家へ、貴族化を免れた村人全員が押しかけてきたのである。
相手になってやるわと息巻くエレナを押し止めて、ママ・キプシュが応対したが、エレナを出せの一点張りで埓が明かず、ついに当人が玄関へ現れた。
「おまえのせいだぞ、何もかも!」
先頭になって叫んだのは、テントの見張り番――ガリーであった。
「いいや、おまえとあの若いののせいだ。奴も出せ」
「あの人はいないよ!」
言い返すエレナの胸に、痛いものが広がった。Dは彼女を無視して、村外れへ戻ったのだ。
「それに、まだわからないのかい? あいつらを斃せるのは、あの人しかいないんだ。あの人の力で、あたしたちは貴族どもの支配から逃れられるんだよ」
「誰がそんなこと頼んだのよ!?」
女のひとりが絶叫した。エレナが一番ききたくない言葉だった。
「あたしたちは、これまでうまくやってきたじゃないか。お城のお姫さまとあの騎士どもと、何とか共存してきたじゃないか。そりゃあ、酷い目にも|惨《むご》い目にも遇ったさ。けれど、そのときさえ我慢すれば後は平和だったじゃないか。こんな世界で生きてれば、他にも酷いことはいくらもある。それがないだけ、あたしたちはまし[#「まし」に傍点]だったんだ」
「あいつらのルールに従ってるときならね」
とエレナは断固言い返した。
「あたしたちは、この村を出ることができない。亭主や女房や子供や恋人をあいつらにさらわれても、文句ひとつ言えやしない。大事な人をあいつらの気まぐれのために奪い取られるような生活の、どこがまし[#「まし」に傍点]なんだよ?」
「火事や飢饉だって何人かは死ぬんだ」
別の声が叫んだ。
「あいつら[#「あいつら」に傍点]は、おれたち並の人間の力じゃどうしようもねえ天災と同じだ。何されたって、頭を下げ、声を潜めてやり過ごすしかねえじゃねえか。そう思や――」
「この奴隷根性が」
エレナの喉が声にならない呻きを洩らすや、びゅっと分銅が躍った。彼女の位置からはよく見えないはずなのに、ぎゃっと叫んでひっくり返ったのは、確かに今の発言者であった。鼻がつぶれていた。群衆は後じさり、玄関前に半月型の隙間をつくった。
もう一撃、と鎖を引き戻したエレナの腕を、ママ・キプシュが押さえた。
「およし。これ以上、みんなと気持ちを離すんじゃないよ!」
「やっぱり地が出たな、この狂犬娘!」
テントの見張り番が吠えた。
「おれたちからすりゃ、城の貴族より、村にいるだけおめえの方がよっぽど危ねえ。おい、これを見ろ!」
人垣が真ん中から裂け、エレナと人々の間へ、人影がひとつ突き出された。
へなへなと地べたへ手をついた姿を見て、
「マッケイ!?」
エレナは仲間の名を呼んだ。
「ようく見ろ。こいつは昨夜、生き残った」
とガリーが憎々しげに言った。
「だが、右肩の骨が折れてるし、左耳はちぎられて左眼もつぶれた。誰がやったかわかってるな?」
電撃に打たれたようにエレナは立ちすくんだ。
薔薇の花を植えつけられた仲間は、片手で陽光を遮りながら身悶えた。その指はみな、あらぬ方向へねじ曲がっていた。
「おめえがやったんだ。あのとき、テントの中で仲間を踏みつけたのさ。けっ、えらそうなことぬかしやがって、貴族の仲間になりゃあ、友達も糞もありゃしねえ。他にも無事な奴は何人かいるが、みんな、おめえのせいでズタボロだぜ。ひとりだけ特別って顔する前に、てめえのしでかしたことをようく見ろってんだ。ひでえ目に遇ったのは、こいつらだけじゃねえぞ。死んだ四十人――その責任をおめえとあの若えのはどう取るつもりだ?」
呆然と声もないエレナへ、止めの一撃が打ち下ろされたのは、次の瞬間であった。
「ヨハンを返して」
母親の声であった。幼い頃、エレナがよく牛乳を貰っていたカイザー家の女房の声だ。
「昨日、あいつ[#「あいつ」に傍点]に殺されちまったよ。あんたの膝の上でよく遊んでた。まだ八つだったよお」
「フリーダも死んだぞ」
村外れで牛を飼っているバング爺さんだった。フリーダはエレナと同じ年齢で、仕立てがうまかった。
「ショーヴを返して」
「ペルトを返せ」
エレナは耳を押さえた。シュタールもタンもニシューもいなかった。足元ではマッケイが呻いていた。どこか遠くへ行きたかった。昨夜の平原と森とが痛切に懐かしく感じられた。
「罰を与えろ!」
叫び声も別世界のもののようにきこえた。
「村の外れで|軛《くびき》にかけろ。いいや、城のそばに三日三晩つなぐんだ」
そうだという叫びがひとつになった。その刹那、群衆は暴徒と化した。
血走った眼で押し寄せる人の波を止める気力は、エレナに残っていなかった。
ひとすじの稲妻が代役を果たした。
それは先頭の男の鼻先をかすめ、黒土に突き刺さった。
「ひえっ!?」
と男は腰を抜かし、暴徒の前進は停止した。
稲妻は青い槍と化している。だが、そうと知っても人々が動きもせず、|双首狼《ふたくびおおかみ》を前にした羊のような形相となったのは、それが青騎士が村に残した一本だったからではない。その落下する唸り、その大地を貫く響き。
槍の飛来した方を向くものはいなかった。溢れる陽光の下で人々は凍りつき、近づいてくる蹄の音をきいた。
「やはり、来たね」
と言ったのは、ママ・キプシュであった。ようやく人々はふり向き、馬上の美しい若者を見た。
彼の前に、五歳くらいの男の子がひとりまたがり、馬の脇にはごま塩頭の屈強な男がひとり立っていた。
「ブラスコ」
「馬の上のは、伜のクスカだよ。どうして、一緒に……」
「鍜冶屋に用があってきた」
Dの声を、村人たちははじめてきいた。女たちはひとり残らず頬を染め、男ですら茫然と、そして、恍惚となった。
鍜冶屋のブラスコが、Dを横目で見上げ、
「あんたらがエレナを吊るし上げようって出かけたから、おれは止めにいこうと思ったんだ。そしたら、この男が来て――」
唾をひとつ飲んで、
「おれの伜にも薔薇が咲いたよ。だけど、昨夜、ママ・キプシュがこさえてくれた薬を飲んで助かった。見てくれ、まだお天道さまをむずがるが、暗闇に閉じ込めなくていいんだ。あんたらの家族にも、助かったもんがいるだろう。この男からきいた。薬のために青い苔を採ってきてくれたのは、エレナだそうじゃないか。無茶しちゃあいけねえよ」
「おまえ、丸め込まれたな」
とひとりが拳をふり上げた。
「違う。この男は苔を採ってきたのがエレナだとしか言わなかった。おれは自分の判断で来たんだ。あんた方だって、本心じゃ貴族のやり方がいいと思ってるわけじゃあるめえ。エレナはその代理をしただけだ」
「それが余計なことだっていうんだ。エレナとそいつさえいなきゃ。――夜が来たら、貴族の報復がはじまるぞ。一体、どうすりゃいいんだ?」
「わたしとこの人が守るよ!」
エレナはDを指して絶叫した。
「二人で何ができる」
「二人じゃない。あんた方も戦うんだ」
「ふざけるな!」
これまでのどれより猛烈な怒号が噴き上がった。
「おまえだって、あの四騎士の力は知ってるだろ。しかも、あいつらは貴族じゃねえ。本当の魔力を使う女はあの城にいるんだ。いざとなれば乗り出してくる。そうしたら、木の杭なんざ何の役に立つ?」
「城の中の女はこの人がやっつけてくれるよ。プロの吸血鬼ハンターが。四騎士が村へ来たら、あたしたちみんなで斃す」
ざわめきが風のように人々の間を渡っていった。それが収まらぬうちに、
「その娘の仲間は三人とも死んだ」
と馬上の若者が錆を含んだ声で言った。
「その娘は右肩を脱臼し、左脚にはひびが入っている。小さな傷は無数だ。それでも、苔を採りに行き、戦って戻った。――これで十分だろう」
一同は沈黙した。Dはつづけて、
「おれは、じき、城へ出かける。それでしくじれば、次の日、また出向く。それが仕事だ」
こう言って歩き出したのを、呼び止めるものは誰もいなかった。鍜冶屋の親子も後につづいた。
村人たちはお互いの顔を見合わせた。まだ、ぶつぶつ洩らすものはいたが、糾弾に必要な迫力は失われていた。
それでも、ひとりが、
「今日はこれで戻る。だがな、エレナ、この件で村に新しい犠牲者がひとりでも出たら、そのときはただじゃおかねえ。――覚えておけ!」
「百も承知よ」
とエレナはやり返したが、自分に言いきかせるような口調であった。
人込みはのろのろと向きを変え、やがて、三々五々散っていったが、エレナだけはひたすらひとつの方向を追っていた。
陽光にきらめくような、それでいて、すべての熱を奪い去る氷のような美青年の消えていった方向を。
「D」
とつぶやいた不良少女の眼に、このとき、ここ何年も流したことのない大粒の涙が溢れ、きらきらと頬を伝わった。
七彩のステンドグラスから、きらびやかといってもいい陽ざしがさし込んでいる広大な室内であった。どこに入口があるともわからない。四方は石の壁だ。
床の真ん中に立つ人影以外、テーブルひとつ椅子ひとつ――埃ひと粒ないとさえ思える素っ気ない空間であった。
前方を見つめたまま仁王立ちのその姿は、生命のない甲胄のごとくだが、昨夜戻ってから、彼はじっと考えにふけっていた。
「どうなされた、黒騎士どの?」
真紅の影が何処からか現れた。壁や床が開いた形跡もない。
「もうかれこれ五時間もそのままだ。何を考えておられる?」
紅騎士の問いに返事はなかった。
「青騎士のことなら、仕方がない。姫はお怒りかもしれんが、我らのしたことは絶対に正しい。そのために死んだのだ。|彼奴《きやつ》も本望であろう」
「左様なことではない」
黒い彫像が答えた。低いが広い部屋中に|木霊《こだま》するような声であった。
「では?」
「姫のことだ」
「ほう」
「青騎士の死――果たして、姫はどう思っておられるのか?」
「何を――あなたらしくもない。我らの生き死になど、姫の関知するところではありません。それは私などが言うまでもなく、あなたもご承知のはず。我らはただ、この城と姫をお守りし、地上の虫ケラどもを下知し、従わせるために生きておるのではありませんか」
「生きておる、か」
黒騎士が嘆息したような気がして、紅騎士は息を引いた。
「青騎士の死顔をごらんになりましたか?」
と紅騎士は訊いた。夜明け間近、青い朋輩は自らの槍に串刺しになって帰還したのである。
姫は就寝中、白騎士など出てきたら、ますますこんがらがると、紅騎士が浮遊分子の霧から召使いをつくってすべて処理したが、黒騎士は死体を一瞥したきり、さっさと城内へ戻った。
これまでの数百年間、どのような働きを示しても、誉め言葉ひとつ口にしたこともなく、また、それも当然と思わせる武勲をたててきた男だから、紅騎士は死者を不憫と思うより、さすがと感嘆した。今の発言は、そんな尊敬する男へ捧げたものであった。
「私が面を取りました。誇らしげでございましたぞ。あれは文字通り、死力を尽くして戦い抜いた男の顔でございます。恐らくは、戦いもそうなるにふさわしいものだったにちがいない。相手は――」
「Dだろう」
「仰せのごとく」
紅騎士はうなずいた。背中の剣が硬い音をたてた。
「満足なる死、か」
黒騎士のつぶやきがいかなる心情から出たものか、紅騎士は理解しようとしたが、うまくいかなかった。
「おまえが四騎士のひとりに加わってから何年になる?」
黒騎士の顔が、光を求めるように天井を向いた。
「は。およそ百五十年で」
「おれはその三倍を生きてきた。これだけ生きれば、少々疲れる」
「は」
「だが、今のおれは、実は精気に満ちておるのだ。嬉しくてならん」
「青騎士めが失せたから――ですか?」
「馬鹿な。ひとつは、おまえと同じ理由よ」
兜の中で紅騎士は破顔した。
「Dゆえでございますな」
「事によったら、及ばぬかもしれん――心底そう思わせる男に、やっと会えた。長かったぞ、紅騎士。長い長い間、おれはずっと、あのような男を探し求めておったのだ」
「まこと――我らが生命を賭けるのにふさわしい男」
と、腹の底から賛辞を放ち、紅騎士はやや口ごもって、
「黒騎士どの――それは、まるで死に場所を求めておるようにきこえますが」
「ははは」
と黒騎士は笑った。いつもの豪快な笑い方なので、紅騎士も胸中の憂慮をといた。
「我らには守るべき姫がおる。館は荒れても、あの方がおられる限り、我らは剣と槍を敵に突き立てねばならん。すなわち、Dは必ず斃す。いかなる手を使ってもな」
紅騎士は首肯した。返事はしなかった。戦いはこの男にとって神聖なものであった。
「剣をとれ」
と黒騎士が命じた。だしぬけの指示だが、紅騎士の全身に精気がみなぎった。
彼は数歩下がった。重い甲胄は音もたてなかった。
剣を抜く前に、
「黒騎士どのを歓喜させた別の理由とは?」
と訊いた。
答えず、黒騎士は前へ出た。
ぶおんという音をきいたとき、紅騎士の身体は動いていた。
間一髪で抜き合わせた一刀に凄まじい衝撃が伝わり、かろうじてそれを横へ流しつつ、紅騎士は右へと弧を描いた。
手と足が理想の位置にきた。
一瞬、二人の間に流れたのは真正の殺気であった。
黒騎士はいつもの通り自然体だ。
紅騎士は左手を背の一刀にかけた抜刀の姿勢だ。最初に抜いた剣は床に落ちている。
ふっと気がゆるんだ。
「おまえに好みのポジションをとられては、おれにもさすがに打つ手はない」
と黒騎士が首を廻した。
「こちらこそ。黒騎士どのの二撃目に、間に合ったかどうか」
紅騎士の感想も、心底からのものであった。
そのとき――何処からともなく高らかな笑い声が二人を取り巻いた。
「姫!」
愕然と膝をつく姿に差異はない。その前で、まばゆい人型の光が、二人の影を奥の壁まで灼きつけた。
「相変わらずの達者ぶりね」
姫の声が言った。
これは眠っているはずの姫のものなのか、彼ら自身も理解できぬ貴族のメカニズムの仕業か。
「お目汚しを」
と黒騎士が重々しく言った。
「ところで、面白いことをしてくれたわね、黒騎士」
「はっ?」
「とぼけないで。下の村で昨夜、青騎士と二人、大分暴れたそうじゃないの。せっかく私が丹精した花の精をつけてやった人間を皆殺しにしようなんて。――少し増長してやしないこと?」
「………」
「罰を受ける準備――できてるわよね?」
「いかようなりとも。――しかし」
「あら、そんな言葉、生まれてはじめてきいたわ。どんな意味かしら?」
「………」
黒騎士は沈黙したままだ。たとえ昼の幻影とはいえ、この美姫は、彼にとって絶対神にも等しい存在なのであった。
彼は貴族ではない。貴族の下僕にされた人間でもない。強いて言えば、貴族の科学により長命を与えられた改造人間――バイオマンというのが正しい。だから隷属している――とはいえないのが面白いところで、貴族が人間に与える一種の自発的服従は、心理学者たちにとって格好の研究対象となっている。
血も吸われずに、貴族の下僕と成り下がる人間が存在するのは何故か。
結論は出ていないが、その最も露骨な実例が、いま、姫と黒騎士の間に繰り広げられている光景であった。
「青騎士は死んだわ。おまえにも、それなりのリスクを負ってもらわなくてはねえ」
と光の姫は見えない首をかしげ、
「そうだわ。いま、白騎士と戦ってごらん」
と言った。
はっと顔を上げかけ、必死で戻したのは紅騎士の方である。
黒騎士は荘重に、
「承知いたしました」
と受けた。
「実はね、もう呼んであるの。――出てらっしゃい」
あっけらかんとふり向いた向こうに、白い影が幽鬼のように立っていた。
「相手はこれよ」
と姫の幻影は黒騎士を指さし、
「私がよせというまでおやり。手加減は許しません。それから、黒騎士――おまえは武器を使っては駄目。素手で相手をするの」
「それは――!?」
愕然と頭を跳ね上げたのは紅騎士であった。
「お黙り!」
姫の叱咤が、ステンドグラスの光を震わせた。
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第六章 死霊騎士団
鍛冶屋は青光る槍の穂先をしげしげと見めた。たったいま、素粒子分析装置にかけた品である。暴徒の足を止めた青騎士の持ち物だ。
「こいつと同じ剣をねえ」
困惑と自信のなさばかりが目立つ声であり、表情であった。
「モリブデン、クロム鋼、高分子熔鉄、プラス、訳のわからねえ合成物質――これが切れ味の秘密だね。ついてきな」
と言った相手はDである。エレナの危機を救ってから真っすぐここへやってきて、三十分も経過していない。
歩き出そうとして、鍛冶屋はその場にへたり込んだ。
分析装置から取り出したときの槍の重さを失念してしまったのだ。それが、Dの美貌からさっさと逃げ出すためだとは、死ぬまでしゃべるまい。
無言で近づき、Dは軽々と槍を拾い上げた。
「なんて代物だ。五十キロはあるぜ。これなら、火竜どころか|大陸魚怪《クラーケン》でも仕留められそうだ」
左手を揉みながら、鍛冶屋はDを家の裏へ案内した。
Dの依頼はもちろん、騎士たちの装甲を切り裂く剣の製造であった。彼の技量をもってすれば、その辺のなまくら[#「なまくら」に傍点]でも致命傷を与えることはできるが、相手も超人だ。受け止められる場合も十分考えられるし、急所を外れることもある。そのたびに刀身が折れていては、いかにDとはいえども如何ともしがたい。
「どうだい」
と鍛冶屋は庭を見渡して自慢そうに言った。
「ほう」
と背後の感嘆の声に満足して、二、三歩行きかけ、それが妙に嗄れているのに気づき、ふり向いた。
すぐに妙な表情で首をふり、のこのこと庭の真ん中へ歩いていった。
自慢するに足る庭といえた。
黒土や芝生の上に、所狭しと並んでいるのは、どう見ても貴族の手になると思しい石像や鉄の像の群れだ。
剣を手にした古代の英雄、一つ目巨人、竪琴を奏する人魚、百本足の成層圏蜘蛛、笛を吹きながら疾走する|牧神《パン》etcetc――あるものは等身大だが、あるものは十メートルを越え、それが上半身だけだったりするから、鍛冶屋の庭というより魔法の園か、『都』にあるという前衛美術館にでも入り込んだみたいな錯覚を引き起こす。
像たちに混じって、これは本物にちがいない貴族の柩も散らばっていた。
「どれでもいいが。――それにするか」
と指さした芝生の先に、これだけは彫刻と無縁と思える黒い球体が転がっていた。直径一メートルほど。陽光も吸い込んでしまうのか、艶光りひとつない。
「みいんな、貴族の廃園専門の商人から買い上げたもんだ。眺めて楽しもうってんじゃねえ。おれさまが叩き上げた武器の実験台さ」
そういえば、どの像にも深い傷、浅い裂け目が口を開け、一部分がすっぱり切り取られているものもあった。
「さすがは貴族のこしらえた品だ。その辺のやわ[#「やわ」に傍点]な鎧兜より百倍も頑丈だが、おれの作品で切れなかったものはねえ。ただひとつ、その球を除いてはな。貴族の武器でも随分試したが、結果は同じだった。見てえのは、その槍の切れ味だな。ちょっくら貸してくれや」
Dの手から槍を受け取ると、そこはプロの中のプロ、ぐいと腰に引き込んだ構えは見事の一語に尽きた。下半身にも危なげは全くなく、
「てやあああ!」
気合一閃――十二分に力を貯えた一撃は球体の中心を貫いた。――と、火花も上がらず、槍は跳ね返され、勢いよく尻餅をついた鍛冶屋の上に、唸りをたてて倒れかかったのである。
「うわあ」
かっと剥いた眼の前で、穂先は停止した。
左手で掴み取った槍を引きつけ、Dは球体を眺めた。
「あの手応えじゃ無理だよ、あきらめな」
とひっくり返ったまま鍛冶屋は手をふったが、Dが左手で担ぐように持ったのを見て、顔色を変えた。
さして気を入れた風もなく、Dは手を振った。
球体の中心から生えた長槍を、鍛冶屋は奇妙な眼つきで眺めた。
Dを見て、
「抜ける?」
軽く引き抜くと、鍛治屋は穂先を撫でるように触れた。難しい顔で、
「とんでもねえ品だな、こりゃ。やっぱ、無理かな」
「何日で剣になる?」
とDが訊いた。
「丸三日」
「明日の夜までに頼む」
「いいだろう」
鍛冶屋は承諾した。
「この刃が気に入ったんじゃねえ、あんたの腕に惚れたのさ。こさえてやるよ、ただの剣じゃなくて――あんた、名前は?」
「Dだ」
鍛冶屋はうなずいた。眼がかがやいていた。
「光栄だぜ。おれはDの剣を打った鍛冶屋として死ねるんだな」
Dが遺跡へ戻ったのは、それからほどなくであった。
石柱のひとつに、エレナがもたれかかっていた。そばにバイクが止めてある。
Dの姿を見て、片手を上げ、
「はあい」
と言った。反対側の肩に包帯が巻いてある。
「家へ帰れ」
とDはにべもない。
「嫌だよ。誰もいないし、シュタールたちの親が押しかけてくる。さっき、挨拶に行ったら、刺されちまった」
と軽く触れた包帯には、うっすらと血がにじんでいた。
「他の奴らだって、まだ、納得したわけじゃない。――安心して。一緒にいてくれなんて情けないことは言わないよ。気がついたら来てたんだ。すぐ帰る」
Dは馬をつなぎ、背の荷物を下ろした。
「どうしたの、その刀?」
「今夜にも奴らは来る。武器なしでは戦えまい」
鍛冶屋から借り出してきたものだ。十本あるが、あの騎士たちに対しては、どれも二太刀と保つまい。
「ね、あたしも戦わせて。これは一緒に」
エレナは強い口調で言った。
「おまえが生きていられるのは、黒騎士が手加減したからだ」
「わかってる。だから、一緒にやりたいのよ。あたしひとりじゃ、貴族の鎧に傷ひとつつけられない。でも、あんたとならできる。あいつらにやられなくても、村の連中に殺されちまうかもしれない身よ。どうせなら、奴らに少しでも痛い目を見せてやりたいんだ」
「たいした執念だな」
「そうとも。この借りを返さなくちゃね」
エレナは両手を上衣にかけると、大きく左右に開いた。
下は素肌であった。豊かなふくらみの下に、赤黒い線が腹いっぱいの十文字を描いていた。刀傷にちがいない。
「あたしが五つのとき、あの女が家を襲ったのさ。親父もおふくろも、弟と妹も、そのときやられた。本当に死んだのは、翌日、村長に杭を打ち込まれたときだけどね。四つと二つだったよ。この傷は、あたしがとびかかろうとしたら、姫についてた白い騎士がいきなり斬りつけやがったんだ。一人ぐらいは残しておきましょうと笑いながらね。今でもあの声は忘れやしない。あたしが成長するにつれて、傷も大きくなる。一生、何をされたか覚えておくがいい、見世物にでも出たら、一生稼げるぞってね」
怨念も憎悪もなく、むしろ、年老いた女のように淡々と語る口調に、エレナの情念が陰火のごとく燃えていた。それを抱いて十数年を狂いもせずに生きるのは、恐ろしい成果にちがいない。
エレナは上衣を閉じ、うつむいた。激情の後の空しさが娘を蝕みはじめている。
武器を肩に、Dは黙って廃墟の奥へと歩き出した。
エレナは取り残された。
遠ざかる姿が何か言った。
「来い」
とエレナにはきこえた。違うかもしれないが、それで十分だった。全身に歓喜をこめて、娘は後を追った。
昨日、Dが置いた荷物はそのまま残っていた。
「じき夕方よ。食事の用意をするわ。空きっ腹じゃあ奴らと戦えない。ね、調理器は――?」
と訊いてから、あわてて口を押さえた。
「いらないのよね、あなたは」
「そうだ。何か口に入れたければ、自分で調達しろ」
「ベーコンも乾パンもないの?」
「ない」
「他人と道連れなんて、考えたこともないんでしょう? ――おっと、余計なことを訊いちゃった、ごめんね。いま、調理道具と食料持ってくる。コーヒーくらいは飲めるんでしょ?」
「すぐ帰るつもりではなかったのか?」
「そんなに簡単に他人を信じて、吸血鬼ハンターがつとまるの?」
Dは長剣の束を抱えて廃墟の奥へと歩き出した。
「すぐに沸くわよ」
とエレナは声をかけた。
「じき戻る」
その通り、十分としないうちに、手ぶらで戻ってきた。
「刀、どうしたのよ?」
「配置した」
「ふーん」
と、エレナは湯気の立つカップを渡して、
「ね、どうして、この村へ来たの? 吸血鬼ハンターは、貴族を見かけても、依頼がなければやりすごすときいてるけど」
「依頼はあった」
エレナは眼の玉がとび出しそうになった。
「誰からよ!?」
「しゃべるなとの依頼だ」
こうなれば、この若者の口は岩になる。エレナはすぐあきらめた。
いま一緒にいることだけは確かだ。それでよしとしよう。いずれは別れる相手だった。――水のような哀しみを、少女は熱い香りとともに飲み下した。
「――来るかしら?」
カップを両手ではさみながら訊いた。
「間違いない。村を狙うかどうかはともかく、おれを片づけたいだろう」
「でも、あの女、騎士たちを殺してくれと言ってたわよ」
「貴族を信じるのか?」
「ちがうわよ――からかわないで!」
エレナは真っ赤になった。からかわれているとは思わなかったが、よくわからない。笑顔ひとつ見せない四角四面男――とも言い難いところがある。
「彼らを斃すには、戦わねばならん。あの調子でけしかけられれば、死力を尽くして挑んでくるだろう。それに、勝手に村人を襲った罰もある」
「そこもわからないわ。あいつらが姫に逆らうなんて。――貴族が村人殺しをやるならわかるけど、どうして、あいつらが? これが忠誠ってやつなの?」
「かもしれん」
素っ気ない返事が、エレナに次の言葉を失わせた。
沈黙が落ちた。頬に当たる風だけを、エレナは感じた。
「怖いか?」
とDが訊いた。
「ああ」
と答えた。ひどく素直な気持ちだった。
「あんたといるんだから、強気いちばんでいけるはずなのに。見ないでよ、身体中が震えているの。これまで、十何年もひとりで生きてきて、怖いものなんかなかった。貴族だってあの騎士どもだって、いつかは刺し違えても始末してやるつもりだったのよ。村の連中に何と言われても構わなかった。――それが、今はとても怖い。子供にだって負けてしまいそう。あなた、どうしてこんな村へ来たのよ。あたしをこんなに意気地なしにして……」
「男も女も老人も子供も剣を取らねばならん――そんな時がある。たとえ、意気地なしでもな。ここは『辺境』だ」
エレナの脳裡に凄まじい光景が浮かんだ。白い娘に襲われる父母ではなかった。白い騎士に斬られる自分でもなかった。青騎士の長槍を腹に受け、なおも立ち上がった美影身であった。
「あんた――痛くないの?」
「痛い?」
「昨日の晩よ。あいつの槍で刺されて――いくらダンピールだって痛みは感じるんでしょ」
「気になるか?」
「どうかしら」
とエレナはとぼけてみせた。弱みを見せたくないという思いが急にした。自分でもよく理解できない心の動きだった。
「刺された瞬間の痛みは、普通の人間と変わらん」
とDは答えた。しげしげと彼を見つめたまま、エレナは数秒間、声も出せなかった。
彼も血を流す。彼も苦痛を感じる。一体、この美しい男は、生涯に何度死ぬのだろう。エレナは身震いした。思いきり震えたようだ。それが済むと、脅えは去っていた。Dの苛烈な返事が、娘の顔つきまでも変えていた。
「日没まで少し時間がある。休んでおけ」
そう言って、カップを置き、Dは立ち上がった。
黙って見送り、ゆっくりと十数えてから、エレナも後を追った。
ばれないとも、うまく尾けられるとも思えなかったが、この際、気になることは晴らしておくべきであった。
この廃墟には何かある。
Dは最初からここ[#「ここ」に傍点]の存在に気づき、それを求めてきたような節があった。
Dは廃墟の中央――一本の石柱の前に片膝をつき、根元に指を走らせていた。
そこに、太古の文字や記号や絵が刻まれているのをエレナは知っていた。彼女が子供の時分から、その表面は風雨に摩耗し、解読不能の状態に陥っていたが、この若者には過去が読み取れるのだろうか。
「来たまえ」
いきなり言われて、エレナははっ[#「はっ」に傍点]とした。
「何も隠せないのね」
近づいてこう言った。
「ここは何の跡なの? あなたがこうまで入れ込むなんて。貴族に関する秘密が隠されてるのじゃなくって?」
「その通りだ」
とDは言った。
「教えて。今夜であたしはおしまいかもしれない。気にしながら死にたくないわ」
「ここは砦の跡らしい」
Dはあっさりと言った。
「砦って?――誰の?」
「わからん。碑文に残る文字を読んだ限りでは、人間のものだ。それもかなり古い――二千年は経っている」
「二千年前の砦――このあたりは、今よりずっと荒れ果ててたでしょうね。植民者のものかしら?」
「それ以上はわからん」
ふと、頭の片隅を疑問が通り抜けた。夢中でそれを捉え、泡と消える前にエレナは口にした。
「あなた、村へ来たとき、まっすぐここをめざしたわね。前から知識はあったの?」
「そうだ」
「まさか、吸血鬼ハンターがこの遺跡の調査に来たとも思えないし、これも依頼されたのかしら?」
「じきに日暮れだ」
とDは宙を仰いだ。陽光は蒼みを含んでいた。二人の影が敷石の上に落ちている。ひとつは鮮明に、ひとつは淡く。
「そうよね」
エレナは館の方を向いた。じき、館のどこかの窓に明かりが灯る。それが戦いの合図だった。
「お姫さまと三人の騎士――みなで来るかしら?」
Dとともに血まみれになって戦う自分の姿を、エレナは恍惚と想い描いた。
やがて、月が出る。
「月が出た」
と黒騎士は言った。館のホールである。
崩壊した天井の一角から、蒼い夜空が雲を刷いていた。
「どうしても行かれるおつもりか? 姫の指示は出ておりませんぞ」
背後でこう言ったのは、先ほどから、佇む彼を見つめていた紅騎士であった。
「わかっておる。だからこそ、夜まで待った。ことによったら、姫は自らご出馬なされるかもしれん。あるいは我らについて来いとお命じになるやもしれん。だが、そうでなくても、おれは行く。青騎士の死に様はおまえも見たであろう。それは殺したものが償わなくてはならず、生き残ったものが償わせなければならん」
「たとえ、姫のご意志に背いてでも、ですか?」
「そうだ」
黒騎士の返事に遅滞はなかった。惚れ惚れと彼を見て、
「お供いたします」
と紅騎士は言った。
「姫の命に背いてもか?」
今度は黒騎士の訊ねる番であった。
「はい」
「おれのような目に遇うぞ」
「構いません」
このときだけ、紅騎士の声に怒りとも不憫さともつかない響きが混じった。
ステンドグラスの広間で行われた処罰は、網膜に灼きついている。その凄惨な結果は眼の前にあった。
黒騎士の右手は肩の付け根から失われていた。
「では、おれの指図に従うな?」
と黒騎士は紅騎士の方を向いて念を押した。
「誓います」
「姫の指図に従え。逆らうことは金輪際許さん。二度といまのような考えを持てば、謀反人として処断する」
一瞬、呆気にとられ、次の瞬間、紅騎士は、
「――しかし」
と唱えかけた。
「ならん」
断固として黒騎士は言った。その鋼のような重々しさが、紅騎士の反逆者の熱気を押さえつけた。
「姫はいま、これまでとは別のことをお考えなのだ。おれが感じている倦怠は、姫のものでもあるかもしれん。だが、おれは貴族ではない。姫が感じられるそれが、どのような思考の結果、どういう形で外へ現れるか、おれには想像もつかん。多分――」
途切れた部分に秘められた何かが、紅騎士を緊張させた。
「誰にとっても碌なことにならない? ――その通りよ」
響き渡る声に、二人は愕然と四方を見廻し、それから、もとの方角を向いた。
崩れ落ちた円柱のかたわらに姫が立っていた。その背後には、闇を圧して広がる薔薇、薔薇、薔薇。そのかがやき。
「懲りないわね、おまえも」
姫の微笑が黒騎士を射た。二人は片膝をついている。
「けれど、今夜はどこにも行かせないわよ。ここにお残り」
「お言葉なれど、姫」
「いいから」
女は手にした白い薔薇をふった。光の軌跡がはかない尾を引いて闇に呑み込まれた。
「おまえたちの怒りはわかるわ。でも、あのハンターは手強い。青騎士の二の舞いになりたいわけ?」
「それは、あのハンターにさせましょう」
黒騎士はあくまでも礼と忠節をこめて言った。
「駄目よ。あいつのところへは、私が出向いてみるわ」
二人の騎士は顔を上げ、彼らが任務を得てからはじめての反対意見を叫んだ。
「なりません!」
途端に紅騎士は黒騎士ににらみつけられ動揺したが、姫は意にも介さず、
「安心なさい。別の供を連れていくわ」
と言った。
「白騎士を?」
「いいえ。ここ二百年、おまえは目にしていない連中よ」
同時に、黒騎士だけは何か気づいた様子で、顔を上げ、
「まさか――奴ら[#「奴ら」に傍点]を!?」
「ご名答」
「姫――新たな処罰を覚悟で申し上げます。それだけはなりません」
「なぜよ?」
「あ奴らをいったん外へ出せば、起こるのは血と殺戮の修羅図でございます。奴らなら、確かにダンピールとて斃せましょう。あの村の者どもも皆殺しにできましょう。しかし、血に飢えた者どもは、姫の御下知も忘れ果て、辺境管理区の境界も侵して、無限の血を求めるに相違ございません。――それはなりません。ご聡明な姫のなさることではございません。姫――姫は一体、どうなされたのでございます?」
「私が?」
「これも万死を覚悟で申し上げます」
黒騎士の声は文字通り、血を吐くようであった。聞き入る紅騎士は言葉もなく頭を垂れている。
「ここ数年、姫はお変わりになりました。何がとは申しませんが、別人のようにおなりでございます。私めには、姫のお考えも御心もわかりません」
「余計なことを知りたがる男ね」
と妖姫は吐き捨て、
「紅騎士――おまえもそう思う?」
「御意」
と応じた刹那、横合いから黒い光がとび、かわす暇もなく彼を床上にうち伏せた。
「無礼者の言葉――これにてお忘れ下されい」
黒騎士は深く頭を下げて詫び、姫も、
「よろしい」
と言った。
「でも、やると言ったらやるわよ。黒騎士――おまえを幽閉するわ。紅騎士、閉じ込めておしまい!」
倒されても意識はあるのか、それとも戻ったのか、床の上で紅騎士は黒騎士の方を眺め、
「はっ」
苦渋に満ちた返事をした。姫は薔薇を口に咥えたままで、
「紅騎士を斃しても邪魔をするつもり? それとも、私に剣を向けてみる?」
「いえ。ご命令通りに」
と黒騎士は答えた。苦い答えであった。
闇は濃さを増しつづけ、それに伴って四彩の薔薇は絢爛とかがやいた。
円柱に左手を触れた姿勢で、Dはふと、館の方を向いた。
夜風にも音はない。
にもかかわらず――
「聴こえたか?」
と円柱に押しつけた左手が訊いた。
「来るぞ」
とDは短く応じた。
「そうじゃな。ざっと十人。馬で来る。しかし、この気配は騎士どもではない。あ奴らは生きても死んでもおらぬ奴らだが、これは、すべて死人」
「死霊騎士団か」
とDはつぶやいた。
「左様。しかも、ひどく強烈なエネルギーに守られておる。あの娘じゃな」
「来たか」
Dは廃墟の入口へ向かい、電子トーチの炎に手をかざしている娘へ、
「いよいよだぞ」
と告げた。
エレナは勢いよく立ち上がった。躊躇も恐怖も逡巡もなかった。
「待ってました。どこで戦うつもり?」
「おまえはここにいろ」
「何ですって?」
「来るのは騎士ではなく、死人の群れだ。一度死んだ人間は二度と殺せない」
「じゃあ、どうするの?」
「殺すしかあるまい」
矛盾の極致だとエレナは思ったが、この若者の剣なら死人でも、と思い直した。
「今さら、ひとりでいい子にならないで、あたしも連れていって。いえ、駄目だって言い張るのなら、勝手に戦うわ」
「この中にいるのも、戦うことになる」
「詭弁だわ」
エレナは分銅を探しながら言った。
「じきにわかる。そのとき、ここにいてもらわねばならんのだ」
「――本当に?」
「本当だ」
「信じるわ。この期に及んで、おかしな気遣いはなしよ」
Dは無言でその場を離れ、城へと通じる平原へ出た。
風がある。月光の下で青草がゆれている。そこに立つ。――それだけで一幅の絵になった。
生死の|間《はざま》に立つ彼の内心を描破できれば、その画家は狂気に囚われ、その作品は絵画芸術の至宝として永遠に残るだろう。
「来たぞ」
と嗄れ声が言ったのは、草原に立ってから五分後であった。遺跡とは五百メートルほどの距離がある。
草原の彼方から近づいてくる人馬の姿は、ひどくスローモーに見えた。灰色の鎧をまとった馬と人であった。
Dの前方――十メートルほどの位置に来て、彼らは足を止めた。耳を澄ませていないと聞き逃してしまうほどの静けさであった。
「『死霊騎士団』――その名はきいている」
と左手が言った。
月に対して放ったもののように返事はない。
灰色の影たちは、まさしく亡霊のように月光の下にわだかまっている。
しゅるん、と先頭のひとりが腰の剣を抜いた。同時に残る九名も一斉に武器を取った。うち三人が剣、三人が弓、三人が槍であった。四騎士のものと大差ない。
「姫とやらはどこだ?」
とDは訊いた。
ひとりが顔を上げて笑った。声は出なかった。
笑いが止まった。Dはその頭上にいた。十メートルの跳躍は、誰の眼にも止まらなかったにちがいない。
刀身が硬い音と火花を道連れにへし折れ、しかし、一気に騎士の頭頂から下腹部までを裂いていた。
着地と同時に、Dは敵を見た。刃から伝わる手応えは尋常なものではなかった。
鉄の裂け目から白い霧のようなものが流れ出していた。ところどころが銀でも含んでいるように光った。馬上から地に落ちると、それは人の形になった。
草原の虫が一匹、それに触れるや、ふっと落ちた。
「“死気”か」
と左手が言った。
妖気ともいい、鬼気ともいう。だが、触れたものの生命をその場で奪う気は、やはり死の気と呼ぶほかあるまい。これが死霊騎士団の正体であった。
模糊とした塊は、風に流れるように、あるいは逆らうかのように、Dへと近づいた。
すでに剣はない。また、あったとしても、実体なき妖気を斬ることは不可能だ。
Dは――動かず佇むのみ。
Dの死闘をエレナは知らずにいた。
すでに闇は濃く、五十メートルの夜目も利かない。
鬼気だけが噴きつけてくる。
腕の表面は鳥肌が立っていた。身震いして、エレナは電子トーチに手をかざした。
すう、と光が翳った。
一輪の白薔薇がトーチのてっぺんに舞い降りたのである。その細い茎が金属の屋根にめり込むのをエレナは見た。
「これは――」
トーチが消えた。月光以外は照明もない闇の中に、ただひとつ、燃えるようにかがやく薔薇であった。
「つまらない明かりの代わりはあげたわよ」
薔薇に吸いついていた瞳を上げて、エレナは前方に立つ美姫を見つめた。
Dを除いて、月光の下に立つのがふさわしいのはこの女ではあるまいか。
限りなく白いその|貌《かお》に、その姿に、エレナは背後の光景が透けるような気がした。
「あんたが尖兵?」
と訊いた。不思議と腹はすわっていた。
「そうなるかしら。おまえがここにいると知って、興味をそそられたのよ。どうせ、Dの行動でしょうね。人間なんかに、ここの意味がわかるはずはないわ。もっとも、ここをこしらえたのも人間だけれど」
「二千年前のね」
姫は、あら? という表情になって、
「Dの入れ知恵ね。彼ならいずれ気がつくかもしれない」
「その前にあんたを始末すれば、気がつく必要もないわけよ」
エレナの右手が分銅をこぼした。いつもの品よりひとまわり太い。
姫を見据えたまま、エレナはそれを右手で旋回させはじめた。
ひゅんひゅんと鳴る音が、きゅんきゅんに変わり、じきに無音となった。
「へえ、やるわね」
姫は両手を叩いた。からかっているのだと怒る余裕はエレナにはなかった。意識は美姫を滅ぼすことにのみ捧げられていた。
唸りとぶ分銅を、姫は音もなくかたわらの石柱の陰に入ってかわした。
鎖はその後を追った。
「あら!?」
驚きの声に、石を噛む鉄の音が重なった。どのような手練か、姫の後を追った鎖は、姫もろとも石柱に、食い込む強さで巻きついたのである。
「かかった!」
歓喜の叫びを上げて、エレナは姫のもとへ走った。容赦の気持ちなど露ほどもない。右手には鋭く尖った白木の杭が握られていた。
それをふりかざし、
「あの世へお行き!」
とふり下ろした眼の前に、四彩の光がゆれたのである。
「あっ!?」
と払った手に伝わったのは幻でも何でもない。質量を持った物体だ。
紅い薔薇であった。青い薔薇であった。黒い薔薇もあった。
何度払っても、新しい花は次々にエレナを取り囲み、視界を奪い、それどころか絢爛たる色彩が脳まで冒したものか、めまいさえ招んだ。
「ちい!」
乱舞する花の渦から一条の鎖が舞い上がるや、石柱をつなぐ横石に巻きついた。
跳ね上がるエレナの肢体を四彩の流れが追う。
横石の上で、エレナは上衣のポケットから油紙の包みを取り出し、中味の白い粉を頭からふりかけた。
見よ、エレナの身体に触れた花はことごとく花弁を巻き、色褪せて地に落ちたではないか。
「ママ・キプシュ特製の枯殺剤よ。食らえ!」
と、残りを地上の姫へ撒き散らしかけ、エレナは息を呑んだ。鎖は地面に絡み合い、白い姿はなかった。
「ここよ、ここ」
背後の声にふり返りざま、エレナは左の鎖をとばした。
それを右手に巻きつけ、姫は婉然と笑った。
「おまえを殺すのは簡単よ。こんな風に」
右手を引くと、エレナの鎖はあっさりともぎ取られた。
「これで絞め殺してほしい? それとも手足を一本ずつ引き抜いてあげましょうか?」
エレナの額から汗の珠が勢いよく噴き出した。
草原に風が渡りはじめた。死を運ぶ風であった。死気はこれに乗ってどこまで漂っていくだろう。生あるものが触れれば、すべて死滅する。
目下、それはDに挑んでいた。
白い人型が無形の霧のように広がるや、Dめがけて吹きつけた。
後ろへとんでやりすごし、Dは遮るように左手を上げた。霧がそれを包んだ。
手は土気色に変わり、すぐ元の色艶を取り戻した。
「どえらい“死気”じゃの」
苦しげな声が言った。咳き込んでいる。
「これは外からは斃しようがない。一体二体ならともかく、それ以上吸い込んだら、わしも危ない。待っておれ、色々と調べてくれる」
そのとき、馬上の別のひとりが、がしゃん[#「がしゃん」に傍点]とつぶれた。白いものが鎧から抜け出て、Dの背後に廻った。
Dの左手から数条の光がとび、凄まじいスピードなのに、人型の霧を貫くや、へなへなと一メートルほど後ろに落ちた。白木の針は黒く染まってぼろぼろと崩れ、芯まで腐っていた。これでは、どんな武器――刀槍はもちろん、弾丸でさえ無益なのではあるまいか。
霧が笑った。いや、風のせいで上体が小刻みに震えただけとも思えるが、夜気の中を確かに、音ともつかぬ音が、笑い声のように伝わったのである。
そいつはふわりとDの前に迫った。背後にもひと塊がいる。
白い|腕《かいな》に抱かれる寸前、Dの身体は空中に浮いていた。
迫った死気は猛烈な勢いで――一部は進行方向へ流れつつ――反転し、背後の死気も勢いよく後じさる。
着地しざま、Dは身をねじった。間一髪、そのコートの裾を裂いて、一本の長槍が地べたへ突き刺さった。
つづけざまに、二本三本――常人どころかプロの戦闘士でもかわしきれないスピードの攻撃をぎりぎりで――しかし、難なくすり抜け、Dは騎士団の真ん中へとび込んだ。
戛然たる響きを上げて二本の剣が跳ね上げられ、二人の騎士が落馬した。
Dの手にした長槍が、いま彼を狙った一本だとは、死霊騎士団でさえ信じられなかったろう。
だが、いかにDといえど、いかなる武器も無効とする姿なき気を滅することは不可能だ。
どう討つ? どう斃す?
エレナは左手で素早く、額の汗を拭いた。眼に入ったら、それこそ致命傷だ。姫は眼前三メートルのところにいる。鎖の一本は奪われていた。
夢中で姫をにらみつけた。気力を奪われたら負けだ。姫もエレナを見た。
「おまえのこと覚えてるわよ」
姫は、ははん[#「ははん」に傍点]という風にうなずいた。
「親兄弟すべて私の食卓にのぼった。確か、白騎士に、生涯治らない傷をつけられたはずよね。面白い」
にっと笑った顔は月のように艶やかで、童女のようにあどけない。だからこそ、エレナは冷水を浴びせられたようにぞっとした。
「考えてみれば、おまえひとりを踏みつぶしたって、何ほどのこともないわ。別の使い途を考えた方がいいかもしれない。ふふ、いいわ、わかった。別の傷をつけてあげる」
唇の笑みがさらに深く不気味に変わり、エレナは反射的に眼をそむけた。貴族の笑みは美しければ美しいほどこうなる。
そのために、彼女は姫の右手から白い薔薇がとんだのに気がつかなかった。それが左胸に刺さったとき、かすかな痛みを感じて眼を向けた。
薔薇はもうなかった。
「何をしたの?」
「見てごらん、その胸を」
狂気のようにエレナは胸の前をかき開いた。おぞましい十文字は消えていた。その代わり、もっと恐ろしいものが左の乳房の上に小さく捺されていた。
天人の手にならなくては彫れっこないと思われる、巧妙精緻な白薔薇の|刺青《いれずみ》が。
絶望が細胞から気力を奪い去った。エレナにとって、貴族の印を捺されるほどの無残はなかったのだ。
ふらふらとよろめいた身体は、岩板から落ちた。
その首ねっこをぐいと掴んだのは、妖姫の手であった。
引き上げられても、殺してという声さえ、エレナには出せなかった。
死相と化したような顔――その耳もとで、弾むような陽気な声が、
「そんなに哀しまなくても、じき、とってもいい気分になれるわよ。私の下僕にどんな特典があるか、その身体で知ればね」
言い終わって、姫はふと足下を見た。
かすかな地鳴りが伝わってきたのである。
「地震?」
とつぶやいて、美しい貌にある翳が広がった。
「この忌々しい砦がまだ生きていた? ――まさかね」
その身がゆれた。
地鳴りは地響きを伴って夜を圧した。
「あらららら――|危《やば》いわね」
どこでそんな言葉を覚えたのか。抱きしめたエレナを横抱きにして、姫は地上へ下りた。その上に、ぱらぱらと石の破片が降りかかった。
「何が起きるのか見てる暇はないわ。さて、Dとやらはどうしたかしらね」
こう言って彼女は平原の方へ歩き出した。抱きしめたエレナを離さずに。
左右から騎馬が迫ってきた。
向かって右が長槍、左が長剣だ。
Dめがけてふり下ろす寸前、騎士の手から得物が交差した。剣は右の騎士へ槍は左の騎士へ。武器が違えば、それへの対処法も異なる。数瞬にそれが交換されれば、防御の準備を整えている方は迷わざるを得ない。まして、同時攻撃の場合、防ぐ手だてはまずあり得ないのだ。
槍と剣はふり下ろされた。
死霊に驚きの感情はない。にもかかわらず、その刹那に空気を渡った波動は、まさしく驚愕そのものであった。
右から斬りつけた刀身を、Dは左手でひっ掴み、左から繰り出された槍をこれも手にした槍で弾き返していた。
向かい合っていると考えた場合、これはおかしい。死霊騎士たちは、自らの攻撃の寸前――武器を交換すべく手離した瞬間、Dが背を向けるのを見た。彼らの攻撃法を見抜いたとわかっても、今度はこっちがどうすればいいのかわからなかった。すでに槍も剣も叩きつけていた。
長剣を引ったくるや、Dは跳躍した。
どこの世に、通過してしまった馬に、後ろから跳び移れる人間がいるものか。
Dがいた。
剣をふるった騎士の馬の背に立つ[#「立つ」に傍点]や、後ろから騎士を蹴り落とし、手綱を掴んだ。
これを見ていた他の騎士たちも、一斉に突進してくる。
「――D、血をよこせ」
と左手が言った。
「その場しのぎだが、奴らの苦手な物質をこしらえた。早く!」
手綱を掴んだ手を離し、長剣を口に咥えると、Dは右手首をあてがい、一気に引き切った。
溢れる血潮を左手のひらにかける。手のひらは口を開け、鮮血を嚥下した。
「刀身を出せ」
咥えた刀身を右手に移し、Dは左手で刃を撫でた。
朱色の煙が吐き出され、刀身を彩ったとき、前方の騎馬から、数本の矢が射かけられた。
木製ではない。鏃も矢柄も鉄だ。人体に当たれば、衝撃で四散する。
Dはことごとく左手で受け止めた。紙の矢を受けるような手つきであった。
新たな矢をつがえる暇もなく、棒立ちになった騎士のかたわらを通り抜けざま、長剣が閃いた。
胴が裂けた。
ふり向きもせず、Dは次の敵へと疾走していく。
前方から白い霧が迫った。鎧をつけての戦いは不利だと覚ったのだ。
手綱を引いて右へ廻り込みざま、Dは一刀をふるった。
霧はわなないた。人間の頭部を模した部分が裂け、再び癒着を開始する。
つかなかった。手らしき部分を苦悶の形に動かしながら、凸凹を失い、一塊の霧と化して地に落ちる。二、三度痙攣してから、かろうじて立ち上がった。よろめきつつ、平原を館の方へ去っていく。その後を追う一体は、先に胴を断たれた奴だろう。
敵は浮足立った。
もとより、正攻法で渡り合える相手ではないことは知れている。一斉に後じさった。
生き残りが矢を放った。Dへ向けてではなく、天へ。
仕掛けが施してあるらしく、それは途中から光の尾をひいたと見るや、地上十メートルほどでまばゆい炎に包まれたのである。しかも、それきり上昇もせず落ちもせず、火花ばかりをしたたらせて宙にとどまり、――次の瞬間、爆発した。
Dの影をすら鮮明に地上へ灼きつけるほどの光輪が広がり、その中心から幾すじもの火線がDと草原へと走った。
炎が噴き上がった。夜を昼に変えつつ、地に広がった炎は見る間に溶け合い、野火のように蹂躙していった。
Dは炎を避けて廃墟の入口まで後退した。火矢はさらに上昇し、新たな火線を生んだ。
風が勢いを増した。
草原は燃えていた。果てしなく広がった炎は、何故か水のように見えた。夜の地平は、かがやく水平線であった。
馬上で死霊騎士が新たな矢をつがえた。倍も太く倍も長い矢は、廃墟ばかりかサクリの村までも火線を運ぶ予定だった。
大地が鳴動したのは、そのときだ。
馬が次々に騎士をふり落とし、馬自身もまた横倒しになった。
その揺れは、単なる震動以上のものであった。
不可視の波が空中を渡り、それに呑み込まれた騎士たちは、またたく間に倒れ伏した。鎧の隙間から白い塊がもがくように現れ、第二波を浴びて痙攣、動かなくなった。波動は、逃亡に移った死霊騎士をも容赦なく襲った。
「そこまでにしておきましょう」
声の方角へDはふり向いた。
姫とエレナがいた。
「この廃墟の秘密――知っているのは私だけかと思ってたのにィ。油断も隙もないわね」
ただの荒廃の地としか見えない施設をふり返り、美姫は肩をすくめた。
数百年前、貴族と対抗するだけの知恵を備えた人間の一派が、この地に築いた要塞の機能は、まだ生きていたようだ。もちろん、いま作動したのは、Dならではの超能力ゆえである。
「娘を渡せ」
とDは言った。
「この娘――もう私の一族よ。といっても、即製の成り上がりだけど。助けてみる、D? この前みたいにいかないわよ、きつい一発を射ち込んであるの」
エレナの表情は虚ろだった。涙さえ流れない。
「この娘は返すわ。放っておいてもいいのよ、D。あなたの仕事は私を殺すことでしょ。こんな奴は無関係。夜ごと青ざめ、牙を剥き出して、誰彼構わず血を吸って廻るにまかせなさい。あなたが何をしなくても、村人どもが始末してくれるわ。死霊騎士どもを退けたのは立派だけれど、滅ぼすには至らなかったようね。ほほ、美しいお|客《ゲスト》さま、本日のパーティはほんの予行演習でございます。明日か明後日、あるいは一年後、正式な会を催しましょう」
「騎士たちを始末してほしいのではなかったのか?」
Dは氷みたいな声で訊いた。
妖姫は、急に気がついたみたいに、
「あ、そうよ。そうだったわね。だから、明日はあいつらを連れてくるわ。いくら何でも三対一じゃ|危《やば》いから、ひとりずつにしましょ。明日の晩からよこすわ。最初に誰が来るかは、会ってみてのお愉しみ」
高々と笑って、姫は手にした薔薇を逆しまにかざした。
月光に光る粒が、ほろほろと大地にこぼれた。
「それじゃあ、今夜はこれで。あーあ、そんな、ひん曲がった刀で追ってこないでね。では――古代語で|再見《ツァイチェン》」
館の方へと向かう姫へ、Dは馬を駆った。飛ぶような足取りといえども、駿馬の方が速い。数メートルの位置まで迫ったとき、不意に大地が盛り上がった。土の色は四彩であった。
薔薇でできた壁。それが、Dの行く手を阻む防衛線のように縦に高く横に長くのびていく。
「薔薇砦よ。――越えてくる?」
姫の嘲笑が遠くから渡り、縦十メートル、横五百メートルは優にある花の城壁の前でDが立ち止まっている間に、気配さえ消え失せた。
「訳のわからん女じゃな」
と左手の声が言った。
「おまえを殺そうとするのも本気、騎士どもを斃せというのも本気。何を考えておるのやら見当もつかん。ところで、あの娘はどうする? 放っておくか、ん?」
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第七章 滅びざるもの
Dはエレナの身をママ・キプシュのもとへ運んだ。
眠い目をこすりこすり出てきた老婆は、心得たとばかり身体検査を行い、たちどころに胸の薔薇を発見した。
「この間の花より、ずっと深刻だね。あたしの診たてでは、骨にまで食い込んでいるよ」
「治せるか?」
おや? という風に老婆はDを見て、
「気になるのかい、この娘が? 他人の生き死になんざ別世界の出来事って気がしてたけどねえ。あたしたちの泣き声もちゃんと耳に届くのかい?」
「治るかと訊いている」
ママ・キプシュは肩をすくめて、
「あたしなんかより、あんたの方がずうっと詳しいだろうが。――このままじゃあ、手の打ちようがないね」
「後はまかせる」
Dはドアの方へと向かった。
「ちょっとお待ちよ。治せるのは、あんたしかいない」
「手の打ちようがないはずだ」
「このままでは、の話さ。道具さえありゃ何とかなるよ」
反応を期待したが、当然ゼロなので、老婆は顔を歪めて、
「辺境区の西の端に、ザンバって村がある。そこの体内寺院のここ――丹田に当たる部分に、七彩の薔薇の花が一輪咲いている。二千年も前からね。それを持ってきておくれ。村も寺院も人が絶えてかれこれ三百年――邪魔物といや、妖物か邪妖精か平原獣くらいなもんさ。あんたにゃマイナー・リーグだろ」
「おれの仕事は、館の主を斃すことだ」
Dはにべもなく言った。
「わかってるって。あたしも、この年齢になって、人の情なんかで死地に赴いてくれなんて頼みゃしないよ。報酬は出す。この|娘《こ》の刺青、お姫さん[#「さん」に傍点]はかなり入れ込んでるよ。まともじゃないやり方で、血を吸ったのと同じ効果をあげようてんだから、当人もかなり生命を削ってる。刺青がこんなにも生き生きしてるのがその証拠さ。これを消してみな。あの娘――半病人になるよ。もっとも、半病人の貴族てな、さすがのあたしも見たこたあないけど」
ここで、がっはっはと大笑し、Dがにこりともしないのを見て、ばつが悪そうに、
「とにかく、いくらあんたが優秀なハンターでも、元気満々の貴族よりは半病人の方が始末しやすいだろ。これが報酬さ。どうだい?」
「引き受けた」
Dはあっさりと言った。ママ・キプシュは苦笑して、
「あんたも、よくよく因果な性格だね。これじゃあ、冷酷な人でなしとそしられたまま一生を送ることになる。もっとも、それくらい、屁でもないだろうがね。頼るのは自分ひとり――こんな言葉を平気で口に出せるのは、あたしが会った中で、あんたとあと二人くらいだろう。これからもそうそうは現れやしない」
それから、立ち上がり、Dの肩に手を置いた。何故か彼は避けなかった。
「あんたは損得で引き受けたつもりでいるんだろうが、あたしはどうもそんな気がしない。そこを見込んで頼んだよ。何とかしてやっておくれ」
不意に、老婆は指先の感触が失われたことを知った。
天与の美貌はドアの向こうへと消えつつあった。むしろふさわしい闇の中へ。
「D……」
つぶやきが、ママ・キプシュをふり向かせた。
診察室のドアのところにエレナが立っていた。意識が分裂しているのは、眼を見ればわかる。その状態で、彼女をここまで歩ませたものは、いま、血の気も失った唇が洩らした名前の主であった。
「置いて……いかない……で」
エレナの眼から涙がこぼれはじめていた。
Dがザンバの村へ到着したのは、明け方であった。通常郵便物輸送用の|早馬《P・エクスプレス》が八時間かかる行程を五時間でこなしたことになる。
途中、Dを見て、街道の脇へ隠れた人影が幾つかあった。砂塵を巻いて疾駆する黒ずくめのハンターは、平凡な旅人にとって、さぞや恐ろしい存在に見えたことだろう。
ママ・キプシュの言葉通り、荒涼山河としかいえぬ土地には、村の跡を示す材木一本残っていなかった。
体内寺院が村の西の外れにあたる丘陵地に残存していたのは、石と鉄を混ぜ合わせた|石金属《せききんぞく》の技術加工によるものであった。
それでも、石の含有量がまとまった部分は、風雨の浸食が盛んで、|凶々《まがまが》しい大穴がえぐり抜かれている。
体内寺院という通り、高さ二十メートル、幅三十メートルほどの、いつの時代のものともわからぬ巨神の寝姿をひとつの丘の真ん中――文字通り体内に彫り込んだものだが、頭のてっぺんに入口があって内部へも潜れる。その体内という意味もあるらしい。同じようなものは、辺境の各地――特に西南辺境区に多く、保存状態のいいものは皆無で、内部は妖物や犯罪者の巣窟と化していることがほとんどだ。
さすがに冷却装置を働かせているサイボーグ馬を放置し、Dは孤剣ひとふりを背に、巨神神社の体内へ入った。剣は村外れの廃虚に忍ばせておいた一本だ。村を出る途中、鍛冶屋に寄ってみたら、細君らしい女が現れ、頼まれた刀に魂をこめる儀式を行うべく、亭主しか知らぬ祭祀場へ出かけて、昨夜から戻らないと言う。
異様な光景がDを迎えた。
もし、秀れた才能の彫刻家か画家がここを訪れたら、その造形技術の超異端ぶり、悪夢どころか現実そのものの怪イメージの豊かさに、発狂しかねまい。
そも、神の体内を人間は知ることができるはずもない。知りたければ、ここへ来るしかないのだ。
頭頂部のドアを開けて一歩入れば、そこは神の脳髄に当たるのか、うすく透き通った蝋状合金の襞が幾重にも連なり、その凹部凸部に同じ神、ないし別神の錆びた像やら、不気味な絵文字を刻んだ護符等がはめ込まれている。
急速に細まった通路は食道らしく、そこから胴へと足を踏み込んだら、人間の方向感覚ではもう処理しきれない。
果たして、神の臓器はこのような構造と形状を有しているのだろうか。ひどく平らな床が突然、凹凸が激しくなったと思えば、いつの間にか天井を歩いており、確かに存在した通路への門口は、一瞬、眼を離した隙に消滅し、直線で構成されるものは何ひとつなく、そのくせ、曲線もまた曲線とは感じられないのだ。確かに真っすぐ進んでいたものが、堂々巡りにすぎないというのはよくある感覚だが、堂々巡りと直線行を同時に感知し得るというのは、異常というしかない。人間の肉体と精神は、それに耐えられない。Dの足下に散らばる人骨の胸に、自ら、ないし刺し違えたような形で赤錆びたナイフや剣がのぞくのが、その証拠だ。それ以外の人骨や妖物の骨は、このユークリッド幾何学を無視したような迷路空間に迷い込み、疲れ果て、餓死した結果だろう。
そんな狂気じみた人外の道を、Dは遅滞なく進む。これを掘り上げたのはどのような生物なのか。信仰の偉大さを讃え、示すかのように、天井や床や壁には、密呪や彩色絵画等が刻み込まれていた。
そして、ついに、ある広大な一角でDは足を止めた。
外部からの光を何らかの手段で屈折反射させるらしく、光量は十分にある。
Dが見たものは、熔岩のように粘っこく重なった極彩色の層の上に鎮座する鋼の祭壇と、その上にプリズムのような形をした透明な容器に封入されて、華麗なる色彩を刷いている一輪の薔薇であった。
それに手をのばし、Dは何か予兆でもあったみたいに停止させた。
月光の夜に忽然と咲き誇る薔薇園の主と、神像内の象徴ともいうべき七彩の薔薇。――遠隔の地に存在する二者が無関係とは思えない。つなぐ糸がどこかにあるはずだ。
「祭壇にはひどく原始的なメカニズムが組み込まれておるぞ。機械油の匂いがする」
と嗄れた声が言った。
「承知だ」
Dは再び容器に手をのばして触れた。持ち上げる前にスイッチが入ったらしく、モーター音のような唸りがし、すぐに消えた。
「早いとこ、出た方がよさそうだぞ」
Dは、嗄れ声に異存はないらしく、ふり返りもせず、もと来た道を辿りはじめた。
だしぬけに壁が歪んだ。
別の形を取り、別の凹凸を誕生させて、別の通路をつくる。侵入者は帰さぬ掟らしかった。
「ほう。まだ、造営したものの思念が残留していたか」
左手が唸った。
「神の象徴を奪われたままでは沽券にかかわる。出るのは難儀そうだぞ」
Dはふり向いた。
祭壇の周囲の光景は変わらず、固定されている。
壇に近づき、Dは無造作に一刀を抜いた。そのまま何かに食い込むはずの彼の刃と交差しつつ、光の帯が祭壇へと走った。
あっけなく壇は二つに裂けた。
光の生じた壁の方を向き、
「黒騎士か」
とDは言った。質問ではない。祭壇を断ち切った光の気配で察したのだ。敵の姿はない。
「おかしな場所だが、これも一興」
黒騎士の声にも、正体を見抜かれた驚きはない。Dならそれくらいはやると、てんから納得済みだ。
「お互い、見えざる敵を斬る、といっても、おれとおまえなら見えなくても見える。このままいこう」
「承知した」
Dが応じた。珍しい。相手の申し出など歯牙にもかけず、斬断の剣をふるう若者ではなかったか。
一歩も動かず、Dは壁の一点を刺した。剣の動きは見えなかった。
きいんと、背骨の芯に食い込むような響きが上がった。
別の位置から襲った光を、Dが受けたのである。いつ剣を壁から抜いたのかもわからない。
Dは壁に沿って走った。像の下腹部へとつづく道である。壁はもう変化の兆しを見せなかった。
壁の二カ所が光を噴出した。二筋とも跳ね上げ、Dは停止した。
左手が下がった。袖口から赤い筋が甲を伝わっていく。二筋めの光の仕業であった。
空気が凍結した。Dの身体と同じ成分に変容していく。浮遊分子にすらわかるのだ。美しいハンターが、いかなる集中力を自分に課しているか。いま、彼に触れれば、文字通り斬れる――皮膚は血を噴くだろう。
壁の向こうにいても、お互い見えると、黒騎士の声は言った。ならば、Dは新たなものを見ようとしているのか。それとも、見方そのものを変えるのか。
右手が弧を描いた。それが壁に斬線を刷いた刹那、Dの身体は左へ沈んだのである。
床に穴が開いた。腐っていたのではない。神域を汚すものへの最後の抵抗であった。さすがのDも、あまりに苛酷な精神集中のため、とっさの対応は不可能であった。
よろめく身体を、壁の向こうから分厚い閃光が深々と薙いだ。首筋であった。世界を朱に染めながら、Dは足から暗黒へ落ちていった。
寝姿の巨像に果てしない深さの落とし穴が穿てるか、と質しても意味はない。
現実にDが落ちた穴に底はないようであった。少なくとも、Dの眼には見えなかった。
「無事かの?」
のんびりしているとも、焦っているともとれる声――焦っているのだろう。
「昇るぞ」
とDは答えた。
これはダンピールの再生力を讃えるべきだろう。半ばまでちぎれかかった首の傷はすでにふさがり、白っぽい筋を残しているばかりだ。
彼は右手の剣を壁に突き立てて落下を防いでいた。――といえば聞こえはいいが、実は極めて微妙な、身の毛もよだつぶら下がり方なのだ。壁に食い込んだ刃は十センチもなく、しかも、長剣は徐々に、D自身の重みで傾斜しつつある。今度落ちたら、Dよりも何よりも刀が保つまい。
しかも、左手の声に焦慮が含まれていたごとく、D自身が、相も変わらぬ冷ややかな声とは裏腹に、苛酷な肉体条件にあると見た。傷はふさがったものの、黒騎士の一撃は体内に拭い難いダメージを与えたようだ。いつものDならちぎれかけた首を片手で押さえ、これも片手で壁面をよじ昇っているだろう。
左手に青白い炎が灯った。甲に浮き出た人面疽の口からこぼれるエネルギーの炎であった。
「これでも効かんか?」
と憑きものは呆れ果てたように顔をしかめた。
「どえらい斬り方をしたらしいの。やはり、あの騎士め、ただ者ではなかったか。――昇れるか?」
訊きながら、手の中の顔は、すでにDの身体が上昇しつつあるのを感じている。
刺さった刀身を握る右手に重心をかけ、刀を押し下げるようにして自分は上がる。
左手がのびて、壁のでっぱりを掴んだ。刀身を引き抜き、左手一本でずり上がると、思いきりのばした先の壁へ刃を食い込ませる。
人間から見れば超人の技だ。休みなき上昇はみるみる百メートルを越え、やがて、頭上に光の輪が広がった。
Dの顔に影がさした。
穴の縁に立つ黒い騎士をDは無表情に見上げた。
黒騎士の片手がのびた。
「不要とは思うが、一応の礼儀だ。掴んだからといって、恩には着せん」
「何のために待っていた?」
Dは静かに訊いた。身体を支えているのは刀身であった。いかにDとはいえ、黒騎士の一閃に対応できる状況とは思えない。
「戦うためだ」
黒騎士の答えは清々しいものであった。
「ならば」
次の瞬間、Dは宙に舞った。
黒騎士は通路の奥に――Dは黒騎士の位置に。
「借りは返した」
黒い巨木のような騎士は、Dの言葉にうなずいた。
彼は本気でDを穴から引き上げるつもりであった。対して、跳躍したDの刀身には一点の濁りもない殺気が塗られていた。それがふり下ろされれば、黒騎士はなす術もなく二つになっていただろう。彼はなお、Dの精神に気づいていなかったのだ。
Dがそうしなかったのは、救助の手をさしのべた黒騎士への返礼とも見える。だが、修羅の巷と血風の中をくぐり抜けてきた美貌のハンターにとって、それは一種のビジネス――契約書に書かれた条項を守るような感覚での行為なのではあるまいか。
「ここは息苦しい。決着はやはり、外がよかろう」
と黒騎士は言った。声と身体が別人のような鬼気に包まれていることをDは知った。自らの甘さを彼は呪ったのだ。
「この先に出口がある。ついて来い」
と言って踵を返したのは、Dが外へ出るまで自分を斬らないと踏んだのか。あるいは、なおもDを信じたのか。いや、それとも――
二人の出口は、筋肉が長い瘤のようにうねくる太腿であった。
像の前は礼拝用の広場である。往時の名残を広さにのみ留める草茫々の青い大地で、二人は相対した。距離は五メートル。どちらかが一歩を踏み出さなければならない距離だ。
黒騎士は抜かず、Dの構えは青眼であった。太刀先がわずかに下向している。動かない。自然体そのものの黒騎士の姿がそうさせているのだ。
一方、黒騎士もまた、内心で驚嘆の声を発していた。Dの青眼――その平凡な構えの中に、もはやDの姿は消え、彼の視界を占めるのは白い切尖であった。
Dが穴へ落ちる寸前、確かに手応えはあった。常人ならば致命傷、ダンピールといえども、回復に半年はかかるはずだ。こいつ[#「こいつ」に傍点]とて尋常な身体ではあるまい。それなのに、何という――
内心の驚きにタイミングを合わせるかのように、視界がすいと開けた。Dの剣が下がったのだ。
黒騎士は前へ出た。いかん、と|精神《こころ》のどこかが絶叫と戦慄を放った。いや、誘いと知りつつだ、と彼は言い聞かせ、神速で右手を背中に廻した。
背中の武器が何なのか、実は黒騎士にもわからない。戦闘士としての自分に気づいたときからそこにあり、使い方も、どんな効果があるのかもわかっていた。もちろん、今のようになるには、血を吐くどころか生命の炎に息を吹きかけるような激烈凄惨な訓練があった。それでも、武器の原理はわからない。
わかるのはひとつ。――今、吸血鬼ハンターを斃せる。
武器が光の刃をとばす寸前、彼は眼前のDが両手をあり得ない方角へ向けているのを見た。
頭上――上段へ。
横薙ぎにDを襲う光が先に出た。それを真っ二つに両断し、Dの刃はそのまま黒騎士の兜へ食い込んだ。
銀条一閃――それが鈍い音を立てて、鍔元からへし折れたのである。
黒騎士は膝をついた。頭頂から額にかけて細い亀裂が走っている。
だが、同時にDも前にのめっている。今の彼にとって、この一撃こそ精神と肉体の極限を極めたものだったのである。
野づらを風が飄々と渡り、Dのコートをはためかせた。
青空の下で二つの黒い影は、ともに片膝をついた姿勢で動かない。
片方が立った。
黒い山のように。――黒騎士であった。頭の傷から滴る血潮は甲胄を汚し、草を汚し、地面に滲んでいる。
「本来ならば、おれの負け。だが、勝負はおれの勝ちらしいな。D――さらばだ」
両手が腰の後ろへ廻った。片膝をついたままのDに、次の攻撃を防げる道理がない。彼は素手であった。
どこかで声がした。
優美な半月の影が、Dの頭上で青空に食い込んだ。
ごお、と風を切って迸る一筋の光――右上方からDの頸動脈へ。
戞然、言いようのない斬切音が噴き上げ、鮮血が奔騰した。
ざあ、と雨のように草を叩いたそれ[#「それ」に傍点]は、黒騎士の左腕から溢れていた。
よろめくことも忘れ、呆然とその場に立って、彼はDを見た。
なおも片膝をついたまま、左手に黒鞘、右手に刀身を跳ね上げた吸血鬼ハンターを。
当然、どちらかの言葉で幕を下ろさねばならぬ死闘の現場に流れたのは、奇妙なことに、第三の登場人物の台詞であった。
「気に入ったかい?」
と、岩陰から現れた屈強な小男へ、Dは、
「確かに」
と応じた。
男が村の鍛冶屋だと黒騎士が見知っていたとしても、その斎戒沐沿の場がこの廃墟だとは想像もつかなかったにちがいない。
「約束通り、ひと晩で仕上げたぜ。昼までに戻るつもりで、大急ぎ引き返す途中で、あんたを見かけたのよ。いや、気になって戻ってきてよかった」
してみると、ここへ来る途中、道の脇に隠れた人影のひとつは、この男だったのか。
「このブラスコさま生涯の自信作だ。そいつらの鎧なんざ、千体斬っても屁でもねえ。さあ、止めを刺しちまえ」
興奮しきった声を背に、Dは立ち上がった。黒騎士の肩の付け根から、血潮は滝のようにこぼれ、それでも彼は傲然と立っている。
「斬れ」
と言った。力強い声であった。
「ひとつ、頼まれてもらおう」
とDは言った。
「これから村へ戻った後で、おれは城へ行く。準備を整えておくよう姫に伝えろ」
返事も待たず、彼は黒騎士に背を向けて、つないである馬の方へ歩き出した。
鍛冶屋の方を見て、
「一緒に来るか?」
「もちろんだ。あんな不気味な野郎と一緒にいられるかい」
鍛冶屋はとび上がり、岩陰につないである自分の馬へと走り寄った。
Dが馬にまたがってすぐ、
「姫への用事か。――うまいこと助ける手だてを考えおったの」
と左手のあたりで声がしたが、Dは一瞥も与えず、追いすがってきた鍛冶屋も気がつかなかった。
陽が落ちた。
ママ・キプシュの家の客間で、エレナは必死に耐えていた。
恐怖ではない。それは、蒼茫たるたそがれの訪れとともに消えていた。彼女が抵抗しているのは、身内に湧き上がってくる至上といってもいい快楽と愉悦であった。
夜がこんなにもかがやいて見えるとは。
乳房に薔薇を刻まれてから、精神的なショックはもちろん、肉体的にもひどい気だるさに苛まれ、体温は刻々と低下していった。貴族になるというのはこういうことなのかと、エレナは脅えた。
いま、村は暗黒の支配に身を委ね、彼女の脅えは消えた。
なんという甘美な夜。ささやかな風の音は天上の音楽のように通りを渡り、闇の香りは甘く、早く消えろと夜ごと祈った月と星々のかがやきは、震えるほど美しい。
何よりも、全身にみなぎるこの活力。
これに抗したのは、人間としてのエレナの理性であった。
貴族と同じ血が体内を駆け巡りつつある。――いけない。こうして、たそがれどきにエレナは孤独な戦闘を開始した。その少し前から、ママ・キプシュは村の外れに急患が出たと外出中であった。
エレナはまず、家中のドアと窓に鍵をかけ、納戸から二つの品を見つけた。大型の|弩《いしゆみ》とロープである。
客間にこもると、低いキャビネットをドアの前に移動し、そのうえに弩をロープで固定、さらに延長したロープで我と我が身を椅子に縛りつけた。細心の注意を払ったのは言うまでもない。ロープを引き金に結んでから、重い壷や本の周囲に廻し、彼女が両腕に引けば、弩の矢が心臓を貫くようセットしたからだ。
手首を縛りつけたロープを口で結び、エレナは胸を撫で下ろした。
ママ・キプシュは真夜中の帰宅になると言い遺した。それまで、甘い誘惑に耐えればいい。
それがまさしく甘かったことは、日没後すぐに知れた。
何という至福感。何という身と|精神《こころ》の軽さ。窓の外の家々で眠る誰が、このような法悦を感じていることか。
愚かな――と感じて、エレナは慄然となった。これが貴族の|精神《こころ》か。
もうひとつ。――こちらを意識した瞬間、エレナは死を決意した。
両手を引く動きにためらいはなかった。弩の引き|発条《ばね》が外れる音。ぶん、という弦の唸り。風を切る矢と胸に食い込む鏃の衝撃。
エレナはうす眼を開けた。矢は深々と刺さっている。心臓を少し下へずれたようだ。セット位置が違っていたらしい。ああ、Dかママ・キプシュがいたら。
手の結び目を口へ持っていきかけ、もっと楽な手段のあることに気がついた。
手首に力を込めると、ロープは弾けとんだ。後は全身に力を入れるだけだった。
客間のドアは簡単に開いた。キャビネットなど、片手のひと払いで反対側の壁まで滑走したのである。
玄関を一歩出た途端、これまで感じた覚えのない|快楽《けらく》が骨の髄まで吹きつけ、エレナはその場へしゃがみ込んだ。
「どうした?」
と、誰かが肩を押さえたのがいつかはわからない。
「行って。何でもないわ」
「なんだ、おめえはエレナか」
吐き捨てるような声の主は、テントの見張り番ガリーであった。
「村の恥を助ける義理はねえやな。勝手に苦しみな」
もうひとりの巡回役と大きな笑い声を立て、ガリーは歩き出した。エレナの顔のすぐ前に、濡れたものが飛び散った。唾である。
エレナは微笑した。なんて愚かな奴ら。そんな奴らが、いまの私を愚弄するなんて。――罰を与えてやるわ。
すっくと立ち上がった娘の微笑は、村の誰もがはじめて見る清々しさであった。
十数メートル先を行く松明と人影を追って、エレナは音もなく街路を走った。滑るといった方がいい身の軽さであった。考えただけで手足が動き、しかも、動いているという感覚は皆無であった。百キロでも千キロでも全力疾走ができる。
あと三メートルというところで二人がふり向いた。ぎょっとした表情でガリーが火薬銃を構え、引き金を引いた。無謀どころか無法極まりない行動であった。止まれとの警告すらない。熱い塊が鳩尾に食い込んだが、すぐに感覚は消えた。歓喜がエレナを包んだ。殺せる。こいつを殺せる。あたしはこいつより強いんだ。
エレナが喉元へのばした手を、ガリーが銃身で払った。痛みなどなかったし、衝撃も伝わらず、男の方がよろけた。銃が反転し、エレナのこめかみに銃床が当たった。風のひと吹きなみの打撃だった。
一切意に介さず、エレナは当初の目的通り、ガリーの喉を掴み、片手の指を左肩に食い込ませた。指はスポンジなみのスムーズさで沈んだ。
いけない、と精神のどこかが叫んでいた。自分でも理解し難い古くさい衝動に駆られて、エレナはガリーの身体を突きとばした。十メートルも宙をとび、そいつは衣類と背中の肉をたっぷりと地べたに剥ぎ取られて失神した。
棒立ちになって惨劇を見守っていたもうひとりの男は、エレナの注意が自分に向けられたのを知って、我に返った。
村のあちこちで、声と足音が入り乱れた。
エレナは前へ出た。さっき感じたもうひとつの欲望に衝き動かされていた。自分がどんな顔をしているのか、ふと気になった。
「近寄るな」
男は腰の銃に手をかけるのも忘れて叫んだ。
どこを裂いても血が出る、とエレナは考えた。
男が両手を顔面にかざしてX印をつくった。エレナは構わずそいつの肩を掴んだ。
「やめろお」
男は上体をねじって暴れた。Xが十字になった。
凄まじい戦慄がエレナの全神経を灼いた。声も出せず、身をよじって耐えた。
「銃声はこっちだ」
「誰かいるぞ」
聴き覚えのある声がやって来た。
エレナの右手から分銅がとんで、家の避雷針に巻きつくや、その身は軽々と大空に躍っていた。
屋根の向こうに消える寸前、
「D」
哀しげなつぶやきが洩れたのを、もちろん、耳にした者はいなかった。
戻ってきたDを迎えたのは、村の入口に集う人々の敵意に満ちた視線と、哀しげなママ・キプシュであった。
「間に合わなかったよ、D」
とママ・キプシュは哀しげに言って、事情を説明した。彼女も少し前に帰宅したところであった。
「おまえもエレナも二度と村へ入るな」
と青騎士の手にかかった村長の代理が歯を剥いた。
「これは村議会の決定だ。今度、姿を見せたら殺す」
「エレナはどこだ?」
とDは訊いた。
「館だろう、きっと」
「一緒に来るか?」
と、ママ・キプシュへ、
「いや、あたしには村を守る仕事がある。今夜は家にこもって、エレナとあんたのために祈ってるよ」
村人の憎悪の視線が一斉に向けられても、老婆は動じなかった。
「気をつけていっといで、D。神のご加護があんたたちの上にあらんことを」
Dは馬の腹を蹴った。
「Dが来るぞ」
と告げたのは、姫である。
室内ではない。絢爛たる色彩が一同を取り囲んでいる。薔薇に飾られた花園であった。
「私にはわかる。さて、どうする? 津波や泥流、稲妻、次元断層でもって迎え討つか?」
「それがよろしいかと」
地に染みるような声が応じた。
彼女の前に片膝をついた二つの影のひとつ――黒騎士であった。
「何を申される、黒騎士どの!?」
愕然と異を唱えたのは、もうひとつの影――紅騎士だ。
「あのハンターを討つなら、正々堂々、ダイアンローズの四騎士の名を辱めぬようにと言明したのは、あなたではありませんか。あれは、賞金目当ての餓狼ではありません。無抵抗の私を殺しも傷つけもせず、しかも、私が守ろうとしたドアを開けずに、天窓から去った男――見事な男でございます。この期に及んで、死力を尽くして迎え討つ以外に、姫とご神祖に対して我らの誉れを謳い上げることができましょうか。いいえ、何よりも、あの男に対して」
「ああら、言うわね。突如、敵愾心より友情にめざめたわけ?」
姫は金鈴のような声で笑った。
「どう、今のご意見に関して?」
黒騎士は顔を伏せたまま答えた。
「今は我らが誇りよりも、この城と姫を守ることが焦眉の急。紅騎士と白騎士ならば勝てるやもしれません。いいや、勝てましょう。私も剣を口に咥えて加わってもよい。しかし、あの男と戦い、最後の腕を失った私の勘が、よせと告げるのでございます。万にひとつ、いえ、兆にひとつといえど、彼奴を姫の前に立たせるわけには参りません。姫、なにとぞ我が意をお酌み下さりませ」
「よかろう。――紅騎士、お行き」
「はっ」
歓喜の声とともに立つ赤い影とは裏腹に、黒い巨影は身じろぎもしなかった。眼に見えぬ巨大な手が、大地に押しつけてでもいるように。
「次はおまえよ、黒騎士。私のために、我と我が身を犠牲にする覚悟があるのなら、いま断言したみたいに、剣を咥えてもDを斃しておいで。――とはいうものの」
姫はうすく笑った。黒騎士が顔を上げていたら、驚きのあまり錯乱を生じたかもしれない。薔薇のような唇を彩る笑みは、ひどく優しいものであった。
「その手では、いかなおまえでも餓狼の巣に裸でとび込むようなものよね。おいで。代わりを与えてつかわす」
吊り橋の手前で、Dは馬を止めた。
月明かりのみの闇のただ中でも、馬上の炎の色は鮮やかであった。橋の向こうにいる。
「おれが二番手だ」
と紅騎士は長刀を抜き放った。|初手《はつて》は青騎士――の意味だろう。
「青騎士と黒騎士どのの片腕の仇、ここで討たせてもらうぞ。抜け」
言わずもがな。Dの右手にも氷のごとき一刀が光る。
初戦では、Dに難なく悶絶させられた紅騎士であるが、あれは姫の指示で無抵抗を貫いたためであり、剣を取っての実力では、Dに勝るとも劣らない。現に、その抜刀術を前にした黒騎士は、からくも試合を放棄したではないか。
そして、
「大丈夫かの」
と声なき声がつぶやいたように、黒騎士戦での一撃から、Dの肉体はまだ完治してはいなかった。
「はっ」
低い気合とともに、真紅の騎馬が地を蹴った。同時に、黒衣の若者も月光を散らせて走った。
ともに等しい距離を背後に置いて、橋の中央――かっと火花が上がった。打ち合わせた音に押されたかのように、二つの身体は空中に躍り、もう一度、刃を合わせるや橋の中央に舞い降りた。
火花の粒が二人の肩に降りかかり、はかなく消えた。馬は走り去っている。
紅騎士の右手がもうひとふりの剣にかかった。二刀を使うのかと思いきや、彼はその一刀を眼の前の踏み板に逆しまに突き立てたのである。
騎士の上体が沈んだ。
黒騎士さえ恐れた抜刀の秘技――Dを相手にいま迸るか。だが、刃の届く距離ではない。
「いえええい」
裂帛――否、鋼さえ断つ気合が一閃した。鞘から迸る光は真紅であった。それは風を切り、その唸りはDに叩きつけられた。
Dの動きは奇跡であったといえる。敵の技の正体も掴めぬまま、彼は一刀を身体の前に立てた。まさに戦士の勘。
何かが刀身に当たって左右に弾け、次の瞬間、吊り橋は大きく、Dの方へと傾いたのである。
橋を支える左右のワイヤーが、まるでチーズみたいにすっぱりと断たれたのだ。
片足を一歩引いて、それだけでバランスを取り、Dは、
「音か」
と言った。
彼は見抜いたのだ。紅騎士の見えざる刃の秘密は、刀身が風を切るその音であった。彼の秘技は、その音を可聴領域を遙かに超えた超音波と変えて、鋼鉄さえ切断するのであった。
刀身が戻る。
それが第二の|超音波砲《フォノン・メーザー》と化して飛来するより早く、Dは突進していた。
超音波とまではいかないが、風切る音は劣らぬ豪剣。かろうじて打ち合わせた紅騎士の手首から肩まで痺れが走るや、なす術もなく彼は後退した。
容赦なくDの連撃が襲った。上段へのしかかる怒濤の打ち、中段へと迸る銃火のごとき突き、下段から跳ねる|発条《ばね》そのものの払い。――そのどれもが万全の体勢から繰り出される美しさを備え、受ける紅騎士の姿勢はすべて崩れていた。
「ちい」
一気に紅騎士は後方へ跳ねた。
空中で刀を収めつつ、彼はDを眼前に見た。自らの抜刀より、ふりかぶったDの刀身が速いことを紅騎士は見抜いた。
「見事だ」
叫んだ頭頂を黒い鋼が二つに裂き、柄に手をかけたまま、紅騎士は血煙を上げつつ橋上へ落ちていった。
その手がもう一度、閃いた。風を切る音は橋の中央あたりで聴こえ、Dの左手が鮮血を噴いた。
落ちた左手首をDはすぐ拾い上げた。紅騎士は橋上でこと切れている。
手のひらに人の顔が浮かび、
「奴め、あの刀に音を反射させおったか」
と言った。そのために紅騎士が突きたてた一刀は、ひどく寂しげに月光を浴びている。
「えらい斬り方をしよる。刃とちがって、簡単にはつかんぞ。気をつけろ」
そして苦痛に似た表情を浮かべるや、顔は手の中に沈んでしまった。
自分の手首をポケットに収め、首のスカーフをほどいて傷口を縛ると、Dは何事もなかったような表情で橋の向こう側で待つサイボーグ馬へ近づいた。馬同士は橋上で交差していたのである。
馬にまたがって走り出す前に、Dは後ろを向いた。
紅騎士のかたわらで、彼の馬が鼻面を動かぬ人影に押しつけていた。愛馬であろう。
すぐに向き直り、Dは新たな戦いの場へと走り出した。
「紅騎士も斃されたようだわ」
美姫の笑顔はさらにかがやきを増したように見えた。
「残るは白騎士とおまえのみ。仕掛けを使おうかしらね」
「その方がよろしゅうございます」
伏したまま、黒々と騎士は答えた。その周囲で庭の薔薇は絢爛と咲き誇っている。
「でも、やめとくわ」
姫は悪戯っぽく、忠臣ともいうべき男を見つめた。
「せっかく、両腕の代わりをつけてあげたんだし、おまえも本心はあのハンターと戦ってみたいようだしね。あたしのことなんか気にしないで好きなだけやっておいでなさいな。あたしなら、何とでもするから」
「姫」
黒騎士は顔を上げた。その両肩からは、ひとまわり太い新たな腕が生えていた。
彼は立ち上がり、一礼した。
「ねえ、黒騎士――聞かなかった? 私が何かをDに頼んだって?」
「私は感謝しておりますぞ、姫」
と黒騎士は言った。
「あら」
「我々に戦士としての死に場所を与えて下さったこと。私も最後まで、あの吸血鬼ハンターと戦いとうございました」
「よかったわね」
「姫。この土地でこの城で、我々は長く生きすぎたようでございます。ようやく、この日が参りました。ですが、姫は、いつまでもお健やかに」
「ありがとう。――じゃあね」
姫は顔の横で立てた指をせわしなく折り曲げた。童女のような仕草に、黒騎士は微笑したようだった。
門の方へ向かう戦士の後ろ姿が消えるまで、姫は長いこと見送っていた。
「長かったわね、本当に」
と彼女は誰かにささやくように言った。
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第八章 薔薇の園
急坂にさしかかったとき、頭上から猛烈な敵意がたぎり落ちてきた。
月を背負ったように空中に浮かぶ黒騎士を、Dは馬上から見上げた。
黒騎士の背に取りつけられた翼状の飛行具も、彼の眼は白日の下のように見ることができた。
「これが最後だ、D」
黒騎士の両肩から黒色の薔薇がせり上がり、花弁を広げた。
青い闇が生まれた。二個の放電葉から放たれた電撃は五百万ボルトでイオン分離を成し遂げ、Dと馬とを襲った。
サイボーグ馬の電子回路に異変が生じるまで一秒とかからなかった。耳から黒煙を上げて横倒しになる周囲で、木立は落雷にふさわしい炎を上げはじめた。
まばゆい光は仮借なくDを包んだ。その中でDは青く青く――光の像のようにかがやいた。
放電を停止し、黒騎士は、おう!? と呻いた。
光の立像を構成していたかがやきはみるみる本体から分離し、濃さと艶とをました闇の中に、黒衣の若者は悠然と立っていた。胸もとで青いペンダントがひっそりと闇を映していた。
美しいひとときを造り出しただけのことだと、黒騎士は覚った。
「D――ここまで来られるか?」
翼が傾いた。急降下はDの真上から。火花を上げて打ち合わせると、黒騎士は軽々と宙に戻って、飛来した針を手で薙ぎ払った。すうと坂の中腹に舞い降りた手に武器はない。
Dが走った。徒歩では不可能な急坂を、平地の疾走に等しい速度で駆け昇っていく。
跳躍しざまに放った長剣は、しかし、舞い上がった黒騎士にわずかに届かず、逆に頭上から襲い来る分厚い光の帯を二度、刀身で受けた。
「やるな」
黒騎士の声は、坂を囲む木立の大枝からきこえた。見上げれば、高さは百メートルを越す。
「次は決めるぞ、D」
と彼は宣言した。
上と下――力学的に見れば、どうしても前者が有利だ。Dは黒騎士を地上に下ろさねばならず、しかし、その相手に斃す以外の攻撃をかける余裕はなかった。
黒騎士は枝を離れた。
どこへ逃げても斬る。否、Dが真っ向から挑んでくることに黒騎士は確信があった。
果たして――Dは地を蹴った。
落ちると昇る――力でもスピードでも、黒騎士が勝る。
Dの跳躍の頂点で、黒騎士は一閃を放った。Dが打ち返し、すっと遠ざかった。
落ちる。――喉元まで勝利の叫びを噴出させ、黒騎士は眼を剥いた。
Dもまた空中にいようとは。
まさしく、彼は飛んだ。黒いコートを翼と化して、一羽の美しい魔鳥のように。
いや、巨大な黒い蝙蝠のように。
顔面を狙ったDの剣をかろうじてかわしたのが最後、反転した飛燕の突きを胸から背まで食い込ませて、黒騎士の全身から力が抜けた。
「やはり……こうなったか」
黒騎士の声はひどくさわやかであった。
「もはや、姫を救ってくれとは言うまい。あの方も望まぬであろう。おかしなものだ。山ほどのことを頼むつもりであったが、何も言えぬ」
ゆっくりとDは降下していった。長時間の滞空は不可能なのである。
「長かったぞ、D。……待っていたものが……やっと……きた……おそらくは、あの方[#「あの方」に傍点]……も……」
地上に降り立ち、Dは上空を眺めた。
空中に浮かんだ黒騎士の頭は深々と垂れていた。
坂を上がりつつ、Dの右手からひとすじの針が黒騎士の飛行具に吸い込まれた。スイッチが入ると音もなく、彼は上昇を開始した。反重力を利用した飛行具は、この星の外へと戦士を送るだろう。
「あと二人」
Dは月光のうずくまった館へ向けてつぶやいた。
強敵を天へ送った美しい若者の声も表情も、次の死闘に備えた冷厳なものであった。
城門は下りていた。内部へ入ったDを、みずみずしい香りと|色彩《いろ》とが取り囲んだ。風が花をゆらしている。
薔薇たちは、こう歌っているようであった。
お帰り お帰り
姫さまに 傷をつけないで
あなたには 姫を殺せないよ
姫を探す必要はなかった。
朽ちたホールの玄関で、Dと美姫とは対峙した。
「よくここまで来たわね」
と姫は呆れたように肩をすくめてみせた。紅色の唇が咥えた薔薇は白であった。片手を手刀の形で首にあて、
「三人とも――これ?」
姫は水平に引いた。
「見事な最期だった」
「よかった」
「みな、おまえを案じていたぞ」
とDは言った。
「あら、うれしいわ。――でも、家来としては当然ね」
「エレナは何処にいる?」
「あら、あら、あら、あら――驚いたわね。氷で出来てる男かと思ったら、他人のことを気にする回路もついてるの?」
Dが前へ出た。
「きゃあ」
姫は滑るように十メートルも下がった。わざとらしい悲鳴である。
「殺気で人を殺せるわね。ああ、やだやだ。――ちょっと、出ておいで」
Dは姫と同じ方――ホールの奥を向いた。
確かそこにはいなかった人影がひとつ、ゆらゆらとやって来る。|陽炎《かげろう》のようにゆれる姿は、全身にまたたく光が変化するためであった。
エレナの胸にも手にも腰にも、宝石がゆれていた。
そそぎ込む月光と歩む速度、微妙なゆれによって、それらは光としかいえぬ高貴なかがやきを、あらゆる形に放ってみせるのだった。それらを飾った服は純白の絹にちがいない。
「見ての通り、無事よ。けど、もう前の生活には戻れない。貴族の|精神《こころ》を知ってしまったから」
「……D」
とエレナの口が開いた。
「来てくれたの?」
「薬はここにある」
とDは手首のない左手で上衣の胸を叩いた。
「ほう、役立たずの家来どもでも、それなりの努力はしたとみえるわね。つないであげようか?」
「余計なお世話じゃ」
Dのコートのポケットからはみ出ている品を見て、姫は眼を丸くした。
「可愛くない手[#「手」に傍点]ね。いま、ご主人を斃したら、お仕置きをしてあげるわ」
茶目っ気たっぷりなその声の主へ、空気を灼いて銀光が走った。
白いドレスの腰の部分に横一線――朱の筋が生じると、みるみる上下に広がり、鮮血となってこぼれ落ちた。
「やるゥ」
感嘆の声は合図だったのかもしれない。白いドレスを汚して床にしたたる血潮の表面が泡立つや、眼を奪うばかりの鮮やかな色彩が、空中に浮き上がったのである。薔薇だ。四彩の薔薇だ。
それはDの周囲で華麗なる流れ――奔流と化して渦巻いた。
別の光が流れを断ち切った。
薔薇の群れは忽然と視界から消滅し、そこに立つDの姿を見て、エレナは口もとを押さえた。
首筋に肩に胸に腹部に咲いた薔薇は、確かに四輪――四彩であった。
Dがよろめいた。凄まじいめまいが襲ったのである。天地は回転し、眼を閉じても、その感覚は残った。
「きれいなものには棘がある。私の薔薇には毒があるのよ、D」
姫は婉然と笑った。それは、ダンピールたるDの平衡神経さえ狂わす猛毒だったにちがいない。ついに、Dは一刀を床に立て、それにすがったではないか。いや、背に当たる月光の重さにも耐え切れないかのように、両膝をついたではないか。
「止めを刺す前に、喉しめしを頂戴しようかしらね」
姫は恐れげもなくDに近づき、首筋の薔薇に触れた。青いはずのそれは、忽然と真紅に変わった。Dの血を吸ったのだ。
ぐいとそれを引き抜き、姫は自分の頸動脈に突き通したのである。
「流れ込んでくるわ。おまえの血が……ああ……なんて甘い……なんて強い……全身に力がみなぎって……くる……」
嘘いつわりのない歓喜と法悦に、美姫は身悶えした。なんと恐ろしい血の|宴《うたげ》か。
「たっぷりと貰うわよ、その血――おまえの首を落としてから」
姫の手が無造作に上がった。袖口から光る糸がひとすじ白い指先をつないでいた。
「薔薇の葉脈を紡いだ切断糸よ。騎士たちの鎧も実はこれで編んであるの。おまえとは、もう少し旅の空で話し合ってもみたかったけど、やはり、私はここを離れられない身よ。――さようなら、D」
糸はふり下ろされた。その軌跡が急に乱れて石の床を五メートルも裂いたとき、姫の口から鮮血が溢れ出た。
「ぐおおおおお――身体が焼ける。この血は――!? D、おまえは――!?」
どのような|大苦患《だいくげん》に苛まれているのか、死神の形相となった姫の眼が、Dの足下に落ちる赤黒い塊を見た。萎れた薔薇の花弁は茶色に巻き上がっていた。
「おれの血も武器になるらしい」
月光が美丈夫を照らし、床上に美影身を灼いた。
一刀を手に姫に近づくDの顔上に、憐憫の情は|破片《かけら》もない。
じゃらん、と鎖を引きずるような音がしたのは、そのときだ。
姫の身体が浮き上がり、次の瞬間、床にめり込んだ。何か異様な力が床石を下から破壊し、落下させたのだ。
「D――!?」
駆け寄るエレナに、
「そこにいろ」
と命じて、牙だらけの口を開けた床の一角へ、Dは身を躍らせた。
地下の床に着く寸前、Dのコートが翻ったのは言うまでもない。三百五十メートルの垂直降下をなし遂げた男の身体は、音もなく地底に立った。
そこが何処かはDにもわかっていた。
着地した刹那から吹きつける|啾々《しゅうしゅう》たる妖気――白騎士の部屋だ。
四騎士、最後のひとり。Dは闇の一方を透かした。
「また……会った……な……今度は……やり合えそうだ。“スレイヤー”が……泣き喚いていた……ぞ。おまえを……殺したい……と言ってな」
ああ、聴こえる。闇の奥から鉄と鋼とが触れ合うこまやかな金属音が。Dの血を求める“スレイヤー”のわななきであった。
闇の中に浮かび上がった白い甲胄は、すでに長い剣を手にしていた。
「長う……ございましたぞ……姫」
呻くような声が地の底を渡った。
この男も長いと言った。
貴族の館が栄え、朽ちていったその歳月。妖姫が耐えてきたその長さ。
「ようやく……ようやく……真の相手と……戦えまする……五百年間……私はこの地下で……その日を待って……おりました……」
そこに姫がいるのか。それとも、単なる孤独者の慨嘆か。白い騎士は、鍔鳴りの音とともに妖々と語りかける。
「死ね、死ね――“スレイヤー”とともに!」
口調が変わるや、風を巻いて疾駆する白い影へ、Dもまた走って応じた。
黒白が交差した。
数歩進んでDがふり向いた。右の脇腹に長剣の刃が深々と食い込んでいた。
白騎士は“スレイヤー”を離したのか。Dの一刀は無効だったのか。
いや、白騎士はがくりと膝をついている。
「ああ……やっと……時が来……た……後は……まかせる……ぞ……スレイ……ヤー……」
絞り出すように呻いて、彼は前のめりに地に伏した。
その狂気ゆえに、普段は地下に幽閉されていた殺人剣の使い手にも、やっと、そのときが来たのである。
Dは“スレイヤー”に手をかけ、引き抜こうとしたが、長剣はびくともしなかった。
「おや?」
と、コートのポケットがつぶやいた。
Dの上体がゆれた。
刀身は深々とDの肉体に食い込んだのである。
これは意志を持つ剣――飽くなき殺戮への渇望を満たすべく蠢く妖剣なのであった。
「えらい奴めが……」
コートのポケットから嗄れ声がした。
「まだ傷口はつかんが、何とかしてみよう。Dよ――」
返事はない。
このとき、Dは闇の奥に立つ妖姫の姿を認めていたのだった。そちらへ近づく足下で大地がくねった。
周囲は薔薇であった。
中庭には月光が降りそそいでいた。恐らくは、この館の窓という窓に明かりが灯り、白いドレスの女と黒衣の男たちが軽やかに舞い踊っていた頃から、変わらぬ光であったろう。
Dは眼前の姫を見つめた。
「もう逃げぬ」
と姫は咲き乱れる花々を見渡しながら、別人のような声で言った。
「けれど、おまえも帰しはせぬ。でなければ、あの四人に対して申し訳が立たぬ」
Dは何も言わなかった。この妖女の変貌を覚っていたかのように。
「死に場所を求めたか」
と彼は少しして言った。
「貴族の命運は尽きておる。私にもそれはわかっていた。四騎士にも。だが、彼らの矜持は、人間の世を許すことができなかったのじゃ。もはや、この世界に貴族の生きる場所はないと知り、自らの支配が、取るに足らぬちっぽけな集落にしか及ばぬのを理解しつつも、彼らは私を貴族として、人間どもの頭上に君臨する大いなる闇の覇王として生きさせようとした。無為と知りつつ永劫の時間を生きる空しさ――あなたにはおわかりであろう。ご神祖の血を引くお方よ」
Dはよろめいた。“スレイヤー”の刀身がなおも食い込んだのである。
「私は彼らとともに生きることを選んだ。そして、何ひとつせず、薔薇のみを愛でる姫として、貴族の生活の維持すべてを彼らにまかせたのだ。それしか、四騎士たちに、生への意欲を与える方法はなかった。Dよ、生命あることが生きることではないぞ」
姫を守ると四騎士は言った。しかし、彼らこそ、この聡明な女に守られていたのではなかったか。
「そこへおまえが来た。ひと目見て、四騎士は死に場所を見つけたと覚ったにちがいない。私は戦えと命じた。おまえこそ、彼らの逆説的な生き甲斐であった。私の心を、果たして彼らがわかってくれていたかどうかは問うまい。もはや、私も逃げぬ。Dよ――来るがよい」
「四騎士とおれを戦わせたかったのなら、なぜ、死霊どもを使った?」
「おまえがあ奴らに斃されるなどと誰が信じる? それでも行かせたのは、多少なりとおまえや村の奴ばらがあわてふためくのを見たいという気まぐれからじゃ」
美姫は言葉を切った。次の声は、Dめがけて躍りかかる空中からきこえた。
「長かったぞ、Dよ」
二つの影が重なり、白い背中から刀身が生えた。細い腕がわななきつつ、Dの背にしがみついた。
「おまえ……と……旅へ……」
ささやく女の肩越しに、Dは近づいてくるエレナを見つめた。
「エレナよ――“スレイヤー”を取れ」
姫が呻いた。
近づいたエレナがDの脇腹の妖剣に手をかけると、それは簡単に外れ、村娘はいきなり、姫の身体を背中から突き刺したのである。恐るべし、妖剣“スレイヤー”の切れ味。刀身は姫を刺し通したのみならず、Dの背中まで抜けた。エレナが“スレイヤー”を抜いた時点で、Dは身を離そうとした。その身体を抱きしめて岩のように動じないのは、か細い姫の腕であった。
Dはエレナを見つめた。
「ごめんなさい」
と純朴な不良娘は低い声で詫びた。眼に危険な決意の色があった。
「姫が教えてくれたのよ。貴族の生活、貴族の|精神《こころ》を。この館の仕掛けも富もみんな私のものにしたい。さんざか辱められた村の奴らを一生脅えさせてやりたいの。あたしは貴族になりたいのよ」
「本気か?」
とDが訊いた。その口の脇から血泡がこぼれた。
「ええ。ごらんなさい」
エレナは妖剣から手を離し、自らの胸もとを開いた。乳房に薔薇の刻印はなかった。
「ここへ着いてすぐ、姫に取られたの。今のあたしは、あなたと出会ったときのエレナよ。でもね、D、あなたは邪魔者なの」
叫ぶように言って、エレナは数歩離れた。ゆっくりと“スレイヤー”もろとも、姫の身体が倒れた。
その向こうにDが立っていた。
その左手首がいつの間にか癒着し、手のひらに浮き出た血まみれの口が青白い炎を吐いているところを、エレナは見ることができなかった。
「貴族になりたいと言ったな」
近づいてくるDから、エレナは後じさった。
「あれは……助けて、D」
あたしは、あんたと一緒に戦ったのよ。あんたはあたしを救けてくれたのよ。ねえ、今のは魔がさしただけなのよ。
Dの右手から光が胸へと吸い込まれるのをエレナは見た。なぜか、Dの顔を見たくなかった。
刀身を収めて、Dは中庭を見廻した。
「貴族になりたい、か」
と嗄れ声が言った。
二つの死体に一瞥も与えず、Dはひどく疲れたような足取りで、門の方へと歩き出した。
その足下に、小さな塊が落ちた。
萎れ切った薔薇のつぼみであった。主人を失った花々は、その死に殉じるかのごとく次々と頭を垂れ、変色して地に落ちていく。Dが歩み去った後、塵と化した姫と、エレナの死体の上にもおびただしい死の花が舞い落ち、ともに埋めていくのであった。
数日後、ひょっこり戻ってきた孫から、ママ・キプシュは、ある夜、城の住人を退治して忽然と姿を消した若者の消息と、彼が訪れた理由とをきくことができた。
片恋いの娘を殺された孫は、姫に一矢を報いた後、手製の飛行具で脱出したものの、追跡されて谷川へ転落。通りかかった吸血鬼ハンターに救出されたのであった。
「そうかい。それで、あの男は、この村と奴らのことをみんな知っていたんだね」
窓から館の方を見ながら、ママ・キプシュはうなずいた。彼女の孫は、城の住人について、村外れの廃墟について、誰よりも博識だったのだ。Dが孫の生存を伝えなかったのは、彼の行為がもとで村への報復が行われた結果を、案じたためであった。村人は祖母に懲罰を加えた後も、孫の所在を追及するだろう。ひょっとしたら、今も。今夜中に村を出た方がいいかもしれない。
「で、あの人はどうしたね?」
とママ・キプシュは尋ねた。
「おれに仕事が片づいたと言ってから、すぐに消えちまったよ。あんな寂しそうな後ろ姿、おれ、見たことがないよ」
「そうだろうともさ」
「でも、最後に笑ったぜ」
「笑った?」
孫はうなずいて、自慢そうに太い首筋を指した。
「もう消えちまったけど、おれ、小さいとき、あいつらに薔薇を植えられたことがあったよね。それから二、三カ月、|祖母《ばあ》ちゃんが秘薬を調合してくれるまで、ずっとぼうっとしていたろ。あのとき、今だから話すけど、おれ、みんなの血が吸いたくて仕方なかったんだ。別れ際にその話をあの人にしたんだよ。そしたら、いきなり、生真面目な顔になって――待てよ、いつも生真面目だったな――“貴族になりたかったか?”と訊くんだよ。とんでもない、仲間の血を吸うなんて真っ平だ。子供心にも死のうと思ったよって答えた。そしたら――笑ったのさ」
「そうかい」
ママ・キプシュは眼を閉じた。それがどんな笑みか、彼女にはよくわかっていた。
孫は誇らしげに、こうつづけた。
「一生の自慢になるぜ。おれがあの笑いを浮かばせてやったんだってね。おれの千倍も強くて万倍にもいい男にさ」
『D―薔薇姫』完
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あとがき
久しぶりの書き下ろし長編版Dであります。
本来なら去年の夏には仕上がっていたはずが、諸々の事情により――といっても、正直にいえば、作者の怠慢のみですが――新年の登場と相成りました。伏してお詫び申し上げます。
前作「昏い夜想曲」からさして経っていないのに、Dは作者も驚くほどハードでクールな男に変貌を遂げていたようです。この物語もその影響をたっぷりと受けています。特にラスト――果たして読者の気に入るかどうか自信はありませんが、やはりDはこうしなければならなかったのではないかと思います。ご感想をお待ちする次第です。
年末近くなっても、一日数枚しか上がらなかった原稿が、担当のI氏が泊まり込みを開始した途端、まるで手がプリンターと化したかのように生産されていった様は、I氏ばかりではなく、作者にとっても奇跡的な出来事でありました。
こういうことが起こるのは、まだ作者のパワーが失せていない証拠なのか、はたまた、陰ひなたのある性格というだけのことなのか、何はともあれ、この本にとってはよかったと思います。
次作もかくのごとくなりますことを。
平成五年十一月二十七日
「女ドラキュラ」を観ながら
菊地秀行