D―北海魔行〔下〕 〜吸血鬼ハンター7
菊地秀行
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目次
第一章 やがて、夏
第二章 剣鬼撩乱
第三章 夏祭り
第四章 氷海異形戦
第五章 緋色に染まる珠玉
第六章 闇の戦い
第七章 飛翔崖
第八章 冬来りなば
あとがき
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第一章 やがて、夏
1
砂が巻き上がった。
凄まじい速度で旋回する何かに撹拌されている。
四方に煙のような砂粒を撒き散らしつつ、それは二度炸裂し、次の瞬間、黒い波打ち際で人の形をとった。
|暁鬼《ぎょうき》である。
直立したのも束の間、彼は右膝を折った。砂地へ屈する寸前、かろうじてこらえる。
その太腿を白い線が刺し貫いていた。
白木の針であった。
「信じられん奴……」
血の滲む腿へ眼を落とし、暁鬼は前方の美しい闇へ感嘆と憎悪の視線を向けた。
Dの潜む闇であった。
Dも立ち上がるところだった。
右手から長剣がゆるやかに伸びている。砂地に落ちたそれを拾い上げたのだ。
いや、自ら落としたものである。
暁鬼の蹴りが炸裂する寸前、まさに数十分の一秒のタイミングで、彼は一刀を手離した。剣からではなく、剣ごと[#「ごと」に傍点]暁鬼を落としたのである。
必殺の蹴りが、文字通り必殺の効果を発揮するには、万全の速度とパワー、そしてバランスを必要とした。
こめかみへ放たれた蹴りを、Dが右肘でブロックするのに十分な狂いが生じたのである。
暁鬼の二撃目が迸るより早く、Dの左手は受けのタイミングと同時に、彼の腿へ深々と白木の針を突き刺していた。
美しい影が悠然とこちらへ近づいてくるのを見て、暁鬼はびっこを引きつつ後方へ跳ねた。
次の瞬間、腰まで水に漬かっていた。
「逃げるが勝ち――古くさい諺だが、|生命《いのち》あっての物種だな。今日は引き揚げるとしよう」
何の未練も残さぬ声で言い、水中へ飛びこむような姿勢をとって、暁鬼はふと、波打ち際に立つDの方へ眼をやった。
「私が誰につくられたか、知りたがっていたね。――生んだのはマインスター男爵だが、完成したのは、あの方[#「あの方」に傍点]だ」
その身体は垂直に沈んだ。
すぐに、遠くで水音がきこえたが、それっきりだった。二〇〇〇メートルの海底へ泳ぎ去ったのであろう。
完全に敵の消失を確かめたか、Dは長剣を鞘に戻してスーインの方へ歩き出した。
発光紐の光輪が蒼茫と所在を示している。
別れた場所より、ずっと奥だった。
待っていろとは言ったが、スーインのような気丈な性格が、迫り来る運命を黙って迎えるとは考えにくい。
それでも、異常だった。所定の場所を動くなら、彼女の運命を決するDの所為をこそ確かめに来るべきだろう。
まるで逆の方向であり、行動であった。
Dの足は速度を増した。
スーインは、はじめて見る大水槽の前に立っていた。
他の品とは異なり、やや白濁した溶液の中に漂っている影は、ひとつきりだった。
全裸の若者である。
こちらを向いた身体のあちこちに、青黒い破損部が見えた。
人為的な傷ではなく、突発的についたものなのは一目瞭然であった。
左前額部は大胆に潰れ、眼をこらせば内側も覗けるほどの裂け目が口を開けている。いまだに生前の若々しさを留めている顔がはっきりと見分けられるのは奇蹟に近かった。
左肩もおかしな形に変形している。――骨折の痕だろう。かなりの高みから墜落した結果なのは間違いなかった。顔つきからして村の若者だ。千年も前の遺体を誰が封じこめたのか。
Dに見つめられているのにも気づかぬ様子で、スーインは白い、おぼろな姿へ眼を注いでいたが、やがて、
「落ちたのね」
とつぶやいた。思考回路を経ずに、言葉だけが生まれたようなひと言であった。
「落ちたのよ――岬から……刺されて[#「刺されて」に傍点]……胸を……」
Dは若者の胸を見た。傷はない。スーインは別人の話をしているのだ。
「戻ろう」
とDは告げた。
祖父の葬儀には十分間に合う。だが、やって来た行程を考え、戻る道に思いを馳せれば、気軽な言葉などとんでもない、凄まじい「旅」であった。
スーインの身体が揺れた。――と思う間もなく、意志から見離された肉体は、Dの腕の中にもたれかかっていた。
素早く発光紐を受け取り、Dはスーインの血の気を失った顔を見、水槽中のものに視線を移した。
青白い溶液中に浮遊する死体と漁師の娘――異なる二つの存在を結びつける糸を、この若者の非情な眼は見取っていたかもしれない。
その糸は、すぐに、小さな呻き声で散り散りに切れた。
たくましい腕の中で、スーインは眼を開け、立場がわかると慌てて立ち上がろうとした。Dからそらした眼の色は、桜色になってふくよかな頬を染めていた。
「やだ、こんなところで、みっともない」
必要以上の力をこめてDの手を押しのけ、立ち上がった身体は、もうしっかりしたものだ。
「出て行くとして、ここはどうするの?」
と、周りを見廻しながら訊いた。
「マインスターの研究室でしょ。壊していったら? 私、手伝うわよ」
「どんな仕掛けがあるかもしれん」
「それもそうね」
「昇りは少し時間がかかる。行くか」
「大丈夫?」
スーインは頭上の闇を見上げて不安そうに訊いた。
二〇分後、マインスター城の廃墟を出ながら、Dを見つめるスーインの眼差しは感嘆のそれに変わっていた。
さらに一時間後、家へ戻った二人を、予想外の光景が待ち受けていた。
二〇人を越える子供たちである。辺境の常として、背の高さ、眼の色、皮膚の色、年齢は様々だが、スーインを見て駆け寄る顔は、みな期待に照りかがやいていた。
スーイン、スーインと名を呼ぶ中に、先生という単語が幾つも混じり、Dは陽焼けした女の顔を見つめた。
「先生――いつから?」
「学校はいつから?」
幼い声にとまどうように、スーインは眉を寄せた。
「そうねえ。悪いけど、今年はできるかなあ」
失望のどよめきが、波のように打ち寄せた。
「――先生のお|祖父《じい》ちゃん死んじゃったし、ウーリンもいないし、ね」
声を翳らせようとするものを、スーインは必死で押しのけた。
なおも抗議の声を上げようとする子供たちへ、
「こら、こんな大層なときに、なに、スーインを困らせてる?」
「今日は葬式だぞ」
母屋の方から親らしい男女と叱責の声が駆けつけ、子供たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
スーインはDの方を向き直って、
「おかしい?」
と訊いた。やや挑戦的な声である。
返事がないので、
「私、漁の合間に、夏だけ学校をやってるのよ。ここの子供たちは何でも知りたがるわ。あの年になるまで、灰色の海と一週間の夏しか見たことがないから」
「校舎はどこだ?」
「去年まではうちの庭にテントを張っていたの。今年からは校舎が建つわ。海岸線を来る途中で、櫓が見えたでしょう、あのすぐ脇に。そうしたら、冬も授業ができるし、『都』から先生も呼べるわ。今年の夏の初日完成をめざして突貫工事をしていたの。どうやら、間に合いそう」
「教師は来るのか?」
スーインの眼は海の方を向いた。
「ウーリンは、その話も持って、クローネンベルクへ出かけたのよ」
先生、と呼ぶ子供の声が遠くきこえた。
仕度にかからなくっちゃね、とスーインは|銛銃《スピア・ガン》を持ち直して家の方へ歩き出した。
Dが先に入り、内側で忙しく立ち働いている人々を眺めた。
「これでみな[#「みな」に傍点]か?」
「ええ」
自分に集中する感嘆と陶酔の視線を無視してDは外へ出た。戸口でスーインに、
「おかしなものはいない」
と告げた。
女|主人《あるじ》は声をひそめて、
「当たり前よ。みんな、近所のひとばかりだわ。お願いだから、変なこと言わないで」
「渡し船の人形は、近所のものにも化けられるかもしれん」
Dの言葉にスーインは緊張した。
「わかったわ。油断は禁物ね」
「葬儀の準備をしたらいい」
「そうします。後はよろしく」
信頼の眼差しを人外の美貌へ投げて、スーインは家へ入った。
Dは裏庭へ廻った。祖父の遺体はその隅に埋葬される。共同墓地よりもそちらの方がお祖父ちゃんも喜ぶと、スーインが主張したのだ。
紗を|透《とお》したような光の中に、不意に細い調べと歌声が湧き上がった。
裏手のベランダであった。
木作りの笛を咥えた十歳くらいの少年を中心に、先刻の子供たちが輪をつくっている。
夏を運んで来たあなたへ
ささやかな御礼を受けて下さい
氷に咲く白い花は 触れたものを凍らせるけれど
夏のワルツが終わるまで
あなたは わたしたちの仲間
あなたがいなくなるときは あなたのために祈るでしょう
ともに去る夏の光よ
音程の狂ったひたむきな歌声を、Dは気だるい光の中で聴いていた。
足もとの影は美しく、誰よりも薄かった。
遠くで波の音が聴こえた。
はじまったときと同じように、歌声は前触れもなく途切れた。
中央の少年が、困ったような表情で笛をこねくり廻している。口に咥えて頬をふくらませても効果はない。
詰まるか、隙間が開いたかしたらしい。
どうしたの、鳴らないの、という問いが入り乱れた。
みな、べそをかいている。本気で熱中していたのだ。でなければ、さっさと別の遊びを探しに出かけている。
責任者のべそが深くなった。
その眼が救いを求めるように周囲を見廻し、美しい影を捉えた。
十歳の子供の頭脳と|精神《こころ》が、彼[#「彼」に傍点]をどう見たかはわからない。
周りの子を押しのけるようにして、少年はDのもとへ走り寄ってきた。
一メートルほど手前で立ち止まり、上目遣いに見上げる表情には、脅えと期待が同居していた。
腰の高さにある浅黒い童顔を、Dは無言で見下ろした。
その身体がゆっくりと沈んだ。
少年と同じ高さで、
「どうした?」
と、吸血鬼ハンターは訊いた。
その眼の前へ、小さな手と木の笛が突き出された。
たくましく、それでいて繊細な指が木切れをはさみ、穏やかに抜き取った。
三個開いた空気穴のうち、下の二つを糸のようなひびがつないでいる。
それを埋めても、元の音は取り戻せまい。
Dは足もとの地面を見廻し、すぐに、コートの内側から白木の針を取り出した。二本ある。
太さは三ミリもないかわり、全長は二〇センチを越える。
その片端へ、針を握った手の親指が伸びた。
指の端から形のよい爪の先がわずかに露出している。
それが小さな弧を描くと、針の先五センチほどが、真円の切り口を示しつつ、地に落ちた。
少年は手品でも見たように眼を丸くしている。
針を持ち替えて反対側の端も落とし、Dはもう一本の針の尖端を丸い切り口にあてがった。
力を加えたとも見えないのに、針はもと[#「もと」に傍点]針の中へ、何の抵抗もなく沈んだ。
驚きの気配が周囲に湧く。
いつの間にか二人を取り巻いていた、ベランダの子供たちであった。
子供の眼から見ても、針の太さは同じだ。それなのに、貫かれた方は割れも砕けもせず、貫いた針も澱みなくその内側へ沈んでいく。
尖端が抜けて出た。
反対側の、まさに爪で切断した部分と等しい長さの尖端を咥えて、Dは二本の木片を分離した。
そのままで、手にした針へ右手を近づける。細長い小柄のきらめきを子供たちは見た。
三個の小穴を穿つのに二秒とかからなかった。穴はことごとく真円であった。
ひと息かけて内側の木屑を抜き、Dはそれを唇に咥えた。
頬がわずかにくぼむと、細く美しい音が流れ出した。
たくさんの小さな顔が、驚きの表情から笑顔に変わった。
無言でそれを眼の前の少年の手に握らせ、Dは立ち上がった。
瞳はベランダに向いている。僧形の影が立っていた。|蛮暁《ばんぎょう》であった。
ふはふはと笑いながら、毛のない頭を叩き叩きやって来た。
両手は背に廻している。
「いや、坊主というのも、これで経を読む以外は暇なものでな。今朝から子供たちと遊びっ放しよ。そこもと[#「そこもと」に傍点]は何をしておった。さっき、台所の窓から覗いたところでは、スーイン殿と船で帰って来たようだが、気をつけなされ。男と女が闇雲に、なるようになってしまっては、色情道に堕ちるぞよ」
蛮暁は良態良態と、宗派の呪文をつぶやき、咎めるような眼でDを見つめた。
皺だらけの顔が、にい、と笑み崩れて、
「だが、拝見しておったところ、おぬし、なかなかにいいところがある。それほどハンサムだと、女ばかりか自分以外の他人すべてに冷たいものだが、どうやら、血管は氷でも、流れている血はやや赤い色がついているとみた。どうだな、用心棒だか戦闘士だか知らぬが、|剣呑《けんのん》な仕事は一切やめて、ここで子供相手に骨を埋めては? ――はは、これは冗談」
言い終えた途端に、美しい調べが足もとから湧き上がった。
少年が笛を吹いたのである。
蛮暁は眼を閉じてそれをきいていたが、じきに、うむ、と重々しくうなずいた。
「惜しむらくは、音色に乱れがある。子供、これを吹いてみるがいい」
鼻先に突きつけられたもの[#「もの」に傍点]は、少年を困惑させたようであった。
これも小穴を開けた木の笛である。Dのものより、五センチほど短く、十倍も太い。
「いかに器用な笛づくりでも、それでは笛自体に無理がある。子供の喉と肺には少々苦痛じゃよ。さ、試してみい」
子供は正直である。
Dの笛を彼の胸へ押しつけると、さっさと蛮暁の試作品を口に咥えた。
宙を渡る音は、Dのものより太く、悠然としていた。
「ほっほっほ」
と、僧侶にあるまじく、自慢たらたらと蛮暁は笑った。
Dは黙って手の笛を見つめ、それから、少年の咥えた品と、僧侶の顔を眺めた。
「むむむ。いかんぞ、おぬし」
と蛮暁は片手を上げて|後退《あとじさ》った。
「自分の|拙《つたな》さを迫力でカバーしようと努めるのはよくない。ハンサムは万能ではないのだ。な、愚僧より子供の気を引きたければ、あと五年、その剣を捨ててこの村で暮らせ。おぬしなら、誰にも負けぬ立派な村長になれるだろう」
そして、蛮暁はふはふはふはと笑いながら家の方へ歩き去っていった。
子供たちもすでにベランダへ戻っている。
白い光の中に、Dと笛だけが残された。
「あの坊主め、なぜかおまえに敵意を持っておるぞ」
と、|嗄《しわが》れた声が垂れた左手のあたりできこえた。
「しかし、個性的な奴だけに、言っておることは面白い。どうだ、この村に腰を落ち着けて、漁師の親分にでもなるか。動物性蛋白質は、あのばかでかい鯨で補えるだろう」
けらけらと声は笑い、少し間を置いて、
「おい、黙れと言わんのか?」
Dは左手を見下ろした。何とも奇妙な表情が口もとに揺れていた。
「漁師のボスか。――それもいいかもしれんな」
「ちょっと待て」
声は恐るべき動揺を秘めていた。
「おまえ、まさか……」
手のひらが上向き、Dを見上げた。
すぐ、溜め息をついた。安堵を含んでいた。
「安心したぞ。ここでやめられては|敵《かな》わん。おまえの行くところは常に死の影の谷でなくてはならん。旅はまだつづくのだ」
Dは何も言わなかった。
海鳴りを切り裂くように、子供の笛の音が鳴った。
2
近所の人々が帰りはじめたのは、午後いちばんの時刻だった。
戸口に立って礼を言うスーインを、Dは庭先から眺めていた。
帰りしなの会話が、幾つも耳に滑りこんでくる。ダンピールの聴力は、夜なら常人の三倍、昼でも倍と言われるが、この若者はそれを遙かに凌駕するらしかった。
――スーインも大変だね、これから。
――ウーリンはどうしたかねえ。
――街へ行ったっていうけど、悪いときに。早く帰って来てやらなきゃ、スーインひとりじゃ堪らないわ。
――祖父さん、あれで結構役に立ってたからね。足腰はおぼつかなかったけど、催眠術は使えたしね。
――そうそう。うちの子が人食い鮫に襲われたショックで寝こんだとき、五分で忘れさせてくれたのには驚いた。
――スーインの技だって凄いけど、海の上じゃ通じないものねえ。
――大丈夫。結構やるわよ、あの|娘《こ》。銛打ちの腕なんか凄いもの。
――ねえ、あたし、ウーリンがもう帰って来ないような気がするんだけど。
………
――スーイン、本当に独りになっちゃったんじゃないのかなあ。亭主と伜が難破したとき、あたしの姉もああだった。そっくりなのよ。声とか眼つきとかじゃなくて、全体の雰囲気が。
「なに不景気な顔してるのよ」
明るい声が近づいて来た。祖父の棺を埋葬した際の、泣き崩れた表情は何処にもない。最後の土がかぶせられたのは一時間前のことだ。明日の生活を考えるには十分な時間だった。
「夕方までお役済みよ。私、海へ出るわ」
スーインは遠い眼で海鳴りの方を眺めた。厳しい表情は、今朝、船を洗浄していたときのものと等しい。
「これからか?」
「夏も近いわ。少しでも稼いでおかないとね」
「おれも行こう」
スーインは驚きの眼差しを美しい顔へ向けた。
「でも、あなたは……」
貴族の血を引くものが流れ水を忌むのは常識だ。
辺境の村では、数百軒の家の周りすべてに水路を張り巡らせたところもある。一般人を溺死させるだけの深さと広さがなければ効果はないと知れた|現在《いま》でも、溝掘りに精を出す辺境の家や、雨を待ちわびる人々は数多い。
海ならば、そのどれをも凌いで効果は満点であろう。しかし、ダンピールたるDにとっては――
「無理しちゃ駄目よ。いくらあいつらだって、海の上までは追って来られないわ」
「ひとりは雲に乗って空へ消えた」
「でも……」
「足手まといにはならん」
スーインは唇を固く結んでDを睨みつけ、鼻から大きく息を吐いた。
「わかった。そのかわり、隅にじっとしててちょうだい」
頬を切る――というのが最もふさわしい風の冷たさであった。
二日後に夏がはじまるなど、到底考えられない北の海と風の中を、スーインの動力船は軽快に波を切っていく。
前方の海域は三つに区切られていた。
左手遠くに悠然と隊列を組んで進む大型発動機船の群れ。――船尾から水面に垂れた黒い網で、回遊魚を捕獲しているのだ。
正面数キロの海上で巨大な影を取り囲みつつ、自在に銛を投じる小型動力船の一群――集団攻撃の目標は、オオクジラであろう。
水面は淡いピンクを滲ませつつあった。
|舳先《へさき》が右を向いた。
「割りこみだから、少し荒っぽいところへ行くわ。落ちないように気をつけて」
スーインの口調は興奮気味であった。
舳先の彼方には白い帯が浮いている。氷塊の連なりだ。その前方を移動する小船の動きは、他のどれよりも激しく錯綜していた。
「クジラの血に惹かれてやって来たダイオウシャチよ。肉はともかく牙と骨と内臓が貴重品――そのかわり、代償はこっちの生命よ。ちょっと、――こんなところで捨てないでよ」
冗談めかして言った。大した度胸だった。
苛酷な環境にすべての住人が順応できるとは限らない。フローレンスの女にも、生涯海へは出ないものもいるのだ。その中で、スーインは凄まじい例外といえた。
いま、二〇歳の女は、最も激烈な戦場を選んだのだ。
船が揺れた。
水は朱に染まっていた。
すでに開始された戦いは、ピークを迎えつつあった。
一〇艘ほどの動力船が移動する海面は激しく波立ち、食肉魚の丸みを帯びた頭と尾が見え隠れしては、|水脈《みお》を引きつつ脆弱な船体にぶつかっていった。
「気をつけて。奴ら、五メートルも跳ねるわよ!」
横波を食って揺曳する船上でエンジンを切ると、スーインは床に固定した銛の|発条《ばね》を外し、五本ほど抱えて右舷の船べりへ移動した。
鉄製のそれは一本二メートル、重量は四キロを越える。揺れ動く船上で保持するだけでも難しいだろう。スーインの腰から下肢にかけて、|粗布《あらぬの》のズボンは皺ひとつなく張りつめていた。
四本を寝かせ、スーインは一本を構えた。
右手を思い切り引き、尖端にあてた左手で狙いをつける。
何処かで彼女の名を呼ぶ声が尾を引いた。
水面を黒いものが近づいてきた。
身体の半ばから数本の銛が突き立っている。
ずんぐりした頭部が二メートルまで近づいたとき、スーインの上体が後ろへそり返った。ぴしりと張りつめたシャツが腕の筋肉と背筋の形を露わにする。
非の打ちどころのない安定したフォームで、スーインは銛を放った。
肉にめりこむ音が聴こえてきそうな勢いで鋼は海面に突き立ち、次の瞬間、接近する黒影は大きくねじれた。
貫かれた頭部を水中へ没し、背びれと尾が激しく水を叩く。断末魔に魅入られた大魚を尻目に、スーインは二本目の銛を構えた。
「見事なもんだろ?」
と、背後のDへ声をかけながら頭を振る。波|飛沫《しぶき》がとんだ。
「首と胴の間のくびれが急所さ。男がやってもなかなか当たらないんだよ。――来た!」
最後の言葉が、次の刹那に襲った衝撃の主をさしたものではないことは、スーインの悲鳴と崩れた体勢が教えた。
船べりから跳び出しかけ、かろうじて左手をかけて支えた肢体の前へ、黒い巨体が垂直に躍った。
|巨《おお》きい。
伸びた。
こちらへ向けた腹だけは白く濡れていた。
尾は二股であった。
伸び切った体躯は三メートル、七〇〇キロは下るまい。ずんぐりした側頭部に小さな凶暴な眼が光り、一直線に裂け目が開いた。口であった。炎の色をしていた。
空中で大魚は逆Vの字に曲がった。意図的に身をひねったのだ。
|逆落《さかお》としに落ちてくる。その真下にスーインがいた。
体勢を立て直す余裕はなかった。
それでも上を向いた。
恐怖と絶望に彩られた瞳は、のしかかる口腔を横切る銀の筋を映した。
襟首を猛烈な力で引かれた眼前に巨体が落下し、船体がどよめいた。
分厚い胸もとにすがりつきながら、ダイオウシャチの頭と胴が、まさしくその境目から両断されているのを知り、スーインは総毛立った。
身体の芯で冷たく熱い線が疼いている。
少し離れた甲板上で、ひと抱えもある魚の頭が、鋼を打ち鳴らすような響きをたてていた。牙の噛み合う音だ。そのせいだと思った。
「余計なことをしたな」
さほど済まなさそうでもなくDが言った。
「いいえ」
スーインは首を横に振った。我ながら、よく声が出るものだと思った。
「一頭で足りるか?」
何処から出るのかと思われる静謐な声であった。
「とんでもない。みんなが終わるまで取るよ」
自分でも理解できぬ、意地のようなものに焚きつけられて、スーインはDから身を離した。
「おおい」
波浪を貫いて、聴き覚えのある声がした。
スーインがそちらを向いたのはともかく、Dまで追随したのは珍しい。
左舷一〇メートルほど向こうを並行する動力船の舳先で、銛を構えたドワイトが片手を振っていた。
「いいとこで会ったな、色男。おあつらえ向きの舞台だ。昨日の決着をつけようぜ」
「どういうこと?」
スーインがDを振り返った。ドワイトと彼との一件はまだ聞かされていない。
「借りがある」
「?」
スーインが二人を交互に眺める間に、
「前にも言ったがおれは漁師だ。海の上じゃ、おれのやり方に従ってもらうぜ。文句はねえな?」
ドワイトの右手で、スーインのよりひと回り太く長い銛が陽光を撥ね返した。
操舵室の中で、子分らしい若いのが彼とDを見比べている。
Dがかすかにうなずいた。
「ようし。これから一本だけ銛を投げる。それででかい方を獲った奴が勝ちだ。せいぜい、気張んなよ」
ドワイトは破顔した。
「もし、おめえが負けたら、――そうだな、さっさとスーインの家から出てってもらおうか。どうだい?」
返事の代わりに、Dはスーインの手から銛を受け取った。
「あなた……ちょっと待ってよ。馬鹿なことしないで」
銛をひっ掴み、スーインは大慌てでドワイトへ怒鳴った。
「何があったか知らないけれど、私の雇ってる人におかしな真似したら、承知しないわよ!」
「おまえにゃ関係ねえ。おれとこいつ――男同士の話だ。引っこんでな」
「このトンチンカン」
憤然と食ってかかろうとした刹那、凄まじい衝撃が船べりを叩きつけた。
悲鳴を残す暇もなく、スーインの身体は棒のように水面へ落ちた。
「い、いかん!」
ドワイトの叫びは、彼女の背後に迫る黒い影に向けられたものだった。
動揺を顔に昇らせつつ、木の根みたいな右手が引かれ、うなりとともに弧を描いた。
空気を灼いて飛んだ銛は精確無比。――海獣の急所を三〇度の角度で貫き、顎へと抜けた。
ぼっ、と海獣の首筋から鮮血が噴き上げ、そいつは大きく身をひねって水中へ没した。
すぐに二本目を取り上げ、ドワイトは声をふりしぼった。
「どうだ色男? おれは叩きのめせても、でけえ魚にゃ手も足も――」
そして、彼の声は止まった。
Dの右手から、スーインの銛が消滅していることに気がついたのである。
船べりから差し出されたたくましい腕に、スーインがすがりついた。
その背後に、ぼこりと黒い塊が浮上した。その首を貫いた銛は、まぎれもなくドワイトのものだ。会心の一撃であった。
「しくじったか、色男」
と、彼は片手を口に当てて嘲笑した。
「なあ、スーイン。海の男は顔じゃねえ。波の上の力量よ。おれは――」
声はそこで止まった。
獲物のかたわらに、別の塊が浮き上がったのである。
ドワイトは眼を剥いた。どう見ても、それは二頭のダイオウシャチであった。
その首をつなぐ一本の銛をスーインの品だと認めても、彼には信じられなかった。
どんな力自慢が渾身の力をふりしぼっても、銛が貫くのは一頭が限度である。後は精確さで競うしかない。それを二頭まとめて、しかも、ともに急所を貫くとは、どのような技の持ち主なのか。
新たな敵の攻撃に船が大きく揺らいだ。
甲板に手をつきながら、ドワイトはスーインに代わって舵輪を握るDを見た。
岸へと走り出す美しい横顔へあてられた視線に、徐々に徐々に、笑みのようなものが広がっていった。
そのとき――
「な、なんだ、こりゃ」
舵輪を握っていた若いのが悲鳴を上げた。
「どうした?」
振り向くドワイトへ、震える手が海面を指さした。
「――!?」
向き直って、怖いもの知らずの荒くれが戦慄に身をこわばらせたのも道理。
二人して仕留めた三頭に異常はなかったが、それすら押しのける勢いで海面は沸き立ち、血の渦を巻いて、その中心から腫物のごとく、黒っぽい塊が跳ね上がってくるではないか。
他の船も気づいたか、渦の周りを旋回しているものもいた。
「何だ、こりゃ?」
「――肉だ!?」
誰かが叫んだ。同時に、ドワイトも気づいていた。
「肉だ。シャチの肉だ。誰かが下でバラバラにしてやがるんだ。あの――あのダイオウシャチをよ!」
船人の叫びをよそに、肉片はなおも噴き上がり、やがて熄んだ。
視界を埋めて浮遊するそれらが、まるで刃物で切り取ったような鮮やかな断面を見せていることに気がついても、誰ひとり指摘するものはいなかった。
海に生き海に死ぬ男たちの胸で、過去のある伝説が、黒々と鳴っていた。
それが未来につながっていることを、彼らは知っているのだった。
3
西の水平線が鮮血を垂らしたような色に染まる頃、村でただ一軒の宿屋のベッドで、女が身を起こした。
全裸の肌には、それまでの時間と行為の名残が薄い薔薇色となって留まり、妖艶な美貌を一層妖しく見せている。
“思い出サモン”であった。
「行くか」
すぐ横で、けだるげな、野太い声が訊いた。
シーツの下で仰向けになった肉体は、サモンとは対照的な色と硬さを見せている。
サモン同様、身体も精神も弛緩した状態にありながら、事あれば、右手は枕もとにたてかけた剣へ光のスピードで伸びるだろう。
「もう用はなかろう」
サモンの答えは、下着をつけながらであった。
「私の知っていることはすべて話した。ベッドでおまえの自由にもなった。これ以上、恥辱を味わわせるな」
「それも面白いな」
不意に持ち上がった手が女の髪を掴み、容赦ない力で引いた。
あう、と宙に残して仰向けに倒れた顔へ、秀麗な美貌が重なった。
喘ぎと吐息が交差し、次の瞬間、グレンは弾かれたように身を起こした。
やや厚めの唇から細い血の糸が垂れて、白いシーツに朱の花を咲かせた。
噛み切られた部分を拭おうともせず、グレンは舌で自らの血を舐め取った。
その間に、サモンはベッドから滑り降りている。
「面白いことをするな。女に手傷を負わされたのははじめてだ。それも自分の女に」
怒った風もなく言う戦闘士へ、サモンは乾いた声で応じた。
「私はおまえの女ではない。何度寝ても同じだ」
「では、何だ?」
「借りがある。返すまでは好きにするがいい」
「ほう、いつ返す気だ?」
「私がその気になったときだ」
「どうやって返す?」
「それも私が決める」
身づくろいを整え、サモンはドアの方へ動いた。
「ひとつだけ断っておくぞ」
グレンは上体をベッドへ起こしたままで言った。淡々とした口調だが、サモンの足を止める迫力があった。
「おまえたちの仲間が、結束して奴にかかるのは勝手だ。だが、それはおれの後にしろ。奴はおれが斬る。おまえたちの欲しいものは、それから取るがいい。さもないと」
「さもないと?」
サモンの眼が光った。明白な敵意であった。
「おれは奴の前におまえたちを殺す。おまえもだ」
「私も?」
サモンの唇が薄笑いの形を刻んだ。
「それを仲間たちに伝えてもいいのかえ?」
「好きにしろ。うるさい蝿を追ってから、心おきなく奴と戦うのもよかろう」
サモンはドアを開けた。
「他に何か言うことは?」
「奴に対して、おまえか仲間が行動を起こすと決めたら、その前に来い」
何とも不可解で奇妙なやりとりだが、サモンはうなずいた。それから揶揄するように、
「その前に、おまえが挑んだらどうだ?」
と言った。
「まだ、その気にはならんのだ」
「ほほ、怖いか?」
「そう思うか?」
グレンの声が低くなった。
「いや、この私が見ても、おまえほど恐れを知らぬ男はおらん。それが生命取りにならんようにすることだ」
「忠告か。――おまえの仲間をここへ連れて来てもいいのだぞ」
グレンの強い声は、閉じられたドアの背に当たって撥ね返った。
サモンは宿を出て、村の入り口へ向かった。頭上には星がまたたいている。抜けるように澄んだ夜空であった。
吐息が白濁しないのは、戦闘士の技量であろう。
防御用の柵の手前に辿り着いたとき、サモンは足を止めた。
ちらりと妖しげな視線を頭上へ送り、
「出ておいで」
と告げる。
道の端に立つ巨木の大枝が頭上までせり出していた。
葉は一枚もない。
そこから巨大な|蓑虫《みのむし》が垂れ下がった。
ぼこ、と頭が生まれた。
「気がついてたかい?」
と“悟られずのツィン”は逆流れの声をかけた。
「元気なことね。――エグベルトは唸っていたわ」
サモンの声は視線同様、冷たい針のようだ。
「奴は胸、おれは手一本――どっちかといやあ、奴の方が重態だわな。神経遮断の法は、早目に身につけとくべきだよ」
「|尾《つ》けていたのね?」
「ああ」
ツィンはあっさりと認めた。星明かりの中で、サモンの眼は、細面の少年みたいな顔をはっきりと見ることができた。
「おまえの動きが気になってな。お出かけが多い」
「シンの指図かしら?」
「おれの趣味さ」
ツィンは、くく、と鳥のように笑った。
「お互いはじめて顔を見るが、なかなかいい女だなあ。夜てのが残念だが、それもおれたちにはふさわしいか」
「何の用?」
「おまえが出入りした部屋の男――流れものの戦闘士らしいな。どういう関係だ?」
「答える必要があって?」
「今のところ、おまえはおれたちの仲間だからさ。ひとりでも二股かけられちゃ困るんだ」
サモンは沈黙した。眼だけが逆しまの影を射抜いている。
それに気づいたか、
「おかしな真似はよそうや」
とツィンは忠告した。
「お互い、昨日、手の内は明かしてある。怪我人が多いんで、攻撃は二、三日休みだが、それまで大事にとっときなよ」
親しげな声が中断した。
「――おまえ、本気で……」
尖った口調も一瞬であった。
彼の眼の前に、同じく逆しまの形で、女のものと覚しい人影が茫洋と形成されはじめたのである。
ツィンの若々しい顔が、緊張と弛緩を拮抗させつつ、|抗《あらが》いがたい表情を浮かべていく。
「ふふ、手の内を明かそうと、それを破る法はおまえにはない。もとから私はひとりでやるつもりだった。邪魔ものはすべてあの世へ行け。吸血鬼ハンターも、あの女も、おまえたちも」
言いながら、サモンは右手をスカートのポケットへ滑りこませた。
ツィンの眼の前の女の右手も長いスカートへ入る。
幻覚である証拠に、それは重力に従ってめくれもせず、女は正常に地上へ立った姿を留めている。
サモンの振り上げた右手に冷たいかがやき。
女の手にナイフが光った。
本物のはずはない。幻だ。だが、あまりにも生々しいそれは、ひとたび目標を貫けば、いつわりない鮮血を噴き出させるにちがいない。
次の一刹那、ツィンを見舞う死の刃は、突如ひるがえり、斜めに空間を切った。
キン、と固い音が鳴って、サモンの足もとに小さな石がひとつ落ちた。
「そこまでにしておけ」
嗄れた声が、門の向こうからした。
「シン――あなたも女の尻を追い廻すくち?」
サモンは振り返った。柵の向こう――濃い闇の奥に、鶴みたいに痩せた人形がぼう、と浮いていた。
内心、女戦闘士は動揺していた。尾行には十分気をつけていたつもりだ。それが二人もいたとは。ツィンに気がついたのは、彼女の行く先を突きとめるという目的を果たした彼が、油断したからに他ならない。
「あの男――何者だ?」
「覗いたの?」
サモンの声は硬い。二人は一歩も外へ出なかったのだ。
「視る、聴く、嗅ぐ、触れる。――わしの眼は何処にもあり、わしの手は幾つもある。ドアの隙間から吹きこむ風が、窓から差し恵む月光が、わしだったかもしれん」
「で、どうする気? あなたも文句をつけたいの?」
「いや。|彼奴《きやつ》の好きにさせるがいい」
サモンの眉が寄った。リーダーの言葉を理解しかねたのである。
「驚くことはあるまい。我々の動きを教え、奴のやりやすいよう万全を尽くせ。何故かは言わなくてもわかるだろう」
「私たちの役を、あの男に?」
「その通りだ」
声は深い夜に津々と響いた。
「渡し船の船上でわしとやり合ったが、例の吸血鬼ハンターと遜色ない遣い手。勝機さえあれば必ず奴を斃せる。ふふ、我々の手でそれを与えてやるのだ」
サモンは苦々しく首を横に振った。
「嫌がるわ。やるなら独りで。――そういう男よ」
「そこに惚れたか?」
シンの声は淫らに訊いた。
「援助が嫌なら、それが与えられたと知らなければよい。サモン、おまえはわしらの情報を彼に与え、彼の動きを我々に知らせるのだ」
「そんな真似を、私がすると思って?」
「さて、わからんな。おまえ次第――と言うより、あの男次第。グレンとか言ったな。奴の男の魅力にかかっておる」
びゅっ、と空気を灼いて、銀光がサモンの手と人影を結んだ。
苦鳴が上がった。
素早く樹上のツィンを見て、まだ術中に留まっていることを確かめ、サモンは柵へと走った。
スカートをわずかにたくし上げて地を蹴る。三メートルもの柵を軽々と越えて着地した大地のすぐ前に、黒い影が倒れていた。
「ほほ。――口ほどにもない」
覗きこみ、サモンは凍りついた。
確かに等身大の影であったはずのものは、ナイフを突き立てた二〇センチ足らずの木彫りの人形と化していた。
「おまえにわしは見えん。見えん似上、おまえの術は効かん」
背後――どころか耳もとで声が揺れた。
「悪い相談ではあるまい。おまえが奴を好いていようと憎もうと、どちらかの感情を満足させる結果は出るのだ。それとも――裏切り者として死ぬか。そのときは、奴も殺すが」
サモンは夜の一部と化したように動かなかった。
やがて、ノスタルジアの夢幻界から復帰したツィンが、寝惚け眼で柵に駆け寄ったとき、低い不気味な忍び笑いが女戦士の顔のあたりから洩れた。
「ふふ、面白い。私が奴をどう思おうと、それはおまえたちの知ったことではない。私も見たい。あの美しい男たちが、ともに血に染まる姿を」
同じ頃。
波の声は、海にのぞむ小さな家々を巡っていた。
庭先の美しい影は、それに聴き入っているかのように、闇に同化して動かない。
母屋のドアが開き、裏のベランダに灯影が揺れた。
片手に細長い瓶とグラスをはさんだまま、スーインはDの名を呼んだ。紺の耐寒ハーフコートを着ている。裏地に湯を入れて保温するタイプだ。キタダラの腸を容れ物に使えば、丸一日は保つが、ひどく破れやすいので、荒っぽい作業には向かない。
「こんな時間に庭のパトロール? ね、一杯やらない? ――少し寒いけど、ストーブを焚くし、星もきれいよ」
Dはベランダへ上がった。寝るつもりだったのか、長剣は左手に下げている。コートを着ているのが、この男らしかった。
小さな木製の丸テーブルに瓶とグラスを並べ、スーインは、これも木造りの椅子にもたれた。片手で足もとの石油ストーブのスイッチを入れる。
七分目まで煉瓦色の液体が充たされたグラスを差し出され、Dは受け取った。椅子にはかけず、手摺りにもたれる。
「ダンピールは飲まないときいたけど――付き合いがいいのね。持ってるだけでもいいわよ。気分の問題」
ぐい、とひと口あけて、スーインはDの長剣に眼をやった。
グラスは左手。長剣は手摺りにもたせかけてある。
「右手はいつもあけて[#「あけて」に傍点]おく。――剣士の心得? 村に来た連中もみんなそうだったわ。――変わった刀ね」
Dは答えない。スーインは構わず、
「そんなカーブを持った刃ははじめて。何処の国の作? あなたもあちこち廻っているのね。独りぼっちで」
グラスがまた上がり、白い喉が動いた。
Dはそこ[#「そこ」に傍点]からふと視線を落とし、
「明日も仕事だ」
と言った。
スーインは眼を丸くしてグラスを離し、思い切り息を吐いた。
「驚かさないでよ。あんたが他人のこと気にするなんて。――ね、思ってても口にしちゃあ駄目。イメージが壊れるわ。それとも――あたしが酔ってちゃ、あなたの仕事がしづらくなるから?」
「そうだ」
スーインは眼を閉じた。ボア付きコートの前を合わせて、
「きついこと。――今夜は特にこたえるわ。でも、わかった。あなたに甘えちゃいられないわね。いつかはいなくなる人だもの」
眼差しが上向き、Dを捉えた。
庭の方を見つめている。星を見ているのかもしれなかった。
「大丈夫よ、そんなに気にしなくたって。お祖父ちゃん、化けてでやしないわ。隣に墓が二つあるでしょ。父さんと母さんの。――きっと、あの世で冗談言いあってるわよ」
反応はない。スーインはグラスを呷ってつづけた。
「父さんも母さんも海で死んだ。ダイオウシャチの大物を射止める前に、体当たりを食らったのよ。死体は上がらなかったわ。だから、あのお墓は墓石だけ。きっと、お祖父ちゃん、話もできないわね。でも――ウーリンよりはましだわ。あの|娘《こ》には……墓も建ててあげられない」
スーインの眼に光るものがあった。
それは、Dと話して、彼女自身が決めたことである。すべては、珠を狙うものたちを片づけてから、あるいは、珠の謎を解いてから明らかにする。他に累を及ぼさないためだ。ウーリンの葬儀も、それまで持ち越しであった。
強い光をこめて、スーインはDを見つめた。
「ねえ、あなたは私より長生きしてよ。ひょっとしたら、私もウーリンと同じ目に遭うかもしれない。そうしたら、墓はあなたに建ててもらいたいの。妹と私を、多分、最後に看取る人に……」
Dの手の中で、ワインの液面はわずかな揺れも示してはいなかった。
「君は身を隠せ」
Dは短く言った。
「何処へよ?」
「ドワイトなら相談に乗ってくれるだろう」
「変な勘ぐりはしないで」
「珠はおれが持っていると、奴らにもわかったはずだ。君の役割は、後、人質しかない」
「はっきり言うわね。でも、いやよ。逃げ隠れなんて真っ平。妹を殺した奴らが相手ならなおさらよ。私が戦っても勝ち目はないけど、せめて、恐れてなんかいないと思わせてやりたいの。それに――」
Dは向きを変えて、スーインを見つめた。
「あなたのおかげで、大物を三頭も仕留めたから、夏の間は漁に出なくても生活の心配はないわ。学校にも出ます」
Dは少し黙って、
「それがいい」
と言った。
「賛成してくれてありがとう。誰でも、味方がいると心強いものよ」
「開校はいつからだ?」
「|明後日《あさって》。明日、校舎の落成式」
「何を教える?」
「興味があるの?」
スーインは眼をしばたたいた。頬がやや赤い。
「あなたみたいな教師がいたら、大変ね。生徒が見惚れて困るわ。学校の成績は史上最低でしょうね。――当座は数学と社会」
「社会は歴史か?」
「いえ、地理よ。子供たちは楽しみにしてるわ。よかったら、教えてくれない」
Dは何も言わなかった。
スーインは溜め息をつき、グラスを置いて、自分の手を眺めた。
「チョークは持てるけど、筆はきついのよね、こうなってしまっては」
男顔負けの太く厚い手は、指先まで|胼胝《たこ》に覆われていた。網をたぐり、銛を投げ、船を洗う。子供のときから一〇年間もそれをつづければ、女でもこうなるのだ。
スーインは人差し指の先で、机を|小叩き《タパ》した。
木と木を打ち合わせるような音がつづいた。
「絵描きになりたかったのよ」
ぽつん、と言った。
「家に絵はなかったが」
「みんな焼いちゃったよ。父さんと母さんの葬式が済んでから。今日まで何とかやって来れたのも、そのおかげだと思っているわ」
父母を喪ったのは十三のときである。ウーリンは九歳で、祖父はもう、立ち居振る舞いも不自由であった。
「お祖父さんは、催眠術で人助けをしたときいた」
「大したことができたわけじゃないよ」
スーインは、言下に否定した。
「冬の海で働く人たちを、眼を見ただけでどうこうできるわけないわ。お祖父ちゃんにできたのは、残ったものの哀しみを和らげることだけ」
「十分だ。ただ哀しむよりは」
「そう思う?」
スーインの声に力がこもった。
「何人もの人がお祖父ちゃんの力で、泣くことを忘れたわ。でも、半年と経たないうちに、憶い出させてくれと泣きながら言ってくるの。理由はわからない。でも、わかるような気がする。人間は、哀しいことならいくらでも忘れられる。でも、とっても哀しいことは、憶い出さずにはいられないんだわ」
スーインは言葉を切った。
「どうして、そんな眼で私を見るの?」
「お祖父さんは、ずっと術を使っていたのか?」
スーインは首を横に振った。
「そんなこと[#「そんなこと」に傍点]が何度か重なってから、きっぱりとやめたよ」
瞹昧な表情が丸顔をかすめた。記憶が甦ったのだ。それがいいことか悪いことか、スーインにもわからなかったろう。
「……そうだわ」
とぼんやり言った。
「一度だけ……半年くらい前に、お祖父ちゃん、もう五年も催眠術を使ってないねって言ったら……そうじゃない、三年くらい前に、一回だけかけたことがあるよって……」
「誰に使った?」
「待って――確か……訊いたのよ、そう。でも……答えてもらえなかったわ。それ以来、気になっていたんだけど」
「心当たりはあるか?」
「いいえ」
「もう寝たまえ」
Dは手摺りから身を離した。
「やはり、飲まないのね」
スーインは、怨みがましそうに言って、グラスを口に運んだ。
途中で止まった。信じられない意志の力でグラスをテーブルの上へ戻した。
「そうね。やめておくわ。漁師ならともかく、先生が酒の匂いをさせてちゃまずいもの」
「その通りだ」
Dはゆっくりとベランダを降りた。
「――D」
スーインが低く呼んだ。
Dは振り向きもせず、どうした? と訊いた。
「何でもないわ。いい名前ね」
「お休み」
納屋の方へ遠ざかる後ろ姿を、スーインは無言で眼で追っていた。
美しい影がドアの向こうへ消え、扉が閉まっても、長いこと女の影は動かなかった。
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第二章 剣鬼撩乱
1
スーインのもとへ|白皙《はくせき》の偉丈夫が訪れたのは、まだ闇の色がうっすらと流れている早朝の頃であった。
海辺の村の朝は早い。船の清掃、干し魚づくりの準備、海草からヨードを抜くための煮沸の用意。――パジャマの上に耐寒コートをまとった姿で、日課の体操をしに前庭へ出たスーインの耳には、近所の家の生活の音と気配が生き生きと伝わってきた。
庭に引き入れた船を修理する金槌の響きに、鶏の声が混じる。
昨夜の哀しみも酔いも遠のき、今日の生活に思いを巡らせて生真面目な気持ちになったとき、スーインはもうひとつの音をきいた。
波を切るような、哀しげな音。
それを口笛だと察したときにはもう、娘の眼は、敷地の門を抜けてやってくるマント姿の若者を視界に収めていた。
「あの……」
と切り出した声に、親しげな感情と拒絶がともに滲んだのは、予告なしの訪問者を渡し船の剣士と知ったからであり、あの際とは別人のごとき殺気に背筋が麻痺したからであった。
「久しぶりだな」
五メートルほどの間を置いて、“修業者”グレンは挨拶をした。
『都』の祭りに使う冷ややかな銀仮面が吐いたような、儀礼的な声である。
「おれの用はわかっているはずだ。奴を呼べ」
「何のご用でしょう?」
スーインの声からも親しさが消えた。
「おまえにはない。Dは――納屋か?」
「まだ、眠っているわ」
「なら、起こすがいい」
そう言った刹那、グレンの身体は大きく弧を描いた。
スーインの背後に聳える母屋の端に、美しい影が立っていた。
昨夜、手に握られていた剣は、すでに背を飾っている。
片手で、スーインに下がれと合図し、Dは穏やかな足取りをグレンの方へ進めてきた。
スーインをかばうようにして立つ。グレンとの距離は三メートル。ともに一歩を踏みこまねば刃の効果はない。
「堪らんな……」
と、グレンは感極まったように呻いた。事実、彼は性的とすらいえる快感に魂の深奥を揺さぶられていた。
「理由も何も訊かずに、戦う気になっているとは……さすが、ただひとり、おれを脅えさせた男……話が早いぞ」
声はスーインの耳にも届いた。その意味も理解できた。信じられなかった。全身を凶気の塊と化してDに挑む男と、その理由も訊かず、迎え討たんとするD――一体、彼らはどういう人間なのか。
「やめて」
とスーインは叫んだ。そのつもりだった。声にはならなかった。グレンの殺気と――Dの全身からも放射されはじめた鬼気が、海の女の全身を金縛りにした。
邪魔をすれば斬られる、と思った。Dにさえも。そこにいるのは、彼女の見知った形の――別の生き物であった。
「怨みっこはなしだ。やり合う理由はわかっているな?」
グレンの問いにもDは答えない。
すべてを見越しているかのように、双眸はあらゆる感情を排して、なお|昏《くら》く澄んでいた。
「ひとつだけ言っておく」
グレンが涼しげな声で言った。
「おれと、おまえたちの周りをうろつくおかしな奴らとは、一切の関係がない。おれは、おれだけの意志でここへ来た」
はじめて、Dの唇が動いた。
「わかっている」
グレンの口もとを淡い微笑がかすめた。子供のように邪気のない笑みであった。生死を賭した一瞬にしか、この男自身も浮かべることはあるまいと思われた。
二人の顔を小さな影が心地よげにかすめた。空を行く鳥であった。
光が凍りつくのをスーインは感じた。
波の音が空中に固着した。
いま――
次に生じた動きを、スーインの眼はおぼろげな光と影の交錯としか捉えられなかったが、ある種の域に達したものには、このように映ったであろう。
初手はグレンが取った。
左腰の鞘から迸る刀身は、朝日を撥ねつつ|銀虹《ぎんこう》と変じてDの腰へと流れたが、わずかに遅れて背より弧を描いたDの一刀は、中空でこれを迎撃し、宝石のような火花を撒いて、両者はその位置を変えた。
グレンは右へ、Dは左へ。
それだけはスーインにも見えた。
「やるな」
Dとともにほぼ正確な円を描きつつ、グレンは恍惚と言った。
「だが――これからだ」
その唇がわずかに尖ったのを、Dは認めたかどうか。
この場合でなければ、どんな気難しい音楽家でもきき惚れるような旋律が、清澄な朝の大気に流れた。
グレンの一刀は青眼に構えられていた。
切尖が上がった。
上段へ。そして、その動きに誘われたかのように、Dの長剣もまた、頭上へと移動していった。
「剣技にしてはおかしな名だが、おれは気に入っている。『ローレライ』だ」
己の術中にDが陥ったと確信したものか、言葉のひとつひとつにグレンは鋼の自信をこめて言った。
かつて、|古《いにしえ》のある国の大河で、その妖しい歌声によって数多くの船人を魅了し幻惑し、船もろとも岩へ叩きつけて水底へ打ち沈めたといわれる水の妖精。歌と口笛の違いはあれど、もたらす戦慄の結末を考えれば、この怪異な必殺技に彼女の名を与えたのは、まことに絶妙と言えた。
「ローレライ」――グレンの口笛を聴き、その刀身を見たものは、瞬く間に高催眠状態に導かれ、親に従う子のごとく、師を真似る弟子のごとく、同じ動作をとる。
その意味は、常に遅れる、ということだ。
絶妙のタイミングと渾身の力で振り下ろされた敵の一刀が触れる寸前、グレンの太刀はその目標と同じ部分に深々と食いこんでいるのだった。
クローネンベルクの路地で、トトが知らぬ間にグレンの接近を許した理由、渡し船の甲板上で、二人の暴漢に化けた|傀儡《くぐつ》が斃される寸前に真似たグレンの刀法――すべて納得がいく。
その悪夢の技は、いま、吸血鬼ハンター“D”すらも虜にした。
「おれを脅えさせた男――いや、おれより美しい男。許せんな」
声を刀身の唸りが消した。
スーインの眼には、瀑布のごとき迫力で落下する二条の刀身は等速としか映らなかったが、うっ、と驚愕の叫びが上がるや、Dの左首筋は鮮血を噴き上げていた!
だが――
スーインの動揺の視線は、グレンの方を向いていた。
秘技「ローレライ」をもって、一瞬早く宿敵の頸部を断ったはずの“修業者”の右肩もまた、押さえた手指の間から赤いものを滴らせていたのである。
「貴様」
人間の顔がこれほど変わるものか。血も凍るような凄惨な形相を、グレンは憎悪の呻きごと叩きつけた。スーインの後方へ。
思わずそちらを振り向き、スーインは家の裏手へ廻った黒影を眼にとめた。
「おれの負けだ」
再び青眼に構えなおして、グレンは立ち尽くすDへと言った。
「おかしな邪魔が入らぬうちにとやって来たが、やはり、先廻りされたか。――また、会おう」
「おれは構わん」
すでに左半身を朱に染めて、Dは右八双の構えから応じた。
その意味を、やめることへの同意ではないと知り、グレンの美貌にはじめて恐怖の色が走った。
ローレライの秘剣は、あくまでも敵より一瞬早く、その肉を断つにある。一瞬だ。何かの拍子に――万分の一の偶然でこのタイミングが遅れると、同様に襲ってくる敵の一刀を逆に食らう。余裕たっぷりではない、文字通り捨て身の秘技といっていい。だからこそ、大胆不敵なこの修業者が血反吐を吐きながら身につけた甲斐もある。
いま、それは敗れた。Dの技量は「ローレライ」のハンデを克服し、グレンより一瞬早く彼の肩を引き裂いていたのである。
グレンが反撃の一刀を返し得たのは、Dの一閃があまりに浅く、鈍かったせいにすぎない。
どちらも深傷を負った。ここは引くべきだ、とグレンは考えた。Dも引くだろうと思った。
彼はまだ、この美しい魔人の正体に気がつかなかったのだ。
新たな口笛を吹く精神的な余裕はなかった。
踏み出しかけたDの足が、庭草の緑を潰して止まった。
あどけない声と足音が、下の道から昇ってきたのである。
先生、とそれは言っていた。
わずかな鬼気の揺らぎが整わぬうちに、グレンは二メートルも後方へ跳んでいた。Dに負けぬ深手を負いながら、凄まじい体力であった。
「子供に礼を言わねばならんとはな。断っておくが、今の邪魔者、おれと示し合わせてはおらん。見つけ次第、おれが斬り捨てる」
門から入りこんできた小さな影へ、むしろ憎悪の眼を投げて、彼は平然と歩き出した。
血まみれの姿に棒立ちになる子供たちの脇を通りすぎ、坂を下りはじめたとき、ようやくスーインは、
「いらっしゃい」
と両手を広げた。
Dはすでに母屋の背後へ廻りこもうとしている。
正体不明の影を追うつもりなのだ。
一刀は右手に引っ下げたままである。子供たちには見えまい。もしも、スーインが意識を眼に集中して観察したら、その刀身半ばから切尖にかけて、うっすらと付着した半透明の粘塊に気づいたであろう。
グレンへの一撃を致死としなかったのは、あの一瞬に影が投じたその物質のせいであった。
いかにDといえど、全精神力をこめて振りおろした一刀を数ミリの距離で停止し得るはずもなく、また、それをさせぬだけの神技的な塗布といえた。
子供たちの微笑が陽光の中を走った。
光の世界には、それにふさわしい主人公がいるのだった。
子供たちが去ると、スーインは村で配給された救急箱を片手に納屋へ入った。
Dは鞍の上に腰を下ろし、頸部の傷に止血帯をあてていた。黒ずくめなので、出血は肌を除けば、まるっきり目立たない。
「怪我は?」
スーインの声は上ずっていた。
救命胴衣入れをずらして、Dの横に膝をつく。
Dの立ち去り方があまり泰然としていたので、大した傷ではないのかと思ったものの、やはり気が気ではなく、子供たちの用件にも上の空で答え、さっきのはお友だち同士の喧嘩とごまかして帰した。
「大したことはない」
静かな声に、
「よかった」
と肩を落とし、それがDとは似ても似つかない嗄れ声だと気づいて、スーインは眼を剥いた。
「喉をやられてな」
Dが弁解めいたことを口にしたのにも驚いた。
そのせいで、彼が胸前に置いた左手を、何気なく下ろした動作にも、不自然さは感じなかった。
まして、指の間から、鮮血ならぬ|土塊《つちくれ》がこぼれようとは、気がつきもしなかった。
「見せてちょうだい。手当てをします」
「大丈夫だ」
「駄目。私、あなたより怪我には詳しいのよ。ただし、難破専門だけど」
半ば強引に言って、Dの止血帯を取り除き、スーインは眼をしばたたいた。
ぞくりとするほど白くたくましい首筋の肌には、糸のような傷痕が一条、うっすらと残っているきりであった。
「そんな――信じられない」
「子供たちは気がついたか?」
Dは訊いた。
庭先に滴った鮮血のことを言っているのである。
「ええ。でも、何とかごまかしたわ。あなたもあの人も落ち着いていたので、子供たちもよくわからなかったと思う」
「やはり、住まいを変えた方がいいかもしれんな」
スーインはうなずいた。確かにここにいては絶好の|標的《まと》だ。Dがついていても、いつかは隙が生じる。昨夜の自信は、眼前の凄惨な死闘の前に霧消していた。さらに、Dをもってしても、あの粘塊を投じた影は探査できなかったのだ。この近くに、奇怪な敵が存在しているのは明らかであった。
「敵はおれが珠を持っていると承知だ。君さえ人質にならなければ、何とでもなる」
「わかったわ。つまらない意地は張らないことね。学校も諦めた方がいい?」
Dの眼がかすかに細まった。
「子供たちよ。言ったでしょ。――今日は学校の落成式の当日なの。村長から治安官まで勢揃いしているわ。こう見えても、私、第一の貢献者なのよ」
「何時からだ?」
「あと三〇分」
「式へ出てからにしたまえ」
スーインは破顔した。子供のような笑顔はグレンと似ているが、状況が違う。まともな人間の証拠だ。
「よかった。――ね、一緒に出て」
「校舎の近くまでは送っていこう」
「|内側《なか》におかしなのがいるかもしれないわ」
スーインの笑いが深くなった。Dの困惑を感じ取ったのである。吸血鬼ハンターと、学校――これほど不釣り合いな取りあわせもあるまい。
「冗談よ。外まででいいわ。パーティもあるの」
「はっはっは。――ぐえ」
スーインは、何とも言えぬ顔で、Dの腰のあたりを見下ろした。左手が握りしめられている。よほど力を入れているのか、関節が白く盛り上がっていた。
「おかしな声を出す癖があるのね」
「――」
「ね、耳鳴りとか、急に落ちこむってことはない?」
「安心してくれ」
「正直に言って」
スーインは真顔で言った。
「嘘は言わん」
「独りが辛ければ、夜、話し相手になるわ」
「無用だ」
Dは拳を固めたまま立ち上がった。
「仕度をしたまえ。おれは血の臭いを消しておく」
2
予定時刻の五分前に、馬車は校庭に到着した。
白いペンキの匂いがスーインの鼻孔を満たし、頬を薔薇色に染めた。
屋根も支柱も窓ガラスも――すべてが朝の光にかがやいていた。
小さな校舎のドアには、魚をかたどった真鍮の|紋章《クレスト》がはめこまれ、素朴な飾り文字は『フローレンス小学校』と読めた。二〇坪にも満たない平屋の校舎は、これから大きくなっていくのだった。
何度か眼をしばたたき、口を真一文字に結んで、スーインは馬車を降りた。
ドアのところで待っていた村長や治安官――子供たちの笑顔が近づいてくる。
片足だけ地面について、スーインは思いっきり深呼吸した。
「不思議ね。ここへ来るまでずっと、花の香りがしていたわ。冬なのに」
「おれだ」
嗄れ声が言った。スーインは振り向いた。愕然としていた。
Dは上眼遣いに空中を眺め、何故かまた左手を握りしめながら憮然たる声で、
「匂い消しを使いすぎた」
と言った。
秀麗なその横顔を、少しの間茫然と見つめ、スーインは馬車を降りた。降りても茫然としていた。たちまち周囲に人の輪が出来た。
「待っておったぞ」
腰の曲がった村長が、モーニングの襟の中でふがふがと言った。
「この村ではじめての学校だ。一番の功労者が遅れては何事もはじまらん」
「ごめんなさい。――あの」
治安官がスーインの肩を叩いて、ウインクした。
「いいから。さ、今日は挨拶だけだ。子供らが中で待ってる。一席ぶったら、すぐにパーティだよ。ただし、ジュースだけ」
先生、先生の合唱が湧き起こり、スーインはDの方を見ながら、校舎の中へ連れ去られた。
馬車を庭の隅に止め、Dは地面へ降りた。
木洩れ日が薄い影を落としている。
Dはゆっくりと庭を歩きはじめた。
一〇分ほどして、校舎の窓から拍手が湧き起こった。スーインの挨拶が終わったのだろう。
前後してドアが開いた。
「色男――なに、不貞腐れてんだよ」
声の主はドワイトであった。モーニングは限界まで膨れ上がり、たくましい身体を押さえこもうと死力を尽くしている。
自分でも気になるのか、袖口を引っぱりながら、
「そんなところにいたら凍っちまうぜ。来なよ。|内部《なか》にいた方が、スーインも安全だ」
「その通り」
いきなり、彼の肩越しに蛮暁の顔が出現した。
葬儀が終わるとすぐ、村へ戻ったはずだ。
「目下、村でただひとりの坊主だというのでご招待を受けた。生臭坊主がオーケイで、スーインの家人がお払い箱という法はあるまい。雇い主の晴れ姿ぐらい見ておくがいいぞ」
「来なよ」
と、ドワイトが笑顔で言った。
「ダイオウシャチを二頭まとめて仕留めた男に、誰にも文句なんか言わせねえ。おれたちゃ大歓迎するぜ」
長い美しい影はほんの少し動きを止め、すぐにドアの方へ歩き出した。
二人が左右にのいた。
白い床は黒いブーツの下できしんだ。
ドワイトが照れ臭そうに、それでも胸を張りながら、
「全部ボランティアなんでな。そこをこしらえたのは、確か乾物屋のオライリだ。ここだけの話だが、板にはそれを張った奴の名前が書いてある。おれのもあるぜ」
「ほう、どこにじゃな?」
と蛮暁が訊いた。
「トイレの床だよ」
苦笑して答え、ドワイトは左手の小さなドアを指さした。教室である。右側は事務室兼教師控室だ。もう破顔していた。
Dは黙ってドアに近づき、ノブを掴んだ。
ドアは床より派手な音をたててきしんだ。
「変わった男じゃな」
と、Dにしかきこえない声が、ノブのあたりでした。
「床もこのドアも、音などさせずにいけるものを。たまには、人並みにやってみたいのかな?」
Dは無言でドアを押した。
整然と並んだ学習机と椅子の間から、幾つもの小さな視線が集中し、すぐ元に戻った。
机は二〇個足らず、五つは空席だった。
それでも、村長や親たちは壁際に身を寄せ、サンドイッチや菓子の大皿を載せた机の間にへばりついている。その背後――窓の向こうには木立と蒼空が見えていた。
形容しがたい大人たちの視線を気にもせず、Dは教室の真後ろの壁に背をつけて立った。ドワイトと蛮暁が隣に来た。
スーインは教壇から降りるところだった。
入れ違いに、村長が前に立ち、
「それでは、パーティじゃ」
と宣言した。
硬い空気が崩れ、人々が入り乱れた。机がくっつけられ、料理の皿が配られる。
スーインはDのところへやって来た。
「来てくれてうれしいわ。呼ぶつもりだったの。でも、嫌がるかと思って」
「わかっている」
「ありがとう、ドワイト」
スーインに見つめられ、海の男は照れ臭そうにそっくり返った。
その脇から蛮暁が顔を出し、厳粛な面持ちで自分を指さした。スーインは吹き出した。変わった坊様だ。
「ありがとうございます」
と言うと、うむ、とうなずいて目礼した。
「ジュースだが、一杯やれよ」
ドワイトが瓶を取って戻ってきた。グラスなしで一本差し出す。Dは受け取った。
「大人はじきお開きだ。どっかで飲み直そうぜ。いいだろ、スーイン?」
「そうもいかないのよ」
「なんでえ」
と、ドワイトが毒づき、Dの方をしげしげと見つめた。
「うーん。とろけるような色男だが、愛想はなさそうだな。あんまり、教師向きじゃあねえ」
「そうかの」
蛮暁がにやにやと反論した。
「この男、なかなかのものじゃぞ。さほど子供が嫌いでも、嫌われるタイプでもないと見た。いやいや、こういう男は子供の方が好くじゃろうよ。彼らの眼は、余計なものを見ぬからの」
「どうだい、ここだけの話だが、船に乗ってみねえか?」
だしぬけにドワイトが言い、スーインの眼を丸くさせた。それは昨夜、彼女自身がDへ言いかけた事柄だったからだ。
Dは無表情である。耳に入らなかったかのように。
「あんたくらいの腕がありゃ、たちまち村いちばんの漁師だ。いや、|他所《よそ》の村にもそんな凄腕はいやしねえ。誓って言うが、半年もしねえうちに、辺境一の銛打ちになれるぜ。どうだい?」
ドワイトの勧誘には、義理や世辞など微塵も含まれてはいなかった。彼は本気でDを仲間に入れようと努めているのだった。その熱意が憑依したか、ゆうべは諦めたスーインまでが、熱い眼差しですがるように、黒い貴公子を見つめている。
「いくら腕が立ったって、用心棒稼業、戦闘士稼業なんてたかが知れてる。年を取りゃ、おめえ、筋肉も働かなくなる、筋も固くなる。ぞろぞろ出て来る若い奴に追い越され、気がついてみたら独りぼっちで野垂れ死によ。――この村なら小さいけど、腰を落ち着かせる家はある。土地もある。半月もすりゃ仲間もできるさ。どんな生まれで、どんな暮らしをしてきたか知らねえが、どうせ大した代物じゃあるまい。そろそろ、先のことを考えたらどうだい?」
見かけとはまるで違い、立て板に水を流すように、これだけ喋りまくると、ドワイトは期待に満ちた眼差しでDの反応を見守った。
返事は早く、短かった。
「おれは、人を探している」
誰よりも早く、スーインが肩を落とした。
「女――じゃねえよな? そんなタイプじゃねえ」
と、ドワイトが、これも疲れた風な声で言った。
「そんな気がしてたよ。いまはああ言ったが、あんたがおれたちと同じ氏素姓の持ち主だなんて、到底思えねえ。なんとなく、もしや、と思ったのさ。気を悪くしないでくれ」
「漁師になれと誘われたのははじめてだ」
Dはドワイトを見て言った。なにかが海の若者に誇らしげな思いを抱かせた。
そのとき、Dの足もとへ小さな影が走り寄って来た。
スーインの家で、Dの笛より蛮暁のものを選んだ少年であった。
「あのさ、小父ちゃん――まだ、あのつくってくれた笛持ってる?」
「笛?」
スーインとドワイトが顔を見合わせた。笛という単語より、つくったという言葉の意味に仰天したのである。闇と氷のメカニズムでできているような若者が、子供に笛をこしらえたとは。
Dは身を屈め、コートの内側からそれ[#「それ」に傍点]を取り出すと、少年に差し出した。
「わーい、ありがと!」
ひったくるように受け取った少年の周りから、期せずして、
「うわ、いいな」
「ずるいや、ひとりだけ」
羨望と非難の声が巻き起こった。
「あのお坊さんのはどうした?」
Dがふと訊いた。少年はじろりと皺だらけの顔を睨んで、
「ああ、あれね。――音はいいんだけど、すぐ壊れちゃったんだ」
「お坊さんがこの村にいる間に頼んでおけ。きっと、たくさんこしらえてくれるだろう」
「うん」
いまの眼つきはどこへやら、べったり親愛の情をこめて蛮暁のもとへ近づく少年を見送り、Dはスーインに、
「行くか?」
と促した。
「ええ」
「なんだ、もうさよならかよ、スーイン。おまえまで付き合いが悪くなっちゃ、救いがねえぜ」
「ごめんね、また」
少し離れたところでこちらを眺めている村長や治安官に別れを告げ、スーインはDを伴って校舎を出た。
「明日から学校?」
「ねえ、先生、明日から学校?」
追って来た声に、スーインは返事をしなかった。できなかったのである。
明日から光の夏を迎える村は、その陰で凄惨無比な闇の死闘を繰り広げていた。選んで渦中に身を躍らせた彼女に、可憐な子供たちの声は、届いてはならぬ光の国の響きであった。
「じきだよ」
と、ドワイトがなだめた。
校舎を出るとき、ふと、彼は鼻をひくつかせ、蛮暁の方を見た。
老僧も奇妙な表情で、荒っぽく空気を吸いこんでいる。
「変じゃのう」
「変だ。さっきから感じてたんだが、花の匂いがするぜ」
「女の香水とは違うの」
「近頃は男もの[#「もの」に傍点]も出てると『都』できいた。雑貨屋か治安官だろう。男の風上にも置けねえ。後で張り倒してやる」
「おれだ」
嗄れ声が自慢げに鳴り響き、ぐえ、と呻いて消えた。
老僧と海の男は、それに気づかず、声の主を見つめた。二人とも声もない。
Dは黙々と馬車のところへ近づき、先に御者台へ乗って、スーインを引き上げた。
戸口に突っ立ったままの二人を見ようともせず、馬車の向きを変えて走り出す。
その姿が木立の奥へと消え去ってから、ドワイトと蛮暁は顔を見合わせ、腹を抱えて笑い出した。
3
村で一軒きりの宿には、離れがついていた。本館より十年以上古い建築で、かろうじて雨や陽が洩れない程度。そろそろぶち壊そうと思っていたところへ、旅の絵師だという人品卑しからぬ老人がやって来て、格別安い部屋はないかという。
これ幸い、最後のご奉公とばかり、主人は半額で逗留をオーケイした。
本館とは廊下でつながっていたのだが、半年ほど前の嵐で廊下自体が壊れ、完全に独立した家屋となっている。
いかがわしい人間にはもってこいのスペースであり、主人もそれを承知で貸したものであった。
かなり遠くの潮騒が、天井や壁のあちこちからきこえてくるような安普請の室内で、クロロック教授は背中の傷に化膿止めを塗っていた。海辺の町なら何処でも置いてある、海草のヨードを主成分にした薬で、かなりの効き目がある。
場所が場所なのと、年齢のせいで肉体の柔軟性を欠いているため、教授は絵筆の先に濃紺の汁をつけて、右肩から腰椎の真上まで一直線に引かれた刀傷をなぞっていた。
すでにうっすらと肉が盛り上がっている。浅傷であった。グレンという男と斬られた状況を考えた場合、奇蹟に近い幸運といえた。
やがて、塗布も終えたのか、教授は絵筆を眼の前に広げた布の上に置き、薬瓶の蓋をきつくしめた。
何を思い出したのか、慈父ともいえる温顔に、ぞっとするような凶相を漂わせて、
「動きに不自由はない。家の場所もわかった。おかしな邪魔が入らぬうちに、片をつけてくれる」
と呻いた。
「おかしな奴らがあの珠に群がっているらしいが、所詮は無知蒙昧な蛮人ども。人は殺せても化学記号ひとつ読めん。宝の持ち腐れよ。あの珠の持つ途方もない意味を理解し、利用できるのは、この世にわしひとり――」
自己陶酔に陥ったようなつぶやきに、別の声が重なった。
「では、二人にしてもらおうか」
「誰だ!?」
驚愕のあまり、|胡座《あぐら》をかいていたベッドの上から跳ね上がった教授の前へ、天井から赤いマントをまとった老人が降りて来た。
音ひとつ立てずベッドの端に直立した姿は、背筋こそ伸びているものの、教授の胸あたり、十四、五の子供の背丈しかない。
土気色の肌に老人斑ばかりが小さな洞窟のように目立つ醜い顔が、にやりと黄色い歯を剥き出し、手にした短剣の切尖を、教授の眼前に突き出した。
と見る間に、それは光の筋を引いて走り、教授が手を伸ばした枕を撥ねとばすのと、その下に隠した火薬銃の|用心鉄《トリガー・ガード》をひっかけるのとを同時にやってのけた。
「サモンから、おかしな術を使うときいておる。もっとも、これはその道具とも思えんがな」
笑いかける老人の手練に、抵抗しても無駄とみたか、
「誰だな?」
と、教授は静かに訊いた。
「お初にお目にかかる。わしは“傀儡のシン”。きいたことがあるか?」
「ああ。そちらこそ、おかしな術を使う戦闘士ときいている。わしはクロロック教授だ。とはいっても、宿代にも事欠く旅の絵師だが、何の用だね?」
「とぼけるな」
シンの眼が異様な光を発した。
「サモンという女を知っているな。おまえがその傷を受ける前に戦った相手よ。わしは女の後を尾け、そのすべてを見ておった。おぬしが逃げたのを尾行し、この宿のことも知った。今日訪れたのは、おぬしも珠を狙う以上、その持つ意味を知っているのではないかと思案したからだ。確かにわしは化学記号のひとつも、あの珠の謎も知らん。おぬしの知識で物識りにしてもらおう。嫌とは言わさん」
「してもいい」
教授はきっぱりと言った。
「ただ、ひとつ条件がある」
「何だな?」
「おまえの顔、骨相学の立場から見ても実に興味深いが、その前に絵師としての本能に触れる。絵にさせてくれ。時間はかからない」
教授の提案は、この敵が、おかしな術を使うとしか自分の妖術についての知識を持っていないのではないか。――そう思ったからだ。
サモンとは、あの妖艶な女戦闘士であろう。森の中で最初に戦ったときは全くの不意打ち、二度目も、キャンバス代わりの皮は見せたものの、何を描いてあるかまでは知りようもない。
「それをきいてくれたら、わしも知っている限りのことは教えよう。多分、この世で最も正確で詳しい知識をな」
「要求できる立場か?」
シンの醜い口もとが、もっと醜い笑みの形をつくった。
「嫌なら殺すか? わしは抵抗するし、よしや殺したりすれば、珠の秘密は永久にわからんぞ。無知なるものにとっては、ただの塊にすぎん」
「わしらには雇い主がおる。そこへ戻ればわかるだろう」
シンの反論に、教授は軽く笑った。シンよりずっと人間らしいが、その分、見るものを戦慄させる冷酷さがあった。
「ならばなぜ、わしのもとに来た? おぬしの心根はようくわかっているとも。珠の謎、仲間と分かち合う気があるのかな?」
すう、とその喉もとに白っぽい線が走った。ひと|呼吸《いき》する間もなく、中心から|朱《あか》いものが滲み出すと、|蛭《ひる》みたいにふくれて細長い血の塊となった。
「無理に訊くこともできる。一寸刻み五分刻みにしてな。秘密をしゃべるには口さえあればよい」
いまの傷から数ミリと離れていない場所へ押しつけられた白刃を見下ろしながら、教授には動揺の色もない。言った。
「珠の秘密を知っただけでは何にもならんのだよ。あれ[#「あれ」に傍点]は、いわば源にすぎぬ。我々の役に立つには、そこから発するあるものを自在に使いこなさねばならんのだ。それは、わしにしかできん」
シンの刃が動揺を示して揺れた。嘘ではないと悟ったのだ。
「よかろう。おまえの要求、ひとつだけ叶えてくれる。だが、その後で」
「わかっているとも。すべてをきけば、おぬしは、わしにつけたこの傷も手ずから治療しようとするだろうよ」
そして、クロロック教授はベッドを降り、枕もとに立てかけてある画材道具のところへ行った。
一〇分と経たず、彼は手の筆を筒の中に投げ入れ、画架に載った薄皮の表面を満足げに眺めた。
それが意味することを、シンはまだ知らない。短剣をさりげなく、しかし、必殺の気迫をこめて膝へ乗せたまま、二メートルほど先の椅子にかけてモデルを務めている。
「できた」
と、教授は言った。眼前のシンにではなく、奇怪な画布の表面のシンに。
「おまえはわしに用があるかもしれんが、わしにはない。いいか、きけ。黙ってこの宿屋を出、人のいない岬へ行って身を投げろ。泳いではならん。確実に死ぬのだぞ。死体は当分見つけられないよう、潮の流れの強いところを選べ」
「承知した」
笑いを含んだ声が応じた。教授の前のシンではなく、背後の何者かが。
教授が、おう、と呻いて椅子から立ち上がったのは、しかし、そのせいではなく、眼前の醜い老人が、忽然として消滅したからであった。
いや、彼はいた。いや、あった。椅子の上に、精巧な小さな人形と化して。その謎に気づき、振り向こうとした首筋を、凄まじい痛みが横に薙いだ。
「|小賢《こざか》しい真似を」
鮮血のこぼれる傷口を押さえて床にうずくまる教授へ、シンの声が冷酷に浴びせられた。
「おまえの術はわかった。だが、わしは見えまい。どうしてくれようか」
声と同時に、ぼっ、と教授の右の肩口から黒血が霧みたいに飛び、彼は身をよじった。その頬にぴたりと冷たい刃が当てられ、
「こちらを見てはならん」
と背後の声が言った。
「安心せい、まだ殺さんよ。だが、生かしておく気もなくなった。話せ。少なくとも、その間だけは生命がつながるぞ。断っておくが、嘘をついてもわしにはお見通しだ」
「わかった」
教授は観念しきった声で言った。どちらも人後に落ちぬ怪人とはいえ、生命のやりとりともなれば、戦闘士たるシンに一日の長があるのはやむを得ない。
「わしもそうそうは死にたくもない。聞け。――こうだ」
油脂ストーブの燃える音に、血臭と、低い声が混じった。
それはかなり長くつづいた。
やがて、苦鳴のような響きが上がった。もうひとつの声のものであった。
「……まさか。……それが本当ならば、おまえは殺さん。いいや、殺せん。……だが、決してわしのもとからは離さんぞ。ほれ」
掛け声を合図に、教授は灼けるように疼く首の上に、ゴムのようなものが張りついたのを知った。
まぎれもなくゴム製の――小指の先ほどの蜘蛛であった。教授に付着した途端、その体温にでも反応したか、薄っぺらな身体はふくれ上がり、四肢が伸び、それは誰が見ても本物の虫となった。
「わしのからくり[#「からくり」に傍点]だが、毒を刺す機能も備えておる。いくらおまえでも、首の後ろは見えまい。おまえが何処にいても、この虫を通して、わしはおまえの動きを知り、声をきく。おかしな真似をすればひと刺しであの世行きだ。お互いのために、短慮はよすがよい。せめて――そう、せめて、わしが貴族になるまでは!」
日が暮れた。その晩は特別な夜であった。明日は夏なのである。海から吹く風が人のこころを凍らせても、夏は来るのであり、それを迎えるために、人々は特別の準備をしなくてはならなかった。
ダンス・パーティのための櫓は夕暮れの少し前に、釘の最後の一本を打ち終え、集まった|香具師《やし》たちは、明日の準備を早めに整えた上で、テントや荷馬車の中へ引きこもった。
護符も忘れてはならない。――窓辺や出入り口に打ちつけられた様々な地方の魔除け。三角形に組んだ藁束と干した水仙の葉。セム蟻の頭骸を二千個も貼りつけた乾燥トウモロコシ、牛の角にかけられた貴族の姿をカリカチュアした細密画。
白い夏への期待。薫風と若草と花開く青い蕾のかがやき。
そして――不安。
人々は暖炉のそばで夏の歌を憶い出そうと努め、時折、昏い眼で海の方を眺めた。
彼らの生を支え、彼らとともに在った海の中に、ある異物がいた。
夏とともに来るならば、それも夏かもしれなかった。
北の海辺の人々は、槍と杭とハンマーを手に、篝火に照らされた波打ち際を歩いた。
村長は石造りの家で、一週間の夏を何事もなく迎えられるだろうかと考え、去年より死者を少なくできればよし[#「よし」に傍点]、と自分を納得させた。
治安官は事務所の武器を点検し、いざとなったら真っ先に奴[#「奴」に傍点]と対決しなければならない運命については、なるべく考えないことにした。ここ三年間、何とか済んできたのだ。今年もうまくいくだろう。祭りのかき氷は、さぞかしうまいに違いない。
ドワイトは、いつ、スーインにプロポーズするんだい、と訊く母親に、うるせえなと言い返し、あの用心棒がいちゃおしまいだ、と絶望的な気分で濁り酒をあけた。
そしてスーインは、貴族の別荘地に残る廃屋のひとつに入りこみ、生活の準備を整えて、その晩は早く休んだ。夢の中にある男の顔が出てきて、それがDではないと知り、脂汗にまみれて跳ね起きたのは、夜半を過ぎてのことであった。額を拭いつつ、闇をすかした眼の前に、その男が立っていた。すぐに消えた。それも夢であった。
夏は訪れるだろう。
その光の一部分を、決して村の人々には見せぬように、けれど、十分に満ち足りる量だけは、かがやきに乗せて。
夜半に近く、その男はある家の前に立った。
全身から水を滴らせ、道路には黒く濡れた筋が、引き伸ばされた影のようにこびりついていた。
男は手の甲で口を拭った。|涎《よだれ》を拭いたのだ。凄まじい飢えが全身を襲っていたが、今年はまだ、ひとりも手にかけてはいなかった。
上陸したのは、村の人間が誰も知らぬ地点である。
いざこざは避けたかった。
理由は――目標が見つかったからである。
三年かけてもわからなかった上陸の理由と目標がいま、ようやく判明した。
猛烈な飢えとは別なある感情が、男を駆り立てていた。
男が本来知るはずもなく[#「知るはずもなく」に傍点]、けれど、過去に一度だけ激しく身を焦がした凄絶な情念。
三日前、男は眠っていた。
ある強烈な力が彼を眼覚めさせ、ある場所で、ある人物を目撃させた。
天井と左右をふさがれた長い長い通路の中。馬車に乗った娘。
そして、男は夏の来るごとに眠りから覚める理由を知った。
湯気のたつ排水孔にわたした石の橋を渡り、門の戸を開けて、男は小さな家の敷地内へ入った。
母屋には明かりが灯っていた。
それが翳った。
玄関の柱にもたれていた長身の影が動いたのである。
これまで感じたことのない妖気が全身に吹きつけ、男は緊張した。
いや。
男の何処か深い部分で、憎悪に似た記憶が瘤のように盛り上がった。
遠い過去に、一度、会った。
そいつ[#「そいつ」に傍点]と同じ殺気だ。あれは――私の城で……
「来るかもしれんと思ったが。――やはり、な」
Dは三メートルの距離を置いて言った。
「この村へ来る途中、貴族の道で会った。――何者だ?」
この若者にも、興味を引く対象があるのだろうか。
夜目にも美しい瞳は、ただ冷たく澄んでいる。北の海にふさわしく。
男は少し黙り、
「何処にいる?」
と訊いた。
「誰がだ?」
Dが、斃すべき相手の質問に応じたことなどあったろうか。
「わからん」
「おまえは何者だ?」
「わからん」
「何処から来た?」
「海からだ。深く冷たいところだったぞ」
「ふさわしい場所だ。戻れ」
「邪魔をするな」
ひと言吐いて、男はケープを背に撥ねた。深い青が月光に躍った。衣服は海の色であった。
「私はここに用がある。やっと尋ねあてたのだ。住人は――女は何処にいる?」
二人の間で闇が変質した。
常人ならば、男の全身から発し、Dの身を押し包んだ「気」の流れを感じた途端、狂死していたであろう。
貴族にも想像できぬ鬼気であった。
それが忽然と消えるとは。
「貴様……」
男の呻きは苦鳴に等しかった。
「今度は私が問う。――何者だ?」
とDは言った。
「村の博物館で肖像画を見た。マインスター城の城主はおまえの顔を持ってはおらん。だが、館長から別の話もきいた。確かめさせてもらおう。――おれがわからんか[#「おれがわからんか」に傍点]、マインスター?[#「マインスター?」に傍点]」
Dの眼が男を射た。男の眼もDを射た。死魚を思わせる澱んだ瞳の奥に、認識と――憎悪の色が浮かんできた。
「いいや、覚えているとも」
と男は言った。
「忘れてなろうか。我が身をあの奈落へと突き落とし、我が|奥津城《おくつき》を破壊し、あろうことか、偉大なる実験の成果を奪い取ったもの……あれは、おまえ[#「おまえ」に傍点]か?」
返事を待たず、男の右手がDの胸もとへ伸びた。
人差し指には黄金のリングが。――数ミリの内側に内蔵された|超小型核炉《マイクロ・ビルト・イン》は、震度七の地震に匹敵するエネルギーを|変換装置《オートチェンジャー》と集束器に注いだ。照射面七百万度、直径百万分の一ミクロンのビームはDの胸を貫いた。
貫くはずであった。
無反応のメカニズムを、男は困惑の眼で眺めた。
Dの胸もとで、ペンダントが青い光を放っていた。
「言わずとも――死ねば同じ」
声は男の頭上からした。
真っ向から振りおろされるDの一刀を、かわすも受けるも、可能な人間がいるとは思われない。
刀身は華麗なる死の弧を描き、その軌跡の何処かで、かっと美しい火花が散った。
着地と同時に、Dは右方へ跳んだ。
跳びつつ、右手を振った。
Dの喉もとへ走ったものは、再び青白い火の粉をふいて撥ねのけられた。
と――奇怪なことが起こった。
Dの跳躍距離に等しい、少なくとも長さ二メートルはある棒状のものが、勢いよく後退し、錐状の先端のみを残して男の右手に吸いこまれたのである。
長さを自在に調整できる武器だろう。男の拳の反対側からも、鋭い切尖が突き出していた。
「教えてくれ」
と男はゆっくりと距離をつめながら言った。
「なぜ、私はこんな武器を使える? 私は――何者だ?」
いま、Dにマインスターと呼ばれ、Dを知っていると言いながら、何という奇怪な問いだろう。
夏の運んできた怪異な異物。
Dが走った。
男の手もとから錐がのびた。
超速のそれを、神速の剣が撥ね返し、凄まじい迎撃によろめく男の右肩へ、鮮やかな動きの変化を示して跳んだ。
空を切った。
びゅっ、という音は後からした。
青い影は空中でとんぼを切り、着地と同時に門の外まで跳躍していた。
「恐ろしい奴」
と男はDから眼を離さずに言った。
「おまえがいる限り、私の目的は果たせぬか――また、会おうぞ」
影は身を翻した。
Dが跳躍し、彼の位置に達したときには、道路を横切り、堤防の端へ達していた。
浜には篝火を焚いた見張りがいる。
音もなく疾走してきた怪人の姿に気づき、
「誰だ、貴様は!?」
「何処へ行く!?」
と手近の数名が駆け寄ったが、たちまち喉を押さえて倒れた。
黒衣の男が、素手の爪で引き切ったのである。
あまりにスピーディな惨劇に、他の連中が、恐怖というより呆気にとられて立ちすくんだ隙に、影は篝火の炎を妖しく映す波間へと身を躍らせた。
瞬間、どっと黒い峰がのしかかり、人々が眼をこすったときには、跡形もなかった。
訳もわからず、かといって海へ入ることもできずに、黒い波頭を眺めているばかりの村人たちは、背後から吹きつける妖気に、慄然として振り向いた。
Dは一刀を手にしたまま立っていた。周囲の人間たちは気づかなかったが、それは今、姿を隠した敵がどれほど恐るべき相手か、何よりも明白に物語るものであった。
少しの間、潮のざわめきに眼をやり、Dは長剣を収めた。
「今のは――あいつ[#「あいつ」に傍点]だな?」
と、ひとりが恐る恐る尋ねた。
「あんたが追いかけたのかよ? 追い返したのか、あいつを?」
別のひとりの声に、徐々に驚きと、尊敬の響きが加わってきた。
「凄えぞ、こりゃ。――|大《てえ》したもんだ。あいつに殺られなかっただけでも凄えのに、追い返すたあ」
「あんた、スーインとこの人だな。――なあ、力を貸して……」
こう言ったとき、人ごみの端で、
「ありゃあ、何だ!?」
と声が上がった。
全員が声の主を見――彼の指さす彼方へ視線をとばした。
いま――貴族が没した位置から左へ一五、六メートル、沖へ七、八メートルという地点に、丸いものが浮いている。篝火の生み出す光の輪の端だけに、人々は眼をこらし、それが美しい女の首であることに気がついた。
色は炎の光に塗りつぶされているが、鮮やかな金髪だというのはすぐにわかった。もうひとつ――眼が真っ赤だ。
血の海に漬けても、はっきりと区別できるほど凄まじい朱色の瞳が、じい、と海辺の人々を睨みつけている。
身体は無論、水の中だろう。貴族の|下僕《しもべ》か、海の妖物か?
氏素姓は不明のまま、別のことがわかった。
女の首の背後で、何かが水を弾いたのだ。
常人の眼には信じがたいものだが、海に生きる人々には馴染みの品であった。
尾だ。――鱗に覆われ、二股に裂けた魚の尻尾であった。
まさか――この女は!?
女の口が笑いの形に歪んだ。唇から覗く牙のごとき犬歯を何人が目撃し得たか。次の瞬間、女の首は消えるように水中へ没していた。
「――!?」
まとまった感想を口にすることは、人々にはできなかった。
水が盛り上がり、裂けた。女を生むために。
万物の生命を|育《はぐく》む羊水といえど、これほど美しい胎児を産み出すことは多くあるまい。
きらめく水の尾を引きながら、空中へ伸び上がった肢体は、美の極致そのものであった。
口に咥えた魚さえ、美しさを助長していた。
腰まで流れる黄金の髪の下に盛り上がった乳房は人間のものだ。その下――くびれた胴のラインが悩ましいふくらみを描き出す下肢が、人々の眼を捉えた。尾の先でようやく二つに裂けたそれは、数千の鏡を貼りつけたように篝火の炎を映した。
波が飛び散った。女は逆しまに海中へ消えた。
Dのみが波打ち際に進んだ。たちまち膝まで踏みこんで前方を見つめた。
何処かで水が跳ね、それきり、潮騒をかき乱す音は絶えた。
ふと、Dは頬にぬくみを感じた。
空気が厳しさを欠いている。
|気象制御装置《ウエザー・コントローラー》が、北の海に夏を命じたのだ。
恐らくは、異形のものの訪れも。
背後で、村人たちの歓喜の声が湧いた。
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第三章 夏祭り
1
それは、いつもあまりにも唐突に訪れるので、待ち構えていた人々でさえ、信じがたい気持ちになるのだった。
待ちきれなくなった子供たちが、ドアを押し開けて走り出す音をききながら、人々は吹きこむ風のぬくみに身体と|精神《こころ》をならし、それからようやく、白い光の中へ出て行くのだった。
それがひとときの短い夢で、一歩を踏み出した途端、醒めてしまうとでもいう風に、恐る恐る。
だが――耳を澄ませば、蒼穹に響くメロディーは森の中から高く、空気には夏草の香りと甘菓子、葡萄酒の匂いがこぼれんばかりに漂い、ようやくにして彼らは、今の季節の名を、夢ではないと唇にのせるのだった。
夏だ。
一週間の、まぎれもない夏。
祭りと祝宴の日々がこれからはじまる。
D――というより、スーインのもとへ治安官が訪れたのは、その日の朝のことである。
「おたくは、祭りの防犯委員でよ。しかし、スーインが留守じゃ仕様がねえなあ。替わりはいねえし。――あんた、ここの雇い人なら、代理で出てくれんかね」
Dは承知した。スーインから事情はきいている。何とか出てくれと頼まれてもいた。
900|M《モーニング》に村はずれの広場へ着いた。
そこが夏の中心であった。
手品師、軽業師が入り乱れる旅芸人たち。様々な屋台に群がる子供たちと、ライン・ダンスに興じる若者たち。
その中をDが歩き出すと、あちこちで物音と声が途絶え、熱い視線が全身に集中した。
この若者を見ると、歓声は決して上がらない。誰もが息を呑んでしまうからだ。
「さあて――お立ち会い」
四方を木々の緑に囲まれた広場の中央で、威勢のいい声がした。
黒いシルクハットに燕尾服、銀のタイツ式ズボンという|服装《いでたち》は、ひと眼で旅の剣術師と知れた。
腰のベルトには細身の直刀が揺れている。
戦闘士は腕と生命を売る稼業だが、こちらはあくまで素人相手の、実力からすれば半戦闘士ほどで、生命の危険はまず皆無の気楽な商売といえた。
ただ、この男の武器は腰の剣ではなかった。
ひょい、とシルクハットを取るや、その中へ片手を突っこみ、戻した指の間には、二本ずつ計八本の手裏剣がはさみこまれていた。
それぞれの長さは柄も入れて二十センチ、幅は二センチもないが、両刃はつぶし、先端は丸めてあった。
「片手に四本、計八本。ご安心めされよ、刃も先もこの通りつぶしてござる。当たっても、少々痛いだけ。――小生が投げるこの八本、すべて受け止め、あるいは外した方には、もれなく一ペガス金貨を進呈しますぞ」
最後の台詞が効いたものか、ぼんやり耳を傾けていた女子供までがどよめいた。
一ペガス金貨は、南北辺境での最高貨幣である。この村なら五人家族が半年は暮らしていける額だ。
たちまち、
「おれがやるぞ!」
息せき切った声が上がった。慌てているだけでなく、自信にも満ちていた。
拍手が湧いた。Dも声の主に眼を向けている。数とすれば、しかし、彼を見つめている女たちの方が多いだろう。
剣術師――いや、手裏剣師と向き合ったのは、二十一、二の若者だった。
半袖シャツと短パンからもれる筋肉と、身のこなしから見ても、武術の心得はありそうだった。
「結構。では、そちらは一〇デミーをその箱へ。得物はお貸しする。何がよろしいかな?」
手裏剣師は半歩横へ退き、背後の品を示した。皮製の円筒から長槍、短槍、長剣はいうまでもなく、鉄製のナックル、手鉤までが突き出ている。持ち上げれば二〇キロは越しそうだ。どれも磨きこんではあるものの、柄は傷つき、刃は欠けて、長い試練に耐えてきたのは明らかであった。
銅貨を指定の箱へ入れ、若者は短槍を選んだ。
ぐい、としごく手付きも堂に入り、構えた足の位置も下半身の落ち着きぶりも見事なものだった。
「よろしいかな?」
と手裏剣師が訊き、
「おお」
と若者は応じた。
「では」
右手を胸前に、ゆるやかに一礼した上半身が起き上がるや、銀色の光が筋となって若者の胸へ吸いこまれた。
「おっ」
掛け声と同時に、きん、と美しい音が砕けて、手裏剣は陽光に旋回しながら、男の右手のひらに戻った。
「お見事」
シルクハットの賞讃は、若者の肩を大いにそびやかせた。
「つづけます」
「おお!」
再び銀光がとび、同じ音をたてて撥ね上げられた。手裏剣はまたも持ち主の手に。
「お見事――つづけます」
「おお」
三本目も同じだった。
それが全く同じ格好で手裏剣師の手に吸いこまれたのを見ても、見物人はもう拍手はしなかった。
誰もが、若者の力ではなく、手裏剣師がそうさせているのだと気づいたのである。
操り人形とその|主人《あるじ》のごとく。
「思いきりやれ!」
ついに若者は叫んだ。彼も自分の立場を悟ったのだ。道化役にはもう我慢できなかった。
「心外なお言葉ですな」
手裏剣師はにこやかに言った。
「小生は常に死力を尽くしています。ですが、よろしい。――できるだけのことをしてみましょう」
「よしっ!」
若者が歯を剥いて身構えた。
その喉へ、唸りをたてて銀光が迸った。鋭い衝撃音とともにのけぞり倒れた若者の喉から、三本の手裏剣が地面に落ちた。
驚きの呻きが周囲に満ちるまで、数秒の余裕があった。
眼にも止まらぬとは、まさにこれだ。
手裏剣の本体は誰にも見えず、しかも、誰もが一本きりだと思っていた。
何人かがとび出し、ひっくり返った若者を抱き起こしていったところを見ると、怪我はないが、かなりの痛手ではありそうだ。
「さて、次の方?」
と誘う手裏剣師の声に、応ずるものはいない。
こりゃ、やりすぎたか、と苦笑しながら、細長い顔が周りを見廻し、ぴたり、と照準を据えた。
その真正面にDが立っていた。
「ほう。――失礼ながら、このような村に、なんとも場違いな方が。しかも、これは……」
手裏剣師は絶句した。顔は蒼白であった。少なくとも、眼前の相手の力量を読みとるだけの力はありそうだ。
「少し柄にもない力を発揮してしまいました。当分は次の客もつきますまい。暇つぶしのつもりでいかが? 料金は無料です」
誰も動かなかった。声ひとつ、拍手ひとつ起こらない。この美青年が応じれば、単なる暇つぶしどころか、遊戯でも済まないことを、全員が悟ったのだ。
何を思ったのか、Dは前へ出た。
手裏剣師の誘いは、無論、挑戦ではない。また、この若者が単なる遊戯に加わるはずもない。
しかし、彼は進んだ。
「素直に協力していただいて、痛み入ります」
手裏剣師は一礼した。
「得物はそれ[#「それ」に傍点]でよろしいな。私の手裏剣がかわせれば、金貨はさし上げます。――では」
距離は五メートル。
手裏剣師の技量からすればゼロに等しい。
「参ります」
Dは剣も抜かずに立った。
束の間訪れた夏に、この一画だけ別の季節が生じた。
空気を灼いて迸る銀光は一条に見えて四本。
観衆がそれを知ったのは、黒ずくめの肩から横殴りに流れた|虹《こう》線が、無造作としか思えぬひと薙ぎで、これらを地に弾きとばしたときであった。
驚愕の叫びも上がらぬ空間を、Dは一気に走った。
蒼白となって後ろへ跳ねとぶ手裏剣師の左手から、最後の四本が闇を巻いて走った。
人々は十文字の光を見た。
横のひと薙ぎは手裏剣を打ち落とし、縦の一閃は跳びのく男の顔を、シルクハットから顎まで真っぷたつに裂いていた。
即死した男は、しかし、地に落ちなかった。
別のものが落ちた。
シルクハットと燕尾服姿の人形が。
Dの四方に黒影が舞い下りた。鶏肉を焼いていたコックであり、甘菓子屋の主人であり、路上の将棋さしであった。
そのどれもが、人間の動きでありながら、人間ではあり得ぬ動作だった。
打ち下ろされる刃はすべて空を切った。
二撃目を送る余裕もなく、胴を両断された男たちは、小さな人形と化して草の上に落ちた。
Dの刃がわずかに下降した。草の葉が地に這った。
重力場の変化を自在に励起する能力者を、Dはひとりだけ知っていた。
「また会ったな――Dよ」
大地のどこからか、嘲笑とともに湧き上がった声は、シンのものであった。
「おまえを訪れた治安官、あれも傀儡と知れ。今度はわしひとりではないぞ。エグベルトの“王国”――おまえも知っておろう」
Dの切先が上がり――また、下がった。いかに常人を凌ぐダンピールの|膂力《りょりょく》とはいえ、全身に五倍もの重力がかかっては、やむを得ぬ結果であったろう。
一対一ならすべて破った。しかし、連合した敵は――
「エグベルトの“王国”は、この森一帯を占めておる。そうよな、縦横一キロというところか。その内側はすべて奴の意のままとなる。ただし、住人はことごとくわしの傀儡じゃ。見事、逃げてみるがいい」
ここで、シンの言葉は途切れ、少し間を置いて、
「しかし、おまえ、手裏剣師とやり合う前から、わしの傀儡と見破っておったようだの。その理由、きかせてもらおう」
Dはかろうじて一刀を水平に持ち上げた。苦痛など微塵も感じさせぬ声で、
「グレンに礼を言わねばならんな」
と言った。
渡し船の船上で、グレンはシンの片腕を奪った。その痛手が彼の破綻を招いたとしても、それに気づいたのは、やはりこの若者ならでは、だ。
ずい、と気配が動いた。単独ではない。折り重なり、つながり合った集合体が四方から前進したのである。
すでに、Dは看破していたかもしれない。彼らはダンスに興じていた若者たちであり、水|瓜《うり》に舌鼓を打っていた|母子《おやこ》であり、銛投げの腕を競っていた男たちであった。
この森――いや、シンの言葉に従えば、一キロ四方に存在する人間は、すべて生なき傀儡なのであった。しかも、Dと異なり、エグベルト王国の影響は及ばない。
手に手に白刃をきらめかせつつ、人垣はDを呑みこんだ。
白光の交差に骨を断つ音が重なり、たちまち先頭の幾つかが消え失せた。
「つづけ。――奴も生き物だ。いずれは疲れる!」
シンの絶叫を合図に、怪異な進軍は途切れず、そして、その数が半分に減ったとき、声はもう一度絶叫した。
「何という――何という奴だ。十倍の|重力《G》の下で。――これ以上かかっても、無駄死にがふえるばかり。下がれ、下がれ。遠くから仕留めるのだ」
人波が|退《ひ》いた。後方に残る何名かは、火薬銃と覚しき武器を手にしていた。
それを射つどころか構える前に、首は宙へとび、人形の頭と化した。
退く人垣よりも早く、Dが前進し、白刃をふるったのだ。今まで彼が不動だったのは、みだりに動いて、敵の罠にかかることを避けたためであった。
「おお!?」
と絞り出すような驚愕の声が上がり、右手の森の奥で、気配がひとつ動いた。
間髪を入れず、振り向きもせず、Dは白木の針をとばした。
陽光に、きら、と閃いただけで、その吸いこまれた彼方から、苦痛の呻き声が上がった。
Dと斬り結ぼうとしていた村人の動きが停まった。Dは足もとを見下ろした。
草むらの間に、無数の人形が|変化《へんげ》寸前の姿勢を留めていた。
同時に、Dは重力の呪縛もまた破れたことを知った。
「感服したぞ。さすが――さすが、吸血鬼ハンター“D”」
エグベルトの声が耳に届いた。Dの超知覚をもってしても、発声箇所の不明な、天からとも地からともきこえる声であった。
「来んのか?」
Dは静かに訊いた。他人をお茶にでも誘うことがあれば、やはり同じ声であろう。休息への誘いも死への問いも、彼には同じことなのだ。
見よ、その肩の肉は|爆《は》ぜ割れて鮮血がこぼれ、背にも胸にも柳葉のごとき傷が口を開けている。数十人の敵を一気に相手どり、それが十倍もの重力の下ともなれば、この程度の傷で済んだのは奇蹟といえた。
「やめておく」
と、エグベルトはきっぱりと言った。どこか吹っ切れたような、|清々《すがすが》しい口調である。
「おれは最初から徒党を組むのは反対だった。おぬしとやり合って手傷を負って以来、共闘もやむなしと踏んだが、やはり、気は乗らなかった。――今度は一対一でやる。キング・エグベルトとしてな。また、会おう」
声が絶えると同時に、Dはひと息もつかず、針を送った方へ歩き出した。
踏みしだかれた草の上に、赤い点が散っていく。
もはや、出店も香具師の姿もない。すべては草の間に沈んだからくりだ。馥郁たる樹木さえ消えて、Dを囲んでいるのは、ねじくれた海辺の灌木であった。
治安官に指定された広場へ赴く途中、エグベルトの“王国”へ誘いこまれたに違いない。それにしても、Dほどの者の距離感、時間、方向感覚を狂わせるとは、何という恐るべき妖術か。
ねじくれた樹木の陰に、皺だらけの老人が虚空を睨みつつ仰臥していた。喉笛を細い木の針が貫き、|項《うなじ》へと抜けている。
これがシンの正体なのだろう。
死体を放置して人目に触れれば夏を揺るがす、とDは判断したのかもしれない。
右手に一刀を握ったまま、身を屈め、左手で老人の腕なき肩を掴んだ。
横手で雷鳴が轟いた。
音自体が炸裂したかのように、Dの左手はその手首から砕かれ、数メートル離れた地上へと跳ねとばされた。
「動くな!」
と、轟きの方角――別の木陰から声が上がったのは、Dがそちらを振り向いた後である。
親指の先ほどもある銃口をくり抜いた巨銃――火竜用のライフルを構えて現れた影は、地上の死体と瓜二つの老人であった。
「かかったな。傀儡は生を与えるのみにあらず。――それは死体のからくりよ」
Dの足もとで、老人の死体は木の針に貫かれた人形に返っていた。
「正直言ってな、今日はおまえの左手を奪えればよしと思っていた。エグベルトの口から、奴の王国を破ったのは口をきく手だと聞いていたものでな。だが、わしは欲が出たぞ。いかに吸血鬼ハンター“D”とはいえ、この距離で飛び道具をかわすことはできまい。また、心臓を射抜かれれば再び起きることはなるまい。それが嫌なら答えよ。――珠は何処にある?」
Dは無言であった。
肩やその他の出血は、さすがダンピールのせいでとうに止まっているが、吹きとばされた左手首から、赤い筋が蛇のごとくのたくり流れ、彼はそれを止めようともしなかった。
「その手も顔も動かしてはならん」
と老人――シンは、舌舐めずりして言った。片手一本で支えながら、巨銃の銃口は微動だにしていない。
「血を舐めたらどうなるか、それもエグベルトにきいておる。奴め、わしがやられたと判断して去ったが、つまらぬ情けを敵にかける奴。そのせいで、くく、珠の謎を知り損ねたわ」
Dの眉が動いた。
「知っているのか、それを」
と訊いた。
シンは匂いを追い払うように小鼻をひくつかせながら、
「別の奴が知っておった。教授とかいう老いぼれよ。そう名乗るだけあって、知識はさすがのものだったぞ。それにしても、戦いに勝つためとはいえ、自分の血まで飲まねばならぬとは何の因果か。つくづく呪われた奴よ。だが、わしは違う。おまえのごとく、あいの子ではない、真の貴族になってみせる。――珠は何処にある!?」
勝ち誇った様子も失せて、最後のひと言は卑しい欲望のみの叫びであった。
周囲を満たす熱い空気と香りが揺れた。
「そこだ」
と、Dは顔だけをわずかに右の地面へ向けて言った。
「口をきく手が持っている」
シンは束の間、きょとんとしていたが、じきに醜い老顔を歪めてうなずいた。
「そうか、成程。これほど安全確実な隠し場所もまたとあるまい。では、いただいていこう――動くな。と言っても、好きにせい。もはや、おまえに用はない」
声が終わらぬうちに、彼は引き金を引いた。爆発に似た音をたてて、五グラムもある鉛の弾頭は、Dの頭部へ吸いこまれた。
このとき、シンは運命を悟っていたかもしれない。
引き金を引く寸前、彼は見た。
Dの両眼が血光を放つのを!
シンの指が必殺の引き[#「引き」に傍点]を見せたとき、Dは動いていた。
“王国”の重力はすでに消滅し、全機能は貴族のものと化していた。その動きを、シンは読むことができなかった。弾丸が彼方の灌木を打ち砕いたのは、ライフルの銃身もろとも左頸部から右肺上葉までも切り下げられたシンの身体が、大きくのけぞった後だった。
反射的に、Dは鼻孔と口もとを覆った。
自らの血を吸って勝ち抜く呪われた存在とシンは言った。その彼も、まさか、自らの銃が滴らせた血潮が、夏の|瘴気《しょうき》とともに気化して、濃密な血臭をDの鼻孔へ送り、悪鬼の力を与えたとは想像もつかなかったろう。
シンの言葉は正しかったのかもしれない。
爛々たる血光を放つ|眼《まなこ》を本物のシンに据え、Dの表情がわずかに動いた。
忽然と、シンは人形にその姿を変えていた。
そして、振り向いた地面の上から、Dの左手は跡形もなく消滅していた。
2
Dが死闘を展開した幻の森から数百メートル内陸に入った、やはり森の中である。
潮騒もここまではきこえてこない。
代わりに、昨夜までの冷気が夢のように去った蒸し暑さに誘われて、鳴き交わすのは虫たちの声であった。
それが不意に途切れた。
激しく夏草を踏みしだいて、針のように痩せこけた老人が跳びこんできたのである。
青緑の苔に覆われた横倒しの巨木の上から、もうひとつの影が立ち上がった。
トレード・マークのマントは脱ぎ捨て、麻らしい薄汚れた上下を引っかけたクロロック教授であった。
駆けこんできた片腕の老人を見て、彼は憮然たる表情を崩さずに訊いた。
「手に入れたかな?」
「おお」
と老人――シンは首肯した。
「この通りだ。見ろ」
突き出されたものを見て、教授は顔を歪めた。素早くシンが、
「これが奴の左手よ。珠はこの中にある」
何が起こっても不思議ではないのが辺境であり、不思議に思わないのが辺境の人々であった。
「どうする気だ? ――これから?」
教授の問いに、シンはちぎれた左手首を胸に押し当てながら震えた。押さえても止まらぬ歓喜のせいであった。
「言うまでもない。一刻も早くこの村を立ち去るのよ。珠は奪ったものの、奴はまだ生きている。奪えたのが僥倖としか思えぬ恐るべき奴。今度出会ったら、わしの生命もあるまい。あの血色の眼――本体は見られなかったのに、骨の髄まで透視されたような気がするぞい。ふふ、もっとも、今度会うときは、わしは奴が足もとにも及ばぬ存在となっておる」
シンの手にしたDの手首が激しく震えるグロテスクな光景を、教授は冷然と眺めていたが、
「その珠、確かめたのか?」
と訊いた。
揺るぎない歓喜の|貌《かお》に、ふと、動揺が吹いた。
「いや。しかし――」
「糠喜びに過ぎぬかもしれんぞ」
「まさか」
シンは美しい手首を眼の前にかざした。
「わしがおまえと都へ戻っても、珠がなければ手の施しようがない。確かめてみたらどうだ?」
教授の言葉には、シンをその気にさせるだけの説得力があった。
シンは手にしたものを打ち振って訊いた。
「さて、答えろ。うぬは生きているか、もう死んでおるのか?」
このとき、激情の極みに昇りつめていたシンは気づかなかったが、クロロック教授はきっと天空を仰いだ。
虫の声がすべて絶えたのである。
それを詫びるように流れ出したものは――形容しがたい笑い声であった。
手首が笑ったのだ、と知って、シンは愕然とそれを裏返した。彼がかざしていたのは、手の甲だったのだ。
かっと見開いた眼の前で、手のひらの表面がざわざわと波立つや、浮き出たのだ。――一個の顔が。
眼もあった。鼻もあった。口も備わっていた。
明白に意志を有する人の顔であり、それでいて、人間にとって最も肝心なものが欠けているような、奇怪な風貌であった。
くくく、とそれは笑った。
「そう案じるな。生きておる。そして、生きてきた。おぬしらより、百倍も長い時間をな」
「ならば、話は早い」
最初の動揺はどこへやら、シンは満々たる黒い自信と威圧感をこめて言った。
「おぬしの腹中に珠が収めてあるはず。どうだな?」
「そう言えば、くく、大分前にそのようなものを飲まされた気がするわい。――三千年ほどになるか」
「嘲弄するか、わしを?」
シンの頭が胸もとへ垂れ、小さな眼球の前に、短剣の切先が突き出された。胸ポケットに忍ばせておいた刃物を、口に咥えて引き抜いたのである。
「その眼と口を今一度、潜らせてみろ。えぐり出してやろうほどに」
「ついでに珠も取ったらどうだ?」
「よし」
「待て待て」
奇怪な顔は慌てて制止した。
「どれだかわからんが、いま、見つくろって出してやろう。えーと」
そして、明らかに頬にあたる部分が不意に膨張した。
「これなど、どうかな?」
穏やかな声であった。
その次に、まさか――
びゅっと唸りをたてて口が吐き出した銀灰色の珠は、避ける間もあらばこそ、シンの右眼に半ばまでめりこんだ。
獣の絶叫をあげてのけぞった彼の手は、眼を押さえるつもりで、もうひとつの手を押さえた。もぎ取って投げ捨てた。後に珠はなかった。眼の位置には血まみれの穴が開いているばかりだった。
地面から哄笑が轟いた。
手首は直立していた。両眼を見開き、小さな口からあの珠を半ば突き出して。どうやって笑うのか。
「待て!」
叫びざま教授がとびかかった。逃げようともせず、手首はあっさりと両の手に締めつけられた。
「くくく、わしを捕まえても何にもならんぞ。これを奪わんことにはな」
声の途中でどういう技術か、珠は銀色の弧を描いて海寄りの方角へ跳んだ。
そちらへ気をとられた隙に、教授の手に鋭い痛みが走り、彼は奇怪な手首を取り落とした。
噛まれたと知ったのは、珠を探しに繁みへと飛びこみ、徒労の挙句に帰還した後であった。
右手親指の付け根に穿たれた小さな歯型を見つめ、教授は舌打ちした。
双眸にみるみる憎悪の色彩を広げて、彼はなおも地上で蠢くシンを見下ろした。
「やはり、糠喜びだったな」
言うなり、腰からナイフを引き抜き、教授はシンの首筋に柄まで刺し通した。
「き――貴様……」
耳を覆いたくなるような怨嗟の声を放って、老人は教授を見上げた。口腔からどっと血塊が溢れ、それでも彼は口をきいた。
「愚かもの……おまえの首には……わしの毒虫が……ともに地獄へ来るがよい」
「こいつのことか?」
上衣の胸ポケットから毒蜘蛛を取り出し、教授はシンの眼の前で振った。
「わしには見えずとも、別のものには見える。おまえの留守に宿のものに頼んで、鏡を二枚組み合わせてもらったのよ。まず、背中の鏡で首筋を映し、それを顔の上に掲げた方に映し――後は絵に描けばよい」
力尽きたか、凄まじい形相で地面へ倒れたシンの背へ、小さなゴム片と化した蜘蛛を投げ捨て、教授は初めて見せる凄惨な悪相を海の方へ向けた。
「探す。何としてでも探し出してみせるぞ。人間と貴族の血の秘密を解き明かす唯一の宝よ。わしのもとへ来い」
そして彼は片手を押さえながら、珠の消えた方角へと再度歩きはじめていた。
潮騒を遠くにきく崖の上であった。
貴族の道から村への道路に入り、そこから海へと寄った場所である。
黒い岩の縁から見下ろすと、|磊々《らいらい》たる岩石に砕ける波頭の飛沫の凄まじさと、その下に、まるで自殺者を待ち受けるように牙を剥き群舞する体長四、五〇センチの怪魚の群れが透けて、ふと、身を投げてみたくなるような、奇怪な衝動に駆られるのであった。
怪魚は肉食だが、いつもこの崖の下に巣食っているのではない。
かつて、貴族たちの支配がこの地方一帯に及んでいたとき、抵抗するものへの見せしめに、あるいは面白半分に、崖上から人間を投下した名残である。
その数があまりに大量で長期にわたったため、魚の方に一種の条件反射機能が備わり、一〇世紀近くを経ても、崖上に人間の気配がするや、本能の赴くままに海底から浮上し、泳ぎ寄り、牙を鳴らして餌をせがむのであった。
昼下がりの餌は二人いた。
妖艶さが滴るばかりの牝獣――サモンと、長身の“修業者”グレンである。
憎悪しあっているのか、互いに惹かれているのか、おそらくは当人たちにも不明のまま、不可思議な男と女の関係を続けている二人だが、いま、サモンの両眼は異様に昏い情熱にかがやき、グレンの表情には無残な敗北の翳があった。
彼がDに挑み敗れたのは先日のことである。秘剣“ローレライ”をもって重傷を負わせたものの、それが予期せぬ邪魔ものの助勢による僥倖であり、逆に受けたDの一刀こそ、それがなければ致命傷に到ったことは、誰よりもグレン自身が、身を灼く痛恨の敗北感とともに知り抜いていた。
認識はやり場のない怒りと変わり、今や彼は、右肩の傷に巻いた包帯すら引きちぎり、役立たずの腕を改めて斬断したいほどの怒りに駆られているのである。
我、ついに及ばず。
“修業者”がその道の果てにいつかは視る――そして、視てはならぬ運命の語句であった。
怒りと絶望が万華鏡のように揺れる秀麗な顔を、サモンはこれもまた、嘲笑とも憐れみともつかぬ感情の色を湛えた眼差しで凝視していた。
仲間たちが先を越しそうだとグレンに告げ、Dのもとを訪れるようけしかけたのは彼女だった。
その結果、グレンは敗れ、村人の眼を恐れて、負傷した彼を廃寺に匿い、手当てしたのも彼女自身だった。
教授の妖術にかかった自分を救い、犯し、嘲りつづけた憎い男。だからこそ、Dへの挑戦を促し、敗残の姿をさらしたとき、サモンは内心、残虐にほくそ笑んだ。手当てをしたのも、生命がある以上、いま一度、無謀な挑戦を試みさせ、自分たちがあの珠を入手しやすくするためだ。
それなのに、崖上に立つ若き修業者を見つめる妖女の眼に、まるで愛しい恋人を見るかのような哀愁の色が漂うのはなぜだろう。
「これで、やめるか?」
尋ねる声は嘲笑であった。
「それがよい。敵は吸血鬼ハンター“D”――辺境に隠れもなき剣の名手だ。一介の修業者の到底及ぶところではない。つまらぬ意地など捨てて、早々にこの村を去れ。後は忘れればよい」
痛烈としか言いようのない侮蔑の言がきこえたのか否か、グレンは一刀を右手に、黙然と北の海に眼をやっていたが、
「勝てぬな」
ぽつりと吹きつける風に乗せた。
「確かに勝てぬ。地を這う芋虫がいかに修業を積んだとて、巨龍には及ばん。しかし――ひとつある。あるぞ。このおれが、吸血鬼ハンター“D”を膝下に服させる法が」
サモンは眼を細めた。
突如、強風が襲ったのだ。
眼を開けると、グレンはこちらを向いていた。
――狂った、とサモンは思った。
そうとしか思えぬ表情であった。
「あるぞ。ただひとつ!」
全身を震わせ、修業者は叫んだ。
「おまえが、飯を買ってくるついでに仕入れたニュースだ。おれは一度だけ、神を信じる。ああ、おれが敗れ、絶望の縁に立ったとき、このような救い主が現れるとは――」
サモンの顔からあらゆる表情の色が消えた。
鍛え抜いた戦闘士たちをさえ顔色なからしめる凄絶な妖女が、身も世もない原初の恐怖を全身にとどめて後退ったのである。
「まさか」
と、わななく唇が言葉を吐き出した。
「まさか……おまえは……」
「おれは、貴族になる」
決然と宣言した声は雄々しく、両眼は殺気に彩られていた。
「いや、貴族に血を吸われれば|下僕《しもべ》とされる。吸った者の命令通り、仲間たる人間の生き血を求めてさまよう悪鬼に成り果てるのだ。それでも構わん。奴を――吸血鬼ハンター“D”を凌ぐなら。ははは。考えてみれば、これほど明快な戦いの動機づけもあるまい。ハンターと貴族の下僕とは」
あまりの桁はずれの執念に、茫として立ち竦むしかないサモンの前へくると、グレンは負傷した右手を伸ばして、白い喉を鷲掴みにした。
うっ、とのけぞる女の桜色の唇へ顔を寄せ、
「今宵から、おれは外へ出る。奴を求めてな。おまえは村のものから、奴の現れやすい場所を探れ。二人で探すのだ」
「そんな――そのような真似を――私がするとお思いか?」
サモンの声は震えていた。そのようなことを本気で命じる男の執念に恐怖したのである。
背筋を氷の刃が通った。それは性的とも言える感動であった。股間が濡れるのをサモンは感じた。
「嫌か? 嫌なら、たったいま、この崖から投げ落としてくれる。傷の手当てと、ともに寝るくらいしか能のない女――下に集う魚どもの胃の腑を充たす値打ちしかあるまい」
白い喉を掴んだまま、グレンは女を引き寄せた。
サモンは逆らわなかった。それどころか、この妖女は両手をグレンの頭に巻きつけ、自分から唇を重ねたのである。
長い時間がたった。唾液の糸を荒い息で震わせながら、サモンは男を見据え、喘ぐように言った。
「喜んで従おう。ふふ、おまえの喉へ、貴族の牙が食いこむその日まで」
欲情にうねる女体を、グレンは手荒く突きとばした。
何とも淫猥な笑みをサモンは浮かべて、
「では、私は戻る。仲間たちと打ち合わせ、今後の戦い方を決めねばならんのでな。ふふ、今夜また、おまえのベッドへ入ろうぞ」
サモンが歩み去ると、グレンはひとり、海の方を向き直った。
その背に、
「死に損ないの厄介者」
とんでもない言葉が投げつけられたのは、すぐ後だ。
慌てもせず、振り向いたグレンの前に、五メートルほどの距離をおいて、筋骨隆々たる巨漢が立ちはだかっていた。
「おれの名はエグベルト。――サモンからきいてるな」
ぐいと突きつけられた鉄の棒の前で、グレンはにっと笑った。
「大分前から岩陰にいたな。――その名、確かにきいた。で、何の用だ?」
「いますぐ、村を出ろ。――と言っても、いまの話ぶりからして、素直には従うまい。サモンの代わりに、貴様を魚の餌食にしてくれる」
エグベルトの棒が下降し、崖に触れた先端は、ゆっくりと太い筋を岩盤に刻みはじめた。それが何を意味するのか、グレンはまだ知らない。
グレンの立つ崖の突出部は、幅約七メートル。それだけの線を横に引き終え、エグベルトは微笑した。
「そこから先――おまえのいる場所がおれの王国だ。たったいまから、おれは侵略者を討つ。キング・エグベルトの名の下に」
再び構えられた鉄棒を一瞥し、グレンは冷笑した。
「その腕でおれを殺すか。――よかろう。だが、つまらぬ女の色香に迷って生命を捨てるとは、愚かな戦闘士もあったものだ。利き腕ではないが、力の差をとくと見せつけるのに不自由はあるまい。――来い」
エグベルトの沈毅重厚な顔に、怒りが燃えていた。
シンと組みDを襲って、見事にしくじった後、彼は隠れ家へは帰らず、村の中を歩いた。暁鬼とツィンはそれぞれの役目についているはずだし、サモンは昨夜からいない。だから、帰っても仕方がないと理由をひねくりながら、エグベルトの彷徨は彼女を見つけ出すためであった。
五人の戦士のうちで、最も人間らしい血の通っているのが、エグベルトなのである。それゆえに、彼はまるで正反対の性質を持つサモンに惹かれた。打ち明けなかったのは、自身とサモンの相異点の多さを考えたからだろうが、一昨日の夜、隠れ家を脱け出した彼女を尾行し、戻ってきたシンの話からグレンの存在を知って、彼は凄まじい嫉妬に身を灼かれた。
グレンを利用するために、サモンが身体を投げ出すことは一同の了解を得たため、また、彼自身の性格から表立って反対はしなかったが、いつか決着をつけねばと、肝に銘じていたのである。
その相手とサモンを、村はずれの崖上に見つけたときは狂喜した。そして、シンが斃れ、サモンが立ち去ったいま、誰に遠慮することもなく、恋敵と相対している。
「いええい!」
裂帛の気合を下半身に集中してエグベルトは地を蹴った。
いたずらに高く跳び上がった巨体へ、軽蔑と哀れみの視線を投げて、左の一刀を突き出しかかり、グレンは驚愕した。
刀身は五倍の重さとそれにふさわしい速度とを持って動いた。
振り下ろされる数十キロの鉄棒を、かろうじて受け止めたのは、奇蹟ではなく腕の冴えだ。
刀身は砕けた。
「ほうれ!」
横殴りに襲った棒をかわしつつ、グレンは崖っぷちに追いつめられていた。
敵のスピードは変わらぬのに、こちらは五分の一しか出ない。
――いかん、と思った刹那、強烈な一撃が胴を叩き、グレンは撥ねとばされた。
その下に岩はなかった。
声もなく、五〇メートル近い崖っぷちから、波頭と怪魚渦まく海面へ、“修業者”グレンはまっ逆さまに落下していった。
3
涼風が髪を吹き乱し、顔にかかったそれをスーインは何度も指で払いのけねばならなかった。
風にこもる冷気は、沖の氷塊のせいである。|天候調整装置《ウエザー・コントローラー》の奇態な選択はここでも働き、村を訪れた夏は、彼方の海には及ばない。
北からの風が運んだ冷気は海原の途中でぬるみ、夏にはあり得ない涼風となって、海辺の村に吹きつける。
それが夏の風であった。
スーインは岬の上に立っていた。
午後いちばん――エグベルトとグレンが死闘を繰り広げていた時刻である。
眼下の海原は緑青が眼に痛い。途中からそれは凍てつく灰色に変わっているはずだが、ここから見る海は、空の青と草の緑が灼きついたような夏の色であった。
水の線が切れる海原には白氷が浮かび、その少し手前――岸から一キロほどのところを、数隻の中型動力船が波を白く切り裂きつつ、魚群を追っている。
あの位置ならば、ソージョウカジキだろうか。
隠れ家から徒歩二〇分の場所である。
「貴族の岬」という。
子供の頃、何度も訪れた。そのとき付けた印が、近くの岩や木の幹に残っている。
海を見ながら、ここで生きるのだと思った。
今は違う。
ここで生きるのか、と感じる。
疲れが両肩に溜まっていた。
以前は、それを支える手があった。ウーリンと祖父が、自分にとって極めて重要な存在であったことを、ここ数日のうちに、スーインは不思議な喪失感として感じていた。
生きる自信はあるつもりだった。自信とは、ひとりで生きられることだ。
そこから妹と祖父が抜けた。
自分が遠くへ行きたがっていることに、スーインは気づいていた。
夏が終わったら。
次の冬には耐えられそうもない。
ある顔が頭に浮かび、スーインは夏の空気の中で身を震わせた。
トンネルの中であったあの男――|昨夜《ゆうべ》も夢に出た。
誓って見覚えのない顔だ。それなのに言いようのない重く暗いものが胸を塞ぐ。
誰なのか?
最大の疑問だが、それはまだ納得できる。
脅えを伴って湧き上がる問いは――
私にとって、何なのか?
頭を振りながら、スーインは別の顔を憶い出そうとした。
遙かに美しく、冷たく、厳しい若者の顔を。
何を訊かなくとも、自分など想像もつかぬ凄惨冷厳な道を辿ってきたとわかる。それだけで胸が晴れ、スーインは安らいだ気分になるのだった。
だが、いつかは去る|男《ひと》だ。――何より確実なことだった。
ひょっとしたら、あの|男《ひと》と別れたくないために、珠を守ろうとしているのかもしれない。自分のこころの動きが、スーインにはひどく怖かった。
ぼんやりと、空と海とを視界に収めていた眼が、急に焦点を結んだ。
氷塊の近くで網を引いていた動力船が一艘、急に傾いたのだ。
「――!?」
思わず二、三度瞬きする間に、船首を大きく持ち上げ、船上の男たちを暗い水の中へ放り出すと、船は見事なくらいあっさりと海中へ没していった。
事態に気づいた僚船が網を切り離して反転する。
スーインはあっ[#「あっ」に傍点]と叫んだ。
その船の右舷前方の海面に、ぬっと黒いものが突き出たのである。遠目には細い棒状のものとしか映らなかったが、蟹の足をスーインは連想した。
救援に駆けつける船の主も気づいた。舵輪が激しく回った。距離は二メートルしかなかった。死に物狂いのカーブは、かえって海中のものに絶好の角度を与えた。
突き出た足が船腹に突き刺さるのをスーインは見た。
船それ自体の速度が切れ味に鋭さを加え、紙のように船腹を切り裂いたはさみ[#「はさみ」に傍点]は、船体の半ばで、その斬線もろとも海中に没した。
船が左に傾くまで二秒とかからなかった。
海中の危険に気づいたもう一艘が逃走に移る。
現場から一〇メートルといかないうちに、変化が生じた。
傾きもせず、速度も落とさず、船べりと水面との距離は、ぐんぐん縮まっていった。潜水艇と化した船体が水に没してから、船主は水中へ身を躍らせた。
何が生じたか理解できないまま、遠方から接近する別グループの船影へ、スーインはやめてと絶叫しかけたが、冷水で息も絶え絶えの男たちを引き上げ、港へと疾走しだすまで、それ以上、何事も起こらなかった。
スーインの耳には届かなかったが、救助の最中、海底の深みから水魔の王が発するがごとき鈍く重い声が、次のように響き渡った以外は。
「これから漁に出れば、すべて同じ運命と知れ。海はおまえたちの敵だ。それを恐れるならば、おまえたちの村にいるスーインという名の娘――そやつの手にある珠を、いつでもよい、三日以内に海へ流せ。そのとき、海はおまえたちのもとへと還るだろう」
救助船は全速力で村へ戻り、遭難者を病院へ運ぶ一方、数人が村長のもとへ駆けこんで急を知らせた。
あくまでも夏の祭りを乱さないように、と村長は厳命し、ただちに治安官と村議会の委員たちを招集した。
使いがスーインのもとを訪れ、居合わせたDが黒い風のように村役場の一室へ現れたときは、沈鬱な顔どもに恍惚と戦慄が交差した。
村長が事情を話し、珠のことと、それをただちに手渡すよう要求する間、Dは無言で壁にもたれていたが、話が終わるとやおら口を開いて、
「珠はない」
と告げた。
「何と――」
村長は絶句し、居合わせた全員が顔を見合わせた。Dに食ってかかるものはいない。彼らは海中の脅威が眼の前に現れたような気分でいた。
「三日余裕があったな」
Dはいつもと変わらぬ鋼の声で言った。
「その間に珠を見つけるか、海中のものの始末をつける。――それでよかろう」
もう一度、委員たちは顔を見合わせたが、うなずくしかなかった。
「その珠とは、一体何かな?」
村長が、これだけは訊いておかねば、という口調で言った。
「おれにもわからん」
「なぜ、スーインが持っておる?」
「知らん」
「水の中の奴は、何者だ?」
「わからん」
「スーインは何処にいる?」
委員のひとりが、思い切って訊いた。
「買い物があると、クラウスの村まで出かけた。帰りはわからん」
船着き場のある港町だ。
「もうひとつ」
と委員は食い下がった。
「おまえが入って来た途端、部屋中の空気が凍ったような気がする。おまえの素姓を教えてもらおう」
「そいつは僣越だぜ」
異議を唱えたのはドワイトであった。青年団のリーダーとして、彼も村議会に加わっていたのだ。
「おれは知っているが、こちらは旅の用心棒だ。いつか村を出てく。旅のものに過去と行く先を尋ねないのが、辺境の|掟《ルール》じゃねえのかい?」
「そんなことを言っとる場合か」
よい攻撃対象を見つけたと、委員は矛先をドワイトに向けた。
「何を訊いてもわからんの一点張り。挙句は敵を始末すればいいと気楽に言う。どうやればいいのか教えてもらいたいものだ。それにだ、たとえ、海の中のものを始末しても、その珠とやらがこの村にある限り、第二、第三の脅迫者が出てこんという保証があるか。わしは先のことを案じている。よかろう、今回の事件の始末はその男にまかせる。だが、うまく片づけたとして、スーインがこの村にいられるかどうかは、すべて、それ以後の釈明にかかるということは忘れるな」
「なにを、この因業親父」
ドワイトは憤然と立ち上がった。
「てめえがスーインの一家にそんな口をきける立場か、この野郎。おお、てめえのドラ息子が貴族の土地で吹雪の真っ盛りに道に迷ったとき、半分凍えながら探し出したのは誰だ? てめえか? ここに雁首並べた委員さんたちか? スーインとウーリンだろうが。ついでに言っとくがな、てめえのいまの家を修理するとき、改築費用を貸してくれたのはどなた様だ? 言っちゃ悪いが村長さんか? 巡回銀行か? ――スーインの|祖父《じい》さまだろうがよ」
委員は蒼白の顔をそむけた。
理屈からいえば彼が正しい。だが、一週間の夏を除けば、木枯らしを食べ吹雪を寝床とするようなこの村では、合理精神よりも義理を第一義とする人間関係が優先する。辺境の苛烈な生活がそうさせずにはおかないのだ。盗っ人や殺人者よりも忌むべきものは、忘恩の徒であった。
「だがな、ドワイト――」
と、別の委員が口をはさんだ。
「トルソの言うことももっともだ。海あるが故におれたちも生きている。今回の奴は仕留めても、第二、第三のおかしな奴らが同じ手を打ったらどうする? やはり、スーインには、それなりの責任をとってもらわねばならん。おれたちの一週間の夏へ、例の貴族同様、剣呑なものを持ちこんだ罪は重い」
「てめえ――同じ村で生きてる人間を罪だの何だの吐かす気か!?」
ドワイトは席を立った。全身が怒りで震えていた。
「いいだろう、上等だ」
青年団代表は、沈鬱な委員たちの顔へ拳を突きつけて叫んだ。
「仲間の罪とやらはおれが背負ってやる。その化物、おれが片づけりゃあ文句あるまい」
「そんなことは言っていない!」
「やかましい! 逃げ口上を吐かすな!」
跳びかかろうとしたドワイトの胸前に、すっと黒い手が伸びた。
一瞬にして、冬のただ中へ投げこまれたみたいな顔つきに変わった若者の方は見ず、生唾を呑みこむ人々へ向かって、
「貴族と言ったな」
Dは美しい影のように告げた。
「海から来たときいた。海中の脅迫者ともどもその貴族も仕留めたら、スーインも珠のことも不問にしろ。後顧の憂いは残さん」
声にならぬどよめきが室内に満ちた。とんでもないたわごとを、と思いながら、同時に、この美しい若者なら、と全員が直感したのである。
「貴族を――しかも、有り得ぬはずの海からの貴族を、どうやって斃す気だ?」
治安官の声には恐怖と期待がねじれていた。
「おれは吸血鬼ハンターだ」
今度こそ、全員が眼を剥いた。
すぐに村長が、
「それは――ある意味では願ったり叶ったりじゃ。しかし、いかに吸血鬼ハンターとはいえ、敵はただの貴族ではないのじゃぞ」
「大丈夫だとも」
開け放された窓の外で、重厚な声がせせら笑うように言った。
「そいつはダンピール――貴族の仲間じゃよ」
全員が総毛立った。ドワイトすら眼を剥き、声もない。
Dはちらりと庭先へ眼を走らせたが、声はそれきり途絶え、気配も消えたか、すぐに一同へ、
「そういうことだ。三日間、おれの邪魔はしないでもらおう」
あくまでも淡々と告げ、足音もたてず部屋を出て行った。
みな茫然として、失神したごとく椅子にもたれた会議室の中で、やがて、ドワイトの苦悩の声が、
「ああ、スーイン――何てことを」
と呻いた。
Dが立ち去る少し前、村役場から足早に立ち去った教授は、村のメインストリートへとつづく細道を歩きながら、
「これで、Dの動きも十分牽制される。後は一刻も早く珠を探し出すことだが、何処へ行った? ――もう一度、あの辺を探してみるとするか」
珠の捜索途中で、村役場へと急行するDを見かけ、十分に距離をとって尾行したのだが、思わぬ収穫があった。
笑み崩れる頬を押さえようともせず、教授はワルツの流れる森の方角へと足を早めた。
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第四章 氷海異形戦
1
Dがスーインのもとを訪れたのは、役場でのトラブルから一時間もたたぬ時刻だった。
「決してここから出るな」
と告げるDに、スーインは何かあったと直感し、教えてと食い下がった。
海での事故を目撃したと言われ、Dは手短に事情を説明した。
「で、その声の主は?」
スーインの眼が怒りにきらめいた。
「いずれ会うことになる。いま、君にできるのは、ここから動かないことだ」
「わかったわ。言いつけは守ります。でも、どうやって貴族と水の中のものを? ――あのときの蟹みたいな……?」
Dは答えず、奇妙なことを訊いた。
「この村に、以前、戦闘士がやって来たと言ったな?」
「ええ」
即座にスーインは首肯した。
「博物館の館長とは親しいのか?」
「ええ。とってもいい人。昔からあたしやウーリンを可愛がってくれてね。あたしに勉強を教えてくれたのもあのお婆さんよ。――会ったの?」
「昨日」
とDは言い、スーインの顔をじっと見つめた。
「どうしたの?」
怪訝な表情に童女のような素朴さが揺れた。
「とにかく、外へ出るな」
Dはそれだけを言い残した。
走り去るサイボーグ馬を見送ってから、部屋に戻って本をひろげ、スーインはあることに気がついた。
Dは闇の中にいた。いまだに作動する防御機構のせいか、頭上の陽光は一片だに届かぬ真の闇である。
波の音がきこえる。寄せては返し、寄せては返し……。
マインスター城の巨大なる空間――あの底であった。
何をしに戻ったのか。
怪異な実験施設の並んだ内奥には眼もくれず、Dは波打ち際に沿って歩きはじめた。
広い。
星明かりひとつない真の闇の中では、Dといえど物を見ることはできない。波の音と空気の流れ――あとはダンピールの超感覚が頼りだ。
それとも――前回に|点《とも》した炎の中で、彼はすでに目的の品を眼にしていたのだろうか。
五分ほどして歩みを止めた眼の前は、石づくりの岸壁であった。
その中央が四角い|生簀《いけす》状に切り取られ、打ち寄せる波の動きに合わせて、直径三メートルほどの球体が浮いている。
Dの右手から炎の輪が広がった。
光は真球の輪郭を青白く染め上げ、その中央に固定された|単座席《シート》と、下方に収められた奇妙なメカニズムを露わにした。
座席を取り囲むように広がったパネルは、操縦盤というよりも、鳥の羽根を|象《かたど》る優美なキャビネットを思わせた。
球体の後部を囲む輪は、|姿勢制御装置《スタビライザー》であろう。
排水孔らしいものがひとつも見られないことから、潜水と航行に水を利用しないのは明らかであった。
かつて、貴族たちが“水遊び”に利用していたという潜水球がこれであった。
Dは岸壁に近づき、そこから生えた紫色の水晶に手を触れた。
音もなく、水中から鋼の板が現れ、Dの立つ岩盤と球体とをつないだ。
球体が固定すると同時に、モーターの回転音を上げて、その一部が跳ね上がった。鋼の通路を渡ればすぐに乗りこめる出入り口である。
Dは座席に身を沈めた。
透明のドアが閉まり、座席が自動的に前方を向く。といっても、着座したものが任意の方向へ視線を動かせば、千分の一ミリ単位でそれに従う全方位稼動システムだ。
座席もそれが最も人間工学的に安定した位置まで下がり、その角度に合わせて、前方に折りたたまれていたコントロール・ユニットがせり上がってくる。
ユニット上部の空間に、この潜水球らしい立体図と性能データが緑色の三次元ホログラフィとなって浮かび上がった。
コントロール・ユニットに眼を移し、Dは通常仕様と異なる付属部のふくらみを確認した。
|精神感能《テレパシー》増幅器だ。
コントロール・ユニットとは別に、この球は操縦者の意志に従って動くのだ。
貴族たちの超能力に、いわゆる“以心伝心”――テレパシーが含まれるのは周知の事実だが、彼らの科学力も、それを機械化することはついにできなかった。
この地底の支配者を除いては。
マインスター男爵か。
それとも――。
数秒間、ホログラフィを見つめると、Dはスイッチを切って映像を消し、テレパシー増幅器の動力をオンにした。
通路が沈み、球の固定ロープもはずれる。
下部のメイン動力炉が球の前方に|力場《フォース・フィールド》を設定し、球は抵抗ゼロで水を切りはじめた。
四方の光景が窓状のスクリーンに鮮明に映じる。
力場を下方に設定すると、球はみるみる潜航を開始した。
深度二〇メートル。
黒い水中だが、スクリーンの映像は真昼のように鮮やかだ。
超音波ソナーによる反射像を、コンピュータが輝度から再生しなおしているのである。
時速十六ノット(約三〇キロ)で二〇〇メートルほど進むと、黒い岩盤が迫ってきた。
中央に巨大な真円が穿たれている。直径一〇メートルはあるだろう。これが海へのとば口であった。
Dの視界右隅に、深度、潮流速度、球速度等のデータが次々に浮かび上がる。
潜水球は洞窟へ入った。
映像は岩盤内に仕込まれたメカニズムを露わにした。
潮力制御装置、浸透圧保持スクリーン、海水合成体――それは、地底の海を真の海たらしめるからくりといえた。
万物の温床。暁鬼もここで生まれたのだ。
何処までもつづいていると思われた四方の岩壁が不意に消滅した。
途方もない広がりの中にDはいた。
海に出たのだった。
船が襲われた地点に、Dは潜水球を向けた。
敵は海中にいる。目撃談からして、貴族の土地で襲撃をかけてきた鋼の怪物であろう。
何者なのか。
Dにはわかっているのか、いないのか。スクリーンを見つめる美貌からは、想像することもできなかった。
二分ほどで目的地に着いた。
魚が群れている。漁師なら涎の出る光景だった。
深度四〇〇メートル。海底までは七〇〇メートルある。
Dは一気に海底まで沈んだ。
比較的滑らかな岩場を、色とりどりの海草が水中花のように、揺らめき飾っている。
入り混じる色彩の乱舞は、スクリーンを広大な海の花園のように見せていた。
恐らくは貴族たちの手になる遊覧の地であったろう。その証拠に、海流に吹き乱れる海の草の根もとには、今なお貴族たちを恐れるかのように、人間の|髑髏《どくろ》が見え隠れしていた。
眼下を巨大な骨が過ぎていく。
貴族につくられ、同様の敵と死闘を繰り広げた生物の名残でもあろうか。
Dはセンサーを作動させていた。
五キロ四方に動くのは魚群ばかり。時折、彼方を移動する長大な影はダイオウクジラであろう。
北へと前進する。
岩の間に三艘の動力船が見えてきた。どれも船腹をかき切られている。
わずかな興味も示さず、Dは前方へ潜水球を移動させた。
ぞっとするような光景が広がった。
それは果てしなく深い|擂《す》り鉢を思わせた。
滑らかに下降してゆく斜面は岩も海草もその色を失い、一面、白色に染まっていた。
これほど不気味な白は世にあるまい。
白骨だ。
直径数キロに及ぶ擂り鉢の斜面は、隙間なく人骨の堆積で覆われているのだった。
一千年に及ぶ貴族の“海遊び”の犠牲者が、潮流に押し流されて集まったものだろう。累々たる髑髏は虚ろな眼窩をすべてDに向け、無残な運命への呪詛を口々に唱えているようだった。
Dは斜面に沿ってゆっくりと潜水球を降下させていった。
力場の影響を受けた白骨が前方でつぶれ、渦を巻いていく。
常人なら身の毛もよだつ光景であった。
水泡のごとく落ちていく髑髏の底に、黒い亀裂が口を開けていた。
全長二キロ、最大幅一二メートルとデータが告げた。
深さは三〇〇〇メートル。潜水球の限界深度ぎりぎりだ。
センサーに光点が瞬いていた。立体図形にした。底にわだかまっている泥の下に何かが埋もれている。
函であった。
|柩《ひつぎ》の形をしていた。
深度三〇〇〇メートルの海の底に横たわる|死人《しびと》の家か。
Dの探し求めるのは、そこの住人に違いない。
力場は下方に設定された。
二十二ノット(約四〇キロ)で沈んでいく。
二五〇〇メートルで、|危険信号《デンジャー・シグナル》が点灯した。
構わず降りた。
埋没地点の真上へ力場を近づける。白泥が噴き上がった。
青い水の底に、柩はひっそりと横たわっていた。やや大きめ――縦横三メートル、二メートル。内部にメカニズムの痕跡ありとセンサー・データが告げた。ただし、停止中。
その上に、その周囲に、眠りをかき乱された白骨が、奇怪な雪のように舞い降りた。
性能データにあったマジック・ハンドをDは操作した。
球の底部からスチールの腕が滑り出し、蓋を掴んでどけた。
鋼鉄製なのは、センサーがすでに告げている。
サテン地らしい内張りは、奇蹟的にちぎれず残っていた。人間ひとりの眠りを守る空隙の周囲を埋めたメカニズムは、様々な代謝調節装置とエネルギー変換装置とで成り立っていた。
下部に取り付けられた推進装置のノズルから見て、非常脱出用であろう。
必要に応じて、海水から生体維持エネルギーを取り出し、それは千年でも二千年でも、内部のものの眠りを守りつづけるはずであった。
それを不可能にした力をも、センサーはDの眼の前に提出した。
分厚い鋼の蓋と函はほぼ中央から横一文字に裂けていた。
そこに働いたエネルギーは、この深い亀裂を生むのと等しい効果を発揮したに違いない。
蓋に黄金の紋章が、Mとのみあった。
マインスター男爵のものだ。
夏の訪れとともに彼はここを脱け、村へと泳ぎ出るのだろうか。
降り積もった泥が否、と伝えている。
恐らく、海へ逃れ出た彼を、何者かの与えた悲劇が見舞ったのだ。
誰にも想像し得ぬ遠い出来事であった。
Dは無言で潜水球を上昇させた。
亀裂を抜けた。
スクリーン左方に光点が点滅した。――と見る間に、黒い影が躍りかかり、足とおぼしきものがスクリーンを直撃した。
一瞬、明かりが消え、緊急警報が狂ったように鳴りはじめた。
2
夏の境界線を越えると同時に、ドワイトは耐寒コートの襟を立てた。
凄まじい――といっても昨日まで馴染みの冷気に、暖気に慣れた皮膚細胞が次々と枯死していく。
二〇〇メートルほど前方は、すでに氷塊の列だ。
風よりも冷たいものが頬に当たり、同時に白い破片が紙吹雪みたいに視界を埋めた。
紙? ――いや、正真正銘本物の吹雪だ。
十分ほど前に、動力船を駆って後にした村には夏の陽が降りそそぎ、一〇キロ離れただけの海上は冬の嵐のただ中であった。
「なんてえ落差だ」
罵って、ドワイトはすぐに舳先を反転させた。
スーインのことを考えているうちに、境界線を突破してしまったが、海中の脅迫者をおびき出すのに、好き好んで冬のさなかへ飛びこむこともない。
スーイン待ってろ、と、胸の裡で命じた。海底の化物だの、ダンピールだの、厄介なもんばかり絡んでくるが、なに、おれが帳消しにしてやる。まず、化物を仕留めて、あの色男を追い出しゃあ、後はおめえの人柄と実績、おれの後押しで何とでもならあな。沈んだ船もおれの貯金で弁償できる。しかしよお、あの色男、何だか知らねえが、おれも気に入っちまってよ。あいつを雇ったおめえの気持ち――わかるような気がするぜ。ひょっとしたら、あいつを追い出すのがいちばん辛いかもしれねえな。
この豪放磊落な若者には似合わぬ暗い眼で、彼は陸の方を眺めた。
右手で水音がしたのはそのときだ。
びしゃっと、それは、大きな魚の尾が水を叩く響きだった。
ドワイトの動きは電光であった。
振り向いたときにはもう、|銛銃《スピア・ガン》を肩づけしていた。
六連装だが、銛の重量は普通の漁師が使う品の三倍。――三〇〇キロのソウジョウカジキの頭骸さえ一発で射ち抜く。それだけに、ガス圧も銃自体の重さも常識離れしている。
水音は絶えていた。
気のせいではない。魚群のいる位置とも違う。群れを離れた一匹だろうか。
それとも……。
ドワイトはエンジンを切った。
午後からやや風が強く、海も荒れている。魚の気配を感じるには厄介な状況であった。
「来やがれ」
声に出してつぶやき、舌舐めずりをする。闘志が全身の筋肉を燃えさかるエネルギー体に変えていた。恐怖心など|破片《かけら》もない。根っからの闘う|男《ファイター》なのだ。漁師を生涯の仕事と決めなければ、辺境でも屈指の戦闘士となっていただろう。
加えて、スーインへの想いが血をたぎらせていた。
幼馴染みだ、といえば、同じ年頃の人間全部がそれに当てはまる小さな村である。
仲良く遊んだ記憶より、取っ組み合いの憶い出の方が多い。
一発殴れば二発返ってきた。
でぶと罵ると、野蛮人、人間鯨と言われた。
それが案外、恋情を育てたのかもしれない。
いつも前を見つめている娘だった。
両親が亡くなったときも、葬式の後では一度も憶い出話をきいたことがない。
いつだって、太い二本の足でスーインはどっしりと立っていたのだった。
それでも、強い風は吹く。
そんなときに支える役目が自分に廻ってきたと、ドワイトは考えていた。
後方で、水音。
振り向いた。
波頭に水の輪が広がっていく。
「野郎――おちょくりやがって」
吐き捨てた背後で、
「おい」
渋い男の声が呼んだ。
闘志と驚きを全身に満たして、ドワイトは三たび振り向いた。
右舷の船べりに清楚な女の顔が乗っていた。金髪も白い艶やかな肌も濡れ光っている。
遭難か、とドワイトは一瞬考え、すぐに、ある記憶を甦らせた。
昨夜――貴族の消えた海辺で、あの吸血鬼ハンターと仲間たちが見たという人魚。
こいつか!? ――だが、あの声は男だ。
「何をきょろきょろしている?」
と、夕陽貝のような赤い唇が、いま[#「いま」に傍点]の声を吐いた。
「何をしに来たのか知らんが、いいところへ来てくれた。昨夕から泳ぎに出たのだが、魚肉には飽き飽きした。昔のように、人の肉が欲しい」
「船を沈めたのはてめえか?」
ドワイトは負けじと問い返し、すぐ、
「昔? ――てめえ、何者だ?」
と訊いた。右手の指は必殺の引き金を限界まで引いている。
「おまえは初顔だな」
と、女は言った。女の顔が。
「千年近い昔、おまえくらいの餓鬼を、水中に引きずりこんでは貪り食ったものよ。どいつもうまかった。ほほ、ここ三、四十年は抑えていたが、故郷の海へ戻った途端、その味を思い出したぞ」
「しゃらくせえ。てめえ、男か女か? 女を殺すのは苦手だが、いまの話とその声をきいたら黙っていられねえ。おお、珠をよこせとか言ってたのは、てめえか?」
「珠? ――知っているのか、おまえは?」
「やっぱり、てめえか。――覚悟しろい?」
高圧酸素が押し出す銛は秒速一五〇メートル。――それが女の消滅を許し、わずかに金髪の断片をちぎって水中へ没したのは、不意に襲った大波に、ドワイトの指がぶれたせいであった。
「畜生!」
叫んでエンジンのスタート・ボタンに手を伸ばした刹那、ぐらりと足もとが揺れた。
空が廻った――と見る間に、ドワイトの身体はコートと銛銃ごと|水飛沫《みずしぶき》をあげて青い水に落ちた。
落ちた瞬間も、ドワイトは両眼を開けていた。
|鬼竜《きりゅう》魚とライザンザメは、人間が水中へ沈んだ刹那に襲い、肉を食い切るのだ。
女の顔が眼の前にあった。
かっと紅い口が開いた。
真紅の口腔を縦に区切る牙の列を見ても、ドワイトは驚かなかった。
テッコウザメの口は五〇倍も大きく、牙は百倍も太いのだ。
「間違いだぜ。真正面からくるとはな」
ぼそりとつぶやき、ドワイトは銛銃を右手に移した。
女は両手で肩を掴み、首筋を狙ってきた。その喉笛を左手で押し放し、銛銃を白い脇腹へあてる。
今度ははずれなかった。
巨鯨の脂肪層一メートル・プラス・二〇センチの頭骨を貫く銛は、柔らかい女体を貫通し、血の糸を引きつつ海の彼方へ消えた。
女がのけぞった。
とんぼを切る上半身へ、ドワイトは第三弾を放った。
苦しまぎれの動きが、女の身体を予想外の方向へ曲げ、三本目の銛は腰のやや下――鱗に覆われた下腹へ命中し、半ば貫いて止まった。
のたうちつつ、女はドワイトを見据えた。その形相の凄まじさ、うらめしさ。
怖いもの知らずの海の男を、異界の戦慄が直撃し、彼は無我夢中で水を蹴った。
船腹が頭に当たった。エンジンをかけていないのが吉と出た。
銛銃を放りこんでから昇った。
大急ぎでエンジンをかける。
眼の前で床が弾けた。
白い手首と一緒に水が噴き上げた。
手が消えた。
修理用粘土を抱え上げたとき、数十センチ離れた船底がやられた。
危ない、とドワイトは判断した。
陸まで戻る余裕はない。
舳先を氷塊へ向けた。海上では危ない。地面に誘い出す手だ。
スピードを最高に上げて、ドワイトは銛銃を取りに舳先の方へ行った。
雪片が吹きつけた。境界線をくぐったのだ。前方の海面が盛り上がる。閉じた花びらを突き破るように女が躍り出た。血の糸を引いている。悪鬼の形相であった。
空中で身をひねり、急降下してくる。
ドワイトの右手は、まだ銛銃に届いていなかった。
スーインの忘れものは教科書であった。学校の授業には子供相手といえど予習を欠かせない。
憶い出して、ふと、おかしくなった。
岬で目撃した遭難事故の一部始終はDから伝えられた。彼の素姓が村のお歴々に知れたこともきいた。
ひょっとすると、村にはいられなくなる。それもいいだろうと思った。引き留める何ものもない北の村であった。
ここで生きて来れたなら、何処ででも生きていけるはずだった。
Dの秀麗な美貌が胸の中に浮かんだ。
あんな生き方もいいかもしれない。一緒に行けっこはないけれど、旅から旅の生活も、案外、自分に似合っているのかも。
いや、ひょっとしたら――一緒に……。
何処かで、Dの微笑を見たような気がしたのをスーインは憶い出した。
一緒にいれば、いつかもう一度、あの笑みを見られるかもしれない。
初めて味わう甘美な女の想いを、別の小さな顔たちが吸い取った。
先生、と彼らは言っていた。
学校はいつから?
今日からよ、とスーインは胸の裡で答えた。まだ、別れは告げていない。少なくとも、彼女はまだ教師なのだ。
二度と教壇に立てないかと思うと、その想いはさらに強さを増した。
「予習ぐらいしておかなくてはね」
彼女が家へ向かったのは、Dと別れて二時間後であった。
空気はやや青ずんでいるが、いつもより明るい。
寂寥がスーインを包んだ。一日空けただけの家は、他人のもののようによそよそしかった。
ウーリンも祖父もいないのだ。
遠く流れる祭りのBGMをききながら、スーインは母屋へ入った。
教科書は私室の本棚にあった。そうなると、持っていきたいものが他にも出てきた。
洗剤、予備の照明灯、固形燃料――コートももう一枚……。
家中を巡ってあれこれ揃え、気がつくと、青い世界は闇色に変わる寸前であった。
理由のわからぬ戦慄に襲われ、スーインは居間の明かりを点し、荷物をバッグに詰めはじめた。
五分とかからず終わった。
明かりを消して、ドア・ノブを掴んだ。廻したが、ドアは開かなかった。
――!?
体重をかけて押した。びくともしない。押さえつけられているとか、鍵をかけられたとかいう感じではない。ドア全体がびくともしないのだ。膠で貼りつけられたかのように。
ある記憶がスーインの脳を叩いた。
バッグを手に、台所に通じる戸口へと走った。
くぐろうとした途端、右横から現れた人影が行く手を遮った。
凄まじい恐怖の風が、ふくよかな頬を打った。
「あなた……あなたは……」
自分の虚ろな声をスーインは冷静にきいた。
「お祖父……ちゃん……」
「スー……イン……」
と、青白い顔でつぶやき、祖父はウインクした。
敵の一撃は、潜水球の眼を奪ったようであった。
輝度スクリーンが消え、窓の外の光景は薄闇に包まれた。
幸い、データ表示用のホログラフィ機構はダメージを受けていない。
敵の正体はすぐわかった。
立体図形の描き出した姿は、まさしく、あの蟹であった。
球の上部に付着し、鋏をふりかざしている。
いかに強化ガラス製の球といえど、あの鋼の足を叩きつけられては危ない。
恐らく、岩場の隙間に隠れてセンサーの眼を逃れたのだろう。Dの動きは逐一、監視していたにちがいない。
つづけざまに衝撃が襲った。球自体は力場設定により固定されていても、材質の強度に変化はない。
ライトが点滅し、「危険信号」が点った。力場発生機構は「故障寸前」と出た。
Dは力場を球上部へ移動した。
蟹は吹っとんだ。水中で一〇メートルもとび上がり、体勢を立て直す。
足を各関節で折り曲げ、猛烈な勢いで接近してくる。
よほど高性能のスタビライザーと緩衝装置に守られているらしかった。
力場の設定に従って上昇しつつ、Dは球の被害状況をチェックしていった。
わずかなぶれ[#「ぶれ」に傍点]を感じた。こちらのスタビライザーは異常ありだ。出力の落ちた力場発生機構がやられたら、身動きがとれなくなってしまう。
最大の難問が提示された。
航行エネルギーが眼を見張る速度で減少しつつある。
航行前のチェックでも、要注意とされていた。あと、五分と保つまい。
Dは力場設定を自力走行に切り換えるや、蟹のど真ん中へフル・パワーの力場を叩きこんだ。
足がねじれ、甲羅がきしんだ。
それだけだ。追ってくる。
水中での戦いには、エネルギーも武装も残っていなかった。
力場発生機構が停止した。
水中での戦闘は、もはや不可能であった。
海面まで、あと五〇メートル。
3
生死を決したのは、大自然を生き抜いてきた海の男の勘だった。
自分でも意識しないうちに、ドワイトの右手は腰へと方向を変え、手鉤を掴むや頭上の死へと投じていた。
鉤の重量は二キロ。
ぶん! と人魚の腰へめりこんだ。
悲鳴が上がった。男の声を美女の唇が放ったのだ。
身をひねったドワイトの動きに合わせて、人魚の降下も乱れ、どっと舳先に落ちた。
その間にドワイトは操舵室の脇へとび、船べりの下につけた予備の銛を構えた。
女の形をした魚はのたうち廻っていた。
人体部を貫通され、下半身も異なる銛に貫かれた上、腰には太い手鉤がめりこんでいる。
はた目にも、無残凄惨この上ない光景だ。
だが、美しい女は、断末魔にもこのような顔はしない。眼はしない。
眼球は血色に染まり、ガチガチと噛み合う牙も、口から洩れる鮮血に染まっている。魚の半身をのたうたせながら、女はドワイトを睨んだ。
それだけで、海の男は構えた銛を投げられなくなった。
女の手が腰を貫く銛を掴んだ。
うおおと叫んで引き抜こうとする。先端の|逆棘《さかとげ》が肉にひっかかり、止まった。
美貌が苦痛に歪む。
それでも引いた。肉の裂ける音はドワイトにもきこえた。肉片のこびりついた銛を、女は海中へ投げ捨てた。
手鉤に移った。
簡単に抜けた。
女は捨てなかった。
二キロの鉄塊を繊手に握り、腹這いでじりじりと近づいてくる。三カ所の傷口から滴る鮮血で、全身は朱一色だ。それよりも赤々と燃える瞳には、凄まじい憎悪だけがきらめいていた。
「おまえは……ゆっくりと……食ってやる」
声にも苦痛と呪いが満ちていた。
「その前に、この鉤で、ズタズタに引き裂いて……たっぷりと悲鳴を上げさせてやるぞ……」
「しゃらくせえ!」
ドワイトは声を振り絞った。力が入らないのも構わず、
「くたばれ!」
思い切り銛を放った。女の手が横殴りに走り、固い音を引いて、ひん曲がった武器は海中へ落下した。
恐怖の汗にまみれたドワイトの顔へ、どっと雪片が吹きつけた。
女との距離は一メートルもない。
氷塊までは――五メートル。絶望的な距離であった。
女がにっと牙を剥いた。
突然、重力の方向が変わった。
右舷――一メートルと離れていない海面へ、巨大な球体が浮かび上がり、撥ねのけた水が横波となって船腹を直撃したのである。
とっさにドワイトは船べりに手をかけたが、投擲の姿勢にあった人魚は、撥ねとばされるようにして海中へ落ちた。血の筋が後を追う。
わけもわからず、赤い水煙を上げる海面を眺め、すぐに反対側の出現物を見つめて、ドワイトは茫然たる声で叫んだ。
「おめえは――D!?」
球体の上から、黒い風が羽根を広げて船上へ舞い降りたのは次の瞬間だった。
ドワイトの方を見向きもせず、Dは遠ざかりつつある球体を見つめている。
「おい」
言いかけて、ドワイトは眼を剥いた。
球体を押しのけるように、黒い足状のものが数本、海中からそびえ立ったのである。
――こいつだ!
一瞬に悟った。
――こいつが船を沈め、スーインの球をよこせと脅迫した張本人だ!
「すぐに氷の上だ」
Dが鋭く言った。
「降りる準備をしろ。――来るぞ」
「よっしゃ!」
ききたいことは山ほどあったが、ドワイトはすべてを忘れた。
自分の関わった死闘がこの世のものではなく、生き延びるためには、ただ眼前の美青年に協力するしかないと悟ったのである。
吹雪が奇怪な脚と爪を消した。
氷塊が迫ってきた。
ドワイトは巧みに舵を操り、平坦な部分にボートを接岸した。
Dが降りたのにつづく。風と雪が頬を叩いた。フードを顎の下で止めながら、
「どうするんだい?」
と訊く。
「この辺は何メートルある?」
Dが尋ねた。
氷の厚さだった。
「ざっと八メートルだ。いくら化物でも追っちゃ来れねえよ」
「来る」
「まさか」
「おまえまで海へ出る必要はなかった」
Dは言った。
静かな声が、ドワイトの癇に触った。
「余計なお世話だ」
憤然と叫んだ。
「おれはおれなりに考えてここへ来た。おめえひとりにいいカッコさせてたまるかよ。つべこべ吐かすと、連れて帰らねえぞ」
「スーインが喜ぶだろう」
「はン?」
「離れていろ。奴の狙いはおれだ」
そう言って、Dは身を翻した。前方は荒涼たる氷の原である。珍しいくらい平坦な広がりであった。
「おい。――おれも、おかしな化物に会ったぜ」
ドワイトの呼びかけに、Dは足を止めた。
「人魚だ。そいつも珠のことを知ってた。えらい|別嬪《べっぴん》だが、女は顔じゃねえやなぁ」
この期に及んで、しみじみとこんな感想を洩らすとは、ドワイトはすでに、いつもの豪放さを取り戻していた。
「銛を二本、手鉤を一発食らわしたが、びくともしねえ。おめえが出て来たとき、海ん中へ落っこっちまったけど、まだ、その辺でこっちの隙を窺っているような気がするぜ。くわばらくわばら。――親父がおふくろを怖がってたわけが、やっとわかったよ」
ドワイトの言葉を風のうなりが引きちぎった。
特別凄まじい風圧に真っ向から襲われ、ドワイトはバランスを崩して数歩後退った。
「あ、畜生――こら……」
体勢を立て直しかけ、また数歩後退する。
それが風のせいではないと知ったのは、次の瞬間だった。
彼とDとの間の氷原が盛り上がるや、数トンに達する重量を突き破って、あの足が出現した。二本あった。その先端は、凄まじい勢いで旋回していた。
さすがに八メートルの氷は割れず、そのドリル状の回転によって穴を穿ち、突破可能になってから現れたものだろうか。それも数秒の作業でなければ、二人の虚はつけない。
さらに数本の足が現れ、カチカチと曲がって氷原にその爪先を固定するや、余分な氷を撥ねとばし、黒い円盤――蟹そっくりの姿が二人の前に立った。
分厚い胴体の中央で、半透明のドームが旋回し、停止と同時に左右に分かれた。
醜悪な顔がまっすぐにDを見て、
「驚いたかね?」
と、クローネンベルクの顔役――ギリガンは、抑揚のない声で訊いた。
スーインはすぐに事態を察した。感傷に溺れない習癖は、苛酷な環境の賜物であった。
死人が現実に生き返るはずはない。となれば――偽物だ。
「誰!?」
鋭い叱咤に、祖父の顔が歪んだ。眼が鼻が口が、溶けたゴムみたいに崩れるや、全く別の、若々しい顔が形を整えた。
ツィンという名と顔がスーインには一致しなかった。
「あんまり驚かねえな――詰まらん」
と、ほんとうに詰まらなそうに言って、彼は背のびをした。衣裳は祖父のものだ。背の高さや身体つきも、とスーインが思った途端、それもたくましい男のものに変わった。
大きく後退して、スーインはバッグを離し、隠れ家から持ってきた短槍を構えた。
ぴしりと男の心臓を狙い、微かな揺れもない。魚を狙う要領だ。
「何だか知らないけれど、珠を狙う奴らのひとり――お祖父ちゃんと妹を殺した仲間だね。よりによってお祖父ちゃんに化けるなんて。断っとくけど、容赦しないよ」
「わかった、わかった。――そう、力むなって」
突きつけられた槍の穂先だけを見て、スーインの腕と本気なのを知ったのか、ツィンはこれも生真面目な声で言った。
「こっちも断っとくが、あんたの妹と祖父さんを|殺《や》ったのは、おれじゃない。必要とありゃ、いつでも殺すがよ。な、無駄な抵抗はやめて、一緒に来てくれや」
「あたしをどうする気よ?」
「あんたを囮にして、あいつを呼び出す。珠と引き換えに無事返すって寸法だ。いちばん賢いやり方さ。おれがここに残ったのは、珠を盗むのと、あいつの隙を見て殺すためだが、いかんせん、手強すぎる。おれひとりでどうこうできる相手じゃねえ。おかしな剣術気違いとやり合ったときに、邪魔してみたが駄目だった。となれば、後はいま言った手しかない」
ツィンは左手の指先を、槍の穂に沿って滑らせながら、じっとスーインを見つめた。
「あの家探し[#「家探し」に傍点]もあんたか。――一体、どうやって、あたしの後を尾けて来たの?」
「尾けやしない。最初からここにいたさ」
スーインの表情が驚きに揺れた。
「あんたの祖父さんに化けたのは今じゃない。海の中で死体が見つかったろ。あれがおれさ」
「じゃ――最初に、Dに見破られて手を斬られた奴は?」
「相棒さ。――と言っても、兄弟だが。同じ日の全く同時刻に生まれたんでな、どっちが兄とも弟ともわからない。奴も祖父さんに化けたおかげで、おれの方はあんまり疑われずにすんだ。もっとも、あの吸血鬼ハンターは、うすうす勘づいてたな。納屋でぶっすり刺されたときは、心底怖かったぜ」
「刺されたなら、どうして死なないの?」
「おれは死体に化けてたからよ。死体を刺したって二度は死なねえやな。おれを殺すんなら、生きてるときに殺るこった」
それが、この男の戦闘士としての能力なのだろう。
Dにすら見破れぬ死人に|変化《へんげ》して土中に埋もれ、必要なときのみ活動した後で、再び土中に沈む。その出没のさまも神がかり的巧みさでなければ、どうやってDの眼を逃れ得ただろうか。
「ついでに教えといてやるが、おれたちが二人組――ツィンだってのは、この世でおれたちしか知らねえ。見抜かれたら、戦闘士としての価値はガタガタだ。だから、知られた以上は、おめえも生かしちゃおけないのさ。用が済んだら始末してやるよ」
ツィンの手が槍の穂に伸びた。
スーインは思いきり突いた。祖父と妹を殺された怒りがこもっている。
男の指の間をかすめて、鋼の先端は正確無比にその心臓を貫いた。
ツィンの身体が揺れ、彼は穂先を掴んで、それを下に押した。
必殺の槍が、まるでなまくら[#「なまくら」に傍点]に変わってしまった手応えに、スーインは驚愕している。
「これさ」
ツィンはもう一方の手を広げて見せた。てのひらに盛り上がった半透明の粘液は、Dの刃にまつわって、切れ味を低下させた品であった。
「おれたちの身体から滲む脂肪だ。好きなときに好きなだけってわけにゃいかねえが、刀や槍を防いだり、窓に目張りするくらいはできるぜ。さ、あきらめて」
ツィンの声は空中からきこえた。
居間を横切り、自ら閉ざしたドアに激突するまで、彼は状況が理解できなかったろう。
フェリーの船上で、シンの傀儡を相手に見せたスーインの技を、彼は見ていなかった。
間一髪身をひねって、頭から激突するのを避けたのが、戦闘士としてのせめてもの矜持だった。
「糞ったれ……」
落下した床から血相を変えて立ち上がった喉に、唸りをたてて槍の穂先が叩きこまれ、戦闘士ツィンともあろうものが、血反吐を撒き散らしてドアに叩きつけられた。床へ倒れた身体は二度と動かなかった。
ほんの一瞬、苦悩と後悔を表情に漂わせたが、すぐに厳しさを取り戻し、スーインは短槍を引き抜いた。
「殺したくなんかないけど、お祖父ちゃんとウーリンの敵。――あたしまで殺そうとしたわ。迷わずあの世へ行ってちょうだい。貴族の手下にだけはならないで」
バッグを拾って短槍を抱え、スーインはあらためてキッチンの戸口へと向かった。
「まだ早いぜ」
声よりも背筋を撫でる冷気に衝撃を受けて、スーインは振り向いた。
ツィンは居間に通じるドアを背に立っていた。
「一体――どうやって……?」
「忘れたのかい、死人は殺せないって。――喉を刺される寸前、おれは死んだのさ」
スーインの手からバッグが落ちた。
いかにも自然に見せたつもりだったが、短槍を構えた胸もとへ、ツィンが音もなく滑りこんだ刹那、鳩尾へ猛烈な打撃を受けてスーインは昏倒した。
「ふざけやがって。女の分際で出すぎた真似をするとどうなるか。見せしめのために、鼻を削いでくれる」
喉を撫でながら、嗄れ声でつぶやき、ツィンはスーインのかたわらにしゃがみこんで、形のよい鼻のつけ根にナイフの刃をあてた。
育ちのよい坊っちゃん顔なだけに、身の毛もよだつ残虐な行為だが、戦闘士ならこれくらいのことは平気でやる。
ツィンの指に力がこもった。
「おめえに首を斬られても、おれは生きてたぜ。痛かったよ、あのときは。死にてえくらいに痛かった」
雪は激しく、風の音はさらに悽愴であった。その中を、ギリガンの怨みの声は陰々と流れた。
「だけどな、頑張ったのよ。こいつに乗りこむまでは。この日のために、おれは勉強して来たんだ。いくら首を切られたからといっても、死ぬわけにゃいかなかった」
すでに一刀を抜き放ったまま、Dはギリガンと、新たな肉体ともいうべき黒いメカニズムを見つめていたが、不意に、
「貴様――『血の探究者』だな」
と言った。
「ほう、やっぱり知ってたか」
ギリガンは声もなく笑った。
「吸血鬼ハンター“D”――ただのハンターでも、ダンピールでもねえよな。どうだい、おめえとおれと、どっちが貴族に近いか試してみねえか?」
応じず、Dは一刀を右肩より垂直――右八双に構えた。
『血の探究者』――貴族を限りない憎悪と恐怖の対象とするこの世界において、彼らの呪われた血を、まさしくその忌まわしさゆえに畏怖し、研究信仰する一団があった。
人間はやがて死を迎える。この大原則を考えるとき、人の精神は凍りつかざるを得ない。そのとき、まさにそのとき、人は自ら意識することなく、あるものを羨望する。
永劫に果てぬ貴族の血の秘密を。
『血の探究者』とは、それを探り、自らの身につけるべく、いかなる秘儀への参入も辞さず、それどころか、貴族に血を吸われることさえも厭わぬ狂信者たちの呼び名なのであった。
血の謎を解くべく、彼らはあらゆる場所を巡り、貴族のすべてを学ぼうとする。荒涼たる山峡の古城を、絶海に浮かぶ孤島の大工場跡を、平原にそびえる巨大遺跡を、そして、知識の遺産をひそかに貯えた地下の大宮殿を。
辺境の町の顔役という文字通りの「顔」の他に、ギリガンは『血の探究者』のひとりとして、密かに貴族の古文書を読み、技術と製作品を手に入れ、あろうことか、自らの身体を実験台として、貴族に近づこうとしていたに違いない。
そして、成果は上がった。
Dの一刀に首を断たれながら、こうして生き延びているのがその証拠だ。
人間にはおよそ考えられぬ奇怪なメカニズムを駆使するのがその証拠だ。
すると、その彼が生命を賭して狙う“珠”の秘密とは――すなわち……。
「今度は油断しないさ」
とギリガンは自信たっぷりに言った。
「おまえにやられたところは修理したし、装甲ペイントも、エンジン出力回路も強化した。あのときの倍は速く、硬いわ。――ところでよ、珠は何処にある? 教えてくれれば、いや、渡してくれれば、楽に死なせてやるぜ。ここは氷の上――一〇メートルも下がりゃ海の中だ。貴族の血が裏目に出る。一方、おれは平気さ」
貴族は流れを渡れず、すべて泳げない。この古今不滅の大原則ゆえに、ギリガンは海に潜み、Dを待ち受けていたのであろう。陸上で戦いを挑んだのは、彼にとって、あくまでも腕慣らしにすぎなかった。珠を要求すれば、Dが出てくることも計算の上であったろう。
「おい」
初めて、第三の声が加わった。
ドワイトが両手を口にあて、
「――その[#「その」に傍点]珠ってのは、一体、何なんだ?」
と叫んだのである。
ギリガンは振り向きもせず、
「――Dよ、知りたくはないか?」
と訊いた。
返事は無論ない。Dの脳裡には黒い殺人機械を斃す方法のみが明滅しているに違いない。否。生も死も虚無の名のもとに統括できるように、それすら超越した若者の思考は、この世の誰もが知り得ぬ闇に塗りこめられているに違いなかった。
美影身が音もなく前進した。
動かぬ巨大な蟹との距離が二メートルにまで近づいたとき、足取りは変わらず、白光が上から下へと流れた。雪片さえ切れた。
美しい音をたてて、刃は撥ね返された。
交差するが如くに襲った脚を避けて、Dは二メートルも後方へ跳んだ。
「無駄とわかったかな? ――このあいだみたいに、自分の血を舐めて貴族の本性を出してみたまえ。本格的に挫折させてやろう。さあ、珠は何処にある?」
歯車の噛み合う音が風の音も食い破った。
メカニズムの雄叫びであった。
ぎくしゃくしながらも滑らかな動きでDめがけて走る。
Dの剣尖が下がった。
その動きが向かうのと反対方向へ蟹が廻りこむ。
胴体上部が回転した。殺人ワイヤの発射孔がDをポイントする。
ごお、と白煙が上がった。雪煙であった。地から舞い上がったDの刀身が生じさせた白い膜は、次の瞬間、ずたずたに切り裂かれていたが、その断片が風に吹き散らされたとき、氷原にDの姿はなかった。
蟹は明らかに動揺した。
探知器の類は装備していないらしい。
|操縦《コントロール》部がめまぐるしく動いて、|隠形鬼《いんぎょうき》と化したDを探す。
止まった。
雪の上に赤い斑点が生じていた。数メートルの間隔をおいて氷原の奥へとつづくそれは、まぎれもない血痕であった。
「逃がさんぞ」
と蟹は胴体の何処からか、ギリガンの声を発した。
「おまえがいる限り、おれの計画と夢は成就せん。何処へ逃げても殺してやる」
そして、黒い人工怪物は、美しいとさえいえる足取りで、雪煙を上げつつ走り出した。
いかにDといえども、速度ではメカニズムに及ばない。
一〇〇メートルといかないうちに、血は方向を左へ転じていた。
雪の丘が蟹の視界を塞いだ。
砕かれた氷塊の凸凹へ雪が降り積もったものだ。氷原での戦いの不利を、Dは悟ったのだろう。
五〇度ほどの傾斜の途中に血痕がとんでいた。
蟹はゆっくりとそこを上がりはじめた。二度ほど雪が崩れたが、器用にバランスをとって、垂直七メートルほどを昇り切る。
丘の上にもDの姿はなかった。
雪中に身を潜めているのだろうと、蟹は判断した。
続けざまに高圧空気の放出音が響き、雪が煙を噴いた。風だけが悲鳴を上げた。
蟹は丘の端を眺めた。
血痕がつづいていた。
自重を計算に入れつつ、注意深く進む。氷でも崩れたら厄介だ。
限界と覚しき地点まで進み、立ち止まったとき、その足にうなりをたてて巻きついたものがある。
それが、射ち出したワイヤの一本であり、背後から投ぜられたと知って振り向いたときにはもう、黒い影が雪中から|化鳥《けちょう》のごとく躍り上がって距離を詰めていた。
残りの足で受け止めようとしたが、動けない。絡まれた数は四本もあった。
ワイヤ・ガンが旋回をはじめたとき、Dの身体は空中に跳んでいた。
片手のみで振り下ろされる一刀のきらめきに、内側のギリガンの思考は二度変わった。
――割れっこない。
――だが、そこ[#「そこ」に傍点]は!?
まさに、そこ[#「そこ」に傍点]だった。
Dの刃が食いこみ、亀裂が走った。二日前――貴族の土地で受けた個所に、あのときの形で!
鉄の蟹は火を噴いた。
|自動修理《リペア》機構がプラスチックの充填剤を噴出して隙間を埋めにかかる。
着地と同時に、Dは自由を奪った四本の足へ一刀を叩きつけた。
一本が切れ、蟹の身体は大きく傾いた。
裂け目からオイルがとび散り、雪を黒く染めた。
爪が襲った。
身を屈めてかわし、Dはもう一本の足を断ち切った。
分散していた蟹の重量に移動が生じた。足が雪中にめりこみ、その下で鼓膜を引き裂くような破壊音が鳴った。
雪と氷が落下する白い奔流の中に蟹の姿が紛れ、数トンの重量とともに地上へ叩きつけられるまで、二秒とかからなかった。
コートの裾を羽根のごとく翻しつつ、Dは、地上へ出現した氷の山の麓へ舞い降りた。
「一体――何なんだよ、こいつ」
背後でドワイトの嗄れ声がした。
答えは、氷塊の底から巻き起こったエンジン音であった。
きらめく塊が震え、不意に陥没した。地表から、わずかに頭頂だけを残して止まった。
蟹は穴を掘って逃げたのだろう。
八メートルの氷から出現したときと同じように。
「逃げたのか?」
ドワイトの問いに応じず、Dは一刀を収めて彼の方を向いた。
その美貌に緊張も疲れの色もなく、氷雪吹きすさぶ荒原でますます冴え渡っていることに、ドワイトは戦慄した。
生と死を超えるものは、美しさかもしれない。
「いずれ片がつく」
と、Dは静かに言った。
「そのときまで黙って見ていることだ。ここ数日は安全だと思うが、漁は控えろ」
「わかってるさ」
と、ドワイトは言った。
「どれをとっても、この村で起きるようなこっちゃねえ。知らねえのが一番よ。夏の間はな」
その顔に雪片が貼りつき、溶けた。
片手で拭きとったとき、Dは陸地の方を向いていた。
向こうには夏があった。
「じきに終わるよな」
ドワイトは遠い声で言った。それから、Dの左手に眼を落として、
「やっと気がついたが、手首から先はどうしたい?」
と訊いた。
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第五章 緋色に染まる珠玉
1
首筋を掴まれた瞬間、ツィンにはそれが誰かの手だとわかった。
もう一方の手で武器を突きつけられる前に、彼は右手のみを動かし、後ろの敵へナイフを叩きつけた。
空を切った。
当然、敵の身体があるべき空間には何の手応えも感じられず、愕然とする間もなく、彼の喉は握りつぶされ、口と鼻から血塊が溢れた。
スーインの身体へ覆いかぶさるように斃れれ、ぴくりとも動かない。
「死人に変わる余裕はあるまい」
ひとりは失神、ひとりは死骸と化した居間の中で、ぼそぼそと聴くものとてない声が言った。
「祭りに浮かれてのんびり戻ってきたが、奴[#「奴」に傍点]はおらず、いるはずのないもの[#「いるはずのないもの」に傍点]が二人も、か。こんな村でも事態は急速に展開しておるわい」
背中に強烈な圧迫感を受けて、スーインは眼を開いた。
頭髪の薄い皺深い顔が、心配そうに前方へ廻ってきた。
「蛮暁さん……」
やっと声が出た。一瞬に記憶が戻り、上体を起こしたままの形で四方を見廻す。
俯せに倒れたツィンの死体に気づいたのを知って、蛮暁が、
「絞め殺されておる。あんたがやったのではあるまいな。――すると……」
「あなたでもないのね?」
スーインは眼を伏せて立ち上がった。
「すると、助けてくれたのは誰かしら?」
「わからんな。こやつ、何者だ? 珠とやらを狙うひとりか?」
「どうして、それを?」
訝しげなスーインの瞳に、僧侶は慌てた風もなく説明した。
「今日、豊漁の祈祷を頼まれて、ある家へ出かけたら、そこの主人が村のVIPのひとりじゃった。そこで事情をきいたのよ。こら大変、どうしておるかと覗きにきたら、この|様《ざま》じゃ」
スーインはうなずいた。
「とんでもない夏になってしまったわね」
「まあ、な」
蛮暁は同意した。
「だが、くよくよしてもはじまらん。――この死体だが、始末しておこう」
「駄目よ、治安官に届けなくちゃあ」
「せっかくの夏をこれ以上、騒がせてはならんよ」
蛮暁は重々しく言った。
「その家できいた話じゃが、村長以下、衆議一決でトラブルは隠蔽することに決まった。細かい処理は夏が終わってからじゃ」
「それがいいわね」
スーインは認めた。正しい処置だった。今の村に大切なのは一週間の夏祭りで、スーインのトラブルをみなで解決することではない。
「じゃあ、この死体を――」
「裏庭に埋めるのがよかろう。悪党といえども、死ねば罪はない。わしがねんごろに弔ってくれる」
三〇分後――
スーインがシャベルを納屋へ置いて出てくると、祈祷を終えた蛮暁が戻ってきた。
「どうするんじゃね、これから?」
母屋へ入りながら、スーインは現在の事情を説明し、バッグを下げて馬車へと戻った。
「すると、珠はDが持っておるか」
蛮暁は考えこんでいたが、懐手をして言った。
「どうじゃな。その隠れ家まで、わしが送って進ぜよう」
「悪いけど、誰にも内緒なのよ。坊さんにもね」
「|情《つ》れない返事じゃの」
「ごめんよ」
スーインはエンジンをスタートさせた。
「無理にとは言わん。そこまで乗せていってくれや」
そう言って、蛮暁は返事もきかず、隣へ乗った。スーインも文句は言わない。剛毅な娘である。
通りへ出た。闇が潮騒を奏でている。
「右よ」
とスーインが言った。
「左じゃ」
と蛮暁。
「降りてちょうだい」
「へいへい」
坊主は運転席から跳ねた。右手を長衣の懐に入れている。
「それじゃ、気をつけて」
素っ気なく言って、スーインはハンドルを右へ切った。
金属の触れ合うような音がした。
荷車は走り出した。
左へ。
いつの間にか、助手席にまたも蛮暁が腰を下ろしていたが、スーインは気づかない。彼女の眼には、予定通りの光景が映っているのだろう。
蛮暁の右手で光るものが揺れていた。
ついさっき二つに離され、いままたくっついた二本の金属の輪であった。
「姉妹ともどもこいつが役に立ったのも、何かの縁かな」
うらぶれた外観からは想像もできない若い声で彼は言った。
ああ、その声は、手の|金属輪《リング》は――“|逆《さか》しまのトト”のものだ。
辺境を股にかける大泥棒――その彼が、実は蛮暁の正体だったとは、ともに村までやってきたDすら看破し得ぬ秘密であった。
「Dが海の化物退治に出かけると啖呵を切ったそうだから、ひょっとしてこの娘ひとりかと思ってきてみたら、金的だ。ゆっくり尋問して、珠はおれがいただく。勿体ねえくらいの人質さ」
けっけっけと低く笑い、蛮暁=トトは前方を見つめた。
荷車は、まだ、道を左へ折れてから一〇メートルも進んでいなかったが、ライトの光の中に、この時、黒々と浮かび上がったものがある。
「――D!?」
愕然と叫びかけ、しかし、トトはすぐに気がついた。
旅人帽もない金髪は水に濡れ、青いケープの裾から滴る水滴が路上に吸いこまれていく。
「トンネルの……」
言いざま、彼はスーインの首筋へ手刀を叩きこんで失神させ、かわってハンドルを握った。
二度までも眼の前に出現した理由を、偶然ではないと見切ったのだ。
思い切りアクセルをふかし、車を突進させる。
殺せるとは思っていない。何とか逃げのびるのが最大の目標だ。
雄牛の勢いで荷車は貴族との距離を詰めた。
轢いた!
――とトトが確信した刹那、ケープ姿は忽然と消滅した。
ハンドルがトトの握りを無視して右へ動いた。
悲鳴をあげる余裕もなかった。
急カーブを切った荷車は、あっという間に道を外れ、堤防を横切って鼻面から砂浜へ突っこんでいった。
勢いあまって前方へ一回転する。
逆さまになった運転席で、トトは真っ先にスーインの様子を調べた。
ショックで活が入ったのか、ぼんやりと彼の方を向いた。
「大変だ。貴族が出おったぞ」
トトは蛮暁の声で言った。顔も老人のままだ。
スーインの顔に恐怖の色が浮かんだ。
「こうなったのも奴のせいじゃ。くそ、おかしな術を使いおって」
ぶつかる寸前、横へ下がった貴族が、右足の甲を車輪の下へ差し入れ、そのひとひねりで車輪ばかりかハンドルまで自由にしたとは、さすがにわからない。
「何処に? ――とにかく、出なくちゃあ」
スーインの判断と行動は素早かった。
ドアを押し開けるようにして這い出す。トトも後を追った。
備え付けの銛を引っぱり出して、スーインは車体の陰に身を隠したまま、四方へ眼をとばした。
背中を冷たい風が撫でた。
振り向いた眼の前に、青い影が立っていた。
「――おまえは……」
恐怖の中で、そんなつぶやきがまず出たのは、貴族の姿に、戦慄と憎悪以外の感情を誘発する何かが窺えたせいか。
「おまえは……誰?……」
男はゆっくりと首を振った。
「わから……ん」
声は海鳴りに吸いこまれた。
「マインスター男爵ね?」
男の顔に表情が動いた。
「マイン……スタ……?」
唇から洩れる言葉は、自分に問うているようにかすれていた。
端整な顔に混迷の翳が流れ、束の間、双眸の奥に鋭い光が宿った。
「マインスター」
今度ははっきりと口にした。
「その通りだ。――私は帰ってきた……」
スーインを見下ろす表情が、みるみる、残忍傲慢な悪鬼のそれに変わった。
「帰ってきた。だが、なぜ、おまえのような下賎なものの前におる?」
「悪かったわね」
スーインはようよう言った。大した度胸といえた。前後から近づく足音と人影にはまだ気づいていなかった。
「誰だ、そこにいるのは?」
「――貴族だ、あいつだぞ?」
海岸には、まだ監視が出ている。荷車の事故に気がついて駆けつけたのだろう。
貴族――マインスターは振り向いた。
にっと笑った。
薄い唇の端から二本の乱杭歯が剥き出された。
「こら、スーインの荷車だ」
「無事か!?」
口々にかけられる問いに、
「大丈夫よ」
と応じて、スーインは起き上がった。
駆けつけた頭数は一〇人を越している。
「蛮暁さん、大丈夫? 出ない方がいいわよ」
呼びかけて、スーインは銛を構えた。
男たちも、手に手に武器を握っている。
十数名対一人――勝負にもならない数字だが、スーインを含む村人たちの全身は、実のところ凍りついていた。
マインスター男爵――伝説の悪鬼が、いま眼の前にいる。
それは、一千年の歳月が育んだ抜きがたい恐怖の心理だった。
いきなりマインスターが動いた。
右側に立つ男二人の銛をひっ掴んで引くや、それは肉ごともぎ取られて、マインスターの手に移った。
「わわっ!?」
痛みも忘れて身を離しかけた男たちの頭が、西瓜みたいに弾けた。
マインスターの無造作な右手のひと振りであった。
「こ、殺せえ!」
誰かの叫びが、男たちの勇気より恐怖心を叩き、二方から、高圧酸素の噴出音が湧いた。
恐怖に身を苛まれても、海の男たちの狙いは正確だった。
あっという間に、マインスターの全身は、鉄の銛に串刺しにされていた。
その傷口からは、確かに黒いものが月光を撥ね返しつつ、こぼれ落ちていく。
異様な静けさが闇を包んだ。
やった、という歓喜より、とんでもないことをしてしまったという想いが強い。
貴族が串刺しになる――信じがたいことであった。
マインスターは顔を伏せていた。
ひょい、と上がった。
血色の光点が村人を呪縛した。
「よくやった」
と、マインスターは言った。
「五千年以上生きた貴族をよく殺した。だが滅ぼしはできん。おまえら下賎の者たちの手では、それは永劫にできんだろう」
その両手が、貫いた銛の穂にかかるのを人々は見た。
一動作で銛は抜き取られ、風を切る唸りが響くや、投じた男とその背後の者が揃って串刺しにされた。
それが倒れ伏しても、残りの連中は身動きもできず、たちまち、自らが放った銛の餌食と化した。
呆然と立つスーインへ眼をやり、
「女――」
とマインスターは呼びかけた。
「初めて見るが――何処ぞやで会ったような、妙な気分にさせる女。記憶があるか?」
「ない」
スーインは敢然と言い放った。声は自分でも意外なほど、堂々としていた。
「化物の知り合いなどいない」
「そうか。ならば、情けをかける必要もあるまい。ここで――」
じわり、と一歩進んだ身体からは、もう一滴の血も流れてはいない。
すう、と喉もとへ伸びてきた手を、スーインは思いきり銛で払おうとした。
手は自分から後退した。
奇態なほどに人間くさい動揺を示して、マインスターは自分の手と、スーインの顔とを見比べた。
何かがスーインの胸を衝いた。
眼前の恐るべき魔物に、スーインは哀しみとも懐かしさともつかない感情を覚えたのだ。
「おれ[#「おれ」に傍点]は……なぜ、ここに?……」
マインスターは問いかけた。
典雅な貴族の表情の後ろに、もうひとつの顔が浮かんでいた。
「スー……イン?」
「あなたは――!?」
自分でもわからぬ叫びをスーインは上げた。私は知っている。この|男《ひと》が誰なのか!
だが、夏の熱気が、斃れた漁師たちからたっぷりと血の臭いを広げたせいかどうか、二重映しの男の顔は、みるみるマインスターと名乗ったそれに変わった。
「元気のいい女だ。下卑た血でも味だけはよかろう。どれ、喉を出せ」
青白い手が立ちすくむスーインの胸もとへ新たに伸びた。
爪はきれいに切り整えられている。甲にひとつまみの剛毛。
チン、と澄んだ音がした。
と、貴族は向きを変えるや、同じくゆったりとした足取りで、渚の方へ歩き出したではないか。
「いまだ。――逃げるぞ」
耳もとで蛮暁の声が響き、スーインは思わず、ええ、と応じていた。
「バッグが」
しっかり者だ。
「ここにある!」
要領のいい坊主だが、“逆しまのトト”なら、これくらいのことはする。
一目散に堤防めがけて走り出した二人にマインスターが気づいたのは、膝を濡らす海水の冷たさが、トトの術を解いたときだった。
爛とかがやく血光は、眼ばかりか顔全体を染めた。
憎悪の色であった。
貴族にとって、人間にたばかられるほどの屈辱はない。
しかし、追いもせず、マインスターは悠然と右手を闇に溶けこんだ人影へと伸ばした。
二人は堤防をよじ昇るところだ。
青い光条が闇を裂き、マインスターの|指輪《リング》とトトの右肩をつないだ。
ひと声小さく叫んで、トトは背中から砂地へと落下した。
「蛮暁さん!」
一瞬戸惑い、スーインも身を躍らせた。眼の前の怪我人をほうっておける女ではなかった。
「大丈夫じゃ」
と、トトはつくり声で言った。
「安心せい。あんたは早う行け。奴が来るぞ」
「怪我人こそ行って。あたしが時間を稼ぐわ」
「馬鹿なことを――早く行け」
スーインを押しのけるようにして、立ち上がった。
マインスターは慌てた風もなくやって来る。
波打ち際を越えた。
砂地へと二歩進んだところで、彼は振り向いた。
トトにもスーインの眼にも見えなかったが、音だけはきこえた。
動力船のエンジン音である。
マインスターにだけは見えた。
波間を縫って接近してくる小さな船と、その舳先に立つ黒衣の影が。
夜も闇も、その若者のためにのみ存在するがごとく、冷たく澄んでいた。
2
波打ち際までの距離が五メートルと迫ったとき、
「止めろ」
とDは低く命じ、舵輪を握っていたドワイトは眼を剥いた。
途中からライトを消すように命じられたのは、海岸にいる貴族にDが気づいたせいと知ったのである。二〇〇メートルも離れた闇の中でだ。
今の指示も、渚の五メートル手前――砂地へ乗り上げる寸前だ。貴族の血を引くとは、こういうことなのかと思った。
Dは軽々と宙を跳び、砂地の上で貴族と相対した。距離は三メートル。
「また会ったな」
「やはり、マインスターか。――おまえの柩を見た」
「私の――柩を?」
貴族の顔が訝しげに歪んだ。
「わからんのか?」
Dの問いは、彼の答えを予期していたという風であった。
「どちらにせよ、おまえに帰る場所はない。闇の彼方へ戻れ」
びゅっと抜き打ちに空を切った銀光をかわし、貴族は跳躍した。
後ろではなく横へ。――海の中へ。
ああ、Dが躊躇しようとは。
「やはり、水は苦手か?」
貴族は低く笑った。
「それがわれわれの宿命。だが、くつがえそうと試みた者もおるぞ。――私のように」
貴族は下がり、波はその腰ではためいた。
「来ぬか。用心棒の腕も、陸の上でしか使いようがないのでは、料金を返すしかあるまいが。私はまた来るぞ。今度は誰の眼にもつかぬところから」
声が終わらぬうちに、Dは海中へ進んでいる。
「よく来た」
と貴族は笑った。
「では、相手をしてくれる。バロン・マインスターの実力をたっぷり味わってから死ぬがよい」
その右手から、黒い|錐《きり》がDへと飛んだ。
難なく受けて刀身を下ろさず、Dは間合いを詰めた。
動かぬ貴族の首筋へ、右上方から斜めに叩きつける。
手応えはなかった。
貴族は垂直に水の中へ沈んだ。
持ち変えて突き下ろした刃も、水だけを貫いた。
「周りを見るがいい」
水中から声がした。Dの超感覚をもってしても、何処と特定はできなかった。
それどころか、Dともあろうものが、はじめて気づいたのだ。腰までだった水が、いま、胸まで達しかけている。
太古より伝えられる様々な伝説において、貴族たちが、その科学的根拠を把握しようと最善の努力を尽くしたのは、自らの弱点に関するものであった。
すなわち、太陽光による崩壊、ニンニクの臭気を恐れること、聖水のもたらす火傷。――その中に、流れ水の伝説もあったのである。
貴族は泳げない。
もとより不死身の肉体は、水それ自体では死にはしない。肺が水で埋められても、呪われた生は心臓の鼓動を打ちつづける。溺死ではなく、一種の仮死状態に陥るのだ。
だが、この辺境で、無防備のままそのような状態に入ることは、いかに貴族といえど、致命的な運命を意味した。
水竜に食いちぎられれば、復活は不可能だ。まして、人目にでも触れれば――
ゆえに貴族たちは水を恐れ、呪い、水辺より離れた山間の古城に身をひそめたのである。
この村を支配した連中は、数少ない例外であった。
その中でマインスターのみは、この欠陥を克服すべく、必死の努力をし、望み通りの成果を上げたらしかった。
周囲の水が、ゆっくりと輪を描き出したのを、Dは感じた。
マインスターの超能力と知りながら、敵の姿が見えぬ以上、なす|術《すべ》もなかった。
「ほれ――行くぞ!」
波の動きが乱れ、背後から怒涛が襲った。水の塊が頭からDを呑みこむ。――と見る間に、水飛沫を引きつつ、彼は陸の方へ跳んでいた。
だが――見よ。
その腹部から鮮血が太い糸のように噴き出ているではないか。水中から跳び出した短槍の傷であった。
立ち直ろうとして、Dは一刀を海中へ突き立て、身を支えた。
「心臓を狙ったが――さすがだな」
声がまた言った。
「だが、今度は――」
その語尾がかすかに震えたとき、貴族が消えた位置へ、黒い影が勢いよくのしかかってきた。
スクリューが水と砂をかきまわし、波に対してDをかばうように横腹をさらした船体は、たちまち横倒しになった。
その直前に、ドワイトは跳び降りている。
「だだ大丈夫か?」
血相変えて走り寄ってくるのへ、
「上がれ」
と陸の方へ顎をしゃくって、Dは黒い水面に眼をやった。
そのまま十数秒。
Dは構えを解いて、砂浜へ戻った。
ドワイトは顔をしかめている。惨殺死体を見つけたのだ。Dの腹部を見て血相を変え、
「おい――医者だ、医者だ」
「それには及ばん」
突き出た穂先を掴み、Dは前へ引いた。
肉の裂ける音がした。顔をしかめたのはドワイトだけで、当人はわずかに眉をひそめたきりだ。
「どいつもこいつも、めちゃくちゃしやがる」
驚きに少しの憎悪を交えて、ドワイトが吐き捨てた。海の方へ向き、
「野郎――逃げたな」
と言った。声のなかに、船ごとの体当たりが効いた、という含みがある。
Dは答えなかった。
そんなことで、Dを斃すチャンスを逃す相手ではなかった。
最後に放った言葉の動揺が、それを解く鍵だろう。貴族自身の内面に変化が生じたのだ。
最後のひと言。あれは――別人の声だった。
スーイン、と言った。
Dは堤防の方を見た。
「スーインと蛮暁がいたが」
「何だって!?」
ドワイトが跳び上がった。
大慌てで堤防の方を向く。
「いねえぜ」
ほっとしたように肩の力を抜いた。
「方向が違うな」
とDがつぶやいた。
スーインは、決して家より村の方へ近づいてはならないのだった。
波打ち際から堤防の方へ移動する二人の後ろ姿を、かなりの沖合から、氷のような眼が追っていた。男の声が女の言葉で言った。
「ほほほ。奴の弱点を見たぞ。海ならば、私の棲み家。次に会うのが愉しみじゃ」
サモンは小屋へ入った。
網やら漁具やらをしまっておく小屋である。貴族の道から村へ到る途中に、わずかながら海岸が続いている。その端に三軒ほど点在しているうちの一軒だ。
鍵を壊した板戸を閉じると、
「いたか?」
一〇畳ほどの広さの床の上で、低い声が訊いた。
「いや」
サモンは首を横に振り、横たわった黒い影に近づいた。
「具合はどう?」
「長くはあるまい」
自嘲的な物言いに眉をひそめ、サモンは抱えてきた紙袋から包帯と薬瓶を取り出して床に置いた。
「包帯を替えるわ」
「無駄だ。放っておけ」
声の主はグレンである。エグベルトの妖術にかかって、人食い魚の待つ崖下へ落下したはずの剣士は、かろうじて一命を取り止めたらしい。
かろうじて、というのは、サモンの行為を撥ねつけながら、伸ばした手を押し戻す風もないからだ。
「おかしな真似をすると、立場がまずくなるぞ。おれをこんな目に遭わせたのは、おまえの仲間だ」
「エグベルトとの|決着《けり》はいずれつけるわ」
サモンは、男の上体を白く染めた包帯を巻き取りながら、不気味な声で言った。
昼下がりに崖の上でグレンと別れ、隠れ家でシンとエグベルトの帰りを待ったが、どちらも戻らぬので、グレンの宿へ赴いた。
そこも藻抜けの殻と知って、不吉な予感に捉われたまま、別れた崖上と付近を探しまわって、ようやく、砂浜に横たわるグレンを発見したのである。
事情は息も絶え絶えのグレンからきいた。
見よ。エグベルトに受けた傷ばかりか、崖下の怪魚にも襲われて、包帯の下から現れた身体は、肩も胸も食い破られ、白い骨が覗いている。
サモンが発見したときは、すでに全身の血液のほぼ三分の二が失われ、生きていること自体が奇蹟とでもいうべき状態であった。それをここまで長らえさせたのは、サモンの手厚い看病と、グレンの執念にも似た生への意志に他ならない。
それでも、死は迫っている。
「……いたか?……」
グレンはまた訊いた。意識の混濁が起きている。
「見つけるわ。もう少し生きていて」
包帯を巻き替えるサモンの手は重い。傷は黄色い膿を吹いていた。
見つける、とは貴族のことであった。
昨夜、貴族が出たことは、すでに村の噂になっている。そいつだけが、海からやって来るというその男だけが、グレンの二つの望みを叶え得るのだった。
死なずの生命と――貴族の技を。
彼を求めて、サモンは海岸を歩いた。
考えてみれば、これほど無茶な希望もない。
いつ出会えるのか。会ったとして、グレンの願いをどうやって叶えさせるのか。
サモンは、しかし、本気だった。
貴族を説得するどころか、言うことをきかせる自信もない。自分の術が貴族に通じるかどうかもわからない。
それなのに貴族を探し求めるのは、ひたすら、眼の前で呻吟する若き修業者のためであった。
自分を救い、犯したばかりか、娼婦に対するように肉体を求める憎い男――それなのに、サモンは、この恐るべき妖女は、自分でも理解できぬ魅惑をグレンから感じ、彼に尽くすことに生き甲斐さえ覚えているのだった。
グレンはすでに半ば死んでいる。体内の血は出尽くし、執念だけが消えゆかんとする生の炎へ風を送りこんでいる状態だ。
それを見るサモンの眼には、確かに心地よげな残忍な光がある。あるくせに、グレンの断末魔を長びかせるというのではなく、ただ、生きて欲しい、生かしてみせるという、純粋な想いが彼女の行動を支えているのだった。
不意にグレンが振り向いた。
サモンは眼を伏せた。
これがあの秀麗な修業者の顔だろうか。
崖から落下したときにぶつけたものだろう、顔の左半分は陥没し、腫れ上がった瞼の下に眼球は閉ざされたままだ。無残にめくれ上がった上唇からは、歯茎と歯列が剥き出しになっているが、それも半ば欠け、老人のような醜相を形づくっている。女どころか、よほど豪胆な男でも、夜半に会ったら失神間違いない。
「もう一度……」
グレンは糸のような声で呻いた。サモンの耳だからこそ、かろうじてきき取れる死者の声である。
「もう一度……奴を……探せ……連れて……来い……」
サモンはうなずいた。
「わかったわ。――少しお待ち。それまで保たせるのよ」
「行け……」
短く、吐息のように洩らして、グレンは顔を伏せた。
まだ息の絶えていないのを見届け、サモンは立ち上がり、小屋の外へ出た。
このときの姿を目撃した者がいたら、金縛りに遭って硬直したであろう。
女の全身からは凄惨な鬼気が噴き上がっていた。
貴族のやって来るという海へ、まだ未練が捨て切れぬのか、サモンは躊躇せず進んだ。
Dと貴族の海岸での死闘が終わってから、二〇分ほどたっている。
腰までの深さへ達すると、サモンは懐剣を抜いた。
そして――
何という女なのか。美しい女戦闘士は、鋭い刃を自らの白い首筋へ当てると、一気に頸動脈を引き切っていた!
墨のようなものが水に広がった。
「これでよい。……私が死ねば、あの男も死ぬ。それも天命……ほほ……地獄で一緒に暮らすのも面白いぞ」
形容しがたい台詞を残すや、白い女体は黒々と染まった水の中へ、ゆっくりと倒れこんでいった。
もはや、ぴくりとも動かなくなったその身体自体が水に溶け、広がっていくように、噴き出る鮮血は布切れのような輪郭を打ち寄せる波に揺らめかせていった。
死の足音をグレンはきいていた。黒い影のたてる足音だった。
それを遠ざけようとする気力も限界に達していた。
必死で、ある顔を思い描いた。
自分より遙かに美しい若者の顔を。
そうすることによって、ここ何時間か生き長らえてきた。
憎悪が意識を覚醒させ、呪詛が聴覚を甦らせるのだ。
負けてはならない。負けたままで死んではならない。戦って死ぬのは、常に敵だ。
美貌は浮かばなかった。
黒い影も足音も立ち去りはしない。
着実に近づいてくる。
それは耳もとで止まった。
ひんやりとしたものが首筋に触れたが、冷たいと思う感覚すらグレンにはなかった。
おしまいか、と思った。
グレン、と誰かが呼んだ。
奇蹟のように、それは彼の大脳を刺激し、神経をふるわせて、視力を与えた。
グレン。
彼は眼を開いた。
見覚えのある女の顔が頭上から見下ろしていた。
なぜか、片手で首筋を押さえている。
「おまえは……」
「望みを叶えてあげる」
サモンの声は霜のように、崩れた美貌へ落ちた。
望みを叶える? ――すると、サモンは貴族を見つけたのか?
どうやって、ここへ来るよう説得したものか?
いや。
「息絶える寸前……私はあいつ[#「あいつ」に傍点]と会った」
ゆっくりとグレンの上へ屈みこむサモンの眼は異様に紅く、肌は異様に白い。
「あいつにおまえの血を吸うよう仕向けることはできぬ。……だが、私の血なら……」
サモンの口が開いた。
白い歯並みの中に二本、獣にも似た牙が突き出ていた。
「……そして……私ならおまえの血を吸える……」
グレンの眼がかがやいた。
恐怖でも嫌悪でもなく、限りない歓喜の色に。
なんという男か。そして、何という女か。
サモンの手が触れる前に、グレンは自ら襟を乱して、喉を剥き出した。
青白い肌に、白い雪のような牙が沈みこんでいった。
3
頬を軽く叩かれ、スーインは眼を覚ました。
背筋がひやりとした。異様に高いところから、怪獣の顔が見下ろしている。
すぐに絵だとわかった。
途端に場所の見当もついた。
村の南のはずれにある廃寺だ。天井の獣は、子供の頃から数えきれないほど眼にしてきた地獄の番卒の絵画だった。
人間が貪り食われている。
「気色の悪い絵だな」
頭の方で声がした。
起き上がろうとしたが、身体が動かない。意識はしっかりしているのに、神経は完全に眠りこけている。
「悪いが一服もらせてもらったぜ。副作用はねえが、明日の夜までは動けねえよ」
見たことのない男の顔が頭上から覗いた。笑っている。憎むべき相手なのに、何故かスーインは動揺の波が静まるのを感じた。
「あなたが蛮暁さん?」
訊き方も落ち着いている。
「そういうこった。本名はトトという。よろしくな。こう見えても紳士でな。おかしな真似しなきゃ、ちゃんと家へ返す」
「紳士が、あなたの怪我のことを心配している女の腹へ、いきなり一発? 冗談もいい加減にしてよ」
そうやって、あの堤防からスーインは連れて来られたのだ。ようやく、声に怒気が混じった。
トトは照れ臭そうに笑って、
「この商売、すべて話し合いってわけにゃいかねえよ。多少荒っぽいのは諦めてくれ。おかげで、えらい目に遭った。少しはダイエットしたらどうだよ?」
「余計なお世話よ」
スーインはそっぽを向いて、今の状況と脱出路を考えた。
この寺の本堂だ。
天井の高さ、大きさ、絵柄からいって、ここは間違いなく本堂だ。右側に、天井の絵を彫刻で表現した像の群れが並んでいるはずだ。その脇に扉がある。後は玄関まで一直線だった。
「私をどうする気?」
「どうにも。――安心しな。用はおめえじゃねえ」
「あの珠ね?」
「その通りだ。何処にある?」
「知っていても教えるもんですか」
スーインは舌を出した。
「だろうと思った。なら、奴から訊き出す手だな」
「奴って、Dのこと?」
「他にいるかい? おめえと交換するのさ。夜が明けたらすぐ、交換条件を書いて届けてくる」
スーインは溜め息をついた。それを恐れるからこそ、Dは彼女の身を廃屋の奥深く隠蔽したのである。
だが、今はなす術もなかった。
眼だけを動かして周囲を見廻し、スーインは五〇センチほど離れた頭の上に、バッグが置かれているのに気がついた。
止め金がはずれている。もう検査済みだろう。
あることに気がついた。
「ねえ」
「何でえ? 腹でも減ったか?」
「あのバッグ、私のでしょ?」
「おお」
「もう、中身、調べたのよね」
「当たりめえよ」
「どうして、ちゃんと戻しておいたの?」
「あン?」
トトは眉をひそめた。
「普通の泥棒なら、中身を全部ぶちまけて調べるよ。その方が手間がかからないもの。もう少し行儀のいいこそ泥でも、ひとつずつ引っ張り出したら、放っておくのが当たり前よ」
スーインは面白そうな眼つきで、辺境一の盗賊を見つめた。
「あんたが坊さんの格好してたとき、私にはどうしても悪い人間には思えなかった。いま、Dが戦ってる相手とは別口ね」
「一応な」
「私があのバッグ、大事にしてる風に見えた?」
トトは答えない。
「珠の在り場所を私が知ってると言ったら、どうする?」
「知ってるのかい?」
「いちいち、相手の言うことを信用してどうするのよ。阿呆な泥的ね」
「違えねえ」
トトはにっと笑った。その辺の小娘なら、嬌声を上げてもおかしくない男臭い笑みだ。自信に溢れていた。スーインは知らないが、“逆しまのトト”と言えば、辺境屈指の盗賊だ。
「だがな、阿呆なかわりに人を見る眼はあるつもりだ。あんたが珠の在り場所を知ってるかどうかまではわからねえが、死んでも喋らねえのははっきりしてる。だとしたら、交換条件しか残っちゃいまい」
「死ぬまで拷問してみたらどう?」
「無駄手間はかけねえ主義だ。ありゃ、する方も疲れるんでな」
ここで、トトは別人のような凄味を帯びた表情になり、
「だがな、あんまり人をおちょくりやがると――」
スーインは肩をすくめ、バッグの方へ眼をそらした。
「ん?」
トトも振り向いた。スーインの表情に気づいたのだ。
「どうした?」
「いえ、柱の陰から大きなネズミみたいなものが奥の方へ。――気のせいかもしれない」
「大したこっちゃねえ。この寺に物騒なもンはいねえよ」
トトはひとつ欠伸をして、その場へ横になった。
「もう寝な。夜ふかしはお肌の敵だってよ」
「坊さんに化けて家へ出入りしてる間に、私をさらって逃げようとは思わなかった?」
「冗談じゃねえ」
トトはさも恐ろしげに首を振った。
まじりっ気なしの恐怖が表情を硬くしていた。
「あの用心棒――そうたやすく手の出せる玉かよ。そんな気を起こしただけでも見破られそうだったぜ。おれは本気で、おめえたちと仲良くしてたんだ」
それは一種の心理コントロールであろう。秀れた詐欺師の条件は、最後の大ペテンの一瞬まで、相手の気持ちを理解し、味方としてふるまうことだというが、トトは遙かに自由に、遙かに巧みにそれができるのだった。盗まれた被害者は、最後まで彼を疑いはしないだろう。
「そのままでいたらどうだい?」
スーインが真顔で言った。
「ん?」
「ずっと友だちでいるのよ。友だちが面映ゆいんなら、仲間でいいわ。インチキの紹介状かなんかつくって――得意技だろ――村役場に就職するんだ」
「よしてくれ」
トトは嘔吐しそうな顔つきで言った。それから、呆れ顔でスーインを眺めた。この女、阿呆か。
「今まで、そんなこと言われたことないのね?」
「もう、寝ろ」
「逃げないでよ、ちょっと」
「うるせえ」
「いつまでもそんな商売してて、年を取ったらどうするつもり? 十分貯めこんでいるのかしら?」
「余計なお世話だ、馬鹿野郎」
トトの声には、怒りと――動揺があった。この海の女の言葉には、奇妙な重みが備わっていた。説得力と言ってもいい。
「あの珠のこと、何か知っているの?」
「………」
「何も知らないで狙っているわけかしら?」
「勘だ」
「妹と会ったのね?」
急に言われて、トトは沈黙した。
「大丈夫よ。あなたが、殺した奴の手先だなんて思わない。でも、きかせて欲しいんだ。あなたと会ったときの妹のことを。村を出るとき、二度と会えないなんて思えなかったもんでね」
しばらくの間、トトは黙っていた。
不意に右手が奥の闇をさした。そこから迸った銀光を、スーインは見ることができた。ぎえ、とおかしな悲鳴が上がり、それきり静かになった。
「どうしたのさ」
「鼠を仕留めた」
後ろを向いたままトトは応じて、それから、いいだろう、と言った。
気むずかしいが優しい父親から昔話をきく少女のように、スーインは眼をかがやかせた。
「サモンは戻ったか?」
エグベルトの声の大きさよりも切迫した口調に、薄闇のあちこちで気配が凝固した。
「どうしたんだよ、帰った早々?」
ツィンの声は、月光を通過させる白いレースのカーテンの陰からきこえた。
「暁鬼はどうした?」
「いるぞ」
隣室に通じるドアが答えた。
「目下、治療中だ。殺されかかってな」
「シンが殺られたぞ」
「――なんだと!?」
血相変えたのはツィンの声であった。暁鬼は沈黙している。今日のエグベルトは、シンの探索に時を費やしていたのだ。
シンがDに斃されたのは、昨日、目撃した。ところが、その日の晩、せめて死体をと現場を訪れた眼に映ったものは、死体と同じ格好の人形にすぎなかった。
愕然となった。
あの死体が傀儡ならば、シンはとうにみなのもとへ帰っていなければならない。Dを斃したにせよ、斃せなかったにせよだ。それをしない以上、シンは珠を奪って逃げた――そう思うしかなかった。
かなり離れた森の中で死体を見つけたのは、今夜――一時間ほど前だ。
「裏切り者にふさわしい末路だが――殺ったのは誰だ?」
暁鬼の声が重く訊いた。
「わからん。だが、死体のそばで、これを見つけた」
音もなく床の上に伏せたのは、小さな蜘蛛をかたどったゴム人形であった。
「これはおれの想像だが、シンはこいつ[#「こいつ」に傍点]を使って誰かを脅していたのだ。珠を持ち逃げしようとして、そいつに殺された。――どんな相手だと思う?」
「珠の秘密を知っている奴」
ツィンがぽつんと言った。
「おれもそう思う」
暁鬼の声に、エグベルトの影は部屋の中央でうなずき、
「ギリガンの言葉、覚えているか? クロロック教授よ」
「あいつか!」
ツィンがでかい声を張り上げた。
「クロロック教授といやあ、歩く知識の蔵と呼ばれてる奴だ。あの珠のことを知ってても、おかしくはねえな」
「何処にいる?」
「多分、宿屋だろう。案外、図太く滞在中かもしれん」
「なんでまた、奴が? ギリガンがよこしたのかよ? なら、挨拶にきてもよさそうなもんだぜ」
「サモンをおかしな術にかけた老人がいたな」
暁鬼の声が言った。
「その通りだ」
エグベルトは首肯し、
「十中八九、同一人物だ。奴の術なら、シンの毒蜘蛛も取り除き、シンさえ殺せたかもしれん」
「奴は珠を?」
ツィンが凄い声を出した。
「わからん。だが、あの後で奪えたとは思えんが」
「まだ、吸血鬼ハンターの手の内か」
暁鬼が呻くように言った。
「よかろう。奴は私にまかせろ」
「手があるか?」
「今夜、面白いものを見た」
「それは?」
「言わぬが花よ。珠を手に入れた上で、ゆっくりと仕留めてくれる。おまえたちも手を貸してくれ」
「いいとも」
とツィンが調子のいい声を張り上げた。
「だがよ、もうひとりに根廻ししておいた方がいいぜ」
「サモンはまだか」
エグベルトはやや失望の口調で、
「まあ、よかろう。二度とおかしな外出はできまいし。で、暁鬼よ、どういう手段で――」
身を乗り出したとき、出入り口のドアが急にきしんで、白いドレスを着た美女の影が入ってきた。
「噂をすれば」
とツィンの声が皮肉を含んで言った。
「何の噂かしら?」
サモンは、足音もなく、部屋の真ん中――エグベルトのすぐ前へ立った。
「こういうことだ――」
何処となく、前とは異なる印象を顔馴染みの美女から受けながら、エグベルトは今日の会議の内容を説明した。
きき終えて、
「なるほどね」
とサモンは意味ありげにうなずいた。
「確かに私を愚弄した男はクロロック教授よ。何処にいるかは知らないけれど。――ところで、暁鬼、どうやって、いつ、Dを斃すつもり?」
「明日――奴の苦手な場所でな」
「Dはダンピールときいた。苦手は――水」
「その通り」
「おめおめとそんなところへ出て来ると思うか? 奴も馬鹿ではない。それに、どうやって突き止めたのか、ツィンの話では、あの女も何処かへ隠してしまったというし。おびき出す手がある?」
ツィンの片割れの謎は、仲間も知らないらしい。
「わかっている。エグベルトの王国へ誘う手も、そうそうは使えない。だが、奴は来ざるを得ないのさ」
「どうやってだい?」
興味津々の声で訊いたのは、ツィンである。
「手は打ってある。明日になればわかるだろう」
暁鬼はあくまでも勿体ぶっている。
「それよりもサモン――例の恋人はどうしてる?」
ツィンの問いに、サモンは薄闇の中で、何とも言えぬ表情になったが、すぐにそれを消し、憮然たる口調で、
「おらん」
と言った。
「おらん?」
「昼過ぎからずっと姿が見えん。――何処へ行ったものか……」
「ふられたか」
エグベルトが横を向いて言った。
「かも、な」
反発もせずにサモンは奥のドアへと歩き出した。
「疲れた。先に休む」
「逃げた男の探索もいいがな」
と、暁鬼の声が言った。
「明日は忙しい。おまえはクロロック教授の行き先を突き止めて、ここへ連れて来い。私たちはDを始末する」
「いつから、おまえが命令するようになった?」
「ほう、不満か?」
「いいや――どうでもいいことだ。いまの私にとっては」
「ふられたのが、よほどこたえたと見えるな」
「好きなように言うがいい。――お休み」
そして、いっそう妖艶さを増したような影は、闇のドアを抜けて消えた。
それから一時間後のことである。
古風なベッドで眠っていたエグベルトは、忍びよる気配を感じて眼を覚ました。
戦闘士でもなければ、到底、それと知れぬ足取りでベッドへ近づき、それはエグベルトの耳もとへ身を屈めてきた。
振り向きざま、
「何の用だ?」
窓からさしこむ月光の下で、はっと身を引いた顔を見て、エグベルトは思わず眼をしばたたいた。
「不粋な男ね、エグベルト」
とサモンは、すでに落ち着きを取り戻して咎めた。
「男の寝室へやって来た女の口づけは、黙って受けるものよ」
「どういうつもりだ、サモン?」
問いながら、エグベルトの声には期待が十分だ。
上体を起こした姿へ、サモンは妖然と近づいた。
エグベルトはすでに、この女戦士が薄いネグリジェ一枚なのを悟っている。
月の光に|薄衣《うすぎぬ》は消え、息を呑むほど豊満な形が、黒々と浮かび上がった。
いや、エグベルトの眼には、たわわな乳房も、|鴇色《ときいろ》の乳首も、悩ましい腰とヒップの線も見えるのだ。
「逃げた恋人の代わり、というわけか。ふふ、おれは構わんが」
エグベルトの声はくぐもっていた。
「あなたの気持ちはわかっていたわ」
ベッドの縁に立つと、サモンは黙って、ネグリジェの胸に手をやった。
布は霧のようにこぼれ、いったん乳房にひっかかって止まり、じき、床にわだかまった。
「私、いま、とても飢えているの。欲しいわ、あなたが。黙って抱いて」
男へ求める願いもそこそこに、エグベルトの腰に身を投げかけると、サモンは白くぬめぬめとした手を、たくましい男の首に巻いた。
「おい」
と止める間もなく、エグベルトの唇は、蛭のような、そのくせ限りなく甘い感触に覆われていた。
滑りこんできた熱い舌を、エグベルトはためらいなく吸った。
十分に唇と舌を与え、サモンは顔を離した。情欲に歪んだ表情の中で、眼だけが冷たく、男を揶揄するように光っている。
エグベルトの手が片方の乳房に触れた。
「冷たい乳だ」
「その分、想いのたけは燃えているわ」
サモンはもう一度、唇を重ねた。
エグベルトは忘我の域にあった。はじめて顔を見たときから、この剛毅な戦闘士は淫靡極まりない女に魅かれていた。それを知ってか、村へ来るまでの道すがら、サモンの言動にはたびたび彼を刺激し、挑発する兆しが見えた。ツィンがからかったのも、それに気づいていたからだろう。
サモンを恋するあまり、エグベルトは彼女の恋人たる修業者を殺した。それでサモンが自分になびくと思ったわけではない。男を手にかけたのは、サモンの身も心も引き裂く奸物と見たからだ。放っておけば、この男はサモンにそれらしいひと言も口にせず終わったろう。
それが、いま、サモンはすべてを投げ出し、彼の目にさらして、想いを遂げようと計っている。
エグベルトの剛直さは白泥のように溶けた。誰がそれを責められよう。
たくましい腕はくびれた胴を抱きしめ、乾いた唇は水気をふくんだ女のそれを、ねじ切るように吸った。
逃れるみたいに顔をずらし、サモンは男の耳たぶを噛んだ。
「凄いこと。――好きよ、エグベルト」
熱い声と生ぐさい吐息とが、ゆっくりと首筋を滑り、止まった。
「あの|男《ひと》の次に」
カッとサモンの口が開いた。月光を凝集したかのように、二本の牙がきらめいた。
「サモン、お前は!?」
愕然と叫ぶエグベルトの喉もとへ、忌まわしい唇が吸いつこうとした刹那、
「ぐええ!?」
苦鳴を洩らして、サモンは喉を押さえた。
「いつ貴族の|下僕《しもべ》を選んだ?」
無傷の喉に手をやりながら、エグベルトの声は哀しみに満ちていた。
「それ故に忘れたか、おれの術?――この部屋は丸ごと、エグベルトの王国よ。もっとも、空気の成分にニンニクを混ぜたのははじめてだ。貴族とDへの対抗策だが、まさか、おまえが先になろうとは」
「おのれ」
と、サモンは無限の呪詛をこめて床へ落ちた。
「おのれ、エグベルト」
「おれは、おまえを好いておった。せめて、おれの手で貴族の呪いから解放してやろう」
ベッドのかたわらにもたせかけた鉄棒を手に取り、エグベルトはのたうつサモンの背後に降り立った。
それを高々と頭上へ振り上げ、
「死ね、サモン。――安らかに」
祈りとともに振り下ろそうとしたその顔を、ねじむけたサモンの瞳が映した。
爛とかがやく真紅の眼。
その刹那、エグベルトの脳髄の奥で、同じ色の火花が炸裂した。
すう、と棒が下りた。腰の位置まで下ろし、エグベルトは頭を強く振って、もう一度それを持ち上げた。
彼は両眼を閉じていた。
「私を殺すか、エグベルト?」
サモンが嗄れ声をふりしぼった。夜気にはニンニクの臭気が渦巻いている。声を出すのさえ地獄の苦痛のはずだ。
「好いたというのは嘘か? |真《まこと》なら、たとえその身をどこまで堕としても、私に尽くす道を選ぶはず。私はそうした。あの|男《ひと》のために――」
大|苦患《くげん》のさなかに、誇らしいサモンの声であった。
「私にはおまえが必要じゃ。あの男の望みを叶えるために。Dを暁鬼などに討たせてはならぬ。あのハンターの生命は、あの男のものだ!」
これは、凄絶な愛の言葉ではなかったか。
死にゆくグレンを救うため、自らの血を貴族に与え、その下僕と化した女の言葉は、確かにエグベルトの胸を打った。
鉄の棒を宙空に据えたまま、彼は感に堪えぬかのように言った。
「羨ましい、羨ましいぞ、あの男が――生きておるのだな」
「私が生かした。呪われた身となって」
「おれがおまえの望みを叶えたらどうする?」
苦悶のさなかで、サモンの両眼がかがやいた。このとき、空気から植物の匂いが唐突に消滅したのである。
「愛してあげる。あの男と同じく、おまえの望み通りに」
エグベルトの顔に、一瞬、筆舌に尽くしがたい苦渋の色が浮かんだ。
だが、すぐに彼は決めた。
「昔から、一度、貴族になりたいと思っていたぞ」
ゆっくりと床へ落ちた鉄棒の先をかすめるようにして、全裸の女体が起き上がった。
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第六章 闇の戦い
1
村人は、夏がやって来たのを心得ていた。
青い人の形をした夏が、海の向こうから。
それが何をもたらすか知ってさえいれば、さほど驚くことはなかった。
昨夜、二人の娘とひとりの若者が姿を消したとしても、それで夏を乱すことは許されなかった。
彼らの家族と親類、青年団と自警団のうち何名かが、祭りの妨げにならぬよう、森陰や廃屋を探し廻ったが、いまだに成果は得られず、手にした杭と短槍はいたずらに白い熱気を撥ね返し、凶悪な形を青い花の上に落としていた。
手品と炭酸水と水飴とかき氷。
今日も夏はたけなわであった。
早朝、トトはスーインを残して廃寺を出た。昨夜のうちに書き上げた脅迫状をDに届けるためである。
水のような光が若葉をかがやかせていた。
サイボーグ馬に揺られながら、野辺の草花を見る盗賊の表情には、職業からは想像もできない素直な感動が溢れていた。
四〇分ほどで、祭りが行われている森の中へ入った。
さすがにまだ眠っている。
芸人たちのトレーラーやフレキシブル・ハウスの窓も出入り口も固く閉ざされていた。
「おれも早いとこ用事を済まして、仲間に入りてえんだが」
つぶやいて、トトはふと、手綱を引きしぼった。
一〇メートルほど向こうの木立の陰に、女のものらしい人影が立っている。
眼をこらすと、レモン・イエローのワンピースを着た十二、三の少女だった。
長い黒髪をひっつめ、ワンピースと同じ色のリボンでまとめている。感じからして、旅芸人のメンバーだ。
トトの眼が限界まで剥き出されたのは、その少女の顔が整っていたからでも、豊かな胸のせいでもなかった。
少女は所在なげに片手で光るものを弄んでいる。
手の平で跳ね上がり、手の甲に落下し、五指の間を器用に移動していくそれは、疑いもなく、あの珠であった。
見ず知らずの娘がオモチャにしている理由よりも何よりも、トトの胸は驚愕と歓びで満たされた。
Dのところへ行く必要などない。
いま、この場で、すべての努力は報われるのだ!
あの|娘《こ》を手なずけ、いざとなれば一発かまして、手の珠さえ奪えば。
珠の価値をトトは知らなかった。
昨夜、スーインに訊かれたときも、返事を濁したのはそのためである。
珠を求めてここまで苦労してきたのは、盗賊としての勘が、あれに秘められた途方もない価値を直感させたためである。
はじめて、ウーリンと出会った旅の宿以降、次々と勃発するトラブルが、勘に裏付けを与えた。
それに、絡んでくる奴らが、長い盗賊稼業の中でも、二度と出くわすことはあるまいと思われるほど物騒なメンバーときた。
トトのファイトは燃えた。富のためもある。だが、それ以上に、自分以外の連中すべてを出し抜き、あの珠を入手することに、盗賊としての名誉と誇りを感じたのである。
やる、やってみせる。
そう決心はしながら、現実は厳しかった。珠のかたわらにはDがいる。
トトの見たてでは、他のだれより手強い――それも桁はずれの大物だ。
巧みな変装でスーインの家へまで入りこみながら、指一本動かせなかったことが、その証明である。
それだけならともかく、じっとDの様子を窺っていると、おかしな気分になってくる。
無限回に一度の確率で生まれたような美貌に、野性の翳りと哀愁が漂い、いつの間にか、女たちに混じって陶然と彼を追っている自分に気づくのだ。
トトがあの家を離れたのは、いつか見破られると直感したのと、この異常心理のためであった。
それからも、あれこれ考え、腐心し、ようやくスーインを拉致したと思ったら――
何もかも終わりだ、と、トトは舌舐めずりをした。
少女の方へ馬の首を向けようとしたとき、鮮やかな色は、前触れもなく木立の間へ消えた。
――誰かいる。
とっさに判断して、トトは馬を降りた。
身を低くして、少女の消えた方角へ走る。足音や気配の消し方は芸術的とさえいえた。木の葉に止まる虫でさえ、一〇センチ足らずの距離をこの男が駆け抜けても、それと気づかぬままだろう。
声がきこえてきた。
太い木の幹の陰で立ち上がり、トトは顔の半分を露出してそちら[#「そちら」に傍点]を見た。
少女と、口髯を生やした人品卑しからぬ中年男が向かい合っている。驚いたことに、トトと二人の間は一〇メートル以上離れていた。
静寂に支配された夜の森ではない。樹上にも草の繁みにも、鳥や虫の声がやかましい夏の朝だ。恐るべき聴力であり、トトを辺境一の盗っ人と呼ばせる資格のひとつであった。
少女の手にもはや珠がないことを見て取り、トトは胸を撫で下ろした。
「約束は忘れないでよ」
と、少女が伝法な口調で言った。
「前金だ」
男が手を出した。そこから少女の手のひらへ、光るものがこぼれた。金貨だろう。
「後は仕事が済んだらな」
「わかったわ」
「その前に、念のため、実力を見せてもらおうか」
「おやまた、用心深いこと。――どうぞ」
娘は眼を閉じ、男は無造作に、丸いおでこに右手を押しつけた。
と――
見よ。娘の顔がみるみる別人のそれに変化したではないか。それだけではない。身体つき、背の高さまで変わり、ふた呼吸としないうちに、そこに立った姿は――
「スーイン」
隠形の芸術家ともいうべきトトが思わず口走った。
まさしくスーインだ。
すると、この娘は男に命じられるまま、どのような人物にも変身できる旅芸人のひとりだったのか。
少し違う。
すでにトトは、変身したスーインが、実物とは多少の違いがあることを見抜いていた。
娘はスーインを見たことがないのだ。それなのに変身――それも九割方はそっくりに変身できるのは、スーインの情報を与えるのが中年の髯男――暁鬼だからに他ならない。
彼が脳裡にあるスーインのイメージを娘に伝え、それによって娘は細胞レベルの変身を開始する。
イメージを伝達する触媒が、額にあてられた手なのは言うまでもあるまい。
この少女はいわば、外部強制型の変身魔なのだった。
「見事だ。よく見れば差異もあろうが、なに、遠目には十分。――さ、行ってもらおうか」
「生命は別条ないでしょうね?」
娘の声がスーインと瓜二つなのに、トトはまた驚いた。化ける相手の写真でもあったら、だまされる方は一生まがいものと暮らしてもわかるまい。
トトは緊張した。口髯の男はただ者ではなさそうであった。
「安心しろ。嘘をつくような男に見えるかね?」
「ううん」
少女――スーインはうなずいた。
程なく、つないであったサイボーグ馬にまたがって西の方へ進み出した二人の後を、二〇メートルの距離をおいて、もうひと組の人馬が追いはじめた。
Dは納屋の|内側《なか》にいた。
地面に毛布を敷き、上体だけを救命胴衣入りの木箱にもたせかけて足をのばしている。
長刀は抱きこむようにして左肩にのせてあった。
眠っているのである。
人間と貴族の血をともに引くダンピールは、昼夜を問わず活動が可能だが、睡眠時間は大むね昼を選ぶ。
夜の悪鬼を相手にするという職業上の理由よりも、貴族の血が人間の性癖に優先するためだ。
昨夜、スーインが誘拐された後、ここと隠れ家を往復し、埋められたツィンの片割れの死体を発見した。
その首に残る手の痕を見て何を考えたものか、それ以上の捜索を打ち切り、彼は納屋で眼を閉じたのである。
息をしているとは到底思えぬ美貌の何処にも、それまでの死闘の名残がとどまっていないのは、驚嘆すべきことであった。
苦痛も、死ですらも、この若者の美しさを際だたせるために存在を許されているのだった。
その両眼が開いた。
すでに|焦点《フォーカス》を結んでいた。
音もなく起き上がる。板戸の隙間から洩れる光の中で、埃が金粉と化して舞った。
一刀を背に廻し、Dは納屋を出た。
海岸へとつづく坂道を見下ろし、まっすぐ母屋へ行く。左手は自然に垂らしている。
ドアの表面に鉄の矢が突き刺さっていた。中ほどに白い紙が巻いてある。手紙だろう。
左手を上げかけ、ちょっと苦笑して右手で矢を抜いた。
紙の端を咥ええ、器用に結び目を解くと、矢を捨てて広げた。
「女は預かった。返して欲しければ、珠を持ち、100|A《アフタヌーン》ちょうどに、村の西端『黒い淵』へ来い。すべては、おまえ次第だ」
差出人は暁鬼とあった。
事態は動きはじめていた。
Dはじろりと左手を見、
「役立たずめが」
生真面目な表情で言った。
その役立たずは、ようやく光がにじり寄ってきた床の上で身をもがいていた。
もっとも、本格的に動き出したのは、トトが出て行ってからで、それまでは死んだふりをしていた。
スーインも気がついていた。
まだ薬が効いているため身動きはできないが、思考と眼と耳、口は活動が可能だ。
最初は串刺しにされたらしい鼠が生き返ったのかと思った。
暁光が満ちてくるに従い、間違いだと気づいた。
長さ三〇センチもの鉄の楔に床へと縫いつけられ、文字通り鼠みたいにのたうち廻っているのは、どう見ても、人間の左の手首だった。
言いようのない恐怖が氷のように胸中を流れ、突然、スーインは理解した。
彼女のもとを訪れたDは、左手をコートのポケットに突っこんだままだった。あえて訊かなかったが、ひょっとして――
あの左手首は、彼のものではないのか。だが、それにしても――
「おおい」
いきなり呼ばれた。
手の声だと気づくまで、少しかかった。おまけに、聴き覚えがあるときた。
「こら、スーイン、きこえるか?」
「ひょっとして――あんた? 手首が喋ってるの?」
いつの間にか恐怖が消え、スーインはおかしくなっていた。大した胆っ玉である。
「手首が喋っては悪いか?」
「そんなことないけど――あんたは、Dの左手かい?」
「そのうち、宿替えしようと思っとる」
「やっぱり。――どうしてこんなところにいるの?」
「気楽に言うな。|他人《ひと》の有り難みもわからん小娘のくせに。おまえが気になってついて来たに決まっとろうが。わしは良心的でな。一応、宿主の立場ちゅうもんを考えることにしておる」
「ついて来たって――いつから?」
「おまえが爺いに化けていた殺し屋にその鼻を削がれかかったとき、助けてやったのはわしだ」
「じゃ、あいつを殺したのは、あんた?」
「あいつを殺したんではない。おまえを助けたんじゃ、こら」
「わかったわ。――それからはどうしたの?」
「ずっと、バッグの中におったのよ。海岸では、坊主の背にひっついていこうかと思ったが、奴め、ご丁寧にバッグごと持って逃げおった」
「じゃ、昨夜の鼠は、やっぱり――」
「バッグを調べられる前に外へ出たのよ。しかし、こそ泥のくせに腕の立つ奴。これは、ちょっとやそっとでは自由になれそうもないぞ。何とか手伝え」
「駄目。薬を打たれて動けないの」
「ええい、この役立たず」
|主人《あるじ》と似た台詞を吐き出し、手首は夢中で身をよじった。
中指の付け根から手のひらのほぼ中央を貫いた楔は、固い木の床に一〇センチも食いこみ、微動だにしない。
「ええい。ここのところ、食ったのは風ばかりで力が入らん。せめて土か水でもあれば。こら、血か何か流してよこせ」
「できれば何でもあげたいわよ」
と、スーインは本気で言い、
「何とかしてちょうだい。あの人の左手なら、うどの大木やでくの棒じゃないはずだわ」
「もっといい例を探さんか」
手首は憤然と言った。
「せめて、ひと口の水でもあれば、こんな楔、一発で溶かすか凍らせてしまうのに。くそ、このままじゃどうにもならん。人は通らんのか?」
「無駄よ。この辺は滅多に人も来ない僻地なの」
「何とかせんと危ないぞ。あいつが帰ってくれば、まだよし。日暮れまでに来なければ……」
「どういう意味よ、それ?」
「奴も気がつかなかったようだが、この寺の近くには、危険が眠っておる。わしにはわかるのだ。匂いでな。そいつらが、日暮れとともに起き上がり、ここへやって来る」
スーインの意識だけが、一〇倍もはっきりした。
「日暮れとともに……? すると……貴族かその犠牲者?」
「ええい、くそ。たかだか五メートルも離れておらんのに。おまえの薬が切れるには、今夜いっぱいかかる。一方、わしは栄養失調ときた」
「何とかしてよ」
スーインは本気で言った。我ながら情けない声だった。貴族の恐怖とはそれほどのものであった。
手首はまたも身をよじったが、日暮れどころか一〇年かかっても、事態は変化しそうになかった。
2
Dは定時に『黒い淵』へ着いた。
祭りの森から西へ五キロほど行った荒野である。
淵という名前の通り、昔日の日々は透明な水が流れていたものか、周囲の道より二〇センチほど低い土地は、わずかな傾斜を見せて、直径一〇〇メートルほどの真円を形成しながら、中心は泥沼のように見える。
もちろん気のせいだ。淵の水は一〇〇年以上も前に涸れ、底は夏草に覆われていた。
淵のほぼ中央に、直径十五、六メートルの部分が、島みたいに盛り上がっているが、これは本当に昔の島の跡だろう。
ここも丈の高い木と草に支配を委ねていた。
道をそれ、淵の周囲を廻り出すと、七、八歩行ったところで、
「止まれ」
と声がかかった。
ちょうど反対側の道を吸いこむように生えている木立の間から、ひょい、と人影が現れた。
そちらの方を見て、Dの眼が細まった。
“|国王《キング》エグベルト”は首にスカーフを巻いて、どこか虚ろな苦しげな眼でDを見つめていた。
夏の陽は長い。
「よく来たな。――来れば、おれたちみんなの始末を一遍でつけられると思ったか?」
Dは答えず、
「スーインは何処にいる?」
と訊いた。
「その前に珠はあるか?」
これで、敵がシンとは組んでいないことが、Dにもわかった。
「珠は、おまえたちの仲間が持っている。シンと言ったか」
「死んだ。手にかけたのは、おまえか?」
「とにかく、珠はない。スーインは何処にいる?」
「クロロック教授という奴を知っているか?」
返事を待たず、
「シンを殺したのは奴らしい。すると、珠もあそこか?」
Dは無言である。
「女はここだ」
声は淵の中の島からきこえた。
木立の間に現れたのは、暁鬼とスーインであった。
無論、スーインは旅芸人の少女が化けたまがいもので、衣裳が違うのをごまかすためか、下着姿であった。
「この通り、スーインは預かった。しかし、珠がなければ返すわけにはいかないなあ。――別のもので引き取り代をお払い願おうか」
暁鬼はにっと笑って、
「何はともあれ、ここまで来い。もとは淵でも、一滴の水もない涸れた土地よ。ダンピールといえど案ずることはない」
手招きした。
案ずることがないどころか、罠に違いない。
動かぬDを見て、暁鬼がスーインの喉に右手を押し当てた。
黒い、鎌を思わせる爪がのびていた。
「雇い主がどうなってもいいのか。ハンターの風上にも置けん男だな」
スーインが青ざめたが、これは芝居だ。すべて、大枚の報酬欲しさに引き受けたことで、あくまでも、ふり[#「ふり」に傍点]だと言いきかされている。
いざとなれば暁鬼が平然と自分を殺す気でいるなど、考えもしない。
娘の|変形《へんぎょう》をスーインと判じたか、Dはそのとき、静かに馬を小径から淵へと乗り入れた。
馬の足から伝わる感触は、乾いた土のものだ。
慌てる風もなく、ゆっくりと進んで行く。
その頭上を、雲が悠々と流れた。
荒地の一角に凝集した殺気も知らず、自然の営みは蒼空の夏であった。
淵の周囲に張られた黒い溝に、Dが気づいたかどうか。
島まで、あと五メートル。
暁鬼が叫んだ。
「いまだ。やれ、エグベルト!」
声と同時に、娘が悲鳴を上げて、その場へひざまずいた。
木立の枝が付け根からへし折れ、かろうじて直立する暁鬼の肩を打った。
Dの馬も四肢を踏んばって、突如来襲した姿なき重圧に耐えている。
エグベルトが“王国”の重力を変えたのだ。
ああっ、と叫んで少女の上体が前へ折れた。
ずん、と重い音を残して、淵全体が陥没した。
地盤自体が脆弱なのに違いない。
地表に黒々と亀裂が入り、あっという間にそれは地面を呑みこんで、淵全体を埋めた。――次の瞬間、Dと馬はあっけなくその中へ首まで漬かっていた。
黒い飛沫がとんだ。
それは水であった。
淵の水は確かに何百年か前に涸れたのであろう。その上に土が、塵が乗って現在の地層を形成し、人々は水のことを忘れた。
だが、地下水は細々と流れ、地下の隙間を満たし、厖大な土砂を崩して地底の沼をつくった。
この地で生まれた暁鬼は、何らかの手段でそれを知っていたに違いない。
エグベルトの重力攻撃も中止した小島の上で、彼は上衣を脱ぎ捨て、上半身裸体になるや、一気に水中に身を躍らせたのである。
その変身は、水の皮膜を突き破った刹那に生じた。
水の手に引き伸ばされるかのごとく、髪は背まで達した。
皮膚はたおやかな白い肌と化し、分厚い胸は豊かな果実を実らせたのである。
そして、ズボンをはいた下肢は、なんと夥しい鱗を生じ、あろうことか二股に裂けて、激しく水を叩いたではないか。
抜き手を切ってDに迫るのは、まぎれもない女――人魚であった。
あれが――あれが暁鬼であったとは。
マインスターの呪われた実験の成果を、Dは黙然と黒い水の中で待ち受けた。
だが、その身体は確実に底知れぬ奈落へ沈んでいく。
口の端から水泡が吹き上がった。
ぐうっと暁鬼が間合いを詰めた。信じがたい加速ぶりだった。
Dの右脇を通過する刹那、びゅっと右手が伸びた。
行きすぎて反転した。女の手から水よりも黒い煙が立ち昇り、呼応するかのように、Dの右腰から太い血流が上昇していった。
「さすがだな」
女の声はDだからこそきこえた。
暁鬼の声が。
女は反対側の手で右の腰を押さえた。
そこから、小さな爆発のように血塊が噴き上がったのは、次の瞬間だった。
Dの右手の一刀を、暁鬼は戦慄と憎悪の眼差しで眺めた。
「水中ならと、甘く見過ぎた。だが、今度は逃さん」
つぶやきに必殺の気迫をこめて、人魚はゆっくりと、Dの周囲を旋回しはじめた。
Dの口から勢いよく水泡がこぼれた。
その上昇を追って、Dも水を蹴る。
黒い水の彼方にも鈍い光が広がっていた。
水面まで、五メートル。
水中で見上げていた暁鬼が薄笑いを浮かべて水を蹴った。
魚類の速度で接近してくる。
Dの頭が水面下に波紋を広げたとき、女の手が彼の足首を掴んだ。
ぐい、と引かれた。
凄まじい力で水中へ引きずり込まれていく。たおやかな女体からは、到底信じられぬ推進力であった。
Dの顔が苦悶に歪んだ。
肺の中の酸素は限界に達していた。
「じきに離してやる」
と、水底をめざしながら、暁鬼は哄笑した。
「だが、空気は吸えんぞ。水を飲め。その肺いっぱいにな。顔を出す前に、また引き戻してくれる」
その必要はなかった。
暁鬼の手が離れる前に、Dの口は開いた。喉が動いた。水を吸いこんでいる。
数秒――喉をかきむしった。全身に痙攣が走る。急激にそれが止まって――暁鬼が身を離すや、Dの身体はゆっくりと水中を降下しはじめた。
「三分半――ダンピールの水準だな」
距離をとりつつ、Dに合わせて降下しながら、暁鬼は口の前に手を差し出した。
水泡と一緒に口腔が吐き出したものは、長さ四〇センチほどの白木の杭であった。
「貴族の血を引くものに溺死はない。止めはこれでさしてくれる」
念のためか、さらに一分、Dの下降を見届けてから、暁鬼は悩ましく魚体をくねらせ、Dに近づいて、その身体を仰向けにした。
黒い水中でもかがやくばかりの美貌を見つめ、
「なんと美しい男――女になっているだけに、余計感じるぞ。しかし、放っておけば、我ら全部を破滅させかねない奴。やはり、ここで死ね」
右手を振り上げ、人魚は杭を振り下ろそうとした。
まさか信じられなかったろう。刀を握った水死人の手が、その手首を中途で掴もうとは!
だが、
「貴様――!?」
愕然と叫んだ身体は、次の瞬間、凄まじい勢いで上昇しはじめた。
「おのれ! たばかったか!?」
叫んで全身の筋肉に下降を命じたが、上昇速度は落ちない。
あまりのスピードに次の手も打てないうちに、暁鬼は水面を突っ切り、Dもろとも空中へ躍り出た。
彼は見た。
自分を見下ろす冷厳たる美貌と、その頭上をなお上昇中の黒い球体を! 球体とDとは二本の皮ベルトでつながっていた。
氷海で遭難したものが、凍死する前に空中へと脱出する低比重ガス気球。――北の海には欠かせない救命装置を、Dはスーインの納屋で身につけていたのだ。マインスター城地下での出会いから、水中での戦い、と暁鬼の手を読んで。あるいは、人魚の正体も彼と知っていたのかもしれない。
振り上げられた刃よりも、彼方の青空よりも、それを背後に従えて一刀を振りかざしたDに、暁鬼は恍惚となった。
その刹那、何を見たのか――
「その能力――そのお顔――」
茫然と叫んだ。
「もしや、あなたは、あのお方の――?」
次の瞬間、虹色の光を引いて胴を横切った刃を見ながら、男としてか女としてか、暁鬼は激しい絶頂を迎えつつ、女体と魚体とに分離しながら黒い水面へと落下していった。
水飛沫が上がった。
Dは右手で皮ベルトの栓を抜いてガスを放出し、ゆっくりと降下した。エグベルトから約一〇メートル前方の路の上に着地する。
「見事だ」
鉄の棒片手に、エグベルトは低く言った。
スーインの納屋で見つけた気球を一刀のもとに切り離し、Dはすらりと、即製の沼を一瞥した。
美しい女の上半身は、いつの間にか男のそれに変じていたが、下半身は魚形のまま、なおもうねうねと水を叩いていた。
黒い水よりも濃い色が、花のように広がっていく……。
エグベルトが言った。
「ひとつ、教えておくが、あの島の娘――にせものだ。もっとも、おれの方を気にするとは、すでに気づいていたか」
Dの眼には、娘の変形ぶりも未熟であったろう。それなのにわざと暁鬼の術中へ入ったのは、敵が見ず知らずの娘も殺すと見たからか。暁鬼の技を見抜いていたからか。
「思った通り――おぬし、ただのダンピールではないな。何者だ?」
エグベルトの問いには答えず、何処か虚ろで苦しげな表情と、喉もとのスカーフに眼を注いで、
「おまえ――咬まれたな」
と、Dは静かに言った。
エグベルトの顔に動揺の|小波《さざなみ》が走った。
それが苦悶の形相に変じて、彼はのけぞった。
倒れず、からくも振り向いた背中の真ん中に、鋭い短刀が刃の根元まで食いこんでいた。
「この裏切り者」
獰猛な、怨嗟をこめた声が、遠い茂みの中できこえた。
ツィンの声であった。
「今朝から様子がおかしいってんで、暁鬼は、おれに教授を探させるふりをして、おめえを見張らせたのさ。万が一、Dが水面へ出たら、重力変化ですぐ沈める手筈だったのに、裏切りやがって。とっととくたばるがいい。どっかへ消えちまったサモンの奴もいずれ始末をつけてやる。――D、また会おうぜ!」
その声を追って、Dの右手から白木の杭がとんだが、青草が数枚ふるえると、もう何もきこえなくなった。
「おぬしの敵は、奴ではないぞ」
エグベルトが背中へ左手を廻しながら言った。
「――他におる。おぬしの知っている男だ。おれはそこへ戻ろう」
「おまえの新しい主人か?」
「何とでも言うがいい」
「何処にいる?」
「はて。知らぬと言ったら、切るか?」
「なぜ、攻撃しなかった?」
「ある女の願いでな。――笑うがいい。いま、切っておかぬと、貴族の仲間がひとり増えることになるぞ」
エグベルトの口調には苦渋の翳が滲んでいた。
もとより、そうきいて無視する若者ではない。
エグベルトの手傷も、自分への攻撃を手加減したことも無関係。――ずい、と進んだ。
エグベルトも鉄棒を構える。
二人の間に虹色の光芒が弧を描いた。
火花とともに、Dの一刀はエグベルトの頭上で鉄の棒に受けとめられている。
だが、見よ。その刃は棒の半ばまで食いこんでいるではないか。
Dは片手、エグベルトは両手であった。
それなのに、受けた戦闘士はじわじわと圧倒され、ついに膝をついたのである。
溢れる陽光の下では、いまのエグベルトに不利か。いや、二つの影が放つものは、遙かに根源的な力量の差であった。
鉄の棒へじわじわと食いこむ刀身と、それを持つ秀麗な美貌とを、エグベルトはむしろ死の恍惚をこめて眺めた。
それは、彼が留める最後の人間性だったかもしれない。
あと数秒のうちに、エグベルトの頭部は二つに裂けていたに違いない。
淵の向こう岸で水音が上がった。
Dの集中力がわずかに乱れた。
強烈な力が下方から噴き上がり、二つの身体は跳躍してその位置を変えた。
ともに、水音の方を見た。
黒っぽい人影が淵から跳ね上がり、奥の森へと疾走していくところだった。一秒と待たず、その姿は木立の間に消えた。
「地獄の王は、まだおれを生かしておきたいらしい」
エグベルトの声が遠ざかる方向を、Dは見ようとしなかった。
小さな人影が視界から消え去る寸前、こちらを向いてかざした手の中のものが、気になっていた。
陽光のきらめきにまばゆい輪郭は、あの珠のものであった。
3
フル・スピードで森の小道を駆け抜けながら、トトは冷静に次の出方を考えていた。
珠は手に入れた。
いま、間違いなく右のポケットにある。
当然、しかるべき権威に見せて、価値の鑑定を仰がねばならない。
何人もの名前と顔が上がったが、小遣い銭程度の稼ぎならともかく、大物となると、いまいち信用できない。
やはり『都』まで足をのばし、信頼できる人間を紹介してもらわねば。幸い、伝手はいくらでもある。
その前に、スーインはどうしたものか。
欲望に彩られた表情がふと曇る。
放っておいても夜半には薬が切れるだろう。それまで、廃寺に巣食う妖物に襲われないという保証はないが、それはあの娘の運次第だ。
自分を旅の僧と信じ、葬儀の一切を頼りきっていた信頼の眼差しが胸を刺した。
盗っ人稼業から足を洗いこの村に留まれ、と諭す昨夜の声が甦った。
どちらも夢だ。
トトは頭を振って、太陽のような女の顔を振り払った。
この森の出口には馬がつないである。
それに乗れば、一時間とたたないで、辛気臭い海の村とはおさらばできる。
Dとエグベルト――あの二人さえ、自分が水中に潜って孤島へ辿り着き、木陰に置いてあった娘の服から珠を取り出して、また泳ぎ戻ったことに気がつかなかったのだ。
あまりうまくいったせいで、水から上がるとき音をたててしまったが、なに、吸血鬼ハンターにさえ、それと気づかせなかった盗みの腕は、あと三〇年現役で使える。
木に巻いた手綱をほどき、トトは馬にまたがった。
仲間でいいわ――
「畜生」
とつぶやき、トトは馬首を巡らせた。
スーインを閉じこめた廃寺の方角へ。
そのとき、トトの頭の中へ、皺深い声が鳴りひびいた。
「馬を降りて、珠を出せ」
何だ、と考える思考は、もう火花のように消えている。
トトの脳は、奇怪な声の指示だけをきいた。いかん、と暗い片隅に押しこめられた理性が叫んでいる。
トトは珠を取り出した。
「前へ投げろ」
珠は弧を描いて前方の繁みへ消えた。
すぐに小柄な影が立ち上がった。
クロロック教授。――と気づいたものの、意識はどのような行動も肉体に命じはしない。
手にした紙のようなものへ、教授は顔を寄せて何事かささやいた。
「死ね。心臓を突いて」
今度の声は、低くかすれ――圧倒的だった。
トトは右手が腰のベルトへ動くのを感じた。
ベルトには盗みの小道具がはさんである。
手は錐を選んだ。
いかん、と声が遠くで絶叫した。
ぐいと、右胸へ寄せた。
「違うぞ。左だ」
浮動する切尖は、ついに左の乳の上にあてられ――
いかん。――声は悲鳴に近かった。
冷たい鋼が肉を突き破り、トトは苦鳴とともに、かたわらの木にもたれかかった。
足首、膝、腰と力を抜いてずり落ちる盗賊の身体を、教授は冷酷この上ない眼で見下ろしていたが、ひょい、と森の奥へ顔を向け、
「昨夜からDを見張っていた甲斐があったわい。これで、誰を貴族にするもしないもわしの意のままじゃ。この珠の持つ真の意味に気づかぬ愚かものどもは、勝手に殺し合うがよい。わしは最後の仕上げにかかるぞ」
ぼろぼろのマントを珍しく翻し、教授は自分の馬がつないである方角へと走り去った。
少しして、濃密な血の匂いが、この一角にこもりはじめた。それに誘われたのか、繁みや木立のあちこちで、不気味な鳴き声やざわめきが生じはじめた。
夏の森は生命に溢れていた。
危険な生命でも。
繁みの葉の生んだ暗闇の奥で、夥しい光がまたたき、それは醜悪な顔に埋めこまれた眼となって、青草の間へ滑り出た。
灰色の頭に複眼をつけたオオメチュウ。
黄土色の肌に黒い斑点を刻印した肉食ミミズ。
数十の小さな牙をきらめかせた毛むくじゃらのタマコロビ。
それらが、小さな脚を、節足を、汚怪に蠢かせつつ、俯せのトトへと近づいていく。貪欲な森の生き物の歯にかかれば、トトが骨の一片も残さず地上から消滅するのに、小一時間もかかるまい。
真っ先に、肉食ミミズの群れがトトの耳へと走った。
耳孔から入りこみ、脳を食い荒らすのが彼らの最も好むやり方であった。
だが、まさか死体が動くとは。
トトの右手が閃くや、数匹のミミズが空中で二つに裂け、地上へ落ちたその断片へ、音もなく、生き残りが襲いかかった。
間髪入れず、オオメチュウがトトの喉へととび、これも錐の一閃でトカゲ状の胴を裂かれてとび散った。
死者の抵抗はそこまでだった。
どっと地上に落ちて青草を倒した腕はもう動かない。
「畜生……虫ケラの……餌か……」
憎悪と口惜しさが声となって地を這った。
血まみれの仲間を食い終え、本能的な食欲以外は恐れも知らぬ虫たちが、また、大きな餌のことを憶い出すには、一〇秒とかからなかった。
意表をついた反抗する死者もこれで終わりか。
一斉に地を蹴ろうとした妖物たちの面を、すう、と何かが撫でた。
血に狂ったものたちは、声もなく後退ったのである。
木立の向こうから、黒い影が現れた。
妖物たちを脅えさせた鬼気は、Dの全身から発しているのだった。
大分離れたところに少女がいる。スーインの顔はもう剥げていた。その位置が、血臭の限界なのだろう。
Dはまっすぐトトに近づき、左手をとった。右手の錐には目もくれない。彼にとっては、小指の先で処理できる代物だ。
「残念だな……生きてる……よ」
血の気の失せた唇が、笑いの形に歪んだ。
「野郎……わざわざ……てめえで急所を外し……やがった……おれの心臓は……へへ……右側にあるんだよ……」
「誰にやられた?」
気遣う風もなく、Dが訊いた。
「クロロック……教授だ……おかしな……紙に何かささやいて……おれを自由に操りやがった……気をつけ……ろ……珠は……」
トトの顔から表情が消えた。
「……あいつが……」
全身の力が抜けた。
Dはその脈をとり、右手で応急紙を取り出した。通気のよいセロファン状の紙は、縦横二〇センチずつ。一〇〇枚ひと束でも大してかさばらない。表面に塗布された薬品層は、止血、消毒、栄養、保温、冷却の各層からなり、軽い風邪から裂傷まで、旅での事故には欠かせない品だ。
一枚をトトの左胸に貼り、右手一本で肩に担ぐ。悠々と立ち上がった姿を見て、少女が眼を丸くした。空気の詰まった人形を担いでいるようだ。
「来い」
トトの馬のところでDが呼んだ。
ふらふらと、操り人形のようにやって来た顔は、淫らといってもいい恍惚の表情を浮かべている。淵からずっと、Dのそばにいたのだ。
「その人……死んだんですか?」
「脈はある。病院へ運ぶが、君は好きなところで降りろ。今日のことは、口外しないでもらいたい」
少女はうなずいた。この青年の美しさと妖しい魅力は言葉にも充満していた。逆らえるはずもない。
トトを肩に、少女を背後に乗せて、Dは激しく馬の腹を蹴った。
荒涼たる瓦礫の手前で、クロロック教授はサイボーグ馬を下りた。馬の背の荷物も下ろす。毛布と皮のバッグだ。
そこはかとない青を帯びはじめた空を眺め、
「じき、日が暮れる。わしの願いを叶えるのにふさわしい時間じゃ」
逢魔が時を讃え、彼は危なっかしい足取りで、瓦礫の中を歩きはじめた。
二〇〇メートル前方に、城壁らしい残骸がひっそりと建っている。
その奥に、途方もない大きさの空洞が口をあけていることを、彼は知っていた。
バッグに仕込んだ針金の束が、その底まで届くかどうか――それだけが気懸りだった。
「いかんなぁ」
板の間の上で、落ち着いているとも緊張しているともとれる声がきこえた。
「何がよ?」
スーインが嫌そうに訊いたのは理由がある。
ここ二時間ほどの沈黙を破り、やっと再開した会話の第一声がそれだったのと、部屋に満ちた陽が、数分前からみるみる光を失いだしたためだ。
楔を刺された手首も、輪郭を青の中に溶けこませはじめている。
「前にも言ったろう。この寺には、何かある。いいや、いる」
「妖物よけの無臭ガスなら撒いていってくれたわよ」
「えい、まだ薬が切れんのか?」
「駄目よ。少しは感覚が戻ってきたけれど……とっても動けないわ」
「感じでは、いついける?」
「あと一時間。――それまで、何も起きないかしら?」
手は黙りこんだ。ひと呼吸おいて、
「つかぬことをきくが」
何とも嫌らしい口調に、スーインは眼を剥いた。
「何よ?」
「……少しは感覚が戻ってきたか?」
「ええ」
スーインの声は用心深い。疑惑の眼差しであった。
「ふむ」
「何がふむ[#「ふむ」に傍点]よ?」
「実は、わしは腹が減っておる。おまえら流に言えば、だ。つまり、栄養をとらねばならんのじゃよ」
「どんな栄養?」
スーインは興味を引かれた。
「うーむ」
「勿体ぶるな」
罵って、スーインはふと、耳をそばだてた。
奥の方――記憶によれば玄関の方角で、物音がしたのである。
誰か来たのだろうか。
窓の光が、このとき、急速にかがやきを失っていった。
まさか、あの貴族が?
いくら何でも、この場所がわかるなんて……。
違う。村の者だ。
そう思いながらも、スーインは助けを求める声を出すことができなかった。
「ねえ」
と呼びかけた。
「早く言ってよ。どうすればいいの?」
「いつ、食事をした?」
妙なことを手首は訊いた。
「昨日のお昼前よ」
「水も飲んだか?」
「もちろん」
「………」
「あっ!」
とスーインは叫んだ。耳たぶまで真っ赤になって、物言う手首を睨んだ。
「うむ」
「なにがえらそうに、うむ[#「うむ」に傍点]よ。いやらしい」
「そういう小さな問題ではあるまい」
「何処が小さいのよ。女に向かって」
「貴族の下僕になるよりましじゃろう」
このとき、スーインの顔が上から下へすうと色を失っていったのは、左手の言葉もあるが、背後にいくつかの足音を聴きつけたためであった。
何処か弱々しい足取りが、ゆっくりと、奥の間から近づいてくる。
世界は青を通り越して墨色に身を委ねていた。
「まさか」
「いや、まさしくあやつらの気配じゃ」
手首の声も硬い。
「さっきの話じゃが、――駄目か?」
「そんな、急に言われても」
「生命――ではない。魂がかかっておるぞ。何とかせい」
「やだ――そんな」
スーインは息をひそめた。
足音が止まった。
ドアの前で。
窺っている。
スーインにはわかる。
何故、入ってこないのだろう。
誰かいないかと声をかけないのだろう。
いや、どうして、彼ら同士で話し合わないのだろう。
冷たい汗が頬を伝わった。
「まだか?」
と手が訊いた。
「待ってよ――今」
「時間がないぞ、こりゃ」
ドアがきしんだ。
開かないで、とスーインは思った。
音は長く、内側へとつづいた。
スーインがそっちを見ることができなかったのは、むしろ、幸せだと言えたろう。
薄闇の向こうから、幽鬼のように入ってきた人影は、首の付け根を血で染めた三人の男女だった。
「いる?」
と丸顔の娘が訊いた。蝋のような顔色であった。
「いるわ」
と赤髪の娘が応じた。泣くような声で嬉しそうに。
「寒いよ。腹が減った」
三人目の――若者が哀しげに言った。
「あたたまりたい。寒いよ。夏だっていうのに」
三人は顔を見合わせた。
その視線が、絡み合いながら、スーインに落ちた。
「いるわ」
「いるわ」
「行こう」
三人は歩き出した。眼は虚ろだった。地獄の色は空虚らしかった。唇には血の気がなかった。それなのに赤く見えた。そんな肌の色だった。心臓は夜の脈を打ち、血管を流れる血は闇色をしていた。|呼吸《いき》には墓地の土の匂いがこもっていた。
「後ろを見るな」
と手が命じた。
「見られないわよ」
スーインの舌はよく動かなかった。
「まだか?」
ああ、とスーインは呻いた。
「待って。――もう少し」
「もう待てん。断っておくが、先頭の奴は、あと三メートルでおまえの足もとに着くぞ」
「………」
「おお、身体が突っ張った。頑張れ。もうひと息じゃ」
スーインの身体の上に、三つの影が落ちた。
取り囲んだものが身を屈めるのをスーインは感じた。
首筋に、氷柱があてられた。
指であった。青白い、氷そのものの指であった。
「あたたかい」
と若者は言った。
「あたたかいよ。あたたかい血が流れているよ」
「おいしそう?」
と赤髪の娘が訊いた。
「おいしいとも。おれたちとは違うさ」
「飲まなくっちゃ。――いっぱい」
と、丸顔の娘が唄うように言った。
「これじゃあ、吸いづらいわ」
「ひっくり返そう」
「そうしましょう」
六本の手が伸び、スーインは仰向けにされた。
はじめて、彼女は三人の顔を見た。
「ハンナ、クレム――リカルド!?」
愕然と叫んだ。
「あなたがた――どうして!?」
「スーイン」
若者――リカルドの虚ろな声に、わずかな驚きが感じられた。だが、たちまち、若々しい顔に、まるで数百歳の老人みたいないやらしい笑みを浮かべて、
「おまえか。おまえの血なら、さぞ――」
「おいしいわ」
と丸顔――ハンナが呻いた。
「いつ、いつ、咬まれたのよ? いつ?」
リカルドの手が、喉の方へ近づいていくのを見ながら、スーインは必死に訊いた。
「昨夜よ……あたしたち……三人で夜光草を摘んでいたの」
クレムの赤髪は、闇の中で不潔な朱いぼろ布のように見えた。薄い唇がくちゃくちゃ動くと、何本かがその端に貼りつき、動きに合わせて吸いこまれた。
「そこへ、あの二人が来たわ……赤い眼で見つめられると……あたしたち、身動きもできなくなって……わかるわよ、スーイン、あなたにもわかる……これがどんなに素晴らしい状態か。……それからあたしたち、この寺の縁の下で寝たの」
スーインが息を呑んだ。
リカルドの手がシャツの胸もとを引き裂いたのである。
白いブラジャーの食いこんだ豊かな隆起が三人の眼にさらされたが、羞恥を感じるどころではなかった。
「いい匂いだよ、スーイン。あったかい。人間の胸だ。さぞかし新鮮な血が流れているだろう。おまえたちがおれたちに勝るのは、そこだけだ」
リカルドの唇から涎が滴り、スーインの乳房の間で弾けた。
「まず、おれが先だ。文句はないな?」
「いいわ。早くして」
リカルドが口を開けた。
牙が覗いた。
それが、喉の方へ下りていくのを見て、スーインは眼を閉じた。
「ちょっと待て」
嗄れた声が、三人の吸血鬼を振り向かせた。
リカルドの眼が爛と闇を貫き、
「変わった奴だ。手がしゃべっているぞ」
と言った。
「見たところ、動けまい。スーインの血を吸い終わったら、物は試し、おまえの番だ」
「こら、わしを先にせい」
もう、手の方を見ず、リカルドはスーインの方を向き直った。
白い牙を歯茎まで剥き出して、わななく白い肉に覆いかぶさった瞬間、ひえ、と叫んで彼は身を起こした。
狂った視線の落ちた足先を、湯気をたてる流れ水[#「湯気をたてる流れ水」に傍点]が、手首の方へ移動していった。
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第七章 飛翔崖
1
「貴様!?」
とわめいて跳びのいたものの、リカルドは即座ににやりとした。
「怖いか?」
とスーインに訊いた。
「無理もない。だが、それも、少しの間だ。ここだけの話だが、おれはおまえを憎からず想っていた。仲間になっても、ゆっくりと可愛がってやるぜ」
口調は悪鬼そのものだ。
だが、そのひと言でスーインに理性が戻った。下卑[#「下卑」に傍点]た言い方に女の怒りが爆発したのである。
「誰が、あんたなんかに!」
叫びざま、右手が唸りをたてて走った。
麻痺剤は切れかかっていた。その効き目を、激怒が吹きとばしたのだ。
喧嘩慣れしたパンチが頬骨をきしませ、リカルドはのけぞった。
それだけだ。
瞬く間に元の位置へ戻った顔は、にんまりと笑っていた。
|下僕《しもべ》の力は貴族には及ばないが、筋肉組織の強度は常人の五倍に達する。リカルドはおろか、クレムもハンナも、プロボクサーのパンチを平然と受け止めてしまうのだ。
「この野郎」
悪鬼の形相で牙を剥き、スーインの喉めがけて襲いかかったリカルドは、このとき、もう一度のけぞった。
その背から胸へ光る楔が抜けていた。
「危ない、危ない。――おまえたちの相手は以後、このわし[#「わし」に傍点]じゃ」
リカルドの血まみれの眼は、床の上にうずくまった白い蜘蛛のごとき手を映した。
その横を、スーインの下肢から流れた黒い筋が通っている。
くえ、と低く呻いて、リカルドは前のめりに倒れた。
ナイフは心臓を貫いていた。
「おのれ」
「許さぬ」
女二人が立ち上がった。手首めがけて飛んだ。スーインのことなど忘れていた。
先頭のクレムが突如、かがやいた。青白い化学の炎が輪郭を包んだのだ。
あらゆる色が白熱光に変わり、娘は声も上げず、一塊の白い灰と化して床に広がった。
ハンナがたたらを踏んで停止する。
その足もとを、白い手は一気に駆け抜けた。
「出るぞ、スーイン」
「もうひとりいるわ」
「今ので終わりじゃ」
「役に立たないんだね、もう!」
絶妙のタイミングで、二人は奥のドアへと向かった。
隣も広間だった。
躊躇も束の間、ハンナが猛スピードで迫ってくる。
ドアの手前で振り向きざま、スーインはリカルドの死体から抜き取ったナイフを投げた。
ダイオウシャチの頭骸さえ貫くスピードのそれを、ハンナは両手のひらを叩きつけるようにして顔前で受け止めた。
「こりゃ、いかん!」
声と同時に、ドアが開いた。
二人は一気に隣の居間へ入り、後ろも見ずに駆け抜けた。
「こっちよ!」
廊下を右へ折れ――すぐに玄関へ出た。
ハンナの足音が耳の後ろできこえ、スーインは震え上がった。
玄関の扉は崩れていた。飛び出した。
あっと叫んで、スーインは急停止した。勢いのあまりつんのめりそうになる身体をかろうじて支える。
宙天に白い月が浮いていた。
澄み切った夏の夜である。
伸び放題の雑草さえ美しい月光の庭に、二つの人影が立っていた。
サモンとグレン。――どちらもDと自分の敵、と判断するよりも、同じ人間とスーインは理解した。
「助けて――後ろの|娘《こ》、吸血鬼よ!」
グレンの横に並んで叫んだ。
ハンナは玄関の前に立った。
白い牙は、スーインの生血を求めてかちかちと鳴り、形容しがたい忌まわしさであった。
「どいて――吸わせて、その|娘《こ》の血を」
サモンがまずスーインを、それからハンナを見て、
「どうする?」
と訊いた。
無論、グレンへだ。問われた修業者は答えもせずに、一歩前へ出た。傷ひとつない美貌が月光に冴えた。
ハンナが突進した。
腰から迸る白光が、娘の首を薙いだ。村のクラコウ爺さんが鮭の首を出刃で切り落とす名人芸に等しかった。
何の抵抗もなく白い光が走り抜けた後、ハンナの身体は黒血を噴き上げつつ、数メートル駆けた。
首のない胴と下肢だけが。
それが横倒しになったとき、はじめてスーインは、グレンとサモンの肌の色に気がついた。
「あなた……あなたたちも……」
「馬鹿な娘たち」
と、サモンは首のない死体を冷然と見据えて、
「あたしたちと会うまで我慢していればよかったのに……後の二人はあなたに殺られて? 彼らに別の世界を与えたのは、私たちよ」
スーインは全身から血が引くのを感じた。
一刀を引っ下げたまま、
「出てきたとき……おかしなものと一緒だったな」
はじめて、グレンが口をきいた。底知れぬ虚ろな声。夜の声。
「草の陰に隠れたが、あれは、おまえの飼いものか?」
二つの眼に見据えられ、スーインは身動きもできなくなった。
「そういうことじゃ」
草むらの何処かで、嗄れ声が応じた。何かを頬ばっているみたいに。
サモンが周囲を見廻したが、声の出場所は突き止められなかった。
違和感がスーインを捉えた。口調は同じだが、寺の中できいたものとは雲泥の差がある。底知れぬ自信に支えられた声であった。
「ほう。――これは見くびっていたな」
グレンは一刀を口もとに近づけながら言った。
「何とも恐ろしい力を感じさせる奴。いま戦えば、この女すら危ないかもしれん」
サモンの形相が変わった。この女[#「この女」に傍点]が自分だと知ったのだ。
「昔のおれさえもな。だが、いまは違う。――殺気が似ている。おまえ、Dの手のものだな?」
「確かに手のものじゃ」
「ならば伝えろ。この女は預かる。返して欲しければ、明日の日没と同時に『貴族の岬』へ来い。それまで、娘には何もせん」
少しの沈黙。
「――承知した」
声は淡々と言った。
グレンの刃が口もとで斜めに下行した。
刃に舌が触れている。
こびりついた血を舐めているのだった。
「来い」
そう言われただけで、スーインは操り人形のように、グレンの後を追って歩き出した。
サモンの影を最後に、三人が境内の奥へと消えると、ようやく、草の中から長い長い溜め息がきこえた。
「――なんともはや、厄介な奴が出て来たものじゃわい。あの娘を取り返そうと思ったら、わしも殺られていたかもしれん。居場所も見抜かれておったしな。……普通の奴ならともかく、いまのあいつに、果たして勝てるか、Dよ?」
左手が、そのDに会ったのは、二〇分ほど後――崩れかけた山門の下である。
病院へ運んだトトが意識を回復し、スーインの居場所を告げたのだ。
「残念じゃったの」
と、左手は告げ、これまでの事情を物語った。すでに手首と融合している。
「『貴族の岬』か」
とDは言った。
それだけだ。
「いよいよ、なるようになったな」
と、左手が言った。
「やはり、早目にこの村を出た方がよかったかもしれんな。またまた多くの血が流れた。――あの珠の正体、おまえ、知っておるのではないのか?」
Dは無言だ。手はつづけた。
「それに、あの貴族――何者だ? わしらが博物館で耳にした話。――スーインの家に滞在しておったという戦闘士と奴を結ぶ線があるのではないか? わしはもう見つけた。おまえはどうじゃな?」
答えはせず、Dは左方に眼をやった。
騎馬は丘の中腹で海を望んでいた。木立はない。
墨色の世界に白い波が砕け、潮騒は絶えることなく、北の歌を歌っている。
流氷のきらめくその果てから、夏はやって来たのだった。
青い貴族の装いで。
そして、いま、朱色に染まり、最後のひと筆を待っている。
それをふるうものは、Dでも修業者でもないはずであった。
「なぜ、ここへ来た?」
声が訊いた。
「あの、ギリガンの地下室で殺された娘――あの|娘《こ》が、最後におまえの名を呼んだからか。ほほ、つくづく性根の甘い奴。死者との約束は破れぬか。生者は怒るが、死者は何も言えぬが故に」
Dは黙って海を眺めていた。自分の手が語る自分のこころの動きも知らぬという風に。
こころとは、彼のものでは永劫にないのかもしれなかった。
そして、程なく、馬の腹にひと鞭あてて、彼は狭い急な坂を、不吉な黒風に似て走り去って行った。
スーインは土間に転がされた。グレンとサモンの隠れ家たる海の小屋である。縛られもしないのに、身体は動かなかった。その気になれば、立つことも走ることもできる。
その気にならないのだ。
意欲、向上心、負けん気――そういった「プラス」の要素が、ことごとく、敵の眼を見た自分の瞳ごと、眼窩から抜き去られたかのようであった。
「娘――訊きたいことがある」
少しして言ったのは、小屋の隅で一刀の手入れをはじめたグレンではなく、妖女サモンであった。
その両眼は、グレンに劣らず|凶々《まがまが》しい|紅沢《こうたく》を放ち、スーインを見つめる眼差しと口もとには、飢餓と貪欲の翳が消えようとしない。
「何かしら?」
何とか、意志を奮い起こそうと努力しながら、スーインは応じた。
「おまえは一度、私の術にかかった。治安官の事務所とあの山門でな。そのとき、おまえはある男を私に示した。この世で最も忘れがたく、ひとめ会いたい男をな」
「男?」
スーインは眉をひそめた。
覚えている。あれが男だと? ――ウーリンだ。ウーリンではないか。
スーインの疑惑など知らず、サモンはつづけた。
「あの方とどういう関係だ? 海から来た貴族と?」
半夢中の状態にありながら、凄まじいショックがスーインの全身をこわばらせた。
単に自分が貴族と関係があると、途方もない指摘をされたからではない。
幾重にも交差する薄布の彼方から、一瞬、その答えが顔を覗かせたのだ。幾何学的、鉱物的な精緻さで。
「何のこと?」
「とぼけるな」
サモンは牙を剥いた。
「あれは、何よりも誰よりも、おまえが哀惜する男。それが、なぜあの方なのか、私は知りたい。――答えろ」
スーインは首を振った。
「ウーリンよ、あれはウーリンだった」
「この期に及んで」
「嘘ではないわ。あなたこそ、嘘をつかないで」
凶暴な表情がサモンの顔をつくり、急にそれを消して、妖女はじっとスーインの眼を見つめた。
紅玉のような光点がスーインの瞳を貫き、そこから、体内の|澱《おり》に似たものを抜き出そうとする。
二秒とかからず、
「ほう、おまえ……催眠術にかかっているね」
と、サモンがつぶやいた。
「それも、かなり強い……記憶の消去と罪悪感の一掃……いや、完璧とはいえないわ。待っておいで。いま、覗いてあげる」
紅玉が炎の水晶に変わった。スーインの眼はさらに虚ろとなり、サモンの顔に、珠のような汗がきらめいた。
数秒――
サモンは眼を閉じ、よろめいた。綱を巻いた柱にすがって立ち直り、片手で瞼をもんだ。
再び開いた眼は――ああ、これほど凄まじい悪虐の歓喜が世にあるだろうか。
スーインの胸の裡――そこに隠された何が、かくもサモンを歓ばせたものか。
「見たぞ。――そうだったのか。ほほ、これなら、隠そうとするも道理。ようし、いま、おまえの眼にも見せてくれる」
「やめて」
理由も知らず、スーインは脅えた。理解の外にある恐怖の凄惨さが、闇の底から頭をもたげていた。
「ごらん、私の眼を」
サモンがスーインの顎を押さえて、顔を近づけた。
「やめて」
スーインの声は弱々しく消え、すぐ、顎を掴んだサモンの両手の間に、ぼんやりと白い塊が形を整えはじめた。
“思い出サモン”――浪漫的な響きの伝える術の恐ろしさを、スーインは知っている。
輪郭ができた。眼ができた。鼻もついた。
それは、ウーリンではなかった。まだ定かならぬ――しかし、まぎれもない男の姿であった。
スーインは眼を固く閉じた。その瞼をサモンの指がこじ開けた。
「ようく、ご覧。おまえのこころの中を。自分がしでかしたことを」
その肩が強く引かれた。
あっという叫びが術の乱れを呼び、スーインのこころが生んだ幻影は消滅した。
「何をする!?」
驚きと怒りを、グレンのたくましい胸が吸いこんだ。
「やめておけ」
「何の真似だ? 私はただ、この娘に自分の本当の姿を見せようとしているだけだ。それがいかんというのか?」
グレンは荒々しく、左手を振った。
軽々と一回転し、サモンは板壁に背中からぶつかった。
天井の木函が、その足もとに落下した。
「よくも――おまえがいま一度、この世に留まれたのは誰のおかげか忘れたか?」
「忘れた」
無表情に言い放つグレンの全身から、凄まじい妖気が吹きつけ、サモンは息を呑んだ。
「おまえ……」
恐怖の呻きは、自分が生命と魂を賭けて救ったこの若者が、いつの間にか、手の届かない存在になりつつあることを知ったためであった。
恐怖を怒りに変え、悪鬼の形相で、サモンは壁を這うようにして、スーインのかたわらに寄った。
「私をこのように扱い、この女をかばうのか。許さん。――こうしてくれる」
かっとその口が開いた。
顔を鞭のように捩って、サモンは二本の牙を、茫洋と床に伏せるスーインの喉へ突き立てようとした。
その間を白光が薙いだ。
鮮やかな動きを見せて、サモンは宙を舞い、着地したその胸もとへ、ピタリと一刀が突きつけられたのである。
「裏切り者……その女の血を……独り占めにしたくなったのか……?」
血を吐くような叫びに、グレンは低い声で応じた。
「明日の日暮れまで、この女には手を出さんと約束した。した以上は守る」
「馬鹿な。――そのような……」
「おまえには馬鹿なことでも、おれには生命にまさる重大事よ。明日まで、この女に指一本触れることはならん」
ぐい、と刃が前進した。
青いワンピースの胸もとに、鮮やかな朱の花が咲いた。
「血が吸いたければおまえ自身のを吸うがよい。いいや、もっと良い目を見せてやろう」
刃が躍った。
サモンの服は蝶の羽根のように床へ落ちた。
豊かな胸を血に染めた女――自分のために生命と魂を賭けた女へ、修業者はいかなる行為で報いたか。
立ちすくむ女体、その喉へ、彼は凄まじい勢いで唇を押し付けた。
肌と唇の間から、みるみる真紅の糸が滴りはじめた。
空を仰いだサモンの表情は、苦痛から恍惚に変わり、彼女は自らグレンの頭を抱いた。
「私はおまえのもの」
すすり泣くように言った。
「だが、おまえも私のものだ」
宙を仰ぐ顔がグレンの首筋へ落ちた。
何という無残さ、何という妖美さ。
床のスーインがなす術もなく見守る前で、貴族の口づけを受けた男女は、互いに、その血を貪り合いはじめたのである。
2
夜が明けた。
潮風は夏の香りを北の村へ送り、青い草と白い花をかがやかせた。
芸人たちは、空中から三つ目の怪物やロボットを取り出し、花畑や湖で空地を囲み、村人たちはBGMに合わせて慣れないワルツを踊った。
行方不明になった三人の若者の死体は、村を大分離れた丘の廃寺で発見されたが、村長の命令で関係者一同は口をつぐみ、海岸の見張りは一層強化された。
一週間の夏は、何よりもやさしく、秘密に守られねばならなかった。
スーインの学校へ行きたいとせがむ子供たちを、村の幹部たちは拳固ときつい顔でたしなめ、スーインはよくない女だと教えこんだ。学校にはもっといい先生が来る、スーインみたいな女はお払い箱だ。
あと四日だ、とみんなが思っていた。
夏を汚してはならない。それは、光に満ちた希望の季節なのだ。
だが、そんな季節でも、逃れられない運命があった。
夜は必ずやって来るのだった。
Dは眼を開いた。
スーインの家の納屋である。
立ち上がり、外へ出て、トトのサイボーグ馬に乗った。
動きに停滞はなかった。
|機械《メカニズム》の精確さ、自然の優美さ、銀河に組みこまれた動き。
道へ出て右へ曲がった。
海岸には今日も篝火が揺れている。貴族は来るだろう。
何を求めて?
三年間。――そして、今年の夏は、スーインを求めてやって来た。
何故、夏に?
北の海の歌をきいているうちに、貴族も青い季節が恋しくなるのかもしれなかった。
「おおい――おい」
遠くで呼ぶ声がきこえた。
Dは馬を止めた。
ひとり用の水力バイクに乗って、ドワイトが走り寄ってきた。
循環水のエネルギーを増幅使用する小型二輪車で、海辺や川近くの土地で多用されている。最高時速は四〇キロだが、狭い土地なら十分だろう。
「――待ってくれ。何処へ行く?」
意味もなく、ハンドルをひねくり廻して、
「こんな時間に、スーインのとこか? 助けに行くのかい?」
Dは答えず、
「何をしに来た?」
と訊いた。
「トトの野郎だ。――すまねえ、逃げ出しやがった」
左胸を負傷した盗賊を病院へ入れたとき、ドワイトも傷の治療をしており、Dはトトの様子を見張るよう依頼しておいたのだ。珠の秘密を知っている男だと言うと、ドワイトは一も二もなくオーケイした。
「仲間に見張らせといたんだが、ベッドの中でモゾモゾやってるんで、ちょっとそっちへ行ったら、いつの間にか壁にぶつかって、のびちまったっていうんだ。にしても大怪我だから、遠くまでは行けるはずねえんだが、何処探してもいねえ。えらくタフな野郎だぜ。それを知らせに来たのよ」
「家へ帰れ。スーインは連れ戻す」
少しの間、一緒に並んでバイクを走らせ、ドワイトは大きくうなずいた。
「その台詞――信じるぜ」
それから、
「なあ、あんたも生きて帰って来いよ。貴族の血が流れていようが何だろうが構やしねえ。生きてりゃいいこともあるさ」
それまで前を向いていたDが、静かにドワイトを見つめた。
「その通りだ。生きていればな。――スーインもそうなる」
「頼んだぜ」
ドワイトは片手を差し出した。すぐに引っこめた。ハンターが利き腕を使わぬぐらい承知している。
ドワイトの乗りものは止まった。
Dのみが行く。月の光に照らされて。
細い道を折れ、丘陵地帯につづく踏み分け道を進むと、幅広い道路が現れた。
土をかぶせたあちこちから、漏洩する光が見えた。
「貴族の道」であった。かぶせた土は、乾燥しきり、長年月の間に地肌が覗いたのだろう。
そこを三〇分も進むと別荘地帯へ入った。
地に騎馬の影が落ちている。騎手の影のみ薄い。貴族の血を引くものの宿命であった。
Dのかたわらを、黒い馬車が走りすぎた。電子灯の青い光の下で、夜会服に身を固めた男女が笑いさざめいている。
どの家にも明かりが点っていた。
前庭の芝生には花火が燃え、大理石の噴水から羽根のように広がる清水をきらめかせていた。今夜は舞踏会だろうか。
Dの頭上を、銀の骨と水晶の翼をもった夜の鳥が通りすぎていった。
嘴に咥えた手紙は、紳士が淑女に送る恋の一葉かもしれない。
通りを風が渡った。
家々の庭から白い花びらが吹き乱れ、Dの顔を打った。
その一片を手に取る。
薄汚れた壁紙の一部だった。
通りに動くものの気配はなかった。
家々は闇の中に鬱蒼と沈み、腐蝕土と雑草に覆われた庭は、吹く風に合わせて廃滅の歌を歌っていた。
すべては夢だ。
Dは黙然と白い道を進み、やがて、海の音が近づいてきた。
岬に着いたのだ。
闇の奥に三つの人影が見えた。
約三〇メートル。
左右には人面の巨石像が並んでいる。耐風化コーティングを施してあるため、数千年前の面影も色もそのまま留めていた。
一〇メートルまで近づき、Dは馬を下りた。
潮風がコートの裾と髪をなびかせた。
影の中央はスーイン、向かって右にグレン、左手にサモン。
月光の仕業とは思えぬ青白い肌の色が、Dに二人の正体を確信させた。
グレンが口を開いた。
「驚かぬのか? そうか、その左手が知らせたな。――これも、おまえに勝つために選んだ道だ」
サモンがちらりと彼の方を見たが、何も言わなかった。
術が効いているらしく、スーインの表情には意志が感じられなかった。
「珠はない」
Dが言った。
「そんなものはどうでもいい。――おれはおまえと決着をつけたかっただけだ。この女にも、もはや用はない」
グレンは歓びに震える声で言った。
「娘を離せ」
「おれとおまえの決着が着いたらすぐに。安心しろ。指一本触れておらんし、この後も何も起こらん」
そう言って、グレンはふと、上空を仰いだ。
月が出ている。
地上の営みのすべてが映りそうな澄み切った月であった。
グレンが微笑した。
「きれいな月だな。こんなときに、戦わねばならんとは」
彼は軽く頭を振って、Dに向き直った。
「だが、おれ自身の血が待てん。貴族の支配を受けても、これだけは変わらんおれの血がな。まして――おまえも、いまのおれを生かしてはおけまい」
「立ち合うのはひとりか?」
Dが訊いた。
サモンの方は見ず、しかし、サモンの全身は恐怖に硬直した。
ふたりならまとめて斃すと、Dは言っているのだった。
「ふたりだとも」
牙を剥いて叫ぶのを、グレンは片手を上げて制した。
「おれひとりだ。おまえが万が一にも生きて戻れる気遣いはないが、もしもそうなったら、女は見逃してやってくれ」
「そうはいかん」
「おまえなら、そう言うだろうと思ったぞ」
グレンの笑いは、むしろ清々しかった。月を見て笑うなど、この男の過去にあっただろうか。
激昂したのは、むしろサモンであった。
「おまえが死んだら――ほほ、この娘とそのハンターの血を心臓に吸わせてくれる。私を置いて死になどさせぬ。何度でも何度でも生き返らせてやるぞ」
「――女を離せ」
言ったのは、グレンである。
「――」
何か言いかけ、サモンはすぐに首肯した。意味ありげだと、誰にもわかったが、その意味を詮索することはできなかった。
肩を押され、前方へよろめいたスーインの顔の前へ白光が閃いた。
サモンの短刀だ。
どのような効果が生じたのか、丸顔に意志の力が戻ったのは一瞬ののちであった。
二、三度、頭を振り、催眠中も意識は残っていたものか、スーインはためらいなく、Dの方へ歩き出した。
「家へ帰れ」
Dは短く言った。
「いや。あんたひとりを残してはいけないよ。――残る」
「好きにするがいい。――そのハンターの死に様が見たければ」
グレンの右手が鍔鳴りの音をたてた。一刀を抜き直したのである。
スーインは素早く石像のひとつに寄った。彼女すらもはや眼中になく、Dもまた一刀を抜いた。
サモンが風を巻いて横へ走る。
美しい男たちは二人――ともに動かない。
青眼に構えたグレンがけれん[#「けれん」に傍点]抜きの必殺を期したとするならば、右八双に刀身を直立させたDの麗姿もまた、生と死を超えた戦士の美そのものであった。
この若者に与えられる死であれば、誰もが陶然と受け入れるであろう。
だが、グレンの双眸は真紅にかがやいた。貴族の色に。
一歩踏み出すと同時に引いた剣には、今までにない何かがこもり、突き出した刹那、それは、火花をたてて受けたDの両腕も震撼させたのである。
凄まじい打撃以外の何を感じたか、つづけざまの攻撃も、Dは打ちこまず受けた。スーインの眼には、Dの周囲で間断ない火花が散っているように見えた。
二人が小さく弧を描いた。
その間で激しい火花が散るや、美しい影は左右に跳びはねていた。
Dの背後に海が。
グレンの背にスーインが。
月光が黒い筋を滴らせた。
Dの右眼に。
グレンの左手首に。
美影身は凍りついた。
崖下で弾ける波音も風の|音《ね》も、月光のかがやきと化して、この場所で静止したようであった。
片眼と片腕とどちらが有利、または不利か。Dはすでに右眼を閉じ、グレンは左手のみに一刀を託している。
Dが地を蹴った。
振り下ろされる一刀は精確にグレンの右頸部へ走り、横一文字に受け止めた左の太刀は、腕ごと自らの胸にぶつかって、彼はよろめいた。
体勢を立て直す余裕もなく、Dの一刀が横殴りにこめかみへとぶ。横っとびに跳ねてかわしたのは、いままでのグレンにはない血の技の僥倖であった。
Dが音もなく滑り寄った。
その耳に、涼やかな旋律が鳴った。
Dの太刀は白い閃光と化してグレンの胸へ流れた。グレンの太刀と等しく。
吸血鬼ハンターの一閃が胸を貫くより早く、修業者の銀光はDの心臓を一気に貫いていた。
「――D!?」
叫んで駆け出そうとしたスーインの前に、サモンが両手を広げて立ち塞がる。
「どいて!」
女とは思えない鋭く高い跳び蹴りは、戦士に学んだ技であったが、その眼前からサモンの姿は忽然と消え、首筋に猛烈な打撃を受けて、スーインは岩上に落ちた。
前方に、Dはすでに倒れている。
「D――」
もう一度叫んだ上体が、髪の毛を掴まれてぐいと仰向けられ、スーインは苦鳴を放った。
「よくごらん。あいつは死んだ。あの|男《ひと》が殺したのよ。あの|男《ひと》はおまえを黙って返すと約束したけれど、私はしていない。おまえも後を追わせてやろう。いいや、これから私の見せるものを知れば、自分から死なずにはいられまい」
頸骨が押し曲げられるような激痛のさなかで、スーインは岬の先端を見つめた。
Dは斃された。胸から生えた一刀がその証拠だ。だが、その足もとに、グレンもまた膝を屈しているではないか。
彼の剣はDの胸を貫いた。そして、Dの太刀も。
二人の差は、急所を避けたわずかな身のひねりにすぎなかった。
「グレン!? ――やられたか!?」
悲痛な声をサモンがふりしぼるのを、スーインは恐怖と痛みの中できいた。
「安心しろ」
返事はすぐにあった。
「どうやら、おれが勝った。サモン、――その娘、離してやれ」
「冗談はおよし。この女に後を追わせなければ、私の気が済まん。ほほ、おまえも知らんようだな。この貞淑そうな女の素顔をようく見るがいい」
「よせ」
もはやサモンの答えはない。スーインの顔に手をかけ、後ろから顔を覗きこむ。
スーインの眼の前に、昨夜と同じ男の姿が形成されていった。
Dやグレンに負けず劣らずたくましい長身だ。はっきりした造作の、何処か酷薄そうな顔立ちは、誰かに似ていた。
「これは……この|男《ひと》は?」
呻くスーインの頭上で、サモンはのけぞるように哄笑した。
「見覚えがないか。ならば、私に与えられた新しい血の力――別のものも見せてやろう。ほれ」
スーインの眼の前で空気が揺らぎ、もうひとつの人像が生まれていった。
茫然とスーインはそれを見つめ、グレンも痛みと、あることを忘れて眺めた。まさに千慮の一失。――Dの腰のあたりで蠢くかすかな音は、土を食う音に似ていた。
「これは――」
出来上がった幻像と対面したスーインが驚愕の叫びを上げた。
像には見覚えがあった。ないはずがない。それは、スーイン自身であった。
「さあ、おやり。昔通りに。おまえが記憶から消した場面の再現だ」
サモンの命令一下、眼前で繰り広げられた光景は、悪夢の宴としか思えなかった。
二人目の――スーインのこころの中から現れたスーインは、ナイフを抜くや、向こうを向いて何やら思案中の男の背から胸にかけて、小気味よいほど簡単にナイフを吸いこませた。
二人のスーインが絶叫した。若者も。――虚実は完全に一致した。
若者は空を掴み、前のめりに倒れた。地上にぶつかる前に消えた。
幻のスーインも消滅している。
ただひとり、サモンに組み敷かれた娘のみが、茫然と虚空を見つめていた。
その眼から涙が筋を引いた。
自分が二度と、もとの自分に戻れないことをスーインは知った。
祖父の催眠法がこころの奥底に封じた記憶は、哀しみと鮮血に彩られていた。
――あの|男《ひと》は、四年前の夏、家へやって来た“戦士”だった。
それを私は殺した。背中から刺して――
お祖父さんは半狂乱の私を救おうと、術をかけて……
スーインの人格は崩壊しつつあった。たくましい、真っ正直に生きた女の自我はたやすく亀裂を生じ、それは何者かの不気味で不吉な血管のように、彼女の精神すべてに広がっていった。
「やめて」
とスーインは叫んだ。絶叫だけが、自分の崩壊を食い止められるとでもいう風に。
そうはさせじと、サモンの哄笑が闇を裂く。
止まった。
スーインの嘆きも、サモンの邪笑すら。
グレンが立ち上がる。
その眼前で、闇よりも濃い影が妖々と起き上がりつつあった。
美しい、巨大な山のように。
3
「破ったな」
と夜の声が言った。
グレンは、何もせずスーインを返すと誓ったのだ。
二つの光点がグレンの眼を灼いた。
立ち上がったDの眼が。――それは、朱色に燃えていた。
ぼろぼろとその足もとに黒い塊が落ちた。左手のひらがこぼした土塊であった。
「やはり、固形物がよろしい。――風だけでは腹にたまらん」
それを、左手が放った声だと知ったとき、グレンの唇から、死の旋律が洩れた。
びゅっと風が唸った。
風を切ったものが。
月光にきらめく光の波は、グレンの頸に触れた刹那、血潮の黒線と化した。それが斜め左方に走り、左肺上葉まで裂くと、Dは刀身を抜いた。
同時に、血潮の筋は黒蝶の羽根のごとく、グレンの胸と背から広がった。
今度こそ、声もなく地に伏せる修業者へ、Dは一刀を振り下ろそうとした。
サモンにはなす術もない。彼女は獣のように吠えた。
Dの刀身が停止したのは、そのためであったろうか。
このとき、彼は全身にのしかかる重圧を感じたのである。
闇が下降していく感覚。
グレンは地に這った。身動きひとつできない。
「ほう、また出たの」
呆れたように言う左手の声は、人面の岩陰から第五の登場人物を招いた。
重力を自在に変化し得る男の名は、言わずと知れたことだ。
「エグベルト――そいつを、ハンターを殺せ!」
叫んだのは、彼をグレンに内緒で呼び寄せ、隠しておいたサモンである。
岬の先端を横切って引かれた“王国”の境界線は、Dの眼にも入らぬ薄さであった。
「再会だな」
と、エグベルトは幽鬼のような声で言った。
「だが、これが最後だ。まともな戦いをしたかったが……」
「もう少し、骨のある男と思っておったぞ」
かろうじて直立したDの左手が、侮蔑の言葉を放った。
「一対一の真剣勝負の意味もわからんとは――何処の国の王様じゃ?」
「笑うがいい。だが、おれはその女に惚れた。――その女が守るものを、守ってやりたいのだ」
守るべきもの――それは、エグベルトが殺そうとした男ではなかったか。
グレンが貴族の血を受けたのは、そもそも彼の妖力により、別の断崖から突き落とされたためであった。
利益を求め、いかなる卑劣な手段も躊躇しない五名の戦闘士の中にあって、エグベルトのみは清風のごとき気概を示していた。グレンを襲ったのも、愛した女を籠絡せんとする修業者の魔手から守るためだ。
集団でDを襲うことに同意したとはいえ、この男だけは鬱屈したものを感じていたに違いない。
それがいま、殺そうとした男を守るために、Dへ不意討ちをかけている。
「グレンだけは殺すな」
サモンは血に狂う声で命じた。
「奴だ。ハンターだけを殺せ」
「わかっておる」
エグベルトは懐に手を入れ、小さな塊を幾つも取り出すと、それをDから少し離れた土の上へ投げた。
スーイン以外のすべてが、それを泥人形だと見て取った。
エグベルトは別の品も投じた。
木の棒と釘らしいとはわかっても、それがどのような役に立つのかを知っているものはいない。
このとき、Dが不思議なことを言った。
「あと二人いるが、使わんのか?」
エグベルトは妙な表情を浮かべたが、何も言わなかった。
数秒――
月光の下でDの周囲を奇怪な兵士たちが取り囲んだ。
その足もとから、まるで煙が固まるかのように、得体の知れぬ樹木が伸びてくる。
思いきり泥を吐いて、兵士たちが走り寄った。槍が、剣が、美しい花のように閃いた。
五Gもの高重力下で、兵士たちは自在に行動し得る。
誰が信じ得たろうか。
Dめがけて折り重なったその影が、次の一刹那、ことごとく頭を、胴を割られて、砂塵と化そうとは。
風が兵士たちの残骸を運び、Dのみが|粛然《しょうぜん》と立っていた。
その両眼を真紅にかがやかせて。
「無駄だ」
と彼は言った。その先にサモンがいた。
これまでいかなる弱敵に対しても、この若者が自らの勝利と敵の敗北を告げたことはない。スーインのこころを暴いた女への憎悪が言わせたひと言であったろうか。
彼はグレンを見た。
後退して行く。失神した彼を、二名の兵士が引っぱっているのだった。
Dの左手が風の唸りを発した。
白木の針にぼんのくぼを射抜かれ、兵士たちはたちまち塵と化した。
地に伏せたグレンへ悠然と歩み寄るDへ、
「いかん、――エグベルト。何とかおし!」
サモンの悲痛な声が押し寄せ、それに応じるがごとく、グレンの足もとから奇怪なものが土を跳ねとばした。
一見すると薮だ。
ささくれ、ねじれた棘が闇に挑んで四方へ突き出した薮が、グレンをかばってDの行く手を塞いだ。月の光に、鋭い枝は金属の光沢を放った。
エグベルトのまいた釘が、このような形で敵に廻ろうとは、Dすら想像もつかなかったろう。
風を切って枝の一本が伸びた。
鋭い棘を薔薇よりも露出させたそれを、Dは左手で受けた。
みるみる地上へ黒いものが糸を引く。滴る速度も通常より遙かに早かった。
「馬鹿な!」
叫んだのは、これもサモンだ。それまでの彼女ならともかく、貴族の口づけを受けた女にはわかるのだ。ダンピールにとって、鮮血が何を意味するかが。
鞭のごとく数本の枝が襲い、ことごとく切りとばされて地上へ乱舞した。
一刀を振りかざし、Dは一気に走った。信じがたい速度で、鋼の薮へ。
一閃。
まさに一閃で、それは真っぷたつに切り離されていた。
グレンは動いていない。
裂け目から身を乗り出そうとするD――そのかたわらへ黒い稲妻が走った。
鼓膜を貫くような音をたてて撥ね返されたのは、鋼鉄の棒であった。
Dは身体の位置を変え、王国へ入ったその主を眺めた。
「早く連れて逃げろ」
背後のサモンに向けて、エグベルトは強い声で言った。
サモンの命令ゆえではない。自分の愛した女が憎むべき敵をこそ想い、そのために、自らが生命を賭ける。人間以外のものに変わりながら、この古武士のごとき男は、最後の自分を捨ててはいなかった。
Dもまた、真っ向から相対した。
「奇妙なものだな」
ぽつん、とエグベルトが言った。
「英雄気取りでしているのではないぞ。まことに素直な気分だ。Dよ――これが貴族の|精神《こころ》か?」
答えは風だけだった。
人間のサモンは生命を賭けてグレンを救い、血の口づけを受けたエグベルトもまた。
人間と貴族――どう違うのか。
「闇討ちの非は、おれの身体で償う。――勝てぬとはわかっているが、いくぞ、D」
Dは下段に構えた。
正々堂々と相対した男に、「無駄だ」とは言わぬ。
すっ、と圧力が消えた。エグベルトは王国も捨てたのだ。
「きえええ――っ」
貴族の血を受けた一撃は、より鋭く重く速く、しかし、Dの眼は真紅にかがやき、下方から薙ぎ上げた一刀は、鋼の棒を撥ねとばすや優美に舞い翻って、冠を捨てた王の心臓を一気に刺し貫いていた。
Dが刃を引き抜いても、エグベルトはそのまま棒立ちになっていた。
「死こそ……安らぎか。よく、わかった」
つぶやきは尾を引いて地上へ流れた。
束の間、戦闘士の死体へ眼を落とし、Dは道の方を眺めた。
グレンを肩に、サモンがスーインへ近づいていくところだ。
左手が躍った。
貴族の血を受けたものに、女とて容赦はない。
白木の針は妖女の首筋を左から貫き、右側へ抜けた。
サモンは数歩よろめき、膝を折った。それでもグレンを離そうとはしない。
「来い……」
挑戦的な言葉と一緒に、青白い唇から血泡が溢れた。Dの針は頸動脈を貫いていたのだ。無論、致命傷ではない。
サモンは懐剣を抜いた。
「来い、ハンター……だが、この男を殺させはせん。……私の男を他人の手になどかけさせはせぬ。……まだ、生きているぞ、私は。来い……こちらへ、来い……」
顎も胸も鮮血にまみれながら、何という凄まじい執念であろう。
「見事」
Dの左手が洩らしたのは、感嘆の声であった。
しかし、妖々と歩き出したDの双眸に、感情の色は無論ない。
三人の村人が血を吸われ、そして、彼は吸血鬼ハンターなのだった。
そのとき――
下方から地響きが世界を突き上げた。
地底の魔神があらゆる憎悪を一気に吐き出したかのように、鳴動はやまず、拡がり、大地の結合へ巨大な牙を剥いた。
Dの立つ数メートル手前が、海上へ突き出た部分の付け根だったのは、不運としか言いようがない。
跳躍しようと力をこめた足の下はすでに崩れ、数百トンの黒い岩塊とともに、Dの身体は闇色の波頭めがけて、真っ逆さまに落下していった。
貴族の「別荘地」一帯を襲った地震は、広大な土地の半分を崩壊させたが、村への影響はほとんどなかった。
祭りの演奏は絶えることなく鳴り響き、人々は不安な表情をすぐに消して、夏の夜には何事も起こらないのだと思いこもうとした。
津波の心配すらなかった。
水位は数センチ上がっただけであり、監視の若者たちにも危険はなく、篝火が五台、倒れたにすぎなかった。
暗黒のただ中に明かりが点った。光の膨張は傘というより球体に近い。発光紐である。
浮かび上がった光景は、破壊そのものであった。
岩石と構造材の堆積――それなのに、打ち寄せる水が以前と同じ位置から移動していないのは、基本構造部に致命的な変化が生じなかったためと思われた。
マインスター城趾の地下である。
「大してやられとらんな」
嗄れ声がした。
「破壊の中心はここだが、衝撃波はすべて外へ流す構造になっておると見える。おかしな知恵だの」
Dは瓦礫を踏み越えて、地下の奥――奇怪な水槽が林立する一角へ進んだ。
コートの裾からは、まだ水が滴っている。岬の崖下へ落下してから、二時間と経っていなかった。
岬へ戻ったが、あの二人の姿はもちろん、スーインの影も形もなかった。連れ去られたのだろう。グレンが生きている限り、何らかの接触はある。それを待つしかなかった。
スーインの運命に対する感慨は、淡い光と翳に彩られた美貌からは窺うこともできなかった。
奥へ行くにつれて、破壊の色はますます濃くなった。
水槽はことごとく倒壊し、壁面からはまだ破片が剥がれ落ちてくる。
その中心と思われる部分で、Dは足を止めた。
ここで凄まじいエネルギーの暴走が起こったのだ。
D以外でこの場所に用があるのは二人しかいない。
そのどちらがいたにせよ、生命はないと思わねばなるまい。
Dが左奥を向いた。
金属をすり合わせるような音が湧いたのである。光に反応したのだろうか。
重いものが斜面を転がった。構造材であろう。
Dは白木の針を取り出し、その中央に発光紐を巻きつけると、音の中心へ放った。
光の輪の中に黒い脚のようなものが蠢いて見えた。一〇メートルも離れているだろうか。
「ほう――奴か」
Dの左腰あたりで声がした。
瓦礫の中から、ゆっくりと身を起こしたのは、あの水中マシン――ギリガンの大蟹であった。
Dは一刀を抜こうともしない。
理由はすぐにわかった。
身を乗り出した大蟹は、そこで力尽きたか、大きく前のめりになり、不様に一回転すると、勢いよく斜面を転がり落ちてきたのである。
Dの足もとに、鎌状の爪が叩きつけられ、停止した。
ぴくりとも動かない。
かすかなモーター音を聴きつけ、Dは胴体の方へ進んだ。
「こりゃ、凄い。手足をもぎ取られておるぞ」
声が言うまでもなく、ただ一本の足を残した大蟹の無残な姿は、Dの網膜に灼きついた。ただし、もぎ取られたのではない。どの足の切り口も、鋭利な刃物で切断された滑らかさを、まばゆい光に示していた。
モーター音を上げて、胴体のガラス・ドームが旋回した。
Dとやり合ったときよりも白く煙っている。ひび割れの痕だ。
「……Dか?」
弱々しい声が名前を呼んだ。
「やられた。……おまえのときは何とか保ったが……今度はよろしくない」
「相手は誰だ?」
Dの口が開いた。
「クロロック……教授よ。……あやつ……貴族の力を身につけおった……ぞ」
「あの珠か?」
「そうだ……ここで実験をつづけて……おれのやりたいことだったが……」
「どうしてここへ来た?」
「おまえにやられた箇所を……水中で修理していたのだが……偶然、深海溝に落っこちてしまってね……そしたら、ここへ通じる穴が開いてたってわけさ……クロロックの奴め、おれが出くわしたときには……水槽に浮いていやがった……底の方で……あの珠が半分……溶けていたよ……」
「あの珠は何だ?」
「知らないのか? ……はは……おれたちが生命を賭けたってのに、……最大の強敵が……それも知らないとはね……。ま、そういうもんだよ、人生は……」
ギリガンは、けらけらと笑って、
「……随分昔……ある貴族が残したレーザー・ディスクを、『都』の記録保管省で見たことがあったのさ……その中に、水中で生きる貴族の資料があった……生身の貴族だけじゃ、どうにもならないが……人間の肉体を使うことによって、水中でも日中でも生きられるようになる。……そうなると……一年に一度、体内の老廃物を……外部へ放出しなければならない……それが……あの珠よ……つまり、あれさえ分析すれば、人間と貴族の遺伝子の謎が……解明できる。おれが知っていたのはそこまでだが……クロロックめ……この研究所のことまで。……ついでに教えとくと……人間の精神が強靭だと……互いに拮抗して……ひとつの身体に、二つのこころが……」
声が引かれるように細くなった。
「おれは……本物の……貴族の力が手に入れたかった。……知る限りの文献にあたり、あらゆる手段を試したおかげで……おまえに首を刎ねられても、何とか生き永らえてきたが……今度ばかりは駄目だ……水槽をぶち破ったら、あいつめ……おかしな布切れを引っぱり出しやがって……気がついたら……自分で自分の足を……。おれをやっつけた後で……奴め、研究室を爆破しやがった……早く行け……奴は村へ行ったはずだ……奴は飢えてる……血を求めて……だが、気をつけろ……奴め、おまえより……強いぞ……それに……」
最後のひと言は、息をしぼり出す音に近かった。
「……狂って……る……」
それきり、二度とギリガンの声はしなかった。
あっけない最期といえた。
Dと二度戦い、二度とも逃げおおせた怪物を、あの老人が斃したとは……。
「いかんな。一刻も早く――奴が村へ戻る前に見つけねば、大変なことになるぞ」
嗄れ声を待たず、Dはきびすを返した。
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第八章 冬来りなば
1
サモンは村はずれの廃屋を隠れ家にしていた。
漁師の小屋とは、まるっきり反対側のはずれ[#「はずれ」に傍点]である。万が一、あの小屋が見つかったらと考えたのは、この女らしい用心深さであった。
瀕死のグレンと痴呆症のようなスーインはもちろんだが、もうひとり、新顔がいた。
ツィンである。
「黒い淵」でエグベルトの背に短刀を投げつけたこの男は、五人組の中でただひとりまとも[#「まとも」に傍点]なのが自分だと知って、逆にファイトを燃やした。
何が何でも珠を奪ってみせる。
しかし、珠が誰の手にあるかは、彼にも謎であった。知識にあるのは、シンとエグベルトが珠の奪回を策してDに挑んだことだけだが、戻ってきたのはエグベルトのみで、シンは殺られたという。
ならば、相変わらずDのもとにあるようだが、「黒い淵」で、吸血鬼ハンターは嘘でもはったりでもなく、持ってはいないと告げた。
ツィンの勘からすれば、Dは嘘をついていない。
すると、どうなるのか?
ツィンが選んだのは、エグベルトの見張りと尾行であった。あの「黒い淵」で、彼はすぐには逃亡せず、エグベルトの動きを見張っていたのである。
スーイン家にしのばせてある相棒とも連絡をとってみたが、まるっきり応答はなく、殺られた、とツィンは判断した。
そして、エグベルトがサモンとグレンの二人と合流した漁師小屋も突き止めた。三人の恐るべき現状も目の当たりにした。こっそりと後を尾けて、岬での対決も遠望した。
どれもこれも、ツィンならではの技だ。気配を殺し、常に風下に廻った。
それがサモンに知れたのは、尾行する際、地震で崩壊した土地の瓦礫を踏み抜いてしまったためだ。
その音に気づいたサモンは黙って隠れ家まで歩き、ツィンを待ち受けて、有無を言わさず、悪鬼の口づけを与えたのであった。
「いいところへ来てくれた」
とサモンは、唇から滴る血潮を舐め取りながら、その血も凍るような笑顔を見せた。
「エグベルトが斃され、もうひとり、荷物運びが欲しかったところよ。それに、おまえの技、まだまだ戦いの役に立つわ」
そして、妖女は、床の上に横たわったグレンとスーインを交互に眺め、何とも言えない邪悪な表情を凝固させた。
「あのハンターは、死んだか? いいや、そうではない。あの程度のことで傷ひとつ負うような男ではあるまい。奴とは必ず出会う。くく、そのときのために、この女も利用できるようにしておいてやろう」
サモンがスーインをここまで無事に[#「無事に」に傍点]連れて来たのは、グレンが気懸りで血を吸う余裕もなかったせいである。
もう、止めるものはない。
エグベルトが口にした「貴族の|精神《こころ》」も、この女には無縁のものか。爛とかがやいた眼は血色の憎悪に染まり、身動きできぬ美しい昆虫へにじり寄る白蛇のごとく、サモンはゆっくりと、スーインに歩み寄りはじめた。
「……よせ……」
地を這うような生気のない声がグレンのものだと知っても、サモンは振り向かない。
「ならん……その女に触れるな」
「この期に及んで」
とサモンは吐き捨てた。
「あのハンターに勝ちたくはないか。おまえは二度戦い、二度とも敗れた。貴族の血を受けてすらじゃ。だが、三度目は違う。私が勝たせてやろう。そのためには、この女を操り人形としておくことが肝心」
「よせ……あの男との約束……おれは、まだ、忘れてはおらん」
「ほほ……まだ、左様なことを……その身体――治るにしても、そうなって、今度は勝てる自信があるか?」
「――勝つ」
その声に何を感じたか、サモンはようやく男の方を向いた。
青い|死人《しびと》の顔の中で、眼ばかりが血光を放っていた。
奇妙なことが、そのとき起こった。
サモンが笑ったのである。
それも、いつもの毒々しい妖鬼の笑みではなく、純粋無垢な童女の顔で。
床上のスーインのことなど忘れたように、彼女はグレンに滑り寄った。
「いいのか、それを信じても?」
やさしい眼差しと、やさしい声であった。
「それが済んだら」
グレンが遠い眼で女を見た。
「済んだら?」
「南の方へでも行くか」
「それもよかろう」
サモンはうなずいた。
南へ行ってどうなるというのか。グレンがDを斃し得るとしても、貴族の口づけを受けた二人に、もはや安住の地などない。遙かなる落日の一族に、彼らも加わったのだ。
サモンはグレンの胸もとを見つめた。出血は止まっている。人間の新鮮な血を吸えば、じきに治るだろう。
うって変わった凄まじい――普段の眼差しで、彼女は戸口に立つツィンを見た。
「おいで」
低く命じた。声には血の響きがあった。
ツィンが動いた。
別のものも。
グレンが弾かれたように上体を起こした。
廃屋のドアがゆっくりと開いていった。
四角い空間の真ん中に立つ影の正体を見抜いて、サモンがきしるような声で言った。
「クロロック教授」
「覚えていたか」
とマントの影は笑った。確かに教授だ。だが、これはどういうことか。ねじけた白髪は漆黒に変わり、皺は失せ、口もとのまばらな髯は、豊かな美髯と化している。
こればかりは青白い肌の中に、染みのように鮮やかな朱色の唇と、そこから現れる白い二本の牙を見た途端、サモンは懐剣を抜いた。
「おまえも、か?」
「そう見えるかな?」
老教授――いや、いまや壮年の血を甦らせた教授は、サモンすら正視できぬ、精気満々たる気を全身から溢れさせつつ笑った。
「だが、おまえたちの仲間ではないぞ。わしに|主人《あるじ》はおらん。わしはわしの力でこうなった」
室内へ入り、教授は光る眼で周囲を見渡した。
見つめられただけで、サモンは総毛だった。
――この男、前とは違う。別のものになっておる!?
「何の用だ?」
グレンが立ち上がって訊いた。
「珠なら、ここにはないぞ」
「珠はわしの中にある」
教授の口の端から白いものが伝わった。涎であった。
「もう、あんなものに用はない。わしは望みを叶えた。だから――腹が減ったぞ」
床のスーインさえ、はっと身を起こした、そんな声であった。
「なぜ、わしがここへ来たかわかるか。最初は、村へ行くつもりだった。だが、城を出たとき、血の匂いを嗅いだ。喉しめしにはもってこいの、甘く、温かい匂いだった。わしはおまえたちとは違う。ひとりでは足らん。おまえたち全員の血が必要じゃ。たっぷりと胃を満たさせてもらうぞ」
「面白い」
サモンが牙を剥いた。
「ちょうどこちらも、同じ気分でいたところだ。まさに飛んで火に入る夏の虫。おまえも今宵が最後の晩と知れ」
悪鬼の形相で進み出ようとするサモンの前へ、すっと長身の影が立った。
「その女を連れて行け」
「グレン!?」
「早く行け。おれもすぐに行く」
「でも……」
サモンの眼から、どす黒い不安が噴き出そうであった。
グレンの声は澄んでいた。哀しいほどに。
修業者の双眸が真紅の光を放ち、彼は剣を抜いた。
教授の右手が懐に入る。
虹色の光が走った。わずかに遅れて、カッと骨を断つ音がきこえた。
教授の右手首に黒い線が流れ、そこから先は、ずっ、と下方へずれた。負傷はしていても、グレンの抜き打ちに乱れはない。
手首は途中で止まった。
教授が左手で掴んでいた。押し上げて元の位置に戻すと、彼は左手を離し、黒い筋を拭った。後に刀の傷はなかった。
サモンが低く呻いた。
人間が貴族へ一刀を浴びせかければ、こうなるであろう。だが、グレンは貴族の仲間なのだ。
「行け」
グレンが鋭く命じた。
スーインのもとへと走りながら、サモンは別の、ささやくような声をきいた。
「刃を向ける相手はわしではない。おまえだ。それで、喉を突け」
教授は胸前で、薄皮の画布を開いていた。
血で描かれたグレンの肖像画は、触れたものの手に、肌のぬくもりと息遣いさえ伝えそうであった。
恐怖がサモンを貫いた。
「やめて、グレン! ――そいつの言うことをきいてはいけない!」
叫びながら、青眼に構えたグレンの刃が、じわじわと喉もとへ上昇していくのを、サモンは見た。
グレンの頬が引きつった。
彼の内部で、凄まじい精神の葛藤が行われているのだ。
切尖が喉に着いた。
肉にめりこんだ。
グレンの唇が尖った。
死の口笛は魔のささやきを凌ぎ得るか。
「グレン!?」
サモンの叫びと同時に、世にも美しい旋律がグレンの唇から洩れた。
旋律と血潮とが!
喉もとを貫いた刃は、首の厚みだけを残して、グレンのぼんのくぼから飛び出していた。
血泡が床に跳ね、小さな飛沫をとばした。もう一度唇を尖らせ、グレンは口笛を吹こうと努めた。
出た。
引きつるような呼吸音と糸を引く血のみが。
「喉では死なぬな」
憶い出したように教授が微笑した。思索的な学徒の面影はどこにもない。
「胸を刺せ」
「やめろ!」
サモンの身体が稲妻と化して教授へと走った。
教授の首が裂け――すぐに塞がった。
一瞬遅れて、抜き戻されたグレンの一刀は、深々と持ち主の心臓を虫みたいに刺し通していた。
膝から崩折れながら、その唇が、最後の音を発した。
「……D……」
ひととき――両眼に悽愴な執念の色が浮かび、すぐに虚無へと変わった。
沈黙が落ちた。
死ゆえのものではない。
ひとりの女の哀しみが生んだ静けさであった。
やがて――
「嘘よ」
ぽつんとサモンが言った。
「嘘よ」
「見ての通りだ」
教授がもう一枚の薄皮を取り出しながら言った。
「貴族のおすそわけを受けた者の力など、所詮はこの程度のものよ。おまえは殺さん。嫌がる女の血は熱い。それを吸うのも、新しい貴族の愉しみだ。光栄に思うがいいぞ」
そして、彼は新たな――サモンの顔を描いた薄皮にささやきかけたのである。
「来い。わしの腕の中に」
憎悪と恐怖に狂う女の眼が、急速に感情を失った。
夢を見るように、彼女は教授の方へ歩き出した。
グレンばかりか、サモンまで。――教授の成し遂げた変身とは、どのようなものなのか。
教授の眼球がせわしなく動いたのは、その瞬間だった。
形容しがたい憎悪と怨念をこめて、彼は牙を鳴らした。金属的な音とともに、吐いた。
「邪魔者が――この瞬間にまで」
そして、彼はサモンを突きとばすや、大股にドアの方へ向かったのである。
外へ出た。
その眼の前へ、疾風のごとく停止したサイボーグ馬から、これも黒い影が音もなく地に下りた。
闇のきらめきだけを凝固させた瞳が、冷たく、新しい貴族を映した。
「こればかりはわからん」
と教授は右手を懐にさしこみながら言った。
「どうやって尾けた?」
「スーインは中か?」
Dがまず訊いた。
静かな夜にふさわしい声に含まれた何が、教授の口を割らせたものか。
「ああ、ここにおる」
そう言って、教授は自信に満ちた笑顔になった。
「だが、おまえは中までは行けんよ。ここで死なねばならん。もうひとりの男と等しく」
懐から取り出した薄皮を広げるのを、Dは無言で見守った。
右手が稲妻の速さで柄へと走り、さらなる閃光が、無防備な教授の頭頂から股間まで垂直に落ちた。
Dの剣技を知るものならば、内臓を撒き散らしつつ左右に倒れる唐竹割りの教授を連想しただろう。
教授はにっと笑った。
閃光と同じ位置に、黒い墨のような線が流れていた。
教授は片手でその上を撫でた。
肌にもマントにも傷跡はなかった。手のひらについた血を、彼は音をたてて舐めた。
「どうやって死にたい?」
血まみれの口が訊いた。
「さっきの男のように、喉を突いてから心臓をえぐるか? いいや、おまえにはもっと苦しい死に方を与えてくれる。わしの飽飲を邪魔した罰にな。さ、その刀を首にあてい。ゆっくりと、こすり切るのだ。骨に当たっても止めてはならんぞ。自分で自分の首を切り落とすまでつづけろ」
マインスターの地下室で、奇怪な変身を遂げる前にも、教授の妖術はサモンを翻弄し、変貌後はあのグレンさえ斃した。
怪異な画布を彼は恍惚と見つめた。血潮で描かれたDの顔がそこに玲瓏と浮かんでいた。
「美しい。なんと美しい顔じゃ。だからして、描くのにあの地下で今朝までかかった。わしの精魂をこめた傑作、もはや逃れられんぞ。――切れ。落ちた首は塩に漬けて永劫にわしのもとに保存してくれる」
ああ、Dの剣は動いた。
教授の指示通り、自らの首筋へ。
銀の線が、青白い、透き通るような肌の上を動くのを見たとき、教授の全身はわなないた。
その接触部から、赤いものが盛り上がってきた。
夏の夜気にこもる鮮血の匂いに、彼は陶然と眼を閉じた。
だから、見られなかった。
Dの両眼に点る真紅の炎を。
冷たい鋼が心臓を貫いても、教授は悲鳴ひとつ上げなかった。
眼を開けて、
「何故、我が術に?」
と言った。その手から、薄皮が落ちた。
「下手な絵じゃの」
嗄れた声が嘲笑した。
「おぬしの術、絵が雑なほど効果も薄れる。これでは、かかり[#「かかり」に傍点]ようがあるまい」
「そうか。――やはり美しすぎたか、おまえは」
しみじみと洩らして、教授は一歩下がった。
刃が抜けた。
Dは追わなかった。
「出直すか」
と教授はゆっくりと後退しながら言った。
「おまえに明日はない」
Dがそう言って、静かに一刀を収めるのを見つつ、教授はせせら笑った。胸の傷は跡形もなく消えていた。
次の瞬間、地獄の苦痛が心臓を貫いた。
傷の消えた同じ心臓の真上から黒血を噴いて大地へ叩きつけられた。
「馬鹿な」
教授は茫然とDを見つめた。
はじめて悟った。眼の前の若者が、自分とは別の生物だと。
「こんな……こんなはずはない……わしは……貴族の秘密を……新しい人類を……」
「失敗じゃったな」
と声が言った。
「成功例は、ひとつだけじゃ」
ふわ、と前のめりに倒れる教授の首筋へ、Dは一刀をふるった。
宙天に舞い上がった白髪の首は、無残な皺に覆われていた。
それが鈍い音をたてて大地へ落下したとき、Dは廃屋のドアを開いた。
真っ先に眼についたのは、床上に横たわるグレンの屍であった。
それだけだ。
部屋の中には、ひとっ子ひとりいなかった。
2
Dは奥の部屋へ入った。
突きあたりの窓が開け放たれている。そこから脱出したのだろう。
気配はない。
玄関へ戻った。
馬のそばに、人影が立っていた。
茶に青い縞の入ったシャツの胸もとから、包帯が覗いていた。いくら心臓が右にあるとはいっても、反対側の肺を貫通されて、よく病院を脱け出せたものだ。
「その顔じゃ、うまくいかなかったな」
と、トトは荒い息で言った。
「せっかく、無理して知らせたのによ」
マインスター城の地下から地上へ戻ったとき、Dに廃屋での異常を知らせたのは、彼であった。Dと出会ったのは偶然だが、サモンやスーインの居場所を探し出したのは意図的なものだ。
岬での対決の際、Dがエグベルトに、
「あと二人いるが、使わんのか?」
と尋ねた。
うちひとりはツィンであり、残るひとりがこのトトであった。
ツィンがエグベルトを尾行し、岬へと導かれたように、病院を脱け出したトトはDの後を追っていたのである。
大地震が生じ、Dが波に呑まれると、サモンたちを尾けることにした。
つまり、妖女はツィンとトト――二組の尾行者を尻尾につけていたことになる。サモンはともかく、ツィンにさえ気づかれなかったのは、負傷しているとはいえ、北の辺境一の盗賊ならではだ。
トトの狙いはあくまでも珠である。それはクロロック教授に持ち去られたが、サモンたち一行を尾ければ、いつかは教授とも接触できるという勘が働いた。
ある意味でそれは正しく、廃屋の男女を見張っているうちに、教授がやって来たのを知り、ひどく驚いた。
それから以後の惨劇は悪夢のようであった。とても、自分は相手にならないと判断し、トトは、考え得るただひとりの凄腕――Dを探し求めて岬へと戻った。そこで、彼に会ったのである。自分の馬を与え、トトは徒歩でいま、廃屋へ辿り着いた。
「スーインは無事かい?」
「気になるか?」
Dが訊いた。
「まあ、な」
トトは気のない返事を返した。
「珠はもうない。舞台から下りろ」
「はい、そうですか、と言えると思うかい?」
「好きにしろ」
Dは馬にまたがった。
闇を背景にすると、顔のみが光るように見える。
「おれの馬だぞ」
「病院の馬だ」
「病人を置き去りか?」
「スーインは九死に一生を争う」
「何処にいるんだ?」
「わからん」
「夜は、はじまったばかりだぜ。――なあ、珠がなくなったのに、なぜみんなそんなに血相を変えるんだよ?」
「失くしたものが返ってくると思っているのだろう」
「なら、最初から、失くすようなもの、持っていなけりゃあいい。――ま、そうもいかねえか。人間てな、阿呆にできてるんだな」
「貴族も同じかもしれんぞ」
「あいつらは阿呆じゃねえが、化物だ。どっちがまし[#「まし」に傍点]だと思うかね?」
Dは黙って馬首を巡らせた。
村へとつづく道に出た。
左手を上げた。
「まだ、時間はそれほど経っていない」
と言った。
風が唸った。
Dの左手のひらの上で。だが、その流れを肌で感じたものがいたら、眼を丸くしたに違いない。
風速六〇メートルを超す猛烈な風は、手のひらの上に開いた小さな――まぎれもない人間の口へ吸いこまれているのだった。
「どうだ?」
とDは訊いた。
「かろうじて、じゃな。奴ら、どういう|理由《わけ》か、血の匂いを極力抑えておる。あと一分もすれば、わしにもわからなくなるぞ。――この道をまっすぐじゃ。だが……」
「だが?」
「もう気づいておろうが。空気が妙に冷たい。おかしな夏になりそうじゃ」
Dは馬の腹を蹴った。
風を巻いて一分ほど走ると、前方に横たわる銀色の帯と、水の音がきこえてきた。
川である。
木を組み、土をかけてならした小橋がかかっていた。
その上に、月光を浴びて人影が立っている。
ツィンであった。
サモンが逃亡する時間稼ぎだろう。
手綱を絞らず、Dは一気に突進した。
ツィンは動かない。
棒立ちになったその右脇を走り抜けつつ、Dは一刀を振った。
防ぎようなどなかった。防ぐつもりもなかったであろう。若者の首は空中へ跳んだ。
その刹那、馬が急停止した。いや、突っこんだ。馬自身も予期せぬ、四本の足すべてが深い穴にめりこんだかのような不自然な姿勢であった。
さしものDも堪らず、前方へ吹っとんだ。常人なら骨折間違いなしのスピードと角度でも、Dなら軽く一回転して着地する。
できなかった。
鈍い地響きを大気に伝えて、彼は肩から落ちた。
それでもすぐに立ち上がりかけ、奇妙な格好でよろめいた。
Dの四肢に半透明な、膠状の物体がこびりついていた。ツィンの頸部の切り口から噴き出たものと、Dは理解したが、その正体まではわからなかったろう。
ツィンの体液――噴出時はゼリーのごとく軟弱で、数瞬後、鋼の強靭さで固着する。Dの筋肉の動きを封じたのもこれならば、路上にぶちまけられ、サイボーグ馬の足をからめ取ったのもこれ、スーイン家の窓と戸口を固め、グレンとの初対決の際、Dの刃に粘着したのもこれであった。
ただし、鋼鉄の固着と軟泥のごとき粘着は、当人の意志で自由になるに違いない。
その凄まじい威力は、川へ跳ねた分が板状に形成され、水の流れを逆流させたことでもわかる。
「厄介なものを――待っておれ」
と、声が言った。Dの左手は五指を開いていた。
それが膝から腿にかけてあてられるや、固着物質は白煙を上げて溶けた。
Dが立ち上がったのは、二分後であった。
「このゼリー、気味は悪いが味はいい。少し腹にためておくか。――しかし、残念じゃったな」
呑気とも憮然ともつかぬ声に反応せず、Dは後ろを向いた。
道の真ん中に、ツィンの生首が落ちていた。
完全なる死者と化した唇が動き、言葉を放つとは――
「……スーインは預かった」
耳を覆いたくなるような声である。
「……安心するがいい。グレンの頼みに免じ、私は何もせぬ。明日の晩、1100|N《ナイト》に、スーインの家の前の海岸へ来い。……それまで、余計な詮索をしたり、来なかったりすれば、女は魚の餌だ」
語り終えると、死微笑と言うにはあまりにも不気味な表情を刻み、ツィンの首は横倒しになった。
「あの女じゃな」
左手がやれやれという口調で言った。
「あと一日、待つしかあるまい。――貴族を斃すリミットじゃな」
Dは村の方角を見つめていた。
遠く流れるメロディは『|いつまでも《オールウエイズ》』だった。
月光の落とす自らの影を踏みつつ踊る若者たち。
交わされる錫の盃と七色の花火。
いつまでも、夏は終わらないのだった。
夜が明ける前に、人々は異変に気づいていた。
風が冷たい。
冬の冷気とは違う、肌にはやさしい夏の風である。この村の人間でなければ、涼しい、と言うかもしれない。
しかし、冷たいのだ。
その意味は、皮膚感覚だけのものではなかった。
はじめのひと吹きが、森や村を駆け抜けたとき、人々は茫然と立ちすくんだ。
身体のどこかにある深い部分で息づいていたものが、急に止まったかのように。
至福のときが夢であると知ったとき、大人は子供より哀しみ、子供より早く立ち直る。
やがて、人々は歩き出し、語りはじめ、ステップを踏む。
風の冷たさは変わらず、それには触れないように。
その晩も、犠牲者が出た。
海岸を見張っていた若者とその恋人であった。
監視役は五人ひと組。貴族を見つけたら、所有の笛を吹く。
若者は差し入れに来た恋人と、近くの岩陰へ消えた。
蒼白の首筋に血の花を付けて発見されたのは、夜明け前であった。
極秘裡に、村長の使いがスーインの家へと向かった。
Dは戻っていた。
犠牲者の件を告げられ、使いとともに、まず現場へと急行し、状況を確認してから村長のもとを訪れた。
「貴族を斃す期限は明日のみじゃぞい」
村長の暗い眼差しからは、あの[#「あの」に傍点]風が吹きつけてきた。
「わかっている」
とだけ、Dは言った。
「スーインは元気か?」
「気になるか?」
「ヨチヨチ歩きの頃から知っておる」
「四年前、あの家に戦闘士がやって来た。覚えてるな?」
村長は片手を椅子の背にかけて身を支えた。
「スーインは気づいたのか?」
苦渋に満ちた声で言い、村長はDを見つめた。
話してもいい、と思ったのは、何故だろうか。
「あの家へ泊まったといっても、ほんの二日じゃよ。海盗団の襲撃を防ぐための指導者として招いた男じゃった。旅館が改築中だったもので、スーインの家へ泊まることになったのだ。すぐにわしの家へ移った。だから、近所の連中も、奴のことなど口にもしなかったはずじゃ」
その二日の間に何が起こったのか。スーインと若い戦闘士の姿が、博物館館長の眼に止まったのは、夜の森であった。月の光の下で、たくましい裸体と柔らかな女の身体は、熱く激しく動いた。
館長から報告は受けたものの、スーインの祖父と村長は、見て見ぬふりをすることに決めた。
若い戦闘士は多分に気まぐれであったし、村が彼の教えを受ける時間は短く、代わりはいなかった。スーインへの執着は、村への執着も意味するはずであった。
ひそやかに進行する男女の物語も知らず、村への指導は確実に行われ、何の問題もなく戦闘士への別れの日を迎えた。
夏の最後の日を。
その日の晩、村長は極秘裡に、スーインと祖父の訪問を受けた。
スーインは泣きじゃくっていた。
「戦闘士が、村役場の金を奪って一緒に逃げようと申し出たのじゃよ。祖父と妹を抱えたあの|娘《こ》に承知できるはずがない。しかし、戦闘士もあきらめなかった。二人の関係を村中に知らせると脅かしたのだ。残念ながら、そういう女を許せるほど、この村の器量は大きくない。スーインはおろか、祖父も妹も暮らしてはいけなくなるだろう。家族は捨てられぬ、男は村の金を奪った共犯になれという。そして――」
スーインは男を刺した。
「貴族の岬」の上で。
その後は、Dも知っている。
祖父の能力は、彼女にとって幸福であったのか、不幸であったのか。
女ひとりの家へDを招いたのも、そんな悲劇を忘れさせようとする祖父の術への、無意識の抵抗だったかもしれない。
「なあ」
村長は、すがるようにDを見つめた。
「海から来る貴族――わしらは、マインスター男爵と呼び慣らわしておるが、本当にそうなのか? 千年も昔に消えた男が三年前、忽然と海から甦った。わしとスーインの祖父が何も感じなかったと言えば嘘になる。あれは――あれは、奴[#「奴」に傍点]なのか?」
Dは村長の方を見ていた。
老人の背後に窓があった。
黒い海が見えた。
すべてはそこからはじまったのだ。
伝説の戦いは、マインスターを棺ごと海底へ放逐した。
いや、マインスターは逃亡し、敵の追撃は彼の棺を砕いた。
それでも、彼は生き延びたのであろう。城の地下に残った数多くの合成物たちへの成果を、マインスター自身が享受しなかったと考える方が不自然だ。
何という長い時間――何という暗く深く、そして、冷たい場所で。
それから先のことは、不可能に近い可能性と偶然の賜物でしかない。
刺殺された男の死体が|闇洋《やみわだ》の底へと漂い、眠れる妖鬼の精神と融合した。――あり得ない。
肉体はしかし、二つの精神――貴族と人間のそれに支配され、時に応じてどちらかに身を委ねながら、しかし、あの運命の季節にだけは、名も知れぬ若き戦闘士のこころに従うのであろう。――あり得ない。
だが、事実の前に、そのような否定が何の意味を持つ?
Dの耳には潮騒と、そこに消えた若者の叫びがきこえたかもしれない。
静かに言った。
「明日――すべては終わるだろう。珠ももはやない。何も言わず、スーインを受け入れろ」
「約束は守るとも。あの娘はいい|娘《こ》じゃ。誰にも好かれておる。この話――ドワイトには内緒にしておいたがよかろうな?」
「好きにするがいい」
飄然とドアへと向かうDへ、疲れきった声が投げかけられた。
「今年の夏はもう終わりじゃな。そんな気がする。なあ、そう思わんか?」
Dは答えず外へ出た。
3
その日、海岸を通ったものは、波打ち際に立つ黒い人影に眼を奪われた。
夜の闇を思わせるロング・コートの裾が海風になびき、白い砂と青い海原の境に刻みこまれた後ろ姿の美しさに、人々は胸を高鳴らせ、そのくせ、どうしても立ち止まることはできずに、足早に歩み去るのだった。
不思議なことに、少し行ってから振り向くと、闇色の人影はもうどこにも見えず、大人たちは夢でも見ていたのかと眼をこすり、子供たちは、いつか、あんなにたくましく、哀しく、美しい背をした大人になって海を見てやろうと、心に決めるのだった。
祭りはつづいていた。
村人の賑わいもいつもと変わらず、そのくせ、どこかあきらめきったような雰囲気が、空気に混じっていた。
あと四日、と人々は言った。
その間、夏は終わらない。
だが、村長の命令で花火を積んだ船が氷塊めざして出航したのは何故だろう。
花火は、最後の夜を夏の花で飾るものと決まっているのだった。
闇が落ちた。
別の世界がはじまろうとしていた。
かすかなエンジン音が沖の方から聴こえてきた。
Dの顔が動いた。いつから海の一点を見つめていたものか。
月は今夜も中天にかかっている。その光の中で、接近してくる小船の上にサモンとスーインの姿をDは明瞭に見て取った。
波打ち際から一五、六メートルのところで船は岸と並行にならび、エンジン音は絶えた。
船尾に近い操舵室の囲いから半ば身を乗り出し、サモンは片手を口もとに当てて叫んだ。
「よく来たな、ハンター。スーインはここだ。約束通り、おかしな目には遭わせておらぬ」
声は波の音に混じって高く低く流れた。
揺れ動く船上で、サモンは素早く船尾のスーインに近づき、その頸部に右手を近づけた。
「だがな、それはグレンという男の約束。おまえにこの女を返すまでの約束だ。いま、この場で返してくれる。だから、約束はご破算だ」
サモンの右手が金属の光を放った、と見る間に、スーインの頸は鮮血を噴いた。
それすら当人は気づかない。
喪心しきった表情は人形のように無機質であった。
「さあ、返してくれる。取りに来い。二人の敵よ。ハンターが死ねばグレンの弔い、あの貴族が滅びればこの女に正気は戻らん。はは、みんな苦しめ。あの|男《ひと》のいない世界など、すべて崩れてしまえ」
そして、|大洋《わだつみ》の怒号も及ばぬ哄笑を発するや、サモンはスーインを抱え上げ、真っ逆さまに海へと投じた。
その胸と首筋を、白い閃光が針の形をとって貫いたのは、次の一刹那であった。
衝撃で船体を横断し、向かいの|船縁《ふなべり》へ激突した身体は仰向けに折れて、サモンは水飛沫をあげつつスーインの後を追った。
Dはすでに海中に身を躍らせている。
ダンピールとは信じがたい身のこなしで水を切り、浮き沈みするスーインの顎に手をかけた。
周囲の海水は黒い絵具を撒き散らしたようだ。
左手で傷口を押さえると、こぼれる血潮は停止した。
海岸へ抜き手を切ろうとした瞬間、Dは上体をひねり、右真横を向いた。
三メートルほど向こうに、首が浮いていた。
貴族の顔が。いや、スーインが殺した若き戦闘士と、マインスター男爵の精神が混じり合った恐ろしい顔が。
ゆっくりと、Dは岸へと移動しはじめた。
貴族も従いてくる。
同じ速度で。
波が肩を洗い、腰まで引いた。
その位置で、二人は停止した。
それ以上行けば、波の浮力で支えられているスーインの体重が、喉を押さえたDの手にかかって窒息する恐れがある。一方、手を離せば、スーインの失血死は免れない。
この上なく不利な体勢であった。まして、海の底で生きてきた貴族は、Dより素早く強い。
「その娘――貰っていくぞ」
“貴族”が海の底から湧くような声で言った。マインスターの声でもなく、戦闘士の声でもあるまい。
「覚えているか――この娘を?」
Dは静かに訊いた。波の音に合わせて。
「わからん」
“貴族”は首を振った。
「私にはわからんのだ。――その娘が誰なのか? 何のために私は毎夏、その娘を求めてここへやって来るのか」
「それでいい」
Dは月光の非情さで言った。
「そのまま運命に従え」
次の瞬間――打ち寄せる波頭を切って流れた三条の銀線。
白木の針は、あり得ぬ火花を撒いて、貴族の前方で打ち落とされていた。
美しい音さえ聴こえるようであった。
貴族の右手に握られた鋼の短槍をDは見た。それは操るものの手練によって数メートルも伸び、間合いを征覇する。
それが、ふっと消えた。
|水車《みずぐるま》が廻った。
渦のごとく跳ねとんだ海水は、猛スピードで旋回する槍を水中に沈めたためであった。
スーインを抱いたまま、Dは跳躍し、その中心を切り下ろした。
新たに上がった水飛沫は、着水したDとスーインのものであった。
波の音だけが、Dの周囲を巡った。
黒と銀の交差する海原へ、Dは全神経を集中した。
波が言った。
「その飛翔距離と速度が限界か。――ここならば届くまい」
その方向へ身をひねったDの胸もとへ、二匹の白蛇がうねくりつつ飛んだ。
銀光が閃き、一匹は切断したものの、もう一匹は左胸を背まで抜け、空中で血まみれの水柱と化して海に落ちた。
「水の槍」
蛇の来た方角から、声と一緒に水が立ち上がり、たちまち貴族と化した。
「恐ろしい男だが、水の中では私に一日の長がある。理由はわからぬが、その娘――貰っていくぞ」
貴族の前方で、再び水車が廻った。
水がうねって飛んだ。
貴族の手で剛体と化した水は三条、白蛇のごとくうねくりつつ波を貫き、一本は切り落とされたものの、狙い違わず、Dの腹部を抜けた。
いかにDといえど、堪るはずがない。
スーインだけは離さず、黒衣の姿は胸まで水中に没した。
墨みたいなものが、濛々と周囲から湧き上がる。
Dはそれでも前方を見つめた。
敵までは五メートル。
スーインを抱いて跳躍すれば、確実な死が待っている。
「さらばだ、ハンター。次の夏はもはやない」
貴族が右肩を引いた。
降り注ぐ月光と潮騒の中で、黒い死の手がDを包もうとしていた。
ひとつの声がそこに加わったのは、その瞬間だった。
「やめて――あなた!」
それが束の間意識を取り戻したスーインの叫びだと、Dはどこで理解したか。
美しい魔鳥のごとく、彼は虚空を跳んだ。
スーインはいなかった。
五メートルの距離は意味を失い、上空へ向けて伸張した槍の穂はあっけなく打ちのけられて、落下速度プラス体重、そこにDの神技を加え、白銀の刃は真っ向から貴族の頭を割った。
いや、頭頂から股間まで無造作に。
白刃はさらにきらめき、首を刎ね、心臓を刺し貫いてから、青いケープ姿はゆっくりと縦に裂け、稲妻に打ち砕かれた巨木にも似て、海中へのめりこんだ。
青黒い塊を、波が沖へと連れ去るのを見届け、Dはスーインのもとへ戻った。
眼は閉じられていた。
首の傷は――半透明の粘塊に覆われ、失血の様子はない。最後の瞬間に、左手が吐いたツィンの粘液であった。
「眠らせたまま運べ」
左手のあたりで声が慰めるように言った。
「あの男――娘の声がきこえたのかの?」
Dは答えない。
左手もきいていたのであろう。
Dの一刀を受ける寸前、“貴族”は「スーイン」と言ったのだ。
はじめて見る、若々しい、悲痛な男の顔で。
それも、波とともに去った。貴族は死に、Dは約束を果たしたのだ。
「あのトンネルの中の幻――自分でも知らぬ娘の想いと、おまえの中に流れる貴族の血が感応して、呼び出したのかもしれんな。娘は忘れてはいなかった。――人間じゃの、やはり。さて、おまえは、どっちだ?」
五指が丸まった。
そのとき――
夜空がかがやいた。
黒水晶を溶かした虚空に、大輪の花が咲き乱れ、爆発音は後からきこえた。
足もとの地面へDは一瞥を与えた。
濃い人影と、それを背負う淡い影。
花火がまた鳴った。
その|間《はざま》を縫って、哀しげな、冷たい音。
風だった。
「|気象制御装置《コントローラー》にガタが来よったか」
声は気だるげであった。
「今年の夏はもうおしまいじゃの。次の夏があるかどうか」
誰も答えない。
夜空がまた、かがやいた。遠くで『|いつまでも《オールウエイズ》』の音楽がきこえた。
夏はまだ終わらなかった。
ガラス窓の向こうを流れる白い薄片を、スーインは焦点の定まらない瞳で見つめた。
朝から降り出した雪は、ますます勢いを増している。
村が白銀の装いを整えるには、あと数時間で事足りるだろう。
いつもより短い夏が終わってから三日目であった。
芸人たちはすでに去っていた。海には動力船が縦横に走り廻っている。冬仕度に忙しい村人の靴が、散りしおれた夏の花を踏んだ。
誰も変わらなかった。
村も村人も、氷雪吹きすさぶ北の海で生きているのだった。
スーインは教壇に両手を突き、ひとっ子ひとりいない教室を眺めた。首に巻いた包帯が痛々しい。
何の感慨も湧きはしなかった。
右手の窓のそばに立つドワイトの顔を見ても、白ちゃけた認識が、その名を記憶から抜き取るだけだった。
過去がスーインの未来を閉ざしていた。
大事な|男《ひと》を、私は殺したのだ。夏のひととき愛し合った|男《ひと》を。
あまりに大きな衝撃が、泣くことも忘れさせ、スーインの胸には空のみが灰色の口を開けていた。
なぜ、私はこんなところにいるの?
誰も来やしないのに。みんな、私が殺人者だと知っている。私にはもう、何も残っていないのに。
虚ろな女のやつれ果てた顔は、ドワイトの胸にも不安と怒りの翳を交互に揺らめかせた。
何処のどいつだ。こんなところにスーインを連れてけって言ったのは。ひとりで、過去の哀しみの中に放り出されて、これじゃあ苦しむばかりだ。許さねえ。あいつ[#「あいつ」に傍点]、探し出して、とっちめてくれる。
「スーイン」
思わず声が出た。
「スーイン。もう出ようぜ。こんなところ、いくらいたって――」
澄んだ音が、ドワイトの口をつぐませた。
もうひとつ。
冬の晩、道に迷った旅人が、一〇キロ先からも聴きつけ、希望を眼と足にこめて立ち上がる――そんな音。
学校の鐘だった。
天井を仰ぎ、スーインが救いを求めるような眼で彼を見た。
ドワイトは後ろへ下がった。何をしたらいいのか、生まれてはじめての確信があった。
窓辺の位置に戻り、
「そこにいろ」
と彼は静かに、力強く言った。
スーインが前方を見つめた。
ドワイトも見た。
ドアの方を。
いつの間にか、鐘は熄んでいた。
男と女は動かなかった。
小さな足音。
それが近づいてくる。
ドアがそっと開いた。
小さな顔が覗いた。期待と不安にきらめく真ん丸い瞳。スーインを認め、ひとつの色が消える。
Dに笛をねだったあの男の子だった。
頭巾には雪の断片、手には小さな包みを抱えて。
照れ臭そうな笑顔が机の間を移動し、いちばん前の席へつく。これから授業が始まるのだ。特等席に決まっている。
少年は机の上で包みをほどいた。粗末な布にくるまった教科書とノート、そして筆記用具。父親はスーインに近づいてはいけないと言った。それが何だろう。今日から学校がはじまるのだ。その証拠に鐘が鳴ったではないか。
また、足音が湧いた。今度は大勢だ。
ドアがきしみ、幾つもの顔が現れた。希望と安堵を眼に広げて、小さな、しかし、途方もなく大きな未来が。
少年が振り向き、得意そうに胸を張る。どうだい。ボクがいちばん乗りだぞ、と。
スーインは眼を固く閉じた。閉じたはずなのに、熱いものが滲みはじめていた。
手でそれを拭い、ドワイトの方を見てうなずいた。
見ていてちょうだい。
大きく息を吸いこみ、戸口に群れる赤い顔に向かって、スーインはやさしく、威厳をこめて言った。
「お入りなさい。――授業をはじめます」
数分後、そっと教室を脱け出し、鐘楼の下へ赴いたドワイトは、鐘つき紐の下に立つ顔を認めて、眉をひそめた。
「はじめまして」
と、その男は人懐っこい表情を浮かべて一礼した。
「トトと申します。クローネンベルクの街でウーリンさんに会いましてね。学校の授業を手伝ってくれと。教師の経験はもちろん、その他何でも。――はい、これが依頼の手紙です」
確かにウーリンのものと覚しき筆跡の依頼状を畳み、男に返して、ドワイトはその肩を叩いた。
「助かったよ、百万の味方だ。――けど、あんた、どっかでお目にかかったことはないかな?」
「とんでもない」
トトはしかめっ面で首を振った。
「こっちだ」
並んで廊下を歩きながら、トトはふと足を止め、窓の外を眺めた。
「どうした?」
「いえ。――馬の声がきこえたんで」
「馬の?」
「へえ。ひょっとして、あっしに鐘を鳴らせって教えてくれた若い人かも」
ドワイトもトトの視線を追ったが、白い世界に動くものの姿はない。
「若いって、どんな?」
「黒ずくめの、そりゃあもう、身の毛のよだつくらいいい男で。どうやって声かけようかと門のそばうろついていたら、ちょうど出っくわしましてね。――そうそう、別れ際に、あの窓から|内側《なか》を覗いてましたぜ。子供たちが入って少ししたら黙って|去《い》っちまった。笑いながらね」
「笑いながら?」
「そうですとも」
トトは自信をこめて言った。
「あんないい笑顔にゃ、もう二度とお目にかかれんでしょう。誰が浮かべさせたのか。――羨ましいねえ。一生の誇りになりますぜ」
ドワイトは少し黙り、それから、
「そうかい」
と言った。
「去っちまうんだな、やっぱり。ひとりぽっちで」
「左様で」
短い答えに、自分以上の深い感慨をきき止め、ドワイトは新しい職員の方を見つめたが、すぐに思い直して、
「あのドアの向こうが教室だ。先に行ってくれ。おれは急用を憶い出した。礼を言わなきゃならねえ」
と言った。
あと数分で貴族の道へ出るという丘の頂で、Dは馬を止めた。
小降りになった白雪のベールの向こうに、青と赤をちりばめた人影が立っていた。
五メートルの距離を置いて――それは、サモンであった。
Dの針を急所に受けながら、何がこの女を生き永らえさせたのか。
いや、顔はすでに屍の色に染まり、胸に咲く血の花は妖しく濡れている。三日間、体内の血を出し尽くしながら、生き抜いてきた女であった。
「やっと会えたな」
幽鬼の声をききながら、Dは馬を降りた。
「残るはおまえとあの娘」
サモンは全身を震わせて言った。
「まずはおまえを。それから村へ戻って、あの娘を始末してくれる。感謝をおし。愛しいものとともに死ぬがいい。出よ」
声と同時に、Dの眼前に、雪とは異なる白いものが結晶しはじめた。
“思い出サモン”の妖術――ノスタルジア。
失った愛しいものが死を要求すれば、彼女の術中に陥った相手は従わざるを得ない。
Dは誰を招くのか。
黒髪がつつましげに揺れた。
切れ長の眼をそっと伏せ、白いドレスをまとった婦人はDの前に立っていた。
サモンの唇が動いた。
女の唇もまた。
妖女の声が、Dにはどうきこえたか。
「お死に、D」
サモンが右手を自分の喉に上げた。
懐剣を握っている。
Dにはそれが、婦人の行為として映るはずであった。
彼の手は、背の一刀を抜いた。
「お死に。そうやって!」
刃が喉に当たらぬよう用心しつつ、サモンは一気にそれを横に引いた。
Dの太刀も動いた。
縦に。
たおやかな婦人の像を二つに割った刃は、そのまま反転して、妖女サモンの心臓を深々と突いていた。
「まさか」
よろめきながら、サモンは驚愕に呻いた。
「……まさか……自分の……を……」
血飛沫も上げず、最後の戦闘士は地に伏した。
どのような神技か、血痕の一滴もつかぬ刀身を鞘に収め、Dが馬の方へと歩き出したとき、
正体不明の声が、
「安らかな顔をして死んでおるぞ、この女」
と言った。
「しかし……思い出は人間しか持たぬ。それすら平気で切り捨てるとは――おぬし、つくづく、業の深い男よ」
何事もなかったかのように、Dは馬にまたがった。
「最後の最後まで村を血に染め、見送るものとてなく。……わしですら、ときどき、薄ら寒くなる。次は何処へ行く?」
答えは、無論ない。
数歩歩みかけたとき、村の方角から澄んだ音が追ってきた。
「学校の鐘じゃな」
と声が言った。
Dは振り向いた。
雪はやんでいた。
淡い光が眼下の村を照らしている。雲の切れ間からさす冬の陽であった。
また、鐘が鳴った。
別れを告げるように。
Dは前方を向いた。
道の上に、灰色の雲が重く垂れている。
それが、これから歩む道なのであろう。
だが、もの静かな顔には恐れも哀しみもなく、冷ややかな眼差しを前方に据えたまま、黒衣の若者は美しい幻のように、悠然と丘の向こうに消えていった。
『D―北海魔行〔下〕』完
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あとがき
「D―北海魔行〔下〕」脱稿。
ひと月遅れてごめんなさい。
一九八八年十二月六日 六:〇〇AM
「COUNT DRACULA」を観ながら
菊地秀行