夢なりし“D” 〜吸血鬼ハンター5
菊地秀行
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目次
第一章 眠男(ねむりおとこ)に愛された娘
第二章 夢きたりなば
第三章 治安官
第四章 夢刺客
第五章 眼覚めしもの
第六章 還らざる日々
あとがき
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第一章 眠男(ねむりおとこ)に愛された娘
1
月が出ていた。
辺境の夜がいかに危険であろうとも、夜自身の清澄さに変化はない。
妖獣も魔人も、見る夢だけは安らかなのかもしれなかった。
ここにもひとりいた。
鬱蒼たる森の中である。
辺境の夜に真の静寂はないことを証明するかのように、オニエリシダの灰色の梢から、密集したマリオカンバの青い茂みから、おびただしい鳴き声や|蠢《うごめ》きが湧いている。
夢は平穏でも、森の夜は飢えと凶気の巷だった。
毒液を吹きつけ、相手の眼を封じては、おもむろに砂粒ほどの鋭い歯で挑みかかるタンジャン虫――この大群にかかっては、全長が五メートルに達する甲殻竜でさえ、二分で骨と化してしまう。
黒土が盛り上がり、一線となって四方八方から前進するのは、キュウシュウミミズの群れだろう。強力な分子振動で土砂を分解し、細胞核に備わる「口」で吸収する五十センチの大ミミズは、まず旅人の足首に絡みついて溶かしちぎり、首や心臓の急所に飛びかかる。触れたら溶かされるそいつらを、どうやって遠ざけるか。
闇にも色彩が生じる。
月光を浴びて絢爛と開く純白の花びらが、風の音に異音を聴きつけたか、小刻みに揺れつつ、うすむらさきの霧を吹くとき、それとともに小さな、白い人影も地に堕ちる。
手に手に小さな槍を携えたそれらが、毒花の汁を血とし、花びらの皮膜を肉と化した花中の邪妖精だとは、この森を生きて抜けたものしか知らぬ。
その他、闇の奥で、その奥で、さらに奥でかがやく血色の|眼《まなこ》は、単なる観察者などひとりも――一匹もいないことを物語っている。
辺境をゆくものはともかく、辺境に住むものならば、夜の森を決して憩いと眠りの場所には選ばない。
物哀しい鳥の歌は、意識を混濁させる魔鳥の声であり、やさしい狭霧こそ、体内に忍んでその精を絞り取る霧魔なのだと心得ているからだ。
どうしても森の中で睡眠を取らねばならぬ場合、人々は、爆裂弾ないし、焼却瓶をつけた矢と弓を片手に、石綿でつくった寝巻で頭まで包んで眼を閉じる。
厚さ一センチの布は、夜間出没する肉食昆虫の歯や槍も通さないし、ジゴクイチゴの汁から摂った解毒剤さえ飲んでおけば、妖霧も恐るるに足りない。翌朝、頭が痛む程度だ。万が一、執拗な攻撃が続いたら、そのときこそ弓と矢の出番だ。
だが、いま、それらの妖物に取り囲まれている旅人は、森の脅威にまるで無知のようであった。
無造作に草の|褥《しとね》に横たわるその姿を月光が照らしている。
黒い鍔広の|旅人帽《トラベラーズ・ハット》に覆われた|貌《かお》は定かではないが、胸もとに下がる|深青《しんせい》のペンダントが、黒色のロングコートが、銀の拍車をつけた革製の|長靴《ロング・ブーツ》が、そして、何よりも、左肩にもたれる優美な長剣が、鮮明な想像と確信を誘わずにはおかぬ。
そのすべてが、美しきものの身を飾る品々であった。
だが、それでは形容詞がひとつ足りぬであろう。
見よ。地を敷きつめた妖物どもは、旅人の周囲一メートルまで近づきながら、眼に見えぬ壁に塞がれたかのように、むなしく手足をこすり、身悶えするばかりだ。彼らは知っている。わかっている。眠ってはいても、この旅人の身体から発散する何かを。挑んだものは死なねばならぬ鬼気を。この若者の正体を。
不可欠の形容詞を。
「この世ならぬ」もの、と。
ユメミグサの毒霧を甘美な香りと嗅ぎ、妖物どもの|怨嗟《えんさ》の呻きを安らかな|神韻《しんいん》とでも聴くのか、黒衣の若者はひたすら眠りつづける。
ふと、その身体に意思が通じた。
左手が帽子を押さえ、上半身の起立とともに、豊かな黒髪の頭部へと乗せる。
そして、彼を見るすべてのものは、この世ならぬ美しさが真実だと悟るのであった。
人々は、彼をDと呼ぶ。
いまのいままで眠りを貪っていた双眸に、虚ろな色は微塵もない。
深い深い|黒瞳《こくどう》は、三メートル前方に立つ、これも黒衣の影をただ映していた。
二メートルを優に越す、岩のごとき巨躯であった。
ある力がDの顔にあたった。
巨体から発する雰囲気であった。
並の人間なら、それだけで精神的廃滅に追いやられ、回復まで半生を要するであろう。
それは、左手に弓を、右手に数本の矢を握っていた。
巨体の胸元で、弓と矢がひとつに組み合わされたとき、Dの右手が長剣の柄へと動いた。優雅な動きは、この青年にふさわしかった。
矢が唸りをたてて飛んだ。
Dの姿勢はそのまま、鞘から迸る銀光が美麗な弧を描く。
豪々たる飛翔と緩やかな斬線とが火花を散らせて噛み合ったとき、Dは、敵の矢がすべて鋼でつくられていることを知った。
その眼に宿る凄絶な光は、声なき叫びとも見えた。
相触れた瞬間、矢は中央で両断され、深々と大地にめりこんだのである。
立ち上がったDの左肩に、黒い光条が突き刺さったのは、次の一刹那であった。
黒い巨人は、第二矢も同時に放っていたのである。
寸分の狂いもなく、等しい航路を辿ったそれは、Dの眼すら幻惑させ、その肩を貫いた。だが、激しい動揺を浮かべた黒影は、音もなく後退している。
心臓を貫くはずの矢を、肩で食い止めたDの体技の凄まじさを、彼だけは理解したのである。
同時にDも立ち上がった。
矢を抜こうともせず巨人の顔を見つめる眼は、妖しいまでに澄んでいた。
敵の眼も、またDを映す。
「名を名乗る気はないな」
Dの初めての言葉に、初めて感情がこもった。
コートの裾が空中で閃いたのは次の瞬間であった。
振り下ろされる銀蛇の一刀に、布地を切り裂く手応えのみを残し、黒い姿は五メートルも後方に跳び下がった。
空中で、びいん、と弦が唸った。
世にも美しい音をたてて、細長い影を若鮎のように空中へ撥ね上げ、Dは一気に大地を蹴った。
敵はすでに、十メートル先の木立の陰に見え隠れしている。
第三の矢を弾き返した数百分の一秒が致命的であった。
左肩に生えた矢を抜こうともせず、Dは疾走した。
貴族の筋肉活性力を受け継ぐダンピールの脚力は、百メートルを六秒台で走破する。
Dの速度は五秒を切り、しかも、スピードは落ちなかった。
だが、影は闇に紛れた。
唐突な気配の消失を、Dは感じたかどうか。そのままのスピードで彼は疾走し、足を止めたのはまさしく、敵の消失地点であった。
そこまで続いていた深い足跡が消滅していることに、Dは気づいている。
天に消えたか地に潜ったか――この世界では格別特異な現象ではない。
Dはたたずんでいた。
左肩には黒い鋼が突き立ち、その傷口からは鮮血を滴り落としながら、眼差しも表情も、この戦いの全過程において変化していない。
矢を抜かないのは、しかし、苦痛を感じないためではなく、敵に不意打ちの隙を与えぬ目的であった。
彫像のごとく凍てついた姿が、急に崩れた。
周囲は暗黒と静寂だ。
死闘の気配に妖物も脅えたか、怪しい鳴き声ひとつ、唸り声ひとつきこえない。
Dの顔がある方角を向き、すぐに身体も動いた。
もとより道はない。
幾重にも折り重なった木々と植物の異形の連なりだ。
その間にいかなる間隙を見つけたか、美しい影はためらいもなく前進する。
それが短い踏破か、長い長い彷徨かはわからない。夜は別の世界なのだ。
風が自らのつぶやきとは別の音を運んできた。
すでに何処ともわからなくなった闘争の場所で、Dはそれを聴きつけていたのだろうか。
人々のざわめきと、金銀の楽器が奏でる軽やかな調べの彼方に、仄かな明かりがにじんで見えた。
それらを守るようにそびえる宏壮な輪郭は城館のようであった。
歩を進めるにつれて、それは皓々たる光の連なりとなり、ほどなく、Dの眼前に巨大な鉄柵の門が立ち塞がった。
周囲を見ようともせず、Dは前進をつづけた。
手も身体も触れぬうちに、門は鉄のきしみを洩らしつつ開いた。
遅滞なく、Dは邸内に足を踏み入れた。
門の規模からして正門ではあるまい。
前方に、石づくりのベランダが水のような光を放っている。月光のせいばかりではなく、石自体が発光しているらしかった。
その奥にかがやく窓と無数の人影。
あるものは笑いさざめき――
あるものは優雅に舞い踊り――
燕尾服の裾が閃き、イヴニング・ドレスの裾も揺れて――
|館《やかた》の|宴《うたげ》はいまが盛りのようであった。
Dの視線が肩の鋼に落ち、左手がそれを掴んだ。
肉の裂ける音がして、それは朱の肉片をまとわりつかせつつ引き抜かれていた。鮮血の噴き出る傷口へ、Dは左手をあてた。
水を飲むような音が湧いた。
この間、歩みを止めず、Dはベランダへの石段を上がり、ドアの把っ手に手をかけた。肩の流血は何故か止まっている。
黄金の花びらの中心に青い宝石をはめこんだ把っ手は、優美な手の中で弾むように回転した。
青い光が満ちる広間にDは立っていた。
その色が、窓から洩れていた白いかがやきと異なっていることを、この青年は知っているだろうか。
館はDを嘲弄しているのか、室内に舞うものは二つの影だけであった。
娘の年齢は十七、八だろう。
若鮎のごとき肢体のみずみずしさは、黒曜石の糸を編んだと覚しいドレスのかがやきにも負けず、腰までかかる黒髪は、そのひと筋ひと筋が、長く紡がれた宝石のようにきらめいていた。
軽やかな調べは残っている。
Dの眼は燕尾服のパートナーをも映した。
後ろ向きのまま、顔は見えない。
Dはさらに奥へと足を踏み入れた。
館が彼を招くためのものであることは明らかであった。
その住人が二人しかいなければ、事を企てたのは、二人ともか、あるいは片方なのだろう。
少女の動きが止まった。
音楽も|熄《や》んだ。
Dを見つめる眼に、不思議なかがやきが満ちてきた。
「あなたは……?」
落ち着いた声が光を少しゆらめかせた。
「どうやら、招かれたようだ」
とDは、後ろ向きのまま静止している男の背を見ながら言った。
「君が相手か? 何の用だ? 或いは――奴は何処にいる?」
「奴?」
少女が糸のような眉を寄せた。
「ならば――その男が知っているかもしれん。どうだな?」
男は動かない。踊るためにのみつくられた、青銅のパートナーかもしれなかった。
それ以上は問わず、Dは青い光を押し退けながら、男の背後に立った。
左手が肩に伸び――触れた。
ゆっくりと男が振り向いた。
Dの瞳の隅に、|慄《おのの》きとも歓喜ともつかぬ少女の表情が克明に灼きついていた。
Dは眼を開けた。
周囲には青い光が射し恵んでいる。夜明け前の、淡い暁光であった。
草の褥から、Dはゆっくりと身を起こした。
すべては夢であったのか。
左肩の傷もない。場所は――眠りについた位置そのままだ。登場しなかったサイボーグ馬は、手綱をつないだ幹のかたわらにたたずんでいる。
左手の長剣を肩へ廻したとき、
「違うな」
と|嗄《しわがれ》れた、妙に生真面目な声が言った。
「ただの夢にしては、生々しすぎる。わしは痛かったぞい」
それは、左肩を貫いた|鋼矢《はがねや》のことだろう。
「あの館は、やはりおまえを招いたのだ。招いた以上、用があるはず。――近々、また会うことになるだろうて」
「そう思うか?」
初めて、現実の口が口を開いた。
「おれは、あいつに会った」
「いかにも」
声はうなずいた。心なしか戸惑っているようだ。
枕替わりの鞍を馬の背に乗せ、Dは軽やかに跨った。
青い光の中を、馬は歩き始めた。
「ほう――同じだわい」
声の指摘は、初めて見る光景が、夢のそれと等しいという意味だろう。すると――声の主も、Dと同じ夢を見たのか。
数分で、騎馬は丈高い木立に囲まれた空地に到着した。
館のあった場所である。
窓からは暖かい光が洩れ、男と女は夜会服に身を固めて踊り、夜明けを知らぬ宴はいつまでも青くつづいて……。
今はすべてを、ミダラオオギの緑の葉と、ドクランバの枝が覆っていた。
一瞥だけして、Dは騎首を巡らせた。
この森の向こうに、入植二百年になる、現実の村があるはずであった。
通り過ぎたものはその瞬間に忘れ去ったとでもいうふうに、暁の光が洩れる木立の奥へ消え去るまで、黒衣の騎手はついに振り向かなかった。
2
村の門前でDは足を停めた。
貴族や妖物の侵入を食い止めるため、二重、三重の塀を張り巡らせてあるのは、他の村と変わらない。
青く錆の浮いた投槍器や火炎放射器のノズルが、銃眼や柵の間から四方を|睥睨《へいげい》しているのも旅人には見馴れた光景だ。
門の脇の看視小屋から武器を身につけた三人の屈強な男が現れ、Dに止まれと合図したのも同じだ。
ただひとつ――その表情だけが違っていた。
見ず知らずの旅人へ注がれる不審と疑惑の眼差しが、奇妙な困惑と恐怖と――親しげな色に変わっている。
ひとりが、眩しげに馬上のDを見つめながら、
「あんた――ハンターだろ?」
と訊いた。
「それもピカ一の|吸血鬼《バンパイア》ハンターだ。――そうだよな?」
「何故わかる?」
馬上から、木枯らしのような響きが静かに三人を吹き抜けた。
「いや」
と真ん中の男が首を振り、曖昧な微笑を浮かべて、門を振り返った。
何処かにある探査カメラに向かって右手を上げる。
木に鉄板を張りつけた門は、歯車や鎖の苦しげな音をたてつつ内側へ開いた。
「行きな。――行くんだろ?」
と最初の男が訊いた。
Dは無言で馬の腹に|靴《ブーツ》の踵を当てた。
騎馬から吹きつける妖風に払い退けられたかのように、三人は左右へ散り、Dは村へ入った。
門から真っすぐ、広い目抜き通りが奥へとつづき、左右に家々や商店が立ち並ぶ。――これも何処にでもある構成だ。
いましがた門の外で出食わしたばかりの眼差しがDを迎えた。
道ゆく村人のすべてが立ち止まり、困惑と恐れと、親愛の視線を注ぎ、それがすぐ陶酔の眼差しに変わるのは、やはり女たちであった。
どれほどの美貌の主が眼と鼻の先を過ぎようと、本来、辺境の女たちは硬い警戒の表情を崩さない。美しさが精神を表すものではないと知り抜いているからだ。
ひょっとしたら、自分たちだけにそう見えているのかもしれない。
そいつが、催眠能力ないし幻覚実体機能を有する真紅の毒蜘蛛ではないと、誰が保証できるだろう。
村を焼き払い、金品と女だけを奪い去る計画の山賊どもから派遣されたのではないと、言い切れるか。
こわばった相貌を崩すには、この世ならぬ美しさが必要であった。
通りの半ばほどまで、奇妙な視線と、恍惚の眼差しに送られて進んだとき、
「あの――失礼ですが」
若い女の声が黒い背に呼びかけた。
朝にふさわしい声であった。
Dの姿が止まった。それきり動かない。
左手の、道路より一段高くしつらえてある板張りの歩道で小刻みな靴音が鳴り、黒い髪がDのかたわらをすり抜け、前方で反転した。
若さに溢れる瑞々しい桜色の顔が微笑を浮かべている。
「あなた、|吸血鬼《バンパイア》ハンターですね?」
年齢にふさわしく、淡い|紅《ルージュ》を塗った唇が、そう動いた。十七、八――人に見られたい年頃だ。
Dの返事を待たず、
「なら、村はずれの病院へ行って下さい。シヴィルは七号室にいます」
Dの表情が動いた。純白のブラウスと、ブルー地にワイン・レッドのストライプ入りスカートのこの娘が、話すに足る相手だと、ようやく認めたものか。
「何処かで会ったか?」
少女は身をこわばらせた。
Dの声は、外の男たちに対したものと、寸分違っていない。気弱な若い娘なら震え上がってもおかしくはないのだ。
だが、少女は勢いよく首を振った。
「ええ。でも――早く」
「何処で会った?」
少女は苦笑した。
「信じてもらえます? 私より、別の、ちゃんとした大人の男の人からきいた方がいいわ。早く、病院に行って下さい。院長さんが喜びます」
奇妙な話だった。何もかも説明不足なのに、切迫した状況にあることは、少女の声音から明らかだった。
黒衣の胸中で、どのような結論を引き出したか。――Dはそれ以上訊かず、前進を再開した。
目抜き通りを抜けると、辺境の土地は急に荒涼さを増す。
そのほとんどが貴族たちから分け与えられたのであり、ぎりぎり、生きるための穀物生産量しか得られぬのは、反抗を防がんとする権力者の歴史的知恵によるものであった。
もちろん、中には、貴族の衰退後、作物と土地の改良を重ね、数百年に及ぶ地道な努力の結果、豊穣な実りを実現させた村もあるが、それがあくまでも「村」単位に留まり、「地方」への広がりもなく、しかも、全辺境において、わずか十数カ所を数えるだけという現実は、この地の生活が、昔ながらの窮乏と悲惨との戦いであることを物語っていた。
この村は、その数少ない例外のひとつであった。
村はずれに差しかかったDの眼前には、|馥郁《ふくいく》たる緑の森と農耕地が広がり、それを取り囲むように、果樹園の青い樹々がその切り揃えられた頂を示していた。
この村の居住者約五〇〇名の二〇倍の人数を養える収穫物は、年に四度、村人総出の積み出し作業の末に、五〇台の大型運送動力車で百キロほど南の貨物駅まで運ばれ、より貧しい辺境の村や、遠く「都」へと届けられるのであった。
村の家々や施設に比較的老朽化が乏しいのは、そこからあがる収入のためだろう。
五分ほど、硬質充填剤で舗装された道を辿ると、小高い丘の中腹に、白亜の建物が見えた。かなり広い坂道が枝分かれしてつづいている。
三階建ての屋上のポールの先ではためいている旗は五芒星のマーク――病院の|象徴《しるし》だ。
少女が行けと伝えた場所であろう。
もとより、従う|由縁《いわれ》はない。
清々しい青空と緑の朝に異を唱える黒い騎馬は、悠然と坂の麓に差しかかった。
馬上の青年が手綱を引いたとも見えないのに、馬の足はぴたりと止まった。
すぐ、丘を見上げるように向きを変え、ゆっくりと道を上り出す。
玄関前の柵に手綱を絡め、Dは玄関をくぐった。
総ガラス張りの|自動扉《オート・ドア》である。発電所は付近にないはずだから、近頃流行の、流体物質を応用したエネルギーだろうが、こんな些細な部分にまで応用しているところをみると、村は余程裕福なのであろう。
Dは扉横の受付台に近づいた。
白衣の看護婦はとうに虚ろな眼と表情に取り憑かれている。もっともそれは、広いロビーに点在する女性患者や他の看護婦たちも同じことだ。熱い視線などというレベルではなく、魂まで抜かれてしまったようである。
「院長に会いたい」
とDが静かに告げた。
台下のスイッチに手を伸ばし、女は、
「すぐ見えます」
と呻くように言った。粘ついた声には、情欲の響きさえあった。
「それには及ばん。私の方から行く」
「いいえ」
と看護婦は首を振って、
「見えたらすぐ、連絡するよう言いつかっております」
「知っているのか、おれを?」
「はい。……あの、私も……」
また、だった。
Dは看護婦を見た。女の眼に理性の光はすでにない。
Dはロビーの奥を向いた。
ちょうど、幾つかある通路の奥から、足音と白い影が走り寄ってくるところだった。
影は白い|顎髯《あごひげ》をはやした老人となり、足早にロビーを突っ切ると、Dの前で停止した。
しげしげとDを見つめ、
「これは――」
と呻く。女になりたげな表情であった。
「うちの女性患者と看護婦を、別の場所に移さねばならんな。――院長のアランです」
「Dと呼んでくれ」
相も変わらずそっけない口調であった。
「あなたも、おれのことを知っているのか?」
アラン院長は深々とうなずいた。
「夕べが初対面だが[#「夕べが初対面だが」に傍点]。――男のわしでもめまいを覚える美形。忘れるはずもない。御用は何かね?」
「さっき、ある娘に、ここを訪ねるように言われた」
「娘?」
と老院長は、不審そうな表情になったが、すぐ、
「腰まで黒髪を垂らした十六、七の娘かな? えらく可愛らしい?」
「そうだ」
「なら、ナン、だ。無理もない。適材適所だな」
「なぜ、おれが来るとわかっていた」
「夕べ、そんな気がしたのだ」
言い終えて、院長は生唾を飲み込んだ。
Dは静かに彼を見つめていた。
とてつもなく深く|昏《くら》い黒瞳が、細胞の遺伝子に刻み込まれた恐怖の記憶を引きずり出していく。
軽口や冗談とは無縁の若者――生物であった。
院長は必死で眼を伏せた。
青年の姿が床面に変わっても、冬の冷気に似た恐怖は、いつまでも身体の芯に残っていた。
「――来なさい。こっちだ」
それだけをようよう口にし、彼はやって来た道を逆に辿り始めた。
白い廊下を何度か巡り、Dはある病室に案内された。
何処か秘密めいた雰囲気の漂う一角であった。
音がしないのである。この病室の周りには、ほぼ完璧に近い防音設備が張り巡らされているのだった。
「眠り姫は起こせないのでな」
Dが気づいたことを知って、院長は弁解するように説明しながら、ドアを開けた。
ここにも昼の光に背く場所があった。
薄闇の降りた広い病室のベッドに、少女はひっそりと眼を閉じていた。
ありふれたテーブルと椅子、食器棚の他に家具もない。白いカーテンの下りた窓ガラスは非透過性らしかった。
門前の看視役、あの長い髪の少女、そして、夕べの夢――すべては、Dをここへ導くための手段だったのか。
だが、何のために?
|呼吸《いき》をしているとも思えぬ少女の顔を、Dは黙念と見下ろした。
陽光の下で笑いたまえ。君よ。
「シヴィル・シュミット――十八歳だ」
年齢を、院長は口ごもって伝えた。
「何十年、このままだ?」
Dは静かに訊いた。
「ほう、わかるかね」
院長は感嘆した。
それは、三〇年になるのだった。
「秋のある日、村から少し離れた森の中で倒れているのが発見されたのだ。何をされたのかすぐにわかった。首筋にこの忌まわしい二つの痕がついていたからな。村じゅう総出で三日間、誰も近づかないよう寝ずの番をした。結局、犯人はやって来なかったが、シヴィルは眼を覚まさなかった。以来、この病院で眠ったきりなのだ。この村だけは、貴族とうまくやって来れたのに、どうしてだ?」
疲れたような声を、黒衣の青年がきいていたかどうか。
どこか理不尽な出来事の中に、ただひとつの事実をDは確認した。
青い光の中で、ステップを踏みつづけていた少女。笑いさざめく人々と、いつまでも終わらぬ宴。
彼は院長を振り向いた。
「何故、おれが来るとわかった?」
院長は観念したようであった。
「夕べ、君の夢を見たのだ」
と彼は必要以上の力を込めて言った。この若者に見つめられた精神的衰えから、逃れきっていない。
Dは無反応である。
「――私だけではない。調べたわけではないが、村中のものがそうだろう。夢を見たものにだけはわかるのだ」
「どんな夢だ?」
「もう覚えてはおらん。ただ、君がやって来るのだということはわかった。シヴィルのところへな」
また、夢か。
「この村に、最近、おかしな事件はあったか?」
院長は首を振った。
「貴族に関してばかりか、|他所《よそ》者や村人の起こした犯罪もない。酒を飲んでの口論や喧嘩は、君の言う事件には入るまい」
では、何故、呼んだのか。
「来てからどうなる?――覚えているか?」
院長は首を振った。安堵しているようにも見えた。この青年と関わりになったら、いずれにせよ、ただでは済まぬことを心得ているようであった。
Dの姿がドアの方へ流れた。
少女にも院長にも一瞥も与えず。彼は立ち去ろうとしていた。吸血鬼ハンターの関心を引くものは、ここにはないのだった。
何か声をかけようとして、院長は何も言うことがないのに気がついた。
影にかける言葉はない。
ドアが閉じられたとき、本当にあの若者と会っていたのかどうか、院長は自信が持てなくなっていた。
ロビーへの出口で、Dはひとりの男とすれ違った。清潔だが、つぎはぎだらけの綿シャツとズボンに身を包んだ中年男だった。いかつい顔に刻まれているのは、苛烈な風雪だった。農具をふるって土を相手に生きる情景を、誰もが簡単に思い浮かべることができるだろう。
疲れたような表情は、足早にDのかたわらをすぎた。
再び看護婦と患者たちの熱い視線の中を抜け、Dはロビーを出た。
黙々と坂道を下り、すぐ道路へ出た。
街道まで遠くあるまい。
丘を迂回するカーブを廻ったとき、前方から、一台の竜車がやってきた。
貴族の放った妖獣、妖魔は、必ずしも獰猛な存在ばかりではなかった。ごくまれにだが、人間が飼い馴らし得る小型の竜や妖精も存在し、あるものは果樹栽培に不可欠な雨を招き、凍てつく冬に炎を喚び、またあるものは、機械に代わる安価強力な労働力として、いま見るがごとき作業に奉仕するのであった。
Dと会う前から、竜はその存在を感知していたらしい。
赤銅色の肌を脅えの証拠たる瘤状突起で埋め、御者台の農夫の鞭にも動こうとしないのだ。
何度か鞭をふるい、農夫はあきらめたらしく、それを捨てると、席の横に装着した電子槍を抜いた。
スイッチを入れると、内側の|発条《ばね》がはずれて、一メートルほどの槍の柄は一気に倍に伸びた。
同時に、蓄電池もオンになり、デューム鋼の穂先は青白いかがやきを発する。
切創を与えられなくとも、触れただけで五万ボルトの高圧電流が直撃する、外見から想像される以上の極めて強力な武器で、『辺境百科総覧』によれば、全凶悪生物二〇〇ランク中五〇ランクまでの中型獣に有効とされる。
これで労働獣の尻を刺すのは、荒っぽいが必ずしも無茶なやり方ではない。竜の臀部には刺し傷の痕が赤黒く盛り上がっている。
電磁波が陽光を青く染めた。
農夫は眼を剥いた。
竜は微動だにしない。いくら馴らしても拭い切れない野性の本能は、格好の獲物たるサイボーグ馬を前にしながらその眼に凶暴な光の一片も留めず、それでいて、馬上の若者に脅えの色とともに吸いついたままだ。
離れられないのだ。
魔に魅入られた美女のように。
Dがその脇をすぎるとき、農夫が舌打ちをして槍を引き戻した。
荷車が大型のせいで、すれ違う間隙は一メートルもない。
穂先が反転した。
次の瞬間、それは一気にDの背をめがけて伸びた。
3
青磁の光は、最後の瞬間まで、上方から挑む銀光など予想していなかったにちがいない。
Dの姿勢にはいささかの変化もなく、右手だけが一刀を抜いて、槍は半ばほどから空中へ飛んでいた。
勢い余って前のめりになりながら、農夫は辛うじて体勢を立て直すと、猛然と席を蹴った。
空中でベルトの背に差し込んだ蛮刀を抜く。
大きく振りかぶったとき、陽光に血煙が舞った。
首筋から黒い|鏃《やじり》をのぞかせて地に墜ちる農夫を見たのはほんの一瞬で、Dの眼はすでに計算してのけた弾道の端へ向けられている。
青い空だけが広がっていた。
農夫の首を貫いた鋼の矢は、その何処かから飛来したのだった。
むせるような緑の香る空気に血臭が混じり、馬上に静止したDに陽光が降り注いだ。
第二撃はやってこなかった。
Dはようやく、地上の農夫に眼を落とした。それは確認にすぎなかった。
血まみれの矢は、夢の中で彼を襲った男の凶器であった。
矢は夢の国から飛来したのかもしれなかった。
長剣を鞘に収め、Dは低く――
「見ていたな?」
と訊いた。
背後で驚きの気配が湧いた。
丘の曲がり角に、発動車にまたがって、すらりとした影が立ち竦んでいた。
長い髪が揺れているのは、身体の震えのせいであった。
「ええ――」
とうなずいた。病院へ行けと指示したあの娘だった。
「治安官に見たままを伝えろ」
短く言って、Dは馬の腹を蹴った。
「待って――行っては駄目。治安官に話さなくちゃ」
少女は夢中で叫んだ。
「でないと、事情がわかるまで、治安官はあなたを追いかけるわ。一生、逃げるつもり? 大丈夫、私がちゃんと見ていたんだから。それに、謎を解きたいと思わない? どうして、みんな、あなたの夢を見たのか?」
サイボーグ馬の足が停まった。
「正直に言うとね」
と少女はつづけた。
「私、あなたの顔を見たのは、初めてじゃないの。何度も会ってるわ。夢の中で。だから、他の人たちよりずうっと前にわかっていたのよ。きっと、やって来るって。それで、追いかけて来たの」
Dは馬上で振り向いた。
自分がどんな不可能を可能にしたかも知らず、少女は眼をかがやかせた。
「よかった。その気になってくれて。二度目だけど、初めまして。私――ナン・ランダー」
「Dと呼んでくれ」
「変わってるけど、いい名前ね。風のようで」
賞めたつもりなのだが、Dが不愛想なので、ナンは困ったような顔つきになり、
「すぐ治安官を呼んでくるわ」
と、もと来た方へ発動車のハンドルを向けた。
治安官は急の事件発生とやらでおらず、若い助手による事情聴取はすぐに終わったが、Dは当分の間、村を離れぬよう命じられた。
殺害された農夫の名はトコフと言い、村はずれに住んでいたが、酒乱の気がある乱暴者で、いずれ逮捕される予定になっていたことも、簡単に済んだ理由だった。もっと運のいいことに、身寄りもいなかった。
「だからと言って、何の理由もなく槍を投げるほど見境のない男でもない。ナンの証言がなければ、信じ難いところだ。君の素姓について、少し調べさせてもらうぞ」
助手の声にどこか脅えがあるのは、Dの名前を聴いたことがあるせいだろう。
Dを襲ったトコフが、何処からともなく発射された矢に|斃《たお》されたという非現実的な物語が通用したのも、そのせいかもしれない。
ナンがホテルに案内すると言い、床をきしませてドアへ向かう途中、Dは低い声で訊いた。
「――君もおれを見たか?」
少しして、
「……ああ」
助手の声を、閉じられたドアが撥ね返した。
ナンを先に、二人は馬と車を引きながら、通りを歩き始めた。
いつの間にか勢いを増した風が、砂塵を巻き上げて世界を白く閉ざした。
「あなた……トコフの事、何も訊かなかったわね」
とナンは、悲痛とも言える眼でDを見つめた。
「自分が殺した相手の名前も、職業も、家族がいるのかも。どうでもいいの? 死んでしまえば関係がないの? 何故襲ったか、気にもならないのね――わからないわ、あなたの生き方」
Dの口が動いたのは、非難ではないひたむきさのせいかもしれなかった。
「別のことを考えたまえ」
と彼は言った。
「そうね」
ナンは意外にあっさりと折れた。
辺境では、旅人への関心や気遣いはタブーとされる。礼儀よりも、|精神《こころ》の底を暴かれたものの犯罪を防ぐという実利的な必要性から生まれた掟を束の間忘れたのは、年頃の娘らしい情熱の成せる業だったかもしれない。
Dの足が停った。
酒場の前であった。
時間は12:○○A少し前。スイング・ドアの向こうに、主婦らしい女たちが席を囲んでいるのが見えた。
極端に憩いの場やレクリエーション施設に乏しい辺境の村では、ひとつの店が村人のあらゆる層に合わせて何役かを兼業する場合が多い。
酒場は男たちのための賭博場であり、主婦のための喫茶店と談話室であり、少女たちの文学サロンとファッション情報や恋愛談議の交換所を兼ねていた。年端もいかぬ子供が賭博に加わることすら罪悪ではないのだ。
そのために、店は一日中開いている。
ナンは硬い表情で、手綱を店の前の柵に巻きつけるDを見つめた。
「『ホテル』で話すんじゃないの? 私は構わないのよ、いつまでも子供じゃないし」
Dは答えずに板張りの歩道へ上がった。ナンを見ようともしない。
娘は唇を噛んだ。
面と向かって睨みつけてやりたかった。
黒い背に投げつけた精一杯の怒りの眼は、このとき吹いてきた風に揺れるコートの裾で、弾き飛ばされてしまった。
少し遅れてドアを押し開けると、黒い影はすでにカウンター前のテーブルに腰を下ろしていた。
左手奥の婦人用溜り場から、囁きや視線がDへと乱れ飛ぶ。どれも異様に熱く、そのくせ、畏怖に充ちている。
誰にでもわかるのだ。
この若者が別の世界の人間だということが。
Dの選んだ席に、ある安堵を抱き、ナンは向かい合って腰を下ろした。
カウンターの向こうで眠そうな眼をしているバーテンに、「パラダイム・カクテル」を頼み、Dの方を見る。
「シャングリ・ラ・ワイン」
とだけDは言い、バーテンはうなずいて後ろを向いた。
「変わってるわね、あなた」
妙に沈んだ口調でナンが言った。
「人ひとり殺されても眉ひとつ動かさないのに、女は宿へ連れていかないのね。そのかわり、ここの大人用の席をとってくれたわ。吸血鬼ハンターって、みんなそうなんですか?」
「夢で見たのか、職業も?」
ナンはうなずいた。
「あなたがしゃべった訳ではないけれど――わかったわ。ここへ来ることも。いつか[#「いつか」に傍点]、までははっきりしなかったけれどね」
「何故見たか、わかるか?」
ナンは首を横に振った。
「夢を見る理由を答えられる人がいて?」
それから急に生面目な――娘らしい表情をつくって、
「でも、わかるわ」
と言った。
「あなたはただ、青い光の中を、何処までも歩いていくだけだったのよ。何処から来て、何処へ行くのかも――いえ、行く先だけはわかった。シヴィルのところ。――答えはもう出たわね」
あの眠れる少女が招いたと言いたいのだろうか。
だが、何のために?
そして、何故この娘――ナンだけが、繰り返してDと会ったのか。
謎は謎のままだった。
「あの娘は三〇年前、貴族に噛まれた。医者は、君が病院へ行くよう勧めたことを当然だと言った。何故、あの娘を気にする?」
「どうして、シヴィルはあなたを|喚《よ》んだの? 私だけが何度もあなたの夢を見た理由は? 正直に言います。私、怖くてたまらないの」
ナンの声に切実なものが混じった。
「夢の中でなら、どんなに怖い思いをしても、眼が覚めれば忘れます。現実の方がずっと辛いもの。でも、今度だけは、眼が覚めてからも怖い――いいえ、覚めてからの方が……」
声は途切れた。その後の沈黙に込められた千万言の言葉を、Dの問いが断ち切った。
「この村は、人間と貴族が唯一、対等に暮らしていたところだ。今はもういないときいているが、昔の事情を知りたい」
一瞬、凄まじい怒りの眼差しを美しい顔に向け、ナンは首を振った。
「私は。――そういう話なら、シェルドン婆さんが詳しいわ」
「何処にいる?」
「村の西のはずれよ。果樹園伝いに行けば、すぐにわかるわ。何か、あるの?」
ナンが身を乗り出したとき、
「――おれたちも聞きてえな」
荒々しい声と一緒に複数の人影が、店内に散らばった。
スイング・ドアが|発条《ばね》のきしみを残して大きくゆれる。
「クレメンツさん――」
ナンの瞳の中で、壁が皮チョッキをつけたような男が歯を剥き出していた。
三次元を構成する要素が、それぞれ二メートル以上ありそうなのは、身につけた旧型の|戦闘強化服《P・スーツ》のためばかりではなく、内側の巨躯の質量が圧倒的なせいだろう。
殺気が店内を占領した。
主婦たちが青い顔で席を立つ。
クレメンツと呼ばれた男の他に、影は七つ。いずれも強化服を身につけていた。
「クレメンツさん――トラブルは」
とカウンターの向こうで、グラスを|盆《トレイ》に載せていたバーテンが、困ったように呼びかけた。
「少し奥へ引っ込んでな、ジャトコ」
巨漢の声はそれにふさわしい重みがあった。髪には白いものが混じっているが、強化服なしでも熊ぐらい絞め殺せそうだ。
「昨日の売り上げを計算しといた方がいいぜ。壊したものは弁償するよ。ナン――おめえも帰りな。こんな流れもの風情と親しくしてると、街に居づらくなるぜ」
「誰と話そうと、私の勝手です」
ナンの声は、誰の耳にもはっきりと聞こえた。
「ま、その件は後で話そうや。おい」
クレメンツの顎がナンを指し、左側の男が動いた。
常人の数百倍に達する筋力増加能力をもつ腕で、ナンの肩を捕らえる。
その顔が突如、苦痛に歪んだ。
奇妙なことだが、居並ぶ男たちも、ナンさえもが、Dが立ち上がっていることに、初めて気がついた。
黒い手が強化服の手首を押さえていた。
男の身体が震えた。
Dは微動だにしなかった。
手はやさしく重ねられているように見えた。
この若者のやさしさとは戦慄の意味であった。
そっと手が動くと、戦闘服の腕もそれにつれて半円を描いた。
「この娘さんはおれと一緒に店へ入った。出るときも一緒がよかろう」
そして、手は静かに下降し、骨の砕ける音が、静かな店内に|谺《こだま》した。
白眼を剥いて悶絶した手下を、クレメンツは侮蔑の眼で見た。
「たかがハンターに。――だらしのねえ野郎だ」
吐き捨てて、Dを見つめた。
「おれはスタンレイ・クレメンツ――村の自警団長と防御獣の飼育をしてる。自分で言うのも何だが、大物だ。そのつもりで相手をしな」
Dは無言である。
それを脅えと取ったか、
「おめえ、トコフを|殺《や》ったらしいな。流れ|者《もん》のくせに、まっとうに生きてる村人を手にかけるたあ、いい度胸だ」
と、クレメンツは自信たっぷりに言った。
「違うのよ、クレメンツさん。私はちゃんと見ていました。ベイツも認めたわ。この|男《ひと》が矢を射たんじゃないの」
ナンが必死に言うのも無視し、
「あの助手は何と言ったか知らねえが、さっさと村を出な。おれたちに可愛がられてから、よ」
ナンが嘲るように口をはさんだ。この娘も度胸の桁が常人とちがっているらしい。
「ベイツさんの指示は治安官の指示よ。帰ってきたら叱られるから」
「やかましい、この餓鬼!」
クレメンツの怒声は、鬼のような悪相に朱をつけた。
「おい、やっちめえ!」
号令一下、三つの戦闘服姿がDめがけて走り寄る。
ナンが一緒なのも考慮に入れていない。
娘の身体を押し離すと同時に、Dはオレンジ色の鎧に呑み込まれた。
ナンの両眼がかっと見開かれた。
見よ。
ことごとく宙に舞い、轟音をたてて床に激突したのは、五百人力を誇る自警団員たちではないか。
もしもこのとき、超高速度カメラでこの光景を撮影したものがいたとしたら、入り乱れる三つの身体の間を、間髪の隙のみですり抜け、すべての手首を逆に取ったDの秘技を確認できたろう。
男たちの手首と肩関節は、ことごとく回復不能なまでにへし折られていたのである。
無論、いかにダンピールといえど、パワーでは強化服に及ばない。敵のスピードと力を利用する古代の技に加えて、本来の怪力を発揮したのだろうが、そのあまりに水際立った手練は、やはり、この若者ならではのものだ。
「面白え」
さすがに青ざめながら、クレメンツは呻いた。
闘志はなお捨てていない。
部下はあと二人いる。
じりっ、と一歩運んだ。
「そこまでだ」
落ち着いた声がかかったのは、そのときであった。
「治安官!」
ナンが歓喜の叫びをあげ、オレンジ色の男たちは、動きを停止し、眼を閉じた。
狂気にも似た闘志は、夢のように失せていた。
「どっちが先に手を出した、ナン?」
ドアの前に立つ長身の影が訊いた。
「クレメンツさん」
「誤解だよ、クルツ」
と、巨漢が向きを変えながら抗弁した。
「こんな小娘の言うことを信用するのか? おれはあんたとの約束をちゃんと守ってるぜ」
「なら、たった今から、自警団長はやめてもらおう」
と上衣姿の男は言った。胸にかがやく銀の星が、クレメンツの歪んだ顔を映していた。
「なあ、クルツ、おれはただ――」
「仲間を連れて出て行け。そいつをうまく投げてくれたことに感謝するんだな。今日は弁償しなくても済んだぞ」
巨漢は少しためらい、すぐ下を向いたまま歩き出した。残る二人も四人の仲間に両肩を貸して後を追う。
捨て|台詞《ぜりふ》もなく、ドアがバウンドした。
「お帰りなさい、治安官」
ナンが満面に歓びと信頼を湛えて挨拶した。
「もう、事件は片づいたの?」
「いや、実は家へ戻ってたのさ。やり残した野良仕事があってな」
治安官はいかつい表情で苦笑し、それから、Dにうなずいてみせた。
「知り合いのトラブルを防げてよかったよ。もっとも君相手では、奴らが百人かかっても勝てまいが」
Dが初対面のとき、この男の身分に気がついていなかったとすれば、バッジをはずしていたためだろう。
穏やかな、しかし、強靭な意志と力強さを湛えた顔は、病院の廊下ですれ違った、あの男のものであった。
軽くDに会釈し、
「事情はベイツから聞いた。しばらく滞在してもらうが、争い事はなるべく避けてくれ。おれも注意はするが、どこの村にも隠れて暴力をふるう奴はいる」
それから豪壮な顔を少しほころばせて、
「君相手にそんな気を起こす奴は、生命が幾つあっても足りないが」
と言った。
ナンは、Dの好意的な返事を期待するように見つめたが、こちらは相変わらず無表情に、
「おれは、この街に無用な男だ。早目に身元調べを済ませてくれ」
「もう済んでいるよ」
と、クルツ治安官は静かな眼差しをDに向けながら言った。
「吸血鬼ハンター“D”の名を知らずに辺境で暮らすわけにはいくまい。君が助けた連中に会ったこともある。何と言っていたと思う?」
治安官と少女の間を黒い影が音もなく抜けた。
「ホテルにいる」
声だけが、揺れしなるスイング・ドアの向こうから聞こえた。
「待って」
追いかけようとしたナンの肩を治安官の節くれだった指が掴んだ。
「でも、私、彼に話があるのよ。夢のことで」
「話して解決できることか?」
ナンは急に肩を落とした。
ひたむきな眼が、いつまでもドアの向こうを追っていた。
陽光がけだるくゆれている。午後の光だった。
「あの男には近づくな」
治安官の声を、ナンは遠く聞いた。
「あれは危険な男だ。近づいたものを哀しませずにはおかん。女なら、なおさらだ」
「あの|男《ひと》が助けた人たちに会ったと言ったわね?」
ナンは虚ろな声で訊いた。
「みな、あの|男《ひと》のことを、何て言って?」
治安官は首を振った。ゆっくりと、時間をかけて振った。
「何も。――みんな黙って、ドアや道の奥を見つめるだけだった。彼はそこを通って去ったのだろう。この村を出るときもだ」
「ここを……出るとき」
ナンの眼は、陽光と同じ色に染まった。
次の言葉の意味を、治安官はそれから長いこと考えていたが、ついに理解できず|終《じま》いだった。
「出て行くには、来なくてはならないわ。ここにある、この村へ」
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第二章 夢きたりなば
1
ホテルの馬置き場へサイボーグ馬の修理と調整を依頼し、Dは部屋へ戻ると、まず、カーテンを引いた。
薄い闇が落ちると同時に、身体内のけだるさがゆっくりと引いていく。
貴族の血の成せる業であった。
だが、両者の血を受け継いだダンピールの中でも、とりわけ濃厚に貴族の体力と人間の陽光耐性を備えたものでさえ、曇り空の下を半日間歩いただけで、息は荒らぎ、体内に蓄積された疲労を除去するには、暗黒の数時間を要する。
燦々と降り注ぐ陽光の下を三時間も行けば、回復まで半日は眠りつづけねばなるまい。
この青年は、平凡な[#「平凡な」に傍点]ダンピールではなかった。
サドル・バッグのケースから二錠の乾燥血漿を手のひらに乗せ、Dは飲み込んだ。
何も知らない子供がかたわらにいたら、引きつけを起こしそうな行為である。
吸血貴族の血を引くダンピールは、人間のように固形物をとるよりも、慈養分を摂っては生きる糧とする。
乾燥血漿は闇市か非合法のもぐり医者のところへ行かぬ限り入手困難だが、千錠入りのカプセルをひと瓶買えば、一年は食事なしで過ごせる。Dの身体つきからすればまず一週間、長ければ半月は二個のカプセルで保つだろう。
長剣をはずし、コートに手をかけたとき、ノックの音がした。
「入れ」
低いがよく通る声であった。間違いで叩いても入らざるを得ない凄絶な響きを帯びている。
すぐにドアが開き、支配人が禿頭を光らせつつ現れた。左手の木のトレイとそれに載せた分厚い札束を見つめ、すぐにしげしげとDの方を眺めた。
「やっと、釣りができました。この町じゃ一万なんて札を見るのは、久しぶりなもんで。酒場まで行って借りてきましたよ」
Dがそれを受け取っても、支配人は出て行こうとせず、
「しかし、驚いたね。夢の中ならともかく、この世にこんないい男がいるとは思わなかった。髪の毛一本でもおすそ分けして欲しいくらいですね」
「なぜ、おれを泊めた?」
Dが淡々と訊いた。左手は長剣を握っている。支配人はちょっと驚いたように、
「なぜって――泊めて欲しかったんでしょうが。わしも商売で。はあん、ダンピールだからってんですか? 安心しなさい。このホテルの|主人《あるじ》の了見は、そんなに小さくありませんよ」
二人の問答の間に横たわっているのは、ダンピールが、彼の雇い主同行でなければ、まずホテルへ泊まれないという事実である。
理由は言うまでもあるまい。
ダンピールを一般人と同じ屋根の下へ泊めるためには、それ相応の保証がいる。だからこそ、彼らの雇い主は、辺境でも屈指の財産家たちに限られるのである。
貴族を斃しながら、その血に狂ったダンピールが殺害した人々への保証金を支払える者たちに。
この事実を考慮すれば、たとえ、貴族と人間が共存していた村にせよ、ホテルの支配人の行為は、人間の度量やきっぷ[#「きっぷ」に傍点]では計り知れない英断であった。
「それに、クレメンツの鼻を明かしてくれたそうじゃありませんか」
支配人の顔は笑みを噴き上げた。
「あの野郎、地主なのをいいことに、少しのさばり返ってやがる。ま、うちは治安官の出来がいいから、あんまりでかい|面《つら》はできませんがね、それにしても眼に余る。いやあ、あんな水際立った腕の冴えを見たのは生まれて初めてだって、ジャトコの奴、興奮を通り越してぼんやりしてましたよ」
ここで自分の長広舌に気づいたか、支配人は口をつぐみ、咳払いすると、細い指先で気障な具合に蝶タイを引っ張った。
「だけど、気ィつけて下さい。荒っぽいくせに執念深いのでも二人といない野郎だ。ただで引っ込むわけがない。治安官も自分の家の仕事が忙しくて、四六時中、街のことに気を配っちゃいられないし、この部屋に爆弾ぐらい投げ込みかねません」
「注意する」
「そうして下さい。――じゃ、あたしはこれで。用があったら、ブザーを押して下さいな」
支配人の姿が消えると、Dはコートを脱ぎ、ソファに腰を下ろした。
考えねばならないことが幾つもあった。
村中の人間が彼を夢見たのは、彼を招いた少女の力が強烈だったで済む。一種の精神感応力が、近隣の人間に影響を与えるのはよくある事例だ。
それを夢に援用させても不思議ではあるまい。
何かの目的でDを招いたのか。
あの青い舞踏会に少女は何を託したのか。
もうひとつ――Dを襲った荒くれ者が、夢にのみ存在するはずの鋼鉄の矢で貫かれた理由は?
夢でDに鋼矢を射たあの男は、Dの殺害を意図したのではないのか。
いや、あの凄絶な弓技は殺意に彩られていた。
すると、何故、Dを救ったのか。それとも――偶然か。
手がかりを得る方法がひとつだけあった。
Dは深々とソファに身をもたせかけ、眼を閉じた。
ダンピールといえども眠らねばならない。
貴族の跳梁を防ぐべく、夜の戦いが避けられぬ以上、睡眠時間はやはり日中になる。
貴族の超人的なバイオリズムが最も低下するのは、正午をピークとして前後二時間のオーダーだ。
ベテランのハンターは、この時間に彼らの|止《とど》めを刺せるような段取りを整えるから、それがうまくいったとして、睡眠はそれ以降、夕方までとなるのが普通だ。
しくじった場合、こちらの絶対優位は、陽の沈むまで――残光の最後の一片が消失するまでつづく。それ以後は、勝負の決まった戦いを挑むか、ひたすら何処かへ閉じこもって夜明けを待つか、である。どちらにせよ、ハンターに休む時間はない。だからこそ、人々は常に秀れた人材を求め、それに応え得る人物のみが、吸血鬼ハンターの名にふさわしいのであった。
いま、時刻は1:○○Aを廻っている。
ダンピールの睡眠時間には、最もふさわしい時刻であった。
Dは何を夢見るのか?
夢の中に待つ世界と住人は誰か?
やがて洩れてきた、人間の可聴域を遠く離れた寝息を、部屋だけが聴いた。
足下を霧が流れていた。
木立は厚みのない影絵と化して、Dを取り囲んでいた。
霧を運ぶだけの風はある。
歩を進めるたびに、霧はたわみつつ押し退けられていった。
忽然と鉄の門がDを迎えた。あの屋敷のものであることは言うまでもない。
笑いさざめく声が聴こえた。
楽団の奏でる物哀しいダンス・ミュージック。
透明なグラスの縁が触れ合う音。
ユーモアに満ちたジョーク。
注がれる琥珀色の液体。
庭園をさまよう男女の影。
パーティは今夜も開かれているようだ。
だが、Dは招かれた客なのか。
門をくぐり、意匠を凝らした庭園の小路を抜けて、宏壮な館のベランダに足を踏み入れた途端、物音は潮のごとく遠ざかり、青い光ばかりがDを包んだのである。
足下でかすかな音をたてるのは、黄ばみ砕けた落ち葉の|一塊《ひとかたまり》であった。
館の壁に走る無数の亀裂にDは気づいたかどうか。
彼は館の|内側《なか》に立っていた。
青い静かな光の向こうに細い影が揺れている。
シヴィル。
白いドレスの少女と、黒ずくめのハンターは無言で向かい合った。
距離はない。
数メートルの空隙は無限でもあった。
「おれに何の用だ?」
Dの口元で青い光が幻のように揺れた。
答えはない。
それも、この少女にはふさわしいようであった。
額にかかるほつれ毛を、シヴィルは柔らかくかき上げた。
不思議な光が双眸に宿っている。
喜びとも哀しみとも取れた。
どちらも同じ色なのかもしれなかった。
Dは背を向けて歩きだした。
眼の前にシヴィルの姿を認めて、その足は止まった。
ドアは彼の背後にあるようであった。
「招いても答えず、帰さずか」
と、Dはつぶやいた。
「おれはいつまでもここにいるわけにはいかん。君の夢は醒めなくとも、おれのは――」
シヴィルはうなずいた。
「わかっています」
透き通るような声であった。
「どうしても、来ていただきたかった。お願い――私を助けて」
「おれに何ができる?」
シヴィルは沈黙した。
「それでは何もできん。おれは|吸血鬼《バンパイア》ハンターだ。できる仕事はひとつしかない」
Dは再びきびすを返した。
ドアは眼の前にあった。
青い光を散らしつつ、そこへ行きかけたとき、
「待って下さい」
シヴィルの声が足を停めさせた。
Dは振り向かない。
「あなたがハンターだということは知っています。なら、ひとつだけできることがあるわ。――あの|男《ひと》を滅ぼして」
殺せ、とは言わない。
滅ぼして。――この娘も自分の運命と、それをもたらしたものの正体を知っているのだった。
あの|男《ひと》とは、ひとりしかいない。
「ここは夢の国だ。奴と会えるかどうか、斃しても滅ぼせるかどうかもわからん。それに――」
「それに――」
Dの言葉をシヴィルは繰り返し、呑み込んだ。
「あの男は君に何を求めた?」
それは、いまの言葉のつづきではなかった。
わずかな沈黙を経て、シヴィルの表情はこわばっていった。
「あなたは、あの|男《ひと》を……知っているの?」
「答えろ。何を求めて、君の血を吸った?」
「やめて」
シヴィルは身を震わせた。
「ひどいことを訊かないで下さい」
「すべてはそこから始まっている。だから、おれは招かれた。奴を斃すのもよかろう。その前に答えろ」
「………」
シヴィルの両眼から涙が溢れた。Dを見つめる眼に、しかし、憎しみや怨嗟の色はない。
黒いハンターは冷然と青い光の中にそびえていた。
「答えろ」
これはDの夢なのか、シヴィルの支配する世界か。
氷のごとき冷厳な問いに、少女の喉がかすかに動いた。
「それは……世界を……」
次の瞬間、Dの姿がふっと消えた。
「――!?」
差し伸べた手の先には青い光だけが揺れ、シヴィルの姿は、石像のように固着した。
「それは……世界を……」
次の瞬間、Dは眼を覚ました。
瞼を開くのと、身をねじるのとほとんど同時だった。
窓ガラスの砕ける音がして、部屋の真ん中に黒い円筒が転がったのは、Dが隅へ跳んでからだった。
恐らくは、ライフルの先につけた|榴弾発射器《グレネード・ランチャー》から放ったものだろう。
天井と壁と床が一気に膨張した。
円筒に込められた特殊火薬のエネルギーは、千分の一秒でそれらの抵抗を打ち砕き、ホテルの構造材を外側へ噴き飛ばした。
原形も留めぬ部屋へ、消火器片手の支配人が飛び込んできたのは、数分後のことであった。
「はン!?」
惨状にふさわしからぬ言葉を吐いて、彼は棒立ちになった。
壁も天井も吹っ飛び、亀裂の向こうから蒼空がのぞく惨状の中に黒衣の影が飄然と立っていた。
支配人は茫然と周囲を見回した。
一片の炎も上がっていない。
わずかに残ったカーテンの切れ端は青い煙をくゆらせているが、充満しているはずの硝煙さえ薄く、空気は外と変わらず澄んでいた。
まるで、何ものかが吸い込んだかのように。
「一体、どうなってるんだ? おい?」
支配人は眼を丸くして人影に訊いた。すぐに――
「おーっと、何も言いなさんな。爆弾がぶち込まれたのはわかる。訊きたいのはその後です。どうやって、炎と煙を消しちまったので?」
「お返しは迅速だったな」
Dは、これもうっすらと紫煙を吐くロング・コートに眼をやった。
衝撃と破片をその薄い生地が防いだと、誰が信じられるだろう。
「世話になった」
支配人の眼の前に、数枚の金貨が突き出された。
「済みませんね。お泊めしたいのはやまやまですが、毎晩こうなっちゃ」
と支配人は頭を掻き、一枚だけつまみあげた。
「これで十分ですよ」
「いいから、貰っとけ」
と差し出された左手が言った。
「は!?」
支配人が思わず眼球を下げたとき、シャツの胸ポケットへ残りの金貨を落としたDの左手は、もう引き下げられていた。
「ひでえことをしやがる。クレメンツの一派ですよ。だけど、今回は相手が悪いや。吸血鬼ハンターときてはね。一発、眼にものを見せてやってくれませんか」
Dは無言で破壊されたドアへと歩いた。
「ど、どこへ行きなさるんで?」
「病院の近くに風車小屋がある」
それだけ言って、黒い姿は階段を下りていった。
2
陽が落ちる頃、枯れ葉を踏む足音が森の中を移動していった。
ナンである。
落葉はこの数日が盛りらしく、数メートルごとに手を上げて、髪にかかった木の葉を払い落とさなくてはならなかった。
ここ数日、悪性の風邪が猛威をふるい、教師ばかりが倒れて学校は閉鎖されているから、ぶらついていても父母は叱らないが、吸血鬼ハンターのもとを訪れるとなれば、許可は得られまい。
ナンの道行きはささやかな冒険であった。
表向きは、自分の見た夢やシヴィルのことを詳しく話し、Dにまつわる謎を解くためだ。そう思いながら、胸の奥に熱い鼓動とともに湧き上がってくるのは、あの若いハンターの秀麗としか言いようのない美貌だった。
ナンは、街の連中より三日も早く、彼を夢見た。そして、ひと目見たときから、その孤高の姿は、彼女の胸に、精緻な細密画のごとく刻み込まれたのである。
ただ美しいというだけの男であった。だが、少女の胸のときめきを誰が笑えよう。ナンは十八歳であった。
夕暮れの黄金の光の中に、忽然と風車小屋が現れた。
四枚の巨大な羽根が、地上に黒々と十文字の影を落としている。
まだ緑の残る芝生を踏みしめ、ナンは小屋の左側に建つ居住区へ向かった。
崩れかけた屋根、錆びついた羽根の回転部、息を吹きかけただけでめくれ上がりそうな板壁――十年前に廃棄された小屋の荒廃はひどいが、これでも、近隣一の発電能力を持つ、村のエネルギー源だったのだ。妖物どもの棲み家にならなかっただけでも、幸運といえるだろう。
居住区のドアは開いていた。
黴臭い匂いが鼻孔を刺し、ナンは片手で鼻と口を覆った。
玄関から真っすぐ通路をはさんだ左右が寝室だ。八人が常時勤務していたという。
どちらにもDはいなかった。
居住区と風車小屋をつなぐ蒲鉾型の通路を通って、ナンは薄闇の凝塊する小屋へ入った。
円錐の巨大な空間がナンを迎えた。
小屋の地上から頂までは優に十五メートル。三層に分かれている。一階は動力施設だが、使えるものは、五キロほど先の核融合発電所へ運び去られて、赤錆だらけの装置類が数個残っているばかりだ。その発電所も今は活動を停止している。
それでも、風車の旋回をエネルギー変換装置へ伝える巨大な回転軸とローラーの迫力は、畏怖に似た想いを抱かせるに足る。
破れた窓ガラスから射す光も、青く沈み始めていた。
天井からは、張り巡らされたケーブルが|葛《つた》のように垂れ、Dを求めて数歩進んだとき、うち一本が肩に触れて、ナンの心臓は一瞬、鼓動を停止した。
発電機能が正常なら、感電死どころか黒焦げになっていたところだ。
ゆっくりと息を吐き、ナンは歩き出した。
途端に床を踏み抜いて右足が足首まで沈み、悲鳴をあげてしまう。
「もう!」
低く罵って引き抜いたとき、前方の光の輪を、黒いものが横切った。
そこは小屋を巡る回廊へと通じる出入り口である。
「――D!?」
叫んだ声に、すがる調子の混じったのはやむを得えないが、影は一瞬の停滞も見せずに回廊の端に消えた。
不安がナンを包んだ。
ひょっとして、クレメンツ一家が。
夢中で走り出した。床が悲鳴を上げ、埃が舞い上がって周囲の情景をくすませる。
廊下へ出た。
影の姿はない。足音も気配すら絶って、それは消滅していた。
階段まで走り、ナンはきしむ木の段を一気に駆け上がった。
二層目のドアは昇降口の前にあった。
飛び込んで――ナンは急停止した。
髪の毛と汗の珠が前方へ撥ねる。
青い闇の中央に、黒衣の姿が立っていた。
もう長いこと、ずっとそうしていたのではないかと思われた。
――D。
と呼びかけて、声は出なかった。
自然体から噴き出す凄愴な鬼気を、ナンも感じ取ったのである。
それは、戦いの相であった。
二層目は風車の調整階にあたる。
天井を貫いて床まで貫通する回転軸に、大小数十本のエネルギー|桿《かん》と歯車が接続し、軸の猛回転により生じる過度のエネルギーを分散するのである。
歯車は直径三メートルもの大型から二〇センチ程度の品まで数百に及び、それが人間の活動を妨げぬよう地上三メートルあたりから走る桿にくっついて、まるっきり無秩序に縦横斜めと噛み合っている様は、活動時にどのような幻怪な光景を生み出していたかと、見るものを脅かすのであった。
凍りつきながら、ナンの眼はDと周囲の薄闇を見つめていた。
何もいない。
Dの背後に、古ぼけたロッカーがひとつと道具箱が並んでいるきりだ。
視界がぼやけ、眼が鋭く痛んだ。
汗の珠が入ったのだ。
反射的に閉じた黒い視界を、硬質な音が切り刻んだ。
夢中で開けた眼の中に、桿と歯車の群れがぼんやりとにじみ、ナンはそれが回転していることを知った。
だが、どうやって?
風車は十年前に固定されている、と記憶が閃いた刹那、Dの影が動いた。
肩の長剣が倍に伸びる。
抜いた、と思った途端、ナンの視界は汗のもたらす激痛とともに翳った。
暗黒の中でナンは音だけを聴いた。
戦慄が胸を貫く。――こんな音はあり得ない!
歯車の生むものであることだけは間違いないきしみは、何の知識もない少女にも異常と知れる回転を示していた。
高く低く、右に左に、上に下に。――それにつれて桿も異なった動きを示し、風車の軸もまた旋回した。
もしも、ナンの眼が正常であったなら、その順序が逆だと気づいたであろう。
風車が動かすのではない。桿と歯車が巨大な軸を回しているのだ。
そして、ナンには見えるはずもないが、風車の羽根は微動だにせず、夕闇に包まれつつあった。
すべての動きは、別のものを成し遂げようとするエネルギー供給だと、果たしてDは気づいたか。
蝶番の弾ける音がして、ロッカーの扉が床に倒れた。
その内側から黒い影が立ち上がったとき、Dは背後を振り向き、同時に、ナンの呪縛も解けた。
必死で眼をこすり、ナンは眼前の戦いを見届けようとした。
瞼を開いた一刹那、Dの跳躍を見たのを幸運と言えるかどうか。――あっ! という驚愕の叫びをその口は洩らした。
影もまた跳んでいた。
二つの人影が空中で交差し、刃の噛み合う美しい音が谺した瞬間、奇妙な感覚がナンを捉えた。
黒衣をひるがえしてDが着地する。
ナンの前に。
だが、Dはそこから跳び、空中でその位置を変えたのだ。
ナンの眼は驚愕の炎を噴くかと思われた。
向こう側の人影――あれも、Dではないか!?
二人いる!?
しかも、いま、空中で見せたように、ともに右手に長剣をかざし、左手を胸前へ伸ばして構えた姿は――瓜二つだ!
二人の吸血鬼ハンターの間に、一枚の、巨大な、眼には見えぬ鏡をナンは見たような気がした。
地を蹴ったのが同時なのは、当然であったろう。
二人のDはともに対称――右肩上から相手の左頸部へと斬り下ろし、一閃、刃は横へ流れて青い火花を噴いた。
二合とは噛み合わず、二人のDは再び位置を変えつつ、着地する。
眼前へ戻ったDが、もと[#「もと」に傍点]の彼だと知りながら、あまりの相似に、ナンはぽかんと口を開けたままだ。
虚と実の相討つ異形の闘いに、人間は声をかけることさえ許されないのである。
だが、そのどちらもDならば、いかにして本体は虚を討つか。見えざる鏡を透かしてきらめく刀身は、双方の骨まで断つにちがいない。
じりっ、とこちら側のDが前進した。相手もそれに倣う。心なしか、その顔に残忍な笑みをナンは認めたような気がした。
それが困惑の表情を浮かべたのは、次の瞬間だった。
構えは崩さず、Dが後ろを向いたのである。
敵は動かない。
虚と実をつなぐ糸は豁然と断たれた。
硬直した背後のDの面貌へ、
「ほら、どうした? もうひとりのわしの力を借りてみんかい」
|弄《いら》うような声が吐きかけられた。
それが、Dの左手の先から流れたような気がして、ナンが茫然と眼を見開いた瞬間、音もなく背後のDは地を蹴った。
どん、と打ち寄せる波のごとき一刀であった。
それをかわそうともせず、攻撃者の眼前に黒い闇が翼を拡げた。
Dのコートだ。
骨を断つはずの一撃はその裾のみを裂き、動揺と絶望に大きく揺らいだ上体を、下から撥ね上がった刀身が深々と刺し貫いていた。
血の霧を噴き上げつつ倒れ伏す自らの身体を避けて、Dは後退した。
それが自らの影であっても、この若者には何の感慨も湧かぬのか、一刀を収め、ナンの方を振り向いた顔は、あくまでも無表情であった。
「……D、これは……」
ようやくそれだけ言ったナンを、
「何をしに来た?」
冷たいとしか言えぬ挨拶が迎えた。眼は頭上の桿を見つめている。すべての動きは停止していた。
「夢の話を……しようと思って。酒場では途中だったから」
ナンの声は喉に絡みついた。辺境の娘とはいえ、人間の死を眼前に見たのは、初めての経験だった。
「じきに日が暮れる。帰りたまえ」
にべもない言葉に、ようやくナンの胸に人並みな感情が湧いた。怒りである。
「ひどいわ。せっかく来たのに――」
と言いかけて、それ以上、言葉は出なかった。このハンターにとって、自分がどれほどの意味を持つのか。――よくわかるだけに、思い知らされたくはなかった。
「夜はまだ人間のものではない」
Dは静かに言った。数瞬前の死闘など夢であったかのように。
「この村は大丈夫。――とも、もう言えなくなったけど、本当に安心よ。最後の貴族が消えてからここ百年、夜の犠牲者は出ていません」
「今夜初めて出るかもしれん」
ナンは口をつぐんだ。
眼が熱く痛んだ。汗のせいではない。
「帰ります」
冷静に言ったつもりだが、自信はなかった。怒りが声を震わせていた。背を向けて歩き出せば済む、と思った。街の連中より二夜多く夢に見た。それがどうしたというのだろう。この青年には何の意味ももたないではないか。
ナンは顔を上げた。睨みつけるように、
「酒場でお話しできなかったことを話しておきます。どうして、私がシヴィルを気にするのか。――私、あの|女《ひと》の隣の病室にいたんです」
ひと息に言って、身をひるがえした。
廊下へ出て、階段を降りる途中で涙が溢れた。
ケインのことを考えようとした。数軒先に住む幼馴染である。
顔はすぐ浮かんだが、記憶には感情が伴っていなかった。
外は闇の国であった。
「――!?」
ナンは両肩を押さえて立ち尽くした。
秋の一夜は、凄まじい冷気をたくわえ、彼女を待ち構えていた。
どんな記憶にもない、骨まで貫く冷気であった。
|理由《わけ》もわからず、ナンは天空を振り仰いだ。
夜空にきらめく星は、錐の先のようであった。
木立を風が渡っていく。
子供のときから眼にしてきた光景に変化はなかった。
じき、林檎酒の季節になる、とナンはぼんやり考えた。
いつの間にか、冷気は去っていた。
その代わり――ひとりぼっち。
3
シェルドン婆さんの家は、果樹園の西の果てにあった。
常緑草が一斉に風にたなびき、大地や丘はそのたびに形を変えた。
赤い屋根に風見鶏を備えた一軒のあばら家は、孤独な余生を送る一二〇歳の老婆にふさわしいように見えた。
シェルドン婆さんは玄関前のポーチで揺り椅子に乗っていた。
最後の客が訪れてから、もう何年になるだろう。それが、学校の生徒たちだったという以外、婆さんの記憶にはない。時折、白髪頭の老人の顔が横切るが、妙に懐かしい気分のする理由もわからなければ、裏の小高い丘の頂に立つ墓石の主が彼だと言う事実も忘却しきっている。
百年以上も前に受けたサイボーグ手術のおかげで、栄養素混入血液の取り換えは三〇年に一度で済む。街の連中が頻繁に訪れないのはそのせいかもしれない。
その日の午後、婆さんは、二千何度目かの前後運動の向こうに、何日ぶりともわからぬ訪問者の姿を認めた。
頑丈そうだが古ぼけた揺り椅子の上の老婆へ、Dは馬を降りて近づいた。
「シェルドンさんか?」
「そうさね――あんたは?」
間髪入れずに返事を返し、しばらくDの顔を見つめてから、婆さんは微笑した。
「腕が鈍ったかね。いきなり返事をすると、昔はみんなびっくりしたもんだが。|耄碌《もうろく》しきって赤と青の区別もできない半眠りの婆さんだと思っているからね」
「訊きたいことがあって来た。Dと言う」
「何処からか来て、すぐ何処かへ行っちまいそうな名前だね。もっとも――あんたなら、背を向ける前に、泣いたり死んだりする奴がたんまりと出るだろう。――お入りな」
婆さんはのそのそと椅子から立ち上がり、先に立ってドアを開けた。
室内は整頓されている。朝の光が舞い上がる埃を砂金のようにきらめかせていた。
「そこにおかけ」
と椅子を勧め、婆さんは台所へ向かおうとした。
「お茶をいれるよ」
「ありがたい」
婆さんはドアをガタピシさせながら消え、じき、湯気のたつカップを盆に載せて戻ってきた。
「五〇年前に、『都』の商人から仕入れたお茶だよ。村の奴らになんか、絶対飲ませてやらないんだ。遠くから来たお客さんは別さ」
「どうして遠くとわかる?」
皺だらけの茶色い手が眼の前に置くカップではなく、皺でできているような顔を見上げて、Dは訊いた。
「あんたみたいな眼をした男が、ひとつの村に留まっていられるもんかね」
婆さんは腰を叩いて、椅子に坐った。
「人間てのは、この辺に眼に見えない鎖を山ほど引きずってるものなのさ。その端は地面にくっついて、二、三キロは歩けるけど、そっから先はどうしても行けない。鎖の名前は『家庭』だったり、『財産』だったり、『恋人』や『憶い出』って言う場合もあるさ。若いうちは、地面から引っこ抜いてうろつけるけど、一〇年二〇年と経つうちに、鎖はもっと太く、もっと多くなる。そうなれば、後は適当なところに腰を下ろすしかないのさ。いったんそうすると、|人間《ひと》の眼には、鎖が黄金に見えてくる。メッキとも知らないで。――神さまは、人間の眼に本物が見えない細工をしておいたんだ。わかるかい、つまり、そうじゃない人間――曇らない眼を持ち、鎖の一本もつけていない人間は、神さま以外の奴がつくったってことになる。――さて、誰だろうかね?」
そして、意味ありげな視線をDに送ると、婆さんは手のカップをテーブルの上に置いた。
「急ぎの用だろうに、お茶や婆さんの無駄話に付き合ってくれてありがとうよ。あたし以外の人間なら首を斬られてるって、自慢してもいいかね」
「貴族と人間が共存していた時代のことをききたい」
Dが口を開いた。
「何でもいい。話してくれ」
婆さんは眼を細め、両手をテーブルの上で組み合わせた。何秒かそのままで動かず、
「多すぎるよ」
と言った。
「何も話すことがないのと同じくらいにね。でもみんな、あたしのよちよち歩きの頃に遠くへ行っちまった。どうなったか、誰にもわからない。それから、彼らが来たのは、ただ一回――三〇年も前のことさ。何かが今起こってるとしたら、原因はそれだろう。やはり、貴族は貴族だったのかね」
「娘がひとり口づけを受けた。今も年もとらずに眠りつづけている。おれの夢を他人に見せながら、だ」
婆さんはカップを取り上げた。口元で傾けると、唇が湯気を吹いたように見えた。
少しだけカップを離して、
「三〇年前、あの娘は北の林の中で倒れているのを発見された。首にふたつの咬み傷があった。本当はその場で追放されていたはずだよ。どちらがよかったか、今となっては誰にもわからない。あんたとは会ったこともないのかね?」
Dはうなずいた。
婆さんはしげしげとその顔を凝視し、
「あんたぐらい美しけりゃ、見なくても見たくなる[#「見なくても見たくなる」に傍点]だろう……けどね」
と言って口をつぐんだ。
Dは無言である。
「……私なら、百万回会っても、あんたの夢を見ようなんて思わない。最後には、泣かなきゃならないからね。辺境の女は誰でも、涙を流すのには慣れてるけど、泣くことはいつまでたっても辛いものさ」
それなのに、シヴィルは夢見た。
会ったこともない男を。
「シヴィルを咬んだ貴族はどんな男だった?」
今度の質問には成果があった。
「目撃者があったよ。シヴィルの|祖母《ばあ》さんさ。二〇年前に亡くなったけど、シヴィルを探す途中でそいつ[#「そいつ」に傍点]を見かけたと、毎日人に言ってきかせた。あたしも、耳を塞がなきゃならないほど、しつこくきかされたよ。――そうさね、黒ずくめの大男」
そこで婆さんは口をつぐんだ。
眼に奇妙な光が宿っていた。光は二条の光芒と化してDの顔を刺した。
「顔つきは……この世のものとも思えないいい男――あんたと似てる、ね」
Dはカップを口に運んだ。
双眸は婆さんを見つめているようでもあり、他の何かを見ているようでもあり、何ひとつ凝視していないようでもあった。
「……どうして、シヴィルを咬んだんだい?」
婆さんの眼光は激しい色を帯びてきた。狂おしい光だった。
「何故、あの|娘《こ》に夢を見させたりしたんだい? それに、どんな夢を?」
むろん、答えはない。
Dがしたのは質問であった。彼はそのために来たのだった。
「あの娘といちばん仲の良かったのは誰だ?」
「そうさね……アイ・リン」
「何処にいる?」
「ここから西南へ二キロほど行った農家が|家《うち》さ。今ならいるはずだよ」
Dは立ち上がった。
「お待ちよ」
と婆さんは止めた。
「もう一杯飲んでおいきな。久しぶりの話し相手をそう簡単に手離したくないね。今度は何十年先になるかわからない。トロリムシを捕まえる子供らだって、ここには来ないんだ。平和な村だけど、あたしゃ寂しいのよ」
Dは席へ戻った。
「ハンサムなのに話がわかるね、あんた。いつかきっと、何処かへ落ち着けるよ。いい嫁さんを見つけてね」
それだけ言い残して、婆さんはキッチンへ立った。
「平和な村か?」
Dがつぶやいた。
「その通りだ」
膝に置いた左手のあたりから、嗄れた声が応じた。
「いい村か?」
「わからん」
「おまえにもか?」
「平和だからよし[#「よし」に傍点]とは言えぬよ。平和でない村も、また。この世界によし[#「よし」に傍点]はあるまい。貴族にも人間にも――お前にも」
Dは顔を廻して窓の外を見た。
草原は刻々とその形を変え、|緑葉《みどりば》の一枚一枚に朝の生命が充ちて、秋もまた燃えるような季節と告げていた。
白い光の中で、Dだけが冬の影であった。
うすい香りを伴って婆さんが戻ってきた。
「はいよ」
とカップを置く。
やや薄い琥珀色の真ん中に、青い花びらが一枚浮いていた。
小さな青い海。
Dは口元へ運んだ。左手である。右手を空けておくのは、言うまでもなく、とっさの攻撃に備えるためだ。
その手が止まっても、滑らかな動きの中断とは思えなかった。
「どうしたい?」
にこにこ顔の老婆へ、
「飲んでみろ」
とDは言った。
「はん?」
「自分の分を飲んでみろ。匂いが違う」
「ああ、それかい? お茶の葉を変えてみたのさ。あたしが裏庭で育てた自家製だよ。さっきのは『都』の商人から買った安物さ」
片目をつぶり、しわくちゃの唇が湯気を飲み込んだ。
「さ、これで毒入りじゃないってわかったかい、疑ぐり深いハンターさん? ケチがついた。もう飲まんでいいよ」
Dはカップを口にあてた。
喉仏が動くのを、婆さんは好ましげに見つめていた。
カップを置き、Dは立ち上がった。
ドアの方へ行きかけ、途中で振り向いた。
「あんたもおれの夢を見たか?」
婆さんはうなずいた。
「どう思った?」
少しの沈黙は、礼儀か戸惑いか。
「他の連中は知らんけど、あたしは危ない、と思ったね」
「危ない?」
「あんたは危険な男だと、夢の中で、そう言いながら歩いてたよ。口には出さなくても、あたしたちにはよくわかった」
それは最も適切な表現かもしれなかった。
「ご馳走になった」
ひと言言って、Dは部屋を出た。
「達者でね」
ポーチから婆さんの声が呼んだ。
「また、そのうち会えるさ。今度は、あたしのつくった歌をきかせてやるよ。いい歌だよ、若いときの歌だからね」
Dは無言で馬にまたがり、腹にひと蹴り当てた。
家が丘の向こうに隠れたとき、
「馬鹿な真似をする奴だな。――あんな茶を飲みおって。毒かもしれんぞ」
「わからんのか、成分が?」
「ああ。お茶だけは何とかわかるが、得体の知れん物質が入っておる」
「何とかしてもらおう」
とDは他人事のように言い、
「危険な男か」
とつぶやいた。
「それは間違いなかろう。誰にとってもな。だが、あの婆さん――村の連中すべてがそうだと言いおったぞ」
危険な男だと、よくわかった――あたしたち[#「あたしたち」に傍点]にとって。
「つまり、村の連中は、おまえを危険人物だと感じながら、招き入れたことになる。招いて殺すつもりだったか。だとすれば、あの農夫の行動も理屈に合うが……そうとも思えんな。婆さんはああ言ったが、村の連中は必ずしも全員がそう感じたとは考えられぬよ。彼らが敵意をもっていなかったのは、よくわかる。平和な村じゃからな」
「平和な村か……」
Dのつぶやきは風に流れた。景色も左右を飛んでいく。
「おまえは出て行くつもりじゃった」
と声は淡々とつづけた。|傍目《はため》から見れば、不気味この上ない問答であった。
「しかし、その途中で襲った奴がおり、そいつを夢の矢が斃した。あいつ[#「あいつ」に傍点]は、おまえを生かしておきたかったのじゃろう。その結果、おまえはここへ残ることになった。襲った農夫も、ひょっとしたら、あいつ[#「あいつ」に傍点]の差し金かもしれんな」
声は途切れた。
Dはひと声も発せず、前だけを見つめている。
主なき声の奇怪な響きも、その数層倍も不可思議な内容も、この若者にとっては、関心の埓外に留まるようであった。
人外の異妖も、人以外のものには|変化《へんげ》と感じられぬのかもしれない。
騎影が丘の彼方へ消え去るまで見送り、シェルドン婆さんは、年に似合わぬ色っぽいウインクをひとつ投げてから、ポーチを降りて裏庭へ廻った。柵で覆った百平方メートルほどの敷地内に、おびただしい色が花の形を競っている。その中のひと群れ――青い花弁をつけた可憐な花の前で足を止め、
「危険な男だが、あいつとなら、危ない目にあってみたいものさ。あのお茶が効いて欲しいような、欲しくないような。――やれやれ、久しぶりの乱れる乙女ごころだね」
それから、のんびりと足下の青い花々を見やり、
「確かに[#「確かに」に傍点]、お茶はここから摘んだものだけど[#「お茶はここから摘んだものだけど」に傍点]……いつから生えてた[#「いつから生えてた」に傍点]のかねえ、これは。今初めて[#「今初めて」に傍点]みるよ」
もう少し摘んでおこうかと考え、腰を屈めたとき、婆さんは耳もとで鋭く空気の鳴る音を聴いた。
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第三章 治安官
1
二キロを五分足らずで走破すると、広い農場が忽然と現れた。
豊かな牧草地の上で、食肉獣の群れが幾つも、草を|食《は》んでいる。
全長二・五メートル、重さ七〇〇キロを軽く越える、酒樽そっくりのこの獣は、レーザーすら通さぬ鎧のごとき黒い甲殻と、パワー・ショベルを連想させる顎、その形に沿って湾曲した上下二本――つまり、上顎に一本、下顎に一本――の巨大な臼歯というおぞましい外見にもかかわらず、この上ない美味を食卓に提供する。
奇怪な姿形の存在は人間を脅すためにしか許さなかった貴族の美意識が生んだ例外中の例外である。
しかも、致命傷を与えぬ限り、切り取られた部分の肉は十二時間で盛り上がり、当人は苦痛も感じず暴れもしないという重宝さで、二頭いれば、五人家族が飢えることはないとされている。
その代わり、滅多に子供は生まぬ上、個体数も限られていて、一頭でも見つければ、それこそ、貴族の飛行マシンが買えるだけの金と交換できる代物であった。
それが、この農場にはざっと見積もって三〇頭は下らない。
平和なだけではなく、豊かな土地でもあるらしかった。
母屋めがけて進むDの視界の隅を、時折、真紅の火線がかすめた。護衛役の「緋もぐら」の噴く火炎だが、数は、普通の農場の五〇分の一にも満たない。これでは、地上と上空からの侵入者に立ち向かう、地中から噴き上げる数百本の炎の柱の壮観を望むことは不可能だ。
母屋の十数メートル手前で、柵に仕掛けられたセンサーが点滅し、馬の足を止める前に、玄関から、旧式のドラム弾倉付き自動銃を構えた女が姿を現した。
Dは停止した。
その顔を凝視する女の頬に、淡い紅が昇った。
「あの……何か?」
尋ねる声にも何処か品の良い気弱さがあった。
茶のスカーフで束ねた黒髪の下の顔は、とうに女の盛りを過ぎて、鋭い眼や、きつい口元に生活の|澱《おり》を滲ませてはいるが、すっきりと通った鼻筋や優雅な細い眉には、色褪せた綿シャツやロング・スカートとは縁遠い生活を思わせる、風雅のようなものが漂っていた。
自動銃の他にも、背には古ぼけたリュックを乗せている。
「アイ・リンさんか?」
「ええ」
Dは馬を進めた。
「あなたは?……そこで止まって。うちの土地へ勝手に入っては困ります」
「すまんが急用だ」
とDは馬上で言った。
アイ・リンのかたわらで馬を降り、
「病院で眠っている娘――シヴィルについて訊きたいことがある。おれの名は――」
「D」
ゆっくりと銃身を下ろしながら、アイ・リンはつぶやいた。
「わたしにわかることならお話しします。でも、これから獣に餌をやったり……」
「待とう」
中年女の顔に、諦めとも嬉しさともつかない表情が横切った。
自動銃を肩にし、ゆっくりと柵の方へ進む。
Dも並んで歩いた。
「何をしに来たんです?」
とアイ・リンは訊いた。
この女にも、Dは危険だと感じられたのか。
Dは答えない。
アイ・リンが柵を開け、牧草地の中央へ歩いていくのを、Dは柵にもたれて見送った。
手伝う気など毛頭ないらしい。
右の脇の下に自動銃を抱え、アイ・リンはDから十メートルほど離れた地点で、リュックを下ろした。
素早くカバーを外し、横倒しにする。
食肉獣用の合成作物の結晶がきらめきつつこぼれるや、四方から、かん高い叫びと地響きが湧き上がった。
七〇〇キロの黒い塊が一斉に走り寄ってくるのである。
三〇頭分――都合二一トンの猛進に大地はゆらぎ、柵までも震えた。
ただひとり、Dだけが髪の毛ひと筋動かさない。
寄りかかった柵のもたらす震動も、この青年の身体に伝わる前に、黒いコートに吸収されてしまうかのようであった。
好物を貪り食う獣たちの巨体を離れたアイ・リンの姿は、すぐ、我先に荒れ狂う黒い鎧に呑みこまれ、踏み殺されてしまったのではないかと思われた。
それでも、のたうつ巨体の間から自動銃を構えた細い影が分離すると、いきなり、手近の一匹の尻を蹴とばしたのである。
「駄目よ、ベン。あなたはさんざん食べたでしょ。プルートに場所を譲っておやりなさい。いけません!」
食肉獣は獰猛だが知能程度が高く、うまく扱えば「馴らす」ことも可能だ。ただし、それには、毎日[#「毎日」に傍点]両手両足を失うくらいの危険と、砂山から形の違った砂粒をひとつ見つけるほどの忍耐が必要とされる。
それを、このお嬢さん育ちの女性がやってのけたとみえる。
蹴とばされた一頭はのこのこ移動したが、プルートと呼ばれた方は、後ろの方でウロウロするばかりでちっとも要領を得ない。
「早く、プルート。やっと空いたんだから、ほら、うんとお食べ」
それでも、のたのたしているので、
「馬鹿!」
アイ・リンはまた尻を蹴とばした。
動かない。
アイ・リンは一歩下がり、腕を組んだ。
眼に決意を浮かべ、自動銃の銃床をバットみたいに両手で握りしめる。
「ほう」
とDがつぶやいた。
何とこの女性は、自分の頭まである尻のど真ん中を、自動銃でひっぱたいたのである。
汗の珠を散らせつつ、五、六発つづけると、さすがの頓馬もとことこと空隙へ顔を突っこんで、パワー・ショベル状の顎で餌をすくい上げ始めた。
それを見届け、アイ・リンはDの方へ戻ってきた。
今の労働で心身ともに疲弊し切ったであろうに、意外と確かな足取りである。
「待たせてごめんなさい。でも、チキナー養育場のサーモスタットを点検しなくちゃならないんです」
荒い息をつぐ女の汗に、Dの顔が映っていた。
その身体が揺れた。
「一緒に来られるの? 本当は家の中で待ってていただくといいのだけれど、夫の留守に男の人を入れることはできません」
「ここで結構だ」
言いながら、Dはアイ・リンと並んで、左方に建つ養育場の方へ足を運んだ。
「農場に向くとも思えんが」
少し歩いて言った。
それが自分のことを指していると、アイ・リンが理解するまで、もう少しかかった。
驚きの眼差しがDの顔を貫き、
「心配してくれているんですか?」
泣き笑いみたいな表情で訊いた。
「農場の仕事は男でもきつい。――なぜ、食肉獣に名前をつけた?」
「そんなにきつくありませんのよ」
アイ・リンは明るい声で言った。
「三〇年もつづけていれば、どんな仕事にも慣れますわ。名前をつけたのは、その方が気易く付き合えるから」
養育場へ着くと、アイ・リンはスチールのドアを開けた。
吐き気を催す臭いが吹きつけてきた。
野生動物の体臭と糞尿の臭いだ。
アイ・リンは顔をそむけて咳込んだ。
「サーモの点検だけですから、歩きながらお話できますわ。ご質問をどうぞ」
声は闇の内側でした。
ドア口から差し込む光が、ようやく、養育場にささやかな照明を与えた内側に、これも巨大なチキナーが並んでいた。
高さ二メートルにも達する巨大なヒヨコである。
それが、通路の左右に張られた高圧線の内側で身動きもせず、青い眼光を二人に注いでいるのは、幼鳥らしい騒々しさが少しもないだけに、不気味この上ない眺めだった。
この巨大なヒヨコ――チキナーも、辺境には欠かせぬ食料兼収入源である。
チキナーになり得るのは、特別な数種に限られ、それも、極めて敏感虚弱な体質のため、生活適温からプラス・マイナス一度ずれただけで、たやすく死を迎える。その他にも、餌や凶暴な性質に関する難問が山ほどあり、五人家族で一羽育てるのが精一杯とされる。
この薄暗い不潔な小屋は、奇跡を具現しているのであった。
遠くで青白い火花が飛んだ。
高圧線に触れたものの、苦鳴ひとつきこえないのが不気味だった。
「チキナーの好物は人骨だったな。――手に入るのか?」
Dの質問にアイ・リンは首を振った。
「この村ではなかなか。だから、|死体運搬人《デッド・キャリアー》から買うの」
辺境の村へは、『都』や他の商業地から、様々な行商人がやってくる。
|毛皮商人《ファー・セラー》、|修理屋《リペアラー》、|機械部品《パーツ》専門業者、|果実売り《フルーツ・マン》、|氷屋《アイス・マン》、|婦人服売り《ファッション・メーカー》、|武器商人《ウエポナー》、|魔術師《マジシャン》、|巡回映画館《ムービー・シアター》――|血腥《ちなまぐさ》く、陽気で、機械油に汚れ、きらびやかな衣裳をまとったすべてが、辺境にはなくてはならない存在だ。
死体運搬業者もそのひとつであった。
苛烈な環境のもとで生きる人々は、死者を必ずしも聖なるものとは考えない。
髪の毛は特殊な獣脂を塗れば無限長の通信線として使えるし、臓器は移植が効く。骨ですら、高カルシウム分を含む肥料として重要な役を果たすのだ。
とりわけ、空洞化した脊椎に削った骨盤を取りつけ、腸の腱を張ったギターは、ベテラン調律士の手にかかれば、神韻|縹渺《ひょうびょう》たる妙音を発する。
家族のある死体はともかく、路傍に行き倒れたものたちは、形ばかりの供養を済ませると、粗末な遺品だけを収めた棺が共同墓地へ運ばれるかたわらで、町はずれの「|解体屋《ブッチャー》」へ出掛ける準備を整えるのであった。
それでも死体が足りないとき、死体運搬業者は、あるときは瞬間保存措置を施した死体を提供すべく、あるときは新鮮な死体を求めて、幽鬼のごとく町や村を徘徊するのだった。
死体はそのままで売られることもあれば、要求次第で丸のまま、或いは一部だけが加工もしくは|生《き》の状態で払い下げられることもある。
陰湿な眼で見下ろす巨大な雛鳥を、三羽ずつ封じ込めた区画ごとに、アイ・リンは古ぼけた|温度調節器《サーモスタット》を点検していった。
二つ目の前に来たとき、彼女は振り向いた。
「何も訊かないんですね。――気を散らしちゃ悪いと思って? うちの人ですら、そんなこと気にしてくれないわ」
Dは無言で雛鳥を見つめている。
寂しげに微笑し、アイ・リンは機械に手を伸ばした。
いきなり、雛の首が伸びた。高圧線が火を噴き、アイ・リンは手を引いた。
悲鳴はその後を追ってきた。
雛鳥の鋭い嘴は、手の甲の肉をえぐっていたのである。
押さえた手の間から血が滲み出した。
白く優雅な指が、上の手首に触れた。
「………」
力の加えられるままに、アイ・リンは重ねた自分の手をのけ、見下ろすDの顔を陶然と眺めた。
「大したことはない。ヤクバイナの葉で押さえれば、今日じゅうに――」
いきなり、アイ・リンは強く手を引いた。
耳まで赤く染まっているのを、薄闇の中でDが気づいたかどうか。
「ごめんなさい」
と小声で言った。
「男のひとに、手を触られたことなんて、久しぶりだから」
「よくあるのか?」
Dが雛を見ながら訊いた。
白い羽毛の胸は、青い炎を噴き上げている。高圧線の名残だった。
「声ひとつ立てない――行儀のいいことだ」
「たまに、やられるんです」
とアイ・リンはハンカチで傷を押さえながら言った。白い布はみるみる朱色に占領されていく。脅えたように猛禽を見上げ、
「でも、今日は不意打ちだわ。いつも、気の立ってるときは、ちゃんとわかるのに」
「出た方がいい」
「まだ、あるから」
アイ・リンは笑いかけて、別の区画へ進んだ。
機械の前で立ち止まり、少しためらってから手を伸ばした。
いちばん近い雛の上体が揺れ、硬直した。
ガラスのような眼に、Dが映っている。
突如、美意識が芽生えたか――いや、冷酷無惨な猛禽の双眸を埋めるのは、形容し難い恐怖の色であった。
Dの両眼が淡い朱に彩られていた。
アイ・リンも何かを感じたか、青ざめた表情で若きハンターを見上げたが、すぐ仕事に戻った。
後は何事も起こらず、点検は終わった。
陽光が二人を迎えた。
ドアをロックし、アイ・リンはうなずいた。
「助かりました。――あの、あまり見ないで下さい。きれいな手じゃないから」
傷ついた手のことを言っているのではなかった。
押さえた手の甲にも無数の傷があり、毒素特有の硬化状態を示した皮膚は、火龍の肌のごとく殻質化していた。
初めて会ったときから、それを隠すようにしていたことに、Dは気づいていたか。
「シヴィルは、どんな娘だった?」
声は冷たく無感情であった。
アイ・リンの表情が硬くなった。Dの目的を憶い出したのである。
「ロマンチストでしたわ」
きっぱりと言った。
「そして、優しかった。他に何か要るでしょうか。きっと、いい夢を見ていることでしょう。そうでなければ、神さまなんていないんです」
「いい夢とは、どんな夢だ?」
アイ・リンは少し考え、眼を蒼穹の彼方へ向けた。そこに、何か大事なものがあるような、遠い眼差しだった。
「巡回作家の少女物語みたいになりますわ」
Dは無言だった。
アイ・リンは色の薄い唇を舐め、そっと眼を細めた。
「……街を歩くとき、好きな人間同士が手をつなぐ夢、図書館に読みたい本が好きなだけ集まった夢、何にも脅えず、みんなが他人のことを考え、その人のためになることを先廻りしてする夢、『都』から毎週、最新のファッションが届く夢、熱で苦しむ子供のための薬がいくらでも置いてある薬局の夢、あまり働かなくても何とかやっていける生活の夢、みんなが月夜の沼へ蛍狩りに行ける夢、それから……」
アイ・リンの眼差しが翳った。最後につづく言葉は、もうひとつの声が発した。
「……人間と貴族が並んで街を歩ける夢か?」
茫然と、アイ・リンは不思議な来訪者を見つめた。
「あなたは……魔法使い?」
「シヴィルを噛んだ貴族は、相手を選ぶ」
困惑の色がアイ・リンの眼を塞いだ。
「どういうことですの? 何故、シヴィルは選ばれたんです?」
「古い城館と青い光、白いイヴニングドレスに黒の夜会服、そして、舞踏会――何か憶い出さないか?」
アイ・リンの眼に、光るものが滲んできた。
「私たちがあなたを見ただけかと思っていたのに……あなたは、シヴィルの夢を見たのですね」
涙は頬を伝って流れた。
「それも彼女の願いでした。白いドレスを着て、燕尾服姿の男の人と、古びた|城館《シャトー》のホールで夜通し踊りつづけることが。青い光に包まれて」
「望みは叶っている[#「叶っている」に傍点]」
「夢の夜は、いつまでも明けないのですね」
「わからん」
「シヴィルは幸せだと思います?」
「……」
アイ・リンは額にほつれる髪の毛をかきわけた。
「勘違いしないで下さい。私は今の生活で満足です。贅沢を言わなければ何とか生活していけるし、大地を踏みしめてる実感があるし、シヴィルのような、素敵な夢は見られないけれど……」
「素敵な夢かもしれんが、いい夢とは限らん」
Dは軽く帽子の鍔に手をふれた。
それが彼の別れの挨拶。
静かに歩き出した黒い背に、何か話しかけようとして、アイ・リンは立ちすくんだ。
すべては終わった、と来訪者の影は告げていた。凄烈な拒否であった。自分が何を言おうとしたのか確信できないまま、それでも大切なことを口にしかけたのだと気づいて、アイ・リンは数歩進んだ。
その足より早く、Dの動きが止まった。
彼は振り向いた。
アイ・リンではなく、養育場の方を。
それを追う黒い瞳の中で、スチールのドアは外へと大きくひしゃげた。
接続部の破片を撒き散らしつつ、ドアは倒れ、その奥に蠢く白い物体が見えた。
雛だとアイ・リンが悟った瞬間、そいつらは、柔和な羽毛に狂気の押し合いを演じさせつつ、陽光の下にまろび出た。
2
静寂をかん高い叫びが破る。
灰色熊の雄叫びに匹敵する恐怖の声であった。
すべての白い胸が青い光と紫煙を噴き上げているのを見て、アイ・リンは戦慄した。
「そんな……どうして、あの高圧電流を……」
「母屋へ戻れ。相手はおれかもしれん」
いつ戻ったのか、耳もとで青銅のような声が囁いた。
「でも――」
「行きなさい」
叱咤はむしろやさしかった。
身をひるがえしたアイ・リンを見ようともせず、Dは疾走した。
コートが風になびいた。
黒い巨大な翼のように。
自らの前進は、巨鳥たちの突進が、アイ・リンの逃げる速度を凌ぐと見たからか。
だが、いかに雛とは言え、すべて体長は二メートルを越し、嘴と鉤爪の一撃は、獰猛な性質に支えられて、チタン鋼にすら空洞を穿つ。
まして――
三メートルの距離まで接近したとき、白い死神は天空へ跳ねた。
三〇〇キロの体重を支える足の|発条《ばね》は、垂直跳びで五メートルの跳躍を可能にする。
すべてが爪と言える三本の指が限界まで開かれ、Dとの遭遇地点へと落下した。
鳥の眼は銀色の軌跡を捉えたかもしれない。
二本の足はその中央から両断され、Dは一気に後続の群れへと突っ込んだ。
キイ、と絶叫し、無数の黒い嘴が頭上から降ってくる。
人間の頭など|杏《あんず》より脆い。
嘴の描く放物線上にDはなく、薙ぎ上げる光だけが凶鳥に報いた。
鮮血が陽光に散じた。
二秒とはかからず、十数羽の雛は地に伏していた。
緑の草を、鮮血が染めていく。
血刀を片手にDは動かなかった。
乱れ飛ぶ鮮血の霧のただ中で刃をふるいながら、その美貌にも服にも一点の返り血もない。
それなのに――何故?
|朱《あけ》に染まった草地の一点が不意に盛り上がったのは、次の瞬間であった。
いや、その周囲の地面も、何やらわななきつつせり上がってくる。
土と草とをまといつかせたまま、それはするりと大地を抜け、空中へ浮き上がった。
直径五〇センチにも及ぶ気泡であった。真紅の色には血泡の名が似合う。
火口で沸騰する溶岩、狂った化学変化が生じさせた毒泡――凶鳥の血を吸った大地は、奇怪な子を生もうとしていた。
それらは意志あるもののごとく、地上二メートルほどで停止した。
ひとつ、またひとつと数は増えていく。
それを待っているのかもしれなかった。
「どうだ?」
とDが誰かに訊いた。
「血泡卵とでも名づけるか」
と誰かが答えた。
「わしも初めてみる。気泡だからいつかは弾けよう。そのとき、五感は封じておけ。まてよ、ものは試し、ひとつ|咥《くら》ってみるか」
「それがいい」
「気易く抜かすな。|他人《ひと》のことだと思って」
憤然とする中に、底知れぬ不気味さを漂わせた声であった。
「ほれ――来るがいい」
いつの間にか、Dは垂らした左手のひらを中空の敵に向けていた。
ひょうと風が鳴った。
と、怪異な血泡のひとつがゆらぎ、Dの手元まで引き寄せられたのである。
丸みを帯びた端が、手のひらに触れると、それは穴にでも吸い込まれるかのように細まり、後方の部分はいびつに膨張した。
吸引はやまなかった。
膨張した部分は弾けもせず、なお形を変えて抵抗を示していたが、やがて縮まり、水中に没する生物のような震えを見せると、完全に手のひらの内側へ沈みこんだ。
「ほう――なかなかいけるの」
陽気な声が言い、次の瞬間、
ぐおおおお
世にも凄まじい苦鳴に変わったのである。
「かなりの毒か?」
冷然とDが訊く。
「……も……猛毒じゃ……わしでも、二つは……危ない……退却せい」
位置が変わった。
Dではなく血泡の。
犠牲者の呻きに自信を得たか、必要な数が集まったか、それは二手に分かれ、一斉にDめがけて空中を滑り寄ってきた。
「……き、斬るな……」
Dがスカーフで鼻口を覆うのと、最前列の血泡が弾けとぶのとが同時。
空気を染める真紅の霧の中に、黒い姿はなかった。
次々と血泡の砕け散る赤い世界を、Dは音もなく走った。
前方に、立ちすくむアイ・リンと、彼女めがけて飛翔する血泡があった。
「息を止めて伏せろ!」
叫んだ刹那、Dは咳込んだ。
頭上で砕けた血泡が血の霧を浴びせかけたのである。
その唇を押し分けるようにして、鮮血が噴き出す。
血の糸を引きつつDのスピードは落ちなかった。
|俯《うつぶ》せたアイ・リンの腰を抱き上げ、柵めがけて走る。
跳躍した影へと血泡が滑り寄ったとき、銀光が迸った。
刀身の巻き起こした風に押されたかのように、血泡は後退した。
その中をDは抜けた。
一気に十メートルを走って振り向く。
妖々と迫りくる血泡の群れから逃れる|術《すべ》はないようであった。降り注ぐ毒霧にどこまで耐えられるか。
「いいぞ」
とDは苦しげな様子もなくアイ・リンに呼吸再開を告げ、
「どうだ?」
と別のものへ訊いた。
「――勝手にせい。人使いの荒い男じゃ」
いらだたしげな返事に、アイ・リンが赤い顔で周囲を見廻す。
その身体をそっと地面に下ろすや、何を考えたのか、Dは迫りくる血泡めがけて走った。
朱色の球は一斉に上昇した。
おびただしい血泡は均一に広がり、一枚の丸天井をつくった。
その下にいるものを覆い、死の霧で閉ざさずにはおかぬ天蓋の真下に、Dは入り込んだ。距離は十メートル。Dの跳躍と剣技をもってしても、|如何《いかん》ともしがたい隔たりであった。
Dの左手が上がった。
血泡が眼を備えていたら、その表面に浮き上がった人間の顔を見たであろう。
微小な笹の葉を思わせる眼がいまいましげに輝き、薄い唇が尖った。
ごお、と音をたてて空気が一方向へ流れた。小さな唇の方へ。
その猛烈な吸引に乗って、血泡はことごとく、一線となってDの手のひらへ降下したのである。
Dの刃が躍った。
逃れる術もなく、血の球は弾け飛んだ。降り注ぐ血風がその身を包む前に、Dは後方へ跳んでいる。
再び上昇しようとする泡は、風の唸りとともに吹き寄せられ、Dの逃走不可能な血膜帯をつくることもできず、砕け散っていった。
最後のひとつが消滅した地点から跳び下がり、大地に一刀を突き立てて、Dは膝をつき、激しく咳込んだ。
Dを覆った青いスカーフに真紅の染みが広がっていく。
ほんの数秒で咳を止め、Dは立ち上がった。
スカーフを下ろし、アイ・リンの方へ向かう。
青ざめた顔が何とか微笑もうと努めていた。
「後で、解毒剤の風呂へ入れ」
こう言って、Dはコートの内側から数枚の金貨を取り出し、アイ・リンの手に握らせた。チキナーを斃した代金だろう。
アイ・リンは首を振りかけ、それから思い直して受け取った。辺境ではバケツひとつでも貴重品なのだ。
「今のは……何? チキナーの血があんなものを生むなんて、聞いたこともないわ」
震え声であった。
きついなりに、これまでは平穏な生活を送ってきたのであろう。
「ご主人はいないのか?」
ようやくDが訊いた。
「今朝から街へ出ています。別の仕事をしているんです」
「一緒に来るかね? どちらが安全とも保証できないが、ご主人のところまでは送り届ける。血泡はあなたも狙った」
戦慄にこわばった顔を、アイ・リンは上下に振った。
食肉獣が逃げられぬよう柵を閉め、二人はサイボーグ馬にまたがって走りだした。
「あんな凄い戦いを……あなたは一体誰なんです?」
Dの腰に手を廻したまま、アイ・リンが訊いた。
「おれの夢を見たと言ったな?」
「ええ」
「どう感じた?」
アイ・リンは沈黙した。
もう白いものが混じる髪を、風がなびかせた。
「……言わなくてはいけない?」
「好きにしたまえ」
「……憎かったわ。殺したいほどに」
ひとりは危険な男と言った。もうひとりは憎いといった。
村のものすべてがそのどちらかに属さぬと、誰が言えるだろう。
夢のなかでもまた、Dは不安な、忌むべき存在なのであった。
「どうしてかはわかりません。ただ、本当に憎かった。私たちが必死に築いた生活を、すべてあなたに破壊されるようで――でも、夢から醒めたら……」
言葉が途切れた。再開まで少し時間がかかった。
「さっきは楽しいと言ったけれど……私は、シヴィルが羨ましい。いつまでも年をとらず、夢だけを見て……」
「楽しい夢とは限らない」
「みんなそう言います。でも、一生醒めないでいられるのなら、どんな夢だって現実よりしあわせだわ。憎む夢だって。眼が覚めたら、その人のことをどう思おうとも……」
疲れた女の声に初めて激しい想いがこもったのを、Dはどうきいたか。馬上の顔は、やはり冷たく冴えていた。
街道へとつづく道に出た。
馬首を村へと巡らせかかったDへ、
「左――病院へ」
とアイ・リンは言った。
「――この時間なら、あの|夫《ひと》はまだ、あそこにいます」
馬は村はずれへと走り出し、やがて、白い建物の前へ来た。
立ち去ろうとするDへ、夫に事情を説明して下さいと、アイ・リンは請うた。いくら辺境とはいえ、先刻の戦いは魔戦に等しかった。何を言っても、夫は信用しまい。今回に限り、無関心はトラブルのもとであった。
少し考え、Dは馬を降りた。
「こちらへ」
アイ・リンは先に立って進んだ。
見慣れた廊下を通り、見慣れたドアの前に立ったとき、Dは事態を知った。
アイ・リンがドアをノックし、それが内側から開いて、ひとりの男の顔がのぞいた。見るまでもなかった。
風雪に鍛え抜かれた荘重な顔は、クルツ治安官のものであった。
3
永劫に薄闇の垂れ込めた病室で、三人の話は数分間つづいた。
三人と言っても、事情の説明はアイ・リンが行い、Dは最後に、その通りだと保証したきりである。
治安官は動揺も驚きも示さず、聞き終えて言った。
「さっきはクレメンツとトラブルを起こし、ホテルの部屋をひとつ燃やした。今度は、うちの農場でチキナー殺しか。――君は何をしにこの村に来た?」
「おれにも、わからん」
「アイ・リン――ロビーで待て」
と治安官は命じた。
何か言いたげな女の表情が、諦めに似た色を浮かべ、うなずいた。
ドアが閉じると、治安官はDに椅子を勧めた。
「結構だ」
壁によりかかるDを、治安官は無感情な眼差しで眺めた。
「背中に隙をつくらんのがハンターの鉄則かね?」
「この娘は、あなたの恋人か?」
Dは答えずに訊いた。
治安官の眼は、ベッドの娘へ移動した。
「……三〇年まえの話だ」
「奥さんには、今でも同じことだ。毎朝、昔の恋人を見舞いに行かれては辛かろう」
「その話はよせ。――おまえに何がわかる?」
「おれは、ベッドの娘に夢でこの村へ来るよう招かれた。出て行こうとしても、邪魔が入り、人が死んだ。その謎を解く鍵は、あなたの昔の恋人が眠りながら握っている。招かれた理由、出て行けぬ理由はともに等しい。――おれにわかるのは、それだけだ」
「おれの家庭の事情には無関心というわけか。――ちょうどいい。これ以上、ごたごたが起きないうちに村を出ろ」
「おれは構わんが、そうはさせんものがいる」
「馬鹿なことを――おれが村はずれまで送ろう。二度と戻るな」
治安官が立ち上がると同時に、Dも壁から離れた。
もうひとつ――ドアがノックされた。
治安官が立ち上がり、開けた。
「これは、|先生《ドクター》」
横へ退いた隙間から、白衣の男女が入り込んできた。
看護婦の引いた|台車《キャリアー》の上で、段重ねの手術道具と白い装置が硬い音をたてた。
「これは……?」
といぶかる治安官へ、院長は温厚な笑顔を見せ、鋭い眼差しをDへ向けた。
すでに黒いコート姿はドアの向こうへ消えている。
「ロビーで待て」
と治安官は声をかけてから院長の方へ向き直った。
皺も多いが血色のいい指が発電器を撫で、
「『都』から今朝着いた、新型の脳外科装置だよ。脳細胞に直接覚醒波を送る仕組みでね、ひょっとしたら、いい効果が上がるかもしれない。事後承諾になるが、この時間なら、ちょうどおまえもいることだし。――どうだ、すぐ試してみんか?」
あまりの手回しの良さ、というより妙な強引さに、治安官は多少戸惑ったようだ。
「脳に直接、刺激を与えるとおっしゃったが、危険はないのですか?」
「虫に食われた痕に薬をつけるにも、万にひとつの危険は伴うぞ」
「これは、人の生命の問題です」
と治安官は真正面から老医師を見つめて言った。
「万にひとつの危険な可能性も、私は納得できません。それに、シヴィルが眼を覚ましたとして、今のままの状態でいられるのでしょうか?」
「どういうことかね?」
「彼女の喉の傷が消えぬ限り、永劫に眼は覚めないとするのは、考えないことにしましょう。ですが、あの傷ゆえにシヴィルは少女のままだ。恐らくは、見る夢も少女のものでしょう。それが醒めたとき、夢と肉体も現実に戻るのではありませんか」
院長は長いため息をついた。
「それは――仕方のないことだろう。治安官、君は、どちらに脅えているのだね?」
治安官の表情が変わった。
自分でも気づかない|昏《くら》い思考に、突如、陽光が注がれたかのように、彼は茫然と眼を宙にさまよわせた。
「どちら……か」
と治安官はつぶやいた。
「貴族の呪縛が破れたとき、肉体は若さを失い、夢も幼さを奪われる。失うものは等価ではないのか? ――どちらに脅える、治安官?」
院長の声は鋼の刃となった。
沈黙は全員の身体を切り裂き、看護婦のひとりが両手で自らの肩を抱いた。
「おれには、わからん……」
と治安官は低く呻いた。
凄惨な表情ばかりがみなぎる空間で、シヴィルの顔だけが、安らかな吐息を洩らしていた。
廊下の奥から戻った黒衣の影の名を、かすかな声が呼んだ。
邪気のない笑顔が、沈鬱なロビーの中で花のように咲いていた。
ナンであった。
ソファから立ち上がり、風に押されるようにやってきた。
「やっぱり、ここにいたのね。探したんですよ」
「どうして、わかった?」
ナンは困ったように眉を寄せ、鼻の頭に人差し指を当てた。
「……勘ね。きっと」
「アイ・リンがいたはずだ」
「さっき、出て行ったわ。――あなたが連れてきたんだと、ピンと来た」
「いい勘だ」
Dは玄関のドアに向かった。
「待って――気の早い」
ナンはあわてて追った。
「ね、どうするの、これから?」
「村を出る」
「えーっ!?」
ナンは思いっきり、大きな眼を丸くしてみせた。
「そんな、まだ謎も解いてないのに。事件の調査だって残っているわ。昨日も言ったけど治安官が追いかけてくるわよ」
Dはわずかに顔を後ろへずらせて、
「その通りだ」
と言った。珍しく苦笑を刻んでいる。玄関を出るとナンの方を見て、
「治安官は、シヴィルの恋人だったのか?」
ナンはうなずいた。
「シヴィルがあんな風にならなければ、結婚していたでしょうね。とても、仲のいい――村でいちばんのお似合いのカップルだったんです」
「ここへ来る途中できいたが、三人とも友だち同士だったそうだな」
「あなたって、他人のこころや結びつきを考えないのね」
むしろ哀しげにナンは言ったが、無論、それに関する返事はない。
「……毎日、毎日、ご主人が、昔の友だちを見舞いに行くって、どんな気持ちかしらね。それも、昔と変わらない姿形で待っているなんて。自分の顔を鏡に映すだけでも辛いと思う。みんな……みんな……貴族が悪いのよ。そいつが、シヴィルの血を吸いさえしなければ……」
あどけない顔から噴きつける激しい想いに、Dは眼をそらさなかった。
突然、ナンは涙に濡れた眼でDを見た。
黒い肩を白い手が押さえた。
天真爛漫な娘とも思えぬ凄愴な口調が、
「――あなた、ハンターでしょう? なら、あの娘を――シヴィルを、何とかしてあげて。貴族を斃せるなら、犠牲者を救うこともできるはずよ」
「どういうことだ?」
Dは手綱を握ったまま訊いた。
恐るべき答えが返るかもしれぬ質問であった。
強風が落ち葉と陽光の匂いをはこび、彼方の山々は紅葉して、秋は静かに深まろうとしていた。
ナンは答えなかった。
閉じられた眼蓋が涙を断ち、それは白い頬に軌跡を遺しつつ、滑り落ちていった。
Dの肩を押さえた手が、小刻みに震えた。
肩が離れても、手は長いことそのままでいた。
何の挨拶もなく、やがて蹄の音が遠ざかっていった。
ナンは振り向かなかった。
長いことそこにいた。
誰か来てくれないかと思った。どうしたの、と、ひと声かけてもらえば、いつもの自分に戻れそうだった。
違う声がかかった。
「あのハンターはどうした?」
と治安官が訊いた。
「いま――出ていったわ」
素早く涙を拭い、後ろを向いて言った。
「確かめねばならんな」
治安官は柵の端へ移動し、馬にまたがった。
「――あの人は、どうなるの?」
不意にナンが訊いた。
「どうにもならん。村はずれまで送る。後は彼が決めることだ」
「行けるのかしら?」
それと同じ言葉を、ついさっき、ハンターにも聞いたような気がして、治安官は馬の腹を蹴るのも忘れた。
「奴にきいたのか?」
「何も――」
ナンは首を振った。生まれて初めて、強く強く振った。髪の毛が弧を描き、それと同じ方向へ涙の粒がきらめいて飛んだ。
「あの|男《ひと》はどうなるの? シヴィルはどうなるの? 治安官、あなたは? ――そして、私たちは、どうなるの?」
「何も起こらん」
と治安官は力強く言った。
かつて、その言葉をきいて、村人たちは妖魔の羽搏く暗い夜に、安らかな寝息をたてたのだった。
四人の札付きのお尋ねものが大通りをやってきたときも、脅える人々にこう言い、治安官は飄々と彼らに向かって行った。
馬の腹を拍車が蹴り、地を走る音は、再びナンを置いて去っていった。
Dを見つけるのに五分とかからなかった。
街道へ通じる道は一本である。
病院から三分の一も行かぬ地点の中央にDはいた。
違和感が治安官の胸をついた。
Dは立ち止まっていた。こちらを向いて[#「こちらを向いて」に傍点]。
いったん馬を止め、治安官は一気に距離を詰めた。
何か仕掛けてくるかと思ったが、すぐ考え直した。このハンターには、そんな姑息な手段をとるはずがないと確信させるものがあった。
小石を蹴散らして、治安官はハンターの隣に並んだ。
相手は見ようともせず、こちらに眼を注いでいる。
「おれを待っていたのではなさそうだな?」
と治安官は言った。
「どうやってここへ来た?」
Dが訊いた。
「なに?」
「病院から真っすぐ――五分で来れたか?」
「ああ」
戸惑いを感じながら、治安官は答えた。
ハンターの様子にも、周囲の光景にも異常はない。問う声音も尋常だ。
ただ、彼の向きだけが違う。
「すると、ここが正常の限界か」
「何のことだ? 忘れものでもしたか?」
最後の質問は、Dの叛心を挫折させるための威圧だが、ハンターはまるで注意を向けず、
「おれは、真っすぐ来た」
と言った。
街道の方から戻ってきたのなら当たり前だと思い、次の瞬間、もうひとつの、あってはならない可能性が頭をかすめて、治安官は眼を細めた。
この男――病院から真っすぐ街道へ向かったと言っているのではあるまいな。
質問を口に乗せる前に、Dは馬首を巡らせた。
ついて来いとも言わず歩き出す。
治安官が後を追ったのは当然だ。
二人は並んで道を進んだ。
「ここは平和な村だ。昔から――おれが生まれるずっと前からな。血の匂いが染みついた連中には合わん」
「……君は、何になりたかった?」
唐突な質問に治安官は思わずDの方を向いた。
見たところ二〇歳前の若者である。君呼ばわりは業腹だが、何故か反発を感じなかった。
「これだ」
治安官は胸のバッジを指さした。
「シヴィルにも話したか?」
「なぜ、そんなことを訊く?」
「君なら治安官にもなれる。それはシヴィルの望みだったかもしれん。君の夢はあの娘の夢ではなかったのか?」
「話したことなどない。おれは雑貨屋になるはずだった」
Dは何も言わなかった。
「それよりも、おまえは何故――」
瞬く間に、Dの前へ出たことを知り、治安官はあわてて手綱を引いた。
「行ってみろ」
とDが言った。
「何?」
「真っすぐ進め。おれは少し待つ」
道は十五メートルほど前方で、右へ折れている。その先は緑の木々が密集する林に呑まれていた。
ハンターに鋭い視線を投げ、治安官は馬を進めた。
何事も起こらない。
ゆっくりと林を廻る。
治安官は眼を疑った。
前方に、黒い人馬が忽然と立っている。
それがDだと、美しい顔を判別できる位置まで近づいても、治安官は信じようとしなかった。
押し黙っているDへ――
「空間歪曲か?」
「それなら、おれも経験がある。違うな」
「おまえを村から出さん何かとは、このことか?」
Dは答えず、前方に眼を注いでいる。
治安官は振り向いた。
林を廻って、低い歌声が近づいてきた。
「明日が来なくても覗いておいでよ
貴族の奴が間違うかもしれない
ひねくれものでいっぱいの国
誰も気がつきゃしない」
まず、二頭の馬が見えた。
それが二列、三列となり、硬化ビニールの幌で車体を覆った荷馬車が現れた。
「向こうからはやって来れるらしいな」
と治安官が小さな声で言った。
「あんたら――何をしてんだい?」
御者台で手綱と電子鞭を握った中年の女が、辺りをはばからぬでかい声をかけてきた。そう言えば、身体つきもでかい。ビール樽のようだ。上腕など、痩せた女の腰ぐらいはある。
「おおや、治安官じゃないの――元気かい?」
Dがじろりと治安官を眺めた。
「知り合いだ」
憮然たる声が返ってきた。
「“万能屋”のマギーだ。月に二度はやってくる。――いかん、止めんと、出られなくなるぞ」
「無駄だ」
二人のやりとりなど聞こえるはずもなく、幌馬車は、すぐ前で止まった。
「こりゃ、いい男と一緒だね。どうやら、物騒な商売らしいけど、まさか、追い出そうてんじゃないだろ。そうなら紹介してからにしておくれ。こんちは、若いの――あたしゃ、“万能屋”のマギーさ」
「Dと言う」
「はン!?」
丸パンにくっついた丸い眼鼻と口が一斉に開いた。声が出るまで、数秒かかった。
「……あ、あんたが……こここりゃ、初めまして。光栄だよ」
「ここへ来るまで、何か異常はなかったか、マギー?」
と治安官が厳しい声で訊いた。
「何さ、あたしゃ何もしてないんだ。そんなおっかない訊き方をされる覚えはないね。ふんだ。ねえ、あんた、一緒に村へ戻ろうじゃないの。何なら、あたしが身元保証人になったげるよ。もっとも、あんたなら、血を吸われても、一緒にいたいって女がごろごろしてるだろうがね」
傍若無人に言ってから、あわてて、
「あわわ」
とむっちりした手で口を押さえた。
「おれと何処かで会ったか?」
Dの質問に、治安官も、真剣な眼差しを太った身体に送る。
マギーは戸惑いながら、
「いや、初めてだよ。夢で見たこともないね」
最後は何気ないひと言だったが、急にこわばった治安官の表情に、何かまずいことを言ったと理解したか、そこは肝っ玉も太いらしく、
「ほんじゃ、あたしは行くよ。後で、出店許可をおくれ」
平然と言うと、Dにバッチンとウインクを送り、マギーは掛け声とともに手綱を振った。
「どうする?」
馬車を見送る治安官にDが訊いた。
「他の道もこう[#「こう」に傍点]だろうな? となれば、戻るしかあるまい」
無言でDは馬首を巡らせ、その背後で、辺境のものなら子供でも知っている金属音を聞いた。
「すまんが、この事態の説明がつくまで、留置させてもらおう。どう考えても、すべての元凶はおまえのようだ。ほうっておくと、次に何が起こるかわからん」
「留置場にいれば、何も起こらんか?」
「いや。――だが、治安官として野放しにもできまい」
ごつい手が、これは滅多に手に入らぬ優美獰猛な武器を陽光にきらめかせた。
|太陽銃《ソル・ガン》である。
自然光を増幅し、五千万度のビームに変えて放出する銃は、千分の一秒で、厚さ一メートルのチタン鋼も貫く。
超小型核炉が破壊されればそれきりのレーザー砲や粒子ビーム砲にくらべ、頑丈な太陽光吸収フィルム一枚あれば半永久的に使える上、晴天時三〇分、雨天でも六時間の|吸収《インプット》でビームの持続時間は二百時間を越す。
いかにDとは言え、心臓を直撃されれば、無事ではすむまい。まして、頭を狙われたとしたら……。
治安官は素早く、Dの後方へ離れた。
「吸血鬼ハンター“D”の剣は、レーザー・ビームより早いときいているのでな。行け」
Dは反抗の意志を見せず、二人はもと来た道を辿り始めた。
どちらもしゃべらない。
じき、病院が見えた。
「寄らんのか?」
Dがぽつんと訊いた。
「何のことだ?」
「あの医者たちが用意していた器具――見覚えがある。ついていてやらずにいいのか?」
「おれは治安官だ。それとも、逃げんと約束するか?」
「すれば、信じるか?」
「いいや」
白い建物は、二人の左手に近づき、やがて背後へ退いていった。
「……ひょっとしたら、眼を覚ませるかもしれんのだ」
治安官は弁解するように言った。鉄の自信が生み出す言葉は、妙に脆く響いた。
「だから、トラブルを防ぐため、おれを留置するか――何にもならんぞ」
「つまらん邪推はよせ。これはあくまでも仕事の一環だ。公私混同はしておらん」
少し沈黙し、Dは、
「夢は見せておくのがいい。どんな夢でもだ」
と言った。それからすぐ――
「手遅れか」
言葉の含むものに気づいて、治安官は馬を横に寄せ、Dの身体が隠している小道の一点に眼を据えた。
天地の結構そのものに狂いが生じたようであった。
「シヴィル……」
三〇年後の声に、三〇年前の想いを込めて、彼は路上の、美しい娘の名を呼んだ。
風になびく金髪は、秋の女神に祝福されているかのようであった。
白いブラウスとブルー地にストライプ入りのスカートは、四季を吸収する若さの象徴だった。
「シヴィル……」
彼はもう一度、大切なものをそっと手でくるむように呼んだ。
「どうだね?」
と手にした銀色の針を、金髪の中に埋設させたまま、白衣の老人が訊いた。
針の底部からは、着色されたコードが|台車《キャリアー》のモニターにつながれている。それを覗き込んでいた、これまた白衣の女が顔を上げ、
「脳波に乱れが生じています。データ・バンクによれば、外部漏出です」
「いかん」
つぶやいて、老人は針を抜いた。
「これ[#「これ」に傍点]を外へ洩らしてはならん。修正部位を示せ」
「七|区画《セクター》989|点《ポイント》です」
針は位置を変えて吸い込まれた。
「消失」
と看護婦が告げ、老院長は、片手で額の汗を拭った。
「少なくともこれで、危険人物を斃す準備は整ったわけだ。シヴィルは隔離棟へ移せ」
いくつかの白い影がうなずき、空気を巻いて動いた。
老人はそっと眼の下に横たわる安らかな寝顔を見つめた。
「すまんな、シヴィル……おまえの眠りを邪魔したくはないのだ。わしに何が起ころうと、いつまでも眠るがいい。おまえは、わしたちが守る」
痛ましげな声が耳に届くはずもなく、シヴィル・シュミットの寝顔は、すべてを忘れ、安らかであった。
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第四章 夢刺客
1
Dを治安官事務所内にある留置場へ入れると、たちまち、厄介な仕事が人間の形をとって、ドアを叩き始めた。
まず、やって来たのは、連行されるDを目撃した村人で、女が圧倒的に多かった。何があったのかという質問に、治安官は公務執行妨害だと言って追い返した。
それも最も私事に近い理由にした。
具体的内容を知りたがる連中には、自分の家で預かっているサムソン爺さんの食肉獣の飼育にイチャモンをつけたからだと告げた。
限りなく治安官の家庭の事情に近い公務のトラブルであればあるほど、村人は安心する。その分、自分たちと事件との距離が広がるからだ。
Dを逮捕拘留して三〇分とたたぬうちに、村長までやって来たが、事情を説明して、これも追い返した。
「それでは、あまり詳しい説明とは言えんな」
と食い下がる村長に、
「実は、何故、みなが彼の夢を見たか、事情を訊いているのです」
これで決まりだった。
Dは狭苦しいベッドに長身を横たえたきり、身じろぎひとつしない。
「やはり――ちぐはぐだな」
と治安官は声をかけた。
反応がないので、口をつぐむこともできず、
「おかしな言い方だが、高貴な方を牢屋にぶち込んだような気がする。――見ろよ、窓の外。村じゅうの女がこっちを見てるぞ。ドアの外を差し入れで埋めちまいかねん」
「おれを見張るより、病院へ行ってみたらどうだ」
留置以来、Dが初めて口を開いた。
「シヴィルの出現は、あの機械を使った治療と無関係ではあるまい。それとも――」
「それとも?」
治安官の声が急に低まった。
「それとも、何だ?」
「生まれる前から平和な村だと言ったな」
「ああ」
「大きな事故や事件が起きたことは?」
「ないとは言わん。ここは辺境だ」
「君は何度、死にかかった?」
矢継ぎ早の質問に、治安官は眉を寄せた。本来なら質問するのは彼の方である。攻守が逆転している。それでいながら、正すことはできかった。
奇妙な質問に、内奥の昏い部分が波立っているのを、治安官はいらだたしさとともに理解した。
「そんなことを訊いてどうする? おれはここにこうして、おまえと話している」
「生きているという状態は、さして重要ではない」
Dは静かに言った。
「おれが知りたいのは、どうやって生き延びたか、だ」
一瞬、治安官の眼に凄まじい憎悪の色が宿った。
勢いよく窓のブラインドを下ろし、房に歩み寄る。
上衣が床を叩き、シャツは荒々しくむしり取られた。
粘土を削ったようなごつい胸筋から腹筋にかけて、数条の傷痕が紫の十文字を描いていた。左胸下に四つ、腹筋のど真ん中に三つ、弾痕と覚しい丸い傷がこびりついている。
「この十文字は五年前と八年前にやられたものだ。剣|尖《さき》に毒がついていたから色も違っている。腹の傷はこの二つが鉄弓、あとはみな銃弾だ」
幅広の背がDの方を向いた。焼け爛れた紫色の肌が、肩胛骨の下一杯に広がっている。
「焼かれたとだけ言っておく。自慢するわけじゃないが、おれは二〇年間、二日しか勤めを休まなかった」
治安官がDの返事を待とうと口をつぐんだとき、ノックの音がした。
シャツに腕を通しながら、壁のインターフォンに向かって、誰だ? と訊く。
「ベイツです」
先日、Dを取り調べた助手である。
辺境の治安官が必ずしも専門職ではないように、助手も治安官の一存ないし、志願すればその場で許可される。ベイツも普段は平凡な村人のはずだ。
街の巡回に出ていたのが、戻って来たのである。
「あいつをふんじばったんですって?」
と勢いよく入ってきた。
「やっぱり、おかしなところがあったんですか? するとナンの奴も――」
「トコフの一件とは別だ」
治安官はにべもなく言った。
へ? と顔をしかめるベイツへ――
「おれは出掛ける。後は頼むぞ。しっかり見張ってろ。何があっても外へ出すんじゃない。剣はそこだ」
とデスクのかたわらに立てかけた長剣へ眼をやり、帽子掛けから帽子を取ると、出て行った。
Dの方は見ようともしない。
ベイツが口笛を吹いた。
「久しぶりにあの|男《ひと》らしくなってきたぜ」
「街の英雄か?」
ベイツは浮き浮きと留置場を向いて、
「――そうともよ。平和なのもいいが、やっぱ、跳び廻ってるのが、あの|男《ひと》らしいぜ。いくら、吸血鬼ハンターだって、あの|男《ひと》にゃ敵わねえよ」
ドアに鍵をかけ、ベイツはそわそわと椅子に腰を下ろして、Dの方を向いた。
余程、治安官の自慢がしたくて仕様がないのだろう。
八年前の決闘のことを微に入り細にわたって話し始めた。
『都』から手配書が廻っていた札つきの凶悪犯が村へやってきたのである。全員が数名ずつ殺人を犯しており、拳銃とレーザー・ライフルで重武装を整えていた。
隣村からの早馬で来訪を知った治安官は、ただひとり、通りの真ん中で三人を待ち受けた。
何の抵抗もなくやってきた三人の足が止まると、治安官は、このまま出て行け、と告げた。
「決まった台詞だったよ。『止まらなくてもいい』と言うんだ。おれは二〇歳になったばかりの、柱の陰に隠れていた餓鬼だったけど、本当に背筋が痺れたね。それから、どうなったと思う?」
三人は馬から降りようとした。
「降りなくてもいい」
と治安官は告げた。
三対一であった。馬上で銃を抜く不利を考えても、治安官の分は悪い。
次の瞬間、戦端は開かれた。
三本の手が腰のホルスターへ伸びるのが早かったが、抜くのは治安官が勝った。
|太陽銃《ソル・ガン》の青い光条は正面の顔を炎と変え、治安官は地面へ転がった。
元の位置を、馬上から轟音と火線が貫く。
青い光が三度飛び、最後の一線が左側の男の上体を白熱化した途端、弾丸がつづけざまに、治安官の腹に食い込んだ。
次の瞬間、三人目の顔も原子に還り、戦いは終結した。
「どうだい、|凄《すげ》えのはこの後よ。あの|男《ひと》は、誰の手も借りずに医者のとこへ行き、弾丸を抜いた後を包帯してもらっただけで、仕事をつづけたんだぜ」
ベイツの頬は灼熱し、眼は輝いていた。父親の自慢をする|幼児《おさなご》がそこにいた。
その興奮が冷めるまで少し待ち、Dはおかしな質問を放った。
「おまえ、貴族をどう思う?」
「なんだって?」
ベイツは顔をしかめた。
「そんなこと、おめえ――」
「憎んでいるか?」
Dの声は静かだった。響きは変わらない。その意志が変わりつつあった。
ベイツはそれを知った。
「おれは別に……好きでも嫌いでもねえよ。親父やおふくろから悪口をきいた覚えもねえし、この村じゃ昔は仲良くやってたんだろ。他はどうかしらねえが……迷惑を蒙ったこともねえ」
「シヴィルが噛まれた」
「それは……」
考えてみれば奇妙なことであった。
貴族への憎悪、恐れは、何十代にもわたって親から子へ受け継がれたものだ。それが、この村では、すっぱりと断ち切られているらしい。それが誰でも知っている事実であるにせよ、驚異というより奇跡に近いだろう。
Dは返事をきくことができなかった。
猛々しい精神を表すノックの音が、オフィス中に谺したのである。
「誰だい?」
ベイツがインターフォンに訊いた。
「おれだ。――開けろ」
クレメンツの声であった。
「何の用だね?」
「おめえにゃねえ。取っ捕まったハンターに用だ」
「いま、忙しいんだよ」
「こっちもよ。おい、おれはちゃんと税金を納めてるんだぜ。治安事務所へ入る権利ぐらいあるわな」
ベイツは舌打ちした。
「ちょい待ち」
と言って、Dの方を向き、
「トラぶっているそうだな。――安心しろ。危ない目にゃ遭わせん」
Dは身動きひとつしなかった。
ドアを開けると、クレメンツはむしろゆっくりと入ってきた。背後に二人の手下を従えている。
ダブルの茶の上下はともかく、小脇に抱えた武器が、ベイツの眼を吸いつけた。
全長一メートル、直径二〇センチに達する円筒――大型の|衝撃波砲《インパクト・キャノン》だ。
「貴族の戦車でも相手にする気か?」
ベイツは右手を腰のあたりに垂らして訊いた。火薬式の旧型|自動拳銃《オートマチック》がホルスターに差してある。
「んなこたぁ、ねえさ。――ママゴトの小道具よ。おれたちと、そいつのな」
「よせ、彼はまだ容疑者だ」
と言いかけ、ベイツは何の罪で入獄させてあるのかきいていないのを憶い出して、眼を白黒させた。
「よしなよ、ベイツ。――手え上げろ」
と子分のひとりが凄みをきかせた。
子供の頭ぐらいすっぽり入りそうな巨大な砲口を突きつけられ、ベイツの右腕は自動拳銃の|銃把《グリップ》から離れた。
「いい加減にしろ。クレメンツ。こんなことをして――おれも治安官も許さんぞ」
「へっ、村の連中なら許してくれるさ。何処の馬の骨とも知れねえ奴に、同じ村の人間を殺されて黙っていられるか」
「あの件は、トコフが先に手を出した。ナンも見ている」
「あてになんぞなるもんか」
とクレメンツは舌舐めずりをした。
「あんな小娘――助平ごころの起きる年齢だ。こいつに耳たぶでも齧じられりゃ、どんな嘘だってつくぜ」
「一体、どうしたってんだ? あんた何かに取っ憑かれてるんじゃなかろうな。ここで、そんな大砲振り回したら、向こう三軒が吹っ飛んじまうぞ」
このひと言は意外な効果をもたらした。
クレメンツの眼に薄い膜がかかるや、彼は数秒、立ちすくんだ。それから急に我に返るや、唖然としている子分たちに、
「何をぐずぐずしてる。片づけろ!」
と命じたのである。
「やめろ――治安官事務所で殺人を犯したら、死刑は間違いねえぞ!」
砲口と留置場の間に割って入ろうとしたベイツの頬を、横なぐりの一撃が襲った。
骨にあたる嫌な音は、いつまでも衝撃地点に留まっていた。
「さ、邪魔者はいねえ。覚悟しな、|兄《あん》ちゃんよ」
嘲笑うクレメンツへ、Dは身動きひとつしようとせず、
「おまえもおれの夢を見たな」
と言った。
「|殺《や》れ!」
むしろ静かな命令に、二人の子分は戸惑いつつ衝撃波砲のスイッチを入れた。
鉄格子が内側へちぎれ飛び、突進する五トンの大型獣さえ撥ね飛ばす衝撃波は、Dの寝台を微塵に押し潰すや、床にすりばち状の窪みを穿った。
Dは空中に舞っていた。
かすかな砲声とともに直径二メートルにわたって壁面が陥没する。
コートの裾がひるがえった。
その表面に、ぱっと砂煙のようなものが上がった。
撥ね返った衝撃波の直撃を受けても、二人の子分どもが即死せず、内臓破裂と床に激突しての全身打撲で済んだのは、やはりDのコートで威力が半減していたためだろう。
クレメンツが悲鳴を上げた。
|内外《うちそと》から衝撃波を食らった鉄格子が、ボルトを弾き飛ばして、倒れかかってきたのである。
逃れる|術《すべ》もなく、クレメンツはその下敷きになった。肺の空気が押し出され、肉と骨が音をたててひしゃげる。
苦痛が悲鳴を途切れさせた。
「おれはひと寝入りする」
と、何ひとつ手を下さず、三人の敵を破滅させた男が言った。
「ああ」
と床の上でベイツはぼんやりうなずいた。
誰が被害者なのか、彼にはわからなくなっていた。
最後に口にした言葉も、よく覚えてはいなかった。血の滲む頬に手を当てて、
「ああ。いい夢を見な」
2
治安官は病院へ到着した。
心臓の鼓動が重い。いつの間にか鉛製に変わったようだ。病院に近づくにつれて、その比重が確実に増していく。
「治安官」
受付の看護婦に呼び止められても、足は止まらなかった。
「治安官――院長先生が、お話があると」
「後で伺う」
言い捨てて廊下を進んだ。
心臓は重みを増し、そのくせ、鼓動が早い。病室へ着いても、回復しないような気がした。
何名かの看護婦と患者が、脅えたように道を開ける。
いつもの半分の時間で病室の前についた。
ノブに手をかける。
あっさり開いた。
あまり変化はなかった。
ベッドも、カーテンも、静かに薄闇の世界に組み込まれていた。
シヴィルだけがいなかった。
心臓は熱塊と化した。
「治安官」
近づいてくる足音はわかっていた。
声の主が看護夫のベジルだというのもわかった。
振り向くと、病院の荒事師が、こわばった笑いを浮かべて立っていた。
後ろにあと二人いる。受付の看護婦が知らせたのだろう。目はしの利く女だった。
「治安官――院長が」
ベジルの喉は掴みやすかった。
百キロの巨体を、治安官は腕一本と軽いひと|吐気《とき》で床から持ち上げた。
「治安官!?」
前と後ろから強靭な手が腕と肩を押さえた。
「ここは、シヴィルの部屋だ」
ひと言ひと言に三〇年の歳月を込めて絞り出すや、治安官は左手を振った。
渾身の力がこもっていた。
暴力沙汰に慣れている男がふたり、壁を激震させて、ずるずると床へ滑り落ちた。
ひとりが辛うじて、腰の電磁棒を抜いたところへ、治安官は左足を飛ばした。
武器を掴んだ手首がへし折れ、スチールの棒も砕けて青い火花を発した。
痛みと電磁波の直撃を受け、そいつは失神した。
「な……何を……するんだ……治安官……」
ベジルは空中でかすれ声と汗を吐き出した。
「ここは、シヴィルの部屋だ」
と治安官は繰り返した。
「三〇年間、おれはここでシヴィルを見舞ってきた。おれも、おまえも、この村も年を経たが、ここだけは変わらなかった。シヴィルがいたからだ。――何処へやった?」
「……知ら……ん……院長が」
「院長は何処だ?」
「ここだ。――下ろしてやりたまえ。あと、三秒で窒息する」
治安官は少しためらい、男を解放した。
「無茶をするな。いくらこいつらの腕っ節が強くても、君には歯も立たん。だからこそ、君が必要なのだ」
最後の言葉が胸のどこかに引っかかるものを残したが、すぐに忘れて、治安官は、
「シヴィルは何処だ?」
と訊いた。
「安全な場所に移してある」
「――危険でもあるのか?」
「そう目くじらを立てるな。しばらくの間は大事ない。だが、早急に対策が必要だ。治安官――こっちへ来たまえ」
背を向けた院長の後を追って、治安官は部屋を出た。
何名かの看護婦と患者たちが、廊下に半円を描いていた。
首筋に氷をあてがったのは、そのうちのひとりに違いない。
振り返ろうと半ば身をひるがえしかけたとき、治安官の身体は、意識を失った肉塊と化して、床に転がっていた。
見馴れた森の中をDは歩いていた。
夜である。
物音はなかった。
漂う狭霧の息づかいすらきこえてきそうな静けさであった。
草を踏みしめる音さえ響かぬ理由が、自分の意志によるものか、夢の世界であるがゆえか、Dにもわからなかった。
いずれにせよ、シヴィルは待っているはずであった。
鉄の門は月光の下にあった。
Dの足が止まった。
今宵は歓迎されざる客なのかもしれなかった。
あの男であった。
鼻から下を黒いスカーフと闇のような衣服で覆った姿は、Dに似ていないこともなかった。
青銅を思わせる肌に埋め込まれた双眸がDを映している。もしも、そこに込められた感慨が、Dに対する特殊なものでないのなら、彼の見る万物は、戦慄するだろう。
「入れぬ気か?」
とDは静かに訊いた。
「ここで戦っても無駄だ。夢の決着を決着とは呼ぶまい」
相手は答えを知らぬ鉄の壁のごとくそびえている。
「おまえもまた、館と等しく娘の造り出したもの。おれを招き、おれを救った。――そこをどけ」
「戻れ」
スカーフがかすかに震えた。
二人は見つめ合った。
黒衣の両手が動いた。
一本の矢と一本の弓とが胸前で組み合わされ、鋼の弦が途方もない力と必殺の意志とを込めて後じさる。
いかにDの動きをもってしても、逃れようのない距離であった。
「戻れ」
と男はもう一度命じた。
「館に別の来客がいるのか? それとも、これから来るか? その弓――一度放ったら、後はない」
緊張が膨れ上がった。月光が凍りつき、霧すらも停止した。殺気のみなぎる世界の中で、若いハンターだけが美しかった。
鋼が走った。
Dの左手がそれを素手で受けた。
受けると同時にその手がかすんだ。
数瞬の間をおいて、驚きの気配がDの右方から起こった。
同時に、Dと黒衣の男は地を蹴った。
並んで疾走する彼方の梢から、黒い稲妻が迸ったのは次の瞬間だった。
二つの影が左右に分かれ、伸びたDの手には、黒い矢が握りしめられていた。
男の弓が放ったものを素手で受け止めたDが、気配の主めがけて投じたのである。敵はさらにこれを投げ返したらしい。
血痕はなかった。
そもそも夢の世界に生きるものに、血肉が存するのか。
いや、ここは眠りつづける少女の夢だ。
そこへ侵入したものがあろうとは、二人ならずとも、正体を暴こうと疾駆するのも無理はない。
男が前へ出た。
Dも及ばぬ速度で繁みへ跳び込んだのは、彼の属する世界だから当然だ。
凄まじい闘気が吹きつけ、不意に気配が絶えた。
数瞬遅れて跳びこんだDの眼の前で、狭霧が|啾々《しゅうしゅう》と渦巻いた。
男も見えざる敵も姿はない。
夢から醒めたのかもしれなかった。
あるものを認めて、Dは身を屈めた。
黒い手袋をはめた指が触れたのは、大地にめり込んだ布切れであった。
強烈な力が引き裂いた痕跡は、ぎざぎざの末端となって残っている。
あの男が一瞬の闘争で奪い取ったものであろう。
それを引き抜こうと力を込め、Dは不可能なことを知った。
夢の世界の物理法則が適用されたのか、それは、黒い地面に同化していたのである。
ベルトから細身の短剣を取り出して、布の先を切り取り、Dは繁みを出た。
あの二人が何処へ消えたのか、彼の知らぬ世界で果てしない魔戦を繰り広げているのか、思考すべきことはいくらもあったが、彼は飄然と道を引き返した。
黒衣の男は、恐らく侵入者を予期して、Dへ帰還を促したのだろう。今夜は少なくとも敵意の持ち主ではなかった。
館は青い光の中に変わらず屹立している。
Dの歩みが止まった。
天の高みから、否、地の底から、奇怪な呻き声が届いたのである。
人間の――女のものだ。
音もなく、Dは後方へ跳んだ。
胸元まで近づいていた狭霧がわなないた。口惜しげであった。Dは周囲を見た。変化はない。白い帯は木立の間を哀しげに縫っている。
前方の霧だけが、明らかに彼を目指して近づいてくるのだ。
この世界の法則に逆らって。
逃れることはできるだろう。だが、霧の目的が館とDとのつながりを断ち切る点にあるのなら、それは無制限の撤退を意味した。
「夢の悲鳴がきこえ、霧が生まれたか」
とDはつぶやいた。
霧が迫ってきた。
Dは動かなかった。
視界を銀白の世界が覆った。
来るか。
白い尾を引いて霧が流れ去っても、Dは少しの間、その場を動かなかった。
館は変化の兆しもなく、青い光を浴びている。
用心をするでも急ぐでもなく、Dは鉄門をくぐった。
数歩進むと、門の閉じる音がした。
「これは、物騒じゃの」
と左手のあたりで嗄れた声がした。
「どこかおかしい。用心に越したことはないぞ」
ホールの中央に白い影を認めてDは立ち止まった。
シヴィルである。
白いドレスの上で、哀しげな表情がうつむいていた。
哀しい夢も夢であった。
「急ぐ旅ではないが、眠るたびに同じ場所へというのはつまらん。――おれへの用件、今日は伺おう」
Dの声に、ほっそりした顔はさらに愁いを増し、さらに深くうつむいた。
その肩が揺れている。揺れは激しくなった。
伏せた顔の下から、すすり泣きの声が洩れた。
いや、それは笑い声であった。
この娘は、Dを前にして、狂ったような哄笑を放っているのである。
ゆらり、と館全体が歪んだ。
「ほう。どうやら、さっきの霧がくせものじゃったな」
と声が感心したように言った。
「夢の中の夢か、それとも別の夢が侵入したか。いずれにしても厄介じゃわい。さて、どう抜ける?」
あの霧が夢の住人さえ狂わせる幻だったと声は告げているのだろうか。
「夢は夢のままでおけんのか」
水中のごとくゆらめく館も知らぬげに、Dはつぶやいた。何処か疲れたような声であった。
「おぞましいが故に滅ぼす。美しいが故に滅ぼす。滅びたくないが故に滅ぼす。――|人間《ひと》はこうやって何を遺す?」
それは、眼前の娘に向けたものではなかったであろう。
少女の声はすでに人以外のものに変わり、Dはその周囲を巡る白い雲のごとき断片に気づいていた。
少女の口が動くたびに、その奥から飛び出してくる。
ここはやはり夢の世界か、声の変じた雲であった。
しゅっとその一片が伸びた。
銀光がそれを二つに裂いた。
長剣を右手に、Dは偽のシヴィルめがけて走った。この若者に退却はない。
四方から雲が襲った。
薙ぎ払う長剣に、それは真綿のように次々と巻きついた。
少女の眼前で、Dは長剣を一閃させた。
一気に首を断つはずの刃は、鈍い手応えとともに撥ね返った。
雲の力であろう。
反転する刃を誰かが背後で押さえた。
Dですら気づかぬ気配の主は、シヴィルであった。
か細い腕のひと振りで、Dの長剣は、半ばからへし折られていた。
手に残った刃を、シヴィルはDめがけて投げた。
Dは左手で受けた。
それは掴んだ指の間で伸び、Dの胸を深々と貫いた。
シヴィルがにっと笑った。
その顔がこわばったのは、Dの左手がゆっくりと、怪異な刃を抜き取ったのを目撃した瞬間だろう。
この若者は、他人の夢の中でも支配されないのか。背中まで切っ先をのぞかせた|長刃《ながば》を抜き取るや、Dはシヴィルの姿をした敵めがけて跳躍した。
空中で姿勢が乱れた。
踏んでいた床がゴムのように伸び、粘着し、彼を引き戻したのである。
白い雲を笑いの形に撒き散らしながら、偽シヴィルは館の奥へと後退していく。
乱れた姿勢のまま、Dは白刃を放った。
それは唸りをたてて飛び、細い影のうなじから喉笛までを貫通するや、娘の身体を床に縫いつけたのである。
心臓のごとく、不快な脈動をつづける床を靴底に感じながら、Dは偽シヴィルのもとへ歩き出した。
白いドレスの背にみるみる赤い染みが広がっていく。
それが形をとったかのように、ドレスの布地から湧き上がったものがある。
花弁の開く様は薔薇に似ていた。いや、薔薇そのものであった。
真紅の花に変わったのは衣裳だけではなかった。
床上に固定した肢体のあちこちに赤い蕾が盛り上がるや、ことごとく大輪の薔薇となって咲き乱れたのである。
その怪異にも眉ひとつ動かさないDの眼は、娘の身体に生じたさらに奇怪な変化を映さねばならなかった。
何条もの黒い線が身体じゅうを突き破って四方へ伸び、床に壁に天井に吸い込まれたのである。
吸い込まれた?――その通り、館のすべては原形を失い、ゆるい絵の具のように軟化して、娘の生んだ|葛《つた》を飲み込んだ。
それが何を意味するのか、Dは気づいたかどうか。
悠然と振り向いた眼の前に、天井から壁から、おびただしい葛が逆に生え、交差して、細っこい格子をつくった。
|人間《ひと》が数度瞬きする間に、Dは封じ込められていた。
靴底に粘つく床を剥ぎ取りつつ、Dは手近の格子に近づくと、その中央部に左手と両足をかけ、身を預けた。
眉がわずかに寄る。
細い葛の格子は、針のごとき棘を生んで、彼の手足を刺し貫いたのだ。
「いたた……これは本物じゃぞ」
大仰な声をきくまでもなく、痛みは現実であった。流れ出す血も現実であった。それは夢の現実だ。だとすれば、夢の中で迎える死は、現実での死にあたるのか。
壁はすり寄り、天井は下降し、床は上昇を開始した。
しゅうしゅうと音をたてて、壁に縫い止められた偽シヴィルの身体が溶解していく。
三次元より迫りくる死の顎のどれかが、Dに触れるまで十秒とかかるまい。
Dの右手に短剣が光った。
渾身の力を込めて振り下ろされた刃は、格子の表面で火花をたてて撥ね返った。
「進退窮まったの」
と左手がのんびりと呻いた。
「飲んでみるか、天井か壁を」
Dも静かに訊く。茶飲み話のようだが、これはもちろん、生と死を分かつ重要な会話であった。
「冗談はよせ。夢など飲めるか。それこそ、何もかも夢になってしまう」
「では」
「どうする?」
「夢で死んだら、どうなる?」
「わからん。死んだ奴がおらんのでな。なんなら、すべてをつくり出した張本人に訊いてみたらどうだ?――あやつ[#「あやつ」に傍点]にな」
Dは答えず、右手をコートの内側に入れた。
「夢の中で死ぬか。――面白い実験だが、そうもいくまい」
言うなり、右手が宙に浮いた。
一片の紙切れのようなものが舞い上がる。それを貫いたのは、Dの短剣であった。
そして、組み合わさった|二品《ふたしな》は、上昇する床の一角に命中し、うねくる軟泥に、かっと硬質の響きを上げて突き刺さったのである。
途端に、すべてが暗転した。
Dは眼を開けた。
シヴィルの館へ赴く道の中央に彼は立っていた。
夢の中の夢は醒め、彼は夢へ戻ったのだ。無言で左手に眼をやる。手の甲にも手のひらにも傷ひとつない。長剣は――鞘に収まったままだ。
「ほい。――何をした?」
と左手が驚いたように訊いた。
Dは身を屈め、足元の地面から光るものを拾い上げた。
地面は短剣を投じた場所であり、拾い上げたのは短剣そのものであった。
刃の先端に、茶色の布がついている。
繁みの刺客が残したものである。
溶け崩れた屋敷が、刺客かその仲間の生んだ悪夢ならば、シヴィルの夢とつながったその布への一撃は、致命的な傷を夢の夢に負わせたのであろう。
それにしても、夢から醒めたのが夢の世界とは――。
「どうする」
声がまた訊いた。
Dは歩き出した。
それが夢でも現実でも、この若者の歩みは変わらぬのであった。
3
眼を覚ましてすぐ、治安官は、そこが内科の検査室であることを知った。
ベッドに横たえられている。衣服はそのままだ。
起き上がろうとして、頭が強く引かれた。
手をやると、おびただしいコードに触れた。頭皮との間を軟体物質が覆い、コードはそこに突き刺さっていた。脳波検査用の電導タールだろう。
何もかもむしり取ったとき、奥のドアが開いて、院長が現れた。
老人とも思えぬスピードで横へ退く。
治安官の放った粘塊は、コードごと壁に激突した。
染みの浮いた顔へ新たな染みをつけたのが、せめてもの報復といえた。
「付き合いもこれまでだな」
とベッドから降りる治安官へ、
「まあ、待て」
と院長は片手を上げた。
「――!?」
荒々しい言葉を吐こうとして、治安官が沈黙したのは、老人の顔を占拠した苦悩の深さゆえであった。
「君をこんな目に遭わせた以上、当然、事情は話す。本当は、話したくもないし、君はきかねばよかったと思うだろう。結論はすでに出ているのだ。――不幸とな」
「シヴィルは何処にいる?」
院長の言葉を追い払うように治安官は訊いた。ガン・ベルトを腰に巻きつけている。
「こっちだ。来たまえ」
院長について外へ出るとすぐ、治安官は左右を見廻した。
「もう不意打ちはなしだ」
と院長が皮肉っぽい声で言った。
「おれに何をした?」
ようやく治安官が訊いた。
「脳波の異常テストだ。――と言っても、信じやしまいな。何もかも、ここでわかる」
二人は木製のエレベーターに乗って地下へ降りた。
「ここは――緊急病棟だぞ。重態か!?」
治安官の声が冷たい廊下に谺した。
それが消えぬうちに、白いドアが二人を迎えた。
両側に屈強な看護夫が一人ずつついている。
片方が旧式なロケット砲、もうひとりが粒子ビーム・ライフルを抱えているのを見て、治安官の眼が底光りした。
何やら重大な事態がシヴィルの身に生じている。
ドアを一歩くぐって、治安官は立ち尽くした。
ドアの閉じる音を薄闇がそっと絡め取った。
「ベジルは無事だったか?」
「ああ。いま、休ませている」
「済まんことをしたと言ってくれ」
昏々と眠る少女を包むベッドも、カーテンも、枕もとの機械もこれだけは人工の薄闇も、すべて、前の部屋に等しかった。
「いま、止めたところだ」
と院長が治安官の視線に気づいて言った。
「おまえの頭と連動して[#「おまえの頭と連動して」に傍点]、よい具合に働いておったのじゃが[#「よい具合に働いておったのじゃが」に傍点]、あと一歩のところでしくじった[#「あと一歩のところでしくじった」に傍点]」
「看護婦はいないのか?」
と治安官は疑問を口にした。
「用済みだ。今後、この部屋には、わしとおまえしか入れん。それに背くものがあれば……医者が殺人を犯すのは、やはり人倫にもとるかな」
治安官は不安すら漂わせる視線を老医師にあてた。
「それほどまでにして、シヴィルを守る理由は何だ?」
院長は椅子を指し示し、自分も別のにかけた。
治安官が壁に背をつけて座るのを見届け、
「正直なところをきかせてもらいたい。――本当にわからんのか?[#「本当にわからんのか?」に傍点]」
凄まじい眼光に眼を灼かれる思いで、治安官は踏みこたえた。
「わからん。何のことだ?」
院長は彼を見つめた。
凄まじい光は、夕暮れの部屋にふさわしい寂寥を帯びていた。
精気にあふれた医者が、不意に影の薄い、皺だらけの疲れ果てた老人に見え、治安官はその眼を疑った。
「さっき――あのハンターを連れて街へ戻る途中、おれはシヴィルに会った」
どんな反応を示すかと、注意しながら口にしたのだが、院長の顔は無反応であった。
冗談だと思っているか、他のことに関心を奪われているのか、それとも――
シヴィルについて、もっとよく話そうと記憶を辿り、治安官は急に、ある事柄に気づいた。
どこかで見た。……あの服装――白いブラウスとスカートは……
「おまえの見たシヴィルは、わしが呼び出したものだ」
いきなり院長が口にした内容の衝撃が、治安官を我に返らせた。
耳もとで風が鳴った。
「何ですって?」
「正確に言えば、シヴィルの夢の中から、彼女の姿を抽出したものだよ。この機械を使ってな」
「――すると、眼覚めさせられるのですか?――こいつで!?」
「……」
「さすがは、『都』から来た機械だ。大したもんだ」
「違うな」
と院長は、安らかな寝息をたてる少女へ痛ましげな視線を落としながら言った。
「この機械ではシヴィルの眼を覚ますことはできん。それが可能なのは、喉に歯の痕を遺した貴族だけだ。それに――これは『都』の製品ではない」
「『都』のじゃない? じゃあ、誰がつくった?」
治安官はいぶかしげに、金属と水晶と電池の複合体を見つめた。
「わしだよ。それも二時間でだ」
「……」
「あの部屋の外で君とハンターに会う二時間前、わしは検診を終えて、部屋へ戻ったばかりだった。少し窓の外を眺めて、一服|喫《す》い、デスクの方を向き直ると、これがあった」
「……」
「と言っても、材料だけだがね。設計図もついていなかった。だが、ひと目見ただけで、わしには、そのつくり方がわかったんだ。――そんな目つきはよせ。気が狂ったんじゃない。わしがそんな類の人間じゃないことは、おまえがいちばんよく知っているはずだ。わしはいつも、事実しか告げておらん」
「それは、そうだが……」
「なあ、クルツ」
と院長はしみじみとした声で言った。治安官を名前で呼ぶなど滅多にないことだ。逆に言えば、今度の件は、仲間であること――共犯たることが欠かせないと言えた。
「三〇年は長かった。私も三五歳の、駆け出しの医者だった。シヴィルが奴に噛まれたとき、何とか治療しようと、死ぬ思いで闘ってきた……」
院長の眼に、凄惨な光が宿ってきた。極めて貴重なものが、その胸中から喪失し、その跡に生じた深淵の放つ光のようであった。
「いまでも憶えているぞ。学校から手をつないで帰るおまえとシヴィルを。裏の花畑でおまえのために首飾りをつくっていたシヴィルをな。あれは白と青――セイレインの花だったか。それを首にかけられると、この馬鹿ものめ――照れかくしに、すぐ外してしまいよった。その代わり、シヴィルが川へはまり込んだとき、大人でさえ二の足を踏んだ激流へ、真っ先に飛び込んだのは、おまえだった。あの|娘《こ》が葡萄狩りに出て、ひとりだけ戻ってこなかったとき、旧式のオンボロ・ライフル片手に、妖魔の森を探し廻ったのもおまえだった。そうだな?」
治安官はうなずいた。すぐ前にある、永劫に遠いものを見つめる表情で。
「シヴィルの手は温かかったか。初めてキスしたとき、唇は柔らかかったかな。あの金髪は絹の衣のようだったか。どうだ、どうだ? そして、あの娘は、おまえの胸に熱い頬を当て、鉄みたいだと言ったのではないか。おまえの心臓の鼓動がきこえる、と」
「かもしれん」
急に老人の声は落ちた。
「それが、みな、嘘だったとしたら?」
少しの間、治安官の表情は、なお、憶い出にふけっていた。
それから、ゆっくりと老医師の顔を見つめ、
「なに?」
と言った。
「話してやろう」
院長は、シヴィルの額にそっと手を乗せて、小さく小さくつぶやいた。
「きかぬ方がよいことを。知らぬのがよいことを」
治安官が戻ってきたとき、Dは格子のない独房に横になっていた。
「どうした?」
と訊く治安官に、ベイツが事情を説明した。
「クレメンツが病院から出たら、すぐぶち込め。見せしめのためだ。半月の拘留だ。それから、見廻りに行って来い。おれは彼を尋問してみる」
「承知しました」
どこか納得しがたい表情で、ベイツは事務所を出ていった。
治安官はDに向き直った。
破損した壁を妙な眼付きで眺める。
「シヴィルの謎は解けたか?」
Dが静かに訊いた。
「いいや。――わかると思うか?」
「いつまで、おれを入れておく?」
「片がつくまでさ」
「いつ[#「いつ」に傍点]つく?」
「わからん」
治安官は疲れたように言った。それが、病院の院長と同じ疲労の色だとは、もちろん、Dは気づかない。
「ベイツの話だと、眠っていたそうだな――シヴィルの夢を見たか?」
「邪魔が入った」
「邪魔?」
「あの娘の招きに応じさせたくない連中がいるらしい」
「夢の中へ入り込む敵か……」
治安官は|茫乎《ぼうこ》としてつぶやいた。
「それをしも、夢と言うべきか? どうだ?」
「夢も夢を見るだろう」
Dは静かに治安官を見つめた。
「ここにいるのは構わんが、君たちはそれでいいのか?」
「どういう意味だ?」
治安官もDを見返す。
二人の間に、初めて|凶々《まがまが》しい殺意が閃いた。
その瞳が同時に、同じ方向へ動いた。
けたたましいノックの音が谺するなり、勢いよく、太った女の影が飛び込んできたのである。
血相変えたその顔は、あの“万能屋”の婦人――マギーのものであった。
「た、大変だよ、治安官!」
飛び込んできた勢いにふさわしい声と内容であった。
「どうした?」
治安官が振り向いて訊いた。
婦人は、ドアの外を指さした。
「久しぶりに行ってみたんだよ――シェルドン婆さんのところへ」
Dの眼が光った。
「そうしたら、あんた……そうしたら、婆さん、裏の庭で……首筋に黒い矢を突き刺されて……」
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第五章 眼覚めしもの
1
三人がシェルドン婆さんの家へ着いたのは、三〇分後のことであった。
発見者の“万能屋”マギー、クルツ治安官、そして、Dである。
Dの同行は、治安官自身が促したものであった。
「来るか?」
と治安官が訊き、Dは立ち上がった。それだけのことである。
長剣は何故か治安官が持って出た。Dは気にした風もない。
刻々と変化する丘の向こうに、小さな家が見えたとき、
「?」
治安官は眉をひそめ、かたわらで馬を駆るマギーを見た。
煙突から煙が立ち昇っているのだ。婦人も気づいたらしく、
「おかしいな。あたしが戻るときは、出てなかったよ」
と叫んだ。
馬蹄の轟きで声はすぐかき消された。
それぞれの胸に謎を秘めて、三人は小さな家の前で馬を止めるや、治安官が真っ先にドアをくぐった。
その場で棒立ちになる。背後からのぞき込んだ婦人が、恐怖の叫びを上げた。
「嘘よ……私が見たときは確か……」
「何が確かかね?」
と居間のテーブルに湯気のたつコーヒー・カップを置いて、シェルドン婆さんは、不粋な侵入者たちを睨めつけた。
「いや……その……あんたが殺されてるのを見たという知らせがあったもんで」
治安官が、どこか弱々しい声で弁解した。
珍しいことだった。
「おかしなことをお言いでないよ、治安官。たまに、独りぼっちの年寄りのところへ来てくれたと思えば、何だ、そんなデマのおかげかね」
婆さんは、カラーのついた上着の襟を前で合わせながら立ち上がった。
「そんなはずないわ。裏庭で血だらけになって倒れてたんだから」
とマギーが|喚《わめ》いた。たっぷりした頬の肉が震えている。
「調べてよ、治安官、ちゃんと調べて」
「よく見ろ。あんたの言ってた死人は、ちゃんと眼の前にいるんだ。首を射抜かれて生きていられる人間がいたら、お目にかかりたいものだな」
こう言って、背後を振り返り、治安官はいきなり、
「D――どこだ?」
と叫んだ。
ハンターの姿は戸口から消えていた。
治安官は家の裏へ廻った。花畑の前で、黒い長身が風に揺れていた。
「おれの眼の届かぬところへ行くな」
治安官が言いかけたとき、
「血の痕もないわ。そんな、馬鹿な」
とマギーの声が背後でした。
二人の男の前へ出て、マギーは繚乱と咲き乱れる花々の一角へ手を伸ばした。震えてはいない。それなりに度胸が坐っていなければ、辺境の村々相手の“万能屋”などやっていられるものではないのだ。
「そこに倒れてたんだよ。周りは血で真っ赤……首には、黒い矢がぶっつり突っ立ってて……あれ!?」
最後の叫びに、治安官が眼を細くした。
婦人の手は、最初に指さしたところの少し先を示した。
「花も消えちまってら」
「花?」
「青い花が咲いてたんだよ、そこんところに。見たこともないほどきれいな花だった。それが、こう、ぱあっと……」
ぼんやりとこちらを向いた婦人の眼と治安官の眼が合ったところへ、
「最後にいつ、ここへ来た?」
とDが訊いた。
「五日ほど前だ」
治安官は紙のような声で言った。
「と言っても、会ったわけじゃない。近くから――それこそ煙突の煙をのぞいただけだが」
「青い花は咲いていたか?」
少し考え、治安官は首を振った。
「いや」
「咲いて、消えたか」
「眼の迷いとも考えられるぞ」
「ちょっと――あたしが夢でも見たっていうのかい?」
荒々しい声を出し、それの生んだ結果に、婦人は急速に沈黙した。
神経の断たれる寸前のごとき緊張が三人を包んだ。
Dは静かに治安官を見た。
無精髯を散らせた頬のこわばりがすっと消え、空気は平穏を取り戻した。
「どんな花だった?」
Dがマギーに訊いた。
彼は味方だと思ったのか、陶然とその横顔に見入っていた女商人は、あわてて、ぽってりした両手指を小刻みに動かしてみせた。
「このくらいの大きさでさ、とてもきれいな青だったよ。あたしゃ、まだ見たことないけど、子供のときから話にきいてた“海”ってのは、あんな色じゃないのかね」
海――青い花びら。
Dはきびすを返した。
これ以上ここにいても無駄と、誰よりも苛烈で厳格な決定であった。
治安官が婆さんに不意の来訪を詫び、三人は馬上の人となった。
「たまにゃ、顔をお見せよ、治安官」
婆さんの声は長いことついてきた。
村へと通じる道の上で、Dはひとり馬首を巡らせた。
「何処へ行く?」
「村からは出ん」
「拘留中だぞ」
治安官が苦い声を出した。
「奥さんから、あの娘の話をきいた。夜会への近道は何処にある?」
少し考え、治安官は南西の森を指さした。
「三キロ行け。森を脱けると小道がある。そこをあと一キロだ」
「終わったら戻る」
言い終えて馬の腹を蹴ろうとするDへ、細長い影が飛んだ。
振り向きもせず左手で長剣を受け止め、Dは走り出した。
「愛想のない男だねえ」
とマギーが髪を撫でつけながらつぶやいた。
「でも、いい男はああでなきゃ。どんな冷たい仕打ちされても、あんな男のためなら、とことん尽くしてみたいと思うよ。――必ず別れるにしてもね」
「わかるのか?」
と治安官が、去りゆく影を見送りながら言った。
「誰でもわかるさ。本人はその気がないのに、周りの人間を不幸にする男だって。あたしゃ、この|年齢《とし》だし、すぐに村をおさらばするからいいけど……」
婦人は、どこか痛ましい眼つきで治安官を見、老婆の家の方角を眺めた。
「あんた方、しんどいだろうねえ。村へ入れない方がよかったんじゃないの」
空地へ到着したときには、陽光がけだるい青色を帯びていた。
立ち木に馬をつなぎ、Dは黄ばんだ草を踏みしめた。
周囲の光景に見覚えがあった。
広大な――と言っていいほどの空地である。いまは、青く沈んだ|館《シャトー》はなく、草地を風が撫でていた。
Dは無言で空地の真ん中に立った。
ホールの中央にあたる場所である。
眠り男に愛される前の少女は、この草むらで夜ごとの夜会を想い、夢の中の少女は、ひそやかなステップを踏んでいた。
相手は――
「夢から出られるか?」
風に問うようにDは訊いた。
「わからん」
愛想なしの答えが風に乗る。
「では、やってみるまでか」
「そうじゃな」
Dは少し右へ移動した。
丈の高い草がその姿を隠す。
庭に当たる部分だった。
さらに右へ進めば鉄の門へ、館へと導く道に行き当たる。
風の中に異音を聞きつけ、Dは静かに振り向いた。
空き地へ通じる反対側の小道から、二つの人影が近づいてきた。
細い方がやや早い。
ナンであった。後ろの少年は同い歳くらいだが、顔つきはずっと童顔である。二人の家はこの近くにあるのだろうか。
「そんなに、怒るなよ」
押し殺した男の声は、しかし、はっきりと風が伝えた。
「別に怒ってないわ。帰って」
ナンは涙声であった。兄妹でなければ、恋人同士の喧嘩だ。
「つい、口が滑っちゃったんだ。そんなに怒るなよ。な、帰ろう。じきに陽が暮れるよ」
「ここなら安心よ。昔から来てるんですからね。ひとりで帰って」
「いい加減にしろよ」
少年の声に怒気がこもると、背後から手を伸ばして、ナンの手首を掴んだ。
ナンは振り払った。歩みはさらに早くなった。
少年はもう追わなかった。
怒りで頬を紅潮させ、
「勝手にしろ。何が起こっても、ハンターなんか来てくれないぞ!」
と叫んで背を向けた。ナンは立ち止まっている。少年の姿が道の向こうに消えてから、振り向いた。
不安そうな顔であった。済まなそうでもある。
伸び上がるようにして、少年の行方を追い、すぐに諦めて、力を抜いた。
右手の甲で両眼をこすった。
涙だけが流れるのを、泣いていると言うのだろうか。
拭い終えるのを待って、Dは茂みを出た。
Dが五、六メートルの距離まで近づいてから、ナンは何気なく彼の方を向き、ようやく気がついた。気配が感じられないのである。眼が見開かれ、頬はたちまち紅く染まった。
「いやだ。――いつからいたの?」
「来たばかりだ」
ナンは安心したようだった。泣いているところを見られるのは、誰でも嫌だろう。
「でも、見てたんでしょ?」
と照れ臭そうに訊く。声を低めて、
「ひょっとして……」
少年がハンターと言うのをきいたか、と言いたいのだろう。
「喧嘩はやめておけ」
「よしてよ、学校の先生みたいな言い方。全然似合わない。喧嘩した甲斐がないわ」
「……」
「私が、何度もあなたの夢を見た、と言ったら、おれは一回なのにおかしいぞって。しゃくにさわるから、会って話したって言ってやったの。それで言い争いになって……」
自分が原因の小さないさかいを、Dはどう見たのか、
「幼馴染みか?」
と訊いた。
ナンはうなずいた。
「隣の息子よ、ケインと言うの」
答えてから、ナンはDが自分の背後を向いているのに気づいて、その後を追った。
道の向こうから、さっきの影が引き返してくる。
Dが移動しかけた。
「駄目よ、いて」
ナンはその手にすがりついた。意地になっていたかもしれない。
ケインはすぐ立ち止まり、しばらくそのままでいた。
怒っているのか、あきれているのか、よくわからない。
「馬鹿野郎」
ときた。
ナンは言い返した。
「お気の毒さま。デートの約束があったのよおーだ!」
「夜行獣に食われちまえ。貴族と同じ墓に入れ!」
辺境における典型的な悪口を放つと、少年は駆け去った。
「君のことを気にしている」
Dの声は穏やかであった。
若々しい、生命に溢れた光景を見るとき、この若者の声は、何故かこうなるのだった。
「なにさ、あんなやつ」
ナンはそっぽを向いた。大人びた行動が嘘のような幼さが、表情を豊かにしていた。
「どうして、ここへ来た?」
「別に。――近いし、子供のときからの遊び場よ」
「シヴィルもよくここへ来たらしい」
「どうして知ってるの?」
「君も夜会へ出てみたいか?」
「自分のことは何も話さないのね」
ナンは腹が立った。
喧嘩の原因はこのハンターである。当人も知っている以上、もう少しやさしい声をかけてくれてもいいのに。
そう口にするには、あまりに遠い存在だった。
所詮は別の世界の男だ。
それを、何故、三度も夢に見たのか。急にナンは、誰かが憎らしくなった。誰だかはわからない。それがまた、少女の胸をかき乱した。
「あの娘の隣のベッドにいたと言ったな」
「隣の部屋よ」
とナンは訂正した。
「水泡虫に胸を食われて、二年間入院していたの。あいつにやられるとどうなるか知ってる?」
「痛むそうだ」
「そうね」
ナンは左手を柔らかいふくらみの上に乗せた。
四肢を備え、槍を抱えた妖精の好物が、肺に溜まった空気だとは、やられるまで知らなかった。
千分の一ミリもない奴らの侵入を一匹でも許せば、その体毒によって吸い込む息は炎と変わる。
そのくせ、肺自体の内側も硬質化し、完全に焼け爛れるまで、地獄の苦しみがつづくのだ。手当てが遅れれば、その炎の息が全身に廻り、外側は色艶を保ちながら体内は焼け崩れた死人が出来上がる。
治療可能な期間は、侵入後四週間――ナンはかろうじて間に合ったのである。
ベッドに縛りつけられたまま、ナンは苦痛で発狂寸前までに陥った。何度も殺してと頼んだ。
それを救ったのは、両親とケインの励ましと、ベッドを隣室に移した院長の計らいであった。
悶え苦しむナンの隣室でひっそりと眠る娘を、院長はこう紹介した。
「君はいつか治る。苦しいのは、病気が治った証拠だ。あと一年か二年我慢すれば、青い空の下を自由に跳び廻れる。男の子とキスもできるだろう。だが、その娘はそうはいかん。恐らく、一生、眼を覚ますことはあるまい。君がこれから味わうものも、シヴィルには三〇年前に終わったのだ。そして、ただ、年も取らずに眠りつづけていく。これを一生といえるのかね?」
「だから、私、我慢できた」
とナンは輝く眼でDを見つめた。
「いつかは治るんだ。いつか、ベッドから出られる。地面の上を走って、秋には林檎採りもできる。冬はスケート、夏は湖で泳げる。ケインのギターも聴ける。――そう思って」
ひと息にしゃべり、急にナンは恥ずかしそうにうつむいて、髪の毛を撫でた。
黄昏の光がその横顔を薔薇色に染め、Dは黙って十八歳の少女を眺めた。
「さっきの話――ね」
ナンがうつむいたまま、小さな声で言った。
「ん?」
「夜会のこと。治安官にきいたの。シヴィルの夢だったって。きっと、夢の中で夜ごとダンス・パーティを開いているでしょう」
「羨ましいか?」
「ええ」
「ここは平和な村だ」
「それでも、羨ましい。この頃、とってもそう思う」
ナンは口をつぐんだ。自分を見つめるDの眼に脅えて、立ちすくむ。
どんなことが起きるのか。戦慄を伴う快感が毛穴を広げた。
意外に簡単だった。
「この頃とは、いつだ?」
すぐには返事ができなかった。出た声はかすれていた。
「……あなたの――あなたの夢を見たときから」
2
「手に入れたか?」
と院長が訊いた。
答える代わりに、治安官は上衣の胸ポケットから分厚い紙束を取り出した。
「どれ」
と伸ばした染みだらけの指先から、紙束はひょいと遠ざかった。
激しい音がした。
片側の手に打ちつけた紙束から、治安官は院長に眼を移した。
燃えていた。凄まじい憎悪と哀しみが火種であった。
院長は平然と受けた。
鋼の意志が治安官の感情の火矢を容赦なく撥ね返した。
途方もなく強靭な義務感が彼を支えていた。
「クレメンツはどうしたか知っているか?」
と院長は訊いた。
彼の私室である。石油の炎とレンズを組み合わせた複合|照明《ライト》が闇を払いながら、この二人こそ人の形をした闇のようであった。
治安官は答えない。院長はテーブルの上で両手を組み合わせた。
「折れた肋骨が両肺に刺さって重傷だ。治ってもおいそれとは動けまい。いっそ、死んだ方が幸せかもしれんがな。――少なくとも、彼はおまえより勇者だったわけだ」
「奴も知っていたのか?」
治安官はかすれた声で訊いた。
「意識してはいないようだがな。これからはますます彼のような奴が多くなるぞ。もう、平和な村とは言えん」
治安官はもう一度、紙束を手のひらに打ちつけた。
荒々しく目の前に投げ出された紙束を、院長は手に取って開いた。
カルテを眺めるように、慎重な視線を浴びせていく。
「アレクシス・パイパー:殺人数七名以上、電子鞭の使い手……ベル・コールダイト:殺人数十七名、妖拳法……マドックス・ホー:殺人数十二名、ナイフ使い……どいつも、あのハンターと対決できるとは思えんな。……ふむ、バイオ|兄弟《ブラザース》……?」
両眼をぎらりと光らせながら、それでも院長は、最後まで紙束に眼を走らせた。
その間、治安官は壁際の椅子に腰を下ろして、身じろぎひとつせず、垂れ込めてゆく窓外の闇を眺めていた。
「こいつらだな」
と院長が決めたのは、一時間も経過してからであった。
「呼べるのか?」
と治安官が訊いた。
「何とかなる。時間がかかるかもしれんがな。だが、|時《とき》は問題ではない」
「彼は、出られん、か」
「そういうことだ」
「あのハンターは、たやすくは斃せんぞ。たとえ、この世界[#「この世界」に傍点]でもだ」
「わかっているよ。だからこそ、シヴィルは彼を招いたのだ。だが、ここ[#「ここ」に傍点]に入りこんだ以上、斃せぬことはあるまい。我々が死ぬように、彼も死ぬ」
「さっき会ったときは、無傷だったぞ」
「我々の処理が未熟だったのさ。だが、機械は改良されつつある。この世界はすべて、我々の味方なのだ」
「それが何になる?」
治安官の声に金属音が伴った。|撃鉄《トリガー》を起こす音だ。
自分に向けられたミサイル|銃《ガン》の大きな銃口を、院長はつまらなそうに見つめた。
「レーザー・ビームも斬り落とすハンター用に変えたのか。そいつでやられた方が、いっそ幸福なのだが、そうもいくまい。生き返る[#「生き返る」に傍点]恐れがある。別の相手を射ったらどうだ?」
挑発的な口調だった。
「シヴィルのことか?」
と治安官は言葉を吐き出した。
「少なくとも、ここ[#「ここ」に傍点]での決着はつくだろう。どんな決着かはわからんが」
院長はゆったりと椅子の背にもたれた。
「わしは、この村で生まれた。いい村だった。子供のときから、こんな素晴らしい世界は何処にもないと思っていた。どんな子供でも、いつかは生まれ故郷を旅立ちたがるものだ。しかし、私はそれすらも思いつかなかった。生涯をここで送り、この村で朽ちたいと、本気で願っていたよ」
「おれもそうさ」
「だが……」
老医師の眼に、初めて眼を覆いたくなるような疲労と絶望の色が浮かんだ。
「そのすべてが[#「そのすべてが」に傍点]、まがいものだった[#「まがいものだった」に傍点]とはな……」
「よせ」
と治安官が呻いた。
引き金にかけた指が白く染まった。
「証拠はこのあいだ、示したはずだ。この世界はすべて、シヴィルの――」
院長は最後で口をつぐんだかもしれない。
直経二〇ミリの銃口を飛び出した超小型ミサイルは、銃身を出る寸前、最高速度に達し、時速二四〇〇キロで老医師の胸を貫くなり、炸裂した。衝撃信管の効果である。十一・四九グラムのゲル火薬に胸部から左肩にかけてを吹き飛ばされ、院長は即死した。
「バイオ|兄弟《ブラザース》か」
とつぶやいて治安官は、油脂と肉の灼ける悪臭を嗅いだ。
立ち上がり、院長を見下ろす眼に、悲哀の色があった。
「おれもこの村で生まれ、治安官になると誓った。どんな理由でも殺人に加担はできん」
銃を腰のホルスターに収め、犯罪者リストを掴んで治安官は部屋を出た。
廊下に人気はなかった。いつもなら、数名の看護婦とすれ違う時刻だった。そう言えば、この時間独特の匂い――夕餉の香りがしない。
治安官は地下に下りた。
シヴィルの眠る部屋の前で、彼は少し立ち止まった。
自分が何をしようとしているのか考えてみたのだが、よくまとまらなかった。
内側へ入った。
あの機械と薄闇とシヴィルが眠っていた。
看護婦がいるはずなのに、と治安官は思った。まるで、無人の病院のようだ。
彼は枕もとにたたずみ、白い夕顔のような顔を見つめた。
その吐息が安らかなことが、いくらか胸にわだかまる闇を軽くした。
「本当なのか、シヴィル?」
と彼は呼びかけた。
「おれたちの記憶はすべて、出鱈目なのか? おれとおまえとのことは夢なのか? おれがここにいるのも、いや、考えていること自体がおれの意志ではないのか? 何もかも、おまえの見ている夢なのか? ――もうひとり[#「もうひとり」に傍点]の」
治安官はゆっくりと、腰のミサイル銃に触れた。
指先が銃把に触れてためらい、何度かそれを繰り返したのち、思いきり銃把を握りしめた。
抜いた。銃口がシヴィルを向く。すべて一動作であった。
銃口が震えたのは、むしろ当然であったろう。
その手に、そっと白い手を重ねたものがある。
「アイ・リン!?」
驚愕に見開いた眼の中で、治安官の妻はひっそりと|微笑《ほほえ》んでいた。
「どうして……いつ、入ってきた?」
「もう、やめて」
とアイ・リンは言った。哀しげに。
ふと、治安官はもう長いこと、妻のこの表情ばかりを見てきたような気がした。
「もう、始まってしまったわ。あなたが、何をしても無駄。ここにいるシヴィルはシヴィルではないの」
「違う――おれは知っているぞ」
「知らないのよ、何も。自分のことさえも。誰を愛しているのかも」
「おれは……おれは、おまえを……」
「嘘よ」
とアイ・リンは薄い笑みを含んで首を振った。
「あなたは、愛そうとしているだけ。でも、それも、シヴィルがそうさせている[#「シヴィルがそうさせている」に傍点]の。私があなたを憎んでいるのもそう[#「そう」に傍点]。わかる?――私、いまとても幸せ。もっとも、これもシヴィルの力だけれど……」
「違う」
と治安官は首を振った。いつの間にか滲んでいた汗が、きらめきつつ宙に舞った。
「違うぞ。――おれは、おれだ。おれの心でおまえを愛している。おまえは、おまえの全身でおれを憎んでいるんだ」
アイ・リンは無言だった。夫を見つめる眼に、光るものが滲んできた。
形容し難い恐怖が治安官を貫いた。
恐怖は口をきいた。
――おまえは何なのか?
おれは、治安官だ。名前はクルツ・ボーゲン。年齢四十八。体重七一キロ。身長一八九センチ。好きな食い物は……
――おまえは何だ? おまえという存在は、どうやってここにいる[#「ここにいる」に傍点]?
生まれたからだ。母親の胎内から。
――母親は何処にいる? 母親とは何だ?
生母だ。墓は村はずれの墓地にある。
「クルツ――あなた」
と妻が呼びかけた。
「もう、あきらめて、私たちなりの運命に従いましょう。それがいちばんいいことよ」
「ふざけるな」
と治安官は呻いた。総毛立っていた。恐怖より怒りのもたらす現象であった。
「どんな運命だろうと、それが他人に与えられたものなら、おれは断固として服従などせんぞ。おれはおれだ。おれの考えで生きる」
「そうよ。生きること」
とアイ・リンはやさしくささやいた。
「私たちがもうひとりのシヴィルの夢であろうとも、私たちにも生きる権利はあるわ。この世界にも。お願い、力を貸して」
治安官は眼を閉じた。
妻の願いは真摯な熱情に溢れていた。それが、彼女自身の意志ではないにせよ。
留置場のDを訪れる前、院長に打ち明けられた内容を彼は思い出した。
この村も、この世界も――我々自身が夢なのだ。
シヴィルの見る夢。一度醒めれば、うたかたのごとく消えてしまう存在――それが我々だ。
この世界で眠るシヴィルでさえも。
なお信じようとしない彼に、院長は、シヴィルの頭部に接続した機械を操作し、彼女の姿を現実化させて見せた。
それが、彼女の夢の中の自我を|複写《コピー》したものであり、二秒ともたずに消えていってからも、治安官はなお、不審の塊と化して立ち尽くしていた。
そして、今――
「嘘だ」
と彼は呻いた。
「お願い、力を貸して」
とアイ・リンが哀訴した。
「私たちが、存在しつづけるために……」
「何になる? それが何になる? ……もしも、おれたちが、もうひとりのシヴィルの見る夢だったとしたら……」
院長の言葉が甦った。
――我々が夢である以上、存在するためには、シヴィルに夢を見させつづけねばならん。あのハンターは、それを妨害しに来たのだ。
――なぜ、そんなことがわかる?
――……それは……
「シヴィル?」
と治安官は絶叫した。けたたましい叫びは、彼に信じることを貫く決意を与えた。
親指でミサイル銃の撃鉄を起こす。
「やめて」
とアイ・リンが叫んだ。
「なぜ怖がる? そのシヴィルは、もうひとりのシヴィルが生んだ夢だと院長は言った。おれたちと等しく」
「私たち、消えてしまうのよ」
「眼覚めがシヴィルの望みなら、それもよかろう」
「どうして、そんなことをするの?」
「どんな感情も、他人から与えられたものだと言ったな。ならば、おれは、本当にシヴィルを愛しているかもしれないじゃあないか。このシヴィルが夢ならば、夢の中で眠る夢を見ているならば……その夢を殺せば、眼を覚ますかもしれん……」
「あなた!?」
声を合図のように感じて、治安官は|引き金《トリガー》を引いた。
炎はベッドを紅蓮の色で包んだ。
治安官は茫然とミサイル銃を見つめた。
シヴィルは安らかに眠っていた。炎は跡形もない。
――救いがあるとするならば、この世界が、シヴィルの夢から離れて、独自の意志を持ったことだろうな。
院長の声が再度甦った。
――世界は滅亡を望まぬ。わしは、そのために働くことを命じられた。
治安官は武器を下ろした。
あのハンターの冷たい美貌が胸の中に湧いた。不思議な安らぎを治安官は感じた。
彼だけは、別の存在なのだ。
ミサイル銃がゆっくりと下がっていった。
「あなた……」
妻の呼びかけにも答えず、治安官はゆっくりとドアの方へ歩きだした。
「何処へいらっしゃいますの?」
「おれは村を出る」
「どうやって?」
「わからん。だが、何千回でも堂々巡りをやってみよう。そのうち、死ねるかもしれん」
「……」
治安官の姿を白いドアが閉ざした。
「あなた……」
アイ・リンは膝をつき、すすり泣いた。
夫の心が、決してシヴィルを離れないと知りながら、今日までやってきた。
シヴィルのもとへ通う夫を見送りながら感じた怒りも哀しみも、歳月がいつか呑み込んでくれると信じていた。
ようやく、慣れだしたと意識するまで三〇年かかった。その結末が――いま。
「|酷《むご》い夢だな」
肩の上で院長の声がした。
「あの人は……」
「やむを得ない。――な?」
アイ・リンは両眼を閉じてうなずいた。涙が頬から離れ、膝の上へ落ちた。
3
闇が世界を支配すると、人々は過去へと戻る。一万年に及ぶ黒い生物たちの記憶は遺伝子に組み込まれ、夜鳴く凶獣たちの声が、その生み出す恐怖をさらに増幅する。
夜はなお、人々のものではない。
ただひとつ、この小さな村を除いて。
樹々の間には灯がきらめき、小道には恋人たちの長い影が揺れ、笑いさざめく声はいつまでも絶えることがない。
それが、今夜は違った。月明かりの道に人影はなく、家々は扉を閉ざし、人々は炉辺で身を寄せ合い、身じろぎひとつしないのであった。
そこに形だけがあるように。
村人という村人が、ひとりの男の動きに、じっと耳を澄ませている。
満身に月光を浴びて、Dは眠っていた。
あの空地の一角である。
サイボーグ馬を縛りつけたオオカンバの幹にもたせかけた上体は、光に燃え上がるようであった。
数分前に眼を閉じ、すぐ眠りに落ちた。
青い館の主人に再び、招いた理由を訊きに向かったのである。
一陣の風が、その身体を吹いた。
Dの眼が開いた。
少しして、道の奥から鉄蹄の響きが伝わり、人馬の姿が空地へ踏み入って来た。
真っすぐDのもとへ近づく。
Dは立ち上がろうともしない。
「やはりここか」
治安官であった。
「夢で会えたか、本当のシヴィルに?」
旅人帽のひさしを軽く持ち上げ、Dは治安官の剛直な顔を見つめた。
「ようやく、わかったか?」
と訊く。
「ああ」
治安官はうなずいた。
「君はいつから知っていた?」
「君とシェルドン婆さんの家を訪れたときだ。おれは、青い花びらの浮いたお茶を飲んだ。あとは積み重ねだな」
「どうやるかはわからんが、院長はバイオ|兄弟《ブラザース》を呼び寄せる気だ。きいたことはあるか?」
こう尋ねて、治安官は苦笑した。この世界の知識が、Dのものと合致するかどうか判断しかねたためである。
Dは何も言わなかった。
知識がないのではなく、どんな相手だろうと、この青年には空気のようなものなのだと治安官は思った。どれほど苛酷な日々を送って来たのか。――そう考えたとき、胸中の重黒い|澱《おり》が急に消失したように感じられ、治安官は我知らず微笑した。
「それだけだ。――起こしてしまったな。シヴィルに会ったか?」
訴えるような眼差しに、Dは首を振った。
「いや」
「まだ、眠っていないのか?」
「夢は見なかった」
「……?」
「院長が使っていた機械のせいだろう」
「すると、君の見た夢は、この世界のシヴィルが見ている夢なのか?」
「多分」
「同じかね、眠っているあの娘と?」
Dはうなずいた。
「青い光と白いドレスがよく似合う」
少しの間、Dを見つめ、治安官はありがとう、と言った。
「院長とシヴィルは、あの病院の地下にいる。――それだけを告げに来た。達者でな」
「何処へ行く?」
「村を出る。出てどこへ行けるかもわからんが、やるだけやってみるさ。そのうち、シヴィルが夢から醒めれば、それもよかろう」
「達者でな」
「君もな」
治安官は馬首を巡らせた。
その姿が道の奥に消えるまで、Dは見送っていた。
シヴィルに招かれた理由を訊くには、病院へ行くしかないようであった。
「さあて、行くかの?」
と左手が声をかけた。
「他に手はあるまい」
「あの娘と話し合ってみたらどうだ? そのまま眠れ、と説得するのじゃ。どんな手を使っても、奴の口づけの効果を消すことはできんぞ。眠り男に愛された娘は、二度と眼を覚まさん。院長や治安官にもそう言って安心させてやれ」
Dは懐から短剣を取り出し、ゆっくりと地面を掘り返し始めた。
「娘は、起こしてくれと言わないかもしれん」
戸惑う気配があった。
少しして、何処となく浮き浮きしたような声が、
「ほう、きれいな顔をしてつくづく凄いことを言いよる。そうなったらどうする気じゃ?」
声は喉にものの詰まったような響きを上げて止まった。
Dが左手を、掘り返した黒土の山へ押しつけたのである。
と、誰の耳にも疑いようのない咀嚼音が鳴り始め、土の山はみるみる小さくなっていった。
言うまでもない。地水火風――万物の四|元素《エレメント》をエネルギーとする人面|疽《そ》が、栄養を補給しているのだ。
ただし、これはやけ食いと称すべきであろう。
Dは前方の虚空に眼を据えたまま動かない。やがて、大げさな咀嚼音が絶え、下品な舌舐めずりとゲップが闇を震わせた。
「対策は講じられたかの? この世界で自由に行動できねば、あの娘の願いを訊くこともできんぞ」
意地悪そうな声が告げた。
「院長は、この世界のシヴィルの脳にちょっかいを出しておる。おまえの夢が、あの娘の見ているものということになれば、もう会えんかもしれんな」
それから、柄にもなくもの想いにでもふけるかのように――
「それならそれで、すべては丸く収まるのではないかな。夢は夢でいたくないのじゃろうて。娘にとっても、この世界、さほど悪い夢とも思えんが」
「見ているのは、おまえではない。おれとも違う」
Dは音もなく立ち上がった。
月光に冴える横顔は、どんな夢でも驚くほどに冷たく、美しかった。
最後のカーブが近づいてきても、ことさら異常は感じられなかった。
また、堂々巡りか。
それなら、それでよかろう。
治安官は構わず進んだ。
周囲の光景に変化はない。
曲がり切った。
村はずれの柵とドーム状の哨所が見えた。
抜けられそうだった。
哨所には二四時間、三交代で村の若者が詰めている。
覗いてみたが、誰もいなかった。人間が詰めていれば、息遣いみたいなものが感じられるのだが、それもない。最初から無人の、冷たい気配だけが治安官を刺した。
これも夢かもしれなかった。
馬から降りて、哨所の中へ入り、柵のコントロール・ボタンを押す。
低いウィンチの唸りを上げて、四条に組み合わされた遮断棒が持ち上がった。
再び馬にまたがり、手綱を手にしたとき、低いいななきが治安官の耳から全身を駆け巡った。
二つ。――馬の声と別の動物のものだ。
十二、三メートル前方を、白い帯のような街道が横切っている。
その右側――南の方へ、治安官は眼を凝らした。
このくらいの闇を見透かせないようでは、治安官は務まらない。滅多にないことだが、不用心な夜の旅人の救出も、給料の内なのだ。月も明るい。
それなのに、近づいてくる二組の影はどす黒い闇のうねりを後に引いているようであった。
片方は、馬に乗ったコート姿の男だ。
もう片方――黒い四つ足の影の上に腹這いになった姿は、最初、ただの|瘤《こぶ》としか見えなかった。
治安官の記憶が、その正体を告げた。
軽く馬の腹を蹴って、彼は街道へ出た。
奇妙な影はあわてる風もなく近づいてくる。
「止まれ」
七メートルほどの距離をおいて治安官は呼びかけた。
申し合わせたように二つの歩みが止まる。
|精神感応《テレパシー》でも使っているのではないかと思わせる見事さであった。
「バイオ|兄弟《ブラザース》だな」
影は答えない。
「おれはこの村の治安官でクルツと言う。真っすぐ街道を北へ抜けろ」
言い終えてすぐ、二つの反応が生じた。
馬上の男が声もなく笑い、片方――四つ足の影が牙を剥いたのである。
前方に押し出された鼻面の両脇に緑の光がきらめいた。
眼であった。
残虐な唸りを洩らす黒豹の背で、
「街道を通り抜けろとよ、兄貴」
嘲るような声がした。嘲りは、怒りのカムフラージュであった。
「村へは入るな、とよ、兄貴」
めりり、と肉の裂けるような音が、声の下から上がった。
腹這いとしか見えなかったそいつが、立ちあがったのだ。黒豹の背から、自分の腹の肉を引き剥がしつつ。
「おれたちは、呼ばれてきた」
と馬上の影が言った。
治安官に負けぬ上背と肩幅を誇る偉丈夫である。声は大地のように重く昏い。
「あんたも知っているはずだ。用件のひとつはな」
「そうとも、ひとつはな」
と黒豹の背に乗った男が言った。上から下まで黒ずくめの小男である。下半身は黒豹の背と融合しているのか、違うのか、見分けがつかない。
「ほう、あと幾つある?」
と治安官は訊いた。右手が上衣の裾をめくって、ミサイル銃の|銃把《グリップ》に触れた。
バイオ|兄弟《ブラザース》の残忍な手口は彼も知っている。辺境で一、二を争う危険な殺し屋の手にかかったものは、五体を引き裂かれ、内臓までも黒豹の胃に収められた後で、大地に撒き散らされるのだ。
勝てるか?
自信はなかった。
二人だけならともかく、彼の背後には別の意志が控えている。
「ひとつ[#「ひとつ」に傍点]、だな」
と馬上の男が答えた。
「あんたを始末することさ」
治安官は馬の腹を蹴った。
同時に、向こう側の二人も前進を開始する。
勝負は一瞬で決まる、と治安官は判断した。
確実に二組を遠ざける距離は減り、その間の闇ばかりが音をたてて凝固し始める。
どっと治安官の顔に殺気が吹きつけた。
左手から黒豹が跳躍した。闇の跳躍であった。
爪が空中で三〇センチも伸びる。
その視界から治安官の姿が消失した刹那、背の小男は一気に空中へ跳ねた。
「おお!?」
驚愕の叫びは小男のものであった。
治安官の跳躍を見越した上での攻撃であったのに、右手に閃かせたナイフは、ミサイル|銃《ガン》の銃身で撥ね返され、あまつさえ、その一撃を額に受けて彼はのけぞった。
空中で、治安官はむしろ、地上の敵を捕捉しつづけていた。
小男――弟だろう――の額を叩き割ったミサイル銃が馬上の大男へ向けられ、火を吐いた。
「はあっ!」
次の瞬間、馬と男は大地を蹴って疾走に移る。
レーザー探知ユニットを装備したミサイルは、緩やかなカーブを描いた。
着地しざま、治安官は馬の背で反転した黒豹へも第二弾を放った。
黒豹は避けなかった。
その額へめり込んだミサイルの炎がふっと消えた。
不発か。――それとも、この世界の救援か。
第三弾を。――反射的に動いた指は、治安官の胸奥へ吸い込まれた青白い炎を発見しても止まらなかった。
地獄の炎がようやく収まったとき、いままで治安官の存在していた位置で、黒い影が立ち上がった。
馬上の男――兄であった。
ミサイルはこの男を狙ったのだ。
だが、走り去ったはずの標的が、まるっきり反対の方角から出現するとは。
「てこずらせやがって」
と黒豹の背で、弟が額に手をあてたまま吐き捨てた。
滴る血を舐め取る。異様に長い舌であった。
「腕が落ちた、じゃ済まんぞ」
兄が責めるように言った。
「ああ」
「次の相手は大物だ」
弟の動きが停まった。代わりに、黒豹が牙を剥く。威嚇の唸りが洩れた。
月だけが明るい。
二つの影は、すぐ村へ入った。
「きつくなってきたな」
と院長が、パネル上の青いラインを見ながらつぶやいた。
「やはり、シヴィルの抵抗も激しい。もともと、この世界は彼女のものだからな」
「大丈夫でしょうか?」
と訊いたのは、治安官の妻アイ・リンである。
「この機械は、私たち[#「私たち」に傍点]のシヴィルにしか通用しないのでしょう。もうひとりのシヴィルが干渉してきたら、どうなります?」
「わからん。考えたくもない。そうならんように祈るしかあるまい。我々に祈る権利があるとしてだが」
「せめて、生きる権利ぐらいは欲しいがね」
と窓際で、愛用の揺り椅子に腰かけたシェルドン婆さんが言った。
「あたしゃ、じきおねんねするからいいけどさ。もっともこの世界の都合で何度も生き返らされちゃあ、おちおち寝てもいられないけれど。――一体、どうなるんだいこれから? 誰があたしたちの運命を決めるのさ? この世界[#「この世界」に傍点]かい? あんたたちの言う、もうひとりのシヴィルかい?」
顔を伏せて何事か考えていたアイ・リンが、思い詰めたような声で言った。
「D――あのハンターに事情を話して協力を求めてはどうでしょう? シヴィルの願いをきかないで、と」
「そいつは無駄骨だと思うよ」
とシェルドン婆さんが首を振った。
「シヴィルがわざわざ招いた相手だ。あの男にその気がなくても、シヴィルの眼を覚まさせちまうさ」
「わしもそう思う」
と、院長が水晶状のエネルギー体を調整しながら言った。
「眼を覚ます……」
とアイ・リンはつぶやいた。
「貴族の口づけを受けたものの眼を覚ます……できるのかしら?」
「他に何の用がある?」
院長が言った。
口を開きかけたアイ・リンを、婆さんの鋭い声が止めた。
「考えるだけにしておおき。あたしゃ、ききたくないよ」
沈黙が降りたとき、壁にかけたインターフォンが小さく鳴った。
院長が立ち上がり、カムを押して、
「何事だ?」
と訊いた。
看護婦の声は小さかったが、残る二人にもよく聴こえた。
「――来たか」
と、院長はつぶやいて、わかったとカムを戻した。
「どうするの? シヴィルの夢を消したままでおけて?」
アイ・リンの問いに、院長は首を振った。
その動きに含まれたものを、彼女は絶望と解釈したくはなかった。
「打つ手はあんのかい?」
と婆さんが揺れながら訊いた。
「やってみるまでだ」
院長は機械に手を伸ばした。
[#改ページ]
第六章 還らざる日々
1
Dは病院へ入った。
無人のホールが白々と迎えた。白い照明光は水底の静けさを生んでいる。
「ようこそ」
背後で声がした。振り向く眼前に看護婦が立っていた。
「院長がお待ちです。ご案内いたしますわ」
一礼して歩き出す後にDはつづいた。
「わたくしも、あなたの夢を見ましたわ」
Dは無反応だった。
この看護婦も憎んだのであろう。
Dは、この世界に生きとし生けるものすべての敵であった。
貴族すら慈しんだ世界にも、彼の居る場所はないのだった。
二人はエレベーターに乗った。
すぐ下に着いた。
ひと気のない廊下が白色光の下をつづいている。果てはないように思われた。
看護婦の足音だけが朽ちたような空気に響く。
その足が止まると同時に、周囲の光景が歪んだ。
光が満ちた。自然光であった。夜の地下道を白昼の野に変えるのに、どんな力が必要か。
眼に泌みるような緑が世界を埋めていた。草原を走る少年と少女は、彼方の森をめざしているようだ。
光と緑草が二人を祝福していた。この世の幸いはすべて君たちに従うという寛容の意志。
少女が振り向いた。シヴィルだった。
少年も振り向いた。治安官の面影は色濃く残っていた。
笑い声がきこえた。
|人間《ひと》は誰でも、こんな夢を見たがるだろう。
Dは森の中に立っていた。
甘酸っぱい匂いが鼻孔を埋め、木立は紅く染まっている。晩秋であった。
足元を熟した林檎の実が転がっていった。
それを追うシヴィルが、Dの身体を突き抜けて走り去る。
あらゆる木の枝から生命へと結実した塊が下がり、風の運ぶ光に赤々と輝いていた。
篭を背負った農夫たちが、にこやかにシヴィルを眺め、歩み去っていく。今夜は分厚い林檎のパイが食卓を飾るだろう。
再び光景が変わった。
鐘の|音《ね》が舞い落ちる雪片を震わせ、黒いオーバーの塊が三々五々、列をつくって骨組みだけの建物へ進んでいく。公会堂の建前らしかった。
その中に、治安官とシヴィルがいた。院長も、少し離れたところに、アイ・リンもシェルドン婆さんも立っていた。
雪が彼らの頬を打ち、オーバーを白く染めた。白い模様はなかなか溶けなかった。みな、白い息を吐きながら、眼を輝かせて村長や校長の演説に聴き入り、村の未来を祈りつづけていた。
村は次第に大きくなった。
老人は死に、子供たちは成長し、雲は流れて、古い家は建て直された。
気象コントローラーの故障による被害も、ここでは皆無に近く、事故で鬼籍へ入るものも極めて少なかった。
春の夜、子供たちは白いワンピースに着換え、手に手に花火草を持ち、七彩の火花を夢のように淡く引きつつ、大通りをダンスパーティの会場へと急いだ。
会場はあの空地だった。
不思議なことに、シヴィルは一度も踊らず、月明かりの下でパートナーと戯れる男女を、羨ましげに眺めていた。
若い治安官はアイ・リンと踊り、踊りながらシヴィルの方を眺め、そして、アイ・リンは哀しげに、彼の胸に頬を押しつけるのだった。
村は平和だった。
Dは墓地にいた。白い墓石が、葬った人々の思いやりを示して整然と並んでいた。中に幾つか、苔むさぬ大理石の墓があり、夕暮れどきともなると、子供たちが訪れて、住人の名を呼ぶのだった。
さらに時がたち、昼の名残の最後の一片が消えると、墓石の下から青い影が立ち上がる。
そして彼らは、子供たちと手をつなぎ、或いは輪になって、貴族の世界の話に興じ、村人のダンスとはまるっきりちがった優雅なステップと、林檎パイの作り方を教えてくれるのだった。
時折、彼らの誰かが飢えに苦しむと、村人たちは嫌な顔ひとつせず手首を切り、真紅の液体を詰めたミルク瓶を、汗みずくになって配達した。
思いやりと共存と|労《いたわ》り。――ひとつの理想の実現がそこにあった。
それが夢ならば。
醒ましてはならない夢であった。
かすかな声がDの耳に届いた。
かすかな声は、いつも哀しげだった。
なぜ、来た?
とそれは訊いた。声ではなかった。問いであった。
なぜ、おまえが来た? ここは平和な村だ。おまえの理想ではないか。
Dは答えない。
美しい精緻な立像のごとく。
おびただしい眼が、それを見つめていた。
治安官が、院長が、シェルドン婆さんが、ホテルの主人が、男が、女が、子供たちが、そして、青白い肌と白い牙を持った男たちが。
シヴィルが。
ここに留まれ。
と彼ら[#「彼ら」に傍点]は言った。
ここで平和に暮らすがいい。誰もおまえを忌避したりはしない。ここは奴がつくった世界だ。
「その通りだ」
初めて、Dが応じた。
「ひとりの娘の血を吸ってな。その娘はどうする?」
やむを得ん。ここは美しい村だ。それが彼女の夢なのだ。
「奴[#「奴」に傍点]の夢かもしれんぞ。あの娘は、おれを招いた。依頼の内容は、まだきいていない」
受ける気か?
「わからん」
おまえは吸血鬼ハンターだ。余計な真似はよせ。
Dの眼に不思議な光が宿った。
「その通りだ」
と彼は言った。その言葉にどんな感慨が含まれていたか、訴えるように彼を見つめるひたむきな眼差しが、不意に凍りついた。
爛! と輝く。
次の瞬間、周囲を暗黒が覆った。
Dと――もうひとりがそこに残された。
看護婦であった。
「案内してもらおうか」
とDは静かに声をかけた。
看護婦が振り向いた。シヴィルの顔で。
「出て行って、D、この村から。それで、すべてが収まるわ」
「君はどの[#「どの」に傍点]シヴィルだ?」
「私は私よ。――お願い。あなたが何かしたら、この世界の私[#「この世界の私」に傍点]も消えてしまう。何も言わずに去って」
Dはゆっくりと歩き出した。
「D」
シヴィルの形相が変わった。
Dは歩き出した。
「奴め、来よったわ。脳操作もうまくいかんし、少々厄介なことになった」
「どうするんだね?」
「この世界にまかせよう」
「でも――ここはもともと、シヴィルの夢が作り出したもの。自由になるのですか?」
「わからん。シヴィルの抵抗も強いのでな」
機械を構成する水晶片が淡い紫の光芒を放っていた。
悠々と歩み去るDの後ろ姿へ、看護婦が右手を振り上げる。
いつ抜いたのか、ナイフが光った。
光の弧が数センチといかぬうちに、銀光が細い胴を薙いだ。
看護婦も消えた。
この世界が生んだものか、シヴィルの脳を操作しているものの手による幻像か、Dにも判断がつかなかった。
再び、廊下が蜿蜒とつづいている。
Dは足を停めた。
何もなかったはずの壁に、幾つものドアが並んでいる。手近のひとつを開けた。
闇の中に、シヴィルの姿が浮かんでいた。
「この村を出ていって」
Dは無言でドアを閉じた。
次のドアを開けた。
周囲が白く翳った。霧である。濃密な水蒸気が肌に粘り気を残した。
「気ィつけい」
と左手が言った。
「この成分は、ちと分析できん。夢酵素が混じっておる」
Dは背後を振り返った。廊下も霧の中に消えている。方角は消滅していた。
Dはドアのあった方へと進んだ。
かすかなきしみが鳴った。
聞き覚えのある音の正体は、すぐにわかった。
揺り椅子の上で、シェルドン婆さんの身体が揺れていた。
グレーの膝掛けの上で、盆にのせたティー・カップとポットが湯気をたてている。
立ち昇る湯気が、上空で空の色に着色されていくのをDは見てとった。
これも幻であろう。
Dの左手がかすんだ。
老婆の左胸から白木の針が生えた。Dが放ったものである。
それは細かな音を立てて揺り椅子の上に落ちた。老婆の姿は消滅していた。
「夢見るものの力ほど強くはないようじゃの」
と伸ばした左手が言った。
「じゃが、油断は禁物。わしらは、やられたからといって消えるわけにはいかん。――来るぞ!」
その意味は、上空に広がる水色の煙に向けられていた。
Dが呼吸を止めた刹那、それは重さを持つように降下し、上半身を押し包もうとした。
銀光が走った。
十文字の銀道に分断された青い煙は、しかし、すぐに融合し、跳び退くDめがけて滑空した。
さらに跳ぼうとして、Dの足は床に固着した。
床の上にシェルドン婆さんが横たわり、Dの足首を掴んでいるのだった。
Dの上体は青く変わった。
肌から滲み込む煙をDは感じた。
風が唸った。
青い煙は一線となってDの左手に吸い込まれていく。
白い世界が戻るまで一秒とかからなかった。
左手が咳込んだ。
手のひらの表面に、みるみる人の顔が浮かび上がってきた。
「くそう……この煙は……吸わなかったろうな?」
「浸透性だ」
Dは慌てた風もなく言った。
「いま、分析しているから待て。夢の素粒子レベルまで分解してみんとな」
途端に、げえ、と喉を鳴らして、小さな口が青い煙を吐いた。
煙草を吸っているようにも見える。煙はすぐ白い霧に混じり合って消えた。
「わかったぞ――こいつは!?」
左手が叫んだとき、Dの全身を異様な悪寒が包んだ。
ばりばりと音をたてて、毛むくじゃらの触手が全身から突き出る。体内の怪生物――それは、この霧と婆さんの青い花びらの芽が合成したものか。
触手はDの胸を腹を顔を突き破って蠢いた。
頭部を跳ねとばして、蜘蛛とも|蠍《さそり》ともつかぬ顔がのぞく。
Dの左手が、その首を掴んだ。
それは、地獄のような光景であった。
Dは左手一本で、体内に生じた怪生物を外へ引きずり出してしまったのである。
肉は裂け、骨は砕けた。
ぴしゃりと地面に着地したそいつの脳を、長剣が真っぷたつに割った。Dは平然と立っている。
「今日という今日は、おまえの力に舌を巻くぞ」
と声が感嘆した。
「この世界をあくまでも夢と認識しておらんかったら、今ごろ、ズダ袋じゃ」
Dは後ろを向いた。婆さんは影もない。
この若者は、見えない方角をも感知することができるらしかった。
慌てた様子もなく歩き出す。霧の中を歩いても、さま[#「さま」に傍点]になる若者であった。
数歩歩いて足が止まった。
前方に、アイ・リンが立っていた。
「D」
呼んだのか、つぶやきなのかわからない。
Dは再び歩きだした。
「待って――私は、あなたと会ったアイ・リンです」
非痛な叫びだった。そう言わねばならないのは辛いことだろう。友人を愛した夫とともに暮らし、夫がなお愛しつづけていると知りながら、黙々と家を守り――この女の真の姿は何処にあったのか。
それが役割か。
「どけ」
Dは静かに言った。
「おれは、シヴィルに会わねばならん」
「この村に留まるか、黙って出て行って」
「シヴィルに言うがいい」
「この村に――この世界にいてくれるなら、ずっと、私が――」
Dは歩きつづけた。
アイ・リンは動かない。
Dは肩に手をあてて押しのけた。この若者らしからぬ静かな押し方だった。
背後にドアがあった。
「D……」
背後でアイ・リンがつぶやいた。
「殺して……私を……」
Dはドアのノブを掴んだ。
背後で空気が激しく動き、Dの身体もまた動いた。
ナイフを握って突き出したアイ・リンの右手は、Dの左手に押さえつけられていた。
「お願い、D。……殺して下さい。私、自分では死ねないの。この世界が生き返らせてしまうから。でも、あなたに斬られるならば……」
D――死を招くものよ。
黒い手が動いて、アイ・リンは床の上に転がった。
低い嗚咽が洩れ出したとき、黒衣の若者はドアの奥に消えていた。すすり泣く女に一瞥も与えずに。
薄闇の病室であった。ベッドのかたわらにメカと院長が並んでいた。
「来た」
と院長は嬉しげに言った。
Dのことではなかった。
Dは振り向いた。
部屋の隅に、二つの影が湧いていた。
馬にまたがった巨漢と黒豹の背に伏せた小男である。
狭い部屋なのに、十分な距離があった。
「D――だな。噂はきいてる」
と馬上の男が言った。畏怖の響きがあるのは、その噂を信じているからだろう。
「おれは、ハロルド・B――兄だ。そっちは弟の」
「ダンカン・Bだ」
黒豹と小男の眼が妖異な敵意を湛えてDを見上げた。
「やっと間に合ったぜ。消されちゃ敵わん」
とハロルドが窓際から声をかけた。
「もっとも、ここでやられても、すぐ生き返らせてくれるそうだがな。――まさか、いまさら、この村におとなしく居座るとは言うまいな」
ハロルドは左手をコートの胸ポケットに近づけ、光るものをつまみ出すと、Dの足元に放った。
銀の星だった。
一瞬――部屋が凍りついた。
院長も、兄弟も、いや黒豹ですら、身の毛もよだつ戦慄のさなかで見た。――Dの両眼が血光を放つのを。
すっとそれが消えた刹那、音もなく黒豹が跳んだ。
下方から撥ね上がる銀光が、豹の胴体を両断し、Dは長剣を構えた。
いまの、空を切ったに等しい手応えを思い出したのである。
果たして――黒豹は壁際で、爛々と殺意の眼を燃え上がらせている。
両断されたはずの身体は、次の瞬間には、つながってしまうのだ。
黒豹と馬の背で、二つの顔がにっと笑った。
だが――
ずるり、と音をたてて、黒豹の上半身が床へ落ちたとき、馬上のハロルドの眼に、初めて真正な恐怖が浮かんだ。
「き……貴様……」
と呻いたのは、愛獣と運命をともにした小男――ダンカンの上半身である。
もうそちらには眼もくれず、Dの長剣は馬上の男に向けられている。
「一対一では難しいぞ」
低い声に、ハロルドが小さく首を縦に振った。
「ああ、おれたちも|鈍《なま》ったな。――吸血鬼ハンター“D”とさしでやろうなんて」
「まだだ。……まだ、終わってねえ……」
床の上でダンカンが呻いた。
大量の黒血を傷口から吐きつつ、Dめがけてにじり寄ってくる。
その右手の剣は、なお勝負を捨てぬ|証《あかし》だろう。
つ、とDが前進した。ハロルドではなく、ダンカンの方へ。
すでに這うしかない敵へ、なんという非情な刃か、斜めに下降した剣はダンカンの首を打ち、黒豹の頸部も切り落としていた。
間髪入れず、Dは空中へ跳ぶ。
黒血を塗りつけた刀身は、ハロルドの胸板を貫き、成す術もなく伏せる巨漢の首を切断していた。
傷口が血の奔流を放ったのは、Dが着地してすぐだった。
黙念と、Dは院長の方を振り返った。
「勝負あったか……恐ろしい奴よ。まさに、永遠の眠り姫が助けを求めるにふさわしい」
「おれには、眼を覚まさせることができん」
Dは淡々と告げた。
「どうすればいいのか、それを知りたいだけだ。ここの[#「ここの」に傍点]シヴィルの夢を取り戻せ」
「嫌だと言ったら、斬るか?」
返事はない。
すぐに院長はうなずいた。総毛立っている。
「たとえ夢でも、死ぬのは怖いて」
両手が機械へ伸びるのをDは見た。
そのDの胸へ背後から灼熱の刃が突き通ったのは、次の瞬間だった。
振り向く眼前で、ハロルドの顔が醜悪な笑いを浮かべていた。
「残念だったな」
ハロルドはウインクした。
「おれだけじゃない。弟も健在だぜ」
床の上で豹の頭部が牙を剥き、二つの胴がおのおの二本の足だけで立ち上がりかけていた。無論、それぞれの上にはダンカンの身体がある。
「おれたちはバイオテクノロジーとかいう超古代科学の落とし児でよ。細胞レベルからおかしな具合に変えられちまってるのさ。つまり、こんな風にな」
声と同時に、ハロルドは前方へ胸を突き出すようにした。
ひと皮剥けた、というが、まさしくその通り、半透明のハロルドが本体から分離して数メートル前方に浮遊し、みるみる実体の質感と色を備えたのである。
それにつれて、本体の方は急に色褪せ、質量を失い、水に映った像のようになると、音もなく消滅してしまった。
本体から虚像が分離し、もうひとりの自分をつくる。――いわゆる|二重存在《ドッペルゲンガー》が、このような形で実現するとは、Dですら想像もできなかったであろう。ハロルド・Bは虚像をもって敵の目を眩惑し、本体はその背後に忍んで必殺の武器を振るうのであった。
加えて、弟の方は、細胞の活性化を促進し、その結果、肉体が寸断されても独自の活動が可能な上、他生物と融合して自在に移動する。――こんな兄弟を相手に、誰が互角の戦いを成し得るか。
「最後だぜ、ハンター」
Dの素性を知っているのか、刺したナイフを抜かず、もう一本取り出して、ハロルドは振り下ろした。
その手が肩から断たれて床へ落ちたのは、次の瞬間だった。
心臓を貫かれたまま、後ろも振り向かず振り払ったDの一刀の仕業と知って、
「……貴様……ただのダンピールじゃないの……か?」
鮮血の噴き出す肩口を押さえて、ハロルドは苦痛と怒りに身を震わせた。
びゅっ、と空気を薙いで走った銀光をかろうじて避け得たのは、ナイフとは言え、やはりDが心臓を貫かれていたせいだ。
だが、わずかに身体をぐらつかせただけで、すぐに精妙無比な構えに移れたとは、何という恐るべき体力か。
ハロルドも――床上の不死者ダンカンですらも、驚愕の色を瞳に留めて後じさった。
右手で一刀を二人に向けたまま、Dの左手が背に伸びる。
短剣の柄を掴んで、ぐい、と抜き取った。
それなのに――胸から抜け出た刃は、逆に前方へ伸びたではないか。
Dの表情が一瞬、苦痛に歪む。
三つの物体がその身体へ跳んだ。
黒豹の首と、輪切りにされた二つの胴であった。
胴にはそれぞれ前足と後足が付随するが、首はどうやって跳ねたのか。
カッと剥き出された牙は|剣歯虎《サーベル・タイガー》のごとく湾曲しつつ伸び、首は空中で大きく反り返るや、Dの頭頂へ上顎を振り下ろした。
牙を支える上顎から鼻面の付け根まで、銀光が切り飛ばし、Dは音もなく空中に舞った。
ひるがえったコートが、二つの胴を弾き飛ばす。
着地寸前、視界が三六〇度逆転した。大地が上[#「上」に傍点]に、天井は下[#「下」に傍点]に――そのくせ、Dは大地めがけて下降[#「下降」に傍点]していくのだった。
平衡神経が狂気し、異常な感覚がDを襲った。
重力は下方――大地へ働いているのに、神経はその逆を告げている。
「やっちまえ!」
馬上から、ハロルドが叫んだ。
頭上から――Dの感覚では下方から、牙と爪が迫る。
牙は切断された上顎の先についている。
奇怪な物体としか言いようがなかった。
それを見事に弾き返し、――Dは膝をついた。胸から鮮血が滴り、床を染めた。
「この世界での死は、真実の死になるぞ」
院長の声が何処かでした。
Dの姿が歪んだのは、この瞬間だった。
「おおっ!?」
叫んだのは、院長ばかりではなく、ハロルド・Bも一緒だ。
彼の手を離れたナイフは、Dの身体を貫き、部屋の壁を縫った。
「消えた……」
ハロルドが茫然とつぶやいた。
その鼻先を銀光が迸り、ベッドの機械から水晶の一片を撥ね飛ばした。
「しまった!」
院長が叫んだ。
ハロルドの凶暴な眼が、猛烈な勢いでベッドの上へ落ちた。
白い、哀しげな|貌《かお》を見ても、野獣の光は消えなかった。
「どうしたんだ。その機械が狂ったんじゃねえのか?」
「いや」
と院長は首を振った。
「機械に狂いはない。世界の覇権が移りつつあるのじゃ。だが、破壊されては同じことだ」
「どうする気だ?」
床の上から、呪咀のような問いが湧き上がってきた。
ダンカン・Bであった。鼻先を切断された黒豹の頭の上で、血のような眼が院長を睨みつけている。
「このままでほっときゃ、あいつはシヴィルに会う。そうしたら……」
「おしまいだね」
と、シェルドン婆さんがドアのかたわらで言った。
「早いとこ、打つ手を考えたらどうかね? あたしゃ、どうでもいいけれど」
投げやりとものんびりとも取れる声に、院長は眉をひそめた。
「手はまだある。少し待つがいい。たとえ夢であろうと、世界というものは、そう簡単には滅びんぞ」
2
Dは空地にいた。
あの空地である。出て行ったときと同じく、草は月光に輝き、風に揺れている。
「断っておくが、わしの力ではないぞ」
左手から洩れる声に、Dは答えず、
「ひと眠りするか」
と言った。
あの病院からここへ運んだものが、シヴィルだと心得ているのだろう。彼女の夢を妨害していたメカは、消える寸前、Dの放ったハロルドの短剣で破壊された。
胸には朱の染みが広がっている。
「それもそうじゃの。この世界――二つの勢力が争っておる。どちらも手|強《ごわ》い。この分では、敵対する方もますます強くなるぞ。――とは言うものの、寝床を探さねばならんな。寝入りばなをつかれては一大事だ」
Dは振り向いた。
少し離れた木立に、サイボーグ馬がつながれていた。彼も運ばれたのだ。
「後はまかせたぞ」
そう言って、手近の木立へ歩み寄る。
「面白い。こんなところで眠る気か。いい度胸じゃが、一発で見つかるぞ」
声はどこか浮き浮きしていた。
Dがやられるのが楽しくて堪らないとも取れる。
Dにしてみれば、何処でも同じということなのだろう。
世界はすべて彼の敵なのだ。
だからと言って、恐らくは敵にもすぐ考えつくこの空地で再び休もうとは――やはり、尋常の若者ではなかった。
横になったとき、薄い唇から、かすかな溜息が洩れた。
胸の傷がこたえているのだろう。
無論、他人にはわからない。
苦痛も、歓びも、哀しみも、この若者にとっては、彼だけのものであった。
背の長剣を下ろして左脇の草むらに置き、Dは眼を閉じた。
すぐに青い光に包まれた。
ホールである。
甘哀しい調べがDの身体にまつわって流れ去った。
軽やかなのに哀しい音楽を、シヴィルはなぜ選んだのだろうか。
幾つもの人影がDの周囲を流れた。いつの間にか、ホールには人影が揺れていた。
優美な、夢見るようなステップ。
笑いさざめく声。
影のような男女の間を縫って、Dはホールの真ん中に出た。
動きが停止した。
踊り手は手を重ね合ったまま、談笑者はシャンペン・グラスを手に、永劫の固定に身を委ねていた。
その中に、ひとつだけ――
シヴィル。
ひっそりと立つ白い少女を、Dは無言で見つめた。
「もう、願いを聞いてもよかろう。――何の用だ?」
「殺して下さい」
何と言ったのか。
白い少女は。――美しい夢を見ながら。
殺して下さい。
シヴィルの黒い瞳の中に、Dの顔が映っている。
冷たく、美しく、いかなる感慨とも無関係に。
「このまま、踊りつづけたらどうだ? 夜はいつまでも終わらない。君の望んだことだ。奴は[#「奴は」に傍点]それを知って、君の血を吸った」
Dはかたわらの踊り手へ眼をやった。
男の闇色の顔に、口元の牙が冴えていた。
パートナーは――普通の女だった。
人間と貴族の夜会――手と手をつなぎ、やさしさと青い光に満ちて。
だが、奴がそれを知っていたとは、どういう意味か。
シヴィルの願いを叶えたということは、血を吸ったものもまた、それを望んでいたことにならないか。
その結果が――
「殺して下さい」
シヴィルはもう一度言った。
真摯な言葉だった。
怒りも哀しみも疲れもなく、彼女は心底それを望んでいるのだった。
「君が死ねば、すべてが消える。この世界も。ここを生み出すものも。そこを夢見たものも」
それは、確信を込めた言葉だった。
そのすべてを捨てて、少女は死を願うのか。
「殺して――」
Dは身をひるがえした。
その前に、白いドレスの裾を乱して、シヴィルが走り寄った。
「行かないで。行く前に殺して。だから、あなたを招いたのよ」
その手を振り払いもせず、Dはホールを出た。
「殺して」
シヴィルの眼に涙が光った。
ベランダの上で、Dは立ち止まった。
鉄門へとつづく煉瓦の道に、黒い影が立っていた。
弓と矢は、すでにつがえられていた。
「殺してくれなければ殺すか」
とDはつぶやいた。
それほどに死にたいのか。理想の夢を手に入れながら。
「お願い」
答えず、Dは石段を降りた。
弓がかすかに震えた。
唸り飛ぶ鉄の矢へ、Dの左手が走った。
小さな口がそれを食い止めたと知ったとき、黒衣の影は動揺の気配に全身を震わせた。
その間隙をついて、Dは一気に疾走した。
影の足が地を蹴ったその胸元へ、必殺の突きが伸びる。
それは、黒衣の胸もとを貫いた。
手応えだけを残して、男は鉄柵の前まで跳びすさっている。
Dは一刀を投げた。
愛刀を投じる――恐るべき技であった。
それは男の心臓を貫き、鍔を鉄棒にひっかけて止まった。
鉄柵の前に敵の姿はなかった。
柵の背後にいた。
鮮血の滴る左胸を押さえ、ゆっくりと森の奥へ後退していく。
刀を柵からはずし、Dは門を押した。
濡れた音を立てて、左手が矢を吐き出す。矢は煉亙の上に転がった。
門には鎖が幾重にも巻きついていた。
Dは右手を振り上げ、無造作に振り下ろした。
白い火花が飛んで、鎖は生命のない蛇のように垂れ下がった。
「行かないで」
鉄柵のきしみに女の声が混じった。
「殺してくれないと――私、あなたを――」
「殺すか」
とDは言った。
滅びるために殺す。
滅ぼさぬために殺す。
「人間だのう」
と別の声がつぶやいた。
一瞬、鉄柵が青い火花を噴いた。
Dの眉が曇り、柵を握った左手から紫煙とかすかな呻き声が立ち昇った。
「行かないで――お願い」
Dは押し開けた。
どっと風が襲った。
月光がちぎれ、木立が咆哮する。
ちぎれた木の葉が、つむじ風のようにDの周囲を巡った。
白い頬に微細な朱の線が走る。木の葉は鋭利な鋼片と化して、彼の肌を切ったのである。
コートの裾が黒い羽根のごとく広がり、唸りをたてて降りた。
木の葉はことごとく弾き飛ばされ、地面に突き刺さった。
「脅しならやめておけ。殺されたければ、そちらも殺す気でくることだ」
「そうすれば……そうすれば……」
シヴィルの声は風が運んできた。
「ほっほっほっ。酷いことを言う。おまえの本性がわかったぞい。――グェッ!?」
焼け爛れた左手を拳の形に握りしめたまま、Dは歩き出した。
「何処へ行こうというの?――眼を覚まさない限り、ここからは出られない。あなたの行くところはないのよ」
声は何処までも追ってきた。
行く場所はない。Dにとって、それはここに限ったことではなかった。
遠い空で雷鳴が轟いた。
ナンは空地へ入った。
青い月の晩である。
眼が冴え切って、どうしても寝つかれなかった。
ケインと喧嘩したこともある。
それが大した原因でないこともわかっている。
ベッドで眼を閉じると、あのハンターの顔が浮かんでくるのである。
胸の中に青い月が浮かんでいるようであった。
で、頭を冷やしに外へ出た。
庭で風に吹かれているうちに散歩したくなり、気がつくと、空地へ通じる小道の上にいた。
何をしに行くのか、はっきりとわかっていた。
空地へ入るとすぐ、Dが見つかった。
丈の高い木立に上体をもたせかけ、眼を閉じている。
シヴィルの館へ行っているのだろう。
嫉妬が湧いた。
足音を忍ばせて、そのかたわらに立つ。
そっと肩に手を伸ばしたとき、Dの眼が開いた。
茫然と立ちすくむナンを、深い色の瞳が見つめて、
「よく起こしてくれた」
と言った。
「え?」
ナンは眼を丸くしたが、夢の世界で、Dが足止めを食っていたとはわからない。
「何をしに来た?」
「あなた――血が!?」
「傷は治った」
「でも――ひどいわ。家へ来て。手当てしてあげる」
「ほっておけ」
Dは軽く眼を閉じ、すぐに、
「昼間の彼と仲直りをしたか?」
と訊いた。
「余計な――」
お世話と言いかけ、ナンは首を振った。
この傲慢冷血な美青年が、突如、どうしようもなく孤独で、疲れ果てているように見えたからである。
帽子も長靴もコートも、何でできているのか、ほつれも傷ひとつないが、それだけに、それをまとった彼の身の置きどころもない現実が、切ないほど痛烈に感じられるのだった。
安らかな夜など、この青年には一度もなかったであろう。
年頃の感傷だと思いながら、ナンの眼には涙が溢れてきた。
眼を拭って、再び開くと、Dの顔がこちらを見上げており、ナンは思わず赤くなった。
「どうした?」
「何でもないわ。怖い声出さないで下さい」
「今でも、おれが怖いか?」
「……」
「君だけが、おれを三度見た。なぜだか心当たりはないか?」
「何も」
Dは視線を離し、ナンはしまったと思った。
「ねえ――何をしてるかって訊かないの?」
おずおずと切り出してみたが、Dは答えない。馬鹿な質問をしたものだと、ナンは自分を呪いたくなった。
「寝つかれないので、散歩に出てみたの。別に、あなたに会いに来たわけじゃないわ。誤解しないで」
自分を傷つけるだけだと知りながら、しゃべらずにはいられなかった。後で凄まじい自己嫌悪に襲われることだろう。
「きれいな晩だ」
いきなり、Dが言った。
「平和な村にお似合いだ。いつも、こうしていたいか?」
何の意図かもわからず、ナンはうなずいた。そうしなくてはならないような気がした。
「私の生まれた村よ。他に、こんないいところはないわ」
「出たいと思ったことはないのか?」
ナンは月光を振り仰いだ。
「遠くの村へ?」
と訊いた。
「行きたいわ。でも、何があるか、わからない。怖くって」
「彼の方はどうだ?」
「ケインのこと?――あと一年もすれば、罠をはずしたトビハヤテみたいに村を出て行ってしまうでしょう。男の子はみなそうよ。何も知らないということが、ちっとも怖くないのね。いいえ、怖いから行くんだわ」
辺境の村を巣立つ若者は、それほど多くはない。地場産業を持たずに自給自足せざるを得ない村々にとって、若者たちは、かけがえのない貴重な労働力であり、彼ら自身も納得している以上、その大半は、村で成長し、年老い、永遠の眠りにつくのが|宿命《さだめ》であった。
それでもなお、村以外の世界を求めて旅立つ若者はいたし、村に留まる彼らの胸の裡にも、未知なる地平への憧れは、少年の熱い想いのように、いつまでも燃えているのだった。
「シヴィルはどうだった?」
Dは訊いた。声が月光をゆらめかせた。
奇妙な動揺がナンを襲った。
唇が震えるように動き、眠り姫の名を呼んだ。
眠り姫の彼女しか知らぬ娘に、Dはなぜ、こんな質問をするのか?
「わからない……」
当然の答えが返ってきた。
「でも……」
Dはひっそりと少女を見た。
「でも……あの娘なら……他所の土地へ行きたくても、じっとこらえて、この村で一生を終えたと思います。自分の子供が村を出て行くと言っても、困ったと思いながら、黙って見送ったでしょう。何よりも、あの|女《ひと》が願ったのは、平和な世界なのよ」
「この村は、普通の村々にくらべて、遙かに旅立っていく若者が多い。彼らから便りはあるのか?」
「ええ」
ナンは力強くうなずいた。
飛び立っていった若鳥からは、必ずと言っていいくらい、親元へ便りと送金がある。また、ほんの時折、実家のものが異境の子供たちに会いたいと願う頃合い――それを見すましたかのように、戻ってくることもあった。
Dは黙って聞いている。
何とはなしに、ナンは、彼がこの世界に別れを告げているような気がし、すぐに否定した。感傷などとは無縁の人間だ。
「私、あなたがなぜ呼ばれたか、わかるような気がする」
自分でも思いがけないほど、滑らかに言葉が出た。
「言ってもいい?」
「ああ」
「あなたが、この世界とも村とも無縁の人だからよ。だからどうする、というのはわからないけど、あなたを選んだ理由は、そのためだわ。シヴィルが眠りながら感じる歓びや哀しみ、この世界の希望や絶望、そのどれにも心を動かされない人だから。やって来て、去って行く。――そんな人」
言い終えてから、悪いことを口にしたかと思ったが、Dは気にした風もなく、前方を見つめている。
その端整な横顔を眺めているうちに、ナンの胸に、初めてと言っていいくらいの熱いものが込み上げてきた。
自分とは触れ合うこともない|人間《ひと》だと知りながら、だからこそ、大事な|男《ひと》と思っておきたい。相手にも、そう思って欲しい。
自分は村の誰よりも[#「誰よりも」に傍点]、Dと会っている[#「Dと会っている」に傍点]のだから。
一度、精神の深奥から湧き上がった想いは、理性の抑圧を軽々と撥ね退け、ナンの手を動かした。
もうひとつ、別の想いも。
Dの肩に白い少女の指が触れた。
ケインの面影が何処かに残っていたが、すぐに消えた。
「D――」
とナンは呼びかけた。
「もう、会えないかもしれないわね」
それは、根拠もない、しかし、極めて確実な想いだった。
たくましい筋肉の量感を感じさせる肩へ、ナンはそっと自分の頬をもたせかけた。
それくらいしかできない。
村の連中より、三日間、彼の顔を余計に夢見ただけなのだから。
Dは何も言わなかった。
ケインなら、胸に抱いて、髪ぐらい撫でてくれるのに。
「D」
何も期待せず、しかし、何かを求めてその名をもう一度呼んだとき――
ナンが弾かれたように打ち離れ、黒い風を巻き起こしつつ、Dは立ち上がっていた。
「下がれ」
とだけ言った。
鞭打つような苛酷な響きに森の中へと退きつつ、ナンはDと同じ方角へ眼をやった。
「父さん――」
思わず叫んだのは、まぎれもない父の姿を空地の出入り口に見たからだ。
そればかりか、
「母さん――ケインも!?」
三つの影はその声に気づいたか、顔を見合わせ、足早に近づいてきた。
「ナン――こんなところで何をしてる!?」
父の叱責に、ナンは顔をそむけた。
「寝床に行ってみたら。――心配で、ケインにまで来てもらったわ」
母に言われて、ナンはますます落ち込んだ。
「あんたが、誘い出したんじゃないだろうね」
火を吐くようなケインの言葉に、全員が彼の方を振り向いた。
少年の前にDがいた。
頭ひとつ彼よりも高い。
途方もなく大きな壁へ、しかし、ナンの恋人は精一杯挑んでいた。
「ケイン、その人は無関係よ。私が自分で来たの。――寝つかれなくて」
「言っとくけどな」
と少年は震える指をDに突きつけた。
「ナンとおれはいずれ結婚する。ただの風来坊が、おかしな真似したら承知しないぞ!」
「ケイン――やめて。そんな約束、した覚えないわ」
「およし、ナン」
と母親が止めた。
「とにかく、何もなければいいの。さ、家へ帰りましょう」
「二度とこの辺をうろつかんでもらいたいものだな」
と父親がDを睨みつけながら言った。
「おれは、嫌だ」
とケインが首を振った。
「恋人を夜中に連れ出されて、黙っていられるか。おい、おれと決闘しろ」
ナンは全身が引きつるのを感じた。
「何ですって――ケイン、やめて!」
身の毛もよだつ台詞は、その次にやってきた。
「よかろう。やってみろ」
ナンは愕然と父を振り返った。
いつもと変わりない厳しい表情が、凄惨な恐怖を娘の顔に貼りつけた。
「父さん!?」
「駄目よ、いらっしゃい」
母の手が肩を掴み、ナンは後方へ引きずられた。まさか――母親まで!?
「ほれ」
と父親がケインに斧を手渡すのが見えた。
受け取ると同時に、ケインが数歩下がり、父親も後退する。
Dは立ったままだ。
母親の力に抵抗するのも忘れ、ナンは立ちすくんだ。信じ難い悪夢を見る思いだった。
頭の中に、そのとき、異様な色の光が飛び散った。
――悪夢。夢……私は――
奇声が双眸の焦点をDに向けた。
ケインが斧を打ち下ろしたのだ。空を切った。
動いたとも見えず、Dは軽やかに草の上を移動している。
ぶん! と空気がつぶれた。
横なぐりの一閃が黒衣の胴に吸い込まれたと見えた一瞬、下方から銀色の光が撥ね、ケインの手首が斧ごと消滅した。
ナンは息を呑んだ。
獣のような悲鳴を上げてのけぞるケインを無言で見下ろすDの背後から、別の影が近づく。
「父さん!?」
叫びより、躍りかかった父と、その胸を貫く剣の速度が早い。
Dの背にもたれかかるようにして、父の手から隠し持った山刀が落ち、口から苦鳴が洩れた。
地面に伏したときは、もう、こと切れていた。
「父さん――何てことを!?」
ひと振りして刀身の血を払い落とし、Dは無言で馬の方へ歩き出した。
「殺したくはないが――おれもまだ、死ぬわけにはいかん」
言葉だけが夜気に残った。
何も脳裡に浮かばず、母の腕の中で立ち尽くすナンの耳を、ほどなく、馬の蹄の音が遠ざかっていった。
3
「どうするんじゃな?」
村はずれへと疾走するDの左手が、笑いを含んで訊いた。
「眼覚めんとするもの、眼覚めさせまいとするもの――どちらも本腰でかかってきよった。しかも、どちらもおまえの生命を狙っておる。滅びぬためと、滅びるために。因果な男よ。どんな星の|下《もと》に生まれた」
「村を出るぞ」
とDは前方の青い闇を透かしながら言った。
「無駄じゃ。ここは、夢の世界だ。夢見るものが望まぬ限りは」
「風を吸え」
風刃のごとき言葉であった。
すぐに――
吹きつける風に挑むがごとく横へ伸ばした手のひらが、ごお、と凄まじい吸引の音をたてた。
「このまま抜けるぞ」
告げた相手は手のひらか自分か。Dの足に横腹を叩かれ、馬は狂ったように疾走した。
Dが右方を向いた。
すぐ脇を黒いものが並走していた。
黒豹と――その上にまたがるダンカンと見た刹那、Dの右手が閃いた。
手綱が宙に浮く。
白木の針は精確無比にダンカンの身体を縫った――
次の瞬間、疾駆する身体は三つに分かれ、そのすべてがDめがけて空中へ跳んだ。
降り落ちる銀蛇のごとく、牙と爪が伸びる。
そのすべてが美しい響きとともに撥ね返され、空中で新たな陣形を整えんとよろめく無防備な動きを縫って、再度、剣光がきらめいた。
三つの身体が今度は縦に両断され、さあっと血の霧が吹き|煙《けぶ》る中を、Dはすでに十数メートル先を走っている。
その後を、今や一本ずつの肉塊と化して前足と後足とが追うが、距離はみるみる開いていくばかりだ。
前方に丈の高い木の柵が見えてきた。
村はずれである。
Dに、脱出の勝算はあるのか?
左手が前方に伸びる。
手のひらに浮き出る人面――その唇が尖った。
風が唸った。
さっきは吸い、今は吐く。その間に、手のひらの内側でどのような魔的な処理がなされたのか、前方の光景は、このとき、霧のごとく揺れ始めた。
嵐に吹きちぎられる薄紙のように、柵も、彼方の森もかすむと、その――距離も定かならぬ奥に、別の光景が見えた。
おぼろな、それこそ夢のような木立と暁空は――あれが現実のものだろうか。
馬が勢いを増す。
柵の手前で、四本の足は一気に大地を蹴った。
恍惚とするような美しいフォルムで二重映しの光景へ突入する。
それが大きく空中で乱れた。
どっと落下する馬を離れて、Dの姿は宙に舞い、着地した。
長剣が走り、飛来したナイフを撥ね飛ばした。
「やっぱりなあ。――正面からかかっちゃ、手強いどころの話じゃねえ」
声のした方がナイフの飛翔地点と見破り、Dはすでに黒瞳を飛ばしている。
木陰から、馬とともに現れた巨体は、言うまでもなく、バイオ・|B《ブラザース》の片割れ――ハロルド・|B《ビー》だ。
「と言うわけで、あちこちからかからせて[#「あちこちからかからせて」に傍点]もらうぜ――ほれ」
言うなり、身体が反り返り、虚像が分離する。白木の針が迸り、空しく本体を貫いて背後の木に突き刺さった。
虚像がにんまりと笑った。
もうひとつ、透き通った像が前方へ飛んだ。
と、生み出した分は消えず、新しい像もまた、別の偽体を生み出したのである。
その次も、またその次も――
わずか数秒のうちに、Dの周囲は無数のハロルドに埋め尽くされていた。
そのどれかが本人ならともかく、当人の姿は見えないのだ。
さしものDの超感覚をもってしても、虚像の気配はすべて実体と等しかった。
「今度はこいつだ」
数十のハロルドが一斉に宣言し、右手の武器を示した。
白木の杭であった。
「ダンピールにもこいつは効くんだってな。断っとくが、おれたちはすべて本物。百人いりゃあ、百本の杭でおめえを刺せるんだぜ。ただし、攻撃のやり方は違う。――こんな風に!」
数名の右手から、白い光が尾をひいて飛んだ。
唸りをたてて馬上から落下する杭の下を、Dは黒い風と化して走った。
承知の上か、包囲網の先頭たるハロルドたちも、杭を片手に声を低めて襲いかかる。
ひとつの|美影《びえい》と無数の|黒影《くろかげ》が激突したとき、何が起こったか。
ハロルドの作戦に誤算があったとすれば、すでに一度戦いながら、いや、それ故にこそ、Dの剣技のスピードと力を推測してしまった点にあるだろう。
虚像たちの振り下ろす白木の杭はすべて空を切った。
その間隙を、黒い影が魔鳥のごとくコートの裾を閃かせて通過するたびに、無数のハロルドは両断され、空気と同化して消えた。
夕月の冴える地上に、Dの孤影が立ち尽くすまで、二〇秒とかからなかった。
「どうする? ここで引き退っては、呼ばれた甲斐があるまい」
低い声にも返答はなく、彼を巡る風ばかりが冷たい。
Dの眼は横たわる馬の死体に落ちた。
首筋に深々とナイフが突き立っている。
「加速なしで行けるか?」
と訊いた。
「無理じゃな」
と左手が答えた。
「こういうとき、新しい馬が一頭、眼の前へぱっと出てこんかな。夢だというのに、気がきかん」
Dは無言で血を振り落とし、刃を背の鞘に収めた。
その身体が反転したのは次の瞬間だった。
金属音と火花が散り、見えない攻撃を受け止めた一刀は、圧倒的な迫力を込めて、空の一点を薙いでいた。
確かに肉の裂ける音が響くや、断末魔の呻きが上がり、それとともに朦朧とハロルド・Bの姿が眼の前に滲み出てきたのである。
「安心……するなよ……ここは、おめえの……世界じゃ……ねえ……」
ようやくこれだけ言うと、口腔から血が溢れ、ハロルドは突っ伏した。
先刻、Dに手傷を負わし得たのは、彼が院長とマシンに気を取られていたせいであった。
「案外、あっさりといったの。さて、どうする?」
左手の問いに、Dはハロルドの方を見もせずに、
「待つしかあるまい。ここでは影までが敵だが」
「かと言って、突っ立ってるわけにもいくまいて。さ、歩かんかい」
言われるまでもなく、Dはすでに柵の方へ歩き出している。
高さは二メートルもないが、三重だ。
軽々とDは大地を蹴り、柵の向こうに着地した。
すぐには歩き出さなかった。
柵の向こうに街道はなかった。
森すらもない。
木立の影は、遙か彼方に遠ざかり、そこは、一面切り拓かれた平地であった。
四角、円形――大小の墓石が青々と群生している。
墓地であった。
これから起こるのが、最後の戦いだとすれば、まことにふさわしい戦場といえた。
かつて、貴族と人間の友好の場であった土地は、いま、荒涼と朽ち果て、夜にもかかわらず、妖々たる|瘴気《しょうき》に覆われていた。
一歩進んだ。
Dは墓地の真ん中にいた。
左手に、ひときわ巨大な大理石の墓所があった。|天蓋《ドーム》状の天井には、情報衛星用のパラボナ・アンテナやレーザー探知機が設置され、埃にまみれている。
磨き抜かれた扉の表面に、ぴしりと一線が走った。
音もなく開く扉を、Dは黙念と見つめた。
貴族の家から出てくるものは、貴族であろう。
この世界がDに送る最後の刺客にちがいない。
クルツ治安官の姿が闇を押し退けるようにして現れても、Dは表情ひとつ変えなかった。
夢の中で彼を狙った刺客が残していった布切れは、治安官の上衣の裾の一片である。彼はとうに操られていたのだ。
治安官は|杭射ち銃《スティック・ガン》を握っていた。
虚ろな眼の下で、唇が左右へ吊り上がった。
牙がのぞいた。
Dと互角に戦うための条件を、世界は治安官に与えたらしかった。
「とうとう、こんなことになったな」
墓所から大地へ降り、治安官は重々しくつぶやいた。
「いまはもう、おれはおれの自由にならん」
二人の距離は三メートルあった。
杭射ち銃から一瞬、Dはワン・テンポ遅れる。
「この銃ははずせんし、はずさん」
治安官は静かにつづけた。
「今でも、この世界を守るべきか否か、おれにはわからんが、やむを得ん。シヴィルにはあの世で詫びよう」
「貴族になって、どうやって死ぬ気だ?」
Dが尋ねた。
吸血鬼ハンターの眼と声で。
「シヴィルは眠りつづけ、奥さんはいつか君が自分のもとへ帰るのを待ちつづける。君が守ろうとする世界も、楽しいことばかりではなさそうだ」
治安官は引き金を引いた。
機関部内のガス・ボンベが、秒速七〇〇メートルの速度を五〇〇グラムの杭に与え、それは、Dの胸元で閃く銀光に打ち落とされていた。
人は言う。
Dの|剣《つるぎ》は、レーザーも斬る、と。
Dの左手から白光が飛んだ。
白い針は闇に消え、治安官の身体は信じ難い高さに跳躍していた。
しゅう、と燃焼音が伸ばした手先から発し、小さな炎を吐いて、銀色のミサイルが数条、地上のDへと飛んだ。
コートの裾を掴んで、Dは胸前へ引きつけ、大きく外へ開いた。
絶妙のタイミングであったろう。
コートは信管に当たらず、ミサイルの方向のみを変え、三基の死の使者は、新たな方向転換もできずに地面を炎の坩堝と変えた。
空中で影と影とが交差した。
数メートル離れて着地したひとつの影が、大きく揺れて、かたわらの墓石にもたれかかった。
「……おれを変えれば……変わるか、D?」
「わからん」
「どっちにしても……おれはもう起きたくはない……達者でな」
墓石の上の動きが急速に弱まった。
「………」
小さな声がきこえ、治安官の身体は墓石を滑り落ちた。
「名前じゃったな」
とDの左手がつぶやいた。意外と真面目な口調だった。
「何と言った? アイ・リンか、シヴィルか?」
Dは答えなかった。
炎がその顔を凄愴な色と影に染めていた。
眼覚めさせんとするものの意志と行為がさらにつづくにせよ、Dへの攻撃は、これでひと幕を終了したとみてよかった。
この次は何が待つ?
Dは歩き出そうとした。
その周囲で、気配が動いた。
墓石という墓石が揺れている。
Dは立ち止まった。
ごくん、とそれが落ちた。
音は幾つも幾つもつづいた。
墓穴から最初の影が起き上がっても、音はやまなかった。
「D」
と院長が呼んだ。
「D」
とシェルドン婆さんが呼んだ。
「D」
とアイ・リンが呼んだ。
やめてくれ、とホテルの主人が言った。
よせ、とクレメンツが言った。
眼覚めさせるな、とベイツが呻いた。
トコフもいた。
村人のすべてがそこにいた。
誰もが哀願していた。
眼覚めさせるな、と。
青白い手の群れがDめがけて近づいてきた。
もとより、敵となったものに容赦する若者ではない。
全身から凄烈な鬼気を噴き上げ、Dも迎撃の準備を整える。
人の波が、まさしく大波のごとく打ち寄せてきたその一瞬、何かが空気を切った。
ある者は声もなく、ある者は苦鳴とともにのけぞって、その胸や喉から、黒い鋼の矢尻がのぞいているのは共通していた。
それでいながら、生き残った者は、なお青白い執念をうつろな顔に留めて、Dめがけて進み、降り注ぐ鋼の矢に、次々と射倒されていくのであった。
ついに、最後のひとりが倒れ、累々と横たわる|屍《しかばね》と血臭が世界を埋めたとき、Dは、墓地の端に忽然と立つ男女の影を認めた。
黒衣の弓使いと――白いシヴィル。
夢のシヴィルが見た夢は、ついにこの世界の現実となった。
たったひとりの射手が、数百名の村人を射ち倒したのも夢ならではの技だろう。
「あなたを殺させはしないわ」
シヴィルの声には無限の怨みと哀しみがこもっていた。
「あなたには、私を殺してもらうんだから」
白い指がDを指した。
男の弓がぐいと上がった。
鋼矢が風を切る。
一本の矢が空中で数十本のそれに変わったのをDは見た。
コートの裾と銀光が迎え討つ。
撥ね飛び、弾き返された矢は大地に突き立ち、しかし、数本はDの肩と腹部とを貫いた。
「いかが?」
激痛に膝をつくDへ、シヴィルは笑いかけた。
「これでも、殺す気になれないの? 牙を剥くものには死を与えるのが、Dという名の持ち主だったはずよ。お願い――殺して」
全身から数本の矢を生やし、Dの表情は普段と変わらない。
痛烈な拒否に、シヴィルの眼に涙が光った。
黒衣の男が、再び矢をつがえる。
それが終わらぬうちに、Dが一気に上体を起こした。
「よせ」
とだけ彼は言った。次の一撃は――心臓を貫かれれば致命傷になる。
ぶん、と弓が唸った。
同時に、Dの手からも剣光が流れた。
長剣を彼は放ったのである。それは矢よりも早く、黒衣の男の心臓を貫き、口もとのスカーフを撥ね飛ばす衝撃を与えながら、彼を地へ倒した。
「……!?」
茫然と立ちすくむシヴィルのかたわらへ、Dはよろめくように近づいた。
「これでも死にたいか?」
「ええ」
緊張も動揺もなく、娘は嬉々として答えた。
「君はひとつの可能性だ」
とDは静かに言った。全身から滴る鮮血が大地を染めていく。
「ある男が、望みを託して君を選んだ。この村で、この世界で、人間と貴族は理解し合って暮らせた。君の力だ」
「……それは素晴らしいことだけど、私には辛いのよ。永劫に夢だけを見て……眠りつづけるばかり。喜びも哀しみも、痛みすら知らずに……」
Dはかたわらの黒い死体を見た。
スカーフが撥ね飛び、顔がはっきりと見えた。
治安官であった。
自らを守る役に、最愛の男を選んだのは、自然な心の動きだったかもしれない。
物哀しい調べがDの耳に触れた。
地面は磨き抜かれた床に変わっていた。
周囲を巡る人影のステップは、見るまでもなくワルツだった。
舞踏会は、今がたけなわだった。
「D……」
シヴィルが呼びかける名に、ある感情の揺曳があった。
白い手に、ナイフが青々ときらめいた。
シヴィルが前進した。
二つの身体がひとつに重なった。
歓喜に貫かれたように、シヴィルは眼を閉じ恍惚と震えた。
涙が青く輝いて――すべての動きが停止した。
治安官の胸から一刀を引き抜き、Dはシヴィルを刺し貫いていたのだった。
少女のナイフは、垂れた右手に握られたままだ。
刺す気はなかったと、Dには見切れなかったのか。
身体にかかる重みが、ふっと消えた。
振り向いた。
踊り手たちは影のように立ち、影のように消えていった。
シヴィルの顔は――ナンのそれだった。
この世界で眠りつづけた娘は、自らの意識をナンに投影して、生きていたのだろうか。
Dと治安官にはわかっていたかもしれない。二人の前へ初めて現れたシヴィルの幻は、ナンと同じ服を着ていたのだ。
よろめく足を引きずるようにして、Dはナンの背後に廻った。
パートナーの顔が見えた。
治安官だった。
そして――D。
どちらでもあり、どちらでもない。
三〇年間、青い月光の下で踊りつづけた男と、眠り姫を覚醒させるべく招かれた男。
Dの眼は、治安官の顔へ落ちた。
全身の鋼矢を引き抜き、床に投げ捨てて、Dは扉の方へ歩き出した。
矢を抜くときも、歩み去るときも、表情に変化はない。
シヴィルを刺したときのように。
ナンは寝室のベッドの上で覚醒を知った。
シェルドン婆さんは、ポーチの揺り椅子の上で。
アイ・リンは夜空を眺めながら。
院長は、シヴィルの消滅を見送りつつ。
静かだった。
実に静かな晩であった。
Dは眼を開いた。
暁の光が世界を白く染めている。森の中であった。
光の具合と夕べの就寝時間から考えて、まだ二時間ほどしか経過していないはずだ。
奇妙な夢のディテールを、Dはよく覚えていた。
この場所は館の空地だ。
ふと――気がついた。
位置が移動している。
身をもたせかけた立ち木は、十メートルほど左手にそびえていた。サイボーグ馬もそこにいる。
「おかしな夢じゃったの」
揶揄するような声も、どこか疲れているようであった。
理由はすぐにわかった。
足下に、ひとつの死骸が横たわっていた。
長い年月を経た状態を、それは正確に示して、丈高い草に埋もれている。
少なくとも――
「三〇年じゃな」
と声が言った。
「胸に刺し傷。これでわかった」
現実のシヴィルは、村を放遂され、この森の中へ捨てられてしまったのだ。
三〇年間――雨に打たれ、風に震えながら、貴族と人間の理想の共同体を夢見るうちに、自らの平穏を願う心の動きが生じてくるのは当然だったかもしれない。
Dは馬の方へ歩き出した。
今日中に、招かれた村へ着かねばならない。
寝具を鞍の後ろへ乗せ、馬上の人となろうとしたDへ、威勢のいい声がかかった。
「ちょっと、あんた、この辺に村はなかったかね?」
馬車に乗った婦人は、惚れ惚れとDの姿を見やりながら、
「いやあ、気のせいかもしれないけどね、夕べの夢があまりにも生々しかったもんで。ちょっと――何見てんだよ」
「何でもない」
Dはかすかに首を振った。
「だったら、おかしな眼で見ないでおくれ。こう見えても“万能屋”のマギーと言えば、この界隈じゃ知られた名だよ。……でも、ちょっと」
太った婦人は眉を寄せ、
「そう言えば……あんた……どっかで、会ったことないかい?」
「いや、初めてだ」
「そうだよねえ。あんたみたいないい男、一度見たら忘れっこないもの。でも、なんとなく……」
言いかけて、女はあっけにとられたように、馬上の若者を見つめた。
その顔がみるみる薔薇色に染まった。
遠ざかる黒い若者の口元に刻まれた微笑が、自らの浮かばせたものだと、彼女はついに気づかずに終わったが、幸せな気分は、それからかなり長い間、若者の姿となって、夜ごと夢の中に現れたのであった。
『夢なりし“D”』完
[#改ページ]
あとがき
最後まで読み通された方は、あれ、と思ったにちがいありません。
但し、別の出版社から出ている私の「夢幻舞踏会」を読んでいる方に限って。
今回のDは、あの作品へ別の角度からアプローチしたものです。
夢をテーマに、眼覚めんとするものと、阻止せんとする力の闘争を描いた「夢幻舞踏会」は、私にとっても愛着のある作品ですが、後半の展開に難があり、同じテーマで何とかもう一本、と考えていたのです。
目覚めを促す力に招かれたものをDとしたら?――そう思った途端、今回のプロットは出来上がりました。
願わくは、二冊を併読していただけたら幸いです。(お持ちでない方はお買い求め下さい)
読者のみなさんから、よくお便りをいただきます。
圧倒的に多いのが、Dの素姓を明らかにしろ、という要請です。
作者としても、そうしたいのは山々なのですが、年に一回、一冊のペースでは、なかなか書き切れるものではありません。それをまとめてやるには、少なくとも三冊が必要です。
と言うわけで、当分は、Dの身の上話に取りかかれませんので、ご了承下さい。お怒りの方は、Dとの別れがその分遠くなったと考えていただけませんか。
すべてを明らかにしたDが、何度も何度も活躍するわけにはいきません。
いつかは、みなさんとお別れする日が来ます。
そのとき、Dにどんな結末と運命を与えるべきか。私はいま、それに気をとられています。
では、また、一年後に。
一九八六年 十一月二十六日
「エルム街の悪夢2/フレディの復讐」を観ながら
菊地秀行