吸血鬼ハンター“D”
菊地秀行
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目次
第一章 呪われた花嫁
第二章 辺境の人々
第三章 吸血鬼リイ伯爵
第四章 妖魔の弱点
第五章 必殺・飛鳥剣
第六章 血闘――ひとり十五秒
第七章 吸血鬼ハンター死す
第八章 剣光、秘儀を斬る
あとがき
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テレンス・フィッシャー、ジミー・サングスター、バーナード・ロビンスン、クリストファー・リイ、ピーター・カッシング、および、映画「吸血鬼ドラキュラ」をつくりあげたすべての方々に――。
岸本おさむ氏に――。
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第一章 呪われた花嫁
落日が平原の果てを染めている。朱よりも血の色に近かった。|虚空《こくう》でごおごおと風が唸り、足首までも覆い隠す丈の高い草の海を横切っている狭い街道の上で、今しも一頭の馬とその騎手が、真正面から吹きつける風威の壁にさえぎられたかのごとく歩みを止めた。
道は二十メートルほど前方でやや昇り気味となり、そこを昇りつめれば、この|辺境地区《セクター》の一小村「ランシルバ」の家並みと緑の田園地帯とが望めるはずであった。
そのゆるい傾斜の上がり口に、ひとりの少女が立っていた。
馬は、その風体に驚いて停止したのかもしれない。大柄で、燃えるような瞳の美少女であった。あさ黒く陽灼けし、黒髪を後ろで束ねている。荒野に生きるもの特有の、荒々しい野性の気が全身から発散していた。夏の光みたいな美貌からして、ひと目彼女を見たものは、すべからく、首から下の|曲線《カーブ》に注目するであろうのに、すり切れた青いスカーフを巻いた首の下は、くるぶしまで灰色の防水ケープに覆われていた。ネックレスも首輪も、女を感じせる装飾品はまるで身につけていない。革製の|密着《フィット》サンダルと、右手に束ねた黒い|鞭《むち》らしき品を除いては。
少女のかたわらに、ひと目で年代ものと知れるサイボーグ馬がたたずんでいた。少女は先刻までその足元に横たわっていたのである。耳を覆いたくなるような風の怒号の中で、走るでもなく黙々と近づいてきた馬と騎手を、二十メートルも先から感づいて迎えるとは、荒野の女といっても、単なる農夫や開拓者の娘ではなさそうだった。
一度立ち止まった馬はすぐに歩き出したが、少女が道からのかぬと知ってか、その眼前一メートルほどの距離で再び静止した。
少しのあいだ、風の音だけが大地を走り抜け、やがて少女が口を開いた。
「あんた、流れものね――“ハンター”?」
伝法な、喧嘩腰の声音だが、どことなく憔悴しているような感じがこもっている。
馬上の騎手は答えない。|鍔広《つばひろ》の|旅人帽《トラベラーズ・ハット》を目深にかぶり、スカーフで鼻から下を覆って風を避けているため、顔はよく見えないが、がっしりとした身体つきといい、色褪せた黒のロング・コートから覗く戦闘用万能ベルトといい、こちらも、辺境の村々相手の商人や季節労働者ではなさそうであった。スカーフのやや下にぶら提がった青いペンダントが、少女の思いつめた顔を映している。
大きな瞳が、騎手の背にくくりつけられた長剣にそそがれた。多くのハンターが愛用する直線型の剣とは異なる優美なカーブを描くそれは、持ち主がさすらってきた膨大な土地と時間を物語っていた。返事がないのにいらだったか、少女は、
「その剣は飾り? なら、あたしが貰って定期市で売りさばいてあげる。置いてゆき!」
これで応答がなかったら、問答無用だとでもいう風に、右足を一歩引き、身体を半身にする。鞭を提げていた手がゆっくりと横へ上がった。
初めて、|騎手《ライダー》が応じた。
「……何が望みだ?」
少女はあきれたような表情になった。低い上に風の唸りでよくききとれないが、相手の声は十七、八の青年のものであった。
「なんだ――青二才か。でも、容赦はしないわ。あたしと立ち合ってちょうだい」
「……追い剥ぎか。それにしては堂々たるものだな」
「馬鹿。金目当てなら、あんたみたいなしけた風来坊など狙うもんか――あんたの腕が見たいのよ」
びしっ! と風がはじけとんだ。少女が鞭を振ったのである。手首で軽くしごいたとしか見えないのに、それは不吉な黒い蛇のように落日の光の中で幾重にもしなった。
「いくよ。――ランシルバの村で、うまいものが食べたかったら、あたしを倒してからにすることね」
馬上の青年は動かなかった。剣にも、戦闘ベルトにも触れようとしない。理由も言わずに戦いを挑む美少女の、殺気に満ちた視線を浴びながらのこの無頓着さに、かえって少女の顔に狼狽の色が流れた。
しゅっと息を吐きざま、少女は鞭を放った。鞭は|人狼《ワーウルフ》の剛毛をよりあわせ、|三月《みつき》のあいだ根気よく|獣脂《じゅうし》を塗ってなめしたものであった。まともに食えば肉がはじける。
「あっ!?」
少女が顔色を変えて跳びすさった。青年の左肩口を|薙《な》ぎはらうはずの鞭は、なぜか、当たったと見えた瞬間方向を転じ、逆に彼女の左肩へ襲いかかったのだ。青年は鞭のベクトルを逆転させて、自分は何ひとつ傷を負うことなく、攻撃をその張本人に送り返したのである。
しかし、眼にも止まらず閃いた黒蛇の|速度《スピード》や角度を瞬速のうちに見抜いて対応した反射神経を、どう形容したものか――。
「畜生!――やるわね!」
右手をしごき、逆進した鞭を肩に当てずに宙で舞わしたものの、少女は二撃めには移らず立ちすくんだ。天地以上にかけ離れた戦闘能力の差を直感したのである。
「どいてくれ」
何事もなかったような声で青年が言った。
少女は従った。
青年と馬がそのかたわらを通りすぎて数歩先へ進んだとき、少女は再び街道へ戻って声をかけた。
「ごらん、あたしを!」
声に含まれた思いつめたような調子に、青年がふり向いた刹那、少女は左手をケープの肩にかけ、一気に投げ捨てた。
毒々しいたそがれの|赤光《しゃっこう》がいちどきに色を失ったかと思われた。美の女神のみが造形し得る、一糸まとわぬ神々しい裸身が風の中で光った。同時に少女は手を伸ばして、ひっつめ髪もほどいていた。 ざあっ! と豊かな黒髪が風になびく。裸身が美しいだけに、なんという妖艶さだろう。風は|爛熟《らんじゅく》した女の香りさえ含んで渦巻いた。
「もう一度、勝負おし!」
また、鞭が鳴った。
しゅうっと青年めがけて伸びた先端は、身体に触れる寸前八つに分かれ、なんたる手練の技、目標の首、肩、両腕、胴体に、それぞれ別々に、しかも、数瞬ずつタイミングをずらせて巻きついたのである。同時に攻撃されるより避けがたいやり方であった。
「ほほほ、かかったわね。――いかが、女の裸に目なんぞくらますからこうなるのよ」
少女は唸る風に負けぬ大声で怒鳴った。それから、不意に失望したように、
「あんたで九人め。やっぱり駄目だったわ。――どうする? 背中と腰の武器を置いてけば、すぐにもほどいてあげるけど」
思いがけない返事がかえってきた。
「いやだと言ったら?」
少女は激昂した。
「窒息なり、地べたへ叩きつけるなり、好きなように眠らせてあげる。さ、どっちがいい?」
「どちらも断る」
声を合図に、少女は渾身の力を右手に集中させた。エネルギーが鞭の先端に殺到し、青年を宙に舞わせ――なかった。八つの輪は、きれいに形をとどめたまま、青年の身体からすっぽり抜けてしまったのである!
「……!?」
驚くよりもあっけにとられて、少女は茫然と立ちすくんだ。全技量を叩きこんだ技が、腕一本動かさぬ相手に敗れるとは……。
青年と馬は平然と歩み去っていく。
しばらく放心状態に陥っていた少女はそれでも、少し離れていたところに落ちていたケープを身にまとうや、女の足とは信じがたい速度で青年の足元に駆け寄った。
「待って。無茶は謝るわ。話をきいてちょうだい――あなた、やっぱりハンター、それも|吸血鬼《バンパイア》ハンターね!?」
黙って前を向いていた青年が、初めて少女の方に目をやった。
「そうなのね――あたし、あなたを雇います!」
馬の歩みが止まった。
「冗談ごとじゃないぜ」と青年が静かに言った。
「わかってます。吸血鬼ハンターが、ハンターたちの中で最高の名人だってことも、吸血鬼がどんなに恐ろしい相手かってことも。吸血鬼ハンターになれるのは、千人にひとりの割合なのに、吸血鬼と戦って勝てる見込みは五分五分なんでしょう。知ってます。あたしの父さんもハンターだったから」
青年の眼に感情の色が動いた。片手で帽子の|鍔《つば》を押し上げる。切れ長の冷たい、しかし澄んだ黒瞳であった。
「何のハンターだ?」
「|人狼《ワーウルフ》ハンター」
「なるほど、それで、あの鞭の技か……」
と青年はつぶやき、
「ここの吸血鬼は、第三次掃討戦争のとき逃亡したときいたがな……もっとも、三十年も昔の戦争だ、当てにはならないか。――で、おれを雇うという以上、君の家族か知り合いが襲われたんだな。何度、血を吸われた?」
「まだ、一度きりよ」
「牙の痕は二本か、一本か?」
少女は一瞬ためらってから、首のスカーフに手をかけた。
「自分で確かめてちょうだい」
暮れなずむ空に、風に乗って野獣の叫びが遠く尾をひいた。
陽に灼けた左首筋――頚動脈のあたりに、うじゃじゃけたふたつの傷痕が、生々しい肉の色を見せて盛り上がっていた。
「“貴族のくちづけ”よ」
馬上から注がれる青年の視線を感じながら少女は低い声で言った。
青年は顔を覆ったスカーフを引きおろした。
「その傷からすると、かなり大物の吸血鬼だな――よく動けるものだ」
最後のひと言は少女への|賞《ほ》め言葉である。
血を吸われた人間の反応は、吸血鬼のレベルによって異なるが、ほとんどの場合、魂を吸い取られた腑抜けの人形みたいになる。肌は|白蝋《はくろう》のように色を失い、日がな一日、うつろな眼で日陰に横たわっては、吸血鬼の訪れを、新たな口づけを待つのだ。こうならなくて済むには、桁はずれの体力と精神力とを必要とする。この少女は、そんな例外のひとりなのであった。
けれども、このときの少女は、普通の犠牲者みたいな、夢遊病者みたいな顔つきをしていた。
マスクをはずした青年の美貌に我を忘れたのである。男らしい濃く太い眉、すらりとした鼻梁、意志の強さを表すきりりと締まった唇。修羅の世界で数多くの戦いをくぐり抜けてきたもの独特の厳しい顔立ちの中に、憂いを秘めた瞳がかがやき、天工の彫り上げた青春の美の結晶を完璧に仕上げていた。そのくせ、少女がふと我に返ったのは、その眼差しの奥に潜んだなにやら|禍々《まがまが》しいものが背筋をなでたからである。
少女は頭をふって言った。
「それで、どうなの?――来てくれる?」
「吸血鬼ハンターにくわしいと言ったな。――報酬の額も承知か?」
少女の頬に赤味がさした。
「え、ええ……」
「それで?」
強力な妖怪・妖獣どもを対象にするハンターほど雇用額は高くなる。吸血鬼ハンターの相場は、最低でも一日五千ダラスだ。ちなみに、旅行用の圧縮食が一パック三食分百ダラスである。
少女は思い決したように言った。
「一日三度の食事」
「………」
「それから――」
「それから?」
「あたし。好きにして」
青年の口元がかすかにほころびた。からかうように――。
「おれに抱かれるより、貴族の口づけの方がましかもしれないぞ」
「そんなんじゃないわ!」
突然、少女の眼に涙が光った。
「あたしは吸血鬼になろうが、誰に抱かれようがかまやしないのよ。そんなもの、人間の価値とは関係ないからね。でも……――そんなことどうでもいい。どうなの、来てくれるの?」
怒りと哀しみが交錯する少女の顔をしばらく見つめて、青年は静かにうなずいた。
「よかろう。そのかわり、ひとつ断っておく」
「なに? なんでも言って」
「おれは、ダンピール[#「ダンピール」に傍点]だ」
少女の顔が凍りついた。まさか、こんな美しい|男《ひと》が……。そう言えば、美しすぎる……。
「いいのか? もう少し待てば別のハンターが通るかもしれん。無理はしないことだ」
少女は口中に溢れた苦い唾を飲みこみ、青年に手をさし出した。笑おうとしたが、笑顔はこわばっていた。
「よろしく頼むわ。あたし、ドリス・ラン」
青年はその手を握らなかった。最初と同じ、無表情、無感情に――
「おれは“D”と呼んでくれ」
ドリスの家は、ふたりの|邂逅《かいこう》地点から馬で三〇分ほど走った丘のふもとにあった。ふたりは猛烈な速度でとばし、二〇分とかからずに到着した。Dとの話がまとまった途端、迫りくる夕闇にせきたてられるように、ドリスが馬を駆ったのである。吸血鬼のみならず、最も危険な妖怪・妖獣どもは、完全に闇が落ちてからでないと活動を開始しない。だから、まだそれほどあわてる必要はないのだが、Dは黙って、この美しい雇い主の後につづいた。
家は、三千年前の地球大改造計画で永久沃土化されたらしい、緑溢れる草原に囲まれた農場であった。木と強化プラスチックの母屋を中心に、強化防水シートに温度調節装置をとりつけただけの蛋白合成植物農園と、家畜小屋、馬屋が散らばっている。農園だけで二ヘクタールもあり、合成された蛋白の採取は|中古《セコハン》のロボットが担当していた。人間は荷造り役である。
母屋の前の横木に馬をつないでいると、ドリスが帰宅を急いだ原因が、勢いよくドアを開けてとび出してきた。
かなり高いポーチの上で、
「お帰り!」
と叫ぶ、七、八歳の、赤い頬をした少年であった。旧式のレーザー・ライフルを胸に抱えている。
「弟のダンよ」とDに紹介してから、ドリスはやさしい声で、
「何も変わりはなかったわね――|霧魔《むま》も来なかった?」
「ぜーんぜん」と少年は得意そうに胸を張った。「このあいだ、四匹もやっつけたじゃないか。怖くて近寄れもしねえよ。もし来たって、おいらがこれで丸焼きにしてやる」
こう言ってから、急に不機嫌な顔になって、
「そうだ、グレコの奴がまた来たよ。『|都《みやこ》』から届けさせたって花束抱えてさ。姉ちゃんが帰ったら渡してくれって置いてったぜ」
「その花、どうしたの?」
ドリスが面白そうな顔できいた。少年の口が小気味よさそうににんまりと笑って、
「ディスポーザーで細切れにしてから、肥料に混ぜて牛に食わしちゃったよ」
ドリスは大きくうなずいた。
「よくやった。今日は大盤振る舞いよ。お客さまもいることだしね」
姉と話しながらも、Dの方をチラチラ見ていた少年は、今度は意味ありげな笑みを浮かべた。
「へえ、いい男じゃねえか。姉ちゃん、こんなのが好みかよ。――ロボットの具合が悪いから、代わりの|男《ひと》を探しにいくなんつって、旦那見つけにいってたんじゃねえの」
ドリスは真っ赤になった。
「ば、馬鹿。ヘンな事言わないで。こちらはミスター・D。当分のあいだ、農場を手伝ってくれるの。邪魔しちゃいけないよ」
「へへへ。照れるこたないって。わかるわかる。この人から見りゃ、グレコなんか肉食|蝦蟇《がま》と大差ねえもんな。おいらだって、こっちの方がずーっといいや。よろしくな、Dの|兄《にい》ちゃん」
「よろしくな、ダン」
子供相手にも無感情なDの声を気にした風もなく、少年は先に立って母屋へ消え、ふたりもドアをくぐった。
「ごめんね、うるさかっただろ」
夕食が済み、まだ眠くないよと反抗するダンを半ば強制的に寝室へ追いやってから、ドリスは済まなそうに言った。Dは背中の剣を左手に持ち替え、窓辺に立って外の闇を眺めていた。ここ四、五日晴天がつづいたおかげで屋根の太陽熱バッテリーにたっぷり充電でき、天井の採光パネルから眩い光が部屋全体へ惜しみなくふりそそいでいる。
この無愛想な侵入者のどこが気に入ったものか、少年はそのそばにまとわりついて離れず、『都』の話をしろ、旅先で怪魔や妖怪を退治したことがあったらきかせろ、あげくの果ては、姉ちゃんはうるさいから、男同士ひと晩おれの部屋で語り明かそうよと、Dの腕を取って連れていこうとする騒ぎだったのだ。
「旅の人が来るなんて珍しいもんだから。あたしたち、ランシルバの村の連中ともあまり付き合いがないしね」
「構わんよ。賞められて悪い気はしない」
そう言いながら、シャツとスラックスに着替えてソファにかけた彼女の方を見ようともせず、口調は相変わらず冷たい。軽く眼を閉じて、
「今、辺境標準時で926|N《ナイト》だ。一度血を吸った相手のところへ来るのに、それほど焦りはしないだろうから、まず真夜中すぎだな。それまで、敵について知っていることをきかせてもらおうか――大丈夫、弟さんはもう眠っているよ。元気のいい寝息だ」
ドリスは目を丸くした。
「あなた、ドアの向こうの音まできこえるの!?」
「荒野をわたる風の声も、森陰をさまよう死霊の怨みの詩も」
とDはつぶやくように言ってから、滑るような足取りでドリスのかたわらに立った。その端正な冷たい顔が、首筋めがけて下降してくるのを感じたとき、ドリスは思わず「やめて!」と叫んで身をこわばらせた。
はっきりと嫌悪感のこもったその声に、しかしDは表情ひとつ変えなかった。
「首の傷を見るだけだ。敵の格が大体わかる」
静かな声が、ドリスの心を後悔で満たした。
「ごめんなさい。どうぞ、見て」
と首筋をさらして顔をそむける。唇がかすかに震えているのは今の反応の名残としても、頬まで赤らんでいる原因は、見も知らぬ若い男に肌を観察される乙女の恥じらいだろう。十七歳の今まで、彼女は異性の手を握ったこともないのである。
数秒後、Dの顔が遠ざかる気配があった。
「奴[#「奴」に傍点]と会ったのはいつだ?」
抑揚のない声に、ドリスはほっとした。胸のやつ、どうしてこんなにも激しく鳴るんだろう。それを気どられまいと、彼女はDの顔をじっと見つめたまま、できるだけ冷静な口調で、忌わしい夜の物語を語り始めた。
「五日前の晩よ。電磁|障壁《バリヤー》を修理中、農場に忍び込んで牛を一頭殺した|小竜《リトル・ドラゴン》を追いかけ、やっとの思いで仕留めたと思ったら、あたりはもう真っ暗だった。まずいことに、それがあいつ[#「あいつ」に傍点]の城の近くだったのね。大急ぎで戻りかけたら、どうでしょう、死にかかっていた怪物がいきなり火を吹きかけ、馬は下半身黒焦げでばったり。家までは五十キロもあるのに、武器といったら、小竜退治の槍と短剣だけ。必死に走ったわ。三〇分も走り通したかな、ふと気がつくと、誰かが後ろで一緒に走ってるじゃないの!?」
ドリスは不意に口をつぐんだ。恐怖の記憶が甦ったからばかりではない。かなり近い距離から凶悪な遠吠えが闇を貫いたのである。はっと、美しい顔をそちらに向けたが、すぐただの野獣の声だと知って安堵の表情になった。旧式ではあるが、農園の周囲には大枚はたいて装備した電磁|障壁《バリヤー》、内側には様々な飛び道具が仕掛けてある。
彼女はおぞましい体験談を再開した。
「――最初は|毒蛾人間《モス・マン》か人狼と思ったのよ。でも、羽音も足音も立てないし、息づかいひとつきこえてこない。それなのに、あたしの背中から三十センチと離れていないところに誰かいるのがわかるの。同じ速度で移動してるって。とうとう、我慢できなくなってぱっとふり向いた――そしたら、何もない! いえ、一瞬のうちに、また後ろにまわられたのよ」
少女の顔に記憶が恐怖を植えつけていた。唇を噛みしめ、震える声をなんとか抑えつけようとする。Dは無言で耳を傾けていた。
「あたしはそこで怒鳴りつけた。人の背中で逃げ隠れしてないで、さっさと出てこいって。そうしたら、すっと出てきたわ、噂通りの黒マント姿で。真っ赤な、残忍そうな唇からこぼれる二本の牙を見たとき、正体がわかった。――後はよくある話よ。槍を構えたら、あいつと目が合って、途端に全身の力が抜けたわ。それどころか、奴の青っちろい顔が近づいてきて、首筋に月の光みたいな冷たい息がかかったら、頭の中はもう真っ暗なの。気がつくと、夜明けの草原に倒れてて、喉には例の歯型がふたつ。で、それから毎日、朝から晩まで、あの坂の下で、あんたみたいな人を探し求めていたわけよ」
一気に感情をこめて話し終わると、ドリスはぐったりと力を抜いてソファに沈んだ。
「それからは一度も吸われていないな?」
「ええ。毎晩、槍を構えて待っているんだけれど」
この冗談にDは目を細めた。
「単に血に飢えた貴族なら毎晩でもやってくる。犠牲者が気に入れば入るほど、長いインターバルを置くものだ。飲食の快感を長びかせるためにな。しかし、五日とはよくもった。君はよほど気に入られたと見える」
「よして!」
ドリスが悲鳴をあげた。夕刻、Dに戦いを挑んだ雄々しい女丈夫の面影はどこにもなく、そこに腰をおろしているのは、恐怖に脅える十七歳の美少女であった。
Dは冷たく彼女を凝視しながら、もっと身の毛のよだつような言葉をつけ加えた。
「襲撃と襲撃とのインターバルは平均三、四日。五日以上はまれだ。奴は間違いなく今夜やってくる。傷口から推察する限り、辺境の貴族にしてはかなりの力を持った相手だ。――あいつ[#「あいつ」に傍点]と言ったな。素姓は明らかなのか?」
ドリスは小さくうなずいた。
「ランシルバの村ができる遥か以前から、この辺一帯を管理していた領主よ。名前はリイ伯爵。年齢は百歳とも一万歳ともきくわ」
「一万歳か――貴族の能力は年を|老《ふ》るにつれて増大する。厄介な相手だな」
さほど厄介とも思っていないような口ぶりである。
「貴族の能力って?――腕のひとふりで大風を巻き起こし、|火竜《ファイア・ドラゴン》に変身するっていう力?」
ドリスの質問には答えず、
「もうひとつきく。この村では、吸血鬼に血を吸われたものをどう扱う?」
少女の顔がさっと青ざめた。
多くの場合、吸血鬼の毒牙にかかったものは、村や町単位で隔離し、そのあいだに犯人の吸血鬼を滅ぼす段どりになっているのだが、どうしても倒せないときは、犠牲者を町から追放するか、最悪の場合、処分[#「処分」に傍点]してしまう。求める相手の血を吸えずに怒り狂った妖魔が、手当たり次第に別の人間を襲い出すからだ。そのせいで廃滅した町や村は枚挙に|暇《いとま》がない。
ランシルバの村でも対策は同じことであった。ドリスが誰にも助けを求めず、ひそかに吸血鬼ハンターを探し求めたのはこれがゆえである。弟に打ち明けずにいるのは、村へ行ったとき、彼の挙動から、村人に感づかれるのを恐れてのことだ。弟さえいなければ、自分で吸血鬼と一戦交えるか、生命を絶つかするだろう。
吸血鬼は犠牲者をふた通りに扱う。全身の血を一度に吸い尽くして単なる死骸とするか、たび重なる飽食の結果、自らの仲間に引き入れるかである。これは回数によるのではなく、さっきもDが指摘した通り、吸血鬼が犠牲者を気に入ったか、入らなかったかがポイントになる。一度の吸血で仲間に加わったり、数カ月におよぶ血の口づけで、結局、死亡したりする場合もあるわけだ。
そして、吸血鬼に|変化《へんげ》したものは、言うまでもなく、夜ごと人間の生き血を求めてさまようおぞましい悪鬼の宿命を背負って、永劫の闇に生きるしかない。それこそドリスにとって、いや、この世界の人々にとって、真の恐怖なのであった。
「……どこでも同じか」とDはつぶやいた。「呪われた悪鬼、闇の|屍肉《しにく》食い、血に狂った妖魔。一度でも血を吸われれば、奴らの仲間。――まあ、いい。立ちたまえ」
いきなり言われてとまどうドリスへ、
「どうやら、歓迎されざる客が来たようだ。電磁|障壁《バリヤー》のリモコンを貸してくれ」
「えっ、もう来たの? さっき、真夜中すぎだって――」
「おれも驚いてる」
とてもそうは見えない。
ドリスは部屋からリモコンを持って戻り、Dに手渡した。
姉弟そろって農園を留守にするときは、おかしなやつら[#「やつら」に傍点]が入り込むのを防ぐため、外から障壁を張りめぐらす必要がある。四年前、父が亡くなってすぐ、『都』の闇商人から仕入れた中古障壁だが、時たま故障する以外は重宝な品であった。夜、草原をうろつく死霊や狂獣の被害は、他の孤立した家々より遥かに少ない――というより皆無に近い。もっとも、これを買ったおかげで、父が生前に貯えた金は三分の一も残らなかったが。
「どうやって戦うの?」
ときいてみた。体内を流れるハンターの血が発した質問である。辺境においても数少ない吸血鬼ハンターの戦いぶりは、風の便りにこそ、凄惨、壮絶と名高いが、その実体を見極めた人間はほとんどいないのだ。ドリスも話にしかきいたことはない。加えて、眼前の青年は、そこから想像していた武骨なハンター像とはおよそかけ離れた存在であった。
「見ていたまえ、と言いたいところだが、君には眠ってもらわねばならん」
「え?」
青年の左手が、引き締まり盛り上がった筋肉の内にまだ女らしさをとどめている右肩に触れた。どのような技ないし力を発揮したものか、その部分から全身にぞっとするような冷たい刺激が走ったと覚えた刹那、ドリスは意識を失った。その寸前、Dの左の|掌《てのひら》に彼女は異様なものを認めた――認めたと思った。小さくて色も形も定かではないが、明らかに眼と鼻と口を持った、奇怪な顔のようなものを。
自分の行為の結果を確信しているのか、Dはドリスの失神が本当かどうか確かめもせず、|剣《つるぎ》を肩に背負って部屋の外へ出た。
眠らせたのは、これから起こる戦いを彼女に邪魔されるのを防ぐためである。ひとたび吸血鬼の口づけを受けたものは、いかに意志強固といえど、妖魔の命に従わざるを得ない。その身を呪いの牙から守っているはずの女たちに、背後から射たれ、心の臓を刺し貫かれたハンターは数多い。ベテランはそれを警戒して、事前に犠牲者に眠り薬を飲ませたり、携帯用の鉄牢に監禁したりする。しかし、ついさっきDの見せた左手の妙技は、いかなるベテラン・ハンターといえども可能とは思えぬ妖幻の技であった。
廊下に出ると、Dはなぜかダンの部屋のドアを開けた。少年はこれから繰り広げられる死闘のことも知らず安らかな寝息をたてている。
Dは静かにドアを閉め、玄関を抜けて、ポーチの階段から|闇黒《あんこく》の大地へ降りた。昼の熱気は跡形もなく、やや肌寒いが心地よい夜風に青草が揺れていた。
季節で言えば九月にあたる。七つの大陸の地下に埋め込まれた十数基の気象|調整装置《コントローラー》を破壊しなかったのは、反乱軍のお手柄だ。少なくとも夜だけは、四季を通じて貴族たちにも人間たちにも、最も過ごしやすい温度と湿度を維持している。時たま、画一性を嫌った貴族たちが仕組んだプログラムに従い、過去の四季に応じた時期に、雷雨や吹雪が荒れ狂う他は。
風に舞うがごとき優雅な足取りで、Dは入口の柵を抜け、さらに三メートルほど進んで立ち止まった。
やがて、闇の奥、平原の彼方から、馬の|蹄《ひづめ》と|車輪《わだち》の音が近づいてきた。この若者は、遠く離れた一室で少女と会話しながら、その足音をききとっていたのだろうか。
月明かりの中に、闇そのものが凝縮したかのような黒塗り四頭立ての馬車が現れ、Dの前方五メートルほどの位置に停止した。みごとな毛並みの黒馬たちは、どうやらサイボーグ馬だ。
|御者《ぎょしゃ》台に黒いインバネス姿の男が腰をおろし、異様に光る眼でDを凝視していた。右手の黒塗りの鞭が月光に映えている。どことなく獣じみた顔や、手の甲がひどく毛深いのを、月の光だけでDは見てとった。
男は素早く御者席から降りた。全身がばねみたいな、動作まで獣じみた男であった。馬車の乗降ドアに手をかけるより早く、銀の|把《と》っ手が回転し、ドアは内側から開いた。
涼やかな風に、突如、冷気と血生臭い異臭がたちこめたかのようであった。
馬車から降りた影を一瞥したDの眼に、わずかに感情の色が動いた。
「――女か」
まばゆいばかりの金髪が地を這っているかと思われた。ドリスを|ひまわり《サンフラワー》と形容すればこちらは|夕顔《ムーンフラワー》とたとえるしかあるまい。腰を思いきり締めつけた豊穣な曲線が地面すれすれまで広がっている中世風の純白のドレスもさることながら、月光を浴びて夢のようにかがやく“貴族”特有の白い美貌が、少女をこの世ならぬ幻のように見せていた。
だが、この幻からは血の匂いがする。|碧瑠璃《へきるり》の瞳の奥には地獄の炎がちろちろと燃えているし、夜目にも濡れ光るなまめかしい唇は血のように赤く、永劫に満たされることのない飢えを感じさせる。吸血鬼の飢えを。
少女はDを見つめて、銀鈴のように笑った。
「そなた、用心棒か。そなたのごときならずものを雇って身を守ろうなどと、下賎な人間どもの考えそうなことじゃ。この家の娘、土地の人間にしては類まれな美形のうえ、血潮も美味と父上にきかされ、どんな娘かと今宵検分にまいったが、所詮は愚かでいじましい虫けらどもと五十歩百歩」
娘の顔に鬼気が走った。いつの間にか、唇の端に白い牙が現れているのを、Dは見逃さなかった。
「――まず、おまえを血祭りにあげてから、卑しい血を一滴のこらず吸い取ってくれる。父上は一族に加えたいご所存のようだが、このような小細工を|弄《ろう》する|不埒《ふらち》ものにリイ家の血を与えるなど、わたくしが許さぬ。たった今、この地上から暗黒神の待つ地獄へ追い落としてくれるわ。そなたも一緒にな」
言うなり、少女は|繊手《せんしゅ》をふった。御者が進み出る。満身から殺意と憎悪が炎のようにDの顔に吹きつけた。
“身の程もわきまえぬ虫けらどもめ”とそれは言っていた。“かつての支配者の恩義も忘れ、|小賢《こざか》しい知恵と武器とで反抗する変節漢ども。この場で引導を渡してくれる”
変身が始まった。細胞の分子配列が変化し、神経網が猛スピードで地を駆る野獣のそれに変わる。背骨がしなり、大地に這った四肢の形状がみるみる四足獣にふさわしい姿を帯びてゆく。せり出した顎、耳まで裂けた半月型の口からさらけ出された鋭い牙の列。全身を覆う黒色の剛毛。
御者は|人狼《ワーウルフ》であった。
吸血鬼とともに、中世暗黒の伝説から甦った夜の魔性。Dは、その優美とさえいえる変身ぶりに、この御者が、遺伝子工学とサイボーグ技術の成果から生まれ、吸血鬼の手で世界中に撒き散らされたまがいもの[#「まがいもの」に傍点]の一頭ではないことを悟った。
|殺戮《さつりく》の歓喜に燃える豪快な|遠吠え《ハウリング》がしじま[#「しじま」に傍点]を破った。インバネスをまとった狼は、その両眼を爛々とかがやかせたまま、ぐうっと二本足で立ち上がった。これこそ、人狼の人狼たる|所以《ゆえん》である。四足獣の体型を有しながら、スピードも破壊力も二本足直立時の方が勝るのだ。
初対面のときの姿勢を崩さず棒立ちになっている青年を、恐怖にすくんだと解したか、黒い獣は、わずかに身体を沈めただけで、下半身の強烈なバネに全体重をあずけ、五メートル以上もの距離を一気に跳躍してきた。
月光よりもまばゆい光がふたすじ、闇を切り裂いて走った。
Dは動かない。その頭上から落下し、鉄をも切り裂く爪を脳天に食い込ませようとした人狼は、なんと空中で方向を転じ、もう一度ジャンプしたような形になってDの頭上を越え、その後方数メートルの草むらへ着地した。
空気のみを足場に、強靭きわまりない筋肉と背骨と呼吸器のパワーを一瞬に統合して成される、人狼のみの奇跡の体技である。複数のベテラン|人狼《ワーウルフ》ハンターでさえ、往々にして返り討ちにあうのは、その凄まじさが、彼らの耳にし、対策をたてた噂ばなしとは桁はずれのせいだ。この魔獣は、三次元力学から見て不可能な方向や角度から、音もなく獲物に襲いかかることができるのであった。
だが――。草むらに低く伏せた獣の喉からは苦痛の呻きが洩れた。右脇腹を押さえた指のあいだから鮮血が噴き出し、草をぬらしている。激痛と憎悪に血走った眼は、静かにこちらを向いたDの右手に、月光を反射してきらめく刀身を見た。人狼の爪が迫った瞬間、彼は神速の速さで肩の剣を抜き、敵の脇腹を薙いだのである。
「さすが……」
と言ったのは、しかし、手傷を負わせたDの方であった。彼は完全に人狼の胴体を両断したと思ったのだ。
「……初めて見た。本物の|人狼《ワーウルフ》の実力を」
低い声が草むらの魔獣の胸に、新たな恐怖の種を植えつけた。
彼の脚力は、瞬間時速六百キロ、実に〇・五マッハをしぼり出す。跳躍してからDに襲いかかるまで五十分の一秒とかかっていまい。この若者は、そのさらに何十分の一かの寸瞬に|刃《やいば》を振るい、彼の腹を裂いたのである。
しかも、傷がふさがらない! 生身の人間の姿をとどめている場合はともかくとして、ひとたび獣に変じれば、人狼の筋肉細胞は単細胞生物――ヒドラ並みの再生力を持つ。細胞が細胞を生み、傷口は瞬時にふさがってしまう。それを、今の刃は不可能としたのであった。刃のせいというより、振るった若者の技であろう。弾丸もはじき返す皮膚と筋肉組織が、いかなる再生の兆候をも示さない!
「どうしたのです、ガルー!」と少女が叫んだ。「狼に転じたおまえは不死身のはず。遊びはなりません。今すぐ、この人間を引き裂いておしまい」
女主人の叱咤に近い声をききながら、人狼ガルーは動けなかった。傷のせいもある。青年の神秘な剣技のせいもある。しかし、彼の足をすくませ、全身を凍りつかせている恐怖の源は、必殺の一撃を加える寸前、青年の身体からほとばしった殺気の|凄絶《せいぜつ》さであった。それは、人間のものではなかったのだ。
――こいつがあれ[#「あれ」に傍点]か。ダンピールか。
ガルーは、初めて、真の強敵に巡り合ったことを悟った。
「お|守《も》り役は傷ついた」Dは静かに少女の方を向きながら言った。「向かってこなければ長生きできる。――おまえもそうだ。家に帰って厄介な邪魔もののことを父親に告げるがいい。この農園を再び襲うのは、愚かものの行為だと」
「黙れ!」
少女は美しい顔を悪魔の形相に変えて叫んだ。
「わたくしは、第一〇辺境地区管理官マグナス・リイ伯爵の娘ラミーカ。そなたごときの剣に倒せると思うか」
その声が終わらぬうちに、Dの左手から白光が少女の胸元めがけて走った。いつ取り出したのか、目にも止まらぬ速さで放たれた、長さ三十センチにも及ぶ細い針であった。それは木でできていた。白光は、信じがたい速度と空気との摩擦から、針自体が燃え上がった炎の光であった。
奇怪な現象が起こった。
炎はDの胸前で停止していた。放った針がそこで止まったのではない。ラミーカの胸に突き刺さる寸前、反転して戻ってきたのを、Dが素手で受け止めたのだ。正確に言うと、ラミーカが超スピードの針を手で受け止め、それに勝る速さで投げ返したのである。並みの人間の眼には、少女の手の動きなど映りもしなかっただろう。
「家来も家来なら|主《あるじ》も主。――見事だ」
素手で炎をつかんでいるのも、じりじりと肉が焼け|爛《ただ》れているのも知らぬげに、Dがつぶやいた。
「今の手練に対して名乗る。おれは|吸血鬼《バンパイア》ハンターD。生命があったら覚えておけ」
言うなり、Dは音もなく少女めがけて疾走した。ラミーカの表情に戦慄がかすめる。ふたりの距離がまたたく間に、刃の届く範囲まで狭まったとき――
うおおーん
猛々しい遠吠えが夜気を揺るがし、馬車の御者台から、藍色の光条が閃いた。Dが身をひるがえして横へ跳び、これを避けたのは、人間離れした聴力で、御者台のレーザー砲が自分に狙いを定めて回転する音をききわけたからであった。
閃光は彼の外套の裾を貫き、青白い炎をあげた。恐らくは、ガルーの遠吠えによって反応する音声識別回路と電子照準装置を備えたものだろう。かわした先々へ正確無比に飛翔する青い光を避け、Dは成す術もなく宙を舞った。
「お嬢さま、こちらへ!」
御者台からガルーの声がきこえた。ドアの閉まる音。追おうとしたDの足を、またもやレーザー砲の一閃が押しとどめ、馬車は方向を転じて闇の彼方へ吸い込まれていった。
「若造、この決着は後日、必ずつけるぞ」
「貴族の怒り、忘れるな!」
敵を撃退したと喜んでいるのか、女吸血鬼を葬りきれなかったことを悔やんでいるのか、どちらともとれぬ無表情な顔で草むらから起き上がったDの周囲を、男女ふたりの憎悪に満ちた挨拶がいつまでも駆け巡っていた。
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第二章 辺境の人々
西暦一二〇九〇年。
人類は暗黒世界を生きていた。
正確には科学に支えられた暗黒時代とでも言おうか。
七つの大陸には、窮極の科学技術の産物たる|完全自動管制都市《サイバネーション・シティ》『都』を中心に、超高速ハイウエイが縦横に走り、天候すら、十数基の気象コントローラーが自在に制御する。
恒星旅行も見果てぬ夢ではなかった。広大な|宇宙空港《スペース・ポート》には質量変換ロケット、|銀河《ギャラクシー》エネルギー推進船の巨体が|蒼穹《そうきゅう》をねめつけ、現に、アルタイル、スピカをはじめとするいくつかの恒星系には、探査隊の足跡が刻まれているはずであった。
しかし――。
すべては夢だ。
壮大な『都』を覗いてみるがいい。|透明金属《クリスタル》で構成された建物や尖塔の壁面にはうっすらと埃が積もり、ところどころに、爆破物や超高熱による大小の破壊口が生々しい。自走路も、磁力ハイウエイも、ほとんどが半ばで崩れ落ち、流星のごとく行き交う車など一台も存在しない。
人はいる。おびただしいほどに。街路を行進する果てしないその数。笑い声、怒号、泣き声――猥雑なまでの生命エネルギーは、たしかに『都』に生の|坩堝《るつぼ》たる面目を施させてはいる。だが、その姿はどう見ても管制都市の支配者のものではない。遠い中世を連想させる粗末な上衣とズボン、僧侶らしき人物のすり切れた長いコート。ぼやけたような色合い、ざらついた手触りの、華やかさがすべて欠如した女性のワンピース。
長剣や弓矢を手にした騎士風の男たちのあいだを、どこの博物館から引っぱり出してきたものか、かんしゃく玉にも似たバック・ファイアーの音と黒煙を撒き散らしながら、レーザー・ガンを構えた治安官たちを乗せて、ガソリン・エンジン車が通り抜けていく。
建物のひとつから、凄まじい悲鳴があがり、女がまろび出てくる。人間離れしたその叫びに、人々は恐怖の対象を本能的に察知し、治安官を呼び求める。やがて、おっとり刀で駆けつけた彼らは、泣き叫ぶ女から恐怖の所在をききつけ、血の気を喪失した目撃者よりなお青ざめた顔でその建物に侵入する。管制とは別に、自家エネルギー源の力でまだ動いていたエレベーターで地下五〇〇階まで降下する。
遠い昔、完膚なきまでに破壊したはずの地下回廊の一部に隠しドアがあり、その背後――広大な「墓所」に“貴族”たちが眠っていた。すなわち、湿った土で満たされた昔ながらの木の棺の中で、血の|熟睡《うまい》を|貪《むさぼ》る夜の生物たちが。
治安官たちはすぐさま行動に移る。幸い、“邪念獣”や“呪い”、レーザーや電子砲による護衛システムは存在しないようだ。この貴族たちもあきらめ[#「あきらめ」に傍点]がよかったのかもしれない。治安官たちの手に、白木の杭と|鉄槌《ハンマー》が|閃《ひらめ》く。恐怖と罪悪感が入り混じる白ちゃけた表情。黒い影の群れが棺をとり囲むや、誰かの腕が天高くふり上げられ、風を切る。ガンというあの音。凄まじい絶叫と血の臭いが「墓所」を満たす。苦鳴が細まり、やがて途絶えたとき、人々は次の棺へと移る……。
やがて「墓所」を出た治安官たちの顔にこびりついているのは、紅い血の玉と、「作業」の前にも増して色濃い罪悪感だ。
一万年の長きにわたって人類の血に染み込んできた貴族たちへの|畏怖《いふ》の念は、彼らがほぼ滅び去ったからといって容易に拭い去られるものではない。彼らはまさしく人類の頭上に君臨してきた支配者だったのだから。そして、今、人々がその計り知れぬ機能の万分の一の恩恵も受けずに暮らしている自動管制都市、いや、地球上にあって文明と呼べるあらゆる存在は、実は彼らが|遺《のこ》したものなのだから。彼ら――吸血鬼たちが。
吸血鬼と人類を|峻別《しゅんべつ》した場合、地球上の覇者たる人類の歴史は一九九九年のある日をもって突如終結する。人類があれほど警戒していた全面核戦争のミサイル・ボタンを誰かの指が押したのだ。乱れとぶ数千発のICBM、MIRVは次々と大都会を灼熱地獄に変え、致死量を遥かに上まわる数万レンントゲンの放射能が大虐殺をほしいままにした。
限定核戦争、ないし、後に来る復興と勝者の支配を考慮した良識ある戦いなどという楽観論は、数億度の業火と一瞬の時間ともども消滅してしまった。
生き残りの人々はかろうじて存在した。しかしながら、その数は微々たるものにすぎず、毒性大気渦巻く地表を避け、数年に及ぶシェルター生活を余儀なくされたのである。
ようやく地表へ出ても、機械文明はほぼ壊滅の状態にあり、他国の生存者と連絡もとれぬ孤立した人々の力のみでは、破壊以前の状態に、いや、文明と呼びうる段階に復帰することなど、絶望を通り越した夢物語でしかなかった。
後退が始まった。
生き延びることにのみ汲々とする世代交代が進むにつれて、過去の記憶も薄れ、一千年もたつ頃には、やや個体数の増加を見たものの、文明そのものは、かつての中世的段階まで落ちこんでいた。
人々は、放射能と宇宙線とが生んだミュータント生物を恐れ、ようやく緑を取り戻した平原や森の片隅で少数のグループに分かれて生を営んでいた。苛酷な環境との戦いの中で、わずかな食料を得るため、生まれた赤児たちはあるいは殺され、あるいは親たちの空腹を満たすことになった。
そんな時である。この迷信と暗黒の世界に“彼ら”が登場してきたのは。
彼ら――吸血鬼たちが、どのような手段で自らの存在を人類の眼から隠しつつ、その繁栄の陰で生き永らえてきたのかは不明である。しかし、彼らは、伝説に伝えられるほとんどそのままの生物として、新たな歴史の覇者たる役割を担うべく姿を現した。
生物の血を摂取する限り不老不死の彼らは、すでに、人々の脳裡からその|形骸《けいがい》さえ失われている文明の記憶と再建方法を具体化していた。核戦争以前から、世界中の闇の奥に潜む仲間たちと連絡を取り合い、ひそかに開発した超エネルギー源と、核戦争が最悪の結論を導き出したとき新たな文明を復旧するのに可能な最低数の機器を、彼らが設計した核シェルター内に忍ばせてあったからである。
ただし、核戦争勃発の張本人が彼らだったというわけではない。彼らは、人知れず育んできたその超能力と黒魔術、予言法などによって、人類廃滅のときと復興の手段を知ったにすぎなかった。
吸血鬼と人間――攻守ところを変えて文明は再建された。
その過程で両者のあいだにいかなる確執と軋轢があったかは、やがて明らかになってゆくであろう。ともかく、歴史の舞台に登場してから二千年のうちに、吸血鬼たちは超科学と魔法を駆使した一大文明圏を地球に誕生させ、自らを“貴族”と称して人間を隷属させたのである。電子頭脳と霊的意志の管理する自動管制都市も、恒星間宇宙船も、気象コントロールも、元素転換による無制限な物質の製造も、すべては彼らが、彼らだけの頭脳と行動力によって成し得たものであった。
けれど、最盛期からわずか五千年足らずのうちに、彼らもまた滅びへの道を歩むとは、誰が想像し得たろう。歴史は、彼らのものでもなかったのである。
吸血鬼という|種全体《スペイシー》の占める根源的な存在ボルテージは、人類のそれより遥かに粘着性に乏しかった。あるいは、彼らの存在それ自体の中に、未来の破滅を約束する因子が含まれていたと言うべきか。西暦八千年代の終わりから、吸血鬼文明それ自体に、著しいポテンシャル・エネルギーの|凋落《ちょうらく》傾向が顕著となり、それに伴って人類の大反抗が開始された。
極限まで開発され、人心操作をほしいままにしていた心理学や大脳生理学の応用も、数千年の長きにわたって人々の胸の底に沈澱していた生来の反抗心を消去することはついにできなかった。
たび重なる大反乱に|音《ね》をあげた貴族たちは、数十回におよぶ和平条約を人間とのあいだに結び、そのつど短期間の平穏を維持していたが、やがて、自らの運命を知った潔い虚無主義者のようにその姿を消していった。
あるものは自ら生命を絶ち、あるものは永遠に醒めぬ眠りについた。星々の彼方をめざして旅立ったものもいたが、これはごくわずかだった。吸血鬼たちは、基本的に、地球外環境への進出を望まなかったからである。
ともあれ、彼らの絶対数は減少の一途をたどり、ついには人間たちに追われてちりぢりとなり、一二〇九〇年の現在、辺境を中心に人間たちを脅やかす他は、存在意義を持たぬものにまで成り下がっていた。
だが、それでも――いや、それゆえに、彼らの恐怖は人間たちにとって魂さえ脅やかす強烈さを持っていた。
実のところ、人間たちが、たとえ死に物狂いであったにせよ、反乱など企て実行したことさえ奇蹟に近かったのである。
昼は眠り、夜は眼醒め、永劫の生命を保つべく人間の生き血を吸う吸血貴族たちの恐ろしさは、|蝙蝠《こうもり》、狼などに姿を変え、地水火風を自在に操るという|古《いにしえ》の伝説と一体となって、幾世代にもわたる巧みな心理操作の結果、人々の深層心理にがっちりと根をおろしていたのである。
初めて吸血鬼――支配者たちと和平条約を結んだ人間の代表は、その席上、ひとりを除いて歯の根も合わんばかりに震えていたというし、吸血鬼たちの姿が『都』から絶えても、人々がそのあらゆる建物や道路や地下道の配置を知るには三百年近い歳月を要した。
それほどの力量の差を持ちながら、何故彼らが人類抹殺を企てなかったのか――これは永遠の謎とされている。単に吸うべき血液の消滅を危惧したというなら、彼らはその文明の初期段階に、完璧な人造血液を完成させていたし、労働力は、反乱勃発当時すでにロボットで十分肩代わりできた。そもそも、彼らが人間を、隷属という形でさえ存続させておいた理由も、今もって不明のままなのである。一種の優越感と哀れみのせいだったのかもしれない。
吸血鬼たちの姿はほぼ人々の眼から消えても、その恐怖は残った。ごくたまに、闇の奥から彼らが姿を現し、忌わしい歯型の痕を犠牲者の白い喉に残すと、あるものは狂気のごとく、木の|楔《くさび》を手に彼らを探し求め、あるものは犠牲者を追放し、ひたすら次なる来訪がなされぬことを祈った。
「|狩人《ハンター》」は、このような、人々の根源的恐怖の産物だったのである。
吸血鬼たちは、自らがほぼ不死身であったがゆえに、核戦争後の復興初期に、人類があれほど恐れたミュータント生物の駆逐に熱心ではなかった。それどころか、むしろ凶獣たちを愛し、育成し、ついには自らの手で、その仲間たちを産み出しさえしたのである。
遺伝子工学と生物科学の粋により、伝説の怪物たちが次々と人間界に放たれた。人狼、虎男、蛇人間、|粘土巨人《ゴーレム》、妖精、|半鳥人《ハーピー》、半魚人、悪鬼、|羅刹《らせつ》、|屍肉食い《グール》、|歩く死者《ウォーキング・デッド》、バンシー、火竜、|火とかげ《サラマンダー》、|大妖鳥《グリフォン》、|海魔《クラーケン》……。彼らは、生みの親が滅び去ってもなお、原野に、山中に、|跳梁《ちょうりょう》をほしいままにした。
貴族たちから貸与されるわずかな機械類で土地を耕し、火薬使用の武器といった旧式兵器の|複製《レプリカ》や、自作の剣や槍で身を守るしかなかった人々も、何代かたつうちに、彼ら人工の悪鬼の能力や性質、弱点を研究し、それ専用の武器や退治法を開発する連中が現れた。
彼らのうち、あるものはより効果的な武器を製造することを専門とし、体力や敏捷性に秀でたものは、その武器を使用する技を身につけるようになった。これが「|狩人《ハンター》」のはしりである。
時がたつにつれて、ハンターの種類は細分化され、|虎人間《タイガーマン》ハンター、妖精ハンターなどの専門家が生まれた。その中で、知力・体力ともに他を圧し、かつての支配者すら恐れぬ鉄壁の精神力を有すると認められるものこそ、吸血鬼ハンターに他ならないのであった。
翌朝、ドリスは、けたたましい馬のいななきで眼を醒ました。窓から白い光がさしこみ、晴天を示している。
彼女はDに失神させられたときの格好でベッドに横たわっていた。初戦の済んだ後でDが運んだのである。吸血鬼に襲われて以来の不安とハンター探しの緊張のせいで張りつめていた神経が、Dの左手の技で眠らされたことにより、すっかり和らいで、朝まで熟睡してしまったのだ。
反射的に喉に手をやり、ドリスは夕べの出来事を思い出した。
「――あたしが眠っているあいだに何が? 客が来たって言ってたけど、きっと奴[#「奴」に傍点]のことだわ。あの人、どうしたかしら?」
あわててベッドから跳ね起きたその表情が不意に明るくなった。けだるさが残ってはいるが、身体に異常は感じられない。彼女は、Dに救われたことを知った。
その彼に寝室も指示せぬままだったことに気づき、寝乱れた髪をなでつけながら、あわてて居間へとび出す。
分厚いカーテンをぴったりおろした薄暗い部屋の片隅に長椅子が置かれ、皮ブーツが端からはみ出していた。
「D――やってくれたのね。雇った甲斐があったわ!」
顔を覆った旅人帽の下から、相変わらずの低声が答えた。
「……仕事だからな。すまんが、|障壁《バリヤー》をかけ忘れたようだ」
「そんなこと気にしないで」とドリスは掛け時計を見ながらはずんだ声で言った。「まだ705|M《モーニング》だわ。もうひと寝入りしてて。すぐ食事にするわ。腕によりをかけてつくるから」
外でまたけたたましく馬が鳴いた。ドリスは来客があったのを思い出した。
「うるさいわね。朝っぱらから誰よ」
窓辺へ行ってカーテンを引き開けようとした手を、「よせ!」と鋭い声が制した。
はっとふり返ってDを見たドリスの顔は、昨夜、彼の接近を拒んだときと同じ恐怖にこわばっていた。この美しき|狩人《ハンター》の正体を思い出したのだ。そのくせ、すぐ笑顔を取り戻したのは、気丈な上に天性の明るい気質からであった。
「ごめんなさい。あとで寝室を用意するわ――とにかく、お休み」
こう言って、それでも、カーテンの端をちょっぴりつまんで持ち上げ、外を見た途端、可愛らしい顔がみるみる嫌悪の塊となった。
寝室へ戻って愛用の鞭を取り、憤然たる足取りで外へ出る。
ポーチの前で栗毛にまたがっているのは、年のころ二十四、五の大男であった。腰の革製ホルスターに、ご自慢の|十連発爆裂銃《テン・ボム・ガン》をぶち込んでいる。赤毛の下で、こずるそうな眼がドリスの全身を這いまわっていた。
「何の用、グレコ? もう来ないでと言ったはずよ」
ハンター探しのときの、厳然たる口調に戻って、ドリスは男をにらみつけた。
濁った眼に、束の間、とまどいと怒りが浮かんだが、男はすぐいやらしい笑みを顔中に広げて、
「そう言うなよ。これでも心配でとんできたんだぜ。おめえ、ハンターを探してるそうじゃねえか? まさか、領主に襲われたんじゃねえだろうな?」
ドリスの満面にさっと朱が走った。怒りと、図星をつかれた当惑のせいだ。
「いい加減におし。あたしにふられたからって、村の屑どもと根も葉もない話をでっちあげたりしたら承知しないわよ」
「ま、そう怖い顔すんなよ」とグレコは肩をすくめたものの、今度は探るような眼つきになって、「いやなに、|一昨日《おととい》の晩、酒場で会った流れものがよ、この村へ入る途中の坂道で、おっそろしく腕の立つ娘に技くらべを挑まれ、剣を抜く間もなく、こてんぱんにされたって泣いてやがんのさ。で、一杯おごって詳しく話をきくと、その娘の顔立ちといい、身体つきといい、おめえと瓜ふたつだ。おまけに、おかしな鞭を自在に操ったとなりゃ、もう、この辺じゃ該当するのはおめえひとりしかいねえ」
グレコの眼は、ドリスの右手の鞭にそそがれていた。
「人は探したさ。腕ききをね。あんただってこのごろ村でミュータント獣の被害が多いのは知ってるだろ。うちも同じなのさ。あたしひとりじゃ手がまわらないからね」
ドリスの返事に、グレコは薄笑いを浮かべた。
「なら、村で人材スカウトのカッシング爺さんに頼みゃ済むこっちゃねえか。なあ、五日前の夕暮れどき、おれんとこの下男が、おめえが小竜を追って領主の城の方へ駆けてくのを見てるんだぜ。そこへもってきて、村のもんにゃふせとかなきゃならねえ人探しだ」
グレコの口調ががらりと変わった。|恫喝《どうかつ》するように、
「おめえ、首のスカーフを取ってみな」
ドリスは動かなかった。
「へへ、取れめえ。やっぱりそうか。おれが村へ帰ってひと言いやあ――ま、その先はやめとくがな。な、どうだい、前からの申し込み、いい加減でオーケイしてくれよ。夫婦になっちまやあ、おめえは村長の|伜《せがれ》の嫁だ。村の連中なんかに指一本触れさせやしねえ――」
下劣な言葉が終わらないうちに、びしっと空気が鳴り、栗毛が悲鳴をあげて仁王立ちになった。ドリスの鞭が電光の速さで馬の横腹を痛打したのである。
あっという間に、グレコの巨体は|鞍《くら》からはねとばされ、大地に激突した。腰のあたりを押さえて声もなく呻く。栗毛は無情にも主人を残して、|蹄《ひづめ》の音も高らかに農場から逃亡してしまった。
「ざまあみろ。親の権威をかさにきて、助平ったらしいこと|吐《ぬ》かした罰よ」ドリスは嘲笑した。
「あたしはおまえの親父も取り巻き連中も|最初《はな》から好かないのよ。文句があるなら、お父ちゃんとお供をつれていつでも押しかけといで。逃げも隠れもしないわ。そのかわり、今度そのいやらしいあばた面をあたしの前にさらしたら、顔の皮一枚、上から下までべろんとはがされるとお思い!」
この美少女のどこから出るのかと思われるほど伝法な言葉を、炎みたいに真正面から浴びせかけられて、大男の顔にもかっと血が昇った。
「野郎、下手に出てりゃあ――」
言いながら、右手を爆裂拳銃に伸ばす。みなぎる陽光を一陣の黒い影がまた切り裂いて、抜きかけた拳銃は後ろの草むらへはじきとばされた。〇・五秒とかからぬ早技である。
「今度は鼻か耳がとぶわよ」
その声に、ただの脅し以上のものを感じとったのだろう。グレコは捨て台詞も残さず、腰と右手首を交互にもみながら、あたふたと農場を逃げ去った。
「親がいなきゃ何もできないクズ野郎が」
吐き捨てるように言ってふり向いたドリスは、その場に立ちすくんだ。 寝巻き姿でレーザー・ライフルを構えたダンが戸口に立っている。くりくりっとした両眼は涙でいっぱいであった。
「ダン……おまえ……きいてたの?」
少年はこっくりとうなずいた。入口の方を向いていたグレコが何も言わなかったところをみると、ドアの陰にいたのだろう。
「姉ちゃん……貴族に噛まれたの?……」
少年も辺境の荒野に生きる身である。悪魔の口づけを喉に受けたものの運命は熟知していた。
ふたまわりもでかい大男を鞭のひとふりで撃退した美少女は、言葉もなくその場に立ちつくした。
「やだよお!」
いきなり少年が抱きついてきた。こらえにこらえていた哀しみと不安が一気に溢れ出し、ほとばしる涙がドリスのスラックスに熱く染みた。
「やだ、やだ……おれ独りぼっちになっちゃうじゃねえか……やだよお」
いやだと言いながら、どうすればいいのかもわからぬ、やり場のない哀しみであった。
「大丈夫よ」自分まで泣き出しそうになるのをこらえて、ドリスは弟の小さな肩を抱いた。
「姉ちゃんは、貴族なんかに噛まれてやしない。これは虫に食われた|痕《あと》よ。おまえが心配するといけないと思って隠してあるんだわ」
涙でぐしょぐしょの顔に、ぽっと明るい光がさした。
「ほんと?……ほんとだね?」
「ああ」
これだけでケロリとするのは、やはりまだ緩急自在な心を持つ少年のゆえだ。
「でもさ……グレコの嘘っぱちを真に受けて、村の連中が押しかけてきたらどうするんだい?」
「姉ちゃんの腕前は知ってるわね。それに、おまえもいるし――」
「Dのお兄ちゃんもいるよ!」
少年の声ははずみ、少女の顔は曇った。
ハンターの流儀を知るものと知らぬものの差である。そして少年は、彼がハンターであることも知らされていなかった。
「おれ! 頼んでくるよ!」
「ダン――」
止める間もなく少年は居間へと消えた。あわてて後を追ったが遅かった。ダンは信頼しきった声で、長椅子の青年にこう呼びかけていた。
「今、姉ちゃんのこと嫁さんにしようって狙ってる奴が来てさ、へんな言いがかりつけてったんだ。きっと、村の奴らを連れて戻ってくる。そしたら姉ちゃん、連れてかれちゃうよ。お兄ちゃん、守ってくれるよね」
答えを予想して、ドリスは思わず眼を閉じた。問題は返事の内容ではなく、その結果なのだ。冷たい、とりつく島もない拒絶は、|脆《もろ》い少年の心に癒しがたい傷をのこすだろう。
だが、この吸血鬼ハンターはこう答えたのだった。
「まかせとけ。姉さんに指一本触れさせやしない」
「うん!」
少年の顔は朝日のようにきらめいた。
ドリスが背後から言った。
「さ、じき朝御飯よ。その前に、農園の環境調節装置の具合を見ておいで」
生命そのもののような勢いで少年が駆け去ると、ドリスは横になったままのDに向かって、
「ありがとう」
と言った。
「ハンターは狩り以外、指一本動かさないのが鉄則だわ。どう断られても文句は言えないのに……。あの子、傷つかずに済んだわ……大好きなお兄ちゃんのおかげで」
「断っておくが」
「わかってます。仕事の他にしてくれることは、今のひと言で十分。あたしの|問題《トラブル》はあたしが解決します。あなたは、一刻も早く自分の仕事を果たしてちょうだい」
「結構だ」
Dの声はやはりあくまでも冷たく、無感情であった。
案の定、「客たち」は、三人がやや風変わりな朝食を済ませた頃やってきた。
風変わりというのは、Dの食事量がダン少年の半分にも満たないからである。メニューは、直径三十センチもあるミュータント鶏の卵に厚さ三センチは軽い自家製ハムをのせた超大型ハムエッグと、不純物一切なしの焼きたて黒パン、それに、農園直産の大ブドウのフレッシュ・ジュース――もちろんもぎたてで、粒ひとつから、大カップ三杯分のジュースがとれる。
と、以上がメイン・ディッシュで、他に大皿いっぱいの野菜サラダと、香り豊かなフラワー・ティーがつく。農園を経営しているドリスの家ならではの豪華メニューで、その新鮮さだけでも、大の男ならハムエッグのひと皿やふた皿はおかわりしたくなるだろう。すがすがしい朝の陽光と大輪のラベンダー・フラワーで飾られた|食卓《テーブル》は、そこに並ぶものすべてに、今日これからの苛酷な辺境生活を闘うだけの|活力《パワー》を与える聖なる儀式なのであった。
それなのに、Dは早々にナイフとフォークを置き、あらためてドリスにあてがわれた奥の小部屋へ引きこもってしまった。
「変なの。お腹の具合でも悪いのかな?」
「そうでしょ、きっと」
なにげない風を装いながら、ドリスは、今、奥でDが自分用の朝食を摂っている姿を想像して、胸が悪くなった。
「なんだ、姉ちゃんまで急に――どうしたの? いくらなんでも、気が合いすぎるぜ」
冷やかすダンを叱りつけようとして、ドリスの顔がさっと緊張した。
窓の外から|馬蹄《ばてい》の響きが近づいてくる。それも複数だ。
「来やがったな!」
とダンも叫んで、壁にかけたレーザー・ライフルの方へ駆け寄った。
「D――兄ちゃん!」と叫びかかるのをドリスは素早く手で制した。
「どうしてだよ。きっとグレコと子分どもだぜ」
と、口をとがらせるのを、
「まず、あたしたちだけでやってみましょう。それで駄目だったら、いよいよ――ね」
しかし、自分たちがどんな目に|遇《あ》おうとDが動かないのは承知の上であった。
ふたりは鞭とライフルをかまえてポーチへ出た。まだ八歳の弟を同行させたのは、自分たちの財産や身の安全は自分たちで守るしかない辺境の掟ゆえである。他人の力をあてにして、火竜や|粘土巨人《ゴーレム》相手に生き延びることはできない。
やがて、ふたりの前に、馬に跨った十人ばかりの男たちが並んだ。
「おやま、村のお歴々が勢揃いじゃないの。こんな取るに足らない農園には、もったいないお客さまだわね」
平静を装った口調で挨拶しながら、ドリスの眼は油断なく、二列め、三列めの男たちに注がれた。最前列は、村長――つまり、グレコの父で、もう六十近いくせに妙に脂ぎった顔のローマン氏と治安官のルーク・ダルトン、医師のサム・フェリンゴといった名士[#「名士」に傍点]ばかりで、いきなり物騒な真似をする恐れはないが、その後ろに控えているのは、事あらば腰のマグナム・ガンやオンボロ熱線銃にものを言わせたがっている凶暴なならずもの集団だ。
ローマン村長が経営する牧場の使用人どもだが、ドリスは脅える風もなく、ひとりずつにらみつけてゆき、いちばん最後尾になじみの顔を発見したときだけ、軽蔑そのものの眼つきになった。事が起こりそうになると、今までのへらず口はどこへやら、いちばん安全圏へ隠れて知らぬ顔を決め込むのがグレコのやり方である。
「で、何の用?」
申し合わせていたらしく、ローマン村長が口を切った。
「わかっとるじゃろう。そのスカーフの下にある傷の件じゃ。今、フェリンゴ先生に見せて、何でもなければよし、もしもあれ[#「あれ」に傍点]なら、気の毒だが収容所へ入ってもらわなくてはならん」
「ふん」とドリスは鼻を鳴らした。「馬鹿息子のホラを真に受けてきたのね。そいつは今まで五回、あたしを口説いてそのたびにはねつけられたもんだから、可愛さ余って憎さ百倍――あることないこと言いふらしてるのよ。|下司《げす》のかんぐりしやがると、村長だからってただじゃおかないわよ」
口をはさむこともできない流暢なたんか[#「たんか」に傍点]に、村長の牛みたいな顔が怒りで紅潮した。そこへ、
「そうだ。姉ちゃんは吸血鬼なんかに血ィ吸われてないや。とっとと帰りやがれ、この助平じじい!」
とダンが横合いから叫んだからたまらない。
「な、なにが助平じじいだ……こ、この餓鬼めが。仮にも村長をつかまえて……助平とは何事だ。助平とは……」
老人は完全に逆上した。村の実権を握っているやり手とはいえ、しょせんは一小村の村長どまり。痛いところをつかれただけでたやすく感情抑制の緒が切れるのだ。その辺のチンピラ兇状持ちと大差がない。
後ろからグレコが怒鳴った。
「なめくさりゃがって。おい、みんな、構やしねえ。ひっつかまえて、家に火を放て」
「おおっ!」
とならずものたちがどよめいたとき、
「よせ! つまらん真似をするとおれが許さんぞ!」
ダルトン治安官の叱咤が走った。ドリスの表情も一瞬和む。まだ三十前だが、誠実で有能なこの治安官には彼女も信頼を寄せていた。無法者たちの動きも停止する。
「あんたも仲間かい、治安官?」
ドリスは低い声できいた。
「わかってもらいたいんだよ、ドリス。おれには村の治安を守る仕事がある。君の喉を調べるのもそのひとつなんだ。事を荒だてたくはない。なんでもないんなら、ひと目でいい。先生にそのスカーフを取って見せてやってくれ」
「そうとも」とフェリンゴ医師が馬上から身を乗り出した。村長と同年配だが、『都』で医学を学んだだけあって、ずっと知性的な顔つきの老紳士である。ドリスとダンの父親が教育場の教え子だった関係で、常日頃、ふたりには心を砕いてくれている好人物だ。ドリスもこの人にだけは頭が上がらない。
「どんな結果が出ようと、悪いようにはせん。わしと治安官にまかせなさい」
「いいや、収容所行きだ!」
後ろでグレコの底意地の悪い声がした。
「誰だろうと、この村で貴族に血を吸われた奴は収容所へ入る掟よ。けけ、それから、貴族を退治できねえときは、おっぽり出されて凶獣の餌だ」
「よさんか、馬鹿もの!」
治安官がふり向いて一喝した。
グレコはぎょっと鼻白んだが、まわりはすべて使用人なのに力を得て、
「なんでえ、バッジつけてるだけで威張りくさりゃがって。おれに文句を言う前に、その|女《あま》っ子の喉を調べてみろってんだ。おめえ、それで給料もらってるんだろうが」
「なにい……」
治安官の眼が殺気を帯びた。同時に、ならずものたちの右手も腰や背中に伸びる。おかしな具合になった。
「やめろ」と村長が苦い声で一同を叱りつけた。「仲間割れしてどうなる。要は、この娘の喉を見れば済むことだ」
これには、治安官もならずものたちも、しぶしぶ従うしかなかった。
「ドリス」と治安官は、前より厳しい口調で呼びかけた。「スカーフを取りたまえ」
ドリスは鞭を握りしめた。
「いやだと言ったら……?」
治安官は沈黙した。
陽光に溢れたさわやかな空気の中を、冷たい殺気が尾をひいて流れた。
「やっちまえ!」
グレコの叫びとともに、凶漢どもの馬がぱっと左右に散った。ドリスの鞭もしなる。
「よせ!」治安官の制止に、もはや何の効力もないと思われた闘争開始の刹那――。
荒くれた男たちの動きがぴたりと停止した。正確には、彼らの馬がたたらを踏んでしまったのである。
「こら、どうした……動きゃがれ!」
金具つきの|長靴《ブーツ》で蹴っても微動だにしない。このとき、彼らに馬たちの両眼が覗き込めたら、名状しがたい恐怖の色をそこに見たであろう。脅えることも、逃げることすら許さぬ圧倒的な恐怖の色を。
そして、男たち全員の眼は、いつの間にか戸口に立ちふさがった黒衣の美青年に注がれていた。
陽光すらよどんだかと思われた。突如、一陣の風が|野面《のづら》をなで、男たちは顔をそむけ、薄気味悪そうにその顔を見合わせた。
「なんだ、おまえは?」
村長は必死に威圧的な声を出そうとしたが、語尾の震えは隠しようもない。人間の魂そのものの平穏を揺るがす雰囲気を、この青年は身につけていた。
ドリスはふり向いて驚愕し、ダンの顔はよろこびにかがやいた。
何か言おうとしたドリスを無言で制し、Dは姉弟をかばうようにその前に歩み出た。右手には長剣を握っている。
「おれはD。この農園に雇われたものだ」
彼は村長ではなく治安官を見て言った。
治安官は小さくうなずいた。ひと目で眼前の青年の正体を見抜いたのである。
「おれは治安官のダルトン。こっちは村長のローマンさんと、ドクター・フェリンゴだ。後ろの奴らはどうでもいい」
とさすがに筋の通った自己紹介を行ってから、
「君はハンターだな。その眼つき、物腰――Dという名の凄腕が辺境を旅しているときいた覚えがある。その剣の速さは、レーザーの|光《ビーム》に勝るとか」
畏怖とも賞讃ともとれる言葉だが、Dは無言であった。
治安官は硬い声でつづけた。
「ただ――その男は吸血鬼専門のハンターだという。彼自身、ダンピールだとな」
「……!」
居ならぶ村の名士やならずものたちが凍りついた。ダンまでも。
「じゃあ、やはり、ドリス――おまえは……」
フェリンゴ医師が絶望的な声音をふりしぼった。
「そう――この|娘《ひと》は吸血鬼に噛まれた。おれは、そいつを滅ぼすために雇われた」
「とにかく、吸血鬼に噛まれた以上、野放しにしておくわけにはいかん。収容所行きだ」
と村長が宣言した。
「いやよ」
ドリスは突っぱねた。
「ダンと農園を置いてどこへも行かないわ。どうしてもって言うんなら、腕ずくで連れてゆき」
「ようし……」
グレコが呻いた。あくまで挑戦的な少女の言動に、ふられた恨みを思い出したのである。蛇のような陰火を眼にともらせてならずものたちに顎をしゃくる。
一斉に下馬しようとした荒くれどもの馬が、このとき、一斉に棒立ちになった。降りるつもりで鞍から身を乗り出していたからたまらない。
「ぎゃっ!」「うわあっ!」と思い思いの悲鳴をあげて、ひとり残らず地べたへ放り出されてしまった。呻き声と馬のいななきが陽光に満ちた。
Dは治安官に視線を戻した。彼のひとにらみで馬たちが直立したと、治安官に理解できたかどうか。
言いようのない緊張感と恐怖がふたりの間を流れた。
「……ひとつ提案がある」
Dの言葉に治安官は夢遊病者のようにうなずいた。
「この娘さんの処置は、おれの仕事が済むまで待て。無事に済めばよし、さもなければ……」
「安心して。自分の始末は自分でつけるわ。この人が領主に負けたら、杭の一本ぐらい自分でこの心臓に打ち込んでみせる」
ドリスも大きくうなずいた。
「だまされるな! こいつは貴族の仲間[#「貴族の仲間」に傍点]だぞ。話をつけるなんて、きっと村の連中をみんな吸血鬼に変えるつもりなんだ」
地面に叩きつけられたのはこれで二度目のグレコが、四つん這いでわめいた。
「その女を処分しろ。いや、いっそ領主にくれてやれ。他の女が襲われなくて済むぜ」
ボン! と音がしてグレコの顔の前十センチほどの地面に火柱が立った。五万度の高温に地表は煮えたぎり、火柱がグレコの脂ぎった顔にとんで鼻の下を灼いた。獣じみた悲鳴をあげてのけぞる。
「姉ちゃんの悪口言うと、次は頭だぞ!」
レーザー・ライフルの銃口をぴたりとグレコの顔面にすえてダンが威嚇した。反動のない武器とはいえ、自分の身長を大分オーバーするライフルを思い通りの的に命中させるとは、子供にあるまじき腕前と言える。
怒るより、むしろ、よくやったぞという風に苦笑する治安官にDは静かに言った。
「この通り、うちには手強い用心棒がついている。腕ずくでごり押しするのはいいが、無用の怪我人が出るかもしれん。少し待て」
「怪我した方が薬になりそうな奴もいるがな」
と治安官はちらりと後ろで呻いている荒くれどもに眼をやって、
「どうしたもんですかな、先生?」
「なぜ、わしにきかん!」と村長が青すじ立ててわめいた。「こんな流れもの信用できるか。わしの息子が言う通り、収容所送りじゃ! 治安官、すぐ連行せい!」
「吸血鬼患者の判定はわしに一任されておる」
フェリンゴ医師は平然と言って、内ポケットから葉巻を一本取り出し、口にくわえた。その辺の密造業者が手巻きにした不純物八〇パーセントの安物ではない。『都・専売局』のマーク入りセロファンに包まれた高級品だ。フェリンゴ医師の秘蔵品である。彼はドリスに向かって小さくうなずいた。
びゅっ! と鞭が閃いた。
「げっ!」
村長が素っ頓狂な声をあげて鼻を押さえた。ドリスの鞭は、手首のわずかひとひねりで医師の口から葉巻を巻き取り、村長の鼻の穴へ突っ込んだのである。
満面朱に染めて激怒する村長を尻目に、医師は高らかに宣言した。
「ようし、ドリス・ランの吸血鬼病は超軽度と認める。自宅療養を命じるぞ。承知だな、治安官に村長?」
「はい」と治安官は満足気にうなずき、しかし、突然、法の守護人たる凄烈な表情を真正面からDに向けた。
「こういう次第だ。腕ききハンターの言葉を信じて話のつくのを待とう。しかし、これだけは言っておく。私は君たちの胸に杭など打ち込みたくはない。ないが、しかし、運命のときが来ればためらいはせん」
そして彼は、悲痛な眼差しをうら若い姉弟に投げかけ、別れの言葉を放った。
「一日も早く、大ブドウのジュースをご馳走になれる日を待ってるぞ――こら、さっさと馬に乗れ、この屑ども。断っておくが、村でおかしな噂をひとつでもたてたら、即、電気監獄行きだ、覚えとけ!」
憎悪と同情と激励の眼つきが丘の向こうに消えるのを見届けて家に入ろうとしたDを、ドリスが呼び止めた。冷たくふり向く彼に、
「変わったハンターね。余計な仕事まで請け負っても、報酬は出せないのよ」
「仕事じゃない。約束だ」
「約束? 誰としたの?」
「そこの小さな用心棒とさ」
と顎をしゃくり、こわばったダンの表情に気づいて、
「どうした? 貴族の仲間[#「貴族の仲間」に傍点]は嫌いか?」
ときいた。
「ううん」
首をふった少年の顔が突然、くしゃくしゃに歪んだ。
「うえーん」
さっきグレコをやり込めた幼い勇者は、いま八つの子供に戻って泣きじゃくりながらDの腰にすがりついた。三年前父が死んで以来、べそひとつかいたこともない子であった。女手ひとつで奮闘する姉を見ながら、小さな胸に小さな意地と決意を秘めて育ってきた男の子であった。
そんな子にも、辺境の生活はやはり、辛く孤独であったのだ。ただひとりの身よりを奪われ、天涯孤独の身になると幼い心に感じたとき、彼は我を忘れ、姉ではなく、昨日やってきたばかりの青年にすがりついた。
「ダン……」
弟の肩に伸ばしたドリスの手を、Dはそっと止めた。
やがて、少年の泣き声が細く小さくなり、しゃくりあげる感じに変わって、それもやむと、Dは静かにポーチの板の間に膝をつき、正面から、涙の痕をとどめる小さな顔を見据えた。
「いいか」と彼は低いがはっきりした声で言った。その声にまごうかたない励ましの感情がこもっているのを知り、ドリスは眼を見張った。
「おれは姉さんと君に、貴族を倒すと約束しよう。必ず守る。君もおれに約束しろ」
「うん」
ダンはこっくりうなずいた。
「これから先、君が泣こうとわめこうと、それは君の勝手だ。好きにするがいい。だが、姉さんだけは泣かしちゃならん。君が泣くことで姉さんが泣きそうだと思ったら我慢しろ。君がわがままを言って姉さんが泣き出しかけたら、笑ってあげろ。君は男だからだ。――いいな」
「うん!」
少年の顔がかがやいた。それは誇りの色であった。
「では、お兄ちゃんの馬に|飼葉《かいば》を頼む。じき、出掛けるところがあるんだ」
少年は走り去り、Dは無言で家に入った。
「D。あたし……」
「奥へ来たまえ。出掛ける前に、魔除けの術をかけておく」
胸に何かがつかえたようなドリスの声も知らぬげに、吸血鬼ハンターはこう言い放ち、|蕭然《しょうぜん》と暗い廊下の奥に消えた。
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第三章 吸血鬼リイ伯爵
農園から北北西へ馬をとばして二時間。小高い丘の上に凝然とそびえる巨大な灰色の城郭が、頭上にのしかかるように見えるところまでやってきた。
「領主」――マグナス・リイ伯爵の居城である。
ふりそそぐ午後間近の陽光も、この周囲だけは色を変え、吐き気を催す|瘴気《しょうき》と化して立ち昇っているような、なんとも病的な雰囲気の土地であった。草はどこまでも青く、樹々は豊饒な実を結んでいるのに、鳥の声ひとつしないのだ。
それでも、さすがに晴天の日の昼前とあって、吸血鬼の城に生きものの気配はない。遠い中世を模して建造された城の壁には無数の銃眼がうがたれ、本丸や一の丸をつなぐ幅広い石段が縦横に張りめぐらされているのに、護衛用のアンドロイド・ガードの影ひとつなく、城は一見、無人そのものであった。
だが、Dはすでに感じていた。この城の血まみれた夜の姿を。そして、白い光の中にさえ、餌食を待って身をひそめている邪悪な電子の眼と武器の数々を。
城の上空三万六千キロの静止軌道に浮かぶ監視衛星と、木の実や蜘蛛などに身をやつしたおびただしいTV・アイは、侵入者の毛穴の数まで解読できる精緻な画像をマザー・コンピューターに送り込み、銃眼の奥にひそんだ光子砲の安全ロックを解除、侵入者の体表面数百カ所にその照準を合わせているはずであった。
貴族たちは夜のみの生を宿命づけられているがゆえに、昼は|電子《エレクトロニクス》の守りを絶対に必要とした。夜、いかなる魔力を振るおうと、陽光の下での彼らは、杭のひと突きで絶命する|脆弱《ぜいじゃく》な存在にすぎない。六、七千年に及ぶ“支配”と“統治”の歴史の中で、彼らが人間たちの心に自らの恐怖を植え込もうと、心理学や大脳生理学のすべてを駆使したのもこのためであった。
その成果は、吸血鬼文明が崩壊してすでに久しく、容易にその姿を垣間見ることさえ困難な世界で、今なおこの領主のごとく、一地方を完全に制圧し、人間という「敵」の真っただ中に居を占めて動じないものがいることでも明らかであろう。
これは出がけにドリスからきいたことだが、ランシルバの村人たちも、かつては幾度か剣や槍を手に領主の追い出しを|謀《はか》った経験を持つという。ところが、城の敷地内へ一歩足を踏み入れるなり、黒雲が頭上に乱舞し、大地は大きく裂け、稲妻は走り、ついに城の堀割に辿りつくこともできず敗走のやむなきにいたった。
村の代表団はあきらめず『都』へ直訴した。政府の虎の子とも言うべき反重力飛行軍団に空爆を敢行してもらったのだが、エネルギーと爆薬の消耗を恐れた政府はたった一度の攻撃しか許可せず、それも城の|防御機構《D・システム》に妨げられて大した成果をあげ得ぬうちに引き返すというていたらく。しかも、翌日から丸半月、この世のものとも思えぬ残虐な殺され方をする村人が続出し、この復讐劇の前に、反抗の火は完全に絶えたのであった。
今、Dが刃にかけるべく歩を進める領主の城は、半ば伝説化した吸血鬼たちの恐怖をなおこの世にとどめる、超科学と呪いの魔城なのであった。
Dの顔に|憔悴《しょうすい》の色がうかがえるのは、そのせいであろうか。いや、吸血鬼ハンターたるもの、それくらいは百も承知のはずだ。その証拠に、彼は恐れる風もなく、巻き上げられた跳ね橋へと馬を進めていく。電子工学の粋を集めた鉄壁の城と城主に対して、孤剣ひとふりの青年にいかなる勝算ありや。
今しも灼熱の白光がその胸を貫くかと思われたが、生ぬるい風が豊かな黒髪をなでたばかりで、彼はじき、青黒い水をたたえた|門前堀《トーアグラベン》の縁に着いた。
水の幅は五メートルもあろうか。さてどうしたものかと思案するみたいに城壁へ眼を走らせ、ペンダントに手を触れかけたとき、なんと、重々しい|軋《きし》り音をたてて、城門を塞いでいた跳ね橋が、その頭上へゆっくりと落ちかかってきた。
大地を揺るがせて橋がかかった。
「来訪を歓迎いたします」
どこからともなく金属的な声が呼びかけた。没個性のきわみ――コンピューター合成音である。
「どうぞ城内へ。貴方がお乗りの馬の脳に誘導刺激電波を送っております。出迎えのない失礼はそれにてお許しを」
Dは無言で馬を進めた。
渡り切ると広い中庭へ出た。背後で跳ね橋が引き上げられる音がしたが、ふり向きもせず、石畳の道を|居城《パラス》へと前進する。
整然と並んだ庭木、陽光を映してきらめく大理石の彫像、どこへ通じているとも知れぬ階段や回廊。何もかも機械による入念な手入れを感じさせ、何百、何千年前に植えられ、つくられたとも知れぬのに、まるで、きのう運び込まれたみたいに新しい。ただ、生あるものの気配が途絶えているだけだ。機械だけが生き、機械の眼と、機械の火矢がDを狙っている。
馬が居城の門前で停止すると、Dは素早く|鞍《くら》から降りた。おびただしい数の|鉄鋲《てつびょう》を打ちつけた分厚い扉はすでに開いている。
「お入り下さい」
暗い回廊から同じ合成音が響いた。
内部は薄闇に閉ざされていた。窓ガラスが陽光を制限しているのではなく、人工照明がつくりだしたものだ。吸血鬼の居城の窓は一片の光も通さぬ装飾にすぎない。
声の指示に従って回廊を歩きながら、Dは、窓という窓が、壁にうがたれた|壁龕《へきがん》の奥にしつらえられているのを見てとった。廊下から壁龕へは二、三段の足場を使って登る。窓辺へ行くのではなく、窓の奥へ入るわけだ。中世ドイツの城を模したものである。
吸血鬼文明を特徴づける第一の要素に「中世趣味」がある。超科学メカで埋め尽くされた『都』でさえ、建物のデザインは、中世ヨーロッパのそれに酷似したものが多い。あるいは、迷信と伝説と|魑魅魍魎《ちみもうりょう》が|跋扈《ばっこ》したその黄金時代の遺伝的記憶が、彼らのDNAに回帰を叫んだのかもしれない。忌わしい妖怪や幽魔を超科学の力で復活させたのも、そのためであろうか。
声が導いたのは豪華な大扉の前であった。扉の下方に、猫が出入りする小さな穴が開いている。
またもや扉は音もなく開き、Dはさらに濃さを増した薄闇の世界へ足を踏み入れた。
緒悴の色がふっと消え失せた。神経が筋肉が血の流れが、それらが記憶している「時間」が突如変貌したことを告げた。
部屋――広間らしかった――全体に漂う濃密な香りを嗅いだ瞬間、Dは原因を悟った。
――「|時《とき》だましの|香《こう》」か。噂にはきいていたが。
広大な広間の端にぽつんと点った炎がおぼろげに浮かび上がらせたふたつの影を認めたとき、それは確信に変わった。
Dの不敵な相貌さえ緊張にこわばらせる妖気を影は発していた。ひと目で女のものと知れる華奢な影のかたわらに立つ、ひときわ壮大な黒衣の影が。
「待っていたぞ。ここまで無事に訪れた人間は、おぬしが初めてだ」
荘重な声の洩れる真紅の唇の端から、白い牙が覗いた。
「客人に名乗ろう。わしがこの城の城主にして第一〇辺境地区管理官マグナス・リイ伯爵だ」
「時だましの香」とは、吸血鬼の生理的要求が産み出した窮極の化学物質と言えよう。
古来、さまざまな資料や伝聞によって伝えられてきた、この魔人たちの生理に関する情報は、ある意味でそのほとんどが真実であった。|蝙蝠《こうもり》に変じ、霧と化して舞う――これら荒唐無稽な物語は、それを可能にする吸血鬼と不可能のままとどまる吸血鬼が存在することで、事実と見なされた。人間社会においても、個々の資質によってその才能を発揮する分野が異なるように、吸血鬼の中にも天候を自在に操る魔人もいれば、低級な動物を|下知《げち》し得る妖鬼がいるというわけである。
それでもなお、その奇怪な生理の多くは謎に包まれていた。
その代表的な例が、夜は眼醒め、昼は眠るというあれ[#「あれ」に傍点]である。あらゆる光を遮断した密室の闇に包まれていても、眼には見えぬ夜明けの訪れとともに、吸血鬼の身体は硬直し、心臓の鼓動のみ空しく打ちつづけながら、呼吸なき死の眠りにつくのだ。生態学、生理学、大脳生理学、心理学および超心理学――あらゆる学問の精髄を投入した数千年におよぶ解明の努力にもかかわらず、真理は、そのわずかな光さえ呪われたものたちの前に示そうとしなかった。闇の世界の住人には、いかなる光明も不要だとでもいう風に。
「時だましの香」は、そんな血みどろの探究が生んだ一種の限界克服法なのであった。
その香りのたちこめるところ、時は夜になるのである。いや、時自体が今は夜と錯覚するのである。言わば、これは、化学物質による時への催眠術とでも言えようか。陽光きらめく昼下がり、夜のみ咲く月光草は|絢爛《けんらん》とその白い花弁を開き、人々は眠りにおちたままいつまでも眠りつづけ、そして吸血鬼たちの眼は爛々とかがやくのであった。
原料の調合と製法の桁はずれな難しさから滅多に手に入る品ではないが、たまたま所持していた吸血鬼の寝所へ、昼のまっさかりだとばかりに押し入ったハンターたちが、それは無惨な返り討ちに遇ったという噂は、辺境の隅々まで流布していた。
そこ――いつわりの夜のただ中で、Dは闇の領主と相対した。
「我らが眠っておると考えてきたか、愚かなやつ。娘の邪魔をしてのけた、今までの虫けらどもとはひと味違う難物というので目通りを許したが――怪しみもせず地獄の闇へ踏み込むとは、はて見込み違いであったかな」
「いいえ」ときき覚えのある声が言った。隣の影はラミーカであった。
「その男、まるで脅えの色が見えませぬ。|臓腑《ぞうふ》が煮えたぎるのを通り越して、愛しいくらいふてぶてしい奴。昨夜、ガルーに|深傷《ふかで》を負わせた手並みからして、間違いなくダンピールに相違ございません」
「どちらにしても裏切りものだ。我らの仲間と人間どものあいだに生まれた私生児――おぬし、人間か吸血鬼か?」
|嘲《あざ》けるような問いに、Dは別の答えで応じた。
「おれは|吸血鬼《バンパイア》ハンターだ。行く手の壁が開いたからここへ来たまで。あの農園の娘を襲ったのは貴様か? そうなら、今、この場で倒す」
闇を貫くような|双眸《そうぼう》のかがやきに、一瞬、伯爵は言葉を失ったが、次の瞬間、そんな自分を激怒するかのような大|音声《おんじょう》で哄笑した。
「倒す? 身の程知らずめが。娘が、あれほどの男を殺してはならぬ、説得して城の仲間に加えろと言うから、ここまで入れてやったのがわからぬか。おまえの両親のどちらが我らの仲間かは知らぬが、息子の言動からするに、所詮は身分の卑しい、|分《ぶん》をわきまえぬうつけもの[#「うつけもの」に傍点]であろう。時間の無駄だ。種族の恥、ダンピールよ、わしが引導をわたしてくれる」
そう怒号して右手をふり上げた伯爵を、ラミーカの声が止めた。
「お待ち下さい、父上。わたくしが話してみます」
そして彼女は、前夜とは異なる深い青色のドレスの裾をひるがえし、伯爵とDとのあいだに進み出た。
「おまえも、誇り高き我らが一族の血を引いたもの。父上はああ言われるが、下賎のものの息子が、あれほどの技量を身につけられるはずもない。おまえの投げ矢を受けたとき、わたくしは血が凍る思いでした」
「………」
「どうじゃ。広言の非礼を父にわび、この城の一員にならぬか。何のためにわたくしたちをつけ狙う? ハンターとは、そのような粗末ななり[#「なり」に傍点]で荒野をさすらうに価する仕事であろうか。いや、そんなおまえが守ってやった人間ども、おまえに感謝してしかるべき人間どもから、いかなる仕打ちを受けてきた? 人間の一員として受け入れてもらえたか?」
奥行きも知れぬ薄明に包まれた広間に、美少女の声はよどみなく流れた。昨夜と変わらぬ傲慢、威圧の調子に、あえかな懇願と欲情の|翳《かげ》がまといついているのを、果たしてDは気づいたかどうか。
ダンピール――吸血鬼と人間のあいだに生まれた子供。ある意味で、これほどいとわしく孤独な存在はあるまい。ふだんは人間と変わりなく、陽光の下でも比較的自由に行動するが、ひとたび激怒すれば、吸血鬼の魔力を振るい、人々を殺傷する。何より忌わしいのは、親の片方から受け継いだ吸血の習性であった。
生まれつき、吸血鬼の長所も弱点も|知悉《ちしつ》するがゆえに、人間社会では吸血鬼ハンターをたつき[#「たつき」に傍点]の道に選ぶものが多く、また、事実、単なる人間のハンターとは桁違いの能力を発揮し得るが、それ以外ではほぼ完全に人々からうとんぜられ、遠ざけられる。時として、ダンピール自身も抑制できぬ強さで眼醒める吸血鬼の本性は、その依頼者の血を求めさせる場合があるからだ。
彼が任務を果たすあいだはかろうじてこらえていた人々も、ひとたびそれが完了するや、憎悪と軽蔑の眼差しで自分たちの前から石をもて追う。高貴冷酷な貴族の血と粗野残忍な人間の血――陰陽ふたつの宿命に責めさいなまれながら、片方からは裏切りものと呼ばれ、一方からは悪鬼とそしられるもの。まさにダンピールは、七つの海を永劫にさまよわねばならぬフライング・ダッチマンにも似た忌むべき存在なのであった。
ラミーカは、そんな彼を仲間に迎えようと言葉を尽くしているのであった。なおも言う。
「――ハンターの生活に楽しい思い出などひとつもないはず。最近は村の虫けらどももかまびすしい。いつなんどき、おまえと同類の刺客を送り込んでくるやも知れぬ。そんなとき、父と私を守る衛兵のはしくれにおまえのような腕ききがおれば、私たちも心強い――どうじゃ? おまえさえその気なら、本ものの仲間[#「本ものの仲間」に傍点]に加えてもよいのだぞ」
不動の姿勢で立ちつくしているDを、今はとろりとした欲情剥き出しの眼でながめつつ言い放った言葉に、伯爵は怒号しようとした。その前に、低い声がきこえた。
「あの娘はどうする気だ?」
ラミーカは艶然と笑った。
「高望みはするでない。あの女は、じきに魂まで父上のものじゃ」
そして、なんとも皮肉な、あてこするような眼つきで父の方をじろりと見て、
「父上は|御側妾《おそばめ》のひとりに加えたがっているようだが、私は許さぬ。一滴のこらず血を吸った上で、人間どもが引き裂き、焼き殺すにまかせよう」
声は不意に止まった。伯爵の眼が血光を放った。恐るべき夜の魔人|父娘《おやこ》は、眼前の取るに足らぬ敵――袋のねずみとも言うべき若者が、急速に変貌しつつあるのを、その超感覚で察した。自分たちと同じ存在へ――!
「まだ、わからぬのか!」ラミーカの叱咤がとんだ。「人間どもに義理だてしてなんになる。自分たち以外、この地上の生きとし生けるものことごとくを抹殺するのも|厭《いと》わず、ついには我が身まで破壊の淵に追いやった下郎ども。我らの情けで細々と生き永らえながら、ひとたびその力が弱まれば、平然と反旗をひるがえす|謀反《むほん》人ばら。むしろ、奴らこそ、この星から宇宙から消滅すべき生き物どもなのじゃ」
このとき、伯爵はある言葉を耳にしたような気がして、ふと眉をひそめた。それは確かに、眼前の若者のつぶやきであったが、彼の記憶は遠い忘却の彼方から即座に同じ言葉を拾いあげた。理性がそれを否定した。
そんなはずはない。これは、あの方[#「あの方」に傍点]からきいた言葉だ。あの偉大なるお方、我らが種族の御神祖。この薄汚れた若造の知っているはずがない。
Dの声がきこえた。
「言うことはそれだけか?」
「愚かもの!」
父と娘、両者の怒号が広大な空間にどよもした。交渉は決裂したのである。
伯爵の唇が残忍と自信の笑いに歪んだ。ぱちん! と右手の指を打ち鳴らす。
その青白い顔に狼狽の色が走ったのは、広間に仕掛けられたおびただしい電子兵器が作動しないと知った数瞬後のことであった。
Dの胸元でペンダントが青い光を発していた。
「どんな仕掛けがあるかは知らんが、おれに貴族の武器は効かん」
声だけをその場に残して、Dは一気に地を蹴った。とっさに逃れる術もない速度であった。空中で剣を抜き、右脇へ引く。着地と同時に必殺の突きが銀光と化して伯爵の胸元へ吸い込まれた。
肉と肉とをはたき合わせたような音がした。
「!?」
Dの無表情な美貌に、はじめて驚きの色が浮かんだ。長剣は、|切尖《きっさき》二十センチほどのところを伯爵の両の掌にはさまれ、停止していたのである。あまつさえ、剣を握った位置、姿勢からすれば、Dの方が遥かに力を入れやすいのに、渾身の力をふりしぼっても、刀身は壁にでもはさみ込まれたかのように、微動だにしないのであった。 伯爵が|乱杭歯《らんぐいば》を剥き出して笑った。
「どうだ、裏切りもの。うぬらの野卑な剣とは違う、まことの貴族の技を見たか?――あの世でその驚きを語るがよい!」
言うなり、黒衣の姿は大きく右へ動いた。力の入れ方、タイミングにどんな秘術が隠されているものか、Dは剣の柄から手を離すこともできず、長剣もろとも広間の中央へ投げとばされていた。
しかし――
伯爵は思わず息を呑んだ。骨の砕ける音はせず、青年は空中で猫のように一回転するや、コートの裾をひらめかして足から床に降り立ったのである。いや、降りかかった。足元に床はなく、Dはそのまま、ぽっかりと口を開けた暗黒の空間を落下していった。
十メートル四方もある巨大な穴を、その左右からせり上がって再び覆ってゆく床面の軋みをききながら、伯爵は背後の闇に目をやった。ラミーカが現れた。
「原始的な仕掛けですが、つくっておいてようございましたわね、父上。――ご自慢の電子兵器が何ひとつ役に立たなくとも、歯車とバネだけの落とし穴が厄介ものを片づけてくれましたわ」
艶然たる笑いに、伯爵は渋面をつくった。この仕掛けはラミーカの懇望によって、しぶしぶしつらえたものだったからである。今日の事態を見透かしていたわけではあるまいが、この娘、わが子ながら、時おり想像を絶した存在に見える。渋面を崩さず、
「わしが奴を投げとばすと同時に落とし穴の紐を引くとは、さすがわが娘――だが、よいのか?」
「よいのか、とは?」
「昨夜、あの農場から帰ってきて、今の若造のことを話したときのおまえの|声音《こわね》、訴え方――父のわしさえきいた覚えのない憤りの中に、これも初めてきく熱い想いがこめられておった。おまえ、|彼奴《きやつ》に惚れたのではないか?」
意外な父の言葉に、しかし、ラミーカはなんとも形容し難い微笑を浮かべた。そればかりか、舌舐めずりさえしたのである。
「愛しい男を、私があそこ[#「あそこ」に傍点]へ落とすとお思いか? この地下の国がいかなる地獄か、製作者たる父上がいちばんよくご存知のはず。いかにダンピールといえど、生きて出られるはずのない闇の|竪穴《たてあな》。――ですが……」
「ですが?」
ここでラミーカはもう一度、父親たるリイ伯爵ですらたじろぐような薄気味の悪い笑顔をつくった。
「あの男がただ一剣とわが身をもって、あそこから抜け出したあかつきには、わたくしの身も心も、あの男に捧げ尽くす所存でございます。貴族一万年の血の歴史と永劫の生命に賭けて、わたくしは彼を――|吸血鬼《バンパイア》ハンターDを愛しまする」
今度は伯爵が苦笑する番だった。
「おまえに憎まれるのも地獄、惚れられるのはさらなる地獄じゃが――あの三姉妹[#「あの三姉妹」に傍点]にかかって、生きてこの世に帰還できるものがあるとは思えぬぞ」
「仰せの通りでございます」
ここで、伯爵は「だが」と言葉をついだ。「だが――生きて再び相まみえる時が来たとして、奴がおまえの愛を受け入れなかったとしたら?」
「それならば」
とラミーカは間髪入れずに応じた。全身から歓喜の炎が立ち昇っている。眼は爛々と光りながらも熱っぽくうるみ、紅色の唇は半ば開いて、ぬめぬめとした舌が、それ自体意志を持つように唇を舐めた。
「今度こそとどめをお刺しなさいませ。あやつの心臓をえぐり、首を斬り落としなされませ。そのとき、あの男は本当にわたくしのもの。わたくしはあの男のもの。切り口からしたたる甘い血をすすり、青ざめひからびた唇に口づけした後で、わたくしも胸を切り裂き、貴族の熱い血潮をあやつの喉に流し込むことでございましょう」
この、なんとも凄惨淫靡な、しかし熱い愛の言葉を放ったあとでラミーカが退出すると、伯爵は怒りと不安が入り混じった表情で落とし穴に目をやり、それから片手で左胸をケープの上から押さえた。
それは、ぐっしょりと濡れていた。血潮でだ。あろうことか、見事に受け止めたはずのDの剣|尖《さき》は、その先端三センチほどを不死の肉体に食い込ませていたのである。しかも、どのような剣技を用いたものか、これまでの戦いで受けた傷とは異なり、いまだ傷口はふさがらず、生命の根源たる血潮が流出しているのであった。
「――恐るべき奴。ことによったら……」
またも生死を賭けて戦う羽目になるかもしれん、という思いを、伯爵は胸のうちで抹消した。地下であの若造を待つもの[#「もの」に傍点]たちを考えれば、奴が地上へ戻る可能性など、万にひとつもない。
広間に背を向け、闇の居室に戻ろうと歩き出した伯爵の脳裡を、そのとき、青年の洩らしたつぶやきがかすめてすぎた。あの方[#「あの方」に傍点]からきかされた言葉。思い出すたびに、滅び去った、あるいはなお永らえている貴族すべての表情をもの憂げに変えるひと言。それを、どうしてあの若造が?
おれたちは、かりそめの客なのだ。
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第四章 妖魔の弱点
「姉ちゃん――肥料、こんなに少なくていいのかい?」
馬車の荷台に乗って、プラスチック・ケースの最後のひと箱を受け取ったダンの不安そうな声が、ドリスの胸を刺した。
ちょうど、Dが吸血城の門をくぐった時刻である。ふたりはランシルバの村へ、月に一度の買い出しに出掛けてきたのだ。
ところが、結果は|惨憺《さんたん》たるものであった。いつもは店頭にない品でも奥の倉庫から引っぱり出してくれるウェイトリイ爺さんの店が、今日に限って冷たく拒否したのである。必需品の名を言うと、済まなさそうに、売り切れ、あるいは入荷前だと答える。そのくせ、カウンターの奥や店の隅には山と積んであるから、問いつめると、しどろもどろに、予約済みだと言う。
ドリスはすぐにピン、ときた。こんな嫌がらせをする奴はひとりしかいない。
それでも、爺さん相手の喧嘩に浪費する時間はないから、ぐっと腹だちをこらえ、知り合いの家をまわって、なんとか当座の必要量は確保できた。
今のドリスにとって、明け方から日没までの時間は宝石に等しい。夜は悪鬼と自分自身との凄惨な死闘が待っている。夕暮れまでに何があっても家へ帰れと、Dでさえ、くれぐれも念を押して出掛けていったほどである。
――それは、わかっているけど……
乾燥肉パッケージの最後のひと箱を荷台に積んで、ドリスは唇を噛んだ。荷台にいるダンの、いつにない心細げな顔が、彼女の顔と向き合った瞬間、笑顔に変わった。この少年なりに、心配をかけまいとしているのだ。それがよくわかるだけに、ドリスの胸は、不安と哀しみと、抑えようのない怒りとで満たされた。我知らず片手が動いて、ベルトにはさんだ鞭の柄を握りしめる。怒りの正当なやり場だけはあった。
「いけない、フェリンゴ先生のところへ寄るのを忘れてた」とあわてた風に言う。「少し待っといで。荷物、盗まれたら困るから、馬車を離れちゃ駄目よ」
「姉ちゃん――」
何を感じたのか、すがるような弟の声に、
「何よ、男のくせに情けない顔して。Dのお兄ちゃんに笑われるよ――心配なんかおよし、お姉ちゃんといれば、みんなうまくいくんだから。今までずっとそうだったろ?」
反論する余裕も与えず、やさしく、しかし断固として言い放つと、彼女はさっさと通りを歩き出した。
「あのクズども、今ごろの時間は、『|黒い入江《ブラック・ラグーン》』か『パンドラ・ホテル』だわ。見てらっしゃい、たっぷりとっちめてやるから」
予想は的中した。酒場のスイング・ドアを開けた途端、奥のテーブルに陣取ったグレコとその一党が薄笑いを浮かべて立ち上がったのである。
素早く、七個の頭数を読み取ったドリスの眼は、グレコのスタイルを見て不意に細まった。
グレコの全身は光りかがやいていた。頭のてっぺんから爪先まで覆ったメタリックな服――というより蟹の甲羅を思わせる外殻が陽光をはね返しているのだ。吸血鬼たちの科学が産んだ個人用兵器のひとつ――戦闘服である。ドリスが初めて目にする品であった。だから、すぐ驚きは消え、この軽薄男がまたおかしな格好に凝りはじめたな、という侮蔑の表情で、
「あんた、今朝のこと根に持って、ウェイトリイ爺さんに、品物を売るなと圧力をかけたわね。男のくせに、恥をお知り。この卑怯もの」
と語気荒くきめつけた。
「へっ、何を言いやがる」
グレコはせせら笑った。
「吸血鬼に手ごめにされかかったくせしやがって。――それをばらされなかっただけでもありがたいと思え。断っとくがな、来月もさ来月も同じ目に遇うぜ。今日はなんとかかき集めたらしいが、あれっぱかしの量で植物や牛の胃袋がいつまで|賄《まかな》える? 二週間がいいところだろうが――もっとも、それまでおめえが、地面に影つけて[#「影つけて」に傍点]歩いていられりゃの話だがよ。ま、おめえは何も食わなくても済むようになる[#「何も食わなくても済むようになる」に傍点]からいいが――可哀相に、弟はどうする気だ?」
嘲りの口調が終わらぬうちに、ドリスの手から鞭がとんだ。戦闘服のヘルメットを巻き込み、引き倒そうと力をこめる。しかし、これは無知ゆえの無謀さであった。
グレコは――戦闘服は――びくともせず、右手で鞭の先をひっつかんだ。ほんのひと引きで、鞭は彼の手に移っていた。
「そう何度も同じ手にかかるか、この|女《あま》」
愕然としながらもさすが|狩人《ハンター》の娘、一気に二メートル近く跳びすさったドリスを追いかける瞳は、憎悪と欲情と優越感に卑しい光を放っていた。
「この村をまとめてるのは、おれの親父だってこと、忘れるなよ。てめえも弟も、日干しにするくらいわけはねえんだぞ」
ドリスの顔が、ふと動揺した。今のひと言が無視できない事実だと知ったからである。
村の運営は、一応村議会で決定されるが、決定権はすべて村長が握っている。苛酷な環境下に置かれた辺境の地では、複数による合議制などという時間のかかる生ぬるい運営方式は、すみやかに死を招くだけだ。妖魔、改造獣、野盗――外敵の飢えた眼は、一瞬の停滞もなくランシルバの村に注がれているのであった。
そして、村の運営には、無論、商品売買も含まれる。なんのかのと理屈をつけて商店を営業停止に追い込むことなど朝飯前だろう。ウェイトリイ爺さんも死活問題となれば、無法な圧力に屈するしかあるまい。早馬をとばして二日もかかる隣村への買い出しは、今のドリスには論外だし、どうせグレコたちが邪魔するに決まっている。
「よくも、そんな卑劣なことを口にできるわね、村長の息子ともあろうものが――」
ドリスの声は怒りに震えていた。グレコは、それも無視して、
「だがよ、おれの女房になれば話は別だ。親父が引退すりゃ、息のかかってる連中が、おれを次の村長にまつりあげる段どりよ。どうだい、もう一度考え直してみねえか。あんなぼろ農園であくせく働くかわりに、きれいなおべべもぜいたくな飯も着放題、食い放題だぜ。ダンだって喜ばあな。それによ、あんな薄気味の|悪《わり》い若造追い出して、おれが吸血鬼から守ってやるぜ。金さえばらまきゃ、ハンターなんざいくらだって寄ってくるんだ――どうだい?」
答える代わりに、ドリスは近寄った。ほれみろ、いくらつっぱっても所詮は女だ、こう思ったのも束の間、ヘルメット内の暗視スクリーンに、ぴちゃっと液状の飛沫がふりかかった。ドリスが唾を吐きかけたのである。
「こ、この野郎! 甘い顔見せりゃ、つけ上がりゃがって!」
まだ戦闘服の使い方に馴れていないらしく、ガチンと荒っぽい音をたてて右手で顔面をぬぐうや、それでも物凄い速さでドリスにつかみかかった。
跳びすさる余裕も与えず胴を抱き、引き寄せる。つい数時間前、流れものの行商人から買ったばかりの、戦闘服としては最も低グレードな中古品だが、疑似強化生体皮膚と電子神経系をベースにした超硬度鋼の鎧は、着用者の動きをスピードで三倍、パワーで十倍にも増幅し得る。さしものドリスも逃れようがなかった。
「何するのよ、放せ!」
とわめき、ひっぱたいても手が痛むだけだ。グレコは難なく、片手でその両手首を押さえ、地上三十センチほどのところにドリスを持ち上げた。
シャッと音をたてて、ヘルメットが左右に割れた。色情狂丸出しの顔が覗く。薄笑いを浮かべた唇の端からよだれが筋を引いていた。憤然とにらみつけるドリスへ、
「筋を通しゃあつけ上がるばかりだ。今、ここで、おれのものにしてやるぜ。――馬鹿野郎、余計な真似せず引っこんでろ!」
止めに入ろうとカウンターを出かけた中年のバーテンは、この一喝でもとの場所に戻った。相手は村長の息子さまである。
身動きならぬ美少女の顔へ、欲情に血走った眼と、薄汚い唇が近づいてきた。ドリスは顔をそむけた。
「放して! 治安官を呼ぶわよ!」
「へっ、無駄さ。あいつだって、いざとなりゃ自分の首が可愛いんだ――おい、酒場は休業だ。誰も入ってこねえように見張ってろ」
「あいよ」
命じられた子分のひとりがドアの方へ行きかけて、不意に立ち止まった。
眼の前に、いきなり黒い壁が立ちふさがったのである。
「な、なんだ、てめえは――」
とわめいた声は、たちどころに途切れ、子分は次の瞬間、テーブルや椅子をはねとばし、ついでに仲間もふたりばかり道連れにして、頭から奥の壁へ叩きつけられていた。
別に投げとばされたわけではない。黒い壁が、右手で軽く男を押し戻したのである。しかし、なんという怪力か、吹っとばされた男はもとより、巻き添えを食ったふたりも床にのびたまま白眼を剥き出し、壁の|漆喰《しっくい》は衝撃で剥げ落ちていた。
「や、野郎! 何の真似だ!」
血相変えて腰の武器に手を伸ばすチンピラたちへ、黒い壁はひょいと肩をすくめてみせた。
身長二メートルは優に越す、禿頭の巨漢であった。革のチョッキから木の根っこみたいに節くれだった腕がはみ出している。体重は一五〇キロを下るまい。腰からぶら提げた大ぶりな蛮刀の使い込み具合から、チンピラどもも、ただでかいだけの相手ではないと察して、慎重な顔つきになった。
「お許し下さい。その男、手加減というものを知りません」
グレコの腕の中でもがいていたドリスが、思わず、我を忘れてふり返り、眼を丸くした。それほどその声は美しく、声の主もまたかがやくようであった。
年は二十歳前後だろうか。肩まで垂れた美しい黒髪、見るものを陶然と酔わせ、引きずり込んでしまいそうな深くて黒い瞳。太陽のごとき美少年であった。
あとふたりの仲間がテーブルを囲んでいる。
グレコたち以外に、彼らだけが『黒い入江』の片隅で、カード遊びに興じていたのである。いずれ劣らぬ鋭い眼光からして、腕に覚えのある旅のハンターに違いない。
「な、なんだ、てめえらは?」
グレコがドリスを抱き上げたままきいた。
「わたしは|麗銀星《れいぎんせい》。この男は|拷零無《ゴーレム》。|大巨獣《ビヘイモス》ハンターです」
「ふざけるな!」
四人の顔触れをながめて、グレコは怒号した。
「たったそれだけの数で、大巨獣ハンターだと? 十人、二十人がかりだって、大巨獣の子供一匹|殺《ばら》せやしねえんだぞ」
ここでせせら笑うように、
「そこのでかぶつはともかく、残りは女みてえな|兄《あん》ちゃんと、とんがり頭に、|傴僂《せむし》野郎じゃねえか。教えてくれよ――おまえたちの狩りってな、どうやるんだ?」
「教えて差し上げます――今、すぐね」
と麗銀星は太陽みたいな微笑を浮かべて言った。
「その前に、お嬢さんをお放しなさい。醜いならともかく、美しい女性をそんな風に扱うのは礼儀に反します」
「やめさせてみたらどうだい。おえらいハンターさんたちよ」
白い歯のこぼれる朱唇が、哀しげに歪んだ。
「――そうですか。では……」
「おお、来やがれ!」
喧嘩なれしたはずのグレコが、戦闘服のパワーも忘れて力まかせにドリスを放り出したのは、これから起こる戦いの結果に予感めいたものを持っていたせいだろうか。
受け身もとれず、テーブルの角に頭を打ちつけたドリスが、たくましい腕の中で失神から醒めたとき、|決着《ケリ》はついていた。
「い、いたた……」
と後頭部をなでる。麗銀星はやさしく微笑みかけ、彼女を床から抱き起こした。
「無礼者は片づけました。事情はよく知りませんが、治安官が呼ばれる前に早く出ていかれた方が面倒がないと思います」
「そ、そうね」
まだ頭痛のせいで、返事もしどろもどろであったが、ドリスは、背後で木と木が触れ合う小刻みな音がするのに気づき、ふり向いて目を丸くした。
チンピラどもが、ひとり残らず床に伏している。痛む頭で、その姿の異様さを瞬時に看てとったのは、ドリスならではといえようか。
いちばん手前の床にひっくり返っているふたりの四肢は、それぞれ、肘と膝の関節が逆にねじ曲げられ、奇怪なオブジェを形づくっていた。
拷零無の怪力の犠牲となったものだろうが、ドリスを注目させたのは、身体のそばに落ちている山刀と長剣であった。山刀はともかく、長剣は明らかに、握りに仕込んだ高周波発生器で鉄板すら切り裂く高周波サーベルだ。それが二本そろって、鉄塊にでも切りつけたように鍔元からへし折れている。
丸テーブルをはさみ、やや後方で|蠢《うごめ》く影は、グレコの一の子分、オレイリーであった。回転式拳銃の名手で、抜き射ちざまに五十メートル先の蜂ですら射ち落とす光景をドリスはかつて目撃した覚えがあった。先刻立ち上がったとき、右手はすでに拳銃にかかっていたから、四人のうち誰がかかろうと、〇・三秒と待たず銃口は火を噴いたはずなのに、その右手は拳銃のグリップを固く握りしめたまま、身体はうつぶせに床を抱擁していた。
しかし、ドリスを戦慄させたのは、彼を倒した傷の位置であった。後頭部が裂けている。四人のうち――いや、どう見ても拷零無を除いた三人のうちの誰かが、背後にまわってそこを一撃したのだ。〇・三秒の早射ちに、銃を抜く暇も与えず……。
オレイリーの斜め横で、誰かが顔を上げた。ドリスは全身から血が引くのを覚えた。最初壁に叩きつけられた三人のチンピラは、まだ失神したままだが、彼らは幸運だったと言うべきであろう。この残ったひとりの顔は、まるで凶暴な毒蜂にでも刺されたかのように、赤黒く腫れあがり、膿爛した皮膚が滴となって、床にしたたり落ちていたのである。
このとき、ドリスは気づかなかったが、床の上を這っていた一匹の黒い虫が、彼女の足元で立ち止まり、すっとにじり寄ろうとして、誰かに呼び戻されたみたいにそのまま通りすぎたのである。
それは微小な蜘蛛であった。そして、ドリスと麗銀星の背後につっ立った傴僂男の革サンダルから足へ、さらには背中へとよじ昇ると、なんと、大きな|瘤《こぶ》が革のチョッキごと真ん中から左右にはぜ割れ、蜘蛛はその裂け目へと姿を消した。裂け目は即座に閉じた。
「驚きましたか? 美しいお嬢さんには刺激が強すぎるかもしれませんが……」
鈴の鳴るような麗銀星の声を、ドリスは遠いものにきいた。意識を失っているあいだに行われた異次元の戦いのうち、最も恐怖すべき結末の光景に魂を奪われていたのである。
ただひとり、無傷で椅子にかけたまま、両手で肘掛けを握りしめ、死人の形相を宿らせたグレコの姿に。
木と木の触れ合う音は、震える身体が椅子の足を床に打ちつける響きなのであった。戦闘服に守られながら、何を見たものか、その両眼はかっと見開かれ、青白い恐怖ばかりを映している。
「……あんたたち、何をしたの……」
ようやく麗銀星の方をふり向き、肌に触れる腕から身を引きながら、ドリスは硬い声で言った。
「なんにも」
麗銀星は、心外な、という表情をつくった。
「売られた喧嘩を買ったまでです。私たちなりのやり方でね」
「ありがとう」
とドリスは礼を言った。
「助けてくれたことには感謝します。まだこの村にいるのなら、後でお礼にうかがうわ」
「気になさらずに。醜いものが美しいものを暴力で屈服させるのは、この世で最悪の|冒涜《ぼうとく》的行為です。彼らは天の罰を受けたにすぎません」
「お言葉はうれしいけれど――それじゃ、あたし以外の娘が同じ目に遇わされていたら、どうなさるの?」
「もちろん、お助けしますよ。美しいお方なら」
平然と笑う美青年の顔から、ドリスは眼をそらした。
「もう一度言います。ありがとう。これで失礼するわ」
「ええ。あとの処理はおまかせ下さい。馴れておりますので」
にこやかにうなずく麗銀星の眼に、黒いものが走った。
「そのうち、またお目にかかりましょう」
数分後、ドリスは農園へと馬車をとばしていた。
「姉ちゃん、何かあったのかい?」
助手席から心配そうに尋ねるダンの声にも茫漠たる表情は動かない。胸の|裡《うち》を駆け巡る様々な不安が笑顔を許さぬのであった。
グレコの嫌がらせはますます激しくなる一方だろうし、今夜、Dの帰る保証はない。昼間行動可能なダンピールの利点を生かして領主の城へ乗り込むとDが言ったとき、やはり止めればよかったと思う。もし彼が戻らぬときは、孤立無援の身で伯爵の攻撃を受けることになる。今夜やってくるという確証はないが、まず間違いはなかろう。ドリスは無意識に首をふった。それは、Dの死をも意味することだったからである。
あの人はきっと帰ってくる。
右手が白い首筋に触れた。Dは出掛ける直前、歯型の痕へ“まじない”とやらを施していったのである。ただ、左掌[#「左掌」に傍点]を軽く押しつけただけのあっけなさで、どんな効果があるのかも語らず終いだったが、今のドリスを支えるものはそれしかなかった。
脳裡に別の顔が浮かんだ。恩人とも言うべき美青年であったが、ドリスはむしろ不吉な影が胸を覆うのを感じた。彼に抱き起こされたとき、間近にその美貌を見て、思わず陶然としたのは事実である。しかし、美しい顔からすえた果実のような腐敗臭がただよっているのを、処女の勘はとらえていた。
いや、それは、彼女のより深い部分にしっかりと刻み込まれた、麗銀星よりももっと美しく高貴な青年の面影がなさしめた業だったのかもしれない。あの美青年が、自分にとってグレコ以上に危険な存在であることに、ドリスは予感めいたものを持った。不安のひとつはそれであった。
帰ってきて。伯爵を倒せなくてもいいから、帰ってきて。
その想いが、自らの身を案ずる心の動きではないことに、十七歳の少女はまだ気づいていなかった。
数分前からぬるみかけていた胸までひたす水が、今やはっきりと熱を帯び、左右にそびえる石壁をめるがごとくに這う霧は、いっそうその濃さを増していた。
もう三〇分以上歩きづめである。
大広間から二十メートルは落下したであろう。Dを待ち受けていたのは、満々と水をたたえた広大な地下水路であった。水は胸ほどの深さまでしかないのに、いかに足から先に落下したとはいえ、さしたる衝撃も受けなかったのは、Dの身についた超人的な技と、ダンピールゆえの、これはまぎれもない超人体質のおかげであった。
吸血鬼の体組織は、骨格はもとより筋肉、神経とも、人間に数百倍する再生力と衝撃吸収力を兼ね備えている。ダンピールは――むろん個々人によって程度の差はあるが――少なくともその約半分、五〇パーセントほどの能力は受け継いでいるのであった。二十メートルなら、大地に激突しても生き延びられるだろう。全身骨折、内臓破裂の運命は避け難いが、それとても、早い者なら三昼夜くらいで完治するはずだ。
とにかく、Dは傷ひとつ受けずに、胸までひたす黒い水の中から四方を観察した。
もとから存在した地中の洞穴に、人工的な補強工事を施したものであろう。左右は黒々とした岩壁で、ところどころ、強化コンクリートによる補修の痕がうかがえた。
水はどことなく生温かく、空気は猛烈な湿気を帯びて、淡い白霧が澱んでいる。水路そのものは幅五メートル程度。これは自然の産物らしく、Dの鼻孔は鉱泉独特の匂いを、落下の途中から嗅ぎわけていた。
あたり一面、|黒闇々《こくあんあん》たる闇の世界である。ダンピールの眼だからこそ、水路の幅まで見分けられたのだ。頭上をふりあおいでみたが、さすがに二十メートル彼方の落とし穴までは確認できなかった。もっとも、とうの昔に床は閉じられているのだから、見えなくて当たり前である。無限の質量を誇る大岩壁の表面には出口などむろん見当たらない。
「どうしたものかな」
珍しく低いつぶやきを発して、そのくせ、あっさりとDは歩きだした。四囲をひたす水が、音もなく、それとは感じさせぬほどゆるやかに流れてくる方向へ。
水路の底だけは、完全に外部から手を加えたらしく、固く平坦であった。とはいうものの、歩く距離と時間だけが、あっさりと出口を提供してくれるはずもない。頭上で伯爵がおぞましげにもらした“三姉妹”の言葉を彼は知らぬ。
何かが待っている。
Dもそれは承知していた。自分のひと突きが伯爵に手傷を負わせたのはわかっている。そんな手強い相手を、地下水路へ落としただけで、安閑とするはずがない。百パーセント何らかの攻撃をかけてくる。それなのに、固い水底を踏みしめる両足にも、闇すら後退させてしまうかと思われるかがやく美貌にも、なんら緊張と焦燥の色を浮かべず、Dは歩きつづけ――そして、今、立ち止まったのであった。
前方七メートルほどのところで、水路が大きく開け、水面から奇怪な形状の岩がいくつも突き出ている。霧がそのあたりだけ異常に濃く――というより、湧き出しているみたいにもうもうとたちこめ、岩以上に奇怪醜悪な姿にねじれて水路を閉ざしていた。
空気に腐敗物の生々しい臭気が加わった。Dの猫眼は、水面を覆う|脂肪《あぶら》の油膜と、奇岩の窪みに見え隠れする白いものとを捉えた。白骨であった。
霧の奥で、びしゃんと魚の尾が水面をはじくような音がした。
何かがいる。奇岩の向こうはそれの巣であろう。
それでもDは、今来た道をふり返りもせず、悠然と霧と岩の内部へ歩を進めた。
入ってみれば、そこは一種のプール、|生簀《いけす》のように思われた。奇岩はちょうど水路全体を包囲するような形で、左右に列をなしている。水はいっそう黒々と澱み、白霧は激しく渦巻いた。さほど遠くない場所に鉱泉の噴出口でもあるらしかった。
進むにつれて、奇岩は数を増し、それに伴い白骨と臭気もおびただしく、ますます強烈になってきた。
牛や家畜らしい動物の骨がほとんどだが、人骨もかなり目立った。矢筒を背負った猟師と|思《おぼ》しい骨、ぼろぼろに崩れた長いドレスをまとった女の頭蓋骨、小柄な子供の骨もあった。幾つかはまだ|骸《むくろ》となって間もないらしく、赤黒い肉や内臓がこびりついて、|蛆《うじ》をわかしている。
正常人なら、発狂するか、足がすくんで動けなくなってしまうような、この醜怪酸鼻な光景の中にあって、Dは、白骨体のすべてが背骨も肋骨も粉々に砕かれているのを見てとった。強靭な歯と顎が噛み砕いたものではない。へし折られているのだ。何かに締めつけられ、無理やりねじ曲げられたかのように。
再びDの足が止まった。
また水面を叩く音。今度はずっと近い。Dの背中が|鞘鳴《さやな》りの音をたてた。
同時に、数メートル先の水面が波立ち、ぽっかりと白い塊が浮き上がった。その右に遅れてひとつ。左にもうひとつ。闇の中で異様に白い――それは、凄まじく妖艶で肉感的な女の首であった。
|度胆《どぎも》でも抜かれたのか、長剣を構えもせず棒立ちになったDをじっと見つめて、造作こそ異なるが、いずれ劣らぬ美女のその首は、赤い唇を歪めてにんまりと笑った。その遠い背後で、再び水をはじく音。
するとこの三人は、水音の主に追われ、泳いで逃亡してきたものだろうか。それにしても、Dを前に、首から下を水中に没したままの姿勢でいるのはあまりにも不自然だ。いや、何よりも、ともに口元に浮かべた微笑のなんという邪悪さ、妖艶さ。
見つめ合っていたのは数瞬のあいだである。しずくの音をたてながら、三人の娘は同時に立ち上がった。首がDのそれと同じ高さになった。それから、頭上に、ずうっと上に――。
人間世界の誰が、こんな奇怪な光景を想像し得るだろう。地上三メートルもの高みから、艶然と微笑みかける三つの美女の生首。伯爵の言う地底の三姉妹とは、彼女たちのことだったのである。
そのとき、Dが静かに言った。
「噂にきいたことがある。ミドウィッチの蛇女とは、おまえたちのことか――」
「ほう、知っているのかえ」
長姉にあたるらしい真ん中の首が、笑いを消して言った。鈴が鳴るみたいな、けれども毒を含んだ声だ。ただし、その中に驚きの響きがあるのは、眼の前の美青年が自分たちの正体を知っているらしいからではなく、その声に、いささかも恐怖の感情がこもっていないと察したせいである。 ミドウィッチの蛇女――そう、この三人は、いや三匹は、辺境の一地区ミドウィッチ地方で数百人の村人を食い殺し、若い男女を淫虐の餌食とした凶悪無比の妖魔なのであった。
数千年前その地方を通りかかった高徳な僧の祈りで退治されたはずが、人知れず逃亡し、リイ伯爵との|邂逅《かいこう》を経て、一日三匹の家畜を条件に、城の地底深く棲息していたのだ。人為的につくりだした疑似妖魔とは異なり、数万年の伝説を生き抜いてきた真の悪鬼を滅ぼすことは、いかなる手段を用いても至難きわまりないのであった。
蛇女――互いに分離しているように見える三つの首は、実は古代伝説のハイドラのごとく、数メートル下でひとつにまとまり、そこから銀灰色の|鱗《うろこ》で覆われた巨柱のごとき胴が水中に没しているのである。背後の水音は、その胴の端――獲物を見つけた歓喜にうねくる尻尾のたてた音なのであった。
しかし、Dには女たちの首しか見えなかった。彼女たちの正体を知ったのは、猟奇に満ちた辺境の噂と三つの美女の首とが合致したせいである。なぜ、首から下が黒い闇に溶け込んでいるのか?
「美形じゃの、姉者」
右側の首が感に堪えぬようにつぶやいて舌めずりをした。赤い炎のような舌は細く、先端はふたつに分かれていた。
「久しぶりに、可愛がりがいのありそうな男。顔ばかりか、身体つきもなんとたくましい」
「姉者たちは、先に手を出してはならぬ!」と左側――三つめの首が言った。「五日前に迷い込んできた猟師を、私が眠っている間にふたりで食らっておいて――今度は私が先じゃ。この男と法悦のきわみを尽くすのも、その頂点で生き血をすするのも」
「何を言う! 妹の分際で」
右側の次姉らしい首がわめいた。
「およし、姉妹喧嘩は」と長姉の首が叱咤し、三女の方を向いて、
「生き血の一番乗りはおまえがおし。ただし、可愛がるのは三人一緒じゃ」
「おお」
「いいとも」
三つの首は声もなくうなずき合い、炎の舌をチロチロと吐きながら、惚れ惚れしたような眼でDの全身をねめまわした。
「でも、用心おし」
と長姉が釘をさした。
「この男、私たちを恐れていない」
「馬鹿なことを。私たちの正体を知りながら、脅えぬ者などいるものか。あの伯爵でさえ、餌のことで私たちを怒らせ、私たちが牙を剥いたら、さっさと退散して二度と降りて来ぬではないかえ」
これは次女の声である。
「だいいち、恐れていずとも何ができる? 男――そこから動けるか?」
Dは無言であった。事実、彼は動けなかった。全身は、娘たちの首を初めて見たときから、おびただしい無数の手にからめとられていたのである。
「わかるか、男?」と次女はつづけていった。「私たちの髪の毛じゃ」
そうなのだ。蛇娘たちの首と胴が闇に溶け込んで見えないのも道理、その顎から下は、頭部から滝のように流れ落ちる数万条の黒髪にすっぽりと覆われているのであった。
しかも、ただの髪ではない。水面にふり落ちたそれは、一本一本が触手のように広がり、ただよい、巣の中に入ってきたものの動きを感じ取るや、三姉妹たちの意志に応じて、はじめは何ら逆らわずに巣の中央までおびき寄せ、時いたれば、寸秒の間にその四肢をからめとり、鋼線のような強さで自由を奪ってしまうのであった。
いや、そればかりではない。この奇岩で囲まれた“三姉妹”の巣窟に、実は水はなかった。水路は奇岩に阻まれ、岩の左右を分かれて走り、巣窟の内側を満たしているのは、髪自体の発する分泌液なのであった。
それは、たゆとう髪の動きに合わせて微妙に流れ、渦を巻き、人間を遥かに凌ぐDの鋭敏な皮膚感覚にも、髪の毛の存在を悟らせなかったのである。
知らず知らずのうちにDの腰から這いのぼった髪は、手首、二の腕は言うまでもなく、肩に首にと巻きつき、四肢の動きを完全に封じていた。
そしてなお忌わしいことに、この無数の腕は――いや、触手の残りは、先刻から服の合わせ目、袖口などから侵入して、生身の身体をこすり、つつき、うねくり、Dを官能の虜にしようと励んでいるのであった。どれほど意志強固の人間といえど、数秒にして理性は溶け崩れ、煩悩の獣と化してしまう微妙な動き――誰ひとり耐えぬいたことのない、蛇女たちのみだらな責めがこれであった。
「どうじゃ、私たちが欲しくなってきたか?」と長姉の声がした。「本来ならば、この場で生命はもらう。このようにしてな」
その言葉を合図に、三つの首は空中で髪の毛をふるいわけるような動作をした。黒い滝が流れを変え、青黒い縞模様をつけた三本の長首と、それを支えるふたかかえ程もある胴体が現れた。長首はそのままぐーっとDめがけて下降し、黒髪の縄の虜となったたくましい身体にぐるぐると巻きついたのである。髪自体はなお、Dの服の内側で微妙に蠢きつづけている。
「いつでも、おまえの骨は折れる」と長姉は赤眼を爛々とかがやかせてDの顔を見つめながら言った。両眼の炎は欲情の炎であった。「だが、なんという美しい男――なんというたくましい男」
舌がDの頬を舐めた。
「ほんとうに――ここ三百年、絶えてなかった美形」
次女の濡れた唇は背後からDの耳たぶをもてあそんだ。生臭い熱い息が耳孔に吹き込まれた。
「ただ殺しはせぬ。私たち三人がかりでこの世ならぬ法悦をたっぷり味わわせてから、骨の髄までむしりとってくれる」
末娘の声は喘ぎに近かった。
蛇娘たちの生命源は、必ずしも有機体を摂取することによって得られるエネルギーではない。たくましい若者、あるいは|若鮎《わかあゆ》のごとき美少女を、妖魔のみが持つ奇怪な秘技で官能にうずく陰獣と変え、その最中に彼らのほとばしらせる歓喜法悦のオーラを吸収すること――“三姉妹”を吸血鬼以前、人類が君臨していた太古の時代から生き永らえさせている不死の秘密はここにあった。
もちろん、誰とでも、というわけではない。彼女たちはそれなりに“美食家”であり、だからこそ、伯爵の手で地下へ送られるか、別の出入口から迷い込むかした人間の数は多くとも、最後の悦楽を味わって以後数百年は、ひたすらその肉を貪り食らうだけで快楽は知らずに過ごしてきたのである。
いま再度、快楽に身を焼くときが来た。三つの美しい顔は欲情のピンクに染まり、双眸は炎を発し、朱唇からもれる熱い吐息は、Dの冷たく美しい顔を焼き焦がすかと思われた。
「では――」と長姉が呻くように言った。
なまめかしい三つの濡れた唇が、真一文字に結んだDの唇に迫った。
それが重なる寸前、娘たちは見た。Dの両眼が真紅の閃光を放つのを! 邪悪な脳髄を奇怪な衝撃が一撃した。その瞬間、三姉妹はこれまで味わったこともない甘美な刺激が全身を突っ走るのを感じたのである。
「ああ、唇を――」
と長姉がかすれた声で言った。
「喉を出せ」
と低い、|錆《さび》を含んだ声が命じた。
それがDの声と理解する間もなく、三つの首は一斉に上を向き、その白いぬめぬめとした喉元を、Dの唇の前にさし出した。そうするしか、全身をうずかせる熱い刺激を消す術はないと悟ったからである。蛇娘たちの脳はもはや正常に作動してはいなかった。
「髪を解け」
Dの四肢はたちまち自由になった。右手の剣を鞘に戻し、左手にひと握りの髪をすくい上げて、
「悦楽の罠か――しかし、かかったのはどっちだ」
そのつぶやきが終わらぬうちに、Dは握った髪を打ち捨て、両手でがっきと三つの長首を抱き寄せた。
「やりたくはないが、出口を知る手だてはこれしかない。それに、おれには待ちびとがある」
言うなり、眼と眉が一気につり上がった。唇が大きく裂け、白い牙が二本覗いた。残忍邪悪な、それは吸血鬼の顔であった。
次の瞬間、闇の中で何が起こったか。
女の苦鳴に尾が水面を乱打する連続音が重なり、ついには、この世のものとは思えぬ愉悦の呻きがあたりを領し始めたではないか。悦楽の罠にかかったのは娘たちの方であった。
やがて、重いものが水中に落下するような音が三度つづき、すぐに「起て」と命じるDの声がした。
“三姉妹”は、長首と胴体をくねらせつつ、またも起き上がった。
表情にはどこかうつろな影がこびりつき、欲情に血走っていた両眼は根こそぎ生気が|褪《あ》せて、霞にけぶるがごとく濡れている。てらてらと|脂肪《あぶら》光りしていた顔が、一切の血の気を失って白蝋のような色艶を呈しているのも異様であった。
三本の首の喉元に、青黒い小さな点がふたつずつ見えた。歯型である。
危機一髪の瞬間、Dの内に潜む魔性の血が甦ったとは誰が知ろう。彼は手の甲で口を拭っていた。
今は、もとの冷泉のごとき美しい無表情に戻りながら、苦鳴にも似た声で“三姉妹”に出口まで案内しろと命じる。
声もなく空中の生首がうなずき、背後の闇へと動き出す。それを追ってこれまた闇へと消える寸前、Dの左腰のあたりで、嘲けるような声がきこえた。
「いくら嫌がろうと、血は争えん。おのれの|運命《さだめ》――身に沁みて知ったであろうが」
間髪入れず、
「黙れ! 出ろ[#「出ろ」に傍点]と言った覚えはないぞ! 引っこんで[#「引っこんで」に傍点]いろ!」
怒号はまぎれもなくDのものであった。すると、最初の声の主は? また、Dの言葉の奇怪な意味は? そして、何よりも、冷徹そのものの彼の感情が、束の間とはいえ|奔騰《ほんとう》した理由は?
落日の最後の残照が草原の彼方に消える頃、Dの帰りを待ちわびるドリスのもとへ、フェリンゴ医師の馬車が訪れた。
ドリスは当惑し、帰ってもらおうとした。
辺境では貴重な医師を危険な目に遇わせるわけにはいかない。これは、自分たちだけの戦いなのだ。
夕食に睡眠薬を混ぜて、ダンはもう眠らせてある。獲物を狙う貴族は、邪魔するもの以外眼もくれぬとされているから一応は最良の処置と言えるだろう。
「あの、先生……今日はちょっと、農園の手入れが忙しくて……」
とポーチの上で切り出すドリスに、しかし、老医師は、
「いやあ、構わんよ。往診の途中でな――水を一杯所望じゃ」
と手をふりながら、勝手にドアを開け、スタスタと居間まで入り、ソファに収まってしまった。
亡父の友人でもあり、赤ん坊の頃から、というより、ドリスもダンもこの人の手で取り上げてもらい、父母亡きあと今日までなにくれとなく力を貸してくれた恩人なのだから、こうなるともう無下に出ていってくれとも言えない。
おまけに、先生、なんのつもりか、若かりし頃の“|妖物《タムド・シング》”相手の武勇伝をえんえんとおっ始め、ドリスは拝聴せざるを得ない事態へ追い込まれた。貴族がやってくるかもしれないのは承知のはずなのに、なぜ長居を決め込んでいるのだろう。
夜は刻々と更けてゆき、Dは戻らない。すでに、陽がおちた時点で、ドリスはひとり戦う覚悟を決めていた。農園中の武器や仕掛けは点検済みだが、やはり、不安は増す一方であった。それなのに、自分の身体のみならず、医師の心配もしなくてはならないとは。
――あたしはどうなっても、先生だけは守らなくっちゃ。お願い、先生が帰るまで襲ってこないで。
そう念じながら、また別の懸念が意地悪く忍び寄ってくる。
――どうなっても、なんて考えちゃいけない。あたしが奴らの仲間になったら、ダンはどうなるの。一生、身内が貴族の仲間だって重荷を背負って生きてかなくちゃならない。駄目よ、ドリス、手足を失っても奴は追い返すのよ。
奮い起こした勇気は、しかし数秒ともたず恐怖の影に塗りつぶされてしまう。何世紀にもわたって行われた心理操作と、現実に貴族の毒牙にかかっているという戦慄は、いかに秀れた闘士とはいえ、若冠十七歳の少女の心を萎縮させるに十分すぎる魔力を有しているのである。
時計の針が930Nをさすと、ドリスはきっぱりと宣言した。
「それじゃ、先生、あたしももう休みます」
だから早くお帰り下さい――暗にこう言わんとしたドリスに、フェリンゴ医師は立ち上がろうともせず、彼女が茫然とする言葉を吐いたのである。
「そろそろ、危険な訪問者のあるころじゃな」
「ええ、ですから先生、早くお帰りになって――」
「おまえは、やさしい子じゃな」と老医師は限りない慈愛の眼をそそぎながら言った。
「だが、遠慮も時と場合によりけりじゃ。何を水臭い。十七年前、わしがこの手で取り上げ、それ以来、我が子とも思ってきた娘のことではないか。この老いぼれは、うら若い娘が地獄の悪鬼とひとりぼっちで戦うのを、黙って見ていられるほどできた[#「できた」に傍点]人間ではないのじゃ」
居間の入口に立って老人を見つめるドリスの眼に、静かに涙が光ってきた。
老人はにこやかに、
「そう悲愴な顔をするな。こう見えても、おまえの親父に|人狼《ワーウルフ》狩りの秘訣を教えたのは、フェリンゴ先生なのだぞ」
「それは知ってます。でも――」
「なら、泣きべそはよさんか。もっとも、きかん坊の泣き顔もたまに見るなら面白いが。――ところで、あの若いのはどうした? 多分、護衛役に雇ったのじゃろうが、夜が近づくや、雲を霞と逃げ去ったか?――なんとなく、鬼気せまる感じの奴じゃったが、やはり、ただの根なし草だったか」
「違います!」
それまで感動した風に無言でうなずいていたドリスが、突如として全面否定の大声をはりあげたので、老医師はとび上がった。
「あの|男《ひと》――いや、あいつは、そんな男じゃない。いえ、ありません。今夜ここにいないのは、ひとりで貴族の城へ乗り込んでったからなんです。なのに、まだ帰ってこない――きっと……きっと、何かあったんだわ……」
フェリンゴ医師の瞳に、なんともいえない光が宿り始めた。
「おまえ……そうだったのか……あいつをのう」
ドリスは、はっと我に返り、あわてて涙を拭いた。
「何よ……別に、あたしは……その……」
顔を薔薇色に染めた少女に微笑みかけながら、医師はやさしく手をふった。
「よしよし、これはわしが悪かった。おまえの見込んだ男じゃ、案ずることはない。じき戻ってこよう。それまでに伯爵をひっとらえて度胆を抜かせてくれようか」
「ええ」とドリスも晴れやかな表情でうなずき、「どうするんですか?」と急転直下、不安げにたずねた。
いまだかつて、人間が貴族――吸血鬼を捕縛した|例《ためし》はない。彼らとの争闘はつねに倒すか倒されるかなのである。どちらが敗れる確率が高いかは言うまでもあるまい。ことに夜、貴族たちの世界で戦う場合、闘争者同士の肉体的能力、武器から見て、勝負の帰結は火を見るより明らかであった。
「これじゃ」
老医師は愛用の診療バッグから、ガラスの小瓶を取り出した。栓をした口元まで黄色味がかった粉末で満たされている。
「なんですの?」
ドリスの声に期待と不安が交錯した。
フェリンゴ医師は答えず、さらにバッグの中から一通のすり切れた封筒を引っぱり出して、中の便箋を広げた。ドリスに差し出す。
黄ばんだ表面にのたくる樹液インクのしみに目を通した途端、ドリスはあれっという表情で医師の方を見た。
「これ……父さんの……」
白髪の頭がうなずいて、
「おまえの親父殿が、おまえたちの生まれる以前、武者修行の旅先からわし宛てに寄こしたものじゃ。だが、これは最後の一枚。読めばわかるが、親父殿と吸血鬼の遭遇のことが書かれておる」
「父さんが――吸血鬼と!?」
ドリスは絶句し、あわてて手紙を読み始めた。
最初の一、二行は、宿についたという報告。それが突然、字面にも興奮と恐怖による混乱が表れて――
「おれは知った。|彼奴《きやつ》らの弱点は、十……」
それだけであった。最後の文字の下には、黄ばんだざら紙の表面が空しくつづいている。
ドリスは、困惑の瞳を老医師にすえた。
「どうして父さんはこの後を書かなかったのでしょう? 別の手紙には?」
医師は首を横にふった。
「親父殿は、宿でその手紙を書いている最中、吸血鬼に襲われ、これを撃退した。そしてどうやら、我々が今なお知らぬ、貴族どもの弱点を発見したに相違ない。それは別の手紙にもはっきりと明記してある。ところが、妖魔をうち払い、心気を整えて、その発見を記そうとペンを取った途端、彼はそれをすっかり忘れていることに気づいたのじゃ」
「そんな!?――ど、どうして!?」
「それは後で話す。とにかく、危険が去って五分もしないうちに、親父殿はペンを握ったまま茫然としている自分に気づいた。狂気のように、記憶をひっくり返し、頭をかきむしり、終いには、たったひとりで闘争の現場を再現しようとしたが、すべて徒労に終わった。吸血鬼の出現と拳をふるっての小競り合い。そして、間一髪のところで敵が逃走したところまでははっきりしているのに、そのあいだ、自分の加えた決定的な反撃の手段とその経過は、きれいさっぱり頭の中から拭い去られておったのじゃ」
「どうして――どうして」
ドリスの二度目の問いを無視して医師はつづけた。
「手がかりは最後の『十』の文字じゃが、親父殿はそれが何を意味するのか、ついにわからずじまいじゃった。彼はあらためて事態の経過を別の紙に書きとり、解答はわしの判断にゆだねるとして、送りつけてきた。――残念ながら、わしは期待に応えられなかったが……」
「それなら――」とドリスは忍びよりつつある危険も忘れ、気負いこんできいた。「その“十”の謎さえとければ、貴族たちの弱点が発見できるわけですね」
期待にうち震える声が急速にしぼんでいった。老医師の顔に、沈痛より絶望に近い|翳《かげ》りを認めたせいである。
過去にも、吸血鬼たちから身を守る決定的な方法を知る試みは、幾度となく繰り返され、すべて水泡に帰したという。彼らが世界の支配権を握って以来、数限りなく続けられてきた抗争の中で、人間は何度もその秘密を握る機会はあったはずなのに、ついに後世には伝わらず、今では、知ろうとするものさえ絶えて久しかった。
「やはり、貴族はあたしたちに勝るのでしょうか? 彼らに弱点などないのでは……」
地を這うようなドリスの声に、フェリンゴ医師は首を振り、「いや」と断定した。
「ならば、彼らに弱味があるなどという言い伝えが、わしたちの世に伝わるはずがない。現に親父殿は、何らかの手段によって吸血鬼を撃退したと言明しておるではないか。おまえの父は口が裂けても嘘はつかぬ。わしもまた、彼と似たような体験をした騎士や旅人の話をいくたりか耳にしたし、その当人とも実は面談しておるのじゃ」
「それで、何か?」
「いや、すべてが親父殿の体験そのままじゃった。彼らは何らかの手段によって妖魔の毒牙を逃れた――というより、追い払った。にもかかわらず、その手段については、そろいもそろって何ひとつ覚えておらんのじゃ」
「………」
「近頃では貴族たちの弱点など、それこそ希望的“伝説”だと|顧《かえり》みられもせぬようじゃが、わしが多くの文献をあさり、実例を集めた限りでは、間違いなく弱点は存在する。人がそれを知り得ぬだけじゃ。わしはこれを記憶操作と見る」
「記憶操作?」ドリスは眉をひそめた。
「正確には、選択的自動記憶消去操作とでも言おうか。要するに、ある種の記憶のみを自動的に抹消するよう精神処置を施すことじゃ」
「貴族たちの弱点――奴らを追い払う武器の記憶を?」
ドリスは思わず老人の顔を覗き込むようにした。あの小瓶の粉末は、ひょっとしたら?
不安と期待の入り混じった視線を受けながら、医師は淡々とつづけた。
「一万年の長きにわたって、この世界を支配してきた連中のことじゃ。それらの記憶を選択的に消去するよう、人々のDNAや脳髄に働きかけるなど朝飯前に違いない。これはかなり前から唱えられてきた説じゃが、これまでの研究の結果、わしもこの説の軍門に|降《くだ》ることにした。どこの馬の骨とも知らぬやつの意見に|与《くみ》するなど業腹じゃが、正しいものは正しいのでな。そうと決まれば話は簡単じゃ」
「と、おっしゃいますと?」
「記憶を甦らせればよい」
ドリスがあっと叫んだ。
「で、できるんですの?」
老医師はいく分得意そうに、例の小瓶を掌の上でもてあそんだ。
「その結果がこれじゃ。わしが面談した十二名の男女を催眠術にかけ、『都』から取り寄せた『再現剤』の力も借りて過去へと遡らせてみた。うち、ふたりが口にしたものが、この中身じゃよ。妖魔どもの科学も、記憶の完璧な消去までは不可能だったのじゃ」
このときドリスは、医師の最後の一節がなぜかためらいがちなのに気がついたが、そこに秘められた意味を見透すことはできなかった。
彼女は別のことをきいた。
「でも、先生の話が正しければ、先生もあたしも、もうすぐその粉末に関する記憶を失くしてしまうんじゃありませんか?」
「いや、わしは平気じゃった。これも推測だが、記憶の消去は、実際に貴族どもの弱点を発見したと潜在意識が確信したときにのみ作動するのじゃ。わしもおまえも、心の中では粉末の効果を信じ切っておらん。したがって、敵の仕掛けも働かんわけだ」
「では、何かに書き留めておけば?」
「無駄じゃろう。それを読んでも、気違いのたわごとと、書いた当人が思うだけじゃ」
少し気落ちして、ドリスは質問を変えた。
「父の手紙にあった『十』なんとかが、その粉なのですか?」
医師の首がまた横にふられた。
「恐らく違うじゃろう。さんざか思案したが、これとあの文字とはどうしても結びつかん。親父殿が大発見に興奮するあまり書き違えたという見方もできるが、わしは違うと思う。なぜなら、他の被験者たちの記憶からは、この粉末の名がついに出てこなかったのじゃ。『十』の文字は、別のものと考えた方がよいじゃろう」
「でも、その粉末のことは思い出してくれたのに、なぜ別のものは駄目なのですか?」
フェリンゴ医師は口ごもった。それから、嘆息し、ドリスがきいたこともない重々しい口調で語り始めた。
「わしはつねづね、貴族と人間との関係、もっとはっきり言えば、貴族の人間に対する見方に、どことなく皮肉なものを感じてきた。今のおまえにこんなことを言っても理解はできんじゃろうが――彼らはわしたちに一種の親愛感を持っているのかもしれん」
「なんですって!? 貴族があたしたちを友達だと思ってる!? そんな!」
声よりも荒々しく、ドリスは首筋のスカーフに手を当てていた。生まれて初めて、老医師に注がれる視線に怒りがこもった。
「いくら先生でも、そんな……言うにことかいて……」
「そう怖い顔をするな」
医師は手をふってなだめた。
「何も、貴族のすべてがそうだと言っておるわけではない。どんなに歴史的事実を調査しても、親愛感どころか、人間の生命など機械以下にしか思っておらん行為の方が圧倒的に多い。心ばえからいっても――心があるとしてだが――奴らの九分九厘までは、おまえを襲った領主のごとき|輩《やから》に違いない。しかし、残り一厘の可能性はあくまでも捨て難い。調べ上げた事実をすべて語るのは後日として――」
後日があるかしら――とドリスは思った。案の定、春の宵のごとく快適甘美な空気を蹴散らしつつ邪悪なものがやってくる。
フェリンゴ医師はもはやドリスを見てはいなかった。積年の疑惑とその解答を、床の一点に眼を据えたまま憑かれたように語りつづけている。
「一例をあげれば、なぜ自らの弱点とそれにつけ込む武器に区別をつけるのかじゃ。すべて記憶から抹消してしまえばよいものを、なぜこの粉末は残し、謎の『十』なるもの[#「もの」に傍点]は消去したのか? 多分この粉末は、『十』にくらべてさしさわりのない品なのじゃろう。果たして|彼奴《きやつ》らは、わしたちをもてあそんでおるのか? この程度の弱点は握らせてやれという支配者の|驕《おご》りか? ならば、|最初《はな》から公開すればよいではないか」
ここでフェリンゴ医師は言葉を切った。ひと呼吸おいて、
「老いぼれが六十年の人生の半分を費やしただけのささやかな調査の結果じゃが――わしは、これを挑戦[#「挑戦」に傍点]と見る。それも、ひとつの頂点を極めた滅びゆく種からの、今は彼らの足元にも及ばぬが、やがて同等の高みにまで達し、さらには彼らを|凌駕《りょうが》さえするかもしれぬ別の種への挑戦と。――彼らはこう言っておるのだ。おまえたち人間が我々の後を継ぎたければ、自らの力でおれたちを倒し屈服させてみろ。この粉末を手に入れたら、次は『十』の謎を解いてみせろ。解いてのけたら、それを忘却の霧に閉ざされぬよう手を打ってみるがいい、と」
「まさか……」ドリスは、自分の口が洩らしたつぶやきを、遠いもののようにきいていた。「それじゃあ、見習ハンターを教育する師匠そっくりじゃないの……」
かすかにうなずいたものの、ドリスの言葉を老医師は本当に理解したかどうか。視線は微々とも動かさず、
「これは、下級貴族にできる|業《わざ》ではない。ひょっとしたら……」
「ひょっと……したら?」
「全世界の“貴族”たちを束ねる千名の“大貴族”と七名の“王”、そして、その頂点に君臨した伝説の大魔王――大吸血鬼――王の中の王、彼こそが……あやつ、吸血鬼ド……」
そのとき、ドリスの顔にさっと緊張の波が走った。「先生!」言い放った声は注意というより助けを求める叫びに近く、我に返った医師の顔もドリスを追って居間の窓へ向いた。
月明かりだけが清涼な草原には動くものの気配とて感じられなかったが、ふたりの耳は、遥かに遠く大地を蹴る蹄と|車輪《わだち》の音をききとった。
「来よったか」
「歓迎の準備は整っています」
たくましい女戦士の気力と表情を取り戻しながら、しかし、少女は、胸の内で哀しげなつぶやきを洩らした。
やはり、間に合わなかったわね、D。
妖雲を踏みつけてやってくるがごときサイボーグ黒馬の足音が、きき違えるはずもない距離まで響いてくると、ドリスは居間の片隅へ寄り、壁に飾った銀色の祭礼用マスクのひとつを右へ回転させた。
にぶい音をたてて、壁と床の一角がまわり、後退し、みるみるうちに板張りのコンソール・パネルとアーム・チェアーが出現した。板張りといっても、スイッチや|桿《レバー》のくっついた面は鉄製で、メーター・ゲージやら、カラー・ランプやらがやたらに顔を出している。ただし、桿は木製であった。
ドリスの父が、『都』の職人を呼んでしつらえさせた戦闘指令所である。農場に仕掛けた武器のすべてはここで制御される。|跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》する妖魔どもの攻撃に備えた設備としては、最高水準に達しているはずだ。天井から全方位用プリズム監視鏡が降りてきた。
「ほう。あのとき、何の工事をしているのかときいたら、太陽熱変換炉を新品に変えると言っておったが。わしにも内緒か、水くさい親父だの」
まだ呑気な医師の言葉に応じている余裕はなかった。監視鏡のプリズム|眼《アイ》は、農場への小道をまっしぐらに進んでくる四頭立ての黒い馬車の姿をとらえていた。
ドリスの手が桿のひとつに伸びる。監視鏡は照準装置を兼ねているのだ。
「あわてるな」と例の小瓶を手に、窓から外をのぞいていたフェリンゴ医師が制した。
「電磁|障壁《バリヤー》があるぞ」
その言葉が終わらぬうちに、三つの|閂《かんぬき》で封じられた木の門が、馬車の到着まで十メートルほどの距離で音もなく開き、風を巻いてそこを通り抜けようとした黒い影は、眼もくらむ閃光につつまれた。刃も通さぬ硬質の鱗で護られた小竜さえ黒焦げにする電磁障壁の火花は、束の間、暗夜を白昼に変えた。
白熱大輪の火の花を突き破って、白光の塊が農場へ侵入した。馬も御者も馬車の輪郭も、すべて白い炎に覆われている。地獄の馬車が突如地上に姿を現したような、それは異様な光景であった。
「抜けたわ――あら?」
ドリスの疑惑の声は、そのまま疾風のごとく庭先へ走り込んでくるはずのサイボーグ馬が、障壁を抜け切った地点で、足並みひとつ乱さぬ鮮やかな停止ぶりを見せたからであった。
周囲を取り巻く電子の炎がみるみる失せていく。敵はより強力な障壁に護られているのだ。
「まだじゃ。見ろ、出てくるぞ」
桿を引こうとする手を再び制した医師の声の中に、緊張とそれを遥かに上まわる畏怖の響きがこめられているのをドリスを感じた。知性と剛胆の権化のようなこの老医師の潜在意識にさえ、貴族たちの数十世紀にわたる洗脳の結果は、十二分に染みついているのであった。
黒いドアが開き、自動的にせり出した小階段を踏んで、黒衣の偉丈夫が大地に降り立った。
「阿呆が――のこのこ出てきたわ」
表向きはずんでいるが、力のこもらぬドリスの声であった。敵が、今の――そして、この先に待ち受けている攻撃など歯牙にもかけていないことを悟ったのである。
自分の喉に汚らわしい傷をつけた張本人が、夜目にも白い牙を剥き出してにんまりと微笑み、ひとり母屋の方に向かって前進しだしたとき、ドリスは桿を引いた。
農場のあちこちで、バネのはじけるような音が連続した。黒い塊が風を切って伯爵を襲い、数十センチ手前ではね返された。
地に落ちたのは、ふた抱えほどもある丸石であった。つづけざまに集中する石の砲弾はすべて、見えない壁に運動エネルギーを吸収され、平然と歩みつづける伯爵の周囲に転がった。
「思った通り――手強いわね」
ドリスは第二の桿を倒した。
農場に秘められた発射口から再度飛来したものは、鋼鉄の槍であった。最初の十数本はことごとくはじけ飛んだのに、最後の一槍が伯爵の腹部を貫いた。
「やった!」
桿も折れんばかりに握りしめて、ドリスは絶叫した。その笑顔が凍りついたのは、一瞬棒立ちになった伯爵が、プリズム・スクリーンの中でもの凄い笑顔を見せ、腹と背から鉄槍を突き出したまま、またも悠然と歩み出したときであった。
奴は、あたしの攻撃なんか、防御膜なしでも平気だと言っている!
恐怖の冷たい手に脳髄をかきまわされたような気分になってドリスは不意に悟った。吸血鬼は犠牲者のもとへ「やって来る」必要などない。一度首すじに血の口づけを受けたものは、家の外から招く悪魔の声ひとつで自ら死神のもとへ出向くのである。Dが初対面の時、彼女を|昏倒《こんとう》させたのはそれを防ぐためであった。
「奴は遊んでいる!」
ドリスは無我夢中で桿を引き、倒した。吸血鬼は心臓を貫かぬかぎり死滅しない。この厳然たる事実は知っているはずなのに、実際に戦い、その凄まじい力を眼の当たりにした今、名ハンターの娘たる冷徹な判断力は根こそぎ奪われていた。人間の心に潜む未知なる闇への恐怖。
植え込みに仕込まれた|自動装填銃《マシン・ガン》が火を吐き、太陽熱貯蔵ユニットからレンズで点火された|爆裂火矢《ミサイル》が雨あられと降り注いだ。
周囲に巻きおこる油煙と炎の爆発、轟音の中で、伯爵は苦笑した。これが今の人間たちにできる最大規模の抵抗なのは明らかであった。そんな奴らが虫けらのようにしぶとく地上に生きのこり、自分たちは落日の陽光にも似て、音もなくひそやかに滅びてゆかねばならない。
不意に激怒が、眼前の獲物の抵抗をけなげに思う余裕を焼き尽くした。
両眼を炎に変え、剥き出した牙をガチガチと鳴らしながら、伯爵は一気にポーチへと走り寄り、階段を一足とびに跳ね上がるや、腹部の槍をぐいと引き抜いて片手なぐりにドアへ叩きつけた。
|蝶番《ちょうつがい》がはじけて屋内へ倒れこむドアの向こうに、黒い鉄の網が張られていた。何の考えもなく、払いのけようとして鉄槍を突っこんだ刹那、接触部が閃光を放ち、伯爵は槍を握った手首から全身へ猛烈な灼熱感が走るのをおぼえた。初めて、その身体は黒衣の下で苦痛に震え、頭髪が逆立った。吸血鬼の呪われた代謝機構が全力をあげて強烈な電気刺激を中和、排除すべく、細胞の分子配列変換にとりかかった。
屋根の太陽熱吸収パネルが昼の間に蓄えておいたエネルギーを、五万ボルトの高圧電流に変えて送り出したエネルギー|変換装置《チェンジャー》の仕業であった。
急激な電気ショックに細胞が灼かれ、神経が|壊死《えし》するのを感じながら、伯爵は槍を振るった。新たな苦痛と火花を置き土産に、ワイヤーをよりあわせた放電網はちぎれて床に落ちた。
「女ひとりの身で、やるな」伯爵は血走った眼で、低く感嘆の声をもらした。「わしの見込んだ通りの、生命力に溢れた女。――どうしても、おまえの血が欲しくなったぞ。待っておれ」
ドリスは万策尽きたことを知った。屋内用に切り換えた監視鏡のスクリーンいっぱいに、血の渇望に満ちた妖魔の顔が広がり、ドアが居間の内部に倒れこんできた。彼女は制御盤から跳びのき、フェリンゴ医師をかばって立った。
「娘――」と戸口の影が言った。「女ながらあっぱれな奮戦ぶりだが、これまでだ。その熱い血潮をわずかながら捧げてもらうぞ」
大気を裂いて鞭が唸った。
「来い」と伯爵は鋭く命じた。
鞭の先は空中でとまどい、床にわだかまった。
操り人形のように、ふらふらと進み出るドリスの肩を、老医師が押さえた。その右手が鼻腔を覆ったと見るや、少女は声ひとつあげずに崩折れた。医師は最前から、クロロホルムを染みこませた布をかくし持っていたのである。
「邪魔をする気か、老いぼれ」
伯爵は何の感動もこもらぬ白い声できいた。
「放ってもおけぬでな」と老人は答え、左手をにぎって前方へ突き出した。「おまえの嫌いなものじゃ――ニンニクの粉末よ」
伯爵の顔に動揺の波がわたったが、すぐ、にやりと笑って、
「よく見つけ出した――と言いたいところだが、愚かものは愚かものだな。確かに、わしもその香りには刃向かえん。だが、今夜ひと晩わしの手を逃れてなんとする。わしに対するその効果を確信した途端、確信したがゆえに、おまえは手にしたものの記憶をすべて忘れ去る。明日の晩、わしはまた来るぞ」
「そうはさせん」
「ほう、どうする?」
「老いぼれにも過去はあっての。サム・フェリンゴといえば、三十年前多少はならした|人蜘蛛《スパイダー》ハンターじゃった。おまえたちとの戦いの作法もいささかは心得ておる」
「ほう」
伯爵の眼が光を帯びた。
老医師の手がふられた。空中に粉末と異臭が渦巻いた。
「うぐっ――ぐええ……ぐ……」
鼻から下をマントで覆い吸血鬼はよろめいた。脳が焼け|爛《ただ》れ、全身から生命そのものが流れ出すみたいな猛烈な脱力感と嘔吐感が襲いかかってくる。吸血鬼の鼻腔内嗅細胞――匂いを感じる嗅神経末端部は、ニンニクの臭みのもとであるアリシンの嗅素によって壊滅的打撃を受けるのだ。
「おまえたちの時代は過ぎた。滅びの闇世へ戻れ!」
いつの間に取り出したのか、右手に三十センチほどの白木の杭を握ってフェリンゴ医師は突進した。その眼前で、ぱっと黒い鳥が羽根を広げた。伯爵のマントである。それは、意思を持つもののように、老医師の手首に巻きつき、伯爵が片手を動かしたとも見えないのに、大きく動いて老医師を部屋の片隅へ投げとばしていた。貴族の秘術である。伯爵はこれを一族の神祖からじかに指導されていたのだった。
必死で床から身を起こした老医師は、激しくむせながらもドリスの上にかがみ込む伯爵の姿に恐怖した。
「待て――」
伯爵の顔が少女の喉に重なる。
医師は目を見張った。
伯爵が顔面を蒼白にしてのけぞったのである。これほど凄まじい貴族の恐怖の相を目撃したのは、老医師だけではあるまいか。
唖然とする医師を尻目に、黒衣の影はマントをひるがえしてドアの外へ消えた。
老医師がようやく、腰骨のあたりを押さえながら起き上がった時、窓の外から遠ざかる車輪の響きがきこえてきた。
――どうやら、ひとまず危険は去ったらしいの。
湧き上がる安堵感のさなか、フェリンゴ医師は、ふと、大切なことを忘れたような気がして首をひねった。
この匂いはなんじゃろう? あやつ、なぜ逃げた?
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第五章 必殺・飛鳥剣
翌朝、陽が昇ると同時に、ドリスは眠りつづけるダンの世話を老医師に頼んで農園を出た。
「どうしても行くか。たとえ生きておっても、会えるかどうかわからんぞ」
Dのことである。ドリスは黙って微笑んだきりであった。心細げな笑みではない。この身に代えても彼を救い出してみせる。そんな決意に支えられた笑顔であった。
「大丈夫、きっと帰ってきます。ダンをお願い」
こう言い残して、彼女は吸血鬼の城へ馬首を巡らせたのである。
怖い。すでに一度、吸血鬼の毒牙にかかり、数時間前にも襲われた身の上である。ニンニクの効力ももう記憶から去っていた。フェリンゴ医師から、なぜだかわからないが伯爵が逃げ出したという昨夜の事情をきき、やはりあの粉は効果があったのだと確信して数秒後、それに関する記憶は彼女の脳裡からも根こそぎ失われてしまったのである。
その代わり、先夜のあらゆる攻撃を児戯のように扱った“貴族”の猛威が、まざまざと脳裡に灼きついている。
勝てっこない。防ぎようがない。
男顔負けの騎乗ぶりで草原を疾駆しながら、暗い絶望の淵へ落ち込もうとする心を、まだあどけないダンの顔が引き戻す。
大丈夫、お姉ちゃんはあんな奴に負けやしないさ。Dさんを連れ帰って、一緒に奴らを片づけてしまうんだ。
ダンの顔の向こうに明滅するもうひとつの顔があった。伯爵よりももっと冷たい、身の毛もよだつような秀麗な顔が。
生きていて。どんな怪我をしててもいいから、生きていてちょうだい。
気象コントローラーの“快適操作時間”が切れても、冷気を含んだ草原の朝は緑が黒ずむほどに美しく、生気に溢れていた。
心地よい朝風の吹きすぎる街道を、夜っぴて疾走してきたらしい十頭ほどの騎馬が、唐突に砂塵を蹴散らしながらその足を止めた。
街道は、大の男の腰までありそうな草原の間を縫ってランシルバの村へとつづいている。二十メートルばかり離れたその道の真ん中に、草むらを割って四つの影が立ちはだかったのであった。
「な、なんだ貴様たちは!?」
「我々は『都』から派遣された辺境警備隊だ――そこをのけ!」
二番目の叱咤をとばした男が、ふと目を細めた。四人組の異様な風体が危険な記憶に触れたのである。
「女のごとき若造に、雲つく大男、|錐《きり》みたいにとんがったやせっぽちに|傴僂《せむし》――そうか、貴様たちが、『怪魔団』だな」
「よくおわかりで」
と、麗銀星は緑の朝にふさわしい笑顔になった。この美青年が、辺境の北を荒らしまわった残虐無比な強盗団の首領などとはとても信じられない、珠玉みたいな微笑みであった。
「北では顔を知られすぎてこちらへ出稼ぎに参ったのですが、これからというときに、あなた方が手配書を配りながら村々をまわっているときき、こうしてお待ち申しあげていたのです。無粋な真似はおやめ願います」
このなんとも人を食った口上に、警備隊の面々は激怒した。隊長らしい荘重な顔つきの男が吠えた。
「だまれ。ペドロスの村で貴様たちを見かけたとの知らせに急行したものの、ひと足違いでとり逃がし、ほぞを噛んでおった矢先だ。そっちからのこのこ現れたとは願ってもない好機。この場でひっくくってやる。それにしても、いかに凶悪な強盗どもとはいえ、なんたる愚かものぞろいだ。いいか、我々は辺境警備隊だぞ」
この自信は単なるこけ脅しではない。『都』から定期的に辺境の巡回警備に派遣される彼らは、あらゆる妖魔、怪獣に対する戦闘訓練をつみ、強力な兵器で武装した、ひとりひとりが一小隊にも匹敵するファイターぞろいなのである。
背後にいならぶ隊員たちの鞍のあたりで重々しい金属音が響いた。装着した無反動バズーカに、砲弾が自動装填される音であった。すでに隊員たちのレーザー・ライフルの銃口は、麗銀星のグループめがけて不動の直線をひいている。先日、酒場で見せた奇怪な戦いぶりがいかに想像を絶したものとはいえ、生身の人間たる彼らがこの攻撃の前に無事でいられるとは思えない。
「どうだ、捕らえられに出てきたと観念して武器を捨てろ。獄門台に送られるまで、生命だけは永らえるぞ」
と隊長は言った。
「いやですね」
「なにィ」
「気の済むまでお射ち下さい。ですが、その前にひとつお忘れになっていることがある」
「?」
隊長は眉をひそめた。美しい声が言った。
「怪魔団は四人組ではないのですよ」
「なに!?」
警備隊がどよめいた。四人組はいつの間にか彼らから目をそらし、真横を向いていた。
「誰も知らぬお守り役がいるのです」
横を向いたまま、麗銀星の唇がきゅーっとつり上がった。それは悪魔の笑いだった。
「ほら、そこに!」
人間の精神と肉体が抗いきれぬ恐怖が眼前に出現したとき、犠牲者の受けるショックの強度は、「距離」に反比例するものらしい。
そいつ[#「そいつ」に傍点]が、隊長の馬にのしかかるような形で空中から湧き出した途端、隊長はショック死に見舞われ、後方三メートル以内にいた隊員五名が発狂した。いや、そいつの姿は動物にすら見えるのか、あるいは「気配」を感じたのか、馬さえも逃げるのを忘れ、口と鼻から白い泡を吹きつつ大地をのたうったのである。あとの馬は総立ちになった。
地面へふり落とされた隊員たちが悲鳴ひとつあげなかったのは、すでに彼らも精神の一部を破壊されていたのであろう。あるものは奔走する馬の蹄に頭を踏みつぶされ、あるものは凝固したごとく、近づいてくるそいつ[#「そいつ」に傍点]を見つめていた。
そいつは、ゆっくりと、生き残りの隊員ひとりひとりの身体に触れていった。
『都』最強の兵士たちは、成す術もなく静かに狂死した。
「いかが? 怪魔団の五人め、なかなかの美形でしょう」
地上に這った最後のひとりが、麗銀星の嘲笑をきいたとき、そいつ[#「そいつ」に傍点]の姿はだしぬけに消え失せた。
「――!?」
その気配を察し、ふり向いた麗銀星の額へ、生き残りの隊員がうつろな眼でレーザー・ライフルの銃口を向けた。激烈な訓練の成果が、狂ってもなお敵への殺意を喚起したのである。
「お頭!」
|拷零無《ゴーレム》が動くより早く、赤光がその額を貫いた。
だが――
のけぞったのは隊員の方であった。麗銀星の眉間に吸いこまれたレーザー・ビームは、なんと彼の後頭部から噴出したのである。肉と脳の焼ける異臭が清涼な空気にただよった。
「お頭、ご無事で?」
地に伏した隊員を憎々しげに見つめながら、とんがり頭が声をかけた。頭部のみか全身が流星型の、ロケットみたいな男であった。名はギムレットという。
「なんとかね」
麗銀星は額をなでて笑った。眉間の皮膚が直径一センチほど円型に焼け焦げている。
それきり彼を気づかう言葉もなく、四人の怪物たちは、別の意味で不審げな顔を見合わせた。
「ウィッチの身に何かあったな……」
こう言ったのは、傴僂男である。
「チューラの言う通りです。私が不覚をとったのも、あれ[#「あれ」に傍点]が思いもかけず仕事の途中で消えたから」
麗銀星も相槌を打った。なんとも異様な不覚のとり方ではある。左手に広がる草原をふり返って、
「あの歳で術が破れれば、辿るは暗く冷たい死の道……」
とつぶやいた。
「わたくしが見て参りましょうか?」
ギムレットが申し出たが、美しい顔を横にふって、
「いえ、私が行ってきます。あなた方はこの醜い死骸を始末なさい。焼くなり食べるなりお好きなように」
と、とんでもないことをにこやかに命じた。
凄惨な死闘が片づく――正確には、空中から出現したもの[#「もの」に傍点]が突如消滅する少し前のことである。
草原を疾走中のドリスは、馬の方向を変える寸前、思いがけない場所に思いがけないものを発見し、逆に手綱を引きしぼった。
リイ伯爵の城まで二キロ足らずの地点である。遠まわりの街道を避け、丘陵地帯を駆け抜けてきたが、ここからはやや迂回せざるを得ない。
小さい頃、一度だけ父に連れられ遠くから眺めたことはあるが、こんなに近くで見るのは初めての経験だ。ドリスは半ば恐怖、半ば厳粛な心持ちで、朝の光の下に広がる神秘な光景を見わたした。
村の人々が「悪魔の石切り場」と呼んでいる場所である。広さも定からぬ草原の一角に、おびただしい数の石像が林立し、地に伏し、天をあおいでいる。
どれひとつとして同じ顔、同じ姿のものはなく、また、どれひとつとして奇怪な妖怪じみた像でないものはない。
眼だけが異様に巨大な|禿頭《とくとう》像、数十本の手を持ち、牙を剥き出した胸像、何やら獣じみた、数千本の剛毛を彫り分けられた全身像――技巧だけ見れば精妙無比としか言いようのないこれらがみな、なるほど古代の城砦の跡かとも思える石壁や石柱の残骸とともに、青い苔にまみれて、異次元境とも形容すべき空間をつくり出している。
生の息吹を世界の津々浦々まで伝えるはずの早朝の陽光さえ、光の粒子をこの|寂寞《せきばく》たる空気と青苔に吸い取られ、どんよりと重く澱んで、彫像たちの顔に必要以上の妖奇な翳りを与えていた。
空気までじんわりと湿っているみたいだ。
かつての貴族たちの呪わしい祭祀場の跡だとも、あるいは城の建造にあてる石切り場だとも言われているが、後者の意見は論破されて久しい。このあたり一帯には、切り出す石など存在しないのだ。
ともかく、ランシルバの村人は一切立ち寄らぬ禁断の地であった。
ドリスの眼を引いたのは、「悪魔の石切り場」地帯のほぼ中央、大地が大きく陥没した窪地の底に腰をおろし、何やら奇妙な動作を繰り返している老婆であった。
歳はわからない。遠くからも明瞭な白髪と黄色味がかった皮膚に刻まれた皺から見て、ひょっとしたら百歳にも近いのではないかと思われるが、それにしても、全身が妙に生々しい精気に彩られているようでもある。
旅のお婆さんが道にでも迷って休んでいるのかしら。
村へは連れていけないまでも、街道へ案内するくらいは可能だと、馬にひと鞭くれかけて、ドリスはなぜか手を止め、そっと地上に降りた。
灰色の外套をまとった上体を極端に前へのめらせ、何かにつかみかかるみたいに曲げた指先を一心不乱に凝視している姿に、どことなく邪悪なものを感じたのである。むろん、ドリスは知らなかったが、このとき、数キロ離れた街道では、空中から出現した異形のものが、警備隊を狂死状態に追い込んでいる真っ最中であった。
馬をひき、足音を忍ばせて「悪魔の石切り場」の内部へ入ると、ドリスは手近な石柱に手綱を巻きつけ、老婆の背後に近づいた。
気がつかぬのか、老婆は動かない。接近するにつれて、ドリスは肌という肌が総毛立つのを感じた。
老婆の周囲から毒気が立ち昇っている。明らかに、妖術を使って邪悪な作業を敢行中なのだ。呪文を唱える低声が耳に入った。
「およし!」
思わず叫んで、数歩進んだ途端、
びゅっ! と何かが草むらからとんで頬をかすめた。電光の速さでドリスは地に伏せた。息を殺し、周囲に気を配りながら、左手で頬にさわる。生温かい血が指先に付着した。
「気獣ね――どうやら、結界はすぐそこらしい」
左に鋭い気配。ざっと横へ半回転しざま右手の鞭を放つ。必殺の一撃は空しく草をはねとばしたのみだが、敵も方向を転じ、遠方へ身を避けたのが感じられた。
妖術使いないし魔道士が術をふるう際、自らを中心に半径数メートルにわたって、最も術を効率よく発動させるための空間を設定する。これが「結界」である。
任務遂行中に他人がここへ入ると心気は乱れ、はなはだしい場合は術そのものが効力を失うため、妖術師たちは結界の外に自らが生み出した妖物――いわば番犬を配置、侵入者を撃退させる。妖物には、邪気を含ませた蛇、|蝦蟇《ひきがえる》、巨犬等をあてるが、この老婆は自らの念力が生み出した透明な獣――気獣を使っているのであった。それも、とびきり獰猛凶悪なやつを。
自分を救ったのが、ハンターとして仕込まれた絶妙の反射神経であることを、ドリスは悟っていた。並みの人間なら、一刹那で喉を食い破られているところだ。胸の中で父に感謝する。
「あの婆さんまで、十メートル。トリック・プレイかけてみるか」
ドリスはつぶやいた。危険な賭けだがやるしかない。相手はどんな妖術をかけて他人を苦しめているか知れやしないのだ。
再び鞭が虚空を薙いだ。老婆の方へ。
空気を貫通して気獣がドリスを襲う。そのとき、鞭がしゅっと引かれた。次の瞬間、空中で何かが炸裂する気配。大気中にぐおっと邪気がこもり、すぐに拡散して消えた。
「ぐええっ!」
折り返しに老婆のあげた苦鳴が、ドリスを草むらから立ち上がらせた。
老婆を襲うと見せて気獣を突進させ、間一髪、手首のひねりで逆に気獣を一撃する。もちろん、一瞬でも手の動きが遅れれば、この世から消滅するのはドリスの方だったのだ。
捨て身の賭けは成功したのであるが、思わぬ副作用が生じた。妖術で気獣を生んだ老婆には、気獣の消滅が術の崩壊をも意味したのである。生命力をすりへらしつつ施していた術が破れたとき、老婆の黒い心臓も鼓動を止めた。そして、警備隊の最後のひとりに迫っていた異形のものが消え失せたのも、この刹那であった。
「お婆さん! ちょっと、しっかりして!」
あわてて駆け寄り、抱き起こしたが、老婆は白眼を剥き、口から泡を吹いて、無念の形相も凄まじくこと切れていた。額に五芒星の焼き印が押されている。妖術師のマークだ。
「なんてこと――こんなつもりじゃなかったのに……」
邪悪な妖術師とはいえ、また、正当防衛には違いないが、年老いた女性を死に到らしめたという思いが、ドリスの胸を重くふさいだ。
「悪いけど、戻ってくるまで待っててね。大事な用があるのよ」
ドリスは死体をその場に横たえ、馬のところへ戻ろうとしてためらった。遺体を村へ運ぶより、まずDの安否を確かめるのが先決だ。そのために危険を承知でやってきたのである。
けれども、大地にちょこんと横たえられた老婆の黒い身体は、言いようもなく孤独でもの寂しげに見えた。風が外套の裾をふるわせている。それに、路傍の死体は妖怪どもの|垂涎《すいぜん》の的だ。貪り食われるならまだしも、中に入られでもしたら[#「中に入られでもしたら」に傍点]、人間の脅威がまたひとつ増えることになる。昼日中とはいえ護法も施されていない死体にのり移るためなら、やつらは火だるま覚悟で出没するだろう。
ドリスは屍体護法の道具を馬に積んでいなかった。老婆の馬も、馬車も見えない。外套の内側も探ってみたが、怪しげな小物しか入っていなかった。
ドリスは死体のところへ戻り、そっと抱き上げた。
「この辺には、とっ憑く[#「とっ憑く」に傍点]奴らはいないと思うけど――でも、一緒に行きましょ。無事に戻ってこれるかどうかは保証の限りじゃないけれどね」
死体は鞍の後ろに積み、革紐で手足を馬体にくくりつけた。落ちるのを防ぐためと、とり憑かれたときの用心である。さすがはハンターの娘、手慣れたもので、作業は三分とかからず終了した。ドリスは馬に跨った。
とりあえず街道へ。
数歩前進したそのとき、不意にドリスはふり向いた。同時に、びゅっ! と、首のあたりを何か重いものがかすめてすぎる音。
宙に舞った首は、長い放物線を描いて地に落ちる寸前、カッと両眼を見開いた。歯も剥き出した。それは鬼の眼と牙であった。引き寄せられるように、自分と胴とを分離した張本人に向かって跳ぶ。かなり離れた丘の上に立つ馬上の影から、もう一度、黒い稲妻が走った。今度こそ眉間から顎の先まで真っぷたつに裂かれ、地に転がって、老婆の首はもはや動かなかった。
ドリスは、自分が間一髪のところで救われたことを知った。
眼の前に、鉤爪を彼女の喉に食い込ます寸前の姿勢で硬直した老婆の首なし死体があった。
いましめがちぎれて手首にまとわりついている。すでに死霊にとり憑かれていたのだ。いましめを断って後方からドリスに襲いかかった瞬間、丘の上の影が手練の早業でその首を切断したのである。
馬がぶるっと身を揺すり、首のない身体は大地に落下した。
ドリスはようやく救い主の方を向いた。
「あっ、D――」
満面にのぼった歓喜の色は、しかしすぐ退いた。
鮮やかな手綱さばきを見せて丘を降ってくる人影は、Dとも見まごう美貌ながら、明らかに別人であった。
「よく気がつきましたね」
ドリスと並んだところで馬を停め、麗銀星は白銀の笑みを浮かべた。
とり憑かれた死体に襲われる寸前、異様な気配にふり向いたことを言っているのである。
「そんな。また助けていただいたわね。どんな武器をお使いになったの?」
少女らしからぬ質問に、麗銀星は、ほう、という表情をつくった。
「失礼ですが、その服装と鞭からして、ハンターとお見受けします」
「親父がね。あたしは真似ごとです」
照れでも謙遜でもなくそう言って、ドリスは微笑した。自分でもよくわからないが、妙に硬い笑顔だと思った。
こう名乗り合ってからも、ドリスの眼が自分の顔ではなく、武器を吊った腰のあたりにそそがれているのを知って、美青年は苦笑した。
「どうして、朝っぱらからこんなところにいらっしゃるの? 遠乗り?」
「え、ええ」
「なら、このお婆さんの身体を村まで運んでやってくれませんか。本来ならあたしが行って治安官に事情を説明しなくちゃならないんだろうけど、実はいま急いでいるのよ」
ドリスは、馬を停めてからの事情をすべて物語った。終わりまで黙ってきき、麗銀星は「成る程、それで……」とうなずいた。
「死体の件は引き受けました。ふたつ[#「ふたつ」に傍点]ともうまく処分いたしましょう」
「……ふたつ?」ドリスは眉をひそめたが、美少年の屈託ない笑顔に打たれて反射的に笑い返した。「じゃ、頼んだわよ」
馬首を巡らした腕が、横からぐいとひかれ、美少女は馬上で抱きすくめられていた。口元で、男のものとは思えぬ甘い息が匂った。
「何を……」
「わたしは五人めの仲間を殺してまで、あなたを助けた。それもあなたが美しかったからです。もうひとつ、昨日の分もある。お礼を頂いても罰はあたらないと思いますが」
「およし、よさないと……」
「それに、あなたは見てはならないものを見た。村へ行ってそれを喋りまくられては困る。ここで死んでいただきます。仲間の仇討ちとでも申しましょうか。――そう暴れないで。まだ生きていられますよ。楽しいことが済むまではね」
乙女の口を美青年の唇がふさいだ。
「!」
敏速に身を離したのは麗銀星の方であった。唇を押さえた手の甲に鮮血が広がった。ドリスが噛みちぎったのである。
「なめるんじゃないわよ! あたしには大事なひとがいるんだ。おまえなんかに指一本触れさせるもんか!」
凛然と言い放つ。麗銀星の表情が怒りに紅潮するかと思いきや、彼はにっと笑った。誰もが微笑み返さずにはいられぬ愛くるしいそれではない。あの街道で見せた悪魔の微笑であった。
慄然としながら、ドリスはその顔の真ん中へ鞭を放った。ふたりの距離は五十センチ足らず。鞭を振るうには近すぎる。それなのに、少女のこぶしから放たれた黒いうねりは、神技のように美少年の顔を真っこうからはじいた。いや、はじこうとして、目標の腰から閃いた黒い稲妻の前に消滅した。奇怪な、くの字型の武器を抜きざま、まばたきする間も与えず鞭の先を切りとばした麗銀星の腕の冴えこそ驚異。しかもその顔は、戦闘開始の緊張もなく微笑を浮かべつづけている。
「はあっ!」
一瞬のうちに勝ち目はなしと悟って、ドリスは馬首を「遺跡」の方へ向け、一目散に走り出した。
だが、逃げるのに懸命なあまり、彼女は敵の武器の威力を忘れたのではあるまいか。丘の上から二十メートル先の老婆の首を切断したその魔力を。
麗銀星は、すぐには投げなかった。ドリスの馬が「遺跡」帯の真ん中にさしかかったとき、初めて彼は、下からすくい投げる格好で武器をとばした。
みるみる遠ざかる黒い点に、しゅるしゅると回転しながら追いすがったそれ[#「それ」に傍点]は、なんたる無残、馬の右後ろ足、右前足をすねから切断し、前方で優雅な円を描くや、今度は逆の方向から左側の両足を、切りとばしたのである。逃亡を阻止するつもりなら一本の切断で事足りるものを、なんという残虐さか。 血の霧をふり撒きながら、馬は倒れた。
「おおっ! 見事!」
大きく横へ伸ばした掌に帰還した武器の重みを感じるより、眼前の光景に麗銀星は感嘆した。
横倒しになる馬体から、しなやかな身体が宙に舞い、くるりと回転するや、やや体勢を崩しながらもきれいに着地を決めたのである。
だが、ドリスの顔は蒼白であった。
彼女は、敵の武器とそれを使いこなす神技を忘れていたのではない。承知の上でジグザグに馬を走らせたのだ。
にもかかわらず、黒い武器はその動きを計算したかのように、見事、馬の両足を切りとばし、横に崩れた馬体の、宙に浮いた残り二本も同じ運命に見舞わせたのであった。
ある意味で、貴族以上に恐るべき敵と遭遇したことをドリスは悟った。馬の鞍には短槍と長剣が、右手には鞭があった。しかし、いま右手の武器は異様に軽く、頼りなく感じられた。
悠然と、麗銀星は「遺跡」に馬を乗り入れた。
「今の技を見て、ますますすぐ[#「すぐ」に傍点]殺すのが惜しくなりました。いかが、私と今生の別れを交わされては?」
「誰が! あんたみたいな、お澄まし顔の蛇の相手をするくらいなら、この石で頭を叩き割った方がましよ」
言い返して、ドリスは素早く、手近に突っ立っている巨大な像の陰に隠れた。全長五メートルは優にある二本の牙を剥き出した石像だが、年月と地盤のゆるみのせいで、やや前へかしいでいた。麗銀星の恐るべき飛び道具もこの石の楯には歯が立つまいが、反撃のしようもないから絶体絶命の状況は相変わらずである。
「獲物が手強ければ手強いほど、猟師は燃えるものですよ。それが美しい獣ならなおさらです。
――おっと、失礼。そちらもハンターでしたかな」
麗銀星の声に嘲笑が混じった。
彼は丘の上で、老婆――ウィッチの死体を馬に積んでいるドリスを見かけた瞬間に、殺害を決意した。警備隊の失踪と、何やら妖術をふるっていた老婆の死体――このふたつが関連づけられ、そこから彼らの名が割り出されるのは時間の問題だったからである。
ウィッチは、いわば別動隊であり、人知れず、人間の精神が耐え切れぬ異形の存在を召喚し、労せずして敵を心理的荒廃に陥れる役目を負っていた。彼が、妖魔に憑かれたウィッチの首を切断し、ドリスを救ったのは、この美しい娘に男として当然の欲望を抱いたのと、足手まといの老妖術師は、いずれ片づけるつもりでいたからであった。
しかし、窮鳥の地位に追いつめたとはいえ、少女はほぼ無傷で、|敵愾心《てきがいしん》に燃える瞳は、石像の陰からはった[#「はった」に傍点]と彼をにらみつけている。
「このまま冥土へ行って頂くのは簡単なのですが、そうあっさりお別れしては、あの世で私の恐ろしさを宣伝する材料にお困りでしょう」
右手の武器が、陽光を反射してきらめいた。
「もう少し、そのかよわい胸を恐怖にすくめて頂きましょうか。そうそう、ハンターの心得その一――隠れた獲物は、まず隠れ家から追い出すこと」
空気が唸り、ドリスの隠れた像の土台あたりでなんとも言えぬ音がした。
「きゃっ!」
ドリスが必死で跳びのいたのも道理。かしいではいたものの、多少の衝撃などでは小ゆるぎもしないと思われた数十トンの石像は、突如安定を欠いたかのように、彼女の方へ傾きはじめたのである。
それをやってのけた麗銀星の武器はすでに彼の手へ戻っている。その形状、作用からして、古代オーストラリア原住民のみが使いこなしたというブーメランと酷似しているが、ブーメランが打撃で獲物を倒したのに対し、麗銀星のものは、|縁《へり》も先端も鋭く研ぎ澄まされていた。おまけに鉄製だ。
木製のブーメランでさえ、原住民以外の人間にはろくに放り投げることもできなかったのに、この風に揺れる若木のようにたおやかな美少年は、片手一本、手首ひとつで、鉄の|刃《やいば》を自在に操るのであった。その神技は単なる無機物の|刃《は》に妖刀の切れ味を与え、人体はもとより、木の幹、岩さえも両断してのける。
しかも、攻撃は直線のみではない。目標の右から左から頭上から、いや、足元からも、死角など存在しないがごとくに加えられるのだ。一本ですらよくかわし得ないのに、二撃三撃を連続、あるいは同時に送り出されたら、この世によく防ぎ得る人間がいるとは思えない。鉄の刃は、防御物すらもう一頭の獲物のごとく切断してのけるであろう。麗銀星の武器――「飛鳥剣」。
大地を揺るがし、苔の青をとび散らしつつ石像は倒れた。
青いすりばちのような陥没地帯の底に、ドリスは茫然と立ちすくんだ。もっとも近い石壁まで三メートルはあった。
朝風に花のように揺れながら、麗銀星は笑った。
「どうなさいました。獲物の本質は逃亡のはずですが……」
不意に彼は言葉を呑みこんだ。
ドリスの表情に希望の色が湧いた。
ふたつの変化がこのとき生じたのである。
どこからともなく、白い|狭霧《さぎり》が、「遺跡」地帯に湧き上がりつつあった。それは、麗銀星の武器を握った手に、ドリスの頬にじっとりとまとわり、生暖かい水滴をつくった。
それと、遠くで馬のいななき。
ドリスは身をひるがえして石壁の方へ走った。霧で敵の攻撃が防げるとも、眼をくらまして逃げおおせるとも思わない。先刻の馬の主へ声がとどく距離まで、手一本、足一本を失おうと逃げ延び、武器を懇願するつもりだった。もっとも、それで勝てるとも思ってはいない。
背後の空気を切り裂くものは飛来しなかった。頭から石壁を跳び越え、|呼吸《いき》を止めたまま、次の遮蔽物までの距離を測る。
彼方から響いた声が、ひたむきな眼を死びとのそれに変えた。
「お頭、獲物はいただきますぜ」
白い濡れたベールが空の青さえ閉ざした薄明の世界で、ひとりの少女に死の影が迫りつつあった。
麗銀星と三人の配下。どれひとりとっても女の細腕には余る。
「お頭、ウィッチは?」
別の声がきいた。
「倒されました。可愛い小鳥に首を落とされて」
霧の向こうで、低いどよめきが起こった。少ししてきこえた声は、どす黒い怒りをはらんでいた。
「おれは眼の玉をえぐる」
「おれは手と足をもぐ[#「もぐ」に傍点]」
「おれは首をちぎる」
そして、麗銀星の声が、
「私は残った身体を抱きましょう」
ドリスの声はしなかった。息づかいさえきこえない。男たちは死の前にすくんだ少女の気配だけを感じた。乳白色の霧は、すべてのものをおぼろな影と化していた。
麗銀星が右手の飛鳥剣を構えた。
声ひとつかけないのに、霧の向こうで同時に|拷零無《ゴーレム》が蛮刀を抜き、ギムレットの手に山刀が光り、チューラの|瘤《こぶ》がふたつに分かれた。
「では」
必殺の一撃を送ろうとして、麗銀星は硬直した。
――何かいる!
そう、渦巻く霧。粘っこく、肌の奥まで染み込んで生の炎をしめらせ、じわじわと精神を蝕んでいくような不快な霧の中に、彼ら四人といたいけな犠牲者以外のものの気配を、はっきりと彼は感じとった。それにしても、それだけで彼ほどのものが身動きひとつできなくなるとは――。
麗銀星の眼には見えなかったが、気配は、さきほど彼が手練の早業で倒した石像のあたりでした。
そして、彼は知らなかった。その石像が、いつとも知れぬ太古から、大地に開いた地底への入口を塞ぐ役を果たしていたことを。霧はそこから、地の底から溢れ出たのであった。
「これが、外[#「外」に傍点]かえ?」
それこそ霧魔がしゃべるような不気味な声がした。
麗銀星はもとより、凶悪無惨な三名の配下さえ、思わず生唾を呑み込んだほどの非人間的な響きがあった。しかも、それは女の声であった。
「なんと冷たい……下[#「下」に傍点]の方がまだましじゃ」
別の女の声が言った。応じるように、また別の声が、
「腹に何か入れねばなりませぬ――おお、そこにおるではありませんか。ひい、ふう、みい、よう――五つも」
万物を盲目と化す白霧の中で、三つの声の主ははっきり眼が見えるのだと悟り、麗銀星は戦慄した。それ以前、彼は感じた気配の異様さに、ふり上げた飛鳥剣をおろすことも忘れている。気配はふたつ。それなのに、うちひとつはどうしてもそれ自体三つに[#「三つに」に傍点]|分離《わか》れているとしか思えないのだ!
「案内役はもう済んだ。下へ戻れ」
今度は、|錆《さび》を帯びたずっと人間らしい声が命じた。もうひとつの気配の主だろう。だが、声こそそうだが、気配それ自体は不気味な声の主をも凌駕する凄絶さがあった。
「そんな……あれほど美形な……うまそうな……」
哀しげに抗う声のさすのが自分だと知って、麗銀星は総毛立った。
「ならん」
もう一度命じた声に感謝したい気分だった。
「姉者、行こう、ご命令じゃ」
「……惜しいが、そうするか」
「でも、でも、――今度はいつ来て下さるのか? 私どもの下の|棲家《すみか》へ。愛しい方」
最後の声は哀願であった。
それきり|応《いら》えはなく、やがて奇怪な、三にして一の気配の主がしぶしぶ移動するこれまた気配があり、それは地上から消滅した。
残る気配の主が言った。
「貴族以外はおれの相手ではないが、どうしても、と言うなら来るがいい」
おれたちへの挑戦だ!――と理解しつつ、四人組の戦意は萎えたままであった。
「……D……あなたなの……」
感きわまった、泣き声に近い声。
「来たまえ。落ちついて。駆ける必要はない」
霧の奥で、ぎりりと歯噛みする音がした。駆ける必要はないとは、四人組は手も足も出ないと断じられたに等しい。その痛烈な侮辱に対する|怨嗟《えんさ》の表明である。しかしながら、事実、霧の彼方から放たれる鬼気に骨がらみ縛りつけられて、凶人たちは指一本動かせない。
喉元に手までかけた窮鳥は、声の主のもとへ歩み寄った。少しして、ともに遠ざかる気配がした。
「お待ち……待て」
やっとの思いで麗銀星の喉から声が発した。
「せめて名を……」
いつもの典雅な言葉遣いさえ、彼は忘れて霧の中へ呼びかけた。
「Dとは、貴様の名か?」
応答はなく、ふたつの気配は遠ざかる。
呪縛がゆるんだ。
「きえーっ」
絶叫をあげて、麗銀星は武器を投げた。力、スピード、タイミング、ともに絶妙、防ぐものなし――|満腔《まんこう》の自信を持って放つ飛鳥剣の一閃であった。
霧の奥で、刃と刃の触れ合うような音がした。
それきり物音はすべて絶え、白い世界に静寂がおりた。ふたつの気配はすでにない。
「お……お頭」
少しして、拷零無の喪心したような声がきこえても、美しい悪魔の申し子は、ついに帰らぬ飛鳥剣を待って右手を宙に伸ばしたまま、霧よりもなお白ちゃけた顔色で、鞍の上に凍りついていた。
頭上遥かな高みから、羽根をたたんだ|小悪魔《ガーゴイル》像の皮肉な眼差しが注がれている。
リイ伯爵の居城の一室だ。窓ひとつなく、さほど広からぬ簡素なつくりだが、壁ぎわに並んだ数体のロボット兵士と、石の床より一段高い壇上の椅子、さらに、椅子の背後の壁を埋めつくして周囲を|睥睨《へいげい》する、黒衣の人物を描いた巨大な肖像画、そして、部屋中に漂うどことなく厳粛かつ宗教的な雰囲気から推して、どうやら裁きの場――審問会場らしい。
すでに、被告の罪状追及は終え、絶対の裁判長たるリイ伯爵は、怒りに眉を逆立てていた。
「裁きを申しわたす。|面《おもて》を上げい」
喉の奥まで出かかった炎の言葉を、領主の威厳が必死に抑えつけながら、壇上の伯爵はむしろ低い声で命じた。
被告は動かない。先刻、ロボット兵士にこの部屋へ連行され、冷たい石の床に引きすえられた姿勢のままである。虚ろな眼差しが六つ[#「六つ」に傍点]、空中を、床上を、天井近くの小悪魔像を交互にさまよっていた。長大な尾の先まで覆う黒髪が、床を黒い海と変えている。
地下水道の三姉妹――ミドウィッチの蛇娘であった。
「うぬらを人目に隠し、食いぶちまで与えて、三千年ものあいだ地下の海にかばいし恩を忘れ、下賎のものの手にかかっただけでなく、そやつの逃亡まで助けるとは、許し難き背信の業。よって、今この場で断罪する!」
一気にまくしたてた伯爵の酷烈な言葉にも、三つの首は動揺の風もなく、白い膜がかかったような視線を宙にさまよわしていたが、このとき、一斉に深いため息をもらし、「あのお方……」とつぶやいた。
「殺せ!」
狂気ともとれる憤怒の叫びが終わらぬうちに、ロボット兵士の両眼から真紅の熱線がほとばしり、三つの首は蒸発した。
床の上でまだ煙をあげながらのたうちまわっている胴体には目もくれず、「始末せい」とひと言命じて、伯爵はふと、かたわらへ眼をやった。
いつ入ってきたものか、壇の横にラミーカが立っていた。純白のドレスを身につけていても、闇のような雰囲気の少女であった。
父の血走った眼を、揶揄するように冷たく見返して、
「父上、このものたちを、なぜ?」
「裏切りもの」と伯爵は吐き捨てた。「事もあろうに、あの若造に血を吸われ、その虜となって地上まで導きおった。さっき眼醒めてみると、地下水道の出入口のひとつが今朝早く開放されたと、コンピューターから連絡が入っていたのじゃ。ふと思いあたって、こやつらを地下より引き出し尋問したら、すべてを白状しおったわ。――と言うても、半ば魂を奪われたのも同然のやつら。こちらの質問にはすらすら答えよったが」
「で、入口は?」
「すでにロボットどもが塞いでおる」
「すると、あやつは見事?」
ますます面白そうな眼つきになった娘の顔から眼をそらして、伯爵はうなずいた。
「逃げおった。……しかし……あの三姉妹を倒して、というならまだしも、われら同様、その喉を噛み、自らの意に従わせるとは……あやつ、ただのダンピールではないのか……」
自制心の少ないダンピールは時として人の血を吸うが、吸われた方が貴族たちの犠牲者のように、一種の操り人形となった例はこれまでにない。半吸血鬼たるダンピールの力は、そのレベルまで達していないのだ。まして、今度の犠牲者は、生粋の大妖怪――ミドウィッチの蛇娘であった。
ラミーカの両眼がなんとも言えぬ光を帯びてきた。
「さようで……|彼奴《きやつ》、逃げおおせましたか……あの娘のように」
さすがに伯爵の面貌が怒りに歪むと、はったとラミーカをにらみつけた。
あの娘とはドリスのことである。昨夜、自信満々で|籠絡《ろうらく》しに出かけ、手ひどい反撃を受けて逃げ帰ってきたことを皮肉っているのだ。父以上に貴族の誇りに満ちたこの少女は、たとえ父が|見初《みそ》めたとはいえ、いかなる「人間」をも自らの仲間に加えることに反対なのであった。
そらっとぼけた顔で、
「今宵もお忍びになりますのか? あの獣くさい農園もどきへ?」
「いや」伯爵は落ち着きを取り戻した声で答えた。「ここしばらくはやめておこう。あの若造が戻った以上、そうやすやすとこちらの思い通りに事は運ぶまい」
「――! では、あの人間の娘をおあきらめ下さいますのか!?」
今度は、伯爵がにやりと笑う番であった。
「そちらも“いや”じゃ。別のところへ参る――処刑する前、蛇娘の長姉が面白い奴らのことをきかせてくれた」
「奴ら?――人間どものことでしょうか?」
「そうじゃ。そやつらを使い、必ずやあの若造を倒してみせる――お前には気の毒じゃが」
ちっとも気の毒そうではない声である。
ラミーカが低い声できいた。
「では、どうあっても、あの娘を?」
「うむ。あの美貌、あの白い喉、そして、あの気骨。ここ数千年、絶えて会ったことのない貴重な娘」ここで伯爵はちょっと口調を変え、「わしを相手に一歩もひかぬ昨夜の奮戦ぶりで、また執着が強まったわ。――一万年の昔、神祖が想いをかけ、ついに叶えられなかった人間の女というのも、かくあらんか」
こう言って、背後の壁面を占める巨大な絵画に、これはどんな大貴族も等しく捧げる畏敬の眼差しを投げた。
「神祖の想い人は、かつての|異魏罹須《いぎりす》なる国に生存した|美奈《みな》という名の女性だったときく。その透き通る肌の下を流れる血は、それ以前、何千という美女の生命の泉に口をつけてきた神祖の舌にも、かつてないほど甘く、かぐわしく感じられたとか」
「その女がもとで、神祖は灰になられました」
冷然と言い放って、ラミーカは父の方へ、この少女には珍しい訴えるような眼差しを投げた。
「どうあっても、思いなおしてはいただけませぬか、お父上。この辺境の地に、五千年の長きにわたりつづいた誇り高きリイ家の一族に、断じて人間などを加えてはなりません。これまで手にかけたものすべて、血を吸いつくしてもそのまま衰弱死させ、よもや一族になど入れませなんだものを、なぜ、今回の娘に限り……。いえ、これは私のみの考えではありませぬ。亡きお母さまも、きっと同じことをおっしゃいます」
伯爵は苦笑した。それから、やむを得んという風にうなずいて言った。
「それよ……いつかは話そうと思っておったが、わしは、あの娘を妻に迎える心づもりでおる」
今度こそラミーカは、心臓に杭を打ち込まれたような表情で沈黙した。まさしく、それに等しいショックがこの気位高い少女を襲ったのであった。
ややあって、もちまえの青白い肌を紙の色に変え、こう言った。
「……承知いたしました。そこまでお考えならば、ラミーカももう駄々をこねはいたしません。……お好きなようになさるがよろしい。ただし、わたくしはこの城を去り、長い旅に出ようと思いまする」
「――旅へのう……よかろう」
苦悩の中にも、安堵の響きがこもる伯爵の声であった。この気性の激しい愛娘と人間の女が、いかに自分の説得があろうとともに暮らすなどできない相談なのは、彼自身、骨身に沁みて理解している。
「で、父上」と、もはやその話題など忘れ果てたような妖艶な顔つきでラミーカは尋ねた。
「どのようにしてあの若者を倒し、娘を手に入れる|心算《つもり》なのですか?」
Dと一緒に農園へ戻ったとき、すでに陽は高かった。
お守り役のフェリンゴ医師から昨夜の話をきき、小さな胸を不安に染めながら姉の帰りを待ちわびていたダンは、無事に帰宅した二人の姿を見て、大喜びすると同時に眼を丸くした。
「あれれ、姉ちゃん、どうしたの? 馬から落っこちて、腰でもぶったのかい?」
「お、お黙り! 何でもないわよ。さんざあたしたちを心配させた罰に、こうさせてるんだから」
と、ドリスがDの背中から怒鳴った。彼女はDにおんぶ[#「おんぶ」に傍点]していたのである。
昨夜の伯爵、今朝の麗銀星――負けず劣らずの魔人どもとの死闘に耐えてきた彼女の神経は、霧の世界から抜け出し、「もう大丈夫だ」とのDの声をきいた途端にぷつりと切れて、気がついたら、彼のたくましい背の上で家路を辿っていたのである。
「なによ、やだ、降ろしてよ」
と顔を真っ赤にしてわめくと、Dはあっさり言う通りにしたものの、安堵のせいか足に力が入らず、地面に着いてもヘナヘナとその場に坐り込んでしまう。かくて農園まで、なんとも微笑ましいと言えば言える格好で彼女は運ばれたのであった。
Dはそのまま寝室へ直行し、ドリスはベッドへ寝かされた。マットの弾力を感じた途端、眠りにおちたが、その寸前、Dの左手のあたりで、
「でかい尻だったの。たまには役得。ケケケ」
と粗野な笑い声をきいたような気がした。
陽が沈みかかる頃、ドリスは眼を醒ました。フェリンゴ医師はとっくに村へ帰り、Dとダンが、昨夜の戦闘で破損したドアや廊下の修理にいそしんでいた。
「いいのよ、あたしたちがするから。あんたは、それでなくても疲れてるのに」
「遺跡」地帯から農園へ戻るまでの道すがら、Dは昨夜帰れなかった事情を特に話さなかった。ただ「しくじった」と言っただけである。
伯爵を討ち損じたのだということは彼女にもわかる。けれど、それ以外、遅くなってすまんとも、昨夜、何か起きたかともきかない。
ドリスはむかっ腹をたて、昨夜の事情を多少大げさにしてきかせた。本来なら口にするのも恐ろしいはずの出来事が、Dのそばにいるだけでスラスラ出てくるのを、彼女は特に不思議とも思わなかった。
終わると、Dは「無事でよかった」と言って、またそれきりになった。なんとも人を喰った、愛想なしの返事だが、これでドリスがころっと満足してしまったのだから、阿呆らしいと言えば阿呆らしい。
とにかく彼女は、Dが伯爵と争い、その後も尋常ならざる体験を経てきたことだけはなんとなく理解した。「疲れてる」と言ったのはそのせいであった。
「いいじゃねえか」と反論したのはダンである。「Dのお兄ちゃん、凄くうまいんだぜ。姉ちゃんとおいらじゃひと月かかったって終わりゃしないよ。外を見てきな。除草剤の詰め替えも、柵の修理も、太陽パネルの交換もみーんな片づいちゃったんだから」
「まあ!」
ドリスは仰天した。
高給で雇われたハンターが、自分の家ならともかく雇い主の家の修理を手伝ったりするなんて、前代未聞だったからである。まして、Dの報酬は――こう考えてドリスは真っ赤になった。彼を連れてきたときの約束を思い出したのである。
「いいから、あっちで休んでてよ。すぐ食事の仕度をするわ」
「じきに終わる」
Dはドアの蝶番をネジ止めしながら言った。「久しぶりにやったが、難しいものだな」
「それにしちゃ、うまいじゃないか」とダンがまぜっ返した。
「これなら姉ちゃん、一緒になっても楽でいいや」
「ダ、ダン!?」
悲鳴に近い声をあげてぶとうとした手の下を、小さな影はするっと抜けて、ドアの隙間から外へ逃げ去った。あとに、美青年と十七歳の少女が残った。陽は平原の彼方を紅に染め、隙間からさし込む名残の陽差しに、ふたりの姿は薔薇色に染まった。
「……D……」
ドリスが思いつめたように言った。
「あの……あんた、この仕事が終わったらどうする気なの? もし、急ぐ旅じゃないんなら……」
「――急がんが、仕事が終わるかどうかはわからん」
ドリスははっと胸をつかれた。それは、我知らず支えと安らぎを求めようとした少女の|脆《もろ》さに対する|鉄槌《てっつい》であった。
敵を倒せるとは限らない。二度の襲撃を切り抜けられたのは、むしろ|僥倖《ぎょうこう》であり、死闘はなお継続中なのだ。
「D」とドリスは、さっきと同じ言葉を別人のようなりりしい口調でくり返した。「それが済んだら居間へ来て。これからの方針を相談したいの」
「承知した」
後ろ向きの声は満足げであった。
敵の「出方」は意外に早かった。
その晩、麗銀星たちに完敗した腹いせにチンピラ仲間と痛飲し、ひとけのない通りを家へ向かっていたグレコは、旅篭の前に奇怪な馬車が停まるのを目撃して、素早く物陰に隠れた。
奇怪も奇怪、通りの向こうの闇の中から姿を現して停車するまで、黒ずくめの馬車は音ひとつ立てなかったのである。蹄は大地を蹴っている、車輪は確かに回転している、にもかかわらずグレコの耳には小石のはねとばされる音ひとつ届かないのであった。
――こりゃ、貴族の馬車だ。
グレコは電光の速さで理解した。酔いは瞬時に消え失せていた。
――ドリスを狙ってるのは、こいつか。
恋敵に対する嫉妬の念と好奇心が、彼をその場に押しとどめた。
ドアが開き、黒衣の人物がひとり地上に降り立った。旅篭の軒下に吊るされたランプの明かりに浮き出たのは、妖風みたいな感じのする青白い面貌の男であった。
――領主だな。
グレコは直感した。目にするのは初めてだが、子供の頃、村の古老や大人たちからさんざか吹き込まれ、確たる実体として頭の中に叩き込まれた魔人の容貌をその人物は備えていた。
じき馬車は走り去り、伯爵も旅篭の奥へ消えた。
――一体、なんの目的でこんなところへやってきやがったんだ。
粗悪なアルコールで濁った脳細胞は、伯爵と旅篭とドリスをうまく関連づけられなかったが、尾けてみろと、尻を叩く役は果たした。
旅篭に入ってみると、受けつけの親父は、カウンターの向こうに立ちすくんだままで硬直していた。術をかけられたらしく、大きく開いた眼の前で手をふっても瞳は動かない。グレコは宿帳を開いた。部屋数は十室。すべて二階にある。泊まり客はひとりだけだった。「チャーリィ陳:職業/画家」。二〇七号室であった。
グレコは足音を忍ばせて階段を登り、問題の部屋のドアに近づいた。隙間から明かりが洩れている。
――リイ伯爵は女の血しか狙わねえ。泊まり客は男だから、血を吸いにきたんじゃねえな。
すると、陳てのは伯爵の仲間か。ドリスをもの[#「もの」に傍点]にするのに、助っ人を呼びやがったのかな?
グレコはポケットから、小さな聴診器みたいな部品をふたつ、細い銅線でつないだ品を取り出した。ハンター愛用の盗聴器である。
大分前に賭けで巻きあげた品だ。頭部の小穴に張られた妖精の薄羽根が、人間にはきこえない妖怪どもの声音を捉え、銅線を通して所有者の耳に伝える。通常は、危険で近寄れない妖怪・幽魔の隠れ家探しや、密語をききとるのに利用するが、グレコはもっぱら、村娘の寝室の窓に取りつけるのを得意としていた。
頭部の吸盤をドアに押しつけ、もう一方を耳につめる。この世のものならぬ、不気味な声がドアの彼方から響いてきた。ついで彼は、鍵穴にも眼をくっつけた。
|閂《かんぬき》をかけたはずのドアが音もなく開き、黒衣の人物が悠然と押し入ってきたとき、麗銀星は愕然とした。たちまちそれが貴族と知り、机上の飛鳥剣に手を伸ばしながらも、来訪の意を理解しかねて困惑した。
すると相手は、爛と光る眼で彼を見据えながら、実にとんでもない提案をしたのである。
おまえと仲間のことはすべて知っている、と黒い人物は言った。警備隊を皆殺しにしたことも、ある娘を殺そうとしてしくじったことも。わしは、その娘に用がある。しかし、邪魔ものがおるのだ。おまえたちが霧の中で遭遇し、手も足も出せなかった相手がそれだ。
「なんの事でしょう?」と麗銀星はとぼけた。「私はただの旅の画家です。そんな恐ろしい大それた事件、きくだけで胆が縮みます」
黒衣の相手は冷笑し、ベッドの上に銀色のバッジを投げた。それは辺境警備隊員のものであった。
馬も死体もすべて焼き、食い尽くし[#「食い尽くし」に傍点]、灰は風に吹き散らしたつもりだろうが、そうはいかん。声は冷然と言った。わしの城の監視装置は、上空の静止偵察衛星と連動しておってな、わしの眼醒めを待って、辺境の動きを逐一知らせてくれよる。このバッジは現場で採取した灰の分子から再生したものだが、これと、衛星が電送してきたおぬしたちの襲撃現場の写真を添えて、この村のみならず、あらゆる人間どもの居住区へ送ったらどうなるかの。
ここまできいて、麗銀星は飛鳥剣を投げた。それは、恐るべき恐喝者の心臓のあたりで見えない壁にぶつかり、床に突き刺さった。現実に、これで麗銀星は屈服した。
わしが手を下さずともあの娘がおるぞ、と声はつづけた。明日にでも治安官のもとを訪れ、おぬしたちのことを話すに決まっておる。おぬしひとりが村へ投宿したのは、その前に娘を殺すためじゃろうが、あやつ[#「あやつ」に傍点]がついておる限り、ひと筋縄ではゆかん。敵はダンピール――我らの血が混じっておるからの。いずれにしても、おぬしたちを待つのは破滅のみじゃ。
「それを私たちに教えて、どうしろとおっしゃる?」
麗銀星の声がむしろ平静だったのは、相手の指摘がひとつを除いてすべて的中していたため、これはどうあがいても所詮無益と肚を決めたからであった。
わしが力を貸してやろう、と声は思いがけないことを言った。邪魔な若造を殺し、あの娘を手に入れる以外、わしはおまえら虫けらどもの世界に用はない。
「それは――どうやって!?」
麗銀星の眼に、残虐な卑しい光が灯った。霧の中の相手――その若造とやらを倒せるかもしれないと知ったためである。伯爵の指摘の中で、ただひとつの間違いはそこにあった。彼は少女の口を封じるために配下の三人を森に野宿させ、ひとり村へやって来たのではなかった。いや、そのためもあるが、実の狙いはもっと個人的なものであった。
羽根をもぎ足をもぎ、後は首を絞めるだけの窮鳥を眼前から奪われ、なおかつ、その相手に指一本触れられぬどころか、凄まじい鬼気に金縛りになったその屈辱を晴らすためであり、無敵と自負する飛鳥剣をただ一撃で打ち落とされた礼をするためであった。怨念だ。憎悪と復讐心の強さでは首領に負けぬ配下たちもこれに同意し、ひと目につかぬよう、麗銀星ひとりが少女と謎の敵を求めて村へ戻ったのである。
しかしながら、村の入口で待てど暮らせど獲物は見当たらず、人づてにきいた結果、少女の名と住まいだけは判明した。本来なら、すぐにも襲いかかるところだ。しかし、村人の口からもとうとう正体が明らかにされなかった敵の実力が、先走る憎悪に冷水をかけた。
彼はいったん村を出て仲間を集め、それとなくドリスの農園を見張るよう命じて、自らは必殺の策と敵に関するより多くの情報を求めて村へ戻ったのである。そして、情報は集まらなかったが、想像もしなかった強力な助太刀が、いま眼の前にいた。
「で、どうやって?」
もう一度、麗銀星は尋ねた。
こうすればよい。
黒ずくめの悪魔と美しい魔人の会話がひとしきりつづいた。
やがて、黒い来訪者の手から、ベッドの上に細長い蝋燭らしきものが放られた。
「時だましの香」じゃ。昼を夜に、夜を昼に変える道具よ。中でもこれはとびきり効果が強い。奴の前で火をつけ、すぐに吹き消せ。これで奴も隙だらけになるはずだ。そこを倒せ。ただし、おまえたちがつまらぬ考えを起こさぬよう、使えるのは二度だけだ。火は手に持って振ればつく――
「お待ち下さい」
去りゆく影を、麗銀星は呼び止めた。
「もうひとつ、お願いがございます」
願い? 影の声に疑惑と怒りがこもった。
「さようで」
にこやかにうなずき、麗銀星はとんでもない要求をした。
「私を貴族の一員に加えて下さいませ。――おお、そう怒らずとも、よくおきき下さい。そもそも、あなたはなぜ、今度のパートナーに私たちをお選びになりました。この香一本でなんとかできる相手なら、他の人間たちでも十分に用を足せるはず。金貨一枚、槍一本の報酬で、親さえ子供を殺す時代でございます。
それなのに、あえて私のもとへ足を運ばれたのは、少なくとも私程度の腕の持ち主でなくば、そやつを倒せぬという証明でなくてなんでしょう。
ダンピールに関してなら、私にもいささかの知識はございます。敵にまわせばこれほど恐ろしい相手はない大敵。ましてや、今度の敵の凄さ、恐ろしさは、私も骨身に徹しております。あれは並みのダンピールではございません。
私どもの所業に眼をつぶっていただくだけでは不足でございます。四人全部とは申しません、私ひとり、|栄《はえ》ある貴族のお仲間にお加え下さいませ」
影は沈黙した。
心ある人間がきいたら、いや、三人の配下がきいても「裏切りもの」と絶叫しかねない麗銀星の申し出ではあるが、いつの世にも背信の徒は多い。地獄の悪鬼と恐れ憎みながらも、人の心の奥には、吸血貴族たちへの醜い憧景が物欲しげな眼つきでうずくまっているのだ。権力と不死は常に甘い香りを放つ。
「いかが?」と麗銀星は迫った。
影はうなずき、麗銀星もまたうなずいた。
「では、仰せのごとくいたします」
まかせたぞ。
影は部屋の外へ出た。もう一軒、知り合い[#「知り合い」に傍点]の家へ寄らねばならない。
壁の|油火《あぶらび》が揺れる廊下に、人影は見えなかった。
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第六章 血闘――ひとり十五秒
ダンの失踪が知れたのは、翌日の早朝のことである。
一昨日からの死闘の疲れと、伯爵の襲撃に備えてほぼ徹夜したせいとで、ドリスは、弟が夜明けとともに草原へとび出したのに気がつかなかった。
夕べ、麗銀星一党との顛末をDに話した上で、今日、治安官のところへ申し出ることに決め、村へ行くまで農場から出ないよう言い含めておいたのに、この生命力に溢れた少年は、ひとりで|障壁《バリヤー》をはずし、レーザー・ライフル片手に霧魔|狩り《ハント》に出掛けたものらしい。
霧状の妖怪は、朝霧に混じって現れ、作物や家畜の皮膚を腐らせる辺境の厄介ものだが、熱には弱く、レーザー・ビームの一照射で消滅してしまう。動きも鈍いので、慣れさえすれば武装した少年にも手強い相手ではない。
霧魔狩りは、ダンの最も得意とする作業であった。
眼醒めてすぐ弟のいないのに気づき、あわてて武器庫へとび込んで、ライフルが持ち去られたことを知ったドリスは、いったん胸をなでおろしたが、呼び戻そうと走り出た農園の入口で立ちすくまねばならなかった。
門のすぐ下の地面に、一枚の紙片の重しとなってレーザー・ライフルが打ち捨てられていたのである。紙片には優雅な筆跡で次のようにしたためられていた。
「弟を同行す。ハンターDひとりのみ、夕刻180、先日お会いした『遺跡』地帯へ来られたし。なお、これは、ハンター同士の技の優劣を確かめんが目的にして、他意はあらず。また、立会人は姉上といえども無用のこと。技の決着がつくまで、我らのこと一切他言無用のこと。以上に反すれば、いたいけなる八歳児は地獄の業火に灼かれぬ。麗銀星」
ドリスは全身の力がすうと抜けていくのを感じた。家に戻り、Dに見せたものかどうか迷っているうちに、Dの方が彼女の異常さに気づいた。底光りする瞳で凝視され、ドリスはついに手紙を見せた。
「半分は本当だな」
どう見ても明らかな決闘状を突きつけられたのに、他人事みたいな口調でDは言った。
「半分?」
「おれと勝負をしたいだけなら、ここへ来てそう言えば済む。ダンをさらった以上、目的はもうひとつ。おれと君とを引き離すためだ。裏には伯爵がいる」
「どうして、そんな手間を? あたしひとりに来いと言った方がずっと手っとり早いのに……」
「この手紙の主が、おれと決着をつけたがっていることがひとつ。もうひとつは――」
「それは?」
「子供を楯に君を要求することは、貴族の名誉にかかわる」
ドリスの眼が怒りに燃えた。
「だって、現にダンを――」
「恐らく、誘拐だけは麗銀星とやらが仕組んだことだ」
「ふん、何が貴族の名誉よ。たとえあいつのアイディアじゃなくたって、黙認すれば同じことだわ。貴族が何よ――人の生き血をすする化け物のくせに!」
火のような口調で吐き捨ててから、ドリスは愕然となった。
「――ごめん、あんたは別よ。あたし、とんでもないことを」
みるみる両眼に涙が盛り上がり、ドリスはその場に泣き伏した。激情を言葉に変えた反動が来たのである。次々と、まるで不幸を吸い寄せる魔物が取り憑いたみたいにふりかかる難題。今まで泣きごとひとつ言わなかったのが不思議なくらいなのだ。
嗚咽に震える白い肩に、ひんやりとする手が置かれた。
「用心棒を忘れては困るな」
この事態に、なおもの静かなDの声であった。しかし、ドリスの心の耳は、その端然たる響きの奥に、断固として揺るがぬ自信に支えられたもうひとつの声を確かにききとったのである。
それはこう言っていた。
「約束した以上、ダンも君も必ず守り通してみせる」
と。
彼女は顔を上げた。
ひっそりと自分を見つめる、りりしくも美しい青年の顔が眼の前にあった。熱いものが豊かな胸に満ちた。
「抱いて!」叫びざま、Dの胸に身を投げる。「どうなってもいい。思い切り抱いて。放さないでいて!」
しゃくりあげる十七歳の娘の肩に軽く両手を添えて、Dは窓の向こうに広がる蒼い空と、声なき生命の歓乎に湧く朝の草原を見つめていた。
思うは何か。少年の安否か、四人の敵か、伯爵か、それとも――ふたつの瞳に浮かぶ感情の色は、やはり、あくまでも冷たく澄んだ黒一色であった。
やがて、ドリスが身を離した。どこかふっ切れたような、神々しい表情で、
「ごめんね。柄でもないところを見せちゃった。急に、あんたがいつまでもいてくれるような気になったのよ。――そうじゃない。この仕事が終わったら、あんたは行ってしまうのよね」
「………」
「なんとなくわかるわ。終わりも近いって。――で、どうしよう、ダンのことだけど」
「行くしかあるまい」
「勝てる?」
「ダンは無事に連れ戻す」
「まかせたわ。弟の面倒までみてもらって悪いけど、あたしは村へでも隠れる。フェリンゴ先生んところへ転がり込ませてもらうわ。おとついはあの人のおかげで助かったの。今度もきっとうまくいくわ」
実は、伯爵が逃亡したのはDの施した魔除けのせいであることを、ドリスはまだ知らない。そして、彼女が医師のもとへ行くと言ったとき、Dが黙したままであったのは、伯爵の力をもってすれば、その魔法の護符も決して万能とは言い難いのを知っていたからであろう。
窓からさしこむ光の傾斜が鋭くなる頃、ふたりは馬に跨って農園を出た。Dの言葉にもかかわらず、ドリスの表情は暗かった。
この|男《ひと》ならダンを連れて帰ってくれる――そう信じる気持ちに嘘はない。しかし、彼を待つ敵の凄まじさ。あの「遺跡」地帯で背後にきいた飛鳥剣の唸りと、四肢を切断されて横倒しになった馬のもの凄い姿は、くっきりと瞼に灼きついている。――そんな奴らが四人も。ドリスの胸に一点、暗い絶望を残すのはそのことであった。
それに、たとえDが生還したとしても、その間に伯爵が襲ってきたら、今度こそ逃れようがない。Dには言わずにおいたが、彼女はフェリンゴ医師のもとへ行ってよいものかどうか、まだ決めかねていた。
村へ入り、大通りを抜けるあいだ、おびただしい視線がふたりに集中した。憎しみより恐怖の色が濃い。暗い森と妖怪たちに囲まれて暮らしている「辺境」の人々にとって、吸血鬼に噛まれた少女と吸血鬼の血を引く青年は、憎悪の段階も超越した恐怖の対象なのであった。みな、グレコの言いふらしたことだ。
ドリスの顔を知っているらしい女の子が「あっ、お姉ちゃん」と近づいてきたが、母親があわてて連れ戻した。
男たちの中には、Dを見ると同時に、殺気立った顔で腰の剣や銃に手をかけるものもいた。彼の正体云々ではなく、全身に漂う鬼気のせいである。ただし、女たちがみな陶然とした顔つきで見送ったのは彼の美貌からして無理もない。
それでも、進んで突っかかってくる気の短い連中にも出くわさず、ふたりは「医師フェリンゴ」の看板が軒下に下がる家の前についた。
ドリスが馬を降りてベルを押すと少し間をおいて、看護婦兼留守番役の近所の婦人が顔を出した。ドリスの事を知らないらしく、笑顔で「先生、今朝から留守よ」と告げた。
「ハーカー・レーンの家に急患が出たって迎えが来たらしいの。昼ごろ帰るとメモがあったけど、まだ戻ってこないところをみると、重症なのかもしれないわね。あそこの奥さん、痺れイチゴでもけたぐり茸でも、色がついてれば口に入れるから」
レーン家は、馬をとばして片道二時間はかかる森の中で猟師を営んでいる。
「困っちゃうのよね。わたしひとりじゃ切り傷の手当てと鎮痛剤をわたすくらいしかできないのに、みんなそれだけでもいいっていうから、朝からてんてこまいなのよ――中へ入ってお待ちになれば。先生ももうじき帰ってくるでしょうし、手伝ってもらえるとわたしも助かるわ」
ドリスは決心をつけかねてDの方を向いた。彼は馬上でかすかにうなずいたきりであった。
彼女は決心した。
うるんだような瞳でDを見つめている婦人に頭を下げて、
「先生が戻ってくるまでお世話になります」
と言った。声がややきついのはやむを得ない。
Dも一緒にと思ったのに、彼女が心を決めたと知るや、馬はゆっくり歩きはじめた。
「あら、ご一緒じゃないの?」
婦人があわててドリスに言った。失望の色を隠そうともしない。この場合、何さ、いい歳して、と怒る前にドリスもあわてた。
「待ってよ、何処行くの?」
「家のまわりを見てくる」
「まだ、真昼よ。何も出やしないわ。一緒にいて」
「すぐ戻る」
Dはふり返りもせず馬を進めた。
少し行って角を左へ折れる。
嘲るような声がした。
「どうしてついててやらん? あの男の子が心配でいても立ってもおられんのか? それとも、姉の苦悩する顔を見るのに忍びんか? いくらダンピールといってもまだ餓鬼じゃな、ケケケ――それとも、あの娘に惚れたか?」
「そう思うか?」
Dは誰に応えているのだろう?
行く道は、土塀、石塀がつづく埃っぽい路地であった。昼を大分過ぎたけだるい陽ざしのわだかまり以外、動くものの姿はない。なのに、声だけがする。
「いや。おまえはそれほどやわ[#「やわ」に傍点]な神経の持ち主ではない。あやつ[#「あやつ」に傍点]の血が流れている男だ。――Dとはよく言ったものよ」
「黙れ!」
と名を呼ばれた本人が一喝したのは、よほど痛いところをつかれたと見える。次の瞬間には、またもの静かな口調にかえって、
「近ごろ文句が多いな。おれから離れるか?」
「おお――!」と声に脅えの色がこもった。それでもなんとか弱味を見せまいとするかのように、
「わしも好きで一緒にいるわけではないが、……まあ、世の中、もちつもたれつでな。それより、なぜ喉のマークのこと、あの娘に教えてやらん? 親父[#「親父」に傍点]への義理だてか? ひと言いえば安堵するだろうに、貴族の血が混じっているというのは辛いものだな」
親切ごかしてはいるが、心底そう思っているのではないことは、嘲笑の響きで明らかだ。
それにしても、これは、馬上の美青年が発狂して、妄想相手にひとり会話をつづけているのか。いや、声の響き、質、すべてが異なるところから見て実に巧みな腹話術を操っているとしか思えぬ奇怪な光景であった。
Dの眼がきらりと光ったが、すぐ持ち前の暗い静けさを取り戻して、それきり会話も途絶え、やがて彼は次の曲がり角を左に折れてまた独行し、もう一度似たような角を同じ方角へまわって医師の家の前に戻った。
「おかしな奴はおったか?」
また、どこからともなく響いた声に、
「いない」
と答えた様子では、本当に周囲の妖しげな気配を確認しにいったものらしい。
しかし、そのまま下馬する様子は見せず、中天からやや西へ傾いた陽に、美しい顔をしかめつつあげて、
「できるのはここまでか」
とつぶやいた。その脳裡をこれから赴く修羅の|戦《いくさ》の幻影がかすめたか、一瞬、端整きわまりない顔にひとつの表情が浮かんで消えた。
通りの向こうにつながれた馬が数頭、突如どよめいて身をよじり、前触れもなく吹きつけてきた生暖かい風の巻きあげた砂塵に、通行人が眼を覆った。
それは、あの地下水道で三匹の蛇娘たちが眼の当たりにした、血に狂う吸血鬼の顔であった。
閉じられたドアを束の間見つめて、Dは馬首を村の出口へ巡らせた。「遺跡」まで二時間分の距離があった。
「来ましたぜ、じき、あの丘の上に見えます」
風を巻いて帰還したギムレットの知らせに、麗銀星は寄りかかっていた石像から身を起こした。ギムレットは物見役である。
「ひとりでしょうね?」
「はっ。約束通りに」
麗銀星はうなずき、先刻から仁王立ちで平原の彼方へ眼を走らせている残りふたりに声をかけた。
「用意はいいですね。|手筈《てはず》通りにかかりなさい」
「はっ」
拷零無とチューラが同時に一礼するのにうなずき返し、彼は背後につないである馬の方へ歩み寄った。四人の選んだ決闘場は、ウィッチが倒されたのと同じ陥没地帯であった。Dの鬼気に打ちひしがれ身動きひとつできなかった場所で復讐戦を挑むとは、いかにも執念深いこの美青年らしいが、四対一で戦う場合、相手の動きを制限するのに便利だという作戦上の利点も考慮はしてある。
彼は、岩陰に手足を縛り、猿ぐつわをかませて転がしてあるダンのかたわらにしゃがみ込むと、口をふさぐ布をずらした。吸音布と言い、犯罪者が愛用する小道具のひとつだ。音をすべて吸収する特殊繊維で編みあげた布は、誘拐の際、重宝この上ない役割を果たす。
それにしても、今朝、農場を出たところをギムレットにさらわせてから、わずか八歳の少年に、今の今まで猿ぐつわをはめたままとは、なんと残忍冷酷なやり方であろうか。
「ほら、君の救い主が来ましたよ。昨日、村で君たち姉弟のことをきいたときに立てた計画ですが、どうやらうまくいったようです」
こう言った途端、自分にそそがれていた怒りの眼差しが、安堵と信頼の色に変わって丘陵の方へ向くのに、少し唇を歪めて、
「気の毒に。君ともども生きては帰れぬ運命ですが」
と嘲った。
「へん、生きて帰れないのはそっちの方だい」
心労と空腹で、やつれた顔ながら、ダンは精一杯元気に言い返した。捕らわれてから水一滴与えられていない。
「Dのお兄ちゃんが強いの、知らねえな!」
威勢のいい言葉だが、これは子供らしい虚勢である。彼はまだDの戦いぶりを一度もその眼で見てはいないのだ。
激怒するかと思いきや、麗銀星は逆にニンマリとして、陥没した大地の底に立った三人の配下に目をやった。
「かもしれませんね。その方が手がかからなくて助かるのですが」
ダンが、きき違えたかな、といった風に眼を丸くした。
そうなのだ。この美貌の悪鬼は、この場でDもろとも配下たちをも葬るつもりであった。最初はDと自分の顔を見たドリスだけを片づける予定だったのが、伯爵と会い、貴族の一員に加えるとの|言質《げんち》を受けてから、三六〇度方針は変更された。貴族の権力と不死性――もはや、私は荒野をうろつく薄汚れた盗賊ではない!
で、彼は、伯爵の提示したアイディアに従い、ドリスのみは伯爵の手に委ねることにして、計画通り残りふたりとプラス三人の抹殺を決めた。配下たちを生かしておいては後くされが残ると判断したからである。この場でDとやらに倒されてくれればよし、折り悪しく生き延びても私が殺す。
丘の上にぽつんと孤独な騎手の姿が浮かび出た。スピードを落とさず、まっしぐらに駆け寄ってくる。
「さあ、少しは役に立って下さいな」
ダンの自由を奪っている革紐を背中のあたりでひっつかみ、荷物みたいに片手でぶら下げて、麗銀星は自分の馬に歩み寄った。腰の飛鳥剣が触れ合い、耳ざわりな音をたてる。
あいている方の手でサドルバッグを探り、「時だましの香」を取り出した。
「おや?」
なぜか、ふと首をかしげたとき、
「お頭!」
チューラの緊迫した呼び声に、彼は蝋燭を握りしめたままふり向いた。
「兄ちゃん」――ダンの叫びが風に乗ってとんだ。
すでに馬から降りた宿敵は、優美な曲線を描く長剣ひとふりを背に、窪んだ大地の底に黙然と立ちつくしていた。
「これは……」
相手の美貌に麗銀星は驚き、嫉妬した。
「あなたのような方に剣を打ち落とされるとは光栄、と言いたいところですが、『人間』と『貴族』の出来損ないでは、艶消しですな」
冷笑と侮蔑の挨拶に、Dは静かに応じた。
「貴様は、『悪魔』と『山犬』の私生児だ」
麗銀星の満面がどす黒く染まった。血が毒に変わったように。
「その子を放せ」
返事の代わりに、彼は、ダンの革紐を握った手をひとひねりした。途端に、
「い、痛い。兄ちゃん、苦しいよお」
小さな唇が苦痛の声を絞り出した。
どのような悪魔の技が施されたのか、ただの革紐と見えたそれは、ギリギリとダンの肩に二の腕に食い込みはじめたのである。
「ちょっと特殊な紐でしてね」と麗銀星は唇を歪めて笑い、人差し指と親指で小さく輪をつくった。
「ある方向から刺激を与えると、ここまで縮まります。肉に喰いこみ、息の根を止めるまで、八歳児ならまず二十分。それまでに私たち全員を倒せないと、この子はあの世であなたを怨むことになる。――どうです、少しは焦りましたか?」
「に、兄ちゃ……ん」
なんという残虐無残な戦法であろう。紐はダンの服にもうくびれをつくりはじめていた。苦しみもがく少年に、しかし、力強い励ましの言葉が短く、「一分待て」と言った。
それは、ひとり十五秒で片づけるということか。
「う……うん」
けなげな笑顔を浮かべたダンとは裏腹に、四人の男たちは激怒した。
麗銀星を除く三つの人影で形成する輪が、ずずっと狭まる。
全員、落日の朱光に彩られているが、全身からほとばしる殺気の前には、その光さえ色褪せるかと思われた。
「では、ひとりずつお手並み拝見――まず、拷零無」
首領にこう呼ばれて、拷零無ばかりか残りふたりもいぶかしげな顔つきになった。四人がかりで倒すのが最初の作戦だったからだ。だが、次の瞬間には、赤銅色の巨体が猫のように音もなく、Dめがけて疾走していた。
蛮刀の幅広い刃が赤光にきらめいた。
カン! と硬い音がした。
馬の首すら斬り落とす蛮刀の猛威が胴を薙ぐ寸前、抜き打ちに放ったDの剣尖が拷零無の左肩を割ったのである。いや、割ったと見えて、それは空しくはじき返された。
拷零無――青銅の筋肉組織を持つ男。男の身体には、高周波サーベルでさえ無効だったのだ。
またも唸った蛮刀の刃を見事に避けて、瞬時に数メートル跳ね下がったDを追い、巨人はなおも肉迫した。
「どうした。十五秒!」
草の葉をなびかせてどっと吹きつけてきた風の雄叫びにも似た怒号が、すり鉢型の大地の底を埋めた。
やさしく肩を揺すられて、ドリスはうたた寝から醒めた。見慣れた温顔が笑っている。
「先生!――あたし、待ってるあいだに眠ってしまって」
「いいんじゃ、疲れもたまろうて。ハーカーの治療に手まどって、わしもいま着いたばかりじゃ。おまえのところへ寄ってみたが、誰もおらなんだので、ひょっとしたらと思い急ぎ立ち帰ったが――何かあったのかの? ダンはどうした、あの若いのは?」
あらゆる記憶と不安を取り戻して、ドリスは周囲を見まわした。
Dが立ち去ってから、婦人と一緒にやってくる患者の応対に追われ、一段落したところで、診療室の長椅子にもたれて眠ってしまったのである。
婦人は帰宅したらしく姿は見えず、窓の外の樹も家並みも赤く染まっている。恐怖の時の開幕であった。
「あの……ふたりともペドロスの村へ隠れました。あたしはご挨拶してから後を追おうと思って――」
立ち上がりかけた肩に、ひんやりとした手が置かれた。ペドロスとは、ランシルバから馬で一昼夜とばしたところにある寒村の名だ。これでもいちばん近い隣村である。
「ペドロスへ着くまで、必ず夜を迎えねばならぬのにか?」
「は、はい」
いつになく厳しい眼でじっと顔を覗きこまれ、ドリスは思わず下を向いてしまった。
老医師はひとつうなずいて、
「よしよし、何もきくまい。だがの、行くのならもっとましな場所があるぞ」
意外な言葉に、ドリスはえっ、と老人の顔を見上げた。
「ハーカーの家から戻る途中、思い切って通った北の森で見つけたんじゃがの」
フェリンゴ医師は上着のポケットから一枚の地図を取り出して広げた。もう歳だから記憶が鈍っての、と遠出の診療によく利用している、ランシルバ周辺を描いた地図だが、北の森の一カ所に赤い点が記されていた。
近隣ではいちばん大きく鬱蒼として、村人ですら奥まできわめたものはない大森林である。
「石壁の端がふと眼について、覆いかぶさった枝や|蔓《つる》を切り払ったら出てきたのじゃ。古代の遺跡――一種の祭祀場の跡らしかった。かなり広いので、その隅っこを覗いただけじゃが、運がいいというのかの、そこの石壁に遺跡の説明文が彫り込まれておった。――どうやら、吸血鬼除けの施設だったらしい」
今度こそドリスは口もきけなくなった。
そういえば、幼い頃、父と仲間のハンターたちが暖炉を囲み、同じような話を交わしていた記憶がある。超古代、貴族たちの繁栄いまだに遠い世界では、血を吸われた犠牲者を聖なる場所に封じ込め、呪文と|電子装置《エレクトロニクス》によって治療を施したという。
フェリンゴ医師が発見したのは、そんな施設のひとつなのだろうか?
「じゃあ、そこに入れば、奴も追ってはこないので――」
「多分な」フェリンゴ医師は破顔した。
「少なくとも、これからペドロスの村へ行ったり、わしの家にたてこもるよりはましじゃろう――行ってみるかの?」
「はい!」
五分とたたぬうちに、ふたりはフェリンゴ医師の馬車に揺られて、蒼茫たる道を北の森へと急いでいた。
一時間近く走っただろうか。前方に、闇よりも暗い木々の連なりが小さく見えてきた。森の入口である。
「うっ!」
馬車に乗って以来、どう話しかけても返事をしなかった老医師が、不意に呻いて手綱を引きしぼった。
森の入口に、小さな影がひとつ立っていた。ドリスは初めて見る顔だが、白蝋のごとき肌の色と唇の脇からこぼれる白い牙――いうまでもなくラミーカである。 ドリスもすぐ正体を察し、なお鞭をふり上げようとする医師の手をつかんだ。
「先生! あれが伯爵の娘ね――一体、どうしてここに!? 早く逃げなくちゃ」
「おかしい」とフェリンゴ医師はくぐもった声でつぶやいた。「こんなはずはない」
「先生、早く向きを変えて!」
必死の叫びにも、医師は凍りついたように動かず、逆に向こうの白いドレスの女が、足を動かした風にも見えないのにすーっと草をかきわけてこちらへ向かってきた。ドリスはついに鞭を握りしめて立ち上がった。
その手が恐ろしい力でぐい、と引かれ、あっという間に鞭は奪い取られていた。フェリンゴ医師の手に!
「せ、先生!?」
「それは昨日までの名じゃ」
と、牙のはえた口でフェリンゴ医師は言った。
――そういえば病院でドリスの肩に触れた手の冷たかったこと。それに、滅多に着ないハイネックのシャツ!
絶望と恐怖に身をひねろうとした刹那、拳が|鳩尾《みぞおち》に吸い込まれ、ドリスは助手席で昏倒した。
「よくやった」
と馬車のかたわらに来た美少女が言った。
「ラミーカさまですな、おほめにあずかって光栄です」
血走った眼と、飢えに歪んだ口――フェリンゴ医師の笑顔は、もはや貴族のそれであった。
彼は夕べ伯爵に襲われ、吸血鬼と化していたのである。
ハーカー家への診療も、古代の「吸血鬼除け遺跡」も、むろん嘘っぱちだ。彼は伯爵の命を受けて、昼は地下室に潜み、夕刻、Dが立ち去ったころを見はからってドリスの前に現れ、彼女を村からおびき出す役を実行したのであった。
Dを引き離せば、ドリスは必ず医師を頼る――伯爵の読みはみごと的中した。
「その娘、父上のもとへ連れていくのじゃな、わたしも同行しよう」
同じ吸血鬼だというのに、冷蔑の|眼《まなこ》を向けながら切り口上で言うラミーカに、フェリンゴ医師は警戒の表情をつくった。
彼は森の奥で待つ伯爵のもとへドリスを連れてくるよう命じられたのであり、ラミーカが来るとはきいていなかった。それが、森の入口で急に現れ一緒に行くという。なぜ父親と一緒にいないのか?
しかし、伯爵の|下僕《しもべ》となったばかりの医師に、主人の娘に対してそう問うことは許されなかった。後部座席の扉を開け「どうぞ」と一礼する。
ラミーカは魔風のように馬車へ移った。
馬車は走り出した。
「人間にしては、なかなかの美形じゃな」
気絶したドリスの顔を覗き込んでラミーカがつぶやいた。
「左様。人間であるあいだは娘のごとく思い、そのような眼でのみ見ておりましたが、こうなってみると、なぜ手をつけなかったかと不思議なくらいの美女。何を隠そう、伯爵さまにお願いし、この仕事の骨折り賃に、喉からとは申しませぬ、一、二滴でも赤い血潮のおこぼれを頂戴するつもり」
これが、あの|温厚篤実《おんこうとくじつ》な老医師の言葉であろうか。彼はつい先々日、生命をかけて守り抜こうとした娘の生き血をすする幻影に我を忘れ、歯さえも卑しく鳴らしていた。
背後からラミーカの浮き浮きするような声がきこえた。
「その前に、わたしから褒美をやろう」
ふり向く暇も与えず、隠し持っていた鋼鉄の矢で老医師の心臓を貫いて即死させ、死体を地面に投げ落とすや、ラミーカは軽々と宙をとんで御者席に移り、すぐ馬を停めた。
ちらりと森の方へ眼を走らせ、
「さぞかしお怒りになられるだろうが、下賎の虫けらを栄光あるリイ家の一員――しかも、父上の妻に迎えるなど、わたしにはどうしても承服できぬ」
眠りつづけるドリスへ向けられた眼に、なんとも凄まじい鬼気が宿ってきた。
荒野の果てに狼の遠吠えがきこえた。
「身の程知らずの人間の女――今、八つ裂きにして父上と会わせてくれる」
そう言って、ドリスの喉元へ両手を伸ばす。刃物のような鉤爪が光った。
闇に閉ざされた荒野の真ん中で、守るものもなく無心な昏睡をつづける少女よ、危うし。
そのときであった。
異様な「感覚」がラミーカの全身を突っ走った。全神経がねじれ灼き切れ、細胞という細胞がみるみる腐敗していく。溶け崩れた肉の間からどす黒い血液が噴き出し、胃の中のものすべてが逆流するような嘔吐感が内臓を引きねじる――そんな感じであった。
まるで、始まったばかりの夜が、突如真昼と変じたかのようだ。
かぎ慣れた匂いがラミーカの鼻孔を打った。
いつからそこにいたものか、背後の暗闇に一点小さな明かりが点り、ラミーカの苦鳴をききつけたらしく、用心しいしい草踏み分けて近づく足音がした。人影の手にしているのは、「時だましの香」であった。
三たび横なぐりに襲う蛮刀の一撃を避けて、Dはもう一度跳び下がった。
誰の眼にも、なす術もない敗者の行為と見えた。反撃を加えようにも、青銅の巨人は、唯一の弱点である両眼を棍棒のごとき腕で巧みにカバーしている。
「D兄ちゃん、負けないで!」
ダンの必死の応援に笑い返したのは拷零無の方であった。仁王立ちになって、彼は大笑した。
「ほれ、小僧が泣いて――」
声はそこでやんだ。
二名の決闘者を除く八つの瞳が、かっと剥き出された。彼らにも何が何やらわからなかったのである。
Dは後ろにひいた右足に沿って、刀身を地面に向けて構えていた。その刃の位置が、まるでフィルムの|齣《こま》落としのように移動したのである。空を切るカットはとばして、直接、哄笑する拷零無の口の中へ。
身体表面の筋肉細胞なら自在に硬度変更可能な怪人も、数センチ奥の体内は並みの生物と等しい軟らかさを保っていた。Dの剣は、眼以外にその唯一の突破口たる口――すなわち口蓋から、奥の喉頭部、ぼんのくぼの下までを一気に刺し貫いていたのである。
筋肉は斬れずと察した瞬間から狙いはつけていたのだろうが、ペラペラとしゃべり、しゃべっては閉じる一瞬を鮮やかに見極め、しかも、文字通り眼にも止まらぬ速さで突くとは、神技というしかない。
「ぐええーっ」
突かれた巨人の悲鳴が数秒後にあがったのは、むしろユーモラスでさえあったが、みるみる硬さを失ってのけぞる巨体に接近し、一気に脳天を斬り下げたDの非情の刃。今度は声ひとつあげず、夕陽よりひときわ紅い血煙を巻き上げつつ倒れ伏した盟友の姿に、唖然としていた仲間たちも我に返った。
「やったな、若造。次はおれだ」
押し殺した声で進み出んとしたチューラを人間|錐《きり》――ギムレットが制した。
「あのスピード――若造、貴様の剣とおれの足、どちらが速いか生命を賭けて見極めてみようぞ」
ふーっと風に乗るみたいにDの前へ出たその口元に、不敵な笑いが浮いているのは、自信のせいか、それとも、かつてない好敵手と巡り合えたという、野盗戦士の血の歓びか。
Dは剣を胸前一直線、ギムレットの乳のあいだへ向けて構えた。
瞬間、敵の姿は消えた。
ダンがあっと叫んだ。
見よ、Dの左手の草むら、斜め後方に倒れた石像の足元、その背後――五メートルほど離れて彼を取り巻く円周線上に、無数のギムレットが出現したではないか。
ギムレット――その名の通り錐みたいな流線形をしたこの男は、|突然変異《ミューテーション》の結果、時速五百キロに及ぶ疾走が可能な超人なのであった。その身体に一本の体毛すらはえず、顔に凹凸の少ないのも、すべてこの超人的走行に対する空気抵抗を削減するための自然の摂理であった。
しかも、彼はただ超スピードで移動するだけが能ではない。数メートル走って一瞬止まり、また走る。この繰り返しによって、彼は空中に自らの残像をつくり出すのであった。
眼前の敵が、次の瞬間右に左に増える――これに幻惑されない戦士がいるだろうか。ほんの一瞬、隙を見せでもすれば、前後左右のギムレットが同時に山刀を閃かせて襲いかかってくる。ギムレットを相手にすることは、まさしく数十人を相手にするに等しいのであった。
早射ちオレイリーが、自慢の拳銃を抜くこともできず、背後[#「背後」に傍点]から倒されたのもむべなるかな。
――D兄ちゃんがやられちゃう!
ダンの眼に涙が光った。恐怖より別離の涙が。
しかし、とっておきの秘術を駆使しながら、戦慄しているのは実にギムレットの方であった。
――こ、こやつ、動けん[#「動けん」に傍点]のではない、動かぬ[#「動かぬ」に傍点]のだ!
そう。眼を半眼にしたまま、微動だにせず立ちつくしているDの姿。これこそ自らの幻惑の法を無効とする唯一の方法だと、ギムレット自身知っていたのである。
彼の技は、無数の分身によって敵の構えを崩し、強制的に生まれた隙をつくことで最大の効果をあげる。しかるに、眼前の美青年は、彼の方を見もせず構えを崩しもしないのであった。彼は、ただ円を描いてまわるだけの道化役者にすぎなかった。
「どうした、来ぬか、あと三秒」
冷え冷えとしたその声に、我を忘れてDの背後から跳躍したのは、絶望か、焦慮のゆえか。時速五百キロの殺人旋風を待ちうけていたのは、〇・五マッハ――時速六百キロの人狼さえ捕捉した吸血鬼ハンターDの一刀であった。
空中に真紅の華を咲かせつつ、跳ね上がった剣光に左|頚《くび》すじから右胸|椎《つい》までを斬り落とされて、加速人間の流線形のボディは、凄まじい勢いで地上へ激突していった。
次の戦闘はまさに一刹那に決した。
「危ない、後ろ!」
ダンの叫びより早く、Dはふり向き、眼前を覆わんとする暗い雲を認めた。チューラの背中からとび出し、風に乗って襲いくる微細な毒蜘蛛の大群。いかなる神技をもってしても、剣一本で防ぎ得るわけがない。
だが――。
ごおっというどよめきの中でダンは見た。
Dの左手がすっと頭上高くにあげられるや、窪地の半分を塗り込めんとしていた黒い雲が、一線となってその掌[#「掌」に傍点]に吸い込まれていく様を。どよめきは、吹くのではなく吸い込まれていく風の音であった。
ふっと雲は消えた。
Dは疾風のごとく走った。
銀光に頭を割られてのけぞったチューラは、愛する蜘蛛を失ったとき、すでに人間の形をした抜け殻にすぎなかった。
「しめて四十三秒――お見事だ」
血刀をひっさげたまま、息ひとつ乱さず自分の方へ歩き出したDを、麗銀星は惚れ惚れした眼差しで見つめ、腰の飛鳥剣を一枚はずすと、何のつもりか、ダンのいましめをすべて切断してのけた。
「お兄ちゃん!」
青痣になった手足をさすりもせずに駆け寄ってきたダンをやさしく石像の陰へ隠し、Dは最後の敵と相対した。
「おれは急ぐ。いくぞ!」
声より早く、長剣が赤光をはね返して真横に流れた。
間一髪で麗銀星は跳びのき、さっきまで闘技場の役を果たしていた窪地の底に立った。
「お待ちなさい――」
と震えを隠さぬ声で言う。彼のシャツは、左脇の下から右脇まで一文字に切り裂かれていた。今の一撃の成果だ。Dが跳躍しようとした。
「待って――ドリスさんの生命にかかわることですよ!」
ひと言で、Dよりダンが蒼白になった。Dの眼にもわずかに流れた動揺に満足し、麗銀星はようやく、持ち前の天使の微笑が頬に浮かぶのを感じた。
「どういうことだ?」
Dの声は、しかし、相変わらず落ちついている。
「ドリスさんはフェリンゴ医師とご一緒なのではありませんか」
「それがどうした」
「あの|女《ひと》は今ごろ伯爵のもとへ誘い出されているはずです。可哀相に、まさか最も信頼しているお医者さまが、昨夜から伯爵の下僕に職業変えしたなんてわかりっこありませんからね」
「なに!」
Dが初めて浮かべた生々しい驚愕と後悔の色に、かえって麗銀星の方が驚いた。彼は、Dが自らドリスをその医師の家へ預けてきたことを知らなかった。
「おっと。そう、あわてない、あわてない。伯爵との連絡場所もちゃーんと教えてさしあげます。ただ、あなたが私の話に乗って下されば」
「どんな話だ?」
Dが尋ねた。
「ふたりして、貴族におさまるのです」
麗銀星は自信たっぷりの声で言った。
「私はリイ伯爵と約束しました。あなたを倒し、その結果、彼が娘を手に入れることができれば、貴族の一員に加えてもらうことを。――正直言って、今でもあなたを倒す気になれば、できないことはないのです。ですが、あなたの実力を眼の当たりにして気が変わりました。あのお医者さまのように、貴族になっても、所詮もと人間は下僕として扱われるだけでしょう。それよりは、伯爵そのものになった方がいい」
ひと息にまくしたて、麗銀星は息をついた。やや蒼みがかってきた夕映えが、美しい横顔に微妙なシルエットをつけ、それがなんともいえぬ異形の|貌《かお》に映って、ダンは石像の陰で身震いした。
「今の世で、伯爵を伯爵たらしめているものは、吸血鬼の不死性を別にすれば、彼の居城と太古から培われてきた民衆の畏怖心にすぎません。かつて彼らの時代があった。しかし今、それは滅びの残光に覆われ、伝説の彼方に消えなんとしています。私とあなたが組めばできる――伯爵一派を皆殺しにし、彼らの遺産を受け継いで、新たな“貴族”――滅びを知らぬ真の貴族の栄華をこの世にうちたてることが」
Dは麗銀星の顔を見ていた。麗銀星はDの顔を見ていた。
「あなたはすでにダンピール――半分は貴族です。私はあなたを殺したと偽り、伯爵に血を吸ってもらいましょう。その上で……ふふふ、これほど美しいカップルは、“貴族”の全歴史を通じても皆無なのではありませんか?」
麗銀星の笑いをDの言葉がさえぎった。
「|殺し《キル》が好きな男だな」
「え?」
「貴族には|滅びる《デストロイ》とあてる」
ぱっともう一度麗銀星は跳びすさり、空中でわめいた。
「愚かもの!」
それはかつて、リイ伯爵の城で、父と娘がDに浴びせた言葉だった。
右腰から閃く三条の黒い閃光。一本はDの頭上を越え弧を描いて背後から、一本は地面すれすれ、草の葉すべてを断ち切りながら足元で浮き上がって脇の下から、また一本は目くらましの意味で真正面から、それぞれ角度をずらしつつ、凄絶のスピードで放たれた飛鳥剣であった。
しかし――。
美しい響きをあげて、必殺の武器はすべて打ち落とされた。
草むらで「あっ」という悲鳴がきこえ、蝋燭を握った左|拳《こぶし》が肘から絶たれて宙にとんだ。攻撃をかわした瞬間、麗銀星の落下地点へ殺到したDが一撃のもとに切り落としたのである。
三人の仲間同様鮮血をふりまきながら、麗銀星の顔は、苦痛よりも、信じられないと言っていた。飛鳥剣をとばすと同時に、間違いなく「時だましの香」をふったのに、時空間をまどわす香りは発せられなかった。いや蝋燭に火さえつかなかった。
――にせものだ! しかしいつ、誰がすりかえた!?
激痛と疑惑に混迷する美しい顔の前に、ぐいと白刃が突きつけられた。
「ドリスさんは、どこにいる?」
「愚かな……」
鮮血のしたたる傷口を押さえて麗銀星は呻いた。
「たかが人間の娘への義理だてのため、貴族の生命を狙い、貴族を侮辱されたといって人間の私を斬る――呪われしもの、汝の名はダンピール……貴族の夜と人間の昼の世界を共有しながら、どちらからも受け入れられぬもの――あなたは一生、たそがれの国の住人だ」
「おれは吸血鬼ハンターだ」
Dは静かに言った。
「ドリスさんはどこだ? 次は自慢の顔を斬る」
言葉の中に、脅しとは受けとらせぬものが含まれていた。いちど麗銀星を霧の中で立ちすくませたあの鬼気が、数層倍の迫力を伴って吹きつけてくる。麗銀星は自分の口がひとりでにしゃべるのをきいた。人知を越える恐怖のためであった。
「……森の……北の森の入口を真っすぐ入ったところ……」
「よかろう」
Dの鬼気が一瞬和らいだ。
麗銀星の身体がバネのように跳ね、銀光がその身体を貫いた。
それなのに――
低く呻いて膝をついたのはDの方であった。
「ああーっ、こんな……」
岩陰から身を乗り出したダンの絶叫も当然だ。
麗銀星がとびかかった途端、Dの剣は間髪入れずその腹部を縫った。
刀身の半ばから先は確かに敵の体内に消えている。なのに、その剣先はDの腹から突き出ていた!
「しまった!」
吐き捨てて麗銀星は跳びずさった。
すると、ますます奇怪――Dの手に握られた剣は当然彼の腹から抜けたが、それと同じ速度で、Dの|鳩尾《みぞおち》から突き出た刀身も彼の体内に[#「体内に」に傍点]引っ込んだではないか!
ダンは目を見張った。
「なるほどな。そういう|変異人《ミュータント》がいるとはきいていたが……」
さすがに膝をついたまま、片頬をわずかにひきつらせてDはつぶやいた。シャツの腹に赤黒いしみが広がっていく。
「貴様、空間|歪《わい》曲人間だな。――惜しかった」
三メートルほど跳び退がった位置で眼を光らせながらうずくまった麗銀星の喉から、おぞましげな呻きが洩れた。
「あの瞬間に、よく狙いを変えましたね……」
「惜しかった」と「狙いを変えた」の意味するところはこうだ。
左肘を切り落とされた激痛をこらえて麗銀星がとびかかったのは、自ら反撃を試みたわけではない。彼はDの剣が自分の心臓を貫くことを期待していたのである。あの一瞬、剣は確かに彼の胸めがけて走り、寸前に引き戻されて腹を突いた。
「しまった」の叫びはそのためであり、わざとDが突きやすい位置に胸部が来るよう、とびかかる速度を調整したことに気づかれたと悟ったためであった。ダンピールを一撃の下に倒す急所もまた、吸血鬼と同じ部分なのである。
それにしても、自分の身体を突かせて相手を倒す――こんなとんでもない戦法をなぜとったのか。
|空間歪曲人間《スペース・ワープ・マン》――なんと麗銀星は、四肢を除いた部分に限り、自らの意思で体内の空間を歪めて四次元の通路をつくり、それを敵の身体につなぐことができるのであった。すなわち、敵に攻撃された時にのみ、彼の皮膚を破った敵の刃も弾丸も、すべて超空間を通って攻撃者自身の体内に送り込まれ、そこで実体化する。彼の心臓を貫いたはずの弾丸は、放った当人の胸部からとび出し、肩へ凶刃を送ったものは自らの肩を割る。これほど効率のよい戦闘法がまたとあろうか。彼がただ黙って襲撃者の好きにさせれば、相手は勝手に死んでくれるのであった。
だが、麗銀星は身をひるがえした。ダンピールにとって腹部の傷は致命傷となり得ず、彼自身も重傷を負っていたからである。
「左手の礼は、いつかしますよ!」
闇のおちかかった草むらのどこかで声がし、気配が途絶えた。
「兄ちゃん、大丈夫――あっ、血だ!」
駆け寄ったダンが悲鳴をあげるのも構わず、Dは剣を支えにすっくと立ち上がった。
「奴を追っている暇はない。ダン、北の森とはどこだ?」
「おいらが案内する。だけど、ここからだと、馬をとばして三時間もかかるよ」
限りない尊敬と不安に満ちた少年の声であった。陽はすでに草原の端に沈みかかっている。世界が闇の|腕《かいな》に包まれるまで三十分とかかるまい。
「近道は?」
「ある。あるけど、すごい岩場を突っ切ってかなきゃならない。地割れだの、大沼だの――」
Dはじっと少年の顔を見つめた。
「行ってみるか、おれと一緒に?」
「うん!」
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第七章 吸血鬼ハンター死す
「時だましの香」を使ってドリスを救ったのはグレコであった。
彼は、麗銀星とリイ伯爵の会話を盗みぎいた翌朝、常日頃面倒をみているチンピラのひとりを面会人に仕立てて、麗銀星をロビーへ呼び出した。彼が降りてくる前にチンピラは消え、いぶかしげな麗銀星が部屋へ戻ったときにはもう、「時だましの香」は、ただの瓜ふたつの蝋燭にすり替えられていたのである。
それを手に、彼はフェリンゴ医師の家を見張り、吸血鬼と化した医師がドリスを連れ出すや、察知されぬ距離を保ちつつ後を追った。
彼はドリスを救い、恩義という名の|枷《かせ》でがんじがらめにするつもりでいた。そして、あわよくば領主たる伯爵を倒し、一躍村の名士にのしあがって『都』へ乗り出す野心を持った。ひとりで“貴族”を滅ばした事実が、革命政府首脳部への重大なアピール要因であり、幹部昇進への道を開く最良の手段となることは明白だったからである。
ところが、少し事情が変わった。まっすぐ伯爵のもとへ向かうはずだった馬車が、突如出現した黒衣の娘に停止させられ、あまつさえフェリンゴ医師は娘に刺殺されてしまった。何が何やらわからぬまま、異変を察して馬車に近づいたグレコは、今まさにドリスの喉に爪を立てんとする凄まじい形相の女吸血鬼を目撃し、必死に「時だましの香」を振ったのであった。
彼は最初はこわごわ、苦しみもがくラミーカの姿を見てからは|傲然《ごうぜん》と馬車に近づいた。香は左手、右手には三十センチほどの白木の杭を指が食い込まんばかりに握りしめている。杭は「辺境」の常備品だ。腰のホルスターに|安全装置《セフティ》をはずした爆裂拳銃、木立につないだ馬のサドルに大口径の熱線ライフルが突っ込んであるのは、貴族の下僕用である。自慢の戦闘服は、目下、チューンナップに出してあった。
「うーん」とひとつ呻いて、ドリスが起き上がった。のたうつラミーカのどこかが身体にぶつかり、失神から醒めたのである。束の間とろんとした眼付きが、すぐラミーカに気づいてまん丸くなった。それから少し離れた地面に転がっているフェリンゴ医師とグレコを見て、
「――先生……一体どうして――あんた、こんなところで何してるの!?」
「ご挨拶だな」グレコは後部座席によじのぼりながら言った。「その女にズタズタにされるのを助けてやったんだぜ。この闇夜にわざわざ村から追っかけてきてよ。――心にとめていてもらいてえな」
「先生もあんたが殺したの?」
ドリスの声が哀しみと怒りに揺れた。
「冗談じゃねえ。その女の仕業よ。だけど、おかげでおめえを助ける手間がはぶけたぜ」
グレコは小さな炎を消さぬよう用心しいしい、片手でラミーカを後部座席へ移した。白衣の少女は何の抵抗も示さず座席の下へ丸まった。身じろぎどころか呼吸もしていないのではないかと思われた。
「伯爵の娘だね。先生を吸血鬼に変えたのも、この|女《ひと》?」
「いや、伯爵だ。おめえを誘い出す道具に使おうと、夕べ襲ったのさ」
あわてて口を押さえたが遅かった。ドリスは爛と光る眼でグレコをねめつけ、
「あんた、どうしてそんなこと知ってるの――襲われると知ってて、先生に黙ってたのね。この卑怯もの! 何が……何が私を助けたよ。恩着せがましい!」
「う、うるせえな」炎のような瞳から眼をそらして、グレコは居直った。「助けてもらっといてぎゃあぎゃあ|吐《ぬ》かすな。その話は後だ――今の問題はこの女をどうするかだ!」
「どうするかって?」
ドリスが眉をひそめた。
「決まってる。|殺《ばら》すか、伯爵との取引の材料に使うかさ」
「なんですって!――あんた、気は確かなの?」
「あたりきよ。他人事みてえな|面《つら》するな。みんな、おめえのためなんだぜ」
ドリスは茫然と、とてつもないことを言い出した荒くれ男の顔を見つめた。それからかすかに鼻を動かした。「時だましの香」の匂いに気がついたのである。
そういえば、月のさやけき夜だというのに、なんとなく陽光さんさんたる真昼みたいな、妙な感じがする。グレコは得意そうに言った。
「この蝋燭に入ってる香料のおかげよ。貴族の持ちもんで、昼と夜を逆にできるそうだ。これに火がついてる限り、この女は身動きひとつできねえ、貴族はおれたちに近寄れねえ――そこでだ、おれは考えた。殺すのは簡単だが伯爵の娘じゃ後が怖え。だから、こいつの身柄と引き換えに、うまいこと言って伯爵の生命をもらうのよ」
「そんなこと……できるの?」
すがるような声に卑しく唇を歪めたグレコの表情を嫌悪し、目をそらしたドリスは、そのとき、後部座席の下で息もたえだえのラミーカの白い顔を見た。
自分といくらも離れているとは思えぬ美しい少女。ドリスはほんのいっときでも、彼女を取引の道具に使おうとした自分の心を恥じた。
「いくら貴族だって、自分の娘が可愛くねえ親はありゃしねえ。だからよ、最初はうまく騙くらかすのさ。――娘を金目のものと交換しろとかよ。安心してノコノコ出てきたところを、ほれ、この香でひっ捕まえ、こっちの杭を心臓にぶすり。噂じゃ、死体は塵になって消えちまうそうだが、親父だの治安官だのに現場を目撃させときゃ、『都』の政府に話をつけるとき、立派な証人になってもらえらあな」
「『都』?」
「い、いや、何でもねえよ」
グレコは胸の奥で舌を出した。
「とにかく、|殺《や》っちまやあ、貴族の富も武器弾薬もぜーんぶ、おれたちふたりのもんだぜ――最高の功労者だからな」
「でも……この|女《ひと》は村やみんなに何もしてないのよ」
幼い頃からの記憶をたどってドリスが抗議した。
「おきゃあがれ。貴族は貴族、人の生き血をすする化け|物《もん》にゃ変わりはねえぜ」
ドリスは愕然となった。
この粗野な荒くれ男が、かつて自分がDに投げつけたのと同じ呪いの言葉を吐いている!
あたしもあのとき、この男と同じ人間だったんだ。いけない。たとえ貴族だろうと、いたいけな娘を父親をおびき出す道具になんか使ってはならない。
きっとなって反論しようとしたドリスを、陰々たる声が押しとどめた。
「殺せ……今……ここで……」
ラミーカであった。
「なにィ」とかさにかかってにらみつけたグレコが、思わず息を呑んだほどの凄烈極まる表情であった。真昼の陽光で全身が灼けただれるに等しい苦痛を味わっているのに、なんたる精神力。
「父上は……私と自分の生命を引き換えになさるような、愚かな方ではない。わたしもおまえたちの取引の道具になどならぬ……殺せ……さもなくば……わたしがいつか、おまえたちふたりを殺す……」
「この|女《あま》ぁ」
グレコの顔が怒りと恐怖に紅潮したかと思うと、さっと杭をふり上げた。およそ自制心の欠如した男だ。
「およし、身動きできない相手に何するのよ!」
言うなり、ドリスがその手を押さえる。ふたりは馬車の上でもみ合った。力はグレコが上だが、ドリスには父親仕込みの体術があった。ぱっと手を放しざま、左足をしっかり安定させ、渾身の力をこめた右の回し蹴りを男の胸板へ炸裂させた。
「ぐえっ!」
狭くて足場もおぼつかぬ馬車の上だからたまらない。グレコはのけぞり、昇降口の扉に足をとられて馬車から転落した。
ドサッという鈍い音の方を見ようともせず、ドリスは座席から身を乗り出し、横たわるラミーカに話しかけた。
「安心して。あんな奴におかしな真似はさせないわ。だけど、黙って帰すわけにもいかないの。あたしのことは知ってるでしょう? 一緒に家まで来てちょうだい。あんたの身柄をどう扱うかはそこで考えるわ」
低い、地の底から湧きあがるようなふくみ笑いが、ドリスの言葉を中断させた。
「ふふふふふ……何をしようと勝手だが、わたしはどこへも行かん」
月光よりも白い美貌が、打って変わった自信たっぷりの邪悪な笑みを浮かべて自分を見上げているのを、ドリスは背筋が凍りつく思いで眺めた。知らなかった。グレコが馬車から落ちたとき、「時だましの香」が消えたことを!
引こうとした手を、これは氷のような冷たい手が押さえ、今は夜目にも白い牙を形のよい唇から剥き出しにして、闇の申し子は静かに立ち上がった。
「人間の娘になど触れることも汚らわしいが、わらわの手はその白い喉から溢れる血潮で浄めるとしよう」
グレコなどとは較べものにならぬ凄まじい力でドリスは抱き寄せられた。身動きひとつできない。ラミーカの息は花の香りがした。血で育てた花の。
ふたつの影が、いや、ふたつの顔がひとつに重なった。
「ぎゃああっ」
絶叫が闇をまどわし、すぐ消滅した。
顔を覆って震えているのはラミーカであった。
闇の中で彼女も見たのだ。いや、感じたのだ。二日前、父親がこの少女の喉に目撃したのと同じ聖なる十字の痕を! それは、吸血鬼の吐息がかかったときのみ忽然と浮き上がるのであった。
なぜそれが怖いのか、吸血鬼たちにもわかってはいない。確かなのは、眼で見ずとも全身の皮膚感覚がその気配を感じ、その途端、言い知れぬ力に金縛りにされてしまうことであった。しかし、人間どもには決して知られてはならぬ、また、長年月の心理操作で巧みに忘却の淵に沈ませたはずのその聖痕が、なぜこの娘の喉に?
一瞬前まで圧倒的優位を誇っていたラミーカの突如の狂乱ぶりに、わけもわからぬままドリスは救われたと察した。逃げなくちゃ!
「グレコ、無事?」
「お、おお」
頭でも打ったのか、横の地面からあやふやな返答があった。
「早くお乗り! ぐずぐずしてると置いてくよ!」
一喝し、手綱を握った手をひと振りする。急激にとび出してラミーカをふり落とすつもりであった。馬は動かなかった。
初めてドリスは、馬の前方に立って口輪を押さえているインバネス姿の男に気がついた。いつの間にか、数メートル先の森の入口に、数個の人影が立ちはだかっている。
「医者の来るのが遅いので、ひょっとしたらと思い、来てみたら案の定だ……」
影のひとつが怒りを抑えた声で言った。伯爵である。絶望に胸をつかれながら、さすがはこれまで伯爵の猛威に抵抗してきただけはある女戦士。さっきフェリンゴ医師に奪われた鞭がかたわらの座席に残っていると見るや、ひっ掴みざま、インバネスの男にひと振りした。
「あっ!?」
ドリスは悲鳴をあげ、男――ガルーはニヤリと笑った。確かに横面の肉をはぜたと思ったのに、彼は頭をふってそれを避け、鞭の先を口にくわえたのだ。ぐるるっ! 獣じみた唸り声とともに、なまじの剣にはびくともしないドリスの鞭は噛みちぎられていた。
「|人狼《ワーウルフ》!」
ドリスの叫びに、伯爵が応じた。
「そうだ。わしの召使いだが、わしとは違って血の気が多い。それに――逆らえば痛い目に遇わせても構わんと命じてある。手足の指が欠けた花嫁も一興かもしれぬでな」
だしぬけに轟音がとどろいた。地面に尻もちついていたグレコが爆裂拳銃をぶっぱなしたのである。中クラスの巨獣タイプなら楽々装甲を貫くハイ・パワー|炸薬《パウダー》が伯爵と周囲の人影を炎で包んだ。伯爵は彼の方に目もくれない。炎はたちまち闇に呑まれた。|障壁《バリヤー》の威力である。
「がおおっ!」
人狼がグレコに吠えついた。半ば変貌した血色の眼でにらみつけられたとたん、グレコは、ひっと喉を鳴らして凍りついてしまった。ズボンの間から白い湯気がたち昇っていく。恐怖のあまりの失禁だが、誰が彼を笑えようか。
ドリスの肩が落ちた。最後の気力が根こそぎ奪われたのである。
「お父さま――」
ラミーカが風のように大地へ舞い降りた。伯爵はぎらりと光る眼で見据え、
「何をしようとしたか察しはつく。わが娘とはいえ、今度という今度は許さぬぞ。罰は城へ帰ってから与える。控えておれ!」
声もなく後じさるラミーカを尻目に、伯爵はドリスに片手をさし出した。
「さ、参るがよい」
ドリスは唇を噛んだ。
「いい気にならないで! あたしがどうなっても、きっとDがおまえたちに引導を渡してくれる!」
「これはこれは」
と伯爵は苦笑した。
「あの若造も、おまえの弟も、今ごろは奴らの手にかかって相果てておるわ。まともにぶつかりあえばともかく、秘蔵の武器を手渡してあるでな」
「父上――」背後の木陰でラミーカが、大地にしゃがみ込んでいるグレコを指さした。
「その男、“時だましの香”を持っておりましたぞ」
「なに!」夜目にも伯爵の顔がさっとひきつった。
「そんなはずはない。あれは麗銀星に渡したもの」
ここでひと呼吸おき、娘の顔をまじまじと見つめてから、
「嘘ではないか――すると|彼奴《きやつ》……」
「その通り」
低い声が居並ぶ全員をすくませた。伯爵がふり向き、ドリスがはっと目を向けた。ラミーカの方へ。いや、木立を背に彼女の背後へ浮かび上がった、世にも美しい人影に。
「おれはここにいる」
声にならない呻きが伯爵の喉から洩れた。
こやつ、まさか生きて帰ってくるとは――。
「時だましの香」が効果を発揮しなかったのならあり得ぬことではない。しかし、Dと麗銀星の対決場は、飛行機関でも使わぬ限り、麗銀星の指定した時刻からすぐに馬をとばしても、ここへ到着するまであと一時間は優にかかる距離なのであった。
それなのにDは来た。それも、闇を見透す伯爵の眼や、護衛ロボット兵の三次元探知レーダーにさえとらえられることなく、闇そのものと化して。
ロボット兵士がDの方を向いたが、無論攻撃は不可能だ。
「おかしな真似はよせ――おれは容赦せんぞ」
荒らげたわけでもない低い声に、ドリスめがけて跳びかかろうとしたガルーがびくっと停止した。
「ドリスさん、それから、そこ[#「そこ」に傍点]の――馬車に乗ってこっちへ来るんだ。急いで!」
「は、はいっ!」
ドリスは夢見るような気持ちで答えた。助かったという安堵感ばかりではなく、初めてDに名前を呼ばれたからであった。
「ガルー、その娘を捕らえろ!」
鋭く伯爵が命じた。再び馬車へ躍り上がろうとする黒い影へ、今度は頭上から、金切り声が叩きつけられた。
「近寄ったら舌噛むわよ!」
人狼はぐおっと呻いてまた停止した。もどかしいことおびただしい。よたよたと、グレコが馬車に乗り込んだ。
「あんたの仲間に入るくらいなら死ぬ気でいたのよ。今すぐ死んだって構やしないんだから」
取るに足らぬ人間の――十七歳の娘の脅しに、伯爵は沈黙した。どう見ても、この凄まじい駆け引きはDとドリスの勝ちであった。どんな犠牲を払おうと伯爵はドリスに執心していた。逆を言えば、ドリスに死なれてはすべてがぱあということだ。
「決着は後日、あらためてつける」
夜気を蹴散らしてかたわらへ馬車が近づくと、Dは初めてラミーカの肩に手をまわした。次の瞬間、ふたつの影はひらりと馬車の上に乗っていた。
この場合、驚くべきことだが、彼は背中の長剣に手さえかけていなかった。ラミーカを人質にしたといっても、刃物一本突きつけているわけではない。父に命じられて後方に下がったとき、背後にDの気配を感じた刹那、ラミーカは筋肉ひと筋動かせなくなった。吸血鬼の超感覚のみが感知し得た凄絶な鬼気の放射によって。伯爵とガルーが彼に対して何ら手を下せなかったのも同じ理由による。
「娘をどうする気だ?」
後部座席からじっと自分たちを監視しているDに、伯爵が呼びかけた。
返事はない。
「ことごとくわしに逆らい、千載一遇のチャンスまでつぶした愚かもの――もはや娘とは思わん。陽光にさらし、骨の髄まで腐らせてしまえ」
父とは思えぬ残忍酷薄の言葉だが、そもそも吸血鬼種全体に、人間のごとき「愛情」や「思いやり」といった観念はきわめて薄いのである。あるいはこれが彼らをして繁栄の頂点まで導き、ついには落日のときを迎えさせた原因なのかもしれない。父の言葉を耳にしたラミーカも眉ひとすじ動かさなかった。
「先生、あとで迎えにきます!」
悲痛なドリスの声をあとに、馬車は走り出した。
草原を少し行くと、行く手に馬のいななきがきこえた。こちらの気配に気づいたらしく、
「誰だ? 姉ちゃんかい!?」
「ダン!――無事だったの!?」
ドリスは涙声で、馬車を弟に近づけた。馬に跨っている。もう一頭の馬の手綱もつかんでいた。ドリス用に連れてきた麗銀星の馬である。これに彼女を乗せて帰るつもりだったのだが、いかんせん、余計な荷物がふたつも増えた。Dが馬車ごとドリスとグレコを連れ出したのは、これを解決するためであった。
「荷を軽くする。君たちは馬に乗れ。ダンはこっちへ移るんだ」
君たちとはドリスとグレコのことだ。さっきから、自分の常識の範囲外のことばかり起こるので、脳味噌が半分真っ白になったような気分のグレコは、文句ひとつ言わず命令に従った。乗り換えは数秒で完了した。
「でも、その|女《ひと》と一緒で馬車を動かせるの?」
馬上からドリスがきいた。嫉妬を含んだ声だと何人が気づいたか? Dは答えず、無言でドリスの鞭をふった。
耳元で風が唸り、森と悪魔たちはぐんぐん背後に遠ざかっていく。
「ダン、怪我はなかったのかい?」
並んで走りながらドリスは声をふりしぼった。伯爵の追撃を受けぬよう全力疾走中だから、馬車の車輪が猛り狂っている。
「ぜーんぜん。姉ちゃんこそ――へっ、もちろん大丈夫だよな。D兄ちゃんのやる事だ。姉ちゃんに怪我ひとつさせるわけがねえよ」
「そうよ、そうですとも」
ドリスは歓喜の眼で同意した。
「見せたかったぜ」とダンは大声をはりあげた。「あの化け物みたいな奴らを一人十五秒もかけねえで片づけちゃってさ――最後のひとりを逃がしたのは惜しいけど、でも仕様がねえよ、兄ちゃん怪我してるんだから」
「えっ! ほ、ほんと!?」
ドリスが青ざめたのはわかるが、助手席のラミーカまでがはっとDの方を見たのはどういうわけだろう。
「でも、ハンターって凄えや。腹刺されたのに平気で――兄ちゃんったら、おれを後ろに乗せて、おまけに馬をもう一頭ひいてあの岩場をとばしてきたんだぜ。見せたかったよ。兄ちゃんが手綱をとると、馬のやつ、あのでっけえ割れ目も、|大蛭《おおひる》がうようよいる沼も、びくともしねえでとび越えちまうんだ。ううん、どんな急坂でも止まりゃあしねえ――おいら、あとで教えてもらうんだ、馬と剣!」
「そう、よかったわね。とっくり教えておもらい――」
ドリスの嬉しげな声の末尾は、力なく風にちぎれた。このとき少女は思春期の娘の勘で、この物語の終末を予感したのかもしれない。
身じろぎもせず前方の闇を凝視していたラミーカが不意につぶやいた。
「裏切りもの」
「なんだって!」
ドリスが怒りの形相になった。Dのことを言ったと察したのである。そんな彼女へは目もくれず、ラミーカは血の炎を噴き出すような眼でDの冷たい横顔をねめつけた。
「父やわたしでさえ三舎を避けるほどの力と技を持ちながら、誇り高い貴族の血を忘れて人間などに義理立てし――あまつさえ、私たちを狩り立てたつき[#「たつき」に傍点]の道にせんとする大外道。話していても身の汚れじゃ。もう父上も追ってはこぬ。ここでわたしを殺せ!」
「お黙り!――人質の分際で」
ドリスが怒鳴った。
「おまえたち――ご大層な貴族どもが、あたしたちに何をした。ただ、血が吸いたい、生身の人間の温かい血が欲しいというだけで、何の罪もない人たちの喉を噛み切り、吸血鬼に変え、愛する家族たちを襲わせて――最後には、その家族たちの手で心臓に杭を打ち込まれ……鬼、悪魔。おまえたちが管理してる気象コントローラーの起こす津波や地震で、毎年、何人の親や子が、お互いの名を呼び合いながら死んでいくか知ってるのかい?」
血を吐くようなドリスの罵倒にも、ラミーカは冷然と笑っていった。
「わたしたちは貴族――支配するものじゃ。下賎の奴ばらが反抗心を抑えるため、それくらいの処置は支配者の特権。そもそも、この世に生かしておかれただけでもありがたいと思うがよい」
それから、陰惨な顔つきで馬を走らせているグレコをじろりと見やって、
「なるほど、わたしたちは一滴の血の飢えのためにおまえらを襲うかもしれぬ。だが、その男は何をした? わたしはきいた。そやつがおまえ欲しさに、あの老いぼれが父上に襲われることを知りながら、とうとう告げにいかなかったと」
ドリスは言葉につまった。ラミーカの声は夜を圧してなお続く。
「ほほほ。だが、わたしは責めておるのではない。その男、むしろ立派じゃ。自らの欲望を満たすのに他人を犠牲にするなど当然のことではないか。強いものが弱いものを支配する、優れたものが劣ったものを風下に置く――これが大宇宙を|統《す》べる偉大なる真理じゃ。おまえたちの中にも数多く、我らに近い見所のある者がおるぞ、ほほほほほ」
「はっはっはっ」といきなりドリスが笑い返した。
「笑わすんじゃないわよ。そんなご立派な支配者が、なんであたしごときを欲しがるの?」
今度はラミーカが沈黙する番であった。
「あたしもきいたわ。――身の毛がよだったけど――あんたの親父、あたしを花嫁にしたいそうね。毎晩、盛りのついた犬みたいにあたしの家へ押しかけては突っぱねられ――よくも飽きないものだわね。貴族ってのはよほど女ひでりなの。それともあれ? あんたの親父だけ特別趣味が悪いのかしら?」
ラミーカの眼から殺意が熱線と化してドリスの顔にとんだ。負けじとドリスの憎悪の火花が迎え討つ。疾走する馬車と馬との間に、目には見えない壮烈な火花が散ったかのようであった。
不意に、Dが手綱を引きしぼった。
「あっ!」
行きかけて、ドリスもあわてて馬を停める。グレコだけがとまどったが、これ以上一緒にいてもろくなことはないと踏んだか、一気に加速し、闇の奥へと逃げ去った。
わけもわからず、馬車を降りるDに従い、一同は地面に降り立った。当然のごとく、ラミーカと三人が向かい合う格好になった。
「どうする気じゃ?」
ラミーカがたずねた。
「おまえの言った通り、ここまで来れば伯爵も追ってはくるまい。後はおまえの処置だけだ」
Dは静かに言った。ラミーカと、それからドリス、ダンの顔にも緊張の色が走った。
「おれは、この人を守るために雇われた。だから、おまえの父は討ち果たす。だが、それ以外は員数外だ。従って、おまえを今どうするかは雇い主どのに決めてもらおう。――さて?」
最後の「さて」はドリスへの催促であった。彼女は困惑した。今の今まで口論し、殺したいほど憎いと思っていた相手なのに、眼前の娘は自分といくつも違わない、美しく無防備な少女であった。
憎んでも憎み切れない貴族の娘。こいつの一家さえいなければ、ダンとそれなりに平和な日々を送っていられたものを――殺してやりたい。そうだ、あたしの鞭を持たせてDと戦わせればいい。これで正々堂々だ。こいつにもチャンスをやったんだから、何も恥ずかしいことじゃない。
「どうする?」Dがきいた。
「殺せ」とラミーカが燃える眼で言った。
そして、ドリスは首をふった。
「逃がしてやって。あたしには人殺しはできない。いくら貴族だからって、こんな|娘《ひと》を……」
Dはダンの方を向いて言った。
「どうする?」
「あたりめえじゃんか。女斬るなんて卑怯な真似ができるかよ――兄ちゃんだって、そうだろ?」
このとき姉弟は、Dの顔に微笑が浮かぶのを見た。それから何年、何十年先まで、ふたりはこの日のDの顔を思い出し、それを浮かばせたことを誇りに思うのであった。それは、そんな微笑だった。
「こういうわけだ。行くがいい」
ひと言いって背を向けるDへ、ラミーカの罵倒が飛んだ。
「どこまで愚かな奴らじゃ――よいか、わたしが感謝などすると思うな。今見逃したことが、数層倍の後悔となっておまえたちにふりかかるぞ! わたしがおまえの立場だったら容赦なく殺す。その弟も」
もうふり返りもせず、三人は馬車へ戻った。
「この馬をお使い」
ドリスが手綱をラミーカの足元へ投げた。
「子供でも宇宙の真理を知っていたか……」
御者台のDがぽつりと言った。
「なに」
「弱肉強食、強者の支配――おまえたちの神祖はそうは言わなかったぞ」
ラミーカは目を剥き、次の瞬間高々と笑い出した。
「ほほほ、つまらぬ心ばかりか妄想癖もあると見える。神祖だと? おまえなどがあのお方を知っておるはずがない。わたしたちの文明と世界を築き、支配者としての|法《のり》を完成させたあのお方を。――我らはすべて、あのお方の言葉に忠実に従ってきたのじゃ」
「すべてのものが、か。だから、やつ[#「やつ」に傍点]はいつも哀しんでいた……」
「……やつ……? おまえは……おまえは、まさか……」
ラミーカの声に脅えがこもった。幼い頃、城での大舞踊会で、まことしやかに囁かれていたある噂を思い出したのである。
「……あの技、その力……おまえは、もしや……」
鞭が鳴った。
車輪の絶叫をのこして馬車が走り去ったあとも、足元に落ちた馬の手綱を拾うことも忘れ、貴族の娘は月光のさなかに立ちつくしていた。
「あなたさま[#「あなたさま」に傍点]は……もしや……」
翌日、ドリスはダンとDを伴ってフェリンゴ医師の遺体を収容した。それから治安官のもとを訪れ、遺体の世話を依頼した上で麗銀星とグレコの所業を洗いざらいぶちまけた。
ちょうど、ペドロスの村から辺境警備隊についての連絡が届いたところで、治安官は自ら「遺跡」地帯へ出掛け、三つの凄まじい死体を発見するや、ドリスの証言から、麗銀星一派が警備隊の失踪と関係ありと断じた。
警備隊の行方を求めて、臨時雇いの治安官助手が近隣の村々へと走った。
「これで、あいつも長くないわね。もっとも、夕べあんたに手首を落とされた時点で、雲を霞と逃げちまっただろうけど」
農園へ戻る途中、ひとつ難題を片づけて明るい表情のドリスに、Dはひと言、「貴族になれば、手足をみな失くしてもお釣りがくる」と言った。
麗銀星には“貴族”に列するという野望があった。あれだけの腕と奸計を有し、蛇にも勝る執念深さを秘めた男が、その目的を中途で放棄し尻尾を巻くなどとは到底思えない。逃げるどころか、いずれかに身を隠し、三人の挙動を虎視耽々と窺っているのは明らかであった。伯爵の命を実行するために。
昼の敵――彼ひとりのせいで、Dの動きは半ば封じられてしまったのである。これまでは夜のみ剣をとればよかった。しかし今、あの奇怪な武器と怪異な肉体の所有者たる強敵の監視下にドリスとダンをおいて、伯爵の城へ逆襲することは、事実上不可能となった。
「それにしても、グレコの野郎をとっちめられなかったのは残念だね」
とダンがつぶやいた。
麗銀星の件には燃えた治安官も、グレコの行為を摘発することはできなかったのである。三人を伴い、村長の家へ尋問に行ってみると、苦り切った村長が現れ、グレコは昨晩大あわてで戻ってきてから、家中の金と修理屋から届いたばかりの戦闘服をひっさらい、馬に乗って走り去ったと告げた。ドリスたちをオフィスに待たせ、治安官はグレコの不良仲間にもあたってみたが、誰も行き先は知らないという。
麗銀星とグレコ――このふたりの行き先が不明では治安官も手の打ちようがなく、内々で他の村へグレコの人相書きを送り、見つけ次第、フェリンゴ医師殺害事件の重要参考人として拘禁するよう要請することに決まった。
「でも、今度の件で告訴はできんよ」
と治安官は不満顔のドリスに言った。
「君たちの話だと、先生を殺したのは貴族の娘らしいし、吸血鬼にされたこと自体――何らかの被害を受けたことになるのかどうか、いまだにはっきりせん。『都』で統一見解を発表してくれるといいのだが……」
これにはドリスも不承不承うなずくしかなかった。
吸血鬼化を殺人と見るか、別人格への変貌と見なすかは、人類の歴史の上で、いまだに未解決の問題であった。ゆえに、殺人が行われるのを承知の上で犠牲者や官憲にも口をつぐんでいた行為が罪とされる一般犯罪の規定をグレコに適用するわけにはいかない。
「むしろ、法的に、グレコは君を助けた功労者となりかねん」
ドリスが|柳眉《りゅうび》を逆だてたのを見て、治安官は大急ぎで、
「私的な争いに口をはさむ権限はないが」
とつけ加えた。見つけ次第、一発かましてやれという意味である。ドリスとダンは顔を見合わせてにんまりした。
伯爵に襲われて以来、久々に平穏なときがドリスに訪れた。
仕事は山ほどある。ロボットが採集した合成蛋白をパッケージに詰め、庭の隅に重ねて耐水ビニール・テントで覆い、月に一度やって来る巡回交易人を待つ。金銭ないし生活必需品と交換するのである。ドリスとダンの栽培した蛋白は高密度と定評があり、交易人も破格の値で引き取ってくれるのが常だ。
牛たちの世話と乳しぼりもご無沙汰しっぱなしである。もっとも、こっちの方はランシルバの村が主な取引相手だから、目下開店休業の状態だが、放っておくわけにもいかない。伯爵との戦いがドリスの生活ではないのだ。
おんぼろロボット一台とダンの力を借りても丸三日はかかるこの仕事を、Dは半日で片づけた。
巨大なボウルにたまった白っぽい蛋白エキスを手際よくプラスチック・パッケージに詰め、一定量の山ができると作業場から庭へ運ぶ。それも三十キロは優に越える箱をいちどに三つも担いでである。最初は「凄えなあ!」と目を丸くしたダンも、この超人的往復が三時間もぶっつづくに及んで、口を開けたまま何も言わなくなってしまった。
乳しぼりのスピードは神技に近かった。ドリスが一頭終えるうちに、三頭片づけてしまうのである。それも左手一本しか使わず。空いた右手はかたわらの剣に走らせるためだ。ハンターの心得である。
どういう素姓の人なんだろう。
初めて浮かんだ疑問ではないが、戦いの日々はそれを解くどころか、質問する時間さえドリスに与えてくれなかった。いや、旅人の過去を探ってはならぬのが辺境の掟であり、また、質問を許さぬDの雰囲気があった。
黙々と片手を動かし、アルミ箔の缶に白い液体を貯めていくDの横顔を、ドリスは遠い目つきで眺めた。
ふと、その光景が前からなじみのもので、これからもずっとつづいていくような気がしたのは、少女の熱い胸のなせる業であったろうか。父を失った天涯孤独の少女が、弟と農園を守るために汗した奮戦の日々は決して長くはなかったが、ドリスは不意に、自分がひどく疲れていることを知った。
「済んだ。そっちはまだか?」
Dに言われてドリスは幻想から醒めた。
「い、いえ、もう終わったわ」
裸でも見られたような気分で立ち上がり、缶を牛の下からはずした。
「顔が赤いぞ。風邪でもひいたのか?」
「ち、違うわ。夕陽のせいよ」
家畜小屋の内部は赤く染まっていた。
「そうか。また伯爵が来るかもしれん。早く食事を摂ってダンを寝かせたまえ」
「そうね」
ドリスは缶の取っ手を両手でつかみ、小屋の隅へと運んだ。なぜか力が入らなかった。
「置いておけ。おれが運ぶ」
ふらつく足を見抜いたDの言葉に、
「いいんだってば!」
自分でも驚くほど荒い声と――涙が一緒に出た。缶を地面に落とし、ドリスはしゃくりあげながら表へ走り出した。
後を追った――とも思えぬ|飄然《ひょうぜん》たる足取りで小屋から出てきたDを、ダンの不安げな瞳がポーチから迎えた。
「姉ちゃん、泣きながら裏へ走ってったぜ。喧嘩したのかい?」
Dは首をふった。
「いや。姉さんは君が心配なんだ」
「誰かが言ってたよ――男は女泣かしちゃいけないって」
Dは苦笑した。
「そうだな。謝ってこよう」
数歩行きかけ、Dはふとダンの方を向いた。
「おれとの約束――覚えているな」
「うん」
「君は八つだ。あと五年もすれば姉さんより強くなる。――忘れるなよ」
ダンはうなずいた。上げた顔に涙が光っていた。
「お兄ちゃん――行っちゃうのかい? 伯爵をやっつけたらよ?」
Dは答えず裏手へ消えた。
ドリスは柵にもたれていた。肩が震えている。
Dは足音もたてず彼女の後ろに立った。
涼風が、柵の彼方の草の海と、ドリスの黒髪を光らせていた。
「家へ戻った方がいい」
ドリスは答えず、しばらくしてからつぶやくように言った。
「別の人を捜した方がよかった。あなたがいなくなったら、あたし、もう前みたいに生きてゆけない。さっきの缶だって、これまでは一度にふたつ持てたのよ。ダンを強く叱りつけることもできなくなるし、言い寄ってくる男たちを殴る手にも力を込められないわ。――でも、あなたは行ってしまう」
「そういう契約だ。それに君の憂いは断つ。おれが死んでもな」
「いやよ!」
いきなりドリスはぶつかるようにたくましい胸に顔を埋めた。
「いやだ、いやだ」
何がいやなのかわからない。なんで泣くのかもわからない。光と風のあわいに消えてゆく幻を放すまいとするかのように泣きつづける少女と、それを支える憂愁に満ちた美青年は、その姿勢のままいつまでも動かなかった。
少しして――
ドリスははっと顔を上げた。頭上のDが低い唸り声を洩らしたからである。「どうしたの?」と言おうとして、その頭は凄い力でまた胸に押しつけられた。そのまま数秒――。
赤く溶け合ったふたつの影のあいだから、
「いいのよ」
と熱い声がきこえた。
だが、それ以上何事もなく、やがてそっとドリスを押し放すと、Dは足早に母屋の方へ歩み去った。
家畜小屋の角を曲がると、
「なぜ吸わん?」
と揶揄するような声が言った。彼の腰のあたりから。
「黙れ」
珍しく感情も露わなDの声であった。
「あの娘、知っておったぞ。おまえが欲情したのをな。おお、おお、そんな顔をしても始まらん。どうあがいたとて、貴族の血はおまえの骨の髄にまで流れておる。女に欲情を感じれば、抱くよりも白い喉にかぶりつきたくなるのがその証拠――」
そうなのだ。ドリスの告白をきき、胸の上ですすり泣く熱い肢体を感じたとたん、Dの形相はあの暗黒の地下水道で蛇娘たちの血を吸った凄絶無比な吸血鬼のそれと化したのである。しかし、とにもかくにもなんとかそれを押しとどめたのは、実に強靭な精神力と言える。
歩みつづけるDに声は言った。
「あの娘は、おまえのもうひとつの顔を見た。いや、少なくとも喉にかかる息の匂いはかいだ。呪われた血の匂いをな。それなのに、吸われても構わんと言っておる。ええかっこ[#「ええかっこ」に傍点]しも大概にせい。自分の欲望を抑え、女の願いも叶えてやれんで、なにが一人前のダンピールだ。おまえはいつも逃げておる――自分の血からも、おまえを求める人間からも。いずれ別れる運命などとは、きれい事の言い訳にすぎん。きけ、おまえの親父は――」
「黙れ」
言葉づらはさっきの反復にすぎないが、その中に単なる恫喝を越えた鬼気を感じ、声は沈黙した。
ポーチの階段をあがると、Dは草原の彼方に遠い眼を向けてつぶやいた。
「それでも、おれは行かねばならん――奴[#「奴」に傍点]を探しに」
「うわっ、やべえ!」
レンズいっぱいに広がったDの視線に、三百メートルは優に離れた丘の上、木立の陰に伏せていることも忘れ、大あわてで頭を下げた影がある。とっくの昔に村を逃げ出したはずの村長のドラ息子、グレコであった。戦闘服姿だ。
「あん畜生、ひとりでいい思いしやがって」
と、電子双眼鏡を地面に叩きつける。彼は昨夜、三十六計を決め込むとまっすぐこの丘へやってきて、終日農園を監視していたのであった。
腹這いのまま右手を伸ばし、かたわらのサドル・バッグから、乾燥肉や固型飲料水の包みと一緒に「時だましの香」を引っぱり出す。
「へっ、陽がおちたら見やがれ。こいつで地べたに這いつくばったところをひと刺しだ。おれさまはドリスと手に手をとって、このいまいましい土地からおさらばよ」
憎々しげに言って、また農園に目をやったところを見ると、この男、昨夜の伯爵や人狼の凄まじさに恐れをなし、彼らを倒す件はきっぱりとあきらめてドリス誘拐に方針を変えたらしい。ひと刺しする相手は言うまでもなくDであろう。
「そううまくいきますかね?」
頭上から涼しい声がふってきた。
「げっ!」
頭上まではり出した大木の枝に、ひとりの美青年が腰をかけていた。無邪気な笑みを浮かべてはいるが、左手は肘の先から消失し、かわりに血の滲んだ白布が巻いてある。正体は言うまでもなかろう。それにしても、片腕を失ってまだ一昼夜もたたぬのに、わずかに眼のあたりを黒ずませたのみで木に昇り、グレコの胆を冷やすとは、なんという体力、精神力。
音もなく麗銀星は地上に降り立った。
「な、なんだ、おめえは?」
「おとぼけを。その蝋燭の持ち主です。おかげで片腕をなくした。伯爵の首尾はどうかと農園を探りに来てみたら、いい方に巡り合えました。どうです、あの三人は健在ですか?」
言葉は丁寧だが、圧倒的な威圧感に、グレコはおずおずとうなずいた。
「やはり、ね。となると、どうしてもここで点数を稼がなくちゃ、仲間には入れてもらえないでしょうな」
謎めいたことを言い、美青年は親しげにこう話しかけてきた。
「どうです、私と組みませんか?」
「組む?」
「木の上で拝見していたところ、あなたは農園の娘にご執心のようだ。それには、あの用心棒が邪魔です。私も別の事情で奴を片づけたい。――いかがです?」
グレコはためらった。麗銀星は追い討ちをかけた。
「その蝋燭と戦闘服があれば、確実に奴を仕止められますか? あなたの腕で?」
グレコはつまった。
いまだに、農園へドリスを奪いに行けないのは、まさにそのせいであった。
「時だましの香」が純粋な吸血鬼相手に絶大な効果を発揮するのは、伯爵の娘で確認済みだが、半分人間の血が混じるダンピールに対してとなると、どうも自信がない。戦闘服は着てみたものの、修理屋から返ったばかりで着なれていないから、身体にもなじまず、いざというとき百パーセント機能するかどうか、はなはだ怪しいものがある。
「……おめえと組みゃ、なんとかなるってのか?」
この言葉は、麗銀星の術中に陥った証拠であった。笑いを殺し、美青年はうなずいた。
「ええ。陽が暮れたら私と彼が戦いますから、あなたは頃合いを見て、その蝋燭をつけて下さい。一瞬でも隙を見せれば、ほら、この剣で」
と腰の飛鳥剣を指さす。グレコは覚悟を決めた。
「いいだろう……だがよ、その後は?」
「その後とは?」
「おめえは伯爵にあの|娘《こ》をさし出すつもりだろうが、おれはそうはさせねえためにこんな苦労をしてるんだ」
「なら、連れてお逃げなさい」
麗銀星はあっさりと言い放った。きょとんとするグレコへ、
「私は、あのダンピールを倒すと約束しただけです。娘が誰のものになろうと知ったことじゃない。その件はあなたと伯爵の問題でしょうね――なんなら、同じ人間同士、あなたたちが伯爵の手から逃げおおせるよう、辺境にちらばった私の仲間に口をきいてあげてもいいのですよ」
「ほ、本当かい」
グレコはすがる口調になった。ドリスをうまく連れ出したとして、貴族の追撃をどうやってふり切ったものか、それも焦慮の的だったからだ。
それにしても、麗銀星がこんなおかしなことを言い出したのは何故なのか?
彼もまた、「時だましの香」を手に入れたとして、それだけでDを倒す自信がなかったのである。
超人的と頭目たる彼も認めていた三人の配下を、公言通り一人十五秒もかけずに葬り去ったあの凄烈非情の剣技、腹を刀身に刺し貫かれてなお起きあがった不死身ぶり――思っただけで肌に粟が生じる。確実の上にも確実を期すために、彼は眼前の愚かな小悪党を利用することに決めた。Dさえ倒せばあとは無用の長物、蟻のごとくひねりつぶせばよい。
「では、交渉成立ですね」
花も恥じらうような美しい笑顔を見せて、麗銀星は片手をさし出した。
「う……よし」その手を握ろうとしてグレコはためらった。「だがよ、おめえはまだ信用できねえ。断っとくが、おかしな真似したら、蝋燭はその場で始末するぜ」
「結構ですとも」
「なら、よかろう」
ふたりは固く握手した。
丸い月が出た。異様に大きく白々として、見上げるものすべての胸に不安の波風を立てずにはおかぬ不気味な月であった。
農夫のモリス爺さんは、ふと冷気を感じて眼を醒ました。身を起こし、ベッドから寝室の窓辺を見て、爺さんは髪の毛が逆立つのを覚えた。固く鍵をかけたはずの窓が開いている。
だが、爺さんを恐怖させたのはそのことではなかった。
両親を事故で失ってから手塩にかけてきた孫娘のルシーが、幼いネグリジェ姿で窓辺に立ちつくし、うつろな眼で爺さんの方をじっと眺めている。その顔は、窓からさし込む月の光よりも白かった。
「ルシー、ど、どうしただ?」
孫娘の喉からふた筋の赤い線が流れているのに気づき、爺さんはベッドの上で凍りついた。
「わしは……リイ伯爵だ」
とルシーがつぶやいた。男の声で!
「……ドリス・ランを渡せ……さもなくば……今日も、明日も……夜の訪れる限り、生ける死者が増えるだろう……」
そして、孫娘は床に崩折れた。
夕食からDにまといついて離れなかったダンも、睡魔には勝てず部屋へ引きこもり、ドリスも寝室へ消えて、白い月光のみなぎる居間にDのみが残った。奥の部屋は狭いからと、最初の晩から居間に寝泊まりしているのである。長椅子に横たわったその両眼は冷え冷えと冴えていた。時刻は1100|N《ナイト》に近い。
白い光が揺れた。
寝室のドアが開き、ドリスが姿を見せた。薄手のバスタオルで胸から太腿までを覆っている。音もなく居間を横切り、長椅子の前に立った。豊かな胸が起伏している。ふたつほど大きく息を吸い込んで、ドリスはバスタオルを落とした。
Dは動かず、まばたきもせず、少女の裸身を凝視していた。ほどよいくびれと肉づきの身体は、女のなまなましさをまだ備えていないが、男に息を呑まさずにはおかぬ処女特有の青い妖艶さに満ちていた。
「D……」
ドリスの声が喉にからんだ。
「仕事はまだ済んでいない」
「先払いするわ。受け取って……」
何か言おうとするより早く熱い肉がどっとのしかかり、かぐわしい息がDの鼻孔をくすぐった。
「おい、おれは……」
「伯爵はまた来るわ」ドリスはあえぐように言った。「今度こそ決着がつく――そんな気がするの。あなたへの報酬、払うことも受けとることもできなくなるかもしれない――抱いてもいい、血を吸ってもいい――好きにして」
Dの手が少女の長い髪をなであげ、隠れていた顔を夜気にさらした。
唇が重なった。
そのまま数秒――。ふとDが身を起こした。
窓の方に眼を走らす。門の方向であった。
「どうしたの? 伯爵?」
ドリスの声も緊張していた。
「いや。――気配はふたつだ。ひとつはふたり組、もうひとつは――これは多いな、五十人、いや、百人近い」
「百人!?」
「ダンを起こせ」
ドリスは寝室へ消えた。
農園の門近くで、ふたつの人影が不意に馬を停め、草原の奥をふり返った。村の方角から無数の光点が揺らめきつつ近づいてくる。耳を澄ますうちに、おびただしい馬蹄の響きに混じって怒号に近いざわめきがきこえた。
「なんでしょう?」
とつぶやいたのは麗銀星である。
「村の連中だな。なんかあったんだ」
グレコがおどおどした眼つきで光点を眺めながら言った。|松明《たいまつ》の炎である。
「とにかく、隠れて様子を見る手ですね」
ふたりは素早く、農園の柵の影に溶けこんだ。
待つほどもなく、闇をついて、村人の行列が農園の入り口に集結した。
グレコが眉をひそめた。先頭に立つのは父親のローマン村長であった。禿頭から湯気をたてている。列の周囲は、石弓やレーザー・ライフルで完全武装した村長家の使用人が囲み、村人たちの手にも、槍やライフルが握られていた。
半数以上が、まるでベッドから叩き起こされたみたいな、パジャマ姿だったりサンダル履きなのが、ユーモラスな中にも事態の異常さを物語っている。どの顔にも憎悪と恐怖の影が濃い。
|暴徒《モッブ》であった。治安官の姿はない。
「ドリス――ドリス・ラン。|障壁《バリヤー》をはずせ」
村長が門の前で怒号した。
母屋の窓に明かりがついた。
少しして、玄関のポーチにふたつの人影が浮かび上がった。
「何の用だい、こんな真夜中に! 村中で押し込み強盗をおっぱじめたの!?」
ドリスの声だ。
「いいから障壁をはずせ! 話はそれからだ」
村長が怒鳴り返した。
「もうはずしてあるわよ、ノータリン。朝までそこにいる気なの!」
村長のまわりから数条の火花が走り、柵の鎖が溶けて垂れ下がった。
どっと人影が中庭に溢れた。
「そこでお停まり! それ以上近づくと容赦しないで射つわよ!」
ドリスの叱咤より、肩づけされたレーザー・ライフルより、背後に立つDの姿に|気圧《けお》されて、狂気の群衆はポーチの三メートルほど手前で踏みとどまった。
集団を威圧するには、暴徒の中心人物に狙いを絞り、徐々に周辺を切り崩していくこと――父の教え通り、レーザー・ライフルの銃口をピタリと村長の胸板へ直線で結び、ドリスは一歩もひかぬ決意を全身にみなぎらせてたずねた。
「さあ、答えてもらおう。何の用? それと、治安官はどうしたの? 断っとくけど、あの人なしじゃ、どんな文句をつけられたって色良い返事をする義理はないからね。あたしもダンも、税金は払ってるのよ」
「邪魔ものは一発かまして牢にぶちこんである。解任はおまえたちの始末が済んでからだ」
憎々しげに言いつのり、村長はドリスをにらみつけたまま片手をふった。
「さあ、見せてやれ」
人混みをかき分けて、白髪の老人が進み出た。両手にお下げ髪の少女を抱いている。
「モリス爺さん、ルシーがどうか――」
言いかけて、ドリスは言葉を呑み込んだ。少女の白蝋のごとき首筋から、忌わしいふた筋の血の糸が。
「まだ、いるぞ」
村長の声を合図にもうふた組、痛ましいカップルが前へ出た。
粉屋のフー・ランチューと妻のキム、猟師のマッケン夫婦――どちらも三十代のカップルだが、妻の方は村でも評判の美人だ。そのふたりが、夫の腕に支えられたまま虚ろな眼を空に向け、喉から鮮血をしたたらせている姿に、ドリスはすべてを悟った。
「伯爵だね――なんて事しやがる……」
「そうだ」マッケンがうなずいた。「おれたちは仕事の疲れで早く寝室へ入った。少しして、なんとなく肌寒いんで眼を醒ますと、隣にいるはずの女房がなんと、開け放たれた窓のきわに立って、燃えるような眼でこっちをにらみつけてる。何事だと跳ね起きたら――」
粉屋のランチューが言葉を引きとった。
「いきなり女房が男の声で、『ドリス・ランを渡せ。さもなければ、おまえの女房は永久にこのまま生きも死ぬもならぬ』――こう言っただよ」
「言い終わった途端、ひっくり返っちまって、それきり動きもしねえ、声も出さねえ」
マッケンの声は悲鳴そのものであった。
「あわてて脈とったら、ぴくり、ともしねえ。息もしてねえ。そのくせ心臓だけは動いてるんだ」
「わしゃ、グレコの言うことなど信じなかった」とモリス爺さんも言った。「よしんば吸血鬼に噛まれたとしても、おまえのこった、自分の始末は自分でつけると思っとった――いいや、できることなら、老いぼれの力を貸してご領主を討つ手伝いをしてもいいとさえ思っておった。それが、どうじゃ、おまえの代わりに、孫が、ルシーが……この|娘《こ》はまだ五歳じゃぞ!」
涙混じりの悲痛な老人の訴えに、ドリスの銃口が徐々に下がっていった。張りを失くした声で、
「で、どうしろというの?」
村長は貫くような視線をDに移した。禿頭をなでて、
「まず、後ろの若造をこの農園から追い出せ。次に、おまえは収容所へ入れる。ふんづかまえて伯爵の貢物にするなどと薄情なことは言わん。だが、村の掟には従ってもらおう。伯爵はそのあいだにわしらの手で片づける」
ドリスは動揺した。村長の提案はそれなりに筋が通っている。彼女が伯爵に噛まれながらも収容所行きを免れているのは、フェリンゴ医師と治安官の助力があったからだ。
いま老医師は亡く、治安官はいない。あるのは彼女の身代わりになった三つの生ける屍と、憎悪に満ちた村人の眼であった。ライフルが力なく床に垂れた。
「連れて行け!」
村長が勝ち誇って命じた。
そのとき――。
「どう片づける?」
ドリスと村長の対話のあいだじゅうひっきりなしにつづいていた群衆のざわめきが、ぴたりとやんだ。憎しみ、恐怖、脅え――未知なるものへのあらゆる感情のこもった視線をあびながら、吸血鬼ハンターDは、いま孤剣を肩に、ゆっくりとポーチの階段を降りていった。
群衆は声もなく後ずさった。村長を除いて。Dの瞳に見据えられた瞬間、彼は金縛りになってしまったのである。
「どう、片づける?」
村長まで数歩の地点に立ち止まり、Dはまたきいた。
「そ、それは……つまり……」
Dの左手[#「左手」に傍点]が伸び、その掌[#「掌」に傍点]が村長の|蛸《たこ》みたいな額に張りついた。一瞬とぎれた声はすぐにつづいた。
「……収容所に……ぶちこみ……そのあいだに交渉する。今後一切、村には手を出すな……さもなければ、ご執心の娘を殺す……と」
村長の顔は歪み、額には汗が玉を結んだ。まるで、身体の内側で何か巨大な力に抵抗しているかのようであった。
「……話がつけば……伯爵を倒したとでも言って……ドリスを解放する……あとは、仲間にするなり、血を吸い殺すなり、好きにすればいい……この若造は……邪魔だ。……これ以上、ドリスを助けられたら……」
「正直なことだな」
手は離れた。村長は憑きものが落ちたような顔で数歩退った。汗の玉がどっと顔の上を流れ落ちた。
「おれは、このお嬢さんに雇われた」Dは陰々と言った。「まだ役目を果たしていない以上、ここから出るわけにはいかん。今のご大層な告白をきいてはなおさらのことだ」
突然、口調は凛然たるものに変わって、
「黙っていても“貴族”は滅ぶ。滅ぶしかないもののために、幾たび幾人、同胞を犠牲にするつもりだ? それが“人間”の心的水準ならば、断固としてこの|娘《ひと》は渡さん。孫を奪われ、泣くしか能のない老人も、妻を汚され、その代償に別の娘をもって代えようとする夫も、いや、この村もおまえたちも、すべて地獄の業火に灼かれるがよかろう。人間、貴族、ともに相手だ。いかな凄絶な|屍山血河《しざんけっか》をつくろうともこの姉弟はおれが守ってみせる――不服か?」
人々は見た。闇にきらめく真紅の瞳を――吸血貴族の眼を!
Dが一歩進み、群衆が本能的恐怖にうたれて声もなく後退したそのとき、
「不服ですね」
大声というにはあまりに美しい声が、全員を立ち止まらせた。
「誰だ――?」
「道をあけろ!」
列の最後尾から次々に声があがり、左右に分かれた人混みのあいだから、夜目にもまばゆい美形の青年が進み出た。顔の美しさもさることながら、左右両腕の異常さが人々の目を引きつけた。右手は肩からすっぽり戦闘服の腕部らしい金属パーツを装着し、左腕は肘の先からない[#「ない」に傍点]。その左手をぐっと突き出し、
「昨日のお礼に来ましたよ」
なごやかな挨拶としか思えぬ声で麗銀星は言った。
「お、おまえは!?――みんな、警備隊を襲ったのはこいつだよ!」
ドリスの叫びに、村長以下全員がどよめいた。麗銀星は平然と、
「はて、証拠がありますかな? 警備隊の痕跡――馬の死骸でも見つかりましたか? 私とあなたのあいだには楽しからざる|相剋《そうこく》がありますが、それ以外の汚名を着せられては迷惑です」
ドリスは歯を食いしばった。警備隊の件は麗銀星に明らかな分がある。被害者なき犯罪は成立しないのだ。治安官さえいれば、重要参考人として即座に拘引するだろうに。
「さて、村長さん。――こんな場合に礼を失してはおりますが、ひとつ提案させていただけませんか?」
白い歯がきらめき、村長もぎくしゃくと微笑み返した。麗銀星の笑顔の虜になったものは、その下の悪魔の素顔に永久に気づかない。
「な、なんだね?」
ときいた。
「今この場で、この方と私を戦わせて下さい。――彼が勝てばこの一家には手を出さない、私が勝てば娘さんは収容所行き。いかがです?」
「い、いや、それは……」
村長はためらった。どこの馬の骨とも知れぬ男、しかも、どえらい嫌疑をかけられている男に、こんな重大な決定を托すのは立場が許さなかった。
「それとも、あなた方で何とかできますか? 明日の晩になれば、また犠牲者が増えますよ」
村長はついに決断した。村人はみなDの気魄に|圧《お》しひしがれている。ここはまかせてみる手だった。
「よかろう」
「もうひとつ」麗銀星は戦闘服の指を一本立てた。もちろん、グレコの品である。ドリスにそうとは気づかせぬよう、腕部のみ装着してきたのだ。グレコとのつながりがばれては、「時だましの香」の存在を感づかれてしまう。
「――近隣の村へ配布する、私の手配書も撤回していただきたい」
「よかろう――承知だ」
村長は呻くように言った。この美青年に頼る他ない以上、要求はすべて呑まざるを得なかった。
「あなた方も、いいですね?」
麗銀星はDとドリスの方を向いてきいた。
「結構よ。――残りの手も落とされるのがオチだけど」
ドリスが答え、Dは「どこでやる?」ときいた。相手が貴族にとり入っていることも、いたいけな少年を絞め殺そうとしたことも言わぬ。
「ここで。勝負はすぐつきます」
人々の動きを月だけが眺めた。
ポーチの前、三メートルの距離をへだててふたりは相対した。
中庭を埋めた村人も、ポーチ上のドリスとダンも固唾を呑み、ふと申し合わせたように深い息をひとつ吐いたとき、麗銀星の右腰から三本の飛鳥剣がとんだ。戦闘服の筋力増幅機能は、もとよりどれ一本も人々の視線にはとらえさせず、しかし、そのどれもがDの眼前で、閃く銀光に打ち落とされていた。
間髪入れず、Dは麗銀星の頭上に舞った。大上段からふり下ろされる刃に脳天を割られた美青年の姿を幻覚して、誰もが「おお」と叫んだ刹那、勝利者たるハンターは空中で大きくよろめいた。
なんでこの隙を見逃そう。再度、麗銀星の右手が動き、白い光が流れた。それはベルトの背にはさんであったグレコの白木の杭であった。平常の麗銀星の手並みなら、苦痛のさなかでもなんとかかわせたかもしれないが、戦闘服のスピードが加わってはいかんともしがたく、長剣をふり上げた姿勢のまま心臓を背中まで刺し通されて、Dは淡い血の霧を降らせつつ、どっと大地に落下した。
「やったぜ!」
歓喜の声は、村人でも麗銀星のものでもない口から発した。人々は凄絶な死闘の結末より、夜が昼に変じたような違和感にとまどっていたのである。
「グレコ!――そうか、おまえ、こいつとグルだったんだね!」
柵の前で蝋燭片手にとびはねる人影に、憤怒の声をあげて狙いをつけたドリスのライフルは、だしぬけに凄まじい衝撃を銃身に受けてはね上がり、あまつさえ、持ち主の額に激突した。
「今だ、ひっつかまえろ!」
昏倒したドリスとすがりつくダンのところへ駆け寄る村人たちを薄笑いで見送りながら、麗銀星は、手元へはね返ってきた最後の飛鳥剣を腰に戻し、戦闘服を脱ぎ捨てた。
やがて、ぐったりとした姉とわめき散らす弟とを無理やり馬に乗せて、村人たちは門を出ていった。
「何をしてるんだい?」
農園の裏に隠してある馬のところへ行きかけてグレコは顔をしかめた。すでに息絶えたDの身体の上に麗銀星がかがみこんでいる。
左手を持ち上げ、手の甲や|掌《たなごころ》へ執拗な視線を送っている。
「わかりません……」
麗銀星は呻いた。
「チューラの蜘蛛を吸い込み、村長の腹の中を暴いたこの左手……必ず何か秘密が隠されているはずです」
言うなり、腰の飛鳥剣を取り、左手を一気に肘から切断してのけたのには、グレコも目を剥いた。彼はそれをかたわらの植え込みへ投げ捨てた。
「こうでもしなければ安心できません。それに、これでおあいこですからね」
冷ややかに言い放ち、自分には眼もくれず門の方へ歩み去る麗銀星へ、
「おい、待ちなよ。村で一杯やろうじゃねえか。おめえと組みゃでかい仕事ができそうだぜ」
とグレコがなれなれしく呼びかけた。
麗銀星は立ち止まり、ふり向いた。その眼つきがグレコを釘づけにした。
「今度会ったら生命はないものと思いなさい」
そして彼は歩み去った。
「けっ、なんでえ、気取りやがって」
精一杯毒づいて、グレコも入口の方へ行きかけた。
足がぴたりと止まった。
総毛立った顔つきでふり向く。
「――気のせいか……」
つぶやき、彼は早足に門の外へ出た。
ふくみ笑いをきいたような気がしたのである。それも、Dの死体からではなく、切断された手首が投げ捨てられた暗い植え込みのあたりから……。
「ふふふ……すべて予定通り事が運んだわ。一日遅れは残念じゃったが、愛おしさもそれだけ増えるというもの」
昼間グレコと麗銀星が邂逅した丘の上に立ち、電子双眼鏡を眼から離して、低く笑った声がある。夜目にも赤い唇から突き出した白い乱杭歯――マグナス・リイ伯爵であった。
背後の木陰に馬車が停まり、月光がそのかたわらに立つ人狼ガルーのインバネス姿を浮かび上がらせている。もちろん、今は顔も形も人間だ。
「で、いかがなさいます?」
ときいた。
「言うまでもない。あのちっぽけな村へ押しかけ、娘をこの手にさらうのじゃ。村長め、娘を収容所とやらへ閉じこめて、その間にわしと交渉する腹だろうが、そうはいかぬ。これまで手を焼かせた腹いせに、明日の晩も明後日の晩も、生ける死者をあの村に増やし、貴族の恐ろしさを子々孫々まで語り継がせてくれる。わしたちの|華燭《かしょく》の典の引き出ものじゃ。――帰ったら、ロボットどもに命じ、すぐに式典の用意を整えるのだぞ」
「ははっ」
深く頭を下げる召使いに|鷹揚《おうよう》にうなずき、馬車に乗り込もうとして伯爵はふとたずねた。
「――ラミーカはいかがいたしておる?」
「はっ。仰せの通り、“時だましの香”による罰をお与え申し上げたところ、大層なお苦しみようで、私めが退出するときも部屋の床にふせっておられましたが」
「そうか、ならばよい。これに懲りて、もはや父たるわしに逆らう気など起こさねば、万事丸く収まるのだが。わしはただ、あの娘を妻にしたいだけなのじゃ。毎夜、毎夜、蝋のごとき白い喉からほとばしる血潮を吸って生を永らえる。かりそめの客?――御神祖の言葉もわしにだけは当てはまらん。他の連中は滅びようとも、わしとあの娘だけは、この土地で人間どもを恐怖と力で縛りつけ、永劫に栄えてみせようぞ!」
ガルーは再び大きくうなずいた。伯爵は馬車の扉を内側から力強く閉めた。
「ゆけ! 夜明けは近いぞ。もっともさほど焦らずとも、“時だましの香”は用意してあるがの」
このとき、伯爵もガルーも気づかずじまいだったが、麗銀星の白木の杭がDを倒したすぐあとで、農園をはさんで彼らと反対側の林の中から、一台の馬車がランシルバの村の方角へと走り去ったのである。
グレコが立ち去ってからしばらくの間、農園を支配するものは涼やかな風と月の光のみであった。
牛たちも寝静まったか、一片の物音もしない静寂の闇に、ふと不気味なふくみ笑いが湧いた。
「けけけ……久方ぶりに大きな出番が来たか。蜘蛛を食ったり、禿ちゃびんの腹の中を告白させたりでは、わしともあろうものが、いくらなんでも役不足――もっとも、こやつもわしも、このまま放っておかれた方がことによったら|幸福《しあわせ》かもしれんが、まだこの世に未練はあるでな。それに、あのけなげな娘と坊主に、ちいっと情が移りよった。業腹じゃが、もういっぺん力を貸してやろうかい」
こやつとはDのことだろうか。
声は植え込みの|内側《なか》でした。同時に、何やら動く気配が。
ああ、手だ。手の指だ。麗銀星に切り取られ、投げ捨てられたDの左手首が、それ自身意思を持つかのごとく、五本の指を動かしている。
手は甲を下に、掌を宙に向けていた。と、その掌の表面がざわざわと波立ち、内側から一個の肉腫状のものが、ぐーっと盛り上がった。いや、戦慄のときは、次の瞬間であった。みるみるうちに、その表面に数条のくびれが走り、肉がくぼみ、あるいは膨れ――描き出したのだ、一個の人間の顔を!
ややひん曲がった鷲鼻にはちゃんと小さな鼻孔がふたつ開き、皮肉っぽい唇が歪むと、米粒みたいな歯が見えた。そして、この不気味な人面のできもの[#「できもの」に傍点]は、ひとつ息を吸うや、閉じられた瞼をぱっちりと開いたのである。「さて、始めるか」
声を合図に腕が動きはじめた。神経も腱も切断されているというのに、奇怪な|人面疽《じんめんそ》は、それらを腕の中でのみ再生し、自在に操る能力を有しているらしかった。
あお向けの指が空を泳ぎ、ちょうど真上に垂れていた植え込みの枝の一本をつかんだ。手はそれにすがって自らを持ち上げ、パタリと手の甲を上に地に墜ちた。
「では、小旅行じゃ」
五本の指は蜘蛛の足みたいに曲がり、手首を宙で支えた。重い上腕を引きずりながら、器用に植え込みをかき分け、Dの方へ這いずっていく。
左肘の切断面まで来ると、指はまた細かく動いてまわれ右をし、ふたつの切断部分をぴたりと結合させた。
Dがあお向けに倒れているので、自然に手の甲は下になり、人面疽は異形の顔を公然と月光にさらすことになった。ここで、「彼」は、実に奇怪な行動をとりはじめた。
深呼吸でもするように大きく息を吸い込んだのである。しかし、掌のそのまたひとまわり小さな寸法しかないのに、これはまたなんと凄まじい「肺活量」であることか。空気はごおごおと音をたてて、小さな口に流れこんだ。
たっぷり十数秒も驚くべき吸引力を示してから、ひと呼吸おいて同じ行為を三度繰り返し、人面疽は次の、もっと驚嘆すべき行動に移った。
器用に肘から先を反転させ、掌を下向きにするや、指を地面に食い込ませて土を掘り出し始めたのである。
鍛え抜かれたDの指のせいもあろうか、固い土も泥みたいにやすやすと掘り返され、やがてこんもりと|土塊《つちくれ》の山が盛り上がると、掌の顔はぐいとそれに自らを押しつけた。
静寂のさなかに、異様な|咀嚼《そしゃく》音がきこえた。
できものが土を食っている!
月光の下で奇怪な食事がつづき、数分後、土の山は完全に消滅した。どこへ? 人面疽の口へ。だが、一体どこに貯蔵されるのか? 腕自体の体積に変化は生じていない。それなのに、空気も土も、すべて本体から切り離された腕の中に吸収されたのだ。何のために?
下を向いた掌が、小さくげっぷの音をたてた。
「水と火がないので少々時間がかかりそうだがやむを得まい」
ひとり言みたいに言うと、腕全体がぬーっとDの胸元へ持ち上がった。
そんなはずはない! 切断面と切断面を結合させたものの、すべての血液が流れ出した今となっては接合は不可能だ! しかし、腕は上がった。
そして、人面疽はひと言、
「指よりこっちの方が早いでな」
と言うなり、カッと口を開け、Dの胸から突き出た杭の端に噛みついたのである。
「くお――っ!」
異様なかけ声とともに、杭は一気に引き抜かれていた。
手首のひとふりで杭を投げ捨て、「彼」はまたも宙をあおいだ。
ごおっと空気が鳴った。猛烈な吸引ふたたび、いや、これは明らかに土塊と同じ食事の一環であった。
見よ、吸い込むたびに人面疽の喉の奥に青白い火影が揺らぎ、三呼吸めには、ついに口と鼻から炎が噴き洩れたではないか。
俗に地水火風を万物の四大元素と呼ぶ。この人面疽は、うちふたつ――地と風のみを吸い込み、手首の内側で熱エネルギーへと変じ、さらには生命エネルギー、いや生命そのものと変えてDの体内へ送りこんでいるのであった。
吸血鬼ハンターD――この美しい若者は、その左|掌《てのひら》に生きた生命エネルギー製造工場を持っていたのである!
いつしか風は途絶え、月のみいよいよ冴える閑寂な農園の一角で、不気味な奇蹟が実現しつつあった。
ああ、吸血鬼の血を引くものにとって絶対の致命傷と言われる白木の杭の残した傷痕が、徐々に癒着しふさがっていく。
[#改ページ]
第八章 剣光、秘儀を斬る
「畜生、出せ、出せ、出せーっ!」
「覚えといで、この子を自由にしないと、貴族の仲間になってから、毎晩おまえンところへ化けて出てやるから!」
ばん! と力いっぱい扉を閉めて姉弟の恫喝を断ち切り、男は狭いオフィスに戻った。ついさっき、村長以下のお歴々が家路についたところである。粗末な机と椅子しかない「収容所」の中にも、まだざわついた空気が残っていた。
「なんて姉弟だ。どっちかひとりは泣いて頼むかと思や、ふたりして大の大人を脅迫しやがる」
男はぶつぶつ言いながら木づくりの椅子を引いて、「|檻《おり》」と呼ばれる獄舎とオフィスをへだてる、こればかりはスチール製のドアの前に陣取った。
「檻」は超密度鋼の格子で囲まれた十個の独房である。内部はゆったりした造りなので、ドリスとダンはふたりそろって押し込められていた。本来、ダンは無関係で、ドリスが拘留されているあいだ引き取ろうと申し出た親切な家族もあったのだが、本人が姉ちゃんと一緒じゃなきゃ死んでやると虎みたいに暴れるし、放っておいたら収容所破りもしかねないので、こういう次第と相なったわけである。
貴族に血を吸われた犠牲者は、症状の如何にかかわらずここへ拘留され、その間に貴族が倒され、呪いが解ければよし、さもなければ一定期間ののち釈放され、村から追い出される仕組みになっている。
一定の期間とは、業を煮やした“貴族”が別の獲物を襲うまでの日数で、これは「辺境」の村々によって異なり、ランシルバでは約三週間である。かなり長期にわたるのは、これまでの経験から言って、貴族が血を吸い切るまでに襲う回数が平均三回、その間のインターバルが、三日から五日に及ぶ場合があるからだ。
もちろん、どの村でもその間貴族は収容所を襲ってくるから、大抵は腕自慢の男たちが武装して護衛の任にあたる。
貴族相手だから、どの村も収容所の武装には出費を惜しまず、現にこの全長十メートルに満たないカマボコ型の収容所のまわりには、自動鉄槍発射器五台、リモコン石弓十|挺《ちょう》の他、『都』から直輸入の対貴族車輛用レーザー砲三基、火炎放射器二基が常備されている。バリヤーも欲しいのだが、『都』にも在庫は乏しいらしく、闇値で交渉してもなかなか手に入らない。
男はドリスの農場へ押しかけたひとりであった。村長が彼ひとりを残して去ったのは、今夜三人もの血を吸った以上、伯爵がそうあわててドリスを襲う気遣いはなしと踏んだからである。いざとなったら、サイレンひとつで村中を叩き起こせるし、外の兵器はすべて机上のコントロール・パネルで操作可能だ。何よりも、あと四時間もすれば東の空が白くなる。男に不安はなかった。
うつらうつらし始めたとき、ドアを叩く音がした。
男はパネルのところへ駆け寄り、キイをひとつはじいた。入口のTVアイを通して、小さなスクリーンがグレコの顔を映し出した。
「なんの用だ?」
男は壁に通じる伝声管に向かって言った。
「開けてくれ。ドリスの顔をひと目見にきたんだ」
「駄目だ。おめえは入れるなって親父さんのお達しだよ」
「かてえ[#「かてえ」に傍点]こと言わずに頼むよ。おれがドリスにほの字[#「ほの字」に傍点]なのは先刻ご承知じゃねえか。ここだけの話だがよ、おれぁ、夜が明けたら親父の命令で叔父貴んとこへやられちまうんだ。惚れた女に会えるのも今夜だけってわけよ。なっ、この通り、ただ[#「ただ」に傍点]とは言わねえからさ」
グレコはポケットから数枚の金貨を取り出し、TVアイの前で振ってみせた。五年前から革命政府が発行中の新ダラス金貨ではない。貴族通貨のアリストクラート・コインであった。革命成功の当初、新政府の経済政策が軌道に乗った時点で、全国的に大量処分された品である。闇ルート価格は一枚千ダラスを下らない。辺境での半年分の生活費にあたる。
黄金の光をしばらく見つめてから、男は無言でキイを倒した。ドアの電子錠がはずれ、ハンドルがまわってグレコがのっそりと入ってきた。
「済まねえな――ほうらよ」
机の上に三枚の金貨が音をたてて転がった。
男はドアを閉めるのも忘れて一枚を取りあげ、それ[#「それ」に傍点]とグレコの顔にせわしなく視線を行き来させていたが、じきにうなずいた。三枚ともシャツの胸ポケットにおさめながら、
「いいだろ――だけど面会時間は三分だぜ」
「五分にしてくれよ」
「四分だ」
「わかったよ――ごうつくばりが」
男は肩をすくめ、ベルトにつけた鍵束をはずしながら「檻」のドアへ向かった。ジャラジャラと音をたてて鍵束から一本を選び、鍵穴にさしこむ。こちらは自動開閉というわけにはいかない。
「なあ――」
ふり向いた男の眼に、異様に血の気を失ったグレコの顔と胸元へ流れる白い光が映った。
心臓をえぐられて即死した男の身体を部屋の隅に横たえると、グレコはさしこまれたままの鍵束でドアを開け、「檻」の中へ入った。ナイフはベルトのケースに戻してある。
「グレコ!」
狭い通路をはさんで左右につけられた「檻」の左端、いちばんドアに近い房からドリスの叫びがあがった。
「この野郎、首でもねじ切られに来たのかい?」
「黙れ」
ドリスは沈黙した。いつになく|禍々《まがまが》しいグレコの表情に不吉なものを感じたからである。こいつ、何かしでかしたね。
「いま出してやる。おれと一緒に逃げろ」
鉄格子の向こうで姉弟は顔を見合わせた。ドリスが低い声で、
「あんた……まさか、プライスを……」
「ああ、|殺《ばら》したさ。奴だけじゃねえ、親父も|殺《や》った。家へ帰るなり鞭で殴りつけやがったもんでな。糞ったれ。邪魔ものを片づけてやったおれの恩も忘れやがって。――まあ、それはいい。とにかく、今夜中にこの土地を離れるんだ。来るな?」
獣じみた眼光に声が粘ついた。行動の是非はともかく、ここまで惚れた女に肩入れするとはあっぱれとさえ言えるだろうが、ドリスはきっぱりと、
「ごめんだわ。あんたと一緒に逃げるくらいなら、伯爵の城へ行くよ」
「なんだと……」
少女の眼に涙が光った。恨みの涙であった。
「あんな人殺しと組んで、よくも……よくもあの人を……。待っといで、あたしの身がどうなろうと、必ずおまえも地獄へ送ってやる」
前から気の強い少女ではあったが、その美しい瞳にこれまでとは根本的に異なる凄愴な光が宿っているのを見て、グレコはすべてを断念した。
「そうかい……おれより貴族の方がましだってのか」
立ち上がった顔からはあらゆる表情が消えていた。眼の光だけが異常に強い。
「こうなったら、いくところまでいくしかねえ――あの若造とは冥土で一緒になりな」
彼は一歩退がって、腰から爆裂拳銃を抜いた。ダンが「姉ちゃん!」と叫んで首っ玉にかじりつくのを、ドリスは必死で背後にかばい、
「狂ったわね――グレコ」
「なんとでも|吐《ぬ》かせ。貴族だろうと何だろうと、他の男に、おめえを取られるくらいならこうしてやる――その小憎らしい餓鬼と仲良くあの世へ行きな」
「お待ち!」
ドリスが叫んだ意味を命乞いと取ったのが、グレコ最後の理性であった。
爆裂拳銃を構えた手首が、背後から何ものかにつかまれた。
触れた――としか言いようのないつかみ方であったのに、グレコの指はその途端、引き金を引く力さえ失った。手首から異世界の冷気が全身に流れ込んでゆく。
かぐわしい、死の香りのする吐息が鼻孔をくすぐり、冷ややかな闇の言葉が|耳朶《じだ》を打った。
「あのとき……わたしを殺しておくべきであったな」
ラミーカの白い顔が、グレコの浅黒い首筋に覆いかぶさった。
ドリスとダンが恐怖に凍りついた義眼みたいな瞳で見守るなか、グレコの顔はまるで霜に覆われたように青白く変わっていった。
数秒後、黒いドレスの娘は静かに男から離れ、「檻」に近づいた。
闇の中でさえ|仄《ほの》光って見えるほどの美貌の持ち主だけに、白い口元から血の糸が流れるその姿は幽玄としかたとえようがない。まだ飢えを満たしきらぬのか、真っ赤な瞳で|一瞥《いちべつ》されドリスとダンは心底震えあがった。
凄まじい恐怖の表情をとどめたグレコの身体は、一滴の血もあまさず吸いとられた抜け殻と化して床にころがっている。
「……おまえは……」
震えをかくせぬドリスの言葉に、
「お逃げ」
とラミーカは促した。狂気の色がその眼から消え、むしろ哀愁を帯びた顔つきになった。
「え?」
「お逃げ。もうじき父上がやってくる。そうしたら、私にも手の出しようがない」
「でも、……これじゃ出られないよ。鍵を取っておくれ」
ダンが鉄格子をつかんで言った。八歳の柔軟なこころは、眼前の吸血鬼少女を味方と判じたのである。
風に吹かれただけで折れそうな繊手が鉄格子をつかんだ。吸血鬼の怪力! ぐいと引いただけで、超高密度の格子は、|鋼《はがね》の止めネジを四方にとび散らせつつ、天井と床から剥ぎとられてしまった!
「す、凄えや……」
眼を丸くするダンをなおも背中にかばいながら、ドリスは、はずした格子を別の「檻」にたてかけているラミーカにたずねた。
「本気なのね――本当に逃がしてくれるのね? でも、どうしてなの?」
ふり向いたラミーカの夕顔みたいな顔に悲哀の色があった。
「あの方は死なれた……最後までおまえたちを守って。おまえが父上のものになればきっと悲しまれるだろう。……私は、死んだ方をこれ以上悲しませたくはない……」
ダンに手を引かれて通路へと出ながら、ドリスは、この恐るべき少女が自分と同じ心を抱いているのを知った。
「あなた……あの人を……」
「おゆき――早く」
三人はオフィスへ出た。
部屋の真ん中に、黒衣の影が|忽然《こつぜん》と立っていた。
「――父上!」
ラミーカがひきつるような声をあげた。
「ええい、まだか!」
Dの胸に顔を押しつけていた人面疽が、いまいましげに吐き捨てた。
「剣や槍の傷ならともかく、白木の杭を食らっては、心の臓もよく言うことをききよらん。鳴れ。ひとつ脈を打てばよい――鳴ってくれ」
自分が浮き出ている掌に拳を握らせ、思いきり胸に打ちつけようとして、「彼」は空中で停止した。
夜空で何かが凝集しつつある。
白い皮膜みたいな半透明の物質が、母屋の上で渦を巻き、その中心でひとつに固まっていくのだ。最後の一片を吸収するや、その光る雲は、半ば透き通った体内に、奇怪な形状の内臓器官らしいものを露出させたまま、すーっと農園めがけて下降してきた。
貴族が放った人工魔のひとつ「|夜の雲《ナイト・クラウド》」である。
元来が単細胞生物からなる複合生命体なのだが、昼は極寒の成層圏に留まり、夜ともなれば、分裂状態で獲物をあさりに地表近くまで降りてくる。
恐ろしいことに肉食性で、犠牲者を見つけるとひとつにまとまり、四方から包むや体内で分解・吸収してしまうという危険な|妖物《ダムド・シング》だ。世間知らずの旅人や、道に迷った子供には大敵中の大敵で、次元渦動獣と並んで「神隠し」の二大原因とされている。ドリスの農園が害を免れているのは、ひとえに電磁障壁のたまものであった。
雲はいったんDの頭上五メートルほどの地点まで下降してきたが、何かかぎつけたものか、ひょいと横へ流れ、家畜小屋の方へ向かった。
扉の前でためらったのも束の間、まるで薄布みたいに平べったく広がったと思うと、扉と壁の隙間からすーっと|内側《なか》へ入り込んでしまった。牛の鳴き声がけたたましく響き、壁が二、三度揺れてすぐ静かになった。
「奴らは大食いだ。すぐ戻ってくるぞ。こら早く動け、腐れ心臓め!」
物言う拳がDの胸を乱打し、空気を吸い込んだ。身体はぴくりとも動かない。
「この、この、この」
見るものがいたら吹き出すかもしれぬ奇怪な、けれど必死なひとり芝居が数分つづいた。
そのとき。――
家畜小屋の扉が内側からぐうっと膨脹し、木片となってとび散った。一瞬おいて、なんともグロテスクな代物が月光の下に現れた。
半透明の雲塊の中で、のたうちまわりながら溶かされていく牛! 皮膚が破れ、赤い肉が溶け、露出した骨も泡みたいにぐずぐずと崩壊してゆく。食道らしい細い|管《くだ》の中を、血も肉も混ぜ合わさった流動物が循環し、雲はかがやきを増し始めていた。食事中なのである。
そいつは家畜小屋の入口で、数秒間ぶよぶよと蠢いていたが、別の獲物に気づいたものか、ずるずるとDめがけて前進を開始した。咀嚼中の牛の重さのせいでかなりスローモーである。
「もう、そこまで来たぞ。こら、動け!」
拳がもうひとつ鳴った。
雲は三メートルの距離まで近づいた。体内で悶える牛の声がきこえた。
一メートル。雲が宙に浮き、Dめがけて跳んだ。
一閃の光がその胴を薙いで通った。
|刃《やいば》は何の手ごたえもなく通過したかと思えたが、真っぷたつに両断されて地に落ちた雲は、分裂現象を起こす間もなく色を失い、白い湯気みたいなものを発散しながら大地に吸い取られていった。牛の残骸だけがあとに残った。
月光をはねとばしつつDは立ち上がった。
「やれやれ、いつもひやひやさせおる」
死から甦ったものを迎えるには不適当な言葉も耳に入らぬがごとく、
「ふたりはどこだ?」
ときいた。
「収容所だろう。どの村でもはずれ[#「はずれ」に傍点]に建っておる」
それきり会話は途絶え、Dは身をひるがえして馬屋の方へ向かった。
丈の高い木が、妖魔そっくりに枝を張り巡らせて月光の訪れを拒んでいる。光といえば、黒い木の根もとのあちこちにぼうっと浮かぶ、ミチシルベと称されるキノコの燐光のみだ。それすらも、圧倒的な闇の密度と質量の前にはあまりにはかなく、たとえ何らかの明かりを持った旅人でも、深夜この森を通って道に迷わずに済むとは思えない。
真昼にも夜が存在すると言われる「ランシルバの森」であった。
その中を、ダンは必死に駆けていた。
ひとりではない。十メートルと離れていない闇の彼方から、肉食獣の唸り声と足音が追ってくる。
正体はわかっている。伯爵の召使い――ガルーだ。
収容所を逃げ出す寸前伯爵に捕らえられ、姉とラミーカは馬車に乗せられたものの、ダンだけはその場に残された。即座に彼は姉の救出を決意し、武器を取りに農場へ向かった。幼いながら、村の連中に救出を頼んでも無駄だと判断したのである。事態は一刻を争う。最短距離は街道を通らず、「ランシルバの森」を突っ切ることであった。姉を想う心が、迷わずそれを実行させた。
ところが、森へ入ってものの一分もたたないうちに、彼は背後に人狼の唸りをきいたのであった。
死を賭したマラソンが始まった。
父や姉と何度か通い、比較的安全な昼間、ひとりで遊んだ覚えもある森だ。ダンは持てる限りの知識を駆使し、曲がりくねった道を選んで走り、木の|洞《ほこら》に忍び、繁みに隠れて不気味な追跡者をまこうと努めた。
しかし、彼が止まれば相手も止まり、走ればまた走り出す。いかな手段を駆使してもその差は広がりも縮まりもしなかった。
ついにダンは「遊ばれ」ていることを察した。その瞬間、けなげな知恵は崩壊し、純粋な黒い恐怖だけが心を占めた。彼は必死で走った。にもかかわらず、背後の追走は相変わらず十メートルの間隔を保ったままやまぬのであった。
心臓が破れかけ、肺は十分な空気を求めてあえいだ。塩辛い涙の味が舌の上に感じられた。もう駄目だと思ったとき、闇の奥に光点が見えた。
出口だ!
希望が力を吹き込んだ。力強く地を蹴った足が不意に何ものかにつかまれた。
「わっ!」
つんのめり、立ち上がろうとして今度は手を引かれた。
「死人の手!」
密集した樹々のあいだから辛うじて洩れる月光がその正体を教えた。大地から青白い死者の手が突き出て、五本の指を不気味に蠢かしている。
いや、それは五枚の花弁だ。ダンを地面につなぎとめたものは、まさしく「死人の手」そっくりの青白い花なのであった。貴族がばらまいた怪植物の内でももっとも安全で奇怪な存在――その所在は知っていたのに、よりによって群生地の真っただ中へとび込んでしまうとは、やはり背後の恐怖に我を忘れていたとしか言いようがない。しかし、誰が八歳の少年を責められよう。
渾身の力をふりしぼってダンは立ち上がった。「死人の手」は彼の右手にすがりついたまま、根こそぎ引き抜かれた。
走り出そうとした刹那、
ぐおお――っ!
凄まじい|咆哮《ほうこう》が背後から襲い、その足をすくませた。
出口も近しと見て、そろそろ恐るべき「鬼ごっこ」のケリをつけんとしたガルーの雄叫びであった。久しぶりに生きた人間に食欲を覚え、伯爵の許しを得てダンを追ってきたのである。
少年の全身から力が脱けた。
――お姉ちゃん。ごめん、おいら、助けられなかった。
悔し涙が頬を伝わった。
そのとき、咆哮がぴたりとやんだ。かわりに明らかな動揺の気配が伝わってきた。
同時にダンはきいた。出口の向こうに遠く、しかし、力強く接近してくる鉄蹄のとどろきを。声はきこえぬ、姿も見えない。しかし、ダンは瞬時に悟った。
「兄ちゃあん!」
希望の叫びが闇をついた。
再び背後から咆哮がとどろき、横手を黒い旋風が吹き抜けていった。
「に、兄ちゃん、気をつけて!」
執拗にからみつく「死人の手」を蹴散らし数秒走った。出口の彼方で凄まじい野獣の咆哮があがり、不意に途絶えた。
つんのめるように森の外へ走り出たダンは、前方の丘陵に月光を浴びて立つ騎影を見た。
その足元に、人狼が倒れ伏している。
Dが走り寄ってきた。ダンと知って馬を降り、
「どうしてこんなところにいる。姉さんは?」
ときいた。
ダンの胸はいっぱいになった。
「やっぱり、兄ちゃん、生きてたんだね。おいら……おいら、兄ちゃんが死ぬわけないって……」
あとは声にならなかった。
やっと落ちついてダンが事情を話し終えると、Dは無言で彼を抱き上げ、馬に跨らせた。農場へ帰れとも送るとも言わない。
草原の彼方、伯爵の城の方へ鋭い一瞥を投げて尋ねた。
「行くか、おれと?」
昨夜、「遺跡」でしたのと同じ質問であった。
「うん!」
少年も他の答えをするはずがなかった。
“貴族”――吸血鬼たちの城には、その|主《ぬし》たちにふさわしい特徴がひとつある。来客、来賓用の豪奢な寝室は万全の備えでも、|主人《あるじ》一家のそれは存在しないのだ。
彼らは最もその身にふさわしい、誇り高き伝説の場所で眠る。
地下の棺の中で。
年|古《ふ》りた土の香に、じめついた空気と微生物の臭気が混じる広大な地下の広場。ここだけはコンピューターの制御を脱した真の過去が眠る空間であった。
その空間に、今夜は絶えて久しい松明の匂いがこもっていた。
全高十メートルはあろうと思われる石壁を巨大な「神祖」の肖像画が覆い、その前にしつらえた真紅の壇上に、黒衣の伯爵と純白のガウンをまとったドリスが立っていた。少女の眼はうつろであった。催眠術にかけられている。
壇の左隣にラミーカの姿があるが、こちらも茫漠たる視線を宙にさまよわせ、父と新たな花嫁の方を見ようともしないのが異様であった。ドリスを逃がそうとした件で父の叱責を受けたことより、もっと大事なものがこの美しい吸血鬼の心の中から消失していたのである。
これから闇なる華燭の典が始まる。
「見よ、あれが今宵からそなたの眠る|褥《しとね》じゃ」
伯爵が指さしたのは、壇の前、石畳の床に安置された二つの黒塗りの棺であった。鷹と炎を|象《かたど》った紋章の下に、右側の棺には「リイ」、左のそれには「ドリス」とすでに銘が刻まれている。「中身は土じゃ。誇り高きリイ家の城が築かれたこの土地のな。夜ごとそなたにも、甘い血の夢を見せてくれるであろう――さて」
伯爵はドリスの顎に手をかけ、白い喉を上向かせた。
「夫婦の契りを交わす前に、不届きな印は消しておかぬとな」
彼はケープの内側に手を入れ、小さな印章を取り出した。棺の蓋に刻まれた紋が四角い表面に彫り込まれている。
「まず右」
白い喉にそれが押しつけられると白煙があがり、ドリスがわなないた。もう一度、やや下方に同じ行為を施し、伯爵は、
「次は左」
と言った。
すべてが終わると、彼は忌わしい唇を花嫁の喉に近づけた。白い煙が立ち昇ったのに、初めて彼がつけたふたつの歯型の他には、しみ[#「しみ」に傍点]ひとつない乙女の喉であった。血生臭い息がその上を這った。彼女の護符たる十字のマークは浮かんでこなかった。
「よかろう。これでわしも安心して口づけできるというもの」
ニンマリ笑って印章を戻し、伯爵はかたわらで喪心している愛娘に向かって言った。
「新しい母の誕生じゃ。祝いの|詞《ことば》を唱さぬか」
うつろな視線が父親に注がれた。ラミーカの口がのろのろと動いて、
「わたくしは――」と言った。
「ラミーカ・リイは、|齢《よわい》三七二七歳の娘として、齢三七五七歳の父マグナス・リイと、齢十七歳の母、ドリス・ランとの結婚を祝します」
生気の失せた声であったが、伯爵はうなずき、耳をそばだてた。
すると、それは、ラミーカの声が石壁や天井に反響したものとしか思えなかったのだが、地の底でのたうつ亡者のどよめきにも似た斉唱が、薄暗い地下の広場にどっと湧き上がったのである。
「われら、マグナス・リイ伯爵の新たなる夫人の誕生を、心よりお喜び申し上げる」
発したものは、床や壁を埋める無数の棺の主たちであったろうか。確かに、その幾つかはガタガタと小刻みに揺れ、伯爵の眼を細めさせたのである。
「では――」
そう言って、上向いたままのドリスの喉へ唇をよせたとき、上着のポケットに入れた送話器が警報音を発した。
「えい、無粋な機械め」
伯爵は不機嫌に毒づき、それを取り出した。
「何事だ?」
コンピューターらしい金属的な声が応じた。
「ただ今、正門前に、人間ふたりと馬一頭が到着いたしました。人間のうちひとりは八歳前後の男子、もうひとりは、推定十七、八のこれまた男子」
「なに」
伯爵の眼が血光を放った。
ラミーカが愕然とふり返った。
「入れてはならん。橋をおろすな。ただちに迎撃せよ」
「それが」
と機械の声はためらった。
「彼らが近づいただけで橋はおりてしまいました。武器は発射不能。私への制御干渉機能を一頭二名のうちのどれかが有していると思われます。城の電子機器は現在すべて操作不能です」
「おのれ……」
と伯爵は憎悪の声で呻いた。
「あの若造、まだ生きておったのか……しかし、しかし、どうやって生き返った。わしですら、白木の杭に心臓を貫かれて復活する術を知らぬ」
「あの方ならば……」
ラミーカがつぶやいた。
「あの方[#「あの方」に傍点]?――ラミーカ、おまえ、あいつの素姓でも知っておるのか?」
「………」
「よかろう。それは後できく。今はまず奴めを倒すことじゃ。式の途中で邪魔が入れば、そのものを排除するまで宴は中止がわれらの習い」
「左様でございます。――ですが、排除するといってもどうやって?」
「失策をつぐないたがっている奴がおろう」
ようやく東の空が青味がかってきた城の中庭で、Dとダンはまたも麗銀星と相対した。
「もう“時だましの香”はいただけませんでした」
と美しい悪魔は笑った。彼はドリスの農園から城へ赴く途中、村から超スピードで戻ってきた伯爵の馬車と出会い、同行したのであった。
「伯爵のお腹立ちはもっともです――ですが、あなたをもう一度あの世へ送ればお怒りも解けましょう。――お降り下さい」
互いの距離三メートルは農園のときと等しかった。ダンは馬もろとも彫像の陰に隠れ、勝敗の決するのを待った。
だが、これは本来不条理な対決なのである。「時だましの香」がない限り、麗銀星がDに勝てる道理はなく、一方、Dの与える致命傷は麗銀星の体内にうがたれる超空間を通ってすべて彼自身にはね返ってくるのだ。
それなのに、どちらも勝算があるのか、ふたりは同時に動いた。
「うっ……」
Dが身体を折って膝をつく。麗銀星の右手で「時だましの香」が炎を揺らめかせた。彼はDをあざむいたのである。間髪入れず唸り飛ぶ飛鳥剣。
だが、彼が農園でDを倒せたのは、戦闘服の筋力増加機構の助けを借りたがゆえであった。苦痛に顔を歪めつつ、飛鳥剣を打ち落とすやDは跳躍した。
正しく農場での決闘シーンの再現。違うのは、麗銀星がよけもせず、銀閃に頭をさらしたことだ。彼はDが四肢を狙ってくると考えていた。
しかし、頭上からふり下ろされた一刀が、まぎれもなく頭を狙ってくると感じた刹那、体内に超空間を発生させ、逃げることもやめた。
Dの額が裂けた。薄皮一枚だけ。そして、麗銀星の腹部から鮮血がほとばしった。
美青年はむしろきょとんとした表情で、腹部から突き出た刀身を眺めた。それはDの頭部を割るはずの刀身であった。
|吸血鬼《バンパイア》ハンターは、大上段からふり下ろした刃で麗銀星の額の皮膚一枚のみを切断し、空中で|剣《つるぎ》を持ち替えるや、一気に自らの腹を貫き通したのである。すでに超空間が形成されていたDの体内に侵入した刃は、逆に麗銀星の腹部で実体化した。空間をねじ曲げる以外は生身の人間たる麗銀星がなんでたまろう。これは、ダンピールたるDにのみ可能な不条理殺法であった。
「ダン、その蝋燭を消してくれ」
少年が駆けよる足音をききながら、麗銀星はどっと倒れた。香が手から離れ、鮮血が地面を染めていく。
「やい、まだ死ぬな。ひとつぐらい、いいことをしてからにしろ」
香を踏み消しわめきながら、ダンはぞっとした。横倒しになった麗銀星の腹部から覗いていた刀身が、すうっと体内へ引き込まれていったからである。Dが自ら刺した剣を抜いたのだ。
「いいことって……なんです?……」
麗銀星がきいた。
「姉ちゃんはどこにいる?」
「知りませんね……せいぜいお探しなさい……今ごろは伯爵夫人に……」
口から血塊がこぼれ、断末魔の痙攣が美しい顔を歪めた。
「貴族にさえなれれば……」
そして彼はがくりと首を垂れた。
「死んじゃったよ、こいつ」
ダンが哀しそうに言った。
「顔ばかりじゃなく、中身もよければ長生きできたのに……」
「そうだな」
Dが肩で息をしながら同意した。「時だましの香」は消えた瞬間効力を失う。苦しそうなのは腹部の傷のせいであった。
「姉ちゃん、どこだろう。こんなに広いんじゃ、どこ探したらいいのかわかんないよ」
泣きそうなダンの肩をDが叩いた。
「おれが吸血鬼ハンターだってことを忘れたな――おいで」
ふたりは真っすぐ地下広場へ降りた。閉ざされた扉が、Dが近づくだけで開くのを、ダンは感嘆の表情で眺めた。
止めだてするものはいなかった。時折、無表情な貴婦人や召使いらしき連中とすれ違ったが、全員、ふたりの方を見ようともせず、闇の中へ消えた。
「ロボットだね」
とダンが言った。
「偽りの|生命《いのち》を持った住人だ――この城はもう滅びの光の中に揺れている。いや、“貴族”そのものが、ずっと前に」
狭い階段を二階分ほど降りると、巨大な木の扉の前に出た。鉄の|鋲《びょう》が一面に打ちつけられ、その奥で行われる闇の儀式の重大さを示していた。
「ここだね」
ダンが緊張した。Dは青いペンダントをはずして少年の首にかけた。
「ロボット除けだ。――ここにいろ」
扉には錠も閂もおりていなかった。
数トンはあろうかと思われるのに、それはDの指が触れただけで、蝶番の軋む音をたてながら左右に開いた。
中央部がすり減った幅広の石段が下方の闇へとなだれ落ちている。そのどこか遠くにかすかな灯影が見えた。
階段を降り切ると地下の広場に出た。
右手奥に炎が揺れている。
埃にまみれた棺、半ば崩壊した板の割れ目から白骨の手足がとび出た棺、蓋の上から木の楔を打ち込まれた棺――整然と並ぶ死者の安息所を縫って、Dはついに|血色《ちいろ》の祭壇の前で、リイ伯爵と対峙した。
「よくぞ生き返ったな。いや、よくここまで来た」
感嘆の趣さえある伯爵の言葉であった。Dは祭壇の上に立ちすくむドリスの方へ眼をやった。頬に冷たい笑いがかすめて、
「間に合ったらしいな」
いつの間にかラミーカの姿は消えていた。
「それも、おまえが死ぬまでだ」
と伯爵は答えた。
「だが、ラミーカの言葉だけではなく、まこと殺すには惜しい奴。あの杭を胸に受けて生き返るとは――わしも知りたい、その秘密を。どうだ、いま一度考え直せ。ラミーカを|娶《めと》りこの館でともに暮らす気はないか。あれはおまえに魂まで奪われておる」
「“貴族”は遠い昔に滅んだ」と、Dは言った。声の中に、なぜか哀しみの響きがあった。「“貴族”もこの城も、時に忘れ去られた亡霊にすぎん。ふさわしい世界へ戻れ」
「黙れ、若造!」
激怒に歯をギリギリと噛みしめながら伯爵は呻いた。
「おまえも貴族の血を引くものなら、不死の意味するものをわかっておろう。時の果つるまでと与えられた生命――虫ケラどもを踏みつぶしながら|全《まっと》うするのが我らの務めだ」
言い切って、伯爵は眉をひそめた。Dが自分ではなく、背後の肖像画を見上げていることに気づいたからである。
それだけなら、別に気をそがれたりはしない。彼が戦慄にも近い驚きを自覚したのは、松明の|灯影《ほかげ》が揺れる青年の顔に、見上げる肖像画そっくりの面影を見出したからであった。
同時に伯爵は耳の奥に、かつて二度にわたってきいたあの言葉が鳴り響くのを知った。我知らず、それは口から洩れた。
「かりそめの客……」
誇りも高く、栄光にも満ちた貴族の歴史上、ただひとつ、全貴族の疑惑と否定の眼差しを受けた、神にも等しい神祖の|御言葉《みことば》。あれは、「運命」の数学的解析を可能にした貴族科学院が、全文明の歴史的必然にそれを重ね合わせた結果、その研究成果の発表をすべて中止し、非難の矢面に立たされたとき、実に一千年ぶりに神祖が姿を見せられ事態を収拾なされた――その際にふと洩らしたものだったろうか。
悠久に流れる歴史という名の大河と、ひととき穏やかな流れの上にとどまるうたかたの文明――神祖はその担い手をかりそめの客と呼んだ。果たしてそれは、“貴族”か“人間”か。
錯綜する思考の糸がもつれ、不意にうち一本がほぐれた。一時期、貴族の上層部にささやかれた奇怪な噂が伯爵の耳に甦った。
「御神祖が、人間の娘と|契《ちぎ》っておられる――子をつくっては殺し、殺しては生ませておられるそうな」
まさか!――伯爵の頭脳は狼狽と困惑の極に達した。まさか、こやつが!
御神祖は、“人間”と“貴族”の血の結合を策していられたのか!
真偽は知らず、自らの考えに脅えて伯爵は進み出た。
「若造、貴族の技を心ゆくまで味わって死ぬがいい」
言うなりマントがひるがえった。異様に赤く、てらてらとかがやく裏地である。ぐおっと空気が乱舞し、炎という炎がちぎれんばかりに揺れた。驚くべし、マントはまるで水に溶ける墨汁のごとく広がり、その中にDを巻き込もうとした。
Dは抜き打ちにその端を切った。刀身は裏地にはりついた。青銅の魔人を葬り、マッハ〇・五の人狼を倒したDの刀身が!
|剣《つるぎ》はくるくると裏地に巻き取られ、次の瞬間Dの手からもぎ取られていた。というより、Dが自ら手を放したのである。抵抗すれば手首さえ巻き込まれ、押しつぶされていただろう。
「これで裸だの」
Dの剣を右手に取って伯爵は嘲笑した。マントはもとの寸法に戻っている。それをまた大きくはね上げて、
「喉をうるおした女どもの皮膚をつなぎ、その血を塗りたくったものよ。わが家に伝わる秘法を施すと、特殊鋼の五倍も硬く、蜘蛛の糸より二〇倍も柔軟になる。粘着力はいま見た通りだ」
空気を灼いて数条の閃光が走った。マントが閃いた。Dの放った木製の針は、伯爵の前方でことごとく床に落ちた。
「悪あがきはよせ」
魔鳥の羽根のように広がったマントを伯爵は身体ごとふった。
Dが跳びのいた。コートの袖が鮮やかな切り口を見せている。一枚の鋭利な刃と化したマントの仕業であった。
「ほうれ、ほれ――どうした、ハンター。打つ手はないのか」
嘲笑は襲いくるマントの向こうからした。薙ぎ払うそのスピードのもの凄さ。伯爵との距離を詰めることができず、Dは攻撃を避けて風のように移動した。
いつかふたりはその位置を変え、Dはドリスをかばって彼女の前に立つ格好になった。
伯爵の眼が光った。唸りとぶマント。
跳びのこうとしたDの身体を、背後から何かが押さえた。それはドリスの腕であった!
秒瞬の差でDの身体はマントに巻き取られた。超絶な精神集中を要求するこの戦いで、さすがの彼も、ドリスが伯爵の術中にあることを一瞬失念したのである。
猛烈な圧力がDの骨を軋ませた。美しい顔が歪む。それでも、マントに巻かれる寸前ドリスを突きとばしたのは、彼ならではの妙技と言えるだろう。
伯爵の腕の中でDの長剣がきらめいた。
「自らの滅びのときは、自らの剣で味わうがよい」
Dの身体は刃も通さぬマントで覆われているから、伯爵は首を切り落とすつもりであった。渾身の力で横に薙ごうとして、その動きが止まった。
同時にマントがたわみ、Dは一気に奇怪な拘束衣から跳躍していた。伯爵の精神集中が破れた途端、マントの呪縛も解けたのである。着地は伯爵の眼前であった。これをどうとったか――
「いえーっ!」
串刺しの結末を予感し、薄笑いさえ浮かべて放った伯爵の突き。――それは、Dの胸前でぴたりとはさみ止められていた。彼の両|掌《てのひら》で。初めて遭遇したときと攻守はまさに所を変えた!
|切尖《きっさき》二十センチほどのところにかけた無限の圧力を減らさず、Dは両手首をひねった。伯爵の身体は宙に舞わなかったが、|刃《やいば》はその部分で折れた。残った切尖をはさんだままDは三メートルも後方へ跳びすさった。
「そ、その技は――」
叫びながらもマントを走らせたのはさすがだが、技をかけたもの、かけられたものとの差はまさしく生と死を分かち、おがみ打ちに放った銀光一閃、|剣《つるぎ》の切尖は鮮やかに黒衣の心臓を貫いていた。
棒立ちの数秒間――伯爵の顔はみるみる肉が溶け、眼球が糸をひいて床に落ちた。
床に倒れて数秒――溶け崩れる舌と声帯が最後の言葉を吐き出した。
「そ……それは……御神祖に教えを乞うた技……もしや、あなたは……あなたさま[#「あなたさま」に傍点]は……」
Dは素早く、床に倒れたドリスに近づいた。何かしら城に異変が起こっている。伯爵の胸でかすかに鳴っている警報がその証拠だ。伯爵が必殺の一撃をためらい、絶対の勝利者から一転、死の淵に転んだのはこれを耳にしたせいであった。床がかすかに揺れ動いている。
軽く頬を叩くとドリスはすぐ眼を開けた。喉の歯型は跡形もない。
「D――ど、どうして!?――生きていたの?」
「仕事は終わった。喉の傷も消えたよ」
Dは自分がやってきた広場の奥を指さした。
「あの階段を上がればダンがいる。ふたりで農園へ戻れ」
「あなたも、あなたも一緒に」
「君の仕事は終わったが、おれの用はまだ残っている。早く行け。それからダンに伝えてくれ――お兄ちゃんとの約束を忘れるな、と」
ドリスの眼に涙が光った。
「行け」
ドリスがふり返りふり返り、闇の奥へと消えたとき、Dの左手首のあたりからこんな挨拶がきこえたのだが、彼女の耳には届かなかったかもしれない。
「あばよ、強くてやさしい姉弟。達者でな」
Dは背後をふり返った。広場の片隅にラミーカが立っていた。
「君がやったのか?」
ラミーカはうなずいて言った。
「コンピューターの安全保証回路をすべて逆進させました。あと五分以内に城は消滅します――今のうちにお逃げ下さい」
「この城で闇を友に、時の果つるまで暮らしたらどうだ」
「もう間に合いません。それにリイ家はとうに滅びておりました。父がただ、人間の血を吸い、目的のない生を永らえると決めたときに」
揺れはさらに激しく、天地も唸りはじめた。天井から落ちる白い塵は埃ではなく、微細な石の粉末であった。分子結合がゆるんでいる!
「残るか、ここに?」
ラミーカは答えず、
「ひとつだけおきかせ下さい――あなたのお名前を。Dは――Dは、ドラキュラ[#「ドラキュラ」に傍点]のDですの?」
Dの唇が動いた。
立ちつくすふたりを白い塵が覆いかくし、返事はついにききとれなかった。
吸血鬼の城はその城主にふさわしく塵と化して消えた。おびただしい砂塵が視界を真っ白に染め、ドリスとダンは数分咳がとまらなかった。
城から百メートルと離れていない丘の上である。
涙を拭き拭きようやく顔を上げると、ドリスの眼からまた別の涙が流れた。
「消えてしまった。……何もかも。あの人は帰ってこない……」
放心したような姉の肩に手をおいて、ダンは明るく言った。
「帰ろうよ、姉ちゃん。仕事はいっぱいあるぜ」
ドリスは首をふった。
「駄目よ……あたしは、もう駄目……前みたいに鞭も使えないし、農園の仕事も、あんたの世話もできない……頼る人を知ってしまったから……」
「まかしとけって」
八歳の少年は胸を張った。小さな手がDのペンダントを握りしめた。
「あと五年辛抱しな。おれがみんなやってやるよ。姉ちゃんの旦那も見つけてやる。先は長いぜ、――しっかりしなよ」
彼は知っていた。自分がもう八歳の子供ではないことを。
ドリスは弟の方をふり向き、別人を見るような表情でうなずいた。五年たっても彼はまだ子供のままだろう。でも、十年後には母屋を建て直し、火竜を狩りたてるようになる。長いようだが、時とは必ずたつ[#「たつ」に傍点]ものだ。
「いこう、ダン」
ようやく笑顔を取り戻し、ドリスは馬の方へ歩き出した。
「うん!」
はずむ声で、胸の張り裂けそうな哀しみを隠しながら、ダンは微笑した。
青い光がみなぎる東の空、農園の方角へ、ふたりを乗せた馬は走り出した。
Dは約束を守った。
次は少年の番なのだ。
『吸血鬼ハンター“D”』完
[#改ページ]
あとがき
……というより
献辞の説明になります。
怪奇映画ファンなら、英ハマー・フィルムが一九五八年に製作した「吸血鬼ドラキュラ」についてはよくご存知でしょう。前年の「フランケンシュタインの逆襲」とともに、世界的怪奇映画ブームを巻き起こした名作であり、筆者のホラー嗜向の原点でもあります。怪奇恐怖映画は、かなりの数を見てきたつもりですが、上映中に劇場から逃げ出したのは、後にも先にもこれ一本きりです。蛇足ながら、T・フィッシャーは監督、J・サングスターは脚本、そして、B・ロビンスンは美術を担当しました。C・リイとP・カッシングについての説明は不要だと思います。ドラキュラ伯爵対ヴァン・ヘルシング教授の凄絶な対決は、古城の階段上に魔人の影が出現してから、陽光と十字架の前に塵と化すラストまで、怪奇映画ファン永遠の語り草になるでしょう。一刻も早くビデオ化してもらいたいものです。
現在、怪奇漫画の第一人者といえば楳図かずお氏でしょうか。それ以前、明確な怪奇嗜向をもっていた男性(女性は知りません)漫画家といえば、私の知る限り、岸本おさむ氏を除いてはありません。しかも、この人の狙ったものは、従来の日本的怪奇趣味ではなく、西洋ゴシック・ムードの構築でした。都会のただ中に建つ不気味な西洋館と奇怪な住人たち、石造りの地下室に眠る棺、加えて、全篇を貫く対決の論理――吸血鬼に対する十字架、河童対法力――は、陰湿なものを宿命的にはらむ、また、そうでなくては受け入れられない日本の怪奇漫画の分野にあって、爽快のひと言に尽きました。
いつか、誰かが日本怪奇漫画史のようなものを作成する場合、岸本氏を単なるSF、冒険漫画の作者のひとりとして扱うだけでは片手落ちというものです。工場廃液で沼を汚された河童が、美女に化けて、ある兄妹の家に住みつく短篇など、いま思い出しても身の毛がよだちます。最近は、なかなか作品にもお目にかかれませんが、なんとかもう一度元気な姿と新作を見せていただきたいと切望する次第です。
82年12月6日。「ドラキュラ」を観ながら
菊地秀行