エイリアン黒死帝国〔下〕
菊地秀行
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目次
第一章 飛行場の惨劇
第二章 湖に棲むもの
第三章 サリコの魔法使い
第四章 魔法戦
第五章 ジャングル・アタック
第六章 渓谷の対決
第七章 A(エイリアン)の歴史
あとがき
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第一章 飛行場の惨劇
1
しかし、両手と片足が不便だと、こうも動きが鈍るものか。
ゆきの悲鳴を耳にしてからヘリの外へ跳び出るまで、たっぷり十秒を要した。
ゆきは一〇メートルばかり離れたところに立っていた。
足下に男が二人倒れている。ぶちのめされたのだろう。
「他にいるのか?」
と訊いてみた。
「ううん。この二人だけみたいよ」
「じゃ、いまの悲鳴は何だ?」
「襲われたからに決まってるじゃないの。――ばっかみたい」
おれは舌打ちして、片足を引き引き二人に近づいた。
片方は二十代はじめの兄ちゃん、片方は四十代のおっさんで、どちらも髭面だ。たかが女と侮ったのだろうが、相手が悪かった。
「何者《もン》よ、こいつら?」
ゆきは右手のSIG・P226を二人の頭に向けて狙いをつけながら訊いた。
「ジャン=ルイの一味? なら、始末しちゃおうよ」
「よせ」
と言われて、ゆきはしぶしぶSIGを下ろした。射ちたくてうずうずしているらしい。
「おかしいな」
と、おれは言った。
「何がよ?」
「こいつら、本当におまえに襲いかかってきたのか?」
「そうよ。いきなり、そこのジャングルから跳び出してきたんだから」
「おまえに掴みかかってきたか?」
「冗談じゃないわよ、その前に片づけちゃったわ」
「ふむ。見ろ。こいつら、拳銃とナイフはぶら下げてるが、ライフルは持ってねえ」
「そう言えば。――そっか。こんな猛獣うようよのところに、ライフルなしで行くはずがないものね。どうしたのかしら?」
「多分、放り出して逃げたんだな。腰の後ろに予備弾倉《スペア・マガジン》がついてる」
「ライフルが壊れちゃったのかしらね?」
その辺はまだ、常識に捉われすぎてる。女の欠点だ。
「二人揃ってか? ――武器を捨てて逃げるしかなくなったんだ。銃とナイフじゃ、抵抗する気にもならない相手と出くわしてな」
ようやく、ゆきの顔がそそけ立ってきた。
「何よ――それ?」
と周囲を見廻す。
「聞こえねえか、あの音が?」
ゆきは耳を澄ませた。ヘリを出てから、おれにはずっと聞こえていた。
男たちのやって来た方角から、何か途方もなく重いものが、地べたを這いずる響きを。
それが近づいてくることを。
「まだ、間に合う。おれの荷物から迷装バッグを取り出せ。ついでに、コピー・マシンもだ」
「イエッサー」
脱兎のごとくヘリへと走り出す。その間に、おれはぶっ倒れた二人に活を入れることにした。
手は使えないから足だ。
なに、踵で何とかなる。
最初はおっさんだった。狙い澄まして、脊椎の右の一点へ踵を打ちつけた。
途端に、想像もしない反応が生じた。
おっさんはいきなり跳ね起き、後ろをふり向くや、そのままの姿勢で硬直した。
みるみる形相が変わる。ここまで恐怖に歪んだ人間の顔を、おれは滅多に見たことがない。
男と同じ方向をふり返っても、何も見えなかった。
男の口から声が出た。喘ぎとも悲鳴ともつかない、引きつった声だった。
このおれが止める間もなく、男は前方へ走り出した。
広場をぶち抜き、南側のジャングルへ跳びこんだ。間違いなく一〇〇メートル九秒は出ている。
「はっやーい」
ゆきが呆然と口にしたほどだ。
だが、その余韻は跡形もなく消しとんだ。いまははっきり聞こえた。
あの地を這いずる音が、おれの左側――広場の西を迂回して走ったのだ。
おれは身震いした。目的はわかってる。いまの男を追っていったのだ。男は、若いのと一緒に、ずうっとそいつ[#「そいつ」に傍点]に追いかけられて、広場へ逃げこんできたのだ。
そいつが、男を片づけただけで満足するだろうとは思えなかった。そうだとしても、念には念を入れておく必要がある。
「どうして、逃がしちゃったのよお」
と戻ってきたゆきが地団駄を踏んだ。
「いーから。もうひとり残ってるだろ。早く、バッグの中味を出せ。コピー・マシンも作動させるんだ」
「手足が自由になったら、覚えとけ」
ゆきは捨て台詞を吐いて、準備に取りかかった。
おれの選んだ迷装《カモフラージュ》シートはMDプレイヤーほどのサイズしかないが、付属の小さなボンベひとつで、七階建てのビルにも化けられる。バッグには他にも三十個ばかり、サイズの異なるシートが収められている。でかいのがどこまで行くかは内緒だ。
何に化けるかは、これも付属のセレクターを使う。戦車も銀行のATM(自動引き落とし機)もアフリカ象もOKだ。
全百二十種《タイプ》の中から、おれはひとつを選んでスイッチを押した。
みるみるシートが膨らみはじめる。
そのとき、聞こえた。
男の逃げた方角から、途方もなく重いものが地面を滑ってくる。――ここへ。
土をこする音、小枝を折る響きに混じって、聞き慣れた音がやって来た。
しゅうしゅう
しゅうしゅう
呼吸音だ。それも桁外れに馬鹿でかい。
シートの膨らみきるのが、これほど待ち遠しかったことはない。
できた。――どこから見ても、でっかい岩だ。
「早く入れ」
まず、ゆきが潜りこんで男を引っ張りこみ、シートをめくっておれを通した。
シートはあらゆる音や熱、放射線を遮断する。
だが、嫌な予感が、おれに、
「絶対、音をたてるな。しゃべるな」
と言わせた。
ゆきもうなずいた。勘が働くのだ。
来た。
言いようのない不気味な、熱っぽく、ねっとりした気配が頭上から[#「頭上から」に傍点]迫って来た。
迷装シートは、外見も表面の硬度も、分子処理で化けたものにシンクロされる。
つまり、見てくれも手触りも岩そのものなのだ。
外からの音も無論、聞こえないが、おれの耳には、あのしゅうしゅういう呼吸音が、シートをぐるりと這い廻っているのが聞こえた。
見てやがる。
この石が本物かどうか。
敵の知能について、おれは頭を巡らせた。
生きものには、必ずある程度の知能が備わっている。
面白いことに、年を経ると、これが邪悪な方向に増大する場合がある。悪知恵がつくのだ。
いい例が、猫が三十年生きるとなる[#「なる」に傍点]と言われる猫股だ。よぼよぼの死にかけ猫が、突如、妖力を得て、死人を操ったり、宙を飛んだり、人間に化けたりする。他の動物がこうならない方がおかしい。
外の奴は、その知恵と勘とで、カモフラージュした岩が、怪しいと察したのだ。
ゆきが口をパクパクさせはじめた。恐怖のあまり口がきけなくなったのではない。読唇術をやれと言っているのだ。
――外の奴、知恵がついてるわよね。
おれはうなずいた。
――甘く見すぎた。転がされでもしたら、偽物とわかっちまう。
迷装シートの唯一の欠陥がこれなのだ。重さばかりはどうにもならない。
ぐら、と来た。
ゆきが、きーっと歯を剥いた。ヒスじゃない。外の奴への挑戦の表明だ。とんでもない淫乱で強欲で裏切り者だが、臆病じゃないのだ。
右手がゆっくりとSIGを収めたホルスターにかかる。
急に気配が遠ざかった。
油断大敵――おれたちは耳を澄ませた。
だが、遠ざかっていく。外の奴は、装置を見破れなかったのだ。
――やったぜ。
おれの唇の動きを読んで、ゆきは、
――イエイ。
と応じた。
安堵のあまり、おれたちは肝心なことを忘れていた。外の奴は、それほどの怪物だったのだ。
足下で、絶叫が迸った。
ゆきはまず[#「まず」に傍点]凍りつき、次の瞬間、地べたに横たわる若いのへ躍りかかった。
起きた上体をまた押し戻し、口に手を当てて悲鳴を中断させる。
だが、おれには無駄とわかっていた。
遠ざかる足音が止まった。
ほうら、戻ってくる。
「どうすんのよ?」
ゆきが嗄れ声で訊いた。
「あきらめろ」
「何よ、このノーなし!」
「――というのは嘘だ。ただし、目下のおれには何もできない。おまえにまかせる」
「どうしろってのよ?」
「とりあえず、そいつに何が起きたか訊いてみろ」
「そーね」
ゆきは、なおもじたばたしている若いのの耳もとで、ささやきはじめた。思わず股間を押さえたくなるほどいやらしい声だった。
「ねえ、外の奴は――何なの?」
若いのの眼の狂気が、みるみるうちに収まっていったのには驚いた。癒し系どころの話じゃねえ。この女のはとろかし[#「とろかし」に傍点]系だ。
「わ、わからねえ」
と若いのは呻くように言った。
「いきなり、森の中から襲いかかってきて、あっという間に何人も食われちまった。まるで、恐竜――いや、そんな当り前のもンじゃねえ。ただの[#「ただの」に傍点]化物だ」
「一番始末が悪いわねえ」
と、ゆきは慨嘆して、
「ところで、あんた、何者?」
「ジャン=ルイの子分だ」
こりゃいい、おれはほくそ笑んだ。情報ばっちりだ。近づいてくる足音がなきゃ、祝杯を上げるところだが。
「仲間は何人よ?」
「十……七人。だが、みんな、いまの奴にやられちまったかも」
若いのの眼に恐怖と――狂気が戻ってきた。
ゆきも気がついた。
「駄目、しっかりして」
赤い舌が、そいつの頬をぺろりとひと舐めした。正気に返った。――現金な野郎だ。
「ジェット機はいつ着くの?」
「こっちの時間で……午後の十一時半だ。あと――」
おれはうなずいた。十分もない。譲は間に合ったろうか。
若いのとゆきが、前方の一点に眼を注いだ。足音はもう隠せねえ。
若いのがまた悲鳴を上げかかるところへ、ゆきの右肘が躍った。鳩尾《みぞおち》がつぶれ、そいつは失神した。
「ん?」
おれは思わず口に出しちまった。
そいつが、また引き返しはじめたのだ。
足音がぐんぐん遠ざかる。今度は急いでいるらしい。
「どうしたのかしら?」
白眼を剥いた若いのの方を見もせず、ゆきは訊いた。
「多分――用を憶い出したか、呼ばれたんだ。飛行機が着く頃だからな」
「あの原住民の糞爺いの使い魔じゃないわね。――何者?」
「大統領の息子も呪術を使う。それかもな」
「じゃあ、ジャン=ルイの輸送機を壊しに戻ったんだ」
「多分な」
ゆきは、そいつの足音が消えていった方へ眼をやって、そそけ立った表情をつくった。
「大丈夫なの、ユズルくんとペクタス?」
「譲はな」
「なんで、そんなに自信を持てるのよ。彼、そんなに凄いの?」
「おれが呼んだんだ」
「そら、そうだけどさ」
「それより、その兄《アン》ちゃんを縛り上げろ。大事な情報源だ」
「イエイ」
ゆきは素早く若いのの両手にプラスティックの簡易手錠をかけ、活を入れた。
2
大したもんだ。ろくに探りもしないのに一発で当てた。ひとつ呼吸《いき》を吐いて正気に返った若いのは、早速、
「あいつは、あいつは?」
と血相を変えたが、すぐに状況に気づいて間のびした表情になった。
「おまえらは――? おい、何の真似だ、放しやがれ」
「おまえとは初対面だな」
と、おれは若いのの顔をじろりと見てから言った。
「ジャン=ルイから聞いたことはないか? おれは八頭大だ」
「て、てめえか、頭の天敵は!?」
呆然とした若い顔に、おれは思いきり吹き出し笑いをしてやった。天敵と来たか。
「まあな」
と答えてから、
「だから、もう少し聞きたい」
「ふざけるな、莫迦野郎」
そっぽを向きやがる。おれはゆきに眼配せした。
ゆきはうなずいて男に近づき、後ろに廻してある手を掴んで、豊かな胸に近づけた。
ふくらみに触れた途端、指は九二センチのバストを鷲掴みにした。
「あ、ン」
ゆきは白い喉をさらけ出し、のけぞった。喘ぐように、
「上手ね。女泣かせ?」
「そ、そんなこたねえよ!」
若いのは身をねじって、弁解しはじめた。てめえ、おれの尋問には――
「おれはこれでも、真面目で通ってるんだ。そのせいで、大事な作戦には、まだ参加させてもらえねえが、いつかは――」
「お名前は? あたし、ゆき。アルファベットでYUKI、あっちが大、DAIよ」
「ナガンだよ。ロシア人だ。年齢は二十」
おれは、つくづくとゆきを眺めた。たったいま取っ捕まえた敵に、訊いてもいないことまでしゃべらせるとは、どんな能力だ。
「ねえ、さっきの怪物――どこで出て来たのよ?」
ゆきは本題に入った。
「おれたち、あんたたちを捜しにきたんだ。ところが、道に迷っちまって、飛行場へ戻れなくなった。ようやく古い道標を見つけて前進しはじめたとき――飛行場まで五〇〇メートルって書いてあった」
すると、ジャン=ルイたちは飛行場に残ってるな。譲とペクタスはどうなった。
おれは、ゆきに唇の動きだけで、二人のことを訊いてみろと伝えた。
「ね、襲われたとき、あんた方の他に、誰がいて?」
ナガンはかぶりをふって、
「いねえよ。おれたちだけだ」
「じゃあ、後は待つしかねえな。ゆき、眠らせとけ」
「は――い」
ナガンが、おい、と身をよじったとき、ゆきの手刀が首すじに打ちこまれた。
どっと倒れるナガンの響きに混じって、おれは頭上遥かに、飛行機のエンジン音を聞いた。
ジャン=ルイの輸送機が到着したのだ。
ゆきも気づいたらしく、
「来たわね」
と言った。
「ああ。さっきの化物が駆けつけるし、ジャン=ルイ側の妖術使いも黙っちゃいまい。譲とペクタスに期待するとしよう」
ゆきは、ナガンをどっかに運びにいき、おれは簡易テントの中へ入って、PCを広げた。
パソコンじゃねえ。ポケコン――ポケット・コンピュータの略だ。サイズは、その辺の情報端末程度だが、機能はその辺の銀行のマザー・コンピュータを遥かに凌駕する。
動く方の足の指を使ってキイをひとつ叩くと、空中にPCのスクリーンが十倍に拡大して映し出された。
正面に飛行場のバラックが建っている。七、八メートル先だろう。天井は赤錆びた穴だらけのトタン屋根で、壁はプレハブ――なるほど、最初から廃棄するつもりで造られたのだろう。
言うまでもないが、譲の額にまたくっつけた超小型ビデオ・カメラの映像だ。
「聞こえるか、譲?」
おれは空中の像に向かって尋ねた。
「ああ。邪魔するな」
何て無愛想な野郎だ。
おれは手短に事情を説明した。
「――てなわけで、化物はそっちへ行った。気をつけろ」
「わかった。――もう口をきくな」
「おまえなあ」
しかし、おれでもこう[#「こう」に傍点]する。
おれはスクリーンを見つめた。
譲は手近の巨木の陰に隠れていた。建物の出入口に二人いる。後は、滑走路へ出て、「ヘルファイア」の空けた大穴を埋める作業にいそしんでるんだろう。
譲が上空を見上げた。光点が近づいてくる。飛行機が降下中だ。
譲が右を向いた。ペクタスがいる。
「あの二人を片づけろ」
と命じた。
それから――画面に異常が生じた。
「あ、真っ黒」
背後でゆきの驚きの声。
「やった」
と、おれはつぶやいた。その響きをどう解釈したか、
「ね、どうしたのよ?」
ゆきが真っ青な声[#「声」に傍点]で訊いた。
「見てろ」
おれが空中の暗黒へ顎をしゃくったとき、画面が回復した。
それは滑走路の上だった。
前方に四人ばかりごついのが立ってる。後ろ姿だが、ひとりはジャン=ルイに間違いない。あとわかるのは――ヒカだ。
「どうやって、あそこ[#「あそこ」に傍点]へ移動したの?」
ゆきの声が聞こえでもしたみたいに、左端の一人が後ろを向いた。――譲に気づいた。
下げていたAK47をスィング・アップさせる。
銃口を向け終える前に、譲はそいつの前方に肉迫していた。あまりのスピードに、ゆきが息を呑んだ。
銃を向けた男の顔面に譲の右手が吸いこまれた。比喩じゃない、本当に肘まで顔面に突き刺さったのだ。
譲がそれを横へふった。
手刀は右隣の男の首を斜めに貫通した。
その隣はヒカだった。呪術師はさすがに気づいた。
その顔面に、一歩踏みこんだ譲の右ストレートが飛ぶ。
間一髪、爺いは両手を交差させて受けた。
青白い稲妻が走り、爺いは弾かれたように後方へ吹っとんだ。
譲のパンチを受けるとはな。
ここまで来ると、残るジャン=ルイも迎撃の準備を整えていた。
後方へ下がりながら、譲めがけてオーストリア製U《ユニバーサル・》A《オートマチック》R《・ライフル》の引金を引いた。
その後ろから、何人もが駆けつけてくる。穴埋め連中だろう。
さらにその彼方に、空中から接近してくる機影。
スクリーンが激しくゆれた。ジャン=ルイの着弾だ。短機関銃《SMG》の拳銃弾じゃない。火薬量が桁外れの七・六二ミリ軍用ライフル弾を食らえば、人間など一発で即死する。
だが、譲は軽々と宙に舞った。ジャン=ルイの頭上から舞い降りざま、右のこめかみへ左のストレートを叩きこんだ。
きれいに貫いて抜けた。
倒れたジャン=ルイのこめかみからは、しかし、一滴の血も流れていない。傷ひとつなかった。先の二人も同じだ。昏倒はしているが、死んじゃあいない。
ジャン=ルイは倒れるまで、バックパックを背中にしょっていた。いまは身ひとつで倒れている。荷物は、譲の手に移っていた。
何てこった。飛行場に着いたと思ったら、たった五秒で目的を叶えちまった。
譲はそのまま踵を返した。
その身体が、前傾姿勢のまま停止したのである。
見えない手で掴まれでもしたかのように、出るもならず引くもならず、譲はかろうじて首だけをねじ曲げた。
おかげでヒカが縮んだ生首のついたロープを持ち、何やらおかしな呪文を唱えているのが見えた。呪術が譲を金縛りにしているのだ。
ゆっくりと譲が後じさるのを見て、ゆきが、やば、と呻いた。
ヒカがロープから右手を離し、上衣の内側へ入れた。すぐに戻した。拳が握っているのは、呪術者にふさわしい儀式用のナイフではなく、なんと、第二次大戦のイギリス軍が使っていた旧式もいいところの、ウェブリー・スコット六連発だった。
もちろん、大口径だから一発急所へ食らえば、即・昇天――なんだけどね。
爺いめ、続けざまに三発も射ちやがった。そのたびに譲は声もなくのけぞり返った。
ヒカはまだ射つつもりだったのだろう。だが、引金を引くことはできなかった。
ずんぐりした小柄な影が、猛烈な勢いで斬りかかったのだ。
間一髪でヒカは躱した。
譲の身体が自由を取り戻した。精神集中が破れた途端に、妖術が解けたのだ。
小太りの影は、手にした短剣をヒカへと叩きつけた。ペクタスだ。しかし、爺いは、年寄りとも思えぬ素早い動きでまた躱した。代わりに、刃はウェブリー・スコットを跳ねとばした。
一気に三メートルも跳びずさって、ヒカは再び生首ロープを掴んだ。忘我の域に入る。妖術の出番だ。
だが、背後から迫る爆音が、その使用を禁じた。
レシプロ機のパイロットは、無謀な天才で、しかも運がいいとしか表現のしようがなかった。
まだ埋めきっていない穴を巧みに避けて、見事に着陸を敢行したのである。
ヒカが、ジャン=ルイを抱え上げた。体格は倍違う。妖術の力としか思えない。まるでバッタみたいに、五メートルくらいずつジャンプしつつ、飛行機に向かう。
その眼前で、飛行機が不意に持ち上がった。
まるで、プラモみたいに尾部から宙吊りになるや、まさしく、ぽいという感じで、右方のジャングルへ放り投げられる。
木立ちの向うに機体が吸いこまれるや、たちまち、毒々しいガソリンの炎塊が膨れ上がった。
優秀なパイロットは、あっという間に天に召されちまったわけか。
譲は空中に眼を据えた。
何か、半透明の巨体――といっても、人間とも動物ともつかなかったが――らしきものが、うっすらと視認できた。
ジャン=ルイの飛行機をぶっ壊した以上、ヒカの化物じゃない。
ジャン=ルイの子分どもがいっせいに銃撃を開始した。
閃光《フラッシュ》が夜を昼に変え、空薬莢が黄金のダンスを踊る。
無駄だ、と思った。
その瞬間、巨体は消滅した。
3
効いたのか? おれは呆然とスクリーンを見つめた。ジャン=ルイ一派も射撃を中止して、きょとんと視線を宙にさまよわせている。
「そいつを殺せ!」
さすがにヒカは素早かった。譲とペクタスを指さして叫んだ。しかし、フランス語ってのは、こういう台詞に向かねえなあ。
子分どもの銃口が二人へスィングした。
銃声が轟いた。
ど真ん中に当たったボーリングのピンみたいに次々と倒れていく。ジャン=ルイの子分どもが。
譲とペクタスがふり向いた。その全身に弾痕がちりばめられていく。
建物の奥に軍服姿の連中が列をつくっていた。
「大統領の軍隊だ。逃げろ」
マイクを切られているのも構わず叫んだ。
譲がペクタスの胴に腕を巻いた。次の瞬間、風を貫いて兵隊たちの真ん中へ突入する。
蜂の巣にされながら、ピューマを凌ぐ高速度で動ける人間なんて、どんな軍隊もはじめての相手に違いない。
顔面に掌底《しょうてい》を食らって壁に叩きつけられる兵士が二人、蹴りをこめかみに受けて引っくり返ったのが五人――それだけで、兵隊はビビっちまった。
その間を、それこそ美しい猛獣のように走り抜けて、譲はジャングルの闇に紛れた。
二人が野営地に帰還したのは、なんと十分後だった。一秒に一六メートル走った計算になる。しかも、ペクタス込みだ。
「成果だ」
ぷつりと言って、テーブルへ放り出されたジャン=ルイのバックパックへ、ゆきが跳びついた。おれの許可も得ず、勝手に開けてしまう。
「あったあー」
両手で持ち上げた品は、確かに頭蓋骨だ。
おれは、じろりと譲をにらんで、
「阿呆」
と言った。
「え?」
と、ゆきがつかの間、おれを見つめ、それから、骨を眺めて、
「あ――っ!?」
と叫んだ。どう見ても、平凡な現代人の頭蓋骨だった。
「偽――もン」
おれはそれをしげしげと眺めた。譲は無言で立っている。ミスを気にした風もない。ま、こいつはいつでもこうだ。
「ジャン=ルイめ。とんでもねーことをしやがる」
おれは譲の方へ頭蓋骨を見てみろと顎をしゃくった。ゆきからそれを受け取って、譲も眼をやった。
「新品だ」
と、おれはうんざりしたように言った。
「おれの眼をくらますダミーだが、どっかでありもの[#「ありもの」に傍点]を買ってくる余裕はなかったんだ。多分、一番役に立たない子分を始末したんだろ」
「やっぱりな」
ゆきが眼を剥いた。
「やっぱりって――あんた、知ってたの!?」
「途中で中味を開けてみた」
「知ってて持って来たの――成果だって言ったくせに」
「本物とは言っていない。成果は成果だ」
柳眉を逆立てて、何か喚き散らそうとするゆきを止めて、
「何処かへ隠す必要はなかった。飛行機はそこまで来てたんだからな。すると、他の奴に持たせてたのか? いや、あいつの性格なら、自分で運んだはずだ。他には何か持っていなかったか?」
「いや」
「ヒカの爺いはどうだ? あいつのことは自分並みに信頼してたかも知れん」
「そう言えば、腰にでかい袋をぶら下げていた。呪術用の小道具でも入っているんだろうと思っていたが」
「それよ」
と、ゆきが人さし指を突きつけて喚いた。
「何が大ちゃんの百倍も優秀なトレジャー・ハンターよ。ポカばっかりじゃないの。あんた、もうアルツハイマー患ってんじゃないのお」
譲が苦笑するのを、おれは見た。
「かも知れんな」
「政府軍と化物が出て来たんだ」
おれはなだめ役に廻った。
「事情が事情だ。仕様がねえ。おれの勘だが、ジャン=ルイとまじない爺さんは逃げたのだろう。はたして、ヒカの腰にぶら下がってたのがそれ[#「それ」に傍点]か、だ。さもなきゃ、やっぱりどっかに隠してあって、今頃は政府軍の手に――しかし、飛行機が着陸態勢に入ってたことを考えれば、それもありそうにねえ。やっぱ――」
「ヒカの袋ん中よ」
ゆきが歯を剥いて断言した。
「絶対そうよ。早く、あいつを見つけよう!」
「飛行場をつぶされた以上、ジャン=ルイは別の脱出ルートを捜さなくちゃならねえ。空が駄目なら海だ」
「んなの無理よ。ここは内陸のど真ん中よ」
異議申し立てをするゆきへ、おれはにやにやと、
「では――牙鳴《きばなり》クン」
と言った。
「ここから北西へ三〇キロほど入ったところに、ゴメテラ湖という小さな湖がある。ここでは、時折、海の魚が引っかかるそうだ」
「え?」
ゆきが眼を丸くして、
「じゃ、海とつながってるの?」
「そうなるな」
おれはうなずいた。
「ジャン=ルイの野郎は、昔、羽ぶりのいいときに、小さな潜水艇を何隻か所有してやがった。潜水艇が到着するまで時間はかかるが、奴も移動しなくちゃならない。この手だな」
「イエイ!」
ゆきが右手を突き上げた。全面的賛成のポーズだ。
譲がおれの方を見た。いままで何を見、何を考えていたかはわからない。多分、おれには理解できない宇宙の真理か――死について、だ。
「そう思うか?」
と訊いてきた。
「違うのか?」
「おれが世の中について知っているのは、ただひとつだ。――“何でも起きる”」
今度はおれが右手を突き上げる番だった。
「とにかく、そこへ行こう。幸いヘリがある。五〇キロなら歩かずに済むぞ。それに先廻りができる」
おれたちを乗せたヘリが飛び立ったのは、それから三十分後だった。
ふたつ気になった。
ゆきがどうも譲を気に入らないらしいのだ。
ゆきを前にすると、どんな堅物でも、五分と待たずに溶ける――というか、男の本性を露わにする。欲望に眼が血走り、鼻の穴は広がり、だらしなく開いた口からは、涎と、あへあへという声が恥ずかしげもなく洩れる。恥知らずなら、その場で抱きつこうとするか、そうでなくても、口説きはじめる。君は月だ星だおっぱいだ。もう少しまともだと、ああ、憧れの君、この花束を受け取って下さい、だ。
譲は、おお、だけだ。お世辞どころか愛想ひとつなく、笑顔すら見せない。並みの女なら、なによ、この朴念仁《ぼくねんじん》、でも、仲間だから仕様がないか、となるのだが、この自意識とプライド三〇〇パーセントの娘には通用しないのだ。
あたしみたいないい女、無視するなんて、絶対に許せないわ――ならいいが、いつか痛い目に遇わせてやる。――こうなると危ない。
周りの都合を無視して復讐に走りかねないのだ。用心しなくちゃなるまい。
もうひとつは、当の譲だ。なんとなくおかしい。
少なくとも他の二人の眼には、前と変わりないだろうが、おれにはわかる。
いよいよ、か。となると、千万人の軍隊を相手にするだけのパワーが心身両面で必要だ。
いや。
おれは首をふった。――足りねえな。
ヘリに乗る前に、おれはこっそりとペクタスを呼び、
「いいか、あの二人がトラぶったら、おまえが間に入るんだ。実力で押さえつけてもいい。絶対に血なんか見させるんじゃねえぞ。どっちにも、だ」
でぶのもと[#「もと」に傍点]剣闘士は、まかせておけとばかりに太鼓腹を叩いたが、どうもいまひとつ信用できない。
どんなグループでも、内部《なか》から崩壊するのは、外からの場合より百倍も簡単なのだ。やれやれ。
だが、少なくとも、いまのところは表面上の平和が保たれていた。ゆきも絡む気配はないし、ヘリを操る譲の腕も危なげない。完全な夜間飛行で、頼りは地図と星とパイロットの勘だけだが、目的地までまっしぐらに、最短距離で飛行中なのが、おれにはよくわかった。
「ジャン=ルイとヒカを低空で捜せないこともないぞ。生体熱感知器がついている」
マイクを通して、譲の声が流れてきた。
「スティンガーを持ってないとまで断言できるか?」
「いや」
「なら、先廻りだ。危険は冒せない」
「了解」
危険極まりない夜間飛行は、三十分足らずで終わった。
深夜、午前一時を廻った時刻に、ヘリはゴメテラ湖のほとりに着陸した。ライトひとつ点けずに敢行されたランディングの見事さに、おれは、つくづくため息をつきたくなった。
「敵は夜、ジャングルを移動はしまい。危険すぎるからな。こっちはその間に、布石を打っとこう」
おれの提案は、ゆきとペクタスをうなずかせ、譲の口もとに冷笑を結ばせた。
「文句でもあるのか?」
と、がん[#「がん」に傍点]を飛ばすと、
「よくそれで生き延びてこられたものだな」
と来た。
「都合のいい推測は自殺するのと同じだと、親父さんから教わらなかったか? 敵が夜、移動しないと、誰が決めた?」
「ちょっと、あんた、何よ。黙って聞いてりゃ、嫌みったらしい。どこの世の中に、アフリカのジャングルを夜中にうろつく莫迦がいるのよ?」
ゆきが噛みついた。全身が怒りに震えている。これがおれのためなら嬉しいんだが。
譲は平然と、
「ヘリも夜は飛ばんぞ」
ゆきが歯を剥いた。
「譲の言う通りだ」
おれはあっさりと認めた。
「しかも、どちらも強力な呪術師がついてる。空くらい飛んでくるかも知れねえな。譲よ、近くの村へ行って、湖に関する情報を集めてこい。その間に、おれ以外の二人は、迎撃の準備をしておく」
「正解だ」
譲はヘリから降りた。手も上げずに南の方へ歩き出す。
その後ろ姿を見送って、
「ねえ――村つったけど、何処だかわかるの?」
と、ゆきが首を傾げた。
「ああ、あいつには、な」
「どうしてよ?」
地団駄でも踏みそうな勢いだ。おれは無視した。
「譲に訊け。それより、ヘリに“迷装”を施すぞ」
「なにさ、自分は何もしないくせにィ」
「怪我人なんでな。ま、古代ローマのファイターもいるこった。しっかりやれ」
ぶつくさ言いながら、ゆきたちが出て行くと、おれは早速、ヘリの中で、譲の行動のチェックに取りかかった。
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第二章 湖に棲むもの
1
譲のスピードは驚くべきものがあった。
一キロを十分どころの話じゃあない。三キロを五分で走破し、たちまち、小さな村落に到着した。
ちなみにゴメテラ湖は、コンピュータで調べると、周辺が約一〇キロ。さして大きくはなく、南と西に人口三百ほどの村落が存在する。譲が狙ったのは、南の村落だった。
この辺は首都からのバスの便もあり、ごくたまに、湖の景観を眺めに訪れる観光客もあるらしい。村長の家も塀に囲まれていた。
生活の糧は農耕だから朝が早いのか、村は寝静まっている。
譲は軽々と塀を跳び越え、狭い庭を抜けて、ドアの前に立った。
スクリーンが黒く染まった。
次の瞬間、彼は部屋の内部にいた。寝室だ。
どでかいダブル・ベッドが半ばを占め、その上で黒い身体が蠢いていた。
熱さえ伴ったような女の喘ぎは、両腿の間に割って入った男の腰が動くたびに中断し、女は幅広の背中に爪を立てた。
大したグラマーだ。照明が点けっ放しなのでよくわかる。窓はカーテンでふさがれていた。
おれなら、もう少し観察するのだが、譲クンはそうはしなかった。
「失礼」
ひと声かけて、
「!?」
となった二人が、そちらへ眼をやる前にベッドに近づき、男の首すじに左手を当てた。
ウンともスンとも言わず男は女の上に倒れこんだ。背中の張りを見たときからわかっていたが、若い顔立ちだった。つまり、村長じゃないのだ。
対して、茫然と譲を見つめる女の方は、どう見ても三十半ばの熟女だ。こちらは村長夫人だろう。
「アナタ、誰?」
女が片言のフランス語で尋ねた。譲が西欧系ではないとわかっても、部族語以外はそれしか知らないのだ。
「八頭大」
この野郎。
「殺サナイデ」
「はン?」
と口走ったのは、おれだ。これは面白いことになってきた。
「夫ノ雇ッタ殺シ屋デショ。オ願イ、コイツダケ殺シテ。アタシハ騙サレタノヨ」
「ほお」
譲は二人の顔を見比べた。不倫中の女にとっては、何もかも殺人前の儀式に見えるものだ。黒い顔が恐怖に引きつった。
「コイツニ、無理矢理関係サセラレテ。夫ヲ裏切ルツモリナンカナカッタノ。オ願イ、見逃シテ」
譲は無言で、上衣の内側からSIG・P226を取り出した。女の両眼が眼窩からこぼれ出す。SIGがゆっくりと上がって、女の眉間を捉えた。
「助けてやってもいい」
と譲は言った。
「その代わり、今夜のことは、誰にもしゃべるな。亭主にも、だ」
女はおかしな要求だと疑う余裕もなく、百遍もうなずいた。
「この男は貰っていく。忘れるな。それから、おれはただの殺し屋じゃない。湖に棲む魔神だ」
阿呆が。
「――何、言い出すのよ」
背後で声がした。ゆきだ。
おれは愕然となった。こいつが来たのに、気がつかなかったのか。とうとう勘まで冒されはじめたか。
おれの焦燥にもかかわらず、スクリーンの中の譲はとんでもないパフォーマンスをおっぱじめた。
「見ろ」
と左手を胸前で開くなり、SIGの銃口を手のひらに押しつけたのだ。銃声が、女を大きく震わせた。手を射ち抜いた弾丸は、譲の心臓に命中した。
無残に砕かれた左手を、譲は女の眼の前へかざした。傷口がみるみるふさがっていく光景は、女にとって奇蹟としか映らなかったろう。狂気じみた眼が、そうだと告げている。
譲は心臓の射入孔を示した。皮膚ばかりか服までふさがってしまう。
「誰にも言うな」
ダメ押しだった。女はうなずいた。狂気の表情は、いつの間にか穏やかなものに変わっていた。
「何よ、あれ? おとなしくなっちゃったわよ」
ゆきの指摘に、おれは深々とうなずいた。
「とうとう、あの女――信心のレベルに入っちまったんだ」
「え?」
「譲は本物の神様に化けたのさ。あの女にとってはな」
「へえ」
「これで、あの女は譲の言いなりだ。死ねって言えばいますぐにでも舌を噛むし、殺せって言えば、その男の首でも絞めるだろう。なんせ、神様がついてるんだ。怖いものなんかねえ」
「わーお」
と、口を開けっ放しのゆきの前で、譲は失神中の男を軽々と肩に乗せ、ドアへと向かった。
眼の前にドアが迫っても、足をゆるめない。
スクリーン一杯にドアが広がり、
「ぶつかる!!」
と、ゆきが眼を閉じた。
すぐに開いた。あっと叫んだ。
譲はなんと、門の外にいた。
そして、彼は疾走を開始した。
「五分で戻る」
と、おれが言ったとき、ゆきがふり向いた。
おれたちがいるのは、巨岩に化けた“迷装”の内側《なか》だが、戸口は開けてある。
そこにペクタスがうつ伏せに倒れていたのである。
「ちょっと、どうしたのよ!?」
ゆきが声をかけると、ペクタスは顔を上げた。生命に別条はないらしい。
不貞腐れたような、うんざりしたような顔つきであった。なんとなく、人の好い外谷《とや》に似ている。
単につまずいただけかと思って、
「どした?」
と声をかけたら、おかしなことをしやがった。
ずる、と五〇センチも後じさったのである。
「何してんのよ?」
ゆきは眉を顰めたが、おれは一発で異常に気づいた。こいつが下がったんじゃない。引きずられたのだ。
「ゆき、ペクタスの足を見ろ!」
“迷装”の内部で外していた暗視用のゴーグルをかけるや、ゆきは、驚きの声を上げた。
「蛇みたいのが、絡みついてるわよ。違う、何かの触手よ!」
「ぶった斬れ」
「イェッサー」
ゆきの右手が上がった。手首に巻いてあるのは、おれと同じ腕時計型の多用途ボックスだ。
ぴぅん。鋭く空気が鳴って、ペクタスの足の辺りで、太い蛇の胴みたいなものが鎌首をもたげた。直径一〇センチほどの丸い切断面から、黒い血を吐いている。
「きゃっ!?」
と叫んで、ゆきがひっくり返った。
「あたしの足にも! わっ、湖の方から、ぐにょぐにょ来てる。わっわっわっ、十本以上あるわよ!」
「入って戸を閉めろ!」
ゆきが、ずるると滑った。湖の方へ。
「こいつぅ!」
怒りの声が風を切った。
肉を断つ音がして、ゆきはすぐ立ち上がった。その身体へ、黒い触手が闇の奥から近づいてくる。
右手の多用途ボックスから閃く、特殊鋼の糸ノコが躍った。
墨汁のようなものが広がり、そいつは苦しげに後退した。
「早く来い!」
ゆきが跳びこんだ。ペクタスが四つん這いで後を追う。
ドアを閉めるや、何か軟らかく重いものが続けざまに壁にぶつかった。
「何だった?」
と、おれは訊いた。
「わかんない。確かなのは、蛸でも烏賊でもないってこと」
ぐら、と“迷装”がゆれた。
「危ないわよ。ねえ、火炎放射器か何かないの? まとめて焼き殺してしまうわ」
「本体は水中だ。多分、海からやって来た奴だ。手足を斬っても何にもならねえよ」
「おでんの具になるわよ。いいわ。火炎放射器がなきゃ、湖に毒ぶちこんでやる。きゃっ!?」
“迷装”がまたゆれた。いや――
「ね、引きずられてないこと!?」
ゆきがイヤイヤをしながら喚いた。
確かに“岩型迷装”は、湖へと滑りはじめていた。底部にはある程度の重しをつけてあるので回転はしないが、いずれ、引きずりこまれる。潜水装置はない。
「脱出しよ。土左衛門になっちゃう!」
糞、足が利かねえんだよ。ゆきが駆け寄った、戸口の方へ。おれのところへ来たのは、ペクタスだった。なるほど、剣闘士に向いてねえ。
だが、ゆきがひとりで逃げ出す前に、滑走はぴたりと熄《や》んだ。
異形のもの[#「もの」に傍点]の動揺と苦痛の気配が湧き上がるのを、おれは感じた。
「出るな!」
止めたが、ゆきは跳び出した。
「あ――っ!?」
と立ちすくんだ。
「どうした!?」
ゆきが横へのいた。
何が来る?
「よお」
と入ってきた。譲だった。
右の肩にあの間男を乗せ、左腕で、切断された触手を抱えている。
「おまえが、やっつけた[#「やっつけた」に傍点]のか?」
「まあな」
「何だった?」
おれの足下に、ぺちゃんと、触手が五〇センチばかり落ちた。
全体は青紫で、小さな――直径二、三センチの吸盤が、びっしりと裏側を覆っている。
「蛸の一種だな」
と、おれは言った。まだ蠢いてやがる。深海の化物が通路を通ってやって来たに違いない。
「片眼をつぶしておいた。当分は来ない」
あっさり言って、肩の男を床へ放り出した。こいつを抱えて、外の化物と一戦交えたのか。
「本当に、あんたがやったの?」
ゆきがにらみつけるようにして訊いた。
「それにしちゃ、少しも汚れていないわね。化物が用事を憶い出したんじゃないの?」
「おい」
と、おれは止めたが、譲は相手にしなかった。
「迎撃の用意はできたのか?」
と、ゆきに尋ねる声も平静そのものだ。
「ふん!」
「それでは現実に対処できない。大よ、別途料金を払うか?」
「いいとも」
「大の道具は何処にある?」
と、譲がゆきに尋ねた。
「ふん!」
「ゆき」
と、おれは凄みを利かせた。
「内輪揉めは許さねえぞ」
「わかったわよ」
おれににらまれて、あきらめたらしい。
「外よ。ヘリのとこまで行けば、すぐにわかるわ――行っといで」
外の方へ顎をしゃくった。外へ出るのは怖いのだ。
ま、ゆきとペクタスが迎撃準備に取りかかってから、十分と少しで譲は戻ってきちまったのだ。何もできてなくて当り前と言えば言える。
ほんの一分前の死闘の現場へ、怖れげもなく、むしろ、淡々と歩み去る男の後ろ姿を、ゆきは黙然と見つめていたが、
「畜生め」
と、ひとこと吐き捨て、自分も外へ出た。
2
三十分ほどで、二人は戻ってきた。
その間に、おれの方も、ペクタスに活を入れさせて間男を甦らせ、ゴメテラ湖に関する噂や、この近所について、根掘り葉掘り尋問しておいた。
「どうした?」
とおれは、相も変わらず不機嫌そうなゆきを無視して、譲に声をかけてみた。
「OKだ。この娘もなかなか役に立つ」
「そいつぁよかった。おれの方も、みんな吐いてもらったぜ」
と、足下の男に眼をやる。しゃべってる間、突きつけておいたペクタスの剣の柄《つか》で一撃しておいたのだ。後で安全なところまで送ってやろう。
「この湖が海につながっているのは、ほぼ間違いない。水は真水だが、大洋でしか棲息できないはずの大烏賊や鮫がしょっちゅう上がるそうだ――」
昔から犠牲者が多く、凶暴な奴らが入りこんでくると、村では人手を出さずに放っておくという。海から来た怪魚どもは、しばらくするうちに真水で溺れ死ぬか、海へと戻ってしまうからだ。死んだやつを陸揚げし、バラして売りさばくと、二つの村がひと月は食える収入になるそうだ。だから、化物を湖へ入れるなという政策(?)を掲げて村長選に立った男は、演説の途中で袋叩きにされちまったらしい。
「さっきの化物は、半年ばかり前から姿を見せ、魚や村人を食い荒らしてるそうだ。長生きというか、のさばりの最高記録だな。最近じゃ、さすがに始末しろという声が上がってるそうだ」
「そうすると、ジャン=ルイの潜水艇なんか来たら、大変ね。たちまち沈没させられちゃうわ。サイコー」
ゆきが眼をかがやかせた。
「ジャン=ルイはあの生物のことを知ってると思うか?」
譲は訊いた。
「ああ。何度もこの村へやって来たそうだ。しかも、だ」
「潜水艇を隠していった」
おれは苦笑混じりに、ピンポーンと言った。
「よくわかったな」
「一番近い海岸まで、五〇〇キロある。そこに待機させとくよりは、湖の近くに置いとく方が、ずっと脱出のための効率がいい。あの程度の莫迦でも考えつくことだ」
「あら。言うわね」
ゆきが嫌みたっぷりに言った。
「場所は聞いたか?」
「いや、運びこんできたことしかわからない。ジャングルだろうと言ってた。探すのは簡単だ。センサーで一発さ」
「断言癖がついたな」
おれは肩をすくめた。
そのとき、譲が天井を見上げた。わずかに遅れて、おれも気がついた。
羽搏きの音だ。それも半端なサイズじゃない。
「やっぱり、早めに来たか」
おれの言葉に、譲がうなずいた。
「どっちだと思う?」
ああ、外へ飛び出したい。
「兵隊が同行してる気配はない。副大統領がひとりで鷲に乗るとも思えんな」
ヒカとジャン=ルイか。
羽搏きは西の方へ去っていく。
「おれが追いかける。連絡を待て」
「気をつけろ」
夜だとかジャングルが危険だとか、こいつに言ってもはじまらない。
おれは小さくうなずいてみせた。
例によって、譲は無愛想に去った。
「働きものなのは確かよね」
と、ゆきが呆れたように言った。
「夜のジャングルを二回も――怖いものってないの?」
「あいつには、な」
「不死身だから?」
「そうだ。ただし、ちょっと意味が違う」
「何よ?」
「あいつは死に場所を探してるのさ」
ゆきが、きょとんとして、
「――どうしてよ?」
「ところが、見たとおりの身体だ。いまのところ、自殺する方法も見つからねえし、殺されることもできねえ、虚無的になるわけだ」
「ふーん」
おれは譲の消えた闇の方へ眼をやった。
「昔、ひと月ばかり一緒に仕事をしたことがある。おれは大して役に立たなかったが、あいつが夜の闇に呑まれるたびに、それきり戻ってこないような気がしたもんだ」
「………」
アフリカの闇は深く濃く、圧倒的な密度をもっておれたちを包もうとしていた。
「だが、あいつのためには、その方がよかったのかも知れない。何処で生命を落とそうと文句をつけないのがトレジャー・ハンターの掟だが、自分で死にたがるとなると、また別だ」
「なに、辛気臭いこと言ってるのよ」
ゆきが鼻を鳴らした。
「あんたらしくもないわねえ。なによ、そんなに死にたきゃ、首でもくくりゃいいじゃない」
「首をくくれば死ねると思うのは、おれたち平凡人だけさ。あいつが、核攻撃にもただひとり生き残った男だというのを忘れるな」
「それじゃ――死にたくても」
「――死ねない……ってことが、どんなに辛いもンか、おれにはよくわからねえ。想像はできるが、間違ってるだろう」
「案外、辛いのかもね」
おれはうなずいた。横を見ると、ペクタスも、うむうむとやっている。
「阿呆か、この役立たず」
無事な方の足で太鼓腹に蹴りを入れ、二発目で外へ蹴り出してやった。
すぐに後悔した。譲を理解しているのは、案外、こいつ[#「こいつ」に傍点]かも知れない。
「悪ィ、悪ィ、戻って来いよ、ペクちゃん」
と顎をしゃくった。胡座をかいて足下の草をむしっていたもと[#「もと」に傍点]剣闘士は、すぐに、にこにこと立ち上がり、こちらへやって来た。
その身体が戸口一杯に広がったとき、ペクタスはのけぞった。
「ゆき、引っ張りこめ! 敵だ!」
ゆきが駆け寄り、でぶを引きずりこんでドアを閉めた。
「無事か、ペクタス?」
おれの問いに、でぶは顔を上げ、かぶりをふって――突っ伏してしまった。
「ゆき、センサーはどうした!?」
これも、SIG・P226を抜いたゆきが、デスク上のコンピュータに駆け寄り、スクリーンを覗いて首をふった。
「わかんない。センサーはちゃんと稼働してるのよ。なのに、誰も映ってないわ!」
その瞬間、おれは事態を理解していた。
おれとゆきに気配も足音も感じさせずに忍び寄った敵。ミイラのペクタスを斃《たお》した銃弾。確かに存在する敵を映し出さないコンピュータ。
「ゆき――覗き窓から見てみろ」
ドアから少し離れたところの壁の一部をずらして眼を当て、ゆきは、ぎゃっと呻いた。こちらを向いた顔は、真っ青だ。
「外に、おかしなのがうようよいるわよ。軍服着て――それはいいけど、みんな、ぼうっと青白く光ってるの。あれ――幽霊?」
「というより、霊体《エクトプラズム》だ。前に一度、サウジの遺跡でやり合ったことがある。霊体兵って奴だな」
「霊魂じゃないの?」
「ペクタスを見てみろ。まだ生きてるだろ?」
「うん」
「百パーセント純生の霊魂だったら、ペクタスは即死してる。弾丸は心臓の真っ芯に命中だから、な。だが、霊体は霊魂とは違う。霊媒が実体化《マテリアライズ》しづらい霊魂をこの世に召喚するとき、自分の口から吐き出して、霊魂に形を取らせる物質だ。だから、ペクタスを即死させられなかった」
「すると、ペクタスを射った弾丸も、あいつらの持ってるライフルも、みいんな……?」
「霊体物質だな」
「あたしたち、射たれたらどうなるの?」
「効果は同じだ。死ぬ」
「わお」
ゆきが歯を剥いた。
「でも、そんなお化けが、どうしてこんなところに?」
「本隊は、いまこっちへ向かってるか野営中なんだろう。生霊でも霊魂と同じ能力《ちから》を持ってる。だから、三〇キロ離れたここへも、簡単に移動できるんだ。すぐ来れなかったのは、何十人か分の霊体処理に手間がかかったんだな」
「どうするのよ? 反撃すれば倒れるわけ?」
「急所がある。右の眼だ。そこをつぶせば消える」
「なんでよ?」
「なんでもだ。死にたくなきゃ、つぶせ」
「野蛮人」
「阿呆。好きでやる[#「やる」に傍点]んじゃねえ」
壁がゆれた。
外から力が加わっているのだ。
「幸い、物質化してるから壁を抜けては入ってこられねえ。だが、射たれると危いぞ。すぐに譲を呼ぶ。おまえ、何とか防げ」
「どうすればいいのよ?」
「外へ出て単身、奴らと戦うんだ。なに、霊体兵てのは、動きが鈍い。急所さえつけば一発だ」
「あんたは何してるのよ」
「動けないからねェ」
「何が、ねェよ。この役立たず!」
おれは、ゆきを無視して口もとのマイクに向かった。
「聞いてたろ、譲? いま何処だ?」
「戻る途中だ。三分保ちこたえろ」
「了解。――というわけだ。しっかりやれ」
「この無責任男!」
叫んだゆきの耳もとを、何かがかすめた。
「伏せろ!」
射撃が開始されたのだ。壁を貫いた弾丸は、痕ひとつ残さず、反対側の壁に消えた。
「一斉射撃されると危い。早く出ていけ」
「もう!」
般若のような顔が、こちらを見た。
それでもドアの方へ向かったのは、さすが、太宰先蔵の孫娘だ。
そのとき、背後ですうと立ち上がった影がある。
「ペクタス」
負傷したもと[#「もと」に傍点]剣闘士は、何とも情けない表情でゆきに近づくと、その肩に手をかけて引いた。
「何――よ? あんた、大丈夫?」
眉を寄せるゆきの肩をなだめるように叩いて、自分が前へ出た。
ゆきが愕然と――
「あんた、あたしの身代わりに?」
もうひとり、愕然となった男が言った。
「そうらしいな」
おれだ。
「ちょっと――」
ゆきが声をかけるより早く、ペクタスはドアを開けて外へ出た。
闇の中に、仄光る人影が蠢いていた。戸口からの分しかわからないが、十人は越すだろう。
他は湖の周囲や村を捜索中に違いない。
銃口がペクタスに集中した。莫迦か。ええカッコしても、蜂の巣になったら終わりだぞ。
射たれる!! おれもゆきも凍りついた瞬間――ペクタスの身体が動いた。
3
霊体兵どもは近づきすぎていた。ペクタスとの距離は三メートル。ペクタスの様子から負傷しているのを知って甘く見ちまったのだ。
ま、自動小銃を構えているなら、相手がどんな行動を起こしても、十分に十五、六発は射ちこめる距離だ。無理もない。
ただ、ペクタスの動きは速すぎた。おれでも、ああは行くまい。油断した連中が引金を引く前に三メートルを詰めた。
右手の剣が風を斬る――唸りが聞こえた。
霊体兵が三人、きれいに首を飛ばされてよろめいた。
間髪入れず、刀身は左へ流れて、ライフルを構え出した奴が三人、胴体を半分断たれてひっくり返る。
おれは内心唸った。あの重くてでかい剣が、自分の重量に流れていない。寸分の狂いもなく、ペクタスの腕が制御し抜いている。
何人かが銃を逆手に襲いかかろうとしたが、攻撃する前に、ペクタスの刃の餌食になった。
下がって射殺しようとすれば、ペクタスはその胸もとに突進し、串刺しにした霊体兵を二人も楯に使って、別の敵の銃撃を避けた。
首が飛び、手が吹っとぶ――凄まじい光景が展開したが、霊体兵の身体は、倒れる前に青白色の霧と化し、風と共に去ってしまった。
ペクタスという旋風の巻き起こした風の渦に全員が巻きこまれ、渦の備える刃に寸断されていく。惚れ惚れする眺めだった。
突如、大渦に変化が生じた。がくっと膝をついたペクタスの周囲から、青い人影が遠ざかる。それでも、七、八人だけだ。残りは片づけちまったのだ。ペクタスがひとりで。剣ひとふりで。
それでも何とか起き上がろうとするペクタスの前方で、ひとりがライフルを肩付けした。射ったのはそいつだな。確実に仕留める気か。
思わず、おれは駆け出そうとした。もちろん、動けない。
こん畜生、と頭が燃え上がった刹那、銃声が轟いた。
ライフル男の右眼に、黒点が開き、そいつは、膝を崩した瞬間、消滅した。
銃声はSIGのものだった。
「ゆき!?」
戦場へ突っこんでゆく後ろ姿が見えた。
のばした両手が、続けざまに火を噴く。火線は正確に、残る兵士たちの顔面に吸いこまれた。太宰先蔵の血は伊達じゃないのだった。
ライフルも射ち返したが、ゆきは銃口が向いた瞬間、地面に跳びこんで躱《かわ》した。見事な反射神経だ。
地上からSIGの猛射が襲い、そいつは霧と化した。
「やるねえ」
おれのつぶやきが終わらないうちに、ゆきは膝をついたままのペクタスに近づいた。
唇の動きで読める。
「大丈夫?」
おやまあ、やさしい声ですこと。
ペクタスが苦笑を浮かべた。見たところ、左膝をやられたらしい。
「えらいわね。膝ついても倒れなかったもンね。はい」
のばしたゆきの手に、しかし、ペクタスはすがらなかった。
息をひとつ吐き、両手で掴んだ剣に体重を預けた。苦痛を満身に湛えて立ち上がる男を、ゆきは黙然と見つめた。眼の前にいるのは、傷だらけの誇り高い剣闘士だった。
「危ねえ!」
二人の背後で、青白い影がひとつ立ち上がったとき、おれは絶叫した。
ゆきがふり向いた。SIGが同じ速度で同じ方向を向く。
――遅い!!
腰だめのライフルと一メートルも離れておらず、ゆきは跳びのく体勢になかった。
青白い顔が、にっと笑うのをおれは見た。
SIGを――指は空気を握りしめた。ゆきは二挺を射ちまくったのだ。
絶望の瞬間、兵士の眉間が青い霧を噴き上げるように裂けた。
誰かが後ろから一発――そちらへSIGを向けて、ゆきはすぐ銃口を下ろした。
ジャングルの中からやって来たのは、譲だった。右手のSIG・P226の銃口には、卵の片端を切り落としたような消音器《マフラー》がついている。銃声がしなかった理由はこれだ。
二人を見て、
「無事か?」
と訊いた。
「ご覧のとおりよ」
ゆきが、何言ってるのという口調で返した。さも愛おしげにペクタスに近づいて首を抱く。もと剣闘士はたちまち相好を崩したが、もう笑う奴はいない。
「素敵だったわよ、ペクちゃん。――あんたみたいな出遅れじゃないわよ」
最後のあんた[#「あんた」に傍点]は、無論、譲に向けられたものだ。
「何でもいいが、弾丸は数えて射て。拳銃をぶつけるつもりだったのか?」
言われて、ゆきは両手の拳銃を見た。形相が変わった。どちらの遊底《スライド》も後座している。弾丸は尽きていた。譲がいなかったら、射ち殺されていただろう。
譲はゆきの反応など気にもせず、ペクタスの方を見た。
驚いたことに、世界的モデルででも通用しそうな美貌が、笑みを浮かべていた。
労いの言葉はなかった。彼は黙ってペクタスに寄り、毛むくじゃらの右手を自分の肩に乗せた。
「歩けるか?」
ペクタスがうなずいて、身を預けた。
じきに三人は“迷装”の内部《なか》へ戻ってきたが、ゆきだけが不貞腐れていた。
「よくやった」
と、おれが労ったが、ふん、とそっぽを向いてしまった。
なだめている暇はない。敵は両方とも、ここまで来ちまったのだ。
「ジャン=ルイの隠れ家はわかったか?」
「残念ながら、途中で引き返した。ただ、あの飛び方と高度と方角からして、サリコの村だろう」
「ふむ、悪いが、そこの村長も捕まえてきてくれ」
「あそこは少し危いぞ」
と譲は、棚のコーヒー・ポットを手に取りながら言った。
何げない言い方だったので、誰も反応しなかった。おれ以外は。
「おまえが危ないって言うとは、な。――何がある?」
「魔法使いだ」
ぞくりとした。
「ヒカのこっちゃないのか?」
「多分、あいつより強いな」
譲はポットから入れたコーヒー・カップの中味をひと口飲んだ。
ぞく、の次はぞっ[#「ぞっ」に傍点]、だった。
ヒカ以上の奴がいるのか。
おれも色々戦ってきたが、魔法とか妖術とかを操る奴が一番始末が悪い。
当人が戦わず、魔力で呼び出した小悪魔や使い魔、ゾンビ、土人形《ゴーレム》などを操りやがるからだ。単体を斃しても、魔術を使う当人を始末しない限り、使い魔は何度でも甦り、再戦を挑んでくる。考えようによっては、現代の資本家と労働者みたいなものだ。もっとも、そっちの労働者はストを起こしたり、ピケをはったりしない。
もちろん、魔力を封じたり、遮断する方法はあるが、魔術師ごとに使う術の体系が異なるため、いちいち対処法を仕込まなくちゃならず、戦いははなはだ非効率を余儀なくされる。
「あんた、やけに詳しいのね」
ゆきが突っかかるような物言いをした。床の上に胡座をかいて、ペクタスを膝に乗せている。
「ああ、半年ばかり前に、この辺で仕事をしたばかりだ。――それでは、おれはその間男を戻してから、外にいよう。霊体兵はセンサーにもかからんからな」
譲はカップを置き、床上の黒い間男を担いで戸口へ向かった。
ふと、床へ眼を落として、瀕死のペクタスを見た。
「霊体兵に負わされた傷は、魔法医師でなければ治らんぞ。ヒカに頼むわけにはいかんだろうが、サリコの村のサンドロなら、貢物次第で力を貸してくれるだろう」
「ホント!?」
と、ゆきが顔をかがやかせた。
「すぐ行こう、大ちゃん」
「――ただ」
と譲がつけ加えた。
「サンドロには弟子がひとりいた。おれの記憶では、その名前がヒカだ」
「どうしてそれを早く言わないのよ――勿体ぶって」
「訊かれなかったからだ」
ゆきは、ううと唸って歯軋りをした。役者が違う。
譲はドアに手を当て、
「ついでだが、サンドロの魔力は多分、アフリカで一、二を争う。おまえの手足も治療できるかも知れん」
「その力を見たことがあるのか?」
「ああ――おれのあれ[#「あれ」に傍点]を食い止めたよ。ただし、アフリカを離れるまでだが」
「何故、それを早く言わねえんだ?」
おれは文句を言ったが、答えはわかっていた。
譲はふり向いて、
「訊かれなかったからだ」
そして、闇の中へと出て行った。
その夜は、それ以上何事も起こらず、翌日、おれたちは四人揃って、サリコの村へと向かった。
ジャン=ルイとヒカがいるから、ヘリは使えない。見えない化物に飛行中を襲われては厄介だ。
サリコの村までは七キロ――大した距離ではないが、瀕死の病人をヘリの担架に乗せていくとなると厄介だ。
しかも、この野郎、いますぐ死ぬとでも言わんばかりにヒィヒィ言ってやがるくせに、ゆきがそばに来ると、率先して手を握り合い、ケタケタ笑ってやがる。
片足を引き引き歩くおれが、疲れのせいで、何度も、
「てめえ、本当に痛むのか?」
と罵ると、傷のあたりを押さえて、ぐええとやる。
「役者だな」
担架の前を持つ譲が面白そうに言った。
「珍しいな」
おれは後ろを担当するゆきの、さらに後ろから声をかけた。
「何がだ?」
「おまえが他人の行動にいちいち反応するからさ。――ひょっとして、その相撲取りが気に入ってるのか?」
返事はない。
湖に沿って行くから、ジャングルの内部は通らなくて済むが、蚊が多いのには参った。
念のため、出発前に防虫スプレーをかけておいたからいいようなものの、でなきゃ五〇〇メートルも歩けなかったに違いない。
まさに、雲霞《うんか》のごとく、で、ある場所では先が見えなくなったほどだ。
熱帯の陽光が容赦なく肌を刺し、ゆきは浴びるように水を飲んだ。
「飲みすぎると太鼓腹になるぞ」
「うるさい」
と罵り、え? と眼を丸くした。
「象か」
と、おれは言った。
一〇〇メートルばかり先に灰色の大群が群がっている。
でかい耳が風を起こし、長い鼻が水を吸っては、五トンもの巨体に自ら浴びせかける。水の中にも十頭近くが浸かっていて、まるでディズニーの世界だ。
「いいわねえ、涼しそう」
ゆきがつぶやいたとき、譲がいきなり、
「ジャングルへ入れ」
と言うなり、方角を変えた。異論を唱える暇もない。後について走り出したとき、聞き覚えのある音が平和な光景を地獄に変えた。
銃声だ。
それを浴びた象たちの身体に、みるみる弾痕が穿たれ、次々に横倒しになっていく。水も泥も血に染まった。
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第三章 サリコの魔法使い
1
「密猟者の象牙狩りだ!」
おれの声は、象たちの断末魔の絶叫に呑みこまれた。
豹やライオンをものともしないアフリカ象の巨体も、七・六二ミリNATO弾の猛射を浴びては敵わない。
以前は、超重量級のパワーを誇る象狩り小銃《エレファント・ライフル》で仕留めたものだが、いまではAK47やH&KのMB5等軍用ライフルのフル・オート射撃で荒っぽく片づけてしまう。
狙いは一本何百万で取り引きできる象牙だから、胴体にいくらぶちこんでもOKなわけだ。
沼はたちまち血に染まり、血の池地獄が出現した。
何頭か沼の中へと逃げ出したが、たちまち追い討ちをかけられ、横倒しになった巨体を水に浮かべた。
「何てことすんのよ。何処のどいつ?」
ゆきへの答えはすぐにあった。
前方の木立ちの中から、ガソリン・エンジンの音が鳴り響いたと思うや、グリーンの地に迷彩模様を施した大型ジープが三台も飛び出してきたのだ。
うち一台にはブローニングのM60重機関銃《ヘビー・マシンガン》が取りつけられている。
ストップと同時に跳び下りた、これも迷彩服姿の男たちが手にしたライフルからは、すべて硝煙《ガン・スモーク》が立ちのぼっていた。
「トラックも来たわ」
どうやら森を通過する道があるらしく、四トン・トラック・サイズのでかい影が、ジープたちを追ってやって来た。
器用にUターンし、荷台の扉を沼に向けて止まるや、そこから、上半身裸の黒人たちがでかい山刀を片手に、象たちの死骸へ向かっていった。
「まさか――ここで?」
「殺したら、すぐ解体して象牙だけ運ぶ。奴らが最も重要視するのは、合理性だ。今日、手に入れた象牙は、明日の昼には、ニューヨークやロンドンの成金の居間を飾ってるさ」
「悪《わり》い奴らねえ」
おれは何となく苦笑して、金だ、と言った。
そのとき、急に、担架の後ろを持っていたゆきが、悲鳴を上げた。
前方の譲がよろめき、担架が崩れたのだ。
まずいと思ったが、遅かった。
武装しているのは、白人と黒人の混合兵だったが、黒人のひとりがこちらをふり向くや、見事なフランス語で、
「誰かいるぞ!《ケルカン・ラヴァ》」
と叫んだのだ。
「譲」
と、おれは声をかけたが、返ってきた返事は、
「はじまった――逃げろ」
だった。
「どうしたのよ!?」
血相変えるゆきの手首を掴んで、
「行くぞ」
と引っ張ったが、ゆきは踏ん張った。
「説明しろ!」
「莫迦、それどころじゃねえ」
とせかしたが、ゆきは動かない。一蹴り食らわして、と思ったが、遅かった。
「出て来い!」
怒りと殺意を含んだ叱責とともに、頭上を自動小銃の猛射がかすめたのだ。木の幹が削り取られ、枝が吹っとび、幅広い葉が落ちてくる。
「くっソー」
ゆきがSIGを構えたが、おれはやめろと止めた。十挺の自動小銃vs.SIG一挺じゃ相手にならない。
しかも、譲は――あれ[#「あれ」に傍点]が。
「いいか、これから何が起こっても、これだけは忘れるな。おれが逃げろと言ったら、どの方角でもいい、とにかく譲に背を向けて走れ。わかったな?」
ゆきは、何でよ? と訊きもせずにうなずいた。おれの顔がよほど怖ろしかったに違いない。
「とりあえず、行くぞ」
ゆきにこう言ってから、おれは譲の方を見た。草むらに四つん這いになって全身を震わせている。
震わせて? いや、身体は凄まじい勢いでブレていた。
秒速何千回のスピードで、全細胞が振動しているのだ。
おれの身体は、
危ねえ
の三文字で出来上がってしまった。だから、密猟者どもの真ん前に跳び出してしまったのも、すぐには気がつかなかった。
ぐるりを銃口で囲まれ、
「何だ、貴様は?」
と訊かれても、ちっとも気にならなかった。
「悪いことは言わん。早くズラかれ」
と言っても、向うはうす笑いを浮かべたきりで、
「中国人か日本人か? 観光客じゃなさそうだな?」
「ウィ。日本の学術調査団だ」
「それが、どうして、おかしな格好をした白人を担いでる? そっちの女も、とても学術や調査に縁があるとは思えん。――ひょっとして、野生動物保護局の廻し者か?」
「何でもいい。――逃げよう」
背中から忍び寄ってくる、得体の知れない冷気。トレジャー・ハンターとして、腐るほどの修羅場をくぐり抜けてきたおれの感覚だけがシンクロできる、恐怖そのものだ。
「まあいい。男に用はない。そっちの娘――ここへ来い」
「べーだ」
と舌を出す。その足下へ、ドドッとAK47が射ちこまれた。
「きゃああああ」
と喚きながら、ゆきは男の方へ突進し、その首っ玉にかじりついた。
半分は演技だが、半分は本気だ。自分の身を守るための本能的な媚が、恥ずかしげもなく突出してしまうのだ。
「やーン、やめてえ」
と黒い顔中に、キスの雨を降らせる。殺されると思ったら、親の仇にでも身をまかせるだろう、この淫乱娘は。
迷彩服の胸の上で、でかい乳房がつぶれた。
黒人の顔が、みるみる好色の沼に溶けていく。
ゆきの腰に手を巻くや、激しく唇を押しつけた。
二枚の舌が絡み合うのを、おれは見た。ゆきの方から入れたのだ。
長いディープ・キスがいつまで続くのか、いつもならキレかかるのだが、今日は別だ。ディープでも本番でもいいから、好きなだけやってろ。おれは逃げるぞ。
濃厚なキス・シーンは、二秒ほどで邪魔が入った。
屈強な白人が、黒人の肩を掴んで、引き戻したのだ。
「何しやがる?」
黒人はゆきを離してAK47を向けたが、白人のFALはそれより早く、漆黒の眉間にポイントされていた。
「そんないい女を独り占めにする気か? こっちにも廻しやがれ」
白人の眼は欲情に血走っていた。
はじまった。こうやって内紛を起こさせ、敵のつながりを寸断するのがゆきの得意技なのだ。世の中、ゆきより美人もいるし、色気たっぷりな女優も、グラマーなモデルもいる。だが、男の淫心を露呈させ、辺り構わず欲情に狂わせ、仲間さえ殺して恥じない獣に変える――これは、世界中捜しても、ゆきにしかできない。
「ふざけるな」
言うなり、黒人はAK47の銃身でFALのそれを弾き飛ばすや、思いきり銃床《ストック》を旋回させた。
間一髪で白人が躱し、身を屈めた位置から、黒人の胸へ銃剣を突きつけたが、黒人も同時に一歩跳びのいて、AK47を構えた。
銃声は一度だけ鳴った。
二人揃ってのけぞったところを見ると、全く同時に引金を引いたのだろう。
弾丸は、ゆきに狂った男たちの眉間を射ち抜き、後頭部から抜けた。派手に血と脳漿が飛び散ったのを土産に、二人は仰向けに倒れて動かなくなった。
おれ以外の男たちも茫然と立ちすくんだところへ、冷気を受けていたおれの背中が、かっと灼熱した。
限界だ。
おれはゆきへとダッシュするなり、おれごと地べたへ押し倒した。
「な、何――?」
「眼を閉じろ! 見るな」
自分の声が、ひん曲がって聞こえた。
意識が引かれた。小さな渦の中へ。
すぐに元に戻った。
いや、ゆきが失神しているところを見ると、そうでもないらしい。
おれは左足を引きつけ、全体重を乗せて、立ち上がった。
周囲を見廻す。
「ありゃあ」
と声が出た。我ながら、驚きと――それよりも安堵が充満している。
おれとゆきのすぐ脇――五センチと離れていない大地は、直径一〇メートルもの、すり鉢型の真円がえぐられ、沼の水が滔々と流れこんでいた。
穴の縁にかろうじて残ったジープ一台以外は、影も形もない。
沼の一部もやられたらしく、象の死骸も消えていた。
穴の深さは一五、六メートルもあるだろう。巨大な錐が打ちこまれたようなものだ。
途方もないエネルギーが地面をえぐり、四トン・トラックとジープ二台、そして、二十名近い男たちを消してしまったのだ。
何より凄まじいのは、空気が常温より少しも上がっていないことだ。エネルギーは熱に変わらず、何処へ行ってしまったのか。
「ちょっとお、どーなってんの、これ?」
眼を醒ましたらしいゆきの声が、足下からした。日本の級友――外谷みたいにのそのそと起き上がり、周りを眺めてから、
「誰がやったのよ?」
と訊いた。
「神さまがシャベルで穴を空けた、なんて駄目だからね」
「譲だ」
「へ?」
「何もかも譲のせいだ。しかし、今回はおとなしかったな」
ゆきが身震いした。
「ちょっと、他にもあるの?」
「おれが知ってるのは、四年ばかり前のアラスカだ。冬のど真ん中に、氷河が溶けて、大洪水になったのは覚えているだろう。あれだ」
ゆきの口があんぐりと開いた。
「知ってる。隕石が落ちたと言われた事件ね。でも、アラスカのどの気象台の地震計もぴくりとも動かなかったし、直径五〇メートルの穴の周りにも、亀裂ひとつ入っていなかった。……あれも譲くんなの?」
「イエイ」
おれはばっちんとウィンクしてみせた。どうしてかはわからない。
「でも、アラスカの事件は氷河が溶けて大洪水になったわ。死者はゼロだったけど――ここは……」
と辺りを見廻した。
「エネルギーの種類が違うんだ、としか言いようがねえな。アラスカじゃ熱に変わり、ここじゃあ――わからねえ」
おれたちは顔を見合わせた。
「一体全体――」
と、ゆきがつぶやいたとき、
「よお」
と誰かが後ろから声をかけた。
譲の声だった。
2
「ふり向くな」
と声は続けた。
「正気に戻ったか?」
と、おれは訊いた。冷や冷やものだった。
「何とかな」
譲の声は、どこか疲れている風だった。おれなら、二、三日は絶対安静と判断するだろう。
ゆっくりと五つ数えて、
「もういいかい?」
と訊いてみた。
「ああ」
いつもと変わらぬ譲がそこに立っていた。
ゆきもふり向いた。
戦慄がおれの心臓に爪をたてた。
ゆきが硬直した。
譲の身体は突如、陽炎みたいにぼやけ、すっ、と消滅してしまったのだ。向う側の景色が見えた。そして、また次の瞬間、彼はよろめく足を踏みしめて、その場に立っていた。
「何なのよ、この男?」
ゆきが素っ頓狂な声をふり絞った。
「あんただって、相当外れてるけど、こっちは、外れも外れ――もと[#「もと」に傍点]から人間じゃないの? どうなってんのよ?」
「こうなったら仕様がないな、譲?」
と、おれは声をかけて同意を求めた。
返事はない。譲は背を向けてジャングルの方へと戻っていく。ペクタスのところへ行くつもりだ。
「おい」
呼びかけると、
「好きにしろ」
と来た。
ゆきが、ひい、と応じた。譲の身体が、またピント外れになったのだ。
「幸い、ジープが一台残ってる。あれで時間が稼げるから、ひと休みだ。その間に色々教えてやるよ、おれの従兄弟についてな」
幸いペクタスも異常はなく――前から異常だが――ジープもちゃんと動くようだった。
ペクタスのことは譲にまかせ、おれは湖のほとりで、ゆきに話を聞かせてやった。
話し終えると、ゆきは眼を丸くした。いや、話している最中から、丸くしっ放しだったから、瞼が閉じなくなったというのが正しい。
「――そんなこと、可能なの?」
「だからよ、現代科学――というより、人間の科学の成果じゃねえ。地球外生命体――E《エクストラ・》T《テレストリアル》のもんだな」
「そうか、それで、あの一家……」
「改造された苦悩は、おれたちには想像もつかないものだったんだろう。で、殺し合ったが、なにしろETだ。それも上手くいかねえ。それで――」
「モハーベ砂漠で核実験、か。でも、譲クンは生き残っちゃった――ねえ」
と、ジープの方をうかがって、
「あの人、死ぬってことができるの?」
おれは肩をすくめた。
「どんな傷でも治っちゃう、となると、その修理機能が疲れきるのを待つしかないんだけど、エイリアンの技術よ。修理機能の方も修理が効くんじゃないの? つまり、無限に修理可能って――」
「事実上の不老不死だな」
「いいわねえ」
ゆきが眼をかがやかせた。ヤバいことを教えちまったかな。
「いつまでも若さを保って、永遠に生きられる――人間の夢よ。死なずに年も取らないんなら、名誉も富も思いのままよ。世界の支配者にだってなれるわ」
「そのとおりだな」
と、おれは、できるだけ冷たく言った。ここで食い止めないとヤバそうだ。
「だけど、その当人は無性に死にたがってるぞ」
「それは性格の問題よ」
ゆきの顔はだらしなく溶け崩れ、半開きになった口の奥で赤い舌が蠢いた。つうと涎がこぼれた。それを拭おうともせず、
「あたしなら、満喫してやるわ。長い付き合いだったけど、これでお別れね、バイバイ」
あっさり背を向けて、譲の方へ歩き出す全身から、不死への意欲と欲情とが、炎のように噴き上がっている。
おれは止めなかった。無駄だ。すべては時間が解決してくれる。
ゆきはジープのノーズによりかかった譲のところへ行くと、早速、腕を絡めて、肩に頬ずりしはじめた。
さっきまで化物を見るような眼つきだったのだが、女だ、仕方がねえ。
耳を澄ませると、
「はじめて見たときから、素敵だなあって思ってたんだ。助けてもらったからじゃないよ。男として、カッコいいなあって」
やってる、やってる。
対して譲は、
「そいつは光栄だ」
無愛想もいいところだ。おれは吹き出しかかったが、ゆきはちっともめげずに、
「男って、色んな要素からできてるけどさ、あたしが少なくとも言えるのは――お金じゃない、ってこと」
引っくり返らなかったおれを、誰か誉めてくれ。
「そいつは嬉しいな」
と譲は応じた。明らかに迷惑そうだ。
「ホント!? よかった。あたしは、男は中身よって主義でやって来たの」
「大がいるだろ」
こいつは、と思ったら、ゆきは激しく手をふって拒絶の姿勢を示した。
「駄目よ、駄目、駄目、駄目。論外よ、あんな奴。何かっていうと、財産ひけらかしてさ。付き合い出した頃から、ミロのヴィーナスの小指の先やるからおれと寝ろって、こうよ。あれは屑よ、屑。人間が生んだ最も恥ずかしい生きものだわ。ふん、超一級のトレジャー・ハンターだっていうけどさ、何さ、はっきり言やあ、墓泥棒じゃないの」
「おれも、墓泥棒だ」
ゆきの頭が、がきん、と鳴ったのを、おれは聞いたような気がした。大ミスに対する鉄槌だ。
「ごめええん」
と、ゆきは譲の腰にすがりついた。ヤロー、前進してやがる。転んでもただじゃ起きないどころか、金鉱まで発見しやがる。
「あんたは別よ。特別な男。あんな大なんかと比べものにならないわ」
今度は譲の胸に顔を押しつけて、イヤイヤをしはじめた。
普通の男なら、それでGIVE UP――どころか、昇天しかねない。
三月ばかり前、アラブの石油成金がお忍びで来日、六本木のクラブで踊るゆきを見初めて、いきなり結婚を申しこんだ。ゆきが即座にOKしたのも、オイル・ダラー目当てだったのも、言うまでもない。
成金は早速、クラブの後で自分の泊ってる最高級ホテルのスィートへ、ゆきを招いた。へこへこ尾いてったのも言うまでもない。
当然、起こるべきことが起こり、ゆきはブラとパンティだけにされた。豹柄のビキニとTバックだったらしい。
それをひと目見た途端、剥がした成金は、口から泡吹いてダウンしちまった。極度の興奮による心臓麻痺であった。
幸い、盗聴していたボディ・ガードたちが駆けつけ、成金は一命を取りとめた。
下着姿を見せただけでこれだ。肌が触れたらどうなるか、おれにはよくわかってる。
ゆきにしてみりゃ、どんな男だって、とほくそ笑んだに違いない。
だが、譲は表情ひとつ変えず、
「一応、従兄弟でな。悪口は聞きたかない」
冷やかに口にすると、あっさりとゆきの抱擁から脱け出してしまった。
茫然とするゆきの顔と、おれの方へ、
「行くぞ」
とジープを示す譲とを見比べるのは、この上ない快感だった。我が従兄弟ながら大したもんだ。こういう男がいなくちゃ、世の中、腐る一方だよな。
サリコの村までは、ジープで三十分もかからなかった。
ゆきは後部座席のペクタスのかたわらで沈黙を守っていた。
譲の対応にショックでも受けたのかと思ったがやはり、そうじゃなかった。
バックミラーで見ればわかる。じっと宙をにらんで、時たま、にたりと不気味な笑みを洩らす。悪巧みを考えついたに違いない。三十分で十五回笑ったから、譲はその回数だけアタックされる羽目になるだろう。
村は小さいが、プレハブや鉄筋の家もいくつか眼についた。
コンビニや床屋や自動車の修理屋といった、都市部と同じ店舗の他に、人骨や水牛の骨を組み合わせた不気味な看板の家も多かった。
「何よ、あれ?」
と訊ねるゆきに、
「魔法医師だ。この辺りでは、医学の神にも昔からの魔法が幅を利かせている」
と、おれは説明してやった。
「にしても、やけに多くない? たいして大きくもないのに、あちこち――あっ、あそこもそうだ」
「この辺まで観光客が来るんだ。あそこの看板は干し首造り、あっちは幻覚剤屋だ。いまじゃアフリカも知恵と合理性の国さ」
ジープは、村の大通りを難なく抜けて、反対側の端にそびえる丘の麓に建つ、ドーム状の屋根を持つ建物に到着した。
「サンドロの家だ」
と譲が言った。
「看板出てないわよ」
と、ゆきが不審そうにつぶやいた。
「誰でも知ってるから必要ねえんだ。本物はみなそうさ。さっさとペクタスを下ろせ」
「ふん」
譲がドアに近づき、現地の言葉で何やら口走ると、頭上から、嗄れた声が降ってきた。
「いま留守だよ」
見上げると、でかいハゲワシが、ドームのてっぺんに足をかけて、おれたちを睥睨《へいげい》していた。
「にしちゃ、煙突から煙が出てるな」
と、おれが指摘するや、
「うるさい」
かっと開いた口から、唸りを上げて炎が噴き出した。
おれに届く寸前、譲の左手が灼熱の先端に触れた。
炎はそれで消えた。
譲の手から黒煙が上がったが、ひとふりでこれも消えてしまった。
「あんた――何者だ?」
とハゲワシが、こ狡そうな眼を細めた。
「サンドロに伝えろ。おれはユズルだ」
ハゲワシの長い首がのけぞり、黒い翼を激しく羽搏かせて、そいつは空中に舞い上がった。
「あ、あんたが――済まねえ、師匠から話は聞いてる。どうぞ入ってくれ」
バタバタと舞い降りるや、首をのばしてドア・ノブに噛みつき、器用に回転させてドアを開いた。
ペクタスの担架を担いだ譲とゆきがまず入り、おれは後に続いた。
ゆきが、あら!? と驚きの声を上げた。
外から見ると二十坪もなさそうな建物なのに、内側はまるで大ホテルのロビーくらい広い。
どんな魔法だと眺めていると、奥のドアを抜けて、白髪白髯の黒人の老爺が、腰に手を当ててやって来た。
どう見ても平凡な村の老人――患者としか思えないが、おれたちを視界に収めた眼つきが違う。長いこと見ていると、吸いこまれそうなほどに深い。サンドロだな。
老人は譲の前に来ると、思いきり両手を広げた。
次の瞬間、その上半身が巨人のようにそびえ立つや、比例して巨大化した口をかっと開いて、譲を頭から呑みこんでしまった。
3
きゃああ、とゆきが絶叫した。支えを失ったペクタスの担架の前部が床に落ちる。
だが、ゆきには太宰先蔵の血が流れていた。左手で何とか担架を維持しながら、右手でSIGを抜いた。
射つ必要はなかった。
譲を呑みこんだ老人の巨大な顔が苦痛に歪むや、ぼっと音をたててガス化してしまったのだ。
空中から譲が舞い降りる。
着地と同時に、彼は、
「よお」
と声をかけた。
首なし老人の首の切断面から、ひょいともうひとつの顔が現われ、
「久しぶりだの、日本の魔法使い」
と白い歯を見せた。もっとも前に二本しか残っていないが。
「また会えるとは思わんかった。いや、懐かしい。アリゲーターのフライでも食うかね?」
「魔法にかかって、しかも死にかけている男がいる。診てやってくれ」
相変わらず無愛想な挨拶だが、サンドロは破顔した。
「いいともいいとも。そのおでぶちゃんだの。さ、こちらへおいで」
と奥のドアを指さす。ここから見ると、廊下が二本に分かれ、その両側の壁に嵌めこまれたドアが、蜿蜒《えんえん》とつづいているようだ。
先に立って歩き出し、ふと足を止めて、サンドロはおれの顔を見つめた。
「ほう、日本にはとんでもない星を持った若者が何人もおるらしいの。ほう、これも珍しい。ユズルよ、おまえに劣らぬ強星に守られておるぞ。しかも、こっちは、おまえほど内面の屈託がない」
「そいつはよかった」
譲はおれの方を見もせずに応じた。
ドアの前で、
「ここから先は、わしとユズルのみだ。おまえたちは待っておれ」
と告げられ、おれとゆきは、ドア脇の太鼓みたいな椅子に腰を下ろした。
「大丈夫かしらね」
と心配するゆきへ、
「安心しろ。譲がついてる」
と、おれは保証した。
「それより、譲クンへのアタックはうまくいかなかったようだな」
「うっさいわねえ」
と、ゆきはそっぽ[#「そっぽ」に傍点]を向いた。
「あんたなんかに何がわかるのよ。男の反応が一番よくわかるのは、女なんだからね。大いに脈ありよ。あんたみたいな金ばかり貯めこんで、いずれはよいよい[#「よいよい」に傍点]になっちまうのより、男は不老不死よ。見ててごらん。絶対、物にしてやるから」
こう言い放つと、ゆきは立ち上がった。
「トイレ行ってこよおっと」
ぷりぷりゆれながら去っていくでかい尻を見送りながら、おれは猛烈な疲労が忍び寄ってくるのを感じた。
いかん、と思いつつ、瞼が下りてくる。
おかしい、と意識がささやいた。
おれは唇を噛んだ。歯が肉を裂き、口の中に血の味が広がった。
痛みが意識を覚醒させる。
本能的におれは立ち上がった。ここを出なくては、と頭の奥で誰かが叫んでいた。
譲とサンドロの消えたドアの前へ来た。
眼を見張った。
ドアがない。そこにあるのは、ざらついた土の壁だけだった。
一杯食わされたか。
このおれとしたことが、譲の知り合いというので油断しちまったのだ。奴め、ジャン=ルイかラージャンか、どっちかとつるんでやがる。
背後で気配が動いた。
長身の黒人が立っていた。
肩から腰にかけて布製の衣裳をつけ、色鮮やかな首飾りの胸には、筋肉が隆と盛り上がっている。
そして、オリンピック選手を遥かに凌駕する美しいフォームで構えられた長槍の長いこと鋭いこと。
おれには一発でわかった。いまも昔もアフリカの原住民を代表する勇猛なる部族――原始マサイ族だ。
いまでは観光客用の馴れ合い芝居を平気で演じるまでに堕落したといわれるが、なに、暗黒大陸と呼ばれる遥か以前から、アフリカの大地とともに生き、投げ槍一本で猛獣たちと渡り合ってきた雄々しい戦士たちの魂は、おいそれと滅びるもんじゃない。
最も苛烈な男たちは、いまも、観光客に媚を売る女子供を横目で見ながら、百獣の王ライオンに挑むための槍の手練を磨くのだ。
しかし、その槍がおれに向かってくるとなると、話は別だ。
「こら」
と呼びかけた。戦士の全身から溢れる殺気は本物だったからだ。鳥肌が立ってくる。
距離は一〇メートルもない。おれにできるのは――
槍は飛んだ。惚れ惚れするフォームとスピードだった。
以前のおれなら難なく躱せたろう。
だが、今度は――
マサイの眼には、槍の刃が胸から背中へ抜けたと見えたに違いない。おれは床に崩れ落ちた。
薄目を開けて様子を窺っていると、マサイの男は、眼醒め前の夢のようにかすみ、たちまち空気に溶けちまった。
代わりに、廊下のどこかから複数の足音が近づいてきて、おれを取り囲み、ひょいと運び上げた。
接触部分から伝わる異様な肌触りが、おや? と思わせた。
これは――土だ。
そう言や、おれを運び去ろうとしている奴らは、赤っぽい肌の――いいや、土を焼いた人形そっくり、いや、その顔には、眼鼻すらついていない。
これか。戦ったことはないが、伝説のひとつとして聞いた覚えはある。
古来、人間はみな土から生まれたと、マサイの伝説は伝えている。そこに手足が生じ、顔ができ、知恵を授かって、いわゆる人間になるのだが、この過程で、なり損ねた奴が現われる。日本神話にあるヒルコと同じ不幸な連中だ。
彼らはジャングルの奥に放置され、多くはやがて雨に打たれて、もとの土塊と化すが、中に、雨にも負けず風にも負けずのしぶとい連中がいて、こいつらは不死身の肉体を誇り、自分を生み捨てた運命と、人間そのものに限りない憎悪を抱いて、時折、人里に現われ、悪業を重ねるという。
これか?
彼らを防げるのは、太古より伝わる魔法のみ。そして、正しい魔法使いたちは土人形を優しく土に還したが、とんでもない奴は何体も集めては、悪事を重ねさせているという。
これだ。
長い廊下をあちこちと運ばれた挙句、おれは莫迦でかい一室に連れこまれた。
ここか。
天蓋状の天井の下には、でかい木のテーブルが並び、その上には土をこねる容器、形を整えるヘラみたいな道具、そして、床の上には赤土が山のように積んである。部屋の隅には水道の蛇口と、水を入れた大甕が並んでいた。
床の上に、余った手足が無造作に転がっているのが凄い。
「あ、大ちゃ――ん」
泣き声がした。
あいつか。
うんざりしているうちに、おれは部屋の奥に並んだ木のベッドに寝かされた。隣にはゆきが、これはゴムのベルトで縛りつけられている。おれはそのままだ。槍はまだ刺さったまま――死んだか、身動きできないと思われてんだろう。しばらく、そう思わせといた方が得だと判断し、おれは、リフレインされるゆきの叫びにも耳を貸さなかった。
「廊下を歩いてったら、いきなり眠くなっちゃったのよ。ここは何処? あいつらは何?」
「泥人形だ」
聞き覚えのある返事だ。
残念ながら、そっちは向けない。ただ、頭の向うから足音が近づいてきた。ぬうと上から覗かれた。
「よお」
「あら」
おれたちは親しげに挨拶した。呪術師ヒカに。こいつは、サンドロの一番弟子だったのだ。
「いつ、こっちへ来たんだ? ジャン=ルイも一緒かい?」
「着いたのは今朝じゃ。ジャン=ルイは傷を負うて、わしはそのための治療薬を取りにきたのじゃよ。そしたら、おまえたちが師匠の家へ入っていくのを見かけたというわけじゃ」
「あーら、ツイてるおじさま」
と、ゆきがピンク色の声を頭のてっぺんから張り上げた。しかし、日本語なので、ヒカは奇妙な顔つきになっただけだ。
「さっさと通訳しなさいよ、この役立たず」
おれに向かって、ゆきは歯を剥いた。
「わかった、わかった」
おれは唇を舌で湿らせてから、
「あんたみたいな性悪爺いははじめてだ、と言ってる」
ヒカがにやりと笑った。その分、眼に危険な光が点る。
「あたしひとりだけでも助けてくれたら、うーんとサービスしちゃうわあ――ほら」
「いつか、シワだらけの金玉を掴んで、根元から引っこ抜いてやる。覚悟しといで。低開発国のおいぼれめ、だとさ」
「ほう、大した小娘じゃの。その言葉の償いは十分にさせてやろう」
ヒカの笑いはますます深くなり、眼の光はさらに凶暴さを増した。
「わ、何て言ってんの?」
ワクワクしているゆきに、
「おう、大変光栄だ。是非とも礼をしたいとよ」
「やった! 大丈夫。あんたのこともちゃんと交渉してあげるからね。手足はともかく、生命は絶対に保証するわ」
「そらどーも」
おれはきちんと礼を言ってから、
「ところで、ジャン=ルイは何処で傷の手当をしてる?」
「村から一キロほど離れた洞窟の中じゃ。しかし、おまえたちにはもう行けぬよ。おまえ――動けるか?」
「ノンノン。――で、政府軍はどうした?」
「あちらにも大した魔法使いがついておるな。軍隊そのものは、わしらを追っている。じき、村に着くじゃろう。だが、潜水艇の隠し場所は、いくら頑張っても見つからんよ」
「じゃあ、化石はジャン=ルイと一緒か?」
奇妙な微笑が、老魔法使いの顔をかすめた。
「――そうなる、な」
と認めた仕草も、どこか意味ありげだ。
「おれとゆきを殺すつもりだろ。だったら、冥土の土産に教えてくれ。化石をどうした?」
「ジャン=ルイを見つけても[#「見つけても」に傍点]、見つからんぞ[#「見つからんぞ」に傍点]」
「は?」
「さ、わしも急がねばならん。おまえたちに術をかけねばな」
「なに? 殺すんじゃないのか?」
「勿体ない。人間ほど使えるものはないのじゃ。ただし、おまえよりその娘は百倍もキツいぞ」
ヒカに見つめられて勘違いしたらしいゆきが、
「ね、なんて言ってるの?」
満面の笑みを浮かべた。
「特別、いい目に遇わせてくれるそうだ。礼を言え」
「どうもありがとう」
「なんの」
とヒカはうなずき、かたわらの泥人間に声をかけた。
そいつはノコノコ棚の方へ行き、木の箱を手に戻ってきた。
わお、メスが並んでる。しかし、切れ味はどうかな。石製――石器だ。
「この女の服を裂け」
と老人は命じた。
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第四章 魔法戦
1
「ね、縄といてくれるみたいよ」
現地の言葉だから、ゆきにはわからなかったらしい。笑っている。
「阿呆」
石のナイフを握った泥人形が迫ってきた。
「おい、どうするつもりだ?」
と訊いてみた。ヒカは答えた。
「女の中身を入れ替える」
「――何と?」
「獣の魂とじゃ。わしの術は存在しない獣たちを操れるが、その実体化がやや弱い。霊との分離がうまくいかぬのだ。だが、人体を憑坐《よりまし》に使えれば、そのパワーはぐんと跳ね上がる。おまえの従兄弟とやらにもひけは取らんぞ」
「やれやれ」
この間に、泥人形はゆきのかたわらで、ナイフをふりかざしていた。
「やっほー」
と、ゆきがウィンクした。
「阿呆」
おれはもう一度ののしって、自由な片足をふり上げた。
ヒカとゆきの驚愕が伝わってきた。
足をふり下ろすと同時に、おれは全身の発条《ばね》を使って跳ね起き、その足を泥人形の顔に叩きつけた。
ぼっ、と粉塵が飛び散り、首が消えた。
おれはテーブルから跳び下り、うろうろしてる胴体の手から、ゆきの手もとにナイフを蹴りとばした。
「何すんのよぉ!?」
「おまえの解放は、手術に変更されたそうだ。早く切れ」
「この糞爺い!」
ゆきは凄まじい眼でヒカをにらみつけた。
魔法使いは、しかし、すでに立ち直っていた。
「どうやら、投げ槍が効いていなかったらしいな」
おれを見つめる瞳は、憎悪と殺意に燃えていた。
「はいよ」
と、おれはうなずいた。マサイの投げ槍を、おれは腋の下にはさみこんで、刺さったように見せたのだ。
本当に刺さったら、死ぬのか麻痺するのかわからなかったが、これまでの経験[#「これまでの経験」に傍点]から、後者と判断した。正解だったな。
ヒカが術を使う前に片づけなくちゃならない。
おれは片足で跳躍した。同じ足で爺いの顔面へ膝蹴りを叩きこむ――寸前、砂煙が上がった。
泥人形のひとりが割って入ったのだ。思ったより素早い。その間に、ヒカは三メートルも向うに跳びのいていた。
その手が印を結び、何やら呪文を唱えはじめる。
「ゆき、逃げるぞ」
と、おれは叫んだ。
「まだ切れないのよぉ」
「このトンチキ」
「だって、石よぉ」
それもそうだ。おれは棚の方を見た。
光るすじが何本も眼に入った。ちゃんとしたメスもある。
おれはぎくしゃくとそっちへ向かった。
メスを一本口に咥えた途端、右肩に鋭い痛みが刺さった。肉が裂け、血が盛り上がってくる。
危《やば》い。ヒカの魔法が効きはじめやがったのだ。
また来た。左の肩だ。まるで鳥の餌みたいに、肉がついばまれていく。糞、嫌がらせか。
左右から影が迫ってきた。泥人形どもだ。両手をふり廻しやがった。関節が曲がらないから、棒ふりと同じだ。片足だけでも、おれの反射神経なら躱すくらいは朝飯前だ。
だが、自由な足の腿に、ひと咬みきた。深い。膝から崩れた。へたりこんじまった。
脳天へ土の腕が打ちこまれ――前へ身を投げてやり過ごした。しかし、もう足が動かない。次は危ねえな。
泥人形どもが、まとめてのしかかってきた。肋骨がきしむ。
ボキバキと鳴る音が聞こえた。いかん、ぺしゃんこか。
急に重みが消えた。顔に大量の土が降りかかってきた。吸いこみはしなかったが、何だ、こりゃ?
「ヒカ」
静かな声が聞こえた。
おれは腹筋に頼って上体を起こした。
おれが運びこまれた扉の前に、二つの人影が立っていた。言うまでもない。サンドロと譲だ。
他所《よそ》で見ると、どう値踏みしても、どこかいかがわしい二人が、これほど頼もしく映ったことはない。
譲がチラ、とおれに眼をやったきり、すぐサンドロに向かって、
「どっちがやる?」
と訊いた。
「わしの弟子だ」
サンドロが乾いた声で応じた。ヒカとつるんではいなかったらしい。
「故郷の村で、尊敬される魔法使いとして生きることもできたものを。ヒカ――おまえに教える最後の術があったぞ」
明らかにヒカは動揺していた。だが、たちまち、その両眼に邪悪としかいいようのない光を宿して、
「ひとかたならぬ世話になった先生に、牙を剥くのは本意ではありませんが――やはり、共に天を戴かざる運命のようで」
その手指は不可思議な印を結び、干からびた唇は邪悪な呪文を唱えはじめている。
その足下に、ふっと黄色い塊が生じた。
体長二メートルを越える巨躯、その雄々しさから百獣の王と呼ばれる黄金のたてがみ――ライオンだ。
ひと声吠えるや、それは威嚇の動作すら見せず、一〇メートルも向うのサンドロ師めがけて、捕食の跳躍に移った。
動物園へ行くと、よく大型獣の前で緊張している連中を見かけることがある。
鉄の檻に妨げられていてさえ、捕食獣《プレデター》の迫力は伝わってくるのだ。
何もなしで対面したら、武器を取った狩猟家《ハンター》といえど、まず身動きできなくなる。それどころか、ひと思いに殺ってくれとさえ思う――と、ハンターに聞いたことがある。
サンドロは身じろぎもせず、野獣の爪と牙とにかかるはずであった。
だが、彼はあることをした。
口を開けたのだ。
ライオンはその口腔に頭から突っこんだ。そして――呑みこまれてしまったのだ!
頭が胴が尻尾が、するりと口の中に消え――サンドロは肩をすくめた。食い足りないとでもいう風に。
そして、両手を鳩尾にあてがうや、嘔吐でもするみたいに、続けざまに何かを噴出したのだ。
それは空中で三頭の豹《ジャガー》に変わった。
逃げる暇がないのは、ヒカの方であった。
鮮血が噴き上がった。
ヒカの口から――天空へ。それは彼に襲いかかった三頭の獣の上に豪雨のごとく降り注いだ。
ライオンよりも美しいといわれる豹の毛が血にまみれた刹那、変化は生じた。
血玉を付着させた金毛が、まるで蜘蛛の巣のように八方へのびたのだ。
いや、それは無限長とも思える黄金の針だった。そして、寝台も棚も壁さえも貫き、サンドロと譲の身体をも紙のように貫通してのけた。
おれの眼の前にも一本、斜めに床へめりこみ、頭上を何本か通りすぎる気配があった。
「ゆき、大丈夫か!?」
と叫んだ。
返事はない。
だが、ゆきのことを気にする前に、おれは新たな奇蹟に眼を見張らねばならなかった。
サンドロの傷口から鮮血が広がり、みるみる下半身を紅く塗りつぶした。それは異常な速度で床を侵食し、おれとゆきの寝台を支える一角を除いて、文字通り血の海をつくった。
ヒカの身体が突如、床に沈んだ。水飛沫は朱色だった。
絶叫が上がった。
おれは見た。
血の海に呑みこまれ、必死に浮き上がろうとする呪術師の身体が、魔液に溶かされる人間のようにとろけ出し、剥がれた肉の下から白い骨を露呈させるのを。
髪も抜け、肉が落ち、眼の玉を嵌めこんだ髑髏《どくろ》の、その眼球がぐるりと白眼を剥いたのを最後に、白骨と化したヒカは赤い床の中に沈んでいった。
何とも凄まじい魔法使い同士の対決に、かっと眼を剥いたままだったおれは、ここでようやく瞬きをした。
そして、開いた眼の中に、赤い魔液の広がりはなかった。冷たい石の床は、あらゆるものを支えて盤石の重みを見せていた。針も――豹も消えている。
「ゆき!?」
おれは片足だけで立ち上がった。
「ザッツ・オッケーよ」
寝台の上で、ゆきが長いため息を吐いた。
「おい」
譲の声がした。おれに向けたものではなかった。
ふり向いて、おれは譲に支えられて、床に横たわるサンドロを見た。胸もとは赤く染まっている。ヒカの針も効果を上げたのだ。
「大丈夫か?」
おれは片足を引きずりながら近づいた。こんなとき、どうしてこんなパターン化した質問が出るのか、我ながらうんざりだ。大丈夫なわけがない。
譲が首をふった。
「ひとつ教えてくれ、サンドロ」
と、おれは声をかけてみた。
死相に変わった顔が、それでも瞼を押し上げた。
「おれたちは、ある男を捜してる。ヒカは、村から一キロ離れた洞窟の中だと言った。東西南北――どの辺か教えてくれ」
譲が冷たい眼差しをおれに与えた。おとなしく死なせてやれと言いたいのだろう。しかし、人間、どんな風に生まれ、どんな風に死んでゆくのか、最も肝心なことを自分では決められないものだ。
と、ヒカの右手がゆっくりと上がった。胸に滲む血の広がりに人さし指を当て、その指先を、おれの鼻面に当てた。生温かい血の感触が伝わってきた。
手はいきなり床に落ちた。サンドロの眼は閉じられていた。
「死んだ」
譲が素っ気なく告げて、支えていた上半身を床に下ろした。
「村でいちばんの大物を殺してしまった。おれたちの姿は目撃されてる。早々に脱出しないと私刑《リンチ》にされるぞ。――急げ」
「ペクタスはどうした?」
「もう治った。上で魔法茶を飲んでいる」
「大した魔法使いだったんだな。南無阿弥陀仏」
「邪教の祈りはよせ」
譲はゆきのところへ行って、ベルトを外した。
「行くぞ」
「何処へだ?」
と、おれは文句をつけた。
「ジャン=ルイの居所を、何とか捜し出さなきゃ――米軍の監視衛星でも使うか」
「その必要はない。何のために、サンドロが最後の力をふり絞ったと思ってる?」
「はン?」
譲はいきなり指をのばして、おれの鼻先を弾いた。おれが身を躱すこともできない速さだった。
「これか?」
と、おれは鼻先をぴくぴく動かしてみせた。
「しかし――どうやって?」
「おれにもわからん。とりあえず、ジャン=ルイのことに意識を集中してみろ」
「ふん」
隠れ家は何処だ?
突然、鼻の頭が灼熱した。押さえたくても、手は動かない。ゆき、と呼びかけて――閃いた。
おれは身体を一回転させた。
すっと痛みが退いた。
そこから左右にふると、あっちっちいだ。
おれはうなずいた。
熱気が消える方角――西だ。
おれは、そっちへあごをしゃくった。
「行こう」
壁が冷たく立ち塞がっていた。
2
ペクタスを含む四人で村を脱出したのは、それから十分後だった。
密猟者のジープを駆って、十分足らずで到着した西の洞窟は、切り立った岩壁の表面にどでかい口を開けていた。
「お疲れさま」
譲がぽつりと言った。こいつに言われると腹が立つ。ここに着くまで、鼻先の痛みに耐えていたおれの苦しみをからかっているのだ。
「後はおれがやる。おまえたちはおとなしく待っていろ。お守りにはペクタスをつけてやる」
「るせー、このトンチキ。雇い主になんて言い草だ。さっさとジャン=ルイを取っ捕まえてきやがれ」
おれの罵倒など物ともせず、譲は背を向けた。
業腹なので、ゆきとペクタスにそっぽを向いていると、いきなり、洞窟の奥から凄まじい肉食獣の咆哮が聞こえてきた。
「ライオンが侵入してきたの?」
血相を変えるゆきに、おれはかぶりをふった。
「いや、ヒカが残してった護衛の霊獣だろう」
「そうか。ならいいわ。ジャン=ルイは無事だもんね」
譲のことは何も気にならないらしい。叫びは急に途絶えた。
「終わりだ」
こう言った途端、今度は銃声。
「伏せろ!」
叫んだ頭上を弾丸が通過していった。ゆきとペクタスが身を伏せる。
これも一発きりだった。
五分もしないうちに、譲が戻ってきた。肩に男を担いでいる。
おれたちの足下に、乱暴に放り出されたのは、ジャン=ルイに違いなかった。
「ね、化石は?」
他には手ぶらな譲を見て、ゆきが身を乗り出した。
「ない」
「ないィ〜?」
「調べたが、見当たらん。こいつの口から聞け」
「よっしゃあ」
ゆきがシャツの袖をめくり上げた。やる気満々である。
「やめろ」
と、おれは止めた。
ゆきはふり向いて、柳眉を逆立てた。
「何でよ?」
「おまえ、拷問する気だろ。隠しても駄目だ。顔中が笑ってる。おまえがそうなるのは、大枚を手に入れたか、他人をイビるときだけだ」
「ふん」
ゆきはそっぽを向いた。
「譲、おまえにまかせる。しゃべらせろ」
「別会計になるぞ」
おかしなところが人間的だな、こいつ。
「わかったよ」
譲は白眼を剥いてるジャン=ルイを抱き起こすと、素早く活を入れた。ツボを見つける速さといい正確さといい、申し分がない。武道の天才でもこうはいくまい。
一回、大きく息を吐いて、ジャン=ルイは覚醒した。
おれたちを認めて、腰へ手をやる。
大した反応速度だが、拳銃はとっくにないし、後ろには譲がいた。たちまち逆を取られ、身動きもできなくなる。
おれは奴の前へ行って、ニタニタ笑ってやった。
「さあ、運命の時が来たぜ」
「うるせえ、てめえが決めるな、この黄色い猿《サンジュ・ジョンヌ》め」
「やかましい」
おれは自由な方の膝蹴りをかました。もろ顔面に受けて、ジャン=ルイはのけぞった。
「貴様――ぶち殺してやる《テュヴー》」
鼻血まみれの顔で喚く。しかし、フランス語てのは、脅しの台詞としては、落第だ。迫力に乏しいこと。顔は怖いんだけどな。
怒りに狂った表情が突然、消滅した。
後頭部に冷たい鉄が当たったのだ。SIGの銃口が。すでに起こしてある撃鉄《ハンマー》を戻し、譲はもう一度上げた。カチリという音。これを耳のそばで聞くと、どんな悪党でも震え上がる。わかってるな、譲クン。
「おまえたちの痴話喧嘩に時間を取ってはいられない」
冷たく言った。こいつの“死の宣言”は効く。
「三つ数える。その間に答えろ」
「う、うるせえ――誰が」
「ひとつ《アン》」
沈黙が落ちた。ジャングルを渡る鳥の声さえ途絶えた。ゆきもペクタスも凍りついている。譲が本気と悟ったのだ。
「ふたつ《ドゥ》」
危《やば》いな、と思った。ここでジャン=ルイを殺したら――
「おい」
あわててかけた声を、銃声が弾きとばした。
「外したな」
と譲が平然と口にした。銃口はおれの後ろ――ジャングルの奥に向けている。
「誰だ?」
おれにもわかっていた。人の気配があったのだ。ただ、ふり向くのが面倒だった。
「兵隊さんだ。二人いる。斥候だな」
「なるべく殺すな」
「よくそんな偽善で生き延びてこれたな」
軽蔑するような言い方じゃないから、その分、ずきんと来る。
「始末してくる。こいつをジープに乗せておけ」
ジャン=ルイの首すじに軽く指を当てるや、大男はがっくりと前へのめった。
ペクタスが駆け寄る前に、譲の姿はジャングルへ走りこんで消えた。
ペクタスが、とことことジャン=ルイをジープへ担いでいく。
そのすぐ左方で、ぐるると獣の唸り声がした。
眼を凝らしたが、そこ[#「そこ」に傍点]には何も見えない。
ピンと閃いた。
ヒカじゃなければ、あいつだ。大統領の息子、ラージャン。そして、彼が使役する魔物――ソダク!
ジャン=ルイが悲鳴を上げた。のびていた身体が激しく痙攣する。肩甲骨の間から腰まで、一文字に裂けた。
いまこいつに死なれちゃ危い。
「ゆき!?」
おれが叫ぶより早く、ゆきの手もとから火線が迸った。
SIGの九ミリ・パラベラム弾の狙いはおれの予想と同じ――正確無比だ。
ジャン=ルイの傷の角度から位置を判断したのだろうが、さすがは太宰先蔵の孫娘。
だが、弾丸はことごとく宙に消えた。
眼を凝らしたが、そこには何も見えない。
「ジープへ入れ!」
おれは片足を引きずりながら叫んだ。ペクタスからは二メートル、おれは六メートル、ゆきに至っては、一〇メートルある。絶望的な距離だ。
おれは足を止め、見えない化物を求めたが、さっぱり識別できなかった。
「やめろ!」
おれは叫んだ。
その瞬間、凄まじい衝撃が全身に叩きつけられた。
宙を飛ぶ感覚はそれなりに気持ちよかったが、それを味わう暇もなく、おれは気を失った。
おれは彼方で燃える炎を見つめた。日本語でいう篝火《かがりび》が幾つも焚かれているのだ。
その真ん中に、太い――二メートル以上もある棒杭がそびえ、根元には薪の山。
そしておれは丸木を組んだ柵の内側に手足を縛られたまま転がされ、火炙りの時を、黙って待っているのだった。
気がついたのは一分ほど前だ。奇蹟的に打撲だけで、裂傷のようなものはない。
だが、気がついたら牢の中なんて状況は、想像もできなかった。
普段のおれなら、こんな縛《いまし》めくらいほどくのは朝飯前なのだが、手が動かないんじゃどうしようもなかった。
柵の前に人影があった。
プレスの効いたシャツの胸に金バッジをつけ、腰にはコルト・ガヴァメントを収めたホルスターとガンベルト――どれも使い古しだ。どうやら保安官らしい。
「覚悟はできたか、若いの?」
にやにやしながら訊いた。現地語だ。
「全然」
と、おれも現地語で応じた。
「生命が惜しい。助けてくれ。金ならやるぞ」
「ほう、見せてみろ」
「いまは文無しだ。助けてくれたら、後でこの牢獄いっぱいの黄金をやるぜ」
「牢屋いっぱいだろうと、このサリコの村いっぱいだろうと、いまここになきゃ空気と同じだ。それに、そんなものを貰っておまえを逃がしでもしたら、おれが八つ裂きにされちまう。できない相談だな」
おれは四十半ばと思しい黒い顔に、精一杯微笑みかけた。
「そこを何とか。――さっきも誓ったが、サンドロ爺さんを殺したのは、おれじゃない」
もうわかっただろうが、ここはサリコの村だ。
あの洞窟の前で、おれは不可視の化物に吹っとばされ、村人に捕まっちまった。村人は何をしてたのかというと、おれたちの後を追ってきたのだ。なぜ追ってきたのかというと、村の守り神ともいうべき魔法使いサンドロの仇を討つためである。見つからずに村を出たと思っていたが、そうじゃなかったらしい。それどころか、村にも何台かジープがあって、おれたちのジープの後を尾けるのは、少しも難しくなかったのだ。
しかし、さっきの保安官の話によると、おれはぶっ倒れているのが発見されたのであって、彼らが駆けつけたとき、洞窟の前にはジープしかなかったという。
ゆきとペクタスとジャン=ルイは何処へ消えた? 譲は間に合わなかったのか? 見えない化物は、なぜ、おれを放置していった?
これらの質問に対する答えは、すべて、
「わからん」
だった。
わかっているのは、サンドロが死亡する前に訪れた異国人のひとりがおれで、じき火炙りにされるということだ。
「あと五分だな」
と保安官は腕時計を見て、無感情に告げた。
3
五分たった。為す術もない。いやはや、手足が動かないというのが、こんなにも不様だとは思わなかったぜ。
黒い布を頭から被って、眼の玉だけ露出した長身の男が二人やって来た。
保安官がドアを開け、ガヴァメントをおれに向けて遊底《スライド》を引き、戻した。
「おとなしくしていろ」
阿呆、そんなことができるか。
おれは肩をすくめ、死刑執行人が近づくのを待った。
両肩を掴んで引き起こされた。
計画はできていた。牢の外へ出るや、蹴りでひとりを倒し、もうひとりを楯に使ってガヴァメントを無効にしてから、保安官も蹴り倒す。村人が駆けつける前に逃げ出すのはいうまでもない。これでハッピー・エンドだ。上手くいくかどうかわからないが、やってみるしかない。なら、成功を信じようではないか。
だが、暴れることはできなかった。
右側の黒マスクが、短く、
「助けるぞ」
とささやいたのだ。
「大丈夫、左側も味方だ。とにかく、安心してくれ」
嘘はなさそうだ。
「わかった」
おれも短く応じた。ここは信じる他はない。少なくとも、おれの計画よりは成功率は格段に高い。
ところが、いつ解放するのか、仲間がどの辺で出てくるのか考えているうちに、おれは棒杭の前に連れてこられちまった。
「おい」
はっと気づいた。これは、死刑囚をおとなしく杭に縛りつけるための大芝居じゃあないのか。
右側の黒マントと眼が合った。
「大丈夫だ」
と彼は短く断言した。おれを信じさせる何かが含まれた力強い声だ。
しかし、棒杭のところに待機していた別の五人が棒杭を倒し、そこへ縛りつけられる段になって、おれはまた、疑った。
もっとも、次の瞬間には、七人がかりで棒ごと空中へ持ち上げられちまったが。
正直、背すじが凍った。棒杭が固定された途端、マスクのひとりが松明を放りこみ、ごお、と炎が唸った。薪にはたっぷりとガソリンが撒いてあったのだ。
遠巻きにした村人たちが、一斉に手を叩く。靴を履いた足よりも、素肌の手と顔に熱気が吹きつけた。
「あちちちち」
喚きながら、おれは何とか脱出する術はないかと考えていた。最後の最後まであきらめるな――トレジャー・ハントの秘訣というやつがあるのなら、これ[#「これ」に傍点]だ。
だが、おれの視界は黒煙で黒く染まり、呼吸もたちまち困難に陥った。縄はびくともしない。
意識が遠のいた。
そのとき、猛烈な轟きが大地を揺すった。
村人がどよめきとともに散っていくのがわかる。
煙が裂けた。
轟きは、おれの足下を通過していく。眼をやって驚いた。
象だ。何十頭、いや何百頭というアフリカ象が、広場へ侵入してきたのだ。拳銃音が鳴ったが、都合数百トンのたてる地響きの中では、しけた[#「しけた」に傍点]花火くらいにしか聞こえない。
急に棒杭が傾いた。
倒れたのは、象の絨毯の上だった。どんな天才調教師が訓練したのか、象たちは一糸乱れぬ隊列を組んで広場を横切り、村の塀をぶち壊して、おれをジャングルの中へと運び去った。追ってくる者はいなかった。
何処かで笛らしいものが鳴った。
象隊がスピードを落とし、次々に停止する。
ジャングルの中の空地ともいうべき一角だ。
「よし、よくやった。えらいぞ」
と優しく声をかけながら、黒マスクが近づいてきた。
右手に持った三〇センチほどの土製の笛で象を操ったらしい。小説や映画でなら何度も眼にしたし、現実にそういう芸当のできる人間がいるというのも聞いたことがあるが、現物を見るのははじめてだ。
「無事で何よりだ」
最初に大丈夫とささやいた男である。
「また会えると思っていた」
もう、おれには男の正体がわかっていた。
「とにかく下ろしてくれ。話はその後だ、グレイ」
「よくおわかりだな」
感嘆の声を上げて、男はマスクを脱いだ。
ベルゼボでクラブを営む革命の闘士だ。しかし、なぜ、こんなところに?
おれを棒杭ごと地面へ下ろし、縄をほどいてから、グレイは同じ黒マスクたちにうなずいてみせた。みな、あのときの連中だ。
「どうして、おれだとわかった?」
「声さ。牢獄でわからなかったのは、やはりあわてていたらしいのと、あんたが風邪気味だったからだ。――何故、こんなところにいる? おれを助けにきたわけじゃないだろ?」
「ラージャンを追ってきた」
「大統領の息子をか? 奴め、やはり来ていたか」
グレイはうなずいた。その表情に別人のような憎悪の波が渡った。
「おれはラージャンを追ってきたが、ラージャンもおれを追ってきた。そういう関係さ」
「大統領の息子が直々に追いかけまわす革命家か。相当な大物らしいな」
「あいつは、ボストンの大学でおれと席を並べていた。国へ帰ってから、あいつはおれの両親を殺し、おれは奴の女房と子供をばらばらに吹きとばした。――わかるだろ?」
「ああ、ようく、な」
少しやるせない気分になったが、よくある話だ。そして、こういう話を聞くたびに、人間てな進歩に縁のない生きものだとしみじみ思う。このおれでさえ。
おれたちは空地の端へ移動し、グレイが笛を吹いた。妙にもの哀しい調べだった。
象たちはゆっくりと動き出し、ジャングルの内部へと消えた。
密猟者どもを痛い目に遇わせたのを、おれは憶い出した。奴らに殺された象の仲間が、おれを救ったか。
「こちらへ」
グレイに誘われ、おれは彼についてジャングルへ入った。
空地から五〇メートルばかり離れた、これも小さな広場にテントが四つばかり張ってあった。
そのひとつに入ると、電子コンロの上で、コーヒー・ポットが湯気を吐いていた。いい匂いがする。グレイがカップを口もとへあてがってくれた。
一杯飲むと生き返った気分だ。
「で、ラージャンは何処にいる?」
「この付近だ、とは思うが、あまり近づくと感づかれるのでな。その代わり、奴も近づけん。奴の目的は、例の化石だろう。何処にある?」
「ジャン=ルイってこそ泥が隠してる。そいつが何処にいるか知らんか?」
おれは洞窟前での不可視の攻撃について触れ、仲間たちが行方不明になっていることを告げて、ラージャンにさらわれたと思うか? と訊いた。
「他にあるまいよ」
グレイは保証した。だが、この眼で見たわけじゃないとも言った。
「あんたの狙いも化石だよな?」
「そうなるな。もっとも、おれの場合、ちと目的が異なる。金のためじゃないんだ」
「じゃあ?」
「説明するのが面倒臭い。悪いな」
「いいさ」
グレイは、とんでもないという風に首をふった。
「ラージャンの糞野郎を痛い目に遇わせた男は、誰だって英雄さ。あんた、奴を殴り倒したそうじゃねえか。一生、いい夢を見られるぜ」
「だといいな」
おれの夢は、黄金と宝石の山ばかりだ。いい夢と呼ぶのかどうかはわからない。
「世話になったな」
おれはグレイに微笑してみせた。
「あんたがいい夢を見られるよう祈ってるよ」
「ありがとう」
グレイは微笑を返し、すぐ真顔になった。
「あんた、その身体で仲間を捜すつもりか? ここはアフリカのジャングルだぜ。十分といかないうちに食われてしまう」
「他に手はないんだ。おっと、仲間をつけてやるなんてほざくなよ。他人に借りをつくっても、いつ返せるかわからねえ。しっかり革命をやりな」
グレイは、少しの間、黙っておれの顔を見つめていた。
それから隅に置いてあるバッグに近づくと、中からおかしな品を取り出して、おれに見せた。
長さ一メートルばかりの糸だ。ただし、両端に細い針がついている。
「何だ、こりゃ、糸電話か?」
通じるかなと思ったが、グレイは吹き出した。
「うまい冗談だ。だが、ちょっと違う。これはな――」
使い方を聞いて、おれは正直、眼を丸くしちまった。
「あんた――そうか、ラージャンも近づけないと言ってたな。妖術を使うのか?」
「魔法と言って欲しいなあ。なに、真似ごとさ」
「人は見かけによらんものだ。堅い一方の革命家と思ってたぜ」
「その方がよかったかも知れんな」
そう言って、グレイは何やら唱えながら、両手でおれの頭のてっぺんから爪先まで触れていった。
それが済むと、折り畳み式テーブルの上に置いてあった一・五リットル入りペット・ボトルをひと口飲り、おれめがけて一気に吹きかけたのである。
霧状の水を全身に浴びて、おれは、
「これも魔法の一種か?」
と訊いた。
「護法と思ってくれ。あんたの手足が自由になるまでは役に立つだろう」
「済まんな。礼を言う」
「なんの――元気でな」
おれはテントを出た。いい気分だった。
その眼の前へ、空中から灰色の塊が降ってきた。
地面が震動し、おれは数センチ跳ね上がった。
象の死体だ。それも背中と腹をぱっくりと食い取られている。
グレイと仲間たちも跳び出してきた。
その頭上へもう一頭。
三人ばかりつぶれた。地響きからして、高さは二〇メートルを越す。そこから三トンもの巨体が落ちてくるのだ。三人は一発でのしイカに化けた。
「ラージャンと――魔王ソダクだ。戦っても無駄だ。みんな逃げろ!」
グレイの叫びが聞こえた。すると、近くにいるな。おれはふり向かず、
「ここはバレバレだったらしいぜ。逃げろ!」
「そうもいかんのだ」
グレイはおれの隣に来た。
「あんたは早く行け。こんなところで食われたら、犬死にだぞ」
「しかし」
「その身体で何かできるのか?」
「――わかった」
役にも立たないおれがいては、邪魔になるばかりだ。ゆきと組んでればよくわかる。
「じゃ、な」
おれはひと声かけて、ジャングルへ跳びこんだ。
頭上で象が鳴いた。哀しげな声だった。それに合わせて何かが降ってきた。
雨か? 赤い雨だ。しかも生温かい。
血の雨だ。
視界が黒々と染まった。
頭上を見上げた。
食いちぎられた象の巨体は、おれの真上へ落ちてくるところだった。
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第五章 ジャングル・アタック
1
途方もない衝撃がおれを押しつぶした。当然だ。片足じゃ逃げようもない。
地面にめりこんだ奴は何度も見たが、自分がめりこむ感じというのははじめて味わったぜ。
ところが、おれは生きていた。呼吸も苦しくない。骨も内臓も平気だ。問題は上の象さんをどうするかだが、すぐ横倒しになってくれた。
何とか這い出したとき、空中から耳を覆いたくなるような咆哮が鳴り響いた。
ふり仰ぐ頭上で戦いが行われていた。半透明な巨大なもの[#「もの」に傍点]が取っ組み合い、牙を立て、爪をふるっている。
片やぶよぶよの、収縮する雪だるま[#「雪だるま」に傍点]に、おびただしい触手状の手足のくっついた存在。片や、棘だらけの身体は竜を思わせ、手足は四本――ただし、鉤爪のついたそれは、人間そっくりだ。
雪だるまの方が、魔王ソダクなのは、そのでかい口でわかった。敵側は恐らく、グレイが魔術で喚び出した魔物だろう。
どちらも傷つき、苦鳴を放ち、しかし、戦いをやめようとしない。それは、魔物同士の戦いというより、何処かで一心不乱に術を使っている副大統領と革命戦士の死闘というべきだったろう。
何とか手伝いたいとも思ったが、いまのおれじゃあ何もできない。グレイを信じて、とりあえず脱出することにした。
片足ながら五分も来ると、物音も咆哮も聞こえなくなった。
おれは四方に全感覚の網を張り巡らせながら先を急いだ。
先といっても目的地ではない。強いていえば、サリコ村とは反対の方角だ。また火炙りにされちゃ敵わねえ。
さすがに呼吸《いき》が切れ、太い木の幹に背を押しつけて呼吸法を行っているうちに、虫が一匹飛んできて、鼻の頭に止まった。
「ヤロー」
と追い散らした瞬間、はたと気づいた。
ジャン=ルイの居所を捜し出すことができるなら、他の奴にも効果があるんじゃないのか。
ラージャンに意識を集中――しようかと思ったが、出て来たのはゆき[#「ゆき」に傍点]だった。ま、いいか。
鼻の先が、ぴりりと来た。前より全然弱い反応だが、金的だ。
四方を見廻し、何とか一点、痛みの空白を探り当てた。
西南――幸い、魔物同士の戦いの場ともサリコの火炙り村とも違う。
呼吸も整い、おれは前進を開始した。
サリコの村は煮えくり返るような騒ぎだった。
アフリカとはいえ、いまどき象の大群に蹂躙されるというのも珍しかったのだろう。だったら、他人を火炙りになんかするんじゃねえ。
おれはそっと牢獄へ向かった。
いやがった。保安官め、牢屋の前で放心状態だ。周りには誰もいない。おれは保安官の後ろに接近し、グレイから渡された針つきの糸を取り出した。
片方の端を口に咥えて右手首の筋肉に刺しこみ、反対側を、ぼんやり立ってる保安官のぼんのくぼにぶすりだ。一瞬、痙攣したが、保安官はふり向いた。
「貴様……」
と呻いておれに跳びかかりかけ、次の瞬間、その場にへたりこんでしまう。グレイの話は本当だったのだ。
おれは保安官を立たせた。立つように右手を動かす――そうイメージした。すると、それが糸に伝わり、まるで鵜飼の鵜のように保安官は立ち上がったのだ。
勿論、おれの手は動かない。だが、この針つき糸の力を聞かされ、両手が使えないと答えたおれに、グレイは、
「意識したまえ。手は動かなくても、あんたの神経は死んでない。なら、神経自体の指令が電波信号となって相手を支配し得る」
と断言した。正直、半信半疑だったが、うまくいった。それも一二〇パーセント。
おれは保安官にさせたい動きをイメージし、それを手から糸へ伝えるように、これもイメージすればよかった。
「貴様……何をした?」
保安官は呻いた。グレイは、相手が意志も失った人形と化すと言ったが、これは、おれのやり方がパーフェクトじゃないせいだろう。
「見てのとおりだ。さ、とっとと車のところへ案内しろ、この火炙り野郎め」
これが、方向違いの村へ戻ってきた目的だ。密猟者どものジープには、武器弾薬もたっぷりと積んである。いまのおれには無用の長物だが、いつまでもこんな境遇に甘んじているつもりはなかった。
保安官はうだうだ弁解しようとしたが、おれは容赦なく村の駐車場へ案内させた。
途中、何人かの村人とすれ違ったが、みな、おれには気がつきもしなかった。象の蹂躙に精神《こころ》を奪われているのだ。多分、サンドロの死すら忘却しきっているだろう。
操り人形状態の保安官がおれを導いたのは、村の西にある広場だった。公用車専用駐車場と板にペンキで書いてある。
五十坪ほどの空地に、古くさいトラックやバンに混じって、ジープが二台鎮座しているのを見つけた。一台が目的の品だった。おれは素早く保安官ごと運転席に近づいた。
キイは差さったままだ。のんびりした村に違いない。火炙りはするけどよ。
乗りこもうとしたとき、駐車場の出入口から、人影がやって来るのが見えた。五人いる。腰に山刀を差した屈強な連中だ。
五人は保安官に軽く会釈して、トラックの方へ行きかけたが、急に立ち止まり、こちらへ向きを変えた。おれに気づいたらしい。
「おい、そいつはさっきの日本人じゃないのか?」
「何処へ連れてくんだよ?」
口々に罵りながら、こちらへ向かってくる。
――弁解しろ
と、おれは命じた。
「彼は――これから――首都の警察へ連行する」
と保安官は言った。
「何を言う。サンドロ殺しの犯人だぞ」
「もう一度、焼き殺せ」
「おれたちに引き渡せ」
凶暴さを剥き出しにした顔が近づいてきた。
面倒だ。
おれは、いきなり先頭の顎に右フックをかませた。保安官の手で。
体重があるし、おれの操作で十分に腰が入っているから、パンチの威力はいや増しになる。
先頭の奴は一発でダウンしちまった。
四人が山刀を抜いた。いいねえ。男の喧嘩はこうこなくっちゃな。これで手加減なしでぶちのめせる。
嫌な反応が手首に伝わってきた。四本の山刀を見て、保安官が凍りついちまったのだ。しまった、まだパーフェクトにおれの操り人形じゃなかったか。
二人めが斬りかかってきた。幸い、二百キロもありそうなでぶのせいで、スピードがのろかった。十分躱せる。だが、おれは小細工した。
山刀の切尖《きっさき》は、保安官の肩先を斬り裂いた。
痙攣が伝わる。三人めが襲いかかってきた。でぶより、ずっと速い。
だが、保安官は――正しくは保安官の身体は――鮮やかに切り抜けた。
おれと同じ動きだ。肩を裂かれる荒療治で、緊張がほぐれたのだ。四人めと二人めが突いてきた。身を屈めて躱し、二人めに足払いをかけ、体勢を立て直した三人めもろともぶっ倒してから、四人めの足下に転がった。
「わわわ」
と乱した足首をひっ掴んで引き倒し、後頭部を打って失神させてから山刀を奪い取った。残る三人が保安官を取り囲む。
保安官が右手の山刀を左の腰にはさむように戻した。
三人が顔を見合わせた。
「来な」
おれと保安官が同時に促した。
それこそ風を巻いて三人は殺到した。
保安官は右へ跳びざま、先頭の男の膝を割り、後ろ――三人めの腋の下を斬り裂いた。
二人ともぶっ倒れた。暴れまわる身体がみるみる血に染まっていく。
あとひとり――倒れた仲間を一瞥すると、こいつは、にんまりと唇を歪めた。格闘戦によほど自信があるらしい。
山刀を足下に突き立て、ゆっくりとシャツを脱ぐ。筋肉隆々たる上半身には、無数の傷痕が走っていた。山刀での喧嘩はしょっ中らしい。
呻きつづける二人の手から離れた山刀を両手に拾い上げた。自分の分もあるのに、おかしな真似をしやがる。
と、一本をひょいと空中へ放り、空いた右手で三本めを地面から抜き取った。それも投げ上げ、左手の一本を右手に移して空へ。落ちてきた最初のやつを左手に――野郎、山刀のお手玉をおっぱじめやがったか。
次の瞬間、びゅっ、と来た。
まさしく不意討ち。凄まじいスピードだ。その刃を、しかし、保安官は両手のひらを合わせて胸前で受け止めた。
一瞬、茫然と立ちすくみ、男は悲鳴を上げた。落ちて来た山刀が、右手のひらを貫通したのである。
その隙に保安官が地を蹴り、受け止めた山刀の柄で頭部を一撃した。
ぶっ倒れる男を尻目に、おれと保安官はジープを一台残して、後の車のタイヤを切り裂いていった。これで追っちゃ来られまい。
ようやく、ツキが廻ってきたようだ。
ハンドルを握る保安官の隣で、おれは会心の笑みを洩らした。
ジャングルの中を走りはじめてすぐ、おかしな感じがおれを捉えた。間違いない。これは、おれたちが村から脱出して辿った道だ。
考えてみれば、ゆきが同じコースの延長線上にいるというのもあり得るわけだから、おかしくはないのだが、何となく奇妙な感じがする。一からやり直しと同じだ。
ジャン=ルイの洞窟に着いた。
「おれが倒れてたとこは何処だ?」
保安官に案内させたのは、記憶にある衝撃地点から一〇メートルも離れた草むらだった。地面も堅い。よく無事だったものだ。咄嗟に受身でも出たのだろう。
近くを捜すと、これもラッキー、携帯が見つかった。
保安官にチェックさせると、電源も入るし、異常はない。
早速、衛星回線で、ワシントンの「Xサイバーマン社」につないだ。
「?」
通じない。
すぐに、おれの息のかかった副社長の個人回線へ。
これはすぐに出た。
「おれだ」
「これはミスター・八頭」
一大事です、と来た。
「どうした?」
「現会長を追放するための動きがバレました。敵はユダヤ資本と話を通して、目下、二時間会議が続いています」
「何処の資本だ?」
「モルガン系です」
「わかった。ロスチャイルドとロックフェラーに話をつけとく。十分で決着をつけてやる」
「助かります。連絡が取れなかったもので」
「その前に――ナノテク部のチャンを出せ」
たちまち、切り替わった。
「開発副部長のリャン・シドーです」
「リャンじゃねえ、チャンだ」
「チャン・シドーは、前日、射殺されました。あなたの生命を狙うテロ集団が、研究室を襲撃したのです」
「なにィ? おれの注文した品はどうした?」
「イメージによる作動回路を備えた義手なら、あと一日で完成ですが」
「そんなにのんびりしていられねえ。すぐに送れ」
「ですが、回路の組み込みに少々時間が必要です」
「無理は承知だ」
「この状態で完成としても、九分九厘は問題ありません。ですが、残る一厘がどのような危機をもたらすか、我々にも想像ができないのです」
おれは歯がみしながら考えた。
短いツキだったな。
「わかった。我慢する。即座に送れ。おれの位置はわかるな?」
「もちろんです。しかし、わたしは技術者として――」
「うるせ。半日以内に送れ」
携帯を一旦切って、おれはロックフェラーとロスチャイルドの現当主に連絡を取った。
副社長派の後押しを頼むと、二人とも二つ返事でOKした。
ロスチャイルドの、
「うちの娘が年頃でな」
には参ったが、何とか切り抜けた。
「さ、前進だ」
ジープはまた走り出した。一応、順調だ。ところが、今回のおれは、徹底的にツキがないのだった。
2
譲はともかく、ゆきとペクタスがラージャン一派にとっ捕まったのは間違いなさそうだ。あとひとり――肝心のジャン=ルイ君はどうなったか、こちらはわからない。
ところが、その確信は、一時間ほどのドライブで、粉微塵に打ち砕かれてしまったのである。
突然、木立ちが切れ、広大な平原が現われた。あまり、すぱあんと出現したので、ありゃ? と口走ってしまったほどだ。
だが、すぐに理解した。
直径――恐らく約三キロの平原は、その中心に向かって円錐形に沈んでいるのだった。
途方もないエネルギーが地面か、その上空で炸裂し、ジャングルの一角をきれいに消滅させ、地面をえぐり取ってしまったのだ。
「譲だな」
そうつぶやかざるを得なかった。
「仕様がねえ。迂回だ。右へ――」
廻れと言いかけたとき、すり鉢の底の方に動くものが見えた。
人間だ。空は薄闇に閉ざされつつあったが、おれの眼は、それがラージャンだと一発で見抜いた。
「おい、下だ」
車は降下をはじめ、五秒とたたないうちに、地の底に横たわるラージャンのそばに到着した。
保安官とおれは車を下り、保安官が抱き起こした。
ラージャンは、半袖のシャツとズボンの残骸を身につけていた。他に――よく見ると、黒い土の間から人間の手足や顔やバックパックらしいものがのぞいている。
おれを認めると副大統領は、血の気の失せた唇を笑いの形にした。外傷はない。
「内臓がやられている」
と言った。やっぱり、な。
「君の従兄弟とやらは、化物だな。わたしのソダクですら互角だ」
細く低いが、声には油断のならない力が漲《みなぎ》っていた。
おれの方が驚いた。
「譲と互角か。――嘘だろ」
「彼は、それほどの――一体、何者だ?」
「話せば長くなる。あんたをやっつけたのが譲なら、連中はどうした?」
「ユズルとやらは、戦いが終わってすぐ、いなくなってしまった。女と太った男は、ジャン=ルイが引っさらっていったよ」
「ジャン=ルイが? 重傷じゃなかったのか?」
「傷そのものは浅かった。血が出るのを見たかね?」
そういや、NOだ。
「ソダクが君たちを襲ったのは知ってるな。君を殺さなかったのは、父の命令ゆえだ。恩人の伜《せがれ》を殺してはならんという、な。だが、こんな厄介な一族なら、始末しておいた方が――」
「ジャン=ルイは何処へ行った?」
「潜水艇で逃げると言っていたが――しかし……」
「しかし?」
おれはラージャンの顔を凝視した。ペテンをかまそうたって、そうはさせん。
だが、これは本物だった。
「奴は君の捜している化石とやらを持っていなかった。洞窟の前で捕えたとき、徹底的に調べたのだ。これは、私が自分でやるより君にまかせた方がいいようだな。汚らしい墓あばき屋に」
「うるせ」
蹴とばしてやろうかと思ったが、相手は怪我人だ。
「立てるか?」
と訊いた。
「残念ながら、な」
「じゃあ、残れ」
「おい」
「ライオンはわからねえが、豹ならいるだろ。あんたの墓に入れる骨は残らないかも知れねえが、せいぜい豪華な遺品でも置いといてくれや。後で暴きに行ってやるぜ。――じゃ、な」
「おい、貴様――この小僧の言いなりか?」
保安官はベソをかいた。
「やむを……得んのです……お許し……下さい」
「こいつのせいじゃねえ。目下、おれの手足だ。術にかかっているのさ」
青ざめた顔に嵌めこまれたラージャンの瞳が光った。
「そうか。グレイの“操り人形”だな」
「当たりだ」
おれは、嫌みったらしく笑い声をたててやった。
「――彼はどうした? おまえ、襲っただろ」
「気の毒に、な」
「殺《や》ったのか!?」
「ああ、奴は政府の敵だ」
「おめえが彼の家族を殺したからだろうが」
「グレイは私の両親をさらってクーデターを起こすつもりでいた。そのために、私と友情とやらを育んだのだ。私はそのことに気づいて問い詰めた。グレイは、そうだと言ったよ」
おれは肩をすくめた。嘘じゃないと副大統領の全身が告げていた。そのとおりなのだろう。だが、グレイの言い分を、おれは聞いていない。
友情か何かを破壊された腹いせに、そいつの家族を殺した――いまは、どっちが重いともいえないな。
「おい」
とラージャンが顎をしゃくった。
おれたちの背後から近づいてくる黄色い塊が見えた。豹《ジャガー》だ。
「おい、魔法使い――ソダクを出せ」
返事がない。向き直ると、ラージャン君は顔を伏せていた。
「てめえ、とぼけるな」
と蹴とばしたが、青白い顔はぴくりとも動かない。本気《マジ》で危《やば》いらしい。
ジープからライフルを持って来といてよかったぜ。
距離は二〇〇メートルもある。
保安官に構えさせた。一撃必殺のニトロ・エクスプレスじゃない。H&KのG3突撃銃《アサルトライフル》だ。
二百キロ超級のライオン相手なら二、三発ぶちこまないと危ないが、百キロもない豹なら顔面に一発叩きこみゃKOだ。
「一〇〇メートルまで引きつけろ」
と言ってから、射つのはおれだと[#「射つのはおれだと」に傍点]気がついた。
一五〇まで来たとき、豹が地を蹴った。
平地での最高速度は二〇〇キロを超える。
保安官が射った。全自動《フルオート》射撃だった。
上がった土煙は、豹の遥か後方だ。
おれは、こんなにヘボだったか!?
突然、わかった。おれの運動神経は健在だ。だが、五十近い保安官の筋肉や腱がへばっちまったのだ。四人分の山刀との格闘、あれが限界だったのか。
連射を続行する余裕はなかった。
黄色い猛獣は二〇メートルもの距離から保安官へジャンプした。銃口を上げることもできない。
爪と牙がきらめき――突然、消滅した。
豹の絶叫と、肉と骨とを噛み砕くイヤな音は、空中から聞こえた。
上体を起こして両眼を閉じたラージャンを、おれは見下ろした。がっくりと首を垂れる。
束の間、覚醒した彼は、一瞬で事態を読み取り、魔王ソダクを召喚したのである。
「イーコイーコ」
と副大統領の頭を撫でてから、おれは尻餅をついた保安官を立たそうとしたが、うまくいかなかった。
筋肉や骨がイカれちまったのだ。それでも半失神状態に陥っているから、動かすだけなら、むしろ楽だった。
何とか立たせて、ラージャンを担がせることができた。やっぱり放っては行けない。生命の恩人でもあるしな。
とりあえず、モルヒネと睡眠薬を服《の》ませ、後部座席に横たえた。どっかの村で落としときゃ、薬が切れたらすぐ、救援を呼ぶだろう。
空が光った。
いつの間にか垂れこめた暗雲の一部が、紫色にかがやいている。底部から、稲妻が虚空と地上とを結んだ。
「げっ、雨か」
保安官も不安そうに天を仰いでいる。
近くを三本の川が流れているが、おれの調査では、氾濫したことはあまりない。たまの土砂降りくらい大丈夫だろう。
しかし、ラージャンの言葉を信じるとすれば、ジャン=ルイはゆきとペクタスを拉致して、潜水艇へ向かったことになる。
ところが、おれの鼻が教える方向はまるで逆なのだ。
地図を出すまでもない。このまま行くと、ベルゼボ共和国最大の危険地帯――
「〈ガジュゾロの渓谷〉だ」
保安官が隣でつぶやいた。濃さを増してきた夕闇の中でも、蒼白なのがわかる。
「済まんが……ここで下ろすか……殺すかしてくれんか? 渓谷で死んだら天国にも行けん」
「済まんが、代わりが見つかるまで付き合ってくれ――わお」
おれは素早く、保安官のコントロールを強めた。こいつめ、いきなり急ブレーキをかけるつもりだったのだ。放り出されちゃ敵わない。
頼む、下ろしてくれ、と連呼しはじめたので、口もつぐませた。
ほどなく、土砂降り――どころか滝のような雨が天から叩きつけてきた。
ジープはジャングル内の道を進んでいくが、たちまちぬかるみに捕まってしまった。
しかも、水かさはどんどん増えてくる。このままじゃ、陸の上で溺死だ。
かたわらを、どっかで見たようなずんぐりした動物が過ぎた。
がば、と口が開いた。
「あっ、外谷」
河馬である。
じろ、とおれを見て、何となく嫌そうな表情を浮かべ、泥水に潜ってしまった。同じような外谷が、後から後からつづいていく。ジープにぶつかるたびに、車体は激しくゆれた。
どうやら、この先に沼か川がある。そこが溢れて住人が引っ越しをはじめたのだ。
おれは保安官に命じて、眠りっ放しのラージャンに気つけ薬を嗅がせた。
うっすらと眼を開けた重傷の副大統領に、
「雨で立ち往生だ。このままだと溺死だ。ソダクを出せ」
もう便利屋並みの扱いだが、ラージャンはたちまち状況を見抜いた。
「わかった」
と言って眼を閉じる。
このとき、おれは変事に気がついた。
ジープの横を流れる泥水が、妙に赤いのだ。
これは――
「血だ」
と保安官が真っ白い声で言った。
タイミングを合わせたように、前方で凄まじい水音が上がった。
ライトはまだ点いている。その中に、二つの眼が、爬虫類の冷酷さを湛えて赤く燃え上がった。
そいつが何物か、瞳の色と位置と状況から瞬時に想像はついたが、おれには信じられなかった。
問題はサイズだ。
ぐわっと水面が盛り上がった。そいつがでかい口を開いたのだ。
風車の羽根を思わせる上顎の長さは、通常でも七、八〇センチ――でかくても一メートルはない。
それが二メートル。すると尻尾の先までは優に一〇メートルを越す。
保安官がG3を構えた。違う。奴の外皮に七・六二ミリNATO弾なんざ、ゴム鉄砲と同じだ。
「象狩り銃《エレファント・ガン》だ」
おれの叫びに、保安官はあわててG3を下ろし、かたわらに立てかけてあるニトロ・エクスプレス四八〇を引っ張り出そうとした。
一日に五発もぶっ放すと、脳震盪を起こして、三日はめまいと耳鳴り、十発だと頚骨がズレちまって一生治らないといわれる猛銃だ。
敵はすでに水中に沈んでいる。
保安官は立ち上がり、銃口を下に向けて引金を引いた。
その身体が後ろへ吹っとんだのは、ニトロ・エクスプレスの反動のせいか、そのとき、ジープに叩きつけられた巨体のせいかはわからない。
車体は呆っ気なく横転し、おれたちは泥水の中へ頭から突っこんだ。
夢中で水を蹴って浮上する。流される寸前だ。
保安官は? ――隣に出て来た。
ん? 鬼気迫る表情だな。――と思ったら、その身体がずううと持ち上がりだした。
腰が出て、腿が出て――膝が。
おれは眼を剥いた。保安官の膝から下は、巨大な顎の中に呑みこまれていたのだ。
おれが逃げろと命じる前に、口ががちんと閉じられた。
保安官が悲鳴を上げる。その身体を巨大な顎は、ちょっと開いだだけで悠々と呑みこんだ。
済まん、と思ったが、それも束の間、ぐしゃぐしゃと小刻みに上下する死の顎から、おれは右足だけで水を蹴りはじめた。
流れ水に乗ったから、普通より速い。大鰐が保安官食ってる間に逃げなくちゃな。
だが、一〇メートルもいかないうちに、背後で水音がした。
水はジャングルの中を流れている。ふた抱えもある巨木が、二メートルほどの間隔で水からそびえている。
あれだ。
必死で間を抜けた。
わずかに遅れて、鈍い衝撃が水を伝わってきた。
ふり向いた。
大鰐の巨体は、首の下あたりを巨木の幹の間にはさんでいた。
夢中で抜こうとするが、うまくいかない。頭の足りない爬虫類の哀しさ。全速力で突っこんじまったらしい。
おお、夢中で頭と身体をねじ曲げまくってやがる。
そんなんで直径二メートルもある巨木が倒れるかい。
失笑した頭上に倒れてきた。
木が二本――鰐を防いでいた巨木であった。何てこった。あの化物鰐、巨木を押し倒しやがった。
潜って枝の一撃から逃れる。
全速力で水中を突進する。五分――六分――七分。
もう呼吸《いき》が続かねえ。
浮上して、ふり向いた。
二メートルばかり後ろに眼の玉が見えた。野郎、おれの後ろにぴったり尾いてきてやがったのだ。
顎が持ち上がった。
逃げろ。
おれはまた水中へ。しかし、間に合わないのはわかっていた。
死が襲いかかってきた。
3
だが、おれの身体はいつまでも牙に裂かれず、スムーズに水中を流れつづけていた。
閃いた。
譲だ!
再度、浮上。
だが、おれの眼に映ったのは、空中に浮かぶ巨大な大鰐の姿だった。
浮かぶ?――いや、落ちてくるのだ。空中から。
一体、何が[#「何が」に傍点]こいつを?
即答があった。
水中から、こいつより倍もどでかい顎が水を跳ねとばしたのだ。
顎の長さ四メートル、全長二〇メートルの大鰐が存在するといえば、世界中の動物学者は、それじゃ鯨だと笑い出すだろう。
だが、おれは見た。
がっと開いた大顎が、落ちて来た大鰐の胴体をがっちりと咥えこむのを。大鰐が凄まじい勢いで暴れた。水が洪水のようにおれめがけて押し寄せ、太い木立ちが潅木みたいにへし折れる。
勿論、おれは逃亡に移った。ところが――足が動かねえ!? 水中の木か何かに足首が捕まっちまったのだ。
糞、と百万遍唱えてもどうにもならない。
突然、おれの耳に大鰐の凄まじい断末魔が聞こえた。ばりばりと外皮と肉とを咬み砕く響きがそれに加わる。
食い終えたら、おれだぞ。
水の色に新たな朱が加わった。この辺りの土地は当分、血腥《ちなまぐさ》さが抜けまい。
眼の前にでかい物体が落ちてきた。水飛沫を避けてそっぽを向き、眼を戻したら、グローブの指くらいもある牙がびっしり植わった顎の一部だった。
糞、足が。
途方もなく巨大な影が視界を埋めた。
一〇メートル近く向うに巨大な光る球体がふたつ。あれが鰐の眼か。
水が裂けた。何度、鰐の顎が開くのを見ればいい。
今度は、しかし、呆れるほど巨大だ。
おれはなおも足を引き続けた。最後の最後まであきらめるな。トレジャー・ハンターの掟だ。
ごお、と下りてくる。絶望と死が。
突然、途方もない上顎が右へねじれた。巨体がそれを追う。二〇メートルの胴が引っくり返るのを、おれは見た。
泥水が押し寄せ、おれを呑みこんだ。
すぐに出られた。前方――三メートルほどのところに鰐がいた。
その鼻先に、鳥のように軽やかに乗った人影は――
「譲か」
安堵がおれを包んだが、すぐに押しのけた。こいつに弱みを見せるとロクなことはねえ。
鰐が口を開いた。譲は宙に舞った。鼻先二メートルほどの水上に着地する。まるで水鳥だ。
「無事か?」
と来やがった。
「うるせえよ、見りゃわかるだろうが」
「その声なら無事だな。少し待て」
その足下に、すうと忍び寄る巨大な影。どんなにでかくても、鰐は水音ひとつ立てずに獲物に忍び寄る。
斜めに跳んだ。
譲は身じろぎひとつせず、その顎にはさみこまれた。
勝負あった。
勝ちだ――譲の。
「殺すな」
と叫んだが、無駄なのはわかっていた。追い返せばいいという発想は、我が従兄弟にはない。
見覚えのあるものが、おれの眼の前に流れてきた。
片手でかたわらの木の枝につかまり、
「よお」
譲だった。
見たところ、左肩から右の乳の上までが残っている。後は大鰐の胃の中だ。
「譲よ」
「しっ」
大鰐の巨体が爆発したのは、次の瞬間だった。
火薬による爆発ではない。それでも、エネルギーによる木っ端微塵には違いなかった。
水に潜って破片を避け、浮き上がってみると、大鰐の身体は跡形もなかった。水はさらに赤く血腥く変わっている。
「おまえな、世界中の動物学者に呪われるぞ」
おれの言葉に、上半身だけの従兄弟は、にこりともしなかった。
その身体にみるみる異変が生じた。失われた部分が服ごと再生されていく。胸が、腹が、腰が、足が、霞のようにおぼろに、形を整えていく。――おれは呆然と見つめるしかなかった。
「足か?」
と訊いたのは、五体満足な譲だった。
「そうだ。引っかかってる。それよりラージャンがいるはずだ。もう土佐衛門だろうが、捜してくれ」
譲は水中に没し、すぐ戻った。足を動かしてみた。自在に動く。
「これだ」
と放り出したのは、さっき食われた大鰐の片足だった。
ラージャンは見つからなかったらしい。水に呑まれたか。あきらめるしかねえな。
おれは肩をすくめるしかなかった。
土砂降りは熄《や》みそうにない。
「ジープを起こせ。テントが積んである」
「特別料金だぞ」
「わかってる。さっさとやれ」
おれはそっくり返って命じた。空威張りなのはわかっていた。こうでもしなきゃ、自我が傷ついちまう。
譲は水中に没した。少し間を置いて、車体が元に戻った。
それから十分としないうちに、環境は理想に近くなった。
横転したジープは元に戻り、強化ビニールの天蓋の内部には電子ストーブが点った。排気孔から蒸気が脱け出ていく。
すべて譲の力だった。
「よくやった」
と誉めても、にこりともしない。やりづらい野郎だ。
おれは、ゆきとペクタスがジャン=ルイに連れ去られるまでの事情を話し、おまえは何をやってたんだ、と詰問した。
「この役立たずめ」
「この頃、あれが起こる頻度が高い」
平然たる口ぶりである。
「洞窟の前で襲われたときも、妖気が引金になった」
その結果が、直径三キロの窪地か。戦術核だってああはいくまい。
「やっとこ治ったってわけか。次はいつ起こる?」
「わからん」
まるで時限爆弾をポケットに入れて歩くようなものだ。
かつて、トレジャー・ハンター協会に所属していたとき、譲はササン朝ペルシャの宝剣を狙う連中と戦う羽目になり――間一髪の瞬間にこれ[#「これ」に傍点]が起こった。現場の遺跡はきれいに消滅し、譲だけが残ったのだ。
「どうやら迷惑をかけたらしいな」
「当り前だ。この季節外れ野郎。服が乾いたら、すぐ、ゆきたちを捜しにいくぞ」
「まかせておけ」
「ギャグか、てめーは」
譲は平気で、
「いい鼻を持ってるな」
と、からかいやがった。
「うるせえ」
「何にしろ、その身体でここまで来れたのは大したもんだ。えらいえらい」
完全におちょくってやがる。
「手まで叩くんじゃねえ。それより、ジャン=ルイがなぜ、方向を変えたか考えろ」
「その化石とやらに、別の価値を発見したのだろう。最初に、ジャン=ルイが意図した以上のな」
「やっぱりな。しかし、何故、気づいた?」
「わからんのか?」
「………」
どうも眼つきが気に入らねえ。
「決まっている。あの娘が吹きこんだんだ」
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第六章 渓谷の対決
1
翌日の昼少し前に眼を醒ました。
ジープは走りつづけている。ハンドルを握っているのが譲なので、安心してしまったらしい。夜明けに寝たから七時間近く引っくり返ってた勘定になる。
ジープのエンジンは軽快そうだ。あれだけ水浸しでよく動くもんだと思ったが、譲が何かしたのかも知れない。
「そろそろ、〈ガジュゾロ渓谷〉だぞ」
おれが起きたのに気づいて、譲が話しかけてきた。女房子供にせがまれて、休日に豊島園へでも出かけた優しい男の口調だ。つまり、どうでもいいのだ。
「いよいよか。腕が鳴るぜ」
おれは『聖者が街へやって来た』をハミングしはじめた。
「いいご機嫌だな」
「へっへっへ」
今日は人工の手足が送られてくるのだ。やっと、この達磨さん状態から解放される。いままでよく生命があったもんだ。
アフリカ水牛の一群が彼方を過ぎ、反対側にはライオンの親子らしい一団が見えたが、ジープを気にする風はない。腹さえクチていれば、動物は無益な殺生などしない。金だの女だののために争うのは人間だけだ。
すでに地平の向うに見えていた、ごつごつした影が、はっきりと岩山の形を取りはじめた。
〈ガジュゾロ渓谷〉――ベルゼボ共和国最悪の危険地帯。腹を空かせたライオンさえここへ入るのを拒んで餓死し、鉄の意志を持った政治犯も、ここへ送ると言われれば、従順な権力の走狗《そうく》と化すという。
実体は?――さっぱりわからない。
おれも過去に別の宝捜しがらみで、二度ほど調べたことがあるのだが、不思議なくらい情報が入ってこないのだ。
ひょっとしたら、本当は誰もこの渓谷のことなど知らないんじゃないか――いや、渓谷そのものがまやかしじゃないのかと考えたほどだが、どうやら存在はするらしい。
「ひとつ、わからんのだがな」
と譲が訊いてきた。
「何だい?」
「なぜ、ジャン=ルイはそんな場所へ急ぐ?」
「おれにもわからんな」
「無責任な男だ」
「おれのせいか、阿呆」
何事もなく平原は切れた。
峨々《がが》とした岩がジープの左右に聳え、それなのに、道らしきものがあるのが不思議だった。
「ん?」
携帯が鳴っている。
スクリーンにメールが入っている。
「そちらの時間で、正午きっかりにお手元に届くように手配しました」
送信者の名は、おれの息がかかった「Xサイバーマン社」の副社長だった。ただし、肩書が、
社長《プレジデント》
になっている。
おれは嬉しくなった。いよいよ自由の身だ。大鰐でも外谷でも出て来やがれ。素手でバラバラにしてやる。
しかし、正午とは。おれの体内時計だと、あと十分ジャストだ。
影がおれたちを塗りつぶした。
左右の岩が頭上にまでせり出し、頭上の空はカミソリの刃ぐらいにしか見えない。
幅は三〇センチもない。これが十分も続いたら、義手と義足は届くだろうか。
「どうした?」
と譲。
「何でもねえ」
強がってみた。
不意に光が満ちた。
隘路を抜けたのだ。
道路の幅が、二メートル足らずから、突然、二〇メートルに広がったのだから、喜んでもよさそうなものだが、状況はそれを許さなかった。
左右の岩塊は切り立った岩壁に変わり、その表面に、おびただしい洞窟が口を開いているのだ。
当然――
「穴の中に何がいる?」
と、おれは考えた。外谷だったりして。自分のギャグに笑いかけたとき、いきなり出て来た。
薄いオレンジ色をした塊は、ぴしゃんと石の地面に付着するや、全長三メートルもある大トカゲに化けた。
「何じゃい、これは?」
譲は返事もせずに、座席の横に積んである象狩り銃《エレファント・ガン》を引っ張り出すや、フロント・ガラス越しに突き出した。ハンドルは握ったままだ。
大トカゲは、口から長い鞭みたいな舌を吐きながら近づいてくる。
いきなり、のけぞった。
ろくに狙いも定めずに放った譲の一弾が鼻面にめりこんだのだ。
人間技ではなかった。専門の象狩りハンターでも、両手でがっちりと固定し、腰を落ちつけて射たなきゃ、象の急所には当たるもんじゃねえ。
それを片手で、お気楽としか見えない射ち方で。
のたうち廻るトカゲを躱したとき、ジープの前方に新しい色彩が躍った。
別のトカゲが三匹――道一杯に広がって、こちらをにらみつけた。さらに一匹――また一匹。
譲がブレーキを踏んだ。
ベルトが胴に食いこむ。悲鳴を上げるおれを、譲は無視して立ち上がった。
「面倒だ。待っていろ」
「待て、こら」
と、おれは痛みをこらえつつ止めた。
「ぶち殺せばいいってもンじゃねえ。お互い、生命のある身だ。回避する方法を考えろ」
譲はこっちを見た。
「おまえ、よく言うな」
「うるせえ。とにかく、よせ。雇い主の命令だぞ」
譲は無言で席に戻り、ジープをスタートさせた。
いきなり、ハンドルを右へ切る。
「わわっ!?」
ハンドルさばきに驚いたんじゃない。ジープの目的地が岩壁だったからだ。
「――!?」
新たな悲鳴を上げる暇もなく、ジープは岩壁に突っこみ――
次の瞬間、地面と直角に、岩壁上を疾走していた。
眼の隅を大トカゲどもが流れ去る。
最後の一匹が見えなくなったとき、ジープは地面に舞い降り、鈍い衝撃を置き土産に疾走を再開した。
「相も変わらず甘っちょろい男だな、おまえは」
譲がこう罵ったのは、一分程後だ。
「何がだよ?」
「敵を叩きつぶさず生き延びたいなら、坊主にでもなれ」
「無益な殺生をしたくねえだけさ。あのトカゲどもを皆殺しにする必要はなかった。現に、逃げられたじゃねえか」
「殺せば簡単だった。余計な手間をかけさせるな」
「おまえな、本気で言ってるのか?」
「もちろんだ。おまえのような甘ちゃんが仲間じゃ、生命が幾つあっても足りはしない」
「何だ、その言い草は? 降りたいってのか?」
「降りてもいいのか?」
行きがかり上というのは、こういうときに使う言葉だ。
「ああ、構やしねえ、とっとと尻尾を巻いて、国へ帰りやがれ」
しまったという感情が顔に出ないよう、おれは気を引き締めた。
ジープが止まった。
譲は身ひとつでジープから降りた。
挨拶ひとつなく、もと来た方角へ歩き出す。
一〇メートルほど進んでふり向いた。見送っていたおれは、あわててそっぽを向いた。
「いいのか?」
と聞こえた。
おれは顔中を口にして叫んだ。
「うるせえ、とっとと去《い》きやがれ!」
一分ほど待ってふり向くと、譲の姿はもうなかった。
「糞ったれ、本気で去きやがったか」
ま、仕様がねえ。
おれはジープのシートに横になった。
しかし、熱いこと。じりじり焼かれる気分だ。
早く義足が来ねえかな。
そう思ったとき、いきなり地面が揺れた。地震か!?
いや、起き上がったおれの眼に映ったのは、地面から空中に噴き上がった、さしわたし一メートルもありそうな触手だった。
一本じゃない。まとめて数百、いや数千本の細い触手が束になっているのだ。なぜわかったのかというと、地上五〇メートルにまで達するや、噴水の水みたいに裂けて、地上へ降り注いだからだ。
地面は蠢く糸昆布で埋もれた。
幸いジープには接触しなかったが、みるみる這い上がってくる。
立ち上がって逃げようとしたが、地面はぬるぬるだ。
たちまち、オープンな車内へ、滝のようにこぼれ落ちた。
足下へ来やがる。来るな。
急に引いた。
「あれ!?」
まさか、おれの胸中の叫びが効いたわけでもあるまい。
糸昆布の波は一斉に、おれがやって来た通路の方へ向かっていく。
大トカゲが三匹、後じさりしようとしていた。
おれたちを追ってきたに違いない。
糸昆布を見て怖気づいたか、と思ったら、様子がおかしい。怖気づいてるのは確かだが、なぜ、さっさと逃げ出さない?
トカゲの四肢と胴体には、すでに触手が巻きついていたのだ。
トカゲたちは、すでに、怖るべき――生命を賭けた力較べに巻きこまれていたのだ。
莫迦が。せっかく譲から救われたのに。
おれの感慨など何の意味もなかった。必死に踏んばっていた大トカゲどもの身体が、ずいっと一歩前へ出た途端、それは数歩前進になり、あっという間に三匹とも、糸昆布が蠢く石の床に引き据えられていた。
その全身が灰色に変わった。数千本の触手が一トンもありそうな巨大爬虫類を、自ら噴出した穴の方へ易々と引きずっていく。
最後の抵抗もなく、三匹は穴に消えた。その下で何が起こったかは誰にもわからない。
ただ、はっきりしているのは――次はおれの番だ。
穴の中へ潜りこんでいた糸昆布はずるずると浮上し、こちらへ向かってきたではないか。
万事休す。今度はいけない。
それでも、おれは四方の岩盤を見廻し、身を隠す場所を捜していた。あきらめるな――生きてる限り。
糸昆布が這い上がってきた。
あっという間に、おれの足下に迫る。
糞、あっち行け!
頭上から、まぎれもないジェットの推進音が聞こえてきたのは、その瞬間だった。
足首まで来ていた糸昆布が、びくっと身を震わせて後退する。
おれにはわかっていた。
間に合ったのだ。
全長二メートルほどの巡航ミサイルは、底部から猛烈な火炎を噴き出しながら、触手の本体が潜む大穴の上空へ降下し、凄まじい炎を穴の中へと吹きこんだ。
触手が痙攣した。
ようやく、おれは本当の運が巡ってきたのを知った。
2
吹きこんだ炎が穴の中のもの[#「もの」に傍点]を狂乱させたのだろう。地を覆う触手は一斉に波立ち、あるものは直立し、あるものはのたうった。
巡航ミサイルは悠々と針路を調整し、機首をこちらへ向けると、側部と底部から巧みにジェット噴射を続行しながら、ジープのすぐ右横に着陸した。
耳の中で通信機が鳴り響いた。
「ナノテク開発部のリャン・シドーです」
聞き覚えのある声が流れてきた。
「ミスター八頭の一部始終は、偵察衛星で確認しております。機体に埋めこんである赤いレンズをどれでも二秒間、凝視してください。義手と義足が現われます」
「どうやって着ける?」
「メカにおまかせください。ついでに、最新型の武器も付随しております」
「えらい。後で振り込み先を教えてくれ」
「ありがとうございます。ご健闘を」
「おお」
おれはミサイルのかたわらに跳び下り、確かに機体中に嵌めこんである真紅のレンズをにらみつけた。
と、その下部に長さ一〇センチほどのスリットが生じた。
何かが吹きつけてくるのかと眼を細めたが、何も出現せず、
「ん?」
と唸った。
不意に、胴体が強烈に締めつけられた。触手が巻きついたのだ。
その凄いこと。思わず肺の空気を吐き切ってしまい、おれは、七つのとき、アマゾンの森の中で、おれを呑みこもうとしたアナコンダを憶い出した。
蛇は巻きついた獲物の肺から徐々に空気を吐かせ、吸いこむ前に締めつけて窒息死させる。おれが助かったのは、古武道の師範から習った締め技に対する呼吸法のおかげだった。
今度もそれを――使う必要はなかった。
おれ自身も何が起きたかわからない。
とにかく、巻きついていた触手は、次の瞬間、きれいに弾け跳んでしまったのだ。
思わず胸を払った。おお、手が動く!
足は――自由だ。
「いかがなものでしょう?」
リャンの声がした。
おれは、手足のみならず、頭のてっぺんから爪先まで、全身が銀色の装甲で覆われていることを知った。
いや、これは服だ。装甲のごつさはかけらもない。まるで、絹でもまとっているような、しなやかで柔らかな肌触りだ。
しかし、一体、どこから現われた。
「我がナノテク開発部の最新の成果でございます」
とリャンは、静かに言った。
「装甲服の素材は、エア・シリコンと申します金属繊維ですが、これは、構成分子のひとつひとつが、いわばコンピュータの端末に等しい機能を備えておりまして、装着した人物の意志によって、自在に動きます。自身と指令者への補修機能を備えております。服が破損すればたちどころに服自身が修理し、ミスター・八頭の負った傷も服が治すと、こういうわけでして。また、移動性とともに攻撃性も組みこまれ、敵に対しては百万ボルトの高圧電流及び、十万馬力のパワーで挑みます」
「すると、おれはあれか、あの鉄腕――」
「さようで。ミスター・八頭は、ごく普通に行動なさって下されば結構です。ナノテク・スーツ使用の基礎はイメージに尽きます。お茶を飲むつもりでいれば、薄い茶碗も平気で持てますし、この程度の破壊とイメージなされば、コンクリートの壁も体当たり一発で粉砕されます」
「すると――イメージしないと」
「ご自分で認識している範囲内のパワーは、自然に発揮できますが、それ以上は、不可能になります。鉄のドアを前に、跳ね返されるとイメージすれば、そのとおりになるわけです」
血が猛っていた。
「わかった。感謝するぞ!」
「但し」
「ん?」
「我が社のナノテク技術は、世界の最高峰を極めておりますが、目下、地球レベルの技術的限界があるのは否めません。ひとことで申し上げれば――」
「上げれば?」
「ちと、攻めに弱い」
「何だ、そりゃ?」
「分子を結合する磁場に、やや問題があります。つまり、案外簡単に破れて、負傷するかも知れません。ですが、補修機能は完璧です。即死以外はすぐに治りますから、ご安心下さい」
「即死したら、どうする気だ?」
「失礼ですが、愚問です」
もっともだ。専門家がこういうんだ。我慢するしかあるまい。
「いいだろう。その代わり、おれが死んだら、会社への資金供与も、おまえの特別ボーナスもなしだ」
「えっ!?」
おれはさらに赤いレンズをにらみつけた。
スリットの下がぱっくり横に開いて、びっしりと詰まった武器と弾丸がのぞいた。
ほう、ペンシル・ミサイル・ランチャーから拳銃、爆薬、時限装置と揃ってるぞ。
おれは丸ごとジープへと運びこんだ。どうせひとりだ。残しておいても仕様がない。
目新しいライフル・タイプが三挺入っていた。同型だ。
「何だ、これは?」
「神経麻痺銃《N・Pガン》です。超音波を使いますが、蟻から象まで一発でKOします。重戦車には通じませんので、ミサイルをお使い下さい」
「この拳銃は、ただのワルサーP22だな? アフリカじゃ山羊にしか通じねえぞ」
「病人に必要なのは注射器ではなく、薬液です。別の拳銃でも一向に差し支えありませんでした。たまたま、身近にあったので採用しただけです」
なんて、安直な野郎だ。早速、新社長にタレこんで馘にしてくれる。
「問題は弾丸です。二二口径/ロング・ライフル。アメリカなら雑貨屋で、千発五十ドルのバーゲンをしていますが、その弾丸は一発一千ドルかかりました」
おれは、プラスティックのコンテナにびっしりと詰まった、バーゲン弾の紙箱を見つめた。
「特殊硬芯弾頭と推進剤で、M1エイブラムスの装甲も貫き、同時に先端から六十万度のジェット噴流《ストリーム》を放出して、標的内を焼き尽くします。いわゆるHEAT弾の拳銃用だと思って下さい。そっちの青い箱は粘着榴弾《HESH》です」
ライフルはH&KのG3が三挺あった。弾丸はやはりHEATとHESHである。これなら、どんな猛獣でも一発だ。しかも、遠距離から連射で叩きこめるから、まず、こちらがやられる心配はない。
おれは神経麻痺銃とG3を座席の横に並べて置いた。
梱包されていた弾薬ベストにHEAT弾とHESH弾を詰めた三十連発の弾倉を十個ずつ入れ、腰に巻くガン・ベルトのホルスターにワルサーを一挺、三十連発の延長弾倉《ロング・マガジン》をそれぞれ五本ずつ収め、さらに別のワルサーをはさむ。
しかし、暑いな。
「通気性はどうだ?」
と訊くと、
「最悪です。使わない場合は消滅させて下さい」
消えろ、と念じると、装甲服は本当に消えてしまった。
念のため、装着したイメージを送り出す。たちまち身に着く。OKだ。
空になった巡航ミサイルを置いて、おれはジープを前進させた。
正直、矢でも鉄砲でも持ってこいという気分になっていたが、浮かれちゃいけない。油断大敵とは、いまでも通用する言葉だ。
しかし、こんなとこまでノコノコ出かけるとは、ジャン=ルイめ、ゆきの言葉とボディに血迷いやがったな。
道は前方で大きく右へカーブして視界から消えている。
面倒だ。
おれは巡航ミサイルから移したコンテナを開けて、飛行偵察装置を取り出した。付属のHUD《ヘッド・アップ・ディスプレイ》を被り、スクリーン用のゴーグルを下ろす。
偵察装置の全体はグライダーに似ている。ゴーグルに映るのは、装置の胴体に取り付けられたTVアイから送られる光景だ。
リモコンで飛ばした。
偵察装置は、猛スピードで風の吹きこむ谷間から消えた。
ゴーグルには、TVアイの見ている光景と、目下、おれの肉眼が視認している景色とが重なっている。おれは難なくクリアできた。
「おっ!?」
いた。
スクリーンに表示されるデータからすると、前方五キロの地点だ。装置は地上一〇〇メートルに停止しながら、平らな岩盤上を急ぐ三人を捉えていた。
リュックを背負ってはいるが、三人とも足取りは確かだ。しかも、速い。
ヒカの魔力だな、と気がついた。
護衛役の魔法使いは、なおもその役目を果たしているのだ。
アクセルを踏みこんだとき、ジャン=ルイが頭上をふり仰いだ。
装置に気がついたのか。
背負っていたライフルを下ろし、装置に向けた。
すでに上昇に移っている。
米粒ほどのジャン=ルイの胸もとで、ちか[#「ちか」に傍点]、と光が点った刹那、スクリーンは暗黒に閉ざされ、同時に眼前の光景ばかりが広がった。
装置は射ち落とされてしまったのだ。
「野郎」
ジープはスピードを上げた。
カーブを曲がった。谷は真っすぐ続いている。じきに見える。
見えなかった。
確かに三人のいた地点まで数分で到着したのに、まるで神隠しにでも遇ったかのように、ジャン=ルイとゆきたちの姿はなかったのだ。
おれはジープを止めて、四方を見廻した。鼻の力は大分弱まっている。
かなり危険な場所だった。あちこちから硫黄の匂いが鼻をつく。地を這う黄色っぽい煙は亜硫酸ガスだ。
あちこちに噴火口みたいな孔があり、泥状の水泡が破裂しては、ガスが発生する。
「ん?」
右前方七、八メートルのところの岩陰に、ジャングル・ブーツを履いた太い足首が見えた。
ジープを下りて、駆け寄った。
「ペクタス」
足首の太さでわかる。古代剣闘士のミイラは、岩陰に長くのびていた。
傷はない。術にでもかけられたか。胸ぐら掴んでゆすっても、眼を醒まさない。
おれはジープへ戻り、
「失神するミイラか」
とぶつぶつ言いながら、武器用コンテナの隣に収まっていた心霊グッズ・パックから、浄霊用の御札を取り出して、ペクタスの額に貼った。
効果はわからない。すぐに眼を醒ましそうもなかったので、おれはジープへ運んだ。
ゆきの行方は、鼻先のかすかな反応を辿る他はない。
鼻をひくつかせた瞬間、何かがおれを横へ跳ばせた。
頭上を何かが飛び去り、わずかに遅れて、ヘビー・ライフルの銃声が轟いた。
転がっても痛みは感じなかった。全身はイメージによる分子鎧――装甲服に包まれていた。
銃声と弾丸の飛翔方向から、狙撃地点はすぐに割り出せた。
しかし、攻撃はできない。ゆきがいるのだ。糞ったれめ、ペンシル・ミサイル一発で片がつくってのに。
おれは身を屈めて、近くの岩陰に潜りこんだ。ジャン=ルイのも象狩り銃《エレファント・ガン》だ。たとえ戦車砲弾も跳ね返すといわれても、まんま信じるほど甘くねえ。
おれは神経麻痺銃の安全装置を外してから、
「ジャン=ルイか?」
と訊いた。
3
「そうだ」
返事はあった。弾丸が飛んできた方角と違う。射った瞬間、移動したのだろう。悪党でも戦いのプロなのだ。
「ゆきは何処にいる?」
「おれのそばで、夢見心地だ。断っとくが、丸裸だぜ」
野郎、挑発してやがる。その手にゃ乗らねえぞ。
「生きてるのか?」
「一応な」
「声を聞かせてみろ」
「そうはいかねえ。勝手に悩みな。ひょっとしたら、もう死んでるかも知れねえぞ」
「舐めんなよ」
おれは、ひときわでかい声を張り上げた。射ってくるかと思ったが、さすが一流のプロだ。当たりっこない脅しなんかに無駄弾は使わねえ。
「あんな淫乱娘、どうなろうと知ったこっちゃねえ。裸に剥いて好きなだけ可愛がってやりな。ついでに始末してくれたら、こっちは手間が省けて大助かりだ」
「言ったわねえ」
途端に黄色い怒号が湧いた。ふう、ひと安心だぜ。
「二人きりのときは、さんざか、おまえのおっぱいはサイコーだの、腰の張りが堪らねえだの言っといて、それが本音ね。よくわかったわ。たったいまからあんたとは、終生の敵同士だからね。あの化石の頭も胴体も、あたしとジャンが貰うわよ」
ジャン?
「やっぱり、てめえだな。ジャン=ルイに、おかしな知恵をつけたのは。こんなところへ何しに来やがった?」
「ふん、じきにわかるわよ。あんたなんか、さっさとあの世へ行っちまえ」
この瞬間、おれは次に打つ手を決めた。
「この裏切り者!」
と叫びざま立ち上がったのだ。
ゆきの声の方向めがけて――ちょいとずらして――音波銃を発射する。
「ああン」
悲鳴だ。しまった、命中しちまったか!?
その刹那、凄まじい衝撃が右肺のあたりを直撃した。
象狩り銃《エレファント・ガン》の猛打だ。おれは吹っとび、石の上に仰向けに倒れた。
象狩り銃《エレファント・ガン》の・五五ウェザビー弾は、明らかにおれの肺にめりこんでいた。地獄の苦痛が身体を駆け巡り――ふっと消えた。
弾丸が抜かれた。傷口がみるみる癒着し、しかも、傷の内側は消毒されていた。
感覚だけ残して、痛みはとうにない。
「象狩り用まではOKっと」
はて、次はどうしてくれようかと思ったが、向うから来やがった。
おれが死んだと思ったらしい。装甲服は目撃しただろうが、射ちこんだのはウェザビー・五五だ。人体用の防弾ベストなんざ、十枚まとめてぶち抜いてしまう。これがジャン=ルイを油断させたのだ。
おれは麻痺銃を投げ捨て、右手をホルスターのワルサーP22の銃把《グリップ》ぎりぎりに置いて、不自然にならない格好で横たわった。
顔面は覗き窓《スリット》なしのマスクで守られているが、何処かにTVアイが仕掛けてあるらしく、マスクの内側に三百六十度のスクリーンが設定されていた。
ジャン=ルイは五〇メートルほど左方から近づいてきた。
真っすぐ来るかなと思ったら、二〇メートルほど近づいて立ち止まり、ライフルを肩付けした。おい。
雷鳴のごとき銃声は、巨弾がおれの顔面を直撃してから聞こえた。
ジャン=ルイにしてみりゃ、脳天か心臓を射ち抜きたかったのだろうが、角度的に頭は難しく、心臓は、さっきすぐ近くに一発射ちこんであるという、心理的抑制が働いたに違いない。
幸い即死はしなかった。傷もすぐふさがり、痛みも消えた。
だが、・五五ウェザビーは、顔面装甲を貫き、おれの右眼を射ち抜いたのだ。
いや、灼熱した塊に眼の玉をえぐられ、破裂させられたときの激痛ときたら。よく漏らさなかったものだ。
おかげで、ジャン=ルイがかたわらに立つまで、動く気にもなれなかった。
「やっと、くたばったか――この餓鬼」
憎々しげに放って、ジャン=ルイはおれの脇腹を蹴った。
「よしてよ!」
おや、裏切り者の叫びではないか。マスクのスクリーンは、右方からSIGを構えて近づいてくるゆきを映していた。
「その人に、これ以上、酷いことしたら承知しないからね」
こりゃ面白え。仲間割れか。しかし、あのゆき[#「ゆき」に傍点]が何でまた。
「いまさら、何を抜かしやがる。世界最強の弾丸《たま》を二発も食らったんだ。何したって手遅れさ。大体、おめえも言ってたじゃねえか。こいつ、邪魔ばかりするってよ」
「殺せなんて言ってないわよ!」
ゆきは叫び返した。驚きがおれを包んだ。この声は? ひょっとして――泣いてるのか?
「絶対に生命だけは助けてくれって言ったのに。確かにうるさくて、威張りくさって、ちっとも優しくなんかなくって、金持ちなのをひけらかす、いけすかない奴だったけど、それでも――何だかよくわからない、うまく言えないけどさ――この人以外の誰だって、あたしは安心できやしない。大ちゃんがいてくれると思えば、どんな無茶だって、我がままなことだってやれたのよ。いいこと、よく聞いて。大ちゃんの生命ひとつに比べたら、あんたのなんか、千個並べたって追いつきゃしないんだから」
「わかった、わかった」
とジャン=ルイは両手を上げて、万歳のポーズをつくった。
「ま、約束を守れなかったのは済まねえ。だがな、この世界、所詮は死ぬか生きるかなんだぜ。わかるだろう?」
ゆきがため息をついた。莫迦、眼をそらすな。
ジャン=ルイの右手――とライフルが躍った。すくい上げるように動いた銃床が、ゆきの右手からSIGを跳ねとばした。
「この!」
跳びかかろうとしたゆきの、豊かな胸もとへ、・五五ウェザビーの銃口が突きつけられた。
「舐めるな、糞女《くそあま》!」
言うなり、銃身に頬を打たれて、ゆきはのけぞった。
「てめえなんざ、いつぶっ殺したっていいんだ。だが、おかしなもンが憑いて、ここまでやって来れたから、生かしておいてあるだけよ。分け前だ? ふざけるんじゃねえ。さあ、とっとと案内しろ。あの頭の持ち主のところへよ」
何だ、これは?
ゆきが憑かれたというのは、六本木で経験済みだ。だが、おれがあの頭蓋骨を発見したのは、ここから二〇〇〇キロも離れたケニヤの渓谷だった。頭の持ち主というと、胴体のことだろう。それはジャン=ルイが持ち去ったはずだ。すると――
ゆきは地面に崩れ落ちていたが、俯けた顔を、ゆっくりと上げはじめた。
来たな、と思った。
何かを訴えるような表情と上気した肌の下に燃える淫らな炎。
これで、ほら、唇でも舐めようものなら、男なんざみな、おかしな催眠術師に操られる眠り男に化けちまう。
ジャン=ルイの全身から、狂気の迫力が消えていく様は、驚愕的ですらあった。
ゆきがにやりと笑った。挑発的かつ侮蔑の笑みだ。だが、怒る男などひとりもいないだろう。
「暴力反対よ」
ゆきはささやくように言った。誰が聞いてもわざとらしい甘え声だ。
だが、ジャン=ルイは、
「わかってらあ」
とライフルを投げ捨て、ゆきに駆け寄るや、その場へ押し倒しやがった。
痣をつけたゆきの頬へキスの雨を降らせる。ゆきも避けなかった。巧みに唇への接触を躱しながら、こちらからもキスを返す。
「あン」
と呻いた。ジャン=ルイの手が胸のふくらみに触れたのだ。
「大したおっぱいだぜ、小娘のくせによお」
「女の身体に、小娘も熟女もないわよ」
どちらの声も喘ぎに近い。いい気になりやがって。
ジャン=ルイが何か口走りながら、ゆきのシャツをめくった。
「吸いたい、あたしのおっぱい?」
「おお、もちろんだ。嫌だと言っても吸いまくってやるぜ」
「その前に」
ゆきは両腿で、ジャン=ルイの腰をはさみつけた。
「動かしてみて」
「お、おお」
ジャン=ルイの腰は男の動きを開始し、すぐに止まった。
「おい、少しゆるめろよ」
「駄目よ」
ゆきはにんまりと笑った。今度のゆきは色気抜きだった。
「いいわよ、大ちゃん」
「何ィ!?」
愕然とふり向こうとするジャン=ルイのこめかみに、おれのワルサーがぴたりと当てられた。
「てめえら――騙しやがったな」
歯ぎしりの音が聞こえそうな声である。
「そうよ、わかった? あたしたちの名コンビぶりが?」
と、ゆきが足を離して立ち上がり、でかい尻の土を払った。
「あんたと組むつもりなんか、最初からなかったのよ。あたしのパートナーは最初から死ぬまで大ちゃん。打ち合わせなんかしなくたって、みいんな、以心伝心でわかっちゃうんだから、ね?」
「うるせえ」
と、おれは抱きつこうとするゆきの足下へ、二二口径HEAT弾をぶちこんだ。岩が炎を噴き上げ、ゆきがひいと跳びずさった。
「何すんのよオ」
「なにが何すんのよオだ、この裏切り女」
おれは容赦なく罵った。
「おまえの腹の中なんぞ、とっくにお見通しだ。おっしゃるとおりの以心伝心でな。さあ、こいつと並んで、おまえたちの目的地へおれを案内しろ」
「ふん――ちっぽけな男ね」
と、ゆきは吐き捨てた。
「惚れた女のちょっとした心変わりも我慢できないの? あんたなんか、河馬に食われて死んじまえばいいのよ」
なかなかアフリカ的だが、おれは妥協するつもりはなかった。
「さあ、レッツ・ゴーだ」
と、二人に向かってワルサーをふり廻した。
そのとき、気づいた。
ジャンの奴、頭蓋骨はもちろん、胴体を持ってる風もない。
「おい――かっぱらった胴体はどうした?」
ジャン=ルイは忌々しげにそっぽを向き、
「おれたちは一杯食わされたんだ、あれは偽物さ」
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第七章 A(エイリアン)の歴史
1
そこから五分も走ると、ジープは使えなくなった。
かろうじて平坦さを保っていた道の前方に、巨大な岩塊が立ちはだかっていたのである。
「下りるわよ」
と、ゆきが言った。妙に抑揚のない台詞から、こいつ、もう憑かれたかなと思ったが、確証はなかった。
おれは神経麻痺銃を小脇に抱え、ワルサーで二人をポイントしながら後につづいた。
前方五メートルばかりに岩塊が近づいてきたところで、ゆきは左に曲がった。ゆるやかな傾斜路が続いている。
ゆき、ジャン=ルイの順で下りた。ジャン=ルイは一切、抵抗を示さなかった。おれのことを知り尽くしているのだ。
垂直距離で二〇メートル分も下りた。底である。
ゆきは、右手の岩壁を示した。
「ここよ」
大人ひとりが何とか潜りこめそうな亀裂が縦に走っている。
「すべては、ここからはじまったのよ。いらっしゃい」
言い方が気になった。
おれはゆきを見つめた。
――憑かれたな、と思った。
「その前に、ひとつ訊いとこう」
と、おれは口をはさんだ。
二人はおれを見つめた。
「まず、あの頭蓋骨だ。ここにあるんだろうな」
あまりにも、ゆきとジャン=ルイの動きが自然だったので、行先に置いてあるとしか思えなかったのだ。それに胴のこともある。あれが偽物だとすると、本物は何処に? まさかケニヤか?
「ないね」
とジャン=ルイの奴がにやりとした。
「なに?」
「おっと、興奮して引金など引くな。すべてがご破算になるぞ。まだ、わからねえのか? ま、いくらおめえでも無理はねえ」
「いちいち、思わせぶりな物言いをするんじゃねえ。頭蓋骨は何処だ?」
「先進みゃあわかるさ」
おれは、ゆきの方を見たが、こっちは亀裂に身を入れたところだった。
「とっとと行け」
おれたちは岩の中へと潜りこんだ。
意外と早く――二十歩も進まぬうちに、岩盤は左右に逃亡した。
最初はどでかい鍾乳洞かと思った。
青白い光が大ホテルのロビーか、造船所の大ドックみたいな広場を照らし出していたが、その奥まで見通すことはできなかった。
光のせいではない。岩で囲まれた空間の中に聳える奇妙なメカニズムのせいだ。
どれひとつ取っても、その形状がこの世界の言葉で描写できる品はない。
ひとつひとつの形を取れば、球体なり台形なり、二等辺三角形なりと断定できるのだが、それらが組み合わさった途端、得体の知れぬ形が出来上がってしまうのだ。
ここにあるメカニズムは、すべてそうやって存在していた。メカといっても、計器《メーター》やスイッチ、ライトのような見慣れたものは何ひとつ付いていない。勘だ。
おれの眼に止まったのは、天井からぶら下がったロープのようなものだった。
数千本に達するだろう。そのほとんどは、途中から千切れて地上に散らばっていたが、付き合ったように転がっている物体があった。
生物の骨だ。頭蓋骨も、肋骨も、背骨、腰骨、仙骨、尺骨、大腿骨、何でも揃っている。
どうやら天井からロープでぶら下げられていたらしい。どんな風にかは、幸い、おれのすぐ頭上にサンプルが残っていた。
何か――ビニール、いや、透きとおった餃子の皮みたいな袋が、一本のロープに果実のようにぶら下がっている。
「中味は骨か?」
と、おれは訊いた。ゆきに。
「そうよ。どれひとつとして、同じ骨はないわ。ほとんど無限に近い組み合わせが行われ、そこから生じた、最も可能性の高い個体が、この星の支配者になるはずだったのよ」
「可能性って何だ?」
おれは静かに訊いた。ゆきが憑かれてるのは、もう間違いない。
「未来に対する責任といえばいいかしら」
「人間じゃなかったのか?」
何だか訊きたくなかった。
ゆきは、おれを見つめた。
「どう思う?」
おれは沈黙した。ゆきが口を開くまで唇を閉じていた。こんな質問に答えるのは真っ平だった。
「果てしない長い長い作業の末、ここで選び出された存在は、戦いを好まず、絶対の知性と精神的安定をもって、この星を統《す》べるもの[#「もの」に傍点]だったのよ。あたしたちのことかしらね?」
「……じゃあ、あの頭蓋骨の持ち主が、それか?」
「そうよ」
ゆきはうなずいた。
「だが、おまえ、あれはミッシング・リンクだ。おれたちを生み出す進化の過程で消えていった存在だぞ」
「何かが起こったのよ。ここで実験を続けたものたち――“大いなる”と形容してもいい存在にも予想だにし得なかった何かが、彼らの“選んだもの”をこの星の歴史から追放してしまった。この星か星系が根源的に備える歪み、時空間的宿命のせい? 彼らはそれを突き止めることができずに姿を消したわ。あたしたちを、進化の代表として残したまま」
おれは、ひとつため息をついて、考えを変えた。
「その辺は専門家にまかせよう。それより、どうしてここに、胴がある?」
「わしが運んだのだよ」
おれはふり向いた。おれにすら、いまのいままで気配を感じさせなかった人影が、広場――実験室の奥からやって来るところだった。
極彩色のガウンを着て、白いターバンを巻いたチンパンジーを思わせる老人。
「デュボア――あんたか……」
エジプト出身の古物商は、優雅に会釈して、
「グレイが盗み出した胴は偽物だ。聖なる可能性の身体は、常にわしの店の奥に安置されていた。そして、いまようやく、真の安住の地へ戻ったのだ」
「ここでおかしな実験を繰り返していたのは、あんたの先祖かい?」
「いや、わしさ」
呆気に取られたおれとジャン=ルイの前で、デュボアは暗い笑顔になった。
「よくここまで来た。さ、胴は別室に控えておる。首を貰おうか」
「それがよ」
とジャン=ルイは苦笑して、
「あんた方、魔法が使えるかい? さっき、銃を当てられたときは、どうなることかと思ったぜ」
彼はこめかみを拳で軽く叩いた。
「ヒカと同じ方法が使えなきゃあ、あの頭蓋骨は永遠にあんた方の手には入らねえ。持ち歩くのは面倒だと、ヒカは、頭蓋骨をおれの頭蓋骨と交換しちまったのさ。血一滴流さず、皮膚一枚切開することもなく、な。だから、外へ行くなと言ったんだ」
「こら、変態」
と、おれはワルサーで、ジャン=ルイのこめかみへ狙いをつけて言った。
「おまえの頭蓋骨はどうした?」
「いまは頭蓋骨が二重になってる。その外側だ」
「おかしな真似しやがって」
と、おれは怒りに燃えた。
「――となると、やむを得ん。おい、ジャン=ルイ、覚悟しな。ヒカみたいなわけにゃあいかねえが、なるべく痛くないよう頭を割ってやるよ」
「ふざけるな。てめえにそんな目に遇わされるくらいなら。――おい、ヒカにはあれ[#「あれ」に傍点]を木っ端微塵にする呪文を教えてもらってあるんだぜ」
「ハッタリはやめろ」
「本当らしいわよ」
と、ゆきが言葉を添えた。
「あたしの話に乗る前から、その自慢ばかりしていたわ」
だとすると厄介だ。
「わかったかえ」
ジャン=ルイは勝ち誇って言った。
「これで勝負はあったな。おい、爺さん、胴体をよこしな。おれが別の場所でくっつけてやるよ」
「うるせえ」
おれはワルサーを向けた。途端に、手首に鋭い痛みが走って、武器を落としてしまった。
おれの右手を握っているのは、青すじの走るデュボアの手であった。
「骨に傷をつけることは許さん。おとなしく見守っていろ。わしが二つを合わせてやる」
「よしなよ、爺さん」
デュボアが身を沈めて立ち上がった。右手には、おれの落としたワルサーが光っている。
「おれは、自分が気に入った魔法使い以外に、頭をいじられたかねえんだ。そいつはこれから捜す。さ、胴体をよこしな」
デュボアは肩をすくめて、ジャン=ルイの方へ歩き出した。
「来るんじゃねえ、射つぞ」
それでも近づいてくる古物商の老人を、世界を股にかける犯罪者は怖れた。
ワルサーが鳴った。
デュボアの眉間に黒点が穿たれる。
後頭部から青白いジェット噴射炎《ストリーム》が噴出した。
地上のいかなる生物も即死させ得る六十万度の超高熱炎だ。デュボアが人間の姿をしている限り、立っていられるはずがない。
だが、彼の足は止まらず、左手をジャン=ルイの喉にめりこませて動きを封じるや、右手を悪党の頭部へと持っていった。
悪党にはそれにふさわしい死に方がある。だが、ここまで凄くなると、みな、二度と悪さをしないと神の像の前で誓うだろう。
「よせ!」
跳びかかろうとしたおれの身体を、デュボアが指さした。針で刺されたような痛みが走り、おれは鳩尾を押さえて蹲《うずくま》った。装甲服も効かないのか!?
髪の毛が飛び散り、肉片が舞い上がる。ジャン=ルイの頭部は血の霧に紅く煙った。
右手が掴まれた。ゆきが、すがりついてきたのだ。顔面は蒼白だった。
デュボアが動きを止めた。
おれたちが見たのは、血にまみれた頭蓋骨を剥き出しにした悪党の姿だった。
デュボアが両手をそれにかけて、ぐいと捻った。ぼき、と嫌な音がして、デュボアの身体が崩れ落ちた。首は無論、ない。
血のしたたる頭部を、デュボアは恭しく捧げ持って、おれたちの方をふり返った。
反射的におれは、神経麻痺銃を肩付けした。鳩尾の痛みは瞬間的なものである。だが、六十万度の炎に脳みそをひっかき廻されて平気な爺さんに効くかどうか、はなはだ心もとない。
「あんた――本当に、ここで人間を作り出した……」
おれのつぶやきに、古物商は、馴染みの笑顔を見せた。
「さて、どうだったかな。さっきはああ言ったが、わしにも実のところようわからん。年のせいか、物忘れがひどくてな」
ひょこひょこと奥へ向かって歩き出す姿は、確かにチンパンジーを思わせる。
「どうして、ここだと教えてくれなかったんだ?」
後を尾いていきながら、おれは詰問した。おれは、この爺さんが気に入っていたのだ。
「年寄りの気まぐれじゃな」
平気でぬかした。
「おまえが、この首に祟られているのは、ひとめでわかった。それをどうやって切り抜け、胴体へ辿り着くか、興味があったのさ」
「それで?」
「なかなかやる、といったところか。しかし、わしが気に入ったのは、ここまで辿り着いたことではないよ」
「なに?」
ふり返って、頭蓋骨を持ち上げた。血がしたたる。やめろ。
「この持ち主がこうなる前に、救おうとしたことだ。こいつは、おまえの生命を狙っていた。違うかね?」
「まあ、な」
「だとしたら、人間は、我々が意図した以上の資質を備えたことになる。全員がそうでもあるまいが、この可能性は大きい」
また、歩き出した。
かなり奥まで来ると、石の台がいくつも並ぶ一角に着いた。
そのひとつに、首のないミイラが横たわっていた。
間に合ったらしい。
デュボアは台に近づくと、手にした頭蓋骨を、首なし胴に押し当てようとした。
その上半身が突然、消滅した。
眼に見えない牙が人体を噛み砕く音を、おれもゆきも聞いた。
デュボアの両腕が肘のあたりから床に落ちる。
おれは頭上をふり仰いだ。
空気の中に、何か途方もなく危険な存在が蠢いていた。
「魔王“ソダク”か。ラージャン」
あの大鰐との戦いで行方不明になったと思ってたが、どうやらおれたちを尾けてたらしい。ラージャン本人ではなくとも、生きてさえいれば、ソダクに後を追わせることくらいはできるわけだ。
頭上に巨大な口が浮いていた。
神経麻痺銃を放った。びくともしねえ。銃声が連続した。
ジャン=ルイの手放したワルサーを、ゆきが射ったのだ。
弾丸はすべて、彼方の壁や天井に小さな火花を散らした。
口が近づいてきた。笑いの形をしている。
「離れろ!」
と、ゆきを突きとばし、おれは装甲服にすべてを委ねた。
呑まれるのがわかった。
凄まじい圧搾感が胸と背中をはさんだ。
だが、そこまでだ。ナノテク最新の成果は、伝説の魔物の牙をも寄せつけはしないのだ。
「食らえ!」
叫びと同時に、おれは百万ボルトの高圧電流を見えざる化物の体内へ放出した。
効かねえ。斃《たお》すべきはソダクではなく、何処か遠くにいる相手――ラージャンだ。
もうひと噛み来た。ぎりぎりと肋骨が鳴った。平気だが、これでは千日手だ。
――そう思った刹那、凄まじい苦痛が伝わってきた。
おれじゃない。ゆきでも――ソダクでもなかった。
ラージャンだ。
次の瞬間、おれはソダクの口にはさまれたまま、地上へ落下した。
ラージャンの身に何か起こったのだ。ソダクは消えつつあった。
安堵が胸を埋めた。
心臓が停止したのは、次の瞬間だった。
――とうとう、ミイラの呪いが。
薄れてゆく意識を立て直しながら、おれは、
「ゆき――首と胴をくっつけろ!」
と叫んだ。
ゆきが台へと走る。
それを見ながら、ふと――
急に胸が楽になった。ゆきが間に合ったのだ。
「大ちゃん――無事!?」
台のところでふり向いたゆきが、眼を見張った。
「血――血だらけよ」
「ああ……ソダクにやられた」
と、おれは答えた。ひと声ごとに腰まわりから血が溢れていく。
心臓が止まったとき、この装甲服――役に立たねえなと思っちまったのだ。ソダクが最後のひと噛みを送ってきたのは、その瞬間だった。
装甲服を構成する金属分子は、早速、治療にかかっていたが、ソダクのひと噛みで異常を生じたのか、前ほどの効果はない。
何となく――おしまいか、と思った。
「ねえ、どうすればいいの、ねえ?」
ゆきが喚いていたが、指示する力も残っていなかった。眼の前が急速に暗くなり、ゆきの姿がぐんぐん遠ざかっていく。
消える寸前、おや、逆戻りがはじまった。
顔が近づいてくる。ゆきの――いや、
「何だ、おまえは!?」
ひどく元気な自分の声をおれは聞いた。
「契約の途中解除には、違約金を払う約束だった。その場でな」
譲は珍しく、微笑を浮かべていた。
その右手は手首までおれの腰に吸いこまれていた。
譲の全身も、おれの装甲服と同じナノテク技術の成果だと知っているものは、世に五人といまい。
ただし、おれのは、この世界の技術的限界内に留まるが、譲のそれはこの世ならぬ存在――エイリアンによってもたらされたものだ。敵を原子レベルに分解するのも、再生させる芸当も可能だろう。
「いつから尾いてきた?」
「さてな」
最初からに決まってる。でなけりゃ、ここが見つかるわけがない。いや、自分の身体をゼロに変え得るエイリアンの申し子なら、自分の手足の一部に、おれを尾行させることも可能だ。
「ラージャンを殺したのは、おまえか?」
「知らんな」
これは後に、譲の言うとおりだとわかった。あの水中から脱出した彼は、通りかかった村人に救われた。ところが、それが反政府ゲリラの拠点だったのだ。救出時点では、ゲリラたちが外出していたから助かったものの、彼らが戻ってきたとき、ラージャンは、魔王ソダクにおれの胴を噛ませている最中だった。
おれを救ったのは、ゲリラの一斉射撃だったわけだ。
「よし、じゃあ行くぞ。おい、ゆき、そのミイラを担げ」
「まかしとき」
台に走り寄るゆきへ眼をやって、
「静かに眠らせたらどうだ?」
と譲が言った。
「偽善者ぶるんじゃねえ。おれたちの仕事は、お宝見つけてナンボだぜ。おれはデュボアの身体だって剥製にしたいくらいだ。エイリアンの剥製だ、評判になるぜ」
「そうよ、余計なこと言うな」
と、ゆきも叫んだ。
凄まじい衝撃にわずかに遅れて、炸裂音が鼓膜を限界まで震わせた。
天井から埃と――岩の破片が落ちてくる。
「ちょっと、何よ!?」
ゆきが血走った眼で四方を見廻した。
またも衝撃、間違いない。
「攻撃されてるんだ。脱出するぞ!」
落下する岩の破片をよけながら、おれは出入口の方を指さした。
続けざまに洞窟が震えた。
壁に走った亀裂が、みるみる太く深くなる。
岩壁が崩壊しはじめた。
ゆきの肩を抱くようにして、おれは亀裂へと走った。
あと三メートル――世界が震動し、亀裂を押しつぶした。
「閉じこめられたわよ!」
ゆきの絶望の叫びに、しかし、おれはにっと笑いかけた。
「八頭の血を舐めるなよ」
譲の全身がぼおと霞んだ。忽然と消滅するのと、岩壁にみるみる大きな穴がえぐられていくのと、ほとんど同時だった。
譲の全細胞が削岩機と化したのだ。
向うから光が溢れ、おれとゆきがそこへ突っこんだとき、背後から衝撃と砂煙が追ってきた。太古の進化研究所の崩壊であった。
陽光の下に跳び出した頭上を、鋭い爆音が通過していった。
ジェット機だ。
蒼穹《そうきゅう》へ消えてゆく銀色の機体が放った白いすじが数本、彼方の岩壁に吸いこまれ、毒々しい火花と、巨大な生き物らしい影を吹きとばした。
間髪入れず、新たな爆発がおれたちを地面へ薙ぎ倒した。
俯せのまま頭上をふり仰いで、
「爆撃機《ボンバー》だぞ」
と、おれは黒い巨大な機影へ叫んだ。
「十機はいる。おい、おれたちはこんなに大物だったか?」
「なに呑気なこと言ってんの。早く逃げなきゃ、バラバラよ」
「もっともだ。ジープの方へ走れ」
「立てないィィィ」
また爆発。
このままじゃ、本当にバラバラだ。
そのとき、耳をつんざく爆発音に混じって、何とも美しい音が、ささやかに、しかし、急速に接近してきた。
「ジープよ!」
突っ伏したゆきが、前方を指さした。
おれたちから一メートルと離れていないところに止まった。
ゆきを小脇に抱えて――と思ったら、譲が先を越しやがった。
おれは最後だった。
運転席から、太い手が突き出され、おれの手を取って車内へと引き上げた。
「サンキューだ、剣闘士」
と、おれはハンドルを握るペクタスに礼を言った。
後方から衝撃が叩きつけられた。爆発が追ってくる。絨毯爆撃だ。
「出せ、ペクタス」
言われるまでもない。ジープはすでに谷間の奥へと走り出していた。
十分後――おれたちは谷間を見下ろす崖の上に立っていた。
すでに爆撃機は去り、谷間を覆っていた黒煙も消えていた。
「あたしたちを始末するだけなのに、派手な真似するわね」
いーっと、ゆきが大空へ歯を剥いた。その背にミイラはない。置いてきちまったのだ。
谷間は完全に地形を変え、あの研究所も大トカゲその他の生き物も、すべて岩塊の下だ。確かに無茶をする。
「暗黒大陸もヘチマもねえな。面白い谷間だったのに」
「全くだ」
珍しく譲が同意した。こいつにも、八頭の血は脈々と流れているのだった。エイリアンの手術も、こればかりはどうにもならない。
背後で車のエンジン音がした。おれたちと別の道を通って、ジープが三台ばかり上がってきた。共和国軍の軍服を着た人影が降り立ち、ライフルを構えておれたちを取り囲んだ。
「何者だ、おまえたちは? 反政府ゲリラの仲間だな?」
もう決めつけてやがる。
「連行する。一緒に来い」
「うるせ」
おれは、手にしていた神経麻痺銃の銃口を少しだけ上げて、先頭の五人ばかりを薙ぎ払った。ほう、ばたばたと倒れる。機関銃なんかより、よほど効率がいい。
「射て!」
指揮官が叫んだ。
残った兵士のライフルが火を噴いた。
おれと譲に全弾が命中し、すべて跳ね返るか、体内に吸収されていく。背後に隠れたゆきとペクタスには一発も当たらない。
「よせ」
と譲が右手を閃かせた。
「射ち方やめ!」
射てと命じたときより百倍もでかい声で、指揮官が喚いた。血相が変わっている。おれたちの不死身ぶりに驚いたのもあるが、譲の人さし指に光っている品が効いたのだ。
「その指輪は――だ、大統領のご縁戚で?」
おれは、あっと思った。
「そういうことだ。指揮官はおまえだな?」
「は、はい。ジョマク地区防衛隊指揮官・ダンザイ大佐であります」
最敬礼で応じた。顔は恐怖と汗まみれだ。
「なぜ、この谷間を爆撃した?」
譲は面白くもなさそうに訊いた。
「はっ、実は昨日、この谷間をつぶして一大観光施設を建造することになったと、官邸から連絡がありまして。爆撃はそのためであります」
「つまり――土木工事の一環か?」
「さようであります」
譲がおれの方を見て、苦笑を浮かべた。
「――だそうだ」
「やれやれ」
と、おれは肩を叩いて、大佐殿に、
「――で、何ができるんだ?」
「はっ、ユニパーサル・アフリカであります」
おれはふり向いて、ゆきとペクタスを見つめた。二人も見返した。どちらの表情も呆然としていた。おれもそうだろう。
映画会社のテーマパークがつぶしたものは何か――ま、兵隊さんに言ってもはじまらない。
せめて、
「おまえら、おれたちを首都まで安全に護衛しろ」
おれは、どこか虚無的な声で言った。
以下は補足である。
おれたちは無事、日本へ帰った。譲とはパリで別れ、ペクタスは――なんと、パリにある何とかランド・フランスで働いている。本格的剣術の演技ができる男として、アトラクションの人気者だそうだ。
ベルゼボ共和国がどうなるかはわからない。噂では、革命勢力が力を持ちはじめ、クーデターも間近だという。大統領夫婦がどうなるかわからないが、おれとしては、亡命くらいで済んでくれるといいと思う。
おれの勘だが、あの谷間の後に作られるユニパーサル・アフリカも、完成するのは難しいんじゃなかろうか。
『エイリアン黒死帝国(下)』完
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あとがき
珍しい。
普通、書き下ろしのラストというのは、私の場合、時間に追われ、体力も尽きて、ガタガタになるものなのですが、今回は余力十分。一ラウンドくらいならスパーリングも可、のようです。
多分、ラストに近づくにつれ、ストーリーが固まり、集中力が強化されてきたせいでしょう。
私のように書きながら考えていくタイプでは、ラスト近くでまとめるのが実は一番難しい。
当然、筆は滞り、思考は散漫。
「友人に電話でもかけるか」
となります。
それも別に用事があるわけじゃない。はっきり言って暇つぶしなんですが、向うが迷惑しているのがわかっても、引っこまないのが私の身上。
「いま、何してんのオ」
にはじまって、向うの話を聞くばかり。挙句に飽きると、
「じゃね。楽しかった。またナー」
ですから、相手は相当、溜めこんでいるに違いありません。ま、何事も執筆のためです。
隣では、ビデオで、おや、誰かのトークライブらしく、作家のE野氏と、私の友人・外谷さんが、
「外谷さん、この店、おしんこないから、僕の○○コ吸って」
「何よ、こいつ。ぼかん」
とやっている。ストーリィがまとまらないのも無理はないでしょう。
こんな風ですから、締切り近くなって時間がないと、焦るせいか、ストーリィはまとまらず、執筆も進まない。担当のIさんが困り切ってるのがわかっても、
「逃避逃避」
と電話へ手が。
実は今回も、そのとおりだったのですが、ラストで何とか頑張りました。
しかし、大ちゃん、やられっ放しだなあ。それでも徒手空拳で切り抜けていくところがいいかな。トシュクーケンといっても、両手は利かず、片足は動かないもので。
それでもスピード感、爽快感が失われていないのは大したものです(自画自賛か。そーです)。
久しぶりに、ゆきちゃんらしいシーンも出て来るし、例によってサービス満点の“エイリアン”。
じっくりと、お楽しみ下さい。
平成十四年十月某日
「暗黒大陸」を観ながら
菊地秀行