エイリアン黒死帝国〔上〕
菊地秀行
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目次
第一章 こら、返さんかい
第二章 ミッシング・リンク
第三章 屍体屋デュボア
第四章 ブータの部屋
第五章 闇の助っ人(サポーター)
第六章 大統領と息子
第七章 エイリアン・オペレーション
あとがき
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第一章 こら、返さんかい
1
二、三日前から調子がおかしいので、羽黒山の密教寺へお祓いをしてもらいに出かけた。
もとから神韻縹渺《しんいんひょうびょう》とした場所だが、春先に出かけても、さすがに生暖かい春の宵というわけにはいかない。
標高四一四メートルでも、霊気のこもった空気は、おれみたいなタイプの肌や精神《こころ》を、それこそ針のように刺してくる。あー痛て。
密教なら真言宗系の東密と天台宗系の台密、修験道《しゅげんどう》も真言系の当山派と天台系の本山派とに分かれるわけだが、この大組織に属さない流派も腐るほどある。
今回、おれが押しかけた一派もそのひとつだ。仏教伝来の後に日本独自の発展を遂げた、いわゆる原始密教のほぼ原形を留めて、霊験あらたかもいいところ。色々と試したが、おれにはここが一番合う。
ところが、山頂にある修行場の門まで辿り着いたところで、いきなり、拡声器が、
「あ――あ――本日は晴天なり」
と、やり出した。
何事だ、と身構えると、
「えー、門前のあなた、即、退去してください」
と来た。ロマン歌謡じゃねえぞ、何が“門前のあなた”だ。
「莫迦《ばか》野郎」
と、おれは門に向かって怒鳴りつけた。分厚い杉板の大門は、がっちりと閉じられている。
「その声は、隠覚坊《おんかくぼう》だな、このヤロー。てめえが『全日本密教大会(山伏の部)』で、理事長にトップ当選した賄賂がどこから出たのか、忘れてんじゃあるめえな。いまこの瞬間から利子は三倍、返却期限はこれから一週間以内に変更だ」
「そ、そんなこと――できるものか」
やっぱり隠覚だな。一億程度の袖の下を使う奴らは、大体このレベルだ。
「こっちには契約書があるんだぞお」
「何があるんだぞおだ。この莫迦山伏」
おれは嘲笑した。
「てめえが山で神様相手にごたくを並べてる間に、下界は日進月歩だ。あの契約書は、よく見ろ、デジタル・プリントだ」
「ば莫迦にするな。拙僧《せっそう》もそれくらいは知ってるぞお」
「なら、そのプリントを、コンピュータで自由に変更できるのも知ってるな?」
「え――っ」
「文章の書き換えができるのは、スクリーンの内側《なか》だけじゃねえんだ。おれの趣味は紙づくりでな。契約書の紙も文字も実は電子の集合体なんだよ。わかったか、この莫迦。一週間以内に三億三千万――耳を揃えて返却しねえと、おめーは刑務所行きだ」
おれは、わーっはっはっはと大笑いしてやった。これで王手《チェック・メイト》だ。
――と思ったら、
頭上に気配が生じた。
「わ」
と思う間もなく、おれの左右と背後を、墨染めの僧衣をまとい、ど太い六角棒を手にした山伏風が固めていた。ご苦労なことに、門を飛び越えてきたのだ。
昔々、比叡山などの大寺には、権力者の手から寺を守る僧兵という奴がいた。槍の法蔵院という名を知っているだろう。身体を鍛え武器を揃えれば、その辺のへっぽこ武士など屁でもなかったろう。
ここにいてもおかしくはないが、敵がおれとなると厄介だ。
全部で四人。どいつも雲つくばかりの大男で、幅も厚みもおれの倍はありそうだ。
「あの――」
と言いかけたら、
「帰れ」
「しかし」
「帰れ」
ぐい、と六角棒を突きつけてきた。
理由もなしでこれか。坊主のやることかい。
「暴力反対」
と、おれは言って、いちばん手近な棒の先をつまんだ。
そいつは、慌てて引こうとしたが、棒はびくともしない。
奇妙な感覚がおれを捉えたのは、その瞬間だった。
暗黒がおれを包んだ――というより、頭の中だけが黒く染まった。
断っておくが、ヨガだの修験道だのを取り入れた訓練法で鍛え上げられたおれの精神力は、それほど軟弱《やわ》じゃない。
人間の催眠術になんてかかった覚えはないし、化物の邪眼《イーブル・アイ》だって大概は切り抜けてきた。記憶を失うなんて、これまで二度しかない。それも、精神、肉体ともに絶望寸前の状況にあったときだ。
ところが――
一瞬で暗黒は消えた。
その刹那、ある不穏な予想がおれを襲った。
予想は適中した。
おれの周囲に四人の僧兵は、ぴくりとも動かず横たわっていたのだ。
記憶はない。
だが、おれにはわかっていた。おれがやったのだと。
おれは身を屈めて六角棒を拾い上げた。上から三〇センチのところでへし折れている。赤樫《あかがし》の――太さ一〇センチ、二〇キロはありそうな棒が、だ。
おれは両手を見た。傷も痛みもない。身体の何処にもだ。ひとりの脈を取った。生きてはいる。だが、内臓反応は極端に低下――放っとくと危ない。
だが、やったのはおれだ。それはわかるのだ。
「おい」
と声をかけた。
「おれ[#「おれ」に傍点]だろ?」
「当ったり前じゃないかあ」
隠覚の声は恐怖に震えていた。
「あ……あっという間に……四人も……素手で……棒もへし折って……」
「わかった――すぐに医者に診せてやれ。いいや、開けろ。おれが内部《なか》へ連れていってやる」
「駄目だ。とんでもないぞ、この化物小僧め」
「うるせえ、この生臭坊主」
おれは強行突破を決意した。奇怪な戦いも、おかしな体調の一環だと勘がささやいたのだ。腰のパウチには、重戦車もスクラップに変えるだけのプラスティック爆弾が仕込んである。
だが、新しい声が聞こえた。
「済まんが、その三倍の額で、訪問を勘弁してはもらえぬか?」
おれは一瞬、返答に詰まった。実に、何というか、厳かな声だったのである。
この密教寺の住職は、争庵《そうあん》って六十七歳の大阿闍梨《だいあじゃり》で、おれが最も信頼する坊さんのひとりだが、彼よりずっと霊格が高い。わかるのだ。拡声器から漂う声に、冷厳なる霊気がこもっている。
「ひょっとして――あんた、あれか? 即身仏の霊禅《りょうぜん》さん?」
「お察しのとおり。開山以来、最大の危機に際して、眠りから覚醒して参った。済まぬが、このまま帰ってはいただけないか?」
正面勝負なら、いくらでもやり合うが、搦め手から来られると弱《よえ》えな。
「えー、いいスよ」
我ながら呆れ返った変わり身の早さだ。笑いたきゃ笑えだ。
即身仏の霊禅といやあ、千年も前に地下二〇メートルの穴ぐらの中で断食を決行。なんと丸一年かけて死亡したという豪の者だ。ただの豪の者ならいいのだが、以後、この寺に危害を加える者や自然現象は徹底的に排除されることになる。
有名なのが、天正十年(一五八二)に京の本能寺で腹心に殺されたあのおっさんで、実は全国統一に際し、密かにこの寺を焼き討ちしようと、軍勢を派遣していた事実がある。腹心の反乱の原因はと、四百年以上経ったいまでも、かまびすしい議論の解答は、ここにあったわけだ。
もちろん、これは例外であって、霊禅師の功徳は、以後、この寺から数千人もの高徳の僧を輩出し、この国の霊的環境の浄化にいまなお貢献している点にある。浄化しなきゃならないほど悪いのか、という疑問も起こるだろうが、そのとおり、目下、この国は最悪なのだ。未来を担う子供たち目当ての殺傷が日常茶飯事になってきたことでも、それがわかるだろう。
こういう人物(?)が相手じゃ無理強いはできない。それに、仕事じゃないしな。
「んじゃ、どーも」
おれはぺこりとお辞儀してから、地面の四人を指さして、
「ところで、この人たちは――」
「安心したまえ、もう平気だ」
途端に、四人はうーむと呻いて身じろぎをしはじめた。深い眠りから醒めたようなさっぱりした声だ。霊禅師が手を打ったのだろう。こんな凄い人物(?)が、なぜおれを拒む?
「なんで、ボク入れてもらえないんですか?」
と可愛らしく訊いた。ゆき[#「ゆき」に傍点]がそばにいたら、吐く真似をしただろう。
「――我が宗門では、君にかけられた呪いを落とせぬのだ」
あんまり気軽に言われたものだから、すぐには理解できなかった。
呪い? 落とせない?
理解した途端、背筋が凍った。商売柄、この手の攻撃には慣れている。マヤの悪霊だの、インドネシアの豹人間の怨霊だのに取っ憑かれた回数は、百や二百じゃきかねえ。しかし、みいんな何とか落とせた。羽黒山へ登らなくても、知り合いの拝み屋や降霊師で何とかなったのだ。世界には、おれ専門の退魔師が千人近くいる。
そのどれもが、羽黒山のここ[#「ここ」に傍点]ほどは効かねえ。今回、一気に押しかけてきたのは、おれ自身もかなり来てるな[#「かなり来てるな」に傍点]と感じたから、ちまちま治療を受けるより、最高の治療一発で――と思ったためなのだ。
それが――落ちない?
「全然、駄目っスか?」
「左様」
重々しい答えだった。
「どっか他に、いいとこ知りませんか?」
「ふむ」
考えてる様子だ。おれも寄付の額を考えた。十億ぐらいで足りるだろうか。生命《いのち》の値段なら安いものだが。
結果は十億でも無理だった。
「ない、な」
「え――っ!?」
「大事になされ」
こりゃどーも。
「ちょっと――じゃ、ボクはどうなるんで?」
「このままでいけば、一月保つまい」
「え――っ!?」
おれは精一杯、情けない声を張り上げた。深山幽谷のごとき声は続けた。
「私はもう戻らねばならん。だが、これで放り出すには、あまりに怖ろしい。ひとつだけ教えておこう。君にかけられた呪いは、君の持ち物のせいだ。それをもとの場所へ戻すがいい。そうすれば――すべては常態に復するかも知れぬ。もし、不可能なら……」
「そうだったら?」
「世界は未曾有の危機に見舞われるだろう」
おれは思ったよりずっと冷静だった。なんでえ、世界か。おれだけは生き延びてみせるぞ――これが八頭《やがしら》家の家訓だ。後はこの状況を、こっちに都合のいい状況へ持っていくことだ。
「あのお――助けて下さい」
「それは――できん」
「あ。どーして?」
「衆生《しゅじょう》は今後一切、君との接触を断つべきだ」
衆生? ただならぬ危機感が厚い靄《もや》のようにおれを包んだ。何かえらいことになってきた。
「ど、どういう意味っスか?」
「それは……」
声は途切れた。次に聞こえたときは、ずっと小さく嗄れていた。まるで永遠の眠りにでも就くように。
「……じきに……わか……る……」
そして、即身仏とのコミュニケーションは途絶えた。
2
駆けるように山を下り、おれは自家用ジェットで東京は六本木のマンションへ戻った。
体調はすこぶるよろしくない――はずが、妙に身体が軽く、ダルな感覚は失せていた。お祓いもしてもらわなかったのに、おかしいな。
午後六時――ゆきと飯でもと思ったら、例によって姿は見えない。
そういや、最近、近所のブラック・パブにいい男がいると言ってたな。仕方がない。その辺をうろついてるイカれた姐ちゃんでも引っかけるとするか。
いつの間にか、出羽《でわ》の山で聞いた不気味な言葉は、頭の中から消えていた。あんなこといちいち気にしてたら、何もできやしねえ。生と死が絶えずこすり合ってる境界線上で死力を尽くすトレジャー・ハンティングには、毛すじほどの鬱屈が生命取りになるのだ。
街は相変わらず、まともじゃない連中で賑わっていた。こう来なくちゃな。おれにはやはり、清浄な神霊宿る山の坊主より、どいつもこいつも半分気が狂ってるような連中が性に合っている。
もちろん、武器は携帯してる。ジャケットの胸ポケットに差しこんだ万年筆型の音波衝撃銃《ソニック・スタナー》と左手首の腕時計型電脳端末に仕込んだ単分子金属チェーン・ソーだ。
六本木交差点名物『アマンド』の前まで来て、おれは物色を開始した。
姐ちゃんたち以外には、サラリーマン、学生、タレントの卵とタレント、そのマネージャー、風俗やクラブの客引き、やくざ、右翼、刑事、モデル・クラブのスカウト、ホステス、ニューハーフ、おカマにおコゲ、痩せ、デブ、禿と――愉しくなっちまうぜ。
誰にしようかな、と物色しはじめたとき、背後で女の子の悲鳴が聞こえた。
ちょうど、『アマンド』の横を下りていく坂道の右方で、数個の人影が押し合いへし合いしている。
「な、何するんだ?」
反抗的な若い声には怯えが含まれていた。相手はそれに気づいた。ぴしゃん! と横面を張る響きが弾け、女の子がまた悲鳴を上げた。
星がひとつでも出ていれば、おれの眼は闇を透かす。
高校生くらいのカップルが、四人組のやくざに囲まれているのだ。放っとこうかと思ったが、気を変えた。黄色いワンピースの胸がロケットみたいに盛り上がっている。後でいいコトがあるかも知れない。
おれはのこのことそちらへ歩いて行った。
「なんだ、てめえは?」
やくざが凄んだ。縞背広にネクタイのお兄さんは、口髭まで生やしている。
「えー、通りがかりの若者です」
おれはいかにも田舎者という口調を演出した。ただの喧嘩じゃ面白くない。
「だったら、とっとと行きさらせ」
と別のひとりが肩をゆすった。身長も体重も百九十ぐらいずつあるガスタンクみたいな大男だから、それなりに迫力がある。
「まあまあ」
となだめてから、おれはカップルの方を向き、
「こいつらを片づけたら、ひと晩、デートの夜、OK《オッケ》?」
と娘の方に訊いてみた。
「オ、オッケー」
と叫んだのが男の方だったから情けない。とりあえずは交渉成立か。
「このヤロー」
たちまち三人が襲いかかってきた。戦闘開始だ。ああ、山寺の坊主の世界よ、さらば。これがおれの生きる世界なのだ。
やくざというのはコケ威しといってもいい。まずは見てくれだ。もともと体格《がたい》がよくて頭は悪いのが揃っているから、それで世の中渡っていく癖がついている。身体を鍛えるなどという発想は天地の外だ。毎日ジムに通って、勤勉に身体を鍛えているやくざなど、聞いたこともない。
だから、全員一発で事足りた。突きと膝蹴りと肘だ。
おええ、ぐええと路上でのたうつ子分を見て、縞背広は顔色を変えた。
だが、こいつは少し骨があった。
逃げる代わりに縞背広を脱ぎ捨て、ネクタイも外したのだ。
「面白え技使うな、坊や」
声には余裕と自信が混在していた。
「空手でも少林寺でもねえな。軍隊の格闘術か何かか? まあ、いい。おれのも見てやってくれや」
言うなり、上体が沈んで――
斜め左上方から弧を描いて襲いかかった足を、おれは左前腕で受け止めた。
受けた瞬間、腕の急所は外したから、大した痛みはないが、骨まで痺れた。立派なもんだ。
カポエラを駆使するやくざか。時代の先端をいってるな。
片手を地面についたまま、おれの両脚を薙ぎ払うような蹴りが来た。
おれはバック転して躱《かわ》し、新たな一撃を加えようとするやくざの鳩尾《みぞおち》へ、垂直に右の踵を叩きこんだ。
その昔、奴隷として南米に送りこまれた黒人たちが、両手を縛られたまま征服者を斃《たお》す術として編み出したカポエラは、今では闘争の術としての迫力を失ったといわれているが、どっこい、虐げられた人間の血と汗と怨念の中から生まれた技が、そんなに軟弱《やわ》なわけがない。――おれが使うほどに。
反動をつけて起き上がると、いきなり抱きついてきた。
「素敵。感動しちゃいました――ボク」
同い歳くらいの高校生を、おれは邪慳に押しのけた。おまえを助けたわけじゃねえ。
グラマー娘は少し離れたところに立って、こちらを見つめている。
「君ィ〜〜」
我ながら浅ましいとしか言いようのない声で近づいていったら、
「来るんじゃねえ」
「え?」
「オレの趣味じゃねえ。おい、渋野、相手をしてやりな」
「は――い」
と背中から抱きついてくる男を躱す力も出ず、おれはニューハーフのバストとヒップを茫然と見つめた。
どうもついてねえ。
感慨にふけっていたら、すぐ横でぎゃっと悲鳴が上がった。
坂から下りてきた真っ赤なジャガーが、誰かを轢いたのである。ふり向くと、車体の下から、トカレフを握った右手が生えていた。わなわなと震え、ぱたりと路上に落ちた。
おれを狙ったやくざのひとりだろう。おれよりついてないのがいたわけだ。
生命を助けてもらった礼に、警察とのトラブルはチャラにしてやろうと、おれはホイールを握った人影に、
「助かった。警察はまかしとけ」
声をかけた。
「あったりまえよお」
「え?」
「少し勘が鈍ってるんじゃないの、あんた。他人に助けてもらうようになったら、トレジャー・ハンターも引退の潮時じゃなくって?」
こんなところで遊んでたのか。
夜だというのに、ばかでかいサングラスをつけ、口紅は真っ赤、両肩剥き出しのワンピースも血の色といった服装のゆきに、
「余計なお世話だ、このど淫乱娘」
と罵ってやった。助手席にいるのは、ばりばりの黒人だ。
「あーら、ご挨拶ね。トカレフの九ミリ弾を食らう方がよかったのかしら」
おれにはそっぽを向いて、自分の左手をうっとりと眺めている。そり返った四本の指全部が、半ばほどでまばゆい光を放っている。
「てめえ。その指輪、金庫から取り出しやがったな。いつの間に、コンピュータをだまくらかしやがった?」
「ふん、ヤフー・オークションで五十円で買ったのよオ。今年の目標は、つつましく生きよ、だからねえ」
「うるせえ。とっとと返しやがれ」
とにじり寄るや、
「あったし、これから、おデートがあんのよ。――まったねえ」
言い終わると同時に、ジャガーは発進した。
轢かれた奴はひとりじゃなかったらしく、幾つかの悲鳴が上がり、すぐ静かになった。
車は坂を下り、みるみる麻布十番の方へ消えてしまった。
「糞ったれ」
と罵ってから、おれは新たな女御を求めて坂を上がった。やくざどもは放置した。
坂を上がりながら、右手に違和感を感じた。痛みはない。だが、痛みの代わりに骨の髄が痺れているようだ。やくざの蹴りを受けた左腕もずきずきしているものの、こっちは普通の筋肉痛でしかない。
「おかしいな」
嫌な感じがしたが、おれは抑えつけた。眼の前をいかにもタレント予備軍といった感じのミニスカ姐ちゃんが通りかかったのだ。
結局、その子をうまく引っかけ、行きつけのレストランへ繰り込んだのは、十分後のことだ。
最高級のコースを奮発すると、娘は眼を丸くした。仔牛のプロヴァンス風ステーキをひと切れ呑みこんでから、
「サイコー。あなた――まだ若く見えるのに、何して稼いでるの?」
舌平目のムニエルを愉しみながら、
「墓泥棒」
「へ?」
「ちなみに若造りでな。――実は三十歳だ」
「ちょっとォ」
呆れるかと思ったら、付け睫毛の下で、みるみる両眼がかがやき出した。
「ね、あたし、年上の男《ひと》、大好き」
阿呆か、この娘は。いくら歳より老けてるからって顔見りゃわかるだろう。冗談も通じねえ。しかし、事はスムーズに進展しそうではあるな。
年齢の話が契機《きっかけ》になって、娘はぺらぺらと身の上話をおっぱじめた。
おれでも名前を知っているビッグなタレント事務所に所属はしているのだが、仕事といえば、ドラマの端役ばかりで少しも芽が出ないこと、先輩のHタレントにしつこくセクハラされてることetc.etc.おれもかなり詳しいところまで知ってる業界だが、こういうお姐ちゃんの口から出る裏話は、何回聞いても面白い。
おれは何度も、うんうんとうなずき、大変だねえと同情を示し、その話、二人だけで聞きたいなと切り出すチャンスを窺っていた。
「あたし、実はマネージャー三度も替わってるのよ」
「へえ」
おれはお姐ちゃんのブラウスを突き上げる見事なバストへ遠慮なく眼を注いだ。下手なヤローがやると、女はみんな席を立ってしまうか、平手打ちが飛んでくるが、この娘は大丈夫。雰囲気でわかる。
乳首が出てないからブラをしてるんだろうが、それらしいラインは見えない。すると、ニップレスか超小型のビキニ・タイプだな。
「ところがさあ、二人目が博打好きで、家のローンをすッちゃった。悪いけど貸してよって言ってきてさ、用立ててやったら、ドロンよ。あん畜生、返せって」
お姐ちゃんの声は興奮の色を帯びてきた。いきなり絶頂に達したらしく、ドン、とテーブルを叩いた。
手もとのフォークとナイフがテーブルから落ちた。
お姐ちゃんの分は、みんな空中でとっ捕まえてやったのに、おれのナイフがテーブルから落ちた。
「わお」
間一髪、身を屈めて何とか掴み取った。起き上がろうとしたところへ、このとき、
「返せ」
と来た。
まだ、コーフンしてるな、と思ったら、
「返せ」
今度は後ろからだ。立たずにおれはふり向いた。いざというとき、余計な動きをせずに、この姿勢のまま移動できる。
おかしな気配も人間もいなかった。尋常な雰囲気は崩れていない。だが、耳のせいかと思うほど、耄碌《もうろく》しちゃいないぜ。
ほれ、その証拠に、
「返せ」
また、だ。ひとつじゃなかった。
「返せ」
「返せ」
右からも左からも、
「返せ」
「返せ」
犯人はわかっていた。他にいるはずがない。
店の客全員だ。ここはオリエント急行か。
すっと制服姿の給仕がやってきて、おれのグラスにワインを注いだ。
しゃがんだまま、どーもと言うと、
「いいえ」
と返してから、
「返せ」
スタッフもかよ。おれはげんなりした。
立ち上がって周囲を見廻した。
姐ちゃんも客たちも、何事もなかったようにナイフとフォークとスプーンを動かしている。
ただ――みんな、おれを見つめているのだ。鯛の焼きものとアーティーチョークを、白桃の丸煮とアイスクリームを、ブルターニュ産の手長エビとタイの黒米のリゾットを、仔牛の腎臓《ロニヨン》を口へ運びながら、品のいい老婦人が、重役風の親父が、若いOLたちが、サラリーマンが、親子連れが、じっとおれを凝視している。
おれは椅子に戻って、お姐ちゃんへ、
「おい、返せって、何をだ?」
と訊いてみた。
まばたきをしない眼がおれを映して、
「返せ」
「だから、何をだよ?」
「返せ」
埒が明かねえ。だが、こういう場合お馴染みの鬼気だの妖気だのは全く感じられず、おれの体調に異常はなしだ。いきなり跳びかかってくる場合もあるが、そのときはそのときだ。
物は試しと、
「おい、ホテル行こう」
単刀直入に切り出した。
「返せ」
「その話はホテルでしようや」
おれはワインを一気にあけて、姐ちゃんの肩を叩いた。
迷うことなく立ち上がったのには驚いた。こら話が早い。
――と思ったら、レジで会計している背後で、幾つもの気配が動いた。
殺気が皆無だから気にはならなかったが、ふり向いて、やっぱりと思った。
ずらりと客だ。レシートを持って、おれの後ろに列をつくっている。
大急ぎで自動ドアをくぐるとき、
「釣りはいい」
「おれもだ」
「あたしも」
足音が尾いてきた。危《やべ》え。
おれは、まだ返せ返せとつぶやく姐ちゃんをタクシーに乗せ、赤坂のプリンスホテルまでやってくれと頼んだ。六本木は鬼門だ。
運ちゃんもひょっとして、と思ったが、そんなこともなく、OKしてくれた。
姐ちゃんを先に入れ、おれも入ったが、ドアが閉まらない。杖ついた婆さんが乗りこんでくるところだった。黙って見ていると、隣に腰を下ろし、はあーあと息をつぎ、おれの方を見てにっこりと笑った。
幸いドアが開いていたので、おれもにっこり笑って、
「いい天気だねえ、お婆ちゃん」
「はい。毎日、可愛い孫に囲まれて」
「そらよかった」
婆ちゃんの膝下に手を入れ、そっと持ち上げて歩道に降ろしてやった。
「あれまあ」
次に乗りこもうとした中年サラリーマンの顔に手を当てて突き倒し、おれは車を出せと命じた。
ふり向くと、人の塊がこちらを見送っていた。百人近くいる。全員、謎の借金取りか。
タクシーの中でも姐ちゃんは、返せ返せとうるさいので、首筋の秘孔《ひこう》を突いて失神させ、ホテルに着いたとき戻した。
「あら、ここ何処?」
などときょろついている。呪縛は解けたと判断し、おれは考える隙を与えず、内部へ引っ張りこんだ。
チェック・インもせず、エレベーターでゴージャス・スイートのある階へ上がる。都内のホテルには、百を越える部屋がキープしてあるのだ。
ホテルも最高級からちっぽけな簡易宿泊施設まで、部屋も一泊百万の超高級スイートから畳もすり切れたボロ部屋まで選りどり見どりだ。もちろん、潜伏用である。
呪いの余波か、ぼんやり尾いてきた姐ちゃんが、部屋へ一歩入った途端、目を剥いた。
「すっごーイ。ね、あんたのパパってお金持ちなのねえ」
「そうとも。何なら、君にプレゼントしたっていいんだぜ。このクラスなら、世界中に千もキープしてあるんだ」
「素敵ぃぃぃ」
少しは疑えよ。本当《ほんと》だけど。
「とにかく、シャワーを浴びよう。プレゼントの話は後だ」
「ふふ、ベッドの中でね。いいわよ」
というわけで交互にシャワーを浴び、おれたちは冷たいシーツの上で抱き合った。姐ちゃんの肌からは石鹸の香りが漂い、首すじにも肩にも重そうな乳房にも、水滴が付着していた。
おれの手が腰のくびれからゆっくりと這い上がりだすと、姐ちゃんは熱い喘ぎを放った。
張りのある乳房が手に焼きついた。乳首を強く吸うと、全身が震えた。いざ――
チャイムが鳴った。
おれは素早く、枕のそばに置いてあるリモコンを掴んだ。おれ以外の人間にはテレビのリモコンにしか見えないし、事実その役目も果たす。スイッチひとつで、モニターのスクリーンに玄関ドアの外の光景が映し出された。
天井とドアの上部に仕掛けられたカメラが捉えたのは、おびただしい数の人間どもだった。わかってる。さっき、ロビーにたむろしてた連中だ。音声も同時に入る。
「返せ」
おれは、わお、と放って姐ちゃんの方をふり向いた。
「返せ」
肩をすくめた。呪い――だか何だかは、またも活動を開始したのである。
しかも、今度は――
「返せ!」
叫びざま、姐ちゃんが跳びかかってきた。色っぽい顔は凶暴と恐怖のミックスだ。しかし、スピードと動きが普通人のままでは、おれの相手にはならない。
右手で横面を――動かない!?
跳びかかった娘の手は喉にかかり、おれはあっという間に押し倒されちまった。
喉を絞めつけてくる。しかし、素人だ。おれは左手であっさり姐ちゃんを撥ねのけ、さっきと同じ秘孔を突いておとなしくさせた。
モニターが激しい打撃音をたてた。サラリーマンとOLと家庭の主婦らしいのが三人で、ドアに体当たりをかましているのだ。
いくら頑丈でも、休みなくやられりゃ、いつかは壊れる。ホテルのドアは日銀の大金庫じゃないのだ。
しゃあねえな。
おれはリモコンのボタンのひとつを押した。三人がぶつかった瞬間、ドアに電流が通じた。
三人が吹っとぶのを見るのは、なかなかの快感だったが、すぐ次の三人が前へ出たのには呆れた。
返せ、と叫んで体当たりして――また吹っとんだ。すると次の三人――吹っとんで、また三人。
これじゃ、レミングの死の行進ではないか。ついに全員が廊下に折り重なったときは、おれも少々薄気味悪くなった。
一体全体、何事が起こってる?
「返せ」とはどういう意味だ? 何を返せってんだ?
グラマーなタレント予備軍への興味も消え失せ、おれはようやくまじめに、怪異の謎について頭を巡らせはじめた。
とりあえず、共通項を引き出すと、おれを追いかけてきたのは、レストランで同席していた客たちとスタッフ、次にホテルのロビーにいた泊まり客だ。つまり、おれの顔を見たというか、ある時期に同一空間を共有していた連中と思っていい。廊下で痙攣している連中の中には、フロント係とベル・キャプテンもいた。
となると、おれが一人きりでいればいいという結論になるが、いつまでもそうしているわけにはいくまい。
タクシーに乗ってる間、運ちゃんが平気だったところからして、絶え間なく起きてるわけじゃなさそうだ。
しかし、万が一、例えば、銀座の雑踏の中で起きたらどうなる?
その近辺だけならまだしも、銀座中の人間が――いや、いや、ひょっとして、全空間的な――日本中の人間が、おれをめがけて、返せとやりだしたら? いや、いやいや、世界中――
ここまで考え、おれは思考を停止した。いくら考えても解決策など出せっこないからだ。
とりあえず、車を用意してから誰にも会わないようホテルを出て、マンションへ戻らなきゃならない。
おれは声に出して、
「うーむ」
と唸った。癖だ。
何の効果もない。部屋から脱出する手はもう考えてあった。
おれは女とベッドを共にするときも離したことのない腕時計型の“マジック・ボックス”をリモコンモードに合わせ、作動スイッチをONにしてからホテルの住所を告げた。
さあ、後はザッツ・エンターテインメントだ。
大の字になっている姐ちゃんは、見るからにおいしそうだった。
重量感たっぷりの乳房はつぶれてないし、肌の艶ときたら、これから起きることがわかるのか、うすいピンクに欲情している。
さぞや助平ったらしい顔をしているだろうと思いながら、おれはその上にのしかかった。おお、この弾力。にんまり笑って乳房の間に顔を埋めると、娘も白い手をおれの首に絡ませてきた。
その瞬間、おれは両手をベッドについて、姐ちゃんの抱擁から後ろへ跳んで逃れた。
秘孔を突かれた人間は、別のツボを刺激するまで眠りつづけるはずだ。
姐ちゃんの変化の瞬間を、おれはこの眼で見た。
シーツの上に横たわっているのは、黒く干からびた人体だった。ミイラといってもいい。一瞬、お湯をかけて三分経てば、あの姐ちゃんに戻るかな、などと莫迦なことを考えちまったぜ。
ゆっくりと上体を起こしてくる。
似たような状況には何度も出くわしてるから、さして驚きもしなかったが、ひとつだけこれまでと違っている点がある。いや、ない[#「ない」に傍点]。
首が、ない。
どんな首が乗っているのかなと推理しているうちに、そいつはベッドの上で上体を屈め、両手を胸のあたりで構えるや、いきなり跳びかかってきた。
おれだからこそ、躱せたのだ。
そいつは後ろの小テーブルにぶつかり、粉々に打ち砕いてしまった。テーブルは大理石だ。
破片をふり落としつつ、そいつはふり向いた。首がないのにわかるらしい。
すぐ二発目の跳躍――と思ったら、おれを無視して、右方へ歩き出した。
ぎくしゃくとした足取りで辿り着いたのは、暖炉の前だった。普通の部屋と違って、ガスやヒーターが内側に入ってるインチキな品じゃない。かたわらに山積みされた薪をくべる本物だ。
薪のそばに鉄製の火かき棒が何本か立てかけてある。
黒い両手がそのうちの二本を掴んだとき、おれはそいつ[#「そいつ」に傍点]の目的がわかった。
右手のは上段にふりかぶり、左の火かき棒は、真っすぐ青眼――おれは宮本武蔵を想像してしまった。
「待て」
とおれは片手を上げた。
「話し合おう」
考えてみりゃ、口はないんだった。
いきなり、床を蹴りやがった。まるでバレリーナのようなしなやかさで、そいつはおれの三メートルも上から右の火かき棒をふり下ろしてきた。
「うわっ!?」
躱せたのは幸運の助けだ。しかも、不様に転がるしかなかった。ただし、転がってもただじゃ起きねえ。
おれは右方の床の一点を拳で叩いた。叩く角度は難しいのだが、おれならやれる。
床が沈んで、代わりにひょいと持ち上がったのは、ショットガンの銃床だった。
世界中のおれの部屋には、すべてホテルに内緒で侵入者用の手を加えてある。
黒い死神が眼前に迫ったとき、銃口はその胸元をポイントしていた。吹っとばせる――だが、おれはためらった。これは、あの姐ちゃんなのだ。
ふり下ろされた火かき棒を、おれはショットガンを棒のように持って受けた。
両手が痺れた。
二撃目が来る前に後ろへ転がって立ち上がる。横から来た。銃床で跳ねとばし、銃身で胸もとを突いた。
そいつはよろめきつつ、左手の火かき棒を手裏剣みたいに投げた。
これも打ちとばせたが、その瞬間、異常な事態がふたつ、おれを捉えた。
右手から一切の感覚が失われ――それから電話が鳴ったのだ。
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第二章 ミッシング・リンク
1
おれは反射的に音の方に手をのばした。
コードレスの受話器に触れた。サイドテーブルはすぐそばにあった。
「はい」
一応、丁寧に応答すると、
「あたしだよ、大《だい》」
歌舞伎町のマリアだった。地下の死霊秘宝館――呪われた品々だけを保管してくれるおばはん[#「おばはん」に傍点]だ。
しめた、と思いながら、おれは思いきり後方へ跳んだ。
眼の前を黒い風が走り、肌がぴりっと来た。
血が跳んだ。火かき棒の先で裂かれたのだ。
突進してくる。
「いま、たてこんでる」
と受話器に言った。
「首がないミイラだろ」
「――!?」
上段に来た。
左手一本で支えたショットガンで受ける。――痛《つ》う。
「右手は使えないね」
「どうしてわかる!?」
「すぐ戻っといで」
「それができりゃ世話はねえ」
右から首を狙ってきた。受けた。左から――受けた。
「術をかけてみるよ」
とマリアは緊張した声で言った。
「少しお待ち」
「おれが危ない目に遇《あ》ってるのがわかるなら、何故、もっと早くかけねえ[#「かけねえ」に傍点]んだ?」
「秋刀魚《さんま》を焼いててね」
決まり悪そうだった。地下でそんなもの焼くんじゃねえ。
「すぐかけろ!」
「三分くらいかかるよ」
この役立たず。
今度は足を狙ってきたのを、間一髪、ジャンプしてやり過ごし、おれはベランダに寄った。
ガラス戸を押し開けるのに、百年もかかったような気がした。
ベランダへ出て、手すりまで走った。手すりへ跳び乗る。
黒いのが火かき棒を投げた。胸だ。おれは思いきり上体をそらせつつ、手すりを蹴り離した。
鼻先を鉄の矢がかすめていく。
地上二〇メートル。いくらおれでも、落ちればバラバラだ。
だが、おれは思いきり左手を上方へのばした。
絶妙のタイミングで下りてきた縄梯子の底部を引っ掴む。
おれの体重が加わっても、ホバリング中の無人ヘリはびくともしなかった。
腕時計のリモコンへ、
「上がれ」
と命じて、おれはベランダの方を見た。ぐんぐん小さくなっていくベランダの上で、きょろきょろ四方を見廻しているのは、裸の姐ちゃんだった。マリアの術がようやく効いたらしい。
しばらく休んだら、勝手に帰るだろう。
くしゃみが出た。おれも裸だった。みっともねえ。
操縦席に着いてから、おれは緊急装備の毛布を引っ張り出して身につけ、ホテルの部屋へ電話をかけた。
姐ちゃんが出た。
「おれだ」
「ちょっと何処にいるのよ?」
「空の上だ」
「えーっ? あのヘリ、あなた?」
「そうだ。いいか、サイドテーブルの上に財布がある。丸ごと持って帰れ」
「あ、いいの。ありがと――」
遠慮を知らねえな、この女。
「でも、カード入ってるよ」
「構わねえ。すぐキャンセルしておく。それ以外のものに手エ出すと爆発するぞ」
「やン」
と言いながら、もう中味を調べてたと声が言っている。おれはにやり[#「にやり」に傍点]とした。これくらいじゃないと人間、生きていけないぜ。
「あばよ。また会えたら会おうぜ」
「次はロードショーのスクリーンよ」
「頑張りな」
「あんたもねェー」
嬉しそうだった。財布の中味はかなりの額なのだ。
マイクを置き、おれはヘリのボイス・センターに、
「新宿だ」
と命じた。
夜間飛行届も、航路申請も出していないから、航空自衛隊か米軍のF16ヘルキャットに射ち落とされても文句は言えないのだが、幸い、機体はレーダー反射塗装を施してあるし、以前、ノアの箱舟から頂戴してきた人魚の皮膚――水中で音速を絞り出す流体構造を持っていた――を空中飛行に応用してあるから、赤坂から新宿までは一分もかからなかった。
マリアの店が入ってるビルの屋上が秘密の発着場で、昔のスパイ・アクションに出て来る秘密組織の基地みたいに、天井が開いてヘリを迎え入れる。
マリアはそこに待っていた。
要注意だと、背筋に電流が走る。いつものマリアなら、地下の秘蔵品貯蔵庫で待機しているはずだ。それどころじゃない事態なのだ、今回は。
天井が閉じるまで待たずにヘリを降り、
「どうした?」
と訊いた。
「すぐ、アフリカへお飛び」
が返事だった。
「何ィ?」
場所的に驚きはしなかった。世界はおれの庭だ。ただ、他人の庭なので勝手がわからない場所も多い。アフリカはそのひとつだ。
「今回の源はそこか。アフリカの何処だ?」
「ベルゼボ共和国だよ」
「嘘だろ、おい」
思わず口走ってしまった。何てこった。ここだけは、勝手もへちまもない。足を踏みこんだことはあるが、三歩と行かずに引っ返してきちまった庭みたいなものだ。
樹木は蛇そっくりに絡み合って侵入者への要害となり、しかも、どうやら、本物の蛇もいるらしい。それも牛を丸呑みにする大蛇《ボア》から、わずか三〇センチの体長で、血に飢えたライオンでさえ狂い死にさせる猛毒蛇ブラック・マンバまで、にょろついてやがる。加えて、庭を守るガードマンは、魔法から最新兵器で身を固めた殺人鬼ばかりの庭だ。
「やだなあ、あんなとこ行くの」
いかん、本音が出た。いつもなら、じろりとやられるところだが、マリアはもっともだ、という風にうなずいた。いよいよ危《やば》いぞ。
「無理もないけど、行っといで。でないと、あんたひとりじゃなくて、世界まで危《やば》くなるよ」
「それだ――どういうこった?」
「下で話そう。その前に、とにかくベルゼボまで発つ準備をおし。できたら、今日中に」
「これはこれは」
おれはひどく落ち着いた気分で応じた。いつもの癖が出た。不安と恐怖があるレベルに達すると、おれの精神は逆に不動の沈着さを獲得する。
マリアにもそれがわかった。
おれを見つめる表情に、いつもの平穏が色濃く浮かび上がる。
この男《こ》にまかせときゃ大丈夫。
おれたちは無言でエレベーターに乗った。
地下の死霊秘宝館のことは言うまでもない。おれが集めた宝の中でも、いわゆる、いわく付きの品物ばかり集め、女魔道士マリアに管理してもらってる場所だ。新宿は歌舞伎町の地下にある。
いわく付きというのは、呪いや因縁話が絡んでるの意味だ。それも、その辺のオカルト雑誌やTVに登場するクラスなど、楽しい幼児向け番組にしか見えないという逸品揃いだから、しょっちゅうおかしなことが起きてる――らしい。
らしい[#「らしい」に傍点]というのは、おれが体験するか、外へ広がる前に、マリアが何とかしてしまうので、何が起きたかよくわからないのだ。
勿論、おかしいなと思ったときは、マリアから説明は受けるが、へばってるときは、ついそのままになっちまう。
一例を挙げると、おれが冗談でつけた“ポープ・ダイヤモンド”というのがある。言うまでもなく、目下、スミソニアン博物館にある呪われたダイヤ――ホープ・ダイヤモンドのパロディ版だが、その呪いときたら、本家など目じゃない。
十五世紀にインドのゴルコンダで採掘された元祖ホープ・ダイヤモンドは、現在は三分の一の四十四・五カラットしかないが――それでも凄い――原石は百十二・五カラットもあり、ヒンズー教の寺院に献納された後、一六六二年にフランスの宝石商ジャン・バプディスト・タバニエールの手に渡った。タバニエールはこれをフランス国王ルイ十四世に売りつけ、その後すぐ、ロシアへの旅行中、狼に食い殺されてしまった。
ところが、太陽王と呼ばれたルイ十四世は七十二年の在位を全うし、ダイヤを孫のルイ十六世に譲ったが、彼と女房のマリー・アントワネットがどうなったかはご存じのとおりだ。ギロチンでちょん[#「ちょん」に傍点]だ。
その後、ダイヤは一七九二年王家の宝物蔵から姿を消し、以後三十八年間行方不明になった後、悪名高いベルギー人のファールスがロンドンで競売にかけた。ファールスはその後、原因不明の自殺を遂げるが、その前にダイヤを買い取ったのが、ロンドンの銀行家ヘンリー・フィリップ・ホープだった。
ホープ・ダイヤモンドの名は、この一族にもたらされた、或いはこの一族が蒙った凄まじい呪いと災厄のためにつけられたものだ。
まず、最初の持ち主フィリップ氏は脳溢血で死亡、後継者のトーマス・ホープ卿は、ある船に全財産を投資して破産、その孫のクリントン・ホープは、一八九四年にダイヤを相続したものの、アメリカの有名女優に入れあげたのが運の尽き、金の切れ目が縁の切れ目で、女優はさっさと離婚しちまった。
その後も、ホープ・ダイヤモンドの行くところ、まさしく屍者累々《ししゃるいるい》。ホープ家から転々とする間に、フランスの美術商、ギリシャの投資家、ロシア貴族(カニトフスキーという)が全員自殺。ついでシリアの商人モンサライズが入手、トルコ皇帝アブドル・ハミット三世に売りつけたものの、モンサライズはその代金四十万ドルを使う暇もなく、商談成立の翌週、女房子供と買ったばかりの新車もろとも崖から落っこちてしまった。もち全員死亡だ。
トルコ皇帝は、“うすのろ”の綽名どおり一九〇九年の革命で国外追放となり、ダイヤは革命軍の手からパリの宝石商ピエール・カルティエの手に渡った。幸い彼はすぐそれを手放し、ダイヤの呪いは、「ワシントン・ポスト」等を支配するアメリカの新聞王エド・マクリーンの妻エバリーンに移る。自叙伝によると――よく読んでるだろ――エバリーンはダイヤの呪いをよく心得ていて、子供たちには絶対手を触れさせなかったという。
彼女がダイヤを買ったという記事が出た途端、ある聖職者は悪魔払い――エクソシストだ!――をすすめ、バージニア州に住む軍人は、ハンマーで粉々にしてやろうと申し出た(ダイヤは鉄より硬いんだぜ、おっさん)。
マクリーン家は、呪いなど気にしていない旨を公示したが、やがて、それは一家を食い荒らしはじめる。
八歳の息子が付添女のミスで道路へ飛び出し、車に撥ねられたのを契機に、エバリーンはモルヒネ中毒、その娘は睡眠薬の飲み過ぎで死んだ。夫のエドは当時のハーディング内閣の汚職騒ぎに巻きこまれ、新聞社も失って精神病院で逝っちまった。
マクリーン家では、何度もダイヤを手放そうとしたが、適正価格で引き取ってくれる者はなく、一九四七年にエバリーンが死んだとき、他の宝石もろともニューヨークの有名な宝石商ハリー・ウィンストンに引き取られた。それから十一年の間、ウィンストンは生命保険にも入れない生活を送ったが、さしたる不幸に見舞われもせず、何とロハでスミソニアン博物館に寄贈したのである。いまも名士やハリウッド女優ご用達《ようたし》のこの宝石商と、ルイ十四世だけが、ダイヤの呪いを「迷信さ」と笑いとばせる資格がある。
2
以上がホープ・ダイヤモンドにまつわるおおよその怪事だが、これが“ポープ”になると、“大量殺人”のタイトルが冠される。
出所《でどころ》は不明のまま、十七世紀にはヨーロッパの社交界をうろついていたらしい。
歴史の裏舞台に登場してくるのは、一六二四年、いまもロンドンにある「モートンズ」という高級ホテルで開かれたシェファード一族の大パーティの際、天井が崩れ、一族郎党、ホテルのスタッフを含む百四十七名がのしイカになった晩だ。このシェファードというのは土地買収でのし上がった一族で、ジェノサイドの夜、本家の九十歳になる女主人の指を飾っていたのが、ポープ・ダイヤなのである。七十五カラットのかがやきは大したものだったろうが、一族の注目ばかりか、天井まで吸いつけちまったわけだ。
次に登場したのが、四年後の、“セーヌ河転覆事故”。当時の大貴族ロマックス卿とその家族が船でセーヌ河下りを愉しんでいたとき、当時の記録によれば“水中にいた何か巨大なもの”と衝突。船はあっさりひっくり返って、二十二人中十八人が溺死した。残り四人の死体はとうとう上がらなかったが、ポープ・ダイヤは、幸い溺死者のロマックス卿夫人の指にはまったままだった。
この二つの件で、ポープ・ダイヤの名は――本当の綽名は別にある――一躍高まり、次の“ワルシャワ・アパート大虐殺”で決定的となった。
ポーランドの首都にある高級アパートで、八十四歳になる貴族の夫人が、丸ひと晩かけて住人五十一名を刺し殺したのである。
いくら夜とはいっても、八十すぎの老人、しかも女性である。十階建てのアパートを昇り降りするだけで、死にかねない。当然、部屋のドアには鍵がかかっているし、全員が独り暮らしでもない。老婆が刺せば必ず格闘になり、物音もするから、誰かが気づくはずだ。どう考えても犯行が完遂される状況じゃなかった。
それがうまくいっちまったのだ。
八十四歳の、心臓と腎臓と右脚に大問題を抱えていた老婆は、まず、住居のある六階から十階へひいひい言いながら上がり、各階を“粛清”しながら、一階まで下りた。
ドアの鍵は問題なかった。貴族夫人が名を名乗れば、誰でも開けてくれたのである。
それから後は――彼女は生まれつきのサディストで、小動物の解体が何より好きだったという事実が判明している。
鳥や虫が人間に応用できるかどうかは不明だが、或いは、当時、行方不明になった市民の何名かは、彼女の家に招かれたのかも知れない。とにかく、一瞬の間にふり下ろされた肉切り包丁は、正確無比に犠牲者の心臓を貫いて、まさしくただの一撃で即死させたのである。
老婆のトラブルは、エレベーターのない階段を上下するたびに停まりかかる心臓と、そのための休憩であった。
なぜ、こんな真似をしたのかは、最後の殺人を終えた彼女が心臓麻痺で死亡したため永遠の謎だが、わかる奴にはわかっている。
血まみれの包丁を握った手指の一本に、ポープ・ダイヤがかがやいていたのは言うまでもないからだ。
ポープ・ダイヤは、女貴族の遺体ともども埋葬され、二年前、ある国の宝捜しグループが掘り出すまで、他人に迷惑はかけなかった。
ある国とわざわざ断ったのは、まさしく国そのものがダイヤを欲したからである。おれの推理が正しければ、邪魔な政敵や反政府運動家を抹殺するためにだ。たとえば、知らぬ間に、ダイヤの入った鞄を持って、反政治集会へ出かけたらどうなるか。この際、ダイヤの支持政党は関係ない。
残念ながら、宝捜しグループは、ダイヤをクライアントに届けることはできなかった。おれとぶつかってしまったのだ。
おれとしても、半年がかりで練った計画だ。邪魔されるわけにはいかない。
で、催眠ガスで奴らを眠らせ、まんまと手に入れたダイヤだったが、さすがに凄い代物だった。ポーランドから歌舞伎町へ戻るまで、のんびり行こうと乗った客船が沈没し、近くの米軍基地から調達したジェット戦闘機はエンジン・トラブルで墜落、不時着した島では飢えた熊に襲われ、何とか撃退したら、地震で島が沈んじまった。それでも死人ひとり出さずに満身創痍《まんしんそうい》だけで戻ると、
「あんたの運の強いこと」
マリアが、呆然とねぎらってくれた。
こういうものが山ほどあるのだ。
おびただしい呪われた品が並ぶガラスケースの間を、マリアとおれは黙然と進んだ。
「あんたが暴れてる間、あたしは、本当に秋刀魚を焼いてたのさ」
とマリアは虚ろな声で言った。この女の、こんな声を、おれははじめて聞いた。
ケースの中から、指し手が必ず発狂する十八世紀のイタリア製のチェスゲームや、飾った家から死者を出し、その葬儀のたびに大笑いする明王朝時代の豪農の肖像画や、零時に十三回鳴るごとに、近所で誰かが亡くなる十六世紀スイスの掛け時計やらが、おれたちを見つめている。
「あたしともあろうものが、いつの間にか、秋刀魚が煙を出さなくなってることに気がつかなかった。それくらい凄い妖気だったのさ。異常に気づいたのは、右のこの肩に手がかかったときだった」
マリアの足は、ミイラのコーナー――おれが冗談に「干物の館」と呼んでる一画で止まった。
埋葬されたときのままの古い柩に収まった奴、新しい特注品に横たわる奴、ざっと三百体はあるだろう。我ながらよく集めたものだ。
腕を組んで、「うーむ」と感心していると、マリアが、
「こいつだよ」
と指さした。
「あ」
驚きの声が洩れた。
赤坂からここへ来る間、ヘリの座席で、おれはミイラの素性について、あれこれ考えていたのだ。自慢じゃないが、集めたミイラの特徴は、微妙なところまで記憶している。ひと目で、何世紀の誰それと口をつく。ホテルで暴れた奴は、おれの脳の中に出て来なかった。だから、この秘宝館とも無縁と思っていたのだが。
特殊金属の柩の中にいるのは、確かに全身揃いのミイラだった。ただし、本物は首から上だけ。後は、おれが、東京の復元屋にデータを与えて復元させたまがいもの[#「まがいもの」に傍点]なのだ。できるだけ精確にやったつもりだが、やはり、実物がない空想上のデータでは上手くいかない。本物とは別だったわけだ。
「これは確か――二年前に、ケニヤのオゾンゴ渓谷で見つけた“ミッシング・リンク”の頭部だぞ。そうか、それでおれを襲った本物に首がなかったんだ」
マリアは静かにうなずいた。
「あたしの占いによると、首から下はいま、ベルゼボ共和国にある。多分、あんたの後で、胴体が見つかったんだろう」
ベルゼボ共和国の首都ベルゼボにゃあ、こういう品専門のコレクターや商人が多い。胴を見つけたのがどいつか知らないが、ケニヤでは商売にならないと踏んで、ベルゼボへ運びやがったのだ。
「おとなしく眠らせときゃよかったのに、掘り出したりするから、頭まで眼を醒ましたんだな。墓場荒らしどもめ、後で粛清してやる。けどな、マリア――」
と、おれは咳払いして、
「確かに、首を持って来たのはおれだ。呪われるのはわかるが、世界の危機てのはどういうわけだ?」
「あたしにもわからないね」
おれは首を傾げた。
「筋が通らねえぞ、おい」
「ミイラがあたしの肩を掴んで、そう言ったのさ。直接、頭ん中にね」
「何つった?」
「世界は、自分たちのもの、だってさ」
「何だ、そりゃ?」
「あたしにわかるのは、それが本当だってことさ。大――あのミイラの頭は確か、ミッシング・リンクのものだって言ってたね?」
「ああ」
と応じてから、おれはぞくりとした。
ミッシング・リンク。進化から忘れられた、しかし、これなくして進化はあり得なかった謎の存在。おれがアフリカの霧深い渓谷から奪い取ってきたものは、歴史の闇の奥に消え去ったはずの生物の形見だったのだ。
それが呪っているのか。歴史の担い手になれなかったから、と。この世界は、本来、自分のものだった、と。
進化の系統樹からいくと、化石の空白期というのは、約九百五十万年から六百万年前までなのだ。この期間の生物がいわゆるミッシング・リンクになる。
そして、この期間中に、猿人と原人は枝分かれし、さらに四十万年前あたりで原人と人間とが分かれ、二十万年前に現世人類と旧人類とに分離することになるのだ。
ニューヨークの自然博物館には、ロジャー・ロクストンという人類学の傑物が勤務していて、彼は博物館の給料の他に、おれからの特別手当で、マイアミに別荘とでかいヨットを持っている。
そいつによると、この頭部を持つ生物は、系統樹のもうひとつの枝を形成したかも知れないという。
猿人の系統樹は、約六十万年前に途絶えたが、こいつの系統は一万年どころか千年も続かなかった――歴史的時間から見れば、存在しなかったに等しいとロクストンは断言した。
「しかし、新しい進化の可能性のひとつだったのは間違いありません。人間進化の最大の謎も解けるかも知れない。ミスター八頭、これを一年間、私と博物館に貸与していただけませんか?」
「やだね」
おれははっきりと断り、代わりに、コンピュータによる精確無比なコピーをこしらえて渡した。あれから二年になるが、ロクストンの研究は頓挫したままだ。
「もうひとつの可能性か。なるほど、自分の世界に他所者《よそもの》がのさばってるとしか思えねえな。怨みも深いだろう」
「早くお行き」
とマリアがせかした。
「どうも悪い予感がするよ、大。一刻も早くアフリカへお発ち」
「オッケー」
おれは素直に従った。
指紋錠のチェッカーに人さし指を押しつけて、ガラスを開き、取り出そうと左手をのばした。
その手首をぐい、と掴んだものがある。
3
おれが跳ねとばさなかったのは、マリアの手だったからだ。
「およし」
とマリアがおれの手を引き戻したとき、もう一本の黒い手が、その手首を掴んだ。今度は――ミイラの手だ。いや、これは、おれが造らせたまがいもののはずだ。
ミイラの頭があまりにもショッキングだったので、つい、胴体と手足まで、ロクストンに考証してもらった上で、くっつけちまったのだ。
だから、動くはずはない。それなのに、マリアの手首から先は、みるみる赤黒く変わっていった。
「野郎」
と掴みかかろうとするおれを、マリアは素早く止めて、ミイラの手の甲を軽く、左手ではたいた。呆気なく引っこんだ。
「どういうわけだ、こいつは――」
「まがいものにも、魂が宿っちまったのさ」
とマリアは、世間話でもするような口調で言った。右の手首を揉んでいる。
「この頭の怨念が、よっぽど強かったんだろうさ。あんたの相手は、こういう奴なんだよ。自分たちが地球の覇者になれなかったことを怨み、人類すべてを怨んでいる。何が起こるか知れたもんじゃないよ。早くお行き」
「首を胴につけるってわけか」
「そうすれば、怨みも少しは収まるだろうよ」
「よっしゃ」
こう言うしかなかった。しかし、目下のおれは左手一本しか使えない。これで武器を操り、コンピュータを制御し、敵と殴り合わなきゃならねえのか。少し、うんざりだ。
「すぐ用意にかかる。後は頼んだぞ」
「まかしとき」
「しかし、この首、取り外せるか?」
「やってみるよ」
「オッケー。じゃ、支度にかかる。いや、ゆきがいなくてよかった。こんなときあれがいたら、最悪の瞬間だもんな」
「最悪の瞬間が参りました」
おれは一瞬硬直し、それから、ゆっくりと背後に立つゆきの顔を見つめた。
六本木で会ったときのまんまだ。
「珍しいデート・コースだな」
と言ってやると、ゆきはふふんと鼻を鳴らして、
「大きなお世話よ。こういうところが、最新流行のデート・スポットなのよ」
「そりはそりは。――彼氏はどうした?」
「ベンツ頂戴って言ったら、怒って帰っちまったわ。人間、器が小さいと駄目ね」
ベンツくれる方がおかしいわい。しかし、六本木のおれのマンションの駐車場には、近頃、二台ばかり欧車が増えた。フェラリとロールスだ。ゆきだろう。背が高くてハンサムで甘い言葉を念仏みたいに唱えてダンスができる、頭の中味は空っぽの野郎どもを手玉にとったのだ。
待てよ、ひとりでデート・スポットてのもおかしいな。
おれが気づいたのに気づいたらしく、ゆきは例のミイラが収まっているガラスケースに近づき、あーらと覗きこんだ。
「面白そうね、これ」
と頭部に手をのばす。マリアが止める暇もなかった。
かちりと音がして、それは造りものの胴から取り外されていた。
「いかん!」
反射的に止めようとのばしたおれの左手から、ゆきは信じられぬ速度で身を躱した。
手を引いたときには、もう三メートルも後ろにいた。
にやりと笑った。マリアが緊張するのがわかった。
「あんた――憑かれたね」
応じるように、
「返せ」
と言うなり、ゆきは踵を返して走り出した。
「追いかけて!」
マリアの叫びを聞くより早く、おれはダッシュをかけた。
背がひやり[#「ひやり」に傍点]とした。
駆ける勢いに乗って前へ跳躍した。空中で身をよじる。
ぞっとした。
のしかかってきたのは、首なしの胴体だったのだ。
左の膝を叩きこんだ。
そいつは吹っとび、おれは床に落ちた。左手で後頭部をカバーし、すぐに起き上がった。
ゆきはもう見えない。
眼を戻したとき、胴体は眼前に迫っていた。
ぶんと、右手がふられた。見事なフックだが、おれは左でブロックしざま、右の下段蹴り――ローキックをぶちかましてやった。
左足は膝から砕けたが、胴は倒れなかった。異様な巧みさでバランスを取り、けんけん跳びで襲いかかってくる。
半ば呆れながら、おれは腰のあたりに後ろ蹴りを放った。
合成樹脂が主体でワイヤーの骨も入っていない胴は、あっさりとへし折れ、二つになって壁に激突した。
「後はまかせたぜ!」
叫ぶおれへ、
「無駄だよ」
とマリアの声がかかった。つんのめりかけたぜ。
「もう間に合わない。あの娘は、真っすぐアフリカへ向かうだろう。あんたもすぐにお行き」
「真っすぐったってよ、ベルゼボ共和国なんて、直行便もないぜ。ケニアが近いけど、あそこも同じだ。ゆきの野郎、空港へ手え廻して、水際でとっ捕まえてやる」
「あの頭がついてるんだよ、あたしやあんたの想像もつかないことをやるさ」
「想像もつかないこと?」
「たとえば――泳いでいくとか、ね」
「おい」
と言ったものの、おれは脳のどこかであり得ると認めていた。
「ふーむ」
と腕を組んで考えるふりをした。
「何のパフォーマンスさ?」
とマリアが眼つきを鋭くした。
「いや、別に。ゆきが行ったんなら、いーかなあ、なんてね」
確かに、首を届けるなら誰でもいいわけだ。
「放っとくつもりかい?」
「うーむ。ま、考えてみるわ。じゃ、な」
おれはマリアへ片手をふって遠ざかりはじめた。
マリアは何も言わなかった。
おれはもう一度、自動ヘリを使って六本木のマンションへ帰った。
部屋へ入って、着替えようかなと思ったとき、電話が鳴った。
「あいよ」
と耳に当てると、
「久しぶりだな、大」
と懐かしい声が響いた。おお、セーヌの香り――フランス語だ。
「ボンジュールだな、この野郎」
と、おれはにやにやしながら返した。
相手の名はジャン=ルイ・ローバー。通称“餓狼”で知られる宝捜し屋《トレジャー・ハンター》だ。
通称どおりの意地汚い性格の屑《くず》で、仕事の仕方も骨までしゃぶり尽くす。――金目のものは、ミイラの金歯でも、と、これはいい。しかし、目撃者は皆殺し、ついでに財布や指輪までと来ちゃ、強盗殺人犯と変わらない。こういう野郎だから、勿論、「世界宝捜し協会」なんぞには入れず、仲間と単独行動を取るしかない。
世界四十何カ国かでお尋ね者のはずだ。セコい宝捜しをするくらいなら、こいつをとっ捕まえて突き出した方が金になるくらいの賞金がかかっているが、残念ながらおれはトレジャー・ハンターなのだった。
「オゾンゴ渓谷じゃあ世話になったな」
と来た。
「なあに、礼を言われるほどのこっちゃねえさ」
「いいや、じっくり礼をさせてもらうぜ。おめえにお宝をさらわれてから、いつかはと思ってたんだ」
「そいつぁ、ご丁寧に。じゃあな」
「あの頭、女にかっさらわれたらしいな」
糞、沈黙しちまったぜ。
ジャン=ルイはゲラゲラと笑った。耳が腐りそうだ。
「何故、知ってるんだ、え?」
「女の方から連絡してきたのさ。おめえがおれのことを話したんだろ?」
そういやあ、いつだったか、ゆきにこの話をしてジャン=ルイの野郎を笑いとばした覚えがある。連絡先はインターネットで調べたのだろう。
「おれはいま、ギリシャだが、パリの事務所で連絡を受けた仲間が日本のメンバーに知らせて、もう身柄を確保したそうだ。おめえも女扱いがうまいとはいえねえようだなあ」
「余計なお世話だ、この丹下左膳。いいか、頭はともかく、その娘に指一本触れてみろ、ただじゃおかねえぞ」
「電話の向うじゃ、いくらでも凄めて結構だな。日本人にしちゃ、たいしたグラマーだそうじゃねえかよ。フランスの伊達男としちゃ、放っとくわけにはいくめえよ」
「おい、片目野郎」
と、おれは静かに言った。本気で切れかかっていた。ジャン=ルイは沈黙した。おれのやり方は身に沁みているはずだ。
「残った眼をほじくり返されたくなきゃ、あの娘に手を出すな。これから、おれも挨拶に行くぞ」
「ああ、来てみやがれ」
ジャン=ルイの畜生は自信満々だった。ゆきと頭を独占しているせいだろう。
「おれもこれからアフリカへ飛ぶ。その娘のボディと会うのを楽しみにしてるぜ」
また、ひと笑いして、電話は切れた。
野郎、舐めやがって――と怒り狂いながらも、おれはひどく冷静な自分を感じていた。
頭の芯だけが冷えきっている。
コンピュータの前に坐りこんで、“餓狼”とその仲間のデータを片っ端から記憶し、その行動パターンを今回の事件に当てはめていく。よっしゃ。
おれは大きな欠伸《あくび》をひとつしてから、窓辺へと歩み寄った。
カーテンを開けて夜の街を見る。
眼の前にヘリの正面があった。
機体の下からバルカン砲の銃口がこちらを向いている。
あれは三〇ミリか。
次の瞬間、ピンク色の火線が窓ガラスを破壊し、おれを木っ端微塵に吹きとばした。
バルカン砲の直撃は五秒ほどだったろう。
部屋の壁は崩れ、破壊された家具やコンピュータ、美術品の破片が渦を巻く。カーテンは火を噴いた。五秒で部屋は廃墟と化した。
血肉片に化けたおれの身体は、さらに射ち砕かれて、もう原形を留めていない。
ヘリは大きく右へ旋回して飛び去った。
「大したもんだ」
と、おれはつぶやいた。ジャン=ルイのかけた王手を誉めたんじゃない。三〇ミリ・バルカン砲の猛打に耐えた高分子ガラスへ贈った労いの言葉だ。
ひしゃげた弾頭はすべて空薬莢もろとも地上へ落下したはずだ。やれやれ、警察へ連絡して、余計なことをするなと言ってやらんとな。
落下した薬莢や弾頭で負傷した人間がいたら、匿名で治療や葬式代を負担しなきゃならない。覚えてやがれよ、ジャン=ルイ・ローバー。餓狼の空きっ腹に熱い鉛弾をぶちこんでやるぜ。
しかし、ま、これで野郎め、おれを粉微塵にしたと勘違いするだろう。動き易くはなった。
まさか、砕けたガラスやおれの部屋が、ガラスに映し出されたCGだと思いもしないだろう。敵の攻撃をコンピュータが読み取り、CG構成ユニットに伝えて、即座にCG画面を描き出す。無論、いまの一般技術じゃ無理だ。
いま、世界中の軍隊や警察が、CGによる敵の撹乱技術開発に血道をあげている。肉眼による索敵なら充分にごまかすことができるし、いずれ、三次元CGも、レーダー等の電子光学的機器の眼もくらませられる高分子CGも造られるだろう。おれはスウェーデンにある知る人ぞ知るCG開発会社へ出資し、大急ぎ、これを開発させた。勿論、それに付属する超高速解析コンピュータも、防弾ガラス兼スクリーンも、それぞれ別の専門家に開発させたものだ。
街中へヘリを飛ばしてバルカン砲を射ちまくるなんざ、ふた昔も前のTVシリーズの話だぜ、ジャン=ルイよ。近々、おれとおまえらの違いを見せつけてやる。覚悟して待ってな。
おれは久方ぶりに、殺意にも似た闘志が燃え上がるのを感じた。
ガラスに映る夜の街――その真ん中に、おれの顔があった。
両眼が紅く燃えている。
どっかのビルのネオン・サインだった。
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第三章 屍体屋デュボア
1
二日後、おれは灼熱の太陽の下にいた。
アフリカだ。観光客なら特別の感慨が湧くだろうが、おれには見慣れた光景でしかない。しょっちゅう商談に来るサラリーマンみたいなものだ。
ベルゼボ共和国――人口二千万、産業は農業と観光だが、観光客の数は年間一万にも達しない。猛烈な独裁国家で、公安の権力が異様に強く、何かにかこつけての罰金、逮捕、拘留が日常茶飯事だからだ。どこが共和国だ。
独裁国家には、その代わり、やくざだのマフィアだのという犯罪者は少ないものだが、この国にはうようよしている。あまりにも経済状態がひどい上、他国への逃亡が禁止されているからだ。
勿論、知識人主体の穏健派と、ゲリラ闘争も辞さない過激派とから成る反政府グループはあるが、独裁政府は日夜弾圧をつづけ、密告も奨励しているため、その組織は政府に比べて非常に弱体化している。
独裁政府の中核は、ドミン大統領夫妻だ。昔、人間を食うとかで映画になったアフリカの大統領がいたが、こっちは人肉こそ食わないものの、素手でライオンを絞め殺し、鰐の口を裂くと噂されるくらいの闘士である。
当年六十歳。女房のクルッパは五十二歳。問題はこの女の方だというのが、もっぱらの評判だ。
大体、独裁者てのは、わずかな例外を除いて、女房だの側近だのに尻を叩かれてのし上がる輩が多い。その意味で、土着の一部族の首長からのし上がったドミンは、貴族階級の娘だったクルッパにとっての最高傑作だといっていい。
この遣り手女は、まず、ドミンとの結婚に反対する一族の者全員を毒殺し、結婚後半年で夫を国会議員に立候補させ――ベルゼボは共和国だったのだ――反対派もこれまた毒とスキャンダルで沈黙させた上、早々と親衛隊を組織、ドミンののし上がりに楯突く連中を片っ端から暗殺してのけた。銃殺ならまだしも、鰐を食う夫にならって鰐に食わせた反対派もいるというから凄い。かくして、もと[#「もと」に傍点]自由の闘士ドミン君は結婚後とんとん拍子で大統領に成り上がり、独裁制をしき、今日も女房や親衛隊と好き放題をしてるというわけだ。
ま、この国の事情はどうでもいい。とりあえずは、ゆきの奪還とミイラの頭の返却だ。
まず、ミイラの胴体が何処にあるかだが、おおよその見当はついていた。
空港から出て、真っすぐ向かったのは、そこだ。
走り出してすぐ、おれはタクシーの運ちゃんに、
「こら、メーターを倒せ」
とベルゼボ語で命じた。運ちゃんは四十すぎと思しい赤毛の女だった。おっぱいが突き出たかなりのグラマーだ。
途端に、運ちゃん、
「あたし、この国の言葉わからなあい」
と、やらかした。なんと、ロシア語だ。舐めくさってやがる。
「いい加減にしろよ、こら」
と同じロシア語で罵り、運転席の背もたれを蹴とばすと、
「オー、シット」
と今度は英語だ。したたか婆ぁめ。それでも渋々メーターを倒したのは、おれの蹴りが強烈だったからだろう。
三十分ほどで車は市内へ入った。大体、金のない国というのは一発でわかる。通行人の服に色彩《いろ》が乏しいのだ。
今日び、アフリカでも都市部に行きゃあ、赤青黄色と色彩の洪水だ。ここにはそれがない。みんな白っぽいシャツとズボンとスカートで、それがちっとも明るくない。覇気を測ったらゼロに近いだろう。
いきなりタクシーが左へ寄った。停まったのは、数人の兵隊の前だった。鍔のある帽子を被った指揮官らしいのがひとりと、マグカップ帽の二等兵が四人。五人とも自動拳銃を所持し、二等兵どもは、イスラエルのガリル自動小銃を肩にしていた。
銃身の下に、砂漠で冷たいコーラを飲むための栓抜きもついてるこの銃は、米軍のM16A2みたいな五・五六ミリしょんべん弾丸《だま》じゃなく、旧NATO制式の七・六二ミリ・ライフル弾を使用する。パワーも射程距離も、M16なんぞ比べものにならない。相手にすると厄介だ。
運転手は跳び下りるように外へ出て、指揮官に声をかけるや、おれの方を指さした。指揮官が顔を合わせた途端、豊満なバストににやりとしたところを見ると知り合いらしい。
ベルゼボ語で、タクシー強盗と言ってるのが聞こえた。いままで何千回となく悪態をつかれたり、犯罪者扱いされたりしてきたが、タクシー強盗というのは比較的少ない。二、三十回ってとこか。
指揮官がにやにやと女の肩を叩き、おれの方を見てから、後ろの部下をふり向いて、逮捕しろと言った。
冗談コロッケだ。
さて、と考えているうちに、二人がやって来て、片方がドアを開けた。もうひとりは横でガリルを構えている。さすがは独裁国家の兵隊だ。油断大敵、国民も旅行者も同じ反体制の犬というわけだ。
「出ろ」
と英語で言われた。
おとなしく従った。
指揮官が運転手を指さし、
「彼女からタクシー強盗として正式な告発があった」
と告げた。下手な英語だ。
「幾らだ?」
と、おれは訊いた。こんなところで愚図愚図しているわけにはいかない。
「何だと?」
指揮官は耳に片手を当てて、わからないふりをした。
「幾らだよ?」
にやりとしやがった。歯が黄色い。
「君は我が国を誤解しているようだな。ひとつ、ゆっくりと、それを解く必要がありそうだ。――連行しろ」
狙いはわかってる。連行した先で、身ぐるみ剥ごうって寸法だ。おれのひと言で、大枚持ってると踏んだらしい。逆効果だったか。
二人の兵士が両側から腕を掴んだ。ただの旅行者と思っているらしく、後の二人もにやついているだけで、銃を向けても来ない。
仕様がねえ。目立ちたくはないが、どっかへ連れこまれ丸裸の死体になるよりは楽だろう。ここはそういう国なのだ。
おれは軽く息を吐くと同時に、左腕を掴んでいる兵士の腕を胴体にはさみつけた。
骨がきしみ、そいつは悲鳴を上げた。
必死に手を抜こうとしてバランスが崩れた瞬間、おれは身体を一回転させた。ぶら下がった兵士の身体がローターと化して、指揮官と三人の足を薙ぎ払う。
派手に倒れて頭を打ちやがった。通行人がぎょっとして立ち止まる。
ふり廻した兵士がまだ宙にいる間に、おれは爪先立ちになり、次の瞬間、身を沈めた。
兵士は腹から歩道に落ちて、のしイカみたいにつぶれた。
頭を押さえて立ち上がろうとする指揮官の顎を蹴とばし、おれはタクシーの後部座席からスーツケースを引っ張りだすと、五十ドル札を一枚、呆然と突っ立ったままの女の胸もとへ押しこんだ。チップを入れても充分な額だろう。突き出たおっぱいを揉ませてもらったのは、チップへのチップだ。
それでも呆気にとられた表情の運転手へ、
「じゃな。これから、日本人には気をつけな」
と言い残して歩き出した。
驚いたね、どこからともなく拍手と口笛が湧き上がったじゃないか。市民はよっぽど頭へ来てるらしい。
三〇メートルほど歩いて車道を見渡すと、別のタクシーがやって来るのが見えた。
すぐに止まったので乗った。運ちゃんは若い男だった。こちらはきちんとメーターを倒した。さらに二十分ほど走って止まった。
「危《やば》いところに行くねえ、旦那」
はじめての運ちゃんの台詞だった。
おれが料金を払うと、チップの分を返してよこした。
「あんたが、兵隊ぶちのめすの、おれは車止めて見てたんだよ。このまま、この腐り切った国でおっ死ぬかと思ってたら、いい夢が見られたぜ。チップはその礼さ」
にやりと白い歯を見せ、じゃあなと手をふって車へ戻った。
走り去るタクシーを、おれは見送りもしなかった。もう通りを渡り、目的の家へと歩きはじめていた。時間がないのだ。前方にぽっかり口を開けた横丁の入口には、“ダルシャル通り”とあった。ダルシャルとは地獄の意味だ。
石畳の道を進んでいくと、物陰からおびただしい数の眼が、全身に集中するのが感じられた。
何処の奴だ? 他所者《よそもの》か? 旅行者か? 金目のものは?
結論がどう出たかわからない。「地獄」へ入って五分としないうちに、前後を十人近い男どもにふさがれたのは確かだった。
どいつもこいつも凶暴な面で、しかも、ナイフやブラック・ジャックを隠そうともしない。ベルトにはさんだ拳銃を見せつける奴もいた。少なくとも殺す気はなさそうだ。あるなら、とっくにズドンとやってる。
「日本人か?」
と、リーダー格らしい鳥打帽を被った長身の男が訊いた。濃い髭がよく似合ってる。
「そうだよ」
おれはのんびりと周囲を見廻した。左右は廃屋らしいが、一軒の窓から顔が出て、おれと眼が合うや、慌てて引っこんだ。
こういう雰囲気を、おれは嫌いじゃない。
「観光客か?」
「そうだよ」
「何処へ行く?」
「“デュボアの店”さ」
どよめきと動揺が波のように渡った。
2
リーダーが別の眼つきでおれを見た。
「どうやら、ただの観光客じゃあなさそうだな。デュボアの知り合いか?」
「まあ、な」
「わかった――おい、行くぞ」
おれにも男たちの豹変の理由はわかっていた。この辺の連中の合言葉がある。
『デュボアに手を出すな』
ついでに、デュボアの関係者にも、だ。
最後におれを見る眼には、憎しみも嫌悪もなかった。ただひとつ――不快感だけ。
いきなり、背後で気配が動いた。こういう場合、おれの身体は反射的に動く。何が起きたのか、おれにもわからない。後で考えると、身を沈め、ナイフをふり下ろした腕を掴みざま、猛烈な一本背負いをかけた――らしい。
猛烈な勢いで地べたへ叩きつけられた仲間を見て、男たちは再びおれに向かってこようとした。
それを止めたのは、またも、リーダーのやめろ[#「やめろ」に傍点]のひと言だった。
殺気がおれの全身を焼いた。これを抑えたのだから、たいしたリーダーシップだ。
「ニッポン・ジュードーか。見事なものだな」
「なあに」
「こいつは一家の窮状を救いたかったんだ。政府が政府なもんで、おれたちはみんな苦しんでる。悪く思わんでくれ。最初から、あんたを傷つけるつもりはなかったんだ」
本当かどうかわかりゃしない。男たちが投げとばされた若者を抱き起こした。腰を押さえて呻いた顔は十歳《とお》にもなっていまい。涙を浮かべた眼でおれをふり返り、
「次はやっつけてやる!」
と叫んだ。
「ひとつ、腕くらべをしないか?」
と、おれは声をかけた。
リーダーが眼を細めた。構わずつづけた。
「おれは日本の格闘マンでな。この国にも独自の武術があると聞いている。ひとりぐらい出来るだろ。ここでストリート・ファイトといこう。勝てば米ドルで一万出すぜ」
この一画にどよめきが噴き上がった。米ドルで一万――この国の通貨、パレに換算すれば百万になる。家が三軒建てられる金額だ。
リーダーはおれを値踏みするように、
「――負けたらどうなる?」
「一ドルにもならない。いや、勝ったら二万ドルにしよう」
男たちの顔の見合わせぶりは見ものだった。
「おれが相手をしよう」
と、リーダーは言った。
「ただし、金を見せてくれ」
「はいよ」
おれは、スーツケースを開き、手探りで現金の束から四枚抜き取り、足下に置いた。
マジソン大統領の肖像画――五千ドル紙幣だ。
「勝ったら持ってけ――ほい」
おれは空手でいう自由組手の構えを取った。
リーダーがシャツの袖をめくり直して、両手を前に、手のひらをこちらへ向けて、左足を思いきり引いた。
実戦用とは到底いえない代物だ。仲間たちは固唾を呑んで見守っている。
おれは一歩前へ出た。
途端に跳んできた。手でも後ろ足でもなく、軸足のはずの前足が。
両肘を合わせてブロックしたが、これは意表をつかれた。かなりの格闘家でも食らってしまうだろう。
おれは男を支える後ろ足めがけて右のローキックを放った。
ひょいと男の身体が左へ回転して、おれの足は空を切った。大したものだ。
大きく突っかけざま、男の顔面と胴にストレートを叩きこむ。
すべて左の手のひらで受けられた。
いきなり、鳩尾へ来た。
腹筋を張りつめて受けたが、かなり効いたぜ。
おれは、二、三歩下がって、
「ここまでだ」
と片手を上げた。歓声が上がった。
「おれの負けだ。約束どおり持っていきな」
おれはスーツケースを持って歩き出した。二万ドルか、糞お。
十歩ほど進んだとき、
「あんた、本気を出さなかっただろ」
リーダーの声だった。
「おれは、ガシュアを子供の頃かじっただけだ。あんたの腕なら軽く躱せたはずだ。どうして――」
おれにもわからねえよ、んなこたあ。また少し遅れて、
「おれの名はグロウだ。名前を教えてくれ、本当は強い日本人」
「あばよ」
おれは足を早めた。
そこから十分でデュボアの店に着いた。
大人がようやくすれ違えるくらいの路地の両側には、小さな店が並んでいた。――といっても、店と認識できるのは、この土地を知悉《ちしつ》している連中だけだ。
はためには、小さな個人住宅としか見えまい。平凡なつくりの平凡な色彩の建物には、看板ひとつ下がっていないからだ。
中でもとりわけ平凡な一軒のドアを押してみた。
ロックされていた。ドアの脇にブザーがついている。
「日本から来た八頭だ。久しぶりだなあ」
いきなりロックが外れた。
「どーも」
入った途端、嗅ぎ慣れた薬品の匂いが鼻をついた。気にもならなかった。おれの眼の前の光景がそうさせたのだ。
外見からは、とても信じられない広大な店内は、これも信じられない品で埋められていた。
いたるところに立てかけられ、或いは並べられた棺桶の列、骨。黄金の腕輪や勾玉《まがたま》のネックレス、旧石器時代の鏃《やじり》や石斧、ナイフ等は、まとめて大皿にぶちまけられ、どうでもいいと店の主人が明言している。
この店のメインは、こればかりは並みの商店と等しくショーケースに入れられた――
ミイラと頭蓋骨だ。
ミイラは、その色や干からび方やサイズから、約五千年前のエジプト古王朝なんかより、ずっと古いのがわかる得体の知れない代物にはじまり、どうやら、現代の人間と思しい奴まであるし、頭蓋骨にいたっては、どうみてもゴリラとしか見えない猿人の頭からネアンデルタール、北京原人、クロマニヨンどころか、宇宙人のじゃないかと口走りそうな奇怪なものが並んでいる。
周囲の気配をサーチしていると、奥のどっかから、ふがふが言いながら、小柄なチンパンジーそっくりの老人が現われた。極彩色のガウンを着て、白いターバンを巻いている。デュボアとしか知られていない店の主人は、エジプト出身だそうだ。
「あなたに平和を《アッサラーム・アライクム》」
と挨拶するのを見ると、どうもそうらしいが、実のところは不明だ。案外、東京の葛飾区ってこともあり得る。
「どーも」
と、おれは無愛想に返してから、
「最近、ここへ、首なしミイラの胴体を持ってきた奴がいるだろ?」
早速、本題に入った。ミイラの頭はおれが手に入れたが、胴体はそのとき起こった地震で、亀裂のなかに消えた。後でまた地殼変動が起こり、地上に露出したそれを旅行者が発見し、ここに売りつけたことは、東京での調査でわかったことである。
デュボアは店の奥のテーブルへおれを案内した。手を打つと、どこからともなく、太った召使いらしいのがコーヒーを運んできた。凄え。二百キロはありそうだ。日本なら横綱で通る。
「おったよ」
あっさり来た。さすがプロの商人だ。天気の話なんざしても一円にもならないと心得てやがる。
「その胴体はあるか?」
「ない」
「何ィ? 何処へやった?」
「幾ら出す?」
こいつはプロだったのだ。
「あんたの女房の行方でどうだ?」
「何番目の?」
「三番目」
野郎、そっぽを向きやがった。
「七番目と八番目」
「いいだろう」
「先にそっちからだ」
「とんでもない」
「八番目のには、あんたの慰謝料でニューヨークに暮らしているうちに、新しい男が出来たらしい。そいつの名前と住所もつけるがな」
「電話番号もだ」
「いいだろう」
デュボアは渋々とうなずいた。こいつの性格は、以前、二回会ったときに呑みこみ済みだ。
あんまりケチなために十三号までいた女房にことごとく愛想をつかされ、莫大な慰謝料を毟り取られた上、離婚されたくせに、いまでも中の何人かに未練たっぷりで、復縁を迫っている。女房の方はみな二十代のピチピチばっかりだから、こんな狒々爺《ひひじじ》いと一緒にならなくてもいいわけで、何とか行方をくらまそうとする。
今回訪問するにあたって、おれが彼女たちの連絡先を調べ上げてきたのは、勿論、交渉のたびに要求される金を安く上げるためだ。調査費用は世界一の探偵社に寄付してる金額の中から出るから、デュボアの金額を押さえれば押さえるほど安上がりになる。
「つい三日前、政府の民俗保管局というところから何人か来てな。あの胴体を接収するという。なんと、ただでだ」
すると、骨は政府のお役所の中か。厄介だなと思ったら、
「奴らが箱に詰めて運び出したところへ、反政府ゲリラが襲いかかってきた」
結局、骨の入った箱はゲリラの手に入ったという。
「勿論、ただで持っていきおった」
「そのゲリラのアジトは何処にある?」
「幾ら出す?」
「八番目の相手の女関係を教えてやろう。うまく使ってよりを戻しな」
「ふむ――“白骨通り”の二十四番地だ。『ジョボダボ』というキャバレーさ」
「“白骨――”って、この店の後ろじゃねえか。そんなところにいるのか」
おれは呆れ返った。
「ま、いい。それじゃあ、な」
と言って、上衣のポケットから、デュボアに約束した情報がメモしてある紙切れを渡した。
「ふむふむ。早速、嫌がらせをしてやる。――ところで、面白い品があるんだが、買っていかんかね?」
「何をだ?」
「特別にまけて、十万パレでどうだ?」
米ドルで千か。微妙な額ではあるな。まがいものにしちゃリアルすぎるし、掘り出しものにしては安すぎる。
「何だい?」
と訊いてみた。
デュボアは大儀そうに奥へ行き、姿が見えなくなったかと思うと、五分ほどしてまた現われた。
「これさ」
とショーケースの上にこぼした品を見て、おれは、へえと唸った。
3
しけた名前のキャバレーは、中味はそれに反していた。
だだっ広い店内は、夕暮れ前だというのに客どもが溢れ返り、「ケ・セラ・セラ」を流してるバンドも本物だ。“なるようになる”か、明日も知れないゲリラにはお似合いかも知れない。
安煙草とアルコールと麻薬と香辛料の匂いの中を、係に案内されて席に着き、それとなく周りを観察すると、どうしてやっぱり、ただの安キャバレーじゃない。
いかにも近所の飲ん兵衛といったシャツにジーンズ姿の親父どもは、ジーンズの内側に旧式の自動拳銃《オート》や回転式拳銃《リボルバー》を突っこんでいるし、大胆な胸空きシャツの胸からタンクみたいなおっぱいを半ば露出させた煙草売りの姐ちゃんは、商品の間に小型のオートと手榴弾を忍ばせている。葉巻を咥えて高級ブランデーをがばがば飲ってる裕福な商人のグループは、眼つきからしてこの店に敵意を持つ組織の一員――政府のスパイに違いない。
他の犯罪組織の連中や、ひょっとしたら、ジャン=ルイの一派もおれの様子を窺ってるかも知れない。まさに、正邪入り乱れる店内だ。隠しカメラは、おれが気づいただけで三つもあるし、店員たちのボウタイの留め石も超小型ビデオ・カメラのレンズだ。秋葉原《あきば》でも行ったのかな。
テーブルに着くとすぐ、ウェイトレスが注文を取りに来た。ブラウスの前ボタンを三つも開けて、ずっしりとした乳房が、どう? と訊いている。いいねえと手を出すわけにもいかず、おれはフローズン・ダイキリを注文してから、テーブルに置いてあるナプキンの一枚に走り書きをした。
十パレ札と一緒に女の乳房の間へ押しこむと、にっこり笑ってナプキンを開き、みるみる表情を険しくした。
そこはプロらしく、すぐにこやかな笑みを取り戻すと、
「しばらくお待ち下さい」
と一礼して歩き去った。
ダイキリはよく冷えていたが味はいまいちだった。つまみのオイル・サーディンと唐辛子を一緒に口へ放りこんでいると、周囲がざわめいた。背中の方だ。
ざわめきは足音混じりになり、おれのすぐ後ろで止まると、
「ようこそ、ミスター八頭。主人のグレイです」
おや、いきなり金的か。
おれはゆっくりふり返り、腰を下ろしたまま、長身の人物を見上げた。
惚れ惚れするとは、こういう男に与えられた形容詞だろう。
白面《はくめん》の貴公子とは、まさにこれ[#「これ」に傍点]だ。
おれも数多くの王侯貴族や上流階級の名士とやらと邂逅してきたが、こんな品のあるハンサムははじめてだ。
ほんの一瞬だが、呆気に取られたと、正直に告白してしまおう。
手が下りてきた。これがまた、場末のキャバレーの親父のものとは思えない繊手《せんしゅ》なのだ。握ったら折れそうなくらい細く長く、それを補うように美しい。
「こいつは、わざわざ」
と握手をした途端、おれは眼を剥くところだった。
まるで鉄の鞭みたいな感触が返ってきたのだ。握りつぶされるのは、おれの方だったかも知れない。
だが、グレイは軽く握っただけで、すぐに離した。
そして、
「御用件は奥で」
と言った。おれにも異存はなかった。
店の奥の一室に入った途端、雰囲気はがらりと変わった。
当り前だと思うかも知れないが、いきなり四方から拳銃を突きつけられては、こう言わざるを得ない。
店のスタッフとは違う、グレイの親衛隊だろう。おれより若いのも、親父くらいのも――八人いた。
おれは少し笑った。
「何がおかしい?」
と年配の男が訊いた。
「いや、拳銃がみんなバラバラだろ。そっちはコルトのガヴァメント、そっちが旧ドイツ軍のワルサーP38にルガー08、かと思うと、デザート・イーグル・50マグナムあり、ベレッタの92Fありだ。やっぱり、ゲリラだな。台所は苦しそうだと思ってな」
「余計なことを――」
と男は歯を剥いたが、グレイが止めた。その口もとは微笑を浮かべていた。派手な黄土色の上着の胸ポケットからおれのメモを取り出し、
「この状況で軽口を叩けるとは大したものだ。おまけに、これによるとジャン=ルイの極悪どもから、化石の頭部を奪い取ったとある」
「嘘っぱちだぜ、こんな餓鬼が」
おれと同い歳くらいのが喚いた。こういう組織に入ってる連中の常で、自分と同じレベルの者より抜きん出て見せたいのだ。
グレイは首をふって、
「いや、風の噂で、ジャン=ルイ一派にひと泡吹かせたのは、確かに八頭とかいう日本人だと聞いたことがある。――しかし、本当に君か?」
「まあな」
おれは胸を張った。外国へ来て、遠慮と謙遜は何の意味も持たない。そっくり返れば返るほど効果的だ。
「嘘だ。そんな凄い男が、こんなに簡単に罠にかかるものか」
若いのは、なおも突っかかった。
「阿呆、承知で来たんだ」
と言ってやったら、逆上して、
「嘘つきめ!」
いきなり、SW/M29/44マグナム・六インチ銃身――二キロ近いリボルヴァーをふり上げて、おれを殴ろうとした。
唸りをたてて落ちてくる銃身を、おれはあっさりと左手のひらで受け止めた。左のミドル・キックが来る前に、若いのの後ろへ廻りこみ、逆を取って、M29を奪い取るのは簡単だった。
若いのの頭に銃口を押しつけ、撃鉄《ハンマー》を上げて、
「捨てろ」
と命じる。
奇妙な話だが、男たちはこれで驚きによる金縛りから解放された。おれの動きが速すぎて、ついていけなかったのだ。
銃口は激しく動揺した。
「銃を捨てろ」
と命じたのはグレイだった。
ひとりぐらい反抗するかな、と思ったが、男たちはためらいもせず、足下へ武器を放った。
「どうして射たない?」
と、おれは訊いてみた。
「仲間を殺してまで生き延びようとは思わんよ」
定番の答えが返ってきた。
「組織の頭《ヘッド》はあんただ。おれに射殺されたら、反政府ゲリラは崩壊だぞ」
「我々の主張が正しいと神がお考えなら、第二、第三の私はすぐに現われる。戦いは終わらんよ。君たちの国が実現したものを手に入れるために、我々は時の終わるまで戦い続けるだろう」
耳に快いたわごとだ。
だが、おれは若いのを解放し、M29を放った。
再び向けられた銃口を、グレイが下ろすよう手で命じた。
「今度は私が訊く番だ。なぜ、銃を捨てた?」
「そっちが向けたからお返ししたまでだ。おれはあんたの組織にも、この国にも興味はない。“デュボアの店”から奪い取った化石の胴が欲しいんだ」
「メモにもそうあった。宝捜し屋《トレジャー・ハンター》というのは本当らしいな」
「はーい」
グレイが吹き出した。こらえ切れずに笑い出し、
「面白い男だな、君は。よかろう、お見せしよう。ただ、ひとつ条件がある」
「何じゃらホイ?」
「我々がこれを保管したのは、政府軍がデュボアの店から接収しようとしていたからだ。貴重品と見たのだが、残念ながら価値がわからない。教えてくれないか?」
「おれにもよくはわからないのさ。ただ、類人猿と人間とをつなぐ生きものの骨らしい。学術的な価値はあるだろう」
本当は、その筋のものを収集してる金持ちに売りつければ、天文学的な数字で買い取るのだが、それに気づかせるとまずい。ゲリラの軍資金にでもと、手放さなくなる恐れがある。
「高く売れるというわけにはいかんか?」
「人類学者のところへでも行きな。二束三文で買い叩いてくれるよ。学者てな金がないと相場は決まってる」
グレイは腕を組んでうーむと唸った。この辺の知識は乏しいらしい。部下にも専門家はいないようだ。そういう連中のところへ見せに行くと言い出す前に、
「どうだ、見せるだけじゃなくて、おれに売らないか?」
と切り出した。
「君に?」
「そうそう。あんた方が持ってても、宝の持ち腐れだろ。捨てるよりはましだ。五千米ドルでどうだい?」
どよめいた。彼らには大金なのだ。
「断る」
グレイはあっさりと言った。
「あらま、どうしてだい?」
「ジャン=ルイの一味が狙っていた骨だ。そんな値段で取り引きするつもりは、奴らにもなかったろう」
おれは苦笑した。やっぱ、切れるわ。
「わかった。一万ドルでどうだ?」
「お帰り願いたい」
「えーい、この商売上手め」
おれは、わざとらしく苦悩の表情をつくり、ついでに地団駄踏んでみせたが、グレイはびくともしなかった。
「百万ドル頂戴しよう」
「え――っ!?」
安く上がったな。
「そら法外だ。五万ドルで――」
「断る」
「五万と三千」
「三千の意味は何かね? ――とにかく百万ドルは譲れんな」
「わかった――何とか工面しよう」
胸の中で舌を出しながら、おれは絶望のため息を吐いた。
「結構だ。では、来たまえ」
いよお交渉上手、とか持ち上げながら、おれは、何とか九十万くらいで収められないかと考えていた。
「奥から出たまえ。裏の倉庫に保管してある。おかげで大枚の軍資金が手に入りそうだ。感謝する」
「いやあ、この国をよくするために使ってもらえて嬉しい」
とんでもない嘘つきに化けながら、おれは廊下へ戻り、奥のドアをくぐって庭へ出た。
全身に稲妻が走った。
「下がれ!」
前にいるグレイの襟首を掴んで引き戻した瞬間、重々しい爆発音が庭から吹きつけてきた。地面が揺れた。
「倉庫が狙われたぞ!」
誰かが叫んだ。おれとグレイの前にいた男が、走り出そうとして倒れた。銃声は上がらない。消音器《マフラー》だ。夜だからレーザー・ポインターも付いているだろう。
閉じたドアに弾丸が当たって、ちゅんちゅんと鳴った。短機関銃《SMG》だ。
わずかな隙間から、おれは外を眺めた。
倉庫の戸口で、三つの人影がこちらへH&K《ヘッケラー・アンド・コック》のMP5KらしいSMGを向けている。銃身下のレーザー・ポインターが赤い点に見えた。射手は黒ずくめに暗視ゴーグル。ご丁寧に防弾ベストもつけている。グレイ一派よりよっぽど金がかかってる。
誰かが一発射ったが、すぐに嵐のようなSMGの猛射に襲われて床に伏せた。ドアが鳴り、隙間の向うの壁が砕け散った。
「あばよ」
おれの挨拶を聞いて、グレイたちが眼を丸くした。
「どうする気だ?」
「おまえ、やっぱり、あいつらの?」
怒声が上がったが、おれは手をふっていなした。
倉庫の鉄扉が開いて、何人かが跳び出してきたのだ。二人目が円筒形のボックスを抱えている。
「借りるぜ」
おれは右隣の男の手からデザート・イーグル44マグナムを奪い取るや、狙いも定めず、一発ぶちかました。
左手の勘射ちだが、二人目がのけぞる。なあに、防弾ベストが守ってくれるさ。せいぜい肋骨の二、三本ってとこだ。
カバー役のSMGが間断ない炎を噴き上げた。
頭上を弾丸がかすめ、後ろの壁に当たるや、別の場所で音が弾けた。誰かが悲鳴を上げた。
跳弾《ちょうだん》だ。狭い戸口に六、七人が固まっていれば無理もない。
おれはジャケットの襟に手をかけ、内側に畳んである高分子マスクを引き出し、頭から被った。内側のスイッチを舌で押す。
分子の配列が変わって、ぴたりと凹凸に合う。
眼の部分は防弾ガラスのはまった細い裂け目だが、内側の視覚装置が充分な視界を与えてくれる。呼吸は口元の酸素ボンベが担当し、どちらもペンシル・サイズの極微メカニズムだ。
首から下は、同じボディスーツが肌を覆っている。いまのおれは、鎧をつけているようなものだ。
「出るなよ」
と言い残して突進した。
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第四章 ブータの部屋
1
ドアから出るや、全身に火線が集中した。
顔が手足が胴が、ちんちんと澄んだ音をたてて弾頭を跳ね返す。走る速度は普段と変わらない。鉄でできた鎧が自在に動くようなものだ。
敵は明らかに動揺していた。
銀色ののっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]が、弾丸の雨あられの中を突進してきたのだから、そりゃ驚くだろう。
おれは奴らの肩と膝を狙って左手のデザート・イーグルを射ちまくった。
ひょっとしたら、腕は二度と使えないかも知れんが、ジャン=ルイの仲間だ。仕方あるまい。こいつらは、これまで二百人以上の人間を手にかけてるはずだ。
カバー役は、たちまち肩と膝を押さえて地べたへ転がり、おれは猛然と逃亡者に肉薄した。
莫迦が。壁の方へ逃げていく。行き止まりだ。
だが、そいつらが壁際の植込みから取り出した品を見て、おれは舌打ちした。
おれも使ったことのある品――ジェット・ボックスだ。
三人が大慌てでそれを身につけてる間に行けるか? ――OK。
おれは足に力をこめた。
あと一〇メートル。
そのとき、ひとりがこちらをふり向いて、何かを放った。
三メートルほど手前に落ちたそれは、細い木の枝を抱いた人形のように見えた。そして、みるみるうちに、その枝が八方へのびはじめたのである。
のびた枝からは新しい枝がせり出してきた。
縦に広がり横にのび、そして、おれの前方には見上げるばかりの茨の壁がそそり立ったのである。
その濃いこと深いこと――向うが見えない。幅は一〇メートル、高さは三メートル。ジャンプしても越えられない。
覚えがあった。
ジョジョパ族の“妨害”だ。アフリカの中央森林地帯に棲むこの連中の伝説によると、人間は一度きり、死の国から戻って来ることができる。しかし、その途上、死の国の妨害があるため、ほとんどは半ばで引き返さざるを得ないのだ。
ジョジョパ族の魔法使いによると、それは途方もなく広い茨の繁みだというが、どうやら、この世界へ引っぱり出すのに成功したらしい。――というのは、茨のあちこちに、見えるのだ。
仄白く透きとおった黒人の男女が。
茨の棘に串刺しにされ、身動きもできず、おれに助けを求めている男女が。
のんびり眺めている場合じゃなかった。繁みはなおも拡大をつづけ、おれの前方一メートルに迫るや、いきなり、鋭い棘がもの凄い勢いで突っこんできた。
ことごとくへし折れた。全身の金属装甲はバズーカ砲の直撃にも耐えられる。
おれは五メートルほど跳びずさった。
左の人さし指をデザートイーグルの引金から外して、手を増殖する繁みの真ん中にのばす。装甲服の指先には照準用のセンサーが装備されている。
胸部に格納されていたニードル・ミサイルが二基――というより二本せり出してきた。
発射《シュート》!
線香みたいな炎が奇怪な植物の山に吸いこまれ、小さな炎がふくれ上がった。
油まみれの炎塊が巨大化する様は、肉腫の増殖に似ていた。
亡者たちが炎に包まれて消えていく。いいところへ行けるといいがな。
繁みが叫びを放った。断末魔の絶叫だ。後で知ったことだが、これを聞いたため、この近所では鬱病にかかる連中が続出したという。おれは――慣れている。
炎の中へ突進しようとした。ニードル・ミサイルはパワーを放出し終え、火球は並みの炎に変わりつつあった。装甲服なら保つ。
炎を抜けた。
三人はジェットを装着したところだった。
間に合う。
ダッシュしようとして、おれは愕然となった。右足が動かない!? まさか、また!?
眼の前に白煙が広がった。
二本のブースターから炎を噴出しつつ舞い上がった三つの影に、おれはデザート・イーグルを向けたが、引金は引かなかった。遊底《スライド》が後座停止している。弾丸が尽きたのだ。ミサイルは射てるが、骨を溶かしちゃ何にもならない。
三人はあっさりと塀の向うに消えた。ジェットの噴射音が遠ざかっていく。
後で覚えてやがれ。――このひと言に口惜しさを乗せて、おれは気分を切り替えた。
塀にもたれて、右足を調べた。
動かない。右手よりひどいぜ。痛みゼロ、感覚そのものが失われている。
手ならともかく、足は片方でもイカれたらおしまいだ。おれ個人が物の役にも立たなくなる。
表の方からパトカーらしいサイレン音が近づいてきた。
ふり向くと、グレイの一党が、おれに射ち倒された連中を店内へ運んでいくところだった。
「済まんな、逃がしちまった」
「あんなものが隠してあってはやむを得まい。しかし、君は何者だ? とても、ただの宝捜しとは思えんが」
「あいつら、ジャン=ルイの手先か?」
「ああ。ひとり見覚えがある」
「ちょっと着替えさせてもらうぜ」
「服を用意しよう」
言われて気がついた。炎の繁みを抜けたとき、上衣もシャツも焼け落ちてしまったのだ。いまのおれは、頭のてっぺんから足の爪先まで銀色にかがやくロボットに見えるはずだ。
「心配はいらねえよ」
おれは装甲を外した。前後で二つに分かれ、みるみる折り畳まれていく服の下から、Tシャツとスラックスとスニーカーをはいたおれが現われた。
呆気にとられていたグレイが急に笑い出し、
「大したもんだ」
と言った。店の方から言い合う声と、客らしい悲鳴が聞こえてきた。
「お巡りが来たな。これで失礼する」
「待ちたまえ。何なら匿うが」
「悪いが人の手を借りると癖になる。――これは修理代だ」
きょとんとしているグレイにマジソン大統領を一枚渡し、おれは塀めがけて一発、ニードル・ミサイルを射ちこんだ。驚きの声を背後に右足を引き引き逃亡に移った。
逃亡先は“デュボアの店”だった。
荷物を預かっておいてもらったのだ。勿論、持ち出されない仕掛けはしてあるし、十米ドルを無駄にする爺いじゃねえ。
さっきと同じでぶの召使いがコーヒーを運んできた。
上衣に入れていたビザとパスポートとカード、小切手帳、万能時計なんぞは焼けちまったが、なに、代わりはすべて用意してあるし、いざとなったら誘導ミサイルで運ばせるさ。
問題は――何より、この右足だ。
腕のいい魔法医師でも捜せば、その場凌ぎくらいはできるかも知れないが、そんなことをしてる時間も惜しい。
「ほうほう、半身不随かのお」
デュボアが面白そうにやってきた。
「それでは歩くのも難儀だろう。どうだね、ひとついい拾い物があるのだが、買っていかんかね? 一万米ドルにまけておこう」
「歩くミイラとかじゃねえだろうな?」
「………」
デュボアの顔を見てわかった。
「やっぱりか、このヤロー」
爺いめ、あたふたと四方を見廻しながら、
「安い、とても安い。それに、ただのミイラと違うぞ。千八百年くらい前に死んだローマの剣闘士のミイラだ。ボディガードにもってこいだ」
「剣闘士か」
ふっと気持ちが揺れた。デュボアは見逃さなかった。
「ミイラにしたのは、古文書によると、当時ローマにいた人形師だったらしい」
「人形師?」
「それも、水圧や発条《ばね》やベルトを使ったからくり人形専門の男だった。トラヤヌス帝の時代に火焙りにされたが、亡くなった剣闘士の身体を自宅の工房でミイラ化し、あれこれ仕掛けを施して、生きてるみたいに動かしたそうだ」
「ふむ」
「それだけならいいが、召使いや下女としてこき使ったため、ミイラどもがキレて、当時の執政官に訴えた」
「ミイラがか? ――そんなの使えるもんか、要らねえよ」
「安心したまえ。これは実に素直で、主人の言うことをよく聞く。あんた向きだ」
「嘘こけ」
「正直者を信じられないものは、欠陥のある人生を送るのと等しいそうだが、不幸な男だな」
「うるせえや、糞爺い」
「――それでは、買い気を起こさせてみるか。ペクタス、林檎をひとつ持って来い」
でぶ[#「でぶ」に傍点]がやって来た。外谷《とや》に見えて仕方がない。
丸まっちい芋虫みたいな手が、赤い林檎をテーブルの真ん中に置いた。
「ん?」
いきなり、
「アイヤア」
まさか、でぶがローマ式の長剣を隠し持っているのがわからなかったから、少し驚いた。
「テエエ」
白刃一閃《はくじんいっせん》――
おれは真っぷたつになった林檎と――テーブルを見つめた。
デュボアも呆然としている。
「おい」
「うむ」
「こいつが、その素直なミイラか?」
「うむ」
「どこがミイラだ、相撲取りじゃねえか」
「それは見解の相違だな」
「うるせえや、おい、ふたつにするのは林檎だけだったよな?」
「いや、テーブルもだ」
「嘘をつけ、この糞爺い。とにかく、こんな物騒な化物を連れて歩けるものか。とっととあっちへやれ」
「いかんか。それならこうしよう。一週間、試験期間を設ける。その間は無料で使ってよろしい。気に入ったら買いたまえ」
おれの頭はめまぐるしく回転した。答えはすぐに出た。
「オッケーだ。その代わり、コキ使うぞ。バラバラにされても文句は言うな」
「いいとも」
爺いは、こんな老人を疑う奴は人間じゃないとしかいえない笑顔になった。怪しい。しかし、ま、案外、拾いものかも知れない。それに一週間だ。使うだけ使って、やっぱりだめだと放り出しゃいいし、使いものにならないとわかったら、その時点で放り出せば済む。
とりあえず、簡単なテストをしてみようかと思ったら、いきなり、ドアが激しくノックされた。
「警察だ。近所で起きた銃撃事件の捜査をしている。開けろ」
「いかんな――裏口から逃げろ。うちは眼をつけられている。徹底的に家捜しをされるぞ」
デュボアの叫びに押されるように、おれは脱出した。ふり向くと、でぶがへこへこついてきた。
2
「うーむ、困った」
おれは声に出して唸った。勿論、盗聴器なんぞが仕掛けてないのは確認――しなくてもわかってる。
おれは、ふかふかしすぎの後部座席にもたれかかったまま、右足を揉んでみた。
感覚はゼロだ。医療センサーでチェックしてみたが、医学的な異常はゼロと出た。右手と同じく、呪術的な麻痺だろう。となると、解く方法を捜さなきゃならない。
当てはあったが、いまは動けない。外は警官がうようよしているからだ。フロント・ガラスの向うにも、通りをうろつく制服姿が見える。後ろを見た。リア・ウィンドーの向う、通りの右側のレストランから警官たちが出て来た。
ひとりがこちらを指さし、仲間を促して駆け寄ってきた。手にしたガリルの安全装置《セフティ》はとうに外され、ご丁寧にボルトも引いてある。市民に対する配慮など最初から欠落してやがる。
おれは構わず、前の助手席にかけたでぶの剣闘士――ペクタスを見つめた。こいつが、おれの手足になってくれりゃあいいのだが、とても信頼は置けない。試してみるか。
窓から黒い顔が覗きこんだ。ワンウェイ・ミラーだから、こちらからは見えても、向うからは全然だ。莫迦が。まだ気がつかないのか。
ひとりが気がついた。
ナンバー・プレートには、ベルゼボ共和国公用車のマークがついている。
他の奴に伝えた途端、そいつらは跳びずさって敬礼を送った。
蒼白――というのもおかしいが――になった顔を見交わしつつ、足早に退去する。
三十分後、警官もうるさい巡回中のパトカーもいなくなってから、おれは外へ出た[#「外へ出た」に傍点]。
長居には向いてない。
通りの右端に駐車しているのは、いまなお世界最高のデラックス・カー――ロールス・ロイス「シルバー・クラウド」だった。市民の半分はボロ車も持っていないのに、公用車はすべてこれ[#「これ」に傍点]だ。
夜の通りに人影がないのをもう一度確かめてから、ノーズにかがやくエンブレムをひと捻りした。
しゅう、とガスの抜ける音が流れて、最高級車はみるみるしぼんでいった。
風が砂塵を巻き上げた。おれは手で顔面をカバーしたが、隣のペクタスは平然としている。さすがミイラの現役だ。
十秒とかからぬうちに車はまるまる一台、小さなボンベと手のひら大の特殊ゴムの塊に化けた。
世界中の軍隊が、敵の攻撃に備えて、数々の偽装兵器を採用しているのは知ってるだろう。木やボール紙でこしらえた戦車や大砲、大掛かりになると陣地丸ごと映画のセットだったりする。
これらは人間の眼で索敵する砲撃や空爆用の品にすぎないが、最新式のレーダーやセンサー相手となると、電磁波で構成した戦艦などという大仰な代物が登場して効果を上げている。本物の「幽霊船《ゴースト・シップ》」だ。
おれの“偽装車”はもう少し手が込んでいる。外見も内装も本物そっくり瓜二つ。ドアも開くし、ホーンも鳴る。エンジンさえつけりゃ走行も可能だ。欠点は、風船と同じ原理に基づいているので、乗り心地が悪いことだ。
ボンベとロールス・ロイスをポケットに収め、おれは宝捜しに移った。
「ホテル・グショケシ」は、チヂム族の言葉で「夜遊び」という意味だ。そういう観念が昔からあったかどうか疑わしいが、不審がっても仕様がない。ただ、チヂム族は他の種族と比べて、ハンサムが多いと評判だ。
ここを選んだのは理由がある。
狭苦しいツイン・ルームに入って来た女は、ママ・ブータ。名前通り三百キロはありそうに見える女主人である。一年前、ナイロビで古代部族の女神像を手に入れたとき、手を貸してもらった。五十万ドルでだ。ベルゼボでホテルをやってると連絡が入ったのは、半年後だった。
「ハーイ、大」
自らコーヒーのトレイを運んで来たものの、腹と尻がつっかえて入れない。
うん、うん、と身体をゆすること一分、
「くええ」
ズボリと抜けた。
「少し太っちゃったわね」
腰のあたりを撫で廻すのを、おれは呆然と眺めた。ここへ来るたびにこれ[#「これ」に傍点]をやる。賭けてもいいが、じき崩れ落ちるぞ。
傾きかかったテーブルへ、カップとポットを並べながら、ブータはじろりと、ベッドのひとつに腰を下ろしたペクタスをにらみつけて、
「何よ、あのでぶ[#「でぶ」に傍点]は? 醜い奴め」
と言った。
眼つきが外谷に似ている。太った女というのは、みんな同じ眼つきをしているのだ。断言する。そして、自分以外のでぶを敵視する傾向がある。
「そいつはミイラだ」
「あー?」
「おれの用心棒だ。よろしく頼むぜ」
「あー、デュボアの店」
ブータは手を叩いた。分厚い唇が邪悪な笑いに歪む。でぶというのは概ね人がいい[#「いい」に傍点]のだが、おれの知り合いはみな悪い[#「悪い」に傍点]。原因は不明だ。
「よくわかんないけど、お巡りが急に活気づいたのは、あんたのせいだね。ふっふっふ」
「何がふっふっふだ?」
一応訊いてみたが、実はよくわかってる。警察へ密告《チク》ってもいいかとほのめかしているのだ。
「ほれ」
一万パレ札を握らせると、一転、お多福さんみたいな笑顔になった。世界は平和だとしみじみするような笑顔だ。このホテルを出るまで五十万パレは覚悟しなくちゃなるまい。
「ところで頼みがある」
と、おれは切り出した。
「あいよ」
ブータは自分を抱くような形で、両手を打ちつけた。ぽこんぽこんという音がした。力道山時代のプロレスのビデオを見たことがあるが、力士出身のちゃんこ型レスラー・豊登の得意技がこれだ。
「おれの右手と右足に呪いをかけた奴がいる。少しも動かない。動く方法を教えてくれ」
「ふんふん」
ブータはおれに近づき、手と足を調べた。
細い眼が異様に細まり、その額から汗が噴き出してきた。右手を左の袖口に近づけ、ひょいと抜き出したのは三〇センチもあろうかという針だった。太さ二ミリもなさそうな表面には、髑髏《どくろ》だの翼の生えたライオンだの、得体の知れぬ怪獣やらが刻印されている。呪術用の針だ。
いきなり、右の腿へぶすりと来た。当然、痛みはない。
「えい」
握ってぐりぐりとえぐった。ちっとも効かない。
「ふむ」
ブータは立ち上がり、南向きの窓を開けた。
それから部屋の真ん中へ来て、いきなり両手を上げた。
蝦蟇《がま》のような大口が放った言葉は、訳のわからない呪文だった。BとUの合成音が多い。
いきなり、ぶええ〜〜〜〜っと喚いた。
途端に、窓の外でピカ、ごろごろと鳴り、まばゆい光が一条、闇黒と針とをつないだ。
それが熄《や》むと、
「どうだったね?」
と、おれに訊いてきた。頭から黒煙が上がっている。凄まじい妖術の結果だ。
おれはかぶりをふった。
「駄目?」
「うん」
ブータの顔がみるみる青ざめ、へたへたとその場にしゃがみ込んでしまった。
「どうした?」
ある程度、覚悟はしているが、ここまでやられると気になる。
「あの針が効かないとなると、世界で打つ手はないよ。呪いのかけ手[#「かけ手」に傍点]を滅ぼすか、望みを叶えてやらない限り、あんたは徐々に手足が動かなくなり、最後は心臓も止まる。それで、おしまい、さ」
ブータの眼は期待に燃えていた。魔法使いというのは、こういうものなのだろう。
「とりあえず動かす、ってのはどうだ?」
「できないね」
あっさり言いやがる。
「わかった、出てけ」
「なにさ、いきなり。これだから日本人は嫌いなのさ。人を何だと思ってるんだい」
「呼ぶまで来るな」
おれは左手で十万パレを握らせた。
「いつでも呼んどくれ。便宜は何でもはかるよ、はっはっは」
豪快に笑って出て行く前に、ペクタスをじろりとやるのを忘れなかった。
おれは早速、次の手を考えた。とりあえず二つある。
まず、携帯を取り出し、おれ専用の通信衛星経由で、ワシントンにある「Xサイバーマン社」へつないだ。受付なんかじゃない。直接、会長室だ。向うも、おれの専用回線だとわかっているから、
「これはミスター八頭。何の用だね?」
揉み手してるのがわかるような声だった。おれはこの会社の筆頭株主なのだ。
「大急ぎで義手と義足をこしらえてもらいたい。おれ用だ。データはあるな?」
「勿論だとも。しかし、わざわざ我が社へ依頼とは、一体、どんな仕様がお望みかね?」
普通なら会長にかける電話じゃない。即座に開発部へ廻されるところだ。だが、おれが相手じゃそうはいかない。
「人間とそっくり同じ動きをする義手だ」
「お易い御用だ」
「ただし、義手といっても、もとの手足は動かないだけで健在だ。その上に被せるタイプにして、おれのイメージで動くように工夫してもらいたい」
「それは――」
会長は絶句した。当然だ。少し考え、
「一分待ってくれたまえ」
と思案投げ首の声で応じた。きっかり一分後にかけると、
「ナノテク開発部長のチャン・シドーです」
流暢な英語だが、名前からして中国系らしい。
「会長からご要求は伺いました。技術的にほとんど可能ですが、唯一の問題は、イメージによる作動の部分です。目下の技術では不可能とお答えしなければなりません」
「何日で開発できる?」
「一週間」
きっぱりと返ってきた。さすが理工系だ。
「二日でやれ」
「三日必要です。仮想現実《ヴァーチャル・リアリティ》を応用することになるでしょう。新しいスタッフと工場と機材を一から編成しなくてはなりません」
「わかった。大至急頼む」
「承知いたしました」
「いよお、終わったかね」
会長の声はにこやかだった。盗み聞きしてやがったな。
「ところで、ものは相談だが」
と来た。
「実は、会社の金を少々使いこんでしまってな。三日以内に補充しなくてはならん。次の株主総会でつつかれると、わしは退陣間違いなしだ。そうなると、君にも色々不便なことになるが」
「わかった。幾らだ?」
「大したことはない。三億ドルほどだ」
成程、大したことはない。だが、それと、出すのとは別だ。
「今日中に振りこむよう手配する。口座は昔どおりだな? ――それじゃ」
おれはすぐ回線を切り換えて、総務部長を呼び出し、いまの話を告げた。これで会長は追い出されるだろう。後には現社長が坐る。そして、社長には、おれの息のかかった副社長のひとりがなって、いまの会長派を根こそぎ粛清することになる。ちょうど、替えどきだと思っていたところだ。
それはともかく、三日も右手右足が不自由では危《やば》い。
おれは手の携帯を眺めた。十秒もそのままでいただろうか。相手のナンバーをプッシュし終えても、なお迷っていた。おれとしては珍しいことだ。
呼び出し音が鳴った。三度で出なければ切るつもりだった。
三度目で出た。
3
「久しぶりだな」
男のおれでもぞくりとするほど渋い、鉄のような声が応じた。
「元気か?」
おれも声をかけた。当たり障りのない挨拶に聞こえるが、必死でひねり出したものだ。そういう相手だった。
「何とかやってる。おまえの方は相変わらず派手だな」
「風の噂だろ。地道にやってるよ。ところで、頼みがある」
「おまえが――おれにか?」
揶揄するような口ぶりだった。
「そうだ。いま、ベルゼボ共和国にいる。首都の“月鬼通り”の「ホテル・グショケシ」28号室だ」
「悪いが取り込み中だ。いま、パリにいる」
「キャンセルしてくれ」
おれは追いかけた。いまの事態と比べれば、どんな宝捜しもママゴトだ。ただし、おれにとっては、だが。
「用心棒になってくれ。三日でいい。三千万ドル出そう」
「悪いが、金には困っていない」
「わかってる。六千万ドルでどうだ?」
「いいだろう」
相も変わらず正直な野郎だ。狐と狸の化かし合いって気もしないでもないが。
「いつ来れる?」
「これからだと――一時間でどうだ?」
「上々だ。頼むぜ」
返事もなしに切れた。
これでひと安心――どころの話じゃなかった。おれがやったのは、原爆を処分するのに水爆を使うようなものだ。
しかし、いつもながら寒々しい野郎だ。冬と話しているような気がしたぜ。
厳寒の雪嵐《ブリザード》にふさがれたような胸が溶けるまで数分を要したが、そろそろ眠ることにした。
「おまえも寝ろ」
ペクタスに声をかけると、のこのことベッドに潜りこんだ。よくわからないが、なかなかやる。
すぐに眠りに落ち――
醒めた。十分と経っていないと、身体が告げている。室内は闇に包まれていたが、おれの眼は昼間のように見通せる。
「おい、ペクタス」
と声をかけた。
隣の上掛けの下から、太ったミイラ男の顔が現われた。
「お前の腕を見るいい機会だ。外にゃ三人いる。全員片づけろ」
二千年ほど前のイタリア語で命じた。文法的な間違いはあるかも知れないが、大体は合ってる。
ペクタスはうなずき、ベッドを出た。
ベッドに立てかけてある剣闘士時代の長剣を、鞘ごと掴んでドアの脇に立つ。いい感じだ。
外の奴はさぞ巧みに錠を外していると自信満々だろう。現に耳を澄ませても、常人では沈黙しか聞こえまい。おれの耳なら別だ。奴らが何を使っているのかもわかる。ただし、眠っているのを起こしたのは勘か、運命だ。
かちりとロックが外れた。細目に開いたドアの向うからグロックM17を握った黒手袋が覗いた。銃身にはソーセージみたいに太くて長い消音器《マフラー》がついている。
ベッドは死角になるから、敵は室内へ入りこまなくてはならない。
だしぬけに開いた。
つんのめるように三つの人影が跳びこんできた。
だが、奴らが消音器の銃口をこちらへ向ける前に、おれはもう準備を整えていた。
音波衝撃銃《ソニック・スタナー》は、ブローニングの25口径“ベイビー”程度のサイズしかない。音源は縫い針程度の空砲だ。なんと百発入る。
本来はひとりずつ片づけるのだが、左手一本だ。まとめてやることにして、音波を拡散レベルに合わせる。切り替えは右でも左でもOKだ。片手だけになったのは、今回が初めてじゃない。
だが、引金《トリガー》を引く前に三人は恐慌に包まれた。戸口に隠れていたペクタスが殴りかかったのだ。
いちばん近い奴が頭を押さえて倒れ、当然、ふたりはそっちを向く。
もうひとりもやられて倒れ、三人目が反撃に移った。
つぶれた銃声が弾け出る。
莫迦が。相手はミイラだぞ、効くものか、と思ったら、なんとペクタスは鳩尾のあたりを押さえて蹲《うずくま》ってしまった。
この役立たず、と思う間もなく、殺し屋はおれの方を向く。
キィンと空気が鳴って、空薬莢が弾き出る。
呆気なく引っくり返った。
おれは素早く男に近づき、拳銃を蹴りとばすと、殺し屋の眉間に銃口を突きつけた。
「フォノン・メーザーだが、脳をゆさぶられると、一生元に戻らねえぞ」
英語で脅した。悪相の白人は、小さくうなずいてみせた。全身麻痺に陥っている。もう少し強力にすると失神だが、しゃべらせなくちゃならない。
「声ぐらい出せるな?」
と訊いた。殺し屋はうなずいた。おれが本気なのがわかったのだ。
「射つな……殺しに来たんじゃ……ねえ」
「じゃ、何しに来た?」
「ボスの命令で……ある場所へ……連れて……来い……と」
「……ボスてな、ジャン=ルイか?」
「……そう……だ」
よくここを見破ったもんだ。ブータの婆さんがしゃべったかな。
「ある場所てのは、どこだい?」
男は沈黙した。
おれは安全装置をかけた[#「かけた」に傍点]。殺し屋には外した[#「外した」に傍点]と思えたろう。人間の心理てのはそんな風に働く。問題は、カチリと鳴る音だ。
「射つな……教える……『化石街』にある……倉庫だ……ひとつしかない……」
「おれを連れ出しにきた理由は?」
「さっき……そこへ……日本から女が着いた……そしたら……ボスが急に」
「女? 日本からって――名前は?」
嫌な予感がした。
「わからねえけど……途轍もなく……色っぽい娘だった……えれえ……グラマーで……よ」
男の口から、麻痺のせいじゃない涎がこぼれた。
「ど田吾作が。ところで、おれを殺しに来た以上、覚悟はできてるな?」
男の表情が恐怖からでき上がった。
「待ってくれ……そんなつもりはなかった……連れて来いと……」
「なら、普通の拳銃でいい。消音器付きは暗殺用だぜ」
入って来たとき、こいつらは殺気に充満していたのだ。連行の雰囲気じゃなかった。
「………」
「どうせ、できれば殺せ、しくじっても連れて来いくらい命令されてたんだろうが。ふざけやがって。三下はおとなしくしてろ」
殺し屋が死相をつくった。
「死にたくなさそうだな?」
殺し屋は夢中でうなずいた。
「なら、これから訊くことに正直に答えろ。いいな?」
――――
殺し屋がしゃべり終わってすぐ、おれは安全装置を外し、引金を引いた。
一時間の失神に陥った殺し屋を見下ろしながら立ち上がると、かたわらで、鈍い殴打音が聞こえた。
ペクタスが倒れた殺し屋どもを蹴とばしているのだ。おれは呆れ返った。
「おまえなあ、弱い者いじめはやめろよ」
ペクタスは、不平面で足《キック》を止めた。
「確か、腹射たれて尻尾巻いたんじゃなかったのか。もう治ったのか、あーん?」
嫌味ったらしく訊いた。
でぶの剣闘士は鳩尾を押さえ、顔をしかめて身を折ってみせた。
「痛い」
と言った。口がきけるらしい。
すると、射たれたり斬られたりすると痛みを感じるのか。すぐ治るらしいが、これじゃ、使いものにならない。
「おまえ、デュボアんとこへ帰れ。馘《くび》だ」
不平面がかぶりをふった。太え野郎だ。
窓の外を指さし、頭の両脇に人さし指を立てる。それから脅えるように身をすくめてみせた。
つまり、外のデュボア君は、鬼のように怖い人で、自分はいつも虐《いじ》められている、と言いたいらしい。それから片手をふって、
「嫌だ」
と言った。何抜かしやがる。
おれはドアを指さし、
「とっとと出てけ、腐れでぶ」
と罵った。
でぶはめげなかった。おれと自分を指さし、両手を握り合わせた。協力しようというわけだ。
「射たれてヘコタレるような用心棒じゃ役に立たねえんだ。失せろ」
ペクタスはなおも拒否の手ぶりを見せ、自分は射たれるといったん倒れるが、すぐに復活するという意味のジェスチャーをした。
だから役に立たねえんだよ、と言っても聞かない。最後にはおれが根負けし、
「わかった。じゃ、次の仕事だ。こいつらをフロントへ連れてって、ブータに渡して来い。それくらいできるだろう」
ペクタスはぶよぶよした胸を叩き、三人の襟首を両手にひっ掴むと、ずるずると出て行った。
その前に、三人の身体検査をしたのは言うまでもない。
三人とも、通信機と予備のSWチーフスペシャル・38口径、コンバット・ナイフと絞殺用の針金、用途不明のカプセルを持っていた。通信機の波長をおれの携帯に同調させ、財布から札だけを抜き取って、みな戻した。ブータが金にするだろう。三人の所持金は合わせて三万ドルに達した。こんなにまとめてマジソン大統領の顔を拝めるとは思わなかった。ジャン=ルイの野郎め、金はあるらしい。活動資金は豊富に、というわけだ。
じきにペクタスが戻って来た。おれの前に来ると、ぱちぱちと手を打ち合わせた。
お易い御用と言いたいらしい。とんでもない野郎だ。
「いいか、おれは出かけてくる。おまえは留守番してろ。動くなよ。――不平面するんじゃねえ、命令だ」
本来なら正体不明の娘など、放っておきゃいいのだが、日本から来た色っぽいグラマーというのがどうも気になる。
おれはブータに頼んで、ホテルの駐車場から、フォードの中古を一台出してもらった。十万パレ吹っかけられた。車の列を見渡しながら、
「ひょっとして、ここの車、みんなおまえのか?」
と訊くと、
「勿論さ。客の車よ。部屋代が払えなかったり、お尋ね者だったりした場合は、いただくことにしてるのさ」
部屋代云々はわかるが、お尋ね者の場合は、警察に密告してるに違いない。
「ところで、二度とジャン=ルイにおれのことを売らないと約束しろ」
ブータは平然と、
「一千万パレくれたんだよ」
おれは二千万パレ握らせた。
「まかしとき」
胸をどんと叩いた。でかいおっぱいがゆれた。でぶというのは、どいつもこいつも同じことをやるらしい。
とにかく、おれは夜の町を「化石街」へとフォードを走らせた。
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第五章 闇の助っ人(サポーター)
1
左手と左足だけで、マニュアルの車を動かすのは厄介だった。何とかこなせたのは、おれだからこそだ。
前に覚えこんでおいた記憶では、「化石街」まであと五分というところで、殺し屋から奪っておいた通信機のひとつが鳴りはじめた。
「あいよ」
おれは殺し屋の口調をそっくりに真似て応じた。その辺の腹話術や声帯模写よりは遥かに上手いはずだ。
「ハリスか、おれだ」
まごうかたなき、ジャン=ルイの声である。
「八頭の野郎はどうした?」
「それが……」
「やっぱ、返り討ちか。アンドレとモーリイは戻って来ねえな?」
「ウィ・ムッシュ。車で逃げ出しました」
「苦しそうだな、やられたか。ま、あいつとやり合って戻って来れただけマシだな」
「ウィ」
なるべく会話は少なく、ボロが出ないようにだ。幸い、向うで気を遣ってくれた。
「女の話はしたのか?」
「ウィ」
「何と言ってた?」
「そんな女、知らん……と」
「ほう、女好きと聞いてたが、意外と硬派だな」
ウィ、と言いかけてやめた。
「――すると、来ねえのか?」
「そう言ってました」
「野郎、てめえの女のくせにふざけやがって。よし、女に聞かせてやるぜ。さんざか抵抗して指一本触れさせねえが、これを聞いたらあきらめて股もおっ広げるだろう」
「そいつはどうかな?」
「ん?」
「いや――苦しい」
おれは呻き声を上げた。
「気をつけろよ。待ってるぜ」
「女――何と言いましたっけ?」
「ゆき[#「ゆき」に傍点]だ。雪《ネージュ》って意味らしいぞ。すべすべの肌をしてやがる」
このど助平野郎が。おれは胸の中で吐き捨てた。
やっぱりゆきか。ミイラの頭部の呪いでアフリカへ行くつもりが、自分では手続きが面倒なので、ゆきの方から連絡を取ったのだろう。しかし、こんな荒くれどもに、指一本触れさせないとは、さすがに太宰先蔵《だざいせんぞう》の孫娘だ。
「女が使えねえとなると、別の手を考えなきゃならんな。――よし、とっとと戻って来い」
どうやらバレなかったらしい。きっかり五分で「化石街」へ入り、問題の倉庫の少し手前でフォードを止めた。
さっきの通信で油断してりゃあいいが、世の中そううまくはいかない。
だからといって、手足が一本ずつでは荒っぽい作業も細かいのも無理だ。
スピード・オンリー。
すでに計画は立っていた。
ゆきは倉庫の二階にある小部屋に幽閉されており、ドアの外には見張りがいる。手足は自由だ。触ったら舌噛んで死んでやると脅し、事実、少し[#「少し」に傍点]噛んだらしい。これくらいの根性がなきゃ、とっくに下司《げす》どもの慰みものだ。
ジャン=ルイの仲間たちは、ほぼ全員下にいる。となると、最もいい方法はゆきを救い出す間、下の奴らに気づかれず、気づかれたら二階へは上げずに逃げ出すことだ。下へは行けない。
フォードを降り、おれはトランクを開けて、救出作戦の準備に取りかかった。
装甲服はそのまま、頭にヘルメット式のヘッド・アップ・ディスプレイヤーを被る。
ゴーグル式のバイザーを下ろすと、ヘルメットにつけられた四個のビデオ・カメラが映し出す三六〇度の三次元像が、視野にディスプレイされる。
続けて、左右の肩に「砲台」を装着した。
今回はディスプレイとこれに頼る外はない。
「砲台」は、読んで字のごとく、台の上に載った音波銃のことで、銃自体は小さなマグライトくらいのサイズだが、問題はディスプレイに連動し、内部のコンピュータで音波銃をコントロールする「砲座」の方だ。これはディスプレイを見るおれの視線で動く。そのために「砲座」は、あらゆる位置で三六〇度全方位に動く特殊なターレット上で銃を旋回させる。
勿論、四方を敵に囲まれ、おまけに上空や下方に敵がいる場合、どんなに高速で動いてもカバーし切れないから、両肩に装着することになるのだ。左手は、もっぱら戦闘以外の用事をこなす。
おれは念のため、左手にハンド・ミサイルを装着した。
あの髑髏をこの地で奪い合ったとき、ジャン=ルイはおかしな化物を使役しておれを襲わせた。バイオテクの産物だと思うが、異様にタフな外皮のせいで射っても焼いてもビクともせず、最後に口腔内へハンド・ミサイルをまとめてぶちこんで、ようやくおとなしくさせた。仕留めたと思うが自信はない。今度もあんな奴を控えさせてたら、厄介この上ない。だから、ハンド・ミサイルは、短いボールペン程度の容量に、通常の五倍のパワーを誇る特殊火薬《パウダー》を詰めこんである。重戦車くらい一発KOだ。計二十発――これもHUディスプレイで発射される。
おれは素早く武器をチェックしてから、電車の吊り革の把手部分の真ん中に、しぼんだゴム風船がくっついたような品を左手に握りしめた。
把手《グリップ》のレバーが圧搾されると、内側に仕込んだ超小型ボンベから不燃焼ガスが噴出し、風船はみるみるふくらんでいく。直径三〇センチほどで、おれひとりを持ち上げる十分な揚力が得られた。
一気に二〇メートルも上昇してから、ガスの噴出を止め、レバーを別の角度に押す。
風船――というより気球についているローターが開いて旋回をはじめる。前進開始だ。
気球はたちまち倉庫の屋上上空に到着した。
ディスプレイ上に、センサーの類は映っていない。
上から来るとは思っていないのだろう。
気球のガスを少しずつ抜いて、おれはそっと屋上へ舞い降りた。この辺のやり方は昔ながらである。
素早く、昇降口のドアに駆け寄って、気球を元のサイズに縮め、ジャケットの内ポケットに仕舞う。
鍵はかかっていない。
ノブに手をかけて廻した。
その瞬間、奇妙な現象が生じた。ディスプレイ上には何も映っていないのに、背後に気配を感じたのだ。
バイザーを跳ね上げながら、おれの身体は右へ跳んだ。動きを司るのは勘だった。
音もなく飛翔してきた品を、おれは長槍と看破《かんぱ》した。いまも観光用に現地人たちがふり廻す中途半端な槍じゃない。原始マサイ――それ一本で猛獣と戦った誇り高い戦士たちの武器だ。
しかし、鉄扉《ドア》に吸いこまれるとは思っていなかった。
まさか、と思いつつ、投擲《とうてき》方向を眺めた。右肩のフォノン・メーザーはすでにそちらを向いていたが、発射はやめておく。存在しないはずの敵を確認するのが先だ。
そいつ[#「そいつ」に傍点]はすでに腰の蛮刀に手をかけていた。
夜目にも黒光る筋肉質の身体、身長は一九〇を越す。それでいて、痩せぎすじゃない。たっぱ[#「たっぱ」に傍点]にふさわしい骨格と筋肉――巨漢といってもいい。身にまとっているのは小さな骨を組み合わせたらしいものを色つきの紐で首から吊ったペンダントと、柿色の腰蓑《こしみの》だけだ。
いまどき、いっこない、古風なアフリカの戦士。
そして、おれには扉に溶けていく長槍を見た瞬間に、その正体がわかっていた。
その姿を確認したのは、あくまでも念のためにすぎない。
おれは倒れたまま、両肩の超音波銃を、突進する巨体めがけて放った。
びくともしなかった。
頭上から唸りをたててふり下ろされる蛮刀を、おれは転がって躱した。
湾曲もしていない素朴な直刀は、コンクリの床に切りこんだ。
ジャン=ルイの野郎、とんでもねえ護衛を雇ってやがる。甘く見過ぎたぜ。
ミサイルは射ちたくなかった。射っても効きそうにない。
転がり廻って刃《やいば》をよけながら、おれは夢中でポケットから、親指の先くらいの塊を取り出した。
逃げる隙はなかった。巨漢はおれの動きを完全に読んで、次の一回転の先に刃をふり上げたところだった。
思いきり投げつけた。
狙いは鳩尾あたりだったのに、それは空中で方向を変え、巨漢のペンダントを直撃した。
ストロボなみの閃光が走り、それが消えるのと同じ速度で、巨漢も消滅していた。
「ふう」
おれはため息をひとつついて、何とか起き上がった。巨漢の立っていた足下に転がる白い塊を拾い上げる。
直径二センチにも満たない人間の干し首だ。デュボアが売りつけた品である。すでに死滅した古代部族の手になる魔除けは、千両役者なみの見事な見世物をこしらえたわけだ。
「ありがとよ」
礼を言った途端、それは手のひらの上でぼろぼろと崩壊してしまった。おひとり様一回限りか。
ジャン=ルイにもう気づかれたかと思ったが、昇降口をくぐった気配では、そうでもなさそうだった。
ずっと下から、笑いさざめく声と肉の焼ける匂い、アルコールの香り等が漂ってくる。
おれは二階の廊下へ下りた。
奥でボール箱の上に腰を下ろしていた男が、気づいてソビエト製のAK47を向けたが、途端に尻餅をついて動かなくなってしまう。音波銃の仕業だ。
ドアに近づく前に、おれは激しい物音と、肺腑を裂くような女の罵声を聞き取っていた。
この変態、ど助平野郎。――懐かしい言葉だ。
どうやら、倒れた奴から鍵を奪い取る必要はないらしい。
おれはドアを押し開けた。
その刹那、男が突進してきた。
反射的に左のフックを叩きこんで、その場へぶっ倒した。
「なによ、折角叩きのめしてたのに」
おれは苦笑しつつ声の主を見つめた。
ゆきは片手で、バストの半ばまでめくり上げられたTシャツを下ろし、もう片方の手で、これも赤い超ミニを引き下ろしているところだった。
黒いパンティが白い腿に食いこんでいる。久しぶりの眺めだったので感動していると、
「――何見てんのよ、ど助平高校生」
と来た。
ミイラの頭部の呪いは解けたらしい。いつものゆきだった。どっちが厄介かと問われれば、首を傾げるしかないが。
「ま、役得だな」
と、おれはウィンクしてやった。ぷい、とそっぽを向くゆきへ、
「訊きたいことは山ほどあるが、脱出だけ考えろ――行くぞ」
廊下へ出る。そこへ二人ばかりが上がってきた。
こいつらも、さっきのレイプ犯も、酒の勢いにまかせて、ゆきにちょっかいを出しに来たのだろう。相手が餓狼《がろう》とも知らずに。
一瞬のうちに眠らせたつもりが、後ろの奴がのけぞり、派手な音をたてて階段から落ちていった。
「上だ、早く」
と、ゆきに促し、おれは階段めがけて、ミサイルを一発射ちこんだ。
重戦車もスクラップにするパワーだ。鉄製の階段は呆気なく吹っとび、下で悲鳴が上がった。
ざまあみやがれと罵りつつ、おれは大急ぎで屋上へ上がった。
待ってたゆきが、ようやく気づいて、
「どうしたの、足引いて。やっだぁ――左利きィ?」
と、この娘らしい感想を洩らす。
「うるせえ、さっさと背中に抱きつけ」
と、おれは気球を取り出しながら命じた。
「うっさいわねえ。いちいち命令しないでよ」
ぶつくさ言いながら、ゆきは従った。おれの背中でたっぷりしたバストがつぶれる。
うお、と言いたくなるのをこらえて、気球を上げようとした。
かすかな金属音が足下でした。
おれがそっちを見下ろしたとき、ゆきが、
「あっ――出た!」
と叫んだ。
おれも顔を上げ、前方五メートルほどのところにいる生き物を認めた。
灰色の大蜘蛛――だろう。ただ、八本の節足の長さが優に二メートルはある超特大サイズだ。
一瞬にして理解した。こいつも、あの巨漢と同じ化物に違いない。
「逃げよう――早く!」
背中でゆきが叫んだが、おれは動けなかった。つまり、為す術がなかったのだ。
足下に落ちたのは、気球一式だった。
左手からは、あらゆる感覚が消えていた。
2
おれの苦境を知ってか知らずか――ま、知ってるはずはないが――大蜘蛛は、ゆっくりと近づいてきた。
「ゆき。足下に落ちてるやつを拾って、上に向けて握れ」
と、おれは叫んだ。
「イェイ!」
こんなとき、この色情銭狂い女も天下一品のトレジャー・ハンター、太宰先蔵の孫娘に変身する。おれたちも最高のコンビに化けるのだ。
余計な質問もためらいもなく、背中から離れたゆきの肢体がしなやかに動くや、二秒とかけず背中に戻って、おれたちの身体は空中に浮いた。
足のすぐ下で、がちんという音が鳴った。蜘蛛の顎が閉まったのだ。まさに間一髪。空中で、おれは安堵のため息を洩らした。早すぎた。
蜘蛛の奴め、いきなり立ち上がったのだ。つまり、後ろの四本足で上体を支え、上向きになるや、その口からしゅうと数百条の白い糸がおれたちを追ってきた。
「ゆき――レバーを」
言いかけたところで、おれは白い糸が全身を絡め取っていくのを感じた。
ぐいぐい引き戻されていく。
「大ちゃん、どうするのよお」
ゆきが叫んだが、遅かった。おれたちは屋上に引き下ろされ、頭上から粘つく雨のように蜘蛛の糸が吹きつけられていった。いくらおれでも、動くのが左足一本ではどうしようもない。いや、その足だって、いつかは。
蜘蛛が近づいてきた。
「やだやだやだ、虫、嫌い。あっちへ行け」
ゆきは身悶えしたが、全身に絡みついた糸はテグスみたいに強靭で、切ることさえできない。
そいつが、はっきりと口腔内の牙を剥き出しにしてのしかかってきても、おれは現状打破の方法を練っていた。
「きゃあああああ」
ゆきの悲鳴に、
「やめさせろ、ヒカ」
と告げるフランス語が重なった。次の瞬間、蜘蛛は跡形もなく消滅した。
おれたちの周りを人影が取り囲んだ。
「今回はついてねえな、八頭」
そう言って、憎々しげにおれの脇腹を軍用ブーツの先でこづいたのは、誰あろうジャン=ルイ殿だった。相も変わらずフランス軍の迷彩服に、左眼につけた黒い眼帯《アイ・パッチ》――センスの欠片《かけら》もねえ。
だが、おれの関心は一発で、彼の右後ろに立つ小さな人影に吸いついた。
黒光りする顔の上に白髭とつくりものの逆立った頭髪――こちらは黒髪だ。巨人と等しく腰蓑一枚だが、ペンダントが二重三重になり、手首にも色彩がきれいな腕輪が巻かれている。
おれを注目させたのは、両手で持つ、スペードを逆さまにしたような形の笛であった。木の枝の中味をくり抜いて、何百本も張り合わせたような手工芸品だが、音は一切しない。そのくせ、吹いている老人の顔は恍惚と歪み、全身に漲《みなぎ》る殺気とあいまって、奇妙な雰囲気を四方へ発散していた。
巨人戦士と大蜘蛛を操っているのはこいつだな。――一瞬でぴん、と来た。アフリカの奥地には、いまなお呪術をよくする小部族が存在する。彼らはその生活のすべてを呪術によって送る、いわば呪術的日常を維持し、いっかな、他の部族――というか文化形式と触れ合おうとしない。勿論、ヨーロッパをはじめとする近代文明の最先端についての知識はあり、それなりに取り入れてもいるのだが、あくまでも服装等の表層的な部分に留まり、生活の基幹は呪術に左右される。
それはいいのだが、中には本物がいるのである。
天候を自在に操り、ひとにらみで猛獣を使役し、一夜にして川の流れを変えるくらいは平気でやる。この親父も、そのひとりに違いない。
待てよ。おれは小声で、ゆきに、
「おまえにかけられた術を解いたのは、こいつか?」
「わかんないわよ、そんなこと」
愛想もへちまもない答えに、ジャン=ルイが代わって、
「そうとも。この娘はミイラの頭を直接、オゾンゴ渓谷へ持っていきたがった。止めようとした子分が三人も骨を折られちまってな。それで、こちらの大呪術師ヒカに、術を解いてもらったのさ」
それから、およそ人好きのしない顔になって、
「女にいいところを見せられなかったな、八頭」
憎々しげな声が頭上から降って来た。
ジャン=ルイが舌舐めずりしてやがる。こいつには幾つも綽名があるが、うちひとつ――“人食い”というのは、この癖からつけられたに違いない。
「うるせえぞ、このおフランスの田舎者。てめえの寝首を掻くため、わざと捕まってやったんだ。ありがたく思え」
おれは言い返したが、万事休すというのはこれだ。両手片足が動かなくちゃ、いくら口が達者でも何にもならない。
「てめえに射たれた傷がもとで、弟のランジェと従兄弟のコルドーが死んだ。じっくりお返しさせてもらうぜ」
「うるせーや、片眼野郎。あいつらは、二人とも、人殺しのレイプ狂だった。ヨガンダ族の一家を皆殺しにした上、虫の息の女の子を犯そうとした極道だ。だから、汚ねえ尻《けつ》に実弾をぶちこんでやったのさ。おれも知ってるよ、その傷から破傷風にかかったんだってな」
できるだけ小莫迦にしたような笑い声をたててやった。
ジャン=ルイの顔が、夜目にも悪鬼の表情に変わった。
「弟と従兄弟は、四十度の高熱に苛《さいな》まれながら、苦しみ抜いて死んだ。おめえは、もっと短いが、百倍もしんどい死に方をさせてやるぜ」
「ちょっとお、あたしはどうなんの?」
と、ゆきが喚いた。
ジャン=ルイはにんまりと唇を歪めて、
「さあて、どうしたもんかな。金目のものは手に入れたし、八頭もとっ捕まえた。つまり、もう用はねえ。一緒に行くか?」
「やあよ、こんな若さで死ぬなんて!」
ゆきは眼を剥いてフランス語で喚いた。断っておくが、怯えてるんじゃない。怒ってるのである。
「あたしは富と名声といい男に囲まれて百まで生きるのよ。その頃になったら蘇生術が発達してるだろうから、冷凍睡眠か何かに入ってさらに千年くらい長生きしてやるわ。起きたら、若返りの術も完成してるに決まってるわよね。骨も筋肉も内臓も、必要とあれば脳味噌も新品と取っ替えて、永久に生きてやるんだわ」
生命についてこんなことを考えていたのかと、おれは呆れ返り、同時にこいつらしいと納得した。
「だからさあ」
ゆきは鉄でもとろけそうな、甘ったるい声を出した。ジャン=ルイを熱っぽい眼差しで見上げ、
「助けてよ〜〜〜〜ん」
と腰をくねらせた。ブラはつけてるはずなのに、バストがぶるんぶるんゆれるのが特徴だ。
「いいだろう」
ジャン=ルイは涎まで垂らして言った。
「あら、うれしい。ありがと。とってもメルシー」
と微笑むゆきを見下ろして、
「――と言いてえところだが、ノンだ。おめえ、こいつの情婦《アマン》だろうが。なら、最後まで付き合いな」
「冗談じゃないわよ、こんな奴」
ゆきは歯を剥いた。汚いもののようにおれをねめつける視線は、本物だった。
「若いくせに羽ぶりがいいから付き合ってるだけよ。第一、まだ寝てないんだからね。処女膜調べてもいいわよ。ただ同じ屋根の下に住んで、食事してるだけよ。ホント」
おれは苦笑するしかなかった。仕様がねえ。こいつも骨の髄から人間なのだ。
だが、人間の真の叫びは、悪党の根性を変えることはできなかった。
「いいか、姐ちゃん、おれはどんな女でも股開きゃOKだが、ひとつだけ吐き気のするタイプがいる。おめえみてえなのだ。この裏切り者。実《じつ》がねえ女なんざ、生きてる価値もねえ。――おい、何見てやがる」
「いや、別に」
おれは少し呆然と答えた。よっぽどしげしげと見つめちまったらしい。実がねえ、か。人の物を盗む奴はサイテーだと抜かすこそ泥てのは、どんなもんだろう。
とにかく、おれとゆきは蜘蛛の糸に包まれたまま、屋上から下ろされ、バンに乗せられた。糸の効果はおれたちだけで、運ぶ連中は平気だった。爺いが何かしやがったな。両肩の超音波銃も、糸のせいで回転もできないんじゃ話にならない。
バンの中で、
「何とかしなさいよ、この役立たず」
と、ゆきが毒づいた。
「仕様がねえな。おれは両手と右足が動かない。手の打ちようがないとはこのこった。はっはっは」
ゆきは軽蔑の鼻を鳴らした。
「あんた、幾つよ。高校生のくせに、親父ギャグ? サイテー」
それきり、目的地に到着するまで不貞腐れたゆきは口もきかなかった。
おれたちが降ろされたのは、市街地の西の外れにある岩山だった。始末するのに、わざわざ手間かけやがる。
その辺を、ジャン=ルイの野郎に問い質《ただ》すと、またもにんまりとして、
「おめえたちを始末するのは、おれたちじゃねえ。安心しな」
と、おかしなごたく[#「ごたく」に傍点]を抜かしやがった。
バンが急な坂道を登ってきたので、どこかの山ん中かと思ったら、案の定、おれたちが放り出されたのは、僻地の学校の運動場くらいもある崖の上だった。
風が唸っている。空はまだ闇に閉ざされていた。星がきらめいている。
おれたちは崖っ縁から一〇メートルほどの地点に、足を崖っ縁に向けて寝かされた。
「しばらく、愛の憶い出でも語り合ってろや。じき、歯の根も合わなくなるぜ」
そう言って、さっさと行こうとするジャン=ルイの顔が妙にそそけ立っているのが、おれを不安にさせた。
「おい、おれたちの断末魔を見物していかねえのか?」
声をかけるとふり向いたが、もう早足で車の方へ向かっている。
「莫迦野郎、こんなところに、まともな人間がいつまでもいられるか。おめえたちの二の舞になっちまう」
「何だそりゃ?」
と訊いても答えず、さっさと車に乗るや、走り出しちまった。
一体全体、これから何が起こるんだ?
「ねえ、どーなってんのよ?」
と、ゆきが声をかけてきた。
「まさか、上空から禿鷹が襲ってくるとかじゃないでしょうね。さっきの道、一応、舗装路よ。トラックや乗用車のタイヤの跡も残ってたわ。ここだって、ほら、あっちにコーラの缶だの、パンの袋だのが転がってる。あら、パーティの痕もあるわ。しょっ中、人が来てんのよ。なのに――」
「崖の下だ」
と、おれは言った。
「そこから、何か出て来るんだ」
「あたしたちのときに限って?」
「そうだ。その証拠に――」
おれは何とか頭を動かして、道の方を見た。
人影が月光を浴びていた。
ヒカの爺いだ。
決まってる。おれたちの最期を見届けるのは、ジャン=ルイじゃなかった。その恐るべき呪術師だったのだ。
3
無駄とは思ったが、
「おい、おっさん、一億パレ出すぞ。助けてくれ」
とフランス語で交渉してみた。
爺いめ、にこりとしやがった。
こんな笑い一生見たくねえ。当分、夢に出てくるだろう。夢を見ることができるならば、だが。
「コレカラ……私ノ伜《せがれ》ガ……出テクル」
と爺い――ヒカは言った。訛のあるフランス語だ。
「どっからだ?」
皺だらけの黒い指が崖の方を示した。
「どういう意味よ、あれ? 下からってこと?」
ゆきがぶつぶつ言った。上からなら、上空を指さすだろう。しかし、真っすぐ崖っ縁を、となると。
爺いめ、おれたちを無視して、崖の端までトコトコ歩いていくと、大空に向かって両手を広げた。解放感の溢れる仕草だ。
それから、でかい声で、訳のわからない呪文を唱えはじめた。
一分も唱えつづけていただろうか。
「ねー、あれ、おかしいんじゃないの?」
と、ゆきがささやいた。
そのとき、爺いの向うで、何か黒いものが動いた。
――?
それは黒い山のようにせり上がってきた。両端に緑色の光がふたつ、妖しくかがやいている。
しゅう、とそいつの吐息と一緒に、鞭のようなものがのびてきた。
「ねえ、大ちゃん……」
と、ゆきが声をかけてきた。怯えはない。驚きのあまり、怖がってる余裕もないのだ。
「……あれって、蛇?」
もう間違いはなかった。これが爺いの伜か。
頭のサイズは二トン・トラックほどもある。その下の胴体は大の男二人が並んで片手を広げたくらいだ。おれとゆきをまとめて呑みこめるだろう。
爺いの声はまだ熄《や》まない。
いまや、それは崖っ縁から一〇メートルもの高さにのび上がり、緑色の眼でおれたちを見下ろしていた。
「眼を見るな」
と、おれはゆきに命じた。
蛇ににらまれた蛙というがごとく、蛇の眼には獲物を金縛りにする妖気がある。
返事はなかった。ゆきはもう虜になっちまったのだ。
何とか肩の音波銃を、と思ったが、ぴくとも動かねえ。蜘蛛の糸はまだ効力を失っていないのだ。
「あっち行け、この野郎」
と、おれは喚いた。
「おれたちを呑んだら、消化不良になるぞ」
我ながら呆れ果てたギャクだ。
勿論、そいつは耳に届いた風もなく、長い舌をしゅうしゅう出し入れさせながら、おれたちを見下ろしていたが、やがて、ゆっくりと下降を開始した。
あれから[#「あれから」に傍点]、どれくらい経つかな、とおれはぼんやり考えた。
――今度という今度は、駄……
こんな負け犬根性に身を浸す前に、そいつはかっと口を開いた。
真っ赤な口腔が広がった。
それが視界いっぱいに迫ったときも、おれはにらみつけていた。
だから、そいつが急に引っこむのも見ることができた。
蛇は首をすくめるように引き、それから、別の方向へ眼をやった。
道の方に。
爺いもふり向いた。
蛇がしゅうと威嚇音をたてた。そうしなければならない相手がいるのだ。
おれはにやりと笑った。
あいつに連絡してから、一時間は経っていた。嘘はつかない男だ。
のけぞるようにして覗いた。広場の入口に、長身の黒影が立っていた。
長髪が風にゆれている。
上衣《ジャケット》、細いスラックス、長靴《ブーツ》にシャツ――どれも十分に使いこんだ闇色だ。
「間に合ったようだな」
渋好みが聞いたら、感動のあまりひっくり返ってしまいそうな声である。
「遅かったじゃねえか、このヤロー」
なるべく安堵が出ないように返した。
「贅沢を言うな」
声が近づいてきた。足音はしない。いつも思うのだが、こいつは歩くとき、地面を踏んでいるのだろうか。
長い足がおれのかたわらで止まった。
「ホウ、伜ガ怯エテオル――珍シイ」
いつの間にか、こちらを向き直ったヒカ爺いが感嘆の声を上げた。
「二人は貰っていく」
と、そいつは言った。
「ソレハ困ル。伜ノ餌デノオ」
「では――おれを食え」
「ホウ、聞イタカ、伜ヨ?」
蛇が、しゅうと応じた。
「三匹目ノ餌ガ来タ。シカモ、最初ニ食ワレタイラシイ。望ミヲ叶エテヤレ」
気配がおれから離れた。
のしかかってきた巨大な口が、そいつの上半身を呑みこんで閉じるのをおれは見た。
なんてこった。パリからやって来た助っ人は、あっさり蛇の胃に収まるのか。
蛇の頭が跳ね上がり、ぱくりと彼を呑みこんだ。喉のあたりから、塊が下へと下りていく。
「ジキニ消化ガハジマル。次ハオマエタチダ」
呪術師は嘲笑した。何しに来たんだ、と思ったのだろう。
笑顔はすぐに熄《や》んだ。別の笑顔に気がついたのだ――おれのに[#「おれのに」に傍点]。
「貴様――何を?」
「たわけ」
と、おれは日本語で罵った。
「あいつが誰だか知っているのか? このおれが選んだ助っ人だぞ」
笑いとばしてやろうかと思ったが、その暇はなかった。
いきなり、大蛇の野郎が暴れ出したのだ。
全身をよじり、うねくらせ、上下左右にふる――まるで、断末魔だ。いや、腸捻転か。
一〇メートルの身体が弧を描くようにのけぞった。ほとんど円だ。
そして、凄まじい勢いで自らを前方へ叩きつけたのだ。
その身体は四散した。飛び散ったのは、血でも肉でもなかった。白い骨の破片だった。こいつは、もとから死んでたのだ。
ヒカのペンダントのひとつが砕けるのを、おれは見た。
奴はよろめき、喉と胸を押さえて二、三歩後じさった。呪術が破れたのだ。
窒息寸前みたいな呼吸に、おれは心配しちまったほどだ。
ようやく少し楽になったとき、ヒカは前方に立つ黒い影に気がついた。
「ねえ、あれ、誰よ?」
ゆきの声だった。ヒカの呪術が破綻すると同時に、蛇の金縛りも解けたのだ。
「貴様……ワシノ伜ノ腹ニ収マレバ……五秒デ溶ケテシマウ……ドウヤッテ……何者ダ?」
おれが代わって答えた。
「牙鳴譲《きばなりゆずる》――おれの従兄弟だ」
次の瞬間、爺いの取った行動は、おれたちの想像の埒外《らちがい》にあったといえるだろう。
いきなり、ダッシュしたのだ。――崖っ縁の方へ。
譲が追った。
爺いめ、意外に速かったが、譲には及ばない。
あっという間に――だが、手をのばせば届く距離で、譲は大きく後方へ跳んだ。
頭上から、突然、凄まじい羽搏きが舞い降りた。片翼三メートルもありそうな大鷲だ。
猛禽の爪を譲が躱す間に、爺いは――これも無茶苦茶だが――崖っ縁から身を躍らせた。
鷲の爪が譲の右肩を捕えた。――と見る間に彼の身体は宙に浮き、一気に二〇メートルもの高度に吊り上げられていた。
そこで鷲は爪を離したのだ。
石のように落ちていく譲の右手から閃光が広がった。銃声が遅れて、大鷲は空中で骨に変わった。
譲はおれから一一、二メートル右横の地面へ叩きつけられた。どんな落ち方をしてもまず助からない。
ゆきがきゃっと洩らし、見てみると、両眼は固く閉じていた。意気地のない女だ。
おれはにやにやしながら、
「おい、譲」
と声をかけた。
えっ!? とゆきが顔を上げ、ええーっ!? と眼の玉が飛び出しそうなくらい見開いた。
「あ、そーか」
と納得するのに時間はかからなかった。
「また、おかしな服つけてんのね。あんたの従兄弟だから」
おれは苦笑した。
「あいつは素手、素肌が売り物さ。せいぜい、拳銃くらいだ」
「まさか――」
ゆきが眼を丸くしたところへ、譲がやってきて、
「相も変わらず、色ものを相手にしてるな」
と声をかけた。右手にSIG《シグ》のP・九ミリ・十六連発を握っている。外見《みてくれ》はよくないが、操作性、信頼性ともに拳銃《ハンドガン》王国のトップに君臨している。ドイツとスイスの工学技術の結晶だ。
「うるせえ。とっととこの糸を外せ」
譲は無言でおれの上に屈みこみ、右手の人さし指をのばして、ひとすじの糸に触れた。
その指先が、噛み切られたみたいに失くなるのを、おれは見た。
かすかな、蚊の羽音を十倍も小さくしたような音が、おれとゆきの全身を巡った。
三秒と経たなかったろう。ゆきが喚声を上げて、手足をふり廻した。
「ちょっと。あの糸消えちゃったわよ。ひとすじも残らず。――これって、どういうこと?」
「あいつも魔法使いだったというわけだよ。さ、起こしてくれ」
「なーによ。あんたみたいなデブ、肌から油流されちゃかなわないわ。従兄弟さんに助けてもらいなさいよ」
「てめーこの」
罵ってやろうとしたら、肩に手を当てられた。
あっという間におれは立たされてしまった。譲は腕一本。大したものとしか言いようがない。
「あ、ねえ、あたし、足くじいちゃったみたいよ。イタタタタ」
右の足首を押さえて、楽しげな笑い声をたてたゆきの真意は十分読める。譲に惚れたわけじゃない。とにかく唾をつけ、自分の魅力の虜にしたいのだ。その証拠に、片手は素早く、ブラウスのボタンを外している。九二センチのバストが武器だ。
この肉弾攻撃に、我が従兄弟はどう応じたか。
「さっさと立て。お互い、無駄な労力だ」
だとよ。ゆきがみるみる膨れっ面になったのは言うまでもない。
「なによ、この田舎者! レディに対する礼儀も習ってないの!?」
喚いたのは立ち上がってからだから、お笑いぐさだ。
「あの呪術師は多分無事だ。次の攻撃が来る前に引き揚げよう」
これだけ言うと、譲はおれの身体を垂直に放り上げた。
「わあ」
と叫んでも仕方がない。そのまま落っこちたのは、譲の背中だった。
おれが胸を撫で下ろしたのを知ってか知らずか、さっさと道路の方へ歩き出す。
ゆきになど眼もくれない。
「ちょっとお――待ってよお」
ゆきも慌ててついてきた。男はおれみたいな紳士ばかりじゃないと、ようやくわかったろう。
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第六章 大統領と息子
1
譲はきっかり一時間でパリからベルゼボ共和国へ着き、「グショケシ」へやって来た。おれが出かけた後だ。ペクタスに渡しておいたメモを読んで倉庫に駆けつけたら、おれとゆきがバンに乗せられるところだった。おれが置き去りにしたフォードを見つけ、追跡を開始して、間一髪で登場したわけだ。
フォードの中で、おれの質問に対する答えを聞いた途端、ゆきが絡み出した。
「どうして、連れ出されるとき、助けなかったのよ?」
というわけだ。
譲の答えは簡単だった。
「いずれ戦う相手だ。手の内が見たかった」
「見せる前に、車の中で殺されたりしたら、どうするつもりだったのよ?」
「奴らは全員出動した。君たちを単に殺して放り出すつもりなら、極端な話、ひとりで十分だ。それに――」
「――何よ?」
「呪術師が一緒だったものな」
と、おれが口をはさんだ。
「おれたちがどうなっても、いずれ呪術師は敵に廻る。そのときのために、奴の術を見学するつもりだった。――だろ?」
譲はうすく笑った。
女のような柳眉、細い眼と深い闇色の瞳。すっきりとのびた鼻梁は、世界最高のモデルも遠く及ぶまい。おまけに、全体のイメージは、東洋的な神秘感満点と来た。唯一の欠陥は、やや酷薄そうな唇だが、これも女が見たら、
「冷笑されたい、罵られたい」
と声を揃えるだろう。いまなお世界ファッションの中心地――パリとミラノで、かつてモデルのバイトをしていたとも聞いた。ジバンシーやサンローラン、ディオール、シャネル、ゴルティエといった大御所が、眼の色を変えて、こいつの出演を希望したという。
まさか、プロの宝捜し屋――トレジャー・ハンターとは思いもしなかったろう。それも超一流の。トレジャー・ハンターとしての彼の収入は、世界最高のパリコレ・モデルの年収どころか、彼を求めた世界的デザイナーたちが束になっても敵うまい。
それくらいの男だ。従兄弟の生命より、敵の手の内を見るのを優先しても、少しもおかしくはないだろう。
「なんて冷たい奴なの。大ちゃんの従兄弟だなんて、とっても思えないわ。ねー?」
と、ゆきは動かないおれの腕にすがりついて、頬ずりをした。嫉妬をあおる作戦に出たわけだが、譲には少しも効かなかった。無言でハンドルを握っている。
ゆきはますます腹を立て、
「ねえ、こいつ、本当にあんたの従兄弟? エイリアンか何かが化けてるんじゃない?」
突然、ゆきは変貌に気づいた。車内の空気がぴしっと凍りついたのだ。それは、この怖れ知らずの娘をも沈黙させた。
いっちょ、お返ししてやろうかと例の倉庫へ押しかけたが、もぬけの殻だったので、そのまま、「グショケシ」へ向かった。
譲は同じ階に部屋を取り、すぐ、おれたちのところへやって来た。
ペクタスを見て、
「剣闘士のミイラか。よく出来てる」
と言った。
「よくわかったな」
と、おれは言ったが、さして感心したわけじゃない。こいつなら、それくらいはやる。
「ねえ、ここ、あいつらに感づかれてるんじゃないの? ロケット弾でも射ちこまれたら危《やば》いわよ」
ゆきが問題提起をした。
おれが答えた。
「心配するな。なんでこのホテルを選んだと思ってる? 主人が魔法使いだからじゃねえ。このホテルの地下にはな、ホテル代々の主人が、客を殺して巻き上げた莫大な金銀財宝が貯えてあるんだ。ロケット弾なんかかましたら、みいんな吹っとんじまう。ジャン=ルイは一生、ホテルに眼をつけてた盗っ人どもに追われる羽目になる。死んだ方がましだろうよ」
それに、相手はおれと譲だぜと言いたかったが、我慢した。
ブータが眠い眼をこすりながら、おれが注文した酒とつまみを運んできた。酒は地酒だが、つまみが凄い。岩塩の塊だ。
一杯飲って、ゆきが吹き出した。
「何よお、これ。ガソリンじゃないの」
おれはにんまり笑って、グラスの中味をコンクリが剥き出しの床にぶちまけて火を点けてみろと、ゆきに言った。
譲が酒を飛ばし、ゆきが部屋に備えつけのマッチをすって投じた。
酒は爆発した。単に火が点いたんじゃない。ドラム缶のガソリンに点火したみたいに、どかんといったのだ。毒々しい炎と煙が空中に固まった。
呆然と見つめるゆきへ、
「この近くで取れる果実がもとだが、味つけにガソリンを混ぜ、コブラの頭を漬けておくそうだ」
ぶへえとゆきが吐き出した。譲はうすく笑ったきり、平然とグラスを干した。
そこへ、ペクタスが注ぎ足す。おや、にこにこしてやがる。剣闘士と一発で見抜いてもらったのがうれしいのだろう。こう愛嬌たっぷりじゃ、剣闘士としては大成しなかったに違いない。
「で、これからどうする?」
と譲が訊いた。
「決まってる。あいつらをぶちのめして、ミイラの頭蓋骨を奪い返すんだ。早いとこ胴体とくっつけねえと、えらいことになるぞ」
「何よ、えらいことって?」
と、ゆき。
「おれの心臓も、手足と同じで動かなくなっちまうんだ」
「ああ、夢に見てたわ」
天を仰いで神に感謝するか、てめーは。
「捜し出すのはおれがやる。おまえが動けない以上、おれのやり方でやってもいいか?」
「駄目だ」
おれはきっぱりと言った。
「何故だ?」
「おまえの好きにやらせたら、確実に死人が出る。敵にも女房子供がいるだろう」
おれは、叩きつけるように言った。
「おまえは、おれの指示通り動け。勝手は許さん」
「承知した」
短く言って、譲は岩塩をひと掴みすくい上げ、口に中へ放りこんだ。どんなにタフな男でも、塩分の取り過ぎで腎臓を悪くするだろう。だが、こいつは無事だ。世界が突然、滅びても、こいつだけは生き残るに違いない。
「ねえ、あたしは帰してよ」
と、ゆきが口をはさんだ。
「六本木のパブで騒いだあと、マリアさんの店の地下で干し人間を見てたら、次の瞬間、アフリカにいたのよ。早いとこ六本木へ戻りたいわ」
「いいとも、すぐ帰れ」
おれはあっさりと言った。
「だが、ホテルを一歩出たら、女子供まで敵と思えよ。奴らには、アフリカ一の呪術師がついてるんだ。いつ、豚に変えられるかわからんぞ」
本当はさっさと帰国させた方がずっといいのだが、敵の実力も知っている。豚に云々はともかく、何かの術にかけられ、おれたちを裏切ることは十分考えられる。もともと破廉恥なことをしでかすために生まれてきたような娘なのだ。
「ふん」
と唇を尖らすのへ、
「おまえは、おれたちの仕事が終わるまで、このホテルを一歩も出るな。それなりの迎撃準備は整えておいてやる」
「ふん」
ゆきの眼が爛々とかがやきはじめた。
「やっと憶い出した。ここへ来る途中、一度だけ眼を醒ましかけたのよ。そしたら、何かの頭蓋骨が手に入ったら、地球の半分は買えるって、誰かが話してたわ。ねえ、そうなの!?」
余計なことを。
「そんなことは――ないよ。なあ、譲?」
と同意を求めたが、
「さて」
「おまえ冷たくねえか。一応、従兄弟だろうがよ」
「あー、やっぱり」
ゆきはおれを指さした。顔中を口にして、そんな儲け話、絶対ひと口乗ると喚く。
「やめとけ、足手まといだ」
と言うと、
「あーら、そう。邪魔にならなきゃいいのね。なら、あいつらんとこ行って、こっちの情報流してこようっと」
さっさと出て行こうとする。
「こら、待て」
と叫んだが、どうにもならない。
「おい、譲、何とかしろ」
その途端、ゆきとドアの前に長身の影が立ちはだかった。このおれですら、生身では不可能な身のこなしとスピードだ。ゆきはまずきょとんとし、それから、きゃっと後じさった。
「悪いが雇い主の命令だ。戻れ」
冷え冷えとした声だ。我が従兄弟ながら好きじゃねえ。
ゆきも鼻白んだ。
「何よお、あんたにそんな権利あんの。とっととお退《ど》きなさいよ。でないと、痛い目見るわよ。大ちゃんの従兄弟だからって、あたしは容赦しないんだから」
「おれもそうだ」
ゆきの表情が鬼女のそれに変わった。
次に何が起こったか、他人の眼にはよくわからなかったろうが、おれは別だ。予想してた通りで、あまり新味がなかった。
ゆきが譲の股間に蹴りをとばし、もろに命中させたのだ。常人なら即失神のパワーがあった。
ゆきがにやりと笑い、すぐに呆然となった。
譲の手がその胸ぐらを掴むや、軽々とベッドの上に放り出したのだ。
苦痛の翳も見せずに近づく譲を、ゆきは怯えさえ示して見つめた。
「おとなしくしていろ」
短く言って、もう興味も失せたように、譲は壁にもたれた。
「わかったか、ゆき」
と、おれは呼びかけた。
「世の中、女に甘い男ばかりじゃねーんだ。いつまでも、男はみいんなあたしを欲しがってるのよ、なんて考えてると、痛い目に遇うぞ」
「ふん!」
そっぽを向いちまった。どうしてくれようかと復讐の策を練っているのだろう。この娘を力ずくで押さえつけるのは考えものだが、いまは仕方がない。
そのとき、譲が、
「ペクタス――おれの右腕を落としてみろ」
と古代語で命じた。ゆきが、ぎょっとしたようにこちらを向き、ペクタスも無表情におれを見つめた。
「いいのか、譲?」
小さくうなずいた。
「OK――やってみろ」
と、おれはペクタスに許可した。
でぶが手にした長剣を抜き払った。
じゃりん、と鞘鳴《さやな》りがした。いかにも斬れそうだ。
伝統の光を這わす刀身は、長く広く分厚いと三拍子揃っていた。
その前に、肘の上まで袖をめくった浅黒い腕が突き出された。
「ちょっと――やめさせてよ、大ちゃん」
ゆきが慌てて言った。
「いくら何でも――どういうつもりなの?」
「おまえをおとなしくさせるためさ」
「アイヤア」
いきなり例の叫びが上がるや、ペクタスは片手でふり上げた刀身を、思いきり、譲の腕にふり下ろした。
嫌な音がして、譲の腕はどん[#「どん」に傍点]と床に落ちた。
ゆきが眼を剥いた。本当にずばりといったのに驚いたのか、一滴の血もこぼれないのに度肝を抜かれたのか。
だが、声も出なくなったのは次――譲が床の腕を拾い上げ、元の位置にくっつけてから、手を離したときだった。
腕はもう落ちなかった。それどころか、はっきりと見えていた朱い斬線がすうと消えてしまったのである。
「な、何よこれ? SFX?」
「現実のな」
答えるおれの声にも、驚愕の響きがあった。
「もう一度やってみろ」
と譲が言った。
「ちょっと」
とは言ったものの、どんなちょっとか、ゆきにもわからなかったろう。
一方、ペクタス君はやる気満々――化物退治のつもりで、またもふり下ろした。
また、あの音が――しかし、今度は落ちなかった。
斬線もない。というより、ついたそばから消えてしまったのだ。
「どうなってるのよ?」
呼吸するのも忘れたかのようなゆきへ、
「牙鳴譲は不死身なのさ。体内に不死身の虫を飼ってるんだ。お前の反抗なんか目じゃない。いい気になって逆らうと、痛い目に遇わされるぞ」
2
翌日、朝食の時間におかしな奴らがやってきた。
手足が動かないおれの口に、スープやちぎったパンを運んでくれたのはペクタスだった。気持ち悪いが仕方がない。前夜の一件で、ゆきがすっかり臍を曲げちまい、部屋を出て来ないのだ。
ところが、このペクタス野郎が、もと剣闘士というくらいで実に雑駁《ざっぱく》。パンはちぎらず丸ごと押しこむし、スープは熱いまま、でかいスプーンで強引に流しこもうとする。
そのたびに、うぐうぐとか、あっちィ――とか叫ばねばならず、おれはほとほと愛想が尽きた。
死ぬ思いで食事を終えたところへ、ブータが顔を出した。
その顔を見て、何かあるな、と一発で悟った。
「どうした?」
「宮殿からお迎えの車だよ」
うす気味悪そうに言う。
「しかも、副大統領じきじきさ」
さすがに、おれも眼が寄っちまった。
ブータの台詞は嘘じゃなかった。
狭苦しいロビーでおれを待っていたのは、金糸銀糸で織られた絢爛たる衣裳をまとった偉丈夫とお付きの武官だった。どいつもエリート臭ぷんぷんで、最初からこっちを見下してやろうと身構えているのは一目瞭然だったが、階段を下りてくるおれを見た途端、表情が一変した。
おれは無言で彼らの前に立った。訪問してきた以上、そっちから挨拶するのが礼儀だぜ。
堪りかねたのか、お付きのひとりが満面朱に染めて何か言おうとしたとき、皇太子がそれを止めた。
「失礼ながら、八頭大君かね?」
鮮やかなクィーンズ・イングリッシュだ。おれはうなずいた。
「私はベルゼボ共和国大統領ドミン・セジネカの息子、ラージャンだ。副大統領を務めている」
「それはどうも」
おれはしげしげと、面長の黒い顔を見つめた。十分にハリウッド映画の主演級《クラス》で通用する。特に眼の鋭さと口髭をたくわえた口もとの迫力が素晴しい。つまり――強敵だ。
「それはわざわざ」
と、おれは会釈をしてから、
「その副大統領が、なぜまたこんなところへ?」
「昨日の晩の射ち合いについて調べていたら、君の名が浮上してきたのだよ」
ははーん。ジャン=ルイの野郎、おれの歯止めに役人を使うことにしやがったか。確かにいい手だが、わざわざ副大統領てのは何事だ。
「ま、本来なら即、刑務所か国外退去というのが筋だが、父が君の名字を記憶していてね、想像通りの人物なら、是非とも会いたいというのだ。君は――トレジャー・ハンターかね?」
おれは静かにうなずいた。
副大統領の表情は変わらなかったが、眼に凄まじい光が宿った。憎しみか嫉妬――或いは両方だ。
剣呑な光を湛えたまま、副大統領は晴々と笑った。大した役者だ。
「よろしい。では、官邸まで同道願おうか。準備などいらん。賓客用の朝食の用意ができている」
「お急ぎだな」
「父は癇性《かんしょう》でね。すぐに要求が実行されない限り、雷が落ちる。われわれを助けると思って同道願いたい」
「どうする?」
おれは小さくつぶやいた。
「行ってみろ」
とささやいた。
「朝っぱらからお呼びがかかったんだ。急用だぞ」
おれはラージャンに向かって、
「伺おう」
と言った。
「結構だ。では――」
副大統領は横へ退いて、恭《うやうや》しく一礼した。他の連中もそれに倣う。
待っていたのはロールス・ロイスだった。
おれのカモフラージュ・カーとは乗り心地が天と地に違いない。
真っ先におれ、続いてラージャンが乗りこむや、お付きのひとりがドアを閉め、世界最高の車はゆっくりと滑り出した。前後を護衛の乗ったベンツが固め、サイドにはバイクの警官がつく。
車の中でラージャンは無言を通した。おれも黙っていた。
ひと言、
「トレジャー・ハンターというのは儲かるのか?」
と訊いた。
「どうかな」
と、おれは答えた。さして腹を立てる風もなく、ラージャンは口をつぐんだ。
下町を抜け、市街地の中心へ出た。官庁らしい高層建築が天を仰いでいる。ベルゼボ共和国自慢の高層ビル街だ。何でも、敷地面積に占めるコンピュータの数は世界一らしい。ラジオやTVでもひっきりなしにこればかり宣伝してる。
左に「文部省」、右に「労働省」の名を読んだとき、だしぬけに天地が揺れた。
「ゲリラだ!」
とラージャンが鋭く叫んだ。車の天井を仰いで、
「労働省がやられた。瓦礫でつぶされるぞ、急げ!」
急激な加速が、おれを後部座席に押さえつけた。
頭上から降ってくる。ここでさえ、その圧倒的な質量を感じて、おれは拳を握りしめた。――どうする?
耳もとで、何か聞こえた。呪文だ。昨夜のヒカ爺さんのに似ているのは、偶然だったろうか。
頭上の轟きと圧搾感が、ぴたりと終焉した。
おれはロールスの窓《ウインドー》を開け、天空を見上げた。
「労働省」のビルは十何階めから上が消滅し、黒煙と炎とを噴き上げていた。
瓦礫はなおも落下しつつある。
それが消えてしまうのだ。
おれには信じられなかった。消えちまうことがじゃない。消してしまうものが、だ。
車の上――三メートルほどのところに浮いている半透明なもの。裂け目だ。差し渡し五〇メートルもありそうなそれが、数千トンのコンクリと鉄骨の塊をこともなげに呑みこんでしまう。
そして、裂け目には分厚い唇と歯がついているのだ。それは――途方もなく巨大な口だ!
「おかしなガードを雇ってるな」
と、おれは揶揄するように言った。
車の列はすでに瓦礫の落下地点から脱け出し、見ているうちに空中の口も消えた。
次の瞬間、通りは煙に包まれ、ごおごおという瓦礫の衝撃音が後を追ってきた。
「ガードの数を確かめなくていいのか?」
おれが訊くと、
「構わん。彼らは我々を守って生命を投げ出すのが仕事だ。気にする必要はない」
「もっともだ」
おれはうなずいた。正論には逆らえない。
ラージャンは通信機のマイクを手に取り、
「止まるな、真っすぐ進め」
と命じた。
幅広い舗装路の先に大きな交差点が見えてきた。
先頭のバイクが左へ曲がった。後ろも迷わず、その後に続く。
「副大統領、道が違います」
と運転手が叫んだ。さすがは独裁者の息子、これだけで何が起きたかを理解したらしい。
「右だ。構わん、跳ねとばして逃げろ!」
はっきり、逃げろと来たか。
だが、うまくはいかなかった。
スピーカーがこう喚いたのだ。
「バイクのガードは我々の仲間だ。尾いて来ないとロケット弾を射ちこむぞ」
確かにバイクの連中は、太くて短いのが特徴な榴弾筒《グレネード・ランチャー》の銃口をベンツとロールスに向けていた。
「――我々は死を覚悟している。爆破地点の下を平気で通ったのがその証拠だ。いま、おまえたちを射たないのは、おれたちが助かった以上、運転手やガードどもは助けるのが当然と考えるからだ」
「人間味溢れる反逆者どもだな」
ラージャンは嘲笑した。慌てた風はない。
「よし、奴らに従え。いい機会だ。政府の力を見せつけてくれる」
バイク団がおれたちを導いたのは、道のすぐ左側にある建設中のビルの駐車場であった。
降りろと命じられた。
全員が降りると、
「ラージャンと日本人を残して、みな、そっちへ寄れ」
と、リーダーらしい、右頬に傷のある黒人が命じた。彼自身はイスラエルのウージーSMGを構えている。
「私を狙うのはわかるがね、何故、日本の客人まで殺す?」
「貴様の親父が招いたからだ。わざわざ貴様をやって礼を尽くす相手だ。我が国土を食い物にする日本の商人に決まっている」
「確かめたかね?」
髪をかき上げながら、おれは訊いた。
「日本の商人はここ百年、同じ格好をしている。スーツにネクタイだ。それに、おれが商人に見えるか?」
ゲリラたちの顔に明らかな動揺が走った。
「情報は確認せずに、行動原理にしてはいかん――近代戦の鉄則じゃあないのか?」
リーダーの眼が、失点を覆い隠すように光った。
「――そうか、貴様、軍事顧問だな」
あまりの短絡ぶりに、おれはコケかかった。
「見事な論理だな」
おれは背筋をぴん、とのばしたまま苦笑した。
「おれは日本の宝捜し屋《トレジャー・ハンター》だ。八頭という」
リーダーが眼を剥いた。左右の部下と顔を見合わせて、
「ふざけるな。おれたちはよく知ってる。貴様は――」
左手を上げて、ふり下ろした。
「射て!」
偽警官たちの武器は、ウージーとガリルだった。
おれと副大統領に集中した九ミリ・ショートと七・六二ミリNATO弾の数はたちまち三百発に達した。
その半分あたりで、ゲリラたちは、ある不気味な事実に気がついていたはずだ。後の半分は死物狂いだったろう。
弾丸はすべて空中に出現した巨大な半透明の口に吸いこまれていた。
3
「ソダクだ」
「魔王ソダクだ」
射ちながら、空薬莢と火線を撒き散らしながら、ゲリラは呻いた。逃げたいが逃げられない。いや、逃げない。逃げても無駄と知り尽くしているのだ。
突如、静寂が訪れた。五、六発、ガリルが鳴って――それきりだ。
「国に仇なす狂信者ども」
と副大統領は憎しみをこめて言った。政治家としては若い。四十代半ばだろう。
遠くでサイレンと車の音がひっきりなしだ。ビルの爆破現場は、これから地獄だ。
「私に銃を向けただけで、裁きの場に据える必要もない。ここで処断してくれる」
それから、立ちすくむ男たちへ、にっこりと笑いかけた。家庭ではさぞや優しい夫、愛される父親だと思わせる笑みであった。
「いや、チャンスをやろう」
とラージャンは言った。
「これから三つ数える。その間に逃げるもよし。弾丸を詰め替えて戦うもよし。黙って運命を受け入れるもよし。いずれにしろ、人生最後のチャンスをどう使おうとおまえたちの自由だ。有権者の票が十名分も失くなるのは惜しいが、少なくとも、我が党に入れる気配はないな」
ゲリラたちの間から、数個の悲鳴が上がった。
歯列から歯が欠けるように駐車場の出入口へと走る影は四個あった。
その頭上に、あの唇が出現した。
悲鳴ひとつ放たず、四人の上半身が消えた。唇に咥えられたのだ。その身体が跳ね上がった。垂直に両足を立て、次の瞬間、頭から呑みこまれた。
残る五人は、逃亡よりも名誉の戦いと死とを選んだようだった。
震える手でガリルとウージーに弾倉を叩きこみ、ボルトを引く。
リーダーが何か叫んだ。
「真の共和国を作れ!」
と、おれには聞こえた。
男たちはふり向いた。
獣に似た雄叫びを上げながら、後方の魔王ソダクとやらに猛射を浴びせかける。
無駄とわかっている空しい猛射だった。
いきなり、男たちの足下に、空中から何かが放出された。勢いよくコンクリートに叩きつけられたのは、先ほどの四人の死体だった。いや、生きている。顔の半分は咬み取られ、脇腹からは肋骨がのぞき、消化液のせいか、全身が赤く溶け爛れながら、彼らは生きていた。
「助け……て」
赤い肉をわずかにこびりつかせただけの腕が上がって、救いを求める。
「勘弁しろ、友よ」
リーダーが祈るように叫んで、生ける屍に掃射を送った。
「さあ、来やがれ!」
と銃口を上げる。その身体が、頭から爪先まで消えた。ひと呑みにされた、と気づいた者はない。
他の四人も同時に消失した。
これは戦いなどではなかった。一方的な食事だった。
唇が笑いの形になった。
それから――よくわからないが――向きを変えた。
生贄が、もうひとり残っていたのである。逃げる意志も戦う気力もなく、運命にすべてを委ね、コンクリの上に蹲って訪れる死を待っている。
横顔が見えた。恐怖も桜色の頬の若さは隠せない。睫毛が震えていた。人並みに口紅《ルージュ》を塗り、化粧をすれば、それなりに見られるだろう。
止《と》めろ、と言う前に、おれは動いた。
半ば恍惚と妖術を使っているラージャンに近づき、
「女だ、やめろ」
と言った。
ラージャンは、ちらり眼の玉だけを動かして彼女を見つめ、すぐに戻した。
「あとひとり」
彼が口にできたのは、これだけだった。
おれのパンチを真横から顎にくらって、垂直に崩れ落ちた瞬間、娘に躍りかかった唇も消えてしまったのだ。
「やるな」
おれは、にやりとした。
ゲリラはまだ震えている。おれも無言で動かない。
恐怖が去ったことに気づくまで、かなりの時間を要した。
ゲリラは立ち上がり、こわばった表情のまま、周囲を見廻した。
地面の死体や、おれや、蹲った副大統領を見ても、表情は変わらなかった。助かったという以外は、頭にないのだ。おれより三つは若い。いくら厳しくゲリラ流を仕込まれていても、いざとなったら我が身が可愛いのも当然すぎるくらい当然といえる。
――とっとと逃げろ
おれの無言の叱咤を聞きでもしたみたいに、娘は走り出した。
なおも恐怖に追い立てられているのか、生き残った者の歓びか、凄まじい勢いで出入口へと向かう。
銃声が轟いた。
娘がのけぞり、足だけが空しく前進しようとしてバランスを保てず、身をよじり合わせるような形で前に倒れた。
おれは、ゆっくりと射撃手の方へ歩いていった。
硝煙たなびくガリルを下ろしたのは、付き添いの武官のひとりだった。
ガリルをひったくり、おれは武官の鳩尾に銃床を食いこませた。
ぐぅ、と呻いて銃床にすがり、ゆっくりと前へのめっていく。
「何をする!?」
と別の武官が抗議した。
「彼はうす汚いゲリラを殺しただけだ。当然の報いであり当然の行為だ。――貴様、やっぱり、ゲリラの仲間だな?」
「おまえたちは、最初から救われていた」
おれは静かに言った。
「誰のおかげだか考えろ。ゲリラたちが、おまえたちのことを汚らしい連中だと思っていたら――多分、思ってはいただろうが――おまえの仲間はこの銃の引金を引けなかったんだ」
いいぞ。おれは思わず拍手しちまった。
武官は沈黙した。射撃手は地べたで蠢いている。
「そこまでにしたまえ」
ふり向くと、副大統領が立っていた。
さあて、ひと雨来るぞ、とおれは期待したが、彼はこう言ったきりだった。
「さあ、汚い虫どもは死んだ。多少の問題は残るが、とりあえずは官邸へ急ぐとしよう」
みなが車へ戻りかけたとき、パトカーが何台も、それこそ息せき切って駐車場へ滑りこんできた。
「いやあ、よく来た、よく来た。君のことは覚えておらんが、父上のことは死ぬまで忘れんぞ」
フランスのベルサイユ宮殿も真っ青になりそうな豪華絢爛たる大統領官邸の玄関で、わざわざ待機していたドミン大統領は、おれの手をふり廻しながら、開口一番、こう喚いた。「言った」というべきだろうが、あまりに大音声だし、早口なのでこうなる。
一応、共和制を取りながら、実は十年以上一党独裁を貫き、反対勢力は片っ端から弾圧、投獄、抹殺を繰り返してきた張本人――何処の誰に聞いても、とんでもない悪党だが、現実に対面すると、なかなかに魅力的だから始末が悪い。大悪党てのはみなこうだ。大体、何にせよ、トップの座に君臨するというのは、お仕着せじゃできない。徹底的な独裁者となるとなおさらだ。他者から押し上げられるにせよ、操られるにせよ、本人に他人を惹きつける力がない限りは無理だ。
おれの印象では、この大統領、知性も教養もある田舎の村長――ドミンの出自は、確か、ドミン村の村長だったはずだ――といったところだが、ただし、腹の中は読めない、という付帯条件がつく。これも大悪党の特徴だ。
一分も握手をしまくってから、手ずから招いてくれたのは、応接室ではなく、客間だった。
大理石のテーブルをはさんで腰を下ろすや、
「お父上も素晴しい面構えをしていたが、君はまさに天工の削り出した芸術品だ。早速、この国の女たちには外出禁止令を出さなくてはならんな。――しかし、あまり似とらんなあ」
おれは苦笑した。
「そうですか」
とだけ言った。
「まあ、いい。ところで、わしのこと、お父上から聞いとらんのかね?」
よっぽど無愛想に見えるらしい。
実は聞いていない。どう答えようかと思ったが、
「いいえ。ただ、昔のことで覚えていません」
我ながら、上手い。やるな。
大統領は破顔した。
「そうか、そうか。お父上は若くして亡くなったと聞いておる。いや、惜しい人物だった。わしは是非ともこの国に留まって、やがて旗揚げする新政府の力になってくれと申し入れたのだが、彼はもっと広い世界へ跳び出していったよ。結果的にはよかった。わしがドミン党を旗揚げして大統領選挙に勝利するまで、それから十年もかかったわけだからな」
「お話があります、閣下」
邪魔をしたのは、一緒にいた副大統領だった。
「何だ、うるさいぞ。私は客人と話し中だ」
自分の方を見ようともしない父親に、腹を立てた風もなく、
「彼は、ゲリラを始末しようとした私の邪魔をいたしました。のみならず、そいつを射殺したモダ武官に暴行をはたらいております」
ドミンの顔から笑いが消えた。
おれを見つめる眼に凄まじい光が点った。子供ならちびりそうだ。
「本当かね?」
「ええ」
おれは平然と答えた。大したもんだ。
どんな反応が来るかと思ったら、ドミンはいきなりのけぞって笑い出した。
副大統領――ラージャンは、さすがに眉を寄せた。
「いや、血は争えんな。やはり、君はミスター八頭の息子だよ。彼も、世の中金だと口にしながら、眼の前で貧窮に喘いでいる者を見逃すことのできない男だった。政党同士が平然と殺し合いを行なっていたこの国で、私が生き延び、十年もかけて新党を結成できたのは何のおかげだと思う? ――おい、ラージャン、おまえはどうだ?」
「存じません。ですが、たとえ、昔の友人の息子さんとはいえ、反逆者を庇った以上、それなりの処罰が必要と思います」
「ゴーガ」
と大統領が呼んだ。どこかにマイクでも隠してあるのだろう。ドアが開いて、いかにも拷問係といった大男が入ってきた。
「副大統領を連れていけ。鞭打ち百回だ。いや、その前に聞いておけ。今日のドミン政権が繁栄を極めているのも、わしが十年間、大統領の座に安住しておられるのも、おまえのような能なしが、副大統領面してぬけぬけと日を送っていられるのも、すべては、こちらの大くんの父上のおかげなのだ」
こりゃ、驚いた。初耳だぜ。
おれを見つめる大統領の眼に、別の光が滲んできた。妙にあたたかい光だった。
「彼と出会ったのは、ザンドーユの港だった。当時のわしは、反政府運動のリーダーのひとりだったが、政府の殺し屋に追われて、国を出ていたのだ。酒場で出会った彼と妙に気が合って、一杯飲るうちに、わしの事情を知った彼は、自分の仕事を手伝ってくれたら、政治資金を提供しようと言ってくれたのだ。そして、ゴーマの遺跡の地下に眠るという財宝の話をしてくれた。自分は日本からそれを捜しに来たトレジャー・ハンターだともな。結論を先に言うと、財宝は巨大なダイヤをひとつ残して地の底へ沈んだ。
それまで、わしのしたことといえば、彼の足を引っ張って、何度も危機に陥らせただけだった。そのたびに、彼はひとりでそれらを切り抜け、あろうことか、わしまで救ってくれたのだ。ダイヤは彼のもの、とわしはあきらめていた。ところが――」
親父はそれをドミンの手に握らせ、
「殺し合いなどせずに済む政府をつくれ」
と言い残して別れたらしい。
ドミンはそっと叩くように、おれの手に触れ、
「君はその男の子供だ。わしは彼の家族に礼を言うことだけを考えて生きてきた。やっと念願が果たせたようだ」
ありがとう、と大統領は言った。
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第七章 エイリアン・オペレーション
1
朝食は豪勢この上なかった。メニューとしては平凡なパンとベーコン・エッグとサラダに果物なのだが、全部が全部、超高級品なのだ。口にしなくても、ひとめ見ればわかる。
少しずつ口にし、くり抜いたパイナップルに詰めた、スライスしてある実を食べていると、
「少食だね」
と大統領が言った。
「腹八分がモットーでね」
この答えを耳にするや否や、大統領は膝を叩いた。
「やはり、君はミスター八頭の息子だな。お父上もそれがモットーだった。わしには幾らでも豪華な料理をご馳走しながら、自分ではせいぜい半分しか胃に収めなかった。立派なものだと思ったよ」
「それはそれは」
「冷たい反応しか示さんな」
と、ドミンはやれやれという風に唇を歪めた。
「ひょっとして、お父上とは仲が悪かったのかな?」
「そうかも知れません」
いいぞ。大したもんだ。
「ほう。正直、信じられないな。君のような立派な伜が父親と仲が悪いとは」
「大統領とは気が合ったのでしょう。息子とは合いませんでした」
「ほう」
「どちらが悪いという問題ではありませんが、非はおれにあるかも知れません」
「ほう」
「おれはこう見えても、どうしようもない放蕩息子なんです。子供の頃から手癖は悪いし、他人のものは欲しがるし」
おれは眼を剥いた。
「はは、そうかね」
大統領は笑って誤魔化そうとしたが、おれはやめなかった。
「喧嘩をするときも、ひとりに十人以上でかかる主義です。スカートめくりと弱いもの虐めが趣味です。寝たきり老人のおまる[#「おまる」に傍点]をかっぱらうと、一日愉しくてたまりません。ひとりぽっちのお年寄りが可愛がっている犬や猫に毒団子を喰わせたり、ビルの屋上から落とすのもよくやりました。クラスで飼ってる兎の首をはねて廻ったこともあります。もちろん、下級生を恐喝するのは、日常茶飯事でした」
大統領はため息をついた。
「――まあ、若いうちは、無鉄砲をするものだ。わしも伜もそうだったよ。しかし――」
しげしげとおれを見て、
「お父上とお母上は何も言わなかったのかね?」
「ええ。のびのび育てられたもので」
おれはぬけぬけと言って、額の汗を拭った。怒りの脂肪《あぶら》汗だ。
「――すると、昨夜のトラブルも、その無鉄砲さの為すところかね?」
ようやく大統領は笑いを見せた。本題に入ったか。
「そうなりますね」
「相手は反逆者どもか?」
さて、おれはどう答えるべきか。
「いいえ。――同業者です」
「すると、宝を巡っての争いかね?」
「そうです」
「ふむ」
大統領の表情が険しくなった。恩人の息子に敵対する者への怒りだ。いいぞ。
「名前はわかるかね? わしの方で手を打とう」
「親父のことを気に入ってくれていますか?」
おれは妙なことを口走った。
「気に入るなどと――たったひとりの恩人だよ」
「なら、手は出さないで下さい。おれが始末します」
「余計なお世話というわけかね?」
「親父は何も教えてくれませんでした。おれが学んだのはただひとつ――自分の仕事に他人の手を借りるな、です」
余計なことを。こういうときに媚売らねえでどうする?
大統領はやや前屈みの姿勢を戻し、背筋をのばして、じっとおれを見つめた。さぞや、ど[#「ど」に傍点]生意気な餓鬼だと憤っているだろう。
だが、彼は微笑した。
「日本人というのはよくわからんな。大変失礼な言い方だが、君がさっき自分を評していたような人間だとは、どうしても思えん」
「猫を被ってしまいました。さっきのがおれです」
大統領はついに笑い出した。
「わかった――同業者とのトラブルはすべて君にまかす。ただ、わしの力が必要になったら、いつでも連絡してくれたまえ」
彼は左手の人さし指にはめていた黄金の指輪を外して、おれに手渡した。DとS――頭文字をデザインしてある表面を示して、
「私の家族しか身につけていない指輪だ。所有者はすべて同じ資格を持つ者と見做される。この国の軍隊と警察は、たったいまから君の味方だ。おっと返さんでくれたまえ。君のルールに触れるというなら、使わねば済むことだ。せめて恩人の息子さんの力になれたと、この年寄りにささやかな自己満足を与えてくれたまえ」
おれは少しの間、指輪を見つめ、胸のポケットにしまった。
「礼を言う、ありがとう」
大統領はおれの手を強く握った。少なくともこのとき、彼の言葉に嘘などかけらもなかった。
「ついでにもうひとつ――ジャン=ルイとかいう男のグループが、目下、ガバステの軍事基地跡をめざしているよ。あそこはかつて国内の麻薬組織が密輸に利用していた場所だ。広い滑走路がある」
それから笑顔を絶やさず、
「――ところで、この貧しい国に、八頭という名の男が捜し求めるどんな宝があるというのかね?」
来たぞ。正念場だ。適当な嘘を並べて、さっさと帰ろう。
「二年前、オゾンゴ渓谷で見つけたミッシング・リンクの頭部の化石です。値段は申し上げられません」
「ほう、ミッシング・リンクとはね。それはいま、君の手に?」
「いえ、奪われました。おれは根っからの阿呆です」
大統領は眼を閉じ、しばらくそのままでいた。危険な沈黙だとわかる奴が何人いるだろう。
じきに、彼は眼を開き、
「幸運を祈る」
と右手を差し出した。おれが握ったとき、戸口から秘書らしい男が入ってきて、
「失礼いたします」
と靴の踵を合わせ、右手を斜め上空に上げた。
「その挨拶はよせ、と言ったろうが」
男は慌てて、
「失礼いたしました」
「何事だ?」
男は身を屈め、ドミンの耳に何やらささやいた。
大統領の温顔に、見る者の精神が底冷えするような表情が浮かんだのを、おれは見逃さなかった。
「わかった、すぐに行く」
と告げると、秘書が出て行ってから、吐き捨てるように、
「親子でナチにかぶれておる莫迦者が。――失礼だが、急用ができた。車を用意させるが、よければ官邸内を見学でもしていきたまえ」
もう一度握手して大統領が出て行くと、おれも席を立とうとした。
「見学しようや」
と、おれはささやいた。
おれは、
「失礼する」
と、奥の方に立っている秘書のひとりに告げた。
「車は結構。歩いて帰る」
秘書が先に立って客間を出ると、待機していた完全武装の兵士がおれを取り囲んだ。
「護衛です。官邸の玄関までお供いたします」
ガードはありがたいが、安心感よりも死刑場へ連れていかれる囚人の気分の方が強かったに違いない。
だが、執行は中断を余儀なくされた。
真っすぐ玄関へと続く長い廊下を渡る途中で、若い黒人の美女が追いつき、先頭の秘書に短く何か告げた。
驚きの表情を浮かべながらも秘書はうなずき、おれに向き直って、
「大統領夫人がお目にかかりたいと申しておりますが」
一も二もなく、
「喜んで」
と、おれは声を合わせた。
結局、おれが官邸を出たのは、午後二時を廻った時刻だった。
流しのタクシーを拾って乗った。官邸の車など安心できない。おれの見たところ、大統領の車に副大統領が爆弾を仕掛けても少しもおかしくない。
爆破された「労働省」の前を通りかかったが、横断禁止《KEEP OUT》のテープが貼り巡らされた向うに、黒い瓦礫の山と蠢く人々が見えた。パトカーや消防車がやたらに出たり入ったりしているが、救急車の姿は意外に少なかった。早朝の爆破でビルに人がいなかったのだろう。狙いはおれと副大統領だったのだ。
迂回して、官庁街を出た。
運転手は無言でハンドルを握っている。
すぐに蜿蜒と空地が広がる一画に出た。立札に、
次期官庁街区予定地
とある。
胸騒ぎがおれを捉えた。
運転手が何か叫んだ。
おれが何か言う前に、車が大きく沈んだ。
眼の前の地面に、突如、巨大な裂け目が生じ、車を呑みこんだのだ。
落ちていく。
底までざっと三十秒ほどかかった。
この国のタクシーはプロパンではなく、ガソリンを使っている。
毒々しい炎がおれの視界を覆った。ついでに骨まで焼きにかかってきた。
2
一時間ほどして譲が戻ってきたとき、ゆきが眼を剥いた。
「ホントに帰って来たんだ。焼かれたと思ったのに」
「カメラがやられた」
と譲は眉間を指さした。
彼の見たものをコンピュータ・スクリーンに伝える、いわば“おれの眼”だったが、あの炎に焙られちゃ仕様がない。譲と同じようにゃいかんわな。何しろ見るがいい。髪の毛一本焼けちゃいない上、服までけろっとしている。黄金色のブレスも健在だ。
譲の眉間に貼りつけた超小型ビデオ・カメラには、耐火耐熱処理は施していなかった。
「いいさ」
と、おれは答えて、どうやって戻った? と訊いた。
「走ってな」
ゆきが眼を丸くした。地割れからここまで、三〇キロはある。人間の足ではどう頑張ったって無理だ。
「具合はどうだ? 大分、使ってる[#「使ってる」に傍点]ぞ」
「まだ大丈夫だと思うが、こればかりはわからん。急に来る。予測がつかん。そのときは――わかってるな?」
「ああ、まかせておきな」
我ながら白けた声だ。ゆきが、何よそれ、という風な眼つきでおれを見つめた。
「何にせよ、よくやった。おれになり切ってたぜ[#「おれになり切ってたぜ」に傍点]」
「だろう」
自慢してるのか、機嫌が悪いのか、わからない声だ。
「少しやり過ぎだがな。おまえがおれをどう思ってるか、よおくわかったよ。それでも従兄弟か?」
「済まんな」
と譲は、ぼそぼそと言った。
「もののはずみだ」
「にしちゃあ、蜿蜒と罵りくさったじゃねーかよ、え?」
「気にするな」
「うるせえ。一生忘れねえからな」
「そんなことをしたら、おれより、おまえの精神《こころ》が傷つくぞ」
「うるせえ、莫迦野郎」
手もとの何かを投げようとして、動かないのに気がついた。
ため息ひとつで、おれは気分を変えた。不平不満は判断を狂わせる最大の原因だ。
気がつくと、ゆきが口を押さえて笑いをこらえている。おれ[#「おれ」に傍点]に化けていたおれ[#「おれ」に傍点]――譲の悪態を憶い出したに違いない。
「何がおかしいんだ、淫乱娘。大統領夫人が見せたものを憶い出せ」
ゆきの喉がぐっ、と鳴った。口を押さえて、ゆきは必死で嘔吐をこらえた。
おれは肩をすくめて、譲に、
「おかげで、ドミンの正体がわかったが、ヤロー、ひとつだけいいことをしてくれた。おれたちもすぐ、ガバステの軍事基地へ向かうぞ。ジャン=ルイの野郎、あの髑髏をヨーロッパのアジトへ運ぶつもりだ。早急に奪還せんといかん」
「ジャン=ルイだけが相手か?」
と譲。
「阿呆。大統領の軍隊も向かってるさ。でなきゃ、教えるものか」
「安心した。頭は健在だな」
「だから、出かけるぞ。車の用意をしろ」
「要らんよ」
「何ィ?」
「外にヘリがいる。四人は乗れそうだ」
「ヘリぃ?」
ゆきが悲鳴みたいな声を上げた。
「どっからそんなもン?」
「裂け目をよじ昇ったとき、頭上でヘリがホバリングしてた。多分、成果の確認に来たのだろう。それを捕まえて操縦してきた。駐車場に下りている」
譲は背を向けてドアの方へ歩き出した。
「おれたちの準備はできてる。十分後に出発だ」
「五分だ。それから、準備ができていても、おまえはひとりじゃ何もできん――忘れるな」
ヤロー。
ドアが閉じると、ゆきがこちらを向いて、
「やるじゃン」
にやりと笑った。
「てめー、あいつのシンパか? この裏切り女」
「おかしなこと言わないでよ。あーいう渋いタイプって好みじゃないの。あれ、本当にあんたの従兄弟?」
「ああ。親父の弟の長男だ」
「初耳ね。親父さんに弟なんかいたんだ」
「いて悪いか?」
「絡まないでよ。なんで黙ってたの?」
「叔父貴の遺言さ。自分たちの存在を忘れてくれって」
「わかんないわ」
と、首を傾げながら、ゆきの眼は好奇心に爛々とかがやきはじめた。
ひょい、と猫みたいにおれのベッドの脇へ来て、
「ね、どーして、そんなこと言ったのよ? 叔父さんに何かあったの?」
「叔父さんだけじゃねえ」
「え? ――そうか、自分たち[#「自分たち」に傍点]。譲くんも?」
「叔母さんも従姉妹ふたりもだ」
「どうなったのよ、叔父さん一家?」
「自殺した。核ミサイルを射ちこまれて、な」
ゆきの口があんぐり開いた。冗談じゃないとわかったのだ。
少しして、
「なんで、射ちこまれたのが自殺なのよ? 殺人じゃン」
「叔父貴が米軍に頼んだんだ。モハーベ砂漠の真ん中へ、トレーラーで移動してからな」
「叔父さんって、米軍の関係者だったんだ」
「いいや。アリゾナの高校で日本語を教えてた」
「それがどうして、そんな派手な自殺したがるのよ? 譲くんはその中に入ってなかったの?」
「いや、ちゃんといた。叔父貴は家族をひとり残らず抹殺するつもりだったんだ」
「だからどうしてよ? それと、譲くんは――?」
「どうして助かったか、か?」
ゆきはうなずいた。
「人間じゃねえからだ」
――――
ゆきの口がまた開いた。このトンデモ娘が二度もうなるなんて快挙を通り越して奇蹟に近い。実にすっきりする。精神衛生によろしい。
「人間じゃない? じゃあ、何なのよ? えーとえーと、トレジャー・ハンター?」
「阿呆。おれは人間だ」
「ゆき、わかんなーい」
驚きのあまり、退行現象を起こしてやがる。
いきなり立ち上がって、部屋の中をうろうろしはじめたので、おれはペクタスにおとなしくさせろ、と命じた。
待ってましたとばかり、跳びかかったのが気になった。
太い腕がゆきのバストに食いこむ。
「きゃっ、何すんのよ!?」
一発で正気に戻ったらしいゆきが身悶えしたが、ペクタスは離さない。
その顔に、助平ったらしい笑みが浮かんでいるのを見て、おれは、このヤロー、ほんとにミイラかと疑った。おまけに、
「でへへへへ」
と来やがった。
やめろ、と叫ぶより早く、その身体が鮮やかに宙に舞った。
どどどんと地響きたてて頭から床に落ちたところへ、ゆきの身体が宙に浮き、おお、針のごときエルボーが、仰向けに倒れた剣闘士の太鼓腹にめりこむ。
これで十分だと思ったが、ゆきは図に乗ったらしい。
痙攣するペクタスの手足を掴むや、いきなり引っくり返して、両手両足で持ち上げてしまったのだ。
おお、“吊り天井固め《ロメロ・スペシャル》”! ゆきの最近のお気に入り番組が、WWFのプロレスだったのを、おれは憶い出した。
ペクタスが、ぐえええと断末魔のような苦鳴を放ったところで、ゆきは解放した。どうもならんな、このでぶ。
でかい尻を蹴とばして窓の方へ追いやると、ゆきは中指を立てて、
「JUST BRING IT!」
とやらかした。
「何だ、そりゃ?」
「時代に遅れてるわねえ。ザ・ロック様よ」
さっぱりわからねえ。
「んでさ」
と両手をぱんぱんと叩きながら、
「何よ、譲くんが人間じゃないって?」
「いまから十年前――ちょうど、あいつが八歳のときだ」
と、おれは話しはじめた。
「譲の一家はアリゾナのフェニックスって町から、五〇キロばかり離れた友人の家へドライブに出かけた。ところが、それきり消息が途絶えた。友人が警察へ知らせ、大捜索隊が組まれたんだが、影も形も見つからない。文字通り、天に吸いこまれちまったみたいだった。当時、フェニックス近辺では、UFOが頻繁に目撃されてたらしい」
「………」
ゆきは黙然《もくねん》と耳を傾けている。ただならぬ気配を感じたのか、窓際でシクシクやってた剣闘士も、こちらを向いて真剣な表情をつくった。
「丸ひと月の間、徹底的な捜索が行なわれた後、警察は捜索を中止した。一家五人はそれきり戻らないと、みな考えたろう。ところが――」
五人は戻って来た。それからさらにひと月後、フェニックスから五〇〇キロほど離れた森の中をうろついているのを発見されたのだ。
森の中の空地は草が赤く変色し、近くの麦畑には直径一〇〇メートル近い巨大なミステリー・サークルが幾つも出来上がっていたらしい。だが、問題はそれじゃあなかった。
「――一家五人の性格が、その日を境にがらっと変わっちまったんだ」
それまでは、陽気で笑い声も絶えない家だったのが、以後、近所づきあいを断ち、家ん中に引きこもっちまった。叔父貴は学校もやめ、時々、食料を買いに出る姿を目撃された叔母さんは、別人のようによそよそしくなって、何だか途方もない苦しみに耐えているように見えたという。そして、家とその近所の丘や森からは、夜ごと怪光や得体の知れない物音、吐き気を催す異臭が漂うようになった。
「それはいい。正直言ってよくある話だ。だが、これはおれも後に目にしたが、戻ってからふた月後、近くの空地で、一家の姿を通りかかった旅人がビデオに収めたんだ。五人はお互いに銃で射ち、日本刀で斬り合っていたんだ」
夕暮れ近い光が漲りはじめた室内に、がらくたエアコンの音ばかりが騒々しく、それでいて、絶対的な沈黙が、おれたちを凍りつかせていた。
結局、五人は誰も死ななかった。弾丸が心臓を貫き、頭部を粉砕しても、傷はたちまちふさがり、斬り落とされた腕は、拾って接着すると、すぐに元に戻った。
「叔父貴たちは、死ねない身体になってたんだ」
おれの言葉に、ゆきはうなずいた。
「それって、“UFOによる誘拐《アブダクション》”ね。叔父さんたち――譲くんも人体改造されちゃったんだ」
「その通りだ。しかも、不死身の身体にね」
やっだーって身を震わせるかと思いきや、
「やっだーっ! それって凄いじゃない」
と来た。しまった。こいつの性格を読み誤っていた。
「凄い凄い、不死身なんて凄い。あたしもなりたいわ。ねえ、彼に頼んでよ」
「譲がそうした[#「した」に傍点]わけじゃねえ。それに、おれもおまえの反応が正常だと思う。それなのに、なぜ、一家で殺し合い、しかも、その三カ月後にモハーベ砂漠で自殺したか、だ」
「そうだわ……そうよね」
「このビデオ撮影の直後、五人はまたいなくなった。今度はどこへ行ったかわかってる。米国防総省――ペンタゴンだ」
「………」
「五人はここで徹底的な調査を受けた。内容は不明だが、それから三カ月後、モハーベ砂漠へ死の旅に出かけたんだ。核ミサイルは誤射ということで、担当者が五十人ばかり、何らかの処分を受けている。爆発下の五人のことは、極秘にされた」
「なのに……どうして……譲くんだけ生き残ったのよ?……それに……五人は……何のために自殺したがったの?」
「あいつは、おれの親父を頼り、十歳でトレジャー・ハンターになった。親父がヨーロッパ一の仲間を紹介し、そこで鍛えられたんだが、それから一年もしないうちに、親父がおれを見て、しみじみ、『おまえが、譲の百分の一も才能があったらなあ』とつぶやいたのを覚えてるよ」
「……あ……あんたの……大ちゃんの百倍の才能……」
ゆきが茫然と呻いた。
「じゃあ……いまも……トレジャー・ハンターを?」
「ああ。とりあえず、な。ただし、協会には入っていない一匹狼だ」
「どうして、よ? ヨーロッパ一のハンターがついてたんじゃないの?」
「不死身の肉体を獲得した人間が、どうして死にたがったのか、だ」
ゆきの顔が紙の色になった。ある種の想像力は満点に近い娘なのだ。おれを見る眼には恐怖の色ばかりがあった。
「さっき、あんた、譲くんに、“具合はどうだ”とか“大分使ってるぞ”とか言ったわね。譲くんも“どうなるかわからん”“急に来る”って。――あれって、どういう意味?」
そのとき――
「ぎゃっ!?」
と叫んでのけぞり、椅子ごと引っくり返った。
ドアがノックされたのだ。ようよう起き上がったところへ、
「遅いぞ、何してる?」
と、従兄弟の声が陰々と、美貌とともにドアを開けた。
3
ヘリの操縦は譲が担当した。十人乗りの軍用ヘリで、乗員室の左右に、なんと二〇ミリバルカン砲M61がついている。こういうのを平気で飛ばす共和国てのも凄い。
「乗員はどうした?」
と訊くと、
「殺してはいないよ」
と答えた。こいつにとって、ヘリの乗員などどうでもいいのだろう。おれも、それ以上訊かなかった。
操縦桿を握る譲の隣で前方の夕暮れ空を眺めていたら、
「ドミンが会ってすぐに訊いた言葉――覚えてるか?」
と来た。
「ああ」
お父上が、わしのことを何と言っていたか、覚えていないかね?
「記憶がないのか?」
「………」
おれの脳裡にある光景が甦った。譲が官邸で最後に見たもの――パソコンのスクリーンに映し出された悪夢が。
彼――おれ――を迎えた大統領夫人は、電動車椅子に横たわったまま、彼を数個の部屋へ導いた。
猛烈な違和感がおれを愕然とさせた。夫をけしかけて人民を虐殺させ、大鰐《おおわに》さえ引き裂く怪女――まるっきり違う。おれの前にいるのは、疲れ切った、哀しげな雰囲気の女だった。
まず、おびただしい写生の飾られた広間。おれなら「虐殺記念館」とでも名づけるだろう。
政府軍による反対勢力の銃殺刑の模様、市民デモへの発砲、それならまだいい。人々は女子供を問わず数百頭のライオンがうろつく巨大な檻へと入れられ、大鰐が口を開けた沼へ放りこまれた。猛獣に食われる人間が何を考え、どんな表情を浮かべるか知りたければ、この部屋へ来るにしくはない。
「あなたの眼で見た夫を信じてはいけません」
と夫人は血を吐くような声で言った。
「ここの写真はすべて、夫の指示で撮影されたものです。あの人を動かしているのは『狂気』以外にありません」
次の間は「恐怖陳列室」と呼ばれているに違いない。
大小のガラス瓶に詰められたホルマリン漬けの人間のパーツ。生首はもとより、手、足、胴、その他。狂気どころか性的変態だ。
「私はあなたのお父上を知っています」
と夫人は告げた。
「あの方は男の中の男でした。若い夫のためにして下さったことを、私は心から感謝し、いまも忘れてはおりません。ですが、夫は変わりました。ひょっとしたら、いままで隠し、抑えつけていた真の顔が、政権の奪取とともに表へ出たのかも知れません。あなたに何を言ったかは存じませんが、何ひとつ信じてはいけません。すべてを忘れて、一刻も早くこの国を脱出なさい。私の部下がいつでも手筈を整えます。ここは、恩人の息子さんがいるのにふさわしい国ではありません」
「考えておきます」
と譲――おれ――は答え、哀しみに満ちた夫人の顔を土産に、官邸を出たのだった。
ドミン政権のしたことが、いまなお全世界の非難攻撃の的になっていることは、おれも知っている。ドミンはその責任を回避はできないだろう。
「どう答える?」
譲の問いに、おれは首をふった。
「気になるのか?」
「少し、な。おれも親父に訊かれたことがある。殺し合いの後で、だ。お父さんをどう思うかとな」
「何て言った?」
「最低だよ、ってな。その日、親父は国防総省へ連絡を取ったんだ」
「よく覚えてないが、やさしい叔父さんだったぞ」
「おれもそう思う」
それきり、おれたちは黙った。
沈黙を破ったのは、譲の声だった。三十分ほど経っていた。
「着いたぞ」
おれは何とか首をねじ向けて、風防ガラスの下を覗いた。
目測だが、距離にしてざっと二〇キロ――緑の木立ちの向うに長方形の板が落ちている。滑走路だった。ガバステの廃飛行場に着いたのだ。
そのとき――
飛行場の片隅に小さな炎が生じたのを、おれは見た。
黒い物体が青煙を引きつつ上昇してくる。
「来たぞ、スティンガーだ」
と、おれは言った。
米軍が採用している携行式地対空ミサイルだ。光学照準、赤外線ホーミング。一〇・九キロあるミサイルがマッハ二の速度で標的に迫る。
「無茶な野郎だ。軍隊を敵に廻す気かよ」
おれの言葉に、
「奴ら、もう完全に脱出したつもりなんだ。飛ぶ鳥は後を濁すということだな」
こう譲が受けた。
同時に、ヘリは大きく右旋回して上昇に移る。
「あの二人――M61を使えるか?」
「ゆきは、いけるだろう」
譲はマイクを内線に切り替え、
「右側のM61でミサイルを撃墜しろ」
と命じた。
「イエイ!」
威勢のいい返事が返ってきた。射ったり斬ったり殴ったりが大好きな娘なのだ。おれの六本木のマンションの地下には、最新式の武器を常備して操作や実射を学習する階がある。毎日二時間ずつここへ入り浸って、ゆきはほとんどの武器を扱えるようになっちまった。太宰先蔵――世界最高のトレジャー・ハンターの孫娘だ。血は争えない。
「スティンガーはマッハ二で向かってくる。そのつもりでやれ」
「うるさいわね、オッケー!」
途端に、軽い衝撃と発射音が操縦席にも伝わってきた。
一瞬――
空中に火の花が咲いた。
機体が激しくゆれる。ミサイルの破片だろう。
「無事か?」
と譲がマイクに向かった。
「オッケーよ。どう、あたしの腕」
「当たったな」
「ちょっとお。それだけ?」
「スティンガーの射程は五キロだ。距離は二〇キロある。向うが慌てたんだ。近距離だったらわからんぞ」
「ふん!」
マイクを切って、譲は、
「敵にスティンガーがあるとわかった以上、近づくのは危険だ。地上から近づこう」
「このまま下りるのか?」
おれの問いに、彼はふり向き、にやりと笑った。やっぱ、わかってやがる。
ヘリの左右には、空対地ミサイル「ヘルファイア」が四発ずつ装填されたポッドがついている。
「レーザー照準――OK」
と譲が言った。これからやることと結果を考えたら、あまりにあっさりしすぎた声だった。
「発射」
白煙の尾を引いて滑走路へ向かうミサイルを二発、おれは見ることができた。「ヘルファイア」は一発四万ドルを越す。米軍のパイロットでさえ、滅多に射たせてもらえない。豪気なもんだ。
何の抵抗もなく、滑走路が二カ所火を噴いた。
ヘリならともかく、飛行機の類はこれで離陸も着陸もできまい。
「降下するぞ」
マイクに伝えて、譲は機体を急降下させた。
地上の木立ちすれすれの位置まで舞い降り、ジグザグに前進する。敵の眼に入らぬためだ。
前方に空地が見えた。緑の真ん中に開いた円形の地面は闘技場を思わせる。
「留守はまかせるぞ」
譲は操縦席から降りた。
「待て。おれも行く」
「おまえが邪魔にならないのはここまでだ。後は楽隠居してろ」
眉間につけた新しいビデオ・カメラで、官邸のときと同様、譲の行動は逐一わかる。
口惜しいが、奴の言うとおりだ。
「その代わり、ペクタスを借りていく」
「何ィ?」
おれは慌てた。
「おまえなあ、それこそ足手まといだぞ。こいつは弱い相撲取りだ。何の役にも立たねえ」
「もと[#「もと」に傍点]剣闘士だろ」
「それにしてもだな」
「いいから。ご隠居は若いのの意見を聞くもんだ」
「おい、こら」
「行くぞ」
とペクタスの方を見て森の奥へと顎をしゃくり、譲は歩き出した。
ペクタスはおれの様子を窺っている。うなずくしかなかった。
不平と不安の混じり合った顔つきで、もと剣闘士はひとふりの剣を手に、新しい主人の後を追いはじめた。
おれは残ったゆきを見つめて、
「おまえ、よく行くとごねなかったな」
と言った。
「ふふーん。そんな訳もわからない頭の化石より、大ちゃんの身体の方が心配に決まってるじゃないのよお」
にこにこしながら近づいてくると、いきなり抱きついてきた。
「こら、何をしやがる?」
「見てのとおりよ」
九十二の胸を、ぐいぐい押しつけてくる。
「こら離せ」
「離してごらんなさいよ。ほら、ノーブラよ」
「うるせ、行け」
「なんだか、力が入ってないわよ。ね、見てる?」
実は見てた。赤いシャツの前を大胆に開けているため、豊かな胸のふくらみが上から覗ける。おっぱいの間のラインが実にいやらしい。
「ね、少しならキスしてもいいのよ。あン、汗垂らさないでえ」
なにしろ両手が利かない。ゆきのボディ・アタックの為すがままだ。
「目的は何だ、言ってみろ」
ゆきは胸から腹にかけて、おっぱいでこすりはじめていた。
「簡単よ。分け前が欲しいの」
「おまえは関係ない。それに、あれは胴体に戻すんだ。でないと、おれの心臓まで動かなくなっちまう」
「つながった後でさ、首と胴はどうするの?」
「そりゃ、おまえ」
言ってから、そうか、と思った。あんまり呪いがリアルなので、首と胴をくっつけることしか考えられなかったのだ。常識的には二つまとめて埋葬、だろうが、ゆきはそう考えなかったようだ。
「でしょ?」
ゆきは上眼遣いにおれの反応を窺いながら、促すように言った。
「だからさ、大ちゃんの呪いが解けたら、内緒でそれ[#「それ」に傍点]売りとばしてさ、山分けしようよ、山分け」
「駄目だ」
と、おれは言った。
「首と胴は発見した場所へ一緒に安置する。おかしなことを考えるな、この罰当たり娘」
「罰当たりだって? ――あんた、ほンっとに古いわねえ。この不況を脱出する方法は何か知ってる? みんながお金を使うことよ。それには金持ちになるのが一番じゃないの」
「おかしな理屈をこねるな。とにかく駄目だ」
「あーそー」
ゆきはあっさりと、身を引いた。快い感触も去っていく。
「じゃあ、あたし、あんたを助けないからね。両手両足が不便な姿のまま、アフリカのジャングルで生きてけると思うの?」
「うるせえ。これから、休憩地の設営に取りかかるぞ」
と、おれは宣言した。
「つまり、おまえがやれ。なに、簡単にできる。愚図愚図してると、ゴリラだの、ライオンだの、外谷だのが襲ってくるぞ」
何が効いたのか、ゆきは顔色を変えて、仕事に取りかかった。
三十分もかからなかった。
ヘリの中でお茶をいれることにした。用意したインスタントほうじ茶をちびちび飲んでいると、草を踏む音が聞こえた。徐々に近づいてくる。
はっと気がついた。――ゆきが外だ!
夢中で立ち上がり、ドアへと走った。
そのとき、耳を覆いたくなるような悲鳴が、ヘリの外で鳴り響いた。
ゆきのものであった。
『エイリアン黒死帝国〔上〕』完
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あとがき
久しぶりの「エイリアン――」である。全一巻、分厚い大作をめざして準備万端。精魂こめて書きはじめた。
なのに、こうである。魔に憑かれているとしか思えない。
その代わり――
面白いぞォ〜〜。
今回は大ちゃんの他に、もうひとり、主人公ともいうべきキャラクターが登場する。
詳しくは読んでいただきたいが、名前は牙鳴譲《きばなりゆずる》である。
実は、この牙鳴クン、最初から単独で主人公を張るはずであった。「エイリアン」ものの番外篇となるべきシリーズを考え、そこへ彼を据える。――こう考えていたら、ソノラマから注文がついた。いきなり馴染みの薄い主人公のシリーズでは営業上まずいというのである。
私は昔から理論と現金には逆らえない。
「じゃあ、どーしますか?」
と訊くと、担当のI氏は、
「大ちゃんの本シリーズで共演させてから」
と言う。
「へいへい。わかりましたざんすよ」
と不平を押し殺し、とにかく書きはじめた。発売は四月であった。
それが今月になった理由は言うまい。本当は風邪だの、実家のトラブルだのがあったのだが、言い訳はすべきではない。いやあ、他人様の文庫の解説なんか引き受けるもンじゃないねえ。自分の作品のゲラもなるべく読まずに済まそうではないか、御同輩。
こうして、完成した。――前篇が。そして、本作が大幅に雑誌連載分に食いこんだおかげで、私はあとX日で二百枚を片づけなければならない。快挙だ。
今回、原稿が大幅に遅れ、新しくイラストをお願いした柴田昌弘さん以下の方々に多大の御迷惑をおかけした。深くお詫びします。
二〇〇二年六月某日
「彗星に乗って」を観ながら
菊地秀行