エイリアン蒼血魔城
菊地秀行
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目次
第一章 コンビニの遭遇
第二章 村人たち
第三章 おかしな教師と女生徒奇譚
第四章 旧家を巡る者
第五章 生き埋め記
第六章 青白き医師(ドクトル)
第七章 怪人対魔人
第八章 魔法治療
第九章 帰りし者たちの襲撃
第十章 地底妖国
あとがき
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第一章 コンビニの遭遇
インターを下りてから一時間以上も山の中を走りつづけ、空気が青みかかる頃、ようやく前方に文化の光が見えてきた。
しかし、いきなり、コンビニとはな。前後左右は鬱蒼《うっそう》の五、六乗はありそうな森林だ。原始林といってもいい。文明と原始の境界線というやつがあるのなら、ここかも知れない。
おれは愛用のポルシェを停めて、店の中へ入った。オート・ドアだ。当然といえば当然の設備だが、この状況では場違いの増幅にしかならない。
襤褸《ぼろ》を着て包丁片手の山姥《やまんば》が店長かと思ったが、カウンターの向うで、
「いらっしゃいませ」
と、マニュアル通りの明るく空っぽな声を出したのは、十七、八――おれくらいの娘だった。
白とピンクの制服の下はミニスカートで、肉付きのいい太腿が大胆に露出している。これで顔が牛や馬やトンキチだと、正面向いてにこ、横向いておえ、とやるところだが、眼がくりくりして頬は桜色――田舎っぽいがそれなりに可愛らしい。
森永のミルクチョコレートを三枚買い、レジに持っていくと、まあ、という顔をした。
いい歳をした男がこんなものを、という心情が圧倒的だが、少し憧憬も混じっている。まあ、この辺の男で、腋の下のホルスターにグロックのM99を収めてる輩はいっこない。
「はい」
と、おれは片手を上げてウィンクした。
一発で娘の頬は染まった。高校×年生だが、昔からクローを積んできたせいで、大学生くらいには十分見える。しかも、男の魅力もあって渋い。
おれに料金を告げる声も、チョコを包む手も少し震えていた。危ないな。結婚詐欺師や色事師に騙されるのは、こんな純情タイプだ。
「はい」
と差し出されたチョコを、おれは娘の方へ戻してやった。
「え?」
「君へだ」
「やだ。そんなあ。――いいの?」
「もちろんさ」
「わあ、ありがとう」
桜色の頬は、林檎《りんご》に変わっていた。チョコの袋を胸に抱きかかえる娘へ、おれは結婚詐欺師のように、にっこりと笑いかけ、
「君、高校生?」
ずばっと核心に入った。
「ええ」
「アルバイト?」
「ええ」
「こんな山の中で寂しいだろ?」
「ちょっとね」
娘は少し眉をひそめて、ドアの向うに広がる森と空を見つめた。黒い木々の連なりは、突如、おびただしい鴉《からす》に化けて宙に舞い上がりそうだ。ごおごおと風が鳴っている。おどろおどろしい。コンビニの周囲には、この国古来の霊域とそこの住人たちが息づいているようだ。
娘はおれが通ってきた道路を五キロほど北へ上がった蒼木《あおき》村の住人だという。高校はさらに二キロほど離れたところにある。石川美紀と名乗った。
「美紀ちゃんか、いい名前だなあ」
と、適当に誉めると、
「本当? やだあ」
と口に手を当てて笑った。おれは、日本各地の村に遺《のこ》る神社や寺を調べている大学のサークルの一員ということになった。
「ね、大学どこ?」
「どこだと思う? この知的な風貌から察してくれよ」
「うーんとね――国立?」
「さて、な」
「やっぱり、国立だ。――ひょっとして早稲田?」
「あれは私立だ」
おれは、コケそうになるのを何とかこらえて訂正した。
「あ、ごめん――ね、ね、東大?」
「トーダイ?」
灯台と勘違いしてんじゃないかと思ったが、
「そーよ。東京大学」
と言われて、
「はっはっは」
「やっぱり、そうね。すっごおい。こんな山の中に東大の人が来るんだ」
おかしな理屈を言う娘だ。おれはカウンターに片肘をつき、美紀に顔を近づけた。
ぽっちゃりした顔が緊張の表情を浮かべるのも、しかし、もうある決意をしてしまっているのも、逃げないのもわかっていた。
「あのさ――君んとこの村外れに、蒼木神社ってあるだろ?」
おれは何気なさそうに本題に入った。
「うん」
「あそこって、かなり古い神社だよな。由来、知ってる?」
「ううん」
美紀はあっさりと首を横にふった。
「知らない。神社なんか、昔から遊ぶ場所だったけど、それくらいにしか興味ないよ」
そういや、そうだ。神社がいつ、どうして建てられ、何の神を祀っているかなど、子供には興味もあるまい。
このとき、おれの眼は美紀の顔に吸いついた。
憶い出した、と言っている。
「あのさ、あたしじゃあ何にもわからないけど、その手の話が好きな友だちがいるよ。蒼木高歴史探究部の一年生――赤座広美。これは凄いよ。村の歴史の生き字引。この辺の土地にも詳しい。よく、大学の先生が話を聞きに来てるもん」
「へえ」
おれはわざと感心したように言った。
「蒼木神社の隣に蒼木家ってあるよな。あそこが代々の神主なんだって?」
「あ、そうそう」
と美紀は小さく何度も首を縦にふった。
「そうよ。そうだ、母さんから聞いたなあ。あそこの神社は自分のとこだけで勝手に宗派をつくってて、分社も何もない、あそこひとつだけの神社なんだって。変なの」
「そりゃあ、変だよな。蒼木の家の人たちも変かも、な」
カマをかけてみた。美紀はすぐ乗ってきた。さぞや、いい普通の小母《おば》さんになるだろう。
「おかしいっていえば、おかしいのよ、ホントに。家族は確か、蒼木のご主人と奥さんと、二年の道綱《みちつな》くんでしょ。それから妹の良美《よしみ》ちゃん――私と同じクラス。でも、もういないけど」
「いない?」
おれは身を乗り出した。自分の発言が、おれの気を引いたと知って、美紀は得意げな表情をつくった。それから記憶を辿るように視線を宙に浮かせて、
「えーと、ちょうど一週間前にいなくなっちゃったのよ。その日の朝、うちのクラスの子と、秋田市内へ映画を観にいく予定だったのはわかってるんだって。ただ、家を出る前に消えてしまったらしいわ」
もちろん、村中総出で捜索にかかり、一〇キロ四方の森や山、沼と丘とをくまなく当たったが、蒼木良美の姿は、ついに発見できなかった。
迷信深い古老の中には、“神隠し”の名を口にする者もおり、県警から派遣された警官たちも、徒労の果てに捜索が終わると、それに同調する者も現われた。
「後、残された可能性って、誘拐しかないよね。蒼木家では犯人の電話を心待ちにしてるよ」
「警官たちの捜索が終わったのはいつだ?」
とおれは訊いた。
「ちょうど、昨日よ。百人くらい来てたわ。沼の底までさらったけど、出て来なかったらしいわ」
おれは美紀の眼の中を覗きこむようにして、
「君はどう思う?」
と訊いた。
美紀はうっとりと、おれを見返して、
「“神隠し”なんてあり得ないと思う。家出は理由がないし、誘拐が近いかな」
「ふーん、うまく見つかってくれるといいがな。――誘拐となると、蒼木の家って金持ちなんだよな」
「昔はね。いまは知らない。明治大正を通じて、凄い金持ちで通したって聞いたよ」
「その財力の素はなんだ?」
「知らない」
あっけらかんとした返事である。他人の家の財政状態などに興味はないのだろう。
ひょい、と身を乗り出して、
「ね、あなた、バイトで探偵か何かしてるの?」
「ノン。あくまでも、サークル活動の一環だ」
「ウ・ソー」
「どーして?」
「男がひとりで、こんな田舎までサークル活動なんかやりに来ないって。遊び半分、レクリエーション半分で、仲良くやって来るわよ。少なくとも、恋人連れでさ」
「もてない上に、探究心旺盛なんだ」
おれはこう主張したが、美紀はけらけらと笑った。
「そんなはずないよ。あなた、すっごくカッコいいじゃん。女の子の方が放っておかないわ。あたしだって、仕事がなければ、この場でデートに誘ってるよ」
「そんなに誉めるなよ、おかしな自信がついちまうぜ」
おれはにやつきそうになる頬を、なんとか押さえながら言った。いまだにグラマーとショーサンには弱い。わかるな、賞賛だぜ。
「ね、あたし、今日は六時までなんだ。終わったら、夕食おごってくれない?」
「いーだろ」
「本当《ほんと》!?」
美紀は、本当に跳び上がった。無理もない。若さと好奇心に溢れた女子高生が、こんな、猪が歯ブラシを買いに来るような道路脇のコンビニでバイトときた。おれみたいな魅力的な高校生――今は大学生だが――を見れば有頂天にもなるだろう。
だが、有頂天だけじゃこっちの得にはならない。
おれは、ひとこと、
「本当さ。その代わり、ひとつ頼みがある」
「何よォ?」
美紀は、怒りと失望がないまぜになった声を上げた。天国から地獄だ。
「赤座って子を連れて来てくんないかな――話を聞きたいんだ」
「やよ」
美紀は歯を剥いた。喜怒哀楽がはっきりしていて面白い。もちろん、おれはフォローを考えていた。
「その子と話が終わったら、二人きりになろうや」
「本当《ほんと》にィ?」
「もちろん。蒼木家についての話が聞ければいいんだ。後はもう美紀ちゃんと二人のナイト・タイムさ」
「わかった。話つけてみる」
満面笑み崩してうなずいた美紀の頬を、おれは片手で撫でた。
途端に、表情が変わった。隠してあった吹き出ものにでも触れられたみたいに、美紀は眼を剥いた。
おれもふり向いた。
コンビニの窓から、通りと向う側の森が見える。
黒い木立の間から出て来たらしい人影は、臙脂《えんじ》のワンピースを着た娘だった。
細面のなかなかの美人なのに、顔も服装もうす汚れているのが、ひどく眼についた。頬や服には幾つも引っ掻き傷らしいものが刻まれ、このコンビニに来る前のおれなら、道に迷って遭難しかけた女の子だと判断したところだ。
美紀は、いま[#「いま」に傍点]のおれと同じ答えを口にした。
「蒼木さん!?」
「いなくなった同級生か?」
とおれは念のために訊いた。
「そうよ。一週間もどこで何を――。家へ連絡しなくちゃ」
「ちょい待ち」
電話の方へ歩き出そうとする美紀へ、おれは声をかけて止めた。
「え?」
「何かおかしい。――見ろ」
娘――蒼木良美は、もう道路を渡って店の前の駐車場へ足を踏み入れていた。
じっと前方を向いたままの顔は、道路を渡るときも左右を見ようともしなかった。そもそも焦点が定まっていないのだ。
それでも確実に、着実に、しっかりした足取りで、コンビニへやって来る。おれたちの方へ。
久しぶりに、背すじを冷たい緊張警報が流れた。
「そういえば――何だか変ね」
美紀も気がついたが、具体的な指摘はできなかった。
おれは、カウンターを出たところにあるドアを指さして、
「そこ裏口に通じてるな? ――OK。おれが言ったら、そこから逃げな」
「逃げなって――どういうことよ?」
美紀の質問に答えている暇はなかった。蒼木良美が立ち止まるや、自動ドアが開いたのだ。
入って来た。その背後で自動ドアが閉まる。
まっすぐ、こちらへ向かって――来はしなかった。その場に停止して店内を見廻している。焦点はやはり定まっていないが、少なくとも、何かを捜そうとする意志と、それをサポートする動きは行えるらしい。
歩き出した。こっちへ。美紀の方から緊張の気が伝わってきた。
おれは動かなかった。全身の力は自動的に抜かれている。いかなる突発的事態にも対応できるよう、無意識のうちに肉体を制御しているのだ。
良美は悠然と近づき、美紀の前まで来て、ぴたりと足を止めた。曇り空みたいな色をした顔が美紀を向いた。
「はい」
と左手を上げた。インディアンの挨拶に似ている。
「はい」
と美紀が応じた。
良美の眼は、おれを捉えた。
「はい」
とまたも右手を上げたとき、血の気を失った唇が笑いの形に曲がった。
「はあい」
おれも微笑を浮かべて応じた。
良美はおれの前を通って、奥の精肉コーナーへ行った。
パックをひとつ取って、じっと視線を当てる。おれの眼は、
「ステーキ用豚肉二〇〇グラム」
と書いたシールの文字を読み取ることができた。
次の行動を、おれは容易に想像できたが、美紀には無理だったろう。
細い指がラップを引き裂いた。
出て来た肉を両手に掴み、良美はじっと見つめた。その唇の間から――端からじゃない――半透明の涎《よだれ》が、ブロックみたいに盛り上がるや、だらだらと顎からしたたりはじめた。
「やだ……何よ、あれ?」
美紀の声は脅えきっている。一週間も行方不明だったクラスメートが森から出て来て、豚の生肉におびただしい涎を流しつづけている。身の毛がよだつのが当然だ。
おれの想像では、ぱくりとやる予定だったのだが、良美はこらえることを知っていたようだ。
生肉を掴んだ右手をだらりと下ろして、口元を拭うや、しっかりした足取りで、またおれたちの方へやって来た。
美紀と向き合った。彼女が何か言う前に、
「ツケ、効く?」
と訊いた。抑揚に乏しいが、ちゃんとした発音だ。
「悪いけど、駄目なんだ」
と美紀は答えた。
「それより、蒼木さん、家へ連絡したの?」
「連絡?」
「そうよ。心配してるよ」
「どうして?」
「どうしてって――あなた、一週間も行方不明だったんじゃないの」
「そう?」
「そ――」
美紀は絶句してしまった。気を取り直すのは早かった。
「あなた――いままでどこにいたの?」
「ツケ、効かないんだ」
と良美はつぶやいて、生肉をカウンターに置いた。
「でも、いいんだ、これ新鮮じゃないし」
眼は美紀を見つめたまま、
「あなたの方が、ずっといいわ」
「え?」
と美紀が訊き返したときには、その喉もとへ、良美の手がのびていた。
指先が肌に触れる寸前で止まった。
良美は手首を掴んだおれの方へ眼をやり、
「どうして?」
と訊いた。
「やめとけ」
とおれは言った。
「こう見えても、君とよく似た連中専門に渡り合ってきたんだ。やめときなよ」
「そう」
良美の細腕に力が加わった。おれには無効と思い知るまで三秒ほどかかった。
良美が力を抜いても、おれは離さなかった。
「美紀ちゃん、電話をかけろ」
とおれは、良美から眼を離さずに言った。
「はい」
これで手土産《てみやげ》つきで蒼木家へ乗りこめるな、と内心ほくそ笑んだ途端、手首に白い指が巻きついた。
腕は二本と閃いたときは遅かった。さすがのおれが、女子高生相手と甘く見ていたのが原因だ。
逆を取られた、と思った刹那、身体は宙に浮いていた。
こんな状況でも、おれは自分の動きと周囲の位置関係は完全に把握していた。三次元での平衡感覚を司る三半規管は、完璧な姿勢制御装置《スタビライザー》と位置識別装置《オートジャイロ》を兼ねている。
良美の習っていたのが古式の合気柔術だったら、おれを投げたりせず、逆を取った時点で手首をへし折っていただろう。彼女が高校か町道場で習っていたのが、ただの合気道だった幸運をおれは感謝した。
空中で、インド古武術にある抜き技を使って手首を外し、猫のように立つ。美紀が驚きの声を上げた。
「ただ[#「ただ」に傍点]のゾンビーかと思ったが、どうやら別種類らしいな。それとも、新種か――誰に作られた?」
おれは、美紀に聞こえないようにささやいた。
無表情におれを見つめていた良美は、不意に背を向け、ドアへと走った。
ドア前で立ち止まり、開くのを待つ。おれがすぐに追わなかったのは、この反応を見たかったからだ。
ダッシュして肩に手を――
凄まじい突風が顔面を叩きつけた。骨の髄まで業火で灼かれる感覚。
反射的に空いた方の手でカバーした。そのせいで、のばした手が一瞬遅れ、良美は秋の空の下へ跳び出した。
追わなかった。追えなかったという方が正解だ。
元凶はわかっていた。
良美がドアへと走ったとき、すでにそいつ[#「そいつ」に傍点]は、駐車場内に入りこんでいた。
おれのポルシェから五メートルほど向うにパークした黒いリムジン。外見からしてロールスロイスをベースにした改造車だ。
だが、こいつを組み立てた奴も、運転手も、その所有者も人間じゃあない。
おれを骨の髄まで凍らせた鬼気の突風は、その車自体が放っているのだった。
黒い森に囲まれた道路端に建つコンビニと、広い駐車場――その真ん中に鎮座した車。
閉じたドアを隔てても、鬼気は津々《しんしん》と精神を蝕んでいく。
良美が駆け寄るや、後部座席《シート》のドアが開いた。合気道娘を吸いこんで閉じた。
走り出すかと思ったが、黒塗りの車体は、黒い染みみたいにアスファルトに貼りついて動かない。
ワンウェイ・ウィンドウのせいで、こちらから車内は見えないが、おれはこちらへ向けられる視線を痛いほど感じていた。ひとりだ。
ふっと、呼吸が楽になった。鬼気が途絶えたのだ。おれには一発で、その意味がわかった。
誘いだ。敵はコンビニから出て来いと言っている。出やすいように恫喝《どうかつ》の気を消してやったのだ、と。
昔から、おれは親父とお袋に、おまえはアマチュアだと言われつづけてきた。これは二人がおっ死《ち》ぬまで変わらない評価だった。
理由はひとつ――挑発に乗りやすいのだ。身を隠してやり過ごせば丸く収まるものを、臆病者とののしられた途端、キレてしまう。もちろん、次の瞬間には、そいつの前へ跳び出しているわけで、何度も死の一歩手前まで行った覚えがある。
さすがに、挑発した奴をぶちのめしたものの、全身に十九発のライフル弾と散弾と拳銃弾を食らった。以来、少しは抑えるようになったが、まだ完璧には遠い。舐められて黙っていられるか。
今回も、コンビニの内部《なか》に留まっていた方が、利口だったろう。
向うが出て来るか、黙って走り去るか。どっちにせよ、敵の前に全身をさらけ出す必要などないし、あってもそれを避けるのに全力を尽くすのが普通だ。
だが、おれの頭がそう判断しても、断じて許してはくれないものがある。血だ。
おれを攻撃するにせよ、人相風体を観察するにせよ、敵は呪縛の鬼気を断ったのだ。これに乗らなきゃ男じゃない。
「出るなよ」
と背後の美紀に声をかけて、おれはドアの外へ出た。
全身の力を抜いて立つ。後ろでドアが閉まった。
「出てやったぜ」
とおれは、黒いリムジンに声をかけた。
「そっちも顔ぐらい見せるのが礼儀だろう。それとも、いまの女の子を置いて尻尾を巻くか、好きな方を取りな」
正直、出て来る見込みは五分五分だと思っていた。挑発の仕方から見て、出て来る公算が強いとは踏んだが、奴らには取り戻した良美がいる。さっさと行きたいだろうし、何もおれに姿を見られるというリスクを背負う必要もないわけだ。おれは世界で一番愚か者なのかも知れない。
だから、運転席のドアが開いたとき、へえ、と感心しそうになった。敵もやるもんだ。
黒い影法師が現われた。顔立ちの描写もしなければならないだろうが、そいつは、シルバー・フォックスの襟巻き、黒のロングコートと黒いスラックス、黒いブーツに黒い手袋の身体と同じく、顔まで黒かった。黒人というんじゃない。黒いマスクか何かで、そっくり顔だけ覆っているため、おれにも、鼻や唇の形ぐらいしかわからなかったのだ。
黒以外の色は、黒いネクタイを止めた大粒のダイヤのかがやきと、ワイシャツの襟もとの白、そして、両手でついた黄金のステッキ杖だ。
「口はきけるのかい?」
とおれは訊いてみた。身長はおれととんとんの一八五、六だが、見かけはずっと華奢だ。肩幅が狭く、頭が小さいせいもあるだろう。まるで、パリコレやミラノ・コレクションの一流モデルだ。
「私の名は――盤城《ばんじょう》伯爵だ」
と、黒い影法師は言った。隣の人間にも届きそうにない低声も、おれの耳には聞こえる。向うもそれを承知で話しているのだ。大したものだった。
いまどき、この国で伯爵? もちろん、冗談だ。しかし、少しもおかしくはなかった。顔は見えないくせに、それだけの貫禄と気品がこの男にはあった。
「この土地へは友人を訪ねてきた。君は?」
いよいよ、おれの番だった。
「おれの名は八頭大《やがしらだい》――東京の大学生だよ。ここへは歴史のお勉強さ」
「だといいがね」
と黒い男は言った。声は笑いを含んでいた。嘲笑を。
昇りつめた血が、一気に後退し、頭が妙に冷えていく。おれは、この瞬間、眼前の男を敵と認識した。
そいつ[#「そいつ」に傍点]はこうつづけた。
「八頭という名に覚えがある。確か遠い昔、私の一族の墓地を荒らしにきた外道《げどう》の名がそれだ。来世での優雅な暮しを約束する、死者への心づくしを盗み出す汚らわしい悪党――宝捜し《トレジャー・ハンター》とは、おまえだな」
ひどく静かな声が、冷やかに冴えた頭のどこかで、こう凄んでいた。
この野郎、喧嘩を売るつもりか。
これで終わりならいいのだが、面白えと付け加えてしまうから救われない。
「よく、ご存じだな、盤城何とか」
と、おれは切り返した。称号だの爵位だの持ってる輩は自己顕示欲の塊に決まっている。他人に知られていないことを忌み嫌うものだ。
盤城は、しかし、びくともしなかった。
「なかなか、腕のいい墓暴きだったと、我が一族の記録にはある。だが、その表情からして、おまえが誇り高き盤城家の名前を耳にするのは、これがはじめてだな。おまえの先祖が、なぜ、高貴なる我が名を、どぶ鼠の末裔たるおまえに伝えなかったものか、よく調べてみるがいい。――いいや、いまここで」
どうするつもりかは想像がついた。望むところだ。いつの間にか口もとに結ばれるうす笑いを感じて、おれは苦笑にチェンジした。根っからの戦闘好きというのも困ったものだ。
蒼木良美をどうするつもりなのか、どういう関係なのか、ここへやって来た理由は何か。訊きたいことは山ほどあったが、盤城は、右手でステッキを上げて、すべてチャラにした。
再び叩きつけられる鬼気の一塊――おれはとっさに、インドの古寺で、齢《よわい》二百五十歳の老僧から学んだヨガの秘術で迎え撃った。
腰の部分に存在する精神エネルギーの浄化装置にして発動部位――チャクラでもって吸収し、無害の気に中和してしまう。
「ほお」
伯爵は驚きの声を、ステッキを下ろす合図に変えた。
「汚らわしい賤業《せんぎょう》の主が、我が家の記録に遺されていた理由《わけ》がようやく呑みこめたぞ。我輩の殺念を受け止めて倒れぬとは、奇っ怪至極。おまえ――何者だ?」
「ただの宝捜し屋さ」
とおれは軽く応じた。
「あんたも大したタマだな。玉屋、鍵屋か。確かに、ここで始末しといた方がよさそうだ」
言うなり、右手が上衣の内側へ入った。強化ビニール製のショルダー・ホルスターに入ったグロックを抜くのに、〇・二秒もかからない。
何処を射つ? 閃く問い。肩だ、いや、顔面だ。わお、と声に出すところだった。おれは最初から伯爵を殺す気でいるのか。
引金《トリガー》を引くのにためらいはなかった。すでに初弾を薬室《チャンバー》に装填済みのグロックの安全装置《セフティ》は引金についている。引けば外れ、内蔵撃鉄《ストライカー》と撃針が、どん、と一発――その瞬間、黒い影法師は開いたままのドアの前に跳んだ。
無駄だ、と言ってやりたかった。通常の九ミリ・パラベラム弾なら、あるいはドアを貫けなかったかも知れないが、おれのグロックに装填してあるのは、拳銃用の粘着榴弾だったのだ。
炸薬の詰まった弾頭部が命中と同時に目標に付着、千分の一秒と置かずに、弾頭後部の信管が点火して、弾頭部も炸裂、猛烈な衝撃波と超高温の爆風が内部を破壊する。もともと対戦車用砲弾として開発されたものだが、人間以外の存在と戦う機会の多いおれは、自前の武器開発研究所で拳銃用に改造させたやつを使っている。戦車用より威力は落ちるが、厚さ二〇ミリのチタン合金くらいは易々と貫通破壊する。対人用のボディ・アーマーなど、ボール紙と同じだ。
弾丸は改造車のドア部に吸いこまれた。
ぼっと穴が開き、毒々しいオレンジの炎が、ドアの破片ごと向うへ抜け――なかった。
おれの眼だからこそ、地上へ落ちたひしゃげた弾頭を目撃できたのだ。不発かと思った。
ドアが閉じる。
同時に黒い乗用車は、暮れなずむ世界にライトも点けず発進した。エンジン音ひとつ立てない。よくよく、防音装置が完璧なのだろう。
真っすぐこちらへ向かってくる。
おれはすかさず、三発叩きこんだ。
不発がこれほどつづいたのは、はじめてだ。
跳びのこうとした寸前、リムジンは大きく向きを変え、駐車場から道路へと軌跡を描いた。その前を通過した一台のトヨタ・カリーナは、自分が奇怪な戦いの中断役を務めたとも知らず、蒼木村の方へと走り去る。リムジンも後を追った。
銃声の余韻もすでに彼方の山の端《は》と森陰に消えている。おれはふり向いた。盤城伯爵がどれほど物騒な奴かは、これでわかる。コンビニの窓ガラスも自動ドアも、粉々の破片――ではなく、まさに砂粒――きらめく粉と化して路上に広がっていた。盤城の凶念は、ガラスの分子の結合力さえ破壊してしまったのだ。
おれは素早く店内に入った。
美紀はカウンターの後ろで意識を失っていた。鬼気の余波を食らったのだ。無機物は破壊されるが、生体には精神的衰弱という形で効いてくる。
放っておけば、美紀は狂死しただろう。
おれは美紀のスカートの内側と口腔に手を突っこみ、一気にチャクラを回転させた。おれの精神浄化法が、どれほどの効果があるかは神のみぞ知る、だ。
一分で、蝋みたいな顔色がうす赤く変わり、美紀は眼を開けた。
まだ精神《こころ》の張りが生じていない。おれはチャクラからエネルギーを送りつづけた。
少女の顔に、生きるための張りが浮かんできたのは、それから五分も後だった。
店の惨状を見て呆れる美紀に、やったのは盤城だと説明した。
「ステッキを上げるのは見たけど――それで窓ガラスがみんな……。あの杖の中には何か仕込んであったの?」
凶念の増幅装置かと思ったが、口にはしなかった。代わりに、
「ここのガラス代は、おれが弁償する」
と言って、美紀を驚かせた。
「店長には、酔っ払いが来てぶち壊したが、その後で申し訳ないと金を置いてったとでも言っておいてくれ」
「そんな。十万や二十万じゃきかないのよ」
おれはポルシェへ行って、ダッシュボードから五百万円分の札束を手に戻った。
眼の前にそれを積まれた美紀の表情は見ものだった。
「これ――どうしたのよ?」
おれを見つめる眼の光は、素直なあこがればかりではなくなった。
「パパが金融業をやってるんだ」
ポルシェにはまだ、五億円の現金、五十億円分の宝石、黄金が積んである。もちろん、即金で解決すべき事態に備えての金だ。ま、大概は買収用――早い話が賄賂だが、世の中、好きだ嫌いだだけじゃあ通らない。好きならお金頂戴こそ真理だ。
「何でもいーけど、すっごーいのねえ。父さんの会社って商工ローン?」
美紀は、ぼんやりと口にした。眼に――当然ながら――見慣れた光があった。
「君を信用しないわけじゃないが、店長から領収書を貰ってくれ。村を出るとき、受け取りにくる」
「わかったわよ。あなた、案外ケチね」
「しっかりしてると言ってくれ。余ったら取っとけ」
美紀の顔は、みるみるかがやいた。黄金と札束の魔術が最も効果を上げるのは、女相手に決まっている。世の中の定説だ。
「本当!? ――いいのぉ!?」
「いいとも」
「サイコー!」
白い手が首に巻かれた、と思いきや、ぐいと引かれて、唇にぶちゅ、ときた。
すぐ離れかかるのを引き止め、
「ただし、条件付きだ。店長が警察へ連絡すると言い出したら仕方がないが、そのときは酔っ払いが壊したで通してくれ。それと、蒼木家には内緒だ」
「でも――それ、まずくない? 後でトラブったら困るわ」
「そのときは、動転してたって言えばいい。さもなきゃ、おれに脅されたって言いな。あの子の様子を見ただろ。何かおかしい。あのまま家へ戻したら、ヤバいことになるぞ」
白々と醒めた表情で、美紀はうなずいた。
生肉を手にした良美の不気味さを憶い出したのだ。
これは新鮮じゃない[#「新鮮じゃない」に傍点]。
あなたの方が、ずっといいわ[#「ずっといいわ」に傍点]。
美紀は身を震わせた。大概の場合、現実のわずらわしさは、超自然の恐怖に勝る。警察とトラブるよりは、良美やあの黒ずくめの伯爵とのことを証言してしまった方が、美紀にとってはずっと楽なのだ。
今回は、人外の恐怖が現実のトラブルに勝った。ガラス代の残りのせいもあるが。
「わかったわ。そうする」
と美紀はうなずいた。
「でも、毎日、連絡を頂戴ね。でないと、あたしひとりじゃ耐えられない」
すがるような眼がおれを見た。愛しさがこもっていた。
「正直に答えて。ね、あなた一体、何者なの?」
ここは一番、安心させる手だ、と判断した。準備はいつだってできてる。事あるたびに、高校生だの、宝捜し屋だの、正直に名乗ってはいられない。上衣の内ポケットから名刺のケースを取り出し、素早く一枚選んで渡した。美紀の眼には、自然に一番上の一枚を取り出したように見えたろう。
大学院の学生から、原子物理学研究室の助手、おカマ・バーのホステスまで名刺は盛り沢山だ。
ひとめ見て、美紀は大きくうなずいた。
「私立探偵・八手小作《やつでしょうさく》――そうだったの。カッコいい。ぴたりの職業ね」
納得納得と何度もこくこくしてから、妙な眼でおれを見つめ、
「でも、おかしな名前ね」
「放っとけ。そこに携帯の番号も入ってる。何か急用ができたら一本入れな。連絡は密にしとかねえとな」
「うん。――ねえ、蒼木さんのところで何かあったの? 良美ちゃんを捜しにきたんじゃないんでしょ」
「内緒だ」
おれは人差し指を唇に当てて重々しくうなずいた。これであっさり納得してくれるから、私立探偵はこたえられない。田舎の娘をだますには、これに限る。ちょっとした詐欺師ならご存じの手だ。ここでもうひと押しするのが、おれならではだが。
「だけど、君には特別に教えてやろう。――実はこの村の土地を買って、一大レジャーセンターにしようって計画が、ある大企業でたてられてるんだ。おれは、その前に、この村の名士の素行調査に来たのさ。だから、なるべく、警察にも村の人たちにも無関係のうちに事を運びたい」
美紀は眼をかがやかせた。秘密を打ち明けられたエリートならではだ。
「うん。わかる。誰にもしゃべらないわ」
「ありがとう」
「だから、絶対、デートに誘って」
「いいとも」
「――はい」
と美紀は唇を突き出した。軽くキスすると、
「ん――サイコー」
と身を震わせた。この娘なら、うまくやってくれるだろう、とおれは踏んだ。バレたらそのときのことだ。
「じゃ、な――後はよろしく」
美紀の肩をひとつ叩いて、おれはコンビニを出た。
軽く情報を仕入れるつもりが、ジャブの応酬になった。それを楽しんでいるから、救われない。
道路へ出て、村へと車を走らせながら、おれは手の中の小さな塊へ眼をやった。
全弾不発の粘着榴弾の弾頭だ。
後で調べてみたら、ひしゃげた炸薬部にも異常がない上、後部信管は確かに発火していた。それなのに、炸薬は爆発しなかったのだ。まるで、命中した瞬間、弾丸が死んでしまったかのように。
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第二章 村人たち
村へ着くとすぐ、おれは蒼木村村民センターへ出向き、東京から来た大学生だと宿泊を申しこんだ。
帰る直前の職員がいて、面倒臭がらずに手続きしてくれた。田舎のいいところだ。
荷物を運び終えたところへ、携帯が鳴った。
ナンバー表示は――うえ。
しかし、切るわけにはいかない。おれは、なるべく無感動な声で、
「こちら、八頭です。ただいま、電話に出られません。ご用の方は――」
ここまでで、
「そのアナウンスは普通、女よ」
と憎々しげな声が戻ってきた。おれ以外の男が聞いたら、何て色っぽい声だと胸をときめかせるだろう。少し嗄《しゃが》れてるが。
「やあ、ゆきちゃん」
とおれは、そらっとぼけてみせた。
「近頃は男の声でアナウンスする携帯もあるんだ」
「嘘つきなさい」
と、遥か東京の空の下、多分、ベッドに寝転んだ太宰《だざい》ゆきが言った。
「あんた――どこにいるのよ。え? 人が風邪で倒れたら、平気で置き去りにして。今度、あたしと顔を合わせたら覚悟しなさいよ」
「いま、グリーン・ランドだな」
と、おれは暮れなずむ窓の外を眺めながら答えた。
「なんでグリーン・ランドに『侍ニッポン』が流れてるのよ?」
センターのBGMだ。
「いいこと。どこで何しようとしているのか、きちんと答えなさいな。あんたひとり抜け駆けして、お宝の山を手に入れようなんて、そんな甘い考えは、絶対に許さないからね」
「その件については後日」
「ちょっと待ちなさいよ」
おれは一方的に電話を切って、電源もOFFにした。
ここへ来る前、ゆきはどえらい悪性の風邪をひいてしまい、丸半月、ひいひいやっていたのだ。あと半月ぜえぜえやってりゃしめたものだと思いながら出かけたら、やはり気がつきやがったか。
ま、あの声じゃあ当分動けまい。おれのマンションの秘宝展示室には“薬の間”というやつがあり、古今東西の奇薬、妙薬が集められているのだが、なんと、風邪の特効薬はどこにもない。ガンやエイズごときは、ひと粒でおとなしくさせられる猛者ぞろいなのに、だ。風邪とはかくも厄介な病気なのである。一説によると、もともと地球には存在しないウィルスによるものであって、太古にエイリアンが運んできたんじゃないかと騒いでる学者もいるそうだ。
なんで、そんなものを、というと、人間を猿から進化させる際にウィルスまでおかしくしてしまったそうで、人間の体力と照らし合わせたところ、大した危険はないと放置されてしまったらしい。――しかし、まるで見てきたような学説だな。
外は青く染まっているが、おれの眼には昼間と同じだ。外出することにした。
村の地理は、航空写真地図帳で、びっちり記憶してある。
おれはポルシェを蒼木神社へと向けた。
人口六百の村にふさわしい、土地だけは十分広い神社だった。
ペンキを塗り替えたばかりらしい鳥居も堂々と立ち、境内など広大のひとことだ。社務所のそばに白いカリーナが一台停まっている。
「ほう」
とおれはつぶやいていた。
中味がたっぷりとあんこが詰まっている鯛焼きを思わせた。
境内にみちているのは、何とも不気味な雰囲気なのであった。友人の美人作家N・Kによれば、そこに神がいない神社というのは一発でわかるそうだ。それなら、ここには危《やば》い神がいることになる。
心身ともに劣化していく感覚。霊的に敏感なものは、とても入れない。よくよく、神主やお参りにくる連中の心がけがいいのかな。
明かりの灯った社務所から、白装束に赤い袴《はかま》の娘が出て来た。巫女《みこ》さんスタイルのバイトだろう。おれを認めて近寄ってきた。
「外の方ですか?」
眼が大きく、唇が小さななかなかの美人だ。年齢は美紀や良美と同じくらいだろう。
「ええ――まあ」
と答えて、おれは、
「素敵な神社だね」
とヨイショをした。
「ありがとうございます」
おれを見つめる瞳はもう、熱っぽくかがやいている。身につけたアルマーニのジャケットやセーターのせいもあるが、やはり中味だろう。
「東京の方ですか?」
「あ、わかる?」
「ええ。センスが違うもの」
「はっはっは」
「でも、こんなところへ、どうして? 観光ですか?」
「いや。実は、おれ――」
大学の神社研究サークル会員・八手小作と名乗った。
「へえ。あたし、牧村咲子。バイトで巫女やってます」
「それにしちゃ、決まってるねえ」
おれは、またヨイショをしてしまった。
「そう」
咲子と名乗った巫女さんは袖を引っ張ってみせた。
「グー。な、一枚撮らせてくれないか?」
おれは上衣の胸ポケットを叩いた。
「写真? ――いいわよ」
もう、友だちしゃべりになっている。この辺が、おれの凄いところだ。
おれは一〇センチ四方の電子カメラを取り出した。厚さ三ミリ[#「厚さ三ミリ」に傍点]もない。
「それ、カメラ?」
咲子が呆れたように訊いた。
「そうとも」
おれはカメラの表面を押してファインダーを突出させた。シャッター・スイッチが後につづく。
おれが資金を出している最新メカニズム研究所の作品だ。
基本的にはデジタルだが、画素数は一千万もあるので、三五ミリ・フィルムよりずっと鮮やかに撮れる。もちろん、フラッシュ、赤外線、ワイド・ズーム可で、ズームは二四から三〇〇ミリまでOKだ。イヤホーンも付属していて、ラジオ放送もCD、MDもいける。
「なら、その狛犬をバックにして撮ろう」
おれはファインダーを覗きこみながら言った。
一枚終えると、
「今度は、そこの松の木の根元で。それから、鳥居を背景にして」
「そんなに? 困るわ」
と言いながらも嬉しそうだ。女はナルシシズムでできているから、それを刺激すると、他はどうでもよくなる。
「その眼つき、いいね。片手を頬に当てて、ナイス――決まってるよ。足はこう組んでみて。凄い、銀座のママもびっくらだよ」
必要に応じて、カメラマンに化けることもあるから、おれは本物顔負けの演技が可だ。モデルを乗せるためのカメラマンのおべんちゃらなど児戯《じぎ》に等しい。十年ばかり前には、撮影中に甦ってしまったアステカの女王のミイラを、おだて、持ち上げ、もう一度、柩の中へ戻したこともある。こんなとき、カメラマンの言葉は、恋愛における口説き文句と同じ効果を発揮する。
シャッターを押しながら、
「詳しいことは知らないけど、この神社、面白い言い伝えがあるんだって?」
さして期待したわけじゃない。何となく訊いてみた。
「あるわ」
あっさり言われて、驚いた。
「でも、話し出すと長いわよ」
おれは、ちょっと考え、
「じゃ、村民センターで」
と言った。
「いつならいいかな?」
「これからでも、OK」
「えーっ!?」
我ながらわざとらしいが、効果は十分だった。
「そんなに驚かないで、何もしないわよ」
「わあ、よかった」
おれは胸に手を当て、安堵の表情をつくった。咲子が姐御肌の性格と見抜いて、早速、気の弱い純情青年を演《や》ることにしたのだ。
咲子は苦笑して、
「あと一時間くらいで終わるわ。センターへ電話する。それとも携帯ある?」
「ある」
おれは携帯のナンバーを教えた。咲子は一発で暗記した。頭のキレもいい。
「じゃ、ね」
と片手を上げてから、その手を本殿の後ろの方へのばして、
「大して面白い代物じゃないけど、あっちにおかしな鳥居があるわよ」
「鳥居?」
「ええ。二日前に誰かが倒しちゃって、罰当たりがって、お爺ちゃんたち、みんな怒ってたけど、今朝見たら、ちゃんと元通りになってるの。誰がやったか全然わかってないんだ」
「へえ」
面白そうだ。
咲子と別れて、おれは真っすぐそちらへ向かった。
本殿の後ろは森だ。
「おや?」
覗いてすぐ、こんな声が洩れた。
ちょうど、真裏にあたる木立の間から、北の方角へ狭い道がのびている。特に切り拓いたわけでもない踏み分け道なのに、おれの興味を引いたのは、その一直線ぶりの潔さだった。
まるで定規を当てて引いた感じだ。ただ、平凡な人間の眼には、あくまでも平凡な細道だろう。
道はさらに森の奥へとつづいている。
あれ[#「あれ」に傍点]かな、と思った。身体がぞくぞくする。面白いことになってきたなと感じてる証拠だ。
ちょっと見てやろうと、道に沿って歩き出そうとしたとき、女の悲鳴と男の怒号が左手奥から聞こえてきた。
切れ切れの会話を分析すると、森の中でいちゃついていたカップルが、チンピラどもに絡まれているらしい。
女が先生、と言ってるところから察するに、男の方は教師か医者か。
教師なら放っとくところだが、医者なら恩を売っといた方が得だ。おれは足音を忍ばせてそちらに向かった。
いた。
五人ほどの皮ジャンにジーンズ姿が、男と女とを囲んでいる。
女はミニスカートのジッパーを上げ切ったところだった。ブラウスの前は、まだ派手に開いて、紫のブラと白い肉のふくらみがよく見える。眼福《がんぷく》である。今日は女子高生に縁があるらしい。この娘もそうだった。
男の方はがっちりした中背の髭もじゃで、ズボンのジッパーを上げようと悪戦苦闘中だ。よれよれの上衣と安物らしいウールのベストを見ても、医者とは思えない。すると――?
「いいざまだな、先生よ」
とチンピラのひとりが嘲笑った瞬間、先生が前へ出た。
チンピラの身体が一回転して地べたへ叩きつけられるのを見ても、すぐには信じられなかった。
ぼく、という音がして、チンピラは痙攣した。
口々に悪罵を撒き散らしつつ、チンピラが殴りかかった。
おれだからこそ、奴らの手首が逆を取られるのも、肘が曲げられるのも見ることができたのだ。常人にはチンピラどもが同時に跳ね上がって、頭から地面に激突したと見えたろう。
見事な関節技だ。ひとりも起き上がれない。脳震盪プラス手首を抜かれていると思えば無理もない。
髭男は怒った風でも得意そうでもなく、
「莫迦ものが。小賢しい手を使いおって」
とののしってから娘の方を見て、
「おまえもおまえだ。こんな落ちこぼれどもと手を結びおって。じきに回復する。女なら手当てぐらいしてやれ」
それから、こっちを向いて、
「そこの――おまえも仲間か? なら、出て来い。ひとつ、筋金を入れてやる」
「残念でした」
おれは、のこのこと顔を出した。
髭男は眼を細めて、
「何だ、君は? ――観光客か?」
「ええ、まあ」
「ふん、この村に観光客か――胡散臭いな。まあ、いい。こいつらと無関係なら帰りたまえ」
「合気道ですか?」
おれは、唯一、興味を引かれた点について訊いた。
「まあ、な」
と髭面は、おれを無視してジッパーを上げようと努力した。ひっかかっているらしい。
おれは低く、
「古代武道ジルガ」
髭男が愕然とこちらを向いたとき、待ちかねていたように娘が動いた。偶然の産物だが、絶妙のタイミングといえた。
両手の先から突き出た光るものが、髭面の左脇腹に吸いこまれた。声にならない声は、苦鳴だったか気合だったか、娘の身体は弧を描いて地べたへ激突した。尻からなのが野郎どもと違った。気のいい男らしい。
おれは足早に近づいて、脳震盪を起こした娘の手から小さな果物ナイフを奪い取った。刃先から三センチほど血がついている。
「大したこたあない」
おれと髭面は、お互いを見つめた。同じタイミングで同じ台詞を口にしてしまったのだ。
「何で、君にそんなことがわかるんだ?」
と髭面は、おれをにらみつけた。
「いや、まあ」
「帰れと言ったが、用がある。まず、ジルガの件だ。どうして知ってるのか、それを訊きたい」
彼はのっしのっしと、着ぐるみの怪獣みたいな歩き方で、神社の方へ進み出した。
「あんた、教師だな」
と、おれは言った。
「何故、わかる?」
「歩き方だ。無理やり貫禄を出してる。えらそーに。そんな職業、こういう村じゃ医者か教師か村長くらいさ」
「ふん、名探偵気取りめが。ミステリーの読み過ぎだぞ」
と髭面は吐き捨て、歩を止めた。チンピラと娘たちからは見えない位置である。
「君に用がある第二の理由」
と髭面は人差し指と中指を立てた。
「――何だと思う?」
「さてね」
「わからんのか?」
「全然」
「察しろ」
「何をだよ?」
「ふん」
と髭面は、人を小馬鹿にしたみたいに鼻を鳴らして、
「私はナイフで刺されて重傷を負った」
「――それで?」
「まだ、わからんのか、この低能め」
「余計なお世話だ。とっととくたばりやがれ」
「それは困る」
と髭面はあわてた。
「さっさと医者のところへ連れていかんか」
「真っ平だ。てめーのことはてめーでしな」
「薄情者め」
ののしって、髭面は仰向けに倒れた。大地が揺れた。
舌打ちして身を屈め、おれは髭面を調べた。まじ[#「まじ」に傍点]で失神している。
出血もひどくないし、傷も浅い。どうやら、血を見たショックらしい。
「強い割りに情けねえ教師だな。仕様がねえ。病院へ連れてってやるよ。だが、住所も電話番号もわからねーな」
「秋田県宗方郡蒼木村字蒼木一の二の三――『概気医院』」
しゃべったのにも驚いたが、わざわざ上体を起こしたのにはもっと驚いた。
「てめえ、しらばくれやがって」
「郵便番号××九の〇〇八五――電話は〇××八の×六三の四八四八、ファックスも兼用だ」
そして、おれに張り倒される前に、奴はまたでえんとひっくり返ってしまった。
調べてみると、またも本当に失神していた。
呆れ返ったが、放っておくわけにもいかない。かといって、おれが「概気医院」とやらへ連れていく義理もないだろう。
おれは、名前も知らぬ髭面を肩に担いで、社務所の方へ歩き出した。
ふと、足が止まった。
前方――三メートルほどに赤い鳥居がそびえ立っている。ひとつではない。一メートルほどの間隔で、都合七本ある。咲子が言ってたのは、これか。二日前に倒され、今日はもう直っていた。どちらも正体は不明。
そのとき――
その奥の一直線にのびた道の果てから、何か禍々《まがまが》しいものの気配が吹きつけてきた。肩で髭面が身じろぎした。わかるのだ。気絶していても、“ジルガ”を学んだ以上、精神的な恐怖には反応せざるを得ない。
おれは耳を澄ませていた。
やって来る。
おれは、いまの位置から道の果てを覗こうと眼を凝らした。
何を期待していたかは、口には出せない。
大幅に違った。
なんと、長身を白衣で包んだ中年のおっさんではないか。医者かと思ったが、手ぶらだ。
ゆっくりした足取りで、男は長い細い道をやって来ると、最後の鳥居の手前で立ち止まった。
とまどっている風に見える。
「往診をさぼるなよ」
おれがつぶやいた刹那、白衣姿の男は鳥居の下を抜けていた。
青い闇が別のかがやきを放った。
白衣の男は、青白い光に包まれた影絵と化していた。
よろめくような足取りで神社の後ろへ歩み去る青白い光を見送りながら、おれは指一本動かさなかった。
いま、その白衣男と関わりを持ったら危《やば》い、と直感したのである。しかも、生命に関わる。
光が本殿の前方へと廻りこんだのを確かめ、おれは鳥居の列に近づいて、まず、小石を放ってみた。問題なく通った。次は手だ。これもうまくいった。
いよいよ本人だ。おかしな影響があるとまずいので、かついだ髭面は地面に下ろした。ま、当人が失神するほどの傷でもなし。
ろくすっぽ緊張もせずに、おれは、白衣と同じ方角から鳥居を抜けた。さらに二度繰り返しても異常はなかった。
ただの鳥居だ。おれや――多分、この世界の人間にとっては。ただ、あの白衣男にとっては違うのだ。そして、奴は、ほとんどあり得ない一直線の踏み分け道をやって来た。
もう少し調べてみたかったが、今日はこの神社を去った方がいいような気がした。
髭面を担ぎ上げ、前もって調べてあった社務所の電話番号をプッシュすると、し終えるひとつ前に携帯が鳴った。
またゆきか、とうんざりしながら出てみると、
「咲子です」
ときた。おやま。
「ごめんなさい、急用ができたの。デートはまたにして」
「ちょっと待ってくれよ、あのさ」
「ごめん。また、かける。絶対、埋め合わせはするから。――じゃ」
電話は一方的に切れた。
同時に、
「何をしている?」
と肩の上の荷物が呻いた。携帯の呼び出し音で眼を醒ましたらしい。
「何も」
おれは、うんざりしながら答えた。
「ここは――まだ、神社の境内だな。医者はどうした? 君はおれを殺すつもりか?」
あんたを殺したって一文の得にもならないよ。
「さ、早く早く、『概気病院』へ急げ。痛た、傷が痛む、出血がひどい」
野郎、何のつもりか、肩に担がれた分際で、じたばたしはじめた。計画的犯行だ。
放ったらかしにしてもいいのだが、後々、警察にでもタレこまれて、この村での活動に支障を来すようになると面倒だ。おれは黙って、ポルシェのところへ運んでいった。
こいつは、どこからどこまで人を食った野郎だった。
ポルシェを見るなり、
「おっ、これはポルシェだ!」
と感嘆の声を上げ、それきり、いくらゆすっても、声をかけても動かなくなってしまったのである。また失神だ。
とんでもない疫病神か“海じじい”にとっ捕まった気分で、おれは髭面の口にした住所と、記憶してある村の地図を頼りに車を走らせ、十五分ほどで、いかにも田舎の個人病院といった感じの建物の前に到着した。
玄関のドアを開いて、待合室の上がり口に髭面を下ろし、
「急患です。置いときますので、よろしく」
と言い終える前に、奥から看護婦が出て来た。
わお、と声が出そうになった。
こういう場合、凄い美人の看護婦が、田舎の老院長の病院をきりもりして、患者たちを助け、恋人と結ばれるなどというような話は全くない。大抵は、田舎の医院にぴったりの、しわくちゃで疲れたおばん[#「おばん」に傍点]が現われるものだ。
おれの眼の前の看護婦は、凄い美人とはいえなかった。途方もない美女だ。超一流のモデルも三舎《さんしゃ》を避けるだろう。世界的女優になった病院の娘が、里帰りして家業を手伝っているのではないか。年齢も二〇歳前後、おれとぴたりだ。
「急患って、誰?」
女は絡むような口調で訊いた。声が美貌と同じくらい美しいだけに、迫力がある。
「あ、こちら」
とおれは足下の髭男を指さした。
それを追った看護婦の眼が、驚きに見開かれた。
「野中先生!?」
髭男の本名か。何回も来てるらしい。無理もない。
「すぐ診察室へ運びます。手伝って下さい」
「よろこんで」
おれは揉み手したい気分で靴を脱いだ。
髭男――野中を担いで、奥の廊下へ出る。
左右につづくドアの、いちばん手前右側を看護婦が開いた。
薬棚、ベッド、デスクに椅子というお馴染みの診察室であった。白衣姿の医者が、こっちに背を向けて窓の外を眺めているのだけが違う。
おれたちが入ると、
「何事かね、三狩《みかり》くん?」
後ろを向いたままで訊いた。看護婦の名は三狩というらしい。もう髭野郎がどうなろうと構わねえ。
「急患です。野中先生です」
「また、生徒と悶着を起こしたのかね? 困った男だ」
「本当に」
女は迷惑そうにうなずいた。
この野郎、それでも看護婦かと思ったが、ここは患者第一だ。
「傷はどうだね?」
「刺されてますが、せいぜい三センチです。当人が痛がるので連れて来ました。ぼくはこれで失礼します。後、よろしく」
「一応、カルテをつくらねばならん。刺されたときの状況をお聞かせ願おうか」
そして医者は、ゆっくりとこちらを向いた。
ひょっとして、と思わないでもなかったが、やはり別人だった。あの満身の妖気を、そうそう隠しおおせるとは思えない。
おれと向かい合ったのは、中肉中背、医者としては、およそ物足りない凡庸《ぼんよう》な顔立ちの中年男だった。医者よりは、幼稚園の先生が似合っている。
「あの――概気先生ですか? 院長先生?」
念のために訊いてみた。
「そうだ」
医者は重々しく笑って、野中教師の傷を調べた。
「ふむ。止血もうまくいってるし、傷も浅い。三狩くん、消毒の用意を」
と命じて、おれの方を向き直った。
「止血をしたのは、君だね?」
「わかりますか?」
「この村の連中に、ああ手際いいやり方はできんよ。正直、傷は浅いがやられてる血管が多い。出血多量であの世へ行っても、おかしくはないのだ。自衛隊――じゃあないな、あれは米軍のやり方だ」
田舎のお医者さんが、自衛隊と米軍の止血の差まで見抜いたので、おれは驚いた。日本に人材はまだまだ豊富だ。そして、使いどころを間違えている。
「なんで、そんなに詳しいんです?」
「昔、あちこちを廻ってな」
医者はにやりと笑った。この男、ひょっとして、おれに同じ匂いを嗅いだのかも知れない、と思った。
「あの先生――教師ですか?」
「おお、高校のな」
「体育?」
「いや、家庭科だ」
コケそうになるのをこらえるには、かなりの努力が必要だった。
「だからといって、教師としての情熱は、今の若いのには珍しく強いものを持ってる。どうせ、悪ガキどもに刺されたんだろう」
「ええ、まあ」
おれは神社の森の中のことを話して聞かせた。
「私がこの村で開業してまだ三年とちょいだが、もう十回以上も運びこまれてる。鉄パイプで頭を割られたり、包丁で刺されたりだ。よく生き延びてこれたものだよ。それでも、彼は教師をやめようとはしない」
「教育者の鑑ですね」
おれは、惚れ惚れとヨイショをした。
これで、髭面教師のことはいい。おれは話題を変えた。
「先生――蒼木家の人もここへ来るんですか?」
「もちろんだ」
「へえ」
「――と言いたいが、滅多に来んな。あそこは別に主治医がいるらしい」
「村にですか?」
「いや、私は見たことがないが、その都度、呼ぶという噂だ」
おれの脳裡を鳥居の彼方からやって来る白衣の影がかすめた。
「外から、ですか?」
「そうなるな――おっと、失礼。手術の用意ができたようだ。待っていてくれたまえ」
おれはおとなしく廊下へ出た。情報収集のためなら、丸一週間待ってもいい。しかも、この連中から聞けるのは、生きた情報だ。
ビニールの表地が、あちこち破れている年代物のソファに腰を下ろして、一分とたたないうちに、玄関の方から、激しいバイクのエンジン音が何台分か響いてきた。
止まった。少し間を置いて、荒々しい靴音。ドアが、猛烈な勢いで開き、壁に激突した。建物中が揺れた。
手術室から三狩看護婦が現われた。美貌が緊張と恐れで歪んでいる。
おれにまかせろ、としゃしゃり出るのは簡単だったが、おれはあえて無視した。力には見せどころ、恩には売りどころがあるのだ。
三和土《たたき》に出た三狩看護婦の前には、彼女に比べれば山みたいな巨体が並んでいた。玄関が内側からひしゃげて吹っとびそうな質量の塊だ。
ヘルメットに皮のつなぎを着た悪そうな餓鬼ども――ひとめで暴走族と知れる。やれやれ、村の暴走族か。
「何の御用?」
と三狩看護婦が訊いた。いかんな、声が震えている。舐められるだけだ。
「ここに、野中ってセンコーがいるだろ。出しなよ」
「センコーって誰なの? ここは病院ですよ、態度を――きゃっ!?」
やられたな。あの声じゃ、乳を揉まれたのだ。
「何するの!?」
耳に心地よい怒声とともに、鋭い音が鳴った。女の平手打ちというのは、全く効果はないが音だけはよろしい。
「この女《あま》あ」
怒号が湧いた。おれは椅子から跳ね起きた。出番が来たと思ったのだ。
だが、どうやら控えだったらしい。
おれが待合室へ跳びこんだ瞬間、玄関から男の苦鳴が流れこんできたではないか。
あの声は――逆を取られてやがるな。
おれは三和土の上がり口をふさいでいる三狩看護婦の肩を掴んで引き戻すと同時に、自分が前へ出た。
一九〇センチはある皮ジャンが二人いた。どちらも上空に肘打ちを叩きこんだみたいな格好で、爪先立ちになっている。
その両肘に手を当て、持ち上げているのは、それこそ鶴みたいに痩せこけた若者だった。
痩せているとはいえ、顔立ちは驚くほど日本人離れした美貌だし、ダーク・グレーのジャケットと同色のスタンド・カラーのシャツとスラックスも、一発で超高級品とわかる。こんな田舎には無縁の品だ。
もちろん、おれの眼を引いたのは、一八〇を越える身長はともかく、体重なら三倍もありそうな暴走族の巨漢を、肘ひとつで動けなくさせた手練の方だった。
ただ掴んでいる風にしか見えないが、見事に急所の痛点を圧している。その証拠に、二人は苦鳴さえ洩らせず、口をぱくつかせているばかりだ。
「どうします?」
と美少年が訊いた。年齢はおれと同じくらいだ。質問したのはおれにじゃなく、後ろの三狩看護婦へだ。
「外へ出して下さい。二度と戻って来ないように」
看護婦の口調から、おれは美少年を一種の大物と判断した。ただし、病院にとってか、看護婦個人にとってかはわからない。
「わかりました」
美少年はうなずき、くるりと向きを変えた。巨漢たちも右にならう。玄関の外には、見覚えのある顔が立っていた。神社の奥で野中教師に痛めつけられてたチンピラのひとりと、果物ナイフの女だ。
彼らがあわてて脇にのいた瞬間、
「ぎゃあ」
「わわっ」
ようやく人間らしい悲鳴が沈黙の世界を裂いて、門からつづくコンクリートの通路へ激突した。いやな音がして、途切れた。
美少年は息ひとつ切らせず、顔色も変えずにふり返って、三狩看護婦の方を見た。
「治療しますか?」
「骨でも折れたの?」
「頚骨が少し。よかったら、僕の方で」
「私には、何とも」
「わかりました。――では」
美少年は棒立ちになってるチンピラと娘へ眼をやり、
「一緒においで」
と言った。石みたいに無感情な言葉だったが、あんなもの見せられてしまった方には命令に等しい。
身を屈めた美少年が、首の骨を折った二人組の皮ジャンの襟を掴んで、門の方へ歩き出すと、チンピラと娘も意志を失った人形みたいに、その後について門をくぐった。
「あのハンサム――蒼木家の?」
とおれは、立ちっぱなしの三狩看護婦に訊いてみた。
「そうよ、蒼木道綱《あおきみちつな》くん。あんな、人形みたいな身体と顔のくせに、とっても強い子だわ」
看護婦の声よりも、とろけるような熱っぽい眼差しに、おれはセクシャルな関係を感じた。
「ここへも来るんですか?」
「時々ね。昔はよく怪我をしたといって。いまじゃ、滅多に来ないわ。どういう風の吹きまわしかしら」
そのとき、吹きこむ風に乗ったみたいに、道綱くん[#「くん」に傍点]が戻ってきた。
「彼らは、もう帰りました」
と美少年は、三和土で三狩看護婦に淡々と告げた。おれにはわかるぞ。脅したな。
「院長先生は?」
とつづけた。
「いま、手術中よ」
「待たせてもらえます? 三狩さんと院長先生にお話があって来ました」
「へえ、どんな?」
美しい顔が、質問者の方を向いた。おれだ。
「君は?」
「旅の大学生さ。八手小作。よろしくな」
「野中先生を運んでらしたのよ」
「すると、いまの二人組がここへ来た原因は、君か」
莫迦げてはいるが、理屈は通っている。
「そうだ」
試しに答えてみた。
道綱の右手が近づいてきた。
おれは軽くかわして、
「小娘に刺されたのは、野中先生の勝手だ。病院の指定は先生がやった。おれは運んできただけさ」
道綱は大きくダッシュした。三狩看護婦を突きとばすようにして、後退するおれを追って、待合室に入ってきた。
のばしてくる手を間一髪でかわして、
「やめとき」
と能面みたいな顔へ命じた。なおも追ってくる。
止まるわけがない。
こうなれば、やる[#「やる」に傍点]しかないか。
「何してる?」
野太い声のした方に意識を集中すると、概気医師が廊下の戸口に立っていた。
「これは蒼木くんか。――おい、手術は終わった。野中先生は無事だぞ」
「あ、それはどうも」
とおれは言い、蒼木道綱も黙って頭を下げた。少なくとも礼儀はわきまえていらっしゃるようだ。
「あと一時間くらいで麻酔が切れる。そしたら、連れて行きたまえ」
その前に逃げ出してやる、と思いながら、
「僕は基本的に無関係な人間なんで。これで失礼します」
「そーはいかん」
いきなり、廊下の向うから蛮声としかいいようのない声が響いてきた。
廊下を廻って、のっしのっしとやって来たのが誰かは、言うまでもあるまい。寝てろよ、おっさん。
もう普通の格好に着替えた――といっても、手術着になったのを見た覚えはないが――野中教師は傲然と胸を張って、
「そんな軽佻浮薄な格好をしてはいるが、中味はなかなかに面白い男だな、君は。――ひとつ、じっくり話し合おう」
「何をだよ?」
おれはうんざりしながら天につぶやいた。
「何でもいい。とにかく、一緒に来たまえ。おお、四組の蒼木じゃないか。何をしてる? 病気か?」
「いえ」
と美少年は眼を伏せて首をふった。ひとめで肌が合わないと知れる。
「まあいい。――いや、先生、ありがとうございました。手術代は給料日に」
一方的に宣言するや、一同を後に残して、
「さあ、来い」
と、おれの腕を取って三和土へ下りた。
おれは逆らわなかった。
靴をはいて、玄関を出ようとしたとき、細い声が耳朶《じだ》に触れた。
他の人間の耳には、まず聞き取れない声――つまり、相手もおれと承知で出しているのだ。
「また、おめにかかりましょう」
と声は言った。おれはふり返りもせず、
「ああ、よろしくな。――君の妹さんとも挨拶したぜ」
おれと声の主とをつなぐ不可視の細い線を、凄まじい冷気が伝わってきた。
「――どこで? いつ?」
「内緒だ。今度、会ったときに教えるわ。携帯はあるか?」
「ええ」
道綱の口にしたナンバーを暗記して、
「後で連絡するよ、じゃあな」
素っ気なく告げた後で、おれは外へ出た。片田舎とはいえ、街灯は点っているが、その周囲以外は闇に包まれている。田舎の闇は濃い。都会の闇とは根本的に違うのだ。
「ポルシェだ、ポルシェだ」
野中教師は騒ぎながら、おれの車を捜し当て、
「さ、乗った乗った」
おれが嫌々乗りこみ、ロックを外すと、何のつもりか後部座席に坐りこみやがった。
「そこはお客用だぜ」
と嫌みを言っても、
「我輩は客である。――行け」
えらそうに前方を指さした。
「どこへ?」
「我輩の家である」
「へいへい」
おれは左の耳の孔《あな》を掻きながら、車をスタートさせた。
素直に髭面教師の要求に従ったのは、もちろん、あの美少年――蒼木道綱のことを訊き出すためだ。あそこにいれば、彼が医院に来た理由――概気医師と三狩看護婦への話とやらも聞けたかも知れない、などと考えるのは素人だ。あんなタイプが他人の前で大事な話の内容を口にするものか。さっさと出て来て、後は――
野中教師の家は、二十分ほど走った森の近くにあった。全くの一軒家ではなく、細い道路をはさんで十軒ずつ軒を並べている。
「まあ、上がれ上がれ」
こっちもそのつもりだから、鍵を外した野中の後について一歩踏みこみ、
「あれえ?」
と口にしてしまった。
そもそも、てめえの髭さえ満足に当たる気もない男の部屋が、整理整頓できてるはずもない。週刊誌と、汚れた食器と店屋ものの丼、カップ麺の残骸、吸いさしの煙草の山で埋まっているのが普通だ。
それが、ぴしっと片づいている。
「あんた、妻帯者か?」
と訊いてしまった。
「莫迦な」
と言って、はは、ははと笑う。
「じゃ、なんだ、これは?」
と、モデル・ルームみたいな六畳二間と四畳半のキッチンを眺め渡したとき、
「お帰りなさあい」
玄関の扉の開く音に混じって、若い女の声が弾んだ。
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第三章 おかしな教師と女生徒奇譚
おれは、この野郎という眼つきを野中に向けた。
「あら、お客さま?」
声がつづいて、玄関の戸を閉める音、靴を脱ぐ間が少しあって、障子ががらりと開いた。
入ってきたのは、いかにも頭の良さそうな顔立ちの娘だった。モスグリーンのタートル・セーターに、ベージュのミニスカートを合わせている。右手にはコンビニの袋をぶら下げていた。美紀の店へ行ってきた帰りか。
おれを認めて、娘は桜色の頬をさらに濃く染めた。
「いらっしゃい。あの――先生は?」
「こっちにおるよ」
いつの間にか、隣の部屋に潜りこんでいた野中教師の声がした。
「もうお寝《やす》み?」
と娘が訊くところを見ると、寝室なのだろう。おれは素早く、大柄なボディとよく発達したバストとヒップへ眼を走らせた。野郎、インコーか。
そこへ襖を開けて、野中が姿を見せた。長い寝巻の前は開けっ放しだ。帯を締めようとしてうまくいかないらしい。
腹に巻かれた包帯に気づいて、
「――どうしたの、その傷!?」
コンビニの袋を放り出し、娘が血相を変えて走り寄った。跳ねとばされる前に、おれは横へのいた。
「大丈夫だ。大したことはない」
「阿久沢か仲間にやられたのね。いつか、こんなことになるんじゃないかと思ってたわ。手当てはしたの?」
「ご覧のとおりだ」
と野中は包帯の上から、傷口ではないところをぱんぱん叩いて、
「我輩は、断じて世間にはばかるような真似はしておらん。それがわからん学校や父兄やマスコミなど、こちらからお見限りだ。いつでも辞表を提出してくれる」
「あたしはどうなるの?」
娘は哀訴ともいうべき声をふりしぼった。それでも自分を通そうとする怒りと自己主張があるのは、こりゃ当然だわな。
「卒業するまで勤めてくれなけりゃ困るわ。高校中退して主婦になるなんてやーよ」
「あきらめろ」
「や」
「ふーむ」
と野中は腕を組み、激昂の反動か、娘はそのせり出した腹に頬を当てて、しくしくやりはじめた。
おれはそっと、
「あの、また今度」
と声をかけた。野中は、はっと気づいて、
「どこへも行ってはならんぞ。君には、まだ訊きたいことがある!」
雷のような声で喚いた。これで娘も正気に戻った。
「こちら――誰よ?」
「我輩と阿久沢たちの戦いを黙って見ていた奴だ。東京の大学生らしい」
負傷した自分を病院とここへ運んだ生命《いのち》の恩人と言えないのかよ、この教師は。
はたして、娘はケチか泥棒猫を見るような眼つきをおれに向けた。
「どうして、そんなん連れてきたの?」
「実は我輩の身につけた武道について、ちょっと訊きたいことがあってな」
「もう。怪我してるくせに、すぐ夢中になっちゃうんだから。駄目よ、趣味に走って卑怯者を同じ屋根の下に入れたりしちゃ」
ま、我慢の一手だ。いつか痛い目に遇わせてくれる、このメンタは。
「酒はあるか?」
「ええ。ちゃあんと、先生の好きなワインをね」
女の飲み物だ。
「なら、よし。おい、台所へ行こう。今夜は鍋だ」
おれをこう誘ったから、娘の方が呆っ気に取られた。
「こんな人に食べさせるの? あたし、料理やダ」
「彼は負傷した我輩を病院へ送り届けてくれた生命の恩人だ。言われたとおりにせんか」
「わかりました」
娘はすぐに立ち上がって、流しの方へ行った。
おれは、テーブルをはさんで野中と向かい合わせに坐り、
「教師と生徒のLOVEって、ありか?」
と訊いた。
「見ればわかるだろう」
「ふーむ」
「もうわかったと思うが、神社の森で我輩とやり合ったのは、うちの高校でも札付きの不良でな。いつか決着《けり》をつけにゃならんと思っておったんだ。しかし、油断大敵火がぼうぼうだ。まさか、あの娘に刺されるとは思わなかったぞ。あいつらにゆすられているというので、これは人助けとぶちのめしてやる口実ができたと思ったが、あそこまで行くといきなり、先生が好きと抱きついてきた。やはり、女を信じてはいかん。メモしておこう」
「そんなもん、三十年も前にメモしてなきゃならねえよ」
おれは呆れ返った。ズボンのジッパーまで下ろしてた奴が、何が女は、だ。野中教師は、ふむ、と感心したように腕組みしてから、
「ところで、本題だ。君はなぜジルガのことを知っている?」
「別に。何かの本で読んだんだ。格闘技系の雑誌だったかな。よく覚えてないよ」
「嘘をつくな。よく覚えていない奴が、技ひとつ見てジルガと看破できるものか。――来い」
「おい」
両手を前へのばして、猫足立ちになった教師へ、おれはあわてて声をかけた。
「こんな家の中で古代武道を使う気か? 技によっちゃ基礎から吹っとんじまうぞ」
「それもそうだ」
野中は構えを解いた。
「では、表へ出たまえ」
「いい加減にしろ!」
と一喝したところへ、ワインとグラスをトレイに載せた娘が戻ってきた。
「どしたの?」
と不安げに野中へ訊く。
「おお、この部屋で思う存分投げ合おうという馬鹿ものがいてな。それを注意したら、こうだ」
娘の眼がおれを射抜く。当然だわな。この教師、利口なのか阿呆なのか見当がつかなかった。いまでは、はっきりとわかる。
「卑怯者め」
と、おれはののしってやった。
「もう何も教えてやらん。おれは出て行くぞ」
足下が激しくゆれた。おれの両足を中心に直径三〇センチばかりの床が、そこだけ激しく震動したのである。
並みの人間なら立っていられなかったろう。しかし、おれは揺れが来た瞬間、二メートルも横へ跳躍していた。しかし、狭い家だな。着地した右足を、椅子に乗せなきゃならん。
「ほう、かわしたか。ジルガの足踏《チャンピ》系三の一九七『自足厳地《じそくげんち》』――これなら家が崩れる心配はない。しかし、やっぱりただのチンピラじゃなかったな」
「済まねえな」
おれは右足を踏み下ろした。
野中の身体は二メートルも垂直に浮き上がり、頭部が天井にぶつかった。落ちてくると床にへたりこみ、頭頂を押さえた。
「痛ててててて。やっぱり、使ったか。この卑怯者め」
「あんたと同じ技だ。もう少しできるぜ。『腕投系』『指斗系』」
「本当か、キミ!?」
野中は眼を剥いた。
「やりたまえ」
「人がいるよ」
「おい、出て行け」
娘は頬っぺたをふくらませた。おれは教師に、
「見たけりゃ、見せてやる。その代わり、あんたもおれに学校のことを教えてくれ」
「なんだ君――うちの落第生か?」
「違う。――言っただろ、歴史を勉強してるんだ。おたくの生徒の家系に興味がある」
「生徒の家柄になど興味はない。見損なうな」
「おれがあるんだよ」
と喚いてから、ジルガを見たいだろ、と挑発してやった。
「見たい。しかし、生徒のことを、見ず知らずの他人に――」
「それって、蒼木さんの家のこと?」
いきなり娘に言われて、おれよりも野中の方がぎょっとした。
「こら」
「いいじゃない。ね、ジルバだかジルコンだか知らないけど、この人に見せてあげて。村のことなら、みんな私が教えてあげる」
「なんだ、キミは? 蒼木村の芸能レポーターか?」
「ううん。単なる女子高生」
おれへの認識を改めたのか、親しみのある表情だ。
「いいや、やめとく。おれが知りたいのは、もっと特殊な――歴史的な事柄なんだ」
「それでもいいわよ」
けろっとしている。小面憎《こづらにく》くなった。
「悪いけどな、目下、おれが必要な知識を持ってる女の子はひとりしかいねえんだ。キミじゃ役者が不足だよ」
「それ、誰よ?」
「蒼木高校歴史探究部・赤座広美ちゃんさ」
「へえ。あなた、その女《こ》よく知ってるの?」
「ああ、ポン友さ。――うるせえな」
肘のあたりをひっぱる野中の手を払って、
「インターネットで知り合った。歴史観が共鳴し合ってな。幸福な出会いだった」
「初耳ね。――あたしが赤座広美よ」
「あー?」
ちょっと、まずかったかな。
「はっはっは。実は――」
「これ以上、話をややこしくするのはよしましょう。ね、いまの条件でいいでしょ? そのジル何とかいうの、見せてあげて」
おれを即座にうなずかせたのは、ひたむきな眼と表情だった。死ぬまで理由はわからないだろうが、この娘は野中に心底ほの字[#「ほの字」に傍点]なのだ。
「いいとも、ここでやる?」
「おお」
と野中教師が立ち上がった。
傷など気にもならないらしい。こういうタイプを、悪いことにおれは嫌いじゃない。
いくら何でも四畳半のキッチンで、と思うが、「ジルガ」は本来、人間二人が向かい合って立てるスペースがあれば、雌雄を決することが可能な技なのだ。
二〇センチと離れず対峙したおれたちを見て、広美が眼を丸くした。
「行くぜ、先生」
言うなり、おれは身をよじった。電光の速さで突き出された野中教師の掌底《しょうてい》を間一髪でかわし、膝をろくに曲げずに跳躍する。
野中の頭上をとんぼを切る要領で越えざま、もう半回転して、背中に貼りつく形で両足首を掴んだ。
思いっきり足裏を床に押しつけ、それから垂直に持ち上げる。野中の足の発条だけで、二メートルもジャンプできたのは、ジルガの「傀儡《ホアン》系他力跳《たりきちょう》九の一七」のなせる技だ。
案の定、頭頂部が天井に激突する寸前、野中教師は両手のひらで「反圧《シッポ》」をかけ、天井を支えるや、その手の四指をのばして、おれの脇腹へ貫手《ぬきて》をかけてきた。まともに食らえば内臓を引きずり出される。そして、傷痕ひとつ残らない。
両肘でブロックした。
野中教師の両手も、〈貫通技〉の奥義にまでは達していない。指をくじく感触があった。
「そこまで」
一方的に宣言して、おれは床に下りた。野中も後につづき、
「いったったあ」
と右手の指を左手で握りしめ、もう一度、
「いったったあ」
と悲鳴を上げた。どっちの指も負傷したらしい。
「気が済んだかい?」
と、おれは訊いた。激しくうなずく。
「何したのよ!」
広美が駆け寄って、詰問した。
「女にゃわからんこった」
「そんなものないわよ――大丈夫? 痛い?」
「痛くない」
野中教師は、ぴしりと宣言した。女が見ているからカッコづけだ。しかし、血の気が引いた顔と無表情は隠しようもない。
「どうする?」
おれが重ねて訊くと、
「もう結構だ。ありがとう」
「なら――ほれ」
おれは手をのばして、野中の両手指にそっと触れた。
「――どうだい?」
「痛みが――引いていく!? これが、トトカシ――鎮痛法か。我輩には、ついに習得できなんだ」
臓腑《ぞうふ》がねじ切れるような声で呻いたかと思うと、野中は床の上にすとんとへたりこんで、さめざめと泣きはじめた。
「可哀想に、先生」
広美がこう言って、後ろから抱きついた。まずいことになりそうだ。
「負けたのが、よほど口惜《くや》しかったのね。いいわ、いいわ、私が仇を討ってあげる。――ちょっと待ちなさいよ」
三和土へ下りる寸前で、おれは立ち止まった。しかし、この村の女子高生は、どうしてみんな、こう活きがいいんだろう。
「あたしのダーリンをこんな目に遇わせて、そのまま行かせやしないわよ。勝負しなさいよ」
「おまえねえ――男の勝負に女が出て来んなよ」
おれは広美の方を向いて言った。
「何が男よ。勝負なんて、勝ちゃあいいのよ」
「マキャベリストか、おまえは」
こうののしりながらも、おれは内心ほくそ笑んだ。確かに広美の言うとおりだ。しかし、
「勝つつもりか、おまえ?」
「馴れ馴れしく呼ばないでちょうだい」
と広美は一喝した。おれは楽しくなった。
「ほう、何で[#「何で」に傍点]やる? 空手か少林寺か、それとも――」
「待て」
と弱々しい声が止めた。まだ床上で胡座をかいているが、野中教師であった。
「あれ[#「あれ」に傍点]はいかんぞ、赤座。――あれを使っちゃあいかん」
「だって。口惜しいじゃないの。かちんかちんにして表へ放り出してやるわ。大丈夫よ、車にはねられたって、野良犬に咬まれたって、死にやしないんだから」
「とにかく、よせ」
野中教師は、お、やっぱり先生、と思わせる重々しい声で命じた。
「勝負は勝てばいいが、汚い手で勝っても何にもならん――それが我輩の主義である。それに勝ち負けは時の運だ。次は勝てるかも知れん。おかしな手は使うな。我輩の顔に泥を塗るつもりか?」
「わかりました」
広美は、ぺこ、と頭を下げたが、なおも不満そうに憎々しげな眼でおれをにらみつけ、
「――それで、どうするの? こいつ[#「こいつ」に傍点]の質問におとなしく答えてやればいいんですか?」
切り口上である。いいねえ。これくらい威勢よくないと面白かないわな。
「約束だ。ちゃんと教えてやれ。嘘は許さんぞ」
「はいはい」
いかにも面倒臭そうに言って、広美は野中に肩を貸して立たせ、椅子にかけさせた。おれが後につづいたのは言うまでもない。
それから、どういうわけか、鍋の用意が整いワインが開けられた。不承不承ながら、この激しい性格の娘がとにもかくにも文句も言わずに従っていることで、野中教師に惚れ切っているというのは一目瞭然だった。ただ、その理由がわからない。“ジルガ”の使い手だというのを除けば、どん臭い田舎の教師にしか見えないが、ま、男と女のことはいまだに世界の謎だ。
「いやあ、キミのお手並みには、この野中武助――正直、舌を巻いた。どころか、眼もくらむ思いであったぞ。我輩があれを学んだのは、学生時代、チベットのとある聖山に登った折、山頂の寺院でそこの高僧に伝授されたものだが、百二十歳を越す彼さえも、教示してくれた技の他には十も知らんと嘆息しておった。多分、事実だろう。そのとき話してくれたジルガ伝説の中に、君の使った“傀儡”と“鎮痛”の系もあった。――教えてくれ、どこで習ったのだ?」
まるで子供のように眼をかがやかせて――とはいかず、年齢《とし》のせいか、血走らせてというのが当たっていたが、おれは段々、この生真面目でおかしな教師が気に入りつつあった。
おれが“ジルガ”を学んだのは、マニラの郊外にある古寺院の遺跡で、そこに埋蔵されていた時価一兆円のダイヤモンドを巡って、出くわしたある秘密宗教団体と射ち合いになり、最後のひとりが素手での試合を挑んできた。やだよ、ズドン、と仕留めちまえばよかったものを、若気の至りで、よし、やってやろうじゃないかとなり――おれが十四歳のときだ――これが強敵だった。おれが心底から生命の危険を感じたのは片手の指くらいしかないが、このときは間違いなくそのひとつだった。
こっちの攻撃はすべて軽くあしらわれ、突けば投げとばされる、蹴れば殴られる、関節を取りにいけば蹴り倒される、といった案配で、しかも、一発一撃が遊びじゃなく、まさに必殺の気がこもっているものだから、かわすのが精一杯。一分とたたずに、左肩脱臼、右足首骨折、肋骨にはひびが入り、左眼は腫れ上がって見えないという惨状を呈した。
この技は何だ? と尋ねるおれに、勝ち誇った相手は“ジルガ”の名を告げたのである。
そして、気がつくと、奴は五メートルも離れた巨木の幹に身体を半分めりこませて息絶えていた。
後で知った。“ジルガ〈殴打系一の九七二――遠鬼脚〉”と。奴がおれに止めを刺そうとふりかざした技であった。
「どうして、それをキミが?」
野中教師の茫然たる質問は当然のことだ。おれはにやにやと頬がゆるむのを感じながら、
「これは当て推量だが、最後の瞬間、生死の境目で、それまで食らってきた“ジルガ”の技から知らずに学び取っていたおれ流[#「おれ流」に傍点]の“ジルガ”が出たんだな。多分、奴の〈遠鬼脚〉に触発されて同じ技になったんだろうが、それも一万分の一秒ってタイミングだったに違いない。えへん」
「何が、えへんよ。信じられないわ。そんな夢みたいな話」
「いいや、我輩は信じる」
広美の悪態を遮断してくれたのは野中教師だった。この辺、“ジルガ”をかじっただけあって、話が早い。
「で――そのとき、キミを痛めつけた技を、キミはみいんな覚えているのであるか?」
「九割はな。あとの一割は、ほんの少しかすったくらいで駄目だ」
野中教師は、それを聞いて眼を閉じ、腕を組んで何か考えていたが、急におれを見据えると、
「では、どうだろう。キミの知る〈ジルガ〉の技をすべて、我輩に教授してはくれまいか?」
こう言って頭を下げた。
「はン?」
「幾つあるか知らんが、いまの我輩の分だけでは、“ジルガ”のジの字もわからん。キミの分を足せば、我輩のと合わせて、そこから未知の“ジルガ”を学び取れんとも限らんのだ」
AとBを足してCを導き出す。なるほど、この教師ならやるかも知れん。そんな道楽に付き合ってる暇もないし義理もないが、おれは、
「いいよ」
と言った。
「暇になったらここへ寄って教える。それでいいか?」
「おお、ありがとう!」
野中は躍り上がった。なにさ、という表情の広美の頭を無理やり押し下げて、
「おまえも礼を言わんか、こら」
「まあまあ。無理強いはよくないよ」
おれは鷹揚《おうよう》に止めた。この二人と仲良くしておけば、色々と得になりそうだ。
広美は、なおも疑惑と怒りの眼差しをおれに向けていたが、鍋の中味をよそってやり、ワインも勧めながら、ボルドーだのモーゼルだのシャトー・イケムだのの話をちらつかせると、すぐにあら、と見直した表情になった。
何といっても田舎の小娘だ。こういう知識をひけらかす、都会の香りのするハンサムには弱いに決まっている。
「ああ、いー気持ちになっちゃった。あんた、結構話せるわねえ」
「そりゃあもう、都会の学生さんだからな」
「ね、ね、今度、遊びに行ってもいい?」
「おお、いつでも来な。ベッドはダブルだぜえ」
「やーだ、若いくせに、助平オヤジみたーい」
「ところで、何か訊きたいことがあるのではなかったかね?」
不機嫌満タンの野中教師の声に、おれは我に返った。
「そうそう。実は蒼木神社と蒼木一族について」
こう言った途端、野中は腕を組んで、ふーんと呻き、広美は、
「やっぱりねえ」
ため息に恐怖の眼差しを混ぜてよこした。テーブルからおれの方へ身を乗り出して、
「ね、何知ってるの?」
「いや、あの神社の由来について、ちょっと調べてみたんだ。あそこが建てられたのは、“神隠しよけ”のためなんだって?」
「そーよ」
広美は、あっけらかんと認めた。
「昔は結構あったらしいわね。あたしが調べたのは、神社と、村でいちばん古いお家の書きつけ、それから、そこの百九歳のお婆ちゃんから話を聞いただけだけど、お婆ちゃんが知ってるだけでも、百人以上が、ある日、何処へともなく消えちゃったんですって」
「何処へともなく、かい?」
「そ。わかっちゃったら、神隠しにならないでしょ」
「ある日って、いつだ?」
「記憶を辿ってもらったんだけど、春夏秋冬、朝昼晩――パターン化は無理だった。朝いちで野良仕事に出て、息子さんが追いかけたらもういなかったとか、夕飯の最中にちょっと席を外してそれっきりとか」
おれは少し考え、
「あの神社ができる前、あそこは何だったんだい?」
「森よ」
「森か。――人がいなくなるにはもってこいのところだな」
「そこへ入っていくのを目撃された人もいるわ。で、百年くらい前に森の大捜索が行われたのよ。そうしたら――どうなったと思う?」
おれは首を傾げた。広美は勢いこんで言った。
「捜索に加わった人は、村人が五十人、警察から五十人――きっかり百人いたの。そのうち三分の一の三十五人が捜索中に消えてしまったのよ。神社が建ったのは、そのすぐ後だったわ」
「蒼木一族が建てたのか?」
「そ。当時の当主――蒼木正一男爵が神主になってね」
「それまで、蒼木一族というのは、貴族院にも席を持ってた由緒正しい家柄だった。それが、そこからおかしくなった、よな?」
「そ。よく調べたわね」
広美の、酔いのせいでトロンとした眼が不思議な光を帯びはじめた。いい光――知的好奇心というやつだ。
「あなた、ただの学生じゃないでしょ?」
「わかるかい?」
おれはニヤリとした。野中教師はいつの間にかテーブルに顔をのせて、くーかーやっている。
「ええ」
「実は私立探偵なんだ」
「やっぱり」
広美は身を乗り出してきた。
「蒼木家の何を探ってるのよ?」
「内緒だ」
「教えてくんないと、明日、みんなにしゃべっちゃうから」
「だーめ」
おれは、広美の顔に顔を近づけた。
ワイン混じりの息が絡み合い、広美は、はっとしたように後ろへ下がった。
下がり切れなかった。俺の手が後頭部にあてがわれていたのだ。少しはいいことがないとな。
「ちょっと。――先生がいるのよ。あたしたち、結婚する気なんだから」
「その割りに、声が低いぜ」
と、おれはささやいた。
「起こしちゃ悪いでしょ」
広美の声は、はっきりと嗄れていた。もう退《ひ》こうともしない。
「色々と教えを請わなくちゃ、な」
「そのお礼のつもり?」
「心ばかりの、な」
「悪い人」
唇が重なった。軽く舌を這わせると、広美は、ああ、と呻いて舌を入れてきた。
野中教師への義理立てか、すぐに引っこめ歯は固く閉じた。これを突破するのが男のたしなみだ。
おれは、そっと、濃厚に女子高生の歯茎を刺激した。
「……嫌」
それを合図に、ぐうっと。広美も拒まなかった。
そのとき、ドア・チャイムが派手な音をたてて鳴った。
妖物、化物の類じゃない。吹きつけてくるのは妖気に非ず、激しい怒りと怒号だった。
「開けろ、こら。エロ教師、娘を返せ」
「出ておいで、広美――おまえは騙されてるんだよ」
「父さんと母さんか?」
「あったりィ」
広美は奥の部屋へと身を翻した。
「広美ちゃん――出て来い、こら、助平教師、火ィつけるぞ」
ひときわ若い声が叫んだ。ドアのノブががちゃがちゃ音をたてはじめた。
「なんだ、ありゃ。婚約者か?」
「本人がそう思ってるだけよ。神定三吉《じんじょうさんきち》って――村役場に勤めてるの。家が農家でこき使われて育ったから、力は強いわよ。ね、うまく追い返して」
「恋人に頼め、コイビトに」
「やだ。迷惑かけたくないもン」
「おれならいいのか、莫迦野郎」
ここで村の連中とトラブルを起こすわけにはいかない。
「おれは出てくぞ。後は二人で両親の説得でも、桃色遊戯でも、好きにやれ」
こう言って、三和土の方へ靴を取りに歩き出した途端、なんと、にぶい破壊音をたてて、分厚いドアが開いてしまったではないか。
ショルダー・ブロックの形で突っこんできたのは、ダッフルコートを着た大柄な兄《あん》ちゃんだった。年の頃は二十一、二。確かに力自慢の身体と顔をしていた。
勢い余って、そいつはキッチンの床に両手を突き、後から跳びこんできた中年男女が、
「広美ィ――やっぱり、こんなふしだらな真似を」
「母さん、もうご近所を歩けないよォ。この親不孝もの」
およそ、時代遅れ、というか、時代錯誤としか思えないののしり声を上げはじめた。
「まあまあ」
と、おれは両手を前へ突き出して二人をなだめた。いつの間にか背中に廻った広美が押すもんだから、仕様がない。
「そう肩いからせなくても、お嬢さんは無事ですよ。お父さんもお母さんも、ここはひとつ、若いもンにまかせて」
満面に笑みを湛えたつもりだが、反応は、
「何だ、おめえは?」
「エロ教師の仲間ね?」
であった。狂乱の両親とすりゃ、無理もないか。
それどころか、前にのめっていたでっかいダッフルコートが、ぬうと起き上がり、石塊みたいにごつい拳を片手で撫で撫で――
「おい、そいつを起こせ」
と来た。
おれは野中教師の方を見た。くーかーくーかー、幸せそうな寝顔だった。
「自分でやりなよ、三吉くん」
「なんだあ?」
三吉――神定村役場職員の声に恫喝がこもった。ばちんばちんと拳と手のひらを叩き合わせる。喧嘩慣れはしているらしい。田舎の喧嘩は。
「なんで、てめえ、おれの名を知ってる?」
「あたしが教えたのよ」
と広美が後ろから喚いた。おれより先に言うな。
「それからね、父さんも母さんも、あんたも誤解してるわ。あたしが好きなのは、実は野中先生じゃないの」
「え――っ!?」
仰天したのは三人ともだが、最も驚いたのはおれ[#「おれ」に傍点]に違いない。次に広美が何を言うかまで、わかってしまったのだ。
「この人よ」
と、つぶやいた途端に、
「この人よ!」
と横合いから指をさされた。両親はぶったまげた。
「お、おまえ」
「こ、この人は――何だね?」
「東京の恋人よ。実は、半年も前から付き合っていたの」
「嘘だ!」
と叫んだのは三吉クンであった。こめかみにはミミズみたいに青すじを走らせ、顔中が口だ。
「おれは、ずうっと、おめえの行動を観察してたんだ。噂も集めた。こんな奴、村に来たのは今日がはじめてだ。おめえが付き合ってんのは、そこのエロ教師だ!」
「そうそう」
と、おれはうなずいた。恋に狂っているにせよ、おれに関する見立ては正確だ。田舎の生徒と教師のエンコーなんかで、何兆円の仕事に差し障りが出るのは真っ平だった。
「あーら、残念」
と広美は、なおも不穏な言動をやめなかった。白い指は魔女の杖みたいに、おれの顔をさした。
「ほら、この唇見てごらんなさい。口紅がついてるでしょ。あたし、みんなが入ってくる寸前まで、この人とキスしてたの。ね、八手《やつで》くん? 舌も入れたよね?」
「いや、その」
「てめえ――っ」
と叫んで、三吉が靴のまま歩み寄ってきた。
左手で胸ぐらを掴み、右手をふり上げたそのとき、
「お取り込み中のところ、まことに失礼だが」
この狂騒の場さえも凍てつかせるような低声と、猛り狂うのを無理やりこらえたかのような獣の唸りが、玄関のドアから流れてきた。
逆上のあまり、半狂乱状態にあった三吉でさえ、愕然とふり向いたほどの不気味な声であった。
広美の両親が、ひっと息を呑む音が聞こえた。
三人には、ドアの外に立つ黒いドーベルマンが、人声を発したように思えたに違いない。
凶々しい唸りをやめぬ巨犬のかたわらに、黒いインバネスをまとった長身の男が立っていた。
同じ色のダービー・ハットと手袋がぴたりと似合っている。口髭も嫌みじゃない。ヨーロッパなら、生まれついての貴族という奴だ。
三人の口から同時に、畏怖にも似た叫びが洩れた。
「蒼木のご主人!?」
「左様――夜分に失礼いたします」
と中年の紳士は軽く会釈をして、
「赤座さんですな? 実は先刻、お宅へご連絡したら、留守番の息子さんが、多分こちらだとお教え下すったので参上いたしました。こちらの電話番号は存じ上げませんのでね。いや、お目にかかれてよかった」
「あたくしどもに――ですか?」
と親父が、うす気味悪そうに訊いた。
「いえ、正確には、お嬢さんに」
「はあ?」
夫婦は顔を見合わせ、それから娘の方を向き直った。三吉もそうした。
「もてるな、おい」
と、おれは後ろの広美に声をかけた。
「相手によるわよ」
それもそうだ。
「で、娘に何を?」
「まことに勝手な言い草ですが、これからすぐ我が家へおいで願いたい。それも、おひとりで」
両親は眼を丸くした。声は出なくなった。無理もない。三吉はおれの胸ぐらを掴んだまま、後ろの三人と広美を見比べている。
「一体、どういうことで?」
父親の問いに、
「実は、娘が急病になりまして。娘さんの名前を呼んでおるのです。概気先生にも来ていただきましたが、正直どうなるかわかりません。最後の願いなら、せめて叶えてやりたいと思いまして」
「それなら、もうすぐに。おい、広美――わかったな。行ってさし上げろ」
「本当に、あたしを?」
広美は訝しげな声と眼を蒼木に向けた。
「でも、そんなによく知らないんですよ。あんまり話したこともないし」
「娘は、あなたの名を呼んでいます」
出鱈目《でたらめ》だとすぐにわかったが、おれは黙っていた。
「何してる、広美。蒼木さんのお嬢さんがおまえを呼んでらっしゃるというのに、さっさと用意しないか」
父親がいらいらしたように喚いた。これじゃ、広美ちゃんも逃げ出したくなるわな。
「わかったわよ、OK――ただし、ひとりじゃ嫌。この人も一緒に行くわ」
おれの肩に手が置かれた。いい女《こ》だね、広美ちゃん。
「な、なんでだよ、広美。こんな奴」
「いいのよ。この人が好きなの。――いいですか、蒼木さん? でなきゃ、やだ」
「どういう御方かな?」
紳士は小首を傾げて訊いた。
「ダーリンです。結婚するつもり」
白い手が腕に巻かれた。胸ぐらを掴まれたまま、おれはその手を上げてVサインをつくった。
「ユニークな方のようだ。ご両親は了解しておられますかな?」
「いーんです。でなきゃ、行きません!」
広美の声に含まれた断固たる決意が、両親をうなずかせた。どうやら、この村で蒼木といえば単なる古株ではないらしい。ま、田舎にはよくある話だ。
「よろしい。では、ご同行願おう。ただし、娘の寝室へは入れられない。病状のせいか、異様な神経過敏状態に陥ってね、何十メートルも離れた居間での話し声も、耳を聾せんばかりの雷鳴のように響くらしい。ご両親の同行をお断りしたのも、実はそのせいなのだ」
「あ、地下室にでも入ってます」
おれが言うと、蒼木氏はにっと笑って、
「そう願うか。では、済まんがすぐに」
と身を翻し――また向き直った。
「どーした、プルートゥ?」
黒いドーベルマンは、じっとおれを見つめていた。
黒い瞳の奥で、何か小さな炎めいた形がゆれている。そう見て取ったのも、おれの視力ならではだ。
炎はやがて、ゆっくりと右に廻りはじめた。風に吹きなびくみたいに糸を引き、ゆらめき、消える寸前、別の炎が生まれる。それはいま、おれの眼の中で燃えさかる炎の渦と化していた。
そして、渦の中心から一瞬、ひときわまばゆい光がおれの眼の中心へ突き入ってきた。
「痛《つ》う」
と唇が洩らすのを止めることはできなかったものの、眼の奥にとびこんできた光は、周囲の光景の中心でかがやいていた。おれは瞼を閉じなかったのである。
それが次第にうすれていく中で、おれはドーベルマンの顔に、何とも犬らしからぬ、怨みと失望の表情が走るのを確かに見た。
突然、犬は身を翻し、蒼木氏に引かれるまま、アパートを出ていった。
「それじゃ、出かけるか――おい」
おれは、まだ胸ぐらを掴みっ放しの三吉の手を軽く叩いた。それだけで五指はあっさり開き、三吉はきょとんとした表情になった。
おれは広美ともども、さっさと外へ出た。両親には会釈だけして済ませた。二人は何も言わなかった。三吉はもとの場所に突っ立ったままだ。
アパートの駐車場に、黒い乗用車と蒼木氏とドーベルマンが待っていた。思ったとおり、ロールスロイスだ。
「昔は運転手付きだったのだが、いまは雇える相手がいない。私のへぼドライビングに生命を預けてもらうとしよう」
大した冗談のセンスだが、おれはポルシェで行くと言った。
「それは困る。聞き慣れた車でないと、遠くからエンジンの響きを感じただけで、凄まじい苦痛が娘を襲うのだ」
「わかりました。置いていきます」
おれは、あっさり折れて、ポルシェから、とりあえず必要な品を詰めこんだショルダーバッグをひとつ掴んでロールスロイスに乗り移った。
走り出すとすぐ、
「おい、なぜ、おれを指名したんだ?」
と小声でささやいた。広美は声もなく嘲笑した。
「決まってるでしょ。先生に迷惑かけるわけにはいかないじゃないの。大事な人なのよ」
「てめえは、自分さえ――」
ののしりかけたところへ、助手席から凄みのきいた唸り声が上がった。ひょい、とドーベルマンの顔が現われ、牙を剥く。
「プルートゥが、こうまで初対面の相手に関心を示すとは珍しい。よくよく気に入られたか、あるいは――だな」
ハンドルを握る蒼木氏の前方には、濃い闇だけがそびえたっている。
「あるいは――の方でしょうね」
と、おれは静かに言った。
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第四章 旧家を巡る者
さすがにロールスロイスである。乗り心地抜群なのは言うまでもないが、実に静かだ。ポルシェではこうはいかない。王侯貴族用と大衆車の差だ。
走り出してもう三十分近い。森と畑中の道が交互に出現し、畑には大きな案山子《かかし》が目立つ。この間、広美は蒼木家の娘――良美の容態についてあれこれ質問したが、
「大丈夫だよ」
「あまりよくないね」
「医者もはっきり教えてくれないんだ」
「わからんなあ」
くらいで、はぐらかされてしまい、いまは沈黙状態に陥っていた。
闇が濃さを増した。森へ入ったのだ。
ドーベルマンが不意に前方を向いた。こっちから見えなくなった顔のあたりから、不気味な唸りが洩れる。
「ね、どうしたのよ?」
と、広美が気味悪そうに訊いた。
「何かがおれたちを観察してるんだ。妖気に取り囲まれてる。犬はそれに気づいたのさ」
「あなたも?」
「そうなるかな」
広美がどんな眼でおれを見たかはわからない。
蒼木がいきなりブレーキをかけたのだ。
タイヤが悲鳴を上げ、つんのめりかかる広美をおれは素早く支えた。
ドーベルマンが激しく鳴いた。助手席から落っこちてしまったのだ。
「あなた、平気なの?」
驚く広美を無視して、おれは窓の外へと眼を注いだ。
フロント・グラスの前方で、横倒しになった巨木がライトの光輪を浴びていた。
「二人とも、車を出てはいけないよ」
緊張のせいか固い声で告げ、蒼木氏はドアのノブに手をかけた。
面白い。おれは黙って見物を決めこむことにした。
そもそも、おれは蒼木氏の言うことなど、のっけから信じていないのである。
娘といえば、コンビニにやって来た良美のことだろう。あの黒ずくめ――盤城伯爵に連れ去られた娘が、そうたやすく戻ってくるとは思えないし、戻ったとしたら、蒼木家と奴の間には、何らかの関係があるのだ。
おれたちが逃げ出さない自信でもあるのか、プルートゥもご主人と一緒に出て行った。おれはすぐ、運転席へ移った。
「外車よ、運転できるの?」
と心配そうな広美へ、
「ハンドルが左へ移っただけだ。いざとなったらまかしとけ」
と、おれは胸を叩いた。こういう場合、女は安心させとくに限る。ちょっとでも不安なんか抱かせたら、些細なことで大パニックになる。外谷《とや》のように、ふぎゃあとパニくった挙げ句、恐怖のあまり暴れ廻って、押し込み強盗四人をぶちのめした女もいるが、あれは例外だ。
蒼木は倒木に辿り着き、あれこれ調べたり、押したり叩いたりしていたが、じき、こちらをふり向き、肩をすくめてみせた。
その表情が苦笑から驚愕に変わる前に、おれも気づいていた。四方から妖気が惻々《そくそく》と迫ってくる。
車の後ろから、横の森陰から、前方――倒木の向うから、数個の人影が幽鬼のようにやって来る。
「何よ、あれ?」
「人間だ。知り合いはいないか、よく見とけ」
「よしてよ、気味が悪い。でも、なぜ待ち伏せしてたのかしら?」
「蒼木家へ行かせたくないんだ。車の中の誰かを、な」
「あたし?」
「おれかも知れない。あるいは――」
「蒼木さん?」
「――か、犬[#「犬」に傍点]」
「まさか」
と広美は言ったが、その声は震えを帯びていた。
おれはすでに、ドアも窓もロックを済ませていた。蒼木氏には申し訳ないが、自力で切り抜けてもらおう。
固い音が右からした。誰かが窓をノックしているのだ。助手席の窓も鳴った。後ろの二つも。広美が、きゃっと叫んだ。
おれは左側の窓へ眼をやった。
顔が溶け崩れ牙を剥いたゾンビーはいなかった。
人の好さそうな老人が頭を下げて、今晩は、と唇を動かした。
「どーも」
と応じてから、おれは周囲を見廻した。車の周りにいるのは六人。老人がひとりに中年の男が二人、女がひとり、あとの二人は二十代だ。
蒼木氏と犬も、三人の男たちと対面中だった。こちらはみな三十代の壮漢だ。
「知り合いはいるか?」
と広美に訊いてみた。
「ええ」
「どいつだ?」
「この人と――この人。それから、あっちの二人」
二十代の二人と蒼木氏の前に立つ二人の壮漢だ。
「みんな、あたしが小学校へ入る前に行方不明に――神隠しに遇った人たちよ。ね、ドア開けないで」
「わかってるよ。その爺さんなんてこの季節にオーバーだ。みんな服装が違う。神隠しに遇ったときのままだな」
「ね、どーいうことよ?」
「直接、訊いてみるか?」
「い、や、よ」
窓ガラスは鳴りつづけている。爺さんがにこにこと、開けて下さいな、と言った。
おれは無視して蒼木氏の方を見つめた。
会話中だ。声は届かないが唇は読める。
「帰ってはいけません」
と、ひとりが言った。
「なぜだね?」
と蒼木氏。どちらも落ち着いた調子である。はためには知人の立ち話としか映るまい。
「一緒に来て下さい」
と二人めが言った。
「あなたは、おれたちの邪魔をしようとしている。おれたちが、なぜ、こんな風になったと思ってるんです?」
「昔の話だよ。なぜ、帰ってきたんだ?」
蒼木氏の声に、悲痛な響きがこもった。
「なぜ、おれたちを見捨てたんだ?」
と三人めが訊いた。穏やかな表情に変化はない。
「あのときは仕方がなかった。君たちもそれ[#「それ」に傍点]を知っていたはずだ。いまさら文句を言うな。そのために戻ってきたのか?」
「違いますよ」
「とんでもない」
「来て下さい」
三人の手が蒼木氏の肩を、腕を掴んだ。
黒い影が地上から跳ね上がった。
四人が同時にのけぞり、三人が自分の手や肩を見つめた。
ひとりめの男は右手首が消失し、二人めは左肘から先がなく、三人めの右腕は肩からもぎ取られていた。
しなやかな影が三メートルばかり右手の地面に着地し、首をふって、咥えたものを放り出した。――手首と肘と腕と。
ドーベルマンが吠えた。いまやられた三人ばかりか、車を囲む六人さえそちらを向いたほどの、凄絶な咆哮《ほうこう》であった。
いきなり、ドーベルマンが跳躍した。今度は、車を囲む連中が標的だった。
「ひい!」
広美の悲鳴が車内に谺《こだま》した。人の好い微笑を浮かべていた老人の首が、一瞬のうちに消失したのだ。
食い切った首を放り捨て、ドーベルマンは中年女に襲いかかった。
女が恐れげもなく右手をふった。
ぐしゅ、と風が音をたて、犬の悲鳴が地面へ叩きつけられた。
跳ね起きて、ドーベルマンは左の脇腹へ首をねじ曲げた。
ぱっくりと裂けている。中年女の手刀は、日本刀なみの斬れ味を見せたのだ。
「何よ、これ」
背後で広美の声が震えていた。やっと気づいたのだ。
「――誰も血ィ流してないよ。手ぇもがれた人たちも、あの犬も」
そのとおりだ。
ドーベルマンが四肢を突っ張り、長い舌を吐いた。まさしく舌は五〇センチもある傷口全体をひと舐めしたのである。
傷口はみるみるふさがっていった。
「こりゃ面白え。敵も味方もやるぜ」
「どっちが味方よ?」
広美は怯え切っていた。無理もない。飼い犬がこれだ。飼い主も普通のわけがない。
ドーベルマンの闘志は奇怪な治療とともに甦ったらしい。全身を発条《ばね》と化して跳ぶや、中年女の鼻から上は血泥と化して四散し、若者の首は半ば食いちぎられて背中から逆に垂れ下がった。
新たな跳躍に移ろうとして、犬は動きを止め、ふり向いた。
蒼木氏の悲鳴が聞こえたのだ。
彼は手にしたステッキで、手を失った男たちを打ち据えていたが、ついに羽交い締めにされたばかりか、両足も抱え上げられてしまったのだ。
方向転換しようとするドーベルマンの首に、背後から忍び寄ったもうひとりの若者が凄まじい横蹴りを入れた。空手の修行を積んでいるに違いない。
密閉状態の車内にも破砕音が聞こえるような勢いであった。ドーベルマンの頚骨はきれいに砕けて、その長い凶暴な首は、だらりと前へぶら下がったのである。
さすがに横倒しになった巨体へ、若者が躍りかかって、前脚を引き抜いた。
「待ってな」
おれは運転席のドアだけロックを外して、外へ出た。
差しっ放しのリモート・キィを使って外からロックするのも忘れない。
眼の前に老人が立っていた。首がある。
穏やかな微笑みを浮かべた顔は少し曲がっていた。両手で側頭部を押さえている。そうやって切断部に首をのせているのだった。
片手がおれの肩に触れた。
骨まできしんだ。
おれは“ジルガ”の一法を使って、老人の肘を下から叩いて外し、真後ろへ軽く一〇メートルも突きとばした。大木の幹に激突したが、死にはしないだろう。
首のちぎれた若者と壮漢が二人――前後から走り寄ってきた。
力もスピードも人並み以上にある。だが、どれも格闘技の心得はゼロだ。単調なフックと蹴りを楽々と外し、おれは前の壮漢二人の間をすり抜けて、蒼木氏に肉迫した。
もがく足を抱えていた中年男が、いきなり足を離して左手をふった。
手は目測より長かった。おれでなければ、もろ顔面に食らっていたはずだ。左手が握りしめた、肩から切断された右腕をかわし、おれは下段蹴りをかけた。
倒れた。痛みを感じたのではない。純粋にバランスを崩しただけだ。戻ってきた者[#「戻ってきた者」に傍点]に神経は通っていないらしい。
横合いから抱きついてきた肘なしを投げとばし、蒼木氏を羽交い締めにしている男の顔面に一発叩きこんだ。吹っとんだ。
―――!?
胸の中で、うえと呻いた。何だ、この不気味な手応えは?
「大丈夫ですか?」
念のため、自由になった蒼木氏に訊いてから、おれはパンチでぶっ倒した男を見下ろした。手首がない。
顔は内側へめりこんでいた。何とも珍妙な面《つら》だが、笑うわけにはいかんな。筋肉や骨の成分がおれたちとは違うのだ。
破壊音がおれをふり向かせた。
ロールスロイスの後部座席の窓から、空手使いの若者が上体を突っこんでいる。
広美の両腕を掴んで戻った。
「いや、いや、いや」
と叫びながら、広美の上半身が現われた。あっという間に引っぱり出されたその首に、若者の手が巻かれた。
「こら、離せ。卑怯だぞ」
と、おれはののしった。若いのは言った。
「月並みな台詞だが、この娘の生命が惜しかったら、蒼木をこちらへ渡せ」
「おまえら、血も流れてねえくせに、一人前の要求なんかするんじゃねえ。さっさと、もと来たところへ帰れ」
「もう遅い。おれたちは戻ってきちまった」
「おれが帰してやるよ」
若いのばかりか、他の連中もはっ[#「はっ」に傍点]としたようにおれを見た。
若いのが首をふった。おれには悲痛な表情に見えた。
「そうもいかないんだ」
「とにかく、その娘《こ》を離せ。何を見てきた[#「何を見てきた」に傍点]のか知らないが、卑怯って意味はわかるだろう?」
明らかに若いのは動揺した。血が流れていなくても、感情は普通人並みだ。
おれの方を見た表情も、その辺の連中と何ひとつ変わらぬひたむきなものだった。
「悪いが――」
そこまで言いかけたとき、横合いから黒い塊が彼の首をかすめて跳んだ。同時にその首は半ばちぎれて右側へ落ちた。
ドーベルマンだ。若いのに前脚をもがれたはずの凶犬の身体には、確かに四本の足がついていた。風を巻いて残る二人の中年男を襲う。
グロックを抜いた理由はわからない。
地べたへ押し倒した中年男の喉にかぶりつく黒犬の胴に、四発の九ミリ粘着榴弾が吸いこまれた。首と四肢以外の部分が思いきりふくれ、次の瞬間、丸ごと爆発する。
ドーベルマンの頭部が一〇メートルも向うの草むらへ落ちるのを見届け、おれは広美に近づいた。
「あなた――ピストルなんか持ってるの……?」
「オモチャだよ」
おれの眼の前で、倒れた中年男がのろのろと起き上がった。
残るは親父二人プラス蒼木用の三人だ。
おれは真ん前の中年男の眉間に、グロックをポイントした。
「なぜ、犬を射った?」
と男は訊いた。
「あんた方より物騒だったからさ」
「……君は……何者だ?」
「いまは内緒だ。そのうちわかるだろう。――で、どうする?」
男は残りの連中と顔を見合わせた。そういう取り決めがあったのかどうか、全員がうなずき、倒れている仲間たちの身体を担ぎ上げはじめた。腕や首も拾い上げる。首をもがれた若者が四つん這いになって何かを捜している風なのを見て、広美が、わお、と洩らした。
仲間を担ぎ、手や首を拾い上げた上で、男たちは左手の木立の内部《なか》へと歩み去った。最後の姿が闇に呑まれた途端、広美は垂直に地面へ落っこちた。
「こら、立て立て、スタンダップ」
とその頭を軽くシャクティなんとかしながら、おれは杖にすがってようやく立っているような蒼木氏へ声をかけた。
「犬はごめんなさい。――さ、お宅へ伺いましょうか」
なんとか気を取り直した広美と蒼木氏をロールスロイスに入れ、おれがハンドルを握った。
別の道を通ったせいで、蒼木氏の屋敷に到着するまで三十分もかかった。
その間に、おれは蒼木氏に正体を打ち明けた。
拳銃をぶっ放しておいて、歴史好きの大学生だといっても通じまい。
「宝捜し《トレジャー・ハンター》――」
絶句したのは、蒼木氏ばかりでなく、広美も同じだったが、蒼木氏はすぐに、
「そうか、憶い出したよ」
と言った。
「曾祖父の代にカイロで、ピラミッドの秘密部屋に隠されていた黄金と宝石を丸ごと持ち出した日本人と遭遇したと、日記にあった。確か、やつがしらとか――君のご先祖だな?」
「ええ、まあ」
「曾祖父と彼とは妙に気が合って、カイロで何日か呑み明かしたらしい。実に魅力的で頭の切れる人物だったそうだ」
「はっはっは」
と笑ってみたが、実は曾祖父も祖父も、おれの記憶にはまるでない。昨日のことには全く関心がないのだ。親父もお袋も、みいんなもう昨日の中に入っている。
「そう言えば、曾祖父が彼から貰った石製の花瓶が家にあるが、君の目当てはあれかね?」
「いいえ」
おれは正直に答えた。
「近いが違います」
「内緒かね?」
「言えば、隠すでしょう。宝捜しは他人の所有物には興味がありません。誰の手垢もついていない秘宝を手に入れるのが生き甲斐なのです」
「我が家のものは、みな当主たる私の所有物だと思うが。それに、宝が埋もれている土地の所有者にも、相応の権利があるのではないかね?」
「沈黙は金でして」
「気がつかないうちに、失敬するという意味かね?」
さすがに切れる。
「済まんが車を止めてくれたまえ。君には降りてもらう。失礼ながら、家へ招くとこちらが落ち着かなくなるタイプのようだ」
「言ったでしょ。この人がいなくちゃ、あたし行きません」
と広美が助け舟を出した。早くも気を取り直している。いい子だ。後でゆっくり可愛がってやろう。
「冗談だ」
と蒼木氏は破顔したが、わかったもんじゃない。多分、本気だ。
「ただし、これだけは言っておく。君が何をハンティングするにせよ、我が家の敷地内か不動産内部に存在する品である以上、蒼木家のものとして没収させてもらう」
「わお」
とおれは、わざとらしい絶望の叫びを上げた。必要なのは、やはり沈黙だ。
「おれも質問していいですか?」
おれは前方の闇を透かしながら訊いた。ロールスロイスは土手道を無愛想に疾《はし》っていく。結局、さっきの森と反対側へ廻らなければならなかったのだ。
「何かね?」
「お宅のことは、実は祖父の日記に書かれていたのです。ふとしたことからそれを読んだのが、こちらへ伺う原因になりました。そのレポートの中に、花瓶のことはもちろん、神社の件も記されていたのです」
「神社」
蒼木氏は、茫としてつぶやいた。
「“神隠し”の後で、あれは建立されました。行くのを防ぐためですか? それとも、戻りを妨げるために?」
劇的な反応が戻ってきた。
「やめたまえ!」
蒼木氏は、顔中を口にして叫んだ。
「君は、いま自分が口にしたことの意味がわかっておらんのだ。だが、すぐにわかる。やはり、君に来てもらってよかったかも知れん」
「吹っとばすのに役に立ちそうだからですか?」
と、おれは訊いた。
「かも、な」
「もうひとつ――盤城伯爵とやらに心当たりは?」
蒼木氏の顔から血の気が引いていった。返事はない。
「じゃあ、最後のひとつ――さっき、神社の裏をうろついていたら、長い鳥居の列の果てから、白衣姿のおっさんが出て来ました。医者でしょう。誰ですか?」
新たなる沈黙の出番かと思ったら、逆だった。
蒼木氏は、運転席へと身を乗り出したのだ。
「白衣の医者?――彼は鳥居の果てから来たんだな? 間違いはないな?」
「全然」
おれはバックミラーに映る蒼木氏の顔から、感情を読み取ろうとした。一発で閃いた。恐怖と喜びだ。あの医者は、どちらをもたらすのだろう。
「わからん」
こう言って、蒼木氏は拳を丸めて横の窓を叩いた。
「彼は、どちら[#「どちら」に傍点]のために、やって来た? どっちだ? え?」
狂乱の叫びに混じって、
「あれ!」
と広美が右の窓を指さした。右隣の蒼木氏の様子を観察しているうちに、何か眼に入ったのだろう。
おれも右眼だけ向けたが、何も見えなかった。
「何かいたのか?」
と、バックミラーで確認しながら訊いた。
「親父よ」
と広美は答えた。嘘じゃない。嘘でこんな震え声は出せない。しかし――
「親父?」
「親父よ。こんな眼鏡かけて、白衣着た親父」
思わずブレーキをかけようとしたら、
「行きたまえ!」
と蒼木氏が怒鳴った。
「止まるな! 急げ! スピードを上げたまえ!」
尋常ならざるものを感じて、おれは従うことにした。なに、蒼木家に入ってしまえば、おかしな点はいくらでも解明できる。
アクセルを踏みながら、おれの胸は久々に高鳴っていた。
これからが、おれの世界なのだ。
蒼木家は、神社を見下ろす高台のてっぺんにそびえる大洋館だった。
ふんだんに石と煉瓦を使った外壁には、緑の蔦が網のようにびっしりと絡みついている。十年二十年の年季じゃない。一世紀近いだろう。
母屋を中心に離れが三つ、それぞれ天蓋つきの廊下で結ばれている。四つの屋根に衛星放送用のアンテナを見つけ、おれは何となく安堵した。
母屋の玄関に出迎えたのは、あの陰鬱なハンサム――蒼木道綱であった。背後に、外谷みたいにでっぷり太った中年の小母さんがいる。お手伝いさんだろう。和服姿なのが、何ともちぐはぐだ。
車を出るとすぐ、蒼木氏は駆け寄ってきた道綱に、
「良美はどうした?」
と訊いた。
「悪いよ」
と道綱は答え、広美を見てようやく緊張を解いた。かたわらのおれへ、
「よお」
と無愛想な声をかけ、広美にはにっこり笑いかける。
「薬の件は?」
「まだ話しとらん」
と蒼木氏。
「じゃ、僕から」
「そうしてくれ。とりあえず内部《なか》へ入ろう」
「こちらへどうぞ」
と、お手伝いの小母さんが先に立ち、おれたちは蒼木家の内部へ入った。
「邪魔するよ」
と、おれは、前を歩む道綱に声をかけた。
「来ると思っていたよ」
「そうかい。――あのバイク野郎どもは、お礼参りに来るんじゃないのか?」
「そんな気が起こらないようにしておいた。学校の面汚しども。前から、いずれはと思ってたのさ」
「そりゃよかった」
とりとめもない会話を交わしながらも、おれたちは応接間に通された。ここまで来る廊下のつくりや、シャンデリア、家具調度から絵画、彫像に至るまで、とても人前に飾っておくのは惜しい逸品揃いだったので、そうそう驚きはしなかったが、大した部屋だった。
おれたちが豪華な革張りのソファにかけると、小母さんはすぐに席を外し、道綱は広美にこう切り出した。
「本来なら、君ひとりにお願いしたいところだが、彼も一緒な以上、二人に聞いてもらうのが筋だろう。奥の部屋に良美が寝ている。奇病なんだ。それを治療するためには、赤座さんが肌身離さず持っている粉末が必要だ」
初耳だ。広美を見ると、きょとんとしていたが、すぐに気がついたらしく、
「ああ、これ」
と胸もとを押さえた。
「でも、困るわ。もう残り少ないんだもの。どれくらい要るの?」
「わからない。ひょっとしたら、足りないかも知れない。見せてくれないか?」
「嫌だなあ」
広美はなおも駄々をこねたが、ここで意外な事態が生じた。
蒼木氏が、がばと床の上に手をついたのである。
「頼む。このとおりだ。君の妙薬を娘に与えてくれ。でなければ、娘は――良美は――」
ぎょっとしたように、道綱が父を見つめた。蒼木氏はつづけた。
「人を食う化物になってしまう」
ドアの前で、おれたちは立ち止まった。おれと道綱と広美の三人。蒼木氏は席を外した。
良美の部屋である。
先に立った道綱がこちらを向いて、広美にうなずいてみせた。
「少しやつれすぎているけど、驚かないでくれ」
「わかりました」
と広美も応じて、おれもうむ[#「うむ」に傍点]とうなずいてみせたが、道綱は無視した。そもそもおれと妹を会わせるつもりなどなかったのである。仏頂面はそのせいだし、それなのにおれが加わっているのは、広美が、薬が欲しいなら自分が直接良美に渡す。ただし、この人が一緒なら、とおれを指名したためだ。
ま、これにも実は仕掛けがあって、広美は良美に会うつもりも、薬とやらを提供する気も全然なかった。それが急遽百八十度の大回転を敢行してみせたのは、全員の眼が一瞬、おれたちからそれたとき、おれがあることをささやいたからだ。
広美には野中教師という恋人がいるが、なに、あれ[#「あれ」に傍点]はあれ[#「あれ」に傍点]、これ[#「これ」に傍点]はこれ[#「これ」に傍点]である。何をささやいたかは企業秘密だが、とにかく広美はOKした。おれにそそのかされた条件で。
問題の薬だが、これはおれにも見当がついていた。野中教師の部屋で、おれに一服もる、もらないで問答していたあれだ。広美もその効き目は知っているだろうが、どうして良美が必要としているのかまでは見当もつくまい。
道綱がノックした。返事はない。
「入るよ、僕だ」
こう言って、ドアを開いた。
空気にはかすかに香水のかおりがした。女の子の部屋だ。
調度は平凡な女子高生のものだが、その物[#「物」に傍点]が凄い。三面鏡はふんだんに黄金を使い、花瓶と机は大理石、ピアノはスタインウェイの最高級品だ。調度だけで都内に一軒家が買える。
窓際のベッドに良美は上体を起こしていた。
確かに、あのコンビニでおれとやり合ってた娘だ。盤城とかいう化物に連れて行かれたが、どこでどうしていたものやら、おれを見ても眉毛ひとすじ動かさなかった。
「まずい」
おれは小さくつぶやいた。
良美の眼差しは、コンビニのときより、ずっと虚ろだった。
「概気先生はどうした?」
と訊いてみた。
「あれは、僕が独断で呼びにいったんだ。良美がひとりで帰ってきたんでね。ところが、あの後すぐ、親父が追いかけてきて、赤座くんの薬のことを聞かされた。考えてみれば、先生に無駄な手間を取らせなくてよかったかな」
「うむ」
おれたちの話の間に、広美は良美のそばで、
「蒼木さん……あたし、二組の赤座よ。わかる?」
うなずいた。少なくとも人語は理解できるらしい。
「あなたの家の人に呼ばれて来たの。あたしの持ってる薬で、あなたを治せるって」
この時点で、蒼木氏が苦悩のプレッシャーに耐えかねて洩らした人の肉云々の意味を、広美が理解していたかどうかは疑わしい。おれの知らない古文書でも読んで、その辺のことを頭に入れていても、いざ現実となると、そんな阿呆なと思うのが人間だ。ベッドの上の眼ばかりぎょろつかせた青白い娘を見つめる広美の双眸には、限りない痛ましさがあった。うす気味悪さも少し――これは仕方がない。
広美が一歩前へ出た。
そのとき、良美の顔に感情の色が流れた。同時に、膝までかけた毛布をめくって抜け出ようとする。
「良美」
と道綱が叱咤した。片手を上げて広美を制止する。
良美はかまわずベッドから下りようとした。道綱が駆け寄って妹の肩をゆすった。
「良美――戻れ」
鈍い打撃音が、その身体をよろめかせた。良美がふり払ったのだ。道綱が体勢を立て直す前に、彼女はベッドを下り、大股にこちらに向かってきた。
その口からしたたる涎、卑しい笑顔、胸もとに構えられた両手――獲物を引き裂かんとする飢え切った獣がそこにいた。
「蒼木さん!?」
広美の叫びは真横へ――ソファの上へと流れ、跳びかかってきた良美の身体は、広美のいた位置に覆いかぶさった。
四肢を曲げた巨猿のような姿勢で、良美はかたわらのおれを見つめた。間一髪で獲物を放り投げた邪魔者を見据える眼は、これが人間かと思うほどの凄惨さであった。
歯がきしみ、喉の奥から口惜しげな呻きが洩れてくる。
「良美――よせ!」
道綱が駆け寄る。その前で、良美はどっと前のめりに崩れた。
「一体どうして――何をした?」
「さて」
おれは肩をすくめて、右手に握った使い捨て麻酔ショットの空きケースを袖口にしまいこんだ。
注射器と針とが一体になった麻酔ショットは、尾部のピストンを押すだけで、象をも眠らせる強力な麻酔薬を相手の体内へ送りこむ。普通こんな薬を使えば人体への悪影響は免れないが、おれが金を出している医学研究所はついにこれをクリアしてのけた。副作用も一切なく、ピストンのひと押しで人間も大型獣も――シロナガスクジラまで瞬時に眠りにおちるのだ。筋肉注射の場合、血管へ直接注入するより二、三秒遅れるが、効果は変わりはない。
「とにかく、寝かせよう。その間に広美は薬の用意をしろ」
おれが指図すると、広美は露骨に顔を歪めた。
「人のこと、広美なんて呼ばないで。あたしはあんたの恋人でも何でもないんだから!」
ぱぱぱ、とののしってから、首にかけていたペンダントを外し、テーブルの上に置いた。
小さな留め金を外すと、ペンダントは二つに分かれて内側の白い粉を示した。
「何だ、こりゃ? うどん粉か?」
ジョークのつもりだったのに、広美も道綱も笑わず、道綱に至っては、知らん顔で倒れた妹をベッドに戻すと、自分はそこに置いておいた長方形の木箱の蓋を開いた。かなり古い品だ。応接間から運んできたのである。
中味は試験管とビーカーと、青い液体を七分ほど湛えた瓶である。
道綱はペンダントの中味を丸ごと試験管に移し、青い液体の入った瓶の蓋を開けた。
つん、と刺激性の強い匂いが鼻をつく。
道綱は無言で、瓶の中味を試験管に注ぎはじめた。
まるで、マッド・サイエンティストの実験でも見ている感じだった。
試験管の中味はみるみる泡立ち、白煙を噴き上げた。
それを見つめる眼つきの凄さからして、こいつが飲むんじゃねえだろうなと危惧したが、道綱はそれを台に戻して、
「OKだ」
と言ってから、おれを見た。
「いつ眼が醒める?」
知ってたか。
「いつでも。――覚醒薬を射てばいい」
「親父が言ったような存在になるには、あと一日――明日の深夜零時まで間がある。何とか間に合ったよ」
「ねえ、あたし、何が何だかよくわからないわ」
と広美がクレームをつけた。
「何もわからないなら、薬を渡してさよならすればいいんだけど、生半可に合致する知識もあるわけよ。そこのとこだけ関連づけてくれない。それが終われば、さっさと失礼したいの」
「もっともだ、うん」
おれも便乗してうなずいた。
「妹さんの眼を醒ます代わりに、みんな話してもらおうか」
「いいだろう」
と道綱は応じた。準備は整ったわけだ。
「このあたり一帯が、“神隠し”の多い土地だというのは知ってるだろう」
と道綱は話し出した。
「うちの先祖は、それを何とかしようとして神社を建てたんだ。そこで、いわゆる“隠し神”と契約を結んだんだな。知ってるかい、“隠し神”?」
「おれのポン友さ」
と、おれは答えてやった。
「別に、おまえんとこの専売特許じゃないさ。ギリシャ神話に、ヘラクレスの地獄巡りてえのがある。あの中で、ヘラクレスは三つ首の地獄の番犬なんかと戦うんだが、最も厄介な相手が“迷い神”だったんだ」
「“迷い神”?」
「そいつは地獄中の道を知っている白髪の老人でな、迷路の中を自在に動きまわって、絶対に捕まらない。ヘラクレスは眼の前にいる老人を殴り倒すために、なんと、三年も迷路を駆け巡らされる羽目になったんだ。おまえのいう、この地に根を張った“隠し神”とかも、この縁者さ。なにもギリシャ神話に限らねえ。マヤだのマオリ族だの、ベドウィンだの、イヌイットの神話にさえ、人間の成仏を惑わせる“迷路の神”は存在するよ。もっとも、いまのヘラクレスの話は、どういうわけかギリシャ神話の原典からは削除されてるけど、な。――だが」
おれは真顔で道綱を見つめた。
「おまえの一家のしたことは正しかった。“迷い神”イコール“隠し神”の魔力をチャラにするには、奴と“契約”を結ぶしかねえのさ。で――その内容はどんな、だ?」
道綱は美女そのままの柳眉をひそめた。しゃべるつもりなのだ。いまの知識の開陳で、おれを見直したに違いない。
「それは――」
言い澱んだ顔は苦渋に歪んでいた。
ドアがノックされたのはそのときだ。返事を待つまでもなく、入ってきたのは蒼木氏であった。
表情が固い。――何かあったな、とおれはピンと来た。ついでにこう閃いた。彼は目下の状況を覆そうとしているのだ。顔でわかる。
「父さん――」
訝しげな眼を向ける道綱へ、蒼木氏は重々しい口調で、
「みな、居間へ来てくれ。ちと話がある」
声の裏に秘められた決意の凄みが、道綱に文句を言わせなかった。おれも従った。ここでトラブっても仕方がない。
立ち上がり、ドアの方へ向かう途中で、おれは良美のベッドをのぞきこんだ。
「うん。なかなか可愛い」
と頬っぺたを撫でた。途端に、広美に向こう脛を蹴とばされた。少しだけかわして痛みは避けたが、
「いってってって」
わざとしかめ面をしてみせた。
「いい加減にしなさいよ、この助平」
「はーい」
おれは素直に答えて部屋を出た。
居間へ行くと、蒼木氏は驚くべき内容を切り出した。
良美をある人物に預けたい、というのである。
「何ですって!? 冗談じゃない」
真っ先に道綱が眼を剥いて異議を唱えた。当然だ。
「どういうつもりなんです、父さん!? 第一、誰に預けるというんです?」
息子の詰問は苦しみに満ちていたが、父親の表情にはそれを凌駕する苦悩が溢れ返っていた。おれは少しだけ同情した。
「あのお」
と、おれは片手を上げた。残り三人の刺々しい視線が集中する。
「何だね?」
と、それでも蒼木氏は訊いてくれた。
「まさか、盤城某《なにがし》じゃないでしょうね?」
こわばった顔が引きつった。図星だ。
「――父さん、誰です、それ?」
ほう、道綱は知らなかったとみえる。ここにも面白い関係が存在するんだな、とおれは内心ほくそ笑んだ。
「ねえ、盤城って誰よ?」
と広美が口をはさんだ。ふと、おれの胸に引っかかるものがあった。それが明確な形を取るには一秒もあれば事足りたろう。だが、そうは問屋が卸さなかった。
ガラスの砕ける音が鼓膜を派手にゆすったのだ。
「良美――ちゃんの部屋に侵入者ありだ!」
おれは叫んで立ち上がった。
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第五章 生き埋め記
「どうしてわかるの!?」
広美の叫びが背中に当たった。
「おれはエスパーなんだよ」
廊下へ出て、まっしぐらに走った。良美の寝室のドアを抜けた瞬間、背後遠くに足音がした。道綱だろう。危ないから、他の奴らは来るなよ。
良美のベッドの上に立つ人影へ、おれは真っすぐ右手のグロックを向けた。ガラスの破片をちりばめたような上掛けの上に仁王立ちになって、良美を両腕に抱いた人影は――盤城伯爵だった。右手に例の試験管を握っている。
「やっぱりな。引き取りに来たのか?」
おれは奴の眉間に銃口を向けたまま、静かな声で訊いた。
「そのとおりだ。彼女は私のものだ」
「おまえ、一体、何を企んでるんだ? この家の人間を人肉食いの食肉鬼《グール》にするのが仕事か?」
「そういうことだな」
おれは内心、うむとうなずいた。
「だが、この近辺でグール騒動がおっぱじまったという記録はない。何に使ってる[#「何に使ってる」に傍点]?」
「言ってもわかるまい」
こう言って、伯爵は良美を抱き直し、
「これが私の仕事だ。汚らわしい宝捜し屋よ。娘は貰っていくぞ。これこそが私の権利なのだ」
「そうかい」
言うなり、おれは引金を引いた。弾丸は弾倉ごとチェンジしてある。粘着榴弾の無効はわかっているからだ。
盤城はわずかによろめきつつ立った。
「やるねえ」
おれは正直な感想を洩らした。もう一度引金を引こうとした刹那、視界を閃光が灼いた。
ネクタイ止めの宝石だと歯がみする思いで引金を引き絞った。盲目状態での射撃を無謀というのは、射撃のアマチュアか中途半端なプロだ。プロ中のプロなら、眼を通して脳の中に、標的の位置とサイズがインプットされている。なら、後は突然の失明に動揺するかしないか――精神力の問題だ。
狙いは確かだったが、盤城の動きが少し早かった。
身を翻した身体が、砕けた窓から庭へと跳び出す。その気配を確実に体感しながら、おれは後を追って窓辺へと走った。窓の位置は記憶にある。
「八頭くん!?」
背後から鋭い声がかかった。道綱だ。
「来るな」
と忠告して窓から出た。衝撃はジルガで鍛えた脚が吸収する。五感を集中して盤城の行方を探る。
右前方一〇メートルほどを逃亡中だ。
かたわらに気配が舞い降りた。
「来るなと言ったぞ」
「妹のことだ。薬も奪われた。もう残ってないんだ」
道綱の声も切迫していた。一瞬のうちにおれは決断した。
「よし、来い。おれはいま、眼が不自由だ」
「え?」
「一緒に走って、前に何があるか教えろ。何とかわかるが、確かな眼がある方がいい」
「わかった」
道綱の返事を聞く前に、おれはダッシュした。こういうとき、洋館は助かる。靴をはく必要がないからだ。
「植え込みの間を縫う道だ。二〇メートルほど真っすぐ」
おれと道綱は、盤城と同じ小路を疾走していた。
「このまま行くと何がある?」
「何も。塀があるだけだ」
「どこかに、秘密の抜け道はあるか?」
「聞いたことはないな」
「何かなきゃ、わざわざこっちには逃げやしまい。侵入と脱出ルートは確保してあるんだ」
道綱は何も言わずに走りつづけた。すぐに、
「車だ!」
驚愕の叫びから、おれは、ある乗用車を連想した。
「どんな車だ?」
「ロールスロイスの改造車だ」
正解だ。
「どっちを向いてる?」
「こっちだ」
前方から低いエンジン音が流れてきた。盤城の野郎、もう逃げ出す気でいるな、そうはいかねえぞ。おれは、グロックの銃口を車のボディに向けた。
「盤城はいるか? 良美ちゃんは?」
「二人とも車の中だ」
「こら、出て来い」
おれは凄みを利かせた。利かせ倒れだった。
エンジンの唸りが咆哮に変わるや、おれたちの方へと突進してきたのだ。
「来るぞ!」
「わかってらい!」
車のエンジン・ルームへ三発射ちこんだのは、間一髪で跳躍した空中からだった。手応えはあったが、車に変化はなく、猛烈な勢いで足の下を抜け、裏庭の中心へと向かった。
芝生を踏みにじり、彫像をぶっ壊して暴れ廻る。生命ある暴走車ってのは始末が悪い。こりゃミサイルかなと思いかけたとき、車は右方の木立の間に突っこみ、何本もへし折る音を鳴り響かせて、ふっと消えてしまった。
「何だ、ありゃ?」
素朴な疑問を放ったおれのかたわらで、
「良美……」
道綱が茫然とつぶやいた。このおれが、ちょびっと同情したくなる悲痛な声であった。
居間へ戻ると、真っ先に道綱はこう訊いてきた。
「どうやって、あいつが良美のところへ来たとわかった?」
「勘だよ」
と、おれは答えた。もちろん、嘘だ。耳の中では、いまも良美の息づかいが鳴っている。
蒼木氏に呼ばれて部屋を出るとき、彼女の頬を撫でるふりしてぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]にくっつけてきた盗聴マイクは、完全に作動中だ。後をつけるのは簡単――のはずだった。
いきなり、激しい破壊音が広がり、あらゆる音が途絶えた。盤城の野郎、見つけやがったな。ま、内緒で侵入した部屋へ、いきなりおれが飛びこんでくれば、何かあったと思うのが普通だ。仕方がない。
「――で、蒼木さん、心変わりの件ですが」
おれは話題を変えた。道綱も広美もうなずく気配があった。ついさっきまで、娘が食人鬼になるのを押しとどめようと奮戦していた父親が、いきなり、人手に渡すと言い出したのである。みな、キレかかるのが当然だ。
「説明する必要はあるまい」
と蒼木氏。
「まあ」
と広美が眼を剥いた。道綱は息子だからともかくとして、おれがキレなかったのは、蒼木氏の雰囲気に隠しようのない悲哀を感じたからだ。余計な能力だが、これがないと宝捜し屋《トレジャー・ハンター》はやっていけない。もっとも眼が見えないのも困る。くそ、あの宝石めが。
「どうしても、話してもらえませんか?」
「忘れてくれたまえ」
「ちょっと。それってないわ」
と広美が文句をつけた。この娘は病気療養中の誰かに似て、黙ってひっこむタイプじゃない。面白くなりそうだったが、おれは、まあまあと止めた。
「何よ、邪魔しないで」
「いいから。見たところ、蒼木さんはお疲れだ。その話は後にしよう。君は帰れ。おれが送っていってやる」
「だって眼が」
「念力さ」
「やなこった。でも、ひとりじゃ帰れないわね」
「大丈夫さ。道綱、車を貸してくれ」
「しかし――」
「いいから。おれが普通の人間じゃねえのは、わかってるだろ」
彼がうなずくのを見てから、おれは蒼木氏に向かって言った。
「あなたの言葉に嘘がなければ、お嬢さんは明日いっぱいで人の肉をあさるモンスターに成り果てます。それを防ぐために、おれが勝手に動いてもいいですね」
「いかん!」
蒼木氏がソファから跳ね上がる気配があった。娘の変身より守る価値があるものって何だ?
「そんな真似は許さん。君は何の権利があって、我が家の平穏を乱そうとするんだ!?」
「権利じゃないスよ。女の子が怪物になるのを放っちゃおけないだけです。本当なら、あなたが先頭切って戦わなきゃならないんですよ。父娘《おやこ》でしょうが」
「そうだわ」
と広美が同意し、
「そうだよ、父さん」
と道綱も賛成した。
「う、うるさい!」
蒼木氏は怒号した。老いた獅子の一喝を思わせた。なんてことはなかったが、一応、おれも他の二人に合わせて沈黙した。
蒼木氏は――おれの勘では――全身を震わせ、拳を握りしめた。いっそ、掴みかかってでもくれれば、叩きのめして強引に話を聞くこともできたのだが、興奮と悲嘆の悪魔は、じき彼の体内から脱けていった。
「済まないが、帰ってくれたまえ。――赤座くんだったか、良美に関して私が口にしたことは忘れてくれ。あれは間違いだ」
「でも――」
と言いかけ、おれが肘でつつく前に広美は、
「わかりました」
と言った。蒼木家の実力ってやつだ。おれはほんの少し感心した。
「君もいいな。今回の件については一切忘れてくれ。何をしてもならん。その代わり――」
ここで蒼木氏は道綱を見つめ、ドアの方へ顎をしゃくった。――勘だよ。
「二人とも席を外してくれ」
道綱と広美が出て行くと、
「その代わり?」
と、おれが切り出した。相手は大のおとなだ。いい子ぶる必要はない。
蒼木氏は疲れたような声を出した。少なくとも友好的と取っていい響きだった。
「はじめて見たときから、年相応の男の子とは思えなかったよ。君とは一人前の男として話し合う必要がありそうだ」
「助かります」
おれは微笑を返した。
「どこまで、我が家についてご存じか知らんが、それをいちいち問い質す精神的な余裕は目下ない。で――ひとつだけ、率直に伺おう。君の目的は何だね?」
「手を引く代わりに、何を?」
おれは見えない眼で、蒼木氏の眼の奥を見つめながら訊いた。
沈黙が落ちた。
一発で、こりゃ長引くとわかった。蒼木氏が放つ決意は並みじゃあない。自分の娘が食人鬼になるよりも、別の秘密を守ると決めた男だ。精神的にはおれに近い。
「蒼木神社のある場所は“隠し神”の宿る森でした」
と、おれは言った。蒼木氏の雰囲気にかすかな変化が生じた。おれの打つ手を読もうとしているのだ。多分、嫌な予感がしていることだろう。そのくらいでないと、こっちも効果は見込めない。
「ですが、それは正確には一八六七年――つまり、大政奉還の年以降のことなのです。それ以前――この国が誕生してから幕末まで、森には何も起こった事実はありません。“隠し神”など、どこにもいなかったのです」
おれの顔に熱気が噴きつけた。蒼木氏のオーラだ。全身から放出されるエネルギー波は、その肉体と精神状態によって大幅に変化する。心身ともに安定しているときは、美しい赤色光で熱はゼロだが、肉体に異常が生じると、敏感な人間にははっきり感じられるほど冷却し、黒ずんだ色になる。いまは、燃えたぎる深紅色――だろう――普通の人間には、近くでやや温かく感じられるくらいだが、おれには灼熱だ。おっさん、相当――どころか爆発寸前までいってるな。
しかし、ここで中断するわけにはいかない。おれはつづけた。
「“隠し神”――というより、あの土地に神隠しが頻発しだした年、一八六七年には何が生じたのか。答えは簡単です。あなたの曾祖父――蒼木樹三郎氏がアフリカから戻ってきたのです。幕府から与えられた任務を果たし終えて」
蒼木家の三代目当主・蒼木樹三郎のアフリカ遠征を命じたのは、当時の幕府勘定奉行の配下――田近井直正《たぢかいなおまさ》だった。一八五四年(安政元年)のことである。
ペリーの浦賀来訪が前一八五三年(嘉永六年)だったことを考えれば、疑い深い性格でなくても何かある、と考えるところだが、まさしくそのとおり、田近井直正は来るべき日米決戦に備えて樹三郎を派遣したのである。
しかし、アフリカとは。長崎の出島にいるオランダ領事館長からも、当時、続々と来訪しつつあったロシア船、イギリス船、デンマーク船などからも片々たる知識しか得られない、文字通りの暗黒大陸である。勘定方――つまり、幕府の財政を預かる、いまでいう大蔵省キャリアが、なぜこんな土地を知っていて、蒼木樹三郎を送りこんだりしたのか。その目的は何か?
実は、幕閣の中には、神祖・家康の創立になる「万知照覧舎《ばんちしょうらんしゃ》」という裏組織があり、幕府三百年の間に、おびただしい人数がここから世界各地へ派遣されていたのである。
スパイ、隠密、何と言ってもいいが、対外用の知識を仕入れるための人材であったのは間違いない。狸親父と呼ばれ、三百年間の安定政権の基を築いただけあって、さすが家康、向うからは入れないが、こっちからは平気で出向いたのである。もちろん、鎖国を標榜している以上、幕閣で公にすることはできないし、家康にもその気はなかったであろう。海外の情報を入手することは、必然的にそれに多大の興味と好奇心を寄せる人間を増大させるからである。
三百年だ。三百年あれば、どんな手段を使ったにせよ、世界の地理どころか最新の情勢まではっきりする。
おれの調査によると、この「万知照覧舎」は幕府の衰亡とその運命を共にしたらしいが、とにもかくにも徳川の御世三百年を保ちこたえて、海外のどこにもひけを取らない世界の知識を我がものにしていたのである。
そこで、蒼木と田近井直正の話に戻るが、勘定方・田近井は、幕閣に参入していた「万知――」のメンバーだったのである。金勘定している奴が政務に口を出すな、という意見もあるだろうが、大蔵省が活動しなければ予算が取れない。各省庁は何もできないのだ。
幕府の財政とアメリカの実力の二つを知り尽くしていた田近井は、いずれ両国が戦端を開くのは間違いないと考え、対アメリカ用の秘密兵器をアフリカに求めた。「万知照覧舎」の知識は、オカルトの分野にまで及んでいたらしい。
蒼木樹三郎は、日本の歴史中“山のもの”と記される不可思議な能力を持つ民のひとりだった。アフリカ行きを命じられた理由はそれだろう。
で、大国アメリカを打ち負かすための秘密兵器とは何か?
「いわゆる“迷路”ですね?」
と、おれは蒼木氏――現在の――に念を押した。
「異次元空間と言ってもいい。“こちら側”の存在を吸いこんでふたたび戻さない“向う側”へとつづく“路”。それこそが、蒼木樹三郎氏が持ち帰ったものでした」
蒼木氏は身じろぎした。せわしなく顎を撫で、髪の毛をかき上げ、何度もうなずいて、
「そのとおりだ。しかし、時すでに遅し。将軍慶喜は大政奉還を決意し、曾祖父の持ち帰った技術は、幕府の容《い》れるところとならなかった。日本は世界の属国になることを決意したのだよ。それは、いまもつづいている」
「全くです」
と、おれは同意してから、
「ですが、蒼木さん、肝心なことを抜かしてはいけませんよ」
「何ィ?」
蒼木氏の形相は、みるみる凄愴なものに変わった――と思う。
凄まじい眼差しがおれの双眸へ吸いこまれ、焼き尽くそうとする。だが、幸か不幸か、おれにはまだ何も見えなかった。
「ま、いいでしょう。おれだって、他人の傷に、わざわざ触りたいわけじゃあない。――さ、代わりに何をくれるんです?」
「少しは見所のある若者かと思っていたが、根は物貰いか――卑しいな」
吐き捨てた。カマしてやろうかと思ったが、ここは我慢だ。道綱や広美を、好きこのんで敵に廻したくはなかった。
さらに一、二秒考え、蒼木氏は、
「現物を見に――」
と言いかけ、
「そうか、眼が不自由だったな」
と躊躇した。
「いいスよ、触れれば」
と、おれは気軽に言った。
「それだけで本物か偽物かわかります。一三世紀のヨーロッパは、盲目の宝捜しがうようよしてました」
「私が君ごとき小僧を、偽物でたぶらかすとでもいいたいのかね?」
蒼木氏は冷たい声で質した。
「考え過ぎですよ、それ」
「来たまえ。せいぜい転ばぬようにな」
立ち上がった彼の後について、おれも腰を浮かせた。
おれの足取りの達者さは、廊下を一〇メートルもいかぬうちに、蒼木氏を驚かせた。
立ち止まってこっちを見ているから、
「どうしました?」
と訊くと、
「嘘をついているのではないだろうね?」
と来た。
「おれみたいな若造が、あなたみたいな大物を騙そうなんて思いもしませんよ」
と嘘と嫌がらせをミックスしてやった。
「まるで普通の歩き方と変わらない。信じられんな」
「訓練の賜物でね」
これは本当だ。
漢の武帝の陵――墓地に忍びこんだとき、おれは、真っ暗闇の中で、後元一年(前一四一年)に即位した武帝が、その翌年から五三年かけて造営した墓荒らし用の防御策と戦わなきゃならないことを悟った。
ライトもマッチもライターも、あらゆる光源は役に立たなかった。武帝のお抱え技術者《テクノクラート》が造り出した人工の闇は、あらゆる光を吸い取ってしまったのである。
そこへ、槍や矛や剣、弓を手にした機械人形が襲いかかってきた。人形だといっても、動きは人間とさして変わらない。おれは暗黒の中で、敵の攻撃をかわし、受け、打ち落として、丸一時間の戦いの末、全身に四十二カ所の傷を負った。脱出できたのは、彼らの動きが人間と大して変わらなかったからに他ならない。人形どもの死体は八十八体を数えたのだ。武器を持っていると考えれば、空手の百人組手も軽くこなせるだろう。
星ひとつあれば昼間のように見えるおれの眼も、光源ゼロでは盲目と等しい。頼るは五感のみだ。刃が斬る風の動き、唸り来る槍の音、錆よけの油の匂い――そして、何よりも、攻撃前に攻撃を感じる第六感。赤ん坊のときから、おれは暗黒の小部屋に閉じこめられ、同じ身の上の飢えた小動物から必死で逃げ廻った。物心ついたときにはもう、敵の体温や息遣い、気配から攻撃を事前に察知して、悠々と反撃に移れるようになっていた。
蒼木氏が案内してくれる通路の長さ、角度、曲がった回数、それによる降下深度まで、おれが正確に感知していると知ったら、氏はどうするだろう。
地下一階まで下りると、おれたちはエレベーターに乗った。デパートにあるみたいな豪華なものではなく、炭鉱で使うリフトに近い。
それで三〇メートルばかり下がって、また廊下、廊下と歩いて、ついに、おれはある部屋に通された。
冷えた空気に圧搾感がない。かなり広い――南北に五〇メートル、東西に三〇メートルはあるだろう。
「宝物庫に着きました?」
「ああ、ここに入るのは久しぶりだ」
「なるほど。その方がいいスね」
と、おれは遠慮なく言った。
「どういう意味だね?」
「ここを造ったのは誰です?」
「その曾祖父だ」
「ここの品物もみんな?」
「そうだ。祖父も私の父も、宝捜しとは無縁だった」
「それでも、お祖父さんは、曾《ひい》お祖父さんの言いつけ通り、ここの封印と浄化を欠かさなかった」
と、おれは言った。蒼木氏は息を引いた。
「親父さんも、何とかボロが出ない程度にはやってのけた。けど、あなたは――」
「さぼりっ放し――さ」
と蒼木氏は認めた。
「正直、私は蒼木家に伝わる秘密めいた家訓のすべてが嫌だった。あれを守る限り、私たちは一生、底なし沼に沈んでいるような運命から逃れられない。蒼木家を新生させるためには――」
「先祖のすべてを否定しよう」
おれは見えぬ眼で蒼木氏を見つめた。しかし、いつ治るんだ、これは。視神経にも網膜にも水晶体にも異常がないのははっきりしているのに、いつまでも闇が居すわってやがる。
蒼木氏は沈黙を維持していた。おれがしゃべるしかないな。
「否定するのはいいけれど、放り出して頬かむりはよくありません。あなたが、曾お祖父さんの言い伝えを守らなかったばかりに、宝に憑いていたものは力を増し、この倉庫に溢れ返っています。そろそろ、おれを殺したくなってきたでしょう?」
言うなり、おれは右へ一歩ずれた。肩すれすれにふり下ろされた鉄棒か笏杖《しゃくじょう》かが、びゅっと風を切る。
蒼木氏が凶器を持ち上げる前に、おれは一歩踏みこんでその顎に左のアッパーを打ちこんだ。頑丈な顎だが、おれのパワーとタイミングの前にはガラスと同じだ。脳天まで抜けた。
すとんと垂直に落ちた蒼木氏から何かが脱けるのを確かめ、おれはポケットから小さな護符――タリスマンを掴み出して、身構えた。部屋中に渦巻く妖気――それに気づかなかっただけでも、蒼木氏は幸福だ。
おれめがけて押し寄せる妖気の中心へ、おれはタリスマンを叩きつけた。
聞こえなくてもいい悲鳴が――実際、聞こえないのだが――天井高く噴き上がり、渦を巻いてのたうち、ふっと消えた。
おれは素早く蒼木氏を抱き起こした。
「大丈夫ですか?」
月並みな台詞に、蒼木氏はすぐに、ああと応じて、自力で立ち上がった。
「私は、君を殴ろうとしたのかね?」
「ええ、まあ。気になさらず」
おれは、はははと笑ったが、本音は、おっさん殺すつもりだっただろ、であった。
「済まなかった。しかし、よくかわせたね?」
「慣れてますから、はっはっは。ついでに、蒼木さんの身体の中と、この部屋も掃除しときました」
蒼木氏を抱き起こす前に、タリスマンは仕舞いこんである。
蒼木氏は首のあたりを叩いて、
「前はこんなことはなかったのだが、やはり、曾祖父の指示を守ることにしよう。――こっちだ」
おれは部屋の中央に導かれた。素早く手を動かすと、ガラス・ケースらしいものに触れた。
勘では、幾つもある。幕末の007=蒼木樹三郎が海外から持ち帰った秘宝のコレクションだろう。
かちゃかちゃと鍵を開ける音を立てて、蒼木氏はケースを開き、
「手を出したまえ」
と言った。
「はい」
おれは素直に両手を差し出した。右の手のひらに、ずっしりとした重みが加わった。サイズと質量から判断して宝石――ダイヤだろう。
「何です?」
おれは、にこにこしながら訊いた。
「宝捜し屋くんなら、名前くらいは聞いたことがあるだろう。“ネフェルティティの涙”だ」
「えーっ!?」
大仰な叫びが、おれの口から洩れた。でたらめも半分入っているが、後の半分は本当の驚きだ。
古代エジプト王朝――五千年以上前の伝説の女王が夫から授けられたという宝石は、これも伝説と化してのみ現代に伝わっているが、世界中のトレジャー・ハンターはその実在を疑わず、深山幽谷を捜し廻った挙げ句、ついにおれの祖父が、スフィンクスの右前足の付け根に隠された空洞内にあることを確かめた。
こうなれば、と誰でも思う。しかし、祖父が急行したとき、隠し部屋の扉は大胆に開かれ、“ネフェルティティの涙”は忽然と消失していたのである。
以来、いくら手を尽くしても見つけ出すことができず、それを生涯の痛恨事として祖父は逝った。まさか、ここにあったとは。
「これ、くれるんですか?」
「いいとも。その代わり、我が家の秘密に関しては――」
「もちろん、黙ってます」
もちろん、嘘だ。
「では、よく調べたまえ。私が偽物を差し上げたという場合もあり得るだろう」
「ええ、まあ」
おれは浮き浮きと答えた。少しして、蒼木氏が、
「どうだね?」
「間違いなく本物です。形も重さも、クフ王の大ピラミッドの地下にある秘密文書保管所で見つかった古文書の通りです」
「結構だ。では、戻ろうか」
「はあ」
おれは、でっかいダイヤをポケットに仕舞いこみ、先に立つ蒼木氏の後を追った。
「眼の調子はどうかね?」
と氏が訊いたのは、ドアのすぐ前だった。
「まだ駄目ですね。当分かかりそうです」
「そうかね」
「ところで、訊きたいことがあるんですけど」
「何だね?」
「僕をわざわざここまで連れてきた理由は何でしょう? そのダイヤを上でくだされば済んだはずです。なのに宝物庫まで見せてくれました」
蒼木氏は、少し黙ってから、
「どうして、こんなときに、こんなところで余計なことを言う?」
不満げにつぶやいた。その身体がドアをくぐったとたん、ドアはいきなりスィングした。
間一髪で脱け出せないことはなかったが、おれは無理しなかった。蒼木氏の立場と行動を、はっきり認識したかったのだ。
一応、ノブを廻してみたが、当然びくともしない。
おれは声を張り上げた。
「おーい、出して下さいよお。こんなとこに閉じこめて、どうするつもりなんですかあ?」
「済まない。そこで死んでくれ」
天井から、蒼木氏の声がふってきた。マイクが仕掛けられているのだろう。
救いがあるとしたら、その声が罪の意識に満ちていたことだろう。
「君は知りすぎている。食人鬼になる娘がいると知れたら、我が蒼木家は破滅の道を辿るしかないのだ。呪わしい契約を、何とか私の代で破棄しようと試みたこともあるが、無駄に終わった。こうなれば、私にできるのは蒼木の家を守ることしかない。私が喜んで君を殺すなどと思わないでくれ。匿名になるが、君の家族にはできるだけのことをさせてもらう。それで許してくれ」
えらい理屈だが、補償の努力は認めるべきだろうか。
「ふたつ、訊かせてくれませんか?」
と、おれは丁寧に言った。
「何だね?」
「僕はここで餓死ですか?」
「………」
「わかりました。ふたつめ。赤座くんはどうするおつもりです?」
「あの娘《こ》は――帰すとも」
「本当に?」
「もろちんだ」
「もちろんですよ。そのお言葉、信じていいですね? 信用しますよ、おれは」
「安心したまえ」
スイッチを切る音がして、おれは広い宝物庫にひとり取り残された。
しばらくのんびりするのも身体にはいいだろうが、そうもしていられないな。
おれは身を屈め、腕時計型のメカ・ボックスを、音響測定モードに合わせた。
これは、表面上、スイスの高級時計の逸品パテックの最高級品にしか見えない――なんてったって、一億円分のダイヤがちりばめてあるんだぜ――が、切り替えスイッチひとつで、三次元レーダーにも、通信衛星――もち、おれが自前で打ち上げたやつだ――利用のレーザー通信機にも、位置確認システム(GPS)にも、マイクロ盗聴器にも化ける便利な装置《ギミック》である。
竜頭型の音波発信器を床に向けると、文字盤上のスクリーンに回答が出る。それでは、いま、塩梅が悪いので、音声解説にチェンジした。
甘い美女の声が、
「厚さは三メートル」
と告げた。ついでに、
「その下は地面です」
余計なお世話だ。
三方の壁も同じだ。脱出不可能なことに変わりはない。――常識では、な。
電子センサーにモード替えして調べたところ、天井のマイクと監視カメラを発見した。覗くのはともかく、覗かれるのは好かない。グロックでつぶしとこうかと考えたとき、ある悪戯《いたずら》が浮かんだ。
「ふっふっふ」
自分でも気味が悪いと思う含み笑いを洩らしつつ、おれはベルトに装着した銀色の金属片に手をのばした。それからドアに近づき、やはり、ベルトから万能解錠装置を取り出してドアノブに触れた。これも美女の声が、
「単純な力学構造錠です」
と告げる。要するに、発条と歯車を使った昔ながらの封鎖方式だ。つまり、外から加えた力とその伝導によるロックは、内側から同じ方向に力を加えれば難なく解除できるのだが、その力が途中でカットされてしまう理屈だ。なら、カットをカットすりゃいい。
るんるんと胸の中で唱えつつ、解錠装置のスイッチを入れようとした瞬間、びくともしなかったノブが向うから回転した。どこかでカムの外れる音。誰かが入ろうとしているのだ。
こら面白い。
おれは素早くドアの前から下がって、ドアが開く方角の壁に貼りついた。
一秒と遅れずドアは開いて、おれを隠す。最後までドアを開く癖のある几帳面な野郎だと困るのだが、幸い、おれの一〇センチほど手前で止まった。
部屋の内側で靴音が鳴った。蒼木氏とは違う。
そいつが五歩踏みこんだのを確かめてから、おれはこっそり後ろに廻って、
「わっ」
と背中を叩いた。
手は空を切った、と思いきや、肘まで抜ける激痛に硬直した身体は、その力の導く方向へ流れ、固い床へ頭から――激突する寸前、おれは大きく身をひねって、ブリッジみたいな格好で着地し、逆に相手の関節を決めて、前方へ放り投げた。見事な受け身で衝撃を緩和する。予想通りだ。掴んだ手を放さず、おれはアームロックを決めた。――つもりが、相手はもう片方の手を動かすだけの余裕をつくっていた。手がおれの膝の急所を突く寸前、止まった。おれに気づいたのだ。
床の上からおれを見上げている――だろう――道綱へ、おれは、
「よお」
と声をかけた。
「何しに来た?」
「気になってね。親父に内緒で来てみたんだ。戻ってきたのは親父ひとりだったし。君のことを訊いたら、先に帰ったというが、そんなにあっさり引き下がるとも思えなかった」
「えらいえらい」
「ところで、外してくれるのか、僕が外すのか」
「あ」
おれはアームロックを解いて立ち上がった。
「赤座くんはどうした?」
「僕の部屋で待たせてある」
「危ないな。――行こう。いや、おれより、おまえ行ってこい」
「どうして?」
「おれはここに閉じこめられてると、おまえの親父さんに思わせといた方が、都合がいい。勝手にこそこそ動き廻るからな。赤座くんは、おまえが責任持って家へ送り届けるんだ。いいな?」
何を感じたのか、道綱の声と表情は固くなった。
「――父は君を閉じこめて、どうするつもりだったんだ?」
「どう思う?」
「しばらく、この件が片づくまで外へ出さないでおく」
「片づいたら解放するってか?」
「もちろん」
「大当たりだ」
餓死させるつもりだったとは言えなかった。
外へ出て、ドアを閉めるとき、道綱が、
「ん?」
と、おかしな声を出した。室内を覗いたらしい。おれと室内を見比べる気配があった。
「どったの?」
猫なで声で訊いた。別に意味はない。
「いや、いま、倉庫の中を覗いたら――君がいた[#「君がいた」に傍点]ような」
「ははは」
おれは肩を叩いて、行こうと促した。ドアをロックし、道綱は先に立って歩き出した。
「足下に気をつけたまえ」
なかなか、親切な野郎だ。多分、蒼木氏もこういう人間なのだ。それが少しだけ[#「少しだけ」に傍点]狂っちまった。人間、家だとか家名だとかを背負《しょ》っちまうと、ロクなことがないという見本だ。
おれはこう訊いた。
「良美ちゃんはどうする?」
道綱の足が止まった。――と思うと、すぐに歩き出して、
「君の様子を見にきた理由は、そこにもある」
と言った。
「親父はああ言った。僕にはわからない事情があるんだろう。だが、良美が怪物になるのを放ってはおけない。力を貸してくれ」
ここで詰まって、
「だけど、眼が見えないんじゃな」
「手を乗せてみな」
と、おれは自分の肩を指さした。
道綱は少しためらい、それから無造作に右手をのばしてきた。手から出る熱とオーラと空気の動き――これだけあれば、よけるには十分だ。
空を切ると、間髪入れず、横殴りにきた。それもかわし、もう二、三度かわしてのけると、彼はさすがに呆然と立ちすくんだ。
「君は――そう言えば、さっきの技も凄まじかった。本当は見えるのかい?」
「じぇんじぇん」
「本物の宝捜しって、こんなにやる[#「やる」に傍点]のか。――良美を助けてくれないか?」
「まかせとけ。乗りかかった船だ。ただし、さっきも言ったが、おれは地下にいるってことで、あちこち探らせてもらうぜ」
「いいとも」
道綱は力強くうなずいた。見てくれは陰気な青びょうたんだが、内側には炎が燃えてる。こう来なくちゃ。
勘だと、後十二歩――約八メートルで曲がり角というところで、おれは道綱の肩を掴んだ。
「どうした?」
「おまえなら聞こえるだろ。誰か来る」
おれのひと言の間に、道綱の耳も聞き取っていた。左の通路からやって来る足音を。前も右手も石の壁だ。左だけが階段に通じる。足音は階段を下りてくる途中だった。
「下りたな」
と、おれは言った。
「下がろうや」
宝物庫のドアまで、足音を殺して走り、道綱がドアを開けて跳びこんだ。幸い、細めに開けた隙間から、曲がり角は見通せる。
足音が近づき、うす暗い天井の照明の下に、人影が湧いて出た――はずだ。
「誰だ?」
道綱は答えた。
「オールスターだな」
と、おれはつぶやいた。
白衣姿の男のオーラを、おれは見えぬ眼で確認した。
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第六章 青白き医師(ドクトル)
「あれは――」
おれの横で、道綱が息を呑んだ。
「誰だ? ――主治医か?」
「いや、病気のときは、村の医者《せんせい》に頼む。あれは――」
声は言いたくなさそうだったが、おれはハッパをかけた。
「この際だ。全部知っとかないと、良美ちゃんを助けられねえぞ」
「僕もよく知らないんだ」
と道綱は答えた。
「ただ、家の者が良美みたいになると、何処からともなく現われる。今までに何度か見た。けど、父と話してるばっかりで、治療してるところは見たことがないんだ」
「何度か見たって、いつだよ?」
道綱は少し考え、
「中学に入ったときと――幼稚園だ」
「二十年近く前か。よく見ろ。あの医者、老けたか?」
「いいや、そう言えば昔とちっとも変わらない。確か、ずっとあの顔だ」
年の頃は五十前後だろう。いくら老け顔といっても、五十代と七十代では雲泥の差だ。道綱なら見間違うはずはない。
「何て名だ?」
「知らない。親父も医師《せんせい》って呼んでる。――おっ!?」
その医師が動いた。当然、こっちへ来ると思いきや、靴音と気配は、何とT字路の真ん前――石の壁に向かって進み始めたのである。
「消えた」
道綱がつぶやいた。驚きの口調だが、怯えた風はない。胆がすわってやがる。
「いや、モーターの音がした」
と、おれは言った。
「モーター?」
「行こう」
おれは先に立って歩き出した。ドアを閉めた道綱が追いついたときにはもう、石壁に音波センサーを当てていた。
「前方に空洞あり」
と美女の声が告げた。道綱は――多分――眼を丸くしただろう。
「ドアの厚さは五〇センチ、空洞のサイズは最大値、縦横一一メートル二五、高さ五メートル二五、平均値は――」
「それも宝捜しの道具か?」
興奮が道綱の全身を駆け巡っていた。おれにはよくわかる。男なら誰でもこうなるのだ。
「君は、僕の案内なしで正確にここへ来た。しかも、走ってだ。それにこの機械――プロって凄いもんだな」
「なあに、小手調べさ」
そっくり返りたくなるのをこらえて、おれは、パテックのモードを解錠装置に切り替えた。
医者が入った以上、モーターを作動させるスイッチがあるはずだ。本来なら、五感と六感を総動員させて捜すのだが、いまは時間が惜しい。
足下の床の一部がそう[#「そう」に傍点]だと、美女の声が告げた。
踏んでみた。開かない。誰かが偶然踏む場合を考慮してあるのだ。足を右へねじった。
壁が鳴った。
石壁がスライドして大人ひとりが通れるくらいの入口が開いたと、道綱が言った。
「すぐ前に五段ほどの石の階段がある。向うは石造りの部屋だ」
「戻ろう」
焼き尽くすような好奇心を抑えながら、おれは後じさった。
「そうしよう」
道綱も同意した。良美と広美が気になるのだ。おれと同じく。
そのとき――
「入りたまえ」
部屋の何処かから、嗄れた声が流れてきた。
「ここまで来て、知らぬ顔は失礼だぞ。入りたまえ、二人とも」
頭の中にエコーが生じていた。繰り返される誘いの言葉――このおれでさえ、思わず我を忘れるような強烈な催眠効果があった。
かたわらの道綱が、すいと穴の中に入った。止める余裕はなかった。真っすぐ階段を下りていく。こうなったら仕様がない。半ばしめた[#「しめた」に傍点]と思いながら、おれは後を追った。入るや、背中でドアが閉まった。
階段を跳び下りたところで、おれは道綱を捉えた。
「こら、しっかりしろ」
と肩をゆすったが、蒼木家の後継ぎはなおも前進しようとする。仕方がねえ、一発、当身《あてみ》でも、と身構えた刹那、
「ようこそ」
邪悪としか言いようのない声とともに、道綱の歩みはぴたりと熄《や》んだ。同時に、おれの頭の中の靄《もや》も嘘のように晴れる。声の主の精神コントロールが解けたのだ。
「おい道綱、状況を伝えろ」
全身の力を抜いて、あらゆる事態に対処し得る姿勢を取り、おれは道綱の背後で索敵を開始した。
「はじめて見る場所だ――」
入ったときから勘づいてはいたが、道綱の解説によると、とんでもない場所だ。
天井と壁の四隅には、びっしりと蜘蛛の巣が張り巡らされ、はめこみ式の壁穴には、柩が埋めこまれている。石壁もあちこちが崩れ落ち、黒土がこぼれて山をつくったその表面に、幾つも小さな穴が噴き出しているのはモグラの痕だろう。
奥にもうひとつ錆だらけの鉄扉がある。
「出て来い、ドクター」
と、おれは声をかけた。
右方で気配が動いた。ひときわ大きく石壁が崩壊し黒土が山になったその陰から、白衣の人影が現われた。
このオーラは――間違いない、蒼木神社の奇怪な鳥居の列――その奥からやって来たあの医師だ。
「あ、どーも」
と、おれは礼儀正しく――眼は離さず――一礼した。
神社で会いましたね、と言うつもりでいたら、
「神社で会ったな」
と先を越された。
「あ、そーでした?」
「食えない坊やだな。――何者だ? 道綱の友人にしては、大人びているな」
「中学校出で、苦労してるもンで」
「そうは見えないな。その眼も仕草も怯えてはいない。大した度胸だ。ただの高校生ではあるまい」
「あ、大学生です。東京大学・歴史研究会」
「そんな返事を聞いてはいないよ。何にせよ、もうここからは出られん」
「そんなあ。――彼もですか?」
「道綱は無事に帰らせる。彼は後継ぎだ」
「僕もですよ」
医者はおれを無視して、
「この家は、我々と契約を結んだ。それは守らねばならん。私はその一環として、ここを訪れたのだ」
「はああ」
と、おれはいかにもわざとらしく感心してのけた。
「で、その、一環の中味を教えてもらえませんか?」
「ただの大学生が、ここを逃げ出す方法より、それが知りたいか?」
「ええ。なにせ、歴史研究会で」
「いいだろう。ここへ来たまえ」
医師は、自分のすぐ前を指さした。
「はいはい」
おれは揉み手しながら近づいた。気配とオーラの熱動でわかる。
構わず五〇センチ――鼻の頭がくっつきそうなくらいまで行くと、医師は眉を寄せた。警戒心のないおかしな餓鬼だと思ったのだろう。
何となく嫌そうな眼で、おれをねめつけながら、
「ここは何だと思うね?」
と左右の壁へ顎をしゃくった。
「墓所ですね、納棺堂。昔なら奥津城《おくつき》ですか」
「ほお、いまの学生にしては学があるな。そのとおり、ここは蒼木家代々の墓所だ」
「わかったか、道綱?」
と、おれは背後に声をかけた。
「ああ」
と、けだるい返事が戻ってきた。
「地下に墓所があるとは聞いていた。だけど、祖父も祖母も裏にある代々の墓地に埋葬されたはずだ。母はそうだった」
「ふむ」
と医師は考えこんだ。道綱に事実を知らせるべきかどうか迷っているのだろう。
「まだ知る必要はないのだが、やむを得ん。そこで聞いておれ。知ったからといって、他人に話すわけにはいかん秘密だ」
空気が冷えてきた。妖気が含まれはじめたのだ。おれは、にこにこしながら発現点を探った。
ほう、医者じゃない。四方の壁からだ。土の向うにいるのは、もぐらだけじゃないらしい。
医者の右手が壁の方にのびた。
けたたましい破壊音が響き渡った。
壁嵌《へきがん》に埋めこまれた柩のひとつをひっ掴むや、いきなり床へはたき落としたのだ。
耳障りな音をたてて、木棺は横倒しになり、中味[#「中味」に傍点]が転がり出た。音でわかる。
道綱が叫んだ。
「母さん!?」
おれも見えぬ眼をやり、
「わあ」
と言った。もちろん、わざとだ。見えないからね。
「どうだ、道綱?」
と訊いてみた。
「母がそのままだ。去年、死んだのに」
「わあ」
と、おれはまた口にした。
埋葬された死体がちっとも腐っていないからと言って、いちいち驚いていては宝捜しなんか務まらない。初めて腐敗しない死者と出くわしたとき、おれは四歳だった。
腐らない死体というのは、大体、次のパターンに分類できる。
まず、神聖な、乃至、邪悪なパワーが働いて、死後も生前そのままというやつ。いわゆる聖人、聖女の腐敗せぬ死体等々だ。
次に生ける死者――いわゆるゾンビーだ。映画のせいで、ゾンビーというと、半ば腐りかかった破損人間が襤褸《ぼろ》を着てうろつくというイメージがあるが、本来――つまり、正当なハイチ産ゾンビーは、呪いがかけられている限り生前と同じ姿で歩き廻る。
三つめは吸血鬼。生ける死者としてはいちばんの古株だが、こちらは血を吸う妖魔として、別種に含めた方がいい。
ラストは、とにかく原因不明の、それこそ腐らぬ死体で、寝っ放しだったり歩いたりするが、なぜこんな現象が起こるのか、さっぱりわからない。一例を挙げるとモスクワのレーニン廟に安置されているロシア革命の父・レーニンの遺体――あれは化学者の手で特殊な防腐処置が施されて永遠に生前の姿を維持しているというが、実は嘘八百なのだ。死亡時の儀式の後、レーニンは通常通り埋葬される予定だった。ところが、死後三日を経ても死体は少しも腐敗の兆候を示さず、極秘で行われた検査の結果、改めて死亡は確認されたものの、細胞の死による腐敗が進行していないこともまた、明らかになったのだ。つまり、レーニン殿は、生きたまま死んだ状態で廟の中に収められているのである。おれなんか、いきなり生き返ったらどうしようと思うが、とにかく、歴史上に名を留めるおっさんがこの有り様なのだ。
さすがに道綱は茫として立ちすくんでいる。
医師が動いた。気配と空気の動きからして身を屈めたのだ。
「何してる、道綱?」
と、おれは訊いた。
「母の手を掴んだ。――引き上げた。――手を離した。――立ってる。死んでるのに、立ってるぞ」
自分の母親だけに、恐怖と動揺の色は隠せない。
「どんな格好だ?」
「少し上体を前屈させて、両手は自然に垂れてる。顔は伏せたままだ」
ふむ。復活したばかりのゾンビーに似てるな。呪術師に指令を与えられるまで、彼らは墓所や倉庫や廃ビルの片隅で、そんな風に立ち尽くしているのだ。
「おまえ、眼が見えないのか!?」
医師が驚いたように言った。
「ははは」
「何だか知らんが、ますますおかしな奴。よく見ておけ――いや、聞くがいい。私はいま、足下の鞄から注射器を取り出したところだ」
「ご丁寧に」
「中味は、私が調合したある薬液だ。これを、いま、この婦人の第三頚骨と第四頚骨の間に射つ」
「はあ」
「やめろ。母さんは放っといてくれ!」
道綱が叫んだ。だが、
「そうはいかん。この墓はそもそも、こうするために、蒼木樹三郎がこしらえた場所なのだ。ほれ。――ぶつり」
邪悪としか言いようのない台詞とともに、おれに見えない注射針は、道綱の母の頚骨に打ちこまれた。
おれも道綱も動かなかった。こうなったら、結果を見届けるしかない。
「どうだ、道綱?」
と訊いた。
「まだ、何も――おっ!?」
「どうした!?」
「トイレへ行きたい」
「おまえなあ――」
言いかけたとき、
「おっ!?」
「今度は風呂か?」
「――顔を上げたよ」
道綱の声は虚ろだった。
「眼の光はどうだ?」
「光ってない。ただ開いてるだけだ。表情もない。僕が誰かもわかってないな。おい、両手を真っすぐに君の方へのばしたぞ」
「歩き出したか?」
「ああ。気をつけろ」
幸い、おれには母親の動きが、眼で見るようにわかっていた。
喉もとへのばしてきた手をかわし、素早く後ろへ廻って、ぼんのくぼにある運動中枢につながる秘点を突く。
突然、電源を切られたロボットみたいに、婦人は停止したことだろう。
「これが、あんたの秘密かい? 月並みだぜ」
おれは医師に向かって言ってやった。
「貴様、何者だ?」
「蒼木のおっさんから聞かなかったのか? ――宝捜し屋さ」
「宝捜しか。こちら[#「こちら」に傍点]に来たのは久しぶりだが、珍しい奴と会うな」
「まいど。――さて、そろそろ、あんたのここでの仕事を教えてくれないかな? ちょっと急ぐんだ」
「勝手な言い草だが、よかろう。この家について、何処まで知っている?」
「大体は。“迷路”と引き換えに生贄を要求されるところまでは」
道綱が緊張の気配を放った。これは知っているらしい。
「そのとおりだ。蒼木樹三郎は我々のもとから“迷路”の秘密を持ち帰る際、その代償として、“迷路”を通して、年に十人ずつ、こちら側の人間を送ることを約束した。彼の国は、そうしなければ別の国の属国と化してしまうと言ってな。“迷路”さえ使えば、いかなる強大な敵の侵略も、波打ち際で撃退することができる。我々との契約は人数制だから、“迷路”を我々とつなげば、それだけで何千年分をもまかなえるはずだった」
「ところが、現実は甘くない。この国は片っ端から通商条約を結んだ上、樹三郎の雇い主は、さっさと大政奉還しちまった。それなら、官軍相手に使えばよかったが、同じ日本人同士の殺し合いに加担することは、樹三郎の人間としてのモラルが許さなかったわけだ。かといって、放り出すわけにはいかない。“迷路”に与える十人の生贄の契約は、すでに発動していた。やむを得ず、彼は生まれ故郷のこの土地へ引きこもり、“迷路”を作動させ、おれの考えではあの神社の森とつないだんだ。彼の心算《こころづもり》からすれば、それはもう、自分が持ち帰った“迷路”に非ず、古来から日本の各地に伝わる“神隠し”の森と同じものになった。確か、樹三郎氏は、手ずから立ち入り禁止の札をこしらえ、森の周囲に立てた。それだって、周囲を柵で覆いでもしなければ、いや、四六時中、監視員でも立たせておかなければ、人は入ってくる。年に十人――彼がよせというのに勝手に“森”へ入った人々が行方不明になっても、自分は良心の呵責に苦しめられずに済む。上の蒼木氏が、おれに話さなかったのは、この辺さ。しかし年ごとに、消える村人の家族からのつき上げが大きくなるにつれて、彼の良心もまた苦しみはじめた。こうして、彼は神秘現象が勃発してもおかしくない場所、それでいて人があまり入って来ない聖域――蒼木神社を建立したんだ。また、現当主の蒼木氏も良心の呵責に耐え切れなくなって、出入口をふさごうとした。あの鳥居を倒したのは、そのためさ。もっとも、あんた方の仲間のせいで、すぐに元に戻ったがな」
話している間も、おれには二つの気配が気になっていた。
おれの口から一族の真の姿が暴露されて沈み切った道綱の気配と、じわじわと四方の壁の向うから接近しつつある何者かの妖気だ。これから一波乱も二波乱もありそうなのに、道綱に落ちこんでいられては困る。
「だが、それから先がわからない」
と、おれは医師に向かって言った。
「蒼木家の家族が、契約違反の罰で食人鬼になるのはわかる。あんたの正体もな。しかし、あの盤城伯爵って奴は何者だ?」
「盤城? 食人鬼?」
と医師は、しかめっ面が容易に想像できるような声で、疑問を呈した。とぼけてるんじゃない。
「何者だ、そいつは?」
「おれの勘では、この家の娘――良美って子を、食人鬼に変えた奴だ。だから、樹三郎氏の契約違反をとがめだてに来た契約者のひとりだと思っていたんだが」
「そんな奴は知らん。おまえ、嘘をついているな」
「とーんでもない。生きるモットーは誠実と正直だ」
おれの背筋が震えた。いまの宣言のせいじゃない。医師の放つ、この世のものならぬ怒気の炎だった。
「娘を食人鬼に変える? そんな罰は契約書にはない」
「何だって?」
おれは眼を丸くした。道綱も息を引く。
おれが、蒼木家の伝説を知ったのは、一週間ほど前、ベネズエラにある別宅の大掃除を指揮しに行ったとき、おれも親父も知らなかった秘密金庫が見つかり、その内部《なか》から出て来た祖父の日記のせいだ。蒼木氏も言っていた曾祖父・樹三郎氏と出会ったとき、祖父は彼に催眠術か何かをかけて、蒼木家の怪異の歴史を告白させたらしい。日記によれば、祖父は自ら蒼木家へ乗りこむつもりだったらしいが、樹三郎氏と別れてすぐ、捜し出した秘宝の奪還を企むヒマラヤ山中の一部族に襲われ、下半身不随の重傷を負った。父はまだ幼く、祖父は日記に一部始終を記して伝えようとしたものの、よほど祖父を怨みに思う連中が多かったらしく、結局、父のもとへ郵送することもできず、隠すだけになったらしい。
こうして、おれは帰国後すぐ、蒼木村を訪問したのである。奇怪な伝説もさることながら、魅力的なのは樹三郎氏が世界中から持ち帰ったと祖父に打ち明けた宝物と、もちろん“迷路”である。蒼木家で持て余している“宝”なら、おれが肩代わりすれば、すべて丸く収まる。実に正しい理屈だ。
「我々が、契約違反として科した罰は、全く別のものだ。私はそのためにここへ来たが、食人鬼の話など初耳だぞ。まあいい。私が何をしに来たか、いま、見せてやろう。いや、おまえには無理だが」
「やめろ!」
と道綱が叫んだ。
嫌な音がした。肉と骨が断たれたのだ。
「どうした?」
「奴がメスで――母の手を肘から」
道綱は呆然と呻いた。
「見るがいい。見ろ、見ろ」
それから先は、後で気を取り直した道綱から聞いた話である。
声と同時に光が空を切り、そのたびに、母親の首が飛び、片手が落ち、太腿が切断された。血は一滴も出ない。
「この女は、注射をされたときから別の人間だ。だが、それだけでは、我々の国へ連れて行くことはできない。――見ろ」
床に身を屈めた。黒皮の鞄が置いてある。口が開いた。内側に光る金属箱や聴診器が道綱には見えた。その上に、医師は分断された母親の各パーツを詰めこみはじめたのである。
まず、両脚が、胴が、腕が――普通の診療鞄だ。そんなもの、腕一本でもはみ出てしまう。それなのに、黒い鞄は、貪欲な口と化したかのように、それらを苦もなく呑みこみ、最後に頭を収めて、あっさり口を閉じた。
道綱は無言だった。母親の身を案じる言葉もない。眼前で繰り広げられたあまりの蛮行と怪異の顛末に、度胆を抜かれてしまったのだ。
それきり、鞄はぴくりとも動かない。
「一体――」
ようやく口を開いた道綱に、医師はこう告げた。
「この世界から消えた村人は、いったん、この地下に戻され、私の注射を受けるのだ。ずっとそうしてきた」
そのとき、静止画像と化した墓所内に、新たな動きが生じた。
壁が揺れている。鈍い音が連続した。古い墓所は一枚板のコンクリート塀ではなかった。厚さ五〇センチもある石を積み上げたものであった。
そのひとつが迫《せ》り出し、床へ落ちたのだ。
そっちを向いた背後で、別の落下音がつづいた。あわてて向き直るその背後から、また、どすん。
ぽっかり開いた四角い空洞から、また別のものが迫り出してくる。
道綱は眼を剥いた。
手だ。
ミイラみたいに干からび、鉤爪《かぎづめ》を生やしたゾンビーの手じゃなかった。ぽっちゃりと肉づきのいい女の手だ。骨の太い、静脈が青々と浮いた男の手だ。小さな男の子の、女の子の手だ。ミイラそっくりなのもあったが、それは老人のものだったらしい。
医師は動揺を表わしていた。壁の向うの連中は、彼とは無関係なのか、と道綱は疑った。
「知り合いかい?」
と、おれは医者に訊いた。
「いいや。我々は、この家の一族にしか興味はない。そういう契約だ」
それじゃあ、何者だ?
おれの疑惑は、次々と穴から這い出してくる奴らと道綱が解いてくれた。
パーマのかかった頭を土まみれにした中年のおばん。
「岸島さん。――十年も前に行方不明になった奥さんだ」
鶴みたいに痩せた白髪のおっさん。
「大河田さん――五年くらい前にいなくなった雑貨屋のお爺さんだ」
ぼろぼろの服を着た中年男。
「明治何年かに森へ入って消えた副村長」
後は道綱もわからないまま、土中から現われし者どもは、人間とさして変わらぬ動きで穴を抜け、床上に下り立った。行方不明になったとき着ていたぼろぼろの衣裳の土を落とす仕草など、おれたちと少しも変わらない。彼らがもとの家へ戻って、ただいまとひと声かければ、家人は涙ながらに迎え入れてくれるだろう。消えたときと同じ人間だと決めて。
「みんな、森に呑みこまれた人たちだ」
と道綱が保証した。
「お帰りなさい」
と、おれは言った。軽口のつもりだったのに、そいつらが声を揃えて、
「ただいま」
と来た。背すじが凍ったぜ。
「帰る場所を間違えてますよ」
と、おれはなるべく優しい声を出して、彼らが出て来た穴の方を指さした。
「お帰りは、あちら」
無駄なのはわかっていた。
その口から、男も女も若いのも年寄りも、みんな、一斉に白い液体を豪勢に吐き出したのである。涎だ。おれたちを見るその眼の、なんという嬉しそうなこと。その表情《かお》の、なんという卑しいこと。まるで、飢えた犬が路上の生肉を目撃したかのような。道綱は身震いした。その様子を聞いて、
「こいつら、食人鬼《グール》だ」
と、おれは道綱と医師に叫んだ。
「気をつけろ。歯にも指にもバイ菌がうようよだぞ」
これは、おれの経験である。人肉を食らってから歯を磨いたり、手を洗ったりする食人鬼はいないのだ。
「おいしそう」
と十二、三歳の女の子が舌舐めずりをした。
「あたしは、その人がいいよ」
皺だらけでモンペ姿の老婆がおれを指さした。わお。
「いただきます」
一斉に頭を下げた。
顔が上がった。
思いきり開いた口の中に、これだけは人間のものと異なる鋭い牙が覗く。一本残らず、だった。
次の瞬間、ぴたり十名――おれたちめがけて、獣の咆哮とともに躍りかかってきた。
「道綱、これをつけろ」
おれは上衣のポケットから、銀色の手袋を掴んで彼に放った。
「それは皮なみに柔らかな金属でできてる。虎の牙も通さねえ。咬まれたら、おしまいだぞ」
「君はどうする? 片方使え!」
手袋を掴んで道綱は声をふりしぼった。
「生身の相手にゃ、素手で触れる主義だ」
返しざま、おれは身を屈めて、とびかかってきた若い女の手をかいくぐり、夏用のブラウスから突き出た乳房を鷲掴みにした。
映画みたいに、腐ってつぶれやしない。弾力も張りもいい。本物だ。顔立ちもいける。涎さえ垂らしてなきゃ。
「お茶でもどうだい?」
おれは娘の手首を取って、逆を向かせた。
「お断りします」
ちゃんと答えるところが泣かせる。内容は気に入らないが。
眼鏡をかけた教師みたいな男が突っこんできた。
その顔面に勢いよく拳がめりこみ、教師風はのけぞった。空中に飛ぶ白い点は――前歯だ。
三人めは、太った農家のおばさんだった。えっちらおっちらという感じでやって来る。動きも生前の伝統を受け継いでいるらしい。もう少し、甦りらしい新機軸はないのか。
両手を大きく広げておれに挑みかからんとするおばさんのこめかみに、廻し蹴りが炸裂した。スピードもタイミングも申し分がない。体重も十分に乗っている。おばさんは三メートルも吹っとび、床に転がった。
よろよろと起き上がり、首を撫で撫で、
「何よ、あんた?」
と、とがめるように加害者をにらみつける。
「あたしのせいじゃありません」
と弁解したのは、おれに捕まった女だった。教師風に一発かました手も、おばさんをぶっ倒した脚も彼女のものだった。
古代武道ジルガ――「傀儡《ホアン》系の三傀儡」。捕らえた敵の手足をそのまま武器として使用する技は、敵の攻撃をためらわせ、時間的精神的優位に立つという利点がある。
鈍い打撃音が左方でつづいた。道綱に吹っとばされた農夫らしいおっさんと、中学生くらいの男の子が、おれの足下に叩きつけられた。顔面パンチを食らったというのに、顔はきれいなものだ。概気医院へ乗りこんできたゴロツキをぶちのめした容赦なさとは雲泥の差がある。しかし、甘いな。生命取りになるぞ。
普通なら完全KOなのに、二人ともすぐに起き上がった。顔と後頭部を撫ではするものの、大した不死身ぶりだ。戻ってくると使い減りしないらしい。
「おい」
と道綱がおれの右方へ顎をしゃくった。医師のいる方だ。
ふり向いた鼻先へ、いきなり女の首が飛んできた。道綱が岸島さんと呼んだおばんだ。
「わあ」
とかわした。首は盾にした娘の肩に咬みついた。
「きゃあああ」
娘の悲鳴は断末魔そのものだった。捕まえてある手から、瞬時に弾力が消えた。
「しまった」
娘の肌がみるみる冷たくなるのを感じながら、おれは医師を見つめた。
「咬まれると、毒が廻るぞ」
と医師は言った。その右手に手術刀が光っている。道綱の母親を解体した品だった。
大河田の爺さんと、もと副村長がダッシュをかけた。牙と爪と――ほんの少しでも皮と肉とを裂けば、獲物は即死する。
「けええええ」
医師が奇声を発した。“向う側”の気合だったかも知れない。
手術刀の描く軌跡は、どこか“こちら側”とは異なる奇怪なものだった。
二人は医師の両脇を走り抜け、走りながら首が落ち、両腕が後を追い、両脚も付け根から外れて床に転がった。このメスさばきは厄介だぞと、道綱は肝に銘じた。
「ねえねえ」
医師のメスさばきぶりを道綱に聞き、おれは甘え声を出した。こんなとき、ゆきがいたら、と思うが仕方がない。
「こっちの方も、片づけてくれないかなあ」
医師は冷笑した。無理もない。
「とりあえず、用は済んだ。おまえの始末は、こいつらにまかせよう」
冷たく言い放つと、鞄を手に素早く奥の鉄扉の方へと移動する。“戻ってきた”連中も、道を開ける気配。
「道綱」
おれたちも便乗しようとしたら、鼻先にびゅっと来た。
「若いのに楽することを考えるな」
ごもっとも。
残る七人が、医師とおれたちの間に割って入った。医師は見逃しか、舐められたもんだな。
手っ取り早く片づけるか。おれはベルトの後ろに装着した破砕弾に手をのばした。
何を感じたのか、
「待ってくれ」
と道綱が声をかけた。
「ん?」
「この人たちは、うちの森へ入っていなくなった。いわば、僕たちの犠牲者だ。僕が始末をつける」
「そう悲痛になるなよ。おまえの祖先の責任かも知れんが、おまえのじゃないさ。お互い、まだ先のある身だ。無理して生命を的にするな」
「悪いが、気の済むようにさせてくれないか」
「駄目だよ」
そのとき、胸の携帯が震えた。こんなとき、耳に当ててしまうのがおれの悪い癖だ。
「何の用だ、阿呆」
と、おれはぶちかました。
「いきなり、何よ!?」
倍くらい凄いぶちかましが返ってきた。ゆきだから仕様がない。
「いま忙しいんだ。切るぞ」
「切れないように細工してやったわよ」
「何ィ?」
スイッチを入れたら、本当だ。電源を――これも切れない。六本木のマンションで寝転がりながら、何をしてやがる。
「ついでに、こう」
いきなり声が爆発した。くそ、音量まで自由にしやがった。
「わかった? あたしから逃げようたって、そうはいかないのよ。一生つきまとってやるからね。いま、何がどうなってるのか、ちゃんと見せなさいよ。でないと――こうだぞ!」
胸から全身へ、蜘蛛の巣みたいに電撃が広がった。
「あら?」
「残念だったな」
と、おれはせせら笑った。
「トレジャー・ハント用の耐衝撃耐熱耐寒耐電スプレーを忘れたか。それにしても、おかしな真似しやがって」
「ああ、そう。なら――こうだわよ」
胸から青白い光が迸って、道綱の肩を貫いた。
うわっと叫んでのけぞる。とんでもない女だ。ま、おれがNTTに金を積んで造らせた特別頑丈な携帯ならではの技だが。
「無事か、道綱?」
「大丈夫」
と答えた。大したもんだ。
「まかせるぞ」
と、おれは言った。変心の理由はよくわからない。
「ありがとう」
すっと前へ出る道綱へ、おれは携帯を向けた。頭の部分に超小型TVカメラがついている。男の姿をゆきに見せてやりたくなったのだ。
「よく見ろ。いい男だろ」
「あら、ホント。ちょっと細くて血の気が少なそうだけど。ね、どっかの御曹子?」
「ああ、江戸時代からの名家だぞ。おれより金はありそうだ」
「今度、紹介して」
「真っ平だ」
「ど畜生」
「達者でな」
ゆきの声に、別の氷みたいな気合いが重なった。医師だ。鉄扉の前にいる。
医師が左手を横へのばした瞬間、村人[#「村人」に傍点]のひとりが躍りかかったのだ。おれの代理に廻し蹴りを食らったおばんだった。
白い奇怪な軌跡がその身体を巡り、太り肉《じし》の身体は六つの部分に分かれて転がった。
医師が眉を寄せた。
老婆の首は、彼の左腕に牙を立てていた。
無表情に手術刀をふって、医師は左腕を肘から斬り離した。鞄もついている。それを取ろうとしてよろめき、医師はドアにもたれかかった。表情は苦しげであった。
すっと消えた。
「ね、いまのお医者さん誰よ、すっげえメスさばきじゃん。愉しそうなことしてるわねえ」
「るせ。黙って見てろ」
おれは携帯のカメラを道綱に戻した。
その刹那、村人たちが襲いかかった。
その身体の間を、飛燕《ひえん》のごとく巡った道綱の動きを、おれは見えない眼で見て取った。
食人鬼たちが次々に倒れる音を、おれは心地よく聞いた。
「片づけたか?」
「何とか」
いいねえ。息切れひとつしていない。
「素敵ィ。ね、絶対、紹介してよ」
ゆきはコーフンの絶頂にあった。
「済まんが、切れ。彼は辛いんだ」
「え?」
「切れ」
おれの声から何かを感じたのか、ゆきは素直に、
「わかった」
と答えて、電源をオフにした。
「――殺したのか?」
おれの問いに道綱は答えなかった。おれに伝わってくるのは、激しい自己嫌悪だった。
「気にするなって言っても無理だが、おまえのおかげで彼らは助かった。襲われる連中がどんな気持ちがするか考えてみろ。誰も、そんな気分を味わわなくて済んだんだ。おまえがやったのは、そういうことだ」
ほんの一瞬だが、和やかな気が伝わってきた。
「ありがとう」
「いいって。――さ、とりあえず、ここから出ようや。それと、ここは封印した方がいいな」
「そう思う」
二人して階段を上がりかけ、おれは奥の鉄扉の方へ駆け戻った。医師の肘から先がくっついた鞄を、余計な代物をふり落として持つ。
道綱のところへ戻ると、
「これは!?」
「診察鞄だろ?」
と、おれは訊いた。
「音でわかった。おれが預かる。悪いが、我慢してくれるとありがたい」
「まかせるよ。ただ――」
「わかってる。お袋さんはいま引き渡すよ」
おれは鞄を持ち上げ、口を開けようとしたが、留め金はびくともしなかった。触った感触からすると、鞘の足みたいな形だ。
道綱がやっても同じだった。
「こうなれば、持ってた方がいいな。この鞄の内部で、いま、お袋さんの身体には何か起こってる。それが終わってここから出るとき、おれたちのどちらかがそばにいた方がいいぞ」
「同感だ。頼む」
「まかしとけ」
おれは派手に胸を叩いた。
解錠装置でドアを開け、道綱を先に出すと、おれは墓所の内部へ焼夷破砕弾を一発放りこんだ。
分厚いドアが閉じ切る寸前、独特の炸裂音が隙間から脱けてきた。
一万度の熱は、戻ってきた村人たちも、蒼木家の死体も灰に戻してくれるだろう。
長い廊下をエレベーターの方へと歩きながら、おれは、先を行く道綱から隠しようもなく流出する悲しみの気配を、否応なく感じ取っていた。
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第七章 怪人対魔人
階上では、予想どおりのことが生じていた。悪い予感だけは当たるものだ。
地下一階に隠れているおれのところへ戻ってきた道綱は、赤座広美がいなくなっていると告げた。
「親父さんはどうだ?」
「いない。訊いたら、赤座くんを連れて出て行ったらしい。ちょうど、僕が君を助け出した頃だ」
「よし、行こう」
あんまり簡単に口にしたものだから、道綱は呆れた風に、
「どこへ?」
「まず間違いない、と思う。何にでも一〇〇パーセントはないんでな。――盤城伯爵のところだ」
「すると?」
「悪くすると、赤座くんも、良美ちゃんと同じ運命だ」
「良美ちゃん[#「ちゃん」に傍点]と呼ぶな」
「良美さんでどーだ?」
「いいだろう」
おれは彼に見えないように顔をしかめてから、
「確か、車庫にジャガーがあったな。あれを出せ」
と言った。
「わかった」
この辺は、道綱くん、きびきびしている。
ドアを抜けるとき、
「済まないが、その鞄は置いていってくれ」
「はん?」
医者から奪った診療鞄だ。そういや、道綱の母親が折り畳まれてたな。
「はいよ」
ドア脇のキャビネットの上に置いて、おれは部屋を出た。
二人してガレージに下りると、後ろからお手伝い頭らしい小母さんがやって来た。
「お坊っちゃま、危ないことはおよし下さいませ」
「危なくないよ、明け方のドライブだ」
と道綱は答えた。空はもう白んでいる。
「お父さまがじきに戻られます。いらっしゃるなら、それからになさいませ」
「悪いけど、父さんが戻ってからじゃ遅いんだ。良美も連れ戻さなくちゃならない。――遅くまで付き合わせて済まなかった。もう休んでくれ」
「私、お坊っちゃまが一番心配でございました」
と小母さんは心のこもった声で言った。こういうお袋なら、よちよち歩きをはじめたばかりのおれに、耐寒耐熱訓練を施そうなんて思わなかったろう。
「それはお優しく生まれついたお坊っちゃまが、鹿児島まで武術を習いに出かけられたり、射撃や何かを学ぶためにアメリカへ行かれたり――このお家に何かあるのはわかっておりましたが、お坊っちゃまの行動に合わせて、何か、私どもには想像もつかない恐ろしい出来事が起こるようで。お坊っちゃま、行かないで下さいませ」
「そうもいかないんだ。すぐ戻るよ。父さんと良美を連れてね」
すでに助手席に乗っていたおれの隣に腰を下ろして、道綱はハンドルを握った。
「行こうか、お坊っちゃま」
と、おれは声をかけた。
「うるさい」
ジャガーは独特のエンジン音を響かせて、暁の光の中に身を躍らせた。
道を指示したのは、おれではなく、パテックの女声だった。
「どこだかわかるか?」
おれはパテックのスクリーンに浮かび上がった地図を道綱に見せて訊いた。
「ああ。明治時代に、例の曾お祖父さんが建てた別荘の位置だ。古い洋館がいまも残ってる。県で史跡にしたがってるけど、保存費用をうちで持ってくれと言ってきたので、放ったらかしさ。厚かましいにも程がある」
「県庁だの、市役所だのってのは、そんなもンさ。物貰いが当たり前だと思ってやがる」
うちが宝捜しの家系というのは、公には極秘だが、どうやら都庁の財政課にその辺の事情に詳しい奴がいて、少しでも都民税をかすめ取ろうと、こっそり動いているらしい。おれみたいな善良なる都民が血と汗の果てに稼いだ宝物を狙うんなら、その前に、天下りの退職金や、帳尻合わせの道路工事をまずやめたまえ。
「ところで、どうして、ここに良美がいるとわかる?」
と道綱が訊いた。
「目印をぶちこんでおいたんだ。おまえが来る前に、盤城の肩へな。平凡な弾頭だが、磁気を出す合金を混ぜてある」
良美の首につけといたトレーサーだけでは安心できなかった。あれに気づいたせいで、もう大丈夫と油断してしまった。盤城もどうやら、本質的には普通の人間らしい。
ジャガーは風を切っていく。世界には白い光が満ちているだろう。
「宝捜しって、いい仕事かな?」
「おお、そうとも」
と、おれは大きくうなずいた。
「世界中の洞窟や地の底や幽霊屋敷を覗いて歩けるし、宝が見つからなくたって、化物の二、三匹も捕まえてペットにできる。しかも、現地のおネェさんたちと仲良くなれるし、こんなに愉しくてためになる仕事はないねえ」
「ふうん」
しばらく黙ってから、ぽつりと、
「僕にもできるかな」
「できる」
おれは、経験豊かなおっさんみたいに膝を叩いた。
「ニューヨークと東京には、世界宝捜し連盟《ITHA》の養成学校がある。かなり高度な内容だが、おまえならできるさ。保証するよ」
「そりゃありがたいな」
道綱の声は弾んでいた。
「君の保証なら信用できそうだ。入学の際は口をきいてくれるか?」
「まかしとけ」
「ありがとう」
少なくともこのとき、車内の空気はサイコーだった。三十分ほどで、ジャガーは停まった。
「門の前だ」
と道綱が言った。
「車は見えるか?」
「ああ。親父のロールスロイスが停まってる」
「ちょっと窓を開けろ」
パワー・ウィンドが唸りをたてて下がる。
戦慄がおれを包んだ。何ちゅう妖気だ。こら、盤城め、いるな。しかも、ひとりじゃない。
「かなりきつい仕事になるぞ。一刻も早く助け出さないと、良美くんも赤座くんも危ない」
少し考え、
「おれが行く。おまえはここに残れ」
「眼が見えないくせに、何を言うんだ」
呆れる道綱へ、
「見えなくても、おまえより十倍マシなのはわかったと思うがな。いくら武道の達人でも、化物相手の素人が、どうこうできる話じゃねえんだ」
「化物相手には素人だが、射ち合いくらいなら何とかなるよ」
「ん――?」
道綱はトランクの開閉レバーを引いて車を降り、すぐに戻ってきた。
運転席のシートの上に置かれたのは、音と匂いからして、ジュラルミンのスーツケースだ。
開いた。
ぷん、と体臭の次に馴染んでる匂いが鼻をついた。ガン・オイル。
「触ってみるか?」
「失礼」
時間がない。さっとひと撫でして、
「デザート・イーグル五〇マグナムか」
おれは呆れた。
「こんな、見てくれだけの実用性に乏しい銃をどうするつもりだ? 映画の一シーンと違うぞ」
「それが一番、成績がよかった」
「どこでだ?」
「訓練場」
「どこの?」
「ロス」
「ロスの何て訓練場だよ?」
「FBIトレーニング・センターと、LPD(ロス市警)のSWAT訓練場だ」
おれは黙ってデザート・イーグルを掴み出した。どうひねくり廻しても、特別な――マイ・フェイバリット・ガンの工夫はない。引金《トリガー》と撃鉄《ハンマー》の形《フォーム》も、張力《プル》も市販品そのままだ。ただ、言葉どおり、射ちこんではあるようだが、これで好成績を上げたとなると、道綱は天才か、あるいは好成績のレベルが問題になってくる。
「弾倉《マガジン》に弾丸《ブリット》は?」
「入れてない」
弾丸を押し上げるスプリングに異常が来ないようにだろう。合格。
「射撃オッケーの状態にしてみろ」
おれの実力に気づいているらしく、道綱は文句も言わずに従った。
・五〇マグナム弾を弾倉に装填するテンポのよさ、不必要な力を加えない弾倉の銃把《グリップ》への挿入。
遊底を引くとき、スライド・スプリングに過重な負担をかけぬよう、また撃鉄を起こしてから引く――何もかも滑らかで遅滞がない。
「満点だ」
と、おれは言った。
「ま、当たるかどうかは別だが、操作は文句がない。ここを守れ」
「冗談はやめてくれ。逆だよ」
「おまえが妹さんと赤座くんを本気で助けるつもりなら、その銃で、親父さんを射たなきゃならないかも知れないんだぜ。――できるのか? 紙や板の人型標的射つのとは訳が違うんだ」
「………」
おれは道綱の肩を叩いて、
「幸い、車載電話付きだ。これで逐一情報を送ってくれ。おかしな奴が来ないとも限らねえ。見張りだって立派な仕事だ」
「わかった。さっさと行け。その代わり――絶対に」
「まかしとけ、と言っただろ」
同い歳くらいの盲目の男の保証が、どれほど信頼に値するかはわからないが、道綱の痛切な思いは十分に伝わってきた。
正直、娘二人の救出は今度の仕事に関係ないんだが、仕様がねえ、サービスだ。
道綱から、覚えている限りの別荘の知識を仕入れ、おれはジャガーを降りた。
鉄門に手をかけて押すと、簡単に開いた。足下には石がごろついていたが、かすりもせずに進んだ。
いまでも年に何度か、まとめてインドへ修行に行ってるヨガの秘術と、最新型の超感覚訓練のおかげで、おれの勘は足先まで働く。
木立や植え込みのような植物なら、生命体が放つオーラを感じ取れる。活動にほとんど支障はない。普通の人間には、眼が見えないなどとは思えまい。
前庭には濃密な腐敗臭が漂っていた。昼の熱気が死んだ植物や虫を分解しているのだ。
近づくと、別荘といえど、かなりでかい建物だとわかった。
明治時代の建築にあちこち手を加えたもので、かなり傷んではいるが、もとがいいからあと三十年は保ちそうだ。
おれは建物のぐるりを廻って、居間の窓の下に身を潜めた。
パテックのモードを盗聴器に変え、スイッチを押すと、中心から細長いバーが一メートルものび、先端に小さなパラボラが開いて、自動的に回転しはじめる。
誰かが身を隠すとしたら、居間か地下と相場は決まっている。
居間は無人だった。
客間も、家族の寝室も、図書室も書斎も無音だ。
耳のイヤホーンに、話し声らしいものが入ってきたのは、アンテナの方向を地下に向けた瞬間だった。
「もう、帰れ」
盤城の声だ。いやがったな、伯爵さま。
「何とか助けてもらえないか?」
哀れっぽい声を出すなよ、蒼木さん。
「無駄な答えを何回させれば気が済むのだね? この二人は、もはや“あちら側”へ入りこんでいる身の上だ」
まだ、生命は無事らしい。おれは窓ガラスの破れた居間の窓からやすやすと邸内に侵入した。
足がガラスと埃を踏む。悪臭と瘴気《しょうき》は仕方があるまい。
居間を横切り、おれは真っすぐ、道綱から聞いた地下室の入口へと向かった。
地下室の下り口は、すぐに見つかった。
なんせ、盗聴器におしゃべりが届くのだから楽だ。
三十段ほどの階段を下りると、廊下だ。左の壁には何もないが、右側にはドアがひとつ。道綱の言ったとおりだ。触るとざらついている――錆だ。
「どうしても、駄目なのか?」
しばらくつづいた沈黙の後で、蒼木氏の声がした。
おれはベルト後ろのパウチから、ティシュー入れそっくりの袋を取り出して、表に出ている端っこを引っ張った。出てきたのはティシューに非ず、へなへなの透明ビニール片――ふた昔前の紙石鹸《かみせっけん》みたいな薄片だった。うすく切ったコンニャクだと思えばいい。
おれはそれを千切って、壁のあちこちに二十枚ほど貼りつけ、しかる後、鉄扉のノブに手をかけようとしたとき――
「わかった。失礼する」
怒っているとも泣いているともつかない声が耳の奥に鳴り響き、大股の足音が威勢よく近づいてきた。
鉄扉がスィングする。おれは素早くその陰に身を隠した。この辺は運がいい。内側に引かれたら、見つかっちまうところだ。
蒼木氏に決まっている。胸のもやもやを叩きつけるようにドアを閉じ、階段を昇っていく。
とうとう娘とその友だちを見捨てたわけか。おれは胸の中で軽くため息をついた。良美が助かっても、あんた一生、まともにその顔を見られないぞ。耳の中の声が、おれに意識を壁の向うにチェンジさせた。
「ねえ、私はもう仕方がないけど、赤座さんは助けてあげて」
良美の声だ。普通の女子高生と何の変わりもない。
「そうはいかん。あきらめろ」
盤城の声は、冷酷無残だった。
「おまえたちは、蒼木に見捨てられたのだ。怨むなら、奴を怨め」
「そんなことをしたって何にもならないわ。赤座さんを助けてくれたら、私、どんな目に遇っても我慢する。お願い」
「おまえの役目はもう済んだ。その娘も仲間になる。寂しくなくて嬉しかろうが」
広美は沈黙だ。猿ぐつわをかまされている風もない。失神中なのだろう。
「では、支度を整えてこよう。待っていろ」
盤城の台詞から、また、こっちへ来るかと思ったが、足音は反対側へ遠ざかっていった。ギイと蝶番のきしむ音が二度鳴って静かになった。
タイミングがよすぎると思ったが、誘いなら乗る。据え膳は食うのがトレジャー・ハンターの掟だ。おれは、盗聴器を切ってから、鉄扉を開けた。蒼木氏と違って音は立てない。
部屋の左側から放たれる二種類のオーラ――良美と広美のだ――を肌で感じて歩み寄る。
だが、これは。
ひとつは普通の温かみを備えているが、片方は冷気そのものだ。どちらがどちらか言うまでもあるまい。良美はもう、人間以外のものに変えられてしまったのだ。それを治療し得る時間はあと一日。
オーラの放たれる方角から、身体の向きまでわかる。
おれは足音も気配も消して、良美の背後から近づき、口と右腕を同時に押さえた。
「赤座くんを助けたいんだろう? なら騒ぐな」
ひと声で抵抗は熄《や》んだ。
騒がないと約束させてから、おれは良美の口を離した。手はまだだ。
「あなた、地下室に閉じこめられたんじゃなかったの?」
少しは驚いているようだが、声に抑揚がない。
「何とか逃げ出したよ。――盤城はどこへ行った?」
「赤座さんを私みたいにする準備を整えによ。奥に研究室があるの」
「君の眼を醒まさせたのも、あいつか?」
「そうよ」
おれの麻酔薬は、おれが運営費用を出してる南米の化学研究所で創り出したもので、やはりその研究所特製の解毒剤でなければ醒めない。成分を調べるには電子顕微鏡や分子アナライザーが必要だ。それを盤城の野郎はあっさり解明してしまったのだ。
「あいつは何者だ?」
「訊いてごらんなさい。でも、戻って来ては困るんじゃないの? 赤座さんを助けに来たのなら、さっさと連れて行きなさいな」
「君も一緒という約束でね」
「父さんと――じゃないよね、兄貴としたの?」
「そうだ」
「もうあきらめればいいのに。莫迦《ばか》な兄貴」
「君が、赤座くんを助けようとしたのと同じさ」
良美ははっとしたように、首をねじ曲げておれを見た。気配でわかる。
「あいつと話もしたいが、それは後廻しだ。一緒に来るな? ――嫌でも連れてくが、自分で歩いてくれると助かる」
「私――父親に見捨てられたのよ。人間の肉をあさる怪物になれって言われたのよ。帰るとこなんかないわ」
「おれがいいとこ見つけてやるよ。こう見えても顔は広いんだ」
少し黙ってから、良美は、
「本当?」
と言った。
「わかった。私だって、助かるものなら助かりたいわ。あなた、信用していいのね?」
この質問をされるたびに、どういうわけか胸がちくちくするのだが、おれはいつもどおりに、大きくうなずいた。信頼度満点の仕草に、十人中十人は騙され――いや、信じてくれる。
おれは良美の腕を放した。オーラを頼りに、三メートルばかり離れた広美のところへ行く。案の定、移動式の手術台に載せられていた。幸い、眠りっ放しの身体を縛るものはない。おまけに、触ってみると――おお、下着一枚身につけていないではないか。
「嬉しい?」
不意に良美が訊いた。
「な、何を言う?」
「嬉しい? 女子高生の全裸よ」
「嬉しくないこともない」
「正直ですこと」
良美は抑揚のない声で軽蔑を伝えてきた。
肩に載せ、良美の方を向いたとき、緊張の気配が伝わってきた。すでに靴音で察知していたおれは、素早く手術台の陰に身を隠した。
盤城ではない。彼が消えたのと同じ方角から現われたが、この気配とオーラは――
わからない。
とっさに、
「動くな」
と、ぎりぎりの小声で命じた。
「何よ、これ?」
良美がつぶやくように言った。
「何だい?」
と、おれは小さく訊いた。
「何って、わからないの、あれが? ――あなた、ひょっとして眼が?」
「そ」
「信じられない。まるで普通の人なのにね。そんな身体なのに、たったひとりで、ここへ……」
「それより、何だ?」
と、おれは前方の何かに顎をしゃくった。そいつも、じっとおれの方を見ているのが感じられた。
かなりでかい――二メートルを越える。それなのにオーラはなし。かといって、金属でも鉱物でもない。経験からすると――木だ。でっかい人形か?
近かった。
「案山子よ」
と良美は言った。淡々としたその声が、おれを落ち着かせた。
「この辺の農家でこしらえるのは、魔除けの意味もあって、かなり大型なの。これは、そのひとつだわ」
「でも、農家の産は、動きゃしねえだろ」
「それもそーね」
「盤城は、こいつを何に使ってる?」
「わからない。私――奥へ入ったことはないの」
「多分、用心棒だろ。動くな。君は仲間だとインプットされてるはずだ」
言い終わらぬうちに、靴音が真向いの奥へと移動していった。案山子とはいえ、歩くとなれば靴もいるだろうが、ご丁寧なことだ。
奥の方で、木と石がぶつかる固い音がした。
「壁にもたれかかって動かなくなったわよ」
と良美が言った。
「眼は閉じてるか?」
「わからない。丸めた布に、マジックで書いてあるだけだもの。それなら、開いてるわ」
「とにかく脱出だ。試しに先に行け。おれは後からだ」
うなずく気配があって、良美はそっと歩きはじめた。
鉄扉まであと半分というところで、立ち止まる。合図したいが、声は出せないのだ。不安の気配はなく、案山子も動かない。
おれは広美の裸身を肩に歩き出した。足音も気配も絶ってある。案山子ごときに見破られるはずはない。
難なく良美のもとに到着し、
「行くぞ」
「ええ」
と一歩を踏み出す。――そのとき、
おれの胸が、女の金切り声で叫んだ。
「ねえ、いま、どこにいるの!?」
帰ったら虎の檻にぶちこんでやる、と誓っても、遅かった。
「気がついたわよ。――立ち上がった」
良美の声に、
「ちょっと。――女がいるわね、誰よ!?」
と、ゆきの叫びが重なった。
「莫迦――案山子だよ」
「カカシ? 何よそれ。この大嘘つき、浮気者。今度会ったら、殺してやるからね。もう、かけてやんない!」
切れた。
殺してやるというのは、別の奴も同じだったらしい。
巨大な細っこいものが近づく気配が、前方一メートルに迫るや、
「右手をふり上げたわ」
良美の叫びを待たず、おれは右の前蹴りを放った。勘だ。ただし、このおれの勘だ。爪先はものの見事に案山子の胴――太めの角材に命中した。
だが、愕然となった。倒れない。放出したパワーは、すべて戻ってきた。
しかも、おれの右足は一気にすくい上げられたのだ。驚いたせいで、引くのが遅れたかも知れないが、それだって、百分の一秒くらいだ。
おれでなければ、広美のボディもろとも、石の床に頭をしたたかに打ちつけて失神していただろう。
その瞬間、おれは自ら左足で床を蹴り、案山子の力以上に大きくひっくり返った。バック転が見事に足から着地してのけたとき、良美が、わお、と洩らすのを聞きつつ、おれは大きく後ろへ跳んだ。
空中でグロックを抜く。
空中で射った。六発。弾丸は九ミリ・パラベラム炸裂弾。
命中した刹那、弾頭に仕込んだ破砕薬が爆発し、人間など真っぷたつだ。
跳躍中の射撃は、ある意味で安定している。六発の弾丸は狙いたがわず、案山子の頭から腰まで一線上に炸裂した。
だが――
「当たったわ。でも――平気よ」
良美の静かな声が、かえっておれの背すじを凍らせた。
倒れる風もなく、見えざる巨人はふたたびおれめがけて前進を開始した。
盤城の車に射ちこんだ粘着榴弾は、燃焼もしなかった。今度の炸裂弾は爆発しても、相手が平気。
どうなってるんだ、と胸の中で毒づいたのも一瞬、うなりをたてて襲いかかる腕から、間一髪で身をかわし、おれは手術台の向うへ跳びこんだ。
跳び越える寸前、手術台を案山子の方へ蹴りとばす。
ガッと鳴って、手術台は吹っとんだ。
床に手をついて身体を支え、奥のドアの方へと壁伝いに走る。なにせ、広美を背負っているから倍のパワーが要るのだ。不経済この上ない。しかし、八頭家の後継ぎともあろう者が、でかいとはいえ、たかが案山子にここまで追いつめられるとは。
唸りをたてる拳を、総毛立ちながらもやり過ごして、おれは正面から案山子の方を向いた。
次の攻撃に移る平和な瞬間――
動く――と感じた刹那、おれは身を沈めざま、右手をふった。
ぴぅん、と空気が鳴って、かっと木を断つ音がした。遠くで良美があっと叫んだ。
手応えありもいいところ。おれの一撃は敵の拳と激突し――勘違いでなければ――肘から切りとばしてしまったのだ。
床が三度鳴った。バランスを崩した案山子が、たたらを踏む音にちがいない。でかいだけに、片手を半分失くしただけでトラブルが生じてしまう。
一歩出て足を狙った。
両膝から吹っとばしてやる、と右手をふりかぶったとき、いやらしい気配と蝶番のきしみが背を叩いた。
「よく、ここまで来た」
と盤城伯爵は、開いた鉄扉のそばで言った。
「ああ。どうしても、ひとめ会いたくてな。貴族と知り合っておくのも、後々ためになりそうだ」
「何はともあれ、よく来たと誉めておこう――さすがは八頭家の血筋だ」
「それは、どーも」
おれは、案山子と盤城――二人の動きに全神経を集中させながら応じた。良美にも気を遣わなくちゃならない。
「で、どーするつもりだ? この二人は貰っていくぞ」
「その件は後にしよう」
盤城の声には親愛の情がこもっていた。悪魔の深情けってやつか。
「急ぐかね?――というのは愚問だな。だが、八頭家の血が、私の知っている通りなら、私の誘いを拒むことはできないはずだ。奥へ来てみないかね? その眼も見えるようにして差しあげるが」
「残念ながら、それくらいおれにもできるさ。それに、おまえのどでかい用心棒――この眼でも、バラバラにできるんだぜ」
「それにも驚いた。しかし、この案山子が動き廻る秘密を知りたくないかね?」
宝捜しは、これに弱い。宝の在り場所、謎の遺跡への入口、奇怪な呪法や、古代の超技術の秘密――どれひとつ取っても、我が物にできるとなれば、生命どころか魂まで渡しても構わないと思う。――それがトレジャー・ハンターだ。
「何なら、しぶしぶとだが、その二人には危害を加えないと約束してもいい。いまの私は君の方に多大な関心を持っているのだよ。――蒼木のお嬢さん、何とか言いたまえ」
「私は――いいわよ、八頭くん」
「ふうん」
と、おれは返した。
「さ、入りたまえ」
盤城が横へのく気配があった。おれは一歩前へ出た。ドアの向うに、この世の物理法則を凌駕する秘密がさらけ出されている。よしんば罠としても、おれなら何とか切り抜けられるはずだ。放っておく手はない。
だが、おれは足を止め、
「やめとくよ」
と言った。
「お嬢ちゃん二人をまず無事に返す。そういう約束なんでな」
「律義なことだ」
盤城の声から、友好的な感じがするりと抜けた。
「だが、そうなれば腕ずくで見てもらうしかないな。君の両親やご先祖は、さぞや悲しむだろう」
「うるせえ、このエセ貴族」
おれは思いきり上体を回転させた。
いかん、広美を背負ってる分、動きが重い。――刹那、右手は肘で止められ、凄まじい麻痺が全身に広がった。
「宝捜し風情が、盤城の血脈に指一本でも触れられると思ったか」
おれの前で、青白い貴族面が嘲笑に歪んだ。おれも笑い返した。
「てめえの笑い方――高くつくぜ」
すでに感覚は戻っていた。
当然、隙だらけの盤城の左膝へ横蹴りをかけてぐらつかせ、おれは掴まれた肘を外すと同時に、盤城の逆をとって床へ叩きつけた。ついでとばかり、肩を中心にねじった。
肩の付け根と肘が砕けた。
腕の麻痺を瞬時に解いたのは“ジルガ”の技だ。
悲鳴を上げないのが気になったが、おれは手を放して右へ跳んだ。
眼の前に迫っていた案山子の気配から、剛体と化した風が腹を狙ってきた。蹴りだろう。何とかかわして右手をふった。
手応えあり。
ブレスに仕込んである単分子チェーンソーは、現在、考え得る限りの鋭さでもって、炸裂弾にもびくともしなかった案山子の足を大腿部から切り離した。
今度こそ堪らず、地響きをたててつんのめる身体をよけつつ良美に駆け寄り、その手を掴んだ。冷たい。
「行くぞ」
地下室を出る戸口までは簡単に行けた。
押し開けて出た。
背後で音がした。
「何だ?」
と良美に訊いた。
「私だ」
盤城の声と同時に、広美の身体がぐいと引かれた。
「この野郎」
おれは前のめりになりざま、右の後ろ蹴りを放った。
ぐう、とも言わずに盤城は離れた。
「案山子も来るわよ。新しいのが」
「わお」
おれは鉄扉を戸口へ叩きつけた。
「早く上がれ」
と階段の方へ良美を押しやり、おれも後につづく。
鉄扉がスィングしたとき、おれは階段のてっぺんにいた。
案山子の足音が近づいてくる。しかも、一、二――三体分だ。盤城よ、おまえは案山子コレクターか。
先頭の足音が一段目に片足をかけたとき、おれはパテックの竜頭に擬した爆破スイッチを押した。
壁に貼りつけておいたコンニャク型紙石鹸――プラスチック爆弾が一気に爆発する。
すでに、おれは昇降口から一〇メートルも離れた廊下の端にいた。凄まじい衝撃に家全体が揺れ、天井板や梁が落ちてくる。もうもうと立ちこめる埃の向う――昇降口から猛烈な勢いで火柱が噴き上げた。
廊下を突き破って新たな火柱が噴出し、こちらへ迫ってくる。
「わお」
居間へ跳びこんだ刹那、鼻先を炎がかすめる。
良美はすでに窓のそばにいる。
「跳び出せ!」
叫んで、おれも走った。
なぜかオタついている良美の腰を抱きざま、窓の外へ跳び下り、門へ向かって走る。
門のところでふり返った。明治時代の建物は窓という窓から黒煙と炎を吐いていた。
少し手荒いやり方だが仕方あるまい。おれは門の近くにいるはずの道綱とジャガーを捜した。
いない。
何かあったのなら、なぜ、連絡しない? 憤然と携帯電話へ手をのばしたら、反対側の道の方から、威勢のいいエンジン音が駆け寄ってきた。
ジャガーから道綱の足音が降り、良美に近づいて――止まった。広美はまだおれの背中で眠っている。
良美が訊いた。
「私――変わった?」
哀しそうでも強がってもいない。平凡な問いかけだった。その重さを兄貴なら――
「いいや」
と道綱は答えた。青びょうたんが、はじめて男の顔になった――はずだ。彼はわかったのだ。
良美が鳥のように、道綱の胸に飛びこんだ。彼は抱きしめた。なにせ兄貴だからな。
それから、おれの方を見て、
「赤座くんは無事か?」
と訊いた。
「何とか」
「よかった」
「別荘はやむを得ねえな」
「当然、弁償はしてもらう」
「おい」
「冗談だ」
陰気臭い面で、じょーくをとばすなよ。
女の子二人を後部座席に乗せてから、おれは車の外で道綱に訊いた。
「親父さん、出て来たろ?」
「ああ」
「何か話したか?」
道綱はかぶりをふって、
「いや。行かせたよ。だから、道の奥に隠れてたんだ」
「妥当なやり方だな」
おれは認めて、ジャガーに乗りこんだ。
走り出してしばらくの間は、さすがに疲れて口をきかなかった。他の三人――ひとりは眠りっ放しだが――も同じだ。良美は自分の膝に赤座広美の頭を乗せていた。
何事もなく、やがて、流れ去る道の彼方に蒼木邸の佇まいと窓の明かりとが見えてきた。遠くでサイレンの音がする。別の道から村の消防車が蒼木別邸へと疾走していくのだ。
「八頭さん」
と良美が声をかけてきた。
「ん?」
「赤座さん、じき眼を醒ますわね」
「そらあ、な」
「私が人食い人間になったの、知ってるよね?」
「ああ」
「やっぱり、よすわ」
おれは、あえて止めなかった。左のドアの方へ寄ったと思いきや、良美は身を躍らせていた。
道綱が事態に気づいて急ブレーキをかけたときにはもう、ジャガーは一五、六メートルも先にいた。
跳び出ようとする道綱へ、
「やめとけよ」
と声をかけたが無駄だった。彼はすぐ肩を落として戻ってきた。
こら、噛みつくかなと思ったが、疲れ果てたような表情をおれに向けたきり、
「わかるような気もするが――どうしてだ?」
「いまの自分を他人に見せたかなかったんだろ」
「行かせたのか?」
と訊いたときだけ、鋭い口調になった。
「さて」
「それがいいような気もするが、やはり、放ってはおけない。――もう一度探す」
「いいとも」
おれはうなずいた。おかしな話だと思うかも知れないが、道綱にはこれが一番いい方法なのだ。おれは良美の消えた方を見てから、
「とりあえず、家へ戻ろう。父さんに何か起きてなきゃいいが。――さすがに、おまえもくたびれたろ?」
何か起きてりゃいいのに、と思わないでもなかった。何事もなければ、蒼木氏と道綱、広美の間で山ほどのトラブルが発生するだろう。おれには鬱陶しいだけだ。
起こってた。蒼木氏は自宅の寝室で息絶えていたのである。
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第八章 魔法治療
見つけたのは、真っすぐ父の寝室へ入った道綱で、遺体をベッドに横たえたのも道綱だ。おれはその後で呼ばれた。人工呼吸もどんな治療も無駄なのは一発でわかった。遺体は首と四肢とを斬り離されていたのである。
「あの医者だな。これが罰なんだ」
「血も出ていない――何かしたな」
「これじゃ、家の人には見せられないな。縫いつけよう」
「縫いつける?」
道綱が呆然とおれを見つめるのがわかった。
「戦争じゃよくあることさ。ばらばらじゃ家族には渡せないんでな。大急ぎでつなぎ合わせるんだ」
「君は――したことがあるのか?」
「宝捜しは穴の中をうろつき廻るだけじゃないんだぜ。途中で資金がなくなりゃ、バイトの種類を選んでいられないんだ。まかせとけ。なに、警察には話をつけてやるよ」
「君は……」
「宝捜し屋さ」
道綱の用意した針と木綿糸とで何とか死体をつなぎ合わせてから、とりあえず、村の駐在と概気医院へ連絡し、おれは応接間のソファでひと眠りした。
五分で体内時計が朗々と鳴り響く。体力や思考力――肉体と脳への栄養は、だらだら眠ることじゃない。ヨガと最新の精神医学理論に基づく凝縮睡眠こそ、四六時中敵に囲まれているのと等しい宝捜し行《トレジャー・ハンティング》にとって欠かせない技術なのだ。
吹雪のシベリア大平原の真ん中で野営しているところを、飢えた狼の大群に眼をつけられたと思えばいい。一瞬でも眠れば狼が襲ってくる。眼を開いていればブリザードの女王が眠れとささやく。生身の人間なら一日と保たない。おれならほんの一秒足らずの睡眠で三日は保ちこたえてみせる。
応接間を出て蒼木氏の寝室へ行ってみると、遺体のそばに道綱がついていた。線香が点っている。
どう声をかけようかと思っていると、向うから、
「やっぱり、あの医者だな」
と、つぶやくように言った。蒼木氏のことだった。病み衰えた病人みたいな声だ。行方不明の妹は食人鬼、彼女を見捨てた父親はばらばらにされた――おかしくならない方がおかしい。
「間違いない」
「でも、寝室に争った跡はないぞ」
「おれもおまえも、地下でおかしな術にかかりかけたことがある」
道綱はすぐ、はっとしたように、
「そうだ、僕は彼に言われるままに――だけど、君は平気だった」
「ああいう手合いや術には慣れてるんでな。ただ、おまえん家の先祖がしたことを考えれば、親父さんが自責の念に駆られてもおかしかない」
いきなり、びゅっ、ぴしゃん!と来た。道綱の裏拳《バックハンド》をおれは手のひらで受け止めたのだ。ぎり、と拳の骨が鳴る。握りつぶされるのも構わず、道綱は左手をおれの手首にかけた。痺れが肩までつっ走る。逆を取られた、と思った刹那、おれは頭から床に激突していた。驚いたことに、おれの足の位置だった。どんな投げ技だ。
道綱があっ、と叫んだ。投げごたえでミスを悟ったのだ。頭がぶつかる寸前、ついた左手をのばして、おれは彼の足を引っかけた。仰向けに転倒しながらも、おれの右手を離さない。大したもんだ。おれは彼の手を軸に、加えられる力と同じ方向へ回転した。縮めた足の真ん前に道綱の顔が来る気配。廻し蹴りを選んだ。首すじに打ちこむ。倒れたのは二人一緒だ。立ち上がったのは、おれひとりだった。
「まいったよ」
と彼は床の上で呻いた。
「それから――ありがとう」
「ん?」
「廻し蹴りにしてくれたろ。前蹴りか横蹴りで顔をやられたら、喪主にもなれやしない」
「超条流柔術か。“麻痺紋”圧搾と“逆落とし”――危なかったよ」
道綱は苦笑を浮かべて立ち上がった。
「親父さんのことを悪く言って済まん」
と、おれは詫びた。
「全くだ」
と道綱は椅子に腰を下ろしてうなずいた。首すじを揉みながら、
「けど、父は最初、何とか良美を助けようとしてたんだ。それが、ほんの数分の間に変わってしまった。何があったと思う?」
「おまえの想像と同じだ」
「やっぱり――あの医者か、盤城伯爵のせいか」
「おまえは頭がボケてて忘れたかも知れないが、医者は食人鬼化について何も知らなかった。となりゃ、盤城しか残らねえ。この家へおれが到着してから、親父さんが翻意するまでの三十何分かに、親父さんと盤城の間に何が起きたか、だ」
「見当もつかないよ」
「おまえな、盤城と医者について何を知ってる? いや、この家の呪われた秘密を含めてだ。さあ、とっとと白状しろい」
「家にかけられた呪いについては、僕も知ってる。でも、聞かされたのは、良美が行方不明になってからだ。医師の方はもっと古い。幼稚園のとき、家の庭の隅に立って、ぼくと良美の方をじいっと眺めてたのを覚えてるよ。何度か父と話しこんでいるのを見た。医者のカッコをしているくせに、一度も病気を治してもらったことがないから、本物の医者かと何度も父に訊いたけど、いつも『余計なことだ』のひと言でおしまいだった」
話したこともないという。顔も姿も、昔から少しも変わらず、蒼木氏はドクトルとしか呼んでいなかった。
盤城のことは全く知らなかった――おれと同じだ。
「すると、親父さんは、すべてをひとりの肩に背負いこんで悩んでたことになるな。――日記か何かないのか?」
「つけてるって聞いたことはない」
「先祖の書きつけは?」
「それはあるだろう。ただ、場所がわからない」
「おまえ、一緒に書斎へ来い」
「何をしに?」
「書類を捜す」
「いい加減にしろ、こんなときに。そんなにまでして、宝が欲しいのか?」
図星を突きやがる。ぐぐとつまったが、おれは胸を張って、
「おれの眼を見ろ。そんな男に見えるか?」
「そんな男にしか、見えない」
「――それはともかく、書斎を捜そうというのは、良美ちゃんの呪いを解く方法でも書き残してあるかも知れないからだ。そもそも、赤座くんのペンダントの薬の件――おまえ、知ってたか?」
「いや」
「しかし、親父さんは知ってた。治療薬に関する知識を、盤城が教えるわけはない。医者は論外だ。どこかから手に入れたと見るのが、妥当だろう」
「古い書物なら山ほどある。曾お祖父さんの代から、金にあかせて買いこんでいたんだ」
「行くぞ」
「駄目だよ、父さんのそばを離れるわけにはいかない」
「おまえなあ――」
どうせ死んでんだぞ、とは言えなかった。
「わかった。ひとりで捜す。なら、文句はないだろ」
「好きにしたまえ。ただし、出した本は元へ戻しておいてくれよ」
「わーった、わーった。じき、駐在さんと概気先生が来る。適当に言い訳を頼むぜ。――で、書斎てなどこだい?」
「隣の部屋だ。ドアは君の左手を真っすぐのばした先にある」
「わお」
おれは何となく傷ついたような気分で、
「ついでに、書斎の見取り図を描いてくれ」
と言った。二分ほどで道綱は一枚のメモをおれに手渡した。さぞや訝しげな表情だったろう。
「どーも」
とだけ言って、おれは書斎へとつづくドアへ向かった。
いくら何でも、眼が見えないのに読書は無理だ、と思うだろう。おれもそう思う。ただし、八頭家の血を引いてなければ、だ。
邪魔が入らないよう、いま入ってきたのと、廊下へつづくドアに鍵をかけると、おれは道綱の描いてくれた見取り図を壁に押しつけ、その表面を五指でなぞりはじめた。
インクの凹凸を数百分の一ミリ単位で感じ取る指先が、書斎の光景をありありと脳に伝えてきた。細かい位置やサイズは狂いっ放しだろうが、後はおれの勘で補う。
おれは蒼木氏のデスクと書架、そして金庫に狙いを定めた。
そういう重要書類、しかも、人目に触れれば一族の名誉にも関わる品を、机に入れっ放しだったり、誰の眼にもつく場所に置いていくはずがない。
デスクには、秘密の引き出しも、スペースもなかった。
書架は一番厄介だったが、調べ抜くには三十分もかからなかった。安閑と書架に収まっているような代物であるはずがない。この伝でいくと、推理小説の始祖が書いた手紙の話になるのだが、ま、そこまではなかろう。
書架にも異常なし。
デスクの引き出しや書類入れは無視した。残るは金庫だが、道綱の見取り図にはない。
――隠し金庫だな。
おれは、宝捜し十×年の経験から割り出した隠し金庫の在り場所をチェックした。
二度目のチェックで見つかった。デスクのすぐ右の床に埋めこんであったのだ。スイッチはそのそばに、これも埋めこんである。
はめこみ式の蓋を除き、スイッチを押すと、床の一部がスライドして、金庫の扉が現われた。
見かけはいかにも頑丈そうだが、随分前の品らしく、扉の開閉は旧式のダイヤル型だ。解錠装置を使えば一発だが、おれの指先でも十分だ。十秒とかからず扉は開いた。
ビニールの袋が幾つも並んでいる。中味は黄ばんだ紙の束だ。古くさい背の破片が残っているのを見ると、もとは一冊のノートというか、何とか帳だったらしい。最初の頁にクリップでメモが止めてある。指を這わせる。
曾祖父 日記
とある。これだ。ビニール袋から取り出し、おれは一頁めから暗記しはじめた。
読み終えてすぐ、寝室とつづきのドアがノックされ、道綱が顔を出した。概気医師と駐在が同時に到着したらしい。
「いやあ、お父さんがこんな死に方をなさるとは、天罰――いや、お気の毒です」
とんでもないことを口走る駐在だが、これが本音だろう。
概気医師とあの色っぽい看護婦――三狩某が、蒼木氏の死体をチェックしている間に、おれは携帯をゆきにつないだ。
「なーによ、さっきの態度は!?」
いきなり噛みついてきた。
「態度って何かなあ?」
と、おれはとぼけた。ゆきの文句など、一種の生活習慣と化している。これくらいになると、次に何が来て、こっちがどうかわすかが愉しみになってくる。
「女よ、女よ、女よ」
ゆきは、虎のうなり声みたいに、喉をぐるぐるさせた。ま、これくらい美人で色っぽい虎なら食われてみたいと言い出すM野郎もいるかも知れない。
「さっきの女よ。あれ、誰よ?」
「誰だっていいだろ。おまえ、ヤキモチ焼いてるのか?」
「冗談でしょ。あんたがどんな性悪女とくっつこうと、あたしの知ったこっちゃないわ。あたしにその存在を知らせた間抜けぶりが許せないだけよ」
なるほど。そういう理屈か。
「知った以上、黙っちゃいられないわ。さあ、その泥棒猫の名前は? 年齢《とし》は? 髪の色は? おっぱいのサイズは? お尻は大きいの小さいの? あっちは上手なの? きりきりとしゃべっちゃいなさいよ!」
「お答えします」
と、おれは少しうんざりしながら言った。
「――と言いたいところだが、目下大忙しで、名前も年齢も訊いてる暇がねえ。それより金儲けの話だ」
「うおお」
と、飢えた獣の雄叫びが聞こえた。ファイトの意味だ。
「どこにあるの!?」
「まだ、無えって」
「あら」
「これから手に入れるんだ。おまえと山分けも考えてる」
「大ちゃんさー、どこにいるのォ?」
いきなり、野獣の咆哮が甘ったるいセクシー美女のささやきに変わった。
「行く先も言わずに出てくから、ずーっと心配してたのよン」
おれは、ため息をついて、携帯を耳から離し、甘い声の余韻を吹きとばそうとつとめた。
「このど畜生」
とののしっていた相手が、次の瞬間、猫撫で声で、
「まい・だありん」
とやってもまず、その気になる男はいまい。だが、ゆきは別なのだ。般若そのものの形相で、こちらの痛いところを突きまくっていたこいつが、一転、色気たっぷりの笑顔になって、うふん、にっこりとやられると、どんなに怒り心頭に発していた猛者でも、でへへと鼻の下を長くする。超能力といってもいい。
おれが何とか引っかからずに来れたのは、おれ[#「おれ」に傍点]だったからだ。
「その手に乗るか」
と、おれは言ってやった。
「ここは、地球を一億光年も離れた、アラマッチャ星雲イチバンサンゴアンナイ惑星だ」
「この卑怯者。うまいこと言って独り占めにする気ね。そうはさせないわ。どこにいるか白状しなさいよ!」
「べえ〜〜〜〜」
おれは携帯に向かって、あかんべをしてやった。
「きいいいい」
ゆきは明らかにヒステリー症状を起こしていた。おれの言う金が何か、幾らになるのかわかりもしないうちに、これだ。金の話になると狂気の発作に――いや、狂人そのものになる娘。金銭妄想欲情症。うーむ。
「まあ、落ち着け」
と、おれはなだめに入った。
「何よ、きい」
「おれがいま関わってる事件は、これまでとは比べものにならない値打ちもんだ」
「あ、やっぱり」
「しかし、おれはおまえのように、何がなんでも独り占めなんて考えで脳の前頭葉を埋めちゃあいない。――うるせえ、黙って聞け。そこでだ、力を貸してくれれば、正当な報酬を支払おう」
「さっき、山分けって言ったじゃない!」
「そんな昔のことは忘れたよ。――まあ、一パーセントだな」
「死んじまえ!」
「それでも、十億にはなるだろう」
ゆきの呼吸が止まった。
「じゅうおく? なな何よ。ポポポケットマネーじゃないのないのないの」
「十億くらいで逆上するな」
と、おれは諭すように話しかけた。
「事と次第によっちゃ、もう五億ほど上乗せしてもいいんだぜ」
「どんな次第よ?」
「旅行してきてくれ」
「どこへ、よ?」
ゆきの声が険しくなった。
「ナロードナヤ山。海抜一八九四メートルだ」
「どこにあんのよ?」
「西シベリアの西の果てだな。世界地図を見たまえ」
「何が、見たまえ、よ。そこで何させようっての?」
「そこの住人に、ある薬を調合してもらって欲しいんだ。ついでに持ち帰ってくれ」
「いつまで?」
「明日いっぱい」
「いい加減に――」
「十五億――税抜きだぞ」
「二十億」
「十五億と三十万」
「三十万って何よ。この、どケチ男」
結局、ゆきは二百三十万の上乗せでOKした。二百万って何なんだ。調合の処方は、ゆきの携帯パソコンに送った。
「おかしな成分ねえ。こんな薬飲んだら、普通、おっ死んじゃうわよ」
さすが、もと世界最高のトレジャー・ハンター=太宰先蔵の孫娘だ。薬の成分くらいはわかるらしい。
おれは言った。
「死人を殺せば、生き返るかも知れねえだろ」
「はン?」
「とにかく、まかせたぞ。いまから専用のマッハ・ジェットで飛べ。三十分で着くだろう」
「でも、飛行場から大分かかるでしょ」
「かからねえ。上空から飛び下りろ。パラシュート降下の訓練は受けただろ。細かい目標地点と近くの地図は送る。相手はギョブナースチという二百五十歳のおっさんだ」
「おっさんじゃなくて、ジイさんよ、それ」
「なんでもいい。彼だけがその薬を調合できるんだ。おまえの役目は重大だぞ。二百三十万がかかってるんだ」
「十五億はどうしたのよ、十五億は?」
「うむ――とにかく頑張れ」
「帰りはどうすんのよ?」
「まかせるよ。とにかく、明日の深夜零時までに頼む」
「どこへ届けるのよ?」
「薬が手に入ったら教えよう」
「あんたって、最低の男ね」
「そういう意見もあるな。とにかく、頼むわ」
「わかったわよ――とにかく、十五億二百三十万円よ」
ジュウゴオクニヒャクサンジュウマンエンを十回ばかり繰り返して、ゆきは連絡を絶った。金儲けが最優先だから、この辺は素早い。
おれは腕時計をモバイル・モードにして、六本木のマンション地下に備えつけてあるマザー・コンピュータにアクセスした。「盤城」で捜しても「伯爵」で捜しても、奴のデータは見つからなかった。このコンピュータには、五代前からの情報資料がインプットしてある。盤城と先祖の誰かが会っていれば、必ず表示するはずだ。
それがない。
となると――別の名前か。これは際限《きり》がない。
おれは、別の手を選んだ。
八頭家の全資料に含まれる顔写真を、高速スクロールさせたのである。もちろん、おれは目下盲目だから、写真チェックはコンピュータが担当する。どうするのかというと――
おれは、コンピュータに盤城の人相を、微に入り細に入り音声で吹きこんだ。それをもとにコンピュータが照合を開始する。
何万枚とある写真のうち、二万五千八百九十三枚目が該当します、とコンピュータは告げた。
「いたな」
ひと言、おれの口をついた。伯爵だか何だか知らねえが、八頭の血を舐めるな。
写真からデータを引くのは、簡単の一語に尽きた。
奴の正体に関する感想は、驚いたの一語に尽きた。
美女の声が読み上げるそれを完全に頭の中に叩きこんだとき、屋敷の内部《なか》が、急に騒がしくなった。
おれは廊下へ出た。足音を忍ばせて玄関へと向かう。騒音の源へだ。
駐在と道綱相手に何やらまくしたてているのは、神定三吉であった。そばに村人らしい男がひとり立っている。おれは廊下の角から耳を澄ませた。
「野中先生が病院に。――死にそうだ。神社でやられた。おれ、この人の家へ行って、それから病院へも。だけど、蒼木さんのところへ出かけちまったとお手伝いが言うんで追っかけてきたんだよ」
「落ち着いて話してみろ」
と駐在が言った。
おれの想像で足りない部分を補うと、話としてはこうなる。
おれを恋人だと宣言された上、蒼木氏に広美をさらわれた三吉クンに同情した野中教師は、自宅に彼を上げて一杯飲《や》りはじめた。
どちらも酔うと陽気になる性質《たち》で、外で豪快に飲ろうということになり、一升瓶とウィスキーのボトル片手に夜の村をうろつきはじめたという。気がつくと、蒼木神社にいた。
社務所に明かりが点っているのを見ても、酔っ払いの常で、最初は何とも思わなかったが、野中教師が腕時計を見ると、午前三時である。アルバイトの巫女もとうに帰っている時刻だし、神主たる蒼木氏は滅多にいたためしがないから、この時刻、社務所は絶対に空だ。
さては盗っ人かと正気に返ったのは、さすが現役の教師。へべれけの三吉クンをそこに残して、社務所へと向かった。
窓のそばまで来ると、大勢の人間の気配と声とが届いた。“ジルガ”の訓練の賜物である。
ひとりが大勢に何か説明しているらしい。耳を澄ませてみると、実に奇妙な内容であった。
堪らず窓から覗いた。
二十畳もある座敷に、十人近い男女が正座して、部屋の中央に立つ白衣の男の話に聞き入っている。村の連中だった。身じろぎをしないのはともかくとして、誰ひとり瞬きしないのに気づいて、教師はぞっとした。
そのとき、白衣の男の話が終わり、全員に立てと指示が出た。
ふらりと立ち上がった人々の、どこか頼りない動きもさることながら、憑かれたような表情が、教師には不気味だった。
社務所の端に身を隠した教師に気づかず、玄関を出た村人たちは、白衣の男の指示に従って、黙々と村の方に移動しはじめた。あの――鳥居が列をなす方角へ。
最後に現われた白衣の医師へ、野中教師は、待て、と声をかけた。
「君は何者だ? 村の人をどこへ連れて行く?」
いったん立ち止まった白衣の男は、すぐまた歩き出そうとした。
「待ちたまえ」
野中は再度、制止した。
白衣の男は止まらずに進む。
野中は右足を上げた。二〇センチほど一気に踏み下ろす。
ずうん、と大地が揺れた。
白衣の足が止まった。先行する村人たちがよろめき、とっくに酔いが醒めていた三吉クンの身体も震えた。
「村の人をどうするつもりだね?」
野中の問いに答える代わりに、白衣の右手が胸もとへ入るのを三吉クンは見た。
「危ない!」
と叫んだつもりだが、声になったかどうか。
白衣の男はふり向いた。野中教師が動かなかったのは、男の手に握られたものが短いメスと見えたのと、二人の距離が三メートルも離れていたからだろう。おれなら倍は離れて様子をうかがう。この辺がプロとアマ――実践者と愛好者の違いだ。
白衣の男は無造作にメスをふった。袈裟懸《けさが》けに切り下ろしたのである。刃渡り一〇センチのメスで三メートルの空間を。
野中教師の左肩から右胸下部まで、斜めに黒いすじが走るや、次の瞬間、墨汁のような血が噴出した。
声もなく前のめりになりつつ、教師は地面の小石を拾い、すでに身を翻しかけた白衣の男めがけて投擲した。
それは男の右肩に命中し、メスを手放させた。
白衣の男は拾おうともせず、村人たちを追って小走りに走り出したという。
三吉クンが野中教師のもとに駆けつけたのは、村人も白衣の男も、密集した木立の間へ吸いこまれてからである。教師は社務所で目撃した内容を話してから失神した。
いよいよ動き出したか。
おれは唇を噛んだ。どうしても眼が欲しい。
治療するしかねえな。
こっそりと廊下を戻り、おれは携帯のキィをプッシュした。
おれ専用の特別ナンバーだ。すぐに出た。
「こちら、ペンディックスです。ミスター八頭、何事ですかな?」
「いま、どこだい?」
と、おれはぶっきら棒に訊いた。
「目下、国連事務総長との会食の席に向かうリムジンの内部《なか》ですが」
ニューヨークは、午後六時か。
「済まないが、いま、にわか×××だ。症状を聞かせるから、治療法を教えてくれ」
「承知いたしました。――どうぞ」
寄付次第で、地獄の閻魔《えんま》ともツーカーで話ができるというのが、おれの身上だ。全米眼科医協会会長とは、十億単位でOKである。だが、おれの話を聞いた会長どのは、
「申し訳ありません。その症状に対し、現代医学は手の打ちようがありません」
とぬかした。
「わかった――別を当たってみるわ」
嘘じゃないとわかるから、おれもすぐあきらめた。
「他に、治療医師をご存じですかな?」
「まあな。サンキューさん。事務総長によろしくな」
携帯を切ろうとすると、ペンディックスは、そうだ、と止めて、
「大統領と夫人が是非またお目にかかりたいと申しておりましたが。ここだけの話、夫人に極秘の恋人がいるという噂――あれは、ミスター八頭なのですか?」
「ふっふっふ」
ご想像にまかせよう、と言っておれは携帯を切った。――大統領夫人か。頭の切れは亭主の百倍だが、年増はしつこくて困る。大体、ベッド・マナーは――
そんなこと言ってる場合じゃねえ。おれは別のナンバーをプッシュした。
「イエイ」
と出た。相変わらず元気な婆さんだ。何語だか言ってもわからないだろうから略す。場所はアフリカ――ケニアの山の中で、百五十歳を越える身を立派に永らえてる。
「おれだ。わかるか、婆さん?」
「誰が婆さんじゃい」
とドスの効いた声が応じた。
「そう来なくちゃ」
おれは事情を話し、用件を伝えた。
「簡単な治療で済むね」
と婆さんは、面白くもなさそうに答えた。おい、全米眼科医協会会長さんよ。
「これから言う材料を用意おし。まず、コウモリの爪ひとかけら、水銀一グラム、死後千年以上経たミイラの皮膚の粉末ひとつまみ、アカジゴク茸の中くらいのを二本」
この後、十分かけて婆さんが指示した調剤法を、おれは一語一句ノーミスで暗記し、
「ありがとう。料金はケニア空軍の輸送機で送らせる。食料三年分でよかったな」
と礼を言った。
「今年から報酬体系が変わってね」
と婆さんはシビアに言った。
「ナイロビの銀行に口座をつくったから、そっちへ振りこんどくれ」
「食料をか?」
「莫迦――現金だよ」
この日本でも、都内の一等地に家ひとつ建つ金額だが、婆さんの仕事ぶりに比べりゃ安いものだ。OKしてすぐ、おれは道綱のところへ行って、
「車を出せ」
と要求した。
「どこへ行く?」
「不良教師んとこだ。そこにおれの車が置いてある」
「いまは家を出られない」
「往復一時間もありゃ済むだろう。ケチケチすんな。タクシー代くらい出してやる」
そこへ、お手伝いの小母さんと駐在が駆けつけてきた。
「一応、県警へも連絡したから、午後には人が来るじゃろう。わしらはとりあえず、概気先生と病院へ戻る。野中先生も心配だで」
「ちょうどいい。ボクも連れてって下さい。あそこに車が置きっ放しなんです」
おれは即座にこう申しこんだ。駐在は疑いの眼で見たが、概気医師がおれのことを覚えていてくれたのと、道綱が東京の友人だと口添えしてくれ、概気医師の車に便乗させてもらうことができた。
車の中で一度だけ、概気医師に、
「君、眼が悪いんじゃないのか?」
と言われた。さすがは医者だと思ったが、いーや、と白を切り通した。
途中、また死人のなり損ないが出てくるかなと用心していたら、幸い何の問題もなく、朝焼けの道を疾走する車は、二十分足らずで病院へ到着した。
車を降りると、おれは、ハンドルを握っていたせいでろくすっぽ話もできなかった三狩看護婦に、そっと、
「車はどこでしょう?」
とささやいた。
「あなた――やっぱり、眼が!?」
と驚くのへ、
「実は一時間ばかり前から全然」
と答えると、
「驚いた。信じられないわ。私、ちっともわからなかったわよ」
感嘆の声である。
「済みませんが、車のところまで連れてってもらえませんか?」
おれは、できるだけ哀れっぽい声を出した。
三狩看護婦は気軽にOKし、その旨を先に院内へ上がろうとしている概気医師と駐在に伝えて、おれを隣の駐車場へ案内してくれた。
「ドアはどこですか?」
「ほら、ここよ」
看護婦はおれの手を取って、車のドアの把手へと導いた。手を離そうとして、あっと小さく叫んだ。
おれの右手が固く握りしめたからだ。
「何するの?」
怒って当然の声は、しかし、どこか熱っぽく嗄れていた。
「何も」
おれはドアの把手から手を離し、両手で看護婦の腰を抱いた。
コルセットも使っていないのに、よく締まっている。
抱き寄せると三狩看護婦はさすがに抵抗を示し、顔をそむけながらもおれを睨みつけた。
「どういうつもりよ、一体?」
「どうもこうも」
おれは看護婦の首に手を廻し、思い切り抱き寄せて、唇を重ねた。
最初はきっちりと唇を閉じていたが、舌先でちろちろ舐めてやると呆っ気なく開いた。ああ、と切ない息遣いがついていたのはいうまでもない。おれは素早く舌を入れて、美人看護婦の口を征服した。
それからしばらく、おれたちは狭い駐車場の隅で、立ったまま舌と唇だけの官能を貪った。美人というのは男の方が敬遠しがちで、案外こういうテクには疎いものだが、三狩看護婦は巧みで濃厚だった。自分から濡れた舌を大胆にさし入れて絡め、おれのを強く吸ったかと思うと、歯茎や口蓋をねっとりと這い舐める。この女の美貌を考えたら、キスだけで果ててしまう奴もいるだろう。看護婦の舌技にはそれだけの自信が溢れていた。
ただ、相手が悪かった。
おれは、ここが人類最初の娼館だと自慢するギリシャのさる古代遺跡の中で、五千年以上にわたってセックス・テクニックだけを錬磨してきた一族の末裔から教わった技を使ってみた。効果は即あった。口から全身に広がる快楽の波動に耐え切れず、女の全身は震え、痙攣し、おれから離れようともがいたが、おれは構わず、舌も唇も離さなかった。
それからさらに一分程、美人看護婦はこれから一生経験できっこない快楽の渦に呑みこまれつづけ、おれが解放すると同時に、地べたへへたりこんだ。
「何て……子な……の……」
息も絶え絶えにこれだけ洩らした顔は、暁光に桜色に染まり、いかに凄まじい刺激だったかを如実に表現していた。
おれは看護婦を無視してポルシェへ近づき、トランク・ルームからジュラルミン製のケースを取り出して留め金の部分についている丸い金属部に両手の親指を押しつけた。
留め金と留め金のちょうど真ん中にある赤ランプが点り、蓋が少し開いた。
指紋錠である。おれの指紋をコピーされた場合を考え、コンピュータには生きた皮膚の感触やら、押し方、錠と直結した指紋までインプットされている。
おれが取り出したのは、ケニアの老婆に伝えられた品であった。
このとき、少し前に気を取り直して、おれの背後から作業を見つめていた三狩看護婦が、
「何よ、そのトランク――訳のわからない品で一杯じゃあないの」
と驚きの声を上げた。
「雑貨屋がアルバイトなんだ」
おれは鼻歌混りに、手にした品を駐車場の地面に並べていった。
車のなかには、他に殺人鬼の脂肪でこしらえた蝋燭はある、ミイラ化した馬と虎のペニスはある、墓地に埋められた棺桶に溜って三カ月経過した水のポリタンクはある、ガマガエルの血を詰めたアイスボックスはある、チョウセンアサガオ、キョウチクトウ、べラドンナの冷凍保存版と種子はある、死産した狼の子の血を塗りつけたロープの束はある、さらに、血を受ける銀皿や聖剣、薬草を燻す鍋、占星盤、霊界曼陀羅図、煉獄のミニチュアetc etc――魔術魔法の道具はばっちりで、トランクの内部は異界と現界をつなぐ装置で溢れ返っているのだ。三狩看護婦が驚くのも無理はない。
「どうして、こんな品が……?」
「生活の必要上、な」
「あなた……ただの大学生じゃないような気はしていたけど……一体、何者なの?」
「当ててみな。――さ、これでよし」
おれは盲目とは思えぬ手際で、アフリカの老呪術師に教えられた薬の調合を終えた。正確にはひと品を除いて。
「それで、だ。ひとつ欲しいものがあるんだけどな」
と三狩看護婦の方を向いて切り出した。
「え?」
おれは耳打ちした。
ばちん、と頬が鳴った。よけるのは簡単だが、これくらいは礼のつもりでやむを得まい。おれは手を合わせて、
「頼むよ」
と言った。
三狩看護婦は風を巻いてそっぽを向き、
「何てものを要求するの、子供のくせに――」
と声を震わせた。おれはにんまりした。女の声の中に、隠しようのない興奮と昂りを看破したからだ。
そっと近づき、両手を巻きつけた。腰ではなく、胸に。
力をこめると、白衣とブラの下から圧倒的な乳房の感触が伝わってきた。
「あ……」
と呻いて看護婦は身を震わせた。
「な、頼む」
「――駄目……駄目よ、絶対に」
「そう言わずに。な?」
おれは乳房を左手にまかせ、右手を下の方へ移動していった。
ある一点に達すると、三狩看護婦は、ひっ、と放って全身を固くした。
「やめて」
叱咤の声も喘ぎに近い。
「な?」
おれは、熱くささやくと同時に、指先に力を入れた。
布の上からなのに、三狩看護婦は激しく全身を震わせ、短い喘ぎを吐いた。指の動きに合わせている。
「な?」
と、おれは、あくまでも優しく、紳士的に要求しつづけた。
「欲しければ……勝手に持っていきなさい……よ……ほら」
と三狩看護婦は、俺の手に押しつけるように腰を突き出してきた。
「お、ありがとう」
おれは素直に感謝し、手を廻して白衣の前を開いた。手は布地の奥へ吸いこまれた。
「あ……」
三狩看護婦が切なげな声を洩らす。通りすがりの、生活に疲れ切ったおっさんでも獣になりかねない。
おれの指は目的地に達した。
指先でつまんで――
そのとき、
「三狩くん、何してるんだ!?」
病院の玄関から概気医師の怒鳴り声が聞こえた。
「は――はい!」
悪夢から醒めたみたいに、三狩看護婦は身を離し、前ボタンをはめ直しながら、病院の方へと走り出した。冷たい女だな。おれは舌打ちして、地べたに並べた品をトランクへ戻し、調合した薬液の入った試験管にゴム栓を詰めてから、彼女の後を追いはじめた。
殊によったら、この病院はじまって以来の大手術だったかも知れない。
駐在が三吉クンに事情聴取を行っている待合室の奥から、せわしげな二人の足音と激しいやり取りが聞こえてきた。
三和土から上がろうと靴を脱ぎかけたとき、おれの背筋を冷たい水が流れた。
おれは表へ跳び出し、勘に導かれて通りの右方を向いた。
数個の気配が近づいてくる。人間じゃない。生気が感じられないのだ。しかも、吹きつける凶気は、昨夜、蒼木氏のロールスロイスを襲った連中の比じゃあない。
こんな朝っぱらから喧嘩を売りにきやがったか。おれは玄関へ戻って、
「駐在さん」
と声をかけた。
「ん?」
とふり向く声と気配へ、グロックを突きつける。
駐在も三吉クンもぎょっとしたようだが、さすがに駐在はすぐ気を取り直して、
「何の真似じゃ? そんなおもちゃ持って」
と声を荒げた。
天井に穴が開くのを見る前に、銃声と火線に二人はひっくり返った。
「ほ、本物じゃ」
「き、きさま――何をする!?」
ほう、いきり立ったのは三吉クンの方ではないか。なかなか根性がある。
「静かにしてくれ」
と伝えて、おれは床の上に尻餅をついた駐在の腰から、ニューナンブ・三八口径を奪い取った。
「すぐ返す」
と言ってから、奥に向かって、
「先生――手術、中止にできます?」
「何ィ?」
と駐在が唸った。当然だ。さぞや、おれが若い人非人に見えたことだろう。
「できん」
医師の答えは明快であった。奥のドア越しだからひどく小さい。
「いま動かすのは危険だ。出血多量で――しかし……」
「本当は、とっくに死んでる重傷なんじゃないんすか?」
と、おれは訊いた。
「でも、血は自然に止まってる。その代わり、心臓以外は一切機能していない。それも臨終みたいに細々と脈打ってるだけだ」
驚愕の気配が生じ、少し間を置いてドアの開く音がした。
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第九章 帰りし者たちの襲撃
現われた概気医師の表情は、さぞや見ものだったろう。
スリッパで床を踏み鳴らしながら、待合室へ跳びこんで、
「なぜ、患者の症状がわかる!?」
と喚いてから、状況に気がついた。
「とりあえず、答えます」
と、おれは言った。
「野中先生が身につけた武術のおかげです。それは、傷ついた身体の新陳代謝を冬眠中の動物なみに下げ、最低限のエネルギーと生体機能だけで生命を維持できるんです。当然、出血は最低限に抑えられます。――以上。さ、三狩さんと野中先生を車に乗せて下さい」
「なぜだ?」
と訊いたのは駐在である。
「蒼木さんを襲った連中がこちらへ向かってきます。きっと、野中先生の口封じでしょう。すぐ逃げて下さい」
「犯人が来る? なら、捕まえにゃならん。――おい、拳銃を返せ」
「拳銃でどうなる相手でもありません。とにかく、脱出して――」
と声をかけたとき、玄関に幾つかの靴音が湧いた。背筋が冷たくなる。
「意外に早いな」
おれは一同にグロックを突きつけたまま、玄関へ出た。
三和土にいた。――感じでは五人。
「加田さん」
と待合室から出て来たらしい駐在の声がした。驚きと戦慄に彩られている。
「三沢さんに基須《もとす》さんに仁木丸さんに方樹《かたぎ》さん――まさか……生き返ったのか? いつ、どこから帰ってきた?」
「下がってろ!」
おれは駐在にショルダー・アタックを食らわせ、待合室の奥へと跳ねとばした。
「ストップ」
と片手を前に出して、三和土の連中に命じる。
無視しやがった。揃って上がってくる。
膝を狙って射った。この距離なら外しっこない。
先頭の二人が前へのめる気配。膝をつきやがったな。痛みは感じなくても、膝の骨を砕かれれば足は走行機能を失う。
おれを横へ跳ばせたのは本能だったに違いない。
左肩から指先まで一気に冷えた。瞬間冷凍ともちがう冷気だ。左手は動かない。この感じは――死んでしまったのだ。
畳の上に横倒しのまま、三人目と四人目の膝を射ち抜き、おれは前へ跳んだ。
空気が凍った。
ひっと声が上がった。待合室の奥だ。
「駐在さん!」
と三吉が叫んだ。
最後――五人目も射ち倒して、おれは後方へ叫んだ。
「やられたか?」
「――死んでる」
と三吉クン。
「先生――どうです!?」
訊きながら、危《やば》いと思った。
畳を布地がこすっている。近づいてくる。奴ら、膝で歩いてくるのだ。
「裏から出ろ」
と、おれは叫んだ。その声に重なって、
「駐在さんは死んでおる」
概気医師の声だ。
「先生――こいつらに見覚えはありませんか?」
「知っとる」
声は震えていた。
「みな、神隠しにあった者たちだ。わしが子供の頃に消えた人もおる」
「年は取ってますか?」
「いや」
「手に何か持ってます?」
「何か――木の枝のようだ」
それが、おれの左腕を死なせやがったのだ。生ける死者ならやるだろう。
「構えたぞ! あんたの左斜め前だ!」
三吉の叫びと同時に、おれはつづけざまにグロックを発射した。
銃身や機関部の一部を除いてすべてプラスチック製――このコンセプトは、グロックの生まれ故郷のヨーロッパより、アメリカで歓迎され、いまや最も人気の高い自動拳銃として、全米を席巻しつつある。かなり強烈な九ミリ・パラベラム弾の反動を、おれは難なく右腕だけでやり過ごした。
敵の攻撃はなかった。おれの連射は、奴らの武器――死の枝を射ち砕いてしまったのだ。
「当たってるのに、死なねえ!」
三吉クンが悲鳴みたいな声を上げた。
「先生――みんなを連れて外へ! おい、三吉、野中先生を運んでやれ」
「冗談じゃねえや、なんでおれが?」
「学校で世話にならなかったのか?」
「うるせえ。だれが、てめえの言うことなんか聞くもんか。広美を返せ、広美を」
「運べ」
おれは奴の眉間にグロックを突きつけて命じた。三吉クンは虚勢をはった。
「射てるもんなら……う……射ってみろい! そんな脅しにのるもんか!?」
「そうかい」
おれは銃口を右へずらして奴の耳たぶを一部、吹きとばした。三吉はひっくり返った。
「とっとと行け!」
と銃口を突きつけるや、血だらけの耳を血だらけの手で押さえつつ、三吉は待合室を跳び出し、手術室から出て来た三狩看護婦とぶつかった。
「先生、銃声が!?」
「野中先生を連れて、裏から出なさい」
と概気医師が叫んだ。
「わかりました。でも、私ひとりでは」
「彼がいる」
と概気医師はおたおたしている三吉クンを指さした。
「すぐに逃げるんだ。別の奴らが来るぞ」
おれの返事に、看護婦は三吉の右手を掴んで、強引に手術室へと向かった。
その間にも、奴らは近づいていた。
「うっ!?」
と低い呻きを洩らして、概気医師が倒れた。
おれは駆け寄って抱き起こし――すぐに放り出した。死んでる。心臓へ直撃を浴びたのだ。これでこの村は、まず二十年の間は無医村と化すだろう。
手術室の前まで来て、おれは野中教師を運び出す途中の三狩看護婦と不平面剥き出しの三吉クンと遭遇した。
「急げ」
と、おれは看護婦の尻を叩いた。
「あン」
色っぽく身悶えする。おれのキスがよっぽど気に入ったらしい。その拍子に、肩を貸していた野中のバランスが崩れて、三吉クンがあわてて踏んばった。
「いい加減にしろよ」
と、おれは野中の頭を殴りつけた。
「いてて」
と自力で立ち上がる。
「やっぱり、パフォーマンスだったな」
にらみつけるおれに、彼は左の頚部から右の腰にかけて巻かれた包帯を示して、
「ノンノン、重傷だ」
と言った。
「何を言ってやがる。意識はしっかりしてるし、傷口もふさがってる。内臓に異常がなけりゃ、もう健康体だろ。この事態がわからねえのか。もう二人死んでる。とっとと歩きやがれ!」
「むむ」
「何がむむだ。さっさと行け!」
野中は答えず、おれを見つめて、
「おまえ、眼が見えてないな」
と言った。
「まあ、な」
「それはいかん。敵の正体は何だ?」
「“向う側”から戻ってきた村人だ。ゾンビー化してる。木の棒で駐在と院長がやられた」
おれたちは同時に身を伏せた。頭上の空気が凍る。――死んだのだ。
敵は廊下の曲り角にいた。膝立ちだけに、何となくユーモラスだ。
「おい」
おれは駐在のニュー・ナンブを左手で野中に放った。もう回復してる。“ジルガ”の“復活薬《ケミユン》”を使ったのだ。
「あいよ」
と受け止めた、と思ったら、足下でがちゃん。
「あ」
と拾い上げる気配があった。運動神経がいいのか悪いのか、見当もつかんな、こいつは。
いきなり、耳もとで、ドン、と来た。
倒れる気配。
「驚かすな、莫迦教師」
「済まんな。しかし、木の棒を折ったぞ」
「よくやった――逃げよう」
「待て待て。もうひとり」
「いいから、来い。この殺人狂」
おれは、教師の肩を掴んで裏口へと走った。
全員、何とか道へ出た。
おれたちを待ってた三狩看護婦と三吉クンへ、
「走って逃げろ。奴らの目的はこの先生だ。おれと二人で始末する」
「君、それは困るよ」
と野中教師が不満そうに言った。
「何が困るだ。――来い」
おれは彼の手を掴んで強引に駐車場の方へ歩き出そうとした。
「待って」
と三狩看護婦が駆け寄ってきた。
「あなた、逃げないの?」
「ああ。立場上、な」
「我輩は逃げたいのだがね」
と野中。
「うるせえ。――あんたは早く逃げろ」
もちろん、後半の相手は看護婦だ。
彼女は動かなかった。
「何してるんだ? 行けよ」
「欲しいものがあったわね」
と看護婦は、何かを決心したものの清々しい声で言った。
「いま、あげるわ」
「いや、いいんだ」
と、おれは頭を掻きながら応じた。
「え?」
「実は、あのとき――一本貰っておいた」
「――!?」
「黙ってて済まない」
おれは笑いかけた。
「いくらでも持ってって」
看護婦は、ぼんやりと言った。
「でも――いつの間に。あなたって何者なの?」
「ただの毛髪コレクターさ。――行きな」
おれは、少し離れてる三吉クンの方へと看護婦を押しやり、不良教師の気配に顎をしゃくった。
「行くぞ」
「我輩はこっちだよ」
と反対側で笑い声が響いた。
「“ジルガ”傀儡《ホアン》系の二四八。かかったな」
「眼が見えるようになったら、決着《けり》をつけてやる。覚えてろ」
「うむ。――では、こっちだ」
おれの手を取って先へ進む。
「何だ、あんた。気が変わったのか?」
「うむ。我輩の立場では、なかなか人など射てんからな」
いまなら射てるっつうのか、この殺人教師。
裏口から死人たちが出て来ることもなく、おれたちは駐車場へ入った。
ポルシェは無事だった。中にぶちこんどいた品もOKだ。
「運転できるな?」
「免許はある」
「ならいい。蒼木神社へ向かえ」
「断っておくが、我輩は怪我人だぞ」
「特殊怪我人だ。後で、世界一腕のいい病院の世界一高い病室へ入れてやるよ」
「それなら、まあ」
野中教師は運転席について、スターターを廻し、ハンドルを握った。
「来たぞ」
と、おれは声をかけた。死人どもの気配が近づいてくる。玄関の方角だ。
「早く出せ」
車は動かない。エンジン音が低く車内に鳴り響くばかりだ。
「何してんだ、おい?」
「おかしいな。動かんぞ」
故障か? いや、野中のこの動きは――
「ギヤを入れたか?」
と訊いた。
「あ」
「阿――」
呆、とは言えなかった。やめろと言うべきだった。野中はギヤを入れたのだ。マニュアル・タイプのつもりで、アクセルをふかしながら。
ドライブ・モードになった刹那、ポルシェは突進した。
気配で駐車場の壁が迫るのがわかった。
急ブレーキのショックが、おれをつんのめらせ、つづいて右へふった。
間一髪で、車は一八〇度回転をやってのけたのだ。
見事――だが、こういう奴を誉めるとロクなことがないのは経験でわかってる。
「この人殺し――あんた、いつ免許を取った?」
「三十と五年ばかり前だ」
「その間、運転は?」
「一度もしていない」
「重々しく言うな――やつら、来たぞ」
「わかっとる。駐車場の入口に十人ばかりいる」
「見覚えがあるか?」
「四人は――行方不明になった人たちだ」
「木の枝はあるか?」
「みな、構えてるぞ」
「よし、行け」
「しかし、轢き逃げになるぞ」
「もう人間じゃねえ。GO!」
「わかった」
「うお!?」
また、いきなり出た。衝撃に車体が揺れた。五人は跳ねとばしたな。
荒っぽいことこの上ないハンドルさばきでもって、しかし、道へ出たポルシェは正確に方向転換を敢行し、砂利と土とを蹴りとばして疾走を開始した。
神社へ着く間におれの感じた疑念は、奴らの死の枝がどうして車に効かなかったか、だった。多分、生体以外には効果がないのだろう。
おれは、野中教師が鼻唄を歌っているのに気がついた。
「愉しそうだな?」
嫌味たっぷりに訊いたが、こいつは気にもせず、
「また、邪魔してこんかなあ」
とつぶやいた。期待に満ちた声である。無抵抗の相手を車で跳ねとばした快感に酔っているらしい。これだから聖職者てのは危ない。SMクラブで一番変態的なのは医者と坊主で、ノーパンしゃぶしゃぶの上客は、医者と教師だそうだ。
「ところで、なぜ、神社へ行く?」
と野中教師が訊いてきた。
「あそこの鳥居の奥が“向う側”の出入口だ。ぶっ壊せば、出て来なくなる」
「出入口が広がると、どっと出て来ないかね?」
「うるせー、へぼ教師。その手傷を負わせた奴にお返ししたくないのか?」
「我輩は教師だぞ」
「人を射ったり轢き逃げしたがる教師がどこにいる」
おれはぎゃあぎゃあ喚いた。
「おまえは教師じゃねえ。狂うの師だ。狂師だ」
「その辺は突きつめんといて」
「いきなり関西弁を使うな」
おれは腹立ちまぎれに、視力回復薬を詰めた試験管の栓を外し、三狩看護婦から失敬した品を一本入れた。どんな効果があるのかはわからない。魔術とはそんなものだ。
右眼に数滴垂らした途端、おれの口から隠しようのない苦鳴が洩れた。食いしばった歯を力ずくで押し広げながら、身を乗り出す。
「大丈夫か?」
さすがに気になるらしく、野中教師は心配そうに訊いた。
脳味噌が沸騰するような痛みに耐えつつ、おれは左眼にも差した。
「うおおおお」
「病院へ行こう」
と野中教師は言った。
「そっから来たんだよ」
と、おれは何とか返した。
痛みは一分ほどで消えた。これでじき見えるはずだ。これまでの経験から、最も遭遇頻度の高い魔術・魔法用の小道具を揃えておいた甲斐があった。
五分たった。見えない。十分。同じだ。十五分後、車が停まっても、視界は闇に閉ざされたままだった。
「見えたかね?」
「いいや」
おれは憮然と答えて、車を降りた。
「もっと悪くなってしまったのではないかね?」
これ以上、悪くなりようがあるものか。
おれは車の後部座席に廻り、シートを跳ね上げた。覗きこんでいたらしい野中教師が、ほお、と小さな歓声を上げた。
「“ジルガ”だけじゃ心もとないんでな」
おれは、シートの内側の“武器庫”から、磁気《マグネット》コイル自動銃《オート・ライフル》――MCRを選んだ。
全長一五〇センチ、重さ五・五キロもある大型だが、“向う側”の奴ら相手には、これくらいじゃなきゃ効くまい。
弾丸――特殊金属でできた直径五センチ、厚さ五ミリの円盤六百枚が入った弾倉五本入りのパウチをベルトにひっかける。不格好だが仕方がない。その代わり、こいつが本領を発揮すれば、爆発物は一切不要だ。
「我輩はこれがいいな」
声から判断した野中教師の頭へ、おれはMCRのレール状銃身を突きつけた。
「何をするんだ?」
「何を選んだ?」
と訊いた。
「これは――ふむ――何だろう」
おれは左手で表面をひと撫でして、
「ほう、タボールT・A・Rの21か」
と言った。
「見た目が派手で選んだな。イスラエルのIMI社が開発したプルバップ・アサルト・ライフルだ」
「何だ、それ?」
「機関部と弾倉が銃把《グリップ》の後ろにつくのがプルバップ・タイプだ。従って、普通のライフルより、銃身が短くてコンパクトになる。アサルト・ライフルてのは、攻撃用ライフルって意味だ」
「ふんふん」
「弾丸はNATOのSS109――五・五六ミリ口径を三十発入り弾倉に装填する。プラスチックを多用した、イスラエルでも新世代の武器だ」
「引金を引けば、ずうっと弾丸が出っ放しかね?」
「ああ、全自動《フルオート》だからな」
「これにしよう」
嬉々とする教師へ、おれは、
「何にでもしろ。ただし、留守番だ」
と宣言した。
「どうして?」
大いに不満――といった声である。
「怪我人にこれから先の戦いは無理だ。あんたの役目は運転手だ。おれが出て来るまで、ここで待て」
「出て来るとは限るまい」
縁起でもないことを言いやがる。
「大体、君はまだ眼が見えん。盲目の身で何ができる。連れて行け」
声が昂ぶってる。
「あんた、目当ては何だ?」
教師は、うっ、と詰まってから、
「我輩をこんな目に遇わせた奴への復讐と、君の援助だ」
と言った。
「嘘つけ。それを射ちまくりたいだけだろう。それでも教師か」
「誤解だ。抗議する」
「おれが帰ってきたらな。それまで留守番だ」
野中教師は不平面をしたが、結局、OKした。その代わり、
「拳銃も持たせてくれ」
と言い出した。
タボールだけでいいだろうと言っても、嫌だとごねる。とにかく、ライフルと拳銃を身につけるのだと引かない。まるで餓鬼だ。
おれは渋々と、スターム・ルガーのMk1:二二口径八連発を選んだ。
案の定、野中教師はたちまち不満声を張り上げた。
「何だ、これは――まるで、ブリキのオモチャだ。そこにもっと凄いのがあるじゃないか」
「初心者が、最新型のオートや実用性ゼロの大口径マグナムふり廻したら、自殺と同じだ。その点、このルガーは、アメリカだけで二百万梃を売りつくした超スタンダード・モデルだ。歌でもスタンダード・ナンバーが一番安心して聴けるし歌えるだろ。これも、安全性、操作性、信頼性抜群と、アメリカ国民が認めたんだ。ほれ、この弾倉をこう入れて、後ろのコッキング・ピースを引いて戻せば、初弾が発射OKだ。後はつづけて射てばいい。二二口径だから、反動なんかないと同じだ。素人でも一〇メートル以内の人間サイズの的なら外さなくて済む」
「しかし、二二口径じゃあ、人間に致命傷をなかなか与えられないだろう。不満だ」
「そんなに人殺しがしたいのか」
おれはキレかかるのを、何とかこらえながら喚いた。
「なら、教えてやろう。射撃において、拳銃てのは所詮は発射装置にすぎないんだ。肝心なのは弾丸だよ、弾丸。発射台より、飛んでくミサイルの方だ。この弾倉に詰めてある二二口径ロング・ライフルてのは、弾頭部に超強力な高性能火薬が入ってて、標的の体内に潜りこむや、ドカンといく。ライオンの頭だって一発で粉々にしちまえるんだ」
「ほお」
傾城《けいせい》の美女を前にしたような満足感が、野中教師の声にこもった。おれの顔に当たるオーラが急激に熱を帯びる。
「これ貰った」
くくく、と含み笑いする危ない教師の肩をそっと叩いてから、おれは“武器庫”の中から別の道具を取り出し、外へ出た。
銃を撫で廻しているらしく、わおわおと感激中の野中を連れて、勘を頼りに森の中へ入り、例のドミノ鳥居の前に来た。
「あんたをぶった斬った白衣の親父は、多分、この内側《なか》にいる」
おれは鳥居から五メートルばかり離れた松の木の根本に、運んできた品を置いた。髪の毛のような細いワイヤを巻きつけた、直径一五センチ、長さ五〇センチのローラーと思えばいい。
おれはそのローラーを地上に置いて、リモコンのスイッチを入れた。ローラーの中心軸に格納されているドリル状のロッドが地面にめりこみつつ、ローラーをぐんぐん押し上げ、地上地下、ともに一メートルほどの位置で停止した。
ワイヤの先端を引き出し、付属の鉤《かぎ》を背のベルトにひっかける。
これでOKだ。
「何だ、それは? 生命綱《いのちづな》か?」
と尋ねる野中へ、
「大当たり」
と答えてから、
「あんたの仕事はこれを守るこった。おかしなのが来ても絶対に手を触れさせるな。大概の奴は、あんたを見たら何もしないだろう。文句つける奴は、さっきの連中の仲間だ。――射て」
おれも無茶を言う。だが、ああなってしまっては、もはや人間とは言えまい。
「わかった」
野中教師は大喜びでタボールをふり廻した。めちゃ危ない野郎だが、ともかくも教師だ。一般人に迷惑はかけまいし、“ジルガ”の遣い手なら、人間とゾンビーの区別くらいはつくはずだ。
「じゃ、な」
おれは鳥居へ向かって歩き出した。途中でふり向き、
「赤座くんのことだが――忘れてた。いま、蒼木邸でお寝み中だ。安心しな」
と言った。
「おい。本当にひとりでいいのか?」
背後から野中の声がこう訊いたが、おれはもうふり向かなかった。
正直、鳥居が例の医者の世界とつながっているという確信はあったが、そこへ侵入する手段を持ってたわけじゃない。この時点で鳥居の奥へ向かえば何かが起こるという勘が働いただけだ。何もなかったら、みっともないったらありゃしねえ。
手探りで最初の鳥居を抜け、二本目、三本目もクリアし、四本、五本、六本と何事もなく、最後の一本――七本目。
足を踏み入れた瞬間、前方の光景が変わった。突如、視力が回復したのである。
見えた。
そこにあるのは、平凡な神社の森ではなかった。天井も奥も遠くかすんで距離さえ掴めない洞窟の内部《なか》であった。そのくせ、眼に入る岩壁は磨き抜いたみたいに滑らかで、あちこちに巨岩が盛り上がって、煙とも瘴気ともつかぬ白い霧状のガスを吐きつづける地面とは、際立った対照をなしていた。
ふり向くと、鳥居はそのままそこにある。ただし、その向うの光景は、岩壁と森とが重なり、二重露光の写真みたいに溶け合ったヌエ状態に近い。こちらを眺めている包帯姿の野中も、ぼんやりと見えていた。
これなら、まだ帰れそうだ。
鳥居に入る前、おれはパテックの腕時計を、分析装置モードに変換しておいた。呼吸《いき》も止めている。
分析の結果は、ガスの成分は不明――ただし、呼吸には適している。
パウチの簡易ガスマスクも使わずに済み、呼吸を再開したおれは、ゆっくりと洞窟の奥へと進みはじめた。
一〇〇メートルほど進むと岩壁が狭まり、通路を構成した。そこから先を右に折れ、左に曲がりして、一キロ近く前進しただろうか、不意に光景が開けた。
おれが踏みこんだ場所よりも遥かに広い空間がパノラマのごとく広がり、しかし、岩とガスばかりの死の世界ではなかったのだ。
やはり、石塊《いしくれ》とガスとが蹂躙《じゅうりん》する地上には、おびただしい数の人間たちが、或いは地面に、或いは木の柵でつくられた台に寝かされ、その台も、ベッドのような一層限りの品や、二層三層、さらには百層を越してなお、天井の闇の彼方に消えている塔としか思えぬものが所狭しと、何の脈絡もなく並べられ、ある台にはひとりきり、ある台には十人近い連中が一列に、あるいは五十人近くが二列三列に折り重ねられて、彼らの洩らす呻きとも苦鳴とも泣き声ともつかぬ声が八方から降り谺《こだま》して、まるで途方もなく巨大な寺院の本堂に響き渡る読経の斉唱とも聞こえるのだった。
垂直に近い岩壁にも、気まぐれとしか思えぬ無作為さで長方形の穴が穿たれ、年齢も性別も衣裳も異なる人々が、ぶらんと足を岩の縁から投げ出しながら、こちらを見下ろしている。
横たわっている者、腰を下ろしている者――状態は様々だが、誰ひとり、立っている者はない。この事実に気づいて、おれは何となく、ぞっとした。
男もいる女もいる。子供も老人も若者もいる。ある者は裸で、ある者は白い布切れとしかいいようのないものでわずかに身を覆い、またある者は平安時代の貴族がまとった水干《すいかん》のような衣裳を着て、別の台の上には、見慣れたポロシャツに作業ズボン姿も何人か見受けられ、こちらの時間の感覚を全く狂わせてしまうのだった。
あの鳥居――他にもあるかも――をくぐって消えた“神隠し”の犠牲者にちがいない。
だが、一体全体、何のためにここへ?
ガスが流れた。風はない。ガス自身が生きもののように移動するのである。
前方――約一〇〇メートルの地点に、一軒の丸太小屋《ログ・ハウス》が建っているのをおれは見た。
おかしな小屋だ。全体としては過不足なく直立しているのに、どこか歪んで見える。天井も柱も壁も、ひとつひとつは地面と平行、ないし垂直なのに、全体としては歪曲した建物と映るのだ。ところが、どっちにどう、どれくらい歪んでいるのかと訊かれると答えようがない。いくら眼を凝らしても、はっきりしないのだ。
おれはMCRの安全装置を外し、小屋へと肩づけして、前進を開始した。
二歩目で暗黒が世界を包んだ。
薬の効き目が切れたのか、それとも一過性のものなのか、おれはふたたび盲目と化してしまったのである。
なまじ、四、五十分とはいえ、視力が戻ったものだから、すぐ暗黒で活動、というわけにはいかない。
やれば何とかなるかも知れないが、おれは足を止め、闇中での感覚に身体を慣らそうと試みた。
そのとき、内ポケットの携帯電話から、かん高い女の叫びが、広い洞内にヒステリーの悲鳴みたいに鳴り響いた。
「何すんのよ、このド変態!」
懐かしい声であった。おれは、わお、と言った。
「いるの、大ちゃん、聞こえる?」
と電話の向うで、数千キロの彼方にいるゆきは、とんでもない事態に遭遇したらしい声を、こちらもとんでもない状況に落ちこんだおれめがけて撒き散らした。
「ああ――元気そうだな」
「それどころじゃないわよ、あんた、本当に能天気にできてるわね――こら、あっち行け。触らないでってば――助平な原住民に、彼らの部落の部屋で犯されかかってるのよ。ね、何とかして?」
「武器はどうした?」
「使えないのよ」
ゆきは、いらだちを声に乗せた。
「こいつが、あんたの依頼の鍵を握ってる張本人なのよ。邪慳《じゃけん》にはできないの」
「なら、身をまかせるんだな」
「莫迦言わないで、こんな――六十過ぎの狒々《ひひ》爺いに誰が」
「何者だ?」
「ギョブナースチの曾孫だってさ。ちょっと――ブラ外さないで、このド助平。あン、そんなところにキスすると感じちゃうでしょ――あ……こいつがギョブナースチの秘書役やってるのよ。こら。あ、外したわね。――それで、優先的に、あたしを会わせてやるからって、こんな応接間の真ん中で――やめて、汚い口をあたしのおっぱいに押しつけないでってば」
「取り込み中のとこ、申し訳ないがな、こっちも取り込み中だ。切れ」
「何よ、冷たいじゃない。あたしが凌辱されかかってるのに。――あ、わかった。あんた、宝に近づいたんでしょ。それで逃げたがってるんだ。そうはイカのたまきんよ。ちょっと、そこカメラで映しなさいよ。――もう、しつこいわね、この爺いは。そんなに吸いたきゃ、はい。あうん……なかなか……上手じゃないの……あン……はい、もういいでしょ。お預けよ、ちょっと黙っててね。――さあ、映しなさいったら。でないと、一生、この電話で喚きつづけてやるから」
「いいとも」
グッド・タイミングだ、と頭のどこかでおれの声が叫んでいた。
おれは携帯電話を取り出し、頭部についている超小型デジタル・カメラのレンズをぐるりに向けた。
ゆきの喚き声が届いたのか、広場中の連中が揃ってこちらを向いている。気配でわかる。何となくぞっとしたが、ひとりとして近づこうとしない。そんな意欲がない、というより、近づくというのがどういうことなのかわかっていないような気がして、おれはさらにぞっとした。ここ[#「ここ」に傍点]は別の世界で、おれ以外は、ここ[#「ここ」に傍点]の人間なのだ。
「わかったか?」
と訊いたが、ゆきの返事はすぐなかった。五秒ほど置いて、
「何よ――どこ? そこは?」
と来た。かなりのショックだったらしい。
「鳥居の向うだ」
「?」
「小屋が見えるか?」
おれは、カメラをそっちに向けて訊いた。
「――ええ。おかしな小屋ね。何だか歪んでるわ」
「いまから向かう。何が見えるか教えろ。おまえの分け前がかかってるぞ」
「本当《ほんと》? ――頑張るワ」
これで眼ができた。おれはゆきの指示に基づき、予想よりずっと早く小屋に到着した。
窓の下に忍び寄り、そっとカメラを持ち上げる。
「どうだ?」
「何、それ?」
ゆきの声は嫌悪と――恐怖に彩られていた。
「内部《なか》は病院の手術室そっくりよ。でも、機械は何だか違う。形は同じだけど、メーターやスイッチがどっかおかしいわ。はっきりとは言えないんだけどさ。ね、ズームにして。オッケー。もう少し右へ――ストップ。機械に刻印してあるのよ。製造会社や製造年月日だわ。えーと――やだ、それ何語? チョー気持ち悪《わり》い字よ。こんな字、この世のもンじゃないわ」
「そのとおりだ。内部に誰かいるのか?」
「ええ。手術台がひとつあってね、そこで、白衣の医者らしい男が、女の人を手術してる。腕? ちゃんと二本あるわよ。ちょっと、これからはじめるつもりらしいわ。女の人の裸を、ガーゼできれいに拭いてる。あ、下げて!」
近づいてくる気配があった。見られたか。おれは窓の下の壁に貼りついた。気配も断つ。
窓近くの空気がゆれた。医者が身を乗り出したのだ。下向くな。
いつでも跳び離れて一発浴びせる体勢を取っていたが、医者の気配はすぐに引っこんだ。少し待ってカメラを上げる。
「いよいよ、はじまるわよ。あ、長い手術刀を手に取った。それを女の人の胸の下あたりに――ああ、斬ってる」
ゆきには刺激がきつすぎるかな、と思ったら、意外な観察記録が返ってきた。
「ちょっと――血が一滴も出ないわ。何よ、それ。あ、あ、あ、中味をまとめて、おえ」
「しっかり見ろ。十五億と二百三十万だぞ」
おれは励ました。途端にゆきは、しゃきっとした声で、
「内臓、まとめて引っ張り出しちゃったわ。でも、ねえ、みんな真っ白。雪の塊みたいよ。血はどうなったのかしら」
「医者は何してる?」
「内臓を近くのビーカーに入れて、部屋の右隅に行ったわ。冷凍庫みたいなのがある。あ、蓋開けた。白い煙、やっぱりそうよ。手え突っこんで、白いプラスチックのケースを出した。かなり大きい。内臓入れたビーカーくらいもあるわ。手術台の方へ戻ってく。テーブルの上にケース置いて。――あ、蓋開けてる。中味を持ち上げたわ。何、あれ?」
「何だ?」
おれは歯がみする思いで訊いた。
「ゴム管みたいなのが何本もくっついた、プラスチックの箱――かな。あちこちに針金が突き出てて、大きなのや小さな球体がいっぱい刺さってるよ。あ、ゴム管や箱の中を、青い液体が流れてる」
ある想像が脳裡をかすめた。おれは携帯にささやいた。
「それを女の内部《なか》へ入れようとしてないか?」
「――そうよ。あ、そうよ。いま、お腹ん中へ押しこんでる。入れたところを閉じたわ。ねえ、ちょっと――縫いはじめたわよ」
なるほどな。
「こら――何すんの?」
と、ゆきが鋭く喚いた。医者が何か、と思ったら、
「また、来たのよ、さっきの助平爺い――おっぱいにキスだけじゃ足りないの? え、足りない? 贅沢言うんじゃないわよ、爺いのくせに。バイアグラでも服《の》まなきゃ、役に立たないんでしょ。無理すると、心臓停止でいっぱつよ。川の向うで先に逝ったお婆さんが手招きしてない? ちょっと、スカートの下に手を入れちゃ駄目。つねっちゃうぞ、えい。ほら、痛いでしょ。え、キスしたい? 駄目よ、そんなとこへ。え、お尻? ――うーん」
こら、よせ。
ゆきの声は急に淫らに変わった。
「ね、すぐに、あなたの曾お祖父さんに会わせてくれる? だったら、考えてもいいわよ」
おいおい。
ゆきの眼が、獲物を見つけた女豹みたいに妖しくかがやき、官能的な腿からヒップにかけての線を六十男に向けながら、濡れ湿る唇を厚い舌で舐める――こんな光景が、絶対的な確実性をもっておれの眼に灼きついた。
「あら、足、露出させて、どうするの? 気軽にすがりつかないでよ。あなたの足じゃないんだし。あーら、膝立てて欲しいの? ほら。痛――膝なんかに歯あ立てないで。痛いんだから。あ……駄目よ、内側は……駄目だってば。こら、舐めちゃ駄目。吸ってもいいけど、舐めないで。ああ……あ……上手ねえ」
「いい加減にしろ、この淫乱娘」
おれはついに喚いた。もちろん、声は殺している。
「あら、灼いてるの、大ちゃん?」
ゆきの声に弄《いら》う調子が混じった。そのくせ、感じてるのは隠そうともしない。
「ああん、この爺い、付け根まで来たわ。やだ、舌全体使って舐めるのよ。こら、先だけにしなさい。先だけ。いい年齢《とし》して、遠慮とか謙譲の美徳とかないの。あ……こら、そんなに露骨に舐めないで、音が聞こえるわよ。あ、やだ、裏返しにするつもり? お尻はまだよ。会わせてくれるの、どうなの? オッケー? わかった。こっちもオッケーよ。はい」
「おい」
おれは怒りの声を思いきり吹きこんだが、ゆきは一切無視して、
「ね、全部脱がしちゃ駄目よ。お尻が出たら止めて。そう、そこ。はい、ストップ。あ……ああああ……あ……大胆ねえ。そんなに露骨に……ああ……効くわ……感じる……きゃっ、お肉を噛まないで!」
頭の中が怒りのせいで沸騰しかけ、それでも、おれは何とか耐えようとした。
「あ!?」
と、ゆきが叫んだ。まさか。
「大ちゃん――女の人が起き上がったわよお!」
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第十章 地底妖国
おれは全神経を耳に集中した。
「いま、台から下りて。――全裸よ。医者がドアの方を指さしてる。彼女、歩き出したわ。あ、そばにテーブルと椅子があって、椅子の方に、女の人の服がかけてある。現代の服よ。こら、そっちのふくらみは駄目だって。片方だけよ。あン、窪みを、舐めちゃ――やめて、ああン」
「どっちかにしろ、どっちかに」
と、おれはののしった。
「無理よ。ああ、気持ちいい。びんびん感じちゃう。この爺い、慣れてるのよ。女の人が着終えたわよ。ドアの方へ――出てった。気をつけて」
左方のドアが開いて、人の気配が伝わってきた。人といっても、生きちゃいない。この世界の人間だ。もとは、おれたちの側だったのが、“神隠し”に遇って、あの鳥居をくぐる途中で内臓を変化させられ、その上、おかしな医者の手で、別の内臓を詰められる――“こちら側”の内臓を。そして名実ともに異界の存在と成り果てるのだ。
ここにいる連中は、みなそうなのか。それなら、その後、彼らは何をしようというのだろう。ただ、この地に横たわり、医師に命ぜられるままにもとの世界へ出かけて騒ぎを起こし、それが済むと、またここで待ちつづける。何をするでもなく。ただ、待つ。
気配は去っていった。じき、仲間たちの群れに加わるのだ。
おれは肩をすくめて、携帯へ、
「小屋の中に何か――金庫みたいなものはないか?」
と訊いた。
「ある」
と即答だ。
「出入口の反対側――いちばん奥に、黒い鉄のがひとつ。こら、奥まで舐めちゃ駄目。年寄りが若い娘のお尻舐めるときは、もう少し遠慮するもんじゃなくって。――金庫は古いダイヤル式よ。ダイヤルは二つついてるわ。ねえ、あれが、十五億?」
「と二百三十万だ。よし、少し連絡を断つぞ」
「どうしてよ?」
ゆきの声は、まずあわて、すぐ凄まじい怒りを伝えてきた。
「独り占めにする気ね! そうはさせないわよ!」
「莫迦、うるせえからだ。内部《なか》には医者がいるんだぞ」
「どうやって、かっぱらうのよ?」
「医者を眠らせるしかねえな」
「あ、いい手ね。しっかりやって。あたし、助平爺いの相手をしてるから。テクニシャンて、結構好きなのよ」
このど淫乱、と言う前に連絡は切れた。
おれは携帯をポケットに戻し、パウチから麻酔ガスのコンパクト・ボンベを抜き取って、バルブを押し開けようと親指を当てた。
小屋のドアが開いた。内側《なか》から誰か出て来る。医者しかいまい。
ろくすっぽドアも閉めず、気配は洞窟の奥へと歩き去った。
罠かな、と思わないでもなかったが、それに乗るのがおれの身上だ。
おれは素早く小屋へと入りこんだ。ゆきの指示に従い、真っすぐ金庫まで行った。甘酸っぱい空気が鼻孔を刺激する。変質臓器の匂いだろうか。
手探りでダイヤル錠をいじくり――はしなかった。時間がない。さっさと内部の品を失敬して逃げ出す手だ。
おれが取り出したのは、プラズマ・バーナーだった。
太めの万年筆くらいの円筒内には、高電圧をかけて電子が分解した状態の高密度ガスが充満している。
親指でスイッチを押すや、直径一ミリもない先端の噴出孔から、青白いプラズマ・ジェットの火線が金庫を直撃した。
温度は五万度――分厚い鉄のドアも、あっという間に切り抜かれた。直径二〇センチほどの穴をえぐり抜くのに、二分とかからなかった。
内部の品まで焼いてしまっちゃ元も子もないから加減が難しいが、おれには造作もない作業だった。
耐熱手袋をつけて手をさしこむ。二段の棚だ。上を探った。丸めた紙らしいものに触れた。他の品はない。紐をほどいて広げ、表面に触れた。指先が書き記された文字の凹凸を読んでいく。半分はゆきの言ったこの世ならぬ文字だが、半分はおれたちの世界のだ。これだ。
背後から、胃腸が腐るような激烈な妖気が吹きつけてきても、おれはあわてなかった。罠は承知だ。餌が本物だっただけましだろう。
書きつけを上衣の内ポケットに収め、おれはゆっくりと後ろを向いた。
奇怪な斉唱は熄《や》んでいた。
「よう、ドクトル」
と声をかける。
白衣姿は戸口に立っていた。
「わかっているだろうが、もう帰れんぞ」
「鳥居を開けてくれてありがとう。外には野中先生が待機してるぜ」
「あの男もすぐに始末する。それより、おまえが来てくれたことを感謝しよう。眼は治ったらしいな」
「礼には及ばないよ」
おれはMCRを肩づけした。眼は見えないが、狙いには自信がある。
「欲しいものは貰った。さようなら。――どいてくれ」
「いいとも」
医師――の気配――は横にのいた。
背後――戸口の外には、ずらりと人間《ひと》ではない人間の気配。
「ん?」
ひとりだけ、人間《ひと》がいた。
誰だ、と尋ねるかわりに、
「あんたは――」
と口にした。眼が見えないと敵に知られる必要もあるまい。
恐怖を押し殺した声が、
「覚えてる? あたし、コンビニの美紀です」
「ほう、知り合いか」
と医師が愉しそうに言った。
「その娘は、まだこっち[#「こっち」に傍点]に慣らしておらん。新しいやり方を試してみるつもりで連れてきたが、深い仲ならかえって役に立ったようだな」
「深くないって」
と、おれは訂正した。怒りの雰囲気が美紀から伝わってきた。
「ひどいわ。何度も愛し合ったじゃない。コンビニの奥で。店長さんがいるのにィ」
「嘘だ」
生命がかかると何でも口にするのか、この娘は。
「その辺はどうでもよろしい」
と医師は冷たく言った。
「人質というのは、おまえたちのところでは、なかなか効果のある手段らしい。おとなしく武器を捨てろ」
「捨てたらどうする? 逃がしてくれるのか?」
「外へは出してやる。人集めに、な」
「なぜ、こんなに人間を集めた? 何をしでかす気だ?」
「おまえたちの政治や経済を、犬に解説して理解させられると思うか?」
ごもっとも、だ。
「美紀ちゃん。君はいま、どんな状態だ? 腕を取られているか? それとも他に――」
医師が驚いたように、
「おまえ――やはり眼が!?」
と口走った瞬間、世にも奇妙な音がこの世界に鳴り響いた。
車の警笛《クラクション》だ。
医師の足音が遠ざかった。
「美紀ちゃん、どうなってる?」
と、おれは訊いた。
「車が――真っ黒いのが、停まってる」
「何メートル先にだ?」
「一五メートルくらい。あ、ドアが開いた。あの人よ。あなたがピストルで戦った人。車もあのときのだわ!」
「この世界の代表は何処におられるかな? はじめてお目にかかる。盤城伯爵がご挨拶に参上した」
「なるほど、こいつか」
と医師がつぶやいた。おれの耳には聞こえる。
その声がいきなり、訳のわからない、人間の喉ではおよそ出せっこない発音に変わると、
「おまえが動いたら、この娘を凍らせろと命令した」
と、ぶっきらぼうに告げて、盤城の声のした方へと歩き出した。
おれは美紀ちゃんと呼びかけ、
「おれはいま、眼が見えない。あの二人の間に何が起きるのか教えてくれ」
「そんな身体でここへ? 大きな銃持ってるし――あなた、本当に探偵さん?」
「そうとも。君の状態は?」
「両腕を掴まれてる。左右から。おじさんとおばさんよ」
「見覚えは?」
「ないわ。でも、何だか、凄く古めかしい服装」
随分前に“神隠し”に遇った村人なのだろう。いや、その人数からして、日本中からここへ集まっているのかも知れない。ある日、突然、家族の前から消滅した人々が。
「あんた方――おれの言ってることがわかるよな?」
と、おれは気配だけの連中に呼びかけた。
「細かいことは、いちいち訊かない。もしも、まだ少しはもとどおりなら、その娘を離してやってくれ」
返事は低い笑い声だった。身体中の血が凍りつきそうな嘲りの声。こいつら、もう人間じゃないのだ。そこへ、
「いまの医者と、あの黒いコートの男が向かい合ってるわ」
と美紀が報告した。
おれは耳を澄ませた。
一五メートルも向うの話し声など、普通の耳には絶対に聞こえないが、おれの五感は特別製である。かろうじて入ってきた。
「蒼木家の地下で、人食いにおれを襲わせたのは、君か?」
と医者が訊いた。
「そのとおりですな」
と伯爵は応じた。黙礼ぐらいはしただろう。
「ごめんね――聞こえないや」
これは美紀チャンだ。
「何者だ?」
これは医者である。ちょうどいい。おれも訊きたいと思っていたところだ。
「ここ数年、せっかくこちらへ連れて来た連中の失踪が多すぎる。おれの手術を受ける前に消えてしまう。おまえの仕業だな」
「お詫びとお礼を申し上げねばなりませんな、ドクター」
と盤城伯爵は恭《うやうや》しく一礼した――に違いない。どこから見てもぴたりと決まっている――だろう。貴族とは慇懃無礼が服を着て歩いているのだ。
「単なる口舌の辞よりも、ご質問に答えることで返礼といたしましょう。私は、蒼木樹三郎をあなた方の世界へ派遣した、公儀勘定方・田近井直正の子孫でございます」
おれの頭の中で、コンピュータが選び出した盤城の写真資料と、この台詞がぴたりと一致した。
蒼木の方にばかり気を取られて、派遣したパトロンへの調査はおざなりだった。当の直正は、幕府瓦解《がかい》後、三年余にして、故郷の伊勢で割腹自殺を遂げている。それ以後のことは、ノーチェックだった。ただし、それ以前なら記録にある。祖父が一度、室町幕府の埋蔵金絡みで田近井家の墓へ忍びこんでいるのだ。
「私の父は、在野の歴史研究家――といえば聞こえはよろしいが、一種の奇人でありました。家を継ぐや、古い家屋敷をすべて取り壊し、歴史的資料の有無を調査にかかったのです。そして、曾祖父にあたる直正が自刃した書斎の壁から一冊の覚書帳を見つけ出しました。いつどのようにして、塗り替えた形跡もない壁の中にこれを封じたのか、また、そのまま毀《こぼ》たれるのを待つのなら、なぜ焼いてしまわなかったのか、いまでも謎ですが、前者については覚書の中に記されている事実が解明の手がかりとなりました。曾祖父・直正は、帰国した蒼木樹三郎から、この世ならぬものの知識と技術とを、わずかながら伝えられていたのです。
覚書に記された蒼木樹三郎の一件は、父を驚愕させ狂喜もさせました。そこに記されていた品を、やはり忍ばせようもない壁の中から見つけ、すべてが真実と認めた彼は、その最後の記述――樹三郎が発見したという“迷路”の謎を求め、樹三郎が曾祖父に告白した“こちら側”の世界へとつながる土地をめざして十年余の旅に出たのです。しかし、目的は果たせませんでした。そこはもはや、異界と現界とをつなぐ場ではとうになく、父は空しく放浪をつづけた挙げ句、疲れ切った瀕死の姿で帰国したのです」
ご苦労さまなこった、と思ったが、嘲笑う気にはなれなかった。立場が同じなら、おれもそうしたにちがいない。待つものは無残な死であろうと、トレジャー・ハンターの未知への欲求を妨げられはしない。おれたちは勇んで死地へと赴くだろう。砂漠の彼方に沈む夕陽を追って消えていった幾多の男たち、南十字星のもとに黄金の夢を紡いで散った女たちに、おれたちもつづくのだ。
盤城は言葉をつないだ。
「ですが、目的は果たせずとも、無駄にはなりませんでした。父は、そのとき、五歳になっていた私に、放浪の果てで身につけた別の異界の技を授けて逝ったのです。――異界に連れ去られた者たちを喚び戻し、彼らの体内から抽出したある分泌液を使って、こちら側へと侵入する術を。こうして、私はやって参りました」
おれの頭の中で、幾つもの断片が音を立てて組み合わさった。なんでえ、化物の商売敵か。
「確かに、それこそ、おまえたちが我が世界へ侵入できる唯一の方法だ」
それから、おれの方をじろりと見て、
「こちらから招き寄せた場合は別として、な」
当てつけか、この野郎。その澄ましてるはずの邪悪面に、一発MCRをぶちこんでやりたくなったが、抑えつけた。まだ、時機じゃあない。
「人食いになるのは、その副作用だな」
と医者が言った。
「それだけは気がつかなかった。で、分泌液を採取した後、彼らをどうした?」
盤城が声もなく笑った。当たり前のことを訊くな、処分したに決まっているじゃないか。
医師も同じ考えだったらしい。
「どうやら、おれと同じタイプの人間らしいな。ちょうどいい。望みを叶えるという条件で、力を貸してもらおうか」
「何でしょう?」
「その小屋に、おまえの仲間がひとりいる。始末するつもりでおびき寄せたのだが、自分の手を汚すより、仲間同士でこちらの手間を省いてもらおう」
「それはそれは」
盤城がこちらを向く気配。さぞかし嫌な目つきだろう。人の物を狙おうなんて根性の野郎は、眼まで腐ってやがる。
「望みを叶えるとおっしゃったひと言――お忘れにはなりますまいな?」
「もちろんだ」
「では、お役に立ちましょう」
盤城は――多分――大きくうなずき、
「そこにいる君――八頭くんだろう。出て来たまえ」
と呼びかけてきた。この変節漢め。
「真っ平だな」
と、おれは戸口から応じた。
「てめえの正体もよくわかった。悪いが、“迷路”はおれが貰ってく」
盤城は少しの間、沈黙した。次に放った声には、思いもかけぬ敵の一手に面食らった将棋指しのような響きが含まれていた。
「――君も、それが目的か。この辺に、秘密の金鉱かつまらん埋蔵金か何かがあるのかと思っていたが、さすがは八頭の末裔だな。眼のつけどころが違う」
「こりゃ、どうも」
おれは左手で頭を掻いた。
「だが、やはり、それは私のものだ。君には死んでもらう」
「あ、その前に。――蒼木の良美ちゃんはどうした?」
盤城の声に驚きが加わった。
「――君が匿っているのではないのか!?」
驚いたのは、おれも同じだ。こいつのとこにいないとすると。――まあ、いい。後にしよう。
「どーもありがとう」
おれは頭を下げた。ついでに左手も下げる。思いきり。
びゅっと空気が切れた。二度。
美紀の腕を掴んでいるおっさんとおばさんの手が、手首から切断された。単分子チェーンソーにしてみれば、小手調べにもならない。
おれはダッシュして美紀の胸ぐらを掴み、小屋へ引き入れた。
おっさんとおばさんがついてきた。両手からは一滴の血も分泌物もこぼれず、骨も肉も白い。
その胸もとへ、おれはMCRを射った。
二人の笑い声が頼りのなんとか射ちだったが、磁力レールで加速された円盤の直撃は、二人を五メートルも向うへ跳ねとばした。
「大丈夫か?」
と、おれは美紀に訊いた。
「ええ!」
声はしっかりしている。この頃の娘は元気だ。
「よし、まず、こっから脱出する。外にいるのが見えるな? あの二人が敵の親玉だ。場合によっては始末しなくちゃならない。いちいち泣いたりするな」
「わかった」
さすがに声は緊張している。おれはにんまり[#「にんまり」に傍点]だ。たまにはこんな娘がいねえとな。
「盤城は何してる?」
「車にステッキをふってるわ。――あ、後部座席から何か降りてくる。何よ、あれ!?」
「何だい?」
「かか案山子よ。やだ、ぎくしゃく動いてるわ。でっかい。二メートル近いわよ。――わかった、あれって、村でお祭り用にこさえたやつよ」
やっぱりな。なんでわざわざ盤城が案山子なんかこしらえるのかと思ってたら、出来合いか。これも盤城の曾祖父が持ち帰った技術の賜物だろうか。
「何体いる?」
と訊いた。
「三つ。あ、盤城がこっち指さした。――案山子が向かってくるう」
美紀の声は恐怖にすくみ上がっていた。
「他の化物は何してる?」
「道を空けて様子をうかがってる。ねえ、本当に来るわよ。二メートルもある大案山子が三つも」
「まかしとけ。たかが案山子だ。たわし[#「たわし」に傍点]の親戚さ」
気休めの冗談のつもりで言ったら、
「そうね」
と決死隊みたいな声が返ってきたのには驚いた。
「どの方角から来る?」
と訊いた。
「みんな、真正面から。あ、ひとつ右へ、ひとつ左へ」
「沈黙」
と、おれは命じた。案山子の気配と足音から、照準を合わせなくちゃならない。
そこへ――
何とも形容し難い、総毛立つような笑い声が、露天風呂の湯気のごとく湧き上がった。
「きゃあああ」
と美紀が耳を押さえて蹲《うずくま》る。正体は明らかだ。この洞窟の住人どもが一斉に笑い出しやがったのだ。
案山子の気配と足音は、その音波のとどろきに呑みこまれた。
「おい、見てろ」
と声をかけても、美紀はきゃあきゃあ言うばかりだ。
おれは舌打ちして、戸口の表面にMCRの狙いを定めた。磁気強度と加速度を最強のレベルに合わせる。
盤城のアジト――蒼木家の別邸地下でやり合ったときの、案山子の身長を計算して射ったのだが、何しろ高くて細い。直撃すればすべて急所みたいなものだが、外れる確率も大ありだ。
「行け」
ほとんど反動ゼロで、加速された磁気円盤は飛翔した。速度は驚くなかれマッハ30――時速三万六千キロ、秒速だと、約十一キロに当たる。
外れた。
ちい、と洩らして、おれは壁に身を寄せた。
鈍くて重い衝撃が伝わってきた。地面が揺れた。天井から岩の破片が落下してくる。それでも、不気味な哄笑は熄《や》まなかった。
「何だ、いまのは? 洞窟が崩れるぞ」
動揺を隠せない医師の叫びが聞こえた。けけ、ざまあみさらせ。
今度こそ、案山子に一発――と戸口の正面に出る。気配が全身にぶつかった。何か冷たいものが鼻先に迫る。
「わあ」
と右へ傾けた首すじをかすめる感触――でかいナイフだ。二撃目が来る前に、手首と思しいあたりへMCRの銃身を叩きつけた。
ナイフが飛んだ。
「きゃああああ」
前のきゃあより十倍かん高いのが噴き上がった。音の位置からして、ナイフは美紀の足下に突き刺さったのだ。
しめた、美紀が立ち上がった。
「案山子が入ってきたわよ!」
美紀が叫んだ。助かる。助かるが指摘が遅い。
おれは思いきり後方へ跳んだ。背中が壁にぶつかる。痛《いて》。だが、着地すれば同じことだ。
壁に背をつけたまま、おれは近づいてくる足音と気配にMCRを向けた。
射ち出される円盤の、羽毛のごとき衝撃が伝わってきた瞬間、案山子の気配は消滅した。マッハ30で激突した円盤は、その刹那、速度があまりにも速いせいで、衝撃のみを残してすべてガス化してしまう。そんなものを食らった標的がどうなるかは言うまでもあるまい。ガス化はしないが、ばらばらだ。関東大震災級《クラス》の衝撃波が、一万分の一秒で全身に公平に行き渡る。爪先から髪の毛の先まで弾け散ってしまう。恐竜だろうが、戦車だろうが原形を留めない。
背中に不穏な圧がかかった。
前方回転の要領で跳び出す。間一髪で壁の崩れる気配と風圧が室内を凌駕した。別の案山子が小屋をぶっ壊したのだ。
おれはすでに勘での照準を終えていた。床上の残骸を踏みつける足音――十分だ。
次の瞬間、二つ目の案山子も虚空に消えた。
やった、と興奮する余裕はなかった。美紀の悲鳴がおれをふり向かせた。
悲鳴は戸口――床上一・五メートルほどの位置からだった。その背後に、もうひとつの気配。
「案山子よ。吊り上げられちゃったあ!」
くそ。脇へ廻ったと見せて、正面から来やがった。知能犯の案山子だ。
MCRは封じられた。美紀と接触している以上、命中させたら彼女まで粉々になってしまう。
「気をつけて。包丁を持ってるわ」
「右か左か?」
「右よ!」
風が吹いてきた。
おれは右へジャンプした。右手に肉切り包丁を握った案山子の左側へ跳べば、攻撃が遅れる。右へだとバックハンドが来る。刃物の怖いところだ。
起き上がった鼻先を、熱いものがかすめた。――もうひとつ、いたのか!?
「おい、本当に包丁は右手か?」
三撃目をかわしざまに訊いた。尻餅をついてしまう。五キロもあるMCRを抱えているから動きが鈍い。
「あ、ごめーん」
美紀は可愛らしく言った。
「そっちは、あたしを吊り上げてる手よ。包丁は――左手」
「阿呆」
反射的に、おれはMCRを胸もとにかざした。重い気配を感じたのだ。
どん、と当たった。案山子の蹴りだ。身体が浮いた。
だが、空中でおれはうすく笑った。貰った。
右手一本でMCRを支え、左手を思いきりふった。
満腔《まんこう》の自信をこめて、単分子チェーンソーは疾《はし》った。手応え十分――もう一度尻餅をつきながら、おれの笑みはさらに広がった。
地響きが伝わってきた。案山子が倒れたのだ。蹴り足が宙にある間に、軸足を切断されてバランスを崩したのだ。
もともと、山田の中の一本足の案山子だったのが、二本足に慣れてしまった報いだ。人間、楽をするとロクなことはない。いや、案山子か。
「離れろ」
おれは叫んだ。
「うん!」
美紀が遠ざかる気配。つづいて、
「包丁投げる気よ!」
最後の案山子が手をふり下ろすより、おれが引金を引く方が遅れた。
だが、おれには包丁をかわす反射神経があり、案山子にはなかった。
空気の詰まった紙袋を叩きつぶすような音がして、案山子は消滅した。
「無事か!?」
おれは美紀に訊いた。
「ええ。――でも、でも――案山子はどうなったの!? なんか埃みたいになっちゃったわよ。これ、そうなの?」
「よし、行くぞ」
と、おれは叫んだ。
「荒っぽいやり方になるが、仕様がねえ。来い」
駆け寄ってきた美紀を、おれは小脇に抱えた。
「やだ、何、これ?」
と、じたばたするのを構わず、MCRは右手一本で支える。
「外を見てくれ。医者と盤城は、まだ、同じところにいるか?」
「ええ。でも、盤城は車に乗るところよ」
「他は?」
「黙ってこっち見てるわ」
「よし。済まないが、いいというまで、眼だけ開けといてくれ」
「まかしといて!」
元気でいいねえ。
「GO!」
戸口を跳び出しざま、おれは姿勢も安定させず、片手射ちでMCRを放った。
狙いは盤城のロールスロイスだ。
だが、流れ去るエンジン音と――推定着弾位置より大きくずれた地響きが、外れ、と大声で告げた。
それでも、
「わわわわわ。岩壁が吹っとんじゃった。な、何よ、一体。水爆でも射ちこんだの!?」
と美紀は喚いた。
「まあな。医者はどうしてる?」
「地べたへ伏せているわ」
「よし。他は?」
「やだ。みいんな、じっとこっちを見てる。あ、医者が手をふってる。わわ、向かってくるわ」
「らっしゃい」
おれはMCRのパワー・スイッチを最低レベルに切り替えて、掃射を開始した。
周囲の気配が、まとめて十も二十も吹っとんでいく。
ひとりに命中すると、衝撃波が周囲の連中も薙ぎ倒してしまうのだ。MCRの威力は、磁気強度と加速度で変わる。従って、フライ級ボクサーのKOパンチ並みから、関東大震災級まで、親指一本でまかなえる仕組みだ。
「道が開いたか?」
「オッケー!」
「ナイス」
おれは地を蹴った。
邪魔する者はない。この世界の住人どもがKOパンチにびくともしなくとも、吹っとべば道は開く。
五〇メートルほど一気に走り抜けた。通路まで、あと五〇メートル。
「右から車が来る!」
美紀が叫んだ。
おれの頭の中で映画のテーマが鳴り響いていた。タイトルはわからない。だが、いつもフル・オーケストラで鳴り響く。クライマックスだと告げるように。
おれの耳にもエンジン音と地面の揺れは伝わってきた。
「距離はね――」
「しっ」
おれは腰だめで引金を引いた。命中。
「つぶれた!」
美紀が歓声を上げた。
「ひしゃげたわ。止まった」
おれは身震いした。パワーは最強に合わせてある。それで、車が一台ぺしゃんこになっただけか。やはり、世界が違うのだ。
「また来るわ! 平気よ!」
近い。
「右に岩があるな。その陰に入れ!」
美紀を突きとばして、おれも地を蹴った。間一髪、もといた位置をロールスロイスが踏みつぶす。五、六メートル走って方向転換するその方角へ、おれは右手をふった。
「あらあ!?」
と美紀が叫んだ。驚きいっぱいの声だ。
「何よ、あなたがいる[#「あなたがいる」に傍点]わ。ひとり――三人――いえ、十人も! 車が停まったわ。困ってるのよ!」
「そうとも」
つづけざまに二発放った。
「どうだ?」
「前よりひどくつぶれたわよ」
「それだけか?」
「うん。――きゃあああ」
悲鳴の理由はおれにもわかっていた。周りから押し寄せる数百、いや、数千の気配。
「み、みんな来るゥ。お、奥からも」
「奥?」
そういやあ、洞窟の奥にも道があった。ひょっとして、それを進めば、洞窟の向うに広がる“こちら側”の全世界を覗けるのか。
だが、おれは歯がみする思いでMCRを天井へ連射した。
頭上遥かで鈍い轟きが広がった。左右の壁へも引金を引きっ放しにする。
同時に美紀を放し、脱出装置のリモコン・スイッチを押す。
美紀を抱き直したとき、洞窟は不気味に震動した。
何が起こったのかは、眼をつぶっていてもわかる。壁と天井が、MCRの直撃で崩壊しはじめたのだ。いくら物理法則の異なる別世界でも、おれも武器も無事でいられるのだ。少しはおれたちの世界と重なり合っているに違いない。
「まだ来るわ。でも、みんな、別のあなたの方へ行っちゃう。何よ、これ? 分身の術?」
「そうだ」
いきなり引かれた。
背中につけた極細のワイヤを、蒼木神社の森の中に置いてあるモーターが巻き取りを開始する。
次の瞬間、おれと美紀は猛然と宙を、後ろ向きに飛んでいた。
追いすがる連中がみるみる遠ざかり、どこかにある天井から落下しはじめた岩塊の間をすり抜けて、あっという間に岩角を曲がった。
普通のワイヤなら、どんなに巻き取りが速くても、遠心力のせいで岩壁に叩きつけられてしまうが、そこはそれ、このワイヤは形状記憶合金製なのである。つまり、おれが通ってきた道すじを、自分がどんな形で通過してきたか――曲り角はどの角度でどう曲がり云々――完璧に記憶し、巻き取り時には、同じ形を極力取ろうとする。
もちろん、遠心力は自然に働いて、おれと岩壁をキスさせようとするが、ワイヤには、その固有の能力の発揮と維持が第一に要求される。正確に過去を再現すべく、特殊合金は鋼《はがね》と化して、おれにも同じルートでの帰還を強制するのだ。
あまりのスピードに、美紀が悲鳴を上げた。声は一瞬尾を曳き、すぐ口もとから引き剥がされた。
「崩れるう」
おれには、美紀の叫びが合図のように思えた。イメージが閃く。
天井が落下し、横倒しになった壁が、眼の前の――つまり、背後の視界を埋めつくしてゆく。追っかけてくる。崩壊が。
両側の壁がのしかかってきた。風圧でわかる。天井の質量がそれを押しつぶし、おれたちに迫る。風と轟きが顔をひっぱたいた。
美紀の絶叫が尾を曳き、
「あら?」
と言った。
おれたちは、静かな林の中に立っていた。光度からして正午近い陽射しが木立の間から洩れている。
すぐ後ろで脱出装置のモーターが、停止寸前の間のびした音を立てていた。
きょとんとしっ放しの美紀を下ろし、腰のワイヤを外しているところへ、
「お帰り」
と声がかかった。野中教師である。
「最後の鳥居の下へ入ったと思ったら、ぱっと消えちまった。出て来るときも同じだ。少々驚いたぞ」
「何人殺った?」
と、おれは意地悪く訊いた。野中に残した自動銃のことだ。
「残念ながら、ひとりも、だ。だが、村は大騒ぎだぞ」
「そうだろうな」
と、おれは納得した。
概気医師が死に、駐在のおっさんも死んだ。しかも、殺した奴が“神隠し”の村人ときてる。三吉クンと三狩看護婦の口からこの話が村中に伝わるのに、一時間とかからなかったろう。都会みたいに、んな馬鹿な、とはいかない。ここは“神隠し”がまだ生きている村なのだ。
「神社へも人が来たが、我輩には気づかずに帰った。あの見幕じゃ、蒼木家が危ない。私刑《リンチ》にかけられる恐れがある」
「いつの話だ?」
「十分ほど前だ」
「ふむ」
おれは鳥居の方をふり向いた。
ここから別の世界の医者が現われ、“契約”どおり、村人を拉致し去ったのだ。
「ん?」
と野中教師が眼を細めて、
「何だか、鳥居の奥から砂煙が洩れてくるような。――おっ!?」
「どうした?」
「奥の鳥居がこっちへ倒れた。おっ、次の鳥居も――次も、ドミノ倒しだぞ。危ない!」
「離れろ」
叫んで跳びのこうとした。足が動かない。おれともあろう者が、子供がつくったらしい“罠”――草と草を結んで通行人の足を引っかける仕掛け――にかかってしまったのだ。頭上に鳥居の風圧が迫る。
「危ない」
「きゃあ」
野中と美紀の悲鳴を地響きが掻き消した。
それはすぐ、
「おおっ!?」
「あらあ」
と驚きの声に変わった。おれは倒れた鳥居を貫く横木――「貫《ぬき》」の向う側に立っていた。“罠”を外し、思い切って鳥居の方へダッシュした成果だ。
「鳥居は全倒か?」
と訊いた。
「ああ」
と野中。
「何か見えるか?」
「いや――それよりも、こう何か、清々しい感じがするなあ」
「ほんとだ。この森っていうか、鳥居のそばって、昔からうす気味悪くて、あまり近寄る人いなかったのよね。それが普通になったわ」
「そいつはよかった」
おれは鳥居の柱をまたいで外へ出た。
どうやら、鳥居の奥にあった異界の門は閉じられたらしい。別のが何処かにあるかも知れないが、おれには関係がない。
「では、後はまかせる。――頑張ってくれ。その銃は返せ」
「しかし」
「うるせえ」
渋る野中から、おれは自動銃とルガーを奪い取った。何とかに刃物だ。
脱出装置を持ち上げ、駐車場の方へと歩き出す。来た道を辿るだけだから簡単だ。
「どこへ行く?」
「本職に戻るのさ。美紀ちゃんは家へ届けてやれ」
「ちょっと――逃げちゃうの?」
「とんでもない。これからが本番なんだ。いままでは、おまけ[#「おまけ」に傍点]さ」
「無責任だわ。この村がおかしくなったのは、あんたが来てからよ」
美紀の声に怒りがこもった。おれは気にもせず、
「タイミングの問題だよ。おれのせいで始まったのなら、おれがいなくなりゃ、みんな片づくさ」
こうなるとハードボイルドだ。
「君がおらんと困る。“神隠し”の人々が次々に出て来たら、村はどうなると思うかね?」
野中の声も切迫していた。
「ジルガジルガ」
と答えて、おれはポルシェに辿り着き、ドアノブに手をかけた。錠は特製の指紋錠だ。おれ以外じゃ絶対に開かない。
誰かいる!
おれは車から離れて、後ろからついてきた二人に、見てくれと要求した。
おれを押しのけるように二人揃って前へ出たのは、おれへの反発のせいだろう。
「蒼木さん!?」
と美紀の叫びが上がった。
「――良美さんよ」
これまで何処にいて、どうしてここへ来たのか。質問は二人にまかせて、おれは車を離れ、医師の金庫から失敬した書状を開いて、その表面に指を這わせていった。
「なるほどな」
墨の凹凸を読み取ったとき、二人の近づく気配がした。
「蒼木さん、何も答えてくれない」
と美紀が告げた。まだ怒っている。怒りながら、
「ひと言だけ、言ったわ。あなたと話したいって」
「だろうと思った」
おれは、しみじみとうなずいて見せた。
「彼女は家へ送ってく。ここで別れよう」
「そうはいかんよ」
と野中が異議を唱えた。
「我輩は教師だ。生徒を放ってはいけない。同行するぞ」
「蒼木くんはおれと話したいと言ってるんだろ。道々聞くさ。あんたは、美紀ちゃんを頼む」
「しかし」
「美紀ちゃんを送ってから、気が向いたら蒼木家へ来るといい。とにかく、“向う側”の連中が出て来る通路はつぶした。もう安全だ」
ま、どーでもいいという意味だ。おれはもう、この村にも、戻って来た連中にも――蒼木家にさえ興味を失くしていた。
「それなら、石川くんの家まで乗せていってもらいたい。我輩はその足で君と一緒に蒼木家へお邪魔したい」
「そんなにおれが気に入ったのかよ」
「そうとも」
こりゃ後ろから一発、と思ったとき、意外な救いが駐車場へ入って来た。天の使いだけあって、白いカリーナに化けている。
カリーナに乗っていたのは、神社のバイト巫女――牧村咲子だった。
村での騒ぎも知らず、律義にバイトにやって来たという。
おれは十万円を握らせ、野中教師と美紀を家へ送ってくれるよう依頼した。
「――いいわよっ!?」
この村なら、さぞや使いでがあるだろう。咲子は小躍りつきで承知し、後の二人も渋々、おれとの別れに同意した。
「あ、そーだ」
カリーナに乗りこもうとする美紀に、おれは片手をさし出した。
「何よ?」
「コンビニのガラス代の領収書」
「あれって昨日の話よ。ガラス屋さんが来るのは、今日の午後」
ふと気がついた。そうか、まだこの村へ来て一日しかたっていないのだ。なんて、濃い一日だったろう。
「わかった。とにかく、ちゃんと貰っといてくれよ。後で取りにいく」
「ほんとセコイわねえ、あなたって」
この捨て台詞を置き土産に、カリーナは走り去った。
「どうしてた?」
ポルシェが駐車場を出るとすぐ、おれは助手席の良美に尋ねた。
「何も。森の中をうろついてた」
返事はすぐに来た。
「風邪引かなかったか?」
「大丈夫――寂しかっただけ」
人目を避けて森の中を歩いていると、神社の近くへ出た。そこへおれと野中教師がやって来たという。車のドアは引いたらすぐに開いた。異世界の人間にこちらの都合は通じないらしい。
良美が盤城とはじめて出会ったのは、家の中庭だった。はっとしたとき、ネクタイ止めの宝石の光が眼を貫き、それからのことはよく覚えていない。気がつくと、おれと初対面と相なった美紀のコンビニの前にいた。
「気を失っている間に、あたし、人食いにされてしまったのよ。それならそうなってやろうと逃げ出したけど、それでもひとりじゃやってけない。ねえ、私、どうしたらいいの?」
「まかしとけ」
と、おれは即答した。
「君に教える暇はなかったが、完全に変身するには、今日いちにち猶予がある。それまでに手を打てばいいんだ。安心しな」
「打つ手なんか――」
「あるんだな、これが」
「本当!?」
良美の青白い顔に、みるみる希望の花が開いた。
「まかしとけ」
おれは胸を叩いた。
「君の父さんは、盤城と取り引きした。恐らく、奴は“迷路”――曾祖父さんが例の化物医者の仲間と交渉して手に入れた異界の技術か君を引き渡さなければ、村の人間を変身させると脅したのだろう。君は異界の門をくぐるのに必要な人間だった。で、父さんは君を渡すことにした。おい、冷たいと思うなよ。父さんは、ずっと前に、変身をふせぐ薬品のレシピを手に入れていたんだ。正しくは――と言っても想像でしかないが――曾祖父さんが、“迷路”を手に入れたとき、その交渉相手から教えてもらったんだ。交渉相手は、だから、変身については何も知らなかったあの医者じゃない。“神隠し”に遇った連中がおかしなものに変身を遂げるというのは、随分前から向う側にも知れていたんだろう。盤城と同じ手を考え出した奴は、他にもいたってことだ。とにかく、曾祖父さんは、それを昔のノートに記し、父さんは金庫にしまっておいた。おれはそれを読んだのさ。父さんが、君の変身を止めなかったのは、そうやって治療手段を手にしていたからだ。君を見捨てたわけじゃない」
良美がじっとおれを見つめる気配がした。
「そうかなあ」
わざとぼんやりつぶやいた。本当は嬉しくて胸がはち切れそうなのだ。
「そうとも」
「うん――信用する。あなた、すっごい頼りになってくれてる。はじめからそばにいると、私、安心できた」
「そうだろ、ははは」
おれは内心、臍《ほぞ》を噛んだ。早いとこ、何もかも放り出しておさらばしたいのに、厄介なことになりそうだ。
元気が出たのか、良美は自分から話しかけてきた。
「父さんと兄が、赤座さんのペンダントを欲しがったのは、どうして?」
「それも、曾祖父さんのノートに書いてあった。曾祖父さんは、変身除けの薬の書きつけが紛失するのを恐れ、現物を調合して、当時、村でいちばんの旧家で人物だった赤座家の、これも曾祖父さんに託したんだ。彼はそれを黄金の隠し箱に入れて約束どおり保管しつづけた。ここから先はおれの想像だが、赤座家の誰かが、箱を見つけ出し、これは素敵とペンダントにつくり直してしまった。あれは赤座くんの母さんから譲られた品だ。そのことを、お父さんは赤座家の誰かから聞いてたんだろうな」
ついでに、おれの考えを話すとこうだ。
少なくとも広美の母親と広美は、ペンダントの内側に隠された薬の事情はともかく、効果は知っていた節がある。蒼木樹三郎のノートに記されている成分を見ると、生身の人間に使えば全身硬直を起こして、一日二日は動きが取れなくなる。何かの拍子に、動物か人間が吸いこんでしまい、広美はそれを目撃したのだろう。だからこそ、うるさいおれに服《も》ってやれと、野中へ指示したのだ。当人も使ったことがあるかも知れない。
「私、父さんに謝らなくちゃ。誤解するにも程があるって」
良美の明るさを取り戻した声は、おれに真実を告げさせなかった。蒼木氏はもういないのだ。
眼が見えないから、蒼木家まで大分かかり、何事もなく到着したのは昼過ぎであった。
まず、お手伝い頭が、ついで道綱が駆けつけた。何事もなかったらしい。良美のことは道綱にまかせ、おれは彼に、
「あの鞄はどこだ?」
と訊いた。
妹を抱き抱えていた兄貴の安堵の表情が固くなる。
「父の寝室だ。サイド・テーブルの上にある」
「お邪魔」
片手を上げたきりで、おれは居間を跳び出し、蒼木夫婦の寝室へ、突風のごとき勢いで滑りこんだ。
ベッドには、白布を顔に被された蒼木氏の遺体。鞄は? 手探りで探した。あった。
しっかりと掴んで、おれは外へ出て、裏庭へ下りた。兄妹が来るとまずい。
鞄を開けたくなる衝動を抑えながら、おれは携帯をゆきにつないだ。
「はーい」
と出た。
「どうだった?」
と訊いた。
「何が? ――いい気持ちだったわよ」
「阿呆。あの助平爺いのこっちゃない」
「ああ、ギョブナースチ爺さんの方? あいつも上手かったわよ」
「何が、だ?」
「何がって、あれ[#「あれ」に傍点]でしょ?」
「おまえ、二百五十歳の爺さんにも――」
「いいじゃないの、おっぱい触らせて、お尻にキスさせるくらい。――常識よ」
「何の常識だ!」
おれの見幕に、ゆきは呆っ気に取られたみたいに沈黙し、すぐに、けけけと笑い出した。
「ねえ、大ちゃんってばあー」
「何だよ?」
「灼いてる?」
「莫迦野郎」
「野郎じゃないもン」
おれの頭はとうに沸騰していたが、何とかこらえた。
「おまえが身体中にキスマークつけてようと構わん。薬は手に入れたか?」
「何とか、ね」
「いま、どこだ?」
「さあて、と」
ゆきは思いっきり思わせぶりな口調で言い、
「ね、この薬――大切?」
と来た。やっぱり、な。
「ああ、大切だ」
「ならさあ。も少し、あたしの分に上乗せしてくんない?」
「幾らだ?」
「十億」
「この守銭奴――銭ゲバ女」
「やならいーわよ。あたしにだって、考えがあるもーン。お薬、どっかへ置き忘れちゃったりして」
「この……」
ゆきは、わざとらしくルンルンと口ずさみ、おれはついに折れた。
「わかった。十億だな。ただし、端数は三十万だ」
「二十五億と三十万ね。わーい。ありがとう! すぐ行くわ。住所、どこ?」
それを伝えて、
「いま――」
どこだ、と訊く前に、電話は一方的に切れた。
とにかくOKらしい。おれは早速、今回の目玉を開陳することに決めた。といっても、観客はおれひとりだが。
医者が奇怪な手術を施していたあの丸太小屋の中の金庫――そこから失敬した書きつけに記されてあったのだ。おれの今回の目標――異界の財宝ともいうべき品は、地下墓地に常備される[#「地下墓地に常備される」に傍点]診療鞄の中にある、と。
順序立てて話せばこうなる。
蒼木樹三郎が“迷路”を手に入れる代わりに、異界の連中と邪悪な“神隠し”の契約を交わした場所――それこそ、あの丸太小屋であり、契約書こそ、あの書状だったのだ。
おれの祖父に会ったとき、樹三郎はそのことを打ち明け、契約書は永劫にそこの金庫に保管され、“迷路”の所在も契約書中にしたためられていることを教えた。鞄の中だと打ち明けなかったのは、やはり、そこまで他人に教える気にはなれなかったのだろう。
相手が医者の格好をして、最初から鞄を使っていたものだから、おれは鞄をあいつのもの[#「あいつのもの」に傍点]だと勘違いしてしまったのだ。眼が見えなかったせいもある。しかし、最初、鳥居の前から出るとき、手ぶらだった[#「手ぶらだった」に傍点]のを憶い出すべきだったな。医師は食人おばさんに咬まれる寸前、鞄を持つ腕を横へのばした。壁のくぼみに。彼は自分のものではない鞄を元の位置に戻そうとしたの[#「自分のものではない鞄を元の位置に戻そうとしたの」に傍点]だ。なぜ鞄が“迷路”の容《い》れものに選ばれ、医師が好き勝手に利用したのかはわからない。異世界との契約なんてそんなものなのだろう。
おれは何度も鞄を撫でた。
しかし、こいつはどうしても開かなかったのだ。無駄とは思いつつ、またアタックしたが、やはり駄目だった。かといって、MCRなんかで無茶したら、何が起こるかわからない。入っているのは、異界の品と――道綱、良美のお袋さんなのだ。
おれが資金援助している物理学研究所か魔術団体にでも依頼して、開けてもらう他あるまい。二、三年は覚悟しなきゃならないだろうが、“迷路”がどんなものかは、ひとめ見たかった。
亜米利加《アメリカ》の攻撃を阻むための幕末の“迷路”――考えただけで、ゾクゾクしてくる。
感激のあまり、おれはそれを思いきり頭上へ放り上げた。落下地点など一発でわかる。
それなのに、身体は斜め右へ跳んだ。
だしぬけに、としか言いようのない状態で、おれのもといた場所の空気を跳ねとばし、急ブレーキの音もけたたましく停止したのは、言うまでもない――
「まだ生きてたのか――盤城」
と、おれは嫌々口にした。
「仰せのとおりだ。動くな」
おれは構わず動こうとしたが、鞄の落ちたはずの位置からは、落下音にあらず、人の声が聞こえた。
「渡してもらうぞ」
畜生――医者まで生きてやがったか。
「どこから脱出したんだ?」
と、おれは最大の疑問を盤城にぶつけた。
「君と同じだ。私があの洞窟世界へ入ったところからさ」
「それが、ここか?」
おれとしたことが! 盤城がいきなり、この中庭へ車ごと出現したのは、これで二度目ではないか。“迷路”を手に入れた興奮のあまり、おれの五感も惚けてしまったのだ。
「正確には、外の一点だが、そこはもうふさがってしまった。私のこしらえた通路は、術が未熟なせいで、長くは保たんのだ」
「おまえも保たなくしてやるよ!」
言いざま、おれは抜き射ちでグロックを放った。MCRさえあれば、と思いながらのせいでもあるまいが、盤城はよろめいただけだった。
それでも時間は稼げる。おれは医者の腕めがけて単分子チェーンソーをふった。
それが空中で切断される手応えは、おれをさすがに驚かせ、すぐに納得させた。医師が異界のメスをふるったのだ。
跳びのこうとした刹那、右腿に灼熱の線が走った。
声もなく――ではなく我慢して出さず――思い切って倒れて、二撃目をかわす。頭上の空気が裂け、左へ身をねじった。地面が弾ける。草と土が頬に当たった。
地面を転がりながら、おれは医者めがけてグロックの引金を引きつづけた。
手応えはあり。しかし、医者は高々と笑った。しまった。弾丸《たま》が切れた。
「盤城――早くとどめを刺せ」
「承知」
言うなり、風を切って――。
おれはジルガを使って右足の痛みを止めていた。その分、反応が遅れた。腰を貫いたのは、盤城のステッキ――仕込み杖の刃だろう。
急所はかわしたが、効く。
「死ね」
刃を引き戻して、奴は二撃目を送ろうとした。
そして、立ちすくんだ。おれにはわかっていた。奴の前にはおれが立っていたのだ。空弾倉を排出し、予備の弾倉を叩きこんだ。おれ[#「おれ」に傍点]が刺される気配がした。おれは猛射を送った。ステッキが吹っとぶ音。しかし、盤城は倒れない。
「もうひとりの君が銀色の金属片に化けたぞ。幻覚装置か?」
「そのとおりだ」
少しの間、おれは奴より優位に立った。蒼木氏に地下の宝物庫に押しこめられたとき、救いにきた道綱が別のおれを見かけたのを覚えているだろうか。あのとき、おれは三次元ホログラフィ――立体像をつくり出す光学処理を施した金属片を一枚、残しておいたのだ。
蒼木氏の眼をそらすためだが、ここでも役に立った。もうひとつ――あの洞窟でも。
しかし、どうやれば盤城はくたばる?
頭上で、良美、と叫ぶ道綱の声がした。
びゅっと風を切って何かが落下し、盤城にぶつかった。
「あなたのせいで――」
それは良美の叫びだった。
「あなたのせいで、私は人食いになんか――」
蒼木氏の寝室は二階だ。その窓から、兄妹は、おれの戦いを目撃したに違いない。
「離せ」
とののしり暴れる盤城の声が、突然、苦鳴に変わった。あの叫びは――逆を取られたのだ。良美の合気道で!
肉のちぎれる音がそれに混じり、生あたたかいものが、おれの顔にかかった。
「あなたが変えた人の肉を食う悪魔に、自分が食われる気分はどう?」
良美の気持ちを思えば、たまらない状況だった。しかし、おれは意識を医者の方へ向け、ふたたびグロックをポイントした。
「見えない眼で当たるか」
医者は嘲笑した。
「残念でした」
おれは一度だけ、引金を引いた。
医者の手から、握り部分を断ち切られた鞄が地面へ落ちる。
「しまった!?」
何千回と耳にしてきた叫びだが、これほど身の毛がよだつのは、はじめてだ。
おれは見た[#「見た」に傍点]。地べたに転がった鞄の蓋が開くのを。中味でも確かめようとして、医者は留め金を外してしまったに違いない。
ごお、と風が唸った。
「良美ちゃん――家へ入れ!」
と、おれは叫んだ。何が起きるのか、想像がついた。風は鞄から吹いたのだ。
鞄の内部から、光る霧とも煙ともつかぬ塊が噴き出し、中庭いっぱいに広がるのを、おれは茫然と見つめた[#「見つめた」に傍点]。薬の調合のせいか、いったん暗黒に戻った視力は、ついさっき、医者の手から鞄を射ち落とす寸前に、突如、回復したのだ。
光る霧が形を整えていく。壁のように。それがうねくり、組み合わさってひとつの通路をつくり、さらに別の道とつながり――これは確かに“迷路”だ。
「私はもう脱出できん」
光る壁を通して、医者の姿がかすんで見えた。
「だが、それは世界中に広がる。入ったら、二度とは出られんのだ」
「良美」
母屋の戸口から、道綱が現われた。
「来るな」
それでも駆け寄ろうとする道綱の足を、おれは払いのけた。
転倒するのを尻目に、這いつくばったまま身体の位置をずらし、グロックを鞄に向ける。狙いは――
両眼が確かなおれに仕損じはなかった。一発――ただ一発の九ミリ・パラベラム弾は、開いた蓋を元の位置へと弾き返したのだ。ご丁寧に、ショックで留め金までかかった。
「良美!」
立ち上がろうとする道綱の襟首を掴んで、おれは引き戻した。
「もう間に合わない。あきらめろ」
良美と盤城と不気味な車は銀光の壁の向うに陽炎《かげろう》のごとく揺れ、そして、空気に拡散しつつあった。
色を失い、形も失っていく。
「さよなら、兄さん」
良美の声は、むしろ、明るかった。女は強いのだ。
「これでいいの。さよなら、さよなら、八頭さん。私――あなたが好きでした」
別れの言葉が細く小さく遠ざかり、奇怪な“迷路”が永久に空気と同化し去ってからも、おれは、すすり泣く道綱をがっちり捕えたまま、その後を追っていた。
それからのことは、以下の如しだ。
警察は、蒼木氏の死を自殺と断定し、道綱は無関係と認めた。良美は父の死のショックで家出。これだけだ。村での“逆神隠し”事件は集団幻覚と、警察が呼んできた医大の権威が診断して収まった。蒼木氏の別荘は浮浪者の失火が原因で焼けたのであり、駐在と概気医師の死は、偶然、心臓麻痺が重なったもの。――もちろん、警察へも、医大の権威にも、おれが手を廻したのだ。一億ほどかかったが仕方あるまい。眠り放しだった広美は、盤城と医師が消えてすぐ覚醒し、何の異常もない。
その前に、おれは村を出た。
蒼木家には、野中教師も駆けつけた。おれは道綱と彼にだけ別れを告げた。
道綱は止めなかった。
「世話になった。君が誰だか、いまだによくわからないが、いつかまた会えるといいな」
「おれもだ。安心しろ、手は打っといた」
「何だかわからないが、ありがとう」
おれは道綱の肩を叩いてから、野中教師へ眼をやった。
「もう、おかしなもンに凝るなよ」
不良教師はうなずいた。
「うむ。これからは刀剣にしよう。あれなら本物が手に入る」
「やめろって。――淫行もな」
「余計なお世話だ。広美が卒業したら結婚してやる」
「幸運を祈る。女心と秋の空だぞ」
笑いかけられたのが、なによりだ。
おれは外へ出て、ポルシェに乗った。
応急手当てだけした腿の傷は、少し疼く程度だ。手を触れた。
「あ」
スラックスの裂け目はポケットまでつづいていた。そして、“ネフェルティティの涙”は――当然ない。
あの中庭か、とも思ったが、おれはポルシェをスタートさせた。残っていれば、道綱か誰かが見つけるだろうし、“迷路”とともに消えたなら、それもよしだ。
もう少しで国道への道、というところで、一台のフェラリが前方を通りすぎた。
ハンドルを握る娘へ、おれは、
「遅かったな」
と声をかけ、一目散に逃げ出した。
十五億、いや、二十五億と三十万円と、これからしばらく連呼されるのはわかりきっていたからだ。
『エイリアン蒼血魔城』完
[#改ページ]
あとがき
何年ぶりだろう。算えてみて下さい。とにかく、エイリアン――トレジャー・ハンター・シリーズの復活である。
新宿某所で開いているトーク・ショーでは、
「いやあ、現代の電子機器についていけなくなってさあ」
などと言い訳していたのが、その舌の根も乾かぬうちにこれである。
ここに前言撤回を宣言し、改めてお詫びします。どーもです。
しかし、長い話ばっかりやってきたせいか、一冊三百枚くらいで終わらせるつもりだったのが、担当I氏の「三百六十枚くらい」の声もなんのその。四百七十枚の大作になった。一冊本でこの枚数も何年ぶりだろう。
多分、大とゆきのせいである。この二人と久しぶりに冒険しまくるのが愉しく、筆を収められなかった。
大はもちろん大暴れだが、ゆきはちょっと面白い出方をする。賛否両論――お便りはいつでも編集部へどうぞ。
しかし、久方ぶりに、血湧き肉躍る執筆状況であった。
いくら書いても終わらず、どう終わるのか見当もつかなかったのに、ちっとも辛くない。なに、いつか終わるさ、それもハッピーにな。
そのとおり。いま、私は鼻歌を歌いながら、この「あとがき」を書いている。
何はともあれ、久しぶりの「エイリアン」ですよ。何も言わずにお薦めする。お愉しみ下さい。
二〇〇〇年一月末日
「魔像ゴーレム」を観ながら
菊地秀行