エイリアン魔神国〔完結篇3〕
菊地秀行
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目次
第一章 疫病神の名は?
第二章 妖女の最期
第三章 エニラ再訪
第四章 サイキック
第五章 二重存在(ドッペルゲンガー)の影
第六章 最終戦争(ハルマゲドン)一秒前
あとがき
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第一章 疫病神の名は?
1
心臓がこんなに速く打った覚えはない。
無意識のうちに、おれはアクセルを思いきり踏んでいた。
身体がシートにぶつかる。あまりの勢いに、
「何すんのよ!?」
とゆきは叫んだが、おれは返事もせずに車をとばしつづけた。カーブでもノーブレーキだった。テールが塀にぶつかり、出合い頭のトラックがハンドルを切り損ねて、反対側の家並みへ突っ込んでいく。済まん。
通常の半分の時間《タイム》で港に着いた。
人垣ができている。その先で見覚えのあるクルーザーが炎と黒煙に包まれていた。
「何しやがる!?」
怒声がいくつも上がったのは、おれが押しのけたからだ。
岸壁から飛び移ろうとするのを、背後から、
「よしなさいってば!」
ゆきが腕を掴んで止めた。
「離せ、馬鹿野郎」
とおれは抗《あらが》った。あの炎の中にキャロルがいるとしたら、おれはどうやって責任をとればいい? どの面下げてシュミットに会える? それどころか、一生、安らかに眠れやしない。
この世でただひとりの伴侶を、笑顔で戦いの場へ行かせてくれた盲目のキャロル。おれの生命を百個差し出してもまかないきれない黄金の娘だ。それが苦痛に満ちた死を味わっているとしたら。
「離せ!」
おれは上体をひねって、ゆきの頬に肘打ちを見舞おうとした。
その刹那、炎が倍にふくれ上がった。燃料に引火でもしたのだろう。衝撃波が届く前に、ゆきがおれを押し倒した。火のついた破片がふりかかり、何人かの野次馬が悲鳴を上げる。爆風で吹っとばされた奴が、腹や頭を押さえて呻いていた。
クルーザーは、油でぎらつく水面に浮かぶ数個の炎と化していた。
「行くわよ。――エニラ一派が見てたらどうするの」
ゆきの叱咤をもっともだと思いながら、おれはすぐに動くことができなかった。最後に見た金髪の娘の笑顔が脳裡に灼きついていた。
「二、三人、おかしいのがいるわよ」
ゆきが耳もとでささやいた。
「どこに?」
我ながら情けない声だと思った。
「右隣の奴よ」
さすがに、そっちを見た。
赤シャツで髯面の大男が立ち上がるところだった。
「さっきから、こっちの様子を横目で窺ってるのよ。眼つきが普通じゃないわ。他にも、左の――ほら、マドロス・パイプを咥えた奴と隣の若いの」
「じゃ、ひとまず退散だ」
とおれはようやく起き上がりながら言った。
車の方へ歩き出す。
フロント・ガラスの向こうで人影が動いた。
無茶な奴だった。ガラスを破りもせずに、車内で短機関銃《SMG》の引金を引いた。
ゆきは伏せ、おれは真っしぐらに突進した。
こいつらがキャロルを手にかけたのだ。頭の中がひどく冴えていた。
SMGの弾丸はことごとく、おれの顔と腹に集中したが、青い火花をとばすだけだった。機械服《メック・ウェア》着用中だ。車のノーズから三メートルほどのところで、おれは跳躍した。
背後で銃声。空中でふり向いた。路上に伏せたゆきが、こちらへ向かってくる赤シャツとマドロス・パイプを射ち倒したところだった。どっちも肩を押さえて引っくり返る。片手のMAC11が路上へ・三八〇スペシャル弾をぶちまけ、アスファルトの破片を製造していく。
ゆきの武器はおれのグロックだった。さっき、後ろから抱きついたとき失敬しやがったな。おれは舌打ちした。あいつの器用さを誉めるべきか、おれの放心ぶりを責めるべきか。
次の瞬間、おれは足先からフロント・ガラスをぶち破って車内へ跳び込んでいた。
まさか三メートルも宙をとんでくるとは思っていなかったらしく、そいつは逃げ遅れた。おれにできたのは、顔面へ食い込む爪先のパワーを心もち手加減することだけだった。それでも両眼は飛び出し、鼻はつぶれた。顔は骨から整形しなくちゃなるまい。
おれは車にもぐり込み、そいつの胸ぐらを掴んで、
「てめえ――どこの組のもんだ?」
と訊いてから、
「どこの組織だ?」
と訊き直した。どうも、地が出て困る。昔、東映の実録やくざ路線を見過ぎたせいだろう。
ふくれ上がったトマトみたいな顔が恐怖に歪んだ。おれの怒りはそれほどのものだった。
「……情報局……処理班だ……」
すると、ヤンガー大佐の部下《てか》だな。
おれは手をゆるめず、
「クルーザーに火をつけたのは、きさまらだな。盲目の娘が乗ってたはずだ。どうした?」
と訊いた。歯を剥いている。奴は喉をふるわせ、
「知らん……おれは、おまえを迎撃しろと……クルーザーを襲撃したのは……別の班だ」
「なんて班だよ? 班長の名前は?」
「……第三班……班長はコルク・ボナリーだ……」
「ご苦労」
おれはそいつを締め落としてから地面へ放り出し、ハンドルを握った。まだ怒りが判断を狂わせていた。
アクセルを踏み込んだ瞬間、背筋に戦慄が凝集した。
足をのけようとしたが遅かった。
眼の前が炎に包まれ、衝撃が空中に身を浮かせた。圧搾式の爆弾は、車の底にでも仕掛けてあったのだろう。いつものおれなら、点火する千分の一ミリ手前でストップをかけられたはずだ。激情が生命まで奪うという見本だ。
おれは五メートルほど吹っとんで足からアスファルトへ下りた。機械服がなかったら、もちろんお陀仏だ。
立ち上がる全身は銀色の光に包まれていた。
「大ちゃん――無事!?」
ゆきが駆けつけてきた。おれを見て、はっと右手のグロックを向ける。
おれは素早く顔のシャッターを開けた。
「何だ」
とゆきはグロックを下ろし、ばっちんとウインクして、
「他のは片づけたわよ」
と言った。ただの色情狂兼露出狂じゃない。太宰先蔵の孫娘なのだ。
「車壊れちゃったわね」
おれの心配など、とっくに忘れたようだ。生き残る秘訣さ。
「ま、いいわ。その辺の、またかっぱらいましょ」
「ああ、そうしよう」
と言ってから、おれはじっとゆきを見つめ、
「おれを射ちたくないか?」
と訊いた。
「射ちたいわよ、はじめて会ったときから」
「まあ、いい。探しにいくぞ」
とおれは辺りを見廻した。
車は三分で見つかった。妖草師ピゲロのアジトへ辿り着いたのは、それから一〇分後だった。
正直、行きたくはなかった。プリンスがいる。それはいいが、ガード役はシュミットなのだ。何て話す?
幸か不幸か、シュミットは留守だった。おれがヤンガー大佐の“マーケット”を訪れてすぐ、プリンスが眠ったのを見届けて出かけたという。今日一日は眼を醒まさないと、ピゲロが保証したこともある。
「プリンスの容態はどうだ?」
とおれは妖草師に訊いた。
「順調だね。だが、かなり強烈な深層催眠にかかっている。これほど強いとは思わなかった。なあ、八頭くん――エニラ師は人間かね?」
さすがに一芸に秀でた奴は鋭い。
「多分、ちがうな」
「すると、我々は、人間以外の奴に税金を納めていたというわけか。不愉快ではあるな」
「この街の連中――国に金なんか払ってたのか?」
「誰がそんな真似をするものか」
「――とりあえず、この娘も診てくれ」
おれは、ゆきの腰を押して前へ出した。
「たいした美人だな」
さっきから五〇回もゆきの方を盗み見ていたピゲロは正直に言った。
「うふ、どーも」
とゆきは腰をくねらせた。ここへ来る途中、雑貨屋で衣裳を仕入れたのだが、こいつの選んだのは、薄いすけすけのシルクシャツにジーンズのショート・パンツという挑発型だ。こいつが着ると、下着にしか見えない。他人の眼を吸いつけておいて、後から観賞料を徴収するつもりなのだろう。
「お目にかかれて光栄ですわ。おいしい葉っぱ、たくさん喫わせていただけるんですって?」
「?」
「こいつの発言は気にしないでくれ」
とおれはゆきを睨みつけながら、頭の横で人さし指を廻した。
「生まれつき、ここがおかしいんだ。――で、こいつにもプリンスと同じ手当てをしてもらいたい」
「心理操作を受けているのかね?」
「受けていなくてもおかしいが、その可能性はある。夜中に刺されちゃ敵わねえ」
「ちょっと、何よ、その言い草?」
とゆきが胸を突き出して異議を唱えた。
シルクシャツの先端には、小さな突起が付着している。どういう神経か、ブラジャーを外してしまったのだ。
「あたしが、あんたを裏切るとでもいうわけ?」
「ああ、そうだ。おまえは生まれつきの裏切り者だからな」
「ねえ、ちょっときいた?」
とゆきはピゲロを肘でこづいて訴えた。
「いつもあの調子なんですよ。いくらちょっかい出しても、あたしがなびかないもんだから、嫌がらせや皮肉ばっかり言うの。ひどいと思いません」
「何とでも抜かせ。とにかく、頼んます」
さすがにピゲロは、甲羅を経た人間らしく、おれの方に、まかせとけ、といった視線を投げかけた。
「かけなさい。診てあげよう」
と椅子を示すのに、ゆきは、
「あら、大丈夫よ、あたくし。何もされてないわ」
と反抗した。
「ま、そういわず」
「いやよ、いやいや、絶対にいやよ。ねえ、やめて、おじさま」
白い腕をピゲロの首に巻き、ついでに胸も押しつける。
「――ううむ、困った」
とピゲロはマスクの下で呻いた。
「ちょっと、おじさま」
と文句をつけたのは、おれだ。
ピゲロは、うーむ、うーむと唸りながら、かたわらのテーブルに手をのばし、花篭を埋める薔薇のドライフラワーを一輪、抜き取った。
「とりあえず、美しくセクシーな日本のレディにこれを捧げよう」
「あら」
鼻先に差し出された皺だらけの花に、わざとらしい笑顔を見せるゆきを、おれは横眼で眺めつつ、けっ、と吐き捨てた。
途端に、ゆきはその場へ崩れ落ちた。
「――?」
「これで万事解決だ。君の要求は叶うし、このお嬢さんも、検査終了後、何も知らずに眼を醒ます」
ドライフラワーが麻酔薬だったらしい。さすがはシュミットご推薦の妖草師だ。色気で眼が曇らない。
「どれくらいかかります?」
「先にしなければならない調合もある。そうだな、小一時間待ちたまえ」
「よろしく」
おれは一礼して、
「プリンスに会えますか?」
と訊いた。
「奥で眠っている。いまは何をされても眼を醒まさんよ」
それでもいいからと、おれは少年の眠る小部屋へ入った。
かなり広い休息室らしい。五つ並んだベッドのひとつに、プリンスは安らかな寝息をたてていた。
「おまえも大変だな」
とおれは話しかけた。
はじめて、渋谷で会ったときのことが頭に浮かんだ。おれはそれを記憶の奥へと押しやった。どんな形であろうと、過去は現在の敵だ。特にしんどいときに浮かび上がる記憶は、現実逃避のための甘い砂糖菓子に近い。
どうも気弱になってるな。おれは、プリンスの形のいい鼻の先を、人さし指で軽く弾いて言った。
「ま、頑張れや」
他に適当な言葉もない。おれはピゲロの部屋へ戻った。妖草師は、すり鉢の中で、得体の知れない植物をすりつぶしている最中だった。
「いま、急な客が来る。奥にいたまえ」
「急患も取るのかい?」
「確実な紹介者がいればな。君も急患だ」
「仰せの通り――ゆきはどうするんだ?」
「奥へ入れよう」
おれがゆきを抱き上げたとき、ノックの音がした。
素早く奥の部屋へ入り、空きベッドのひとつにゆきを寝かせて、おれはドアへ近づいた。髪の毛ひとすじ分開いて、眼と耳を澄ませる。分厚い板を通して、ピゲロと客との会話が鼓膜を打った。
「ご用件を伺おう」
これはピゲロだ。
「昨日、ガルフ医師《せんせい》に診てもらったら、胃癌だと言われました」
と二人の客の片割れが言った。土気色をした痩せっぽちである。
「で、医師《せんせい》に相談したら、こちらへ伺えば、何とかしてくれるだろうと」
「何とか助けてやってください」
すがるように訴えたのは、中肉中背の中年女である。女房らしい。真っ赤な服《ドレス》は、身重らしく大きくふくらんでいた。
「子供が四人もいるんです。来月には、もうひとり生まれるし。いま、この人がいなくなったら、あたし、どうしたらいいのか……」
「とにかく診てみよう」
ピゲロはうなずいて、椅子を示した。女が胸を押さえて、
「あたし――気分が……奥で休ませてください」
よろよろとこっちへやって来た。
「待ちなさい、そっちは――」
とピゲロがふり向いた瞬間、男が椅子にかけたまま、右の手刀を妖草師の首すじへ叩きつけた。
2
がく、と頭をゆすって、頭巾姿は半回転してから床へ落ちた。
女がふり向いて、両手をドレスの腹に当てる。
ぱっくり開いた。内側には自動小銃やら小型ミサイル・ポッドやらが見え、おれは感心した。本物の歩く武器庫だ。エニラが開発した改造人間にちがいない。
片手を突っ込んで旧ソ連製のAK47自動小銃を取り出し、男に放る。四〇連バナナ弾倉《マガジン》にはもう一本がビニール・テープで貼りつけられていた。それだけで六、七キロはあるだろう。並の女じゃふり廻すのも無理だ。
軽々と放られたそれを重々しく受け取り、男は銃口をピゲロに向けてから、女にうなずいてみせた。
女が入ってきた。
ドア・ノブに手をかけると同時に、内側へ跳び込む。腹部からは多銃身を束ねたバルカン砲の銃身が突き出ていた。その横には五インチ・ミニ・ミサイルの先端――二〇発もある。どうやら、首から下は完全に武器庫らしい。バルカン砲の弾丸は多分、両脚の内部《なか》だろう。室内でミサイルなんか射ったらどうなると思ってやがる。
女の腰から上だけが、凄まじいスピードで弧を描いた。室内を一八〇度走査したのだ。
ベッドの二人以外、誰もいない。
女は素早くプリンスの眠っているベッドに近づき、その顔をのぞき込むと、隣のゆきを向く。
殺意がふくれ上がった。
おれは身を躍らせた。
ドアのすぐ上にいたものだから、天井のパイプから手を離すのに、少し反動をつけなくちゃならなかった。
女も気がついた。
ふり向いた女の顔面に、おれは蹴りを入れた。手加減はしたつもりだ。右手のグロックを射ち込まなかったのは、機械《メカ》には出せない殺気を女が迸らせた――人間とみたからだ。
がくんと首はのけぞった。
「ごめんよ」
とおれは着地してドアに近づいた。
そっとのぞく。
男はピゲロに銃口を向けたまま、こちらを凝視していた。一分の隙もない。
あの銃口をなんとかしなくちゃな。
おれは、ゆきから取り戻したグロックを全自動《フルオート》射撃に切り換え、天井へ向けた。
拳銃で九ミリ軍用弾《パラベラム》を一秒間に一〇発も射ち出すのだから、反動も強烈だが、そこは、機械服のパワーがねじふせる。
一〇発射ち込むと同時に、おれは背中からドアに体当たりした。
射たれて飛び出したのが仲間ではないと知って、男はピゲロを射たずに、おれへ銃口を向けた。
床に着く前に、おれは三発放った。普通でも精確なのに、機械服のおかげで無反動ときているから堪らない。男は両肩を射ち抜かれて吹っとんだ。もう一発はAK47の機関部に命中して火花を上げる。
ピゲロのところへ――駆けつけることはできなかった。
かすかな音が鼓膜に届いた。
モーター音と察するより早く、身体が反応した。
床の上で右へと回転する。間一髪――凄まじい衝撃波が肩口をかすめた。
二〇ミリ・バルカン砲の猛打だった。壁と薬棚が吹っとび、弾丸は苦もなく隣室へと抜ける。
「ちい」
おれは跳ね起きざま、とんぼを切って跳んだ。空中で女を見た。顔はのけぞったままだ。首から下のメカ部だけが独自に行動しているのか。
二発射ち込んだ。ろくに狙いをつけている暇もないが、ミサイルだけは外した。
狙い通り、おれが着地してすぐ、女は奥から出てきた。プリンスやゆきを人質にしたり、射殺されたりしたら大事《おおごと》だ。
おれを求めてバルカン砲が旋回した。上部に光る部分――センサーにちがいない。
おれは真正面から迎え撃った。
バルカン砲めがけて、残り四発の九ミリ弾を叩き込む。同時に、二〇ミリ・バルカン砲弾も機械服を直撃した。
銃やライフルとはふた味[#「ふた味」に傍点]ばかり違う。ブリキ板の上からハンマーでぶっ叩かれる感覚といえば近い。骨が折れてもおかしくはなかった。
だが、猛打は一秒とかけずに終わった。硝煙を噴き上げる砲身が、息絶えたみたいに、がっくりと下を向く。理由は明白だった。おれの四発の全弾――もしくは何発かが、バルカン砲の発射機構を破壊してしまったのだ。
よくやった、明日から課長だ――とつぶやきながら、おれはひっくり返っている男に近づいた。両肩に円形の染みが広がっている。虚ろな表情だが、眼は死んでいない。
「これからは防弾チョッキでも着てくるんだな」
とおれは忠告してやった。
「そうしよう」
と男は答えた。
「あんたはどっちだ? エニラの手下か大佐の部下か?」
もっとも、今じゃ同じだ。
「答えられんな。何か訊きたければ殺してから質問しろ」
なかなか言うね。
「おまえたちは二人だけか?」
「残念ながら、下に百人ほど来ている。この建物はもう囲まれているよ。おとなしく投降しろ」
「百人か。――何とかなるさ」
おれの言い方が、空威張りでないとわかったのか、男は呆れたような眼差しになった。
「本気で――逃げおおせるつもりか?」
「なあ、ついでに教えてくれ。あの百人の中に、港のクルーザーを襲った奴らがいるかい?」
男はおれの顔を少し眺め、恐ろしげに眼を伏せると、
「いや。班がちがう」
と言った。庇ってる風はない。下の奴らも運がいい。
おれは男と女に用心しながら、ピゲロを抱き起こして、
「そろそろ起きろや」
とせかした。
「知っていたのかね」
とピゲロは全然ダメージのない様子で起き上がった。
「いつ、私がやられていないとわかった?」
「この部屋へ戻ったときからさ。あんたの“気”は少しも弱くなってなかった」
「さすが、神秘の国、東洋の若者だな。ミスター・シュミットの言う通りの天才だ」
「恐れ入るよ。ところで、外に百人いるそうだ。そういや、多数の気がひしひしと取り囲んでる。こいつらが出ていかないと、きっと襲いかかってくるぞ」
「どうするつもりだね?」
ピゲロはちっとも脅えてない風に訊いた。
「そこに武器はある」
とおれは停止した女武器庫を指さした。
「ミサイルを二、三発ぶち込めば、逃げ道くらいは確保できるだろう」
「無茶はよしなさい」
とピゲロは穏やかな口調で言った。
「このビルには脱出孔がつくってある。昔は盗賊たちの巣だったのだよ」
「そうこなくちゃ」
とおれは妖草師の肩を叩いた。
「けど、あんたの薬がつくれなくなると困るな」
「心配するな」
とピゲロが言いかけるのをやめさせ、おれは息も絶え絶えの男のぼんのくぼの急所を突いて失神させた。余計なことをきかれちゃ困る。
「――私の店はもう一軒、もっと広い場所がある。誰も知らんが、オープンすればじきに繁盛するだろう。二人はそこで手当てをする」
「おれに息子ができたら妖草師にするよ」
本気で伝え、おれは早速、脱出の準備に取りかかった。
こんなこともあろうかと、ピゲロは必要最小限の品を二つのトランクに詰めてあった。見事なのは、残した品に少しの感傷も示さなかったことだ。
おれの方はといえば、プリンスを背負い、右手には人間武器庫の胸から外したバルカン砲とミサイルを抱えた。バルカン砲の弾倉は右肩に吊った。ざっと三〇〇発あるから、重さは五〇キロ近い。砲身と発射装置つきミサイルを加えると優に二〇〇キロを超す。持つだけならいいが、さすがに移動はしんどいので、ミサイルはゆきにまかせることにした。
ピゲロの覚醒剤をかがされたゆきは、眼を醒ましたものの、すぐには眼の焦点も定まらず、ふらふらとラリっている。ミサイルはまずいかなと思ったが、バルカン砲やプリンスをまかせるよりはましだろう。安全装置はかけてある。射ち出すのは、バルカン砲の安全装置をオフにするより十倍難しい。
「なによ、これ?」
案の定、ゆきは手にしたミサイル・ポッドを、理由もなくひねくりまわしはじめた。
「宝の箱だ。中に黄金が入ってる」
とでまかせを口にすると、両眼がかがやいた。
「本当?」
「本当だとも。だから、絶対に失くしたり、落としたりしちゃいかんぞ。わかったな?」
「よっく、わかったわ」
やけに勢い込んで断言するから、大丈夫かいなと眼を見ると、どんより濁っている。ま、仕方あるまい。
ピゲロの指示に従って廊下へ出るや、階段の方から足音がきこえてきた。先行した二人の連絡のなさに、殺《や》られたと判断して、仲間が突撃してきたのだ。
「先に行け」
と告げて、おれはバルカン砲の発射レバーを引いた。銃身を回転させるモーターが、かすかな唸りを上げてオンを告げる。
ぱっと、階段から二つの人影が廊下へ躍り出た。どちらも防弾チョッキを身につけ、ヘルメット着用だ。武器はAK47とM16A2――かつての仇敵同士の制式軍用銃ときた。
奴らが気づく前に、おれはその足元へバルカン砲を猛射した。
砂塵とコンクリートの破片が乱舞し、二人を襲う。眼も見えない、どころか、喉や足は危ない――と思っている間に二人とも足を押さえて倒れた。それでも、盲射ちに乱射したのは見事だった。
弾丸はすべて機械服がストップし、おれは彼らの頭上の壁にバルカン砲を射ちまくった。
拳銃弾やライフル弾とは桁違いのパワーが、コンクリートを発泡スチロールみたいに打ち砕いていく。何度やっても爽快の一語だ。この感覚がなくならない限り、人間は腑抜けにはならないが、戦いもなくなるまい。
伊達に壁を射ったんじゃない。階段の辺りで悲鳴が上がるや、寄せ集まってた気配が急速に遠のいた。いくら戦争慣れしてる奴らでも、ビルの中でバルカン砲をぶちかまされるとは思わなかったろう。
おれは身を翻してエレベーターの方へ走った。最初の二人はコンクリートの破片まみれで呻いている。
エレベーターのドアは開いていた。跳び込むと、誰もいない。
おや? と思った途端、真正面の壁が後ろへ倒れ、
「こっちよン」
とミサイル片手のゆきがウインクした。色っぽくはあるが、物騒でしようがねえ。
しかし、エレベーター通路の後ろに、もう一本通路が隠してあるとは、やるもんだ。
通路をくぐるとき、エレベーターの操作ボタンを叩いた。自動的に壁が閉じ、屋上へ向かっていく。上がってきた奴らは、さらに高みへと無駄足を踏むだろう。
一方、こっちはひどく窮屈だった。いわば、壁の内側だ。狭いのは仕方がない。
「こっちだ」
と前方の闇の中からピゲロの声がした。
「おい、行け」
と、ゆきをせっつくと、
「いやよ」
ときた。何のつもりだ、このフーテン。
「せっかく、二人きりなんだもの、楽しいことしましょうよ、パパ」
「何がパパだ、この背徳女――いい加減で眼を醒ませ」
「なーによ」
「おれは、どっかのパパじゃねえ。ここはおまえの好きなラブホテルじゃなくて、生きるか死ぬかの瀬戸際だ。とっとと、先に行け」
「やーよ、愛してくんなきゃ、や」
「てめえはいつも、こんな真似してるのか、ど淫乱」
怒髪天を衝いているところへ、
「早くしろ」
とピゲロがせかした。
仕様がない。おれは問答無用でゆきの顎に一発かました。いつもならかわしたかもしれないが、なんせ、半分寝惚けてる。軽いフック一発でゆきは倒れかかり、おれはそれを受け止め――さすがにぐらりときた――襟首を掴んで歩き出した。
五メートルほど先にピゲロが立っていた。
足下に直径一メートルほどの穴が黒々と口を開け、鉄の蓋がそばに置いてある。のぞき込むと、逆落としの穴だ。マンホールみたいな手摺りがつづいている。嫌な匂いが噴き上がってきた。マンホールじゃなさそうだ。
「この辺りが昔、海賊の巣窟だったとは話したな」
とピゲロがマスクの下で言った。
「ああ」
「その下は、当時、奴らが使った抜け道――というか、首都サヴィナができる前から、古代人の手によって掘り抜かれていた地下通路へつづいているのだ」
「そりゃ、結構。昔の人に感謝しなくちゃな」
「ただし、問題がいくつかある」
ほら、来た。世の中、うまい話てのはそうそう[#「そうそう」に傍点]転がっていない。
「何だい、そりゃ?」
とおれは訊いた。
3
一〇分後、おれたちは四方を石で囲んだ通路を、一目散に走っていた。
確かに古い。石といっても、その辺にいくらでも転がっていそうな石塊《いしくれ》を、何も考えずに積み上げて、粘土か何かで固めたような粗雑な通路である。
天井も壁もあちこちが崩壊し、巨大な虫食い穴みたいなやつが不意に現れる。いちばん近い出口とやらをピゲロが知っていなかったら、おれでも気味が悪くなりそうな不気味な道だ。
視覚の頼りは、穴の入口に用意してあった電子ランタンだ。ピゲロかアパートの他の住人が備えておいたものだろう。点けっぱなしでも、丸一日は保つ。
ピゲロが立ち止まった。光の輪の中で、柿色の長衣に包まれた姿は、冥府の死の使いみたいに見えた。そのままじっと動かないので、
「どうした?」
と訊いてみた。予想通りの言葉が返ってきた。
「出口がふさがれている。落盤だ」
「うっげ」
「次の出口まではかなり遠い。といって、いまさら戻れんな。進むしかあるまい」
「次のは大丈夫かい?」
我ながら、無駄な質問をしたものだ。当然、ピゲロは、
「わからん」
と答えた。
そのとき、おれは左方に、ある気配を感じて顔を向けた。
石壁があるきりだ。要するに、その向こうに誰かいる。いや、何か、が。
穴を下りる前に、ピゲロが口にした台詞が甦ってきた。
「問題のひとつは、この通路がまるで蟻の巣のように入り組んでいることだ。海賊や盗賊たちも調べたが、とうとう全貌は掴めなかったと記録にある。二〇年間に都合九回、三百人近い人数が調査に加わり、うち、百人以上が未帰還だそうだ」
「道に迷ったのか?」
「それもある」
「そんなこったろうと思った。もうひとつの問題てなそれ[#「それ」に傍点]だな?」
ピゲロはうなずいて、
「別の記録によると、この地下通路には、得体の知れない存在が巣くっているらしい。姿を消した百人のうち、少なくとも三分の一はそいつらに襲われたとなっているな」
「どんな奴らだ?」
「はっきりした描写はない。ただ、形は人間、ひどく痩せていて、眼は燐のように燃え、跳躍力と膂力《りょりょく》が異常に強いらしい。最悪なのは――人の肉を食うそうだ」
「困ったもんだ」
とおれは言った。
「怖くはないのかね?」
「怖いさ。ただ、そういう奴ら相手の商売でな」
「たいしたものだ。ローレンス・シュミット以上の大物かもしれんな」
ピゲロは感心したように言った。
――――
おれはゆきを下ろし、活を入れた。これ以上、運んでいくわけにはいかない。
「あんたの麻酔をいっぺんに除去する薬はないのかい?」
と訊いてみた。
「あるとも」
なんてこった。最初から訊いとくんだったな。
ピゲロが長衣の内側から取り出した小さなカプセルをゆきの鼻先で割ると、一瞬、頭が痺れるような強烈な香りが立ちこめ、すぐに消えた。
「よくも殴ったわね!」
いきなり右のフックがきたから、おれは左手でブロックした。荷が重いのでかわすことはできない。
しかし、一瞬のうちにここまで憶い出すとは、ピゲロの薬もたいした効き目がある。
なおもアッパーで攻撃してくるゆきの手を押さえ、
「化物がいる」
とおれは小さく言った。
「え?」
嘘つき、と言わないところが、おれと同類の証拠だ。
「ここは――どこよ?」
ようやく、まともになったらしいので、おれは手短に事情を説明してやった。
思った通り、ゆきは柳眉を逆立て、
「やだ、やだ、やだ。どうして、こんなところに入ったのよ。誰か責任取んなさいよ」
とやり出した。
「後で取るさ」
とおれは言い、
「とにかく、今はここを脱出するのが先だ。行け」
「なにさ」
とぶつぶつ言いながらも、こんなところにいたくないのは同じらしく、ゆきはさっさと歩き出した。ミサイルの重さも気にならないようだ。
おれは別のことが気になった。
壁の向こうの気配が尾いてくる。それも、うじゃうじゃと。しかも、おれたちと並んで。
石壁ひとつはさんだところには、奴らが歩いているのだ。
ピゲロはカンテラを手にしていたが、それなしでも、おれとゆきは夜目が利く。
二〇メートルほど前方の壁に、黒い染みがついている。穴だ。
「出口はまだかい?」
とおれはピゲロに訊いた。
「ここまで来れば、近い。二〇〇メートルもあるまい」
穴までは二〇メートルやで、おっさん。
かすかな音が通路を渡った。
おれはにやり[#「にやり」に傍点]とした。ゆきがミサイルの安全装置を解除したのだ。教えなかったのに、さっきから研究していたらしい。そう来なくちゃ、な。
おれも、バルカン砲の射撃準備を整えた。銃把《グリップ》を握り、押し金に親指をあてる。
一〇メートル。ピゲロは何事もなく進んでいく。
五メートル。ランタンの光が穴を照らし出した。
バルカン砲の銃身とミサイル・ポッドが穴へと向く。
ピゲロは通りすぎた。
おれは足を止めた。――同時に、壁の向こう側の奴らも停止した。
様子を窺ってやがる。
おれとゆき――どっちを狙う? それとも、やり過ごすか。
「行け」
とおれはゆきを促した。この辺で文句を言わないのが、ゆきの血筋の所以だ。
平然と歩き出す。
穴の前――内側でごわ[#「ごわ」に傍点]、と気配が動いた。
だが、通りすぎた。――となると、おれか。
のんびりしてはいられない。バルカン砲を穴に向けたまま、おれは前方へ向かった。ゆきは知らんぷりで先を行く。
穴まで十歩……
気配が蠢きはじめた。明白な凶気だった。肌がひりつく。
五歩……
穴の内側は真っ暗闇だ。闇そのものが奴らの気配だった。くう、総毛立ってやがる。同じような目には何度か遇ったが、味わう気分はちっとも変わらない。腹の底からスリリングだ。
いま――穴の真正面。
堰を切ったように、闇が噴出した。
その広がりが、実は黒い人型の生物の集合と見切るより早く、おれはダッシュしざま、奴らの足下へバルカン砲を叩き込んだ。
幾つかが倒れ、その上から闇は押し寄せた。
おれに見えたのは、燐のように燃える双眸《そうぼう》と、人間そっくりの顔から、それだけは肉食獣みたいに突き出した両顎――かっと開いたそこからのぞく黄色い牙だった。
弾丸がもったいないから、真っ先にとびかかってきた二匹は砲身で叩き落とし、もう一匹は蹴りとばしたが、次の瞬間、戦慄すべき光景が現出したのである。
通路にあふれた奴らが、爛と眼を光らせて、倒れた三匹に襲いかかったのだ。
肉を裂く音に悲鳴と唸り声が重なり、凄惨な光景が展開した。共食いだ。こいつらはほんとに食人鬼だったのだ。
行方不明になった百人の運命がわかり、おれも腹をくくった。
「言葉がわかるなら、言っとく。――来るな」
とりあえず英語で喚くや、俺は食人鬼どもの方を向いたまま、後ろ向きに走り出した。
来た。凄まじい跳躍力だが、いかんせん相手が悪い。三匹がバルカン砲でぶちのめされた。
いきなり、足がもつれた。石につまずいたのだ。いつもなら無意識によけるのだが、今回は重すぎた。
わわっとバランスを崩したところへ、二、三匹が跳び乗った。
二匹は即座に払い落としたが、一匹が頭にかじりついた。
不気味な音と悲鳴が上がった。おれのじゃない。機械服のシャッターが頭部と顔面を覆い、食人鬼はそれに牙を立ててしまったのだ。
顎を押さえてのけぞる奴をぶん殴り、おれは天井に向かってバルカン砲の引金《トリガー》を引いた。なかなか、頑丈につくってあるらしいが、これには堪らない。岩塊と土くれが食人鬼どもとおれとを遮り、世界を暗黒で包むのを、おれは五メートルも離れた地点へ跳躍しながら見て取った。
プリンスの様子を窺う。安らかな寝息は変わっていない。
「よく寝ておけよ。起きたら憂き世だ」
おれは、ピゲロとゆきの後を追って走り出した。
五〇メートルほど進むと、光輪がゆれていた。
ピゲロだった。石の階段の前に立っている。
「ここが次の出口だ。幸い脱出できる」
「それはいいが」
とおれは周囲を見廻し、
「ゆきはどこへ行った?」
「そういえば――」
とピゲロは動揺した風に、
「ついさっきふり向いたときは、少し後を歩いていたが……」
「横穴があるのか?」
「私の知るかぎりは無い」
すると、どこへ行きやがった。探しに戻ろうかとも思ったが、背中にはプリンスがいる。彼をピゲロのもうひとつの店へ送り届けるのが、さし迫った任務だとおれは判断した。ゆきのことだ、何とかするだろう。
石段の先は、陽も高い公園だった。池のほとりの人目につかない丸石の下にトンネルが通じ、ピゲロが鉄鎖を引くと、石が旋回して出口をつくったのである。この仕掛けは海賊のものだという。
公園といっても、廃園に近い場所で、おれたちは誰にも見られず、ピゲロの別のアジトへ行くことができた。最初の出口から大分離れたせいで、古いアパートの一階すべてを占有するアジトへはタクシーで二〇分もかかった。
とにかくプリンスを預け、おれは宮殿にいる名雲秘書に連絡をとった。
「これは八頭さま――心配しておりました」
と老人は言った。
「幸い、すこぶるつきの健康だ。そっちはどうだい、殊《こと》に皇太后さまは?」
「私の見ますところ、表面は平静でいらっしゃいますが、実のところは大分――」
「落ち込んでいる、か」
「はい」
「プリンスをどう見てる?」
「私には何とも」
「そこを曲げてきかせてくれ」
名雲秘書は少し沈黙し、それから、
「わかりました。――まず、間違いないと考えていらっしゃいます。ですが、ご自身と他の皇族方に認めさせるのには、王家継承のペンダントが必要になります。それが手に入らないかぎり、皇太后さまは決してあの方を実のお孫さんとはお認めになりますまい」
やっぱり、な。
「エニラ師の方から何か言ってはこないか?」
と訊いてみた。
「今のところは。ただ、おかしな情報が手に入りました」
戦慄が身体を突っ走った。
「――どんな情報だい?」
「あの方の部屋から、瓜二つの人物が複数現れるのを目撃したというものがいるのです。ひとりならまだしも、三人も」
「三つ子ねえ。――出て来てもおかしくはないんじゃないの」
「兄弟の多い人物ならば、確かに」
「ちがうのか?」
「私のよく知っている軍人でございます。誓って兄弟などおりません」
「ふむ」
この返事の間にも、おれの脳は凄まじいスピードで回転していた。
あり得ない三つ子――あのペケちゃんと全く同じじゃないか。やはり、エニラ師のこしらえた怪物か。となると、奴は誰でももうひとりの男――二重存在《ドッペルゲンガー》を創り出すことができるのか。
たとえば――プリンスでも。
これはやばい。いくらこっちに本物がいても、瓜二つのまがいものを、他人が見分けられるとは思えない。いや、まがいものではなく、もうひとりの本人――つまり、本人なのだ。皇太后だってたやすくひっかかるだろう。人工的なまがいものの記憶がどうなるのかわからないが、エニラ師のことだ、何とでもするだろう。こりゃ、何としてもプリンスを渡してはならないな。本物《オリジナル》を消される恐れがある。
「皇太后さまの護りは固めてくれよ」
「おまかせください。強者が山ほど控えております」
「ところで――」
俺は、ふと思いついたことを口にした。
「は?」
「弟の――陣十郎はどうした? 王宮にでも勤めろと追い出したんだが、心当たりはないか?」
「ああ、そういえば、宮廷内で二、三度見かけました。――ですが、私は家族のことなど気にしている暇はありません。昔からあいつと組むと、ろくな目に遇いませんので、なるべく、近づかせないようにしております」
「あんたの弟だ。きっと、いいところまでいくぜ」
「恐れ入ります」
こういう台詞にも礼を尽くすのが、このおっさんのいいところだ。
「あんたの気持ちもわかるが、事は急を要する。できれば、陣十郎にエニラ師と密接な仲になってもらいたい。細工はできないか?」
「――努力いたします」
きっぱりと言ったが、少し、嫌そうだった。
「他に何か御用はありませんか。不肖、名雲――全力を尽くしてお役に立ちたいと思います」
して欲しいことは山ほどある。
「いや、何もしないでくれ」
とおれは言った。相手は人間じゃないのだ。万が一、名雲秘書が動いてまずい結果が出たら、宮殿内の最高のシンパを失う羽目になる。こういうタイプは、ここ一番のとき働いてもらうに限るのだ。
「しかし……」
「いいから何もするな。あんたの出番はもっと先だ。何よりも宮殿内のガードを固めてくれ」
「承知いたしました」
と納得した声が返ってきた。
「それから、八頭さま」
声が急にひそまり、おれは緊張した。
「おお」
「戴冠式の日取りが決定されそうです」
「へえ」
おれは仰天した。それでも驚きの声は低い。
「いつだ?」
「まだ、発表されてはおりません」
「プリンスがいないのに決めたのか?」
「はい」
すると、それまでに奪還する自信があるのか、あるいは――
「奴め、もうドッペルゲンガーを……」
「は?」
「いや、あんたは皇太后を護ってくれ。それから、いいか、危険人物が姿を見せ、またすぐ帰っても、特にあんたが帰還を確認した場合[#「確認した場合」に傍点]は絶対に油断するな。そいつがどこかに隠れていると思え。何も訊くな。とにかく、言った通りにしてくれ」
「承知いたしました」
おれは電話を切り、ピゲロの部屋へ戻った。
「どうしたね?」
とおれの顔を見て妖草師は訊いた。
「ドッペルゲンガーを人工的につくれると思うか?」
この男なら理解できるだろうと思ったが、正直、半信半疑だった。
「できるとも」
何げなく言われた。おれは跳び上がりそうになるのをこらえた。
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第二章 妖女の最期
1
「本当《ほんと》かい?」
「私もこしらえたことがある」
「おい」
「冗談ではないよ」
と妖草師はマスクの下から言った。
「もっとも、うまくはいかなかった。すぐに消えてしまったが、すくなくとも三〇秒はもうひとりの私がこの世に存在していたことになる」
「どうやって?」
「私の場合は薬だった」
とピゲロは言った。両手はせわしなく、何かの葉っぱをすりおろしている。
二年ほど前、サヴィナ市一帯に奇妙な出来事が発生した。
あちこちにもうひとりの自分が目撃されたのである。そのほとんどは一日で見えなくなってしまったが、ピゲロの研究心と好奇心をいたく刺激した。
薬でできないか、とピゲロは考えた。
その事件をきっかけに読みはじめた資料に、眠っている軍人の口から小さな軍人[#「軍人」に傍点]が脱け出し、どこへともなく走り去ったという記述があったからである。眠りが何らかの役目を果たしているのなら、薬で何とかなる。
「それから半年――一心不乱に取り組んだせいで、患者の治療もおろそかになった。随分と苦情をもらったよ。三〇秒間の存在にそれだけの価値があったかどうかもわからんが、成功したことは間違いない」
「他のドッペルゲンガーも同じだと思うか?」
とおれは訊いた。サヴィナ市での奇怪な“流行”が、エニラ師の実験によるものなのは間違いない。奴め、そんなに早くから、もうひとりの自分製造に取り組んでいたとみえる。
「それはわからない」
とピゲロは答えた。
「私の成功は全く特異な例かもしれんのだ。本物のまがいもの[#「本物のまがいもの」に傍点]を研究し尽くさぬかぎり、永遠にわかるまい」
「消えたのはどうしてだい?」
「それはわかっている。薬効が失せたからだ」
「またつくれる?」
「残念ながら、材料がこの国ではもう手に入らないのだ。それに、薬品をつくり出すまでの言語に絶する苦労を憶《おも》い出したくない」
「どんな材料が足りないんだ?」
「ジガギストという植物だ。バラザード・リアの一角に生えていたのだが、大分前に根こそぎにされた」
エニラだな、と思った。奴が採り尽くしたか、他人の手に渡るのを恐れて手元へ引き取ったかだ。つまり、ピゲロと奴のやり方は同じだってことになる。
「その植物は、他にどこの国にある?」
ピゲロは、ほう、とつぶやき、
「君なら南極の果てでも行ってくれそうだが、残念ながら、そんな必要はない。あの植物が育つのは、バラザード・リアのその一角だけだ」
「いや、もう一カ所あるよ」
「どこだね?」
「確証はない。とりあえず当たってみよう。とにかく、プリンスを頼む」
「承知した。明日いっぱい待ちたまえ」
「よろしく」
と言って、おれは外へ出た。
タクシーを拾って、ピゲロのもとの住所近くへ戻った。
近くの駐車場に、武器を積んだ車が入れてある。
無事だった。ナイフ片手の奴が隠れていたり、おかしな仕掛けもない。トランク内の武器も大丈夫だった。
ゆきとシュミットのことが気になったが、おれは次の手を考えるようにした。どっちもプロだ。自分の身ひとつくらい、自分で処理できるだろう。
やることはいくつもあった。
そのうちのひとつを成就すべく、おれは、武器のバッグから、超音波通信器を取り出した。これをはじめとして、武器をあまり身につけなかったのは、大佐のスーパーマーケットへ出かけたためである。おれは奴を信用などしていなかった。高い金をかけてつくった逸品だ。取られてはもったいない。
通信器が必要なのは、ゲリラへの連絡のためだった。
だが、教えられていた周波数帯に合わせても反応はなかった。アジトがやられて、通信網も破壊されたか再編成したにちがいない。当分は役立たずと考えた方がいいだろう。
おれは車を駆って駐車場を出た。
五分と行かないうちに、尾行されているのに気がついた。タクシーの運ちゃんか誰かがおれに気づいて、ご注進に及んだのだろう。プリンスの居場所へ案内させるつもりか。となると、エニラ師のドッペルゲンガー計画は、プリンスに関しては成功していないとみえる。
唇が笑いを浮かべるのを感じた。
それさえクリアできれば、尾行くらい何とでもなる。バックミラーへ眼をやる。一〇メートルほど離れた黒いセダンだ。勘でわかる。
おれは一気にアクセルを踏んだ。
いきなり、ダッシュだ。
すぐ前が交差点――しかも、信号は赤だったが、おれは思い切った。すでに左右からの車が入りかかっている、そのど真ん中へ突っ込んだのである。
ブレーキ音が怒号と悲鳴のようにきこえた。バックミラーへ眼をやる。幸い、どの車も事故っちゃいないようだ。いや、済まない。
黒いセダンは車の流れに阻まれて、立ち往生している。残念でした。
次の交差点が迫ってきた。
危ない、と勘がささやいた。交差点じゃない。その手前だ。
右の路地からだしぬけにトラックの巨体が吐き出された。
勘のおかげで、おれには余裕があった。
鼻先をすり抜けて――そのフロントグラスいっぱいに、前から突っ込んでくる別のトラックが映った。
左へ。
ハンドルを切ると同時に、巨大なメカニズムの鼻面が右へと流れていく。路地の壁が弧を描き、次の瞬間、おれはその内側へ跳び込んでいた。テールから衝撃が伝わった。壁にでもぶつかったのだろう。
逃げたか。
いや――胸のもやもやは晴れやしなかった。
おれはトランクから助手席に移しておいたバッグに手をのばした。
急に路地が開けた。
「おやおや」
路地の向こうは自由への道路じゃなかった。左右の壁は大きく広がって、だだっ広い敷地を囲み、路地から出るところに、物騒な塊がおれを待っていた。
全長七・九一八メートル、全幅三・六六五メートル、全高二・三七五メートルの鋼鉄の塊――アブカ・ライカミングAGT―T1500HP―Cタービン・エンジンは、一五〇〇馬力の出力でもって、五四・四トンの重量を路上最高時速七二・四キロで引っ張りまわす。
米軍制式戦車M1エイブラムスだ。しかも、砲口の直径からして、旧式の一〇五ミリよりひとまわり大きな西ドイツ・ラインメタル社製一二〇ミリ滑空砲を備えた改良型M1A1にちがいない。
それならそれでいいが、何と三台も横並びで、行く手をふさいでいるのだ。
砲身はもちろん、おれに集中している。いくら機械服が頑丈でも、一二〇ミリ戦車砲から射ち出されるHEAT弾やHESH弾(粘着榴弾)、APDS弾を射ち込まれてはイチコロだ。ちなみに、HEAT弾は、先端から噴き出る六千度ものジェット噴射《ストリーム》で敵の装甲に穴を開け、HESH弾は着弾時に粘状炸薬が広がってから炸裂――この衝撃で装甲の内側を剥離飛散させるものだ。APDS弾はもう少し野蛮で、通常はサボ付きの炭化タングステン弾芯が飛来、サボを放棄してから弾芯のみが装甲をぶち抜く。アメリカでは炭化タングステンの代わりに破壊力の強い劣化ウランを使う。
おれは車を止め、ドアから身を乗り出した。戦車の周囲に制服の人影を見たからだ。
片手を上げて、
「やあ」
と言った。
人影は笑わなかった。
全部で五人――ひとりだけ女が混じっている。
見覚えのある美貌が、ようやく、白い歯を見せた。ラジャだった。公園でプリンスをひっさらわれてから会っていないが、無事でいたらしい。あとの四人は――おれの感じからすると、エニラ親衛隊だ。
「降りてらっしゃいな」
とラジャが言った。
「やだね。裸で一二〇ミリ砲の前なんかへ行けるか」
「こうでもしないと、あなたみたいな暴れん坊は捕まえきれないわ。いえ、これでも私は危ないと思ってる。心臓は不安に高鳴っているわよ」
「そりゃ、どうも」
「とっとと降りろ」
と男のひとりがえらそうに命令した。
「おまえをエニラ師のもとへ連行する。そこで、プリンスとペンダントの行方を話してもらうことにしよう」
「何のこと? ぼくはただの日本人旅行者だよ。おかしな真似すると外交問題になるぞ」
「断っておくが、素直に来ない場合は首だけでも[#「首だけでも」に傍点]いいと言われている。そんな姿で尋問を受けたくはあるまい」
当たり前だ。阿呆。
男たちが後ろに廻していた手をこちらへ向けた。ミニ・ウージーやらMAC11やら、小型機関銃のオンパレードだ。どいつも最低六〇〇発から最高一二〇〇発まで弾丸をバラ撒くから、並の人間じゃ逃れようがない。
もっとも、たかだか九ミリ・パラベラム程度のションベン弾など、機械服の前には紙つぶてと同じだ。戦車砲だって、こんな至近距離でぶちかましたりはするまい。単なる脅し、とおれは踏んだ。
いきなり、ひとりのMAC11がタタと鳴った。車のノーズが爆炎を噴き上げた。ボンネットが吹っとぶ。
ただの拳銃弾じゃないようだ。
「拳銃弾サイズのHEAT弾だ。六千度で戦車の装甲《アーマー》も射ち抜く。君の着ているオモチャの鎧《よろい》など、二秒で蜂の巣だぞ」
その通りだろう。さて、どうする。
「三つ数える。それまでに降りろ。――いち」
おれはバッグから煙幕弾を取り出し、左手に握りしめた。これで奴らの眼をくらませるか。一二〇ミリ砲を食らえばアウトだが、この際、やむを得まい。粒子ビーム砲で戦車をぶち抜くという手もあるが、三台もいるんじゃ無駄だ。
おれは数を数えはじめた。
「いち」
「にい」
と男が言った。
「さん」
「わかった」
とおれは車から降りた。
「さん」
煙幕弾を投げる――と思った瞬間、戦車の背後で大音響と炎が天に挑んだ。
さすがに全員がそっちを向く。
天の助けだ。
おれは素早く車に戻った。着席する前にギヤを入れ、クラッチとアクセルを踏み込む。
ぶおん、とエンジンが唸って、車は一気に突進した。
ラジャと男たちが大慌てで二つに分かれる。
戦車が迫った。脱ける隙間はない。
いや。――おれは開いたドアから片足を突き出し、思い切り地面を蹴った。
あの感覚がおれを捉えたのは、この瞬間だった。
肉体に非ず、精神の奥から噴き出るサイ・パワーが。
車が空を飛ぶとは思っていなかったが、今のおれには、当然、と受け入れる自信があった。
車は一トン近い重量でM1A1の頭上を軽々と越え、後方の――炎の海の向こうに着地した。
驚きの声が上がった。
戦車の砲塔が三台揃って旋回する。
「田吾作」
悪態をつきざま、おれはシートの背越しに後ろへ向けた右手――粒子ビーム砲の引金を引いた。
ほとんど時を同じくして、車はもういちど宙に舞った。戦車砲の一撃を食らったのだ。勢いよく右から落っこち、もう半回転して立ち直った。
幸い、エンジンもガソリンタンクもやられていない。衝撃波とアスファルトの破片ぐらいだろう。
二発目が来ないうちに、とおれは車をスタートさせた。
視界の隅で壁の一角が吹っとぶ。二発目だ。外れたがな。
少し遅れて、リア・ウインドから破壊の気が吹きつけてきた。
バックミラーを見る。
戦車は三台とも炎に包まれていた。ビーム砲の三連射にはさしものチョバム装甲も紙と同じレベルだった。
「お疲れ」
おれは大きくハンドルを切って、左側の奥に見える門扉へと向かった。
2
通りをでたらめに走りながら、おれは姿なき味方の正体について考えたが、適当な人物は発見できなかった。あの陣十郎が戦車の手入れをしたとか。まさか、な。
いきなり車体がブレはじめた。どうやら、エンジンの力が尽きたらしい。やはり深傷《ふかで》を負っていたのだ。
思い切りよく、おれは路地へ突っ込んで止め、バッグを手に降りた。
のこのこと通りを歩きだす。
と――前方から、いかにも日本人らしい一団が近づいてきた。首から高そうな一眼レフと8ミリ・ビデオをぶら下げ、ぎゃあぎゃあ言いながら、辺りを撮りまくっている。
「パッとしねえとこだなあ」
「でも、姐ちゃんは美人だど」
「尻《けつ》もでかいし、おっぱいも出てるし。ああ、畜生、一発お願いできねえかな」
国辱ものだが、正直でよろしい。
すれ違おうとしたとき、ひとりが、
「あれ――あんた、あんときの――」
と素っ頓狂な声を上げた。
やれやれ、ばれたか。無関係の方が、おっさんたちにも迷惑をかけずに済むんだが。
リベラ市で出会《でくわ》した「△△宗関東住職慰安旅行会」の面々だ。
あのとき、ゆきが歌手に化け、陣十郎がマネージャー、おれはカメラマンの役割だった。ゆきの色仕掛けとアルコール責めで酔い倒し、衣類を失敬したのを覚えているだろうか。ま、忘れるわけもないが。
「こら、カメラマン」
やっぱりきた。
「あのグラマーな姐ちゃんは何しとる?」
と坊主[#「坊主」に傍点]のひとりが訊いた。涎《よだれ》を流さんばかりだ。よっぽど、ゆきのお色気サービスが効いたとみえる。
「元気ですよ」
とおれは言った。
「みなさんに会いたがってました」
「おお、そらぁいい。会うべ会うべ。どこへ行きゃいい?」
「そうですね」
とおれは通りの反対側へ、わからないよう視線をとばしながら応じた。
女がこっちを見ている。――ラジャだ。どう尾けてきたのか知らないが、また一戦交えるのも面倒だ。早いところまかなくては――と考え、おれは若干、修正を施すことにした。
「ゆきはいま、サヴィナにいないので無理ですが、ここの姐ちゃんなら、とびきりの美人を紹介しますよ」
「本当かね!?」
坊さん、揃って絶叫した。
「ええ。――おい、ラジャ、こっちだ」
手をふると、ラジャはためらいもせずにやってきた。
おれの周囲から口笛の合唱が沸き上がり、通行人が驚きの眼を向けた。たちまち軽蔑に変わる。仕方がない。
「よろしく」
と頭を下げた美女は嫣然《えんぜん》と微笑した。女というのは、好色で阿呆な男の注目を浴びると、自然にこうなるらしい。
「みなさん、この街一番のストリッパー、ラジャさんです」
日本語で言ったが、ラジャにはわかったらしい。咎《とが》めるような眼でおれを睨んだが、あまり、怒りの感情は含まれていなかった。
坊さんたちはもう、失神しかねない勢いで、
「へえ」
「ほお」
「ストリッパー」
「劇場《こや》どこや?」
「これから、やるんか?」
息も絶え絶えである。おれは微笑ましくなった。
「ま、一緒にその辺で一杯どうです。交渉してみましょう」
「交渉!?」
みな、跳び上がった。
「何の交渉だね?」
「もちろん、今晩のですよ」
「うっぎい」
手を取り合って路上ダンスをおっぱじめかねない勢いだったので、おれは素早くラジャの腕を取って、近くの喫茶店に入った。
「どういうつもりよ?」
とラジャが訊いてきた。流暢なフランス語だ。坊さんたちにはまず、理解できまい。万が一の用心に、ブルターニュ地方のかなり凄い方言を使っている。
「あんたに訊きたいことがあるんだ。ま、一杯やりながらいこうや。このおっさんたちの無作法は勘弁してやってくれ。なにせ、噂に高い日本名物の日本人観光客だ」
「気にしてなんかいないわよ」
とラジャは、膝の方にのびてきた手をつねって、煙草を喫いはじめた。
「じゃあ訊く。どうやっておれの後を尾けてきた?」
「あなたが戦車を跳び越えたとき、車の底に探知子《マーカー》を射ち込んでおいたのよ」
「にゃるほど」
「質問はそれだけ? なら、あたしもするわ。――あの戦車を爆発させたのは誰だと思って?」
おれは、じっとラジャの色っぽい顔を眺めて、
「ひょっとして――あんたか?」
「ご名答」
「どういう理由《わけ》だい?」
面白くなってきた。
「なに、おフランス語でよろしくやっとるの?」
ラジャの隣にいた坊主が、堪りかねたらしく絡んできた。
「交渉中ですよ。このお姐さんはフランス語が専門で」
「何言っとるの?」
「基本的にオーケーだそうです。後は条件次第」
「金ならいくらでも出すで」
「だそうだ」
「あら、うれしい」
言うなりラジャは、その坊主の頬に手をかけるや、ねじ切らんばかりの勢いで唇を押しつけた。
周りの奴らが目を剥いた。それも束の間、
「姐ちゃん、わしにも頼むわ」
と顔を突き出したのは、正気の沙汰とは思えない。
「いいわよ」
えらいことに、ラジャは全員に区別なくキスしてまわり、眼を白黒させてる奴らへ、
「はい、おとなしくしていてね」
とフランス語で言いきかせてから、おれの方へ向き直ったものだ。
「大佐殿がおかしくなったのよ」
とラジャは真顔で言った。
「ああ。エニラ師のシンパになり下がったらしいな」
「全面的に、エニラ師と親衛隊のやり方に従えと言われたわ。信じられなかった」
「大佐の意志じゃないぜ」
「わかっているわ。だからこそ、放っておくわけにはいかない。何とかしなくては。それには、とりあえず、あなたと手を結ぶのが一番。大佐殿を元に戻すまでは、何でも協力するわ。あなたもそうして」
「ごめんだね」
おれの返事に、ラジャの表情はみるみる般若と化した。
「どうして、よ?」
「エニラ師はおれの敵だが、ヤンガー大佐も同じ穴の貉《むじな》なのさ。おれとしては、どっちもくたばってくれた方が助かる。奴さんがエニラ師につこうがつくまいが、おれにとっちゃ、たいした差はないんだ。そんな男のために割く時間は一秒もねえな」
「………」
「と言いたいところだが、おれもあんたに、急ぎ訊きたいことがある。とりあえず、オーケイしよう。つまり、一刻も早くエニラ師をぶっ倒すということだ。――いいな?」
「いいわ」
とラジャはうなずいた。
「それで訊きたいことって、何?」
顔を寄せてきた。鼻先でかぐわしい息が香り、赤い舌が唇を舐めた。
「今日、港のクルーザーと国立物理学研究所が焼かれた。クルーザーには女が、研究所にはフッケっていう物理学の天才がいた。どこにいるか知らないか?」
「わからないわ」
「そうか」
おれはそっと、ラジャの首すじに手をあて、ゆっくりと上へ滑らせていった。
「あ……」
熱い吐息を洩らした女の眼は、もう潤んでいた。指が耳たぶに触れたとき、昂ぶりは決定的になった。
それが、突然、苦痛の表情に変わった。
「……何を……するの?」
「何も」
おれは、耳たぶをつまんだ指に少しずつ力を加えながら言った。
「だが、あのクルーザーを襲ったのは、情報局の奴だと、別の奴が吐いた。そいつらは、盲目の女を連れてこなかったのか?」
「……あたしは……何も……。直接行動からは……外されてしまったのよ……」
「じゃ、さっきのは何だ?」
「私の方で……頼んだの。……何もしないから付き合わせて……くれって……」
本当のようだ。おれは指を離して、
「すまないね」
と言った。
ラジャはそっと耳たぶを撫でて、
「大事な女性《ひと》なの?」
と訊いた。
「ああ、生命より、な」
「羨ましいこと」
「なんなら、大佐に伝えてやろうか?」
ラジャの頬が紅《くれない》に染まった。
「馬鹿なこと言わないで」
「泣く子も黙るコーネル処理班だって人間だろ。部下が上司を好きになって当たり前だ。大いにやれ」
「いい加減にしなさい。子供のくせに」
「――子供かどうかは、あんたがよく知ってるだろ?」
とんできた手を押さえ、おれは、
「もうひとつ訊きたいことを憶い出したよ」
と言った。そっぽを向くラジャへ、
「これは大佐のためにもなることだ。いいかい――エニラ師が、おかしな植物を育ててるって知らないか?」
「植物?」
ラジャは少なくとも考えようとする意志を示した。大佐のためが効いたらしい。
こうなると、女というのは鬼にも素直な天使にもなる。
「そうだ。名前はジガギストという。どんな色や形かはわからないが」
ラジャは視線を宙にさまよわせていたが、不意におれの方を向いて、
「その花かどうかはわからないけれど、エニラ師が第二邸宅の庭で花を育ててるというのはきいたことがあるわ。ただの噂だけど、それかもしれない」
「オーケイ。十分だ」
「でも、彼の第二邸宅は誰も知らないのよ」
「おれは特別さ」
ラジャの眼に、静かに、感激と尊敬の色が沸き上がってきた。
「怖い坊やね」
とため息をついてから、
「その花が何か、訊いても無駄でしょうね」
「内緒だ」
とおれは微笑した。
「こら、まだ、フランス語か」
横手から、いきなりビールの罐とグラスが差し出された。
「一杯やれ、一杯。とにかく、ぱーっといこう」
とラジャは微笑してグラスを手に取った。
「こら、カメラマン――おめえもいけ」
「あいよ」
おれは、黄金色の液体が泡立つグラスを眺めた。異常無し。
「乾杯」
とラジャがグラスを口につけた。おれも干した。胃の中に冷たい塊が広がっていく。
「おお、いい飲みっぷりだ」
と坊さんが満足げにうなずいた。後ろを向いて、
「じゃあ、皆さんへ」
「おお」
と一同が声を合わせ、服の内側から光る品を取り出した。数珠だ。両手でこすり合わせる音が、おれに不吉な予感を抱かせた。
こいつら、ひょっとしたら――
だが、にこやかにおれたちを見つめる観光坊主たちの顔には、邪悪な翳《かげ》など形もない。
店内に低い読経の声が流れはじめた。
最初に身を折ったのは、おれの方だった。ビールを多く飲んだ分、効き目も強いのだろう。胃と腸がねじ切れ、心臓が押しつぶされる。
平凡なビールは、突如、胃の中で毒に変わったのだ。
3
おれの眼の前に、ラジャが倒れてきた。蒼白な顔は汗まみれだった。おれも似たようなものだろう。
「息ができない……胸が……」
と豊かな乳房を揉みしだくようにする。
おれには犯人がわかっていた。坊主どもだ。その読経だ。
経文を唱えることによって、信者の苦痛を和らげるという現象は、古今の宗教団体が必ず売り物にする一枚看板だ。普通は経文への信頼が精神の緊張をほぐし、ついでに肉体の痛みをも軽減したとされる。要するに心理療法だ。
ところが、実際に文献を当たってみると、必ずしもそうとばかりは言えない事実に出会う。
一九〇四年の六月に、オランダのマキュビスという町の教会で、信者のひとりが脳内出血で倒れた際、司教の指揮で、居合わせた連中が全員、賛美歌を歌いはじめ、倒れた男は、なんと一時間足らずで復活してしまった。後に検査に当たった病院では、確かに出血の痕が認められるものの、肉体には何の影響もないと認め、教会を訪れる者が多くなったという。
歌が病を癒すなら、お経がビールを毒に変えたとしてもおかしくはあるまい。
おれは誤解を悟った。必死の声をふりしぼって、
「……あんた方……ビールに……何を入れた?」
と訊いた。
「何も」
と答えたのは、ビールを差し出した坊主だった。
「ただ、我々には祈りをもって水を毒に変える力があるのだよ。こう見えても、出羽三山の密教呪殺部隊も兼ねておる」
厄介なのを相手にしちまった。いや、相手にするもなにも、向こうにも、おれに敵対する気は土壇場までなかったにちがいない。
「いつ……だ? いつ……精神改造手術を……受け……た?」
おれは蚊の鳴くような声で訊いた。
「我々にもよくわからん。サヴィナに着いてすぐ、警察へ連行されたのは覚えているが、多分、そこでだろう」
そこ[#「そこ」に傍点]で、おれを見かけたら、ビールを飲ませ、しかる後、毒に変えろとの指示を与えられたのだろう。おれが予想できなかったのは、その行為自体を彼らが悪だと考えていなかったためだ。
「安心しろってば、生命には別条ない」
と坊主は、やさしく慈悲深い声で言った。
「ただ少しの間、おとなしくしてもらう。ほれ、いま、電話かけに行ったよ」
エニラの部下が来るまで待っちゃいられない。
おれにはある考えが芽生えていた。
経文が単なるビールを毒に変えるのは、精神力によるものだろう。それなら、同じ力で逆のことも可能なはずだ。
面白い。坊主の読経か、おれの精神力か。
おれは全身の力を抜き、苦痛のない感覚をイメージすることに意識を集中した。
読経はなおも店内に低く、不気味に響いている。
坊主のひとりが戻ってきた。エニラ部隊へ連絡をとったのだろう。いかん、集中が乱れる。
そのとき――
「あんた方――何しとるんだ?」
怒りと困惑の声が念仏に混じった。
白い前掛けをかけた巨漢が、坊主どもをねめつけている。せり出した腹の貫禄からして、この店の主人《あるじ》だろう。おかしな東洋人が邪教の祈りを唱えていると、こっちを向いて不気味そうな表情をしている客たちがクレームをつけたのだ。
もちろん、坊主たちの読経は熄《や》まず――店主の文句がわからないのだ――店主はついに青筋を立てた。
「他のお客さんの迷惑だ。出ていけ」
ごつい手が、坊主の肩を掴む。
ひとりが軽々と椅子ごと後方へ叩きつけられた。
読経が熄んだ。
別のひとりが立ち上がり、数珠を握った手を、ぐいと店主の鼻先につきつけた。両眼を閉じ、猛スピードで密教の呪文を唱える。
主人も腹を押さえてうずくまった。今朝、ビールでも飲んだのかもしれない。
代わりに、おれが立ち上がった。
おっ!? と眼を剥く坊主どもの横面へ、電光の速さで廻し蹴りをかました。全員がひっくり返った。
「同じ国のよしみで手加減はしてある。――無事、帰国しな」
おれはラジャを抱き起こし、バッグを掴んで戸口へと向かった。
ドア・ノブに手をかける。手応えがおかしい。
三つ目の蝦蟇《がま》だった。げえ、と鳴いて、そいつは濡れた口から白い液を吐いた。胸にかかると、上衣は白煙を噴き上げ、灼熱の痛覚が肉を灼《や》いた。
「阿呆」
ひっくり返った坊主のひとりが、念仏を唱えてこちらへ数珠を向けているのを横眼で見ながら、おれは、失せろ、と念じた。
おれが手にしているのは、真鍮のドア・ノブだった。胸を見た。上衣も元のままだ。灼熱感は記憶にしか残っていない。
外へ出た。
背後で獣の唸り声がした。息がつまりそうな悪臭が吹きつけてくる。
ふり向いた。
巨大な虎が店内にいた。
たとえ、密教の幻覚術とはいえ、さっきの蝦蟇の毒液みたいな効果を上げたら、おれは虎の爪のひと掻きで即死してしまいそうだ。催眠術の被験者に、焼け火箸だといってボールペンを手渡すと、火腫《ひぶく》れができる。それと同じ理屈だろう。
虎の眼はおれとラジャを見つめていた。ぐい、と上体がたわんだ。
跳んだ!
惚れ惚れするほど美しい肢体に、消えろというのは心苦しかったが、巨虎は、爪先でおれの首の肉をむしり取る前に消滅した。
調子は上々だ。おれはラジャを肩に街路を歩き出した。おかしな化物はもう現れなかった。坊主たちもダウンしたらしい。後はおとなしく観光日程を消化して帰国するこった。
前方の通りを、黒い甲虫《かぶとむし》みたいな乗り物が滑ってきた。おれのかたわらで音もなく停止し、背中に乗せたドームが旋回する。
紅い光点が埋め込まれていた。レンズだ。おれの方を向いて止まった。
「そこの東洋人――手を上げろ」
合成音と思しい男の声が命じた。
「指示に従わない場合は、三秒後に射殺する。1《ワン》……2《ツー》……」
「3《スリー》」
おれはこう唱えて、右手を前へのばした。こんなに速くグロックが抜けるとは思わなかった。精神パワーの成せる技だろう。
二発でレンズにひびが入った。割れない。
三発目を射つ前に、ドームは旋回した。黒い鋼《はがね》の表面に火花が上がる。九ミリ弾じゃ歯が立たない。車全体がこちらを向いた。
その場を一ミリも動かず、ドームと同じ具合に旋回したのだ。おれが路上に伏せたのは、勘の働きだった。
間一髪――頭上をオレンジ色の炎が通りすぎた。
悲鳴が上がった。人型の炎が狂ったように車道へ躍り出た。ドームの火炎放射を浴びた通行人だった。
奴らめ、おれの抹殺に切り換えたか。
おれは逃げなかった。ラジャをその場に横たえると同時に、地を蹴った。甲虫めがけて。
ドームが新たな炎を吐く前に、おれはそのずんぐりした頂《いただき》に着地し、空中でバッグから取り出しておいた高性能プラスチック爆弾を、その表面に粘着させた。突き出ている信管を引っこ抜いた途端、左右から迸る黒い光が胴をはさみ込んだ。
マジック・ハンドだ。ハンドといっても指は二本しかなく、内側は鎌みたいに研ぎ澄まされている。掴むんじゃなく、斬るための手だ。よくも、こんなおかしなものをこしらえやがる。
あの宇宙人《エイリアン》爺い。
残念ながら、おれの胴は二つにできなかった。機械服は伊達《だて》じゃねえ。
ギリギリとこすり合う金属同士の歯の浮くような音を聴く間もなく、凄まじい炎が視界を埋めた。
甲虫野郎、切断不可能と見て、火炎放射をぶちかましやがったのだ。
頭部と顔はシャッターが守ってくれた。火遊びが好きな甲虫は、しかし、おいた[#「おいた」に傍点]を途中でやめなければならなかった。
頭部がふいに陥没したのだ。
おれがくっつけたプラスチック爆弾は、爆発と同時に、内側へのみ衝撃を集中する。イスラエル軍開発の“インサイド・アクター”型《タイプ》だ。七千度のジェット・ストリームと甲虫自身の破片が車内を駆け巡る。サイズからして無人なのはわかっている。コンピュータは痛みを感じるのだろうか。――おれはふと思った。
腕が力なく垂れるまで二秒ほどかかった。
二枚の鎌刃を難なく押し広げて、おれは路上へ降りた。その瞬間、甲虫は爆発した。
「うわお」
通りの家の窓ガラスが軒並み吹っとび、遠巻きにしていた通行人に炎と破片がふりかかる。
ラジャを抱え上げ、おれはいちばん近い路地へと跳び込んだ。
「おい、起きろ」
と肩をゆすった。
「起きてるわよ、とっくに」
これだから、女って奴は。
「いつから眼え醒ましていた?」
「あの店で、あなたが暴れ出してすぐ」
「なら、とっとと降りろ。邪魔だ」
「わかったわよ」
ラジャは自分から跳び降りて、
「それじゃあ、気をつけてね。エニラ師を始末するまでは生きていてよ。その後で、あたしがゆっくりと息の根を止めてあげる」
「楽しみにしてるよ」
と、おれはウインクした。
路地の入口の方で足音と声が入り混じった。
「ここへ入ったぞ」
「見つけ次第、殺せ」
低い声だ。聴いたことがある。
ペケちゃんだ。他に四、五人いる。
「行け」
とおれはラジャの背を押した。ペケちゃん相手では、一分の隙も許されない。しかも、おまけ付きだ。
ラジャが走り去ったのを見届け、おれは、わざと足音を立てて反対側へ走り出した。
「いたぞ」
「こっちだ」
声につづいて足音が迫ってくる。
おれはバッグの中から追跡攪乱用のエコー・ボールをひと握り取り出し、掌《てのひら》の中でこすり合わせた。
ボールといっても、音響記録用紙を内蔵しただけの直径一センチのプラスチック球である。ひと握り三〇個――おれは路地の曲がり角にくるたびに、数個ずつ放り込んでいった。花ゲリラの気分だ。
足を止めて様子を窺う。
せわしない足音が接近してくる。不意に、横合いから別の足音が加わった。
「そっちだ!」
「右へ曲がるぞ」
と追手が叫んだところへ、
「はあい、元気かい?」
とおれの声が反対側から呼びかけた。
「左だ!」
叫びには明らかに動揺が含まれていた。
「二手に分かれろ。おまえたちは右だ。おれたちは左を追う」
「了解」
敵の気配と足音は二つに分かれた。幻のおれを求めて、いずれ、力なく本部へ戻るだろう。
おれは笑いをこらえて、前方へ走り出した。
その頭上で殺気が爆発した。
前へつんのめるより、後ろへ反れ――無意識の指示に肉体が反応した。
鼻先――もとの後頭部の位置へ叩き込まれた蹴りは、鉈《なた》の破壊力を有していた。受けても、タイミングがずれれば、骨ごとへし折られる。
バック転まで行い、おれは喧嘩流の立ち方で構えた。
「やっぱり、おまえか」
納得の声である。できれば、出したくなかった。
「今度こそ、決着《けり》をつける」
とペケちゃんは、凄愴《せいそう》な光のこぼれる細い眼でおれを見つめた。
まずい。すぐに斃《たお》せる相手とも思えないし、偽《にせ》の足音と声にたぶらかされた連中もじき、駆けつけてくるだろう。
かといって、素直に逃がしてくれそうもない。
おれは右手をバッグに差し込んだ。
ペケちゃんは何もしない。どんな武器だろうと、自分には通用しないと心得ているのか。
「ひとつ、提案がある」
とおれは言った。
「何だ?」
とペケちゃん。
「これから、あんた用の迎撃準備を整える。それまで待ってくれ」
さすがに呆然とする表情になった。沈黙が落ちた。こんなとき、何を言ったらいいのかわからないのだろう。
「な、いいだろ?」
とおれは本気で申し込んだ。
「阿呆めが」
言うなり跳んだ。上体をねじっている。跳び後ろ廻し蹴りと踏んだ。とっさに下げた頭上を旋風がかすめた。髪の毛がもっていかれる。
だが、おれに必要なのは、この時間だった。
前のめりに回転しざま、すでに掴んでいた品をバッグから投擲《とうてき》する。
直径一〇センチ、長さ三〇センチほどの円筒は、着地したペケちゃんの足下に転がっていった。
ぴいん、とロックが外れ、上蓋が弾けとぶ。
ペケちゃんは一瞬、身構え、それでも猛然と地を蹴った。
円筒からおびただしい黒線が迸ったのは、その刹那であった。
太さ〇・一ミリの金属線はことごとく、周囲のビル壁に付着した。先端には凄まじい粘稠《ねんちゅう》物質がついていたのである。金属線の打ち出し角度はそれぞれ違うから、計三〇〇本の線は、地上の円筒を中心にまるで扇のように広がった。
本来、何もない空中へ上がった金属線さえ、それ自体の張力で直立したのである。約二〇メートル、いかに超人といえど、跳び越えられる高さではなかった。
さしものペケちゃん、空中ではいかんともしがたかった。また、自負もあったのか、もろに頭から糸の扇に突っ込んだ。
ばん!
と火花が上がった。
五メートルも跳ねとばされ、すぐに立ち上がったのはさすがだが、ペケちゃんの上衣は黒煙と火を噴いていた。
「はっはっは」
とおれは一〇メートルも離れた安全地帯で、腰に手を当て、ふんぞり返って大笑した。
「八頭特製“逃亡保護機構”の味はどうだい?」
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第三章 エニラ再訪
1
正確にいうと、「逃亡保護機構」は、おれがつくったわけじゃない。こういうのがあったら便利だなあというアイディアを、パトロンになってる技研や科研に送り具体化させたものだ。
今回のはイタリアの兵装メーカー「ファラス」社の製作だが、面白いことに、実際の機能設定と設計は、前科三三犯の、もと強盗の技術者が行った。なるほど、出来がいいはずだ。
円筒内の高出力発電機《ハイパワー・ダイナモ》が、三〇〇本の妨害ネットへかける電圧は五〇〇〇ボルト。並の人間なら絶対おしゃか、大型獣でもひっくり返る強さだから、滅多なことじゃ使わない。逃げさせてくれない強敵用だ。
片手で炎を叩き消しているペケちゃんへ、おれはあかんべえ[#「あかんべえ」に傍点]と舌を出し、
「あばよ、色男」
と片手を上げた。それを下ろさないうちに、ペケちゃんが突進した。
馬鹿が、同じ結果に――
青い火花が全身を包んだ。いくら超人でも心臓が保つはずがない。――と思ったのが間違いだった。
ペケちゃんは全身を青く染めながら、両手で鋼線をねじ曲げ、頭を出し、肩を抜いて、とうとうこちら側へ辿り着いてしまったのだ。
もちろん、服は火を噴き、ぼろぼろだ。
「これからだな」
とペケちゃんは笑った。炎がその顔を舐め、あまりの凄まじさに、おれもぞっとした。
「その通り」
と言ってやった。
「これからさ」
おれの口元に浮かんだ笑みを、ペケちゃんは理解できなかったようだ。大股で歩み寄る速度は、普通のダッシュくらいも凄かったが、その足の間をくぐって、銀色の塊が彼の前方三メートルほどで停止したのである。
それが少し低めになった保護機構だと知って、ペケちゃんの表情がこわばった。
そのとき、背後で悲鳴が上がった。彼はふり向いた。軍隊の制服を着た男たちが二、三人、後ろへ跳ねとばされたところだった。無事なのは三人。ペケちゃんの仲間がやっと追いついたのだ。
彼らとペケちゃんの間には、相も変わらぬ電撃ネットが行く手をふさいでいる。ただし、ネットを収める円筒はもとの四分の一ほどしかなかった。
痙攣している仲間を放り出して、残る三人がAK47を肩づけした。
火線がおれを襲ったが、もとより、機械服が跳ね返してしまう。
射撃を中止し、奴らは血の気の失せた顔を見合わせた。頭も顔も銀色のロボットみたいなおれは、ペケちゃんよりずっと不気味な存在に見えたことだろう。
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」
とおれは両手を叩いた。
じっと睨みつけていたペケちゃんが、ぐい、と第一歩を踏み出す。
その足下へ、ばらばらと黒光りする球体がばら撒かれた。
一段低くなった円筒のてっぺんから放り出されたそれは、おれとペケちゃんの間、約七メートルのうち、五メートルの範囲に一種の帯状地帯《ベルト・ライン》を構成した。
「さ、来な」
おれは好奇心と、ペケちゃんに来て欲しいという期待をこめて挑発した。
彼の膝がたわんだ。危ない。
球体の原を越えた跳躍は、一〇メートルをクリアするのではないかと思われるダイナミックさだった。
ただ、彼が見落としていたのは、こっち側にはおれがいたことだ。
機械服が地を駆る速度は、ペケちゃんのジャンプを凌いだ。着地の寸前、おれは彼の前方へ廻り込み、ぶん、と突き出された前蹴りを左手でブロックするや、右のストレートをまだ空中にいるその鳩尾《みぞおち》へ叩き込んだ。
よくしなる鋼板を殴ったような手応えだが、効果は抜群だった。
ペケちゃんは吹っとび、ばら撒かれた球体のほぼど真ん中に背中から落ちた。
次の瞬間、天地をゆるがす爆発が、その身体をぼろ布みたいに垂直に跳ね上げた。
頂は三メートルだった。そこから落下し、今度は地を打った右手と右足あたりで新たな爆発が生じた。右手が吹っとぶのを見て、おれはやれやれと嘆息した。
直径三センチ――胡桃《くるみ》ほどの小型地雷の効果《パワー》は強すぎたかもしれない。
横たわったペケちゃんの周囲に、光るものが落下して砕けた。ビルの窓ガラスだ。
と――それが眠りを醒ます合図であったかのように、彼はむくりと、またもや起き上がったのである。
肩の付け根からもぎ取られた右手は地上に転がっているが、それはもちろん、肩の傷口からも血一滴流れていない。
「いい加減にしたらどうだい。これ以上、任務を忠実に守ってもしようがねえ」
おれの言葉に返事もせず、ペケちゃんは歩き出した。
その足の下で、ドン、と小さな爆発が走り、靴が吹っとんで素足になった。
おれはため息をついて、右手のリモコンのスイッチを押した。
地雷を格納してあった層を剥離させ、半分のサイズになった保護機構が、底部の車輪をフル回転させて、三度、ペケちゃんの前に廻る。
円筒状の四層も残るは二つ――追跡を防ぐ電撃ネット、超小型地雷原の次は何が待つ?
銃声が響いた。
ペケちゃんの後ろで、電撃ネットの基底部が吹っとぶのが見えた。同時に、ネットも張りを失い、三人の男たちはAK47を構えて殺到してきた。
と――その身体がだしぬけに、へなへなとその場へ崩れ落ちたではないか。そして、折り重なった三人は、いっせいに高鼾《たかいびき》をかきはじめたのである。
「ガスか」
とペケちゃんが微笑したとき、おれには、はじめての攻撃無効が理解できていた。
無色無臭の麻酔ガスは、象や恐竜でも一秒とかけずに眠らせるが、人工生命体には無効なのだ。
ガスを放出し終えた第三層がぱこんと外れるのを冷ややかに見下ろし、
「次はどう来る?」
とペケちゃんは訊いた。
「困ったな」
とおれは正直に言った。
「電気と爆発とガスが駄目なら、もう打つ手がない。銃など役に立ちそうもないしな」
「では――いよいよ最後だ」
もう一層――第四層が残っているのを、ペケちゃんは気づいていたにせよ、たいしたことはないと、たか[#「たか」に傍点]をくくっていたのかもしれない。
現に、四分の一に縮まり、罐詰《かんづめ》みたいになっちまった平べったい円筒は、今度は何も吐き出さず、かすかにぶうんという音を響かせているばかりだったのだ。
だしぬけに、落とし穴にでもはまったみたいに、ペケちゃんの身体が沈んだ。
アスファルトがまるで軟泥と化したみたいに胸まで埋まり、もがく片手も、アスファルトの中に沈んだ。
「これが最後の手さ」
とおれは言った。
実のところ、最後の手段である分子変換剤だけは、道路の材料によって――土やアスファルトの成分などによって――希望通りの効果を上げるとは限らないのを、イタ研から釘を刺されていた。
円筒の底部から散布された薬液は、いかなる高密度の物体の表面にも浸透し、分子の配列を狂わせてスカスカの――どろどろ[#「どろどろ」に傍点]の粘体に変えてしまう。もちろん、鉄なんかにはさしたる効果がないし――溶かすわけじゃないからな――同じ土壤やアスファルト、コンクリートでも、少しずつ成分がちがえば、効果も微妙に異なる。幸い、今回は理想的だった。
不死身の怪物も、手足が立たない泥の中じゃ、沈まないようにするのが精一杯だろう。
「何もしない方が効いたようだな」
おれは今度こそ、自信たっぷりに片手を上げて挨拶した。
「んじゃ、ま」
路地の出口へ向き直るその顔面に、凄まじい衝撃が爆発した。
シャッターが下りなければ、顔ごと持っていかれたにちがいない。それほどのパンチより、おれを驚かしたのは、そいつの接近がまるっきりわからなかったことだ。となると――
二発目は腹にきたが、機械服がカバーした。
おれはその手首を掴んで、力まかせにビルの壁へ叩きつけた。
そいつは、ぶつかった刹那に消滅し、次の瞬間、おれの後頭部へ手刀をぶちかました。空中に出現しやがったのだ。おれもとんぼを切った。跳ね上がった足が、分身の胴にめり込む。消えた。なんて都合のいい奴らだ。
身構えた途端、前後に現れた。二人もいる。
二人合わせての連続攻撃もなんとかかわした。機械服の力だ。だが、これじゃ、らちがあかない。そのうち、軍隊でも押しかけてきたら事だ。
電撃でぶっ倒れた三人組の横から人影が現れた。
「およしなさい!」
声はラジャのものだった。
はっと、二つの分身がそちらを向く。
「もう動けないわ!」
鋭く切り込む第二声に、分身どもはあっけなく凍りついた。天才ラジャ・クレインの瞬間催眠は、二重存在《ドッペルゲンガー》にも効果を発揮したのだ!
「いいぞ、ラジャ」
おれは素早く、二人から身を離した。ラジャが微笑した。その足下で、兵士のひとりが身を起こした。AK47が持ち上がった。
「逃げろ!」
おれの叫びに自動小銃の一連射が重なり、ラジャは後ろへ吹っとんだ。つづいてもう一発。
バッグから予備のグロックを抜き射ちざまに放ったおれの一発で、兵士は肩を押さえてのけぞった。全弾ぶち込んでやりたかったが、そうもいくまい。
泥濘《でいねい》の沼を跳び越え、おれはラジャのかたわらに駆け寄った。
胸と腹に赤点が散っている。ひと目で致命傷とわかった。
「おかげで助かったよ」
とおれは言った。
「コーネル処理班も解散ね」
ラジャは意外とはっきりした声でつぶやいた。
「どうして逃げなかった?」
「……さて、ね。勇敢な日本の坊やが気になったのかしら」
「大佐はおれが元に戻す」
約束だ。死んでも破れない。
ラジャの手が、そっとおれの手に重なった。
「信用してるわよ、坊や」
「坊やはやめてくれ」
ラジャは微笑した。それがこわばり、表情から生気が抜けた。
ずり落ちようとする手をそっと掴んで、おれはもう一方の手ともども鳩尾の上に置いた。
天職だが、時々、やりきれなくなるときがある。
「ゆっくり休みな」
と言い残して歩き出し、おれは足を止めた。
ラジャのところへ戻り、身を屈めて、首のペンダントを外した。形見分けだ。滅多にやらない行為だ。やや感傷的だな。
おれは、まだ、泥の中でじたばたしているペケちゃんを見つめた。
始末しといた方がいいと、頭のどこかでおれに似た声が叫んでいた。ここで自由電子レーザーガンでもぶち込めば、いくらペケちゃんだろうと助かりっこない。
だが、なぜか、そんな気分になれなかった。
「あんたも大変だな。片手まで失くして、エニラのために、かよ」
おれはしみじみと言って、彼の頭上を跳び越え、歩き出した。
「なぜ――殺さん?」
遠くでペケちゃんの声がきこえた。
「覚悟した奴は射たねえ主義なんだよ」
とおれは答えた。
格好よく決めたな。――そこへ邪魔が入った。
路地の端から、人影と気配がやってきたのである。
2
面白い、ぶちかましてやるか。感傷の反動でたちまちファイトが湧いたが、すぐにしぼんだ。
五人ほどの集団の先頭に立っているのは、ブルーだったのだ。
「こりゃ、どうも」
とおれはシャッターを開いてウインクした。
「間に合ったか」
と言ってからブルーはおれの背後に眼をやり、
「間に合わなくても、君なら援助など必要なかったな。――ま、念のためだ」
と言った。
「どうして、ここだと?」
「この先の喫茶店の前で、ロボット・ビークルを吹っとばしただろう。我々にも情報網はある」
「こいつは失礼。――で、ひとつ頼みがある」
「何だね?」
「あの首だけ出てる奴と凍りついてる二人――助けてやってくれよ」
ブルーは、おれと彼らを交互に眺め、
「生かしておくと、我々の誰かがやられるかもしれない」
と言った。
「おれを恨めばいいさ」
少し間をおいて、
「わかった」
とブルーはうなずいた。
「ありがとよ。かわりに、ひと働きしてくるぜ」
「どこへ行く?」
「内緒だ。教えたら、あんた方、みんなで同行するというだろう」
「教えないとそうするが」
「やめとけ。それこそ、足手まといだ」
周りの連中に殺伐たる雰囲気が走ったが、ブルーはうなずいた。
「わかった。何も言うまい」
「ありがとさん。マリアは元気かい?」
「なんとか、な。いつも、君の身を案じているよ。まるで、母親だ」
苦笑するしかなかった。
「勝手を言って悪いが、用意して欲しいものがある」
「衣類と――何だね?」
「車さ。音を立てないジープがいい。できたら、一八〇までは出せるようにチューンしたやつだ。今すぐ」
「承知した」
この辺は歴戦の強者だ。手間がかからなくていい。
「すぐに用意する。それまで、近くのアジトで休みたまえ」
「重ね重ね、どうも」
ゲリラのアジトは、路地を抜けてから、歩いて三分の洗濯屋《ランドリー》だった。看板は『デル・フロリア』となっている。
裏口から入ると、大型洗濯機の周りに何人も店員がいたが、こちらを見もしなかった。
おれたちは奥の部屋へ入った。
一歩足を踏み入れ、おれは、
「やれやれ」
と天を仰ぎたくなった。こんな気分のときには、いちばん会いたくない男が、壁にもたれていた。
「よお、シュミット」
とおれは片手を上げた。
「無事だったか」
と“地獄の戦士《ヘル・ファイター》”は厳しい口元を緩めた。
おれはゲリラたちをふり向いて、
「二人だけにしてくれ」
と言った。彼らが出ていくと、
「話さなきゃならないことがある」
と切り出した。
「キャロルのことか」
「そうだ。あんたに気休めを言っても仕方がない。――行方不明だ。それ以上はわからない」
「わかった」
シュミットは短く言って、
「これから、どうする?」
と訊いた。
拍子抜けに映るだろう――普通の奴なら。
背中にひどく重いものがのしかかってきた。
「エニラ師の第二邸宅へ行く」
とおれは盗聴器の有無を確かめながら言った。無しだ、と勘がささやいている。
「私も行こう」
あっさりと言った。
やけになってるならやめろ、と言いかけ、おれはだんまりを決め込んだ。これでは侮辱になる。しかも、おれの方が一生悔やむことになりそうだ。
おれのこれまでの生涯で、こんなに言葉探しに窮したことはない。これからもないだろう。
「シュミット――」
「キャロルは私を理解していた」
とローレンス・シュミットは言った。
「それは君を理解していたということだ。だから、私を行かせた。後のことは彼女自身の問題だ、運命を含めてな。――忘れたまえ」
「わかった」
とおれは答えた。
それだけだ。
「どう攻める?」
とシュミットは訊いた。昔のように。
「とりあえず、ゲリラの連中から地図を借りる。追いかけてこられないよう、この街全体のな。後は行きあたりばったりだ」
おれはその家の位置を話してきかせた。マグレアの竜泉の中だ。
「君に洩れていることはエニラ師に通報されているだろう。防備を固めるのに、何時間かかると思うかね?」
「奴には必要ねえさ、んなもン」
「その通りだ。そして、手ぐすねひいて待ち構えているだろう。少し侵入を遅らせたらどうだ?」
「奴の緊張が解けたところを狙うか? ――冗談じゃねえ。あいつはエイリアンだ。人間と同じ理屈は通用しねえ。後になりゃなるほど、仕事はしにくくなる」
「となれば、これから行くしかないな」
「そういうこった」
「だが、君は彼を斃すのに一度失敗している。それなりの装備は必要だ」
「まかしとけって」
おれはかたわらのバッグを叩いた。
「あのときは、これがなかったのさ。もうハンパじゃねえ。何がなんでも、花ぁ摘んでみせてやる」
「花?」
あ、まだ、言ってなかったか。
「そうだ、花だ」
「何に使う?」
シュミットは静かに訊いた。質問の内容と訊き方が一致していない。こういうとき、真面目な顔の奴は困る。
「教えてやらない。嫌なら来るな」
とおれは言った。
別に意地悪したわけじゃない。シュミットを信じなかっただけだ。そうとも、相棒など、土壇場で寝返るための存在に決まっている。ローレンス・シュミットでも例外ではないのだ。
「まかせよう、私はアシスタントだ」
「当然さ」
とおれはえらそうに言った。
三〇分後、おれとシュミットは、エニラの第二邸宅へ向かってジープを走らせていた。
午後の光がそろそろけだるく変わりつつある。じき、空は蒼みを増してくるだろう。
道の左右は瀟洒《しょうしゃ》な家の列だ。マグレア竜泉の中なんていうと、どこかの秘境か古い泉の真ん中みたいだが、なに、郊外の住宅地である。昔、この辺に竜《ドラゴン》が住むという大きな泉があったのを埋め立てた後らしい。野郎、おかしなところに新居を選んだものだ。
道では子供たちが遊び、主婦らしいグループが立ち話にふけっている。
「これじゃ、派手に暴れられないな」
とおれは納得した。こんな街なかに敵の本拠地があったら、大量の高性能爆薬でドカンというわけにはいくまい。
「ここだ」
と、おれは一軒の白い家の前を走りながら顎をしゃくった。地図で見ると泉の真ん中にあたる。
左右の家並みとほとんど変わらない安普請《やすぶしん》の建売住宅――それがエニラ師の新居だった。
おれは家の周囲をひと廻りして、状況を確認した。
左右の家にはちゃんと人が住んでいる。厄介だ。ひと気のないのはエニラ師の家のみだ。
おれは真っすぐ住宅地を抜けた。街外れの林にジープを乗り入れ、
「じゃ、行くか」
と準備にとりかかった。
と言っても、簡単な作業だった。バッグから引っぱり出した半透明のビニールみたいな薄布《シート》で、ジープをすっぽりと包むだけだ。
「オーケイだ」
シートの端に三〇枚ほど貼ってあるマーカーの一枚を剥がすと、内側のジープのラインを浮き出していた布は、みるみる色を変え、形を変え、いや、サイズさえふくれ上がって、一台のバンに早替わりしたではないか。
「偽装シートか。しかし、これほど巧妙なものは――」
さすがに、怖いもの知らずのシュミットの眼にも感嘆の色がある。
各国の軍隊で使用されている同系統の品が偽装シートである。たとえば、英国では、材木で簡単な骨組みをつくり、その上からチーフステン戦車やシー・ハリアー戦闘機を模したシートを被せて、敵の眼をくらませる。攻撃を受けるのは偽物で本物は無傷というわけだ。シートには巧みに兵器の絵が描かれ、最近では微妙な凹凸まで再現できるため、少し離れると電子機器でさえ見分けがつかないという。
おれが米国の軍需企業につくらせたシートは遥かに芸が細かく、別名“カメレオン・スーツ”――折りたためばてのひらに収まる極薄の特殊繊維に、分子レベルでの変身機能を組み込み、しかも、それが三〇種オーケイ――大は三〇輛連結の大陸横断鉄道から大陸間弾道ミサイル、小は子供相手のミニチュア・カーまで、ときている。驚くべきは、肉眼では絶対に見分けがつかず、触ってもわからない芸の細かさだ。
「ほれ」
おれはシートと同じ品をシュミットに放り、自分も頭から被った。それはたちまち手足に張りつき濃紺の制服になった。胸と帽子のネームは『シューティング・スター清掃社』。荷台の横にも大書されている。
おれは武器の入ったバッグにもシートを被せ、大型の電気掃除機に見えるようにした。シュミットの愛銃ニトロ・エクスプレスは殺虫剤の噴霧器に化ける。その他の武器は上衣の下だ。
「んじゃ、行くぞ」
「いいとも」
おれたちはジープの運転台に乗ると、もと来た道を辿りはじめた。内側は狭苦しいジープだが、外見は堂々たるバンだ。妙な気分といえないこともない。
エニラ師の家の前に着くと、おれは素早く車から降り、門柱のインターフォンのスイッチを入れた。同時にてのひらの超小型レコーダーが作動し、
「はい」
と、男の声で応じる。エニラ師とは異なるが、なに、インターフォンから聴こえるというだけで、近所の連中だって、家人のものと納得してしまう。
「あ――『シューティング・スター』ですが、お掃除に伺いました」
「入ってくれ」
ちょうど通りかかった中年の婦人二人が、じろりとおれたちの方をすが眼で窺ったが、返事をきいて、何事もなかったように歩き去った。
「じゃ、玄関を開けてください」
おれたちは開けっ放しの前庭を通って玄関まで歩いた。
シュミットが何げない様子でドア前に立ち、右手で万能鍵を鍵穴に差し込んでいる間に、おれはさりげなく後ろに廻って、通りから、彼の作業が見えないようカバーする。
ロック解除準備オーケイのライトが、手にしたキイに点り、シュミットはスイッチを入れた。
鍵が外れ、
「はじめまして」
と声をかけながら、おれたちは素早く室内へ入った。通りからでは、家人の出現があったかどうか確認できないはずだ。この辺は、ベテランのタイミングである。
家具付きの居間がおれたちを迎えた。エニラ師が今、宮殿にいることは、ゲリラから確認を取ってある。
照明もなくうす暗い邸内は、しかし、無人とは言えなかった。
「どうだ?」
おれの問いに、シュミットは、
「いる[#「いる」に傍点]な」
と応じた。彼やおれくらいになると、肉眼よりは勘でもの[#「もの」に傍点]を見る。長生きする秘訣は、これがどこまで鋭いか、だ。
「花とやらはどこだ? 前庭にはなかったし、裏にも温室はなさそうだ」
「多分、地下だろ」
とおれは気配の位置を確かめながら答えた。すでにバッグのカバーは剥ぎ取って、右手には自由電子レーザー砲が光っている。シュミットはもちろん、ニトロ・エクスプレスだ。
おかしな話だが、レーザー砲を持っても消えない胸騒ぎが、武骨なライフルを構えたシュミットを見るだけで熄《や》むのだ。
いかん、相棒を信頼してしまうじゃないか。
おれはバッグのポケットから直径二〇センチ、高さ一〇センチほどのドームを取り出し、居間の中央に置いた。
「何だね?」
とシュミットが訊いた。
「携帯用《ハンディ》トーチカだ。ここはいわば最前線だからな。陣地は必要だ」
「どうやって使う?」
シュミットは軍人らしい質問をした。戦う男なら、最新の武器には絶対に興味を持つ。いい悪いじゃなく、そういうものだ。
「あのドアに、この突起部が向いてるだろ。三次元レーダーだ。三六〇度をカバーしてるから、この部屋へ入ってきた奴は必ず捕捉する。おれたちはキルリアン・タイプを記憶させてあるからいいが、それ以外のものが接近してきたら、まず、敵と見なされる」
「いきなり、攻撃か? 隣人が来たらどうする?」
「一巻の終わりだな」
おれの胸ぐらをシュミットの手が捉えた。
「民間人の巻き添えは許さんぞ。たとえ、君でも、だ」
「冗談だよ」
とおれは苦笑した。
「まず、探知すると、麻酔波《パラライザー》が照射される。虎でも一発でダウンだが、一切の副作用はない。ただ、いい気持ちで半日眠りこけるだけだ。それが効かないと、いよいよ本格攻撃だが、ここまで平気な奴を、無害な隣人とは言わないだろうな」
「もっともだ」
「次の出番は内蔵のレーザー砲だ。ここから飛び出し、もちろん、三六〇度の弾幕を張る。直径一ミリ足らずとはいえ、一万度の超高熱の針で突き刺されれば、大概の奴はお陀仏だ」
「それでも、駄目だったら」
「レーザーと同時に、ミニ・ミサイルの出番となる。これも針ぐらいのサイズだが、それだけに一〇〇〇発も収納可能だ。航続距離は三〇〇メートル。爆発力は対人用手榴弾並みだが、燃焼弾頭も入っていて、三万度の炎を出す。――ざっと、こんなところだ」
「恐れ入ったよ」
シュミットは、おれの顔をじっと見つめた。悪い予感がした。
「これで、不意に帰ってきたエニラ師が斃せるのか?」
「万にひとつも無理だな」
この件に関して、おれほど断言できる人間はいない。
「せいぜいがところ、全部の機能を使い果たすまでざっと四、五分――それくらいもてば十分だろう」
「その通りだ」
とシュミットは認めた。
後は――地下室探しだった。
3
家はそれなりに広いし、家具も揃っていたが、まるきり生活感に乏しかった。これは越してきて間もなく、などという理由ではない。基本的にここの住人には、人間の持つ生命の澱《おり》みたいなものが欠如しているのだ。
地下室への入口はすぐに見つかった。居間を出た奥の廊下を真っすぐ進んでいくと、かなり大きめの上げ戸を踏みつけた。ここだ。
人間ひとりがかろうじてやっとこ通れるくらいの昇降口から、おれはためらいもせず、身を躍らせた。
上にくらべて、地下室は大雑把なつくりだった。
煉瓦が剥き出しの壁は、黒い猫を殺そうとして女房の頭を割ってしまい、知らずに猫ごと壁に塗り込めたという、昔読んだ小説を連想させた。
普通、地下室といったら、大工道具や工作板、灯油だの石炭だのが置いてあるものだが、ここには一切見当たらず、代わりに、白っぽい毬《まり》を思わせる塊があちこちに転がっていた。
闇だが、照明は点けなかった。おれもシュミットも夜目が利く。
ぷん、と嫌な臭いがする。有機物――肉の腐敗臭だ。
「いよいよでんな」
おれはあらためて、全身の力を抜いた。レーザーの安全装置は外してある。
だが、こんなところで花を育てているエイリアンがいるものだろうか。エニラ師が口笛を吹きながら、うす暗い花壇に如雨露《じょうろ》で水をやっているところを想像し、おれは気味が悪くなった。
「ん?」
前方で気配が動いた。
悪臭が吹きつけてきた。
「お出ましだぞ」
とおれはシュミットに言った。
壁を曲がって、茶色の筋がぎくしゃくと現れた。手足と認めるのは簡単だった。表面にはびっしりと短い剛毛が生えている。
しゅう、と白い帯がこちらに流れてきた。
蜘蛛の糸だ!
おれは後退しながら、足下の木切れを取って糸を受けた。敵の武器の性質を知らなくちゃならない。
糸は、みるみる堅い木に食い込み、半ばで止まった。
強力な溶解液か何かを含んでいるらしい。これでは巻き取られた途端に殺されてしまう。
角を曲がって茶色の塊が姿を現したとき、おれはレーザーを肩付けした。
頭上で雷鳴が轟いた。空気が震えた。凡人なら腰を抜かしかねない。
四〇〇ニトロ・エクスプレスの直撃は、おれたちの倍もありそうな大蜘蛛の顔面にめり込んだ。
体内へもぐり込んだ弾頭は、脳に内臓に、象さえ一打で仕留めるエネルギーをぶちまけていく。
がく、とそいつは足を折ってつぶれた。糸はことごとく、おれたちの足下へ落ちた。
「余計なことをするな」
とおれはふり向いて文句をつけた。
「おれの獲物だったんだぞ。横取りは厳禁だ」
「早いもの勝ちが狩猟のルールではないのかね、ブアナ」
相も変わらぬ冷静な声に、おれはシュミットらしからぬ興奮と闘志を感じた。戦いが血を燃やすのだ。戦士とはこういうものさ。因果な奴め。あ、おれもか。
おれはのこのこと蜘蛛のそばへ近づいた。
全長二メートル、手足をのばせば、優に六、七メートルはあるだろう。
こんな化物をよくも、とは思わなかった。おれは海獣もプテラノドンも見ているのだ。でかい蜘蛛ぐらいは屁でもない。
それよりも、おれの気を引いたのは、生臭い臭気に混じって湧いてくる芳香だった。
「わかるよな?」
と訊いた。
「花の香りだ」
とシュミットは保証し、
「ミスマッチだな」
とつけ加えた。
おれは蜘蛛のやってきた方へと壁を曲がった。
「うわ」
と声が出た。
その部屋――というか空間は、蜘蛛の出てきた部分を除き、壁から天井まで白雪のごとき糸で覆われていたのである。
「気ぃつけろ」
そう言いながら、おれの眼は、何とか地肌を見せている石の床に釘付けになった。
四方にわずかな通路用のスペースを残して、床のほとんどはうす紫の花弁で覆われていたのである。
おれたちは花畑を見つけたのだ。
踏み出そうとするおれの肩を、シュミットの手が捉えた。
「邪魔するな」
「天井だ」
と彼は言った。
いかん、おれらしくもない。おれは視線を上へとばし、ん? と眼を細めた。
白い天井から二本の足が生えているではないか。その部分だけは溶解液を含んでいないのか、ぶら下がった足にも、足首までを覆うガウンにも傷ひとつない。裸足の女のものだ。
「?」
おれはシュミットへ眼をやり――次の瞬間、理解した。
「おい、あれは……」
「キャロルだ」
と静かにシュミットはうなずいた。
何と言ったらいいのか。湧き上がってきた安堵と疑念と不安――なぜキャロルがここにいるのか!?――を、おれは一瞬のうちに胸中へ押し込んだ。動揺は油断を生むだけだ。
シュミットが駆けつけたいのは、痛いほどわかった。だが、奴は動かなかった。罠かもしれないからだ。
おれがいなければ、そうと知りつつ踏み込んだだろう。だが、おれは奴の相棒で、いま、おれたちは二人して仕事に来ているのだった。
「シュミット――こいつを飲め」
おれは、彼の鼻先にてのひらを開いて差し出した。
赤いカプセルを彼は受け取り、すぐ口に入れた。内容も訊かない。おれを信頼しているのだろう。
おれも一個嚥下《えんか》し、バッグから白い円筒を取り出した。
どれくらい広いか知らないが、一軒家の地下室くらい、五〇軒分撒いてもおつりがくる。安全リングを咥えて引っこ抜き、おれは円筒を床の上――キャロルの足の真下へと転がした。
三秒で撃鉄《ハンマー》が発火ピンを叩き、シュウという音が上がる。
ペケちゃんのときも使用した無色無臭の麻酔ガスは、猛烈な勢いで空気中に広がり――一〇秒足らずで効果が上がった。
左方に、茶色い――手足を折りたたんだ塊がどっと落ちてきたのが最初。
前後左右に、ぽとぽとと鳥の糞みたいに落っこちてきた大蜘蛛どもの数よ。おれもシュミットも、さすがに唖然となった。
キャロルを押さえていた奴もまいったのか、ガウン姿がすうと落ちかかるや、途中で速度を速めて落下――間一髪、跳び出したシュミットが両腕で支えた。
「下がれ!」
とおれが言う前に、たくましい姿は横へ跳んでいる。
頭上から躍りかかってきた奴を、おれのレーザーは十分に射ち落とすだけの余裕があった。
だが、おれは射たなかった。
そいつは、他の奴の倍以上はありそうな頭だけを白い膜からのぞかせ、二本の牙らしい鍬型《くわがた》の間から、だらだらと黄色い汁をこぼすと、それきりぴくりとも動かなくなった。ガスが効いたのだ。おれとシュミットが服《の》んだのは、言わずと知れた解毒剤である。
周囲の気配ゼロを確かめ、おれはシュミットに声をかけた。
「大丈夫か?」
「ああ」
――こんな人間的な声を出す男だったとはね。
「小さな傷はあるが、それだけだ」
「頭の方はどうだ?」
これには、脳をやられていないか、と、精神操作を受けてないかの二つがかけてある。
シュミットは瞳を調べ、
「脳に異常はないと思うが――後は仕事を済ませてからだ」
「外へ連れてけ。すぐ戻ってくれりゃあいい」
「仕事中だ、八頭」
これは一本取られた。
シュミットが背に廻り、膝を背に押し当ててキャロルに活を入れた。
低く呻いて、キャロルは上体をふるわせた。筋肉の意図的な動きだ。
ぼんやりとおれを見て、それから左右を見まわす。表情に意識の波が広がっていく。
「キャロル――私だ」
とシュミットが呼びかけた。
こういうシーンは苦手だ。おれは眼の玉を天井に向け、意識を研ぎ澄ませた。
少し間を置いて、
「あなた――どうして!?」
キャロルの声はもう泣いていた。
「もう、こんな目には遇わせん。――しばらくは一緒だ」
おれは胸の中に氷の塊がまぎれ込んだような気がした。
シュミットはこの娘のために、兵士をやめようとした。気障な言い方をすれば、魂さえ捨てようとしたのだ。その相手が攫《さら》われた。――鋼鉄の男の精神がどれほど狂乱したか、おれにはわかる。おれにだけはわかる。それを一度も表面に出すことなく、彼はおれの相棒たることを全うした。そしていま、奇跡的に再会した娘を前にして、じきにお別れだと言っている。
おれは頭をふった。感動のあまりではなかった。それは戦慄だった。本物に会うと、人間《ひと》はこうなるのだ。
「とりあえずの用件は済んだ。おれはこの花をかっぱらってから火を付ける。おまえは先に出てろ」
「奥にもあるかもしれんぞ。ガードが必要だ」
とシュミットは言ってから、キャロルへ、
「少し待っていてくれ。じき戻る」
“カメレオン・スーツ”の内側から、ブローニングHP/九ミリ一三連発を抜いて手渡した。
それを抵抗もなく受け取り、
「頑張って、あなた」
とキャロルは、手も握らずに言ってから、おれの方を見た。
「あなたもね――八頭さん。また会えてうれしいわ」
「おれもだよ」
他に言う言葉はなかった。柄にもなくやさしい声が出た。
おれとシュミットは黙って奥へと向かった。
奥の壁に戸口らしい穴が開いている。
入ってみて、今度こそ眼を剥いた。
花の山だ。ピクニックにでも来た気分に襲われた。果てもわからぬ空間を隙間なく埋めたジガギストは、地の果てまでも広がる紫色の大地のように見えた。
「これは凄い」
「エニラ師は、この街の下一帯を花畑にしたらしいな。たいした細工だ」
呆れたように言うシュミットの声に、おれはうなずくしかなかった。
「ほんじゃ、ま」
おれはバッグから収納パックを取り出し、ジガギストを片っ端から根こそぎ引っこ抜きはじめた。エコロジストとやらが見たら、卒倒ものの野蛮な光景だが、この際仕方がない。人のためだぞ、人のため。
何とか百本ほど詰め込み、おれは立ち上がった。
「オーケイだ。後は燃やしちまおう」
「君は生まれながらの破壊者だな」
シュミットはため息まじりに言った。さすがに、気が咎めるのだろう。可憐な花にはちがいない。
「何とでも言ってくれ」
おれはバッグから焼夷手榴弾を取り出した。三本まとめてガムテープで縛り、安全リングを咥える。ま、天井が崩れる恐れはあるまい。
このとき――
「花泥棒とはオツな真似をするな」
背後の声にふり向く前に、声の主はわかっていた。
致命的な失策を犯したことも。
「キャロル」
と口にしたのは、おれの方だった。シュミットはあわてた風もなく、三メートルほど前方に立つエニラ師と、キャロルを見つめていた。
「形勢逆転だな、若き勇士たちよ」
とエニラ師は得意げに言った。
「さ、武器を捨てて手を上げたまえ」
そのかたわらで、茶色の塊が、もそりと動いた。
まさか、もう麻酔が切れたのか。
「ほう――意外と早いな」
とエニラ師も不審そうに眉を寄せた。
「どこかに穴でも開いているのか。――まあ、いい。君たちの料理は、この蜘蛛たちにまかせるか」
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第四章 サイキック
1
もちろん、おれもシュミットも、蜘蛛の餌食になるつもりなどなかった。
おれのレーザーは、ふり向いた途端、エニラ師の眉間を狙っていたし、シュミットのニトロ・エクスプレスも同じ場所をポイントしていた。人質をとってあるから相手は射てまいなどというのは、昔はともかく、実戦射撃のプロが多い昨今では、あまり役に立たない。
標準的な拳銃を使って二〇〇メートル先の風船を射ち抜ける連中は、二、三〇メートル以内なら、人質の陰から露出している敵の半顔くらい簡単にヒットしてしまう。
おれなら五〇メートル以内、シュミットときた日にゃ、恐らく一〇〇メートル離れても、望みの場所へ弾丸を射ち込むことができるだろう。早い話が、弾頭と同じ直径さえあればいいのだ。
「よしたまえ、地上のナマクラ弾では、せいぜい私の頭に穴を開けるのが精一杯だろう」
とエニラ師は笑った。畜生め、エイリアンのくせに先を読んでやがる。
「生命は助けてやる」
おれはさも偉そうに言った。
「さっさと、その女性《ひと》を離して投降しろ」
エニラ師がにやりとした。
その刹那、おれの耳もとで雷鳴が爆発した。
エニラ師の眉間に黒点がぽつんと開き、後ろの壁――頭の位置に、ばっと赤いものが跳ねとんだ。脳漿《のうしょう》だろう。
「お見事だ。だが、相手が悪かった」
と言って、エニラ師は唇を尖らせた。音はしなかったが、必要な奴には聴こえたにちがいない。
足下で蠢いている蜘蛛の一匹が、しゅうと白い帯を一本、キャロルの右肩に吹きつけた。
「ああ――っ!」
白い腕にみるみる食い込む糸とキャロルの悲鳴に、怒りを触発されたか、耳もとでもう一度、雷鳴が轟いた。
エニラ師が鳩尾で二つになり、すぐに顔を上げた。
「次は、何を――?」
と訊いた刹那、おれはレーザーの引金を引いた。
まばゆい光条がエニラ師の――穴もふさぎかけた眉間に光の杭を射ち込んだ。
それも後方へ抜けた。壁がイオンと無に帰していくのを理解したかどうか、エニラ師がにっと笑った。
一秒足らずでおれは照射をやめた。闇が濃さを増す。
「無駄とわかったかね?」
とエニラ師が、出来の悪い生徒をさとす教師のように言った。この教師は傲慢だ。
「飛んで火に入る夏の虫という言い方は、君の国のものだな。ちょうどいい。二人揃って死んでもらおう」
「質問」
とおれは手を上げた。
「何だね?」
「ここへはどうやって来た? 上からかい?」
「いいや。直接、地下室へつづく地底の道がある。なるべく顔を見せたくはないのでな」
「やれやれ。無駄手間か」
とおれは嘆息した。
「ほう、上に何か仕掛けたのかね? それは残念だ。君たちを始末したら、点検してみよう」
エニラ師とのやりとりの間、おれの脳はめまぐるしく、この打開策を考えていた。シュミットも同じだったろう。いつもより厄介なのはキャロルがいることだが、彼女の処置はシュミットまかせにした。シュミットがキャロルを救ったという前提で、おれは策を練る。
「ほれ」
エニラ師の右手が上がるや、その足下から、大蜘蛛が二匹、こちらへ向かって飛んだ。
下がりもせず、おれとシュミットは武器の銃床でその頭を叩きつぶしてやった。
汚らわしい虫は、青緑色の粘液にまみれて、床の上で足を縮めた。――おれの仕留めた奴だけが。
シュミットは、ぶちのめした蜘蛛をエニラ師めがけて投擲したのである。
よけることもできず、エニラ師は顔のど真ん中にそれを食らった。不死身だが、運動神経そのものは並かそれ以下だ。
シュミットが地を蹴った。
別の蜘蛛がとびかかり、空中で輪切りにされた。おれの仕事だ。
蜘蛛の残骸を払い落としたエニラ師の胸板へ、シュミットがショルダー・アタックをかました。前から、この男の体当たりを見たいと思っていたのだが、期待は十分以上むくわれた。
人間があれほど小気味よく吹っとぶのを、おれは久しぶりに見た。
掴んでいたキャロルの腕から、上衣の生地が裂ける音がした。
それに鈍い激突音が重なる。エニラ師が石の壁へ思いきり後頭部をぶち当てたのだ。ざまあぺんぺん。
シュミットがキャロルを抱きかかえたとき、おれのレーザー・ビームは腕に食い込む糸とその吐き出し主とを蒸発させていた。
「上がれ!」
おれは低く言って、シュミットたちの前へ出た。
「了解」
その声を土産に、二人が走り出す気配がした。
「ありがとう」だの「すまん」だの言わないところがいい。いかにもプロの段取りって気がするぜ。
白い糸がびらびらと吹きつけてきた。遅い。おれはろくすっぽレーザーを操作せずにことごとく蒸発させ、ついでに、跳びかかってきた蜘蛛どもも残らず消してやった。気分は大殺戮者《グレート・ジェノサイダー》だ。それから右斜め前方の石壁へ、
「はーい」
と呼びかけた。身を離したエニラ師は平然と、
「名コンビだな」
と白い歯を剥いた。
「どーも」
「だが、もう許さん。まず、おまえから、先に死ね」
「やだね」
エニラ師の眼を見ないようにしながら、おれは自由電子レーザー砲を天井へ向けた。たちまち一部が蒸発し、その熱波が行き渡るところ、構造材がひび割れていく。
進み出ようとしたエニラ師の頭上へ天井が雪崩《なだ》れ落ちてきたのは、計算通りだった。前へのめった姿を土砂が埋めていく。
「上にいるぜ」
誘いを残しておれは地下室を跳び出し、階段を駆け上がった。
シュミットは、出入口がいちばんよく見える位置で、ニトロ・エクスプレスを肩付けしていた。相手が見えるだけでなく、とび出してきた相手からの死角――最も見えにくい位置でもある。さすがだ。
背後に気配が動いた。接近してくる。
「蜘蛛だ」
おれは大きく前へジャンプした。一回転して立った瞬間、蜘蛛がとび出してきたらしい。小さな大砲のような轟きが、そいつを四散させた。
つづいて、もう一匹――四散。もう一匹――いや、ニトロ・エクスプレスは二連発だ。と思いきや、ほとんどつづけざまに三匹がのけぞった。
シュミットの右手にはブローニングHP《ハイパワー》・九ミリ十三連発が硝煙を吐いていた。ライフルは左手に移っていた。いつ抜いたのか?――おれは戦慄の思いで、この戦士を見つめた。
二発目を射った刹那、右手をライフルから離し、腰のホルスターから抜き射ちしたのだろうが、蜘蛛どもはほとんど間を置かずに現れ――全員が同じ位置で手足を痙攣させている。つまり、シュミットの抜き射ちは、ライフルを連射するのと変わらないスピードだってことだ。
おれにやれるか?――腋の下に汗がにじんでいく。
彼の足下にキャロルを認めて、おれの戦慄は感嘆に変わった。
大事な娘の安全よりも、彼はおれのガード――自分の役割の全うを選んだのだ。こういうとき、胸の中でこう声をかけるしかない。
男はつらいよ。
「居間へ入らずに出てけ」
とおれは声に出さずに言った。シュミットなら読唇術を心得てるはずだ。
「了解」
案の定、無言でこう返した。おれも唇の動きは読める。
おれが地下室のドアを閉めているうちに、二人は家を出て行った。
後は待つだけだ。――いや、待つ必要はないのだが、おれは見てみたいのだ。ハンディ・トーチカとエニラ師との戦いを。
「さあ――」
出て来い、と言う前に、ドアがこちら側へきしんだ。ノブを廻そうともせず、圧力をかけたのだ。多分、肩で押しているのだろう。パワーは起重機に負けない。
ばん! とロック部分が弾けた。ちっともロマンチックじゃない勢いで、エニラ師が飛び出してきた。
「よお」
とおれは声をかけ、役にも立たないレーザー・ビームで、また脳天を貫いた。
「役立たずの真似はよせ」
「そうもいかねえ。他に手を知らないんでね。鬼さんこちら――手の鳴る方へ」
と言って、居間の方へ後じさりはじめる。
エニラ師が追ってくる。
ドアの前でも止まらず、すんなりと居間へ入った。
おれが狙われる恐れはないが、エニラ師攻撃の巻き添えを食らっちゃ敵わない。
素早く窓に寄る。
エニラ師が踏み込んだ。近づいてくる。
ちら、とトーチカに眼を走らせて、
「何の子供だましだ?」
トーチカまで一メートル。
「これさ」
答えざま、おれは手にしたリモコンのスイッチを押して、安全装置を解除した。同時にトーチカは自動制御モードに入る。
トーチカの上端シャッターが開き、麻痺銃《パラライザー》の銃身がのぞいた。
ピーという音がエニラ師を貫いた。
彼は眉を寄せ、軽く頭をふってからにやり[#「にやり」に傍点]と笑った。
「子供だまし、その一」
こん畜生。熊でも眠らす神経麻痺線にも平気ときたか。
三秒間照射をつづけ、敵が動かないと感知したトーチカのコンピューターは、麻痺銃をストップした。
「どれ」
とエニラ師が前進した。
標的の移動→第一次攻撃の失敗、とコンピューターは判断した。
第一歩が床を踏まないうちに、麻痺銃の下からレーザーの銃身が突き出し、真紅の光条がエニラ師の眉間を貫いた。照準もコンピューター制御だ。
エニラ師のうす笑いを、おれは当然だと思った。
「子供だまし、その二――いい加減にしたまえ」
「まあまあ」
とおれは愛想笑いを浮かべた。
「真打ち登場だ」
おれの声から何を感じたか、エニラ師のうすら笑いが熄《や》んだ。
その顔に胸に腹に、小さな炎を噴く針状の物体が吸い込まれたのは次の瞬間だった。
エニラ師の上半身を炎の球が覆った。赤い腫瘍がふくれ上がっていく様を見るのは、ホラー映画の一場面のようだった。ただし、腫れものの温度は五〇〇〇度を超える。
エイリアンの肉体がこの温度に耐え切れるかどうか――おれの知りたいのはここだった。
ミサイルの業火はなおも炸裂をつづけ、おれの眼には、エニラ師の上半身が溶けてなくなったように見えた。顔面がひりつく。熱波のせいだ。
エニラ師はぴくりとも動かない。
――ひょっとして。
あ、甘いな、と思い直したとき、火だるまのエイリアンは、おれめがけて一歩を踏み出した。
やはり、無効か。こういう場合は三十六計以外の手しかない。おれは頭から窓へ突進した。
ガラスをぶち破って一回転し、足から芝生へ着地すると同時に、シュミットの待つ位置へと全力疾走に移る。
玄関脇の塀を跳び越え、道路へ舞い降りると同時に、眼の前へジープが止まった。
さすがシュミットとしか言いようのないタイミングだった。
助手席のドアは開いている。
頭から跳び込み、身をよじってドアを閉めるや、車は一気に加速した。止まったわけじゃない。超ノロノロ運転だったのだ。唸りかけたね。だがそれは、別の種類の声と化した。
塀の向こうから、いきなり、炎の塊がジープの前へジャンプしたのである。足が生えている。
「エニラだ」
とおれは言わずもがなのことを口にした。
「突っ込むぞ」
とシュミット。距離は三メートルもない。ぐん! と迫った。時速六〇は出ている。
鈍い衝撃がおれたちをゆさぶった。首に来る。鞭打ちには平気だが、後部座席のキャロルが低く呻いた。
燃える二本の腕がボンネットを押さえていた。エンジンは唸り、車輪は旋回をつづけているが、前進は不可能だ。
「ちぃ」
おれはレーザーを構えた。肩ぐらいちぎり落とせるだろう。
いきなり、ぐらりときた。エニラ師が車を右へ傾けやがったのだ。すぐに左。――これじゃ照準《ポイント》できない。
「車を頼む」
とシュミットの声に、おれは、出るな! と叫んだが、遅かった。
車外へ跳び出すと同時に、シュミットは立ち射ちの姿勢でニトロ・エクスプレスを構えた。
エニラ師がそちらを向く。
まず化学炎が燃えつづけている頭部へ、雷《いかずち》が咆哮した。
よろめいた身体が車から離れる。
もう一発。五〇発も射てば鞭打ち症になる巨弾は、頭部をかすっただけで、五トンもあるアフリカ象を失神させ得るパワーを持つ。その直撃を受けても、エニラ師は持ち直した。
炎がシュミットへ跳びかかる。その鳩尾へブーツの爪先が深々とめりこんだ。見事としか言いようのない前蹴りだ。
その足を炎の腕が掴んだ。
通常、蹴りは、放ったら神速で引く。掴まれるのは、よほど蹴りが重いか、相手が待ち構えていたときだ。シュミットの場合は両方があてはまった。彼のブーツは重く、エニラ師は待ち構えていたのだ。
ぶん、と風を切った。
ハンマー投げ?――いや、片足を軸に自分ごとふり廻す、飛行機投げ《エアプレーン・スピン》だった。誰が信じられたろう、あのシュミットが敵の自由にされるとは。
だが、エニラ師が彼をどうするつもりだったにせよ、最終目的は果たせなかった。灼熱のレーザー・ビームが右手首を射ち抜いたからだ。痛みを感じなくても、神経か何かに異常は生じたはずだ。右手は外れ、シュミットは斜めに道路へ落ちた。ぶつかる寸前、両手で上体をカバーする。ニトロ・エクスプレスは放り出した後だ。がつん、といったのは仕方あるまい。掴まれた足首は炎を上げている。
炎人が跳んだ。
こんなに凄い跳躍力の持ち主だったとは思わず、おれは前方へ跳び込んでかわすのがやっとだった。
起きずに上体をひねる。エニラ師は着地したところだった。まだ燃えている。懲りない爺さんだ。
こっちへ向き直る前に、おれはレーザーを放った。狙いは両膝だ。命中。エニラ師はどっと膝をついた。
その傷がみるみるふさがっていく。
熔鉱炉の中へ放り込んでも、こいつは生き返ってくるだろう。エイリアンてのは、一体、どんな体組織で成り立ってやがるのか。
次におれが打った手は、しかし、確実だし、奴の意表をついていた。
また膝を射ち抜いたのである。
「シュミット――乗れ!」
おれは叫んだ。
奴は起き上がったところだった。カバーしてはいたが、打ちどころが悪かったらしい。戦うために生まれてきた男にもミスは生じるのだ。
よろめくように車へ向かう。ニトロ・エクスプレスは、いつの間にか手にあった。さすがだ。
いきなり、エニラ師の右手が動いた。反射的に、おれは飛来する塊をレーザーの銃把で弾き落とした。
手が痺れた。まずい。路上に転がったのは、ほんの小石だった。
エニラ師が立ち上がった。シュミットは運転席のドアを開けたところだ。レーザーを構えようとしたが、両手とも痺れてやがる。
エニラ師の突進は、地下でのやられっぷりが嘘みたいに速かった。ぶんと火の渦を送ってくる右のフックを、おれは大きく右へ跳んでかわした。足は無事だったのだ。
いきなり滑った。さっきの小石を踏んじまったとは!?
立て直そうとした眼前に、炎の顔があった。
右拳が走った。
もろ左脇に食らった。肋骨が折れた。感じでわかった。
車のエンジンが唸った。シュミットはまた、エニラ師を跳ねとばそうとするのだろう。だが、間に合わない。エニラ師の左拳が出る!
悲鳴が上がったのはそのときだ。絹を裂くというが、外国の女性にもあてはまるらしい。
「人が燃えてるわあ!」
恐らくエイリアンとして、エニラ師はかなり順応度が高い――というか、感情的にもおれたちに近いものを持つ存在にちがいない。
はっ[#「はっ」に傍点]と声の方を見たのだ。
それが、おれの生死を分けた。
アスファルトにこすりつけられるゴムの悲鳴とともに、突っ込んできた車のノーズがエニラ師を跳ねとばした。
開いたドアに手をかけ――痺れはオーケーだった――おれが再度、頭から跳び込むや、車はぶっ倒れたエニラ師を尻目に、猛スピードで疾走しはじめた。
シュミットへ声をかける前に、おれはリア・ウインドから外をのぞいた。
エニラ師が立ち上がったところだった。
左右の家や通りから、路上に立ちすくむ女の周りへ、次々に人が集まってくる。これからどんなドラマが展開されるのか少し気になったが、車はもう真っ平だといわんばかりに、その一角から遠ざかっていった。
2
シュミットがキャロルを連れ込んだのは、妖草師ピゲロのアジトだった。
車の中で応急手当てはしてある。こんなときの用心に、おれのバッグには医療キットが積み込んであったのだ。
シュミットの話では、ピゲロの正体は誰も知らないが、もとは外科医――それもかなり優秀な――だともっぱらの噂らしい。
キャロルの傷をひと目見て、
「これは重傷だ」
とピゲロは重い声で言った。
「しかし、傷もおかしいが、手当てもどうやったものか。半分ふさがっているし、血止めも完璧だ。これがなかったら、とうの昔に出血多量で危なかったろう」
おれは内心、鼻高々でそっぽを向いていた。
「病院へ移せるか?」
シュミットの問いに、
「市内はまずいだろうな。エニラ一派の手が廻っている」
とピゲロも腕を組んだ。
二人があんまり暗い顔で――といってもピゲロの方は見えないが――おれに気がつかないものだから、
「ごほん」
と咳払いしてみたが、状況は変わらなかった。ただの咳払いだと思ったらしい。ま、しようがねえ。
「ふっふっふ」
とやったら、さすがにシュミットが、厳しい表情でふり向いた。
「ミスター八頭――何か?」
「ふっふっふ。――まかしとけ」
とおれはにんまり笑い、
「電話を拝借できないかな?」
と言った。
「そこにある」
とピゲロが指を差した壁の隅にある[#「ある」に傍点]のを、実はもう気づいていた。
勿体ぶりぶりそこへ近づき、おれは古臭いダイヤル式の黒電話を手に取った。
番号を廻し、二人の様子を横目で眺めながら、
「名雲秘書? 僕だよ[#「僕だよ」に傍点]、わかる? ――うん、ひとつ頼みがある。宮廷の病院へ、ひとり女性を引き取って欲しいんだ。うん、僕の知り合い。恩のある人だよ。もちろん、偽名で。その辺はよろしく頼む。うん、すぐに、来てちょうだい。じゃあね」
受話器を置いて、どーだい? と言いたくなるのをこらえつつ、おれは二人に向き直った。
「信じられん。シュミット、彼は何者だ?」
ピゲロの呻きに、
「世界一の宝探し屋《トレジャー・ハンター》さ」
と世界一の兵士は答えた。
くっくっく。これで面目を施したというものだ。くそ、応急手当てしてある肋骨さえ痛まなかったら、いうことはないんだが。
宮廷からの車は、タクシーに化けてやってきた。本物の証拠は、名雲秘書が乗っていたことだ。
「頼むよ」
というおれへ、
「おまかせください」
と爺さんは力強くうなずいた。ほんと、頼りになる男だ。
車が走り去ると、おれはピゲロの部屋に戻らず、近くのバーへ入った。
ピゲロのところからは三丁ほど離れている。もちろん、地下道を通って移動した。ピゲロの部屋が見張られているかもしれないからだ。
奥の席で、グラスを上げてみせたのはシュミットだ。
左腕を肩から吊り、頭頂の左半分には包帯が巻かれている。惨たる姿――どころの話じゃない。いま、彼の写真を撮ったらピュリッツアー賞ものだ。スーパーマンが蟻に食われたのと同じくらいのニュース・バリューがある。
「具合はどうだね、ミスター」
「ミスターはやめろ。おれは呼び捨てだぞ」
「私の勝手だ」
「けっ」
おれは前の椅子へ腰を下ろし、やってきたウェイトレスにソーダ水を注文した。
「?」
という表情をしているので、
「ソーダいっぱい入れてね」
と幼児語でつけ加えると、姐ちゃん、きょとんとしながら行っちまった。
「愉しそうだな」
とシュミットがからかうように言った。
「ああ、世の中、どっちにせよ先に進まなくちゃならねえ。昏《くら》い顔したってはじまらねえさ」
「脇腹は痛まないのかね?」
「とんでもねえ、死ぬ思いだ」
「確かに人間以外のものだ」
とシュミットは、左手の水割りのグラスをテーブルに置いて言った。エニラ師のことだ。
「その通りだ。だから、もう手を引け。おまえは戦って死ぬのが商売だからいいが、キャロルさんは巻き添えだ。おれが困る」
「少しは胸が痛むかね?」
「阿呆」
とおれはそっぽを向いた。どうも、からかわれているような気がする。
「コンピューターがな、あいつに勝てる確率つうのを弾き出したんだよ、実は」
これだけは言いたくなかったが、仕方がねえ。柄にもなく、おれにはシュミットの消耗ぶりがわかるのだ。生まれてはじめて、こてんぱんにされた挙句、最愛の恋人まで腕をもがれかかった。それでいて、そんな眼に遇わせたそもそもの張本人――おれだ――に文句をつけるのも、誇りが許さないときた。
こいつの精神《こころ》の内側は、キャロルへの思いで、文字通り張り裂けんばかりのはずだ。涙を見せるとか、愚痴るとかのレベルじゃない。人間ならそうなるのだ。
「何と出た?」
と訊いた。
「百万分の一パーセントだ」
「百万分の一パーセントね」
「そうだ。つまり――」
シュミットは何か言った。
繰り返すようだが、相棒という存在を、おれはてん[#「てん」に傍点]から信じていない。事が終わるや、うまくおれの寝首を掻く方法を考えはじめるのが相棒というやつだ。裏切り者の別名だと言ってもいい。だが、百歩譲って――いいや、死ぬ覚悟で相棒を選ぶとすれば、おれはこんなとき、こんな状態で、こんな台詞を吐ける男を選ぶだろう。
ローレンス・シュミット――奴はこう言ったのだ。
「――それでは、やってみなければわからんな、ミスター八頭」
それから三日間、おれたちは、ピゲロのもとに潜んで敵の動きを探った。ブルーやマリアからも連絡はなかった。動きすぎて勘づかれてはまずい。――みんな、ここが正念場と感じていたのだ。
三日目の夕刻、ピゲロがやってきて、
「何とか真似だけ」
と言った。
おれもシュミットも期待に胸ふくらませて、調合室へ乗り込んだ。
ベッドの上ではプリンスがまだ眠っている。こう眠りっ放しだと、さすがにおれも心配になったが、寝息があまりに気持ちよさそうなのと、ピゲロを信じて我慢することにした。
「プリンスの二重存在《ドッペルゲンガー》をつくれるようになったんだな?」
おれは浮き浮きと訊いたが、ピゲロは、
「真似だけだと言ったはずだ。完璧にはほど遠い」
「いつ完璧になるんだ、え?」
答えず、マスクの男は、実験用具を並べた大机の方へ行き、火にかけてあったフラスコを手に戻ってきた。中身は白い蒸気を吐く飴色の液体が七分目ほど満たされていた。底の方に沈んでるしわくちゃな物体は、色からしてあの花、ジガギストだ。
「これから、現代物理の法則を無視した実験を行う。この場にいられることを幸福と思うかどうかは、やってみないとわからない。その点、よく注意して身の安全をはかってもらいたい」
おれはちら、とシュミットの方を見た。おかしなこと抜かしやがる。シュミットも眼でうなずいた。同感というわけだ。
ピゲロは慎重な手つきでビーカーをプリンスの口元に傾けた。煮えたぎる液体がわずかに開いた口の中へ流し込まれる。
「おい!?」
何するんだ、と前へ出かけたおれの肩を、シュミットの手が押さえた。素早く、
「あの液体は沸点が低いのだ」
「わかってらあ」
とおれは奴の手をふり放した。
その間に、ピゲロはフラスコを手に一歩退いた。中身は半分に減っている。
おれの眼は自然にプリンスへ吸引された。
変化はない。寝顔も寝息も変わらない。
一分経過……二分……三分……
「おい」
とおれがピゲロへ声をかけたのは、一〇分経ってからだった。
「現代物理がどーしたって?」
ピゲロは何も言わなかった。また、シュミットだった。
「見たまえ」
言われて、おれはプリンスの方へ視線を戻した。
ほう。
プリンスの身体がダブりはじめている。
二重露出みたいに、プリンスの身体に覆いかぶさって、もうひとりのプリンスの像が浮き上がっているのだ。
もちろん、下のが本物なのは、上の方が半ば透き通っているところからわかる。
「なるほど、現代科学の負けだな」
とおれはつぶやいた。
半透明のプリンス第2号がゆっくりと上体を起こした。
眼が開いた。虚ろな眼差しであった。なぜか、おれはぞっとした。
毛布はダブってないから、第2プリンスは同じパジャマを着ているのが、はっきりとわかる。
ベッドから下りた。
いよいよだ、と思った。第2プリンスの身体を通して、向こう側の光景はもう見えなかった。実質を帯びてきているのだ。
床の上に立ち、眼をしばたたかせているうちに、足下にははっきりと奴の影が落ちるようになった。
完成したのだ!
「たいしたもンじゃねえの」
とおれはピゲロに称賛を贈った。
「いや、まだだ」
「?」
「君たちには話していなかったが、昔、私がつくり出した二重存在《ドッペルゲンガー》は――」
第2プリンスが、ひょいとこちらを向いた。
全身に緊張が走った。こいつ、この眼つきは?
「わかるか、私が?」
とピゲロが話しかけた。
「おまえをこの世に生み出した男だ。おまえは私の命令に――」
プリンスの口が動いた。
その言葉が終わらないうちに、おれはピゲロの方へとんでいた。
「ごめんだね」
と奴[#「奴」に傍点]は言ったのだ。
ピゲロを突きとばしたつもりが遅かった。いきなりふられたプリンスの右腕を首筋に受けて、妖草師はえらい勢いで大机に激突した。ガラス製品が一斉に砕ける。
おれは床を蹴るや、第2プリンスの頭上を越えて、ピゲロを庇う位置に立った。こっちに向かおうとして、第2プリンスははっとしたように背後を見た。シュミットがいるのだ。
「なるほど、完成品とは言えんな」
シュミットは静かに言った。おれにもわかっていた。
プリンスの二重存在《ドッペルゲンガー》というのだから、精神や性格も瓜二つと考えたのが間違いのもとだったのだ。気品の中に漂う狂気の相、両眼を埋めた憎悪、全身から立ち昇る鬼気――こいつは凶人だ。
どんなに温厚で平和的な人間にも、他人に対する憎悪や怒りは抜き難く存在する。それが人間の条件だ。プリンスの二重存在《ドッペルゲンガー》は、まさにそれだけを担って生まれて来ちまったのだ。
こいつの好むのが、限りない破壊と殺戮だということは、瞬時に理解できた。いかん、こいつを絶対に外へ出してはならない。――おれの頭の中にあるのはそれだけだった。
おれもシュミットも油断はしなかった。この世の法則を無視して生まれた二重存在《ドッペルゲンガー》の力もまた、人外のものかもしれない。
「どけよ」
と第2プリンスは、プリンスそっくりの声で言った。当然だ。当人なんだからな。
「この野郎、えらそうに」
とおれは凄みを利かせた。
「おれを誰だか忘れたとは言わせねえぞ」
「覚えているとも」
と第2号は冷笑した。
「余計なことに首を突っ込む、墓泥棒の宝探しだ」
この野郎。久しぶりに頭へ血が昇った。なんつってもプリンスそっくりなので、つい、恩知らずめという気分になっちまう。
「そして、そっちは、こいつの口車に乗って、つまらない仕事に首を突っ込んだ甘っちょろい軍人だな」
と第2号はシュミットの方を向いて言った。この阿呆が。
「挙句の果てに、自分の女まで巻き添えにしちまって。――能無しが」
「よせ!」
おれが叫んだのは、シュミットの全身に怒りの炸裂を感じたからだ。事によったら、おれの方が怒っていたかもしれない。
意識しないうちに、身体が弧を描いた。
我ながらスピード、パワーともに申し分のない後ろ廻し蹴りは、よける暇もなく、第2プリンスの胸もとを直撃した。もっと効き目のある部分――顔やこめかみや鳩尾を狙わなかったのは、やはり、プリンスそっくりだからだ。おれもまだ甘い。
手応えは並の人間と変わりなかった。パジャマ姿は吹っとび、薬瓶の並んでいる壁に激突した。
起き上がろうとするところへ跳びかかり、横っ面へ平手打ちをかます。三発目で掴まれた。
「よくも」
とプリンスは呻くや、おれの股間へ猛烈な膝蹴りをかけてきた。もろ食らったら即死しかねない。膝を合わせて防いだが、衝撃は頭まで抜けた。
膝をつくふりをして、おれは第2プリンスの腋の下をくぐって逆を取った。
このまま、へし折ってやろうか、と思ったとき、
「よしたまえ」
とシュミットが声をかけた。
「何でだ?――こんな糞餓鬼、今から礼儀作法を教え込んどいた方がいい」
「プリンスを見ろ」
おれはベッドへ眼をやり、ぎょっとすくんじまった。プリンスが右腕を押さえて身をよじっている。
よく、一卵性双生児は、片方の受けた苦痛をもう片方も味わうといわれているが、プリンスとプリンス2号の場合にも該当するらしい。なにせ本物と本物だ。
「そうだ、手を離せ」
と第2プリンスが勝ち誇るように言った。
「やかましい!」
おれは言いざま、第2プリンスの顎へ肘打ちを叩き込んだ。苦痛もなく、一瞬のうちに眠れるはずだ。
「あっ!?」
と叫び声が上がったのは――ベッドの上からだった。
プリンスが上体を跳ね上げ、顎を押さえて周囲を見廻していた。
おれを見て、
「八頭さん――ここは?」
「いや、その」
おれはあわてて、倒れた第2プリンスを彼の視線から隠そうと身体を動かしたが、その必要はなかった。
視線を送った床の上に、プリンスのそっくりさんの姿はなかった。
プリンスの眼醒めと同時に、二重存在《ドッペルゲンガー》の方は忽然と消滅していたのである。
3
事情の説明を求めるプリンスに、ピゲロの家へ押しかけるまでの顛末を物語るのは、ひと仕事だった。どうせわかることだと、二重存在《ドッペルゲンガー》の一件まで話すと、これはもう現物を見なくては信じられないようだった。――やむを得ない。
幸いピゲロも軽い打撲傷だけで、包帯の必要もなかった。
「私のつくった私の二重存在《ドッペルゲンガー》も邪悪な精神の持ち主でな、大暴れをしてくれた。消えたときは、本当に安堵したものだ」
「なぜ、それを早く言わねえ?」
「言えば、中止しろと言ったかね?――なら、不吉なことを口にする必要もあるまい。それに、必ずしも狂った二重存在《ドッペルゲンガー》が現れるとも限らんのだ」
「プリンスが眼を醒ましたら、奴は消えちまったな。すると、出現させるには、プリンスが眠らにゃいかんてことか?」
「そうなるな。まあ、まだ研究はつづける。別の展望が開けるかもしれない」
そういや、完璧じゃなかったわけだ。おれは納得した。
プリンスは少し落ち込んでいた。自分の悪を背負ったもうひとりの自分という存在――話だけでも、これは効く。
「気にすることはない」
と言ったのはシュミットだった。
「人間には必ず二つの面がある。もうひとりの君は邪悪だが、君はちがう。それだけのことだ」
同じ内容をおれが口にしても、これだけの効果は上がらないだろう。プリンスはすっきりと元気を取り戻した。人間性の差だな――糞。
「不死身の二重存在《ドッペルゲンガー》てのは、あり得るか?」
とおれはピゲロに訊いてみた。
「ないとも言えまい。邪悪と不死身の差をどこに置く?」
「そいつをやっつける手だては?」
「もと[#「もと」に傍点]を消すのが一番だろうな」
つまり、ペケちゃんなら本家ペケちゃんを、ということか。
「エニラ師は二重存在《ドッペルゲンガー》の製造に関して、私より数段進んでいると見ていい。ただ、同じ薬草を使うやり方だとすると、私が彼のレベルに達するのも、あながち遠い日のこととも思えん」
「なら、すぐ達してくれよ」
「全力を尽くそう。“果報は寝て待て”だ」
最後を日本語でしめくくられたから驚いた。
「プリンスの具合はどうだい?」
「もう大丈夫だ。深層心理での暗示は消滅した」
「ホントに?」
「嘘を言ってどうする。そんな眼で見られる覚えはない」
「いや、結構結構」
おれはわざとらしく手を叩いた。
これで安全なプリンスとペンダントが手に入ったわけだ。後は物理学者のフッケさえいれば天下無敵だが、百点満点というわけにもいくまい。
その晩――
「で、どうする?」
とシュミットが尋ね、
「どうなさるおつもりです?」
とプリンスが訊いた。
「出方を待つさ」
とおれは言った。
「敵は戴冠式の日取りをじき決定するそうだが、それがわかってから行動を起こしても、決して遅くあるまい。ペンダントはここにある」
とおれは、懐から黄金の女神像を取り出し、二人の前でふってみせた。
「しかし、プリンスの偽物をでっち上げるくらいの奴だ。ペンダントの二重存在もこしらえるかもしれん」
これはシュミットである。
「その通りだ」
おれはにやり[#「にやり」に傍点]とした。
「――だからして、やはり、こちらから出向くことにしよう」
プリンスは、やっぱりという顔つきになったが、シュミットは例によって無表情だった。子供っぽい自己顕示などとっくにお見通しというわけだ。こういうとき、堅い奴は困る。お愛想にでも感心してくれないとな。それが円満に世の中を渡る秘訣だ。おれは照れ隠しに、大声で、
「とにかく――明日、宮殿に入る」
と言った。
「目的は、向こうの二重存在《ドッペルゲンガー》工場つぶしだ」
「面白い」
とうすく笑うシュミットへ、
「おまえは残って、プリンスとペンダントの見張りだ」
抗議するかなと思ったが、シュミットは黙ってうなずいた。自分のやることを知りくさってやがる。背筋が寒くなった。味方でよかったぜ。
「幸運を祈る」
とシュミットは相変わらず静かに告げた。
「できればエニラ師も片づけてくれると手間が省けるが」
「まかしとけ」
悪い冗談だぜ、こん畜生。
本心は表へ出さないようにして、おれは翌日、宮殿へと向かった。
今度は空から忍び込まなくても、内側に息のかかった男がいるから楽だ。
裏門を開けて待っていたのは、言うまでもなく名雲秘書だった。おれはというと、出入り商人の格好をして出向いた。もちろん、機械服《メック・ウェア》で完全防備である。
名雲秘書は相当に顔がきくらしく、何度も警備員に出会ったが、全員が笑顔で挨拶していった。人徳というやつだ。戦いにはシュミットみたいなのも必要不可欠だが、こういうタイプも敵の切り崩しに欠かせない。
人気《ひとけ》のないのを見すましてから、彼の部屋へ入り、おれは素早く邪魔な衣裳を脱いだ。
顔の変装用のマスクも取る。バッグに入っていた代物だ。分子加工ができるから、細部まで顔と同じ動きをする。マスクとはまず気づかれない。
「相変わらず、化けるのがお上手で」
と名雲秘書は感嘆した。
「それほどでも。――で、エニラの奴は何してる?」
名雲は顔を寄せてきた。
「ついさっき、皇太后さまにお目にかかりたいと申し込んで参りました」
「会うのか?」
「一応は、エニラ師がこの国の実質的な頭脳でございますから」
「ふん」
とおれは少し考え、
「いつだ?」
「あと二時間後――正午でございます」
「おれも同席したいんだがな。どっかに隠れ場所を確保してくれないか」
「すでに用意済みで」
ワン・クッション置いて、
「好きよ、おっさん」
とおれは言った。
「ははは」
名雲秘書は笑うしかできなかったろう。
「ついでに教えて欲しいことがある」
「はい」
「エニラ師の実験室があるはずだ」
名雲秘書は首を傾げておれを見つめた。
「それが――」
「ない?」
「はい。目下のところ宮廷内には見つかっておりません」
今度はおれが首を傾げた。そんなはずはない。エニラ師の住まいに二度押し入ったが、どちらにも大規模な実験室といえるような代物はなかった。
絶対に宮廷内だ。
「いいさ、じきにわかる」
とおれは断言した。
「八頭さまならば」
と名雲秘書は同意した。
二時間もあれば、それなりの捜索はできる。おれは早速、その場からエニラ師の実験室を求めて宮廷内に足を踏み入れた。
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第五章 二重存在(ドッペルゲンガー)の影
1
実を言うと、当たりはついていたのだ。
おれは真っすぐそこへ、エニラ師の部屋へ向かった。
ここは三間あり、手前の方が執務室、後ろが応接室と図書室――どちらもかなり広い。特に五〇坪を超す大図書室がおれの眼を引きつけた。個人が占有する広さじゃあない。
おれはまたもマスクで別人に変装した。商人じゃ奥まで入れないから、兵士である。衣裳はもちろん、外からの持ち込みだ。
念のため、名雲秘書に頼んで内線で呼び出してもらったが、エニラ師の応答はなかった。
だからいない、とは限らない。どうやって確かめるべきか、おれは到着するまで知恵をしぼったが、いいアイディアは出なかった。何しろ、相手が相手だ。いつもの調子でやったら、たちまち飛んで火に入る何とやらになっちまう。
ドアが見えてきても、これといった閃きはやってこなかった。こうなりゃ、いったん行き過ぎて、と思ったとき、幸運が向こうからやってきた。
前方の廊下から、若い将校らしい軍服姿が現れ、エニラ師のドアの前で立ち止まったのだ。
インターフォンに向かって、
「ピークォド・ラインル少尉――参りました」
返事は?
三秒ほど間を置き、
「入りたまえ」
おれ以外の耳には絶対きこえぬ、低いエニラ師の声であった。
やっぱり、いやがったか。電話に出なかったのは、今の三秒の間が説明している。何やら、重要な作業中なのだ。
ラインル少尉がドアへ吸い込まれてすぐ、ロックのかかる音がした。電子錠か。まるで、おれのための鍵だ。
おれの親友のひとつは電子解錠装置である。
ドアの方へは一瞥も与えずやり過ごし、おれは次の曲がり角まで行って右へ折れた。人気はない。何気なく戻った。
ドアの前まで来て、少し危険な手を使うことに決めた。右手の指をインターフォンのスイッチに乗せ、左てのひらをドアへ押しつける。
左てのひらに全神経を集中するや、周囲の雑音は遠のいた。
これで声がきこえれば百点満点なのだが、そこまで現実は甘くない。おれに必要なのは二人の気配だった。
第一の間にいなければ、お邪魔しなくちゃならない。入っちまえば、後は何とかなる。
気配は――あった。
意識の集中。
思いもかけないことが起こった。なんと二人の声がきこえたのだ。
またもや赤坂で受けた心理療法が効果を発揮した。あるいは、ピゲロから貰った心理増強剤や、パシャのくれた透明薬の副作用もあったかもしれない。――ああ、あの透明薬さえあれば、こんな苦労はしなくても済んだのに。
「君は選ばれた」
とエニラ師の声は言った。
「光栄です」
とラインル少尉。おいおい、その光栄は生命と引き換えだぞ。
「じき、私は皇太后さまと面談しなくてはならん。それまでに済ませよう」
「はっ」
と少尉が応じた――その刹那、おれは反射的に左手を離していた。
背後に足音が広がった。逃げる余裕はないし、逃げるわけにもいかなかった。
「何をしている!?」
と鋭い声が叱責した。おれはふり向いた。
ライフルを構えた護衛兵が五人――うちひとりは将校――中尉だった。こいつだけが素手だ。
おれが応じる前に、
「貴様――所属部隊と姓名を名乗れ」
「名乗れません」
おれは、あっさりと応じた。
「なにィ?」
「自分はエニラ師親衛隊のメンバーであります。姓名をはじめ、あらゆる質問に答える義務はありません」
これはその通りなのだ。ちゃんと、名雲秘書にきいてある。
明らかに中尉は鼻白んだ。
おっ、いいね。憎悪の色が眼を埋めてる。やっぱり、あいつらとその親玉は宮廷内の鼻つまみ者なのだ。
「わかった。――そのインターフォンの指はなんだ?」
「エニラ師に呼ばれて参上しました。インターフォンを押しましたが、返答はありません」
おれとしては、リアルに見せるためのダメ押しだったのだ。忍び込む奴が、インターフォンを押すわけがないからな。
「左手で何をしていた? 急に離したように見えたが」
阿呆が。
「いえ、何も。失礼ながら、眼の錯覚であります」
おれは、きっぱりと言った。
「いいや、自分は見た」
「自分は何もしておりません」
おれは言い張った。ここで弱みを見せちゃあまずい。
中尉の表情に動揺と敗北の色が浮かんだ。――と思ったら、えらくしつこい奴だった。
「インターフォンを押してみろ」
「は?」
「そして、エニラ師が出てこなかったら、言い分を信じてやろう。――押してみろ」
「はっ」
おれはあっさりとインターフォンのチャイムを鳴らした。
指を離して待つ。
五秒――一〇秒。
「よかろう――戻るぞ」
言うなり、中尉は部下に号令をかけ、足早に歩き去った。エニラ師の部下とトラブってはやばい[#「やばい」に傍点]と考えたのだろう。
おれは胸の中で安堵の吐息を洩らした。
ドアから左手を離す寸前、二人が立ち上がったまではわかるのだが、チャイムを無視するか否かは運次第だった。まだ少しは残ってたようだな。
人目がないのを確かめ、おれは電子解錠装置を取り出した。
執務室におかしなところはない。大デスクとカーテンを開け放った背後の大窓が目立つくらいだ。
図書室のドアは左だった。
おれは素早く近づき、また、扉の表面に左手をあてがった。
「――!?」
愕然と離した。
どうやら、金的らしい。だが、この気配――内部《なか》に充満するこの妖気は一体、何なんだ? 奴め、ここで何を企んでやがる?
そのとき――ノブが廻った。
おれは電光の速度で地を蹴った。
エニラ師の執務デスクの向こうに隠れた瞬間、ドアが開いて、さっきの若い少尉が現れた。
どこといって外見に変化はない。やや、青ざめているのを除けば、おかしな点はない。
すぐにエニラ師も出てきた。直立不動の姿勢をとる少尉に軽く敬礼する。
エニラ師はドアの方へ向かう少尉を見つめていたが、彼がドアノブに手をかけたとき、
「今、開ける」
つかつかとデスクの方へやってきた。危ない!
だが、足はおれの隠れてる方へ廻り込む前に止まった。
「やはり、念には念を入れておくか」
とエニラ師はつぶやき、デスクから離れた。
右手を上衣の内側へ差し込み、はて? という表情になると、再びデスクの方へやってきやがった。
廻り込んだ。
彼はデスクの引き出しのひとつを開けると、一丁の大型自動拳銃――ベレッタM92Fを取り出し、引き出しを閉めて、少尉の方へ行った。携帯していると錯覚したらしい。
大窓の左右にまとめられたグレーのカーテンの後ろで、おれは息をひそめていた。エニラ師がデスクを離れた瞬間、こっちへ移動したのは正解だった。
一体、何をするつもりか?
疑念の眼差しの前で、エニラ師の右手が真っすぐにのびた。
九ミリの銃口が眉間にあてられても、少尉は微動だにしなかった。無表情が不気味だ。
初弾は薬室に装填済みで、撃鉄だけ戻してあったのだろう。
ダブル・アクションでゆっくりと起き上がった撃鉄は、ためらいもなく落ちた。
ドン、と鳴った。自動拳銃の銃声というのは、燃焼ガスの出口が二つしかないから、どうしても、押しつぶしたみたいになる。
弾頭《ブリット》というやつは、人間の体内でぐるぐる走り廻るものだが、これだけ近い上に初速の大きな九ミリ・パラベラムなら、真っすぐ後ろへ抜ける。
しかし――少尉は平然と立っている。おれをひっかける芝居じゃないかと一瞬、緊張したが、すぐに違うとわかった。
額には確かに弾痕が開いている。
さらに二、三歩下がると、エニラ師はちらりと窓の方を見た。
それから少尉の方へ眼を戻し、すぐにデスク上にいくつか並んだスイッチのひとつを押した。
カーテンが自動的に閉じられる。おれがデスクの陰に戻っていたのは言うまでもない。
ベレッタの一件で、おれには、図書室で行われた事柄がほぼ理解できた。
エニラ師はすたすたと問題の部屋のドアまで歩き、左手を手招きするように動かした。
ドアの向こうから獣の唸り声がきこえても、おれは驚かなかったが、何をやらかすつもりだという疑念は残った。
ドアを押しのけて現れたのは、小柄な恐竜《ダイノソア》だった。
見覚えがある。その邪悪そうな眼差し、一本だけ異様に長い手足の鉤爪《かぎづめ》、二脚歩行――ディノニクス!
翼手竜《プテラノドン》を操り、海竜《プレニオサウルス》をニューヨークまで派遣してのける老人に、地を歩く竜を自由にできぬわけがない。
少尉を見てだらだらと涎をこぼす口元から、おぞましい牙をのぞかせ、そいつはひと声咆えた。
すっとエニラ師が後じさる。その前を通って、ディノニクスは跳ねた。
三メートルの距離よりも、二メートルもの高さに驚くべきだろう。
そいつは空中で少尉の首にがっぷりと咬みついた。
顎の咬み合う音が、がちんと鳴った。
そして、頭から床の上に激突したのである。ディノニクスはすぐに起き上がり、少尉に牙を剥いた。
少尉は無傷で立っている。
鉤爪が躍った。
少尉は胸もとに跳び込んでいた。鉤爪の間をすり抜けたスピードよ。
拳も同じだった。アッパーだ。音は破壊音だった。
ディノニクスがのけぞるなんて、この世の誰が目撃できたろう。
白いものが散った。壁や床にぶつかり、おれの足下まで転がってきた。ディノニクスの牙だ。少尉のパンチは恐竜の顎を砕いたのだ。
今度は起き上がるのに少し時間がかかった。恐竜にも脳震盪があるらしい。頭をふりふり立ち上がる。
もう一度跳んだ。
エニラ師が、あっ、と洩らした。
恐竜は少尉の両肩に脚部の鉤爪をめりこませていた。
今度こそ――巨大な顎が少尉の顔を――いや、頭から首の付け根まで、がっぷりと咥え込んだ。
軽々と頭をふると、少尉の首はあっけなくちぎれた。顎が咬み合った。いやな音が響き渡り、おれは宙を仰いだ。
ディノニクスが顔を仰向けて、咬み砕いた頭を飲み込んでいる間、少尉の身体は茫然と突っ立っていたが、すぐに両手を突き出し、二歩進んでディノニクスの胸あたりに触れた。血は一滴も流れていない。
首なし人間もディノニクスにとっては新しい餌でしかなかった。
かっと開いた顎の付け根に、少尉の腕が巻きついた。
投げからいけば首投げだろう。七、八〇〇キロはありそうな鞣《なめ》し皮の巨体が、弾かれたみたいに弧を描いた。
空中でぼき[#「ぼき」に傍点]。
床を鳴らしてもろともにぶっ倒れた二つの影のうち、ひとつはすぐに立ち上がったが、片方は痙攣をつづけている。木の根みたいな尻尾が激しく床を叩き、それも徐々に弱まっていく。
「失敗作だな」
エニラ師のつぶやきの意味が、おれにはよくわかった。
ひとひねりで恐竜の頚骨をへし折った首なし男の襟をとらえ、図書室のドアの向こうへ突きとばすと、エニラ師はまだぴくぴくしているディノニクスの尾の先を掴んで引きずっていった。とんでもねえ爺いだ。
すぐに戻ってきて、腕時計をのぞき、
「少し早いが」
とつぶやいて、出て行った。あんまりあっさりしているので、拍子抜けしちまうほどだ。罠かな、とも思ったが、それならそれで切り返していくしかない。何にせよ、絶好のチャンスらしくは見える。
おれはためらいなく問題のドアに近づいた。
中には少なくとも、首なしのダイノソア・キラーがいる。
二重存在《ドッペルゲンガー》のメカニズムもあるといいが。
おれはドアを開き、陰に何も隠れていないのを確かめてから、身をすべり込ませた。
2
鬼気以外で、真っ先に襲ってきたのは、異様な臭気だった。
化学薬品と動物の体臭、それから、わけもわからない臭いが混じり合った代物。おれでなけりゃ、たまらず嘔吐していたにちがいない。
そこが図書室とはとてもいえなかった。
壁を埋めるのは、すべてメカニズムであり、高出力発電機や量子分析装置、素粒子加速器など、おれにも区別のつく品も多かったが、二、三、形状から材質までわけのわからない機械があった。エニラ師の手になるオリジナル――つまり、奴の生まれ故郷の産物だろう。
ふと、おれはエニラ師の孤独を感じた。奴がどこからどうやって、何の目的をもって地球へやってきたのかはわからない。だが、これまでの経緯からすると、決して最初から侵略の意図を抱いてきたのではなさそうだ。
大体、いくら科学水準が高いとはいっても、UFO一機、乗員ひとりで、ひとつの星が征服できるものでもあるまい。まして、UFOそのものが故障してるとなれば、地球征服なんぞ、こっちが原始時代にしたって無理だ。
恐らく、エニラ師は地球近辺を通過中、何らかのトラブルで漂着を余儀なくされ、いまの地球の科学ではUFOの修理もできずに、島流し状態に陥ってしまったのだ。
それからのエニラ師が、この国の乗っ取りを企んだわけや、それが地球征服へと拡大していった理由もわからないじゃない。
凡人の中の糞エリートの心理だろう。
周りの奴らのレベルに合わせるゆとりと寛容さがなけりゃ、支配者になるしかない。
この未知の星で、奴も孤独だったのだ。――と理解してばかりもいられなかった。
左側の方で、ごそりと何かが動いたのだ。
上体をひねるより速く、おれの左手が動いた。上衣の裾を跳ね上げざま、左肩のナイロン・ホルスターからグロックを抜いて気配を照準《ポイント》する。顔がそちらを向いたのはその後だ。
シュミットなら、まず身体ごとそちらへ向けざま、きちんと右手で抜き射ちを行うだろう。まず確実で精確な射撃を――それが軍隊式だからだ。
もちろん、実戦的なのはおれの方が十倍も上だが、問題は奴の方が多分速くて精確だということだ。
銃口の先は太い柱で、気配はその陰から首なし男になって現れた。
「あっち行け」
とおれは低く言ったが、自分でも通じるはずがないのはわかっていた。
エニラ師のことだから、全室防音装置つき――でなきゃ、実験の音やおかしな化物の声が外に洩れてしまう――だろうが、グロックをそのまま発砲するのはためらわれた。
おれは何をしたか? その場に黙って立ち尽くしたのである。瞬時に全身の気配を絶つ。
首なし人間は、それでもよろよろと眼と鼻の先まで進み、ひょいと両手をのばした。勘はいい。
おれは最小限、首を横へ傾けてやりすごした。指との差は一センチもあるまい。
この辺の匙加減はひどく微妙だ。これが五、六ミリだと、体温とか風圧とかで、敏感な奴には気づかれてしまう恐れがある。かといって、それ以上離れると、動きを感じられてしまうのだ。
手はすぐに横にふられた。おれは身を屈めてかわした。
あきらめたのか、首なし男は、そのままおれの横を歩き、のろのろと部屋の反対側の奥へと前進していった。
のんびりしてもいられない。
おれは気配を絶ったまま、首なし男と同じ方向へ歩き出した。何かあったとき、先行者がいると便利だ。まずそいつにふりかかる災難に対して、策を練りやすい。
右側の奥は妙に暗かった。
不自然な暗さだった。気に入らない。
いきなり、首なし男の前に、首の分だけでかい男が立ちふさがった。
反射的に、首なし男が拳をふるう。かるくスウェーでよけながら、男は右手を下から閃かせた。
首なし男の右手が肘から消滅した。
男の右手には、長さ三〇センチもありそうな、コンバット・ナイフが握られていた。重い音が少し離れた床の上で鳴った。断たれた腕が落ちたのだ。
首なし男が、二撃目を放つ間もなく、ナイフは閃光を重ね、おれの先導者は、なんと、四肢を失った胴人間と化して床にひっくり返った。
男がにやりとこちらを見たときにはもう、おれはグロックを眉間へポイントしていた。
「何しに来たんだい?」
と男は訊いた。
「あんたに会いにさ」
とおれは答えた。
「それはようこそ」
「あんたみたいのは、他に何人かいるのか?」
「ああ、三、四人かな。それがどうした?」
「いろいろと質問があるんだ。答えてもらえるかな?」
「いいとも。その首を頂戴してからな」
やれやれ。
おれは眼の隅で男の右手を捉えていた。それがちらと動いた瞬間、おれは思いきり後方へ跳んでいた。
胸もとを光の弧がかすめた。反射的に引金《トリガー》を引いたのは空中でだった。
遠ざかる男の顔に、ぼこっ、と三つの黒点が穿たれた。
着地したとき、その顔はおれの眼の前まで接近していた。
ナイフが閃いた。正直、危なかった。グロックで受けても、銃ごと握った指まで落とされていたかもしれない。
だが、刃《やいば》はほんの一ミリ足らずの空間を空しく切り裂き、おれはとんでもないことに気がついた。
男がその位置を動かず[#「その位置を動かず」に傍点]、右手をふり上げた。手裏剣打ちに投げたナイフを、おれはグロックの銃身で叩き落とした。
「ほお!?」
と男が眼を丸くした。
「やるなあ」
「だろ?」
こういうとき、前後の見境もなく得意になるのが、おれの悪い癖だ。
「あんたも気の毒に。――それ[#「それ」に傍点]じゃあな」
おれは男の足下を見つめ、男も哀しげな表情をつくった。その右足は、足首の鉄輪から奥の暗闇へとつづく太い鎖によって、止めの一歩を踏み出せずにいたのだ。エニラの野郎――エイリアンのくせに、妙に古めかしい真似をしやがる。
「どうだ、自由にしてやろうか?」
とおれは切り出した。
「本当かい?」
男が眼をかがやかせた。
「あんた次第さ」
「何でも訊いてくれ」
男は満面に笑みを浮かべた。屈託のない性格らしい。これで殺人狂でなきゃ、いいつき合いができそうだ。
「あんた――二重存在《ドッペルゲンガー》か?」
ずばりと質問した。
「よく知ってるなあ」
男は口を開いて感嘆した。
「もと[#「もと」に傍点]は誰だい?」
「ジェス・ピコーってな、しけたこそ泥よ。断っとくが、奴はおれほど明るくいい男じゃねえ。つき合いはやめとけ」
「そのピコーさん[#「さん」に傍点]はどこにいる?」
「あっちだ」
もうひとりのピコーくんは、部屋の反対側へ顎をしゃくった。
「他の連中のも[#「のも」に傍点]?」
「そうだ。あんまり、人好きのするタイプじゃないぜ。おれたちの方がずっと、社交的だよ」
「その代わり、向こうの方が物騒じゃなさそうだ。またな」
おれは身を翻した。
「おい、ちょっと。――話がちがうぜ」
第2ピコーくんはあわてて異議を唱えたが、おれはウィンクだけ送った。
「あんたを解放したら、危《やば》いことになりそうだ。少し時機を見よう」
「政治家みてえなことを言うな。おい、頼むよ、色男、おい」
おれはピコーを無視して、足早に部屋の反対側へと向かった。
さっき、首なし男が出てきた柱の陰だ。
むむ、カーテンが下りてやがる。しゃらくせえ。
気配を窺った。反応なし。
グロックを右手に移して、カーテンを開いた。
「わお」
小さく声が出た。
事によったら、エニラ師の真の実験室とは、ここだけ[#「だけ」に傍点]なのかもしれない。
おびただしいメカに取り囲まれた空間は、ほんの一五坪といったところだろうが、真っ先におれの眼にとび込んできたのは、天井からロープのようなもので吊り下げられた男たちの死体だった。
いや、早とちりだ。よく見ると、胸の辺りがわずかに上下している。
こいつらが二重存在《ドッペルゲンガー》のもと[#「もと」に傍点]だ。
近づいて、おかしな仕掛けがないのを確かめ、脈を取ってみた。弱いがちゃんとある。
「おや」
おれは四体の死者――じゃなかった、睡眠状態の男たちの中に、ついさっき、顔面に三発射ち込んだ陽気な殺人狂を認めて微笑した。
ピゲロの説によれば、いまここでもと[#「もと」に傍点]を破壊すれば、二重存在《ドッペルゲンガー》も消えるというのだが、さすがに試してみる気にはなれなかった。
もうひとり――いた。殺人狂に解体されてしまった首なし男は、元通りの将校姿で天井からぶら下がっている。すると、二重存在《ドッペルゲンガー》の方がやられても、本体に影響はないわけか。
おれがまだひと桁の年齢の頃、テキサスの安宿で会った若いギターひきは、そのギターで化物鳥をぶん殴ったら、それを操っていた悪党も死んじまい、鳥と同じギターの弦の痕が顔に残ってたと話してくれた。これだと、もと[#「もと」に傍点]もやられちまうわけだな。
ま、実証はやめておこう。おれはぶら下がり健康法にいそしんでるみたいな連中から眼を離し、周囲のメカを見つめた。
これも品物自体はこの星のものだが、組み合わせ方や、使い方があの星のものになると、もうひとりの自分が生まれてしまうのだ。
とりあえず、こいつらを破壊する手だな。
おれはポケットから、液体爆弾《リキッド・ボム》のスプレーを取り出すと、その機械にまんべんなく吹きかけはじめた。液体爆薬というのは、ずい分前から各国の軍隊で考えられてはいたのだが、分子的安定に乏しく、液状で軽くふったりしただけで大爆発を起こすため、いまだに実現していない。
おれのこれ[#「これ」に傍点]だって、半年ばかり前にやっとこ、ギリシャの兵器研究所がつくり出した製品で、しかも、出来上がりが偶然によるところが多いため、目下、世界にスプレー三本分しかない。
万が一実用化されれば、たとえば、比重を変えるだけで、水面へ何百平方キロにもわたってばら撒くことも可能だし、特定の深度に漂わせておくこともできる。船や潜水艦にとっちゃ、機雷なんかより一万倍もおっかない相手になるだろう。もちろん、陸上だって、何らかの方法で雨にまぜて降下させりゃあ、どんな大部隊もイチコロだ。
国中の貯水池にばら撒いて、五、六時間後に爆発させたら、一国の国民全員を殺戮できないこともあるまい。――それくらい、とんでもない兵器なのだ。ギリシャの研究所には、噂をききつけた各国の軍隊や武器商人どもが群がっているらしいが、おれはもちろん、一顧だにするなと命じてある。
ひと通り吹きかけ終えてから、おれは、ぶら下がりの連中を下ろすことにした。
巻き添えは可哀そうだ。液体爆弾には点火薬もまぜてあるから、特殊な電波信号を送ってやれば、一キロ以内ならいつでもドカンといける。
「さてと」
最初の奴を下ろそうと近づいたとき、カーテンの向こうから、足音がやってきた。
素早く、実験用寝台の陰に身を隠す。
足音はすぐに止まり、ためらう風もなくカーテンは開いた。
「ん――!?」
おれは眼を剥いた。
まさか――忘れてたわけじゃないが、こんなところで出会おうとは。
おっかない顔でこちらを睨みつけているのは、まぎれもなく、ゆき[#「ゆき」に傍点]だった。
3
おれはすぐに出て行かなかった。ゆきの眼つきと、すぐにあたりを見廻したことで、おれの存在に気づいていないのがわかった。
あの地下通路で別れ別れになったきりだが、どこで何をし、どうやって、いま、こんなところへやってきたのか。
格好は別れたときのままだ。肌の艶や血色はいい。いま、地の底から脱け出てきた、それだけじゃないらしい。
天井からぶら下がってる連中を認めて、さすがにびっくりしたようだが、そこは太宰先蔵の孫娘だ。恐れげもなく室内へ滑り込んできた。
それから、液体爆弾を塗りつけてあるメカのところへ行って、しばらく眺め、発電機と思しい機械に近づいて、レバーのひとつに手をのばした。
「待て!」
思わず、おれが立ち上がったのも当然といえたろう。こいつめ、エニラ師――エイリアンの実験装置を勝手にいじくる気か?
ゆきもはっとこちらを見て、
「あ――っ!?」
とおれを指さして叫んだ。
「あんた、こんなところで何してんのよ!?」
「おまえこそ何だ、この場違い娘、今のいままで何してやがった?」
「よく言うわね、この卑怯もの」
と、ゆきは柳眉を逆立てて唸った。
「あんたに見捨てられて、あたしがどれだけ苦労したと思ってんの? あの地下の通路の暗闇を、出口を探しながら死ぬ思いで歩きまわってたんだからね」
「いや、それは……」
これを言われると弱い。
「ま、気にしてなかったわけじゃねえんだよ、はあはあはあ」
「なに虚ろに笑ってんの? それともコーフンしてんの?――ふん、とぼけちゃってさ。いいこと、あんたが、うら若い乙女を地下へ放り出したこと、あたしは一生忘れないからね。今後、えらそうな説教どっかで叩こうとしたら、そのたびに憶い出させてやるわ」
「あー、わかったわかった」
おれはそっぽを向いて手をふった。
「ま、人間、都合もあるし、いくら信頼しあってる仲間だからって、一から十までいいようにしてやれないさ。――それより、おまえ、何しに来たんだ?」
「なーによ、その言い方? 何しようとどこへ行こうと、あたしの勝手でしょ。あんたこそ何してんのよ?」
めまぐるしい思考は一瞬で完了した。ここは正攻法で行ってみよう。
「この施設を爆破しにきたんだ」
「なんですってえ!?」
ゆきは顔中を口にして叫んだ。ついでに眼の玉もとび出しそうだった。
「こここんな貴重な発明をもももったいないいいいったい何考えてるのよ!?」
「こいつが諸悪の根源なんだ。おまえだってわかってるだろ?」
「どうして、空気から黄金をつくる機械が諸悪の根源なのよ!? あんた、どうかしてるんじゃないの!?」
「なにィ」
「なによォ」
「おまえ、そんなたわごと誰に吹き込まれた?」
「なにが、たわごとよ。ははあん、あんた、ひとり占めにする気ね?」
ゆきは蛇のような眼でおれを見つめた。
「誰がそんな真似をするものか。大体、よく見ろ。この部屋のどこに、黄金と関係ありそうな品がある? そんなところへ、天井から人間をぶら下げとくと思うのか?」
これにはゆきも鼻白んだが、たちまち、
「人間を干物にしてから、黄金《きん》に変えるのよ」
本気で喚いたから恐れ入る。
「もう、あんたのたわごと聞いてる暇なんかないわ。どいて――実験するんだから!」
右手は発電機のスターターにかかったままだ。
「実験? おまえ、やり方がわかるのか?」
「そんなこと、しながら[#「しながら」に傍点]考えるわよ。とにかく、電気つけなきゃ何事もできないでしょ」
「やめろ」
「うるさい!」
おれが止めるより早く、ゆきはレバーを倒した。
ぶーんという音が沸き上がり、死んでいたメカに光の意識が復活する。
青白い光がメカとメカの間を結んだ。
「すっごい、刺激的ィ〜〜〜」
あてつけがましく叫ぶゆきを尻目に、おれはカーテンの外へ跳び出してのぞいた。
驚いたことに、内部の音はまるっきりきこえない。カーテンそのものが、特殊な吸音物質でできているらしい。
これなら、ちょっとした爆発くらい起こしても、内々で処理できそうだ。
「なあ、ゆき」
と呼びかけて実験室内をふり向き、おれは、
「あっ!?」
と叫んだ。なんと、天井の死体――いや、本体[#「本体」に傍点]のひとつが自然に寝台の上に横たわってくるではないか。スイッチひとつで実験を開始できるよう、エニラ師は配慮しておいたのだ。
「いよいよ[#「いよいよ」に傍点]よ」
青白い光と影の交差するゆきの顔は、欲望の虜と化した鬼女のように見えた。
念のためにひとことと思い、
「おまえなあ、これは違うんだって」
と話しかけたが、もちろん聞く耳など持ちゃしない。
「干物が黄金《きん》になるのよ、干物が」
「干物じゃねえ、ただの人間だ」
と言いながらも、おれが止めなかったのは、外に洩れる恐れがなくなった以上、エニラ師の実験を見てやりたいという好奇心に取り憑かれたからだ。ピゲロの実験にはない完璧さを、奴はどうつくり上げたのか。材料は同じはずだ。
寝台の上半分がゆっくりと左右にせり出しはじめた。その表面からマジック・ハンドに固定された無針注射器が現れ、寝台上の男の左腕に、消毒もなしにその先端を押しつけた。
注射器は銀色の金属製品のため、中身は見えなかったが、ピストンが下がっていくにつれて、何らかの液体が注入されているのはまちがいないようだった。
注射器が離れても、男はびくりとも動かない。
「ねえ、すぐ乾かないわよ、こいつ」
とゆきはおれの肘をこづいたが、もうかける言葉はなかった。
天井からぎりぎりと歯車を噛み合わせながら、円筒《タンク》状の物体が下りてきたのはこのときだ。
いきなり、うねくる蛇がまとめて百匹も、おれたちの眼の前へ、どっと――
「うっぎゃあ」
と、ゆきが抱きついたときは、もうおれには、それがタンクの底からこぼれたポンプの束とわかっていた。
しかし、くねくねと身をくねらせつつ、その先から灰色の粘塊を男の全身に吹きつけはじめたのは、確かに蛇とも見まごう不気味さであった。
「なによ、あれ?」
と、さすがに訝しげなゆきへ、
「ああやってくるんでオーブンに入れるんだ」
とおれは答えたが、
「ふん、いい加減なこと言わないでよ」
と軽蔑されただけだった。それほど凄まじい光景だったのである。
石膏像ともとられかねない灰色の人体ができあがるまで、一〇秒とかからなかった。
「わかったわ」
とゆきが呻いた。両眼は黄金色に濡れていた。
「あの内側《なか》で人間が黄金《きん》に変わるのよ。ね、そうでしょ? ね?」
「そうとも」
おれは喘ぐゆきの後ろへ廻り、ブラウスの胸もとから右手をさし込んだ。
相変わらず、見事としかいいようのない張りとふくらみだった。うー、手が焼ける。ノーブラである。乳首をつまんでこすると、ゆきは、
「ああン……」
と白い喉をのけぞらせた。
「何すんの……よ?」
怒る声にも力はない。どころか、おれの手を掴むと、てのひら全体を自ら乳房にあてがい、激しくもむように促した。
「これはこれは」
九〇センチを超す乳房の弾力を愉しみながら、おれはゆきの首筋に唇を押しつけた。
「くう〜〜〜」
ゆきの肌は灼熱した。ほんとの話だ。
「もうじき……もうじき……ね」
と喘ぐゆきへ、
「そうとも、すぐだよ」
とおれは保証する代わりに、残る手を股間へと下げていった。
「あっ……あっ……あっ……」
ゆきの声はしゃくりあげに近くなった。もともと敏感な身体が、いまや、金銭妄想欲情症の虜になっているのだから、いかに貪欲かは一目瞭然だ。
と――寝台上の男に変化が生じた。
灰色の厚い膜が変わり出したのだ。固い輪郭は、どこか人間の肌みたいに滑らかさを帯び、のっぺりした表面には凹凸が生じて、ああ、なんと、服まで身に……
いきなり、両腕に凄まじい痛みが走った。
「どさくさにまぎれて、このどエッチ!」
ゆきが思いきりつねったのだ。
ここで大立ち廻り――と思ったが、やはり、眼の前の不思議には度肝を抜かれたらしい。
「なによ、あれ? 黄金はどこよ? 代わりに人間ができちゃったじゃないの……」
茫然と呻いた。
「だから言っただろ。――そうか、あの灰色の物質がポイントか」
おれは足早に、できかかった二重存在《ドッペルゲンガー》に近づいた。
まだ足の辺りに、変化前の物質が残っている。それを指ですくい取り、腰のパウチに収める。
じろ、と男がおれの方を向いた。もう、完成品だ。眼を見ればわかる。凶獣の眼差しがおれを貫いた。
ぶん、とふられる拳をよけることはできず、おれは左手で受けた。
バットでぶん殴られたような衝撃が、おれを跳ねとばした。
勢いよくメカのひとつに激突する。
男が寝台から下りて、ひょこひょことやってくる。
右手が腰にかかった。軍人だ。ホルスターには旧米軍制式拳銃コルト・ガヴァメントM1911A1が収まっている。抜いた。
おれはグロックに手をかけなかった。左手はいまの一撃で感覚を失っている上、右手はもろメカにぶつけてしまっていた。真の危機というのは、案外、こういうときにやってくる。
ばかでかい四五口径の銃口を、正面からのぞき込むのは久しぶりだった。
どうやってかわす?――数千分の一秒の間に閃いた思考は、しかし、実行する必要がなかった。
突っ立ってたゆきが、いきなり男めがけて跳躍したのである。
はっとふり向こうとするその身体のどこへ攻撃を加えても、実は効きっこない。
「やめ――」
ろ、と叫ぶ寸前、ゆきの右足が躍った。
次の瞬間、ぐわあ、と人間とは思えぬ苦鳴をほとばしらせつつ、男は膝をついたではないか!?
新たなキックがコルトを弾きとばし、空中で横蹴りに変わるや、男の鼻っ柱にめり込んだ。
「そこまでだ、ゆき――逃げろ」
とおれは叫んだ。
「どうしてよ? 黄金はどうなるの?」
「後で何とかしてやる。そいつは化物だ」
「何よ、こんなの」
ぐん、と三度《みたび》引かれた足が走るより早く、男の右手が弧を描いた。
「きゃっ!?」
間一髪で跳びのいたのは、人外の恐怖を感じ取ったゆきの本能の成せる技だ。
足が滑った。
そこへ男の手が襲った。
びり、と布地の裂ける音。
「やン!」
ゆきが跳びのいて尻を押さえた。男の手にはジーンズの切れ端が握りしめられていた。――両者をかけ合わせると、出てくる答えは――
ゆきのジーンズの後ろはまあるく剥ぎ取られて、愛くるしくもおいしそうなお尻のふくらみが、ふんわりとのぞいていた。
「やだーっ、殺してやる!」
ゆきは絶叫したが、目下、それは不可能だ。それより――おれは、はっと気がついた。じき、皇太后とエニラ師の謁見の時間だ。こっちはほぼ用が済んだ。何としても、皇太后との話は盗み聞かなくちゃあ。
「ゆき、頼みがある」
とおれは声をかけた。
「あら、何かしら?」
声が変わった。頼まれ事→恩を売るという思考法の結果だ。
「何とか、ベッドの上のおっさんとぶら下げられてる連中を部屋の外へ連れ出してから、こいつを押してくれ」
おれは発火スイッチを露出させた腕時計を取り出した。
「どーしようかなあーっと」
「黄金だ、黄金」
「あら、どれくらい?」
ゆきは、這いずってきた男の手から素早く身を離して訊いた。
たいしたもんだ。――いや、駆け引きではなく、あの不死身男を蹴り倒したことがだ。おれも同じ手を使ったろうが、ゆきがあれを見ていたとは思わなかった。
ゆきが蹴り込んだ場所は、二重存在《ドッペルゲンガー》唯一の未完成部分、おれがこそげ取った粘物質の隙間だったのである。
「おまえの希望額は?」
「そうねえ――一トン分。キロ一千万」
「阿呆――人間四人分だぞ、三〇〇キロでもおつりがくる」
「五〇〇キロ」
「三五〇」
「四〇〇」
「いいだろう」
「後はまかしといて」
「ほれ」
おれは腕時計を放って、身を翻した。
カーテンを抜け、図書室のドアを抜けながら、おれは、何ともかったるい疑問が胸に浮かぶのを押さえることができなかった。
これだけ騒いで、誰も気がつかないとはね。どこかおかしくないか。
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第六章 最終戦争(ハルマゲドン)一秒前
1
ゆきにまかせた件が気になったのは、図書室を抜けるまでだった。おれにはおれの仕事がある。信頼なんかしないが、いったんまかせたら気にもしない。これがプロの流儀だ。
名雲秘書からきいておいた謁見の間へ駆けつけると、幸い、誰も到着していなかった。
護衛もいないのは、エニラ師と皇太后が嫌がるためだろう。
おれは、名雲秘書の指示通り、巨大な皇太后用の玉座――宝石や黄金をちりばめたでかい椅子の下へ身を隠した。今日はよく潜り込む日だ。
赤い天鵞絨《ビロード》のカバーを下ろした途端、ドアの開く気配がした。
おれが入ってきたドア――エニラ師だろう。覗くわけにはいかない。相手が悪いんでな。
三分と待たず、椅子の右横にあるドアが開くと、静かな、重々しい足音が近づいてきた。一発で皇太后とわかる。
さて、この件最大の大物同士の会見だ。ぞくぞくするな。
ぎゅうと頭の上がたわんだ。皇太后が腰かけたのだ。おれの勘では――二人きりだ。
一瞬の間を置いて、
「皇太后さまには、本日もご機嫌うるわしく――」
とエニラ師の声が言った。
「おまえも」
と渋い女の声が応じ、
「長々しい挨拶はお互い無用にしましょう。戴冠式の日取りがきまったそうですね?」
「さようでございます」
エニラ師の声に、邪悪な自信を感じ取ったのはおれだけだろうか。
「で?」
「明後日――第一大広間で挙行いたします」
「随分と急なこと」
皇太后の声は、ゆったりと落ち着いていた。
「いつ決まったのか知りませんが、もう少し早めに私のもとへ知らせてくれてもよろしかったのではありませんか?」
「その件につきましては、まことに弁解しようもございません。こちらの手違いでございます。すでに責任者は処罰いたしました」
「そうかしら」
「は?」
おれは吹き出しそうになった。さすがは一国の皇太后。エイリアンと互角に渡り合っているじゃないか。途端に、皇太后の声は冷厳そのものに変わった。
「エニラ師よ、戴冠式にはプリンスが必要です。それと、王家の黄金のペンダントが。あなたはそれをともに――」
「残念ながら、持ってはおりません」
エニラ師は静かに応じた。こっちもたいしたタマだ。
「それでは明後日という期日は、どうやって?」
「今日明日中に、プリンスもペンダントも、皇太后さまのもとにお届けできますれば――」
「………」
沈黙は動揺の別名であった。皇太后の驚きは、おれの全身をも直撃した。まさか――どうやって?
「私には理解できませんね、エニラ師。そもそも、プリンスがこの世に存在するという話自体が、私は眉唾だと思います」
「さようで……」
言うまでもなく、これは化かし合いで、同時に腹の探り合いでもある。いわば、プリンスの存在などどちらも知らぬという嘘八百の大前提の下、それを使って互いに相手をへこませ、自らを有利な立場に置こうとしているのだ。
「そのような根も葉もない噂に溺れて、私へひとことの相談もなく戴冠式の日取りを決定するなど、それなりの裏付けがあってのことでしょうね。でなければ、あなたはもちろん、首相も無事ではすみません」
「重々承知しております」
「となると――」
「プリンスは生存しておられました。目下、私のもとで手厚く保護させていただいております」
ほう、いきなり勝負に出たか。――けど、こいつは切り返されるぞ。
「その子供をプリンスと認めた以上、十分な調査は行われたのでしょうね?」
「もちろんでございます。これまでの経歴から血液、DNA鑑定まで行いましてございます。すべてパスいたしました。加えて、肌身離さず所持しておられましたペンダント――それこそが、何よりの決め手となりました」
「ほう。それ[#「それ」に傍点]をお持ちか?」
「はっ。――ここに」
野郎、どの面下げて――この時ほど外へとび出し、
「そいつはにせものだ[#「にせものだ」に傍点]!」
と絶叫したくなる衝動を抑えるのに苦労したことはない。ペンダントもプリンスもおれのところだ。
いや、本当はとび出してもよかったのだ。それを制止したのは、エニラ師の嘘の理由――手の内を突き止めようとする戦うものの本能であった。
「お持ちなさい」
と皇太后は命じた。
まずい。あんまり、エニラ師と接近したくないのだ。エイリアン野郎、勘だけはおれなみに鋭いときている。おれは気配を絶った。
近づいてくる気配があった。
玉座は一段高い壇上にある。手前で気配は停止した。
「どうぞ」
エニラ師が恭《うやうや》しく言った。ペンダントをさし出したのだろう。
少し間を置いて、椅子の上から動揺が伝わってきた。無理もない。いくら皇太后だろうと、エイリアンの科学技術が行き渡った複製を看破《かんぱ》できるわけがないからだ。
「いかがでございます?」
エニラ師の声は重々しく、笑いを含んでいた。
「確かに、王位継承のペンダント」
と皇太后は言った。
ああ、とおれは嘆息するところだった。やはり、この女性は善人なのだ。根性がもうひとつねじれていれば、「わかんないわネ」くらいは切り返せただろう。
「それは、お持ち下さいませ。そして、明後日の戴冠式には、皇太后さま直々に、プリンスの首におかけ下さいませ」
「プリンスはどこにおるのです?」
「さきほども申し上げました通り、私どものもとに」
「なぜ、ここへ連れてこないのです?」
「実は――プリンスはひどく脅えておられます」
とエニラ師は沈んだような声を出した。野郎、役者の才能もある。
「それは?」
「何と申しましても、皇太后さまとは初対面。それに、これまでの日々が、誇り高き王国の継承者としては、あまりにも無残な。――ついさっきも、私ごときにすがりつき、お祖母さまには会いたくない、せめて、自分の気持ちが落ち着くまではと、お泣きになりました」
よく言うよ。おれの隠れている狭苦しい空間は、怒りで煮えたぎっていた。皇太后は、プリンスに会っている。彼がどんな子供か知っている。いけしゃあしゃあとホラ話をまくしたてるエニラ師など、引き裂いてやりたいところだろう。
「――その子がプリンスだと、いつわかるのですか?」
「明日中に」
エニラ師の声は自信たっぷりだった。
「皇太后さまにも、そのときご納得していただけましょう。そうと決まれば、戴冠式は早ければ早いほどよろしゅうございます」
「ですが、エニラ師――これは国民的儀式ですよ。それなりの格式も華やかさも持たねばなりません。いくら何でも明後日というのは――」
「ご安堵下さいませ」
とエニラ師は保証した。
「すべてはこの私と首相とに。皇太后さまをはじめ、どなたにもご満足いただける式典を挙行してごらんにいれますれば」
決まったな、と思った。政治的権力がゼロである以上、たとえ、皇太后といえど、結果は眼に見えていたのだ。見事、エニラ師のペースに乗せられてしまった。
逆転のカードはこっちにない。
「わかりました」
と皇太后は言った。威厳の失われていないのがせめてもだ。
頭上の重圧が消え、足音が真横へ遠ざかっていく。
皇太后の気配が完全に消えても、エニラ師が出て行く風はなかった。
やっぱり、勘づかれてたか。
おれは素早く、椅子の下から出た。
広間の真ん中に、小男は立っていた。
「よくわかったな」
とおれは声をかけた。
「近頃、勘が鋭くなっていてな」
エニラ師は笑った。
「――と言いたいところだが、実はわからなかった。今の今まで」
「はン?」
「わしがここに残ったのは、別の人物と会うためよ。おまえは自発的に出てきたのだ」
おれは口が開かないよう努力しなければならなかった。
「別の人物てな、誰だい?」
「じきにわかる。――来たぞ」
ちら、とエニラ師の瞳が動いた。
正面のドアを開いて入ってきたのは、禿げ頭の中年男だった。
首相のウールマイヤーだ。
たちまち、おれに気づいて、ドアの方を向いた。衛兵でも呼ぶつもりなのだろう。
「待て」
とエニラ師が制した。
「彼はわしの客だ。気にせんでよい」
「しかし……」
「いいから。どうせ、ここからは生きて出られん」
「それならば」
ウールマイヤー首相はにっと笑った。こいつも脳味噌をいじられてやがるな。
「で?」
とエニラ師が促した。
「いや――」
「よいと言っただろうが」
「フッケを捕らえました」
首相の言葉はおれを驚かせた。
「ほう。――どこにいた?」
「古い地下道に隠れておりましたのを、本日、公安部隊の者が」
「十分な報酬をとらせるがよい」
エニラ師はこう言っておれの方を向き直り、
「というわけだ。手が詰まったな、ミスター八頭」
「さてね」
とおれは強がりを言った。こういうときに弱みを見せるとまずい。
「断っとくが、そのフッケが本物かどうか確かめた方がいいぜ」
もちろんでまかせだが、首相ははっ[#「はっ」に傍点]とした。
「おれもゲリラも、あんたたちが思ってるほど無為無策じゃない。VIP程度にはちゃんと金を使ってるさ。ひょっとして、そのフッケくんは、いとも簡単に捕まったんじゃないのかい?」
「―――」
でまかせが適中したか。しかし、こうなると、フッケも救い出さなきゃならん。彼が洗脳されたりしたら、お先真っ暗だ。
だが、この場をどう切り抜ける。
「では、葬儀といくか」
エニラ師は、おれの言葉など気にした風もなく唇を歪めた。
「ああ――その前に」
おれは、自分でも信じ難い速さでグロックを抜い《ドロウ》た右手を見つめた。真っすぐのびた腕と銃身の先には、ウールマイヤー首相の顔があった。
「動くな」
とおれはエニラ師を制した。
「首相が死ぬぞ」
「卑怯ではないかね?」
「うるせえ、宇宙人が人の星できいた風な口をきくな。この星にゃこの星の流儀があるんだ」
「そうか。では、私は私のやり方でいこう」
おれの方へ一歩踏み出そうとした刹那、おれは引金を引いた。
首相の耳たぶが、ほんのちょっぴりちぎれた。
「ひい!」
悲鳴は低く抑えられていた。
そちらをちらと見たきり、エニラ師の足は止まらなかった。
「こら、止まれ」
今度は反対側の耳たぶが消え、首相は凍りついた。
「止まれ――エニラ師、止まれ! 殺される!」
「あきらめろ。わしと組んだときから、こうなる覚悟はしてあるはずだぞ」
「き、きさま――やめろ!」
おや、必ずしも完全な洗脳状態ではないらしい。
「わかったかい、首相さん」
とおれは、もう少し、左耳を弾きとばしてから言った。
「こいつは所詮、外の世界から来た化物だ。文化水準が高いから、平和主義者だなんてのは、SFのたわごとよ。自分より弱いもン見りゃ征服したくなるのは、全宇宙を通しての掟なのさ。その証拠に、あんたの生命なんざ、いざとなりゃ平気で見捨てるくらいの値打ちしかありゃしない。――よく見とき!」
おれはつづけざまにエニラ師の顔面へ三発叩き込んだ。もちろん、奴はすたすたとやってくる。
「わかったかい、奴の化物ぶりが」
とおれは首相に言った。どうせ化物なのは百も承知だろうが、眼の前でそれを見せつけられると、また別の感情が湧くはずだ。
エニラ師の両眼がおれを捉えた。
戦慄がこみ上げてくる。
エニラ師の右手が上がった。袖口にでも仕込んであったのか、金色に光る三角定規みたいな品が、おれの方を向いていた。
ぴいん、と弦を弾くような音がした。――と見る間に、玉座の輪郭がゆらぎ、美しいガス塊となって消えた。おかしなもンつくりやがって。
「いよいよだ」
定規の先が、少し横にずれた。
その瞬間、足下がゆれた。
エニラ師がはっとドアの方をふり向き、たちまち、激怒の形相でおれをねめつけた。
「きさま――まさか、わしの部屋に!?」
やったな、ゆき。おれはにんまりした。
「たいした図書室だったが、おしまいだな」
おれの声は、皇太后の退いた出入口の方へ向かって流れた。
ぴぃんと空気が鳴って、壁の一部がガス化したが、おれは頭からドアにぶつかり、隣室へと転がり込んだ。誰もいない。控えの間だ。
おれはそこも駆け抜け、別のマスクを被って変装すると、頭の中に叩き込んである地図に従って、牢獄の方へ向かった。フッケはそこにいるはずだ。
2
だが、牢獄へは侵入することができなかった。どさくさまぎれに、と踏んだのだが、そこは首相もエニラ師も馬鹿じゃなく、おれが辿り着く前に、非常警報が出されたのだ。
おかげで、宮廷中の警備が三倍は厳重になり、おれは名雲秘書の部屋にも戻らず、早々に脱出した。ゆきがどうなったのかもわからない。エニラ師の実験室を処分しただけで、上出来というべきだろう。
とりあえずは成功、とおれは評価した。
タクシーに乗ってピゲロのもとへ向かう。
地下通路から部屋へ脱けると、とんもない事態がおれを待っていた。
部屋にはピゲロもシュミットもいた。ベッドにはプリンスもちゃんと。
しかし、この尋常ならざる暗い雰囲気は何なんだ?
そう訊いてみた。
「私の責任だ」
とシュミットが言った。ひと目で違うなと察しがついた。
「もう一度、二人目のプリンスが出現した」
唖然。
「で?」
「私が隣室にいる間に、ピゲロを張り倒して逃げた」
おれはベッドに眼をやり、
「プリンスは無事だな?」
「見ての通りだ」
「すると事は単純だ。プリンスが眼を醒ませば、あいつは消えてしまう」
「それが――プリンスが眼を醒まさないのだ」
弱々しく告げたピゲロの顔を、おれは睨みつけた。
「どーいう意味だ、こら」
「わからん」
「ちゃんと治療したつったじゃねえか、てめえは!?」
「弁解はせん。済まなかった」
ピゲロの謝罪が心底からのものだというのは、よくわかった。こう出られちゃ怒る気にもならねえ。
「しかし、なぜ急に二重存在《ドッペルゲンガー》がまた現れたのか。説明できないのか?」
「恥ずかしい話だがわからん。ひょっとしたら、プリンス本体の潜在意識のさらに深い部分に、何らかの暗示がかけられていたのかもしれない。私の薬草治療もそこまでは及ばなかったのだろう」
「なるほどな」
おれの返事は、ピゲロばかりかシュミットも驚かせた。
エニラ師の自信のほどがやっと理解できた。いまピゲロが推察した通りだろう。プリンスをこちらに渡したときから、エニラ師は二重存在《ドッペルゲンガー》の分離をプログラムしてあったのだ。
それがいま、作動した。プリンス2号は一目散にエニラ師のもとへ向かっているだろう。そして、明後日の戴冠式には――
「顔色が秀《すぐ》れんな」
とシュミットが言った。
「戴冠式は明後日だ」
とおれがぶっきらぼうに言った。
「急だな。――敵も焦っているとみえる」
「焦ろうが焦るまいが、向こうはペンダントのまがいものも用意してる。プリンスとこみ[#「こみ」に傍点]で提出されたら、いくら皇太后でも手も足も出ない。この国はおしまいだ」
「二日間――いや、明日一日だけと考えた方がいいな。打つ手を探さねばならん」
「あたりきよ」
とおれは両手を打ち合わせた。
「――その前に、ここを出よう。プリンス2号がエニラ師へ打ち明けるに決まっている」
「それもそうだ。――ピゲロ、気の毒だが」
「なに、第三の店へ行くさ」
マスクの向こうで、妖草師は低く笑った。
「チェーン店だな、まるで」
とおれは呆れ、この妖草師を見直した。
「策はそっちで考えよう。――もう、客が来たぞ」
いつの間にか、窓のところに寄っていたシュミットが、街路の方を見下ろして言った。
「今度はどう出る?」
とおれはピゲロに訊いた。
「地下から、また、あの地下道に出るしかない」
「侵入してきたぞ」
とドアの方へ移動しながら言うシュミットへ、
「プリンスとピゲロを頼む。――先導役はおれだ」
とバッグを肩に担ぐ。
「ピゲロ――対催涙ガス用の薬はないか?」
これは、さすがシュミットの指摘だった。
「あるとも」
汚名挽回とばかり、ピゲロの声は弾んでいた。
シュミットの背のプリンスを含めて、全員が液状の薬を嚥下したとき、廊下に気配が湧いた。
「おれが行く」
自由電子レーザーを手に前へ出た。
機械服のシャッターを下ろし、
「出るぞ!」
とひと声かけてから、残る三人が安全地帯にいるのを確かめ、ドアを開ける。
足下や胸に軽い衝撃が伝わった。弾丸ではない。催涙ガス弾だ。たちまち、視界は白煙に覆われた。一、二発が室内へとび込んだ。
おれは真っすぐ、エレベーターの方へ向かった。
廊下には警官隊が渦を巻いていた。催涙ガスの真っ只中で平気なおれに、自動小銃の猛打を浴びせる。
M16ライフルとAK47シリーズの銃声だった。機械服の手が、胸が、腹が、オレンジ色の火花を上げる。
おれは構わず前進した。
背後からも射ってくる。おれはふり向きざま、右手のレーザーを真後ろに向けて、一発ぶちかました。
警官たちの足下に、みるみる巨大な空洞が穿たれていく。下が無人なのは計算済みだ。
直径三メートルほどの穴を開けると、おれは前方の敵へと向き直った。エレベーターのところまで行かれちゃ迷惑だ。
レーザーは天井へ向かった。熱波で炙《あぶ》られ、脆《もろ》くなったコンクリートの破片がばらばらと落ちてくる。
のけぞる警官どもの真ん中へとび込むと、おれは片っ端から奴らのガスマスクを外していった。廊下には催涙ガスがたちこめているから、これはたまったものじゃない。
たちまち全員、涙まみれでのたうち廻りはじめたのを見届け、おれは後方で足止めを食ってる奴らの真ん中へビームを一閃させた。
壁が崩れ、全員が身を隠す。
声をかけるまでもなく、プリンスを背負ったシュミットがとび出してきた。その後にピゲロがつづく。
「下にも警官隊がいるぞ」
とピゲロが焦り気味の声を張り上げた。
「何とかなるさ」
とおれは気楽に言った。
「いま、全部追い払って、車をかっぱらう。ちょっと待っててくれ」
嘘でも冗談でもない。警官たちの武器で、おれの機械服をどうこうするのは夢のまた夢だ。
だが、その必要はなかった。
一階への階段にさしかかったところで、下方から、激しい爆発音と悲鳴が噴き上がってきたのだ。
「ゲリラだぞ!」
「後退して隊列を立て直せ!」
おれが一階に到着すると同時に、玄関へ横づけになった車から、私服姿の男たちが三人、自動小銃を手に、駆け寄ってきた。
ひとりは隻眼――ブルーだった。
「乗りたまえ!」
と車を指さす。そのこめかみを、ひゅんと弾丸がかすめてドアのガラスを破壊したが、身を屈めたのはピゲロだけで、全員平然としている。
「どうして、ここが?」
「我々も馬鹿ではないよ。公安関係にはスパイも入り込んでいるし、無線の傍受も怠りない」
「そらどーも。とりあえず、お言葉に甘えるか」
背後の二人も異議はなく、おれたちはゲリラの車に乗り込み、数分後には貧民夜会地区の西の端にある廃ビルに到着していた。
嬉しいことに、そこにはマリアもいた。
「やっぱり、活躍中だね、大」
皺くちゃな顔をゆがめて笑う老婆に、おれは新宿の地下にいるもうひとりのマリアを連想した。
「あんたも無事で何よりだ」
おれはシュミットを紹介した。知らなくはなかったろうが、さすがに実物を前にして、ゲリラたちは感嘆の声を抑えることができなかった。
「また会えて嬉しいよ、“地獄の戦士《ヘル・ファイター》”」
マリアの声にさえ陶酔の響きがあるのに、おれは嫉妬を感じた。
「今ではミスター八頭の助手だ」
当然の発言だが、雰囲気はまたも一変した。
「いやあ、なんのなんの」
とおれは適当に胸を張ってみせた。自慢などしてる場合じゃない。
もう日が暮れかけている。そして、明日丸一日――二四時間を経れば、運命の戴冠式が待っているのだ。
おれはマリアとブルーを前に、一切の事情を話してきかせた。議論百出し、終わったときは深夜をすぎていた。
「襲撃するというわけにもいかないし、しても無駄だろう。エニラ師を何とかする以外に手はないけど、今となっては不可能だろうねえ」
マリアの述懐には絶望的な響きさえあった。
これが代表的意見で、結局、何ら打開策が見当たらぬまま、おれたちは部屋へ戻った。
それから一時間ほどして、おれは足音を忍ばせて部屋を出た。
そっとプリンスの眠る部屋へと向かう。
ピゲロがいた。第三アジトとやらからゲリラに運ばせた薬を使って、何とか彼の眼を醒まさせようと死力を尽くしているのだった。
「どーだい?」
後ろから声をかけられても知らんぷりだ。おれは黙って見守ることにした。こういう奴の集中を破ったりすると、血で血を洗う騒ぎになりかねない。
三〇分ほどして、ピゲロはついに、その場に膝をついてしまった。
「おー大丈夫か、よくやった」
おれは早速駆けつけ、彼をソファに導いてやった。
「離せ。まだ仕事は終わっていない」
「無茶するな。それより、訊きたいことがあってきたんだ。落ち着け」
「まだ、覚醒の可能性を掴めていない。明日いっぱいじゃまず無理だ。解答終わり」
「そんなんじゃねえ。実はな――」
おれはピゲロの耳にひそひそとやった。
「なにィ!?」
おれはあわてて彼の口を押さえた。
「静かにしろ」
「――気は確かか? 何ということを!?」
「その辺のお叱りはゆっくり受けるよ。しかし、現実として、そっちの方がやさしい[#「そっちの方がやさしい」に傍点]だろ? どうだい?」
こわばったピゲロの身体から急に力が抜けた。
マスクの下からこちらを見つめる眼に、おれはにんまりと微笑みかけた。
「どうだ?」
とまた訊いた。
「それは、まあ」
とピゲロはうなずいた。
「しかし、それをしてから、どうやって?」
「その辺はおれのコネにまかせとけよ。どっちにせよ、エニラ師の野望を陽の下にさらけ出して、吸血鬼みたいに滅ぼすには、明日しかチャンスがねえ。――ここにある薬で、できるかな?」
「何とかなるだろう」
「じゃあ、よろしく頼むぜ」
おれはピゲロの肩を叩いてから、特別のウィンクを送った。
「承知した。しかし、まさか、同じアイディアが出てくるとは」
「何ィ?」
と、おれは眼を剥いた。
「何だ、今のは? どーいう意味だ? おれより早くに、このアイディアを持ってきた奴がいるのか?」
「うむ――」
一〇分後、おれはこっそりとシュミットの部屋へ近づき、ドアをノックした。
「誰だね?」
「ぼく」
「――少し待ちたまえ」
不審そうな声だった。
ロックが外され、ドアが開いた。
「入り――」
みなまできかず、おれは手にしたバケツの中身を室内へ浴びせかけた。
「ざまあみやがれ、アイディア泥棒」
かっかっかと哄笑しかけ、おれは眼を丸くした。ドアの向こうに、びしょ濡れの人影はなかった。水は床いっぱいに広がっている。
「何の真似だ?」
ドアの陰から突き出たブローニングHPが、ぴたりとおれの眉間をポイントした。
「冗談だ」
「夜中の二時に、人の部屋に水をぶちまけるのが冗談かね?」
「いや、おまえのガードぶりを試そうと思ったんだ。さすが」
「私のアイディアが気に入らなかったかな?」
「いや、なあに」
おれは何とか話を逸らそうと努力した。
「とにかく、明日話そう。明後日《あさって》は絶対に決着《けり》をつけてやるぜ、な?」
3
戴冠式そのものより、それまでに何をやったかが問題の日だった。
式は宮廷の大広間で挙行されることになった。
宮廷内にお触れが出されたのが前日だったので、上を下への大騒ぎになりかかったが、そこはエニラ師と首相のスタッフが、抜かりなく手配を整えた。
従って、五〇〇坪はありそうな大ホールは、黄金や真紅の垂れ幕や絨毯で覆われ、それよりもっときらびやかな連中が直立不動の姿で空間を埋めて、まさに荘厳なお祭り騒ぎの雰囲気を醸し出している――はずだった。
それが暗いのだ。陰鬱ともいうべき雰囲気が暗雲のごとく会場にみなぎり、今にも雨を――それも威勢のいいにわか雨ではなく、ただひたすらしょぼしょぼと降りつづき、気がつくとぐっしょり濡れている風な景気の悪い氷雨《ひさめ》を――降らせそうな感じなのである。
理由は明白――今回の儀がこの国に一大転換を促し、しかも、それが絶対にロクでもない方向への転換だと、心あるものはみな知っているからだ。
式の開始は正午きっかり。参列者は三〇分前に会場へはいり、以後、式が終わるまで誰ひとり出入りは許されない。
おれもその中にいた。まず、見つかる気遣いはない場所で、式の一時間前から、右往左往する連中を見物しているのは、なかなか優越感に富むグーな気分だった。
会場へ入り込めたのは、武器商人パシャから貰い直した例の心理透明薬のおかげである。野郎め、えらい額吹っかけやがった。――ただ、右も左も人の渦では、本物の透明人間になるわけじゃないからすぐにバレてしまう。おれが利用したのは、ここへ入るまでのことだ。
例によって、名雲秘書との打ち合わせもあった。これによると、一昨日の晩、プリンスを連れたエニラ師と首相が皇太后のもとを訪れ、ついに、皇太后は彼を真のプリンスと首肯したという。
「もう、頼みの綱は八頭さましかおられません。プリンスと皇太后さまのため――いやこの国のために何とかお力添えを」
切々と訴える名雲秘書へ、おれは、
「ごめんだね」
と言った。
「は?」
「おれが、何のために危ない目に遇ってると思う? 親の顔も知らない哀れな餓鬼のためか? 老い先短い婆さんのためか? このちっぽけな国の平和のためか? ――とんでもない。バラザード・リアの山中に眠る黄金のためさ。どんなときだって、おれは他人のためになんざ生命をかけたことはねえ。今も、これからもだ。――よく覚えとけ」
「はあ、さようで」
「何、にやにや笑ってやがる」
「いえ、私の存じております八頭さまとは大分違いますもので。人間、本音と建前はなるべく乖離《かいり》していた方が箔がつきますが、さすがは八頭さま、月と冥王星ほども離れておりますな」
「うるせえ。とにかく、おれは行くぞ」
かくて、いま、ここにいる。
いきなり耳をつんざくファンファーレが鳴った。
はじまったらしい。
「皇太后さま、おなりィ」
と式次第担当の武官が声を張り上げた。
謁見の間と同じく一段高くなった壇上に設けられた玉座に、横の専用入口から現れた皇太后が厳かに腰を下ろした。
つづいて、
「プリンス・ゼーマンさま、おなりィ」
正面入口の扉が音もなく左右に開くと、真紅の絨毯を踏み踏み現れたのは、まばゆい式服に身を包んだプリンスだ。その後ろに、ちゃんとエニラ師がくっついてやがる。首相は玉座下の閣僚席にいる。
ファンファーレが高鳴る。クライマックスだった。
壇の手前でプリンスは停止し、横から首相が一歩出た。
「本日――」
と、新しい国王にプリンスを据える由来だの、お定まりの文句を唱えはじめたが、おれはきいていなかった。
五分ほどしゃべって首相は下がり、
「戴冠の儀を執り行います」
と宣言した。
楽隊が荘重なメロディを奏ではじめる。
皇太后が立ち上がった。両手にしているのは、あのペンダントである。
プリンスは恭しく一礼し、壇上に昇って跪《ひざまず》いた。
皇太后が近づき、その首にペンダントをかけようと両手をのばす。
大扉の向こうで、どよめきが起こったのはそのときだ。
全員がふり返る。
扉が開いた。
どっと衛兵が駆け寄ろうとするのを、
「お待ちなさい!」
敢然と言い放ったのは、皇太后であった。いや、その声がきこえる前に、ドア近くの連中は茫然と立ちすくんでいたのである。
そこに立っているのは、まぎれもなく、壇上でペンダントを授かろうとしていた少年――プリンスそのものだったのだ。
どよめきの波が、居並ぶ連中の頭に衝撃を加えていった。
「プリンスが――プリンスが二人!?」
騒然たる会場に、エニラ師の声が響き渡った。
「無礼者の侵入だ、逮捕せい!」
「ならぬ! そのままに!」
こちらはさらに断固たる皇太后の叫びであった。
「エニラ師――これはどういうことなのです?」
「それは――申し上げるまでもありません。後から来たあいつこそ、プリンスそっくりのまがいもの[#「まがいもの」に傍点]。すぐに捕らえて、裏にいる不埒者を逮捕すべきです」
「しかし、あまりにそっくりな。私にはプリンスが二人いるように思えます。ひょっとして双子なのをあなたは黙っておいでか?」
「そのような――奴は偽物でございます」
「しかし、こうまで似ていては。ここから見ても、瓜二つ。双子といったが、とてもそれだけとは思えません。――おまえ、名は何という?」
「プリンスと呼ばれております。お祖母さま」
会場がまた揺れた。
「嘘をつくな!」
と立ち上がったのは、エニラ師といるプリンスだった。
「私こそ、ゼーマン家の正統な跡継ぎクラウス・ゼーマン七世だ。お祖母さまもそう認めておられる」
「僕と会えば、やっぱり認めてくれるさ」
プリンスは静かに言った。
「こちらへおいでなさい」
と皇太后が片手をさしのべた。
「はい」
意気揚々と歩き出したプリンスの背後で、つづけざまに銃声が上がった。
背後から彼を射とうとした衛兵の自動小銃を、外からとび込んできた人影が射ち落としたのである。
「その方を射ってはなりません!」
と皇太后が叱咤した。見るものはちゃんと見ている。さすがだ。
シュミットが、にっと笑った。その背後にずらりと並ぶ人影は武装ゲリラだった。プリンスに付き添ってきたにちがいない。
「これはこれは」
と皇太后は、ゲリラたちの真ん中にいる小柄な女性へ、にこやかに笑いかけた。
「お元気ですの――お姉さま?」
「つつがなく、ね」
とマリアが答えた。おれは危うくのけぞるところだった。マリアと皇太后が姉妹だったとは!? ひょっとしたら、ゲリラ・グループが今日まで暗躍してこられたのには、皇太后一派のサポートがあったのじゃないか。
「おかしなことになりましたね、エニラ師」
皇太后は笑いを含んで呼びかけた。
「こうなっては、本日の戴冠式は中止しなくてはなりますまい。私もわけがわからなくなりました。エニラ師、承知の上でしょうが、責任はとってもらわねばなりませんよ」
全員の注目を浴びて、エニラ師は悪鬼ともいうべき形相を浮かべていたが、不意に、プリンス2号の肩を押した。
近くの側近どもがあっと叫んだのは、2号が皇太后の背後に廻って、その皺首にたくましい腕を巻きつけたからだった。
「悪あがきはおよし」
とマリアが厳しい声で言った。
「もう、あんたの行くところは、もとの星しかないよ。さっさとお失《う》せ」
「そうもしたいが、もう、戻る故郷はないのだ。この星も同じ目に遇わせてやろう。――殺せ!」
命じた相手はプリンス2号だ。
誰も――シュミットさえ手の出しようがなかったろう。老婆の細首をへし折るくらい、二重存在《ドッペルゲンガー》でも簡単だったはずだ。
だが――力をこめようとした奴の腕は、肩の付け根から垂直に断たれていた。
真上から照射された自由電子レーザー・ビームによって。
次の瞬間、おれは隠れ家からとび下りた。天井のど真ん中からぶら下がった大シャンデリア――そこから人間が降ってきたのだから、驚くまいことか。
さしものエニラ師が眼を剥いてる隙に、おれはプリンス2号の顎にレーザー砲の銃身を叩き込んでKOし、皇太后を庇って立った。
「真打ち登場か」
とエニラ師は吐き捨てた。
「なかなかのもんだろ」
おれは微笑して、レーザーを向けた。
「まさか、プリンスが眼醒めるとは思わなかった。甘かったよ」
「甘かないさ」
とおれは、ひっくり返っている2号に眼をやった。
「そのプリンスは、そいつ[#「そいつ」に傍点]と同じ二重存在《ドッペルゲンガー》だ。プリンスを覚醒させることはできなかったんでな、もうひとり出したってわけさ。おれたちの自由になるよう、おれが催眠術をかけた。ラジャほどじゃないが、うまくいったぜ」
エニラ師の眼がとび出しかけたのも無理はない。
「その手があったか……」
と彼はつぶやいて、おれを見つめた。来た。身体中が総毛立っていく――それがふっと熄《や》んだ。
「どうも調子がよろしくない[#「どうも調子がよろしくない」に傍点]。だが、まだ、終わらんぞ。わしの船には、この星を丸ごと消去できるだけのエネルギーが残っている。――さらばだ」
大股にドアの方へ歩き出した後ろ姿を銃声が追った。
エニラ師の首筋に小さな穴が開き、彼はふり返った。
硝煙たゆとう自動拳銃を右手に立っているのは、ウールマイヤー首相だった。
青ざめた顔は汗で塗りつぶされている。
「もう新体制への点数稼ぎか?」
とエニラ師。
「黙れ。私はおまえに利用されていただけだ。いま、その証拠を見せてやる」
「よせ!」
と叫んだが遅かった。
つづけざまに拳銃が火を噴き、次の瞬間、その手が上へ向かって、首相はものの見事に自分の頭を吹きとばしていた。
「逮捕しろ!」
と高官らしいひとりが絶叫したが、
「およし。無駄死にが出るだけだよ!」
とマリアの声がとび、全員が凍りつく中を、エニラ師は足早に歩み去った。
あらためて騒然となる会場から、おれは一気に走り出ようとした。
「お待ちなさい」
これは皇太后。
「どこへ行くの?」
とマリア。
「バラザード・リアか?」
とシュミットが横にならんで走りながら訊いた。
「もちのろんよ」
「しかし、さっき、エニラ師に睨みつけられたとき、やられるかと思ったが」
「おれもさ」
おれはふり向いた。
会場の扉の前で、ゲリラやら皇太后やらプリンス3号やらが、おれたちを見送っている。その中に、二つ――よく似た顔があった。
名雲秘書と、もうひとつは――
「おーい、ここで何をしてたんだ?」
とおれは、そっち[#「そっち」に傍点]に訊いてみた。
「エニラ師付きの雑用係で」
と名雲陣十郎は答えた。エニラ師の調子がおかしくなる所以だ。
「助かったよ、疫病神」
最後のニックネームはきこえないように口にし、おれは歩を進めた。
宮殿の庭の飛行場に出ると、一機のヘリが上昇していくところだった。
手近の一機に乗り、おれとシュミットも後を追った。操縦はシュミットの担当だ。
「ところで勝てる見込みは?」
と彼が訊いたのは、バラザード・リアの山並みがはっきりと視野に入ってきたときだった。
「ない」
おれはあっさりと言った。
「そうこなくては、な」
憎い野郎だ。言うことが違う。
ヘリは、例の広場に着陸した。エニラ師のヘリもある。おれはレーザーを手に、真っすぐ洞窟へ向かった。
そのとき、声がきこえた。
「止まんなさいよ!」
洞窟の中からだ。それだけでも驚きなのに――ゆきの声だとは!?
愕然と走り出そうとしたとき、
「きゃあ」
かん高い悲鳴が上がって、おれの血を凍らせた。
洞窟へ入った。
一〇メートルといかないところに、ゆきが倒れていた。
「見てやれ」
言い捨てて、シュミットは奥へ向かった。
「気をつけろ!」
おれは見送ってから、厄介女の手当てにとりかかった。
幸い呼吸は正常、意識を失ってるだけだ。打撲傷もない。
頬っぺたを二、三発叩くと、
「うーん」
と身をよじるので、眼を醒ます前にと、素早く唇を重ねてやった。
「う……うぐぐぐ……ぐう――何すんのよ!!」
眼を醒ましざまに殴りかかってきた右手はブロックしたが、いきなり下から噴き上がってきた足はよけられなかった。
脇腹に、ドン、ときた。
「ぐは」
大仰に声をあげると、
「ざまあみなさい、この変態男」
ゆきは顔中を口にして喚いた。
「やかましい、この淫乱娘――今のいままでここで何をしてやがった?」
「ふん、あたしのアジトで、対エニラ師の武器を開発してたのよ。人呼んで、サイキッカー」
「何じゃ、それは?」
「ふっふっふ。ローラン共和国の誇る物理学の天才、フッケ博士の手づくりになる精神波増幅銃よ」
おれはゆきの肩を掴んでゆすった。
「そんなもの――本当か!?」
「あーら、信じたくなきゃ信じなくてもいいのよ。その代わり、あたしがエニラ師を仕留めたら、バラザード・リアの秘宝はみーんな貰うからね」
「一体どうやって、そんなもの手に入れたんだ?」
「知りたい?」
こんな状況でゆきはねっとりとおれを見つめた。腰から尻にかけてのラインが妖しくくねる。無意識の動きだ。
「ああ」
「あのとき、あなたに置き去りにされたでしょ。地下道の中でよ。あたし、半分やけになって、穴という穴を探検してみたのよね。そうしたら――」
何と、穴は無数に枝分かれして、サヴィナのあちこちにつながっていたらしい。
「宮廷にもよ」
それで、急にあそこへ現れたのか。だが、いきなり、エニラ師の図書室へ忍び込んできた理由にはならない。
「ああ、それ?――穴の中でフッケに会ったのよ」
「何ィ?」
きけば、フッケは研究所が放火されたとき、犯人とその目的を見抜き、地下道へ脱出したのだという。
彼も以前からその存在に気づいていたのだ。おまけに、食料や水や研究用の諸設備も運び込んで、小さな研究所もこしらえていたというから驚きだ。近頃は象牙の塔の住人も油断できない。
「そこで、その精神波増幅銃をこさえてたのか?」
「ええ。大分前から内緒でつくってたらしいから、地下のお粗末な設備でも何とかなったらしいわ。そこであたしと出会したってわけ。エニラ師のところに黄金製造器があるらしいって、彼からきいたのよ」
あの物理学者め、いい加減なことを言いやがる。
「だが、フッケはその後、捕まったはずだぞ。その銃は没収されなかったのか?」
「公安の奴が踏み込んできたとき、あたしが持ち出して逃げたのよ。安心して。フッケさんは図書室であんたと別れた後、爆発のどさくさまぎれに牢屋から救い出しといたわ」
いたれりつくせりの娘だ。
「ここへ来たのは、どういう理由だ?」
「フッケはバラザード・リアの怪物体についても知ってたのよ。それで、あたしがいただきに来たの。お宝ってそれでしょ?」
「するとおまえは、今日、宮廷で起こったことも知らないのか?」
「あら、何かあったの?」
「いや。何でもねえ。ま、無事でよかった。――それで、その武器はどこにある?」
「あら、今、シュミットさんが持ってっちゃったわよ」
「野郎」
おれは洞窟の奥へ眼をやった。
「おまえ、その武器でエニラを射ったのか?」
「ええ。効かなかったわ」
「何てこった。――シュミットが危ない。後は勝手にしろ」
「あら、冷たいじゃん」
「うるせえ」
ゆきをそこへ残して、おれは走り出した。
いくら、シュミットでも、あいつは危ねえ。
死に物狂いで走ったおかげで、三〇秒とかけずに、おれは例の広場へと突入した。
その瞬間、凄まじい力の波動が全身を打った。
声もなく、おれは岩壁に背中をしたたかに打ちつけ、思わず片膝をついてしまった。
立ち上がって眼をこらす。視界は赤く染まっていた。
「シュミット!?」
倒れた影は、間違いようもない男の姿だった。
五メートルほど離れたところに立って、エニラ師がこちらを見つめていた。
「よく来たな、邪魔者め」
「歓迎してくれよ」
おれはゆっくりとシュミットの方へ近づいた。
「おや、先生、大分辛そうだな」
とおれはエニラ師に言った。立ってはいるが、どこかしおたれて[#「しおたれて」に傍点]いる。シュミットが一矢を報いたのだ。
ちら、と彼の手元を見る。銀色の円筒を握っていた。
こいつか。見ただけで武器と判断して持ち去ったのは、たいした勘といえる。だが、こいつの機能を十全に発揮することができるのは、おれだけだ。
おれは思わず、身震いした。悪寒が突っ走ったのだ。エニラ師の両眼がおれを見据えていた。
「じき、この星もガスとなる。それを見届ける前にいけ」
「ごめんだね」
とは言ったが動けない。くそ、頭の中が暗くなってきやがった。
武器を――増幅銃を……
ふと、こう考えた刹那、鋭い声が、
「大、どこだ?」
エニラ師がはっとそちらを向く。
その前にとび出してきた人影はゆきだった。いや、全身を覆う鎧《よろい》――女戦士シャルロット・クレマンティだ。
ひと目で状況を見抜いた女戦士は、猛烈な勢いでエイリアンめがけて地を蹴った。
その腕が妙な形にねじれ、刀身は深々と彼女の胸を刺し貫いていた。
一瞬、呪縛が解けた――と思うより早く、おれの身体は空中にあった。
シュミットのそばに舞い降りるやいなや、円筒を掴み、エニラ師を狙う。
ぐおおと銃に何かが流れ込んでいく。
エニラ師がこちらを向いた。
その眉間へ――
何がどうなったのかはわからない。だが、エニラ師は頭から弾けとび、背後の岩壁に激突した。
同時に、おれも精も魂も尽き果て、その場へ突っ伏していた。
それでも、夢中で顔を上げて奴の方を見た。
身の毛がよだった。
岩壁から身を起こしたエニラ師は、もはや、おれたちと同じ姿を保ってはいなかった。
おれ以外の人間が見たら、気が狂ったにちがいない。
まるで、蛇みたいな体表の模様、くねくねと蠢く数百本の手足――おれの方をうらめしげに見るその表情よ。
ここでかかってこられたら、どうしようもなかったろう。しかし、エニラ師はのろのろと広場の奥――あの精神的物体に近づくと、すっとそれに呑み込まれた。
いかん、奴は――動力炉を。
空気がゆらいだ。見えざるUFOは、作動をはじめている!
「大……」
シャルロットの声がした。
「シャルロット――その武器をよこせ」
増幅銃は、おれの手を離れ、ゆき=シャルロットの手前に落ちていた。
「え?」
「早く――それだ」
シャルロットの手が円筒へのび、それをおれに手渡した。
「大……」
と女戦士は静かな表情でおれを見つめた。
「?」
「……何でもない。面白かったぞ。……私は……誇り高きカッシーニ公の騎士だ……」
がっくりと顔を伏せた。
「いつか、おれも行くさ」
おれはひと声かけて起き上がった。精神波増幅銃を何もない[#「何もない」に傍点]空間へ向ける。
「最後だ、エニラ師――おれかおまえか」
自分の精神力がどれほど残っているかはわからない。
とにかく、おれは意識を銃に集中した。
そして、気を失った。
とりあえず、地球は破壊されずに済んだ。
おれもシュミットも無事だった。
シュミットは病院でずっとキャロルに付き添っている。一生二人して安楽に暮らせるだけのものを用意しなくちゃなるまい。それがおれに出来る唯一の礼だ。
だが、おれにはわかっていた。――シュミットは断固辞退するにちがいない。安定と平和は戦士の敵だ。そして奴は、生まれながらの戦士なのだ。だから、報酬は内緒でキャロルの口座へふり込まれることになる。
見舞いに出かけたおれを迎えるキャロルの眼差しは、泣きたいくらいやさしかった。
「あの人が無事に帰ってきたわ、大――あなたのおかげね」
おれは何も言えなかった。
プリンスはピゲロの努力で三日後に眼を醒まし、あらためて、即位の儀を執り行い、正式にローラン共和国の王となった。
気の毒なのは、プリンス2号と3号で、本人が眼醒めると同時に消滅してしまった。これは仕方あるまい。
もうひとり――ヤンガー大佐はピゲロの手でエニラ師の洗脳を解くべく治療中だ。もともと忠誠心の強い男だから、うまくいけば、立派な共和国の支えになるだろう。
さて――
「約束だぞ」
と言うおれに、プリンスはうなずいた。
「バラザード・リアの秘宝――好きなだけお持ちください」
しかし、おれにはもうわかっていた。秘宝とはエニラ師のUFOのことなのだ。
それがどうなったかは、誰でも行ってみればわかる。
あの洞窟の奥の広場――そこには何もない。少なくとも眼に見えるのは、岩の壁ばかりだ。
だが、ためしに右手をのばしてみると、何もない空間から、まるでゼリーみたいな手応えが伝わってくるだろう。
それだけが、かつてこの国を支配しようとしたエイリアンの名残だ。
眼には見えない何ものかの手応え――しかも、いつも感じられるわけじゃない。見物人の精神状態が、ある状態に――こいつの波長と同調したときに限ってだ。後は、本当に何もない空間にすぎない。
エニラ師は?――多分、それに乗ったきり、息絶えたのだろう。でなければ、この星は今頃宇宙の塵と化しているはずだ。
ひょっとしたら、しぶとく生き残り、おれたちには見えないUFOの内部で、なおも地球征服計画を練っているかもしれないが、おれにはどうしようもない。
「あきらめるよ」
と言うおれに、プリンスは済まなそうに笑った。
「ごめんなさい。その代わり、みなさんにはこの国のVIPの資格を――」
「よしてくれ。名誉職なんて真っ平だ。その代わり、ときどき、宝探しに来させてもらう。そのとき、便宜をはかってくれ」
「よろこんで」
「あたしは別荘くらい欲しいなあ」
とかたわらで、ゆきがゴネた。
「それくらいなら」
「あら、話せるわね、この王さまは」
ゆきにキスされ、プリンスは赤く染まった。
「ま、やめとくよ。これから、エニラ師の後始末が大変だ。金はいくらあってもいい。わかったな、ゆき?」
「何よ、えらそうに」
「それでは、お礼が何もできません」
と済まながるプリンスへ、
「な、おれが経営してる会社で、海外の事業に投資するのが本業ってとこがある。どうだい、おまえなら安くしとくぜ。金利は三パーセントでどうだ?」
とおれはささやいた。
プリンスの顔はあっけにとられ、それから、ゆっくりと微笑を広げていた。
「二パーセントなら」
と彼は言い、これなら大丈夫と、おれとゆきを安堵させたのだった。
『エイリアン魔神国』完
[#改ページ]
あとがき
もう何も言うまい。
「エイリアン魔神国」は本編をもって完結した。
しばらくの間、大やゆきともお別れである。
これで、やっと、正編より長い完結編と悪態をつかれなくて済む。私はしあわせである。
足掛け六年――よく、途中でやめなかったものだ。えらい、えらいと自分をほめてやることにしよう。
なお、大とゆきとは、これで永久にグッドバイするつもりだったが、書いているうちに気が変わった。
次もやるぜ。近いうちに、読者はこの名コンビと再会することだろう。
その日をお楽しみに。
平成六年四月二十六日
「三銃士」(ダグラス・フェアバンクス版)を観ながら。
菊地秀行