エイリアン魔神国〔完結篇2〕
菊地秀行
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目次
第一章 暗黒天使
第二章 取引
第三章 妖物転送
第四章 大男消滅
第五章 味方
第六章 どんでん返し
第七章 妖草師ピゲロ
あとがき
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第一章 暗黒天使
悲鳴は宙に舞っていた。
シャルロットの逆をとって放り投げたのは、間一髪の奇蹟に近い。
床へ激突しても、おれは手を離さなかった。力を加えれば、シャルロットの手首の筋と肩は外れていただろう。関節技とは本来そういうものなのだ。
「ここまでにしようや、シャルロット」
とおれは言った。
「プリンスの身柄は俺が預かる。おまえにも手出しはさせない。なんせ、お宝がかかっているんでな。当分はあきらめろ」
「嫌だと言ったら?」
「手を折る」
「私の手を折れるか?」
「試してみるか?」
おれは少し力を加えた。折れっこないのはわかっている。少々、困ってしまうな。
「わかった」
とシャルロットは言った。
「おまえの言う通りにしよう。だが、忘れるな、その少年は仇の子孫だ。私は生涯そのことは忘れない」
「いいとも」
おれはプリンスの方を見た。きょとんとしている。無理もない。顔見知りのゆき[#「ゆき」に傍点]が、突然、ぶっ殺してやると凄みだしたのだ。
「事情は後で説明する。とりあえずは味方だ」
おれはこう言って、シャルロットの手を離した。ある感慨が湧いた。こいつが妥協し《おれ》たのは、おれが本当に骨折させると思ったのか、あるいは引っ込みがつかなくなるのを避けさせてくれたのか。多分、後者だろう。
おれはプリンスに向かって、
「安心しな」
と言った。
「はい」
子供は素直なのがいちばんだ。
「とにかく、脱出だ。行く先は貧民夜会地区。あそこの革命軍に預けるぜ」
「王家の血筋だ。殺されるかもしれんぞ」
「それほど単細胞じゃねえよ」
おれはプリンスにドアの方へ顎をしゃくった。
「行くぜ」
「はい。あの、武器を貸していただけませんか?」
「どうする気だ?」
「自分の身は自分で守りたいと思います」
おれは苦笑して、予備の一丁を取り出した。
ワルサー社の工場に特注した炭酸ガス拳銃<ライナー>だ。発射薬は炭酸ガスだから、初速は三〇〇メートルと情けないが、その分、ほとんど音はしないし、反動もゼロに近い。そう説明してから、
「弾丸は鉛の弾丸《たま》じゃねえ。こんなちっぽけなプラスチックのカプセルが五〇個入ってる。中身は超強力な麻酔薬でな。人体に命中すると、先っちょの針から注入される仕組みだ。壁や床に命中すると中身は気化して、相手の呼吸器から侵入するから、とにかく、近くに当てろ。一秒とかからずにおねんねだ」
「わかりました!」
人を傷つける恐れがないとわかってか、プリンスの表情は明るかった。
「じゃあ、行くぞ」
おれはあらためて、戸口を出ようとした。
「お先に――しんがりは僕が」
とプリンスが言った。おれにじゃない。ゆき=シャルロットが妙な顔で、
「私は誇り高きカッシーニ侯の騎士シャルロットだ。後尾の守りは私が受け持つ」
「でも、女の人です。僕が守りこそすれ、守られてはいけないと思います」
これはいい。おれは笑いをこらえて、
「譲り合いの精神は美しい。涙が出る。しかし、場合が場合だ。おれが決めるぞ。いいな?」
「はい」
「わかった」
どちらもうなずいた。
「シャルロット――真ん中へ入れ」
「なに?」
「――と言いたいが、今回の主役はプリンスだ。危ない目に遭わせるわけにゃいかねえ。気持ちはわかるが、シャルロットにまかせろ。なあに、おまえよりは十倍も百戦錬磨のお姉さんだ」
「改名なすったんですか、ゆきさん?」
とんちんかんな、しかし、至極まっとうな質問に、シャルロットは眼を白黒させながら、
「まあ、そうだ」
と言った。
この女の欠点は、憎悪に凝り固まっているくせに、根がやさしいことだ。周りの憎しみの層に触れずにそこを突かれると、たちまち、腰砕けになってしまう。特に、悪意のない相手だと、憎悪を発動させられなくなる。復讐者《リベンジャー》としては致命的だろう。
プリンス、シャルロットの順でつき従え、ドアを脱け、安置室へ上がってから、おれは立ち止まった。
「どうしました?」
とプリンスが訊いた。
「どうだ、シャルロット?」
「感づかれたな」
と女騎士は刀の柄《つか》に手をかけ、うれしそうに言った。
「警報を押させるようなヘマはしなかったつもりだが」
「確か、エニラ師の親衛隊がうろついていると言ってたな。どいつかが、地下での大暴れを嗅ぎつけたのかもしれねえ」
「まさか」
それ以上口論せず、おれはそっと階段を昇り、霊廟のドアの陰から外を眺めた。
月光の下に墓地は静まり返っている。
何ひとつ異常はない。だが、おれにはわかるのだ。廟に集中する見えざる眼とその主たちの存在が。
「動くな」
と、おれは背後の二人に言って、外の観察をつづけた。
さして人数は多くなさそうだ。他の兵を呼ばないところをみると、こっそりとプリンスだけを頂戴していく寸法だろう。となれば、敵も、悠長な持久戦は不可のはずだ。
じき出てくる。
月が雲に隠れ、また現れた。
五分経過。
どんな戦いでも待つのは嫌なものだが、おれはわりかし平気だ。こっちから出ていく必要がなく、あまり神経を張りつめなければ、いくらでも身体を休められるし、短いが眠ることもできる。
大体、宝探し《トレジャー・ハンティング》てのは、気が短いとつとまらない。かと言って、明白に“長い”奴もペケだ。緊張だけは欠かしてはならないからだ。この辺の匙加減がむずかしい。
敵は、おれより短かったらしい。
「来たぞ」
と低く言う間に、あちこちの廟や墓石、木立の蔭から十個近い人影が浮き出し、ゆっくりとこちらに向かってきたのだ。
全員が濃紺の制服姿――エニラ親衛隊とおれの知識がささやいた。
手に手に構えているのは、この国の兵隊らしく、M16シリーズの自動小銃だが、通常のA2と違って、銃身は短く、先端にソーセージみたいに太い消音器《マフラー》がつけてある。特殊部隊兵士《コマンド》用に、銃身をぶった切り、銃床を伸縮式にしたXM177E2というやつだ。もっとも、本式のやつは消音器でなく消炎装置《フラッシュ・ハイダー》だが、奴らは閃光より発射音を消すほうを選んだのだ。
ひとりが右手を腰のベルトにのばした。何かを掴み、ぐいと肩を引く。そのスタイルを見る前に、おれは電光の速度でACRを肩づけして引き金《トリガー》を引いた。
ドン、とちっぽけな銃声と反動を残して飛翔したカーボン製フレシット弾は、マッハ四・五の超高速で、そいつが投げようとしていたM67破片手榴弾を、手の中から吹っとばした。
できれば、安全《セフティ》ピンを抜く前であって欲しかったのだが、残念ながら、そうもいかなかった。
手榴弾でおれたちを吹っとばすか牽制し、一気に突入して始末する――これが奴らの作戦だったのだ。まともな兵士が駆けつけたときには、おれとシャルロットの死体のみ残して、トンズラは完了、という具合だ。プリンスが吹きとぶ恐れもあるが、なに、おれの経験からいって、遮蔽物の多い室内では、対人用の破片手榴弾で即死するケースは少ない。万が一死んでも[#「死んでも」に傍点]、エニラ師がいるという寸法だろう。
お気の毒さま。
手榴弾は、そいつらの真ん中で炸裂した。
大地がゆらぎ、轟音が木の葉を無愛想に吹きとばしていく。五、六人薙ぎ倒されたのは言うまでもない。さ、衛兵が来るまで一、二分が勝負だ。
そのとき――むくりと奴らが立ち上がった。ひどく滑らか――負傷した奴の立ち方じゃあない。
やっぱり、あの大男の仲間か。
こうなりゃ、遠慮はいらねえ。
「シャルロット、こいつを投げろ!」
おれは用意の手榴弾を三個まとめて背後へ放り、ACRを構えた。
親衛隊が突っ込んでくる。かなりのスピードだった。いちいち隠れて相手をしちゃいられねえ。おれは戸口を脱けた。
立ち射ちの姿勢でACRを射ちまくる。といっても、全自動《フルオート》射撃は弾丸の無駄だ。一発ずつの半自動《セミオート》。だが、正確無比だ。敵は次々に肩を押さえてのけぞる。並の人間なら、これだけで一生片腕は使いものになるまい。直径一・五ミリの針とはいえ、マッハ四・五ともなれば、人間の組織ぐらい苦もなく破壊する。ライフルの弾頭が通常の拳銃弾よりも細っこいのに、くらべものにならない破壊力を示すのは、火薬の量がはるかに多い・イコール・飛翔速度が桁違い、だからだ。
腹と胸と腕に軽い衝撃があった。奴らの五・五六ミリ高速弾も命中しているのだ。覚悟の上だ。特別の弾丸を使っていないことにおれは賭け、全身を銃火にさらしているのだった。
案の定、射たれた奴らもすぐに起き上がった。
最後のひとりを射ち倒したとき、最初に射ち倒した奴が、五メートル先まで迫っていた。銃は持っていない。
おれは軽く横へとび、ACRの銃床を横っ面へ叩き込んだ。
倒れた。
次の奴が来る。膝に前蹴りを食わせてつんのめらせてから、その足を横蹴りに変えて三人目を吹っとばす。
くそ、きりがねえ。
「大、伏せろ」
背後でシャルロットの声がするや、横合いから銀光が走った。
斜め右で片手にM16を構えたばかりの奴の頭が、火花と美しい音を散らせた。
足元に転がった頭半分の切り口から、おびただしいコンピュータ・チップとコードがのびていた。
こいつら、人間型ロボット――アンドロイドだったのか。しかし、いくら科学の世の中とはいえ、こんなにスムーズに作動するメカ・マンが造れるとはな。
青白い放電をとばして突っ立っているそいつの胸を二つに割り、シャルロットが微笑みかけた。
「久しぶりに暴れられそうだぞ。こいつらも、ゼーマン家の家臣だな」
「そうとも。――頑張ってくれ。飛び道具はおれが引き受けた」
「いいとも」
ずい、と前へ出たシャルロットの、いや、頼もしいこと。
どっと駆け寄る二人を、まるで大根みたいに真っ二つにし、三人目の首を落とし、こりゃ凄えやとおれが息を呑んだところで、墓地の入口の方から、人の声とジープらしいエンジン音がきこえてきた。
いよいよ衛兵の登場だ。
機械人形どもの反応は、おれ以上に速かった。ぶっ倒れた仲間の残骸を掴むや、疾風《はやて》のごとく走り去ってしまったのだ。ひょっとしたら、インプットされた指令なしで、行動できるのか。つまり考える機械《メカ》なのか。
確かめてる暇はない。
おれはシャルロットに戻れと声をかけ、霊廟に入った。
ガス拳銃を手にしたプリンスは、ひどく緊張していた。
「衛兵が来ます。どうするんですか?」
「まかしとけ」
「いい手があるのか、大?」
シャルロットも固い声である。
女子供がガタガタするな。
一分と待たず、衛兵がとび込んできた。
真っ先に、おれと眼が合った。
すぐに逸らして、シャルロットを見た。プリンスにはろくすっぽ眼もくれずに、
「誰もいないぞ」
と背後の奴に言う。そいつは、外に向かって手をふり、たちまち、十数名がやってきて階段を下っていった。
おれたちの眼の前で。
おれは、きょとんとしている二人に顎をしゃくり、足音だけは忍ばせて霊廟を出た。外には兵士がうろつき、ジープやサイドカーのライトが世界を照らしている。
みなが、おれたちを見た。
そして無視した。
四方を兵士に囲まれたまま、おれは悠々と墓地の出入口のほうへと歩きはじめた。
低い声が上がった。プリンスがつまずいてバランスを崩したのだ。
シャルロットが近づき、片手を貸して立たせた。動くな、とおれは合図した。
その間、兵士たちは疑い深そうな眼を二人に注いでいたが、ひとりが前へライフルを突きつけた。
プリンスが素早く、上体を反らせてよける。銃身は横にふられた。音は立てられないから、必死に顔をそむけてよけたが、髪の毛が二、三本引っかかった。
シャルロットが剣の柄を握りしめる。
兵士は肩をすくめ、あさっての方向を向いた。
安堵の吐息を洩らすプリンスに、人差し指と親指でOKの輪をつくり、おれはまた、前進を開始した。
「信じられません」
とプリンスが洩らしたのは、名雲秘書の息がかかった門番の開けておいてくれた門を抜け、宮殿近くに止めておいた車に乗って走りだした後だった。
「私もだ。――おまえの言うことだからと、口をはさまなかったが、まさか、本当に見えなくなるとは」
シャルロットも興奮気味である。おれはハンドルを握ったまま、にんまりと笑った。
「シンの右の心臓」を届けた礼にと、貧民夜会地区の武器商人パシャ・ヘベレがくれた心理的透明薬は、見事に大役を果たしたのだ。
「ま、これからも、トラブル処理はおれにまかせておきな」
左右にぶっちぎれていく街の灯を見ながら、おれは重々しく自慢し、ついでに、ゆきとシャルロットの一体化および、シャルロットとゼーマン家の敵対関係について、逐一きかせてやった。
「そうでしたか」
かたわらで憎悪の眼を光らせている女騎士を、プリンスは静かに見つめた。
バックミラーで見ると、おや、シャルロットの眼から、殺気が消えていくじゃねえか。
「話はよくわかりました。あなたの怒りや憎しみももっともだと思います。ですが、僕を殺しても何にもなりません」
はっきりと言った。はっきりすぎて、おれはぞっとした。
シャルロットが何か言おうとしたのを制し、少年は話しつづけた。
「僕を斬れば、気持ちは収まるのでしょうか? でしたら、今すぐどうぞ――と言いたいところですが、僕も人の子で生命《いのち》は惜しいのです。父も母も、こんな死に方をさせるつもりで生んだのではありますまい。それに、どうやら、僕みたいな存在でも、この国を正しい形にするためには必要なのかもしれません。このトラブルが片づくまで、その剣を収めてはいただけませんか。僕の生命のやり取りは、それからあらためて、ということでも遅くはないと思います」
車内には沈黙が下りた。
「どうする、シャルロット?」
とおれはからかうように言った。
「しばらくは、おまえに従うと約束した」
シャルロットは疲れたような声で応じた。
「だから何もせん。断っておくが、この子供に言われたからではない」
「わかってるって」
おれはにやにやしながら言った。
「OKだとよ、プリンス」
「ありがとうございます」
あっという間に、シャルロットの手はより小さな手に握りしめられていた。ふりほどこうとしなかったのは、毒気を抜かれたからか、あわてた姿を見せたくなかったのか。
とにかく、それ以後は何のトラブルもなく、おれたちは貧民夜会地区の倉庫に辿り着いた。
「ここならとりあえず無事だろうが、さっきも見た通り、エニラ師の親衛隊はただ者じゃあないし、ヤンガー大佐の手先もうろついているに違いない。プリンスは絶対、外へ出るな。シャルロットも、その格好じゃ外出厳禁だ」
とおれは言い渡した。
「これから、どうするつもりですか?」
とプリンスが訊いてきた。
「とりあえず、おまえを祖母《ばあ》さんに会わせる」
二人の眼が同時に光った。片や喜びと期待に、片や憎悪と怒りに。
「もっとも、実の孫だと証明せにゃならんから、少し時間はかかるがな。次に、バラザード・リアの山に登る」
「登山か?」
とシャルロットが眉をひそめた。
「あそこに、エニラ師の不死身の謎を解く鍵があるんだ。おまえ、ゆきに聞いてねえか?」
「いや。何もかもわかるわけではない」
「なら、結構だ。とにかく、あの爺さんを足腰たたないようにしなくちゃ話にならねえ。そこまでやれば、後は雑魚と同じだ」
「いえ――大佐がいます」
とプリンスが口をはさんだ。さすが、並じゃない。ヤンガーの本性を見抜いているとみえる。
「幸い、あいつは目下入院中だ。所詮は人間。化物の敵じゃなかったというわけだな。だが、おれたちは、その化物を相手にしなけりゃならない――ま、とりあえずは、プリンスを皇太后に会わせる手だ」
「どうするのだ?」
「内緒だ」
おれは冷たく言った。
「何故だ?」
とシャルロットは気色ばんだが、すぐに表情を和らげた。ちと、辛かった。
「そうか、私は裏切り者になるかもしれないからな」
「その通りだ」
おれはさらにつっぱねた。その方が変な情実が入らなくていい。シャルロットが本当の騎士ならわかるはずだ。
騎士はうなずいた。寂しげに、おれを見て言った。
「おまえの言う通りだ、大。私も同じ立場なら、そうしたろう。話は二人でするといい。私は隣室にいる」
シャルロットが出て行くと、プリンスはおれの方を見た。
「お辛いでしょう」
「うるせえ。餓鬼のくせに同情なんかするな」
「わかりました。でも、あの人がゆきさんじゃないとは、とても信じられません」
「ああ。ひょっとしたら、ゆきちゃんでーすなんて騙くらかしにくるかもしれねえぞ。一緒のときは気ィつけろ」
「わかりました。けど」
「けど、なんだ?」
「八頭さんは誰も信じないのですか?」
「当たり前だ」
おれはせいぜいハードボイルドな声と表情をつくった。信じるなんて単語をきいただけで鳥肌が立ちそうだった。
「好きな人はいないのでしょうか?」
「いっぱいいるさ。世界中にな。だが、信じるのと好きなのとは別だ」
「ゆきさんも?」
「あいつだけは信じてねえ」
「ゆきさん、怒りませんか?」
「あいつにはそれでいいのさ。信じてるなんて言った日にゃあ、脳味噌が沸騰しちまうだろうよ。ありゃ、生まれついての裏切りものさ。だけど、それでいい。隣に博愛主義者でもいたら、気が落ち着いて何もできなくなっちまう。常に適度の緊張――これだな」
「はい」
プリンスの返事には毫《ごう》もいい加減な部分がなかった。
「で、おまえをお祖母さんに引き合わす方法だがな」
「はい」
「あの人なら、お忍びで出るくらいは平気だろう。おまえをプリンスと認めさせちまえば、後は何とでもなる。何より、宮殿内の皇太后シンパが動きやすくなるのがいい」
「そういう人たちがいるのでしょうか?」
「ああ、ひとりな」
「誰ですか?」
「皇太后さまよ。それで十分だろ?」
プリンスはにっこりした。
「十分です」
「よろしい」
「ですが、僕を本当の孫だと証明する手があるんですか?」
「そこだ」
おれはじっと考え込んだ。
「あのペンダントだが、目下は大佐一派の手中にある。何とか奪還しなくちゃならねえ。――くそ、ゆきに吹き込んでおきゃよかった」
そう言った途端、奥のドアが威勢よく開いた。
「ん?」
反射的におれはそっちを向き、敵じゃないことを確かめた。だから、グロックに手もかけていない。
ドアはほんの少し開いたきりで止まった。向こう側は見えない。
「何でしょう?」
プリンスは緊張のご様子だ。
「出て来い」
とおれは、うんざりしたように言った。
出た。
ドアの半ばほどから、にょきりと生白い太腿が。
熟女みたいに脂肪《あぶら》が乗っているくせに、はちきれんばかりの若さがみなぎっている。
茫然と見つめているおれたちへ、
「ふふ――呼んだ?」
と甘い声が訊いた。これがはたして、幸運の女神に変わるか疫病神に化けるか?
ぐい、と足が持ち上がった。おお――。
おれの眼は一直線に腿のつけ根へ吸いついたが、そこは間一髪で見えなかった。こっちの位置をちゃんと計算してやがる。
「ああ、凄い視線――感じるわ」
そして、ゆきの顔が現れた。すっと足を下ろした。
「音楽が欲しいところね」
「欲しいのは、色情狂用の医者だ」
とおれは冷ややかに言った。
「ストリップでもやらかすつもりか? 何の用だ?」
「おかしなこと言わないでよ」
ゆきは身を乗り出してきた。肌には何も身に着けていない。重そうな乳房がはみ出し、その先まで――という寸前に止まった。
おれの顔を見て、ゆきは挑発的に笑い、
「後は、めっ、よ」
「何が、めっだ。――用がなきゃ戻れ。大体、どうして裸でいるんだ?」
「あら、シャルロットが出て来たときからよ。あんたがエッチなことしてたんじゃないの」
おれは咳払いをして、
「何か着ろ。で、何の用だ?」
とまた訊いた。
「呼んだでしょ。あたしに何か吹き込んどきゃよかったとか」
「そうだ。だが、吹き込むのを忘れた」
「ふっふっふ」
頭の中で何かが弾けた。この女は太宰先蔵《だざいせんぞう》の孫娘だったのだ。世界でただひとり、おれを凌ぐトレジャー・ハンターの。
「おまえ――まさか」
無意識にさした指の先で、ゆきは艶然と微笑した。
「あの大佐どの、結構、自慢したがり屋でね、あたしを裸に剥く前に、面白いものを見せてくれたのよ。――ふふ、ペンダント」
「何処にある? いや、どうやって持ってきた?」
訊いた途端にわかった。脱出するとき、ゆきはベビードールとパンティしか身に着けていなかったのだ。
「ふふふ、後の方の答えはわかったらしいわね。さて、ペンダントは何処でしょう?」
「探してもいいのか?」
おれは両手の指をぽきぽき鳴らして訊いた。
「無駄よ。絶対わからない場所に隠してきたわ」
「何処だ?」
「内緒よ。人がせっかく苦労してかっぱらってきたものを、横取りされちゃ堪らないわ」
「かっぱらうだの、横取りだの、もう少し女らしい言葉を使えねえのか、おまえは?」
「墓暴きの子孫がえらそうな口きかないでよ。ふん、だ」
「とにかく、ペンダントをよこせ。おれがうまいこと使ってやる」
「やーよ、あんたみたいな吝嗇《けち》、信用できるもんですか。儲けをみんなポケットに入れられちゃ敵わないわ」
「この」
近づこうとするおれに、
「きゃ、助けて、プリンスちゃん。こいつ、お姉さまにイヤらしいことする気よ」
桃色の声で身悶えた。
「いけません、八頭さん」
この辺は、やはり優等生だ。
「わかってるさ。おれは話し合いにいくんだ」
「やーよ。それ以上近づいたら、舌噛んで死んでやる。あたしに口を割らせるつもりなら、ちょっぴり時間がかかるわよ。その間に、敵の巻き返しがはじまるからあ」
おれはため息をついて、足を止めた。その通りだった。エニラ師の実力をもってすれば、この倉庫だって二、三日で見つかってしまうだろう。その前に、プリンスを皇太后と会わせなくちゃならない。それに、地獄の悪魔が脅したって、自分の得にならなきゃ口を割るような娘じゃねえしな。
「何が欲しい?」
「いろいろ」
ゆきは、すっとぼけた口調で、
「いままではあんたの言いなりになってたけど、今日からは、あたしも自分の利益を考えるわ。ペンダントの件については、ぜーんぶ、まかせてちょうだい。あんたは黙って、あたしの護衛をしてらっしゃいね」
「なんだ、その言いぐさは?」
「あら」
と、ゆきはドアの向こうで一歩下がって身構え、
「暴力に訴えるつもり? ペンダントが失くなってもいいのね」
「わかったよ。だが、いいか――」
「シャット・ユア・マウス。――オッケー?」
おれは沈黙した。
「では、あたしのやることに協力してもらうわ」
ゆきは高々と宣言した。
「あの」
とプリンスが口をはさんだ。
「あら、なーに、プリンスちゃん」
「いま、口を出すなとおっしゃいましたが」
「うるさいわね。あたしは気分屋で有名なのよ」
「わかりました」
ゆきは笑いをこらえているおれの方をじろりと見て、
「あたしはこれから、皇太后とエニラ師に電話をかけて、ペンダントを幾らで買うか交渉するわ。高い方に売りつけるつもりよ」
やっぱりな。
「ついては、電話番号を教えて」
「知るか、そんなもの。一〇四で訊け」
「馬鹿にしないでよ。何よ、その言いぐさ。ペンダント、壊しちゃうからね」
「わかったよ」
おれは不承不承うなずき、宮廷の代表番号を教えてやった。
「ありがとン」
引っ込もうとするゆきへ、
「断っとくが、電話なら外でかけろ。ここからかけて、逆探知されちゃ敵わねえ。エニラ師なら、それくらいはやるぞ」
「わーったわよ」
ゆきが引っ込んでから、おれはため息をついた。
「大丈夫ですか、八頭さん?」
心配そうにプリンスが声をかけてきた。
「大って呼べ」
「じゃあ――大」
「何とかな。しかし、ゆきの野郎、おとなしくしてたと思ったら、とんでもねえことをしやがる。おまえも大きくなったら、女なんか信用するんじゃねえぞ」
「肝に銘じておきます。――でも、ああいう女性と一緒だと、それなりに緊張の日々がつづいて面白いかもしれません」
「なぬ?」
本気かよ、とおれはプリンスの方を見た。微笑していた。本気だと言っている。
「八頭さんを拝見していると、困ってはいても、ゆきさんを嫌がっているようには見えません。とてもいい関係に見えます。――毎日が楽しいのではありませんか」
こういう場合、滅多にないことだが、おれは少しの間、無言で少年を眺めた。二の句がつげないとはこのことだ。
その通りなのだ。あの娘のそばにいれば、一日も気の休まるときがない。一時間一時間が緊張の連続だ。だが、肝心なのはその先にある。それを苦痛とみるか面白いとみるか。――これはもう、人間の差だ。
自分のことしか考えず、得になる相手と見れば、幼児から爺さんにまで尻を振り、バストを披露し、必要とあらば、昨日までの友も平気で裏切る小娘――なぜ、おれはこいつと一緒に暮らしているのだろう。
面白いからだ。
あの娘のもたらすトラブルをどうやりすごし、やって来る敵をどう始末するか。――おれはそれが愉しいのだ。おれ自身の能力を存分に駆使する生命懸けのゲーム――それこそ、おれが求めてやまぬものなのだ。ゆきといる限り、それに事欠くことはない。
大仕事を片づけた後の休息の時間、それはおれの身体が求めるものであって、実は精神の要求ではないのだ。そうと知りつつ、おれは休息も必要だと弁解しながら羽根をのばそうとする。そこへ、ゆきが、
「大ちゃあん」
とやってくる。後ろにはトラブルの列だ。
ひと目見ただけでへたり込みそうになる肉体と精神を、何とか鼓舞して、おれは立ち向かう。向かう以上、敗れれば死だ。全知全能をふりしぼって戦わなきゃならない。その結果――おれはまだ生きている。
生と勝利の充実――これなのだ。
「まあ、面白いことは面白いけどな」
おれは精一杯の負け惜しみを口にした。プリンスは何も言わなかった。たいした餓鬼ではある。
ゆきが戻ってきたのは、それから一時間後だった。
「ああ、疲れた」
と欠伸するなり、
「うっふっふ」
とおれを見つめた。プリンスは隣室で眠っている。
「うまくいったらしいな」
「ええ、結局、エニラ師と話をつけたわ」
「ほう――あの爺さん、直接出たか」
「もちろんよ。事務官て奴が出たから、おっぱいをしゃぶられた女の子から電話だとお伝え下さいって言ってやったの」
「なるほどな。で」
「明日、某所で会うことになったわ。あんた、ガードマンやってよ」
「おまえの儲け話に、なぜ、おれが乗らなきゃならん。そんな大取引にこぎつけたんだ、最後までひとりでやれ」
「ふーんだ。あたしがどうなってもいいのね。どうせ、罠かけて待ってるに決まってるわ。あたし、捕まって、あのエロ爺いに犯されてしまうかもしれない。身体じゅうペロペロされて、いやよいやよと最初は抵抗しても、女って弱いものなのよね、最後は、いいわンもっと、になってしまう。あんた、それでも平気なの?」
「ああ」
「この薄情もの!」
と叫んでから、こりゃあまずい、と思ったか、ゆきは急に色っぽい仕草で、おれにしなだれかかってきた。
「ねえ、儲けの一割ぐらいはあげてもいいのよ。それと――あたしも」
いまさら、何吐《ぬ》かすか。
「ペンダントの代償は何だ?」
「ここの王族のひとりとして認められる権利。それから、時価一千万ドルのダイヤモンド」
「はした金でOKしたもんだな」
「何よ。じゃあ、一ドルもいらないのね」
「いいや、半分貰おう。いやなら、ガードはなしだ」
ゆきの表情が妖艶から逆上に変わった。何かののしる寸前、
「それと、おれはおまえのガードと、ペンダントの奪還を同時に行う。それも了承しておけ」
「このこのこの……」
赤鬼と般若をミックスしたような顔が震えた。
爆発するかと思った瞬間――
「――OKよ」
と、ゆきはうなずいた。顔つきも顔色も、元に戻っている。何を企んでやがる。
「あんたも好きなようにしたらいいわ。ただし、あたしがうまく王家加入の許可証と、ダイヤを手に入れてから、ね。それまではガードに徹してもらうわ」
「よかろう。で、どうやる?」
「内緒よ」
ゆきは唇を舌で舐めた。
「何だと」
「決行三十分前に教えてあげるわ。いまは必要な道具だけね」
名台詞とでも思っているのだろう。にんまり顔からはピンクの自信がこぼれていた。
「まいったよ。さすがは太宰先蔵の孫娘だな」
おれは皮肉たっぷりに言ったが、もちろん、通じやしなかった。
「ほっほっほ。小道具はちゃんと朝までに探してよ」
「いいだろ」
おれはうなずき、
「皇太后との交渉は決裂か?」
「そうよ。腹が立つこと。秘書官とかいう爺いが、どうしても電話を取りついでくれないの」
おれは、ぴん、ときて訊いた。
「どんな爺いだった?」
「顔なんかわからないわよ。えらくつっけんどんで。日本語だけは達者だったわね。待てよ、あの声の感じ――どっかできいたことがあるみたいな……」
「まあ、いいさ」
と、おれは笑いをこらえて言った。
「世の中には、事態を理解できない阿呆な秘書もいる。今度は賢明なのに会うんだな」
「ふん」
ゆきはそっぽを向いて立ち上がった。
「もう寝るわ。お尻なんか触りに来ないでね」
「ちょい待ち」
と、おれは言った。
眼が開いた。空気は静まり返っている。眠りに入って一〇分と経っていないと感覚が伝えてきた。時刻は午前四時――夜明けまで、あと一時間てとこか。
静謐な空気の中に気配を感じるのは、いともたやすかった。複数――十人近い人間が倉庫を囲んでいる。
おれを甘くみるな、と思った。こんな静かなときに奇襲をかけるなんて、察知してくれと言っているようなものだ。おれなら、相手が眼を覚ましていても、雑然とした昼ひなかを選ぶ。
気配には覚えがあった。
数時間前、王宮の墓地でやりあった相手――エニラ親衛隊だ。ゆきの阿呆め、やはり逆探知されたな。よほど近くで電話をかけたにちがいない。こっちも甘く見すぎた。
おれは枕元のACR《アドバンスト・コンバット・ライフル》を引き寄せ、安全装置を外した。付属のKWG9榴弾発射筒も射撃OKにする。
気配は迫ってくる。前方の扉と左手の窓から。おれは、かたわらのプリンス用ベッドに眼をやった。
ドアがぶっ倒れ、窓ガラスが四散するや、黒い人影が前と頭上から襲いかかってくる。
ドアから来た奴が米軍のM16A2を乱射するより早く、その足元で炎が膨れ上がった。
パシャの店から仕入れ、眠る前に仕掛けておいた夜間用トラップ爆弾は、ドアの両脇に置いた赤外線放射器を結ぶ線をさえぎった刹那、手榴弾三個分ほどの破壊力を示す。
奴らが吹っとぶのを眼の隅に止めつつ、おれはすでに上向けていたACRの引き金を引きしぼった。
秒速一四九〇メートルの矢型《フレシット》カーボン弾を受けた連中が空中でのけぞり、コンクリートの床へ叩きつけられていく。人間じゃないのがわかっていたから、全員の腹を狙った。
すぐに立ち上がる。おれの準備はできていた。
足元に転がってきた手榴弾をよけることは、奴らにもできなかった。猛烈な炎と衝撃波とで、壁に叩きつけられていく。
プリンスのベッドも吹っとんでいるが、中身はむろん空だ。
おれは火ダルマになった敵を凝視しながら、扉の方に近づいた。
次々に立ち上がってくる。やはり、エニラ親衛隊――あの大男の仲間だ。
機械服もレーザーもなしでやり合える相手じゃねえ。
おれが左手を前方へのばしたとき、人形《ひとがた》の炎が突っ込んできた。
パンチの一発を受け止めただけで、手はへし折れただろうが、奴らはおれに触れることはできなかった。
ガラスを引っ掻くような音が走るや、次々にのけぞり、炎の中へ舞い戻っていく。
おれの右手は小さなリモコン型超音波発生器を握っていた。あの大男を狂わせた武器は、その仲間にも効果があったのだ。
「ざま見やがれ」
おれは炎に包まれた倉庫を脱出し、路上にとび出した。
あちこちでざわめきやサイレンの鳴る音がしている。いくら物騒さが売り物の貧民夜会地区でも、手榴弾の爆発と火炎は注目を浴びるにちがいない。
車には乗らず、おれは通りを二〇メートルほど走って細い路地にとび込んだ。
入れ違いに消防車や野次馬が通りを駆けていく。眼がぎらついていた。火事場泥棒を禁じるような街ではない。
暗殺部隊の生き残りでもやってこないかと思ったが、炎から脱け出した奴もいないようだった。ゆきとプリンスもだ。――なに、安全地帯にいるさ。
五分ほどしてから、おれはACRその他の武器を路地のごみ箱に隠し、人込みに混じって倉庫の様子を見守った。消防車――といっても私設だが――のフル操業のおかげで、焼け落ちる心配だけはなさそうだ。
「ミスター八頭だね」
待ちかねた声がした。このために、おれは逃げもせず、暗殺部隊を迎え討ったのだ。ひどく小さな、おれにしか聞き取れそうもない響き。遠くからとも、耳のそばからとも聴こえる。
「マリアとブルーの仲間だ。前を見ていてくれ」
「あいよ」
とおれは、そいつにだけ聴こえる声で言った。
「大騒ぎなので見にきた。あんたが噛んでいるな?」
「まあな。エニラの暗殺部隊に襲われたよ。人間以外の存在だ。そろって逃げたか、あるいは、あの炎の中に幾つか黒焦げが残ってるかもしれん。解剖でもすりゃ、何かわかるかもしれねえよ」
「早速、手を回そう。礼を言わなくちゃならないようだ」
「なんのなんの。それなら、もうひとつ聴いてからにしな」
緊張が伝わってきた。まだ下っ端のゲリラ隊員だな。
「実はな――用意してもらいたいものがある」
おれはことさら、声をひそめて言った。
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第二章 取引
「用意できてる?」
と、耳に当てたハンディ・トーキーからゆきの声が言った。
「ああ、まかせとけ」
おれはわざと、自信のなさそうな口調で応じた。少しは心配させてやらなきゃな。
案の定、ゆきは不安そうに、
「本当に大丈夫でしょうね。王族の身分と十億円がかかってるのよ」
「大丈夫だよ」
と、おれは緑がかった電子視界の奥できょろきょろ四方を見回すゆきに、舌を出してやった。
ゆきとおれとの間は五〇〇メートルの距離があった。
翌日の正午少し前――貧民夜会地区の<ランナー通り>の端と端におれたちはいた。
ゆきは市の中心部へ向かう通りの右端にあるスナックの窓際の席に腰を下ろし、おれは同じ通りの反対側、左端にある空きビルの二階で、ACRを膝に、取引相手の到着を待っているのだった。
この通りは大胆なS字型をとっているから、おれの眼の前の窓から真っすぐACRを突き出すと、ほぼ、ゆきのいる窓をポイントできる。この場所を選んだのは、ゆきだ。昨日、倉庫へ逃げ込んだとき、シャルロットの眼を通して見ていたらしい。目敏い野郎だ。
手のハンディ・トーキーを通して、ゆきがつい三〇分前に打ち明けた取引のやり方はこうだ。
正午きっかり、おれは狙撃の準備を整えてるスナック――ちなみに名前は「ゴルゴ」だ――にエニラ師の使いのものが、皇太后及び首相のサイン付き王族加入許可証と、十億円相当のダイヤを持ってやってくる。ただし、ペンダントはそこでは渡さない。見せて、本物かどうかを確認させるだけである。相手にはそのための鑑定機械を持ってくるよう伝えてあるのだ。ゆきの方は、ちゃんと許可証とダイヤをいただき、本物と確認後、すぐにペンダントを渡す手筈を整える。
こんな無茶な取引を相手がよくOKしたものだが、なら皇太后かゲリラと交渉するわよと脅したらしい。
もちろん、ゆきの方も、敵が素直に従うと思っていないらしく、万が一のため、見えざる護衛として、おれを引っぱり出したのだ。奴自身、ハンドバッグには、昨夜のあいだにおれが用意した護身用武器を携えている。
正直、おれは心配の極致にいた。
エニラ師がこんな小娘の手に乗るはずがない。条件をすべて呑んだ上で、何もかも自分の方へ動かす術を考えついたにちがいなかろう。おれなりに手を打ったが、相手は人間以外のものだ。常識的な作戦だって、おれたちの意表を衝ける。
しかし、とりあえずは修羅場へ首を突っ込むしかない。
おれは、ACRから取り外したスコープを眼に当て、窓際のゆきを観察しつづけていた。
昼なので、通りも店も結構混んでいる。瞬間的な射撃チャンスを掴むのは、海岸の砂からひと粒の色違いを探すよりむずかしい。そう伝えたら、
「それくらい、おやんなさいよ、無精者」
ときた。女が現実主義者というのは、ほぼ嘘っぱちである。
“正午”
とおれの体内時計が伝えた。
「ゴルゴ」の方角からやってきたタクシーが店の前に止まったのは、そのときである。
えらく太った黒服の男が現れ、よろよろと店へ向かった。アタッシェケースを手に提げた、およそとっぽい印象だが、こいつだ、とおれは踏んだ。
スコープをACRに装着し、窓ガラスの間から銃を突き出して窓枠に乗せる。
ガムテープで上衣の襟につけたハンディ・トーキーが、
「来たわよ」
と言った。同時にゆきの前の席にでぶが腰を下ろした。ACRの安全装置《セフティ》はすでに外してある。
「いらっしゃい」
と、ゆきの声がきこえた。こんな場合でも、声に媚びがある。
「はじめまして」
とでぶが言った。苦しそうだ。ハンカチでたるんだ頬の汗を拭く。二〇〇キロ近い身体を一〇メートル運ぶだけでもしんどいのだろう。
「わたくし、首相の第一事務官を担当しております、ブブタと申します。今回の交渉の全権を委任されて参りました」
「よろしくン。――でも、あたくし、エニラさんと交渉したんですのよ」
「エニラ師と首相は誰よりも深い盟友でして」
「わかったわ。で、あれは?」
「ここに」
とでぶはアタッシェケースをテーブルに載せると、躊躇なく蓋を開いた。
おれの眼にも見えた。
黒革の書類ホルダーと濃紺の小箱が収まっている。
「お確かめ下さい」
「そうさせていただくわ」
ゆきは素早く二品を手元に引き寄せ、ハンドバッグ――それも昨夜、おれが用意した――に仕舞った。
「お確かめにならないので?」
不審げなでぶの声であった。
「どうせわかンないもの。後でゆっくり調べさせていただきます」
「結構。では――例の品を拝見できますかな?」
「いいですとも。その前にひとつお断りしておきますけど、あなた、あたくしの護衛役に狙われてますわ。おかしな真似をすると、頭に風穴が開きますわよ」
「も、もちろんです」
でぶは急に全身をこわばらせ、やたらと汗を拭きはじめた。確かに一気に噴き出したようだ。
「その点は首相とエニラ師からくれぐれも厳守せよと。一応、確かめさせていただくだけですから」
「なら、いいわ」
おれは感心した。最初から秘書官を呑んでやがる。これで生まれつきの裏切り者でなければ、たいした相棒なんだが。
ゆきは片手をスーツの上衣の襟元に突っ込み、
「はい」
と青い光を取り出した。あんまり無造作なせいで、でぶはぎょっと眼をみはり――
ぐい、と片手で掴んだ。
「何すんの!?」
ゆきの叫びに、しかし、おれは思いきり身をひねっていた。
天井が火を噴くや、黒い影が音もなく舞い下りてきたのだ。
あの大男――と認識するには、一〇〇〇分の一秒もかからなかった。ACRの引き金を引き絞るまで五〇〇分の一秒。
マッハ四・五でタングステンの針が巨体を直撃する。
五発射ち込まれた巨体が衝撃でのけぞるのをよそに、おれは窓の方を向き直った。銃口は一ミリの狂いもないはずだ。
大男の侵入とおれの反撃の間にも、ゆきの声は響いていた。
「何すんのよ!?」
「これはもらっていく。ついでに、おまえもな」
でぶの声は別人であった。
むしり取ったペンダントを左手に、ゆきの手首を右手に握ったでぶの正体は言うまでもない。
新しい声はエニラ師のものであった。
その右手首がちぎれて、ゆきを解放したのは、次の瞬間だった。
二発を射ち込むと同時に、おれは横へとんだ。
鼻先を重い風がかすめた。巨人のパンチだった。一瞬、眼がくらむ。象をも殴り殺せるだろう。
おれは左手で胸にくっつけた超音波発生装置をむしり取ってスイッチを押した。
足がとんできた。
何とかとびのくことができたのは、音波が効かないとの予感があったからだ。あのエニラ師が、刺客の弱みをそのままにしておくはずがない。ゆきが告げた取引場所から、おれの狙撃地点を見つけ出す野郎だ。
だが、おれにも手はあるぜ。
突っ込んでくる大男の足元へ転がりざま、おれは思いきり身をひねって窓へととんだ。こいつの足にぶつかりでもしたら、払うどころか、こっちが脳震盪を起こしてしまう。
頭から外へとダッシュしながら、超音波発生装置に貼りつけておいたリモコンをプッシュする。
爆風が空中で背を叩いた。
ちら、と見た。
大男の身体が床ごと下へ沈んでいく。さっき、仕掛けておいた破砕用プラスチック爆弾の成果だ。殺せるとも思えねえが、少しは動きを止められるだろう。
足から通りへ着地するや、おれは「ゴルゴ」めがけて走り出した。通りの連中や車があわてて足を止める。
大男との戦いの間も、「ゴルゴ」での闘争はトーキーから伝わってきていた。
こうだ。
手首を射ちとばされたでぶ=エニラ師が、おれの方に気を取られた瞬間、店内の客のひとりが、
「伏せろ!」
と日本語でゆきに叫びつつ、自動小銃を乱射したのだ。銃声からして拳銃弾使用の短機関銃ではない。七・六二ミリ旧NATO弾専用――M60多用途機関銃《マルチ・パーパス・マシンガン》だろう。至近距離からこの猛打を食らっては堪らない。でぶは窓を突き破って路上へとび出し――おれの前方に転がっていた。
「ゴルゴ」のドアと窓から男たちが走り出、倒れた肥満体へM60を乱射する。
ひとりが身を屈め、でぶの手から金の鎖でぶら下がったペンダントをむしり取った。
「行くぞ!」
叫んだ声に、やわらかい音が重なった。
棒立ちになった男の腹に、でぶの手が肘までめり込んでいた。穴だらけのでぶの手が。
だが、男たちはただものじゃなかった。
残る二人がM60を乱射し、最後のひとりが武器を捨てて、おれと反対の方向へ走り出したのだ。
腹をえぐられた男が倒れつつペンダントを放るや、それを掴んで、止めてあるバンに駆け寄る。
ぼろぼろのでぶが、ペンダントを放った男とバンの方へ向く。
「こっちだ!」
とおれは叫んだ。
ふり向いたでぶの腹に、火柱が突き刺さった。四〇ミリ榴弾が毒々しい火の花びらででぶ[#「でぶ」に傍点]を包む前に、おれはさらに二発を叩き込んでいた。
火花と衝撃波が通りを駆け抜け、建物の窓ガラスを木っ端微塵に砕いていく。路上に伏せた通行人とストップした車の屋根に、きらめく破片がふりかかる。
「大ちゃあん」
「ゴルゴ」の戸口からゆきがとび出てきた。
抱きつこうとするのを片手で押しやり、おれは火の塊を見つめた。
すう、とそれは縮まった。でぶの外形は変身用のスーツか何かだったのだろう。炎を吸い込んだのは、忘れもしないエニラ師の小柄な身体だった。
「退却だ」
おれはゆきの方を向いて叫ぶや、「ゴルゴ」の店内へとび込んだ。
「こっちだ!」
と中にいた客のひとりが、奥のドアを指さす。
「ありがとう!」
礼を言って脱けると、裏口だった。
狭い通りに、小型車が止まっている。おや懐かしや、スバル360だ。
ハンドルを握ったとき、バックミラーに、裏口から現れたエニラ師が映った。
踏み込んだクラッチを離しつつ、
「ハンドルを替われ!」
ゆきに叫んで、おれは上半身をねじ曲げた。
走り寄ってくる小柄な身体へフレシット弾を射ち込むのは、さして難しくなかった。
エニラ師が素手でそれを掴むのも。
だが、つづいて放った榴弾までは受け止められなかった。小柄な身体を再び炎が包んだとき、スバルは狭苦しい通りを全力疾走に移っていた。
ぐんぐん小さくなっていく炎塊を見つめながら、
「一体、どうなってんのよ、大ちゃん?」
とゆきが金切り声で訊いた。
「ご苦労さん」
とハンドルを替わり、
「かくて、王位継承のペンダントは革命軍の手に渡りき」
「なんですって!?」
「そう怒るな。おれひとりじゃ、なんか気になったんでな、ゲリラ軍に協力を要請したんだ。このトーキーもおまえが身につけてる武器も、ハンドバッグも彼らが調達してくれたのさ。報酬はもちろん、青いペンダントだ」
「なんてことすんのよ、この阿呆。――大事な宝をゲリラなんかに渡しちゃって」
「おまえが持っているより安心さ」
おれは軽くいなして、
「案の定、エニラ師が出てきた。となりゃ、プリンスと皇太后との面談も、ゲリラがうまく取り計らってくれるだろう」
「ええ〜〜〜〜」
あんぐりと口をあけたゆきへ、
「大体のところは昨夜連絡しといたが、詰めはおまえがプロジェクトを打ち明けてからだったからな。向こうも苦労しただろう。ゲリラが皇太后に連絡を取るなんて前代未聞だが、今朝、うまくいったときいたときは、ほっとしたぜ」
「それであんた、何回も出かけてったのね。あたしはてっきり、武器の調達だとばっかり」
ゆきの表情はみるみる般若のそれに変わった。おれは巧みにハンドルを操りながら、
「考えてもみな。ゲリラがいなかったら、あのペンダントもおまえも、エニラ師の手に渡っていたかもしれねえ。結果的にはペンダントだけがゲリラの手へ――ずっと奪還しやすいと思わないか?」
「そういえばそうね。大ちゃん――あんた、プリンスもペンダントも皇太后にやっちゃうつもりだったんじゃないの?」
「阿呆か。慈善事業やってんじゃねえぞ。プリンスはともかく、彼が本物と認められた時点で、ペンダントはこっちへいただく。その上で交渉だ」
「あたしはもういいわよ」
ゆきは澄まし顔でそっぽを向いた。
「欲しいものは、みんな手に入れちゃったもン」
「エニラ師が直々に出張《でば》って、おまえに本物を渡すとでも思ったか?」
「え?」
ゆきは狂ったようにハンドバッグを開いた。
「見てよ、これ。ね、車止めて!」
おれは認可証と宝石を手にとり、素早く眼を走らせると、ゆきに放った。
「ひょっとして……?」
「気の利いた質屋でも連れてくるんだったな。窓から捨てちまえ」
「あの糞爺い……許せないわ」
歯を剥くゆきへ、おれは皮肉たっぷりに、
「柄にもない欲をかくからだ。稼ぐのはおれにまかしとけ」
いきなり、ゆきはおれの首にすがりついてきた。
「うーん、今度から絶対そうするわ。よろしくね」
「なら、今後一切、おかしなことを考えるんじゃねえ。一から十まで、おれの指示に従え」
「はーい」
背骨まで溶けそうな返事だ。
「ね、これからどうすんのよ?」
「そうだな。ゲリラ側の首尾をきいてから、バラザード・リアの山へ登る」
「え、何でよ?」
ゆきは露骨に嫌悪の表情を見せた。あの化物がよっぽどこたえているのだろう。
「いやなら、ここへ残れ。エニラ師の弱点を掴むにはあそこしかねえと、おれは踏んでるんだ」
「あんた、一回、やっつけたじゃないの。大佐のマンションで」
「あれは僥倖だ。いつでも倒せなきゃ役に立たねえ」
「それもそうね。頑張ってきてよね。あたし、プリンスちゃんと見守っているわ」
「あいよ」
まさか、天井がどん、とゆれるとは。
「大ちゃん!?」
ゆきの声を待つまでもなく、おれは片手でACRを真上に向けるや、全自動射撃《フルオート》で引き金を引いた。
バババ[#「バババ」に傍点]ッと小さな穴が開く。
フロント・ガラスにひょいと、逆さまのエニラ師の顔がぶら下がるや、ガラスを砕いて入ってきた右手がハンドルを掴んだ。
糞、びくともしねえ。ちぎれた手首はカムフラージュ・スーツのものだったのだろう。
ACRを向けた。
途端にハンドルが右へ切られ、おれはバランスを崩した。無駄弾を射たなかったのは、我ながら立派だった。
次は左。もの凄いハンドリングに、通行人が悲鳴をあげて逃げ回る。並べてあったゴミ入れのドラム缶が吹っとび、バイクが横転する。スバルとは思えない暴れっぷりだ。
ウィンドの向こうで爺いめ、にやりと笑いやがった。
糞、右手一本でこんな目に遭わせるとは。
ゆきは背もたれにしがみついて眼を剥いている。このままじゃ、どっかにぶつけられちまうぞ。ブレーキも踏めない。アクセル・ペダルに乗せた足がぴくりとも動かないのだ。
そのとき、背後でクラクションが激しく鳴った。
警察かとバックミラーを見たが、ブルーの乗用車――ポルシェのスポーツタイプだ。スモークのワン・ウェイ・ウィンドが、ドライバーの顔を隠している。
狂人の運転に恐れげもなく近づいてくる度胸が、おれを感心させた。
ポルシェが一メートル足らずの距離まで来たとき、おれの右足がアクセルから離れて、ブレーキを踏んだ。急速にスピンしたのは仕方があるまい。ぶつかる! と思った刹那、ポルシェはあわてた風もなく、すーっと遠ざかった。
そして、また近づいてくる。今度は一気に右へ出て横に並んだ。大胆不敵もいいところだ。
横の窓ガラスが下りるのをおれは見た。
ぐいと突き出されたのは、確かにライフルの銃身だった。
跳ねとばすつもりか、エニラ師の手がハンドルを右へ切り、おれにアクセルを踏ませる。――その刹那、雷鳴が轟いた。
エニラ師の顔がぐにゅとつぶれた。
狂気の幅寄せをものともせずに放たれたライフルの巨弾は、化物爺いの側頭部を直撃したのである。爆発こそしなかったものの、目の玉は神経繊維の糸を引いて突出した。すぐに戻るのを待たず、おれはブレーキを踏みざま、思いきりハンドルを左へ切った。
さすがのエニラ師も、これには堪らなかった。
あっさりと屋根《ルーフ》から離れ、路上に叩きつけられる。間髪遅れて、スバルもノーズの右端を電柱にぶつけて止まった。衝撃にゆきが悲鳴を上げる。頭をふりながらも、おれはスバルをバックさせ、まだ通りの上に横たわっているエニラ師へスタートさせた。
起き上がろうとしている。変形した顔は、正常な形を取り戻しつつあった。
おれの殺意は恐怖と一体化していたかもしれない。
一気に加速。
ぐん! と迫るや、鈍い衝撃が車底から伝わった。
それきり後も見ず、おれは最初の交差点を右に折れ、闇雲に突っ走った。
「死んだかしらね?」
ゆきがぼんやりと訊いたのは、五分ほどしてからだ。
「いや」
おれははっきりと言った。
おかげで次にやることもはっきりした。
「ね、あいつ、どうして落っこちたの?」
「おれの運転のせいさ」
「嘘。ライフルの音がきこえたわよ」
「じきにわかるさ。――降りるぞ」
おれは路上に車を止め、止めてあったルーチェに乗り換えた。エニラ師の息がかかった連中は、貧民夜会地区にもいるだろう。さらに一〇分ほどでたらめに走り、おれは車を乗り捨てて、近くのレストランへ入った。
ゆきをテーブルに残して電話をかけた。昨夜、ゲリラにきいておいた連絡先である。ハンディ・トーキーは、ゆきが「ゴルゴ」へ置き去りにしてきた奴とだけの限定通話だから役に立たない。
「無事か?」
すぐに出た。声に覚えがある。ブルーだ。
「おかげで助かった。礼を言うよ」
おれは心の底から口にし、
「そっちはどうだい?」
と訊いた。
「上々だ。皇太后に連絡を取ったら、是非、会ってみたいとのことだ。君はどんな魔法を使った。最初は怪しんでいたのが、言われた通り君の名を出したら、一発でOKとなったぞ」
「で、ペンダントはどうする?」
「面会の現場に持っていこう」
「プリンスが本物と認められたら、引き渡しに際して、色々条件はつけるんだろう?」
「もちろんだ。首相以下、大臣、軍関係者の罷免など山ほどある。だが、誤解しないで欲しいのだが、おれたち全員、王室のファンなんだ。問題はいまの首相とエニラさ。わかるだろ?」
「ああ、お互い頑張ろうぜ」
「そうとも、君には国を挙げて感謝しなくちゃいかんな」
「とんでもない」
おれは内心舌を出した。
「感謝よりひとつ頼みがある。おれにヘリを一機用立ててくれないか?」
「いいとも。何処まで行く?」
「内緒だ。なるべく航続距離のあるやつを頼む」
「引き受けた。すぐに必要かね?」
「ああ」
「なら、今から一時間後、<クライトン通り>にある空き地に来たまえ」
「了解」
おれは電話を切って席へ戻った。
アメリカとつるんでるだけあって、指定の空き地へ舞い下りてきたのも、米軍ヘリ、UH―1Hイロコイだった。これは、戦後のどの軍用機よりも多数製造され、一九六二年まではHU―1が名称。ここから「ヒューイ」と呼ばれた。今でも、正式名の「イロコイ」を使う者はほとんどいない。
おれの見たところ、PT6T―3ターボシャフト二基で一二五〇軸馬力をしぼり出す新型だ。全長一七・六四メートル、全高四・三九メートル、乗員一四名。
空き地の真ん中で、草の切れ端を吹きとばしている機体を見ながら、
「近頃のゲリラは金持ちなんだな」
と、おれは待っていたブルーに言った。
「あれこれ、商売っ気もあってな」
ブルーは薄い微笑を浮かべた。こういう笑顔はやっかいだ。
「どこまでご用達か、訊いてもよろしいかな?」
「嫌だと言ったら、貸しちゃくれまいな?」
「安心したまえ。マリアから、君への最大限の便宜をはかるよう言われている。一切、文句をつけずにな」
「バラザード・リアへ行く」
「ほう」
ブルーの隻眼が光った。
「二、三日前、あそこで大騒ぎがあったそうだ。君か?」
「あ、照れ臭い。訊かないでくれ」
「やっぱりな。ちょうどいい。うちの連中もあそこへ出掛けるところだ。君たちは同乗という形になるが、よろしいか?」
こん畜生、とおれは胸の中でののしった。
「ああ、何でも結構。ただし、生命の保障はしないぞ」
自由電子レーザーと機械服さえあれば、と思った。パシャの店から引き取るまで、あと、二日。待ち遠しいこった。
「選り抜きが五名お供する。何だったら、私用を言いつけてくれ」
「ありがとうよ」
おれは礼を言って、ローターを旋回中の“イロコイ”へ近づいた。
ドアは開いている。
三人の男が待っていた。
「パイロットがひとりで計四人か。あとひとりは?」
ふり向いた鼻先にブルーの顔があった。
「おれも同行する。一応、隊長さんだ」
「やれやれ」
おれは素早く機内に乗り込み、ゆきも引っ張り上げた。
ブルーが乗り込み、ドアが閉じると、最大装備量四、七六二キロのヘリは、軽々と地面に別れを告げた。
「ところで、バラザード・リアへは何の用がある?」
おれはブルーの腹を探りながら訊いた。答えはあっさりと、
「我々にもわからん。到着地点で指令書を読むことになっている」
この狸と思ったが、口には出さなかった。
「ひとつ気になることがある」
とブルーは窓の外をのぞきながら言った。
「何だい?」
「昨夜、中央基地から、高速大型のヘリがバラザード・リアの方角へ向かったという情報が流れた。何をしに向かったのかな?」
「はて」
おれはすっとぼけた。
半分は勘が働いていた。
エニラ親衛隊の生き残りだ。いや、ひとりも死んでねえんだから、生き残りは余計だ。あの倉庫の焼け跡からは、ひとりの死体も発見できなかったのだ。
「そのヘリのことだが、地元の基地も動いていると見た方がいいだろうな」
とおれは指摘した。
「うむ。恐らく、バラザード・リア周辺は囲まれている」
ブルーはじろりとおれを見て、
「一体全体、何が起こったか、だ」
決まってる。おれに指摘されて、エニラ師があわてたのだ。
あそこは奇怪な化物の巣だった。というより、おれは、奴が一種の番犬だったと思う。何を番してたかというと、あれだ。あの、見えない塊だ。
あの中に、エニラ師の秘密――その素性から弱点までが秘められているにちがいない。だからこそ、緊急に親衛隊を派遣し、場所を移すなり何なり企らんでいるのだ。こりゃ、早いとこ行かないとまずいな。
“イロコイ”は、海岸線に沿って飛んでいた。
航続距離は約四〇〇キロ。サヴィナからバラザード・リアの麓まで一直線に飛んで三〇〇キロだから、帰りは燃料を補給しなけりゃならない。ちなみに最大軸馬力は一二五〇、最大時速は二〇〇キロだ。
「このヘリの――」
装備はどうなってるんだ、と訊くつもりだった。
答えは、操縦席の方からやってきた。短く、
「右から来たぜ」
機内に緊張が張りつめた。全員、窓をのぞく。
“イロコイ”よりはぐっと贅肉を落とした――その分、凶暴精悍なヘリが二機、猛スピードで接近してくる。
「危《やば》いな。ありゃ、AH64――“アパッチ”だ」
返事はない。みな、わかっているのだろう。ただの通常ヘリに武装させた“戦闘ヘリ”じゃない。最初から相手を撃破するためにのみ設計された、生まれながらの殺戮マシン――攻撃ヘリだ。
最高時速三〇九キロ。最大航続距離(内部燃料のみ)六一一キロ。最大軸馬力一五三六×2。
“イロコイ”との数値差を出すと、上から一〇五キロ、二〇〇キロ、一八二二馬力――勝負にもならない。
「中央基地まで戻って着陸しろと言ってるぜ」
パイロットが叫んだ。
「やだ。ねえ、あのヘリ、敵さん? 強そうねえ」
ゆきが半分楽しそうに言うのをきいて、
「君の恋人か?」
とブルーが尋ねた。
「とんでもない」
「なら、ただの友だちかね?」
「ま、その程度だ」
「いい度胸をしている。ファンになりそうだ」
「あら、ありがと。話せるのね、小父《おじ》さま」
ブルーは苦笑し、
「かまわん、このままやれ!」
と命じた。大丈夫かよ!?――思わず心配した。その刹那、窓の外でドカンと黒煙と炎が破裂し、ヘリは大きく揺れた。
「攻撃してきたぞ!」
パイロットの悲痛な叫びへ、
「大丈夫、威嚇用の模擬弾だ!」
おれは叫び返した。
「よくわかったな」
とブルーは感心したように言った。
「ハッタリや脅しならまかしとけ。ベテランだ」
「マリアが褒めちぎるわけだ」
「だが、次は本物のヘルファイア・ミサイルが来るぜ。どうする気だ?」
「君ならどうするね?」
「まず、全面降伏する」
「うむ」
「次に、両側の窓のそばに、レッドアイかスティンガーを持った仲間を隠し、安心した奴らが射程距離内へ入ってきたところを射つ」
「まさか――彼らもそのくらい予測しているさ」
「常に戦争をやらかしてる国の軍隊ならな」
おれは隻眼の男へ侮蔑と笑いを投げかけた。
「だが、この国の兵隊は、訓練が終わればきちんと昼飯が食えるし、睡眠も摂れる。頭のネジがゆるんでるよ。兵器が怖いんじゃねえ。問題は使う人間だ」
「ゆるんでなかったらどうする?」
おれは肩をすくめた。
「いつ、スティンガーを見つけたのか知らんが、射ってみるかね?」
「いいとも」
ブルーはパイロットに向かって、
「気が変わった。指示に従うと伝えろ!」
と怒鳴り、かたわらのゲリラにあごをしゃくった。そいつは機敏な動きで、奥に積んであるコンテナから、旧式のバズーカ砲にスコープを装着したような携帯ミサイル砲を引っ張り出した。
ドカン。
機体がもっと派手にゆれた。脅しだが、近い。
「頼むぜ、相棒」
押しつけられたスティンガーを受け取り、おれは素早く発射準備を整えた。
ちら、とブルーの方を見て、
「もう一機いるぜ」
と言った。
「気にするな。君は右側のやつを頼む」
「あいよ」
おれは“アパッチ”から見えない位置でスティンガーを抱えた。
「合図したら、ドアを開けてくれ」
噴射ガスが機内で暴れまわると危《やば》い。
「了解」
ゲリラのひとりが緊張した面持ちで応じた。
遠いな、とおれは、“アパッチ”の機影を見ながら考えた。ミサイルの初速は拳銃弾ほど速くない。ある程度の距離がなければ、かわされてしまう。スティンガーは、全方位追尾――つまり、従来の携帯ミサイルと違って、敵の排気管のみを狙わずとも、排気煙の流れを探知して、どの方向からでも自動的に追いかけることができるが、それでも、射ち落とされる恐れがある。あと、五〇〇メートルは近づいてくれなくちゃな。
「戻るぜ」
パイロットの声とともに、ヘリは方向を変えた。
いまだ、と思ったら、敵も旋回して距離を保つ。ふむ、ブルーの意見の方が正しかったかな。
予想外の出来事が起こったのは、このときだ。
おれが狙いを定めていた標的の隣のヘリが、いきなり僚機の背後に回るや、三〇ミリ・チェーンガンの猛打を浴びせたのだ。
反撃の仕様もなく火の玉と化した“アパッチ”を、おれは茫然と見つめ、すぐ、ブルーの方を向いた。
「他に何人もいるのか?」
「さすがだ。よくわかったな」
「わざわざ右だけ狙えと言うんだ。左のヘリには仲間が乗ってると、誰でも察しがつくわな。敵側に何人潜り込んでる?」
「想像にまかせよう」
食えねえ野郎だ。革命軍だのゲリラだのは、汗臭いボロ服に貧弱な武器を持った、頭の切れない栄養失調ばかりだと思っていたが、そうでもないらしい。こう考えた奴がもうひとりいた。
「素敵だわ。小父さまったら、策士ね」
ブルーの腕に片手を巻きつけて、ゆきは何度もウィンクを決行した。
他のゲリラはみな、陶然としている。どこから見ても、演技には見えない。AをとばしてDからZまで一直線にOKよ、と豊満な肢体が心の底から告げている。――男なら誰でもこう確信するし、ゆき本人もそうだろう。周りの連中にまで、ひょっとしたら、おれにも気があるんじゃないか、と思わせてしまうフェロモンみたいなものを分泌しちまうのだから恐ろしい。ところが、こいつの本当の怖さはそれじゃあないときてる。
こうなったら何を言っても無駄だから、おれはピンク娘の好きにさせておいた。さすがにブルーはゲリラの頭だけあって、しなだれかかるゆきを適当にあしらい、さっさと操縦席へ行っちまった。
その後を――これがこいつらしいところだが――追おうとしたゆきを、おれは襟首掴んで引き戻した。
「何すンのよ、野蛮人」
「何もしねえよ。ここにいろ。おまえが操縦席なんかへ行ってみろ、ブルーは平気だが、パイロットと計器類がみな、ピンク色に染まっちまう」
「失礼ねえ。ひとを何だと思ってるの? ただのお色気の塊だと思わないでちょうだい。これでも、大学生や学者のお友だちだって、うーんといるんだから」
「お友だちの知性とおまえの知性は何の関係もないんだ」
おれはゆきの鼻先で決めつけるように指をふってみせた。
「歴史を勉強してみろ。知性てのは色気に勝ったためしがねえ。優れた脳味噌をぬかみそにしちまうには、小指の先くらいのセックス・アッピールで事足りる。ミス・キーラーを見ろ、マタハリを見ろ」
「何、わけのわかんないこと言ってんのよ。あんたは大体、好色染色体の持ち主なんだわ。女を見たら、いやらしい生き物としか考えられないんだから。ちょっと、あたしのそばに気安く座らないでちょうだい!」
ゆきはさっさと立ち上がり、ゲリラたちのところへ行っちまった。三人とも三〇近い壮漢だが、たちまち、眼に見えないピンクの霧に包まれ、鼻の下をのばしはじめた。女房子供もいるんだろうに。
たちまち弾み出すゆき[#「ゆき」に傍点]さま崇拝の会話を聴かないよう心がけながら、おれはバラザード・リアに待つもののことを考えはじめた。
あと一時間半の旅だった。
見覚えのある山の形が迫ってきた。ニューヨークのアジトで三次元立体図形をためつすがめつし、どんな角度からでも見間違えないよう頭に叩き込んである。
おれは操縦席へ行き、仕切りのドアから顔を出した。
「奴らいねえな」
と言った。上空にヘリの姿はない。
「ああ。だが裏へ回ってみなくてはわからん。着陸地点はそこになる」
「地元の警察も出動してねえようだし、奴ら、極秘任務だったかな」
「多分。愚図愚図してはいられんな、八頭くん。敵の姿がなければ、強行着陸といこう」
「了解」
おれは、ブルーにうまく笑ってみせた。無茶なやり方が似合う奴と、絶対そんな真似して欲しくない奴とがいる。ブルーがどちらかは言うまでもあるまい。
“イロコイ”は敵の奇襲に備え、十分に距離をとりつつ、山の中腹を迂回した。
いよいよだ。
じきに、あの広場が見えた。
「ん?」
おれは眼を細めた。眉も寄っていたにちがいない。
おれたちが、シェリダン軽戦車と合体した化物とやり合った広場には、その残骸が放置されていた。そのそばにもうひとつあるのだ。
シコルスキーUH―60Aブラックホーク。ボーイング・バートル社との四年がかりの競争の末に、アメリカ陸軍のUTTAS(汎用戦術輸送核システム)に選ばれた、シコルスキー社自慢のヘリだ。
UHは戦闘強襲輸送タイプで、三名の乗員と十一名の完全武装兵士を乗せる他、四トンの荷物を積んで輸送の任に当たる。同型に電子戦専門のEC型があるが、こちらの非武装に対して、UHはキャビン側面から二挺のM60自動小銃を発射することができる。だが、おれの見たところ、こいつは通常より遥かに大型のターボ・エンジンを二基も具え、パイロンには、一九連発七〇ミリ・ロケット・ポッドと、対戦車用ヘルファイア・ミサイルを何個か積んでいたようだ。
ようだというのは、それしか識別できないためだ。特に残骸からは。
よく、爆発しなかったものだと思う。あんなにぺしゃんこに押しつぶされて、こぼれた燃料に引火しなかったのが不思議だ。
眼を凝らしたが、隊員の死体はないようだ。こっちも化物か。
「まるで、のしいか[#「のしいか」に傍点]ね」
ゆきの声も嗄れていた。
「ね、怖いわ。よろしくね」
と三人の男たちの腕に手を触れる。たちまち、三対の眼に義務感と欲情と――殺意めいたものが湧き上がった。これで彼らは、死んでも自分だけはゆきを守ろうとするだろう。まるで先天性の淫婦だ。
ため息をついたところへ、
「うふン」
ときやがった。三人を意識してるのか、おれには触らない。肌がヒリヒリする。ゲリラたちの嫉妬の視線のせいだ。
「ね、本当《ほんと》に信頼してるのは、大ちゃんだけよ」
「やかましい。いつもの通り、“あんた”って呼べ」
「何すねてんのよ。か弱い女が男社会を生きてくためには、演技も必要なの」
張り倒してやろうかと思ったとき、
「降りるぞ、八頭くん」
とブルーの声が言った。
「頼む」
「降下だ。全員、戦闘用意。何がいるかわからん」
こう命令されれば、さすがに鍛え抜いた男たちである。ゆきのことなど忘れたかのような緊張の面持ちで機内を移動し、準備を整えはじめた。
コンテナからソ連製のAK47を取り出し、戦闘服に手榴弾をくくりつけ、ひとりが火炎放射器、ひとりがスティンガー、残るひとりがM72A2対戦車ロケット・ランチャーを抱える。
おれはACRだ。後はグロックと腰に巻いた単分子チェインソー。
「直接着陸する。後の指示は――ミスター八頭にまかせよう」
「了解。パウロは“レッドホーク”の残骸を調べて生存者を確認しろ。レゲとスコッティは一緒に来い」
名前は飛行中にきいてある。
「おれはどうする?」
「留守番だ」
と、おれはブルーに言った。
「ヘリとゆきを見ていてくれ。あんたが一緒だと、他の三人がどうしてもあんたの指示を仰ぎたくなる。通常の場合ならいいが、今度はちょっと厄介だ」
「待っているのは――エニラ師なみの奴かね?」
「見方によっては、もっときついな」
「後方勤務に選んでくれてありがとう」
ブルーはにんまりと笑って敬礼した。
「諸君、幸運を祈る」
「あたしも」
ゆきが投げキッスをした。
ヘリが着陸するや、おれたちは素早く地上へ降りた。
ローターの下をくぐって安全地帯へ抜けてから、おれは後方の三人をふり向いた。
顔を見合わせている。
理由は簡単――怖いのだ。
身体中の血管に氷イチゴが詰まっているような感覚だ。
おれは頭上をふり仰いだ。晴天の空に白い雲が子猫のように浮かんでいる。髪がなびく。――風だった。
典型的な平和な夏の午後だ。ピクニックの家族が弁当を広げるのにもってこいの場所と日和だ。
それなのに――怖い。
おれは手首を見た。鳥肌が立っている。
「命令変更。――三人で“レッドホーク”を調べる。おかしなものを積んでいないかチェックするんだ。ガスマスクとガイガー・カウンターを忘れるな」
「了解」
パウロがヘリへ戻ってガイガー・カウンターを持ち帰るのを待ち、三人はぺしゃんこヘリの調査に取りかかった。
のしいか[#「のしいか」に傍点]とはよく言ったものだ。鼻先から尻尾――尾翼の先まで均等に押しつぶされている。“レッドホーク”は輸送ヘリだけに防備はきつい。二〇ミリ機関砲の弾丸を受けても、燃料タンクに引火しなけりゃ、何とか飛べるだけの頑丈さがある。それが、ソフトクリームのカップみたいにぺしゃんこときた。どんなサイズと重さの奴が乗っかりやがったのか?
「どうだ」
おれの問いに、答えは、
「手がつけられません」
だった。のしいか[#「のしいか」に傍点]になった機内へ入ることができないのは、致し方あるまい。
「生き残りはどうだ?」
「確認できませんが、操縦席にはいない模様です」
すると、全員、外へ出たところをやられたか。
おれは前を見た。
あの洞窟があった。その前に盛り上がった吐きそうな色の塊は、化物とシェリダンの亡骸《なきがら》だ。奴は、あの中から出てきたのだ。
「あそこへ入るぞ」
とおれは顎をしゃくった。洞窟へではない。その少し横――おれがおかしな剛体に遭遇した亀裂の入口へだ。
ふと、陣十郎の顔が浮かんだ。あいつを化物に食わせておきゃ、食中毒でくたばるかもしれないのに。
おれは先頭切って、亀裂の方へ歩きはじめた。
「何があるんです?」
とレゲが訊いた。
「おれにもわからねえ。正直言うとな」
亀裂はもと通りの位置にあった。内部《なか》に誰かが潜んでる気配はない。
「ついて来い」
おれはこう言って身を入れた。
一度しか来ていないが、勝手知ったる腹の中、だ。
あの広場まで出るのは簡単だった。親衛隊の姿もない。
だが、おれは、思わず唇を噛んだ。本当は「やられた」と言いたかったのだが、三人の手前もある。あの奇怪な高密度体は跡形もなく消えていた。
奥の方から、風が吹き込んでくるのがその証拠だ。
「どうしました?」
と訊くパウロの方も向かず、
「この広場を調べろ。おかしなものが見つかったら報告するように」
と命じる。
結局――一〇分間の徒労に終わった。何ひとつない。ただの空間だ。
おれは平然たる風を装って外へ出た。
もうひとつあるのを思い出したのは、外へ出てからだった。おれらしくもない。それだけ失望が大きかったのだろう。
「次はあの洞窟だ」
返事もきかずに歩いた。
入ってすぐ、奥の深いことがわかった。高さ五メートル、幅三メートルの通路が延々とつづいている。
様子がおかしくなったのは、ざっと三〇〇メートルも進んだ頃だった。
周囲の岩壁の様子が妙に軟化してきたのだ。形は岩だが、光沢が乏しくなり、硬さと張りが失われている。
おれは素早く近づき、壁に手を当てた。ゼリーのような手応えが伝わった。
三人が近づき、同じようにして、眼を剥いた。
「どういうこった、これは?」
「これでも岩ですか――ミスター八頭?」
おれは答えず眼を凝らした。直線距離のせいで、おれの眼には岩壁の色も形もはっきりと見えた。
その内側にうっすらと、ものの形が浮かんでいる。球体らしいものが幾つも寄り集まってできた球体や三角形だか楕円形だかをつなぐコイル状の影――幾何学的な形に混じって、おれは馴染みのものを発見した。
「見てみろ」
と指をさす。三人の手にしたライトが、まばゆい光の輪を描いた。
少し間をおき、
「あっ!?」
と同時に叫んだ。
「こいつは――動物の形だ。山羊だ!」
「こっちのは――犬だな。一体、どうして、こんなところに?」
「化石じゃあるまいな?」
「いや、違う……見ろ、奥の方に、まだいっぱいあるぞ」
驚きと恐怖が沈黙の作業を進ませた。
数秒――
「これは……」
レゲが太い指を少し離れた岩の一点に向けた。やっとわかったか。
「……人間だ。……おお、もっと奥にも……何人も、いや、何十人もいるぞ!」
何百人さ、とおれは胸の裡でつぶやいた。
恐らく、おれたちが遭遇した高密度帯がここに生じて以来、数多くの鳥や獣が岩壁に吸収されるという悲劇を経験したのだろう。人間とて例外ではない。消えた犬を探しにきた猟師や樵《きこり》。山登りにやってきたハイカーたち。
「何のために――こんな……」
スコッティのうめきもきかず、おれは単分子チェインソーを引き出し、五〇センチほど刃状にのばすと岩に近づいた。
「何するんですか?」
とパウロが訝しげな声で訊いた。
「外から見てわからなきゃ、内側へお邪魔するしかねえだろ。下がって」
刃の先が岩の表面に触れると、おれは一秒に三千回の速度で鋸運動を繰り返すようセットした。
あっという間に、ぶよつく岩は切り裂かれた。
途端に、どろっ、と流れ出てきたのだ。半溶けの男の死骸が。いや、様々な形と色彩をした奇怪な物体が。
その全部が赤緑の粘液に覆われている様は、口を押さえたゲリラでなくても吐き気を催しそうな、汚怪な光景だった。おかしな臭いがしないのがせめてもだ。
どろどろの死体と物体の塊は際限なくこぼれつづけ、みるみるおれたちの足元を埋めた。それに合わせて――
「壁が――壁がしぼんでいくぞ!」
パウロの叫びに全員が眼を剥いた。
そうなのだ。不気味な中身を嘔吐した石壁には袋みたいに皺が寄り、熔岩みたいにべったりと垂れ下がりつつあった。
「外へ出ろ」
おれは三人に命じて身を翻した。
「そっちは奥ですぜ」
とレゲが注意した。
「おれはこっちへ行く。命令だ、追っかけてくるな」
内心、おれは半分ホクホクしていた。あとの半分は多少の不安だが、こういう状況ははじめてじゃねえ。余計な奴に知られず、洞窟の奥に潜んでいるかもしれない何かを手に入れることもできるのだ。何にもないってこともあるが、それは考えないことにしよう。
粘液に足首まで浸しながら、おれは足早に進んだ。背後でゲリラが何か叫んだが、耳にも入らなかった。――というのは嘘で、
「溺れちまいますぜ」
「ひとりじゃ危ねえ」
ちゃんときこえたのだが。
足に何か当たった。ミイラ化した野鹿の死体だった。その隣は豚だ。二つの身体を――外からは見えなかった、細長いビニール管みたいなものがつないでいる。
どちらも腹から出ている管を、おれはすくい上げて端の方を探した。一〇メートルほどで出てきたが、皺だらけの球体がくっついていた。毛の生えたスポンジに似ている。思い切りつまむと、赤黒い汁が、じくりとにじんできた。
血と体液だ。
みな粘液の中へ戻したとき、おれにはこの洞窟の仕組みがある程度理解できた。
まさか。
だが、立ち止まって思案してる場合じゃなかった。粘液の流れは膝にまで達し、中身を失った石の袋は、もったりと左右からおれの方へしなだれかかってきたのだ。
大急ぎでおれは走りだした。
半分骨だらけの農夫らしい格好の死骸が、足に触れた。笑っているようだ。よく来たな、と思っているのかもしれない。
流れに変化が生じたのか、身をねじり、手を上げた。
おいでおいでをしているようだ。
こっちへおいで。
仲間にお入り。
うるせえ、と胸中でののしったとき、奥の方で気配が蠢いた。
それも、とてもつなく不気味で巨大な気の塊が。
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第三章 妖物転送
全身が活性化していく。口笛を吹きたくなる気分があるとすれば、これだ。代わりに、おれは足を止め、ACRの弾倉と付属の榴弾筒を点検した。
どっちも満杯だ。役に立つかどうかわからないが、信頼するしかない。だが、信頼しすぎれば臨機応変が利かなくなる。ここが難しいところだ。
昔、フランスの宝探し屋《トレジャー・ハンター》にえらく優秀なマルコってのがいたが、愛用の多用途銃《マルチ・パーパス・ガン》に頼りすぎて生命を失くしちまった。
五・五六ミリ自動小銃と火炎放射器と大口径ライフルがまとまった複合銃《コンビネーション・ガン》は、奴が遭遇した大抵の敵を葬り去ったのだが、チベットの大水晶洞窟で半機械の巨像に襲われたとき、あらゆる弾丸が尽きてしまったのだ。
その像の急所は、額の真ん中に嵌め込まれた直径一〇センチもの水晶の眼球だった。マルコの腕をもってすれば、腰のブローニングHP《ハイパワー》でやすやすと射ち砕ける代物だったのに、すべてを託した愛銃を失ったトレジャー・ハンターは、それを抜くこともできずに掴み殺されてしまったのだ。おれなら、弾丸が勿体ないと、まず石を投げるくらいの余裕があったろう。ACRと榴弾筒の引き金双方にのばせる位置に指を置き、おれはゆっくりと歩きはじめた。粘液の流れは膝より深くはならない。
不意に道が広がった。
気配の中心もそこだ。
粘液まみれの死骸が次々に流れ込む巨大な洞窟内の墓――いや、それは巨大な、汚れ切った居住地だった。
天井まで二〇メートル、左右はよくわからない。五、六〇〇メートル、いや一、二キロはありそうな洞のあちこちに、奇怪な生物が鎮座していた。
黄土色したぶよぶよの袋の塊、棘だらけの肉玉みたいなやつ、平行四辺形型の金属板が、少しずつずれながらくっついたような、わけのわからない化物。そいつらの周囲の岩盤からは、形容しがたい色の花だか茸だかが生えのび、おびただしい虫がうじゃうじゃとうろつきまわっている。ダンテの地獄篇の挿画を描きたいという人は、まず、ここへ来るべきだ。
だが、おれは冷静にある事実を観察していた。
奴らは死んでいる。
ぶよついた身体も、刃のような肉体(だろう)もぴくりとも動かず、袋みたいな化物など、そのあちこちが虫に食い破られている。その身体からのびたビニール状の管《チューブ》は、干からび、ねじ曲がって石床に落ちていた。ただひとつ――平行四辺形の管だけは、壁とつながっている。それを通じて何かが循環し、奴の方へ流れ込んでいる。
じゃあ、おれの感じた気配は?
おれは意識を集中させ、探知を開始した。
すぐにわかった。石壁だ。金属の刃とつながった石壁の内側に何かがいるのだ。
おれは眼を凝らした。
蠢いている。見覚えのある形が。
人間だ。複数。
管はそいつらの腹とつながっていた。
おれは電光の速さでふり向いた。
ACRの銃口の先で、三つの人影が両手を上げた。
「何しに来た?――命令違反だぞ」
とおれは三人のゲリラに毒づいた。
「気になりましてね――隊長の生命が」
とパウロがにやりと笑い、
「何にせよ、独り占めはよくないスよ」
とスコッティが言った。ま、そんなところだろう。
「何です、あいつらは?」
と尋ねるレゲの声は渇いている。
「この山の主だ。ここは住まいだよ。ほとんど死んじまっているようだが」
おれは石壁と、なおも足を浸して流れる粘液とを指さした。
「石壁の中の人間や動物の死骸は、みんなミイラ化してただろう。あいつら、植物の蜜みたいに、動物の体液やら生命力を吸い取って生きるんだ。だが、それだけじゃあ、いくら人間や動物を集めたって、たかが知れてる。恐らく、あの石壁の中で人間や動物そのものを別の――もっと栄養価豊かな組織につくり変えるんだろう。あの球体や三角形は、そのためのメカニズムさ」
三人はきょとんとしている。無理もねえ。あまりにも現実離れした話だからだ。
「何でもいい。こいつは引き下がったほうがよさそうだ。おれの欲しいものは何もない」
「こっちにはありますぜ」
とスコッティが低い声で言った。
「何だ?」
「おれたちは革命軍ゲリラです。この国の人民を脅かす存在は放ってはおけません。バラザード・リアの怪物は、ローラン共和国の汚点です。正体を知った以上、即刻、処分しなくては」
「おれたちの武器でどうこうなる相手じゃないって」
「大丈夫。高性能爆弾を持ってきています。この洞窟ぐらいは訳なくつぶせます」
「つぶしたって何にもならねえんだよ。――帰るぞ、命令だ」
「従えません」
三人の眼に凄惨な光が宿った。これだから、使命感に燃えた奴は困る。問題は、おれがそういうことを嫌いじゃないってことだ。
「わかったよ」
とおれはあっさり折れて、
「その前に、内部《なか》の奴と話したいのだが、いいか?」
三人は眼を剥いた。
「内部って、あの壁?」
「どいつと話すんです? どうやって?」
「いいから、見てな」
おれは三人を残して、巨大な四辺形の方へ歩み寄った。近づくほどに、そのでかさが身にしみる。エニラの野郎、とんでもないものをこさえやがった。だが、餌も定期的に運んでやらないとな。それとも寿命が来たんだろうか。
おれのしたことは、少し前の二番煎じだった。
岩壁に近づき、猟師が獲物の腹を裂くみたいに、ずばりとやったのだ。
どろりとこぼれた人の形には、見覚えがあった。
エニラ親衛隊のひとりだ。
こいつら何をしに来たんだ? まさか、餌になりに来たんじゃあ。
おれはそいつの頬を叩いてみた。反応があった。
うっすらと眼が開いた。うん、保ちそうだ。
「おい、口がきけるか?」
と訊いた。
「……誰だ?」
英語の答えだ。思ったよりはっきりしてやがる。あの大男よりは新型らしいな。
「しっかりしろ。おれの質問に答えりゃ、こんな任務から解放してやるぜ」
「……余計なことを……するな……」
と男は答えた。どす黒い皮膚をした二〇代である。やはり、これは任務だったのだ。化物の栄養になることが。
「あんたも以前は普通の人間だったんだろ。家族もいるはずだ。このまま朽ちてもいいのか?」
おれは男の眼を見つめて訊いた。催眠処理でも施されているのかと思ったが、陶器みたいな瞳の奥に感謝の色が湧いた。あるいはあまりの苛酷な状況に、催眠術もとけちまったのかもしれない。
「質問は……何だ?」
こうこなくっちゃ。
「おまえたちの――おまえの他の仲間の任務は何だ? あの透明なものの運び出しか?」
「……そうだ」
「あれは一体、何だ?」
「よく知らん……エニラ師の……」
「おお、エニラ師の何だ?」
「……ふ……ふ……」
「ふ、何だよ、おい?」
男の眼から急速に光が失われた。
「……エデル……クィンカ……曹長……ミルバ……」
それだけだった。おそらく上の二つが当人の姓名。下のは女房か子供か恋人か。
そのときだった。
冷たい水が背中を、すう、と流れた。
何かが動いている。
おれはそっと右の方を向いた。ACRと一緒に。
平行四辺形が身じろぎをしている。さっき数えてみたら三枚あった胴体が、下辺の一点を中心に、モーターのピストンみたいに持ち上がっては、力足りずにもとの位置へと復帰していくのだ。
ぷつん、と音がして、男の腹から管が外れた。赤い飛沫《しぶき》がとんだ。
「こいつひとりでどれだけ保つか試してやるぜ」
おれは立ち上がり、ACRを肩付けした。
もう、あれ[#「あれ」に傍点]がないのに、なぜ、こいつだけが栄養を補給されているのか。バラザード・リアの伝説を永遠に持続するためか、それとも、エニラの愛犬なのか。
余計なことは考えず、おれは洞窟の出入口の方へ後退しはじめた。
「何です、あいつは……」
とパウロが嗄れた声で訊いた。
「バラザード・リアの秘密さ。宝の番人だ」
おれたちはゆっくりと後退した。
その間にも、四角い刃の旋回は失敗を繰り返していたが、最も下方の一枚が弧の頂点に達し、戻りそうになりながらも、ついに前方へ落ちた。
それが、岩盤を紙みたいに切り裂くのを見て、おれは猛烈にその正体を知りたくなった。
「爆弾の用意ができた。――仕掛けて逃げるぞ」
とスコッティが言った。
「何分余裕がある?」
とおれ。
「死ぬまででもいいぜ。そいつはリモコン操作だ」
「だったら、あの化物がここを出るまで待て。ここの岩は、みんなビニール・カバーになってる」
「なに、奥の方は大丈夫さ」
「いいから下がれ」
こう言った途端、いきなり地面がゆれた。四辺形が凄まじい勢いで旋回をはじめたのだ。
岩が切れた。地面が切れた。
熱風が顔面を叩きつけた。鋼と岩との摩擦熱である。黒光る嵐が猛烈な勢いで迫りつつあった。
「さがれ!」
おれは叫びつつ、レゲの手首にACRの銃身を叩きつけた。
落としかけたリモコンを左手で失敬する。
「何をする!?」
ととびかかるのを、スコッティとパウロが押さえつけた。
「やめとけ――隊長にまかせるんだ」
「そういうこと。――早く出ろ!」
おれはACRを肩付けして、旋回する巨大刃へ向けた。
こんな化物にどんな意味があるのだろう。ただ破壊し殺戮する以外に能のない存在――人間が神だの悪魔だのと言ってるのは、案外、こういう生物なのかもしれない。岩をぶった斬りつつ進む速度は、時速約二〇キロと踏んだ。何とか逃げられる。が、走りつづけるわけにはいかない。
足がもつれた。
岩盤にぶよぶよと足首までめり込んだのだ。
何とか出なくては。大地の上へ。
光が見えてきた。
スコッティが倒れた。粘液の飛沫がとぶ。
「先に行け!」
おれはあとの二人に声をかけ、スコッティの肩を掴んだ。
「先に行ってくれ。足をくじいた」
「おぶされ」
「無茶だ。おれは九〇キロあるぜ」
「五〇〇キロまでなら平気だよ」
スコッティは感心したようにおれを見つめた。こんなときに冗談が出るとはたいしたものだと思ったのだろう。
おれが身を屈め背中を突き出したときには、呆れ返ったにちがいない。ひょい、と持ち上げた瞬間は、仰天の他なかったろう。
もちろん、普通じゃ無理だ。自重九〇キロに装備がざっと三〇キロ――軽い相撲取りの目方である。おれはヨガの精神統一で恐怖心を消去してのけたのだ。
人間の筋肉や骨格は、生理学的に見れば、持てる力の五分の一も出していない。それ以上の力は肉体を傷つけると精神の方が脅えるのだ。この潜在意識的な恐怖心を克服すれば、女子供がトラックを引っ張るなんて芸当が可能になる。もっともこの場合、肉体や骨格自体は強化されてないわけだから、どこか損傷が起こるだろう。
幸い、おれはもうワン・ランク上のレベル――精神統一によって、筋肉組織をやや強靭にできるから、五〇〇キロまでは何とかこなせるのだ。
「たいしたもんだな、おい」
走り出したおれの背中で、スコッティは驚きの声を上げた。
「日本人てな、若いうちから、みな相撲やレスリングをやってるのか?」
「何なら上で跳ねてもいいぜ」
出入口のところに、先の二人が待っていた。スコッティを預け、おれは後ろを見た。
火花が乱舞している。耳障りな音は、鋼が岩を断つ響きだ。
「出たな?」
と訊いた。
「OKだ!」
「爆薬をよこせ」
後ろへのばした手に、ずっしりと重い塊が渡された。
それをアンダースローで二〇メートル先まで放り、おれも外へと走った。
洞窟を脱けるところでふり向き、リモコンのスイッチを押しざま、地に伏せた。
大地が鳴動した。冗談ではなく、身体が跳ね上がる。たいした爆薬だったらしい。地響きがやってきた。顔を上げて見た。洞窟の入口が落下する岩石でみるみる埋もれていく。かなりでかい石塊が転がってきたので、あわてて立ち上がり、安全地帯へ移動した。
「えらい化物がいたらしいな」
近づいてくる気配につづいて、ブルーの声がした。
「ちょっと派手だが、これで片はついたろう。目的は果たしたのかね?」
おれは返事をしなかった。さっきから頭にこびりついて離れないあることを考えていたのだ。
つまり――
オレンジの光が視界を染めた。気がつく前に、土中からかがやく三つの光輪が跳ね上がった。
「ヘリに乗れ――離陸するぞ!」
ブルーの声をききながら、おれは走った。あの、何もない亀裂の方角へ。
「何処へ行く!?」
ブルーの叫びが追ってきたが、おれは片手で上昇しろと合図し、足を止めなかった。
やっと、わかったのだ。あの化物が栄養供給されていたわけが。だが、亀裂の入口に辿り着いてヘリの方をふり向くや、おれは舌打ちしなければならなかった。
旋回する三枚つづりの巨大な平行四辺形は地面をえぐりながらも停止しているのに、“イロコイ”は地上から離れないのである。
「見物してんな!」
恐らく、パイロットが正気を失っちまったのだろうが、化物が敵と認めたらそれっきりだ。
火花が走った。
ヘリへと動き出す。
「頓馬が!」
おれは顔も知らないパイロットをののしり、ACRを構えるや、榴弾筒の引き金を引いた。
可愛らしい火花を上げて、四〇ミリ特殊榴弾は刃物のお化けに吸い込まれた。
ぼっと、小さな火花と黒煙が上がった。
どこに眼や神経があるのか不明だが、奴は凄まじい勢いで方向を転じた。
キーンと岩がちぎられ、火花が噴き上がる。
もう一発。
今度は真ん中の奴の横腹に命中した。効きっこない。なんせ、一辺が五メートルもある歪んだ中華包丁の三枚セットだ。
だが、とりあえずの目的は果たした。
化物の後方で、“イロコイ”はようやく急上昇に移ったのだ。開け放した扉の向こうにブルーとゆきの姿が見えた。達者でな。
それ以上、余計な真似はせず、おれは亀裂に身をすべり込ませた。もう“イロコイ”にもゲリラにも化物にも用はない。
一気に二〇メートルほど通路を走り抜け、おれは立ち止まって待った。
一〇秒、二〇秒――いきなり火花が吹きつけた。
計算違いか!? と思ったが、オレンジの光はすぐに消えた。
亀裂の入口に巨大な気配と影がとどまっているが、それ以上はやって来ない。
間違いない。
番犬は母屋へ入ることはできないのだ。
「うー、わんわん」
と嫌がらせを口にし、おれは亀裂の奥へ――あの広場へと走った。相変わらず何もない。
いや、正確に言おう。
見えない。感じない。しかし、なく[#「なく」に傍点]はない。
あるのだ。この何もなさそうに見える空間の中に、あいつはある[#「ある」に傍点]。
考えてみれば、この前も、姿は見えなかった。ただ、一種の高密度体として存在していたのだ。
それが密度を失い、空間内に拡散したとしても、無とは言わないだろう。大海に落とした墨汁は、見えなくなっても存在はしているはずだ。
だからこそ、あの化物はお役ご免にならなかったのだし、この亀裂へ入ることができなかったのだ。
だが、どうやって見つける?
そして、どうやって正体を暴く?
難問だと思うだろうが、おれはどっちにも、もう結論を出していた。
精神だ。
物理的な形で存在していたものに、サイコの力でコンタクトするしかない。十中八九、敵もそういう仕組みになっているはずだ。
もう邪魔ものはいない、冷え冷えとした空間の真ん中で、おれは眼を閉じ、意識を虚空に集中した。
まずは、あの存在を感じることだ。肉体ではなく、意識の肌に。
気分を冷静に保ち、意識を虚無に同化させる。受け入れ孔は、思いきり大きく、深く。
来た。
確かにあの感覚だ。以前、空気密度の濃さとして捉えた感覚を、おれは精神的なものとして感じることができた。
あるのはわかった。次は、その正体だ。
いかん、遠ざかった。精神に、好奇心にある乱れが生じている。こういう場合、必要なものはひとつ――虚心坦懐だ。
再び平常心。
来た。そこから情報が広がっていく。
あの形……丸くて……厚い……これは――UFOか!?
次だ。
高鳴る気を抑えに抑え、おれは、形の次に来るべき情報を求めた。
駄目だった。
来てはいるのだ。精神の受容口まで辿り着き、舞い下りてさえくる。
ところが、読み取ろうとするおれの精神が拒否反応を生じ、結果として猛烈な頭痛が頭の芯をえぐるのだ。
三度でおれはあきらめた。
発狂してしまう。
岩盤の上に寝そべり、痛みが遠ざかるのを待った。
欲求不満が全身を震わせていた。もうひと息、あとひと息のところで。
そのとき――広場は大きく揺れた。天井から埃が舞い落ちてくる。
化物じゃない。こいつは――爆破物による揺れだ。
思わず見上げた天井から、黒い塊が落ちてきた。
「わわっ!?」
間一髪、おれは身をひねって岩塊をよけた。一瞬の恐怖――一瞬である。
その瞬間、おれにはわかったのだ。
ここに存在する不可視の存在の正体が。恐怖が未知の精神領域の扉を開いたのか。もと[#「もと」に傍点]は、赤坂で受けた精神療法のおかげだったろう。
「情報」はひどく凝縮された形でやってきた。
おれは「解読」に移った。
亀裂の入口に辿り着いたときは、ひどく疲れていた。そのまま寝転がりたい気分だったが、まだ仕事がある。
外では、銃声がつづいていた。
覗いた。予想通りだった。広場をうろつく平行四辺形に、上空からヘリが挑んでいるのだ。
おれを待っていたにちがいない。ひとりで何とかやれるのに、余計な真似しやがる。おかげで、おれも何かしなくちゃいけなくなっちまった。
ヘリはM60自動小銃や、スティンガー対戦車ミサイル砲、火炎放射器などで応戦しているのだが、いかんせん、傷ひとつ与えられない。
一方、敵側も空はとべないらしく、地上で三枚の胴を旋回させているばかりだ。
急にヘリが近づいた。
待ってましたとばかり、化物が近づく。
「危ない!」
おれの声に押されたみたいに、ヘリは遠ざかった。
わずかに遅れて、化物が前へのめる。崖っぷちだった。
「駄目だ!」
おれは叫んだ。それをやっちゃいかん。だが、ヘリの――恐らくはブルーの――計算通り、化物の自重を縁の地面は支え切れなかった。
ぼろぼろと、映画のストップ・モーション・アニメみたいに大きな破片がこぼれ、化物も前のめりにその後を追った。
おれが亀裂を走り出て数歩進んだとき、鈍い音が舞い上がってきた。見下ろすと、下は深い森だ。
阿呆が。風を巻き起こして着陸したヘリへ、おれは駆け寄った。
「やったわよ、大ちゃん。いかが?」
真っ先に地面へとび下りたのは、ゆきだった。
「阿呆」
と、おれは噛みついた。
「何よ、それって!?」
あんたを助けるために無理したんじゃないの、と喚くゆきを無視して、おれはヘリに乗った。
「どうした?」
とブルーが表情を固くして迎えた。おれの表情を見たのだ。
「いい手だが、あれじゃ奴は倒せないぜ」
「しかし、ここは――」
「たかだか二〇〇メートルだろうが。鉄の塊に傷でもつくと思ったか?」
「しかし――」
「あんたらしくもない。ま、化物相手じゃ仕様がねえ。奴はピンピンしてるよ。おまけに、下の森を脱けりゃあすぐ、国道に出るぜ。結構、往来は激しいし、近くにゃ村も町もある。早いとこ片付けないと、大量殺戮が展開されるぞ」
「何か手はあるか?」
さすがにブルーの隻眼に焦りの色が見えた。他のゲリラも緊張に口を重くしている。
「すぐにヘリを出せ。おれが何とかする」
「できるのか、あんな怪物を?」
「わからねえがやってみるさ」
「離陸して下降だ。怪物を探す」
ブルーの命令一下、“イロコイ”は力強く上昇を開始した。
すぐ降下に移る。
全員が窓から眼を凝らし、
「いた!」
同時に叫んだ。
森を北へ抜けた位置――最悪なことに国道のど真ん中だ。
真っすぐ、三筋の線が前進していく。その先端におぼろな旋回物が火花を噴き上げているのは、言うまでもない。
「大変よ!」
ゆきが叫んだ。
「向こうから、バスが来るわ。――スクールバスよ!」
白い道の果てから、黄色い線がやってくる。
「どうする?」
とスコッティがブルーに訊いた。
「ヘリをバスの方へやれ。警告を発する」
「間に合わねえよ。おれをあいつの近くで降ろしてくれ。何とかやってみる」
「無茶苦茶よ、大ちゃん――そんな」
「そうだ」
とブルーも同意した。
「うるせえ。降ろせ。でないと、バラザード・リアの宝の内容を教えてやらねえぞ」
「やめてよ!」
「彼を降ろせ」
とブルーは決断した。ヘリが下降に移る。
「必要なものは?」
「ネジ回し」
「何?」
「ネジ回し。それも、できれば一番細いやつ」
「おい」
ブルーが顎をしゃくると、パウロがコンテナの方に近づき、中身をガタガタさせてから戻った。
「これでいいか?」
「上出来だ」
理想的にちゃちなネジ回しだった。
「OKだ。着陸地点を指示してくれ」
とパイロットが怒鳴った。
「奴より少し先――あの橋の上だ」
一〇〇メートルばかり先だ。長さは五〇メートルほど。
バスはその反対側五〇〇メートルの地点に近づいている。まだ気がつかないようだ。運転手は近眼か。
風景が止まった。
おれは素早くとび下り、橋のたもとに身を隠して、上昇する“イロコイ”を見送った。こんな状況でもACRは離さない。化物を片づけても、次に何が起こるかわからないからだ。いきなり軍のヘリに急襲されたらどうする。
後には最も消極的な手段が残されていた。
待つことだ。
しかし、こんな状況はさすがのおれも、はじめてだ。
四辺形のひとつだけで、重さは優に一〇〇トンを越すだろう。三〇〇トンの旋回する刃物に、ネジ回しひとつで挑むとは。
来た。
身を寄せている地面が熱を帯びてきたのだ。おれはそっと頭をのぞかせた。
ほんの一瞬だが、背筋が凍りついた。
まだ一〇メートルほど先にいる怪物と眼が合った[#「眼が合った」に傍点]ような気がしたのだ。
地鳴りの方向が変わった。
おれの方へ向かってくる。
このとき、化物の胴から黒煙が噴き上がった。
もとの方角を向いた化物の鼻先を、ヘリの影がかすめる。いいサポートだった。
おれは思いきり土手を駆け上がって国道に躍り出るや、化物めがけて走った。路面が熱い。火の粉がふりかかる。
奴と並んで橋の方へと走りつつ、おれは、胴体の中央――やや下を見つめた。黒光りする表面に、そこだけ色違いの一点があった。
もう時間がない。橋の上で仕留めなくちゃ、スクールバスとぶつかってしまう。
併走しつつ、おれはその一点にネジ回しをあてた。
一秒とかからなかった。
ぴん、と音を立てて、そいつは三つに分解した。橋の上だった。
二枚目、三枚目は大きくカーブして橋の手摺りを突き破り、三メートルほど下の流れに落ちた。
先頭の一枚は――なおも真っすぐ進んでいく。
おれは夢中で追った。
「うおおおお」
声に足を乗せた。
並んだ。敵の速度もやや落ちている。
火花を上げるアスファルトと鋼の接触面へ、おれは単分子チェインソーを叩きつけた。
手応えあり。
「わっ」
引っ張り込まれる。踏ん張った。止まれ。
「止まれえ!」
両足を踏ん張った。万能ウォッチのバンドが手首に食い込む。ちぎれるか。
次の瞬間、おれは後ろへ吹っとんだ。
単分子繊維が切れたのだ。空中でバランスをとったが、着地で片足が滑った。もう一方でかろうじて倒れずにすませたのは、我ながらたいしたバランス感覚だった。眼は四辺形を追っている。
バスは二メートル前にいた。
運転手ができるのは、ブレーキをかけることだけだったのだ。
最後の最後まで、彼は事態を理解できなかったにちがいない。
多分、今も。
巨大な四辺形の切っ先は、旧式バスの突き出た鼻面に食い込んで止まっていた。白煙を吹いている。ラジエーターの水が漏れたのだ。何となく、おれには平和の象徴のように見えた。
ようやく初老の運転手が降りたとき、おれは降下してきた“イロコイ”の縄梯子に掴まったところだった。
川の方を見た。
澄んだ流れに泥が煙みたいに湧いている。二枚の切断生物は、なおも地球の切開に励んでいるのだろうか。なに、じきにおとなしくなるさ。
ヘリに引き上げられるや、
「もう、ここには用はねえ。サヴィナへ帰投だ、GO」
景気よく叫んだおれの周りを一同が取り囲み、
「どうやって、あれを分解した? 何がつないでいたんだ?」
おれはブルーの顔を眺め、それから一同を見回して左手を上げた。こういうときは多少演出しなくちゃな。勿体ぶってんじゃねえ。劇的効果だ。
一同の視線がたっぷりと集中するのを見届けてから、
「ほら」
開いた。
ゆきとブルーまでがきょとんとするのを見るのは、結構な気分だった。
ま、おれも信じられなかったけどな。
一〇〇トンにも達する金属の刃をつないでいたものは、拳の中で幾重にも折り畳まれて、こぢんまりとまとまっていた。
頭にねじれだけをくっつけた、太さ一ミリにも満たぬ針金の束がそれだった。
エニラ師とは一体、何者なのか。ヘリで帰還するとき、おれたちの間で話題になったのはそれだった。
ある日、忽然とサヴィナ市に現れ、たちまち政府首脳の注目を浴びた。一説によると、そのとき、ある種の未来予測をしたというが、一般的には、未知の金鉱のありかを指摘したと信じられている。
一種の超能力者――これも世間一般の評価だが、実際にやりあったゲリラたちに言わせると、
「ありゃ、化物だ」
となる。
これにはおれも異存はないが、単なる化物というには異議がある。
しかし、ヘリの中では腕を組んで、ブルーたちの意見にはうむうむとうなずきうなずき、意見を求められると、
「わからねえ」
で通した。ブルーたちは何とかバラザード・リア訪問の理由を探ろうとして、精一杯かま[#「かま」に傍点]をかけてきたが、それもすべてかわした。
「次はどうするつもりだ」
ブルーがやっと答えるに足る質問をしてきたのは、あと数分で燃料が切れるとパイロットが知らせてすぐだった。
「政府に反抗する組織のトップが、個人の動向なんか知りたがるなよ」
おれは白っぱくれて一拍外し、
「と言いたいが、特別に教えてやろう。貧民夜会地区へ行って、あんた方のトップ――マリアと会う」
「ほう」
ブルーはさして驚いた風も見せなかった。察しはついていたのかもしれない。
「ところで、前からひとつ訊きたいと思っていたのだが、種々の情報によれば、日本でプリンスを見つけ、守り抜いたのは君らしい。プロの宝探し屋《トレジャー・ハンター》がそうするのはわかる。バラザード・リアの伝説は魅力的だからな。だが、おれの見るところ、君の入れ込み方は度が過ぎているようだ。君の相手は一国の政府なのだよ。それを向こうにまわしても、宝を手に入れたがるのがトレジャー・ハンターというものなのかね? その宝が正体不明ときても?」
「その通りだ」
おれは自慢たっぷりにうなずいた。
「もっとも、おれは例外だがな」
「どういう意味だ?」
「アフター・サービスも行き届いているってことさ。せっかく知り合ったんだ、王家だの貴族の血筋だのには恩を売っとくにかぎる。後でどんな役に立つかしれねえからな。おれが入れ込み過ぎに見えるのも、そのせいさ」
「人民の敵だな、君は」
ブルーは苦笑した。
「だが、今は問わんことにしよう。マリアも君に会いたがっている。ヘリを乗り換えたら、ただちに急行しよう」
「乗り換える? どっかの基地へ殴り込みでもかける気か?」
「いや、あれだ」
しゃくられた顎の先に窓があった。
下を覗いて、おれは、
「ははあん」
と納得した。
国道を馬鹿でかいトレーラーが走っている。ヘリが近づくにつれ、その天井が縦に裂けたのだ。プロペラさえ畳んでしまえば、ヘリは簡単に収容できる。後は、もう一機――運転席近くに鎮座ましましてる垂直離着陸機――VTOLに乗り換えるだけだ。
サヴィナまではそれから二〇分、マリアとの会見場所――貧民夜会地区のビルの一室までは、さらに五分の距離だった。
「とんでもない男の子だと思ってたら、やっぱり、とんでもない申し込みをするね」
マリアはしかし、言葉に似合わない慈顔をおれに向けて言った。
世界で一番苦手な表情だ。大地のようなおふくろに見つめられた不良息子みたいな気分になる。
「あんたの預かってるプリンスというのは、本当に前国王の落とし胤《だね》なのかい? それが証明できないことには、皇太后の前に、あたしたちのペンダントを持ち出すことはできないよ」
「証明するよ、おれが」
マリアは大きく笑って、腕を組んだ。
「うーむなんて、月並みな台詞を吐かないでくれよ」
おれは釘を刺してから、
「あんた方だって、王室まで否定しようってんじゃあるまい。おれの見たところ、この国はロイヤル・ファミリィを団結の中心に据えているようだし、正しい形だと思う。当面の敵は、エニラ師とその傀儡首脳陣だろう。面白いことに、おれの掴んだ情報では、王室もエニラ一派をうとましく思っている。
な、プリンスを皇太后に本物と認めさせることは、エニラ派を駆逐する力になりこそすれ、逆の結果は生まないぜ。おれを信用するしないはともかくとして、ひとつ試してみろや」
「うーむ」
マリアは眼を閉じ、考え込んだ。口をはさむ者はいない。この老婆のひと言は絶対の権限を持つのだった。
眼を開いたのは三秒後だった。
「どう思うね、ブルー?」
「おれは信用してもいいと思う。彼が皇太后へプリンスを引き渡すのは、自分のビジネスの未来を考えてのことだ。その場合、プリンスの偽物を利用したりしたら、結局は、明日の稼ぎを失うことになる。そちらのお嬢さんと違って、ミスター・八頭の関心は金品のみだ。それが現政権を斃《たお》す手だてになれば、我々としても損な取引ではあるまい」
「そううまくいくと思うかい? エニラと大佐も、今や皇太后に眼を光らせているよ。動けば、十中八九勘づかれる」
「かと言って、ペンダントを持っているだけじゃあ、宝の持ち腐れだ。ここはうまく使って、現政権打倒の力にしなければ。皇太后は公正な見識の持ち主だときく。我々にも力を貸してくれるかもしれない。いや、こういう期待はよそう。いまの言葉は忘れてくれ」
「いいだろ。――ペンダントを貸すよ」
とマリアはうなずいた。
「ただし、ご対面の席には私たちも同席させてもらうよ。ペンダントはそのとき渡す」
「いいとも」
これで話はまとまった。
送るというブルーの申し出を断り、おれはゆきと、プリンスのもとへ急いだ。
エニラ親衛隊の夜襲を受けて焼け落ちた倉庫の残骸が、眼の前に広がっていた。
周りに人影がないのを見澄まし、おれたちは残骸の中へ入ると、焼け残った石の竃《かまど》の前に来た。
錆びた鉄蓋を三つ叩き、少し間をおいてまた三つ。
耳を澄ませると、低い金属音が響いてきた。ロックが外れたのだ。
おれは竃の端に手をあて、軽く旋回させた。竃自体が同じ動きをしめし、さらに前進すると、もとの位置の床に、直径二メートルほどの真円が開いた。鉄梯子がついている。
気配を確かめてから、ゆきを先に下ろし、おれも素早く入り込んで、竃をもとの位置に戻した。固く鉄鍵でロックし、地下五メートルの地下室へ下りた。
あの夜襲を食う前から、ゆきとプリンスはここへ避難していたのだ。おれがただの手榴弾ではなく、焼夷弾を使ったのも、地下の存在をカムフラージュするためだ。ちゃんとした倉庫なら、みな地下室の存在を疑うが、いったん焼け落ちるともう気にしないものだ。
おれたちを迎えたプリンスの笑顔に、おれは事情を話してきかせた。
「お祖母さんに会えるんですか!?」
プリンスのかがやく表情を、おれは少しいい気分で眺めた。
「ああ。ゲリラが話をまとめてな。急だが、明日の夕刻――午後五時に、中央公園の『湖』のほとりだ。皇太后は毎週、その日のその時刻に、少数のお供だけをつれて市内の見聞に出かける。時間がたてば、それだけエニラ師や大佐どのに勘づかれる可能性が高くなるんだ」
「明日……」
プリンスは、自分に言いきかせるようにつぶやいた。
「頑張ってね。自分のお祖母さんだからって、気弱になっちゃ駄目よ」
「いえ、自信がありません」
プリンスは両手を回して自分の身体を抱いた。
王族の血を引いてるとはいっても、中身は八歳の子供だ。無理もない。
「心の準備ができてない?――ねえ?」
ゆきが面白そうに言った。人の苦悩を愉しんでやがるな、この娘は。
意味ありげな足取りでプリンスの背後に回り、ゆきは身を届めて唇を尖らせた。
「わっ!?」
プリンスが妙な声をあげて、椅子からとび上がった。ゆきの奴、子供の首すじに熱い吐息を吹きかけやがったのだ。
だが、何となくピンときて、おれは止めるのをやめた。
あっけにとられているプリンスの上体に、白い腕が巻きついた。
「しっかりなさいな。女なんて怖いもンじゃないわよ」
耳もとでねっとりとささやかれ、眼を白黒させているプリンスへ、
「おお、その通りだ。プリンスよ、たっぷり教育してもらえ」
おれはにやにやしながら言った。
「いえ――でも、ゆきさんは、どうしたんですか?」
「どうもしないわよン」
「そうとも、それが地だ」
「何よ! いやらしい眼で人のことを見て。――出てって!」
「悪いが、地下室はここだけだ」
「ふん、出歯亀やる気ね。あたしは、プリンスちゃんに男の心構えを教えてやってるのよ。助平ごころなんか捨てて」
「何でもいいから、頑張れよ」
おれは安物の長椅子に足を投げ出し、そっぽを向いた。
「ああ、いいわ。ね、プリンスちゃん、じっとお姉さまのことを見て。そうよ、ま、まじめな顔。やっぱり少年はいいわね、純粋で。どっかの墓暴きとえらい違い。でも、それだけじゃ、世の中渡っていけないわ。やっぱり、大人にならなくちゃ。それには、女のことよーく知るのが一番よ」
「ほ、本当ですか?」
「そうよ。ま、あんな風になったらおしまいだけどね」
「あんな風てな、誰のこった?」
おれの声に、ゆきは、ほほほと笑った。
「耳がいいこと。――気にしないで、プリンスちゃん、あんな中途半端な奴の言うこときいちゃ駄目よ。外見は青年、中身は狒々《ひひ》爺いなんだから。さ、お姉さんの顔を見たまま、ここ触ってごらん」
「でも」
「いいから。――どう、柔らかいでしょ。もっと強く揉んで。下から持ち上げるみたいにして。ああ……そうよ。それから、おっぱいの先、指でこすって……あ、そうよ、親指で軽くこするように……ああ……教えもしないのに……うまいこと、あなた……きっと、立派な……立派なプレイボーイになるわよ」
「いいんですか、こんなことして?」
プリンスはおずおずと訊いた。
「いいとも。好きなようにさせてみろ」
「でも」
「いいから――はい、今度はここよ。お、し、り」
おれはそっぽを向いていたが、事あるごとに、ここ触って、そこ撫でて、という指示がきこえ、とまどうプリンスの気配に混じって、ああン、いいわぁ、などというゆきの喘ぎが地下室を満たし、さすがに黙っていられなくなった。
「おい、いい加減にしろ」
ゆきはふん、と鼻の先で笑って、
「あーら、何よ、いいとこなのに。嫉いてんの?」
「ふざけるな。プリンスが困ってるぞ」
「よしてよ、この顔が困ってる風に見えて? 歓喜の絶頂よ」
「子供を歓喜の絶頂にしてどうするんだ、おまえは。この淫乱娘」
「うるさい。邪魔するな」
「喧嘩はやめて下さい」
プリンスが叫んだ。顔が上気している。見ていない隙に、ゆきめ、何しやがった。
「ふっふっふ」
とゆきは不気味に笑った。
「とにかく、あたしの役目は終わったわ。後は明日のお楽しみね」
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第四章 大男消滅
翌日、おれはまず、パシャの店へ行ってみた。店の前でタクシーを止めた途端、眼が剥き出しになった。看板が違っている。
「パシャ精肉店」
店内は、と見ると、ガラスケースに様々な肉を収め、ケースの後ろにはさばいた肉を吊るした典型的な肉屋である。
驚きを抑えて、おれは四方へ意識を集中した。何かが起こったのだ。罠だろうか。
異常はない。平々凡々たる昼近い港町だ。
おれは何げない風でぶらりと店内に入った。どこから見ても、開店後三〇年の立派な肉屋だ。天井にも壁にも、脂肪と血の匂いが染みついている。
「いい肉が入ったかい?」
おれは、さっきからこっちに背を向けて肉を切っている太った白衣姿に呼びかけた。パシャより二まわりも太い。クラスメイトの外谷順子そっくりだ。
返事はない。
ひょっとして敵か、と意識を集中したが、殺気も緊張も伝わってこなかった。それどころか――
耳を澄ますと、ひっひっひっという声がきこえる。泣いているのだろうか。気がやさしいのはいいが、豚をさばきながら泣いてちゃ、肉屋は務まるまい。
おれはカウンターの品物をざっと見ながら、
「ねえ、八頭ってもんだけど、パシャさんはいるかい?」
と訊いた。
返事は、「ひっひっひ」だ。
腹を立てる前に、おれはあることに気づいた。肩をふるわせながら、赤い肉を切り裂いている女店員でぶは、泣いているんじゃなかった。
ひっひっひは笑い声だったのだ。この女は、肉を切り刻むのが愉しくて、客の声も耳に入らないのだった。
「おい」
おれはケースに拳を打ちつけた。
ガン、と音がして、ようやくそいつはふり向いた。
白衣の胸から膝にまで血痕を散らせ、手には幅広の肉切り包丁、分厚いたらこ[#「たらこ」に傍点]唇からはみ出た舌で、舌なめずりをして――
その顔が驚きに歪んで、
「あーっ!?」
同時におれも叫んでいた。
「――と、外谷!?」
おお、体重九〇キロ、バスト一二〇、ウエスト一二〇、ヒップ一三〇――ピラミッドのように安定した我がクラスメートは、こちらも仰天しながら、芋虫のような指をおれに突きつけて、
「やや八頭くん――どうして、こんなところにいるのさ、ぶう!?」
と訊いた。
「おまえこそ、何だ。確か家族で世界一周旅行に出かけると自慢してたはずだぞ。ジェット機はファースト・クラス、船は一等船室、総額一億円の大プロジェクトと自慢してたじゃねえか」
「ふん、この国の沖で船が沈没しちゃってさ。あたしひとりだけ、命からがら泳ぎついたのよ。じき、日本大使館から救援が駆けつけるわ。これは、庶民生活の見聞を深めるためのバイトよ」
「何が、日本大使館だ。この国にそんなものはねえ。大体、日本大使館から助けがくるはずの女が、なんで肉屋のバイトなんかやってる」
ののしりながら、おれは、よくこんなぴったりの職業についたものだと、内心感嘆していた。肉を切るのもぴったりだが、こいつの場合、切られる側になる方が、もっとさま[#「さま」に傍点]に……
「なに、人の身体をじろじろ見てるのさ、ぶう」
外谷は手にした包丁をふり回しながら言った。
「いや、よく似合うと思ってな」
おれは素早く本心を伝えた。
「あら、そう」
途端に外谷はにんまりとした。
このでぶは、血の巡りをみな脂肪に取られてしまい、頭に回らないため、誉められると、
「いやあ、お太りですなあ」
と言われても、身を震わせて喜ぶ。
「うふふ。あたしも満更でもないと思っていたのだ」
「そうとも、包丁がじつによく似合うぞ」
おれは手を叩いた。
「うふふふふ」
外谷はポーズを取り出し、ナルシシズムの絶頂にあった。
「ところで――おまえの雇い主はどこにいる?」
「え?」
と夢から醒めたでぶは眉をひそめた。
「おれは彼の知り合いだ。ある品を預けてある」
「何のことよ。あんたのことなんか知らないわ。ここは三〇年前から肉屋よ」
「三日前までは、武器店だったんだ」
「ぶう」
と外谷は言った。違うという意味らしい。突拍子もない女だ。
「まあ、いい。どうせ、何かの都合で口止めされてるんだろう。んま、しっかり働きな。日本へ帰してやろうかと思ったが、やめとこ」
「ちょっと待て!」
ケースの後ろで外谷が跳ね上がった。
「待ってよ、待ってよ。ねえ、八頭くんてばさ。あたしも連れてって、ぶう」
「おや、日本大使館から救助の手がさしのべられるんじゃねえのか」
「そうよ」
何のつもりか、でぶは両足を踏んばった。どすこいだ。
「じゃ、な」
「あーん、嘘よ、嘘よ、嘘なのだ。実は――」
外谷の話をきいて、おれは呆れ果てた。ぜいたくな世界一周旅行なんてとんでもない。ほとんど無銭旅行のつもりで横浜から旅立ったもので、とりあえずはヨーロッパ行き貨物船の掃除係。おまけに、乗組員の誰もお尻に触ってくれないと腹を立て、大立ち回りを演じた挙げ句、香港で下ろされ、ぶうぶう言いながら中国を横断。このとき使ったのが、豚を運ぶトラックだったというから、天は理解があるというべきだろう。
当人は、豊満な肉体を武器に、近づく男を手玉にとって、と考えていたらしいが、男の方にも好みがある。ついにひとりも近寄らず、野菜をかっぱらったり、サーカスで河馬の縫いぐるみを着たりして何とかヨーロッパへ辿り着き、アメリカへ渡ろうと、またも家畜用の貨物船にもぐり込んだら、それが航路を誤ってローラン共和国沖で座礁。後はこいつの言う通りだ。当てもなく浮いていたところを釣り舟に助けられたというのが、なんともぴたりで素晴らしい。
「ねえ、クラスメートでしょ。一緒に連れて帰ってよ」
こうせがむ外谷に、
「わかった」
とおれは言ってやった。
「助かったあ」
外谷は喜びのあまり包丁をふり回した。
「お礼に今晩、あんたの部屋へ行くわ」
「ふざけるな」
「じゃあ、肉をまけてあげる」
「おまえの肉なら貰うさ」
「やだ、エッチ、ぶう」
何故か紅くなって喜ぶでぶ[#「でぶ」に傍点]へ、
「ただし、条件がひとつある。――パシャは何処へ行った?」
外谷は困ったような表情をしたが、とうとう、おれの方へふくれ饅頭みたいな顔を寄せてきてささやいた。
「あたしからきいたって言っちゃ駄目よ」
「おお」
「近くの工場にいるわ。何かを修理してるんですってよ。今日は外部の警察の取り締まりがあるので、店も衣替えしたんだわさ」
「その修理品だが、いつできると言ってた?」
「明日いっぱいかかるだろうって」
「だろうつうと、もっと早くできるかもしれないわけだな」
「そうも言えるわね」
「なら、今日中にできたら、ここへ届けるように言ってくれ」
おれは、対面の場所を伝えた。
「わかったわ。必ず伝えるわさ。八頭君も約束守ってよ」
「いいとも。おれが帰るとき、必ず連れてってやるよ」
「ぶう」
今度は、うれしい、という意味だろう。
肉屋を出ながら、おれはちっともうれしくなかった。
自由電子レーザーも機械服もなし、か。裸でも危険がなければいいが、とてもそうは思えなかった。
午後五時。うす闇の公園にも、黒い色が濃さを増してきた。
「あと三〇秒よ」
とゆきが腕時計に眼を走らせて言った。
おれたちがいるのは、大きな池のほとりである。ちっぽけな国には不釣り合いにでっかい公園だと思っていたら、池の端が見えないときた。当然、向こう岸もかすんでいるが、これは夕霞のせいだろう。「湖」の名にふさわしい。
おれは石のベンチに腰かけているプリンスを見つめた。さっきから黙りこくって、声をかけても返事がない。外界から自らを遮断した少年は、ひどく孤独に見えた。
おれは周囲に気を配っていた。背後の木立のどこかには、ブルーを首領とするゲリラの一団が潜んでいるはずだ。彼らはとりあえず問題ない。要注意はエニラ師グループと、ヤンガー大佐一派だ。どこで今日の密会を嗅ぎつけてるか、わかったものじゃない。
異常なし、と判断したとき、前方の小路に人影が見えた。
うすいベールを頭から被った女性と黒服の老人だ。
過去の面識に油断させられないよう気をつけなくちゃあ、な。
おれはプリンスの肩を叩いてから、皇太后と名雲秘書の方に黙礼した。
おれから一メートルの距離で老女の足は止まった。
眼がやさしくおれを見つめ、それから、かたわらの――ベンチの方へ滑った。
プリンスはもう立ち上がっていた。その顔を一瞥し、おれは安堵した。緊張はしていたが、臆してはいない。真っすぐ前を向いた瞳には、皇太后――祖母の顔が映っていた。
老女は視線をおれに戻し、
「この子が?」
と訊いた。
「おっしゃる通りで。――おれは“プリンス”と呼んでいます」
おれは少年の肩に手をあてて、軽く押した。
彼は力強い足取りで二歩前へ進み、両手をきっちりと腿につけて一礼した。多少ぎこちなくはあったが、身についているような自然な動きだった。
「あなたが、私の孫?……顔をよく見せて下さい」
二人の間に時が流れた。時間にすれば数秒だが、おれたちには理解しがたいほど長い長い時が。
やがて、皇太后は低い声で言った。
「似ています。本当によく、お父さまに。あなたは父親似ね。立派な方でしたよ」
おれの背後で、ゆきが小さく、やった[#「やった」に傍点]、とつぶやいた。
「ね、ペンダントはお持ち?」
「はい」
プリンスはシャツの前ボタンを外し、首から下げた金の鎖を引き上げた。
夕暮れの蒼茫《そうぼう》を一点に集めたようなペンダントのかがやきは、皇太后の眼も吸い込んだ。
そっと手に取り、ためつすがめつして、
「私の眼にはそっくりに映るけれど、まがいものか否か調べてみなくてはなりません。預からせていただきます」
「それは困ります」
と、おれは言った。
「何故でしょう。私なりにチェックしなくては、この子を孫と認めるわけにはいきません」
「実は、目下のところ、おれの所有じゃあないんで」
皇太后は眉をひそめて、
「では――誰の?」
おれは背後をふり返った。
水音がしたのはこのときだ。
はっと“湖”の方を見た。
夕霞が覆っている、その水面の奥から波紋が渡ってきた。
「どしたの、大ちゃん?」
「みんな、森へ下がれ」
とおれは手をふった。やはり、気づかれていたか。水の中からだと――ニューヨーク湾《ベイ》の恐竜が浮かんだ――エニラ師か?
急に陽が翳った。
羽搏きが舞い下りてきた。頭上を見る前に、おれは悟っていた。
グロックを抜き、上空めがけて射った。異様な声が鼓膜を打ち、異様に長い尖った鼻面と、一枚の羽根もない、うす茶の皮を張っただけの翼が眼に入ってきた。
鳥ではない。
翼手竜――プテラノドンだ!
二発の九ミリ弾を眼に食らってのたうつ爬虫類の姿は、先史時代の悪夢のようだった。片翼八メートルもある翼が地べたを打ち、砂塵が舞い上がっておれの眼を覆った。
また、闇が落ちてきた。
「皇太后さま!」
名雲秘書の絶叫がおれをふり向かせた。
もう一匹のプテラノドンが老女に掴みかかっている。
爺さんがとびかかろうとしたが、そのたびに長い嘴が突き出されて近づくことができない。
エニラの野郎、皇太后にまで牙を剥く気なのか。
「ゆき、プリンスを頼むぞ!」
叫んだ足首が、いきなりかっさらわれた。
ぎょっとした。ぬるついた、ゴムみたいな触手が巻きついている。黒っぽい色からして蛸だろうが、いちばん先っちょの吸盤でも、直径三センチはあるのだ。
それは水中から伸びていた。
「こん畜生!」
声は流れた。猛烈な力で水際へ引き寄せられていく。一〇メートルを二秒とかかるまい。背後で銃声と怪鳥の声が入り乱れた。
生死は一瞬の判断にかかっていた。
動いたのは、右手とグロックではなく、左手だった。
ぴぃん、と弾き出た単分子チェインソーの、なんとも頼もしいことよ。
ほんのひとふりで、蛸の足は切れた。
跳ね起きながら皇太后の方をふり向き、おれは愕然となった。
老女は地に伏せ、プテラノドンとやり合っているのは、プリンスじゃあないか。
ゲリラが救援に駆けつけたが、こちらもプテラノドンに襲われ、死闘の真っ最中だ。
「野郎」
とグロックを向ける寸前、ゆきの影が前方を横切った。
プリンスを襲うプテラノドンにとびつき、右手のワルサーPPK/Sを首筋へ乱射する。たいした度胸だ。血飛沫《ちしぶき》を上げてプテラノドンは地に落ちた。
「やった!」
駆け寄ろうとしたおれのかたわらを、長いものが滑っていた。
蛸だ! と思った瞬間、それはプリンスを庇うかたちになったゆきの腰に、ぐいと巻きついた。
「糞ったれ!」
単分子チェインソーをふるおうとした頭上から、黒い巨大な影が舞い下りてきた。
プテラノドンの右翼の付け根から胴を斜めに分断するより、視界を奪われる方が危《やば》かった。
そいつが内臓を撒き散らしつつ、どっと地に落ちる向こうで、ゆきの悲鳴が上がった。
水中へ引きずり込まれる!? いや、声は天空へ舞い上がった。
太腿と黒いパンティも露わにもがくゆきと水面をつなぐ触手は、一〇メートル以上あった。
おれが動くより早く、プテラノドンの一匹がそこへ舞い下りるや、二本の足指にがっしりとゆきをつかまえ、軽々と空中へ飛翔したのである。
二段構えか、畜生。
この瞬間、おれはきっぱりとゆきのことは忘れた。戦いはつづいている。心配事は死を招くだけだ。
水中からみるみる、巨大なぜんまいみたいな触手が盛り上がった。
プテラノドンとやり合うゲリラたちの方へと伸びてくる。
おれは二匹のプラテノドンを射ち倒し、プリンスのもとへと走った。
「無事か?」
「はい」
「血が出てるぞ」
「手の甲を少し引っ掻かれましたが、平気です」
プリンスはハンカチで傷を押さえた。
「ご立派でした」
と言ったのは、名雲秘書である。
「皇太后さまを守るために、あんな化物を恐れもせず――」
「その通りです」
とかたわらの老女が言った。ベールには土と草の切れはしがこびりついている。
「私はこの子に救ってもらいました。とても勇気のある少年です。それに、私にも気後れしませんでした」
「教育係がいいもんで」
おれは胸に軽い痛みを感じながら、三人を木立の奥へと押しやった。
「とりあえず、安全地帯で待て。片づけたらいく」
名雲に言ってから、池の方をふり向いた。
事態は凄まじい展開を迎えていた。
池からせり出した八本の触手は渦を巻いてゲリラたちを襲い、何故か、ゲリラたちの銃は火を吹かなかった。
ひとりが火炎放射器を抱えているのに、火が出ない。焦り切っているところへ駆け寄り、おれは、
「どうした?」
と訊いた。
「わからねえ。バーナーは点火しているのに、ゲル化油が出ねえんだ」
「貸してみろ!」
おれはピストル型のノズルとグリップをもぎ取り、眼の前でうねくる蛸の足へ引き金を引いた。
待ってました、の勢いであった。
黒煙を突き破って放たれた炎は、死の触手を容赦なく押し包んだ。
驚くほどの勢いで、触手は後退した。
勢いづいたおれは、ゲリラの肩を押して掃討に取りかかった。
こうなると火炎放射器《フレア・スロウアー》は無敵だ。
襲いかかってきたプテラノドンを三匹も火だるまにし、触手のことごとくを水中に後退させるのに、二分とかからなかった。
捕まったゲリラたちも水中に落ち、自力で這い上がってくる。
その中にブルーがいた。
「おれまで助けてもらったな」
と水浸しで言うのへ、
「ヘリのレンタル料さ」
おれはあっさり切り返して、
「やけに不様だな。蛸はともかく、プテラノドンくらいはやっつけられたろうに」
と言った。
「それなんだ」
と、シャツの襟をしぼりながら、ひとりが不思議そうに、足元のAK47を指さし、
「いざってときに、弾丸《たま》が出なくなった。昨日までは快調だったし、ちゃんと手入れと試射をしてから出てきたんだぜ」
「ちょっと失礼」
おれはAK47を取り上げ、池に向かって引き金を引いた。
小気味よい発射音の彼方に水柱が上がった。
「どういうことだ?」
とブルーが首をひねった。
「おれの銃も作動しなかったぞ」
「それより引き上げよう。パトカーが来たぞ」
サイレンの音が近づいてきた。この光景を見た警官の表情を想起し、おれは苦笑した。
「後で挨拶にいく。とりあえず、ここでな」
ブルーにこう伝えて、おれは名雲たちの後を追って小路へと走った。
「ん?」
三〇メートルほど進んだところで、この声が出た。
太い幹のそばに皇太后と名雲秘書がぼんやりと立っている。プリンスの姿はなかった。
「どうした?」
近づいて訊いても、きょとんとしているきりだ。
術をかけられたな。ピンときた。頬でも張るかと右手をふり上げたとき――
「プリンスはお預かりしますわ」
と名雲はいやらしい言葉遣いで言った。
催眠術と女――これでわかった。
「その通りよ。ラジャですわ」
「うるせえ」
「このお二人なら大丈夫。あなたがお姉さま素敵よと言えば、自動的に術が解けるわ。それと、皇太后さまに余計なことは言わないで。プリンスの生命がかかってるのよ。それでは――また、すぐにお目にかかりましょう。素敵な坊や」
一発食らわせてやりたくなるのを、おれは必死でこらえた。
周りにひとがいないのを見澄まし、
「お姉さま、素敵だぜ」
と言った。
「これは八頭さま」
と名雲秘書が眼を丸くした。
「あの子は――何処に?」
周りを見わたす皇太后へ、おれはできるだけ穏やかに、
「さらわれたようです」
みるみる青ざめた顔から、しかし、王族の威厳は失われなかった。
「無事であることを祈ります。神は勇者を見殺しにはしないでしょう。それと――あなたも」
「頑張ります」
と、おれはうなずいた。その肘に、老女の手がかかった。骨張った白い皮膚には、おびただしい老人斑が浮いている。時間の流れだけは、ロイヤル・ファミリィでもいかんともしがたい。
「お送りしましょう」
おれは公園の正門まで二人を送り届け、濃さを増す闇にまぎれた。後は警察が何とかしてくれるだろう。ゲリラもうまく逃げたようだ。
タクシーを止めようとして、おれは誰かに見つめられているのを感じた。
かまわず歩いた。
尾けてくる。気配は感じられないが、わかるのだ。糞、ACRを持ってくるんだった。皇太后の前じゃまずいと、つい遠慮してしまったのだ。
おれは路地に入らず、大通りを進むことにした。どいつが尾けてくるのか、勘が働いていた。
横に車が止まった。パトカーだった。
ドアが開いた。警官が二人、おれの前に立ちふさがった。
「何か?」
おれは英語で訊いた。
「いま、そこの公園で銃撃戦があった。東洋人がいたと目撃者が言っている。一緒に来てもらおう」
「無関係だよ」
言いながら、おれはタイミングと次の行動予定を頭に叩き込んだ。
「とにかく、来い」
ひとりが片手を伸ばした。
待ってました。その手首の逆を取ると同時に、もうひとりの臑《すね》に蹴りを入れ、片足でぴょんぴょん跳びをする奴へ、逆手警官を叩きつけた。
そろって車の鼻先に倒れる。
一気に走った。
凄絶な恐怖が胸を灼いた。
ひょい、と横合いからおれの前に出てきたのは、予想通り、あの大男だった。
胸倉をごつい手が掴んだ。
間髪入れず、おれの左手が閃いた。
チェインソーの刃は首筋に数ミリ食い込んで止まった。こいつめ、何でできてやがる。自由にならなければならない。だが、それは至難の業だ。
「何をしている!?」
周囲を数個の人影が取り囲んだ。警官だ。さっきの二人プラス四人。応援が駆けつけたのだろう。わざと大通りを選んだ甲斐があった。
「この東洋人は重要参考人だ。署へ連行する。離せ」
次の瞬間、そいつの顎は一生治らないくらい粉々に砕けた。大男の拳の一撃だ。それでも、おれを離そうとしない。スッポンみたいな野郎だ。超音波発生器も出せない。
「抵抗するか!?」
五人が一斉に駆け寄り、大男の四肢にとびついた。
「やめとけ!」
叫んだが遅かった。
大男が片手をふり回したのを見たのは、おれだけだった。
ぼっ、という音が血の糸を引いた。
手刀の一閃で、警官たちの首は付け根から断ち切られていたのである。
通行人の間から悲鳴が上がったのは、一瞬の後だ。
おれにはそれで十分だった。左手の単分子チェインソーを思いきりふった。大男の手にではなく、それに掴まれたシャツの生地へ。
奴が布の切れ端を放り捨てたとき、おれは、反対の手で超音波発生装置を取り出し、大男に向けていた。びくともしない。野郎、改良されたな。それにせよ、当てにならないメカには頼らず、おれは、前もって見ておいた沿道の店の一軒へとび込んでいた。
金具屋だった。ばかでかい木箱をいくつにも区切って、ネジやハンマーが並んでいる。
そのひとつに手を突っ込むや、おれは、こちらへ歩き出した大男めがけて放った。黒光りする稲妻は五寸釘に変わって、大男の顔面と胸にめり込んだ。
びくともしねえ――のはわかっている。
手のひとふりで払い落とした五寸釘が地面に落ちる前に、おれは大男の頭上へ跳躍していた。空中で身をひねりつつ、
「くたばれえええ!」
絶叫を、ふり下ろした両手から鉄パイプへと迸らせる。
ぐっしゃん、とめり込んだ。頭頂だ。
地面へ着くまでにもう一発ぶち込んだ。足が地についてないぶん力《パワー》は弱まるが、並の人間なら頭蓋がつぶれて脳がはみ出てる。
大男はふり向いた。
両眼は冷たくおれを映していた。怒りも憎しみも――苦痛もない。
そのこめかみに、おれはパイプを激突させた。ひん曲がった。おれは一気に後方へ跳んだ。パイプへの執着はもう[#「もう」に傍点]ない。一気に路地へと走った。
最初の曲がり角で後ろを見た。路地の入口にいる。走り出した。えらいスピードだ。
おれは右へ曲がり、左右のビルを点検した。完全な廃ビルだ。
左の一階へ入った。駐車場だったらしい、ぱっくりと口を開けたスペースがおれを迎えた。
上衣の内側から、緑色の粘土みたいな塊を取り出し、天井へ放り投げる。
ぺちゃんと貼りついた。
三つ投げたところで、いやな奴が入ってきた。
「話し合おう」
とおれは言った。
大股で近づいてくる。一切の問答は無用というわけだ。プテラノドンや大蛸とは別に、おれ専門に派遣された殺し屋をどう倒したものか。とりあえず、この手だ。
おれはゲリラから借りた天井のプラスチック爆弾へ、コンバット・ウォッチの上に巻いた点火装置を向けた。スイッチ・オン。
大男は三つの爆発地点を結ぶ三角形の真ん中にいた。
数トンに達するコンクリートの塊が、吐瀉物のような勢いで落下する。大男はたちまち呑み込まれた。
とばっちりを避けて隠れていたコンクリート柱の陰から、おれはじっくりと瓦礫の山を観察した。これで奴が平気なら、もう手はない。尻尾を巻いて一目散だ。
ぴくりとも動かない。
おれは軽く息をついた。数秒待ったが、変化はない。
逝ったか。ざまみやがれ。
おれは勢いよくコンクリートの山に背を向けた。次の行動に移らなくちゃならない。
数歩歩くうちに、大男のことなど脳裡から消えていた。
小さな音がそれを憶い出させた。
ふり向いた。
コンクリートの山の麓に、小指ほどの破片が転がっていった。
おれは山の輪郭に目線を置いた。
間違いない、ゆれている。
鉄棒の突き出た分厚いコンクリート塊が跳ね上がるのは、眼を剥く眺めだった。
大地を突き破って現れた地底の魔物のように、大男は軽々と瓦礫を蹴りとばして、床の上に立った。
万事休す、か。
グロックは残っている。単分子チェインソーもある。手榴弾も焼夷弾も健在だ。
だが、使う気もしなかった。同時に、おれは逃げることも忘れた。
面白い。やってやろうじゃないか。八頭大の頭と身体ひとつで相手になってやる。
大男が掴みかかってきた。凄いスピードだ。間一髪でかわし、おれはコンクリート柱を背にした。一秒と止まらず横へとぶ。突っ込んできた大男は頭からコンクリート柱に激突――しなかった。
数ミリ残して踏ん張りやがった。何て反射神経だ。おれは――楽しくなった。
向かい合い、右へ――と見せかけて足元へとんだ。足をかけて倒せる相手じゃねえ。ローキック一閃。
鉄杭へぶつかる衝撃だ。痛みを顔には出さず、おれは手元のコンクリート塊を掴んで大男の顔面へぶん投げ、ひるんだ隙に二、三回転して立ち上がった。
そこへ来た。
ショルダーアタックの猛打だった。腹が爆発したかと思った。両手を交差させて防いだのに、だ。
宙をとんでいる。コンクリートの床に頭をぶつける寸前、おれは頭を起こして、ベルトの方へ眼をやった。合気道で習った後ろ受け身に上達すると、追突されてもムチ打ち症にならないとよく言われる。コツは帯――ベルトを見ることだ。こうすると自然に頭が上がり、後頭部への打撃にも耐えられる。
痺れる手で後頭部をカバーし、おれは、廃墟の外の路上まで跳ねとばされた。
立つつもりが、すぐには不可能だった。腹にズンとくる。
次はどうするか。もう一発食らったら、内臓がもたねえ。
突っ込んできた。容赦のないスピードだった。化物につくられた化物だけあって、油断も驕りもない。
おれはよける体勢になかった。
――やられる。
意識が全身を駆け巡り、おれ自身も知らない精神の深淵を貫いた。
大男がぶつかるまで十分の一秒――変化はその間に生じた。
うなりを生じる暗黒の塊へ、おれは左手を突き出した。
自分でも理由はわからない。ただ、受けられるような気がしたのだ。
軽い衝撃が手首から肩へ抜けた。
微動だもせず巨体を受け止めたことに、おれは軽い驚きを感じた。手のひらは大男の右の肩口にあてがわれていた。
奴が姿勢を直す前に、おれは一歩足を進めて肩を決め、腰投げの要領で跳ねとばした。重いが、気にならなかった。要はタイミングだ。
通りの向こうにぶん投げた大男が起き上がるより早く近づき、首筋に回し蹴りを叩き込む。
手応えがあった。大男は膝をついた。その顔色がすうと変わった。陽灼けの赤銅から鉛色に。色は顎を伝わり、幾筋もの糸となって落ちた。
毛穴という毛穴から噴き出したものは、大男の、いわば体液だったのだろう。とうとう機能不全を起こしたのだ。
止めを刺さなきゃ、と出かけた足を止めたのは、大男の周囲に上がった白煙だった。何が起きたかはすぐにわかった。
衣類と地面が溶けはじめているのだ。
体液自体の成分のせいか、外気に触れたせいかはわからない。足元の煉瓦がみるみる腐食していくのを見て、おれは感心した。
大男は歩き出した。
おれの方ではなく、大通りの方角へ。地面は溶け、大男の身体も白煙を噴いている。奴が消滅するまで待ってはいられそうにない。
だが、何もかも溶解する化物をどうやって始末したらいい?
また、ビルの壁の下敷きにするか。おれは残っていた二個の手榴弾を握りしめた。だが、どちらも対人用の破片型だ。あいつを埋葬するほどのパワーはないし、直接ぶつけても効くまい。
じきに大通りへの曲がり角に出る。大男の行動原理はすでに虚無と化しているにちがいない。
背後から近づく気配に、おれはふり返った。
小さな虫みたいなルノーが角を曲がってきた。
運転席の男の顔を、おれの眼は見分けた。
おれのかたわらに止まるや、ドアが開いて陽灼けしたアラブ人が顔を出した。
「元気かね?」
「何とかね」
と、おれはパシャに答えた。
「肉屋の店員から、公園のことをきいて届けに来た。間に合ったかね?」
パシャの言葉より、おれは後部座席に押し込まれたコンテナに注目していた。
「何とかな」
大急ぎでドアを開け、コンテナの封を切る。中身は言うまでもなかった。機械服《メック・ウェア》はそのまま、自由電子レーザー・ガンのみを引っ張り出す。安全装置を解除し、内蔵の超小型原子炉が励起するかすかな電子音を聴きながらも、両眼は大男から離さない。
肩付けして照準を合わせたとき、白煙に包まれた塊は、通りへの道を曲がろうとしていた。
「あばよ」
白い光がおれと大男をつないだ。
単純な赤外線レーザー・ビームが照射された刹那、すでに加速ずみの自由電子《フリー・エレクトロン》ビームは、一億ワットのエネルギー線と化す。
白光は大男を貫き、向こうの廃ビルの壁を貫通して地面にめり込んだ。
「やった!」
訳もわからず躍り上がるパシャのかたわらへ、おれは膝をついた。大男は大地から立ち昇る水蒸気と化している。
おれの方は、身体の奥から響き渡る激痛の巣窟だ。
「いかん。乗りたまえ」
パシャが腕を掴んだ。
「うおお」
とおれは吠えた。痛みのせいだった。
「離せ。ひとりで乗る」
「無茶苦茶な男だ。――八頭の血かね」
呆れるパシャへ、
「それがどうした?」
とおれは毒づき、ルノーの運転席へ乗り込んでから、意識を失った。
眼を醒ましたのはパシャの店だった。
さて、どうしたものか。
ゆきはプテラノドン――十中八九、エニラ師にさらわれ、プリンスはラジャ――大佐の手に落ちた。幸い、ペンダントはあの瞬間、皇太后の手から失敬して、おれが持っている。三つ巴だ。
立場としては、エニラ師が一番弱い。彼の目的にゆきは全くの無関係だからだ。奴の行動としては、ゆきをダシにおれのペンダントを狙うか、ヤンガー大佐を襲ってプリンスを奪い取るか、だ。どっちも簡単にはいかんぜ。
ヤンガー大佐は一番強い。なにせ、プリンス本人を押さえてるんだからな。しかし、これもペンダントなしでは九仭《きゅうじん》の功を一簣《き》にかく。近々、おれ宛てに何らかのコンタクトがあるだろう。同時に、エニラ師一派の攻撃もこなさなきゃならないから、いまになれば、一方的におれとの共闘を破棄したのはまずかったと、頭を抱えてるこったろう。ざまみやがれ。
で、おれの場合だが、ペンダントひとつ持ってうろうろしてても意味がない。プリンスを奪回するのが最重要課題だ。一筋縄じゃいかねえが、ま、人間相手だ、何とかなるだろう。
ゆきのことは二の次にした。あれで生きてりゃ、敵が生かしておいたということになる。あの娘をどう使うにしろ、おれへのアプローチがないうちは安全だ。エニラ師は拷問なんて人間的な手段は使うまい。問題は人外のもののくせにあっちの方に眼がない点だが、ゆきなら、最後の線は何とか守り通すだろう。化物というのは、案外うぶかもしれないしな。
「何をクヨクヨしている?」
パシャが冷えたビールと焼き肉らしい塊を皿に載せてやってきた。
「内緒だ」
「いいことだ。口の軽い男は信用できんからな。――一杯やりたまえ」
「こりゃどうも」
とおれは、テーブルに置かれた肉に眼をやり、ある疑問を感じた。
「外谷《とや》はどうした?」
「使いに出てる。二、三日帰って来ない」
おれは、じろっとアラブ人の顔を眺めて、肉塊を指さした。
「これは何の肉だ?」
「鳥だがね」
パシャは何げない風に言った。
「何処で仕入れた?」
「もちろん、肉屋だよ」
「嘘をつけ。こんな脂肪身《あぶらみ》の多い鳥肉があるもんか。これは豚だ。それを黙っているとは怪しい。――まさか、おれの同級生をバラしたんじゃねえだろうな?」
「外谷さんのことかね。いくら私が悪食でも、物には限度というものがある」
パシャは心底嫌そうに言った。
「飢え死にしても、あの女の肉を食うよりはましだ。汚らわしい。よろしい。なぜ、嘘をついたか説明しよう。私はアラブ人だ。だから、豚肉は食えん。しかし、あれはなかなかうまいものだ。そこで、鳥肉ということにしてだな――」
「わかった」
おれも事情を呑み込んでうなずいた。
「いや、おかしな疑いをかけてすまん。遠慮なくご馳走になろう」
ビールはどういうわけか、キリンだった。
「ところで、パシャさんよ。ヤンガー大佐とその部下のオフィスは、軍事施設の中にあるのかい?」
「違う。特務部は別だ。確か、情報省近くのビルの一室だ。極秘なので住所まではわからん」
「本当に?」
おれは、じっとパシャの眼を見つめた。にやりとしやがった。これだから、アラブの武器商人は信用できねえ。
「わしにはな。――だが、ゲリラなら」
「だと思った」
おれは椅子から立ち上がり、軽く柔軟体操を行った。
くう、痛むこと。背骨の芯に電撃が突っ走る。
ベッドに横たわって眠りを貪りたい欲望が胸を灼いたが、こらえた。今のおれには、眠りより行動時間こそが黄金なのだ。
「たいしたもんだ」
パシャがグラス片手にため息をついた。
「背骨がひどく痛んでいるし、肋骨には十本以上ヒビが入ってる。筋肉もちぎれる寸前だ。普通なら呼吸するだけで精いっぱいだがな。――八頭の血こそ恐るべしだな」
「世話になったな」
とおれは、武器を身につけた上に上衣をひっかけて言った。
「悪いが、あんたの車を借りていく。料金はこの件が片づいてから払うよ」
「わしは、まだ借りを返しておらん」
とパシャはにやにやしながら言った。<シンの右の心臓>のことだろう。義理堅い男だ。アラブ人はこれだから信用できる。
「車のトランクに、君の役に立ちそうな品をみつくろっておいた。好きに使うといい。そのドアを出たら、右へ曲がると車庫だ」
「ありがとよ。ついでに、ひとつ頼みがある。貸借関係はそれでチャラにしたい」
「何だね?」
「あのでぶ――外谷順子のことだ。この国にいても国民に迷惑がかかるだけだろう。さっさと日本へ送り返してやってくれないか?」
「君の友人かね?」
パシャは驚いたように言った。
「早く言えばいいのに。引き受けた。早速、ジェットのファーストクラスを取ろう」
「貨物船の家畜倉庫でたくさんだが、何にせよ、よろしく頼む」
おれは念を押してからパシャの家を出た。
倉庫から車を出し、五分ほど走ってから路地へ乗り入れ、トランクの荷物を点検した。ばかでかい旅行用スーツケースである。危険な意志は感じられなかった。
ロックを外して蓋を開く。
おれは、にんまりと笑った。
さすがは武器商人だ。これだけのものを用意してくれれば、仕事はなんぼか楽になる。
やや満ち足りた気分で車に戻ると、車内電話が鳴った。
「あいよ」
と答える前に、おれは不吉なものを感じた。受話器の向こうの相手が危険だというんじゃない。強いて言えば、内容だろう。
「あいよ」
と取るや、パシャの声が、
「最新情報だ。――ゲリラの本部が襲撃されたらしいぞ。ほんの二、三分前だ。まだ、ドンパチやってるかもしれんよ」
「相手は誰だ、エニラか?」
おれはクラッチとアクセルを同時に踏んだ。
「そこまでは不明だが、一枚噛んではいるだろう。用心しろ」
「わかった。ありがとうよ」
車はスタートしたが、不安もついてきた。
誰がゲリラを? ――質問するまでもない。エニラ師一派か大佐の部下にきまっている。何のためにと言えば、ペンダント奪取のためだ。どうやら、どっちも、ゲリラ側が持ってると踏んだらしい。こりゃ、えらい迷惑をかけちまったかな。
貧民夜会地区へ乗り入れると、成程、ゲリラ本部のある方から黒煙が上がっている。
消防車と救急車のサイレンが鳴り響き、おれは窓を開けて耳を澄ませたが、銃声や怒号は混じっていなかった。敵の用事は済んだのだ。
現場の二丁ほど手前に車を止め、おれは黒い泥みたいに人々がへばりついている一角へと向かった。
おれがはじめて彼らと会ったビルだった。
半ば崩れ落ち、残りの部分の窓からは炎の舌が身を乗り出して、せわしなく躍っている。
人込みを押しのけて前へ出、救急車の方へ向かった。
防火服着用の消防士が炎の中から幾つかの人影を連れ出したところだった。
「失礼」
と言っておれは近づき、半焼けの顔を眺めた。
おれとやり合った大男だ。相手もおれを認めて、苦痛以外の表情をつくった。
「どうした?」
とおれは訊いた。
「どうもこうも……」
救急隊のひとりが荒々しく片手でおれを押しのけようとした。
軽くかわして、
「ブルーとマリアは?」
「わからん。いきなり天井が崩れて。――気がつくと火の海だった。探したが、逃げるのに精いっぱいでな」
「しゃべっちゃいかん!」
と隊員がおれと大男をにらみつけた。
「うるせえ」
大男の両腕がひとふりされると、隊員はそろって跳ねとばされた。触ったらどこの皮膚もぺろりと剥げそうなのに、たいしたパワーだ。
「あの二人のこった。絶対、どこかへ逃げたと思うが――あるいは奴らが……」
「奴らとは?」
「炎の中にちらりと見えた。仲間たちを次々と射ち殺してやがった。それと――」
「それと?」
「小さな人影が――あれは――」
「エニラ師か?」
「ああ」
「糞爺い。――このおとしまえはきっとつけてやるぜ」
「本当かい?」
と大男が嬉しそうに訊いた。
「ああ」
「よろしく頼むぜ、同志」
「まかしとけ」
でかい顔がにやりと笑い――急に下へ流れた。
駆け寄る救急隊員に押しのけられる前に、おれは後ろへとんで、それから、燃え盛るビルの方を眺めた。
他に逃げのびた連中はいそうにない。ブルーとマリアの運命は神のみぞ知る、だ。
「死んだ」
救急隊員の声がした。おれは向き直り、地面に横たわる大男を見つめた。こいつの分の借りは、きっちり返さなくちゃな。約束しちまったことだ。反古にするには相手がいる。
足早に火事場を離れ、おれは車が止めてあるのとは反対側の方角へ足を進めていった。
尾けられているのはわかっていた。
しかし、面白い尾け方をしやがる。
ひとりかと思えば、複数に――五、六人――また、ひとりに戻って――消えた!?
ふり向きたいところを、おれは先を急いだ。やっぱり、敵は火事場を見張っていたのだ。ヤンガー大佐ではあるまい。エニラ師親衛隊だ。この奇怪な芸当は、最初からおれをなめてる証拠だ。おれにそんな真似をしようと思う理由はひとつ――そいつがこの世の人間じゃあないからだ。
五分ほどで、廃ビルがいっぱいの通りに出た。一時期はアパートだったのだが、ごろつきが増えはじめて住人が移動。今じゃ、麻薬の取引や私刑《リンチ》の場と化している。ここなら、多少派手にやり合っても、文句をつける奴はいまい。
どこか適当な場所はないかと眼を走らせているうちに、敵の方から動いた。
分散した気配が急にひとつにまとまり、一気に突進してくる。
ごおっ、と背中に吹きつけたのは――殺気だ! 背筋が凍りつく。
それでも、おれには余裕があった。心理操作が定着しだしたのかもしれない。
はっと息を吐きざま、上体を前に。その反動で右脚を後ろへとばす!
馬の腹さえぶち抜くはずの蹴りに、しかし、手応えはなかった。
気配は消えた。――いや、千々に砕けたのだ。
それらが、身体の周囲を通り抜け、前方でまとまるのをおれは感じた。
カーキ色のコンバットスーツを身につけた軍人だ。顔立ちは若い。二〇代前半だろう。その眼をおれはのぞき、了解した。
死人の眼――つまり、この世のものじゃない。
「エニラの子分だな」
とおれは静かに言った。言いながら、そいつの力と弱点に思いを巡らせた。
気配を幾つにも分散するのは、気功の使い手にいくらもいる。だが、今の蹴りのように、空気みたいにしちまう芸当は。
「元気かね?」
とそいつは言った。唇からこぼれたのは、エニラ師の声だった。
「ああ、何とかな。あんたも達者そうでなによりだ。もっとも、じきに息の根を止めてやるぜ」
「それは、この男に勝ってから言いたまえ。断っておくが、あらゆる部下には、君の即時抹殺を命じてある。もはや、荒くれどもの巣といえど、隠れる場所はないぞ」
「なら、出くわすたびに片づけてやるさ。ぐだぐだ言わずにかかってこい」
そいつは、一歩進んだ。
「ちょい待ち」
とおれは片手で制した。
「その前に、ゆきはどうした?」
「いま、わしとおる。若いのになかなかグラマーじゃ。さぞや、いい夢を見せてくれるだろう」
「断っておく。その娘におかしな真似しやがったら、ただじゃおかねえ。一寸刻み五分刻みにしてくれる。ようく覚えておけ」
「いいとも。試しに、この娘の尻の肉でも切り取ってみるか」
「この野郎!」
激情がおれに地を蹴らせた。
そいつが足を踏み出す前に、牽制の眼打ちを放ち、鳩尾へ反対側のパンチを叩き込む。
――!?
そいつは二人になった。パンチの命中個所から左右に分かれてしまったのだ。
右側から襲ってくるフックを身を屈めてかわし、左の前蹴りを払い落として、おれは蹴りをかけた奴の軸足を薙ぎ払った。
確かに手応えはあった。蹴りのパワーも本物だ。
それなのに、左の奴は宙に舞った瞬間に消えた。
間一髪――鼻先を右の奴のパンチがかすめた。
速い。
思いきって後ろへ跳んだ。
首すじを冷気が打つ。
止まらなくて幸いだった。そのまま仰向けに倒れた頭上を蹴りが通過した。身をねじって腕立て伏せの要領で衝撃を抑え、そのまま路面を転がった。
素手でははじめての強敵だ。
立ち上がったとき、おれの顔には冷や汗が浮いていた。
「顔色が悪いぞ」
と男が言った。弄《いら》う調子があった。おれとの距離は五メートル。くそ、おれがとびかかった位置から一歩も動いてねえ。
「名前を訊いとこうか」
とおれは言った。
「そろそろ本気を出す。いい腕だったと、おまえの墓に刻んでおいてやるよ」
「名前は――ない」
やっぱり人造生物か。エニラの爺い、とんでもない化物をこさえやがる。その気になったら、口から火を吐く巨大怪獣でもつくれるんじゃないか。おれは名無しの権兵衛の顔を指さし、
「なら、勝手につけさせてもらうぜ。呼びにくくって仕様がねえ。そうだな――ペケにしよう」
と言った。別に悪ふざけをしたわけじゃない。これなら、気分的に呑んでかかれるからだ。
案の定、こいつは、
「好きに呼ぶがいい」
と言った。物を知らないというのは恐ろしい。
「んじゃ、つづきといこうかい、ペケちゃんよ」
おれはボクシングの構えをとった。
こいつの力がわからない。単なる分身の術の使い手なら、何度か出くわしたことがある。超スピードで移動しながら、ほんの百分の一秒停止すると残像が残る。これで相手を幻惑するわけだ。もう一種類は、ある種の小道具――自分の姿を反射する金属片とか布とかを使って、いっぺんに百人、二百人もの自分を出現させてみせる。
しかし、いくら数を増やしても、このやり方には頑とした原則がつきまとう。本人はひとりということだ。だから、連続攻撃は可能だが、同時攻撃は不可能だ。勘と運動神経のいい人間なら、何とか虚をつける。
おれの眼の前の奴――ペケはこれに当てはまらなかった。
どう見てもひとりなのに、複数同時に気配が現れる。
二重存在《ドッペルゲンガー》かと思った。
もうひとりの自分を、こいつは自在に出現させることができるんじゃなかろうか。
興味深い相手だった。捕まえて調べてみたい――妙な欲望が湧いた。
ペケちゃんが身構えた。軍隊式格闘術――マーシャル・アーツの構えだ。
「今までは別々に攻撃した」
と奴は言った。
「だが、今度は一度にかかる。遺言があればきいてやろう」
人造人間のくせに人間味のある野郎だ。おれは驚いた。
「なら、ひとつ。おまえの親玉がさらった娘は何処にいる?」
「師の自宅だ」
「あそこは焼けたはずだぜ」
「もうひとつ、すぐに用意した。北の端――マグレアの竜泉の中にある」
「おやおや」
これだけきけば、用はない。おれは右手を内ポケットに入れた。
「拳銃か? 不様な真似をするな」
「とんでもない」
おれはプラスチックの円筒を地べたへ叩きつけた。
白煙が上がった。いくらペケでも、煙の中じゃ眼が見えまい。煙幕弾を用意してくれたパシャに、おれは少しだけ感謝した。
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第五章 味方
敵に後ろを見せるな、というのは、自殺好きのマゾヒストの台詞だ。猛スピードで後退すれば、すべては解決する。
おれは身を屈めて走った。もちろん、背を見せてだ。後ろ向きに走るなんて、手間のかかる逃げ方ができるものか。
いきなり、眼の前に出た。
「わっ!?」
おれの場合、驚きの声は、冷静さを生むための前戯だ。
ふり下ろされた手刀をおれはかざした右手で受けた。同時に左手で左顎をカバーする。どちらにも、ずしんときた。まるで、鉈だ。次はじいん、だ。骨まで痺れる。同じ部分に三発も食らえば折れちまうぞ。
だが、前の敵は一瞬ひるんだ。二つの攻撃を受けると同時に、おれもミドルの回し蹴りをかけたのだ。受けられたが、パワーはペケちゃんに負けない。奴もぎょっとしたのだろう。
一気に脱出――と思いきや、だしぬけに殺気が爆発した。四方から。
かわせる速度でも、カッコよく受けられる数でもなかった。
おれは両手で顔から下腹部までをブロックし、石塀を背にして身を屈めた。
くそ、煙幕すら役に立たないのか。猛烈な蹴りが手足に炸裂する。ここまで追いつめられたのは、久しぶりのことだ。何とか起死回生の策を探し出さないとな。
すっとペケちゃんの気配が遠ざかった。横手からエンジン音が接近してきたのだ。
「邪魔が入った。――また、な」
言うなり、軽々と石塀の上に舞い上がるや、反対側に飛び降りちまった。
ブロックを解き、おれはため息をついた。全身の骨がきしんでやがる。えれえパンチとキックだ。後で効いてくるぞ。
「ううっ……」
と呻いて、おれは前方へ倒れた。アスファルトが頬に冷たい。
車――ポルシェだった――は通過しかけて止まった。
運転席のドアが開き、長身の影が下りてくる。右手には頑丈そうなライフル一挺。
おれまで二メートルの距離に来て、長靴は停止した。
笑いを含んだ声が、
「一杯食わされたな」
と、澄んだ英語で言った。
「うげげ」
とおれは胸をかきむしってのけぞった。
「やられた。死ぬ」
「役者もできそうだな」
潮時だと思って、おれは勢いよく跳ね上がった。ぐえ、手と足が。
「ニクい真似するじゃないか。色男はやることが違うな、おい」
半分嫌みで言うおれの前で、元ブラジル陸軍大尉ローレンス・シュミットは、隻眼の頬に苦笑を刻んでみせた。
「このあいだは、エニラ師を車から吹っとばしてもらったな。その前にも助けてくれた。借りを返せるかどうかわからんぜ」
こいつがそうそう危機に陥るとも思えないからだ。
「私はまだ返し終えていない」
シュミットは車の方へ顎をしゃくって言った。
「乗りたまえ。行きたいところへ送っていこう」
「ここにいるってどうしてわかった?」
「火事になったビルがゲリラのアジトだというのはわかっていた。ひょっとして、君が、と思ったのだ」
泣けるねえ。持つべきものは義理堅い知り合いだ。
「遠慮しとくよ」
とおれは言った。
「助けてもらったのはうれしいが、正直言って、半分は迷惑だ。今のおまえじゃ、いつかきっとミスを犯す。おれまで巻き添えにされちゃあ敵わねえ。守るもののできた男が、修羅場に乗り出すな」
「何もしないでいるのも、身体がなまるのでな。人助け兼レクリエーション――日本ではこれを一挙両得というのではなかったかね?」
「ふーん」
おれはとぼけた。シュミットの言う通りのような気もするが、どこか間違っているような気もした。
「キャロルさんはどうしてる?」
「別に。今もヨットにいる」
「なら、とっとと帰れ。今のおまえには、女のご機嫌とりがお似合いだ」
おれは本気で言った。
はかなげな盲目の美貌が頭の片隅にゆれていた。
シュミットは返事をせず、
「乗るのか乗らないのか?」
と訊いた。
「二度とおれの仕事に手を出すな。その約束をすれば乗ってやる」
おれたちの間に、シュミットが生まれてこの方、最も経験の乏しいものが流れた。沈黙だ。
すぐ、彼は言った。
「わかった。約束しよう」
「結構。んじゃ、頼む」
おれが乗り込むと、ポルシェはスムーズな走行を開始した。
二、三分走って、
「おい」
とおれは凄みのある声で言った。
「道が違うぞ」
「君に会わせたい人物がいる」
「何? 戻せ」
「少しは他人の意向にも従ったらどうだね。君の人生は長い。若いときの寄り道は大概、後で役に立つものだ」
「おれは刹那主義者でな。だが、まあいい。たまには妥協も必要さ」
こと、こういう件に関して、シュミットが無駄な真似をするとは思えない。おれは期待していた。
ポルシェは何度か極端にスピードを上げて狭苦しい路地を曲がり、裏道を抜けた。
やってやがる、とおれは内心、にんまりした。尾行をまいているのだ。シュミットなら尾けられているかどうかの区別ぐらいすぐつくだろうが、今回は相手が非人間ときている。用心にこしたことはない。
おれが、本当におやと思ったのは、さんざん貧民夜会地区を走りまわった車がそこを出て、サヴィナ市の郊外へと向かったときだ。
すぐにおやが、おやおやになった。この道とこの風景は?――その行き着く先は?
「着いた」
と、シュミットがポルシェを止めておれの方を見た。おれも見返した。
「おまえね」
やっと言った。正直、眼の前の男には呆れた。悪い意味ではない。
「何かね?」
とローレンス・シュミットは訊いた。
「どういうつもりだ、え?」
「サヴィナでは、目下、最も安全な隠れ家だと思ってね」
そらそうだ。
おれは窓の外に広がる田園風景と、焼け爛れた家の残骸を見つめた。
おれとラジャが急襲したエニラ師の住居を。
「誰に会わせる気だ?」
ある予感があった。まさか。しかし、ローレンス・シュミットならやりかねない。
「君は何をしに火事場へ行ったのかね?」
ひょっとして、この男、ブルーとマリアを救い出してここへ運んどいたのか? いや、そんなはずはない。おれが駆けつけたとき、アジトはまだ燃えていたし、シュミットもそれを見ていたのだ。
「降りたまえ」
さっさと車を降り、シュミットは廃屋を指さした。
「跡形もなく吹っとんだ家に住めとは言わん。だが、身を隠すだけなら、君たちが出てきた地下の穴ぐらはもってこいだろう。地下室を探したまえ」
そこに待ってるってわけか。
おれはじろりと奴を一瞥してから、焼け焦げた農家へ歩きだした。
敷地内へ入ると、地下室の入口はすぐに見つかった。
なにしろ、家の跡が丸々巨大な穴と化しているのだ。
穴の端に石段がぶら下がっているのが奇跡みたいなものだ。しかし、覗き込むと、穴の一方に鉄の扉らしいものがはめ込んであるじゃないか。
むらむらと好奇心が湧いた。危なっかしい階段は使わず、おれは三メートルほど下の穴の底へと身を躍らせた。
靴は足首までめり込んだ。ラジャの使ったのは単なる爆弾ではなく、燃焼弾だったのだ。砂状に崩れた土を踏んで、おれはドアに近づき、開けた。
かなり広いスペース――日本間でいうと二十畳はある。
普通の人間なら無理だが、おれにはすぐに用途が呑み込めた。
あちこちの石段に機能的に穿たれた窪み、おびただしいコンセント、天井を走るレール、石床に残る染み――実験室だ。
よく残ったもんだ。
ここにあった荷物は、あの後、エニラ師が運び出したにちがいない。
成程、目下、ローラン共和国では一番安全な隠れ家かもしれない。
しかし、誰もいない。
背後で足音が砕けた。
ふり向いて、おれは、やっぱりと思った。
シュミットの前に立っているのは、マリアだった。
「ご無事で」
とおれは笑いかけた。
「この人のおかげでね。あんた、とんでもない坊やだと思っていたら、とんでもない味方がいたもんだ。小母《おば》さんは舌を巻くよ」
おれは、こん畜生と、シュミットを見つめた。
「アジトが襲われたとき、あたしはとっさに非常用の脱出孔へとび込んだのさ。そこを抜けると、この人がいた。はじめてあったような気がしなかったよ。八頭大を知ってるかと訊かれて、ポン友だと言った。後はごらんの通りさ」
「しかし――どこにいたんだ?」
「ポルシェのトランクさ」
おれはシュミットに眼《がん》をとばした。
「おまえ、こんな年寄りを――」
「そうしようと言ったのは、あたしだよ」
「どうして?」
訳がわからねえ。
「あんたをからかってやりたかったのさ。少しは驚いたろ?」
「どいつもこいつも、いい度胸してやがる」
おれは悪態をついた。生命を狙われてすぐ、他人をからかおうと考える婆さんか。立派なポン友がいたもんだ。
「ブルーはどうした?」
「さあて。あたしの後ろを走ってたのは覚えているけどね。火に巻かれたか、煙にやられたか」
「えらく簡単に言うな」
「そんなものさ。彼にも覚悟はできてたはずだよ」
それもそうだ。おれもそれ以上の詮索はやめた。生と死のやり取りは、この職業の常だ。いちいち気にしてたら身がもたねえ。感傷過多の人間は、さっさと引退するか、あの世へ旅立つかだ。
「食料と生活用品は後で届ける――と言いたいが、私の手出しは彼が好まないそうだ」
とシュミットはからかうように言った。こん畜生。
「従って、後はミスター八頭にまかせる。二人でよろしく話し合いたまえ」
おれとマリアの肩を叩いて、生まれついての戦士は小気味よく身を翻した。
「待て、こら。帰りの足がねえ」
「近所の農家で電話を借りたまえ。余計な事に首を突っ込みたくはないのでね」
憤然と見送るおれの眼の前で、シュミットは軽々と穴をよじ登り、視界から消えた。
「糞ったれ」
おれはひとつ歯を剥き、マリアの方へ戻った。
こちらは地下室が気に入ったらしく、浮き浮きと、
「そこに三面鏡を置こうかね。こっちの隅にはテレビとビデオだ。読み書きするのに、机と椅子もいるねえ」
「家庭的な雰囲気に浸ってるのもいいが、今ごろ、ゲリラは天地が引っくり返る騒ぎだぜ。早いとこ、あんたが安全だと教えてやった方がいい」
「安心おし。あたしがいなくなったくらいで、やることなすことがわからなくなるような組織なら、最初からない方がましさね」
「すると――」
「ちゃんと、動いているとも。あらゆる状況に対処できるようにね」
「恐れ入りました」
とおれは言った。
「ま、ならひと安心だ。この部屋でゆっくり暮らしててくれ。そのうちに、この国がまともになったら、年金も支給されるだろう。その前にひとつ、頼みがある」
「何だね?」
「この国で一番頭の切れる物理学者は当然、サヴィナにいるんだろうな」
「もちろんさ」
「知り合いかい?」
「ああ、主義主張を超えてね」
「それなら助かる。彼に紹介状を書いてくれないか」
「宝探しは廃業かね?」
「冗談じゃねえ。ちと、訊きたいことがあるんだ、学生気分に帰ってな」
一時間後、おれはサヴィナ市の中央部にある国立物理研究所の前でタクシーを停めた。近所の農家から電話を借りて呼んだタクシーだ。糞。
頭の中では、ここを教えてくれたマリアとの問答がまだ渦巻いていた。
「エニラの奴、とうとう焦り出したね。こんな真似しでかすとは、当人も思わなかったろうよ。目的はあたしたちの一掃と――ペンダントだね」
「そうだ」
おれは正直に答えた。この婆さんには嘘をつけなかった。何せ、マリアなのだ。
「でも、それは、あんたが持ってる。こうなったら、大事にしまっといで。あたしたちが持ってるよりよさそうだ。エニラ師は、まだ、こっちの手に眠ってると勘違いしてるだろうが、こうなったら、それも名案だ。大――これはあたしの勘だけど、最後にエニラ師と戦うのは、あんたかもしれない」
「よしてくれ」
「でも、あんたは何度もエニラ師と戦い、無事に戻ってきた。あたしの知る限り、そんなことのできた奴はひとりもいない。敵は怪物だが、あんたも超人らしい」
「はっはっは」
満更でもない気分だ。
「――あいつの正体、知ってるね?」
と来た。おれは返答につまった。
「眼が答えてるよ。――あいつはエイリアンさ。何処とも知れない星からやって来たんだ。だから、やることなすことどこかおかしい。狂ってる。その狂いがあたしたちには恐ろしいのさ。大――こうなった以上、奴の狙いは、さして日を置かない、完全な政権奪取だよ」
「すると?」
「皇太后相手に、プリンスないし彼の偽物を王家に承認させる。もちろん、どちらのプリンスも彼の意のままに操ることのできる傀儡ってわけさ」
「それは、いつやるんだ?」
「近いうち。じきにわかるだろう。だからこそ、あたしたちを襲ったんだ。きっと、ヤンガー大佐も狙われているよ」
その辺は間違いあるまい。共倒れになってくれるか、どちらか一方でもくたばるといいのだが、プリンスが心配だ。
ともかくおれは、マリアに教わった物理学者のところへ赴くことに決めた。
別れを告げるおれに、
「しっかりおやり」
とマリアは言った。
「ローランだけじゃなく、世界の運命があんたの肩にかかってるんだ」
「よしてくれ。おれはただの宝探し屋《トレジャー・ハンター》だぜ」
「職業と運命は何の関係もないよ。大――あんたは、多分、たったひとりの地球防衛軍なんだよ」
――――
どいつもこいつも、勝手なごたく並べやがって。
おれは腹の内で毒づきながら、守衛に用向きを告げた。
物理学者――クルト・V・フッケの研究室は四階の奥だった。こんなにあっさりとOKが出たのは、マリアがフッケ博士に連絡を取っておいてくれたからだろう。
窓から差し込む光は蒼茫と暮れている。
ノックをすると、
「入りたまえ」
開けてみた。研究室ではなく実験室に見えた。
発電機や力場発生装置、極低温冷却装置など、おれにもかろうじて理解できるメカと正体不明の機械との間に、白い影が見えた。
「こっちへ来たまえ。今、手が離せん」
声からして六〇代と踏んだ。ドアを閉めて近づいていくと、
「君の手前のテーブルの上に、鉄の箱があるだろ」
と来た。
「はあ」
「取ってくれたまえ」
人使いの荒い爺いだなと思いながら、縦横二〇センチほどの箱を持ち上げた。ひどく重い。鉛製かもしれない。
「あの――」
「落とすなよ! 大変なことになる!」
「うわわ」
と叫ぶや、
「ははは――驚いたか?」
ふり向いた笑顔が、きょとんとして、
「驚いとらんな」
「いえ、びっくりしてますよ」
とおれは応じた。意外なのは確かだった。
嗄れた声の物理学者は、どう見ても、二〇代前半と思しい若い男であった。
「人違いじゃないかと思ってるな。残念ながら、ローラン共和国を代表する物理学の第一人者、クルト・V・フッケとは君の前に立ってる若造のことさ」
「しかし、声が――」
「ああでもしないと、訪問者に一矢を報いられないのでね。ミスター八頭、君のことはマリアからきいている。この部屋にエニラ師の盗聴装置がないのは、調査済みだからはっきり申し上げるが、僕も彼女のシンパだ。ようこそ」
差し出された手は、学者というより、スポーツマンのようにたくましかった。
「よろしく」
とおれは言った。
「君も忙しい男のようだ。単刀直入にいこう――何の用だね?」
クルトの表情には、年下の学生に対する侮蔑や軽視はまるで見られなかった。学者である前に、出来のいい人間らしい。
「こんな現象について訊きたいんです。物質がある空間を占めながら、自在にその密度を変えることが可能かどうか――」
「不可能だね」
クルトは一言の下に片づけた。
「我々の存在する空間では、完全な質量の消失ということはあり得ない。限りなく希薄になっても、ゼロにはならないんだ。だが、それでは一定の空間を占有しているとはいえまい。――そんな事例に会ったのかね?」
「ええ」
おれは、バラザード・リアの洞窟で遭遇した怪現象のことを話した。はたして、物理学者の眼は、鈍いかがやきを放ちはじめた。
「閉じられた空間を埋めながら、存在しない物体か……僕もそこへ行ってみたいものだ。君――よかったら、道順を記してくれないか?」
「いいとも、と言いたいが、危ない場所なんだ。――あんたなら、言ってもいいだろうが、エニラ先生のこさえた化物が隠れてる。多分、番人だ。二匹ほど片づけたが、他にもいるかもしれない」
いつの間にか、親しい物言いになっていた。クルトはOの字に唇をすぼめて、
「それはおっかないな。やめといた方がよさそうだ。しかし、一応、きいとこう」
と言った。こうなっちゃ仕様がない。おれはメモに地図を書いてやった。
「ふーん」
とだけ言うと、もう興味を失くしたようにメモをポケットにしまい、
「で、そいつのやっつけ方だが」
とクルトは微笑した。先を読まれたか。呵吽《あうん》の呼吸だな。おれは、
「うん」
と身を乗り出した。
「単なる分子密度の操作なら、希薄化した状態で固定してしまえばいい。電磁波で何とかなる。しかし、それでもある位置を占める物体となると、これはもう、物理のフィールドじゃあない。精神領域に入ってくる。調査にはフロイトかユングを連れて行った方がいいな」
「すると、やっぱり、物理的な手段じゃ破壊はできない、と?」
「つまり、精神的な手段でならやれる[#「やれる」に傍点]ということだ」
おれたちは互いの顔を見つめ合った。
「どうやる?」
「精神力――サイ・パワーを増幅してぶつけるしかないだろうね。そのためには、かなり強力な力場発生装置《フィールド・ジェネレーター》が必要だ。君の話が確かなら、重力場さえねじ曲げるくらいのパワーが要るだろう」
「ここで造れるかい?」
「無理だね。まず一年はかかるし、ビルひとつくらいのサイズが必要になる。費用も莫大だ」
金なら何とかなるが、月日ばかりはおれでも自由にならない。
「ひとつ、やってみてくれないか」
とおれは言った。さすがに、クルトは眼を丸くしておれを見つめた。
「マリアから、見た目より遥かに大人だときいていたが、これは驚いた。――ひょっとして、費用も君がもってくれるのか?」
「そのつもりだよ。いまは自由にならないが、近々何とかする」
クルトは軽く首をふって、おれが手渡した金属の箱に手をかけた。蓋を開けると、小さな中身をおれに放ってよこした。
ピンクの包み紙は子供向けのキャンディだった。
ひとつ口に入れ、おええとなるのをこらえて、おれは、
「よろしく頼む」
と言った。
クルトの顔を意味不明の笑いがかすめた。
「ま、何とかしてみよう。どうやら、この国が真の自由を取り戻すためには、それが必要なようだ」
「そうとも」
おれも早速、迎合した。物事はスムーズに進めるに限る。
そのとき――おれの背筋にぴしりと、電流が走った。警戒警報だ。――窓の方!
「伏せろ!」
とおれは叫びざま、デスクの陰へとんだ。空中でグロックを抜き、着地と同時に窓の方へ向けた。
窓ガラスが吹っとび、銀色の塊が床に転がった。
「何だ、これは!?」
ソファの陰にもぐり込んだクルトが眉を寄せた。
爆弾かと思ったが、そうじゃないと勘がささやいた。
直径五〇センチ、高さ六〇センチほどの円筒だ。かすかに内部が唸っている。
出方を見るか。おれは金属の表面にうっすらと見える線にグロックの狙いをつけた。どうせ、あそこから何か出てくるに決まっている。
モーター音が早くなった。――と見る間に、円筒の左右にぽかりと穴が空き、中からぞろぞろと黒いミミズみたいな虫が這い出したのである。
そいつらの数は片方の穴で二〇匹はいただろう。足はない。頭部は丸く、眼も口も鼻も見当たらないが、脇腹が微妙に膨縮を繰り返しているのを見ると、生き物にはちがいないらしい。扇形に広がり、ゆっくりとこちらへ向かってくる。何だか知らんが、不気味な上に、片づけるのも手間取りそうだ。
それにしても、こいつら、どうしてタイミングよく現れやがった。尾けられた覚えはないから、多分、おれがここへ来ると踏んでいたのだろう。化物のくせに、目はしが利きやがる。
クルトが机の陰から、何か言いたそうにおれの方を見ていた。
おれが唇に指を当てて、しゃべるな、と指示したとき、ドアが勢いよく開いた。
馬鹿!? と思ったが、もう遅い。
「フッケ先生、何かありましたか!?」
窓ガラスの破壊音を聴きつけたらしい警備員と学生だ。
円筒の上半分がキインと彼らの方へ旋回した。同時に、床を這っていた虫どもが、勢いよく二人めがけて跳ね上がった。
絶叫が噴き上げ――突然、止まった。
凄まじい白光と熱気がおれの顔面を叩いた。
眼を閉じたのは一瞬。――すぐに細く開くと、警備員と学生は跡形もなかった。床の上にまだ赤熱した灰がくすぶりつづけている。
あのミミズの化物は、それ自体が燃焼弾の役を果たしたのだ。全身は、おれたちにはわからない化学物質でつくられているのだろう。人体を一瞬で灰にする以上、その温度は一万度を越しているはずだ。円筒は、奴らの眼と耳を担当する。つまり、レーダーだ。
さて、どうするか。動いてもしゃべっても、炎のミミズがとびかかってくる。払い落とすにも腕が一本灰になるとすれば――
おれはクルトの方を見た。何としてもこの男だけは救出しなくてはならない。ローラン共和国の希望だ。
その顔に浮かぶ思いつめたような表情が、おれをはっとさせた。
よせ! と口に出すより早く、クルトは後ろへ――研究室の奥へと走った。
「ちい!」
おれもジャンプ。その胸元へ、ぺたりと二匹のミミズが張りついたときは、身の毛がよだった。
夢中で両手を顔に当てる。
燃焼の炎《フレア》が拡散し、その勢いでおれは後方へ吹っとばされた。受け身をとって床に倒れながら、
「逃げろ――先生!」
と叫ぶ。胸と腹が異様に熱い。シャツの下に着込んだ機械服が、一万度の炎から救ってくれたのだ。
「耳を押さえろ!」
クルトの声が言い終える前に、おれは両手を当てた。
頭の芯を貫くような痛みが走ったのは、次の瞬間だ。
超音波だと、おれは悟っていた。
空中に、黒い筋が三本舞っているのが見えた。機械服で防げるか!?――だが、ミミズは急に軌跡を乱してその場へ落ちた。燃えない。ねじくれ、のたうち、おとなしくなった。
三秒間、おれが耐えると、痛みは急に消えた。
ふり向くと、奥の、ばかでかいラッパみたいな機械の陰から、クルトが出てくるところだった。
「何だい、それは?」
と、訊いてみた。
「うちの研究室で開発した超音波発生装置だ。試運転だが、効果はあったようだ」
おれは、はっとした。この男、ひょっとしたら、極秘に対エニラ師戦の武器を開発しているんじゃなかろうか。
「おかしなものつくっているな」
とカマ[#「カマ」に傍点]をかけてみた。
「ああ。海洋研究所から頼まれた、潜水艇の音波測定《ソナー》器用だ」
ぬけぬけと答えた。
「それにしちゃ、威力がきつすぎねえか?」
「出力装置の設計ミスだろう。困ったものだ」
「どんどんミスってくれ」
とおれは言ってから、円筒に近づいた。他のミミズもみんなへたっていた。円筒はもとのままだが、イカレているのはすぐにわかった。
「それは私に調べさせてほしいな」
とクルトが言った。
「じきに兵隊が引き取りに来るぜ。ひょっとすると、あんたも連行される恐れがある」
「そのときはそのときさ」
いい度胸だ。それに、おれがどうこうしてもはじまらない。
ふと、ある考えが浮かんだ。
「あのな」
「何だね?」
すっとぼけた表情に、おれはタイミングを逸した。
「さっきの件だが、ひとつよろしく。先生」
「承知した」
クルトが力強くうなずき、おれたちは握手して別れた。どこでどうやって精神ジェネレーターをこしらえるのかはわからないが、この男なら何とかやるのではないかという気がした。
夕方からひどい雨になった。
二メートル先も見えない降りだから、手をさらすと痛む。時折、空が光った。稲妻だ。
おれは、例の倉庫の地下に隠れ、次の手を練っていた。
とりあえず、大佐と連絡を取らなくちゃならない。向こうも取りたがっているはずだ。
おれは、物理研の近くのスーパーで買った牛缶とパンで食事を済ませてから、電話をかけに外へ出た。
凄まじい乱打音が世界を煙らせている。天が大地を打つ音だ。
これなら、エニラ師の奇怪な部下も、容易におれを見つけることはできまい。おれは名雲秘書に電話をし、大佐の連絡先を訊くつもりだった。エニラ師の襲撃を受けて入院したらしいが、生命がある限り、そうそう引退もしていまい。
名雲はすぐに出た。素っ頓狂な声で、
「これは、八頭さま!? ご無事ですか!?」
「何とかな」
おれはできるだけ無愛想に言った。
「皇太后さまから、お話は伺いました。で、ご用は?」
「ヤンガー大佐と連絡を取りたいんだ」
「メモのご用意を」
「知っているのか?」
おれは苦笑した。相も変わらぬ爺さんだ。
「はい。大佐は目下、スムス通りのアパートに身を隠しています」
「もうひとつ、アジトがあったのか」
「よろしいでしょうか。〇八七四〇……」
その番号を記憶に叩き込み、じき連絡すると言って、おれは電話を切った。
すぐにきいたばかりのナンバーをプッシュする。
「ハロー」
と低い声が言った。
「ヤンガーの旦那か、おれだよ」
向こうは少しも驚いた気配がなく、
「やっぱり、無事だったか」
ときた。
「何とかな。神のお救けさ。――ところで、あんた、おれに会いたいと思ってねえか?」
「実はそう思っていたところだ。いつにする?」
単刀直入でいいねえ。
「これからじゃ、どうだい? 雨がひどいから、余裕を見て一時間後だ。よかったら、そっちの住所を教えてくれ」
「私の方から出向く。指定したまえ」
「じゃ、貧民夜会地区の『ベラルフォン劇場』でどうだ? 映画でも観ながらゆっくり話そうじゃねえか」
「よかろう」
「ひとりで来るだろうな?」
「もちろんだ」
「OK」
なに、どっちも自分の言葉を信じてやしない。
電話を切って、おれは外へ出た。雨は相も変わらず。大水にでもなったらどうしようかと、少し気にしてしまった。
かっ、と世界が青白く染まった。
近い、と思った刹那、おれは前方へ跳んでいた。
ふり向いた。電話ボックスが傾き、燃えている。落雷の直撃を受けたのだ。冗談じゃねえ。他にも的になりそうなものは幾つもあるのに、よりによって。
また、ぴかっ。
今度はやや遠い。おれは驚かなかった。まさか、眼の前の乗用車を光の筋が貫くとは。ぼん、とボンネットが跳ね上がり、窓ガラスが溶ける。ガソリンの引火は一瞬のうちだった。
派手に炎に包まれた車から、おれは身を屈めて走り出した。いくら何でも、自然な落雷じゃあるまい。
空が光った。見上げると、遥か彼方に光の帯が三条も落下していった。下では相当の被害が出ているだろう。
敵の攻撃だ、とおれは即座に理解した。この国へ上陸したときの大津波を考えれば、落雷を自在に操るくらい、簡単にやってのけるだろう。
だが、必ずしもおれだけを狙っているのではないらしい。
あちこちで火の手が上がっていた。消防車のサイレンがきこえる。稲妻はなおも、大空から地上を叩いた。
幸い、『ベラルフォン劇場』は無事だった。貧民夜会地区で最も古い映画館だけあって、頑丈この上ない石づくりのうえ、避雷針もばっちりだから、たやすくは参らない。
二十四時間営業のチケット売り場で切符を買い、おれはびしょ濡れの状態で館内へ入った。
午後八時過ぎで七分の入りだ。上映作品は、普通なら観る気にもなれない醜男と醜女が主役の恋愛ものだった。どっかの出来損ない映画を買い叩いたのだろう。こんなものを毎週見せられてると、人間性が損なわれる。
外では落雷がつづいている。
おれは中程の席に腰を下ろし、ハンカチで頭を拭きはじめた。
「あら、いい男」
いつもなら、へっへっへ、と鼻の下をのばす場合だが、おれはできるだけハードボイルドに、
「ありがとうよ」
と左隣の席の女に告げただけだった。年齢は十七、八だが、育ち具合が抜群によく、うすいセーターの胸は大きく盛り上がっている。女はたちまちすり寄ってきた。
「ねえ、煙草ない?」
「ない」
「じゃ、ライター貸して」
「自分で持ってるなら、自分のを喫いやがれ」
「愛想ないわね、あなた」
「それどころじゃねえんだ」
おれは館内中に神経を張り巡らせていた。いつ何時、エニラの部下どもがやってくるかもしれない。
「外がおかしいわね」
「まったくだ。ゴロゴロうるせえこったな」
「雷がこんなに落ちるなんて、滅多にないことよ」
「たまに[#「たまに」に傍点]にぶつかったんだろ」
「ねえ、こんな映画やめて、どっかへしけこまない?」
女は腕をからめてきた。満更でもない気分だが、今回は困る。
「悪いが、目下、悪い病気にかかっててな。パスだ」
「やだ、エイズ?」
「当たりだ」
暗闇の中でもわかるほど青ざめて、女はそばから離れた。
それから三〇分間、おれは画面など見ずに寝て過ごした。このところ休息はとってねえしな。あるツボをついたままで寝ると、それこそ一時間で、八時間分の休息をとれるようになると言う。
それでも気配は感じ取っている。決して眠らない精神が、宝探しの定番だ。
「失礼」
と言って、左隣に腰を下ろしたのは、まぎれもないヤンガー大佐だった。
「この映画、面白いぜ」
とおれは言った。その鼻先に、ポップコーンの袋が差し出された。おかしなものが好きな男だ。
「確かに素晴らしい傑作だ」
と彼は言った。
中身を鼻先へ持っていき、おれは眉をひそめた。ぷん、と砂糖とミルクと香料の匂いが鼻をついた。
「カラメルコーンか。こんな地獄の食い物がよく食えるな」
「他人の好みに文句をつけるな」
大佐はひとつかみ口の中へ放り込み、バリバリと噛み砕いた。いずれ、糖尿病でお陀仏だ。
「具合はどうだい?」
とおれは皮肉っぽく訊いてやった。こいつは、エニラ師に入院させられている。
「上々だ。私より、エニラ師の方が気になりはしないかね?」
「もっともだ。それと、あんたも知ってるだろ、ゆきが一緒だ」
「それはいかんな」
大佐の声に感情がこもった。冷静な精密機械のように見えても、やはり男だ。それとも、ゆきの魔力だろうか。
「エニラ師と一緒では危険すぎる。気になるだろう」
「ふん」
「これでは、一刻も早く彼を斃《たお》すにしくはない。もう一度、協力態勢といくか」
「やむを得ねえだろ」
「実はエニラ師はとんでもない計画を練っているらしい。まず、それを食い止めねばならんのだ」
「何だ、そりゃ?」
「戴冠式だよ」
大佐はぽつりと言った。
「別名、王位継承式。新しい国王をたてるんだ」
「プリンスを使ってか?」
「手に入れば、な。だが、うまくいかないときは、別の人間をたてるだろう。プリンスのことは国民に気づかれていない、またたとえ、あの少年でなくとも、王位継承の印――あのペンダントさえあれば、極端な話、その辺のゴロツキでもいいわけだ」
「よせよ。皇太后が黙っているもんか」
「あの方はもうお年齢《とし》だ。いつ逝かれても、おかしくない」
「おい」
おれは思わず、大佐のごつい横顔をにらみつけた。
「貴様、あの婆さんを殺すつもりじゃねえだろうな」
「短絡するな。エニラ師の狙いと混同しては困る」
それもそうだ。皇太后さえ始末すれば、いまの首相=エニラ師ラインに敵対する権威はいなくなる。国民は怒るだろうが、それも新しい国王誕生の喜びが癒してくれるだろう。
「だが、エニラ師にしてみれば、やはり、プリンスを傀儡にしたいところだろう。あの少年の気品と前国王の面影は、他の誰にも真似できまい。彼は目下、プリンス奪取の計画を練っているにちがいない」
「あんたんとこにいるというのは知ってるのか?」
「多分、な。そんな動きも見える」
「戴冠式を画策しているとなると、プリンスを手に入れる見込みでもあるのかな」
「そうは問屋が下ろさん」
大佐は力強く言った。
「この前は無様な姿をさらしたが、その屈辱は必ず晴らしてくれる。死してもプリンスは渡さんぞ。動き出す前に、エニラ師の始末はつけてくれる」
「なかなか難しい相談だぜ」
とおれは言った。
「わかっているとも。だがな、今度は確実に仕留める方法があるんだ」
大佐はおれを見て、にっと笑った。
「それはそれは」
おれはわざと揉み手してやった。
「信じていないな」
「当たり前だ」
「バラザード・リアの怪物体――君も知ってるだろう」
へえ、とおれは感心した。面白いところから切り込んできやがる。
「何とかな」
ととぼけた。
「あの正体を、うちの物理班と化学戦闘班が暴いたと言ったら、本気にするかね?」
「いいや」
大佐は苦笑して、反対側の手を差し出した。清涼飲料の缶だ。よくよく餓鬼向きのジャンクフードが好きな男らしい。鋼の軍人がねえ。人間、いろいろあるもんだ。
おれは缶を受け取り、プルリングを引いて口に当てた。
「ぷはあ、胃袋に染み渡るな」
「飲む気がなければリングなど開けるな」
「おや、お気づきで」
大佐は黙っておれの手から缶を取り返し、ぐい、とあおった。おれと違って、喉仏を動かしてるだけじゃなさそうだ。
一気に飲み干し、ぐしゃ、と缶を握りつぶして、
「私にはよくわからんが、バラザード・リアの怪物体は、一種の精神的エネルギーで構成されているらしい。つまり、物理的手段では何の効果もないが、精神力――サイ・パワーでなら破壊できるということだ」
「それと、エニラ師とどういう関係があるんだ?」
大佐はじっとおれを見つめた。うす笑いを浮かべているような気もしたが、よくわからない。しかし、どんな顔つきにしろ、こんな台詞にふさわしいものじゃないのは確かだった。
「あれは、エニラ師の乗り物だ」
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第六章 どんでん返し
おれは別段、驚かなかった。察しがついていた。というより、この世の中、何があっても不思議じゃないのだ。
エニラ師の正体が遠い宇宙の果てからやって来たエイリアンだと考えれば、謎はすべて解決してしまう。
「すると、あいつは、一体全体何を企んでいるのか、わからなくなってきたな」
おれの言葉に大佐はうなずいた。
「単に、この国の実権を手中にするため、と考えていたが、それだけではなさそうだ。案外――」
そう言って、カラメルコーンをひと掴み放り込んで、バリ。うまい含みを持たせやがる。
「世界征服」
とおれは言った。
「エニラ師の技術――地球外生命体の技術があれば、十分に可能だな」
と大佐も認めた。
「あんたの望みより、宇宙の方が大分大きいぜ」
おれは皮肉をかましてから、
「で、その乗り物とエニラ師をやっつけるのと、どういう関係があるんだ?」
「エニラ師とて不死身ではあるまい。この宇宙にそんな生物は存在しない。あの物体の中には、彼の国の品――すなわち、彼を斃《たお》すことのできる武器か何かが入ってるにちがいない。我々が猛獣狩りや未知の大陸へ出かけるとき、ライフルや拳銃を持っていくようにだ。内部《なか》へ入りさえすれば、何とかなる」
「お言葉ですがね」
とおれは言い、物体の話をしてやった。
「――物理的に存在しないものの内部に、どうやって入るんだよ?」
半ばののしりながら、おれは、先を越されたかな、という気が強くした。
「うちの心理戦闘《サイコ・ファイト》研究班がようやく、精神波同調器を完成させた。まだ、試作品だが、サイキック・パワーを、あの乗り物自体の存在波長に同調させ、実体化させるばかりか、うまくいけば、破壊もできるぞ」
「そんなにうまくいくもんか」
「論より証拠だ。実験に立ち会うかね?」
「これは面白い。――ぜひぜひぜひ」
おれは興味津々で応じた。
「ちょっと、いい加減にしろよ、あんた方」
後ろの席からこう声がかかったのは、そのときだ。
「さっきからペラペラ、うるせえったらありゃしねえ。おかげで映画を見る愉しみが半減だぜ。せっかく、人がオイオイ泣いていたのによお」
恐喝《かつあげ》だな、とピンときた。大体、このチンタラ映画のどこをつつけば、泣くような場面が出てくるんだ。画面の上では、三重顎の主人公が、外谷みたいなヒロインに愛の告白をしている。ベッドシーンでないのがせめてもだ。
「おい、責任とりなよ、責任をよ」
と別の声が凄むと同時に、おれと大佐の肩をごつい指が押さえた。敵は複数だ。
ちと、外へ出てもんで[#「もんで」に傍点]やるか、と思った途端、すぐ横でボキボキと骨の折れる音が響き渡った。
大佐が肩の手をひっ掴んで握りつぶしたのだ。
おれの肩から手が離れ、
「野郎」
「表へ出ろ!」
低いが殺意に充ちた声が言った。
大佐はもう立ち上がっている。その前と後ろに大柄な影がついて、通路を進んでいく。
ひとりは片手を押さえていた。
「てめえも来い」
新しい声と手が肩にかかった。指に力が加わる前に、おれは人さし指を掴んで根元からへし折った。数を頼んで何かしようというような奴には、これくらいのお仕置きが必要だ。そいつは、うお、と叫んでひっくり返った。
おれは指を離さず、
「握りつぶされるのとへし折られるのと、どっちが痛い?」
と訊いた。
「痛えよ痛え」
そいつはすすり泣いていた。
もうひとひねりして失神させてから、おれは素早く通路を走り出した。
遅かったらしい。
場内を跳び出した刹那、右側の通路で鈍い音が連続した。
そちらへ歩きかける眼の前へ、横の通路からでかい影がとんできて、頭から床に激突した。頭蓋の砕ける音。その上へ、間を置かずもうひとり。こっちは両腕があり得ない方向へひん曲がっていた。
通路へ行く前に、大佐が現れた。傷ひとつない。血にまみれた両拳を拭きながら、
「遅かったな」
と言った。
おれの後から駆けつけてきた支配人と警備員へ、IDカードを突きつけ、
「軍のヤンガー大佐だ。不穏分子を除去した」
と告げる。二人は早々に退散した。
「たいしたもんだ。軍隊格闘術《マーシャル・アーツ》かい?」
とおれ。
「その通りだ」
「いつか戦ってみたいもんだな」
「私の負けさ」
とんでもねえ役者だな、こいつは。
瞬間、闇が舞い降りてきた。
落雷の雄叫びだ。サーキット・ブレーカーが負荷に耐えかねたのだ。しかし、なんて雷だ!?
「気をつけたまえ」
と大佐が低く言った。おや、気配がわからねえ。隠形の法でも心得てやがるのか。
「どうしてだ?」
「とぼけたまうな、周りに三人いる」
おれにもわかっていた。
この気配――覚えがある。
「おれが連れてきたんじゃないぜ」
「もちろんだ。私が尾けられていたにちがいない」
「なら、責任を取って処理しろ」
「承知した、と言いたいが、今度は君が実力を発揮する番だろう。健闘を祈る」
この古狸野郎が。
青白い光が狭い通路を満たし、三つの人影を浮かび上がらせた。
シュミットがいなければ、おれはKOされていたかもしれない分身野郎――エニラ師の手先だ。
暗黒が戻った。
同時に、おれは眼を閉じていた。闇に慣れる意味もある。三人に幻惑されないためもある。
突進してきた気配へ、おれは右ストレートをとばした。フェイントだ。左の横蹴りも同時だった。突っ込んできた二つ[#「二つ」に傍点]目の気配が、ぐえ、と呻いて遠ざかる。ざまみやがれ、昼間よりは慣れてるぜ。
前へ跳んだ。後ろから放たれた蹴りは空を切ったはずだ。
瞼の裏に、ぴか、ときた。手の甲が突っぱる。放雷だ。劇場内へまで、雷が忍び込んできたらしい。
左と前からきた。
反射的におれはバック転を敢行していた。劇場のドアを背にして立つや、右手でグロックを抜いた。
ドドン。これで四発。
ふっと気配は消えた。
「いないぞ!」
と大佐が叫んだ。
「肩を射たれた途端に、奴ら、消えちまった。――どういう理由《わけ》だ!?」
「最初からいなかったのさ」
とおれは答えて、残る一人の気配を探したが、わからない。逃亡したか。
眼を開けると、大佐が支配人と警備員を追い払ってるところだった。
「で、プリンスはどうする気だ?」
とおれは尋ねた。肝心な話がまだだ。
「交換条件として、君に渡してもいい。いずれまた、取り戻す」
「交換てな何だい?」
「同調器のエネルギー源になってくれたら、プリンスは返そう」
「何だ、そりゃ?」
つい、訊いてしまった。この歳までこういう仕事をやっていると色んな交換条件とやらを出されるが、エネルギー源になれというのははじめてだ。
「ラジャからきいたし、その他、幾つかの報告が入っている。私のアパートでの見聞もあるしな。君の精神力に関してだが」
「我慢強いのは確かだな」
「うちの心理学者に検討させたら、極めて異常だが、説明のつかない現象ではないそうだ。途方もない潜在的サイ・パワーを出せるとすれば、十分にあり得るし、そうとしか考えられんという。君は全く、私の想像外の人間だよ。正直言って、エニラ師よりも気になるな」
いまごろわかったのかと思ったが、口には出さなかった。
大佐は壁によりかかって、
「現代科学で可能なサイ・パワー発生は、残念ながら、存在する非存在をどうこうできるほどの出力がない。そこで君の力が必要となるわけだ。どうかね?」
「いいだろう。どっちにせよ、あの爺さんは始末せにゃならん」
おれも物騒なことを口にした。
「これで契約OKというわけだな。では、プリンスは明日、連れて来よう。どこで引き渡す?」
恐ろしく話の早い男だ。
「この劇場の前でよかろう。ただし、おれがそっちへ出向くのは、彼を保護してからになるぜ」
「いいとも。君はあらゆる面で信頼に足る男だ」
「じゃ、な」
とおれは出入口の方へ向かって歩き出した。落雷は熄《や》んでいる。
「私は残りを見ていく」
大佐が何となく恥ずかしそうに言い、おれは驚いた。
「こういう映画、好きでね。――では」
場内へ消えていく後ろ姿を見送ってから、おれは外へ出た。雨は降りつづいている。何となく釈然としなかった。
地下の隠れ家へ戻る途中、おれはふと、シュミットのことを考えた。あいつがいたら――それだけで、あっさりと忘れた。あいつがどんな気でいようと、おれとは別の世界の人間なのだ。
翌日の昼すぎ、おれは劇場の前へやってきた。雨はまだ降りつづいている。
どう出るか、と思った。昨日はうまく話がついたが、今日はわからない。戦いとはそういうものだ。
時間通り、黒いリムジンが劇場の前に横づけされ、まず大佐が、つづいて、まぎれもないプリンスが降りてきた。近づいてくるのを止め、おれはプリンスの眼を見つめた。ラジャの催眠術にかかっている様子はない。
「八頭さん……」
「無事だったか?」
「はい、何とか」
「じゃあ、おれと一緒に戻ろう。ご苦労だったな、大佐」
「なんの。約束を忘れては困るよ。ミスター八頭」
「まかせとけ。プリンスを保護したら連絡する」
では、と言い置いて、大佐は車に戻り、もと来た道を走り去った。呆気に取られるくらいフェアだ。おれを信用しているというのも、ここまでは本物らしい。
おれは劇場の裏に用意しておいたタクシーにプリンスを押し込め、倉庫の焼け跡へ戻った。
地下へ潜ると、プリンスはまず、開口一番、
「ゆきさんは、どうなりました?」
と訊いた。真剣だった。年相応に色気づいてやがる。
「行方不明だ」
とおれは答えた。少し、心配させてやらなくちゃな。今のところ、エニラがゆきに手を出す気遣いはない。
「ひょっとすると、エニラに捕まって食われちまったかもしれん。それとも、ヴァージンでも奪われたか」
「そんな!」
椅子を倒して立ち上がったプリンスを、おれはにやにやしながらなだめた。
「まあ、あれは腰が軽そうでいて、いざとなると手強い。その気にさせといてポイ、の典型だ。安心しな」
「でも」
眼の色が変わっている。今にも救出に出かけかねない勢いだ。おれのそばにゆきがいたら、おれはたちまち、この国を乗っ取ることができるだろう。エニラ師よ、ヤンガー大佐よ、おまえら、人間観察が甘すぎるぜ。
「コーヒーでもやるか?」
「え、ええ」
おれが買い置きの電気ポットの湯でインスタント・コーヒーをいれる間、プリンスは沈痛な面持ちで椅子から動かなかった。こっそりのぞくと、爪を噛んでいる。ゆきの魔力だ。
「さてプリンス、ひとつ頼みがある」
とコーヒーを運びながら、おれは申し込んだ。
「何でしょう?」
上の空で返事があった。
「身体検査をさせてくれないか?」
「どうして?」
「おまえを捕らえた奴らはただものじゃない。知らないうちに、居場所を知らせる金属片を埋めておくくらいはやるだろう。なにせ、化物を植えつけられた前科持ちの背中だ」
「わかりました。好きなだけ調べてください」
さすがプリンスだ。決然たる態度で服を脱ぎはじめ、おれはパシャのくれた荷物から、ソ連軍用の異物センサーを取り出して少年の裸体をチェックしはじめた。
このセンサーは、金属とかプラスチック以外の、意図的に植えつけられた卵とか虫とかも感知できる便利な品だ。
結果は「なし」と出た。
「オーケイだ。尾けられた様子もない。――今日一日はここに隠れていろ。行動は明日からだ。大佐と何を話したか、ききたくもあるしな」
「いいですとも。でも、次はどんな手を打つんです?」
「そうだな。まず、新しい隠れ家を探す。それから、大佐のところへ出向く」
「どうしてです?」
「約束だ。なんでも、エニラ師をやっつける兵器を開発したらしい」
「それは凄いや」
プリンスは感心したような表情をつくった。
おれは、精神波砲ともいうべきメカについて、知っていることをみな話してやった。きいている間、プリンスの両眼はかがやいていた。やはり男だ。どう言い訳しても、喧嘩の話になると血が燃える。
顔つきが変わったのは、そのエネルギー源――おれの話になったときだった。
「そんな無茶な。――何をやるんです?」
「わからない」
「罠かもしれません。あの男ならやるでしょう。僕には丁寧だったけど、とても危険な人間だと思います」
「その通りだ。よく見てるな。だがおれは、この話を本物だと踏んでる。おれが必要てのはともかく、エニラ師対策に関しては本当だろう」
「でも――」
「安心しな。おまえのスイートハートも救出せにゃならねえんだ。無駄死にはしねえよ。さ、今度はおまえだ。大佐が何を申し出たか話してくれ」
案の定、ヤンガー大佐がプリンスに申し込んだのは、皇太后を後ろ盾に、この国の真の王として即位させたいという、一点だった。
自分は何の利益も求めない。ひたすらこの国のためにエニラを斃《たお》し、プリンスを即位させたいだけだ。是非とも協力させて欲しい――こう言ったときいて、おれは吹き出しかけた。人間、でかい野心の前には、小さな嘘ぐらい百でも二百でもつけるもんだ。おれにプリンスを引き渡せば、一遍で化けの皮が剥がれるというのに、本気で口にするのが凄い。
エニラ師の正体については何もしゃべらなかったという。
皇太后のことなどあれこれ話し合っているうちに、夕方になり、夜になった。
缶詰で食事を済ませると、プリンスはうつらうつら、白河夜船を漕ぎはじめた。
すうすう[#「すうすう」に傍点]と鼾にも品がある。
これからの手をあれこれ考えているうちに、おれも瞼が重くなってくるのを感じた。
そういや、ここ二、三日、まともに眠っていなかったな。
我慢しようかと思ったが、駄目だった。
完全に眼を閉じた。
きっかり三〇と二秒後、おれは両足で床を蹴とばした。
びゅっと落ちてきた手首を、靴先で跳ね上げる。よかった。ナイフでも持ってるかと思ったが、素手だった。
だが、そのパワー――爪先が靴の中で折れそうにしなった。
一回転して足から着地した構えは、すでに本気の戦闘用だった。
殺し屋も体勢を立て直していた。猫足、手刀――一分の隙もない実戦空手の構えだ。正体は言うまでもあるまい。このアジトの住人は二人きりなのだ。
「眼を醒ませよ、プリンス」
とおれは言った。
虚ろな眼差しにふさわしい無表情を崩さず、プリンスはじりじりと間合いをつめてきた。
肉体の異物ならゴミをも見逃さない探知センサーも、異常な精神までを探り出すことはできなかった。
恐らくは、強烈な催眠術だろう。まず、あの鼾のリズムで、おれを眠りに引き込み、しかも空手など習ったとは思えないプリンスに、これほどまでの動きとパワーを可能にさせる。どんな名人でも、無経験の人間をプロフェッショナルにはできない。踊りの未経験者に、バレリーナ並みの公演をさせるのは不可能だ。
だが、眼の前のプリンスは、まぎれもない空手の達人だった。筋肉ばかりではない。神経さえ変えてしまった天才催眠術師とは何者だ?
今回のやつより劣るとはいえ、催眠術と戦った経験がなければ、おれは、鼾の暗示に気づくこともなかったにちがいない。後は唇を少し噛めば足りた。
突きか蹴りか牽制か。――瞬間、プリンスの身体は前方へ旋回した。
おれの首すじめがけて、靴の踵が落ちてくる。
通常、おれはできるだけ攻撃を受けない。かわす。相手のスタミナのロスが一番多くなるからだ。
今度はかわせなかった。
左手を上げられたのも、奇跡に近かった。
反射的に、手は肘打ちの形を取っていたらしい。
顔をしかめたくなるような衝撃の見返りに、プリンスは空中でバランスを崩した。どっと仰向けに倒れる。
鳩尾を踏みつけようとジャンプしかけて、おれは間一髪、身を翻した。その胸元をプリンスの靴先がかすめた。
上衣のボタンがひとつ持っていかれた。倒れたのは本当だが、両手で鮮やかに身体を支えたのだ。やる。おれはまだ見ぬ催眠術師に素直に感心した。
ふと、ある気配が感覚細胞に触れた。
部屋の外に何かいる。
おれは立ち上がったプリンスめがけてダッシュした。
逃げた。これは予想外だった。攻守ところを変えやがった。
いきなり、世界が揺れた。
黒いドリルの化物が、コンクリート製の壁をぶち抜いて現れたのは、次の瞬間だった。
地中穿孔機――カッコよく言うと、地底タンクだ。
旋回するドリルの跳ねとばす破片が全身に当たった。
おれはプリンスにとびかかった。ひょいと逃げる。
これが手か、と思った。おれがプリンスを捨てては逃げられないと踏んで、機械モグラに襲わせ、ついでに、プリンスもおれの手から逃げまわる。おれを斃《たお》すのは――
キインと音をたてて、穿孔機の胴体に丸い穴が開いた。
降りて来たのは、プリンス救出のときに見たエニラ親衛隊員だった。あの不死身の大男の仲間だ。五人もいる。
甘いことを考えちゃいられねえな。
おれは自分でも信じられない速度でグロックを抜いた。
AK47自動小銃を持った四人組の腹に、二秒とかけずに二発ずつ射ち込む。
わずかに震えただけで、四人は同時にAK47の引き金を引いた。
毎分六百発の七・六二ミリ弾頭が二千四百発に化けて嵐のごとく降り注ぐ。
その刹那、四人の後頭部が火を吹いた。武器商人パシャ進呈の九ミリHEAK弾。小さな弾頭内に仕込まれた九千度のジェット噴射は、奴らの何でできているかわからない頭蓋を灼き抜き、中身を貫いてから後方へ抜けたのだ。
年々厚く、硬度を増す戦車の装甲を破壊するために考案された砲弾を、米軍ではひそかに拳銃弾に応用しているのだ。
顔面と胴体を覆う機械服の表面をひと撫でして、貼りついたひしゃげ[#「ひしゃげ」に傍点]弾頭をふるい落とし、おれはプリンスの方を向いた。
視界を黒いものが埋めた。
顔面を狙ったコンクリート塊を、おれは左の手のひらで受け止めた。次の瞬間、腹へ一発きた。
「お見事」
正拳を叩き込んだプリンスの手首を掴まえ、おれは部屋の向こうまで投げとばした。受け身の取れない角度で、プリンスは床へ突っ込み、即座に立ち上がって、おれに眼を剥かせた。
ぶん、とうなりをたてて、中段回し蹴りがくる。
おれは受けずにダッシュした。鳩尾へ一発打ち込むつもりだった。
低い声をあげて、プリンスはのけぞった。右足を抱えてのたうつ。
理由は――明白だった。超人的な空手の技が、それを支える平凡な筋肉の限界を、ついに破ったのだ。
「世話のやける坊やだな」
おれは痙攣しているプリンスの顎に一発ぶち込んで眠らせ、地下室を抜け出した。ばれた以上、敵はすぐ駆けつけるだろう。
近くの駐車場へ入り、不用意に止めてあった乗用車から、日本のマ×ダを選び、おれはすぐ発車した。
何処へ逃げるか。いや、その前に確かめなければならないことがある。
おれは闇雲に車をとばした。
何やら半透明の、ふわふわした水母《くらげ》みたいな物体が空中を漂いはじめたのは、五分後だった。
間違いなく空の水母――成層圏を漂う空中生物だ。話だけはきいているが、現物を見るのははじめてだった。
ベレー帽みたいな胴の下から、くねくねと触手がこぼれ、内側に赤い血管と神経組織らしい筋が見えた。
一、二匹、車の周りをとびはじめたなと思ってるうちに、五、六匹に増えた。
これではっきりした。
奴らはプリンスの居場所を突き止めているのだ。その方法を探り出さないと、地の底からドリルがとび出し、水母の化物が空中をうろつき出す。
あるアイデアが浮かんだ。突拍子もないが、試してみる価値はある。
おれは痛みのあまり失神したプリンスの心臓に片手を当て、
「いえぇい!」
途端に、あるツボを押されたプリンスの心臓は停止した。
水母どもの動きがひどく曖昧になるや、車はみるみる間隔を開けはじめた。
音だ。
おれが鼾で眠りかけたみたいに、水母どもは、プリンスの心臓の音だけを頼りに襲ってくるのだった。
しかし、いつまでも心臓停止のまま留めておくわけにはいかない。五秒ほどで、おれは息を吹き返させた。
バックミラーを見る。
何も見えない――いや!
水母どもがやってくる。五、六匹にあらず、数百匹だ。半透明のそいつらが、夜空いっぱいに広がったのは、なかなか迫力ある光景だった。
おれはパシャのくれた荷物から、小型の火炎放射器を取り出して、肩越しに構えた。
来た。
一斉に急降下してくる。
炎が迎え撃った。
何匹かがたちまち炎に呑み込まれ、おれは放射器のノズルを扇形にふった。
炎の塊がバラバラと落ちていく。
映画館が見えた。終わったばかりらしく、入口のところに、人の群れが立っている。
「逃げろ!」
叫んだが遅かった。
炎を逃れた水母どもが、気でも狂ったか、それとも最初からそのつもりだったのか、一気に通行人へ襲いかかったのだ。
数人の頭がすっぽりと、半透明のマスクで覆われ、それが青白いかがやきを放った。
黒煙が上がり、人々は痙攣して倒れた。放電生物か。
二匹が炎を逃れて、車のノーズに止まった。
運転席の計器類が火花を噴き上げ、電撃がおれの両手先から逆流した。なに、機械服は耐電処理も施してある。一万ボルトの直撃ならOKだ。
しかし、車はそうはいかなかった。バッテリーをはじめとする電気系統は総イカレらしい。
おれはプリンスとパシャのバッグを担ぎ上げ、車から降りた。
ごお、ごお、と炎で空中を薙ぎ払いながら、プリンスを地べたへ下ろした。こうなったら、手はひとつだ。
昔習ったヨガの奥義のひとつ。しかし、これだけは、おれもまだ試したことがない。
おれは火炎放射器を置き、二本の手でプリンスの頚のつけ根と心臓に触れた。
ここのはずだ。もし狂ったら、彼は間違いなくあの世行きになる。だが、無差別に高圧電流を撒き散らす酢のもののもとが相手では、他に手はなかった。
通りのあちこちから絶叫と悲鳴がきこえた。
視界が曇った。野郎め、ついに来やがったか。眼の前をピンク色の火花が走った。無理だ。おれはプリンスの身体にのしかかるようにして、指に力を加えた。
短い痙攣が少年の身体を走り、止まると同時に、心臓の鼓動も消えた。
視界が明るくなった。上空をふり仰ぐ眼の中で、水母どもは次々に上昇していった。
地上一〇メートルほどの高みに停止する。耳を澄ませているのだろう。おれは気にせず、プリンスを担ぎ上げた。
ライトが視界を染めた。
「乗りたまえ」
シュミットの声だ。
「うるさい、帰れ」
と言う代わり、おれは猛スピードでライトへダッシュをかけた。
ヨットへプリンスを担ぎ込むまで、おれはずっと不機嫌を通した。もちろん、シュミットにまた、助けられたからだ。
シュミットもそれを察してか、口数は少なかったが、他人におもねるようなタイプではないから、
「元気で何よりだ」
と、少し[#「少し」に傍点]楽しそうに言ったりする。
「迷惑をかけたりかけられたり、人間、役割は生まれたときから決まっているものだ」
おれは、助けられっ放しじゃねえか、くそ。
というわけで、おれはプッツンしかけの気分をなだめなだめ、スクーナーのキャビンに入った。
「また、見張ってやがったのか」
「人聞きが悪い。――見守っていたと言ってくれたまえ」
「余計なことをするなと言っておいたはずだぞ」
「いまは、その少年のことで議論した方がいい。死んでいるのかね?」
「いや。心臓は止まっているが、血液は脳に流れてる」
「そんな技がヨガに存在するときいたことがある。私はとんでもない達人を相手にしているらしいな」
うれしいな、って舞い上がりたいが、そうもいかない。
心臓というのは、肝臓や腎臓にくらべれば、遥かに単純な、いわばポンプにすぎないのだが、これが止まると血が脳へ送れなくなる。おれ――というよりヨガの秘法は、この停止するはずの血液の脳への送り込みを、心臓をとばして、直接、自律神経に担当させてしまうらしいのだ。考えてみれば、心臓を動かしているのも自律神経なのだから理屈は合いそうだが、現代医学では到底不可能な技術《テク》である。無論、一歩間違えると、心臓が止まるだけという悲劇が待っているから、滅多には使えない。おれに教えてくれた二百歳近いヨガの高僧ですら、生涯に二度しか使っておらず、うち一回は失敗したと言っていた。
肉体的には無理をさせているわけだから、長期間、施術したままで放ってはおけない。あの水母たちはそれきり追ってこないが、正直、心臓復活におれは気が進まなかった。
しかし、放ってはおけない。
「治療するのか?」
とシュミットが訊くのへ、
「ああ。その後で、もうひと手間かけなきゃならねえがな」
プリンスの催眠術を解く必要があるのだ。こっちの方が難儀といや難儀だ。
「キャロルさんはどうしてる?」
プリンスを床に俯せにし、解放のツボを探しながら訊いた。盲目の美女の姿は見えない。
「眠っている」
「そりゃよかった。少し休んだら出て行くぜ」
「行く当てはあるのか?」
「百ほどな」
「少しは正直になったらどうだね。私は恩返しをしているだけだ。君がツッぱる必要などない。協力させてくれ」
「うーるせえ、うるせえ。うだうだ言ってる暇があったらコーヒーでもいれろ」
「そうしよう」
シュミットは隣のキッチンへ消えた。
おれは念のため、プリンスの両足の膝関節部を外しておいてから、心臓を元に戻した。
「僕は――どうしていたんでしょう?」
とプリンスは眼をしばたたいた。
「ここは!? 地下室で眠ったはずなのに」
「何も覚えてないのか?」
「ええ――あれ、足が痛い」
「少し我慢しろ」
おれはプリンスの眼をじろりと覗き込んだ。正常としか思えない。だが――
「僕はひょっとして、何かしでかしたんでしょうか?」
「ああ、おれを殺そうとしたよ」
少し驚かせときゃ、かけられた術に潜在意識が対抗するかもしれない。
「まさか……」
効果覿面。プリンスは蒼白になった。目下のところは術の支配下にないらしい。いつ、どんな暗示で暗殺者と化すのか。
「ひとつ、逆催眠をかけてみるか」
プリンスを床から抱き起こして、ソファに座らせたところへ、シュミットがトレイを両手に戻ってきた。
おれの行動は、自分でもよくわからない。
右手が上衣の内側へ入った。
シュミットの反応は――後から考えると――次のようなものだったろう。
トレイを支えていた両手が離れ、左手は鳩尾の辺に拳をあてがい、右手が上衣の内側へ走る。拳銃――か何か――を抜かずに戻ったのは、おれの動きに殺気がないと見抜いたためだろう。最初から見抜けと言うなかれ。最初の瞬間、おれは真正の殺意を抱いていたのである。
トレイがかすかに揺れた。
一センチほど下がり気味の位置で、それは前と同じ二本の手に支えられていた。素人の眼には、両手がかすんだとしか映らない。ローレンス・シュミットの早業であった。
「失敬」
とおれはウインクした。
「どういたしまして」
シュミットはトレイをテーブルに置いて、プリンスに微笑した。
「ローレンス・シュミットだ。八頭くんには生命を救ってもらった」
「僕もです」
とプリンスは言ってから、名を名乗った。
「どうやら、催眠術をかけられてる。おれが解くまでお邪魔するぜ」
「十年かかっても構わんよ」
おれは黙ってコーヒーをひと口飲《や》り、すぐ施術にかかった。
――――
「残念だったな」
一時間後、ソファに眠るプリンスを見下ろすおれに、背後からシュミットが声をかけた。
結果は失敗だった。
深層催眠までうまくいったのだが、その下部意識の支配がどうしても破れない。無理に暗示をかけると、プリンスは頭を押さえて絶叫した。脳を狂わせる対抗暗示がかけられているのだろう。すぐこっちの暗示を解くと、たちまち平静に戻って、安らかな寝息をたてはじめた。
「一番深い部分に施されている暗示は、いまの脳破壊とおれの暗殺だ。こいつはおれの腕じゃ破りようがない。殺し屋を背負って旅するようなものだ。うむ」
おれは頭を揉んだ。見てやがれよ。糞大佐。いつか、お返ししてくれる。
だが、とおれは考えた。
あの地底モグラと空飛ぶ水母は絶対にエニラ師の武器だ。となると、大佐め、エイリアンと手を結びやがったか。これも厄介だぞ。
頭の中には様々な考えが駆け巡り、
「打つ手はひとつある」
と、シュミットが言ったときにも、すぐには理解できなかった。
「何?」
と反応するまで、一秒ちょいかかったのが、その証拠だ。次の言葉を言わせずシュミットは、
「『貧民夜会地区』には、私の方が君よりも長く住んでいる。従って、様々な職業人の知り合いができた。そのひとりが“妖草師ピゲロ”だ」
「なんだ、そいつは?」
おれがローランに来る前に調べた資料にはない名前だ。
「『貧民夜会地区』ではひどく犯罪が多い。射ち合い、殺し合いは連日のことだ。それなのに、この街の死亡率は異常に低いのだよ。一度調べてみたら、ニューヨークの五十分の一だ。そして、犯罪発生件数のうち、負傷者の出るものは、同じニューヨークの――五十倍にあたる」
おれは内心驚いたが、
「そんなこともあるさ」
と白ばくれてみせた。
「それがピエロのおかげだってのか?」
「ピゲロだ。――正確には、彼の調合する薬のおかげだな。超古代の薬草を栽培し、同じ時代の、すでに失われてしまった調合の仕方を身につけているらしい。その中に、精神病の特効薬もあるときいた。催眠術とは少し違うかもしれんが、試してみるだけのことはあるだろう。――ひょっとすると、他の暗示もかけられているかもしれない」
おれは、ぎくりとした。それはまさしく、おれも考えていたことだったからだ。
おれは、プリンスを皇太后のもとに送り届けるつもりでいた。敵もそれは読んでいるだろう。大佐なら、まず、おかしな真似はしないだろう。しかし、エニラ師が組んだらどうなるか? 相手はエイリアンだ。おれたちとは根本的に思考方法が異なる。些細な考えの変化から、皇太后抹殺の暗示をプリンスに与えていないとも限らない。
おれの催眠術では、そこまでわからなかったが、人間の心理は果てしない奈落だ。奥の奥にどんな意志が隠されているかしれたもんじゃない。
「すぐに会えるか?」
と、おれは訊いた。即断即決に限る。
「明日、連絡を取ってみよう。ただし、彼は滅多な人間とは会いたがらない。私がひとりで行ってアポイントを取ってくる。君たちはここで待ちたまえ」
「わかった」
おれは素直に言った。素直な方が得だからだ。
「プリンスはこのまま眠らせておくといい。催眠術の眠りは、通常の睡眠の二十倍も深いそうだからな。少なくとも、眼を醒ましたら、疲れは取れているだろう」
「そうしよう」
「朝ご飯は私にまかせて下さい」
どうして、おれたちは、背後の気配に気がつかなかったのだろう。おれとローレンス・シュミットが。
ふり向くと金髪が揺れていた。
「済まない。起こしてしまったか」
とおれは詫びた。
「ええ。男三人でうるさいこと」
「君も一杯やるか?」
とシュミットが言い出したので、おれはあわてて、
「もう、午前さまだぞ。何てこと吐《ぬ》かしやがる」
「急に常識人になるのはよしたまえ。キャロルはこれでタフな娘だ」
シュミットは彼女に手を添え、ソファへと導いた。ガウンを着た娘は、ひどくか細く見えた。
「キャロル、誤解してもらっちゃ困るんだが、おれは厄介事を起こして逃げ込んだんじゃない。シュミットに誘われたんでもない。通りかかったら、急に君が懐かしくなって。これ飲んだら、出てく」
「うれしいわ。想い出してくれて」
キャロルは静かにおれの方を見つめ、それから、反対側のソファへ白い貌《かお》を移した。
立ち上がったので、おれは反射的に支えようとしたが、手が触れる前に、
「大丈夫。この船の中なら、自由に動けるの。眼が見えなくてもね」
キャロルはそう言って、プリンスの前に立った。ややぎごちないが、知らない人間が見れば、盲目とは思えない滑らかな足取りだ。
身を屈め、娘はそっとプリンスの顔に触れた。
白い指が額を、鼻筋を、頬を撫で、おれははじめて、プリンスが羨ましくなった。
「よく眠っているわ。いいのよ。眠っている間は、何も辛いものを見なくてもいいのだから」
手を放したキャロルの言葉は、しみじみと夜の静けさに溶けた。
「それなのに、世の中にはわざわざ、自分から瞼をこじ開けて、辛い仕事に出かけていく男の人たちがいる。女の気持ちなど歯牙にもかけないで」
「全くだ、この悪党」
おれは小さな声で、シュミットに言った。“地獄の戦士《ヘル・ファイター》”は答えなかった。思い当たる節は山ほどあるにちがいない。ふふ、ざま見やがれ。
「あなたのことですわ、八頭さん」
「ガーン」
とおれは心境を口にした。
「それは――」
「でも、私は羨ましい。男の人でなくっても、眼さえ見えたら私もそうしたでしょう。あなたとローレンスがしているようなことを」
「キャロル――私は」
「あなた、外出のたびに、硝煙の匂いをつけて戻ってくるわ」
「いや、あれは射撃練習のせいだ」
「八頭さんと会うまではね」
キャロルは、腕白息子をそれとなく叱るやさしい母親みたいな口調で言った。
「それからは、出ていくときの表情が違う。帰ってきたときの顔つきが違う。いいえ、眼が見えなくても私にはわかるのよ。あなたが口ずさむマーチまで聴こえるわ」
「阿呆か、おめえは」
おれは横眼でシュミットをにらんだ。“地獄の戦士”は茫然としている。惚れた女のみがなし得る奇跡だ。
「でも、私はうれしかったのよ、ローレンス」
と金髪の娘は言った。夜の照明の下で、その髪は黄金の稲穂のようにかがやいていた。
「やっと、生きているあなたを見つけ出すことができたのですもの。私といる間、あなたは死んでいた。呼吸をしているだけでは、生きているということにならないでしょう。私が何も言えなかったのは、あなたが私のために死んでくれたのだとわかっていたからよ。でも、私はいま、とてもうれしいのよ、ローレンス。あなたは自分の世界に帰った。硝煙と銃声の世界へ。死んだ恋人より、生き生きととびまわる恋人を私は選ぶわ。いつか、この船を出て行き、それきり帰って来なくても。いいえ、そんなことないわよね、八頭さんがついている限り」
キャロルは微笑した。その笑顔より、頬を伝わる滴がおれの胸に灼きついた。
「そうだとも」
とおれは言った。
「必ず生かして連れ戻す。安心してくれ」
「あなたは、この子のために戦っているのね」
とキャロルは、プリンスの方を向いて言った。
「ああ。こいつは宝の山なんでね」
「小さな子供のために、欲得ずくで生命を懸ける人はいません。私はそう思います。その戦いにこの人も加わらせてあげて」
「だってよ」
おれはシュミットを見た。
「もちろん、嫌だろうな。おれはご免だ」
「レディの頼みを断るつもりかね、八頭の血が泣くぞ」
「うるせえ。手伝いたきゃ、勝手についてこい。ただし、リーダーはおれだし、山分けなんてのも一切なしだ。わかったな?」
「承知した」
とこいつは、あっさり言った。こうやって、人は戦いの場に入ってくる。決心も、愁嘆もなく、静かに淡々と。戦士とはこういうものだ。
ローレンス・シュミット――“地獄の戦士《ヘル・ファイター》”はかくて戦場へ戻り、おれはこの上ない仲間を手に入れたのだった。
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第七章 妖草師ピゲロ
翌日の早朝、おれとシュミットは貧民夜会地区の一角に、妖草師ピゲロを訪ねた。プリンスの治療のためである。
赤煉瓦のビルの一階にあるオフィスは、草花やら種子やらを詰めた瓶で埋もれていた。
おれのわかった品でも、午黄《ごおう》、升馬《しょうま》、陳皮《ちんぴ》、半辺蓮《はんぺんれん》、イノンド、ウイキョウ、オニク、サフラン等の薬草や、ツクバネソウ、トウゴマ、ドクゼリ、バースニップ、ヒエンソウ、ビャブク、ケルベラ・タンギン、コフォペタールム・トキシクム、ストロファンツス・コンペetcetc――世界中の毒物に加えて、はじめて見るようなものもある。
瓶詰めの他にも、乾燥させたやつが天井からぶら下がり、床の上は黒土に植えた草で足の踏み場もない。その割に臭いがきつくないのは、どこかで鈍い音を立てているエアコンのせいだろう。
こんな商売をしているのはどんなオタクかと思ったら、案の定、頭からすっぽり柿色のマスク付き長衣を被り、うつむいた顔も見えない陰気な男だった。
おれから、プリンスの状態を訊き、
「しばらく、検査をさせてもらいたい」
見てくれの十倍も陰気な声で言った。
「いいとも。だが、おれたちの見ているところでやってくれ」
おれはぴしっとかました。
「いいだろう」
驚きもせずに妖草師は答えた。少し気に入ったぜ。
検査といっても、たいしたことはなかった。プリンスの眼を調べ、舌をのぞき、全身を触れてまわっただけだ。
一〇分もかけずに、奴はおれたちの方を向いて、
「勇気のある子だ。それに――徳がある」
「そらそうだ。なにせ、×××《ばつばつばつ》だからな」
「その辺はききますまい。治療の手立てはあるよ」
「そりゃ結構」
おれは表面は面白くもなさそうに、胸の中で手を叩いた。
「この子は深層心理にかなり強い暗示を受けている。根こそぎ解除するしかない」
「やってくれ。やってくれ」
おれは、シュミットにウィンクしながら言った。
「ただし、少し時間がかかる。一気飲みはできんのでな。三日ほど頂けんか」
「それはいいが、あんたを襲わないとは限らないんだぜ」
おれは、凄みをきかせた。ピゲロには、弟が何度か、おれを殺しかけたとだけ話してある。
「暗示を解く者を殺せという暗示か。――それを怖がっていては治療ができないな」
「まかせた」
おれはきっぱりと言った。ピゲロは悪党じゃないと、勘が伝えたのだ。こういう仕事に必要なのは、論理的推理よりも、「そんな気がする」だ。
「三日したら引き取りにくる。頼んだぜ」
「承知した」
とピゲロはうなずいた。それから、
「私という人間をいきなり信じろというのも無理がある。ひとつ、腕の程――というより、どんな治療をするか見てもらおう」
「お、お」
おれは、にんまりした。望むところだ。口先より実行――この妖草師が実力派なのは、それだけでもわかる。
「待っていたまえ」
とピゲロは隣室へ入り、すぐにプリンスと一緒に出てきた。
「もう、一服もったな?」
と思わず口をついて出た。
プリンスの顔からは、あらゆる表情が消えていた。催眠術にかかると、よくある顔つきだ。
「精神安定剤の類は使っておらんが、与えた薬はすでに潜在意識へ働きかけているのだ」
ピゲロはプリンスの腰に手を当てた。
「さ、息を吐きたまえ」
途端にプリンスは咳き込んだ。
二つ折りにした身体が激しく痙攣する。
げっ、と吐いた。
おれは眼を剥きかけた。
プリンスの口から床へとぶちまけられたものは、想像するような吐瀉物ではなかった。かといって、何かとははっきりわからない。色はビビッド・レッドだが、強いて言えば、一種のイメージだ。
一応、幅のある放物線の形をとって床にぶつかったそれは、おびただしい鮮明な破片と化して飛び散り、おれの足元にも舞い落ちた。
成程――毒のある精神が薬品に浄化されると、こうなるのか。
ふらつくプリンスを抱き止め、
「こういう次第でな。次はもっと強い薬を使う。それで三日要る」
「わかった。頼んだぜ」
おれは片手を上げて、全面的信頼を表した。ピゲロはプリンスを手近のソファに横たえ、古い木のテーブルに近づき、引き出しを開けた。
「これを持っていきたまえ」
テーブルの上に、プラスチックの円筒を置いた。
薬のケースだ。緑色の錠剤が詰まっている。
「深層心理の抵抗をパワー・アップする薬だ。昔、ここにいた悪徳催眠術師をへこますために調合した分が百錠ほどある。君が何をするつもりか知らんが、持っていても邪魔にはなるまい」
おれは一応カッコつけにピゲロと手のケースを見つめ、テーブルに近づいて、それを受け取った。
「ありがとう。――頼むぜ」
「全力を尽くそう。ミスター・シュミットのお友だちのためだ」
とピゲロは言った。
彼のビルを出てから、
「もてるねえ、色男」
とおれは、シュミットを肘でこづいた。
“地獄の戦士”は軽蔑したようにおれを見つめ、
「これからどうする?」
と訊いた。
「大佐との約束を守るさ」
「彼のところに行くのか」
シュミットは何という風もなくつぶやいた。やっぱり胆が太い。
しかし、油断はしねえぞ。相棒なんぞ信用できない人間の最右翼だ。
「プリンスの様子から見て、大佐はエニラ師と組んでるかもしれない。あるいは、彼の術中に落ちたか。どちらにせよ、どちらでもないにせよ、牙を剥いて待つ敵の口中に入るのは危険だ」
「一応、約束でな。おれの手でエニラを斃《たお》せるようになるのなら、それに越したことはあるまい」
「止めても無駄だろう。――プリンスのことはまかせておけ」
「わかってるさ」
おれはシュミットにウィンクした。
「頼りにしてまっせ。“地獄の戦士”さま。ところで目下、情報部てな、どこへ行けばいい?」
「場所がわからない君ではあるまい」
「真っ昼間からお邪魔していいものかな」
「玄関の前をうろついていれば、向こうから見つけてくれるさ。エニラ師側に見つからないとも限らないが、その辺は我慢したまえ」
「名案だ」
とおれは言った。
その通りになった。
間抜け面して、情報局の前を横切ろうとしたら、たちまち、かたわらに黒いリムジンが止まって、屈強な背広姿の男が二人、前後をふさいだ。
「ミスター八頭ですな?」
と前の奴が訊いた。
「そうだ」
「大佐がお待ちかねです。ご一緒にどうぞ」
「苦しゅうない」
「は?」
男は眉をひそめた。日本語だったから仕様がない。
「けっ。餓鬼が」
と後ろの奴が吐き捨てた。
前の――少なくとも、多少はお客の扱いを心得ているらしい――男が後部座席のドアを開けた。
おれが入ろうとすると、案の定、後ろの奴が背中を押してきやがった。
だが、奴の手は指先がおれに触れた瞬間、別の動きを示すことになった。
おれは左手でそいつの手首を掴むや、身体の前に移動させ、右手でドアを閉めた。そう、かなり強く。
ぼき、という音がした。
ドアを開け、手を離すと、男は眼を剥いてのけぞった。
おれは知らん顔をしてドアを閉めた。
前をふさいだ男が苦々しい顔つきで運転席の窓に寄り、
「おれはザッコを医務室へ運ぶ。――先に行け」
と声をかけた。
運転手が片手を上げ、ハンドルを握り直して、リムジンはスタートした。
「ここじゃないのか?」
おれは遠ざかる情報局の建物の方を見ながら訊いた。
「別口だ」
無愛想な声で応じ、運転手はもっと無愛想に、
「たいした坊やだな。ザッコは情報局でもトップ・クラスの格闘名人だぜ。それが、手も足も出なかった。さすが日本人だ」
「国際人つってくれ」
おれは意気揚々とシートにふんぞり返った。
リムジンが止まったのはそれから三〇分後、場所は閑静な住宅街にあるスーパー・マーケットの駐車場だった。
「おかしなところにあるな」
と思いきや、左右の光景がぐんぐんせり上がってくるではないか。つまり、リムジンの乗った部分だけが、地中へ沈んでいくのだ。
おれの見たところ、リムジンが収まると駐車場のスペースはなくなった。こう都合よくいくのは、駐車場全体、いや、スーパー自体が情報局の経営なのだろう。
三メートルほど下がると、前方にカマボコ状の通路が現れ、リムジンの乗った部分とつながった。後はまっすぐ一〇〇メートルほど走り、本当の駐車場へ入って、おれは運転手ともども車を降りた。
「ようこそ」
大佐が立っていた。ひとりだ。気に入った。もちろん駐車場のあちこちには、レーザー発射器やら機関銃やらが隠蔽されているのだろうが。
「案内しな」
「こっちだ」
やりとりはこれで終わりだった。
奥のドアをくぐって廊下へ出ると、この分室というか別館というかは、かなりのスケールだとわかった。
天井まで五メートルもあり、おれたちのかたわらを、専用車輛らしいカブト虫型の乗り物が通り過ぎていった。
「さすがは情報局、金がうなっているらしいな」
皮肉めかして口にすると、
「ここは武器やその他の兵器の研究開発施設を兼ねているのだ」
ときた。それでか。
ばかでかいエレベーターで、おれはさらに下の階へ案内された。
行き着いたのは、四方をおかしなメカで埋めつくされた一室である。
眼鏡に白衣の男がいて、おれを椅子にすわらせた。技師らしい。
頭に電極とコードだらけのヘルメットでも被らされるかと思ったが、技師は何もせず、渦巻き状の光電管がくっついた操作盤のところで、何やらピイピイやりはじめ、一〇秒ほどで、
「たいした精神パワーだ」
と驚いたように、大佐を見つめた。
「どれくらい凄いのかね?」
「計測不能です。桁外れなのは確かです。ただし、この不安定ぶりでは、自在に発揮するというわけにはいきますまい」
よくわかりやがる。
「それでは困る。対エニラ戦には使えんからな」
大佐は硬い声で言った。
「何とかしたまえ。一発勝負でいいのだ」
「やってみましょう」
技師はうなずいた。
「その前に訊きたいことがある」
と、おれは大佐に言った。
「何だね?」
「プリンスはおれを狙ってきた。深層暗示のせいだ。おまえの仕業だろう」
「私は君に、ここへ来てもらわねばならなかったのだ。理由はもう話した。そんな真似をして何になるね?」
「それもそうだ」
「OKです」
と技師が操作盤を見ながらうなずいた。
「では――幸運を祈る」
と大佐が片手を上げると同時に、かすかなモーター音がして、光電管が青くかがやいた。
「光る部分を見て。どこでもいい」
と技師がひどく大雑把なことを言った。
青い光の一点におれは眼を据えた。
――――
「いいでしょう」
また、声と同時に光が消えた。
「もういいのか、一秒もたっていないぞ」
と大欠伸をするおれへ、
「時計を見てみたまえ」
と大佐は壁の方を向いた。どうやら、この部屋へ入って一時間以上経過したらしい。おれの体内時計も眠らせるとは、かなりの大手術だったようだ。
「これでエニラ師壊滅要員は揃った。後は、いつ乗り物ごと倒すかだな」
大佐は微笑した。それを片方の眼の隅に捉え、もう片方の隅っこで、おれはもうひとりの顔を見つめていた。
技師も笑っていた。下手な笑い方だった。おれは、
「面白い機械だな」
のこのこ近づき、不意に技師の眼の前へ人差し指を突きつけた。はっとする奴へ、
「もう身体は動かない。――思いっきり深く眠れ」
と命じる。
「何をしている!?」
大佐が叫んだが、おれの声の方が早かった。すでに催眠状態に入っている技師へ、
「大佐はエニラ師とつるんでいるな!?――答えろ!」
この部屋のメカほど効果はなかったが、技師には十分だった。
「はい」
技師がこううなずく前に、おれは右足を後ろへとばしていた。
勘で放った後ろ蹴りだが、手応えはあった。反転する眼の先で、大佐が上半身を折って、せわしなく空気を求めていた。いまだ。裏切り者は生かしちゃおかねえ。
「やめろ」
蚊の鳴くような声だった。気にもせず、おれは右足を送った。上段(顔面)に炸裂する回し蹴り。
大佐と一メートルも離れているのに気づいたのは、足を戻してからだった。
すかさず、左の横蹴りを送る。こちらは顔面に激突する――はずだった。
あさっての方へのびたおれの足へ、冷ややかな笑みを送って大佐は立ち上がった。
「君は私の自由になった。――精神《こころ》からな」
一杯食わされたというわけか。
「いま、貧民夜会地区では、腕っこきの部下たちがプリンス捜索に出かけている。あの方の深層心理に一種の存在符《マーカー》をつけてある以上、じきに見つかるだろう。そして、三日後の戴冠式に臨むのだ。エニラ様の分身としてな」
「阿呆。皇太后が黙っているものか」
「エニラ様の心理制御を受けていると知ればな。だが、プリンスは式の前日、ひそかに皇太后様のもとへ忍んで、こう告げるのだ。“お祖母さま、明日はエニラの言いなりになっている風に見せますが、ご安心を。僕は正気です”――とな。皇太后は疑うこともできまい。プリンスは心底からそう思っているのだから。見ていたまえ、戴冠式は史上稀な感動的なイベントになるだろう。空からは平和の白い鳩が七色の吹雪をまき、大地は国民の歓声でゆれるだろう。いや、これは失敬、君は見ることができんのだな」
凄まじい拳《パンチ》がとんできた。鳩尾に当たった。おれは床に膝を突き、空気を吸い込もうとつとめた。大佐はボクシングの構えを崩さずに、
「エニラ様の刺客がいなくても、いまの君は私ひとりで事足りる。君の国の地獄へ落ちるがいい」
彼が狙ったのは、おれのこめかみだった。ある角度でここに直打を受けると、脳内出血を起こして、完璧にお陀仏になる。
パワーも角度も申し分なかった。
ただし――当たらなかった。
左手でブロックするなり、おれは右のフックを大佐の腰の後ろ――少林寺拳法でいう後三枚《こうざんまい》に叩き込み、ぐっとなったところへ、アッパーを炸裂させた。同じ右だった。ボディに一発食ったせいで、大佐の顎は申し分なく突き出ていた。
八〇キロを越す身体が一〇センチほど宙に浮いたと保証する。仰向けに倒れた身体は、もはや、木偶《でく》人形と化していた。人形――その通り。エニラ師の操り人形だ。
それでも、人形だけあって、ショックには強いらしい。ぶっ倒れたまま、
「どうして、効かなかった?」
幽鬼みたいな声で訊いた。
「ある薬屋がいいビタミン剤をくれたのさ」
おれは正直、ピゲロと、情報局の前をうろつく寸前に十錠ほど服《の》んでおいた対抗心理強化剤に感謝した。さすが、病んだ深層心理を視覚化できる薬屋のつくった薬だ。メカニズムの暗示なんて、屁でもない。
エニラ師を斃《たお》すための精神パワー強化が本当かと思って来てみたが、こういう結果が出た以上、すべてご破算だ。
ぶっ壊してやろうと、グロックを抜きかけ、おれは思いとどまった。
突っ立ちっ放しの技師とメカのそばへ行き、じっくりと構造を分析する。
心理強化用の光電管本体と操作盤さえあれば、発電機《ジェネレーター》などはいくらでも代用が効きそうだ。
「OK」
おれは技師に暗示をかけ、絶対服従を誓わせた上で、二つのメカを持たせた。万が一の用心に、ある品はあるかと訊くと、ある[#「ある」に傍点]という。
それも奪い取り、おれはようやく起き上がりかけた大佐に近づき、眉間にグロックを突きつけた。
「どうせ、エニラのロボットだ。早いとこ死んだ方がプライドを保てるぜ」
「好きにしたまえ。エニラ様のためなら、どうなろうと本望だ」
淡々たる口調と平然たる顔を見て、おれは、グロックの握りで大佐の頭部を一撃した。昏倒。逃げるまでは黙っててもらおう。
「行くぞ」
と技師に言ってから、おれはあることを思いつき、引っくり返っている大佐のかたわらに跪いた。
ポケットから、あの錠剤を取り出し、二十錠ほどまとめて、大佐の口へ押し込む。
背中へ回って活を入れるや、大佐は息を吹き返し、ついでに息を吸い込んだところへ、おれは鼻をつまんでやった。
「ぐう」
と呻いて、空気と一緒に薬も飲み込む。むせたので、背中を叩いて通す。
これが効けば、反エニラが復活するわけだが、それは、かけられた術の強さによる。
「幸運を祈る」
言いざま、顎に一発叩き込んで眠らせ、おれは技師を先に廊下へ出た。
嫌な予感がした。予感だから、今のところ具体的にどうということはない。
技師に命じてエレベーターのところへ案内させる途中、数人の情報局員とすれちがったが、おれを奇異な眼で眺めるばかりで、見とがめたり、尋問しようって奴はいなかった。
エレベーターに乗って上へ。
いきなり下降するなんてこともなかった。順調だ。それなのに、不安は高まる一方ときた。
ドアが開くとまた廊下があった。地下みたいに整然とはしていない。所狭しとダンボールや空き箱が積み重ねられ、モップまで立てかけてあった。箱の中身は果物や野菜だ。
マーケットの内部らしい。右端の窓つきドアを抜けた。
口笛を吹きたい気分になった。駐車場だ。
あわてず騒がず、おれはいちばん手近の車に近づいた。平凡な乗用車だ。向こうにバンやスポーツカーもあるが、いまは人目につかない方がいい。いざとなったら、いくらでも他の車の中へまぎれ込めるからだ。
ドア・ノブに手をかけても、気は抜かなかった。情報局の敷地に停まっている車だ。いきなり、ドカンもあり得る。
思いきり勘を働かせた。例の予感は消えないものの、生命に関わる感じはない。
開けた。
「ありがとさん」
おれは技師から増幅メカを受け取り、ドアを閉めた。キイは差さっていないが、コードを細工すれば動かすのは簡単だ。
突っ立ってる技師を残して、車は走り出した。暗示は解かなかったが、情報局が何とかしてくれるだろう。
目的地は決まっている。クルト――あの天才物理学者のところだ。エニラの攻撃を受けて、いまも研究所にいるかどうかは不明だが、行く先くらい何とでも突き止められる。いよいよ、いい手《カード》が回ってきたようだ。
ん? と思ったのは、五分ほど走った頃だ。
不安が高まった。しかも、方向性がある。上だ。
おれはグロックを抜いた。何が来るか、想像はついていた。しかし、街なかでよくやるわ。
視界が翳った。
窓から覗き、おれはにやりと笑った。太陽を背に黒々と大空を舞う影は五匹いた。
翼の端から端までは、軽く一〇メートル。ハンマーみたいな嘴で思いきり突つかれたら、牛だってイチコロだろう。――翼手竜《プテラノドン》だった。
ゆきをさらった仲間か。どちらにしろ、エニラの爺い、ちゃんとおれの動きを読んでやがったな。こう来なくちゃ、面白くねえ。
おれは素早く手を伸ばしてサイド・ミラーをひん曲げた。上向きの鏡面に化物じみた妖鳥の鼻面が映る。ほう、全身が妙に波立ってると思ったら、びっしりと毛が生えてるじゃないか。恐竜が爬虫類じゃないという説は知っていたが、ひょっとすると哺乳類の一種かもしれんな。
来た。
がっと口を開け、手足の爪を打ち合わせながら。途端に、こいつらが牛や馬の仲間だとは思えなくなった。
おれは前方《フロント》とサイド・ミラーを視界に収めたまま、グロックを発射した。いくら鏡があるとはいえ、こういう場合、本当に頼りになるのは勘だけだ。
幸い、その辺はまかしとけだ。
腹に二発食った凶鳥《まがどり》は、空中で身をよじるや、片翼から路面に突っ込んだ。げえ、とひと声上げ、夢中で羽搏き、何とか上昇に移る。
いま、グロックに装填してあるのは、ハイドラ・ショックという、九ミリ・パラベラム弾のパワーを体内であますところなく炸裂させるための特殊弾丸だ。人間の頭くらい一発で吹っとぶ弾丸《たま》を、二発も食らって平気とは恐れ入る。二筋の赤い糸が路上に筋を引きながら追ってくる。血だ。
もう二匹の腹と胸に三発ずつ叩き込んだとき、車の屋根に何かがぶち当たった。天井を突き破って、鋭い爪がせり出してくる。
反射的に、おれは上体を横へ傾けた。
ツルハシが、もと首のあった位置を貫いたのは次の瞬間だった。肩まで一センチもない。
「阿呆」
声と同時に、屋根へと向けてグロックの引き金《トリガー》を引く。プラスティックを多用した銃だから、反動は小気味いい以上にある。
げええ、と悲鳴が上がるや、爪も嘴も引っ込む。
「やるねえ」
久しぶりに――本当に久しぶりに、おれは身の毛がよだった。
エニラ師の声――それはまだいい。だが、まさか、後部座席から聴こえるとは。
「いつから乗ってた?」
おれはできるだけ冷静な声で訊いた。
「最初から。君がマーケットへ乗りつけたのも見ていたよ。脱出してくれば、あの出入口を抜け、真っ先にこの車に眼をつけるのもわかっていた。君は型破りな人間だが、人間にはちがいない。わざわざ遠くの車は選ぶまい」
派手なスポーツカーやバンはなおさら、な。さすが化物。よく、人間の心理を読みやがる。不安の正体はこいつだったのか。
「後ろは向かんでくれたまえよ。走行中は前を見ていればいいことが必ずある」
のうのうと言うバックミラーのエニラ師へ、
「いいことてな、何だい?」
と、おれは嫌みたらしく訊いた。
「あんたの可愛らしいコウノトリが子供を授けてくれるなんてのは断るぜ。エイリアンの離乳食は見当もつかん」
「別のものを授けてあげよう。――見ろ」
エニラ師の言葉より早く、おれは気づいていた。
車の鼻面《ノーズ》から一メートルと離れていないところへ、見覚えのある姿が舞い降りてきたのだ。
ビキニのブラジャーとパンティだけの肢体は、とても高校生とは思えまい。
「なにさ、なにさ、放しなさいよ」
と肩を掴んだプテラノドンに向かって絶叫する顔が、ひょい、とおれに気づいて、
「あー、大ちゃん」
と言った。ゆきである。
「てめえ、卑怯もの。さっさと解放しろ!」
おれの声に、エニラ師ははははと笑った。やっぱりな。
「いっそ、わしの側女《そばめ》にしようかと思ったが、いや、凄まじい。顔の皮が五回も剥がされたわ。とても、可愛がるような玉ではない。まるで、猛獣だ」
「得意の催眠術はどうした?」
おれは、ゆきではなく、前方の景色を見ながら言った。対向車が次々に道路脇の店やショーウインドに突っ込んでいく。そりゃ、驚くだろう。
「あれを使う相手は男に限っておる。ロボットのような女を好きにしても楽しくはないのでな」
おかしなことを吐かしやがる。このエイリアン爺いが。
「まあ、そういうわけで君に返却することにしたのだ。さて、どうやって受け取るかな?」
ゆきが、きゃあと叫んだ。プテラノドンの右脚が外れたのだ。夢中で残りの脚にしがみつく。
「何とかしなさいよ、この能なし!」
おれのことだろう。
「条件は何だ?」
とおれはエニラ師に訊いてみた。もちろん、何を示されても、最初はOK、実行する気はゼロだ。
「わしの部下になれ」
とエニラ師は言った。
「ごめんだな」
おれは鸚鵡返しに答えた。いきなりOKじゃ勘づかれる。
「そう言うだろうと思った。あきらめよう。二人して死ぬがいい」
「おい」
このときの、おれの心理と身体の動きを説明すると、こうなる。
あわてた。それを強引に抑え、左手のグロックを前方へ向けると同時に、ハンドルを右へ切る。さしものエニラ師も、何がなんだかわからなかったにちがいない。
一瞬、横切った不安は、ドアを開ける暇があるかということだったが――そのとき、すでに、おれの手はドア・ノブを掴んでいた。
エニラ師が、おっ、と叫んだ。
時速一二〇キロで吹っとぶ車から空中へ躍り出ながら、おれは、左手を伸ばして、落ちてきたゆきを受け止めた。プテラノドンの足首は射ち砕いておいた。グロックはドアを出る寸前、右手にスイッチしてある。
ゆきの身体をカバーしながら、おれは路上を転がった。
肩がきしむ。時速二〇〇キロまでなら何とかOKだが、荷物があると別だ。歩道の縁にぶつかって止まるまで、ゆきは、
「きゃあきゃあ」
と悲鳴を上げつづけた。
おれはすぐ、立ち上がった。プテラノドンはまだ残ってるはずだし、エニラ師もいる。のんびりはしていられない。
「やだ。眼が回るわ」
と、かたわらでふらつくゆきへ、
「車を探すぞ」
「どうしてよ?」
「逃げるためだ、阿呆」
「なによ、その言い草――囚われの身のあたしを、助けにも来なかったくせに。取り消しなさいよ」
「うるさい」
ののしりながら、おれには、ある期待があった。
エニラ師を乗せた車が、こちらへ戻ってくるのを見て、それは満たされた。
「あれにするぞ」
ゆきは、げっ、と言った。
「さっきの車じゃないの。どうして、戻ってくるのよ?」
「忘れものをしたんだ」
「?」
左右で人の声と足音がざわついた。街なかの大活劇だから、通行人や屋内の住人が出てきたのだ。視線は――ゆきに集中した。
「ちょっとお。人の裸見るんなら、見物料出しなさいよ」
ゆきが叫んだ。少し赤い。羞恥心はあるらしい。
おれは頭上を見た。プテラノドンはいない。
「なんで、そんな格好してんだよ?」
とおれはののしった。
「知るもンですか。――あ、あの爺さんに訊いたらさ、わしの趣味だって」
「変わったエイリアンだな」
「人間の癖が移ったのよ。きっと」
「いかん!」
おれはゆきを押し放すようにして歩道へ伏せた。エニラ師の車の窓から、光るものが見えたのだ。
群衆に変化が生じたのは、次の瞬間だった。
身体の半分が腹と見えるデブが、そばに立っていた長身の男の顎へ一発叩き込み、そのデブの背へ、五歳くらいの男の子がとびかかるや、首筋へ思いきり歯を立てた。
「逃げるぞ」
おれは、ゆきの尻を叩いて叫んだ。相変わらず張りがある。
返事は――唸り声だった。
はっとするより早く、おれは顔をそむけた。間一髪、眼を狙ってきたゆきの指は空を切り、おれはその手首を押さえつけた。
「何をする!?」
と訊いたが、答えはわかっていた。おれの胸にも、抑えがたい凶暴さが湧き上がってきたのである。
エニラの奴――あの精神増幅器を使ったのだ。ジェネレーターなしでも、奴なら何とかするだろう。
どんな栄養のある食事を摂っても、際限なしに摂りつづけていれば胃腸はおかしくなる。同じ理屈だ。
「きえええい」
ゆきの絶叫とともに、おれは軽々と持ち上げられた。
投げられる、と思いきや首と腿を掴まれ、ネックブリーカーの要領で、ゆきの肩にかけられた。曲げてきた。ぼき、と背中が鳴った。凄まじい力だ。折られる!
おれは夢中でゆきの顔面へ張り手をかました。
力がゆるんだ。思いきり身をよじって自由になる。着地と同時に、ゆきの鳩尾へ拳を叩き込んだ。
ぐったりした身体を肩に乗せた途端、白髪の老婆が掴みかかってきた。かわした。空気が鳴った。ブロックした左手に、重い衝撃がねじ込まれた。若いのが木の棒で殴りやがったのだ。
彼のせいではないとわかっていたが、怒りは止まらなかった。おれの右前蹴りを食らい、男は歩道へぶっ倒れた。
元凶はエニラ師だ。
とびかかってくる花売り娘をかわし、おれはグロックを抜きざま、通りへ向けた。戦いの最中でも、エニラ師の車は視界に収めてある。
ゆっくりと、騒動の現場を過ぎるところだった。窓からは光電管が突き出たままだ。
陽光の下に、炎が躍った。
九ミリ・パラベラム弾の五連射は見事に装置を打ちとばし、光る破片が空中に跳ね上がった。
まだ[#「まだ」に傍点]だ。おれは引き金《トリガー》を引きつづけた。狙いはエンジンだ。車のノーズに黒点がぱぱっと穿たれ、それが四つになった途端、車は炎を噴いた。
暴れていた街の連中が、次々に倒れていく。
おれはグロックを放さず、車を見つめた。
ドアが開いた。ごうっと炎が転げ出る。それから、人影が。オレンジ色の炎に包まれていても、エニラ師とわかった。
やって来る。
おれは身を翻して、通りを走りだした。
精神増幅器から何とか逃げられたのは、おれの精神力のたまものだった。
結局、おれは路上駐車の車を失敬して、クルトのもとへと急行した。研究所の見える位置まで来て、
「やりやがったな」
つい、声が出た。
黒煙が上がっている。偶然のはずがない。エニラ師か大佐の一派が手を回したのだ。
とりあえず門の前まで行くと、消火作業の真っ最中だった。所員らしいのを捕まえて事情を訊くと、一〇分ほど前にいきなり、爆発したらしい。クルトがどうなったかわからないが、研究所にいるのは見かけたそうだ。えい、無鉄砲な野郎め。
「ねえ、どうすんのよ。これからあ?」
と車内で活を入れておいたゆきが外へ出てきた。
途端に、心配そうに消火作業を眺めていた野次馬や所員が鼻の下をのばして、オウ、と来るわ、放水作業中の消防団員がホースごとこっちを向いてしまい、人垣のど真ん中に水流が叩きつけられるわ、大騒ぎになりはじめた。
「馬鹿、乗れ」
急いで車へ戻し、おれは貧民夜会地区へと向かった。
道々、事情を話せとせがむゆきの願いを叶えてやった。
「あら、でも、その増幅なんとかは、さっき破壊されてしまったんでしょ。なぜ、研究所なんかへ行ったの?」
「機械はパーだが、設計図はある」
「え?」
「あのスーパーを出てくるときに失敬してきたんだ。ちょっと見たが、構造は簡単そうだ。設備さえあれば、すぐに出来るだろう」
「やるぅ。さすがは大ちゃん――あら何よ、その顔?」
「おまえが人を誉めるのは、得になると思ったときだけだ。何を考えつきやがった?」
「やだ。人を邪悪の根源みたいに言わないでよ」
うふンとゆきは白い肩をすり寄せてきた。いよいよ、はじまったな。獅子身中の虫とはこいつのことだ。
「ね、ものは相談だけどさあ」
「運転中に肘をつねるな、肘を」
「堅いこと言わないで。ね、その設計図が敵の手に渡ったら、エニラの爺さんすごく困るわけじゃん。一方、敵方はさ、その設計図があれば、いままで歯も立たなかった壁を崩せるわけでしょ。――売れるわよ。高く」
おれは返事をしなかった。内憂外患とはこのことだ。
「ね、ねえってば」
肘がつねられた。痛みをこらえて、おれは、
「おれたちの敵はエニラだ。この設計図は必然的にゲリラ側を利する。わかったな」
と言った。
「ちーっとも」
とゆきは柳眉を逆立てて反抗した。
「大体さ、ゲリラなんて、貧乏人の集まりに決まってるじゃないのさ。それ渡したって、“あ、どーも”か、“自由の友よ、感謝する”“我が国は君のことを忘れまい”でおしまいよ。死ぬ思いの報酬にしちゃ、安すぎないこと? あたしたち若いのよ。少しは楽しいこともしなくっちゃ」
「おまえな、日本にゃ幾らの財産があるんだ?」
「あら、あんたからたまにもらうお小遣いと、宝くじの当たり券、競馬と競輪、競艇の賞金、パチンコの景品を売ったお金――たいしたことないわよ」
「おれの金庫からくすねた分だけでも、億に近いはずだぞ」
「あら」
「それから、ブラック・マーケットで自費出版したヌード写真集も五〇〇万部の大ヒットだそうじゃねえか、よくもそんな恥さらしな真似ができるもんだ」
「ちゃんとマスクをつけてるわよ。ヘアも見えないわ」
「だからいいってもんじゃねえだろ。――それにコンパニオンのバイトもしてるらしいが、おまえと付き合うと、尻の毛まで抜かれるって評判だ。財閥のトップを何人ひっかけた?」
「やあね。たった五、六人よ」
ゆきは、すぼめた口に手を当てて、おほほと笑った。
「そのうちひとりは、時価二、三億の宝石と五億見当の株券をおまえに譲渡したってきいたぞ。全員からそれくらいむしり取ったのか?」
「なんで、そんなに詳しいのよ?」
「そんなこたどうでもいい。要するに、それだけ貯め込んでるくせに、まだ金が欲しいのかってことだ」
ゆきは、ふんだ[#「ふんだ」に傍点]と言った。
「お金は多けりゃ多いほどいいのよ。世の中には金持ちと貧乏人しかいないんだから。あんた、急に、自分は清貧の宗教家だみたいな顔しないでちょうだい、墓泥棒の末裔のくせに」
「何だ、その言い草は!?」
おれが喚いた瞬間、車は貧民夜会地区へ入った。
「やだ、こんな汚いとこ。エニラ爺さんの住まいは天国だったなあ」
「やかましい、この裏切り者」
おれは、まっすぐ、シュミットの船へ車を向けた。
とりあえず、今後のことを相談しなくちゃならない。
だが、少なくともしばらくはできそうもなかった。
海岸通りに出たおれの眼に止まったのは、ヨットのある方角から上がる、黒い煙だった。
『エイリアン魔神国〔完結篇2〕』完
[#改ページ]
あとがき
『エイリアン魔神国』第五巻をお届けする。五巻だから、六巻もある。その辺の事情はお察し願いたい。
これで「あとがき」はおしまいである。男はくどくどとおしゃべりしないものである。
平成五年三月某日
「クレイジーの大冒険」を観ながら
菊地秀行