エイリアン魔神国〔完結篇1〕
菊地秀行
[#改ページ]
目次
第一章 Tシャツの怪魔
第二章 暗殺夜
第三章 戦闘三昧
第四章 “プリンス”の祖母(ばあさん)
第五章 懐かしき再会
第六章 “プリンス”を奪還せよ
あとがき
[#改ページ]
第一章 Tシャツの怪魔
1
美女の姿を見た刹那、おれはある手を打った。ひと睨みで操り人形にされては敵わない。
女は真っすぐ、おれの方へやって来た。
「また、会ったわね」
片手を腰に当てて微笑みかけているその色っぽさよ。腰は自然にくねり、赤い唇はもう半開きだ。白痴美の極致ともいえる。残る手のハンドバッグもさまになっている。並の[#「並の」に傍点]色っぽい女がやると、人を何だと思ってる、などと怒り出す野暮な男もいるだろうが、この女は別だ。品がある。それも、無理矢理とってつけたものじゃなく、天性の品だ。従って、表面に出ない隠し味が、色気の塊を白痴美に堕落させないのである。
「どうやって後を尾けた?」
こいつが一番知りたかった。おれの行動が筒抜けだとすると、ホテルがバレてる可能性もある。ゆき=シャルロットと陣十郎が逮捕されては、また一から計画を練り直さなきゃあならない。大体、あいつらを脱獄させるのがひと苦労だ。
「あなたを追ってたわけじゃないのよ」
女の台詞はおれを安心させた。そういえば、リムジンを降りてから、おれに気づくまで少し間があった。
「ちょっと、野暮用でね。――でも、ちょうどいい。交通事故はないと駅で聞いてたから、気にはしていたのよ」
「間一髪だったぜ。あれ以来、美人は悪党だと決めてる」
実は三歳のときからだ。
「もう一度、真理に気づかせてあげましょうか?」
女はさっきから、おれの瞳を覗きこんでいる。
「無駄だよ。あんたの手の内はわかってるんだ。おれは、あんたがこっちを向く前から、眼の焦点をボヤかしてる」
「大佐の言ってた通りのタマだわ」
女は軽く唇を歪めて吐き捨てた。
気に入ったね。自分の技が破られたら、人間、憎悪を抱かなくちゃならない。大したことないわよ、と取り澄ましているのは人間以上だ。弱点が探れない。
「でも」
女は短く言った。その次に来る言葉は、多分、「これがよけられて?」だったろう。――こう閃いた瞬間には、おれはいきなり顔を突いてきた女の右手をあっさりとかわし、一歩踏みこんで右の膝を左腿へ叩きつけて蹴りもブロック、ついでに右手の逆をとっていた。
女はなおも、左の靴先に仕込んだナイフの刃――まず、毒入りだ――で、おれを蹴ろうとしたが、その前に右手を軽くねじ上げてやると、足はもう上がらなかった。
「離して」
と女が言う前に、おれは、軽やかな足取りで通りを左へ折れ、人気のない路地へ連れこんだ。傍目には、仲の良い恋人同士としか映るまい。
「名前をきかせてもらおう」
おれは女の手を離さずにハンドバッグを奪い取り、見もせず、中身をかたわらの屑篭に捨てた。重さからして、小型の拳銃や通信器が入っているのは間違いない。
「ラジャ・クレイン。――コーネル“処理班”のひとりよ」
女の声は苦痛に歪んでいたが、はっきりとしていた。
「やっとこ全員にお目通りが叶ったか。大佐はどうしてる?」
「任務を遂行中だわ」
「“プリンス”は何処だ?」
おれは自分の左手に力をこめた。
「あ……」
女――ラジャは低く呻いた。露出した肌から、別の汗[#「別の汗」に傍点]が噴き出る。
「何処だ?」
おれは少しゆるめて訊き直した。
「折りたければ、折ったらいいわ」
ラジャは地を這うような声で言った。さすがにプロだ。苦痛に対する耐久訓練を受けているのだろう。もちろん、そんなものじゃ抗いようのない痛みも世の中にはあるし、おれはそれを与えることもできる。だが、それ以上力は入らなかった。――相手は女だ。
「ここへは何をしに来た?」
おれは話題を変えた。
「それも内緒。――あなた、やさしい坊やね」
「甘ちゃんと同義語じゃないぜ」
「わかってるわよ。でも、それ[#「それ」に傍点]が生命取りになるわ」
「天国で悔やむさ。だが、何も聞かずに帰すわけにゃいかねえな」
「どうする気?」
ラジャの声に嘲弄の気が滲んだ。
傷つけられないとタカをくくったのだ。
「この女はコーネル“処理班”のひとりです、と書いた名札を吊るして、通りへ出てもらうよ。怨みつらみを持った奴らが、どっと押しかけるぜ。ここの連中の治安関係者に対する呪いは強そうだ」
ラジャは沈黙した。
恐怖と――計算のせいだ。おれの「やる気」を測っているのだった。
「本気?」
と訊いた。
「嘘だよ」
と答えた。
「“プリンス”の居場所は、ここ[#「ここ」に傍点]よ」
あんまり、あっさり言われたので、おれは少し慌てた。
「ここ[#「ここ」に傍点]? ――“貧民夜会地区”か? こりゃ、驚いた」
「あたしは、ここの出なのよ」
ラジャは平然と言った。
「ゲリラの拠点に、王家の切り札を隠す。――実にいい手だと思わない?」
「確かに、な。何処だ?」
「骸骨通り《スケルトン・ストリート》沿いの運河を下ると旧港に出るわ。そこに浮いてる古い水上生活船の中よ。船の名前は『キャナル』」
「おまえ、そこへ行く途中だったのか?」
「そうよ。子供のときから愛用してる化粧品店があってね。そこへ寄ろうと降りたら、大胆不敵な日本の少年と出会《でくわ》したってわけ」
「これだけスラスラしゃべったんだ。どうせ、お強い護衛が船の要所を固めてるんだろうな」
「お見通しね」
ラジャはにんまりした。こういう毒のある笑顔のできる女も、たまにはいい。
ガードに絶対の自信があるのだ。つまり、コーネル・ヤンガー直属の“処理班”プラス親衛隊ってとこだろう。もちろん、おれ用の備えもしてあるにちがいない。だからこそ、脅しがあったとはいえ、こうもあっさりと吐いたのだ。
となれば、行かざるを得まい。――こういうのは素人の考えだ。おれは即座に頭を働かせた。
「そんなところへ“プリンス”を監禁してどうする気だ? ――おれだけじゃない。エニラ師一党も探している。いずれは見つかるぞ。おまえの親分《ボス》は何を考えてる?」
「その辺は直接お訊きなさい。いずれ、会う機会もあるはずよ」
「とりあえず、その船を見学といくか」
おれは、ラジャの手をいったん離して、横に垂れさせ、あらためて手首に人さし指をかけた。逃げようとすれば、ひと捻りで手首が外れる急所だ。
空のハンドバッグを手にしたラジャを先に立てて歩き出す。
おかしな風体の奴らに何人も出会ったが、ピーピー口笛を鳴らすぐらいで、何も仕掛けてはこなかった。
だが、ここは“貧民夜会地区”だ。何が起きるかわかったもんじゃない。悠々と歩きながら、おれは用心を怠らなかった。
ローラン共和国唯一の汚点ともいうべきこの街は――おれには救いの天国だが――実は共和国の領土ではない。立場としては香港によく似ている。あの街が、中国の領土でありながら英国に割譲されているのと等しく、面積約五平方キロ、港に臨む扇型のこの地域は、ローラン共和国の土地でありながら、その支配を一切受けないのだ。
一〇九五年、ローラン共和国が成立した時点で、時の国王カレル・フランクス・ゼーマンは、それを祝って、国民全員の中からひとりを選び、その希望をひとつだけ叶えると明言したのである。
国王が任意抽出したのは、何と八歳の少年で、彼の希望とは、
「国の支配を受けない土地を、ひとつ作って下さい」
であった。この希望が八歳の子供のものであるはずがないと、閣僚たちが騒ぎ出し、その子の祖父が犯罪者だと判明したりのトラブルがあったものの、国王は約束を守った。
かくて、“貧民夜会地区”は、まず、犯罪者の逃亡先になり、次に貧しい人々が住みつき、一種独特の自治組織や経済機構をつくり出した挙げ句、外国の犯罪組織や民間企業と独自な交流を開始し、現在見るがごとき、一大犯罪自由経済自治区を形成したのである。
この一区画は、警官を許容するが、警官としての権威は一切認めない。入ってくるのは勝手だが、出て行けるとは限らない、というわけだ。
無論、警察も、身分を偽装した特別捜査官を大量に送りこんではいるが、海の彼方からやってくる犯罪者たちの数は圧倒的に多く、重要な情報はまるで入手していないのが現状だ。
犯罪者の集団だから、当然、自分だけがのし上がって――と考える奴も多いし、現に何度かその辺の殺し合いはあった。それが、いつの間にか沈静化し、気がつくと、火種の組織は跡形もない。――この繰り返しで決着がついてきたのは、住人の誰ひとりとして気づかない、自由のための戦闘組織が存在するためだと言われている。
彼らの有する武器がどんなものかは不明だが、一〇年ほど前、街で水兵を殺害された某国の空母が、沖合から艦対地ミサイルを発射しようとした寸前、二つに折れて沈没したという事実がある。おれは、超強力な大型魚雷を積んだ小型潜水艦の仕業と睨んでいるが、正確なところはわからない。反エニラ師のゲリラ・グループに、その武器の一部が流れていれば、いくら化物といえど、やすやすとこの地区を占領封鎖するわけにもいくまい。
入り組んだ路地を抜け、カスバみたいな階段を上下し、やや歩くのにうんざりしだしたとき、突然、視界が開けた。
旧港と言った通り、かつては貿易船で栄えた港だったものが、周りの街が街なため、いつの間にか、正式な港湾はずっと西へ移り、今では密貿易船か、それに類するいかがわしい船舶、ボートしかやってはこない。
しかし、物騒だろうと、いかがわしかろうと、商売は商売であり、かなり広い湾は、大小の船影で埋め尽くされていた。
おおっぴらに荷物を積み下ろしている船もある。
「どの辺だ?」
おれの問いに、ラジャは、湾の西岸壁を指さした。
「あれよ。――二、三〇メートル離れて浮いてる艀《はしけ》があるでしょう」
成程、それだけが他の艀より際立って岸壁から離れている。サイズは時代劇によく出てくる屋形船よりふた回りほど大きい。いかにも密輸してますといった顔つきの大男が、シャツからとび出した丸太みたいな腕をもみもみ、舳先から海を眺めている。
見覚えがないから、大佐の親衛隊だろう。
“プリンス”と“処理班”のメンバーは、多分、船内だ。
「どう? あたしを囮に使ってもいいのよ。ゆっくり作戦を練るのね。もっとも、エニラ師側も血眼になって捜索中だから、いつ見つかるかわからないけど、まだ、三、四日は大丈夫でしょう」
「そんなに待つ気はないね」
と、おれは言ってやった。
ラジャの眼に、驚きと嘲笑の混じった色が浮かぶ。
「あら、お昼を摂ってからかかるつもり?」
「いや、これから[#「これから」に傍点]だ」
誓ってもいいが、この女工作員の口をぽかんと開けさせたのは、おれがはじめてだろう。
嘲笑は消え失せていた。驚愕の眼がせわしなく、おれと艀を見比べ、
「どうする気?」
と訊いたのは、たっぷり三秒後であった。
「見てりゃわかるさ。かといって、艀に連絡されちゃあ困る。身動きしないで、眼だけ動かしてもらおう」
ラジャは、はっとした表情で、
「あなた――ゲリラと連絡を取ったわね!?」
「残念でした」
と、おれは嘘をついた。
「あんな正義派と手を組んでみな。“プリンス”を救けたって、協力を感謝する、でチャラだ。そうはいかねえんだよ。貰うものは貰わねえと、おれの気がすまん」
この台詞は一から十まで本気である。大体、ゲリラだの革命派だのは、ビンボーに決まっており、しかも、それを喜んでるふしがあるから厄介だ。
「じゃあ、どうやって?」
「見てなよ」
おれは、ラジャの首筋に人さし指をあて、「代転」の急所を圧《お》した。
これで、上半身の自由は利かない。すぐに腰椎上の「伏体」を突いて下半身も同じ目に遇わせ、鮪《まぐろ》と化した身体を、近くに積んであったドラム缶の陰に寝かせた。
通りにおかしな奴らがいないのは調べてある。ラジャの位置から艀は見えるが、通りからは絶対にグラマーな肢体は判別不可能だ。おまけに声ひとつ、身じろぎひとつできないときている。
「それじゃ」
おれは横たえた女工作員の唇に軽くキスすると、素早く上衣とシャツとズボンを脱ぎ捨てた。
レイプでもされると思ったのか、ぎょっとした風なラジャの眼が、すぐ驚愕に見開かれた。
おれの全身は鈍く銀色にかがやいていた。ご存知、“機械服《メック・ウエア》”である。
金属フードが顔と頭を覆う。おれは、軽やかに水中へ身を躍らせた。
どっぽんだの水煙を上げるだのは、せいぜい、オリンピック候補までのやることだ。おれくらいになると、どちらもなし。飛び魚のように、するりと水に潜りこむ。
港の常で、水は濁りきっていた。
機械服の電子アイでも五メートルがやっとだ。レーダーもないから、艀までは勘しか頼るものがない。
海草と泥とヘドロでいっぱいの湾底を、おれは息を止めたまま前進しはじめた。排気は特殊な三重フィルターを通すから、水中でもできる。が、どうしても水泡が上がるので、見張りに気づかれる恐れがある。ウエア内の酸素ボンベは三〇分位しか保たないが、艀までは五分とかかるまい。この服は宇宙空間でも使用可能なはずだ。
昔は五万トン級のタンカーが入っていただけあって、湾底は深度二〇メートルを越す。
電子アイの視界を白い影が走った。
次の瞬間、握り止めたものへ眼をやり、おれはにんまりとした。
水中銃《スピア・ガン》用の銛《もり》だ。
“プリンス”のガードが艀の二、三人ですむはずがない。ちゃんと死の罠が用意されていたって寸法だ。
おれはお見通しだった。水とくれば、水の中と考えるのがガードってもんだし、水中でも、奴らの殺気は十分に感じられたからだ。
音もなく、白い水泡《みなわ》の筋がおれの四方に流れた。外れたのは放ったまま、おれは右手の銛を水中ではあり得ない速度で動かした。
三本が弾けとぶ。
おれは身を沈め、両手でぶ厚く積もったヘドロと泥とをすくい上げ、撒き散らした。
敵の視覚はこれで狂ったろう。
おれは次々に泥の煙幕をはりながら、前方に見え隠れする人影に接近した。
スキューバ一式に身を固めている。ボンベの交換は別の船を使って行うのだろう。これだけ苛酷な任務に選ばれた奴らだ。それなりの精鋭にちがいない。
おれはダッシュをかけた。
水をえぐって進む。
尋常の十五倍のパワーを誇る機械服といえど、水圧の抵抗は凄まじい。それでも、細長い棒を突き出した奴の背後に回り、手の銛で呼吸器のホースを切断するくらいは簡単だった。
どん!
と鈍い音と衝撃が足元から伝わってきた。吸気管を切られ、泡食って上昇していく奴の落とした棒の先が爆発したのである。
接触信管をつけた小型爆薬――対鮫用の武器だ。時代遅れの代物を使ってやがる。
こう思った瞬間、腰のあたりがびっ[#「びっ」に傍点]と来た。危険信号――身をひねった刹那、右腰のあたりで凄まじい衝撃と火花が炸裂し、おれは吹っとんだ。
機械服がなければ危なかったかも知れない。正体はわかっている。超小型の魚雷だ。
仲間を巻き添えにする恐れがあるから、通常魚雷みたいな破壊力はないが、腕の一本くらいはもげる。
いくら機械服といっても、材料はシリコン・ファイバーだ。直撃を食らえば、裂ける可能性は大きい。ただ、おれは、巡航ミサイルに積んできたBPL《ブリット・プルーフ・リキッド》(防弾塗料)を全身に吹きつけておいた。別に、水中銃を見越したわけじゃなく、万が一の用心だ。七層に及ぶ衝撃吸収皮膜は、象狩り用の巨弾――四六〇ウェザビーでさえ弾き返すのだ。ペンシル魚雷の直撃くらい何とかなる。
もう一発、今度は腹に当たった。
ヘビー級のジャブ程度のパンチ。――効くねえ。
よろめいた途端、何人かが躍りかかってきた。見事な動きだ。右手に光るもの。
おれはナイフの一撃をことごとくかわし、送気管を切り裂き、酸素ボンベに穴を開けてやった。
次々に上昇していく。
さぞかし港は大騒ぎ、と思ったら、全員、途中でボンベを落とし、港の岸壁に開いてる穴の方へ泳いでいく。そう言えば、半分水面上に出てた排水孔があったが、あの中が本拠地か。
おれは頭上を見上げた。
ほぼ真上に、艀の船底が柳葉型に浮いている。
おれは奴らの一人が落とした円筒型の魚雷発射筒《ランチャー》を拾い上げ、思いきり海底を蹴った。両足を小刻みに動かし、上昇していく。
浮上と同時に、船縁を引っ掴み、甲板へ躍り上がった。
舳先の男は、すでに海中の異変に気づいているに違いない。
異様の気配が、おれの背筋を走った。
おかしい。男がいない。また、ぞくりと来た。この艀の中では、危《やば》いことが起こっている。
おれは素早く、魚雷発射筒を点検した。
円筒型《シリンダー》の弾倉に、直径二センチ、全長三〇センチほどの銀色の弾体がびっしり収まって――その数、十発。
岸壁のあちこちで、人影がこちらを向いて何やらしゃべくりまわっている。水中での魚雷の爆発に気づいたのだろう。
早いとこ、片をつけるに限る。
おれは、船室のドアに手をかけた。
その途端、ドアの方から開いた。――というより吹っとんできた。
ぶつかる寸前、発射筒で弾きとばした。ドアは真っぷたつになったが、もの凄い衝撃で発射筒も吹っとんだ。とんでもない力の主――おれはとっさに身構えた。
出入口の奥は暗い。
そこから、ぬう、と禿頭の大男が現れたのである。
2
身長一九五センチ、体重一三〇キロ、上腕部の太さ三〇センチ――これだけのデータが頭の中に閃いた。
プラス・常人離れの怪力。
結論――改造人間。
どのような体格の人間が限界を超えた訓練を積んでも、あれだけのパワーは不可能だ。骨と筋肉自体の強さは人間みな同じだからである。
瘤だらけの顔の中で、異様に細い眼がおれを睨《ね》めつけた。
冷たい光だった。蛇でもこんな眼はしていない。要するに――意志なき瞳なのだ。
黒いTシャツから突き出た腕が閃いた。顎へ来たとわかった。両手を上げて受けた。遅かった。衝撃はもろ、脳天まで抜けた。
一瞬だが、おれは意識を失った。機械服の安定機構が作動していたからこそ、二歩の後退ですんだが、でなければ、尻餅をついていただろう。
ウィーン、と服の関節部が悲鳴を上げた。回復のための音だ。
雷竜《プロントザウルス》の顎に咥えられても保ちこたえた服に悲鳴を上げさせる怪力――だが、おれが恐れたのは、別のものだった。スピードだ。どんな馬鹿力だろうと、スチール・ハンマーの一撃だろうと、当たらなければ、そよ風と変わらない。だが、筋肉の十五倍の反応速度を誇る機械服を凌ぐスピード・パンチとは。
二発目のフックをブロックしたのは僥倖といえた。頭の中身はまだ、ぐらついていたのだ。
間髪入れず、左のパンチを大男の鳩尾に叩きこみ、ぐらついたところを顎へ一発――と拳を引き戻した途端、いきなり下腹が爆発した。
大男の膝だ。身体が浮いた。船縁まで吹っとび、おれはかろうじて体勢を立て直した。
思いきり息を吐いて、胃のあたりに溜まっていた衝撃を中和する。
「化物め」
自然と口に出た。
「貴様、エニラの回し者だな。――名前はあるのか?」
返事はなかった。そんな機能は付いていないのだろう。ひたすら破壊し、殺戮するための人間型マシン。コーネル“処理班”の強化人間《ブーステッド・マン》など、こいつに比べれば聖人みたいなものだ。
ふっ、と大男の形が揺らいだ。
跳び蹴りだ! と閃いたとき、おれは思いきり身を屈め、黒いドア口へとダイブしていた。
頭上を形容しがたい殺気が通り過ぎる。
頭から跳びこみ、一回転して立つ。
予想していたとはいうものの、あまりいい眺めではなかった。
狭苦しい室内は朱に染まっていた。
閉め切った窓際にベッドがひとつ。それ以外はすべて、床に散乱している。
中でも目立つのは、三つの人体だった。舳先の男と“処理班”の二人――田舎のバスでおれを襲った獣人と強化人間だ。全員の顔が原形も留めず、口から血を吐いている。内臓破裂を起こしたのだ。
一瞬のうちに、おれは強化人間の身体に生命反応を認めて、そのかたわらへ走った。
「聴こえるか?」
と耳元でささやく。
「“プリンス”は何処だ?」
「わからねえ……」
強化人間の唇は弱々しく動いた。
「あいつら、上から来やがった。多分――宮殿だ。エニラのところ……大佐どの……お許し……下さ……い……」
天井を見上げるまでもなく、大穴が開いているのはわかっていた。
おれが水中でドンパチやっている間に、エニラ師の配下は空中から船を襲ったのだ。そして、禿頭の殺人マシンだけを残し、残りは“プリンス”ごと空中に吸いこまれた。
おれとかち合ったのは偶然だろう。大男が残ったのは、“処理班”の残り二人を始末するか、大佐を捕らえるかするつもりだったにちがいない。あるいは、おれの実力を読んで、近々来ると待ち構えてたのか。
考えている暇などなかった。
狭苦しい戸口を拳でぶち破りながら、大男が跳びこんで来たのだ。
木の床がきしんだ。音からして、体重が多すぎる。筋肉や骨格の質量が異なるか、メカニズムを呑みこんでいるかだ。
「じっくり、かかってやりたいが、“プリンス”がいなけりゃ、おまえごときに用はない」
おれは、強化人間の身体をそっと床に横たえ、天井めがけて跳躍した。
空は飛べないが、“機械服”のジャンプ力は、軽く一〇メートルを越す。
眼の下で、艀のキャビンが爆発した。
黒いものが上昇してきた。――まさか!?
大男だった。
おれより――機械服よりパワーがあるのか。
恐怖が空中での攻撃を可能にした。
反射的におれは右足を引き、大男の頭が膝のやや上――最も蹴りやすい位置に到着した瞬間、渾身の力をこめて蹴りこんでいた。
靴は奴の顔にめりこんだ。
いくら化物でも、こいつは堪らなかった。大きくのけぞり、バック転をしたような格好で甲板へ落ちていく。
下から衝撃波が噴き上がってきた。メカが超人を制したのだ。
おれは空中で身をひねり、頭から水の中へと落下した。
いったん浮き上がり、艀の方を見た。
ぞっとした。
大男は船縁に立って、おれを見つめていた。眼が合った。奴め、おれの浮き上がる位置まで正確に把握していたのだ。
そして――
巨体が躍った。
水柱を認める前に、おれは岸壁めがけて懸命の力泳を開始していた。
三〇メートルの距離を三秒とかからなかった。
何か叫んで近づいてくる奴を突きとばし――怪我をしない程度に――おれはラジャを横たえたドラム缶の山へと走った。
幸い、あの大男も泳ぐスピードは怪力ほどではなさそうだ。
ラジャは引っくり返ったまま、凄い眼つきでおれを迎えた。
「お疲れ」
おれは言いざま、別のツボを圧して麻痺から解放した。
「どうしたの?」
「見てたろ?」
おれは、衣服とグロックをまとめて腋の下にはさんだ。
「空から二人降りて来て、ひとりが“プリンス”を抱えて上昇していったわ。――もうひとりは?」
「じきに来る。エニラの手先だろ。話し合ってみるかい?」
「冗談じゃないわ」
「じゃあ、勝手に逃げろ」
そう言ったとき、通りの方で悲鳴が湧き上がった。怒号も混じっている。
想像はすぐについた。あいつ[#「あいつ」に傍点]が追って来たのだ。
水音が上がった。誰かが放りこまれたらしい。
「あばよ」
おれはラジャにウィンクし、ドラム缶の陰から外の様子を窺った。
通りの向こうから、大男が真っすぐ突っこんでくる。
左右から、ナイフとモンキーレンチをふりかざした男たちが殴りかかった。
大男は止まりもせず、両手で薙ぎ払った。
鈍重な音をたてて、ナイフの男は岸壁の向こうで水飛沫を上げ、モンキーレンチの兄ちゃんは、五メートルも離れた倉庫の壁に激突した。
大男は軽く首をふり、肩と頭に止まっていた[#「止まっていた」に傍点]凶器を路上に落下させた。ナイフの刃は一ミリも食いこんでいなかったらしい。それでも、少しの間、突っ立っていたところを見ると、弾力はあるのだ。必要に応じて、分子の密度を自由に変えられる筋肉だろうか。エニラの野郎、とんでもないものを造りやがる。
もう刃向かうものもなく、大男は通りの真ん中に立って、四方を見回した。おれを探しているのだが、見失ったらしい。
おれは後ろを向き、もの問いたげなラジャに、じっとしていろと手で合図した。
精神統一に移る。
こういうせわしない状況で気配を絶つのはなかなか難しいが、何とかなった。
もちろん、勘のいい相手の眼をくらますためだが、これは時折、予想しない効果を生む。あと一歩でおれを見つけられる状況にありながら、敵は何故か見逃してしまうのだ。
例えば、人ごみの中で挟み撃ちにされた場合、気配を絶とうが絶つまいが、そのままぶつかれば敵の眼に入る。これが物理常識だ。ところが、おれが気配ゼロにすると、奴らは他の通行人ばかり見て、何故か、おれを見逃してしまうのだ。どんな作用が働くのかはわからない。
今回もこれが狙いだった。
大男は四方を睨めまわしながら近づいて来る。
ドラム缶の向こうで止まった。普通の奴なら、当然覗く。
しかし、奴はとまどった。ラジャは身じろぎひとつしない。おれとの戦いを見て、大男の恐ろしさは胆に銘じているのだろうが、やはり、プロだ。
長い数秒だった。
大男の気配がゆっくりと通りすぎていっても、おれは平静でいられた。
恐怖はそのとき、やってきた。
凄まじい悪寒と激痛が、おれの脳天から股間までを貫いた。
一瞬のうちに理解した。――蜂の毒だ。こんなところで!?
滅気の法は破れた。
轟音とともにのしかかってきたドラム缶の山から、おれは、かろうじて跳びのいた。
ラジャを庇って着地する寸前、ホルスターからグロックを抜いた。
プラスチック製といってもいい拳銃《ガン》は、空しく指からこぼれた。神経の麻痺だった。足も動かない。これでは、“機械服”も作動不能だ。おれにできるのは、迫り来る黒いTシャツを睨みつけることだけだった。
無表情な瘤だらけの顔がおれを見据え、グローブみたいな両手を広げた。その手は、次の瞬間、おれの頭を圧し潰すか、喉をちぎるかするはずだ。
――――
まさか。――その巨体が後ろへのけぞるとは。
ドラム缶に足をとられて大男がひっくり返ったとき、おれは背後――海の向こうでかすかな音を聴いた。
銃声だ。ライフル。それも、大口径マグナム・ライフルのものだ。
愕然とおれはふり向いた。原因はわからないが、忽然と麻痺が消えたのだ。
「ん!?」
と声が出た。
音から察してはいたが、現実に眼で見ると驚きは格別だ。
港湾内には船などいなかった。――いや、正確に言うと、弾丸の飛んできた位置に該当する船はいなかった。
ただ一隻、いや、一点――沖も沖、七〇〇メートルは離れた波間に、細長いスクーナーらしい影が浮いている。
だが、軍用ライフルの必中距離は約四〇〇メートル、競技用の銃なら一〇〇〇メートル離れても人間大の標的に射ちこめるだろうが、それは超高精度、小口径の反動軽減ライフルに限る。
この大男を弾きとばせるような巨銃では、永遠の夢だ。
可能性はただひとつ――射手が真の天才の場合のみ。
スクーナーの舳先に、おれは人影を認めた。おれだからこそ見えたのだ。
何かを構えている。
背後で、ドラム缶の転がる音と、でかいものの起き上がる気配がした。
ふり向かなかった。
遠い人影の顔のあたりで、小さな閃光がまたたいた。
おれの頭上を何かが越え――背中の気配は、呻き声とともに吹っとんだ。
閃光。
また、のけぞる気配。
閃光。
後退。
頃合いだと、おれはふり向いた。
大男は道路の真ん中にぶっ倒れていた。
どうだ?
凝視する眼の中で、巨体は痙攣した。
両手が前へ伸び、腹筋運動の要領で、上体が起き上がる。
四発のマグナム・ライフル弾を食らっても平気なのか、こいつは!?
「どうなってるの!?」
ラジャの声はいやに静かだった。
「ずらかるぞ」
おれはグロックと衣類を拾って走り出した。
ラジャもついてくる。
大男の頭にグロックを射ちこんでおこうかなと思ったが、虚脱感に苛まれそうでやめた。
通りを右に折れようと方向を転じた刹那、眼の前を二トン積みのぼろトラックが通りすぎた。
エンジン音も高らかに、真っすぐ、大男に向かっていく。
ちょうど立ち上がったばかりの大男には、避ける余裕がなかった。
運転手は、与えるつもりもなかったろう。
トラックは、時速八〇キロで大男に激突した。いくら何でも堪らず、吹っとばされた巨体の上に、タイヤがのしかかっていく。
「やったわね」
と、ラジャは低く言った。
「いや」
と、おれは答えた。
「どうしてよ? ――まさか」
ラジャの声に応じるみたいに、トラックの巨影は横倒しになった。
ハンドルの切り損ねでも、何かに乗り上げたのでもない。放り出されたのだ。
どこんどこんと横転しながら、岸壁に乗り上げて止まった。おれはすぐに眼を転じた。
気になるのは、道路の上だけだ。
何てこった。大男は、またもや身体を起こしている。
「行くぞ!」
おれは一目散に、こちらへやってくる人の波の中にもぐりこんだ。
早足で歩きながら、
「何だ、今のトラックは?」
「“夜会地区”の住民のひとりよ。あいつが暴れたとき、知り合いでも酷い目に遇わされたんでしょう。仇討ちよ」
それから一時間後、おれはホテルへ戻った。ラジャとは途中で別れた。
「いま、殺しておかなければ、次はきっと生命を貰うわ」
と凄むのを、
「勝手にしな。目下、おまえらに用はねえ。せいぜいエニラ師にやられないよう気をつけるこった」
そうののしって、背を向けたのである。
考えなければならないことは、山ほどあった。
“プリンス”は何処へ連れ去られたのか? あのスクーナーの狙撃者の正体は?
このうち、最初の難問が片づいたのは、ホテルへ戻って三十分後だった。
陣十郎とゆき=シャルロットに、“貧民夜会地区”での話をきかせている最中、ホテルのボーイがメッセージを持ってやって来たのである。
メモにはこう記されていた。
ロビーにて待つ。
ヤンガー
3
「どうして、ここがわかった!?」
シャルロットは、凄まじい表情で長剣の柄に手をかけた。ヤンガー大佐が何者か、ゆきから聞いたらしい。
「狭い国だ。大佐の情報網をもってすりゃ、正規のホテルなら一発でわかるだろう。こりゃ、早いとこ、河岸《かし》を変える手だな」
「河岸とは何だ?」
「ホテルのことだよ」
「ふむ」
「で、どうなさいます?」
「どうもこうも、向こうから出向いてきたんだ。相手にならないわけにはいかねえだろ。安心しな。どうせ、話し合いだ」
銀座では、それで殺されかかったがな。
「では、私も同行しよう」
立ち上がりかけるシャルロットを、おれは、
「女の付き添いがつけられるか」
と断った。
だが、念には念を入れろだ。グロックはもちろん、“機械服”の装着も忘れない。
おれは、二人に十分用心しろと言い残して、ロビーへ下りた。
午後三時を少し回ったところだが、夏だけあって、まだ、陽は高い。
ヤンガー大佐は、窓際のテーブルで、白い光に包まれていた。
片手で新聞を、片手でコーヒー・カップをつまんでいる。
銀座と同じく、ソフト帽が決まっている。
「よお」
と挨拶して、前の席に坐ると、精悍な表情が破顔した。
「部下が世話になったそうだな。礼を言う」
「何の」
おれは、鷹揚にうなずいた。よくわからないが、恩は売っとくに限る。
「で、何の用だい?」
「相談があって来た」
そう言うと、大佐はコーヒーの残りを呑み干し、カップをテーブルに置いた。ナプキンで唇を拭い、
「単刀直入に言おう。――君と手を結びたいのだよ」
「はン?」
おれは眼を丸くして見せたが、これは偽装だ。想像してなかったわけじゃない。
「とぼけるのはよしたまえ。こんなことぐらいで驚く玉かね」
「まあな」
おれはにこやかに言って、注文を取りに来たウェイトレスに、プリンを注文した。
ウェイトレスは妙な顔をして去った。
「狙いは、対エニラ師共同戦線か?」
「そういうことだ。正直言って、そろそろ厄介な存在になりかけている」
「もっと早くからわからなかったのか? そうじゃないだろう?」
「何度か手は打ったさ」
大佐は光る眼でおれを見つめた。
他言無用とも、おまえもやってみろと促してるともとれる眼つきだった。
「どれもがうまくいったとすれば、エニラ師は百回以上死んでるはずだ」
「やっぱりな」
「彼は何者だね?」
「付き合いは、あんたの方が長いぜ」
「お互い、意見の交換も大切だろう」
「お先にどうぞ」
「この世界のものじゃない」
大佐はいやにあっさりと言った。
「おれもそう思う。じゃあ、どっから来たのかと言うと――」
「今度はそっちが先だ」
「宇宙からだろうな」
「ふむ。エイリアンというわけか」
「そいつはわからんぞ。海の底から来た海底人とも、地下に張り巡らせたトンネルを伝って生活している地底人とも考えられる」
おれの高級なユーモアに、大佐は返事をせず、
「彼の居場所を教えよう。――君の力で暗殺してもらいたい」
と言った。
言い終えたとき、ウェイトレスがプリンを運んできた。
おれは、ひと口食べ、
「うん」
と言った。――まずい、とつづくのだが、大佐は喜んだ。
「OKしてもらえたようだな」
「日本語が達者なようだな」
と、おれは慌てて言った。
「コーネル・ヤンガーに出来ないことを、どうして、おれがやれる? おれはただの高校生だぜ。ハイスクール・ステューデントだ」
大佐はウェイトレスを呼んで、もう一杯コーヒーを頼み、それが来るまで沈黙した。
そもそも、昼日中の場末のホテルでするような話題じゃねえ。
シュガー・ポットからカップへ、つづけざまに大盛り三杯も砂糖をぶちまけるのを見て、おれは少し呆れた。それ以上入れたら、エイリアンはこいつだ、と思うところだが、大佐はそれでやめ、代わりに、カップの縁までミルクを注いで、丹念にかき回しはじめた。人間、色んな癖があるものだ。
「私は彼を斃《たお》せなかった」
ヤンガー大佐は重々しい口調で、とんでもない飲み物を口に運んだ。
「だが、彼も君を斃せなかった。しかも、直接、手を下しながら。――“魔女の寝台”でやり合ったそうだな」
よく知ってやがる。
「あんたも殺られてねえだろ」
「まだ、彼は私を殺す気はないらしい。私が役に立つと思っているのと――殺すに値しないチンピラなのだろう」
「ヤンガー大佐とも思えない言い草だな」
おれは半分本気で揶揄した。何故だか、この男の弱音なんぞ聞きたくもなかった。もっとも、こいつが本当に落ちこんでいるなんて、思ってやしないが。
「まあ、引き受けないこともないぜ。話によってはな」
「話とは?」
大佐は化物飲料のカップを置いて、おれを見つめた。
「なぜ、エニラ師を狙う? あんたの目的と立場をはっきりさせてもらおう」
「構わんが、嘘をつくかもしれんぞ」
「安心しな。おれもOKしといて、トンズラするかもしれん」
大佐は苦笑した。
「私の立場はこうだ。――栄光ある独立共和国ローランを護る軍人の名において、得体の知れぬ存在を、これ以上、のさばらせておくわけにはいかん」
「ふむ」
「第二に、この国の元首は、あくまでも国王陛下の血筋から出るべきだ。彼奴《きゃつ》らのこしらえた傀儡に、国民すべてが頭を垂れてはならん」
「もっともだ。そこでペンダント[#「ペンダント」に傍点]が効いてくるな」
「幸い、あれ[#「あれ」に傍点]は私の手中にある。エニラ師もそこまでは気づいていないようだ。まだ、君が所持していると盲信中だぞ」
「あんたがそう思いこませてるな」
「その方が都合がいいのでな」
大佐はにやりとした。軍人は虫が好かねえが、こういう笑い方は嫌いじゃない。
「で、あんたの目的は?」
ずばり訊いた。
「もう言った。この国を人外の存在の手から奪還するのだ」
「おれが知りたいのは、その後のことだ」
「後のこと?」
「うまいことエニラ師は斃した。今の首相も追放、“プリンス”も奪還した。――さて、周りを見ると、国民のためになりそうな人材はいない。なら、おれがひとつ」
大佐は微笑した。賞められた優等生みたいな笑みだ。
「それでは、いかんかね?」
と訊いた。
「次はこうなる」
と、おれはつづけた。
「自分は国のために立った。そのための力もある。国民は少し不満かも知れんが、誠意を尽くして説得しよう。どうしてもわかってもらえない場合は、少しだけ力を使おう。閣僚の中にも反対派がいる。正規の手続きを踏んで追い落とすには時間がかかりそうだ。よし、事故がつづくのもいいだろう。なに、国民のためだ。何も公表しなくてもわかってくれる。おや、“プリンス”が不満そうじゃないか。せっかく国王の座につけてやったのに、おれたちの苦労を忘れたのかな。とにかく、王族が政治に嘴を入れてくるなんぞ、許しがたい越権行為だ。この際、山奥の別荘に隠退してもらおう。――どうだい?」
「見事な推理だ」
大佐は惚れ惚れとしたように言った。食えねえ玉だ。
「だが、問題はそうなる以前ではないかね。私が新たな独裁者をめざすにしても、このままでは手も足も出ん。まずはエニラ師を失脚させ、“プリンス”を擁立することだ。トレジャー・ハンターたる君にとっても、狙いは同じだろう。それに、たとえ“プリンス”を奪還したにせよ、エニラ師が存在する限り、状況はさほど好転するとも思えない。逆に、彼さえ始末すれば、後のことは私の胸三寸でどうにでもなる」
「だったら、てめえでやれ[#「やれ」に傍点]」
「同じことを言わせるな。――君とエニラ師の間には、単なる物理的な力関係を超えたベクトルが働いているようだ。君なら斃せる。私には確信がある。だから、頼むのだ」
「あんたんとこにゃ、コンピュータがあるだろ?」
おれの問いに、大佐はうなずいた。
「どうせ、ここへ来る前、おれがエニラ師を狙った場合の成功率くらいは弾き出したんだろう。その上での確信か?」
「そうだ」
図星を突かれて、大佐は苦笑した。――そう[#「そう」に傍点]思ったのだが。
「で、何パーセントと出た?」
「ゼロだ」
「――愛想のねえコンピュータだな」
本気でぶち壊してやりたかった。
「そうでもない。一応、数値は出た。〇・〇〇〇〇〇〇一――百万分の一パーセントだ」
「なら、やってみなきゃわからねえ」
「そういうことだ。ちなみに、エニラ師が襲った場合の君の生存率も同じ数値だった。それなのに、君は私と話している。今日の依頼の理由《わけ》がおわかりかね?」
「ありがたいこった」
「それに、暗殺といったが、君には“プリンス”救出に専念してもらえればよろしい。後は、うちの“処理班”が担当する。いわば――お守り役だ」
「“プリンス”は、エニラのところにいるのか!?」
「私の掴んだ情報ではそうだ」
おれは考えこんだ。――と言っても、結論は早かった。悩んでるとこなんざ、他人に見せられるか。
「いいだろう」
とすぐに言った。
「だがな、ひとつ断っとく。人殺しになんざ関与しねえのはもちろんだが、もし、そこに“プリンス”がいなかったとしたら、間違いじゃすまさねえ。覚えておけ」
「承知した」
大佐は冷やかに言った。
「で、そっちの予定はいつだ?」
「明日の晩。――用意もあるのでね」
「いいだろ。おれの方はひとりで行く」
「欲しいものはあるかね?」
「あんたが用意する品物なんか、信用できるかい」
「もっともだ。では、明日、電話を入れる」
大佐は片手をさし出した。
毒針なんか仕掛けてないのを確かめて、おれも握りしめた。
一応、同盟国だからな。
[#改ページ]
第二章 暗殺夜
1
どんな昼を過ごそうと、夜はやってくる。他人はどうか知らないが、おれにとっては久しぶりに平和な昼と興奮の夜であった。
大佐の電話は午後十一時ちょうどにあり、
「五分以内に外へ出て待て」
とだけ告げて切れた。
ドアをくぐるとき、
「大――」
とシャルロットが声をかけてきた。
「夜ふかしするんじゃねえぞ」
おれは先手を打った。二人には、おれが出てからすぐに別の“貧民夜会地区”のホテルにしけこめと告げてある。
「土産は持ってくる。後を尾けたりはするな」
「なんでしたら、私が」
不景気な声に、おれは、がなりたてたくなるのを必死でこらえた。
「おれを殺したいのか、この厄病神?」
「滅相もない」
「おまえは、これから就職する大切な身体だ。面接試験の準備でもしておけ」
「承知いたしました」
ホテルの玄関を出るや、一台のシトロエンが走り寄って止まった。
開いたドアの向こうで、ラジャが妖艶な笑みを見せた。オレンジ色のツーピースを着ている。
助手席に坐るなり、車は発進した。
「どちらへ?」
おれは馬鹿丁寧に訊いた。
「黙って乗ってらっしゃい」
ラジャは、ひどく生真面目な顔で前方を見たまま言った。やはり、緊張しているのだろう。
車は夜の街を突っ走り、じき、郊外へ出た。
アスファルトの道路の左右に農地と森が広がっている。
「何を見てるの?」
ラジャが訊いた。最初の会話以降、口をきいていなかった。
「星だ。きれいだぜ」
「呑気な坊やね。――生命知らずってわけでもないでしょうに」
「特殊工作員てな気の毒だな。星や月もろくろく見られねえのかよ。人間、たまには夜空を見て感激する潤いも必要だぜ」
「忙しいのよ」
「あんたひとりか?」
おれは話題を変えた。
「ええ」
「エニラ師のところには、昨日出会した化物が待ち構えてるかも知れんぞ」
「今度はそう簡単にはギブ・アップしないわ。用意もあるし」
ちらりと、視線が後部座席に注がれた。
黒いショルダー・バッグが積んである。中身は武器にちがいない。
「向こうの仕掛けはわかってるのか?」
「いえ。今日が初対面よ」
「戦術核ぐらい、用意してあるんだろうな?」
「素敵な冗談」
「冗談なもんか。そのくらい使わなきゃ、あの爺さん、ギブ・アップしねえぞ」
「それなりの用意はしてきたわ。安心して」
ラジャは左へハンドルを切った。
軽い震動を残して車は道を外れ、草むらから森の中へ入った。
「ここかい?」
「あと一キロ」
「おかしなところに車を停めて、どうするつもりだ?」
ラジャは無言でおれの方を見つめた。例の催眠術防止策は、今回も続行中だ。
おや、にじり寄ってきたな。
「新手の催眠術か?」
おれは冷かすように言って、後じさった。
「逃げないで」
ラジャの声は嗄れ、呼吸は荒かった。
背にドアが当たった。追いつめられたようだ。ラジャはスピードを落とさず、両眼を閉じた。唇には濃いルージュが塗ってある。
真っすぐ、おれの唇に貼りついた。
自分から、ねじ切るように頭をひねる。大した欲情ぶりだ。
大胆に舌が入ってきた。こういうものは拒まないことにしている。
こちらからも絡ませると、ラジャは熱い喘ぎを洩らした。
おれの手を取って、胸のふくらみにもっていく。
大した果実だった。遠慮せず掴んだ。大きくて重くて張りがある。
「あう――」
唇の間から、小さな声が噴き上がった。
「もっと――強く」
唇を離してラジャは呻いた。
「気分はどうだい?」
「いいわ」
「おかしな術は使いっこなしだぜ」
「こんなとき、そんな器用な真似ができるものですか」
おれはにやりとした。
「怖いかい?」
とんでもないわ、ぐらい言うかと思ったが、ラジャは、ちょっと眼を据え、
「ええ」
と言った。
いくら特殊任務専門のベテラン工作員とはいえ、出来っこないとわかっている任務を遂行するのは辛いものだろう。生命懸けときてはなおさらだ。
ブラに手をあてて上へずらすと、ラジャの熱い呻きを合図に、乳房がこぼれ出た。手を触れると掛け値なしに熱い。
「仲間はどうした?」
と、おれは訊いてみた。
「知らないわ。私はあなたと組めと命令を受けただけ。ひょっとしたら、監視しているかも知れないわね」
「あとひとり、いたな」
「そう、ジャンプね」
一番最初にやり合った相手だ。あいつに盗み見されたら厄介だぞ。
しかし、おれはかえってファイトを燃やし、ラジャの乳首に唇をつけた。
「はぁふ」
ラジャは獣のように喉を鳴らした。
唇と舌と歯のテクニックを使うと、もう堪らなくなったらしく、
「――なんて子供なの。まだ――まだ、ハイスクールのくせに……こんな凄いテクニックを……ああ」
白い手がおれの頭を抱きしめて、自ら乳房へ押しつけた。
セックス耐久訓練を受けた特殊工作員だろうが、サン=ドニ門のベテラン娼婦だろうが、おれの手にかかれば、くすぐられた貝と同じだ。
「それから、どんな命令を受けてる?」
おれは、ラジャの唇へ短いキスを繰り返しながら訊いた。
これは効果抜群だ。舌も使うから、欲情した女はこらえ切れず、自分からキスを求めてくる。このとき、思うさま翻弄し、参らせ、こちらの思い通りに動かしたり、情報を提供させたりするのだ。
「――何も」
「嘘をつけ。あの大佐のことだ。任務が終わったら、黙っておれを帰すはずがない。殺せと命じられているのか?」
「私は――何も知らないわ。あっあっあ――嫌、やめては嫌」
どうやら本当らしい。ま、コーネル・ヤンガーのことだ。ラジャにも知らせず、こっそり暗殺――ぐらいの手は使うだろう。
ラジャはおれの背に爪を立て、激しく唇を求めてきた。
自分から積極的に舌を入れてくる。おれは巧みに翻弄し、あるいは相手になりながら、たっぷりと時間をかけて満足させてやった。
「ねえ……凄くよかった。……お願い、もう一度……」
せがむラジャへ、おれはやめとけ[#「やめとけ」に傍点]と宣言した。これから大仕事だ。気力の昂進以上の体力の消耗はよろしくない。
「そうね。憎い坊や」
ラジャも納得してハンドルを握った。
十分後、おれたちは木立の間から白い家が覗く林の中へシトロエンを乗り入れた。
「あれか?」
「ええ」
おれは眼を凝らした。
どう見ても普通の農家だ。
超VIPにふさわしい赤外線や電磁センサー、TVアイ等の仕掛けは、何ひとつ見当たらない。チェック・メカでそれらを調べていたラジャも、ひと言、
「なし」
と言って、メカを仕舞いこんだ。
「いよいよよ、大」
「わかってるって」
おれは身仕度を整えた。
「あなたの武器はそれよ」
ラジャがパックを指さしたが、おれは眼もくれなかった。
「使わないの?」
「ああ。悪いが自分のを使わせてもらおう。生命を托す品を選んでもらうほど、あんた方を信用してるわけじゃねえ」
「用心深いこと」
皮肉っぽい声の中に、感嘆の響きがあるのを、おれは聴き逃さなかった。
おれは素早く“機械服《メック・ウエア》”姿になり、武器を点検した。
腰の戦闘ベルトに、グロックと十五連の予備弾倉《スペア・マガジン》を五本、弾丸はすべて炸裂弾《エクスプローディング・ブリット》だ。これを一発食らった奴は、手榴弾並みの衝撃を体内にぶちまけられることになる。人間相手には使いたくないが、今回は特別だ。これだって、効くという保証はない。
自由電子レーザー砲を見て、ラジャは眼を丸くした。
「それ――レーザーね?」
「そうだ。別に珍しいもんじゃあるまい。ヤンガー大佐の子分なら、もっとスマートで、もっと威力のあるタイプをご存知だろう?」
「あたしは子分じゃないわ」
ラジャは辛辣な口調で言い、レーザーの先をそっと撫でた。その手つきの、いやらしいこと。
「私の知ってるのより、ずっとコンパクトで性能もよさそうだけど、それは実戦で見せてもらいましょう。――行くわよ」
おれの隣で、妖艶な肢体は着替えを済ませていた。
ショルダー・バッグはベルトをリュック・タイプに変えて背中につけ、黒いタイツ式の上下の腰には、ベレッタM92Fらしい自動拳銃と、手榴弾、焼夷弾と思しい円筒を五個ほどパックしてあった。
右手には、AK47型自動小銃。なかなかやる。アメリカと同盟結んだら、武器までアメリカナイズされそうだが、目下使用中のM16A2軍用ライフルは、やや信頼性を欠く。まだ、ジャムが起きやすいし、弾倉や銃床は恐ろしくヤワだ。その点、このソ連製ライフルは、ゴツくて重い分、作動は正確、銃床《ストック》は木製だから白兵戦にもってこい、弾丸は五・五六ミリなんてションベン弾と違って、天下無敵の七・六二ミリと、いいところずくめの傑作品といえる。
しかも、ラジャのは銃身の下に、直径六センチばかりの円筒が取りつけてあった。
「何だ、こりゃ?」
「二〇ミリ榴弾発射器よ。うちの兵器部が開発した新型だから、実戦は多分、今日がはじめて」
「そりゃ結構」
おれたちは外へ出た。
おれは着替えながら噛んでいたチューインガムを足元に吐き捨て、もう一枚咥えた。
「緊張してるの?」
見とがめて、ラジャが尋ねた。
「日本の風習さ。生命懸けの戦いの前には、ロッテ・グリーンガムを噛むんだ」
「へえ。――初耳よ」
「日本つっても広くてな。あんたは知らないだろうが、鳥取県というところに長年伝わる風習さ」
おれはもう一枚のガムも遠くへ吐いた。
「あなた、トトリの出?」
「まあな」
それ以上訊かずに、ラジャは歩き出した。
女工作員はふり返り、憎悪の眼でおれを見据えた。
「あの家よ」
「どうやって入る気だ?」
「裏口から、錠を壊して侵入するわ。解錠装置くらいあるわよ」
「エニラの寝室はわかっているのか?」
「ええ。――地下よ」
「どうしてわかる?」
「エニラ師暗殺計画は、百回以上仕組まれたわ。実行メンバーはひとりも戻らなかったけれど、家の間取りだけは、何とか送ってよこしたの」
ラジャはポケットから家の見取り図を取り出し、地下の一角を指さした。ほぼ真ん中のスペースに×印がついている。ここが妖怪の棲みかか。
「立派だと言いたいが、厄介なこった」
「どういう意味?」
「考えてもみろ。プロが百回殺そうとしてもうまくいかなかった化物が、自分の家の間取りを盗まれたことに気がつかないと思うのか? そんな愚かな代物じゃねえさ。第一、奴は引っ越しもせず、最初のところに住んでるんだろ。それが恐ろしい。おれたちの攻撃なんか、屁とも思っていねえんだ」
「そうでしょうね」
「だからよ、こっちが目的を果たし、しかも生還するには、常に相手の意表を衝くしかねえ。侵入する場所も、裏口なんて、まっとうなところはペケだ」
「じゃあ、どこから?」
ラジャの眼には挑戦の意志がみなぎっていた。
「ここさ」
おれは、ベルトにひっかけておいた円筒を、ラジャの鼻先に突きつけた。
「何よ、これ? ――る・う・ちょ・ん・き?」
「逆さまだ。キンチョール。日本が世界に誇る家庭用殺虫剤さ。ただし、中身はちょっと違う」
ラジャの口元に嘲笑が浮かんだ。
「信じてねえな。まあ、見な」
おれはノズルの先を地面に向け、白煙を吹きつけた。
ラジャが息を呑んだ。
土も草も音もなく溶けていく。
トレジャー・ハンター=八頭大特製の溶解液は、今も健在だ。ただし、かつて、日本橋の地下通路を掘り抜いたときに比べて、その溶解度《パワー》は五〇倍にアップされている。製造元の化学者が、化学式をひとつ入れ替えた結果だ。瓢箪から駒を地で行ってしまった。
「これで直接、エニラ師のベッド・サイドへお邪魔しよう」
「どのくらいかかるの?」
と、ラジャが訊いたのは、数秒間、呆然としてからだった。
「そうさな。ここからだと、ざっと一〇分。遅すぎやしねえだろ?」
「地下から方向がわかるの?」
「おれの綽名を知ってるか? “歩く日本製磁石”ってんだ。寝室の正確な位置は?」
ラジャはもう何も言わなかった。そのかわり、薬の成分を知りたがり、執拗に話しかけてきたが、おれは無言で地底に穴を穿ちつづけた。企業秘密は守らなくちゃな。
地下五メートルの地点を、おれたちは黙々と前進した。
ラジャは落盤が気になるらしかったが、溶解した土や石ころが、ガラス状に凝固し、崩れる心配がないのを確かめて安心した。
ガムを噛んでは捨て、五枚目を吐き出したきっかり三〇分後、おれは足を止めた。
「どうしたの?」
「勘でわかるが、この先約一メートルが地下室の壁だ。いよいよ、だぞ」
「わかっているわよ」
ラジャはAK47を腰だめに構えた。緊張はしてるが、脅えてはいない。いい度胸だ。
おれは無造作にスプレーを前方へ噴霧した。黒土と石が溶け、灰色の石壁が現れ、これもたちまち、あぶくに包まれた。
三秒と経たず、石造りの家の内部が、おれたちの前に広がった。
ラジャが息を呑んだ。
おれもそうしかけたが、何とかこらえた。女工作員ごときに同類と思われちゃ困る。
2
家の構造自体におかしなところは見当たらなかった。
壁もあり、柱もある。
ただ、他が違うのだ。
何と言えばいいのか、おれにもよくわからない。
天井も床も、プラスチック製の鍾乳石で覆われていると言えば、一番近いだろうか。
無論、形が似ているだけで、垂れ下がった塊は、鍾乳石なんかよりもずっと大きく、ずっと角ばっているし、材質もプラスチックなんかじゃない。確かに鉱物だ。おれたちが知らないだけの。
だが、おれが眼をつけたのは、それじゃあなかった。
空中に、灰色の球体――大きさはテニスのボール大から、バレーボール大まで。形はすべて真球――がいくつも浮かんでいるじゃあないか。
どうして、こいつらに注意を向けたのか――勘だ。
「………」
何か言いかけたラジャを制し、おれは球の群れをじっと見つめた。
だしぬけに、ひとつが、おれたちめがけて突っこんできた。
中央に横に亀裂が走り、かっと開いた口の上下には、ガラス片のような歯がびっしり植わっている。
この世ならぬ殺意と憎悪が真っ向から叩きつけてくるのをかわし、おれは右へ跳びざま左手を振った。
きゅん、と風が鳴り、球は真っぷたつになって、壁の穴に突っこんだ。
敵が牙なら、こちらは刃――左手の時計《ウオッチ》に仕掛けた単分子チェーン・ソーは健在だったのだ。
寝室の位置はわかっている。
「球の群れを見たら、榴弾をぶちこめ! 行くぞ!」
叫んで、おれは脱兎のごとく走った。
通路は前方に延びているが、真っすぐ行けばたかだか一〇メートルの距離を、天と地から、おかしな鍾乳石が埋めている。
何となく触れたくねえやな。
残りの球体が襲いかかってきた。
ひとつが口を開け――鞭のようなものを吐いた。
しなりつつ跳んでくるそれを、おれは平気で二つにし、ついでに、本体も裂きとばしてやった。
鞭は黄土色の汁を、球体は緑の液を吐いた。
眼の前を赤い霞が覆った。
頭上の奴が、網みたいなものを吐いたのだ。
「野郎」
つぶやきざま、掴んで引き裂こうとしたが、びくともしなかった。
軽い痺れが全身を捉えた。網に電流が通ったのだ。機械服を着ていて感じるのだから、電撃は一万ボルトを越しているに違いない。
こいつら、生物だろうか。それとも機械《メカ》なのか。
背後で悲鳴が上がった。ラジャが捕まったのだ。
「おんどりゃあ、揚げボールの分際で」
おれは機械服の全力を挙げて、単分子チェーン・ソーを叩きつけた。
火花が散り、網は裂けた。
脱け出すや、本体をぶった切り、おれはラジャを包んだ網に駆け寄った。
球体を二つにし、ラジャを引きずり出す。ぐったりしているが、脈はある。よく、心臓が保つものだ。
頬っぺたをひっぱたくと、すぐに眼を開いた。さすが、工作員。体力は十分だ。
その眼が必要以上に大きく見開かれた。
ふり向いたおれの眼に、廊下の角を曲がって飛んでくる球体が映った。
すでに口は開いている。
おれの右手は無意識のうちに動いた。
深紅色の光は球体の数だけ迸り、一個のミスもなく敵を消滅させた。
ちょっと重いが、無反動のレーザー砲ならではの芸当だ。
四方を見回しながら、
「大丈夫か?」
と、おれはラジャに声をかけた。
「平気よ。こんなことで流れを狂わせるわけにはいかないわ」
よろめきながらも立ち上がったのは、いい根性だった。
「ここで待ってろ。足手まといだ」
「そうはいかないわ。私が動けなくては、目的が果たせないわ」
「殺す必要はない。奴の弱点と“プリンス”の居場所さえわかりゃあいいんだ」
「駄目よ」
女の声は鬼気を帯びた。ここで押し問答してもはじまらない。
「勝手にしろ」
と言い捨て、おれはレーザー片手に、鍾乳石の間を前進した。
二分ほどで止まった。
「おかしいわね」
ラジャの言葉の意味はわかっている。寝室の位置は、廊下を曲がってすぐ左だ。それなのに、どうしても角まで行き着けない。
「迷路だな」
と、おれは言った。
天井や床から生えている鍾乳石は、ただのこけ脅しや飾りではなかったのだ。
その奇怪な形状は微妙に連なり、折り重なって、人間の視界を奪い、方向感覚を麻痺させて、知らず知らずのうちに、あり得ない方向へ進ませてしまう。
だが、こいつは単なる目くらましの迷路じゃなかった。
曲がり角は、ほんの目の前にある。そして、おれたちは決して、他所《よそ》の道へそれたりはしていない。
眼も身体も常に曲がり角の方を向き、前進している。それなのに、どうしても辿り着けないのだ。
その辺の迷路なら平然と正確な方角を指示するおれの方向感覚にも、狂いが生じているとしか思えない。
「空間歪曲かしら?」
「わからん。単純な催眠術かも知れねえ」
「どっちにしても、何とかしないと、このまま飢え死によ」
「その前に、別の化物がやってくるさ」
「どうするの?」
「伏せろ」
おれは、手元のおかしな岩の先端をレーザー砲の銃床で砕き、前方へ投げつけた。
それは二〇センチほど跳んで消滅し、素早く身を屈めたおれの頭上を越えて、また前方の空間へ吸いこまれた。
「やはり、空間が曲がっているのね。前へ投げた石があなたの後ろから出てきたわ」
ラジャがため息をついた。
「そうらしいな。おれたちは、真っすぐ進んだつもりで輪を描いていたらしい」
「どうすりゃいいかしら?」
「手はあるさ」
「え?」
ラジャの驚愕の表情が、おれの優越感をくすぐった。おれは左手の人さし指を立て、
「球体はちゃんと飛んで来ただろう」
と言った。
「そう言えば――」
なおもわからないらしいラジャへ、おれは得々と説明してやった。
「つまり、あの球のコースと高さは通常空間ってわけだ。そこを通ればいい」
「球自体に通過装置が施されてた、って場合もあるわよ」
「そうじゃねえことを祈るんだな」
おれはもう、次の行動に移っていた。
ベルトから十分の一ミリの極細シリコン糸の束を外し、球体の飛翔高度にある鍾乳石へ投じた。投げ縄の要領だ。前には重りがついている。
素早く、二・五メートルの高さへ糸を伝わって上り、そこから、反対側の糸の先を、曲がり角のすぐそばにそびえる岩に巻きつけた。
余った部分を調整し、ぴんと張った糸にしがみついたとき、ラジャが、
「危険だわ。空間と空間の境目に触れたら、何かが起こるわよ」
「わかってらあ」
と、おれは答えた。
ラジャの言う意味は、円筒に穴を開けたとき、その穴の縁が刃物みたいに鋭いと仮定すれば、わかってもらえるだろう。ついでに、猛毒が塗ってあると考えてくれてもいい。
おれは構わず進んでいった。
多少、危ないな、という気もあった。
穴の大きさが、球体ぎりぎりだったら、まず助からない。
だが、それを気にしていちゃ、ここで一生を終わらなければならない。
おれはスピードを落とさず、猿のように軽やかに前進した。
曲がり角まで、何事もなく着いた。
下りるときも、異常はなかった。
ラジャにVサインを送ると、彼女も返してよこした。
二人して床の上に並ぶまで、二分とかからなかった。
「とんでもない高校生ね」
恐怖に近い声へ、おれはウィンクしてみせた。
角を曲がると、すぐ、左の壁にドアが見えた。
ノブに手をかけて回す。
鍵がかかっていない。
ラジャがAK47を構えてドアの前に立った。
片足が上がった。蹴り開ける気だ。
その刹那――ドアは向こうから開いた。
ラジャが片足で跳ねとぶ。
「エニラ師!?」
女の声に、ドアの向こうの小柄な人影は、にんまりと微笑した。
「ようこそ、と歓迎したいところじゃが、こんな時間の訪問には、それに見合った迎え方があるな」
「お生命頂戴します」
ラジャが凍りつくような声で言った。
AK47の銃口が炎と轟きを発する。七・六二ミリ弾は天井に小穴を穿った。間一髪――おれが銃身を跳ね上げたのだ。
「何をするの!?」
「おれにはまだ、訊きたいことがあるんだよ」
「何ですって!?」
柳眉を逆立てるラジャへ、
「構わんよ」
と、エニラ師はやさしく言った。なんてえ慈顔だ。ラジャの顔つきから、殺意が消えちまった。
「射つがいい。それで気が済むのなら」
おれはあわてて、
「ちょっと待て。――おい、おっさん、“プリンス”は何処にいる?」
と訊いた。
「ここにはおらん」
「何?」
「知らんのかね? 今日の昼、わしの部下の留守に軟禁場所を男たちが襲って連れ出した。この女の仲間じゃろう」
大佐の野郎。あいつなら、やりかねねえ。
「本当か?」
おれの問いに、ラジャはそっぽを向いた。
「邪魔しないで。殺すわ」
おれは脇へのいた。興味は山程あった。どうせ殺せっこないとわかっていた。
ラジャの顔に凶相が戻るや、その手が激しく跳ねた。
着弾の衝撃に、老人はきりきり舞いしながらドアの奥へと吹っとんだ。
三〇連の弾倉はたちまち尽きた。
「終わったわ」
硝煙立ち昇るAK47を下ろし、ラジャは冷たく宣言した。無駄な引き金《トリガー》は引いていない。これが、この女殺し屋の恐ろしいところだ。
普通、男女のテロリストと遭遇した場合、女から先に射てという。女はたやすく精神の均衡を破壊し、男なら考えもつかぬ危険な行動をとるからだ。正体がバレたら、街なかであろうと自動小銃を射ちまくり、手榴弾を放る。そんなプッツンぶりも、この女には縁がないらしい。
「それで終わりか?」
ドアの向こうにぶっ倒れた影が、上体を起こしながら言った。
ラジャが凍りつくかと思ったが、
「いいえ」
と言いやがった。
右手が腰の焼夷手榴弾に伸びる。テルミットをたっぷり詰めた缶を口元へ運び、唇が安全リングを咥えて引き抜く。放った。――すべてがスムーズだった。
カラカラと転がっていく円筒を確かめ、おれたちは廊下の奥へと退いた。
戸口が炎を噴いた。
周りの壁も崩れ、油性の火炎を吐き出す。焼夷弾の炎は三千度を越す。どんな生物だろうと、生身では耐えられっこない。
「どうだ?」
と、おれは訊いた。
「今まで、エニラ師の身体を焼いた奴はいなかったわ」
ラジャは手をかざして炎を避けながら言った。
「でも――どうなるか」
おれははじめて、この女工作員に感心した。
たちまち、三〇秒が過ぎたが、エニラ師の姿は炎に呑まれたきりだ。
奇妙な鍾乳石が、蝋みたいに溶けはじめている。
「一応、任務完了といくか?」
「そうね。脱出できなくなるわ」
「“プリンス”の行方、後で教えてもらうぞ」
「大佐殿に訊いてよ」
ラジャは背負ったパックを下ろし、半透明のゼリーみたいな物質を取り出した。
直径三〇センチ、厚さ一〇センチほどのチーズの塊と思えばいい。真ん中に、金属製の円環が埋めこまれているのを見て、おれにはすぐ正体がわかった。
プラスチック爆弾だ。これだけあれば、地下室全体を破壊するぐらいはできるだろう。
「ご丁寧なこったな」
「念には念よ」
ラジャはにやりとした。炎が翳をつくり、ひどくグロテスクな笑顔に見えた。
「行きましょう。――階段はこっちよ」
おれたちは廊下の奥を向き、立ちすくんだ。
奇岩を背に、巨大な人影が仁王立ちになっている。
「あの――港の化物よ」
ラジャの声に、おれはうなずいた。
あの大男だ。人獣を叩き殺し、大口径ライフルの直撃をものともせず、二トン・トラックに衝突しても、平然と甦った怪魔。
「無駄だ」
おれは、AK47を構えたラジャに言った。
「軍用ライフル弾や榴弾ぐらいで、どうなる相手じゃねえ。ここは任しとけ」
「そうするわ」
ラジャは脇へのいた。
巨漢は悠々と近づいてくる。昼間と同じTシャツにジーンズ姿だ。着たきり雀を恥と思わねえ性格らしい。
五メートルの距離まで近づいたとき、おれはレーザーの引き金を引いた。
真紅の光条が分厚い胸に吸いこまれ、超エネルギーの花弁を広げていく。
バラザード・リアの化物を、戦車一台ごと葬った地上最強の兵器だ。凌げるはずもない。
戦慄が背を叩いた。
火の花が近づいてくるのだ。細胞分子レベルで灼き尽くす灼熱のエネルギーを浴びながら。
おれは、レーザーの照射をやめた。無駄とわかったのだ。わかった以上、エネルギーのロスは勿体ない。
「仕様がねえ。――もと来た道を帰るぞ」
「わかったわ」
後退しながら、おれは大男を観察しつづけた。Tシャツとジーンズは灰になり、全ストなのは当然として、何と――タマキンがついていない。
かと言って、女でもなかった。他はすべて、男そのものだ。一体、こいつは何者なんだろう。
炎をかいくぐり、おれたちはシリコン糸のところに辿り着いた。
面白い現象が眼についた。
炎はあちこちに飛び火していたが、その先端が、ある位置できれいに――切られたみたいに――空中へ消滅してしまっているのだ。
言うまでもなく、歪曲空間の方向[#「方向」に傍点]に流れているのである。
「先に行け」
ラジャに声をかけ、おれはベルトから手榴弾を二個抜いた。
3
こういう状況は初体験じゃない。
だが、どんな窮地に立たされても、おれには、最良の行動を選択することができた。つまり、自信を持って何かやれたのだ。
ところが、今度という今度は、これでいいのかどうか、よくわからない。いや、わかってはいるのだが、自信がない。こんな経験ははじめてだった。
ラジャが渡りはじめたとき、大男が角を曲がってきた。
足元に転がされた物体へ、ちら、と眼を移す。
轟きと黒煙を、おれは糸にぶら下がって見つめた。
震えたきりで、大男はすぐに前進を再開した。
いいぞ、そのまま進め。歪曲空間がおまえを待ってるぞ。
と思いきや、まさに、あと一歩という位置で、大男は足を止めた。
野郎、知りくさってやがるな。
その無表情な顔が上がり、両手が上方へ伸ばされたとき、おれの胸を黒い恐怖が貫いた。
ぐい、と糸がしなった。
ちぎれる。
ラジャはもう、向こう側にいた。
おれも夢中で渡った。こっち側に落ちたら大男の相手――それはまだいい。万が一、空間のつなぎ目に触れでもしたら。
あと一メートル。
突如、手応えが消えた。――瞬間、おれは渾身の力をこめて、糸から我と我が身を跳ねとばしていた。
見えない穴を頭がくぐる。肩が通った。腰が――がくんと落ちた。わわっ。おれは反射的に身をひねり、上体を下げた。
腰から下が総毛立っていく。着地まで、三〇分もかかったような気がした。
無事だった。
「ざまみやがれ。これで、さよならだ」
立ち上がって叫んだ。
それに応じたように、大男は炎の中をやってきた。
ラジャが蒼白な顔で、
「どうしたっていうのよ!?」
「歪曲装置《メカ》が壊れたんだ。あるいは誰かがオフにしやがったか」
「まさか、エニラ師が?」
「あり得るぜ。――とにかく、逃げよう」
おれたちは通路へ潜りこんだ。
一〇メートルほど進んだ頃、衝撃が背を叩いた。
砂煙が吹きつけ、ラジャがふり向いて叫んだ。
「今のは何よ!?」
「落盤だ」
「爆発だわ」
「化物が持ってた爆弾にでも引火したんだろ」
「この通路は大丈夫じゃなかったの!?」
「世の中に完全なものなんかねえのさ」
おれはしみじみと肩をすくめた。
「とにかく、あの化物を少しは足止めできるだろう。さっさと急げ」
外へ出たのは、五分後だった。
月が皓々とかがやいている。今までの大戦闘が夢みたいな静けさであった。こんなにいい月夜なのに、どこもかしこも殺し合いばかりだ。
そう思った刹那、おれの横顔を光がぶっ叩いた。
閃光――爆発だ。
炎に包まれて四散するエニラ邸を、おれは無言で見つめた。
「いかが?」
ラジャの声は背後――少し離れたところから聞こえた。
口調が少し気になったのでふり向くと、AK47の銃口が、おれを見つめていた。
「何の真似だ?」
「いくら、その服でも、この距離から榴弾を射ち込まれては、長生きできないわよ。いま込めた一発には、あの農家を吹っとばしたプラスチック爆弾と同じパワーの炸薬がつまっているの」
「そりゃ、大した威力だろうな」
地下室で見た品をおれは憶い出した。せいぜい地下室全体を吹っとばすくらい、と思っていたら、とんでもない。一軒家を丸ごと消しちまった。
あれの直撃を食らっては、機械服といえども、四四マグナムに刃向かう厚い木綿のシャツ程度のものだ。
「この距離じゃ、あんたも危ないぜ」
おれは、約五メートルの空間を確かめながら注意した。
「安心しなさい。この弾は特別製でね、爆発のエネルギーが一定方向へ向かうようになっているの。吹っとぶのは、あなたの後ろの木立だけよ」
「やっぱり、おれを殺る手筈だったわけか」
「自分の立場を考えてごらんなさい」
ま、当然の処置だな。
「レーザーを置いて」
おれは従ってから、
「ひとつ提案があるんだがね」
と言った。
「命乞いなら無駄よ」
「この武器――惜しくないか?」
おれの視線の先――レーザー砲に眼をやって、ラジャはうなずいた。
「もちろん。ここに残るのは、あなたの死体だけよ」
「残念だが、こいつにゃ自壊装置が仕掛けてあってな、ちょっとでも操作を間違えればドカンといくぜ。分解するのも同じだ。何かができるのは、おれだけさ」
「だから、生命を助けろというつもり?」
「はっきり物を言うねえ」
おれは愛想笑いを浮かべたが、ラジャは笑わなかった。
「気の毒だけど、あなたは物騒すぎるの。それに大きすぎる。レーザー一挺と交換できないわ」
「そいつは困った」
「じゃあ、いずれ会いましょう。あの世でね」
ラジャは引き金を引こうとした。
多分、焦っていたんだろう。でなければ、地下の通路で大男を足止めした爆発の意味を、もっとよく考えていたはずだ。
どかん、と大地が火を噴いた。
プラスチック爆弾としてのパワーは、ラジャのものに匹敵した。ただ、量が少ない分、ラジャは衝撃で二メートルほど吹っとばされるだけで済んだ。
おれは、爆発の瞬間、伏せて難を逃れ、すぐに起き上がって、ラジャの手からAK47を蹴りとばした。
外傷は背中に食いこんだ小石くらいで、最大のダメージは、やはり、衝撃だった。生命に別状はない。
「大した――坊やね……」
ラジャは苦痛に顔を歪めながら、それでも、しっかりした声で言った。
「どんな仕掛け?」
「ガムさ」
「あれが――爆薬? じゃ、トンネルのも?」
「おれは、これでも公共の美化には気を遣う性質《たち》でね。いつもは、ガムは銀紙に包んでゴミ箱かポッケに入れる」
「育ちのいいこと」
「じゃ、あばよ」
おれはウィンクして、その場を離れようとした。
「ちょっと待ってよ。負傷したレディを置いていく気?」
「その傷なら二分で歩けるようになるさ。後は、道路に出て車を拾いな」
「覚えてらっしゃい」
ラジャは苦笑していた。殺されてもやむを得ない自分だとわかっているのだろう。
おれはレーザーを拾い、大急ぎで車へと向かった。
ドア・ノブに手をかけ、開いた。
びゅっ、と黒いものが突っかかってきたのを、すれすれでかわしたつもりが、そいつは空中で上体をひねり――左耳にちくり、ときた。
次の瞬間、おれの左手はそいつを跳ねとばし、痛みを感じた部分の耳たぶをつまむや、一気に引きちぎっていた。
機械服の肩に血が滴る。どす黒い血であった。耳たぶを咬んだのは、草むらで蠢く全長一メートルものキング・コブラだったのだ。
タイミングと痛みからして、毒液を分泌させる時間はないと踏んだが、次の瞬間、おれは猛烈なめまいと悪寒に襲われ、地面へ片膝をついていた。
呼吸ができない。ヘビ毒の特徴だ。
「驚いたぜ。――即死かと思ったが」
前方で誰かが声をかけてきた。聞き覚えがあった。それに、コブラ。――言うまでもない。“魔女の寝台”へおれを誘ったコーネル処理班のひとり、“J”だ。
やりやがったな、と思った。
こいつのコブラは、殺意を感じさせなかったのだ。
いくらおれでも、無害の蝶を見て危険は感じない。コブラの姿は、車のドアに隠れていたしな。
「君の勘のよさは色々と研究させてもらった。人間の不意討ちは難しいが、おれのコブラのはうまくいったようだな。これでも小さいうちから仕込んだから、並の蛇の十倍は素早く動けるのだ。もうおわかりだろうが、殺気も消せる」
えらいもン、こしらえやがって。
悪寒はますますひどくなり、全身が震えた。普通の人間ならとっくに呼吸困難で死亡してるが、おれの血液中には、特殊抗体が混じっているし、幼い頃からの耐毒訓練の成果で、生命には別状なさそうだ。
ただし、あと五分ほどは、手足をゆっくり動かすくらいしかできまいし、近づいてくる“J”の気配も感じられない。
「おれの役目は、ラジャの任務達成の確認と補佐だったんだが、もうひとつできたらしい。――おまえの始末だ」
背中から、ふわりと殺気が近づいてきた。
仕様がねえ。――おれは左手の指先を右のウオッチに近づけていった。
そのときだった。
地面が大きく揺らいだ、と思うや、
「――貴様は!?」
と叫ぶ“J”の声が聞こえた。
突如、おれは悟った。
大男が出てきたのだ。あの土砂を押しのけて!
恐らく“J”は、おれに気を取られすぎていたのだ。位置からして、奴と穴とは三、四メートルしか離れていなかった。あいつほどの手練《てだ》れなら、接近に気づかぬはずがない。
だが、一発の銃声も上がることはなく、おれの耳には苦鳴のみが届いた。
つづいて、重いものが地面へ激突する音。
おれは腹の底から思いきり息を吐いた。吐きながら、ふり向いた。
地面に半ばめりこんだ“J”のタイツ姿を、大男が踏みにじっていた。
ジーンズに包まれた足が動くたびに、ぼきぼきと骨の砕ける音が上がり、“J”の身体は痙攣した。
何とも、あっけない最期だ。
大男がこっちを向いた。
いよいよ、おれか。――こうなりゃ、やむを得ん。
どでかい姿が、おれへと一歩踏み出した瞬間、おれは前へのめりつつ、ウオッチのスイッチを入れた。
吐き捨てておいたもう一発のプラスチック爆弾は、電子信号で爆発する。
轟音と衝撃が機械服を震わせた。
黒いものが、どっと右横へ降ってきた。
おれは戦慄した。
ここまで、つい[#「つい」に傍点]てないもんか。
おれは、俯せに倒れた大男を見つめた。
全身真っ黒だが、焼け爛れているのではなく、油煙のせいだ。そして、それ以外、肉体には傷ひとつついていない。
危険な隣人の両手が突っぱった。不死身の力をこめて、上体が起き上がる。
おれは、夢中で移動しようとした。
「こら、起きるな。寝てろ」
叫んだが、大男は片膝をついて起き上がった。一体、何者だ、こいつは!?
肩が掴まれた。
機械服がメキッ[#「メキッ」に傍点]といった。
ひょい、とおれは持ち上げられてしまった。
ぶん、と風が鳴った。
空中で、おれは四肢の動きが前より自由になったのに気づいた。
地上へ出たとき脱いでいたフードを引っかぶる。
瞬間、脳天がどやしつけられた。
時速約一二〇キロで樹木に激突したのだ。
なんと、直径一メートル近い樫が、生白い内部を見せて、へし折れてしまったではないか。
幸い首は無事だ。現代科学の勝利である。
悪寒と呼吸困難は去りつつあった。体内の抗体が効力を発揮したのである。
おれは立ち上がった。地面が揺れた。樫の木の倒れる音であった。
耳障りな音が全身から湧いた。急に身体が重くなった。ぞっとした。機械服がトラブルを起こしたのだ。
大男は、悠々と近づいてくる。
「来い」
と、おれは弧を描いて移動しながら、奴に聴こえるように言った。くそ、足も十倍重い。
「とっとと来な。いま、片をつけてやるぜ」
言いながら、腰のパックから「ロッテ・グリーンガム」の包みを二つ取り出した。
大男の足が止まった。
ほう、満更、馬鹿でもないらしい。すると、さっきのドカンがこたえたか。
もっとも、距離は七メートル。二つまとめて爆発させたら、おれまで巻き添えを食っちまう。
黙って逃げてくれればいいのだが、そんなことが可能だとも思えなかった。こいつは、忠実な猟犬だ。退きはするが、逃亡したりは決してしない。
奴はかえって、不可思議に思ったかもしれない。
おれは脱出用の車から離れ、むしろ、ラジャの方――大男のそばへと近づいていたからだ。奴にチューインガムを示しながら、
「こいつは、おまえを吹っとばした爆弾だ。相当、こたえたらしいな。あれの十倍の威力があるぜ。来な、試してやるよ。――ほれ!」
おれは右手をふりかぶって投げた――ふりをした。
大男が二、三歩後じさる。
おれの欲しいのは、そのタイミングだった。
ガムを口に咥え、おれは右へ跳んだ。
草の上に、ラジャとレーザー砲が横たわっていた。爆発でここまで吹っとばされたのだ。
「大!」
ラジャが叫んだ。
大男が突進してくる。
距離は十分。
おれは、レーザーを取り上げ、引き金を引いた。
大男は近づいてくる。
闇はなお深い。
――!?
おれの全身は凍りついた。
あの爆発だ。あの衝撃で、レーザーは故障しちまったのだ。
体勢を立て直す暇もなかった。大男も、もう、放り出してはくれまい。
その刹那――
おれの耳は、奇蹟のような音を聴いた。
ライフルの発射音。
同時に、大男の身体が首から、右の方へと吹っとんだ。
左の方を向いたおれの眼は、一〇メートルほど離れた木立の間に立つ人影を捉えた。
肩付けしたライフルの銃口からは紫煙の糸が立ち昇り、教則本に出てくるような立ち射ちのスタイルは、ため息の出る美しさを誇っている。
ぐおん。
ライフルが唸った。
起き上がろうとしていた大男が、再び、頭から[#「頭から」に傍点]吹っとぶ。
さっきはこめかみ、今度は眉間――射たれる方も化物なら、射つ方も怪物だ。
「来い!」
鋭い声が呼んだ。
おれは立ち上がった。
レーザーを手に取り、ついでにラジャも引き起こして、小脇に抱えた。
「救けてくれるの?」
苦しげな問いに、
「死にたくねえだろ」
と答えた。
走り出した途端、ライフルがまた吠えた。もうふり向かず、おれは人影と並んだ。洗いざらしのジーンズの上下が、たくましい身体を包んでいる。
「奥に車がある。急げ」
惚れ惚れするクイーンズ・イングリッシュに、おれは、
「恩に着るよ」
とだけ言って走った。
五、六メートルでまた銃声。
車は森を脱けたところにパークしていた。
迷彩模様のフォードGPW軍用ジープだ。第二次大戦前に完成された古い型《タイプ》だが、一九四五年までに六〇万台が生産されたその性能――特に頑丈さは、同じベストセラー・カー=ウィリスMBとともにその辺の乗用車の比ではない。
後部座席にラジャを放り出し、四四二型“ゴー・デヴィル”二一九九ccエンジンをスタートさせたとき、生命の恩人が駆けこんできた。
「どうしたい?」
とおれは訊いた。
「来るぞ」
答えは短く、要点をついていた。相変わらずだ。
おれは一気にジープをスタートさせた。
五〇メートルほど突っ走ってふり向くと、大男が路上へ出てきたところだった。月光が、均整のとれた裸体を白々と照らしている。
「化物め」
おれの隣で、低い声が言った。
「まったくだ」
と、おれ。
「相変わらず危険なビジネスだな、ミスター八頭」
「軍人よりはましだよ、もと《エクス》軍人さん」
おれはちらと横眼で、若々しい精悍な顔を眺めた。
男はそれでわかる。
これまで辿って来た人生と生き方が、だ。
「とにかく、会えて嬉しかった」
さし出されたたくましい手を、おれは無言で握りしめた。
月光の下で、もとブラジル陸軍大尉ローレンス・シュミットは、愛銃六〇〇ニトロ・エクスプレスを片手に、さわやかな笑顔を見せていた。
[#改ページ]
第三章 戦闘三昧
1
ジープで街へ戻る間、おれは、シュミットと、ブラジル以来の境遇について話し合った。
ロンドンでおれと別れてから、彼は外人部隊に参加し、たちまち超一級のインストラクターとなって世界中の紛争国を巡ったが、その華々しい活動は、行った国の数だけの組織から狙われる結果を招き、一年ほど前から、この“貧民夜会地区”に潜伏中だという。
いわば、ほとぼりの冷めるのを待っているわけだ。
「情けない話だな」
と、おれは言った。
「まったくだ」
シュミットは肩をすくめた。悪びれた様子はない。
「従って、君との縁もこれで終わりだ。ちょっと目立てば、世界中の殺し屋がやってくる。――借りは返したかな?」
「それは間違いねえ。しかも、一回分多い」
「利息だ」
「人間に味が出てきたな」
と、おれは言った。
「おっと、賞めてると思うなよ。――そういうのは、別名、弱気になったとも言うんだ。せいぜい、日向ぼっこでもして、余生を送るんだな」
「それもよかろう」
「やれやれ」
屈託のない笑顔に、おれはそう応じるしかなかった。
「ところで、おれがここにいるとどうしてわかった?」
「はじめて見たのは沖からだ」
「昨日だな」
「そこで少し懐かしくなってね。“貧民夜会”の情報屋に居所を探ってもらったのさ。やっとわかって出向いたら、君が後ろの女性のシトロエンに乗るところだった。あわてて尾行したというわけだ」
おれは納得した。ローレンス・シュミットなら、おれに気づかれず、地獄の底にまで尾いてくるだろう。
「おまえを狙ってる組織てのは?」
おれは話題を変えた。
「CIA、KGB、MI6、スペシャル・サービス・フォース、スペツナズ、セロス・スカウト、その他だ」
世界の特殊部隊オンパレードだ。おれは少し、同情する気になった。シュミットでなけりゃ、二日と生きて地上は歩けまい。おれでも隠遁生活に憧れるかもしれない。
「ちょっと……」
背後からラジャが呼びかけた。相変わらず苦しげな声だ。内臓破裂でも起こしたかと、おれは気になった。
「ミスター・ローレンス・シュミット? あなたなの?」
「そうです」
シュミットは丁寧な口調で応じた。
「お目にかかれて光栄ですわ。私――ラジャ・クレイン。ローラン共和国陸軍情報局処理班所属」
「よろしく」
ふり向いたシュミットの前に、白い手がさし出された。
ラジャは上体を起こしていた。
「具合はどうだい?」
おれは、できるだけやさしく訊いてみた。対抗意識である。男ふたりに女がひとり。この配分で男の片方だけもて[#「もて」に傍点]たんじゃ、立場がない。
ラジャは返事もしなかった。
陶然たる面持ちで、シュミットの顔に見入っている。彼は手を離そうとしているのだが、ラジャの手指は蛇みたいに巻きついて解放を許さない。
「わっ、しまった」
おれは声を上げ、思いきりハンドルを右へ切った。
瞬間、切り戻す。
ラジャの悲鳴は後から聴こえた。
おれは少し横を向き、解放されたシュミットにウィンクしてみせた。
街へ着く前に、おれは当て身でラジャを眠らせ、“貧民夜会地区”へ急行した。
目的のホテルの前に辿り着くや、不安が胸を突いた。
人だかりがしている。歩道に光るものが散らばっている。窓ガラスの破片だ。見上げると、三階の窓がひとつ割れている。
「女を頼む」
おれはシュミットに言って、GPWを降りた。
“貧民夜会地区”に警官はいない。ロビーにたむろしているのは、眼つきの鋭い私服の男たちだ。ひと目で自警団と知れる。ただし、この自警団は全員、その辺のヤー公より桁違いに物騒だ。
ロビーそのものに異常はなかった。カウンターの前で、禿頭の親父の額を、従業員らしい婆さんが濡れタオルで冷やしているのが、唯一、それらしい光景だ。
おれは、こっちを見つめている自警団のひとりに近づき、
「何かあったのかい?」
と訊いた。
「何だ、おめえは?」
眼つきと同じ、鋭い声だった。
「“地獄横丁のマリア”の知り合いさ」
途端に男の表情が変わった。驚愕が親しみへと変化するさまは、なかなかの見ものだった。
「そうかい。――おれたちにも事情はよくわからねえ。トラブったって聞いて駆けつけたばかりでな。支配人はあいつだ」
男はへばっている禿頭を指さした。
おれは素早く近づいてマリアの名を名乗り、禿頭に同じ質問をした。
「さっぱりわからねえ。一〇分くらい前に、船乗りみてえな格好をした男がひとりやって来て、部屋を貸してくれ、と。条件を決めて鍵を渡そうとふり向いたら、いきなり殴られた。後は覚えてねえよ」
そのとき、フロント脇のエレベーターのドアが開き、男が二人降りてきた。
こっちへやって来る、おれを胡散臭げに見た。
「マリアの友だちだとよ」
最初の男が口添えしてくれた。
「ひょっとしたら、爺さんと東洋のグラマー美人がいなくなったんじゃないのか?」
おれは禿頭と男たちを見ながら訊いた。
「君の連れか?」
と年配の方が訊いた。
「ああ」
「部屋は滅茶滅茶で誰もいない。床に血がついてた。客は連れ去られたらしい」
「血は大量だったか?」
「まあな。ひとりだとしたら助かるまい」
「血液型までわかるかい?」
男の眼が光ったが、何も言わずにうなずいた。
「Aだ」
おれは、少しほっとした。少なくとも、ゆきじゃねえ。陣十郎は――ローラン共和国への船旅の途中で聞いた話じゃAだ。
「事情を聞かせてもらえると助かるがな」
「マリアに訊いてくれ」
「そういう仲か」
男は驚いた。いい気分になるところだが、今は、そうもしてられない。
「部屋には荷物も何も?」
「ああ」
すると、巡航ミサイルで運んできた装備もチャラか。こうまで簡単に居場所が突きとめられるなら、二人とは別にしときゃあよかった。
おれは軽く会釈して、玄関の方へ向かった。途中でふり向き、ようやく立ち上がった禿頭へ、
「宿泊料はどうなってる?」
と訊いた。
「前払いで一週間分。――今、返しますぜ」
「いいんだ。その代わり、部屋はあけといてくれ。そのうちに戻って来るかもしれない」
「承知しました」
おれはジープに乗り、待っていたシュミットへ、
「今晩泊めてくれ」
と言った。
「構わんが、君の関わり合っている件については、ひと言も耳に入れたくない」
「わかったよ、爺さん」
おれは嫌味たっぷりに言った。
シュミットの家は、港の端に停泊中の大型クルーザーだった。
全長一五メートル、重量六トン、乗員五名というところだろう。なるほど、陸から襲われたら海へ、というわけか。
世界中の諜報組織、特殊部隊に生命を狙われているにしては、シュミットの物腰には緊張の“き”の字も感じられなかった。本物はこうなのだ。
折り畳み式の階段を上って乗船し、船室《キャビン》へ入ると、意外なものが待っていた。
「お帰りなさい」
女の声だ。それも若い。
ローレンス・シュミットも、その道ばかりはただの男か。非難する気はなかったが、ちょっぴり切なくなったのは確かだ。
「お客さまだ」
と「地獄の戦士」は、よく整頓されたキャビンの奥へ声をかけた。
奥のドアが開いた。寝室なのだろう。
出て来た娘は、十七、八歳――おれと同い歳と思しかった。
まばゆい金髪が眼にしみた。グレーの地にピンクの花びらをあしらったガウンは、何処でも買えそうな品だ。それが、いちばん似合う――そう思った。どんな服を着てもそう思わせてしまうにちがいない。
この娘《こ》なら、砂漠の原住民の国へ行ってもモデルがつとまるだろう。シュミットがとち狂うのも無理はない、と考え、おれはすぐに自己嫌悪に陥らなければならなかった。
「ミス・キャロル・パーカーだ」
シュミットは娘に近寄り、その手を取った。
娘の眼はまばたきもせずに、おれのやや右方を見つめていた。
それが、身体ごとおれの方を向いた。シュミットが向かせたのだ。
「はじめまして。この人がお客さんを連れてくるなんて、はじめてですわ」
軽く身を屈めた挨拶に、おれも会釈を返した。
キャロルの眼は相変わらずまばたきもせず、おれを見つめていた。悪びれもせず、恥ずかしがらず、笑顔は普通並みの明るさだった。
キャロル・パーカーは盲目なのだった。
「こちらは――」
シュミットの紹介を、すらりとした美少女はこう言って遮った。
「いいの。当ててみましょうか。――八頭大さん」
「こりゃ、驚いた」
おれは上機嫌で言った。
「どうしてわかったの?」
「この人が、こんなに嬉しそうな声を出すなんて、一緒に暮らし出してから何回もありません。あなたの名前を口にするときだけです」
おれは、勇を鼓してシュミットの顔を見つめた。
「済まなかった。――おれの間違いだよ」
「何のことかね?」
シュミットは静かにキャロルの肩を押して、奥のドアを向かせた。
「ミスター八頭は二、三日泊まっていく。君ももう寝みなさい」
「お忙しい身の上だと伺いました」
キャロルはおれの方を向いて言った。
「でも、朝早いうちにお帰りにならないで。私の朝御飯を召し上がってくれないと怒ります」
「死んでも帰りません」
と、おれは心底言った。
キャロルはドアの向こうに消えた。消える前に微笑した。それだけが、おれの網膜にいつまでも残った。
ドアを閉じ、シュミットが戻ると、
「色男は違うな、おい?」
と、おれは彼を肘でこづいた。
「どういう関係だ?」
「そんなことを訊いている場合じゃあるまい。ジープの女工作員はどうするつもりだ?」
「そうだ。――なに、車の中で片はつく。おまえは鍵を貸してくれればいい」
おれはジープのキイを手に船を降り、ジープへ戻った。
ラジャは当て身で眠りっぱなしだ。
二〇分後、おれはジープを発車させ、“貧民夜会地区”の境界でラジャを降ろした。
ぼんやりと突っ立っているグラマーへ、市街の方を指さし、
「真っすぐ歩いていけ」
と命じた。
うなずきもせず、ラジャは歩き出した。暗示は一分で解ける。
クルーザーに戻ると、甲板にシュミットが待っていた。
白いテーブルに洒落たワインの瓶とグラスが置かれている。風が出ていた。おれの気分を別にすれば、パーティにはいい晩だ。
おれがラジャに何をしていたかも訊かず、シュミットはグラスに赤い酒を注いだ。
「再会を祝して」
グラスを合わせて、口元へ運んだところで止めて、シュミットは、
「何故、飲まない?」
と訊いた。
「お先にどうぞ」
「毒でも入れたかと思っているのかね?」
「癖だよ」
それ以上、言わず、シュミットはグラスを干した。
「そのグラスと替えろ」
おれは自分のグラスをシュミットに押しやった。
「用心深いことだ。だが――」
おれは、そう言う彼の口元を見て、にやりとした。同じ微笑を浮かべたつもりだった。
今のやりとりを、シュミットが心の底から愉しんでいると知ったら、金髪のキャロルは哀しむだろうか。
「おれが今、ラジャに何をしたか知りたくないか?」
「別に」
「隠すな。本当は知りたいだろ?」
「別に」
おれはグラス片手に、シュミットへにじり寄った。
「顔が知りたいと言っているぜ」
「よしたまえ」
シュミットは椅子から立ち上がったが、おれはすかさず追いかけた。
「何の真似だ?」
ついに、シュミットは静かにおれの眼を見据えた。
「君は我が家の客だが、それなりの礼儀は守ってもらいたい。君が首を突っこんでいる件に、私は興味も関心もないのだ」
「おれは、おまえを引っぱり込もうとしてるんじゃない。おまえの真の姿を教えてやろうってんだ」
「私の真の姿?」
「そうとも。おまえ、この頃、鏡に向かって髭を剃ってるか?」
「?」
「だったら、自分がどんな顔をしているかもわかるはずだぞ。こんな船の中で、金髪美人と年を取っていける男の面《つら》か?」
「余計なお世話だ」
「そう、とんがるなよ。おれは賞めてるんだぜ。人間は自分を変えられっこないんだ。運命ってのは、血の中を流れているんだよ。おまえのライフル、ぴっかぴかじゃねえか。毎日、手入れを忘れてねえんだろ。――なあ、何故、おれを二度も救けた?」
「言ったろう。借りを返すためだ」
「その通りだ」
おれは、深々とうなずいてみせた。古狸の政治家がよくやる手だ。国民の悩みも苦しみも、自分はよく呑みこんでいる。あなた方の言いたいことはよくわかる。――しかし。
「だがよ、もうひとつあるだろ?」
「何がだ?」
シュミットの声も、さすがに怒気を孕んでいた。
「ひと暴れしたいって欲望さ。おまえは、あの娘と人並みで平凡な生活なんかちっとも送りたくねえんだ。その二本の足で世界中を駆け巡り、歯も立ちそうにねえ相手とドンパチやりたいのさ。理由なんかない。強いて言やあ、血だ。三日もこのサンデッキでのんびりしてみろ、性質《たち》の悪いゴロツキや兵隊をぶちのめしたくて仕方なくなるだろ。おまえは、そういう男なんだ。戦いの中でしか生きられないのさ。ほれ、眼が燃えてるぜ」
「いい加減にしないと、出て行ってもらうぞ」
シュミットは、いつの間にか冷静になっていた。
おれは退くことに決めた。
ラジャに催眠術を施し、あれこれ、情報を仕入れてから放り出したなどと聞かせてもはじまらない。ま、こいつを引っ張り出す手ぐらい、いくらでもあるさ。
それから、おれは話題を変え、キャロルとのなれ初めを訊き出そうとしたが、シュミットはひと言も口にしなかった。
だからと言って、必要以上に感傷的になったり、冷静さを失ったというんじゃない。
そんな人間は、戦士と呼ばれる資格などありはしないのだ。
二人でビールを三ダース空けたが、酔いなど回りもしなかった。この程度で腑抜けてちゃ、生命がいくつあっても足りない。
飲むのをやめたのは、東の空が白んできたせいだ。そういや、ここんとこ、睡眠時間が少ない。
シュミットは奥の部屋に消え、おれはリビングのソファに横になった。
エアコンが効いているのには苦笑した。こんなものに身体が慣れたら、苛酷な環境でのサバイバルが不可能になる。シュミットひとりなら、死んでもつけやしないだろう。戦士に女は最大の敵だ。
一〇秒とかからず、おれは熟睡状態に入った。
誰かが肩をゆすった。
「なんじゃい?」
おれは眠い眼をこすりながら訊いた。
起こした当人に殺気がないのも、そばにおかしな奴がいないのもわかっている。そうだとしたら、とっくに眼が醒めていたはずだ。昔は殺気の有無を問わず覚醒したが、ヨガの修行を応用した自己催眠訓練の結果、反応はより合理的になった。
じゃあ、相手が催眠術をかけられているような場合――殺意なくナイフをふり下ろしたり、ピストルを射ったりしたらどうなるか?
最新の心理学では、そんなことはあり得ないそうだ。いかに洗脳されていても、精神の奥では強制に対する反抗が生じる。その拮抗が乱気と化す一瞬こそ、おれには必要なのだ。
では、相手が銃というものの怖さを知らない無邪気な幼児や、精神異常者だったらどうか? これは運命と思ってあきらめるしかないだろう。だろうと言うのは、一歩進んで、虫の知らせ――いわゆる予知能力の錬磨によって、この状況さえも克服できるかもしれないからだ。
過去に一度、二メートルの距離で、おれは敵弾を脇腹に受けたことがある。
おれを狙った暗殺者が、なんと四歳になる自分の娘にトカレフを渡し、空港のロビーで、おれを見つけたら引き金を引くよう命じたのだ。拳銃の威力など知らない娘は、そうすれば、おれが喜ぶと聞かされ、素直に従った。
あのとき、一瞬の勘がおれを右に移動させなかったら、弾丸は肺をぶち抜いていたはずだ。
傷の癒えたおれは、早速、経営している超心理学研究所のスタッフに命じて、予知能力の開発に全力を尽くさせた。目下、希望通りの効果を上げているとは言い難いが、研究所が造り出した訓練プログラムのせいで、おれの天性の勘が一層磨かれたのは、間違いないようだ。
とにかく――おれは眼を開いた。
驚いたね。床の上に膝立ちになっているのは、キャロルだったのだ。
それほど積極的な娘とも思えず、おれは、
「どうしたの?」
と柔らかく訊いた。
「シュミットに怒られるぞ」
「あの人は、ぐっすり眠っています」
キャロルは美しい英語で言った。おれには、とてもそうは思えなかった。
「あの人をどうするおつもり?」
キャロルは低く訊いた。
「取って食うつもりはないぜ」
うまい冗談だと思い、おれはハハハと笑ったが、盲目の美少女はにこりともしなかった。
「私――あなたの声と雰囲気を感じただけでわかりました。あなたは、ローレンスと同じ人間です」
おれは舌を巻いた。どこか肉体的欠陥のある人間は、それを補填すべく他の感覚器官が鋭くなるという。その顕著な例だ。
「まあ、ね」
我ながら、間の抜けた返事だった。
「あなたには、戦いの匂いがします。土と油と血と硝煙と潮の香りが。あなたのそばにいると、風が流れているのがわかります。あなたは、それに乗って、私には決して理解できない世界へ飛んでいくのでしょう。シュミットも同じ風に乗っていたの。でも、私は風除けになってしまった。私と会って、あの人は戦場へ向かわなくなったのです」
おれは黙っていた。キャロルがそれを自慢しているのか、後悔しているのか、よくわからなかったからだ。
「でも、あなたは匂いを運んできました。あの人の血は、もう騒ぎ出しています。それを止めることは、誰にもできません」
「誤解だよ」
おれは心にもないことを口にした。
「あいつは、君に骨の髄まで参っている。メロメロのドロドロだ。なれ初めは知らねえが、今のあいつは君なしじゃ夜も日も明けやしない。おれごときがやって来たからって、どうってこたあねえさ」
「嘘です」
これだから、女は怖い。
「あの人が、あなたのことをどんな声で話していたか。それだけで、私はあなたの正体がわかりました。だから――あなたにだけは会いたくありませんでした。私たちの前に現れて欲しくなかった。あの人がいなくなったら、私、どうやって生きていけばいいの?」
おれは無言でいた。お手上げだ。必要とあれば、ソクラテスだって言い負かしてみせるが、金髪で盲目の美しい娘には、手も足も出ない。はじめて味わう峻烈な拒絶だった。
「お願い!」
いきなり、娘は手探りでおれの手を握った。指は熱かった。噴き出す哀しみがそうさせているのだった。
「これ以上、ここには留まらないで。明日、夜が明けたら、出て行って下さい。お願いです」
「いいとも」
おれはキャロルの肩にそっと手を置いた。
「安心しな。おれとシュミットが会ったのは偶然だ。ここを出たら、赤の他人で通す。おれもその方が都合がいいんでな」
これは本当だ。実のところ、シュミットを味方につければ、鬼に金棒だろう。だが、それには、分け前がいる。そして、「地獄の戦士」の名前とプライドに見合った分け前といったら。――やめとこう。商売はひとりでするに限る。
「本当ですの?」
「ああ、約束だ」
「よかった」
キャロルは正直だった。盲目の身で、頼りになるのがシュミットひとりだとすれば、男のロマンとやらに媚を売って、いさぎよく彼にふさわしい世界へ送り出すことなどできっこない。他に身寄りがいるかどうかは、おれには無縁のことだ。
「さ、もう戻って寝たまえ。シュミットが眼でも醒ましたら、厄介なことになる」
妙にやさしい声だった。
「そうします。――ありがとう」
おれの手に重ねられた白い指に力が入り、すぐに離れた。
キャロルが慣れた足取りで奥のドアをくぐっても、おれはドアから眼を離さなかった。
孤愁が胸を吹いた。
シュミットが、出て行く恋人に気づかぬような甘ちゃんなものか。一枚ドアを隔てた向こうで、おれたちのやりとりをちゃんと聴いていたはずだ。
そして、彼を連れていかないでと哀願する前にとび出し、キャロルを連れ去ったはずだ。
その後で、女がつまらないことを言ったと告げに来たはずだ。
ドアは閉じたきりだった。
達者でな、シュミット。
おれは狭いソファの上で身を縮め、すぐ、眠りに落ちた。
2
翌朝、おれは早々にシュミットの船を辞した。朝飯をご馳走になってからなのは言うまでもない。レーザーと機械服をつめるバッグ、及び上衣とシャツとジーンズも借りた。ついでである。
昨夜の出来事について、おれも二人も、何も言わなかった。キャロルとのなれ初めについて、ちょっぴり訊きたい気もしたが、口には出さなかった。
シュミットは船を降り、船着き場の端まで送ってくれた。
「じゃあな」
おれは片手を上げた。シュミットもそうした。握手をしようとしないだけましだ。いつ、相手が逆技をかけてくるかもしれない。まだ、錆は心臓《ハート》まで回っていないとみえる。
おれは通りにパークしている車の中から、おんぼろのポルシェを選んで乗り込んだ。キイはないが、電線をいじってスタートさせるのは簡単だった。少し走ってバックミラーを覗いた。シュミットはまだ見送っていた。クルーザーにはキャロルの姿が見えた。おれではなく、シュミットの方を向いていた。
おれは、とりあえず、ポルシェを「極悪通り」へと向けた。
『パシャの店』は、その四丁目にでかい玄関を開いていた。
何の店かは、前に行けばすぐにわかる。米軍の旧型バズーカM72A2や、ブローニングM2HB重機関銃といったところが、堂々と軒下を飾っている。対戦車ロケット弾やベルト入り二〇ミリ機銃弾も山になっていたが、さすがに信管は抜いてあった。
戸口をくぐると、ぷん、とガン・オイルと硝煙の匂いが鼻をついた。
あるある。コルト、SW、ブローニング、H&K《ヘッケラー・アンド・コック》、ワルサー、SIG《シグ》――世界中の武器メーカーの小火器が、自動小銃、突撃銃、狙撃ライフルから、短機関銃、拳銃、隠し武器まで、びっしり並んでいる。
床と天井はともかく、壁の地肌は見えない。武器を積み上げて代用しているのではないかと思われるほどだ。
小火器だけではなく、だだっ広い店の隅には、なんと、西ドイツの旧型センチュリオン戦車のものと思しい砲塔や、ヘリ搭載用七〇ミリ・ミサイルポッドが天井から吊るされている。砲塔はむろん、一〇五ミリ戦車砲つきだ。
四〇ミリ対空機関砲四連装を眺めていると、
「らっしゃい」
店の奥から、まろやかな声がした。残念ながら男――それも脂ぎった中年のものだが、聞く方の気分は悪くない。商売のプロだろう。
頭に白いターバンを巻いた中年男は五〇代半ば頃。身長一七五センチ、体重一五〇キロ――凄いでぶだった。
店の主人、パシャ・ヘベレである。だぶついた顎の肉の間からは、脂肪かワインが滲みこぼれそうだ。口元には笑いがこびりついている。
「ようこそ、『パシャの店』へ。ご希望のものは何なりと取り揃えますですよ」
「いや、結構」
おれは、店の品をじろりと見渡し、
「評判倒れだな」
背を向けて出入口の方へ歩き出した。
「待ちなさい。ちょっと――お客さん!!」
とりあえず、かかったな、と思った。
「何だい?」
うるさそうにふり向くと、でぶはカウンターから出てくるところだった。水の入った風船を思わせた。
「今の言葉、聞き捨てなりません。ここ、『パシャの店』。お望みの武器で、ないものはありませんぞ」
「おれは趣味が高尚でね。――その辺の、ひと山幾らの武器じゃあな」
「ははあ。――ここだけで、店を判断しなすったか。それは、失礼だが、アマチュアの証拠でございますよ」
「何だよ、人聞きの悪い」
おれは憤然と言った。
「古本屋をご存知ですか? いいえ、その辺のレストランでも結構。いちばん大事な品は、決して店内には展示してございません。そうではありませんか?」
「レストランなら、サンプルが出てるぜ」
「それ[#「それ」に傍点]と同じものが、テーブルに出たことがありますかな?」
「そう言や、ねえな」
「その通り。実は、レストランにとって最も大事なものは、決して店内に置いてはありません。料理はすべて、奥の厨房から出る。――そうではありませんか?」
「ふむ。味つけのノウハウってわけか」
「その通り、その通りですぞ、お客さま」
パシャは両手でおれの手を取ろうとしたが、おれは素早く避けた。あんな脂手《あぶらて》で握手された日にゃ、たまったもんじゃねえ。
パシャは気を悪くした様子もなく、声をひそめて、
「で、何がお要りようで?」
「まず、携帯用のロケット発射器《ランチャー》だな。それも、カール・グスタフやスティンガーみたいなでかいのは困る。折り畳み式のML5はあるかい?」
パシャの両眼が光った。
ML5ロケット弾発射器は、米英共同開発になる最新型七連装ランチャーである。これは、ランチャーつまり、拳銃でいう銃本体ではなく、弾丸――ミサイルの超小型化を目玉とする。従来の直径七〇ミリ、重さ八キロなどという持ち運びにも不便なミサイルを、何と直径三〇ミリ、重さ二キロにまで縮小《ミニマイズ》した上、形態識別機能をプラス、しかも、破壊力は八掛けという離れ業をやってのけたのだ。
七発装填してもミサイルポッドの直径は二〇センチ、長さ二五センチ、ミサイルこみの重量は一八キロと、携帯性抜群の兵器が出来上がった。
米軍としては、今年中にNATO(北大西洋条約機構)の前線兵士に配給するつもりだったのだが、ご存知、ベルリンの壁騒動が巻き起こり、どうしたものかと頭を悩ましている最中である。そうこうしているうちに、すでに生産ラインに乗っていた分が倉庫から持ち出され、武器商人の手で、世界の紛争地へ密輸されちまったのだろう。
どう出るか、と思っていると、でぶはきょろきょろ左右を見回し、ふくれアンパンそっくりの顔をおれに近づけて、
「お客さま」
にんまりとした。
「ございます」
「やっぱりな。そいつと、火炎放射器があるかい?」
「もちろん。米軍の最新型でございますよ。なんと、一〇〇メートル先まで届くやつ」
「そいつはいい。ゲル化燃料は五〇リットルばかり頼む」
「承知いたしましたです。今日は幸い、開店二〇年目の大サービス記念日でして、たっぷりと勉強させていただきます」
でぶは、うほうほと言わんばかりだった。そういういい目[#「いい目」に傍点]は長くつづかない。
「ただし、勘定はロハだ」
「は?」
「実は、あんたの仕事場で、これを直して欲しいんだ」
おれはテーブルの上にバッグを載せ、レーザー砲と機械服《メック・ウエア》を取り出した。
「これは……お客さま……光学兵器ではありませんか」
パシャの表情に困惑と好奇心とがゆれた。
「とても、当店ではお預かりいたしかねます」
「とぼけるな。『パシャ・ヘベレの店』――地下には最新の電子装置を備えつけて、米軍のレーザー、メーザーも扱ってると聞いたぜ」
アラブ人は生唾を呑みこんだ。
「少々――高くつきますが」
「ありがとよ」
おれは微笑んだ。
「金はない。その代わり、別のもので支払う」
「何ですかな、それは?」
パシャは警戒と――興味を示した。大したもんだ。おれが只者ではないと見抜いている。おれは、あっさり言った。
「シンの右の心臓――取り返してやろう」
パシャの眼が剥き出された。
「何だと!?」
右手が長衣の内側へ滑りこみ――止まった。おれが一歩前へ出て、手首を押さえたのだ。親指で急所を圧迫しているから、梃子でも動かない。
「どうして知ってるのか、と訊きたいんだろ?――宝はおれの専門商品なのさ。七百年来のパシャ家の悲願――おれが果たしてやろう」
「青い海を渡ってかね?」
パシャの声は汗にまみれていた。
「その通りだ」
おれはうなずいた。トレジャー・ハンターの自信をこめて。
「あんた――何者だね?」
おれは名乗った。
頭の後ろを叩かれたみたいに、パシャの眼がとび出した。
「やや八頭の――八頭のご当主か?」
「そういうこった」
「こんなところで会えるとは思わなかった。――出来る。あなたなら」
パシャの満面に笑みが広がった。ラジャの口から武器店の主人として、彼の名が洩れたとき、おれも同じ笑いを浮かべたことだろう。
「任しとけ」
おれは保証した。
「だが、そのためには、少し準備がいるぜ。さっきの武器はそのひとつだ。それと――副賞に百万ドル、キャッシュでつけてもらいたい」
「承知しました」
パシャはせわしなく両手を揉み合わせた。
とにかくこちらへ、と招かれ、おれは奥のドアをくぐった。
『パシャ・ヘベレの店』をおれに教えたのは、ラジャだった。
おれにはどうしても武器が必要だった。今、残っているのは機械服《メック・ウエア》と故障したレーザー砲ぐらいのものだ。財布は持って出たが、ミサイル発射器や火炎放射器を買うほどの現金は入っていない。いざってときの宝石類もろとも、ホテルから盗み出されてしまった。銀行へ行けば、すぐに貸し出してくれるが、どうせ、大佐の手が回ってるにちがいない。
パシャの名を聞いたとき、おれは内心、小躍りしかかった。
後の話は簡単についた。何よりも、おれの名前をパシャは信用した。一文無しに近い、嘘をついているかもしれない宝探し屋の名前をだ。
二時間後、おれはばかでかいスーツケースを両手に、『パシャの店』を出た。
十歩と通りを行かないうちに、横に車が止まった。
「また会えたね」
懐かしい響きだった。
おれはボロ車の後部座席に坐ったマリアの顔を見た。
「こりゃ、どうも」
「送ってあげよう」
ドアが開いた。
おれは黙って、パシャから受け取ったスーツケースを手に、車へ乗りこんだ。
[#改ページ]
第四章 “プリンス”の祖母(ばあさん)
1
その日の晩、おれはサヴィナの西の外れに広がる丘の上にいた。
ひとりじゃない。パシャが一緒だった。目下のスポンサーである。
「用意はできてるんだろうな?」
おれは月明かりも眩い夜空を、苦い思いで見つめながら訊いた。
泥棒みたいだが、おれの仕事に明かりは不要だ。
「まかせておけ。私もパシャ・ヘベレ。サウジアラビアでは二千年の伝統を誇る名家の末裔だ。無責任な真似はせん」
言い終えて、彼は顎を上空へしゃくった。
「来たぞ」
空中に赤い光が点滅している。
おれにも、とうにわかっていた。吹く風に乱れが生じたからだ。
五秒と待たず、おれたちの眼の前に、夜空が長い翼をつけて降りてきた。
音もなく、空気が動いた。
別名「夜の蝶」――グライダーである。
操縦席のドアが開き、黒ずくめのパイロットが降りてきた。
「調子は上々です」
パシャはうなずいた。
「ですが、こんな時間に何に使おうってんです? どっか、爆撃でもするつもりですか?」
「その通りだ。人間爆弾をな」
「へ?」
「ご苦労さん」
と、おれはパイロットに言った。
「後はおれの仕事だ。幸運を祈ってくれ」
パイロットは肩をすくめた。
「幸運を祈るよ。何だか知らねえが、しっかりやれ」
「じゃな」
おれはグライダーの方へ歩を進めながら言った。
「吉報を待ってな。二、三日戻らなくても、気にしねえことだ」
「信じているぞ。――八頭の名を」
「けっけっけ」
とおれは自信たっぷりに笑い、グライダーの操縦席へ潜った。
パイロットはベテランだった。丘から滑空するのにちょうどいい、傾斜路のてっぺんに着陸させてある。
この丘は以前から、ハンググライダーや、ビッグ・カイト、グライダーのメッカだったものを、今の首相が政権を担当後、軍事基地や宮殿の写真を撮られる恐れがあるからと、その類のスポーツは全面的に禁じられてしまった。
パイロットが、パシャ=おれの要求に応じたのも、それに対する不満がわだかまっていたせいだろう。
二人は機体の後ろに回っていた。
グライダーはノン・エンジンだから、浮力をつけるためには、傾斜路を走らせなくてはならない。それには、とりあえず動かす人間が必要だ。
おれは後ろを向き、OKと叫んだ。
機体は滑らかに前進を開始した。
ぐんぐんとスピードがついてくる。
眼下に平原が広がった。森や林が闇よりも濃く点在する中に、人家らしい光点がまたたいている。
その向こう――右前方にきらめく光の集合体がサヴィナの中心部だ。
風に乗って巧みに機を操りながら、おれは装備を点検した。
機械服《メック・ウエア》はもちろん、腰のベルトにはグロックとアメリカン・ルガー“レッドホーク”四四マグナム六連発。こいつは腰の後ろにさしてある。ただし、スペシャル・バージョンで、弾丸も単なる四四マグナムじゃない。座席《シート》の右隣には、パシャと交渉した二つの武器――ML5ロケット弾発射器《ランチャー》と火炎放射器がちゃんと収まっている。
なにせ、今回の相手はただの軍隊じゃない。これくらいの装備でも、まだ足りないぐらいだ。
レーザーさえ壊れてなかったら、盤石に乗った気分なのだが、ま、仕方がない。
風の具合も問題なく、目的地の上空に到達するまで、二〇分で事足りた。
おれは素早く武器を背負い、ドアを開いた。
グライダーは木と布製だから、レーダーに引っかかる恐れはない。放っておけば、風に乗って洋上へ舞い降りるはずだ。
パラシュートはもうつけてある。
おれは風の方向とタイミングを測り、一気にとび降りた。
高度は約五百。ギリギリまで開かず、小石のように落ちていく。
耳元で風が唸る。これにうまく乗り、あるいは別の気流に乗り換えながら、できるだけ目標近くに着地するのが、スカイダイビングのプロだ。
だが、いくらプロでも、こんな条件で飛べと言われたら、絶対にNOを出すだろう。
まず、真夜中だ。目標の確認はえらく難しい。よく映画で兵隊が降下するが、あれは、目標地点がだだっ広いからできる芸当だ。それに大抵は、下に味方がいて、合図か何かを送ってくれる。
万が一、降下のタイミングが外れるとどうなるか――「史上最大の作戦」という映画を観たまえ。
ドイツ軍部隊の真っただ中へ降下した米軍パラシュート部隊は、地上からの砲火にさらされ、着陸してもその場で射殺され全滅してしまう。
次に――おれの目標はえらく小さい。平原だの広場だのじゃないのだ。そうだな、ざっと縦五メートル、横三メートルの空間――まさに、ピン・ポイントと言っていい。
高度百でパラシュートを開いた。
加速がついてるから、かなりの衝撃が骨にまで食い込み、身体が跳ね上がる。毎度のことだ。
一度、二千メートルを自由落下しながら開いたことがある。両肩は脱臼寸前。丸二日はろくに動かせずにひどい目に遇った。それに比べりゃ、天国だ。
目標が迫ってきた。夜目が利くおれだからこそ、やれる芸当だ。
風の具合は――やや左に流されそうで、危《やば》い。
目標の上空五メートルで、おれは前もって手にしておいたコンバット・ナイフをふるった。一本だけ残して糸を切り裂く。
次の瞬間、おれは猛烈な勢いで、コンクリートの上に着地していた。膝をゆるめて衝撃を逃がす。それでも、背中の武器がズシンときた。
成功。パラシュートを丸め、素早く周囲の気配を窺う。
物騒な気は伝わってこなかった。場所もぴたり。四方を石壁で囲まれた一角だ。あちこちに照明灯の光がもれているが、ここには届かない唯一の死角だ。だからこそ、選んだのだ。
OK。おれはパラシュートを手にして足早に、左手のドア――昇降口へと近づいた。
そのとき、ドアの向こうから、複数の人間の気配が上がって[#「上がって」に傍点]きた。
舌打ちしたくなるのを抑えて、おれは一〇メートルほど後退りした。
闇に呑まれる。
蝶番のきしみとともに、光と人影が転がり出た。
ヘルメットをかぶり、自動小銃を背負った兵士が二人だ。
右手が眩い光を発する。
おれの足元――二〇センチほど向こうを光輪が舐めた。
ぶちのめそうにも、距離がありすぎる。身軽なら一瞬のうちに詰められる距離だが、背中の荷物は七〇キロ以上あるのだ。
光は旋回し、おれの頭をめがけて走った。間一髪で身を屈める。
もうひとつの光輪がやってきた。胴にぶつかる位置だ。
おれは一気に上体をそっくり返した。
ブリッジの姿勢だ。うおお、背骨が折れたか。――行き過ぎた、と思ったところへ、前のやつが足を狙ってきた。くそ。おれは三〇センチほどジャンプしてやり過ごし、音をたてずに着地した。
今度は何だ、と思ったとき、
「OKだ。行こう」
と、ひとりが相棒の肩を叩いた。
光は消えた。ドアも閉まった。
おれは、ドアに近づき、二人の気配が遠ざかるのを確かめた。
あの二人は軍人ではなかった。装備は同じだが、身分が違う。
王宮警備員――ここはサヴィナにある王家の宮殿だった。おれが着地したのは、その城壁の一角だったのだ。
おれは昇降口から城内へ入った。
長い廊下へ出た。城壁からわかっていたが、廊下の一方は中庭になっている。
おれは迷わず、北の方へ向かった。
目的地はわかっている。パシャは、城内の見取り図まで用意してのけたのだ。さすがに武器商人。その辺の顔の広さは特筆ものである。
幾つも気になることがあったが、おれは考えないことにした。宝探しがマニュアル通りいくはずはない。あらゆる状況を臨機応変に切り抜けてこそ、手に入れたときの喜びも大きい。もっとも、大きくなる前にお陀仏になる可能性の方がもっと大きいが。
おれの目的地は、ゆき=シャルロットと名雲弟の監獄ではなかった。一応、スポンサーの要望は叶えてやらんとな。
共和国とはいえ、王家への愛着が強い国だけあって、宮殿のつくりは贅を尽くしていた。
どこもかしこも、大理石と黄金がいっぱいだ。こそ泥なら廊下を一〇メートル歩くだけで、一生暮らせるだけの稼ぎが手に入るだろう。
あちこちに、センサーやTVアイが仕掛けられていたが、パシャから借り出した電磁波センサーと勘のおかげで、すべてやり過ごせた。
敷地の北の果てに建つ白い建物が見えてきた。
柱の陰からのぞくと、真ん前に歩哨所があり、正面の扉の前にも、警備員が二人立っている。
意外と守りが甘い。
おれはふと、エニラ師の顔を思い浮かべた。あいつなら、この建物の中身にも、興味などなさそうだ。納得。
攻略法はいくらもあるが、おれは正攻法でやることにした。時間があまりない。
腰のパウチから、ハンド・マイクに似たメカを引っぱり出して、電磁波センサーにつないだ。
センサーのダイヤルを調節し、歩哨所間の通信周波数《サイクル》を調べる。
ここだ。
サイクル・レベル固定。歩哨所に合わせる。――おれはマイクを掴んで引き寄せた。
「こちら、警備保安第一課。宝物殿歩哨所応答せよ。どうぞ《オーバー》」
名称はどちらも本物だ。宮殿の役職課名はすべて頭に叩きこんである。
「こちら、宝物殿歩哨所、どうぞ《オーバー》」
返事はすぐにあった。眠そうな声である。おれはにやりとした。風紀は弛緩している。つけ込むにはもってこいの状況だ。
「ゲリラが中庭に細菌弾を打ち込んだ。全員、歩哨所へ入れ。いま、ガスマスクを持って急行中だ。どうぞ《オーバー》」
「了解。指示に従います。どうぞ《オーバー》」
「以上《オーバー》だ」
メカを分解してパウチに戻している間に、歩哨所から警備員がとび出し、扉の前の歩哨を呼んだ。
彼らが大急ぎで歩哨所へ入るのを見届け、おれは柱から滑り出た。七〇キロ背負っても、足の筋肉は快調だ。走りながら、おれは麻酔ガスのボンベを右手に移した。
死角から歩哨所のドアに辿り着き、
「保安第一だ」
と叫ぶ。
ドアが開いた。
「ガスマスクだ」
ボンベを投じ、思いきりドアを閉める。途中で抵抗が加わったが、強引に閉め切った。
一、二度、内側《なか》からドアが叩かれ、すぐ静かになった。
なに、死にやしねえ。おれが相手で運がよかったと思え。
おれはフル・スピードで宝物殿の扉へ駆け寄った。呆れた。どんな厳重な鍵かと思ったら、ばかでかい南京錠じゃねえか。よくよくこの中の品は、時の執政者に大事にされてないらしい。侵入者用の警報装置すらなかった。
おれはパウチから一〇センチほどの針金を取り出し、鍵穴にさし込んだ。
左右に一回ずつ捻るだけで十分だった。
外した錠を床へ置き、おれは扉を押した。
暗い。
扉を閉めて、壁の電源スイッチをONにする。
光が溢れた。
口笛が自然に洩れた。
こういう光景は何度見てもいい。
建物はほぼ三階建て。天井から床までぶち抜きの空間をシビレる品が埋めている。
大粒の宝石で飾り立てた王冠と笏杖《しゃくじょう》、首飾り、腕輪といった装身具の品々の他に、槍、剣、銃、古代戦車等の武器、ライオンや豹の剥製、絵画、彫刻――宝の定番がずらりと並んでいる。
正直言って、プロの宝探し屋が見れば、どれもさしたる品ではない。同じ品を探せば、上には上が幾らでも転がっているだろう。だが、おれの血は血管の中で波打ち、全身に興奮のアドレナリンを駆け巡らせた。他人のことは知らないが、これこそ宝探し屋の資格のひとつだと、おれは思っている。
子供の頃、ピカピカに磨いたガラス片に胸をときめかした――あの感じだ。
だが、いまはそんな感傷に浸っている場合じゃない。
四方を埋める魅力的なお宝に眼もくれず、おれは宝物殿の奥へと進んだ。
一〇メートルも行かないうちに――あった。
傍目には、小さな「海」である。直径一〇メートルほどの真円に、青い水がなみなみと満ちている。
その真ん中に、直径三メートルほどの島がつくられ、中央に直径五〇センチほどの円筒形台座がそびえている。
おれの眼が吸いついたのは、台座に載ったガラスの半円筒に収められた、青い宝石であった。
あれこそが、パシャ家が奪還の悲願に燃えて七百年、ついに回復することなく今日に至った秘宝――シンの右の心臓であった。
2
パシャ家の秘宝「シンの右の心臓」とは何か?
話せば長いが、要するに、かっぱらわれた家宝と思えばいい。
ゼーマン家の三代目当主、レストル・ゼーマンは、十三世紀半ば、アラビア半島へ旅行した際、サウジアラビアのある村で、古王朝時代のものと思しい寺院へ押し入り、その御神体ともいうべき守り神シンの彫像の胸から、巨大なサファイアを盗み出した。
宝石が象嵌されていたのは右側の胸であった、とくれば、「シンの右の心臓」の意味もわかるだろう。
ゼーマン家はそれを宝物殿の奥に七百年以上も隠しておいたのだが、憤慨する必要はない。イギリスの大英博物館など、盗品の一大宝庫だ。
もっとも、あそこの連中は、古代の遺跡を保存する能力のない国から持ち出して、全世界の人々の眼に触れさせた――いわば「知のための救出行為」だと、今でも信じている。
足元に水面が迫っていた。
時間もない。やってみるまでだ。
おれは、ポケットからひと巻きの包帯を取り出した。薬局へ行けば、いくらでも手に入る木綿製の品だ。
背中の荷物をすべて床に下ろし、上体を捻って呼吸を整える。体調万全とはいかないが、仕方あるまい。
おれは下手投げで、包帯を放った。
白い帯が音もなくのびていく。
端は小島の上に落ち、少し遅れて、布の帯は天女の羽衣のように水面へ舞い降りた。
今だ。
おれは、こちら側の端に荷物を載せて固定し、躊躇せず包帯の道に足をかけた。
呼吸を止め、全体重を消す。
忍者の体術訓練のひとつに、濡れた和紙の上を足跡をつけずに歩くというのがある。勿論、体重を消すための修行で、おれは、三歳のときにもう、これができた。
包帯なんて、固い大地もいいところだ。――と言いたいところだが、下は水だ。早いとこ渡るに限る。
おれはコンバット・ナイフを咥え、長さ三メートル強の橋を渡りはじめた。
歩数は五歩で足りる。
ところが、目的地はちっとも近づかないのだ。
構わず歩いた。
たちまち百歩を越えた。それなのに、島の大きさは――やっと半分というところだ。
空間が異常を来しているとしか思えない。
おれは気にしなかった。
実のところ、この異常現象については、ちゃんとわかっていた。
この「海」も、「宝」の一種なのだ。
十四世紀のギリシャにいたからくり[#「からくり」に傍点]師・ギリアージKなる男が、ある大金持ちに依頼され、彼の財産を盗賊に渡さずに済むよう、絶対安全な隠し場所をつくり上げた。
それがこれ――「青い海」である。
わずか三メートルの距離が、三〇〇メートルに変じれば、どんなトレジャー・ハンターだって度肝を抜かれる。
陸に残ったメンバーがこれを目撃し、後世に語り伝えたのだ。
もうひとつ――
靴底から、ぞくぞくする感触がくるぶしへ這い上がってきた。
包帯は次第に水に浸りつつあった。いくら体重を消したって、ゼロというわけにはいかない。
あと一〇〇メートル。
おれはちらりと足元の青い水を眺めた。
白っぽい、霞みたいな塊が、上昇してくる。
出た。
包帯の道が盛り上がった。
水と靴底を突き上げるものの上で、おれは巧みにバランスをとった。
左右から、そいつらは跳ね上がった。
おびただしい白骨が。
きれいに揃っているものはひとつもない。ぽっかりと虚ろな眼を開いた髑髏《どくろ》と髑髏を、砕けた肋骨と脊椎がつなぎ、数十本の手と足は、おれを求めておいでおいでをしているかのようだ。
白骨の集合体――なんて不気味な奴らだろう。
次の瞬間、おれは軽やかに空中へ舞っていた。
自分から跳んだのだ。戦いの主導権を握ること。――これこそが、喧嘩必勝法である。
おれは頭から滑らかに水中へ吸いこまれた。水音は立てなかった。絶妙のタイミングである。
眼は開きっ放しだ。
ナイフを咥えたまま、じっと前方を窺う。白骨塊が迫ってきた。
なんて不気味な住人だろう。
ぐんぐん迫ってくる。小魚なみのスピード――時速六、七〇キロは出ているだろう。
眼前に、ぬうと髑髏が広がった。まるで、フジツボみたいに五、六個固まっている。
おれは後退しながら、ナイフを右手に移した。
思いきり振った。
薄い瀬戸物を切り砕いたような手応えがあって、髑髏は破片と化した。
その瞬間、おれは右の首筋のあたりに、針で刺されたような刺激を感じた。
何かいる。
ナイフは反射的に動いた。
視線はその後だ。
水だけを切ったのはわかっていた。気配はすでに水の質量のどこかに消えている。白骨塊はゆらゆらと下降していく。
おれは彼方の島めがけて泳ぎだした。
白い塊が幾つも形を整えてきた。
白骨塊が、ばかでかい機雷みたいに漂っているのだ。
おれは構わず水を蹴った。
すう、とひとつが近づいてきた。
「阿呆」
と胸の中で叫ぶや、ナイフを叩きつける。
そいつはたちまち分解し、おびただしい骨片となって水中へ沈んでいった。
背中に、ぴん、と来た。
おれは左へふり向いた。先にナイフをふるうべきだった。
首筋にぴしりと小さな針が打ち込まれた。伸ばした手指の先を、しなやかなものが弾いて遠ざかった。
身をねじって、おれは見た。
黒い水に溶け込む細長い――泥鰌《どじょう》のような影を。
猛烈な悪寒が全身を駆け巡った。
腹腔から嘔吐がこみ上げ、無理やり口を押し開けた。ごぼ、と酸素と胃の中身がこぼれた。
おれは左手で首筋を押さえた。
血がこぼれている。
おれだから、これで済んだのだ。並の奴なら、頚動脈を切り裂かれていただろう。
そして、出血と神経毒に冒されて、呼吸不全、全身麻痺で息絶えるのだ。後は――さっきの泥鰌に鼻の穴から潜り込まれ、内臓も筋肉も一片残らず食い尽くされてしまう。
肺が灼ける。――呼吸停止寸前の状況だった。
浮上。――おれは蒼白となった。身体が動かない。神経をやられたのだ。
眼の前が昏《くら》くなった。酸欠が限界だ。おれの血の中の対毒抗体――こいつに頼るしかない。窒息する前に毒を消してくれ。そんなに多量じゃないはずだ。
左右から、凄まじい衝撃が襲った。
骨の塊がぶつかってきたのである。おれを前後からはさんで、ゆっくりと沈んでいく。
――まだか?
意識が薄れていく。眼の前で髑髏が見つめていた。
口をだらしなく開いて――笑っているようだ。
糞。――瞬間、呪縛が解けた。
「うおおおりゃ」
おれは声をあげた。肺に残った最後の酸素を吐き出し、思いきりナイフをふり回した。
沈降する骨を蹴りとばし、おれは一気に浮上した。
「ぶは」
思いきり酸素を吸い、肩に噛みついていた髑髏を払い落とす。
こいつも、シンの右の心臓を求めたトレジャー・ハンターの成れの果てなのだろう。
おれは首の傷口を指で押さえながら、周囲の気配を窺った。
あの小さな泥鰌みたいな魚――あいつこそ、すべての元凶なのだ。この得体の知れぬ海に巣くうたった一匹の生物。全長一〇センチにも満たぬそいつが、数百人の強者《つわもの》の生命を奪った怪物だなどと、誰が信じられただろう。
その武器は、せいぜい人間の皮膚と肉を少々齧り取るだけの短い牙と、麻痺毒、敏捷性ぐらいだ。毒は五分もすりゃ消えるし、素早さだって、他にいくらも速い小魚はいる。
だが、そいつは覿面《てきめん》に人間の急所を知っているのだ。頚動脈を最初から狙う魚が何処の世界にいる?
それに加えて――あの白骨死体。
まるで、おれの行く手を遮り、怪魚から眼をそらさせるみたいな動きを示すではないか。
どいつが操ってる?
呼吸はもう常態に復していた。おれは思いきり息を吸い込み、再び水中に挑んだ。
もう、打つ手は考えてある。
おれは四方を白骨に囲まれたその中心で、首筋の傷を押さえていた指を離した。
細い血の糸が立ち昇る。
骨の壁《バリケード》が迫ってきた。この陰から攻められたんじゃ、危《やば》い。切り崩さないとな。
ナイフの柄を握り直した瞬間、白骨のスピードが変わった。予想もつかない速度で四方から襲いかかってくる。
おっと。上へ逃げようとした足を、ぐいと掴んだものがある。白骨の手だった。何かの拍子に偶然絡まったにちがいない。
それでも、ぞっとした。仲間に入れと誘われているようだ。いや、本当に欲しがっているのかもしれない。
ふりほどこうとする分だけ遅れた。
次の瞬間、おれは白骨の山に押し包まれていた。
突き出た肋骨や大腿骨が、胸を押す。骨だけの手が肩や腰にかかった。最悪の気分だ。手も動かない。
眼の前で髑髏がおれを見つめていた。
その黒々とした地獄の縁みたいな眼窩から、闇色の泥鰌の先端がちょろりと覗いている。
こいつだ!
喉をやられたら一巻の終わり。――とっさに、おれは頭をそらせるや、前方へふった。思いきりだ。
ぐわしゃ、と髑髏はつぶれ、骨の呪縛もゆるんだ。
おれは水を切って泳いだ。
血を流したままだ。追ってこい。
ようやく、前方に島の影が見えてきた。
あと一〇メートル。
そのとき、足の方から、ぴり、と来た。
ついて来る。待ってたぜ。
五メートル――四メートル――三メートル――二メートル。
おれは一気に浮上に移った。
水飛沫を上げて空中に躍り出る。
落ちたのは島の縁《へり》だった。
空中に死の気配が凝集した。
悪乗りしすぎたな。今度は水の中じゃねえ。
身を翻しざま、おれはナイフを一閃させた。
黒い煙が広がり、おれの腰の右横に、ぴしゃりとねじくれた細紐が落ちた。
奴の半分だった。眼らしいものがついてるところを見ると、上半身[#「上半身」に傍点]だろう。
黒子《ほくろ》みたいな小さな口をぱくぱくさせて、酸素を求めている。
カチカチと、おれ以外には聞き取れない音が連続した。
口の縁を埋めたガラスの針の先みたいな牙のたてる音だ。前言を撤回する。――奴は酸素ではなく、この期に及んでなお、おれの血と肉を求めていたのだ。
見る見るうちに動きが鈍くなっていく食肉魚に、あかんべーをひとつして、おれは立ち上がった。
おかしな気配はない。これをつくったからくり[#「からくり」に傍点]師は、よほどの――
ここで、ふと、あることに気がつき、おれは魚の死骸に眼をやった。
この魚は何百年もの歳月を、どうやって生き抜いてきたのだろう。
驚くべきものが、網膜に灼きついた。
肺らしい袋が弱々しく膨縮を繰り返している。しかし、その皺の寄り具合と光沢は?
おれは、げっ!? と言った。
まさか、と思う前に指が触れていた。間違いない、この手触りは――ゴムだ。
おれは眼を皿にして魚の中身を点検した。
脊椎と骨は真鍮の棒だった。筋肉は粘土で、腱は髪の毛だ。止《とど》めは血だった。――油である。真鍮の脊椎は何カ所かで折れ曲がる仕組みだから、潤滑油だろう。
あと、得体の知れない鉄製の小箱やシリンダーみたいな品があったが、こいつが多分、つくりものの小魚を何百年も生かしておいた動力源だろう。
おれは、素早くポケットに収めた。その途中、あることに気づいた。
背鰭《せびれ》の下あたりから、光るものがちらちらと水面の方へ伸びている。
よくよく眼を凝らすと、すぐに正体がわかった。
糸だ。まるで蜘蛛の糸みたいに細い――いや、それより遥かに細い、まるで煙みたいな糸が何十本も揺れている。あまりに軽いせいで、おれの呼吸や動作が巻き起こす風にさえ流されてしまうのだ。
一本を指先に貼りつけ、おれはそっと引いた。
波紋が広がり、白い塊が起き上がった。
なるほどな。この糸が、白骨の塊を自在に操っていたわけだ。その謎の技術のノウハウを知りたいところだが、製作者は無論いないし、操り主は半分になっちまった。
おれは未練を少し残して、宝石のところへ急いだ。
あの「海」と魚はよほどの自信作だったのだろう。サファイアの付近には何の防御策もなく、それを取り上げ、ポケットへ仕舞うだけで終わりだった。
もう一度苦労して「青い海」を渡り、残してきた兵器を身につけると、おれは何気なく腕時計を眺めた。
一分しか経っていない。島まで三メートルの「青い海」を渡り、宝石を取って戻れば、それくらいになるだろう。
すると、あの「海」は本物の幻で、おれの死闘もすべて夢だったのか。
まあ、よかろう。
おれは床の荷物を背負い、扉の方へ向かった。
扉の向こうから人の気配が近づいてきた。新手の警備員か!?
おれは素早く横の、長槍《ランス》群の背後にとび込んだ。
蝶番がきしみ、扉が闇色の空間を造り上げる。
入ってきたのは、二人の女だった。
年配の老女と、侍女らしい女。どちらも、それなりのものを身につけてはいるが、特に老女の方は、気品ある顔立ちと所作が、宝石をちりばめた衣裳にも勝っていると来た。
おれの耳元を、ある予感がかすめた。
この女――ひょっとして!?
「誰かいるのですか!?」
訊いたのは、侍女ではなかった。
声には鋼の芯が入っているようだ。人間、年齢《とし》じゃねえ。おれの気配を読み取ることもできるのだろう。
侍女を庇うように前へ出た。長身の姿は、威厳に溢れていた。
「出ていらっしゃい。この宝物殿に見事に忍び入った泥棒。話によっては見逃してあげますよ」
大した婆さんだ。おれは苦笑して、
「はいよ」
と言った。英語でだ。
婆さんは、一瞬ぎくりとしたが、たちまち、鋭い眼差しをおれの隠れている長槍《ランス》の方へ当てた。
「出なさい」
おれはのこのこと姿を現し、
「お晩です」
と言った。
「あら、お若いこと」
老婆は眼を丸くした。
「それに――東洋人ね」
「ええ、まあ」
おれは、年寄り向けに、育ちのいい坊っちゃんの笑顔を見せながら頭を掻いた。
「僕[#「僕」に傍点]、八頭と申します」
「泥棒にしては礼儀をご存知のようね。なら、わたくしも名乗りましょう。あなたのような人間に教えるために付けられた名前ではないけれど」
老婆は、きりっと背筋をのばし、おれを射すくめるように見て言った。
「わたくしは、アイダ・ゼーマン皇太后です」
3
驚いたの何の――と言いたいところだが、おれはあまりびっくりしなかった。半ば以上、想像はついていたからだ。
皇太后は冷たくおれを見据え、
「泥棒にしては、大仰な装備ね。ここ[#「ここ」に傍点]の品ではなさそうだし。――お前は何者です?」
「本業は宝探しです」
「墓暴きですね」
「きついなあ、皇太后さま」
おれはヘラヘラと愛想笑いをして、
「失礼ですが、“プリンス”のお祖母《ばあ》さま?」
と訊いた。
老婆は上品な眉宇《びう》をひそめて、
「プリンス?――誰のことです?」
どうやら、孫のことは聞かされていないらしい。
「お孫さんは生きていらっしゃいますよ」
と、おれは切り出した。
「馬鹿なことをおっしゃい」
皇太后は、のっけから相手にしなかった。
「息子は子を成しませんでした。それは、紛れもない事実です。これ以上、我が誇り高きゼーマンの家名を汚すこと――許しません」
きっぱりした口調に、おれは口をつぐんだ。こら、何を言っても無駄だ。東大へストレートで入った品行方正の孝行息子が実は稀代の暴行魔だと、母親に打ち明けるのに似ている。
「で――おまえは何を盗もうとしたのです?」
言われて、おれは口ごもった。
「いえ、別に」
皇太后は無視して、視線をとばした。おれの背後をちらりと見て、
「シンの右の心臓――大変な品を」
「ははは」
「おまえ個人の所有にするおつもり?」
「とんでもない」
おれは、大きく首を横にふって、パシャとの約束を話した。
聞き終えると、皇太后は薄く眼を閉じて何やら考え込んでいたが、待つほどもなくうなずいた。
「わかりました。ここへ忍び込んだ手際のよさと、私の人を見る眼を信じましょう。――持ってお帰りなさい」
「は?」
とは言ったものの、この婆さんなら言い出しかねないと思った。
「その宝石は確かに、我が先祖の盗んだ品。正統な持ち主が出れば返すしかないと思っておりました。お行きなさい」
「こりゃ、どうも」
「ですが、ひとつ、条件があります」
「何でしょう」
おれは身構えた。こういう世事にうとい婆さんは、突拍子もないことを言い出すくせがある。
「わたくしは退屈しています。墓暴きが職業なら、さぞや面白い体験を積んでいられるでしょう。それをお聞かせ」
「そりゃ、まあ」
言い渋りながら、おれは、チャンスだと思った。
そのとき――皇太后たちの向こうで、気配と足音が入り乱れた。
考えられることはひとつ。歩哨所からの連絡が途絶えたか、あるいは連絡しても誰も出ないため、警備員が駆けつけたにちがいない。
「危《やば》い」
とつぶやいたおれを、にんまりと見やり、婆さん、扉の方を向いた。
そう言えば、婆さん、こんな時刻に宝物殿へ何しに来たんだろう?
頭にこう閃かせながら、おれはまた、長槍の陰へ跳んだ。
扉が閉まった。
どんなやり取りが展開されるのか聞きたかったが、仕様がない。
じっくり待つか。――とはいかなかった。三〇秒とかからず、扉が開いたのである。
駄目か。――警備員がとび込んでくる姿を、おれは覚悟した。
入ってきたのは、あの二人であった。
「警備員は去りました。おいでなさい」
と皇太后が言った。
「え?」
「早く。これ以上、手間をかけると許しません」
言われるままに、おれは二人の後について外へ出た。
歩哨所には誰もいなかった。
皇太后は先を行く。先頭じゃないと気が済まないタイプなのだろう。
ひとりぐらい奥床しい女に会いたいものだと、おれは思った。
後を行く侍女に、
「どうやって、警備員を追い払ったんだ?」
皇太后には聞こえないように訊いた。
「何も」
この女もつん[#「つん」に傍点]と澄ましている。
おれは、いきなり、ドレスの胸元へ片手を突っ込んだ。
「きゃっ!?」
と小さく叫んだときは、指はブラの下に潜り込んで乳首をつまみ、おっぱい自体を揉みしだいてから、さっさと脱出、おれの横でのんびりくつろいでいる。
皇太后は不審そうにこちらを向き、
「どうしました、サリア?」
「いえ、何でも」
侍女は胸元を押さえて答えた。皇太后はじろりとこちらを見たが、おれは澄ましていた。
三人はすぐに歩き出した。
「さっきの質問だが」
繰り返して訊いた。
サリアは、ちらりとおれの方を盗み見た。頬が赤い。
「子供のくせに、なんて上手なの。胸が燃えるようよ。ね――後で」
「いいとも」
おれはにこにことうなずいた。
「だから、ちゃんと返事をしな」
「何にもなかったのよ。警備員たちは、歩哨所に連絡がつかないからってやって来たの。宝物殿を調査したいと言うので、皇太后さまは、ここには誰もいないから、眠りこけてる歩哨を連れてお下がり、とおっしゃった。それだけ」
「凄え迫力だな。有名無実な飾り物かと思ってたら、そんな権限があるのか?」
「首相とエニラ師に命令できる唯ひとりの御方だわ。権限などないけど、人間の差ね」
「あんな婆さんになりたいもんだな」
「そうね」
サリアの眼は誇らしげにかがやいた。悪くない。
「ところで、おれがこうしてのこのこついていっても心配ないのかい? TVアイが狙ってるんじゃないのか?」
「皇太后さまを映してはいけないことになっているのよ。国王のお母さまを監視するなんて、万死に値する行為だわ。首相もエニラ師もOKしたの。エニラ師は、TVカメラを無効にする装置を献上したわ」
不思議なことに、おれは納得した。エニラ師が、表面OK、裏では見張ってる――などとは考えもしなかった。なんとなく、本当に認めたような気がしたのだ。皇太后の威厳に打たれたということもあるだろうが、面倒臭いから承知した、という風な。
警備員の気配を感じたら隠れるつもりでいたが、一人も出会さず、おれは平然と二人の後について、宮殿の南翼にある皇太后の私室に入った。
香り高い紅茶を用意してから、サリアを別室へ退がらせ、荘厳な老女は、ドレスの胸元からプラスチックとも金属ともつかないボックス状のメカニズムを取り出した。表面のスイッチを二、三回押した。
「よろしい。見張りはありません」
二秒とたたずにうなずいたところをみると、それが、TVアイや監視システムを無効にする装置なのだろう。
おれは興味を持ったが、すぐに仰天しなければならなかった。
皇太后はテーブル越しに身を乗り出し、
「私の孫とはどういうご関係?」
と訊いたのだ。
「は?」
「八頭大の名はよく聞いています。あなたが、私の孫にしてくださったことも。いま、心から感謝いたしますわ」
皺だらけの両手が右手を包むのを、おれはじっと見つめた。
この婆さんは、ちゃんと知っていたのだ。
「しかし、どうして、さっきはとぼけたんですか? 警備員たちに聞かれる心配はなかったのに」
老婆はにっこりと笑った。
「あなたをからかってみたかったのですよ。大胆不敵な東洋の若者を」
「また、皇太后さま、お人が悪い」
やさしく肩を叩き、おれたちは笑い合った。
それから、おれは“プリンス”のことを話し出し、終わると、老婆は両眼から涙を流していた。
「そうだったのですか。やはり、そんな苦労を……でも、あの子は生きていたのですね。そうですとも。ゼーマン家の血を引くものが、そう簡単に斃《たお》れるはずがありません」
「そうですとも」
これは、お愛想ではなかった。
「すると、あの子は今、どこにいるのか、あなたもご存知ないわけですわね。よろしい。すぐに調べさせましょう」
きっぱりと言う老婆に、おれは少し驚いた。サリアは、彼女が何の権限も与えられていないと言ったのだ。
そんな想いを読んだのか、皇太后はやさしく、
「心配なく。わたくしにも、味方はおりますの。それも、大層心強い味方が。彼が、すべての情報を集めてくれたのです。ですから、首相やエニラ師が望んでいる以上に、わたくしは世界と孫の動きを存じております。食べて寝るだけが愉しみの老婆ではありません」
「だと思いました。僕の方も、しっかり“プリンス”を探してみます。お互い、連絡は密にとりましょう。きっと元気な姿で、眼の前にお連れします」
「信じておりますよ」
皇太后はおれの手を握った。女にしては骨太の、固い手であった。その代わり――あたたかい。
「ひとつ、伺いたいことがあるんです。――いや、ふたつ」
そろそろ次の行動に移らなきゃと思いつつ、おれは言った。
「何でしょう?」
「まず、昨夕、情報局へ僕の仲間が二人、連行されたはずなんです。目下どこにいるか、ご存知ありませんか?」
「それは――いま、申し上げた“味方”に探させましょう。もう知っているかもしれません」
「便利な人なんですねえ」
おれはお世辞を言った。
「すぐに連絡を取ります。で、もうひとつは?」
「こんな時間に、宝物殿へやって来られた理由です」
皇太后は口元に手をあてて笑った。上品な――子供みたいに無邪気な笑いだった。
「そんな無礼な質問は、孫の生命の恩人でなければ許しませんことよ。わたくし、こっそりと夜、宝を見物するのが趣味なのです」
「ははは」
おれは虚ろに笑ってごまかした。
皇太后は隣室へ入ると、すぐに戻り、
「“味方”に連絡が取れました。この部屋を出たら、真っすぐ西翼の廊下を行きなさい。途中で“彼”が待っているはずです。ただし、顔を見ようとはしないこと。わたくしの味方であることは、最高機密なのです」
「承知しました」
おれは、頼もしい東洋の青年よろしく、派手に胸を叩いた。
言われた通りの廊下を進む途中、二度ほど警備員にぶつかったが、うまくやり過ごした。なにしろ、背中には武器がばっちりだ。野菜商人ですなどと言い訳はできない。
前方に三組目の警備員の姿を認め、物陰へ――と思ったが、柱はない。壁を伝わって天井へ貼りつくには、荷物が重すぎる。
ドアがあった。だが、内部《なか》には人がいる気配――
そのとき、不意にドアが開いた。
おれはとっさに、壁に貼りついている。
「後ろ向きで入りな」
ひどく掠《かす》れた――風邪で喉をやられ、今日がそのピーク――みたいな声がした。
ドアは開いたが、内部の奴の姿はない。わかった。これが皇太后の“味方”なのだ。
おれは、あっという間に室内に滑り込み、十数秒後、警備員三名が仰々しい歩き方で部屋の前を歩み去っていった。
「どうも――」
ありがとうとふり向こうとしたら、
「こっちを見るんじゃねえ」
鋭く叱責された。声の質からして、中年――四〇代前半だろう。こんな口のきき方をする男が、よく宮殿なんかにいられるもんだ。拷問係か何かか?
言い方は気に入らないが、皇太后にも念を押されているから黙った。
「風邪でもひいてるのか?」
と訊くと、
「ああ、ビールスは人間性を問わねえんでな」
気の利いたことを言いやがる。
「ふり向いちゃ、まずいのか?」
「よしやがれ」
「“味方”の顔ぐらい確認しときたい。心が安らぐんだが」
「おれは、不安で眠れなくなる。人間なんざ誰も信用できねえ。皇太后さまは、おれのことを詮索するなと言わなかったかい?」
「わかったよ。それなら、手っとり早くいこう。おれの探している二人組――どこにいるか知らねえか? 昨夜、ホテルから連行された」
「片方はわかる。――男の方はな。情報部の尋問課だ」
「女はどうだ?」
おれは、これで厄介払いができるかな、とウキウキしながら訊いた。
「行方不明だ。大佐が直々に取り調べてるって話だが」
「手は早いのか、あの野郎?」
「遅い男が軍人なんぞやるものか」
それもそうだ。おれは束の間、剥き出しのバストを押さえて逃げまわるパンティ一枚のゆきと、鼻の穴をおっ広げて追いかけまわすヤンガー大佐を連想してしまった。
あいつは何処か、ナチス・ドイツのSS(親衛隊)将校を連想させるところがある。ユダヤ人を人間扱いせず、生皮を剥いでランプ・シェード、脂肪を石鹸に加工した奴らだ。ひょっとして、ゆきも、レザー・スーツに身を固めた大佐から、革鞭でぴちぴちいびられているかもしれない。
「その取り調べの場所はわからないか?」
「噂では、大佐の自宅だ」
「それは何処にある?」
「ファッカー街十九の高級マンション。五階に、バーナムって偽名で部屋を借りているぜ」
「あの女好き野郎、只じゃおかねえ」
「で、これからどうする?」
背後の男は、いやに生真面目な声で訊いた。
「男の方はひどい目に遇いそうか?」
「情報部は憲兵より残酷だ。言語に絶する拷問を加えるだろう」
おれは腕組みした。どっちを先に取るか。
「情報部は何処にある?」
「女を先に救出したらどうでえ?」
「生命あっての物種さ」
「冷てえ野郎だな。一生怨まれるぜ」
「くどくどとうるせえ。情報部は何処だ?」
「トーチャー街の一九二番だ。だが、そこへ行く必要はねえよ」
「なに?」
「いいぜ、こっちを向きな」
「ごめんだね」
「どうしてだ?」
声は少し呆れた。
「向こうを向けだの、こっちだの、偉そうな口をきくな。何様のつもりだ、てめえは!?」
「お知りになりたいですかな?」
急に口調が変わった。声質は変わらない。変わらないが、おれには一発でわかった。
まさか!?
今度は声をかけられるまでもなく、おれはふり向いた。
「ああ〜〜〜〜っ!?」
と声が出た。
眼の前に白い老人の顔が、上品な微笑を浮かべていた。
「お久しぶりでございます、八頭さま」
恭《うやうや》しく頭を下げたのは、忘れもしない、弟の話ではとうに身罷《みまか》ったはずの名雲秘書であった。
[#改ページ]
第五章 懐かしき再会
1
三〇分後、おれはアメリカ製[#「アメリカ製」に傍点]のおんぼろカローラで、ファッカー街へ向かっていた。
車は宮殿近くに停めてあったのを失敬したのである。持ち主は怒るだろうが、人の生命がかかっているのだから仕方がない。
しかし、カローラと来た日にゃ驚いた。姿形も内装も、そのまま日本車だ。
アメリカの自動車会社は、貿易摩擦で日本を非難しながら、こっそりと無許可で日本車を製造、自社マークをつけて開発途上国へ輸出しているとの噂があったが、どうやら本当だったらしい。このカローラもマークはフォー*だ。さすが、世界一の大国――転んでも只は起きない。日本人など、アングロ・サクソンから見れば、子供みたいに純情だ。
「左様でございますとも」
頭の何処かで、懐かしい声がした。
「おまえ――死んだはずじゃなかったのか!?」
あの部屋で愕然とするおれに、名雲秘書は口に手をあてて笑った。
「滅相もない。陣十郎の奴、そう申しましたか。――あれは、つくづく困った不肖の弟でございまして」
「一族の面汚しか?」
「左様でございます」
悪びれもせずにうなずく老人へ、
「皇太后から、おれのことは聞かされてたよな?」
「はい」
「なら、どうしてすぐに正体を明かさなかった」
「ほんの座興で」
「声が違ってたんで騙されたんだ。なぜ、声だけ若づくりにした?」
「扁桃腺の手術を受けたばかりでして」
「狸爺い」
おれはにやりと笑った。挨拶はこれで十分だ。
名雲は、何と一年以上前からこの宮殿に勤務し、皇太后から絶大の信用を得ていたらしい。この爺さんなら当然のことだ。
心強いのは、宮殿内に幾人ものシンパを持ち、独自の情報網を設けている点で、政府高官の中には、皇太后に同情的なメンバーがかなりいるという。
「エニラ師は首相を操り人形にいたしましたが、まだまだ気骨ある方々も健在です。“プリンス”と王位継承のペンダントがこちらの手に入れば、すぐにも行動を起こすでしょう」
こいつの見立てなら間違いはあるまい。
「“プリンス”は何処にいる?」
と、おれは肝心なことを訊いた。
「それは。――エニラ師ともども捜索中なのですが、目下不明です」
「エニラ師については?」
「誰かが住まいへテロ[#「テロ」に傍点]をかけたようですな」
名雲は澄まして言った。
「ですが、それ以上のことは。死体が見つかったとは聞いておりません」
やっぱりな。おれは何故か納得した。あいつがあの程度のことで逝くわけがない。
「陣十郎はどうした?」
「放ってございます」
「何だと? それでも兄貴か?」
激昂するおれを、名雲秘書は何故か好ましげに見つめて、
「ご安心下さい。あの男の末路は自殺でございます。すなわち、絶対、他人から生命を取られることはございません」
「どういうこった?」
「あれは、生まれながらの厄病神でございまして、周りの人間を必ずひどい目に遇わせます。そのくせ、自分は決して報いを受けません。だからこそ、厄病神でして」
「なるほどな。すると、どうなると思う?」
「ま、冷たい路上へ放り出されるでしょうな。後は、何とでもなります」
「冷たい兄貴だな、やっぱり」
「私、あれ[#「あれ」に傍点]と関係を持ちたくはございません」
そういう事情なら仕方がなかろう。
しかし、ひとつだけ引っかかる。おれはそれを口に乗せた。
「おれたちと随分長いこと一緒だったがな、そうそう酷い目には遇わなかったぜ」
「それは――八頭さまのご運がお強いので。正直申し上げて、八頭さまとご一緒とうかがい、これは良いご主人を得たと安堵いたしておりました」
「こっちはいい迷惑だ。ひょっとして、おれのとこへ行けと言ったのは、おまえか?」
「さあ」
名雲はにっこりと笑った。何もかも――こちらの怒りから自分の不都合まで呑み込む不可思議な笑い。この老人だけの特技だ。
これには苦笑で対抗するしかない。
「それじゃあ、これでな。――後でまた会おう」
「ゆきさまのご無事をお祈りいたします」
「連絡を取りたいんだがな」
「では、この部屋の電話番号を」
一枚のメモを受け取り、おれは宮殿を脱け出した。
名雲が、初代ゼーマン王がつくった秘密の出入口を心得ていたおかげだ。
別れ際、おれの武器を眺め、
「大変なお荷物ですが、お使いになりましたか?」
と訊いた。
「うるせえ」
「何事も平和にいきたいものでございます」
かくて、おれは、時速一二〇キロでおんぼろカローラを疾走させている次第だ。
頭上を「ファッカー街《STREET》」の標識がかすめた。
大佐のマンションは、あまり目立たない石造りの五階建てだった。
本来は軍で用意した家があるのだが、何度も暗殺者に襲われ、目下はここに住んでいるらしい。
大佐用なら、大仰な兵器は要るまい。おれは、グロックだけで車を降りかかった。
「よせよ」
と、誰かが頭の中でささやいた。おれの声に似ている。
おれは少しためらい、トランクからUSAS12を引っぱり出した。ランチャーや火炎放射器と一緒に背負っていた武器《アーム》のひとつだ。米軍用ライフルM16シリーズを改造した武器だが、ライフルではなく、なんと十二番口径のショットガンなのである。
もちろん、ガス作動式《オペレーテッド》のオートマチックで、引き金を引けばつづけざまにドンドンいく。通常モデルの全長は九六五ミリとかなりの大型だが、パシャの店から借り出したこれ[#「これ」に傍点]から、おれは銃床《ストック》を取り外し、四六〇ミリの銃身も二五〇ミリにカットしておいた。
三二口径程度の散弾九発が詰まったOOB《ダブル・オー・バック》の十連弾倉《マガジン》を手に取る代わりに、おれはひとつしか持ってこなかった円型弾倉《ドラム・マガジン》を選んで装着した。
大佐が実はゴリラの化身だったとしても、コンクリート・ブロックを一撃で粉砕するOOBを二〇発も食らえば、かすり傷では済むまい。
しかし――内心のおれ[#「おれ」に傍点]に従えば――あいつは、そんなにタフなのか?
USAS12をこれも一緒に持ってきた上衣に巻いて隠し、おれは素早くアパートへ侵入した。
天井と階段の手すりにモニターが仕掛けてあったがやり過ごし、エレベーターに乗った。
おかしい。
全身に血が昇っていく。上昇するにつれてだ。そのくせ、頭は冴えわたる。――ひと騒動の合図だ。
左手に冷たいものが触れた。
USAS12の銃身だ。知らず知らずのうちに握りしめていたらしい。おや、上衣も剥いでいる。
おれは素早く上衣を身にまとい、USASの安全装置《アンビ・セフティ》を親指で外した。位置も形もM16シリーズと瓜二つだが、通常のM16は右手で操作するのに対し、USAS12は左側にも安全装置がついている。だから“両手《アンビ》利き”だ。左手でチャージング・ハンドルを引いて戻す。
初弾が薬室へ押し込まれる音が、これほど頼もしく響いたのは久し振りだ。
空弾倉付きで五・三キロ、二〇発装填で七キロを越す重量も気にならない。至近距離なら、四四マグナムだろうが、軍用ライフル七・六二ミリ弾だろうが、殺傷力ではショットガンに遠く及ばないのだ。
エレベーターが止まった。いよいよ活劇だ。
ドアが開いた。
廊下に人の気配はない。
おれは素早く、壁にはめ込まれたドアのネーム・プレートへ眼を走らせた。
右側の列にあった。
『バーナム』
どうやって入るか、考える必要もなかった。
壁際へ寄った瞬間、勢いよくドアが開くや、背広姿の男がとび出してきたのだ。
勢いがよすぎて宙を飛んでいる。――と見た瞬間、頭から向かいの壁にぶつかり、熟柿《じゅくし》を叩きつけたみたいな染みが広がった。
こいつは、と思った途端、もうひとり。
同じ格好の男は逆立ちの姿勢で壁に貼りつき、足から剥がれて床へ落ちた。
おれは一気に室内へとび込んだ。
広いリビングだった。三〇畳はある。
誰もいない。おかしい。二人目が躍り出てから二秒とたっていない。放り出した奴は何処へ行った?
気配はあった。――奥のドアの向こうから。
「誰か来て!」
金切り声は――ゆきだ。
おれは猛烈なダッシュをかけた。真正面からドアへぶつかる。突入法としては最悪――マイナス一〇〇点だ。
視界に入ったのは、まず、キングサイズのダブル・ベッドだった。
次に――
右端にエニラ師。
左端にゆきと大佐。
大佐はブリーフ一枚、ゆきはビキニの紐つきパンティだけ。胸をカバーした両手から、乳房がこぼれている。
予想通りの光景におれは逆上し、一瞬、我を忘れた。
その刹那、凄まじい恐怖が全身を包んだ。外からではない。内側から――おれの内部から噴き迸る冷水の猛打だった。
声なき絶叫を放ちつつ、おれは左横――ゆきたちの方へと走った。
恐怖から逃れたい一心だ。そこに救いがあると、おれ自身が命じたのだ。
全身の筋肉が限界まで弾けた。
救いの壁めがけて、おれは跳躍した。あの二人――多分、大佐のボディガードだろう――の最期と、居間に誰もいなかった訳がやっとわかった。放り出されたんじゃない。あいつら、自分からとび出たのだ。
おれも頭から突進した。
どうして、激突寸前、身をひねったのかはわからない。
おれは背中から激突した。
内臓がわなないた。痺れるぜ。おかげで、恐怖が消えた。
「伏せろ!」
叫びざま、おれは小柄な影めがけて、USAS12の引き金を引きしぼった。
発射の衝撃は、七キロを超す重量がカバーする。
眼を見張った。
エニラ師は突っ立ったままだ。
九発の弾丸をまとめて食らえば、プロレスラーだって吹っとぶ。
エニラ師は片手を上げた。
鼻の頭を中心に、黒点が散らばっている。軽く頬を平手打ちすると、それらはことごとく床に落ちた。
散弾だ。顔面に止まるくらいめり込みはしたが、穴など開けられなかったらしい。エニラ師の顔には傷ひとつついていない。
「ほう。――わしの攻撃が何故、効かんのだね?」
感心したように言うエニラ師へ、おれは歯を剥き出した。
「こちとら特別製でな。あの程度じゃ徹《こた》えやしねえのさ。それより、あんた――どっから来た[#「どっから来た」に傍点]?」
「………」
おれは、USAS12を握り直しながらつづけた。きつい一発――になるだろうか。
「バラザード・リアの洞窟で、面白いものを見たぜ」
エニラ師の表情が、動揺の方向へ変わっていくのは、大した見ものだった。
「あれで、あんたの正体はわかった。この世界でおとなしく暮らしていくつもりなら別だが、そうじゃねえなら、もうあきらめな。この世界の人間は、これでも、他所者《よそもの》の支配を受けるのが、反吐が出るほど嫌いなのさ」
「かもしれん」
とエニラ師は細い眼をさらに細くしてうなずいた。
じわ、と再び恐怖が墨みたいに滲み出してくる。
ヨガの心理防衛法を。――駄目だ。効かない。
――死にたい。
おれは心底そう念じた。こんな怖い思いをするくらいなら、早く楽になりたい。そうだ、このショットガンを使えば……。
銃身が、緩慢な動きで顔の方へ上がりはじめた。
「やめたまえ、ミスター八頭!」
大佐だな。邪魔すんな。
「やめて――馬鹿!」
ゆきか。考えてみると短い付き合いだったな。
銃口が顎に当たった。冷てえ。
「やめさせて!」
ゆきが叫んだ相手はエニラ師だった。
「なぜだね?」
とエニラ師が、笑いを含んで訊いた。劣等生の質問に応じるエリート教師の態度だ。
「これで彼は楽になる。君たち人間は、死というものを必要以上に嫌悪しすぎておるよ。真に知性的な存在にとって、死とは、永劫の宇宙的安らぎなのだ。彼はそれを瞬間に与えられる。おまえたちはそうはいかん」
人さし指が引き金《トリガー》にかかった。三・六キロの圧力が加われば引き金は落ちる。
じわり、と力が入った。
エニラ師の声が聞こえた。
「――大佐。おまえはわしに対する過大な反逆行為をもって、この世では想像もできぬ恐ろしい死を迎えねばならん。魂と化しても安寧は得られぬぞ。娘――おまえは……」
引き金が圧《お》されていく。あと――〇・一ミリ。
「その若々しい肌をたっぷりと愉しませてもらおうか。その後で、嬲《なぶ》り殺しにしてくれる」
何が呪縛を解いたのか、おれにはわからない。
単純な結論は、憎悪が膨れ上がったのだ。だがこれは、どこから来た。
「嫌あ!」
ゆきの拒絶の叫びを、ショットガンの轟きがなぐり消した。
オレンジの火線は、怒涛と化して小柄な老人を襲った。
「逃げろ!」
おれは傍らの二人に喚いた。
「動けないのよお!」
ゆきの悲痛な声に、硝煙の奥から、
「恐ろしい人間がいるな」
感嘆しきったエニラ師の嗄れ声が漂ってきた。
「では――こうしたらどうだね」
不意に、金切り声を上げて、白い身体がとびかかってきた。
ゆきだ。おれを殺して恐怖を免れようって寸法にちがいない。
軽くダッキングしてかわし、おれはエニラ師へ突進した。
2
こん畜生。逃げようともしない。
おれはUSAS12の銃身を思いきり、爺いの顔面――眉間の急所へ叩きつけた。普通なら銃床でぶん殴るんだが、付いていない。
分厚い粘土塊のような手応えが戻ってきた。
皺だらけの手が銃身を押さえて、ひょいと横へのけた。
まるでクレーン並みのパワーだ。
「この!」
右の前蹴りを鳩尾へ叩き込む。
びくともしない。
「今度こそ」
エニラ師の右手がおれの左肘を掴んだ。氷の冷気が全身を巡った。
「自分で死にたまえ」
おれの手がおれの喉を掴んだ。
やっと楽になれる。
おれは嬉々として、指に力を込めた。気管の圧搾ならまかしてくれ。たちまち、眼の前が暗くなる。
急に明るくなった。
「いい余興を思いついたぞ」
エニラ師が、何とも言えない邪悪な眼つきでおれと――ゆきの方を見つめた。
「来い」
と言われただけで、ゆきはひょろひょろとやって来て、エニラ師のそばに立った。
催眠術とは違うが、その一種――ずっと効果的で強力な心理操作術にちがいない。
「手を下ろせ」
ゆきは従った。
ぶるん、と乳房がゆれて、得体の知れない爺さんの眼の前で剥き出しになった。
「いいおっぱいじゃ」
爺いは舌舐めずりをした。
ゆきの表情は嫌悪に歪んでいた。しかし、動けないのだ。
「触らないで、ひひ[#「ひひ」に傍点]爺い!」
怒号は不意に、あン[#「あン」に傍点]という呻きに変わった。エニラ師の手が右の乳房を掴んだのだ。
ゆっくりとこねくりまわし出す。女を扱い慣れた好色漢そのものだ。
もう片方の手指は反対の乳首をはさんで、いやらしくいじりはじめた。
ゆきは唇を噛んで耐えている。
その顔が大きくのけぞった。
「ああ……いや」
口を割った喘ぎは熱かったにちがいない。
「どうだな、恋人のよがりぶりは!?」
エニラ師はおれの方を向いて嘲笑した。
「この娘、本気で感じておるぞ。こんな状況で、とんでもない淫乱娘じゃ」
おれは答えなかった。恐怖と指は声帯も凍りつかせていた。
エニラ師の顔がゆきの胸に近づいていった。
蛭《ひる》みたいな唇が乳首を咥えると、ゆきは夢中で首を左右にふった。
「嫌よ、嫌、嫌……あ……やめ……て……ああ……」
老人の舌が若い娘の乳首を嬲りまくっているのを、おれはぼんやりと見つめていた。
ゆきの腰に爺いの手が巻きついた。
二人は、おれの足元の床に重なった。
エニラ師は唇を離さない。ゆきの乳房は口いっぱいに頬ばられていた。
エニラ師の足に白い太腿が巻きついた。
「やめて……離して……」
掠れ切った声が、抵抗の限界を示している。
乳房から唇を離し、エニラ師は片手をゆきのパンティにかけた。
「よく見ておくがいいぞ、若造。おまえの恋人が、わしの下でどんな恥ずかしい姿をさらすかな」
ずるり、とパンティが下がった。
食い込みの移動に従って、尻のふくらみもずれていく。
興奮したのか、爺いはパンティから手を離し、尻の肉を揉んだ。再び、乳房を吸う。
おれの内側で何かが弾けた。
恐怖は変わらず、それを凌ぐ衝動に突き上げられたように、おれはエニラ師へと一歩を踏み出した。
「また、失敗か」
と苦笑いしながら、爺いはゆきへの凌辱をやめようとはしなかった。
おれの攻撃なんぞ、たかをくくっているのだ。
奇妙なことだが、おれに無力感はなかった。それどころか、上半身を起こしたエニラ師の顔面へ、右の回し蹴りを叩きつける寸前――自信がみなぎったのだ。
こいつは効くぜ。
爺いは、ぎしゅ、とか何とか叫んだようだった。
小柄な身体は、まるであっけなく宙をとび、窓際まで吹っとんで壁に激突した。
あまりに意外な結果におれは少し驚いたが、
「大丈夫か!?」
と、とりあえず、ゆきに訊いた。
「見ないでよ、エッチ!」
片手で乳房を隠し、片手でパンティを引き上げながら、ゆきは恍惚たる表情で怒鳴った。術は解けたらしい。
「今まで何してたの、この役立たず!」
「何を言いやがる、このど淫乱娘。――あいつに責められてヒイヒイよがってたのは、どこのどいつだ!?」
言い返しつつ、おれはエニラ師からも眼を離さなかった。
頭をふりふり、起き上がろうとしている。あれだけの蹴りを食らったら、脳挫傷を起こしかねないのだが、大したものだ。
何だか知らんが、始末するなら今だ。
おれは床に落としていたUSAS12を拾い上げた。
距離は三メートル弱。腰だめでも十分いける。
「あばよ、爺さん」
こう言ったとき、立ち上がったエニラ師が何とも情けない表情をつくった。
頭痛のせいだろう。そこにいるのは、チビで皺だらけの、哀れっぽい爺さんにすぎなかった。
引き金に込めた力が、急速に抜けた。
「何をしている。射て」
おれは、ヤンガー大佐の方をふり向いた。
パンツ一丁の他に、身につけるものを見つけたらしい。
伸ばした両手に支えられたベレッタM92F十六連発は、おれの腹へ直線を引いていた。
「それが恩人に対する態度か?」
おれの文句に、大佐はにこりともしなかった。
「早く彼を仕留めたまえ。時間がないぞ」
「てめえでやれ」
「私の武器は効かん」
「おれのも同じだよ」
「いや、君ならやれる。武器の問題ではない。精神が関わっているのだ。――私の眼に狂いはなかったようだな。エニラ師が回復する前に、早く射て」
「わかったよ」
おれが答えたそのとき、大佐の身体はくるりと後ろを向いた。
壁へ正面衝突するまで、一秒とかからなかった。
骨の砕ける音は、ごきり[#「ごきり」に傍点]と聞こえた。
束の間、そっちへ眼をとられたのは、いくらおれでも仕方なかったろう。
〇・五秒で向き直ったとき、小さな身体はすでに窓ガラスへ向かって、宙に舞っていた。
先にガラスを砕いたのが、エニラ師の身体かUSAS12の一撃かはわからない。跳躍の姿勢を崩すこともなく、老人は窓の下へと吸い込まれた。
「ゆき――服を着ろ!」
おれは叫んだ。かなり近いところから、警察カーのサイレンが聞こえてくる。
これだけ大騒ぎして、今までやって来ないのが不思議なくらいだ。
「早く!」
とふり向いて、驚いた。
すでに、ピンクのベビイドール姿が戸口に立っている。
「何て格好だ」
「これで誘拐されたのよ!」
グウの音も出ず、おれは戸口へと走った。
ちら、と大佐の方を見る。
顔半面を血に染めて倒れていた。呼吸《いき》はありそうだ。
「ねえ、射っちゃえ!」
と、ゆきが大佐を指さしてせがんだ。
「阿呆、無益な殺しができるか」
「でも、あたしを裸にしたのよ。大人の味を教えてやるって言って。大ちゃんのこと、サイズが足らない青二才とか何とか言ってたわ」
野郎。
おれは気を変えて、一発ぶちかましたろうかと大佐を睨みつけたが、やはり、そんな気にはならなかった。
「パンティが無事だっただけ、マシと思え」
「あら、はいてるからって、無事とは限らないわよ」
ゆきは微妙に腰をくねらせた。
「なに?」
おれは少しあわてた。
「さっきのお爺ちゃんみたいに、さんざんペロペロされちゃった。つい、声を出しちゃったわよン」
思いきりはちきれそうな尻に手を当てて、
「ここも」
乳房を自分でこねくり回して、
「ここも」
「えーい、とにかく外へ出ろ。警察が来たら、軍人暴行罪で逮捕されるぞ。おまえはいざとなったら、こいつに乱暴されたとおれを突き出すつもりだろうがな」
「どうして知ってるの!?」
驚くゆきの背を押し、おれは廊下へとび出した。
アパートの住人が集まっていたが、おれたちの姿を見るや、大あわてで道を開けた。
中にひとり、さばけたのがいて、
「いかすぞ、お嬢さん!」
「あらン、ありがと」
尻をふって、ゆきがウィンクを送る。懲りねえ娘だ。
エレベーターにも待たずに乗れ、おれたちが外へ出たときは、警察カーのライトがやっと左手の角を回ったところだった。
一台、二台、三台――何とかなる。
もうひとつ、ライトが角を回ってきた。ひどく大きい。
ノー・サイレン。そして、大出力エンジン特有の力強い脅迫的な排気音。
「やだ――装甲車よ」
ベビイドール娘が呻いた。
その通り、米軍払い下げの品だろう。
M2ブラッドレー装甲車――一九八三年米陸軍就役車輌を、ローラン共和国警察は、――多分――暴徒鎮圧用兵器として採用していたのだ。
全長六・四五メートル、重量二・三トン。前面装甲二五ミリの巨体には、拳銃やライフルでは、まず抗しがたい。
「乗れ!」
「イエイ!」
絶妙のタイミングで、ゆきが奥の助手席に、間髪入れず、おれが運転席へとび込む。思いきりよくスタートさせたカローラの前へ、ブレーキの音も猛々しく、警察カーが一台回り込んだ。
普通の奴なら停まる。だが、ハンドルを握っているのはおれだった。
アクセルを思いきり踏んだ。
「行けえ〜〜〜〜!」
と、ゆきが絶叫した。
カローラは、最大限に加速しつつ、遮断車のフロントめがけ、横から突っ込んだ。
降りかかった警官が、呆気にとられたように横へ逃れ、次の瞬間、衝撃。
カローラは見事に警察カーを撥ねのけ、無人の通りへと自由を背に躍り出た。
「追っかけて来るわよ!」
窓から身を乗り出して後ろを見物していたゆきが、金切り声を上げた。
「そこに武器がある。人は殺さないで阻止しろ」
「了解!」
ちらと横眼で見て驚いた。もうUSAS12を手にしてやがる。
その瞬間、リア・ウインドが粉々に砕け散った。
警察カーの銃撃だ。少し遅れて、短機関銃《サブ・マシンガン》の発射音がやって来た。
「やったわねえ!」
ベビイドールに包まれた豊かな尻をもろこっちに向け、窓から身を乗り出していたゆきの手から、つづけざまに轟音が迸った。
追いすがる警察カーのボンネットが跳躍し、フロント・ガラスに大穴が開く。運転手がハンドルを切りすぎたのだろう。パトカーは大きく左へ傾《かし》ぎ、体勢を立て直すことなく横転した。
「やったわ!」
ゆきが片手で車体をぶっ叩いた。
車が跳ね上がったのは、その瞬間だった。
どえらい勢いで右へ回転する。言うまでもない。傍らで、何かが爆発したのだ。
回転が止まると、おれは呼吸困難に陥った。ゆきの尻が顔の上にべったり乗っているのだ。
以前、一度だけ同じ目に遇ったことがある。
パンティ泥棒をしたしないで、クラスメートの外谷順子と大立ち回りとなり、あのでぶ女は宙を跳ぶや、でかい尻でおれを押しつぶしたのだ。
まさか、生身の人間にそんな芸当ができるとは思わないから、油断していたのが悪かった。おれは窒息寸前の状態に陥り、外谷の大好物――つまり、百円硬貨を放り投げて、でぶがそれを取りに行った隙に脱出してのけたのだ。
しかし、あのときは、後になって顔が腐るんじゃないかと不安だったが、ゆきの尻なら寿命が十年はのびそうだ。
すい、と楽になった。
ゆきがドアを開いて脱出したのである。
おれも後につづいた。
カローラは逆立ちしていた。
すぐ後ろに横丁があった。残った警察カーと、M2ブラッドレーが猛烈な勢いでやって来る。
「早く逃げましょ!」
一応声をかけ、とっくの昔に横丁へ走り出してるゆきを尻目に、おれはカローラのトランクに回った。ロックは解いてある。
夢中で武器を引っぱり出して背負ったとき、五メートルと離れていない位置に警察カーが停止した。
制服警官がとび降り、
「動くな!」
と、ドアの陰からSWらしい自動拳銃を向けた。
おれの用意はできていた。ふり向かず、腋の下からグロックの引き金を引いた。
警察カーのボンネットにばばば[#「ばばば」に傍点]と黒点が穿たれ、次の瞬間、火を噴いた。
九ミリパラベラム弾頭に仕込まれた灼熱剤の仕業である。警官が二人、ドアの陰からとび出し、おれめがけてSWを乱射する。
動揺してるから当たりっこねえやな。
おれは二人の爪先を吹っとばし、戦闘不能に陥れてから、横丁へ駆け込もうとした。
すぐ右手で爆発が起こった。
M2ブラッドレーの大砲かミサイルだろう。こいつの主武器は25ミリ“チェーン・ガン”のはずだ。いつ、そんなものつけた。
とにかく、おれは軽やかに宙を舞い、アスファルト道路に落下した。爆風に逆らわずに、見事に着地を決めたのは言うまでもない。それでも足にずきんと来たし、身体のあちこちに破片を受けたからひどく痛む。休暇一週間――いいねえ。
しかし、市街地で大砲をぶっ放すとは、装甲車までエニラ師の影響を受けているのか。
「三つ数えるうちに投降しろ」
装甲車が言った。そうとしか思えない非人間的な声だ。単に拡声器を通したというだけじゃない。機械の合成音だ。
機械に言っても仕様がねえが――阿呆め、おれだからよかったものの、普通の人間だったら、いまの一発で投降どころの騒ぎじゃない。だが、ここが、融通の効かねえメカのありがたいところだ。
しかも、おれが吹っとばされたところは、横丁の内側ときた。
「ひとつ《ワン》……」
と装甲車が言った。警察カーの炎が、硬質な車体を妙になよなよしたものに見せている。
素早く石壁に張りつき、おれは背中のロケット・ランチャーを肩に乗せた。
照準《フォーカス》オン。
眼にあてたレーザー・サイトが、くっきりと映像を結んだ。
望遠コントロールを親指で調整する。
「ふたつ《ツー》……」
装甲車の胴体がぐうっと近づいた。
照準OK。――ミサイル固定《ロック》。
黒光りするボディの一点へ、四方から光のラインが集中する。これで、どこから射ってもミサイルは固定位置へ命中だ。
「みっつ《スリー》……」
M2ブラッドレーの死刑宣告が早かったか、おれが引き金を引くのが早かったか。
ミニ・ミサイルは炎の尾を引きつつ、装甲車の胴体前部に吸い込まれた。
爆風と火花が上がった。
あそこならエンジンだ。人間の被害は少ないだろう――と、思うがね。
二発目の必要なしと踏んで、おれは身を翻した。
背中を妙な音が叩いた。
ふり向いた眼に映る光景を、おれは信じられなかった。
火を噴く装甲車の車体が、真ん中から二つに割れたのだ。
こんな大仰な脱出法を取らなくとも――と思ったのは早とちりだった。
車内に人間の姿などなかった。
黒い塊がひとつうずくまっている。そのてっぺんから、すいと傘の骨みたいなものが伸びた。
まさか――。
中心の軸によりかかるような形の幅広い骨が三本、地面と平行に持ち上がるや、唸りをたてて旋回しはじめる。
そいつが浮き上がるまで待つ必要はなかった。
こいつは――無人ヘリだ。
装甲車に人間などいなかった。こいつが――多分、機体に仕込まれたコンピュータが、M2ブラッドレーも制御していたにちがいない。なんつうメカだ。米ソだって、こんな仕掛けは実用化してないぞ。
そいつが軽々と上昇するのを、おれはサイトに捉えた。
照準。
ヘリは、いきなり右に移動し、サイトの外へずれた。
こん畜生!
合わせた。また、逃げる。わかった。奴め、こっちの手を読んでやがるのだ!?
普通の無人ヘリなら造作なくポイントできるのだが、こいつは別物だった。小刻みに、しかも、超スピーディーに動いて照準が合わない。
キキ、とかすかな音をたてて、機体にはめ込まれていた凹凸がせり出た。
右の円筒がミサイル・ポッド、左の長いのはバルカン砲――いや。
何かが、おれを右へと走らせた。
靴底から熱気が伝わる。
反対側の壁へと貼りつきながら、おれはふり向いた。
もといた壁には、直径一メートルほどの窪みがえぐりとられていた。
表面は素焼きみたいにザラつき、白煙を上げている。
音もなくこんな芸当ができるのは、光学兵器だ。しかもレーザーじゃない。あの被害の広範囲ぶりからして、荷電粒子ビーム砲だ。
面白い――。猛烈な好奇心が湧いた。
ヘリのビーム砲は直径が二〇センチ、長さは一メートルちょいしかない。米ソが開発中の最新型だって、こんなにコンパクトにはいかないのだ。
前にも言ったが、荷電粒子を加速して相手に叩きつけるビーム砲は、大気中の埃やゴミ、雨滴や霧などの水分にもろ影響を受ける。水中で火炎放射器を射つようなものだ。そのために、動力源は異常に巨大化し、ソ連など、アメリカの軍事衛星撃墜のための原子力発電所を、広大なウクライナの土中に建設してしまったほどである。ビーム砲自体も、全長一〇〇メートル、直径十何メートルというとんでもない非実用タイプが精一杯で、持ち運びなど不可能だ。
それを――
まあ、あの爺いなら不思議じゃねえか。
おれはランチャーをヘリの下の壁面に向けた。
ヘリが上昇に移った。
構わず射った。
地軸を揺るがす轟きとともに、アスファルトと黒煙が噴き上がる。目くらましだ。
おれはもう横丁の奥へと走り出していた。
「ゆき、逃げろ!」
どうせいないだろうと思いながら、叫ぶ。
一〇メートルほどで曲がり角。
左へ折れた。勘だ。
ベビイドール姿が、月光の下に立っていた。
すけすけのボディラインといい、剥き出しの腿といい、なかなかの眺めだったが、独占できなくてはな。
しかも、肝心のバストは、黒い腕が覆い隠している。
「大ちゃん、何よ、こいつ?」
ゆきが訊くのももっともだ。
背後に、接近してくるコンピュータ・ヘリのローター音を聴きつつ、おれは、ゆきを抱きしめた相手を睨みつけた。
いよいよ、最終決戦《ハルマゲドン》かな。
エニラ師の家を襲ったとき、何とか置き去りにしてきた不死身の大男は、ガラス玉のような無表情な眼で、おれを睨《ね》めつけていた。
3
一難去ってまた一難。前門の虎、後門の狼――言い方はいくつもあるが、おれは、こんな気の利いた言い回しを発明した奴らを、思いきりどやしつけてやりたい気分だった。
先に逃げ出したエニラ師から、おれと大佐の抹殺命令を受けて駆けつけたのだろうが、よくもこんなところで出会したもんだ。
おれは神を信じる。ヘソの曲がった神を。
「ねえ、何とかしてよお」
乳房を押しつぶした大男の腕に、ゆきは必死で爪を立て、噛みつきながら哀願した。
動けない。下手な真似すれば、ゆきの胴は乳房ごと二つに押しちぎられてしまう。
「女を下ろせ」
と、おれは声をかけてみた。
「おれが目的なら、話はさし[#「さし」に傍点]でつけようじゃないか?」
大男は動かない。人形のように無反応だ。ゆきの悪戯ではないかと思ったほどである。
「おい」
と呼びかけたとき、背後のローター音が急に近くなった。ヘリも角を曲がったのだ。
万事休す。
大男とやり合うか、ヘリの粒子ビームを受けるか。
くそ。機械服《メック・ウエア》とレーザーが無事だったら。
おれはふり向いた。
距離にして五メートル、高度二メートルの上空に、死神メカはローター音とよく似た笑い声をたてながら、浮いていた。
粒子ビーム砲の砲口もミサイル・ポッドも、ぴたりとおれに焦点を合わせている。
こちらの照準は――定まらねえ。
その刹那――おれは地上に伏せていた。ヘリからの攻撃ならよけられなかったろう。ゆきに当たる恐れがあるからだ。だが、こいつは後ろから来た。
がしゃんと金属の破壊音が頭上で鳴った。
ヘリが震え、そのローターの付け根あたりから、黒い塊が地に落ちた。
赤ん坊の頭くらいの石だ。
何が起こったのかはわかった。理由がわからない。
大男がコンピュータ・ヘリに路上の石くれを叩きつけたのだ。
ヘリのコンピュータは、おれの動きを凌いだが、大男の反射神経には及ばなかったのだろう。
ショートしたような音を上げつつ、支離滅裂な旋回運動を開始する。
しめた、一発! ――と思った刹那、眩い光の帯が空中に走った。
周囲のビルやコンクリート塀が見る見る蒸発していく。右頬にちりっ[#「ちりっ」に傍点]と来て、おれは地面へ伏せた。
コンピュータの射撃制御が狂ったのだ。
ランチャーの照準を合わせる暇もなく、ヘリは左へ傾きながら、大男とゆきの方へ迫った。
ゆきが悲鳴を上げた。
その瞬間、おれは地面の上で見た。
ゆきを突きとばしざま、大男の影が空中へと躍り上がったのだ。
右手が拳を握りしめたまま上昇した。
その下に狂ったヘリが吸い込まれた瞬間、大男は右手をふり下ろした。
いくら小型とはいえ、生身の人間がヘリ一機を叩き落とせるはずがない。
だが、ローターはへし折れ、メカ部もひしゃげたヘリは、大男と絡み合うようにして地上へ落下した。
危ない!
と思った瞬間、おれはもう動いていた。放り出されて横たわるゆきの上に覆いかぶさったのは、我ながら驚くほどのスピードだった。
爆風が背中を叩いたのは、コンマ一秒置いた後だった。
ヘリのミサイルが爆発したのだ。
破片と衝撃波が矢継ぎ早に襲い、みな、背中の荷物に弾き返される。あちっ。――足にも来やがった。
静けさが落ちた。
遠くでサイレンが聞こえる。消防車かもしれない。
「起きろ」
おれは立ち上がりながら、ゆきの腕をとった。柔らかくて、あたたかい。
「ちょっと、何よ、その言い草――大丈夫かって訊くのが礼儀じゃないの?」
「大丈夫に決まってらあな」
「言ったわね。もう、口なんかきいてやんないから」
「いいから、来い」
走り出そうとするおれの手を、ゆきは勢いよくふり払った。
「うるさいわね。えらそうに――」
言いかけてやめた。
眼は、おれの顔を見つめていた。それから、ゆっくりと同じ方角――背後をふり返った。
まだ炎と黒煙を噴き上げるヘリの残骸の真ん中に、大男の影が忽然と立っていた。
また裸だ。おれはしみじみと、
「よくよく、ストリップが好きらしいな」
「何よ、当てつけ!?」
ゆきが眼を剥いたが、構っちゃいられない。サイレン音はますます近いのだ。
大男が右足を跳ねた。
重なっていたヘリの機関部が、ハリボテみたいに舞い上がった。
大股で近づいてくる。
「何とかしてよ!」
ゆきが叫んだ。
「走れ!」
おれは命じながら、ロケット・ランチャーを向けた。
ぞっとした。
サイトが光らない。真っ暗だ。こいつも故障か。
大男めがけて、ガラクタを放り投げ、おれはもう五メートル先を疾走中のゆきの後を追って走り出した。
背中から荷物――火炎放射器を下ろす。宮殿での喧嘩《でいり》に使うつもりが、まさか、町なかで利用することになるとはな。
ゆきにはすぐ追いついた。
「あら、速いのね」
何、吐《ぬ》かしやがる。
「後ろを見てみろ」
と言った。
「大丈夫よ。足音もしない」
こう言って、ゆきはふり向き、強張った顔をもとに戻した。
「どうだった?」
「五メートルも離れてないわ。しかも、あたしたちより速い」
おれは、いきなり、ゆきの腰に手を巻いた。
「何するの、変態。こんなところで――」
おれは問答無用で二人分の急制動をかけ、通り過ぎたばかりの細い路地へとび込んだ。
「曲がってどうするの!?」
「あそこだ!」
と指さした地面に、黒い鉄の蓋がかぶさっている。マンホールだ。
「もう、この付近一帯は警官と軍隊が取り囲んでるぞ。――あそこへ入るんだ」
「いやよ、下水道なんて。臭いわ。あんた、人間ひとり、やっつけられないの?」
「あれを人間と思うのか?」
「いえ!」
「この根性悪」
こうやり合ってる間に、おれたちはマンホールに辿り着き、蓋を持ち上げていた。
割合、簡単にいった。
ぷん、と嫌な匂いが鼻をついた。
「先に降りろ!」
蓋を放り出して叫んだ。
「あかんべえ」
「来たぞ!」
巨体が、ぐいと角を曲がって来た。
「どいて!」
白い手がおれを押しのけて、えいやとマンホールへ躍った。
後につづく前に、ため息をつく余裕はあった。
蓋を閉めたかったが、奴はもうそこまで来ている。
下へは鉄梯子が下りていた。
おれは頭から、とび込んだ。
四段目あたりの踏み棒を掴み、身を屈めて半回転、足から着地する。――その予定だった。
右足が止まった。スラックスの端を掴まれたのだ。
夢中で蹴った。野郎《やろ》、野郎《やろ》、野郎《やろ》。
わっ、持ち上げられた。
引きずり出される――次の瞬間、びりりと世にも美しい音がつつましく響いて、おれは宙に浮いた。
身をひねって着地するのは、造作もなかった。
「何してんの、早く逃げましょう!」
遠くでゆきが叫んだ。
左手を、汚水が勢いよく流れていく。
水路の幅は約三メートル。おれの立つ通路は二メートル。
悪臭の中を、おれは走り出した。通路は乾いている。
だが――大男は必ずやってくる。
どうすりゃ、撒《ま》けるんだ?
ゆきは二〇メートルほど先の曲がり角で待っていた。
全力疾走しただろうに、やや荒い程度で、呼吸《いき》は正常だ。さすが、太宰先蔵の孫娘。
「あいつ――まだ、来るの?」
「耳を澄ませてみな」
ゆきは眼を閉じ、うなずいた。
「来るわね。ざっと二〇メートル。どうやって、私たちの後を尾けられるの?」
いつの間にか低声になってる。おれと同じ考えなのだろう。やはり、大したものだ。
「多分、声と音だ。暗闇でも見えるのは、赤外線センサーのせいだろう。体温のパターンはなかなか消えねえからな。あのスピードだ。駆けっこしても、いつかは追いつかれる」
言いながら、おれたちは走り出していた。
「じゃ、どうする? ――水の中?」
「いや、この水音じゃ、深さは五〇センチもない。戦うしかあるまい」
「勝ち目はあるの?」
「限りなくゼロに近い」
「無能」
「うるせえ」
ののしってはみたものの、おれには打つ手がなかった。火炎放射器とグロック程度で仕留められる相手ではない。
もう一度、外へ出て、車を拾って逃げるか。
だが、足音はすでに背後に迫っている。
「いい手はなさそうね」
と、ゆきが言った。
どこか楽しそうな口調が、おれの胸に疑惑の灯を点した。
「何を隠してる?」
と、訊いた。
「知りたい?」
「ああ」
「女王様とお言い」
「ふざけるな」
おれの見幕が本物と知ったのか、ゆきは、ベビイドールの胸元へ手を入れ、
「これよ」
万年筆そっくりの金属円筒を取り出した。
「何だ、そいつは?」
「大佐の部屋から出がけに失敬してきたの。エニラ師の刺客よけだって」
「何だと?」
走りながら、おれはそれを引ったくり、しげしげと眺めた。
金色の表面に、赤い押しボタンがひとつついている。それだけだ。愛想も糞もない。
新型の強力爆弾か何かか? それにしちゃ軽い。
「エニラ師の刺客てのは、あいつのことか?」
「そこは保証できないわ。エニラ師には何人も刺客がいて、中に凄く強い化物じみた大男がいると言ってたの。そいつの正体は口にしなかったけど、何度か襲われた挙げ句、やっと情報部の力でこれを開発し、難を逃れたそうよ」
「それで、あいつが後方担当にまわっていたのか」
おれは、エニラ師直々の大佐訪問を納得した。今は、その円筒に賭けるしかない。
「どうして、それを黙ってたんだ!?」
「馬鹿ね。勿体ないじゃない」
「………」
そいつを握って、おれはふり向いた。
黒い巨体は三メートルまで迫っている。
おれは黄緑のガラス状物質がはめ込まれている方を大男に向けた。
「来るわよ」
「先に逃げろ!」
「わかったわ」
声と足音が遠ざかり、別のが近づいてくる。
ぐわあと黒い影が視界を埋め、広げた両手に包み込まれる寸前、おれはボタンを押した。
ぴい、とチャイムみたいにきれいな音が空気を震わせた。
効果は絶大だった。
大男の動きはぴたりと止まり、無表情のまま、きりきり舞いをはじめたのだ。
せわしなく四方へ眼をやり、両手をふり回す。掴みかかり、パンチに変え、手探りで後退する。
超音波だ、とおれは判断した。円筒は、大男の探査機能を狂わす音を放出しているのだ。
それで狂う奴とは?
狂える神に触れるとまずい。おれは一目散にゆきを追って走った。
あちこち曲がりながら、二〜三〇〇メートルは進んだろうか。
ゆきの姿は見えず、どっかから先に上がったのかと、おれは通路の上で腕を組んだ。
前方から、エンジン音が近づいてきた。モーターボートだ。
おれは火炎放射器片手に、グロックを抜いた。警察じゃあるまい。エニラ師か大佐の一派だろう。
この考えをぐらつかせたのは、
「大ちゃん」
ゆきの能天気な声だった。
光球が現れた。ライトだ。おれは素早く壁にへばりついた。エンジン音からして、ボートは二隻、人数は七、八名。
ゆきの声は安堵に満ちていたが、そうしろと脅されれば、平気で親も売る娘だ。
「大丈夫よ、大ちゃん。この人たち、愛国者だって。あんたの知り合いよ」
その声に重なって、
「おれたちはマリアの仲間だ。アジトで会ってる」
おれにもすぐわかった。一度聴いた声は絶対に忘れない。
おれとやり合いそこねた隻眼の男――ブルーだ。
「止まれ!」
と、おれは声を張り上げた。
「ライフルで狙ってるぞ」
緊張が伝わってきた。エンジン音は停止した。
「嘘よ」
と、ゆきの声ががなった。
「ライフルなんか持ってないわ。火炎放射器とピストルだけよ」
「うるせえ。この売国奴」
おれは通路の真ん中に出ていった。
ライトが集中した。眼をつぶってやり過ごす。見えなくても、一〇メートルの距離なら、グロックと火炎放射器のどちらでも必中だ。
「怪我はないか?」
とブルーの声が訊いた。
「ああ」
「乗りたまえ。安全な場所まで送ろう」
「その前に、どうしてここへ来たか話しな」
「簡単なことだ。大佐のアパートと近所で大騒動が勃発したと聞いたので出向いた。軍と警察関係の無線の大半は傍受可能なのでな。こっそり近くを調べると、蓋の開いたマンホールがあった。誰がやったにせよ、大佐を襲い、パトカー三台と装甲車と殺人ヘリを破壊した人物にお目にかかりたいと思ってな」
「そのモーターボートは?」
「地上は一応、軍と警察の天下だが、ここはおれたちの世界なのさ。下水は港――“貧民夜会地区”につづいているんだ」
「わかった。お邪魔しよう、と言いたいが、借りをつくるのは好きじゃねえ。ここで失礼するよ」
「やせ我慢はよせ。上は非常線が張られているんだぞ」
「何とかするさ。おい、ゆき――降りろ」
「やーよ。あんたなんかより、この人たちの方がよっぽど頼りになるわ。誰が降りるもんですか」
「なら、好きにしろ。おれもその方が厄介払いできていい。済まんが、このジャジャ馬、ひとつよろしく頼むぜ」
こりゃしめた、と背を向けて歩き出そうとしたところへ、
「ちょっと――ちょっと待ってよ!」
と、焦りまくるゆきの声がかかった。
「降りるわよ。降りるわよ。何さ、もう、ひとりで粋がっちゃって」
悪態の後――少し間を置いて、
「ごめんなさいね、小父《おじ》さまン。――またね」
と来た。
「いいから乗りたまえ」
と、ブルーがうんざりした風もなく言った。
「これを貸しにしようなどというケチな根性は持ち合わせていない。おれたちはあくまでも自分の意志で出向いたんだ。君は堂々と一緒に来ればいい」
「気持ちだけ貰っとくよ。――そうだな。ひとつ貸しといてくれないか。その娘、やっぱり連れて行ってくれ。何なら、この件が片づくまで、預かっといてくれないか」
「それはいいが」
ブルーは、じろりとゆきの方を眺めて、
「使い方によっては、ミサイルや戦車以上の役に立ちそうだ。どうして連れて行かんのだ?」
「女は足手まといさ」
「根はやさしい男だな」
ブルーの声には、小馬鹿にしたところなど少しもなかった。
「マリアが気に入るはずだ。――よかろう、この娘さんはまかせたまえ」
「やーよ、大ちゃんがいい。この人、あたしの彼氏《ダーリン》よ。死ぬまで離れないと誓ったのよ」
「あばよ」
おれは片手を上げて歩き出した。
それを止めたのは、ゆきのこの[#「この」に傍点]叫びだった。
「あんたの欲しがってた品物、ちゃんと持ってるのよ。返してやんないから!」
ピン、と来た。
「わかった。――来な」
何気ない口調で言った。ゲリラたちが怪しむ様子はない。
「いいのか?」
とブルーが訊いた。
「仕様がねえ。おれはキンピカに弱くてな。――詳しく訊いてくれるなよ」
「よろしい。好きにするといい。――では、せめて、我々の忠告を聞いてくれないか。この先の昇降口を出ると、アラム街の廃工場跡だ。陽の出まで、そこに隠れていたまえ」
「そいつは保証しかねるよ。警官もマンホールは見つけてるはずだ」
「蓋は閉めてきた」
「ありがとよ。じゃ、忠告に従おう。それと、おれの方からもひとつ。――この地下には、エニラ師直属の殺し屋がいるぜ。おれの考えじゃロボットだ。見つからねえうちに逃げろ」
「ありがとう。そうするよ。――引き揚げだ!」
エンジンが唸り、ボートは次々とおれの横をすり抜けて走り去った。ま、心配はあるまい。
おれは、ゆきの方を見た。
「何かを返してくれるそうだな」
「ふふ、知りたい?」
「ああ」
「とりあえず、上へ行きましょ。こんな臭いとこ真っ平よ」
おれの返事も待たず、ゆきは歩き出した。
[#改ページ]
第六章 “プリンス”を奪還せよ
1
外へ出たら、まだ、警察がうろついていたので、おれたちはブルーの忠告通り、廃工場に身を潜めた。
その間に、おれは“返却品”について、ゆきとじっくり話し込んだ。
こんな具合にだ。
「さあ、吐け」
「ふふ、吐いたら何くれる?」
「おかしな取引なんぞやめるんだな。いつものおまえなら、さっさとあのゲリラたちと行ってるはずだ。そうしないのは、おれが必要だったからだろう。ゲリラたちに打ち明けちゃあ、取り分が少なくなる。つまり、この国の動静に関係した何かで、おれが絶対にとびつくもの――“プリンス”の居所か?」
「どうしてわかるのよ」
ゆきは露骨に顔を歪めたが、すぐに、何とも邪悪で妖艶な、こちらがぞくりと来るような笑みを浮かべた。
この娘だけの特技だ。どんなに色っぽい高級娼婦でもこの真似はできない。鋼《はがね》の精神を持つ軍人でも聖者でもいちころ、ただの雄に変えてしまう表情。――おれはあわてて眼をそらした。
「ふっふっふ」
ゆきは意味ありげに笑いつつ、コンクリートの床に横たわった。
断っておくが、太腿剥き出しのベビイドール姿である。
「これも窮屈だわ。脱いじゃお」
こら、と言う前に、ナイロンの薄布が床に舞い降りた。
パンティ一枚の裸体を恥ずかしげもなくおれの前にさらし、片手で乳房を押さえたまま、ゆきは残る白い手でおれをさし招いた。
「ねえ――来て」
甘い蜜みたいな声が頭の中に鳴り響き、
「いかんぞ」
おれは自制した。しながら、のこのこと前へ出た。
またもや、ゆきの持病――金銭妄想欲情症が顕現したのは明らかだった。こうなると、発情期の雌そのものになる。
男を誘い、欲望を充たすことしか頭になくなるのだ。
バストだって、恥ずかしいから隠してるんじゃない。その方が男を刺激すると承知しているからだ。
「やめろ」
言いながら、おれはゆきの傍らに膝をついた。
「ふふ、やっぱり男ね」
女体が反転した。
おれの眼の前で、ゆっくりと尻が持ち上がった。白いパンティの食い込んだ大きな尻が。
これが女子高生のすることか。
「よしたまえ、君」
おれは、声の上ずっているのを大いに感じながら言った。
「こういうものを人前にさらしてはいけないよ」
手は豊かな盛り上がりに触れていた。粘りつくように柔らかく、弾けるような張りがある。
「ふっふっふ。気に入った、優等生さん?」
ゆきはゆっくりと尻をふりはじめた。
「いいのよ、好きにして。――何でもありよ」
おれを弄《いら》うような声は、欲情に濡れていた。恐らく頭の中は、“プリンス”の救出と、それによって得られる富と名誉に溢れ返っているのだろう。
「そこ[#「そこ」に傍点]は何処なのかなあ?」
ゆきのパンティがゆっくりと下りていく。いけない[#「いけない」に傍点]手が引っぱっているのだ。おれの手だった。
「教えてほしい? だったら、可愛がって」
いきなり、ゆきはふり向き、白い手をおれの首に巻きつけた。
あっという間に、おれは熱い肉の上に重なった。腰には太腿が巻きついた。唇が重なるより早く、口腔に熱い舌がさし込まれた。おれも思いきり吸った。荒い呼吸だけが二人の世界だった。
たっぷりと愉しみ、ゆきは唇を離した。
おれは顔をずらせて、その乳房を吸った。
ゆきの喘ぎはひどく高かった。
「そうよ。そこを強く吸って。……そう、そうよ。あ……お腹も噛んで……太腿も。あの爺いにキスされたところよ。……あなたもして。お願い」
「まかしとけ」
おれの唇は、ゆきの太腿に吸いついた。
軽く歯をたてる。肢体は大胆にのけぞった。声もなく腰をひねって快楽を貪ろうとする姿は、感動的でさえあった。
「ところで――“プリンス”は何処だ?」
おれは、蛇みたいにうねくる太腿から唇を離して訊いた。
「駄目よ、まだ。……教えてあげな……い。ふっふ……もっと、よくしてくれなくちゃあ」
「はいはい」
おれはゆきの最も敏感な部分に顔を近づけていった。
それだけで、ゆきはわなないた。
「さあ、何処だ?」
「宮……殿……よ」
「何ィ!?」
おれは仰天した。
あそこはエニラ師の本拠だ。さすが、コーネル・ヤンガー。虎穴どころか化物の巣にも入るらしい。
熱いものが身内にたぎってきた。こいつぁ、面白い。
おれは思いきり、顔を押しつけた。そこ[#「そこ」に傍点]は、おれの胸以上に熱く燃えていた。
「どうだ、どうだ、どうだ?」
「いい、いい、いいわ。あーああ〜〜〜〜っ」
ゆきは一気に昇りつめていく。その絶頂へ合わせて、おれは最後の質問を放った。
「“プリンス”は、宮殿の何処にいる?」
「知らん」
ひょい、とパンティに包まれた部分が消え、おれは危うく、コンクリートに顎をぶつけるところだった。
何が起こったのか――もうわかっていた。
「何をする、無礼者」
誇り高き女戦士シャルロット・クレマンティーは、味も素っ気もない鎧兜《よろいかぶと》姿で、下からおれを睨めつけた。
強い口調に、羞恥の色が濃い。頬は薔薇色だった。
「失礼」
おれは起き上がり、深いため息をひとつついた。あとひと息だったのに――何てこった。
「そう、がっかりするな」
シャルロットは、深呼吸しながら言った。この世界に出ると、よっぽどのびのびするらしい。
「うるせえ。余計なとこに出て来やがって。あと一秒待ってりゃよかったんだ」
「おまえの知りたいことは、ちゃんと、あの小娘から聞いてある」
「なにィ!?」
「私があいつと一緒にいることを忘れたか。お姉さまと言って、凄い慕いようだ」
ゆきなら、やりかねねえ。
「そりゃあ、結構だ。――で?」
おれは、揉み手せんばかりの勢いで訊いた。
「“プリンス”とは、ゼーマン家の後継ぎだな?」
「そうだ」
答えてから、嫌な予感がした。この女は――
「私はシャルロット・クレマンティー――誇り高きカッシーニ侯の騎士だ。この世に舞い戻った目的――いま叶えるぞ」
しまった。
それから、おれはあわてて“プリンス”は綽名だの、王家の名をかたる偽者だのと言いくるめようとしたが、シャルロットは聞かなかった。
何が何でも“プリンス”を殺害すると宣言する。なにせ、昔のアナクロ騎士だから、およそ融通が利かない。
つくづく困り果て、こりゃあ、おとなしくしててもらう他はないと腹を決めたとき、じろりとおれを見つめ、
「そうはいかん」
と来た。まいった。武術専門だけあって、やたらと勘がいい女だ。
「これだけは、いくら大恩あるおまえでも、譲るわけにはいかん。どうしても邪魔するというのなら、今ここで私を殺せ」
「どうして、おれを殺すと言わない?」
「私には、おまえを斬れん」
それ以上、おれは深く追及しないことにした。厄介なことになりそうだったからだ。女てのは、どんな女でも厄介だ。
「おれも殺すわけにはいかねえ。だから、しばらくの間、おとなしくしていてくれ」
「そうはいかん。殺さぬのなら、私は舌を噛む」
「そんなことをしても無駄だ。おれは自力で“プリンス”を探し出すぜ。それが本職だってことを忘れるな」
「この女の告白だと、エニラ師が大佐とやらの部屋を襲った理由は、暗殺されかけた復讐と、“プリンス”の居所を探るためだったらしい。おまえが侵入する前に、大佐は術にかかって口を割りかけた」
「どういうことだ?」
「頭の一、二文字を口にしたとき、おまえが来たらしい。それでも、おまえがゼロから探すよりは、ずっと役に立つそうだ。愚図愚図してはいられんぞ、大。最終目的はどうあれ、世継ぎを探すまでは協力し合おうではないか」
「それしかなさそうだな。――承知した」
おれは、あっさりと頭を切り換えた。この辺が一流と二流以下の差だ。
「立派なものだ」
シャルロットは幾分の侮蔑をこめて言った。
「目的のためなら、親の首でも掻っ切るさ」
とおれは宣言した。
かくて、おれは再び、あの宮殿へ忍び込むことになった。
2
とは言うものの、身体じゅうがガタガタのボロボロだ。
その日の午後近くまで工場跡で休み、おれは路上にパーク中のアメ車を盗んで、“貧民夜会地区”へと向かった。
シンの右の心臓を渡すと、パシャは気でも狂ったのではないかと思うような感激ぶりを見せた。
アラーのお恵みだ、ご加護だ、からはじまって、ついには、おれをアラーの化身だと言い出したので、何とか落ち着かせ、レーザーと機械服の修理はできたかと訊いた。
「あれだけ精巧な品だと、修理も簡単にはいかんよ。あと、二、三日みてもらおう。実に凄い。近代科学技術の結晶――究極の兵器だ」
パシャは今度は、惜しい惜しいを連発し、どちらかを一億アメリカ・ドルで譲ってくれないかと申し出たが、おれは勘弁しろと相手にしなかった。パシャは意外とあっさりあきらめ、
「八頭家の協力に対し、特別ボーナスを奮発しよう」
と言った。
「何でえ」
おれは、眼の前に出された小さな壷を見つめた。
パシャが蓋をとると、内側に溜まった赤い液体が網膜に灼きついた。
「見ていたまえ」
小指の先でひと滴すくい上げ、パシャは口へ運んだ。
「三つ数えたまえ」
芝居じみてやがる。
「いち、に、さん」
「早すぎる。……にい……さん」
途端にパシャの姿が見えなくなった。
壁にもたれかかって、こちらの様子を窺っていたシャルロットも、愕然と身を起こす。
「大――あいつはどうした?」
「わからねえ。――どうやら、その薬、透明人間になる妙薬らしいぞ。メディシン・フォー・インヴィジブル・マンだ」
「それは違うな」
パシャの声が背後で聞こえたとき、おれは大いにあわてた。こいつ、気配まで消しちまったのか。あの薬は、そこまでやれるのか?
ふり向くと、パシャはそこにいた。
「わしは見えなかったのではないよ。この薬にそんな作用はない。全く姿を見せない透明人間は不可能だ。というより、彼は一歩も自由に歩けない」
その通りだった。完全に透明になるということは、網膜まで透き通ることを意味する。ところが、あれは外部の光景を灼きつける部分だから、光を通してしまうと、必然的に物は見えなくなる。つまり、完全な透明人間は盲目のハンディを負わざるを得ないのだ。
「まさか、眼球だけ宙に浮かせるわけにもいかない。この薬は、君が見えなくなるのではなく、相手が見なくなるのだ」
「すると――精神的なものか?」
「そうだ。わかりやすく言うと、この薬を服用した人間に会うと、すべてのものが無視する――いないことにしてしまうのだ」
「孤独な薬だな」
「一種の自己暗示を強制するのだろうが、その辺はよくわからん。とにかく、持っていけ。効果の持続時間は、いま見た通りだ。試してみたが、コンピュータのセンサーやTVアイもひっかかる」
そりゃ、凄い。
「ただし、君たちを眼にしない人間には効果がない。日本の薄い扉――障子の向こうにいれば、君の声も聞けるし、気配も感じられる」
「わかったよ。気をつけよう。ありがたく頂戴するぜ」
ようやく、運が向いてきたらしい。
おれは報酬の百万ドルを受け取り、当座、必要な武器を購入した。レーザーと機械服は三日後に取りに来るからと言って、『パシャの店』を後にした。
大しためくらましが手に入ったのは幸運といえる。これで、後々、宮殿潜入記も書けるだろう。生きて帰れればな。
おれたちはとりあえず、パシャに聞いた潜伏場所――港の東側倉庫のひとつに押しかけた。
密輸品の保管場所だが、今は使われておらず、そのくせ、管理人の住まいだけはベッドもあるし、水道も電気もきているという結構な場所だ。
おかしな客がいるかなと思ったが、そんなこともなかった。
荷物をそこへ隠して、食事を摂りに出た。
突堤の近くで、おれは足を止めた。
クルーザーが並んでいる。
「どうした、大?」
とシャルロットが訝しげに訊いた。
「何でもねえ」
できるだけぶっきら棒[#「ぶっきら棒」に傍点]に言い捨て、おれは歩きはじめた。
おれが選んだのは、近くの安食堂だった。厨房にメニューを頼み、呼ばれたら取りに行く方式だ。そのかわり早い。五分で出来あがった。
店内には客が溢れている。料理用の油と肉と魚と野菜の匂いに混じって、煙草とアルコール、汗とざわめきの渦だ。
「面白い店だな」
と、シャルロットが愉しそうに言った。
「この店じゃ不満か?」
おれは、隣のテーブルにも聞こえない低声で言った。
「とんでもない。おまえは、騎士以上の騎士だ。これだけ人がいれば、敵もおかしな真似はなかなかできにくいし、第一――」
シャルロット=ゆきは、ちらりと視線を動かして、右隣のテーブルに当てた。
さっきから、ケニアの象狩り商人と、象牙の密輸の相談をしている中年の二人組。
すぐ、左隣を見た。
「昨夜、大佐が襲われてよ、手足をもがれて死んじまったらしい」
「その後すぐ、近所で大立ち回りがあったんだ。警察の車が十台と装甲車が三台も吹っとばされちまった。相手はおめえ、大型の戦車だそうだ」
シャルロットは、にやりとおれを見た。
「手近で情報収集なら、私もこんな店に入る」
気づいてやがったか。
おれは仏頂面で、分厚いハムと卵を口にしながら、シャルロットを見つめた。
倉庫へ行く途中に買い込んだセコハンのTシャツとジーンズ姿だ。当然のように、客どもの危ない視線が、バストとヒップに集中する。
シャルロットは気にした風もなく、分厚いステーキを頬張り、魚介スープに浸したパンを口へ運んだ。大した度胸だ。これで、本人そのものの外見なら、おれも気にせずに済むのだが、なんせ、ゆきそのものだから、妙にヤキモキしてしまう。
「気になるか、私が?」
不意に訊かれた。
「いや」
「どんな女だと思う?」
「わからねえ」
「私もおまえに本当の姿を見せたいのだ。だが――」
「んなこた、どうでもいい」
おれは、きっぱりと言った。
「おめえがどんな女だろうと、おれには関係ねえし、興味もない。おれの知る限り、眼の前の女は最高のパートナーだ。お互い、それで十分としよう」
ふと、シャルロットは眼を伏せた。すぐに開いて、
「同感だ」
と言った。
胸の奥に、小さな痛みが走ったが、おれは無視して、
「今のうちにうんと食っておけ。今夜、忍び込む」
「大丈夫か?」
シャルロットは心配そうに言った。
「あいつが出ている[#「あいつが出ている」に傍点]うちに、おまえは大奮闘したという。私の知る限り、この国に着いてから、ろくに休んでいない。よく、これまで生命が保ったものだ。二、三日、休め」
「時間がないと脅したのは、おまえだぞ。エニラ師も大佐も、まさか次の日に、おれが出向くとは思っていまい」
「さすがだ」
シャルロットは微笑した。ゆきの笑顔だった。一緒に暮らしてかなりになるが、こんな笑いを見たのは数えるほどしかない。
「どうした?」
とシャルロットが訊いた。
「もう一度、笑ってくれないか?」
シャルロットは眼をしばたたいた。そんな光景を、おれは長いこと見ていなかった。女の眼尻から光るものがにじみ、桜色の頬を伝わった。
「二度は笑えない」
と、シャルロットは言った。
一時間ほどそこにいて、おれたちは倉庫へ戻った。
食堂で耳を澄ませた成果は、かなりのものと言えた。
この街の噂話は、かなり信憑性があると見ていい。
それによると、大佐は重体で、救急病院のICU(集中治療室)へ運ばれたが、なんとか生命はとりとめる模様。エニラ師の消息は目下不明だが、最も信頼度が高そうなのは、同じく病院へ入院したというものと、親衛隊を宮殿警護の目的で派遣したとの噂だ。
おれは、エニラ師をKOしたときの手応えを憶い出した。不死身の化物爺いのあの不様さは、一体全体、どういうわけなんだ。
到達した結論はこうだ。
エニラ師の発揮する“能力”を支えているのは、何か精神的なものだ。
おかしなたとえ[#「たとえ」に傍点]を出すと、ボール紙で出来た生物が二匹いる。肉体(?)的にはどちらも同じ――脆弱といってもいい。
ところが片方は一種の精神力によって、自分の肉体を強化できる。もう片方が、木の棒でぶん殴っても、びくともしないわけだ。
しかし、もう片方が何かの拍子で自分と同等の精神力を身につけると、条件はたちまち同じになる。ここのところが物理法則にあてはまらない部分だが、単に相手の精神力が強くなったというだけで、そのパワーや木の棒自体はちっとも変わらないし、強くなった相手の精神自体が攻撃をかけるわけでもないのに、一方の肉体はたちまち強化能力を失ってしまうのだ。
ショットガンは平気だが、おれのパンチにはひとたまりもないという結果が、ここに生じる。
おかしな推理だが、こうとしか思えない。問題は、おれの精神力――危機一髪で湧き上がってきたパワフルな感情だ。これも推測だが、日本――赤坂の心理研で受けた処置が、ある種の効果を発揮したのではなかろうか。
とは言うものの、いつ何時でも爆発というわけにはいかないのが欠点だ。しかし、エニラ師が病院入りしてる(確証はないが)なら、普通の精神状態でも何とかなるだろう。
「大、頼みがある」
と、シャルロットがやって来た。
「何じゃい? 厄介な用ならごめんだぞ。おれはひと寝入りする」
「食べてすぐ寝ると牛になるぞ」
「余計なこと知ると早死にするぞ」
おれは悪態をつき返した。ゆきの野郎、何処へ行ってもロクな真似しやがらん。
「今夜、戦いになった場合に備えて、勘を取り戻しておきたい。相手をしてくれ」
おれは、じっと鎧姿を凝視し、
「やだ」
と答えた。
「何故だ?」
「おまえ、本気だろ。おれは眠いんだ。本番前に斬られちゃ敵わない」
「しかし、相手になるのはおまえしかいない。どうしてもNOなら、これから出かけて、二、三人腕試ししてくる」
「よさねえか」
おれはあわてて立ち上がった。試し斬りに決まってる。どうして、こう、ナウくねえのばっかり揃ってやがるんだ。
「わかった、わかった。その代わり、一回勝負だぞ」
「承知だ」
シャルロットの眼に、凄まじい光が点った。面白い。――全身から、けだるさが吹きとんだ。
おれたちは、がらんとした倉庫の真ん中に立った。
おれは素手ではない。倉庫の壁からひっぱがした一メートルほどの角材が大刀代わりだ。
「敵もライフルを持っている。銃剣つきだ。突きも斬りもする。おれは容赦しねえ。おまえも殺す気でやれ」
「うれしいぞ、大」
ちっとも、うれしかねえよ。
おれは角材を槍のように構えた。槍術を齧ったことはないが、棒術なら親父に教わった。杖術はおふくろからだ。
シャルロットは、しゅるんと剣を抜き、八双に構えて――停止した。
「どうした?」
おれは誘いをかけた。
「門番だって、これくらい使うぞ。怖いから動かないでくれと頼むのか?」
さっとシャルロットの顔に朱がのぼった。
「いえええい」
声より、ふり下ろす刃《やいば》が速いのは、大したものだった。
横殴りの一刀は、もろに受ければ角材ごと真っぷたつだろうが、おれは一歩下がってかわした。
喉もとに風が当たった。気分はよくない。
「うおっと!」
思いきり地を蹴った足底を銀光がかすめた。いつ返ったのか眼にも止まらない。
着地した頭上へ、一刀が襲った。
かっと音をたてて、刀身は角材の半ばまで食い込んだ。
当たる瞬間、角材をひねって斬れ味を鈍らせたつもりだが、さすがは歴戦の勇士だ。
押してくる。――と思った瞬間、力の方向が変わり、引かれた刃もろとも、角材はおれの手を離れた。トリッキーなテクもいける。大した女だ。
おれから眼を離さずに角材をもぎ取り、シャルロットは再び前進してきた。
刃は右へ下向している。
殺気がもろ、吹きつけてきた。こいつは本気だ。
びゅっ、と風が唸った。右下から薙ぎ上げた刀身を、おれは間一髪、左へとんでやり過ごした。
膝に力を加え、シャルロットの胸元へダッシュする。腰投げで叩きつけるつもりだった。
左肩に鋭い痛みが走った。返し技が特技なのを忘れていた。次の一閃は、地べたへ転がって避けた。格好もへちまもなく、横転して逃げる。
立ち上がろうとしたおれの眼前を、流星が貫いた。突き出された刃を、身体の動きでかわすのは不可能だった。
「あっ!?」
と叫んだ。――シャルロットが。
おれを刺殺しようとした自分の心の動きに驚いたのではない。
渾身の力を込めた一刀は、宙で固定されていた。
おれの左拳の中で。
傍目には、拳を突き通したと見えるだろう。
シャルロットの必殺の刀身を、微動だもさせず固定しているのは、その切尖《きっさき》をはさんだ人さし指と中指の腹であった。
「大、おまえは――!?」
「何かの小説で読んだんだよ。昔の忍者はこんな芸当ができたそうだ」
と言っても、シャルロットにはわからないだろう。
「シャルロット――太刀の代わりはあるか?」
「いや」
「なら――こうだ」
おれは、シャルロットの力に合わせて力を抜き、次の瞬間、拳を旋回させた。
昔、大西流合気道の天才から習ったタイミングと気の技は、鈍っちゃいなかった。
刃は切尖を中心に旋回し、シャルロットも同じ方向へ一回転した。地べたへ落ち、立ち上がるとき、
「また、敗れたか」
苦々しく言った。
「そういうこった。一本勝負の約束だぞ。とっとと用意しろ」
「もう、済ませてある。後は行くだけだ」
シャルロットの返事に、おれは笑いかけた。
「では、おれはひと寝入りだ。もう邪魔をするな。おまえも今のうちに眠っておけ」
言い終えた刹那、おれは眠りに落ちた。
自己催眠の奥の手だ。殺意でも感知しない限り、眼を醒ますもんじゃない。
暗黒が支配し――おれは眼を醒ました。
天井のライトが黄色く点っている。体内時計も八時間経過――午後十一時を告げている。熟睡だ。
それなのに、何だ、この気の重さは。
やる気がしない。面倒臭い。鬱陶しい。――無気力の波状攻撃だ。
「大」
と管理人室の入口の方で、シャルロットが呼んだ。
できれば、そっちは見たくなかったよな。仕方がない。これも人生《セ・ラ・ヴィ》だ。
「どうも、お久しぶりです」
と、名雲陣十郎が陰気に挨拶した。
「出てけ」
とおれは反射的に言った。
「今だけは、おまえに会いたくない。出て行け。二度と帰って来るな。――待てよ、どうしてここがわかった?」
「誰彼構わず、八頭さまのことを訊いて回りましたら、ある方がここだ、と」
「どいつだ、それは!?」
パシャかな、と思った。
陣十郎は右眼を手で隠し、
「こういう方で」
ブルーか。なるほど、政府転覆を企むだけあって、耳ざとい。この分じゃ、見張られてるかな。
さり気なく勘を働かせてみたが、そんな感じはなかった。もっとも、厄病神がそばにいちゃわからない。
「とにかく、出てけ」
「冷たいことを。苦労話なりとお聞き願います」
「おれは、おまえの親じゃねえんだ。ゲシュタポに拷問されたか?」
「幸いにも否で。ガス・バーナーで焼かれる寸前、ボンベが爆発いたしました」
「見ろ。そばにいるだけで、不幸が押し寄せてくるから、相手は拷問なんぞしている暇がねえ。だから、おまえはいつも無事なんだ。帰れ。これ以上、ロクでもない目には遇いたくない」
一気に言い放つと、陣十郎は急にしょげ返った。
「はあ、実は――」
「うるせえ、出て行け」
「はあ」
ぺこん、と首を垂れ、陣十郎はすごすごと部屋を出て行った。
「大――いいのか?」
とシャルロットが、奴の後ろ姿を見ながら訊いた。
「仕様がねえだろ。あいつは他人を不幸にする分、てめえの方はタフなんだ。おれたちが戻るまで、何処かで適当にやってるさ。無事に帰って来られたら、引き取ってやろう」
「無事に帰って来られたら、な」
「そうだ」
おれはシャルロットにウィンクしてみせた。
「そろそろ行くぞ。用意はいいか?」
女騎士はうなずいた。
前回はグライダーという大仰な方法をとったが、今回はひどく簡単に入り込めた。
何しろ、宮殿内にシンパがいるのだ。
出かける前に、名雲秘書のところへ電話し、事情を話すと、午前零時きっかりに裏門へ来て下さい、と言われた。
近くまで、またもかっぱらった車で乗りつけ、小さな門の見える物陰で待機していると、零時きっかりに門扉が開いた。
名雲が顔を出し、きょろきょろとおれたちを探し求める。おかしな様子はない。
おれたちは素早く駆けつけた。
「ようこそ」
と妙な挨拶に迎えられた。
「裏門の警備員はどうした?」
「は、私の仲間と替えてもらいました」
名雲はにっこりして、
「これはゆきさま、相も変わらずお美しい――と言いたいところでございますが、確か、別人でございましたな」
電話でシャルロットのことは話してある。
「よろしく頼む」
シャルロットは黙礼した。どう見てもゆきだ。名雲も慣れないらしく、少し、きょとんとしている。気を取り直して、
「まさか、“プリンス”がこちらにいらしているとは、私も存じませんでした。いつ、どうやってお運びしたものか」
「多分、おれたちと同じく、内緒にだ。警備員に大佐の息のかかっている奴がいれば、子供ひとり何とでもなる。だが、あんたがこうじゃ、何処にいるかはやはり――」
おれは、シャルロットの方を向いた。
「まかせておけ」
女騎士はうなずいた。まかせるのはいいが、この女の目的は“プリンス”の首だ。たった今から、敵と考えることにしよう。
「敵の動きはどうだ? 電話じゃ盗聴されてると危《やば》いから、長話もできなかったが、エニラ師の親衛隊が来てるのは本当らしいな」
「はい。申し上げた通り、警備と称して、何やら――恐らくは“プリンス”を――探しております」
「“プリンス”が運び出された可能性はないか?」
「私の知る限りでは」
「親衛隊は何人だ?」
「一〇名でございます。どいつも、ちょっと人間離れした感じの――ロボットみたいな方々で」
方々というのがこいつらしいが、おれは背中に冷水を浴びた気分だった。
あの大男みたいのが一〇人もいたら? 気分を変えようと、
「皇太后はお元気か?」
「はい。すこぶる。――今朝もお目にかかりました。あなたさまのこと、ひどく気にかけておられましたよ。“プリンス”も、あなたのような男に育てたいと」
「冗談はよしてくれ」
吐き捨てたが、まんざら悪い気分じゃなかった。
「どちらへ行かれます?」
名雲が訊いた。案内する気らしい。おれは、シャルロットをふり返り――やめた。
「とにかく、ご苦労だった。礼は後でする。逃げるのもこっちでやるから、これでおれたちのことは忘れてくれ」
「承知いたしました」
名雲は深々と一礼した。おれはふと、
「陣十郎に会ったぞ」
と言った。
「それはそれは」
にこやかに応じたが、あまり嬉しそうでもない。生ける厄病神だ。実の弟といえど、うんざりしているのだろう。
「じゃ、な。――ありがとう」
「ご無事で」
至極、クールにおれたちは別れた。
名雲が歩き去るのを見届け、おれはパシャに貰った宮殿の見取り図を広げた。
「ここが現在地だ。“プリンス”の居所を指さしたら、賞めてやるぞ」
「ひとときの賞讃など、水の泡と同じだ」
「くそ」
シャルロットは地図を手に、周囲を見回し、北の方角を向いた。
「あっちだ」
「よし」
おれは『パシャの店』から仕入れた装備を背負い直した。
今回の主要武器は、オーストリア・ステアー社の最新型ACR《アドバンズト・コンバット・ライフル》である。こいつは、通常の弾丸ではなく、長さ四二ミリ、直径一・五ミリ程のカーボン製の矢(フレシット弾)を、射ち出す。発射速度は驚くなかれ、秒速一四九〇メートル。マッハ4・5に近い。しかも細い針状の弾芯は、通常ライフル弾にくらべて風の影響も極めて少なく、遠距離射撃において抜群の命中率を誇る他、人体に対して凄まじい殺傷力を有するのだ。六〇〇メートル先までは、フラットな弾道を描くという。
弾数は四〇発。しかも、このACRには、おれの注文で、ドイツ軍用の最新型榴弾発射装置KWG7が装着されていた。
なるべく隠密裡に事を運びたいが、エニラ師の親衛隊相手ともなると、そうはいくまい。カーボンの針より、榴弾の方が効く。KWG7のいいところは、従来の装着用発射器が、せいぜい四〇ミリ榴弾一発にとどまっていたのを、三〇ミリ榴弾五発まで連射OKにした点だろう。一発ごとに空薬莢を排出し、次弾をこめる手間は、戦いの場で生命とりになりかねない。
これも『パシャの店』から仕入れた米軍の迷彩戦闘服の上に巻いたコンバット・ベルトには、フレシット弾倉一〇本、榴弾二〇発がくくりつけられていた。
あとは、各種手榴弾と、ヒップホルスターにグロック、腰の後ろにコンバット・ナイフ。
シャルロットは――鎧と剣だけだ。飛び道具とは卑怯なりと、どうしてもOKしなかった。
黙々と庭園内の木立にまぎれて進む。足元に影が落ちている。いい月だ。
一〇分も経ったろうか。急に光景が変わった。
木立は姿を消し、代わって長方形だの十字形だのの影が林立しはじめたのである。
何か――神韻縹渺《ひょうびょう》たる雰囲気がおれたちを包んだ。
墓地だ。
その整然さ、墓石の見事さからして、王家のものだろう。
なるほど。ここなら、ちょっとわからない。
シャルロットは黒い鉄柵の前で少しためらっていたが、すぐに開いて扉を押し開け、内側へ入った。
おれを見もせず、ぐんぐん前進する。
その足が止まる前に、おれも目的地に気づいた。
大理石造りの霊廟であった。月光がさらさらと表面を刷《は》いている。
入口には鉄扉がはめこまれ、かなり巨大な代物だ。蔦がびっしり巻きついているのを見ても、ひどく古い――王国成立当初のものだろう。
銘板を読もうとしたが、ゼーマン家の文字しか読み取れなかった。
おれが口を開く前に、シャルロットの腰から銀光が躍った。
美しい響きとともに、錠前が地に落ちた。凄い腕前と切れ味だ。
把っ手を掴んで引くと、蝶番のきしみもなく長方形の空間が黒々と口を開けた。
ためらいもせず入りこんだシャルロットを追って、おれも暗黒へ吸いこまれた。
「ドアを閉めろ」
すぐ隣でシャルロットが言った。
その通りにすると同時に、廟内に光が流れた。シャルロットが電源のスイッチを入れたのだ。夜の監視用だろうか。
おれたちの立つ床の二メートルほど先から、石の階段と手すりがゆるやかなカーブを描きつつ、こちらも二メートルほど下の安置室へと下りている。
手すりの上から覗くと、古びた石床の上に、三つの棺が並んでいた。
しかし、それだけで、“プリンス”のプの字もない。
おれは、シャルロットを見つめた。
その考えを読んだみたいに、
「この下だ」
とつぶやき、シャルロットは階段を下りた。下りても止まらず、棺の方へ行き、真ん中のやつ[#「やつ」に傍点]の蓋に手をかけた。
開けるんじゃなかった。押した。
と、棺を乗せた一段高い部分が音もなく旋回し、床は三日月型の出入口と、さらに階下へとつづく石の段を示したのである。
シャルロットの「この下」とは、この意味だったのだ。
おれたちは無言で石段を下った。五メートルほど下に広い地下室が待っていた。何もない。
殺気が入り乱れた。大佐の部下だろう。奥の通路や物陰で待ち構えている。霊廟の錠前からして、別の出入口もあるにちがいない。だからこそ、名雲秘書にもわからなかったのだ。
頭上で、床が開いた。
これなら、派手にドンパチしても、音が洩れる気づかいはゼロだ。
おれは胸のスリングから催涙弾を一本抜き、その胴にテープで止めてある涙腺凝縮剤を飲み込んだ。三錠のうち一錠をシャルロットに渡す。
「何だ?」
「涙と咳を出なくする薬だ。これから、いよいよやるぞ」
シャルロットが嚥下《えんか》するのも待たず、おれは催涙弾を通路へと放った。
「ワン……ツウ……」
スリーへいく前に、ボン、と火花が上がり、凄まじい密度の白煙に変わった。
苦鳴が湧いた。
素早く下げた頭上を、銃声と弾丸がとんでいく。
盲射ちだ。当たりっこない。
「なるべく、殺すな」
言いおいて、おれは突進した。くそ、シャルロットの方が速かった。
白煙が世界を包んだ。
その中で、鈍い音がつづけざまに湧き、人影が幾つも床に崩れ落ちた。峰打ちだろう。
見事なもんだ。ひとりも残さない。
煙を抜けると、前の壁に鉄扉が埋まっていた。
新型の錠がつけてある。
シャルロットが手の一刀をふりかぶった。
「よせ、刀が折れるぞ」
おれはそう忠告して、胸のパウチから粘土状のプラスチック爆弾を抜き取り、錠前を包んだ。二メートルほど下がり、付属の発火リモコンを向けてスイッチを入れる。
凄まじい熱と火花が上がって、錠前は溶解した。
シャルロットより早く近づき、おれはドアを蹴った。
十畳ほどのスペースに、粗末な鉄のベッドとテーブルが置かれていた。
ベッドの上で、見慣れた顔が、こちらを見つめていた。
「本物だよ」
と、おれは言った。
「来てくれると思っていました」
“プリンス”の声には、顔同様、憔悴の翳が薄かった。見ためはやわ[#「やわ」に傍点]だが、中身はタフそのものだ。黒いポロシャツにスラックス姿も、汚れた感じはしない。気品のせいだった。
おれは微笑し、凍りついた。
「ゆきさんも」
という声に応じて、シャルロットが前へ出たのだ。
「ゼーマン家の後継ぎか?」
“プリンス”が訝しげな表情をつくった。
「その気品、顔立ち――まぎれもない」
白刃がゆれた。
「よせ!」
叫びざま、おれはシャルロットに体当たりした。
かわされた。――と見るや、おれも停止した。
“プリンス”を背に、シャルロットと向き合う。
「ここまでだ」
と女騎士が宣言した。
「ついに、おまえと戦わねばならない。哀しいぞ、大」
「古い怨みは捨てろ。もう、おまえの時代じゃねえんだ」
「私もそうしたい。だが、カッシーニ侯の戦士たる誇りが許さん」
「一体、どうしたんです?」
“プリンス”が眼を丸くして叫んだ。
「何でもない。ちと、意見の相違があってな」
と、おれは弁解した。
「すぐ収まる。ま、レクリエーション代わりよ」
「その通りだ」
シャルロットが、にっと笑った。
ぐいと突き出した長剣に、今度こそ手加減はない。ここへ来る前の予行演習でさえ、本物ではなかったのだ。
射すくめられたのは、おれの方だろう。
シャルロットの身体が急に膨れ上がった。間合いを詰めたのだ。おれも気づかぬ間に!
白光が右の首すじへと吸いこまれるのをおれは見た。
悲鳴が上がった。
『エイリアン魔神国〔完結篇1〕』完
[#改ページ]
あとがき
お待たせしました。――と言うしかありません。
「エイリアン魔神国〈完結篇〉」の登場であります。しかも、前代未聞の〈完結篇1〉。〈2〉はもちろん、〈3〉もあり得るという恐るべき事態を、読者の皆さんは、果たして、どう受け入れてくれるのでしょうか。
「いい加減に終わらせろ、と非難殺到ですよ」
「恥ずかしくありませんか。最後の最後まで、主人公をこき使って」
担当のI氏の声が、容赦なくガラスの心臓と黄金の魂を貫きます。
ひょっとして、読者に対してとんでもない悪業を重ねているんじゃないかとの思いはもちろんある。
しかし、私は、大とゆきの冒険は、長ければ長いほど読者も楽しんでくれるものと信じて疑いません。
飽きられるような冒険など冒険ではないし、そんなものを書いたつもりもありません。そもそも、この二人がいるだけで、何もしなくても、世界は大冒険の渦中にあるようなものです。
彼らはまだやる、まだ戦う。
従って、作者も休めません。
次回もまた、魔神国でお目にかかりましょう。
平成三年一月某日
「処刑教室2」を観ながら
菊地秀行