エイリアン魔神国〔下〕
菊地秀行
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目次
第一章 監獄破りの哀愁
第二章 エニラ師邂逅(かいこう)
第三章 峻峰魔界
第四章 妖物山越え
第五章 コーネル処理班
第六章 貧民夜会都市
あとがき
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第一章 監獄破りの哀愁
1
白い建物の鉄扉に手をかける前に、おれは頭上をふり仰いだ。
月が出ている。満月に近い。女たちから見れば、なんてムードのある好青年、ということになるのだろうが、今はムードもないし、好青年でもない。
おれは雲の具合を調べたのだ。結構なことに、今日の夜空は徹底して雲が嫌いだった。
「いい月ねえ」
後ろで声がした。ムードに濡れそぼっていた。
「行くぞ」
おれはふり返りもせず、不愛想に扉の把っ手へ手をかけた。
「もう。――ムードのない男ねえ」
ゆきが立腹と軽蔑をミックスして言った。
「監獄破りにムードなどあるもんか」
おれは冷たく言い返した。
「おまけに、その前に墓場へ侵入しなきゃならねえときた。おまえも、さかりのついた犬みたいに、月に浮かれてるんじゃねえぞ」
「なによお、その言い草」
当然、ゆきは言い返した。
「それだったら、あたしが行くと言い出したとき、止めればいいでしょ。素直にOKしたくせに何よ。それに、大体、墓あばきなんて、あんたの一家の得意技じゃないの」
「あばくんじゃねえ。通路として利用させてもらうだけだ」
おれは、ここへ来るまでの途中に拾った木片を鍵穴に突っ込み、軽く左右へ回した。
かすかな引っかかり。これが鍵のポイントだ。
おれは微妙な噛み合わせを外さないよう、全神経を指先に集中した。
左へゆっくりと回す。
ゆきも息を詰めているのがわかった。
手応えが伝わった。大当たり。
心棒の外れた古くさい錠前を鉄扉から外し、おれは、内側の気配を確かめながら、扉をギイ、と開いた。
湿った墓所の香り――とはいかなかった。おれの顔を撫でたのは、十分にエアコンの効いた乾燥空気だったのである。
「行くぞ」
おれはゆきに合図しようとしてふり向いた。
――!?
眼の前に、どす黒い髑髏の顔があった。
「やめんか、馬鹿もの」
軽くひっぱたくと、髑髏はすぐ下に降りてゆきの色っぽい顔が覗いた。
「そんなもの、何処で見つけた?」
低い声でとがめると、左手の地面を指さし、
「退屈だから、そこの土をいじってたら出てきたのよ」
「とんでもねえことするな。罰が当たるぞ」
「ふん、だ」
しかし、素人がちょっと掘ったくらいで骸骨が出てくる墓地も墓地だ。この国の貴重な観光収入のひとつだというのに、こんなことでいいのだろうか。
「さっさと来い」
おれは、まだ、地面の上をほじくり返しているゆきを叱咤した。
「うるさいわねえ。自分こそ先に入りなさいよ」
こんなとこで問答していてもはじまらない。おれは、黒々と開いた墓穴の入口へ一歩を踏み出した。
ここに至るまでの経過は、こう[#「こう」に傍点]だ。
“プリンス”が収容された刑務所――“魔女の寝台”への侵入法を検討した結果、この墓地の地下から入るのがいちばんということになったのである。
“魔女の寝台”は、十八世紀半ばに建てられたカソリック系の修道院だったのだが、その世紀の終わりに、何か異常な事件が起こって、坊主たちは全員国外へ追放された。この事件に関しては、どんな資料にも“異常な”“身の毛もよだつ”“怪異な”と記されているきりだ。後に、治安担当官が調べてみると、地下室のあちこちから、外部へ通じる脱出路が何本も発見され、そのほとんどはつぶされたものの、たった一本が今も人知れずに残り、その端が、今おれたちがいる墓地の地下室に通じているそうだ。
もちろん、その辺の資料にゃ出ていないし、この国へ来てから調べたものじゃあない。ニューヨークのホテルで、米国政府提供のローラン共和国資料を貪り読んだ結果だ。さすがは米CIA。こんな小さな国に関する二〇〇年近くも前の書類を、よく揃えていたものだ。
鉄扉の向こうは、すぐ、白い石段が地下へとつづいていた。
明かりは細目に開けておいた入口からこぼれる月光きりだが、おれの眼に不自由はない。
この街唯一の観光資源だけに、訪れる客も多いのか、かなりすり減った石段を、おれとゆきは静かに降りていった。
おれは言うまでもないが、ゆきの歩き方も見事なものだ。特訓なしで一〇〇パーセント音が消せる。太宰先蔵の孫――天性のものだろう。
三〇段ほどで狭い廊下に着いた。
「ね、電気のスイッチがあるわよ。こんな時間に墓地を覗きに来る人間もいないでしょ。点けよ」
「不自由か?」
と、おれは訊いた。
「光の下よりはね」
「見えるなら、我慢しろ。敵は見えないかもしれん。明かりをつければ、五分と五分になっちまう」
「こんな墓穴の何処かにゲリラや兵隊がいるわけないでしょ。ミイラ様の宮殿よ」
ゆきは右の方へ顎をしゃくってみせた。
そっちを見るまでもない。
おれの眼は、左右の壁にはめ込まれたガラス張りの寝台に横たわる人影を幾つも確認していた。
色褪せてはいるが、仕立てられた当時は眼も綾な色彩だったろうと想像される長衣、そこからこぼれる干からびた手足――見事なミイラだった。資料によれば、その数約三〇〇〇体――よく集めたものだ。
「とにかく、明かりはいかん。行くぞ」
「ふん、ケチ」
ゆきの悪態を背に、おれは前進を開始した。
地下道は、蛇の胴みたいに曲がりくねっている。暗闇でこんなところに放り込まれたら、狭苦しさと絶望のあまり気が狂ってしまうだろう。普通の人間なら。
おれは平気の平左だ。父親に、一メートル四方の箱に入れられ、地面に埋められたのは、四歳のときである。孤独を感じたのは最初の半月だけで、三カ月もつづけたら平気になった上、夜目も利くようになっちまった。人間、訓練と素質次第という見本だ。
それを知っているから、ゆきも黙々とついてくる。
並の神経じゃわからんだろうが、通路はわずかずつ下降していた。そして、下へ行くに従って、おれたちを取り巻く光景は、悽愴の感を極めてきたのである。
そもそも、ミイラという奴は、古代エジプトでつくられたように、死亡した人間の霊が再びこの世へ戻ってきたときの容れ物だ。一般人でも金さえ払えばミイラ処理を受けることができたのだが、寺院に葬られるくらいのは、その土地や人々に貢献した高徳(?)の人間に決まっている。
ところが、この寺では、僧侶はもちろん、学者、警察官、それだけでは足りずに犯罪者までミイラ化して展示中なのだ。
エジプトとは異なり、ここのミイラたちは、死後も人々の憶い出に残りたいという願いが結実したものだが、犯罪者たちが加えられたのは、観光都市としてやっていこうと決まってからである。決めたのは市当局。とんでもねえ決議をするものだ。
壁の穴は広くなり、もう服などつけてはいない土色のミイラたちが、何十体も無造作に積み重ねられている。
どんな精神状態の野郎が並べたのか、顔は天井を向かず、すべてこちらを睨んでいるから、不気味なことこの上もない。
皺だらけの顔に、ぽっかり開いた眼窩、剥き出しの歯茎から、ぼろぼろに突き出た歯並み。犯罪者だけあって、干物になってからも残る悪相は、いきなり立ち上がって掴みかかるようにも思え、恐怖のあまり卒倒する客も多いという。
「やな[#「やな」に傍点]とこね」
と、ゆきがささやいた。
「観光客よりも、悪いことした奴らを閉じ込めればいいのよ。三〇分もいればみな、前非を悔いるわ」
「それからどうする? 出してやるのか?」
「ううん。一生閉じ込めて、新しい展覧品にするの」
「この悪党」
「墓荒らし」
女との口論の愚を避け、おれは前進を開始しようとした。
「ねえ」
と、ゆきが呼びかけた。
「ん?」
「何となく、気味悪くない?」
「ああ」
おれは何気ない風に応じた。こんなところで、ゆきにパニックでも起こされたらたまったものじゃない。
気配は地下へ降りたときからあった。
ミイラとは言っても、そこに宿っていた精神とか魂とかまでが日干しになったわけじゃあない。
まして、生前に好き勝手なことをやらかしていた凶悪犯どもだ。死んでもこの世の未練は断ち難いだろう。
これと同じ感覚は、メキシコのグアナファトにあるミイラ博物館で味わったことがある。メキシコのほぼ中央にある標高二〇〇〇メートル、人口約八万――二五〇年の歴史を有する古都だ。
道は入り組み、坂道の多いところはスペインの古都に似ている。
メキシコ・シティから四〇〇キロ。メキシコで最も乾燥した地帯のため、ミイラ製造にはもってこいだ。
博物館は西のはずれに市営墓地《パンテオン》に隣接して建っていて、約二〇〇体のミイラを展示中だ。
この博物館の特徴は、何百、何千年も前にできた貴人のミイラを飾ってあるのではなく、ほんの一〇〇年前程度の一般人を集めてあることで、それこそ、千差万別のミイラがいる。
喧嘩で殺られた奴、病死した奴、交通事故死、もちろん、死刑になったものも、仲良くガラスケースの中に収まっているのは壮観だ。
ところで、この中でひとつ、あまり感心できない死に方をしたミイラがある。
エドガー・アラン・ポーの小説「早すぎた埋葬」を地でいったものか、地面の中で息を吹き返した殺人者がいたのだ。
どんなにひどい状況かは、容易に察しがつくだろう。身動きもロクにできない棺《ひつぎ》の中で、空気は徐々に減っていく。
後年、墓地が手狭になったため掘り返した棺の蓋には、かきむしった跡がくっきりと残り、ミイラ化した殺人者の指には爪が欠けていたという。そいつが行儀よく成仏したとは、とても思えない。
苦しみは憎悪しか生まないものだ。恐らく、この通路にも、そんな奴らの妄念が何千人分も残っているのだろう。
だが、いまは死者に脅える時間ではなかった。
やあねえ、やあねえ、とこぼすゆきを尻目に、おれはひたすら前進した。
垂直距離で約五〇メートルに達したとき、坂の傾斜は止まった。
前方へとつづく通路を見て、おれは奇異の感に打たれた。
三メートルほど先で、いきなり右へ折れ曲がっているのだ。
首をひねりひねりそこへ入ってみると、今度は五メートルほど前方で左へくねっている。
工事請負人が、突如、へそが曲がったようなひねくれ具合は、絶対に何か尋常ならざる兆しだ。こうしなければならない事情が存在したに違いない。それが何なのか、思いを馳せる余裕は、いまのおれにはなかった。
「ねえ、ちょっと、この通路おかしいわよ」
と、ゆきがおれの胸中を代弁した。
「どう、このひねくれ具合。まるで、原子力発電所みたいじゃない」
その通りだ。原発の通路というのは、炉心に近ければ近いほど、ジグザグに曲折し、はじめて眼にした者を疑惑に陥れる。答えは簡単。万が一漏出した放射能が、一気に通路を直進しない用心だ。
「だがな、ここに原子炉があるとも思えねえぞ」
おれの台詞に、ゆきは鼻を鳴らした。
「あたり前よ。それと似た何かに決まってるじゃあないの。妖気はどう?」
「かなり凄いが、追いかけてくるのを遅らせるほどはねえ。それに、もうたっぷりと満ちているよ」
「それもそうね。すると、何かしら。あたし、帰るわ」
ゆきは背を向けた。驚いたことに本気らしい。さっさと通路を戻ろうとする。
「こら」
「うるさいわねえ、追わないで。“プリンス”のことはよろしく頼むわよ。あたしは、外でバック・アップするわ」
一方的に言い残して、姿は角を曲がった。小憎らしい捨て台詞が狭苦しい通路に反響する中を、おれは無言で前進を開始した。
角を三つも折れないうちに、足音が追ってきた。
「こんにちは、大ちゃん」
明るい声が背を叩いた。
「こんにちは、ゆきちゃん」
おれはわざとらしく、嫌味をたっぷりと振りかけて応じた。
「どうしたの?」
「冗談じゃないわよ。あんな気味の悪いとこ、ひとりで戻れるもんですか」
ゆきは憎々しげに言った。
「こうなったら、出口まで一緒よ。責任をもって案内してちょうだい」
「何が責任だ、阿呆」
こうして二人に戻ったおれたちは、狭隘な通路をひたすら前進した。
そのうち、
「ねえ、ミイラの数が少なくなってきたわよ」
ゆきが弾んだ口調で指摘した。
確かに、今まで壁の両側を隙間なく埋めつくしていた乾燥人間たちの姿はめっきり減って、角から角へ移る間にひとつ、それも、片側の壁だけというつつましさだ。
「あら」
とゆきが、素っ頓狂な声を上げたのは、さらに角を四つほど曲がってからだった。
原因は明らかだ。壁には窪みだけが、ぽこんと残っていた。
「何処いっちゃったのかしら」
「わからん」
「やだ。この辺、うろついてるんじゃないでしょうね」
「かもしれねえぞ」
おれは意地悪く言った。
「なにしろ、水分抜かれて干からびた干物だ。途中で眼え覚まして水が欲しくなり、あちこち彷徨してるのかもしれんぞ。おまえみたいに水気の多い女は要注意だ」
「やあねえ、変なこと言わないでよ」
急に鼻声を出し、ゆきはおれの背に身体を押しつけてきた。
わざとバストを密着させて来やがる。背中で重い肉がつぶれ、ねっとりとしたぬくみ[#「ぬくみ」に傍点]が染み込んでくる。
「ね、ちゃんと助けて。――あたしの身体が、ミイラに吸われて、カサカサになってもいいの?」
喘ぐような声と、言葉から来る連想に、おれはぞくり[#「ぞくり」に傍点]とした。
全裸のゆきの肢体に、干からびた怪物どもが群がり、唇を押しつけている。
「嫌、嫌」
とゆきは身悶え抵抗するのだが、好色なミイラどもは離そうとしない。豊かな乳房も色っぽい唇も、皺くちゃなタクワンみたいな口に吸われて……。
「ちょっとお、何、想像してんのよ?」
ゆきに背をどつかれ、おれは苦笑した。後ろにいるくせに、おれの顔も見ずに考えが読めるのか。
「物騒な気が強くなってきたぞ」
と、おれは、少しだけ照れ隠しの意味もこめて警告した。
「何よ、それ?」
「前方だ。どうやら、終点が近いらしい」
おれは二メートルほど先の曲がり角に顎をしゃくった。
凶気はその奥にわだかまっていた。
妖気などという勿体ぶった代物じゃあなかった。凶気だ。あらゆるものに敵意と憎悪を叩きつけ、八つ裂きにせずにはおかない獰猛な気であった。
2
おれはAK47を握り直した。安全装置《セフティ》は解除し、いつでも発射OKの状態だ。
ゆきのM16A2ライフルもそうだろう。世界最高のトレジャー・ハンター、太宰先蔵の血を引いた娘は、少なくとも武器の扱いにかけては天才級《クラス》だ。どんなライフルを使わせても、あらゆる気象条件内――冬のシベリア並みの極寒だろうが、インド洋の暴風雨顔負けの雨風が荒れ狂っていようが、楽々と必中弾を浴びせかけられる。
「用意はいいな?」
「はいよ」
いいタイミングだ。日常生活もこうなら、申し分ないのだが。
姿が見えないように壁に身を押しつけ、おれは向こう側の気配を探ったが、凶気ばかりで、その発現点までは掴めなかった。気配もない。少なくとも、そいつ[#「そいつ」に傍点]は目下、休止中なのだ。
AK47を腰だめにして、おれは素早く角を折れた。
広い空間に出た。
中クラスのホテルのロビーくらいは十分にある。天井も高い。吹き抜けだ。
床の上に並んだ黴臭い道具がおれの眼を引きつけた。
陶器の大壷、石づくりの寝台、ぶっ倒れた木の棚と散乱した書物。
「なるほどな」
と、おれは床の上を見ながらつぶやいた。
「何がなるほどよ?」
ゆきが聞きとがめた。
「わかりもしないのに、えらそうな言い方しないでよ。ここは一体、何の部屋?」
「あれは何でしょう?」
おれは、右側の壁から斜め下へ突き出した円筒を指さした。
その下のやや窪んだ部分には瓶《かめ》が置かれ、円筒の上には、真鍮の把っ手らしきものがついている。
「水が出てくるんでしょう」
「その通り。そして、あれ[#「あれ」に傍点]だ」
おれの指は、石の寝台のすぐ足元の床へと向きを変えた。
「よく見ろ。床全体が少しずつだが傾斜して、あの穴に向かってる。何だと思う?」
ゆきもそっちを向いた。
穴は縦横一メートルばかりの正方形で、表面にもっと小さな四角い穴を幾つも開けた鉄板がはめこまれている。
「わかんないわ。水でも流したんでしょうね」
きょとんとした表情が、見る見る緊張した。
「待ってよ。あの寝台――まるで手術台ね。それに、水道と床の排水孔。ひょっとすると……」
おれとゆきの視線が絡みつき、うなずいた。
おれは足早に、隅に置かれた大瓶の方へ行き、内部を覗きこんだ。
湿気が少ないせいで、中味は元のまま残っていた。
白い粉――石灰だ。
「その台の上で内臓をさばいて取り出し、血は水で流して排水口へ。空っぽの胴へ石灰をまぶせば、水分はたちまち失われる。後はその隅に並べときゃあいいんだ。ここは、ミイラ製造室だよ」
「おえ」
とゆきが舌を出した。次の反応がすぐ返ってこないので、おれは同じ方角――床の上を見つめた。
手術台に隠れてわからなかったが、奇妙なものが散らばっているのだ。
いや、跡というべきか。
焼け焦げた木片と灰だ。空気流もほとんどないらしく、灰は少し崩れながら、ほぼ、焚火の原形を保っていた。
木片は――棚をぶち壊したものだ。
「これは何よ? 誰が入って来たにせよ、こんなところで火を焚く理由がわからないわ」
おれも首を傾げたくなった。
現在並べてあるミイラは、市当局がこしらえたものだが、あれは地上に専用の製造工場がある。この部屋はどう見ても、何百年か昔に使われた後、放棄されたものだ。
硫黄やホウ酸や油を灼く匂いのこもるここで、血まみれの聖職者たちが死者の腹を開いて中味を並べている光景が浮かんだ。それはいい。坊主がろくでもないことをしでかすのは、古今東西を通じてよくあることだ。
だが、そこへ、焚火をたいてる奴をひとり入れると、途端に訳がわからなくなる。
誰が、何のために?
調べてみたい気もしたが、おれは抑えつけた。
「何でもいい。行くぞ」
そう言って、奥に見えるドアの方へ歩き出そうとしたとき、背中でゆきが妙な声を上げた。
「どうした?」
「ね、さっきから気になってたんだけど、あの辺に落ちてる破片は何よ?」
床に散らばる焦げ茶色の木片みたいなものには、おれも入ったときから気がついていた。
「ミイラの破片だな」
「なんで散らばってるのよ?」
よしゃあいいものを、ゆきはとことこ[#「とことこ」に傍点]と、一番大きな塊に近づいて拾い上げた。
手に取って、しげしげと見回し、
「ねえ、これ――手よ」
「わかってる」
「焼けてるわ」
「だろうな」
「ちょっと。知ってたの? ふん、さも自分は最初からお見通しだったって顔しないでよ」
ゆきは、干からびねじ曲がった爪の先で、ポリポリと背を掻いた。どういう神経かよくわからないが、太いのは間違いない。
「見せてみろ」
おれは素早く、それを奪い取った。
「なによ、横暴」
ゆきの文句も無視して、焼けた手首を眺める。
裂け目が何本もついていた。
「その痕は何でしょう?」
ゆきが嫌味ったらしく言った。
「言ってごらんなさい。今度はあたしの真似はできないわよ」
「歯の痕だな」
おれはできるだけ淡々と言った。ゆきも気づいているだろう。だまくらかしてもはじまらない。
「誰かがミイラの手を食ったんだ。それに、この痕は人間の歯じゃねえ。牙だ」
「本当?」
ゆきは顔色を変えた。
歯まではわかったが、牙とは思っていなかったらしい。
「あたし、誰かが何かの間違いでここに閉じこめられ、ミイラを食べて生き延びてたと思ってたのよ。牙って何よ? 牙のある動物が火を焚くわけないでしょ。いい加減なこと言うな!」
「動物は火を焚かねえか。なら、牙のある人間だな」
おれの答えに、ゆきは眼を剥いたが、何も言わなかった。
代わりに、別の奴が応じた。
奥の木のドアが、キイ、と鳴ったのだ。
ゆきの喉も、ひい、と鳴った。
それが消えぬうちに、電光の速さで捻った身体は、ドアへ向けてM16を肩づけしていた。銃身はぴくりとも動かない。
見事の一言だ。かく言うおれのAK47も、7・62ミリの銃口から不動の直線をドアの上部に引いていたがな。
そんなこととはつゆ知らぬドアは、キイキイと鳴りつづけながら口を開け、半分ほど開いたかと思うや、そこから、どっと何体もの人影を室内にばら撒いたのである。
いやに乾いた音で、おれはその正体を知った。
「ミイラだわ」
と、ゆきがほっとしたように言った。
「ドアにもたせかけてあったのが、崩れたのよ。さ、早く、こんなとこ出ましょう」
「どうして崩れた?」
「え?」
「風でも吹いたのか?」
「そうよ、きっと」
「それとも、何かが触ったのか?」
「風よ、風」
「向こうの壁にはミイラはなかった。そっちにあるのは何故だ?」
「知らないわよ、そんなこと」
おれはAK47を肩づけし、折り重なったミイラをポイントした。
「ちょっと――何する気よ?」
おれは、すぐにライフルを下ろした。ゆきの声が効いたわけじゃない。ここで銃声を響かせるのはまずいと思ったのだ。
記憶が確かなら、そのドアを抜けたらすぐ、刑務所の地下に出るはずだ。誰かがいないとも限らない。
おれは、ポケットからライターを取り出し、ミイラの手に炎を近づけた。
二秒ほどあぶると、それは音もなく、しかし、勢いよく燃えはじめた。結構、香ばしい匂いがする。
おれはそれを手に、床のミイラに近づいた。
「おまえの考えはわかってるんだぞ、化物」
おれは、通じっこない日本語で言ってやった。
「事情はよくわからないが、おまえもミイラなんだ。おれたちの匂いか声で、獲物がやって来たのがわかったんだろう。だが、おまえにも弱点があるんだ。多分、あのねじ曲がった通路に関係のある弱点がな。だから、直っ正面から襲ってはこられない。そこで、不意を突くことにした。残ったミイラに混じって、おれたちの眼をくらまし、いきなり跳びかかるつもりなんだろう。おい、そっちのミイラは食べ残しか? 同じ味には飽きたのか、え? 結構、ぜいたくな野郎だな」
おれは、床の上に転がる黄金の壷を見つめた。十や二十じゃない。百近い数だ。中味はわかっていた。内臓だ。昔の坊主どもは、ミイラ処理を施す前に取り出した貴人の内臓をそこへ収めておいたのに違いない。
みな、空だった。
食われちまったのだ。乾燥肉より、レアの方がうまいに決まっている。
「本当なら、ここで火ぃつけてやりゃ、一発でバレるんだろうが、刑務所の中へ煙が洩れると困るから、それはできん。ありがたく思いな」
おれは、ゆきを従えて廊下へ出た。
この辺は平民のミイラなのか、ずらりと壁に沿って並んでいる。ドア側の奴ら[#「奴ら」に傍点]だけが、二、三〇体、将棋倒しだ。
何かの拍子でミイラたちがぶっ倒れてしまったのは、奴にとって不運だったろう。完全な不意討ちは不可能になってしまったからだ。
十中八九、共喰いの怪物は、ミイラたちの中にいる。
だが、おれは何も怪物退治に来たんじゃない。何も仕掛けてこなけりゃ、AK47に物を言わせる必要はないわけだ。できれば、眠っていろ。
こっちの廊下は、おれの根性のように真っすぐだった。
おれは床の群れに銃口を向けたまま、進んだ。ゆきも同じだった。
いける。
次の瞬間、おれは間違いを悟った。
反対側の壁から、黒いミイラの影がひとつ、凄まじい速度で躍りかかったのだ。干物のくせに、裏読みをしやがるとは。
だが、おれの身体も反応した。
AK47を射つ暇がないと判断した刹那、上体を回転させつつ、躍りかかった影に木製銃床《ウッド・ストック》を叩きつけたのだ。
生木を殴りつけたような手応えが伝わり、そいつは、どっと床に倒れた。
AK47はびくともしていない。このライフルが、世界一の軍用ライフルと賞賛されるのは、まず、作動の確実さとタフさにある。M16のようなプラスチックの銃床では、簡単にへし折れてしまう。
「射つな」
と、おれはゆきを制止し、起き上がりかけたそいつの顎へ靴先をとばした。
今度も命中し、そいつはのけぞった。
ミイラだった。
身長は一八〇くらい。体重は――蹴った手応えでは、六〇キロ。干物にしてこうなのだから、実際は一〇〇キロ、二メートルぐらいはあったろう。プロレスでもヘビー級で十分に通用しそうな大男だ。
ただ、いまはその面影もない。
閉じた瞼、もげた鼻、カラカラの身体には、下着一枚つけていない。おれの蹴りでバラバラにならなかったのが不思議だ。
仰向けにぶっ倒れたそいつが再び起き上がろうとした顔面へ、おれは再度、前蹴りを放った。
靴先は、偶然、口にめりこんだ。歯が残っていたら、全部、奥へ吹っとんでいただろう。
あまり気色のいい結果ではなく、おれはすぐ足を引いて、第二撃を放とうと思った。
足は動かなかった。
ミイラの口が、愛しげに、がっちりと咥えたのだ。
どういうわけか知らないが、その干しカズノコみたいな唇の両脇から、透明の液体が大量にこぼれはじめたのを見て、おれはぞっとした。
涎だ。
こいつは、おれの足を食いたがっているのだ。
いまや、ミイラの形相は急激な変化を生じていた。
鼻面がぐんぐんせり出し、耳が針みたいに尖ってのびる。乾燥しきった骨のぱきぱきいう音を、おれははっきりと聴いた。
上顎と下顎から槍の穂みたいな牙がせり出してくるのを認めた刹那、おれは足を引かずに、AK47をそいつの顔面――眉間にあてがった。
ドン。
ゆきのM16の5・56ミリしょんべん弾とは一桁パワーが違う7・62ミリNATO弾は、そいつの顔面を貫き、頭の中味を噴出させながら、後頭部へ抜けた。
中味といっても、床へぶちまけられたのは、剛い獣毛がこびりついた肉と骨片の塊にすぎなかった。
そいつは靴を離し、口元から長い長い涎の尾を引いて、その場へへたりこんだ。
いくら何でも、頭をやられりゃ、生き返ってはくるまい。
おれはゆきの方をふり返って、
「銃声を聞かれたかもしれん。急ぐぞ!」
と言いざま走りはじめた。
「まかしとき!」
と、ゆきも追ってくる。
廊下の端は階段になっていた。
「この上?」
とゆきが訊いた。
「ああ。昔の見取り図が確かなら、地下の倉庫に出るはずだ。本番だ。気を入れてかかれよ」
「わかってるわよ。えらそうに言わないで!」
ゆきはM16の機関部側面を、愛しむように撫でながら首肯した。
「その前に、ひとつ質問させて。いまの奴、何なの?」
「わからねえ」
「じゃあ、『どぼん』でひとり勝ちした分は、半分返してあげる」
「多分、人狼《ワーウルフ》だ」
おれは簡潔に答えた。五〇〇万の借金が半分になるなら、勿体ぶってることはない。
「人狼? ――いい加減な……」
「あの顔を見たろう?」
「ええ。でも――」
「こいつは推測だが、あいつは人狼として名前を知られていたんだろう。それが、何かの拍子で死に、ここに葬られた。坊主どもは分け隔てなくミイラにした。ひょっとしたら、人間としての顔は、名家の出だったのかもしれない。いや、死んでから葬られたかどうかも怪しいもんだ。とにかく、こいつは内臓を抜かれてミイラにされた。だが、そうなったのは、人間の方のこいつ[#「人間の方のこいつ」に傍点]だったんだな。どうやって変身するのか知らんが、そのたびにこいつは甦り、他のミイラの肉で飢えを満たしていたんだろう」
「冗談はよしてよ」
ゆきは、足元の人狼――まぎれもない生身の狼の死体を見ながら反論した。
「狼がなんでミイラを焼いて食べるのよ?」
「おまえに人狼の生態や趣味がわかるのか?」
と、おれは言ってやった。
「狼に化けたからって、人間の性質が消えてなくなるとは限らねえ。ハリウッド映画の見過ぎだよ。煮たり焼いたりしなきゃあ肉の食えない狼がいたっておかしかねえだろう。だから、人狼[#「人狼」に傍点]だ」
「ふん、詭弁よ、そんなの」
「どうでもいい。とにかく片づいた。行くぞ」
おれは足音を殺して階段へ走った。
十五段ほどで、上には鉄の板がはめこんである。上げ蓋だ。
押してみた。
びくともしない。
天井と板との隙間をよく見ると、漆喰《しっくい》で埋めてある。
修道院が刑務所になる以前に上から塗りつぶされ、だからこそ、刑務所側でも、この通路の存在に気づかなかったに違いない。ミイラの製造と観光に精を出す市当局の方も、押して開かない階段になど興味はなく、かくして、ここだけが残ったというわけだ。
「どう?」
ゆきが訊いた。
「びくともしねえな」
「どうするの?」
「ぶち破るさ」
「爆弾はないわよ」
おれは呼吸を整え、そっと肩を鉄扉に押しあてると、徐々に力を加えていった。
限界はすぐにきた。
扉は、びくともしない。
それでも、おれは力を注ぎ込むことができた。全身から「気」を。
このところ、メカ戦ばかりだったので、実力を発揮する暇がなかったが、ひと月ほど前から、おれはヨガにプラスして、仙道の訓練も開始していたのだ。
まだ初歩の段階だが、気の強化と、それを肉体的パワーに応用するくらいはできる。
筋肉と骨は限界に達しても、扉めがけて流出する「気」の流れを、おれは十分に感じることができた。
手応えがあった。
頭と背に細やかな感触。
漆喰が剥離しはじめたのだ。
「へえ」
と、ゆきが感心したような声を上げたとき、おれは背後に、凄まじい気配を感じた。
首だけねじ曲げた眼の端に、廊下の奥で立ち上がる影が映った。
「さっきの人狼よ!」
ゆきが絶叫した。
何てこった。頭をぶち抜いても死なない化物がいるとは!?
脳裡に伝説が閃いた。
人狼《ワーウルフ》は銀の弾丸でのみ死亡させ得る、と。
「射つわよ、大ちゃん!」
ゆきが叫んだ。
「待て!」
と言う前に、M16の銃口は十文字の炎を噴いた。
二本足の獣がのけぞり、5・56ミリ軽量高速弾の猛射を浴びて、死のダンスを踊る。
きっかり一〇発で、ゆきは引き金を緩めた。大したものだ。
「仕留めたわよ!」
意気揚々と宣言するゆきへ、
「その場凌ぎだ。あいつは、銀の弾丸じゃなきゃあ斃せねえ。蓋はじきに開く。それまで時間を稼げ!」
「わかったわ。でも――」
それ以上、応答はせず、おれは肩の上の扉に気力を集中した。
ばらばらと、今度は音を立てながら、漆喰が落下した。
「うおおお」
おれは下半身に力を込めた。限界はとっくに越えている。骨がきりきりと悲鳴を上げた。それでも、「気」の流れは緩まない。
ずっ、と抜けた。
鉄扉が動いたのだ。頭は真っ白、背中には五センチも漆喰が溜まっているにちがいない。
「きゃあ」
やっぱり[#「やっぱり」に傍点]、ゆきが声を上げた。
「また……また、立ち上がったわよ。あいつ、不死身だわ」
「何とかしろ。あと三〇秒保たせりゃいいんだ。“プリンス”を助けりゃ、国の半分はおまえのもんだぞ!」
「オッケエ〜イ!」
ゆきの声には欲望とファイトが満ちた。どんな恐怖だろうと、この娘の金への執着には敵わない。
TATATAN
とM16が吠えた。今度は三点射だ。無駄弾を抑えたらしい。
「畜生《ちくしょ》、よけたわ! 速い!」
「落ち着いて狙え。近づけるな!」
おれが立ち向かうべきだったろうが、構っちゃいられなかった。蓋は確実に上がりつつあった。
漆喰が眼と鼻を覆った。息ができない。構わず押した。
「来るわ!」
とゆきが叫んだ。
もう少し。おれは思いきって鼻から息を吸いこんだ。
くーっ。こみ上げてきた。M16がまた鳴った。空薬莢が床に落ちる音が美しい。来る。人狼が、じゃねえ。来る。おれは全身のタイミングをそれに合わせるべく努力した。ゆきが悲鳴をあげた。来た。おれはこみ上げるむず痒さを、思いきり肺から放出した。
ぐわっしょおん。
もの凄いくしゃみ一発。思いきり両足を伸ばす。
倍加したパワーの炸裂に、蓋は勢いよく跳ね上がり、おれの上体も天井を抜いた。暗い部屋だった。
「来い!」
息を吸って叫ぶや、おれはゆきの襟首を掴まえた。
人狼の気配がとびかかってきた。
かっと開いた口に植えつけられた牙が、がちん、と金属音をたてた。
おれは、ゆきを放り上げると同時に、自分も天井裏へと飛び込み、飛び込みながら蓋を閉めたのである。それも、ぎりぎりまで手を離さず、閉じる音は最小限に留めて。
おれは素早く辺りを見回した。
CIAの見取り図にあったように、倉庫らしい。重そうな木函の山を見つけ、おれは鉄扉を押さえつけるようにゆきに命じてから、五段重ねの山を押して、蓋の上に載せた。ざっと五〇〇キロはある。いくら人外の化物でも、そうそう持ち上げはできまい。
載せ終わったとき、どおん、と下からかなりの衝撃が叩きつけられ、おれはほっとした。
「もう。これが小手調べ? やンなっちゃうわね」
ゆきが腰をさすりながらごねた。
「こうなったら、何が何でも“プリンス”はいただくわよ。邪魔する奴は皆殺しよ」
本当にやりかねまじき雰囲気に、おれは危険なものを感じた。
「とにかく、敵の腹の中へ入った。後は心臓を突くだけだ。行こう」
おれは奥のドアへ向かって歩き出した。
人の気配はなし。M16の銃声を聴かれた可能性もゼロだ。
「ねえ、この建物揺れてない?」
ゆきの質問に、おれはうなずいた。
「わかるか? 修道院の敷地は沼を埋めたてたものなんだ。今でもかなりゆるい。土台はしっかりしてるし、重りも入ってるから倒れる心配はないが、風が強かったりすると、かなりぐらつく」
「ひどいわ。万年船酔いじゃないの」
「その通り。それも修行のひとつだったんだな。今じゃ、囚人たちへの絶好の拷問になってるんだ。たまに木馬責めだのにかけるより、毎日、毎晩、足の下が安定しない方が、囚人にゃ地獄らしい。いつも船酔いしてると思えばわかるだろ」
ゆきは、おえ、と舌を出して、軽く床を踏みつけた。
「看守たちはどうなのよ?」
「官舎は別にある。当直以外はみな、そこにいるんだ。それが今回のつけ目だな」
「なるほど。何が起こってもわからない」
おれたちは、にやりと笑顔を見交わした。何となく淫靡な笑顔だったろう。
「でもさ。昨日、あんたが森ん中でやりあった大佐の部下――ジャンプとか言った奴ね。どうして、ここを破ってみろなんて、けしかけたのかしら?」
「楽をしたかったんだろう」
「え?」
「おれに破らせ、“プリンス”を助け出させて、最後は自分が失敬する、と」
「そうすると、大佐は“プリンス”をここへ収容するのは、反対だってわけ? それとも、子分どものスタンド・プレー?」
「そうじゃなかろう。大佐とエニラ師とは、必ずしもうまくいってない。ここへ“プリンス”をぶちこんだのはエニラ師で、大佐は救い出そうとしてるとも考えられる。さすがの大佐も、国へ入ってからは、エニラ師の眼から“プリンス”を隠し切れなかったらしいな」
「こんなところで“プリンス”をどうする気かしらね?」
「ペンダントの在り処を吐かせる」
「そうか。あれは“大佐”が持ってるんだ! それで、“プリンス”を救い出そうとしてるのね」
その辺は疑念もあるが、ま、そんなところだろう。
おれたちは素早く外へ出た。
「やるこたわかってるな?」
と、だだっ広い陰気な廊下を眺めながら訊いた。
「まかしとき」
「無茶はするなよ。切るのは、通信回線だけだぞ」
「I KNOW WELL」
ゆきは身を翻した。こいつの頭にも、おれが記憶した地図は叩きこまれている。一〇分間であらゆる細部まで絵に描いてみせたおれもおれだが、一分でそれを完璧に頭へ入れたゆきも大したものだ。
同じ年頃の娘に、通信回線と言ってもチンプンカンプンだろうに、配電室へ忍び込み、それだけを切ろうってんだから、プロの血は違う。欲がからんだら、信頼度はピカ一だ。
おれの目的地は“プリンス”の獄舎だが、その前にひとり[#「ひとり」に傍点]目標がいる。
ゆるゆると傾斜する廊下を何度か折れ曲がり、修道院の名残らしい狭隘な石段を上がって、おれは獄舎の階へ入った。
もと修道僧たちの部屋を改装したものである。
あいつらは、進んで刑務所へ入ったようなものだから、さぞ、工事も簡単だったろう。
“プリンス”は何処か、などと、おれは考えなかった。考えてもわかるはずはない。わからなければ、訊くまでだ。
おれは、階の一番端にある警備員詰め所へ近づいた。
石づくりの重々しい空間に、それだけが化学建材の銀色に囲まれた小屋だ。
その奥が房になる。収容されている政治犯の数は一〇〇人とも一〇〇〇人とも言われるが、その辺はわからない。確かなのはエニラ師が登場してから、飛躍的に人数が増大したということだ。
天井にはパイプやコードが何本も走り、皓々と電灯が点っていた。モニター・カメラや、自走機関銃ぐらいは用意してあるのかもしれないが、こちら側には見当たらなかった。獄舎専用だろう。
おれは素早く詰め所のドアに走り寄り、脇の壁にへばりつくと、窓から内側《なか》を覗いた。ベッドやらコントロール・パネルやらが並んだ室内に四、五人程いる。ここはあくまで単なる詰め所で、本隊は外にいる。もちろん、揺れのせいだ。
おれは、片手をドアにあて、思いきり引っ掻いた。ノックなどしたら、看守は“人間”相手だと、すぐにわかってしまう。今必要なのは得体の知れない音だ。
刑務所破りを企てるものなどゼロに近いのか、モニター・テレビも用心もなしで、男がひとり顔を出した。
そのこめかみへ軽くAK47の銃床を打ちこみ、おれは詰め所の中へ押し戻した。
ドアを閉めると同時に、事態に気づいて腰の拳銃に手をかける男へ一発射ちこんだ。糞!、射ちたくねえのに。
着弾の衝撃で、自動拳銃がホルスターごと吹っとぶ。見たところ、トカレフだ。
「死ぬか、無傷か。――好きな方を選べ!」
低く命じてAK47を肩づけする。
全員が凍りついた。
「頭だけ出して、ベッドへ入れ」
言いながら、外の気配に精神を集中したが、銃声に気づいた風はない。
代わりに、パネル上の電話が鳴った。
「出ろ。――暴発と言うんだ」
と近くの奴に命じる。そいつは従った。
「暴発だ。何も起こっちゃいねえよ。――そうだ、安心しろ」
おれは、そいつの表情から眼を離さなかった。異常事態を告げるキイ・ワードがあるとも考えられる。こわばった顔から余計なことはしていないと判断し、おれは、ぶっ倒れた奴も起こさせ、全員を寝棚《バンク》へ押しこめた。
「何者だ、貴様は」
「うるせ」
次々に銃床で脳天をどつく。頭を殴られてのびると、八割が死んでしまうのだが、おれのやり方なら副作用なしに気分よく眼が覚める。副作用はコブぐらいだ。
最後のひとりに、
「いつだか知らんが、高貴な御方が来ているはずだ。何処にいる?」
そいつは、凄まじい眼付きになった。
「貴様、『スマイル』か?」
「何だ、そりゃ?」
「とぼけるな、このテロリスト野郎」
「残念だな。そんな立派な人間に見えるかい?」
おれは、ふと、非常に迷惑な悪戯を思いついた。
「大佐どのが泣いて喜ぶぜ」
「大佐? ――ヤンガー大佐のことか? まさか!?」
驚愕の表情には、やっぱり、という納得も混じっていた。
「いいから、おまえは訊かれたことに答えろ。坊やは何処だ?」
男は両眼を閉じた。ついでに歯も食いしばる。なかなか強情な野郎だ。
おれは片手で鼻をつまんだ。
はがが、と開いた口にAK47の銃身をねじこませる。
「三つ数える。――ひとつ《ワン》」
「……」
「ふたつ《ツー》」
わじゃった、と男は銃身を咥えたまま喚いた。わかったの意味だ。
「四階の特別房だ。四〇〇号だよ」
「そこのモニターに映せるか?」
「駄目だ。一切、覗いてはならんと、司令部から命令が来ている」
「おれには来てねえな」
男を安らかに眠らせ、おれはコントロール・パネルに向かった。
ひと目で操作法はわかった。
四〇〇号のカメラに切り換えるのは簡単だった。
出た。特別房というだけあって、安っぽいホテルの部屋ぐらいの設備はある。絨毯もテーブルも椅子もベッドも、それなりの品だ。しかし、
「いねえ」
いまの男を叩き起こして舌でも抜いてやろうかと思ったが、嘘じゃない、という勘が働いた。
すると、何処かへ連れ出されたのか?
恐ろしい予感に全身を貫かれ、おれはカメラを拷問室へ切り換えた。
いた!
画面の右下に“プリンス”が立っている。周りは、X型の木枠や、ギロチン等が転がり、床の染みからは、濃厚な血の匂いが漂ってきそうだった。
まだ、何もされていないと知り、安堵した気分は、“プリンス”の前の人影に気がつき、脆くも吹っとんだ。
小さな男だった。
左上方から見下ろしているため、顔はよくわからないが、インド人みたいな円筒型の帽子を被り、グレーの上下を着ている。
ピン、と来た。
おれは、身じろぎもせず、画面に食い入った。
すぐにも駆けつけなくてはならないのに、足は動かなかった。
画面から、多分、おれにしかわからない異様なものが吹きつけていた。いや、普段のおれでも理解できない何かだ。
それがわかったのは、赤坂の超心理研で受けた「処置」の賜物だったろうか。
生きとし生けるもの、すべてが持つ固有な雰囲気――存在感。
おれにはわかった。
こいつは、人間じゃない。
次の瞬間、おれは身を翻して詰め所を走り出た。
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第二章 エニラ師邂逅(かいこう)
1
時間はあまりなかった。銃声の一件は、必ず誰かの疑念を引き起こしているはずだ。今度連絡があったら、一発でバレてしまう。
珍しく、焦燥が胸を焼いていた。
エニラ師の正体が判然としないためだ。何者なのだ。
“プリンス”をこんな場所に閉じ込めた理由を、おれはいつの間にか詮索しはじめていた。せずにはいられなかった。想像もつかないもののはずだ。それが、おれを焦らせていた。しかも、今は深夜。目的地は拷問室なのだ。
修道院に拷問室なんて、と普通の人間なら思うだろう。
だが、大昔の修道院や尼僧院なんてのは、現在よりずっと厳しかったのだ。神につかえる人間を造り出すのが目的だから、生半可な修行じゃ追いつかない。しかし、もとはただの人間である。当然おかしくなったり、戒律を破ったりする奴が出てくる。こういう奴は、叱責じゃあ治らない。かくて、というわけだ。
この辺の事情が昂じると、変態じみた爺さん婆さんが、うら若い少年僧や尼僧を木馬責めや鞭でぴしゃぴしゃという倒錯的お仕置きに至る。拷問まであと一歩だ。なにしろ、する[#「する」に傍点]方の背後には神さまが控えているのだから、どんな破廉恥なことでもやれる。おれは時々、神さまてのは盲目だと思うことがある。でなければ、自分の子供たち[#「子供たち」に傍点]のこの行為を見て、とっくの昔に気が狂っているだろう。つまり――神はいない、のだ。
拷問室は地下一階だった。何てことだ、逆戻りである。
幸い、誰にも見つからなかった。さっきは、テロだの何だのと言ってたのに、やはり、根はゆるい[#「ゆるい」に傍点]のだろう。この刑務所も、襲われたことなどないに違いない。
武骨な鉄扉の前で、おれは立ち止まった。赤錆の浮いた鉄板は、ここが建てられたときから変わっていないのだろう。
おれは体内時計で時間を感じた。侵入した倉庫の前でゆきと落ち合うまで、あと三〇分。
それでうまくやれるかどうか、自信はなかった。今度ばかりは怪しい。
拷問室には窓も別のドアもない。進むも退くも道はひとつだ。
おれは鉄扉を押した。
簡単に開《あ》いた。エニラ師てのは、よっぽど甘くできてるのか? いや。
蝶番の音がしないのは、おれの腕だ。
一歩入ると、内部はひと目で見渡すことができた。
あるある。
鉄の処女だの、水責め用の大瓶だの、天井から吊るす鎖と滑車だの、気の弱い奴なら、これを見ただけで何でも告白しそうな代物が並んでいる。
その――五〇畳ほどの部屋の真ん中に、小柄な影が倒れていた。
着ているものを見れば、“プリンス”だ。ただ、顔が見えないから言明はできない。エニラ師の姿がないことが、おれにはまず、気になった。
素早く、用心しつつ倒れてる影に近づく。“プリンス”だった。変装ということも考えられる。頬に触れた。どうやら本物だ。
軽く頬を叩くと、すぐに眼を開いた。薬や当て身じゃない。どんな手を使った?
ぼんやりした眼がおれの顔に焦点を結んだ。
「八頭――大!?」
おれは唇に指を押し当て、しい、と言った。“プリンス”ににやりと笑いかけ、
「愁嘆場はなしだぜ。このくらいの芸で、いちいち泣かれちゃ堪らねえ」
“プリンス”は片手で眼を拭い、うなずいた。
「あの――」
と訊いた。
「ん?」
「あの――ゆきさんは?」
おや。
おれは口元に微笑が浮かぶのを止めることができなかった。こいつは、ひょっとすると。――いや、そうだったのか。
「無事だよ。どうしてもおまえを助けるときかないんでな。一緒に連れて来た」
「この中にいるんですか?」
「いや。――外だ」
「それは残念だったな」
天井あたりから声がきこえた。嗄れた、というのか、錆びた、というべきか、何とも得体の知れない声だった。
信じられないかも知れないが、この声だけでは、何ひとつわかるまい。声の主の年齢も、性別でさえも。
おれはふり仰いだ。
天文台みたいな丸天井《ヴート》の頂から、ベージュ色の蝙蝠《こうもり》がぶら下がっている。上衣を着て帽子つきだ。
だが、ただそこにいるだけなら、特に凄い技でもない。ボルネオの奥地にある洞窟の吸血蝙蝠は、身長がおれ以上あった。そいつらが一〇匹も、でかい羽根をはばたかせて襲いかかってきたときは、少々胆が縮んだものだ。
おれをぞくり[#「ぞくり」に傍点]とさせたのは、蝙蝠どもの巣へ入った途端、その存在をおれは感知できたということだ。
ところが、いま、おれはエニラ師の位置がわからなかった。彼が剣を逆手に構えたまま、垂直に落下してきたら、串刺しになっていたかもしれない。
「お初にお目にかかる」
と、おれは挨拶した。
「今さら名乗ってもはじまらねえな、エニラさんよ」
「誠に残念だった」
と、爺いは繰り返した。
「二人まとめて片づけてやれたのに、の」
「世の中、そうは甘くねえさ。降りてきな」
「残念だが、わしにはここが極楽でな。こうでもしないと、こんなおかしな世界――とても正気では過ごせんわい」
おれは、問答の間、エニラ師の足元を見つめていた。
どうやってぶら下がっているのか。
最大の可能性は、特殊ゴムの吸盤か磁力だが、こいつのことだ。もっと別の、とんでもない方法を考案したかもしれない。例えば――重力制御《G・コントロール》とか。
「あんた、一体、何者だい?」
おれは、最大の疑問を口にした。この解答さえ得られれば、後はどうでもいいくらいのものだ。
「どう思う?」
エニラ師の声に、やっと感情がこもった。笑いだ。
「わからねえ」
おれは正直に言った。
「正直な男だな」
と爺いはにやりと笑った。妙な笑顔だった。
「だが、それで正解だ。わしのことは誰にもわかるまい。わかったとしてもだ」
「禅問答してるんじゃねえ。とにかく降りて来い。そこにいられたんじゃ、こいつで狙い撃ちにするしかねえ」
おれはAK47を持ち上げたが、爺いはびくともしなかった。
「その気になったら撃てばよい。だが、その前に、おまえはここで死ぬことになるぞ」
「じゃ、やめた」
おれは、あっさりとAK47の銃身を下ろした。
「こんな出だしで死んだら敵わねえ。まだ、後の楽しみが残っているんでな」
「バラザード・リアの宝のことか?」
「やっぱり知ってたのか。海の向こうの千里眼てな、おまえのことだ」
おれは思いきり、嘲罵を叩きつけてやった。
「だがな、年寄りの火遊びもいい加減にしねえと、痛い目を見るぜ。さ、何を企んでるか言ってみな」
まくしたてながら、おれは、これまで感じたことのない心理的な葛藤を味わっていた。
殺せ、ともうひとりのおれが命じるのだ。それも、絶体絶命の窮地で上げた叫びのように死にもの狂いでだ。
「教えてやろう。この世界の男なら、いいや、女でも、例外なく見る夢だよ。――くく、取るに足らない夢ではあるがな」
「世界征服か?」
おれは、頭に浮かんだ単語を口にした。
「まあ、そんなものだ」
「おめえも太平楽だな」
おれは吐き捨てた。
「庭いじりでもしてりゃいいものを、暇にまかせてあれこれ考えてたら、やれそうになって来たのか? アレクサンダーも、ナポレオンもヒトラーさんもそう考えて、軍隊を動かした。どうなったかは、言うまでもなかろう。妄想だよ、爺さん。妄想だ。あんたがおかしな技術を使えるのは認めるが、こんなちっぽけな国じゃ、それを実現できっこねえ。相手は世界だぜ」
「人間というのは意外と単純な代物でな。殴られれば殴り返す。撫でられたら撫で返す。おまえがあげた連中はみな、拳をふり上げて自分を通そうとした。つぶされるのが当たり前だ。わしは、そんな過ちはしでかさんよ」
「すると、撫で撫でしながら世界を手の内に収めるってわけか。阿呆。それじゃ、成し遂げられるのは世界平和だぜ」
爺いは言い返さなかった。
代わりに、にやりと笑った。
背筋が凍った。おれの、だ。
そういう手もあったか。
殴りつける代わりに握手で丸めこみ、脅し文句の代わりに甘い言葉をささやき、核ミサイルを射ちこむ代わりに、乾杯のグラスへ精神操縦薬《マインド・コントロール・メディシン》をぶち込むのだ。
世界は平和平和と浮かれ騒ぎながら、支配されていく。
こいつなら、やるだろう。
おれはAK47を肩づけした。目標――爺いの頭部。
殺せ、とおれの声がきこえた。
だが、引き金は引けなかった。この爺いはおれに何もしていないのだ。
「おまえたちがこの辺に来ているのはわかっておった。“プリンス”がここにいるときけば、救出に来るのもだ。“プリンス”を地下へ置いたのは、その方が邪魔が入らずおまえと渡り合えるからだよ」
野郎、お見通しってわけか。
「だが、どうして今夜だと思った?」
「おまえは国中のお尋ねものだ。のんびりしている余裕などあるまい」
「ひとつ教えといてやるが、日本じゃ、おまえみたいなのを年寄りの冷水ってんだ。“プリンス”はいただいていくぜ」
「わからん男だな」
エニラ師の声が重くなった。
「おまえは、ここで死なねばならんのだ。この世界の人間としては、厄介な力と運を持つ男。おまえを始末せん限り、わしの目的の邪魔になるでな。――出ろ」
出ろ、とエニラ師は命じた。
何処かに何かが隠れているのか? ――緊張したおれの神経に危険なものが触れたのは、次の瞬間だった。
それも、すぐかたわら――“プリンス”から。
おれは憶い出した。“プリンス”の背中へ埋めこまれていた奇怪なカプセルを。
東京では蜘蛛が出た。
ここでは――何だ?
「八頭さん――僕の背が!?」
「わかってる。ほっとけ。動くな」
指示を与えながら、おれは耳障りな音をきき取っていた。
ぶーん。
モーターに似た音を生物がたてるとしたら、ひとつしかない。
羽音だ。
“プリンス”の服の背が大きく盛り上がった。音はそこからしていた。
瘤が裾の方へ移動した。
黒い塊が覗いた。
そいつがふわりと宙に浮き、おれから二メートルほど離れた空中に停止したときには、正体がわかっていた。
ハチだ。
それも、ミツバチなんてヤワな奴じゃない。最も獰猛な一匹――クマバチだ。
体長は約二〇センチ。羽根の端から端までは優に五〇センチを越す。
「ハチのスピードについてこれるかね? 試してみよう」
エニラ師の声と同時に、そいつは真っすぐおれの方へ突っ込んできた。
なめるな。
おれはAK47の銃身を叩きつけた。
手応えなし。
ハチは焦った様子もなく、全く同じ軌跡を辿って後退していた。
「こん畜生」
おれはAK47の銃口を向けた。どんなスピードの主でも、おれの銃からは逃げられない。おれの勘は未来のコースまで予測して引き金を引く。まして、この距離だ。
だが、指は引き切る寸前で停止した。
ハチがもう一匹。増えたのだ。いや、一匹が突然、左右に分かれたのだ。
「こいつは――」
おれの驚きに、エニラ爺いの声が応じた。
「そう単純にはいかんよ」
「分身の術か。洒落た真似をしやがる」
おれは短く毒づいた。その間に、対策を考えねばならなかったが、相手はハチだ。しかも、化物ときている。
びん、と二匹が左右から襲いかかってきた。
反射的に、おれはAK47をふり回した。引き金を引いたら、上の連中に勘づかれる恐れがある。
当たったと思った刹那、二匹は四匹になった。
頭に血が昇るのを、おれは必死で抑えた。ハチの分際で八頭大を舐めやがって。
「どうしたね。人間がハチに翻弄されるか?」
エニラ師が天井で挑発した。
ぶうん、と二匹が頭上へ走った。それをかわしたところへ一匹が舞い下り、おれは手刀をふるった。
次の瞬間、四匹は八匹になった。いや、拷問室は黒い虫と羽音で満ちたのである。
「えらい騒ぎだな」
おれは少々呆気にとられて言った。こうなりゃ、じたばたしてもはじまらない。いざとなれば、エニラ師へ一発だ。
「さてと、心ならずもこのような結果になったが、何なら、攻撃の手を止めてもよいのだぞ」
天井から爺いの声が降ってきた。阿呆めが、自分で狙撃地点を公にしてやがる。
「ほう。何なら[#「何なら」に傍点]って、何なら?」
生命惜しさではなく、おれは訊いてやった。この男のやることなすことに興味があったのだ。
「私の提案を受け入れるかね?」
爺いは短く訊いた。
「何だ、そりゃ?」
「私の部下になるのだ。君は大いに役に立つ。幹部などとは言わん。片腕にもなれる素質の主だ。“プリンス”を救い出して何の得があるね?」
「さっきも言ったろ。山の宝を頂戴できるのさ」
「とぼけるのはよしたまえ。わしに人を見る眼がないと思わせんでくれ。わしと組めば、もっと大きな、途方もない宝を与えてやれるのだ」
「何だ、そりゃ?」
「たとえば――世界だ」
おれは吹き出してしまった。
「そりゃ、おまえが手に入れるはずじゃなかったのか?」
「世界にも色々あるのだよ、お若いの」
エニラ師は諭すように言った。
「おまえさんたちの世界といえば、足を乗せておる大地止まりだろうが、わしの望みはもう少しでかい」
おれは、少しの間絶句した。
爺いの台詞に驚いたわけじゃない。そこから導いた結論が電光のごとく閃いたのである。
この爺さん、ひょっとして?
いっとき、鳴りをひそめていた羽音が、むせかえるように湧き上がった。
「もうひとつ、欲しいものがある」
とエニラ師は言った。
「君の所有している品だ。王位継承の印――ペンダントというやつだ」
やっぱりな。おれはにんまりした。この爺い、ニューヨーク港でのヤンガー大佐との一件を知らないとみえる。ペンダントは彼の手に移ったのだ。面白い。仲間割れさせてやれ。
「ニューヨークで、ヤンガー君に渡したよ。ほほう、まだ、お知りでない?」
エニラ師の眼にある光が点った。これでトラブルは必至だ。
「わしの条件は出した。さ、返事をきかせてもらおう」
「答えかい?」
「そうだ」
「ひとつ、八頭の家訓をきいてもらおう」
「ほほう」
エニラ師は天井でうなずいた。
「“相棒なんざ持つんじゃねえ。親分気取りは締めちまえ”」
爺いの微笑が深くなった。
「それが返事か?」
「そうだ」
「では、いま、全身を腫れ上がらせて死ぬがいい」
ごお、と周囲の空気が唸った。
ハチどもが戦闘態勢に入ったのだ。
おれは引き金にかけた指へ力をこめた。
どちらかが死ぬ。――おれか、エニラ師か。
2
そのときだった。
肩のあたりで、足音が入り乱れた。
「何だ、これは!?」
と驚きの声が上がった刹那、その周囲で羽音が急激に高なった。絶叫も同時だった。
おれは向こうを見る間もなく、事態を悟っていた。
おれの侵入に気づいた官舎の警備員がチェックに訪れたのだ。
運の悪い奴らだと思いつつ、おれは引き金を引いた。
間違いなく、7・62ミリ弾は爺いの全身を縦に貫いた。身体の震えたのが、その証拠だ。
まぎれもない苦痛を感じ取り、おれは“プリンス”の手をとってドアへと走った。
羽音が落ちてきた。
AK47をふり回したが、“プリンス”を連れてる分遅れた。
左の首すじに、ちくり、と来た。
戦慄が引き金となった。左手が“プリンス”から離れて首すじを叩きつけた。鉄槌だった。
肉と肉との間で、甲殼のつぶれる手応えが生じ、おれは笑いを抑えることができなかった。
あらゆる羽音と虫影が、ふっと消えたのだ。もとは一匹だ。
天井を見上げたが、エニラ師の姿はなかった。かと言って、床の上にもない。あれだけ7・62ミリ弾を食らったのだ。無事のわけがない――とは思えなかった。あいつは人間じゃないのだ。
「刺されたようだな」
案の定、笑いを含んだ陰湿な声が漂ってきた。
「愚かな若造が、わしに喧嘩を売った報いだ。なり[#「なり」に傍点]がでかいから毒も強いだけだと思わんことだ。そいつの毒はひと味違うぞ」
それは、おれにも想像がついた。
餓鬼の頃から耐毒訓練と称して、親父とおふくろに、ありとあらゆる毒を経験させられたのだ。
昔の忍者は少しずつ毒を服み、大量の毒素にも耐えられる体質になったというが、おれの場合は即実戦の日々だから、そんな悠長なことはしておられず、解毒剤と一緒にかなりの量を服用させられた。
おかげで、河豚《ふぐ》の胆をひと箱食おうが、ハブに咬まれようがびくともしない抗体が体内を循環する羽目になっちまったが、このハチの毒は、そのどれもと勝手が違うのだ。
一体、どんな効果がある?
先を走っていた“プリンス”が急停止するのと、おれがその手を引くのと、ほとんど同時だった。
ぶっ倒れていた床から起き上がったのは、四名の警備員だった。
ひと目で正気じゃないとわかった。
表情は虚ろ――眼は狂っていた。きええ、という叫びを洩らして、四人は殴りかかってきた。
“プリンス”を突きとばし、おれは先頭の奴のフックを左手でブロックした。
しながら、吹っとんだ。
骨がきしんでいる。凄まじい力だった。
壁にぶつかって止まった。衝撃で肺から空気が洩れる。
「ひえええ」
そいつは、おれの顔面めがけて、前蹴りをかけてきた。
かわした頬をかすめて、靴先は壁に激突した。めりこんだ。脅えが背筋を貫く。
ローキックをかましてぶち倒しながら、おれは奴らの現状を理解した。
泣くような気合と、恐怖に歪んだ表情。――こいつらは何か、恐ろしい幻覚に捉われている。恐怖が、筋肉と骨とを限界まで動かす不安を消してしまったのだ。
突っこんできた奴の顔面へ、おれはカウンターを叩きこんだ。
鼻の軟骨がへし折れ、前歯が陥没する。
途端におれの手首を掴みに来たので、タイミングを合わせて逆を取り、残る二人の方へ投げとばしてやった。
「出るぞ!」
ぶっ倒れた四人の上を跳び越して、ドアを押し開ける。
危険信号が背中を貫いた。
奴ら、ライフルを持ち上げたのだ。
銃火が迸った。おれのかたわらで。
ふり向いた眼に、肩から先に吹っとんでいく警備員たちが映った。
「何してんのよ!」
ゆきが眼尻を吊り上げて、おれを睨んでいた。
「後ろから射たれるところよ。これは貸しだからね」
「わかったよ」
と、おれは答えた。ふり向きざま射っても、ゆきと同じことはできたがな。
「あーら、“プリンス”ちゃん」
と、M16を片手に、ゆきは相好を崩した。
「無事だったの? よかった。波涛千里、艱難辛苦の挙げ句、ここまで救出しに来た甲斐があったわよ」
「千回お礼を言っても足りません」
“プリンス”の頬は紅く染まっていた。やれやれ、つけ込まれるだけだぞ、と、おれは胸の中で嘆息した。
「いいの、いいの。可愛いったら。助けてもらって、ロクに挨拶もできない誰かさんとはえらい違いだわ。もう安心よ。このゆきお姐さまに後はまかしといて。――さ、これから、どうするの?」
おれは肩をすくめて、
「下だ」
と言った。
「下?」
「あのミイラ通りだ。今の連中が戻ってこないとなれば、他も動き出す。外も固められるだろう」
「だって、あそこには――」
ゆきの顔から血の気が引いた。人狼の生けるミイラが待っているのだった。
「他に手はねえ。行くぞ」
「わかったわよ」
割とゴネもせず、ゆきは承諾した。
「そうだ、ひとつ欲しいものがある。――助けに来た礼を貰おう」
おれの要求に、“プリンス”は慌てて、ええ[#「ええ」に傍点]と言った。
「こんなところで、みっともない真似しないでよ!」
ゆきが軽蔑したように言ったが、おれは構わず、“プリンス”の袖に手を伸ばした。
ボタンをひとつもぎ取られた袖口を、“プリンス”は不思議そうな眼で見つめた。
「気にするな。――GO!」
倉庫は隣だ。廊下へ出た途端、
「いたぞ!」
背後から掛け声が上がった。ついに本格的にバレたか。
ふり向きざま、おれはAK47を乱射した。
石壁に跳弾音と火花が乱れ飛び、警備員たちは慌てて身を伏せた。
その隙に、おれは倉庫のドアへと飛び込んだ。“プリンス”とゆきは先に入っている。
ドアを閉め、おれたちは三人がかりで、そばの箱をドアの前へ移動させた。これで脱出時間ぐらいは稼げるだろう。
ドアを叩く音にもめげず、おれは迅速に床の蓋の方へと移動した。
乗せてある箱をずらすのに、もうひと頑張りした。
いよいよ、虎の口から狼の顎へと移るのだ。
緊張した。少しだけ。他に手はないのだ。うだうだ言ってもはじまらない。
おれは鉄の輪を掴んで、一気に蓋を引き上げた。
墓所の空気が噴き上げてきたが、人狼の不意討ちはなかった。
先に階段を下りる。
つづいて、“プリンス”、ゆき。
「ちゃんと蓋を閉めろよ」
「わかってるわよ!」
返事と同時に、M16の発射音が響き、鉄の吹っとぶような音がした。
「もう、来たか!?」
「大丈夫よ。そら――来た!」
ゆきの声に、重々しい響きが重なった。
「これで、お茶飲んでからでも間に合うわ」
蓋の方へAK47を向けたおれへ、ゆきはのんびりと言った。
「何をした?」
すでに気づいていたが、一応、訊いてみた。
「あの蓋の引き金具を射ちとばしてやったのよ。蓋はぴったりと床へはめこまれてたから、一〇〇人いても開けるのは不可能だわ」
「悪知恵が働くな」
言った途端に、反撃を食った。
「何よ、その言い草? 機転と言いなさいよ。大体、あたしが」
「わかった、わかった。立派なもん――」
なだめかけたおれの心臓が急に乱れた。
訳のわからない不安が湧き上がったのだ。
理解は瞬時だった。
ハチの毒が効いてきたのだ。
よりによって、こんな状況で。
3
「どうしたのよ?」
怪訝な表情で訊くゆきへ、おれは首をふった。
「何でもない。行こう」
数歩進んで、おれは異常に気づいた。
壁際のミイラが、ことごとく床上に散らばっているのだ。
地震か何かで自然に倒れたんじゃない。もげた手足や首の散らばり方からして、凶暴な力が思うさま荒れ狂ったに違いない。
あの人狼が、おれたちを逃がした腹いせに、ミイラに八つ当たりしたのだ。
そしていま、おれたちとの再会の機会を得て、通路の何処かに潜んでいる。
戦慄がおれを包んだ。
何てこった。おれは脅えている。
「どうしたのよ、大ちゃん? ――手が震えてるわ。熱でもあるの?」
「何でもねえ」
「八頭さんは、ハチに刺されたのです」
“プリンス”が余計なことを言った。
「ただのハチではありません。僕の背中から出た、エニラ師のハチです」
「何で早く言わないのよ!?」
ゆきは青ざめた。
「手当てしなきゃ。でも、薬はないし。ねえ、出るまで頑張ってよ」
「わかってる。そんなやわじゃねえよ。安心しろ」
「OK」
ゆきは真顔になって言った。普段なら泣き叫ぶ女が、別人のようだった。おれの容態の恐ろしさを読み取りでもしたのか?
「あたしが前へ行くわ。大ちゃん、しんがりを守って」
「馬鹿吐かせ。女と子供の後につけるか」
「わかってるわよ。でも、よく考えて。先頭のあなたがおかしくなったら、私たち先に行けないのよ。後ろなら、見捨てるのも楽だわ」
そんなとこだろう。
「OKだ」
おれはあっさり納得した。怒りは湧かなかった。大したもんだ。これが太宰先蔵の孫娘なのだ。
「それから、“プリンス”ちゃん。こいつが当てにできなくなった以上、自分の身は自分でお守りなさい。はい、これ」
“プリンス”の腹のあたりに突き出された品を見て、おれは驚いた。
ベレッタM92F――米軍制式拳銃は、鋼鉄の肌を照明にきらめかせた。
「何処でこんなもの、手に入れた?」
「配電盤を切りに行ったときよ。近くに武器庫があったの」
「他に何を持ってきた?」
「これが安全装置でしょ。射つときにはちゃんと外して。――こうよ。それから引き金を引く。このまま引いてもいいけど、この撃鉄を起こしてから射つと楽よ。こう」
“プリンス”は真剣な顔をしてきいている。普通の男の子なら、知る必要など破片《かけら》もない物騒な知識だ。おれは何処か間違っているような気がした。
おれは素早くベレッタを奪い取った。
「何すんのよ?」
食ってかかるゆきの前へ、おれは一歩出た。
「何の真似よ? 乱暴ね」
「やはり、おれが先だ」
「ちょっと。まだ、わからないの?」
食ってかかりかけ、ゆきは沈黙した。おれの決意がわかったのだ。
“プリンス”は誰を頼っているか?
ゆきじゃない、おれだ。
そのおれが後ろに回り、ゆきからは拳銃を手渡されたんじゃ、自立心の前に不安が先に立つ。男は女から拳銃なんぞ渡されるべきじゃないのだ。
おれはあらためて“プリンス”にベレッタを手渡した。
「弾丸《たま》は一六発。握りが太いから両手で狙え。狙いはこう、つけろ」
照星《フロント・サイト》と照門《リア・サイト》の噛み合わせ方を教え、“プリンス”の反応を窺った。吸収しようとする熱心さは同じだが、遥かにリラックスしている。信頼の証拠だ。
ちら、とゆきの方を見ると、おや、惚れ惚れしたような表情ではないか。おれが見ているのに気がつくと、たちまち、不愉快そうな般若のそれに変わり、
「ふん。えらそうに」
とそっぽを向いた。
とにかく、おれたちは歩きはじめた。
一〇メートルと行かないうちに、おれは、まずいな、と思った。
胸中の不安は、ますます黒いタールみたいに広がっている。
多分、刺された瞬間に叩きつぶしたせいで、毒の量が少なかったのと、おれの耐毒抗素の力でその程度で収まっているのだろうが、それにしても激烈な不安だ。
床が抜けたらどうしよう? 壁と天井が崩れてきたらぺしゃんこだ。人狼は何処にいる? ここから出られるだろうか? 出られても、後、どうする? 何のために、おれはこんな苦労をしてるんだ? バラザード・リアの宝のためか? そんなもの、生命と引き換えにできるものか。ここにいろ。先へ進んだら、何が出てくるか知れたもんじゃない。こんな恐怖に、どこまで耐えられる?
足が鋼と化したようだった。
それでも、おれは動きを止めなかった。こんなことぐらいでトラぶっちゃ、八頭大の名がすたる。
「ねえ、本当に」
背後から、不穏な空気を察したらしいゆきが声をかけてきた。
うるせえ、と言いかけた瞬間、右脇から凄まじい勢いで灰色の影が走った。
ミイラに混じっていた人狼だろう。
間一髪でかわしたつもりが、右手の肘に凄まじい痛みが突っ走り、おれはAK47をとり落とした。
爪にかけられたのだ。
「射て!」
叫んで、おれは床へ伏せた。
猛スピードで躍りかかろうとした人狼の胸と腹へ、M16の5・56ミリ高速弾が集中する。
弾頭重量が軽いとはいえ、直撃すればブロックさえ楽々貫通する高速軽量弾の猛打を浴びて、灰色の人狼は絶叫しつつのたうった。
だが――
たちまち三〇発を射ち尽くし、予備弾倉を装填しようとするゆきの前で、奴はゆっくりと床から立ち上がったではないか。
人狼を斃せるのは銀の弾丸だけなのだ。
したたる血潮を無視して、おれはAK47を拾い上げた。
殺すことはできまい。だが、二人を逃がす時間を稼ぐことはできる。
その刹那、おれの背を熱いものが叩いた。トレジャー・ハンター多しといえど、おれ以外にはあり得ない勘の働きだった。
「両手を耳に当てて伏せろ!」
叫んで、おれは床に這いつくばった。
轟きは一、二秒遅れてやってきた。
耳を押さえていても、鼓膜はびりびりと震えた。出口を求めて突っ走る高圧な燃焼ガスと衝撃波の仕業だった。
おれは眼をつぶらなかった。
人狼の巨躯は宙を舞っていた。手足をふり回しながら、廊下の奥へと吹っとんでいく。
「やったぞ。――あの部屋へ入れ! 後ろの敵はそこで迎え討つ」
背後の爆発が、蓋を吹き飛ばしたものであることを、おれは疑わなかった。
右手の傷にハンカチを押し当て、おれはミイラ製造室へとび込んだ。
人狼がどうなったか確かめたかったが、背後に足音をきいては、のんびりしてもいられない。
「ゆき、“プリンス”を連れて先に行け。おれは少し遊んでいく!」
「大丈夫!?」
「おまえよりはな」
「このヘソ曲がり!」
悪態をつきつつ、ゆきは“プリンス”の手を掴んで、反対側のドアへと向かった。
おれは、あの手術台の陰に隠れてAK47を左に肩づけした。
本来右利きだから、どうしてもコンマ・ゼロゼロ何秒か反射速度は劣るが、ライフルを射つ程度なら問題はない。
頭上で獣の咆哮が鳴り響いたのは、そのときだ。
気配に気づかなかったのは、やはり、おれの勘を不安が鈍らせていたからだろう。
とっさにAK47を上向けただけが精一杯の反応で、おれは灰色の体重プラス重力に押しつぶされた。
糞。全身に力が入らねえ。
生臭い息が顔にかかった。それどころか、まぎれもない狼の尖った顔が眼の前にあった。
尖った顎とびっしり生え揃った牙は、殺戮の快感にうち震え、血色の眼は――おや、こいつは、まさか。
恐怖がおれを捉えた。
わああああと絶叫しつつ、人狼の巨体を押しのける。
なんと、ハチの毒が実にうまい具合に作用してしまったのだ。
人狼は跳ねとんだ。
それでも、一メートルほどのところで体勢を立て直す。
灰色の身体から、体毛と血潮が跳ね上がった。
戸口の看守が訳もわからず一斉射撃をぶちかましたのである。
人狼の理性は獣のそれに近い。自分を傷つけた敵に、全神経が向いた。
咆哮が空を流れた。
とび込んできた魔獣は、この国の田舎看守には理解を絶した存在だったろう。
牙が喉を食いやぶり、鉤爪の一撃が男の腕を付け根からもぎ取った。
血の霧が奔騰した。
おれには絶好の機会だった。
必死にドアに向かって走る。
人狼の鬼気が背中へぶつかってきた。向かってくる。
戸口を脱けようとしたとき、足元を銀色の塊が転がっていった。
手榴弾だった。
それは奇蹟のように、戸口に立ちはだかった人狼の足元で停止し、爆発した。
巨体が独楽みたいに回りながら、空中へ躍った。
ぴしゃんと落下したのは台の上だった。
今度はぴくりとも動かない。
「やったわ!」
右手でVサインをつくるゆきへ、おれは、
「あと、何を隠してる?」
と訊いた。
「何って何よ?」
「盗み出した武器だ。あのベレッタ、そして、今の手榴弾。他に何があった?」
「なーんにも」
ゆきはセクシーな尻をこっちへ向けて、口笛を吹いた。
ここで言い争いしてもはじまらない。それに、この娘はその辺のプロよりよほど武器の扱いに習熟している。当座はまかせておくか。
あることが気になり、おれは台の方を向いた。
あの人狼の両眼は確かに――
おれは眼を見張った。
台の上の血まみれの毛皮が、ぴくりと動いたのだ。
ぐるるるる。
喉を鳴らすあの音だ。
「まさか」
ゆきがつぶやいた。
「逃げろ――奴は不死身だ!」
おれの言葉が終わらないうちに、ゆきは“プリンス”の手を引いて走った。
あの狭い通路を――間に合うか?
「ゆき。手榴弾はあるか?」
「はい」
眼の前に二つ突き出された。走りながらだ。
「これで全部か?」
「ええ」
「他に武器は?」
肩をすくめやがった。
「何とかしてみよう。先に行け」
「はいはい」
「八頭さん。生命を無駄にしないで下さい」
“プリンス”の台詞だ。付き合いの長さを考えると、どうも釈然としないが、ま、仕方なかろう。
おれはライフルと手榴弾を左手にまとめ、窮屈な通路へ入る角で立ち止まった。
形容し難い不安が全身をわななかせた。間歇的に襲ってくる怖気《おじけ》だ。肝心なときに来やがる。
右手の出血はすでに止まっていたが、傷は肉を裂いて神経寸前まで達している。止血したのは、おれ得意のヨガの秘術で体機能の調節を行った結果だ。
ただし、あまり長くは続かない。早いとこ、薬ぐらいはつけないと危険だ。
凶々《まがまが》しい気配が近づいてきた。
心臓が口から飛び出そうとしている。全身が瘧《おこり》にかかったみたいに震えた。なんという不様さ加減だ。いつか、お返しはしてやるぞ、あの糞爺いめ。
おれはAK47を腰溜めで構えた。どうせライフルなど役に立たない。手榴弾で決着をつけるしかないだろう。
巨体が現れた。血まみれだが、傷口は塞がっているようだ。凄まじい再生機能である。この秘密がわかったら、不死身の兵隊が出来上がるだろうに、勿体ない話だ。
とはいうものの、実はパリで人狼とやり合い、生け捕りにした男をおれは知っている。
こいつは女で、しかも、日本式ソープランドに勤めていた。毎日毎日、やって来る客の中からうまそうな奴を物色し、帰り道を襲ってたわけである。じかに裸を見られるんだから、味の方は保証付きというわけだ。
最初は神出鬼没の獣の犯行と思っていたパリ警視庁も、目撃者の証言から伝説の人狼と判断。ついに、ある人物に捕獲を依頼した。二年前のことであった。
三千人の刑事をもってしても捕まえられなかった狼女は、半月後、あっさりと捕獲された。警察から依頼された男とは、パリ動物園の飼育係であった。
フランス国防省がその女に興味を持ったのは、拘留中に鉄格子を破って暴れ出し、全身に四〇発以上の弾丸を受けながら、平然と復活したためである。
今でも、女はパリ郊外の某研究所の一室に隔離されている。おれが出会ったのもそこだ。しかし、フランスが今なお世界一の軍事大国にもならず、世界征服に動き出さないことでもわかるように、不死身の秘密は未解明のままだ。こればかりは、現代の分子生物学をもってしても、どうにもならないらしい。この地の底に、もうひとつの臨床例があると知ったら、奴ら、どんな顔をするだろうか。
人狼はおれの方を向いた。
鼻がひくついている。
おれにも成算はあった。だが、こいつの姿を見た途端、そんなもの、どこかへ飛んでしまった。
怖い。信じられない恐怖が身体じゅうを縛りつけている。拷問室でハチに刺された兵士たちは、おっつけ気が狂っていただろう。
それでも、おれの手は動いた。
「来な」
声も出た。手招きしてやった。
「こっちへ来い。おまえの弱点はわかってるんだ。殺せるかどうかはわからないが、打つ手はある。自分の身で試してみるんだな」
言うなり、おれは手榴弾を――投げはせず、一目散に通路へ飛びこんでいた。製作意図不明の曲がりくねった道へ。
奴も追ってきた。凄いスピードだった。おれが二つ目の角を折れたとき、奴は最初の曲がり角へ突っこんだ。
鈍い音がした。
苦鳴がひん曲がって追ってきた。
奴が角を曲がったとき、おれは五つ目を折れていた。
三つ目の角でも、奴は激突した。
そういうことなのだ。奴と掴み合ったとき、おれはその両眼が閉じられているのを見た。不死身の体の主は盲目だったのだ。
犬なら、しかし視力は不要だ。匂いで人を追う。人狼は人[#「人」に傍点]の分だけそうはいかなかった。鼻と眼とを必要としたのだ。
こいつが盲目と気づいた人々は、不死身であることにも気がついていただろう。こいつが一生ミイラとなってはいない以上、復活後、地上へ出すわけにはいかない。かくて、この通路がつくられた。
幾つにも枝分かれし、人の匂いさえなければ、盲目の人狼を決して外へは導かぬ迷路であった。
万が一、迷いこんだ人間が奴と遭遇しても、十分に逃げることができるよう、迷路の長さや角度は調節してあるに違いない。
だが、おれは逃げようとは思わなかった。二発の手榴弾で決着はつけてやる。いや、もうひとつ、とっておきの仕掛けがあるのだ。
スピードこそ弱まったが、獣の凶気は確実に迫りつつあった。
おれはAK47を床へ置き、左手に握った二個の手榴弾の安全リングを咥えた。
眼前の曲がり角に、ぐい、と毛むくじゃらの指がかかった。鎌みたいな爪は鮮血に濡れている。
おれの存在がわかっているのだろう。もはや、慌てず走らず、人狼は伝説の剛毛の巨体をおれの眼前にさらした。
ぎちぎちと金属音がきしんだ。
噛み合う牙の音であった。
距離は三メートル。おれの背後の曲がり角までもう二メートル。
「ようこそ」
おれはリングを抜いた。
人狼の上体が大きく前傾した。後ろ足がたわむ。跳躍の合図だ。
視界を灰色の影が埋めた。
おれは逃げなかった。
猛烈な力がのしかかってくるのにまかせて、床へ倒れた。
頭を打たず、左手の自由を確保する。――これだけを考えた。
かっと口腔が開いた。赤い。おれはぞっとした。喉の奥に、半ば咬み砕かれた人間の顔がうらめしげに覗いていた。さっきやられた看守だろう。
「うおおおお」
恐怖が再びおれに馬鹿力を与えた。
人狼の身体とおれの胸にサンドイッチされた左手を、強引に奴の口腔へ近づけたのだ。
ごぼ、と看守の顔が沈んだ。おれを呑みこむ準備は完了ってわけだ。
熱い息が頭にかかる。
あと五センチのところでがぶりとやられたら、おれの頭蓋はボール紙のミニチュアみたいに咬み砕かれていただろう。
そうはいかない。こいつが呑みこむのは別のものだ。
「ほら、餌をやるぜ」
おれは死の口へ、手首のスナップだけで手榴弾を投擲した。
途中でセフティ・レバーが弾けとび、撃針が信管《ヒューズ》をヒットする。
あと四秒。
おれは身をひねりざま、人狼の脇腹へ膝蹴りを叩きこんだ。不自然な姿勢だが、一〇センチの松の板をへし折るくらいの威力はあるだろう。
怪物は横転した。
喉仏が動いた。手榴弾を呑みこんだのだ。
あと二秒。
おれは後をも見ずに曲がり角へと走った。
とび込んだ。
あと一秒。
奴が何か叫んだ。おれは半分だけ顔を覗かせて見た。
人狼の上半身が限界まで膨れ上がるや、鳳仙花《ほうせんか》みたいに裂けた。
手榴弾は、全く同時に炸裂したらしかった。素早く引っこめた鼻先をかすめて、爆風と赤い塊が飛んだ。
おれが立ち上がったのは、血の霧が収まり、轟きが小さな木魂《こだま》と化して消えた後だった。
不死身の妖怪は、二度と復活する気配を見せなかった。
おれは周囲を見回し、奴が最良の死に方を選んだことを知った。
飛び散った肉片は、干からびた破片と化していた。
ミイラにされたのは、人間としての奴だった。人狼は人間に戻ったのだ。
床の上に、おれは光るものを認めて近づいた。
ひどく変形しているが、間違いなく、おれが手榴弾と一緒に人狼の口へ放りこんだ品だ。
人狼の息の根を止めたのは、手榴弾ではなく、それ[#「それ」に傍点]だった。
“プリンス”の袖からもぎ取った純銀製のボタンを、おれはそっと床の上へ置いた。
二人は墓地の外へ出て待っていた。
どうやって人狼を斃したのか知りたがったが、おれは適当に言葉を濁しておいた。
半分は人間だ。人殺しを自慢するのも気がひける。
「そんなことより、エニラ師だ。どうも、どっかでおれたちの様子を窺っているような気がしてならない。早いとこ移動するぞ」
「何処へです?」
「決まってるさ。おまえさんの住むべき場所だ」
「首都へですか?」
「そこの宮殿へだ。正式な次期国王を国民に拝顔させて、エニラ一派の度胆を抜いてやる。おっと、ヤンガー大佐のもだ」
「だけど、明日になれば、主要道路は軍に封鎖されてしまうわよ。真っ当なルートはどうしても無理だわ」
しかめっ面のゆきへ、
「わかってる。だから、あの山を越えていくさ」
おれは暗黒の夜空へ顎をしゃくった。
そこに横たわる山並みは、太古の伝説を峰の何処かに秘めて眠っているはずであった。
おれは“プリンス”に向き直って、
「前に約束したよな。おれが、おまえさんを正しい地位につけたら、どうして欲しいかって?」
「はい」
「前払いしてもらうことになりそうだが、いいかい?」
きょとんとする“プリンス”へ、おれはこう言った。
「あの山脈のひとつが『バラザード・リア』なんだ。あそこを越えて行く途中で、おれはどうしても宝を探し出したいんだよ。でないと、トレジャー・ハンターの血が収まらねえ」
「お好きなように。僕もお手伝いします」
「泣かせるねえ」
「あたしも手伝うわ」
「おまえは何処かでキノコでも採集してろ。あそこには、従来の生物層を全く裏切るおかしな動植物が棲息しているそうだ。ひと口で三日保つ珍種が生えてるかもしれん」
「ひと口で三日間寝込むのを見つけて、ご馳走してあげるわ」
「るせ」
「そんな訳のわかんないとこ行くのに、この装備でOKなの? きっと、軍隊も追っかけてくるわよ。あたし、心細い」
「わかってる」
「戦車もヘリもトラックも来るわ。艦砲射撃やミサイル攻撃もあるかもしれない。どうやって迎え討つのよ? そんなライフルじゃ、竹トンボぐらいしか射ち落とせやしないわ」
えらくアンティークな品を持ち出しやがったが、その通りだ。まして、エニラ師直属の軍隊ともなれば、どんな気違いじみた兵器が出てくるか、わかったもんじゃない。こちらにも、それ相応の武器が必要だ。
おれは少し考え、うなずいた。
「よし、わかった」
「いい手があるの!?」
ゆきと“プリンス”が眼をかがやかせた。
「うむ」
おれは重々しく首肯した。
「とりあえず、電話だ。坊さんたちをたらしこんだ、ホテルへ戻ろう」
ゆきが訝しげな眼つきをした。
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第三章 峻峰魔界
1
「見える、見える。トラックの行列よ」
崖っぷちから遥か下の道を覗いていたゆきが、面白そうな声をあげて手招きした。
おれは食事の用意をしている“プリンス”と名雲陣十郎のそばを離れ、ゆきの隣から下を覗いた。
なるほど、細い山道を、リベラ市の方角から緑色の軍用トラックが一〇台ほどやってくる。目的は無論、おれたちの追跡だろう。幌の内側にはたっぷりと追跡用の兵隊を積み込んでいるに違いない。
昨夜から今朝にかけて、リベラ市へ出入りする道路も鉄道も封鎖され、それでもおれたちが捕まらないところから、山越えと判断したのだろう。
お楽しみはこれからだ。
昨夜、といっても夜明け近く、おれは例の坊さんの一団が宿泊してたホテルへ戻り、国際電話を一本かけた。それから、早朝のマーケットへ押し入り(鍵を開けるのは簡単だった。おれとゆきがいるのだ)、無断で食料を買い込んだ(金は払った)後、バラザード・リアの麓までジープをとばして、山登りを開始したというわけだ。
「ねえ、武器って、いつどこへ着くのよ?」
ゆきが不安そうに訊いた。
「相手は登山用具装備の山岳部隊よ。ヘリだって使うわ。のんびりしてられないわよ」
「安心しろ。空輸だ」
「呑気なこと言わないで。あんたって、ほんとに太平楽ね。何処に連絡したか知らないけれど、ジャンボジェツトででも送ってもらうつもり。それだって、積み込みから税関まで入れたら、三日はかかるわよ。そこから、何処へ送ってもらうわけ? 『バラザード・リア山中腹』で荷物が着くと思って? ジェット機使ったって、ミサイルで叩き落とされるのがオチよ。結局、このライフルだけで、ヘリや戦車を相手にするしかないわね。あーあ、花の生命は短いというけど、こんな山ん中で散ろうとは思わなかったわ。それもこれも、あんたが愚鈍なせいよ」
「へいへい。仰せの通りでございます」
おれは精一杯、嫌味ったらしく言った。ゆきの言い分ももっともだ。今のおれたちじゃ、軍隊相手に戦うには役不足としか映るまい。他人《はた》から見れば、な。
「だが、少しは安心させてやろう。この山は、ローラン共和国あげての禁断の場所なんだ。子供たちは生まれてすぐ、怖い話の筆頭に、この山の中に眠っている古代の船と、それを守る怪物たちの話をきいて育つ。成人して理性が働くようになってからも、この山へ登った連中が帰還しないという事実が、言い伝えに凄みを加える。いくら近代装備の軍隊といっても、中味の人間はかなりぶるってるさ。そこ[#「そこ」に傍点]をつけるかもしれん。その証拠に見ろ。そろそろ、おかしなことになってる」
おれは意味ありげに周囲を見回した。
おれたちがいるのは、中腹やや下寄りの平地だが、周囲は緑だの茶色だの、カシだのスギだのでいっぱいだ。
その合間に、ちょっとおかしな植物が顔を覗かせている。
赤い花弁を何重も外側へ開いた花は、熱帯のものを思わせた。
一本きりではない。あちこちに、火の手が上がったみたいに眼につくのだ。
「調べてみたが、正体不明だ。植物かどうかもわからん」
「?」
「さっき蕾の中を調べたら、ガラスの破片みたいなものが、いっぱいに植わっていた。牙だ」
「肉食植物ってこともあるわ」
「植物が牙を持つかよ。それに、動きがひどく速い。危なく指を食われそうになった」
「食われちゃえばよかったのよ」
「うるせえ」
おれはののしって、食事中のふたりのところへ戻った。
食事といっても、スーパーから無断購入した牛缶とコンビーフ、乾燥野菜である。
おれは牛缶をひとつ取り、周囲に気を配りながら胃に収めた。
ほう。蓋を開けた途端に、赤い植物がこっちを向きやがった。あれで三本足《トリフィド》を使って歩き出しゃ人類SOSだが、そんなこともあるまい。
「なかなか、見晴らしのよろしい場所で」
と陰気な声は、名雲陣十郎である。
「“プリンス”さまもお助け申し上げたうえ、山登りとは、究極のレジャーもここに極まれりといった風情がありますですな」
「嫌味ならもっとストレートに言いな」
おれはうんざりした口調を隠さずに言った。
「何ならここからおさらばして、あいつらに投降するか? おれたちの居場所を教えれば、大枚の賞金が出るかもしれん」
「見損なっていただいては困ります。不肖名雲陣十郎、お金のためにご主人さまを裏切るなどと――ところで、賞金とはいかほど出るもんでございましょうか。いえ、参考までに」
おれは返事をしなかった。一万円でも裏切りかねない爺いだ。年寄りは信じないことにしている。年輪を重ねて充実する人間性とは、欲の皮だけだからだ。
「『バラザード・リアの宝』とは、本当にあるのでございましょうか?」
陣十郎は質問を変えた。
「ある」
おれは短く言った。
「ただし、どんな宝かはわからん。古い船は言い伝えにすぎない。探しに行って帰った奴がいない以上、何かはあるんだろう」
「気色の悪いお話で。そんなところへ出向く方々の気が知れませんですな」
「おまえの主人の職業を忘れたか?」
おれがそう言ったとき、“プリンス”がうっと呻いた。
「どうした!?」
「どうしたの!?」
青い顔で腹を押さえている。
「急に――お腹が痛くなって……」
「おかしなものを食ったかな?」
おれは地べたの上の食料を眺めた。
「間違いなく食中毒よ」
とゆきが“プリンス”の額に手を当てて言った。それから、陣十郎の方を向いて、
「あんた、よく平気ね」
「はあ」
大社長と見紛う恰幅の秘書は平然たるものだ。
「同じものを食べたんじゃないの?」
「いえ、缶詰は別です」
「運のいいお爺さんね」
「違うな」
と、おれは言った。
「そいつがいいんじゃねえ。“プリンス”が悪いんだ」
「え?」
「おまえ、食事はどうした?」
「まだ、だけど」
「そいつはよかった」
「どうしたの、その汗? ――あんた[#「あんた」に傍点]も!?」
猛烈な腹痛をこらえながら、おれはうなずいた。
「缶詰はやめておけ。この調子じゃ、陣十郎が食った分以外は、みな腐ってる」
「あんた、わからなかったの?」
ゆきは眼を丸くした。
「天下の八頭大がどうしちゃったのよ?」
「厄病神がご一緒してるんでな」
おれとゆきに見つめられ、陣十郎は慌てた。
「ご冗談を。私、そのようなものを連れてはおりません」
「もちろんだ」
と、おれはしゃがみ込みたいのを我慢して言った。
「おまえには何もついてねえさ。おまえ自身が厄病神なんだ。“プリンス”の救出作戦におまえを同行しなかったのも、そのためだ」
「情《つれ》ないお言葉」
陣十郎は身悶えした。貫祿たっぷりの中年男がやると、何となく異次元的でいやらしい。
「で、私にどうしろとおっしゃるので?」
「本来なら、あいつらのところへ投降してもらいたい。おまえがそばにいるだけで、ヘリは自然に火を噴き、兵隊は全員エイズにかかってしまう。川は氾濫し、山崩れに地割れがトラック部隊を呑みこんでくれるだろう。安心しな。おまえは大丈夫だ。傷ひとつつかねえ。厄病神てな、そんなものなんだ」
「そんな、言いがかりでございます」
「だから、本来なら、と言ったろうが。あいつらが投降してきたおまえをいきなり射たないって保証はないからな。そのかわり、一切余計な真似をするな。おれの指示に従え。いいな?」
「私がこれまで、みなさまにご迷惑をおかけしたことがありますか?」
「いるだけで迷惑なのよ。あんたは」
ゆきが吐き捨てた。
「ね、置いてったらどう、大ちゃん。そうすれば、必然的に敵の捕虜になるわ。こっちは大助かりよ」
「そのような、理不尽な」
「安心しろ。おれは根がやさしくできてる。今まで付き合ってきた仲間を、むざむざ敵に渡すような無体な真似はしねえよ」
「感謝いたします」
「出発準備をしろ。きっと、ヘリが来るぞ」
「ははっ。八頭さまのためなら、どんな肉体労働もいといません」
これもスーパーから持ってきたリュックを背負いはじめた陣十郎を横目で見ながら、ゆきが低く訊いた。
「本当に、あんな厄病神連れてくつもり? 夏山で雪崩に遭いそうよ」
「ま、まかしとけ」
おれは腹を押さえながら、にんまりと笑った。
「ああいうタイプにはそれなりの使い方があるんだ。敵は後方だけじゃないからな」
「わかった」
ゆきも、おれに合わせてにんまりと笑った。こういう邪悪な笑い方をすると、この娘の色っぽさは百倍引き立つ。悪女というのは大抵妖艶なのだ。
「熊が出て来たら餌をやって、あたしたちは、その隙に逃げるのね」
「そう露骨に言うもんじゃないよ。キミい」
おれたちは、声をひそめて、ふっふっふ、と笑った。
そのとき下方から低いエンジン音が上昇してきた。ヘリだ。
「来たわよ!」
「その茂みの中に隠れろ。絶対に頭を出すな。身動きもするな」
“プリンス”以外は、全員プロであった。食事の跡は瞬く間に消滅し、三秒後、おれたちは草と木立の陰に身を沈めていた。
カーキ色の機体が下から浮き上がってきた。
ベルUH―1Hイロコイ。一九六七年から八〇年にかけて三五〇〇機が製造された汎用ヘリである。偵察、戦闘、兵員輸送――何でもOK。人間なら一四人、または六つの寝台と看護員ひとり、あるいは一、七五九キロの荷物を積むことができ、簡単な装甲と重機関銃やミサイル・ポッドをつければ、戦闘にも耐え得る。無線器、サーチライト、自動操縦装置を装備しているのは言うまでもない。
胴体の窓からは、兵隊の顔がはっきりと見えた。
おれの耳は複数の爆音を聴きつけていた。
精鋭を乗せてあちこちへ飛ばし、おれたちを発見次第、全ヘリコプターをその地点へ集中させる策だ。
もっとも、最寄りの基地はリベラ市から一五〇キロほど離れているし、このヘリの最大航続距離は有効搭載量こみで四〇〇キロだから、長時間の偵察には不向きだ。数は――爆音から判断して五機。上空からじっくりとおれたちを探すつもりだろう。
だが、腹を襲う痛みのさなかで、おれは耳をそば立てた。
五機とは別に、三個の爆音が近づいてきたのだ。
でかい。UH―1Hの比ではない。
山肌に沿って舞い上がる化鳥の影を、おれはボーイング・バートルCH―47Dチヌークと見抜いた。
ローター回転全長一七・四六メートルのUH―1Hに対し、こちらは三〇・二メートル。過大全備重量は二〇、八六五キロに達する。四四の座席か二四の寝台、三つの貨物フックを備え、米軍の軽戦車シェリダン(一五、八三〇キロ)くらいなら、楽々と空輸してしまう大空のトラックだ。
おれたちのいた平地上空を滞空中のUH―1Hを尻目に、巨影は悠々と上昇し、おれは腹痛も忘れて舌打ちした。
何処へ行きやがる? ――ひとつしかありゃしない。
宝の在《あ》り処《か》だ。おれの行くところを、奴らは見抜いているのだ。
「ばれてるわよ」
すぐ後ろで、ゆきもおれと同感であることを示した。
「向こうもあんたの性癖を読んでるのね。人一倍欲の皮の突っ張った男が、宝の山を見過ごすはずはないと踏んでるのよ。ほら、見えないけど、同じエンジン音が二つも上昇してったわ。たっぷり兵隊と武器を用意して、待ち構えてるわよ。ここは、コースを変更する手よね」
「やだね」
おれは唸るように言った。
「え?」
「女のくせに、余計な心配なんかするんじゃねえ。コースなんか変えんぞ。もう手は打ってあるんだ」
「何よ? あんたの息のかかった飛行場から最新兵器を満載したジェット機でも飛び立ったというの?」
「ま、そんなところだ。きっかり、一時間ほど前にな」
「間に合うわけがないわ。ニューヨークからここまで、五四〇〇キロもあるのよ。マッハ3で飛んでも、一時間半はかかるわ。宝の在り処なんかへ行ったら、五分で皆殺しだし、その前にヘリに見つかって、ナパーム弾で黒焦げにされちゃうわ。そうだ、大体、五四〇〇キロも飛べるジェット戦闘機なんて、この世に存在しないんですからね」
「誰がジェット戦闘機と言った?」
「へ?」
とゆきは眼を丸くし、すぐに柳眉を逆立てた。
「なら、何よ? ジャンボ・ジェット? あんた、この国へ何を持ち込むつもり? まさか、大陸間弾道弾《ICBM》じゃないでしょうね?」
「正解正解」
おれは呻くように言った。
「残念でした。ジャンボじゃ、フルスピードでも五時間以上かかりますようだ」
おれは無視を決めこんだ。腹の痛みがひどくて、それどころじゃなかった。
「ふん」
とゆきが悪態をつき、不意にヘリが遠ざかった。
「うおお!」
悲鳴が上がった。陣十郎だ。また、あの阿呆が!?
ヘリが戻ってきた。集音装置も備えていたのだろう。
滞空《ホバリング》する胴の両側から、ロープが投げ下ろされた。
カーキ色の軍服とリュック姿が、次々に下降してくる。見事な手際だった。
降りるまで待っちゃいられない。
おれは木陰からAK47を突き出し、ヘリの操縦席めがけて引き金を引いた。田舎の警察署からかっぱらった二挺のうちの残りだ。
風防に亀裂が走り、胴体に火花が散る。
パイロットは大慌てで脱出を計ったに違いない。
ぐうんと旋回したのはいいが、兵隊どもはロープにくっついたままだ。悲鳴をあげて、命の綱にしがみつく。応戦する余裕もなかった。
おれの狙いはパイロットを負傷させることだった。兵隊が一〇人ぶっ倒れてもヘリは降りられるが、操る奴がいなけりゃ墜落するしかない。
ま、負傷すりゃ安全地帯へ逃げるだろう。少なくとも別のが来るまで時間は稼げるわけだ。
「今だ。上がれ!」
叫んで、おれは腹を押さえた。ぐるるるる、だ。畜生、あの厄病神。
どこかにトイレはないかと思いつめながら、おれは足に力をこめた。
五分ほど登ったとき、下方からヘリのエンジン音が迫って来た。
さっきの奴か別のか、とにかく敵だ。
「手を上げて出て来い」
マイクの声が英語で叫んだ。
「もう逃げられっこない。この辺一帯は、すでに包囲した。投降しなければ、銃撃と爆撃を加える」
そう言いながら頭上をうろついているのは、おれたちを見つけていない証拠だ。
「本気でございましょうか?」
右斜め上で陣十郎が訊いた。
「安心しろ。エニラ師の指示なら、“プリンス”がいるってことも承知のはずだ。ナパーム弾を射ち込んだりしやしねえよ」
「それもそうね」
これは右上から、“プリンス”の手を引いたゆきだ。
「まだペンダントが大佐の手にあるって知らないはずだし」
「その通り」
おれは素っとぼけて胸を張った。途端に――
「うぐぐ」
ぐるぐるぐる。
「しまらないわねえ。――しっかりしてよ」
「うるせ」
おれは、ヘリを射ち落とせるかどうか計算したが、腹痛がひどすぎた。ライフルを持ち上げるのがやっとだ。連射なんかしたら、反動でおれの方が吹っとんでしまいかねない。下半身に全く力が入らないのである。
射たれたとか食われたとかならまだしも、食中毒ときた。みっともないったら、ありゃしない。
「射たれなくても、見つかったらおしまいよ。どうするの?」
ゆきが訊いた。
その刹那、ヘリの胴体に小さな光が点滅した。
機銃掃射だ、と思った途端、五、六メートル下の木立が、派手な着弾音とともに薙ぎ倒された。
威嚇射撃だが、出鱈目に命中するという場合もあり得る。かと言って、動いたら一発で発見されてしまう。
そのとき――
「八頭さま、大変でございます」
陣十郎の叫びが耳朶を打った。
この上、厄介ごとなどあるものか。しかし、そうじゃなかった。
「“プリンス”とゆきさまがいなくなりました!」
2
「何だと!?」
おれはふり向いて、陣十郎の言葉が真実であることを確認した。
ほんの三秒前までそこで喚いていた女子高生と食中毒の貴公子は、忽然と消失していた。
「おまえは何をしてた!?」
こんな場合でも、おれは声を低めて訊いた。
「何も。ふと眼をお離ししたら」
「この厄病神が」
ののしった声に、
「こっちいらっしゃい!」
まぎれもないゆきの叫びが重なり、おれは仰天して眼を凝らした。
おれの位置からは見えないが、声がしたあたりの草むらに、窪みか何かあるらしい。
ひょいとゆきが現れ、手招きした。
「洞窟よ。いらっしゃい!」
天の助けとはこのことだ。しかも、草に隠れて行ける。
「行け!」
と陣十郎に声をかけ、おれも走り出そうとした。
陣十郎は動かない。
「何してやがるんだ!? ――わかった。貴様、敵のスパイだな?」
「動けませんのです!」
悲痛な声が上がった。
「何だ、そりゃ!?」
「何かがわたしの背を引っ張っております」
おれは舌打ちして、陣十郎の方へ移動した。
「さっきの悲鳴もそれ[#「それ」に傍点]か?」
「左様で」
奴の後ろに回り、おれは、腹の痛みが消失するのを感じた。
あの赤い花の蕾から、繊毛みたいな糸が伸び、陣十郎の背中に付着しているのだ。
念のため、AK47の銃身で触れてみて驚いた。針金の強さを持っているじゃないか。
手じゃ、らちがあかない。
おれは手首の単分子チェイン・ソーをふるった。
今度はあっさり切れた。
花全体が痙攣し、糸はつるつると花芯に吸いこまれていく。
陣十郎の背に、先端部がなおくっついていることを知り、おれは満足した。後で研究の余地がある。
「ありがとうございます」
と丁寧に礼をするのへ、
「どういたしまして」
こちらも丁重に応じたのは、その洞窟へとびこんでからだった。
ゆきは洞窟と言ったが、正確には裂け目だ。地殼変動が開けた岩壁の口は、それでも、人間二人がすれちがうだけの幅はあった。
「奥へ行けるわよ!」
暗黒の向こうでゆきの声がした。
「無茶するな。何が出るかわからねえ」
「だから、待ってたのよ。先行って」
おれは岩壁に背をつけ、同じ姿勢の“プリンス”やゆきとすれちがった。
胸に柔らかいものが触れた。
ゆきの乳房だった。
「あ」
短い声も喘ぎのように色っぽい。ちょっと乳首をかすっただけでこの様だ。キスでもしたら、ところ構わず大爆発だろう。
前方に道はつづいている。普通の人間には真の闇だろうが、おれには何とか見える。
外の光の余波を、視神経があまさずキャッチしているからだ。
通路は狭まらず、むしろ広くなっている。この調子だと、山を貫通しそうだ。
何処へ出るかわからないし、行き止まりかもしれないが、とにかく行くしかない。
「足元に石があるぞ」
「ちょっと狭いが気をつけろ」
いちいちガイドのように気を遣いながら、それでも、かなりのスピードで、おれたちは前進を果たした。
「もう、駄目だ」
おれはついに立ち止まった。
左手に別の裂け目があるのに気づいたのである。
「どうしたのよ?」
ゆきが気色ばんだ。こういう勘は鋭い女だ。
「トイレだ」
「やだあ。“プリンス”が我慢してるのに何よ。レディの前で礼儀知らず」
「自然がおれを呼んでるのさ。文句は厄病神に言え」
「とっとと済ませてよね。うーんと離れてるから」
「勝手にしろ。おい“プリンス”、一緒にどうだ?」
「いえ。何とか我慢できそうです」
「そうか。ま、頑張れよ」
おれは裂け目に身を入れた。
これも狭いが深い。
ベルトに手をかけたとき、おれの背骨が急に重くなった。
理屈じゃねえ。トレジャー・ハンターの本能に何かが触れたのだ。それも――おお、体温がぐんぐん下がっていく。相当な玉だぞ!
おれはベルトを締め直して、足を早めた。
待っている三人のことは、とうに脳裡から消えていた。
AK47を肩にかけ、おれはひたすら前進した。
とは言うものの、あまり時間をかけると、兵隊どもが裂け目を見つけ出さないとも限らない。
惜しいが、そろそろ頃合いかと思ったそのとき、裂け目の端らしいものが向こう側に覗いた。
広大な空間をおれは感じた。
胸の中のものが、おれを駆り立てていた。あの感覚だ。
途方もないものが近い。――身体の中のもうひとりのおれが、そうささやいている。
こうなると、おれは慎重の塊と化す。
体重がゼロになったような軽い足取りで、全身が鉛の質量を備えたかと思われるほど、ゆっくりと進むのだ。
裂け目を抜けるときも、眼だけ出して、じっくり観察する。
「ん?」
思わず、そんな声が出た。
そこにあるのは、単なる岩の空間であった。やはり、地殼変動の仕業だろう。果ても見えないくらいにでかいが、それだけだ。
「なんでえ」
落胆しなかったといえば嘘になる。一〇年ぐらい前は、こんなことはしょっちゅうだった。しかし、そんなはずはない、ともうひとりのおれが首を横にふる。
絶対に、ここには何かある。何かが隠されている、と。
すると、幻覚を見せる装置でもあるのだろうか。
正直、おれは古代の船の遺跡を期待していたのだ。
勘は、それなみの「発見」を示してうずいていた。
絶対にミスったはずはない。
おれは思い切って、岩の広場の真ん中へ走り出た。
何も感じられない。それなのに、おれの勘は、まさにそこだ[#「そこだ」に傍点]とささやいている。
さしものおれも困惑した。
これが幻影だとしたら、視覚だけでなく、五感を惑わせる超高度なメカニズムといえる。これだけで並の宝などなくともよさそうなものだ。
現に、時折だが、守るべき宝より、守る防御装置の方が価値が大きいという状況が存在する。
アムネスチンの頂にある太古の鳥人族の都市へお邪魔したときなど、肝心の宝は、おびただしい動物のミイラ一万年分でしかなかったが、それを地上五〇メートルの空中に固定しておく送風技術が、売り込みに出かけたNASA委員会の眼を剥かせて、一億ドル近い値段で売れた。
カリブ海沖に沈んでいたアトランチスのものと思しい古代帆船の宝は、全長二〇メートルもの巨大鮫の保護を受けていた。知っての通り、鮫は魚類中、最も癌にかかりにくい魚であり、血液の中に、癌の発生を予防する物質が含まれているのは定説となっている。ただし、人間の場合、その免疫機構がこれを破壊してしまい、応用はいまだしが現状だ。その巨大鮫の血液含有物質だけは、見事にそれをクリアーした。白血球や抗体の猛攻にもめげず、人間の血液中で生きつづけたばかりか、あらゆる癌細胞の九割を消失させてしまったのである。
すんなりいけば、人間は癌を制圧し、おれは宝探しをやめて悠々自適の億万長者、いや、世界的新興宗教の教祖にもなれただろうが、いかんせん、物質は別の方面にも作用し、これを混入された生物は、みな、一種の両生類となって鰓《えら》呼吸を行い、魚なみの知能に低下してしまうのだ。これら二点の改善は、おれ所有の化学研究所やバイオテクノロジー工場でも成功していない。
だが、今度ばかりは、さすがのおれも防御機構の正体が掴めなかった。
何とかしなくちゃ。このまま、おさらばするのは勿体なさすぎる。欲求不満で、腹痛が胃潰瘍になりかねない。
そのとき、裂け目の奥で、おれを呼ぶゆきの声が鳴り響いた。
来たか。
大急ぎでおれは、もとの通路へ戻った。
「何してたのよ。そんなに時間がかかるの?」
「あれは、まだだ」
おれは腹を押さえながら言った。
「やっぱり、ちゃんとしたトイレが欲しい。“プリンス”もそうだろ?」
「はい」
「礼儀正しいこと」
ゆきが嘲笑した。
「最後の瞬間を写真に撮って、ITHAの本部へ送り届けてやろうかしら」
「やれるならやってみな。おまえのオールヌードの寝姿を、世界中のAVプロダクションへばら撒いてくれる。さぞや、モデルの勧誘が引きも切らんだろうよ」
「あたしがハリウッドでデビューする前に、そんな真似してごらん。知り合いのマルセイユの殺し屋に頼んで、あんたの大事なものを夜中に切り取ってやるわ」
「とにかく、奴らが来たのか?」
「足音がしたわ」
「よし、こっちへ入れ。新しい脱け道だ」
「出られるんでしょうね?」
「そっちを行けば出られるのか?」
「はいはい」
おれたちは、あの広場へ戻った。
「何かおかしいわね、ここ」
と、ゆきが不審そうに周囲を見回したのは、さすが太宰先蔵の孫娘だ。後ろの二人はきょとんとしているきりだ。天稟《てんぴん》の差だな。
「こっちだ。広場を突っ切るぞ」
声をかけて歩き出した。
異常に気づいたのは、すぐだ。
足が重い。いや、身体全体が水中にでもいるみたいに前進しづらくなったのだ。
呼吸《いき》は変わらない。光景が歪んだりもしない。それなのに、見えない壁はますます強度を増し、広場の中央に辿り着くまでに、おれはときどき立ち止まって、息をつがねばならなかった。
ゆきは異常を感じた地点で立ち止まっている。
「どうしたのよ、大ちゃん?」
「何でもない。息が切れた」
「お仲間ですな」
陣十郎が親しみを込めて言った。
「どうやら、分子の密度が変調を来しているらしい」
「何の分子よ?」
「わからん。ただ、この広場には何かあるんだ。つまり、おれのいる空間は本来、何かが占有しているんだ。普通は空気と同じ密度を維持してるんだろう。それがこうなったのは、長い間にメカニズムが狂いはじめたんだな」
「長い間ってどれくらいよ?」
「わからない。勘だ」
ゆきは反論しなかった。おれの勘に異議を唱えるトレジャー・ハンターはいない。
「先へ行けるの?」
「きついが何とかなる。おまえらは外周を回れ」
「わかった」
三人は大急ぎで広場の端を移動しはじめた。問題はなさそうだ。
おれも力を込めた。
深海なみの圧力は、粘土の中を歩く感じに変わっていく。
そろそろ諦めた方がよさそうだ、と思いながらも、おれは前進をやめなかった。
一分もしたろうか。――急に動きが楽になった。
中心を越えたのだ。
通路の端から、銃を構えた人影がとび出したのも、ほとんど同時だった。
登山ルックに身を固めた兵隊だ。どいつも屈強な身体をしている。ライフルはAK47だった。
「止まれ」
と隊長らしい奴が叫んだ。一〇人近い兵のライフルは、ぴたりとおれに照準を合わせている。おれは足を止めた。
「銃を捨てろ」
「やだね」
言いながら、おれは後退《あとずさ》りをはじめた。
「動くな。それ以上、逆らうと射つ」
隊長の声から感情が消えた。
おれは構わず走った。
ふっと呪縛が解けた。
「射て!」
隊長の号令一下、おれの眼はおびただしい炎の迸りを刻みこんだ。
3
次の瞬間生じた現象は、おれ以外には理解できなかったろう。
おれにしても自信があったわけじゃない。なのにやってみたのは、突如として、例のハチの毒――「不安」に取り憑かれたためだ。しかも、今回はただ[#「ただ」に傍点]怖いじゃすまなかった。
二〇メートルほど向こうでライフルを構えた兵士たちが、見る見る異形のものに変化したのである。
赤光を放つ眼。腐り切り、腐敗ガスで膨張しきったような色と形の身体からは、何万本という蛇みたいな触手を垂らし――普段のおれなら、どうということのない化物だが、今回は「毒」が効いているから堪らない。
おれは絶叫して、ライフルをふり回した。射たなかったのは、最初からそうするつもりだったからだ。まともな精神状態ならそれでもためらったろうが、恐怖の虜になってはそうもいかなかった。
飛来する数十発の7・62ミリ弾頭を、おれはことごとくAK47でもって弾き落としてしまったのだ。
高密度分子の網は、秒速八〇メートルの弾丸すら十分の一に減速させた。時速二九〇キロ。なに、プロ野球の快速球投手よりちょっと[#「ちょっと」に傍点]速いくらいだ。おれのスピードも落ちているが、その分は恐怖が補った。
何が起こったのかわからず茫然としている兵士たちを、AK47をぶっ放して地に伏せさせ、おれは悲鳴を上げて逃げた。
精神《こころ》のどこかで、やばいなという気持ちが大きく動いた。ハチの毒は日を追うごとに効き目を増しつつある。
空気はまだ重かったが、今のおれには問題にならなかった。
背後で、ライフルの連射音を聞いたような気もするが、ふり向きもせず走った。
「こっちよ!」
右手の闇でゆきの声が叫んだ。
そっちへとび込んだ瞬間、おれはもう一度、悲鳴を上げたくなった。
待っていたのは、悪鬼だった。
闇に溶けた顔の中で、唇と瞳だけが血の光を放っている。腰のあたりで蠢いている髪は、すべて虫であった。
「どうしたの!?」
ゆきの声も悲鳴に近かった。
「離せ」
伸びてきた手を張りとばした背中に、
「八頭さま、どうなさいました?」
陣十郎の声が挨拶した。
おれはふり向き――絶叫した。
そこにいるのは、全身黒い毛で覆われた何かだった。
のけぞった頭上を唸りが通過した。銃弾だ。広場の中心を通過してきたらしく、スピードは遅い。遅いが、当たれば重傷くらいは負う。
耐え切れぬ恐怖と嫌悪感に襲われ、おれは前方へ走った。
「何処へ行くの!?」
「八頭さま!?」
呼びかける声音も、おぞましい悪鬼のそれだった。そっちへ射ちまくらなかったのがせめてもだ。
何処をどう走ったのかわからない。腹痛も忘れた。
岩が笑っていた。地面が歪み、ウィンクを送ってくる。天井が頭に触れる位置まで下降し、おれは震え上がった。
エニラ師のハチは、着々と役目を果たしつつあった。
急に不安が消えた。
この辺がよくわからないところだ。深く刺されなかったせいなのか、薬効に一貫性がない。それとも、おれの内部《なか》にある何かが、発狂しきるのを防いでいるのだろうか。
気がつくと、おれは外にいた。
陽光と高地の冷風が全身をなぶっている。
ふり向くと、背後の岩壁に亀裂が走っている。そこから出たのだろう。
とんでもないことをしちまった。
心底、おれは青くなった。いくら、敵の毒にさらされていたとはいえ、仲間を三人もほおって自分だけ逃亡しちまったのだ。卑怯ものの所業だった。
それも残した仲間が、よりによって老人と女子供ときている。
戻らなくては。――こう思った刹那、身体は前方の石塊《いしくれ》の陰にとび込んだ。
いま立っていた背後の岩壁が、かん高い命中音を吐く。
破片を首筋に受けながら、おれは前方の広場に蠢く影を認め、唇を噛んだ。
兵隊の群れだ。完全武装で、おまけに本物のシェリダン軽戦車を真ん中に据えてやがる。おれごときに大層な装備だが、多分、そうじゃあるまい。奴らは、バラザード・リアの内側に封じ込められているものを恐れているのだ。
「投降しろ」
拡声器の声と同時に、ライフルの一斉射撃が空気を震わせた。
岩が何度も鋭い悲鳴を上げる。
おれもAK47を突き出して応射した。
傲岸に突っ立っていた兵士どもは、大慌てで伏せたり、戦車の陰に隠れる。一五五ミリ砲兼ミサイル発射器がどかんと来るかと思ったが、意に反して戦車は前進もしなかった。
おれは背後に眼をやった。
さっきは気がつかなかったが、戦車の真正面にあたる位置に、洞窟の入口が口を開けている。
幅はよくわからないが、高さは五メートルを越す。見たところ、自然の産物だ。
「手を上げて出て来い。もう逃げられんぞ。投降すれば、生命は保証する」
やかましい。文句があるなら、来てみろ。
おれは、マイク片手の兵士に一発射ち込んだ。
マイクが吹っとび、そいつは引っくり返った。
再び、頭上を一斉射撃が通過した。
それにまぎれて、ガスを吐き出すような音が連続した。
見上げた視界を、カーキ色の塊が幾つも通り過ぎた。
白煙が噴き上がったのは、左右後方とも二メートルと離れていない位置だった。
催涙ガスだ。
慌てて息を止めるような真似はしなかった。
眼だけつむり、ガスが立ちこめるまで待つ。状況は勘でわかる。
おれはガスをカモフラージュに利用して走った。
弾丸が周囲をかすめたが、命中しなかった。
目的地の洞窟にとび込み、おれは前もって眼をつけておいたでっぱりの陰に身を隠した。
これで射てまい。
おれは奴らを無視して腕時計を覗いた。
そろそろだ。
いやな光景が眼の前に現れた。
シェリダンが動き出したのだ。兵隊に犠牲を強いるよりは、伝説の恐怖を破ることを選んだらしい。
一五五ミリ砲身が約二〇度の角度に持ち上がり、火を噴いた。
おれの位置から六、七メートル背後の天井が、炎と爆煙とを撒き散らした。
丸めた背に破片が容赦なく当たる。拳大の石などざらだ。骨まで鈍痛が届いた。
「どうだ? いまのは通常砲弾だが、今度はナパーム・ロケット弾をぶちこむ。半径三〇メートルは火の海だ。逃げられっこない。投降しろ」
無事だったのか、別のか。マイクの声をおれは聴いてなどいなかった。
あと三〇分で正午。予定時刻だ。どうやって引き延ばす?
おれの頭はめまぐるしく回転した。
「武器をお捨て!」
女のものとは思えない、歯切れのいい声が耳朶を打った。
おれの出てきた亀裂の前に、人影――ゆきと二人の兵士が立っていた。
“プリンス”と陣十郎は亀裂の奥だ。肩や腰が見える。
追ってきた兵士はうまいこと片づけたらしい。いくら太宰先蔵の孫とはいえ、プロ相手によくも、とおれは感心してしまった。
「この二人がどうなってもいいの? 全員、武器を捨てなさい!」
片方の兵士の背にM16の銃身を押しつけ、ゆきはかん高く命じた。
「おまえこそ捨てろ」
マイクの指揮官が言い返した。
「どんな手を使っても逃げられっこないぞ。一個小隊がここを囲んでおる。上空にはヘリもいるのだ。何処へ逃げても追っていく」
「三つ数えるわ」
ゆきは、おれさえ舌を巻く冷やかな声で言った。向こうが逆らったら、本気で射ちそうだ。
おれは素早く、AK47をゆきへ向けた。助平男の家や土地を巻き上げるくらいならいいが、人殺しはよくない。引き金《トリガー》を引く寸前、M16を射ち落とすくらいはできるだろう。
「いいこと。三つ数えるわ。その間に全員、武器をお捨て。――ワン」
捕まった二人が蒼白と化した。ゆきの正体がわかったのだ。
「ツウ」
不吉な予感がおれの胸を吹いた。
「よせ!」
叫ぶのと、スリーの声と、銃声が同時。
捕虜たちの胸部に黒点が穿たれるや、赤い糸を引きながら、たくましい身体は後方に吹っとんだ。
敵のライフルもM16だ。5・56ミリ小口径高速弾は、兵士の身体を貫いて向こうへ抜けただろうが、ゆきはとっさに伏せている。呆れた早業だ。
「味方を射ったわ」
おれの方を見て叫んだ。
「あいつら、鬼畜よ。あたしまで射つ気だわ!」
「当たり前だ」
とは言ったものの、おれは怒りがこみ上げてくるのを感じた。
どんな非情な軍隊でも、自分たちの手で仲間を射殺するところはない。まして、たかだか四人の敵を斃すためにとは。
「これで障害は消えた。彼らは二階級特進するだろう。遺族年金も増える。貴様たちに礼を言わねばならんな」
声は苦鳴と変わった。
銃身だけ出して盲射ちしたAK47の弾丸《たま》が、奴のどこかに命中したのである。
次の瞬間、ゆきの背後の岩壁に一五五ミリ砲弾が炸裂し、爆風がグラマーな肢体を覆った。
「次は本気でナパームを使うぞ。手を上げて出てこい!」
声は別人に変わっていた。前のよりは条理をわきまえているが、殺戮への決意は同じことだ。
「やってみろ。こっちには“プリンス”がいるんだぞ」
おれは叫び返した。こういう役で使いたくはないが、やむを得ん。
動揺の気配が伝わってきた。
全員が顔を見合わせている。効いたな。
“プリンス”の素姓は知らないだろうが、絶対に彼を殺してはならないと、エニラ師から命令されているのだろう。宮仕えの哀しさだ。
「傷つけちゃいかんと、エニラ師から命令されてるはずだ。さあ、道をあけて、おれたちを通すんだ!」
おれの位置からも、マイクを持った男の苦悩の表情は見てとれた。
ゆきと顔を見合わせ、色っぽい表情がにんまりした刹那、遥か上空から、嫌な音が響き渡ったのである。
ヘリだ。
また、来やがったか。
兵隊どもが喊声《かんせい》を上げた。マイクの男が別の通信用マイクを掴んで、何か連絡中だ。
空に浮かんだ二つの黒い点は、見る見る接近し、ベルUH―1Hとボーイング・バートルCH―47Dチヌークに姿を変えた。
チヌークは二〇メートルほど上空に滞空し、UH―1Hだけが地上すれすれ――約三メートルの位置に降下した。
ぱっくりと肉をえぐり取られたように開放された胴の両側から、支持架ターレットに取りつけられたM60自動小銃二挺が、おれたちをポイントした。
射手はガムをくちゃくちゃやっている。アメリカ人か、おのれは。
上から狙われる気分は、また格別だ。
マイクの声がまた叫んだ。
「どうだ。おまえたちがこの場を逃げおおせても、上空からの見張りは何処へ行ってもつづくぞ。諦めろ」
「やかましい。ヘリも下ろして、全員、武装解除だ。下がれ」
応じながら、そろそろだな、とおれは思った。
背後から、異様な地響きが近づいてきたのは、そのときだ。
形容し難い危険な雰囲気が、ふり向いた顔面を叩きつけた。
突然、闇が形を取ったように、そいつはおれのかたわらに現れた。
一体、何物だ?
極彩色をした腫瘍の集合体とでも称すべきだろうか。
大小二つの雪だるま状の球が基盤を成し、それに、吐き気を催しそうな色と形の球体が所狭しとくっつき、しかも、不気味な膨縮を繰り返しているのだ。剛性を有する物質のくせに、全体のイメージは泥濘の塊で、色の気違い度は、下へいくほど凄い。
見ているうちに、嘔吐感が腹の中をかき回し、おれはついに吐いた。
吐きながら、ゆきの方を見ると、こっちも身体を二つに折ってげえげえやっている。
兵隊はもっと凄かった。腹を抱えてのたうちまわっているではないか。ヘリが上昇した。原因はわかっている。パイロットがホバリング状態を維持できなくなったのだ。
不意に、そいつの胴――だろう――にあたる膨らみから、腫瘍をつなげたような触手がぶくぶくと伸びた。
どんな方法か知らないが、目標を認識する手段は持っているらしい。
それを捉えることも。
触手の前方には兵士たちがいた。何人かは、吐きながら気づいたかもしれない。散発的なライフルの発射音が轟き、ぶよぶよした腫れもののいくつかが、汚らしいはね[#「はね」に傍点]をとばしてつぶれた。
つぶれた痕から、別の腫れものの手が伸びた。逃げようとした兵士の一団に触れると、人影は一瞬のうちに、おぞましい膨らみの内側《なか》へ吸い込まれた。
触手の内側は空洞らしかった。多分、胃と腸の役を兼ねているのだろう。おれの眼には、汚らわしい色彩の奥で蠢く人影がよく見えた。
苦しみもがく手足が合体し、太さを増し、丸くなり、ついには完全な球体と化すまで、二秒とかからなかった。
ぼこりと新顔の腫瘍がもり上がり、後続が後を追った。吸い込まれた人数分だけ。
戦車の装甲に守られてる奴は、さすがに強気だった。
デトロイト・ディーゼル六気筒エンジン三〇〇馬力の音も勇ましく、M551シェリダンは、地の底から現れた汚物へ前進を開始した。
「全員、退避しろ」
と、車体に取りつけてあるスピーカーが叫んだ。
「ナパーム・ロケット弾を使用する。半径五〇メートル以内は火の海だ」
その声に反応した第一号は、おれだった。
「ゆき――亀裂の奥へ下がれ!」
夢中で洞窟をとび出し、左へ走った。
ゆきとおれとの間は、ぶくぶく触手が塞いでいる。ゆきもまっしぐらに岩山へと走った。兵隊どもも避難に忙しく、おれたちを射とうなんて奴はいない。
きっかり六〇メートルを疾走し、ひときわでかい岩の向こうにとび込んだ刹那、世界は紅黒く染まった。
ゲル化油の炎と油煙が、洞窟を中心に地獄の花を咲かせた。
腫れもののお化けも、おれのいた場所も、ゆきたちの出て来た亀裂も、すべては三〇〇〇度の高熱に舐めとられていく。
シェリダンは二撃目を射とうとしなかった。自信があったのだろう。代わりに、砲側の一二・七ミリ機関銃が、毎秒二〇〇〇発の猛射を、燃えたぎる炎の渦へ叩き込んでいく。
炎の矢が戦車へと走った。
いや、ひとつづきのロープが。
それは、戦車の砲塔に絡みついた途端、膿でも満ちたように膨れ上がり、巨大な粘塊となってシェリダン全体を呑み込んだ。
わずかに残った砲塔部のてっぺんから、軍服姿がひとり躍り出ると、絶望的な仕草で四方を見回した。
なんとかいける、と踏んだらしい。そいつは身を屈め、全身を発条《ばね》と化してジャンプした。
目的地は固い地面だ。
目測が狂っていたか、筋肉の張りが足りなかったか、左足はかろうじて土を叩いたが、右足は一歩下がり、くるぶしから先が粘塊にめり込んだ。
そいつが呑み込まれたのは、次の瞬間だった。
砲塔の蓋が閉まった。
内側の操縦者は、なおもファイト満々らしい。
汚物の一塊と化したシェリダンの内部からくぐもったエンジン音が洩れるや、全長六・三メートル、戦闘時重量一五・三トンの車体は、汚れた皮を突き破って、後退に成功した。
遠くの岩陰に散らばった兵たちが歓声を上げる。
だが――
ああ、何というものを見てしまったのか。おれは再び、うっぷと口を押さえた。
戦車のあちこちから、極彩色の球体がもり上がり、忌まわしく震えているではないか。
金属の腫れもの。
腫瘍の生えた部分から、その色彩は波紋のように、茶とグリーンの鉄板を覆っていたが、腫瘍の膨張とともに広がり、別の色とくっついて、見る見る戦車全体を異界の色彩に変えた。
おれは時計を見た。
あと一三分。
戦車に異変が生じたのはそのときだ。
車体がすでに腫れものと化している中で、砲塔のみは鋼の現実感を失っていなかったが、いきなり、砲身を兵士たちの方に向けるや、一発ぶっ放したのだ。
通常砲弾だったのは、幸か不幸か。
火柱とともに何人かが吹きとび、地軸がゆらいだ。
悲鳴を上げつつも応戦する兵士めがけて、シェリダンの胴体から、あの触手が伸びた。
何人かが吸い込まれ、新たな生物の一部と化した。
おれは洞窟の方をふり返った。
奴の本体は三〇〇〇度の炎の中に朽ちている。だが、こうやって、有機物無機物を問わずに増殖可能な以上、腫れものの生命は永遠といえた。
一体、こいつは何者だ?
バラザード・リアの宝とは何なんだ?
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第四章 妖物山越え
1
おれは息を殺して、妖物と化した戦車を観察した。
声も出せない。本来なら、体臭も消してしまいたいところだが、そうもいかなかった。
何故、これが気になるかというと、化物の探知感覚《センシング・パーセプション》を知ることが、生死の境目になるからだ。
奴らはどうやって、敵を見つけるのか?
視覚か? 聴覚か? 嗅覚か? 触覚――あるいは味覚か?
攻撃も退却も、これによって大幅にタイミングが異なる。
腫瘍の塊の部分は聴覚か嗅覚と踏んだ。眼にあたる部分がどうしても発見できないし、触手の一本が必ず目標を捕獲しているのを見ても、それ以前の探知機能が存在するはずだ。
超音波や赤外線が放射されたような皮膚感覚もない。――とすれば、匂いか、音か、体温ぐらいだろう。それとも、異世界の、おれたちには到底理解し得ないセンサーが作動しているのか?
再び一五五ミリ砲が火を噴き、残った兵士の大半を吹きとばした。地面でのたうつ負傷者へは、一二・七ミリ機銃の火線が飛ぶ。
怒りがおれの頭蓋を白く灼熱させた。これでは虐殺だ。敵とはいえ、他人に――化物にやられるのを黙って見ているわけにはいかない。
だが、AK47一挺でどうなる、ともうひとりのおれが訊いた。
回答は、別の奴が出した。
47Dチヌークらしいヘリの爆音が近づいてきたと思うや、シェリダンのすぐ前方へ、黒い物体が白煙を引きつつ吸い込まれたのである。
サイズからして、AGM―114Aヘルファイアだろう。
アメリカの戦闘用ヘリを対象に開発されたレーザー誘導ミサイルは、一〇〇メートルにも満たぬ距離を二秒程で飛翔し、正確にシェリダンの装甲を貫いた。
時間がかかったのは、持ち前の超高速に達するまではスローモーだからだ。
おれは岩陰で眼を閉じ、両耳を押さえた。
何も起こらない。
ミサイルは腫瘍に吸い込まれている。それきりだ。
シェリダンの砲身が上がった。
頭上のチヌークが急上昇に移る。パイロットはさぞや慌てたろう。ヘルファイアの二発目を射っても無駄だったろうし、射たなくても運命は同じだった。
一五五ミリ砲は音をたてなかった。そのくせ、弾丸は出た。
忌まわしい色彩の、尾を引く塊を弾丸と呼べるならだが。
それは、どんな砲弾よりも目立つ軌跡を描いて、チヌークの胴へ吸い込まれた。
ぽちょぽちょ、という音が聴こえるようだった。
チヌークは空中で得体の知れない塊と化した。
当然、落ちると思ったが、ローターは回転をつづけ、命中位置で止まった。砲口から伸びる触手が支えているように見えた。
UH―1Hが接近してきた。救助しようというのだろう。阿呆、やめろ。
チヌークの胴体側面に取りつけられていたミサイル・ポッドのあたりから、炎とともに細長い影が射ち出されるや、真っすぐUH―1Hに命中した。
火の花が咲き、破片が四方に飛び散る。
チヌークみたいになるよりはまし[#「まし」に傍点]かな、と思った。
耳を澄ませたが、他のヘリの爆音は聴こえない。
次は持久戦だ、とおれは確信していた。奴はまだ、おれやゆきたちに気づいていない。うまくいけば、洞窟へ引っ込む。
おれは時計を見た。
あと一〇分。気がつくなら、それ以降にしてくれ。
だが、ぶよぶよと蠢く腫瘍だらけの団子と化したヘリは、ゆっくりと上空を旋回しはじめた。
生き残りをチェックしているのだ。腫瘍が二、三個盛り上がった。チヌークの乗員だろう。
近づいて来た。
おれは岩の陰で眼を閉じ、全身の気配を絶った。
石と同化する。インドでこれを教えてくれたヨガの先生は、内臓の動きはもちろん、血流まで停止していた。自分ではよくわからないが、おれも、そうなっているだろうか。
爆音が頭上に来た。
止まったようだ。人間と岩とを識別し得る能力があれば、一巻の終わりである。それなのにおれは慌てなかった。意識はしっかりしていたが、精神状態は大地のごとく落ち着いている。
すう、と爆音が遠ざかった。
後は、ゆきたちが、裂け目から出さえしなければ……。
ヘリはそっちへ向かった。
出るなよ、とおれは思った。
止まりもせずに、爆音が遠ざかった。まだ、ついてるな。
大きな気配が動きはじめた。戦車とヘリを我がものにした腫れもの[#「腫れもの」に傍点]が、洞窟へ戻ろうとしているのだ。
シェリダンが消えた。チヌークも吸い込まれていく。
OKだ。
その刹那――動きに乱れが生じた。チヌークの腫瘍が、ぐっと裂け目の方向を向いたのだ。勘でわかる。
おれは隠形の法を解いて、岩から身を乗り出した。
裂け目の前に、陣十郎が立っていた。あの厄病神めが!
ミサイルを発射した穴から、触手が跳んだ。
いかん、と思った刹那、陣十郎は右へダッシュし、死の指は空しく大地を叩き、ぶくぶくと三倍近くもの太さに膨れ上がった。
「あの馬鹿!」
舌打ちしざま、おれが岩陰からとび出すより、裂け目から“プリンス”の姿が現れる方が早かった。
ゆきのM16を腰溜めにしている。
追いかけるような格好でゆきも出て来た。
「引っこめ!」
おれの叫び声は、M16の発射音にかき消された。腫瘍が弾けとび、陣十郎は真っしぐらに兵士たちの死体の方へ逃げていく。
おれもそちらへ走った。
走りながら、AK47を変わり果てた戦車へ浴びせかける。
穴は開いてるんだろうが、よくわからない。
たちまち弾丸は尽きた。
新しい弾倉をチェンジしたとき、シェリダンの砲身がこちらを向いた。
「八頭さま――危ない」
陣十郎の声を聴く暇もなく、おれは左へ走った。
眼の隅で光がまたたいた。
さらに二メートル走ったところで、爆風が背中から襲った。
反射的に、おれは身体を丸め、表面積を最小に保って風圧に身をまかせた。背中や肩に岩の破片が当たる。至近距離だ。畜生、骨が折れたかな。
派手に地面へぶつかり、眼を開けると、真ん前に陣十郎の顔があった。
「ご無事で?」
「んなわけがねえだろ!」
怒鳴ると、肺が痛む。肋骨でも刺さったか。
「走って、あの岩の向こうに隠れろ。次のが来るぞ」
「わかりました!」
おれたちは一斉に立ち上がり、手近の大岩へと走った。
ふり向くと、ヘリの下に“プリンス”とゆきの姿はない。裂け目へ逃げ込んだのだろう。だが、気づかれた以上、安心とは言えない。
案の定、ヘリがミサイルを放った。
裂け目の表面が轟音とともに吹きとんだ。
「八頭さま――あのお二人が内部《なか》に!?」
陣十郎の血相は変わっている。
「何かあったら、おまえの責任だ。あの化物が始末する前に、おれが片づけてくれる――忘れんな!」
脅しつけて、おれはヘリへAK47を浴びせかけた。
腕時計を調べる暇はないから、体内時計で時間を計る。
あと五分。――遅い!
ヘリがゆっくりとこちらを向きはじめた。
何が来る? 触手か、ミサイルか? シェリダンは動かない。ヘリにまかせる気だ。
「移動するぞ」
おれは陣十郎に叫んだ。
その瞬間、シェリダンの胴体で小さな爆発が起こった。
ぶよぶよがえぐれて飛び散る。
シェリダンとヘリは、あの触手で感覚もつながっていたのだろう。
チヌークだった塊は不意にローターに乱れを生じ、急速に降下した。
地面にぶつかり、ローターが土煙を上げる。
おれは裂け目の方を見た。
ゆきだった。
こちらを向き、跳び上がった。
「やったわよ」
「下がれ、馬鹿!」
大急ぎで裂け目へ戻るグラマーを見ながら、おれには状況がよくわかった。あの淫乱娘、まだ手榴弾を持ってやがったのだ。
「やりましたな、八頭さま。これでもう、大丈夫でございます」
さようでございますか、とおれは胸の中で言い返した。
やっぱりだ。
シェリダンの砲身は裂け目の方を向き、チヌークはふわりと上昇したのである。曲がりくねったローターを、再び旋回させながら。
あの触手を裂け目へ送り込まれたら、万事休すだ。
おれは遮二無二AK47を射ちまくった。今度は反応なし。
焦燥感が胸を灼いた。それが、勘を働かせたのだろう。
おれはふり向いた。
足元に兵士どもが斃れている。その装備は? ――あった。ひとりが不格好な円筒を背負っているではないか。
対戦車ミサイル、M47ドラゴンだ。
おれは夢中でとびついた。
しめた。ミサイルが入っている。早速、ひっぺがした。発射筒が一四・六キロ。装填されたミサイルが六・二キロもあるから、普通ならひと仕事だが、軽いものだった。
発射筒の下に背負っていた追跡装置《トラッカー》も外して装着する。トラッカーの中味は、照準装置、赤外線センサー、電子装置ボックスだ。
たかがおれたち四人に、こんなご大層なものを、と思ったが、軍隊の考えることなんて理不尽の極みみたいなものだ。あるいは、念には念を入れろと、エニラ師が命じたのかもしれない。
照準装置内の十文字《クロス》マークの中心にヘリを置き、おれは発射スイッチをオンにした。
ぶおお、と炎を噴いて、全長七四四ミリ、直径一一二ミリの中型ミサイルが射ち出された。
ヘリが急上昇する。危険を悟ったのか、それとも、知性があるのか、あるいは乗員の肉体ばかりか知識も吸い取ったのか。
だが、ドラゴンは誘導式ミサイルだった。
おれが照準の中心に据えているかぎり、ヘリに逃げ場はない。
ミサイルの側面から三枚の曲面型翼がせり出し、弾道を安定させると同時に、側部噴射口《サイド・スラスター》が点火し、ミサイルを照準線に一致させた。
ミサイルは秒速一〇三メートル。距離は約八〇。
今度の破壊は正直、気分がよかった。
降りかかる炎塊を避けながら、
「やった。やりました!」
と陣十郎が躍り上がった。
その頭上を音が鋭く越えて、二、三〇メートル離れた岩場で爆発した。
シェリダンは生きているのだ。なぜ、本体をぶちのめさなかったのか、おれは後悔したが、あれはコンマ一秒を争う状況だったのだ。
そして、ミサイルはもうなかった。
シェリダンが移動を開始した。
足元で呻き声がした。陣十郎なら、すぐ後ろでおたついている。
さっきドラゴンを失敬した兵士だ。放ってもおけず、おれはそいつの頬を叩いた。
まだ若い。二十三、四だろう。おれほどじゃあないが、いい男《ハンサム》だ。
「不憫な方ですな」
と陣十郎が言った。
「なんでだよ?」
「ひと思いに死んでいれば楽だったものを。あのぶよぶよにくるまれて窒息とは」
「おれたちもだぞ、こら」
「覚悟いたしております」
「助けて……くれ」
兵士が英語で低く呻いた。
「まかしとけ」
と、おれは微笑みかけた。怪我人に牙剥いてもはじまらねえ。
「おまえは……?」
驚愕と敵意と恐怖に歪んだ顔へ、
「安心しな。目下のところは救世主だ。あの化物相手に戦っているところさ」
「何なんだ……あれは?」
「わからん。それより、やっつけるのが先だ」
「……武器は……あるのか?」
「残念でした」
「……じゃあ、どうやって殺す?」
「それが悩みの種だ。安心しろ。おまえを殺させやしねえよ」
「どうして……おれを助ける?」
「他に身寄りがいねえだろうが」
「八頭さま――化物が参ります」
陣十郎が悲鳴を上げた。
「逃げろ」
背中を見せたくはねえが、仕方がない。
兵士を背負い、走り出そうとしたおれたちの前へ、空中から汚物が落下した。
行く手を塞いだ触手のおぞましさに、陣十郎が嘔吐した。
「退路が断たれました!」
わかってらあ。
だが、次の瞬間、おれの胸に湧き上がってきたのは希望だった。
タイム・リミット。――今だ!
前方の岩壁を曲がって、銀色のロケットらしきものが現れたのを見ても、陣十郎には理解できなかっただろう。
そいつは、確かにロケットだった。いいや、ミサイル。それも、さっき、チヌークが発射したようなオモチャとは違う。
ぽかんと立っている陣十郎の鼻面を横切って、レーダー防止用ステルス塗料を塗った機体は、後部噴射孔から噴射炎の微調整を行いつつ、野球選手のスライディングほどの速度で、おれの眼前の地面へ着地した。
「これは――」
背中の兵士が驚愕の声を上げたのも、無理はない。
「巡航ミサイルじゃあないか!?」
2
「ぴたりだ!」
おれは体内時計に合わせて快哉を叫び、背中の兵士を放り出した。
ギャッと悲鳴を上げたが、悪く思うな、その元気なら死にゃしない。
みるみる肥大する触手を尻目に、おれは巡航ミサイルの機体に駆け寄った。
兵士が驚くのも無理はない。
一〇年に一度の傑作といわれ、今なお、アメリカを筆頭に数カ国しか保有していない必殺兵器が、五四〇〇キロの波濤を越え、おれのためにやって来たなどと知れば、失神状態に陥るかもしれない。
巡航《クルージング》ミサイルとは、読んで字のごとく、自ら飛行高度やスピードを調整し、敵のレーダー網を避け、迎撃ミサイルをかわしながら、数千キロ先の目標を破壊する、まさに航行《クルージング》する魔物なのである。
そもそも、ミサイルと言えば、誰でも頭に浮かべるのは、大陸間弾道弾《ICBM》を筆頭とする弾道《バリスティック》ミサイルだろうが、これと並び立つもう一本の柱が巡航ミサイルである。
実用もこっちの方が古く、ルーツは、ドイツからドーバー海峡を越えてロンドンを爆撃したV1号ときた。もっとも、こちらは原始的なパルス・ジェット・エンジンを採用していたため、スピードも遅く、誘導装置もない射ちっぱなしのせいで、イギリスの戦闘機や地上からの高射砲攻撃などで、かなりの数が射ち落とされてしまった。
V1号より高速高性能を誇り、イギリス側の迎撃をものともせず、かなりの戦果を上げたのがV2号ロケットで、世間ではこちらの方が有名になったため、V1号も同類だと思われているが、残念でした。V2号は弾道ミサイルのルーツなのである。
近代に入り、巡航ミサイルの発達を促す革新的な技術開発は、ベトナム戦争によって飛躍的に前進したと言える。
あの、何ら実りのない不毛な戦いの最中、アメリカは、有人機を飛ばせない危険地帯の偵察やカメラ撮影のため、数年前から実用化していた無人の高速標的機“ファイア・ビー”にカメラや電子機器を搭載し、その任に当たらせていた。操縦は遠距離リモコン操作である。
そして、通称RPV(リモートリィ・パイロテッド・ビークル=遠隔操縦無人機)と呼ばれるこれらを改良していくうちに、現在の巡航ミサイルに必要な電子機器――慣性誘導装置、地形照合技術、等高線/地形識別装置、ファン・ジェット・エンジンなどの開発が格段に進み、ついに、巡航ミサイルが完成した。
弾道ミサイルの欠点は、射ちっ放しで誘導が効かないため、いったん敵に発見されると容易に射ち落とされてしまうことで、それを防ぐために、超高度と超音速を絶対に必要とした。
これに対し、巡航ミサイルは、前もってプログラムされたコースを、必要とあらば欺瞞運動さえ起こしながら(これもプログラムされる)超高空、超低空と千変万化に飛翔し、いわば、スパイのごとく姿を消しつつ目標に到達する。
無人のミサイルが、ビルがあればその間を縫い、山があれば避け、丘ぐらいは飛び越え、川とぶつかれば高度を下げて渡る。――今でも容易に信じられる芸当ではないだろう。
小松基地のレーダーが、地上三メートルからの探知能力を八〇センチからに繰り上げたのは、ひとえに、この能力を恐れたが故である。
もちろん、地上発射も、潜水艦による水中発射、爆撃機、輸送機による空中発射も可能だ。通常爆弾で滑走路を破壊することもできれば、核弾頭を積んで敵都市を一瞬のうちに消滅させることもできる。
欠点は、大陸間弾道弾などにくらべて、射程が約二五〇〇キロと短いことと、経済的なジェット・エンジンを使用するため、どうしても亜音速を超えられず、万が一、上空からルック・ダウン(海面や地上を真上からレーダー照写し、高速移動中の金属物体を識別する)・レーダーで発見された場合、マッハ2以上の迎撃ミサイルで撃墜される恐れのあること。平坦な砂漠やツンドラ地帯などの目標に対してはコースが取りにくいなどだが、いま、おれの眼の前にある「AYAME―CHAN」は、レーダー波反射塗料で肉眼以外の識別を不可能とし、新開発の高出力超小型・燃料消費率三五パーセントというロケット・エンジンを積み込み、大欠点をチャラにした。最高速度はマッハ4。フロリダからここまで一時間とちょいだ。
開発は、おれが資金を出してる民間の兵器製造会社で行い、発射は、これもおれが所有してる船会社の船がフロリダ沖で行った。内緒で発射器を備えているのは、言うまでもない。
おれの位置を教えたのは、腕時計《ウォッチ》内蔵の超短波発信機で、地形照合データを提供したのは、米軍の偵察衛星だ。
ちなみに、「AYAME―CHAN」とは、京都の祇園でおれが贔屓《ひいき》にしてる舞子の名だ。
「これはミサイルではありませんか」
陣十郎は眼を白黒させていた。
「危険です。爆発しますぞ」
「安心しな。形はミサイルだが、今日の用事は荷物運びなのさ」
おれはこう言って、弾頭部のやや下にあるカバーを開いた。
通常は、地形照合誘導装置のすぐ下には、核/通常弾頭と燃料タンクが見える。
だが、おれの眼に止まったのは、カーキ色に染まった細長いコンテナであった。
支持リングを外し、引っ張り出す。
「AYAME―CHAN」が到着してから、三秒とたっていない。
都合三個のコンテナを、陣十郎の手も借りて運び出した瞬間、どろりと腫れものがミサイルを包んだ。
おれは五〇キロ近いコンテナを二本、両肩に担いで跳びのいた。
兵士のところまで下がって、コンテナを開封にかかる。
痴呆のような眼つきでおれを見ていた兵士が、
「貴様、何者だ?」
と訊いた。
「後にしろ」
耐火耐熱耐衝撃の金属箔を剥がして、中味を取り出すと、おれはにんまりとした。これまでの不名誉を残らず挽回してくれる。
おれは右に担いでいたコンテナから、透き通った円筒に銃把《グリップ》を取りつけたような武器を引っ張り出した。ホテルから国際電話で、武器会社へ巡航ミサイルの発射と到着時刻を依頼したとき、真っ先に挙げた武器である。
おれは立ち上がり、それを肩づけすると、前方一メートルほどでぶくぶくやってる腫瘍に狙いをつけた。
陽光よりもまばゆい光が、銃口と腫れものとをつないだ。
この世にこんな武器があるとは、化物も気がつかなかったろう。
機関部中央の電磁石によって加速された自由電子《フリー・エレクトロン》ビームへ、後端の発射器から赤外線レーザービームが照射されるや、それは一〇〇メガワット(一億ワット)のエネルギー線《ビーム》と化して、妖物を襲った。
自由電子レーザー・ガン。――米ソの軍事関係者でも、その実用化を危ぶむ空想的未来兵器を、民間の研究スタッフは、あっさり実現してしまったのだ。
もちろん、銃本体に収まる超強力かつコンパクトな原子炉と電磁石の開発、自由電子ビームの不統一な波長をレーザーの整然たる波長と同一させるために、常態なら、一二〇メートルにも及ぶ永久磁石群のミニマム化など、厖大な時間と経費が必要とされはしたし、このレーザー・ガンも完成品ではなく、おれがニューヨークへ到着する数日前に出来上がった試作品《プロトタイプ》にすぎない。
だが、未知の化物に挑むには十分だった。
原子を灼き尽くし破壊する灼熱と衝撃は、この世の物理法則を超えた腫れものの肉体を、見る見る地上から消滅させていった。
わななき、猛スピードで膨縮を繰り返しながら、腫瘍の触手は引き戻された。
「八頭さま、危険です!」
陣十郎の声は、おれがシェリダンの真ん前へ移動した後にきこえた。
触手ばかりでなく、本体も洞窟へと後退していく。
そうはいくか。おれはいずれ、ここへ戻る。そのときのためにも、無事撤退させちゃあ厄介だ。
砲身から垂れた触手が数度痙攣した。野郎め、ロケット弾か通常砲弾を使いたいんだろうが、あいにく砲身には自分の手が詰まっている。目下、決め手に欠けるってわけだ。
照準を砲塔部に合わせたとき、主砲のかたわらで小さな光点がまたたいた。一二・七ミリ機関銃だった。
前方三メートルの大地が砂煙を噴き上げ、こっちへ向かってくる。
次の瞬間、おれもレーザーの引き金《トリガー》を引いた。
白光がシェリダンに吸い込まれ、汚怪な腫れものとその下の装甲を紙のように貫いた。
突進する着弾煙がおれを包む寸前に大きくそれるのと、シェリダンが爆発するのと、ほとんど同時だった。
ビーム照射を浴びた砲弾とミサイルが炸裂したのである。
ナパームの油煙と炎よりも、はりぼてみたいに軽々と宙へ舞う砲塔が、おれの眼を引きつけた。
数千度の炎の中で、腫れものが断末魔の舞踏を踊っている。
じき、それも力尽き、砲身からこぼれた触手だけが何度か地面を弱々しく叩いて、これも静かになった。
あちこちでヘリ二機分の残骸が炎をあげている周囲を、おれが見回したのは数秒後のことだった。
「片づいたぞ。出て来い」
裂け目に向かって呼びかけ、おれはコンテナと陣十郎と負傷兵の方へ戻った。
二人ともぽかんとしている。
どちらの常識をも逸した戦いだったのだ。
「おまえ……いや……君は……誰なんだ? ……エニラ師直々の捜索命令だから、只者じゃないとは思っていたが……今の武器といい、あの巡航ミサイルといい……とても、信じられん……米ソのスパイか?」
「悪いが、国には食わせてもらってないよ」
おれはコンテナのひとつを分解し、携帯用の医療《メディカル》パックを取り出した。
文庫本を細長くしたサイズのメディカル・センサーを、バンドで兵士の腕に巻く。
スイッチをオンにすると、緑色の画面に呼吸数や血圧、体温等が表示され、そこから想起される症状が、日本語で映し出される。
「肋骨が一本と左肩の骨が折れてるな。ま、戦争が仕事だと思えば軽傷の部類だ。一週間も病院へ入ってりゃよくなる。幸い、内臓には異常なしのようだ」
おれは耳をそば立てた。
ヘリの爆音が接近してくる。これは、いつまでも愚図愚図してられねえな。洞窟の宝は後回しにするしかなさそうだ。
おれは兵士に言った。
「お迎えが来たぜ。見たままを素直に話してもいいし、全部、おれたちのせいにしてもいい。――運がよかったな」
センサーを外し、肩をひとつ叩いてから立ち上がると、兵士は慌てた。
「待ってくれ。放っておくと、君たちのことをしゃべるかもしれないぞ。それでもいいのか?」
「口封じをして欲しいのか?」
「いや。――だが、おれは、敵国のスパイが“魔女の寝台”から重要犯罪者をさらって逃げたと教えられたんだ。君たちがそう[#「そう」に傍点]とは、どうしても思えない」
「断っとくが」
おれは、折よくやって来たゆきと“プリンス”の方を指さして言った。
「重要犯罪者てのは、あの男の子のことだ。スパイは、おれたち三人。年齢は十八が二人と――」
「六十六歳でございます」
陣十郎が丁重に言った。兵士の困惑は、ますます深くなった。
「あーら、こちらハンサムね」
地球が爆発しようが、パンティが盗まれようが、死ぬまで能天気な声が落ちてきた。
「今度会ったら、デートお願いしたいわ。ね、何か届いたんでしょ?」
おれはうなずいて、コンテナに顎をしゃくった。
「武器、食料、医療品、その他だ。まるで、罹災国並みだな」
「何でもいいわよ。得になるもンなら」
たっぷりとお尻をふりながらコンテナに近づいていくゆきを見送り、兵士は長いため息をついた。それから、自分を見つめる“プリンス”の方へ眼をやった。
「重要犯罪者に見えるかい?」
と、おれは訊いてみた。
「知らなかったよ。こんな子供とは。――正直、上の命令には理解しがたいものもあるんだ。殺さなくてよかった」
「そう簡単に殺させやしねえ。あんな化物の親玉にはな」
「化物って――エニラ師のことか?」
兵士の眼に困惑の色が浮かんだ。
「他に覚えがあるか?」
「いや」
「その分じゃ、おまえらも親玉の正体を疑ってるらしいが、気をつけな。気がついたら、全員、手足が一〇本もあるおでき[#「おでき」に傍点]の化物になってた、なんてことになりかねんぜ」
「――今の奴[#「今の奴」に傍点]――あれが、エニラ師と関係があるというのか? 嘘をつけ」
「そう思ってりゃいいさ。兵隊なんざ、上の命令しかきこえないゴーレムと同じだ。自分でものを考えるなんてできやしまい。ま、せいぜい、治療に精を出せ。それから、同じ国の仲間を、ライフルや銃剣でいたぶる方法を考えておきなよ」
ゆきと陣十郎が手分けして、コンテナを背負っている。
おれは兵士を放ったらかして、“プリンス”と一緒に二人の方へ行った。糞、おれたちの分はちゃんと残してある。コンテナのベルトは、そのままリュック状に背負えるようにできているのだ。
「これ、面白そうね。あたし貰うわ。あんた、これ[#「これ」に傍点]」
東京で使ったリッヘル兵器廠製複合自動銃《MMAR》を指さすゆきを無視して、おれは白い手から自由電子レーザー・ガンを取り上げた。
「なによお、あたしのなのにィ」
「おまえにこれを持たせちゃ、赤ん坊に水爆渡すのと同じだ。使い馴れたオモチャで遊んどれ。――行くぞ」
ヘリの爆音が近づいてくる。
陣十郎はゆきのM16を手にしている。
おれは、MMARをゆきに渡し、自分のコンテナから、ヘッケラー&コック社の新製品ACR《アドバンスト・コンバット・ライフル》――未来戦闘銃を出して、陣十郎に与えた。
「詳しい説明と装備は後にしよう。とりあえずは、これが安全装置《セフティ》だ。親指でこう動かせば、後は引き金を引くだけで弾丸が出る。発射は火薬だが、出るのは弾丸《たま》じゃなくてカーボンの針だから、反動はずっと少ないはずだ。安全装置をこう回せば全自動《フル・オート》でダダダッといくが、無駄弾丸はなるべく使うな。もったいねえ」
「その、後ろのでっぱりは何でございましょう?」
「それが弾倉だ。弾丸入れとくとこだよ。とりあえず、三〇発残ってる。訳もわからんのに抜いたりするなよ」
「しかし、弾丸が後ろに入るとは――気分が出ませんな。何か、こう」
「とっとと歩け! 先は長いぞ!」
3
予備機が少なかったらしく、やって来たヘリは一機だけだった。遠くの森からそれを確かめ、おれたちは山のてっぺんまで何事もなく登り、下山した。
途中で、二、三度、捜索隊に出食わしたが、うまいことやり過ごした。
麓にはハロランという名の町が広がっていた。
人口は約三千人。映画館が二つもある。
軍隊が出ているかなと思ったが、装甲車一台見えなかった。麓の町は幾つもあるが、ハロランは中でも小さく、登山ルートからも外れているため、人数をさかなかったのだ。
警察はあるだろうが、町と同じくのんびりしているらしく、町外れから中心部へ入っても、それらしい影は見当たらなかった。
おれたちは、堂々と一軒しかないホテルへ乗り込み、宿をとった。陣十郎が父親、おれたち三人は兄妹、という触れ込みだ。
軍から連絡が回っているのか、カウンターの向こうで、主人は訝しげな視線をおれたちに注いだが、すぐに柔和な表情になって、鍵を手渡した。
「おっさん、コルトスへのバスはいつ出るかね?」
と訊いてみたら、
「わからんね。そこの時刻表を見てくれや」
と、狭苦しいロビーの柱に貼ってある何枚もの紙を指さした。
拝見すると、隣町へのバスは、一日に三本。午前六時、正午、午後六時の順であった。
二階の部屋へ入るや、すぐにゆきと“プリンス”がやって来た。それで部屋割りはわかるだろう。
「顔の筋肉がこちこち[#「こちこち」に傍点]よ」
と、ゆきが頬っぺたを叩きながら、
「まあ、フロントの親父に気づかれなかったからよかったけどさ。今日はここへ泊まり?」
「いや。今晩中にホートンの町まで行く。車でも耕運機でもかっぱらってな」
コルトスのもうひとつ隣町である。この辺では一番大きく、サヴィナへの直通列車が出ている。おれはそれに乗り込んで、敵の心臓部に入ることに決めたのだ。エニラ師といえど、まさか、四人の逃亡者が堂々と切符を買って首都までやってくるとは、想像もつかないだろう。
「耕運機なんて、や[#「や」に傍点]よ」
ゆきが文句を言った。
「安心しろ。ちゃんとバスが出てる。時刻表を見てきた。あと三〇分だ。ホートンまでは二時間、午後八時に着く。うまい具合に、サヴィナ行き夜行急行は、ホートンを午後八時三〇分に出るときた」
「ホートンには、きっと網が張られてるわよ。見た目[#「見た目」に傍点]はごまかせても、パスポートなんかどうするつもりよ?」
おれは背広の内ポケットに手を入れ、テーブルに四人分のパスポートを置いた。
「一体――どうやって?」
茫然とする“プリンス”に、おれはにんまり笑いかけた。このところ、ハチに刺されたり、食中毒だったりで不調だからな。少しはいいとこを見せないといかん。
「あのコンテナに入れとくよう電話しといたのさ。つくり方はアメリカへ行ったときと同じだ。目的地が違うだけさ」
「まことに大した技術で。兄からもきいてはおりましたが、いや、感じ入りました」
「さて、そろそろバス旅行の準備と行こう。あくまでも、おれたちは一泊の旅行者だ。コンテナの荷物は、そっと窓から庭へ降ろしとけ」
コンテナの中味は山を降りたとき、ショルダー・バッグとスーツケースに入れ替えてある。それもみな、コンテナに詰めといたものだ。
「もうひとつ、気をつけるのは、反エニラ師――つまり、ヤンガー大佐の一派だ。あいつらは、独自に“プリンス”を狙ってる。理由はわからんがな。生命を取る気はなさそうだから、エニラ師より心配はいらないが、“プリンス”以外の安全は保証しかねる。くれぐれも用心しろ」
「もう大丈夫じゃないの。あれ以来、襲って来ないんだし、あたしたちの居場所も見失ってるわよ」
「あの子分どもならそうかもしれん。だが、相手はコーネル・ヤンガーだ」
おれはぴしゃりと言った。全員が緊張した。
「そんなに凄いの?」
「十八歳で、米ソ連合艦隊を敵に回し、自国の権利を守り抜いた男だ。あいつを引き抜けば、CIAもKGBも今の三倍の力を持てるようになる。おれたちが出食わしたのは、その子飼いの部下だ。とんでもない力の持ち主と考えておいた方がいい」
「すると、この辺にいるかもしれないわね?」
ゆきが薄気味悪そうに天井と窓を見つめた。
「そういうことだ。さ、すぐに出発だぞ」
ホテルの親父が知ったら腰を抜かしそうな早発ちだが、そもそも、念には念を入れる作戦である。一応、ホテルへ入れば、町の連中も安心するだろうし、万が一、警察へ届けられたとしても、敵は絶対に油断する。また、ホテルを包囲された場合、他のところへは手薄になり、楽々逃げおおせる道理だ。
ゆきと“プリンス”が出ていくとき、おれは陣十郎にも、行けと命令した。
「何故でございましょう?」
「おまえは特に用意なんかいるまい。荷物はおれが外へ出しといてやるよ」
「ですから、その」
「いいから、出てろ。この」
全員が消えて一〇分後、いきなりドアが開いて、ゆきが入って来た。
やって来たのはわかっていたが、おれは手を止めなかった。
「やっぱりね」
と、ゆきは、おれとテーブルの上の品を一ぺんに眺めながら言った。
「どうやって鍵を外した?」
「ふん。あんたの仕込みがいいからね。あんなチャチな鍵いっぱつよ。やーっぱり、治療中だったわね」
「うるさい。出て行け」
おれは、そっぽを向いて、左肩に湿布薬を塗りはじめた。
ここと肋骨三本にひびが入っている。背骨と内臓に異常がないのは幸いだった。
「貸してごらんなさい。下手な塗り方しないでよ。恥ずかしくなるわ」
ゆきはさっさと薬瓶を奪い取り、ラベルを見て吹き出した。
「何よ、“『万金軟膏』創業二百年”なんて。あんた、製薬会社のひとつやふたつ持ってるんじゃないの?」
「うるせえ。おれにはこれが一番効くんだ。薬は古いものほどいい」
「アナクロは黙ってなさいよ。レーザーガン使う男が薬は江戸時代だなんて、喜劇だわ」
反論しようと思ったが、おれは黙ってゆきの好きにさせた。
おれの肩に触れる手は、奇妙にやさしかった。
「ここ、痛い?」
おれは、じっと、ゆきの顔を見た。
「おまえ――熱はないか?」
「そうね。少し、あるかもしれない」
ゆきは静かに言った。これは一大事だ。
「いつも苦労をかけるわね」
ゆきの手は胸に移っていた。
「どこか痛い? ここ?」
「ぐえ」
「ごめん」
「いいさ」
おれは、ゆきの手を取った。
抵抗も示さず、ゆきは胸にしなだれかかってきた。
「病人のくせに。――もっと痛むわよ」
「いいから、いいから」
おれは構わず、ゆきのシャツの胸から右手を差し込み、ふくらみに触れた。左肩と肋骨が悲鳴を上げたが、気にしちゃいられなかった。
思った通り、ゆきはノーブラだった。熱い肉を手の中に収めると、悩ましい紅い唇が、おれの眼の前でわなないた。
「駄目よ。――人が来るわ」
「来るわけねえだろ。追い出したばかりだ」
「馬鹿」
おれは、ゆきの首筋に唇を押しつけた。
「ああ……そこ、感じるわ」
こいつのいいところは、その辺をはっきり口にすることだ。逆に、悪いのもそこだ。他のイカレ大学生にもこうしてるのかと思うと、同居人として腹が立つ。
おれは、ゆっくりと唇を上へ滑らせていった。
耳たぶを噛むのは礼儀だ。常識的な技だが、ゆきは歓んで、おれの頭を抱いた。
「ねえ、ベッドへ」
声は喘ぎそのものだった。
「喜んで」
おれは、女子高校生とも思えないボリュームたっぷりの肉体《からだ》を両手で抱え上げ、ベッドへ放り出した。
スプリングがきしむ。
のしかかったとき、ゆきは両手を広げていた。
おれはシャツの胸を大きくはだけ、むっとするほど熱い柔乳《やわちち》に唇を押しつけた。ゆきの声は、すすり泣きに近い。この淫乱娘が、長いこと我慢してたんだろう。
おれは同情した。同情には証が必要だ。ジーンズ――これもコンテナに収めておいたやつだ――に手を伸ばしても、ゆきは抵抗しなかった。
おれはストッキングでも脱がすようにするするとそれを引き下ろし、腰に食い込んだパンティに手をかけた。
ゆきの手に力がこもった。
そのとき――
ノックの音がした。
「誰だ!?」
なにしろ、真っ最中だったから、ノックの寸前まで気配に気づかず、おれはとび上がった。
右手を机上のグロックM17に伸ばす。
「僕です」
“プリンス”の声だった。
「何の用だ!?」
「あの――八頭さんの傷が気になって」
「いいわよ、入んなさい」
ゆきを睨みつけたときはすでに遅く、鍵をかけてないドアを開けて、“プリンス”が顔を覗かせた。
その約二秒の間に、おれはグロックを机上に戻し、ゆきの上から離れて、肘掛け椅子の上で足を組んでいた。
ゆきは――あのど淫乱め。俯せになったきり、胸のボタンもはめやしない。おれは焦った。なんと、ジーンズはヒップの半ばまで下がり、白い――せめてもだ――パンティが食い込んだ尻が生々しく露出しているのだ。
おれは立ち上がり、慌てて“プリンス”の視線を遮る位置へ移動した。
「あー、おれのことなら必配無用だ。その、何だ、早く帰りなさい」
いきなり、強烈な力で、おれは横へ押しのけられた。
ゆきは、ぞっとするほど色っぽい流し眼を“プリンス”に当て、
「ひどい格好でしょ? 誰のせいだと思う?」
喘ぐように訊いた。
「あの――わかりません」
当たり前だ。硬直する十歳の少年の前で、ゆきはヒップに手を当て、ゆっくりと揉んでみせた。この女には、秘めごとという意味が丸っきりわかっていないらしい。
「ひどい目にあったわ。君が来てくれなかったら、危ないところ。ヴァージンの危機よ。ね、何されたかわかる?」
「こら、よせ」
と、カバーしようとするおれを押しのけ、
「うるさいわねえ、黙ってらっしゃいよ。――お姐さんね、こうやって触られたの、お尻と――」
くるりと仰向けになって、
「おっぱいを」
“プリンス”の眼は、ブラからはみ出た豊かな乳房に吸いつけられた。
「ひどいのよ。いやがるあたしの手を無理やり押さえつけ、ここにキスしたの。それもとっても強く。マークがつくくらいに」
とんでもない真似をしやがる。おれは慌てて、ゆきを張り倒そうとした。
“プリンス”が先に動いた。まさか、触りにいくんじゃあるまいな、とおれは青くなった。
ゆきがにやりと笑った。
笑いはすぐに消えた。
“プリンス”はゆきの前に立つと、両手を胸もとにさしのべ、シャツのボタンをはめだしたのである。
柳眉を逆立てるかと思ったが、ゆきは苦笑して“プリンス”の手を外した。
「いいわよ、お利口さん。あたしの魅力も坊やには通じないようね」
ジーンズを引き上げ、ゆきはさっさとドアへ向かった。
ドアのところでこちらを向き、
「あたしの代わりに傷薬でも塗ってもらいなさい。あんたには、可愛い坊やがお似合いよ」
ドアが閉じてからも、“プリンス”は長いことそちらを見つめていた。
哀しそうな眼をしてやがる。ゆきの苦笑を招いたのも、この眼差しだったろう。
「気になるかい?」
おれは、にやつきながら訊いた。こんなとき、生真面目は禁物だ。
「あいつにゃ、いい薬だ。おまえのことをどう思ってるかわかるかい?」
「怒ってると思います」
「感謝してるさ」
「え?」
「あいつも、自分をもて余してるときがあるんだ。あんなことしながら、ひっぱたいてもらいたいと思ってるんだよ」
きょとんとしている少年に、おれは笑いかけた。
「そんな顔するな。じきにわかるさ。とにかく、あいつはおまえをおかしくしないで済んだ。ついでに、自分も悪女にならなかった。おまえは正しいことをしたんだよ。あいつが意味もなく尻《けつ》出したら、また、やってやれ」
「………」
「さ、薬を塗ってくれや。そのために来たんだろ?」
「ええ」
“プリンス”はやっと笑顔を見せた。
「ところで、訊くのを忘れたが、ゆきの奴、あの洞窟で追っかけて来た兵隊をどう始末したんだ?」
「みな、殴りつけて気絶させました」
殺したんじゃなかったらしい。OKだ。
「これから、どうなるんでしょうか、僕は?」
「どうにもならなくない。宮殿へ乗り込み、国民と大臣どもの前で、おまえが正統な世継ぎだと認めさせてやる」
「でも――ペンダントがありません」
「そう言や、そうだな」
おれは宙を仰いだ。
「まあ、盗られたら盗り返せだ。安心して待ってな」
「どうして、僕のために、そこまでして下さるのですか?」
「そりゃ、君。後のことを考えてだ」
おれは馬鹿丁寧な声を張り上げた。
「バラザード・リアの宝を忘れるなよ。その他にも、国王ともなれば、ほれ、色々余禄があるじゃないの」
“プリンス”はおれを見つめた。その瞳に含まれたものが、さっきのゆきとは違う意味で、おれを驚かせた。
「嘘です」
と、小僧は言った。
「僕が国王になれるかどうかなんて、誰にもわかりません。いいえ。どう見たって、なれる可能性はゼロに近いと思います。あなたにわからないはずがありません。何故です?」
「十歳の坊やが難しいことを考えるんじゃねえよ。おれはな、こう見えても、これまで小さな国の二つや三つは崩壊させてるんだ。こんなちっぽけな国の政府を転覆させるのは、造作もねえ。自分のために、生命を捨てるんじゃないかという、つまらない心配はよしな。おれもあいつも、そんなに甘ちゃんじゃねえよ」
「――本当ですか?」
「ああ。その代わり、おまえがこの国の大家になったら――見返りは忘れるなよ」
「わかりました」
「誰か来たようだぜ」
おれの指摘に、“プリンス”は眉をひそめた。
「いま、廊下をやって来る。安心しな。ヤンガーの部下なら、あんな不様な足音は立てない。陣十郎だな。あと三歩……二歩……一歩。――今だ」
ノックの音が“プリンス”の眼を思いきり見開かせた。
「どうしてわかるんです?」
「おれは天才でな。――入れ」
「失礼いたします」
会社社長がのしかかるように入って来た。
「何の用だ?」
「これは、先を越されましたかな。私も、同じことをしに参ったのです」
「おまえに薬を塗られちゃ、良薬も毒薬に変わる。気持ちだけでいい。あっち行け」
「情《つれ》ないことを。どれ」
陣十郎はのこのこと近づき、“プリンス”の手から薬を受け取った。今日はみな、薬を塗りたがる日だ。
ゆきと“プリンス”にも塗られて、もうたくさんなのだが、何故か、おれは好きなようにさせておいた。
「私にも子供がおりまして」
不意に陣十郎が言った。
「ん?」
「兄は独身でしたが、私は若いうちに結婚して、三太と申す伜がおりました」
「三太?」
「二十五のときの子供ですから、今年、四十一歳になります。生まれたとき、兄は大層喜んでくれました」
骨太の指が肩を這う。
「今、何をしてる?」
「亡くなりました。十八のときに、家内ともども交通事故で。それ以来、私は独身でございます。私は少々放浪癖がありまして、あまり家へは戻りませんでしたが、それでも、たまに帰ると、――本当にたまにですが、一緒に風呂へ入り、こうやって伜の小さな背中を流してやるのが楽しみでございました」
年寄りの繰り言を、おれは黙ってきいていた。辛気臭いと立ち上がるのは簡単だったし、そうしたいのはやまやまだったが、何故か、できなかった。“プリンス”も動かない。
「交替しましたのは、いつ頃のことでしょうか。気がつくと、私は三太に背中を流してもらっておったのでございます。これで、自分の人生が終わったような、それでいて、何ともほっとしたような、いわく言い難い気分でございました。結局、そうはなりませんでしたが」
「気の毒したな」
「いえ、運命でございます。ですが、何ですか、それ以来、私にはおかしなものが憑きましたようで。周囲の人間がどんどん、ロクな目に遭わないような星回りになって参りました」
やっぱり、そうか。おれは首を回して陣十郎を睨みつけかけ、やめた。亡くなった家族のことを憶い出している年寄りを責めてもはじまらない。
「いい伜さんだったようだな」
話が長くなるのを覚悟で、おれは口にした。
「ラグビー部の選手でございました。ちょっと力を入れてこすられると、骨が悲鳴を上げたものでございます。世界中を駆け回る冒険家になるのが夢と申しておりました」
「きっと、そうなったさ」
「はい。私もそう思います。で、その、私自身の身のふり方なのですが、最後までお仕えしていて差しつかえはございませんか?」
いきなり話題が急降下し、おれは少し慌てた。
「今さら、放り出すわけにはいかないよ、安心しろ」
と言ったものの、不満も残った。自分の身柄の安泰を確保するために、死んだ伜の話で同情票を稼ごうとするとは。いや、ひょっとしたら、何から何まで嘘っ八ということも考えられる。
「それでは、これで」
陣十郎はさっさと立ち上がり、部屋を出ていった。安心したらしい。
おれは“プリンス”の方を見て、
「おかしな野郎ばかりで済まんな」
と言った。
「いいえ。勉強になります」
かがやく瞳でこんな台詞を吐いても、甘えになるから、気品というやつは凄い。
「僕は、みなさんが好きです。僕と一緒にいてくれるみんなが大好きです」
「一同を代表して感謝するよ」
ふざけた口調になったのも仕方ないだろう。おれは彼の肩を叩いて言った。
「さ――短期滞在の片をつけようじゃないか」
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第五章 コーネル処理班
1
ちゃんと四人の一泊分の部屋代を置いてから、おれたちはホテルの窓を脱け、庭伝いに脱出した。
田舎のバスだからと思っていたが、幸い時間通りに来た。
バスガイドなし、運転手のみのワンマン・バスである。ボンネットを開けると、豚が顔を出すんじゃないかと思われるオンボロぶりに、全員が感嘆した。
「こりゃ、凄い」
均一料金のチケットを買って乗り込んだおれの言葉に、運転手はすぐに反応した。
「何吐かすだ、この田舎もン。ちゃんと走るだぞ」
「あら、素敵。ね、早くして[#「して」に傍点]」
こういうとき、ゆきは便利この上ない。
運ちゃん、鼻の下を長くして、オッケイだべさ、とアクセルを踏んだ。
警官隊の包囲や待ち伏せもなく、バスは暗闇の中を突っ走っていく。
「あんたら、旅行者か?」
運ちゃんが訊いた。
「アメリカ人[#「アメリカ人」に傍点]だな。生まれは何処だい?」
「ニューヨークである」
通路をはさんで、おれの隣席にふんぞり返った陣十郎は、社長並みの貫祿があった。ゆきはその後ろ。プリンスはおれの真後ろにいる。バラバラなのは、固まっていて反応が遅れるのを防ぐためだ。
運転手は口笛を吹いた。顔は老けているが、案外、若いらしい。
「ええど、ええど。そうじゃねえかと思っただよ。ロサンゼルスなんかと違って、おめえら、垢抜けてるだに。そうか、やっぱし、ニューヨーカーかあ。で、仕事は何だい?」
「会社を経営しておる」
「ひええ。あんなに地所の高えニューヨークで会社を。んだらば、あんた、社長さんけ?」
「左様。この三人はわしの子供である」
「あれまあ、お坊っちゃんに、お嬢ちゃん」
運転手はひどく嬉しそうだった。理由はすぐにわかった。
「な、社長さん。おらあ、こう見えても、青雲の志に燃えてるだよ。こんな田舎に埋もれて一生を終えたくねえだよ。あんたの会社で使ってくれねえか? 皿洗いでも釜炊きでも何でもやりますで」
会社を食堂か蒸気機関車と間違えているらしい。が、熱っぽい口調は本物だ。
「よろしい」
陣十郎は堂々とうなずいた。
「いまの実業界が求めているのは、熱意と情熱だ。草奔《そうほん》に果てずとの心意気やよし。いつでも訪ねて来たまえ。わしは『NAGUMO エンタプライズ』の名雲陣十郎である」
「こら、玉の輿だ!」
言葉の使い方のよくわからない運転手は、両手でハンドルを叩いた。
バスは田舎道を真っすぐ突進していく。二〇分とたたないうちに、周囲は闇と化した。左右は畑である。
エンジン音と思ったより軽い揺れが、おれを眠りへと誘った。
いかん、と思いつつ、瞼はふさがってしまう。肩と肋骨の痛み止めが効いたせいもある。
「森ん中へ入《へえ》るだ。窓ガラスに枝が触れるけど、怖がらんでくだせえ、社長《ボス》」
「わかっとる」
待つ程もなく、窓ガラスを小さな音がいくつも爪を立てていった。
暗黒の淵に潜り込む寸前、強烈な痛みが意識を貫いた。
危険信号だ。
一〇〇分の一秒で意識を覚醒させた刹那、バスが急に傾いた。
「ちょっくら、道悪くなるだに、我慢してくだせえ」
運転手の台詞が終わるまでに、バスは五回左右に車体をふった。
「気をつけろ」
おれは三人に叫んだ。
「敵が近いぞ。それも、只者《ただもン》じゃねえ!」
ぎゃっ、と悲鳴が上がった。運転手だ。
次の瞬間、窓ガラスの砕ける音がして、ニューヨーク志向の運ちゃんは、フロント・ガラスへ頭からダイビングしていた。
おれは見た。
フロント・ガラスを突き破って運ちゃんの首根っ子を掴み、闇の中へ放り出した腕を。
ハンドルを、と思ったが遅かった。
鈍い衝撃がバスを持ち上げた。
運ちゃんのニューヨーク行きの実現を約束しておいたのは、せめてもだったと言えるだろう。
運転席へと向かいながら、おれの右手はグロックを抜いていた。
勘だけで天井めがけてぶっ放す。
ドドドッと黒点が五つほど穿たれ、命中の気配が伝わってきた。
そのくせ、標的は動かない。のたうつ様子もない。効かないのか――と驚きつつ、おれは運転席にとび込んだ。
ぽっかり開いた穴から、生暖かい夜風が吹き込んでくる。ライトが石の多い狭苦しい田舎道を、ぼんやりと照らしている。
「“プリンス”を守れ!」
声が前へ逃げると危《やば》いから、ふり向いて叫んだ。
前へ戻した視界を黒いものが覆った。
屋根から下がった手だ。
反射神経はやや衰えていたようだ。ハチの毒のせいかもしれない。効きそうな解毒剤は射っておいたのだが。
凄まじい握力が五カ所、こめかみと額に食い込んだ。運転手は、一秒以内に頭を掴みつぶされていただろう。
だが、痛くはなかった。指はめり込みはしなかった。
おれの顔は一瞬のうちに、仮面状の金属フードで頭から首まで覆われていたのだ。巡航ミサイル「AYAME―CHAN」には、機械服《メック・ウエア》まで積んであったのだ。
右手でハンドルを操りながら、左手でそいつの手首を掴んだ。
手触りは粘土の塊。背広を着て、黒革の手袋をはめている。
記憶が鮮明な光芒を放った。六本木のマンションだ。あのときは回し蹴りだった。つまり、足だったが、受けた感覚は――この手と瓜二つだ。
レーザーで足を射ち抜かれてもビクともせず、前蹴りで壁を貫いたあの化物――強化人間《ブーステット・マン》だ。やはり、大佐の子分か。
おれは渾身の力を込めて、奴の手首を握った。
『機械服』のパワーは装着者の一五倍。
だが、敵の力はそれを上回っていた。びくともしないどころか、猛烈な力でおれを運転席から掴み出そうとする。
背後で窓ガラスが砕けた。
陣十郎が驚きの声を上げた。小気味よい銃声が上がった。もうひとりいたのか!?
凄まじい緊張が伝わってきた。
「この野郎!」
フードの中で叫びつつ、おれはハンドルを離し、右手を思いきりふった。
覚えていたか。“腕時計《ウォッチ》”に仕掛けてある単分子チェイン・ソーを。
強化筋肉も、鋼板すら断ち切る刃には耐えられなかった。
ぶつん、という音が上がり、腕は急に離れた。二の腕は半ばまで断たれ、黒い液体を噴いている。血でもオイルでもない。ビタミンやミネラルをたっぷりと含んだ人工血液だろう。
おれはふり向いた。
通路に“プリンス”が仰向けに倒れていた。
恐怖が顔を埋めている。
無理もなかった。その胸に鉤爪の生えた右の前足を乗せ、立ち竦むゆきと陣十郎を黄色い瞳で威嚇しているのは、黒豹そっくりの四足獣だったのだ。
おれを見つけ、そいつはぐわっと牙を剥いた。
“プリンス”の頭ぐらいひと咬みでちぎり取りそうだ。
ワルサーPPK/5を構えたゆきと、SW―M66を手にした陣十郎が動けないのも、それを認めたためだ。
だが、獣の方にも計算違いがあった。
腹のあたりから血が滴っているのが、その証拠だ。
恐らく、強化人間がおれを始末している光景に全員の注意を引きつけ、その間に“プリンス”を咥えて逃げ出すつもりだったのを、さっきの一弾が妨げたってわけだ。
女だからと甘く見過ぎたな。――太宰ゆきを。
おれでさえ及ばないかもしれない、世界最高のトレジャー・ハンターの孫娘を。
「気の毒だったな」
おれは、明らかに犬科の生物と思しい顔の眉間へ、グロックを突きつけながら言った。ハンドルは握ったまま、スピードも落とさない。時間がないのだ。なに、勘で運転するのは初めてじゃあない。ある船の中で、後ろ向きに全速走行をしたことだってあるのだ。
天井の気配にも気を抜かない。化物は腕の傷の手当てに忙しいのだろう。
「だが、切り札を握っているのは、そっちじゃなくておれの方だ。いくら“プリンス”を押さえてても、殺すわけにゃあいくまい。おれは遠慮しないぜ。おまえのスピードは原宿で経験済みだが、今度はこっちにも用意がある。しかも、三挺で狙ってるんだ。悪いことは言わねえ。諦めて帰りな。そうすりゃあ、何もしねえよ」
「さすがだな」
まさか、黒犬が英語をしゃべるとは思わなかったから、おれたちは息を呑んだ。
「原宿のときから、只者じゃねえとは思ってたが、ここまでやるとは思わなかった。その小娘も大したもんだぜ」
「こいつは驚いた。しゃべれるのか? なら、ちょっくら訊きたいことがある。どうやって、おれたちがこのバスに乗るとわかった?」
「バスは知らん。ホテルはわかったがな」
「すると、最初から、この町へ来ると踏んでたのか?」
「大佐どのの読みさ。おまえの手口をよくよく分析したらしい。後は、ホテルを張っていれば来ると踏んだ。だが、こんなに早く脱け出すとは予想外だったぞ」
「わからねえ。よく、ホテルを見張ってるだけで[#「ホテルを見張ってるだけで」に傍点]、おれたちだと見破ったな[#「おれたちだと見破ったな」に傍点]」
「その顔か[#「その顔か」に傍点]?」
黒犬はにやりと笑った。動物の笑顔がはっきりわかったのは初めてだ。
「おれは鼻がいい[#「鼻がいい」に傍点]」
「なるほど。おまえ“処理班”の奴か?」
「そういうことになるな」
「全部で四人――あとの二人はどうした?」
「別の任務についている。彼らも、おまえたちと会えるのを愉しみにしているよ。当分、先になりそうだがな」
「さっさと行け」
「そうはいかん。大佐どのから命令を受けてはおらんが、おれは自分の判断で、必要とあらば、この方[#「この方」に傍点]の生命を頂戴する。はは、“プリンス”はいただいていくぞ。邪魔するな」
じり、と胸の上の鉤爪が、“プリンス”の喉へ上がった。
ひと掻きで首はなくなるだろう。あどけない顔は蒼白だ。
「強がりはよせ。おまえにできっこねえ。そんなことをしてみろ、大佐は絶対に許さん。その場で銃殺だ」
「それもやむを得まい。任務を達成したという誇りを抱いて、死んでいくことにしよう」
黒犬の声は落ち着いていた。腹をくくったのだ。
何とかして“プリンス”を捕まえようとする大佐の執念から見て、こいつが殺戮の牙をふるうとは信じられなかったが、極限状況ではどうかわからない。人間の精神だけは永劫の謎だ。
「銃を捨てろ」
と、黒犬が命じた。
「仕方がねえな」
おれは指先でグロックを回転させ、そっと床に置いた。ゆきも陣十郎もそれにならう。
「安心しな。必ず助けに行く」
おれの言葉に“プリンス”はうなずいた。
「お利口さんだ。バスを停める必要はない。このまま、失礼するよ」
ゆっくりと黒犬は頭を下げ、“プリンス”の腹のあたりを咥えた。服だけだ。じりじりとリア・ウインドの方へ進む。奴の開けた穴が、夜の闇を招いている。
おれは、グロックに跳びつくタイミングを計っていた。
〇・五秒で第一弾を発射しなければ、黒犬の爪は“プリンス”の頭を裂く。しかも、その一発は必ず致命傷を与えなくてはならない。
そのチャンスはひとつしかなかった。
黒犬がひょい、と後部を占めた座席《シート》に跳び乗った。
“プリンス”も宙に浮く。それを支えるため、黒犬はシートへ四肢を食い込ませた。
今だ!!
とび出そうとした瞬間、頭上で殺気が膨れた。
天井をぶち破って無傷の手が現れ、おれの襟首を掴んだ。
一気に持ち上げられた。
そのときほど、『機械服』の有難味を感じたことはない。
バスの構造材をぶち抜いて、おれは天井へ引っ張り上げられたのだ。
とっさにハンドルから手を離したから、バスは直進していく。
六本木と同じ顔が眼の前にあった。
左手でおれを吊り下げたまま、ぐい、と血まみれの右手を引く。肘から先はなかった。自分でもぎ取ってしまったのだ。
下の方で獣の叫びが上がったが、気にしちゃいられなかった。
コンクリートの壁をぶち抜くストレートが来る前に、おれは奴の顔面へ右の前蹴りを叩き込んだ。
ぐしゅ、と鳴った。
いくら強化人間とはいえ、鋼鉄製ではあるまい。しかし、靴と靴下に隠されたおれの爪先は、軽合金だった。
パワーは、おれの一五倍。
奴は吹っとんだ。
空中に白いものが二つ浮かび、巨体の後を追って行く。眼の玉だった。
かろうじて、屋根の縁《へり》で踏み留まる。立派なものだ。
眼球は胸のあたりに垂れている。
それを手に取り、黒い血を噴き出す眼窩へ押し込むとは。
ぐい、と太い指がおれの顔をさした。試しに右へ動いてみると追っかけてくる。驚いたぜ、見えるらしい[#「見えるらしい」に傍点]。
「今度、会ったら――八つ裂きだ」
声には苦痛の色など微塵も感じられなかった。
次の瞬間、そいつは屋根から身を躍らせ、両手を重ねてふった。
どおん、という音も、衝撃も凄まじく、バスは大きく右へ傾いた。
慌てず、ぎりぎりまで屋根に留まってから跳躍したのは、おれならではの離れ業だった。
草むらへ着地も決まった。
バスは横倒しで、タイヤだけ回している。地響きのやまぬ地面を駆け寄り、おれは天井の破壊孔から声をかけた。
「無事か!?」
「おお」
返事は野太い女の声と、眼の前へ噴き上がった白光だった。
長剣だ。血にまみれていた。
一瞬で事情は呑み込めた。
太古の女騎士シャルロット・クレマンティー――誇り高きカッシーニ侯の聖戦士が、再びこの世に出現したもうたのだ。
長剣を握った手が現れ、もう一本の、鎧をまとった手が穴の縁を掴むと、ぐう、とアナクロの極みとも言うべき兜が浮かび上がってきた。
ぎろりと面当ての向こうからおれを見て[#「おれを見て」に傍点]、
「誰だ[#「誰だ」に傍点]、おまえは[#「おまえは」に傍点]?」
おれは苦笑して、顔面をひと撫でした。ホテルへ入る前につけた合成皮膚のマスクは、引っ張られたくらいじゃとれないが、この角度から力を加えると、あっさり外れる。ホテルの主人がおれたちを怪しまなかったのも、バスの運ちゃんがアメリカ人と言ったのも、このせいだ。瞳の部分の色も、特殊レンズで自由に変えられる。ただ、黒犬の鼻――自分の体臭だけは、ごまかせなかった。
シャルロットは驚き、少ししてようやく、
「久しぶりだな、大」
ゆきの声である。顔もゆきだが、いまは面当てを下ろしている。
「こりゃ、どうも」
おれはようよう挨拶した。シャルロットが脱けるや、バスの中を覗き込む。
「大丈夫でした!」
“プリンス”の声だった。
おれは、全身の力が緩むのを感じた。しかし、差別はよくない。
「陣十郎やーい」
「何とか無事でございます」
“プリンス”に手を貸しながら、おれは、仁王立ちのシャルロットを見つめた。
「急にまた、出られるようになってな。小娘の眼を通して事情はわかっておる。あの黒犬め、妖術師でもあろうか。まさか、私の剣を避けられるとは思っていたわけでもあるまいが、ひと刺しふた刺し、喉と胸を突いてやった。運良く逃げおったが、なに、あの手応えでは、あと半刻《とき》と保たぬ」
二〇世紀末の路上に響く、鎧武者の笑い声を、おれは茫然と聴いた。
2
引っくり返ったバスを起こすのは、造作もないことだった。幸い、メカに異常はなく、怪我人もゼロだ。十分とたたないうちに、おれたちは夜道をひた走っていたが、問題はシャルロットだった。どうしても鎧を脱ぐのは嫌だと言い張るのだ。
「これは聖なる騎士を象徴するものだ。みだりに脱いだりはできん。第一、裸のときに襲われたらどうする?」
「そのときは、そのとき用の武器を渡す。そんな格好で町を歩いてみろ。人目について、すぐ役人がとんでくる。カッシーニ侯の仇を討つ前に捕まってもいいのか?」
押し問答の末、ようやくシャルロットは鎧を脱ぐことに同意したが、おれに見張りをしろと来た。森の中で着替えるという。
仕方がないので、バスを停め、近くの木立の間へ入った。
衣類は、コンテナに詰まっていたゆきの分を使うことにした。着るものまで入れておく用心深さがおれらしい。
「それ以上、来るな」
そう言って、シャルロットが太い樫の幹の向こうに隠れると、おれは背を向けたまま、夜空を見上げた。
いい月が出ている。
つい、鼻歌が出た。敵地ではあるまじきふるまいだが、息抜きも必要だ。
「それは何だ?」
木陰から質問が流れてきた。
「歌だ」
「それはわかっている。曲の名だ」
「『埴生の宿』だ」
「女々しい歌だ。戦士にはふさわしくない」
「軍歌とは違うよ」
「大」
呼ばれてふり向き、おれは愕然となった。シャルロットは白い下着姿でおれの前に立っていた。
黒髪に素肌に、月光の滴がとどまり、ほおっておけば人型の炎と化して、夜空へ舞い上がりそうだ。
「おい、おまえ……」
「きれいに見えるか?」
シャルロット=ゆきの頬は赤らんでいた。男まさりの戦いの日々を送る女騎士にとって、男の前へ無防備の裸体をさらすのが、どれほどの精神力を必要とするか、おれにもわからないではなかった。
「ああ」
とうなずいた。我ながら、だらしのない声だった。いかん、鼻の下も伸び加減だ。
「しかし、おまえ――それは……」
何故かひたむきにおれを見つめていたシャルロットの眼が伏せられた。
「わかっている」
と少しして言った。この女にも哀しげな声というのが出せることを、おれは初めて知った。
白い手が髪の毛をすくい上げ、指の間からこぼした。艶やかな黒い流れの上を、月光が滑っていく。
「この髪は私のものではない」
手は肩にかかり、光の粒を払いながら腕へと下りていった。
「この肌も私のものとは違う。おまえを見つめる瞳もだ。お前を見ている精神《こころ》は私のものだ。だが、おまえの眼に映る肉体は別の娘のそれだ」
「まあな」
「それでも――きれいか? 別の娘ではなく――私は?」
おれが答える前に、シャルロットは背を向けた。
「いいのだ。詰まらない質問をした。月のせいだと思って忘れてくれ」
「女は剣など持たない方がいい」
おれは白い後ろ姿に言った。
「だが、必要なときに柱の陰に隠れるよりは、それを持って戦える奴の方が、おれは好きだ。男でも女でも」
シャルロットの耳に入ったかどうか。
妖艶な若い裸体は木陰に消え、淡いブルーのワンピースを着て現れた。
「どっちだ?」
おれは黙って立っている娘に訊いた。
答えはない。
「ゆきか?」
「残念だったな」
朗らかな、シャルロットの口調が応じた。
「やはり、そう[#「そう」に傍点]としか見えないか。――行こう」
こうして、田舎道をとばしにとばし、おれたちは三〇分後、無事、ホートンの町に到着し、サヴィナ行き急行列車の客となった。
八時半、ホートン発の列車は、サヴィナまで二時間を要する。何といっても、六〇〇〇平方キロの国だ。縦一〇〇キロ、横六〇キロだと思えばいい。
駅頭にもおかしな奴はおらず、切符もすぐ買えた。面白いことに、たかだが六輛編成なのに、うち三輛が特等、二輛が一等で、二等の自由車は二輛しかなく、特等車輛の豪華さにおれたちは目を丸くした。
広さはホテルのツイン並み。ソファは革張り、洗面所の金具はすべて純金ときた。
おれはあることを思いつき、“プリンス”と二人で二等車へ行ってみた。
区切りのドアを開いた途端、清浄な空気に、息も詰まるような熱気と匂いがなだれ込んだ。
煙草、安酒、鳥の糞、ミルク、家畜――“プリンス”は思わず咳こんだ。
薄暗い電灯の下では、通路にまで客たちが坐り込んでいた。
スーツだのネクタイだのはひとりも見当たらない。大半が薄汚れたシャツとズボン姿で、あちこちに鶏や野菜を詰めた籠が重ねられていた。
「えらい差だな」
“プリンス”は無言だった。ショックを受けたのはすぐにわかった。
「行くか?――ま、おまえにゃ関係ない」
そう促したとき、
「ちょっと、そこの二人――席がないのかい?」
かん高い女の声が上がった。
「なら、ここおいでよ。詰めりゃ坐れるよ。――何だい、我慢おし。おまえより、ちっちゃな坊やが立ってるんだよ。ほら、いいからおいで」
「こっちも坐れるぞ、坊やよ」
男の声が言った。
「来い来い。みんなで詰めるよ」
「どうする?」
おれは訊いてみた。
「戻ります」
と“プリンス”は答えた。
「今日は身体を休めて、明日から――やれるだけのことをします。精一杯」
おれは“プリンス”の肩に手を載せた。
「自覚が出てきたようだな」
「はい」
「何だい、行っちまうのかい?」
最初の女が残念そうに言った。
「また、戻ってきます」
“プリンス”はふり向いて言った。初めてきく声だった。
「きっと、皆さんの前に。――もう一度」
乗客は顔を見合わせた。
からかう声はひとつも上がらなかった。“プリンス”の全身からこぼれる何かが、そうはさせなかった。顔という顔は、とまどいながらも、みな好意的であった。
「また来なよ」
「待ってるぜ」
幾つもの声に送られて、おれたちは特等へ戻った。
ドアの前まで来たとき、おれは通路の奥へ眼をやった。
純白のスーツに身を包んだ、何とも肉感的な女が、大胆にバストとヒップをふりながらやって来たのである。
高級官僚――政治家や大臣クラス、軍人なら佐官級以上の妻といった感じだが、パリの超高級娼婦もかくや、と思われる妖艶さが、全身から噴きこぼれている。
ゆきがあと一〇年もたったらこうなるだろうと考え、おれは、性懲りもなく鼻の下が伸びるのを感じた。
素早く、ドアを背にして女を通す。
「ありがとう」
低く言って、おれと“プリンス”を一瞥した眼つきの色っぽいこと。
三つ先の個室《コンパートメント》のドアに吸い込まれるまで、おれはぼんやりと後ろ姿を追っていた。
部屋に戻って一〇分ほどすると、車掌がやって来たが、マスクの成果で怪しみもせず去った。
兵隊も来ない。うまく行きそうだと、おれは内心にんまりした。
田舎列車なのに、時間は正確だった。
十時三〇分。拡声器がサヴィナ到着を告げた。
「行くぞ。マスクはちょっと引っ張られたぐらいじゃびくともしない。安心して歩け」
「了解」
“プリンス”が微笑した。今までつきまとっていた逡巡の翳は何処にもなかった。目的を見つけた男の顔であった。
ゆきと陣十郎は先に降りていた。落ち合う場所は、中央区のホテルと決めてある。駅からのコースも住所もゆきは承知だ。
おれは“プリンス”を伴い、デッキへと向かった。
人気もない通路の途上で、
「失礼ですが」
股間を押さえつけたくなるような声が呼びかけた。
あの女が背後に立っていた。匂いでわかってはいた。
「何でしょう?」
と、おれは訊いた。荷物運びぐらいはお手のものだ。ついでに、ホテルかアパートまで同行してもいい。
だが、女は奇妙なことを言った。おれにではなく、“プリンス”に。
「あなた、私と一緒に参りましょう」
「おい」
電撃のように危険信号が背筋を突っ走った。右手は上衣の内側へ――グロックの銃把を握ったところで止まった。
「およしなさい。――黙ってお聞き。あなたは駅を出てすぐ、走ってきた車の前にとび込んで死になさい」
いいとも。あんたみたいな美人の言うことなら、何でもきくぜ。
「それじゃあ」
“プリンス”が丁重に頭を下げた。いつも通りの溌刺とした表情には、一点の異常も見受けられなかった。
これでいいんだ。よくわからないが、おれなんかと一緒にいるより、彼女といた方が、ずっと“プリンス”のためになる。
「元気でな」
おれはやさしく“プリンス”の肩を叩き、二人が列車を降りるのを見送った。
後は、おれ自身の幸せを求めるだけだ。確かに車にぶつかるのは、最も手っとり早い方法かもしれない。
おれはきちんとショルダー・バッグを下げ、列車を降りて改札口へ向かった。通路はほとんど二等の乗客だ。
マスクのせいで、改札口に立っていた兵士も怪しみはしなかった。
おれは真っすぐ駅のコンコースを横切って正面玄関へ出た。
タクシーが待っている。少し離れた停留所から、客を満載したバスが勢いよく発進し、ドアの手すりに掴まっていた数人が、ふり落とされた。
タクシー乗り場の脇には、武装警官と兵士、それに装甲車の姿も見えた。
乗用車が何台もやって来る。
おれは、できるだけ重そうなリムジンを狙った。
新しい人生の始まりだ。
口笛混じりに、おれは走り出した。
リムジンはゆっくりと近づいてくる。
あのタイヤだ。あの下へ頭だけ入れれば。
凄まじい恐怖がおれを貫いたのは、その瞬間だった。
ハチの毒がまたもや、効きめを顕したのだ。
おれはその場へ片膝をついた。
眼は足元の敷石を見つめていた。
すべての石に眼がついていた。
赤い、血走った狂人の眼であった。瞼が何度も動き、睫毛さえ備わっていることが、おれを戦慄させた。
石と石との間から、青いものがせり上がってきた。
草だ。眼を閉じようと思ったが、できなかった。
そいつらは、ことごとくおれの眼の下まで成長すると、一斉に蕾を開いた。
花びらにはガラス片のような牙がついていた。
ぴゅっ、と一本が首をふり、おれは右手首から先を食い切られた。もう一本、今度は喉だった。半分持って行かれた。敷石の上に、ばしゃばしゃと鮮血が落ちた。
おれの手首と首の筋肉を咥えたまま、花はケケケと笑った。
おれは立ち上がった。
恐怖が死の誘惑を踏みにじり、脱出を命じた。
だが、草は、両足に絡みついていた。一歩も歩けない。おれは足を見た。膝から下は、おびただしい青草の集合体と化していた。
悲鳴が口をついた。全細胞が絶望を吐き出す。
何が起こったのか。
弾けた!
3
誰かが肩を叩いていた。
「ちょっと、あんた、大丈夫かい?」
太った中年のおばん姿より、その声に聴き覚えがあった。
席を譲ろうと言った女だ。
「大丈夫かい? 急にしゃがみ込んじまってさ。腹痛でも起こしたの?」
「いや、ワライタケの食いすぎさ」
こう言って、おれは立ち上がろうとしたが、たちまち膝から砕けて同じ姿勢に戻った。
まるで、身体の内部《なか》で戦争でもはじまったような按配だ。
死ねと命じた声への服従と、恐怖へののめり込み――プラス、今のおれにはわからない第三の力。
膝こそ笑っているが、精神状態は良好だった。
すぐに、“プリンス”のことが頭に浮かんだ。四方を見回しても、とっくにその姿はない。
あの女――多分、天才的な催眠術師なのだ。
ああもあっさりと暗示にかかったのは、不意打ちじゃなかった証拠だ。今考えると、二等車からの帰りにすれ違ったときの一瞥――あれこそが、布石の暗示だったのだ。
術師が施術する場合、被験者に光る物体を見つめさせるのはご存知だろう。
ひと目見た瞬間、おれの意志はすっかりあの女の眼に吸い取られていたのだ。もちろん、催眠術師とやり合うのは初めてじゃあない。
親父とおふくろから耐久訓練は受けていたし、おれなりの対抗策も講じたつもりだ。暗示を切り返す心理訓練にも、金と時間をかけた。それをあっさり破ったのだから、あの女は天才なのだ。
まず、間違いない。ヤンガー処理班――最後のひとりだ。あの列車に乗り合わせたのは、無論、偶然じゃない。おれたちと一緒に、きっと先に[#「先に」に傍点]ホートンから乗り込んだのだ。尾行を警戒しても無駄な訳だ。ホートンへ張り込んでいたのは、ヤンガー大佐の差し金だろう。あいつなら、それくらいのことはやる。
何にしても、先取点は取られた。今度は取り返さなくちゃならない。
だが、足には力も入らなかった。
「ほら、しっかりおし」
横合いから急にたくましい腕が伸び、おれは肩を借りて立ち上がっていた。
「あんた、金持ってるかい?」
女が訊いた。
「ああ」
「なら、タクシーを使えるね」
「ああ。何処へ連れてく気だ」
「あたしの家。それが済んだら、好きなとこへお行き」
「それはかたじけない」
おかしな女だと思ったが、いつまでも膝をついているわけにはいかないから、付き合うことにした。
タクシー乗り場へ、二、三メートルと歩かぬうちに、けたたましく笛が鳴った。
「そこの二人――待てい!」
猛々しい声と足音が近づいてきた。
勘づかれたか。
「構わず行け」
と、おれは女を促した。
「はいよ」
こっちもさばけている。
背筋をきん[#「きん」に傍点]、と冷水が走った。殺意の凝塊が叩きつけられたのだ。
「伏せろ!」
叫んだ瞬間、頭上を熱い塊が飛んだ。銃声は後からやって来た。
通行人が逃げまどう。
タクシー乗り場までは一〇メートル以上ある。次の射撃は避けられまい。糞、おれが不自由でなかったら。
ここは一戦交えるしかない、と覚悟を決めるより早く、右手は上衣の内側へとんでいる。
ブレーキ音が響いた。
眼の前に旧型の乗用車が滑り込んできた。後部ドアが開いている。
「乗れ!」
助手席からM3短機関銃を持った男が身を乗り出した。
M3が唸った。毎分三五〇発という、比較的スローモーな発射速度だが、おれたちを追いかけてた警官は、三人とも血の霧に包まれて昏倒した。
こいつは只事じゃねえ。
どうしようかと判断する前に、おれは女を押し込むようにして、車に乗っていた。
ドアを閉めた瞬間、窓ガラスが砕けた。
「伏せてろ!」
運転席から声が上がり、車は奥のドアへおれたちを押しつぶさんばかりの勢いで走り出した。
「あんた方――何者だ?」
と訊いたのは、それから一、二分後、
「もういいぞ」
の声がかかってからである。車は裏町を疾走中だった。
「いきなりで驚いたろう。――旅行者のあんたに済まんことをしたな」
助手席でM3を構えている男が、ちらりとこちらを見て詫びた。陽灼けした顔に歯だけが宝石のように白い。精悍そのもの――戦ってる男の顔だ。
「せめて、ホテルまで送っていきたいが、こっちにも事情があってな。じき、車は乗り換える。その辺から歩いてくれ」
「狙われてたのは、あたしなんだよ」
と女が、こちらは愉快そうに言った。頭の上を弾丸が素通りし、ガラスの破片を浴びたばかりなのに、緊張の色もない。大した度胸だ。
これくらいでなくては、ゲリラなどつとまらないだろう。窓ガラスをぶつけられて、悲鳴ひとつ上げない女の素姓など、そう判断するしかない。
「いかん!」
運転手の叫びにブレーキ音が重なった。
「どうしたの!?」
女がシートの背に掴まりながら訊いた。
おれも見た。
車は右の横丁へ急カーブを切る寸前だった。
通りの奥に居すわっているのは、子供用の豆自動車を思わせる小ぶりな車だった。いや、装甲車並みのごついタイヤがついてるから車と見えるだけで、全体の形は寸詰まりの屋形船に近い。夕涼み客もいない、鋼鉄の障子を閉め切った屋形船だ。
気違いじみた恐怖に捉われながらも、運転手のテクニックは大したものだった。
片輪走行に近いスタイルで、さらに細い路地を突っ走っていく。
おれは女を見た。ほう、銃弾など屁とも思わなかったのが、今は血の気を失い、唇を噛みしめている。
黒い屋形船はそれほど恐ろしい存在なのか。
路地の左右は石壁であった。
前方左側の壁が、だしぬけに内側から黒い衝角を吐いた。
リモコン操縦とも思えぬ敏捷さで旋回し、こちらに舳先を向けた屋形船を見た刹那、おれは判断を下した。
「降りろ!」
ドアを押し開け、女の襟首を掴んで引っ張り出す。車はブレーキングに身をまかせたところだった。すぐ後ろの石の支えの陰に、おれたちは身を隠した。
M3が鳴った。
ダッダッダッ。――哀しいくらい遅い四五口径ACP弾の連射を、黒い装甲は火花も上げず跳ね返した。
前面が左右に開いた。
黒いものが炎を上げてとび出す。
ミサイルだったろう。
乗用車は二人の男もろとも膨れ上がり、火炎の中に四散した。
一秒とおかず、屋形船のてっぺんから細長いシャフトが上昇した。
先端の幾何学的形状のボックスは、センサーだろう。五メートルもの高さから睥睨すれば、人間の眼よりは格段に広い視野を持つ。
いわゆる“殺人ロボット”とおれは踏んでいた。
米ソの軍隊では、すでに実用化に入っている兵器だ。
コンピューター制御の武器搭載無人車は、戦場のみならず、多数をばら撒けば、敵の首都圏を大混乱に陥れる。戦場では敵味方の識別が厄介だが、市街地なら無差別殺戮が許されるからだ。ヘリも装甲車も入れない路地から路地を、時速一〇〇キロ以上で跳び回り、重要施設やVIP、無辜の市民に不意討ちをかけるゲリラ・ロボットが、どれほど恐ろしい敵かは容易に想像がつく。
眼の前にいるのは、治安用の一台に違いない。
だが、米ソ開発モデルの武装はせいぜいが一二・七ミリ重機関銃と四〇ミリ榴弾砲、催涙ガス発射装置程度だが、こっちはミサイルときた。他にも何をつけてるかわからない。
センサーがこちらを向いたとき、すでにおれの方の用意は整っていた。バッグから取り出した自由電子レーザーガンに、女は殺人ロボットに気を取られていたため、気がつかなかったようだ。
おれは一気に路上へ走り出た。
センサーが向きを変える。いったん閉じていたミサイル発射口が開いた。
短距離の瞬発的動作では、コンピューター制御はまだ人間に及ばない。
拳銃弾なら跳ね返す黒い重金属も、戦車装甲を紙扱いするレーザー・ビームにはひとたまりもなかった。
ロボット・カーの正面から後端までをぶち抜いた瞬間、おれは路地の反対側の支えにとび込んだ。
ミサイルは誘爆した。
ナパーム・ミサイルでも積まれていた日にゃ、こっちも火だるまだったろうが、敵もその辺は考慮していたようだ。ミサイルは通常用だったし、威力も加減されていた。それは、ゲリラ車の破壊の様子でわかる。だからこそ、おれはとび出したのだ。
ふり向くと、女が茫然と突っ立っていた。
「あ……あんた一体……何者だい?……」
「さあね」
おれは低く笑って、すぐ後ろの路地の入口へ顎をしゃくった。
「そんなことより、早いとこ脱出しないと、別のロボット・カーが来るぞ。コンピューターはネットワークになっているはずだ。縁があったら、また会おう」
女の足元からバッグを拾い上げ、おれはウィンクして通りの方へ歩き出した。
どこかで顔を変えなくちゃいかんな。
「待っておくれ」
女の声が聴こえても、おれはふり向かなかった。もう無関係の人間だ。
「あたしゃ、『地獄横丁のマリア』てんだ。何か困ったことがあったら、『夜会都市』へおいで。生命を救けられた借りをお返しするよ」
おれは柄にもないことをした。二度と会わないかもしれぬ相手に、片手を上げてしまったのだ。
懐かしい名前だった。
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第六章 貧民夜会都市
1
おれは、陣十郎と落ち合うホテルへは行かず、外から電話をかけて、別の宿を取るように指示した。
チェック・アウトを済ませてから、マスクをつけ替えて外へ出ろと言うのも忘れなかった。
結局、新しいホテルへ移ったのは、午前零時を回っていた。似たようなのが建てこむ場末の安ホテルだ。部屋のクーラーは音ばかりやかましくてちっとも効かず、天井には緑色のファンが回っていた。それでも、一分もすると、汗が吹き出してくる。
「大層なホテルでございますな」
すっかり疲労しきったらしい陣十郎がぶつぶつと言った。
「愚痴が多いぞ、老いぼれ」
ゆきの顔をしたシャルロットが、じろりと睨みつける。おれと“プリンス”が組んだから、この二人もコンビを組ませたのだが、どうも相性が悪いらしい。内憂外患とはこのことだ。
「おまえには外凶相が出ている。自分ではなく、周囲の人間に迷惑をかける相だ。大、こいつは早目に追放すべきだぞ。何なら、私が人知れず始末してやろう」
陣十郎が青ざめたので、おれは、まあまあと割って入り、
「仲間割れは生命取りになるぞ。それより“プリンス”の奪還をはかろう」
「どうして、さらわれたのだ。おまえがついていて、とても信じられん」
「鼻の下が急に長くなっちまってな」
おれは、すっとぼけて、
「通常なら、“プリンス”の幽閉先は宮殿と考えるべきだが、あそこはエニラ師が巣食っている。大佐としては、接触を避けたいだろう。だとすれば、何処か?」
「わからん」
「さて?」
「そこで、指令を与える」
二人はさっと緊張した。
「シャルロットはしばらく身をひそめていろ。おまえの実力は頼もしいが、この世界の知識がまだついていかねえだろ。――ゆきに教えてもらえ。ただし何日も遊ばせとくわけにはいかん。二日以内に、この国の件も含めて必要最小限の知識を身につけろ。その後はびしびし働いてもらうぞ」
「一日でたくさんだ。バスに列車とやらの中でいろいろと勉強した」
「なら、一日だ。それから、陣十郎くん」
「はは」
「君は馘だ。好きなところへ行くがいい。――と言いたいが、給料が欲しかったら、もうひと働きしてもらおう。ここに募集広告がある」
おれは、ホテルへ来る前に買っておいた新聞をテーブルに広げた。
その国の情報を手っ取り早く得たければ、新聞とTVに限る。
その一点を指さし、
「ここに、秘書求むの広告があるだろう。出稿主は宮殿の秘書課だ。おまえ何とか合格しろ。マスクを被っていけば、誰にもわかるまい」
「ですが、身元調べをされたら一発でばれてしまいますぞ」
「その点に関しては、打つ手がある。ここへ来るまでに便利な知り合いができたんだ」
「お付き合いも才能でございますな。頑張ります」
「おまえはきっと、採用されたら給料分の仕事をすればいいと思っているだろうが、そうはいかん。つつがなく勤められるだけじゃ、送り込む意味がないんでな。いいか。他の奴をみんな蹴落としても宮殿へ入り込み“プリンス”関係の情報を探れ」
「ですが、私はスパイではございませんでして」
「わかっている。だから、できるだけでいい。連絡は通信器《コミュニケーター》で取れ」
おれは全員の腕に巻いた時計を指で叩いた。バスの中で配っておいたが、本格的に役に立つのはこれからだ。
「だが、いいか。敵も只者じゃねえ。長時間の通信は必ず見破られる。連絡はできるだけ短くしろ」
「はあ」
陣十郎は頼りなげにうなずいた。
翌日、おれは二人をホテルへ残したまま、ひとり外出した。
場所はわかっている。
裏街を南下すると、二〇分もいかないうちに、潮の香りが鼻孔をくすぐった。
それにつれて、街路や通行人の様子にも変化が生じてきた。
兵隊と警官とスーツ姿が消え、すさんだ表情と凶暴な眼つきと薄汚れたシャツが増え出したのである。
そのうち、どいつもこいつも、ナイフ片手にとびかかってくるかな、とおれは用心したが、そんなこともなく、通りはむしろ賑わいを増してきた。
あちこちでストリップまがいの野卑な踊りの円陣ができるわ、とんだり跳ねたりのアクロバット・ダンサーはいるわ、街頭チェスは出るわ、口から火を吐いて見せるわ、品のいいダウンタウンの繁華街とは一八〇度異なる猥雑なエネルギーに満ちた光景が展開しだしたのだ。
右にも左にも露店が軒を並べ、いかがわしい飲み物、アルコール、菓子、焼き肉、ロースト・チキン、ポップコーン、焼きそば、フランクフルトにホットドッグを売りまくり、訳のわからない肉の串焼きと安酒のせいか、あちこちで猥歌を放吟する奴や喧嘩をおっぱじめる奴もいた。
ローラン共和国唯一の汚点と言われる『貧民夜会地区』であった。
すっ、といかがわしい風体の小男が寄ってきて、
「どうしたい、兄さん。女なしで天国へ行ける薬があるんだがね?」
いらん、と断ると、
「なら、酒はどうだい? そんじょそこらの酒じゃねえ。この街の地下で造られた特注品だ。ひと口飲んだら、この世に怖いものはなくなる」
「失せろ」
ののしる眼の前に、ひょい、と拳銃が突き出された。
なんとまあ、錆だらけの一九〇八年製のドイツ軍用拳銃ルガー08ときた。
「どうだい。最新式のワルサーだぜ。このでっぱりがこう跳ね上がるんだ。見なよ。凄えだろ。弾丸は八発も出るんだ。お買い得だぜ、一〇〇〇ドルでどうだい?」
「一〇ドル儲ける気はないか?」
「何だい?」
小男はルガーを上衣のポケットにしまい、おれも上衣の内側で構えていたグロックをホルスターに戻した。小男に殺意が閃いたら、それが人さし指へかかる前に、こいつが発射されてたって寸法だ。
「ここは『地獄横丁』だよな?」
「おお」
「マリアって名前の女を知ってるかい?」
小男の眼が光った。胸が安らぐような光ではなかった。
「あんた、知り合いか?」
「まあ、な。用があるから来いと言われたんだ」
「一〇ドルじゃあな」
「九ドルの方がいいのか?」
小男はおれを睨みつけ、
「わかったよ」
と言った。
「一緒についてきな。ただし、多少の不愉快は覚悟しなよ」
さっさと背を向け、通りを歩き出した。
おれも一メートルほど空けてついていく。お互い、他人のような歩きっぷりである。
迷路みたいな路地を幾つも折れ、通りを渡ると、廃ビルの地下へ降りた。
じめじめした空気だが、不思議に酒や煙草の匂いはしなかった。その一室に固まっている男どもの風体からすれば、奇妙なことだった。
「何だい?」
とひとりが訊いた。
「マリアへお客さんだ」
「ほう」
と言ったきり、男は口をきかず、ズボンのポケットから赤いバンダナを取り出して小男に放った。
「悪いが眼隠しをさせてもらうぜ」
「あいよ」
頭の後ろで固く結ぶと、
「こっちだ」
と別の声が言った。
同じ事があと三回繰り返され、そのたびに、おれは眼隠しを変えられ、ややこしい道行きを強制された。二等車の小母《おば》さんは、どうやら、この街ではかなりの重要人物らしい。
ようやく眼隠しを解かれたおれの前には、精悍な顔立ちの男たちが五人ほど勢揃いしていた。場所はやはり廃ビルの一室である。
ひと目見たら暴力団かギャングのアジトだが、おれを取り囲んだ五人にすさんだ翳は微塵もない。女子供なら震え上がりそうな鋭い眼差しも、おれにはかえって快かった。
「マリアに何の用だ?」
中央に立つ、三〇代半ばと思われる男が訊いた。
左眼を黒い眼帯で覆っている。修羅場をくぐり抜けてきたに違いない凄絶な気がおれを打った。
誰よりも、そいつといれば安心だ。――これこそリーダーの資格なのだ。
「当人に会ったら伝えるよ」
「そうもいかん。彼女はそれなりに忙しい人物でな。用件は我々がまずうかがうことになっている。まず、君の名と身分を教えてくれんか?」
「パスポートを出してもいいかい?」
「よかろう」
隻眼の偉丈夫は、おれの差し出したパスポートにじっくりと眼を通していたが、
「アラン・J・ワーナー君。学生か」
不気味につぶやいて、おれに返した。
「パスポートはどう見ても本物だ。だが、その脇の下の膨らみは学生の持ち物だとは思えんな」
「さすがだな」
おれは苦笑した。した[#「した」に傍点]が、何もしなかった。
「どうして、最初、身体検査をしなかったんだい?」
「君の正体が明らかではないからだ。無礼な真似はしたくない。それに、拳銃を持っているのは、最初の地下室でわかっていたよ」
「大したもんだ。いつでも殺せるってわけかい。あちこち回ったが、ここは『地獄横丁』三丁目。最初入ったビルの隣だな」
ぴん、と空気が緊張した。隻眼に睨みつけられ、おれを連れて来た男はひどく慌てた。
「待ってくれ。おれはちゃんとぐるぐる回して連れて来たぜ」
「彼のせいじゃないよ。おれが地図を上手に暗記してたってだけだ」
「これは、ますます、マリアに会わせる前に正直な話をききたくなったな。話してくれるかね?」
「いやだ、と言ったら?」
「少し、痛い目を見ていただくことになるな」
「大人のくせに、未成年に乱暴するのか?」
「拳銃を持った未成年に意味があるかね?」
「ローラン共和国のゲリラは非道はしないときいたぜ」
もちろん、きいた覚えはない。
「お見通しかね。――何処のスパイだ?」
「マリアにきいてくれればわかるよ」
「やむを得ん。武器を出したまえ。その代わり、我々も素手で相手をする」
「そっちは五人だぜ」
「その辺はハンディと思いたまえ」
「あいよ」
おれはあっさり言って、両手を上げた。素早く左右から男たちが近づき、衣類以外は時計から靴まで脱がされた。
テーブルと椅子をどけ、コロシアムが造られた。
おれは真ん中に立ち、
「どいつだ?」
とボクシングの構えをとった。
「おれだ」
一メートル九〇、一〇〇キロはありそうな巨漢が前へ出た。
「すんなり、しゃべりたくなったよ」
おれは苦笑した。
「口を割ったら、すぐにやめるんだぜ、カーツ」
隻眼の言葉に、巨人は片手の指で丸印をつくった。
おれの前に立ちはだかり、両手を腰に当てる。
Tシャツには、怪物じみた胸筋や腹筋がくっきりと浮き上がっていた。何処でも殴ってみろというわけだ。
股間を見た。
巧みに両腿でカバーしている。こら、ただのでくの棒じゃないな。
おれはため息をついて、後ろを向いた。
次の瞬間、ふり向きざま、鳩尾《みぞおち》へフックを叩き込む。
体重は乗っていた。タイミングも腰の切れも完璧であった。
ゴム・タイヤをぶん殴ったような手応えが、肩へ跳ね返ってきた。
「おっつっつ……」
手首を押さえて跳ね回ると、巨人は侮蔑の眼差しを送ってきた。
おれは泣きそうな顔で奴の方をふり返り、人さし指を立てると、弱々しく振ってみせた。
カーツは笑った。やさしい笑顔だった。
おれは意識をその指に集中した。時間がかかるし、成功率五〇パーセントなので使ったことはない。しかし、こういう場合には、もってこいの大技だ。
OKまで三秒。
おれは右手を胸前へ引き、ちょん、と鳩尾を突いた。
腹筋のど真ん中だった。
指は鋼の硬さと発条《ばね》を持っていた。
カーツの筋肉が聴いた音は、びゅん[#「びゅん」に傍点]とずぶり[#「ずぶり」に傍点]だったろう。
まず、足が浮いた。
身体が二つに折れた。
ここで前のめりに倒れれば、後の連中もファイトを燃やしたかも知れない。
カーツは宙をとんだ。
背後の椅子を吹っとばして壁に激突したとき、ようやく胃液を吐いた。
床へ落ちる音と震動が消えても、男たちは動かなかった。
2
「よせ!」
隻眼は、右手を腰のホルスターへかけたひとりを制止し、
「次は、おれが相手をしよう」
「いや、おれだ!」
言うなり、左側の男が蹴りをかけてきた。
パワーもスピードも申し分なかった。おれは受けずに、奴の軸足へとび込んだ。中指の第二関節で、小指と薬指の間の急所を突く。
男は棒立ちになった。ここを突くと、その側の半身は数秒麻痺してしまう。回し蹴りのバランスがとれず、男は肩から床につんのめった。ごきりという音がした。外れたな。
「いい空手だが、他の技への応用ができてねえな」
おれは残る三人を見回して言った。
「いまのがコブラだったら、そいつはイチコロだ。空手にない技は相手がかけてこないなんて思わん方がいい」
このところ、おれは人体の急所と地面を武器として使うことに熱中している。いまの二人は格好の実験台だ。
「やるかい?」
頃合いだと、おれは隻眼に訊いた。
「楽しい昼になりそうだ」
彼は前に出た。
「見たこともない技だが、中国の拳法か?」
「色々さ」
「おれが負けたら、教えてもらえるかね?」
「喜んで」
とは言ったものの、こいつばかりは自信がない。他の奴らとは迫力が違うのだ。
すっと右手がおれの真正面へ伸びた。手刀を立てている。
それが奴の顔を隠した。身体も隠した。周囲は暗黒と化し、ただ、おれの視界を埋めて、ごつく分厚い手のひらが迫ってくるのだろう。
押されている。敵の前進は、おれの後退を意味するのだ。
打開策はひとつ。
おれは思い切って後ろ蹴りを放った。
足首に激痛が走り、宙に浮いた。
身体を丸め、必死にバランスをとって床上に降り立った途端、感嘆の叫びが男たちの口をついた。
隻眼が滑るように近づいてきた。足音も立てない。
空手馬鹿じゃない。精妙な関節技の心得もあるようだ。下手なパンチは打てねえな。
隻眼が五指を開いて構え、おれが猫足で迎え討とうとしたとき、ドアが大きく開いた。
「おやめ!」
叱咤の一声で、隻眼の口元に微笑が浮かんだ。
「まさか、その子に怪我させやしなかったろうね。あたしの生命の恩人だ。文句があるんなら、このマリアが相手になるよ!」
「あんたにゃ誰も勝てないさ」
隻眼は両手を上げると、彼女のかたわらに後退した。
「安心してくれ。これは歓迎の宴だ」
おれは一〇〇万ドルの微笑を、地獄横丁の主《あるじ》に送った。
「疑われるのも無理はない。最初から、こっちはそれ覚悟でやって来たんだ。昨夜《ゆうべ》のお言葉に甘えたくなってな」
「こうしていられるのも、あんたのおかげさ。汽車の中から尾けられてたんで、とっさに道連れをこしらえ、カバーしようと思ったんだが、どうやら、良くも悪くも、とんでもない坊やを捕まえてしまったようだねえ」
「そんな、ご大層な男じゃないさ」
おれは一同を見回して言った。
「でなきゃ、恩を売りになど来やしない。だが、ひとつ、何かの縁だと思ってOKしてくれないか」
「何だね? あたしたちにできることなら」
マリアの返事に、隻眼が、
「マリア、口をはさむようだが、我々は彼のことを何も知らんのだ」
「私にはわかるさ」
「しかし」
「あの殺人ロボットと真正面からやり合う勇気のある男が、あたしたちの敵であるはずがないよ。味方なら、何も身柄を調べる必要もなかろう」
「わかった、わかった」
と、おれは両手を上げた。
「権柄づくで来るなら、死んでも自分の名前ひとつ明かさねえが、そこまで言われちゃあな。おれは――」
それから、おれは自己紹介と事情説明に一時間ほどかけた。
嘘はつかなかった。この女と一党には、包み隠さず打ち明けた方がいいと思ったのである。マスクも外した。
口をつぐむと、マリアが口を開いた。
「その年でトレジャー・ハンター……バラザード・リアの宝をねえ……」
「“プリンス”とペンダントか。――それさえ手に入れれば、エニラとその傀儡どもを追放できるわけだな」
こちらは隻眼――ブルーという名前だった――男だけあって単刀直入だ。
打って変わって親しみをこめた眼でおれを見つめ、
「しかし、若い身空で、エニラとやり合い、コーネル・ヤンガーの“処理班”をことごとく撃退するとはな……軍のミサイル巡洋艦が沈没したらしいとの情報は入っていたが、まさか、君にやられたとは思わなかった」
「あれは自爆だよ。核ミサイルを射ち込みやがったんだ。死ぬのが怖くなかったらしい」
「エニラ師が今の首相を据えてから、最も顕著になってきたのがそれだ。兵士の一部が、突然、ロボットになったとしか思えない無茶をする。洗脳されているのかもしれん」
「どこの世界から来た化物かしらね」
マリアがぽつんと言った。
「バラザード・リアの洞窟を探ってみればわかるかもしれないね」
「そいつはやめとけ。また、あんな奴らが出てきたら、容易に防ぎきれん。素姓よりも現物を始末する方が先だ」
おれの提案に、一同は顔を見合わせた。
ゲリラ組織ができたのは二年ほど前だが、首相とエニラ師への暗殺計画は都合一二回――一ダースを数え、そのことごとくが失敗した。
「エニラは所在さえわからんから、やむを得ないとして、首相の場合は信じ難いことが多すぎる」
ブルーの口調には苦渋の色が濃かった。
「車に五〇キロもの爆弾を仕掛けた。至近距離からマシンガンを一〇〇〇発も射ちまくった。ライフルで狙撃もした。――それなのに、翌日は平然とTVに出演してやがる。あれも化物だ」
「あんたの話をきくと、やっぱり、エニラ師が守ってやっているようだね。つまり、奴さえ斃せば首相も連座するが、万が一首相を殺れたとしても、エニラが生きている限り、また、別の操り人形が生まれる可能性が高いわけだ」
「コーネル・ヤンガーはどうなんだい?」
おれは、こいつも何を企んでるかわからねえ軍人のことを訊いてみる。
「おれの見たところでは、あいつの行動も反エニラに近い。特に“プリンス”を自分の手に奪還しようとしてる様は、自分もエニラになりたがっているようだ」
「恐らくそうだろうよ。エニラと違って、あの男は生粋のローラン共和国軍人だ。王家への忠誠心はエニラの比じゃあない。“プリンス”を殺さず、自分たちの栄達に役立てようとでも考えてるんだろうさ。“プリンス”の隠し場所は、あたしたちの方でもすぐに調べるよ。それと、あんたの申し出、あれも承知した」
「ありがとうさん」
おれは破顔した。申し出とは、陣十郎を宮殿の秘書官として応募させる際、身元調査を受けても困らないようにせ[#「にせ」に傍点]の履歴通りの親兄弟たちを確保してもらいたいというものだ。
「小学校の同級生でも、取り上げた産婆でも用意してあげるよ」
とマリアは保証した。
「でも、十分に気をおつけ。あんたが上陸したあたりから、反エニラ師グループへの弾圧は激しさを増しているの。昨日、一昨日で二〇人近い同志が殺されているよ。奴らのやり方は問答無用なんだ。このアジトだって、いつ嗅ぎつけられるか、わかったものじゃない。さあ、もうお行き。連絡はあたしたちの方から取る。あんたが何処にいようとも、ちゃんと糸はつながっていると安心おし」
「街を出るまで、護衛は要らんか?」
ブルーが訊いたが、マリアは微笑して、
「この坊やにそんなもの要るものかね。護衛役が護衛してもらうことになるよ」
五分後、おれは「地獄横丁」の通りをぶらぶらと港の方へ歩いていた。
昼前だ。街路はさっきより人の数が多い。
港を選んだのは、軍事基地がすぐそばにあるからだ。覗いておいても損はあるまい。
そのとき、おれの眼がこんなにも大きく見開かれたのは、一〇年来のことだろう。
おれの右側を黒いリムジンが通過すると、一〇メートルほど前方で停まった。
運転手が降り、後部座席のドアを開けた。ひどく形のいい脚が現れ、すぐに女の形になった。
間違いない。
列車の中で“プリンス”をさらい、おれに“死ね”と命じたあの白い美女だった。
『エイリアン魔神国〔下〕』完
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あとがき
困ったことですが、私は基本的にストーリイを考えてから書き出すタイプではないらしいのです。
大雑把に頭の中で組み立てて、というのとも違う。組み立てが出来ない。
例えば今回の「魔神国篇」は、
“大とゆきがある小国でそこの王子を救け、とんでもない敵とやりあう話”
ぐらいで、もう、ペンをとっていました。
ストリップ劇場で同級生を口説くのも、機械服も、神宮外苑での巨大モグラとの死闘も、書きながらアイデアを絞り出していったものです。
二巻になると、もっとすごい。いや、ひどい。
手っとり早くローラン共和国へ行かせればいいものを、共和国のイメージが湧かないせいで、ワンクッション置きたくなった。外国なら、いずれ書きたいと思ってるニューヨーク。かくて、大とゆきはニューヨークで一巻分の大活躍となったのであります。もちろん、マンハッタンでの死闘も、書きながら考えたもの。どこか、据わりの悪いところがあったら、そのせいでしょう。
私は書くものがあれば、喫茶店でも、自宅のキッチンでも、駅のベンチでも、トイレでも、映画館でも書きますが、細かい部分だけは、ペン(万年筆、ボールペン、シャープペン、鉛筆、クレヨン何でも可。ブランドにこだわらず)と原稿用紙(メモ、レポート用紙、紙ナプキン、布切れを問わず)を前にしないと、どうしても浮かんできません。
今回は六十枚ほどを自宅で、残りはホテルで書き上げましたが、アイデアは出るのに筆が進まないという困った事態に陥り、ついに、ラスト二十五枚は再び家へ帰ってからになりました。ああ、情けない。
ホテルをチェック・アウトする日に来訪した担当者I氏の台詞はこうでした。
「すこぶる面白いですな。しかし――」
「はあ」
「四巻で終わりますか?」
「………」
「駄目ですと、『完結編1』『完結篇2』、ないし『完結篇・上』『完結篇・下』にしなくてはなりませんが」
「……『完結篇』と『真・完結篇』という手もありますね」
「………」
「………」
まあ、こんな風にしながら出来上がったわけであります。
平成二年七月某日
『リーサル・ウェポン2』を観ながら
菊地秀行